姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児 (箱女)
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転入編
01 はじまり


―――――

 

 

 

 「拳児くん、キミは今いったいどこにいるんだ?」

 

 ごつごつした大きな手にすっぽりと収まる携帯電話から、機械を通しているとは思えないほどに透き通った声が聞こえてくる。

 

 「知らねえ。しばらく前に和歌山だか奈良だかの看板見たからそこより西じゃねえか?」

 

 「ふむ。思ったより大がかりな家出じゃないか。春休みとはいえ」

 

 電話の向こうの女性は楽しそうに声を弾ませる。まるでこの家出などときおり起こるちょっとしたイベントであるかのように。耳を澄ませると遠くのほうから平坦な声が聞こえる。ついでにニュース番組でも観ているのだろうか。無意識に考えていたどうでもいいことを頭の中から追い出し、拳児は言わなければならないと決めていたことを口に出す。

 

 「絃子、俺はもう戻るつもりはねえ」

 

 ほんの少しだけ、短い間が空く。

 

 「……拳児くん。塚本さんのことに関してキミがそう動くのはわからなくもないが」

 

 「うるせえ」

 

 「言い方を変えよう。独りでシリアスぶるのも構わないが、先のことは考えているのか?」

 

 「あ? 先?」

 

 呆れたように絃子は言う。

 

 「学校はどうする? どこで暮らす? 生活費は足りるのか?」

 

 拳児はポケットから財布を出して中を検めてみる。ちゃり、と寂しい音がした。53円とテレホンカードと、一葉の写真が全財産だった。春だというのに風が冷たく感じた。

 

 「ぐ……、な、なんとかする……」

 

 「その妙な男らしさは買うがね、拳児くん。力がないなら素直に他人に頼りたまえ」

 

 「な、なんだよ、助けてくれんのか……?」

 

 「ま、カワイイ弟分のためだからね」

 

 

―――――

 

 

 

 赤阪郁乃はくちびるに人差し指をあて、ゆるやかに体を左右に揺らしながらひとりで考え込んでいた。人によってはわざとらしく見えるその仕草は彼女にとっては自然な動作である。比較的新しい椅子が、体重をかける向きを変えるごとに、ぎ、と軋む。郁乃の頭のなかは至って単純だ。どうすれば自身の勤める姫松高校の麻雀部を全国大会で優勝させることができるのか、この一点に集約される。ただ、それを実行するにはいささか問題を抱えているから、しばらく頭を働かせているというわけである。

 

 姫松高校は共学にはめずらしく、麻雀部は女子のものしかない。ひょっとしたら昔にはあったのかもしれないが、とにかく現状としてはそうなっている。そして何を隠そう、その麻雀部は全国で五指に数えられるほどの強さを誇る。関西の雄と言えばこの姫松か、あるいは北大阪の千里山かのどちらかだろう。もちろん郁乃としてはそこを譲る気は毛頭ない。

 

 問題は郁乃自身の立場にあった。前任の監督である善野一美が病床に伏して、急遽その代わりを郁乃が務めることになった。彼女の手腕そのものは、その若さに反して全国に何度も出てくるような名将と比肩するだけのものがある。しかしただ一点、さまざまな経験や時間がものを言う部員との信頼関係だけは、郁乃にはどうしようもなかった。正直なところ、事前に何も言われずに監督が変わると聞かされたら自分でも辛いだろう、と郁乃は思う。いざとなれば強権発動という手段がないわけでもないのだが、女子高生相手にそれをするのも気が引ける。だから信頼関係とまではいかなくとも、ある程度の関係を作りたいと考えているのだが、それがなかなかうまくはいかないのであった。

 

 何もいいアイデアが浮かばないまま漠然とどうしようか考えていると、ぴりり、と電話が着信を知らせた。画面を覗いてみると、そこにはなんともめずらしい名前が表示されていた。

 

 「もしもし~、刑部ちゃん~? すごい久しぶりやんね~」

 

 「うん、大阪のガッコやで~。あ、刑部ちゃんもセンセなんやったっけ~」

 

 「んー? テンコーセー? あ、転校生。転校自体は大丈夫やと思うけど~?」

 

 「お家~? あ、刑部ちゃん、その子力持ちやったりするん~?」

 

 「それやったらなんとかなるんちゃうかな~」

 

 

―――――

 

 

 

 人は理解の範疇を超えたものに出会うと実にさまざまな反応を見せる。播磨拳児の場合、それは硬直だった。どうしようもなくアテの無い旅に出た自分に救いの手を差し伸べてくれた従姉である刑部絃子の指示に従い、こうして姫松の地を訪れた。ここに自分の世話をしてくれる女性がいるから、と。聞いた見た目の特徴は長くて羽のように軽い黒髪と、開いているのか判別のつかない糸のような目。情報通りの女性がその待ち合わせ場所にはいて、人目もはばからずにぶんぶんと右手を振っていた。しかし拳児もおおよそまともとはかけ離れた人生を十七歳にして経験してきている。その程度で言葉を失ったり、ましてや硬直してその場から動けないなどと情けないことにはならない。その布石は、拳児が寝泊まりする場所に案内してもらっている道中で打たれた。

 

 拳児を見るや否や精密機械の点検でもするかのように立ち位置を変えては事細かに品定めをしたあとで、郁乃はようやく大阪での生活に関する話を始めた。

 

 

 「そんでな~、拳児くんにはあんまり利用者のいない寮を使てもらうつもりなんやけど~」

 

 「屋根があれば充分ッス」

 

 「悪いけど寮言うてもタダいうわけにもいかんから~」

 

 「バイトかなんかッスか?」

 

 「ちょっと寮にガタ来てるとこあるらしくてな~、それ直してもらってもええ?」

 

 「ああ、はい。そんぐらいなら」

 

 「そっちはゆっくりでええよ~、ほんでこっちが本題なんやけどな~」

 

 「なんスか」

 

 「うちの高校の麻雀部のカントクやってもらえへんかな~、て」

 

 「……いや、麻雀とか別にうまくないスけど、俺」

 

 たしか隣のクラスにやけに麻雀の強い知り合いがいた気がするが今は関係がない。

 

 「ん、別にええよ?」

 

 ふわふわとした雰囲気は微塵も変わらない。拳児はどこかでこれと似たような空気を感じたことがある。硬さは感じないのに何を言っても何をしても無駄になるような、そんななにか。

 

 「……ま、別にいいスよ。世話んなるんで」

 

 「いや~ん。なんか脅したみたいやんか~」

 

 くねくねと身をよじらせる。目の前にいる彼女が拳児より年上なのは間違いないのだが、見た目や振る舞いを見る限りどうにも幼い印象が拭えない。拳児は逆の意味でそれを言えるような立場ではないのだが。百八十をゆうに超える身長とサングラス、あまり主張をし過ぎない八の字の口ヒゲに顎ヒゲ。学生要素はせいぜいが学ランといったところだ。そんな不良と人畜無害そうな見た目の女性が連れだって歩いていたためかなり目立っていたのだが、悲しいかな注目されている二人はまったく人目を気にしないタイプの人間だった。

 

 

 案内された寮は鉄筋コンクリートの三階建てのものだった。決して新しいとは言えないが古くてどうしようもないというわけでもない。道中で聞いたところによると、別に寮を建てたらしくそちらに人気が集中しているのだという。似たような条件ならばより新しい方に人気が出るというのは至極まっとうなことと言えるだろう。

 

 寮の出入口からまっすぐに伸びる道の先にちょうど太陽の沈む先があって、拳児がそちらを振り返ると真後ろにいた郁乃の顔が逆光で見えなくなっていた。黒で塗りつぶされたその顔から歌うような声音が響く。

 

 「この道を十分くらい行くとガッコに着くからな~」

 

 「どもッス」

 

 「それじゃあ明日は九時にはガッコにおってな~。編入試験の話もせんとあかんし」

 

 それだけ言うと郁乃は身をすっと翻し、弾むような足取りでもと来た道を引き返して行った。

 

 

 拳児がこれから生活することになる部屋は、ひどく簡素なものだった。小さなテーブルに小さな冷蔵庫、おそらく布団の入っているであろう押入れ。それとなぜかファックス機能のついた電話。これだけである。とはいえ播磨拳児の生活に必要なものはそれほど多くないため、これだけの設備でもとくに大きな問題はなかった。仮にも高校生の身空でそのような枯れている、と表現されてもおかしくないような生活水準は別の意味で心配されるべきものではあるが。

 

 従姉の家から出るときに持ってきた荷物を部屋に放り投げ、壁を背に腰を下ろしてひとつ息をつく。これから始まる新生活に対する緊張だとか恐怖だとかがあるわけではない。彼の高校生活は、ある一人の女性がアメリカに発ったことで終わったのだ。高校という場所にそれ以上の意味は存在しなかったし、また別の意味を見つける気にもならなかった。だからこうやって生活の拠点を移すこともすんなり受け入れられた。すっかり丸くなっちまったじゃねえか、と自嘲気味につぶやく。

 

 ぐう、と腹が鳴る。思い返せば早朝に家を出てから走り通しで何も口にしていない。自身の財布にまったく金が入っていないことも忘れて拳児は立ち上がる。夕飯をコンビニかどこかで買うついでにこの辺りをバイクで一回りしてみようと考えた。寮の駐輪場へ行き、愛車に跨ろうとして、シートに何かが置いてあることに気が付いた。封筒にはやけにシャープな字で、バイト代先払い (付け加えると末尾にハートマークがある) と書いてあった。中身を確認する前に拳児は自分の懐事情を思い出し、頭を抱えた。

 

 ( クッ、これじゃあマジで頭上がんねえじゃねえか…… )

 

 封筒片手にバイクの傍らで頭を抱えるヒゲグラサンの姿は滑稽そのもので、そこには不良の貫録などもはや残ってはいなかった。とはいえ腹が減っては戦はできぬ、その先払いしてもらったバイト代で拳児は夕飯を食べることにした。筋を通さねばならない理由がひとつ増えて、拳児はまた別でアルバイトを探すことを決心した。

 

 

―――――

 

 

 

 雲も少ないきれいな青空に満開の桜が映える。昨日は夕暮れ時ということもあって気付かなかったが、そんな祝福されているかのような道を播磨拳児が歩く。似合わないことこの上ないのだが、姫松高校へと行くにはその道をまっすぐ進まなければならない。バイクに乗っていればまた別のアンバランスな映え方もするのだろうが、歩いて十分程度の道のりをバイクで行くというのも馬鹿らしい。だからポケットに手を突っ込んで、いかにも “らしく” 歩く。春休みということもあって、学校へと向かう生徒の数はあまり多くない。せいぜい朝から部活動に勤しむ生徒くらいだ。だが視線は一様に見たことのない不良へと注がれていた。登校するのは新二年生と新三年生なのだから当然と言えば当然のことだ。学年が違っていてもおおよそ目立つ存在は通ううちに見ることになるのだから。そして注目を浴びているサングラスをした男は、明らかにここ一年で姫松高校では見ない出で立ちをしていた。そんな男が春休みに自分たちの高校へ向かっているとなれば視線を集めるのも無理はない。

 

 来客用のスリッパを履いて、拳児は昇降口で立ち尽くしていた。学校へ着いたはいいがそのあとどこへ行けばいいのかを聞いていなかった。拳児のなかに選択肢はふたつあった。職員室と麻雀部の部室だ。おそらくそのどちらかに赤阪郁乃はいるだろう。さてどちらを目指すべきかと思案を始めたとき、左の方から声をかけられた。

 

 「あの、どうかしたんですか」

 

 声のした方へ顔を向けると、整った顔立ちにかちっとしたフレームの眼鏡をかけた少女が立っていた。肩にかかる辺りで毛先が外にぴんと跳ねた特徴的な髪形をしている。

 

 「……ああ、えーと、職員室ってどこスか」

 

 「それやったらこっちの廊下行くとありますよ」

 

 「ども」

 

 簡潔に礼をして、そそくさと指されたほうへと足を向ける。見た目が見た目だ。普通の女子高生が話しかけたい相手ではないだろう。ぎゅっと手を握り締めて声をかけてくれたことを見逃すほど拳児の目は節穴ではない。

 

 廊下をすこし進むと引き戸の上のあたりに職員室、と横に書かれた札がぶら下がっていた。用がなければ学生的には遠慮したい部屋だが、残念なことに今の拳児には用がある。無骨きわまりない挨拶をとともに戸を開けて中へと入る。ざっと見回すと中には春休みであるというのに、どうしてと思うほど教員がいて、その全ての目が拳児へと向けられていた。()()()()視線に晒されるのはそれなりに慣れているとはいえ、あまり気分のいいものではない。目当ての人が机から立ち上がってぱたぱたと駆け寄ってくる。

 

 「うんうん、遅刻せえへんのはええことやな~。カンシンカンシン♪」

 

 柔和、という言葉にさらにやわらかさを上乗せしたような笑顔を浮かべて、郁乃は拳児を連れて職員室を出る。二人が部屋を出ると同時に中の教員たちの視線は彼らの机の上へと戻っていった。

 

 廊下の窓から見えるグラウンドでは野球部の部員が体力づくりのメニューをこなしていた。季節に似合わない玉のような汗を滴らせて小休止と激しい運動を繰り返しているようだ。言ってみれば拳児の知らない世界が、そのグラウンドにはあった。

 

 「なになに~? 拳児くん野球部に興味あるん~?」

 

 「いや、久しぶりに見たんで」

 

 「ならええけど~。あ、それで編入試験のハナシなんやけどな~」

 

 まるで天気のことでも話すかのように郁乃はさらっと話し始める。

 

 「三日後の朝九時からここでやるから、それまでに職員室来とってな~」

 

 「……」

 

 「科目は英数の二科目言うてたから、まあいけるんちゃうんかな~」

 

 「……」

 

 「じゃ、あとはうちの麻雀部に顔見せやね~」

 

 一言も発さぬうちにほいほいと話が進んでいく。あるいは赤阪郁乃という人物はマイペースに事を運んでいくタイプなのかもしれない。廊下の突き当りの階段を上がっていく。四階に近づくにつれて、軽くて硬質ななにかが触れ合う音が次第に大きくなってくる。階段を上がりきって右へ曲がってすぐのところに麻雀部の部室はあった。

 

 問題は、播磨拳児が世情に疎かったことだった。彼は世界的に麻雀が流行していることなどまったく知らなかったし、ましてやその分野で図抜けた実力を持つ高校のことなど完全に情報網の外にある事柄だった。だから拳児は知らなかったのだ。この姫松高校にある麻雀部には女子しかいないということなど。そして拳児は勘違いしていた。赤阪郁乃と自分で男子と女子の監督の分担をするのだろう、と。

 

 郁乃の手が戸にかかる。手に力が入り戸をスライドさせる。カチューシャで無理やり後ろに向けられた拳児の髪が春のそよ風にかすかに揺れる。戸が郁乃の力の方向へと滑る。隔てられていた空間と空間が繋がる。なぜか拳児の視線は部屋のなかではなく、廊下の奥へと向けられている。郁乃が一歩踏み出す。手を叩いて部員たちの注意をこちらへ向ける。拳児はまだ気付いていない。視線がゆるやかに部室の方へと向けられ始める。郁乃の口が決定的な一言のためにかたちを変えようとしている。拳児の目のピントが部室へと合う。同時に違和感が襲いかかる。拳児は即座に郁乃に問いただそうとするが、それはあまりにも遅すぎた。

 

 「みんな~、新しい監督代行さんやで~」

 

 

 目に映る風景と監督という言葉が結びついて、播磨拳児は硬直した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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02 席を立つということ

―――――

 

 

 

 固まった空気の中で動くことができたのはこのなかでただひとり、赤阪郁乃だけだった。まるでこの場に異常など起きていないかのように歩みを止めない。全部員の目が入り口に立っている拳児に釘付けになっていることに気付いているのか気付いていないのか、顎に人差し指をあててきょろきょろと部員たちの顔を見比べている。

 

 「あれ~、みんな聞こえてるん~?」

 

 「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 

 いち早く停止状態から復帰した拳児がもろもろの事情を確認するために声をかける。形相は必死そのものだ。サングラスをしていたってそんなものは伝わってしまう。

 

 「どしたん拳児くん~? あ、いくのんて呼んでくれてもええよ~?」

 

 「違う!そういうことじゃねえ!」

 

 「あ、そやな。拳児くんの紹介まだやったもんな。そっち先やんな~」

 

 呑気な声で自分の紹介をしている郁乃を見て、拳児は事ここに至ってようやくとんでもない人に借りを作ってしまったのではないかとの認識が浮かんだ。未だに麻雀部の面々が一言も発することができないのも無理からぬことだろう。様子から考えればおそらくなんの事前説明もなかったことが窺える。いきなり見知らぬ不良をつれてきて今日からこの部の監督だとか言われても理解が追い付く人間がいるとは思えない。話がぶっ飛びすぎている。それは拳児からしても同じことで麻雀部とは聞いていたが、それが女子部だとは聞いていない。

 

 「おい赤阪サン!女子しかいないとは聞いてねーぞ!?」

 

 「あれ~? 言うてへんかったっけ~?」

 

 かわいらしく首を傾げる。彼女ほどこの仕草の似合う女性もなかなかいないだろう。

 

 「でもあれやしな~。拳児くん引き受けるーて言うてくれたしな~」

 

 「ぐっ……!」

 

 よほどのことがない限り自分の発言を曲げることのない拳児にとってその一言は決定的であり、残された希望は向こうが願い下げをしてくれることだけだった。手段としては就任後にすぐ辞めてしまうだとか嫌われるように振る舞って追い出されるように仕向けるなどもないわけではないのだが、どちらもまともな考え方とは言えそうにない。

 

 反撃の芽を摘まれた拳児の顔に陰が差したころ、ようやく麻雀部の面々が放心状態から正常な状態へと戻りはじめた。そばにいる部員同士が互いに顔を見合わせている。小声でなにやら話を始めた者もいるようだ。そんななかで、ひときわ元に戻るのが遅かった少女がほとんど無意識につぶやいた。

 

 「えっ、……いや、誰?」

 

 声の主は前髪を右に流して額を大きく露出した少女だった。ちょうど耳の辺りで小さな房をそれぞれひとつずつ作っている。顔の造りは童顔という表現がしっくり来るものだが、それに反してと言うべきか、女性性の象徴のひとつである胸部はその存在を激しく主張している。

 

 「いややなぁ漫ちゃん、今言うたやんか~。播磨拳児くんやで~」

 

 「そうやなしに、私らこの人のこと知らないんですけど。実績とかあるんですか?」

 

 「ああ、そういうこと~? ええとな~、それは言われへんのよね~」

 

 室内が一気にざわついた。ここ姫松高校はわざわざ誰かに確認する必要もないほど麻雀においては強豪校である。そんな場所で監督を務められる人材というのは非常に限られてくる。少なくとも選手としてかなりの実績を残しているか、あるいは他の高校で監督としての実績を残しているかのどちらかは要求される。そうでなければ部員たちを御することなどできない。少なくとも赤阪郁乃は普段の振る舞いがどうであれ、彼女たちを納得させるだけのものは持っている。その郁乃が監督の立場を見たこともない男に譲ると発言した。さらにはその男の経歴について話せないとも。

 

 「言われへんてどういうことやろ」

 

 「ま、まさか裏プロとか……?」

 

 「そんなんホンマにおるん?」

 

 「そうですよ、言うてあの人学ランですやん」

 

 「でも裏やったら年齢とかカンケーないんちゃうん」

 

 「いやまあたしかに修羅場くぐってそうな顔はしてますけど……」

 

 拳児はこの感じを知っていた。これは誤解される流れだ。ここ一年間ほど誤解と勘違いのなかで生き抜いてきた拳児にはわかるのだ。どれだけ拳児が声を枯らせたところでこの誤解はそう簡単には解けない。間違った認識が水面の波紋のように伝播していく。

 

 「あの、か、仮にこの人がカントクやとして、代行はどないするんです?」

 

 「私? 私はコーチングに専念しよかな~、て思てるんやけど」

 

 逃げ道がどんどんなくなっていく。ここで納得されてしまえばめでたく就任決定だ。一縷の望みをもって部室全体を見回す。好奇の視線が突き刺さる。どうしてだかさっぱりわからないが否定的な視線がない。それだけ郁乃のコーチングには信頼を寄せているということだろうか。あるいはまさか本当に拳児に期待を寄せているとでも言うつもりなのだろうか。

 

 遠くでまだ上手に鳴けないウグイスが鳴いている。その声を盛り立てるかのようにグラウンドのほうから何やら叫び声が小さく聞こえてくる。練習メニューが別のものになったのだろうか。もう部員と郁乃が話している内容は耳に入ってきていない。

 

 

 「そういうことやから、今日は拳児くん見学してってな~」

 

 ぽん、と肩を叩かれて我に返る。とりあえず監督としていきなり何かをするようなことはないようだ。麻雀に関わる知識が圧倒的に足りていない拳児には、そもそも麻雀部において監督やコーチがするべきことがあるとは思えなかった。出してもらった椅子に腰を下ろし、腕を組んで見学を始める。郁乃は別に仕事があるとかですでに職員室へと戻っている。

 

 目の前で繰り広げられる光景は、単純に少女たちが麻雀を打つものだった。ただ少し拳児のイメージと違っていたのは、その真剣さだった。とても遊びで打っているようには見えない。かと言って学校の部活動として行っているのだからなにかを賭けているというのも想像しにくい。そこにどういった理由があるのかわからず、拳児は首をひねる。

 

 よくよく見てみれば全員が打っているわけではなく、数人は立って卓を眺めている。彼女たちが何のためにそうやって立っているのかも不明瞭だ。終わったらしい卓を見てみるとどうやら局後の検討をしているようで、先ほど立っていた部員はその際にアドバイスをする立場であるらしい。これではまるで練習だ。女子高生が真面目に麻雀の練習をするという姿は拳児から見ると完全に異文化であった。

 

 「えーと、播磨さん、でしたっけ。なにか気になることでも?」

 

 いつの間にか拳児の傍らにまた別の少女が立っている。いったん長髪を下ろして、その毛先だけをまとめてつむじの辺りで留めるという実に特徴的な髪形をしている。運動が趣味なのだろうか、スカートの下からスパッツを覗かせている。

 

 「あー、アンタは?」

 

 「にね、いやもう三年やな、末原恭子言います」

 

 「播磨拳児だ。タメだから別にそこまで気を遣わなくてもかまわねえ」

 

 「ん、わかった。それで不思議そうな顔してどないしたん」

 

 「いや、真面目に麻雀の練習してる理由がわかんなくてよ」

 

 「はァ?」

 

 恭子の顔が突拍子もないことを聞かれたときの表情へと変わる。彼女にとってその質問は “なぜ人間は呼吸をするのか” と同義のものであって、考えるべき事柄に属しているものですらない。どういう思考経路をたどってこの質問をするに至ったのかさえ恭子には判断がつかなかった。

 

 指導の声や牌のぶつかる音が室内の音を形成しているなかで、あんぐりと口を開けてこちらを見ている少女の姿がある。その表情を見て、おそらく自分はなにかハズした質問をしてしまったのだろうと拳児は推測する。たしかに拳児の心のなかの頂点に座する女性はただ一人だが、だからといってそれ以外の女性を悲しませてもいいとは考えない。少なくともしばらくはここでお世話になるのだ。最低限の筋は通すべきである。

 

 「あー、なんだ、大会とかあんのか?」

 

 「えっ、それマジで言うてる?」

 

 とても冗談だと言えるような声のトーンではなかった。さっきと比べて表情がすこし引きつったような気もする。拳児はなんだかお腹が痛くなってきた。

 

 「……俺ァ高校麻雀のこととか知らねえからよ」

 

 「いやインターハイくらい知っとるやろ?」

 

 ( インターハイってスポーツのやつじゃねえのか……? )

 

 「ちょぉ待ち。自分ここが姫松やって知ってて来たんとちゃうんか」

 

 「あ? 何が言いてえんだ?」

 

 「自分らで言うんもアレやけど、うち強豪やで?」

 

 間抜けな声を出さないようにするのが精一杯だった。拳児はなんとかうろたえているのがバレないように恭子と顔を合わせた状態で考えをまとめ始める。サングラスというのはこういうときには非常に便利である。どれだけ目が泳いでいてもなかなか悟られることはないのだから。表面上の見た目に反して拳児の脳内は様々な情報の上書きで忙しかった。まず自分が女子麻雀部の監督になってしまったこと (これはおそらく決定事項だろう)。そしてその部はインターハイを目指す強豪であること。このふたつをきちんと整理するまでに拳児は自分の中の常識をいくつか壊さなければならなかった。腹痛がすこし進行する。

 

 ( なんや急に黙り込んで……。けったいな人やな )

 

 一方で末原恭子も頭を高速で回転させる。どう見ても “ありえない” の集合体であるこの存在に対して無警戒というのは考えられないことだった。素性の知れない不良でさらには同い年、ということは学生だろう。そんな存在が監督を務めるなど聞いたこともない。しかしこれまでの監督代行である赤阪郁乃の性格を考慮すれば、おそらく全国高校麻雀協会の監督の年齢制限の項まで調べているに違いない。だからこの男が監督になるための条件はほぼクリアされていると見ることができる。常にあらゆる最悪の可能性を想定して戦う恭子は、本当に目の前のヒゲグラサンが裏プロであることも想定のうちに入れることにした。

 

 麻雀という競技の人気には凄まじいものがある。日本どころか世界各国でその試合のテレビ中継が行われるほどに。それは野球やサッカーなどと同じように、興味がない層であってもどこかから必ずそれに関わる知識は流れ込んでくる。野球における甲子園と同じように麻雀のインターハイというのも連日ニュースを沸かせるタネのひとつなのだ。そんな環境にあって、麻雀のインターハイが存在することを知らないというのは非常に考えにくいことだった。ほとんど全ての情報が入ってこないような場所にいたか、あるいは()()()()()()()()()()()()()()()()。もちろん拳児にそんな事情などない。ほとんど奇跡のような確率で麻雀関連の情報と触れずに生活を送ってきただけである。だがそれこそ誰も知らないことであった。

 

 

―――――

 

 

 

 本日の全体練習は午前までのようで、午後からは有志による自主練習の時間であるらしかった。麻雀部以外に麻雀部の部室を使う生徒がいないというのは考えてみれば当たり前のことで、練習をするための場所が常に確保されていることは大きな利点なのかもしれない。全体練習の締めの挨拶を聞きながら、拳児は午後をどうするかについて考えていた。先ほど感じた腹痛は強度を増していた。正直言ってトイレに駆け込みたいレベルになってきている。午後から居残りで練習をする部員も時間帯で考えればこれから昼食の時間のはずだ。よってトイレで落ち着くのに適した時間だと考え、ゆっくりと刺激しないように立ち上がる。さて部室の外へ出ようかと体の向きを変えようとしたその瞬間だった。

 

 「なあなあ播磨、ちょっと時間ええか?」

 

 拳児がもといた高校もずいぶんと特徴のある見た目をした人物が揃っていたが、この姫松高校はそれに輪をかけてバラエティ豊かである。たれ目にポニーテール、くせ毛と呼んでいいのか後頭部から頬のあたりまで飛び出している髪がある。外見の印象としてはこれまで見た中でいちばん元気がよさそうだ。大阪というイメージに合致すると言ってもいい。

 

 だがそれと拳児の腹の具合とは何の関係もない。刻一刻と限界が近づいてくる。さっさと昼メシを食べに行け、と叫びたかったが叫んでしまえばおそらく門が開いてしまう。なるべく表情に出さないように顔をそちらへ向けて次の言葉を待つ。

 

 「な、見てばっかでタイクツやったやろ? 一緒に打とうや」

 

 「い、いや、その……」

 

 「なんや別に予定詰まってるわけでもないんやろ?」

 

 「ぐっ……、そうだけどよ……」

 

 「うちらの自己紹介もしときたいしな。ま、うちに恐れをなして打たんのもアリやけどな」

 

 にっと笑むその表情はからっとしたもので、決して拳児を煽り立てるためのものでないことは明白だった。言葉の上っ面からは非常に見えにくいものではあるが、そこにあったのは自負だった。だが言った相手が悪かった。不良はナメられたら終わり。その一線を踏み越えてしまえば、不良はプライドを失ったただの野犬へとなり下がる。拳児はポニーテールの少女の言葉の奥にあるその自身のためだけではないプライドを無意識に感じ取ってはいたが、引き下がるわけにはいかなくなってしまっていた。

 

 「チッ、仕方ねえ」

 

 お腹は、まだ痛い。

 

 

 卓についたのはポニーテールの少女、額の印象的な少女、それと拳児に昇降口で職員室の場所を教えてくれた少女だった。まさか彼女が麻雀部だったとは知らず、拳児はサングラスの奥で目を丸くする。

 

 「なら初めに自己紹介しとこか。うちが愛宕洋榎や、よろしくな」

 

 「おう」

 

 「あ、上重漫です」

 

 「おう」

 

 「愛宕絹恵です。さっきはどーも」

 

 「おう。さっきは世話になったな、ありがとよ」

 

 愛宕、という苗字をあまり聞いたことがないことから推測するとおそらくこのふたりは姉妹なのだろう。なにかを思い出しそうになる。

 

 「なんやなんや播磨ぁ、いくらうちの絹が美人さんやったからってもうコナかけたんか」

 

 「いや何言うてんのお姉ちゃん」

 

 「さっき職員室の場所を教えてもらってよ」

 

 「ええー、そこはもうちょっとノるところちゃうんか……」

 

 おおげさに残念がりながらも手は自動卓の準備のために動いている。学校に自動卓があるというのも拳児からすれば奇妙な光景で、ともすれば学校にいるという感覚を失いそうになるくらいだった。どちらかといえば拳児は手積みのほうに馴染みがある。

 

 サイを回して崩す山を決め、配牌を手元に持ってくる時点で気配が変わったことを察する。なるほど親睦を深める意味合いもたしかにあるのだろう。しかしもっと大きな狙いは査定だ。この対局で測るつもりなのだ。そういった微妙な空気の変化を読み取れないようではしばらく前にいたケンカの世界を生き抜くことはできなかった。だから拳児はそれを鋭敏に感じ取る。気乗りするには十分な条件だった。

 

 いつの間にかギャラリーが卓の周りにはできていた。多くは拳児の後ろについている。逃げ道はとうの昔になくなっているが、注目を浴びるというのはまた別の話だ。脂汗が滲み始める。小刻みに震える手を伸ばして手牌を揃え、理牌を行う。

 

 

―――――

 

 

 

 「な、由子はどう見る?」

 

 恭子は並んで拳児の手を後ろから見ている真瀬由子に問いかける。黄色に近い金髪を耳の上の辺りでお団子にした少女だ。雰囲気で言えばふわふわとしたものがあるのだが、赤阪郁乃とはまた別種のものである。

 

 「んー、ちょこちょこミスはあるけど明らかにおかしい打ち筋はないと思うのよー」

 

 「でもあれやったらちょっと上手い新入生には勝てへん」

 

 局は進んで東場が終わったところで、拳児の順位は四位だった。手酷い振り込みこそないものの一度も和了っていないため、自摸和了で削られたり小さな振り込みが重なって沈んでいるというのが現状だった。勘違いをしている姫松麻雀部の面々はだからこそ違和感を覚えずにはいられなかった。赤阪郁乃が連れてきた以上は何かがあるに違いないのだと。

 

 「とりあえず最後まで見ないとなにも言えないのよー。それにたったの半荘一回だし」

 

 由子の発言は真理である。ただしそれは麻雀の実力が備わっている人間に対してのものであればという注釈がつくが。本気でやる、と口で言ったからといって配牌がよくなるわけではないし、手がいきなり高くなるわけでもない。誰にだって調子の悪いときくらいはある。山から牌を引いてくるというランダム要素を常に含んでいる競技である以上、それは避けることのできない事柄だ。したがって半荘一回で実力をきちんと発揮するというのは想像以上に難しいことなのである。

 

 大筋の感想では対局している三人も恭子と同じものを持っていた。どうしようもなく下手というわけではないし、飛び抜けて引きがいいわけでもない。異能混じりのおかしな空気を感じることもない。無理に評価をつけるとするならば、麻雀を打てる一般の人だった。

 

 一方で注目を浴びている播磨拳児はもはや対局どころではなくなっていた。さきほどから胃だか腸だかから異音がしている。本当に限界が近かった。速やかに脱出しなければならない。もしそれを逃してしまえば考えたくはない形での大阪デビューを果たしてしまう。ちょうど今は東四局が終わったところだ。席を立つには今しかない。卓の中心へと牌を押し込んでいくその動作でさえ歯がゆかった。

 

 拳児の目の前には天秤がある。天秤とはいえ初めから片方にものすごく傾いたものである。片方には勝負の途中で逃げ出すものの、人間としての尊厳を守れる選択。もう片方には自分の胃腸の奇跡の回復を信じて卓にしがみつくという選択。後者には可能性としてまず無いという条件がついている。選ぶべくもない。機械が牌の山を押し上げるのを視界の端に捉えつつ、拳児は立ち上がる。このままでは勝負にならないのだ。

 

 「……勝負になんねーな」

 

 そう言ってゆっくりと歩を進める。急に動いて刺激を与えるのは下策だ。後方から拳児を呼び止める声がかかるが止まるわけにはいかない。余計な言葉を発することなく部室を出ていく。残された対局者たちはまさかの行動にあっけに取られてしまっている。

 

 

―――――

 

 

 

 「勝負にならんー、て南場まるまる残ってるのに……」

 

 絹恵がぽつりとつぶやく。その言葉は同卓している洋榎も漫も口に出さないだけで、寸分違わず同じことを考えていた。愛宕洋榎がいる場において勝利するということは途方もなく困難なことではあるが不可能ではなく、そして拳児は洋榎の実力を知らないはずだ。点差を考えれば逆転を狙うのが通常だろう。どうにも腑に落ちないことが多すぎる。結局なにひとつ解明できないままに当の本人は部屋を出て行ってしまっている。途中で欠けの出てしまった卓に意味などないため、絹恵と漫が目で確認を取り合って山を崩そうとした。

 

 「絹、待ち。由子、あいつの代わりに配牌だけやってくれへん?」

 

 「構わないのよー」

 

 姉である洋榎からの静止に奇妙なものを感じつつも、とりあえず言うとおりに山から牌を手元に持ってくる。絹恵自身の配牌は雀頭がすでにできており面子もひとつある。搭子が複数あるのはうれしいが、このままでは余ってしまうような感じがした。西がぽつんと浮いているが、お守りにしようと考えない限りはすぐに切ってしまえばそれでよい。理牌を済ませて顔を上げると、由子とその後ろにいる恭子が唖然としていた。

 

 「……たしかにこれは勝負にならないのよー」

 

 ぱたぱた、と慣れた手つきで牌を倒す。やけにバラついた、いや、()()()()()()()手牌だった。

 

 くつくつと楽しそうに洋榎が笑う。

 

 「なんや配牌国士十三面待ち、て。アホか」

 

 こうして播磨拳児の姫松高校での生活が幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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03 Common Sense

―――――

 

 

 

 「ぐ……、ま、待て!今仕上がるから!」

 

 「じゃあ一分だけ延長なー」

 

 「鬼かオメー!?」

 

 

 播磨拳児が悲鳴を上げる理由は昨日の午後まで遡る。昨日の衝撃的なデビュー戦のあと、部室に戻るといっせいに取り囲まれて質問攻めにあった。そこで判明したのは、拳児に学生レベルでの麻雀の常識が存在しないことだった。インターハイのルールはおろかあの宮永照の存在も知らない、それどころか牌譜の読み方さえ知らないという有様だった。事態を重く見た恭子は即座に主将である洋榎と相談し、一般レベルの知識を叩き込むことを決めた。その直後に拳児と、なぜか漫が連れられたのは視聴覚室だった。

 

 「あの、末原先輩、こんなとこで何するんですか」

 

 「ん? ああ、二人にはDVD観てもらおかな、て」

 

 「DVD?」

 

 二人の声が揃う。

 

 「瑞原プロの麻雀番組や。分かりやすい上に誰が観ても勉強になるしな」

 

 恭子は手際よくプロジェクタの準備を進める。本来であれば教職員しかセットをすることのないだろう機器を淀みなく接続していく様子を見て、拳児は感心していた。あれでは手伝いに入ろうとしても逆に作業の邪魔になってしまうだろう。

 

 「播磨は牌譜の読み方とか覚えなな。いくら実力あってもそれじゃあ監督は務まらんし」

 

 拳児と漫は部室を出るときに手渡された筆記用具とメモ帳を机の上に置いて、いつ番組が始まってもいいように待機している。

 

 「漫ちゃんはアレやな。播磨の理解が追い付かなくなったら教えたり。もうすぐ先輩なるしな」

 

 「うう、そやった……」

 

 準備が終わったのだろう、ふう、と一息をついて恭子はDVDをデッキへと差し込む。ついでそのデッキのリモコンを拳児に渡し、わからなかったら巻き戻すことを言い含めてさっさと出て行ってしまった。残された拳児と漫は素直にDVDを見ることにした。

 

 

 『はやりんのミラクル☆麻雀講座』と題された番組内容は、牌のおねえさんこと瑞原はやりプロが講義形式で進めていくものである。時に映像を、時にかわいらしいイラストを交えて進んでいくこの講座は、他のプロが出している麻雀指導DVDよりも格段に理解のしやすいものだった。初心者から上級者まで、をモットーに制作されたこの番組はまったく同じ内容を見ていても視聴者のレベルによって受け取り方が変わるという神業的な造りとなっている。拳児が牌譜の読み書きでふむふむとうなずいている横で、漫も牌譜そのものを見ながらなるほどなぁ、などと感嘆の声を洩らしていた。集中して画面を見つめるふたりの姿には、どこか微笑ましいものがあった。

 

 ときおり一時停止や巻き戻しをしながら観た九十分は、観終わっただけで上手くなったような気がする非常に満足度の高いものだった。ふたりは鼻息を荒くして、報告するために恭子のもとへと向かった。視聴覚室の外の廊下はまぶしくて、思わず漫は手で光を遮る。隣にいる拳児はサングラスをしているためまったく動じていなかった。なんだかずるいと思ってしまったことは誰にもとがめられないだろう。

 

 漫が世間話にもならないような話を振りながら、片付けのために再び恭子を引き連れて視聴覚室へと向かう。恭子に軽くあしらわれるその光景は実によく馴染んでいた。ときおり拳児にも話題が振られるのだが、こういうときに適切な振る舞いができるほど器用ではない。男子と女子とで対応を変えるようなタイプではないのだ。だからいつもどおりにぶっきらぼうに返答をしておいた。

 

 「あ、そや。播磨、明日テストするからな。牌譜の」

 

 「任しとけ、ヨユーだぜ」

 

 播磨拳児は不良の類型のうちの、いわゆる一匹狼タイプに分類される不良である。手当たり次第にツッパるのではなく、自らへとまっすぐ向けられる力に対してのみ立ち向かう。だから普通に接するぶんには何らの問題もない。それどころか案外話せるやつ、との評価を受けることがしばしばあるくらいだ。

 

 「播磨先輩めっちゃ気合入ってますやん」

 

 「ふーむ、それやったらちょっと難度上げてもええかもな」

 

 ぼそっとつぶやく恭子の横顔を見て、拳児は自分の発言の迂闊さを呪う。こいつは冗談が通じないタイプに違いない。とはいえ仮にテストで失敗したところでどうなるというわけでもないので、拳児は恭子の発言はスルーすることに決めた。

 

 

 今後もDVDや録画した試合を観る機会があるだろうということで、視聴覚室の機器の使い方を習いながら片づけを手伝う。せいぜいケーブルの接続くらいしかないため、そこまで複雑ではない。先ほど映像で見たプロほどではないが、恭子もずいぶんと説明が上手い。素直にすごいと思った拳児がそれを告げると、恭子は遠い目をしながらため息まじりに口を開いた。

 

 「ま、主将と漫ちゃんがおるからな……」

 

 いまひとつ何が言いたいのか拳児には伝わらなかったが、とにかく苦労しているであろうことは察することができた。

 

 「あー、なんだ……。おめーにもイロイロあんのな」

 

 「ちょ、先輩たちヒドないですか!?」

 

 漫が心外だ、とでも言わんばかりに割り込んでくる。恭子が嬉しそうにいじくり始める。拳児はもう一度だけプロジェクタの配線と、しまってあるところを確認する。普段からバイクに触ったりしているだけあって機械にはそれなりに強い。エアコン修理のアルバイトもこなしたことがある。直接は関係ない気がするが。

 

 「で、播磨はこれからどないするん?」

 

 「いや学校通ったりするんじゃねーの?」

 

 「そうやなくて今日のハナシや。うちらはもうちょっと残って練習してくけど」

 

 時刻は午後三時を過ぎたあたりだ。空の色がすこしずつグラデーションをかけてやわらかくなっている。今から帰ってすぐにやるべきこともぱっとは思いつかない。本当ならば編入試験のための勉強をするべきなのだが、そのことが頭からさっぱり消え去っているうえに、拳児は妙なところで義に厚い。戦国武将や時代劇が好きだからだったりするのだろうか。

 

 「監督ってのはよ、最後までいねえと意味がねえんじゃねえのか?」

 

 「ん、ええ心構えや。せっかくやからもうちょっとお勉強しよか」

 

 

―――――

 

 

 

 言わずと知れた小鍛治健夜が一線から退いたことで女子麻雀界は群雄割拠の時代となっていた。あまりにも華々しすぎる彼女の功績はしばらく現役選手たちを悩ませるタネとなるだろうが、それでも死角の見当たらない最強が居座り続けるよりははるかにマシと言っていい。本来であればタイトルを獲る実力のあるトッププロたちが、彼女ひとりがいるというだけで無冠に終わっていたことを考えれば当然と言える。現在は着物姿がトレードマークの三尋木咏を筆頭としたトップ集団に、新星とも呼ばれる戒能良子をはじめとした若手たちが追い上げる図式が構築されている。

 

 そしてプロの登竜門と目されるインターハイもまた世間の耳目を集めるに値するほどに盛り上がっていた。未だ四月にもならない時期から、である。やはりその中心はインターハイ団体・個人の両方で連覇を果たしている宮永照だった。彼女の所属する白糸台が三連覇を成し遂げるのか、あるいはそれをどこが止めるのか。その有力候補とされるのが全国ランキング二位の北大阪地区代表である千里山女子、霧島の巫女を擁する永水女子、強力な留学生を揃える臨海女子、前回大会で旋風を巻き起こした龍門渕、そしてそれらに平然と肩を並べるとされる姫松。今年の大会は年々レベルが上がっているとされる高校女子麻雀においても異常と言えるほどに豊作な年度のものとなる。

 

 これらは麻雀に関わる者にとっては常識といってもいい知識であるが、残念なことにと言うべきかやはりと言うべきか拳児にその知識はなかった。これまでの経緯から恭子はその辺りの常識が拳児にないことは推測していたが、一日に詰め込み過ぎてもあまりよろしくないだろうと考えて触れないことにしておいた。

 

 

 「さて、あと監督として知っとかなあかんのはインハイのルールやな」

 

 またもや部室を離れて、適当に入った教室で恭子が話を始める。教壇に立つ姿は実に堂に入ったものとなっている。ひょっとして普段からこうやって部員たちにさまざまな説明をしているのだろうか。拳児と、なぜか今度は絹恵を教卓の真ん前に座らせて恭子は思案している。即興で講義のプランを考えているように拳児には見えた。

 

 「えーっと、末原先輩、私はなんで連れてこられたんでしょか」

 

 「絹ちゃんももう立派なレギュラーやからな。その辺の意識づけも兼ねて、って感じや」

 

 レギュラー。今日のあいだに手に入れてきた少ない情報を組み合わせて拳児は考える。とにかくここが麻雀部であることは間違いない。麻雀は基本的には四人で打つものである。そしてどうやらインターハイが存在するらしい。それらとレギュラーという言葉から導き出される結論とは。

 

 「……ハッ!? まさか、団体戦でもあるってのか!?」

 

 「あー、そやったな。播磨はその辺も知らん設定やったな」

 

 「私たちの前やったら別にもう隠さんでもええような気はしますけどね」

 

 「…………?」

 

 「ま、裏の界隈があったとして、そこに団体戦があるとも思えんしな。きっちり説明しよか」

 

 なにか致命的な勘違いが起きている気がするのだが、その原因が拳児にはわからなかった。昼の対局から逃げたことが原因ならば自分への評価は下がっているはずである。逃げ出すことで上がる評価などイメージできなかったし、そんなものはあったとしても願い下げだ。

 

 「オイ、何を勘違いしてるかはしらねーが……」

 

 「じゃあ絹ちゃん、団体戦の大雑把なルールをどうぞ」

 

 「えと、各校の代表の五人が十万点を持越しで奪い合う変則的なルールです」

 

 「ちょっ、オイ、人の話を……」

 

 「で、質問は?」

 

 もう講義は始まってしまったようで拳児に割り込む術はない。恭子はすでにチョークを手にしている。口で説明するだけでは追いつかないだろうから板書をするものと推測される。まさか投げはしないだろう。絹恵はちょっとだけ楽しそうに笑っている。

 

 「……チッ。先鋒から大将までいるんなら勝ち星で決めない理由はなんだ?」

 

 「ん。麻雀やからやな。四チームの代表が卓につくから星が同数になりやすい」

 

 「逆に言うと、ひとりずば抜けていれば勝てるいうことでもありますね」

 

 ( そりゃホントに団体戦って呼んでいいのか )

 

 かつかつ、と小気味いい音をさせて炭酸カルシウムが黒板の上を滑る。先鋒、次鋒、中堅、副将、大将と国語の授業のように縦書きで横に並べられる。なんとなく予想していたことではあるが、恭子の字は綺麗だった。

 

 インターハイの団体戦はトーナメント形式であること、団体戦の出場者はそれぞれ二半荘を戦うことをときおり絹恵に話を振りつつ説明していく。予選では決勝以外は一半荘しか戦えないことも忘れずに添える。拳児もきちんと聞く姿勢を崩さない。

 

 「ちっと待てや。トーナメントでやるってんなら数が合わねえんじゃねえか?」

 

 「ええトコに気ぃついたな。そや、数は合わへん。さあ絹ちゃんどないしよ?」

 

 楽しそうに恭子は絹恵に問いかける。

 

 「し、シード校と出場校数の調整ですよね?」

 

 不安げな表情で絹恵が答える。

 

 「あともう一歩で完璧やったな。実は二回戦以降は二位以上が勝ち上がりなんや」

 

 ああそやったー、と絹恵は自分の額をたたく。麻雀におけるインターハイ団体戦では、出場校である全五十二校のうち四校がシードとされ一回戦を免除される。そして一回戦を勝ち抜いた十二校とその四校で行われる二回戦では上位二チームが準決勝へ、同様のルールで決勝戦へと進むチームが決定される。もちろん出場してくるのは全国の予選を勝ち抜いてきた強豪であり、生半なことでは一回戦を抜けることも難しいとされる。

 

 「さ、じゃあ部室の方に戻ろか」

 

 今日習ったことを明日テストされるということで、重要そうなところのメモを取っていた拳児の作業が終わるのを待って恭子が言う。教室の窓の端のほうからこれから沈もうとしている陽の光が差し込んできている。いつの間にか外から聞こえてくる声は野球部のものではなくなっていた。

 

 

―――――

 

 

 

 教室に戻ってきた拳児は午前中に出してもらった椅子にまた座って見学を始めていた。今日こそ見学だけで済んでいるものの、もし部員たちから練習の指示などを求められたら現時点ではどうしようもない。実力も経験も勘も、おそらく麻雀にかかわるすべての事項で彼女たちを下回っているのは動かしようのない事実だった。だからせめて自分から歩み寄るくらいのことはしなければ男とは言えないだろう。たとえ意中の女の子が自分を見てくれなくても野郎が恋をしてしまったら男を下げてはいけない、とは播磨拳児の持論である。

 

 だから見学だって全力でやるに決まっている。あまりにも真剣になりすぎて、席から立って卓の真後ろで仁王立ちしてしまうくらいに。人数の多い姫松麻雀部の全員の顔と名前の区別をつけるにはまだ時間がかかるだろうが、そんなことは関係ない。名前がわからなくても部室にいる以上は部員であり、であるならば監督代行たる拳児がじっと見ることに何らの問題もないのだ。ルール上は。

 

 いきなり拳児が見に来た卓についていた少女たちは完全に怯えきっていた。控えめに言ったって不良の見た目に隆々たる体躯。それに卓についている新二年生からすれば先輩であるうえに昼休憩に見せた人の領域を超えた豪運。果ては裏プロだなんて噂まで流れるような存在なのだから無理もないだろう。しばらく時間が経てばまた見方も変わってくるのだろうが、午前中に見たインパクトを午後に修正するなんて器用な真似ができる人は少数派に違いない。それでもさすがは強豪校の部員といったところか、打牌に乱れは見られなかった。

 

 一方でプレッシャーを与えている側である拳児は変わらずにじっと卓を眺めていた。麻雀について深く研究したこともなければ才能と呼べるほどの特別な嗅覚も持ち合わせていない拳児は、卓における少女たちのアクションの意味がいまひとつ掴めないでいた。どうしてシャンテン数が進みそうな場面でわざわざ遠回りを選択するのか、あるいはどうしてあえて鳴きを入れたりするのか。腕に覚えのあるプレイヤーならば場面を見ればすぐにわかることだが、相手の待ちをきちんと外したりしているだけのことだ。もちろん拳児も相手が聴牌しているのではないかと警戒することもあるが、しっかりと論理に従って待ちを読み切るだけの技量はない。そのうえ目の前ではリズムよく場が進行していき立ち止まって考える時間がまるでない。

 

 ( ッ!そういうことか!後でゆっくり考えるために牌譜ってのは役に立つんだな!? )

 

 もちろんのこと他の役立て方もあるのだが、差し当たって拳児にとっては間違いのない利用方法である。そうとなれば拳児の頭は一気に加速していく。明日のテストの演習にもなるから、次の局から実際に牌譜を起こしてみようと考えた。午前中に受け取ったメモ帳にある程度のスペースを空けて東南西北、と書いていく。DVDで観た内容はまだしっかり頭に残っている。単純な性格をしている拳児はそれだけでやる気を出していた。しかし、いきなりメモ帳を出して必死になにかを書きつけている様はまたもや卓についている少女たちの恐怖の対象になっていた。

 

 播磨拳児は不良ではあるが、頭が悪いというわけではない。それどころか全力を出せばテストにおいて学年でも有数の点数をたたき出せる能力があり、また実際にその経験もある。ただ彼は致命的なまでに間が悪く、そして抜けている。だから牌譜の読み書きを理解しても、その速度まで頭が回っていないのだ。見ながら考える段階で早いと考えていたのに、それを書くことの難しさを考慮していなかったのだ。

 

 思考判断というものは洗練されるもので、こと麻雀という種目においてはそれが顕著に表れると言っていいだろう。乱暴な言い方をすれば河と手牌を見比べてどの牌を捨てるのかを決めるのが麻雀という競技であり、特殊な例を除けばある程度パターン化されてくるとさえ言ってもいいかもしれない。もちろん河を含めた牌の組み合わせなどそれこそ数えきれないほどのもので、絶対の解答など存在しない。それでもこの洗練という過程は上達するうえで必ず通る道であって、ここ姫松の麻雀部のそれはきわめて高い水準を誇っていた。早い話が打牌までの思考時間が短いのだ。

 

 まるで示し合わせたかのように一定のリズムで続く打牌に、拳児はまったくついていくことができなかった。捨てられた牌を確認してメモ帳に書いて顔を上げれば、卓の上にはもうひとつ捨牌が増えていた。その速度にさらに鳴きが加わるとなるととても追いつけたものではない。それもそのはずリアルタイムで牌譜を書く場合、よほどの熟練者でもない限りは河を読み上げる係と実際に牌譜を起こす係の二人で行うのが通常である。一人で行うのならば録画した映像を使ってでなければ難しいだろう。先ほど観たDVDではリアルタイムで牌譜を起こす場面を想定していなかったため、拳児がそこを勘違いしたのも仕方のないことと言えた。

 

 ( ぐおおおっ!? マンガの締め切りよりやべえんじゃねえのかコレ!? )

 

 メモ帳にペンを走らせながら奇妙な動きをしている男とそれに怯える卓についた少女たちの映像は、外から見るとまったく意味がわからず、また犯罪的な匂いがした。

 

 

―――――

 

 

 

 「きょーこ、アレ何しとるよーに見える?」

 

 「私らの後輩にメモ帳持って拝み倒してるように見えますね」

 

 「いたいけな少女に麻雀を打つことを強要する変態に見えるのよー」

 

 「見た感じ実戦で牌譜取ってみようとでも考えたんとちゃいます?」

 

 「フフッ、アホやなあいつ。お、ゆーこそれロンやで」

 

 「ふぇっ!?」

 

 休憩を昼に挟んだものの朝から集中して打ち通しということで、洋榎が提案した三麻に興じつつ何やらおかしな行動を取っている拳児を観察していた。言わば息抜きのようなものである。そうは言いながら牌にはきちんと触れているあたり、芯の芯まで麻雀漬けなのだろう。

 

 「おお、また始めよった。ええ子らやな。で、なんであいつ牌譜ひとりで取ってるん?」

 

 「んー、DVDで触れてなかったんちゃいますかね」

 

 「ほー、でーぶいでーか」

 

 「でーぶいでー?」

 

 「でーぶいでー」

 

 ぷす、と恭子の口から空気が漏れる。なんとか堪えていた洋榎と由子もたまらず続く。反響し合ってだんだんと波が大きくなる。最終的には言葉を発するのさえ難しくなっていた。

 

 「くふっ、く、ひ、洋榎それ、その辺のお、おばちゃんでも言わないのよー」

 

 「しゅ、主将、そ、それはアカンですて……」

 

 「むふっ、なんなんやろな、ふ、タ、タイミングが、完璧やったんかな」

 

 

 ( ぐぬ、人が必死でやってるってのにいい気な連中だぜ! )

 

 目尻に涙をためるほど笑っておきながら恭子の目はしっかりと拳児の手元を捉えており、それを見てプロの対局の牌譜を一発で取らせてみようかと考えるに至ったのである。恭子が本当に確認したかったのは牌譜の読み書きを理解できたかどうかであり速度はまったく関係なかったのだが、あんな姿を見てしまえばちょっとしたイタズラ心が芽生えても仕方ないだろう。

 

 だからこの翌日、拳児は悲鳴を上げることになったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 



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04 慈愛と共感覚

―――――

 

 

 

 小鳥のさえずる春の朝。季節特有のなにか漉したようなやわらかい光を背に受けて、播磨拳児はひたすらページを繰っていた。大写しにされた写真と煽り文、余白を埋めるように羅列された細かい文字に目を走らせる。

 

 読んでいるのは麻雀雑誌だ。先ほど行われた末原恭子女史による牌譜とインハイ関連のテストをようやく終えて、手持ち無沙汰になったところにちょうどよく雑誌があったから手を伸ばしたのである。やると決めた以上はきちんといろいろ知っておくのが筋だろう。本当なら部のものとして管理されている麻雀雑誌はそんなところには置いてはいない。真瀬由子と末原恭子が結託して拳児の近くに置いてみたところ、見事に功を奏したというわけである。

 

 ぱらぱらと流し読みをしていると、あるページを過ぎたところではたと手が止まった。今しがた妙なものが目に入ったような気がする。おそらく勘違いなのだろうが気になった拳児はそのページに戻ることにした。ちなみに止まったページには大沼プロのインタビューが載っていた。

 

 件のページに戻って拳児は目を剥いた。大々的に特集されているのはどこからどう見ても前日に腹痛の自分に対局を申し込んできたあの少女である。そっくりさんかとも思ったが髪形まで似ているのは明らかにおかしいうえに、きちんと紹介の部分に氏名と高校名が書かれている。

 

 「ふふ、まるで信じられないものを見たような顔をしてるのよー」

 

 「いや、なんでコイツこんなとこに載ってんだ?」

 

 「なんでも何も洋榎は全国で五指に数えられるくらいの選手なのよー?」

 

 「いィ!? あいつそんなスゲーのかよ……。人は見かけによらねーんだな……」

 

 「それを洋榎に伝えておけばいいの?」

 

 「余計なことは言うんじゃねえ」

 

 くすくすと口元に手をやって上品に笑う。

 

 「その調子ならこっちでも十分にやっていけると思うのよー」

 

 「ンだそりゃ? 喜んでいいのか?」

 

 「私のお墨付きなんてそうそうもらえないのよー」

 

 気が付けば隣に座っている由子は身長差のせいもあって、拳児を見上げるかたちになっている。年頃の男子ならそれだけで撃沈するほどの状況かつそれを達成するのに十分なルックスを由子は備えていたが、由子本人にもその気はなかったし何より拳児の心を揺り動かすのはほとんど不可能に近いと言っていい。したがって別段その場に変化は訪れなかった。

 

 しつこいようだが拳児は不良である。しかしそうであるにも関わらず人を遠ざけるような空気を持っていない。それどころか拳児がいると安心感を覚える人もいる。また人間ではなく動物に限ればペットであれ野良であれ瞬時に心を通わせることさえ可能である。これは彼が過ごした高校二年生での一年間の賜物であって、生来持ち合わせているものではない。しかし拳児の持つそうした雰囲気はどうしてか、ぴたりと彼に馴染んでいた。

 

 「オウ、そうだ。おめー名前は?」

 

 「真瀬由子。それにしてもそういう名前の聞かれ方は初めてなのよー」

 

 「播磨拳児だ。これから世話ンなるぜ」

 

 「こちらこそ」

 

 部室内には相変わらず牌と、ときおり点棒の音が満ちていた。不思議なものでそちらへ意識を向けていると人の肉声は耳の入り口で弾かれるようで、拳児にはロンだのチーだのの声は聞こえていなかった。控えめに開いた窓から春の風が吹き込んでカーテンを揺らしている。風にのって飛んでくる花粉に苦しんでいる部員はそれなりにいるようで、マスク姿が目立つ。健康優良児である拳児には病気をした記憶がとんとない。忘れているだけかもしれないが。

 

 並んで座っている二人に、とくに会話があるというわけではなかった。椅子にどっかりと座った拳児は変わらずに雑誌のページをめくっているし、その隣にちょこんと座っている由子はどうやら部室全体を見渡しているようだ。何も事情を知らないものがこの光景を見れば、あんな男の隣から逃げないなんてすさまじい度胸の持ち主だ、なんて賛辞が由子に贈られるかもしれない。

 

 「よォ、この宮永……、なんて読むんだコイツ」

 

 「テル、って読むのよー」

 

 「そうか、助かるぜ。で、この宮永照っつうのは何なんだ? すげえ名前出てくるんだけどよ」

 

 「正真正銘の化け物」

 

 「あァ? どういうことだ?」

 

 「その子は私たちと同じ学年なんだけど、公式戦で一着以外を取ったことがないのよー」

 

 会話こそしているものの視線を合わせているわけではない。拳児は雑誌に目を落としつつ質問をしているし、由子も部室に目を配りながら返している。

 

 「ま、あなたも同類だろうから私たちよりは理解できると思うのよー」

 

 ( 一着以外取ったことないのと同類ってことは…… )

 

 「フ……、しばらく前に “最強” なんて称号には飽きちまったヨ……」

 

 拳児は窓から見える青い空を見やって遠い目をする。サングラスのおかげで見えないが。もちろんその言葉の指す方向に麻雀という単語は存在していない。会話の流れからいけば麻雀の話であることは明白であるはずだがそんなことは拳児には関係がない。

 

 「しばらく、ってことはずいぶん歴が長かったり?」

 

 興味を持ったのか由子は顔を拳児の方へと向ける。左右に流された前髪がやさしく揺れる。

 

 「中二のころにはもうそっち(ケンカ)の世界にどっぷりよ」

 

 「……つらくはなかった?」

 

 「さァな。忘れちまったよ」

 

 「ここにいればそっち(裏プロ)に戻らなくて済むのよー」

 

 慈しむように目を細めて語りかける。こちらを向いた由子の顔にちょうど陽の光がななめに差し込んで、より一層その表情の印象を強くしていた。すこしの間だけ視線が交錯して、不意に由子が立ち上がる。

 

 「じゃ、そろそろ練習してくるのよー」

 

 「おう、頑張んな」

 

 胸元の紐のようなタイがひらりと舞って、話し方に特徴のある少女が背を向ける。濃いめの灰色をしたカーディガンは学校指定のものなのだろうか。同じものを着用している部員の数は、割合で言えば半分を超えるくらいいそうだ。再び雑誌に目を戻した拳児は、昼頃まで熱心に読み続けていた。

 

 

―――――

 

 

 

 今日は前日と違って一日を通しての練習のようで、昼食休憩の時間になるとその旨の指示が洋榎から飛んだ。それぞれが弁当や買ってきた食べ物を手に移動したり、あるいは何も持たずに部室を出る者もあった。おそらくこれから買いに行くのだろう。拳児もそのクチで、近くのコンビニへと出かけるつもりである。ぺたぺたと床とスリッパがなんとも間抜けな音を立てている。家出をする際にまさか上履きが入用になるとは思っていなかったため、拳児は今日も来客用のスリッパを借りているのだ。あまり動きやすくもないのでそのうち買いに行かねばなるまい。

 

 姫松高校の最寄りのコンビニは校門を出て右に曲がって、すこしだけまっすぐ進んだ曲がり角のところにある。所要時間は二分。しばらく前からあるのか未だに押したり引いたりして開けるタイプの扉だ。さすがに学校が始まれば休み時間に行くことは禁じられているそうだが、今は部活のうえに春休み期間であるから問題はないだろう。

 

 扉を押してパンを売っているコーナーへと向かう。目的はやきそばパンだ。自炊など考えたことさえない拳児は、食事に関しては出してもらう、買う、お湯を入れる、の三つのイメージを持ってしまっている。将来は苦労するかもしれない。

 

 お昼時とはいえ住宅街にある高校の側のコンビニだ。そうそう品切れになるようなこともない。問題なく目当てのやきそばパンを手にして、今度は飲み物を選びに紙パックの並んだ棚の前へと移動する。たかだかひとつの店舗の棚だというのに目移りしてしまうほどに飲み物の種類というものはあって、それだけなくてはならないものなのだなと拳児はひとり納得する。

 

 とくに食い合わせなど気にしない拳児はぱっと目についたヨーグルト飲料を買うことに決めた。見回してみると店内には麻雀部の部員やおそらく他の部の部員だろう生徒たちがそれなりに入っており、レジにたどり着くには並んで待たなければならなかった。パンとヨーグルトを持って列に並んでいると、背中をつつかれる感触があった。何気なく振り返るとそこには先ほど雑誌で見た少女が立っていた。

 

 「でーぶいでー」

 

 「は?」

 

 「でーぶいでー」

 

 ( ……麻雀つええヤツってのはどっかおかしいのか? )

 

 「あれ、おかしいなあ。昨日はどっかんどっかん来たんやけど」

 

 「何が?」

 

 「ま、ええわ。自分お昼何なん?」

 

 「やきそばパンだ」

 

 そう言って右手に持ったパンを洋榎に見せる。ビニールに包まれたそれはコッペパンの真ん中を切って、濃く味付けされたやきそばをそこに挟んだとてもスタンダードなものだ。

 

 「うおぅ、その見た目にやきそばパンて。コテコテやん。なんやったっけ、ストロボタイプ?」

 

 「……ステレオタイプじゃねーのか?」

 

 「ん、あ、ああ、そやな。ちゃんと知っとるで? アレや、洋榎ちゃんの常識チェックや」

 

 なぜか視線をそらしつつ矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

 

 「お、おう……」

 

 「なんやその、冷静に返されると恥ずかしいな」

 

 うへへ、と後頭部を右手でさすりながら洋榎が小さな声でつぶやく。言葉通り恥ずかしいのか、頬がうすく朱に染まっている。恥ずかしがるくらいなら不確かな言葉など使わなければいいのに、と思ったが口にしないだけ拳児は成長したのかもしれない。

 

 「お待ちのお客様どうぞー」

 

 タイミングよく店員からの声が入ったので、拳児はさっさと支払いを済ませてコンビニを出た。

 

 

―――――

 

 

 

 麻雀に限らずあらゆる競技において、ツキや流れといった不確かで目に見えないものへの信仰は篤い。もちろんそんなもの実在しないと主張するひともあるだろう。それは無限大の確率のなかの結果の偏りであって、ただの偶然の所産なのだと。言葉遊びを許してもらえるのなら、その偏りを引き寄せるものこそツキや流れなのだと言うこともできるのだが。今、播磨拳児は初めてそれら実体のないものを明確なかたちで認識するという稀有な体験をしていた。

 

 

 コンビニで買ったやきそばパンを胃へと押し込んで、独りで拳児は部室へと戻ってきた。全体練習の日の昼食休憩の時間は決められており、拳児は休憩の終わりの十分前に戻ってきた。彼に不良としての自覚があるのかは定かではない。ちなみに拳児がいるのは第一、と呼ばれる部室である。姫松高校の麻雀部はその部員の多さから部室を二つ与えられている。ひとつの部室が二教室をぶち抜いた広さであることを考えると異常とも言える待遇だ。

 

 午前中に由子と話した内容を拳児は思い出す。カンタンにまとめれば愛宕洋榎は圧倒的な強さを誇るのだという。麻雀における強さの定義にぴんときていない拳児は、それを確かめるために実際に彼女の対局を外から見てみようと考えた。もちろん監督代行として部員の実力を把握することも大事な仕事であり、一石二鳥のことに思われた。

 

 

 「つーわけでだ、オメーの実力を見ないことには始まらねえと思ってよ」

 

 「……なんや。昨日うちが本気やないってわかっとったんか」

 

 「え?」

 

 「そう考えると勝負にならんー、いうんはそういう意味か」

 

 また勘違いが一歩進む。あっけに取られた拳児の声は聞こえていないのだろうか。

 

 「まぁ播磨の言うことももっともやな。ええやろ、ガチもガチの試合モード見せたる」

 

 そう言うと洋榎は右手を前に突き出し人差し指をぴんと立てて、麻雀するものこの指とーまれ、と楽しそうに部室全体に声をかけた。すると学年を問わずに部員の多くが洋榎の指をめがけて駆け出した。なかには足を雀卓にぶつけてしまった部員もいるようだ。それだけ彼女と打つことには大きな意味があるのだろう。

 

 「したら先着の三名様を特製卓にご案内や。ええな、キチンと勝ちに来るんやで?」

 

 洋榎が卓についた瞬間、拳児の喉の奥をなにかがつかむような感覚が襲った。種目にかかわらず強者は強者の匂いを嗅ぎ分ける。拳児は麻雀に関してはほとんど門外漢と言ってもいいが、段違いに強いものに対する感性は鋭敏そのものだ。その感性が告げるには先日同卓したときの気配の変容とはまるで違う。まさかたまたま来ることになった学校で、それも麻雀という競技でこれほどセンサーに訴えてくる存在に会えるとは拳児は思っていなかった。逸る気持ちを抑えて、席決めをした洋榎の後ろへと陣取る。

 

 山を崩して手牌を揃え、手慣れた様子で位置を入れ替えて牌姿を整える。洋榎は南家だ。手牌を覗いてみるとそこまで良いとは言えそうにないものだった。拳児は一目でシャンテン数を数えるような技術は持っていないから、ひどく大雑把に見積もる。次々と山から牌が自摸られ、そして河へと捨てられていく。先日の牌譜を書くトレーニングのおかげかその速度に置いていかれるようなことはなかった。

 

 洋榎の下家からリーチがかかる。八巡目の比較的早いリーチだ。河から察するに筒子が安全そうには見える。萬子も索子も一枚ずつしか捨てられていない。だがそこから推測するのはいくらなんでも不可能というものだろう。洋榎の手を見てみると先ほどよりは進んでいるようだが、今から下家のリーチと勝負をするのはいささか冒険が過ぎるように思われる。そのまま場の進行を見ていると、どうやら洋榎はオリを選択したようだった。ちなみにその局はリーチをかけた少女が四巡後に自摸和了った。

 

 東二局をまたもや下家が早めに和了って東三局となった。洋榎の一度目の親はあっさりと流された。当の本人は何を気に留めるというふうでもなく、淡々と手を動かしていた。そこへ来た配牌はドラをふたつ抱えた横に伸びていきそうな手。きれいに嵌まれば一気通貫も見えるような好手だ。洋榎は理牌を終えたあと、並びを整えるため牌の背をやさしく撫でる。表情は変わらない。来るのが当たり前だとでもいうように。

 

 圧巻だった。しなやかに伸びる腕の先から新たに牌が手へと持ち込まれるたびに不要牌が外へと出されていく。二巡目に一度いらない牌が来ただけで、あとは流れるように聴牌へと漕ぎつけた。それも九索が出れば平和一通ドラドラの理想的ともいえる形でだ。間髪入れずに洋榎はリーチ棒を場へ放る。

 

 「さあさあリーチや!一発ドボンには気ぃつけや!」

 

 怪物手と言うには物足りないが、速度と合わせて考えれば異常と言うには十分な手だ。まだまだ安牌は少ない。拳児の位置からは他家の手は見えないが、持っている牌次第では冒険に出なければならないだろう。あるいは比較的安全に思える端牌にすがりつく可能性のほうが高いか。案の定というべきか、どうしようもなかったというべきか、対面から九索は零れた。

 

 一気にトップに立った洋榎はそのままガンガン攻めるかと思いきや、聴牌こそしたもののリーチをすることなくダマで構えていた。拳児の数少ない経験則に従うと、こういうノリのいいタイプは勝負ごとにおいてもその姿勢を崩さないのがほとんどである。だが目の前のこの少女は違った。勝つ為に適切な手段をきちんと選び取っている。前局での高め一発の印象が強すぎてリーチの印象を植え付けられたからか、他家はリーチをしていない洋榎に対して危険牌を無警戒に切ってくる。捕まらないわけがなかった。

 

 「ロン。そんな美味そうな牌ぽんぽこ捨てたらあかんなぁ」

 

 喉の奥の感覚がすこし強まる。

 

 南一局に入る。配牌は先ほど一発で和了った局ほど良いものではない。しかしどちらかといえば良い方に分類できる、といったくらいのものだ。しかし自摸は次々に手に吸い込まれ、みるみるその形を変えていく。当たり前のように展開されていくその進行は違和感さえ抱かせないものであった。それこそがおかしいことだと後ろで見ている播磨でさえ気付けなかった。

 

 瞬く間に仕上がった手を見て、ついに洋榎が表情を変えた。いや表情そのものはこれまでの対局のあいだにもころころと変わってはいたが自身の感情を露わにしたのはこのときが初めてだった。まるで童女のような笑みを浮かべてごそごそと点棒の入った箱を漁る。リーチ宣言のための千点棒を抜き取り、卓上に供託した。

 

 彼女の待ちは平凡も平凡の両面待ちだった。聴牌速度は追随を許さぬものであったが、わざわざ洋榎のリーチに対して中の方に寄った暴牌をしなければ振り込むこともないだろう。はじめはなぜ先ほどダマを選べた彼女がリーチを選択したのかが拳児にはわからなかった。しかし他家の少女たちが牌を切って洋榎の自摸が近づくたびに、それがくっきりと見えてくるような気がした。

 

 ( こりゃあ、持ってくるぜコイツ……! )

 

 「来るで来るでぇ、一発ドカンのほいっさっさや!」

 

 指先で牌の感触を確かめ、目で見ることなく洋榎は自摸牌をひっくり返して卓上へと自信たっぷりに置く。ついで手牌をきれいに倒し、和了であることを卓に臨む相手に見せつける。

 

 以後の局について語る必要などないだろう。

 

 

―――――

 

 

 

 「どやった? どやった? カッコよかったんちゃうん?」

 

 ありがちなヒーローがしそうな、両手を斜め上に平行させたポーズをとりながら洋榎が声をかける。その割にはいわゆるドヤ顔ではなく、拳児の口から良い方面の感想が出てくるのをわくわくしながら待っている表情だった。

 

 「オウ、決まってたんじゃねえか?」

 

 満足いく返答が得られたのか、せやろせやろー、と嬉しそうに拳児の背中をたたく。褒められて素直に喜ぶその姿は犬に見えないこともなかった。対局後に卓に突っ伏した部員たちを前に話をするのもはばかられたため廊下に出たのだが、そのせいで洋榎の動ける範囲が見事に広がってしまい若干うっとおしかった。

 

 「また播磨と打つときは遠慮せえへんからな、そんときが楽しみや」

 

 「あァ? 冗談じゃねえよ。俺はあんなレベルじゃねえ」

 

 「はぁー……。もう隠す気ゼロやろ自分。裏プロやって認めたらええやん」

 

 もともと持っている意識の差でこれだけ解釈に違いが出る会話も少ないだろう。いつこのズレが解消されるのかはそれこそ未来でも見えない限りは誰にもわからないことだった。昼休みの直後の一半荘だったため、まだまだ太陽は高い位置にある。この場で洋榎の誤解を解くことを諦めた拳児が、このあと実力を見るべき部員を郁乃と恭子のどちらに聞くべきかを考え始めたとき、赤阪郁乃が廊下の向こうからやってきた。

 

 相も変わらず彼女のいる場所だけ重力が少し弱まっているのではないかと疑いたくなるほど軽い足取りで拳児たちの方へ近づいてきて、いつものようにぶんぶんと手を振る。

 

 「わ、洋榎ちゃんに拳児くんやん。ちょうどええわ~」

 

 「あれ、代行どないしたんです?」

 

 「んー、もう代行とちゃうけどそれはまあええとして~。合宿ってやるべきやと思う~?」

 

 「え? まぁ、した方がええ思いますけどね。根詰めて打てるし」

 

 「いつの話スか」

 

 「あ、心配せんでも大丈夫やで~。もうちょっと先の話やから~」

 

 「……まぁ、時間があるならいいんじゃないスか」

 

 「ん、わかった~。そんな感じでやっとくわ~」

 

 それだけ済ませるとまた廊下の奥へと戻っていく。いまひとつ郁乃の切り出した話の内容が呑み込めず、拳児と洋榎は誰もいなくなった方を見つめてしばらくのあいだ突っ立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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05 お人好し疑惑

―――――

 

 

 

 月が変わって少し肌寒い薄曇りの空の下、麻雀部は変わらず元気に活動中である。雲がなければいちばん高いところに昇った太陽が拝める時間帯なのだが、そんなことを言っても雲が晴れるはずもなかった。曇っているよりはやっぱり晴れているほうが好きだな、と絹恵はぼんやり思う。中学時代にサッカー部でゴールキーパーを務めていたからだろうか。あるいは雨が降るとそのせいでグラウンドがぬかるんだ記憶があるからかもしれない。

 

 同じ学年の仲の良い部員と昼休みをいっしょに過ごすのが絹恵の通例である。漫はわりと頻繁に恭子に拉致されるので、それから逃れた場合でないと参加できない。もちろん今日もしっかりと連れていかれている。お弁当を食べ終わるといつもなら何人かで部室に戻るのだが、忘れ物やら花摘みやらで絹恵はひとりで廊下を歩いていた。春休みの学校はそれなりに静かだが、別に音がまったくないというわけでもない。文化部は麻雀部以外にも校内にいるし運動部も各所で頑張っている。人が集まれば音が立つのは当たり前で、差はそれが近いか遠いか程度のものなのだ。

 

 廊下の真ん中で絹恵は突然立ち止まった。か細い呼吸の音のようなものが聞こえた気がしたからだ。今いる場所は文科系の部があるようなところではない。だから廊下以外に人の気配があること自体がおかしいと言える。呼吸を整え、耳を澄ませる。すこし戻ったところの教室がその音の出どころだ。その教室の戸は半分ほど開いており、中を窺うには十分な隙間だろう。勘違いならそれに越したことはないが、もしそうでなかったとしても校内には麻雀部も教員たちもいる。助けを呼べることを確認して、絹恵は音を立てないようにゆっくりと教室へ顔を覗かせた。

 

 「ひっ」

 

 絹恵の目に飛び込んできたのは、首から上だけをテーブルに預け両腕をだらりと垂らして座席についた大柄な男の姿だった。やつれたようにも見える顔は絹恵のほうに向けられてはいるが、その目に映っているかは定かではない。それ以前にサングラスのせいで目そのものが見えない。はてサングラス、と絹恵は頭を働かせる。学ランを着たヒゲグラサンなど現実では播磨拳児以外に見覚えがない。ということはそこで浅い呼吸をしているのは拳児ということになる。そういえば午前中に見かけなかったが、いったいこんなところで何をしているのか。聞きたいことはいくつかあったがこのままの状態はさすがによろしくないだろうと考えた絹恵は、とりあえず恭子を呼んでくることにした。

 

 

―――――

 

 

 

 「おおかた徹夜でもしたんやろな。昨日の様子見とったらわかるわ」

 

 「昨日なんかあったんですか?」

 

 「ほら、高校て義務教育とちゃうから編入試験てあるやろ?」

 

 「あー、ありますね」

 

 「それ今日やってこと昨日の練習終わりまで忘れてたらしくてなぁ、めっちゃ焦っとったわ」

 

 「はは……」

 

 絹恵から報告を受けた恭子はとくに取り乱す様子もなくふつうに歩き出した。それはまるで新聞が来たから玄関まで取りにいくといったような、当たり前で自然な動作だった。恭子の異物に対する順応性の高さは聞き及んでいるが、それが麻雀以外にも発揮されるのだと知って絹恵は驚いた。絹恵から見た拳児の印象はまだまだ不安定でよくわからないというのが大部分を占めている。おそらく、たぶん、きっと悪い人ではないのだろうが正直なところちょっと怖いのだ。

 

 拳児の何が悪いというわけではない。ただああまでわかりやすい、失礼な言い方をすれば前時代的な不良を絹恵は見たことがなかった。それだけのことである。わずかではあるが話をした感触では粗暴な感じこそあるものの、トゲがあるわけでもなくただ不器用なだけなのだとなんとなく理解できたのだが。

 

 「おお、聞くのと見るのやとやっぱり違うな」

 

 教室にいる存在を視認して、頬をすこし引きつらせながら恭子は言う。どうしてかはわからないが電気も点いていないのだ、この状況で心の底から平静を保てる人間はいないだろう。とはいえ見知らぬ相手でもないためか、恭子はそのショックを大して持続させることもなく近づいていく。拳児はぴくりとも動かない。規則的に浅い呼吸が続いているだけだ。恭子はサングラスの前で手を動かして拳児に意識があるのかを確かめる。反応はない。

 

 「……寝とるな」

 

 「えーと、どうします?」

 

 腕を組んで窓の上のほうへと視線をやって恭子が考え始める。

 

 「まァ今日のところは寝かしといてもええか。今日まで休みナシやしな」

 

 「それはうちらも同じやないですか?」

 

 「そうとも限らんで、絹ちゃん。私らと違って生活環境まるっきり変わったんやから」

 

 こうやって細かいところに気の利く恭子のことが、絹恵はちょっとうらやましかった。さすがに洋榎から全幅の信頼を得るだけのことはある。おそらく絹恵たちの気付かないところでも部員たちのことを思っていろいろとしてくれているのだろう。

 

 「それに播磨にはこれからやってもらうコトようさんあるしな」

 

 「やったら軽く食べられるものとかお供えしておきましょか」

 

 「まだ生きとるっちゅーに」

 

 くすくすと笑いながらふたりはお供え物を探しに教室を後にした。拳児が目を覚ますのはすこし後のことで、目の前に食料があったことに死ぬほど感謝をしたりするのだがそれはまた別のお話。

 

 

―――――

 

 

 

 空の頂上を太陽が通り過ぎてて水色がすこし薄まるような時間。多くの卓の上で牌の音は止まない。そんななかを拳児が隙間を縫って歩くと、未だに小さく悲鳴があがる。まだ彼が来て四日目なのだから仕方ないといえば仕方ないのだが、ちょっとは拳児も傷ついたりする。そんな監督代行のお目当てはおでこにおさげが特徴の上重漫だった。

 

 当の漫はちょうど対局が終わったところなのか、椅子の背もたれに思い切り体重をかけていた。戦果はあまり芳しくないようで、目を閉じたまま渋い表情をしている。座り通しで疲れたのか両手を胸の前で伸ばし、そのまま頭のほうへと持っていく。気持ちよさそうに息を吐いて目を開く。

 

 「あれ、播磨先輩」

 

 「オウ、ちっとオメーに聞きたいことがあってよ」

 

 近くにいた新二年生たちは漫の胆力に驚く。いきなり目の前に新しい監督代行が来たら怯えてもしょうがない、というのが彼女たちのあいだでの通説だった。その胆の大きさがレギュラーの座を射止める要素となったのかもしれない。

 

 「聞きたいこと、ですか」

 

 「オメーの麻雀に関してなんだがよ、バカヅキっつーのか? あるだろ」

 

 「あー、はい。めっちゃ調子いいときあります」

 

 「そりゃいいんだけどよ、そんでも愛宕にゃ勝てねえのか?」

 

 「へ?」

 

 「いや牌譜ばーっと見ててよ、愛宕に勝ってるやつがほとんど見当たらなかったんだよな」

 

 「え、あ、その、主将にはあんま勝ててないです……」

 

 「あいつがつええのは事実だけどよ、オメーならもうちっとやれる気がすんぜ。俺は」

 

 「言うても主将早いしカタいし待ちわからへんし……」

 

 その言葉を聞いて、拳児はすこし黙った。居心地の悪い沈黙の中で漫の顔がわずかに曇る。

 

 「……頑張っても勝てねえってのはな、そもそものやり方に問題があるってことだ」

 

 「……?」

 

 「ケンカでも何でもそうだけどよ、負け続けるやり方を選ぶバカはいねえ」

 

 「うぅ」

 

 「勝ちたきゃオメーも自分のスタイルについて考えとけ」

 

 「えっ、ちょ、そこまで言っといてアドバイスとかないんですか!?」

 

 「ねぇよ」

 

 そう言って拳児は、いつの間にか近くから引っ張ってきていた椅子から立ち上がる。話しておくべきことはすべて話したとでもいうように振り返ることなく歩いていく。もちろん周囲にいた部員たちもふたりの会話を聞いていたが、誰一人として割り込めなかった。ひとり残された漫はいろいろな考えが浮かんでは消えるなかで、拳児についても考えていた。

 

 ( まさかもう牌譜全部読んだっちゅうことか……!? まだ来て三日四日やのに……? )

 

 姫松高校に貯蔵されている牌譜は現在の部員のものに限っても相当な数がある。部内でのものもあれば、公式非公式を問わずに対外試合のものもある。もちろん三日四日なんて短時間でその全てを読破して重要なところだけを頭に残すなど誰であれ物理的に不可能である。拳児は先日、誰の牌譜を読んだらいいのかを郁乃と恭子のふたりに聞いていたのだ。もちろん漫はそれを知らない。

 

 

 「ええと~、そやな~。牌譜見るんやったら漫ちゃんのがええんちゃうかな~」

 

 「それやったら漫ちゃんのが面白いと思うわ」

 

 そんなことをふたりに聞いたから、拳児は言われたとおりに上重漫の牌譜を集めてじっくりと読むことに決めたのだ。まだまだ初心者の域を出ない拳児の目から見ても、彼女のデータは不思議なものだった。基本的には普通の打ち手である。相手の問題もあるのだろうが、勝ちの数と負けの数を比べるとどちらかといえば負けのほうが多い。しかしときおり異様と言ってもいい勝ち方を見せる半荘がちらほらと見受けられる。運の要素が多い麻雀なのだからたまには大きな和了りくらい誰でも見せるだろう。ただ漫のそれはどこかの半荘に集中しているようなフシがあった。

 

 なにか共通点でもあるのかと思い、異様な局だけを集めて見比べてみるがとくにそういったものは見つからない。だからこれはイカサマでもなんでもなく、純粋に彼女の幸運がそうさせるのだと結論したほうがいいと拳児には思えた。和了る手が倍満以上は堅いなんて相手からすれば悪夢に違いないだろう。拳児は怖いもの見たさというか、そういったちょっとした興味を持って漫が暴れた対局をもうすこし詳しく見てみることにした。

 

 凄惨といってもいいような牌譜を見ているうちに、拳児はあることに気が付いた。漫にありえないほどの幸運がついているのだから、と彼女が勝った局から選び抜いた牌譜のなかに愛宕洋榎の名前がほとんど見当たらないのだ。短い期間ではあるが部内での様子を見る限り不仲ということはなさそうだ。おそらく対局も普通にしているだろう。となれば漫と洋榎の揃った牌譜がないのはおかしい。そう考えた拳児はその条件を満たす牌譜を探すことにした。

 

 結果としてふたりの揃った牌譜はいくつも見つかった。もちろん中には漫のバカヅキが発動している局も見られた。手の偏りがすさまじいことになっている。だがそれにもかかわらず、どの半荘も制しているのは愛宕洋榎だった。ツイているときに負けるというのも麻雀ではよくあることと拳児も納得するところだが、それでも洋榎に対してほとんど勝てていないのは不思議に思えた。他の牌譜を見ればもっと食い下がっていてもおかしくない。あまり考えるのが得意ではない拳児は、それならばさっさと本人に聞いたほうがよいと決断したのだった。

 

 

―――――

 

 

 

 漫に話を聞いたあと、今度は洋榎に話を聞いてみるかと考えた拳児は部室全体を見渡してみる。今いるのは第二部室だが、どうやらこちらにはいないようだ。扉を開けて廊下へ出ると、ちょうど探していた顔がそこにあった。

 

 「お、ちょうどええやん。きょーこー!播磨おったでー!」

 

 拳児を見るや否や後ろを振り向いて大声で呼びかける。ほんの少しの間があって恭子が第一部室から顔を出し、ぱたぱたと駆け寄ってくる。拳児は拳児で聞いておきたいことがあったのだが、目の前にいるふたりから声をかけられるような案件などまるで思いつかない。まず三人は他の部員の通行のことも考えて、廊下の端のほうに固まる。

 

 「よう眠れた?」

 

 「バッチリよ。なんでか知らねーが起きたら食い物があって助かったぜ」

 

 え、なになに、と洋榎が恭子と拳児の顔を交互に見る。突然知らない会話を始められたのだから知りたいと思う気持ちも当然だろう。

 

 「……ん? つーかなんで俺が寝てたの知ってんだ?」

 

 「それはまあどうでもええやろ」

 

 「え、なに? 洋榎さんまだ会話に入れてへんねんけど」

 

 「あ、こっから主将も入るんで」

 

 「ならええわ」

 

 それであっさりと切り替えられる洋榎を心配したくもなるが、大きなお世話のうえにそれでは話が進まない。拳児も急を要するわけではないがいちおう聞きたいことはあるのだ。顔を恭子のほうに向けることで話を促す。

 

 「で、播磨、編入試験の感触はどうや」

 

 「あァ? んなこと聞くために俺を探してたのか」

 

 「何言うてん。大事なことやろー。ウチの高校に通えるかどうかが決まるんやで?」

 

 洋榎はじとっとした視線を拳児にぶつける。

 

 「チッ、別にヒデーことにはなってねえんじゃねえか?」

 

 「ん、それは重畳やな」

 

 「チョウジョウ?」

 

 拳児と洋榎の声が見事に重なる。

 

 「はぁ、気になるならあとで調べてください」

 

 恭子は額に手をやってため息をつく。これでは会話が進まない。そんな恭子をよそに洋榎と拳児はこそこそと話をしている。

 

 「きょーこはむつかしい言葉よー知ってんねん」

 

 「ああ、なんとなくわかるぜ。コイツはそんな感じがする」

 

 「はいはい、主将も播磨もええですか。本題入りますよ」

 

 「おお、そやったな」

 

 「な、播磨。もうすぐ学年変わって新入生も来るやろ?」

 

 「それがどうした」

 

 「それで入学式のあとに部活動紹介の時間があんねんな」

 

 ( あー、そういうのもあんのか )

 

 「で、それ播磨に出てもらお思ててん」

 

 タイミングよく廊下の窓の向こうでカラスが鳴いた。麻雀部の部室のある四階の廊下には彼らを除いて誰一人いなかった。洋榎はなんだか意地悪そうな笑顔を浮かべている。恭子はというとまるで当たり前のことを言っているかのように表情を崩していない。これまでの彼女の傾向から見ても冗談である可能性は極めて低い。

 

 「ま、待て!そういうのは愛宕がやるもんじゃねえのか!? 」

 

 「ま、たしかに主将のうちが出るのが筋ってのは認めるけど、ちゃんと理由があるんや」

 

 「あ? 理由だァ?」

 

 「ぶっちゃけ姫松は強豪やからな、やる気のある子はほっといても入ってくんねん」

 

 「じゃあその部活動紹介とやらに出なくてもいいじゃねえか」

 

 「それがそーもいかん理由があるんやて。ほい恭子」

 

 「一番大きいんは初心者お断りみたいな空気を出したないってトコや」

 

 恭子は人差し指をぴんと立てて、順序立てて説明を始める。

 

 「強すぎるー、いうんは経験浅い子からしたら敬遠の対象になりかねんからな」

 

 「……そうか」

 

 「それに播磨ならわかっとるやろけど、麻雀の才能はどこに隠れとるかわからんし」

 

 「ちと引っかかる部分もあるがまあいい、それが俺の出る理由とどうつながるってんだ?」

 

 どうにも二対一だと分が悪い。どうやってもこちらの意見は通りそうにないような気さえしてくる。それでも拳児はなんとか反撃を試みる。一対一でも押され気味だろうなんて言ってはいけない。

 

 「そう焦りなや。うちの代わりに播磨に期待してんのはな、インパクトや」

 

 今度は洋榎が待ってましたと言わんばかりに返してくる。なぜここで決めるのかはわからないがドヤ顔で決めている。してやったりの要素などどこにも見当たらない。

 

 「監督代行が播磨になってるなんて部員以外はほとんど知らんし、そもそもうちは女子部や」

 

 なぜか洋榎はすこし膝を曲げて腰を落とし、両手の指をわきわきと高速で動かし始める。それによく見れば目の焦点があっていないような気もする。

 

 「そこで播磨がドーン出てったらめっちゃおもろい思わへん!?」

 

 「面白くしてどうすんだよ」

 

 「まずは興味から持ってもらわんと始まらんでー、播磨ー」

 

 「俺が出てって入部しようと思うやつが増えると思ってんのか?」

 

 「そこが主将やなくて播磨を出す意味なんや」

 

 真剣な表情を崩すことなく恭子が話を受けて続ける。

 

 「うちの部は初心者も大歓迎やけど、やる気のある子やないとあかん」

 

 瞳の力が増した気がした。なるほど拳児は恭子の闘牌も牌譜も見ていないが、こんな目ができる人間が弱いわけがない。たしかに強豪に違いないと拳児は理解する。

 

 「つまりだ、ふるいにかけろってんだな?」

 

 「そういうことや。途中で辞めるんも辛いやろしな」

 

 「……わぁーったよ、しかたねえ」

 

 頭をがしがしと掻いて視線を横に逸らす。洋榎と恭子は顔を見合わせて表情を綻ばせている。これがもし一年前の拳児であったなら話を聞くどころか即座に背を向けて帰っていただろう。誰かのために何かをするなんてとても考えられないことだった。もちろん拳児はそんなことを自覚などしていない。姫松に彼の過去を知る者はいないから、誰も驚かない。

 

 

 話が終わると洋榎は練習があるから、とすぐさま部室へ戻っていってしまった。長いポニーテールが意思をもったように弾む。ついで恭子が洋榎のあとを追うように部室へと向かう。拳児は短く息を吐いてポケットに手を突っ込む。聞きたかったことはまた今度にするしかなさそうだ。夕方に差し掛かる時間帯は陽の傾く速度が一気に上がる。廊下に差し込む光の色が、三人で話し始めたときとは変わってしまっていた。

 

 周囲が考えている以上に見栄というか体裁を気にする拳児はどちらの部室にも入ることを選ばずに少しのあいだ廊下で黄昏れることにした。第二部室からは出てきたばかりだし、第一部室に行くにもさっきの二人と別れたばかりだからだ。ちなみに今の時間帯は黄昏時というにはまだちょっと早い。

 

 昼頃にいったん晴れたのだが、それと比べれば雲の出てきた空を、窓枠に肘を置いて眺める。ときおり判別のつかないような距離を鳥が飛んでいく。仮に近かったとしても鳥の細かい種類など知らない拳児に区別できたかは定かではないが。自分はこれからここの生徒なんだな、とまるで新入生のようなことを校舎から空を見上げることで拳児は実感していた。

 

 ( つーか三年の教室って何階にあるんだ……? )

 

 あとで恭子に教えてもらったという。

 

 

 

 

 

 

 



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06 監督代行の初仕事

―――――

 

 

 

 体育館には三百人に迫る新入生たちが前日に準備されたパイプ椅子に座って、笑ったり感嘆の声を上げたりと忙しい様子だった。入学式で校長をはじめとするお歴々の堅苦しい挨拶を聞かされ続けた彼らにとって、直後の部活動紹介は芯から心温まる催し物となっていた。初々しい緊張した顔がほころんでいくのを見るのは非常に気分のいいものだった。体育館の外に並んで植えられている桜はその花弁を散らし始めており、その様子は見事な入学式というほかないものだった。

 

 舞台の脇から外に繋がる出入口のあたりに各部活の代表者たちが思い思いの恰好で控えており、自分たちの出番を今か今かと待っていた。楽しそうに話をしながら段取りの最終確認などしているようだ。学生主導のこういったイベントは総じてもたつくのがお決まりなのだが、司会の腕もあるのかテンポよく紹介は進んでいく。

 

 新入生たちが体育館の前半分に座り、保護者の方が後ろ半分に座るというのが入学式の形式だった。しかし部活動紹介の下りは保護者の方にはご退席いただくかたちを採っている。それはきちんと入学式のしおりに書いてあるのだ。ではその空いた後ろ半分はどうなるのかというと、在校生が押し寄せて部活動紹介を見に来るのである。これは完全に自由参加で、そもそも在校生は本日は登校する必要さえない。だというのに後ろから何かするつもりなのかいそいそと準備をしている生徒の姿もあるようだ。

 

 「なー、播磨の出番まだなんー?」

 

 「まだもなにもウチは大トリなのよー」

 

 子供のように拗ねる部の主将を諭すように由子は語り掛ける。良くも悪くも自分の心情を隠そうとしない洋榎の態度はみんなから愛されている。裏表がなく、まっすぐで、そして強い。まるで漫画の主人公みたいだ。自身のファンが内外にいることなど本人は露とも知らない。

 

 「きょーこ、ウチの部大トリやって。知っとった?」

 

 「主将、事前にプリント配られたやないですか……」

 

 部活でも普段の学校生活でもだいたい一緒にいるこの三人は、恭子と由子が洋榎を支えるかたちを基本としている。あまりにも二人のフォローが有能であるため、妹の絹恵はそのうち姉がダメになるのではないかと心配しているのだがそれは内緒の話である。

 

 

 自分たちの部の紹介を終えて、最後に押忍、と気合を入れて柔道部の面々が退場していく。ああいった汗臭い青春もひとつの形なのだろう。ひとつのことに全力で打ち込む機会など人生のうちでそうあるものではない。柔道部の最後尾の部員が退場したことを確認して、司会が舞台袖に視線を投げる。袖のほうからはオーケーサインが出ているのだが、どうしてかあまり顔色がよくないように見える。トイレにでも行きたいのだろうか、と適当に推測して、司会はさっさと場を回すことにした。どの部がどんな出し物をやるのかなど進行を務めるだけの彼女は知らない。

 

 「さァ、それではみなさんお待ちかね!最後を飾ります麻雀部の紹介です!どうぞ!」

 

 

 たっ。

 

 

 壇上にその男の姿が見えた瞬間、誰かの息をのむ音が聞こえた。新入生たちの視線は今現在この空間でただひとりだけ動いている男にのみ注がれていた。別の方向へ顔を向けることなど許されないような空気が場を支配する。男の歩みがやけにスローに見えるような気がしてくる。誰かが小声でつぶやく。詳しく聞き取ることはできないが、おそらくは姫松の麻雀部には女子しかいないのではないのかという主旨のものだろう。そのつぶやきからじわじわと波紋が広がり、体育館はざわめきに包まれた。新入生だけでなく在校生たちも目をぱちくりさせている。

 

 本来は明るく楽しく元気よく行われるはずのこの部活動紹介の場において、男は明らかに異質な存在だった。彼の持っている本質とはまったく関係なしに、これまでの人生の中で培ってきてしまった雰囲気が体育館の中を威圧する。彼らの頭のなかにどのような言葉が浮かんでいるかはわからないが、大筋でいけば “まともではない”。これに尽きるだろう。

 

 持続的なざわめきのなかを、のしのしと拳児が歩く。拳児の頭のなかにあるのはこのあいだ恭子が言っていたことだ。やる気のある者だけを選別する。生憎と拳児は他人の心情の機微に敏いほうではない。だから細やかな気配りのうえでの発言など考えようにもその下地がない。シンプルに、わかりやすく。それだけ心に留めて、拳児は壇上中央の演説台へと近づいていった。

 

 演説台の前に着いて、新入生たちのほうへと向きなおる。新入生と在校生を合わせて四百人ほどの人間の前に拳児は立っている。人前に立つ、という行為は慣れていなければそれだけで消耗するような緊張を強いる。たくさんの顔が自分一人に向けられる経験など持っている人間は少ないだろう。もちろん拳児もそんな体験は初めてで、一瞬たじろいでしまった。そうなってしまえば緊張から逃れられるわけもない。拳児は自分の緊張を解くためにわざと大きく体を動かすことを決断した。だが、それがいけなかった。

 

 だん、と大きな音を立てて演説台の両端をそれぞれ右手左手でつかむ。顔の位置をマイクに合わせるためにじりじりと足の後ろにやって高さを調節する。ぴいん、とやけに高い音をマイクが拾う。拳児はもう一度視線を新入生たちのほうへと戻す。先ほどと様子が違うのはまったく音が立っていないということだろうか。いつの間にか唾を飲む音さえ聞こえなくなった静寂の空間の中心に拳児はいた。

 

 「麻雀部監督代行、播磨拳児だ」

 

 どこからも返事は返ってこない。舞台は今、すべて播磨拳児のものだった。

 

 「全国を獲りたいヤツだけ来い、以上だ」

 

 のちに “播磨演説・桜の巻” と語り継がれることになる部活動紹介は、わずか十秒にも満たないあいだに終わりを迎えた。マイクを通した声の残響がなくなると、やがて耳が痛くなるほどの沈黙が訪れた。すでに拳児は壇上から姿を消しているのに、誰も演説台から目を離せないという奇妙な状況が生まれていた。

 

 その影響は甚大なものだった。その場にいた全員が麻雀部の前に行われたすべての紹介を思い出すことができなかった。野性的なエネルギーに満ちた低い声が鼓膜を震わせてしっかりと形を成した情報として脳に届くまで、個人差こそあれしばらくの時間を必要とした。当然そのときには播磨の姿はなく、一種の白昼夢であるかのような印象さえ残した。

 

 

 体育館を辞して、三人は自分たちの教室に戻ってきた。始業式は昨日のためクラス分けはすでに発表されている。ひいひいと呼吸が苦しくなるほど洋榎が笑っている横で、恭子は由子へと視線を送る。由子は苦笑いでこう答えた。

 

 「あれはドハマリかドン引きのどっちかなのよー」

 

 そうやよなぁ、と恭子はため息をつく。方向性はどうであれ、まさか拳児にあれほどの破壊力があるとは思っていなかったのだ。それには由子も洋榎も同じ意見のようで、体育館では三人ともが目を丸くしていた。男らしさという観点で言えば他の部活を間違いなく凌駕していたのだが、残念なことに麻雀部は監督代行を除いて女子しかいない。新入生から見た部のイメージはどうなってしまうのだろう、と恭子が悩み始めたちょうどそのとき、拳児が教室に姿を見せた。

 

 拳児のほうが先に体育館を出たのは明らかで、教室に荷物を取りに来るにしても恭子たちが先に着いているのは不思議な話だ。ちなみに三人組と拳児は同じクラスである。

 

 「あれ、播磨やん。なんで?」

 

 「なに言ってんだオメー。荷物取りに来たんだよ、これから部活だろうが」

 

 「ずいぶん遅ない? 先についとるもんやと思っとったけど」

 

 「……あっ、あれよ、気分転換にちっとぶらついててな」

 

 ( 迷子か )

 

 ( 迷子なのよー )

 

 ( トイレでも行っとったんかな )

 

 

―――――

 

 

 

 がたん、と車体が揺れて乗客の身体と宙ぶらりんの吊革が揺れる。通学のために電車に乗る時間はそれほど長くないため、漫はあまり座席に座ろうとはしない。平日の朝は通勤通学ラッシュだからもともと無理だが、今日のように午後からの練習のときも同様である。なぜと聞かれてもはっきりとした理由があるわけではないので、なんとなく、としか返せない。たいていの友人はそれについて変なの、と言う。そんなに変だろうかと漫は思うが、人の考え方などそれぞれなのだからそんなものなのかもしれない。

 

 もうちょっとくらい背伸びるやろ、と母親が選んだすこし大き目の制服は正直言って未だに袖が余っている。ふつうの女の子は中三くらいで身長が止まるそうだが、自分もそのふつう側の人間だったということだ。セーターなりカーディガンなら袖が余ってもかわいいのだが、漫の美的センス的には制服の上着の袖が余ってもあまりかわいいようには思えなかった。吊革につかまっているとちょうど手首の辺りまでずり下がってくるので、ついついそんなことを考えてしまう。

 

 部員のうちの何割かは入学式のあとの部活動紹介を見るために早めに登校しているらしいが、漫はそれにはとくに興味を持たなかった。たしかに拳児が一人でやるというのは気になるところではあったが、その拳児が数日前に自身のプレイスタイルについて考えろと言ったのだ。どうすれば部内どころかほとんど関西最強の主将、あるいはそれに類する打ち手に勝てるのか。考えてすぐ答えが出るのならいいのだが、残念なことに漫は考えることが得意とは間違っても言えない。だからといってそれを放棄するわけではないが、かと言って、という状況でもなかった。車内のアナウンスで高校の最寄り駅が近いことを知って、漫は心持ち意識をドアの方へと向けた。

 

 

 麻雀が国民的な人気を誇るこの日本という国において、プロ雀士は極めて特異な職種であることは疑いようもない事実である。なにが特異かと言えば、その仕事の幅の広さである。それは決して麻雀の試合をするだけというようなものではなく、ラジオやテレビの出演どころか冠番組を持っているプロもいるほどだ。当然のように麻雀に関してずば抜けた才覚を持ち、そのうえで麻雀の普及に尽力しようとするその姿勢は国内外で高く評価をされている。

 

 もちろんすべてのプロがそういった仕事をしているわけではなく、ストイックに麻雀のみを追求していくプロも多い。どちらのほうがプロ雀士として、という話ではなくそういったプレイヤーがいることを知っておくのが重要なのである。言うまでもないことだが、活躍の少ないプロが番組に出たところで得ることはどちらにとっても少ない。したがってテレビなどに出演しているのは常軌を逸した実力を備えたトッププロに限られる。

 

 

 電車を降りた漫は、いつものように階段を下りて改札へと向かう。ICカードをあてて改札を通り抜け、さて学校に行こうかと視線を前に戻した瞬間になにか大きな違和感を覚えた。降りる駅を間違えたわけではないし、改札に捕まったわけでもない。財布を鞄に入れるときに落とした視線を戻す途中で、なにかすごいものが視界に入ったような気がしたのだ。いったい何が気にかかったのだろうと自身で不思議に思いながら、漫はきょろきょろと周囲を見渡してみる。周りはほとんど歩いている人たちばかりで、おかしなところはどこにもない。漫と同じように立ったまま動いていないのは左の方に見える小柄な女性ひとりだけだ。

 

 艶のあるストレートの黒髪に目元のはっきりとした美人だ。小奇麗な服装も相まって道行く男性のほとんどが一度は彼女に目をやってから歩いていく。男性だけでなく女性も彼女のことが気になるようで、ちらちらと窺う様子が見てとれた。なんだ違和感の正体は美人だったのか、とひとり納得して歩き出そうとすると、影が立ちはだかった。

 

 視線から外した美人が目の前に立っていた。漫の身からすれば学校に行くのに立ちふさがられる理由がない。たまたまかと思い、右にずれる。女性も同じ方向にずれる。左に切り返す。ついてくる。変な人なのだろうかと顔を見てみると、なぜか頬を膨らませていた。美人がやると絵になるなぁ、などと余計なことを考えているとふと気が付く。この人を知っている。

 

 「姫松?」

 

 

―――――

 

 

 

 姫松高校麻雀部には、“困ったことがあったら末原恭子に頼る” という暗黙の了解が存在する。彼女は世話焼きの上に人よりも気が利いてしまう。ため息だったり悪態だったりをつきながら最終的には助けてくれる。そんな存在にふつうの高校生が甘えないわけがなく、とにかく何かにつけ恭子に相談するという構図が出来上がってしまっているのだ。

 

 その恭子がぴしり、と固まっているのはおそらく彼女の許容範囲を超えてしまったということなのだろう。こういう場には大人である赤阪郁乃を呼ぶのが正しいのだが、折悪しく出張というか外に出なければならない用事があるそうで朝から学校には来ていない。とりあえず応接室には通したものの、目の前の女性が何を言っているのか理解できないために下手に動けないでいた。

 

 「え、えーと……、その、どうしてこちらに……?」

 

 「取材!」

 

 頬を紅潮させて膨らませているところを見ると、怒っているのだろうか。たしかにお茶もお茶請けも出していないし、ひょっとしたら知らない間に礼儀を欠いた振る舞いをしてしまったのかもしれない。なにがどうなっているかまったくわからないまま時間が流れていく。じわりと汗が滲む。恭子にとっての救いの神が現れたのはそんなときだった。

 

 「オウ、末原。こんなトコにいたのか」

 

 がちゃり、とドアノブをひねって姿を見せたのはヒゲグラサンの神様だった。

 

 「やー、明日来客があるって赤坂サンに聞いてたんだけどよ、オメーに言うの忘れててな」

 

 拳児はさながらレモンティーを頼まれたのに間違ってアップルティーを買ってきてしまったかのように軽めに謝罪を入れる。恭子への視線をもう少し手前に持ってくればその当人がいるというのに気付かないあたりはさすがといっていいだろう。拳児が彼女の存在に気付いていないことを察したのか、恭子が思い切りため息をつく。

 

 彼女の姿はドアからだとちょうど背中しか見えない。恭子と向かい合うようにして座っていた女性は猫が軒下をすり抜けるようにしなやかに立ち上がって振り向き、拳児と向き合った。体の中心に一本の細い軸が通っているかのような立ち姿のまま微動だにしない。瞬きさえしないその様は、先ほどの立ち上がる動作を見ていなければ人形と錯覚しても不思議はないだろう。

 

 「……不審人物?」

 

 「あ?」

 

 それはどう言い繕ってもにらみ合いにしか見えなかった。恭子は先のことを想像して頭が痛くなるのを通り越して失神しそうだった。いきなりとはいえVIPクラスの来客に対して新しい監督代行の無礼 (もしかしたら自分も入っているかもしれない)。だが口を挟もうにも挟める空気ではない。なぜこの場にいるのが自分なのかと運命を呪い始めたあたりで二人の距離がじわじわと縮められていく。恭子は終わった、と思った。何がどのように終わるのかは定かではないが。

 

 百五十センチちょっとの身長と百八十センチのにらみ合いが始まってどれくらい経っただろう。見上げる視線と見下ろす視線がまっすぐぶつかり合っている。恭子からすればもう一時間は経ったように感じられる。気が気ではない。

 

 やっと動きが見られたが、それは恭子の望んだものではなかった。両者の右腕が鏡写しのようにそれぞれの右へと伸ばされる。じりじりとゆっくり引き上げられる右腕が、まるで弓の弦のように見える。限界まで絞られたそれが放たれた瞬間、がしっ、と音がした。

 

 

 握手を、していた。

 

 

 「野依理沙!」

 

 「播磨拳児ス!」

 

 

―――――

 

 

 

 第一部室で練習が行われているなかで、恭子は由子にしなだれかかっていた。まだ練習が始まってからそれほどの時間が経っているわけではないが、どう見ても恭子は憔悴しきっていた。それ以前に人前で誰かに甘える恭子の姿を誰も見たことがない。普段はポーズとか見栄だとかそういったものが阻むのだろうが、今はそんなことを言っている場合ではないらしかった。

 

 「由子ぉ、今日な、うちめっちゃ頑張ったんや……」

 

 「うんうん、恭子はすごく頑張ったのよー」

 

 由子は空いている右手で恭子を撫でる。目の焦点さえ合っていない恭子はされるがままになっている。なんだか部室の喧騒が心地よかった。

 

 「さっきな、野依プロが来ててん」

 

 「えっ、な、なんで?」

 

 「なんかな、有力校の代表者と対談するお仕事やったんやって」

 

 「記者の人とか見てないけど?」

 

 「それが野依プロが一日間違えて来てもうたみたいでな」

 

 「それはお仕事にならないと思うのよー」

 

 「レコーダー持ってきとったから大丈夫なんやて。まあそれはええねんけどな」

 

 「どうしたの?」

 

 もはやしなだれかかるどころかぐいぐいと頭を押し付けてくる恭子を、由子は何の気なしに受け止める。

 

 「野依プロって口下手で有名やんか」

 

 「そやねー。たしかに有名だと思うのよー」

 

 「あんな、播磨めっちゃ普通に会話しててん」

 

 「えっ」

 

 「なんやにらみ合っとるなー思っとったら握手していきなり自己紹介始めてん」

 

 由子はどう頑張ってもその光景が想像できずに苦笑いを浮かべる。そもそもプロ相手ににらみ合いを仕掛ける根性がおかしいと言わざるを得ない。ああそういえば彼は裏プロだったと思い直してなんとか納得する。

 

 「そしたら急に仲良うなって話し始めてん。おかしいやろ、野依プロ単語しか話してへんのに」

 

 「というかそれ対談になるの?」

 

 「知らんわ。ほんまメゲるわもう……。播磨どんだけ化け物やねんな……」

 

 ひとしきり吐き出してラクになったのか、恭子はまだ焦点の合わない目で部室の方を眺めはじめた。このぶんだともうしばらくは休憩が必要だな、と感じた由子は何も言わずにただ恭子の頭をゆっくりと撫で続ける。場合によってはこのまま少し寝かせてあげてもいいのかもしれない。

 

 そろそろ眠りについたかな、と由子が恭子の顔を覗こうとしたそのとき、恭子の目がぱっちりと開いておもむろに立ち上がった。小声で由子に礼を言うと自身の鞄が置いてある方へと歩き出す。そのまま眺めていると、どうやら鞄を漁っているようだ。恭子の探し物にぴんときた由子はあれなら大丈夫かな、と自分も立ち上がり練習のために空いた卓へと向かっていった。

 

 

 

 部室に入ろうとして拳児が戸を開けると、弾丸のような速度で部屋から出ようとする部員と正面衝突した。身長差があったため顔面同士がぶつかって大けがになるようなことはなかったが、拳児は胸の辺りに思い切り頭突きを食らったのでけっこうしんどい思いをしていた。

 

 「んだよ、イテーな……。あ? 上重じゃねーか、なんだそのデコ」

 

 「め、巡り巡って播磨先輩が悪いんですからね!うわーん!」

 

 「んなワケねーだろ。ったく、なんなんだよ……」

 

 額には大きく “闘魂” と書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




これだけ筆が早いことは二度とないと思います


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07 Pride

―――――

 

 

 

 沢近愛理の苛立つ姿はそこまでめずらしいものではないが、それが長きにわたって持続することはこれまでになかった。

 

 

 この春で高校三年生になる沢近愛理は、端的に言えば学校の憧れの的だった。イギリスと日本のハーフである彼女は、隙のない顔立ちに見惚れてしまうような金糸の髪を持っている。人当たりもよく、よほど親しくならない限り見られない本性も近づいてしまえばむしろかわいらしいものだとは友人の談である。学業の方面も手抜かりはなく運動能力も高い。数少ない欠点といえば泳げないくらいだろうか。

 

 そんな、有り体に言ってしまえば完璧な少女は人間関係に線を引いてしまう癖があった。これまでの彼女のクラスメイトたちの多くは、彼女をまるでガラス細工でも扱うかのように丁重に接することを選んだ。なにか別の世界のものを見るかのような視線は、高校二年生になった当時の愛理にとってはもう慣れっこだったが、あまり気分のいいものではなかった。愛理にとっての親友たちはそういうことの苦手な、失礼な言い方をすればおばかさんたちで、愛理にはそれが心地よかった。ハーフであることだとか見た目だとか家柄だとか、余計なものを無視してまっすぐに自身に接してくれる友人を得たことに愛理は感謝さえしている。口に出すことはないだろうけれど。

 

 友人曰く素直じゃないのにわかりやすいという不思議な性格をした愛理が、仲のいい友達だけに限るとはいえ恒常的に悪態をつき続ける原因は一人の男だった。最初の印象は最悪だった。偽らずに言うのならその印象はしばらく変わらなかった。粗野で荒々しくて思考回路なんて欠片も理解が及ばない。ついでに言うなら気も利かない。そのくせ思わせぶりな行動をとってはぽんと突き放す。愛理がこれまで身に付けてきた手練手管をことごとく無視というか、察しない。恋愛において人は自由だ、という立場を取っている愛理が死ぬほどやきもきしたり苛立ったのはその男ただひとりだけだった。

 

 その男が、春休みの間に姿を消した。

 

 忽然と、という表現がしっくりくるくらいにいつの間にかいなくなっていた。三月の終業式には出席していたから、その時点では矢神にいたことが確定している。まさか春休みの間にわざわざ愛理からその男に連絡を取るわけもなく、それ以前にいなくなることなど考慮に入れていなかった。だから学年が変わって初めて登校したときの衝撃はすさまじいものがあった。同じクラスかどうかということではなく、播磨拳児の名前がどこにもなかったのだから。三年生のクラス掲示どころか留年した可能性も鑑みて二年生のクラス掲示まで見に行ったが、そこにも拳児はいなかった。

 

 拳児と付き合いのありそうなすべての人間に片っ端から尋ねてみたが、誰一人事情を知っている者はいなかった。ひととき彼氏彼女の関係にあると噂の流れたことのある塚本八雲にも尋ねてみたが、それは彼女の表情を曇らせるだけの結果に終わってしまった。

 

 

 だから新学期が始まって二週間が経った今でも愛理の不機嫌は治まらなかった。新しいクラスで表面上は問題なく過ごしていたが、近しい友人たちから見ればピリピリしているのは明白だった。いつもなら放課後は行きつけの喫茶店で友人と雑談をするのだが、ここ最近はどうにも気分が乗らないからまっすぐ帰ることが多くなっていた。悪いと思ってはいるのだが、無理に取り繕うような関係ではないから愛理はそれに甘えることにしている。 

 

 制服から着替えてベッドへ倒れ込む。深いため息をひとつついて目を閉じる。肌触りの良い薄めの掛布団の感触は、ここ二週間ほどはいつもと違って愛理に十分な安息をもたらさない。現時点での選択肢としては鞄に入っている携帯電話から連絡を取るというものもあるはずなのだが、なぜか愛理は頑なにそれを選ぼうとはしなかった。つまらないという自覚はあるが、その小さなプライドに抗うことができなかった。

 

 軽いものも含めれば何度目になるかわからないため息をついたとき、鞄の中の携帯電話が着信を知らせた。音から察するに電話がかかってきたのだろう。ディスプレイには2-Cのときに仲を深めた親友の名前があった。彼女から電話がかかってくることはよくあるので、何の気なしに愛理は通話ボタンを押した。

 

 「もしもし、美琴?」

 

 「沢近か!今から時間取れる!?」

 

 電話口の向こうの相手は愛理の言葉の確認をする時間さえ惜しいようだった。

 

 「べつに時間くらいあるけど、いったいなんだってのよ……」

 

 すう、と電話の向こうで大きく息を吸うような音が聞こえた。

 

 「――― ()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 

―――――

 

 

 

 沢近愛理の友人であるところの周防美琴の家は工務店を営んでおり、その雰囲気にどうやっても馴染めないのが愛理にとっては面白くなかった。だからといって美琴の家が嫌いかと聞かれれば、それにははっきりとノーと答える。お嬢様として育ってきたこれまでの経緯が工務店らしい雰囲気に馴染むことを許してはくれなかったが、そこになんらかの楽しみを見つけられるくらいには成長したということなのだろう。

 

 愛理が周防家の呼び鈴を押すと、まるで待ち構えていたかのようにすっとドアが開いた。そこで見えた美琴の顔はなんだか混乱しているようで、本当に部屋に行ってもいいのかを考えたくなるくらいのものだった。

 

 「ちょっと、美琴? 播磨(ヒゲ)の居場所も気になるけど、アンタ大丈夫なの?」

 

 「い、いやー、全然大丈夫なんだけど、ちょっと気が動転しちゃっててサ」

 

 気風のいい性格に料理上手、抜群のスタイルにさらさらの黒髪に顔立ちだってそんじょそこらの女子高生じゃ相手にならないくらいに整っている。加えて学校では “武神” と称されるほどに高い運動能力も誇っている。いったいどこに弱点があるのか問いただしたくなるようなスペックを誇る美琴なのだが、その彼女がものの見事に動揺している。玄関で立ち話を続ける気にもならなかったので、愛理はさっそく話題を変えることにした。

 

 「で、アイツどこにいんのよ?」

 

 

 ちょっと待っててくれ、と言われて、愛理は美琴の部屋で待たされていた。ひどくこざっぱりとした部屋で、愛理の感覚からすれば決して女の子らしい部屋とは言えないものである。そもそも自室に置いてある雑誌が格闘通信だけというのは年頃の女の子としてはいかがなものだろう。ちょこちょこと女の子らしい小物もあったりはするのだがどうにも焼け石に水といった印象が拭えない。来慣れたこの部屋にいまさらこんな文句をつける意味などないけれど、部屋でひとり待たされているというのは退屈なものであった。

 

 部屋の外の廊下からとんとんと足音が聞こえてくる。お茶でも持ってきてくれるのだろうとアタリをつけている愛理は、勧められたクッションのような座布団に座りつつ思考をさまざまな方向へ飛ばしていた。あの男の居場所を掴んだとはいっても、それを美琴が一番に掴んでいるのは愛理にとって不思議なことと言える。なぜなら愛理の親友のうちの一人には情報戦と智謀に長ける子がいるのだ (これが女子高生に対する正しい評価かは別にして)。彼女を差し置いて美琴が調べ上げるというのはどうにも想像のしにくいことだった。そんなことを考えていると、部屋のドアが開いた。

 

 予想に反して美琴が手に持っていたのはお茶の乗ったお盆ではなく、一冊の雑誌だった。それを見て愛理はあっけに取られた。あのヒゲグラサンの居所がわかったという連絡を受けたから来たのに、手に持っているのは雑誌。回転の速い頭を駆使して導いた結論は、自分を元気づけるためになんとか外に引きずり出したのかな、というもの。たしかにそういった心配をかけるくらいには調子が狂っていたことは認めるが、使われたダシがダシだけに愛理はちょっと残念だった。これ以上は心配させないように親友たちの前で見せる笑顔を貼り付けて、大丈夫よ、とやさしく声をかける。

 

 「違うんだ沢近!騙す気なんてなくてっ!いいからこのページを見てくれよ!」

 

 そう言って美琴が開いたページには、どこかの応接室で小柄な女性と大柄なヒゲグラサンが向かい合って対談している写真が大きく載せられていた。

 

 「…………は?」

 

 いろいろと複雑な事情を込みで、愛理の精一杯の抗議の言葉であった。本当は大声で怒鳴るなり頭を抱えるなりしたかったのだろう。だがそれらの行動をとるにはあまりにも多くの感情が愛理のなかに発生し過ぎていた。

 

 「隅っこのほうにアイツの名前もきちんと書いてある。……所在地も」

 

 「お、大阪府、姫松高校ぉ!?」

 

 「沢近、落ち着いて聞けよ? 播磨はそこの麻雀部の監督だ」

 

 今度こそ本当に声もなかった。姿を消したかと思えばいきなり大阪に現れて、そのうえ麻雀部の監督を務めているなどと予想できる者がいるのならばその人はエスパーに違いない。たしかに雑誌をよく見てみるとその肩書がある。経緯も理由も目的もなにひとつわからないが、その事実は純然たる現実としてそこに存在しているようだった。さきほどから愛理は必死に口を動かして声を出そうとしているのだが、あまりの衝撃に体がついていっていないらしく、ただ口をぱくぱくと開けたり閉じたりしているだけだった。

 

 

 「……ねえ、美琴。あんたどこでこんなもん見つけたのよ」

 

 「あー……、ウチの工務店のヒトがさ、麻雀好きみたいでね」

 

 

―――――

 

 

 

 例の部活動紹介を経て麻雀部に入部したのはいつもの年の平均と比べてすこしだけ少ないくらいのものだった。むしろアレを見せられてよくこれだけの人数が入る気になったものだと恭子は感心している。新入部員の大半が怯えながら届を提出しに来たことは事実だが、それには触れないのがやさしさというものだろう。

 

 姫松の練習はうまいこと役割分担が為されているように恭子には見えている。立場をコーチへと変えた赤阪郁乃がどちらかといえば基礎の方面を、播磨拳児が個別に注意するべきポイントを指示するという形式が早くも出来上がっている。もちろん意見のすり合わせはあるようで、しばしばふたりは小さいノートのようなものを取り出しては確認を取り合っている様子が散見された。感覚に依る打ち手と論理に依る打ち手の意識の差や状況に応じた考え方など、学ぶべきところは実際問題として多い。どれだけ打ち解けたとしても、彼は裏プロなのだから。

 

 本当のところは、指示を出すカンニングペーパーを郁乃が書いて拳児に言わせているだけのことである。人間の心理とは面白いもので、まったく同じことを別の人間に言われるだけでその印象が大きく変わる。郁乃はその指示役に自分ではなく拳児を選んだのだ。同じ高校生という身分に加えて、この部唯一の男性。郁乃は見ていなかったが初めてこの部に訪れたときにド派手なデビューも飾ってくれているという。この部を強くして全国制覇を達成するためにこれ以上の条件を持った存在を思い浮かべることができずに郁乃は身震いする。旧友から電話をもらったときは、なにかひとつくらい使いでがあれば儲けものかと考えていた。それが今や部員たちの畏怖の対象にさえなっているではないか。作為と偶然がうまく絡み合ったこの結果を利用しない方向に考えるほうがどうかしている、と言わんばかりに郁乃は楽しそうに頭を働かせていた。

 

 

 学年が変わってもう二週間が経つ。新一年生の制服姿も次第に馴染みはじめ、移動教室で迷子になるようなことも減ってくる時期だ。月末にはゴールデンウイークも控えている。学校中が明るい空気に包まれるなか、拳児はだいたいひとりで過ごしていた。クラス替えがあろうがなんだろうが、ほとんどは知り合い同士でくっつく上にヒゲグラサンにわざわざ近づいて仲良くしようと考える人間も少ないだろう。自己紹介のときに名前と身長と体重だけ言ってすぐに座ったのも影響しているのかもしれない。いかにノリのいい大阪の高校生といえど、きっかけもなしに拳児に接近しようとするチャレンジャーはいなかった。ましてや部活動紹介でのことがその翌日から学校全体で噂になっているのだからなおさらだろう。

 

 拳児のいる3-2には愛宕洋榎、末原恭子、真瀬由子、と麻雀部の中枢がなぜか集まっている。麻雀部の三年の中でもとくに男子人気の高いこの三人がひとつのクラスに固まっているということは、青春真っ盛りの男子たちには幸運であると同時に不運な事態でもあった。播磨拳児の存在がそれにあたる。もちろん拳児の心を捉えて離さない人物などこの地球でたったひとりである。だがそんなことを知っている者などこの姫松高校には存在しない。加えてその麻雀部の三人が仲良さげに拳児にちょっかいをかけている場面がしばしば見られる。状況証拠が言っている、彼女たちに手を出してはいけないと。裏では誰が拳児の本命かと議論の対象になっていたりもするのだが、それはまた別のお話。

 

 

―――――

 

 

 

 六時間目の古典の授業を終えて、恭子から宿題として出されている牌譜マラソンをしながら担任の教員を待つ。出席番号の関係上、拳児の席は窓から四番目の一番後ろの席である。ちなみに隣の席には由子がいる。救いの手を差し伸べてくれた従姉からの厳命で卒業だけはきちんとしなければならないため、授業も真面目に受けている。補修や追試を受けまくっていた去年とくらべて大違いだ。不思議な言い方だが正しい不良の姿とはいったいどういうものだっただろうか。

 

 さすがに数十人に及ぶ部員の打ち筋の特徴を自力で把握するのは骨が折れるのか、ときおり隣に座る由子に聞いたりしながら拳児は作業を進めていく。そうこうしているうちに担任がやってきてホームルームを始める。本日はとくに連絡事項があるわけではないらしかった。学級委員の号令でクラスメイトたちが散っていく。号令を完全に無視して牌譜を読みふけっていた拳児も教室の様子を察して立ち上がり、部室棟のほうへと足を向けた。

 

 

 女子高生というのはなにをするのにも準備やらなにやらで時間がかかるらしく、それは拳児からすると甚だ奇妙に見えた。移動なんてものは荷物さえ持てばすぐにでもできることであって準備と言われてもぴんと来ない。だから拳児は同じクラスの三人組を待たずにさっさと教室を出ることに決めている。だがそうやって早めに行ったところで部室の鍵は開いていないことがほとんどだったりする。鍵を開けるのは入部したばかりの一年生たちの仕事なのだ。心持ちゆっくりめに歩いていると、部室の前にはすでに眼鏡をかけた少女が待っていた。

 

 「あ、播磨さん」

 

 「オウ、妹さんか。ずいぶんはえーんだな」

 

 「教室近いからやないですかね」

 

 桜の花もしばらく前にすべて散り終えてしまって、今はちょうど葉桜になる直前のちょっとした空白期間にある。春特有の薄い膜を何枚か通したような、どこかぼんやりとした空の下で、二人は壁に寄りかかって部室の鍵が開くのを待っていた。

 

 「そういえば気になってたんですけど」

 

 三週間近く近い空間で過ごしたおかげか、絹恵も拳児に対して怖じることなく会話ができるようになっていた。

 

 「播磨さんて、なんでサングラスとかカチューシャとかしてはるんです?」

 

 「これか? ちっと前までよ、この恰好じゃねえと都合が悪くてな」

 

 「都合、ですか」

 

 「まァ、その名残ってこった」

 

 「外したりはしないんですか」

 

 「……そうだな、外さねえ」

 

 絹恵としては話の接ぎ穂に選んだとくに重要度の高くない話題だったのだが、予想に反して拳児の声色は真剣なものだった。そこから先に立ち入るには一筋縄ではいかない覚悟が必要だ、と暗に言われているような気さえした。程なくして鍵係の一年生が駆け寄ってくるまで、ふたりはそれ以上なにも話さなかった。

 

 

 部活というものは学校の通常授業が終わってから始まるため、開始時刻は学校一律で三時半に定められている。完全下校時刻は季節によって変わるため、それに応じて活動時間が変わる。春ならば六時半には校門を出るようにしないと学校側から注意が飛んでくる。だから麻雀部はだいたい六時には練習を切り上げて帰宅の準備を始めることにしている。卓に向かっているときの部員たちの集中力にはすさまじいものがあって、放っておくと時間のことなど忘れてしまう。だからほとんどの場合、郁乃が頃合いを見計らって練習を止めるのが通例となっている。いつでも楽しそうにしている郁乃だが、今日はそれに輪をかけてうきうきしているように見えた。

 

 「えっと~、じゃあ練習そこまでにしてもらってもええ~?」

 

 ぱん、と手を叩いて注目を自身に集める。第二部室からも部員を全員連れてきたらしく、部室はあまり見られないほど人口密度が上がっていた。

 

 「あんな、月末にゴールデンウイーク入るやんか~。そこでな、合宿しよ思うんやけど~」

 

 にわかに部室がざわめき始める。いかに強豪校と言えどしょせんは高校生である。

 

 「でもな、先方さんのことも考えるとみんなで行くんはちょっと無理やねん」

 

 「行く人絞るいうことですか」

 

 「や~ん、賢い子は好きやで~。拳児くんと私とあと十人くらいで行こ思うてるんよ~」

 

 先方、という言葉も気にはなったがそれ以上に多くの部員は合宿に行けるメンバーの方に意識を割いていた。おそらくレギュラー陣が当確だろうことを考えれば、残る席はあと五つ。場合によってはその合宿で団体戦の座を勝ち取ることができるかもしれない。そう考えると是が非でも合宿に参加したかった。

 

 「で、今週いっぱい使て行くヒト決めるから頑張ってな~」

 

 目に見えて気合の入った部員たちを見て、拳児は少しだけ引け目を感じた。

 

 「あ、コーチ。さっき先方言うてましたけど、どこに行くんです?」

 

 「臨海女子さんやで~」

 

 郁乃が合宿相手に選んだのは全国でも屈指の強豪校、強力な留学生と昨年のインターハイ個人で第三位の成績を誇る辻垣内智葉を擁する臨海女子だった。場合によってはどころか団体決勝で顔を合わせる可能性の極めて高い相手である。

 

 拳児は、現在自分がどれだけ大きな流れの中にいるのかをまだ知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回から合宿編です


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合宿編
08 爆発性ガール


―――――

 

 

 

 雲一つないすっきりとした青空の下を、姫松高校麻雀部を乗せた新幹線が走る。継続的に好成績を残している部であることもあって、申請さえすればほとんど自由に部費を使えるといっても問題はないだろう。そのおかげで合計で十二人分の指定席くらいで頭を悩ませる必要はないのである。別にグリーン車でもよかったのだが、そんなところで無駄遣いをするよりはもっと有用なお金の遣い方というものがある。赤阪郁乃はそういうところを決して見誤らない。それにもかかわらず彼女はそういう部分をとくにアピールするでもなく、むしろ誤魔化しにかかる。それを知ったところで部員たちの実力が上がるわけではないからだ。隣では拳児が寝息を立てている。いかに体力にあふれる男子高校生といえど、ここ最近の彼の頑張り方を見れば当然だろう。毎日慣れない麻雀について勉強してくれているのだから。郁乃はほんの少しだけ拳児のほうを見やって、また手元の小説へと視線を戻した。

 

 トンネルに出たり入ったり高速で流れていく景色を、恭子はなんとなく見ていた。新幹線だとか飛行機に特有のあの小さな窓は、外の景色に作り物めいた印象を与える。汚れひとつない窓はどこか頼りなげに見えて、恭子は試しに指でつついてみるがびくともしない。いつもの末原恭子ならばこんな頭のゆるい行動はとらないだろうが、なにしろ今日は集合時間が早かった。臨海女子との練習を無駄にしたくないという思いからか、朝七時すぎに発車する新幹線に乗るために余裕をもって六時半に駅に集合したのである。だから東京に行くメンバーの大半の頭がまだうすぼんやりとしていた。

 

 恭子が座っているのは三人席の窓際で、隣には漫がいる。さらにその隣には先々のことを見据えてなのだろう、一年生がうつらうつらと舟を漕いでいる。必要以上に緊張しないのはいいことだ。大物なのかもしれないと恭子はやさしく微笑む。

 

 「あれ、末原先輩どうかしたんですか」

 

 「なんでもないよ」

 

 「ポッキー食べます?」

 

 「漫ちゃん朝から元気やなあ」

 

 ごそごそと嬉しそうに鞄を漁る後輩を見て、ちょっとうらやましくなる。恭子はあまり朝に強くないのだ。大阪の人間が朝から全員テンションが高いなどと勘違いしてもらっても困る。

 

 一本だけポッキーを受け取ってぽりぽりとかじる。こういうお菓子はたまに食べるのが大事だ。たまに食べるからこそ美味しく感じるし、何より女子高生は気にしなければならないことがある。麻雀は体を動かす種目ではないからカロリーの消費方法は考えなければならないのだ。隣の席には物憂げな表情で次々と食べ進めていく後輩の姿があった。

 

 「どしたん? 最近ずーっとなんか考えとるやんか」

 

 「えと、播磨先輩にスタイル見直せー、て言われてまして」

 

 「スタイル?」

 

 「やり方次第じゃ主将にも勝てるんやないか、て」

 

 なるほど、と恭子は頷く。どうやら納得のいく話であったようだ。

 

 「でもですね、播磨先輩なんもアドバイスとかくれないんですよ」

 

 「そやなぁ、それは播磨が正しいんとちゃうか」

 

 ちょっと残念そうに漫は口を尖らせる。

 

 「口で言うのは簡単やけどな、漫ちゃん。たぶんそういうことやない」

 

 「そーは言いますけどね……」

 

 視線を前に固定したままどこか不満げに漫はつぶやく。考え方を変えることや新たな何かを手に入れるということは絶大なエネルギーを要する。それはまたある程度の経験を持っているからこそ余計に要求される。だが一方で春休みのあいだに拳児が漫に対して発した言葉も正鵠を射ており、単純に反発しきることもできなかった。

 

 新幹線は車内を揺らすことなくまっすぐ進んでいく。

 

 

―――――

 

 

 

 臨海女子高等学校はその名のとおり、東京都の臨海地区にその校舎を構えている。校風は自由闊達で、進学にも部活動にも力を入れているという特徴を持つ。数多くの部活で優秀な成績を収める臨海女子は世界中から留学生を集める学校として有名であり、麻雀部もその例に漏れない。昨年のインターハイでも団体、個人ともに優勝こそ逃しているもののきちんと決勝には残っており、その実力の高さは折り紙付きである。

 

 

 大きめの鞄を持った制服姿の一団が東京の街を行く。拳児は本来ならこういう集団行動そのものをあまり取らないし、ましてやその集団の先頭を歩くようなことなどない。しかし現在の立場はそれを許してはくれなかった。十一人もの女性陣を従えて歩く不良の姿はそれはそれは奇妙なもので、道行く人々が彼ら一行を避けるようにして歩いたのも仕方のないことと言えるだろう。

 

 やっと見えるようになった校門の辺りに目をやると、背の高い二人の女性が立っているのが見えた。ひとりは白磁の肌に透き通るようなブロンドを持ち、もうひとりは浅黒い肌に力強い黒髪をしている。まだこちらに気付かずに談笑するふたりの立ち姿は実に絵になっていて、人から見られることに慣れているような感じを受ける。そんなことを考えたほんのわずかあとに、校門のふたりはこちらに気付いて歓迎の笑みを浮かべる。どちらかといえば凛々しいといった感じに整っているふたりの笑顔は、同性であってもどきりとするような破壊力を持っていた。

 

 

 「いやしかしマジだったとはね、播磨少年」

 

 「何がスか」

 

 「播磨クンが史上初の男子高校生監督だってことでスヨ」

 

 雀卓のある部室へと向かう道中で、外部から見た自分の立ち位置というものをはじめて拳児は知ることができた。自身の特異な立場とWEEKLY麻雀TODAYのおかげで全国的に注目を浴びていること、その注目を浴びるポイントが物珍しさ以上に監督としての実力のほうに傾いていることなどだ。話の途中で恨みがましい視線を郁乃に送ってみたが彼女はまったく意に介していないようだった。

 

 多くの部活が活躍しているだけあって校門から麻雀部の部室のある棟に行くまでに、実に様々な運動部の施設を見ることができた。体育館のような建物が校内に複数あるのを見るのは拳児にとっては初めての経験である。後ろをついてきている姫松の部員たちも似たような反応をしていた。

 

 「はー、広れーんスね……」

 

 「広過ぎるというのも考えものだけどね。移動が大変なんだよ」

 

 「めちゃめちゃ贅沢な悩みやないですか」

 

 「監督ー、適当言わないでくだサイ。もう着きまスヨー」

 

 「メグはもうちょっとくらい遊び心を持ったほうがいいと思うよ、私は」

 

 大げさにため息をつきながらショートブロンドの監督が毒づく。さらにやれやれと首を振るアクションを加えたあとでふいと拳児たちの方に向きなおり、自己紹介はまとめてあっちでやるから、と軽く片目をつぶった。

 

 

 もちろん日本の高校なのだから日本人がいちばん多いのは当然なのだが、それにしても国際色の豊かな面々が部室には揃っていた。拳児に人種の違いの詳しいことはわからないが、ヨーロッパ系の顔立ちや日本とは異なるアジアの顔立ち、さきほど校門で会った浅黒い肌の女子と監督も含めて考えると一気に世界が開けたような感覚すら覚える。以前に在籍していた高校のおかげでイギリス人とはそれなりに面識があるが、それ以外となるとあまり知り合いも多くないため新鮮な体験と言えるだろう。

 

 名前だけの簡単な自己紹介をそれぞれ終えて、姫松と臨海の部員が二人ずつ入るようなかたちで実戦形式の練習が始まった。

 

 

―――――

 

 

 

 目の前にいるのは、昨年のインターハイ個人戦第三位。その勇姿は自身が思っている以上にくっきりと脳裏に焼き付いていた。新世代の怪物二人がいたあの卓で、それでも最後まで戦い抜くことの意味を上重漫は理解している。あの個人戦決勝卓については様々なかたちで特集が組まれ、多くの議論を呼んだ。そのなかで一定以上の実力者が必ず言及したのが辻垣内智葉が果たした役割についてであった。もちろん結果的には宮永照が連覇を果たしたこともそうだし、荒川憩が一年生にして準優勝に輝いたことも事実ではある。だがもし辻垣内智葉があの場にいなければ麻雀としての形式を保てていたかどうかは定かではない、というのがその通説であった。その、感覚と論理を高次元でまとめた屈指のプレイヤーと漫は卓を囲むことになった。

 

 漫の特性は “爆発” と称される。未だに細かい条件のようなものははっきりとはしないものの、ときおり何かが降りてきたかのようなツキを手にすることがある。傾向としては相手が強ければ強いほどその発生確率は上がる。あくまで確率が上がる、というだけであって格下の相手に発動することももちろんある。だから姫松の部員たちはたいてい爆発状態の漫と打ったことがあって、その理不尽さに呆れるしかないというのが現状である。例外的に愛宕洋榎だけはその状態の漫を恒常的に打ち破れるのだが、そのレベルのプレイヤーとなると全国でも数えるほどしかいないだろう。そして辻垣内智葉は間違いなくそのレベルにあった。

 

 漫は拳児から言われた、洋榎やそれに準ずるプレイヤーに勝つスタイルを何が何でも掴まなければならなかった。自分が勝ちたいと思うこともそうだが、なにより自分の成長はそのまま姫松というチームの成長につながるのだ。これまで先輩方にはお世話になりっぱなしの迷惑かけっぱなしなのだから、こういうところで恩を返さなくて何が後輩か。そう考えている漫にとって、この合宿は大きなチャンスだ。格上のオン・パレードなのだから。

 

 さながら明治や大正の女学生を思わせるような丸メガネと後ろで一束ねにして下げられた黒髪とセーラー服の風貌に、明らかにそれに似つかわしくない鋭く光る眼光。アンバランスであるはずのそれらの要素は、どうしてか均整の取れた美しさを感じさせる。ただ、辻垣内智葉の美しさというのはどこか緊張感を孕んだ刃物のような美しさだ。それは、折れず曲がらずよく切れるという矛盾を技術で成立させている日本刀にさえ例えることができるようなものだった。

 

 ( 呑まれたらアカン。卓についたら対等や )

 

 漫は南家、智葉は西家で局は始まった。漫の配牌はうまく育ってタンピンにドラがひとつつくかどうか、というよく見るパターンのものだった。勢いづけのために和了っておきたいが、下手に動いて他家に刺されるのは避けたい。ここは東東京地区における絶対的な強豪校の臨海女子なのだ。たとえ団体戦のメンバーでなくとも部員の質は高いだろう。行くべきときと退くべきときを見極められなければ簡単にトビかねない、そんな場だ。

 

 上家には姫松でも期待の高い一年生が座っている。郁乃と拳児のふたりのことだ、この夏のインターハイだけでなくさらに先を見据えた育成を考えているのだろう。それは合宿に召集されたメンバーを見てもはっきりしたことだった。彼女が九巡目で牌を曲げる。東発の親なら先手はどうしたって欲しいところだろう。自分の手の高さと親リーに対して突っかかることを天秤にかけて、漫はさっさと降りることを決断する。臨海のふたりも同じような判断をしたらしく、危険牌が切られるようなことはなかった。自摸に恵まれなかったのか、リーチをかけた一年生は和了ることができずに一人だけ聴牌ということで罰符をさらっていった。

 

 一本積んでの漫の配牌は先ほどよりも良いものだった。面子こそ完成しているわけではないが、タンピンに三色までつきそうなきれいな牌姿をしている。漫は少し攻めっ気のほうに比重を置いてその局を進めることにした。

 

 手の進みは悪くない。さすがにすべてが有効牌とはいかないが、それでも十分に入ってくる速度としては早いと言える。七度目の自摸を手牌の上に乗せたとき、なぜか下家のほうが気になった。ちらりと目をやる。つむじを糸で吊られたように背筋が伸びている。顔は河全体を見渡すようにわずかに前に傾いている。雰囲気は泰然としていて、いかにも隙がなさそうだ。実際に漫が智葉を見ていた時間はきわめて短い時間だったが、漫にはなぜか世界がスローに進行していくように感じられた。傾いだ顔がゆっくりと漫のほうへと向けられる。目が合った瞬間、理解した。辻垣内智葉はこの半荘で自分を狙い撃つつもりなのだ。

 

 理の及ばないところでそれを感じ取った漫は、怯えることなく攻めることを選んだ。もちろんのこと相手は自分より何枚も上を行くプレイヤーだ。それでも麻雀という競技は必ずどこかで攻めなければ、和了らなければ勝つことはできない。今、漫は誰に言われるでもなくほんとうの意味でそれを理解していた。

 

 

―――――

 

 

 

 「運がなかったね、あのおでこおっぱい」

 

 「何言ってんだチビ。まだあの卓は東一局じゃねえか、一本場だけどよ」

 

 「チビじゃなくてネリーだよ。さっき自己紹介したよね?」

 

 ともすれば小学生でも通ってしまいそうな幼い見た目をした少女とヒゲグラサンの、どう見ても犯罪的な組み合わせのふたりが呑気に話している。どちらも人見知りをするタイプではないらしく会話に淀みはない。

 

 「わーったからなんでアイツに運がねえのか教えてくれよ」

 

 「だってあの卓にはサトハがいるもん」

 

 「あー……、辻垣内か。スゲーつえーんだっけか、たしか」

 

 「おでこおっぱいもフツーじゃなさそうだけど、サトハがいるとなるとね」

 

 ふたりの視線は卓上に固定されている。どうしてネリーが別の卓についていないのかは拳児にはわからなかったが、それには触れないことにした。

 

 

―――――

 

 

 

 「ロン。5200に一本だ」

 

 凛と澄んだ声が通る。漫がリーチ棒を出そうとしたまさにその瞬間だった。ぱたぱたと倒される手牌は文句なく仕上がっている。智葉に点棒を渡し終えて、やっと漫は違和感に気付く。今の局で辻垣内智葉は()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まさか、と漫は首を振る。避けるべきは疑心暗鬼で動けなくなることだ。次局は自身の親番なのだから意識をそこに集中しなければならない。技術だなんだといった部分は相手の方がずっと格上なのだと何度も何度も言い聞かせてきた。勝負するべき場所はそこではない。そうやって覚悟を決めた漫に、さっそく配牌が微笑んだ。

 

 ( おっ、きたきたきたきたーーっ!幸先良すぎやろ、これは勝たなウソやで! )

 

 漫の目がまるでマンガのように輝く。手には既にドラ含みの七八九の三色が出来上がっており、純チャンを仕上げるときに厄介になりがちな雀頭のタネまでも入っている。ほとんど冗談のような配牌だが、それを現実にやってみせるのが上重漫というプレイヤーなのだ。こうなってしまえば自摸も偏りを見せる。百発百中というわけにはいかないが、それでも信じがたいレベルで有効牌を引いていく。このとき、漫にはある確信めいたものがあった。次の自摸で聴牌、そしてその次の自摸で和了だと。別に未来予知でもなんでもない、ただそう思うというだけのものではあったが。

 

 ただ、実際にはそれは現実となることはなかった。漫は次の自摸牌に手を伸ばすことさえできなかったのだから。上家に座る姫松の一年生の捨て牌に智葉がロンを宣言したのだ。

 

 それは火のついた導火線を途中で切り落としてしまうかのような、可能性を根っこから奪うような和了だった。論理的に言うのならばこれほど単純な話もない。誰かの和了りが怖ければ先に和了ってしまえばよい。だが誰がそれを実行に移せるというのか。辻垣内智葉は、上重漫の信条と言ってもいい絶対的な火力に対して、たった二度の和了 (それもひとつは漫が振り込んだわけでもない) でこれ以上なく明快な回答をしてみせたのだ。その意味するところがわからないほど漫も鈍くはできていなかった。

 

 時には他家に差し込むことで、時には自身で和了ることで智葉は漫に一度も和了らせることなく半荘を閉じてみせた。それは人によっては一方的に映ったかもしれない。しかし当人はそう取ってはいないようだった。自分の手のひらをじっと見つめて、小声でなにかを呟く。そうして顔を上げて智葉のほうへずんずんと歩を進めていく。

 

 「辻垣内さん、ほんまありがとうございました!おかげで何か掴めそうな気がします!」

 

 「……礼を言われるようなことをした覚えはないぞ?」

 

 「それでもです。あの、帰る前にもっかいお願いしてもええですか?」

 

 「四日もあるんだ、一度と言わず何度でも来るといい」

 

 そう言うと智葉は小さく笑んだ。口の端をほんの少しだけ上げた小さなものだ。それでもそれは対局中の表情とはあまりにもギャップがあり過ぎて、漫はちょっとびっくりした。

 

 

 

 ( そやんな、強い人とやるん考えたらスピード意識せんとあかんよな )

 

 顎に手をやってひとりで反省を行う。その顔つきはいつになく真剣で、それだけで今回の対局の収穫の大きさがうかがい知れる。

 

 ( ……ある程度は火力も犠牲にして和了を取ることも考えたほうがええんかな )

 

 部屋の隅のごく狭い範囲をうろうろしながら、自身の特性の応用について考えている漫がはたと立ち止まった。

 

 ( 播磨先輩が言うてたスタイルてこれやったんかな……。なんで教えてくれへんかったんやろ )

 

 漫がその答えを自力で導くのは、もう少し先の話である。

 

 

 

 

 

 

 



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09 お昼休み+α

―――――

 

 

 

 「いやー、学食タダてめっちゃ太っ腹やんなぁ、辻垣内」

 

 「そっちの移動する費用と時間の代わりにこっちが寝床と食事の提供なんだろうさ」

 

 「ほー、ようそんなんパッと出てくるなぁ」

 

 親子丼を乗せたお盆をテーブルに置きながら洋榎は智葉と軽口を叩きあう。ふたりは学年の数字がまだ若いころから全国に名を馳せた東西を代表するエースプレイヤーであり、そういうこともあってか知り合ってからそれなりに長い。もちろんお互いに麻雀という競技で譲るつもりはないが、だからといってそれ以外でも反目しあっているかと言われればそんなこともない。この場に揃っているのは全員が麻雀部員であるが、それ以前に女子高校生なのだ。確実に共通する話題がひとつあるのだから仲良くしたいと考えるのも当たり前の話だろう。さっそく他のテーブルでもそれぞれ新しい関係を構築しているようだ。

 

 

 洋榎と智葉のテーブルに恭子が加わって談笑が続く。

 

 「もうホンマ勘弁してくださいよ、大声でうちの名前呼ぶことないやないですか」

 

 「ええやん別に。知らんもんがいるわけでもなし、勝手知ったるうちときょーこの仲やしな」

 

 「アホ言わんとってくださいよ、迷子の呼び出しやあるまいし」

 

 目の前の姫松のふたりのやり取りに智葉は口元に手をやってくつくつと笑っている。よく見れば目尻にはうっすらと涙まで溜まっている。口早に言葉を交換しているのにどうしてか音ははっきりと聞き取れて、騒いでいると形容してもいいくらいの応酬なのになぜか不快には感じなかった。食堂の雰囲気は実に暖かで、離れたところに席を取っている他の部に所属する生徒たちも、留学生の多い学校の特色なのか制服の違う姫松をとくに気にしている様子もなかった。

 

 いつしか智葉の抑えた笑いも治まって、話題はおそらく今現在の日本でもっとも注目の集まっている男子高校生である播磨拳児のものとなっていた。意外なことにその話題を切り出したのは智葉であった。

 

 「ほう、あれで面倒見がいいのか」

 

 「たぶん信じられんと思いますけど人当たりも別に悪ないんですよ……」

 

 「まだ来て一か月やけどもう部のまん真ん中におるしな」

 

 「指導者としてはどうなんだ?」

 

 「口出す頻度はそない多くないですけど、考えさせることを言いますね」

 

 「寡言にして意図深し、か。優秀のようだな」

 

 「かげ、え? なんて?」

 

 「そういえば当の播磨見てませんね」

 

 「ああ、すまない。あっちでウチの連中に捕まってる」

 

 「無視は洋榎ちゃん拗ねるでー?」

 

 

―――――

 

 

 

 いっしょに漫と智葉の対局を見てからそのままずるずるとネリーと行動を共にして、気が付けば拳児は昼食のテーブルにも引っ張られてきてしまっていた。少しの時間をネリーと行動して判明したことだが彼女はどうやら愛されるタイプの人であるらしく、見る卓を変えるたびに臨海の部員たちからちょっかいをかけられていた。そのたびに子供のようにじたばたとしていたが、むしろそれが原因なのではないかと拳児は思う。それとは別にネリーの麻雀に関する感覚はおそろしく鋭く、拳児はそれを聞いて感心しながら相槌を打っていた。麻雀の勉強を頑張っているとはいえまだまだ時間は足りず、それだけにネリーの解説は感覚混じりの部分もあるが拳児にとってはもってこいのものであった。

 

 拳児が連れてこられたテーブルにはネリーが途中で声をかけた臨海女子の部員も同席していた。ひとりは校門で姫松を出迎えてくれた黒髪のメガン・ダヴァンに、もうひとりは室内だというのになぜか日傘を手放さないおそらく白人であろう雀明華である。拳児は人の名前と顔を一致させるのがそれほど得意ではないがメガンについては事前に読んだ麻雀雑誌で見たことがあったし、明華は日傘の印象が妙に濃かったので顔だけは覚えていた。

 

 「おいチビ、俺は本当にここでメシ食っていいのか?」

 

 「え? 別にテーブルにつくだけでお金は取らないよ?」

 

 「そういうことを言ってんじゃねえ」

 

 「まあまあ、イイじゃないでスカ」

 

 なんだか噛み合わない会話をメガンが収める。おそらく拳児の言いたいことは、臨海の部員しかいないこのテーブルに自分がいてもいいのかというところだろう。そこに対して異議を唱える者は誰もいない。むしろ男子高校生監督などという世にも珍しい地位にいる人物と話をしてみたいと考えているくらいだ。だからこそネリーは拳児を引っ張ってきたのだし、メガンと明華はここで待ち構えていたのだ。

 

 「あの、ところでなんとお呼びすれば?」

 

 「別にナンでも構わねーよ」

 

 「ケンジでいいよね? ていうかさっきからそう呼んでるし」

 

 「まァ俺も堅っ苦しいのは苦手だからよ、そーいう感じだとラクだわ」

 

 からからと笑う。

 

 「ところでよ、おめー、ダヴァンっつったっけ? 偽名とかじゃねえよな?」

 

 「へ? 本名ですケド?」

 

 「や、おめーに似たやつが前にいたガッコにいてよ」

 

 「……あ、サトハに聞いたことありマス!日本式のナンパってやつでスネ!?」

 

 「ケンジはナンパ目的でこちらにいらっしゃったのですか?」

 

 「んなわきゃねーだろ!誓ってもいいが俺はナンパなんぞ一生しねえぞ!?」

 

 本当に今日が初対面なのかと疑いたくなるほどにわあきゃあと騒いでいる。臨海の三人が持っている物怖じしない性質と拳児の持っている妙な親しみやすさが見事にハマったのだろう、しばらくそのテーブルからは明るい声が途絶えることはなかった。

 

 昼食休憩は食休みも兼ねているためしっかりと取られている。あるいは東京に来たばかりの姫松への配慮もあるのかもしれないが、それは彼らの知るところではない。拳児たちも食事そのものはしばらく前に終えてしまって、今はお茶をすすりながら雑談に興じている時間である。

 

 「はーん、外国でも麻雀って流行ってんだな。中国ならなんとなくわかるけどよ」

 

 「ケンジ、それは冗談ですよね?」

 

 「冗談じゃねえよ、俺は事情とかまったく詳しくねえの」

 

 「どんな環境で過ごしてきたんでスカ……」

 

 「うるせー。つーか聞きてーんだけどよ、日本って麻雀強えの?」

 

 「どうしたの急に」

 

 「や、だっておめーら留学してきてんだろ? 留学すんなら強いとこってのが相場じゃねえか」

 

 「世界的に注目されてると言ってもいいのではないでしょうか」

 

 「コカジとかミヒロギ? とかいう人の話ならこっちに来る前にもさんざん聞いたよ」

 

 「どころか今年はインターハイが世界中で注目浴びてまスヨ」

 

 日本にいるうちはどうやったって知ることのできない海外からの生きた評価を、しかも国籍さえまったく違う三人から聞けるという貴重な体験をしていることに拳児は気付いていなかった。態度から察するに本気でただの雑談だと捉えているのだろう。

 

 「あ? インターハイは高校の大会だろうが。なんで世界が注目すんだよ」

 

 「小鍛治健夜ですら成し遂げていナイ個人団体両方での三連覇の可能性があるからでスヨ」

 

 「ま、私たちとサトハが両方持ってっちゃうんだけどね」

 

 ふうん、と大して興味もなさそうに生返事を返す。その直後に拳児の動きがお茶の入ったコップを取ろうと腕を伸ばした途中でぴたりと止まった。それまで顔の向きを変えたり手の動きを交えて話をしていただけに、それはやけに際立って見えた。臨海女子の三人も急に固まった拳児に心配そうな視線を送っている。

 

 「おーい、ケンジー? 大丈夫ー?」

 

 「……おいダヴァン。そいつはアメリカでも注目されてるってえことだよな?」

 

 「エ? あ、ハイ」

 

 それを聞いた途端、拳児の身体を形容しがたい何かが包んだ。ほとんど肌を打つかのような錯覚さえ起こすほどの目に見えないエネルギー。闘気だとかそういった攻撃性のあるものではないが、それらと勘違いしてしまいそうになるほどに熱を帯びている。拳児の姿勢は先ほどと変わっていないのになぜか全身に力が充溢しているのが見ているだけで伝わってくる。播磨拳児という男の危険性を臨海女子が認識したのはこの瞬間だった。それと同時にこの男が監督を務めている姫松に対して警戒心を抱くようになったのも言わずもがな、である。

 

 無論のこと拳児が何を考えているかなど初対面でなくともわからないだろう。彼のすべての行動原理はたったひとつだった。だがそれは一月半ほど前に消失した。そのはずだった。拳児のすべてである塚本天満はあの日アメリカへと発ったのだ。拳児の中であらゆる要素が組み上がっていく。なぜか自分が大阪の姫松高校にいることも、なぜかそこで詳しくもない麻雀部の監督なんてことをやっているのも、それどころか世界中で麻雀が流行していることも、およそ拳児を取り巻く状況のすべてが彼にひとつの答えを導かせた。

 

 ( なるほどな……、まぁ天満ちゃんを奪い去るにゃあそれくらいの箔は必要か )

 

 「は、播磨クン?」

 

 「……その宮永照ってのがいるトコを潰して優勝すりゃあ世界に名が轟くってわけだ」

 

 「だからそれは私たちがやるんだってばー」

 

 頬を膨らませて不満げにネリーが抗議を試みる。

 

 「悪ぃな、チビ。俺様が本気になってしまったからにはウチの優勝以外はありえねえ」

 

 

―――――

 

 

 

 わあわあと子供たちが騒ぐテーブルからちょっとだけ離れたところで大人ふたりも昼食を楽しんでいた。国籍の豊かな学校だ、それに対応するように品揃えもバリエーションに富んでいる。これだけの留学生を集められるのもこういった細かい配慮がなされているからなのだろう。その辺りの尽力には臨海女子の麻雀部の監督であるアレクサンドラ・ヴィンドハイムも頭が下がる思いであった。

 

 「そういえば、播磨少年。彼はどこから連れてきたのかな」

 

 デザートに注文したあんみつを少しずつ楽しみながらアレクサンドラが尋ねる。余談だが、この食堂のデザートで不動の一番人気を誇る品である。

 

 「え~? どこから言うてもホンマに拾ったって感じに近いんやけど~」

 

 こちらはプリンをつつきながらいつものように返す。誰が相手でも変わらずこの調子なのだろうか。おそらくそうなのだろう。尊敬できるかと聞かれれば素直に頷くのは難しいところである。

 

 「素性が何ひとつ割れていないのに?」

 

 「あ、そういうこと~? 拳児くんのことは調べても無意味って言ったほうがええんかな」

 

 いまひとつ要領を得ない郁乃の発言にアレクサンドラはすこし首を傾げる。というか言い方にも違和感が残る。調べても無意味、というのは妙な言い回しだ。無駄とか情報が出てこないとか言うのならばまだわかるのだがどういうことだろう、と彼女が考えていると郁乃が付け加えた。

 

 「サンドラちゃんには別に言うてもええけど、触れ回るのは堪忍な~?」

 

 本当にこれから秘密の話をするのか不安になるほど軽い調子でいやんいやんと体をくねらせる。表情も変わることなくにこやかだ。それでもあの名門姫松を善野一美から一時的とはいえ正式に引き継いだ智将であることを考慮に入れると油断はできない相手には違いない。正直なところ郁乃が何を言い出すのかアレクサンドラにはまったく予想がついていなかった。

 

 「触れ回るようなことはしないけど、彼にはそんなにすごい秘密が?」

 

 「どっちかいうたら逆かなぁ。あんな、拳児くん別に麻雀やってたワケちゃうねん」

 

 アレクサンドラの片眉がぴくりと動く。

 

 「……驚いた。本当に?」

 

 「うん。ただの不良さんやってん」

 

 「ああ、見た目は素なの」

 

 嘆息まじりではあるが興味深そうに返す。いつの間にかあんみつのための匙を容器に立てかけて、話を優先する姿勢になっている。

 

 「でもそれじゃあなんで監督に?」

 

 それを聞くと郁乃は顎のあたりに人差し指をやってわざとらしく悩んでみせる。はたしてそれが本当にわざとらしくやっているのか自然とそうなるのかの区別はつかないが、何をするのにも演技性の抜けない人物である。たっぷり十秒ほど悩むように見える仕草をしたあとで、いつも通りのやわらかい表情のまま口を開いた。

 

 「それはヒミツ、ってことで~」

 

 「そこで止めちゃうのは逆に気になるね」

 

 「でも一個くらいわからんことあった方がおもろいんちゃうかな~、て」

 

 この流れではどうやっても聞きだすのは不可能だろう。アレクサンドラは内心で舌を巻く。どうあってもこれでは会話の主導権は握れそうにない。これまで祖国でもマイペースな人間とは数多く接してきたつもりだがこれほどの人物には会った記憶がない。しかたなく意識をあんみつのほうへと向けるが、それでもフツウの不良である播磨拳児が監督代行の椅子に座っていることへの疑問と興味は消し去れそうにはなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 雨音のようにリズムもなく続く、牌のラシャを叩く音が部屋全体を包む。拳児は音の中を歩いては立ち止まり、また歩き出す。それぞれの卓についている少女たちは目の前の戦いに集中しているため誰一人として拳児に気を払うものはいない。対局の様子を眺める立場の者からすればそれはありがたい話で、思うさま見ることができるしいつでも離れられる。だがそれ以前の問題として、この場に揃っている全ての少女が麻雀の腕で言えば拳児の遥か上を行っていた。言い換えればじっと見たところで途中で何がなんだかわからなくなるのである。わからなくなったものをそのまま見続けるなどまさに退屈そのもので、拳児はひとりため息をつく。

 

 彼にとっての女神に優勝を捧げるためにやる気を出したはいいものの、現時点で拳児にできることなどたかが知れている。練習指示やアドバイスなどは郁乃主導のもとで行われているし、牌譜の読み書きこそできるようになったがそれを使っての研究などまだまだ先の話になりそうだ。拳児はこれまで麻雀に深く関わってこなかったから知らなくても当然と言えるのだが、どうやら麻雀には異能と呼ばれる摩訶不思議な現象さえ存在するらしい。いわゆるイカサマとは違うのかと由子に聞いてみたところ、そういう発想になるのは仕方のないことなのよ、とひどく優しい眼差しをもらった。となれば拳児に足りていないのはあらゆる面での知識であって、できることと言えば勉強しかないのであった。

 

 

 「オウ、末原。ちょっといいか」

 

 「ん、ええけど?」

 

 休憩が終わって全員が三局ほどこなした頃、狙いすましたように拳児が声をかける。クラスでも部活でもそれなりに話す機会は多いため、恭子も慣れた対応だ。基本的に拳児の声のかけ方はワンパターンである。ふつう男子というのはもう少しそういうのを考えるのではないだろうか、と恭子は思う。それともそれは思い過ごしで、拳児のようなタイプが多数派だったりするのだろうか。少なくともこれまで恭子が接してきた男子はもうちょっと語彙があったように思う。

 

 「オメーよ、メシの後ちょっと時間取れねえか」

 

 「別に大丈夫やと思うけど、何なん?」

 

 「話がしてえ」

 

 「……は?」

 

 恭子の目が点になる。よほど想定外の言葉が飛んできたのだろう。来た当初は慣れていなかったものの、今ではたしかに播磨拳児は姫松の麻雀部に馴染んでいる。その立場は監督であり、参謀の立場にいる自身と話すことは多い。だが話す内容と言えば練習に関する話だとか部員に関する話だとかで、この合宿ならばおそらく各人の傾向を考えての相談であるはずだった。もちろんこれまでに二人で話すことなどいくらでもあったし、あるいはコーチである郁乃や主将である洋榎、頼りになる由子がそこに加わることもあった。だから話すことそのものに特別な意味を見出すことなどない。しかし今のこの会話の流れをどう捉えるべきかで恭子は混乱し始めていた。普段通りならば、すぐに話題に入るはずなのに。

 

 ( えっ、ちょっ、いやこれ、え? い、いわゆる呼び出……、いやいやいやいや! )

 

 途端に下を向いて恭子はわなわなと震えだす。呪詛のように小声でぶつぶつと何かをつぶやいている。恭子の頭が回ることは拳児もよく理解していたので、おそらくいろいろと予定を組み直しているのだろうと推察していた。

 

 ふと恭子は顔を上げる。先ほどの呪詛はもうないようだ。瞳の大きさも元に戻っており、理知の光も宿っている。うすく頬が色づいているような気もするが、拳児はそんな微細な変化には気付く素振りさえ見せない。

 

 「ちょぉ待ち。播磨、お前なんの話のつもりや」

 

 「異能だかオカルトだかってのを知りてえ。知らなきゃハナシにもなんねえんだろ?」

 

 拳児のその言葉を聞いてからの恭子のため息は、深い深いものだった。その表情は言い難いものがあって、正負のどちらともつかないように見える。手を額にやって、小さくゆっくりと頭を横に振る。それは拳児から見ればどうしてそんなことも知らないのか、と言われているようで居心地が悪い。実際の恭子の気持ちとはまるで違うのだが、それを察することができるようなら違う人生を送っていただろう。

 

 恭子はやりきれない気持ちを落ち着かせるためにとりあえず拳児に蹴りを一発入れる。蹴るといえば後輩である絹恵の専売特許なのだがそんなことは関係がない。だいたい腹立ちまぎれに蹴りを入れるのに作法も何もないはずである。

 

 ( ってェなクソ……、フツーつま先で人のスネ蹴るかぁ!? )

 

 さすがに弁慶の泣き所だけあって、拳児もスネをさするために屈まざるをえなかった。涙が滲むのは我慢どうこうの話ではなく生理現象の類だ。とはいっても拳児の場合はサングラスのおかげでそれが誰かに見られるということはないけれど。何の気なしに見上げた恭子の顔は、なぜかいつもよりも遥かに威圧感のあるものだった。

 

 「まあええわ。それやったらついでやし食べるとこから一緒でええやろ」

 

 「……おう」

 

 「にしても不思議なもんやな、裏プロには異能持ちはいーひんとは」

 

 「だからよ、俺は裏プロでもなんでもねーって何度も言ってんじゃねえか」

 

 「……そうとも限らんか、主将みたいに地力でねじ伏せるんやったら考える必要もないし」

 

 「俺を無視して楽しいかコラ」

 

 

 結局このあと夕食の卓につくまで拳児は恭子に無視され続けた。なにひとつ身に覚えのない拳児は由子に聞いてみたりもしたのだが、彼女は笑みを深くしただけでなにも答えてはくれなかった。いつも通りの笑顔とはまたすこし違った由子のその表情を、拳児はどこかで見たことがあるような気がした。見守るようでいて楽しむようでもあって、単純な拳児にはできない表情だ。欲しかった答えがもらえず、拳児はがしがしと頭を掻いてそれについては放っておくことに決めた。

 

 

 

 

 

 

 



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10 播磨拳児の価値

10話まるまる差し替えです


―――――

 

 

 

 ( 爆発をそのままにするんやなくて、方向を絞るイメージ…… )

 

 自身の持つ力のイメージに指向性を持たせるという発想は、これまでの漫にはないものだった。直接のきっかけとなったのは初日に対戦した辻垣内智葉ではあるが、その下地は姫松の麻雀部に入部した当初から長い時間をかけて作られていた。二年生にしてすでに絶対的存在として君臨していた愛宕洋榎がそのもっとも根本的な原因にあたる。どれだけの火力を有していても和了れなければ意味はない、ということを初めての対局で叩き込まれた。ただ彼女が圧倒的すぎたがために、漫は部員として、あるいは個人として勝ちたいと思う前に “愛宕洋榎には勝てない” と刷り込まれてしまった。彼女に対する勝利への意志があれば対策のひとつとして速度に関わる部分に考えが及んだのかもしれないが、残念ながらそうはならなかった。しかし今の彼女はチームの先鋒を任されるという経験を通して、勝ちに対する意識を変えた。そしてこの合宿で、漫は全国で勝つ為に足りないものをついに自覚した。

 

 漫のポジションである先鋒はエースが配置される可能性がもっとも高い。姫松においては伝統として中堅にエースを置くことになっているが、これは全国でもかなり珍しい采配と言われている。つまり漫はインターハイの予選から本選まで各校のエース級とぶつかることが想定される。言ってしまえば臨海女子と本選でぶつかったときに辻垣内智葉と当たることは避けられないだろうし、また全国の頂点に君臨している白糸台高校のあの宮永照も先鋒であることがすでに判明している。もし仮にその二人に囲まれて爆発状態に入ったとして何ができるだろうか。現時点では何もできないだろう。ここへ来て漫の脳裏には拳児に言われた言葉が浮かんでいた。

 

 ( ……負け続けるやり方を選ぶアホはいない )

 

 チームとして全国決勝に上がってくるような高校に勝つには、先鋒戦で勝たないまでも食い下がるくらいはしなければならない。それを実現するには速度を気にしなければならないし、頭も使わなければならないだろう。苦手だと言い訳をしている場合ではない。漫に限っては練習の機会が少ないのだ。爆発は狙って引き起こせるものではないのだから。それが彼女のオカルトなのだから。

 

 

―――――

 

 

 

 オカルト。異能とも能力とも呼ばれるそれを、恭子は “ルールのようなもの” と説明した。麻雀本来のルールとかち合わないように独自のルールを敷くのだ、と。説明の際にその顕著な例として出されたのが昨年のインターハイで大暴れした龍門渕の天江衣である。対外的に知られている彼女の持つ能力とは、他家を一向聴で留め続けるというものと海底の牌を察知するというものである。もちろん山を崩して順番を入れ替え、そうなるように仕向ければそれは反則行為に違いない。だが天江衣はそんなことは一切していない。インターハイは本選はおろか予選からすべて自動卓を使って行われるのだ。つまりそれらの現象は天江衣の設定した彼女独自のルールであると考えるほかにない。この話を聞いた初日の夕食のテーブルで、拳児は心底バカらしくなって鼻で笑いそうになった。しかし恭子の表情はいつも以上に真剣で、その説得力は変な証拠を出されるよりはるかに強かった。

 

 恭子の説明はそれだけにはとどまらなかった。基本的にオカルトは独自のルールを設定するという性質上、二つと同じものは存在しない。それが何を意味するのかというと、自身の能力でありながらそれに関する研究が非常にしにくいということを指す。比較対象もなく、周囲からは独自のものと蓋をされてしまえばほとんどそこで終いなのだ。すべての生物は自分の身体が思い通りに動かせることに何らの疑問も抱かない。異能持ちにとっての能力もほとんどそれと同様であるらしく、当たり前に使えるから当たり前に使うのだという。そこにこそ隙はある、と恭子は断言した。それらの特殊なプレイヤーたちは、その独自のルールを当然のものと認識しているがために足元にまで意識を向けない。いや、どちらかというと()()()()()()()()()()のだ。そしてもうひとつの重要なポイントとして、破ることのできない能力は存在しないのだという。

 

 「……こっから先は荒唐無稽な推論やと自分でも思うけど、笑わんとってな」

 

 「能力とか言ってる時点で荒唐無稽もクソもねえ」

 

 二人用のテーブルに向かい合って座り、拳児と恭子は話をしている。テーブルの上にはボンゴレのパスタが恭子の側に、タコスとスープが拳児の側に置いてある。

 

 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()可能性がある」

 

 「……はァ? 能力ってのは単に持ってるヤツが有利になるためのもんじゃねえのかよ」

 

 「それはその通りなんやけどな、冷静に考えるとちょっと違和感があんねや」

 

 「違和感?」

 

 恭子の頭の回転の早さと勘の良さは拳児も十二分に理解している。まだ二人は出会ってそれほど経っているわけではないが、そんな拳児でさえそこには信を置いている。普段の動きでも、麻雀に関わっているときの動きでもどちらでもいい。見ればわかるのだ。そしてそんな恭子が違和感を覚えるというのだから、そこにはおそらく何かがあるのだろう。拳児は聞く姿勢を正す。

 

 「麻雀が公的に頭脳スポーツとして認めらるようになって数十年。それも世界規模でや」

 

 「ああ、その辺は勉強したな」

 

 「競技人口は延べなら数億に達するけど、未だに完璧に破れんオカルトは存在せえへん」

 

 「それのどこがオカシイってんだよ」

 

 「もしオカルトが勝つ為のものやったら、ひとつくらい完璧なもんがあってもおかしないやろ」

 

 「いや、たしかにそりゃそうだがよ……」

 

 「むしろなんも持たん私みたいなプレイヤーが考えるきっかけになってるとは考えられんか?」

 

 「……反論はねえが確証もねえな」

 

 「そやな、けどそうでも思わんとやってられん」

 

 恭子の口からぽつりと零れた言葉は話し相手である拳児に向けられたはずのものだった。しかしそれが現実にどちらを向いているかは触れるだけ野暮というものだろう。

 

 「オイ、そりゃどういう意味だ?」

 

 「やる気出すためのおまじないみたいなもんや、気にせんでええ」

 

 人の気持ちがわからないことでは人後に落ちない拳児ではあったが、たまに大雑把な方向性だけは汲み取れることがある。おそらく恭子にはなにか考えるところや抱えるものがあるのだろう、と拳児でも察することができた。偶然かもしれない。

 

 とくに表面上の変化は見られなかったが、それ以降の話題に異能はほとんど姿を見せなかった。せいぜいが現在の姫松において異能と呼べる能力の持ち主は漫だけ、という話である。すこし前に見た牌譜を思い出して、拳児はなるほどと納得した。

 

 

―――――

 

 

 

 拳児と恭子がふたりで食事をとっているのをばっちりと見ることのできる席に、漫と絹恵と由子が座って話をしている。というより二年生ズが一方的に由子に質問を投げかけているようだ。ちなみに姫松の主将である洋榎は臨海女子の面々と一緒に食事を楽しんでいる。同席しているのは初対面ばかりのはずなのだが、そんなことは彼女にはまったく関係ないのだろう。

 

 「先輩先輩、正直なトコ、あの二人どうなんです!?」

 

 心配しなくても他のテーブルには声が届かないような騒がしさのなかで、顔を近づけつつ小声で語気を強めるという器用な芸を披露しながら漫が由子に質問をしている。

 

 「どう、って言われても何をどう答えればいいのかわからないのよー」

 

 「どうもこうもないですよ! めっちゃ雰囲気よくないですか!?」

 

 好配牌に恵まれたときと同じくらいに目を輝かせながらさらに漫が迫る。止めないところを見ると絹恵も案外と興味を持っている話題であるらしい。よく見てみれば視線が拳児と恭子の座っているテーブルにちらちらと投げかけられている。そんな様子がおかしくて、由子は珍しく笑いをこらえきれずに吹き出した。

 

 「ふふ、まあたしかに仲はいいと思うけど、二人が考えてるような仲ってことはないのよー」

 

 「えー、あの二人見るたびに一緒におるから決まりやと思っとったんですけどねー……」

 

 あからさまにしょげる漫と絹恵がどうにも面白くて由子はもう一度吹き出した。

 

 「漫ちゃんも絹ちゃんも私やなくて本人たちに聞けばよかったんちゃう?」

 

 「いやいや怖くてそんなんできませんて」

 

 顔の前で右手を振りながら漫は提案を拒否する。あの二人が怖いかどうかは由子にはよくわからなかったが、まあ聞いたところで素直には答えないだろう。そういう意味では漫も絹恵も正しい判断をしたのではないかと由子は心の中でこっそり褒めた。

 

 由子の見る限り、たしかに恭子と拳児のふたりは相性がいい。しかしそれは言ってしまえば誰にでも通用する相性の良さであって、合宿についてきている部員は全員が拳児と相性が良いと言ってもとくに問題はなさそうだと由子は考えている。そういった意味で考えるなら誰にでもチャンスはあるし、あるいは全員がノーチャンスなのかもしれない。それにしても、と由子はひとつ気になったのでふたりに尋ねてみることにした。

 

 「それにしてもいきなりこんな話だなんてどうしたの?」

 

 「え、だってそんなん、ねぇ?」

 

 漫が絹恵に目をやると、絹恵はこくんと頷いた。

 

 「末原先輩ってきれいやしかわいいのにそういうハナシないやないですか」

 

 由子は普段からそばにいるせいであまり意識したことがないが、考えてみれば末原恭子は美人と呼ぶに十分なルックスを備えている。個人的にはスカートよりジャージやスパッツを愛用する趣味はなんとかしたほうが良いのではと由子は思うが、それは別にして絹恵の言うことにも一理ある。全国屈指の麻雀部の中核であることをとっぱらえば共学の高校に通う普通の女子高生だ、たしかに浮いた話のひとつやふたつあっても不思議ではない。

 

 「んー、でも私は聞いたことないのよー」

 

 しかし由子はこれ以上のことは何も言えなかった。どう頑張って思い出してみてもそんな話題はひとつもない。ついでに恭子と拳児について思いを馳せてみる。さきほど拳児から聞いた話によると、恭子には意外と目がありそうだったがそれには触れずに、またふと気になることを思いついたので尋ねてみる。

 

 「ひょっとして二人は恭子と播磨がお似合いとか思ってたり?」

 

 「え、だって何気に播磨先輩ってスペック高いですよね」

 

 「……そう言われるとたしかに否定は難しいのよー」

 

 事態の進行はもはや拳児には止められないところまで来ていた。姫松の少女たちから見た拳児の像は圧倒的な麻雀の実力に指導力、加えて牌譜の書き方をたった一日でマスターするほどの頭脳と根性、裏の世界で生き抜いてきたという胆力に恵まれた体躯、サングラスのせいで目こそ見えないもののそれなりに整っているであろう顔立ちとどこの漫画のキャラかと言いたくなるような要素で満たされていた。この中で実際に拳児に備わっている要素は根性と肉体的要素に限られる。拳児は不良として生きた時期の影響で、自身を省みるということを知らない。ましてや高校二年生まではたったひとりの思い人のために生きてきたのだ、彼は自分の価値など考えたことすらなかった。

 

 皮肉にも矢神高校から離れたことで、それまで数えるのに片手で十分だった拳児の価値に気付く人が増え始めていた。

 

 「それやったら漫ちゃんか絹ちゃんが狙ってもええんやないかな」

 

 由子がそんな爆弾を落としたそのころ、臨海の一部の部員がばたばたと走り回っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 「播磨クン! サトハ見てませンカ!?」

 

 恭子の麻雀講義もほとんど区切りのいいところまで来たあたりで、昨年も臨海女子のレギュラーを務めたメガン・ダヴァンがテーブルへとやってきた。

 

 「あ? 見てねーけどナンかあったんかよ」

 

 「その、ニホンでは一緒にお風呂に入ることでヨリ仲良くなると聞いたんですケド……」

 

 「肝心の辻垣内さんが見つからんー、いうわけですか」

 

 ハイ、といかにも残念そうにメガンは頷く。あらためて見回してみるとメガンの他にもどうやら智葉を探しているらしき少女が見受けられる。拳児のイメージではたしかに辻垣内智葉は図抜けて目立つ容姿をしているわけではないが、まさか食堂の範囲内で隠れきれるほどの影の薄さとも思えない。そうであるならば既に食堂にはいないのではないか、と拳児は思ったが智葉にも事情があるだろうことを察して、そのことは言わずにおいた。

 

 目の前に座る恭子は不自然なくらいに拳児から視線を外して飲み物の入ったコップを手に取る。その様子を見る限り、さきほどの話の続きはもうないと考えて差し支えないだろう。そう判断した拳児はきれいに料理のなくなった皿を返却口へと持っていく。女の子のために何かをするという判断基準を持ち合わせていない拳児は恭子の皿を持っていくそぶりさえ見せない。

 

 「なんや、どっか行くんか?」

 

 「風呂の時間とかの関係で俺ァこれから暇だからよ、外で涼んでくるわ」

 

 嘘をつく必要もないので恭子の問いかけに素直に返し、今度こそ拳児は皿を返却口に返した。

 

 

 自然の豊かな地方のそれと比べればたしかに量に差は出るが、都会の夜空でももちろん星は見える。それに街の方とは違って、夜の学校は照明がたくさん点いているわけでもないのだから条件はちょっとだけ良い。臨海女子の広い敷地には芝生のところがあって、智葉はそこにべたりと座って空を見ていた。夜風は春先特有のちょっと冷えるものではなく、どこか初夏の到来を感じさせるものだった。そよそよと吹く風に長くやわらかな黒髪が揺れる。今は眼鏡こそかけているものの髪を結ってはいない。髪を結うのは対局のときに邪魔になるからで、そうでないときは基本的におろしている。

 

 視線を真上に投げると、目眩を起こしそうになるほどの高さの球体に包まれているのだと奇妙な実感が湧いてくる。当たり前だがそんなものはただの思い込みで、現実に実感するなど物理的にありえない。それは宇宙空間における地球の自転や公転を体感できると言っているのと大差のないことだ。ただそれでもこの感覚が不思議な説得力を持っていることに違いはない。

 

 「んだよ、こんなところにいたのか」

 

 急に上から降ってきた言葉に智葉は内心どきりとする。声の主が近くにいることさえ気が付いていなかった。そこまで気を抜いていたことなどここしばらく記憶にない。

 

 「……播磨か。どうした?」

 

 「あー、なんだ、風呂がどうとか言ってオメーんとこの連中が探してたぞ」

 

 「なんだ、手伝ってくれたのか?」

 

 「……関係ねえよ。俺はただ涼みにきただけだ」

 

 こういうときに拳児は嘘をつかない。それを聞いて智葉はそうか、とうすく微笑む。立っている場所と向きの関係で拳児がそれを見ることはなかった。

 

 「で、なんでこんなとこにいんの?」

 

 「……そうだな、普段入れない夜の学校ってのに興味があった。いつもは寮だしな」

 

 「なんつーか、もちっとオトナな奴だと思ってたぜ」

 

 「まだ生まれて十七年と少しだよ」

 

 そう言って智葉は座る向きを変えた。おそらく視界には拳児がなんとか入るだろう。その横顔は耳にかけた黒髪との対比で居待月のようなかたちをしている。白い肌が月光に当てられて、彼女の肌そのものがうすく発光しているように見えた。

 

 「お前、サングラス外すのか」

 

 少し驚いたように智葉が言う。

 

 「バカ言ってんじゃねーよ、街中でもなきゃ夜くれえ外すに決まってんだろ」

 

 「……それもそうだな」

 

 意外と間の抜けた会話だな、と拳児は智葉の人物像に修正を入れる。もちろん事前情報は雑誌とネリーたちの話だけなのだからズレがあるのは当然だが、まさかそっちの方面にズレるとは思いもしていなかった。それでも自身の属する姫松の部員たちと比べると遥かに大人びた振る舞いだ、と思ってしまうあたりが悲しいところである。

 

 「そういえば昼間は悪かったな播磨、うちの連中の相手も面倒だっただろう」

 

 「面倒ってほどでもねえよ、ひとつ面白えハナシも聞けたしな」

 

 「ふうん、面倒見が悪くないってのは本当らしいな」

 

 「あ? なんのことだ」

 

 「なに、お前の身内からの評判がいいってだけのことだ」

 

 音らしい音は互いの声しか聞こえず、夜なのだから光量も不十分だ。建物の外にいるのにどこか隔離された場所にいるかのような感覚がふたりを包んでいた。

 

 「あー、アイツら何か勘違いしてんだよな」

 

 「勘違い?」

 

 「俺を麻雀の専門家かなんかと思い込んでやがる」

 

 「……はぁ?」

 

 それは普段の智葉を知る者が誰一人として聞いたことのないような声だった。常人とは違う何か別の器官でもついているのでは、と思わせるほどに勘が鋭く、また頭の回転のきわめて速い彼女はめったなことでは驚かない。ましてやいつもの振る舞いを忘れてとっさに聞き返してしまうほどに驚くとなるとさらに稀だ。それこそ皆無に近いと言っていい。現在の臨海女子の中でもっとも付き合いの長いメガンでさえ見たことがないくらいなのだから。

 

 「じゃあお前どうして監督なんか……」

 

 「赤阪サンに頼まれたのが始まりだな。ちと恩があってよ」

 

 「というかそれ、私に言っていい話なのか?」

 

 「触れ回るような話じゃねえが隠し立てするようなモンでもねえ」

 

 「……えらく買われたものだな」

 

 「さあな。ま、ヒトの話を聞かねーのよりはマシなんじゃねえの」

 

 冗談めかして拳児は笑う。智葉には知る由もないが、これは相当にめずらしい行動である。もともと一匹狼タイプの拳児は会話に緩衝材としての笑いを求めない。本当に面白いことがあっただとか、笑い飛ばしたくなるようなことがあったとか、あるいはなにか他の理由でもない限りは笑わない。無意識のうちに智葉に対してどこかでシンパシーを感じたのかもしれないし、姫松の部員たちを身内と捉えてそれを自虐的に笑ったのかもしれない。だがどちらにせよ驚くべきことだった。拳児自身も知らないうちになにかが変わり始めているのだろうか。

 

 話題が尽きたのか別に話す必要もないと思っているかは定かではないが、ふたりは黙って夜空を見ていた。状況だけ見れば恋人同士のそれだが、残念なことにどこにも艶っぽい雰囲気は見当たらない。十数分ほどが経過して、大阪に来てから新しく買い替えた拳児の携帯からある時代劇の着信音が響いた。電話に出てあれこれと話して通話を終えても、とくに新たな話題が増えるということもなかった。

 

 そういえば、と拳児は思い出して智葉に話を振ってみた。

 

 「なあ、ダヴァンとかが一緒に風呂に入りてーっつって探してたのはほっといていいのか?」

 

 「……風呂には一人で入るのが好きなんだよ」

 

 ため息とともにつぶやく。

 

 「あっそ」

 

 結局そのあとたっぷり三十分ほどふたりは無言のうちに過ごし、智葉が先に屋内に戻った。拳児は郁乃からの呼び出しが入るまでじっと空を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




更新ペースはひどいものになると思いますが、お付き合いいただければ幸いです。


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11 興味と関心

―――――

 

 

 

 きちんと垣があって門があり、母屋があって蔵まである。そんな古風かつ威厳のある木造住宅にはある二人の女子高校生が住んでいた。ひとりはまるで家の雰囲気にそぐわない金髪と青い瞳をした少女である。背中まで届く長い髪を編んでつむじの辺りでまとめ上げ、決して邪魔にならないようにしている。もうひとりは肩にやっと届くくらいの長さのきれいな黒髪を持った少女だ。見目の印象では余人を寄せ付けないタイプに見える。その印象は彼女の美貌からくるものであり、とくにその目の持つ力が大きいように思われる。

 

 ふたりは昭和をイメージさせるような丸い卓袱台に隣り合って座り、テレビを観ている。卓袱台の上には彼女たちの見た目とは似ても似つかない渋い湯呑がほこほこと湯気を立てている。テレビ画面ではサングラスをした小柄な司会がミュージシャンを相手に面白おかしく話題を振っている。

 

 「八雲ー、どうするのー? もう一月経っちゃうよ、ゴールデンウイークだよ?」

 

 どこか不満げに金髪の少女が目を合わせることなく言う。口ぶりからするともっと早い段階から問題提起がされていたようだ。

 

 「どうする、って言われても……」

 

 八雲、と呼ばれた少女がぼそぼそと小さな声で返す。

 

 「携帯は解約されてたけど雑誌で居場所はわかってる。そして今はゴールデンウイーク!」

 

 「サラ、さすがにそれは迷惑がかかるんじゃ……」

 

 「ダメだよ八雲、恋する乙女が周囲の迷惑なんて考えちゃダメ!」

 

 今度はしっかりと目を合わせて力強く迫る。くわ、と擬音をつけたくなるほどに目を見開いて、口は真一文字。こうなってしまえばおそらくは折れないだろう。目は口程に物を言う、とはよく言ったものである。今まさにサラの目は “いいから大阪に行け” と主張している。

 

 

 塚本八雲と播磨拳児の関係は単純と言えるかもしれないし、複雑と言えるかもしれない。

 

 塚本八雲は矢神高校に通う高校二年生で、一つ年上の姉がいる。その人こそ播磨拳児の想い人、塚本天満である。それに関して幸か不幸かを断言することはできない。拳児が恋した女性が天満であったからこそ八雲は彼と知り合うことができたが、しかしそのせいで何を優先するべきなのかに苦しんだ。なにせ八雲は姉である塚本天満が大好きだったし、播磨拳児は八雲が初めてトクベツを意識した相手なのだから。

 

 初めは動物の話をしてみたいと思っていただけだった。家族である自分にさえ懐かない飼い猫の伊織を一瞬で手なずけたことから、八雲はこの男は動物に詳しいに違いないと思ったのである。それからは短い期間で顔を合わせる機会が途端に増えた。拳児に懐いた動物たちを守るために芝居を打ったり、拳児がこっそり描いていたマンガを読むことにもなった。その彼のマンガ製作を泊りがけで手伝ったら周囲に付き合っていると誤解もされた。

 

 それが恋と呼べるものなのかは八雲自身には判断がつかない。ほんとうに初めての経験だったからだ。もし仮に “もっとこの人のことを知りたい” という思いを恋に分類してもいいものならば、八雲は間違いなく拳児に恋をしていた。それは儚いだとか情熱的だとか、そういう段階に到達さえしていない、まだ色のついていない恋。八雲がもし自分の心に嘘をつかずに正面から向き合うのならば、たしかに拳児に対して家族のものとは違う好意を抱いている。でもそれがどういった種類のものなのかはわからない。だからそれを知るために、八雲は拳児に会う必要があるといえばある。

 

 八雲ではなく、周囲から見るとまたその印象は違ったものになる。

 

 第一に拳児を取り巻く環境に “塚本天満” という要素があることを知る人間のほうが珍しい。矢神高校のほとんどの生徒は彼と男女の意味において関わりがあるのは沢近愛理と塚本八雲である、と信じ込んでいる。そう思わせるだけの場面を、多くの場合は善意と勘違いの産物であるとはいえ、どちらも目撃されてきた。たとえば愛理は体育祭の終わりのフォークダンスを拳児と踊った。それは他の男子の誘いを全て断って、ただひとり拳児とだけのものだった。一方で八雲はマンガの原稿を手伝うために、拳児のバイクで登下校を共にするという離れ業をしてみせた。だからきっとあの二人のどちらかなのだろう、と周囲の人間は勝手に思い込んでいる。

 

 愛理も八雲も、初対面からはとっつきにくい印象を持たれがちである。愛理は表面的なやり取りこそ上手にこなすが、彼女が友人と一緒にいるときの表情を引き出せる男子などたった一人を除いて存在しない。八雲は八雲で特殊な事情とあまりにも完璧すぎる素行のおかげで、触れてはいけない高嶺の花のイメージを持たれてしまっている。そして彼女が唯一ふつうに話をできる男子も、やはりある一人を措いて他にはいない。そういった意味において拳児は特別な存在だった。彼女たちにとっても、あるいは周囲の人間にとっても。

 

 会いたくないといえばもちろん嘘になる。ただ、雑誌を見る限り彼には今やるべきことがある。それを邪魔したくないというのも本心だ。なぜそれが麻雀なのかは理解が及ばないがそこについて考えても仕方ない。考えるべきは自身の中に渦巻いている葛藤についてだ。サラの言っていることにも一理あるとは八雲も思っている。同時にまっすぐ進むことの難しさも知っている。八雲の知る限りそれを迷いなく実行できる人は二人しかいない。だからこそ八雲は悩んでいるのだ。

 

 今は悩んでいるのが正解なのかもしれない。大阪にいると思われている拳児だが、現在は東京の臨海女子にお世話になっている。もし姫松に会いに行けばすれ違いになることは明白だ。それでもいずれ、自分がどの行動を選択するのかを八雲は心のどこかで理解していた。

 

 

―――――

 

 

 

 昼食と夕食をいただいた食堂の端にある階段を上がるとそこは宿泊施設になっており、合宿中は姫松だけでなく臨海女子の生徒も同じところで寝泊まりすることになっている。四階建てのうち、二階と三階を彼女たちが使用し、四階を指導者組が使うといった具合だ。さすがに他校との合宿において問題が起きるのはまずいためこのような措置が採られている。拳児がどこで寝るのかというのは大きな問題のように思われるが、実際のところ彼は心に決めた女性がいるためそこで揺らぐことはない。そもそも矢神高校時代には従姉と二人暮らしをしていたのだ。その辺りの耐性は一般的な男子高校生を遥かに上回る。郁乃はその辺りの事情を絃子から聞いており、だからこそ女子だけの合宿に拳児を連れてくるという普通であればあり得ないことを決断したのである。

 

 事故が起きないようにと一人だけ隔離された時間の入浴を終えて、拳児は四階へと向かう階段を上がっていた。寝間着は学校指定のジャージだと事前に言われており、拳児もそれに従っている。余談だが筋骨隆々でヒゲを生やした男の体操服姿は非常に珍妙な印象を与えるものである。二階や三階に差し掛かったあたりではきゃあきゃあと女子生徒の騒ぐ声が聞こえてきたが、拳児はまるで反応を示さなかった。どちらかといえばそういった騒がしさがあまり好きではないのだ。

 

 宿泊施設の部屋がどうなっているのかというと、畳張りの宴会場のような広間の真ん中に部屋を二分するようにふすまが設置されているだけという簡素な造りになっている。布団は押入の中から自分たちで出して敷くことになっており、これは部員たちも指導者組も変わらないルールである。もちろん部屋と廊下との間仕切りもふすまであり、和の文化に触れられるということで留学生に人気があったりもする。

 

 部屋に入ってみると郁乃とアレクサンドラが額を突き合わせてなにやらこそこそと話し込んでいた。拳児にとって大人の女性がふたりで何かを話し合っているというのはあまりいい兆候とは言えない。これは経験則によるものだ。たいていの場合は面倒なことに巻き込まれる。

 

 「あ、拳児くん。お湯加減はどやった~?」

 

 「いや、普通スけど」

 

 「あんな、今サンドラちゃんと話しとったんやけどな~」

 

 予想はどんぴしゃりと当たっていた。

 

 

 ハトやスズメや朝を象徴するような鳥のさえずりのなか、未だ二階三階の少女たちは眠りこけている。陽が昇ってからまだそれほど経っていないため誰一人として体を起こしてはいない。ところどころ掛布団がはだけられている様子が見られるが、全体としては穏やかな合宿の朝の情景と言えるだろう。不意に、がちゃりとスイッチの入る音が建物中に響いた。平和な朝を、打ち壊すような音だった。主に緊急時の連絡用において使われる館内スピーカーから、なぜか目覚まし時計のけたたましい音が鳴り響く。

 

 『あ、あー、目ぇ覚めたか? 俺だ』

 

 次々と取り乱したように少女たちは目を覚ます。一気に覚醒した者も寝ぼけまなこの者も事態の把握はままならない。ただわかるのは既に陽が昇っていることと、この野太い声の主が播磨拳児だということだけだ。

 

 『十分やる。全員、顔を洗ってジャージで外に出てこい。繰り返す――』

 

 

―――――

 

 

 

 わけもわからぬままに女子としてギリギリ最低限の身だしなみを整えて絹恵が外へ出てみると、拳児がジャージ姿で仁王立ちしていた。東から昇った太陽の光が拳児の顔の左半分を明るく照らしている。よく見ると筋骨たくましい監督代行の脇には、近頃あまり見なくなったラジカセが置いてある。早朝、外、動きやすい服装にラジカセ。ああなるほど、と絹恵はひとり納得した。

 

 絹恵が出てきてからほどなくして合宿に参加している部員全員が集合し、それぞれの部長にその人数を確認したところで拳児はおもむろにラジカセの再生ボタンを押した。日本国民ならだいたい小学生のころに聞きなれた夏の朝の象徴が拳児の脇のちんまりとした機械から流れる。聞くや否やそれぞれの場所を確保するために広がる姿を、臨海女子の留学生たちはきょとんとした顔で眺めていた。

 

 留学生たちのぎこちない体操の様子を見て、慣れというものはあるんだな、と絹恵が一人で妙な感慨に耽っていたそんなとき、拳児からまたもや指示が飛んだ。

 

 「よしオメーら、アタマ起こすために走んぞ」

 

 そこらじゅうからブーイングが湧き上がる。たしかに麻雀部は運動部ではないのだから走る必要はないような気はするが、それでも昨日一日しか接していない臨海の面々が当たり前のように文句を言っているのに絹恵は驚いた。おそらく姫松には未だに拳児に堂々と文句を言える者はほとんどいないはずだ。というか絹恵自身、正面きって意見するのは怖い。これが国民性の違いというやつなのだろうか。群を抜いて抗議の声が大きい小さな少女を黙らせるためなのかあるいは初めからそのつもりだったのか、拳児が全員に聞こえるように宣言した。

 

 「このジョギングが走りきれねえとか不参加の奴ぁ風呂掃除だ。ケッコー広えよな、ココの」

 

 普段から拳児と接している者や勘の鋭いものは気付いていた。これは播磨拳児の独断ではない。だいたい提案の内容に拳児らしさが微塵も感じられない。拳児の場合、麻雀の腕を磨くと決めたら他の要素には目もくれないのが通常であって例外はない。ひとつの目標を決めたら迷うことなくまっすぐ進むことができるのが彼の美点であり欠点でありすべての原因でもあった。であれば必ずこれには裏で糸を引く誰かがいる。姫松の部員は一年生を除けば全員が気付いていたし、臨海女子の勘の鋭い面々もうすうすではあるが気付いていた。アレクサンドラは今までこんな提案をしたことがないのだから。

 

 播磨拳児の肉体の強靭さや運動能力は異常そのものと言って差し支えなく、普通の運動部員などまるで相手にならないほどのものを持っている。それこそ素材だけで言えばほとんどの種目で全国上位に入るとさえ断言できる。しかしそんな拳児にも肉体的な分野で弱点があった。持久力である。普段から運動をするという習慣を持たない不良にとってスタミナというものは鍛えようのない領域であり、これに関しては拳児自身も認めている部分である。実際は気合と根性だけでどうにかしてしまうこともよくあるため一概には言えないが、とりあえず拳児はあまり持久力に自信を持っていない。

 

 しかしその拳児に輪をかけて酷いのが両校の、とくに姫松の麻雀部員のほとんどであった。五分も経たないうちにひいひい言い始めている。

 

 そんななかで絹恵は楽々どころか、どこか懐かしさを覚えながら走っていた。拳児がスタミナに不安を抱えていてペースが上がらないこともあって、絹恵にとってはまさにウォーミングアップに適した速度になっていた。きちんと呼吸の仕方にまで気を配っている。学校指定のジャージというのがいまいちだが、誰かと一緒に走るというのはしばらくぶりで楽しかった。

 

 ちらりと横を見てみるとついて来ることができているのは姫松の一年生がひとりと、臨海女子は四人だけだった。対局中とは違って長い髪をまとめていない辻垣内智葉、走りながらラーメン食べたいとか空恐ろしいことを言っているメガン・ダヴァン、執拗に拳児にちょっかいを出しているネリー・ヴィルサラーセ、雰囲気や佇まいだけではどう見ても一年生には見えない郝慧宇。走り始めてほんのわずかな時間でこの有様である。さすがに麻雀部とはいえもう少し体力はあるだろうという理由のない信頼を寄せていた絹恵はなんだかバツの悪い思いをしていた。

 

 

 起床直後ということもあって誰も積極的に話すということもなくジョギングは終わった。一応は全員が走り切ったが、多くの麻雀部員がぜえぜえと辛そうな呼吸をしている。いくら麻雀とはいえ極度の緊張状態のなかで打ったり連続で打ったりすればきちんと疲労する。その考え方からいけば体力をつけることも完全に間違いというわけではないのかもしれない。そもそも数をこなす合宿において先に疲れてしまったら本末転倒ではないかという声があるかもしれないが、それについては触れないほうが賢明というものだろう。そのまま朝食と着替えを済ませて、二日目が始まった。

 

 

―――――

 

 

 

 「播磨少年、ちょっといいかい?」

 

 拳児が昨日と同じように卓を眺めては移動していると、アレクサンドラから声をかけられた。ちなみに今日は拳児の傍らにネリーの姿はない。

 

 「昨日一日で、っていうのも急だとは思うんだけど、キミから見てウチの戦力はどうかな?」

 

 どこか期待を持ったような目でアレクサンドラは拳児を見つめる。彼女は拳児が麻雀とは関係のないただの不良だったことを知っている。そのうえで尋ねているのだ。それは一種の試験のようなものであり、一方的な興味であった。

 

 「……そうスね、つえーと思いますよ」

 

 「続けてくれるかな?」

 

 「辻垣内とダヴァンは雑誌に載ってっから別にすると……」

 

 重ねるようだが拳児は未だに麻雀に詳しいと言える領域までたどり着いてはいない。せいぜいがルールやある程度の予備知識を詰め込んだだけで、誰かの対戦を見てそこから強弱の判断を下せるようなレベルにはない。今の時点で拳児が頼れるものは己の野性の勘のみである。根拠などない。無理に理由をつけるとするならば、普段の様子から見て取れる自負くらいだ。

 

 「……日傘とチビが昨日見た中じゃ抜けてんな、まァまだ見てねー奴もいるんスけど」

 

 アレクサンドラは心底驚いた。日傘とは明華を指しているのだろうしチビとはおそらくネリーのことに違いないだろう。どちらも臨海女子において団体戦を組むならメンバーに入ってくる実力者である。しかし麻雀の実力など一局二局でしっかりと発揮されるほうが稀であり、アレクサンドラの見た限りでは拳児は誰かひとりに狙いを定めているようには見えなかった。もともと麻雀の腕を買われて監督業に就いているわけではないのだから、ある意味で言えば当然のことかもしれない。しかし彼の言っていることはまだ対外的に発表していない団体戦のメンバーを二人も雰囲気のみで見抜いたと言っているに等しい。あの赤阪郁乃が強い興味を抱いたというのも頷けた。間違いなく彼は何かを持っている、アレクサンドラにはそう感じられた。

 

 右手を顎にやって思案したかと思えば、急に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる臨海女子の監督を拳児は呆けたように見ていた。拳児にはアレクサンドラの胸中など察することはできないだろう。なにせ彼女は姫松から拳児をどうやって引き抜こうかと真剣に考えて、自身の務める高校が女子高であることに思い至ったのだから。

 

 アレクサンドラがうんうんと唸り始めたのを見て拳児はその場を離れることにした。話があればまたあとで聞けばいいだろうとの判断である。傾注すべきは麻雀への理解を深め、インターハイで姫松を優勝させることに他ならない。それが今の拳児にとって思い人へと近づく一番の近道であり一本道であった。本来であれば実際に打って経験を積むのがもっとも早いのだが、如何せん拳児と彼女たちとでは実力に差が開きすぎている。その状況下で打っても一方的にボコボコにされるのがオチであり、何より相手の練習にならないのだ。それは監督代行の立場にある彼にとっては避けるべきことであった。

 

 ちょうどそのとき、拳児の携帯が着信を知らせた。ディスプレイを見てみると、昨晩外で涼んでいたときにかけてきた相手と同一の人物である。昨日の電話の内容を拳児は冗談だと思っていたが向こうはそうは考えてはいなかったようで、ある程度の予定を詰めるつもりでいるらしい。さすがに独断で決めるわけにはいかない内容であったため、拳児は郁乃とアレクサンドラに相談することに決めた。それにしてもプロというのは案外と余裕があるものなのだな、と拳児は多少失礼なことを考えながら指導者たちの方へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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12 縁は異なもの味なもの

―――――

 

 

 

 それは二日目の昼休みの、辻垣内智葉のとある一言に端を発する。

 

 「意外と播磨のヤツは笑うとかわいい顔をしているぞ?」

 

 いったいどんな話の流れでそんな発言が飛び出たのかなどもうどうでもいい。たまたま昼食の席に同席していた漫と絹恵はお互いに目を見合わせて驚いた表情を浮かべていた。今にも目玉が飛び出そうなほどに目を剥いている。そんなことを言い出した辻垣内智葉は固より、そうなんですか、と呑気に相槌を打っている郝慧宇も知らないだろう。播磨拳児は姫松高校に通いだしてから少なくとも麻雀部員の前で笑ってみせたことなどないのだ。口の形は常に真一文字かへの字であって口角が上を向いたことなどない。それどころかついぞ空笑いの声すら聞いたことがない。

 

 これは由々しき事態である。先日の真瀬由子女史による発言の影響があるのかどうかは定かではないが、これは何か女子の沽券に関わる問題に発展する可能性を秘めた話題であると姫松の二年生コンビは認識していた。具体的には女としての魅力においてハコワレに追い込まれているかもしれないのだ。別に部内に拳児に惚れている者がいるというわけではない。それはそれで想像したくはないのだが人の心とは不思議なもので、それを素直に認めるわけにはいかないのだ。

 

 「あ、ということはそのとき彼はサングラスを外していたのですか」

 

 おそらく肩まで届くであろう髪をつむじの辺りでお団子に結っている中国出身の少女、郝慧宇が二年生コンビにとって核心となり得る問いを投げかける。この場では余談であるが、彼女は昨年の十五歳以下のアジア大会で銀メダルを獲得するほどの実力者である。今年からインターハイに姿を見せる選手の実績としてはずば抜けたものだ。それと今の質問の精度に関係があるかは誰にもわからないことではあるが。

 

 「ああ、夜に外でサングラスをかける道理もないしな」

 

 「昨日サトハが見つからないと思っタラ、外に逃げてたんでスカ」

 

 「ちょっ!? サングラスも、ええ!? 外て、外ですか!?」

 

 もはや何を言っているのかわからない。高校三年生が、それも十人いたら十人とも認めるような美人と元裏プロが外で逢引きなんて、漫にとってはそんなの反則である。合宿という僅かな期間で離れてしまうふたりが惹かれあうなどという少女漫画的な展開まで想像してしまいそうだ。わりと近年の少女漫画が過激であることを考えると漫を責めるのは酷というものだろう。拳児がサングラスを外していたというのも聞き逃せないことである。もしそれが本当だとすればまたもや姫松高校は後れをとっていることになる。いったい何に対してのものかは知るところではない。

 

 「ああ、私が外で星を見てたら播磨が来たんだよ。ひとりで涼むつもりだったらしい」

 

 「何かお話でも?」

 

 「ん、まあ、……ああいや、秘密にしておいたほうがいいか」

 

 智葉は昨日の月の下での会話の内容を思い出し、それを明かさないことに決めた。それは全くの善意であった。隠すようなことではないがひけらかすようなことでもない事柄を、当人でさえない自分が話すことではないと考えたのだ。また拳児に聞いたところによれば姫松の部員たちは見事に勘違いをしているらしく、そこで自分が余計なことを吹き込んでも混乱させてしまうだけだということを理解してもいた。だから智葉のこの判断は英断と言われるべきであって、文句を言われる筋合いのものではない。

 

 しかし、非情なことにそれとその判断が周囲にどのように捉えられるかということに対して何の関係も持ってはいなかった。

 

 「……サトハもお年頃ってやつでスネ」

 

 「どういうことだ?」

 

 「思春期のふたりが夜に密会して秘密の話となれば、もうそういうことかと」

 

 「……はぁ。あまりバカなことを言うもんじゃない。そもそも昨日のは偶然だ」

 

 メガンと郝の追撃に、やっと自身の言葉の持ちかねない意味に気付いたのか智葉は即座に否定の意を伝える。しかしそんなものはいったん火のついた女子の思考回路には燃料にしかならないものである。否定もアウト、肯定はもっとアウト、逃げ場などどこにもない。こうなってしまえば我慢して事態が過ぎ去るのを待つしかない。

 

 「え、でもさっき播磨さんの笑ったカオ見たって言うてましたよね」

 

 「別に仏像でもないんだから笑わないなんてこともないだろう」

 

 「いえ、私ら一回も播磨さんの笑うとこ見たことないんですけど……」

 

 思わず智葉は額に手をやった。いったいあの男は普段どんな生活を送っているのかと問い詰めてみたくなる。愛宕洋榎や末原恭子の話によれば人当たりは悪くないらしい。しかし目の前の少女が言うには一度も笑顔を見せたことがないらしい。両者に矛盾はない。だがギリギリだ。笑顔のない不良風味の人当たりがいいと言われて信じる人間のほうが少ないだろう。

 

 これは間違いなく面倒なことになる、と智葉は確信した。規模は最低でも同席している郝慧宇とメガン・ダヴァン。このふたりがこれをからかいのネタに使うことは容易に想像がついた。ただしこれはすべてが智葉にとって都合のいい方に動いた場合である。おそらく上重漫と愛宕絹恵の様子を見るに、この話は姫松へと広まるだろう。噂話で留まればまだいいほうだ。まかり間違って周囲がしてはいけない勘違いをしてしまえば、いよいよ面倒なことになる。だから智葉はこの場ではこう言い続けるしかなかった。

 

 「あのな、昨日の今日だぞ? そんなことになるわけがないだろう」

 

 「テレなくてもいいんでスヨ、サトハ。大人になるには大事なことデス」

 

 「縁は異なもの味なものと言いますし」

 

 「郝、おまえ中国出身だよな?」

 

 早くも女子高生らしいやり取りが始まった途端、漫と絹恵が立ち上がり、脱兎のごとく駆け出した。智葉が先ほどから感じていた頭痛がわずかに深まった。このままいけばおそらく播磨拳児にも何らかの影響が出るだろうが、智葉はフォローを入れることを選ばなかった。こういうイジられる立場に立つのは生まれて初めてのことで、既になんだか疲労してしまっていた。

 

 

―――――

 

 

 

 姫松高校麻雀部の鉄則。それは何かあったらとりあえず末原恭子に相談することである。以前もこの奇妙な風習のせいで彼女は散々な目に遭った。もっとも記憶に新しいものでは、口下手で有名なトッププロが姫松を訪れたときのことだろうか。一介の高校生が不機嫌そうなプロを相手に何ができるかと聞かれれば、せいぜいが怯えるくらいである。結果的には拳児が来ることでその場は収まったが、恭子からすれば洒落になっていない状況だったのだ。さすがの彼女もそのときばかりは癒しを求めたものの、最終的には立ち上がってみせた。その精神力の強さと恭子ならなんとかしてくれるという信頼がこの悪循環を作り上げていることに彼女自身は気付いていないのだが、それはまた別のお話。

 

 

 「す、末原先輩!」

 

 「なんや漫ちゃん、絹ちゃんも。練習まではもうちょっとあるけど?」

 

 恭子には他人に比べて食事がゆっくりなため、食器を戻すタイミングも遅い。そのためちょうどひとりで食器を持って歩いていたのだが、そこで漫と絹恵に捕まったのだ。

 

 たしかに学校の食堂としては広いが、別に何百メートルもあるわけでもない距離をわざわざ走ってきた二人に恭子は訝しげな視線を送る。今日は合宿の四日あるうちの二日目だ。チームとしての問題点に気付いて報告するにしても個人的なアドバイスを求めるにしても夜にすればいい話で、別にこんな中途半端な時間に持ってくる必要はないだろう。

 

 「いや、ちょっとハナシがあってですね……!」

 

 漫の語調にはずいぶんと力が入っているように見える。めずらしく真面目な話なのだろうか、と思案してみるがそう判断するのも早計な気がする。絹恵がなぜか動揺しているようで、ちらちらとどこかを窺うような仕草をしてはこちらを見て頼りなげに笑っている。まったく見当もつけられないので、仕方なく恭子は話を聞いてみることにした。

 

 「まあええけど……。で、いったい何の話?」

 

 「お、驚かんとってくださいよ?」

 

 「そんなん聞く前にわかるわけないやろ」

 

 漫は一呼吸置いて絹恵と目を見合わせたあと、真面目な顔をして言った。

 

 「は、播磨先輩と辻垣内さんがデキたかもしれません」

 

 てっきり合宿の場での話なのだからどうあっても麻雀の話なのだろうと思っていた恭子の思考はあまりにも予想外の角度からの砲撃に、比喩でもなんでもなく思考停止に陥っていた。

 

 三秒ほど経って開いた口が塞がり、ようやく入ってきた情報を脳で処理できるまでに回復した。音と蒸気が出そうなほどに必死で頭を回して、様々な方面から検討を図る。想定外の事態にも即応してみせた恭子の修正ならびに対応能力は手放しで称賛されるべきだろう。

 

 「……すさまじいインパクトやったわ。冗談として優秀やで、漫ちゃん。絹ちゃんもな」

 

 「ええと、先輩、冗談とちゃうんですよ」

 

 「えっ」

 

 「末原先輩は播磨さんの素顔見たことあります?」

 

 どうやら恭子の分析は外れていたらしい。漫だけならまだしも絹恵からこんな質問が飛んでくるようではいよいよ真実味を帯びてくる。もちろん恭子は拳児の素顔など見たこともない。どころかサングラス姿が当たり前のものになりすぎて、あれを素顔と認識しかけていた。改めて思い返してみて、恭子は感心したように言った。

 

 「……いや、ないわ」

 

 「あれ、ていうか末原先輩めっちゃ冷静ですね」

 

 漫の声色はなにか予想が外れたかのような残念そうな色を帯びている。

 

 「なんで私が取り乱さなあかんねん」

 

 「えっ、だって播磨先輩と辻垣内さんですよ!? ええんですか!?」

 

 「別に事実やったとしても自由にしたらええやろ。……あ、でも外に漏れるのは面倒やな」

 

 由子から何もないとは聞いていたものの、それでもきっと恭子と拳児の間に何かがあると勝手に思い込んでいた漫は肩すかしを食らったような気分だった。漫からすると、ここで恭子が何らかのわかりやすい反応や行動を見せるのが正しいかたちである。そうなってくれないと何も始まらないからだ。この期に及んでも誰も拳児に確認しようとしないあたり、彼の本来の扱い方というものを本能的に理解しているのかもしれない。

 

 絹恵の感想は漫とは違っていた。男らしい恭子のセリフに尊敬の念を強めると同時に妙な安堵を覚えてもいた。かたちとしては非常に奇妙なものかもしれないが、姫松の麻雀部の活動は安定しているのだ。恭子の発言の方向性次第ではそれが壊れてしまう可能性もあって、漫のように無邪気に残念がることは絹恵にはできなかった。というか智葉と拳児の関係の問題はまったく解決していないのでほっとするも何もないのだが。

 

 

―――――

 

 

 

 ( それにしても不思議な話ですね )

 

 智葉の件の真偽は別にして、郝は卓上の河を眺めながら播磨拳児について思いを巡らせていた。事前に聞いていた情報では姫松高校は関西どころか全国でも指折りの強豪であり、またこの合宿で実際に卓を囲んでその能力の高さを体感した。そんな素晴らしい高校に何の前触れもなく高校生の監督代行が現れたというのだから、郝でなくとも興味が湧くのは仕方のないことと言えるだろう。しかもその姫松の選手たちから聞いたところによると、ついひと月ほど前にふらりとやってきたのだという。だがその割には選手たちの信頼は厚いようで、そのことがさらに郝に疑問を抱かせた。

 

 現在の郝の拳児に対する評価は智葉のいいひと (これは本人が強く否定しているが) であるということと、あとはただのチンピラぐらいのものである。自身と同い年のネリーがやけに懐いていたような気がするが、彼女は気まぐれなところがあるので何とも言えない。おそらく姫松の選手たちを納得させるほどのものを持ってはいるのだろうが、それが見られない限り郝は拳児に対する評価を変えるつもりはなかった。余計なことを考えながら打っていたため、不必要なところで振り込んでしまい、彼女はため息をついた。

 

 

 よくよく見なければわからない程度に不満そうな顔をして、郝は次の対局をどうしようか考えていた。先ほどの半荘はあの不注意な振り込みのせいでトップが取れなかったのだ。それでも彼女の不満はどちらかといえば自身に向かうものであって、そのストイックさは臨海女子の間では有名である。とはいえ彼女がその不満をほとんど表面に見せないのにはまた別の理由があった。

 

 さて今度は誰に声をかけようかと思案していたところで、背後から野太い声が響いた。

 

 「オウ、ちっといいか」

 

 言いがかりであることに違いないが、そこには先ほど郝が振り込んでしまった原因の男が立っていた。それにしても彼から声をかけられるようなことなどあっただろうか。

 

 「ええ、構いませんが」

 

 「あー、オメー名前は?」

 

 「郝です。郝慧宇」

 

 「そうか、俺ァ播磨拳児だ。別に忘れてくれても構わねー」

 

 何の冗談だ、と郝は内心で毒づく。いま日本で一番注目されている男子高校生の吐くセリフとはとても思えない。それともこれは日本流の謙虚なウィットというやつなのだろうか。

 

 「でよ、オメーさっきなんで手ェ抜いてたんだ?」

 

 ぴしり、と郝の身体が硬直する。

 

 「……なんのことでしょう」

 

 「別に責めてるわけじゃねーよ、単に気になっただけだ。そういう練習があんのか?」

 

 郝慧宇の麻雀における技術はほとんど理不尽な領域に達しつつある。彼女はアジア大会で二位に輝いた実績を持っているが、それはそもそも彼女の実力を反映したものではない。郝慧宇の故郷は中国であり、そのため彼女の馴染んだ麻雀は世界で流行しているものとすこしルールの違うものであった。いわゆる中国麻将である。役から何から違う世界で戦ってきた彼女はまだ世界のルールに順応する前にアジア大会に挑み、そして銀メダルを獲得したのだ。その対応力と圧倒的なセンスは想像を絶するものであり、またその頃に比べて世界のルールを理解し始めた郝の実力は日を追うごとに伸びている。もはや全力で打つとなると臨海女子のレギュラー陣、あるいはそれに即した実力を持った相手でなければ話にさえならない。だから彼女は普段打つときにはある程度実力をセーブして打つようにしていた。

 

 なにより大きな問題は見抜かれたという点にあった。麻雀において手を抜いたことを看破するのはほとんど不可能に近い。なにか異能を持っているのに使わないだとかそういうはっきりした原因があるのなら話は別だが、郝は純粋に技術のみで打つタイプであった。仮に大真面目に手を抜いているかどうかを判別するのなら、気の遠くなるようなデータを集めてからでなければ違和感すら抱けないはずなのだ。しかしこの男はさもそれが当たり前であるかのように言及した。

 

 「どうして私が手を抜いていると?」

 

 「んなモン見てりゃわかんだろーがよ」

 

 なんのことはない。ただ彼女は播磨の強者レーダーに引っかかったのだ。ケンカの世界で磨かれたそれは強豪麻雀部という環境に置かれることによって、少しずつ麻雀に特化したレーダーとして育ちつつあった。もともと相手が全力でケンカをしているかを見抜くことは拳児にとって朝飯前のことだった。それを麻雀に転用できたとして何の不思議があろうか。

 

 しかしそんなレーダーの存在など知らないどころか想像すらしたことのなかった郝は、ただただ驚愕するばかりであった。コーチングのできそうな若い女性がいるのに彼女を差し置いて監督代行を務めているというのにも納得がいってしまった。長くても半荘程度見ただけでそのプレイヤーが手を抜いているかどうか見抜ける人間など、正直なところ本国中を探してもいないのではないかと郝には思えた。怪物はいるところにはいるものである。

 

 「(ラオ)、とお呼びしても?」

 

 「……よくわかんねーけど好きにしろ。で、なんで手ェ抜いてたんだ?」

 

 「いえ、とくに意味はありません」

 

 「ふーん。ま、そんならクセになんねーように気をつけな」

 

 そう言って立ち去る拳児の後姿を彼女はじっと見つめることしかできなかった。真に凶悪なのは外見などではないと理解した。あれだけの眼を持つ男だ、彼自身が卓についたらどれだけの猛威を奮うのか想像がつかない。郝は夏にあるインターハイで臨海女子が負けることを露ほども考えていなかったが、播磨拳児が陣頭指揮を執っている姫松高校は警戒に値すると認識を改めた。

 

 ちょうどそのとき、郝は視界の端にふりふりと長いポニーテールが揺れるのを捉えた。おそらく真剣に高校麻雀でインターハイを狙う者ならば知らない者はいないだろうとされるプレイヤーである。その実力は世界中から留学生を集める臨海女子において最強の名を冠する辻垣内智葉と比肩するだけのものを持ち合わせているとされ、また高校卒業後もプロとしての活躍を既に期待されているほどの傑物である。彼女ならば播磨拳児と打ったことがあるかもしれないと思い、郝は声をかけることにした。

 

 「あの」

 

 「ん、なんや? 打つ相手探しとるんか?」

 

 「それもありますが、ひとつお聞きしたいことがありまして」

 

 「なんやなんやー? スリーサイズと体重以外やったらなんでも答えたるでー」

 

 「あの、ラ……、いえ、播磨さんと打ったことはおありですか?」

 

 それを聞いて洋榎は昨日あった面白いことを思い出すように笑った。

 

 「うん、アイツがうちの高校に来た初日に打ったわ。くく、アイツそこで何したと思う?」

 

 くつくつとこみ上げる笑いを抑えながらいたずらっぽく問いかける。その様子を見るにこの話は何度か聞かれ、またそのたびに話しているのだろう。

 

 「……いえ、わかりません」

 

 「あんな、播磨のヤツな、うちと打っとんのに途中で勝負にならんー、言うて席立ってん」

 

 郝としては生返事を返すしかない。話の先がまだ見えない。

 

 「しかもそのときドベやねんで? 初めは逃げたんかな思うたわ」

 

 「ということは違ったのですか?」

 

 「せやねん。うちもなんやおかしいな思て配牌だけやってみたんや。したらな……」

 

 ごくり、とのどが鳴る。郝はそれが自分ののどの音だと気が付かなかった。

 

 「配牌国士十三面待ちやってん」

 

 「は?」

 

 「せやから配牌国士十三面待ちやってんて。そら勝負にならんわな」

 

 「それは……、その……」

 

 「しかも様子見で打ってたんもバレてたしな、あれ本物やで」

 

 そこまで聞かなくても郝は拳児のエピソードを信じただろうが、洋榎の最後の一言はあまりにも決定的だった。自身とまったく同じ体験をしているのだ。それは播磨拳児という巨怪な像が彼女のなかで完成した瞬間だった。この手のイメージは一度植え付けられてしまえばそれを取り去るのは容易ではない。彼女が拳児に対してのイメージを崩すには少なくとも年単位での時間が必要になるだろう。それが彼女にとっていいことなのかは誰にもわからないことだった。

 

 拳児自身は姫松をはじめとして誰からどんな評価を受けているかなど知らないまま合宿の時間は流れていく。外には千切れ雲が二つ三つと浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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13 食堂の様子をお送りいたします

―――――

 

 

 

 「おい、こりゃどういうことだ」

 

 「……知るか。私が聞きたいくらいだ」

 

 太陽が西の街に沈んでいって数刻。昼食休憩を挟みはしたものの一日を通して打ち続けた姫松と臨海女子の選手たちはそろって夕食のテーブルに着いている。相も変わらず国籍豊かなメニューがトレイの上に踊っている。その国の出身者を満足させているくらいなのだから出来は素晴らしいと言えるものなのだろう。ところが拳児からすればいつかのレストラン事件のこともあって、名前も知らない料理がわんさと並んでいるのはあまり気分のいいものではない。智葉はこの学校に通って三年目なのだから慣れていないはずがないだろう。しかし拳児も智葉も料理については今はどうでもよかった。考えるべきは今の状況であった。

 

 ふたりは現在、窓際の二人用のテーブルに着いている。百歩譲ってそこまでは無視することにしても、彼らを半円状に取り囲むように臨海女子の面々がテーブルを占拠しているのはどう考えても普通の状況とは言えないだろう。しかも絶え間なくちらちらと視線が注がれている。隠すつもりは初めからないようだ。

 

 

 単純な話、二人とも連れてこられたのである。拳児は郝に、智葉はメガンに連れられて、椅子に座らされて出来上がりである。もちろんたった一人の例外は存在するが、拳児はもともと誰と食事を摂るかということに対してそれほど関心を持たない。だから郝についてくるよう言われたときも深く考えずに従った。智葉は智葉でいちばん付き合いの長いメガンに呼ばれたものだからそのまま彼女と食事をするのだろう、と何の疑いもせずについていった。その結果が拳児と智葉のツーショットであって、仕掛け人側の勝利と言うほかないだろう。

 

 決してふたりは互いを嫌っているわけではない。それでもふたりが不機嫌そうなのは、どう考えても好奇の視線に晒されまくっているからだった。

 

 「別にオメーとメシを食うのは構わねえけどよ、なんでこんな見られてんだ?」

 

 「すまない。うちのバカ共が妙な勘違いをしているらしい」

 

 バレていることを理解しているのに、それでも臨海女子の面々は不自然にしないように努めようと適度におしゃべりをしながら拳児と智葉を観察していた。そのことが災いして彼女たちは二人がどんな会話をしているのかを聞き取ることはできなかった。あるいはそれが誤解を解くチャンスを奪ったと見ることもできるかもしれない。なぜなら彼女たちは拳児と智葉の会話している姿を見ることまでしかできないからだ。もし二人の会話の内容を聞くことができていたら、そこに艶のあるなにかが存在しないことをはっきりと悟ることができただろう。それを踏まえた上で、なお続ける可能性があるのではないかと問われれば否定することはできないが。

 

 「……まあ、妙に騒ぎ立てなければ大事にもならんだろう。あと二日ほどは我慢してくれ」

 

 「大事もクソもまず何を勘違いしてんのかがわかんねーよ」

 

 昼休みにからかわれたのは自分ひとりだったので、なるほどたしかに目の前の男はそれを知っているわけもないか、と智葉は思い直した。とはいえ一般的な男子高校生であれば、状況から考えてどんな勘違いをされているかくらいは即座にわかるレベルの事態である。ただそれでも拳児はまず気付かない。それは鈍いどうこう以前に徹底的に一途であるからだ。どんなに魅力的なアプローチも視界の外で行われているのならば何らの効果も持ちはしない。拳児にとって()()()()()()とは、塚本天満以外の女性とは成立しないものであって、直截的な言葉で伝えない限りは意識にさえ上ることはないのだ。もちろんそんなことはこの場にいる誰も知らない。

 

 目の前の辻垣内智葉という少女が苦々しげな表情を浮かべているのを見て、拳児はどういうことだろうかと思考を巡らせていた。拳児にとって、彼女はこれまで出会った中で飛び抜けて大人びた女子高生のひとりである。他はどこかしらに年相応の部分だったりそれ以上に子供っぽい部分が見受けられたが、拳児は彼女に対してそういった印象を持っていなかった。先日、夜に校舎外で出くわした時に彼女が言っていた、そこに居た理由こそ多少の子供らしさを感じるものではあったが、せいぜいがその程度で振る舞いそのものは大人と変わりないものと言えた。さて、そんな彼女がどうして顔をしかめているのか。

 

 ( ……俺が原因、ってわけじゃねぇな。昨日はふつうに会話もしてる )

 

 となれば残る原因は拳児にはこの状況以外に考えられなかった。そしてそこまでは智葉が不機嫌そうな顔をしている原因として正しいものであった。智葉自身は勘違いされているにしろからかわれているにしろ、こういった注目を浴びていることそのものがあまり面白くないのだ。だが拳児がきちんと最後まで正しい答えにたどり着くわけがなかった。

 

 ( …………ははーん。なるほどそういうことだな? )

 

 拳児は何も言わずにポケットから二つ折りの携帯を取り出し、ぱちん、と開いた。

 

 「身内にゃ話せねー悩みがあんだろ? 運がいいぜ、今の俺様はそれなりに寛容だ」

 

 そして拳児はその携帯を智葉の前に差し出した。連絡先を教えてやる、と言っているのだ。よく勘違いされるが、彼は不良ではあるものの人の道を踏み外してはいない。機嫌に左右されることもあるが、今の拳児はその機嫌が悪くない。インターハイで優勝して天満に会いにいくという目標ができたからだ。衆目に晒されている現状はあまり気分のいいものとは言えないが、それ以上に想い人と結ばれるプランが出来上がったことは彼にとって何よりも重要なことであった。

 

 今一つ納得のいかない表情を浮かべながら智葉は自分の携帯に連絡先を打ち込む。智葉の側から見ればほとんど会話が成立していない。我慢するよう頼んだらなぜか携帯を目の前に出されたのだから納得がいかないのも当然だろう。智葉も動揺しているのか、普段であればまずしないであろう連絡先をそのまま登録するなんていう浅はかな真似をしてしまっていた。

 

 

―――――

 

 

 

 そんなある意味衝撃的なシーンを臨海女子の面々が見逃すはずはなかった。あのふたりの周囲を取り囲んだのはこういう場面が見られるかもしれないという淡い期待があったからである。まさか本当に見ることができるとは考えていなかった彼女たちは、そのぶん歓喜した。あの辻垣内智葉が携帯にぽちぽちと連絡先を打ち込んでいるのだ。それも相手は全国的に大注目の播磨拳児とあれば、これ以上の面白い絵面などそうそうないと断言できる。ちなみに拳児と智葉が何を話しているかは変わらず聞こえない。

 

 「アレ? これ本当にマジのパターンのやつじゃないでスカ?」

 

 「ふふ、うちは女子高ですしこういうのも楽しいですね」

 

 注目の的となっている智葉本人の心情など露知らず、臨海女子のメンバーは呑気な会話を楽しんでいた。その対象の一人は前日に警戒するべき人物として認識したばかりということを忘れているのだろうか。あるいはこの限りにおいてはむしろ親しむべき相手として見ているのかもしれない。どちらにしろいい迷惑である。

 

 「老と連絡先の交換、ということは私たちの手の届かない範囲も出てきますね」

 

 「ム、それは楽しみが減ってしまいまスネ」

 

 「というか遠距離恋愛とはもともとそういうものでは?」

 

 奇しくもこのテーブルに着いているのは拳児がその実力を見抜いた面々であった。昨年からその実力を如何なく発揮しているメガン・ダヴァンをはじめ、風神の名を冠する雀明華、アジア大会の銀メダリストの郝慧宇、一度たりとも卓を囲んでいないのに拳児に見出されたネリー・ヴィルサラーセ。恐ろしいほど豪華なメンツが集まっていったい何をしているのかと言いたくもなるが、やはり女子高生であることには変わりないらしい。

 

 「えー? 遠距離なんて楽しくないじゃん。お金もかかるし」

 

 「姫松は強いですカラ、とりあえず夏にはまた会えるとシテ……」

 

 「あんまりつつくと流石にサトハも怒ったりしませんか?」

 

 「播磨クンのことで怒るかはわかりませんケド、怒るとめちゃくちゃ怖いでスヨ」

 

 「放っておきます?」

 

 「落ち着くまではそうしましょうか」

 

 このあと彼女たちは揃って他の臨海女子の部員たちにそのことに触れないように通達を出した。そのせいで余計に真実味が増したことは言うまでもないことである。

 

 

―――――

 

 

 

 灯りのない外の闇からは名前も知らない虫の声が聞こえてくる。大概の部員たちは風呂に入るか練習場に残って対局をしている。残りは大部屋で牌譜の検討を行っている。さすがは一流と言える学校の選手と言うべきだろうか、一人ひとりの意識が高い。そんななかで、拳児はひとりで食堂に居座って牌譜を眺めていた。大部屋にいる部員たちに混ざってもよさそうなものだが、彼女たちのレベルに拳児はついていけない。だからまだまだ一人で頑張る必要があった。ちなみに成果は少しずつ出始めており、議論を交わすまでには至らないが意図をぼんやりと推測するぐらいのことはできるようになっていた。

 

 拳児がいるのは食堂の隅っこであって、見つけるにはわざわざそこを探しにいかなければならない場所である。浴場はいったん食堂を出なければならず、つまりは大部屋と浴場を行き来するには食堂を通り抜ける必要があるのである。姫松はもともとその傾向があるが、想像以上に臨海女子も拳児を見かければ話しかけてくるということにさすがの拳児も気付いていた。もちろん人によって入浴時間などばらばらなのだから、食堂の人の通りは割と頻繁であるのが当然である。そのたびに声をかけれらるのでは集中のしようもない。ということで拳児は食堂の隅でひっそりと孤独に牌譜を眺めているのであった。

 

 「あ、播磨。こんなところに」

 

 「あン?」

 

 拳児が顔を上げるとそこには湯上りなのか、ほこほこと蒸気を漂わせた、少しクセのある金髪を肩の辺りまで伸ばした少女が立っていた。ジャージ姿にタオルを首からかけている。着ているものから判断すると彼女はどうやら姫松の生徒であるらしい。だがこんな少女が姫松にいただろうか。合宿に来ている部員どころか、全体を思い出してみても思い当たるフシがない。

 

 「……オメー、誰だ?」

 

 「隣の席の女子の顔も思い出せないなんて薄情な監督なのよー」

 

 その口癖と雰囲気で彼女が誰なのか理解はしたが、普段とはまるで違うイメージのせいで拳児はなかなか確信が持てなかった。まだ十分に乾ききっていない金糸の髪はところどころが房のようになって首元に張り付いており、上気した頬は驚くほどに色っぽい。これがジャージでなければどこの休暇中のお姫様かと言いたくなるような出で立ちであった。

 

 「あー、なんだ、髪型ちげーとわかんねえもんだな」

 

 「それだったらうちのメンバーだいたい印象変わるのよー」

 

 言われてみれば特徴的な髪型の多い部である。

 

 「んで、真瀬。オメーなんでこんなトコに?」

 

 「なんとなーく人の気配がしたから気になって?」

 

 一般的に人の気配などというものは感じ取れる類のものではない。たとえば日常的に人目を忍ぶような生活を送っている人間などであればそういったものに敏感なのも頷けるが、真瀬由子はただの女子高生である。実際は紙をめくる音が聞こえただけであって、別に由子はそんな高尚なものを感じ取ったわけではない。害のないかわいらしいウソである。

 

 「あ、ねえ播磨、ひとつ気になってるんだけど」

 

 「なんだ」

 

 「あなたってモテるの?」

 

 生涯で初めて聞かれた質問である。果たして “モテる” とはなんなのか。そんな哲学的な問いが生まれるほどに拳児は自身と縁のない言葉だと思っていた。拳児からすれば天満以外からの好意など欲しいものでもなんでもない。だからそんなことは考えたこともなかった。

 

 そこで拳児はこれまでの人生を振り返ってみることにした。まず荒れていた中学時代はそういうことと関わりすら持っていなかったのだから論外だ。そして問題の高校に入ってからのことだが、第一に沢近愛理 (拳児はお嬢と呼んでいる) には嫌われていそうだ。ことあるごとに殴られているような気がする。そして塚本八雲 (拳児は妹さんと呼んでいる) には嫌われてはいないだろうが、お世話をかけすぎている。これでは好かれるも何もないだろう。最後に塚本天満であるが、これについては拳児は完全に敗北を喫している。彼にとっては心の底から無念なことに現時点では彼女の気持ちは拳児に向いていないことは確定している。以上のことから拳児はこう判断した。

 

 「……モテねえんじゃねえか?」

 

 「ふうん」

 

 納得とも疑義ともつかない中立な声色だった。いつの間にか由子は拳児の前の席に座っている。当然だが拳児には由子が何を考えているのか見当もつかなかったし、由子は拳児が何を根拠としてモテないと発言したのかはわかっていない。

 

 「オイ、その質問は嫌味か何かか?」

 

 「そんなつもりはないのよー。ただちょっと疑問に思っただけ」

 

 「別に俺がモテようがモテまいがカンケーねえと思うんだが」

 

 「もしモテるなら他の学校の選手をたらし込んでもらったり?」

 

 「……ひょっとしてオメー、とんでもねえ腹黒なんじゃねえだろうな」

 

 「ふふ、冗談よー。そんな器用な真似できそうには見えないし」

 

 「真瀬、オメーさっきからこっそり俺のことバカにしてねえか?」

 

 ふわりと言われたことに似つかわしくない笑顔を浮かべただけで由子はそれをいなした。意外と姫松でもっとも厄介なのはこの少女なのかもしれない。

 

 「つーかそんなこと聞きに来たのかよ」

 

 「たまにはそういうのもいいと思うのよー」

 

 「……チッ、俺様は忙しいんだ、邪魔すんじゃねえ」

 

 「ふふ、それじゃあ監督代行のためにお暇するのよー」

 

 そう言って由子は立ち上がり、のんびりした足取りで大部屋の方へと向かっていく。その小さな口元には控えめな笑みが浮かんでいた。今にも鼻歌が聞こえてきそうなほどだ。由子は今のところ何もするつもりはない。なぜなら放っておけばそのうち面白いことになるだろうことが簡単に予想できたから。

 

 

―――――

 

 

 

 「ああ、郝」

 

 食堂にある二つ並んだ大きな自動販売機の前で、何を飲もうか考え始めたところで郝慧宇は声をかけられた。入浴はだいぶ前に済ませて、日中はお団子にしている髪も下ろしている。さらさらの黒髪を揺らして振り返ると、そこには臨海女子最強の先輩が立っていた。

 

 「智葉、どうしたのですか」

 

 「いやなに、二日もあれば大抵の相手とは打っただろうから感想でも聞こうかと思ってな」

 

 試合に挑むときとはまるで違う、力を抜いた優しい顔で智葉は語りかける。冷たくて澄んだ瞳に長い睫毛、それらにそぐわない表情のギャップの威力にはすさまじいものがある。

 

 「あちらのエースとはまだ打ってませんが、そうですね、強いとは思います」

 

 「ふむ?」

 

 「ですが、それだけです。現時点では脅威にはならないかと」

 

 智葉は郝のこういうまっすぐな物言いが好きだった。回りくどくなくて良い。

 

 「現時点では、ということは?」

 

 「三か月後はどうなっているかわかりません。老の存在がキーでしょう」

 

 郝ははっきりと言い切った。その言葉の奥には確信めいたものがちらついている。何についての確信かなどわざわざ触れるまでもないだろう。

 

 「なあ、そのラオ、ってのは誰だ? そんな名前のやつはいなかったはずだが」

 

 「あ、播磨さんのことです。そう呼ぶ許可をもらいました」

 

 「なんでまたそんな呼び方を?」

 

 「ひとつの敬称ですよ。あの人は私の想像の埒外にいますから」

 

 それを聞いて智葉はすこし不思議そうな顔をした。たしかに想像の埒外といえばその通りではある。そもそも彼は麻雀に明るくないのだから。だがどうも目の前の少女は播磨拳児のことを麻雀における怪物と認識しているフシがある。この時点で考え得る可能性はふたつ。ひとつは郝が勘違いをしてしまっている可能性。もうひとつは昨晩の外の会話で、拳児が嘘をついたという可能性だ。智葉からすれば正直なところ、どちらも考えにくいと言わざるを得ない。前者は実力者である郝を勘違いさせるほどの何かを見せなければいけないし、後者は彼の人となりを考慮すればそれだけで否定する材料としては十分と言える。

 

 ならば仮に彼が嘘をついておらず、また郝も勘違いをしていないとすればどうだろうか。麻雀については詳しくないが、種目に隔てのないコーチング技術やあるいは先頭に立って部員を引っ張るある種のカリスマ性を持っている可能性はまだ残る。この際それが自覚的かどうかは関係がない。それは特別な才能に類するものだ。その仮説は播磨拳児に対する疑念のほぼすべてに明確な解答を与えるものだった。それまで別に監督代行を立てていたのに急にそれが変わったことも、その新たな代行の情報をどれだけ探ろうと何一つ出てこなかったことも。もし彼がこれまで部活に入ることなく過ごしていたとしたら、そしてその隠れた才能を姫松高校が見出したのだとしたら。ほとんど言いがかりに近い推測だらけの仮説ではあるが、筋が通ってしまったことに智葉は驚いていた。

 

 もちろんこんな仮説をいきなり盲信するわけにはいかない。だからといって無視をするというのも難しい話だ。結局、智葉はそれについては保留することにした。拳児がどういう存在かなど時期が来れば自然とわかるのだから。

 

 「……ずいぶん播磨のやつを買ってるんだな」

 

 智葉がそう言うと、郝はすこし意地悪そうに口の端を上げた。人とは時に見えている危険地帯に踏み込まなければならない生物である。

 

 「智葉ほどではないと思いますけど?」

 

 「……なかなかいい度胸をしている。その勘違いを貫くことがどれだけ厳しいか教えてやろう」

 

 ぐいぐいと頬を引っ張る智葉に郝は必死に抵抗したが、何をどうやってもそこから抜けることはできなかった。一方的な肉体的コミュニケーションは自販機の前で行われていたので案外と多くの人の目についた。それを見た姫松の部員たちは、意外と臨海女子も年齢相応にバカみたいなことをやるんだな、などと感心していたという。

 

 夜は更けていく。

 

 

 

 

 

 

 



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14 Connection

―――――

 

 

 

 三日目の午前十時頃。拳児がポケットから携帯電話を取り出し、そして練習場から出ていくのをたまたま絹恵は見ていた。いつ聞いたかは正確には覚えていないが、絹恵は拳児が大阪に来てから新たに携帯を買い替えたことを知っている。理由はひどいもので、前いたところにもともと持っていた携帯の充電器を置いてきてしまったのが原因なのだという。それくらい取りに戻ればいいのでは、と思わないでもないのだが、彼の抱えている事情から考えればそれは難しいのだろうと絹恵は結論している。

 

 そういう事情があった以上、拳児の携帯の番号など知っている人はほとんどいないはずである。姫松の部員たちは緊急連絡先としていちおう知ってはいるものの、合宿中であるということを知った上でほいほい電話をかけられるような度胸のある者はいない。そう考えるとその電話の主は拳児の個人的な知り合いでなければならない。だが彼は姫松に来て以降ほとんど休みなく部活に出ているため、人とのつながりを作る時間はなさそうに絹恵には思われた。それにどう見たって自分から友達を作りにいくタイプには見えない。

 

 拳児が練習場から出ていくのを見た郁乃とアレクサンドラは、手を叩いてすべての部員の注意を引いた。打っている最中に手を止めさせるというのは非常に珍しいことである。話があるのならばランニング後や朝食の間、あるいは練習開始前などいくらでも時間はあったはずである。なんとも不思議なタイミングでの中止に、一同はよくわからないといった表情を浮かべている。

 

 「ええとな~、今日これからゲストの方がいらっしゃるからヨロシクな~」

 

 「なんでも播磨少年個人のコネクションらしい。しっかりと勉強させてもらうといい」

 

 そう二人が言った直後に拳児が出ていった練習場の出入り口の扉が開いた。内開きのものであるため拳児が先に入り、扉を開けた状態を維持しつつそのゲストを迎え入れるようだ。百八十センチを超える不良風味のドアマンの横から顔を出したのは、日本の麻雀に関わる者であれば誰でもその存在を知っているトッププロのひとり、野依理沙だった。

 

 真っ直ぐで長い艶のある黒髪にはっきりとした目元、控えめな鼻と口に白い肌。和風美人の要素をこれでもかと詰め込んだような容姿をした彼女はゆっくりと練習場を見渡して、その部屋にあるすべての視線が自身に集められていることに気付いて頬を薄く紅潮させた。とはいえ理沙のそんな心の動きを知る者はいない。彼女はその恥ずかしさを誤魔化すために一言だけ発した。

 

 「壮観!」

 

 

―――――

 

 

 

 「……優秀!」

 

 愛宕洋榎という選手の実力は未だ計り知れないところがある。幼少の頃から麻雀に親しんできた彼女は、大会にも数えきれないほど出場している。そして彼女はそのすべてで優勝を含む好成績を常に残してきた。現在の高校麻雀における怪物といえばまず初めに名前が挙がるのは宮永照であろうが、実は愛宕洋榎もそこに名を連ねるのに十分の資格を有している。彼女も宮永照に届き得る牙の持ち主であるとされているが、不運なことに未だ二人には直接対決の機会がない。もちろんたった一度の半荘ですべてが決定されるはずもないので、どちらが強いかなどということは仮に今年のインターハイで直接ぶつかったとしても断言できるものではない。

 

 そんな彼女が、完全に抑え込まれた。公式戦で一度たりとも収支マイナスを記録したことのない愛宕洋榎が手も足も出ず、またさらに彼女自身にしかわからないかたちで敗北を喫していた。

 

 ( こんだけ見事に完封されて “優秀” 言われてもなあ…… )

 

 局後に一礼をしてさっそく頭の中で反省会が行われる。普段の彼女からは考えづらいことだが、麻雀に向かい合うときのその頭の回転は恭子のそれを遥かに上回る。ぶつぶつと何かを呟きながら考え込んでいるその様はまったくもって似合っていなかった。

 

 「おい、愛宕。聞いてんのか?」

 

 不意に上から降ってきた声に驚いて、跳ね上がるように猫背気味になっていた体を起こす。

 

 「な、なんや播磨か……。人を驚かすのは感心せんなぁ」

 

 「オメーがいきなりぶつぶつ言い出すからだろーが。ちゃんとアドバイス聞いてたのかよ?」

 

 その言葉を聞いて洋榎はぴくんと反応した。今のこの状況から考えるにアドバイスをくれる存在など二人しか思い浮かばない。それは我らが監督代行か、あるいはつい今しがた一緒に卓を囲んだあのトッププロ以外にはあり得ない。しかし相当深くまで潜って考え込んでいたとはいえ、まさか自分に向けられた声を聞き逃すとは洋榎には到底思えなかった。

 

 「え、なんか言うてた? 言うてたらホンマごめん。聞き逃してたわ」

 

 「あー、理沙サン、すんませんコイツにもっかい言ってもらってもいいッスか」

 

 図体の大きい拳児の影に隠れていたのか、理沙がひょっこりと顔を出した。見る限りはどうにも難しそうな顔をしている。指導しに来た高校生が話を聞いていないともなれば無理もないだろう。洋榎は内心で深く反省をしたのだが、理沙自身はそれを気に留めるどころかいまだに拳児以外の高校生とどう接すればいいのかわかっていなかったためそれどころではなかったのだがやはりそれも理沙以外の知るところではない。仮にもトッププロという立場にいるのだから人前にはそれなりに慣れているべきなのだろうが、中にはこういう人もいるということである。

 

 拳児の言葉にこくこくと頷きながら若干コミュニケーションに不安の残るトッププロが口にした助言は、先ほどとまったく変わらないたった一言のものだった。しかもなぜかそれを横で聞いていた拳児がうんうんと頷いている。

 

 「……いや優秀や言ってもらえるのはうれしいですけど、それアドバイスとちゃいますよね?」

 

 「通訳!」

 

 自分を中心とした話のはずなのに、洋榎にはなにがなんだかわからなくなっていた。

 

 「あれだ。オメーが巧いのはいいんだけどよ、時にはもっと欲張ってもいいっつってる」

 

 「えっ」

 

 「ま、見極めはもっとシビアにする必要があるけどな」

 

 「ちょぉ待ちや、播磨。それホンマに野依プロが?」

 

 「あン? 本当もクソも聞きゃわかんだろーがよ」

 

 今度こそまったく本当に意味がわからなかった。あのたったひとつの単語のうちにそんなに深い意味があったこともおかしいが、それを寸分違わずに取り出せるというのも信じられない。拳児は特別なことをしたような態度は取っていないし、理沙はどこか満足げな顔をしている。それが意味することは、この二人にとってこの程度の事態は当たり前のことで、かつそれが極めて正確であるということだ。世の中に以心伝心という言葉があることは洋榎も知っているが、実際に目にするとこれほど気味の悪い現象もなかなかないだろう。

 

 たしかに世界には不思議なことがたくさんあるし、現代の科学では説明しきれないことも山ほどある。その辺のことに特別に関心を示さない洋榎であっても、とりあえずこれを聞かないわけにはいかなかった。

 

 「いやいやいやいや、何をどうしたらそんなん分かんねん」

 

 「あ? フィーリングでイケんだろ」

 

 「燃えよドラゴン!」

 

 まともな返答があるとは考えていなかったが、もはや完全に思考を放棄したと言っても過言ではないようなふたりの言葉に洋榎はため息をついた。本来ならばこういう役目は恭子のものだろう、と心の中でよくわからない八つ当たりをする。

 

 「やったらうちの考えてることもわかるー、いうことか?」

 

 「バカ言え、俺ぁエスパーじゃねえよ。似たような知り合いがいるってだけだ」

 

 訪ねてきた目的が目的なので、理沙はいつの間にか別の卓へと移動していた。ついさっきまではそこで有名なカンフー映画のテーマを口ずさんでいたと思ったら、今はもう卓に着いて席決めまで終わらせている。やはりトッププロともなると特殊な感性や呼吸を持っていたりするのだろうか。

 

 「……失礼な話やけど、野依プロに似てる人ってそうはおらんやろ」

 

 「別に何から何まで似てるってわけじゃねえ。あんまりしゃべろうとしねえだけだ」

 

 「よーそんなんと知り合いになったな」

 

 「たまたま足を引きずるようにしてたトコに居合わせてよ」

 

 「あー、もうええもうええ。うちが悪かったわ」

 

 洋榎が踏み込むのをやめたのも当然だろう。条件が揃い過ぎている。まず第一に姫松高校の部員たちは郁乃を除いて全員が拳児を裏プロだと認識している。そんな拳児の知り合いで、口数が少ない上に足を引きずるなんて事情を抱えた人種などそうそういない。どう考えても関わってはいけないタイプの人に決まっている。

 

 もちろん洋榎が想定しているような知り合いは拳児にはいない。ただいつだって拳児には言葉が足りなかったし、また動物を人間と決定的に区別するには動物に対する情愛が深すぎた。というのも一年近く前、失意の底にあった拳児に寄り添ってくれたのは誰よりもまず動物たちであったからだ。だから拳児は自身に近寄ってきた動物に対してのみではあるが、友人とも呼べるような扱いをするようになっている。知り合い、というのも彼なりの愛情表現のひとつと言っていい。

 

 それ以来なぜか動物の声を聞き取ることができるようになった拳児は、たまたまクーラー修理のアルバイトで訪れた家で、とある猫の足のトゲを抜いてあげることになった。拳児の “野依理沙に似ている知り合い” とはこの猫であり、それ以外の何者でもない。その猫の名前は伊織。塚本家で飼われている猫である。

 

 拳児に対する謎というか疑念が深まりはしたものの、トッププロからアドバイスをもらった洋榎は満足げだった。彼女のレベルに達すると、やみくもに練習するだけではもはや効果は得られないのだ。着地点を見定めて、どう打ちまわしていくかの指針を持って初めて成長と呼べるものを呼び込む準備を整えたと言えるのだ。愛宕洋榎の器の大きさは、未だ計り知れないところがある。

 

 

―――――

 

 

 

 「しかしまあ、本当にアイツには驚かされるよ」

 

 「播磨のことですか」

 

 もう三日目ともあって、一緒に食事を摂ることになんの違和感も覚えなくなってきた昼休みに、智葉がぽつりと呟いて恭子がそれに返す。同い年だというのに敬語を使う恭子にくすぐったいから止めてくれと頼んでみたが取り合ってくれなかった。それにも慣れてしまった辺り本当に仲良くなったと言っていいだろう。智葉と恭子以外ももちろん学校の区別関係なしに食卓を囲んでいる。

 

 「だいたい播磨のやつがどうやって野依プロとつながりを作れるっていうんだ?」

 

 「あー、播磨のインタビュー記事って見ました?」

 

 なぜか恭子はすこしぎこちない笑顔を浮かべていた。明らかにそこに良い思い出があるようには見えないが、智葉はそこにどんな事情があるかなど知らないのだから小さな疑問を抱くくらいしかできなかった。

 

 「いや、話には聞いていたが直には見ていないな」

 

 「実はそのときのインタビュアーが野依プロやったんですよ」

 

 話に上がっている当人たちは指導者組の四人で固まって食べているようだ。拳児がカレーライスを頬張っている様子が妙に目立つ。理沙もちょこちょこと箸を動かしてはいるようだが、拳児の体とカレーが邪魔をして何を食べているのかまでは見えない。タイプが違い過ぎてあのテーブルでの会話が成立しているのか気になるところではあるが、智葉と恭子にそれを知るすべはない。

 

 「ということはそのたった一度のインタビューで気に入られたと?」

 

 「そーみたいですよ。どんな魔法使たんか知りませんけど」

 

 「……わからんものだな」

 

 「言うても辻垣内さんにもそれなりに仲良くしてもらってるように思いますよ?」

 

 「私の場合は被害者と言ったほうが正確だ」

 

 眉尻を下げて困ったように笑う。被害者とはずいぶん剣呑な表現だなと思わなくもないのだが、相手がアレではそういう言い方でも仕方ないかなと恭子は思う。まるでマンガの中から連れてきたような典型的な不良の見た目をしているのだから。

 

 「なにせウチの連中がまとめて懐いてしまったようだからな」

 

 今度はうんざりしたようなため息とともに一言。実際に会うまでは知らなかったことだが辻垣内智葉という少女は意外と表情豊かであるらしい。恭子が一方的に持っていたイメージではそれこそクールで誰も寄せ付けないような人だっただけに、その落差にびっくりである。あるいは日本人より積極的に感情表現をする留学生が周囲にいる環境が彼女に影響を与えたのかもしれないが、どちらにしろ彼女が魅力的であることに違いはなかった。

 

 「まあ興味持つのは仕方ないですよね、播磨みたいなのは珍しいですし」

 

 「それだけでもないようでな。本当に人当たりも悪くないらしい」

 

 そういえば初日の昼食休憩のときにそんなことを話したな、と恭子は思い出す。またこの場合の人当たりの良さとは下心の無さや正直さを指すものであって、間違っても爽やかさや話しやすさといったイケメン要素ではない。はっきり言ってしまえばバカ限定の要素である。

 

 拳児は基本的には嘘をつかない上に、ついたところでバレる。よく男が嘘をついてしまう状況のひとつに見栄というものを大事にするときというのがあるが、これも塚本天満がいないので見栄を張る必要が拳児にはない。実のところ、矢神高校を離れるということは拳児自身のスペックを思い切り発揮できる環境に身を置いたに等しいことだったりする。誤解のないように言っておくと、天満がいれば拳児は軽々と自身の能力以上のものを引き出すことができるので、一概にどちらがいいと断言することはできない。

 

 「一日二日で懐ける度胸もすごい思いますけどね」

 

 「肝は据わってるさ、あいつらも留学なんて大変なことをしてるんだからな」

 

 この合宿中でおそらくもっとも穏やかで落ち着いた会話だった。他は常にどこかしらで規模こそ大小の差はあれ騒ぎが起きているような状況であった。彼女たちが共通して真面目になるのは麻雀に向かい合っているときだけで、それ以外はもう仲の良い女子高生として振る舞っているのが大勢を占めていた。大阪のノリと諸外国のノリというものは意外と相性がいいというのはひとつの発見と言ってもいいものだろうか。

 

 

 前日や前々日と違って薄い雲が空を覆っている。梅雨まではまだ時間があるが、明日もどうやら曇り空らしい。一雨来て、それから気温が上がってくると天気予報では言っていた。梅雨入りのころにはインターハイ予選が始まる。残された時間は、平等に少なかった。

 

 

―――――

 

 

 

 朝からのびのび過ごしていたように見えた理沙ではあったが、さすがにプロというべきか予定が詰まっているらしく、夕食の時間を迎える前に帰らなければならないようだった。一通り見回ったところで拳児の肩を叩いて注意を引く。

 

 「拳児」

 

 「……あいつらにもいい経験になったんじゃないスかね。世話ンなりました」

 

 「三か月後に期待!」

 

 「当然スよ、誰にも邪魔なんてさせやしねえス」

 

 「また東京で!」

 

 「ま、インタビューの準備でもしててくださいヨ。俺ァ勝たなきゃならないんで」

 

 理沙と拳児の会話はかろうじて意味が通っているように聞こえるが、実際の情報量で言えばその三倍くらいは詰まっていると見たほうがよい。その補足ができるのはすくなくともこの場には拳児ひとりしかいないため、外から聞いてその内容のすべてを理解できる者はいないが。

 

 最後に一度だけ軽い会釈をして理沙は臨海女子を後にした。

 

 

―――――

 

 

 

 最終日の朝はランニングがなかった。そもそも意味も意図も不明だった上にたった二日だけしかやらなかったため、合宿が終わった後にそれぞれの高校でそれに関する議論が行われたりしたのだが、結局は指導者組が何も言わなかったせいでそれを解明することは誰にもできなかった。全体で見ればランニングに関する件はそれほど大きなことではないため、どうでもいいと言えばたしかにどうでもいいことである。なぜならこの合宿ではそれぞれが何かしらの大事なものを掴んでいたからだ。それの芽吹くのが早いかどうかは別にして、生徒間での対局や普段とは違う指導者の指摘、あるいはトッププロという刺激は間違いなく大きな成長の糧となっていた。

 

 誰しもが何かを手に入れるというほとんど奇跡のような合宿の終わりは、案外とさっぱりとしたものだった。全員で朝食を摂ったあとに一度だけ対局をして、それでおしまい。もちろん新幹線の時間まではそれなりに間があったから個人個人で話をしている者たちがほとんどだったが、拳児はひとり外でぼんやりとしていた。別に姫松も臨海女子も嫌いというわけではないのだが、ああいう空気だけは未だに馴染めないのだった。

 

 空はやはり雲が出ていて、爽快な気分になるとはさすがに言えないようなものだった。拳児からすればサングラスをしているので色合いで言えばそこまで差はなかったりするのだが、太陽が出ているかどうかというのは意外と重要であるらしい。

 

 さく、と乾いた芝を踏む音が後ろから聞こえた。

 

 「おやおや、監督代行殿はおひとりが好みなご様子で」

 

 「ハン、オメーも物好きだな。わざわざ来るたあ思ってもいなかった」

 

 立っていたのは丸い眼鏡に長い黒髪を後ろでひとまとめにした少女だった。場所はあの夜と同じで、それ以外はだいたいがさかさまの状況である。

 

 「バカを言え、部長が合宿相手の監督を無視するわけにもいかんだろう」

 

 「……ずいぶんと義理堅えこって」

 

 「お前こそな。野依プロにもウチの監督にも挨拶してただろ」

 

 「…………チッ」

 

 頬をくすぐる程度の、ごく弱い風が流れる。あの夜と同じように、不意に沈黙の時間が訪れた。それがどれくらいの時間なのかはわからなかったが、しばらくして拳児が先に口を開いた。

 

 「そーいやオメーよ、こんなトコにいていいのか? また探されてんじゃねえか?」

 

 「フッ、いま探されてるのはお前だよ。なんなら呼んでやろうか?」

 

 

 こうして姫松と臨海女子の合同合宿は、騒ぎのうちに幕を閉じることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 




合宿編、これにて終了


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全国に行く前だよ編
15 まだら模様


―――――

 

 

 

 誰にだって予想のつかないことはあって、それはすべて不意のタイミングで訪れる。

 

 拳児の場合は臨海女子との合同合宿が終わって翌日、四日ぶりの姫松での部活が始まる前のことだった。その日は全日練習で合宿組はその成果を、居残り組はそれに負けないだけの頑張りを見せる日であった。拳児の目からは何がどのように変化したのかはさっぱりわからなかったが、どうも表情を見ているとそれなりに合宿の手ごたえがあったことが窺い知れる。

 

 練習開始までまだ時間があったためまだ部室に全員が揃っているわけではなかったが、それでも大体の部員がすでに部室に集まっていた。拳児はすでにお決まりの場所に陣取って、誰がまだ来ていないのかをチェックしている。かなり真面目に監督代行の業務を行っているようだ。不良とは何かを問うのはもう無意味なのかもしれない。

 

 

 もう五分もしないうちに練習開始の時間が来るころ、一人の部員が恐る恐る拳児に声をかけた。合宿には参加していない三年生で、その中でのまとめ役を担っていた少女だ。たしか彼女は拳児と話すときに怯えるタイプではなかったはずだ。少なくとも拳児の記憶の中では。いまひとつ彼女の様子の理由がつかめないが、拳児は自分たちがいない間の取りまとめを労ってから話を聞いてみることにした。

 

 「え、えっと……、それが、みんながおらん間にお客さんが来てな? 播磨目当ての」

 

 何に怯えているのかはまったくわかりそうもないが伝えようとする内容は明白である。だがそれも奇妙な話だ。拳児に客など来るはずがないのだ。麻雀界におけるつながりなどそれこそつい昨日終わったばかりの合宿にすべて凝縮されている。

 

 「それで、合宿でいませんー言うたら、また来る、て」

 

 「どんな奴だ?」

 

 拳児がそう聞くと、少女は誤魔化すようにあからさまに視線を外して笑った。こんな様子ならば何度聞いたところで期待するような答えは返ってはこないだろう。この時点で拳児は気付くべきだった。もし訪ねてきたのが麻雀関係者であるならば彼女がこんなにわかりやすい誤魔化し方をしないはずだということに。そしてまた拳児は気付いていなかった。自身が思う以上に姫松高校麻雀部監督代行としての思考をしているということに。

 

 がら、と部室の戸が開く音がする。ずいぶんとまあギリギリな時間だが練習が始まる前ではあるため遅刻ではない。それにその辺のことを注意するのは恭子と相場が決まっているから、拳児はとくにその出入り口に注意を払わなかった。

 

 場の空気が緊張した。緊張には色というものがあって、それはたとえば戦いに赴くときのそれであったり、ミスを許されない非常に精密な動作を要求されているときのものなど細かく分類すれば意外とその数は多い。そのときの部室の緊張は、未知の侵略者がその姿を現したときのものと同一といって差し支えないだろう。もちろん拳児もその部室の空気の変化に気付いて顔を上げた。そこには、本来あってはならないはずの拳児にとっての天敵の姿があった。

 

 野生のネコ科を思わせる力強い瞳に、すっとまっすぐ通ったきれいな鼻筋。どう形を変えたところで品性を失わない口とそれらの間を埋める透き通るような白磁の肌。またすべてのパーツが丹念に調整されたように小さな顔に配置されている。金糸の髪はそれ以外の髪の持ち主がどう染めたところでたどり着けないような、純然たるブロンドである。圧倒的な存在感であった。それこそ彼女と対等に渡り合うのならモデルでも連れてこなければならないだろう、と思わせるような姿をした少女がそこには立っていた。

 

 「…………お嬢、オメーなんでこんなトコに」

 

 「播磨(ヒゲ)、話があるわ。来なさい」

 

 一方的な通告だけを残して、沢近愛理は部室を後にした。ついてくるのが当然だ、とでも言わんばかりに後ろを振り返りもしない。この行動は愛理の怒りからくるものであったが、それがさらに姫松の少女たちの燃料になったことは言うまでもない。

 

 「チッ、おい末原、練習始めとけ。俺ァ用事ができた」

 

 「えっ、あ、ああ、うん。わかった」

 

 拳児が部室を出ていったのを確認した途端、部員たちは示し合わせたかのように集合して会議を始めた。どこまで行っても彼女たちは年頃の女子高生であり、ゴシップが大好きなのである。

 

 「よーやっと播磨先輩の背景がちょっと見えてきましたね!」

 

 「いやー、あの外人さんがお嬢言うことはやな……」

 

 「マフィアの代打ち(そっち)やったか」

 

 「それにしてもあの人めっちゃ美人やと思いません!?」

 

 「そういうトコの娘さんってそういうもんやろ」

 

 「でもなんであの人ここに来たんやろな」

 

 「連れ戻しにきた、とかですか?」

 

 「よー考えたら播磨ってずいぶんアホやない?」

 

 「なんでです?」

 

 「仮に組織から逃げてきたとしてやな、そしたら身を隠すのがふつうやんか」

 

 「ホンマや、ウチに来たことで逆に目立ってますね」

 

 「でもあれだけ目立てば急に姿を消すことが逆に難しくなると思うのよー」

 

 「あー、そうか。そういう考え方もありやな」

 

 「それやったら播磨がいなくなる心配はせんでもええな」

 

 「うんうん~、拳児くんはちゃんとうちの監督代行さんやで~」

 

 「せやったら、……ってコーチ!?」

 

 「練習もせんでみんな何してるん~? 拳児くんもいないみたいやし~」

 

 この日、一年生たちははじめて赤阪郁乃を怒らせてはいけない人物なのだと認識した。

 

 

―――――

 

 

 

 これから天気が下り坂に向かう東京とは違って大阪は天気が良かった。強すぎない柔らかな光が校内に植えられた木々の葉や地面に降り注ぐ。校舎を出てなおゆっくりと歩く愛理の後ろを拳児がついていく。拳児の記憶に間違いがなければ沢近愛理という少女は自身の前で機嫌がよかったことなど一度もない。そういう相手に下手に何かものを言おうものならロクな目に合わないことを拳児は経験から学んでいる。だから今のところは黙って彼女の歩みに合わせるほかない。

 

 未だゴールデンウイークの半ばでたしかに学校が休みなのには違いない。だが愛理がここ大阪を訪れる理由が拳児にはわからなかった。以前に京都に実家があるようなことを聞いた記憶はあるがそれも正確かと聞かれれば拳児には自信がない。仮にその記憶が正しかったとしても実家に帰ったついでに来るような場所ではないことだけは明白である。

 

 ちょうど木陰にベンチを見つけて、愛理はそのまま腰を下ろした。木の葉の隙間をすり抜けた光が、愛理の身体にまだら模様を作っている。拳児は愛理と長話に興じるつもりはないのか日なたに立ったままだった。

 

 「で、アンタなんでこんなトコにいんのよ?」

 

 いかに他人の心情の機微に疎い拳児とはいえ、この質問が飛んでくることだけはわかっていた。逆にこの状況で世間話でも始めようものなら、なにかウラを疑いたくなるくらいに自然かつ当然な質問である。

 

 さてどう答えるべきかと拳児は思案を続けていたのだが、まさかこれまでの経緯をありのままに報告するわけにもいかなかった。失恋を振り切るために家出をして、そのままでは生活を送ることができないことを従姉に指摘され救いの手を差し伸べられて、気付いてみれば抵抗の余地なしに今のポジションに収まっているなどとどの口で言えばよいのか。しかも転入手続きは正規のもので、きちんと試験まで突破している。気持ちの持ちようとかそういう領域ではなく、もはや播磨拳児は完全に姫松高校の所属となっているのである。

 

 「オメーにゃカンケーねえ」

 

 これが拳児に許された、ほとんど唯一の回答と言っていいだろう。

 

 そしてその回答で愛理が納得するかどうかなど考えるまでもないことだった。

 

 「……はあ? どこが関係ないってのよ?」

 

 「実際ねーだろーが。俺ぁヒトリでここに来たんだからよ」

 

 「聞けば私と会ったすぐ後に出ていったそうじゃない。気分が悪いったらないわ」

 

 「たしかにオメーに頬を張られて目が覚めたまでは事実だけどよ、そこまでだ」

 

 高校二年生という一年間の長きにわたって、何度もかたちを変えてぶつかり合ってきた二人だ。彼らからすればこの程度の会話はケンカ腰という認識にすらならない。愛理はもともと上辺を取り繕うのが日常であったし、拳児は取り繕うことが下手であることに違いはないが会話自体がそもそも少ない。だが愛理と拳児という条件が揃うと彼らは混じりっけなしの本音で話すことが自然となっていた。それは他の誰が望んでも手に入れることの叶わないものだった。そういう見方をすればたしかに愛理と拳児の相性はいいと言うこともできるだろう。しかし外から見ればただのケンカにしか見えないため、そう思っている人間はほとんどいないが。

 

 「ああそう、なら勝手にすれば?」

 

 「言われるまでもねえ」

 

 空気の濃度が、わずかに下がった気がした。

 

 「それでアンタはここで何するつもりなのよ」

 

 「インターハイでここの麻雀部を優勝させる。これはまあ決定事項ってやつだな」

 

 かねてからの疑問であったことを愛理はここで尋ねてみることにした。当然だが愛理とて拳児のことを何から何まで知っているわけがない。いやむしろ知っていることのほうが少ないくらいだ。

 

 「ねえ播磨(ヒゲ)、アンタって麻雀得意だったの?」

 

 「いや、できねえワケじゃねえが部の連中のが遥かに上手え」

 

 「じゃあなんで監督なんてやってんのよ」

 

 「…………聞くな」

 

 沢近愛理は知っている。播磨拳児はこういう男なのだ。何か行動を起こせばいつの間にか何かに巻き込まれ、そのまま騒ぎの中心に自覚のないまま据えられるのだ。この男に関わるとその周囲の人間もそれに巻き込まれることになる。後になってみれば良いと言えることもあったかもしれないが、その渦中にいたときにいい思いをした記憶が愛理にはない。どうせ今回のことも何かが色々と面倒なかたちで絡み合って、結果としてこうなっているのだろうと愛理は思うことにした。

 

 「そ。じゃあ頑張んなさい」

 

 それだけ言うと愛理はさっと立ち上がって校門のほうを向いた。陽光の具合がちょうどいいのか彼女の金髪がやわらかさを増したように見える。ベンチの上に木陰を作っていた緑の葉との対比で絵画のように浮いて映る。部室を出たときのように、振り返るような雰囲気すら見せることなく彼女は歩く。もっとぎゃあぎゃあと言われるものかと覚悟していたが、意外と愛理があっさりと引き下がったため拳児はそれを棒立ちのまま見送ることしかできなかった。

 

 なぜ愛理が大阪を訪れたかの理由を聞きそびれてしまったためその意図が結局わからなかったが、拳児は最終的に悪趣味ということでそれを片づけることにした。今が休みであるということを考えれば大阪を訪れること自体はおかしくないが、それならばもっと観光地然としたところに行くというのが普通だろうとの考えのもとでの判断だった。そういえば拳児も大阪にきてから生活を送るのに必要な外出以上の外出、つまり観光などをしていないのだが、これもまたどうでもいいことに違いないだろう。

 

 

 しばらくして拳児が部室に戻ると、そこには普段よりも集中力の増した部員たちがいた。それは第一部室も第二部室も変わりなく、なんだか甚だ奇妙なことにも思えたがとりあえず拳児は放っておくことに決めた。

 

 

―――――

 

 

 

 練習をすっぽかしたことを郁乃に叱られはしたが、それ以外は概ね順調な午前中だったと言っていいだろう。本来の仕事である郁乃の指示のもとでの指導もきちんとこなせていたし、対局の様子を目で追うぶんには困らなくなってきた。もちろん自分で打つときに何が最善かを判断する能力はまだない。というかそれを一年も経たずに身につけられるとしたらそれこそ天才にしかできない所業である。

 

 珍しく満足げな表情を浮かべながら拳児はひとり屋上で昼食をとっていた。屋上には拳児以外の誰もいない。というのも拳児が頻繁に屋上に姿を現すようになって以降、利用者が激減したのである。ひどいときには全体を見回して拳児の姿が見えたら場所を移動するなんていう生徒まで出てくるなんていうこともあった。

 

 もちろん食事はしっかりしたものを摂るのに越したことはないが、食堂のものを屋上まで持ってくることはできない。必然、拳児の昼食はコンビニで売っているおにぎりやパンが中心となっていた。なんとも適当と言うほかないが、それが様になっていると言えば様になっているので誰もそれに文句を言うつもりはないようだ。高校生のくせに生活苦を経験したことのある拳児は、意外と食事の量が少なくても耐えられるという微妙な特技を持っていたりもするのだがそれはまた別のお話である。

 

 拳児が一つめのメンチカツサンドの最後のひとくちをちょうど口に放り込んだそのとき、屋上の扉がぎい、と軋んだ音を立てて開いた。また自分の顔を見てさっさと退散するのかと拳児が慣れた自嘲的思考をし始めたあたりで顔を覗かせたのは、わかりやすい童顔にまぶしい額をした少女だった。手を扉にかけて顔をきょろきょろと動かしている。その姿はなんだか微笑ましいもので、拳児も呆けたようにその動作を眺めていた。

 

 そのまま十秒ほど経過して、ようやく漫は拳児と目を合わせた。ほっとしたような表情を浮かべておそらく昼食の入っているであろうビニール袋を片手に拳児のほうへと駆け寄ってきた。

 

 「播磨先輩! お昼ご一緒してもいーですか!?」

 

 「好きにしろ。この状況で断るもクソもねーだろ」

 

 拳児が了承の意を伝えると、漫は拳児の隣に腰を下ろした。がしゃん、と背に当たるフェンスが揺れる。横並びに座ったふたりの体格差は歴然としていた。拳児が大きいのは周知の事実だが、漫は漫でかなり小さい。遠くから見ればシルエットかつ具体的な身長がわからなくなるぶん親子連れにも見えるような気さえしてくる。天気も良くあまり風の強い日ではなかったが、それでも屋上は地上に比べれば風が吹いていた。漫の小さなおさげがそよそよと揺れる。

 

 「何の用だ? たしかいつもは末原とか妹さんとかと食ってたろ」

 

 「いやあ、お礼でも言お思いましてですね」

 

 えへへ、と照れくさそうに頬をかく。

 

 「礼だァ? 俺お前に何かしたか?」

 

 「ほら、まだ来たばっかりのときにアドバイスくれたやないですか」

 

 拳児は黙ったまま必死で記憶を探っていた。無理もないだろう、ここ一ヶ月はあまりにも多くのことがあり過ぎた。一口にアドバイスと言っても、郁乃のメモを中心としたものがそのほとんどを占めていたし、またその分量は姫松の部員数もあって半端ではなかった。たしかに拳児にも漫になにか言ったような記憶はあるが、具体的にどんな発言をしたかなどそう簡単に出てくるわけもない。

 

 なんとか頑張って記憶を掘り起こそうとしている拳児の様子をどう受け取ったのか、漫は笑みをすこしだけ深くして話を続け始めた。

 

 「まあ、今になって考えてみるとめっちゃ簡単なことでしたけどね」

 

 「……そいつぁよかったな」

 

 そのアドバイスとは何だったのかを思い出すことができなかったが、それでどうこうなるような問題でもなかったため拳児はとりあえず放っておくことにした。そのうち思い出すかもしれないし、思い出さなくてもさすがに大きな問題にはなるまいとの考えである。隣で漫が得意満面の顔をしているが、それだけの収穫があったのだろう。麻雀の実力が伸びるのは素直にいいことなので、拳児はこの様子を恭子に伝えることに決めた。後で漫がどうなったかは推して知るべし、である。

 

 「……辻垣内さん、スゴい人でしたね」

 

 「なんであいつが出てくんだ?」

 

 「ああいや、きっかけが辻垣内さんやったんですよ。播磨先輩のアドバイスに気付くのの」

 

 「……そのうち礼でも言っとくか」

 

 「お願いしますー」

 

 そう言うと漫はビニール袋の中をがさごそと探してサンドウィッチを取り出した。失礼な話だがどちらかといえば漫に対して豪快なイメージを抱いている拳児は意外だな、と思いながらも自分の食事を再開させた。

 

 意外と食事中は静かだった。拳児が話好きではないのはもう部の外にも知れ渡っているが、漫はむしろ現代的女子高生っぽさを体現したような話好きである。それならなぜ静かなのかというと、お昼ご飯を食べるのに集中していたからだった。漫が普段どんな環境で食事をしているのかなど拳児はまったく知らないが、騒がしいだろうことは容易に推測できた。女子高生というのはそういうものなのだ。だからたまには静かに食べたいと思って屋上へ来たのかもしれない。本当のところは知らないが。

 

 

 一通り食べ終えて、ペットボトルのお茶で舌を湿して漫はひとつ息をついた。拳児は食べるのが異様に早いため、漫だけが食べ続けるという奇妙な時間が生まれたりしていた。どうやらお互いに食休みの時間を取っているようで、どちらも立ち上がる気配をいっこうに見せなかった。

 

 「そーいえば播磨先輩、朝のあのキレーな人は誰やったんですか」

 

 「あー、ありゃ前いた学校(トコ)の知り合いだ」

 

 「前いた組織(トコ)ですか……」

 

 漫のトーンが若干下がったのだがいつものように拳児は気付かない。

 

 「あっ、仲とかよかったんですか?」

 

 「さあな。ハナシとかはするからフツーなんじゃねーの?」

 

 感情の窺えない声でそう言うと、拳児はゆっくりと立ち上がった。ズボンを軽くはたいて汚れを落とし、ビニール袋と紙パックの飲み物を持ってすたすたと歩き出す。漫が慌てて携帯を見てみると、もうじき休憩時間が終わりそうだった。拳児にならってスカートをの裾を軽く払ってから駆け寄っていく姿はなんだかうれしそうだった。

 

 漫も先輩になったばかりで、かつ全国優勝を目指す部の先鋒としての立場からなかなか心休まる時間がなかったのだ。彼女にそんな自覚はなかったが、そういった目に見えないストレスの影響は小さくないことが多い。拳児は誰を相手にしても態度を変えないうえに、話せば意外と癒し効果があることが部内でまことしやかに囁かれている。実際は拳児があまりにも真っ直ぐすぎるがためにそれにつられて話した相手が勝手にすっきりするというものなのだが、それでも頭脳とメンタルが大きな要素になる麻雀という競技において拳児の働きは重要なものであると断言できた。どちらかといえばそれはマネージャーとしての働きであり、先代監督代行である赤阪郁乃の狙いはまたひとつ達成されつつあった。

 

 

 

 

 

 

 




全国編ではそれなりに麻雀も描写することが (脳内で) 決まりました。


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16 夏が来るから

―――――

 

 

 

 その日、姫松の部員たちに監督代行たる播磨拳児の真剣さが明確なかたちをもって伝わることとなった。拳児自身にも理由ができたため前向きに取り組んではいるが、その日の出来事はどうやらそれ以上の印象を与えたようだった。

 

 

 ゴールデンウイークも終わってすこし経ち、あと三週間もすればインターハイ地区予選が始まるような頃のことであった。姫松に来た初日に拳児が学んだように麻雀のインターハイには団体戦というものがあり、時期としてはそのメンバーが各校でおそらく発表され始めているといった頃合いである。もともと全国でも五指に入る実力を持つとされる姫松に、今や全国で最も注目を集めている監督代行がいるのだ。その選択と判断に関係者たちは誰もが興味を持っていた。

 

 そしてそれはもちろん当事者である姫松の部員たちも同じであった。少なくとも先日に行われた臨海女子との合宿に参加していた部員たちは団体戦メンバー入りの可能性を持っていたのだから、それこそ気にならないわけがなかった。

 

 春の大会、つまり拳児が来る前のメンバーは愛宕洋榎、末原恭子、真瀬由子、上重漫、愛宕絹恵の五人となっていた。各校から一人ずつ出す麻雀という競技の性質上、よほどの例外でない限りは実力順に選出されるのが当然であって、それはここ姫松においても同様であった。そこに二年生が二人も入っていたことは注目されるべきことであろう。だがそれらのことは彼女たちのレギュラーを保障するものではなかった。洋榎のような絶対的な例外を除けば、拳児あるいは郁乃の目にどう映っているかが彼女たちのこの夏を決定すると言っても過言ではないのだ。

 

 

 団体戦メンバーの発表は事前の通告通りに五月十一日に行われた。普段は第一と第二に分かれている部員たちを全員集めての形式だった。部員たちの前に拳児が立ち、すこし離れて郁乃が控えている。いつものように拳児は機嫌がいいとは言えないような表情をしていたし、郁乃はとろけそうな微笑みを浮かべてちいさく左右に揺れていた。

 

 拳児が前に立って実際に黙っていた時間は二分間にも満たないものだったが、部員たちにとっては十分にも二十分にも感じられるようなものだった。

 

 「……あー、まずアレだ。俺様の目指すところにブレはねえ」

 

 あの拳児が前置きから入ったことに部員たちは少なからず驚いた。素行、というか普段から話しかけてもぶっきらぼうで余計な話をほとんどしない彼が “まず” などという単語を出すこと自体が異常と言える。誰一人として部活の新入生勧誘の演説を忘れてはいない。

 

 「つまりは優勝以外にキョーミはねえ。そのための編成だってことをアタマに叩き込め」

 

 そう言って拳児は手に持っていた不揃いに折られた四つ折りの紙を広げた。触れるまでもない。あの紙に団体戦メンバーが書かれているのだろう。おそらくはポジションも。誰かがごくりと唾を飲んだ。そういうちいさな音が聞き取れることも、どこかあの演説を思い起こさせた。

 

 しっかりと名前を確認するように紙をじっと見つめる拳児が何を思っているかは、サングラスのせいもあって相変わらずわからなかった。意外と選ばれた者とそれ以外の構図になってしまうことに葛藤があるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。結局のところ最後の最後まで拳児の心のうちは誰にも知られることはなかった。

 

 「先鋒から順に上重、真瀬、愛宕、妹さん、末原だ。意図は追って説明する」

 

 誰も口を開かない。

 

 「このチームはどうしたって愛宕が軸ンなる。そうすっと多少は賭けにも出ねーとならねえ」

 

 「補足するとウチの伝統も踏襲した上での理想のかたちやからね~」

 

 毅然と断言する姿からは本気で勝ちに行く気概のようなものが感じられた。こうなってしまえば郁乃が有能な補佐にさえ見えてくる。しかし実のところを言ってしまえば、郁乃はこの日のために徹底的に裏方へ回っていたようなものである。郁乃自身の優秀さは挙げようと思えば枚挙に暇がないほどのものであるが、彼女はその能力の全てを惜しむことなく拳児のお膳立てのために使った。一般的な麻雀における指導や監督としての働きにおいて、彼女と拳児は比べるだけ失礼なくらいに差が歴然としている。だがただ一点、人に対する引力と言ってもいい稀有な才能は拳児だけが持っているものだった。それを一目で見抜いて以来、郁乃は方針をすぐさま転換してみせた。そこだけを見ても彼女が姫松を勝たせることに対してどれだけ本気かが窺い知れるだろう。

 

 今後のことについても郁乃は色々と考えるところがあったが、とにかく現時点での最優先事項は姫松高校の優勝である。そしてそれが今、郁乃にははっきりと目に映るような気さえした。怜悧な彼女にしては珍しいことに、これから先は姫松、ひいては自身にとって都合よく進むだろうとさえ思ってしまった。笑顔の意味がいつもとは違っていた。ただ表面上はいつもとまったく変わらないやわらかなものだったため、そこに言及する者は誰もいなかった。

 

 「上重、オメーの仕事はヨソのエースとやり合うことだ。優勝のためにゃでけー鍵になる」

 

 「はい!」

 

 「とくに宮永だの辻垣内だのとぶつかることを想定してっからよ、覚悟しとけ」

 

 漫の顔はいつになく引き締まっていた。彼女の座る先鋒は大将と並ぶ激戦区であり、ある面ではチームの顔とさえ言えるようなポジションである。そこに座ることの意味を漫は理解していたし、その上でそこを任されたことに高揚しているようだった。

 

 元気のいい返事に頷きで返し、拳児はさらに話を続ける。

 

 「で、真瀬。上重の出来次第じゃ無理もしてもらうことになる。いいな?」

 

 「仰せのままに、なのよー」

 

 信じられない爆発力を持っている反面、お世辞にも安定感があるとは言えない漫の後ろに控える由子に要求されるのは状況に応じた対応力である。漫がリードを奪えばそれを維持しつつ隙を見てそのリードを広げることを要求され、また漫が振るわなければそのぶんを彼女が取り返さなければならない。今年度の姫松における次鋒とは、攻めの技術も守りの技術も、そしてそれを使いこなす器用さも兼ね備えていなければならない過酷なポジションである。インパクトの強い部員が揃っているため地味な印象を持たれがちだが、真瀬由子も全国に名を馳せる姫松高校の実力者である。

 

 「次は愛宕だな。オメーは何も考える必要はねえ。ひたすら点数稼いでこい」

 

 「なんやこの洋榎ちゃんに注文つけんでええんかいな、低く見られたもんやで」

 

 「……後ろの調整もしてえから地方予選でトバすのだけはナシだ」

 

 「ま、絹ときょーこのためならしゃあないな」

 

 ほんのわずかに不満の色が声に混じる。

 

 「そんかし本番は思いきり暴れてかまわねえ。オメーで決まると思え」

 

 その言葉を聞いて洋榎はにやりと口の端を上げた。これまで一度も失われたことのないその目に宿った自信の光が輝きを増している。やはり姫松は誰が何と言おうが彼女のチームだった。洋榎を軸にしてすべての部員が同じ方を向き、進んでいく。そして彼女はチームメイトに想いを託されることでそのポテンシャルを限界まで引き出せるタイプのプレイヤーだった。人を惹きつけ、さらにそれを力に変えていく無敵のリーダーだった。あらゆる期待を背負って輝く彼女が、先程の拳児の発言を聞いて奮わないわけがなかった。

 

 もともと組んでいた腕を組み直し、短く息を吐くと洋榎の表情は話を聞くものに戻っていた。

 

 「そんで妹さんなんだが、おそらく守備的に打ってもらうことになるな」

 

 「守備的、ですか?」

 

 ほとんど反射的に絹恵が返す。

 

 「ああ、中堅の愛宕まででウチは最低でもトップに立ってる予定だからな、狙われんだろ」

 

 「なるほど……」

 

 小さな顎に手を当てて、絹恵は考え込むような素振りを見せた。当然とも言えるが思うところがあるのだろう。言い方をどう変えたところで大将までのつなぎであることに変わりはない。誰でも出る以上は活躍したいと思うのが普通であり、ましてや彼女はまだ高校生なのだからそう考えるのも無理はないだろう。

 

 「まあ場合によっちゃイチバン厳しいトコだからよ、申し訳ねえとは思うんだがな」

 

 「へ?」

 

 「ウチの戦略構成上1対3の構図ができやすいんだよな、大将とは違ってよ」

 

 「えっ、どういうことです?」

 

 「あー、決勝の大将なんつったら他んトコ勝たせらんねーから足の引っ張り合いになんだろ?」

 

 「え、あ、はい」

 

 「でもよ、副将はそこまでやる必要はねえ。他と協力して一位を潰すってのがアリなんだよ」

 

 絹恵は驚愕した。これが一ヶ月半前まで団体戦の存在すら知らなかった男の口から出る言葉とは到底思えなかった。もちろん拳児が初めて来た日の衝撃的な対局のおかげで麻雀そのものの実力がずば抜けていることは理解できている。しかしそれと団体戦に対する考え方や判断基準はまったく別のものであるはずである。ならばそれが指し示すことはいったい何か。研究を重ねたに決まっている。指導だけでなく本気で自分たちを優勝させるために動いていることを絹恵は痛感した。

 

 「やってくれっか? 妹さん」

 

 ここまで聞かされて絹恵が否やを言おうはずもなかった。つなぎの位置ではなくチームを勝利に導くために必要なポジションなのだと理解することができたから。ぽかんと開いた口を思い出したように閉めて、あらためて絹恵は、はい、と返事をした。

 

 「最後に末原だが、まあここはオメーしかいねえだろ。勝ってこい。以上だ」

 

 「主将やないけどなんか他に言うことないんか」

 

 「あ? 愛宕除きゃ誰が出てきても勝てる可能性があんのはオメーだけだろが」

 

 「…………買いかぶりとちゃうんか」

 

 「誰からも文句が出てねー時点で決まりだ。ウチの大将はオメーだ、いいな?」

 

 まるでそこに議論の余地はないとでも言うかのように拳児は話を打ち切った。恭子の頭の切れと冷静さはこの部において並ぶ者のないレベルであり、それは何も言わずとも誰もが認めていることである。どんな状況に立たされても何が最善かを判断できる彼女の特性は、実力も踏まえた上で、大将という位置にこれ以上なくぴったりだった。麻雀の団体戦というものは場合によっては攻めるだけでは成立しないものなのだ。

 

 

 拳児がメンバーとその役割について一通り話し終えると、またもやその空間は静けさに包まれていた。彼女たちが何を思っているかは知らないが、決めた以上はそれを通す。先頭に立つ者としての最低限の矜持である。もちろんメンバー選出にあたって郁乃の助言はあったが、それでも拳児のイメージとそれほど離れたものではなかった。ポジション別の考え方を郁乃に教えてもらってからは独力で組み上げたと言ってもいい。監督としての一歩を拳児は既に踏み出していた。

 

 話し終えても解散の言葉がなかったため、誰一人としてその場から動く部員はいなかった。ほんのわずかな間だけをおいて、拳児が再び口を開いた。

 

 「オウ、選ばれなかったヤツらも気ィ抜くんじゃねーぞ?」

 

 室内の空気が一気に引き締まった。

 

 「そやで~。練習相手とかよそのデータ集めたりとかお仕事ようさんあるからな~?」

 

 二人が言葉の外に込めた意味を部員たちは余さず受け取った。全員で優勝を獲りに行くと言っているのだ。腐っている暇などないと言ってもらえたことに、彼女たちはどこか救われたような気がした。団体戦で姫松高校が優勝した時にメンバーとともに胸を張ることができるだろうから。

 

 

―――――

 

 

 

 結論から言ってしまえば、姫松高校はインターハイ南大阪地区予選において他校をまったく寄せ付けることなく優勝と本選出場を決めてみせた。

 

 もともと近年では南大阪地区において姫松に並ぶ高校がないとさえ言われるほどに隔絶した実力を有しているのだから、当然と言えば当然の結果ではあった。それだけに他校からのマークは徹底されており、ほとんど常に姫松に対する他三校の図式が崩れることはなかった。それでも危なげなく予選を突破するほどの実力と言えば、彼女たちの能力の高さが伝わるだろうか。

 

 実はこのことに拳児は驚いていた。これまで間近で見てきたプレイヤーが姫松と臨海女子という全国でも屈指のものであったため、拳児にとっての基準がそこに置かれていたのである。初めての外の “当たり前” はすこし拍子抜けするようなものだった。

 

 

 「なあ赤阪サン、ひょっとしてあいつらってスゲー強えーんスか?」

 

 姫松の二試合目の中堅戦が行われている最中に、拳児はふいと言葉を向けてみた。

 

 「あれ、拳児くん知らんかったん~? 誰かが説明しとるもんやと思っとったけど~」

 

 選手控室にある中継用のテレビには、中堅戦が始まったばかりだというのに既に二着と五万点もの差がついた、他校からすれば絶望的な状況が映っていた。加えて言うならば彼女たちがこれから相手をしなければならないのは姫松の絶対的エースたる愛宕洋榎である。麻雀という競技においては適切ではないのだろうが、それでも他の高校には万に一つも勝機はないと言わざるを得ない状況であった。

 

 「イヤ、末原から聞いてはいたんスけど……」

 

 「それでもここまで差が開いてるとは思ってなかったってこと~?」

 

 顎の辺りに人差し指をやって、あくまでもふわふわとした調子を崩さずに郁乃が拳児のセリフの先を拾う。どこまでもつかみどころのない彼女の言葉は、拳児の心中の芯を捉えていた。

 

 中継用テレビのほうへ視線を向けると、テレビとある程度の距離をとったところに置かれているテーブルとソファのところに選手たち全員が集まっている。四人ともが落ち着いた様子で飲み物に手を伸ばしている様子を見ると、どうやら安心しきっているらしい。それだけ自分たちのエースに信を置いているのだろう。一試合目の内容を見ても心配しろというのが無茶なほどに出来が良かったのだから、彼女たちの反応は自然と言える。次が出番ということで絹恵が多少緊張しているようだったが、彼女がちょっと崩れた程度でひっくり返るような点差でも実力差でもなかった。

 

 

 

 「ふふーん。どやった、カントク?」

 

 学校の代表として地区予選通過を表彰され、選手控室に戻った洋榎の開口一番はこんな調子であった。扉を開ける勢いもよく、その表情からも機嫌の良さがありありと見て取れる。放っておけば鼻がどんどんと伸びていくかもしれない。実際にはそういった慢心をするタイプではないが、そう思っても仕方ないくらいに洋榎の顔はきらきらと眩しく輝いていた。もちろん他のメンバーも気持ちは彼女と同じであったが、あそこまで感情をストレートに出すとなると躊躇いを覚えてしまうのが高校生という年代である。表彰前には拳児と郁乃を除く全員で抱き合って喜んでいたはずだが、女子高生の判断基準とはいったいどこにあるのだろうか。

 

 「……そうだな。まあ、強えーってことなんだろうな」

 

 感心したように拳児がつぶやいた。全国制覇を公言したはいいものの、実態としての強さというものを理解していなかった拳児が何を思ったのかは定かではない。彼からすれば試合形式を経験するのは初めてであり、それはたしかに普段の練習や合宿とは異なるものであった。その人生経験上、実に多くの表情を見てきた拳児の知識の中にも、試合に出ている他校の少女たちの顔つきと一致するものがあった。一般的に必死と呼ばれるその表情が卓を囲んで四つもあるというその情景は、拳児にとっては初めて見るような不思議なものだった。

 

 たとえばこれが拳児ではなく普通の高校三年生の男子であれば、その必死の表情を摘み取ることに怯えたかもしれない。だが播磨拳児は良くも悪くも自分の欲望に正直であり、そのための情けは露ほども持ち合わせてはいなかった。ここ最近の拳児の頭を支配しているのはインターハイで優勝してアメリカに乗り込むことだけであり、それ以外のことはせいぜいが目的の付属物くらいにしか考えていなかった。もちろん対戦校についても過程のひとつくらいにしか捉えていない。あるいはこれくらいの精神のほうが監督をやるには向いているのかもしれない。仮に倒してきた南大阪のすべての対戦校の想いを背負うと拳児が言い出したところで気味が悪いだけである。

 

 「なんや、もっと感激してくれてもええのに」

 

 「いや、正直驚いてるぜ。こんだけやるもんだとは思ってなかったからな」

 

 「……ハア。もっと基準を女子高生に置きーや」

 

 感心の息をこぼした拳児と違って洋榎はため息とともにメンバーたちのもとへと戻っていった。手には賞状を持っていたから、それをみんなで見るのだろう。手に入れて当たり前と外部から言われているとはいえ、自分たちの成果がきちんと手に収まるところにあるというのは彼女たちにとってはやはり嬉しいことに違いなかった。

 

 

 応援に来ていた部員たちの代表に電話で解散してもいい旨を告げて、拳児も帰宅の準備を始めることにした。とはいっても拳児の荷物は呆れるほど少なく、ポケットに財布と携帯電話を突っ込んでほとんど終いであった。大会のプログラムが書かれた冊子ももらっていたのだが、拳児はなぜかそれを恭子にあげるという不可解なやり方で荷物を減らすことに成功している。恭子はもちろん難色を示したが、鞄さえ持ってきていない拳児の姿を見てしぶしぶ承諾したようだった。

 

 全員が帰りの支度を整えたところを見計らって郁乃が一声かけた。彼女はこういうタイミングの捉え方は超一流で、それは時には間がいいとも悪いとも言われる。学生からすると、大概の場合は間が悪いと言われる技能である。

 

 「ええと~、拳児くんはこれから取材やから居残りで~、みんなは解散でええよ~」

 

 下馬評通りとはいえ、全国で最も注目を集めている人物の率いる高校が予選を突破したとあってはメディアが黙っているはずもない。その試合内容も充実しており特集を組むには十分と言える。その采配や風貌、加えて出自が未だに割れないという話題性から考えれば、むしろ拳児ひとりで記事が書けるといっても過言ではない。

 

 「赤阪サン!? 俺ァそんなこと聞いてねえぞ!?」

 

 「そら優勝決まってからお話もらったんやから仕方ないやんな~?」

 

 郁乃は歌うような調子で楽しそうに拳児の剣幕をかわしていく。郁乃の悪癖は状況を完全に作り終えてから話をする点にあった。どうあっても回避ができないように、外堀を埋める。彼女を知る者の多くが彼女を厄介だと評するのはこの辺りのことが原因である。立場で言えば拳児の下にあるはずの選手たちは、誰も助け船を出してはくれなかった。

 

 本人の意思とは無関係に、拳児が再び誌面を飾ることが決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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17 知らない

―――――

 

 

 

 時は少し遡ってゴールデンウイークがちょうど終わった頃。言い換えれば学生たちが休みの間にどんなことをしたかを話し合ったり、あるいは休みが終わってしまったことに落胆しているような頃のことである。

 

 

 学年が変わって一ヶ月が経ち、新しいクラスメイトたちとも打ち解けはじめたにもかかわらず、八雲の心中はあまり穏やかとは言えないものだった。突然アメリカへと旅立ってしまった姉のことが心配だというのもあったし、また気が付けば八雲にとって意味に多少の幅はあれど特別な存在である拳児がいなくなってしまったことも原因のひとつである。しかしそれ以上にこの春から同居しているサラ・アディエマスが口を開けば大阪に行けだのなんのとまくしたててくるその剣幕に参ってしまっていた。

 

 決して八雲はサラの意見に反発しているわけではない。それどころか会って話をしたいと考えているのは彼女の偽らざる本心でもある。それでも八雲が二の足を踏んでしまうのは、一年生のときの仲良しグループがこの話を肴に盛り上がるときに必要以上に過激なところまで話を進めてしまうことと、自分が会いに行けば拳児がひとつの目的に向かって進んでいるのを邪魔してしまうことになるかもしれないと思ったからであった。

 

 当然それは八雲の勝手な判断であり、実際にはふたりが顔を合わせたところで何も起きないのが関の山だろう。冷静に自身と向き合うことを知った八雲ならば、拳児が苦い反応を示さないだろうことは容易に推測できるはずであった。あるいは彼女は無意識のうちにそれを言い訳にしているのかもしれない。周囲が彼女に見ている像とは違って、八雲は強い人間というわけではなかった。

 

 そういった、どう解決していいのかわからない思いを抱えて過ごしていた日の昼休みに、彼女の携帯電話がメールの受信を知らせる音を立てた。メール自体は驚くようなものでもないが、時間が不思議だった。今は昼休みで、仲の良い友達はみんな揃っている。もちろん彼女たち以外にもメールを送ってくる人物がいないわけではないが、その人たちも大抵は放課後に送ってくる。疑問が頭を離れることはなかったが、とりあえず八雲は内容を見てみることにした。

 

 その内容は “メルカドで待ってる” という実に端的なもので、送り主も併せて考えれば何について話をするのかはひどく明白だった。

 

 

 喫茶メルカドはそのスイーツのメニューの豊富さと、高校生をメインターゲットに据えているとは思えないほどのクオリティのコーヒーが売りの喫茶店である。立地のこともあって、客の大半は矢神高校の生徒だった。多くの女子生徒の帰宅時のとりあえずの選択肢の第一候補であるためか、夕方以降は客足が途絶えることはまずないと言っていいだろう。店長の趣味が少し変わっており、アルバイトの子たちに季節にあった制服を渡すことでも知られている。

 

 落ち着いた内装と、それにマッチするよう選び抜かれた調度品たち。その中にはマホガニー材の高級テーブルなどもあるという。以前そのテーブルを使って腕相撲が行われ、それで腕を折った人がいるという噂も流れたが、真偽のほどは定かではない。そして今、その店内で、矢神高校の誰もが認める二大美女が向かい合って座っていた。

 

 

 「このあいだ」

 

 カップを二度ほど口に運んでから、愛理は視線を下に外したまま口を開いた。何でもないはずのその仕草は憎いくらいに映えていた。どこがどう美しいというのではなく、なにか全体として場の雰囲気を支配するような、どちらかといえば神秘性に近いものだった。その彼女は声を発したかと思えば、どうしてか一拍置いた。

 

 「このあいだ大阪に行ってきたわ」

 

 八雲は口を開かない。おそらくまだ愛理の話が終わっていないと判断しているのだろう。視線を外さず、コーヒーにも手を付けず、ただじっと黙って待っていた。

 

 「本気で麻雀の監督やるみたいね、播磨(ヒゲ)

 

 ある意味でいえば確認するまでもないことだった。やるとなれば周囲がどうだろうとやり抜く。播磨拳児とはそういう男である。拳児のことを知る者は、麻雀雑誌に載っているのを見た瞬間からこうなることはわかっていたと言ってもいい。八雲が愛理の発言に驚かないのもそういった背景があるからだった。コーヒーから立ち上る細い湯気が八雲の鼻腔をくすぐった。

 

 元来、八雲は口数の多いほうではない。芯こそしっかりしているものの、生来の内気な性格と、姉の勘所だけは押さえる不思議な鋭さのおかげでそこまで自己を主張することなく育ったことに起因する。それ以外にもさまざまな要因が絡まって今の八雲を形成している。それ自体は人が成長するうえで誰しもが同じ道を通るものだが、その結果は千差万別ということだ。

 

 愛理と八雲という名前を出せば、矢神高校の生徒はすぐさま播磨拳児の名前を連想するが、実はその二人の間に小さな齟齬があることを知る人間はいない。彼女たちは明確にぶつかったことなどないし、何より二人は同じ土俵に立ったことがなかった。彼女たちのステージは常に少しずつずれていた。どちらかといえば愛理は拳児を手段を問わずに奮い立たせ、また八雲は拳児の支えであり続けた。言わずもがな当の本人はそんなことには気が付いていない。

 

 「……あの、元気そうでしたか」

 

 「そうね、拍子抜けするくらいいつも通りだったわ」

 

 そう言って愛理はもう一度カップを口元へと運んだ。陶器の立てる音でさえも彼女の存在を引き立てるために存在していると勘違いしてしまいそうだった。八雲もやっとコーヒーを口にして一つ息をつく。今でもたまに八雲は愛理の強さがうらやましくなることがあった。

 

 「そうそう、調べたらわかったんだけど、麻雀のインターハイって毎年東京でやるみたいね」

 

 「あの、どうして……?」

 

 「さあ? 知らないわ。ただの独り言だとでも思ってちょうだい」

 

 これまでと違ってカップをぐい、と傾けて一気に飲みほし、愛理はテーブルから立ち上がった。木製の筒を斜めに切った置物から伝票をさっと摘まみ上げて足早に歩きだす。八雲が自分のコーヒー代を出そうとそれを止める隙もなかった。八雲のカップには、濃い色をした薫り高い液体がまだ残っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 体育の授業は教員の人数と、ほかの授業のコマ数との関係で二クラスが合同で行うことになっている。それのおかげで拳児の肉体のスペックを知る生徒は多い。もちろんそれは他クラスはおろか他学年にも噂になって伝わっており、尾ひれがつきについた結果、一年生の間ではグランドピアノを片手でやすやすと持ち上げるという訳のわからない認識が広まってさえいる。

 

 拳児はその手の噂には一切興味を示さない。というよりも恭子と由子のふたりの目からは自身が耳目を集める存在であることに自覚がないように見えた。普通であれば舞い上がったり挙動不審になるものなのだが、どうにも普通という物差しでは播磨拳児という男を測るのは不可能であるようだった。その点では拳児と洋榎は似ているということで恭子と由子は一致しているのだが、これはまた別の話である。

 

 さすがに噂ほどとはいかないが、拳児の運動能力は明らかに常軌を逸していた。単純な走るとか跳ぶとかの運動では平気で陸上部を超える記録をたたき出してもいる。そのほかの一般的な男子に人気のスポーツでも恐ろしいまでの対応能力を見せている。間違いなくその動きは体の使い方というものを理解しており、日常的に運動かあるいはそれに近いものを行っていたことを感じさせた。

 

 そしてその日はやってきた。拳児の所属する二組と、体育を合同で受ける一組が震え上がることになった伝説の授業が行われた日である。

 

 

 「な、播磨は泳ぎは得意なんか?」

 

 二ヶ月という日数と麻雀部三人組のおかげでだいたいのクラスメイトは拳児に対して怯えることなく接することができるようになっていた。それでも気の弱めな級友たちは未だに近づこうとさえしないのだがそれは仕方のないことだろう。それよりも普通に接してくれるクラスメイトに拳児は感謝をするべきなのだが、そんなことを彼に期待するだけ無駄というものである。

 

 「そーいやしばらく泳いでねえな」

 

 相変わらずサングラスをかけたまま、どこのかはわからない牌譜に目を通しつつ、拳児は近くに座っている男子の質問にずれた返答をする。ときおり手元のメモ帳になにかを書きつけているようだ。

 

 男子生徒がなぜこんな質問をしたのかといえば、何を隠そうそれは本日から体育が水泳の授業になるからである。拳児からすればそんな面倒くさい授業などサボってしまいたいのが本音ではあったが、従姉から卒業することを厳命されている以上はそれが叶わない。だからきちんと学校指定の水着を買ったのだが、これほどその姿と学校のプールサイドという場所が似合わないだろう人間もなかなかいない。六月の中旬に入ったばかりだというのに、その日はどうしてか気持ちいいくらいに晴れ渡っていた。

 

 二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、二組の全員が一斉に動き出した。それにはやはり原因があって、体育教師が妙に時間に厳しいというわりとありがちなことがそれにあたる。普段の体育であれば更衣室にのんびり行ったところでそれほど遅刻を気にすることはないのだが、水泳となると話は別だった。女子は水泳専用の更衣室があるのだが着替えに手間がかかる。男子は着替えにそれほど手間はかからないが、なぜか更衣室がプールから遠い。したがってどちらも急がないとならないのである。さすがに姫松で二年間も過ごしてきた彼らはその辺りのことを熟知しており、やさしいクラスメイトから急いだほうがいいとだけ聞かされた拳児も、とりあえずその助言に従うことにした。

 

 

 それぞれが雑談に興じていた和やかな時間が、ある一瞬を境に変わり始めた。小さなざわめきが次第に伝播していって、すべての視線がプールサイドの入口へと集まっていく。

 

 まるで彫刻のような肉体だった。無駄の無い引き締まった筋肉が分厚く体を覆っている。器具を使ったり歪なトレーニングをしては決してたどり着けないようなその肉体は、これまで彼がたたき出してきた体育の授業での異常とも言っていい成果を納得させるのに十分な説得力を有していた。広い肩幅を支える僧帽筋から連なる発達した三角筋、厚みのある大胸筋の下を支える外腹斜筋は見事に引き締まっている。上半身と釣り合うように盛り上がった大腿四頭筋と下腿三頭筋に挟まれた膝がやけに目立つ。ほとんど理想的なスタイルをしていると言っても過言ではないだろう。

 

 「あいつ、あんなカラダしとったんか」

 

 「……すごいとは思ってたけど、まさかあれほどとは思ってなかったのよー」

 

 拳児から視線を外さずにこそこそと洋榎と由子が話している横でも別の女子生徒が拳児について話をしていた。もう隠す素振りすら見せず、堂々と指をさしてきゃあきゃあと騒いでいる。無理もないだろう。体型だけで言えばスーパーモデルと遜色がないのだから。

 

 「な、きょーこはどう思う?」

 

 「いや、どう思うも何も先に突っ込まなダメなとこあるでしょ」

 

 「へ?」

 

 「サングラスとカチューシャつけっぱなしですやん」

 

 昨年の夏に海に遊びに行った時もそうだったが、拳児は自分を曲げなかった。拳児以外の人からすればまったく理由はわからない。だがこれは拳児にとっては何より重要な恋の証であった。塚本天満を奪い去るという覚悟の証であった。誰でも人と会う可能性のあるときには常にサングラスをかけることを再び誓ったのである。臨海女子での合宿で智葉と素顔で出会ってしまったのはまさに例外中の例外であった。それもほとんどが油断から来たものであった。

 

 「……まあほら、あのグラサンもゴーグルと似とるしやな」

 

 「照れながら言い訳せんとってください」

 

 えへへ、と長い髪をどうにか水泳の邪魔にならないようにまとめきった洋榎が笑う。その仕草がいちいちかわいらしく、恭子が呆れ半分にため息をついたところで拳児の周囲に集まっていた男子たちが一斉に軍隊のように横並びになった。体育教師が来たわけでもなければ拳児が怒ったというわけでもなさそうだ。その証拠に拳児の口は呆けたように開いている。

 

 女子たちは男子たちの奇矯な行動の理由も意味もわからなかった。ただひとつわかっているのはその中心にいるのが播磨拳児であるということだけだった。群がっていた男子が整列したことで、拳児の肉体が見やすくなったからどうでもいい、と喜んだ女子もいたがさすがにそれは少数派であった。

 

 

 授業とはいえ水泳でやることは多くない。スタート地点が泳げないなどであれば別だが、そうでなければ授業で劇的な進歩は望めないのが水泳という競技である。せいぜいが夏休みに入る前までの間にちょっとタイムが縮められるかどうかというのが関の山だ。そんなことは教師陣も理解しており、だから初日の授業はタイムの計測に充てられた。八つあるレーンを真ん中で男女にわけて、それは実施される運びとなっていた。

 

 麻雀部三人組のタイムは特別に早いわけでも遅いわけでもなく、平凡という言葉がぴたりと当てはまるようなものだった。タイムを測り終えた彼女たちは、水気を払いながら上がった場所で固まって話をしていた。授業とはいえプールという環境もあってか普段よりも心持ち楽しそうである。少し話し込んでいると男子の側のスタート地点からどよめきが起こった。深く考えるまでもない。そう思って恭子が視線を向けると、そこにはやはり拳児が立っていた。どんな泳ぎを見せるのかが気になるのだろう。生徒はおろか教員までもが拳児の挙動に注目していた。

 

 ぴっ、と飛び込む合図の笛の音と同時に屈められていた肉体が解き放たれたように空中に伸びていく。音も水しぶきもそれほどあげずに着水し、潜ったまま水中で体をうねらせながらぐいぐいと進んでいく。いわゆるバサロ泳法というやつだ。だんだんと浅いところへと浮かび上がり、水面にその背中が見えた途端、拳児の体が宙を舞った。両の腕を同時に体のわきから覆いかぶさるように出し、それに追随するように頭、胴、脚と鞭のようにしならせて前へと進んでいく。たしかに誰も泳法に関する指示を出してはいなかったが、それでもクロール以外を選択したのは拳児ただひとりだった。彼が選んだのは、バタフライだ。

 

 絞られた肉体が躍動する様はそれだけで美の感覚を想起させる。拳児の選んだ泳法は他のものと比べて大きく見えるものであり、視覚効果を倍増させていた。バタフライ泳法とはフォームが洗練されていなければ速度を出すことができないものであり、隣のレーンのクロールと当たり前のように競っている拳児のそれは当然のように美しかった。

 

 ざんぶ、と音を立てて拳児が水中から上がると、その辺りで固まって話をしていた女子たちから小さな悲鳴が上がった。大声を出してはいけないことを本能的に理解しているような必死に抑えた声だった。その原因は拳児の背中にあった。

 

 右肩甲骨の下の辺りから左腰へと向かうように、大きな傷痕が残っていた。おそらく刃物によるものだろう。生々しさはもう残っていないが、肉が引きつるように歪なかたちをして盛り上がっている。ちょっとした切り傷程度ではあれほどのものにならないことは容易に推測された。触れてはならない。そもそも棲む領域が違うのだということを改めて思い起こさせるものだった。

 

 先ほど男子たちが一斉に整列した理由はあれだと恭子は瞬時に理解した。彼女たち麻雀部は拳児が裏プロであるという誤解のもとに接しているため、麻雀部以外の生徒ほどの衝撃を受けてはいない。それでも頬が引きつるくらいには驚いたが。それだけに拳児のことをただの不良だと思っている一般生徒たちの衝撃は計り知れないものがある。またひとつ拳児について回る真偽の定まらない噂の種が誕生した瞬間だった。

 

 

―――――

 

 

 

 「…………なあ、播磨のアレ、なんでやと思う?」

 

 「いらん詮索は止しましょうよ、主将」

 

 「でも気にならんー言うたらウソやろ?」

 

 「そりゃそうですけど……」

 

 「やっぱ抗争とかに巻き込まれたんかな」

 

 「打ってる時に後ろからざっくりいかれたのかもしれないのよー」

 

 「ゆーこの発想が怖い」

 

 「でも裏の代打ちなんて言ったら周りにそういう人いないとダメだと思うのよー」

 

 「え、何その経験者みたいな発言」

 

 誰も本人に確認しようとしないあたり、始末に負えないとはこのことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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18 気になるあの子☆

―――――

 

 

 

 カレンダーの月の数字が七になり、梅雨明けまでもうひと踏ん張りというところのある日曜日に拳児の携帯電話が鳴ったのを漫は聞いた。太陽はちょうど青空の頂点近くに位置しており、拳児がおにぎりを三つとペットボトルのお茶を、漫が母親に作ってもらったお弁当を手に屋上を目指して廊下を歩いているときのことだった。つまり昼休みの出来事である。

 

 着信音から判断すると、どうやら電話がかかってきたらしい。合宿が終わってから拳児の周囲をちょろちょろするようになった漫は知っている。決して彼に電話がかかってくる回数は多くはないが、それでもたまにはかかってくるなんてことまで知っている。基本的にかかってくるとすれば郁乃と、あるいは連絡事項を抱えた恭子くらいしかいないだろう。ごくたまに漫も知らない人からも電話がかかってきているようだが、その人についてはわかる気がしなかった。ひょっとしたら以前いた場所からかかってきているのかもしれない。流石にそんなところまで深入りするつもりのない漫は、拳児に遠まわしに質問をするような真似すらしなかった。藪をつついて蛇が出てきました、と笑って済ますことのできない可能性もあるのだ。

 

 心持ち歩調を緩めて拳児の隣を漫は歩く。誰でも携帯で話しながら歩くときには意識が散って、すこし歩くのがゆっくりになるものである。ふいと視線を斜めに上げる。百五十センチに満たない漫と大柄な拳児の身長差は三十センチにもなるため、漫からするとほとんど頭上に電話口があるような状況である。あまり背の高い男子と並んで歩いた経験のない漫にとっては、どちらかといえば面白くないほうに分類される感覚だった。

 

 とは言っても漫の身分としては本人に怒られないからということで勝手に周囲をうろついているだけのものであって、決してカノジョのような文句を言えるものではない。だから漫にできることと言えば、せいぜいが特に気にしないことくらいであった。もちろんそれにも限界はあったが。

 

 人目を気にせず、また注目の的であるということに無自覚な拳児は、ここが学校の廊下であるということに意識を向けない。外で電話に出るときと何ら変わりのない声量で応じるのである。それは別に彼が不良だから校則に刃向かって廊下で電話をしているわけでもなんでもなく、単純に外と内との区別をしていないのだ。良く言えば差別のない意識の持ち主とも言えるが、拳児の場合は無頓着と言ったほうがはるかに近いだろう。

 

 もう出会ってからまるまる三ヶ月も経過する。初めは引くどころの騒ぎではなかったが、今では漫にもそれなりに拳児の感情の機微がつかめるようになってきた。わかりやすく笑ったり悲しんだりこそしないものの、間違いなく機嫌不機嫌の差は存在すると漫は確信している。どちらもそうそう拝めるものではないが、たとえば機嫌がいいときには飲み物なんかを奢ってくれたりするのだ。その辺りのことは周囲をうろちょろするようになって初めてわかったことである。このとき学んだ “人を見た目だけで判断してはいけない” という経験は後の漫の人生にいい影響を与えることになるのだが、本人も拳児もそんなことは知る由もなかった。

 

 拳児も麻雀部員にはそれなりに気を許しているようで、たとえば隣を漫が歩いているこの状況下でも何らの気兼ねなく電話で話をしていることがひとつの証拠にあたる。あるいは拳児も他人に隙を見せるということに慣れてきたのかもしれない。不良としてはどうだかわからないが、高校生としては大きな成長と言えるものだろう。

 

 

 隣を歩く男が声量を絞るということをしなかったため、漫にもその内容が片方だけは耳に入ってしまっていた。拳児の言葉の断片を繋いでいくと、どうやら麻雀の、それもインターハイに関わる内容であるようだった。会話の運びから察するに相手は年齢が近く、かつ姫松の人間ではないだろうことが予想される。漫の知るかぎりにおいて、拳児の知り合いでさらにそれらの条件に当てはまるような人物はぱっとは出てこなかった。ちょっとしたいたずら心と興味が湧いた漫は、ダメならダメで構わないという軽い気持ちでその相手が誰なのかを聞いてみることにした。

 

 「ウチの部のハナシもしとったみたいですけど、どちらさんです?」

 

 拳児の持っているビニール袋が腿に当たってがさりと音を立てる。

 

 「ん? ああ、辻垣内のヤツだ。臨海の連中もソートー調子いいらしくてよ」

 

 「えっ、辻垣内さんって()()?」

 

 漫からすると、辻垣内智葉という人物は播磨拳児に最も近づけてはいけない一人であった。何せ姫松に通う生徒が未だ誰一人として見たことのない拳児の素顔と笑顔を見たというのだから、その警戒レベルは最大に上げて然るべきと言えよう。

 

 「ほかにそんな名前の知り合いいねーしな」

 

 「へー、ケータイの番号なんていつの間に交換したんです? いや合宿やとは思いますけど」

 

 「ま、アイツも外国人に囲まれて大変だろうからよ、相談に乗ってやるっつーことでな」

 

 朗らかな調子でそう告げる拳児に対して、漫はなんとも煮え切らない笑みを返すことしかできなかった。仮に悩みを抱えた人が大勢いたとして、そのなかで播磨拳児に相談しようと考える人間がどれだけいるだろうか。百人いたら九十八人が相談しないだろう。あるいはそれでも甘く見積もり過ぎているかもしれない。漫は例のアドバイスの件もあって、拳児のことを信頼してもいるし、事によっては尊敬していると言ってもいいかもしれない。だが悩み事を相談するのだけは彼女の中ではナシだった。それは決して人格が信用ならないなどと言っているわけではない。おそらく拳児に相談すれば真面目に取り合ってくれるだろうことを漫は理解している。ただ、漫たち姫松の部員から見た拳児の出自は裏の界隈であり、そこにいた彼がどんな解決策を持ち出すかなどそれこそ見当がつかない。そちらの筋の人間が出てこないとも言い切れない。だから漫は、今度は智葉のことを思いやって口を開いた。

 

 「……ほ、ほどほどにしたってくださいよ?」

 

 「別に相談らしい相談があるわけじゃねえよ、世間話みてーなもんじゃねえか?」

 

 「えっ? あれ、その言い方だとけっこう電話してたり……?」

 

 漫の少女回路が熱を帯び始める。拳児と智葉が付き合っているという確証は得られていないが、逆に付き合っていない証拠も得られていない。ここからの話の持っていき方次第では本人から言質を取ることすら可能かもしれない。敬愛する末原恭子は好きにさせておけばいいとの見解を示したが、大会前のそれはスキャンダルになりかねないと考えていた漫は、ふたりの関係がどのようなものであれ確定させておきたいとの思いを持っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 立ったまま腕を組み、そこから右手を顎の辺りに持ってきて思考の海に沈む。その姿は高校生であるにもかかわらず妙に様になっており、彼女が積んできたであろう経験を思わせた。彼女がその頭を悩ませるのは、ほとんどが麻雀に限定される。年頃の少女がその全精力を麻雀につぎ込むことについては議論があるかもしれないが、本人にとってそこに存在するのはひとつの決断であって他ではない。しかし今日は事情が違っていた。珍しいことに末原恭子は麻雀以外のことに頭を悩ませていたのである。

 

 「なんやきょーこ、便秘か?」

 

 「ちゃいます。ただの考え事です」

 

 短い息とともに恭子はじとっとした目を洋榎に向ける。天真爛漫なのは大いに結構なのだが、多少デリカシーに欠けるのが麻雀部主将の玉に瑕な部分であった。仲の良い自身や由子などと話しているときならばまだ構わないが、それ以外の人と話すときにはもっと気を遣ってほしいというのが恭子の偽らざる本音である。

 

 「ふーん、どっかオモロそうなガッコでも見つかったん?」

 

 「あー、いえ、今考えとったんは漫ちゃんのことでして」

 

 「漫ぅ? 心配どころか最近はむしろ調子ええやろ」

 

 芯から不思議そうに洋榎が疑問を口にする。たしかに合宿を経験して以降の漫は、自身の爆発に頼るだけではない打ち方を身につけつつあった。彼女の爆発状態にバリエーションが生まれたことも対局相手にとって十分に脅威になっていたが、何より素の状態でも勝率を上げてきていることがここ最近の上重漫を語る上で外せない内容である。もちろん完璧とはまだまだ程遠いものの、もしこのまま彼女が調子を上げていくと仮定したならば、いずれ上重漫というプレイヤーから弱点がなくなるだろうことは明白だった。

 

 「そうですね、数字にして見るとようわかります」

 

 「ならなんで漫のことでむつかしい顔しとんねん」

 

 眉を不思議そうなかたちにして洋榎が問いかける。いつの間にか彼女は腕組みをしていた。

 

 「……最近」

 

 「お?」

 

 「最近、漫ちゃん播磨に引っつきすぎやと思いません?」

 

 「…………は?」

 

 いたって真面目な表情をした恭子の口から飛び出したのは、洋榎の予想を遥かに飛び越えてどうでもいい内容だった。開いた口が塞がらないとはこのことで、二の句が継げないままゆっくりと時間だけが流れていった。

 

 「いやだから漫ちゃんが」

 

 「それはもうええから」

 

 たしかに恭子が漫に対して特別に目をかけていたことを洋榎は知っている。去年に至っては監督に直談判して自分のレギュラーの座を明け渡したほどである。通常ならば許されない暴挙と言えるが、すでにそのときには恭子は先輩後輩を含むすべての部員から信頼を寄せられる存在であった。すくなくとも恭子の判断ならばと誰もが納得する程度には。漫本人が気付いているかどうかは定かではないが、それは現三年生の間では共通の了解事項である。

 

 その辺りのことを踏まえて先ほどの恭子の発言を考えると、なんとも単純な結論が導かれることに洋榎は気が付いた。ただその結論は、常に理知的で冷静な末原恭子が真剣な顔をして頭を悩ませるほどの問題かと聞かれれば待ったをかけざるを得ないようなものだった。

 

 「つまり播磨に漫が取られたみたいで悔しい、と」

 

 「取られたいうか、その、漫ちゃんが楽しそうなのはええんですけど……」

 

 目線を下にそらして唇を尖らせ、なにやらもごもごと言いよどむその姿はどう言いつくろっても名門姫松の大将を務める存在には見えなかった。ふたりの立っている日差しの差し込む廊下に弛緩した空気が流れる。

 

 「……それやったらきょーこも漫といっしょに播磨に引っついたらええんとちゃうん」

 

 もちろん洋榎は冗談のつもりでこの提案をした。いくら天真爛漫と言えど思春期真っ盛りの女子高生なのだから男女関係の機微にはそれなりに興味も関心もある。その上でずっと引っつくなんて提案を真面目にするわけがないのだ。すくなくとも恭子には。洋榎個人の印象では漫が拳児の周りをちょろちょろするのはどこか微笑ましさを感じさせるものであった。それはたとえば近所のお兄さんや従兄なんかと接するようなイメージに近く、男女のそれを感じさせない関係性であったからセーフの判定を下せるものであった。漫のそういった行動に対して部員から声が上がらないのも、おそらくそういった認識が広まっているからなのだろう。

 

 しかしそれが恭子となれば話は別である。もし仮に恭子と拳児がしょっちゅう一緒にいるなんてことになれば、周囲は間違いなくふたりが()()なったのだと確信するに違いない。そしてそれは近くに漫がいようと変わらないだろう。だから洋榎は恭子がいつものようにツッコミを入れてくれることを期待していた。笑い飛ばしてくれることを期待していた。

 

 廊下の開いた窓からぴい、と鳥の甲高い鳴き声が聞こえて、ほんの少しだけ間が空いた。恭子が視線を床に落としてなにやらぶつぶつと小声で呟いている。彼女が考えをまとめる時の、半ばクセのようなものだ。この瞬間、洋榎はなにかイヤな予感がした。すぐさまツッコミが入るべきときに恭子が考えをまとめようとしている。それは検討するに値することが頭にあるのと同義であって、一笑に付すべき内容ではないという判断を下したということでもある。ではその検討すべき内容とはいったい何か。つい先ほどの洋榎の発言である可能性が極めて高いのは自明である。そうして、彼女が下した決断は、洋榎のプランとは大きく異なるものだった。恭子はひとつ頷いて、すっきりしたように口を開いた。

 

 「うん、そうですね、別に難しく考える必要ないですよね」

 

 「ま、待ち! もう少しよう考えよ? 播磨もおるんやで?」

 

 焦ったように洋榎が恭子を遮る。実際に拳児と恭子の二人がどうなろうが洋榎の知ったことではないが、噂になったら面倒なことになるような気がして仕方がなかった。

 

 「……いたほうが都合ええと思いますけどね。部の方針の話もしやすいですし」

 

 ひどく真面目な調子で恭子が返したことに洋榎は衝撃を受けていた。照れだとか恥じらいだとか、そういった感情はちらりとも見受けられない。たしかに恭子は堅物ではあるが、だがそれでも彼女が女子高生であることに違いはないはずである。悲しいことにまったく実にならなかったが、洋榎と恭子と由子と三人で恋バナなんかをしたことだってあるのだ。

 

 変な意味で男慣れをしているはずのない恭子の、拳児に対する態度の理由が洋榎にはわからなかった。完全に “ナシ” だから悩んだりする必要がないのか、あるいはその逆なのか。いくらなんでもそこについて考えていないなどということはないだろう。そのことを加味した上での判断なのだと信じたかったが、洋榎は洋榎で混乱してしまっていた。これが麻雀に関わることであれば恭子の判断に全幅の信頼を置くのだが、今回の問題は麻雀絡みではない上に何が正解かがまったくわからず、さりとて強引に止める手段があるわけでもなく、最終的に洋榎は問題を先送りにすることしかできなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 色は同じであるはずなのにどうしてか他の季節と違って明らかに高さを感じさせる空と、そこにべたりと絵の具で塗りつぶしたような白い雲。風景として見れば切り取って絵葉書にでもしたくなるような綺麗な空も、実際にその下に立ってみればひたすらに体力と水分を奪っていく夏の空であった。道行く人々の表情は基本的にうんざりとしたものばかりで、暑さを楽しむなどといった粋な考えを持った人間はさすがにいないようである。顎から垂れた汗がアスファルトの色を濃くしたかと思えば、一瞬で蒸発していく様を見ればそれも無理はないだろう。麻雀のインターハイが開催されるここ東京は、屋外の環境で言えばお世辞にも良いとは言えない場所である。

 

 インターハイの会場はプロの試合でもよく使われるホールであり、またその試合の扱いもそれに準じたものとなっている。時間帯こそ朝から夕方までが基本ではあるが、当たり前のようにテレビ中継がされているのだから日本における麻雀の人気が知れるというものである。さらには解説に本家のトッププロが招かれるのが慣例となっており、そのこともインターハイの人気の一因となっている。

 

 

 調整のために早めに東京へとやってきた各地の選手と同様に、解説役として呼ばれたプロたちも続々と打ち合わせのために東京に集まってきていた。競技プロという上澄み集団のなかの、さらに上澄みであるトッププロと称される彼女たちは、他に比べて圧倒的に忙しい身分である。そのため毎年ほとんど出場選手の情報を調べる時間などないはずなのだが、それでも恐ろしいほどの的確さで解説をしていると言えば彼女たちがトッププロと呼ばれる理由の一端がわかるだろう。

 

 何の対策もせずに外にいたら一時間でこんがりと焼けてしまいそうな真昼の都心には、それでもどんな用事を抱えているのか試しに聞いてみたくなるほどに人が溢れかえっていた。興味深いのは誰もが一様に足早に歩いていたことである。もちろん体格差などの条件面に違いはあるため、まったく同じ速度というわけにはいかないが、懸命に足を動かしているのは同じだった。その風景がなんだか小さな頃にテレビで見た人形劇みたいに見えて、野依理沙はこっそりと笑みをこぼす。地上階をまるごと駐車スペースにしたファミリーレストランの窓際のボックス席には、理沙の他に二人の女性が座っていた。

 

 「前評判では白糸台高校が圧倒的ですが、実際のところどうなんです?」

 

 今回のインターハイで解説の理沙とコンビを組むアナウンサーである村吉みさきが、出し抜けに疑問を口にした。彼女も仕事の一環としてある程度の麻雀の知識は頭に入れているが、やはり本家の見る目には及ばないと理解しているのだろう。

 

 「………………難しい!」

 

 ひとしきり悩んだ後にこんなことを言われてしまえば話が進まないと多くの人は思うかもしれないが、付き合いの長いみさきは理沙が悩んだことにきちんと意味を見出していた。それだけ各校の実力が均衡しているということなのだろう。みさきの向かいの席に座っているもう一人のトッププロはただにこにこと微笑んでいた。

 

 「では、注目の学校などはありますか?」

 

 「……臨海、姫松」

 

 「臨海は今年からあの辻垣内選手が先鋒でしたね。それと姫松は……」

 

 「カントクさんが高校生の男の子のところだよねっ☆ もともと注目校だったけど☆」

 

 競技者としての活動に加えて麻雀の普及に余念がない彼女は、下手をすればプロのなかで誰より忙しい存在である。であるにもかかわらず当たり前のように各高校の情報を押さえていることに、みさきはうすら寒いものを感じさえした。

 

 「瑞原プロもご存じだったんですか」

 

 「もっちろん! でも色々と不思議なんだよねぇ……」

 

 普段はかわいいとしか評されることのない大きな目が鋭く光る。一般には “牌のおねえさん” などと親しみやすいキャラクターとして認識されているが、その本質はプロであり、頭の使い方では右に出るものがいないと言われる頭脳派である。そんな彼女でさえかの男子高校生監督についてはお手上げなのだという。みさきはその姫松の監督について考えるのを諦めると同時に瑞原はやりの凄まじさに半ば呆れていた。彼女の先ほどの発言は彼について調査をしたことを匂わせるものだったからだ。

 

 「実力も十分!」

 

 「はや!? 理沙ちゃん合宿にお邪魔したの!?」

 

 「え、ちょ、瑞原プロ? 今の一言のどこから読み取ったんですか?」

 

 「今から楽しみ!」

 

 

 三人がそうやって話しているファミリーレストランのちょうど真下を、ある一人の男がちらちらと周囲の景色に目をやりながら歩いていた。彼女たちが窓から外を眺めたところで角度の関係から彼の姿を捉えることはできない。

 

 播磨拳児は、迷子になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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全国編
19 のけものケンヂ(嘘)


―――――

 

 

 

 播磨拳児が真夏の昼下がりの都心をひとりで歩いているのには理由があった。

 

 

 「えっとな~、明日が開会式と抽選会なんは知っとるやろ~?」

 

 郁乃がいつもと変わらない調子で団体戦のメンバーたちに声をかける。これから臨むのは全国大会なのだから多少は緊張してもおかしくないのだが、彼女とその言葉はまったくの無縁であるようだった。そのかわりなのだろうか、洋榎を除いたメンバーたちの表情には緊迫したものがあった。拳児も枠としては郁乃や洋榎と同じである。全国大会だろうがインターハイだろうが不良と名乗る以上はそんな名前にビビっていられないと考えている拳児と、洋榎と郁乃のふたりを同じくくりで見てしまうのは失礼な気がしなくもないが。

 

 「それでな、今日一日を無駄に過ごすんもアレやし調整のために知り合いのプロ呼んどいてん」

 

 おお、と小さく声が上がる。いかに名門と呼ばれる姫松とはいえ、質を問われてしまえばプロと比肩するだけのものを持っているわけではない。個人で見れば引けを取らない選手もいるのだが、調整という観点から見れば格上と打てるというのは大きな利点である。全国大会に出てくるようなプレイヤーを相手に加減をしつつ打てるような人間などそうそういるものではない。

 

 午後の予定を聞いて盛り上がっている団体戦のメンバーを視界の端に収めつつ、拳児はひとりでぼんやりと考えていた。先ほど聞いたとおりにこれからプロがやってきて調整に協力してくれるとして、そうなると拳児にできることは基本的になくなる。卓を囲むことは論外だが、たとえば他の出場校の研究をしようにも郁乃と恭子が既に終えてしまっている。そもそも未だに牌譜や映像から実のある発見をできるほどに拳児は麻雀に成熟していない。拳児が切れるカードとしては、理沙を呼ぶなんていうのもなくはないのだが、仮に呼んだところで状況にマッチしていない上に拳児自体は何もしていないという事実に変わりはない。

 

 自分のいる意味について真剣に悩み始めた拳児の隣に、いつの間にか郁乃が立っていた。普段と変わることなく柔らかい笑顔を浮かべて、興味深そうに拳児を眺めている。眺める対象に選ぶには趣味が悪いと言いたくなるが、そこについて文句をつける筋合いは誰にもないだろう。

 

 「なあなあ拳児くん、ちょこっとええ~?」

 

 郁乃の接近に気付いていなかった拳児は驚いてすこしのけ反った。

 

 「うおっ!? な、なんスか?」

 

 「実は拳児くんにお願いがあってな~?」

 

 血管の透けそうなほどに白い頬の真横にぴん、と人差し指を立てて郁乃は話を始めた。ちなみに郁乃の “お願い” に対して拳児は抵抗の手段を持たない。住居の世話から始まって、麻雀部の監督としての立場のアシストなど今の拳児の生活の基盤を支えてくれているのは彼女であって、拳児にはその恩義を無視するなどという不義理なことはできないのである。

 

 「ホンマやったら私がやらなあかんことなんやけど、この辺の地理を把握してほしいな~、て」

 

 「はァ、地理スか?」

 

 「うん、万が一に備えてのお店屋さんとか病院とか知っておきたくて~」

 

 そこまで言うと、郁乃はすこし照れくさそうに先ほど立てた指で頬をかいた。他の誰がやっても不自然な仕草だが、やはり彼女だけはそれを当たり前のものに見せる奇妙な雰囲気を持っていた。

 

 「でも私、道とか覚えるの苦手でな~? そういうのって男の子のほうが得意って聞くし……」

 

 「いいスよ、そんくれー俺がやります」

 

 聞いた途端にぱあっと郁乃の顔つきが明るくなる。普段から笑顔なのにどういう仕組みでそんな印象を持たせることができるのかはわからないが、実際にそう感じるのだから仕方がない。

 

 手持無沙汰な拳児にとっても何かを頼まれるというのは決してイヤなことではなかったし、また頼られるというのは素直にうれしいことでもあった。それに天満を奪い去った後に東京観光も悪くないのではないか、と浅ましい考えも同時に頭をよぎった。もちろんそんなことを表情に出すような真似はしていないが。もう生活態度だけで見れば不良とは縁遠いはずなのに、その辺のプライドだけはなぜか頑なに守っていた。

 

 

 ちょうど近くにいた絹恵に拳児が声をかけている。おそらくこれから外に出る理由をテキトウに告げているのだろう。そんな様子を横目に郁乃はうんうんと頷いた。

 

 ( 拳児くんおるとどっちも集中し切れん可能性あるしな~ )

 

 

―――――

 

 

 

 ( ……クソ、どうして東京ってえのはこう道が入り組んでやがんだ? )

 

 宿泊しているホテルからの最寄りの駅を中心に歩き回って、薬局などのもしかしたら必要になるかもしれない場所を把握した拳児はまだ街をうろついていた。駅の近くに病院が見つからなかったのである。ほとんど病院の世話になったことのない拳児はそういった立地条件などに明るくない。とりあえずホテルからの最寄りの駅の近くには無いのだろうと判断した拳児がちょっと駅から離れたほうへと進んでみたところ、見事に迷子になったのである。

 

 周囲を見渡したところで目に入ってくるのは似たようなかたちをした味気のないビルばかりで、たまらず拳児は舌打ちをする。見つかるのはガソリンスタンドやファストフード店など、どちらかといえば部員たちよりは拳児のほうがなじみ深いものばかりだった。

 

 太陽はまだ高い位置にあって容赦なく地上を照らしている。そんな中を休憩もなしに歩き続けたため、さすがの拳児もそろそろ疲労が溜まってきていた。気が付けば飲み物もろくに口にしていない。万が一のために病院を探しておきながら、脱水症状で病院に運び込まれるなんてことになってしまえばお粗末なことこの上ない。せっかく近くにファストフード店があるのだからと拳児は店に入ることに決めた。

 

 

 時間としてはお昼時をちょっと外したものだったのだが、拳児が考えていた以上に店内は混んでいた。食事よりもむしろ涼んだり話をするスペースを確保するために訪れている客の方が多いように見受けられる。たしかに夏の盛りにわざわざ外で話し込むようなヤツもいるまい、とひとりで納得して、拳児はとりあえず何を飲むかを考え始めた。

 

 目の前がガラス張りの、道に面したカウンター席に着いて拳児はひとつ息を吐く。暑さに対してはそれなりに強いはずなのだが、それでも今日の陽気にはつらいものがあった。世間の風潮に合わせて店内の室温は控えめにしてあるはずなのだが、それでも外との気温差に驚いてしまうほどに外は暑いのである。拳児の席から見える道行く人々はハンカチやハンドタオルが手放せないようで、しきりにその汗を拭っている。がしゃがしゃと氷の入ったコーラをストローでかき混ぜながら外を見ていると、拳児はなんだか変な優越感を覚えた。

 

 とくに実りのあることを考えるでもなく拳児が頬杖をついてただ視線を前に投げていると、ぎ、と軽く隣の席が軋む音がした。別段気に留めるようなことでもない。誰かが隣の席に座ったというだけの話である。だから拳児もそのことを意識に上げることすらせずに、ときおりコーラを飲みながら先ほどの体勢を維持していた。

 

 「えっ、あれっ? ひょ、ひょっとして、播磨拳児さん? ですか?」

 

 矢神でもなく姫松でもないこの東京の街で自分を知っている人間などいないと思っている拳児は心の底から驚いた。ストローから口に入ったコーラが逆流してむせる。声のした方に顔を向けると形容しがたい雰囲気をまとった女性が座っていた。それこそ浮世離れというか、この世のものではないような。まず、服装が全体的に夏のものとは思えない。学校の制服だろうことに違いはないが、どう見ても冬服である。このクソ暑いと言ってもいいような天気の中を黒いブレザーにロングスカートで歩こうという考えを持つ人間はきわめて少数だろう。というか拳児からするとそんな人間が存在するとは到底思えなかった。

 

 「あ? なんで俺のことを、……って、ん?」

 

 「わっ! いきなり有名人に会っちゃった! ちょーラッキーだよー!」

 

 確認するや否やうれしそうに奇妙な動きを始めた長い髪の女性を、今度は拳児が首をひねりつつじっと眺めはじめた。

 

 「ちょっと待て。アンタの顔どっかで見たことあるような……」

 

 必死に記憶の棚を探る。人の顔と名前を記憶するのが得意ではない拳児が、普段から会っているわけでもない人に対して引っかかりを覚えるのは非常に稀なケースである。ひどいときには一年を共に過ごしたクラスメイトの顔を見ても首をかしげることがあるほどなのだ。失礼な話だが拳児は未だに姫松高校麻雀部 (とくに一年生) の名前を把握しきっていない。そんな男が額に手のひらを当てて唸り声を上げ始めたところでその効果は怪しいところである。

 

 「え? あ、岩手の宮守高校から来ました姉帯豊音です!」

 

 拳児とは対照的に彼女の顔には喜色が満ちていた。感激、という言葉を表情だけで表現するならばこれ以上のものは見当たらないと思わせるほどのものである。長い下睫毛がぴん、と張るほどに目を見開いて、自然と笑いがこぼれるような形に口を開けていた。声が若干上ずっているような気もするが、普段の彼女を知らないために拳児にはそこの判断はつかなかった。

 

 「岩手の、宮守……?」

 

 拳児の記憶探索にもうひとつのとっかかりができた。間違いなく聞いたことがある。それも最近のことだ。姫松が地区予選を突破してからはひたすら他の地区の予選の様子を映像で見たり牌譜で見たり、と学校にいないときでも常に忙しかった。もちろん拳児がそれらを見たところで解析できるなにかがあったわけではないが、映像を通して感じ取れるものは明らかに存在した。そしてたった今出た岩手の宮守という単語は、拳児のそのセンサーが反応したものと同一であった。

 

 ゆっくりと拳児の頭の中で記憶の残滓が集まってかたちを作ってゆく。そう、あのときたしかに拳児は感じたのだ。余裕のある点差の状況で、彼女は。

 

 「……そうだ。決勝の大将戦で抜いて打ってたヤツだ」

 

 「えっ」

 

 豊音の体がぴくりと跳ねる。

 

 「や、別に責めるつもりはねーけどな。戦略とかいろいろあンだろうしよ」

 

 「あ、あはは……」

 

 否定とも肯定とも取れないような、曖昧な反応を返す。豊音からすれば不思議で仕方がないだろう。今や高校麻雀界では超がつくほどの有名人である彼が、隠れて岩手予選に偵察に来ていたとは聞いていない。それに彼女には()()()()()()()があって、その実力を人の前で披露する機会がまったくなかった。だから彼女自身とその仲間たちを除けば豊音が手を抜いていることを把握することなど不可能であるはずなのだ。

 

 拳児がゴールデンウイークに郝とネリーに対して発揮した、強者を嗅ぎ分け、全力を出しているかを見抜く能力は時間とともに、また他の地区の予選の映像を見ることでさらに磨きがかけられていた。対局の結果如何にかかわらず、ただ雰囲気のみで判断するというのだから恐ろしい。しかしそれに反して拳児自身の麻雀の腕は雀の涙ほどにしか上達しておらず、ある意味で言えば宝の持ち腐れに他ならないものであった。

 

 「そーいうのはアンタだけじゃなかったしな。名前は覚えちゃいねーがケッコーいたぜ?」

 

 ( や、やっぱりちょーすごい人なんだ…… )

 

 涼しい店内でこっそり冷や汗をかきながら、意を決したように豊音は拳児に声をかけた。

 

 「あ、あのっ!」

 

 「オウ、どうした?」

 

 「サ、サインもらえませんか!?」

 

 いったいどこに持っていたのか、細く長い指にしっかりと色紙が挟まれ、ご丁寧なことにサインペンまで手にしていた。こうしてお願いをすること自体が相当に恥ずかしいらしく、色紙の位置がだんだんと上がってきて、鼻がすっかり隠れてしまうくらいになっていた。座っているから正確なところはわからないが、印象としては背の高そうな彼女が小動物のようにさえ感じられる。

 

 サイン、という言葉は拳児に過去の夢を思い出させた。塚本天満への恋にささげたと言っていい高校二年の生活のなかで、たったひとつ見つけた自分のための夢。どうしてその道に足を踏み入れたのかさえ憶えていないが、それは播磨拳児という存在を成り立たせる大きな要素にさえなっていた。その道の師匠にも出会ったし、いずれ超えるべきライバルにも出会った。今でこそ姫松高校の麻雀部監督代行なんてことをやっているが、なにかひとつボタンを掛け違えていればその大きな夢に向かって進んでいた可能性も十分にあった。

 

 サングラスの奥で一瞬だけ遠い目をして、拳児は豊音から色紙とサインペンを受け取った。通常であればサインをするのに慣れている高校生などあまりいないはずだが、意外なことに拳児の手はスムーズに動いた。

 

 「じゃあ俺ァこれで行くけどよ、姫松(ウチ)に当たるまでは頑張んな」

 

 そう言うと拳児は氷だけ入った容器と小さなトレイを持って席を立った。これだけ外の日差しが強ければサングラスというものはとても有効なんだろうな、と当たり前のことを豊音は思った。

 

 

 

 「ねね、シロ! さっきね、姫松の播磨拳児さんに会っちゃった!」

 

 「……ああ、高校生で監督やってるっていう?」

 

 ホテルの部屋に戻った豊音が大はしゃぎで声をかけたのは、なんとも気怠げにテーブルに突っ伏した少女だった。シロ、と呼ばれた少女は力なく顔だけを豊音のほうに向けているため、しゃべるたびに頬の肉がむにむにと動く。

 

 「そう! えへへ、サインもらっちゃったんだー」

 

 豊音はシロと呼ばれた少女によく見えるように、彼女の顔の向きに合わせて色紙を突き出した。色紙をじっと見つめたあと、すこし眉をひそめる。それからすこしだけ考えをまとめた後、少女はやっと口を開いた。

 

 「……豊音、それニセモノだったんじゃないの?」

 

 「そんなことないよー、やっぱりスゴい人だったみたいだし」

 

 「いやだって “ハリマ☆ハリオ” とか書いてあるんだけど……」

 

 

―――――

 

 

 

 床から壁からいかにも高級そうな素材でできているホテルのロビーは、試合に出るときのためのローファーで歩くと想像以上に音が立つ。絨毯が敷いてあればそんなこともないのだが、たとえばロビーのソファがあるところに行こうとするとそれがなかったりするのだ。そうやって音を立てて歩くのが絹恵はなぜか嫌いで、できるだけそういうところでは運動靴を履くようにしている。とくに一人で歩くときには。

 

 今、絹恵はロビーの売店に飲み物を買うために一人で部屋から降りてきていた。他のメンバーは部屋で話に興じているのだろう。時間としてはそろそろホテルのレストランが、夕食を求める客でいっぱいになる頃合いである。

 

 ( 初日から播磨さんほっぽってみんなでゴハン食べに行くんもかわいそうやしな )

 

 実際そんなことを拳児は気にしないだろうし、またそういう反応を示すだろうことを少女たちも察してはいたが、それでも彼女たちは拳児が帰ってくるのを待つことに決めていた。誰からも不満の声が上がらなかったあたり、ずいぶんと信頼されているようである。

 

 売店には外のコンビニでは見かけないような飲み物が売ってあったりして興味をそそられたりもするのだが、結局はそんな冒険ができずに絹恵はなじみ深い商品に手を伸ばした。小銭のお釣りを受け取って、ペットボトルを片手にちらと大きな玄関に目をやると、ちょうどサングラスとカチューシャをした山羊ヒゲの男が入ってくるところだった。

 

 あ、とちょっと呆けたような表情を晒してしまったことを絹恵はすこしだけ後悔した。

 

 「オウ、妹さん。もうメシは食ったか?」

 

 「いやいや、みんな播磨さん待ちですよ。部屋で待ってます」

 

 「なんだ、ワリーことしちまったな。じゃあさっさとあいつら呼んで食いに行こーぜ」

 

 がしがしと頭をかいて、そのままエレベーターの方へのしのしと歩き出した。白い半そでのワイシャツの裾が、拳児の動きに合わせてちいさく揺れる。絹恵もすぐさま拳児の後を追う。このままロビーで待つのは構わないが、さすがにペットボトル片手に店に入るのは失礼が過ぎるというものだろう。せめてバッグでも持っていれば話は別なのだが、無いものについて考えても仕方がない。ペットボトルは冷蔵庫にでも入れておけば十分だ。

 

 ほんの少しだけ隣を歩いて、ふと気付く。

 

 「そーいえば播磨さん、制服なんですね」

 

 「ん、いちいち着替えるのも面倒だしな。それに明日っからもこのカッコだしよ」

 

 軽くそでを引きながら、拳児は着ている服を示す。

 

 「まさか私服を持ってきてないなんてことは……」

 

 「へ? 別に着る必要なくねーか?」

 

 別に拳児の私服が見たいだとかそういうことを考えていたわけではないが、あまりにも当たり前のように言うので絹恵はずっこけそうになってしまった。相変わらず彼の感性にはつかみきれないところがある。尊敬できる先輩である末原恭子や真瀬由子、そして自身の姉である愛宕洋榎が口を揃える拳児の異常性もこの辺りにその根拠があるのだろうか。どこか見ているものが違う感じを、ときおり絹恵も彼から感じることがあった。

 

 絹恵たちがプロと調整で打つ前に、拳児が告げた外出の目的も甚だ珍妙なものだった。いわく、 “いざって時に間抜け面、なんてのは監督として避けてえからよ”。それだけ言って出かけてしまった拳児にその真意を問うことはできなかったが、とりあえずチームのためになるようなことなのだろう、と絹恵はなんとなく納得した経緯がある。

 

 「そういえばよ、調整はしっかりできたか?」

 

 「はい、播磨さんに向かって言うのもアレですけど、やっぱプロってすごいですね」

 

 昇っていくエレベーターの中でかけた言葉に対する返事は、拳児に関わる勘違いが持続していることを思い出させた。ここしばらくは言葉にされることはなかったのだが、やはり彼女たちの頭にはしっかりと刻まれているのだろう。むしろそうやって口に出されないということがその認識の真剣さを表しているようで、拳児は頭を抱えたくなった。

 

 毒にも薬にもならない話をしながら二人は団体メンバーの待つ部屋へと向かう。ちなみに拳児は別の階の個室に部屋を取っている。緊急時に駆けつけることができるよう、という郁乃による配慮である。その郁乃自身は近所に友人が住んでいるらしく、部屋すら取っていない。彼女の人脈には底知れないところがあるが、誰もそのこと自体には疑問を抱かないのは不思議な話である。

 

 

 しばらくすると、ホテルの廊下に楽しそうで騒がしい声が響いた。ポニーテールの少女を中心に五人の少女が固まって、そのわずかに後ろをヒゲグラサンの男と羽のような黒髪をした女性が歩いている。華やかな集団にひときわ異彩を放つ存在が控えているのだが、どうしてかそこには奇妙な調和があった。その集団こそ、姫松高校麻雀部の女子団体代表である。

 

 

 毎年やってくる一度きりの夏が、夜の向こうで息を潜めていた。

 

 

 

 

 



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20 MORE THAN IMAGINED

―――――

 

 

 

 これまで数々の式典をサボってきた播磨拳児が、いくらインターハイとはいえ開会式に参加しているなどと言ったところで、姫松に来る前の彼と面識のある人間は信じないだろう。しかし実際に映像を見れば認めざるを得まい。選手として出場しているわけではないから入場行進に加わっているわけではないが、監督の立場として行進を眺めている姿がそこにあった。もともと背が高いため目立ちやすい上にサングラスと山羊ヒゲ、ついでに言えばそれぞれが式典にふさわしい服装をしているなかでたった一人だけ学生服の拳児は周囲から浮いて仕方がなかった。テレビで開会式の様子を観ていた人も、おそらく無意識のうちに目を奪われたことだろう。

 

 当の拳児の機嫌はあまり良くなさそうだ。臨海女子での一幕でもそうだったように、変に注目を集めるのは好きではないのだ。もちろん不良である以上は目立つし、相応に目をつけられることも理解している。だが現在のそれは不良であるということを根拠にするには規模が大きくなり過ぎていた。期待と疑惑とただの興味がない交ぜになった視線が拳児に突き刺さる。決してケンカを売られているわけではないから拳児にとってみればタチが悪いことこの上なかった。

 

 無意識のうちに舌打ちをするが周囲の喧騒やマイク越しの音声がそれをかき消して、その効果を無いものにしてゆく。広いホールに特有の、あの空気そのものが重みを持って圧迫してくるような空間で粛々と式典は続く。

 

 

 開会式の行われるホールには入場規制がかけられており、とくにマスコミ関係者は事前に許可をもらった者でなければ入ることができなくなっていた。彼らが注目するのは開会式ではなく、そのあとの抽選会であった。すでにシード校は発表されているが、今年はそれ以外にも有望校が揃っており、それらの高校がどの山に入るのかは強い興味の対象となっていた。となれば許可の下りなかった報道陣がホールの外で待ち構えるのはそういった意味で当然の理であり、抽選結果についての話を今か今かと待ちわびている状況だった。

 

 時間帯で言えばちょうど開会式が終わったであろう頃、仕事熱心なのかあるいは上司からの命令なのか、日差しの照りつけるなかで誰かが姿を現すのを待つ報道陣の姿があった。もしこの時間に姿を見せる人がいるとすれば、それはシード校の関係者くらいしか考えられないだろう。

 

 異様なくらいに眩しい屋外と屋内との暗さのギャップのせいで、その場にいた誰もがホールの出入り口に人影が見えたことに気付けなかった。全員が何かしらの個人的な話をしていたのも原因のひとつだろう。通常であれば誰も出てこないはずの時間帯に警戒を続けるというのも無理な話だ。だから彼らは自動ドアの向こうから、この夏で一、二を争う注目度の男が出てきたことを一瞬とはいえ見逃してしまっていた。

 

 誰が一番に気付いたのかはわからないが、いつの間にかホール出入り口前の報道陣の視線は全てたった一人の男に注がれていた。高校麻雀関係者であればもう誰も間違えないだろう男、播磨拳児の姿がそこにはあった。何があったのかはわからないが、あっ気にとられたように口を緊張感なく開けたまま突っ立っている。実際は外に機材を持った人だかりができていたことに驚いたというだけの話であるのだが。そんな拳児を彼らが放っておくわけがなく、すぐに質問の集中砲火が始まった。ノイズのひどいラジオのようにがやがやと混線する質問のなかで、ひときわ鋭く通った音声が監督代行のもとに届いた。

 

 「播磨監督! まだ抽選は終わっていませんよね!? どうしてこちらに!?」

 

 それに対する拳児の返答は非常に簡潔なものだった。

 

 「いや、ソレは愛宕がやるんで」

 

 返答を受けた記者は二の句が継げなかった。抽選とは要するに、このインターハイでの戦い方を左右する重要なステップのことである。それにまるで興味を示さないということは常識で考えればまずあり得ないことだった。なぜなら目の前のこの男はあの姫松高校を統括する立場の人間であるはずだからだ。胆が据わり過ぎているのか監督として無能なのか、記者には判断がつかなかった。

 

 「ど、どの山に入るのか気にならないんですか!?」

 

 「別にどこでも変わんねーんスよ、優勝しかアタマにないんで」

 

 正しい意味で “姫松高校の播磨拳児” という存在が世間に認知されるきっかけとなった瞬間であった。春の入学式での “桜の巻”、夏の終業式での “朝顔の巻” に続く決定的かつ揺るぎない自信を聞く者すべてに感じさせる迫力を伴った発言である。そこにいた拳児を除く全員が、一斉に息を呑んだ。誰もが刺すような日差しも頬を伝う汗も遠くで重なる蝉の声も忘れて拳児の言葉に聞き入っていた。

 

 そしてその言葉はあの宮永照を擁する高校麻雀界の王者たる白糸台高校を打ち倒すことを言外に孕んでいた。あるいは言外などではなくそれを意図したものであったのかもしれない。もはやそれは白昼夢であるかのような時間であったが、彼らがそこから真の意味で目を覚ますのは三日後の、姫松の初戦まで待たなければならなかった。

 

 

 余談だが、この事件はのちに姫松高校で “播磨演説・向日葵の巻” と呼ばれることになる。

 

 

―――――

 

 

 

 「……あ、圧倒的ィィィッ!! 姫松高校、他の三校を、まさに歯牙にもかけませんでした!」

 

 実況ならびに会場内がざわついた理由を、愛理と八雲の二人は正確に掴むことはできなかった。大型ビジョンで見る限り、拳児が監督を務める姫松高校が勝利を収めたことはわかる。周囲の反応から見て、かなり強いだろうことも推測はつく。しかしその出来にまで話が及ぶと、二人は門外漢もいいところであった。ビジョンに表示された点数を見ると姫松が十八万点を獲得しており、他の高校はもともとの持ち点であった十万点をすべて下回っている。

 

 愛理と八雲は周囲から聞こえてくる姫松に関する話に必死に耳を傾けていた。彼女たち二人にはまったくと言っていいほど情報がなかったからだ。騒がれ続けている宮永照くらいならばもちろん聞いたことはあるのだが、直接インターハイを観戦しにくるようなファンとの間には歴然たる差がある。たとえば各学校そのものの評価であったり個人の評価、ビジョンに映っているプレーやその結果の意味など、知りたい情報はいくらでもあった。そうして聞こえてきた話のなかで、今の姫松の勝利は異常と言ってまるで差し支えないものだったという。

 

 これが地区予選であったならばどこにも問題はなかった。インターハイの常連に名を連ねるような名門と、そうでない学校との対戦であったならば。しかしたった今この会場で行われていたのは初戦とはいえ全国大会である。各地区の予選を勝ち抜いてきた高校を相手に、余裕さえ見せながら勝ちあがるというのはそうそう見られるものではない。そこには点数以上の差が存在していた。

 

 

 「……播磨さんの学校、ものすごく強いみたいですね」

 

 初めて生で観戦する麻雀に、どこか気分を高揚させながら八雲が声をかける。性格からくるものなのか、あまり泊りがけで出かけることがないことも影響しているのかもしれない。映画館のものによく似たシートは快適で、長時間座って観戦しても疲れを感じにくい上質なものだった。

 

 「そうね、素人考えでも五人のうち四人が区間トップなんておかしいってわかるわ」

 

 ため息まじりに愛理が返す。その表情はなにか当てが外れてしまったような、そういった複雑な表情をしている。それでもまだ彼女を形容するなら美しいという言葉がぴたりとあてはまる辺り、一般的な顔立ちからは相当に逸したものだということがよくわかる。隣にいるのが八雲ということもあって、周囲のこっそりとした視線を集めつつあった。

 

 「……あの、監督ってことは」

 

 「それはないと思うわ。前に自分より部員のほうがずっと強いって言ってたもの」

 

 八雲の聞きたいであろうことを察して愛理が先回りの返答をする。その疑問は愛理自身も持ったものだったから、このタイミングで八雲が何を聞きたがるかなど手に取るようにわかった。だからといってそれに納得しているかどうかというのはまた別の話で、正直なところ、愛理は拳児が大阪の高校の麻雀部の監督なんてやっていることにまだ違和感があった。本人が理由を話さない以上はどうしようもないが、愛理からすれば拳児の今の状況には理由がひとつも見当たらない。ゴールデンウイークに訪ねたときには “播磨拳児(ヒゲ)だから” という理由で強引に納得もしたのだが、冷静になってみるとどうもそういうわけにはいかなかった。

 

 愛理にとってもっとも不満だったのは、かつてはもっとも身近でさえあった男が同じ建物の中にいるというのに、手が届かないくらいに隔絶された場所にいると()()()()()()()()()()()()ことだった。その感覚は、愛理でさえも何度か味わったことのあるものだった。喉の奥にじんわりとした苦味が走って、開いていたはずの手がいつの間にか軽く握られていた。

 

 

―――――

 

 

 

 「はやー……。これは期待以上って考えてもいいかも……」

 

 観客席との中継を切った解説席で、瑞原はやりは誰に聞かせるともなくつぶやく。しかしそんなつもりはなくてもまだ隣の席には実況を務めてくれたアナウンサーが座っており、興味津々といった表情ではやりの顔を見つめていた。これは余計なことを口走ってしまったかな、と内心で反省をしながら、はやりはとりあえずにっこりと微笑みを向けてみた。もちろん彼女が望んだ効果など得られるわけもなく、あくまでオフレコであるということを約束した上でおまけの解説をすることになってしまった。

 

 「でも点差で見ればあり得ないというほどではありませんよね? 大差ではありますけど」

 

 「正直に言えば点差はどうでもよくって、次鋒から全員が区間トップっていうのが大事かな☆」

 

 次第に彼女の顔が、頭脳派として名を馳せるトッププロのものに変わっていく。かわいらしいと表現するべき顔立ちが変わるわけではないが、明らかに纏う雰囲気がテレビの向こうを意識したものとは質を異にしていくのがわかるのだ。

 

 「たしかにそれもすごいことですが、……どういうことでしょう?」

 

 「単純に言えば団体戦ってみんなが強ければそれが理想ですよね? それなら点も獲れますし」

 

 「ええ、でも姫松ほどのチームであれば初戦ならそう珍しくはないのではないでしょうか」

 

 「それには姫松の選手たちが全力を出した結果ならば、という条件が付くんです☆」

 

 ぴん、と指を立てて、ここがポイントだと強調するようにアナウンサーに向かって話を続ける。牌のおねえさんなどという立場からくる職業病のようなものなのだろうか、いつの間にか体の向きもしっかりと修正されていた。ファンでなくとも憧れてしまうような、超一流の選手からマンツーマンで話を聞けるというこの状況にアナウンサーはまだ気付いていない。

 

 「……力をセーブしてあの結果だと仰るのですか?」

 

 「あくまで個人的にはですが、はやりにはそう見えました」

 

 彼女の頭が回転し続けていることを、アナウンサーはそれとなく感じ取っていた。聞いたところによると、彼女は脳の中でまったく同時に別の物事を考えることが可能であるらしい。

 

 「……とても信じられませんね」

 

 「初戦を中堅でトバして勝ち上がった清澄とは違った意味でコワい学校だと思います☆」

 

 両手の指をかぎづめのように曲げて顔の斜め上にやり、いかにも子供向けの怖いポーズをとって話を続ける。こういうポーズをとる時だけは雰囲気をやわらかいものに変えるため、彼女と話をしていても緊張しすぎるということがない。こういうところが人気の秘訣なのかもしれない。

 

 「やはり播磨新監督の影響があるのでしょうか」

 

 「うーん……。あそこには赤阪郁乃ちゃんもいるから判断が難しいんですよね……」

 

 「一時的に監督代行を請け負っていたという?」

 

 「そうです☆ その彼女より上の指導力となるとそう簡単には見つからないはずなので」

 

 「そんな方が監督を降りたんですか」

 

 「そうなると、はやりとしてはモチベータ―というのが考え得る彼の像かな、と」

 

 はやりはそこまで話すとひとつ息をついた。ここまで話はしたものの確証があるわけではない。本当に赤阪郁乃より指導力に優れている可能性も捨て切れるものではないし、出そうと思えば他の可能性などいくらでも出せる。そんな答えの出ないことについて考えるよりも、録画してある別の初戦の映像を見ているほうがはるかに有益に思われた。

 

 四月にその存在が発表されてあれだけ騒がれておきながら、未だにその経歴のしっぽすら掴ませない播磨拳児という男は、プロ雀士としての瑞原はやりから見ても異質なものだった。そもそもがプロアマ通してどころかあらゆる業種の人間が彼の存在を誰も知らなかったということがおかしいのだ。理沙はどうやらある程度のことを知っているようだが、いつ尋ねてみても “秘密!” と言って教えてくれない。彼に関する謎は、もはや高校生が頭を抱えるレベルを超えてしまっていた。

 

 

―――――

 

 

 

 姫松の団体メンバーが宿泊している部屋の調度は変に凝ったものがなく、肩肘を張らずに休めるという点において高校生に適したものだった。そのぶん広さが十分にとられているため、休憩するにも集まって会議をするにもうってつけのものとも言えるだろう。部屋に宿泊している五人に拳児と郁乃を加えた七人が、備え付けのソファや椅子、あるいはベッドの上に座っている。その表情は様々で、機嫌の良さそうなものからひどく疲れた様子のものまでと実にバラエティに富んでいる。

 

 「あれ~? 末原ちゃんそんな疲れた顔してどうしたん~? 反省会しんどかった~?」

 

 郁乃がそう水を向けると、恭子は弱弱しく笑いながら答えた。

 

 「や、恥ずかしい話ですけど、大将って思てたよりプレッシャーかかるもんやな、と」

 

 それを聞いた仲の良い同級生の二人がにやにやと笑いながら、珍しく疲れたと口にした恭子の傍へと近寄っていく。彼女たちなりに元気づけるつもりなのか恭子を中心に二人は両脇に座り、突然わき腹をくすぐり始めた。ほとんど悲鳴のような叫び声をあげつつ助けを求める恭子に救いの手が差し伸べられることはなく、たっぷり二分ほどくすぐられてようやくそれは収まった。

 

 「な、いきなりなんですか主将! 由子まで! 殺す気か!」

 

 「これだけ元気なら心配する必要はないと思うのよー」

 

 「ホンマやな、それに元気有り余っとんのに弱気発言はダメダメやで、きょーこ」

 

 呼吸が苦しかったのか真っ赤な顔にうっすらと涙を浮かべながら怒る恭子を、洋榎と由子はどこ吹く風と受け流す。間違いなく恭子に対しての洋榎と由子だからこそ許される振舞いなのだろう。ふわりとした笑顔の由子に対して洋榎はしたり顔をしているのだが、そこにどんな意味があるのかはおそらく本人にしかわからないだろう。

 

 目の前で行われていた愉快なじゃれ合いを見ながら、拳児はじっと黙って考え込んでいた。実は反省会の段階から一言も発していないのだが、名門たる姫松高校のメンバーは多くの場合、自力で修正するべき点を見つけ出してしまう。それ以外はコーチ役の郁乃が請け負ってしまうため拳児の出番は無い。当然のことながら技術的な側面で拳児がアドバイスを送るようなことは存在しないのだから正しいかたちと言えば正しいかたちなのである。

 

 一方で人の感情の機微に疎いくせに妙な部分で鋭いところのあるこの男は、末原恭子に関してのひとつの懸念を抱いていた。そういえば彼女と似たタイプの知り合いがいるな、と考えるがすぐに拳児は頭からその男の存在を振り払った。アレは少々どころかかなり特殊な存在だ。拳児は決して口にすることはないだろうが、あの男ほど肉体的にも精神的にもタフな男を思いつけないというのは嘘のつけない事実であった。ひとつ息をついて横に逸れた思考を戻した拳児は、部の監督として恭子に声をかけた。

 

 「オウ、末原」

 

 「なんや」

 

 まだ気が収まっていないのか普段より強い語調で恭子が返す。

 

 「オメーよ、勝ち負けにそれ以上の意味のっけんのは止せ。そのうち足が竦むぞ」

 

 「……なんやそれ。いまいち要領を得んなぁ」

 

 聞くには聞いたが本当にどういう意味なのか測りかねたように恭子はため息をついた。変わらず笑んでいる郁乃はよくわからないが、部員の中で由子だけは拳児の意図を察したようだった。

 

 恭子は自身の武器を “どんな状況においても考え抜くことのできる冷静さ” だと思っている。よく主将である洋榎が口にする、最悪をも想定して動くことができる能力というのも恭子の武器の副産物に過ぎない。ただ最悪に怯えるのではなく、それを考慮に入れて戦うことができることこそが彼女の強みなのである。もちろんそれはきちんとした技術に裏打ちされたものであり、だからこそ恭子は団体戦の大将に選ばれている。チームの勝利を第一に考えたときに彼女がその位置に座ることは、拳児と郁乃の判断が完全に一致した部分でもある。

 

 今ひとつ納得のいかない表情を浮かべていた恭子も、結論が出ないと割り切るや否や話題を個人ではなくチーム全体としての戦い方の感想に切り替えた。

 

 そこでも話し合いは途切れることはなかった。チームの浮沈を左右するのは個人個人ではなく、中堅である洋榎を除いた全員の頑張り次第になるという結論で落ち着いた。これは洋榎が恒常的に活躍するという絶対的な信頼感のもとでの結論である。ほとんど話すことのなかった拳児の聞いていた印象としては暗いものはなかったように感じられた。たしかに漫を除けば揃って区間トップを獲得できたのだから悲観する意味もないだろう。それにただひとり三着だった漫も “爆発” をすることなく他校のエースを相手にその順位だったのだから、これから先に期待が持てるというものである。

 

 もちろん先に反省会が行われたように修正するべき点はどの選手にもあった。いかに高校トップクラスと呼ばれる選手であっても、周囲の場の状況まで完璧に把握し、かつ適切な判断を下すのは困難なのである。それらを埋めるのは地道に積み重ねた経験か、あるいは外から見れば呆れてしまうほどの強運を掴むしかない。最終的に結果論だと言われることも珍しくないが、ある意味それはその通りであって、そもそもそうでなければ牌譜や資料としての試合映像が残るわけがないのだ。それは世界中の誰であっても完璧な解答にはたどり着けないことをしっかりと証明している。

 

 

 「次は永水と宮守と、……おい真瀬、これなんて読むんだ?」

 

 「きよすみ、って読むのよー。って何気にここかなり怖いとこなのよー」

 

 いつもの調子で漢字の読み方を聞くと由子が珍しい反応を返した。同調するように恭子が頷いている。漫と絹恵の二人はぴんと来ていないようで、きょとんとした顔をしている。洋榎は顔つきを変えたわけではないが、わかっていないわけではないようだ。それどころかどこか楽しそうにさえしている。

 

 「あー、たしか初戦でどっかトバして勝ったんだったか?」

 

 「それ以前に長野の代表って時点で警戒には値すると思うのよー」

 

 去年までのインターハイについてまるで勉強してない拳児には、由子の言っていることの意味がまるでわからなかった。それに対して二年生の二人は長野の代表という言葉を聞いた途端に納得の表情を浮かべた。さすがに一年前のインターハイを象徴する怪物を擁した学校は忘れようにも忘れられないだろう。しかもその怪物は彼女たちと同い年なのだからなおさらだった。そして長野県の代表ということは、その怪物を抑え込んで全国の舞台に上がってきたことを意味しているのだ。

 

 二回戦とは、少なくとも麻雀におけるインターハイにおいてのという意味だが、一般に思われているより遥かに厳しい戦いである。どこの山でもシード校と、一度は全国に出てきた学校を相手に勝ち上がってきた学校との戦いになるからだ。それはどこの学校も全国で戦い抜けるほどの武器を備えていることを意味し、また気を抜かなくともシード校でさえ負ける可能性が常に付きまとう。そういった意味でどこが相手でも警戒するのは当然であり、どこの学校も戦術面においては謙虚であることを要求される。手の内を晒しつつ勝ち上がっていかねばならないこのトーナメント形式は非常にシビアなものであると言わなければならないだろう。

 

 「まあまあ、二回戦まで日はあるし、明日きちんとよその研究しよな~」

 

 郁乃の鶴の一声でその日は解散となり、他校についての話はまた翌日へと持ち越されることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 




朝顔の巻については本編未収録です。
ごめんよ!


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21 そうやって世界は色づいて

―――――

 

 

 

 夏の盛りとは、朝の九時にもなってしまえば昼日中と気候条件にそう変わりがなくなってしまうことがザラにある恐ろしい季節である。今日もまた胸のすくような青空と、いっそ清々しいほどの強い日差しが東京にいる人々を包み込んでいる。道路も歩道も、その間を区切るように設置された植え込みも、一様に太陽の光を浴びてまぶしく光っている。

 

 インターハイが開催されているホールへの道は正方形の白いタイルが敷き詰められており、その色調はホールのものと相まって、よく晴れた日の青空にもっとも映える。そのタイルを踏みしめる人々の数は多く、どうやら本日もインターハイは大盛況であるようだ。

 

 その、ホールへと続く道にひとりの少女の姿があった。女性としては少し高めの背に、すらりと長い手足。頭の後ろ半分の黒髪をお団子にまとめ上げ、前半分をカチューシャで整えている。少しひやりとした印象を受ける顔立ちも人目を引くのには十分ではあったが、それ以上に彼女の肩書が彼女にただの少女でいることを許しはしなかった。

 

 昨年に行われた十五歳以下でのアジア大会における銀メダリスト、それがこの国の麻雀界隈での郝慧宇に対する評価を決定していた。郝本人の目的は日本で麻雀を打つことにあるのだから、そういった評価を受けること自体に否やはない。しかしその一方で、目的意識がはっきりし過ぎているせいか、彼女は麻雀に関すること以外に対する興味がかなり薄く、例えば郝自身が注目の的であるということにはまるで無関心だった。その点だけを抜き出して見れば、拳児とよく似ていると言うこともできるかもしれない。

 

 足取りは軽くも重くもなく、至って普通のものだ。ちょうど太陽を背にして歩いているためか、強すぎる日光に顔をしかめるということもない。開場直後の時間に比べて、ホール周辺の人の数はまばらだ。多くのファンは良い席を取るために開場前から並ぶのが常となっている。大会前に智葉からそのことを聞いていた郝は、わざと時間帯を少しずらして来たのである。わざわざ好き好んで人ごみに突っ込む物好きもいないだろうと郝は考えているのだが、その辺りは大会出場者と観客の間に横たわる認識の差というものなのだろう。

 

 自動ドアをくぐってすぐわきにある売店で飲み物を買って、どこの学校が試合をしているのかを確かめもせずに郝はスクリーン会場へと入っていった。座席が空いていればそこに座るし、空いていなければ別の会場に移動するつもりだった。だから彼女が適当に選んだ会場に、ある一人の男を中心に二つないしは三つほど座席の空いた奇妙なスペースがあるなどとは、冗談としても考えすらしなかった。せっかく席が空いているので、郝はとりあえずそちらの方に向かうことにした。

 

 

 「おや、老ではありませんか。こんなところで何を?」

 

 「……オメーか」

 

 隣の郝を除いて周りの座席に誰も座っていないことからも明らかなように、播磨拳児は周囲から距離を取られていた。高校生にして監督という彼の特異な経歴は人々の興味を集めるが、そこから一歩先に踏み出すにはかなりの勇気が要求される。なにせ見た目はどう見ても不良なのだ。拳児がテレビや雑誌の向こうにいたときは “たかが高校生だろ?” と発言をしていた者も、実際に彼を見るとどうやらその余裕はなくなってしまうものらしい。残念なことにそういった経験の豊富な拳児は何を気にするでもなく、ただスクリーンに映された試合映像を眺めている。

 

 そこに臨海女子の郝慧宇が来たものだから、周りに座る観客たちの緊張は高まらざるを得なかった。外から見れば臨海女子と姫松というおそらく決勝に残るであろう公算の高いライバル校同士の接触にしか見えないのだから。その二校が合同合宿を行ったことなどもちろん知るわけがないし、ましてや拳児と郝のふたりの関係性など考えが及ぶべくもない。

 

 「勝ち上がってきそうな学校の研究、……というわけでもなさそうですね」

 

 「そりゃ赤阪サンと末原と、あとは出番のねえ一年二年の仕事だ。俺の出る幕はねーよ」

 

 「なるほど、後進の育成は大事ですね」

 

 スクリーンではちょうど先鋒の前半戦が終わったようだった。隣に座る男が何かを言いたそうにもごもごと口を動かしていたが、郝はあまり気に留めなかった。郝個人としては拳児とあまり話をしていないのだが、不思議とこうしてやり取りをすることに違和感を持たなかった。もしかしたら自身のチームの主将である智葉に怒られながらも拳児に電話をかけさせて、その話を面白おかしく聞き出していたことが影響しているのかもしれない。もちろんそのあとでチーム全員が智葉に追いかけ回されたことは言うまでもない。ちなみにそれは何度も繰り返されたので、意外と智葉本人も楽しんでいたのではないかと郝は睨んでいるのだが、そこの真相はつかめないままである。

 

 会話をしているわりには視線をこちらに向けない拳児の対応に、郝は気を良くしていた。たとえ注目の的であることに無関心であっても周囲から視線を浴びていることは誰でも気付く。それこそ視線を気にすることなく落ち着いて話すことのできる拳児という存在は、図らずも会話を楽しむ相手として最善であった。

 

 「姫松のメンバーの調子はいかがですか?」

 

 「……それも俺に聞くことじゃねーよ、あいつら本人に聞きな」

 

 「ま、それもそうですね」

 

 「つーかビデオかなんかで試合観てねえのか?」

 

 合間にストローに口をつけつつ、二人の会話は進行していく。意外なほどに彼らの周りは静かだった。あるいは拳児と郝の邪魔をするまいと考えているのかもしれないし、重要な情報が出てくるかもと考えて盗み聞きを企てているのかもしれない。実際は観客に割れたところでどうなるというものでもない上に、どちらもそこまで重要な会話をしているつもりもないのだから、無駄な徒労に終わることは明らかだった。

 

 先鋒の前半戦が終わって以降のスクリーンは、各校の点数を映していた。現状を把握するのには必要なものだが、これからどうとでも展開は変わるため、ある意味においては意味がない。一方で誰もいない卓を映したところでどうにもならないのだから、これしかないという選択肢でもある。つまるところ対局と対局の間は暇なのだ。

 

 「おそらく今夜まとめて観ると思いますよ」

 

 「そうか」

 

 「そういえば老はなぜこちらにお一人で?」

 

 珍しく拳児が言葉に詰まった。言いづらいことというよりは、どう言ったものかと思案しているような印象を受ける。

 

 「…………研究だの調整だのには俺の出番がねーんだよ。いちおう夜に映像だけは観るけどな」

 

 「調整でも、ですか?」

 

 「あ? そりゃそうだろ。俺とあいつらじゃそもそもハナシにならねえんだからよ」

 

 不思議そうな表情で尋ねる郝に対して、拳児もどこか違和感を覚えながら返す。

 

 「なるほど、老は加減のきかないタイプということですか」

 

 拳児は郝までもが自身に対して間違った像を抱いていることに気が付いていなかった。なぜなら勘違いを起こすほどの接触を持っていなかったのだから。拳児と郝のつながりは臨海女子での合同合宿でせいぜい言葉を二言三言交わしただけで、それ以上の要素はない。少なくとも拳児にとっては。もっと言えばその時の会話の中で、拳児は “そういう練習方法があるのか” と尋ねたほどであって、下に見られることはあってもその逆はどう考えてもあり得ないことであるはずなのだ。

 

 深いため息をひとつ。経緯はよくわからないが、郝は姫松の部員たちと同じように思い違いをしているようだった。彼女が頭から爪先まで完全に信じ込んでいるだろうことは先の発言から容易に推察できたし、同時にそれを訂正することが非常に難しいだろうことも理解できた。半分くらいは諦めの境地に達している拳児は、珍しく自分から話を振って話題を変えることにした。

 

 「そういやオメーらよ、まとまって動いたりしねえの?」

 

 「はい、試合や練習なら集まりますが、それ以外はけっこう思い思いに過ごしていますね」

 

 大して真面目に考えていなかった質問だったが、その返答は予想外に拳児にとって興味深いものであった。拳児から見た女性 (大抵の場合は女子高生ではあるが) というのは基本的に群れるものであり例外はほとんどなかった。それは矢神にいた頃も姫松に在籍している現在も変わらない認識である。そのこと自体にどうこう言うつもりは拳児にはないが、郝の返してくれた答えはある種のカルチャーショックであると言ってもいいだろう。

 

 以降もぽつりぽつりとではあるが言葉が途切れることはなく、ことによると一悶着でも起きるのではないかと警戒していた周囲が肩すかしを食らったかのような気がするほどに弛緩した雰囲気がそこにはあった。しかしそれでも彼らの肩書は一般の人にとっては眩しすぎるのか、拳児を中心に空いた座席は彼が昼食のために外に出るまで埋まることはなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 麻雀のインターハイ、その中でも特に団体戦の序盤は日程にかなり余裕ができる。第一に麻雀を十分に楽しむためには現在の主流となっている東南戦か、あるいは各人に一回は親番が回ってくる東風戦が要求されるだろう。ちなみに前者は親番が二度回ってくるものであり、どちらかといえばそれを指して半荘と呼ぶ方が世間に浸透している。この半荘を回すのに動作の早いネット麻雀でも三十分以上かかるのが普通であって、実際に対面して打つ場合はそれより時間がかかるのが通常である。ここで団体戦のルールを確認すると、各校五人の代表選手がそれぞれ二半荘を戦って、与えられた十万点の持ち点を増やさなければならない。当然のことながら、それは先鋒から大将までの順番に行われる。これは横並びに試合を行ってしまうとチーム内の点数の把握ができなくなってしまうことを考慮しているためである。

 

 以上のことから一試合にかける時間は半荘ごとの休憩時間も含めてかなりかかってしまうため、団体戦は多くても一日に三試合を行うのがやっとなのである。また、四校から揃わなければ試合が行えないという麻雀特有のルールからなる特殊なトーナメント形式から考えて、一回戦はシードの直下の一つのブロックごとに行われることになっている。まとめてしまえば、シード校は四つあるのだから一回戦もそれに準じて四日間で行われるということである。

 

 

 姫松のいるブロックの一回戦は大会三日目にあり、また二回戦は大会六日目に予定されている。たしかに対戦相手は三校の都合十五人になるが、その対策を伝えるためだけに丸二日を使い切るというのも考えにくい話である。したがって本日は姫松高校にとってはまったく予定のない一日であり、だから拳児は朝からひとりで観客席に座っていたのである。

 

 会場に残ることを選んだ郝と別れた拳児は外で昼食を摂って、さてこれからどうするかと思案をしていた。ここにバイクでもあれば東京の街を流すなんて選択肢もあったのかもしれないが、今はそんなものなど手元にない。それ以外にやることなど拳児にはせいぜい観光くらいしか思いつかないが、それについては今のところ興味が湧いていなかった。行ってみれば案外と楽しめるのかもしれないが、一歩目を踏み出そうとしないのだから話にならない。結局やることがまるで思いつかなかったため、拳児はインターハイの行われているホールへ戻ることにした。どこか一つくらいは席が空いているだろうし、場合によっては立ち見でも構わないかと考えていた。

 

 拳児がいつものように視線を集めつつ観客席の入口を目指して歩いていると、視界の中にぴたりと足を止めた女性が入り込んだ。大阪では周囲が慣れていたのかそうでもなかったのだが、東京へ来てからは今のように足を止めて見られるということが多くなっていた。だから別にそのこと自体は不思議なことではないのだが、ならばなぜ拳児の視界にその女性が入ってきたのか。それは拳児が記憶から消し去れないほどに世話になり、またいろいろと巻き込んでしまった人だったからだ。

 

 「あ、播磨さん……」

 

 「おお! 妹さんじゃねーか! ナンでこんなとこに?」

 

 いま目の前にいる塚本八雲と拳児の間には、本当に多くの出来事があった。そのせいか愛理とは違った意味でこのふたりは自然に接することができる。仮に拳児に “いちばん気楽に話せる女友達は誰か” と聞いたら、おそらく八雲の名前が挙がることだろう (理想は彼女の姉だろうが)。あるいは拳児の認識の上では、動物を除いて臆面もなく友達だと言えるのは彼女だけの可能性すらある。もちろん実質的に友人と呼べる人間はそれなりにいるのだが、姫松はともかくとして矢神の人間に対しては拳児が意固地になって認めないだろう人がそのほとんどなのである。言ってしまえば愛理もその一人であるが、どのみち彼女も素直には認めないだろうからお互い様である。

 

 「その、播磨さんの応援に……」

 

 「そーか! つーこたぁ麻雀ってのは本当に流行ってんだなァ!」

 

 「えっ、あ、その」

 

 「俺ゃニュースも新聞も見ねーからよ、全っ然知らなかったぜ」

 

 八雲の意図するところとは違うのだが、拳児はまるで取り合わない。拳児が滅多に見せないその朗らかさが、八雲にはひどく辛かった。いくつかのことが()()を証明しているというのに、それを認めたくないと思ってしまうことを責めることはできないだろう。またそのことを口にするには、八雲はあまりにも無知で、あまりにも無垢だった。

 

 拳児の見た目は三月の終わりとまるで変わりがなかった。それこそこのまま矢神に連れて帰っても、何らの問題もなく景色に馴染むだろう。そのことが八雲には余計に悲しいことに思えて言葉に詰まった。空調の音がすこし大きく聞こえる気がした。

 

 「ま、今でこそ監督なんてモンになっちまったけどな」

 

 「あの、播磨さんはどうして監督に……?」

 

 ( 天満ちゃんのためと言いてえとこだが、この想いは絃子以外にバレるわけにはいかねえ……!)

 

 従姉である絃子どころか、本人を含むその周辺にその想いが知られていることを拳児はきちんと把握していない。矢神から出る数日前に愛理に殴られた際にそれがバレていることを匂わせるような発言があったのだが、あの時はそれどころではなかったせいで記憶が曖昧で、どうにも拳児にはその辺りがはっきりしないのだ。拳児は考えてもしょうがないと判断したことについては考えない性格だから、基準が明確になるだけいろいろと取りこぼしが出るのである。

 

 「俺が、一歩先のステージに進むためだ」

 

 「一歩、先……?」

 

 「ああそうだ妹さん。俺は立ち止まるわけにはいかねえ」

 

 言葉の響き方というものは、その人間の置かれた境遇やそれまでの経歴によって異なってくる。拳児は世界的に注目を浴びている今年のインターハイ優勝という手土産を持って塚本天満に会いにいくことを “一歩先のステージに進む” と表現した。このことはもちろん拳児以外には知ることはできないし、推測するのも不可能だろう。そもそもそれが女性に対するアピールになるのかどうかすら怪しいところである。拳児のその短絡的思考にたどり着けない八雲は、彼の発言に違う解釈を与えざるを得なかった。これについては誰に責任があるとも言えない。

 

 ( ……もし、播磨さんが過去に区切りをつけて前に進もうとしているのなら )

 

 八雲にはどこか播磨拳児という男を美化しがちなきらいがあった。一年間という短い期間の中で信じられない数の誤解を受け続けた拳児の正しい立場を数多く見過ぎたことも原因の一つだろう。彼は同情に値するようなひどい勘違いを受けたこともあった。自業自得としか呼べないような事態を引き起こしたことも間々あったが。

 

 ( 私は、どうするの? 変わるって決めたのに……!)

 

 ぐっと拳を握りしめて、拳児は心を決めたときの表情を浮かべている。ひとつの目標に向かって進む人間にしかできない、八雲からすれば特別なものだ。この表情ができる人間は、何より自分の心に負けることがない。失敗するかもしれないという恐怖心と戦い、打ち勝つことができるのだ。自身の姉と拳児の持つそれに憧れた八雲は、その表情に背中を押してもらったような気がした。

 

 話を見聞きしている限りでは拳児の監督代行業は順調なようだったが、それでも八雲は前に進むためにこの言葉を口にしなければならなかった。

 

 「あの、何かお手伝いできることは……」

 

 八雲はこれまで同じ言葉を何度も使ってきたが、今日この瞬間のこの言葉だけは意味が違っていた。今までふわふわとして定まらなかった想いに明確な意味を乗せたのだ。引っ込み思案であったことも、状況に任せて自らは動かない卑怯者であったことも認めた上で、それを乗り越えるために通らなければならない道だった。そうでなければ播磨拳児という男には、絶対に届かない。

 

 そんな彼女の決意など当の拳児は知る由もない。拳児は人の心情の機微に敏いわけではないし、いつかの愛理の評にあったように気が利くわけでもない。手を顎にやって少し考えて、何でもないように答えを返した。

 

 「や、別にねーよ。それに麻雀でまで妹さんに迷惑かけるわけにゃいかねーしな」

 

 「……そう、ですか」

 

 二人のいた廊下はその人通りもあって終始ざわついていたが、不思議とどちらの声も邪魔されることはなかった。外とは違う気温のせいなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。拳児の声は普段よりいくらかやさしくて、あまり聞き慣れないものだけに少しだけくすぐったかった。拳児からすれば気を遣ったつもりなのだろう。効果があるのかは定かではないが、その言葉が本心からのものであることが十分に伝わるものだった。

 

 結果こそ伴わなかったものの、八雲の起こした行動は八雲自身にとって大きな意味を持ったものだった。ついに彼女の心に色がついた。初めて誰かのためではなく、はっきりと自分のための想いを自覚した。それは誰であっても触れることさえ叶わない、八雲だけの大事なものだ。

 

 塚本八雲は、播磨拳児に恋をした。

 

 

 

 それから宿泊しているホテルに戻るという八雲を見送って、さっさとどこかのスクリーン会場に入ろうと動き始めた拳児の背中を誰かの手がぽんぽんと叩いた。拳児にとってはひどく珍しい体験である。何せ見た目が見た目なのだ、ボディタッチに分類されるこの種のコミュニケーションなどとんと記憶にない。それを実行できる人間という条件で考えれば実行犯はかなり絞られる。

 

 そのまま背中の方を振り返ると、もうこの四ヶ月で見慣れた顔のうちのひとつがそこにあった。ほとんど黄色に近い髪を両耳の辺りでお団子にまとめ、前髪を額に垂らさないように流す特徴的な髪型をしたクラスメイトの少女である。

 

 「ンだ、真瀬か」

 

 「ズイブンなご挨拶なのよー。ね、そんなことよりさっきの美人さんはいったいだあれ?」

 

 楽しそうに目を輝かせながら由子は尋ねる。

 

 「チッ、見てやがったのか。ありゃ知り合いの妹さんだ」

 

 「ふうん。ねえ、あなたって美人さんに縁があったりするの?」

 

 ついさっきまでしていた楽しげな表情を急にニュートラルな表情に切り替えたものだから、その顔には妙な迫力があるように感じられる。実際には決してそんなことはないのだが。幻想の迫力にちょっとだけプレッシャーを感じつつ、拳児は彼女の質問に対する返答を口にした。

 

 「あ? 知らねーよ、つーか意識したこともねえ」

 

 「えっ、ひょっとして男色とか……?」

 

 「んなワケあるか! バカなことを言ってんじゃねえぞ!?」

 

 必死に否定する拳児の美意識の基準はただ一つ、塚本天満なのだ。だからそれ以外の要素などは二の次以降の話であって、一般的な美人であるかどうかは彼の評価基準にすらならない。これこそ拳児を拳児たらしめる要素であって、他の誰にも真似できるものではない。もし、拳児の心の中を余すことなく由子に伝えることができれば、きっとその純粋さに感動し涙を流すことは疑いようがないだろう。しかし現実にはそんなことはできない。由子は彼の想い人の名前も、その人に対する想いの深さも決して知ることはない。なぜなら拳児が話さないのだから。

 

 拳児のあまりの必死さが滑稽だったのか、由子はにっこりと笑顔を浮かべて頷いた。もちろんのこと由子はそんな疑いは初めから持っていない。からかってみたら思った以上に効果があっただけの話である。せっかくだからということで、由子はもう少し拳児をおちょくってみることにした。ちなみに拳児に対してこうした態度を取るのは、姫松でも真瀬由子ただ一人である。

 

 「えー? でも美女を意識しないってすごく難しいと思うのよー」

 

 「そりゃ俺の勝手だろーが! ほっとけ!」

 

 機嫌を損ねたのか、ふん、と鼻息荒く歩き出した拳児の後を由子が追っていき、なんとか宥めてその場は治めたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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22 二回戦①

しばらく対局中心のお話になりますが、お付き合いのほどよろしくお願いしまそ。


―――――

 

 

 

 ( 播磨先輩が言うには大将戦よりはマシやってハナシやけど…… )

 

 選手控室にのみ流れる館内放送でのコールを受けて、先鋒のポジションを務める上重漫が廊下を歩く。大会の運営が気を利かせているのか、基本的に控室は学校ごとに離れた位置に指定されているために選手同士が廊下で鉢合わせになるということはない。一人で無機質な廊下を抜けて戦場へ向かうこの時間帯が、最後にあれこれと考えることを許された時間だ。大抵の選手はここを通ってしまえば思考がシンプルになる。如何にして勝つか。もちろん勝つためのプロセスとしての思考は為されるものの、麻雀以外の余計なことに気を回す余裕がなくなるという意味である。

 

 廊下はしん、と冷えている。空調が効いていることはもちろん、太陽の光が届かないと意識している心理的な効果もあるのかもしれない。空気は作りたてのように清浄だ。もう二回戦なのだから一回戦のときにかすかに体に残っていた悪い緊張はなくなっている。“爆発” が発生するかはわからないが、漫本人から見て調子に問題はなさそうだった。

 

 ( 裏返せばけっこう厄介やいうことやし、気合い入れなな )

 

 

―――――

 

 

 

 「漫ちゃんは誰を警戒するべきやと思う?」

 

 「うー……、誰って指定するの難しないですか」

 

 どこから借りてきたのか、キャスターのついたホワイトボードの前に立って恭子が問いかける。それに対する漫の返答ははっきりしたものではない。前日に観た試合映像を踏まえているからこそ答えに詰まるのだ。先鋒戦にはなんともバラエティ豊か、いや異端とさえ言ってもいいかもしれない面子が揃っている。なぜか東場だけその猛威を奮う清澄の片岡優希、奇妙なタイミングで長考に入っては首をひねりたくなるような打牌を見せて和了る宮守の小瀬川白望、極めつけは眠った途端に神憑り的な強さを見せる永水の神代小蒔である。この中で誰を、と言われてもそれぞれ条件を備えているのだから継続的にマークするのも微妙に思えて仕方がない。

 

 他の団体戦メンバーも同室してはいるが、各々が牌譜の確認をしたり郁乃と話し合ったりしている。漫のための戦略会議に参加しているのは当人である漫と恭子と、あとは拳児であった。相手の特徴やクセを検討しつつ対策を練るのだが、それを自身含めて五人分もやるのだから恭子の負担はかなり大きいのだろうと漫は思っている。もちろんメンバーから外れた部員が手伝っているというのは知っているが、考察の水準において恭子の域に達している人はさすがに存在しない。

 

 「まあ漫ちゃんの言うこともわかる。それでも動向に注目するんやったら宮守やな」

 

 「宮守、ですか」

 

 漫からすれば意外であった。たしかに不思議なプレイヤーである上にきちんと数字も残しているが、他の二人に比べれば印象が薄く感じるのは否めないところであるからだ。

 

 「考え方としては消去法なんやけどな」

 

 気の毒そうな視線を投げつつのセリフは、とてもイヤな予感のするものだった。こういう表情を浮かべた恭子はめったに見られるものではない。それ以前に身内に向ける類のものではないだろうし、明日その試合を控えている後輩相手ならばなおさらである。

 

 「消去法てどういうことです?」

 

 「清澄のは東場でも完璧ちゅうわけやないみたいやけど、神代に関してはなぁ……」

 

 「神代に関しては?」

 

 「寝たら漫ちゃんの爆発があっても対抗できるかわからんからな」

 

 

―――――

 

 

 

 昨日のやりとりが脳裏を掠めるなか、漫は対局場へとつながる扉に手をかけた。既にこの大会でこの扉に触れるのは二度目だが、その重みにはどうも慣れなかった。空気を、いや空間をそのまま押し開けるようなこの感覚を正確に表現する術を漫は持たない。体の中の何かが喉の真下までせり上がってくるような気がした。

 

 卓の前には既に二人の代表選手が来ていた。髪を無造作に遊ばせている背の高くてきれいな肌をした、少女と呼ぶには気後れしてしまいそうな少女と、なぜかマントのようなものを羽織っている強気な瞳がいかにも元気の良さそうな少女だ。残る一人はまだ姿を見せていない。漫は軽く会釈をしながら、お願いします、と声をかける。ぼそぼそと呟くような低声と、どこか舌足らずで甲高い声の挨拶が返された。姫松高校は名門だけあって、そういった礼儀はきちんと仕込まれるのだ。

 

 三人が挨拶を交わしたところで、最後の扉が音もなく開いた。考えるまでもなく最後のひとり、今大会で第三シードを与えられている永水女子の先鋒だ。一部で “神降ろし” とさえ噂されている注目選手の一人である。ほとんどの学校が制服で参加するなか、このチームは神職に関係している学校ということなのか、白衣(しらぎぬ)に緋袴という衣装で揃えている。その所作は楚々としており、それが要求される環境で育ってきたであろうことを思わせた。

 

 「どうぞ、よろしくお願い致します」

 

 す、と頭を下げる様子はとてもこれから点の取り合いをするとは思えないほどに穏やかで、漫は毒気を抜かれそうになってしまった。根本的に争いごとに向いていないのではないか、とさえ思わせるこの少女が全国大会の、それも先鋒を務めるというのだから世の中わからないものである。

 

 

 席決めの結果は東から順に清澄の片岡、宮守の小瀬川、永水の神代、そして漫となった。事前に恭子から聞かされた情報のうちに片岡が起家を引く可能性が非常に高いというものがあったため、その通りになったことに小さく感心しながら漫は席についた。始まりに近ければ近いほど力を発揮すると思われる片岡の表情は満足そうで、気合の乗り方も十分な印象を受ける。ちらりと他の席に目をやると、神代が両の拳を握って女の子らしく気合を入れている一方で、小瀬川はただ泰然として席に着いているだけだった。あるいは表情に出ないタイプなのかもしれないが、なんだか漫にはひどく不気味に思えた。

 

 ちいさな指がボタンに触れて、卓の中央で賽がからころと回る。別にその目が重要というわけではないが、それは局の始まりを告げる号砲のようなものだ。山の切れ目を決めて、そこから配牌を持ってくる。たとえ誰であっても配牌に文句を言うことは許されていない。配られたカードで勝負するしかない、とはどこの犬のセリフだったか。漫は意識を卓上へと集中し始めた。

 

 ( ……なんとも色気のない手やなぁ )

 

 漫の手牌はとくに和了まで遠いというわけではないが、鳴けば役無し、鳴かなくても平和くらいしか役のつかない典型的な酷いものだった。翻数を伸ばそうにもドラ傍の牌すらない。ここで無理をしても得にならないと考えた漫はさっさとオリることを決めて、周囲に意識を割くことに比重を置こうと決断した。

 

 場の進行に淀みはない。序盤によくある不要であろう么九牌を切っていく展開からインターハイ第二回戦第三試合先鋒戦は始まった。他家は手に入っていく自摸もあるようだが、漫はオリを選択したとはいえ欲を出したくなるような牌すら引かなかった。オリる決心がぶれないのだから決して悪い引きではないという見方もできるのだが、当人からすればあまり楽しい状況ではないだろう。それはともかくとして、漫の目には次々と手出しで牌を捨てていく片岡が印象深く映った。彼女の手がそれだけ進んでいるということだ。

 

 事前の調査ではこの片岡という選手は東場という限定条件はつくものの、その条件さえ満たしていれば高速かつ高火力を実現することが判明している。さらに鳴きを使う頻度の少ないストロングスタイルでもあり、リーチから裏ドラを絡めてさらに打点を高めるその戦法は、聴牌まで辿りつく速度も考慮すると先手を打って和了るくらいしか防ぐ方法の見当たらないきわめて厄介なものであると言えるだろう。

 

 件の少女が山へと伸び、牌を攫って手牌の上に乗せる。思考時間はほとんどなく、漫から見て右から五番目の牌の向きを変えて河へと捨てた。一連の動作に迷いはない。それひとつでこの空間で戦えることを証明するかのような、自信に満ちた一打だった。

 

 「リーチだじぇ!」

 

 ( 七巡目て……。実際に目の当たりにするととんでもないな )

 

 他家もおそらく対戦校のことは研究済みなのだろう、とくに驚いた様子は見られない。もちろんそれぞれ自分が和了れれば最高だと考えてはいるだろうが、そう簡単にはいかないのが麻雀という競技だ。そういった意味ではここでどのような反応を示すかも、今後を戦う上で大きな判断材料となると言えるだろう。さすがに彼女を研究しているのにこのタイミングで仕掛けるような判断など下すわけもないが。

 

 直後は全員が安牌を捨てて振込みを回避する。打点の高い可能性がある彼女に一発で当たり牌を放り込むなどということは最もやってはいけないことの一つだ。こういうタイプは乗せてしまうのが一番危ない。漫にも通じる部分があるため、実感をもって言えるのだ。

 

 片岡のリーチから他家三人が振込むことなく場を回し、再び片岡の自摸まで戻ってきた。彼女はすぐに自摸の動作に移らずに、漫たち三人を順に見ながら口を開いた。

 

 「おねーさんたちには申し訳ないけど、親番は譲ってあげるつもりはないじぇ」

 

 そう言ってから素早く自摸牌へと手を伸ばし、確認のためにわずかに視線を送っただけで、その手を晒した。

 

 「リーチ一発ツモ、ドラが一つに、……裏ドラも一個乗っけて4000オールだじぇ!」

 

 恭子ならびに郁乃が心配していたのはこの形だ。このタイプの選手は流れが自分にあるときには他家の動向など関係がない。自力で和了牌を持ってきてしまうのだ。これに対抗する手段は明確には存在していない。持ち前の運で張り合う、何らかのやり方で流れを変える、あるいは異能を以てねじ伏せるなどの素案は出るのだが、それらすら乗り越えて力を見せつけるパターンがアマチュアどころかプロでも散見されるのだ。もちろん完成度などの面では比較にならないために同列に語ることはできないが、高速かつ高火力というのはシンプルがゆえに強力であることに変わりはない。

 

 うれしそうな顔をして点棒を受け取るその姿は、強靭なプレイスタイルからはかけ離れた印象を与える。漫自身さほど年齢の差があるとは思っていないが、考えてみれば高校生になったばかりの一年生なのだ。この大舞台でおそらく普段通りに振る舞えているのだろう胆力は素直に称賛すべきだろう。フロックで勝ち上がったわけではないことを、漫は肌で感じ取った。

 

 

―――――

 

 

 

 「なんや、あのちまいの元気良さそうやな」

 

 いきなり派手な和了をしてみせた少女に興味を持ったのか、洋榎が面白いものを見つけたとでも言うように口を開く。冷房のせいで体が冷えたのか、中身の入った湯呑みを両手で包み込むようにして持っている。もちろん彼女も対戦相手のデータは頭に叩き込んであるが、直接はぶつからない相手のものとなるとさすがにそうもいかない。だから片岡の特性について洋榎はほとんど知らず、純粋に強いものだと思い違いをしている可能性は十分にある。

 

 「あの子は南場に入ると集中力のうなるんで、初めのうちは我慢ですね」

 

 それを聞いた洋榎は、ふうん、と少しつまらなさそうに相槌を打った。どのみち対局することはないのだから気にすることはないのだが、どうやら彼女にとっては残念であるらしかった。

 

 「で、きょーこ。漫の相手として見るとどうなん?」

 

 「タイプ的に相性の良い悪いはない思いますよ。爆発がランダムなんが読みにくいだけで」

 

 すらすらと返答が出てくるところを見ると、おそらくシミュレーションのようなことをきちんとやっていたのだろう。恭子の表情には驕りも焦りも見られない。点棒を持っていかれたことに思うところがないわけではないが、いちいちわあきゃあと騒いでも仕方がないと考えているのだろう。

 

 控室の造りは少し横に長い長方形のシンプルなもので、低めのテーブルと明らかに十数人を想定したソファと椅子がリノリウムの床に置かれている。二つのソファに挟まれたテーブルの先にはテレビが設置されており、大概の場合はそこで試合の様子を見るのが常である。拳児もソファからはちょっと離れた位置に背もたれのない椅子を持ってきて、そこからテレビを眺めていた。

 

 

―――――

 

 

 

 スタートを見事な速攻で飾った片岡が一本場も神代に満貫をぶつけるという形で見事な和了りを見せ、第二回戦の先鋒戦は東一局二本場となっていた。既に清澄と姫松の点差は三万近くになっており、そろそろ見過ごせない領域に入りつつあった。当然それは宮守としても永水としても細かな差はあれ大筋の考えとしては変わりないだろう。

 

 ( 親番譲らん、言うとったけど本気で和了り続ける気なんか? 豪気な子やな )

 

 リップサービスなのか本気なのかがわからない時点でおかしいくらいの発言ではあったが、そう思わせるだけのものを少女はたしかに見せた。このままでは良い様に和了りを許してしまうことになるため、とりあえず鳴いて速度を上げることを漫は決めた。以前までは鳴く戦法はあまり得意ではなかったのだが、ゴールデンウイーク以降からは積極的に取り入れるようにした。ベースとなる漫の基礎雀力が向上すれば “爆発” 時にも戦術の幅ができる。これは全国最強クラスと渡り合うために漫が導き出した解答のひとつだ。その真価を発揮するためにもこんなところで沈むわけにはいかない。漫の集中が一段階深まる。

 

 しかしそれだけで配牌や自摸が劇的に良くなる道理もなく、漫の手は速攻にも打点の高い一撃をお見舞いするのにも縁のなさそうなものだった。ならばここは堪えるしかない。無理をすればあの火力に焼かれてしまうかもしれない。速度を求めて鳴けば、代わりに防御が甘くなることは雀士であるのならば誰でも知っている。何かを手に入れるためには何かを捨てなければならない、麻雀における根本的な原理だ。

 

 その局で動いたのは、消去法とはいえ恭子に最も警戒するべき相手とされた宮守の小瀬川であった。軽く手を上げて、ちょっとタンマ、と言ったぎり自分の手から目を離さない。もちろん自分の手について考えを巡らせるのだからそこを注視するのは当然である。だが現段階では誰にも聴牌の気配はない。それは小瀬川自身からも感じられないのだ。たとえば振り込みを割けるために長考をしたり、あるいは手替わりについて考えるのであるならば、長考はそれなりに見られる場面は多いと言えるだろう。だが今の状況はそのどちらにも属していない。ぽっかりと空いた七巡目。まさに奇妙なタイミングであった。

 

 一分近く考え込んで彼女が捨て牌に選んだのは三筒だった。対局室にいる漫の立場からはわからないが、おそらくは観客席にどよめきが起きているであろうことが推測された。小瀬川の奇妙なタイミングでの長考と奇妙な打牌はセットになっていることが非常に多い。その三筒が河に置かれた瞬間に下家に座る神代が反応する。チーを宣言して牌をさらい、代わりに八索を捨てていく。神代も漫と同じく速度で上回るほかないと判断しているのだろう、その動きに迷いは見られなかった。

 

 そのとき片岡が眉をひそめたのを漫は見逃さなかった。流れを大事にする彼女のようなタイプの雀士は、調子が良ければ流れを感じ取れる。それどころか人によっては目に視ることすら可能なのだという。彼女がそこまでのプレイヤーかはわからないが、見るからに調子の良さそうだった片岡がその表情を変えたというだけで流れが本流から逸れたことはわかる。漫にとっての問題は、それが片岡にとって致命的になり得るかということと、それが意図的に引き起こされたものかどうかというところにあった。

 

 ( ……どっちみち攻めるには手も揃ってないしなあ、ここはもうちょっと我慢や )

 

 小瀬川の長考が影響したのかは定かではないものの、片岡のペースは明らかに落ちていた。前の二局ではそれぞれ七巡目と五巡目にリーチをかけて和了ったのが、この二本場では十巡目だというのに未だリーチの発声はない。その間に漫を含めた他家は警戒をしつつも手を進めていた。そしてもう後半戦と呼んでもいい十一巡目、ようやくと言うべきか彼女の手が動いた。

 

 「なかなかいい嗅覚をしているようだが、このゆーき様を止めるにはまだ甘いじぇ!」

 

 威勢よく牌を曲げ、千点棒をリーチの証明として場に供託しようとしたその瞬間だった。

 

 「……そのリー棒はいらない。5200に二本付け」

 

 ぱたぱたと不揃いに牌を倒す。生命の力に溢れたような片岡とは対照的に、どこか冷めたような雰囲気を持った小瀬川の瞳にはさざ波すら立たない。はたしてその和了が彼女にとって当然のものであるからそのような反応を示すのか、あるいはただ単に感情を表に出すタイプではないのかの判断はつかない。確定しているのはいい流れに乗っていたであろう片岡を抑え込んで彼女が和了ってみせたという現実だけである。

 

 自動卓が新たな山を押し上げるまでの時間が、漫には長く感じられた。一回戦も結果が出たわけではないが、それでも漫はこの二回戦に比べれば戦いやすかったと断定していた。まだ先鋒戦開始から三局しか流れていないにもかかわらずだ。親が流れたとはいえ、場はいまだ片岡の領域である東場だ。小瀬川も十全にその力を発揮している。神代はいつスイッチが入るかわからない。タフな状況に漫は小さく笑みをこぼす。これくらい乗り切れないようでは姫松の名に瑕がつく。チームの先鋒としての上重漫の役割は()()()()()()()だ。爆発状態に入ればむしろ突き放すことを考えなければならないが、それは実際にそうなってから考えるべきことであって、いま自分が頭を使うべきなのは小さな和了りでも他家を利用することでもサシコミでも何でもいい、食らいつくことであると漫はしっかり理解していた。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のための点数推移


片岡優希(清澄)  一〇〇〇〇〇 → 一一二〇〇〇 → 一二四三〇〇 → 一一八五〇〇

小瀬川白望(宮守) 一〇〇〇〇〇 →  九六〇〇〇 →  九六〇〇〇 → 一〇一八〇〇

神代小蒔(永水)  一〇〇〇〇〇 →  九六〇〇〇 →  八三七〇〇 →  八三七〇〇

上重漫(姫松)   一〇〇〇〇〇 →  九六〇〇〇 →  九六〇〇〇 →  九六〇〇〇


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23 二回戦②

―――――

 

 

 

 片岡の支配領域である東場が終わって、各校の持ち点はわかりやすく差が開いていた。結果的に小瀬川の長考によって連荘は阻止されたように見えたが、その後も彼女の勢いは止まらなかった。親番を逃して以降も和了りそこねたのは一局だけで、東四局を終えた時点で収支がプラスだったのは片岡だけである。彼女はもともとの持ち点である十万点に三万点強の余剰を乗せてみせた。その仕上がっている状態の片岡を相手に小瀬川は健闘したと言うべきだろう。収支で言えばマイナスではあるものの、それをたったの三百点で抑えたことは十分に評価されるべきである。一方で神代と漫は一度も和了ることなく、それぞれおよそマイナス二万点とマイナス一万点で東場を終えた。

 

 この時点での点数だけを見るならば清澄のリードは疑いようがないが、データ通りであるならばここから片岡は失速する。途端に打牌が甘くなるのだ。したがって彼女のここからの勝負は東場で奪ったリードをどれだけ守れるかということになり、他家の勝負は本来であればそのリードを削りとって逆に主導権を奪い取ることになる。それが先鋒というポジションに一般的に課せられた役割であろう。もちろんそれが全てというわけではなく、例を挙げれば拳児率いる姫松高校は伝統的に例外的な戦法を採っている。団体戦は各校五人がそれぞれ二半荘ずつを戦うのだから序盤も序盤の先鋒戦での遅れなど取り返す機会はいくらでもあると言えるが、麻雀という競技において心理的な影響は軽視できないものがある。なにしろ参加選手はまだまだ精神的に未熟な高校生なのだ。どのような状況でも普段通りのプレーをできる選手など稀である。

 

 

 漫の頭脳は忙しく働いていた。これまではとくに状況を鑑みて動きを変えるようなことはせずにその場その場で打ってきたから、違和感を抱えながらの思考であった。慣れないものに違いはないのだから当然その精度はあまり高いものとは言えないが、何も考えないよりは遥かに良い。

 

 ( ……小瀬川さんは実際ウマい。今の私やと稼ぎ合いまで持ってけたら出来過ぎなくらいや )

 

 すこし低めに設定された室温のなかを、自動卓の発する小さな音が抜けていく。卓上を撮影するカメラ以外に余計なものの存在しない純粋な空間には、それで十分だった。

 

 新たに押し上げられた山を賽の目のとおりに切れ目を入れて手を作る。勘違いでなければ片岡の山を崩す手から勢いがなくなっていたように漫には見えた。恭子からもらったデータに全幅の信頼を置いていた漫はそれを当然のように捉えていたし、そこから彼女が復帰するとも考えていなかった。これを恭子に対する信頼と取るべきか油断と取るべきかは難しいところだが、最終的には結果で語られるべき事柄だろう。

 

 南一局の漫の牌姿は東場のものに比べれば多少は良くなっていた。配牌の時点で勝負する気にさえならないものと、楽観の要素を含むとはいえ勝負の可能性を感じるものとでは印象に違いが出るのは当然である。前半戦が終わるまで少なくともあと四局。きちんと食らいつくにはここで粘ることが肝要なのだと漫は理解していた。

 

 自身の弱みを理解している片岡はリードしていながら守勢に回ったが、彼女以外の三人は前掛かりに攻めることを選択していた。そのうちではっきりと実力を見せつけたのは小瀬川だった。漫も素の実力を叩き上げてきたとはいえ、たったの三ヶ月でインターハイの一回戦を勝ち抜くようなチームのエースと張り合えるほどのものを身につけられるわけもない。神代に関しては通常の物差しで測ろうとすること自体が間違いとされる。眠りに落ちた後の彼女は、それこそ鬼神に喩えられるような圧倒的な力を見せつけるのだが、眠りに落ちる前の彼女はただの “麻雀のできる女の子” であって全国のレベルには遠く及ばない。このあまりの落差が彼女を “神降ろし” の名で知らしめる一端ともなっている。

 

 南場は小瀬川の連荘を漫が一回で止めた以外はすべて彼女が和了り続けた。うち自摸和了は一度だけで、あとの三回は片岡から直取りで点棒を奪っていった。満貫を上回る大きな和了こそなかったものの、五度の機会のうち四回も点を稼いだことは驚嘆に値することである。もちろん得点状況も小瀬川と片岡できれいにひっくり返っている。一方で神代はわずかに点棒を失い、漫はわずかに点棒を回復させていた。

 

 

―――――

 

 

 

 ( さすがに小瀬川さんと競るんはキツいけど、数字はそこまで悪ない )

 

 前半戦と後半戦の間に挟まれる二十分程度の休憩時間を、漫は対局室と控室の間の廊下で過ごしていた。自身が思っていた以上に集中を深めていたらしく、それが解けた反動で体にずしりとした重さを感じるが、なかなかどうして悪くない。どうやら彼女の精神構造は周囲が考えている以上にタフであるらしい。

 

 人工の光で白く着色された無機質な廊下に置かれた長椅子は、光沢のあるスチールのパイプの脚と革張りの座席部分からなるものだった。病院や市役所、あるいは公民館などにあるイメージのものだ。座りなおすたびにスカートの生地と革がこすれ合ってぎゅむぎゅむと音が鳴る。普段なら気にも留めないような音だが、静まり返った廊下では強調されたように耳に残った。

 

 ( あの “ちょっとタンマ” は意識してやれるワケやないみたいやし )

 

 長椅子に浅く座った漫は、深く息を吸って吐く。気持ちの切り替えの儀式のようなものだ。彼女が自身に下した評価は決して悪いものではないが、かといってその調子が良い意味でも悪い意味でも維持できるとは限らない。これは漫自身についても他の先鋒についても同様である。もう一度、集中力を高い水準まで持っていく必要があった。

 

 ( どうにかしてプラスまで持っていきたいなあ )

 

 

―――――

 

 

 

 漫が対局室に戻ると、思い切り背もたれに背中を預けている小瀬川の姿があった。前半戦が終わった後にも似たような姿勢をとっていたから、ひょっとしたらずっとああやって座っていたのかもしれない。余裕の表れなのか単に体力の回復に努めているのかは漫にはわからなかった。前半戦を戦ったからこそわかるが、ただでさえ表情の変化に乏しい選手なのだ。心情を推し量るなど以ての外だろう。

 

 座席に着くときに、よろしくお願いします、と軽い挨拶を交わす。そうこうしているうちに神代と片岡が対局室に現れて、先鋒戦の後半戦が始まった。

 

 

 東場をストロングポイントとしている片岡は再びチャージをかけようとしたものの、それは前半戦の東場ほど機能していないようだった。あるいは先鋒戦全体として見たときに後半戦であることが影響しているのかもしれない。プレッシャーはもちろん持っていたが、そのレベルが落ちていることは疑いようがなかった。漫は理牌をしながらその違いをはっきりと感じ取っていた。

 

 後半戦の第一局で和了ったのは意外にも神代だった。前半戦で一度も手を開けていない彼女がこれまでツイていたかどうかは漫にはわからなかったが、それは十分にあり得ることだった。単純に和了りきれなければ手が開くことはないからだ。仮に彼女がツイていたとしても他家が運でも技術でも異能でも何でもいい、和了ってさえしまえばそのツキは結果という意味では塗りつぶされる。今回の和了は捨て牌と手出しの頻度を見るに、まさに幸運の賜物という感じのものであった。どうやら漫以外の面子は、片岡こそ東場という条件こそあるもののツキという面では漫を上回っているようだった。状況はベストとは程遠い。

 

 東二局。漫はここで討って出ようと考えた。先鋒戦開始時に比べて次第に配牌などは良くなりつつあるが、それでもどうやら他には及ばないらしい。しかし点棒状況だけで見れば、試合開始前の予想を超えて食い下がっている。本格的に流れがどうなっているのかを確かめるのなら、少なくとも東場の間だ。漫が仕掛けていってそれが通る程度の流れなのか、あるいはどうにもならない程のものなのか。二回戦という括りで見ればさして大きなものではないが、漫にとってそこはたしかに分水嶺だった。

 

 その想いに応えるように、漫の配牌は攻めのプランがいくつか考えられるような広がりを持つものだった。火力の面では不満がないわけでもないが、この際それは無視をすることにする。まずは染め手の方向なのかタンピン系に持っていくかの判断だ。どちら側に牌が寄っていくのかを見極めなければならない。可能性の話を始めるとどこまでも結論など出ないため、どこかで決断してしまうのがプレイングとしても精神衛生の観点からも正しいと言えるだろう。

 

 漫の決断は染め手だった。無茶をするわけにはいかないが鳴けるというのが大きい。それに寄って来る牌もどちらかといえば萬子に偏っている。場況は五巡目、既に片岡からは聴牌まではいかないにしてもきな臭いものを感じる。よくもこう短時間に調子がころころ変わるものだと思いたくなるが、それは漫が言っていいことではない。

 

 次巡、かねてから欲しいところであった四萬が上家の神代から零れた。間を置かずに漫はチーを宣言して手牌から二萬三萬を晒して神代の河から四萬を奪い去る。現在の漫の河を見れば、彼女がどういった方向で手を進めようとしているかがかなりのレベルで推測できる。なぜなら漫の河には萬子が一つも捨てられていないからだ。もちろんまだ役牌やタンヤオの可能性も残ってはいるが、それも絡めた上での染め手と判断するのは容易いと言えた。攻めと言うには甘っちょろい方策で、そんなことは漫も承知の上である。彼女は言外に含んだのだ。 “バレることなどどうでもいい、このまま引いてみせるぞ” とケンカを吹っ掛けたのである。

 

 その漫のアクションに対して退くか突っかかるかは個人によって差が出るとしか言えないが、今この卓にはほぼ間違いなく退かないプレイヤーがいる。それは東場という限定領域において力を発揮する彼女を措いて他にない。片岡にしてみれば漫の行為は庭を荒らされるに等しいものであり、また有利な状況下でのめくり合いともなれば後退する理由などどこにもないのだ。

 

 ( ここで罠とか張れるようならカッコええんやけど、そんなんできひんしなぁ )

 

 内心でため息を吐きつつ、漫は正面からぶつかり合う覚悟を決めた。

 

 

―――――

 

 

 

 「なんや漫もずいぶん成長したなあ」

 

 「ホンマですね。春までのイメージしかない人は面食らってるんとちゃいますか」

 

 漫の鳴きに対して洋榎と恭子がうんうんと頷き合いながらしみじみと喜んでいる。それが成功につながるかどうかは別にして、どうやら価値のある決断だったらしい。一つしか年齢が変わらないのに大した先達ぶりだと思わなくもないが、実際にこの学年のレギュラー三人は技術的に卓越している。それこそ一山いくらの指導者では手に余るほどのプレイヤーなのだ。そういった感想が出てきても咎めることはできないだろう。

 

 かたや拳児はというと、二人が褒めた鳴きがただの鳴きにしか見えていなかった。テレビの近くに陣取っている洋榎と恭子からは離れた位置に座っている拳児は、ひとりで腕を組んで黙りこくっている。これを正直にわからないと言えば姫松の部員たちも勘違いから覚めてくれるのではないかと考えもしたのだが、インターハイという舞台は拳児に活路を残してはくれなかった。解説の位置にいるプロが漫の鳴きの意味を懇切丁寧に細大漏らさず説明してくれたのである。テレビから流れたことを同室している人間に尋ねるなど麻雀素人とかいう以前に人としてマズいことになるため、拳児は別の方面から攻めてみることにした。

 

 「なあ、そんなに春までのと今の上重は違げーのか?」

 

 「……まあ、春までの漫ちゃんは完全に “爆発” 頼りだったから」

 

 それでも十分に脅威だったけどね、と付け加えて由子はゆるく微笑んだ。テレビに映っている先鋒戦が終われば自身の出番だというのに、その受け答えにはどこか余裕すら感じられる。

 

 「そりゃあアレだ、チョウジョウ、ってやつだな」

 

 「……なにそれ」

 

 「俺様もまだ成長段階にあるってえことだ」

 

 「恭子の真似は別にして、漫ちゃんの成長のきっかけはあなただと思うのよー」

 

 由子は姫松の全員がそう思っていることを口にしただけなのだが、拳児はなんだか納得のいかないような表情を浮かべていた。そもそも拳児の思考回路としては、麻雀の下手な自分が教えるようなことは一つとして存在していない、というものである。彼女たちが成長したのだとすれば、それは実質的には郁乃の手腕によるものだと理解していたし、また漫の成長に関しては本人から辻垣内智葉の名前が挙がっている。このため拳児は部員たちの成長に自分が関与しているとは露とも考えていないのである。

 

 塚本天満という存在が関わっていなければという注釈はつくが、基本的には何も気にしない大らかさと物事を楽観ではなく前向きに捉える能力は麻雀においてかなり重要な能力なのだが、やはりそれにも拳児は気が付かない。それを知らず知らずのうちに態度や行動で伝えているなどとは夢にも思っていないだろう。彼の人生はそれらの能力がなければ生き抜けないほどに、ある意味ハードであったのだ。もちろんそんなことは誰も知らない。それでも世界は順調に回っていくのだから、なるほどよく出来ていると言わざるを得まい。

 

 

―――――

 

 

 

 神代の四萬を拾った時点では、まだ漫は聴牌には届いていなかった。もうひとつ牌を持ってきてようやく聴牌である。一方で牙を剥いている片岡もまだ聴牌にはたどり着いていないと漫は直感していた。そこまでどれだけ離れているかはさすがにわからないが、リーチをかける場合が多いことと気合の乗り方が今ひとつということがその根拠にあたる。まだお互いにめくり合いの状況に達していないが、ごく近い未来にそうなることを、同卓しているふたりはおろか観客の多くも理解していた。

 

 先手を打ったのは片岡であった。牌を引くや否やそのかわいらしい顔に似合わない不敵な笑みを浮かべ、手牌から一つ抜き出して曲げて河へと捨てる。親こそ逃してしまったが主導権はまだこちらにあるのだ、と言わんばかりの手つきだ。続く小瀬川と神代はぶつかっていける手ではないのだろう、素直に退くことを選択した。同巡、逃げる選択肢を押し潰すように漫にもちょうど欲しい牌が入った。これで両者が聴牌となり、めくり合いの実現となった。

 

 分が悪いのは漫も承知の上である。だがそれでも()()()()()()()()()()()()()()が、片岡が本流にないことを証明していた。あとはその状態の彼女ならびにツキの回ってきているであろう小瀬川と神代を相手にどれだけ食い下がれるか、それが漫にとっての問題となっていた。

 

 聴牌後の一巡目、片岡は自摸牌をそのまま切る。

 

 漫も当たり牌を逃す。

 

 二巡目、片岡の手牌は倒れない。

 

 漫の欲しい牌は姿を見せない。

 

 そして三巡目、ついに牌が倒された。

 

 手を晒したのは、やはりと言うべきかさすがと言うべきか、清澄高校の片岡優希だった。瞳に宿る強気な光は未だ失われてはいない。自身の流れを逸していると理解して、なお果敢に攻める様は誇り高くすらあった。火力も死んだというにはまだまだ遠い。彼女は満貫を自摸和了ってみせた。

 

 ( あれだけ上手くいって届かんのやったら仕方ない。東場はガマンやな )

 

 

 東三局は本当に幸運が向いているのか、異様に早かった神代の聴牌を読み切れなかった小瀬川が振り込んでしまう。先鋒戦終了後に彼女が事故としか言いようがない、と悔やんだ一局であった。一本場となって神代の進撃が始まるのかと思いきや、片岡がノミ手を自摸って場を流した。自身の親番でもある東四局であったが、漫はここでも攻めるという選択肢を採らなかった。闇雲に前進したところで傷口を広げるだけだという判断である。結果的には小瀬川が神代から和了り牌を奪い取って東場は幕を閉じた。

 

 

―――――

 

 

 

 ( ……技術的に怖いのは小瀬川さんだけ。さあ、ここからや )

 

 漫は一度のまばたきで気持ちを切り替える。こうして南場に逃げ込めば、片岡の脅威はなくなるどころか場合によっては狙い目にすらなり得る。加えて神代には流れが来ていることが予想されるが、彼女の麻雀技術そのものは甘さの抜けないものである。これらのことから考えて、漫は自分が前に出てもこの場であるならば十分に勝算が見込めると判断したのである。たしかに流れの有無を感じてはいるが、致命的なレベルに達しているとは思えない。何よりリードを奪われている状況で逃げ腰というのは漫からすれば考えられない話であった。

 

 せり上がってくる新しい山に期待を寄せつつ、回る賽に目をやる。出目は一と六だった。

 

 先鋒戦開始からほんの少しずつではあるが改善の見られつつあった漫の配牌は、ドラ含みの三向聴にまでなっていた。うまく育てば化ける可能性を持った手でもある。改善されてやっと普段からよく見られるような配牌になっている辺り、前半戦の、特に東場がどれだけ酷かったかが知れるというものである。

 

 気分よく打ち進められそうな状況の漫の前に立ちふさがったのは、事前の恭子の言葉を証明するかのように小瀬川であった。前半戦でそれほど見せることのなかった奇妙なタイミングでの長考をここで見せたのである。警戒をしようにも発動はランダムだと思われる上に、そもそも長考など防ぎようがない。漫にとっては一番控えてほしい状況での長考だった。これ以降、場は小瀬川にとって都合の良いほうへと転がり続ける。もちろん漫もただ傍観するような真似だけはしなかったが、やはりその状態の小瀬川相手では分が悪かった。彼女は弱った片岡に満貫を叩き込んで自分の親番を手繰り寄せた。

 

 トップを走る彼女の連荘だけはどうしても止めなければならないため、漫は必要とあらば差し込むことすら考えていた。しかし直前で奮った小瀬川の調子がなぜか上がらずに、神代だけが聴牌しての親流れとなった。どこでケチがついたのかはまるでわからないが、往々にしてこういうことが起こるのが麻雀である。

 

 何にせよ小瀬川の親が流れてほっとしていた漫は、頭の整理が完全にはついていない状態で新たな山から次の配牌を拾ってくることになった。特別に流れの早い卓というわけではないのだが、各人が全国大会に出られるだけは打ち込んできているのだ。手慣れた作業になっているために自然と所要時間が減っていくのは当然の理である。そこで配られた牌に何の気なしに目をやって、漫は目を見開いた。意図的に翻数を下げていくようなことさえしなければ満貫はカタい大物手が転がり込んできたのである。理牌をして検めてみると速度も問題はなさそうだ。特定の牌だけ妙に引けないといった事態に陥らない限り、この局を取れる公算は高そうだ。いきなり配牌が良くなったから疑ってはみたものの、自身で何も感知してはいないから “爆発” が起きたわけではなさそうだった。

 

 できるだけ他家に悟られないようにと漫は普段通りを意識しようとしたが、それがきちんと機能していたかどうかは怪しいところであった。もともとそういった技巧派ではないのだが先輩たちの影響が強いのかもしれない。そんな彼女の河は外から見ると平凡で、そこから強烈な手を想像するのはなかなか難しいものだった。迷彩で隠れようとしたわけでもなんでもなく、ただ牌を引いて捨てていく順番が見事にかみ合ったのだ。それはこの先鋒戦でトップを走る小瀬川が不用意に振り込んでしまっても仕方がないと言えるほどにきれいな流れであった。

 

 

 状況で見ればトップ目に跳満を直撃させての自身の親番である。波に乗れないわけがない。会場に来ている観客たちもテレビの前で観戦している人たちも、あるいは卓についている片岡や小瀬川ですらそう思っていたかもしれない。もちろん漫もこのままの調子で連荘を重ねて、できる限り点棒を稼ごうと考えていた。勝ってもいないのにオーラスの親番で逃げる意味など何一つとして存在していない。これまで以上に気合を入れて、いざ賽を回すボタンを押そうと左腕を伸ばしたその瞬間だった。

 

 空間が、歪んだ気がした。

 

 ぞわりとした悪寒が背中を走る。漫は自分の左肩が、喪失した空間を埋めようとする空気の流れに引きずられるような感覚に襲われた。音はない。頭はそれが錯覚であることを理解してはいる。しかし理性を飛び越えたなにかが、そう認識することを許さない。ボタンを押そうと伸ばした手が中空でぴたりと止まったまま動かせない。漫の左に座っているのは神代のはずなのに、どうしても左に視線を向けることができない。体中の毛穴から一斉に汗が噴き出す。

 

 ( ……な、こ、なんやこれ!? 何が起きとる!?)

 

 漫が視線を左に向けないように上げると、そこには冷や汗をかいた小瀬川と物理的に後ろに下がることを必死で堪えている片岡の姿があった。とくに片岡は対面に座っているためそっぽを向くわけにもいかないのだろう。その表情は笑うのを我慢しているようにも見える。そこには、漫の左隣であり西家にあたるそこには、つい先ほどまで存在していなかった異物が、居る。

 

 びりびりと肌に突き刺さるようなプレッシャーは、これまでに体験したものとは質そのものが違う。そもそもそれは人間が放てる種類のものではないのだ。だがいつまでもそんなことは言っていられない。今ではなんとも頼りなく見える伸ばした左腕で顔の下半分を隠しつつ、漫は神代のいた方へと視線を投げる。果たしてそこに座っていたのは、こくりこくりと船を漕いでいる巫女の装束を身に纏った少女であった。漫が見たときには既に揺らぎは治まりはじめており、そう時間の経たないうちに彼女の揺らぎは完全に止まった。そして彼女の目が開く。

 

 端的に表現するならば、厳かで据わった目をしていた。姿かたちは神代小蒔であることに間違いはないのに、そこにいるのが彼女本人かと問われて答えられる自信が漫にはなかった。その代わりに断言できることがひとつあった。今の神代には神仏、少なくともそれに類するものが降りてきているということである。

 

 

 第二回戦先鋒戦は神代小蒔が小四喜の役満を自摸和了り、幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のための点数推移 (前局の続きより)


片岡優希  (清澄)→ 一一八五〇〇 → 一二六五〇〇 → 一二六五〇〇 → 一三四五〇〇

小瀬川白望 (宮守)→ 一〇一八〇〇 →  九七八〇〇 → 一〇一七〇〇 →  九九七〇〇

神代小蒔  (永水)→  八三七〇〇 →  八一七〇〇 →  七七八〇〇 →  七五八〇〇

上重漫   (姫松)→  九六〇〇〇 →  九四〇〇〇 →  九四〇〇〇 →  九〇〇〇〇


片岡  → 一二六五〇〇 → 一〇二四〇〇 → 一一三四〇〇 → 一〇五四〇〇 → 一〇三八〇〇

小瀬川 → 一〇七七〇〇 → 一一三八〇〇 → 一一三八〇〇 → 一二一八〇〇 → 一二八二〇〇

神代  →  七五八〇〇 →  七五八〇〇 →  七五八〇〇 →  七五八〇〇 →  七四二〇〇

上重  →  九〇〇〇〇 →  九〇〇〇〇 →  九七〇〇〇 →  九七〇〇〇 →  九三八〇〇


――後半戦――


片岡  → 一〇三八〇〇 → 一〇一二〇〇 → 一〇九二〇〇 → 一〇九二〇〇 → 一一〇六〇〇

小瀬川 → 一二八二〇〇 → 一二六九〇〇 → 一二二九〇〇 → 一一一三〇〇 → 一一〇九〇〇

神代  →  七四二〇〇 →  七九四〇〇 →  七七四〇〇 →  八九〇〇〇 →  八八四〇〇

上重  →  九三八〇〇 →  九二五〇〇 →  九〇五〇〇 →  九〇五〇〇 →  九〇一〇〇


片岡  → 一一〇六〇〇 → 一〇二六〇〇 → 一〇一六〇〇 → 一〇一六〇〇 →  九三六〇〇

小瀬川 → 一一六一〇〇 → 一二四一〇〇 → 一二三一〇〇 → 一一一一〇〇 → 一〇三一〇〇

神代  →  八三二〇〇 →  八三二〇〇 →  八六二〇〇 →  八六二〇〇 → 一一八二〇〇

上重  →  九〇一〇〇 →  九〇一〇〇 →  八九一〇〇 → 一〇一一〇〇 →  八五一〇〇


見づらいことこの上ないですね


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24 二回戦③

―――――

 

 

 

 先鋒戦が終わった後に出場選手よろしくさっさと手洗いへと向かった拳児は、帰りに考え込みながら歩いていた。彼が腕を組んで片手を顎にやってぶつぶつと呟いている様は何か良くないことを連想させそうだが、実際に考えているのはチームのことであった。その中でも今は先鋒として戦い抜いた上重漫が大きなテーマとなっていた。相手が相手とはいえ食らったものが役満の親被りだ。彼女の性格上ダメージを受けている可能性が非常に高い。監督としてどうフォローを入れたものかと先ほどから頭を悩ませているのだが、どうにも他人の心配をするという経験が少ないものだから取るべき手段がさっぱり見つからないのである。己の無力さを痛感した拳児は小さくため息をついて、またのしのしと歩き出した。

 

 考えのまとまらないまま控室の扉に手をかけて、ドアノブをひねって手前に引く。拳児の目的のためには誰一人として調子を落とされるわけにはいかないのだ。少なくとも今大会で優勝するまでは。月並みではあるが、“気にするな” 程度のことを言って茶を濁そうかと思っていた拳児の目に飛び込んできたのは、意外にもとくに思いつめた様子もなくテーブルの上にあった煎餅をかじっている漫の姿だった。

 

 目の前の情景に肩透かしを食った拳児は入り口のそばで突っ立っていた。彼女が立ち直っているのなら拳児が変に手を出す必要もない。仕事が減ってラクと言えばラクなのだが、なんだか拳児は腑に落ちないような感覚に襲われていた。はたして女子高生というものは概して立ち直りが早いのか、あるいは上重漫という少女が特別な造りをしているのかは定かではないが、とりあえず世の中には自分の想像を簡単に超える存在がいるのだと拳児は改めて思い知ることとなった。

 

 気を取り直した拳児がさっきまで座っていた椅子に向かって歩き出した途端、選手控室専用の館内放送で次鋒の選手のコールが入った。このコールから十分後に対局が開始される。早めに対局場入りする選手もいればぎりぎりまで姿を見せない選手もいる。その辺りの考え方は個人の感性による部分が大きいため、外から何かを言うのは無粋というものだろう。

 

 姫松の次鋒である真瀬由子はというと、普段と変わらない態度で頑張る旨を仲間に伝えている。暫定的には最下位に沈んでいる状況なのだが、彼女はそれをかけらも匂わせない。そこにあるのは自信か仲間への信頼か、どちらにしろ二回戦の突破を疑っていないと言っても差し支えない表情をしていた。いかに拳児と言えどまさかそれに水を差すわけもなく、ちらりと視線を由子の方へと投げた。サングラス越しの、なんともぶっきらぼうなエールの送り方である。それを知ってか知らずか、由子は拳児に一言だけ残して控室を後にした。

 

 「キーウィ対策は、……ま、それなりにはできてるから心配しないでいいのよー」

 

 

―――――

 

 

 

 「……なあおい、キーウィって何だ?」

 

 「ん? ああ、そういう名前の鳥がおんねん。飛べへん鳥でな」

 

 由子が対局場へと向かった直後、拳児は生まれたばかりの疑問を口にした。本日対戦する相手の名前はきちんとチェックしていたがそんな名前の選手はいなかったし、真瀬由子という少女もこのタイミングで意味のわからないことを言うタイプではない。となればそこには何らかの意味があるはずで、そういうときには恭子に聞くのがこの部の流儀である。

 

 「あ、それ私もテレビで観たことありますよ。なんやもこもこしててカワイイんですよね」

 

 話を聞いていたのか絹恵が輪に加わる。その鳥のもこもこ感を表現しているのだろうか、球体のものをやわらかく持つような動作をしながらの発言である。名前を聞いたこともなければもちろん見たこともない拳児の頭には疑問符が飛び交っていた。拳児の中で飛べない鳥の代表といえばダチョウであり、たしかに羽毛はやわらかいかもしれないがいくらなんでもデカすぎる。飛べなくて両手に持てるサイズでもこもこで丸っこいと言われると、その条件ははたして本当に鳥なのかと拳児が疑ってしまうのも仕方がないと言えよう。

 

 ちょっと頭を働かせてみたが、どうにもイメージが浮かばないため拳児は考えるのをやめた。とりあえずそういった鳥がいるものとして話を進めなければどうにもならなそうだ。そもそも拳児が知りたいのはキーウィがどういう鳥かということではない。

 

 「でよ、ナンで真瀬のやつはそのキーウィとかいう鳥の対策なんてしたんだ?」

 

 「ちゃうちゃう、鳥の対策やない。あんな、キーウィはニュージーランドにしかおらんねん」

 

 「あ?」

 

 「それが転じてニュージーランドの人のことを愛称でキーウィて呼んだりすんねんな」

 

 拳児が真面目な顔をして鳥の対策なんて言うものだから、さすがの恭子も半笑いになりながら丁寧に説明する。絹恵に至っては顔をそむけて吹き出している始末である。一方で説明を受けた拳児は未だに納得がいっていないようであった。腕を組んで首を傾げている。

 

 「あの宮守のやつがニュージーランド出身だってのか? ンなことまで調べんのかよ」

 

 「十中八九あの子は異能持ちやからなあ。何がルーツになっとるかわからんし」

 

 こちらも腕を組んでため息まじりに言葉を返す。拳児はそちらには参加をしていないが、他校の選手のデータをかき集めるのは相当に大変なのだろう。団体戦の大将という重要なポジションでありながら調査班の中心的メンバーとしても働いている恭子の仕事量は、ほとんど正気とは思えないほどのものであった。彼女が抜けて来年は大丈夫なのかと拳児が目を向けると、ひとりはまだ顔をそむけて必死に笑いをこらえており、もうひとりはまだ煎餅を食べていた。拳児が言える立場ではないが、来年がものすごく心配になる図であった。

 

 「ところでよ、上重のやつはなんであんな平然としてんだ?」

 

 「後ろに頼れる先輩いるんで問題ナシですー、やって」

 

 その胆の太さには、さすがの拳児も嘆息した。

 

 

―――――

 

 

 

 ( うわ、ホンモノのお人形さんみたいなのよー )

 

 由子が対局場に入ると、そこには既にこれから卓を囲む選手が三人とも揃っていた。その中でも由子が目を奪われたのは、控室でも話題になっていたニュージーランドからの留学生であるというエイスリン・ウィッシュアートである。由子も同じ部の恭子や絹恵を筆頭に数々の美人や可愛いと言われる少女を見てきたが、そこにいたのは日本人的な美しさとはまた別種のものを持った少女であった。どちらかといえば目の前で呼吸をしていること自体が不思議に思えるくらいの、美術品に近い感覚を呼び起こす印象の外見だった。

 

 しかしその少女がこの卓では最も警戒するべき相手であることに変わりはない。岩手予選のレベルがどれだけのものかはわからないが、そこで彼女は予選における和了率で全国トップを記録している。おそらく予選では手を抜いているであろうとはいえ、あの宮永照を抑えてのナンバーワンというのは驚異的であることに違いはない。牌譜や映像を見る限りは巧者という印象を受けなかったから、おそらくは何らかの能力が関わっていると由子は推測し、それには恭子と郁乃も同意見であるようだった。さすがに正確なところはまだはっきりしていないが、その能力のおおよそのイメージは掴めている。厄介なのは一人で彼女の対策を取ろうとしても無理なパターンが存在することである。彼女の持つ力はおそらく任意かつ恒常的に発動するタイプのもので、そうなると手が揃わないときはどうしたって出てくる。そこまで考えを進めていた由子の次の判断は実に適切だった。他家がどこまでエイスリンに対する策を練っているのかを確認するべきだと考えたのである。

 

 誰にでもできる芸当ではない。柔軟性と高い判断力を併せ持って初めて成り立つ、力業と言ってもいい手段である。他家が利用できるのなら利用し、できないのならそれに準じて打ち方を変えると言っているのだ。加えてチームの順位を考えると、まだ大差がついていないだけでこのままでは苦しい戦いになることは必至である。それでもなお由子はチームの持ち点を原点に戻すことを最低目標に据えて、この次鋒戦を戦うことを決めた。

 

 

 席決めの結果、由子は南家に座ることになった。ほかは起家が永水の狩宿、西家は清澄の染谷、北家は宮守のエイスリンといった具合である。由子は席順そのものに気を払うことはしない。清澄も永水も映像で見る限りは堅実なプレイヤーだ。それはそれで厄介な部分もあるのだが、面倒な懸案事項は少ないに越したことはない。座席の座り心地を確かめながら、由子は試合開始のコールが入るのを待っていた。

 

 次鋒戦開始のアナウンスが入り、狩宿が賽を回すボタンへと手を伸ばす。出た目は両方とも二だった。

 

 先鋒戦の流れを引き継いでいるのか、由子の手はそれほど良いとは言えないものだった。上手く牌がハマれば化ける可能性もあるのだが、それを期待するには急所が三つは多すぎた。それならそれでエイスリンの異能の潰し方に思考を思い切り割くことができる。そう考えれば現状は次鋒戦も始まったばかりなのだから別に悪いものでもない。物事は状況と考え方次第だ、世の中にまったく手の出せない最悪はそれほど多くは存在していない、という由子独自の柔軟な発想は、恭子の物の見方に影響を受けているのかもしれない。

 

 牌譜や映像といった資料からは見えない、あるいは見えにくいものというものはたしかに存在する。それらを確かめるにはどうするのが一番いいか。答えは単純だ、実戦でぶつかればいい。それ以上に優れた情報源などあり得ない。由子も実際に卓を囲んでみて初めてわかったことがいくつかあった。由子は事前に永水と清澄の次鋒を堅実だと評したが、それは誤りであったと反省せざるを得なかった。決して暴力的な攻め方をしてくるというわけではなく、彼女たちも何かを狙っていることがありありと読み取れたからだ。結果として堅実に見える打ち方になったことと、初めから堅実に打とうとすることの間には大きな溝がある。前者である彼女たちはいわゆる試合巧者と呼ばれるべきプレイヤーなのだろう。

 

 そしてそれよりも由子に強い印象を残したのはエイスリンの打ちっぷりであった。多くの場合、雀士は自摸の前にいくつかのパターンを想定する。あの牌が来たらこっちを捨てよう、あの牌が来たら手替わりを考えようという風に。その想定のうち都合のいいものがそのほとんどを占めるのは仕方のないこととした方がいいだろう、重要なのはそこではないからだ。思考時間がいかに早くとも自分以外にも自摸をする人が三人いて場況は変わり続けるのだから、常にそちらに思考を回しているわけにもいかない。そうなってくると思考の網から漏れた牌が必ず出てきて、その牌を引いたときには誰であっても手が止まるものなのである。しかしエイスリンにはそれがない。一度たりとも逡巡することなく、牌を引いてはリズムよく捨て続けていた。

 

 これで由子は推測の範囲を出なかった彼女の能力の輪郭に確信を持った。次に引く牌だか何だかはわからないが、彼女には何かが見えている。その “ナニカ” を知りたいのもやまやまだが、今はそれを知る必要はない。いま力を入れて考えるべきなのは、彼女の能力の汎用性とその潰し方だ。おそらく染谷も狩宿も同レベル、少なくとも近い水準で頭を回しているだろうと由子は推測していた。もちろん今後の動きを見る必要はあるが、共闘も一方的な利用も考えられる。仮にそうなってしまえば、そこはもう真瀬由子のフィールドだ。

 

 

―――――

 

 

 

 今年の姫松高校を語る上で、真瀬由子の名前が出ることはほとんどない。話題を集める人物がそこに集まり過ぎているからだ。高校麻雀界に衝撃を与えることとなった播磨拳児をはじめとして、プロの娘であること以上にその才能で名を響かせる愛宕洋榎、不安定ではあるもののその驚異的な爆発力が耳目を集める上重漫、実質的なプレイングマネージャーであるとのうわさが後を絶たない末原恭子、高校から麻雀部に入った身でありながら二年生にしてレギュラーの座をつかんだ愛宕家次女の愛宕絹恵。この錚々たる面子の中では由子はまるで目立たない。しかしそれがすなわち強さに直結するかということになると、話はそう簡単ではなくなる。

 

 拳児の見出した攻守のバランスに高度な判断力、ならびに思い切りのよさは姫松というチームに欠かせないものであり、彼女無しにはチームが成立しないとさえ言えるかもしれない。目立つチームメイトは、ことによると彼女にとって体のいい煙幕と見ることもできる。もちろん彼女について丁寧に研究したり、あるいは姫松の勝ち方をよく見てみればほとんどのパターンで由子が関わっていることを発見できる。しかし高校生でそれをピンポイントに見抜くことができる人間はそう多くないだろう。インターハイにはそれこそ全国から優秀なチームが集まるのだから。由子にとって、注目が散るのは歓迎すべきことだった。

 

 

 状況は進行して南一局。染谷が親のときに一度だけ連荘があり、そのほかは全員が一度ずつ和了った。なんとも面白みに欠ける展開に見えるかもしれないが、やはり卓に着いているプレイヤーからすればシビアな点棒の削り合いであり、また情報戦とも心理戦とも言えるようなやり取りであった。エイスリンの能力は事前の推測通り、鳴くことでその効果を緩和することができるものであるらしい。ただその効果はまちまちで、実際に鳴きを入れても彼女が和了った局は存在した。

 

 現時点での由子の判断は、彼女の麻雀には他者が存在していない可能性がある、というものであった。門前でぶつかれば強さを発揮するのかもしれないが、そんなわかりやすい持ち味を出させてあげるほど豪胆な選手はこの次鋒戦にはいなかった。

 

 得点は次鋒戦開始時に比べてわずかに平らになった程度だ。拮抗しているといってもいい。だがここで稼がなければ、由子は仕事をしたことにならない。彼女は地方予選が始まるより前の、メンバー発表のときに拳児に何を言われたかを忘れてはいない。それはたしかに過酷なものではあるが、由子にも最上級生としての矜持がある。自身を含めた三年生の背中を見て成長していく後輩たちにカッコ悪いところを見せるわけにもいくまい。彼女もそうやってこの姫松で育ってきたのだ。作り上げられた伝統は厚く、重く、そして何よりも強い。

 

 ( なんだか宮守の表情見てると清澄が鳴いたときに一番イヤそうな顔してる気がするのよー )

 

 エイスリンが他家に鳴かれて和了ってみせたのは、由子が初めに鳴きを入れた局だった。それに関してなにかはっきりしたものを見つけるにはサンプルが足りなさすぎるが、清澄の染谷が鳴いたときに彼女が苦い顔をしているのは事実であった。それは染谷というプレイヤーが鳴くこと自体に意味があることの決定打にこそならなかったが、由子はこれを使えるものと判断した。何たる席順のめぐり合わせか、由子は染谷の上家に座っている。それは意図的に鳴かせるときに非常に有利な立場にいるという意味である。

 

 ( 宮守が清澄の鳴きをイヤがるなら、そのアシストを考慮しつつこっちは門前で…… )

 

 トップに立っている永水がほとんど動きを見せていないのは不気味だが、最優先は自チームの得点の回復だ。まずは最下位からの脱出、ついで原点まで戻すこと。さすがに大逆転で一位をかっさらおうなどとは考えていないが、肉薄するところまでいければ後ろがよりやりやすくなるだろう。ここから由子は露骨に打ち方を打点偏重のものへとシフトした。

 

 理想を言えば配牌時点でドラが頭になっていたりある程度の役が組み上がっていたりすることが最高なのだが、さすがにそんなわがままは播磨拳児ではないのだから通らない。理想のことは別にして、由子の手は一般的な時間をかけてそれなりのものに育ってゆく。あまり時間をかけすぎるわけにもいかないが、だからといって宮守対策のために清澄が手を曲げてくれているこのチャンスに安手で流すのももったいない。麻雀における火力と速度の天秤はほとんど永遠の議論のテーマであり、どちらが正しいかなどそれこそ結果論でしか語れないのかもしれない。

 

 入っている手はドラ含みの平和系。もう少し翻数に色をつけたいところだが、そこは自摸次第になってしまう。だからこそ染谷を使うことで間接的に卓を操りたい由子は彼女の手作りにも注意を払いながら手を進める。おそらく永水との叩き合いになるだろうが、そこはやはり蓋を開けてみないとわからない。和了り牌を掴んだ者が勝者でそれ以外は敗者という構造は、シンプルなぶんだけ残酷である。

 

 

―――――

 

 

 

 「そーいや播磨、Aブロックの二回戦はどないやった? 昨日見たんやろ?」

 

 退屈そうに思い切りソファに背中を預けた洋榎が間延びした声を投げかける。画面の向こうではチームメイトが戦っているのだが、そちらにはほとんど注意を払っていないようだ。

 

 ブロックとはシードの位置ごとに便宜的につけられた名称である。第一シードと第四シードの山をAブロックと呼び、第二シードと第三シードの山をBブロックと呼んでいる。つまり姫松高校は第三シードである永水女子の山に入っているためBブロックの出場校ということになる。

 

 「ンだ、どこが勝ち上がったのか知らねーのか?」

 

 「アホ、それくらい知っとるわ。感想を聞いとんねん」

 

 当たり前のことを聞かれて腹を立てたのか、片方の頬をぷう、と膨らませながら洋榎は文句ついでに聞きたい要件を告げる。拳児はそう言われてすこしだけ思案した。顔の向きをわずかに仰角に変え、顎に手をやっている。意外と手入れの行き届いているらしいヒゲは、本人曰く触り心地がいいのだという。

 

 「ほとんど地区予選の印象と変わんねーな、相手が違げーからビミョウには差があるけどよ」

 

 言ってから視線を元に戻して拳児は驚いた。郁乃以外の視線が全て自分のもとに注がれていたからである。拳児はチームメイトの試合くらい見てやれと言いたくなったが、由子に対する彼女たちの信頼はとんでもなく厚い。彼女は目立たないとはいえ団体戦で与えられた仕事をこなせなかったことがないのだという。それは拳児が大阪を訪れる前からの話であるらしい。もちろん拳児自身も由子を有能だと判断しているため、今のこの状況に言うべきことは特にない。

 

 自分にそれを聞いていったい何になるんだと頭を抱えたくなるが、この場にいるのは一人を除いて自身を裏プロだと勘違いしてやまない少女たちである。偶然を原因とするそれぞれの思い込みの深さや彼女たちの性格を考慮すれば、そこに救いがないことは明白である。拳児はもう一度頭を抱えたくなった。

 

 「……まァ、Aブロックで一番力があんのは白糸台だろ、これは動かねーよ」

 

 「千里山はどうです?」

 

 口を開いたのは漫だった。千里山女子とは北大阪地区の代表校であり、愛宕姉妹の母親が監督を務める高校なのだという。本当は姉妹の二人の方が聞きたかったのかもしれないが、ひょっとしたらそこには多少は複雑な思いがあるのかもしれない。そこまで空気を読んで漫が発言をしたのかはわからないが、どのみち大阪において姫松と千里山はライバル関係にあるのだ。

 

 「中堅と大将がしっかりしてんな、順当に行きゃあ次点はここなんじゃねえの」

 

 「残りふたつは?」

 

 「福岡の……、理沙サンの出身校だったか。あそこは副将がキモだな、そこ次第だろ」

 

 たしかに拳児の言うとおり、印象はほとんど変わっていないらしい。拳児の査定用の目は異能を完全に無視した素の実力に特化しており、これの精度の高さは恭子も舌を巻くほどである。なにせ彼はこれまで高校麻雀に関わってこなかったことが原因で前評判だのといったものに縁がなかったのに、ほとんど半荘を見ただけで高い実力を持つものを見分けるなんて芸当を見せつけたのだ。ちなみに合宿で異能が存在すること自体は理解したものの、それに対するアンテナは育っていない。当然それに関する分析などもってのほかである。

 

 「あとは、奈良のなんつったか……。あそこは地区予選からよくわかんねーんだよな」

 

 「阿知賀やな」

 

 「勝つにも負けるにも何かが足りてねー気がしてよ」

 

 「どういうことです?」

 

 「俺ン中でもうまく消化できてねーが、番狂わせがあるならここじゃねーかと思ってる」

 

 なんとも珍しいかたちの評価に漫と絹恵は目を見合わせ、恭子はひとつため息をついた。洋榎は彼女たちと決勝で当たったときのことを思い描いているのか、機嫌の良さそうな表情になっていた。それにはまず二回戦と準決勝を抜けなければならないのだが、そこのところを彼女がどう考えているのかは掴めない。

 

 

―――――

 

 

 

 打点を重視した打ち方に変えるという策が具合よくハマり、由子は南一局で満貫を自摸和了ってみせた。このままの流れでいけば原点もすぐに見えたが、インターハイの二回戦に姿を見せるような打ち手がそうそう見逃してくれるはずもなかった。エイスリン封じで忙しいはずの染谷が早くも鳴かされた状態にアジャストしたのか、見事と言うしかない手の回し方で華麗に次局を和了ってみせる。負けじと狩宿が鳴きの速攻を見せて二局連続で和了り、次鋒戦前半戦は終了となった。

 

 由子は席を立つときに呆然としているエイスリンの姿がちらと目に入ったが、すぐに視線を背けた。たまたま彼女にとって特別に相性の悪い相手がいた。ただそれだけの話だったから。

 

 

 このあとの後半戦でエイスリンは染谷をはじめとした三人に完封されることとなった。もちろん得点はマイナスではあったが、それでも彼女の被害は少なく済んだと取るべきだろう。狙いうちにされてもおかしくはなかったが永水だけがプラスである状況が影響したのだろう、狩宿と他二人の間での点のやり取りが中心になっていたからだ。最終結果だけでみるならば姫松の一人勝ちと宮守の一人負け、それと永水と清澄の微増が数字上の結論である。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


          次鋒戦開始   後半戦開始   次鋒戦終了

狩宿 巴    → 一一八二〇〇 → 一一六一〇〇 → 一二一五〇〇

真瀬 由子   →  八五一〇〇 →  九二六〇〇 →  九八四〇〇

染谷 まこ   →  九三六〇〇 →  九六五〇〇 →  九三八〇〇

エイスリン.W → 一〇三一〇〇 →  九四八〇〇 →  八六三〇〇


一応全局ぶんの点数推移もありますが今回はこれで。


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25 性能

―――――

 

 

 

 姿が見えないのに四方から聞こえてくる蝉の声に包まれて、拳児は外を歩いている。空は示し合わせたかのように、ここ数日のあいだ変わり映えもすることなく高く青い。ついでに言えば気温の高さもほとんど変わらず、茹だるような暑さが続いている。連日朝のニュースを騒がせる熱中症の説得力としては十分すぎるものと言ってもいいだろう。

 

 時刻は時計の短針が真上をすこし通り過ぎたあたりだ。夏至はひと月以上前に過ぎたとはいえ、実感としてはもっとも陽が沈むまでが長い時期である。つまりは過ごしにくいくらいに暑い時間が続くということだ。さすがの拳児といえどもため息のひとつくらいは仕方ないと言えよう。

 

 相も変わらず拳児は注目こそ浴びるものの、一定の距離を置かれるその状況に変化はなかった。もともと自身で親しみやすいタイプだとは思っていないし、そうなる気もない。だからこうやってちょっと離れたところからこそこそと噂話をされるのにも慣れているといえば慣れているのだが、だからといってまったく気にしないというのも難しい話である。それなら変装でもすればいいじゃないかと言いたくなるかもしれないが、拳児はあのサングラスにヒゲという出で立ちにある種のこだわりを持っている。少なくとも彼にとっての女神が女神であり続ける限りはその身なりを改めることはしないだろう。

 

 多少うんざりしながらなおも歩みを進めていると、基本的にマナーモードという待機状態を知らない拳児の携帯がポケットの中から着信を知らせた。着信音から判断するとどうやら電話がかかってきたらしい。

 

 「オウ、俺だ」

 

 誰からかかってきたのかをあまり確認しない拳児は、今日も例に漏れずさっさと電話に出た。

 

 「後ろを振り返れ」

 

 まったく会話の体を成していない言葉のやり取りである。かたや電話をかけてきた相手を確認しない上に名乗りもしないかと思えば、もう片方は挨拶もなしにいきなり訳のわからない命令だ。ここだけを抜き出せばずいぶん物騒な会話に聞こえなくもない。しかし実際には拳児の携帯の番号を知っている人間など限られているのだから安心して電話に出ているだけの話なのだが、いかんせん外見の持つ印象というのは大きい。

 

 いきなり奇妙な命令をされた拳児は若干苛立ちながら後ろを振り向くことにした。もう既に電話の向こうの相手の声に聞き覚えがあったことなど頭から消し飛んでいる。相手が男だったら殴ってやろうなんてことを考えているのだから始末に負えない。

 

 

 「なんだ辻垣内、オメーか」

 

 果たしてそこにいたのは辻垣内智葉であった。しかしなにか意外なことでもあったのか、奇妙なことに拳児を振り向かせた当の本人がきょとんとしている。スマートフォンを耳に当てているところから判断するに電話をかけたのは彼女で間違いないだろう。

 

 「……よく一目でわかったな。眼鏡もしていないし髪も結っていないのに」

 

 セーラー服と大きな眼鏡に後ろでひとつにまとめた長い髪。これが辻垣内智葉のトレードマークであり、また世間一般の彼女に対するイメージでもある。麻雀を打つときに邪魔になるから、という理由でそうしている彼女は、麻雀部に属しているため、ほとんどの場面でその外見で人前に出ることになる。逆に言えば家族や彼女と個人的に親交を持っている人以外は彼女の普段の姿を見ることはないのだ。そして今、智葉は言葉通りの格好かつ私服でそこに立っていた。

 

 肌触りの良さそうなノースリーブのシャツは紺色で、七分丈のアイボリーカラーのパンツがきれいに映える。足元はわずかにヒールのついた飾り気のないシンプルなサンダルで、もともと長い足がさらに自然に強調されている。麻雀を打たないときの智葉の格好は軽い変装のような意味を持っているのだろうが、それとは関係なしに注目を集めてしまいそうな外見であった。

 

 「あ? たかが二、三ヶ月でヒトの顔忘れるほど薄情にゃできてねーつもりだぞ」

 

 「そういうつもりで言ったんじゃないがまあいい。お前こんなところで何してるんだ」

 

 拳児が人の顔と名前を覚えないことで人後に落ちない男だということを知らない智葉は、話題を本来持っていきたかった方向に修正した。そもそもこの時間帯に外を出歩いていることがなかなか考えにくい男に似た後姿を見かけたから、智葉は試しに電話をかけてみたのである。他人のそら似ならそれでいいし、もし本物ならばすぐに話が聞けるしで悪いことはなにもない。結果として本物だったわけだが、それならそれで智葉の頭のなかは疑問符でいっぱいだった。

 

 「時間帯考えろ、メシだメシ」

 

 「控室にいれば運営側から弁当が届くはずだろう。事前に注文し忘れたのか?」

 

 智葉の言うとおり、申請さえしておけば試合中に昼食の時間を迎える学校には弁当が差し入れられる。たしかに拳児はインターハイに来るのは初めてだが、姫松高校というチーム自体は経験豊富である。したがって全員揃って弁当に関することを忘れているなんてことはかなり非現実的な考えと言わざるを得ない。というかまだ試合中なのに監督の身分に相当する人物が外を出歩くなど前代未聞の行動ではなかろうか。

 

 「や、あれじゃ量が足りなくてよ」

 

 辻垣内智葉から見て、未だに播磨拳児という男の人物像は確定していない。わかっているのは見た目に反して意外と話しやすいということと、どうやら勘違いをされやすいらしいことくらいだ。智葉と拳児の接点は臨海女子で行われた合宿と、そこで交換した携帯電話の番号のみである。携帯電話の番号を知っているなんて大きな接点じゃないかと思われるかもしれないが、智葉からすればそもそも電話をかける頻度など多くはないし、かけたところでせいぜいが世間話と近況を軽く話す程度だ。人物像に迫るような話など出るわけがないし、また実際に出ていない。だから拳児が当たり前のように返したこの答えを、智葉は持て余していた。

 

 ちなみに補足しておくと、電話は臨海女子の部員たちにかけさせられるのが常であり、智葉自身の意思でかけたことはたったの一度しかない。その一回目をダヴァンに見られたのが運の尽きだった。それ以後はことあるごとにレギュラー陣が電話をかけろと迫ってくるようになったのである。同じ部員同士なのだから遠慮がないのは実に結構なのだが、あまりにもしつこいため智葉も本気で彼女たちを追い回したことが何度かある。それでもまるで改める様子が見られないのがここ最近の彼女の頭痛のタネなのだが、これはまた別の話である。

 

 あの合宿の夜に、自分は麻雀の専門家ではないと拳児は言った。しかし逆に麻雀の専門家と言ってもいい郝慧宇がその男を想像の埒外にいるとさえ言った。どちらを信用するかと智葉に問えば、これは仲間である郝の言葉を信じるのが自然だ。しかしこの播磨拳児という男が謙遜をするタイプだろうか。抽選会が行われている最中の会場から出てきて優勝宣言をしたことは記憶に新しい。ましてやあの夜は智葉と拳児以外がいない、誰にも取り繕う必要のない空間であった。それらの事象はすっと通らない矛盾を孕んでいる。可能性というだけなら目の前の男は本物の名将からとんでもない大うつけまでのあらゆる可能性を持っていた。無論それは智葉の目から見て、という意味合いにおいてだが。

 

 別に人通りの少ないわけでもない道路わきの歩道で立ち止まっている二人は、周囲の人からすれば邪魔であったに違いない。しかし拳児がそんなことを気にするわけもなく、智葉は他のことで頭がいっぱいだ。空の一番高いところに昇った太陽に思い切り光を叩きつけられている二人の姿はどこか彫像を思わせた。蝉の声はまだ遠くに残っている。とりあえず智葉は少なくとも拳児の目的に合うだろう提案をすることに決めた。

 

 「……あー、なんだ、美味い蕎麦を出す店がある。いっしょに来るか?」

 

 「蕎麦か、たまにゃ悪くねえな」

 

 

―――――

 

 

 

 その店はインターハイが行われているホールからは歩いて十五分ほどの距離にある、なんとも通好みな感じのする店だった。狭い路地に入っていかないとそこに店があることすらわからない。年季の入った木と瓦の門構えに笹の葉が覆いかぶさっている。控えめに見ても女子高生がひとりで訪れるような場所には見えない。拳児はこういった店に来たことがなかったため、こっそり不思議な感慨を覚えつつ智葉の後ろをついていった。

 

 店内は外観どおりに昔の名家のお屋敷を店用に改装したもののようで、落ち着いたどころか侘び寂びすら感じ取れるような佇まいであった。それでもテーブル席とお座敷に分けてある辺り、ある程度は新規の客のことも意識してはいるようである。立地のせいもあるのだろう、お昼時だというのに拳児と智葉はすんなりと席につくことができた。

 

 「お、そーいやオメーよ、今日の第二試合だよな? 外フラついてていいのかよ」

 

 お品書きを眺めながら何でもないように拳児が問いを発する。

 

 「それをお前が言うのか。今は試合の最中だろう? 中堅のあたりか?」

 

 呆れたような、それでいてすこし詰問するような調子で智葉が返す。

 

 「そうだな、始まってちょっと経つくらいじゃねーか?」

 

 「自分のところの部員が戦っているんだから少しは心配したらどうだ」

 

 それを聞いて、拳児は驚いたような表情をした。サングラスのせいで目は見えないが、眉が大きく上へと動いている。ついで肩を震わせ、くつくつと笑い出した。その情景は智葉にとってとくにおかしさを感じるものではないのだが、姫松の部員たちによるとそれは異常事態であるらしい。

 

 「クク、なんだ辻垣内、なかなか面白えジョークじゃねえか」

 

 言い終わったところで智葉もようやく理解した。たしかに彼女がした問いはナンセンスだと取られても仕方がない。この男が監督を務めているのは姫松高校で、そこの中堅が誰かを考えれば答えは明白である。もちろん拳児が控室から出ることにOKを出した姫松サイドも度胸が据わっているといえば据わっているが、それ以上にそうすることを許すほどの彼女への信頼感に目を向けるべきだろう。

 

 「たかだか二回戦の中堅がアイツに勝てると思うか?」

 

 「ずいぶんな言いぐさだな、相手も予選を抜けてきた強豪だぞ?」

 

 「バカ言ってんじゃねえよ、性能が違わい」

 

 

 手早く注文を済ませた二人は蕎麦が届くのを待っていた。エアコンが効いているせいか、湯呑みに入った熱いお茶も不快には感じない。もともとがどちらも話好きではないせいか、ときおりお茶をすする音がするだけで会話が弾むようなこともない。だからといって険悪な雰囲気かと言われると、別にそういうわけでもないのだから面白いといえば面白い関係性である。

 

 ちょうど黙りこくっているのをいいことに、智葉は頭を働かせていた。また新たな疑問が浮かんできたからである。さきほど拳児は愛宕洋榎が圧倒的に強いことを認識した上での発言をした。それはインターハイという高いレベルにおいての強弱を判断できることと意味を同じくしており、そしてそれは麻雀素人には不可能な芸当である。実績が判断基準になっているのならば “性能” などという言葉はおそらく出てこないだろう。つまり彼女は、拳児が嘘をつけそうにないということをわかった上で、彼が麻雀の専門家ではないという発言に対して疑いを持ち始めたのである。

 

 疑いを持つだけでは意味がない上にここでそれを尋ねたところで問題になることはないと判断した智葉は、一瞬の躊躇もなく切り出した。

 

 「お前、自分のところの連中ほど麻雀が打てないってのは本当なのか」

 

 「ンだ、急に。俺ぁ団体のやつらどころかちょっと前に入ってきた新入生にも勝てねえよ」

 

 情けない、といった風に拳児は額に手をやる。この態度を見る限りどうにも嘘をついているようには見えない。どうやって監督としての威厳を保っているのかは気になるところだが、この際それはどうでもいい。智葉はもう一歩踏み込むことにした。

 

 「それだったらお前は愛宕とそれ以外の実力差をどうやって見抜いた?」

 

 「オメーもおかしなこと聞くヤツだな、そんなもん見てりゃわかんだろーがよ」

 

 ぶっ飛んだ発言だった。拳児はこう言ったのだ。競技素人 (あるいは初心者) がインターハイを見て確実に優位を見分けることができる、と。それも優劣が明確にわかる陸上競技や水泳などではない。ある意味でもっとも線引きのあやふやな麻雀という競技においてそれを実行できると言ってのけたのである。見聞き以前に想像すらしたことのなかったそれを、智葉は即座に否定することができなかった。いきなり彼が姫松の監督の椅子に座ったことも、郝慧宇が彼を認めたことも、この能力ひとつに帰結させることが可能だったからだ。

 

 室温のせいだけではないだろううすら寒さを背すじに感じながら、智葉は質問を続けることにした。合宿で初めて事情を聞いたときは他校のことだから、と大して深く考えることをしなかった。そもそも監督なんて立場にいるくせに麻雀に詳しくないと言われたところで、智葉にできることは何もない。それが気付いてみれば、自分たちや他の高校を脅かすどころか麻雀界そのものの根本を揺るがしかねない牙を持っているのだと言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。否、武器であるという認識すら持っていないのだ。

 

 「……たとえば、だ。播磨。お前、試合観てて何がわかるんだ?」

 

 「あ? そりゃ打ってるヤツがどんぐれー強えかとか、本気でやってるかとかだろ」

 

 なるほど合宿の後からウチの連中が口を開けば姫松姫松うるさいわけだ、と智葉はひとり納得した。つまり彼女たちは播磨拳児を含めた姫松というチームを警戒するべきだと理解していたということであり、ひいては自身の感度の鈍さに智葉は呆れた。だが実際には智葉のこの後悔は半分正解で半分は間違っていた。臨海女子の面々が姫松について騒いでいたのはもちろん実力を目の当たりにしたこともあったが、その中心は拳児を使って智葉をいじり倒そうといったものであった。これについては知らないほうがお互い幸せになれるだろう。

 

 「まあ異能? とかいうのは全然わかんねーけどよ」

 

 この瞬間、拳児の言葉を信じるという条件はつくが、智葉は麻雀に関わっている播磨拳児についてもっとも深く知っている人間になった。姫松の部員たちは言うまでもなく、彼の真実を知っている郁乃は拳児のその能力に注視していない。なぜなら彼女は拳児の存在そのものが与える影響に利益を見出したのであり、監督としての有能さを求めてはいなかったからだ。加えて拳児自身がその見抜く力を優れたものだと認識していないことも影響しているのだろう。彼は郁乃に対して自分からその手の話をすることがなかったのだ。麻雀は決して上手くなく、異能についても知らず、その上で力量だけを正確に見抜く人間がいると話したところで誰が信じるだろうか。辻垣内智葉は、そんな人間が存在するという事実を知っているたった一人の存在になってしまった。

 

 合宿の時に立てた仮説の幼稚さに嫌気がさしてくる。カリスマ性などあってもなくてもどちらでもいい。拳児がその眼力をどう使うにせよ、その力に優る特性など存在し得ない。智葉は心情的には天を仰ぎたくて仕方がなかった。あくまで優勝を争う敵として考えた場合の話だが、彼女が拳児に取れる手段は何一つとしてない。まさかいきなり目を潰すわけにもいかないだろう。さてまいったな、と思考が行き詰ったところで、ちょうどよく頼んだ品物が運ばれてきた。とりあえず智葉は気を取り直して蕎麦をすすることにした。

 

 

―――――

 

 

 

 「あ、サトハ。おかえりなサイ」

 

 手ごろなサイズのカップラーメンと割り箸をそれぞれの手に持って、浅黒い肌をした少女が智葉に声をかける。智葉はそれに手で応じて、空いた椅子に静かに腰かけた。ついでため息まじりにじとっとした視線を送りながら口を開いた。こんな視線を送ったところで彼女は毛ほども動じないのだから、智葉としてもある意味やり放題である。

 

 「またカップラーメンか」

 

 「トーゼン! 何年経っても底が見えナイ! 怖いくらいに魅力的な食べ物でスネ!」

 

 「……そのうち体を壊すぞ」

 

 もう一度ため息をついて、今度はテレビのほうへと視線を投げる。映っているのはもちろん麻雀の試合であり、智葉たちも出場しているインターハイの第二回戦である。状況がどうなっているのかを知りたかったが、今はちょうど局が進行している場面のため各校の点数が表示されていなかった。黙って待っていれば表示されるのはわかっていたが、ここに戻ってくる前の拳児との会話のせいで少し気が逸っていたのかもしれない。

 

 ずるずると音を立ててラーメンをすするダヴァンとは対照的に、優雅にコーヒーカップを口に運ぶ監督に智葉は問いを発した。

 

 「状況はどうです?」

 

 「んー、妥当っちゃ妥当かな。愛宕の姉君が強いよ」

 

 アレクサンドラの言葉は話の接ぎ穂に選んだ話題のように軽いものだった。コーヒーとテレビに映る対戦とを比べさせたら、ひょっとしたらコーヒーのほうが優先度が高いのではないかと思わせるほどに。それでも彼女の言うようにそれは妥当な結果なのだろうし、それについては智葉もそう考えていたから自然と受け入れられることだった。

 

 そのまま画面を眺めていると現在の各校の得点が表示された。トップを走る姫松は二位に五万点もの差をつけて独走態勢に入っている。智葉が最後に見た各校の点差から考えると、なるほど相当に稼いだようである。

 

 「それにまだ彼女からはどこか余裕が感じられるんだよね」

 

 何の感情も乗せていない、ただの感想をアレクサンドラはぽつりとつぶやく。コーヒーはそこらで買ってきたインスタントのものだから、とくに香りを楽しむなどといったことはせずにただゆっくりと飲んでいるようだった。いつだったか彼女が日本のインスタントコーヒーは味と香りが釣り合ってないんだよね、と笑っていたことを智葉は思い出した。ちなみに智葉自身はそちらの造詣は深くない。

 

 「……性能、か」

 

 「ん、しっくり来るね、それ。まさに性能が違うって感じかな」

 

 彼女は朗らかに目を細めて、その言葉を二度三度と繰り返した。やがて満足したように頷いて、幸せそうにラーメンを食べているダヴァンに声をかけた。

 

 「メグ、それ食べ終わったら他の子たち呼んでおいて。三時間もしないうちに出番だし」

 

 口が塞がっているためこくこくと頷いて肯定の意を示したダヴァンによろしく、とだけ言い残してアレクサンドラは席を立った。何か大事な用事があるのかもしれないし、別にそうではないのかもしれない。基本的に臨海女子の面々は自由な人間だらけなのだ。たとえば後輩がこの段階で控室にいないことにいちいち頭を悩ませているようでは務まらない。もし彼女たちが日本人的な規律を重んじるタイプだったら、という意味のない想像を膨らませながら、智葉はテレビの上で踊る牌を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 





色々気になる方のためのカンタン点数推移


         中堅戦開始    後半戦開始    中堅戦終了

愛宕 洋榎  →  九八四〇〇 →  一三〇九〇〇 →  一四〇三〇〇

鹿倉 胡桃  →  八六三〇〇 →   九五八〇〇 →   八九四〇〇

竹井 久   →  九三八〇〇 →   八一〇〇〇 →   八九九〇〇

滝見 春   → 一二一五〇〇 →   九二三〇〇 →   八〇四〇〇


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26 二回戦④

※ 話の都合上、アンチ・ヘイト的表現と取られかねない箇所があります。
  そのような意図はありませんので、どうぞご理解のほどお願いいたします。


―――――

 

 

 

 愛宕絹恵は副将戦の終わったあと、控室へと続く廊下を歩いている途中で急に立ち止まり、およそ麻雀からくるとは思えないような疲れた顔で深いため息をついた。

 

 

―――――

 

 

 

 データの上でも他の面子を見た上でも、副将戦で警戒するべきは永水女子の薄墨初美であることは動きようがなかった。第三シードを与えられた永水が地区予選を勝ち上がってきたのはひとえに彼女に拠るところが大きい。発揮する力に波のある神代を別にして、永水の実力はきちんと全国を戦い抜くだけのものを持っているが、その中でも薄墨はポイントゲッターとして一際輝いた。彼女がリードを奪い、大将の石戸が抑え込む。この構図を崩すことができなかったからこそ、他の鹿児島の高校は涙を飲むことになったのである。拳児が言うには大将の石戸はまだ実力を見せていないらしいが、この際それは関係がない。

 

 恭子が口酸っぱく説明した薄墨の異能は、原理こそわからないが話を聞いてみれば単純で、しっかりとルールさえ把握すれば誰にでも対策が取れるようなものだった。もちろん薄墨自身はそれを隠すための煙幕を張っていたし、一見したところで絹恵には見抜けなかったのも事実ではある。しかし正しい番号を押せば電話が鳴るように、原理を知らなくともルールに則ることはできるし利用することもできる。そういった意味で姫松の副将戦に対する準備はばっちりだった。決して清澄と宮守を侮っていたわけではないが、薄墨と比べるとどうしても霞んでしまうのは仕方のないことだろう。おそらくは薄墨本人を除いて、三者ともお互いにそう思っていただろうから。

 

 

 出親は清澄の原村、そこから順に薄墨、絹恵、宮守の臼沢というのが副将戦の席の様子だった。絹恵の引いた席は大外れとしか言いようのないもので、なぜかと問われれば絹恵が親のときに薄墨が北家に座ることになるからである。できることなら役満の親被りは避けたいところだが、それは誰にとっても同じことで今更言ってもしょうがない。もちろん和了られると決まっているわけではないのだから、必要以上に重く受け止めることはないのだが。

 

 兎にも角にも絹恵のやるべきことは単純だ。姉が十分すぎるほど稼いだリードを、なるべく守ってできれば増やす。そのために他家の動向を普段以上に意識するし、薄墨が北家のときは警戒を強める。これだけ点差が開いているのだから、大きな直撃さえもらわなければそうそうひどいことにはならないだろう。当然ノーチャンスということもないだろうし、自身が和了ることも考慮に入れればいいかたちで大将にバトンをつなげることができそうだと絹恵は考えていた。

 

 一礼をして対局が始まる。自分以外のところで叩き合ってくれれば言うことはないのだが、さすがに一校だけ抜けてトップを走っている姫松を放っておくほど他校も間抜けではないだろう。三対の目はしっかりと絹恵を捉えている。気後れしないようにひとつだけ息をついて、絹恵は持ってきたばかりの手牌へと目をやった。幸いなことに自風の西が二枚重なった、タイミングさえ逃さなければ和了って局を流すことができそうな、状況に即したと言える手であった。

 

 

 幸先よく東一局を安手で流した絹恵は、この後もスムーズに局を消化できるのではないかと期待した。しかしそれがただの期待であって、違和感とともにそれが実現しないのだということを理解したのは、やはり絹恵の親番、つまりは薄墨が北家に座ったときのことであった。

 

 恭子の話では、おそらく清澄も宮守も薄墨への対策は取ってくるだろうから、自然に打っていれば永水が急浮上してくることはないとのことだった。加えて原村も臼沢も、このインターハイの場においてではあるが、突出したプレイヤーではない。したがって安全に打っていれば安全に逃げられるというのが彼女の話であり、絹恵自身もそれに何らの疑いを持ってはいなかった。その予測を初めに崩したのが、こちらは悪い意味でだが、清澄の原村だった。

 

 薄墨のルールは “彼女が北家に座っているときに北と東の牌を晒せば、南と西の牌が寄ってくる” というものである。それらの牌が作る役である四喜和が怖いことは間違いないが、そのルールさえ知っていれば一般的な麻雀知識を持つ人なら誰でも対策は取れる。単に北と東を捨てなければよいのだ。あるいはどちらかが鳴かれたときにだけケアするだけでも十分だろう。仮に片方が鳴かれたとしても、最悪もう片方を持っている誰かが抱え込めばそれは未然に防げるのだから。薄墨が北を六巡目で鳴いたとき、絹恵はそのことを瞬時に思い出した。そしてその二巡後、原村はまるで無警戒に見える手つきで、東を河に捨てた。

 

 「これはこれは。美味しい牌をありがとうですよー」

 

 そう言って薄墨は、年齢不相応に小さな体躯に似合わない笑みを浮かべて東を攫っていった。このことに驚いたのは絹恵だけではなく、宮守の臼沢も同様であるようだった。いやに年寄りくさいモノクルの奥の彼女の目が、あってはならないことを目撃したかのように見開かれている。薄墨の異能について知らないにせよ程度の低いミスにせよ、この卓でもっともやってはならないことを彼女はしたのだ。これで薄墨は残りの二つの風牌が集まってくる条件が揃ったことになる。彼女に役満を和了らせないためには、それより先に和了ってしまうしかない。絹恵は自分にできる限り気を引き締めた。直撃などもってのほかだが、自摸で和了られてもダメージは大きいのだ。

 

 すくなくともその瞬間、絹恵はその卓の構図が薄墨とその他の三人 (ここに原村を入れることに多少の疑問は残るが) になったと確信した。しかし、もはや動きようがないとさえ思われた絹恵の確信ですらもその通りにはならなかった。

 

 焦る絹恵の気持ちをあざ笑うかのように、彼女の手は停滞していた。何度も牌を引いては内心でため息をついているうちに気が付いた。何かがおかしい。こんなに牌を自摸るチャンスがあっていいのだろうか。映像で見た限りでは、彼女は条件を揃えてからは相当に早い。だからこそポイントゲッターと呼ばれてきたのだし、また永水女子が負けなかった理由もそこにある。だが現状はどうか。原村が東を鳴かれてからもう六巡が経過しようというのに、薄墨は和了の宣言をするどころかその目にうすく涙を溜めてさえいた。

 

 ( なんやろ、うまいこと行かへんとかあるんやろか )

 

 その本質こそよくわからないが、結果として絹恵の考えは間違っていなかった。それが実感をともなった理解に変わるまではそれなりの時間を要することになるが、それについては今ここで語られるべき事柄ではない。結局のところ東三局は、誰も聴牌までたどり着けないまま流局となってしまった。緊張が弛緩するタイミングである牌を卓の中央へ戻すときに絹恵も息をひとつついたが、下家に座る臼沢のため息が妙に気にかかる感じがした。目を向けてみると、たった一局流しただけとは思えないほどに疲労していた。じんわりと額に汗がにじんで、まっすぐ座っているのさえ辛そうだ。絹恵からすれば、自分自身以外はすべてがおかしなことになっているように感じられて、ひどく気味が悪かった。

 

 

―――――

 

 

 

 「そーいえばコーチって原村をスカウトしたりはせんかったんですか?」

 

 「ん~、どういうこと~?」

 

 薄墨に対して無警戒に東を切ったことがよっぽど印象に残っているのか、漫が思いついたままに口を開く。一方で質問を受けた郁乃はその意図が本気でつかめていないのだろう、いつものように演技性の抜けない様子で首をかしげている。

 

 「いや、全中の優勝者ってことは優秀なんちゃうかな思いまして」

 

 漫の言ったように、清澄の原村和は昨年のインターミドル個人の覇者である。ただ、漫の言い方からも推測できるように、高校生たちは中学生の大会への研究などはまず行わない。考えるまでもなくそんな時間的余裕など存在しないからだ。だから漫は表面上の情報である全中の優勝者であることだけを材料にして郁乃に話を振ったということである。何の気なしの会話なのだから別に深い材料など要求される必要もないだろう。

 

 「う~ん、そやな~、チームとして欲しいとは思えへんかったかな~」

 

 「へえ、そんなもんなんですか」

 

 あまり開かれることのない糸目を宙に投げ、人差し指を顎に当てて郁乃は返す。こう言ってはなんだが彼女お決まりのポーズで、赤坂郁乃をイメージしろと言われたら多くの人がそのように考えるだろうものである。真面目な話もくだらない話もいつもと変わらぬふわふわした口調で話すものだから、聞いている側としてはいつも判断に迷うところがあった。今回の場合は比較的わかりやすいものだと言えるが。

 

 漫は居住まいを正して郁乃のほうへと向き直る。意外と面白そうな話が聞けそうだと思ったからだ。普段はコーチングやら拳児との相談やらであまり雑談をする機会のない存在だが、考えてみれば大会中は彼女とのそういった時間が取りやすいのである。

 

 「これは例えばの話なんやけど~、負けて悔しがる子とそうでもない子のどっちが好き~?」

 

 「んー……、悔しがる子のほうが人間味があってええ思いますけど」

 

 単純に頭の中で像を作ってみて漫は答えた。こちらの方が親しみやすい。あるいは漫自身にそういうところがあるのも影響しているのかもしれない。主将である洋榎だけは例外だが、その他の対局ではいつだって負ければ悔しい思いをしてきた。

 

 「うんうん、それでな~、これは麻雀そのものに対する考え方に通じたりしててな~?」

 

 「麻雀そのものに対する考え方?」

 

 はて原村はいったいどこへ行ったのか、と疑問に思わないでもなかったが、はじめ思っていたよりも更にこの話に興味が湧いてきたので漫はとくに気にせず続きを聞くことにした。

 

 「極端に言うと一万回打っての平均成績と一発勝負のどっちを重く見るか、いう話で~」

 

 「ああ、それで原村は一万回側の雀士やってことですか?」

 

 「結論急ぐんはダメやで~? ほんでな、もちろん私も原村ちゃんのこと調べてん」

 

 「えっ、いきなり話飛びましたね」

 

 これには漫も驚いた。さすがに後の話でつながってくるのだろうが、そういった前置きもないのだから意表を突かれたと感じるのも当然だろう。考えてみれば姫松にはそうやって話をするタイプが多いような気がするが、そこに何か理由があるかはわからない。とりあえず現時点で郁乃の話は謎だらけなのだから今は余計なことは言わないほうがよさそうだ。

 

 「原村ちゃんて個人では優勝したけど、団体戦やとどんなもんやったかわかる~?」

 

 「知らないですけど、それなりにええとこまで行ったんやないんですか?」

 

 笑みの種類をちょっとだけ違うものに変えて、郁乃は楽しそうに話を続ける。

 

 「それがさっぱりやってん。県予選ですぐ負けててな~」

 

 「はぁ、それはまた」

 

 漫が話を聞いている控室には弛緩した空気が流れている。恭子を除けばこの部屋にいるのは出番を終えた者ばかりであることだけでなく、部の方針としてそういう風に過ごすことを決めているのだ。真面目に張りつめていることの重要性も理解はしているが、麻雀という競技の特性上、団体戦ともなると待ち時間が非常に長いのだ。したがってその間ずっと緊張しているとどうしても疲れてしまう。先鋒や次鋒辺りならまだいいかもしれないが、大将ともなるとさすがに体が保たなくなってしまう。だから控室にいる間は拳児を含めリラックスして過ごすことを彼女たちは決めている。もちろん基本的にはチームの応援のために視線はテレビに向けられてはいるが。

 

 「どういうことかな~思て牌譜とか調べてみたらな、すとんと納得したわ」

 

 「え、どういうことです?」

 

 「あの子な、団体戦の舞台でも一万回のうちの一試合をやっとってん」

 

 言葉は頭に入ってきたものの意味として理解が及ばなかったため、漫はよくわからないといった表情を浮かべた。ほとんど謎かけにさえ聞こえる。それでもなんとか先ほどまでの話の流れを思い出して一生懸命につなぎ合わせる。一万回のうちのひとつと、一発勝負と、団体戦。

 

 「……どうしても点を取らなダメな時の打ち方をしてへんかった、いうことですか?」

 

 「や~ん、漫ちゃんめっちゃ賢い~」

 

 ここぞとばかりに頭を撫でようとする郁乃の手を漫は回避した。さすがに高校二年生になってまでよしよしされて喜ぶ趣味はないのだ。心持ち残念そうな表情になった郁乃には取り合わない。表情を沈ませたまま郁乃は言葉を継いだ。

 

 「細かく言うたらもっとあるけど、それやったらチームとしては別にいらんかな~、て」

 

 なるほどと漫は納得した。つまりそれは自分が勝てる可能性の高いと思うものを選んで負けたらしょうがないと思考しているということであり、そこに生じた責任はすべて自分自身が負うということでもある。あえて逆に言うならば、引き受ける責任の範囲を自身のものに限定するということだ。それは個人戦ならば通る理屈だが、団体戦では通らない。ほんのわずかでもチームに貢献するためにみっともなくとも最後まで足掻くのが団体戦であり、負けましたと言ってあっさり諦めてしまうようでは話にならない。もっとも身近な先達が末原恭子であった漫は少なくともそう考える。だからこそ彼女はあのタイミングで東を捨てることができたのだ。点差まで思考が及んだならば、一気に差を広げられる可能性がある役満の道を開くことは絶対に選べないはずなのだから。

 

 大きなお世話であることに違いはないが、漫は彼女がインターミドルを制したことをかわいそうだと感じた。もしかしたらそのせいで自身に疑いの目を向けるチャンスを失ってしまったのかもしれないからだ。これは漫の妄想と言ってもいいものであり、実際にはまるで的外れな可能性のほうが高いだろう。しかし結局は他校の選手のことであり、何が正しいかなどわかるわけがなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 薄墨の四喜和が成立しなかったことを幸運と喜ぶべきか異常事態と見るべきか判断のつかなかった絹恵は、いま自分で納得できる情報だけをかき集めていた。ひとつ、この卓は事前に考えていたものとはまったく別のものになっている可能性がある。ひとつ、清澄の原村は薄墨の異能を理解していない可能性がある。この二つともが事実であるとも考えられるし、またその逆も考えられた。確定していたと信じていた情報が音を立てて崩れていくのを見た上での闘牌は、まだ経験豊富とは言えない絹恵にとって精神的にきついものがあった。

 

 最悪の可能性はいくらでも考えられたが、現実的なラインでそれらの真偽を確かめるのには南三局まで待たなければならなかった。再び絹恵の親番になり、また薄墨が北家になる。そこまでいけば絹恵の中にあるいくつかの疑念を晴らせる公算が高くなる。それまではあれこれ考えたところで結論が出ないことはわかっているのだから、徹底的に無視をして自分のやるべきことに集中しようと絹恵は決めた。

 

 卓を囲んでまだそれほど経過していないが、絹恵としての実感は、もちろん北家時の薄墨は別にしてということだが、飛び抜けたプレイヤーはいないというものであった。状況が大きく動くはずのところで動かなかったというイレギュラーはあったものの、そこを除けば事前の調査通りと言ってもいいくらいの感触である。実際に蓋を開けてみれば、取ったり取られたりで点数はあまり動かなかった。絹恵からすれば御の字といったところだろう。

 

 

 それまでに大きな和了りがなかったことも原因のひとつなのだろう、南三局はすぐにやってきたように感じられた。絹恵自身はとくに戦法を変えるつもりはなかったが、やるべきことは明白だった。親番を消費してでも疑念を晴らすことだ。あるいはそれが悪い方に転んだことを受け入れることになるかもしれない。どのみちよくわからないものを相手に後半戦を戦うよりは、凶悪であるというものであってもきちんとした認識を持ったほうがいくぶん戦いやすい。必要なのは事態の解明ではなく現状を受け入れること。それを絹恵は頭の中で復唱して局に臨んだ。

 

 おあつらえ向きに絹恵の手には東が一枚だけ浮いたように混じっていた。自身にとっての風牌であるにもかかわらず、その牌は切られることを欲するようにまったく繋がりを感じさせない孤独な牌に見えた。普段はこのように感じられることなどないから、あるいはそこに何かが影響していたのかもしれない。本来であればそんな奇妙な牌を捨てるのには警戒が必要だが、今回だけはむしろ先手を打って捨てなければならなかった。現状がどうなっているのかを確認するために。ひいては今の点差をキープするために。

 

 絹恵の捨てた東を、待ってましたとばかりに食い取った薄墨は満足そうな表情を浮かべている。それもそうだろう、四喜和を和了るための一段目のステップを早い段階で上がったのだから。もう一段目が重たいことは彼女自身も認識してはいるだろう。だがこの場にはそれを理解していない可能性を持つ者がひとりいる。期待を寄せるには十分すぎる条件だ。絹恵の東を捨てるというアクションは、外から見れば自ら罠に飛び込むような愚かしいものに見えたかもしれない。だがそれらのことは常に結果で語られるべきだ。絹恵の内心を知らない観客たちであってさえも、彼女を責めるにはまだ早すぎた。

 

 もし原村が北を掴んだ、あるいは配牌に持っていたとしたら、それが出てくるのは早いだろうと推測された。彼女の打ち方は非常に合理的だ。受けの広さから欲しい牌の残り枚数までをきちんと考察した上での取捨選択を徹底的なまでに行っている。だが反面、その合理性に信頼を寄せ過ぎている部分が見て取れた。あらゆる可能性の中で、確率は優先順位を決定しない。高い確率が低い確率に負けることなど、たとえば彼女たち雀士であるならばいくらでも経験しているはずのことである。しかしだからといって何が正しいかと問うたところで返事はない。ある意味で言えば、原村のスタイルが最強であることは誰にも否定できないことでもある。

 

 そして五巡目、眉ひとつ動かさずに原村が自摸ってそのまま捨てた牌は北だった。もはや決定的だった。彼女は薄墨の異能について知らない、あるいは知っていたとしても考慮に入れないのだ。それこそ合理的に考えれば薄墨にその二つを鳴かせることがどれだけ不利かわかるのだからおそらく前者なのだろうが、今はそんなことを考えている場合ではない。見方によっては絹恵が招いたとも取れるこの事態は、実際のところ姫松にとってもっとも避けたい状況である。清澄か宮守に直撃すれば被害はないが、それを期待するには役満という武器はあまりにも見え透いている。ぶつからないように避けるのが当然の判断なのだ。

 

 しかし絹恵にとってはここからが問題であった。東三局で不発だった薄墨の四喜和に原因は存在するのか、ということが喫緊のテーマであるからだ。ただの不調ならば流すこともできるが、仮に別の原因があったとしたらまた別の覚悟が必要になるかもしれない。異能を有していない絹恵でさえ感じ取れた圧力を消せるほどの何かがもしあるのならば、それは相当にマズいものである可能性が高い。短絡的に考えるならばその持ち主は臼沢だろう。あの局でやけに疲労していたことが妙に引っかかる。あくまで想像に過ぎないが、もしそれが事実だった場合、彼女は恭子と郁乃と拳児の目さえ誤魔化して実力を隠し通したとんでもないプレイヤーであることでさえあり得ない話ではなくなる。必要以上に相手を上に見てしまうことは避けるべきことであると絹恵は理解していたが、それを実践できるかどうかとはまた話が違っていた。

 

 

 強まり続ける薄墨の圧力が、もはや限界近くまで膨れ上がったその瞬間だった。ふと気が付くと先ほどまでの息苦しさが嘘のように消え去っていて、知らず知らずのうちにこわばっていた全身の筋肉が元通りになっていた。そして同時に、この座っている状態からでは考えられないほどに息を切らせた臼沢の姿が絹恵の目に飛び込んできた。

 

 

 

 

 

 

 

 






色々気になる方のためのカンタン点数推移


         副将戦開始    前半戦終了

原村 和   →  八九九〇〇 →   八七八〇〇

薄墨 初美  →  八〇四〇〇 →   八四一〇〇

愛宕 絹恵  → 一四〇三〇〇 →  一三五六〇〇

臼沢 塞   →  八九四〇〇 →   九二五〇〇


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27 二回戦⑤

―――――

 

 

 

 ( これはもう偶然とはちゃうやんな、永水の不調とかそんなんやない )

 

 新しい山が卓に上がってくるのを待ちながら、絹恵は晴れた疑念にほっとするやら気を引き締めるやら何とも落ち着かない心をどうにかしようとしていた。異能を叩き伏せることができるのは、それを超えた何かだけだ。それが異能なのか技術なのか強運なのかは別にしてだが、少なくとも絹恵はそう学んできている。薄墨の有している異能は状況が北家に座っている時に限定されるため、その強度もかなりのものだったが、それを封じるプレイヤーがこの卓にはついている。まだ表面化はしていないが、おそらくそれは強靭なものに違いない。百人に聞けば百人がたどり着くであろう結論だった。

 

 前半戦のオーラスを、これでは不満だと言いたげに薄墨がさっさと和了って終わらせた。そこを見ても彼女が封じられているのは異能だけらしいことが見て取れた。キーとなるはずだった局でなければ薄墨も普通に点数を稼いでいる。さすがは二年連続で出場しているポイントゲッターといったところだろうか。

 

 一礼だけは欠かすことなく足早に席を立った薄墨ではあるが、それでも永水女子の得点自体は伸びている。もしこれで彼女の思う通りに暴れられていたら、目も当てられないような惨状になっていただろうことは想像に難くない。その点だけでいえば絹恵は宮守の臼沢に感謝していた。ただ、現状おそらく薄墨を封じているのが彼女であると思われる以上、後半戦でもっとも警戒するべき対象になりはしたが。ひどく疲れた様子で対局場を後にする彼女を横目で見ながら、絹恵も廊下へと出ることにした。わずかでも気持ちの切り替えと気合の入れ直しをしておきたかったからだ。

 

 

―――――

 

 

 

 誰もいない無骨な廊下の壁に寄りかかって、ひとり絹恵は考える。

 

 ( 巫女の能力を封殺しといて仕掛けへんかったのは理由でもあるんやろか……? )

 

 あまりにピースが足りないためどうしたって結論が出ないのはわかっているが、どうしても頭を働かせずにはいられなかった。事前の恭子との話し合いでも、宮守の副将は永水に比べればラクな相手であるとの結論は出ている。だがたとえば清澄の先鋒がそうだったように場の進行度で調子が変動する可能性はある。なぜそれを初戦では見せなかったのか、などと考えたところで絹恵は頭を振ってそれらの考えを追い払った。思考の迷宮に入ってはいけない。複雑な思考はそれを使いこなせる者だけを有利にするものだ。いま絹恵はシンプルでなければならない。点数を守って、できれば増やす。必要なのは手段ではなく、目的だ。

 

 たった一人の廊下は心細いような気もしたが、絹恵はもう一度頭を振って考え直すことにした。自身がチームの代表の一人としてここにいることを思い出し、心を奮い立たせる。チームとして勝利するために必要とされているのだから、やらねばならないことははっきりと存在しているのだ。それは今のところは及第点を出せる水準で推移している。

 

 二回戦以降は二位以上が勝ち上がりというルールの性質上、勝ち上がりのための安全ラインというものが存在する。十二万点以上あればまず二位以上は間違いないと言っていいだろう。意外と低いところにラインが設定されていると思われるかもしれないが、結局のところは全チームの点数を合計した四十万点のなかでどれだけの割合を占められるかというのが勝負のポイントである。仮に十二万点を保持した状態で二位の場合、一位は少なくとも十二万点以上を保持しているのが確定しているのだから、一位と二位で二十四万点以上を取っていることが決まる。となれば逆転するためには三位と四位が残りの十六万点を奪い合うなかで十二万点を取らなければならない。このことがどれだけ困難であるかはイメージしやすいだろう。もちろんそれがあり得ないと断言はできない。また実際にはその場での点のやり取りがあるため一位が三位に落ちるなどといった事態もあり得るので単純に言い切ることはできないが、それでも決まった点数の食い合いと考えると、比較的だが団体戦の構図が見えやすくなるのである。

 

 そして現時点で姫松高校は、副将戦開始直後からは少し落としてしまったものの、十三万点以上をキープしている。これを保てばどうあっても負けない点数である。だからこそ絹恵は気合を入れる必要があった。ここを守り切りさえすれば準決勝はすぐそこだ。

 

 

―――――

 

 

 

 後半戦は清澄の原村、宮守の臼沢の二人がひたすら点を伸ばす展開となった。薄墨は前半戦で持ち味を活かせなかったことが影響したのかまるで元気がなく、甘いと言われても仕方のないような振込みも散見された。一方で絹恵は見えないなにかに怯えて出足が鈍っているようだった。必死に考えまいとしたことが頭を支配して、こちらもまた普段とはまったく違う弱腰のプレイングになってしまっていた。どちらもまだ高校生という点を考慮すれば責めるのは酷というものだろう。

 

 一方で調子の良かった二人は精神状態がまるで違っていた。かたやただ自分の合理性を貫いて打っているだけの原村と、かたやおそらく薄墨を封じている臼沢だ。精神的に優位に立っているのは間違いない。あれよあれよと言う間に点棒を奪い去り、南場に入るころには副将戦開始時に両校ともに九万点にさえ届いていなかった得点を十万点台に乗せてさえいた。当然、割を食ったのは薄墨と絹恵である。このとき永水女子はおよそ七万点、姫松は未だトップとはいえ十二万点を切るほどに削られてしまっていた。

 

 

 薄墨がもうひとつ手痛い一撃を受けての南三局。つまり絹恵の親番かつ薄墨の北家の場面である。この時点で絹恵は、もはや薄墨を警戒する意味などなく、どうにかして他を突き放さなければならないと考えていた。この思考を間違っているとまではさすがに言えないだろう。だいぶ削られてしまったが、それでもトップでバトンを回すことはまだ十分にできるからだ。この試合における絹恵の最大の失点は、敵である他家のプレイヤーに信頼を寄せ過ぎてしまったところにある。

 

 早い段階で薄墨が北と東を鳴くまでは予定調和となりつつあった。そしてそれを臼沢が何らかの方法で封じて、それからはおかしなところのない麻雀へと戻る。この流れは完成されたものであるはずだった。少なくとも絹恵にとっては。臼沢の立ち位置のことなど考慮に入れていなかった。

 

 薄墨は彼女の疲労に気付いていたのだろう。そしてそれが異能が発動しないことに何らかのかたちで関わっているだろうことも。だからこそ彼女は攻めに出た。下手を打てば破滅が待っていることを知ってなお、誇りと勝利のために大きな賭けを打つことにした。絹恵はそれに巻き込まれていることに気が付かず、失った点をどうにかしようと考えていたからこそ抗うことができなかった。薄墨が親である絹恵に当たり牌を差し込んできたのである。もちろん薄墨にとっては痛手に違いないし、絹恵にとっては棚から牡丹餅の出来事である。しかしわざと差し込んだのだから、そこにはもちろん裏がある。彼女の狙いは家を動かさないことだ。もう一度北家で役満を狙うことだ。

 

 点数で見れば圧倒的に最下位を走る少女がトップ目の親に差し込んだのを見て、臼沢は疲れ切った顔の中にうっすらと笑みを浮かべた。あまりにも疲労の色が濃すぎてこれ以上は余計なことができないような印象を受けるが、彼女の表情はむしろ渾身の策がはまったとでも言わんばかりのものだ。顔自体は下へと向けられていたため、卓についている誰もその表情を確かめることはできなかったが。

 

 

―――――

 

 

 

 「これはもう宮守の狙い通りやろなあ」

 

 ソファの肘掛けに頬杖をついてどこか不機嫌そうに洋榎が呟いた。恭子も由子もわずかに苦い表情で画面を見つめている。状況としては自チームに点数が入ってきたというのに、である。拳児はてっきり相手のミスで一気にラクになったと思っていたものだから、その言葉と彼女たちの雰囲気に面食らってしまっていた。漫も拳児と同様に理解が及んでいないらしく、眉根を寄せて不思議そうな顔をしていた。

 

 「え、どういうことです?」

 

 わからないときには素直に聞けるのが漫の美徳のひとつだろう。拳児も尋ねようと考えていたのだが、一歩遅れてしまった。誤解を晴らせないことを多少は残念に思ったが、最低でもこのインハイの間はその誤解をキープしなければならないことを思い出して拳児はひとり息をついていた。

 

 「んー、仮にあの宮守のが他人の異能を封じるものとするやろ? 仮に、な」

 

 「永水の巫女が北家で和了れへんのはそれいうことですね」

 

 いつもならばこういう説明は恭子が行っているものだが、なんと珍しいことに今回は洋榎が請け負うようだった。正直なところを言えば、漫も拳児も洋榎による麻雀の解説を聞いたことがない。基本的には近くに恭子や由子、あるいは郁乃がいたものだから、彼女たちがその役割を果たしてしまっていたのである。麻雀の腕やスタイルを別にすればあまり精密な論理を考えている印象を受けないということで、拳児は彼女が解説を始めたことに多少の不安を感じていた。

 

 「さ、漫。ここまでの局での情報で宮守について考えなあかんことはなんや?」

 

 「え? え?」

 

 いきなり出された大雑把とも取れる質問に漫は答えられない。

 

 「解答権はきょーこに移ります」

 

 「異能を封じられると仮定した場合、それが任意かどうか、ですね」

 

 急に話題を振られたにもかかわらず、恭子は何でもないように答えを返した。これについては彼女の頭の回転の速さも褒められるべき点ではあるが、突然に話題を振られることに慣れてしまっているという立ち位置のせいもある。無論それを三年間鍛え続けたのは愛宕洋榎に他ならない。

 

 「さて漫、この状況下ではどちらで考えるべきや?」

 

 「えーと、任意でできると考えたほうが良い思います」

 

 「ピンポンピンポン大正解! 賞品として晩御飯のおかずを播磨から一品贈呈や」

 

 話を聞いていただけで会話に参加していない拳児は抗議の声を上げることすら許されていない。なんだか知らないが件の正解者はこれ見よがしにガッツポーズなぞ決めている。拳児は彼女たちにその辺の遠慮がないことなどとうに知っている。伊達に四ヶ月ほど同じ部活で過ごしていない。

 

 しかし今のクイズだけでは臼沢の目論見とやらがまるで見えてこない。おかずについては早々に諦めた拳児はひとりでそちらに思考を飛ばしていた。つまり彼女は異能を封じる封じないを選択することができるという前提で考えなければならないのだが、その前提が何を導くかが拳児にはさっぱりわからなかった。封じないという選択をすれば結局のところ役満で和了られる危険性が高まるだけなのだから選ばないのが当然だろう。そんなことを考えていると、どうやらクイズの続きの話が始まるようだった。

 

 「絹に親を続けさせるために薄墨は差し込んだわけやけど、その意図はカンタンや」

 

 「北家を続けたいいうことですよね?」

 

 「そやな、逆に言うと役満取らんときっつい点差ってことでもある」

 

 絹恵に差し込んだ時点での永水の得点は47200。このまま大将戦に流れればまず勝ち上がりはあり得ないだろう。仮に役満を和了ったところで八万点にも届かないが、和了らなければ話にさえならない状況である。

 

 「ここで宮守の、臼沢やったっけ? の腹案が実現可能になるわけや」

 

 「あ、やっと出てきましたね」

 

 「 “いま永水に役満を和了られても怖くないのだから、他を引き摺り下ろしてもらおう” 」

 

 「……へ?」

 

 「ウチでも清澄でも直撃なら万々歳っちゅうことや、宮守からしたらな」

 

 点差で考えれば通る理屈である。姫松と清澄のどちらでも直撃すれば自動的に宮守は二位に上がり、永水はまだ点差のある最下位となる。仮に自摸だったとしてもトップ目である姫松が親被りなのだから、場は多少なりとも平らになる。臼沢自身が振り込むようなことさえしなければ、どちらに転んでも問題はないのだ。

 

 「……うわ、ホンマや。めっちゃエグい」

 

 「ま、団体戦ならではの他家の利用の仕方やな」

 

 説明を終えると同時に、洋榎は鼻を鳴らして視線を画面へと戻した。つまるところ姫松にとって分の悪い状況へと持っていかれたということなのだ。苦い表情で画面を見ていた三年生の三人は、これを即座に見抜いていたということでもある。実戦に身を置きながらその策を構築した臼沢もそうだが、どうやら拳児とはまったくレベルの違う世界で彼女たちは戦っているらしい。今更ながら姫松を訪れた初日で恭子に言われた名門であるという事実を、拳児はその身に感じていた。

 

 ずば抜けた才能をこそ認めてはいるものの、そういった頭の回転は自身とそう変わらないと思っていた洋榎の解説がかなりわかりやすかったことに驚いた拳児が、このあと彼女にその事実をそのまま告げて一悶着起きるのだが、それはまた別の話である。

 

 

―――――

 

 

 

 「……あまり見せたくはなかったんですけどねー」

 

 小声でそう呟いた薄墨は、槓を宣言して自身の手から北を四枚倒して晒した。ルールに則り二枚を裏返しにして隅へと押しやる。状況としては八巡目、既に彼女は東を鳴いている状態だった。

 

 ( うわ、自分から晒すのもアリなんか。でも…… )

 

 絹恵の思考を読み取るのはそう難しいことではないだろう。なぜなら彼女は決して味方ではない臼沢を信頼してしまっているからだ。味方ではない存在を信頼する条件はただ一つ、利害が完全に一致することだ。しかし絹恵は、姫松と宮守の利害が完全には一致していないことに気付くことができなかった。役満を和了られることはお互いに不利益であると信じ込んでしまっていた。

 

 四度繰り返されてきた強烈なプレッシャーが、またしても卓を支配してゆく。それは巡目が進むごとにその圧を増して、否が応でも恐怖を呼び起こす。そうそう簡単に慣れることのできない類のものだ。だがそれはこの卓においては一定の強さに達するたびに霧散してきた。臼沢塞がそうすることを選んできたからだ。

 

 消滅するはずであったものが、いや、消滅しなければならなかったものがまだそこにある。これまでよりもはっきりと強く、そして明らかな危険性を伴って。絹恵はとっさに臼沢の方を確認するが、彼女は汗をにじませたまま口の端を上げて呼吸を続けているだけだった。先ほどまで見られた疲労に沈む姿はそこにはない。もし彼女が体力と引き換えに薄墨の異能を封じていたとすれば、つまり今は封じていないということである。その選択肢を初めから捨てていた絹恵は一気に青ざめた。この局はオリて逃げる以外にあり得ない。この時点で既に勝負は決していたと言っていいだろう。あとは被害の向きだけが問題だった。

 

 

 「はい、自摸ですよー。小四喜、8000・16000に一本付けですー」

 

 やっと望んだとおりの役で和了れたことに満足しているのか、薄墨は機嫌が良さそうに見えた。普段の絹恵なら永水とそれ以外の点差を見て疑問を持てたのだろうが、今はまさしくそんなことを考える余裕がなかった。親被りで役満を食らったこともそうだし、迫りつつあった清澄と宮守により接近を許してしまったこともある。ただ彼女にとって何よりも辛かったのが、姉の作ったリードをかなり吐き出してしまったという事実だった。

 

 オーラスについてほとんど絹恵は覚えていないが、後に確認したところ、どうやら全員がノーテンで終わったらしい。はっきりと意識を取り戻したのは対局室から出て少し歩いた廊下の途中で、絹恵はそこで深くため息をついた。

 

 

―――――

 

 

 

 それは二回戦の前日の夜のことである。

 

 腕を組んで神経質そうに指で自分の腕を叩きながら恭子は唸っていた。部屋には郁乃と拳児も含めた全員が揃っているが、恭子の近くにいるのは拳児のみである。他の部員たちはもう明日の対戦相手の情報を頭に叩き込んで、恭子の助言を受けて自分なりの対策を練っているところだ。彼女が必死に頭を働かせているのは残った最後のひとり、大将である自身のためであった。しかし基本的に情報を統括する立場にある恭子が自身の対戦相手について頭を悩ませるにはいささかタイミングが遅いと言わざるを得ない。情報を最初に入れるのだから、最初に対策を練る行為が終わっているのが自然と考えるべきだろう。

 

 そのきっかけを作ったのが他の誰でもない、拳児であった。拳児は恭子が戦術について各ポジションに話をして回る際にひたすら彼女の後をついて回った。なぜなら誰かのところに落ち着いてそれらの相談を受けた場合、拳児には何も答えることができないからだ。別にそれならそれで誤解が晴らせるのではないか、と思われるかもしれないが、大会中にそれはいけないと郁乃からの厳命が下っている。麻雀は他の競技と同様、あるいはそれ以上にメンタル面が表に出やすい競技である。である以上、そこにマイナスの影響を及ぼしかねない事象は避けるべきなのが当然であって例外はない。拳児からしても姫松の優勝が至上命題であって、たしかにそこに反論する余地はなかった。

 

 そして恭子が全員に対して戦術の話を終えてひと息入れたとき、拳児が声をかけた。

 

 「オウ、末原。オメー自分の相手は大丈夫なんだろーな?」

 

 不意に投げかけられた言葉に、恭子は訝しげな視線を返す。これまで先鋒の漫から副将の絹恵まで話をしてきたなかで、拳児が首を突っ込んできたことはない。つまり彼女たちの相手には問題がないが、恭子の相手には問題があるということだ。それを忠告してもらえるのは実に結構なことだが、その実シャレになっていない。拳児の眼力の精確性を考えればため息さえつきたくなるほどである。

 

 「なんや急に。あん中でヤバいんは清澄やろ、あとはリードさえあれば逃げ切れるわ」

 

 「ンだ、まだ気付いてなかったのかよ、永水も宮守も抜いて打ってんぞ」

 

 言われるであろう言葉におそらく見当をつけてはいたのだろう。それほどショックを受けてはいないようだったが、いかにも面倒なことになりそうだ、という風に額に手をやっている。たしかに可能性としてはない話ではないのだ。団体戦の最後を締める大将というポジションには当然大きな役割がある。姫松の場合であれば、それはリードをきちんと守り抜いて勝ち切るというものだが、他校であれば話は変わってくる。大将一人でひっくり返すことを戦術の選択肢として入れている場合があるのだ。その中でもさらに厄介なのがポイントゲッターが他にいる場合である。例としては永水女子がもっともわかりやすい。薄墨が稼げば大将は守るだけでいい。もし薄墨が稼げなければ大将で勝ち切る。これの利点はそのポイントゲッターが優秀であればあるほど、大将を隠して温存することが可能な点である。トーナメント方式を戦い抜くという意味において優秀な戦法であることは間違いないため文句を言うのはお門違いだが、恭子は文句のひとつも言いたくて仕方がなかった。拳児の言葉を信じるならば、二回戦の恭子の相手は、全員が一人で試合をひっくり返せる実力を持っているということに他ならないからだ。

 

 「……どんぐらいや」

 

 「あ?」

 

 「その二人は何パーセントくらい抜いて打っとる?」

 

 「んなことまで俺が知るか。わかってんのはまだ本気で打ってねえってことだけだ」

 

 ショックのやり場を見つけることができずに、結局は拳児への視線にそれを乗せた恭子の問いに返されたのは無碍と言ってもいい回答だった。もし拳児がそれらのことを見抜くことができたとすれば、それだけで高校麻雀はおろかプロの世界までも巻き込んで大騒動になる。そう考えれば恭子の質問も理不尽と言えば理不尽なものである。

 

 恭子の心情としてはわずかに複雑なものがある。事前に心の準備ができることはありがたいのだが、お前の相手は全員が強敵だと言われて喜ぶような気質はしていない。口にしたところで変わるわけではないし、また実際に違うのだが、優勝のためにはハードルが低いほうがいいに決まっている。そんな思いからか、またひとつ質問が恭子の口からこぼれた。

 

 「異能は?」

 

 「専門外だ。他を当たんな」

 

 それを聞いた恭子は、深く長いため息をつきながら頭をゆっくりと振った。次に顔を上げた瞬間には彼女の表情はいつも通りのものに戻っており、それは拳児を少しだけ驚かせた。どうやら目の前の少女にも、まだ拳児の知らない領域が存在しているらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 







色々気になる方のためのカンタン点数推移


         後半戦開始   後半戦終了

原村 和   →  八七八〇〇 → 一〇九四〇〇

薄墨 初美  →  八四一〇〇 →  七九五〇〇

愛宕 絹恵  → 一三五六〇〇 → 一一五三〇〇

臼沢 塞   →  九二五〇〇 →  九五八〇〇


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28 二回戦⑥

本作の方針についての活動報告があるのでお目通しいただければなあと思います


―――――

 

 

 

 控室に戻るなり大粒の涙を零して謝り倒す絹恵の肩を、やさしく二回だけ叩いて恭子はその場を辞した。あとのことは残りのメンバーに任せておいて問題ないだろうとわかっていたからだ。誰も絹恵を責めないことを逆に本人は辛く感じるかもしれないが、そこは播磨拳児がどうにかするはずだ。おそらく力任せの強引な励ましや説得なのだろうが、意外とこれが効くのだから面白い。

 

 中堅戦で稼いだリードを削られてしまったのは事実だったが、恭子はそこまで深刻な事態だとは捉えていなかった。ここは全国大会の場だ。主将である愛宕洋榎が団体戦で惨敗する以外のことは何が起きてもおかしくはない。それは姫松にとって良いことの場合もあるだろうし、悪いことの場合も当然あり得る。そう考えていた恭子からすれば、現在の状況は想定の範囲内も範囲内、ベストとは言えないだけでどちらかといえば状況は良いものでさえある。トップに立っていることは誰がどう言おうと間違いなくアドバンテージなのだから。

 

 

 早めに着いたと思った対局室には既に宮守の姉帯豊音、永水女子の石戸霞が立って待っていた。席順を決めてから座るのがマナーであるため、それは当たり前のことなのだが、恭子はもはや少女と形容しては失礼にあたるだろう巫女の装束に身を包んだ女性と、真夏の大会だというのに冬服のブレザー姿にキャベリンを被ったその二人の立ち姿を視認したときにたじろいでしまった。決して実力の差を感じてなどというわけではない。

 

 ( 二通りの意味でデカいな……。巨人とおっぱいお化けってなんやこれ…… )

 

 控えめに見ても拳児よりも背の高い高三女子と、今までの人生で見たなかで一番豊かな胸をした高三女子のインパクトは恭子の顔を引きつらせるのには十分なものを持っていた。その辺りのことはまるで麻雀には関係がないが、恭子は奇妙な心労を覚えた。恭子はとりあえず挨拶だけはして、残る清澄の大将を待つことに決めた。

 

 ほんのわずかな言葉を交わした印象ではどちらも緊張はしていないようだった。名門の名と初戦を勝ち抜いた実績は伊達ではないということなのだろう。もともと舐めてかかるつもりもないが、より気を引き締めて卓を囲まなければならないことを恭子は悟った。彼女からすればいつだって相手に不足はないのだから、いつも通りと言えばいつも通りなのかもしれない。

 

 さほど時間を待たずに最後の扉が音もなく開いた。拳児の言った通りに姉帯と石戸がまだ全力を見せていないとしても、それでもなお恭子がもっとも警戒するべきだと考える少女が姿を見せる。先の二人と違って目立った特徴のない、それこそ人ごみに埋もれてしまいそうな容姿をした清澄の大将。昨年のインターハイの団体戦MVPをかっ攫っていった天江衣を擁する龍門渕を、長野予選で下した原動力。熱心な麻雀ファンからすれば、拳児が姫松の監督代行に就任したことよりも大きな事件であるとさえ言える出来事だった。彼女の名は宮永咲。その名前は、やはりある一人を強烈に連想させるものだった。

 

 

―――――

 

 

 

 ( ……オリやと逃げ切れそうにないからな、先手打とか )

 

 恭子が卓上の四枚の牌から選び取ったのは南だった。上家に永水の石戸、下家には宮守の姉帯、対面には清澄の宮永といった具合である。洗牌されて山がせり上がり、賽の目にしたがってそれを四人が崩していく。先の副将戦の役満自摸のおかげで得点状況はある程度まで平らになっていた。それの指すところの意味は、半荘が二つもあればどの高校が抜け出してもおかしくないというものである。ルールの上では二位までが準決勝進出となるが、そこに入ることの困難さを恭子は理解していた。

 

 ざっと牌を揃えて手早く理牌を行う。現時点で恭子が欲しい手は軽くて早い手である。もちろん打点が高ければそれに越したことはないが、それより優先するべきなのは他家に和了らせないことだった。細かく刻もうが親の連荘で回数を重ねればそれは十分な武器になる。手始めに東一局をさっさと和了って親番を持ってきたいというのが恭子の考えであった。

 

 配牌はちょうど恭子の求めていた軽い感じの手であった。白を鳴くタイミング次第では警戒されることなく和了れるだろう。あとは手広く構えてドラが絡めば御の字といったところだ。だが逆にどの場合でも恭子は他家を警戒し続けなければならない。拳児の言う “本気を出してない状態” は本来持っている異能を行使していない場合も含まれている。そこの判別が彼にはついていないだけであって、実際には言うほど拳児は異能と無縁ではなかったりする。しかし異能という観点を持つことができないのだから、結局は無縁ということになるのかもしれない。仮に石戸と姉帯の二人が異能を隠し持っていた場合、何が起きるかはそれこそわかったものではないため、恭子は常に気を張っていなければならないのだ。彼女自身の言を借りるなら、凡人には凡人なりの戦い方がある。石戸が西を切ることで、二回戦第三試合の大将戦が幕を開けた。

 

 

 まずは様子見ということなのか、恭子の目にはどの選手も派手な動きをしているようには見えなかった。始まってたった数巡で目立つプレイングなど普通ならそう見られるものではないが、このインターハイという場においては特別に珍しいものとも言えない。それだけにこの状況は恭子にとってはプラスに働くと言えるだろう。アクションを起こさないでいてくれるなら、そのぶん余計な気を回さずに済む。速攻を仕掛けたい人間にとってはなんともありがたい話なのだ。

 

 四巡目にうまいこと赤ドラを引き入れた恭子は、流れそのままに白を鳴いた上で綺麗に自摸和了ってみせた。要求を完璧に通した、文句のつけようがない一局だった。これなら主将である洋榎にだって後れを取らないと恭子でさえ思うようなものだった。点棒を三人から回収するときに値踏みするような視線を感じたが、そんなものは初めから覚悟している。これからこの面子から逃げ切らなければならないのだ、怯えるにしても今更というのはいくらなんでもタイミングを間違えすぎている。そんなことよりは自分の親番について考えを巡らせているほうがはるかに有益だった。

 

 麻雀を打つにあたって親番が稼ぎ時であることに異論はないだろう。子に自摸和了られたときに被害が多少は大きくなるが、それと和了ったときに得られる点数を天秤にかければプレイヤーの心理がどちらに傾くかは明白である。したがって恭子にとってもここは小さくない勝負の局になる。半荘一回で回ってくる親番は二回である。団体戦は半荘が二回だから四回あることになるが、その一回一回でどれだけ稼げるかが姫松の浮沈を決定すると言っても過言ではない。これから勝ち上がるために全力を出すであろう彼女たちの火力が低いのではないかなどと考えるのは、楽観を超えて浅ましい願望でしかないからだ。

 

 実際はどうあれ手繰り寄せた親番で稼いでおきたいのには変わりがない。もちろん度が過ぎてはいけないが、速度を中心とする方針を動かすつもりもなかった。どのみち他の高校も勝つためにはどこかで仕掛けなければならないのだ、先手を打って迎え撃つ準備をしておくことは常道である。

 

 親を迎えての恭子の配牌は今度もなかなか悪くない。これを和了れば連荘になり、連荘が続けば流れが来る。流れを寄せれば相手には焦りが生まれ、そして焦りはミスを生む。恭子がまず手にしたいのはこのかたちだ。言い方を変えるなら、他家に気分よく打たせてはいけないということだ。少しでも窮屈に打たせなければならない。たとえば無理をしてでも大きい手を狙わなければならなくなるように仕向けるだとか。おそらくそうでなければ手作りが優先される序盤以外は緩んだ打牌などしないだろう。インターハイ団体戦の大将戦とはそういうものだ。

 

 

 恭子本人からしても、安手とはいえ親番で二連続で和了れたことは意外であった。警戒こそ怠るつもりはないが、ここで安全圏まで逃げ切ることができれば勝つ公算が一気に高くなる。勝負時はいつだって揺蕩っていて、存在していないことさえ珍しくない。恭子はそれが今来ているのかもしれないと思い始めていた。

 

 東二局二本場九巡目、恭子の手は門前混一に加えて中の刻子。他家の捨牌を見ても高そうな聴牌の気配は見えない。ならばここで押さない意味はない。恭子はリーチの宣言とともに牌を曲げ、千点棒を卓の中央に供託した。自身の河を見れば索子が危ないだろうことは断言できないまでも推測が立つ。大将戦かつトップ目の親リーチであるという状況を考えればそうそう甘い打牌は期待できないし、仮に突っかかってくるにしても相応の準備が必要である。そう考えていた恭子は、悪くても流局までだろうという見当をつけていた。

 

 「じゃあー、私も通らばリーチでー」

 

 即座に反応したのは下家に座る宮守の姉帯だった。自身であればまず競らないであろう場面でのおっかけリーチに、恭子は奇妙なものを感じた。多面張などの好条件であればまた話は変わるが、恭子が他家だった場合にこの場面でのリーチを否定する要素はいくつもあった。まず捨牌から手の予測がしやすいのだから和了らない限り自摸切りせざるを得なくなる危険性をわざわざ選ぶ必要のないこと、それを踏まえた場の進行度もまだ焦るほどのものではないはずである。また突っかかる相手が親であることもその一つだ。()()を疑いたくなるにはこれだけで十分である。もちろん恭子の考えすぎの可能性もあるが。

 

 続く二人は共通の安牌を捨てて、恭子の自摸番である。姉帯の不気味なリーチのせいもあって、できれば一発で和了っておきたいところだったが、望めばいつでも和了れるほど麻雀は甘いものではなかった。やむなく欲しいものではなかった牌を河に捨てたところで声がかかった。

 

 「ロン。リーチ一発平和で3900。二本付けだよー」

 

 「……はい」

 

 倒された手の待ちはごく一般的な両面待ちのもので、決して突っかかれるようなものではない。手役も不思議なもので元をたどればリーチと平和のみである。自分が和了れなかったことに対して異論を唱えるつもりはないが、この和了にはまともと言えない部分がいくつもある。もちろん偶然である可能性は否定できない。往々にしてそういうことはあり得るからだ。しかしそれは一般的な、たとえば雀荘などでの話であって、ここインターハイでやるような打ち筋ではないというのが確信には至らないまでも恭子の見解だった。

 

 ( 播磨の言うとったのはこれか……? いや、まだ早計か )

 

 仮に今の現象が異能によるものだったとして、その場合の恭子の結論はシンプルなものだった。別にその異能を真正面から叩き潰す必要はどこにもない。その異能の及ぶ範囲に入らなければいいだけの話だ。いくつか仮説を立てて反証を挙げ、それは回避が可能なものであるとの判断を恭子は下している。その異能の及ぶ範囲だけはまだ確証が得られていないが、それもほぼ時間の問題だろう。無論先ほどの姉帯の和了が異能でなかった場合も考慮して、恭子は打ち筋を変える必要はないというところに着地した。

 

 

―――――

 

 

 

 表情こそさほど変わってはいないものの、明らかに頭を働かせている宮守を除いた三人をテレビ越しに見ながら大きくあくびをひとつ。この試合が終われば自分たちの出番だというのにまるで緊張を見せないネリー・ヴィルサラーゼは、その鋭敏な感性であの場に何らかの力が働いたのを見抜いていた。

 

 「アレどんな仕組みかなぁ」

 

 「あら、珍しいですね。準決勝の対戦相手が気になるのですか」

 

 なぜかいつでも日傘を手放さないお嬢様然とした少女がそれを承ける。彼女が言うようにネリーは余程のことがない限り卓を囲む相手に興味を示さない。そこにある絶対的な条件は、強者であることだ。麻雀以外のことに関しては気まぐれに振る舞う彼女だが、麻雀に関してだけは一貫している。少なくとも臨海のレギュラー陣と打ちあえるようでなければ歯牙にもかけないのが常である。

 

 声をかけられて初めて考え込んで、そのあとで素直に頷いた。無意識のうちに口にしていた言葉に意味を与えられて、やっと思い当たったような顔をしている。ソファにだらりともたれかかっただらしない姿勢だが、どうやら姿勢以外はそうでもないらしい。

 

 「ミョンファは残り一個の席、どこだと思う?」

 

 「うーん、そうですねえ……」

 

 明華はネリーの言葉にとくに疑問を持たないようだった。画面で展開されている麻雀はまだまだ情報が集まっていない。末原恭子の連続和了とそれを止めた姉帯豊音の和了、あとは局のあいだの打ちまわし程度しか得られているものはない。他の材料としては現時点での得点があるが、それを踏まえても結論を出すのは難しい。彼女たちの共通認識をきちんと理解するには、彼女たちと同じ領域まで行かなければならない。

 

 控室には監督を含めた団体戦のメンバーが揃っている。郝だけは本に目を落としているが、他は全員がテレビに映る試合を眺めている。自分たちが勝ち上がることを大前提として、その次の相手をよく見ておこうということなのかもしれないし、あるいはただ単純に試合を観ているだけなのかもしれない。

 

 「ねーメグ、次の試合サボっていいから準決勝でどこかトバしてー」

 

 「ハ? いきなりどうしたんでスカ?」

 

 だらしない姿勢のまま間延びした声でネリーがダヴァンに声をかける。軽い口調の割になかなか重たいお願いである。ダヴァンもまったく身構えていなかったところに不意打ちが来たと見えて、振り向く速度はかなりのものだった。

 

 「決勝ならしょうがないけど、他でキョウコと打ちたくないの」

 

 「ああ、そういうことでスカ。とはいってもトバすには前の協力が必要でスヨ」

 

 困ったようにダヴァンが返す。自分だけの力では大変ですよ、と言っているようだが彼女には去年のインターハイ準決勝で他校をトバして勝ち上がった実績がある。大変そうだとは思っても無理だとは言わない辺りに彼女の自負がうっすらと感じ取れる。

 

 「ま、末原サンに見られると困る気持ちはわかりますけドネ」

 

 そう言って今度はダヴァンが意味ありげな視線を智葉に送る。彼女のポジションは先鋒であり、つまるところ試合展開のかじ取りを任される場所である。智葉の働き次第で、うしろに続く臨海のメンバーたちの動き方が決まってくる。しかし昨年の時点で高校レベルではほとんど並び立つ者のいない領域にいた彼女の安定感は常軌を逸していると言っていい。彼女と勝った負けたの話をするのならば、それこそ世代最強を決めるような卓を作らなければならない。インターハイに出てくるレベルの高校の普通のエース程度では簡単に切って落とされる。そんな智葉にその種の視線を送ることの意味などわざわざ言葉にするまでもないだろう。

 

 視線を向けられていることを理解しながら、智葉は無視を決め込んだ。周知のことではあるが、彼女は基本的につれない人間であった。

 

 

―――――

 

 

 

 待ちの狭いおっかけリーチで親番を潰されてなお、恭子はその次の局でもリーチを打って攻めることを選択した。彼女の手の勢いが死ななかったこともあるが、それとは別に明確な理由があっての決断だった。何であれ情報は早ければ早いほど、また正確であればあるほどその価値は高まる。先ほどのおっかけで潰された局が偶然なのか、あるいはそうではないのかも十分にそれにあたる。それはたとえ恭子がもう一度点棒を払うことになっても、である。なぜなら末原恭子には隠し玉がないからだ。他の有力選手の多くに見られる異能を彼女は有していない。そのことの意味を恭子はきちんと理解している。ここぞで頼れる絶対的な武器を持たないのだから、機会というものの価値を間違えることがない。そして恭子は、早くて正確な情報が機会を生むということをよく知っている。

 

 結果はまたしても恭子の放銃であった。それもリーチ直後の姉帯へのおっかけリーチに対して。大将戦が始まってからの自身の連続和了のことも踏まえて、これはもう()()()()()()と考えた方がいいと恭子は判断した。たった二回の現象では根拠として弱いと言えるかもしれないが、これ以上は無為に点を与えるだけになりかねない。場合によっては清澄か永水がリーチをかけてくれるかもしれないのだから、それ以上の検証はそちらに任せれば十分である。

 

 恭子の取れる戦略のうちの一つが取れなくなっただけで、本人からすれば実害はそれほどない。リーチをかけなければ打開できない状況などそうそうあるものではないし、それ以前にそんな状況まで運ばせるつもりは恭子にはないからだ。それにどちらかと言えば、先程の二連続の恭子からの直取りで立場を悪くしたのは姉帯であると考えた方が自然だろう。彼女が自身の異能を活かそうとしたならば、鳴くことは許されていないからだ。もちろんストロングスタイルで戦い抜けるだけの自信を彼女が持っている可能性はあるが、その程度ならば問題はないと恭子は考えていた。姫松の部には “爆発” の特性を持つ上重漫がいる。その手の経験には事欠かない。

 

 

 「槓。……自摸、嶺上開花。700・1300は800・1400です」

 

 頼りなく見えるほどに女の子らしい手が、本来ならその局で触れられることのないはずの王牌へと伸びてゆき、事前に和了ることがわかっていたかのように自然な動作で手牌を倒す。連続和了で勢いづいたかに思われた姉帯を止めたのは、恭子がもっとも警戒していた清澄の宮永だ。

 

 ( ……こうまであっさり難しい役決められると自信なくすわ )

 

 ため息とともに点棒を支払い、改めて恭子はその脅威を認識する。宮永の槓に対応する手段がないわけではないが、それには運を味方につけた準備が必要だ。そしてそれは彼女に対する決定的な一撃になり得る。仮に次局で条件が揃ったとしても、恭子はこの東四局というタイミングであれば見逃すだろう。宮永咲との勝負を決める場面が、きっとこの先どこかで訪れる。恭子はそれを待たなければならなかった。

 

 自らの身を削って情報を集める判断をしたとはいえちょっとした点棒を失ってしまったことは、現時点でのという但し書きが入りはするものの、そのぶん勝利から離れてしまったことと変わりはない。平たく言えば点棒を取り返す必要があって、いま恭子の頭脳はそのために全力で回転していた。さっきまでと違ってそれほど足の早そうな手ではないことも手伝って大忙しである。それでもなお他家に対する冷静さを保っているのはさすがと言ったところだろう。だがそのせいもあって、場に動きがあったときにもっともはやく反応したのも恭子であった。

 

 鳴かないはずの姉帯が鳴いたのである。おっかけリーチからの一発ロンが彼女の持つ異能ではないかと疑っていた恭子は、素知らぬ表情の下で情報の修正に追われることとなった。これは非常に厄介なことになった、と恭子は一瞬だけ眉をひそめる。恭子が異能を持っているプレイヤーに対してそれほど恐怖を抱いていないのは、基本的に彼女たちがそれに頼ったプレイスタイルになることが多いからだ。だからこそ恭子は嶺上開花に頼り切りにはならない宮永咲をもっとも警戒していたのだ。しかし今の姉帯の鳴きは、異能にもたれかかった戦い方をしないか、あるいは異能を複数抱え込んでいる可能性のどちらかを意味している。

 

 結果その局で和了ったのは姉帯であったが、その過程は誰であっても一目で異能が関わっていると断じたくなるようなものだった。彼女はあの後も次々と捨てられた牌を鳴いた。計四回の鳴き、つまり待ちは残ったたったの一枚の牌、いわゆる裸単騎のかたちだったのだ。待ちも一枚のうえに防御面も最弱というインターハイのレベルではまず見られないかたちを姉帯豊音は意図的に作り、そしてすぐさま当たり牌を引いて和了ってみせた。もはや異能を考えないほうがどうかしていると言いたくなるほどの奇妙な和了であった。

 

 ( 異能の二つ持ちに前例がないわけやないけど、……ここで来るかぁ )

 

 

 永水女子が未だに動きを見せないことが気にかかってはいたが、得点状況での懸案事項といえばそれくらいで、あとは恭子の想定の範囲内であった。推移としては順調であり、このまま試合が進んでいくことを悲観寄りなリアリストである恭子でさえ願いたくなるほどであった。この大将戦の前半戦をのちに恭子が悔やんだのは、ここで知らず知らずのうちに和了って逃げる思考から点棒を守りきる思考にシフトしてしまった部分である。前提としての宮永という脅威と未だ全貌の知れぬ姉帯、そして不気味な石戸に腰が引けてしまっていた。特別ななにかを持っていない少女なのだからそれは仕方のないことなのかもしれないが、その場は心の強い者だけが生き残れる空間であり、日和った者が餌食にされるのは避けられなかった。

 

 宮永と姉帯による直撃と石戸の自摸和了により、姫松の得点はついに十万点を下回った。二着まではほとんど差はないとはいえ、現時点での順位は三着。二回戦の突破が危ぶまれていた。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


          大将戦開始   後半戦開始

石戸 霞   →  七九五〇〇 →  八一四〇〇

末原 恭子  → 一一五三〇〇 →  九九九〇〇

姉帯 豊音  →  九五八〇〇 → 一〇四〇〇〇

宮永 咲   → 一〇九四〇〇 → 一一四七〇〇


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29 二回戦⑦

―――――

 

 

 

 「なんか末原先輩めっちゃ集中してて応援になったか微妙な感じでした」

 

 前半戦が終わるや否や控室から飛び出していった漫は、戻るなりすこし不満そうに口を開いた。おそらく多少なりとも傷ついたであろう先輩の支えになろうと駆けつけたら、その当人が目をぎらぎらさせながら思考の海に沈んでいたのだから漫の気持ちもわからないでもない。もちろん恭子も漫がやって来たことには気付いていたが、思考のリソースをほとんど対局に割いていたため生返事くらいしか返していなかったのである。

 

 それを聞いた洋榎は由子と目を合わせてちいさく笑い、口をとがらせている漫にいつものように自信満々に言葉を投げた。

 

 「なんやなんや漫ぅ、付き合い短い播磨のほうがきょーこのことわかっとるんやないか?」

 

 「ええっ!?」

 

 恭子に対する理解もなにも拳児はただ椅子に座っていただけである。それ以前にこのインターハイにおける慣習であるとかお約束のようなものがわかっていないため下手に動くことができない。例を挙げるなら前半戦と後半戦の合間に挟まれる休憩時間に選手と接触してもよい、ということを拳児はたった今の漫の行動から学んだくらいである。拳児の目標はあくまで全国優勝であり、そのためにはよくわからないルール違反で失格処分になることなどは間違っても許されることではないのだ。だから大げさに振り向いた漫に対して、拳児は返すべき反応を持たない。ただ単にぼけっと座っていただけなのだから。

 

 とはいえ仮に拳児が休憩時間での選手への接触が許されていることを知っていたとしても、そのアクションを選ばないことにどのみち変わりはなかっただろう。姫松のエースは洋榎で間違いないが、勝利を決定づける位置にいるのは恭子だ。つまるところ彼女を大将に置いたのは、それ以上の手段がないからだ。裏返せばそれは末原恭子というプレイヤーに対する信頼であり、また姫松というチームそのものの意志でさえある。拳児はそんな立場にいる彼女にかける言葉を持っていなかったし、何よりこの状況下において敗退するという可能性を微塵も考慮していなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 休憩時間を利用して思考をまとめるとともに気持ちを切り替えた恭子は、席に着くと同時に何かが通り抜けていくような感覚をその身に受けた。しかし彼女が今いる場所は出入り口の扉を開けない限りは完全な密室であり、物理的な現象として風が吹くというのはあり得ないことだった。イヤな予感が恭子を襲う。風が吹いたように感じられたのは恭子にとっての上家側から、つまりは左側からである。そこに座っているのは、まるで慈しむかのような表情で佇んでいる永水女子の石戸であった。

 

 ( ……まさか神降ろしがもう一人いるとか言わんやろな? )

 

 仮にそうなってしまえば万策が尽きる。恭子の領域はかなり高いとはいえ高校生の範囲に収まるレベルと、そこに異能を加えた辺りが限界である。そこまでならば彼女は知恵と工夫と策略で互角以上に強者と渡り合うことができるが、さすがに理不尽なほどに強い選手と当たってしまえばそれらの活かしどころさえなくなってしまう。いわゆる一定以上のレベルのプロやそれに準ずるようなプレイヤーにはまるで歯が立たず、そして降ろした状態の神代はそれに近いものを思わせた。

 

 見たところ神代のように眠りに落ちているわけでもなかったため、あの風は勘違いだったのだろうかと思い始めた恭子が違和感に気付いたのは、後半戦の東一局が始まってしばらく経ってからのことだった。

 

 

 勝ちにいく競技として麻雀に取り組む場合、視線は他家のプレイヤーの手元や河へと注がれるのが通常である。これはそうするだけで得られる情報が段違いになるからであり、そうすることができないようではまず勝てないとされるからである。捨てられた牌が自摸切りなのか手出しなのか、これを把握するだけで見える景色は激変する。もちろんのこと恭子も徹底してそれを実行してきたし、だからこそ自分の手の姿と目の前の河の情景に疑問を抱かざるを得なかった。

 

 七巡目にあって場に索子がほとんど姿を見せていない。これはだいぶ奇妙な状況である。常識的に考えて索子を集めている選手が一人ないしは二人いたとして、欲しい牌だけをずばり引いてくる確率は相当に低い。あるいは王牌に索子がわんさと詰まっている可能性も考えられなくはないが、またこれも一般的にはあり得ないと考えるべきだろう。つまり何らかの作用で誰かに索子が集まっているのではないかと考えることが異常ではなくなってくる。そう仮定した場合、怪しいのはこの局で一人だけ問題の牌を捨てている石戸霞である。彼女だけが索子を引くことができ、彼女以外は別の牌しか引けないとすれば、どちらが有利なのかは明白だ。

 

 さすがはインターハイの二回戦に残ったチームの大将だと言うべきだろうか、宮永も姉帯も場の違和感に気が付いているようだった。表情が平静のものとは明らかに違っている。このことが恭子に、これは石戸による異能の行使であると判断させた。本来なら彼女たち二人が手を開けるまでは断言できることではないが、自身に起きている異常と彼女たちの表情とを合わせて考慮すれば材料としてはむしろ十分と言えた。これで石戸が染め手の系統で和了れば、あまり欲しくない裏付けが取れるくらいには。

 

 「自摸、清一で跳満。6000オールです」

 

 確信に近い推測を裏付ける代金としては手痛い出費だった。だがこれで本決まりである。

 

 仮に石戸がこの異能を自在に扱えたとしてなぜ前半戦で使用しなかったのかという疑問こそ残るものの、恭子はこの事態が持続するものとして考えを進めることにした。一度しか使えないというのなら、もっと状況が進行してから使われるはずだからだ。最後の最後に切り札として出されるよりはよほどマシだと考えるべきだろう。特性さえわかれば対策は立てられる。恭子は打ち破れない異能など存在しないという持論を譲る気はなかった。

 

 一本場となった東一局の恭子の配牌は予想通りのものだった。今度は索子が筒子に変わっただけで絶一門の状態に変わりはない。それはもう恭子にとっては恐ろしい現象ではなく、ただの事実となっていた。

 

 ( 配牌と自摸に影響が出るんやったら山がカギになる。なら鳴きの効果は絶大ってわけや )

 

 どのみち姉帯がいることもあってリーチをかける選択肢は取りにくいのだから、打点を下げてでも鳴いて和了りを狙いに行くことに抵抗はなかった。構図としては単純で、要は積み込みのイカサマをイメージすればよい。放っておけば特定の一人にだけ特定の牌が集まるように積まれた山なのだから、鳴いて自摸順を変えればずれが生じる。石戸も当然どこかで修正を加えてくるだろうが、かなりの精度で組み上がった山なのだから戻すのにも時間がかかるだろう。石戸が鳴こうとしたところで、字牌を除けばその種を持っている他家がいないのだから。

 

 気がかりとなるのは速度だった。字牌だけは全員が同じ条件のようだが、それ以外で速度に差が出てしまうことはどうしても避けられない部分である。たしかに石戸以外のプレイヤーも通常よりは手を作りやすくなっていると言えるだろう。なぜなら特定の種類の牌がいっさい寄ってこないのだから。しかし石戸はそれ以上に早い。他家が鳴いて崩して先に和了ってしまう前に勝負を決めてしまえるだけの優位性が彼女の異能にはあるのだ。そんな状況が少なくともあと八局は続くことを思って恭子はうんざりした気分になった。

 

 自分の考えていることがうまく行きそうにない不吉な息苦しさが頭の隅っこにこびりついているのを知覚して、恭子はそれを必死に頭から追い払った。緑色をしたラシャが現実的でない広がりを持ったように思えてわずかながら気分の悪さを覚える。これまでに何度も何度も味わってきた感覚だ。自分以外が持つ絶対的優位性、付け入る隙はあるにせよ異能というのはそれを補って余りある利点を持っている、と相対した時に特有のこの感覚。分が悪いのは承知で勝ちに行く。だがそれは一筋縄ではいかないことだと痛みを伴うほどに恭子は理解している。それを証明するかのように、一本場も石戸が満貫を自摸和了ってみせた。

 

 親による跳満と満貫の和了は彼我の得失点差を考えると甚大な被害と言って差支えないだろう。後半戦が始まった時点で最下位であった永水女子がその二つの和了だけでトップに上り詰めていることがその証明になっている。言わずもがな姫松は最下位に転落しており、もうこれ以上は一歩も後退できない状況へと移り変わっていた。

 

 

 ( ま、度合いに差はあるけどこっちにも恩恵があるっちゅうわけやな )

 

 二本場での恭子の配牌はまさに染めてくださいと言わんばかりのきれいなもので、牌姿こそまだ整っていないものの必要のない索子はたった一枚という徹底ぶりだった。うまくドラも絡んだ牌姿を彼女が逃すわけもなく、あっさりと満貫を自摸って親を流してみせた。このことは石戸の能力の展開下でも他家が和了ることは不可能ではないということを証明する意味で大きな価値を持っていた。

 

 これ以降、大将戦は各々が自身の特性を活かしての叩き合いの様相を呈していく。石戸が敷いた場の特性もあって平均的な打点が高くなる状況で、それほど大きな点差がつかなかったことは力量の拮抗をはっきりと示していた。ただその中で、一人だけ二位以上確定の安全地帯へと転がり込んだのが清澄の宮永だった。彼女だけは余程の失態、それこそ倍満を放り込むような真似さえしなければ勝ち残る位置にいた。

 

 一方で二位争いは熾烈を極めた。石戸による永水女子の躍進と先の恭子の復活の満貫、さらには一度完全に沈んだと思われた宮守の姉帯が怒涛の連続和了で追い上げ、南三局を迎えた時点で三校の点差はたったの千五百点の範囲に収まる程度のものでしかなかった。誰かが何かを和了るだけで簡単に順位が変わってしまう、そんな頼りない点差だった。外から見れば清澄が決まりで後の一校はどこになるのかという楽しみな場面だが、当事者たちにとっては気が気でなかった。なんとしてでもこの南三局で和了って他校に対する優位を作り、そのまま安手でもなんでも和了って逃げ切ろうと三校ともが考えていた。もちろんオーラスに逆転の目がないわけではないが、来ると決まっているわけではない逆転手に賭けるよりは今のこの手で一歩前に出たほうが利口というものである。

 

 状況はどう好意的に見ても恭子が不利だった。懸念していた通りに石戸の他家に対する絶一門はその効果を持続させていたし、姉帯はおっかけリーチと裸単騎という武器を持っている。何もないのは恭子だけだ。だからこそ彼女は必死に考える。小さな隙も、わずかな緩みも恭子には許されていない。恭子が取り得る限りの最善の選択をし続けて、なお勝てない可能性が当たり前に存在するような戦いなのだ。

 

 異能があるからこその緩みはたしかに存在する。それは決して願望や絵空事の類ではなく、ほとんど生理的な現象に近いとさえ言える。たとえば手を動かしたり歩いたりといった行動は、とくに脳でそう考えることなく行うことが可能である。あるいはそれらの行動を取るときにいちいち筋肉を動かすイメージを持つ人間はいないと言ったほうがわかりやすいだろうか。それは自然と行えるからそうしているだけの話であって何ら不思議な話ではない。異能を持てる者にとっての異能とはほとんどがそれに等しいか、あるいはかなり近いものだとされている。これはレベルを問わずにそれらの特殊な雀士に聞けばそう答えるという。もともと恭子はその無意識下という部分に着目していた。そしてその観点は特異であるがゆえの異能の構造的欠陥を見つけるのに役立ったが、それをさらに補足したのが現姫松高校麻雀部監督である播磨拳児であった。

 

 

―――――

 

 

 

 それは体育の授業のあった日の、部活前のちょっとした時間のことである。

 

 「あのな、完全なイメージ通りに体が動くなんてのァただの勘違いだ」

 

 その日の体育は三度目のバスケットボールの授業で、もちろんのこと拳児は平均より高い身長と身体能力を活かして大活躍であった。彼に向けられる声援が黄色いものではなく野太いものが中心なのはいつものことで、真剣に運動能力を評価してのものだった。だいたいにおいて運動ができればモテるというのは小学校までなのだから、ある意味で言えば当然のことである。

 

 それは軽い雑談でもと思って近づいてきた恭子と、部室の中のお決まりの場所に陣取った拳児が何の気なしの会話をしていたときのことだった。時期としてはまだ梅雨だったが雨の降っていない日であった。恭子は恭子で体育の授業の話をするつもりだったので、特別に言葉を選ぶようなことはしていなかった。日常的な雑談に気を遣うなんてことをしていたらすぐに精神が参ってしまう。だから恭子はどうやったらあんなに思った通りに動けるのか、と純粋な疑問を持って質問をした。すると拳児は雑談からは雰囲気を変えて、少しだけ真面目な調子で先の言葉を口にしたのである。

 

 「いやいやあんだけダンクとかできるんやったらイメージ通りってやつちゃうんか」

 

 窓を開けてはいるのだが、じっとりした空気が変わる気配はない。

 

 「……いいか? 万石も言ってたことだが、およそ人が関わるもので完璧なものはあり得ねえ」

 

 「は? 万石?」

 

 「それはこの俺様でさえも例外にならない真理だ」

 

 拳児の声色はどこか悲しい色を帯び始めた。彼が何に想いを馳せているのかは定かではないが、ただひとつ確信できるのは、恭子を初めとする麻雀部員でさえも拳児のことをミスのない人間だと認識していない点であった。そもそもここ姫松に来た経緯が自身の浅慮によるものだと拳児自身が気付いているのかどうかさえ怪しいところである。

 

 他方で拳児の言っていることには一考の価値があった。万石、という固有名詞には馴染みがないが、恭子にとってその言葉はすとんと胸に落ちるものだった。もちろんそれに自身の解釈を加えて独自のものとしての呑み込むのにはそれなりの時間を必要としたが、それは一片の心のよりどころとなった。これまで恭子はある意味では孤独であった。仲間への信頼は篤いものだったが、異能に対するスタンスは彼女にしか取れないものであったから。それがこんな麻雀と関わりもつかないような内容の話で救われようとは、当事者たちを含む誰一人として予測できないことだった。

 

 「体操とかシンクロでさえ小さなミスが出んのはそういうこった、わかるか?」

 

 「まぁそれはええけど、万石って何なん?」

 

 「……オメーひょっとして時代劇とか見ねーの?」

 

 

―――――

 

 

 

 頼れる武器があるという安心感は、油断まではいかなくとも心にわずかな隙を生む。もうひとつ打点を欲張って手を伸ばそうとしたり、あるいは異能を使わずに和了りに向かったほうが早い状況なのにそれに頼ってしまったり、その一手のわずかな緩みが勝負を決定づけることは往々にしてある。卓に着くのは人間である以上、完璧な判断を常に下すことは不可能であり、また準決勝進出を賭けた大将戦のオーラス寸前という極限状況下において高校生にそれを要求することは酷だと言えるだろう。恭子がたったひとつ有利な点といえば、この環境にあって異能を有していないことだった。安心感から来る隙の生まれようがなかったのだ。

 

 そして油断なく徹底的に突き詰めて打つスタイルこそ、末原恭子の真骨頂であった。

 

 その鬼気迫る恭子の打牌はどこまでも厳しく、勝利以外の要素をほとんどそぎ落としていくかのように苛烈なものだった。打点に対してちらりとも色気を見せない。和了る過程で自然と上がる翻数以外はまるで無視して光のようにまっすぐ到達点への最短経路を辿るさまは、高校生のレベルを超えた熟練のプレイヤーをさえ唸らせるようなものだった。この一局で恭子は、知らず知らずのうちに名門であることを飛び越えて話題性が先行していた姫松高校という名前を、全国優勝を狙える位置にいる学校なのだと見ている者たちに改めて思い出させた。

 

 自然と打点が伸びやすい状況というのもたしかにあったが、この後半戦だけで三度目の満貫和了は恭子の実力を強く印象付けるとともに、姫松の準決勝進出への大きな一撃となった。あとなにか一翻の小さな手でもいいから和了ればそれで勝負は決まる。

 

 迎えたオーラスで最も早く行動を起こしたのは、最も行動を起こす必要のないはずの宮永であった。まさか黙っていれば準決勝への切符が転がり込んでくる状況を理解していないということもないだろう。またこの行動がオリを選択することに比べて隙を生むことも理解しているはずである。つまり宮永が二萬をポンしたことに槓を狙う以上の意図があるのは確かなのだが、それを見抜ける者は本人とそのチームメイトを除いて誰一人として存在していなかった。局後の宮永の弁を借りるなら、()()()()()()()()()()()()()()()。そしてこの局で宮永が手を抜けなかったという事実が、のちに大きな大きな転換点となることをこの時点では誰も予想できなかった。

 

 彼女が残してしまったのは、永水でも宮守でもない。姫松高校だった。

 

 

―――――

 

 

 

 「すいません主将、ギリッギリの二着でした」

 

 「かまへんかまへん、大事なのは次に進むことやからな」

 

 申し訳なさそうに二回戦突破を報告する恭子に、洋榎が軽く返答する。二回戦の合計得点で水をあけられたからといって準決勝も同じ結果になるとは限らない。むしろ今回の姫松は不発であったと考えるべきだろう。数字上で結果を残したのは由子と洋榎の二人だけなのだから。

 

 明らかな疲労の色を顔に浮かべて、まるでゾンビのようにのそのそとソファへと歩く恭子の足があるタイミングでぴたりと止まった。ちょうど拳児は恭子の目指すソファの近くの丸椅子に座っていたため彼女の表情の変化を目の当たりにすることができたのだが、それはちょっとした恐怖を呼び起こすようなものだった。いきなり疲労の色が消えて目が焦点を失い、さらには聞き取れないような声量でなにかを呟き始めたのである。しかも移動の途中で急に止まって姿勢を変えることもしなかったものだから、何か身体に異常をきたしたのではないかと疑いたくなるような姿であった。

 

 そこで口を開いたのは郁乃であった。いつものように演技性の抜けない顎に指をあてるポーズを取りながら、ふわふわと羽のように歩いてきて恭子の顔を覗き込む。

 

 「宮永ちゃんの得点のことやろ~?」

 

 当人たち以外はまったく話についていけていないようだった。漫と絹恵の二年生二人はまだしも洋榎と由子までもが学年ごとに顔を見合わせてわからないといった表情を浮かべている。拳児については言うまでもないだろう。恭子の呟きは断片的にしか聞こえない。

 

 独り言が止まったかと思えばいきなり向きを変えて、恭子は重そうに体を引きずりながらドアの方へと歩き始めた。倒れそうなほどの疲労ではなさそうだが、それでも休憩してくれと言いたくなるようなのそりとした動きなのに誰もそれを止めることができなかった。

 

 「主将、ちょっと電話できるトコまでいってきます」

 

 「別にええけどひとりで大丈夫か?」

 

 「外に出るわけでもないですし、自販機のトコでちょっと休むんで」

 

 

 恭子が有無を言わさず控室から出ていって、次いで郁乃がちょっと野暮用と内容を濁して控室を後にした。出ていった二人がいったい何を目的としているのかはわからないが、少なくともチームにマイナスになるようなことはしないだろう。とにかく姫松にとっての二回戦は終わって、明後日には準決勝が控えている。本来なら彼女たちの一日はここで終わってもよいのだろうが、まだこの日には語られるべきことがいくつか残っていた。

 

 とりあえずそのうち戻ってくる恭子を待つために、拳児をはじめとした姫松のメンバーは控室に待機することに決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 




これで今年最後の更新となります。
よいお年をお迎えください。


色々気になる方のためのカンタン点数推移


          後半戦開始     南三局   大将戦終了

石戸 霞   →  八一四〇〇 →  九五四〇〇 →  九〇八〇〇

末原 恭子  →  九九九〇〇 →  九四八〇〇 → 一〇〇二〇〇

姉帯 豊音  → 一〇四〇〇〇 →  九六一〇〇 →  八九五〇〇

宮永 咲   → 一一四七〇〇 → 一一三七〇〇 → 一一九五〇〇


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30 遠いところ

―――――

 

 

 

 目的であった姫松高校の出ている二回戦を見終えて、愛理と八雲は遅い昼食を摂るためにホールを出て店を探すことにした。ファンからすれば慣れたものだが、団体戦を一試合まるごと観戦するというのは時間的なことに関しても体力的なことに関しても想像以上に大変なものである。とくに二回戦は姫松が勝ち残るかどうかが安心できる内容ではなかったため、その疲労も一入であった。そのこともあって一気に気が抜けた二人は、それまで意識していなかった疲労と空腹に襲われたのである。

 

 ホールの外は真夏もいいところで、突き刺すような陽光は弱まる気配をまるで見せない。雲でもかかればいくらかは過ごしやすくなるのだろうが、探したところで太陽とはまるで関係のない位置にこんもりとした入道雲がそびえているだけである。中に空中要塞でも潜んでいるのではないかと疑いたくなるような威容の雲は、その青と白のコントラストだけで一瞬だけ清涼感を与えてくれた。無論ほとんど思い過ごしのレベルのものではあったが。

 

 日本の中心地たるこの東京の街は、来たことがないわけではないが通いなれているわけでもない女子高生にとって、店を探しやすいとは言いにくい場所であった。いっそファストフードで済ませることを提案しようかと愛理が考え始めた矢先に、思いもかけない方向から声をかけられた。

 

 「あら? ひょっとして愛理さんでは?」

 

 突然に名前を呼ばれて振り返った愛理の視線の先には、見事に輝く長い金糸の髪が揺れていた。愛理と比べるとわずかに幼さの残る顔立ちをしているが、美しいと表現するには十分すぎるほどに整ったものだ。ふわりと流れる髪が映えるように上品な白のワンピースに丈の短いカーディガンを羽織っており、まるで絵に描いたお嬢様が世界を飛び越えてこちら側へやってきたのではないかと思ってしまいそうになるほどの出で立ちであった。

 

 わずかな間見惚れて、すぐに意識を戻してきちんと顔を見てみれば、そこに立っているのが馴染みのある少女であることに気付くのに時間はかからなかった。

 

 「あ、透華じゃないの」

 

 

 立ち話もそこそこに、愛理が自分たちの事情を話すと、五人で連れ立って歩いていた透華たちもどうやら似たような状況であるらしかった。ひとつだけ違うところを挙げるとするなら彼女たちは食事をするための場所を既に決めていたところだろう。せっかくこんなに珍しいかたちで再会したのだから、と透華は愛理と八雲のふたりを食事に誘った。言い出したら聞かないところのある彼女の性格を知っている愛理はそれを素直に受け入れた。愛理は透華の連れている人たちに申し訳ない気もしたが、おそらく彼女たちも透華の性格は知っているだろうから謝るようなことはせずに、せめて仲良くさせてもらおうと前向きに考えることにした。それに彼女たちはどうやら物怖じしないタイプのようで、愛理と透華が話しているうちに八雲といろいろ話しているようであった。

 

 「へえ、八雲ちゃんって言うんだ。かわいい名前だね。あ、ボク国広一ね。一でいいよ」

 

 「よろしくな、オレは井上純だ」

 

 「……沢村智紀。よろしく」

 

 「衣だ! この中でいちばんのおねえさんだぞ!」

 

 一斉にわあわあと話しかけられたものだからさすがの八雲も対応に困ってしまった。いくらなんでも一対四では分が悪い。名前と顔を覚えることは造作もないが、それときちんと話すことは別の分野に属する事柄である。見た目の印象はそれぞれ違っているが、言葉の間隔や体の距離を見るに相当仲が良いのだろうことが伝わってくる。少女らしい可愛らしさとその頬のタトゥーシールが印象深い一に、百八十を超えるだろう長身に麗人と言いたくなるような顔立ちをした純。智紀の肩甲骨までかかる長い髪には艶があり、その前髪は眉を隠す辺りで綺麗に切り揃えられて、その眼鏡も相まって知性を演出しているように見えた。おねえさんだと言い張る衣のリボン姿は贔屓目に見ても小学生が関の山といったところだが、作り物めいて整った顔立ちと透華の髪に似た美しい金髪の存在感は圧倒的なものを持っていた。

 

 聞けば透華をはじめとするこの一団は長野にある高校の麻雀部で、全員が二年生なのだという。顔にこそ出さなかったものの、八雲は内心でかなり驚いていた。人間の進化の多様性であるとか、そういったことを思わずにはいられなかった。何よりあんなに小さな衣も自分と同い年なのだと思うと不思議な感じがした。八雲がその当の少女をまじまじと見つめていると、少女は何を思ったのか得意げにひとつ鼻を鳴らした。

 

 

 「なあ透華、そんで愛理さんとはどこで知り合ったんだ?」

 

 彼女たちが食事の場に選んだのは意外なことにファミリーレストランであった。こう言ってはなんだが、まさにお嬢様然とした彼女はどこか場違いな印象を与えた。だが向かう最中にこういう些細なことがとても大事なのだと花が咲くような笑顔で言っていたことを考えると、何かしらの事情があるのかもしれない。時間は先ほどの試合もあって混むところとはずれていたから入店と同時に席に着くことができた。そこで氷の入った冷水を傾けつつ、純が先の言葉を発したのである。

 

 「社交界ですわ」

 

 隣同士に座っている純と一は顔を見合わせて同時に目を丸くした。実は衣を除く彼女たちは透華の麻雀部仲間でありながら龍門渕家に仕える身分でもあり、当主の息女たる龍門渕透華とは普通では考えられないような奇妙な関係性を保っている。そしてそれだけに彼女たちは上流階級の暮らしというものを間近に体験している。つまり社交界に出られる人物がどれほど限られているかを知っているのである。ふたりはそのまま顔を近づけてひそひそ話を始めた。

 

 「純くん純くん、どうして良家には美男美女が多いんだろうね」

 

 「ホントなんなんだろうな」

 

 噂をされている当の二人は楽しそうに談笑をしていた。龍門渕透華という人物は今時珍しいほどあけすけな性格をしており、自分を偽ることも頭から他人を疑うこともしない。自分に正直すぎてときおり暴走をすることもあるが、それを踏まえてなお愛されるほどの魅力あふれる人物である。愛理は上辺を取り繕うのが巧かったがそれを美点とは認識しておらず常に息苦しさを感じていたため、そんな性格をした透華とは知り合ってすぐに仲良くなった。社交界においてこのような出会いがあることは奇跡と言ってもいいほどに珍しいことであった。

 

 そんな事情もあって透華が麻雀に熱をあげていることそのものは愛理も知ってはいたが、まさかインターハイを直接見に来るほどの熱の入りようとは思ってもみなかった。話を聞いてみれば、なんと決闘じみたことをしてもともと高校にあった麻雀部を乗っ取ってしまったらしい。おそらく事前の取り決めや相手方の合意はきちんとあったのだろうが、それでも愛理はちょっとした苦笑いを浮かべざるを得なかった。

 

 逆に透華から見れば愛理が麻雀に興味を持っているという話を聞いた記憶がないため、そちらのほうが興味深かった。ひょっとしたら何かのきっかけがあって自分と同じように麻雀に傾倒したのかもしれないし、あるいはそうでなくても面白そうな話が聞けそうだと彼女は考えた。

 

 「愛理さんと八雲さんはどうしてこちらに?」

 

 そう問われて愛理はちょっと苦い顔をした。当然だが泊りがけで東京に出てきたくらいなのだから明確な理由はある。あるのだが、愛理はそれを正直に話せるほどにはまだ大人になりきれてはいなかった。どのように答えたところで追及が待っているのは間違いないのだから、初めから話してしまえばよさそうなものだが、とにかく思春期の少女というのは難しいものであるらしい。

 

 「……まあ、ちょっと知り合いが出ててね」

 

 「さっきの試合観てたってことは永水か姫松か宮守だよね? 清澄はちょっと考えにくいし」

 

 一が話を請け負って先へと進める。清澄の誰かと知り合いである可能性が低いと彼女が言う理由は、彼女たち龍門渕高校が清澄と同じ長野県の高校であるからだ。長野の決勝卓を囲んだ高校は、地区予選後に合同で合宿を行うなど非常に仲が良いのだが当然それは本人たちしか知りえないことである。そのため確信しているような一の言い方に愛理は不思議なものを感じたが、とくにつっかかる部分でもないため流すことにした。そんなことよりはこれから来るであろう質問にどう答えるかを考えたほうが有益に違いない。

 

 嘘をつくという選択肢ははじめからない。それならばインターハイを観に来た理由を答える段階で嘘をつき始めなければならないが、既に機を逸している上に愛理はいま一人で来ているわけではない。ひねくれたところのある愛理から見て八雲はまっすぐな性格をしているので、明らかにそういったことに適していない。ただ頭の回転は早いから愛理に合わせてくれることも考えられるが、そうすればおそらく八雲から “どうして嘘をついたんですか?” と聞かれることだろう。どっちに転んでも面倒になるため、正直に話す以外はあり得ないのだ。

 

 「姫松よ。あそこにいるの」

 

 「へー、姫松。あれスか、あの播磨ナントカってのがお知り合いだったり?」

 

 純が冗談半分に質問すると、透華と社交界で知り合ったという筋金入りのお嬢様であろう少女はバツが悪そうに頷いた。これには今度こそ心の底から驚いた。播磨拳児といえばその就任の経緯や姫松という名門にいることもそうだが、何より彼の経歴がどこからも出てこないことで名前を馳せている。たとえばネットで様々な情報が錯綜しているが、どれもこれも信憑性に欠けるものばかりで彼については謎の存在と認識することが暗黙の了解となっているほどである。現代の情報社会においてそんなことがあり得るのかと思いたくもなるが、現実としてそうなのだから受け入れざるを得ないのが実際のところだった。

 

 

―――――

 

 

 

 愛理たちが話をしている一方で、八雲も衣と智紀の三人であちらとほとんど同じ内容の話で静かに盛り上がっていた。その外見から無口に思われがちだが意外と智紀は質問が上手かったりする。あまり感情部分を表に出すことはしないが、それは他のメンバーが補っているようだ。今の場合で言えば衣がその担当である。

 

 「ほう、姫松。たしか先の清澄との試合に出ていたな」

 

 いったい何に影響を受けたのか、衣は見た目にも実年齢にもそぐわない話し方をする。周囲が気にしている様子を見せないことから推察するに、普段からこのような話し方をしているのだろう。その振る舞いはまるで小さな子が精一杯背伸びをしているようで、八雲は人知れず微笑ましい気持ちになっていた。

 

 「……姫松高校は全国大会常連の強豪。今年はとくに播磨拳児で有名になってる」

 

 智紀が加えた補足情報に衣がぴくりと反応した。八雲には信じがたいことばかりだが、いま目の前にいるこの人形のような少女が、なんと龍門渕高校麻雀部のエースなのだという。この話をしたときに誰もからかうような雰囲気を見せなかったから、おそらくそれは本当なのだろう。そしてそのエースだという少女が反応したのは “強豪” という部分なのだろうかと八雲は推測したが、それはまったくの予想外のかたちで外れていた。

 

 衣は口の傍に手の甲を寄せ、ひとりでくつくつと笑い出した。一口に笑いと言っても様々なものがあるが、今の衣の笑いは何かしらの面白い偶然が重なったといった印象を与えた。

 

 「く、ふふ、そうか。播磨とやらが姫松にいるのだな? なかなか洒落がきいている」

 

 衣のその反応は、それなりに長い付き合いの智紀でさえもよくわからないものだった。先ほどの発言を考えてみても彼女が姫松について深い知識を持っているとは思えない。それは播磨拳児についても同様だろう。それにもかかわらず衣はこみ上げる笑いを抑えきれないようだった。それとは対照的に八雲と智紀は揃って首を傾げざるを得なかった。

 

 「……何かあるの?」

 

 「八百万播磨姫松という浄瑠璃の演目がある。あまり知られたものではないがな」

 

 残念なことに浄瑠璃についてはまるで知らなかった二人は、よくできた偶然だな、くらいの感想しか持てなかった。仮に知っていたとして衣と同じように笑うことができたかと言われても疑問が残るが。あるいは衣独特のセンスがそこにはあったのかもしれない。

 

 ちょうど衣が言葉を切った辺りで注文していた料理が届き始め、一行は普段とはちょっとずれた時間帯の昼食を摂ることにした。とはいえいくら上品とはいえ彼女たちは女子高生であり、ここはファミリーレストランである。そんな環境で始めた話が途中で止まるわけもなく、少々下品であることは理解しながら彼女たちは食事を楽しんだ。自分たちの形とはまるで違っているのだが、なぜか愛理も八雲もいつも一緒にいる友達のことを思い出していた。そんな中で衣が二人にこの後の予定を尋ねた。せっかく知り合ったのだからもっと仲良くなりたいというのが彼女の意図するところで、早い話が龍門渕一行が宿泊しているホテルへのお誘いであった。愛理と八雲に差し迫った用事はなく、麻雀を観戦するにしても知識が足りないのは明らかなことで、正直に言えば願ってもない申し出であった。

 

 

 予想を遥かに超えて豪奢なホテルに八雲が気圧されているのを龍門渕のメンバーたちは不思議そうな表情で眺めていた。愛理の友人なのだから彼女も良家の人間なのだろうと思われていたのだ。食事中の所作も洗練されたものであったことがその予想を更に強固なものにした。八雲の家も蔵が別個で建っているくらいには大きく、一般的にはそういう認識をされるが、さすがに透華や愛理の家と比べられるものではない。どちらかといえば国の要人クラスが宿泊しにくるレベルのホテルに慣れてしまっている多数派のほうが本来はおかしいのだ。間違ってもそんなことは口には出せないけれど。

 

 歩を進めるごとに感じる未体験を通り抜けて辿りついた一室も、やはり見たこともないような豪華な空間だった。完全な居住空間として成立しているホテルの部屋など泊まったところで持て余してしまいそうだな、と八雲は思った。

 

 そして部屋に着くなり衣が何気なく点けた大きなテレビには、あの男が映っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 「播磨監督、準決勝進出おめでとうございます」

 

 「……ああ、どもッス」

 

 明らかに気乗りしていない拳児の様子に、実況解説で野依理沙とコンビを組んでいる村吉みさきは気が重くなるのを感じた。このあと社の方針でエンタメ性を重視した質問をしなければならないこともそれに拍車をかけた。みさきは心の中で拳児に詫びたが、目立つというのはそういう要素を否応なしに孕んでしまうものなのだ。その一方で目の前の男のこの気の入らなさも気にかかった。突撃インタビューというわけでもないのだからある程度は外向けの態度を取ってほしいものだが、そういった経験の薄い高校生にそれを要求するのは酷なのだろうか。

 

 臨海女子の出る二回戦第四試合の実況がないかと思えばこのインタビューなのだから、みさきは自分の運のなさをこっそりと呪った。事前に理沙が彼についての話をしてくれてはいたものの、実物はなんというか、やはり凄みのようなものがある。隠さずに言ってしまえば、恐いのだ。見た目はどう頑張ってフォローしたところで硬派な不良というのが精一杯だし、何より体格が大きい。どちらかといえば華奢にすら分類されるみさきからすればそれだけで十分に恐れる要因になり得るのである。ただ、そんなことを頭で考えたところで事態は何一つ好転しないことはわかっているので、みさきは先を急ぐことにした。

 

 「監督として手ごたえはいかがだったでしょうか」

 

 「イヤ、実際打ってんのはあいつらなんで俺がどうこうってのはカンケーねーッス」

 

 「では二位通過だったことについてはどうお考えですか」

 

 自分で口に出しておきながらなんてイヤらしい質問だろうとみさきは思う。まだ少年と呼ぶべき年齢であるはずの監督は腕を組んで、どう言ったものかと思案しているように見えた。それが思い込みであることに彼女は気付けない。なぜならみさきは拳児と直に接するのはこれが初めてだったから。

 

 「今は二位でも何でも構わねースよ。最終的に優勝するんで」

 

 傲岸不遜。しかしそれは挑発でもなんでもない。ただ決意をそのまま言葉にしただけのことだ。ホールで抽選会が行われている最中に拳児が外へ出てきて報道陣に宣言したものを、今度は公共の電波に乗せただけのことだ。ただ、それを迷いなく実行できる人間がどれだけいるだろうか。播磨拳児という男は徹底的に一途であり、彼は彼の想い人たる塚本天満に関する打算以外はほぼまるで何も考えていない。この場合もそうで、拳児はこのインターハイを制して天満を迎えにいくことを第一に考えており、その過程である優勝というのは彼のなかでは既に決定事項ですらある。その言葉に気負いや自らを鼓舞するようなものは感じられなかった。

 

 下手をすれば放送事故にすらなりかねないこの状況に、みさきはくらくらしていた。今のところはなんとか成り立っているが、この調子ではいつ爆弾が落とされるかわかったものではない。みさきがインタビューしている相手には、謙虚さであるとか謙遜するなどといった振る舞いが存在していないのだ。しかし彼女の心配は、そのまま杞憂に終わった。正確に言えば、彼女の想定していたような事態は起こらずまったく別のかたちの爆弾が落とされることになるのだが、それについて彼女を責めるのは難しいだろう。人の事情をすべて理解することなどあり得ないのだから。

 

 「それではもし優勝された場合、誰か伝えたい方はいらっしゃいますか?」

 

 「いますね」

 

 ほとんど反射と言ってもいい速度での反応だった。拳児はこの想いを貫くと決めたあの日から、一度たりともそれについては嘘をつかないと決心した。さすがに個人名を出すのだけは恥ずかしいため、そこだけは唯一例外としているが、それでも拳児の決意は固かった。ならばなぜ今の発言が大きな意味を持つのかと問われれば、姫松に来て以降というもののそういった質問を受ける機会がなかったのだ。もし仮に拳児が誰かに好きな人はいるのかと聞かれたならば、素直にいると答えただろう。だが彼を取り巻く環境がそれを許さなかった。全国優勝を目指す麻雀部とそこに前触れもなく就任した異形の存在という要素は、ほとんど一般的な質問を寄せ付けないという奇妙な状態を生み出した。部内は部内で彼に対する畏怖の念から軽々にそんな話を振ることはできない。合宿の最中に由子がその近くまで踏み込んだが、はっきりしたところまでは突っ込んでいない。つまり拳児がプライベートな事情に関して発言したのは、これが初めてのことであった。

 

 「学校は夏休みですし、大会が終わればすぐにご報告に行けますね」

 

 この言葉を聞いたとき、拳児の表情がわずかな間だけ暗く沈んだのを、なぜかテレビの前にいたほとんどの人間が見逃さなかった。それだけ食い入るように画面を見ていたのか、あるいはなにか偶然タイミングが合ってしまったのかはわからない。ただ事実として拳児のその表情は人々の脳裏に焼き付いた。

 

 「……ああ、いえ。ちと遠い所にいるんでそれなりに準備が」

 

 播磨拳児が関西の人間でないことはイントネーションから考えても明らかであり、ということは実家が大阪からは離れていると判断するのは当然の帰結である。無論そちらに拳児の恋人がいると考えることもできるが、そのときテレビを見ていた大勢の人々はそう取ることをしなかった。彼が報告したいと考えているのは故人なのではないかと考えたのだ。先ほどの一瞬だけ見せた悲しげな表情と、準備をしなければならない遠い所。それらの情報は日本全国に彼の悲恋の勘違いをさせるのに十分な材料となっていた。

 

 もちろん拳児が悲しい表情を浮かべたのは天満の気持ちが自身に向いていないことを改めて思い出したからであり、遠い所と表現したのはアメリカだからである。拳児はパスポートを従姉の家に置きっぱなしにしているため、それを考えても在学中に渡米することはできない。しかしその真実と外部が受け取った情報の齟齬を拳児自身が確認する手段はなく、またそういった悲劇的な美しさの持て囃されかたは半端ではない。このインタビューが終わる前から拳児の話は拳児の手を離れてしまっていた。

 

 「不躾なことを聞きました。申し訳ありません」

 

 「別にいいッスよ、隠すようなことでもねーんで」

 

 

 この後もインタビューは続いたが、視聴者にとってそれはおまけのようなものだった。

 

 

―――――

 

 

 

 もちろん拳児との面識のあるなしにかかわらず、多くの麻雀関係者がこの映像を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 



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31 Meteor

―――――

 

 

 

 「これは……、あれですよね、播磨先輩にカノジョさんがいたってことでいいんですよね?」

 

 テレビの画面に映った拳児の表情が一瞬だけ曇ったのを見逃すことなく、漫は話しかける相手を限定しないような音量で口を開いた。新たに拳児に発覚した事実が衝撃的だったのか、手に持っていた湯呑みを口に運ぶでもテーブルに置くでもなく、ただ中空でキープしている。

 

 室内を満たすのは変わらずに働き続けているエアコンの小さな駆動音といまだに続くインタビューの音声だが、それらは彼女たちにとってほとんど意味を成していなかった。いま控室には由子と漫と絹恵の三人しかいない。拳児は当然として、洋榎と恭子はつい先ほど飲み物を買いに出かけており、郁乃は試合直後に野暮用と言ったきりまだ帰ってきていない。

 

 「まあ播磨さんも高三やし、おかしくはないよね」

 

 拳児が来た当初はレギュラー陣の中で誰よりも怯えていたが、今ではけっこう懐いた絹恵が後を承ける。思春期の少女というのは意外とああいうタイプにころりと落ちることもあるらしく、絹恵は絹恵でその辺は理解できなくないとの見解を自身の中で示している。しかしどう頑張ってもあの男との楽しい会話を想像することができないので、一般的な女の子が憧れるようなカップルにはなれないのだろうとも思っている。どこかのカフェで楽しそうに話を弾ませている拳児など想像するだに恐ろしいものがある。

 

 拳児の過去については、本人と郁乃以外は誰も知らない。もう少し丁寧に言うならば、郁乃は拳児が姫松に来ることになった経緯までは知っているが彼個人の事情については何も知らないし知るつもりもない。そのこともあって拳児のインタビューの発言の意図を理解できるのは、本人を含めて三人がせいぜいといったところだろう。

 

 「先輩も事情あるんなら話してくれればええのに……。水くさい思いません?」

 

 「んー、でもそう簡単に話せることでもないと思うのよー」

 

 彼女たちは共通して意外と気が利くところがあり、また拳児を裏プロだと思い込むという大前提でのミスをしてはいるものの頭の回転も決して鈍くない。だからこそ必要以上に事を深刻に捉えることなく話をすることができており、そのことは当人たちの間で意識されることは最後までなかったが、それは拳児と彼女たちの関係においてきわめて重要な意味を持っていた。そのことの価値は決して落ちることはなく、むしろ時間が経つにつれてより大きくなっていく類のものなのだが、それに気付く者もまた誰もいなかった。

 

 ここしばらく、あるいは拳児が姫松に来る前からずっとインターハイを中心に生活を回してきていたため、彼女たちが播磨拳児というただひとりの男について考えることなどほとんどなかった。たしかに気になる要素だらけの人間ではあるが、そこに気を取られて麻雀がおろそかになるようでは名門などと名乗っていられない。全国優勝を目指すという意味においての彼女たちにとって重要なのは、播磨拳児が指導者として優れているかどうかであったし、また拳児はその期待にきちんと応えた。だから姫松というチーム内部の関係性はそれで成立していたし、ある意味ではそこで完結しても何ら問題のないものであった。拳児に対して監督としてのものではない興味を抱いたのは、確実な変化である。

 

 ただ、彼女たちの関心は拳児の過去だとか深刻になりそうなものではなく、もっと俗っぽい部分に向かっていた。まだ女子高生なのだから仕方あるまい。

 

 「そーいえばアレですよね、ゴールデンウイークにめっちゃ美人な人来たやないですか」

 

 「あー、臨海から帰って来た次の日やったっけ」

 

 先輩を含む複数を相手に話をするのだから、もちろん漫は敬語を使う。絹恵は漫に対して返事をしているから敬語を使っていないだけで別に不敬なわけではない。ほとんど無意識にその使い分けができるようになるのだから先輩後輩の関係というのも不思議なものである。

 

 「あの人はなんやったんですかね?」

 

 「播磨はカノジョさんがおらんようになってすぐ別ー、いうタイプにも見えへんしねー」

 

 「組での知り合い程度のモンなんですかね」

 

 組をクラスと読み替えれば正解なのだが、もちろん彼女たちはそれを意図して組と発言しているわけではない。由子は普段の学校生活では拳児と同じクラスに所属してはいるものの、仮に拳児が姫松に来る前に他の学校に通っていたと言われてもその姿をなかなか想像することができないだろう。裏プロというイメージも手伝って、根本的に学校という場所が似合わない男なのだ。

 

 まだ姫松の試合が続いていたときに買ってきたペットボトルで舌を湿しながら話は続く。真剣勝負の合間にはこうやって息抜きをするのも重要なことだ。その点ではいやいやながらインタビューへと向かっていった拳児も褒められるべきであろう。まさか本人がいる前でこんな話もできるわけがないのだから。

 

 「いやー、意外と片思いなんかもしれませんよ?」

 

 漫がにやりと温めていた洞察を披露する。

 

 「播磨に? それは考えにくいと思うのよー」

 

 即座に由子から否定が入る。実は当てずっぽうのわりに漫は大正解だったりするのだが、本人は絶対に認めないだろう上に対象があの播磨拳児だ。正しい判断を下せというほうが無茶な話なのだ。

 

 「へー、クラスやとダメダメやったりするんですか?」

 

 「いや、前に自分はモテへんみたいなこと言ってたのよー」

 

 「実際どーなんですかね、背とか高いしプラスもけっこうある思いますけど」

 

 いつの間にか議題が拳児の事情から拳児が本当にモテないかどうかにすり替わり、それから時間が少し経過すると洋榎と恭子が控室へと戻って来た。拳児が姫松へと来て以来、意外なことに彼についての話題で盛り上がったことはほとんどない。どこか触れてはいけないような感じが知らない間に部全体に浸透していて、誰もそれについては疑問を持つことすらしなかった。だからそのぶん彼女たちの拳児に関する想像を含む話は、いったん始まるともう止まらなかった。ふつうなら止める立場にいる郁乃もいなければ、やり玉に挙がっている拳児もいない。その話は最終的にそれぞれの男性の好みにまで発展するのだが、それはまた別の話であって、ここで触れるべきことではないだろう。

 

 

―――――

 

 

 

 予想していたよりは早く終わったが、拳児にとって慣れないインタビューというものはそれなりに精神的疲労を残すものだった。事前に郁乃から聞かされてはいたものの、姫松が優勝すると仮定してあと二回はこんなものを受けないとならないのかと思うと、ため息のひとつもつきたくなるというものだ。しかも勝てば勝つほどインタビューは長くなるものであるらしい。そんなに話すこともないように思うのだが、その辺りについて拳児は門外漢のため考えるのをやめることにした。

 

 意外にもテレビカメラの前では拳児も緊張をするらしく、ちょっとした喉の渇きを覚えていた。このホール内で飲み物を買おうと考えたら、選手用の自販機に向かうか二つある出入り口の売店に行かなければならない。普通に考えれば近い自販機を選ぶところで、拳児は出入り口の方へと足を向けた。誤解をしてはいけないが、拳児は姫松高校麻雀部に馴染んでこそいるものの、未だに女子だらけの空間で落ち着くほどに溶け込んでいるわけではない。周囲を気にしないタイプである拳児でさえも、その環境は気付かないうちに疲労を蓄積させる。それをこの四ヶ月で学んだ彼は、休憩するときは一人になることを選ぶようになったのだ。

 

 ホール内は現在進行形で試合が行われていることもあって人の姿は少ない。だがそれでも決して人がいないわけではなく、ホールのどこかの椅子で休憩していたらおそらく面識があるかどうかにかかわらず誰かが寄ってくるだろうことを拳児は理解していた。東京へ来てからさんざん声をかけられているのだから、さすがに拳児も学習している。本当に自身の名前は知れ渡ってしまっているのだと。そういう判断もあって、拳児は売店でスポーツドリンクを買ってホールの外へと足を伸ばした。

 

 

 サングラスがなければ視界が奪われてしまいそうなほどの眩しい日差しと、それだけで夏ということを認識させるような熱をもった空気が拳児に押し寄せる。夏でなければ多少は太陽の力も弱まるだろう時間帯なのだが、唯一例外にされている季節においてはそんなことは関係ない。日陰にいなければほとんどの人がにじむ汗を止められないだろう。拳児もそんな中で直射日光があたるような場所にいるつもりは毛頭なく、たまたま視界に入った木陰のベンチに腰を下ろすことに決めた。

 

 陽光が強すぎるのか木陰という場所がすごいのかはわからなかったが、とにかく環境が変わったように涼しくなったことに拳児は驚いた。汗をかいたペットボトルはまだ冷たさを保っており、それが拳児の手を、皮膚の下を流れる血液を冷やしてくれた。ぐるりと見回してみるとホールの中よりもよほど人の数は少なく、かなり距離のあるところに金髪頭と、それとは別方向に三人組が見える程度でずいぶんと静かなものだった。

 

 ひと息ついて目を閉じる。もちろんサングラスのせいで外から見ても本人以外にはわからない。ついでに言うならば何を考えているのかもわからない。おそらくは塚本天満に関連することなのだろうが、大体の場合はロクでもない方向に思考が飛んでいるのがオチである。それでも頬を緩ませていないだけマシと考えるべきだろう。ギアが最大まで入れば即興で作詞作曲を行うことができるのが播磨拳児という傑物である。

 

 ある程度抑制された甘さのスポーツドリンクに手を伸ばそうと顔をそちらに向けようとしたところで、スポーツドリンクを置いてあるのとは逆の方向から声をかけられた。休憩を取っていたとはいえそこまで油断しているとも思っていなかった拳児は少し驚いた。自身の感触以上に疲れているのかもしれない。

 

 「ねえってば! ハリマケンジでしょ!? 姫松の!」

 

 やたらと元気のよさそうな声のする方を向くと、腰の上辺りまで届く長い金髪の少女がそこには立っていた。丸く大きな目が快活そうな顔の造りに見事に似合っている。一般的な観点では “かわいい” に分類される美少女だろう。ワンピースタイプの白いセーラー服で、腰に細いベルトを通している。間違いなく拳児の知り合いではないのだが、どこかで見たことのある顔だった。現在いる場所と面識がないのに顔だけは見たことがあるという事情を考えれば、インターハイ出場者であることに気付くのにそう時間はかからなかった。それでもどこの学校の誰か、というところまではわからなかったが。

 

 「ンだ? ナンか用か?」

 

 これでも拳児からすれば穏やかな対応である。

 

 「別にないよ? 雑誌とかでよく見たカオだったから声かけてみただけ」

 

 気取っているわけでも悪びれる様子があるわけでもない。目の前の少女から感じ取れるのはただ純粋な興味だけだった。未だ名前すら知らない彼女の表情と言葉の間にはわずかな誤差もない。ただなんとなく面白そうだから、という思いが透けて見えるどころか前面に押し出されている。姫松に来てからこれまで出会ったなかで最も単純な表情に、拳児はどう返せばいいのかわからなくなってしまった。なおも少女は続ける。

 

 「あ、あと私たちがいるのによく優勝宣言したなー、って。面白いじゃん?」

 

 「誰だか知らねーがそりゃ当然だろ。勝つのは俺様以外にあり得ねえ」

 

 そう言ってから少女の顔を見ると、ぽかん、と口を開けていた。よくころころと変わる表情だ、きっと感情と顔の筋肉が直結しているのだろう。拳児は誰かを思い出しそうになるが、それだけは必死に食い止めた。その理由はやはり拳児にしかわからない。

 

 「あっは! いいよ面白いよハリマケンジ! 私を知らないなら教えてあげる!」

 

 心底楽しそうに少女は笑った。ただし先ほどまでの純粋な表情ではなく、嗜虐的な要素を端々に覗かせた凶悪なものだ。そこにあるのは絶対的な自信と、それを土台としたある種の称賛だった。その恐れを知らない天性の威勢の良さは、真似事でさえできる人間が限られる。ある特定の分野において革命を起こすのは、たとえばこのような良い意味でのバカなのだ。少女は似ていた。選手と監督という立場の違いこそあれ、その愚かしいほどの真っ直ぐさと自分に対する信頼は、つい最近どこかの高校の監督になったヒゲグラサンのものとよく似ている。

 

 そうして、あくまでも自分の立場の優位を信じて疑わない少女が自身の名前を告げた。

 

 「大星淡。白糸台の大将だよ」

 

 「そうか、俺ァ播磨拳児だ」

 

 「サイアクでも決勝までは来てよね、ハリマケンジ。そうじゃないと……」

 

 その視線も表情も語調も話している内容も、すべてが彼女の自信の深さを示していた。もう既に彼女の中では自分たちが決勝戦に進むことは決まっていることのようだった。拳児の記憶によれば白糸台は準決勝には進出を決めてはいるはずだが、その準決勝は明日以降に行われるはずである。つまり、そんなところでつまずくなど考えもしていないということなのだろう。サングラス越しの拳児の目をしっかりと捉えて、淡は今度はいたずらっぽく口の端を上げながら言う。

 

 「そうじゃないと、私がどれだけすごいかわかんないでしょ?」

 

 「上等だ。実際にやるのは俺じゃねーが覚悟しとけよ」

 

 「やっとちょっとだけやる気出たよ。じゃ、決勝で待ってるねー」

 

 言うだけ言って、淡はさっさと踵を返した。去りゆく後ろ姿は明らかに機嫌がよさそうで、鼻歌まじりにホールの方へと向かっていく。拳児はベンチに座ったままスポーツドリンクを少しだけ口に含んで、初めて怯えることなく真っ向からケンカをふっかけてきた少女の印象を反芻していた。麻雀に関わることになってから何度も感じてきた強者の匂い。絶対数ではそれほど多いはずがないのに、何の因果か簡単に何人か思い出せるほどに嗅ぎ分けてきたそれを、拳児は淡から感じ取っていた。

 

 前評判ではさんざん最強だと聞かされてきた白糸台の一員と接して、拳児はインターハイを甘く見ていたことを認めざるを得なくなっていた。姫松の優勝の前に立ちはだかるのは、臨海女子だけではない。拳児は映像でも打ち手の実力を見抜くことができるが、それはやはり直に会って得られる情報とは質を異にしている。雰囲気や立ち居振る舞いなど、そこを見れば実戦でどれだけやれるかがよくわかる。そもそもインターハイの準決勝に残っている時点で実力は保証されているようなものなのだ。大星淡を警戒するべきだ、という考えが拳児の意識に昇っていたかはわからないが、ペットボトルを持っていないほうの手は固く握られていた。

 

 

―――――

 

 

 

 足取りは軽く、誰もいない選手専用の廊下に革靴の音が高く響く。ホールの売店で購入したのかチョコチップクッキーと五センチ大の薄い煎餅がビニール袋の中でがさがさと音を立てる。仕草だけ見れば子供のそれで、とても全国最強の名を冠するチームの大将には見えない。少女はある控室の前で立ち止まり、意気揚々と扉を開けた。もちろん、挨拶は忘れない。

 

 「たっだいまー!」

 

 「ああ、おかえり。……どうした、ずいぶん機嫌がよさそうじゃないか」

 

 椿の香りでもしそうな長い黒髪の、大人びた雰囲気を持った少女が淡を迎え入れる。彼女の言葉から察するに淡がこんな表情を浮かべているのは珍しいことなのかもしれない。

 

 「ふふーん。ねえスミレ、私ちょっとだけやる気出てきちゃったよ」

 

 「……は?」

 

 スミレ、と呼ばれた少女はただ呆気にとられていた。彼女の言動が突飛なのはいつも通りといえばいつも通りなのだが、“やる気が出てきた” とわざわざ人に向かって言うということが指し示しているのはつまり。

 

 「……これまであまり乗り気じゃなかったということか?」

 

 「だってどこもかしこもどいつもこいつも雑魚ばっかだったじゃーん」

 

 不満を表現しているのか口をとがらせて淡はこれまでの相手を総評する。悪意はない。見下しているつもりも彼女にはまるでない。ただ、実戦で感じた力量とそれ相応の結果が淡にそういう判断を下させた。言い方に問題があることは確かだが、彼女にはそれを言い切るだけのものがある。もちろんそれを目の前にいる人間がどう取るかは別の話であるが。

 

 「ばかもの。気を抜いて打つなとあれほど言っただろう」

 

 「もー、本気で打っちゃダメだし気を抜いて打ってもダメだしスミレの言うこと難しいー!」

 

 「白糸台が優勝するためだ。それにできないことをやれと言っているつもりはないぞ」

 

 どこか脱力してしまいそうなやり取りは、この控室では日常のものとなっていた。外部の人間は想像もつかないだろうが、現時点で二年連続全国団体優勝を達成しているこの麻雀部には厄介者が()()いる。ひとりは言うまでもなく自由奔放の化身と言ってもいい大星淡であるが、もうひとりは今は静かにソファでお菓子をつまんでいた。

 

 スミレと呼ばれた少女が額に手をやってやれやれと頭を振ってため息をつく。そもそも他校の研究のために控室に集まって観戦しているというのに、もっとも警戒するべき臨海女子が試合をやっているこの時間に帰ってくることそのものがおかしいのだ。そう心の中で愚痴をこぼしていると、淡が思い出したように口を開いた。

 

 「あ、そうそう。優勝と言えばなんだけど、決勝、姫松来るよ」

 

 「どういうことだ?」

 

 「そのまんま。さっき外でハリマケンジと会ったんだ」

 

 どう考えても話が繋がっているとは思えないが、そんなことは淡には関係がない。今の彼女にとって重要なのは姫松というチームが面白そう、という他人から見れば取るに足らないようなことであり、それ以外は別にどうでもよいことだった。彼女が入学してからそれほど時間が経っているわけではないが、おそらく四六時中この調子で通しているのだろう。“スミレ” はほとんど驚く様子を見せなかった。

 

 「……迷惑はかけてないだろうな?」

 

 「大丈夫だって! ちょっと自己紹介しただけだし!」

 

 「まあいい、だが姫松が本当に決勝にいるかは知らないぞ。さっきは二回戦で二位だったしな」

 

 「ありゃ? なっさけないなぁ。まあでも上がってくるよ、そんなカンジするし」

 

 終わったばかりのの試合結果くらい覚えておけ、と淡の相手をしていた長髪の少女は言いたくなったが、そうしたところで糠に釘なのは明白である。周囲から厳格とさえ評される彼女が淡の振る舞いをある程度まで容認しているのは、押さえつけたところでどうにもならないことがわかっていることが理由のひとつ。もうひとつは、彼女が他を圧倒するような隔絶した才能を有しているからに他ならない。そんな淡の口からこぼれた先ほどの言葉はどこか予言めいており、“スミレ” は後にBブロック準決勝に進出する学校のうちで、臨海女子と姫松の情報を中心に集めるように指示を出すことに決めるのだが、それはほんの少しだけ未来のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 



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32 After After

―――――

 

 

 

 昼間はあれだけ晴れ渡っていたというのに、気が付けばいつの間にかしとしとと雨が降り出していた午後七時二十四分。拳児と郁乃を含む姫松メンバーのいる部屋のテレビには二回戦をトップで通過した臨海女子のネリーが画面に映っていた。合宿のときに見せていた快活さはどうやら鳴りを潜めているようで、表情を変えるどころか眉ひとつ動かす気配もない。その様子はなにか不満げなようにも見受けられた。

 

 臨海女子が信じられない攻撃力を見せつけたというわけでもないのに、彼女たちと二位との差はかなり大きなものとなっていた。それが意味するところは簡単だ。チームの誰かが圧倒的な実力を見せるまでもなく、全員が普通に打って全員がプラスで終えた。ただそれだけのことである。その結果が示していることには改めて触れるまでもないだろう。同組を二位で突破したのは南北海道代表の有珠山高校というところで、ここはインターハイ初出場校であるらしい。数えてみれば準決勝進出を決めた八校のうち二校が初出場、一校は十年ぶりにその県における名門校を破っての本選出場というのだから波乱含みと評するには十分な結果と言えるだろう。

 

 観戦を終えた途端に準決勝でぶつかる相手の戦力分析や所見を述べ始める部員たちを視界の端に収めつつ、やはり郁乃も頭を働かせていた。明日は自身のツテで呼んだプロたちにお願いして調整を手伝ってもらうのは決まっているのだが、彼女が見据えているのはそこではなかった。姫松が調整をしている裏でAブロックの準決勝が行われるのだ。優勝に向けての調整を考えるならば明日のうちに決めておきたいことは相当ある。郁乃なりの決勝戦予想図のようなものは存在しているが、読み筋が完璧に通るとは限らない上に、なによりどこの学校にも賢しい人物が控えているらしい。経験則に従ってもトーナメントの論理に従っても対戦相手となるだろう高校が実力をまだ隠しているのは、郁乃にとっては明らかなことだった。

 

 それらのことを踏まえた上で、自身が何をするべきかは既にはっきりしている。チームが調整をしている間に決勝の相手を観察し、実力を隠しているのならばおおよその見当をつけて推測し、そしてその条件に合うプロを調整相手として呼べばいい。実は仕事量だけで考えれば、明日で郁乃の仕事は終わるのである。それは姫松の勝敗如何にかかわらない。あとはすべて子供たちに任せるのが、播磨拳児に監督代行の立場を譲った赤坂郁乃の取るべき姿勢であった。

 

 「……コーチ? 聞いてます?」

 

 もちろんのこと思考を別方向に飛ばしていた郁乃は話を聞いていなかったが、相手が恭子であったため適当に誤魔化して対応した。こんなものが通用する辺りはまだまだ子供だな、と郁乃はひとり微笑みを気付かれない程度に深める。だがそんな彼女の戦術眼は既に高校生の域を脱しており、だからこそ郁乃は恭子にチームの運営を任せているのだし、そのことが後のチームに確実に与えるだろう良い影響にも期待している。しかしそんなことはおくびにも出さずに、せっかく話を振られたのだからと郁乃はこの場を乗っ取ることに決めた。

 

 「あ、そうそう明日の予定なんやけど~」

 

 

―――――

 

 

 

 暗い夜の向こうの雨に音はなく、その姿は窓につく滴か濡れて光る地面でしか確認ができない。時間は郁乃に明日の予定を聞いてからしばらく経過しており、言ってみればすべての行動に自主性を求められるような時間帯である。拳児はと言うと、入浴を済ませてタオルで髪の水気を取りながら窓の外を眺めていた。太陽も沈んで外には雨も降っているというのに気温はなかなか下がらず、そのせいもあって拳児はパンツだけ穿いている状態である。ホテルはオートロックのため、一年前の海水浴のときのような事故が起きることは決してない。

 

 そのまま物思いに耽るかと思いきや、拳児は盛大にため息をついてベッドに乱暴に身を投げた。今日でインターハイが始まってから六日目、事前の準備期間も含めて拳児は都合一週間以上この部屋で生活している。要するに退屈なのだ。かっこいい香港アクションスターの物真似など男子が一人の部屋で一度はやっておきたい遊びも一通りはやってしまっている。もちろん拳児にもツーリングという人並みの趣味はあるのだが、外はあいにくの雨の上にそもそもバイク自体が手元にない。

 

 監督としてやるべきことは他校の本職に比べて圧倒的に少ない上に、そのほとんどを郁乃と恭子が処理してしまうという有様である。気にかかっていた明日の調整に関しての郁乃に対する提案も入浴前に既に済ませてしまっている。しかもそれも郁乃の懸案事項のひとつに入っていたらしく、拳児の提案で事態が急変するようなことにはならなかった。観点そのものはかなり俯瞰的なこともあって、褒められはしたのだが。

 

 さて何かないか、と真剣に考え始めて拳児の頭にやっと浮かんだのはマンガであった。縁があったはずなのに姫松に来て以来、正確にはもうちょっと前からだ、手に取ることすらなくなったものだ。時間に余裕がなくなったこともあって選択肢からさえ姿を消していた。幸い日本はマンガ雑誌の種類に事欠かない上にコンビニエンスストアへ行けばいつでも買うことができる。ちょっとした暇を潰すのにはもってこいだろう。矢神を飛び出したころは餓死を覚悟するしかないような財布の中身だったが、今はもうそんなこともない。そうして行動方針を固めた拳児はさっさと簡素な服を着て、ホテル内のコンビニへと向かっていった。

 

 

 決して学校が選んだホテルに文句があるわけではないのだが、拳児はこの高級感になんだかむずがゆい思いをしていた。隅々まで清潔で、何かしらの気配りが行き届いていて、自分がいることが場違いなような気さえしてくる。単純な話、慣れていないのだ。気安さで言うならばそれこそ民宿であるとか、あるいは究極的には公園のベンチで夜を明かすほうが妙な心労はないかもしれないとさえ思えるほどだ。エレベーターの中ですら漂うシックな感じは馴染まない、と自嘲でなく心の底から思いながら拳児は歩を進める。

 

 ホテル内のコンビニは一階ロビー、受付とはすこし離れた位置に店を構えている。規模としてはそこまで大きなものではない。実際ホテルの中だけで済まそうと考えるような買い物の量はそれほど多いものではないため、適切といえば適切な床面積と言えるだろう。雑誌のコーナーは自動ドアをくぐってすぐ左である。意外とホテルで生活する時間が長い関係上、拳児もとっくに店の構造は把握していた。おそらく姫松の部員たちも同様だろう。さて店内に入ろうかというタイミングで、自動ドアの向こう側にいた洋榎と目が合った。

 

 「オウ、何してんだ」

 

 「ん、ババ抜きで負けてもーてな、その罰ゲームや。播磨は?」

 

 がさり、と手に持ったビニール袋を軽く持ち上げる。既に会計も済ませてあとは部屋に戻るだけなのだろう。ビニール袋からはお菓子のパッケージなどが姿を覗かせている。

 

 「することねーからジンガマでも買おうかと思ってよ」

 

 それを聞いて洋榎はぷっと吹き出した。たしかに彼女たちの持っている印象からすれば、拳児の今のセリフは間の抜けたものに聞こえても無理はないだろう。いくら拳児と部員の距離が近づいても、そもそもの勘違いを修正しない限りそこには絶対に超えられない一線が存在するのだ。

 

 「ふっふ、なんや意外と年相応なところもあるんやな」

 

 「……オメーに限った話じゃねーけどよ、俺様に対する偏見が過ぎてやしねえか?」

 

 拳児は既に誤解を解くことを諦めているから、偏見という言い方に落ち着かせている。拳児からすれば勘違いもいいところなのだが、他方その見た目から判断すれば洋榎の言っていることのほうが説得力はあったりする。もし完全な第三者の視点を持っている者がいるならば、どちらも認識の改善のための努力を怠っているという辺りの評価を下すだろう。

 

 この会話の流れで拳児が本気で不機嫌になっていないくらいのことは、たとえ一年生であっても姫松の麻雀部員であるならば誰でも見て取れるようにはなっている。このことは拳児にとって良い面もあるが、もちろん悪い面も備えている。その辺のちょっかいの出し方が上手いのは男子に比べて圧倒的に女子に多く、中でも絹恵を除くレギュラー陣はけっこう容赦がない。端的に言って、最終的な部分で拳児と対立することはあり得ないのだが、そこに至らない限りは拳児の立場は基本的に弱いのである。

 

 「アホ、昼のインタビューみたいなんやっといてよう言えるな」

 

 洋榎の表情はなんだか奇妙な含みを持っているように見える。

 

 「あ? 別におかしなこたぁ言ってねえだろ」

 

 「純情か!」

 

 二人の会話が微妙に成立していないのも当然で、これははっきりとした言葉を用いなかったことによる弊害だろう。拳児はアメリカへと向かう覚悟を、決して特別な願いではなく近い未来に実現するべきものと捉えているため、当たり前のものとして認識している。そのため昼に受けたインタビューにおいて、その箇所がクローズアップされているなど夢にも思っていない。かたや見ている側である洋榎の認識は語るまでもないだろう。しかし返したツッコミが拳児の一側面をしっかりと捕まえているあたりはさすがと言うべきか。

 

 ホテル内のコンビニにはあまり人が来ないとはいえ、入り口付近で話し続けるのもさすがに迷惑だろうということでふたりはほんの少しだけ場所を移動した。

 

 「……オメーよ、臨海の連中はどう見る?」

 

 「んー、勝つ方向で考えるんやったらかなり厄介やろな」

 

 互いにコンビニの広い窓に背を向けて隣同士に立っていることもあって視線は合わない。精々がどちらも声を発するときにたまに顔を相手方に向ける程度だ。まるで言葉が泡のように上に浮かんでは弾けていくような、奇妙な感じのする時間だった。

 

 「なんや、監督代行サマの感想は違うんか?」

 

 「いや、変わんねーよ。そのままその通りの感想だ」

 

 ふん、と得意げに鼻を鳴らす音が聞こえたが、拳児はそれについては放っておくことにした。いまさら言うまでもないことではあるが、麻雀に関するセンスについて愛宕洋榎はずば抜けている。もし比肩する者を探そうとするのならば日本全土でも片手に満たない程度の数しかいないだろう。拳児の持つ異常性とはまた別の、本来あるべき麻雀の天性。それがおそらくまだ正確な意味で開花してはいないことを拳児はうすうす感じ取ってはいるのだが、手に余るというのが正直なところであった。それにそのこと自体は拳児の仕事外のことであって、本当なら郁乃か、あるいはその先の指導者が見るべき事柄であるのもまた事実であった。

 

 洋榎のその言葉から読み取れる先のプランは拳児のものと同一であった。おそらく恭子と由子も同じ結論にたどり着いているだろう。麻雀は一対一の対決ではなく、四家によるものだ。そこには他の競技にはまず見られない戦略が存在し、それを成り立たせるための地力が要求され、なおかつ運を味方につけなければ勝つことはできない。拳児の目には実力がはっきりと見えてしまうぶん、余計にきついのかもしれない。

 

 「ところでオメー、戻んなくていいのかよ?」

 

 「お、買い出しやったん忘れとったわ。そんじゃそろそろ戻るわ」

 

 エレベーターに向かって歩き出したと思いきや、急に立ち止まって洋榎は振り返った。

 

 「そや、ヒマなんやったらうちらの部屋来るかー?」

 

 「バカ言え。やかましくて落ち着かねーよ」

 

 この瞬間、播磨拳児は完全に監督だったのだが、本人は決してそれに気付くことはなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 「それじゃあまずは播磨からAブロックの結果聞いてから始めよか」

 

 プロとの調整を終えて食事も済ませ、翌日に準決勝を控えた姫松の面々はいつものようにホテルの一室に集まっていた。これまたいつものように進行を務めるのは恭子であり、そこに口を挟む者は誰もいない。彼女たちは朝から夕方までの時間をすべて調整に費やしていたため、本日行われたもうひとつの準決勝の結果をまったく知らない。もちろんネット環境の整った昨今、調べればそんなことはすぐにわかってしまうが、それでも彼女たちは拳児の口からそれを聞くことを選んだ。

 

 「……抜けたのは白糸台と阿知賀だ、チト意外なところではあったがな」

 

 以前、番狂わせを演じるならここだ、と言い放った拳児の言葉としてはわずかに奇妙なものがある。サングラスで見えない目以外の表情はどこかうんざりしたような、少なくとも前向きな感情ではないことがわかるものであった。

 

 「えっと、白糸台が一位でいいんですよね?」

 

 「まァそりゃそうなんだけどよ、最後の最後でギリギリ逆転でな」

 

 俄かに緊張が走る。あれだけ絶対的と謳われた白糸台が準決勝でつまづきかけたということは、そこに匹敵するような高校があったということに他ならない。もちろん四校の戦いのもつれでそうなったであろうことは十分に推測されるのだが、そういった状況のなかで常に勝ち切ってきたのが全国最強の名をほしいままにする所以なのだから。実際の映像や牌譜、あるいは点数推移を見ないことには断言できることではないが、大会が始まる前どころか始まってからもそれほど注目されていなかった高校が決勝まで上がってくるということが、拳児の言葉も併せてひどく不気味に感じられた。

 

 しかしまだ準決勝を控えている身としては先のことを考えすぎるわけにもいかず、一旦は思考を元に戻すことに決めた。明日に彼女たちが相手をするのも強豪、どれだけ低く見積もっても二癖は備えた高校なのだ。意識を他のところに割いて勝てるような相手だとは考えないほうが正解だろう。二回戦において姫松は清澄に一着を譲ってしまっているのだからなおさらである。

 

 

 

 「個別の対策の前にひとつだけ」

 

 そう言って恭子は言葉を切った。私生活に関しての言及は避けるが、こと麻雀に関わることについて彼女は無益なことをしない。その信頼は長い積み重ねによって培われたもので、間違っても今の拳児には出せないものである。

 

 「とりあえず明日の最低目標なんやけど、これは決勝進出でええと思う」

 

 恭子の論調には逆らえないものがあって、三年生達の意図を汲み取り切れていない二年生の二人も異論を唱えることはできなかった。どちらかといえば洋榎、由子、そして特に恭子の三人が異常なのだ。長期的な視野を持つことに長け過ぎている。そしてその恭子の観点から出された提案もまた、不思議な違和感をもって二年生の耳に響いた。

 

 「そのために、大将戦までに清澄に一万点以上の差をつけて回してもらおうと思ってる」

 

 「へ?」

 

 漫が頓狂な声を出すのも仕方がないだろう。ターゲットがあの臨海女子でないこともそうだし、またその目標が何を意味するかが推測できないからだ。当然のことではあるがこの団体戦においてリードはあるだけあった方が良いに決まっている。それだけ勝ちに近づくということでもあるし、決勝でなければ先へと進みやすいということでもある。それでもそのリードを奪う話をするときに具体的な数値目標が出されることはあまりない。少なくとも漫と絹恵は体験したことがない。

 

 決勝進出を目標に据えることを当たり前のこととして受け入れていた洋榎と由子でも、さすがにそれについては多少の疑問が残るようだった。洋榎は眉間にしわを寄せているし、由子は考え込むように口元に手をやっている。拳児については触れるまでもないだろう。

 

 「きょーこ、そうすることに意味があるんか?」

 

 「あります。なんだったら後で資料とセットで説明します」

 

 洋榎の問いに恭子はすぐさま返事をした。誰も彼女のことを疑っているわけではない。あくまで確認するだけの話で、恭子が確信に近いものを握っているというのならば姫松というチームはそれに従う。加えるならば、恭子の提案は最低限のラインの設定であり、それを上回ることについては明言をしていない。であるならば清澄にある程度の意識を割く以外のことについては全体としてはいつも通りということであり、またそれさえ実行できれば末原恭子本人がなんとかすると言っているに等しい。これまでの経緯を考えて、姫松の少女たちがそれを信頼しないわけがなかった。

 

 率先して恭子に問うた洋榎がメンバーに目配せをすると、それを受けた少女たちは順に頷いた。彼女たちの間はこれでよい。ある意味で言えばこの図を作り上げたのは郁乃の “手を出さないという手出し” によるものと判断することもできるかもしれない。そこにどんな計算があるのかは彼女以外知る由もないが、それ自体は確実に良いほうへと作用していた。ちなみに拳児が監督としての腕を振るう必要がないのもこのためである。

 

 拳児を含む姫松の面々もそれぞれ優勝を目指す理由のようなものを持ってはいたが、赤阪郁乃もまたそれを持っていた。そのことを知っている部員はいないのだが、それはまた別の話だろう。

 

 陽が昇れば、準決勝が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 



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33 燭火

―――――

 

 

 

 世の中に女子高校生は数多くあれど、辻垣内智葉ほど “立って待つ” という仕草に親和性を持つ女子高校生もないだろう。顎をすこし引いて腕を組んでいるその立ち姿は、まるで絵巻の一場面のようでさえあった。これでもし彼女が制服でなく和装姿であったりすれば、ここがインターハイの会場であることに誰も気付けなかったに違いない。

 

 前年におけるインターハイ個人戦第三位。新世代の怪物を相手にして、もちろん彼女自身もそう呼ばれるだけの実力は有している、見事に戦い抜いた傑物であることも注目を集める大きな理由の一つだろう。この世代に圧倒的に君臨する()()()()を打ち倒す最右翼としての期待を背負う身でもあるのだ。彼女たちは好むと好まざるとに関わらず、どれだけ否定したところで宮永照という名から逃れることはできない。それはほとんど重力のように誰も彼もにまとわりついて縛り付けるものですらあった。辻垣内智葉は、それを断ち切ることが可能と目される数少ないひとりである。

 

 

 対局室へとつながる重たい扉を押し開けて、漫がはじめに目にしたのは卓でも他の何でもない、智葉がただ立って待ち構えているその姿であった。卓上を照らすためのはずの照明が、どうしてか彼女のためのもののように見えてしまって漫は一度だけ首を横に振る。呑まれてはいけない。漫の脳裏にしっかりと焼き付けられているあの日本刀のような妖しい美しさは、影をひそめるどころかより鋭さを増してそこに在った。

 

 漫の心境も複雑と言えば複雑ではあった。彼女のここ最近の心理面に付随した技術的な急成長は合宿で智葉と卓を囲んだことに起因しており、漫自身もまたその自覚を持っている。まさか勝てるなどと大言を吐くつもりはないが、それでも対戦するのに多少の気後れを感じるくらいには智葉に対して親しみを抱いていることもあって、心の準備をする必要があるのもまた事実であった。

 

 「辻垣内さん、お久しぶりです」

 

 声をかけられた智葉は軽く顔だけ漫の方へと向けて、浅く笑んでから体ごと向き直った。

 

 「上重か、息災だったか?」

 

 「え? あ、その……、はは」

 

 まるで耳慣れない言葉は体の中で弾んでは遠くへ行ってしまうような感じがして、正しい返事の仕方などわからないままに漫は笑ってごまかした。思い返せば合宿では恭子といちばん話が合っていたような気もする。ならば漫が知らないような言葉を日常的に使っていたとしても何の不思議もない。なんとなくこのままでは居心地が悪くなるような気がしたので、漫はまた自分から話を振ってみることにした。

 

 「できればぶつかるのは決勝までとっときたかったんですけどね」

 

 「なに、準決勝ともなればどこもそうは変わらないだろう」

 

 智葉の言葉から受けるこの感覚を漫はよく知っている。麻雀における強者は基本的に油断をしない。だからこそそこに隙などなく、強者は強者であり続ける。漫も麻雀に触れて久しく、なおかつ自身の特性も相まって継続的に強さを発揮することの困難さは理解している。そこには明確な線が一本引かれており、その線を踏み越えられるかどうかがある一つの宿命的な評価項目を決定している。目の前の丸メガネの女性はその向こう側の住人だ。もう少し突っ込んだ言い方をするならば、漫がいずれ乗り越えていかなければならない相手である。

 

 智葉と漫とを比べればどちらが格上かは明白だが、半荘の一回や二回程度であれば紛れが生じる可能性はある。誰であっても勝ち続けるということは不可能であり、漫が考え得る最高のかたちで次鋒にバトンを渡そうとするならばその幸運を願うしかない。彼女にしてはひどく後ろ向きな考えに思われるかもしれないが、それほどに彼我の実力差は開いているのだ。

 

 そうしてほんの少しの言葉のない時間が流れると、同時に二つの観音開きの扉が開いた。姿を見せたのは漫からすれば二度目の対戦になる清澄高校の片岡優希と、初顔合わせになる有珠山高校の本内成香であった。威勢よく歩いてくる片岡とは対照的に、本内はどこか緊張したような面持ちをしていた。この準決勝の場においてどちらが反応として普通かと聞かれれば後者が圧倒的多数だろうが、振る舞いとしては前者が正しいだろう。そういった意味ではやはりこの片岡という少女は大物なのかもしれない。漫がそんなことを考えているうちに彼女たちは卓へとたどり着いて、席決めの運びとなった。

 

 

 当たり前のように片岡が起家を引き、漫が南家、智葉が西家、本内が北家の順に席に着く。ここはインターハイの、それも準決勝の場の先鋒戦であるのだから、本来であれば誰に対しても注意や警戒を払うべき状況である。しかし西家に座るただひとりの少女の存在が、漫だけでなく他二名にも均等に注意を払うことを許さなかった。彼女は特別に気合を入れているわけではない。手を膝の上に置いて、いつものように集中を高めて牌がせり上がってくるのをただ待っているだけだ。漫が以前打った合宿の時とはまた違う完全な戦闘モードの辻垣内智葉は、同卓する三人にとって途方もなく高い壁に感じられた。

 

 牌の山がせり上がり、賽を回すボタンが押される。からからと乾いた音が鳴って、崩す山が決定される。賽の目に従って配牌を揃えれば、もう対局が始まる。始まりの合図は片岡の打牌だ。

 

 

―――――

 

 

 

 漫はこの卓ではおいそれと前に出ることはできない。それは恭子から言い含められていたことでもあったし、また漫が事前対策を聞く前に自力でたどり着いた結論でもあった。チームとして後ろにキープレイヤーを置いている有珠山の本内はそこまで怖い存在ではないが、東場における片岡の脅威を漫は忘れたわけではないし、それ以上にこの卓には智葉がいる。少しでも油断すれば斬って落とされる。麻雀という競技においてそれはあり得ないことだと断ずる人もあるかもしれないが、彼女と卓を囲めばその言葉の意味を理解するだろう。偶然の領域にさえ立ち入る高みがあることを知るだろう。

 

 立ち上がりは他の団体戦の例に漏れずに静かなものであった。基本的にその大前提は崩れない。早い段階で鳴きを決めるような手が来ることはそれほど多くないし、初手からリーチなど以ての外だろう。漫はそういった、いわば常識的な安心感とともに手を進めようとする。配牌は決して悪くない。打点は足りないがそれなりに早そうな手ではある。他家の手の具合にもよるが、これならば自身が先手を取ってもおかしくないと漫は考えていた。

 

 まだ誰も攻撃的な気配を見せない三巡目、漫は自摸ってきた白が欲しいところではなかったためそのまま捨てる。次いで智葉が八筒、本内が六萬を捨てたところで動きがあった。片岡がその六萬を鳴いたのである。事前の情報どころか二回戦での対戦も踏まえて片岡は鳴かない、と思い込んでいた漫の衝撃は大きかった。実用レベルで戦術の幅が広がることの意味を、漫は体感的に理解している。東場に限定されるとはいえ、もし彼女のあの火力に速度が加わるとすれば、その脅威はハネ上がる。少なくともいつもの漫では手に負えないことは間違いない。漫は内心で舌打ちをして攫われていく六萬を見送った。

 

 ただ一つの鳴きがその局に与える影響は軽視できるものではない。もちろん論理で言えば鳴きはおろか和了であっても局に影響を及ぼすことなどあり得ない話ではある。しかし、そこには確実に論理に収まりきらないものが存在している。鳴きの意図がきれいに通った場合の、鳴いた側と他家の精神状況を考えれば多少はイメージがしやすいだろう。精神的優位を手に入れることは競技としての麻雀において極めて重要な要素であり、たった一つの鳴きがそれを左右することなど珍しくもなんともない。したがって、この鳴きに対する警戒は自然と強くならざるを得ないのだ。東一局の最初の鳴きであることと、精神状態が打ち筋に強く影響するだろう片岡がその主体であるからだ。

 

 面こそ食らったものの、()()自分が取るべき対応を漫はしっかりと理解していた。資料と実際に卓を囲んだ経験から、片岡はまっすぐに勝利へと向かうスタイルであることがはっきりしている。東場は強く、南場は弱いという特質を自身でも把握しているのだろう、彼女は南場になると守り一辺倒の戦い方になる。良くも悪くも片岡優希というプレイヤーはわかりやすく、その彼女が東場で鳴いたということは攻めに出たということに他ならない。であれば勝負ができそうな手が来ていない限り、漫は振り込まないことを最優先で考えればよい。

 

 そこから一巡回って五巡目、片岡が自摸牌を手に収めて手出しで牌を捨てる。これまでの傾向と鳴きを加えたという要素を合わせて考えれば、そろそろ聴牌にたどり着いていてもおかしくはない。なんとも厄介な相手だな、と何度も思ってきたことをまた頭に浮かべたその時だった。抑えのきいた、しかし芯の通った声が空気を切り裂いた。

 

 「……ロン。5200だ」

 

 誰もが意識をそちらへ向けてはいなかった。なぜならそこに何の気配もしなかったからだ。ばらばらと倒されて開けられた手は明らかに出来上がっているのに、そこへと向かう途中で誰も彼女の仕上がりに気付けなかった。決して油断があったわけではない。なぜならば辻垣内智葉はこの卓における絶対的な強者であり、その彼女に対して注意を払わないことは自殺行為に近いとさえ言えるからだ。ただ、そのレベルの警戒を受けてなお何も悟らせなかったという現実がそこにはあって、それは正しく次元の違いを見せつける和了であった。

 

 東一局で得られた情報は決して少なくない。清澄の片岡が鳴きを使って攻撃にバリエーションを持たせるようになったことと、辻垣内智葉がそれに素の速力でついていけるということがそれである。もちろん全ての局でそんな芸当ができるわけでもないのだろうが、東一局の、それも二回戦で姫松を抑えて一位通過した清澄の選手の得意戦法を真正面から潰すという流れのインパクトは壮絶なものがあった。人によってはこれだけで格付けが済んでしまったと思いかねない。ただ、そこに漫は小さな疑問を感じ取った。短いとはいえ合宿でともに生活した経験のある漫からすると、“潰す” という行為がどうにも智葉と重ならない。結果としてこうなった可能性も否定はできないが、彼女が格付けを印象づけるような打ち方をするとは漫には思えなかった。

 

 ( 清澄が怖いんかな? ……片岡さんは弱点がはっきりしてるのに? )

 

 漫のこの疑問は出発点としては間違っていなかった。ただ、まだ彼女には頼れる先輩たちがいる上に、その疑問を推し進めるための経験が足りていなかった。それらの事情も相まって、その一歩先までたどり着くことができなかったのである。しかしこの疑問自体を持つことができたのは実際にいま卓を囲んでいる漫だけだったため、智葉の和了の意図を理解できている者は臨海女子の面々を除いて存在していなかった。

 

 

 せっかくの親番だというのに、漫の手はそれほど良いとは言えないものだった。同じ卓に東場の片岡と智葉がいることを考えると悪いとすら言える。無理に攻めれば餌食にされる。和了れないのも痛いが、直撃を食らうのはもっと痛い。漫はまた静かに機を窺うことに決めた。とりあえずは先ほどの局よりも智葉に対する警戒を強めて打ち進めるのが重要だ。たとえどれだけ早い巡目であっても聴牌気配がまるで読み取れないようでは話にならない可能性がある。最悪でも準決勝の間には “勝負” のフィールドまで上がらなければ先が辛い。漫の判断は、奇しくも姫松の控室の意見とまったく同じであった。

 

 さすがに鳴きを混ぜた片岡ほどの速度を常に出すのは無理ということなのか、東二局では片岡が満貫を自摸和了ってみせた。やはり東場においてはこの少女の力は尋常ではなく、それこそ智葉に通じるというただその一点だけで評価に値することであった。

 

 和了っても和了られても、智葉の持つ静謐な雰囲気はわずかにも揺らがなかった。決して彼女は誰かに対して攻撃的な意識を向けていない。だがその静謐さの向こうには何かを予感させるものがあった。薄いカーテンの向こうから、何かは判然としないが、何かが飛び出してくるような無言の圧力があった。その佇まいに思わず漫は身震いしそうになる。膝の上に置いた手を強く握ることで、漫はそれをなんとか堪えた。

 

 続く東三局も片岡が仕掛ける。麻雀における速さとは究極的な意味では最強の要素であり、そこに明確な勝機を見出せるのならば注力するのは当然だとさえ言える。とくに片岡からすれば稼ぐポイントであった親を流されたこともあって、とにかく先手を取りたいに違いない。もちろん彼女がそう考えているだろうことは誰もが理解している。だからといって取れる対策があるわけではないのが速度の本来の恐ろしいところである。そのはずなのだが、ことこの卓に至っては事情が違う。何度でも繰り返そう。彼女が卓に着くということはそういうことなのだ。

 

 

―――――

 

 

 

 設置されているカメラの位置の関係上、解説席は解説を務めるプロと実況のアナウンサー以外は壁とスポンサーのロゴくらいしか映らない。本来であれば解説席そのものを映す必要はないのだが、そこはさすがトッププロと言うべきか、ファンの根強い要望によってそれが実現されている。そのため時折、観客席の巨大スクリーンにそのときの解説と実況が大々的に映し出されるのだが、その図はなかなかに壮観である。実際には画面を四分割してそれぞれの選手の手元をスクリーンに映すこともできるのだが、分割するとそれぞれのスペースが狭くなるのと同時に情報量が増えすぎて混乱してしまうという弊害がある。これは麻雀の熟練者であればそうそう問題にはならないが、観客もそういった人ばかりではない。したがってほとんどの場合、観客席のスクリーンには解説が選んだ誰か一人の手元か、あるいは河の様子がわかるよう卓上を映すのが主流となっている。ちなみに解説席には全選手の手元と卓上全体とを映した都合五つものモニタが設置されている。

 

 「はやや、今のは大きな一撃ですね」

 

 Bブロックの準決勝の解説を務める瑞原はやりが、普段とは少しだけ声のトーンを変えて東三局の感想を口にする。実況のアナウンサーは彼女の言葉に反応した。もちろんこの解説を聞いている人向けの丁寧な方向付けという側面が強い。当然のことだが解説席の音声は対局室には入らない。だからこそトッププロたちは思い切り打牌の意図などの説明ができるのである。

 

 「大きな、とはどういうことでしょうか。点数そのものはそれほど大きくありませんでしたが」

 

 「実はですね、今の和了には点数以上の価値があるんです☆」

 

 今はスクリーンにはやりの姿は映ってはいないが、人差し指を立てて話をしているだろうことが多くの人の頭に浮かんだ。それほど彼女はテレビによく出演するし、またそういった教授する立場にいることが多い。

 

 「清澄高校はなんと今年初めて予選に出場してそのまま準決勝まで勝ち上がってきています☆」

 

 「瑞原プロ? いま和了ったのは臨海女子の選手では?」

 

 アナウンサーもはやりとコンビを組んでそれなりに経つが、話の組み立てについていけないことがよくある。初めから話の全体像が出来上がってしまっているのだ。そのため多くの実況と解説で見られるような、実況による質問に答える形式での解説は期待できない。そのかわり、その解説の完成度は他に見られるものではない。ただ彼女の解説の出来がどれだけ素晴らしかろうと、それは解説書を読むのに近い完成度なのである。ある程度話を進めて、そこから前に戻ると意図がすっと通るような構造をしているのだ。それを話を聞くだけで理解できる人間などほとんど存在しない。はやりとコンビを組む以上、一般人としての理解力を以て疑問を投げていかないとならない。そうしなければ話についてこられる観客がいなくなってしまうからだ。

 

 まったく頭が良すぎる人間というのも困りものだ、とこの場以外では体験したことのない感情を一撫でしてアナウンサーは話の続きを聞くことにした。

 

 「そうですね☆ でもだからこそ今は清澄の片岡選手のお話をしないとダメなんです」

 

 「と言いますと?」

 

 「先程言ったこともありまして、清澄の選手の情報は極端に少ないのですが」

 

 「……インターハイ予選に出るのさえ初めてだとおっしゃってましたね」

 

 はやりはにっこりと頷いて、ひとつ息を吸った。

 

 「その少ないデータの中で、片岡選手は東場に自信を持つプレイヤーというのが見て取れます」

 

 アナウンサーはまだ彼女の言わんとするところが掴めていない。たしかに事前にもらった資料によれば片岡が東場を得意としていることは理解できる。しかし、それと辻垣内智葉の和了とがどう繋がるのかがわからない。もし彼女が麻雀に覚えのある人間であれば気付けたのかもしれないが、あいにくとそういった人生を送ってきていない。ここは余計な口を挟まずに視線で続きを促そうとアナウンサーは判断した。

 

 「これまでの東場を平均すれば七巡目には和了ってますし、打点もかなりのものです☆」

 

 まるで淀みなく言葉が流れていく。声量も発音もきちんとマイクの向こう側を意識したものだ。ともすればただの観客になってしまいそうになるのをアナウンサーは必死で堪える。

 

 「そこで大事なのがですね、実は彼女、これまでほとんど鳴きを使ったデータがないんです」

 

 「ということは、鳴かずにその速さで和了してきたということですか?」

 

 「はい。でも片岡選手はこの準決勝では鳴いてますし、それだけ速度も増しています」

 

 ここまで説明を受けて、やっとアナウンサーは彼女の言いたいことを理解した。片岡からすれば全力に等しい速度を当たり前のように対応されたことになる。もちろんそれが意味していることに当事者たちは気付いているだろうが、外から見ている観客からすればなかなか気付けない。ただの “和了った” “和了られた” がまったく違った意味を持つ。それは戦意をチップにしたパワーゲームであり、その見地で先手を打つということがどれほど大きいことなのかは、現実に卓についている選手たちにしかわからない。

 

 「すると和了れなかった片岡選手はそのぶん辛いですね」

 

 「まさにそうなんですが、実はそれだけではないんです☆」

 

 まだ何かあるのか、とアナウンサーは顔には出さずに驚嘆した。瑞原はやりは今の東三局が終わった直後から話を始めているから特別な思考時間などないはずである。やはり頭脳スポーツにおけるトッププロとは常識の外の人種であり、またそのレベルでないと解説が務まらないこのインターハイという大会の凄まじさを彼女はあらためて実感した。

 

 「おそらくどの高校も他校の選手については調査を進めていると思われます☆ 準決勝ですし」

 

 「そうですね、事前の調査は大事と聞きます」

 

 「ということは片岡選手の強みも当然理解しているはずなんです。東場に強い、って」

 

 そこまで言うと、はやりはまた一つ笑んでこれはすごいことですよ、と前置きを入れた。

 

 

 「辻垣内選手は彼女より先に和了ることで間接的に姫松と有珠山にもダメージを与えたんです」

 

 

―――――

 

 

 

 もし瑞原はやりの言うことがそのまま的を射ているのだとしたら、智葉の次に取る行動など限られる。そして実際問題として、智葉に彼女の言う意図があるのは事実であった。準決勝に勝ち進んだチームが弱いはずがないのは自明のことであり、それらに対して辻垣内智葉という選手が油断をするかと問われればそれは否である。また団体戦であるということも考慮すれば、後ろのメンバーが戦いやすいように少しでも他チームの戦意を削いでおくのは常道と言えるだろう。もし仮に今の和了で清澄ならびに他二校の戦意をわずかなりとも削ぐことができたのであれば、智葉のするべきことはただひとつ。その綻びから更にダメージを与えることだ。

 

 智葉の雰囲気が、滲むように変化していく。姿勢も目つきも変わったわけではないのに、彼女の内部で何かが変わったことが視覚以外の感覚を通して伝わってくる。幸いと言えるかどうかは判断が難しいところだが、漫は絶望的なプレッシャーならば既に二回戦で味わっている。そのおかげで雰囲気だけで精神的に後退するような事態には陥らずに済んだ。いや、それどころか漫の気分はどこか高揚さえしてしていた。

 

 彼女自身の意識にはっきりと浮かんでいたわけではないが、間違いなく世代を代表する選手に、漫は姫松の主将の姿を重ねていた。自身が変われたと思った合宿後でさえ、たったの一度しか勝てなかった天才の面影を見ていた。彼女は誰に言われるでもなく、その二人を超えなければならないことを理解している。それが今日なのか遠い未来なのか、あるいはその日が永遠に来ないのかはわからないが、それは上重漫をかたちづくる重要な要素のひとつであることに違いはない。ばち、と何かが弾ける音が聞こえた気がした。

 

 ホール全体を熱波のようなプレッシャーが駆け抜ける。それはプロアマを問わず一定以上の実力者であれば誰もがそちらを意識せざるを得なくなるほどのものだった。その中心は対局室であり、更に言うならばそれは()()()()()()()()()、姫松の先鋒である上重漫から放たれるものであった。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


        先鋒戦開始   東三局一本場前

片岡 優希  → 一〇〇〇〇〇 → 一〇一五〇〇

上重 漫   → 一〇〇〇〇〇 →  九四七〇〇

辻垣内 智葉 → 一〇〇〇〇〇 → 一〇七一〇〇

本内 成香  → 一〇〇〇〇〇 →  九六七〇〇


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34 そして彼女は舞台に上がる

―――――

 

 

 

 麻雀における異能とは、他とは隔絶した才覚の発露の一形態であるという説がある。

 

 日本の高校生に留まらず世界で活躍するプロに目を向けても、そのトップを争う要素として異能を持っているかどうかは決して重要な要素としては捉えられていない。そのことは各大会の成績を通して各選手のプレイスタイルを見ていけば簡単にわかることである。異能が強力であることは紛れもない事実であるがそれだけに扱いも難しく、また研究されてしまえば隙が生まれやすいというのも否定できない事実である。今日において麻雀界を異能が席巻し尽くしているわけではないのはそういった事情も関係している。

 

 そしてそれらの異能を持たない強者たちは、その才覚の発露の形態が違ったものとして現出しているとされている。その際に最もよく引き合いに出されるのが千里山女子高校の江口セーラという選手だろう。彼女には平均聴牌速度に比して明らかに平均打点が高いという特徴がある。だが彼女の牌譜にはそれと呼べるような特殊性は見受けられない。つまり彼女はそれだけシンプルに強く、異能を真正面からねじ伏せるだけの地力が備わっているということである。もちろんそれは彼女に限った話ではないが。

 

 

 ( さて、どうしたものかな )

 

 自身が動き方を決めたのに呼応するようにそのプレッシャーを変化させた漫に対して智葉は頭を働かせていた。合宿できちんと完封したにもかかわらず、智葉は全く警戒を緩める様子を見せていない。それは彼女が決して人を軽く見ないことに起因する。昨年のインターハイ個人で同い年である宮永照に一位を、また当時の一年生に二位を持っていかれたこともそうだし、臨海女子に実力を備えた留学生たちが在籍していることも智葉に根本の部分で謙虚であるということを理解させた。それゆえに相手が誰であっても彼女が油断することはなくなった。雀士として一週間も離れれば、まず相手の成長を疑うほどに。

 

 一般的に出回っている上重漫のデータとして、“爆発” は外せない。無論これは便宜的な呼称であって、全国各地で対策される際にどのように呼ばれているかはわからない。その特性において何より注目するべきはその火力であり、多くの指導者や選手がそれに目を奪われた。麻雀において打点とは間違いなく大きな要素であり、場合によってはそれひとつで勝負を決めてしまいかねないものですらある。したがって多くの視線がそこに集まるのは当然のことであったし、その異能の持ち主である漫でさえもそれを重く見ていた。しかしその状態の彼女と直に打った経験があり、なおかつ鋭い目を持っている者は漫の持つ異能にさらなる可能性を見出していた。そしてそれこそが、あの辻垣内智葉をして対応を考えさせるほどの要素なのである。

 

 智葉がちらとそちらに目をやると、これまでの大会中には見られないほどに力に満ちた少女が座っていた。そこまで長くない黒髪を二つにさげた、額の特徴的な少女だ。理牌を進めていくごとに気合が増してゆくように見受けられる。智葉からすればまずは彼女がどのような成長をしたのかを確かめたいところだが、状況はそれを許してくれそうにはない。試合は始まったばかりで点差に余裕があるわけではない上に、東場を得意とする片岡が死に物狂いで和了りにくるだろうからだ。

 

 思考の迷宮に落ちていきそうになる気配を感じ、智葉は短く息を切ることで原点に立ち戻った。智葉が今やらねばならないことは、油断ならない相手への対応策を考えることではなくいかに対局相手にダメージを残すかだ。順番を取り違えてはいけない。智葉は揃えた牌の頭を優しく撫でて、今度は深く息を吸い込んだ。

 

 

―――――

 

 

 

 山から配牌を取ってくる段階から、既にその予感はあった。具体的に挙げろと言われると困ってしまうが、漫とその感覚は長いこと付き合ってきたものなのだから間違いはない。まだ牌の種類も上下も揃ってはいないが、これは期待ができる、とそう頭の奥から誰かがささやいた。そして牌を取り終えて理牌を進めていけば、先の予感が確信に変わる。これは間違いなく波が来ている。自分には原因などとんと見当がつかないが、重要なのは自身の状態が上がってきているということだと漫は理解していた。

 

 手牌には面子がもう三つも出来ており、そこにはしっかりとドラも絡んでいる。逸るような真似さえしなければ三色同順にも持っていけそうだ。配牌から広がる様々な可能性を前に、思わず漫は舌なめずりをしそうになる。さすがにはしたないと思いとどまりはしたが。

 

 未だ場は前半戦の東三局一本場。各校の点差は当然ながらわずかなもので、まだ平らと言うべき状況であるにもかかわらず、卓に張りつめる緊張感は勝負を決める一局のそれと酷似していた。それぞれの思惑の詳細まではわからないが、先鋒戦が後の試合に大きく影響すると考えているところまでは共通だろう。そこで気持ちが前のめりになることは仕方がないどころか当然とさえ言える。もちろんそれは漫も例外ではなかった。

 

 

 本来であれば五巡目での聴牌など他家からすれば十分に諦めのつく速度である。河を見ても手の読みようがない上に、そもそも聴牌していることに気付くことさえ難しい。しかし漫が座っているこの卓は、一般的なだとか普通だとかいった形容とは程遠い卓であったがために、自分が聴牌したからといってそうそう気が抜けるようなものではなかった。東場における片岡は下手をすれば平気でそれを上回ってくるし、智葉は自身と同じ基準で考えることが間違いですらある。有珠山高校の本内はこれまで警戒に値するデータはないにせよ、何かを隠し持っている可能性は捨てきれない。漫は慎重に捨て牌を選んで、ダマ聴を選択した。

 

 実際のところ、配牌からの悪くない推移のおかげで漫の手は跳満まで仕上がっており、五巡目という巡目を考えればそれは怪物手と呼べるものでさえあった。ここでリーチをかければ更に打点が期待できるが、この卓において他家の警戒心を高める行為はおそらく悪手に違いないと漫は考えたのである。

 

 漫が張ってからの一巡はそれぞれが手出しだったものの、大した動きはないように見えた。卓の向こうのどこにも明るい表情がないところを見るとおそらく誰も聴牌には届いていないのだろう、誰もが粛々と手を進めていて、他家の聴牌に対して最大限の警戒を払っているようには見えなかった。そこで漫の待っていた牌が出なかったのは残念ではあるが、それは言っても仕方のないことである。それに自摸和了りというのも悪くはない。ほとんど出和了りが期待できない智葉の点棒を削ることができるのだ。智葉を上回ろうと考えるなら、彼女でさえ読み切れないような罠を張るか、あるいは自摸でガンガン削るしかない。漫には後者しかないのは明白である。そんな期待とともに自摸った牌は、惜しくも求めていたものではなかった。

 

 翻数が伸びるわけでもない牌であったため、さっさと捨ててしまおうと手牌の上で握りなおしたその瞬間だった。冷たい刃物を頬にあてがわれているような怖気が背すじを駆け抜けた。たしかに漫は気配を察知することに秀でているわけではないが、それでも全国大会の先鋒戦で戦える程度にはその能力を備えてはいる。しかし牌を捨てる直前になってはじめて危険を感知するなど経験したことがない。考えてみればただ怖気が走ったというだけだ、それこそ思い込みだと断じてさっさと牌を捨ててしまえばいい。それにもかかわらず、握った三索が漫の指にからみつく。どうしても思い込みだと切り捨てられない何かがそこにはあった。

 

 このとき漫は気付くべきだった。東場だというのに片岡が六巡目においても黙ったままで動きを見せないという状況そのものがおかしいのだということに。彼女が既に()()()を打たれて動けない状態にされているのだということに。

 

 結局、漫は自身の内側から来る警鐘を無視することにした。薄い確率よりも、常識を取ることを選んでしまった。河に置いた三索から指を離すときに残った皮膚が引き剥がされるような感覚が、漫に選択の失敗を教えた。

 

 「それだ」

 

 端から順に倒されていく智葉の手牌は、それだけで見ればなんのことはない両面待ちであった。その様子はまるで東一局の再現かのようで、あらためて辻垣内智葉という別領域に住まうプレイヤーの実力を思い知らされる。よくよく牌姿を見てみれば、彼女の手は育ち切ってはいない。つまりそれは、智葉が欲張って手を伸ばすことよりも目の前の確実な和了を優先したということであり、微塵も油断するつもりはない、と言葉にせずに宣言しているのと同義である。それに思い当たった漫はぴしゃりと両手で自分の頬を張った。

 

 ( 学習しろ! 相手は主将クラスや! もう()()()()()()()()()()()()て決めたやろ! )

 

 先の局において漫が尽くせる限りの全力を尽くしたかと問われれば、それには首を横に振るしかないだろう。彼女には鳴いて手を早めるチャンスがあったのだが、打点が下がるのを嫌ってそれを見逃したのだ。鳴いたからといってその局で確実に和了れたかというとまた話は変わってくるが、結果として鳴かない選択をした漫は智葉に振り込んでさえしまった。これまでの手癖で打点偏重の思考をしてしまったのかもしれないし、あるいは強い相手に対して大きくリードを取りたいと思ったのかもしれない。それについては本人に聞いてみるしかないが、どちらにせよ現実としての結果は変わらない。ここへ来て、やっと上重漫は彼女の100%を出す下地を整えた。

 

 迎えた二本場も漫の配牌は好調である。たとえ前局で失態を演じたとしても、“爆発” 状態に入った彼女のめぐり合わせの良さは崩れない。精神面にも通じるそのタフさが漫を先鋒の位置まで押し上げたのである。裏を返せば、他校が恐れる漫がついに顔を覗かせたということでもある。

 

 理牌を済ませてみれば、白と一萬の暗刻に八筒と九筒の対子、あとはばらけた牌だが自摸次第で使い方が変わってくるだろう。入り方によっては四暗刻が見えるような恐ろしい手である。しかし漫はそこで他には目もくれずに四暗刻の道筋に飛びつくようなことはしなかった。もちろん役満は和了れればそれに越したことはないのだが、それ一本に絞るには相手が悪すぎた。だから漫は必死で頭を回す。どう動くのが最も効率的で、智葉や片岡をも上回る速度を得られるのかをつきとめるために。その精度は彼女の尊敬する恭子には及ぶべくもなかったが、姿勢はそっくりと言っていいほど似通っていた。

 

 漫が動いたのは四巡目だった。三巡目に対子をもう一つ増やした漫は、ここで三つ抱えた対子で鳴くことができるならどれでも鳴くことを決断する。普段なら自摸四暗を狙っていく場面ではあるが、この卓は欲を出した一巡で刺される可能性がある。ならば役を下げてでも先手を打っていくのが雀士としてもチームプレイとしても当然の判断である。有珠山の本内からこぼれた八筒にポンを宣言して漫は聴牌を取り、そのままその次の自摸で見事に当たり牌を引いて和了ってみせた。役は下がったと言ってもそれは漫本人から見ての話であって、他家から見れば決してそんなことはない和了であった。この跳満は、漫にとって本当に大きな和了となる。

 

 

―――――

 

 

 

 漫の和了に合わせて、姫松の控室では歓声が上がった。

 

 「見やれ辻垣内ォ! これがウチの先鋒や!」

 

 「いや主将、いくら辻垣内さんでも自摸らせないのは無理ですて」

 

 そうやってテレビ画面に向かって指を突きつけて声を張り上げる洋榎に訂正を入れる恭子さえも喜びの色を消すことはできないようだった。言葉の端々が上ずっていることに加えて、ときおりと呼ぶには忙しい頻度で口角が上がっている。あの拳児すら安心したように息をついているところを見れば、室内の雰囲気がどれだけ明るかったかが簡単に想像できるだろう。

 

 これがたとえ偶然性の強い和了であったとしても、それの持つ意味はチームとしても現時点では計り知れないほどに大きなものであった。“爆発” 状態の漫を以てして歯が立たないようであれば、それは優勝へのハードルがまた一段高くなることを意味していたのだから。いったい不良としての彼はどこに行ったのか、長い息を吐ききった拳児は即座に視線を郁乃へと送る。無邪気そうに手を叩いて喜んでいた郁乃は、自然な動きでわずかな間だけ拳児に視線を返して小さく頷いた。

 

 

―――――

 

 

 

 漫の高速和了を見て片岡と本内が顔をしかめている一方で、智葉はなにかを思案するような表情を見せていた。そこに動揺のようなものは見受けられない。その態度が示しているのは、今の局が彼女にとってそれほど驚くに値しないということである。そこからもう一歩踏み込めば、彼女自身に一切の油断がないということがよくわかる。辻垣内智葉の想定している範囲は、漫たちが想像しているよりもはるかに広い。

 

 ( ……もうちょっとくらい人間らしいトコ見せてくれてもええんちゃうかな )

 

 東四局を始めるために正面に座る本内がボタンを押すのをそれとなく眺めながら、漫は心の中で驚嘆と毒づきを同時にこなしていた。対局前に話していた内容も実戦が始まってしまえばどこかへ行ってしまうのか、間違いなく漫は智葉を親交のある先輩ではなく対戦相手として認識していた。たしかに麻雀は点数で優劣を競う種目であり、勝つためには同卓している相手を上回る必要があるが、彼女のこの切り替えの鮮やかさにはたくましさをさえ感じる。あるいはそれくらいできないようではこの舞台で戦うことはできないのかもしれない。

 

 

 しかし、“爆発” 状態に入った漫でさえも辻垣内智葉の底を見るには至らなかった。決して彼女を見た目のイメージで語ってはならない。実直そうに見える彼女の打ち筋は柔軟であり、多彩でさえある。少なくとも漫の和了を承けて戦略プランをさっと頭の中に複数並べられるくらいには。そのどれもが高水準のものであることは言うまでもないことだろう。そして同年代の高校生の多くにはおよそ信じ難いことではあろうが、彼女もまだまだ成長段階にあるのだ。

 

 本内を親に迎えての東四局、各校の点数以上に場の流れは傾きつつあった。なぜならばこの局が流れてしまえば東場は終わり、そうなれば片岡は脱落してゆく。南場以降に残るのは辻垣内智葉とすっかりギアの入った上重漫であり、その彼女たちをねじ伏せるのは相当に困難であるからだ。ここまで来ると観客の関心は、もはや四人で作り上げる卓ではなく漫と智葉の一騎打ちへと移ってゆく。その二人を相手にするのならば、それがたとえインターハイを基準に置いたものであっても、並のプレイヤーでは存在感を発揮することすら難しいだろうことを観客でさえ理解していた。

 

 結果から言ってしまえば前半戦は智葉に軍配が上がった。会場の多くがそれを予想していたし、またある意味ではそれを期待していた。彼女が昨年個人戦で見せた姿はそれほどまでに人々の記憶に焼き付いていたのである。しかしそれと同時にその辻垣内智葉を相手に真正面から挑んで収支をプラスで終えた上重漫にも俄かに注目が集まり始めていた。これまでの “姫松の先鋒” としてではなく、ひとりの選手としての注目である。細かくデータを見れば、漫は智葉から直撃を取れていないだとか、反対に智葉から狙い打たれていただとかで数字以上に差が開いていることはよくわかるのだが、それ以上に漫の麻雀は派手だった。鳴いて速度を上げてもほとんど跳満以上をキープする自摸和了りは、何より見ていて盛り上がるものであった。

 

 

 しん、と冷えた廊下は無機質で、何かのゲームかアニメで見たような宇宙船のものを思わせる。匂いがしないというのも共通するところだろうか。たしかにこの廊下が使用されるのは対局室が関わる時だけなのだから、それほど凝った内装にする必要がないのは事実だが、それを差し引いても殺風景に過ぎる。その空間で色を持つのは自分自身と、自動販売機と、長椅子だけである。せめて造花の類でも構わないから緑を置けばいいのに、と思ったところで誰に言えばいいのかすらわからないのだから始末に負えない。

 

 紙コップにドリンクを注ぐタイプの自動販売機の横に設置された長椅子に座った漫は、自身の右の手のひらを握っては開いて、それをただじっと眺めていた。普段から前向きな思考をする彼女のことである、ほとんど妄想に近いものだったとはいえこのような結果になることを想像していなかったわけではない。ただ実際に直面してみると、喜びよりも驚きのほうが優ったのだ。結果で見ればもちろん智葉が漫の上を行っているのも事実には違いないし、おそらく拳児が事前に言っていた通りに彼女がまだ全力を発揮してはいないことも何とはなしに感じ取れた。なにせ漫は宮永照でも愛宕洋榎でもないのだから。ただそれでも、漫にとって今の半荘は、他の先鋒戦で一位になることよりもずっと価値のあることだった。

 

 ( ……インハイ終わったら手土産持って辻垣内さんとこ挨拶行かなアカンかな )

 

 準決勝どころかまだ自分の出番すらも終わっていないというのに、漫は先のことを考えては頬を緩ませていた。やはりどこまでいってもまだまだ彼女は女子高校生であり、どこか甘さの抜けないところがあるのは仕方のない部分ではあった。

 

 状態は良好に変わりない。卓にこそ着いていないが、感覚として漫にはそれがわかる。“爆発” が持続することは間違いないだろう。どちらかといえば休憩時間など取らずに早く後半戦をやりたいというのが漫の正直なところであった。目に見えるかたちでの成長を実感した彼女は、打ちたくて仕方がないのだ。いま漫は、夢が夢でなくなる過渡期にある。それは姫松の全国制覇はもとより、自身が全国の頂点と対等に打ちあえるようになる、という予てからの望みである。もちろん現時点では偶然性の高い条件こそあるものの、それも漫の実力のうちには変わりない。なぜなら麻雀とは常に結果で語られるべきであるからだ。

 

 漫のいる廊下にも、後半戦開始の時刻が近づいていることを知らせるアナウンスが入る。これは一般の観客が立ち入ることのできない場所にのみ流されるもので、いわば選手専用のものである。場内には場内でまた違ったアナウンスが入るのだが、お互いにそれを聞くことはまずない。観客が自由に入れない場所があるのは当然として、選手側にも試合中は基本的に選手専用以外の場所には行かないよう指示が出されているのである。これについては有名選手に対する配慮として広く認知されている。ちなみに先日の拳児の試合中の外出は、そのルールが浸透しているからこそ成立した例外中の例外であって、本来であればあまり褒められた行為ではない。今更ではあるが、その辺を理解しながら送り出した郁乃もなかなかにネジの飛んだ思考回路をしているらしい。

 

 一度だけ、だん、と右足で床を踏み鳴らして漫は廊下を歩き出した。力加減を少し間違えたように見えるが、それを気にすることなく顔はしっかりと前を見据えている。そこにいたのは、姫松の仲間たちはおろか本人でさえも知らないであろう上重漫の姿であった。

 

 

 

 

 

 





色々気になる方のためのカンタン点数推移


        東三局一本場前   前半戦終了

片岡 優希  →  一〇一五〇〇 →  八一八〇〇

上重 漫   →   九四七〇〇 → 一〇二〇〇〇

辻垣内 智葉 →  一〇七一〇〇 → 一四一七〇〇

本内 成香  →   九六七〇〇 →  七四五〇〇


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35 3月のキミと8月の部員ども

―――――

 

 

 

 後半戦に入って再び東場がやってきた片岡であっても、もう智葉と漫の領域にはやすやすと踏み込むことはできなかった。片岡のような早く打点の高いストロングスタイルは、技術ではなく力で圧倒する性質のため、それ以上の力にぶつかったときに跳ね返せるものを持たない。本来であればそれを避けるために打ち回しなどの技術を身につけていくものなのだが、どういうわけか彼女にはその過程が存在していないようであった。それらのものを持たずにこのインターハイを戦い抜いてきたことは素直に称賛に値するが、やはりそこには限界があった。結果として後半の東場で彼女が和了ることができたのはたったの一回であり、それは片岡にとって、あるいは清澄にとって痛恨であったと言えるだろう。

 

 

 ( これで最後の親やし、ここで一気に詰める! )

 

 後半戦は南二局、点数状況は圧倒的に臨海女子が優勢であり、次いで姫松、清澄、有珠山と一校ごとの得点差がずいぶんと開いているものであった。トップを走る臨海女子は既に原点から五万点ものプラスを稼ぎ出している。漫が理解している通り、自身の親番で追いつかなければ智葉を超えることはできないだろう。前半戦で真正面から打ち合って水をあけられた後であるこの時点においても、漫はまだ戦意を失ってはいなかった。勝利への意志を捨て去ることを選ばなかった。最終的にこのことは姫松というチームにおいて何よりも重要なことになるのだが、まだこの時にはそのことに気付いている者は誰一人としていなかった。それは彼女を先鋒に選んだ拳児と郁乃の考えにすらなかったことだったのだから。

 

 漫の手は変わることなく高い打点を予感させるものであった。これは仮定の話だが、もし彼女が智葉を上回って和了を続けたとすれば既に準決勝そのものに決着がついてしまいかねないほどに漫の手は凶悪であり続けた。十万点を二半荘で吹き飛ばしてしまうような炸薬。見方によってはトップの智葉がこの卓を通常の麻雀の範疇に収めていると見ることもできるかもしれない。満貫以上を珍しくないとするような卓を通常と呼ぶなら、という前提を飲み込んだ上での話ではあるが。

 

 ざっと配牌を眺めるとドラである九筒が既に二つ揃っており、これで漫は余計な心配をすることなく面子作りに集中することができる。上手く転がればもう一枚引いてきてドラの刻子なんてこともあるかもしれない。一般的な麻雀ではそのような機会はそれほど多いものではないが、ことここに至っては話が別であることは言うまでもないことだろう。漫は最初の自摸からそれを期待していたが、さすがにその希望は通らないようだった。ただ、そこに彼女が落ち込む要素は何一つとしてない。鳴きをある程度の水準で使うようになった彼女にとって、自身の自摸ももちろん大事だが、重要なのは他家の捨てる牌だった。それが自分にとって有用かどうかをしっかりと見極めなければならない。まさか下手に鳴いて役無しなんてことを今更やるわけにもいかないだろう。そういった意味で漫の状態は、調子においても精神的な意味においても完全に整っていると表現するに相応しかった。

 

 

 局が動いたのは三巡目からだった。どう考えても仕掛けるには無謀と言わざるを得ないような、早い段階でのことである。しかしその感覚が麻痺してしまうほどにこの卓での一局の決着は早かった。半荘において流局がないのは間々あることではあるが、そのすべてが八巡以内に誰かの和了で決まるというのはなかなか見られないものだろう。しかもその誰かというのがほとんど二人に絞られるのだからなおさらである。仕掛けたのはこの先鋒戦で最も多く和了り、最も点数を稼いでいる辻垣内智葉であった。

 

 片岡が捨てた二萬にポンを宣言して智葉は牌を晒した。今は漫、智葉、本内、片岡の順に自摸が回ってくるので、かたちとしては漫の自摸が飛ばされることとなる。麻雀というゲームはそのルール上、基本的に新しい牌を自摸ってこなければ自分の手を進めることができない。もちろんそれは基本的な部分の話には違いなく、鳴きを入れることで自摸ることなく手を進めることも可能ではある。しかし鳴くことで手が狭まってしまったり、ことによっては和了り役すらなくなってしまうこともあるため、理想を言うなら常に自摸で手を伸ばしたいのが本音である。言ってしまえば自摸番が飛ばされるというのはチャンスをまるまる一つ潰されることに等しく、できることなら誰もが避けたい事象のひとつである。

 

 しかしいくら嫌だからといってルールに逆らうわけにもいかず、漫は智葉が牌を河へ捨てるのをただじっと眺めていた。この卓ではまったく何もできていない本内が次に牌を自摸って、局は更に進行していく。

 

 おそらく配牌で言えば漫のものが卓に着いている四人の中で最も良いとされるものだったろう。きちんとドラを抱え込んでもいたし、受けの広さを見れば速度の期待も十分だった。ただそれらの有利と思われる点も、手を進めることができなければ何の意味もないことは明らかである。だからこそ今の漫にとって一度の自摸はどこまでも重要なものだった。鳴くにしてもそれには特定の牌が他家から捨てられなければならないのだから。

 

 また片岡の番が回ってきて、彼女が牌を引く。その特性は自身の力でどうにかできる類のものではないらしく、東場で見られた覇気は見る影もない。せめて堂々と打とうと姿勢や振る舞いに気を遣っている姿はどこかいじらしくさえ見える。そうして彼女の手から離れた西の牌に、またも鳴きを宣言する声がぶつけられた。

 

 確認するまでもない。現在この卓で自由に振る舞えるのは漫と智葉の二人しかいないのだから。河に捨てられた牌は西であり、今の漫にとっては染め手を考えていなければ役に立たないいわゆるオタ風である。となれば漫にその牌を鳴く理由はなく、当然の帰結としてそれは智葉が鳴いたということになる。しかし大きな疑問として残るのは、西は智葉にとってもオタ風であるということだった。もちろん論理としてはまだこの鳴きは成立する。和了り目もまだ十分に残されているし、実際にそういうプレイスタイルも存在はする。だがそれを辻垣内智葉が採るとなると強烈な違和感が残るのだ。彼女がそこまであからさまな鳴きを見せるか、という点において。

 

 一巡前とまったく同じ展開に身動きの取れない漫は、局が進行するのをわずかな焦りと苛立ちを感じながら見守ることしかできなかった。そして片岡がまた山から牌を取ろうと腕を伸ばした瞬間に、途方もなく嫌な予感が漫の脳裏を過ぎった。ここまで二度、まったく同じような流れが目の前で展開されたのだ。()()()()()()()()()。確率で論ずるならば、それはほとんどありえない。だが漫に嫌な予感を与えているのはほとんどそんな概念からは解き放たれているようにさえ思われるプレイヤーだ。彼女ならばそれを実行しても不思議はない。片岡が手牌からひとつ抜き出して河へと捨てる。そして、やはり三度目のポンが宣言された。

 

 他家から見ればこの上なく不気味な行動だった。三つも晒せばいくらなんでも手が割れることに加えて防御面がどうしたってお粗末なものになってしまう。これまで一度たりとも振り込んでいない彼女が無策にそんなことをするとは思えないというのが周囲の判断であったし、またそれは事実でもあった。ただ、その正しい意図まで踏み込めている者は誰もいなかったが。

 

 それからの三巡は先程までとうってかわって実に穏やかなものだった。ただ牌を引いては捨てる作業の繰り返しだった。恐るべきはやはり上重漫だろうか、三度も自摸番を飛ばされてなおその手は倍満を睨むようなものに仕上がっていた。もし彼女の手が智葉に見えていたのなら先の無謀に見える鳴きの連打にも納得がいくのだが、いくら智葉といえども透視のような真似はできない。その本当の狙いは、まったく予想外のかたちで漫の前に姿を現した。

 

 「わ、やっと……! 素敵ですっ、自摸!」

 

 弾かれたように漫が視線を向けたその先で無邪気に和了を喜んでいるのは、有珠山高校の本内であった。あれだけ動いてみせた智葉を差し置いて和了ったとなると、それは相当の事態である。次いで漫が自身の右隣へと目をやると、そこには少しの動揺もないどころかどこか満足そうな表情を浮かべた智葉がいた。強引にしか見えなかったあのポンとそれによって飛ばされた漫の自摸、和了られてなおそれが正着だと言わんばかりの顔。それらの事象は漫にひとつの結論を導かせた。

 

 ( ま、っさか……、うちに和了らせんためだけに……? )

 

 結論ありきの考え方ではあるが、それには漫を戦慄させるだけの凄まじさがあった。それは暗に智葉がかなり早い段階で和了りを放棄していたことを示していたし、それだけ徹底して勝利にこだわっていることを漫に理解させた。これは推測でしかないが、おそらく本内が自摸ってこないようなら彼女は当たり牌を差し込みさえしただろう。たったひとつの目的のためだけに。

 

 そうやって親番を、ひいては智葉を上回るチャンスを失った漫は、その後どうにか彼女の親番を流して先鋒戦を終えた。最終的な結果としては前評判を見事にひっくり返したもので、前半よりも後半のほうが稼げている辺りは試合中に成長したと取ることもできるだろう。しつこいようだが、あの辻垣内智葉を相手にこれだけの結果を残したということに観客たちだけではなく解説の瑞原はやりも賛辞を惜しまなかった。だが周囲の反応と本人の実感は往々にして違っているもので、漫もその例外ではなかった。全力を尽くしてなお届かない圧倒的な壁に、彼女はただただ悔しさだけを募らせた。前半の終わりに満足しかけていた少女はもうそこにはいなかった。しかめっ面で対局場を後にするのは、後半戦というほんのわずかな間だけで視点を一段上げた選手だった。

 

 

―――――

 

 

 

 「おい真瀬」

 

 「わかってるのよー。“郝ちゃんとは真正面からぶつからない” でしょ?」

 

 拳児と由子の会話は基本的に面と向かっては行われない。おおよそ八割ほどは同じ方向を向いて座っているときに、ぽつりと零れるようなかたちで言葉を交わす。そこになにか特別な理由があるわけではないのだが、どういうわけか決まってふたりはそうするのが常となっている。立って話すと身長差があって大変という理由もつけようと思えばつけられるのだが、レギュラー陣は絹恵を除けば背が高いとはお世辞にも言えない。やはり由子だけに使える理由というのはなさそうだ。あえて言うならば、拳児と由子の初めての会話がそんな状況であったからなのかもしれないが、どうせ拳児はそんなことを記憶してはいないだろう。

 

 返事がちょうど欲しかったものだったのか、拳児はそうか、とだけ返してまた黙り込んだ。由子も無理に話題を振る様子は見せない。次鋒戦が始まるまでまだ少しだけ時間がある。ただふたりはじっと座って時間が過ぎるのを待っていた。そうして一分ほど経ったころ、由子が思い出したように口を開いた。

 

 「そういえば漫ちゃんは放っておいていいの?」

 

 先鋒戦を予想以上の戦果で終えた漫の様子は控室にいたメンバーの想像していたものではなかった。もっと明るく帰ってくるものだと誰もが思っていたのだが、彼女の表情はどう見ても悔しくて仕方がないといったものだった。戻ってくるなり隅に陣取って頭を抱えたり前後に小さく体を揺らしたりし始めたその姿は、これまでの彼女を考えると異様としか表現できないものであり、また迂闊に話しかけられないような空気をまとったものだった。突然に何かの自覚が芽生えたのかもしれないが、それをノータイムで理解し受け入れられるほどに人間が出来ているのは郁乃くらいしかいなかった。その郁乃が何も行動を起こさないのだから必然的に漫の一人の時間は隅っこで続くことになる。由子が触れたのはその話だ。

 

 「良くはねえ、が今はオメーの方が優先度が高え。出番前だしな」

 

 「んー、今のはプラス10点?」

 

 「あ? 何がだ?」

 

 「さあ?」

 

 ふふ、と口に手をやりながら楽しそうに笑う由子の心中は拳児にはまるでわからない。以前から似たような、あまり意図のつかめないやり取りがあったりするのだが、拳児はとりあえず良しとすることにしている。それがわからないからといって調子が崩れるということもないようだし、目的である全国制覇が達成できるのなら会話の意図などどうでもいい。最近はずいぶんと監督らしい思考をするようになったが、そういった一途な部分はまだまだ変わることはなさそうだった。

 

 また言葉のない時間が流れる。これはある意味では当然のことだが、現在の立場もあって拳児は部員と話をしていることが多い。というよりは拳児の近くにいる以上は何かしらの用のある部員がほとんどなのであって、それ自体に不思議な要素はない。ただそれは話がなければあまり拳児の近くに寄ることはないという逆の要素を成立させてもいた。いくら三ヶ月四ヶ月経って多少は馴染んだといったところで彼の見た目はチンピラのそれに違いなく、また裏の界隈に関わっていたというほとんど事実として扱われている噂もあるのだから、一般的な女子高生の対応としては妥当もいいところだろう。そんな中で拳児と言葉を交わすことなく隣に座ることができるのが真瀬由子という少女だった。ひょっとしたらクラスの席が隣だからなのかもしれないが、正確なところは誰も知らない。

 

 しばらくして出場校用の館内放送が次鋒の選手に対局時間が近づいたことを知らせた。それでも由子は急に緊張したりといった変化を、少なくとも表面上は見せなかった。彼女は対局室に向かう前に仲間たちから声援を受けて、それに丁寧に応える。状況別に彼女がやるべきことは既に前日に伝えてあり、その判断を失敗するとは拳児には思えなかったため、拳児からあらためて由子に送る言葉は何もない。じゃあ行ってくる、といった軽い挨拶を残した彼女を、部員たちとともに拳児はただ見送った。

 

 

 由子が控室を出たとなると、拳児の急務は沈んだ漫を立ち直らせることになる。郁乃がいまだに着手していないところを見ると、おそらく今回に関しては拳児の方が適任であるという判断なのだろう。拳児は郁乃に対して既にその辺りのことを疑わない程度の信頼は置いている。拳児が非常にピーキーな能力を誇るということを除けば、基本的に姫松高校の麻雀部には彼より有能な人間しかいないからだ。もちろん拳児は自身のその特殊性に気付いてはいないから、現時点においても飾り物の意識を持ち続けている。その意識と監督としての意識の兼ね合いが意外と複雑なことになっているのだが、彼について心配する必要はないだろう。

 

 まだ漫の変化による精神的動揺は広がってはいないが、放っておけばどうなるかはわからない。とくにこの中では大会経験の少ない絹恵に大きな影響が出る可能性がある。いつか拳児が誰かからそれとなく聞いた話では、拳児が監督として来る直前の春季大会で活躍できなかったことを絹恵は悔いているのだという。それも併せて考えれば、いつ彼女が過剰に神経質になってしまってもおかしくはない。姫松の部員たちが実力を発揮しきれないというのは拳児にとっても避けるべきことである。なぜならそのぶんだけ優勝が遠のくのだから。もちろん決勝に向けて今しがた試合を終えたばかりの漫にも立ち直ってもらう必要がある。拳児は座っていた椅子からゆっくりと立ち上がり、漫のいる控室の隅の方へと歩き出した。

 

 「おう、上重」

 

 「あ、播磨先輩。どうしました?」

 

 細かい気配りなど考えない拳児は、座っている漫と視線の高さを合わせることもなく立ったまま声をかける。立ち姿は仁王立ちとでも言いたくなるようなもので、漫などの一部の例外を除けば萎縮してしまうような状況を作り出している。間違っても褒められたものではない。

 

 「オメーの気持ちもわかるぜ、人にゃどうしても勝ちてえ時があるもんだ」

 

 前置きのない特殊な話法は、余計なものを間に挟まないからブレることがない。また聞き手側も話を取り違えることが少ない。そのぶん置いていかれたり呆気にとられるようなパターンが見受けられるが。ちなみに姫松の部員たちは拳児のこの話し方に慣れてきているため、そのような反応を示すことはもうない。拳児は漫の返答を待たずに話を続ける。

 

 「仮にオメーが辻垣内のヤツに勝ちてえとして、だ。何が必要かわかるか?」

 

 拳児の声はいつもと変わらず野太いもので、また彼が問いかける機会などこれまでほとんどなかったものだから、ひどく重要な感じを漫に与えた。漫はわずかな間だけ視線を外して考え込み、確認するように拳児の問いに答える。

 

 「やっぱり実力やと思います。……経験とかもなんもかんも含めて」

 

 「そんなこったろうと思ったぜ。まあ、まるっきり間違ってるってわけでもねーがな」

 

 「へ?」

 

 もともとインターハイの団体戦用に作られたわけではない控室は意外と広く、五人やそこらではかなりスペースが余る。そんな空間の隅に室内中の、とはいっても由子を除いた三人と郁乃のものであるが、注目が集まっているのは、何を言い出すかわからないところのある拳児の発言を聞き逃すまいとしているからであった。これが矢神高校であれば面白さのウエイトが大きいのだが、姫松高校においては立場と経緯とのせいもあって真剣な興味の比重が大きくなっていた。去年の拳児のクラスメイトならばまず誰も信じないだろう事態である。

 

 「まず機会がなきゃハナシになんねーだろが。実力? んなモン後だ、後」

 

 「えっ、いや、たしかにそーですけど……」

 

 「いーやオメーは全ッ然機会の重要性を理解してねえ」

 

 即座に飛んできた否定の言葉に漫は目をぱちくりさせる。どこからその妙な説得力が来るのかはわからないが、これまでの彼の言葉に比べて力があるのはどうしても認めざるを得なかった。不思議なことに、それはわずかに郷愁、あるいは後悔のような匂いがした。ふと拳児の間違った過去について彼女たちは思いを馳せる。

 

 「いいか、手が届くところにソイツがいるのがどんだけ有難えかをまずは知れ」

 

 

―――――

 

 

 

 「こうして姫松と競い合えることを、とても光栄に思います」

 

 「ふふ、郝ちゃんからそう言われるとなんだか身構えたくなっちゃうのよー」

 

 どこまでも穏やかな表情で声をかけてきた郝に対し、こちらも負けないくらいに穏やかに由子が返す。対局室にはまだ清澄の次鋒が来ていないため、席決めは始まっていない。由子と郝が話している横で有珠山の桧森がすこしだけ居心地が悪そうにしている。たしかに初出場校にとってインターハイ常連校同士が親しげに話をしているというのはどこか疎外感を覚えても仕方がないだろう。ましてやこの二校が合同合宿を行っていたことなど当人たちしか知らないことなのだから、余計にその感覚を強くしてしまっているのかもしれない。

 

 「ぜひ身構えてください。死力を尽くしましょう」

 

 「まあ、状況次第ってことで勘弁してほしいのよー」

 

 挑発とも取れる郝のセリフを軽くいなして、由子はまた笑んだ。決勝に上がるのだとすれば再びぶつかる可能性のもっとも高い相手だ、手の内をすべて見せてあげる義理もない。何より臨海女子の面々は誰一人として底が割れていないのだから、わざわざこちらだけ不利になることもないだろう。優勝を見据えるとはそういうことである。もちろん準決勝に残っているようなチームはどこも似たようなことを考えてはいるのだろうが。

 

 音もなく対局室の扉が開いて最後の一人が姿を見せる。先に卓の前で待っていた三人が軽く礼をし、清澄の染谷がそれに礼を返す。つい今しがたまで柔らかい表情だった由子と郝の二人の表情が、いつの間にか見違えるように引き締まったものへと変化している。卓へと向かって歩いてきた染谷を迎え入れて、四人の手が同時に卓上の裏返された四つの牌へと伸びていった。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


          後半戦開始     先鋒戦終了

片岡 優希  →   八一八〇〇 →   七八九〇〇

上重 漫   →  一〇二〇〇〇 →  一〇四四〇〇

辻垣内 智葉 →  一四一七〇〇 →  一四五五〇〇

本内 成香  →   七四五〇〇 →   七一二〇〇


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36 麻雀の申し子

―――――

 

 

 

 ( ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。正直イチバン相手にしたくなかったのよー )

 

 郝慧宇。一年生にして留学生ひしめく臨海女子においてレギュラーの座を勝ち取った、新世代を象徴する二人のうちのひとり。彼女が昨年の十五歳以下のアジア大会で銀メダルを獲得したことは広く知れ渡っていることであるが、銀メダルを手に入れた時点で彼女が世界標準のルールに馴染んでいなかったことはあまり知られていない。

 

 彼女が幼少のころから親しんできた中国麻将と世界的に流行している麻雀との間には、大小合わせてさまざまなルールの違いが存在する。それこそ “似通った部分のある別競技” と言ったところでそれほど異論はないだろう。ラグビーとアメリカンフットボールの関係に近いと言えばイメージしやすいかもしれないし、あるいは逆に混乱してしまうかもしれない。とにかく郝慧宇は、日本で知られる麻雀とは異なる領域に属していたのである。

 

 その状態にあってなおアジア大会で準優勝に輝いた彼女のセンスが、どれほどのものになるのか見当さえつかないのはもはや当然の理とすら言えるだろう。

 

 

 次鋒戦は起家から順に由子、有珠山の桧森、清澄の染谷、郝の並びとなった。由子の目には緊張している二人と違って泰然としている郝の姿が浮いて映る。点数的な余裕もあるのだろうし、絶対的な自負もあるのだろう。冷静に考えてみれば大舞台の経験は年齢差を超えて由子よりも郝の方が上なのだから、当然と言えば当然の話ではある。さて姫松が臨海女子との差を詰めようと考えたならば、少なくとも由子は彼女の余裕を崩さなければならない。ただし決勝のことを念頭に置くと、ここで全力を尽くすわけにもいかない。そこまでの思考はほとんど一瞬で導かれたし、またその上でどうするべきかも彼女にとっては簡単に答えの出せる問題だった。うまくいくかは別にして、ということではあったが。

 

 何はともあれ親番からのスタートなのだからまごついているわけにもいかない。できることなら連荘を重ねて一気に詰め寄ってしまいたい。もちろん選択肢としては大物手を狙うのもあったが、卓を囲む面子を考えればそうそうラクに実現できるとは思えない。郝が一番の抑止力になっていることは当然として、二回戦で見せた染谷の勘の良さや順応力は厄介に違いないし、あるいは桧森にしたって映像を見る限りはそこまで悪い選手には見えない。となれば配牌に恵まれない限りは速度を優先した方が立ち回りやすいだろう。郝の立場で考えてみても現時点で十分すぎるリードを得ているのだから打点と速度のどちらに重きを置くかは明白だ。

 

 由子の配牌は平凡も平凡の三向聴で、我慢してうまく手が入ってやっと満貫や跳満に届くような期待薄のものだった。のっけからこれだとなかなか気分も上がってはこないが、それとやるべきこととはまるで関係がない。今がダメなら次がある。もちろん親は手放さないのが理想だ。打点は望めないが鳴きを含めて考えれば速度にはそこそこの期待が持てそうな手なのだから悲観する必要もないだろう。麻雀とは頭脳スポーツなのだから、あくまでケースバイケースの思考が要求される。それが非常に高度な技術であることは確かだが、彼女が所属しているのは各地域でその名を馳せた打ち手がそこらじゅうに転がっているような学校なのだ、そんな環境で研鑚を積んできた由子にとってその程度の切り替えなど朝飯前だった。

 

 実際の運びは由子の想定通りとはいかなかった。刻子と順子の違いもあって鳴きの中で最も機会の多いチーは上家の捨てる牌次第で鳴けるかどうかが決まる。そして由子の上家に座っているのは由子が特別に警戒を払い、また由子を警戒しているであろう郝慧宇であるがゆえに、鳴きたい牌はまったく流れてはこなかった。他家の手を100%読むことは不可能だが、ある程度の見当をつけることは可能である。その “ある程度” というのも打ち手によって確度が異なるが、郝ほどのプレイヤーであればその水準は相当に高いだろうことは容易に推測される。由子にとって、あるいは姫松にとって、状況はシビアになりつつあった。

 

 結局、由子は鳴きを選択するチャンスすら与えられずに親番を流された。ただ意外だったのは、その局で和了ったのが郝ではなく清澄の染谷であったことだった。あるいは由子に対して郝が牌を絞ったために彼女の手の幅が狭まったのかもしれないし、また別の理由があったのかもしれない。冷たささえ感じられるその顔立ちは、まるで変化を見せなかった。

 

 

 実力がある一定の幅のなかで均衡している環境下で、特定の一人が和了り続けることは不可能である。その前提を考えれば、東一局で染谷が和了ってみせたのは何ら不思議なことではない。だが由子はその事実に、うまく言葉にできない不自然なものを感じ取っていた。説明はできない。ただなんとなくそう思うというだけの、いわゆる勘に分類される不確かな感覚だ。胃の奥底に気持ちの悪さが残るが、どのみちこういった違和感に対する解答が対局中に得られることはほとんどないのだから、由子はそれをひとまず置いておくことにした。

 

 一度のまばたきでその処理を終わらせた由子は、心を落ち着けるためにあらためて自分が今いる環境に目をやった。このインターハイに合わせて新調したであろう全自動卓は、よく馴染んだ緑のラシャはきれいなままだが、縁の辺りはよく見れば幾度もの対局を経てわずかに傷がつき始めている。わずかにひんやりとした空気は清浄で、余計なものは何もない。華美な装飾どころか色彩さえも不必要なものとみなされているようで、卓上に集中を注ぎ込むには万全と言うほかない。由子はそれだけ周囲に注意を払えることから自分が熱くなり過ぎていないことを確認する。卓からせり上がってくる新たな山をその目に捉えて、由子は一度だけ短く息を切った。

 

 他家の河を見るとき、あるいは自分の捨牌を考えるときも同様であるが、指標となるのが順番と手出しかどうかである。それらが意味することは単純にそのプレイヤーの手牌のなかでの優先度であり、ひいてはどのような手を作ろうとしているのかが判るということでもある。基本的に優先度の低いものから捨てられていくのが当然であり、それはプロであっても大原則であることに違いはない。もちろん素直に打ち過ぎれば手がバレてしまうということでもあるから、迷彩を仕込んだりといった駆け引きがあることも忘れてはいけない。打ち手としてのレベルが上がれば上がるほど、河には意図が絡みつく。運の要素を多分に含む麻雀という競技においてプロが存在するのは、偏にその技術的な部分があるからと言っても過言ではないだろう。

 

 また麻雀という競技は和了ってしまえば他はどうでもいいという側面を持ち合わせていることも事実であり、どれほど複雑で美しい意図が存在していようと、和了れなければそれは敗北であり、そこに価値はない。一局におけるその事実はプロであろうが小学生であろうが変わることはなく、見方によっては宿命とさえ言えるかもしれない。どこまでも微妙なバランスの上に成り立っていることこそが麻雀の魅力なのかもしれないが、それはまた別の話だろう。

 

 以上の話を踏まえた上でなお、郝慧宇の東二局の河は観客たちにとって奇妙なものに映った。

 

 

―――――

 

 

 

 「なあ国広くん」

 

 「うん、おかしかったよね今の」

 

 普通の学生なら、否、ちょっと普通じゃない学生でも泊まることはできないだろう高級ホテルのスイートルームのリビングスペースで、八雲と先日友達になったばかりの井上純と国広一が言葉を交わす。大きなテレビに映るのは、やはりインターハイの女子団体準決勝次鋒戦である。室内にいるのはこの間のファミリーレストランで昼食を共にした全員と、今日は龍門渕透華付の執事までいる。八雲は愛理にも執事がいることを知ってはいるが、その職業というか存在というかそういった人がいるという事実がまだうまく呑み込めていない。

 

 愛理と八雲の二人が朝からお邪魔しているのはお誘いを受けてのことである。ホールまで観に行くのも悪くないが、たまにはゆったりとした空間で楽しむのもいいだろうとの透華の提案に乗ったかたちだ。現地とテレビ観戦の違いはせいぜいがCMが挟まれるかどうかの違いであり、それも試合展開をきちんと考慮した上で流されるものであるため大して不満は大きいものではない。それでも連日ホールにあれだけの観客が詰めかけるのだから麻雀の人気ぶりが知れるというものである。

 

 言葉を交わしたふたりの側で一緒に試合を観戦していた八雲には、純と一が疑問を抱いた箇所がよくわからなかった。彼女たちは麻雀について詳しく、そして自身は詳しくない。ということでそこが気になった八雲は尋ねてみることにした。

 

 「あの、どこかおかしいところがあったんですか?」

 

 朗らかな中に少しだけ困ったように眉を下げて、口の端を上げながら純が口を開いた。

 

 「おいおい八雲ちゃん、もっとフランクに頼むよ。透華以外のそういうのは慣れてなくてさ」

 

 当の彼女は度が過ぎるくらいのお嬢様言葉を当たり前のように話しているのだが、そこに違和感を抱かせないほどに言葉と見た目や振る舞いが合致している。まさか八雲が彼女のように話しているわけではないが、それでも純にとっては違和感の残るものらしい。たしかに考えてみれば自身も友人に対してはそんな言葉遣いをしていない。しかし龍門渕の面々に対して急にそれを変えるのも変な感じがして、八雲はあわあわと目を泳がせた。それを知ってか知らずか純は話を続ける。

 

 「っと、おかしなところだったな。さっきの臨海の手と河は覚えてるか?」

 

 なんとなくのイメージは残っているが、はっきりとは記憶していなかったので八雲は首を横に振る。正直なところ、麻雀の正しい見方というものがまだよくわかっていないのだ。いくら頭が良いといっても経験知による部分の大きい競技である麻雀は、外からの補助がなければ素人がきちんと理解するのはほとんど不可能だろう。そのことが織り込み済みであったのだろう純は、まあそうだよな、といたずらっぽく笑いながら立ち上がり、ごそごそと荷物を漁り始めた。

 

 彼女が持ってきたのはサイズを小さくしたトランクバッグで、純の膝の上で開けられたそれには麻雀牌がぎっしりと詰まっていた。彼女がちゃきちゃきと準備をしているところに沢村智紀も近寄ってきて空いていた八雲の左隣に陣取る。やはり彼女も郝の打ち方に疑問を持ったのだろうか。小脇に抱えたノートパソコンの意味は今ひとつわからないが。

 

 「で、これがさっきの最終形とその時の河なんだけどさ」

 

 おかしいのはここなんだよね、と一が二つの五筒を指で倒す。横で純がセリフを奪われたことに対して恨みがましい視線を送っていることはまったく気にしていないようだ。二つの同じ牌ということは七対子でない限りは雀頭として扱われている牌ということであり、役に絡むことがそれほど多くない位置にあるものだ。おそらく時間をかければ八雲にもそのおかしい箇所がわかるのだろうが、この場は八雲を鍛えるためのものではないので一はさっさと話を前に進めていく。

 

 「これさ、雀頭イジればチャンタになるんだよね。端牌絡みか字牌しか使わないヤツ」

 

 五筒を除けばたしかに彼女が言う通りの牌しか使われておらず、チャンタが成立しそうな牌姿に見える。しかしそれだけでは純と一が口を揃えておかしいと言ったことには繋がらない。なぜならあくまでその役が成立しそうというだけであって、実際には東二局において郝慧宇はあまり打点が高いとは言えないものの和了ってみせているのだから。

 

 そこで八雲は純が捨牌まで準備してくれたことを思い出し、そちらに目をやった。おそらく彼女がわざわざ準備したのだから無意味ということはないだろう。先の話の誘導が巧かったこともあってか、麻雀の経験がほとんどない八雲であっても二人の覚えた違和感というのが一目でわかった。南の印字がされた牌が中盤に連続で捨てられている。

 

 「気付いた? しかもあの子はね、五筒が雀頭になるのを確認してから捨ててたんだよ」

 

 「手の流れもチャンタに寄ってたのにな。わざと翻数下げたようにしか見えねーんだ」

 

 いつの間にかノートパソコンを起動している智紀をよそに、遅ればせながら八雲も二人と同じような疑問を抱いた。少なくとも八雲にはそのアクションを選択した意味を即座に見出すことができない。経験者ですら不思議がっているのだから当然と言えば当然のことである。それでも八雲はできる限り知恵を絞って、いくつかの質問をぶつけてみることにした。

 

 「あの、五筒を二枚揃えたあとに南の牌を連続で引いてしまったってことは……?」

 

 「ノーだね。あの二枚は配牌時点であの子の手にあったんだ」

 

 いかにも軽い調子で返しているが、四人いる選手の配牌を当たり前のように記憶している時点で彼女たちがいかに高い水準に位置しているかがわかる。考えてみればそれができなければ疑問を抱くことすらできないのだから、ある意味では当然のことではあるのだが。

 

 「他の人が和了るのを恐れて五筒を抱え込んだ、というのは……?」

 

 「麻雀やったことないのにその発想に至れたのは素直にすごいと思うけど、それもノーかな」

 

 「国広くんの言う通りだな、南を捨てた時点で聴牌してるやつはいなかったし」

 

 何より、と純は少し離れたところで透華と愛理と一緒にテレビ中継を観ている赤いリボンの目立つ小さな友達を一瞥したあとで付け加えた。なにか思い当たるフシでもあるのだろうか。

 

 「あのレベルの連中はそういうのをまず嗅ぎ漏らさないんだよ」

 

 純のその発言に一と智紀が大いに頷く。智紀は相変わらず無表情のままだが、一は苦笑いを浮かべている。おそらくそれぞれそういった打ち手と対局したことがあるのだろう。もちろん個人的な相手もいるのだろうが、三人ともに共通する相手がいることなど八雲には予想のつくことではなかった。

 

 イヤな思い出を振り払うようにやれやれと首を横に振った一は視線を智紀の方に向けた。ノートパソコンを起動してから何やらずっと操作していたはずだが、いつの間にかその手は止まっている。八雲は彼女のノートパソコンの画面を見ていないから何をしていたのかはまるでわからない。ただその音だけを思い出してみれば、そこまで文字を打ち込んでいるような印象は受けなかった。たとえば何かを調べたりするような使い方とでも言えばいいだろうか。

 

 「ともきー、そろそろ何かわかった?」

 

 「……三色双竜会」

 

 「はい?」

 

 「パッと見、三色双竜会(サンソーシュアンロンフイ)。中国麻将のそれなりに高い役」

 

 智紀の口から出た言葉は帰結としては納得がいくものの、言われなければ到底答えにたどり着けないようなものであった。中国麻将が存在していることはもちろん知っているし、郝慧宇が中国出身であることも事前の情報で十分に知れ渡っていることではあるが、それをルールの違う麻雀において貫いているなど誰が推測できようか。智紀が言うには彼女の和了りのかたちは世界共通のルールでこそ打点が低いものの、彼女の本来のフィールドでは遥かに価値があるものであるらしい。

 

 初めに疑問を感じた二人は智紀の後ろに回り込んで画面を覗き込み、彼女の言う役を確認して、ああ、と口々に納得したような声を上げた。同時にこれは厄介そうだと顔を引きつらせている。揃って同じような反応をしているところを見ると、どうやら純と一は打ち手として近いレベルにあるらしい。八雲に細かいところはもちろんわからないが。

 

 「あの、どうしたんですか?」

 

 「八雲ちゃん、こいつの打ち方だと、……ああ、河の意味がまるで変わっちまうんだ」

 

 純が言葉を詰まらせながらもなんとか答える。ときおり右手を額まで持ってきて、間違った解答を頭から消し去ろうとしながら。どうやら今テレビに映っている試合は、八雲が考えている以上に複雑で、手を加えにくい問題を抱えているらしい。

 

 

―――――

 

 

 

 ( だから中国式はイヤなのよー…… )

 

 共通するものはあるにせよその多くの和了り役が別物であるため、目指す最終形も同じように別物になる。したがって郝の河の意図を読むためには中国麻将の思考回路を取り入れなければならないのだが、それがどれだけ馬鹿げたことかをすぐさま理解できる人間は多くはないだろう。

 

 第一に由子が合宿で彼女の特色を知っていたにもかかわらず事前に中国麻将を研究していなかった理由は、インターハイの団体戦において郝と当たるかどうかがわかっていなかったことに起因する。それに対して予選の結果を調べればわかることだという主張があるかもしれないが、その時点で本選まで二ヶ月を切っている。その短時間で中国麻将において絶対的であった郝のレベルに追い付けるかと問われれば、それには首を横に振るしかない。その二ヶ月を地力を上げることに費やした由子の判断は正しいものであって、それに異論を唱える人はいないだろう。

 

 第二に労力に対して得るところが少ないという理由がある。中国式には81種類もの和了り役があり、もちろんそれは複合役を含まない。むしろ役を複合させていくことこそが勝負の分かれ目である中国式は、役を覚えただけでは話にならない。複合役を含むという意味で、正しく中国麻将を理解するにはかなりの集中力が要求される。無論だが由子のレベルであれば、そこでつまづくことはないだろう。問題はそこではなく、それらを覚えた先に何もないことであった。中国麻将を理解し体得したところで、別に由子は強くなれないのである。“ぶつかる可能性が五分の一ほどある郝慧宇に対してただちょっとだけ不利を軽減できる” といった程度のものしか得られないのだ。

 

 由子はこれらの理由から自身が中国式を敬遠したことを当然と思っていたし、また正しい判断だとみなしていた。しかし由子はあらためて考えるたびに郝の凄まじさに感嘆せざるを得なかった。郝慧宇はいまだ高校一年生にして、昨年のアジア大会から今日に至るまでの短い期間で、打ち方を変えるのではなく自国のスタイルと世界標準のスタイルとを融和させるという新しいかたちを生み出してしまった。この大会が終わる頃には規模の大小こそわからないが、彼女に注目が集まることは疑いようのないことだった。いや、もう既にトッププロたちの間では語り草のひとつになっていることだろう。彼女のプレイングにはそれだけのものがある。

 

 それでもまだ “最悪” ではない。打てる手はまだあるし、それが実行不可能というわけでもない。そもそもの前提として姫松は優勝を見据えて東京にやって来たのだ、この程度で臆しているようでは話にならない。臨海女子はたしかに強豪校であるが、自身のいる高校だってそうそう引けは取っていない。由子は郝に和了られてしまった東二局のことはさっさと過去のことにして、次の局へと意識を集中し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


          次鋒戦開始     東二局終了

真瀬 由子  →  一〇四四〇〇 →  一〇一三〇〇

桧森 誓子  →   七一二〇〇 →   六八九〇〇

染谷 まこ  →   七八九〇〇 →   八三六〇〇

郝 慧宇   →  一四五五〇〇 →  一四六二〇〇


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37 Intention

―――――

 

 

 

 東二局に続いて東三局も郝はあっさり和了ってみせた。当然だが他家に座る選手たちも無抵抗にやられていたわけではない。一局のあいだにできることなど限られているが、それでも彼女たちは自身の和了のために思考し、判断し、正しいと思われる選択をしてきた。その上で郝慧宇はそれらを何の問題ともせずに和了ったのだ。その様子はホールにいる観客たちにここがインターハイ団体の準決勝であることを忘れさせるほどに力の差を感じさせた。

 

 もっと早く、それこそ予選の段階から気付かれてもよさそうな彼女の力量がどうして今になって騒がれだすのかと言われれば、それは単純な話だ。郝が現時点で見せているような力を予選並びに二回戦では発揮していなかったからに他ならない。ちなみに臨海女子はシード校であるから一回戦は免除されている。臨海女子の監督であるアレクサンドラが智葉とダヴァン以外にこれまでに出していた指示は、守備重視で戦うことだった。先述の二人は去年の段階で名前が知られてしまっているために実力を隠そうにも隠せない立場にあるが、他の三人は名前を知られていても隠せるものが他にある。もちろん郝はこれまででの対局で一度も収支マイナスを記録してはおらず、そのことは十分に注目に値することではあったが、同時にそれ以上に目立つ二人が同じチームにいたからこそここまで脚光を浴びずに済んだのである。そして実力というものは常に目立つかどうかということと関係を持たない。

 

 次鋒戦が始まって三局。いまだに由子は一度も和了れていないが、彼女は特別にそれを気にしてはいないようだった。半荘のあいだに一度も和了れないことなどそこまで珍しいことではないからだ。どんなに麻雀が下手な人でも和了る可能性は常にあるし、どんなに上手いプレイヤーでも和了れないことのほうが多い。理屈で言えばそれは疑いようのないことで、もし反論がこの世のどこかにあったとしても自分には決して思いつけないだろうと由子は考えている。由子の心を占めているのは自身が和了れないことではなく、次に親番を迎える彼女のことだった。

 

 

 東一局からの郝の河は、やはり由子にとって違和感の残るものであった。そのこと自体は基盤とする根本の考え方から違うのだから当然と言えば当然なのだが、由子はこの準決勝での郝の打ち筋にどこかまた別の素直ではない何かがあるような気がしていた。東一局の染谷の和了直後にも脳裏をかすめたその感覚が、寿命の近い蛍光灯のようにわずかなノイズとともに明滅する。一度だけなら思い過ごしということで片づけてもよかったが、どうやらそうではなさそうな上にそれを感じる相手が相手だ、どれほど良いほうに転がっても由子のプラスになることはないだろう。

 

 ( ……ここがひとつの分かれ目になるかもしれないのよー )

 

 由子からすれば、あるいは染谷と桧森にとってもそうだろう、郝が親となる東四局の展開次第でこの先の戦い方が変わる可能性がある。親番となれば郝が力を入れてくる可能性は十分にあり、そしてその状態の彼女を抑えることができるかどうかを知ることは次鋒戦の残りの局はもちろん、決勝戦を視野に入れるならば相当に重要な価値を持つ。だが臨海女子として見れば既に点差に余裕を持てる状況であることも事実であり、そこを考慮すれば郝が仕掛けてこないことも当然あり得る。由子が “かもしれない” と含みを持たせたのはそのためだ。

 

 その大事な局の由子の配牌は、求める条件をかなり満たしたものだった。満点となるとまた話は違ってくるが、及第点なら悩まず出せる。初めから二枚揃った白の使い方がキーになるだろう。できれば飛び道具として手に忍ばせておきたいが、それは場が進行してからでないと判断のできないところである。上家が郝ということもあってなかなかチーはできそうにないが、家の位置に関係のないポンならば話は別だ。それに字牌はどちらかといえば邪魔になりやすい。それらのことを理牌をしながら由子は考えていた。手を開ける前までとは違った意味で分かれ目になるかもしれない、という小さな期待がその胸に灯った。

 

 誰がどの牌を河に捨てるかというのはそれぞれの手によって変わるし、また場が進行していけば安全の度合いといったものも考慮される。乱暴な言い方をすればいつ何が捨てられるかなどわかったものではないということであり、鳴きたいと思ったタイミングでそれが捨てられることなど稀であると言い切ってもいいだろう。つまるところ由子にとっての東四局は、配牌に反してそれ以外の部分がなかなか思うようにはいかないものであった。

 

 親である郝が第一打に選んだのは白だった。由子には局の初めにいきなり鳴く権利が与えられたことになるが、ここで鳴くわけにはいかない。一巡目から役牌を鳴いてしまえばその局の間はずっと警戒されることになる。もし姫松の順位が最下位であれば差し込む対象として認識されたかもしれないが、現状姫松は二位である。下位の二校は差をつけられたくないだろうし、一位の臨海女子からすれば差を詰められたくはないだろう。このタイミングで鳴くことにメリットが無いわけではなかったが、それ以上にデメリットが大きかった。偶然ではあるが、結果として動きを制限されたかたちになる。麻雀という競技をそれなりに経験していればよくあることのひとつではあったが、由子にとってはあまり笑えない状況下での出来事だった。

 

 受けの形が変わるばかりで進みの遅い自分とは違い、染谷も桧森も心なしか牌を捨てるテンポが上がっているように由子には感じられた。郝に関しては相変わらず情報らしい情報は出てこない。またどこか腑に落ちない感じのする河はもう諦めるにしても、打っている姿がクールに過ぎる。まるであらかじめある種の判断を放棄しているようにさえ見える。どの判断を、と自問したところで答えは出ない。あくまで印象の話で実際のところなどわかるわけがないのだから。

 

 

 「ツモ! 3000・6000ですっ!」

 

 白を鳴くことに成功こそしたものの、それで入ってくる牌が一気に良くなるわけでもなく、蓋を開けてみれば桧森に跳満を自摸和了られたというのが由子に残った結果であった。それでも点棒を削られたという意味では染谷と同じ立ち位置ではあったし、郝は親番であったから倍の点数を持っていかれている。親でないだけマシであるはずのこの結果を受け止めてなお、由子は喉の奥に粘つく気持ちの悪いものを振り払えずにいた。

 

 

―――――

 

 

 

 羽のように軽くて長い黒髪が、左右にゆっくりと揺れる。あどけないとさえ言えるその顔に指を一本立てて思案する様は姫松ではおなじみの光景である。したがって郁乃のそんな姿に特別に注意を払う人間はいない。拳児のことも含めて実質的な姫松の頭脳である彼女の思考に、回路、速度、柔軟性とあらゆる分野で敵う人間は少なくとも控室にはいない。範囲をホール全体に広げたところでどれだけいるかも定かではない。

 

 思考をまとめきったのか、郁乃の指が頬から離れる。開いているのか確認のできない目で室内をきょろきょろと見回し、試合中の由子を除いた部員たちの居場所を確かめる。そこまで離れてはいないがそれぞれ思い思いの場所で大きなテレビに視線を注いでいる。これなら大声を出さなくとも情報の伝達は可能だろう。いつもと同じようにふわふわとした雰囲気のまま、緊張感のない声で呼びかける。

 

 「みんな~、ちょっと聞いてもらってもええ~?」

 

 「どうかしたんですか、コーチ」

 

 一斉に郁乃へと振り返ったなかで、恭子が口を開く。他の面々も声をかけられた理由が思い当たらないようで、訝しげな表情を浮かべたり口をぽかんと開けたりしている。

 

 「あんな、臨海さんなんやけど、私たちのことめちゃめちゃ評価してくれてるみたいやわ~」

 

 何を言い出すかと思えば、出てきた言葉は自分たちへの賛辞にしか聞こえない。たしかに彼女は空気の読めないところはあるが (それが意図的かどうかは別にして)、場にまったくそぐわないことを言うタイプでもない。すぐに絹恵がどういうことか、と真意を問うたのも不思議はないだろう。

 

 「えっとな、先鋒戦からちょっとおかしいとは思てたんよ」

 

 「先鋒戦ですか!?」

 

 今度は漫が反応する。たしかに自分が戦っていたところに異常があったとすれば気になるのは当然だ。それも自身としては気付いていなかったのだからなおさらだろう。漫は即座にそのおかしなところを見つけようと対局のことを思い出すが、どうも成果は得られなさそうだ。

 

 「辻垣内ちゃんのコトなんやけど~、別に漫ちゃん狙わんでもよかった思わへん?」

 

 「そういえば漫ちゃんだけしつこく出和了り狙われてましたね」

 

 恭子がそれを承けて頭を回し始める。漫はそうするしかないのだろう、所在なさそうに苦笑いを浮かべている。洋榎と拳児は座ったまま沈黙を貫いている。もちろんこの二人の頭の中はまったく違っている。片方は郁乃の言いたいだろうことに既に見当をつけているが、もう片方は強いんだから評価されるのは当たり前だろうなどと頭の悪いことを考えていた。

 

 真面目な内容の話であるはずなのに、今ひとつぴりっとしないまま郁乃の話は続く。控室では緊張しないことをルールとして定めている姫松からすればある意味正しい空気ではあるのだが、それを郁乃が狙ってやっているかは誰にもわからなかった。

 

 「もし辻垣内ちゃんが本気でよその子狙ってたら一発で勝負決まってたんちゃうかな~、って」

 

 確証はないが、即座に否定するのも難しい。彼女ならそれくらいやってのけても不思議はない。漫の “爆発” と合わせて考えれば、清澄あるいは有珠山のどちらかを飛ばすことは不可能とは思えない。もしそれが実現していれば順位はまた変わるかもしれないが、臨海女子と姫松の決勝進出が決定していただろう。それも次鋒以降の手の内を隠したままで。効率だけで考えればこれ以上の手はないとさえ言えるかもしれない。それを放り出して辻垣内智葉が自身と打ち合ったということから漫が導けた結論は単純明快なものだった。

 

 「そ、それってやっぱ姫松を潰しに来てるってことですか……?」

 

 「や~ん、漫ちゃん賢い~。ま、先鋒戦だけやったら確信持てへんかったけどね~」

 

 明らかに含みを持たせた発言に反応したのは恭子だった。

 

 「次鋒戦見ててわかったいうことですか」

 

 「だって郝ちゃんが真瀬ちゃん意識してるのミエミエやし~」

 

 郁乃の言葉のバックボーンを見逃すほどに姫松の部員たちは鈍く出来てはいない。もちろん観戦しているのだから実際に卓を囲んでいる選手たちよりも得られる情報が多いという前提はあるが、それでも郝の打牌から彼女の意識を確実に見抜けるということが示しているのはたった一つの事実だった。

 

 「えっ、コーチ中国麻将わかるんですか」

 

 「昔ちょっと勉強したことがあって~」

 

 問いを発した漫にふわふわとした雰囲気を崩さぬままに答える。現在は拳児が就任していることで忘れられがちだが、あるいは世間においては余計に意識されていることなのかもしれないが、姫松の監督に就くということはそれこそ並大抵のことではない。常勝も常勝の全国大会の上位入賞が当たり前とされるような名門校に、郁乃のような若い指導者がいることそのものが異常事態と言っていい。彼女はその立場をさっさと譲ってしまったが、監督という立場に収まることを周囲に納得させるだけのものを赤阪郁乃は持っているのだ。

 

 きちんと部員たちから寄せられる質問に答えてはいたが、郁乃の真意はそこにはない。彼女が伝えるべきことはその先である。終わってしまった先鋒戦でも手出しのできない進行中の次鋒戦でもない。もちろん底が割れていないプレイヤーに対して個別にやるべきことを教えられるわけではないが、心構えというものは麻雀において極めて重要だ。精神的な余裕を持ってはじめてやり方というものが意味を持つ。それが対策と呼べるほどの効果を持っていなかったとしてもだ。

 

 「洋榎ちゃんは大丈夫やと思うけど、下手したら三対一の構図になるから気つけてな~?」

 

 強引に話を修正してやるべきことをやった郁乃は話の締め方をどうしようか、と一瞬だけ考えて視線を拳児に送った。こういうときには彼女と違って、言葉に有無を言わせない力のあるタイプの拳児が役に立つ。当然それだけが利用価値というわけではないが、使えるものはしっかり使うのが郁乃のやり方だった。それに話の最後を受け持つのは監督らしくてなかなかカッコいい素敵なことではないだろうか。

 

 拳児は視線を受けて、期待されていることを瞬時に理解した。しかし急に言われたところで何を言えばいいのかなど見当もつかない。話の流れとしては他の学校が全て姫松を倒しにやってくるというものだと理解しているが、それもなんだか正確ではない。拳児は自分にあるだけの知識と記憶と論理的思考能力をすべて発揮して発するべき言葉を考えた。言うまでもないかもしれないが、彼の脳は別に頼りになるわけではない。たっぷり五秒ほど考えて、やっと拳児は口を開いた。

 

 「……もともと囲まれることを想定してたんだしよ、そこまで深刻なことじゃねーヨ」

 

 「で、でも……」

 

 おそらく最も苛烈な攻撃を受けるだろうポジションにいる絹恵が不安そうな声を上げる。団体のどこにも気を抜いていいポジションは存在しないが、準決勝における他校の事情を考慮すると姫松の副将の重要性は一気に増す。拳児の知らない春の大会のことも含めて考えれば、絹恵がしり込みしてしまうのも無理はないと言えた。

 

 「どのみち俺らが欲しいのァ優勝だけだ、負けることを考える必要はねえ。違うか? 妹さん」

 

 子供染みた理屈だが播磨拳児の恐ろしいところはそれを一片の疑いもなく言い放てる点にある。ただ安心させるためだけに言うようなその場しのぎの言葉ではない。この男は心の底からそういう思考ができる、いや、普段からしているのだ。人の心理は不思議なもので、 “負けたくない” “負けないためにどうするか” “負けたらどうしよう” というような思考が平然と並立する。無論もっと細かい心の動きはあるのだろうが、それはまた別の話だろう。たとえば仮に姫松高校が準決勝で負けたとしても、失うものは何もない。後悔こそ残るかもしれないが、大事な何かがなくなるわけではない。拳児は高校生のレベルにおいて、誰よりもそれを理解していた。だからこそ彼は先に負けを想定することの無意味さを誰よりも体得している。これには二十冊以上の書物を必要とする拳児の過去が関係しているが、それはここで語られるべきことではない事柄である。

 

 これまで拳児は試合に関することで部員たちになにかを言うことは基本的にはなかった。しかしそれ以上に負けることについてはもっと言及していない。もちろん拳児と彼女たちの間に大いなる誤解が横たわっているにせよ、部員たちからすれば彼は無敵の監督代行である。そのことが及ぼす精神的安定は郁乃が想定していたものよりもはるかに大きなものだった。絹恵が力強く頷いたかと思えば恭子はなぜかため息をついていた。ひょっとすると頭に渦巻いていた余計な考えが取り払われたのかもしれない。洋榎はこれ以上話を聞く必要はないと考えたのかあるいはまた異なる判断があったのか、いつの間にかソファの肘掛けに頬杖をついて視線をテレビの方へと戻して試合観戦に戻っている。表情にはどこか満足げなものが見られた。

 

 

―――――

 

 

 

 今この状況で気を紛らわせる意味はない。その観点で見れば対局場の扉の向こうの無骨な廊下も捨てたものではない。前半戦を戦い終えて和了れたのはたったの一度きり。だが本当に重たい事実は和了れないことよりも清澄と有珠山の二校に点差を縮められていることだった。恭子が最低限のリードを設定した清澄はもちろん、前日の資料を見る限り有珠山の副将と大将にも怪物が控えている。それらを逆算して考えれば次鋒戦で負けているわけにいかないのは由子にとって自明の理である。だから彼女はこの卓における最高の実力者である郝にはあえて最低限しか注意を配らないことを選択した。理由は簡単だ、注意を払ったところでそこに広がっているのはよくわからない河だけなのだから。だがそれを実行した前半戦の結果は見ての通り。由子は和了ることはできず、三位と四位が点数を伸ばしている。そして臨海女子の収支はといえば、なんとマイナスを記録していた。

 

 郝の実力を考えれば、攻撃的なものであれ守備的なものであれ指示を達成できないということはないだろう。どのみち収支マイナスというのは考えにくい。そう考えた由子は彼女に異なる指示が出されているという可能性にぶつからざるを得なかった。そう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。考えてみれば当然だ、そんなことが選択肢に入ってくるくらいに臨海女子とそれ以外の点数には差があるのだから。

 

 他校の思惑など知ったことではないが、そう考えれば対局中に感じていた奇妙な気持ち悪さにも説明がつきそうなことに由子はもちろん気が付いていた。正しいかどうかは不確かな上に、仮にそれが正しかったとしてもそれを逆手に取るのが難しそうなことにも同時に気付いていたが。

 

 とにかく由子にとって避けるべきは現在以上に三位以下に接近を許すことであり、そのためにはよりシビアにその二校を狙っていかなければならない。郝の妨害があったとしてもそれを無視して二位の位置をキープ、または一位にプレッシャーをかける。やることだけを考えれば前半戦と何ら変わりがないが、たしかに意識は変化した。実行できるかは別にして、少なくともさっきまでより視界は開けている。前向きな気持ちになったことを確認して、由子はまた対局場へと向かっていった。

 

 

―――――

 

 

 

 席に着いてみれば染谷と桧森の表情には更に気合が入ったように見える。前半戦の結果のせいで彼女たちに希望を持たせてしまったのかもしれない。もちろんそれは由子からすればたまったものではないが、先に控える中堅戦のことを考えれば実に自然な反応と言える。その一方で郝の様子はまるで変化していなかった。もともと動揺やそういったものを表面に出すようなタイプではないと由子は認識していたが、それでもここまで徹底されていれば立派なものである。あるいは彼女の目論見通りに事態が進行していると取るべきか。由子は一度だけ思い切り視線を上に向けて、厄介だな、と心の中で愚痴をこぼした。

 

 

 悪い予感はよく当たる、と言うが由子のそれもどうやら的中してしまったようであった。間違いなく染谷も桧森も今を攻め時と考えて前に出るようなプレイスタイルに変えてきている。姿勢が攻めに傾けば隙が生まれやすくなるのは道理だが、勢いに乗ったプレイヤーを止めることはそう簡単ではない。それでも救いを探すならば、実際に調子を上げたのが染谷ひとりで済んだということを挙げるべきだろう。

 

 後半戦の東一局、由子の親番で満貫をあっさり自摸和了ってみせた染谷のおかげで清澄は一気に姫松を抜いて二位へと躍り出る。無論それは一時的であることに違いはないだろうが、ある程度の差があった姫松に追いついたことが重要な意味を持つ。なぜならそれは牙が届くということを示しているからだ。歴史のある名門に新星たる彼女たちが充分に渡り合えることのひとつの証明になるからだ。その証明は強烈にチームの士気に影響する。新興勢力である清澄と有珠山には、潜在的に名門に対する引け目がどうしたって存在しており、それは意識に上らないレベルで彼女たちを萎縮させていた。もしその怯えを取り払えるとしたら、実際にその対象を上回ること以上のものはないだろう。そして由子が清澄に二位を明け渡したことは、まさに彼女たちにその実感を与えてしまうことに繋がっていた。

 

 重要なのはその二校の絶対的エース()()()()プレイヤーがそれを達成した点にある。団体戦とはどこまでも総合戦力を要求する種目であるからだ。捉え方によっては酷な話になるかもしれないが、エースは勝って当然の存在であり、またそうだとすればチームが負ける要因をそれ以外のメンバーに求めるのは一般的な帰結と言えるだろう。だからこそエース以外のメンバーが力を示すことは大きな意味を持つのである。仮にそれが他校であったとしてもだ。平たく言ってしまえば、清澄と有珠山が欠ける部分のない実力を発揮する条件が整ってしまったということになる。

 

 そのこともあって由子のチャンネルは完全に郝からは外れてしまっていた。いつもの由子であれば、郝が静かにスタンスを変えたことに気が付いていただろう。しかし彼女が置かれている状況はそれを許してはくれなかった。いつになく熱くなってしまっていることを自覚することさえもできなかった。それらの要素が複雑に絡み合い、以後の局では由子が和了るシーンも見られたが、それでも基本的な軸としては染谷と郝を中心とした卓であったと言って差し支えないだろう。勢いに乗っているわけでもなく、更に冷静さを失った状態で勝てるほどインターハイの準決勝は甘くはないということを由子は痛感させられることとなった。

 

 一方で前半戦において最も得点を伸ばしていた有珠山の桧森は南三局に入るまで一度も和了なしと失速していたが、最後の二局を連続で和了ることでそれまでのダメージを軽減していた。彼女は後半戦だけ見ればマイナスの結果だったかもしれないが、次鋒戦全体で見れば十分に稼いでいる。清澄と同様に躍進と見るべき結果だろう。臨海女子は現時点での点数を考慮すればなんだかんだで誤差程度の負けで収めており、明らかに負けたと言っていいのは姫松だけだった。真瀬由子がこれほど大きく点を削られるのは珍しいことであり、これは郝の策略と不運な偶然が見事に絡み合った結果としか言いようがなかった。もちろん結果は結果として何一つとして言い訳が立つようなものではないが。

 

 

 意気揚々と引きあげていく染谷と桧森、そして特に面白いことなどなかったかのように歩調を変えることなく去ってゆく郝の背をちらと見やって、由子は対局場を後にした。ひとつため息をついて思う。結果は自分でも酷いものだと思うが、まだ()()()()()()。対局中に熱くなってしまったのは事実だし、点数はものの見事に減らしてしまった。ただそれでも手の内をすべて晒したわけではない。もちろんこの次鋒戦が原因で姫松が敗退してしまったとすれば “最悪” になるだろう。しかしそれはまだ決定される段階にない。彼女の出番は終わったが、試合はまだ終わってはいないからだ。

 

 申し訳なさそうに控室に戻った由子を責める者は一人もいなかった。これまでの彼女の安定した働きに比べれば、たった一度の失敗など物の数に入らない。それにマイナスとはいえ絶対に取り返すことが不可能な点数というわけでもないのだから、さして大きな問題ではないだろう。なぜなら姫松の中堅には、彼女が控えているのだから。

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


          東三局開始    後半戦開始

真瀬 由子  →  一〇一三〇〇 →  九〇六〇〇 →  八四四〇〇

桧森 誓子  →   六八九〇〇 →  八六二〇〇 →  八一七〇〇

染谷 まこ  →   八三六〇〇 →  八〇八〇〇 →  九一四〇〇

郝 慧宇   →  一四六二〇〇 → 一四二四〇〇 → 一四二五〇〇


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38 トップ・プレイヤー

―――――

 

 

 

 ( ……なんなんすかこれ、すっげ居づれーんだけど。いやマジで )

 

 対局が始まる前のほんのわずかなあいだ。館内放送による呼び出しが入って、試合開始のブザーが鳴るまでの隙間のような時間を早めに対局室に来て過ごそうと考えた自身を岩舘揺杏は呪った。彼女は有珠山高校の二年生で、つまりインターハイの出場など初めてのことであった。実際に初戦や二回戦を勝ち抜いてはきたが、それだけで慣れることができるほどに大舞台に立った経験があるわけでもなく、自分のチームの副将や大将ほど設計を間違えたのではないかと思うような太い胆を持っているわけでもない。だからなるべく早めに対局室に入って緊張を解こうと考えたのだが、それが間違いだったなんてことに事前に気付けるわけがなかった。

 

 彼女の目に映る風景は、異国あるいは異星の人間 (うち一人は実際に異国の出身者だ) が話しているようにしか映らなかった。言語は日本のものなのにどうしてそのように感じるのかと問われれば、感情以前に気勢だとかテンションだとか、その辺りからまるで掴めないからだった。実に冷静に話しているようにも見えるが、その奥に煮えたぎった感情が揺れているような気がしないでもない。声を荒げている様子はないのに、そこには確かに戦意に近いものが満ちているように感じられて、岩舘揺杏は一歩を踏み出すのにためらってしまう。彼女は仲の良い友人と遊んだり趣味の裁縫に勤しんだりといった生活を中心に送ってきていたために、それらの感情とはあまり縁がなかったのだ。

 

 

 「おーおー、ひっさしぶりやなぁ、日傘のミョンちゃん。元気しとったかー?」

 

 「あの、ヒロエ? それは私のことでよいのでしょうか」

 

 室内も室内の、むしろ建物の最奥と言ってもいいようなこの対局室でも日傘を手放さない少女が不思議そうに問いかける。明らかに洋榎の声の向きは少女に向けられていることもあって、そこに疑いはないように思われるのだが、突然つけられたニックネームに雀明華は驚いたようであった。

 

 おろおろしているように見受けられるが、眼差しだけはどこか攻撃的で、そのアンバランスさに奇妙な感じを覚える。揺杏は自分の目に見えない部分に対する感覚が優れているとはまるで思っておらず、また実際にその通りであるというのに、今日ばかりはそういったものを認めざるを得なくなっていた。彼女の中の感じ方と言葉による表現が正確に一致しているかはわからないが、揺杏はそれを心の中で風格と呼んだ。そしてそれを放つのが一人ではないのだから始末に負えない。

 

 愛宕洋榎と雀明華。かたや現在の日本の高校生世代の女子麻雀を牽引し続ける怪物のうちの一人であり、かたや未だ高校生の身分でありながら既に世界ランカーに名を連ねている正真正銘の若手のホープである。本来なら揺杏とは関わり合うことのないはずの、テレビの向こうの存在である。有珠山はもともと副将を務める可愛い後輩の姿を全国に見せつけようという甚だ奇妙な理由でインターハイに乗り込んできたのだから、揺杏の正直な気持ちとしてはこんな怪物たちを相手にするのは予定外もいいところだった。

 

 直接向けられているわけでもないのにちくちくと刺さるようなプレッシャーを揺杏が居心地悪く思っていると、その発信地に向かう姿が彼女の目に飛び込んできた。肩より少し長い程度の髪を二つに結って、それぞれ左右の房を前に持ってきて下げている。勝気な瞳をしていて、いかにも気が強そうだ。そうでなければあの中心地に突っ込んでいこうなどとは考えないだろう。揺杏は自身を比較対象に挙げて一人で納得する。

 

 「あら、二回戦で一緒だったのに寂しいじゃない? 私も混ぜてよ」

 

 「構わんで。清澄の、えーと、タケダやったっけか」

 

 「惜しいわね、竹井よ。覚えてくれてるとうれしかったんだけど」

 

 先ほどよりも明確に胃の痛くなりそうな会話だ。揺杏の後悔が深まる。誰だってそうかもしれないが、そういったものを手の届くような距離で眺めて楽しむ趣味を彼女は持っていない。いくつかの意味で自衛のために、揺杏は露骨に視線を逸らして彼女たちの会話を聞かないように努めはじめた。

 

 

―――――

 

 

 

 「天才の条件、というものをご存じでしょうか」

 

 瑞原はやりが出し抜けに口を開いた。やはりまだ中堅戦が開始される前の、ちょっとした時間のことである。おおよそこの時間は観客側からも自由な時間と認識されており、実況も解説もともに麻雀に関係する話からまったく関係ない話まで、それどころか人によっては試合が始まるまで静かにしているなどと本当に自由に扱われている。そして瑞原はやりは、明らかに話をすることに偏重している解説者として観客たちにもコンビを組むアナウンサーにも認識されていた。

 

 唐突なはやりの発言に、アナウンサーは即座に反応することができなかった。ただそうは言ってもその問いかけに対する正しい返答をするというのもなかなか難しいだろう。なにせ天才の条件を問うたのは間違いなくその括りに入るであろう人物だからだ。ある種目においてプロになるということは想像を絶する険しい道であり、更にその中で一際輝くということの意味をはやりの隣に座るアナウンサーは決して見誤ってはいない。

 

 返答に窮するアナウンサーを見たのか、はやりがもう一度口を開く。

 

 「すこし言葉が足りませんでしたね。天才であり続ける条件とでも申しましょうか」

 

 「あり続ける、ですか? 私には耳慣れないように感じるのですが」

 

 ひそめるような声で芯から不思議そうに返す。その意味合いが変わるというよりは、まるで問題そのものが変質してしまったかのような印象さえ受ける。彼女がそう感じたのも当然だろう。少なくとも彼女にとって一般的に天才とは常軌を逸した才覚の持ち主のことを指しているのだが、はやりの言葉との間にはどうもズレが存在しているらしい。

 

 「はい。これは私見なんですが、才能って磨くだけでもダメだと思うんです☆」

 

 「磨く以外に何かするべきことがあるということですか?」

 

 「んー、ちょっと違います☆ そうですね、たとえば――」

 

 そもそもの前提として才能の存在を疑っていない辺りに多少の違和感を覚えながらも、アナウンサーは話を聞く姿勢を取った。実に微妙なものを含んだ話題ではあるが、瑞原はやりのことだからその辺りの事情はもちろん理解しているだろうし何らかの意図があるのだろう。しかし意図はおろか話の方向性さえつかめないようでは相槌を打つこともままならない。だから彼女ははやりに視線を送らざるを得なくなる。高校生どころか中学生の頃から変わらないとされる童顔をふわりと綻ばせて、瑞原はやりは話を続ける。

 

 「たとえば、年齢が上がるにつれて天才と呼ばれるプレイヤーって減ってると思いませんか?」

 

 「ええ、たしかに麻雀に限らずそんな気はしますね。話題に上がる頻度が下がるというか」

 

 言われてみれば彼女にはいくらか思い当たる節があった。というのも彼女はアナウンサーという職業柄、そういった話題を集める子たちについての情報に触れる機会が多いのである。そしてその子たちは大抵の場合において一度の取材で終わってしまう。一般的なニュース番組で二度の取材を受ける子がどれほど稀な存在かということをよく知っているのだ。しかしその論法で行くと、この中堅戦においては話の終着点が無くなってしまうことに彼女は気付いていた。ある意味では仕方のないことと言えるが、彼女はテレビ局の人間としての思考で判断してしまっていたのだ。たしかに彼女の考えとはやりの発言には近いところがあるが、根本的なところで取り違えてしまっていた。

 

 相変わらず話の持っていき方に唐突なものを感じるが、いまさら言ったところでそれはどうなるという類の物事でもない。彼女の目から見て、はやりの顔つきは真面目な方にシフトしているようだった。

 

 「でもそれはある意味で当然だとはやりは思うんです☆」

 

 何かを懐かしむようで、わずかに悲しさの混じった不思議な声色だった。はやりの声からそんな要素を聞き取れた人間など果たして存在していたかどうか。隣に座るアナウンサーですら気にも留めない部分だった。

 

 「……それは、どうしてでしょうか」

 

 「種明かし、というのも妙ですが単純な話ですね。天才であることをやめてしまうんです☆」

 

 あまりに奇妙な物言いが続いたため、アナウンサーは頭を抱えそうになる。これまでの話を整理してみれば、たしかに瑞原はやりの論理はまだ成立している。しかしアナウンサーにとってその論理は自分の常識とはまったく異なる地平に打ち立てられているためにどことなく不安にさせられるのである。もし先の発言が心構えのことであるならば、才能ある者がそれに溺れることなく精進をするように心を入れ替えると読み解くこともできるが、彼女にはどうしてもそう取ることができなかった。おそらくはやりは言葉通りのことが言いたいのだろう、という確信に近い予感が彼女にはあった。

 

 「やめる、とは?」

 

 「言葉のままですね。諦めると言い換えてもいいですが」

 

 いよいよアナウンサーにとって難しい物言いとなってきた。()()()()()()()()()()()とはどのような意味合いであるのか。ニュアンスとしては自らその看板を下ろすことができると言っているようにも取れるが、どうにも彼女には受け入れがたい話であった。自身がそう呼ばれるほどの才覚を持ち合わせていないことを原因とするのか、そうあることを放棄するということを理解できなかったし、また可能だとも思えなかった。

 

 再び視線をはやりへ向ける。彼女の話の目指すところがどこなのかが未だにわからない。話題を選んだ理由までは理解できるが、そこから一歩先に進めない。アナウンサーからすればいつもの通りの展開で、なんだかむなしくなってくる。それでもそんな表情は露とも見せずに彼女ははやりの次の言葉を待った。

 

 「すごい子たちって周囲からとっても期待されますよね?」

 

 答えの決まりきっているような問いかけにアナウンサーは素直に首肯した。

 

 「じゃあ、期待に応えるって具体的にどういうことだと思いますか?」

 

 「え、それは勝つことだとか、結果を出すことでしょうか」

 

 我が意を得たり、とはやりの笑顔が深まる。油断していると同性でもどきりとしてしまいそうになるほどに磨き抜かれた表情だ。真面目な雰囲気は崩さないままに、わずかに楽しそうな色を混ぜて、解説者はアナウンサーの返事を受けて言葉を返す。

 

 「その通りです☆ でも期待に応え続けるというのは現実的ではないと思いませんか?」

 

 「もちろんそうですが、それは……」

 

 「でも周囲の人も一回負けたくらいじゃ期待をかけることをやめませんよね☆」

 

 その通りだとアナウンサーは思った。一度の敗北でそれが否定されてしまうのであれば、現実にヒーローやスーパースターは存在しないことになる。だが彼女の生きるこの世界には、麻雀に限らず実に様々な分野にそういった人々が存在している。それは規模の大小にかかわらず、きわめて重要なことに思われた。

 

 「でも残念なことに、多くの子は負けてもなお期待され続けることに疲れちゃうんですよね」

 

 「ですから天才であることをやめてしまう、と?」

 

 「はい。なのでそれらのことに耐えられる精神的なタフさがとても大事だなって思うんです☆」

 

 「それが瑞原プロの仰る条件、ですか」

 

 もちろんこれははやりの持論ですよ、という注釈を抜け目なく付け加えて彼女はそれを認めた。瑞原はやりにしてはひどく乱暴な論理に聞こえるが、それを口にするだけの確信めいたものがあるのだろう。彼女ほどの立場になれば発言のひとつひとつに責任が伴う。

 

 はやりの言っていることはどこまでも酷に響くかもしれないし、あるいは応援と取れるかもしれない。はっきりと言えるのは、彼女がそういった世界に身を置いて久しく、そして今なお第一線で闘い続けているという事実である。同世代の数多くの才能と、それが枯れてゆく様を見てきただろうことは想像に難くない。最後に明るい調子ではやりは付け加えた。

 

 「それだけに、この世代でなおそう呼ばれている選手はスゴいんですよ☆」

 

 「……愛宕洋榎選手と雀明華選手、ですか」

 

 「白糸台の宮永選手の影に隠れてしまっていますが、それこそ皆さんの想像以上に☆」

 

 

―――――

 

 

 

 中堅戦が始まる直前のわずかな時間のはやりの話を聞いているときには、誰もここまでの結果を想定してはいなかっただろう。いかにトッププロが讃えた素質とはいえ、それを如何なく発揮できるとは限らないからだ。もっと言うならば、そういった前評判の選手が奮わなかったシーンなど、観客たちは今大会に限らずいくらでも見てきている。だが観客席の巨大スクリーンに映るその結果は、それを観ている全員を黙らせるのに十分なものだった。付け加えるならば、対局終了から一分ほどは解説席でさえも言葉を失っていた。会場にどれほど強烈なインパクトを残したかを語るには、これ以上の表現は見当たらないだろう。

 

 ただ一人だけが毅然として席から立ち、他の三人は座ったまま未だに卓上から視線を離すことができていない。それはまるで目の前で起きた出来事が信じられないと言わんばかりの表情だった。決して立っている選手だけがひとり和了り続けたわけではない。それは間違いなく麻雀のルールに則った和了ったり和了られたりを繰り返して決着のついたものであった。もちろんこのインターハイという場で一人浮きを達成した選手に運が向いていたことは事実ではあるが、時間をかけて牌譜を検討してみれば、それ以上に彼女の巧さが際立った対戦だったことがはっきりとわかる。彼女は自分だけを例外として、二半荘を通して他家には三翻以上の和了を許していなかったのだ。

 

 

 「なァ、ミョンちゃん。高みの見物はええけど、おもんない打ち方はあかんで」

 

 明華に対して顔を近づけて、不機嫌そうな声でぼそりと洋榎が呟く。彼女が不機嫌な理由は誰にでも推測のつくものだが、それを理由として実際に機嫌を悪くする人などほとんどいないだろう。しかしこれこそが愛宕洋榎を形成する大きな要素のひとつなのである。そういった意味で、やはり彼女は普通のプレイヤーとは一線を画した領域に棲んでいると言わざるを得まい。

 

 ゆっくりと明華が顔の向きを変えて洋榎に向き直る。対局終了直後の呆然とした表情からは立ち直ってはいるものの、その衝撃はまだ抜けきってはいないようだった。

 

 「……とんだタヌキですね、ヒロエ。合宿の時とまるで違うではないですか」

 

 「そらそやろ。練習と本番はちゃうもんやし」

 

 返って来た言葉が気に入ったのか、すこしだけ表情を柔らかくして洋榎が応じる。それを見て、明華はため息をついた。姫松のエースの底の知れなさがこの瞬間に感じ取れたのかもしれないし、この小さな島国にどれだけ怪物がいるのかと考えてしまったのかもしれない。明華はひとり悟られないように考える。この国の気候風土は麻雀と合っているのだろうか、一つの世代にこれほどの才能がいくつも存在していることを考えればあの小鍛治健夜の出身国というのも頷ける話だ。

 

 寒気を覚えるような闘牌を見せつけておいて、なおも余裕があるような素振りは、果たしてまだ引き出しがあることを示しているのか、それともやせ我慢であって本当は死力を尽くしていたことの裏返しなのかの判別はつかない。いずれにせよそんなプレイヤーを封じ込めるのは生半可なことではないし、実際にできた者もいなかったのだからどうしようもない。そういった意味で明華に負い目はなかった。ただ先々のことを考えて、仮に洋榎がまだ余裕を持って打っていた場合は彼女にとって、ひいては明華のチームに少々懸案事項が増えるだけのことである。

 

 

―――――

 

 

 

 聞こえよがしにため息をつく少女が一人。それも心底イヤそうにするものだから、彼女にとって憂慮するべき事態が発生したのだと思われる。小さな背を思い切りソファに預けて、だだをこねるように足をばたばたさせている。動作も相まって見た目は完全に子供でしかなかった。ゴールデンウイークの合宿での拳児との犯罪的な組み合わせが懐かしい。彼女が年齢的には高校生だと言われたら驚く人の方が多いだろう。あまりの自己主張に根負けしたのか、気だるげにアレクサンドラが声をかける。

 

 「どうしたの、ネリー」

 

 ネリーの前の机に置いてある紙コップの中の炭酸飲料がわずかに波打つ。しばらく手をつけられていなかったようで、紙コップは汗をかいているし、その中身は氷が溶けはじめて表面の辺りに透明な層ができている。このぶんだとすっかり炭酸も抜けきってしまっているだろう。これでは味の薄まったただの甘い液体である。たいていの場合は誰も見向きもしない、処理に困る代物だ。

 

 「んー、キョーコにネリーのやり方見せることになっちゃうな、って」

 

 「決勝行くだけナラ別に必要ないでショウ? 私タチは未だにトップなわけでスシ」

 

 留学生の中で最も日本生活が長いのに、まだ日本語のイントネーションに慣れていないダヴァンが承ける。あるいはわざとやっているのかもしれない。少なくとも現在は彼女が日常会話で意味を理解できずに尋ねるようなシーンを見たことのある部員はいない。そのダヴァンがきょとんとしたような顔で疑問を口にする。彼女の疑問もまっとうなものだろう。いかに愛宕洋榎が大暴れしたとは言っても、それは六万点もの差をひっくり返すほどの革命的なものではなかったのだから。そもそもネリーが出るのは大将戦であり、出番まではもうワンクッションを挟まなければならない。

 

 「このままだとスポンサーがお金出してくれなくなるよ、強いところ見せなきゃダメだよ」

 

 ネリー・ヴィルサラーゼはグルジアの出身で、見た目にそぐわず現実的な思考というか、金銭に対して非常にシビアな側面を持っている。そこには何らかの事情が絡んでいるのかもしれないし、まったくそんなことは関係がないのかもしれない。しかしそんなことはチームとしての臨海女子にとってはどうでもいいことで、彼女が普段からお金お金と騒いでも誰もそんなことは気にしない。だからネリーが先の発言をしたことも、彼女たちにとっては別段おかしなことではないのである。

 

 その声は天真爛漫で、どこまでも純粋そうなものに聞こえる。反面その疑うことを知らぬとでも言いたげな声は、どこか冷ややかさを持ち合わせてもいた。それは態度としての温度が低いのではなく、縋れるものの少なさからくるものであった。たとえるならあまりにも透き通った水晶から受ける印象とでも言えばいいだろうか、透明すぎるのである。

 

 「サトハがいるってだけで十分その証明になってるとおもいますけドネ……」

 

 「だめ。もっとだよ。ハオもミョンファも悪くないのはわかってるけど、あれじゃだめなの」

 

 ぶんぶんと首を振ってダヴァンの発言をネリーは否定する。たしかに企業側から見れば援助するに値するだけのものを見せなければスポンサーが離れていくのは道理である。だがそれは大人側の事情であって、選手側が気にするべき問題ではないのは自明だろう。それでも必死に食い下がるその様子は、臨海女子でなければ異様にさえ映ったはずだ。

 

 「向こう十年くらいは援助し続けたくなるくらいに徹底的に行かなきゃ」

 

 彼女の声色に冗談の要素はどこにもない。仲間たちも言い出したら聞かないことくらいは熟知している。おそらく二回戦で他校を圧倒したことも影響しているのだろう、アレクサンドラが止めたところでネリーは力を見せようとするに違いない。さすがに全力を見せつけるような真似はしないだろうが。いくら子供っぽいところがあるからといって分別がないわけではなく、優勝することこそがスポンサーに対する最大のアピールになることくらいは百も承知しているのだ。彼女が主張しているのは、その過程を華々しく飾ろうというだけのことである。

 

 だがそれを達成するには前述の通り、末原恭子にネリー自身の異能を見せることになる。彼女がどれだけの評価を恭子に対して与えているのかはわからないが、少なくとも二試合を戦いたくないとまでは考えているらしい。ネリーにとってはスポンサーを満足させることと恭子に異能を見せないことはほとんど同じくらいに重要であるようだ。なんとも不思議な価値基準だと言わざるを得ないが、人の価値観に口出しはできない。当然だがネリーも自身の実力には自信を持っている。一度くらい異能を見せたところで負けるとは考えていないし、何よりその程度の打ち手ならば臨海女子のレギュラーの座を勝ち取ることはできていないはずである。彼女が口をとがらせているのはせいぜいがちょっとした有利不利のレベルの話であって、現時点でそんな文句を言えるだけの余裕を持っていることは理解しておくべきだろう。

 

 

 郝と明華は悪くないとしておきながら、ネリーは大将戦に出る自分についてしか言及していない。言い方を変えるなら、ダヴァンに対してエールを送っていないのだ。彼女の先ほどの発言から考えれば、評価に響くから頑張ってよ、くらいのことは言ってもおかしくはない。この事実に対してあり得る可能性をひとつずつ挙げて潰していけば、やがて最後にひとつだけ残るだろう。ネリーの目から見て、仮に準決勝で全力を尽くさないにしても、メガン・ダヴァンが負けることなどあり得ないのだ。

 

 がちゃり、とドアの開く音がして、明華がしょぼくれた顔で控室へと帰って来た。もちろん彼女自身はその結果に満足しているわけがないだろうが、それでも同じチームの仲間たちは温かく迎え入れた。別に全てのポジションで勝たなければならないというわけでもないし、相手が悪かったというのもある。つまるところ臨海女子の優勝への道が完璧ではなくなった程度のことであって、取り立てて騒ぐほどのことではない。結局のところ彼女たちの優位は、まだ崩れるどうこうの話をする段階にさえ来ていなかった。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


          中堅戦開始    後半戦開始    中堅戦終了

愛宕 洋榎  →   八四四〇〇 → 一〇七三〇〇 → 一二七八〇〇

雀  明華  →  一四二五〇〇 → 一三五二〇〇 → 一三六二〇〇

竹井 久   →   九一四〇〇 →  八六九〇〇 →  七三〇〇〇

岩舘 揺杏  →   八一七〇〇 →  七〇六〇〇 →  六三〇〇〇


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39 学年の推移とそれの及ぼす影響について

単行本派なので、ここからは選手的な意味で未知のエリアです。
いろいろと違っているはずですのでご了承ください。


―――――

 

 

 

 誰に聞いたところで頷くしかないような豪奢なホテルのスイートルームのテレビには、相も変わらず麻雀のインターハイの中継が映っている。やいのやいのと言葉のやり取りは行われているようだが、基本的には部屋にある全ての視線はテレビに向けられていた。高度な技術は経験者も未経験者も魅了する。テレビの解説の優秀さもさることながら、近くに座る経験者がより噛み砕いてくれていることもあって、沢近愛理と塚本八雲は一視聴者として麻雀観戦を楽しんでいた。

 

 対局室を俯瞰した映像に一人の背の高い女性が映る。すこし癖のある黒髪に浅黒い肌。顔立ちはどう贔屓目に見てもアジア系には見えない。女性に対しての褒め言葉になるかどうかは別にして、高校の制服でなければパンツルックの似合いそうな精悍とでも表現するべきスタイルと顔立ちをしている。そんな彼女の姿を見た瞬間に、愛理と八雲を除く一座の長である龍門渕透華が、あ、と声を上げた。

 

 「どうしたの、透華?」

 

 背丈の非常に小さな天江衣を間に挟んで座る愛理が声をかける。透華はひどく複雑そうな表情を浮かべていた。ひょっとしたら童話の三匹の子豚における家を壊された二匹の兄たちと相通ずるところがあるのではないかと思わせるほどの顔をしている。後悔と憤りとを非常に微妙なバランスで混ぜ合わせなければ見られないであろう貴重な感情に違いない。自身の普通でない状態に気付いたのか、透華はひとつ咳払いをして調子を整えた。

 

 「いえ、ただちょっとあの方に縁がありまして」

 

 縁、と言われて愛理がうすぼんやりとイメージしたのは、去年のインターハイのことであった。テレビの解説を聞いていてわかったことだが、どうやらこの浅黒い肌をした彼女の着ている制服の臨海女子という高校は麻雀において名門であるらしい。ならば去年の大会に出ていてもおかしくはないし、そうであるならば去年出場していたという透華たちと試合をしていても不思議はない。先の複雑そうな表情を考えればなんとなく結果も想像できる。もちろんこれは仮定が通ればの話である。

 

 愛理がそちらには触れないように気を遣おうと考えていると、隣に座る小さな頭がぴょこんと跳ねて向きを変えた。百歩譲っても中学一年生くらいにしか見えない少女の寒気がするほど澄んだ瞳に見つめられて、愛理はわずかにたじろいだ。たしかに人はそれぞれ雰囲気のようなものを持っているが、この少女のそれは正直言ってまともなものに分類されるとはとても思えない。何がいけないのだろうと愛理は考えたが、まるで答えは出てきそうになかった。さてどうして自分の方を見ているのだろうと愛理が再び頭を働かせると、衣がその小さな口を開いた。

 

 「エリ、衣は彼奴が嫌いだ。彼奴のせいで衣は無聊を託つこととなった」

 

 天江衣という少女に対してはきちんとした評価を決定できない。愛理が彼女に対して抱いた感想である。見た目どおりの幼い嗜好や言動があったかと思えば、今の発言のように思わず辞書を引きたくなるような言葉遣いをする。それは二面性と呼ぶにはあまりにもシームレスで、性格そのものが変わったとも思えない。どういう経緯があったかは知らないが、それは彼女の中で既に成立してしまっているものらしい。とりあえず衣の言葉の意味が理解できなかった愛理は、そうなの、と無難な相槌を打っておいた。

 

 

 そのあと透華に話を聞いてみると、どうやら彼女が去年のインターハイで他チームを飛ばしたことによって龍門渕高校の決勝戦への道が閉ざされたのだという。愛理はその当時のことをまったく知らなかったため、逆恨みっぽい印象を受けたのだが、この程度のことはインターハイどころか全国の地区予選ですら似たようなことがあるものである。愛理の素人としての感想は、もちろんそこに至るまでの過程で色々とあったのだろうが、インターハイのそれも準決勝で他校を飛ばすなんてすごいプレイヤーなんだろうな、というものであった。

 

 

―――――

 

 

 

 事前にそうなるであろう話を聞かされていたにもかかわらず、絹恵はやはり怯えを抱いていた。インターハイの準決勝でいまさら格がどうこう言うつもりもないが、相手が全て実力者であることに変わりはない。昨年のインターミドル覇者にして機械のごとく合理的な効率を追求する原村和、今大会において初めから副将と大将で勝負を決めるスタイルを貫いてきた有珠山の片翼である真屋由暉子、そして絹恵がその身で強さを体感したことのあるメガン・ダヴァン。彼女たちが一斉に、たとえ協力体制にないにしても、絹恵を狙っているという事実は彼女にとって明らかに重たいものであった。

 

 これは姫松を含む全ての高校に言えることだが、“二位” の持つ重要性が非常に大きくなっている。姫松、清澄、有珠山からすれば決勝卓に上がるための絶対に譲ることのできないただ一つの席であり、現在トップの臨海女子からすればどこを残せば決勝でやりやすくなるかが変わってくる。そういった意味で、姫松は同卓している三校から見れば明らかに邪魔な存在だった。誰が悪いというわけではなく、優勝を第一義に置くならばそれは当然の振る舞いとさえ言えた。

 

 絹恵も昨年の秋からレギュラー入りを果たした身であり、そういった卓上の敵意くらいは何度も受けてきている。ならばなぜ今それに対して怯えなければならないのかと言えば、それは一回戦や二回戦に比べて明らかにその濃度が上がっていることと、それを彼女が感知するまでに成長したからに他ならない。昨年の秋はレギュラーに抜擢されて訳も分からぬままにそれなりの結果を残し、春の大会では調子が上がらず足を引っ張ってしまった。もちろん練習を重ねていくうちに精神的な部分も少しずつ成長を遂げていたのだが、二年生になろうかという矢先に大きな転換期が訪れた。播磨拳児の監督就任である。拳児が来たことによる部への大きな影響は、それまでと違う緊張感が生まれたことだった。そのことは絹恵にとって明らかに良い刺激となった。それこそ今まさに正しく身を守る意味においての怯えを感じていることがその証明になる。その意味においては郁乃はたしかに向いていなかったが、それだけで彼女を非難するのは酷というものだろう。彼女が仕込んだ基本的に無口な新監督がときおり放つ刺すような指導が、絹恵を一段階上のレベルに引き上げたのも間違いのないところである。

 

 

 ( 気楽に攻めたらダメや。周りは死に物狂いで私を狙いにくる )

 

 すでに東三局まで場は進行しているが、これまでの二局で絹恵のその考えはより強固なものに叩き上げられていた。使う予定のない牌の整理をしている最序盤はまだしも、序盤の終わりごろから中盤の始まりにかけての他家から感じるプレッシャーは並々ならぬものがあった。三人ともが自身を蹴落とそうとしていることが手に取るようにわかる。都合の悪いことにこの副将戦の卓に着いているのは刻んで点数を稼ぐタイプではなく、どちらかといえば火力に長けたプレイヤーばかりだった。和了られること自体も歓迎するべきではないが、絹恵は振り込むことはもっと避けなければいけないと自身に言い聞かせていた。仮に絹恵が8000点の放銃をしたとすれば、和了った相手からすると16000点も差を詰めるか広げることになるからだ。

 

 選択肢はいくつかあった。速さで圧倒して他家を封じてしまうやり方がひとつ。腰を据えて真正面から点数の稼ぎ合いに持ち込むやり方がひとつ。ただただ他家に振り込まないよう徹底的に逃げ回るやり方がひとつ。しかしこれらのやり方は絹恵からすればどれも決定打に欠けていた。それは相手の問題というよりはむしろ彼女の実力を原因としていた。速度にも火力にも絶対の自信などなかったし、逃げ回るにしても自摸和了りは止められない上に事故のような振り込みの危険性も常に付きまとう。それならば、と副将戦が始まる直前に絹恵は心を決めた。

 

 細い糸を張ったような緊張感のなかで、牌と牌がぶつかり合う軽い音とラシャと捨て牌のくぐもった音だけが現実であることを主張する。神経を張りつめさせた今の絹恵には、余計な思考の入り込む余地がなかった。ほんの少しだけ冷えた雀牌の軽くて固い感触も、動かしている腕が自分のものであるということすらも意識に上ってはこなかった。恭子に比べれば手牌の読みは甘く、由子に比べれば戦い方は幼く、洋榎に比べれば勘は冴えわたらない。それでも絹恵は目を皿のようにして必死に他家に気を配った。彼女たちの手の方向性や流れをつかむために。絹恵が自分で出した結論は、その局に応じて三つの策の中から最善を選ぶというものだった。

 

 他家があまり早くなさそうなら鳴きでも何でも使って早和了りを目指し、火力が低いと見れば振り込むことを恐れずに腰を据えて打ち回し、どうにもならないと読めば徹底的にオリる。見方を変えれば基本的なプレイングを徹底しているだけの話だ。絹恵には絶対的な武器などなかったからそうせざるを得ないが、スケールを上げていけば最終的には世界の頂点であってもそこに落ち着くことになる。いわゆる地力でどうにかしなければならないこの状況は、成長の観点からすればうってつけのものであった。無論だがこれは勝敗を度外視した言い分であって、絹恵本人はそんなことを露とも思ってはいないだろう。

 

 表情や声からはまるで読み取れないが、どことなく不満げな仕草で真屋が自摸和了を宣言する。改めて本人に聞くまでもないだろう、彼女も絹恵から直取りが欲しいのだ。もちろん和了は和了で真屋にとって前進には違いない。それはただの効率の差であって、絹恵からすれば喜べないことに変わりはない。

 

 

 親が回って来た東四局でさえも絹恵は慎重な姿勢を崩さなかった。よほどの良い手が来ない限りは自分からアクションを起こしてはいけない。そう自分に言い聞かせていた絹恵に、親番かどうかという視点はあってないようなものだった。まだ全幅の信頼を置くには至らない自身の感性に従って大物手に振り込むような事態になってしまえば、それこそ点棒以上に取り返せないものができてしまう。別にそんな経験があるわけではないが、絹恵は論理を超えた部分でそれを理解していた。

 

 手の方向性を限定することなく様々な可能性を残す打ち回しのおかげで、絹恵はこの卓では和了ってこそいないものの、まだ振り込んでもいなかった。他家の自摸で削られていることは確かだが、取り戻せない点差でもない。もう副将戦の四分の一は消化していることを考えれば、下手を打たない限り凌げる公算が高い。そしてそういった状況にあってなお絹恵の集中は解けていなかった。内的な要因で姫松が崩れ去ることはないとさえ断言できた。

 

 ただ、それはあくまで戦況が変化しないという条件を前提としたものでしかなかった。

 

 同卓している相手も人間、それも麻雀に関していうならとびきり優れた、というおまけつきだ。そんな彼女たちが指を咥えて変わらぬ戦況を眺めているわけがなかった。現状に納得がいかないのなら、それをなんとかして作り変えるくらいのことは当然のようにやってくるプレイヤーたちだ。残念ながら絹恵は揺さぶっても微動だにしないレベルのプレイヤーではない。確実に隙は存在していたし、彼女たちがそれを見逃すはずがなかった。

 

 絹恵の採ったいくつも選択肢を残す打ち回しは、どうしたって初動が遅れることになる。周りを見てから動き始めるのだから仕方ないとも言えることだが、それは見切られてしまえばただの足踏みでしかない。東一局から東三局までの打ち方と、絹恵のこれまでの戦い方を見てみればすぐに思い当たる。それはどこまでも点棒を守る動きであり、他家の序盤の捨て牌を素直に信じた動きと言っていい。それならば初めの第一打から迷彩として進めていけばどうなるか。もちろんあの姫松の副将だ、そう簡単には崩れないだろう。しかし完璧とは程遠いのも事実だ。それだけで試してみる価値は十分にあると言っていいだろう。

 

 この事態はもちろん絹恵も想定していた。同じ状況で同じプレイングをされたらおそらく自身もそうやって崩そうとするだろうから。しかし想定こそしていたものの、それに対する対抗策は事前に浮かんではこなかった。正確に言うならば、対抗策そのものはあった。だが絹恵にはそれが実現可能ではなかったのだ。迷彩を打たれるならばそんなことをしている暇がないほどに攻めたてればいいのだが、彼女にはそれができない。だから絹恵はあくまでもスタンスを変えないことにした。ただちょっと河が読みづらくなっただけのことだ、どうしようもなくなったわけではない。

 

 果たして戦法がかみ合ったのは、迷彩を打つことを選んだ彼女たちだった。東四局での真屋への放銃を皮切りに一気に絹恵は崩れ始めた。もちろん全ての局で振り込むようなことはなかったが、ほとんど泥沼と言っても差し支えないほどだった。今の彼女の戦い方で自身の読みに対する不信が一度でも生まれてしまえば状況は悪くなったと言わざるを得ない。自分の捨てようとする全ての牌が誰かにとっての当たり牌のように思えて手が竦む。そして不思議なことに麻雀という競技はそういった状況下になればなるほど吸い込まれるように悪手を選択してしまうのだ。彼女が一定の決断をしたと思われる後の引きを見ていると、偶然でさえ絹恵の敵に回ったようにさえ映った。

 

 

―――――

 

 

 

 「あ、あの、播磨先輩?」

 

 「あ?」

 

 一人掛けの立派な革張りの椅子に頬杖をついて座っていた拳児におずおずと漫が声をかける。返事は普段と変わりのないはずのものだったのだが、状況がそれを不機嫌そうなものに見せた。まだある程度の余裕がある点差とはいえ、洋榎が広げた清澄と有珠山に対するリードが明らかに削られているからだ。彼女にいつもの元気がないのはおそらくそれが原因だろう。もしこのペースでの失点が続くとすれば、それはほとんど最下位転落と同義である。恭子の言っていた清澄に対するリードの件も含めて、絹恵にはここで踏ん張ってもらわなければならないのは明白である。声をかけてきた漫の様子を考えれば、彼女の頭の中の不安が透けて見えるようであった。

 

 「……絹ちゃんに声かけに行かんでええんですか」

 

 漫の声にはまだ震えがわずかに残っていた。日常生活や部での練習中ならいざ知らず、試合中に拳児に対して意見することは彼女にとって未だに経験のないことだった。漫からすれば播磨拳児は麻雀に関しては非の打ち所がない圧倒的な監督であり、その立場の存在に口を出すことがどれほど勇気の要ることかは計り知れないところがある。

 

 声をかけられた方へとゆっくり顔を動かし、拳児は漫の顔を見た。彼女が立っていることもあって俯いているのはまだおかしくないが、今にも泣きそうな顔をしている。これではまるで自分が泣かしたみたいじゃないかと拳児は浅くため息をついて、さっさと質問に答えることにした。

 

 「行かねー」

 

 「そんな! 絹ちゃんピンチかもしれへんのにですか!」

 

 周囲の上級生たちは黙って動向を見守っている。誰も止めに入らないし、誰も口を挟まない。

 

 「いいか、よく聞けデコスケ」

 

 「デコっ……!?」

 

 拳児は顔の向きだけを変えたままいつもと変わらない調子で話し始めた。漫は拳児と話すたびにいつも思うのだが、この男には普段以外の調子が存在しないように見える。どんな場面であってもいつも通りに振る舞うし態度の大きさも変わらない。もし彼が緊張するときがあるのならば、それはいつなのだろうと思う。

 

 「まず第一に俺様が行ったところで妹さんのやるべきことは変わらねー。これはいいな?」

 

 漫はそれに頷いた。

 

 「で、オメーが言いてえのは向こう行って落ち着かせてこいだとかその辺なんだろ?」

 

 「そうです! きっと今しんどい思いしてるはずです!」

 

 食い入るように漫が合わせる。顔つきはさっきまでの怯えたものではなくて必死なものだ。絹恵のもとへ行くべきだと言外にこれでもかと伝えてくる。もちろんチームとしての姫松の決勝進出のことも考えてはいるのだろうが、何よりも仲間であり友達でもある絹恵のことを大事に考えているのだろう。

 

 「……あのよ、オメーもそうだが妹さんはレギュラーだ。ヤワじゃ困る」

 

 説得するようなものでも呆れたようなものでもない。本当にいつも通りの、一緒に廊下を歩いて話をしているときの声だった。

 

 「ホントなら頼られる立場だ、だがオメーらはそうなってねえ。だから甘やかさねえ」

 

 「う……」

 

 「すぐにオメーと妹さんの時代が来る。わかるな?」

 

 それだけ言うと拳児は視線を前に戻した。もう話は終わったと判断したのだろう。拳児には部活という概念がこれまでの人生に存在しなかった。ずっと一匹狼で通してきた。だから部活の先輩後輩の機微をまったく理解しないままに監督代行を務め、わからないからそこに関する話をしてこなかった。しかし激戦だった二回戦の様子を通して、初めて年長者の役割のようなものが見えた気がしていた。二年生の二人にとって三年生は間違いなく実力的にも精神的にも頼れる存在であった。しかしこの夏が終わればその頼りになる三年生はいなくなる。監督としての思考を当たり前にこなすようになった拳児は、そこを気にかけたのだ。

 

 もちろんそれが敗北につながってしまえば笑い話にもならない。ならばなぜ拳児が絹恵のもとへ行かないという決断を下したかと言えば、後ろに控えているのが末原恭子であるからだった。播磨拳児は未だ以て敗北のことをちらとも考えてはいない。

 

 「それまでの尻ぬぐいは末原に任せりゃそれでいい。そんかしさっさと一本立ちしろ」

 

 拳児はひょんなことから務めることになってしまったこの監督業を意外と楽しんでいることに、自身ではまったく気付いていなかった。

 

 「お前サイテーやな!?」

 

 一拍置いて予想外の責任転嫁を受けた恭子の声が控室に響いた。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


             副将戦開始    前半戦終了

原村 和      →   七三〇〇〇 →  八二六〇〇

真屋 由暉子    →   六三〇〇〇 →  七六七〇〇

メガン・ダヴァン →  一三六二〇〇 → 一三七二〇〇

愛宕 絹恵     →  一二七八〇〇 → 一〇三五〇〇


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40 欲しいモノ

―――――

 

 

 

 褐色の肌をした背の高い一人の少女が、廊下で浅いため息をついた。それは失望と後悔を含んだもので、チームメイトでさえ見たことがないようなものだった。彼女はこのインターハイにおいて臨海女子の優勝とはまた別の目的をひとつ見出しており、それについては誰にも話していない。言い換えれば話す必要のないような個人的なもので、彼女自身が決着をつけるべきだと判断したということであるとも言えるだろう。

 

 ダヴァンの実力をきちんと知る者に前半戦の結果を尋ねれば、おそらく不十分だとの答えが返ってくるだろう。同卓している面子も決して力がないわけではないが、彼女とくらべればどうしたって見劣りしてしまう。そういった評価がまかり通るほどにメガン・ダヴァンは実績も伴った強さを有している。毎年のように強力な留学生がこれでもかと出てくる臨海女子において、三年間連続で団体レギュラーを張ることは並大抵のことではない。そしてその彼女が、ほんのわずかなプラスで前半戦を終えたのだ。そこには先ほどついたため息と関連した理由があった。

 

 その当時の事情であるとか細かいことを省略すれば、ダヴァンはこのインターハイで龍門渕透華と打つことを切望していた。去年のインターハイの、奇しくも今と同じ準決勝の副将戦で対局し、そのときダヴァンは透華を恐れて他家への攻撃を強めた。その結果として龍門渕高校は準決勝で沈み、臨海女子は決勝へと駒を進めることになった。本来ならばそこにおかしなところは何もない。しかしダヴァンはその日のプレイを逃げであると断じた。底知れないものを感じて、それを避けるように打ちまわしたことを恥じさえした。ただひとつ救いがあったとすれば、その当時ダヴァンがまだ二年生であり、龍門渕高校の面々が揃ってまだ一年であったことだった。それはもう一度このインターハイで卓を共にする可能性が残っていることを意味していた。その年のインターハイでは台風の目だの龍門渕旋風だのともてはやされたほどの力量だ、まさか次の年の予選で負けるはずもなかろうとダヴァンは固く信じていた。

 

 しかし蓋を開けてみれば長野予選を突破してきた高校の名はダヴァンの望んだ龍門渕ではなく、清澄というところだった。その事実に対してダヴァンが何を思ったのかは定かではない。そしてこの準決勝に至り、彼女は一方的に清澄高校を観察した。龍門渕を押しのけてくるのに相応しい相手であるのかを確かめるために。姫松を徹底的に叩くというチーム方針をある程度差し置いてまでそれを実行した結果は、浅いため息だった。

 

 ( ……ま、切り替えていきまショウ。これだとネリーが騒ぎかねませンシ )

 

 そのせいと言うべきかそのおかげと言うべきか、ダヴァンの気分は乗り切っていない。気持ちの向きも姫松にピントが完全に合っているわけではなかった。彼女がこの夏に晴らしたかった思いはもう晴らすことはできない。やり切れない思いの向かう先がわずかに清澄にずれたのも仕方のないことと言えよう。ただそれでも本来の卓上の力関係は変わらない。ダヴァンが中心の卓であることは疑いようもないことだった。

 

 

―――――

 

 

 

 納めていた牙を、その程度こそわからないが、剥いたダヴァンが休憩明けの東一局で和了ってみせたことに疑問点などあるわけがなかった。むしろ他家からすれば理由もわからず黙っていた彼女がやっと動き出したことで、ようやく本番が始まるくらいの意識でさえあったかもしれない。その挨拶代わりの一撃が跳満だというのだからなんとも派手なことである。そんなものが自由に和了れたらゲームにならないのだから幸運が手伝ったのだろうことは間違いないが、それでも価値として実に大きな和了だった。

 

 ダヴァンに支払うための点棒を掴む絹恵の手の動きは案外と滑らかで、前半戦の自失状態からは立ち直ったようだった。休憩時間の間にどのような心の整理を行ったのかは彼女自身にしかわからないことであったが、それは効果があったように見受けられる。少なくとも今は手牌すべてが当たり牌に見えているということはなさそうだし、自ら和了りに向かう気持ちも再び点火したようだった。あとは機会が来るのを待つだけだ。

 

 もう一度丁寧に迷彩の色の濃い河をよく見ることは途方もない作業のように思えたが、絹恵は出来る限りにおいて手を抜かないよう気を遣った。それが実を結べば最高の結果に違いないが、現実と卓を囲むプレイヤーは甘くなく、東二局ではうまく仕掛けられた真屋の罠にはまって絹恵は振り込んでしまった。彼女にとって重苦しい時間はまだ続きそうだった。

 

 

 場は進んで東四局。各校の点数を見ればダヴァンだけが点数を伸ばし、他は抑え込まれていた。前半戦まではまるで目立っていなかった彼女が、たったの三局だけで圧倒的な印象を植え付けていた。そしてそれは場所を問題にはせず、同卓している相手であっても観客であってものべつ幕無しにその強靭さを叩きこんだ。とはいえダヴァンもここで全力をアピールしても得るところがない。やはり見据えているのは決勝であって準決勝で躓くことなど考えてはいなかったし、彼女たちにはそれが許されるほどの実力があった。ネリーの望みをある程度叶えたこともあって、彼女は完全に集中が高まった状態からは抜けてしまっていた。ある意味で言えばこのことが準決勝そのものの趨勢を決定したのかもしれない。もちろんそんなことは世界中の誰も気付いていないことだった。

 

 親番でもある絹恵の配牌は決して悪いものではなかったのだが、状況を打開する前提で考えればなんだか煮え切らないものでもあった。一局だけの攻めに転じようにも、それを後押しするだけのもう一歩が足りない。仕方なくこれまでと同じように他家の出方を窺ってから打ち方を決めることにした。とりあえずは使いみちのなさそうな北から捨てれば問題はなかろうと判断して絹恵はその牌を右端に寄せておく。

 

 迷彩の張られた河は絹恵にいつも霧深い森の中を思わせた。森の中にはいくつかの道があって、ひとつとは限らないハズレが口を開けて待っている。もちろん実際的に考えて絹恵だけがそこに挑むわけではないし、それらの迷彩の中にもヒントが隠れていることは少なくない。たしかに彼女が自分に都合の悪いように考え過ぎているきらいはあるにせよ、他校が姫松に狙いを定めている今の状況ではそれほど的を外してはいない考え方だ。注意深く霧の奥に目を凝らすことを徹底して絹恵は歩を進める。

 

 たしかに過去の事実として放銃はしているものの、それは不運が重なった結果であることもまた事実である。もし運よく振り込みを逃れるという消極的な幸運が働いていれば被害は軽減できたということでもあり、幸運と同様に不運がどこまでも続くなどということはあり得ない。実は絹恵はこの東四局を境にその悪循環から脱していたのである。本人の自覚はないにせよ。

 

 ( 清澄がたぶん聴牌かすぐそばやな……。メグさんはコワいけどようわかれへん )

 

 巡目は九巡目であり、絹恵の手は聴牌まではあと二歩ほど足りていなかった。リーチがかけられていないとはいえ聴牌気配の濃い相手とケンカをするような状態ではない。とりあえず和了の道筋を残せて、かつ危険ではなさそうな牌である七索を絹恵は切り出した。霧の森の中での戦いであるために確信を持てない打牌ではあったが、直後に誰かから声がかかることはなく、河はいたって穏やかであった。精神的な疲労から来るのか、調整された室内環境であるはずなのにどこかじっとりとした不快感が体から離れなかった。

 

 勝てば最善で点数をキープすることが次善、最低目標は清澄と一万以上の差をつけた二着で副将戦を終えること。そういった意味ではそろそろギリギリの点差であった。順位こそ二位をキープしているものの、清澄との点差は既に一万二千点にまで接近している。絹恵がどこかで和了るつもりでもなければ、清澄の原村に点棒が入ることさえ阻止しなければならない状況である。恭子の言う一万点キープの意図は今ひとつ理解できてはいないが、彼女は少なくとも麻雀においては無意味なことは言わない。ネガティブな受け取り方をすれば絹恵の結果次第では大将戦につないだところで点差を覆せないとも取れるのだ。最善も次善も失った絹恵に残された矜持を守る方法は最低目標を達成することだけだった。

 

 ( うちらが欲しいのは優勝だけ。負けたときのことを考える必要なんてない )

 

 腰が引けそうになった絹恵を踏みとどまらせたのは、拳児の言葉だった。迷彩を正確に見抜いたわけではなかったが、それでも彼女はやっと自分を信じて牌を捨てることができた。まだこれは逆襲には届かないほんの小さな変化であることには違いない。しかしそれは予想外のところで大きな結果を生んだ。状況、思考の型、それまでの経緯が作用しあった結果だった。

 

 

 巡目が回って十二巡目、未だ誰も和了どころかリーチの発声すらない。状況的にはリーチのかけられない場には違いないのだから不思議なところはないのだが。先ほどから原村とダヴァンは自摸切りを繰り返しており、聴牌していることは疑いようもなかった。つまり誰か、願望としては絹恵だろう、が当たり牌を零すことを望んでいるのだ。しかし彼女たちの望みはこの巡目でも叶わない。

 

 実際のところは絹恵ばかりが厳しい状況を強いられているわけではない。現時点で抜きん出ている臨海女子は別にして、清澄も有珠山も和了らなければ先に進めない状況であった。差を詰めてきているとはいえ、まだ順位で見れば姫松が二位であることに違いはない。そうなると三位四位の二校が採るべき方策は多少のリスクを背負ってでも攻めることだ。大将にかかる負担を少しでも軽減するために果敢に行かなければならない。今の東四局を除けば残る局は最低だとあと四つ。面子を考慮すればその四つで和了りきれる保障などどこにもない。合理性で考えても心情的に考えても、特に聴牌している原村にとってここは退けない一局なのだ。現状として聴牌しているのは原村とダヴァン、真屋と絹恵はそうではないためオリを選択している。原村は十三巡目の自摸で危険な牌を持ってきてしまったが、彼女はそれを迷いなく切り捨てた。彼女があまりにも合理的過ぎたがために。

 

 ( ンー、清澄から当たり牌……。サスガにこの巡目だと山越しは期待できませんヨネ…… )

 

 ダヴァンにはたしかに原村からの和了り牌を見逃す選択肢があった。それは確率こそ低いものの絹恵への直撃を期待するためでもよかったし、自摸を期待してもよかった。あるいは和了そのものを放棄する選択肢さえあっただろう。だがそれでも彼女は気が付けば牌を倒していた。何万と打ってきた経験と、意識にさえ上らないレベルでの清澄への憎悪がそうさせたのだ。よほど特別な事情がない限り、目の前の和了を見逃すことなど無意味どころかマイナスの結果にしか繋がらない。たとえそれが大きな点数でなくてもだ。この和了で、ダヴァンは原村から3900点を受け取った。

 

 

―――――

 

 

 

 「あのー、末原先輩?」

 

 「ん?」

 

 二人掛けのソファに隣同士で座っている恭子に対して、漫が声をかけた。先ほど拳児から説教のようなものをもらってから恭子の隣に陣取って、それからは黙って何かを考えていたようだった。その作業が終わったのか、あるいはそれについて自分に助言を求めるためなのかがわからなかったため、恭子はきちんと話を聞く体勢をとった。

 

 「昨日言うてた “一万点以上のリードが欲しい” ってどういうことなんですか」

 

 先日の作戦会議では知りたければ教えると言っていたが、実際には今日の準決勝に向けて誰もが対策を練っていたこともあって、恭子がそれについて説明する機会は結局なかった。となれば恭子の出番が近づいてきたことと、ちょうど今その点差の瀬戸際であることもあって気になったのだろう。漫が質問をしてきたのも頷けるところだ。

 

 それを説明するために、ということで恭子がカバンから取り出してきたのは牌譜だった。枚数で言えばそれほど多いものではない。もちろんそれは恭子が警戒している清澄の大将である宮永咲のものであったが、漫にはどこに注目すればいいのかがわからなかった。嶺上開花が得意だという話は聞いているが、それはわざわざ牌譜で見る必要のないものだろう。それに嶺上開花が恭子の言う一万点と関連しているとも思えない。漫はすこし媚びるように笑いながら、首を横に振った。

 

 「三万点返しで半荘ひとつずつの点数見てみ?」

 

 「……へ? えーと、あ、なんやこれえらい±0多いですね」

 

 言われた漫の目に映ったのはある意味で何よりも奇妙なデータだった。団体戦の結果も個人戦の結果も、その多くが麻雀として勝っても負けてもいない点数状況で終了している。具体的に言えば宮永咲の得点は29600点から30500点の間で推移していた。三万点返しというのは半荘終了時に三万点を基準としてどれだけ離れているかでプラスとマイナスを決めるルールであり、±0というのは千点にも満たないわずかな得点の間に存在する隙間のような部分である。当然ながら目にする機会はそれほど多くはない。しかし彼女の場合は牌譜を見る限り、どうも意図的にそれを達成しているようなフシが見られた。

 

 「いや末原先輩、これさすがに狙ってやるんは無理やと思いますけど」

 

 「何もそれが全部言うとるわけやない。実際予選では±0無視してド派手に優勝決めてるしな」

 

 恭子の言う通り、それは常に貫かれているわけではなかった。長野での団体予選決勝と、個人予選でも±0を実行していない場面が見受けられる。逆にインターハイ本選では未だそれが崩されていない。その決定的な差を末原恭子が見逃すわけがなかった。

 

 きっかけになったのは二回戦の大将戦、オーラスでのことだった。あのときの状況は清澄だけが先に進むことをほとんど手中にしており、わずかにリードを広げた姫松、永水、宮守と僅差での二位争いが行われていた。しかし黙ってさえいればいいその状況で清澄は、宮永咲は手を出した。誰もがその行動の意味を理解できなかった。あるいは永水か宮守のどちらかを準決勝に連れていきたくなかったのかもしれないが、それでも姫松を残すというのはさすがに疑問の残るアクションだと言わざるを得ない。だからその疑問を解決するために恭子は動くことを決断したのである。

 

 「宮永は半荘ごとに±0にする範囲内であれば無類の強さを発揮する可能性がある」

 

 「要するに半荘一回でにだいたい5000点ずつプラスしてくるっちゅうことですか」

 

 なるほどそれで半荘二回ぶんの一万点のリードを要求したわけだ、と納得しかけたところで漫は頷こうとするのを途中で止めた。綺麗に筋が通っているような気はするが、その論理は実のところ成立していない。というよりはリードをしておく必要がないのだ。警戒こそ必要かもしれないが、宮永が二半荘で一万点を稼ぐというならそれ以上に稼げばいいだけの話だ。まさか自身の尊敬している末原恭子がこんな論理の穴を見過ごしているとも思えないが、漫は不安そうな顔つきになって恭子に視線を送った。

 

 「言いたいことはわかるけどな、漫ちゃん。大将戦の面子相手に私じゃそう稼げへんやろ」

 

 そう口にした恭子の表情に卑屈なものは見られない。だが諦めている顔でもない。いつものようにできる限りのことをするつもりなのだろう。そしてその前日に恭子が提案したことが、おそらく彼女にとってのできる限りなのだ。漫には恭子の頭の中でどんなプランが組み上がっているのか、まるで見当がつかなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 ダヴァンが原村から和了ったことがどう捉えられたかについては、それぞれに聞いてみなければわからないことだった。いくらか想像することはできるが、それが正確かどうかなど確かめる術はない。連荘がなければ副将戦に残るはあと四局。臨海女子を除けばどこも喉から手が出るほど点数が欲しいところだ。見据えているのは大将戦で、100点でもいいから稼いでおきたいに違いないだろう。ひょっとしたら姫松以外にも得点目標を設定しているチームがあるかもしれない。きっと清澄も有珠山も大将に回しさえすればと考えているのだろう。絹恵には何とはなしにそれがわかった。

 

 後半戦の南場に入ってからは真屋が攻め方を変えた。ある程度まで姫松の得点が下がったことを考慮したのだろう、絹恵を狙っていくよりはとにかく点を獲ることにシフトした。単純な話だ、この卓で初めてリーチが打たれたのである。他家に聴牌を知らせ、それ以上の手の変更を放棄する代わりに一つの役と裏ドラをめくる権利を手に入れる。見方によって最強の役とも最弱の役とも言われるそれは、この副将戦においては凶悪なものに映っただろう。下手に振り込んでしまえば、という思考が脳裏をかすめるのは雀士としては正しい防衛本能である。

 

 「ツモ。裏ドラはありません。2000・4000です」

 

 リーチをかけることでわずかに出足を鈍らせたことが功を奏したのか、真屋が三巡後にきれいに和了ってみせた。終盤での8000点は非常に大きく、また次は流れそのままに彼女の親番ということもあって、観客席の期待は一気に有珠山へと傾いた。もちろん流れひとつで全てが決まるわけではないし、同卓しているプレイヤーからすれば決めさせるわけにもいかない。どこまでも必死な攻防がそこにはあった。

 

 

 南二局を原村が制して南三局。卓を囲む選手はいざ知らず、観客たちはもはや絹恵をほとんど眼中に入れていなかった。彼女が狙われ続けていたという事実をどれだけの人が知っていたがは定かではないが、結果として見るならば絹恵のそれは惨憺たるものであった。一度も和了れずに中堅が稼いだ得点を吐き出したというのが数字上での結論であり、それは動かしようのないものである。そこから絹恵に期待しようなどという観客がいるわけもなかった。

 

 南一局の真屋の満貫自摸、あるいはダヴァンが原村から和了ったときからそれは始まっていたのかもしれない。彼女たちの意識が愛宕絹恵から少しでも離れ始めたのは。

 

 そもそも愛宕絹恵は決して弱いプレイヤーなどではない。全国に名を馳せる姫松で二年生にしてレギュラー入りを果たしたことももちろんそうだが、あの愛宕洋榎の妹であることで受けるようなやっかみだとかそういったものをねじ伏せて今の立場にいることに着目するべきだろう。今の準決勝も二回戦も結果が振るっていないが、それは特殊な状況を原因としていたと言うしかない。実際に彼女は一回戦では当然のように区間トップを記録している。現在着いているこの卓であっても、三者から囲まれるような構図でさえなければ十分に戦えるどころかダヴァンを除けば優位に立つことすらできただろう。それほどまでに囲まれるという状況は辛いものであり、そしてそれが緩んだということは、やっと絹恵が本来の麻雀を打つことを許されたのと同義であった。

 

 健康的に締まった腕がしなやかに伸びた。姉が尽きない才能の泉だとすれば、絹恵はまだ磨かれ始めて間もない巨大な原石だ。現に彼女は中学まで女子サッカー部に所属しており、本格的に麻雀の腕を鍛え出したのは一年ちょっと前のことだ。愛宕の血は未だ何一つとして底を見せてはいない。言い換えるならば、彼女たちは絹恵から目を離してはいけなかった。たとえそれがほんの一瞬であっても。

 

 抑えつけられてきたことに対するストレスを吹き飛ばすような明るい声で、絹恵から自身の和了宣言がなされた。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


             後半戦開始     副将戦終了

原村 和      →   八二六〇〇 →   八〇二〇〇

真屋 由暉子    →   七六七〇〇 →   七九九〇〇

メガン・ダヴァン →  一三七二〇〇 →  一四九二〇〇

愛宕 絹恵     →  一〇三五〇〇 →   九〇七〇〇


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41 嶺の上に花が咲く

―――――

 

 

 

 恭子が先に対局室に入っていた有珠山の獅子原爽を相手に挨拶がてら世間話に興じていると、扉の一つが開いて、あまり見たことのない衣装に身を包んだ少女が入って来た。肩を出すようなチュニックにごくごく丈の短いポンチョのようなものを合わせている。事前の調査でわかっているが、ネリー・ヴィルサラーゼはグルジアの出身だ。それを考えれば民族衣装なのかもしれないと恭子は思ったが、さすがにそこまでは調べていなかったために断言はできなかった。もしかしたらただの奇抜なファッションなのかもしれない。

 

 その奇妙な少女が恭子を見つけるなり駆け寄ってきて、いきなりぷう、と頬を膨らませた。何を原因としているのかまではわからないが、態度を示すだけならこれ以上ないと言いたくなるほどにわかりやすい意思表示である。それまで恭子と雑談していた獅子原もこれには目を丸くしていた。有珠山は臨海女子と二回戦から当たっているが、その時の大将戦ではそんな様子など露とも見せていなかったのである。

 

 「ここでキョーコと打ちたくなかったよ」

 

 「そりゃどーも」

 

 仕草や外見だけの話をするなら可愛らしい以外の評価が思いつかない彼女の真意はつかめない。だから恭子は曖昧な返事をしておいた。ことによると郁乃が言っていたように予想以上に評価されているのかもしれない。仮にそうだとすればネリーは油断をしてくれないことになる。気分は悪くないがあまり歓迎もできない事態だった。思わずため息をつきそうになるが、それはなんとか堪えた。なんだか失礼な気がしたし、それにあまり彼女に対する態度を決定させたくなかった。彼女が恭子のどこを見ているかなどわかったものではない。

 

 つれない恭子の反応ではあったがネリーは意に介していないようだった。ひとしきり恭子の前でふくれっ面を見せた後は合宿の時のように無邪気にちょっかいをかけるようになっていた。相手をしているとつい忘れそうになってしまうが、彼女はあの臨海女子のメンバーの中で大将を任される存在である。対外的な実績を備えている郝でも明華でもダヴァンでもなく。そんなことに思い至って恭子はまたもため息をつきそうになる。まだ姿を見せない清澄に対して、早く席決めしていればこんなことを考えずに済んだのに、という八つ当たりのような思いを抱いたそのときだった。この大将戦での恭子の標的、宮永咲がようやく姿を見せた。

 

 外見はただのおとなしそうな少女だ。ショートヘアに華奢な体つき。平均的な高校一年生よりもわずかに発育が遅れているような気もするが誤差の範囲を出るようなものではない。失礼を承知で言うならば、その外見はどこにでもいそうでさえある。そんな頼りなげな少女がにわかには信じがたい実力を有しており、またそれをこの大将戦で発揮してくるだろうことは疑いようがなかった。そして恭子にとってのキーパーソンはその彼女だった。もはや撃ち落とせない位置にいる臨海女子などどうでもいいとさえ言える状況である。一方で有珠山の獅子原も軽視するには強過ぎるプレイヤーだが、あるいはだからこそ彼女に構っていてはおそらく勝てないだろうことを恭子はどこかで理解していた。

 

 

―――――

 

 

 

 高校生雀士の括りで見れば、たしかに恭子は上から数えた方が断然早い。南大阪の絶対的な雄である姫松の大将なのだからそれは当然のことだ。しかしそれ以上に、彼女と卓を囲んでいる選手たちは異常とも言える実力を備えていた。少なくとも打ち手として一段は劣る恭子が宮永と獅子原を相手に逃げ切るには、素の実力以上のものが必要だった。得点の推移次第にはなるだろうが、ある一局で決定的な罠を張ることになるはずだ。今の恭子にあるのはこれまで培ってきた技術と経験、それと仲間たちが作ってくれたリードだった。彼女はこれからそれらを用いてこの大将戦を戦い抜くことになる。既に恭子には余計なことを考える余裕などなくなっていた。

 

 

 恭子の希望とは裏腹に状況は姫松にとって良くないものになりつつあった。東三局を終えた時点で獅子原に得点で先を行かれていたのである。大将戦が始まってからの連続和了は見事と言うほかなく、有珠山が副将と大将だけで勝ち上がってきたというデータを十分に納得させるものだった。映像での情報と実際に卓を囲んでの彼女の印象にズレはなく、気合を入れた表情というよりは自然体で局に臨むタイプであるらしい。そういった意味では自分のチームの主将とよく似ているな、と恭子は苦笑いを浮かべた。素直な性格をしていてくれればいいが、まず卓上ではあり得ないだろうことを恭子は悟っていた。こういうタイプは普段の性格がどうであれ、麻雀と向かい合う時だけは細かな表情の動きでさえブラフに使ってくるのが相場と決まっている。

 

 事前に覚悟していたことではあったが、彼女たちは本当に強かった。仮に恭子を比較対象として置くならば、彼女たちは三者が三者とも天稟の才を持っているのだから。それは瑞原はやりが中堅戦の直前に指していたものとはまた異なるが、彼女の話を考慮に入れようが入れまいが間違いなく単独で存在しているものだった。恭子は気付かれないように奥歯を噛みしめる。実力差に対してではなく、姫松が二位抜けをするプランにおいて明らかに邪魔になる存在だとはっきりしたからだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()だけはどうしても避けなければならない。恭子には自身の策を成就させるだけの地力が要求されていた。

 

 麻雀とは希望が通りにくい競技であることは周知のことだが、もちろんその反対のことも起こり得る。ツキは姫松を完全に見放したわけではないらしかった。恭子の配牌は軽さと、少なくとも稼ぎと呼べる打点を兼ね備えたものだった。功を焦るのはよくないが、かと言ってこの手をみすみす逃すようではこの卓で生き残るのは難しいだろう。そこまで打点の大きくない和了りが試合を決めることなど珍しいことでもなんでもない。

 

 恭子はその配牌に素直に従うことにした。序盤に細工を仕掛けてそれを成功させることと天秤にかければどちらの確率が高いかは明白である。基本的には策を弄するのは手が悪い時の話なのだ、わざわざアドバンテージを捨ててあげることもないだろう。恭子のその判断に応えるように、無駄自摸がまったくなかったとは言わないが、恭子の手は十分に気分よく進んでいった。ネリーが途中で一鳴き挟んだが、ある程度まで局が進行すると他家が積極的に競ってくるようなことはなくなっていた。どっちつかずの甘い打牌を彼女たちはしない。本当に強いプレイヤーはオリ方を知っている。生半なことはでは直撃など期待できない。結果として東四局は十巡目に恭子が5200を自摸和了った。この面子を相手に和了って点数調整を行えることが判明したのは彼女にとってきわめて大きな収穫だった。

 

 その一方で、当事者たち以外がネリーの鳴きに奇妙な印象を抱いていた。

 

 

―――――

 

 

 

 「ねースミレ、さっきの臨海の鳴き気持ち悪くない?」

 

 最悪でも大将戦までには集合しておけ、と言付けておいたら見事に最悪を実行してきた白糸台の超新星たる大星淡が言葉を投げる。淡が触れたのは末原恭子が和了った東四局でのネリーの鳴きだ。互いの手が見えない卓上ではそれほどおかしなものには映っていないだろうが、観戦している側から見ればたしかに妙な点があった。その表現として “気持ち悪い” が適切かはわからないが。

 

 鳴いた時点での彼女の手は仕上がるどころかオリを選択した後の崩し始めたものであって、鳴くタイミングとしては首を捻りたくなるようなものだった。白糸台高校の部長であり、次鋒を務める弘世菫もほとんど同じような疑問を持ったが、彼女はあえて淡に尋ねてみることにした。

 

 「そうだな、どう気持ち悪かった?」

 

 「えっとねー、自摸番ズラしときゃいーや、って感じだったのと」

 

 そこまでは菫も同意するところだった。あの手順と手番で鳴くならそれ以外には考えられないと思ったほどだ。実際にネリー・ヴィルサラーゼが鳴くことで彼女が掴むはずだった恭子の和了り牌は本人に流れている。本人に流してどうするんだと思わなくもないが、振り込むよりは確実に安く済む。それでもまだ解消されない疑問点があるのだが、菫にはどうしてもそれがわからなかった。オリを選択しているのだから危険牌を掴んだところで出さなければいいだけの話なのだから。だが彼女は現実として鳴きを実行した。そこが菫の解消されない部分であった。しかし淡は彼女の言う気持ち悪い点をもう一つ具体的に指摘できるらしい。麻雀に対する嗅覚だけはとんでもないものを持っている目の前の少女に聞いて正解だったな、と菫は薄く微笑んだ。

 

 「なんか見せつけられてる感じがしたんだよねー、私たちにっていうか、外に?」

 

 菫の優しい笑みはほんの短い間しか継続しなかった。ため息をつきつつ五秒ほど前に思っていたことに即座に訂正を入れる。あの鳴きを外に見せつけるなど鳴きそのものに輪をかけて不可解でしかない。奇妙な何かを感じることに疑いはないが、それが示すものが何なのかがわからないのだから納得のしようがないのだ。しかし彼女には知る由のないことだが、淡の感じ取ったものは予想を遥かに超えて精確であり、それが出場選手を含めた観客に伝わるのはもう少し先のことだった。

 

 

―――――

 

 

 

 「自摸、7700は責任払いです」

 

 「あっは、実際に食らってみるとすごいなこれ」

 

 大明槓からの嶺上開花で振り込んだのと同じダメージを被ったにもかかわらず、獅子原は面白い体験をしたとばかりに笑っていた。少しクセのあるサイドテールにした髪が小刻みに揺れる。満貫近い出費は笑っている場合ではないはずなのだが、そんなことは彼女には関係がないようだった。

 

 その様子に薄気味悪いものを覚えたが、恭子はそれ以上に獅子原に対して感謝の気持ちを抱いていた。宮永咲が嶺上開花に対して度を越した信頼を寄せていることに確信を持てたからだ。彼女はきっと重要な場面や余裕がなくなったとき、嶺上開花に手を伸ばすだろう。異能が割り込まないという意味での一般的な麻雀では槓ですら見る機会がそれほど多くないのだ。槓からしか発生しない珍しい役である嶺上開花を信じがたい確率で和了っているのだから、それを彼女が武器にしていることくらい誰にだって見抜けることだ。しかし恭子にとってはその誰にでも見抜けることが何より大事なことだった。

 

 

 続く局も宮永咲が加槓からの嶺上自摸で満貫を和了った。副将戦に比べれば打点の高い和了りが多く、臨海女子を除けば順位はころころと動いた。現時点で姫松は三位、連続和了で清澄が二位に順位を上げていた。自由自在と見間違えるほどにすいすいと和了った彼女の顔に余裕のようなものは見受けられない。恭子の推測が正しければ、宮永咲は前半戦ではもう和了ることはないだろう。それどころかおそらくは自身の得点を下げにさえくるはずだ。それが彼女を縛るルールなのかはわからないが、データはそれを証明している。だから恭子はいったん宮永から目を離すことにした。もはや最悪の可能性を考慮しながら戦える場ではないのはわかりきっていることですらあった。

 

 山がせり上がってきてそれぞれが配牌のために山を崩して手を作っているときに、恭子はネリーの方へふと視線をやってぎょっとした。対局前とは違っておとなしくしていることにも多少の違和感を覚えてはいたが、今の彼女の目には光が宿っていなかった。平板な目で、なにか大事なものが抜けてしまったような緩慢な動作で山から牌を拾っていく。視線は固定されているわけではなく、他家の手の背やまだ残っている山牌をさまよっているようだった。配牌が終わると先ほどとの差がはっきりとわかるほどに目に光が戻った。恭子でなくとも特別な事象を、異能を警戒したくなるような姿だった。しかし恭子の手牌を確認しても、今のところは何も起きていないようだった。

 

 それまでネリー自身の様子になど意識を回していなかったために、先の平板な目が限定的なものなのか恒常性のあるものなのかの判断が恭子にはつかなかった。少なくとも準決勝以前ではこんな様子は確認されていない。しかしこれまでに見られなかったからといってそれが安全だとは限らない、ということを恭子は二回戦で身を以て体験している。とりあえず恭子はこれまで宮永に回していた警戒のパーセンテージをある程度までネリーに分配することに決めた。タイミングとしては悪くない。可能ならもう一つ二つ和了って有利に進めておきたいと考えていたが、場は恭子の思った通りには進行しなかった。

 

 すいすいと手番が進んでいく。長短のリズムの違いこそあれ、途切れなく打牌が続く。本来ならそれは彼女たちが麻雀に習熟している、という理由ひとつに還元できるはずのものであった。しかし恭子はこの卓にそれ以外の別の要素が紛れ込んでいる気がしてならなかった。彼女は知ってのとおり異能を有しているわけでもないし、特別に勘が優れているわけでもない。だから恭子はそれを盲目的に信じ込むようなことはしないし、だからといって自分の中に生まれた疑念を簡単に捨て去るようなこともしなかった。この、どちらも成立し得るという考え方を持続的に持てることも彼女の強みだった。おそらくこの卓では他家の顔色を窺っても何の情報も得られないだろう。頼れるものは限られていた。

 

 まるで示し合わせたかのように誰も鳴く気配すら見せない。牌がラシャを叩く音だけが残った。河を見ると獅子原のそれはいかにも聴牌が近そうな捨牌だった。宮永に責任払いを食らったときにあれだけ余裕を見せていたのは取り返そうと思えばいつでも取り返せるという自信があったからなのかもしれない。一方でネリーの河を見てみると、ひどく不揃いな印象を受けた。牌の並びそのものは特別に綺麗なわけでも汚いわけでもなく、わずかに乱れが見られる程度だったが、牌の捨てられた順番からはどこかぐちゃぐちゃな印象を受ける。()()()()()

 

 実際のところ結果で語られる傾向の強い麻雀という競技において、牌を捨てる順番に正しいも正しくないも存在しない。そもそも配牌から局ごとに違う上に、プレイヤーごとに牌を捨てる基準など違って当たり前なのだから。ましてや異能という常人には理解の及ばぬ領域に住まう人もある中で、そういった線引きをしようと考えること自体が無意味であろう。そんなことは恭子もわかってはいるが、それでもなおそう思う。良手悪手の判断を飛び越えて、絶対的に正しくない何かがそこにはある。対局が終わって牌譜を確認すればわかるのかもしれないし、あるいは既に控室で郁乃が見当をつけているかもしれない。不自然に過ぎる捨牌が並ぶ河は、やはり不自然なタイミングで途切れた。

 

 「……ん、はい、ツモ。3000・6000だよ」

 

 じゃら、と音を立てて開かれたネリーの手には、やはり強烈な違和感が残った。完成形と局中の打牌がどうしても結びつかないのだ。もちろんどのタイミングでどの牌が手に入ったのかは今この場ではわからない。信じられないような自摸を繰り返した可能性はまだ残る。恭子だけでなく宮永も獅子原もじっと彼女の和了った形を見ているということは、おそらく腑に落ちない何かを感じ取ったのだろう。誰が音頭を取るわけでもなく、全員が一斉に自動卓の中央に牌を流し込んだ。

 

 

 迎えるのは前半戦最後の局。一位を走る臨海女子とその他の差は歴然としていて、もはやそれを埋めるなどという発想すら出てこないくらいだった。その一方で二位以下は混戦と呼ぶには十分に近い点差であり、最下位であっても満貫以上の和了ならば簡単にひっくり返りかねないものだった。現状に対して恭子の頭脳が下した評価はあまり芳しいものではない。このままずるずる行けば手を出すチャンスすらもらえずに敗退する可能性まである。彼女の中での最大のネックは、意外なことに現時点で最下位に沈んでいる有珠山の獅子原であった。

 

 せり上がってくる山牌を確認すると同時に恭子はネリーに視線を送った。今度は意図的に、だ。もしもあの平板な目が彼女のプレイスタイルに影響を及ぼしているのならば、その発動を事前に察知することができる。仮にそうではなかったとしても損になることはないだろう。果たして彼女の目は、明らかに奥行きを失ったあの目であった。

 

 前局が強烈に脳裏に焼き付いているのか、または勝手な思い込みで相手を必要以上に大きく見ているのか、恭子は奇妙な緊張感に包まれていた。理想を言えばここで宮永に重たい一撃を食らわせておきたいものだが、おそらくそれは許してはもらえないだろう。にわかには信じがたいことだが、彼女がきわめて限定的な範囲において点数調整を可能とし、またその時に最も実力を発揮することは紛れもない事実であった。

 

 一様に細く白い手が、四方からゆっくりと伸びて状況を展開していく。まるで花を摘むかのようにたおやかな手つきは、それだけを見れば競争ごとなどとはかけ離れた遊戯をしているかのような錯覚を与える。それはまるで何かの示唆のようだった。

 

 南三局での和了で調子づいたのか、ネリーは得意げに鼻を鳴らして牌を自摸っては河へと捨てていく。河の様子はまたも不自然で、そこから彼女の手格好を想定することはほとんど不可能に等しかった。一方で恭子の手は遅々として進まず、また無理をして和了っても実入りの少なそうな牌姿であった。和了ることが最善には違いないが、その過程で無理をして振り込んでしまえば目も当てられない。点を無駄にできないこの状況では、退くことの戦術的価値が相対的に上がっていた。

 

 「ポン」

 

 あるいはこのまま流局するかもしれない、という考えが恭子の脳裏をかすめた九巡目、恭子の捨てた二索に対してアクションを起こしたのは宮永咲だった。手前に鳴いた牌を晒して、喰い取った代わりに手牌から一枚捨てる。この行為が持つ意味を恭子は知っている。基本的に宮永咲のポンの奥には加槓が控えており、この鳴きはただの準備段階でしかない。なぜなら自前で四枚の牌を揃える暗槓も三枚揃えた上に他家のもう一枚を鳴いて完成する大明槓も、そうそう成立するような簡単なアクションではない。それと比べればそのチャンスを増やすために先に三枚を鳴いておきながら四枚目を持ってきて作る加槓のほうがまだ作りやすいからだ。もちろんそれでも確率で見れば高いとは到底言えるようなものではなく、それを実現している彼女がいかに歪んだ法則の上に立っているかがよくわかる。

 

 ポンすなわち槓、という発想は宮永を相手にするときだけは正しいと言ってもよかったのだが、恭子にとってこの事態は想定からはまったく離れていた。これまでの試合を観る限り、彼女は槓を攻撃面でしか使用していない (同時にそれ以外の利用法があるかどうか恭子には見当もつかない)。それを踏まえて考えるならば、宮永は半荘ごとに約プラス5000のルールを自ら破ることになる。それも勝ち負けが決定的にならない場面においてだ。しかしそれでは彼女が、少なくともこの大将戦で大暴れをしていない理由がつかなくなる。なぜならプラス5000のルールを無視するのなら初めから点数を稼ぐはずだからだ。控えめに言って、恭子は混乱していた。そして彼女が点数調整のために鳴いたのだとすぐには気付けなかった。試合前に確認していた通り、宮永咲は点数調整の天才だった。彼女のポンに対してネリーの眉が小さく反応したことに気付いたのも、また本人だけだった。

 

 「……ツモ。1000・2000で終わりだよ」

 

 

 どこか不満げなネリーの和了宣言で、大将戦の前半戦が終了した。ネリーの河の違和感も宮永のオーラスでのポンも、恭子にはわからないことだらけであった。しかし結果的にネリーは和了り、宮永は三万点返しで見れば±0を達成していた。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


                大将戦開始     前半戦終了

ネリー・ヴィルサラーゼ →  一四九二〇〇 →  一六一九〇〇

末原 恭子       →   九〇七〇〇 →   八一〇〇〇

獅子原 爽       →   七九九〇〇 →   七一八〇〇

宮永 咲        →   八〇二〇〇 →   八五三〇〇


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42 花を手折る

―――――

 

 

 

 「……なんなんですか、あれ。ほとんど未来予知やないですか」

 

 「きょーこが和了ったときの変な鳴きもあったしな」

 

 現場ではなく各選手の手牌を見ることができる控室では、恭子が不自然に思ったネリーの河にも宮永のポンにも一定の結論を出すことができていた。もっともそれが理解の及ぶ範疇の仕掛け合いであったかどうかとは別の話ではあるが。

 

 漫の口からこぼれた言葉には驚嘆と抗議の色が混じっていた。ネリーの手順を見る限り、彼女は引いてくる牌を事前に察知していたような節があったし、宮永は明らかにそれを理解して自摸順を変更していた。もし彼女の鳴きがなければネリーの和了はもう少し早く、もう一段階上のものであったことがその後の自摸で判明している。漫がそれらのことを指して未来予知と呼んだのは仕方のないところと言えるだろう。

 

 大将戦が始まる前まではそれなりに散った場所に陣取っていた姫松の部員たちは、拳児を除いていつの間にか一つのテーブルを中心とした座席に集まっていた。額を突き合わせて口々にネリーの持つ異能についての議論を交わしていたが、共通してもうひとつ腑に落ちない部分があるようだった。本当に未来予知ができるのであればもっと効率的な打ち回しができるだろうという疑問点がその中心である。納得のいく結論が出せないと判断した彼女たちは、その分野において突出している郁乃に話を振ることにした。異能についてはまったくわからないと普段から公言している拳児はもちろん頼られない。

 

 「ん~、未来予知とはまたちゃうと思うけど、ちょっと牌譜ほしいところやな~」

 

 いつものように顎の辺りに人差し指を持ってきたままで何でもないように答えを返す。ネリーの河におかしな点が見られたのは半荘の間のたったの二局だ。岡目八目とはいえそれだけで大雑把な推論が立てられるというのも異常な話だった。それこそ漫のように未来予知という発想に飛びついても文句の言えないような打ち回しだったのだから。ただ郁乃の言葉から察するに、ネリーの手順には未来予知とはまた別の解釈が存在しているらしい。それも彼女の異能が未来予知だと仮定した場合の矛盾点を解消するようなかたちで。

 

 「しっかしサンドラちゃんも優秀さんやね~。どっからあの子連れてきたんやろ?」

 

 「いやいやグルジアでしょ」

 

 「んふふ~、そやんな~」

 

 粗末なボケとツッコミに満足したように微笑んで、言うべきことは言ったとばかりに郁乃は口を閉じた。本当ならば部員たちももう少し突っ込んだ部分まで話を聞きたいのだろうが、当の郁乃が牌譜がなければ解析は難しいと言い切っている。となればそれの検討はサポートメンバーから上がってくる牌譜をはじめとした資料を受け取ってからということになる。あるいは臨海女子そのものの得体の知れなさも、すぐさま打ち筋の謎を解明するべきだという流れにならなかったことの一助になっていたのかもしれない。

 

 

―――――

 

 

 

 ( こっからが正念場や。まずは宮永を削る。最後もしっかり締める )

 

 恭子は両手で自分の頬をぴしゃり、と張った。もともと麻雀は運の要素が強く絡む競技ではあるが、この試合は今まで以上に、ひょっとしたらこれまでで一番かもしれない、リスキーなものになりそうだった。無事に姫松が決勝に進むためには恭子がいくつかの難度の異なるギャンブルに勝たねばならない。そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 姫松高校のエースにして主将、そして世代を代表するプレイヤーのひとりと目される愛宕洋榎の言葉を借りれば、末原恭子はどれほど弱い相手に対しても気を抜かず常に最悪をも想定して対局に臨むのだという。そしてだからこそ彼女は強いのだとも。今も多くの人がその言葉をそっくりそのまま受け取って、末原恭子の堅実さこそがその強さの根源なのだと勘違いをしている。もし彼女がそれだけのプレイヤーであったならば、愛宕洋榎は決して彼女を強いと評することはなかっただろう。そういった勘違いの根本には、チームとしての姫松の勝ちパターンが関係していた。

 

 本人が気付いているかはわからないが、末原恭子には圧倒的な勝利への執着がある。それこそが洋榎をして強いと言わしめている要素である。そして堅実さと勝利への執着という似通わない要素に共通項を作り出すのがチームとしての姫松の戦術なのである。以前に拳児が触れたように、姫松というチームはどこまでいっても愛宕洋榎を中心としたチームであることには疑いようがない。中堅の彼女までで稼いだ得点を後ろが守りきる。それは他チームの事情も考慮に入れれば実に有用な戦術であったし、またそれでここまで勝ち抜いてきたことも有用であることを証明している。つまり大将である末原恭子に求められてきたのはリードした点差を守り抜くことであって、そこで必要とされるから彼女は格下相手であっても徹底した打ち方を貫き通していたにすぎない。言い換えれば勝利にもっとも近い打ち方をしてきたにすぎない。むしろ堅実に打つことに徹してきたことが、その勝利への執着をより際立たせていた。

 

 播磨拳児と赤阪郁乃はそれを見抜いていたからこそ、彼女を大将に据えた。実力もさることながら、ぎりぎりのところで一歩踏み込める人間はそう多くない。現に恭子は、ほとんどの人間が怖気づいてしまうようなこの状況で、冷静に勝ち筋を探した上での決断を下している。やけを起こした向こう見ずなギャンブルではなく、勝ちをもぎ取るためのクリア可能な賭けに討って出ている。もちろんそれにリスクがないわけではない。どれかひとつでも外せば、それだけで負けが決まってしまうような綱渡りであることは間違いない。しかし末原恭子は、勝つ見込みはないが惜敗はできる戦術と、勝つ可能性がわずかにあるがしくじれば大敗する戦術を天秤にかけて迷いなく後者を選び取った。ある意味では恭子と拳児は似た者同士なのかもしれない。

 

 

 休憩時間が終わりに近づき、恭子が廊下から対局室へと入る。既にそこには対戦相手の三人ともが揃っていた。普通ならば緊張感が支配していそうなものだが、ネリーと獅子原からはそういった気負いはまるで感じられず、むしろこれからの麻雀を楽しもうという気配さえ感じられる。一方で宮永は静謐な雰囲気を纏っていた。間違いなく今大会で最も状態が仕上がっている、と問答無用で恭子に思わせるほどに集中が高まっているのが外から見てもわかる。それを見て何を思ったのか、恭子は軽く笑みをこぼした。

 

 

―――――

 

 

 

 さて、と恭子はねめつけるように改めて配牌に目をやった。期待こそあまりしていなかったが、いざ蓋を開けてみると牌姿はそれなりに整っていた。現状でやらねばならないのは宮永の得点を少しでも削ること。おそらくまともな方法では直撃は難しいだろうから自摸で削っていくしかない。そのまま黙って沈んでくれるのが理想的だが、さすがにそう簡単には行かないだろう。とりあえず優先されるべきことは和了ることであり、それを頭の中で確認した恭子は短く息を切って親であるネリーの第一自摸を待った。

 

 いつだって和了に求められるのは速度と打点の両立であり、その兼ね合いこそが麻雀の醍醐味と断言する人もあるほどである。それらを高いレベルで両立させるような卓越した嗅覚を持っているわけではない恭子はセオリーに従って丁寧に打ち進めることで、運が良かったのもあったのだろう、見事に聴牌にたどり着いた。他家を見渡せば攻撃的な気配は読み取れない。油断などはもってのほかだが、そのせいで恭子自身が攻めっ気を失ってしまっては本末転倒というものだ。恭子は手替わりも視野に入れつつ、この局では引き下がらないという決断をした。

 

 ( よし、出足好調! ちょっとでも私に有利な状況にしとかんとキツいしな )

 

 欲しかった八萬をさっと自摸ってきて恭子は和了を宣言する。5200の和了りは決して痛烈なダメージにはならないが、それ以上に大きな効果をもたらすという確信が恭子にはあった。点棒を他家から受け取って、体の奥がじんと熱くなるのを感じ取る。もうこの時点で恭子の目に余計なものは映っていなかった。目標の達成、ひいては恭子にとっての勝利が彼女の思考を支配していた。

 

 

 しかし攻めの思考に転じるということは、どうしても同時に隙を生むことになる。それは恭子にとってあまり望ましくないかたちで突きつけられることとなった。有珠山高校がどうしてこの準決勝に進むことができたかと問われれば、その要因はいくつか存在している。二回戦において臨海女子のターゲットに入っていなかったということもそうだし、幸運というならそもそもの山がそうであったと言うこともできるかもしれない。ただ、もっとも大きい要因を挙げろというなら、それは間違いなく大将を務める獅子原爽の存在にあった。もともと麻雀部としてすら活動していなかった卓上ゲーム同好会を、一年も経たずにリーダーとしてここまでひっぱり上げた。もちろんそんな新興校に牌譜などあるはずもなく、予選と本選で得られる情報からは彼女のスタイルを見抜くことはできない。特に気を張っているわけでもない表情をした少女は、恭子がこれまでに見てきたタイプとはまた別種の怪物だった。

 

 「そいつだ! タンヤオ三色ドラドラで8000だなっ」

 

 当然ながら思考を攻め寄りにしたからといって、そうそう恭子の警戒網を潜り抜けることができるわけではない。勝ち方とその道筋がはっきり見えている彼女はそれを邪魔されることを嫌い、だからこそそういった事態に陥らないように、完璧とは言えないまでもできる限りの注意を払う。つまり今の獅子原の和了が示しているのは、もちろん手が揃えばという前提はあるが、恭子の警戒をそれほど苦にせず和了れるということだ。楽しそうな顔は挑発でもなんでもなく、純粋に楽しんでいるのだろう。そのことが恭子にとっては何より厄介で仕方がなかった。強いというだけならまだ手の打ちようがあるかもしれないが、仕掛けどころの掴めないプレイヤーというのは対策が格段に打ちにくくなる。恭子からすれば点を削られたことよりも獅子原が動き出したことの方がはるかに厳しかった。

 

 次局次々局と好き勝手はさせないとでも言いたげに宮永とネリーが自摸和了り、さらにもう一度獅子原が恭子に直撃を食らわせた。状況はまたも恭子にとって悪い方へと傾き始めている。もう少し気張らなければ最後のギャンブルの舞台にさえ上がれないかもしれない。冷徹にこじ開けられそうな穴を探す。卓に着いている三人ともが恭子よりも格上というのがここへ来て響いていた。なかなか隙が見当たらない。

 

 少なくとも恭子の主観では、同卓しているのがネリー、宮永、獅子原の三人だから厳しい情勢に立たされていると見て間違いはなかった。しかし()()この三人だからこそ成立する論理があるということには誰も気付けなかった。もしも気付ける者がいたとしたら、それは比喩でなく神以外にはあり得まい。

 

 

 恭子は努めて彼女に対して意識を割かないようにしていたから、新たな怪物が宮永による大明槓からの責任払いを食らった時に笑っていた理由を突き止めることができなかった。あるいは意識を集中したところで理解できなかったかもしれない。獅子原が直に被害を受けて笑っていた理由は、単純にすごいものを体験して楽しんでいただけのことである。そして彼女は、あろうことか()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「待った、そいつを槓だ!」

 

 獅子原は宮永の手から離れた発を攫って、手から三枚の発を晒す。どの観点から見ても全くの愚策としか言いようのない動きだった。役牌を抱えているならそれで奇襲をかけるべきだし、何より大明槓そのものにメリットと呼べるほどのものがないのだ。お遊びの、それも圧倒的に優勢な時にやるようなプレーであって、間違ってもインターハイ準決勝の重要な局面でやるようなことではない。そのアクションに理解の及ばない恭子は呆けたように口を開けており、ネリーはなにか不満そうな顔つきになっていた。そして宮永は、どうしてか悲痛な面持ちで王牌を眺めていた。

 

 嶺上牌を掴もうとする獅子原は、これから間違いなくいいことが起きると信じ切っているようだった。具体的に言うならば、彼女は自身の和了を疑っていなかった。何らかの異能が関わっている場合を除いて、嶺上開花とは奇跡の役である。紙のように薄い確率で存在する和了り役であるからこそその名を冠しているのだ。普通ならばそんなものは成立しない。しかし観客や解説はどうだかわからないが、対局室にいる全員は直感していた。これは和了に繋がる、と。

 

 「いやァこれ決めると気分いいな! はっは、悪いけどアタリだ!」

 

 まるで意趣返しのように、打点こそ違ってはいたものの宮永に責任払いを返した姿は誰が見ても華やかと評さざるを得ないものだった。それも二位だった清澄の宮永に直撃させて順位を逆転させたのだから演出としてもこれ以上ないと言えるほどのものだった。後にこの大将戦は語り草となるのだが、人によっては席決めの段階で勝負は決まっていたと言う者もあったし、このタイミングで決まったとする説もあった。もう少し踏み込むならば、この獅子原の和了をどう受け止めたかが分かれ目であった。

 

 宮永咲の胸中は穏やかではなかった。彼女にとって嶺上開花とは代名詞であり、また彼女にしかわからない理由で神聖ですらある領域であったからだ。純粋に対局を楽しんでいる獅子原に悪意がないことは明らかだったが、それとその場所に踏み込まれたという事実の間に関連性など存在していない。嶺上開花によって王牌から牌を持っていかれることは宮永にとって片腕を持っていかれることに等しく、声を出さんばかりに痛みを伴った苦痛だった。奪われた聖域は取り返されなければならない。その瞬間から彼女の視界には余裕がなくなった。±0を達成することと誇りを取り返すことしか見えなくなっていた。

 

 あまりに華々しいかたちでの二位への上がり方にネリーは不満を覚えていた。これでは前半戦で残した自分の印象が薄れてしまうかもしれない。勝利は既に確定していると言っていい。何なら役満を振り込んだところで臨海女子の優位は揺らがないのだから。だからネリーの思考はアピールへと向いていた。端的にスポンサーたちにアピールするためには実力を見せればいいだけの話だが、見せ方というものがある。あまり手の込んだものは決勝以外では見せたくないということを考慮に入れて、ネリーはシンプルに考えることに決めた。先ほど目立っていたプレイヤーから和了れば最高の結果とは言わずとも悪くない印象くらいは与えられるはずだ。別に能力に頼らずともその程度のことは問題なくできる。なぜなら彼女は臨海女子の大将なのだから。

 

 獅子原の和了を承けて冷静に頭を回していたのは恭子ただひとりだった。彼女だけが演出効果や印象に操作されることなく、和了によって発生すると考えられる効果や変化する条件に気を配っていた。そして細い光明が差してきたことに気付いていた。恭子は条件を洗い始める。現時点で二位の有珠山の得点は84200。南三局がどう動くかにもよるが、ここを叩かない限りは決勝に進めないのは確実だ。次に三位の清澄は78000と後半戦開始時に比べて落ち込んでいる。そして最も重要なのが、宮永咲は大将戦終了時に90000前後の点数で終わることを狙っているはずということだった。彼女の全力が発揮されるのは±0を達成するときであり、今の面子を相手にこの点差は彼女にとって実に厳しいことだろう。おそらく宮永はオーラスの親番で満貫を和了ってぴったりの点数を狙うだろうと恭子は考えた。なぜなら南三局で下手に点数を動かしてしまえば難易度が跳ね上がってしまいかねないからだ。なおかつ最終局で嶺上開花で決めようとするだろうことにも恭子の考えは及んでいた。武器を持つ者はそれを自分のものだと主張しなければならない。目の前でお株を奪われてしまった場合などは特に。これは大きな付け入る隙になる。

 

 ネリーについては点差が離れていることも手伝って、恭子からは考えるべき相手ではないと判断された。宮永にはぜひ今の点数をキープしてもらわなければならない。動きを読みやすい点数であってもらわなければならないからだ。満貫で和了ることなど麻雀ではまるで珍しくもないことだが、かと言って楽々と組み上げられるものでもない。宮永の今の点数は、恭子にとってベストだ。したがって自然と恭子の思考の矛先は獅子原へと向けられることとなる。どのみち一万以上の差がついているのだから、そこをある程度は埋めなければ舞台に上がれない。試合前に立てた計画からは呆れるほど離れてしまったが、どうにか食らいつける位置までは持ってくることができた。熱でも出ているのかと思うほどかっかする頭に一度だけ手をやって、恭子は口の端をわずかに上げた。

 

 

―――――

 

 

 

 早業だった。わずか六巡で聴牌形を作り上げたネリーは、そのままそれを獅子原に叩き込んだ。恭子が見た限りではあの平板な目は確認できていない。仮にあれが異能の発動条件であるとすれば、彼女は素で打っても十分に日本の高校生のトップクラスと張り合えるということになりかねない。背すじを冷たいものが通ったが、それも決勝まで進まなければ何の意味もなさない。とにかく恭子はオーラスに意識を集中しなければならなかった。彼女には理由こそわからないが、ネリーが獅子原から直撃を奪ったことは間違いなく恭子にとっての追い風となる。未だ順位こそ最下位だが、二位の背中が近づいた。

 

 

 姫松が二位抜けをするためには、このオーラスで恭子が和了る以外の道は残されてはいない。他の誰が和了ってもその時点でアウトなのだ。加えて彼女はこの局ではちょっと特殊な手の作り方をしなければならない。もちろん手を進める必要はあるが、あるタイミングで手替わりを要求される。そこがこの作戦のキモだ。おそらく普段ほど冷静ではない宮永が縋るであろう戦法が、そっくりそのまま彼女を刺す槍となる。そんな不確かな奇襲をかけるくらいならば素直に和了ればよいという声があるかもしれないが、恭子には獅子原と速度比べをして勝てる自信がまったくなかった。ならば獅子原の手がぐずつくように、少しでもセオリーからは外れなければならない。ある意味で言えば迷彩を打ちながらのギャンブルなのだ。

 

 配牌こそそれほど打点の期待できないもので頭を抱えそうになったが、自摸を進めていくうちにドラの雀頭が完成し、恭子は内心で歓喜した。ここで幸運が向いてくるのは何にも代えがたい価値がある。萎れそうになっていた闘志が勢いを増した。あとは宮永の動きで全てが決まる。もし宮永が動く前に逆転手ができるならそのまま和了ってしまってもいいのだ (恭子はそちらが実行できるとは初めから考えていなかったが)。

 

 そしてついに宮永がネリーの捨てた七索に反応した。そうだろう、と恭子は食い入るようにその牌を見つめた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あとは加槓を実行される前に、彼女が鳴いた牌に合わせて手を作るだけだ。そう、槍槓を叩きこむのが宮永咲をねじ伏せるたったひとつのやり方なのだ。恭子が牌譜を調べた限りでは地方予選の決勝で食らっていたのを確認している。本来なら警戒してはいただろう。しかし獅子原が宮永に責任払いをさせたことで彼女の頭は熱くなっている。その警戒が抜けてしまっていてもおかしくないのだ。なぜならいかに麻雀が強かろうと彼女はまだ高校一年生の少女でしかなく、心のコントロールなどプロであっても難しいとされるのだから。

 

 宮永が鳴いたその牌を見つめていたのが自分だけではないことに恭子は気付いていなかったが、そのことからも彼女に余裕がなかったことが窺えた。

 

 四巡後、宮永は引いてきた牌を見て確認することなく槓を宣言し、もともと鳴いてあった七索にもう一枚を加えて、嶺上牌を引こうと王牌へ手を伸ばした。その瞬間に()()の手が同時に彼女たち自身の手牌を倒した。

 

 「ダメだな、その牌は引かせない。ロン、ってちょっと待て、なんでお前も手を晒して……?」

 

 「加槓も成立せえへんし、そのロンも一歩遅い。頭ハネや、7700いただきます」

 

 信じられないものを見たかのように宮永と獅子原の目は見開かれていた。胸に去来する思いこそ違えど無理もないだろう。いくつもの偶然と幸運が重なり合うことでやっと生まれる幻想的なまでの和了だったのだから。偶然と幸運が重なり合うという意味では、この大将戦は麻雀の本質に迫った二半荘であったのかもしれない。あるいは先鋒戦から連なるこの準決勝自体がそう呼べるものなのかもしれないが、それを判断できる人間はどこにもいなかった。

 

 恭子は卓の縁に両手をついて下を向き、周囲には気付かれないようにゆっくりと息を吐いた。手が震えているのがよくわかる。それほどまでに自身が消耗したのか、それとも極度の緊張状態から解放されたことを理由としているのか、そのどちらでもないのかの判断が恭子にはつかなかった。対局が終わって、恭子はここが東京にあるホールであることをやっと思い出した。ついさっきまでは別の場所で戦っていたような気さえしてくる。目を見開いていた二人も最後の和了の衝撃が抜けたのか、今度は複雑そうな表情を浮かべていた。

 

 

 「参った、まさか私以外に槍槓狙ってくるやつがいるとは思ってなかったよ」

 

 臨海女子と清澄の一年生ふたりが対局室を去った後に獅子原から声をかけられて、恭子はすこし驚いた。

 

 「それはこっちのセリフです。なんでまっすぐ早和了り目指さんかったんですか」

 

 疲れた目を向けつつ返す。恭子からしてもそこは疑問が残っていたところだった。正直なところそれをやられていたら勝ち目が相当薄くなったのではないかと考えていたのだ。それを聞いて獅子原は何を当たり前のことを、という風に片眉を上げて口を開いた。

 

 「もし私がそうやって打ってたらたぶん清澄が勝ってたろ、あれはそういう打ち手だよ」

 

 「……獅子原さんがスーパープレイヤーでほんま助かりましたわ」

 

 そう言って恭子は肩を竦めた。おどけたような調子ではあるが、これは間違いなく彼女の本音であった。細かい断定まではさすがにできないが、普通に獅子原が和了りを目指していたら負けていたというのはおそらく事実であったのだろうと恭子は思う。そうでなければ獅子原までもが槍槓を狙いに来る理由がないからだ。ま、そういうことだな、と手をひらひら振りながら去っていく彼女の姿が、やけに恭子には印象深かった。

 

 

 こうしてBブロック準決勝戦の結果、臨海女子が一位、姫松が二位で決勝戦への進出を決めた。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


                後半戦開始     南三局開始     大将戦終了

ネリー・ヴィルサラーゼ →  一六一九〇〇 →  一六五四〇〇 →  一七〇六〇〇

末原 恭子       →   八一〇〇〇 →   七二四〇〇 →   八〇一〇〇

獅子原 爽       →   七一八〇〇 →   八四二〇〇 →   七九〇〇〇

宮永 咲        →   八五三〇〇 →   七八〇〇〇 →   七〇三〇〇


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43 種

―――――

 

 

 

 ざっと降った夕立はすぐに上がって、真夏の暑気を和らげることなくただじっとりとした重たい空気を残していっただけだった。空を見上げれば本当にさっきまで雨が降っていたのかと疑いたくなるほどに、雲は控えめにその存在を主張していた。もう五時を過ぎるというのに青空はまだまだ高く、日差しは十分に強かった。もうホールの外にも人はまばらで、試合が行われていた日中に満ちていた熱気はすっかり影をひそめていた。

 

 景観を整えるように植えられた木々に蝉が取りついて声を上げている。夕方になれば鳴く蝉の種類も変わるようなイメージがあるが、実際に耳を傾けてみるとそうでもないようだ。あるいはまだその季節になっていないのかもしれないし、今年のアブラゼミが驚くほど頑張っているだけなのかもしれない。夜がゆっくりと近づいていた。

 

 

―――――

 

 

 

 夕食の後のミーティング、主に決勝戦の相手の対策会議、を終えた漫と絹恵は、二人でホテル内にあるコンビニエンスストアへと足を運んでいた。二人とももうすっかり寛いだ軽装で、それだけで夏の匂いが感じ取れた。それなりに夜も遅くなっているため、お菓子や軽食の類ではなく飲み物の棚の前に並んで商品を選んでいる。姫松高校が選んだホテルは規模も大きく、そのため他校の代表も宿泊してはいるのだが、決勝卓に座る高校はどこも宿を別にしているようだった。

 

 それぞれ好みの一本と、見たこともない不思議な味のしそうな飲料を試しに一本買って、二人はコンビニを後にした。夜のホテルのロビーは昼間よりもやけに豪華に映る。外の暗さとこちら側の照明がそんなことを思わせるのかもしれない。漫は部屋に戻る前にロビーでちょっと休んでいこうと提案した。

 

 「ん、ええけど?」

 

 「いま戻ってもなんかに巻き込まれるやろし、それに絹ちゃんと話したいこともあって」

 

 漫はすこしだけ照れくさそうに笑って視線を絹恵に向けた。話したいことがある、と言われた絹恵の方は意外そうな顔をしていた。普段から仲良くしているつもりだが、あらためて話があると言われるような話題がまったくと言っていいほど絹恵には思い当たらなかった。ちなみに絹恵は漫の言葉の前半部分には全面同意している。播磨拳児を含めた三年生の四人が揃って何も起きないわけがないのだ。とは言っても事件の類ではなくほとんど漫才のようなやり取りではあるのだが。

 

 漫の誘導に従ってロビーにあるソファに座る。絹恵は美人タイプと評されることが多いが、漫は漫で実に可愛らしい顔立ちをしている。たしかに末原先輩がちょっかい出したくなるのもわかる、と絹恵がつい思ってしまうような親しみやすさが彼女にはあった。いつの間にかその表情が真剣なものに変わっていた。

 

 「あんな、うちらの先輩たちってむっちゃ頼りになるやんか」

 

 普段の学校生活や部活中は結んでいる髪を解いている漫は、慎重に言葉を選ぶように小さな声で話し始めた。絹恵はここで口を挟むべきではないと判断したのだろう、漫に視線を向けてしっかりと話を聞く姿勢をとった。

 

 「でもな、来年になったらもう先輩たちはいーひん。播磨先輩はまたちゃうと思うけど」

 

 「そやけど、急にどしたん?」

 

 明らかに悔しさをにじませて漫は声を絞り出す。

 

 「絹ちゃんの試合中にな、播磨先輩に言われてん、レギュラーやったら頼られなあかんって」

 

 「……まだうちらはそうなってない?」

 

 すこし思案して絹恵は漫の言いたいだろうことを補足した。やわらかいソファに沈んだせいで、漫がいつもより小さく見える。漫の話は少なからず絹恵にとってもショックではあったが、どうやら彼女は絹恵よりも深刻に受け止めているらしい。

 

 漫は小さく頷いて肯定した。実は先ほどの発言の中に本人が聞けば即座に否定が入るような内容のものがあったのだが、漫も絹恵もそれに気付いていなかった。

 

 「だからな絹ちゃん、うちは明後日の決勝から頑張る。頼ってもらえるよう頑張る」

 

 「なんや漫ちゃんめっちゃカッコいいわ」

 

 「そんなんちゃうよ、でもすぐうちらの時代が来る。そんとき頼れる人おらんのはダメや」

 

 そう口にした彼女の顔は、責任や立場といった言葉の意味を正しく理解していたように絹恵には映った。わずか一週間あまりで、上重漫は大きすぎると言えるほどの経験を積んだ。それはこれまで重ねてきたすべてが実を結ぶのには十分なものだった。

 

 「……明日の調整、私ももっと真剣にやらんとやね」

 

 「午前だけやし、頑張ろな」

 

 

―――――

 

 

 

 人はあまりにも退屈になり過ぎると、普段の行いからはかけ離れた行動をとることがある。暇は無味無臭の劇薬という言葉もあるくらいで、人は退屈というものへの耐性がないのかもしれない。無論それは拳児であっても例外ではなく、彼もそれに耐えかねてついに行動を起こした。準決勝の翌日、ぽっかりと空いた日のことである。

 

 姫松の面々が宿泊しているホテルから数駅離れたところにある巨大複合ショッピングセンターは夏休みということもあって、たとえば地方から出てきた人間なら驚くほどに混み合っていた。麻雀が世界的に流行しているとはいえ国民すべてが麻雀に熱中しているわけでもなく、加えて今日はその注目の的であるインターハイも決勝前の休養日ということもあってとんでもない人口密度を形成していた。人の波が人を呑むという情景はたいていの場合は特別なイベントでもなければ見られないものだが、ここ東京都心では日常的に見られるというのだから恐ろしい。涼を求めて店内に足を踏み入れた瞬間に拳児は後悔しそうになった。これならやることがないから、と追い払われ続けてきたレギュラーの調整に立ち会わせてもらったほうがマシだったかもしれない。今さら言ったところでどうにもならないことにため息をひとつついて、拳児は店内に足を踏み入れた。

 

 さすがに巨大複合施設だけあって店の種類も多さも段違いだった。アクセサリを含むファッション関係の店舗が多くを占め、次いで飲食店、雑貨屋、各種専門店などいよいよこの施設だけでほとんどの買物は済ませることができそうな気さえしてくる。休養日であるにもかかわらず制服で過ごしていることからわかるように拳児は服装に特別な関心を払っていない。そんな彼にとってはあまり時間を潰すのに適切ではない場所に見えるかもしれないが、それでも十分に退屈は凌げると言えば多少はその規模もわかってもらえるだろうか。とりあえず拳児はバイクのカタログを見るために書店へと向かうことにした。

 

 

 なかなか複雑な構造をしていることもあって、目的地がはっきりとしているとはいえ周囲に目を配らなければ迷子になってしまいそうだった。その過程で実に様々な店に目を向けることになるのだが、拳児は途中で足をはたと止めて何やら考え込みはじめた。

 

 ( アクセサリか……。まァ天満ちゃんなら何でも似合うぶん逆に困っちま…… )

 

 その瞬間、拳児の頭に天からの啓示が舞い降りたような気がした。恐ろしく単純でズレた方程式が彼の頭の中で組み上がっていく。立ち止まられた店側からすれば迷惑なことこの上ない。大きな身体をしたヒゲグラサンが店の前で仁王立ちをしているのだ。拳児の姿を見てそそくさと離れていく女性客のことを考えれば営業妨害といって差し支えない事態に発展していることにこの男は気付かない。

 

 ( 手土産が日本一だけってんじゃあ物足りねえ。そこで気を利かせんのがイイ男ってもんだ )

 

 

―――――

 

 

 

 「播磨くん! そんな、私のために……!?」

 

 「当たり前のことさ、天満ちゃん。キミに相応しい男になるなら日本一くらいは」

 

 「私、やだ、嬉しい……!」

 

 「喜ぶのは早いよ、マイ・レイディ。プレゼントがあるんだ」

 

 「えっ!?」

 

 「これを……」

 

 「すごく素敵……」

 

 「Oh... TENMA...」

 

 「KENJI...」

 

 

―――――

 

 

 

 ( 完璧じゃねーか )

 

 寒気がするほど練り込まれた計画の素晴らしさに拳児が打ち震えていると、意識の遠くから彼を呼ぶ声が聞こえた気がした。どこかで聞いたことのあるようなものだが、日常的に耳にしているものともまた違う。しかしそんなものは拳児にとってどうでもよかった。いま重要なのは彼の女神に贈るプレゼントを吟味することであってそれ以外にはあり得ない。

 

 「ちょっと! なに無視決め込んじゃってくれてんの! 聞こえてるんでしょ!」

 

 雑踏と言っても問題ないような人通りの空間でも妙に通る声を投げかけられ続けて、やっと拳児はそちらを振り向いた。言わずもがな表情にはイヤそうなものが浮かんでいる。

 

 顔を向けたその先には拳児の語彙にはない服装をした白糸台の大将が立っていた。白い色をしたホルターネックオフショルダーに黒のホットパンツ、わずかにヒールのついたサンダルを履いている。外の直射日光の対策のためだろうキャスケット帽を含めた姿のおかげか、先日にホールの外で出くわした時とは印象が変わって見えた。この姿を見て麻雀のインターハイに出場するために東京にいるのだと判断できる人間はいないだろう。もちろんそれらすべてのことも拳児にとってはあまり興味の対象になっていない。

 

 「あー、大谷だったか」

 

 「大星だよ! 大星淡! シツレイしちゃうなあもう」

 

 わかりやすく頬を膨らませているところを見ると彼女はからかわれたと思ったのかもしれないが、実際には大真面目に名前を間違えられただけの話である。

 

 「で、ハリマケンジはこんなとこで何してたの?」

 

 「何もしてねーよ。つーか通りがかっただけだ」

 

 まかり間違っても恋人との幸せな未来を妄想していたとは言えまい。拳児は努めて冷静を装って淡に言葉を返した。とっさに出たそれは拳児の能力を考えれば満点に近いようなものだったが、世間はそれほど彼に対して甘くはないようだった。

 

 「えー? そこでずっと黙ってアクセ見てたのにー?」

 

 大星淡もまた良くも悪くも自分に正直であり、怖いもの知らずであり、空気を読んで察するということに重きを置かない価値観の持ち主であった。播磨拳児を知っているほとんどの人間が彼女のように突っ込んで話を聞くことはできないだろう。周囲が勝手に作り上げた像とはいえ、彼はもはや気安く話しかけられる存在ではなくなっていた。

 

 「……見てねえ」

 

 「バレバレの嘘はダメだって。で、どしたの? 好きな人にプレゼントとか?」

 

 そのあまりのピンポイントぶりに拳児は硬直せざるを得なかった。しかし冷静に考えればふつう男が女性向けのアクセサリショップの前に突っ立って商品を眺めていれば結論がそうなるのは自然なことである。ただ残念ながら客観的な視点を持たない拳児は、見抜かれたことに小さくない衝撃を受けていた。ここまで見抜かれているとなると恋をしていることどころかその相手まで見透かされているのではないかとさえ拳児には思われた。誰かにそんなことを話せばマンガの読み過ぎだと笑われて終いだろうが、拳児は実際にそれに近い超能力を持った人間を知っている。だからこんな言葉が拳児の口から出るのは決して不思議なことではなかった。

 

 「……お前、もしかしてエスパーなのか? 俺の心が読めるのか?」

 

 「そんなん無理だって。ねえねえそんなことよりプレゼントってマジ? 誰? 姫松の誰か?」

 

 「違わい!」

 

 「えー、じゃあ誰なのー?」

 

 まるで十年来の友達かのような馴れ馴れしさに拳児は驚いていた。喜怒哀楽を隠すことなくのびのび話している様子をもしレギュラー外の姫松の部員たちが見ていたとしたら、下手をすれば団体レギュラーの三年たちよりも親しいのではないかと思う者も出たかもしれない。誰とでも分け隔てなく仲良くなれる能力が素晴らしいことは疑うまでもないことだが、それ以前に目の前の少女には何か、慎みだとか危機管理意識だとかそういった大切なものが欠けているんじゃないかと拳児は思いたくなった。珍しく拳児が、父性というかそういった部分を心の中でこっそりと発揮していた。もちろんそれと実際の対応はまったくと言っていいほど違ったものだったが。

 

 翌日の決勝でぶつかる高校同士の監督と大将がするような会話には聞こえないが、勝ち負けこそあるものの明確な敵意を持たないスポーツである以上、その二人の姿はある意味では正しいものであるのかもしれなかった。必要ないと主張する拳児と、一方的に自分ならどれがいいなどのアドバイスを送る淡の姿は微笑ましいと言えば微笑ましいものだった。あるいは騒がしいと見る人もあっただろう。言うだけ言った後に “そういえば行きたいところがあったんだった” と身を翻したときにはさすがに拳児も唖然とした。まるで嵐みたいな女だったとは後の拳児の弁である。

 

 

―――――

 

 

 

 「で、智葉としてはどこのチームが強敵に見えるのかしら」

 

 気怠げに一人用のソファにもたれかかってアレクサンドラは質問を投げかける。同じ部屋にいるのは智葉とダヴァンだ。普段から賑やかなチームというわけではないが、今はよりそういった雰囲気からは離れている。水を向けられた智葉は困ったように眉根を寄せて、一拍おいて口を開いた。

 

 「……どこも油断できません」

 

 「ワオ、優等生。ってまあ実際そうだから困るのよねえ」

 

 ふうむ、と形のいい顎を手でさする。ポーズとしては考え込んでいるものだが、その表情からは悩ましい問題を抱えていることを察するのは難しいだろう。どちらかといえば “それなりに歯応えこそあるがクリアすることはできるゲームを前にして考え込んでいる表情” に近い。それは自信の表れと取ることもできたが、油断をすれば食われることを理解していると取ることもできた。アレクサンドラがそのどちらを軸に考えているかは彼女自身にしかわからない。

 

 しばしの間うすく笑みを浮かべながら頭の中でなにやらこねくり回していたアレクサンドラは、思い出したように再び智葉に問いかけた。

 

 「そういえば、なんだけど。先鋒の相手はどう見る?」

 

 おそらく昨日、臨海女子と姫松が決勝進出を決めた時点から何度もシミュレーションを重ねていたのだろう、思いのほか返事は早かった。

 

 「宮永照を抑えるという一点で見ればずいぶん有利かと」

 

 「ま、言いたいことはわかるわ。やっぱり姫松が残っちゃったのは誤算だわね」

 

 交錯する視線のうちに音声にならない言葉が交わされる。やり取りに加わっていないダヴァンは呑気にやすりで爪を磨いている。いちいち言葉にして確認するまでもないと思っているのかもしれないし、そもそも自分はそんなことを考える必要がないと判断しているのかもしれない。鼻歌まじりに作業を続けているその様子からは、満足以外のものは読み取れなかった。

 

 臨海女子から見て、決勝戦に上がってきた学校は決して望ましいものとは言えない。白糸台こそ半ば決定事項のようなものではあったが、彼女たちにとって姫松と阿知賀の二校は準決勝で散っていった他のチームに比べて間違いなくやりにくい相手であった。姫松は総合力と、そのオーダーにおいて。阿知賀はアレクサンドラを以てしてもつかみきれないプレイヤーが大将に控えているというただその一点において。二校が残ったのは結果的には順当と言えば順当であるのかもしれない。

 

 「ところでメグ、あの三人は?」

 

 「ハオは川へ洗濯に、ミョンファは山へ芝刈りに、ネリーが桃の中でスネ」

 

 「朝起きたときには?」

 

 「いませんでシタ」

 

 どこで学んだのか日本でもっとも知られているであろう童話を使ってのギャグを思い切り無視されたにもかかわらず、使えたことそのもので十分だったのか、ダヴァンは終始にやにやと口元を綻ばせていた。明日になれば高校生としての最後の試合が待っているというのに、緊張に類するものはどこにも見当たらない。心の強い証だ。もし個人戦に留学生が出場可能であったとしたら大暴れしたに違いないだろう。

 

 「そ。夕食までにはミーティング終わらせたいから間に合うように呼んどいて」

 

 「了解デス」

 

 「私は時間までいろいろ調べてみるわ。なんかあったら呼んでちょうだい」

 

 そう言ってアレクサンドラは立ち上がり、軽い足取りで部屋を後にした。彼女が部屋からすっかり出て行ってしまった後で、ダヴァンはゆっくりため息をついた。話していた内容と口ぶりを考えると、彼女が部屋に残らなければならないのは明らかだったからだ。幸いダヴァンと智葉が今いる部屋にはテレビもあるし、鞄の中には本も入っている。なんとか退屈はせずにすみそうだったが、前向きに時間を潰すのは難しそうだった。同い年の先鋒に目を向けると精神統一でも始めそうな雰囲気だったため、ダヴァンは慌てて声をかけた。真面目に過ぎるというのも困ったものである。

 

 「アー、サトハ? 今から気を張ってもしょうがないでスヨ、リラックスしましょう、ネ?」

 

 「……別に気を張っていたわけじゃないが、どうしろと?」

 

 あれだけ眼光鋭く一点を見据えておいて気を張っていないということもないだろうと言いたくもなるが、わざわざダヴァンはそんなことはしない。暖簾に腕押し、糠に釘。問答が成立しないのはわかりきっているのだ。大人っぽさを感じさせる居住まいに反して意外と頑固なところもある智葉は、一度言い出したらおそらく聞かないだろう。なかなか難しい人となりをしているが、二年と少しも一緒に過ごせば取扱い方くらいはわかってくるものだ。

 

 そして智葉の扱いに関して部内どころか学内随一の自負を持つダヴァンは、ここをからかいポイントであると見定めた。怒りこそするだろうが正座をさせられて説教、とまではいかないだろうと踏んだのである。ちなみに彼女のその勘の正答率はあまり芳しくはない。

 

 「播磨クンに電話とかどうでショウ?」

 

 「馬鹿者。今このタイミングで相手校の監督に電話をかけるやつがどこにある」

 

 思い切り疲れた声でダヴァンの案は却下された。加えてかなり冷ややかな視線までついてきた。しかしこの程度ならば誘いに乗ったと取るのがメガン・ダヴァンという少女であった。声をかけたときから楽しそうな表情を浮かべていたが、今は笑みの種類を変えている。

 

 「恋人に電話をかけるタイミングなんていつでもいいじゃありませンカ」

 

 「そもそもそうじゃないと何度言えばいいんだ私は……」

 

 ダヴァンはこれ見よがしに頭を抱えた智葉の隣に飛んで行って、彼女のどこかのポケットに入っているだろう携帯電話の捜索を開始した。手つきは非常に慣れたもので、智葉による迎撃を十全に考慮した動きを見せていた。やっている内容はどこにでもいる女子高生のそれではあったが、その手数の多さとほとばしる殺気はふつうの女子高生に出せるものではなかった。どうにかして携帯電話を奪ってコールさえしてしまえば真面目な智葉は応対せざるを得ない。それがダヴァン以下臨海女子留学生組のいつもの狙いであった。

 

 数分にも及ぶ携帯電話攻防戦は辻垣内智葉に軍配が上がり、メガン・ダヴァンは三十分の正座の刑に処されることとなった。

 

 

 

 

 

 



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44 Rumble

―――――

 

 

 

 飛び抜けて高い空。二千年来ずっとそこにあったのだと主張しているような、硬ささえ感じさせるほどのうず高い雲。最高気温などどうでもよくなってしまいそうになる暑さ。スイッチを切ったように風は吹かず、目に映る景色は強すぎる日差しのせいで現実感を失った絵画のように映った。時刻は一時半をわずかに過ぎた辺り。上重漫は明日の決勝戦に備えて、息抜きにひとりで観光に来ていた。同い年の絹恵も誘ってはみたのだが、緊張しすぎて楽しめそうにないと断られてしまっていた。どうやら絹恵は漫よりもナイーブな精神の持ち主であるらしい。

 

 さてひとりで観光となると名所などに行ってもなかなか楽しむのは難しい。漫は史跡やそういったものに特別な興味を抱いていないのだからそれも仕方のないことで、すると選択肢は自然と限られてくる。青春の大部分を麻雀に捧げているとはいえ、漫もオシャレに興味津々な年頃の女の子である。東京のショップにどんな服が売っているのかが気になるのは当然のことと言えた。

 

 本当なら黒いTシャツ一枚とホットパンツだけで済ませたかったのだが、着ている黒が日差しを吸収して余計に暑くなっては本末転倒であると理解して、漫は薄いブラウスを一枚羽織ることにした。キャンバス地のトートバッグを肩にかけて歩き出す。制服とYシャツと肌着と下着くらいしか持ってきていない拳児とは雲泥の差と言えよう。

 

 

 もともとお小遣いに余裕があるわけではない漫は、様々な店の商品をじっくり眺めることで楽しんでいた。ラインナップの水準は地元である大阪とそれほど変わってはいないが、店そのものが違うことが漫の気分を大幅に高揚させたのである。年相応のものからちょっと背伸びしたものまで、実に様々な商品を漫は堪能した。気分よく次の店に向かおうかと視線を出入り口に向けると、一人の金髪の女性の姿が目に飛び込んできた。以前、たった一度だけ、それもほんのわずかな時間しか目にしたことがなかったはずなのに、どうしてか漫はその人物が誰なのかを一瞬で思い出すことができた。気が付けば漫は彼女のもとへと走っていた。

 

 漫は何かを聞かなければならなかった。しかし具体的に何を聞けばよいのかはまるで見当もついていない。それでも彼女の足はもう動き出してしまっていたし、無意識のうちに喉は声をかける準備を整えていた。

 

 「あ、あのっ!」

 

 声をかけると金髪の女性は漫の方へと向き直った。日本人のものとは思われないほど白い肌に、染めているとは考えられない美しい金糸の髪。一方で日本人的な要素も含まれた顔立ちから判断するに、純粋な外国人ではなくハーフかクオーターなのだろう。服装はそれこそ簡素と言えるようなものだったが、着ている素材が素材であるためおそろしく洗練されたものであると誤解してしまいそうになる。日本ではあまり見られない色素の薄いブラウンの瞳が漫へと向けられる。どことなく神経質さを感じさせる彼女の美貌は漫を落ち着かなくさせた。

 

 「……あの、前に姫松に訪ねてこられた方ですよね?」

 

 女性は困ったように笑ってそれを肯定した。たしかにあれだけ目立つかたちで知らない人ばかりの集団に乱入したのだから、あまりよい思い出には分類されてはいないだろう。本当なら何年か経ったあとに、こんなこともあったね、と振り返って笑い話にする類のことであったのかもしれない。しかし漫にはそんなことは関係がなかったし、またそれに思い至ることもなかった。漫の念頭にあったのは目の前の女性と播磨拳児とが並々ならぬ関係なのだろうという推測だけだった。

 

 慎重に言葉を選び、おずおずと漫は口を開いた。奇妙な緊張を内包した空気が二人の間の場を支配している。彼女に聞きたい内容は漫の内側から自然と出てきていた。

 

 「えっと、播磨先輩と、お知り合いの方やと思うんですけど」

 

 「ええ、そうよ」

 

 いつの間にか愛理は普段の調子を取り戻し、いつものように人当たりのいい表情を作り出すことに成功していた。これを表面上のものだと見抜ける者はなかなか見つからないだろう。

 

 「前に先輩がインタビューで言うてた “勝利を報告したい人” て、本当に、その……」

 

 聡明な愛理は、あの播磨拳児が監督を務める奇妙な部に在籍している少女が何を聞きたいのかがすぐにわかった。件のインタビューはもちろん愛理も観ていたし、そして拳児の言葉の指す意味を正しく理解している数少ない人間のうちのひとりでもあった。拳児が勝利を報告したい塚本天満は現在アメリカにいるため物理的に遠い場所にいるということも、また彼が途中で監督業を投げ出すことがないことをも愛理は理解していた。ただ悲しいかな、人間という存在は往々にして基準を自分に置いてしまいがちなところがある。漫の、口にこそしていないが “遠くにいる” という言葉を愛理はそのまま文字通りに捉えてしまった。

 

 「そうね、たしかに遠くにいるわ」

 

 決定的な一言だった。もし漫が相手の表情から何かを読み取ることを得意としていれば、あるいは愛理のその普段通りすぎる表情に疑念を持つことができたかもしれない。なにせ愛理からすれば友人がアメリカにいるというだけのことなのだ。しかし現実はそうではなく、愛理は愛理として納得している返答をし、漫は漫のなかで確立されつつあった拳児の恋人が故人であるという未確定だった要素に確信を抱いてしまった。何が正しくて何が間違っているのかをすり合わせる理由が、二人の間には存在していなかった。

 

 それを聞いた漫の顔が辛そうに歪むのが愛理には理解できなかった。愛理からすれば、さすがに笑い話にはできないものの、悲しむというかダメージを受けるのは当人である播磨拳児だけであり、またそれで十分であった。店内の出入り口から少し入ったところで話をしているはずなのに、喧騒がひどく遠くからのもののように聞こえた。

 

 さすがに居たたまれなくなった愛理はどうにか話題を探そうとしたが、もともと知り合いでさえない少女との会話のタネなどひとつを除いて存在していなかった。しかしそれを選ぶことは愛理にとってどこか敗北感の伴うものであった。それが拳児に対してのものなのか自身に対してのものなのか、あるいは姫松高校という集団に対してのものなのかの判断は彼女にはできそうもなかった。

 

 「あー、その、アイツはうまくやってるのかしら」

 

 具体的な名前を出さないことが愛理の精一杯の抵抗だった。

 

 「え? あ、はい。うちらが頑張れてるんは播磨先輩の力もあるんやと思います」

 

 正直なところ、愛理にはその図がまったく思い浮かばなかったが、目の前の少女が言うのだからそこに嘘などないのだろう。初対面でそんな嘘をつく必要などないのだから。“うまくやる” なんて言葉からはいちばん離れている存在だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。思い返してみれば播磨拳児が誰かを指導する立場に立っている場面など愛理は見たことがない。もちろん冗談半分とはいえ彼の意外な才能とやらが発揮された可能性も否定はできないのだ。あらためて播磨拳児という人物の厄介さが身に染みる。

 

 「そう、それならいいわ。決勝頑張ってね、応援してるから」

 

 外に人を待たせているの、とだけ言って愛理は身を翻した。これ以上なにを話せばいいのかわからなかったし、話すべきことがあるとも思えなかった。姫松高校の少女の話から受けた播磨拳児の印象と、もともと愛理が持っていた播磨拳児の印象はことごとく食い違っていて、まるで別の人間の話のようであった。あるいは本当に違う人間だったのかもしれない。そう思うとなんだか愛理は無性に胸に粟立つものを覚えて、しばらく歩いたあと、道にあった小石をひとつ蹴飛ばして帰った。

 

 

―――――

 

 

 

 本来の関東平野の真夏の空気とは違って、滑らかかつひんやりとした空気の満ちた部屋。人類の叡知の成果であるエアーコンディショナーに心から感謝しつつ、洋榎は肌触りのいいベッドの上でだらだらしていた。室内には高校入学以来の友人である恭子と由子が、近い位置で似たような時間の潰し方をしている。テレビは昔に人気を博したドラマの再放送を、ごくごく小さな音量で流していた。とくに視線を集めているわけではないようだ。

 

 「そういえば主将、絹ちゃんはほっといてええんですか」

 

 「ふふん、なんやいつかの漫も似たようなこと播磨に言っとったな」

 

 だしぬけにかけられた言葉に、楽しそうな声色で返事をする。師弟のふたり、少なくとも洋榎はそう思っている、が同じ問いかけをするというのは彼女にとって面白いことだった。ちなみに話題に上がった当人たちは誰一人として室内にはいない。漫は昼食のあとにさっさと出かけてしまったし、絹恵は何やら思いつめた様子でさきほどふらふらとどこかへ行ってしまった。拳児に至っては朝から姿を見せてすらいない。

 

 ゆるゆると体の向きを変えて、ほんの少しだけ眉間にしわを寄せた恭子を視界に入れる。きっと質問にすぱっと答えなかったからの表情なのだろう。意外と表情に出やすいことは姫松のあいだではよくよく知られた事実である。

 

 「まあでもうちも播磨と言うことは変わらんで。絹のことはほっといたり」

 

 「そうあっさり言いますけどね」

 

 ある程度予測された返しに恭子が食い下がる。論理で言えば準決勝での拳児の言い分は理解できるどころか納得できるものでさえあったが、感情的には呑み込みたくなかったのが正直なところだった。もちろん自分もそうだが相手は女子高生だ、いかに名門の部の中核になる存在とはいえ要求が高すぎるのではないかと恭子は感じていた。

 

 「言うことは一緒やけど、意味は播磨とちょっとちゃうからな?」

 

 おそらく勘違いされているであろうことを洋榎は早めに否定した。より丁寧に言うならば、洋榎は新監督である播磨拳児ではまだ知り得ない領域での話をするつもりだった。いくら有能な新監督といえど、できることにはさすがに限りがある。ましてや未だに部員全員の名前すら覚えていない拳児にそれを要求するのは酷にもほどがあるというものだろう。そもそも拳児は有能な監督などではない。

 

 寝転がった状態のまま右手の人差し指だけ立てて、姫松の主将は話を続ける。

 

 「ま、播磨のやつは姫松の名前の重さを正しい意味ではまだ知らんからしゃあないけどな」

 

 どんな洗剤を使っているのか、ラベンダーの香りのするシーツに顔を思い切り押し付けて、その芳香をいっぱいに吸い込む。気持ちよさそうに目を閉じて、そのまま続きを語りだす。

 

 「主将こそ漫がやるやろけど、それでも絹にかかるプレッシャーはハンパないもんになる」

 

 彼女たち高校麻雀に関わる者からすれば信じられないことだが、たしかに拳児はまったくもってその意味を知ってはいなかった。全国トップクラスであり続けることの意味も価値も、彼にはひとつとして響かない。それこそ口角泡を飛ばして説明したところで、関係ない、の一言で済ましさえするだろう。姫松の部員たちから見れば、拳児の目に映っているのは勝利とそのための方策だけであって、それは姫松という環境にあって実に稀有な観点であると言える。しかし稀有であることと本人がそれを自覚していないがために目の届かないところも出てくる。結果的に取る行動は同じだが、伝統があるがゆえの不自由さを理解しているかどうかの違いがそこにはあった。

 

 「名門の重圧に加えてうちの妹っていう目でも見られるやろしな、期待も倍々ゲームや」

 

 「それやったら余計に……!」

 

 「でもな、それは外から何言うてもあかんねん。折れるかどうかは絹次第やな」

 

 愛宕洋榎の言葉だからこそ説得力があった。彼女自身も元プロの親を持つ身であり、その重圧を自力だけで押しのけてきた選手である。彼女にそう言われてしまえば恭子は何も口にできない。すべてのプレッシャーを受け止めて叩き潰して、それでなお燦然と輝く選手がいったいこの国にどれだけいるだろうか。

 

 「強なるんやったらそれは外されへん。絹もわかっとるからひとりになりに行ったんやろ」

 

 頭も回る彼女のことだ、洋榎の言う論理にも自力でたどり着いてはいたのだろう。時間つぶしに出した話題にしては重いものになってしまったな、と反省をしつつ恭子は視線を外した。深く考えなくともそれはやはり本人の問題であり、また次の代が解決するべき課題であった。このままではただの口やかましい卒業生になってしまいかねない。それもこれも思考がふわふわとまとまらないからであって、自覚できていない緊張がそうさせているのだろうと恭子は思うことにした。

 

 

―――――

 

 

 

 白糸台の大将である大星淡の襲撃を受けて昼を過ぎてなお、播磨拳児は東京の街をぶらぶらしていた。調整を終えた部員たちにかけるべき言葉もないように思えたし、あまりにもやることがなさすぎて少しだけ拗ねてもいたのだ。バイクのカタログは目を通すだけで拳児の胸を高鳴らせたが、読み終わってしまうとそれが持続することはなかった。ホテルの部屋でやることなどテレビを見ることくらいしか思いつかないし、もともとそれは拳児の性に合っていない。拳児がいま街をぶらついているのは消去法的なところがあった。

 

 真夏の東京をあてもなく歩き回るというのは無謀とさえ言えるもので、さすがの拳児であっても歩きっぱなしというわけにはいかないようだった。昼食時に休憩こそ取ったものの、蓄積した疲労が全て吹き飛ぶわけでもない。拳児は東京に来た直後に病院を探したときのように、ファストフード店てひと息入れることを選んだ。

 

 

 自動ドアが開くと同時に体に悪そうなくらい冷やされた空気がぶつかってくる。店内を見渡すと長袖を羽織っている人までいる始末だ。拳児でさえそれはさすがに室内の温度を下げ過ぎではないかと思うほどだった。それでも外の気温と日光で熱された拳児の体には心地よかった。ひとつ鼻を鳴らして色鮮やかなメニューの並んだ天井付近を見やる。何とはなしに飲み物だけでは物足りなくなりそうだと感じた拳児は小腹も満たしていくことに決めた。

 

 注文した品をトレイに乗せて、次は座席を探す。人だらけの東京の夏休みのど真ん中だ、一階にある座席は当然のように全て埋まっていた。仕方なく階段を上がって空いている席を探すと、よく見知った顔が目に入った。偶然とはいえ、この人もモノも雑多な街でよくもまあこうも知り合いに出会うものである。たまたま彼女の視線も拳児が上がってきたところに向けられていたから、お互いに認識するのに時間はいらなかった。

 

 「お、妹さんじゃねーか」

 

 「あ、播磨さん……」

 

 八雲の座るテーブルには拳児の知らない顔もいた。もちろん拳児が八雲の交友関係など把握しているはずもなく、同じテーブルに着いている彼女たちを矢神の友人なのだろうと推測した。さすがの拳児といえど知り合いがひとりいるだけの集団に割り込むほど恥知らずではないため、挨拶もそこそこに席探しを再開しようとした。が、拳児の想像以上に世間の麻雀に対する関心は高く、また彼自身に対するそれが高いということを拳児はまだ正確に自覚できてはいなかった。八雲の友達が麻雀に興味を持っているわけではなかろうと思っていたところ、そうではなかったという話である。

 

 「わお、八雲ちゃんホントに播磨監督と知り合いだったんだね。疑ってたわけじゃないけどさ」

 

 頬に星の形のタトゥーシールを張り付けた少女がどこかにやにやとしながら言い放った。

 

 

―――――

 

 

 

 気が付けば突然に姿を見せた拳児を同じテーブルに引き込んでからしばらく時間が経っていた。同席していた龍門渕の面々、透華と衣を除く、は八雲の知り合いということで拳児の外見に怯えることなく話をすることができていた。八雲自身、彼とゆっくり話をするのは本当に久しぶりのことで、充実した時間だったと言えるだろう。拳児はいつものように仏頂面ではあったが、席を立っていないところを見るにある程度は楽しめていただろうことが窺えた。

 

 外はまだまだ明るいが気温自体は最高潮のものと比べれば落ち着き始めているようだった。店を出て五人で固まって歩き始めない限りは気付けなかったに違いない。その場に行ってみないとわからないことなど山ほどある。八雲はちょっとだけ懐かしい気持ちを思い出していた。

 

 お昼のピーク時に比べればマシとはいえ大通りには人がまだ混み合っていて、慣れていない人にとっては気が遠くなりそうな感じを与える風景だった。同じ方向へ進む人もあれば逆へ向かう人もいて、八雲の地元である矢神と比べれば多くの点で天と地の差と言えそうだ。喧騒はたしかにそこにあって静かだとはお世辞にも言えそうになかったが、だからといって八雲は特別に不愉快に感じたわけではなかった。何が原因なのか、あるいは原因があるのかさえも彼女にはわからなかった。そういった点においてはやはり彼女は未熟と評さざるを得ないだろう。

 

 一座の話の中心は当然というべきか拳児で、主に一や純からの質問攻めに遭っていた。それでも彼女たちは決勝前ということで気を遣っていたのだろう、麻雀に関する質問をほとんどしなかった。その上できちんと話題を途切れさせないのだから大したものである。しかも時折きちんと口数の少ない八雲や智紀にも話を振ることさえ自然とやってのけた。どちらかといえばどころか間違いなく引っ込み思案に分類される八雲からすると、積極的に話を盛り上げることのできる彼女たちが少しうらやましかった。

 

 それぞれのホテルまでの道が途中まで同じだったから彼らは揃って歩いていたのだが、その途中で特徴的な髪型をした少女の後ろ姿が八雲の目に飛び込んできた。それは綺麗に流れた髪が肩を過ぎた辺りで外へとハネたもので、本来であれば拳児がいちばんに気付くべき人であった。八雲からすればテレビの向こうの存在ではあるが、熱心に観ている学校の一員であったためにすぐ認識することができたのだ。彼女のどこか足元の定まらない歩調は八雲を不安にさせた。そして八雲が声をかけようとしたその瞬間だった。

 

 「あー、済まねえ。ちょっと用事ができた。ここでお別れだ、じゃあな」

 

 八雲に一拍だけ遅れて拳児が絹恵に気付いた。一目で状態を看て取ったのだろう、拳児は返事を待つことなく駆け出した。深く考えることもない。彼は今、姫松高校の、麻雀部の、監督なのだ。八雲には彼を止める道理などなかった。どう屁理屈をつけても呼び止めるのは間違っていた。そして彼女には明らかに間違っている行動を選ぶことなどできなかった。少し遠くで “妹さん” と呼びかける声が聞こえてとっさにそちらを向いたが、その、傍から聞いていると心配しているようには聞こえない声は、八雲のほうを向いてはいなかった。

 

 ぐるぐると見たことのない感情が渦を巻いた。いろんなものがごちゃ混ぜになってできた()()はやり場のないもので、間違っても誰かにぶつける種類のものではなかった。道路を行くバイクの遠ざかる音がやけに耳に残った。

 

 

 

 

 

 



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45 午後一時までの話

―――――

 

 

 

 決勝に進出する四校の選手をはじめとしてあらゆる人々は様々な思いを抱えてはいたが、誰にも朝は平等に訪れた。早い時間には優しかった日差しが時間の経過とともに力強さを増していく。完全には閉まりきってはいないカーテンの隙間から洩れた光が、ゆっくりとその向きを変えて、順に少女たちの閉じた瞼に差し掛かっていく。光の刺激が少女たちの意識を徐々に覚醒のステージへと引き上げる。全員が似たようなタイミングで体を起こして時計を確認すると、起きる予定の時刻よりもずいぶんと早かった。もともと決勝戦が始まるのは午後からの予定だったからもう一度布団に顔を埋めてもよかったのだが、不思議と全員がそのまま起きることを選択した。

 

 そうと決まれば朝食を摂るために身だしなみを整える。高校生にもなれば多くの女性は朝の準備にそれなりの時間がかかる。顔を洗って歯を磨いて髪を整えてお終い、の男子とはまるで違う。てきぱきとそれぞれが準備を進めていく中で、ひときわ早くそれを終えた少女が携帯電話を手にとってどこかに電話をかけていた。

 

 

 「……ナンで俺様まで起こされなきゃなんねえんだ」

 

 くああ、とわかりやすく大きなあくびをひとつしたあとで拳児がまったく身の入ってない文句を口にする。気分よく眠っていたところを携帯電話の着信音で叩き起こされ、大急ぎで支度を終えて出てきてみれば朝食だというのだから無理もない。サングラスにカチューシャと播磨拳児を満たす要素こそあるものの、眠気によるものかその動作は緩慢で、普段の覇気などまったく感じられなかった。さすがの拳児も特別な事情がない限りはいきなりギアをトップには入れられない。言うまでもないことだが彼にとってインターハイの決勝というのは特別な事情には含まれない。聞く人が聞けば血涙を流しそうな事実なのだが、それを伝えたところで拳児は態度を変えないだろう。

 

 「チームなんやから朝くらい揃って食べたらええやん、別に悪い気もせーへんやろ」

 

 「アホか、東京(こっち)来てからほとんど昼も夜も一緒だろーが」

 

 軽口を叩きあいながら食堂へと向かう。大きなホテルだけあって姫松高校の面々にとっては早い時間であっても、すでに本格的に活動している人が散見された。ビュッフェスタイルの食堂は順番待ちをしたりすれ違う他の利用者に気を遣うほどではなかったが、それなりに人は集まっていた。テーブルにも十分に空きがあったため誰かが席を取る必要もなく、それぞれが自由に料理を取って自然とひとつのテーブルに集まることができた。

 

 とりあえず目についたものを節操なく皿に盛りつけた拳児はいつものようにそれらを平らげる。肉も野菜も魚も加工食品も、たったひとつを除いて拳児は好き嫌いをしない。他の料理を豪快に取っていく様を見れば彼に嫌いな食べ物があると疑う人すらいないだろう。実際にそんなことを気にする人物はいなかったし、またその必要もなかった。そんな拳児をよそに、テーブルの反対側では本日行われる決勝戦という現実に即した話が展開されていた。

 

 「どしたん漫ちゃん? 顔真っ青やけど」

 

 「いや改めて考えたら今日とんでもない人と当たるんやなー、って実感が湧いてきて……」

 

 そのうち歯でも鳴りだしそうな表情で漫は恭子の問いかけに答える。いくつかの皿の上に綺麗に料理が乗せられてはいるが、どうやら手はつけられていないようだ。改めて考えるまでもなく彼女は姫松の先鋒として各校のエースクラスとぶつかってきたのだが、それでもなおこれから行われる試合に対しては緊張が先に立つらしい。とある二人と同じ卓についてしまうということは、一部の例外を除けばそれほどまでに脅威であるということだ。もちろん漫は例外には入らない。

 

 「そんなん言うたらみんなお互い様やって。決勝に簡単な相手なんていーひん」

 

 「……そりゃそうですけど」

 

 文句を言ったところで何が変わるわけでもないことは漫も理解していたから、それ以上は何も言わずにきちんと食事を始めた。どうやら緊張で食べ物が喉を通らないといったわけではなく、単純に考え事に気を向けすぎて手を動かすのを忘れていたらしい。食事を始めて以降の健啖ぶりはいつもの様子とまったく変わりがなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 インターハイ女子団体決勝戦は午後一時の試合開始となっているが観客へのホール自体の開場は午前十時となっており、選手用の控室の開放はそれよりさらに一時間半も前となっている。開放と同時に控室に入る必要はないが、大抵の場合は準備などのことも考慮して、ある程度の余裕を持った時間に入るのが通例となっている。姫松も例に漏れず、宿を別にしている郁乃に連絡を取って早めに会場へ向かうことにした。

 

 当然の配慮ではあるが当日の出場選手並びに出場校の関係者には専用の通用口が設けられ、その使用が義務付けられている。これは選手と観客のあいだで万が一にも何かがあってはならないという考え方から生まれたものであり、そのおかげか麻雀におけるインターハイではそういった事例は報告されていない。選手専用の通用口と一般の入口の開く時間に違いがあるのもそれを考慮したものである。近年スター選手が後を絶たない現状において、実に有用な対策であると言えるだろう。

 

 

 インターハイ出場はおろか決勝戦の常連になるほどの名門ともなれば、その経験の豊富さは他を絶したものであり、行き着く先は似たようなものであることが多い。選手専用の通用口の前には、インターハイそのものに出場するのが十年ぶりだという阿知賀を除いた名門の三校が揃っていた。まさか控室に入ろうとするタイミングが一致するなどとは誰も考えまい。ワンピースタイプの白いセーラー服に身を包んだ白糸台のひとりが苦笑した。それぞれ自由に衣装をまとった臨海女子のひとりは興味なさそうにそっぽを向いている。太陽のエンジンが温まりきる直前の出来事である。

 

 ホールに来るまで駅やバス停から最短でも五分は歩かないとならないため、その場にいる誰もが等しく汗を滲ませていた。緊張感と暑さで二重にじりじりする空間は、ひどく居心地が悪かった。

 

 常人であるなら息が詰まりそうになる空気であったにもかかわらず、実際にその場で息苦しさを感じていたのはむしろ少数派であった。中には平然としているどころかそれを愉しんでいるような表情の者さえいた。それはどこまでも異常な風景で、しばらく後に始まる決勝戦がどの高校にとってもすんなりと行かないだろうことを予感させるのには十分なものだった。

 

 永遠に続くかのように思われたが終わってみれば一瞬、という奇妙な時間に終止符を打ったのは姫松の主将でありエースである愛宕洋榎だった。

 

 「今はここで話すようなコトないやろ。(向こう)で語ろや、な?」

 

 そう言うと洋榎は先陣を切って通用口の中へ入っていった。姫松の面々が後に続いていく。その最後尾を行く播磨拳児のせいで、先に入っていった姫松高校の姿が後ろからは確認できなかった。拳児の姿がすっかり見えなくなってから臨海女子が次に通用口へと入り、さらにその後で白糸台がホールへと姿を消した。

 

 

 

 「こっちからしたらケンカでもふっかけるんじゃないかってヒヤヒヤもんだったのよー?」

 

 控室へと向かう廊下の途中で、たしなめるような声が響いた。それぞれの控室へと向かう道筋は早い段階で分かれているため、この声が他校に届くようなことはない。だからこそ先ほどの緊張も思い切り解けて恭子が首をぶんぶん縦に振り、二年生ふたりはフォローできませんと言いたげに視線を外して苦笑いを浮かべている。

 

 自覚のないまま槍玉に挙げられているのは拳児と洋榎の二人だった。あの空気をまったく意に介さない胆力は驚愕に値するものではあったが、むしろそれが方向の違う評価を受けているなどとは本人たちは夢にも思っていない。天然の煽り気質を持ち合わせている洋榎と売られたケンカはきちんと買う拳児の組み合わせは、ああいった場において最悪と言ってもいい相互作用を発揮する場合がある。もちろん女子高生が相手なのだから拳児が手を出すことなどまずないのだろうが、それこそ彼が凄んだだけでどうなるかわからない。その意味で由子以下三名が冷や汗をかいたのは当然とも言えた。

 

 拳児と洋榎は視線のやり取りだけで身に覚えがないことを互いに確認し、やれやれと肩を竦めて浅いため息をひとつついた。それもこれも普段の振舞いが原因であることに彼らは思い至っていない。たしかに拳児は自らケンカをふっかけたりはしないが、ある程度の付き合いがなければその風貌が威圧になってしまう。洋榎は誰とでもすぐに距離を詰められるが、そのぶん誰を相手にしても友人と話しているときのような感覚で接してしまう。口で言ったところでもはや矯正のしようがない部分であり、事前に恭子や由子が抑えつけておかなかったのもその辺りに原因がある。何らかの事態に発展しなかったことは彼女たちにとって本当に喜ぶべきことだった。

 

 「女相手に売るわきゃねーだろ、余計な心配してんじゃねえ」

 

 「それこそ今さらやろ、優勝目指すーいう時点で全方位にケンカ売っとるようなもんやし」

 

 「播磨はまだええとして主将は何言うてるんですか」

 

 穏やかでない発言に恭子が呆れたように返す。ほとんど同時に口を開いたのだがどちらも途中で言葉を切ろうとはしなかったし、なぜかどちらの言葉も明瞭に聞き取れた。

 

 「気構えとしてはおかしないやん。実際どこもそんなもんやって」

 

 けらけらと楽しそうに笑う。この言葉が間をおかずに出てくるということは、彼女の中でそれが当たり前のものと見なされているのだろう。才能に溢れた人間は物事を見る基準点が違う、とよく言われるがこれもそれに当てはまるものなのかもしれないと恭子は思う。あるいは恭子の考え方が飛び抜けて平和的なのかもしれないが、そのことを確かめる手段はどこにもなかった。

 

 直接に洋榎とやり取りをしていたのは恭子だったが、その場にいた全員がその話を聞いていた。もちろんそれに対する感想はそれぞれ違ってはいたが、拳児を除いて共通していたのが彼女の持つ強さについてのものだった。強さの区分についてもまた違いがあるのだが、それはこの際どうでもいい。実務能力うんぬんを差し置いて、これが部のトップに立つ主将としての愛宕洋榎であった。その姿はひとつの指標だった。チームを率いる者として求められるかたちのひとつだった。滅多に見られない洋榎の主将としての姿は、ある少女の心に強く残った。

 

 

―――――

 

 

 

 「きょーこ、漫の相手は宮永と辻垣内とあと誰やったっけ?」

 

 洋榎はすでに対局室へ向かって控室を出てしまった漫の代わりに恭子へと問いを発する。いつも通り彼女が全面的に作戦参謀を務めているのだから恭子に問うのは何も間違っていない。決勝の先鋒戦がじきに始まるということもあってか、メンバーたちは揃ってテレビの近くに陣取っている。拳児と郁乃はそれぞれ別の意味でその集団には混じれないのだろう、一歩引いた位置から眺めるつもりのようだった。

 

 「阿知賀の松実さんですね、妹さんのほうです」

 

 「あーあー、思い出したわ。めっちゃドラ集める娘やんな」

 

 どうやら本当にすっかり頭から抜け落ちていたらしく、感心したように洋榎は頷いた。すぐ後に考え込むような渋面を作ってうんうん唸り、難しそやなあ、とひとつ呟いたきりソファに背中を預けてしまった。麻雀に関する頭脳においてあまりにも抜きん出ている彼女は時折こういった行動に出ることがある。頭の中でなにかをシミュレートしているのだろうが、その中身が明かされることはほとんどない。

 

 「お姉ちゃん? 何が難しそうなん?」

 

 「んー? ドラの位置次第で辻垣内の動きが変わりよるからやな」

 

 なぜならそうしたところで聞き手が理解できないというのが相場になってしまっているからだ。尋ねた絹恵は目をぱちくりとしばたたかせて姉の言葉が自分に浸透するのを待った。しかしいくら待ってもそれはきちんとしたかたちで絹恵に収まることはなかった。間に挟まれるべき過程の言葉が壊滅的に欠落しているのだから当然だろう。使っている言葉は間違いなく日本語であるはずなのに、奇妙な断絶がそこにはあった。

 

 そうこうしているうちに先鋒戦の出場者がテレビに映り始めた。対局室全体を映すテレビカメラは高い位置から俯瞰で捉えるためにパッと見では誰が誰なのかの判断をすることは本来ならば難しい。動きに合わせてちらりと映る制服くらいしかはっきりした情報はないからだ。しかしそれでも多くの観客は四人のうちで、少なくとも二人については確信を抱いて映像に見入っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 漫が対局室に入ってはじめに目にしたのが、辻垣内智葉と宮永照がただ向かい合っている様であった。どちらも視線を逸らすでも睨むでもなく、ひたすらに視線を合わせている。それだけなのにそこには簡単に足を踏み入れてはいけないと主張する何かが確実に存在していた。立てる足音ひとつでさえも選び抜かなければならないと思わされるほどの張りつめた空気が肌に痛い。

 

 漫は彼女たちの間に何があったかなど詳しくは知らない。去年のインターハイ個人決勝で二人が直接対決し、その結果宮永照が優勝を果たしたという一般的に知られている程度のことしか頭に入っていない。あるいはそこに特別な因縁があるのかもしれないし、そうではなくてインターハイ個人決勝という場でしか生まれない感情があるのかもしれない。どちらにせよ漫には知りようのないことだった。

 

 人の集中の極地がそこにある、と漫には思われた。一歩足を進めるごとに空気の濃度がはっきりと上がっていく。地球の引力がそこだけ強くなり、気を抜けば目眩を起こしそうになる。喉の奥がちりちりと熱く乾いていく。この場とはまったく関係がないとわかってはいたが、それでもこの空間を作り出す彼女たちと肩を並べるという自チームの主将に、漫は改めて敬意を抱かずにはいられなかった。

 

 たじろいでいた時間は実際にすれば数秒といったところで、そのわずかな時間に彼女は対局への覚悟を決めた。同じ卓を囲む以上は胸を借りるなどとは言っていられない。その程度の心構えではまず間違いなく切って落とされるだろう。自分が勝つという思いを強く持って、漫は足を一歩踏み出した。決して俯くことなく凶悪な領域に踏み入って、まっすぐに言い放つ。

 

 「よろしくお願いします」

 

 「……よろしく頼む」

 

 「……よろしく」

 

 底冷えのするような鋭い二対の目が漫へと向けられる。ただ挨拶を返すためだけにちらと視線を投げたというだけのはずなのに気圧されそうになる。隙の無さに美しさが見えるような気がした。しかしその透き通るような緊張感に漫はなにか奇妙なものを覚えた。智葉はこの緊張感と親和性のある人となりをしていることを漫は理解しているが、しかし宮永照はそれにそぐわない人物であるはずなのだ。インタビューなどでテレビに映る彼女から漫が受ける印象は “完璧” の一言だった。清く正しく溌溂として、それはたとえば教育委員会が掲げるような理想の生徒像に限りなく近かった。それと比較すると今の彼女はまるで別の人物に見えた。あらゆる機能を麻雀に特化させた個体であるかのように映る。試合直前の集中した状態だとこうなるのか、あるいはそもそも()()()が本性なのか。しかしそれは漫には関係のないことだった。意識を集中するべきはこれから始まる対局であるとぶれることなく理解していた。

 

 そこへ怯えを必死に押し殺したような顔つきで阿知賀の先鋒がやってきた。一般的に見れば彼女の反応が正しいものだと言えるのだろう。しかしここは一般的とはかけ離れた場で、そう振る舞うことはむしろ間違っている。彼女もそれを理解しているのだろう、松実玄は少なくとも周囲からそう見えないように気を遣っていた。もっともそれがどう映っていたかまでは彼女本人にはわからないことではあったが。

 

 四校の先鋒が揃い、それぞれが卓の上に裏返しに置かれた牌へと手を伸ばす。団体の決勝戦が、いま始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 



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46 緻密な王者と豪胆な対抗者

―――――

 

 

 

 席決めの結果、親から辻垣内智葉、宮永照、上重漫、松実玄の順で先鋒戦の局が進行していくことが決まった。それぞれがそれぞれの席に座り、その具合を調整する。全員がそれを終えてわずかな空白の間が空く。そしてほどなくして対局開始のブザーが鳴り、四人がお願いしますの声と同時に軽く頭を下げた。

 

 

 宮永照について語ろうとするときにどこから始めるのがもっとも適切か、という議論のタネが存在する。相手が麻雀についてまったく知らないのであれば、それはもちろん初めの大雑把なルールから説明するのが適切だろう。だが麻雀についてはある程度知っているが宮永照の強さについて詳しいところがわからない、といった人物を相手にするとなると途端にその説明が難しくなる。どの順番で何を話せばより実際的に彼女の強さを説明できるのかの見当がつかないのだ。何を話しても遠回りになる気がするし、まるで的外れなことを説明しているかのような錯覚を起こす。

 

 たとえばこれが他の選手であるならば、ほとんどの場合そうはならない。打点が高いだとか聴牌速度だとかそういった実際的な部分や、あるいは異能を軸にしたその戦法が強力であるなどといった説明が可能である。しかし宮永照は違う。もちろん彼女の公式大会での牌譜データは他の誰よりも多く、そのぶん正確な数字上の彼女の姿を捉えることはできる。ならばなぜ彼女についての語り方が話題になるのかと言えば、その対局が数字以上の印象を与えることと、対局経験者すべてが “対峙しなければわからない部分がある” と口を揃えているからかもしれない。

 

 難癖に近いものかもしれないが、その意味で漫は少しだけ不利な状況にあった。なぜなら阿知賀の松実は準決勝で、智葉は少なくとも昨年の個人決勝で対局経験がある。同じ東京の高校同士だということを考えれば、ひょっとしたら練習試合をどこかで組んでいた可能性だってある。外から見ているだけではわからない怪物と、それも団体決勝という全力を出すのには何の気兼ねもいらないような状況下で、自分だけが未体験のままやり合うという事実に漫はあらためてうんざりする。もちろん決勝進出が決まった時点から何度となく考えてきたことではあったからそれほど真剣な感情ではないが、それでもまるっきり嘘というわけでもなかった。

 

 

 決勝戦での最初の配牌は、これまでの試合の例に漏れずと言うべきか、贔屓目に見ても良いとは言えないものだった。手間がかかりそうな上にそれほど大きな打点も見込めそうにない。そこから判断できるように漫の調子は頼みの綱である爆発状態とはどうやら程遠いようだ。もっとも爆発に関しては本人でさえそのタイミングを掴めるものではない。つまり爆発までの距離という意味では遠いかどうかすら判然とせず、捉えようによっては漫はいつだって負けても失うもののない一方的なギャンブルをしているのに等しかった。ただ、この場における問題点はその近辺には存在していないことそれ自体にあった。

 

 これまたいつものように立ち上がりは静かなものだった。河を見ても凪いだように不要であろう牌が捨てられているだけで、そこに情報はまだ何もない。それぞれの表情を窺ってみても松実が引きつったような顔を変わらずに続けているだけで、あとの二人は眉ひとつ動かしさえしない。もともと漫もそんなに変化を期待していたわけではないが、その落ち着きを見ていると本当に自分より一つ年上なだけなのだろうかと疑いたくなった。

 

 誰もが発声を伴う動きを見せることなく牌を河に捨て続けて八巡目に達したとき、漫は足元から首元まで肌が粟立っていくのを感じ取った。冷たいとまでは言えないが決して温かくない気持ちの悪い不安感が体中の血管を駆け巡る。予期していないところで背後に人が立っていたときの驚きを何倍もぬめりのあるものにしたような気分の悪さがそこにある。()()、と漫は思った。間違いなくそこに何かがある。しかしそれは論理的にあり得ない。卓に着いている四人以外は、この対局室に入室するどころか扉に触れることすら許されていないはずなのだから。

 

 まさか対局中に後ろを振り返るわけにもいかず、漫は急に発生していまだに続いている違和感、あるいは嫌悪感としたほうがいくらか近いかもしれない、を噛み殺して視線を上げた。これが自分にだけ起きている事態なのか、それとも他の選手にも影響があるのか、そしてこれが意図的なものであるならば誰が引き起こした現象であるのかを確かめる必要があった。その確認にはほとんど時間などいらなかったが。

 

 軽く震えながらただ必死に堪えている松実もそうだったが、漫の印象に深く残ったのは目を閉じてゆっくりと息を吐く智葉の姿だった。気分を落ち着かせるためにする動作ということで考えればまったくおかしくはないが、辻垣内智葉という人物とそれは一致しない。彼女の心を乱すことなど思いつきもしない漫からすればそれは驚愕に値することだった。となれば残るひとりが今の事態を引き起こしたということになるが、その残るひとりである宮永照は、ただ視線をまっすぐ漫へと向けていた。面白いものを見るのでもつまらないものを見るのでもなく、それはたとえば潜水艦の窓から深海を覗き込んで何かが出てくるのをただ待っているような瞳だった。期待感を持ったようなものではない、学術的な、何かが見えたらそれをそのまま記録するといった具合のものだ。()()()()()()、と漫は感じ取った。外見だとかそういった表面上のものを飛び越えて、なにか致命的な部分を覗き込まれていることを言葉を介さずに漫は理解した。

 

 漫の呼吸が乱れ、間隔が短くなる。心臓がテンポを上げて脈を打つ。つい今しがた体験した()()がいったいどういったものなのかまではわからないが、なるほど対峙しなければわからないとはこういうことかと彼女は納得した。この気分の悪さは画面の向こうにいては絶対に感じ取れない。漫自身の感覚に素直に従えば宮永照に何かを覗かれたということになるのだが、覗かれたものも確定できないし、何よりそれがそのまま正解とも限らない。ただ断言できるのは、おそらくこれが宮永照の圧倒的な強さの一因であろうということだけだった。

 

 彼女の対局映像や牌譜を研究していたときからなんとなくそうなのだろうとは思っていたし、また恭子をはじめとして多くの人が言及していたことにようやく実感が追いついた。宮永照が親番であろうとなかろうと必ず東一局では和了ることなく見に徹することは、おそらく彼女の異能を発動する条件なのだろう。あらゆる異能はその発動に、かたちこそ様々とはいえ条件を備えている。そこに例外はない。それが宮永照の場合は東一局を犠牲にするといったものなのだろう。どのみち防ぎようのないものだ。場合によってはすでにこの卓は彼女の流れになってしまっているのかもしれない。

 

 始めて触れる種類の嫌悪感に気を取られた漫は、同卓している面子の中に誰がいるのかを忘れてしまっていた。一度この体験をしてさえいれば、気分の悪さは止められなくとも即座に頭を切り替えるべきだとの判断はできる。その判断を彼女が逃すわけがなかった。

 

 東場に絶対の自信を持っていた清澄の片岡、爆発状態かつ速度に重点を置いた漫を相手にして、どちらも十分に抑え込んだ辻垣内智葉に手作りの猶予を与えればどうなるか。答えは簡単だ、丹念に練られた手が想像を超えた早さで仕上げられる。いま決勝の先鋒戦の卓についているのは動かない宮永、通常状態の漫、ドラを抱え込む性質のせいで身動きの取りにくい松実の三人である。この状況は智葉がのびのびと打ち進めていくのには条件が揃い過ぎているとさえ言えるものだった。

 

 「……ツモ。6000オールだ」

 

 低く鋭い声が空気を震わせた。倒された牌は智葉が聴牌していたことを示していたし、少しだけ離れた場所にぽつんと置かれた牌は彼女の役の完成を強調していた。おそらく彼女の中での速度と打点の最大効率だったのだろう。今の和了より遅れれば宮永以外の誰かに和了られる可能性が出ると考え、その中でできる限りの打点を選び取ったのだ。漫にはそれがわかる。合宿での練習と準決勝での対局でしか彼女のことを知らないが、その少ない対戦経験で理解できるほどに辻垣内智葉というプレイヤーは強烈にそれを印象付けるからだ。

 

 しかしこの場でそれ以上に印象に残ったのは、大きな和了りを手にした智葉がわずかでも表情を緩めるどころか、より厳しく引き締めた顔で卓に向かっているところだった。彼女がわかっていることを誰もがわかっていた。これからこの卓に風が吹く。嵐かもしれない。もっとひどいものかもしれない。辻垣内智葉を、愛宕洋榎を “対抗者” の位置に押し留め続ける現役高校生最強が、その力を発揮する時間がやってきた。

 

 

―――――

 

 

 

 「辻垣内選手の見事な和了でしたが、いかがでしたか、野依プロ?」

 

 「的確な判断!」

 

 おおよそ観客にはまともに伝わらないだろうことを理解していて、なお質問を投げかけることに疑問をさしはさむほど村吉みさきはアナウンサーとして未熟ではない。仕事は仕事として、隣に座るプロの解説が妙に人気のあることは脇に置いて、きちんとやり遂げる必要がある。少なくともいま任されているこの試合は団体決勝であり、おそらくはこの夏のインターハイで最も注目を集めるだろう試合なのだ。付け加えるならば絶対的王者とされる宮永照と、その後継者とされる大星淡を擁する白糸台高校が史上初の団体三連覇を達成するチャンスでもある。花を添えるとまで言うつもりはないが、みさきは少なくとも舞台に相応しいだけの仕事をしようと考えていた。

 

 直接ホールに訪れるほどの麻雀ファンならいざ知らず、テレビの前にはそれほど麻雀に詳しくない人が一定数は存在しており、そんな人たちにとって宮永照の知名度は抜群だった。もちろん辻垣内智葉もファンの間では飛び抜けて知られた名だが、客層を広げた途端に天と地ほどの差が生まれる。つまるところテレビ中継というものの性質上、宮永照という雀士の説明だけは避けて通れないものであった。実力から言ってもそれが妥当である辺りにその凄まじさが見て取れる。

 

 「さて、宮永選手が動くのは二局めから、この場合は一本場ですね、ということですが」

 

 「……止めることを考えるべき!」

 

 「それは他の三校の立場からと捉えてよろしいでしょうか」

 

 「その通り!」

 

 意外とノっている、とみさきは感じた。もともとひどく無口で緊張しいであるみさきの相方は、状態が悪ければ解説の仕事であるはずなのに半荘に三回しか口を出さないようなときさえある。それを考えれば今日の出来は信じられないくらいに良いと言えそうだ。

 

 「ではその宮永選手、いったいどのようなプレイヤーなのでしょうか」

 

 「…………繊細で、緻密」

 

 解説を務める野依理沙の口から出たのは、みさきの予想していた解答とはずいぶん離れたものだった。てっきりもっと刺激的な文言が並ぶものとばかり思い込んでいた。それはたとえば和了率に関連した攻撃的な部分に関するものであったり、あるいは他家を置き去りにする速度であったり。仕事の一環として麻雀を理解しているみさきにとっての宮永照の印象はまさにそれで、とくに腕に覚えがあるわけではないファンの印象とほとんど同じものであった。それだけに麻雀を仕事としているプロからの言葉は一種奇妙に響き、自然と興味を引いた。

 

 「たしかに一番低い翻数から和了を始めるあたりは繊細と表現することもできますね」

 

 ふるふると理沙は首を振った。言語化されない否定の所作である。違うと一言くれれば中継としては理想的なのだがそんなことを彼女に期待してはいけない。それよりも重要なことは別にある。

 

 「もっと根っこ!」

 

 みさきは理沙とコンビを組んでしばらく経つがコミュニケーションは不完全で、彼女が言いたいことを正確に把握するのはまだ難しい。だがそれでも経験に基づいた予測と生来の頭の回転を活かして範囲を限定していくことはできる。みさきの知り合いのプロには当たり前のように彼女と会話をこなす人物もいるが、それは例外だ。みさきは “根っこ” の意味を点検して、返す言葉を考えた。いくら口下手といっても話の流れを無視するほど壊滅的なコミュニケーション能力というわけではないのだ。

 

 「宮永選手の根本的なプレイスタイルが繊細、ということですか?」

 

 「とっても!」

 

 「しかしこれまでのデータだけ確認しますと派手に映りますが」

 

 「相手によって変えてる」

 

 アナウンサーであるみさきの手元には当然として、理沙の手元にも各校の選手の資料が置かれていた。しかし理沙はとくにそれを見比べることもなく話を進めていく。頭脳スポーツのプロというのは記憶の分野で常軌を逸しており、たとえば囲碁や将棋のプロが過去の対局をそれぞれイチから再現できるように、麻雀のプロもそれと似たようなことをやってのける。つまるところ対局者のデータなどすっかり頭に入っていて、わざわざ資料を見る必要がないのだ。みさきからの問いかけに即答できるのも、頭の中で情報が整理されているからなのだろう。

 

 画面の向こうでは東一局一本場の山がせり上がってきていた。

 

 

―――――

 

 

 

 「……ツモ。300・500は400・600」

 

 小さいはずのその声が不思議なほどに響いたのは、彼女以外の全員が自身の和了を意識に上げていない段階であったからだろうか。巡目にして四巡目。たしかに早すぎるといえば早すぎる和了ではあるが、決してあり得ないほどのものではない。麻雀の経験をそれなりに積んでいれば、そういった早い段階で和了ったり和了られたりを体験するものである。ましてやインターハイに出てくるような熟練者がそれらの体験をしたことがないというのは考えにくいことだ。単純な意味合いで考えるならば決して騒ぐような出来事ではない。しかし宮永の和了はそれらとは意味を異にしていた。彼女の和了は警告、あるいは宣言に近いものだった。これまでのすべての対局を通して彼女は言っているのだ。“この和了は決して偶然ではない” と。

 

 余程の幸運に恵まれるか、または特殊な能力でもない限り、誰がその巡目で和了るプレイヤーを止められるだろうか。誰にもできないからこそ宮永照は頂点に君臨し、また彼女以外のプレイヤーが彼女に準じる位置に留まることを強要されているのだ。彼女はここから連続で和了るごとに一歩ずつ打点を上げていく。翻を増やすことで、時には符を重ねることで階段を登るように一撃を大きくしていく。どれもこれも怖い部分に違いないが、しかしそれでも彼女の雀士としての魅力を語るには不十分であると言わざるを得ないのが問題であった。

 

 ( ホンマこの人だけ別のゲームやっとるんとちゃうやろな )

 

 漫が内心で毒づく。そうでなくても東一局から親ッパネを食らっているのだから愉快な心持ちであろうはずもない。このまま無策に局を進めていけば何もできずに次鋒戦、なんてことにもなりかねない。爆発状態に入ることができれば勝負のレベルまで持ち込むことができるかもしれないが、そうなるとは決まっていない以上は爆発に頼るわけにもいかない。この卓の唯一の幸運は絶対的な強者が二人いることで、彼女たちがお互いに意識を向け合わざるを得ないというところにあった。漫には作れない隙が、あの二人ならば作れる。生まれてしまった隙ならば漫にも突ける。消極的な判断だと漫も自覚してはいるのだが、準決勝を思い起こせば無理もないだろう。

 

 平坦な機械音とともにせり上がってくる新しい山は苦戦の象徴のように漫の目に映った。半荘を二つもここで戦わなければならないのだ。馬鹿げているとさえ言いたくなった。ただそれでも漫に退くという選択肢はない。なぜならこの馬鹿げた卓で、できる限りのことをしなければチームメイトの期待に応えたことにならないからだ。

 

 

 しかし漫の決意とはまったく無関係に宮永照は和了を続けた。隙らしい隙も見せず、智葉にすら手出しをさせることなく、結果として五連続の和了。次に和了れば跳満確定のところまで階段を上がっていた。たったのひとつも打牌に淀みはなく、和了ったすべての局でおそらく最短であろう距離を突っ走っていた。

 

 出親で跳満を自摸和了ってみせた智葉が得点の上で既に逆転され、引き離されようとさえしていた。外から見ている観客でさえもある種の諦念を抱きかねない情景だった。やはりあの辻垣内智葉でも宮永照は抑えられないのか、と多くのため息が洩れた。彼女にそんな意図があったかどうかは別にして、力を見せつけるという意味においてはこれ以上ない成果であったと言えるだろう。だが同卓している少女たちにとってそれはどうでもいいことだった。重要なのは()()()()()()()()()()()()()()ということだった。

 

 今の満貫自摸を原因とした観客席の静けさとは違い、対局室にはいまだ何かが張りつめたような静謐さがあった。手は粛々と動き、局の進行に必要なこと以外では誰も口を開かない。彼女たちは知っているのだ。間違ってもこの卓は終わってなどいない。

 

 

 びりびりと遠慮呵責のないプレッシャーが漫の肌へと突き刺さる。宮永照ではない。彼女は一貫して湖面のように静かな面持ちだ。松実玄でもない。彼女は震える体を必死に抑えつけている。本当はそんなことを考えるまでもなく誰がこのプレッシャーの発生源なのかを漫は知っていた。つい二日前に体験したばかりなのだ、忘れられようはずもない。ただひとつ二日前と違う点を挙げるとするならば、その出力が跳ね上がっていることだった。

 

 

―――――

 

 

 

 「おい」

 

 「へ? あ、播磨先輩」

 

 決勝戦に際してのミーティングを終えて、個別に対策を練る時間のことだった。すっかり室内は落ち着いて、部員たちは思い思いの場所に身を置いて明後日の対局のために頭を働かせている。

 

 漫も先鋒戦でぶつかる相手に対して、果たしてこの面子相手に打てる対策なんてあるのだろうかなんてことを真剣に考えていたものだから、いつにもまして間の抜けた応対をしてしまっていた。それでも拳児にいきなり声をかけられて驚かないだけ大したものである。

 

 「俺様は最強だ」

 

 「……………………は?」

 

 近頃は影をひそめていた播磨式会話術が火を噴いた瞬間であった。そもそも話しかけてくること自体が極端に珍しいため、拳児が監督を務めている姫松高校でさえその存在を知る人の数は決して多くはない。何が言いたいのか、話をどこへ持っていこうとしているのかがまったくわからない。前置きなどという立派なものは期待するだけ間違いである。人生の長きにわたってあまり話を聞いてもらえなかった経験が彼のこんな話法を作り上げたのかもしれないが、正確なところは誰にもわからない。

 

 「ただそうなっちまうと逆に難しいことが出てくる、わかるか?」

 

 「えっ、いや、何の話……」

 

 「全力を出すことだ」

 

 ここへ来てやっと漫は “この話には方向性がある” ことが理解できた。当然ながらまだどちらを向いているのかはわからないが、少なくとも漫にとって播磨拳児という男は二日後に決勝を控えたこのタイミングで無意味な自慢をする人間ではない。拳児も勘違いをやめてほしければこの辺りの事情に気付かなければならないのだが、そんなことができるわけもない。

 

 「全力を出すにゃあやる気を出さなきゃならねえ。まあキッカケはいろいろだがな」

 

 「えっと……、はい」

 

 「いいか? 本当に強えやつの全力ってのァ相手による部分がでけーからな」

 

 拳児はそこで言葉を切って漫から離れていった。しかし存在しないはずの続きの言葉が、漫には聞き取れたような気がした。アドバイスと呼ぶには乱雑だったが、あの監督からのエールと考えれば上等だ。甘やかさないだなんて言ったのはどの口だったか、なんて漫は思ったが、さすがにそれは胸の中に留めておいた。あるいは全員に対して声をかけているのかもしれないが、もしそうだろうとそうでなかろうと意外と心配性であるらしいことに間違いはなさそうだ。単純なことで気合を入れなおした自分に軽く笑いをこぼしながら、漫はまた牌譜と向き合い始めた。

 

 

―――――

 

 

 

 「……自摸。40符三翻に四本付けだ」

 

 緑のラシャの上に置かれた点棒を回収して智葉は大きく息をついた。それは価値も向きもまるで共通点を持ってはいなかったが、このインターハイ団体決勝に注目しているあらゆる人にとって、重大な意味を持つ和了だった。現金な観客たちは今の和了を見て、いっせいにこの先鋒戦の展望を書き換えた。決して宮永照は絶対ではない。崩される可能性を孕んでいる、と。

 

 そんな外の動きなどまったく知らない漫は、牙城を崩された王者が小声で何かを呟いたのをはっきりと捉えていた。

 

 「…………本当に、すごく残念」

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


         先鋒戦開始   東三局開始前

辻垣内 智葉  → 一〇〇〇〇〇 → 一一五七〇〇

宮永 照    → 一〇〇〇〇〇 → 一二〇九〇〇

上重 漫    → 一〇〇〇〇〇 →  八三八〇〇

松実 玄    → 一〇〇〇〇〇 →  七九六〇〇


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47 尺度の差

―――――

 

 

 

 「あれ、これ阿知賀の松実さんむっちゃキツいんとちゃいます?」

 

 ペットボトルを傾けつつ絹恵がこぼした。今さら彼女が触れずとも良さそうな事柄である。現実問題として松実玄の異能は調査や研究とは程遠いところに存在しており、常時発動型とでも言えばいいのか、彼女が卓に着けば彼女以外のところに赤ドラを含めたドラが行くことがなくなるのだ。もちろん一局の中で全てのドラを集め切るわけではないが、少なくとも場に出得るドラは松実玄のもとへと集まる。また今大会のデータをを見る限り、彼女がそれ以上のものを持っているとは到底思えない。つまるところ、見ればわかってしまうのだ。そして隠すことができない異能が有用かと問われれば、首を縦に振るのは難しいだろう。

 

 麻雀のルール上でドラが果たす役割は単純なものである。それ単体では役を成さないが、和了ったときに持っていればそのぶんだけ翻数が上がるというものだ。お手軽に火力を上げる便利な武器と捉えることもできるが、逆にドラを捨てて振り込んでしまえば目も当てられないことになる。それだけに扱いは慎重になることが多く、勝負を懸けた手の場合を除いて、打ち手のレベルが上がれば上がるほどドラでのロン和了りというのは見られなくなっていく。時にはドラを捨てられないがために和了りを逃すなどということもあるくらいで、絹恵が思い至ってつい口にしたのはそこについてのことだった。

 

 「漫ちゃんが安全ってわけじゃないけど、たしかに松実さんがエサになっちゃいそうなのよー」

 

 自チームでないとはいえ穏やかではない見解を由子が述べる。当然ながら彼女は松実のその力がもたらす影響を、二日前のミーティングの段階で良い面と悪い面のどちらの意味においても理解していた。というよりは改めてこの控室で気付いたのは絹恵だけで、拳児を除く誰もがそれを把握した上で観戦をしている。拳児はそもそも理解をしようというつもりがさらさらないため数えるだけ無意味である。

 

 「さすがにドラ捨てやんと逃げ道なくなりますよね?」

 

 「フツーに考えたらな。でもたぶんアレがドラ実ちゃんのルールなんやろ」

 

 「主将、対戦相手なんですから名前くらいちゃんと言ったってください」

 

 絹恵と由子の会話に洋榎が割り込んで、それに恭子がダメ出しを入れる。姫松ではよく見られる光景である。いきなり割り込んできた洋榎の言葉に絹恵は振り向いて続きを促した。

 

 「もし意味なくドラ溜め込んどるんやったら小学生のガキンチョと変わらんからな」

 

 「ドラを捨てへんかわりに逃がさへんいうこと?」

 

 「大雑把にはそんなとこやろ。細かいところは本人に聞かなしゃあないけどな」

 

 そう口にした洋榎の目だけがひどく冷めていた。たとえば軍事訓練が行われている場にひとりだけピエロがいるような、なにかの手違いで極端に場違いなものが紛れ込んだのを見ているような目をしている。あと一歩で不機嫌の領域まで踏み込みそうなほどだ。彼女の視線は絹恵との会話の間もずっとテレビ中継に注がれており、そこに何かがあるのは明白だった。

 

 一方でただ黙って話を聞いていた拳児は、これまで培ってきた麻雀の知識と考え方を活用して、今の彼女たちの話の意味を考えていた。おそらくこの話は異能ではなく試合展開に関わる話であると理解したからだ。拳児は既に現在の立場に対して責任感のようなものを大きく育てている。それは麻雀に対する興味よりもはっきりと強いものになっていた。

 

 ( ドラが捨てらんねえってなるとどうなんだ……? )

 

 まず拳児の頭に思い浮かんだのは手牌の圧迫だった。たしかにドラが二枚なり三枚なり固まれば手を仕上げるのに邪魔にはならないが、オリたいときに選択肢が狭まってしまうのは事実である。これがおそらく絹恵の言っていたことだろうと拳児は推測した。また赤ドラが寄ってきてしまうのもその意味では望ましくない。余計に逃げ道がなくなるし、役を作るときにも必ず五の牌を使わなければならないという制約がつく。そしてそれが対戦相手にすべてバレているのだ。和了れば大きいし他家がドラで打点を上げるのを防ぐこともできる。だがそれがたとえば宮永照や辻垣内智葉に有効かと問われれば、むしろ逆利用されるとしか答えようがなかった。

 

 そこまで考えて拳児はなにか引っ掛かりを覚えた。どう考えても阿知賀の先鋒が不利であることに間違いはないのだが、最近、具体的には二日前に見た映像の中に重要な場面があったはずだ。それがなんだったかを思い出そうとしていると、まだ松実玄の話を続けていた部員たちの話が拳児の思考に割って入った。

 

 「でも準決勝の最後の最後でドラ捨ててへんかった? お姉ちゃん」

 

 「あれは一回こっきりの大道芸やな、切り札にしても切るタイミング間違うとる」

 

 その一言で、拳児の頭には鮮やかに姫松とは反対側の準決勝の映像が戻って来た。あのシーンではたしかに松実はドラを切っていた。それならば彼女がドラを捨てられないというのはブラフということになる。しかしこの決勝ではまだそんな姿は見られていない。タネの割れているブラフほど無意味なものはないというのに。拳児の頭の中が “よくわからない” で埋め尽くされていく。

 

 「一回こっきりの大道芸、ってどういうことやの?」

 

 「そのまんまの意味やって。少なくとも今の卓じゃ成立せーへんし、そもそも意味もない」

 

 言外にいくつかの言いたいことが感じ取れるような物言いだった。絹恵は姉の言葉をできるだけ自力で解釈しようと努める。今の卓では成立しない、ということはおそらく面子の問題だろう。しかしその根拠は明らかにはできなかったし、もう一歩踏み込むとなると更に不明瞭だ。

 

 「お姉ちゃん、もうちょっとわかりやすく言うてよ」

 

 「宮永止めるのによそと組む必要があるかーいうことや。辻垣内は一人で十分やし」

 

 洋榎の足りない言葉をいくつも補って、ようやく絹恵は姉の言いたいことを捕まえた。つまり準決勝では宮永照を止めるために他の三人が協力しなければならないほど力の差が開いており、そうやって囲んだ結果が松実玄のドラを捨てての和了だったのだ。それが決勝では辻垣内智葉という強靭なプレイヤーがいることで解消されてしまい、成立条件である “三家で囲む” という戦い方が採れなくなったのだ。表現にどこかトゲのようなものを感じるが、一回こっきりの大道芸と呼んだのも頷けるところではある。もちろん絹恵もその試合を観戦してはいたが、その時にはそんなところまで意識を回すことはできていなかった。

 

 そこまで納得した絹恵に、もう一つの疑問点が浮かんできた。せっかく才気溢れる姉に質問するチャンスが巡ってきているのだから尋ねておかねば損というものだろう。あまりにも速すぎる彼女の頭の回転についていくのは難しいが、内容を絞ればなんとか追いつける。絹恵は内容をしっかりと吟味してから口を開いた。

 

 「大道芸はわかったけど、それの意味がないってどういうこと?」

 

 「ん、たとえばな、絹。後ろから声かけてびっくりさせよーいうときにバレてたらアホやろ?」

 

 「それはアホやね、よー驚かんわ」

 

 「それとおんなじや、もうドラ実ちゃんはドラ切れるーてバレてるから誰も驚かへん」

 

 「あー、奇襲にならへんいうことね」

 

 不明瞭だった部分に理解が及んだことへの感謝と同時にこの一連の問答で絹恵が思ったのは、自分の姉がプロになった際に解説席には座らないほうがいいのではないだろうかということだった。

 

 

―――――

 

 

 

 最大の武器であると思われる連続和了をそれなりに早い段階で止められて、なお宮永照は淡々としていた。そこには動揺の気配のようなものすら感じられない。それはあたかも異能が存在していない通常の麻雀のように、自分が和了ることもあれば他家が和了ることもあると考えているようにしか見えなかった。これこそが異端であることに漫は気付けない。彼女の経験では、まだ相手が強過ぎるから仕方ないのだと蓋をすることしかできなかった。時には無知こそが活路を拓くきっかけになることがあるかもしれないが、往々にして知識や経験はあるだけあった方が役に立つものである。

 

 宮永の親が流れて東三局。できる限り攻めたい漫の親番ではあったが、最低打点のかわりに最速をたたき出す宮永が三巡目にしてあっさり漫から和了りを奪っていった。読みも何も関係のない、ただの事故のような放銃だった。最低限の出費だったのが唯一の救いと言うほかないだろう。

 

 漫に直撃を叩き込んだ和了も含めて宮永は三連続で和了ってみせ、親番を迎えて再び二位以下に差をつけようと打点を上げていく姿勢に入った。一度だけ連続和了を止められたとはいえ、点数状況は明らかに白糸台優位に傾いていた。彼女の親番をどれだけ早く止められるかが他校、とりわけ姫松と阿知賀にとって大きなポイントとなるのは明白であった。仮に次鋒から後ろに控える面子が同程度の実力を備えているとして、だとすれば先鋒終了時点での得点差はそのまま優勝への距離を示すものとなるからだ。あるいはそれでさえも楽観的な思考だと見るべきなのかもしれないが。

 

 

 ( こんまま何もせんと引き下がれるか! ここで役立たんとかおらん方がマシや! )

 

 何もできないうちにただ和了られ続けてそう気合を入れたのがきっかけになったのか、はたまた偶然だったのかはわからない。しかし漫の身には実感としての状態の変化があった。体の奥に何かが灯る。そこから強烈な熱が駆け巡る。一拍置いて今度はじんわりとした暖かさが指先まで浸透していく。導火線に、火が点いた。

 

 一定以上の実力を有していれば画面越しにさえ伝わる彼女の異能の発動を、同卓している相手が見逃すはずもなく、卓上の三対の視線はためらいなく漫へと注がれていた。それぞれ視線の色は違うが原因は同じに違いない。辻垣内智葉と真正面から打ち合ってプラスで残したという実績があるのだ、いかに宮永照といえど無視することはできないだろう。

 

 山を崩していけばどんどんと手が仕上がっていくのがわかる。これがもしインターハイ団体決勝なんていう場でなければ、役満を目指して打ち進めていきたくなるような配牌だ。しかし今の漫は場を弁えるということを理解していた。たとえどれだけ安いものでも、ここで和了ることの意味は計り知れないものになる。見せつける必要があるのだ、姫松は決して白糸台にも臨海女子にも劣らないのだということを。

 

 三巡目に宮永の捨てた牌を鳴いて一向聴、次の巡目で急所を引き入れて聴牌。誰にも文句のつけられないような鮮やかな手並みだった。早い段階で鳴きを入れているのだから他家から警戒されていることを漫はしっかりと意識した。当然ながら宮永はまだ和了を狙いに来るだろうが、この局に限っては速度において漫がリードしている。この構図はそうそうあるものではない。宮永が今局で四翻の役を作らなければならないからこそ発生している事態なのだ。麻雀にはタンヤオ、ピンフあるいは役牌といった作りやすい役がいくつか存在しているが、それ以外となるとそこまで簡単には完成しなくなってくる。そこで火力を増すために便利になるのがドラなのだが、この卓においてはドラは絶対に外に出てこない。その影響で役を上げるのが通常よりも難しくなっているのである。宮永照も翻数を上げるためにドラを使用することが間々あり、それが使えないということで、ある段階以上になると普段に比べて幾分か速度が落ちているのも事実であった。そしてその多少なりとも落ちた速度は他家がつけ込むためのチャンスだった。言い方を変えれば、この卓の趨勢を握っているのは、ある特定の意味において、阿知賀女子の松実玄に違いなかった。

 

 そのとき漫を包んでいたのは、まだ彼女の中で言葉のかたちにはなっていなかったが安心感そのものだった。こんな面子を相手にこんな状況で打つなど間違いなく初めてのことであるはずなのに、この先で何が起こるのかさえあらかじめ知っているかのような心持ちだった。漫がその安心感とその根拠に気付いたのは、その局が終わってからのことだった。

 

 「ツモ! 2000・4000です!」

 

 安心感の根拠は()()()()()()()()()()()()()()()()()にあった。それが実感となって身体の内側から湧いてきたとき、漫は驚愕した。これまでそんな体験をしたことはないし、ましてやその感覚を疑いなく受け入れて安心していたということなど後から考えれば信じられない。漫の異能にそんな効果はないし、仮に能力の発展ということを考えたとしてもそこに繋がる要素などない。とりあえず試合の最中であるから漫はいったんそれを放っておいて、対局に意識を向けることにした。その実体は何のことはない、ただ漫が雀士として新たな扉を開けたというだけの話であったのだが。

 

 漫のこの満貫自摸は大きな打撃になるはずだった。少なくとも漫自身はそうなるだろうと考えていた。宮永照と辻垣内智葉の間に、格下である自分が割って入ったのだ。これで彼女たちの余裕を削れるはずだった。しかしこの期に及んでまだ相手を甘く見ていたのは漫に他ならなかった。彼女たちに油断があると見ることそのものが根本的に間違っている。先に挙げた二人は、初めから漫を格下だとは認識していない。強者は油断をしないということを知っていたはずなのに、それを徹底できなかった。その意味で漫はまだ雀士として不完全ではあったが、比較対象が悪いと言うべきなのかもしれない。精神的に成熟している高校生など本来ならゼロでもいいくらいなのだから。

 

 

 宮永照の親番という危機を防いだにしても次に待っているのはまた最速に戻った彼女で、それを思えばこの卓には晴れることのない暗雲がずうっと続いているように漫には感じられた。それこそあっという間に、抵抗らしき抵抗もさせてもらえないうちに宮永は残りの二局を和了っていってしまった。あっけないと言えばあっけない、ある種の必然性を伴っていたさえと言えるかもしれない前半戦の幕切れだった。

 

 

―――――

 

 

 

 前半戦と後半戦の間のおよそ十五分は、選手ごとに、あるいはそうでない人にとってもそれぞれ均等でない密度を持って流れていった。言葉を交わす者は極端に少ない。この試合に対して何かを語ることはまだ無意味であると観客たちはやっと理解していた。決定的になりそうなぎりぎりのところで、辛うじて踏みとどまっている。

 

 対局室の雀卓は選手たちがいない間もただ照明を受け続けていた。プロの対局の中でも、とくに重要なものしか行われない卓だ。高校生が触れるにはこうやってインターハイ決勝まで勝ち上がってこなければ、直に見ることすら叶わない。無論、実際に卓につくことになってしまえばそんなことに気を払う余裕はなくなってしまうのだが。

 

 しばらく経って選手を呼び出すブザーが鳴り、少女たちが次々と姿を現した。ひやりとした空気が対局室から扉の開いた廊下へと流れていった。

 

 

―――――

 

 

 

 高ぶる気持ちをどうにか抑えつけて漫は卓についた。爆発状態はまだまだキープできているが、それでも和了れたのはたった一回だけだ。実際的な点数でも精神的な部分でもダメージらしきものは与えられていない。宮永が前半戦の最後の二局をあっさり和了ったことがそれを証明していた。

 

 はたして現時点での得点差が健闘に分類されるのかどうか。そんなことすら漫の頭には浮かんでいなかった。重要なのはどれだけ和了れるか、この一点だった。手数や安定感では宮永照と辻垣内智葉の両名に及ぶべくもないが、決してゲームにならないというわけでもない。前半戦での和了を考えれば、偶然を含めて簡単ではないが出し抜くことも不可能ではないのだ。なにしろ彼女は強力な武器を使える状態にある。決勝戦という舞台でこれだけの好条件が揃っているのだから、やってみせなければ嘘だろう。漫のやる気はそれほどに高まっていた。

 

 

 立ち上がりの二局は必要経費と考えて、漫は食い掛からないことに決めていた。和了りはじめの宮永には、どれだけ速度に傾注しようと漫には追いつける気がしなかった。勝負になるのは相当にうまく事が運んだとしても三つめの和了からだと無理やり自分を納得させた。宮永の和了で精神を波立たせてはいけないが、だからといってそれに無感動や無関心になってもいけない。この辺りの心のバランスが非常に難しかった。“卓を囲まなければわからないことがある”。なるほど、と漫は思う。宮永照と卓を囲むということは、彼女が作り出す状況すべてを相手にしなければならないということなのだ。良くも悪くもたしかに彼女は今の高校麻雀界の中心だ、誰であっても巻き込むだけの力を間違いなく宮永照は持っている。

 

 和了ることを諦めた二局を消化して、宮永の連荘が始まる局。彼女が親番であることを考えてもできるだけ早く阻止したいところに違いはなかった。もし連荘が続けば、それだけで試合が決してしまうような局面にならないとも限らない。できるだけ傷を浅くして、可能ならば回復まで持って行く。団体戦を戦うならば基本的な心構えだが、それを先鋒でここまでシビアに要求されることもそうはないだろう。

 

 漫の手は爆発状態も影響して高火力かつ完成も近い理想的なものだった。麻雀はいつだって自摸次第の競技ではあるが、漫のような手であればより痛切にそれを思うだろう。配牌にして二向聴、急所らしい急所もなくのびやかに育つことが見て取れた。ドラという火薬が封じられてなおこれだけの破壊力を有しているところを考えても驚異的と言うほかない手だった。

 

 これなら三つめの連続和了の宮永が相手でも勝負になる、和了れる、と漫は判断した。もとより心情的には退がることをよしとしない性格の彼女は、一気に前のめりになった。ここで連続和了を止めてやると意気込んだ。少し前まであった冷静さは、どこかへ吹き飛んでしまったようだった。

 

 それぞれの心の中の激情は別にして、基本として卓の上は静かなものである。牌と牌がぶつかる軽い音と、ラシャの上に牌が置かれる音しかしない。それでも卓についている彼女たちの間では命の削り合いに近いやり取りが行われているというから不思議なものだ。当然そんな環境が居心地のいいもののわけもなく、ゆっくりと、だが確実に疲労は漫を蝕んでいた。

 

 漫が攻撃的な表情を隠さなくなった東二局の一本場はおおむね彼女の思う通りに進行していた。三巡目で手が一歩進み、五巡目で聴牌の形をとった。手替わりの可能性こそまだ残しているものの、このままリーチをかけずに黙っていれば誰かが待ち牌をこぼすかもしれない。そうでなくても自摸和了りがある。漫は大きく期待した。流れを変えられるかもしれないとさえ思った。

 

 びゅう、と風が通り抜けた気がした。

 

 漫が聴牌にこぎつけた直後、つまり六巡目に宮永照は牌を倒した。特別なことなど何もなかったかのように。手元へと伏せられた彼女の視線は対局開始時から変わりなく感情の色のないもので、勝負できると思った手を潰されたこともそうだが、その視線が余計に漫の心を粟立たせた。冷たい何かが首に巻きついてくるような感じすらした。気持ちをこの局に乗せていただけにそのダメージは大きかったが、すんでのところで踏みとどまった。まだ試合は終わってはいない、気持ちを切らしてはいけないと漫は自身に言い聞かせた。風は火種を吹き消そうと揺さぶり続けている。

 

 決して漫が悪いというわけではなかった。ただ、この卓がわずかにでも欲を出すことを許さない卓であることが原因だった。たとえば彼女が準決勝で実行していたように、勝つつもりでありながら基本的に相手が上であるというスタンスを貫けていたのならば、これほど動揺することもなかっただろう。今すぐに精神を立て直すのは不可能だったし、ここで爆発状態が途切れなかったこともどちらかといえば漫にとって不利に働いた。攻めっ気が残ってしまったのだ。

 

 

 続く二本場はドラが手を作る上で大きな位置を占めやすい四索ということもあって宮永の手が遅れ、そして智葉の一撃が漫へと突き刺さった。シンプルに、深いところまで届く刃だった。

 

 導火線が、切り落とされた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


         東三局開始前   後半戦開始時   東三局開始時

辻垣内 智葉  → 一一五七〇〇 → 一一〇一〇〇 → 一一二三〇〇

宮永 照    → 一二〇九〇〇 → 一二八一〇〇 → 一四〇三〇〇

上重 漫    →  八三八〇〇 →  八七九〇〇 →  七七五〇〇

松実 玄    →  七九六〇〇 →  七三九〇〇 →  六九九〇〇


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48 あの子が嫉妬を受けるワケ

―――――

 

 

 

 辻垣内智葉と宮永照が意図的に漫を叩いたのには理由があった。単純に彼女を恐れたからである。技術的にも経験的にもまだまだ未熟なところがあるのを承知した上で、それでも彼女を自由に泳がせてはならないと判断した。

 

 異能には必ず制約がつく。あるいはそれに等しい条件付けがされている。それはたとえば打ち筋の限定であったり、寄ってくる牌が偏っていたり、ものによっては発動のために達成しなければならない条件を備えているものまである。これまで麻雀の歴史上で確認されてきた異能の中で、例外はただのひとつもない。それがあればこそ持つ者と持たざる者とで棲み分けをせずに麻雀を打てる環境が現存しているのであり、そこが崩れれば競技性そのものが失われる可能性すらあった。

 

 智葉と宮永の二人が漫を恐れたのは、彼女の “爆発” の異能がルール破りのものである可能性にたどり着いたからであった。制約とは制限であり、強力な特殊性を得るかわりにどこかで息苦しい思いをすることを要求する。もちろん異能の持ち主たちからすれば、それはあって当然のものなのだからさほど息苦しく感じてはいないだろう。しかしそれは雀士としてのスタイルに小さくはない影響を確実に及ぼす。いや、どちらかといえば及ぼさなければならないのだ。そして漫の異能は、そのどちらも満たしていなかった。

 

 爆発状態は配牌から自摸に至るまで、運の要素が絡む部分を飛躍的に向上させる。しかし向上する部分が限定的であるためにそれ以外の部分にはそれほど影響が出ない。幸運なことに彼女が入学した姫松高校は基礎的な技術を叩き上げることにおいて他の追随を許さない精度を誇っており、そのおかげで漫は爆発状態とそうでない状態で打ち方に差が出なくなっていた。したがって彼女自身の打ち方に成長が見られれば、それが爆発状態においてはそのままスケールを拡大したものとして実になるのである。そしてそれ以上に厄介なのが、漫のその異能にはつけ入る隙を持つという意味での制約らしい制約が見当たらないことだった。

 

 彼女が爆発状態に入るかどうかは完全にランダムであり、外的要因のひとつとして対局相手の実力が関わっているという説もあるが、それは未だ仮説の域を出ていない。そして彼女の異能には、そのランダム性以外に制約が見当たらない。彼女が不利になる可能性が存在していないのである。言ってしまえば上重漫はただ彼女自身が有利になるだけの抽選を試行し続けているようなものであり、なおかつその代償に払うものは何もない。たとえばこの異能が発展途上のものだと仮定して、それが完成したとすればどれだけの脅威になるかは想像に難くないだろう。

 

 智葉と宮永の二人が恐れたのはまさにそこだった。上重漫には成長する余地が十分すぎるほどにあり、そしてそういった雀士が最も成長するのは実戦をおいて他にない。二人はそれぞれ別の理由から漫が格上と打つことで成長曲線を変えることと、自分たちが高校レベルではその最たるものにあたることを理解していた。成長は一瞬で行われる。そうなる前に上重漫を切り落としておかなければならなかった。彼女の存在は、可能性の話ではあるが、まさに爆弾そのものだった。

 

 その意味で漫は間違いなく高校最強レベルの二人を振り回していた。

 

 

 鈍い痛みがカタマリとなって心臓のあたりを圧迫しているのを、漫はほとんど物理的な現象だと知覚しかけていた。実際にはそんな痛みなど存在するはずがない。麻雀で和了られて痛みを感じるなど馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そんなことは漫にもわかっていた。つまりこれはただの思い込みで、逆に言えばそれだけの衝撃を受けたということだ。理由など考えるまでもない。()()()()()()()()。つい今しがたまでばちばちと弾けるような音を立てて漫自身を鼓舞していた種火が、まるで何もなかったかのように。

 

 漫としてもこれは未体験の感覚だった。あるべきものがない。もちろん五体は満足だが、ある意味で言えばそれよりも重要な何かがないのだ。どうすれば取り戻せるのかはわからない。そもそも試合中に取り戻せるものなのかもわからない。当然ながら漫は対策など立てておらず、少なくともこの先鋒戦のあいだに解決策が見つからないだろうことは、実感として明らかだった。

 

 

 それからの数局を、漫はかたちのあるものとして記憶していない。ちょうど映像資料を見ているときの、あのどこか決定的な部分には入り込めない感じが漫自身の記憶に残っていた。まったく覚えていないというわけではなく、むしろ鮮明でさえあったが、そこには肉感が伴っていなかった。リアルタイムで進行していく自分の身体を使った自動進行に対して、そのときの漫は何も思わなかった。奇妙だとも気持ち悪いとも思わなかった。別のところでただひたすらに()()と向かい合っているような感覚だけがあった。

 

 宮永照と辻垣内智葉しか存在していない卓では、舞台に上がることすら許されない漫と松実玄はただただ少しずつ風に削られていくだけの取り残された遺跡と大差ない存在だった。もし少しでも彼女たちが油断してくれたら、などという願いすら持てない。舞台上の二人は目も意識も絶え間なくあらゆるところに注いでいた。“強い” ということがいまさらながらに身に染みる。私は知っていたはずなのに、とそれだけがぽつりと漫の頭の中に浮かんでいた。

 

 

 ( ……これは、勝たれへんかな。この人らは主将とおんなじ、ほんまもんのバケモノや )

 

 ( 爆発も切れてもうたみたいやし、それ無しはいくらなんでも…… )

 

 ( ……本当に? まったく一個も何にもない? 播磨先輩来て、合宿行って、それでもゼロ? )

 

 ( いやいやいやいやそれはないわ。まだヘタクソやけど鳴きも練習したし )

 

 ( だいいち()()()()()()()()()()()()んやから諦めるんは一番ナシやろ )

 

 じりじりと点棒を削られていくなかで、ようやく漫は怪物二人に向かい合うだけの精神力をかき集めることができた。確かな技術と鋭い読みに裏打ちされた、圧倒的な速度で展開される宮永照と辻垣内智葉の打ち合いは、余人の立ち入る隙などまるでなかったが、むしろそのせいでと言うべきか、打点は低いところから決して動かなかった。考え方を変えれば高打点を連発されるよりはマシな展開と言うこともできるだろう。

 

 漫の自省は “上重漫の戦い方” にまで及んだ。勝てるやり方を選べ、という拳児の言葉から始まった多くの部分での意識の変更。速度と打点の兼ね合い、相手の見方。そしてそれでもやはり自身の強みの根にあるのが爆発の生み出す強運であることに漫は思い至った。そしてそれがどれほどのものかをあと一歩で完全に客観視できるところまで踏み込んでいた。

 

 たまたま配牌が良い、引きがいい。よくあることで誰にでも起こり得ることだ。ツキと呼んでもいい。言ってしまえば爆発とはツキを固めて呼び寄せるだけのことだ。しかしそれで十分なのだ。それさえあれば上重漫は勝てる。それだけの技量は有している。漫は考えた。はたして()()()()()()()()()()()()()()()。答えはイエスだ。これまで部での練習や対外試合で対局してきたなかで何度も経験している。つまりは待てばよいのだと漫は理解した。技術的にはまだまだ差がある相手を前に、幸運が訪れるのを待つしかない。たとえその幸運が彼女自身ではない別の誰かに舞い降りる可能性があったとしてもだ。今の漫にはそれしかできないのだから。上重漫は、諦めることよりも待つことを選択した。

 

 

 運命と呼んでも奇跡と呼んでも正確ではない得体の知れない何かは、自らの立ち位置とできることを理解した少女に微笑んだ。先鋒戦の最後の一局、情勢は間違いなく白糸台に傾いていた。これまでの流れ通りに行けば宮永が二連続めの和了を決めて先鋒戦が終わるだけの、ほとんど消化するだけの一局となりそうなところだ。もちろん智葉は鋭い戦意をまだ放ち続けているし、松実玄からはいまだにどこか固い印象を受ける。変わったのは漫の覇気がなくなったことだけだった。配牌のためにゆっくりと山を崩していく。漫の感触としても特別な何かが湧き上がるようなことはない。だから誰も気付けない。彼女の手にただの純粋な幸運が訪れていたことに。

 

 彼女はいま爆発状態にない。したがって恐ろしいまでの火力を備えた手など縁遠いものとなっている。そこにあったのは、和了るための道筋があらかじめ書かれているような、綺麗な手だった。

 

 何かに導かれるように牌を引いて、捨てる。それしかできなかった。しかしそれでよかった。論理や技術を叩き潰してしまうような幸運があることを、彼女は知っている。なにせ彼女はそれで、部内の練習でたった一度とはいえ、あの愛宕洋榎をさえ打ち破っているのだから。過程はたしかに重要である。そこには技術や経験や思惑といったものが詰め込まれている。しかしそれらが和了かあるいは勝利という結果に結びつかない限り、それらに対して和了以上の価値を置くことは許されない。そしてそれも麻雀の一側面であることを誰も否定はできない。

 

 最後の最後での漫の和了は大勢に影響を及ぼすようなものではなかった。打点は決して高いものではなかったし、局面としても重要な場面ではない。実際、先鋒戦の終了を告げるブザーが鳴ったときも誰一人として動揺したようなそぶりを見せてはいなかった。最終局の大本命であった宮永照はこれまでもこういった極端な幸運に和了りを奪われること自体は何度か経験していたし、外から見てもそれほど珍しいものというわけでもなかった。

 

 重力が一段階弱まったような感覚が漫を支配していた。身体がふわふわとして、どこか落ち着かない。対局が終わったのだと頭で理解はしているのだが、なぜだかその実感が湧いてこなかった。漫が自分の感覚に置いて行かれているあいだに、対戦相手の三人はそれぞれ挨拶を交わし始めていた。漫もわずかに遅れて三人と握手だけをして対局室を後にした。彼女たちがそれぞれ何を思っていたのかは、表情からだけでは何も読み取れなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 「……めちゃめちゃ気が重たいのよー」

 

 困ったようにちょっとだけ眉を寄せて笑いながら、由子がこぼすように言った。

 

 「え~、真瀬ちゃんやったら大丈夫やって~」

 

 どこまでもいつも通りの調子を貫いていると確信させるような能天気さで郁乃が励ましの言葉を贈る。心配しているようには見えないのだが、それが実力を信頼してのものなのか何も考えていないのかの区別がつかないのが難点だった。相手があの宮永だったとはいえ、一位である白糸台との得点差だけを見てもため息をつきたくなるような状況だが、そこ以上に由子が普段なら吐かないような弱音を口にする理由があった。あのねえ、と友達に話すようにコーチである郁乃に言葉を返す。

 

 「そのまま先鋒に持ってっても遜色ないような面子が相手やー言うてるのよー」

 

 由子の言葉は決して誇張した表現ではない。むしろ控えめであると言ってもいいだろう。それだけの言葉が許されるほどに決勝の次鋒戦は激戦区なのだから。仮に次鋒戦に座る面子がよその学校に入学していたとしたら、その学校がインターハイに出場するほどの強さを誇るとしても、そこで先鋒を張ることに何の違和感も抱かせないほどだ。白糸台の部長を務める弘世菫、ダークホースである阿知賀をポイントゲッターとして支え続けてきた松実宥、そして準決勝ですら余裕で実力を隠し通した郝慧宇。そんな彼女たちを相手にプラスで終えてくるというのは、控えめに言っても難しい。相手と由子が求められている成果を考えれば彼女の心情もわかろうというものだ。

 

 ( まあ、でもね。やり方がゼロってわけでもないなら )

 

 ちらりと由子は拳児に視線を送るが、彼は退屈そうにソファに全身を預けていた。郁乃を含めた姫松の誰もが気付かなかったことに、彼だけが気付いた。そしてそれは、由子が彼女たちと対等に戦うために絶対に欠かせないキーとなるものだった。もちろんまだ推測の域を出ていないものや実戦の中で調べたいこともいくつか存在はしている。それにもかかわらず、口で言うほど彼女は絶望していなかった。笑みが残っているのがその証拠である。

 

 

 控室にはまだ漫は帰ってきておらず、次鋒戦が始まるまでにも少しの時間があった。もともと控室ではできるだけリラックスするように努めているが、やはり試合中よりも空気は弛緩していた。そんななか、洋榎が頬杖をついて、じっと黙って誰も映っていないテレビ画面を険しい表情で見つめていた。大抵の場合において姫松の騒ぎの中心にいる彼女が黙りこくっているというのは非常に珍しい。拳児が正しく話を理解するのとおおよそ同程度の貴重さだ。

 

 「主将、どないしたんですか。もう誰も映ってないですよ」

 

 見かねた恭子が声をかける。洋榎は顔も動かさずになんとも適当な生返事を返した。目こそ開いているが、見るという機能が正常に働いているかは怪しいところだ。ただ閉じてないだけ、というのが表現としては近いのかもしれない。人差し指が頬を五度叩いたあとでひとつ息をついて、洋榎はやっと恭子の方へと顔を向けた。

 

 「いやあ、やるもんやなあと思って」

 

 「ああ、そういうハナシですか。さすが宮永照、でしたね」

 

 合点がいったように恭子が薄く微笑むと、今度は逆に洋榎が不思議そうな顔をした。

 

 「何を言うとんねん。いま言ったんは辻垣内のハナシや」

 

 「え? いやプラスで残したんはたしかに凄いですけど、差が……」

 

 あちゃあ、と言わんばかりに額に手をやって頭を振る洋榎の様子に、恭子は面白くないといったふうに眉をしかめた。そもそも芯から心を許していない限りは見られない仕草であるため恭子からすればそれなりに見慣れたものではあるのだが、それでも何も思わないというわけではないのだ。

 

 「宮永よりドラそば握らされてキツい状況下で打って、の差やけどな」

 

 重要な試合であるとはいえそこまで気を回していなかった恭子は驚いた。というよりもテレビには各選手の配牌を全て映すような、麻雀玄人向けの配慮はされていない。だからその辺りをきちんと確認するのは大抵の場合において牌譜を採り終えたあとのことになる。それらのことを踏まえて考えると、何度も思い知らされてきた愛宕洋榎の能力の高さを改めて認識させられる。テレビに映る情報から手格好を割り出して、その上で打ち回しの評価を下している。もちろん超能力を使っているわけではないから、突き詰めれば誰にでもできることではある。リアルタイムで実行しているというのが、彼女を非凡たらしめる根拠であった。

 

 

―――――

 

 

 

 「ねー、スミレー」

 

 腕を組んだり頭を抱えたりと忙しなく悩むポーズを変え続け、ついに自分では満足のいく答えが出せないのだと結論を出した淡は菫に声をかけた。菫は次の自分の試合のための支度は既に済ませており、あとは館内放送による呼び出しを待っている身だった。先鋒戦が終わった直後というのもあって、宮永照はまだ控室に姿を見せてはいない。

 

 「どうした?」

 

 「なんでテルーは()()()()()()()()()()使()()()()()()()?」

 

 何気なく淡が口にしたそれは、宮永照の秘中の秘である。知っているのは白糸台のレギュラーである虎姫の五人と、昨年の個人決勝まで上がった三人だけである。詳しいところまでとなると宮永本人と菫以外は誰も知らない。

 

 「そんなに難しい話じゃないと思うがな」

 

 菫はほんの短い間だけ中空に視線をさまよわせると、こぼすように呟いた。

 

 「どーいうこと? 臨海とかにもっと差つけてもよかったんじゃないの?」

 

 「たぶんアイツはあれで十分だと思ったんだよ」

 

 小さな子から本質的な質問をされたときのような、ちょっとした困り顔をしながら菫は答えた。本当ならば宮永照についての質問を受けてそれに答えるとき、菫は常に推測の域を出ることはできないと考えている。それは仲の良い友達であってもわからないところはあるといったレベルの話ではなく、素質としてどこかが決定的に違っている人間について話すことだからだ。しかしながら日本中で宮永照をもっとも理解しているのも菫で間違いはなく、今回の質問に対する答えにはそれなりに自信を持っていた。無論それが全てではないことも同時に理解していた。

 

 「んん? よーするにこの淡ちゃんが最後にいれば問題ナシってこと?」

 

 「……まあ、そういうことだな。もっと詳しく知りたいなら照に聞け」

 

 「だいたいのところはわかったからそれでいーよ。テルーとは別のお話する」

 

 そうか、と菫は優しく頷いて、また静かに呼び出しが入るのを待ち始めた。

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


         東三局開始時    先鋒戦終了

辻垣内 智葉  → 一一二三〇〇 → 一一一二〇〇

宮永 照    → 一四〇三〇〇 → 一五四一〇〇

上重 漫    →  七七五〇〇 →  七五三〇〇

松実 玄    →  六九九〇〇 →  五九四〇〇


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49 term to STOP

―――――

 

 

 

 「ああ、姫松の真瀬さんだったね」

 

 由子が対局室に入ると、すぐさま声をかけられた。声のした方向に顔を向けてみると、これまた気の遠くなるような美人がそこにいた。長く艶のある黒髪はその高い頭身によく映える。気品さえ感じさせる出で立ちは、本当に自分と同い年の日本人なのだろうかと由子に思わせた。日本最強と称される白糸台高校の部長を務める、弘世菫である。

 

 話しかけたり話しかけられたりすること自体に疑問はない。対局前は意外と話をする選手が多いくらいだ。しかしあの弘世菫が自分に狙ったようにすぐ話しかけにくるとなると、それはなかなか想像のつきにくいことだった。なにせ初めて会うくらいなのだ、話題も何もないだろう。お辞儀を返しつつそう不思議に思っていると、次の言葉が飛んできた。

 

 「先日うちの大星がそちらの監督に迷惑をかけたようだ。部の代表として謝罪する」

 

 「へ?」

 

 「本来なら直接出向くべきだが大会中だとそれも難しくてね。正式にはまた改めさせてくれ」

 

 そう言って頭を下げる菫の姿はどこまでも丁寧で、少なくとも由子には礼儀を欠いているようには見えなかった。同時にその状況の不可解さに思い至った。播磨拳児が迷惑をかけられることなどあるのだろうか。白糸台の新星たる大星がどんな性格をしているかはわからないが、むしろ迷惑をかけるのはうちの監督だろうと由子は容赦なく考えた。

 

 「播磨はとくに何も言ってなかったし、気にしなくていいと思うのよー?」

 

 「ありがとう、気が楽になるよ。だがアイツのことだ、何もしていないとは考えられない」

 

 苦労が染みついていることがありありと見てとれたため、由子はそれ以上食い下がらないことに決めた。どの部にもこういった存在がいるのだろうか。そういう面を知ったこともあって、由子の目からは菫が余計に大人びた人物に見えた。

 

 

 それでも、と由子は立ち止まって頭を働かせた。それでも彼女はまず間違いなく自分を狙いに来るだろう。由子は弘世菫が謝罪から油断させるような狡い考え方の持ち主だとは考えていないが、彼女の戦法の特性から考えればその手段を採るだろうことは明白だった。どちらかといえば彼女は謝罪のことと試合のことをきっちりと分けて考えるタイプの人間だろう。そしてその手の人間は、頭が良く、潔癖で、強い。

 

 弘世菫が武器にしているのは、あまり他には見られない “狙撃” である。和了り牌が他家から出るロン和了そのものは珍しいものではないが、それを意図して実行するとなると話は変わる。誰かひとりを標的に決めて、狙った牌を撃ち落とす。それが受動的な幸運ではなく能動的なアクションであるというのがひとつのキモだった。由子はそれに立ち向かうために必要なことを頭の中で復唱する。

 

 意識を思考の深層から戻すと、ちょうど卓の前に次鋒の四人が揃ったようだった。それぞれが卓に伏せられた牌に手を伸ばす。由子はすこし出遅れて、残った最後のひとつを拾うことになった。

 

 

―――――

 

 

 

 由子の目から見て卓には実に個性豊かな面々がついている。女性さえ見惚れてしまいそうになる弘世菫に、その意味でも麻雀においても引けを取らない郝慧宇。そしてこの夏の真ん中で真冬でもしないような厚着をしている松実宥。見た目だけの話をするなら由子も人目を集める部類に違いはないのだが、この次鋒卓においては没個性と評さざるを得なくなるようだった。

 

 

 白糸台の戦略は実にシンプルだ。先鋒で稼いだ点数を利用して、高圧的かつ大胆に攻めてくる。そしてその中でも特に次鋒に座る弘世菫の存在が厄介と言えるだろう。ほとんどの高校がこの次鋒戦で白糸台に追いつくことを諦めるほどに。通常通りに乗せてしまえば、中堅以降も手がつけられなくなる。その意味で言えば最強を冠する白糸台の心臓部は次鋒と見ることもでき、つまりはその立場で成果を出し続けてきた弘世菫の実力も推し量れようというものである。

 

 ( ほら、狙いにきた )

 

 標的を見定めるために、あるいはそのカモフラージュのためにときおり動く菫の視線を確認した由子は内心で深く唸った。視線を全員にばらまくのならその動きだけで彼女の狙いを把握するのは難しい。映像で見てもそう感じたが、実戦だとそれ以上にわかりにくいものだった。彼女が大会前に視線に関するクセを見つけてそれを矯正したとすれば、それ自体は立派なことだ。煙幕を張るのは大事であると由子自身も考えていることだ。だけど、と由子は思う。

 

 ( だけど、あなたのクセがそれだけじゃなかったとしたら? )

 

 由子は即座に自身が狙われていることを察知した。それは同時に由子の手の余剰牌が彼女に割れたことを示してもいる。いったいどんな魔法を使えばそんなことが可能になるのかは知らないが、とにかくこのままでは和了るどころか振り込んでしまうことになる。いったん手を崩してもう一度整え直す必要があった。由子が本来ならば使いたかった牌を切って躱すと、由子に向けられていた弓が降ろされたような感覚があった。弘世菫に狙われるというのはこういうことだ。まっすぐ進んでいると余剰牌を見抜かれてズドン。それも普通なら仕掛けるタイミングもつかめないというのだから恐ろしい。さらに言えば彼女はそれを異能ではなく技術で実行するのだという。どうやら白糸台が飼っている怪物は、宮永照と大星淡だけではないらしい。

 

 躱す術を持ってはいるが、それだけではまず勝てない。狙われる限りは和了るために遠回りをしなければならない以上、どうしたって速度が犠牲になる。その遅れを臨海と阿知賀の次鋒が見逃してくれるとは到底思えない。ある意味での諦めが必要な局面でさえあった。

 

 由子の悪い予感はそのまま当たって、郝が自摸和了りを見せて東一局が終わる。誰も表情を動かさない。本当に厄介な面子を相手にしている、と由子はため息をつきたくなった。和了っておいて油断はしない、得意技を潰されてイヤな顔ひとつしない、最下位を走っているのに焦ったそぶりをまるで見せない。よそから見れば由子も十分に同じような扱いを受けているのだが、彼女の主観からではそんなことはわからない。たったひとつだけわかっているのは、これからやっと駆け引きの世界に持ち込んで勝負ができるということだけだ。

 

 

―――――

 

 

 

 「これ、この弘世さんの狙うやつ、なんで阿知賀は回避できてるんです?」

 

 「ん~、なんでやろな~? 視線が関係しとるんはわかるけど~」

 

 姫松と臨海女子とは反対側のブロックの準決勝を見ながら、不意に漫の口からこぼれた言葉に郁乃が珍しい言葉を返した。画面に映っているのは次鋒である弘世菫と松実宥であり、状況は松実が菫の狙いを見事に避け切ったシーンである。同卓している千里山と新道寺が躱せていないところを見ると、どうやら何かが存在しているらしいことが窺える。

 

 「松実ちゃんの勘で片づけたらイチバン楽やけど、実はクセあったとかやったら適わんしな~」

 

 「ゆーこ先輩の相手確定ですし、できるだけなんとかしたいですね」

 

 「郝ちゃんの相手するだけでも大変なのよー?」

 

 Aブロック準決勝の全体の流れを把握するための大雑把な観戦であったため、その場でつぶさに研究を始めるようなことはなかった。とはいえそのレベルであっても郁乃や恭子の目を誤魔化すのはなかなかできることではないのは言うまでもないことである。それが意味するところは二つだ。弘世菫がクセを持っていたとしてもパッと見では郁乃でさえ見抜けないものにしていること、そして松実宥、あるいはそのバックについている人物はそれを見抜けるほどの実力を有しているということだ。

 

 各部員が当てずっぽうで推論を出し合っているさまを、拳児がぽかんとした表情で眺めていた。さながら眼鏡を額にかけているのに探し回っている人を実際に目にしたような、すこし面食らったような表情だ。初めはふざけているのかとも思っていたがどうやらそうでもないようで、とうとう業を煮やした拳児は黙っていられなくなった。

 

 「……赤阪サンもだけどよ、オメーらそれ本気で言ってんのか?」

 

 「真剣に看破するいうノリやないけど別に不真面目っちゅうこともないやろ」

 

 間違っても拳児は真剣さの度合いについて発言をしたわけではない。というより拳児はこれまで監督を務めてきたなかでそれについて口出しをしたことはないし、そもそも彼が来る前の段階から全国制覇を目指す集団としての心構えは完成されていた。恭子の返答は当然ながらそれを踏まえた上でのものであり、どちらかといえば真意を問いただす側面の方が強かった。

 

 「不真面目もクソも見りゃわかんじゃねーか」

 

 これまで観戦しているあいだはほとんど口を開かなかった拳児が吐き捨てるようにして言った言葉は、部屋にいた全員を振り向かせた。本人の立場からすればこれまでの異能に関する話について拳児が発言する必要はなかったし、また発言できるだけの知見を持ち合わせてもいなかった。それでもチームはきちんと回ってきた。勝ち上がってもきた。そのことについて部員たちがどう考えているかはわからないが、様子を見るに否定的に捉える向きはなさそうだ。

 

 裏プロと認識されている拳児が我慢できずに口を出してきたということは、彼女たちが技術的に見抜くことができなければおかしいと言っているのと同義である。それが少女たちの認識であり、拳児からしても麻雀において遥かに熟達している彼女たちがそこにたどりつくのは当然であるべきだった。珍しく拳児と姫松の部員たちの認識が完全に一致した場面であった。

 

 「見るいうてもどこ見んねん。視線びゅんびゅんやんか」

 

 「まさかたァ思ったがオメーもか愛宕。ひょっとして見るトコ偏ってんじゃねーのか?」

 

 なにおう、と頬を膨らませて抗議する洋榎を無視して、拳児は指で自分の腕を叩いた。

 

 「腕だ、腕。ヒロセだかなんだかの右腕が動いたあとの視線を追え」

 

 言われたところで全員に疑問符が残った。いくらなんでも右腕が動くというわかりやすいクセがあるなら部員全員が見逃しているとはとても思えない。半信半疑で彼女たちは視線を画面に戻し、再び弘世菫が打っている姿を確認し始めた。

 

 「……これ動いてます?」

 

 「正直、言われて初めてやっと五分ってとこなのよー」

 

 そういった感想が出るのは仕方のないことだろう。画面に映る彼女の右腕は、ほんの一瞬だけ、わずかに震える程度にしか動いていない。前もって注目しろと言われなければ、まず気付くことはないだろう微細な動きだ。それどころか漫と由子が口にしたように、初めから注目していても疑わしいレベルでさえある。

 

 すこしずつ弘世菫の右腕の動きに目が慣れてきたある時点で、郁乃を除く全員がひとつの疑問にぶつかった。どうして播磨拳児は即座に彼女のクセに気付くことができたのか。彼女たちからすれば拳児は裏プロであり、途方もなく格上の存在なのだから当然と言えば当然のことではある。しかし誰もがそこで思考を止めることをしなかった。

 

 ( ……イカサマと日常的にやり合っとったんやろなぁ )

 

 裏プロであるという勘違いをいつの間にか補強していることを拳児は知らない。本当はケンカに明け暮れていた時期があったおかげで、人の動きというものに異常なほど鋭くなっているというだけの話なのだが。

 

 ともあれ彼の存在が、ついに戦術面でも価値を持ち始めた。

 

 

―――――

 

 

 

 ( さあ弘世さん、次のあなたの採るべき行動はひとつ )

 

 ここだけは論理かつ高い可能性の話だ。人間の行動を論理で規定することなど無意味に等しいと言っていいが、条件が揃えば精度を高めることは不可能ではない。そしてこのタイミングは、その条件が高い水準で揃っていた。白糸台の十分すぎるほどのリード、由子と阿知賀の松実宥に見破られた余剰牌を狙い撃つスタイル、中国式という見識が完全には及ばない領域に住まう郝慧宇。おそらく余裕を土台としているだろうことが由子には少し気に入らないが、弘世菫の次のアクションだけは八割ほど当てられる自信があった。

 

 ちらちらと神経質そうに配られる視線に気を取られないように由子は意識を集中する。おそらく弘世菫は郝の中国式麻将から生まれる余剰牌を見抜けるかどうかを試すだろう。それが可能か不可能かを決定することが、彼女にとってはこの局以後の戦い方を決めることにつながるからだ。また由子にとって重要なのは、菫のそんなとんでもない技術が集中力を必要としないわけがないということだった。それは同時に()()()()()()()()()()()()()()()()ということを意味してもいる。その観点から考えれば彼女がクセをほとんど残していないことにも合理的な説明がつく。弘世菫の強力な武器は、同時に弱点になる可能性をも孕んでいた。

 

 ( それに応じて私の動きも決まるのよー )

 

 菫が実行しているような誰かの余剰牌を狙うプレイングをする場合において厄介になるのが、その相手の手の中身もさることながら、自分の手の作り方である。狙う、ということは読みを一点に絞って自らの手をそこへ向けて仕上げていくことと意味をほとんど同じくしており、その難しさは実際に取り入れている選手が弘世菫を除いて他にいないことからも推測できるだろう。ましてや今回はその相手があの郝慧宇だ、一般的な日本人プレイヤーと比較すればその難易度は跳ね上がる。そのしわ寄せがどこに来るか。自身の手作りに違いない、と由子は判断した。読みを一点に絞るという行為の難しさを考えれば、そもそも普段の他家を狙う場合でさえ迷彩や煙幕を張るのに相当な苦労をしているはずなのだ。いつもよりもさらに条件が厳しい今回に至ってはそこに対する意識が薄れていてもおかしくはない。由子は逆に菫を狙い撃とうと考えていた。

 

 由子には完全なかたちでの菫のスタイルのコピーはできないが、それでもある程度の手牌読みはこのレベルになれば必須技能である。それを習得している由子から見れば、これまでの牌譜に比べて弘世菫の手は格段に読みやすくなっていた。明らかに郝をターゲットにして苦戦している。ドンピシャリだ、と由子は内心で笑んだ。彼女からすればこれは駆け引きですらないが、それとは別に読みを通すというのは実に気分のいいものだ。それが狙ったまま和了れたとなればなおさらに。

 

 「それ、ロンなのよー。40符三翻で5200」

 

 

―――――

 

 

 

 ( 阿知賀と姫松には通じない。臨海もまあ、どうやら割には合わないらしいな )

 

 由子に点棒を渡しながらも菫は冷徹に考えをまとめていた。ある程度は予想を立てていたようでショックらしいショックを受けた様子はない。阿知賀に看破できるのならば姫松にできてもおかしくはないし、郝慧宇を狙うに至っては半ば失敗を前提としていた部分さえあった。もしも狙撃ができたのなら儲けものくらいの感覚であり、菫が本当に見たかったのはそこではなかった。

 

 ( ……考え方を変えよう。武器などオプション程度でいいんだ )

 

 菫は表面上は何も変えることなく自身の内側で大きな決断を下した。他家の自身に対する認識の程度の把握、そこから逆算される相手の戦法のおおまかな推測、そして現況における立ち位置の評価を同時にこなしての決断である。これらはやはり本番でしか味わえない感覚で、菫はそれを知らず知らずのうちに愉しんでいた。

 

 ( ふふ、こういう神経の削り合いのほうが麻雀をしてる、って気がするよ )

 

 

―――――

 

 

 

 「(フー)……」

 

 東三局の十一巡目、親番を迎えた郝が自摸和了る。珍しく全員が自摸に恵まれずにもたついたようで、誰もが似たような巡目で聴牌や一向聴に漕ぎつけたようなかたちだった。それは先鋒戦のせいで忘れられかけていた、どんなプレイヤーであっても常に望むように局を進めることはできないということを改めて感じさせた。本来ならばこういった局のほうが多いくらいだというのに。ともあれ重要なのは、一本場となって郝の親が継続されるということに違いはない。未だ判然としないところのある郝の中国式を混ぜた戦い方は不気味であり、そこから来る奇妙な焦りが同卓しているプレイヤーたちをほんのわずかに蝕んでいた。

 

 最終形と河を見比べてなにやら不自然な感覚が残るということは、おそらく由子たちにとっては不可解な、しかし中国式としては正しい運びがあったのだろう。しかしここでそれを追求するのはもはや間違いだ。白糸台と阿知賀はどうだか知らない(それでも大方の予想はつく)が、姫松としては既にそこを切っている。少なくとも中国式麻将という言葉の入らない部分でやり合うと定めているのだ。したがって郝の特殊な動きに気を取られるのはいけない。そう考えて由子はさっさと頭を切り替えた。

 

 

 東三局の一本場を迎えて、由子の配牌はあまり良いとは言えそうにないものだった。どう動こうにもどっちつかずで、速度も火力も出せそうにない。もちろん先ほどの局のようなこともあり得るから粘ってみるつもりはあったのだが、どうにも気乗りのしない手だった。粘るにしてもどこかで断念するポイントを決めておいたほうが良いだろう。最後まで堪えた挙句に和了れず、それどころか振り込んでしまうのが最悪のかたちだからだ。

 

 由子が他家を見回すと、景色が先ほどまでとは一変しているような感じを受けた。言葉としての正確な意味合いを持っているかは疑わしいところだが、緊張感の方向性が変わっている、と由子に思わせた。このことが何を指しているのかは別にして、由子はその状況を是と捉えた。

 

 リズムよく打ち捨てられて、河に浮かぶ牌はその数を増していく。しかしまだお互いに手格好がはっきり浮かんではこなかった。選択肢としては候補を絞ることができるのだが、そこの間の差が極端で、踏み込む決断をさせるには至らない。キーとなる牌が捨てられるか、あるいは自分の急所を引いてくるかをしなければ動きづらいような状況だった。

 

 膠着状態を打ち破ったのは阿知賀の松実宥だった。牌が極端に偏っているか、あるいは逆に裏目を引き続けているかのどちらかだと思われていた彼女の手が、偏っているほうだったということが証明されたのは、やはり彼女が手を開けてからのことだった。

 

 「自摸……、2000・4000は2100・4100です……!」

 

 事前情報で染め手の印象を強く残していた彼女は、その評判を裏切ることなく和了ってみせた。萬子と風牌を使った最終形だ。比重として彼女の手は萬子への偏りが大きい。おそらく異能に関わった何かがあるのだろうが、かと言ってそれだけでもない辺りがしたたかであると言えるだろう。準決勝ではそれを利用して弘世菫に一泡吹かせてもいる。さすがに決勝まで進んできた学校のプレイヤーだけあって一筋縄ではいかないらしい。

 

 

 形としては四位に差を詰められた格好になるが、由子はそれほど事態が切迫しているとは考えていなかった。もとより火力が高い相手であることは承知の上だ、この程度はあって然るべきだろう。一局ごとに一喜一憂していたらそれだけで疲れてしまう。そんなものは次鋒戦が終わったあとに判断すればいいし、何より由子は相手を見る限り次鋒戦開始時の点数をキープできていれば勝利と言えると考えていた。団体戦メンバー発表の際に拳児に言われた役割を忘れたわけではないが、この面子を相手にして漫が削られたぶんを取り返すなど以ての外だろう。

 

 続く東四局では菫が由子から3900のロン和了を奪い取った。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


         次鋒戦開始    東四局終了

弘世 菫   → 一五四一〇〇 → 一四七四〇〇

松実 宥   →  五九四〇〇 →  六五四〇〇

郝 慧宇   → 一一一二〇〇 → 一一五〇〇〇

真瀬 由子  →  七五三〇〇 →  七二二〇〇


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50 She has just popped

―――――

 

 

 

 ( まさか準決勝までをブラフに使ってここで新しい狙撃を披露、とか言わへんよね? )

 

 事実は由子にはわからない。少なくともこれまで見てきたような狙いにくる意志はまったく見えなかった。自然に考えれば、普通に打っていてたまたま由子が菫の当たり牌を出してしまっただけの話だ。麻雀の展開としてごくごく当たり前のものである。しかし決勝に残るのが既定路線とさえ思われていた白糸台の選手だ、そこへ向けてもう一つ隠し玉を持ってきていても不思議ではない。由子はそちらの考えに引っ張られそうになった瞬間に我に返った。

 

 ( ダメなのよー、少なくともそれを疑うなら阿知賀が弘世さんにぶつけられてからじゃなきゃ )

 

 どのみち拳児がいなければ気付けなかった彼女のクセが、また新しいものになったのだとしたら自分に打てる手はないだろう。それを自覚していた由子は考えてもしょうがないことは考えるべきではない、と割り切った。それよりはわずかでも勝利に近づくことを考えたほうが理に適っていると判断した。そう思い直すことができるということの価値を正しく理解できる人はいない。それらはすべて真瀬由子の中だけで生まれて消化されていったからだ。

 

 由子のこの判断は間違っていなかった。少なくともこの局において弘世菫は誰かを狙撃しようとは考えていなかった。自然に聴牌にたどり着き、そこで運良く和了り牌がこぼれたから和了宣言をしただけのことである。菫は菫でこの偶然をさらに利用することもできたし、また考えそのものも浮かんだ。しかしそれに手を出すことはしなかった。まだそのタイミングではないと踏んだのである。この卓に着いている誰もが警戒に値し、また敬意を払うべき相手であると認識した上で菫は対局に臨んでいた。そういうプレイヤーを相手にするのなら入念に策を練り、我慢強く機会を待たなければならない。彼女もまた優秀な素質を持ちながらそれ以上の圧倒的な力に押し潰された経験の持ち主であり、そのことが雀士としての現在の弘世菫を形成していた。

 

 

―――――

 

 

 

 「由子先輩調子ええね、お姉ちゃん。いまんとこ区間トップやん」

 

 「そらもうゆーこやからな、実際ようコントロールしとるでほんま」

 

 既に南三局までを終えた時点で、絹恵が言ったように由子は収支トップを記録していた。各校の点数がそれほど動いたわけではないが、それでも重要なことに変わりはない。姫松というチームの戦略構成上、ここでどれだけ粘れるかはのちのち大きく響いてくる。ましてやいま戦っているのは決勝戦であり、最終的な意味では勝たなければどうしようもない。たとえそれが千点棒であっても重みがこれまでとは桁違いのものになっていた。

 

 「お姉ちゃん、コントロールてどういうこと?」

 

 絹恵がふと疑問に思ったことを口にした。よくよく考えてみれば真瀬由子というプレイヤーは、たしかに部内戦績では洋榎、恭子についで三番手の位置にいる。しかし先に挙げた二人に比べて、由子はオールラウンドな戦い方をする。良く言えばクセがなく、悪く言えば特徴がないのだ。団体のメンバーに入っていない部員を見ても特徴的なスタイルを持つ者が多くいるなかで、目立つものを持たない彼女が不動の三番手にいるというのもなかなか気になる話だ。姫松にいる部員たちはそれに対してまるで疑問を持っていないが、それが当たり前なのだと思わせるほどに安定していると言えば多少はその異常性に気が付くだろうか。

 

 「ん? 他家との駆け引きが上手いーいうことや」

 

 「もうちょっとわかりやすく」

 

 「ふつう相手が行こか引こかで考えてるのを読んで合わせ撃ちしたりオリたりするやろ?」

 

 ひらひらと手を振りながら説明を始める。実際には洋榎が口にした言葉の確実性を高めるためにデータ集めなどを行うのだが、インターハイに出てくるような彼女たちのレベルになれば当たり前のことである。したがってわざわざそちらに触れるようなことはない。

 

 「そやね、みんなやってる思うわ」

 

 「ゆーこはな、相手を誘導した上でそれやるねん」

 

 「そんなんどうやって……」

 

 それ以降の絹恵の言葉を洋榎は笑い飛ばした。無論、洋榎は由子の技術について説明ができる。それどころか洋榎自身の技術は由子の持つそれと相通ずる部分を持ってさえいる。それでも彼女が触れなかった意味を考えるならば、それはおそらく来年を見据えてのことだろう。最終的に答えを教えることになったとしても、まずは自分自身の力で考えるところから始めなければならない。

 

 絹恵もそれを理解していたのか、それ以上食い下がるようなことはしなかった。深く考え込む様子も見られない。あるいは由子のことについて考えるよりも、わりとすぐに待ち構えている副将戦の方に頭のリソースを割いていたのかもしれない。控室は涼しく、清潔な匂いだけが漂っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 前半戦の終わりは派手なものではなく、そのまま由子が収支をトップで終えた。しかしこのまま進行していくとは、卓についている四人どころかほとんどの観客でさえ思っていなかっただろう。白糸台の弘世菫が沈黙に等しいレベルでアクションを起こしていないこともそう、そして臨海女子の郝慧宇も同様に沈黙を貫いていたからだ。これまで郝は決勝以前の試合でわかりやすい目立った動きを見せてはいないが、事あるごとに解説を務めるプロたちが彼女の技術については触れてきている。その能力の高さは明らかだった。

 

 後半戦を控えた四人は既に卓について開始のブザーが鳴るのを待っている。表情にこそ出していないが、由子の精神状態は珍しく高揚していた。何を隠そう、この面子を相手に半荘を戦い抜いてトップを獲れているのだ。もちろん団体戦であるがゆえにそう単純なものではないことも、むしろここからが本番になるだろうことも理解はしている。それでも単純に麻雀打ちとしてトップを獲るというのは気分のいいものだった。

 

 少しの間があって警告音を想起させるようなブザーの音が響き、後半戦が始まった。

 

 

 後半戦も由子の好調は止まらなかった。和了り和了られの叩きあいではあったものの、それでも東場までの収支トップを譲ることはなかった。しかしそのことが何を意味しているかがわからない由子ではない。なにか証拠があるというわけではないが、おそらく誘い込まれているのだろうという感触があった。彼女たちがどんな罠を張っているのかなど由子にはわからない。しかし踏み込まないわけにはいかない。格上である白糸台と臨海女子がまともに駆け引きしてくれるのはこの環境以外にあり得ないからだ。

 

 そうしてやってきた後半戦南一局の配牌は速度の見込めるもので、実に状況にマッチしたものと言えた。鳴きたい牌の出方によっては誰にも追いつけないような運びにもできるだろう。あとは相手との兼ね合いだ。由子自身の経験則から言うなら、自分が早いときには少なくとも他家のどこかも早いというのがお決まりのパターンということになる。あるいはそれは痛い目を見たときの記憶だけが強く残っているというだけの話なのかもしれないが、気を引き締めるという意味においては十分な効果をもたらしていた。

 

 仮にその記憶のもたらす由子の気が引き締まる効果を無視したとしても、彼女の他家への圧力のかけ方は見事と言う外なかった。麻雀を打つ上での情報と言えば主に現在の河の様子と、どういう打ち回しをするかという事前情報である。そして真瀬由子はこのインターハイにおいて、いや予選の段階から周到に準備を続けていた。どういった河の様子においても決まって相手に由子の動き方を考えさせるような戦い方を続けてきたのである。

 

 実力も相まって他家からすれば由子は打点の意味でも油断はならず、そして彼女と戦い方の意味で相性が最悪であった弘世菫の “狙撃” は姿を消しつつある。環境は願ってもないほどに整っていた。もはやそこでどれだけ戦えるかが由子にとっての焦点となっていた。南一局では阿知賀の松実に3900を叩き込んで、原点まで戻すことを射程距離に入れたことを強烈に印象付けた。

 

 

 それぞれの思惑が空気を重くしているような錯覚にとらわれる。由子が自分の勝負できる領域で戦うために長期的な計画を立てたように、彼女以外にもプランというものがある。そしてそれを発揮する機会は、連荘がなければあとたったの三局しかない。どの学校も動かざるを得ない状況であり、見方を変えれば全国でも有数の雀士の食い合いが期待される場面でもあった。

 

 ( またこれ悩ましい手なのよー…… )

 

 前局に続いて由子の手は和了を意識させるものであり、いっそのこと防御のことなど考えることなく攻撃的に打ってしまいたいとさえ思いたくなった。しかし状況はシンプルではない。動くにはもうひとつ根拠が必要だ。そしてそれはおそらく由子以外も同様であるはずだ。由子がそう推量を働かせたその瞬間、どうしてか心の中がざわついた。しかしそれがいったいどこから来るのかが由子にはわからなかった。とりあえずそのざわつきには蓋をして、由子は南二局へと意識を集中することにした。

 

 これを幸とすべきか不幸とすべきか、由子が()()に気付けたのはほとんど偶然だった。どれだけ言い繕っても彼女の頭から菫の “狙撃” が消えていたことは否定できない。前半戦のたった二度、それもどちらも失敗して以降は影もかたちもなかったものだから、もう使われないのだろうと思い込んでしまっていたのだ。しかし河の上に目を滑らせたとき、視界の端にわずかに震える右腕が映ることで由子の頭に一瞬にしてそれが思い起こされた。それは同時に白糸台というチームが本気で勝ちに来ていることを証明してもいた。つまるところ次鋒戦を通してプラスでさえあれば上出来と判断しているということだ。

 

 手作りの関係かはたまた別の理由か、弘世菫の標的はどうやら阿知賀であるらしかった。由子が気付いた菫の視線の動きに松実は気付いていない。局はもう折り返し地点まで進行している。聡い由子がここまで進んだ状況を読み違えるわけがなかった。菫が自覚のないクセとともに標的に視線を送ったということはかなりの水準の見通しが立っているということであり、またそれを成就させることは姫松の優勝が一歩遠のくということでもある。後ろに控える三人はたしかに信頼できる仲間には違いないが、それは由子が目の前の事態に対して指をくわえて見ていることを肯定しない。トップを走るチームをそのまま見逃すわけにはいかないのだ。

 

 しかしここへ来て席順が由子に重くのしかかった。速度を上げることを考えたときに最も重要になってくるのが上家であり、そこから欲しい牌がこぼれてこなければ加速は難しくなる。いま由子の上家に座っているのは、郝慧宇であった。

 

 ( 思い出してみれば準決勝も上家に座ってたのよー、なんや姫松(ウチ)に恨みでもあんねやろか )

 

 この卓にあって当たり前のように点数を維持する彼女の意図は、この時点においても読み取ることはできなかった。雰囲気だけで言うならば、何かを見ている。しかしそんな郝から由子の助けになるような牌が捨てられるわけもなく、ついに弘世菫が松実に “狙撃” による満貫を叩き込んだ。外部から見ても不思議なほどに精度の高い菫の狙撃はあまりに鮮やかで、観客席からは歓声さえ上がった。

 

 

―――――

 

 

 

 種を明かせば単純な話だ。見破られた “狙撃” を、もう一度通すためだけにひた隠しにしてきたのだ。彼女にとってはそんなことなど朝飯前だろう。彼女は別に自分の武器など用いなくとも全国上位陣とやり合えるだけの実力を備えているのだから。菫に対して “狙撃” だけの印象を抱くのは間違いでしかない。そしてもうそれらのことを隠す必要がなくなった以上、彼女は攻撃の手を緩めないだろう。初めから簡単なところのない卓が、ここへ来て一気に厳しさを増してきた。

 

 菫の南二局での和了は他のプレイヤーの脳裏に強烈に焼き付いて、次の彼女の動き方についての選択を強いた。残る局ではどうあっても弘世菫から意識を離すことは許されないらしい。クセを見抜かれていない本来の状況ならば、おそらくはこれが彼女にとっての最善の形であったのだろう。攻撃手段はわからず、さりとて目を離すこともできず。しかし由子もクセこそ理解できているものの、それがあまりに微細な動きであるがゆえに目を切るわけにはいかないことに変わりはない。あるいは彼女を無視できるほどの特殊な技術があれば話は別なのかもしれないが、無いものを想定したところで戦況は変わらない。由子にできるのは、とにかく丁寧に打つことだけだった。

 

 ( 最悪は大きいのを白糸台に振ること。まずそれだけは避けやんと )

 

 頭の中に並べた回避するべき事態の序列にしたがって由子は打ち回しはじめた。物事に押すべきタイミングと引くべきタイミングがあるとするなら、今はまさに引くべき時だった。真正面からぶつかれば負ける公算の高い相手に突っかかっていくような時機ではないし、もうひとつ言えばそれを期待されているポジションにいないことも由子は自覚している。だからこそ彼女は色気を出すことなくこの場で思い切り逃げるという決断を下せたのだ。それはひとつの信頼の形式であり、見方を変えれば宣戦布告でさえあった。なぜなら彼女が引くということは、後続を計算に入れれば現在の点差であっても十分に射程圏内であると言っているのと大差ないからだ。

 

 逃げることに比重を置いた全国クラスの選手を捕まえるのは簡単なことではなく、また勝利目標の設定の違いから逃げる側が有利なのは明々白々である。その利と試合前に見抜いた彼女のクセを合わせることで由子は南三局を振り込むことなく逃げ切った。のみならず阿知賀の松実も、また郝でさえも和了の要素に触れることなく南三局は閉じた。

 

 さあ使い終わった牌を中央に流し込んで次鋒戦オーラスの山を待とうと手を動かしたところで、強烈な違和感が由子の身を包んだ。たったいま流れた局には見過ごしてはいけない要素がある。その事実だけがまず由子の頭を駆け巡った。この時点では彼女は違和感の正体には気付いていない。一拍置いて、やっと何に対して違和感を覚えたのかについて頭を回し始めた。

 

 ( 何が、やない。()()()おかしいことになってるのよー )

 

 状況だけ見ればおかしいところはどこにもない。攻撃的に出ていた菫がカウンターの匂いを嗅ぎ取って聴牌を崩し、そのまま全員がノーテンのまま流局しただけのことだ。このままむやみに悩んだところで答えが出ないだろうと考えた由子は、仕方なく一人ずつの情報を確認しなおすことにした。そして、一人のプレイヤーのことを思い描いたときに、かちりと歯車がかみ合った音がした。

 

 ( 郝ちゃん……? よう考えたらこの卓で全然目立ってないのよー )

 

 ( ……そもそも中国式は “狙撃” に怯える必要ないのになんでわざわざオリる必要が )

 

 そこまで考えた瞬間に、一気に答えが由子の中で導かれた。なぜ、どうして、の部分にいまだあやふやなところこそ残るものの、郝が消極的にしか卓に参加していなかった理由などたったひとつしかあり得ない。彼女は留学中の身であり、このインターハイを通じて世界標準ルールでの麻雀を学習している身でもある。ルールが変われば戦い方も変わる。彼女はこの決勝の場で、それを学習していたのだ。かちりかちりとパズルのピースが嵌まっていく。弘世菫が南場へ来て仕掛けてきた理由もそれと関係があるだろう。この決勝戦における次鋒卓で目立つことなく得点を減らすこともなく観察に回ることができるような雀士が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 おそらく弘世菫は郝慧宇に及ばないことをどこかで理解してしまったのだ。もちろんそれは紛れさえ許さないような絶対の差ではない。半荘を打てば勝ったり負けたりすることに違いはないし、ましてや一局に限定すればどうなるかなどまったくわからないだろう。それでも彼女はこの一局を持っていかれることを前提とすることを迷わなかった。それだけでも郝慧宇が動くと断定するのに十分と言っていい。

 

 

 特別な動きはどこにもないのに、郝の手が牌を自摸ろうとするたびに()()()と音が聞こえるような気がして、由子は背中に冷たいものを感じた。手牌をわざわざ覗かなくとも、彼女の欲しがる牌が積み重なっていくのが伝わってくる。だというのに、郝がどんな手を作ろうとしているのかがまるで掴めない。単純な話だ、それこそが由子の知らない中国式麻将なのだから。

 

 これまで努めて意識を向けないようにしてきた “意図が見えない恐怖” が途端に由子に襲い掛かる。由子からすれば郝慧宇がこの大会に全力で挑んでいないことははじめからわかっていたことだが、それでもこれほどまでに落差があるとは夢にも思っていなかった。今の彼女から放たれているプレッシャーは、自身のチームの主将のそれと同質のものだ。それはすなわち、彼女が世代を代表するような怪物であることと意味を同じくしている。

 

 本来であれば相手の技量がどれだけだろうと、いつも通りに打てばそれほど崩れはしない。真瀬由子はそれだけの実力を備えているし、そのことはこれまでの試合で証明されている。しかしそれはあくまで技術面の話であり、規格外の圧力を前にすれば条件はまた変わってくる。聡い頭も高い水準の技術も、どちらも郝への恐怖を呼び起こすために機能してしまっていた。もちろんこれは由子に限った話ではなく、弘世菫も松実宥も条件は変わらない。つまるところこのオーラスは郝慧宇の胸先三寸で決まってしまうような状況に陥っていた。実質的には何もしていないはずなのに、それほどまでに精神的な差が開いてしまっていた。

 

 たん、たん、と牌がラシャを叩く音が何かの到来を予感させる。それは階段を一歩ずつ上がってくる音を思わせた。それぞれが自摸を進めることで間違いなく状況は変化し続けていた。手も前へと進んでいたし、河から得られる情報は次第に増えていく。しかし、それでも、郝を除いた三人は停滞以外のものを感じ取れなくなっていた。

 

 たったひとりだけが羽のように軽い足取りで歩を進めていく。頻発するようなことではないが、かといってそこまで珍しい事態でもない。とてつもなく長い道に置き去りにされるかのようなあの感覚が由子の胸を通り抜けたとき、彼女の口が言葉のためにかたちを変えた。

 

 「それです、ユウコ。八翻は、……倍満でしたね?」

 

 郝は16000を突き刺してなお平然とした表情で次鋒戦終了のブザーを聞いていた。歓喜に震えるでもなく安堵のため息をつくでもなく。それどころか卓を同じくした相手ひとりひとりの顔を順番に見回して、恭しく頭を下げた。対局後の一礼は当然と言えば当然の行いだが、彼女のそれにはなにか別の意味が含まれているような感があった。

 

 「得るところの大きい対局でした、感謝します。私はまだまだ強くなれるとわかりました」

 

 三年生だらけの卓にひとりだけ放り込まれた一年生が口にした言葉を聞いて、彼女たちは目を見合わせて苦笑した。どうやら来年再来年ととんでもなく厄介な選手が臨海女子には残るらしい。

 

 こうして女子団体決勝の次鋒戦は終わり、中堅戦が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


        東四局終了時   前半戦終了時    次鋒戦終了

弘世 菫   → 一四七四〇〇 → 一四二八〇〇 → 一四九六〇〇

松実 宥   →  六五四〇〇 →  六四一〇〇 →  五四三〇〇

郝 慧宇   → 一一五〇〇〇 → 一一一七〇〇 → 一二二八〇〇

真瀬 由子  →  七二二〇〇 →  八一四〇〇 →  七三三〇〇


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51 王国が降る

―――――

 

 

 

 「一個だけええですか」

 

 次鋒戦の終わりに大きな一撃を食らった直後。時間にして二分も経っていない。もちろん由子もまだ戻ってきていない。そんな控室で、恭子が拳児と洋榎を相手に口を開いた。エアコンで冷えた空気にほこほこと湯気を立てるお茶が温かい。

 

 「なんや」

 

 「ンだ?」

 

 「……まだ漫ちゃん帰ってきてませんけど探しに行かんでええんですか」

 

 彼女の口を割って出てきたのは先鋒戦終了後から未だに姿を見せていない二年生のことだった。間違っても次に試合を控えた主将への助言などではない。どちらかといえば、それは心配するべき事柄には属さないのだ。少なくとも恭子にとっては。

 

 恭子の言葉をきちんと最後まで聞いた二人は、きょとんとした表情でお互いに目を見合わせた。いかに抜けているところのある二人とはいえ、漫が戻っていないことくらいはわかっている。それでも由子の試合中にその話題を出さなかったのには、拳児と洋榎のあいだには、口にこそしていないものの共通の見解が存在していたという理由があった。曰く、準決勝で智葉に力の差を見せつけられて落ち込んでいた彼女ならば、ついさっきの先鋒の結果で打ち砕かれないわけがない。先輩を頼りにしている後輩という立場から脱却してチームの柱へと成長しようとしているならば、敗北に対して思うところがなければならないのだ、と。

 

 それらの事情を全て含めて、拳児と洋榎はただこう返した。

 

 「放っとき」

 

 「放っとけ」

 

 彼らはいつだって言葉が足りない。

 

 ひどく投げやりで冷たい応対にも思えるが、恭子はこの二人の一種独特とも言うべき思考回路と言語中枢の欠陥を知っている。それだけでもう恭子には責めることはできなかった。考えがあるからこそ返事がすぐに返ってくるのであって、そこに別の要素が含まれることはない。もし考えていないことについての質問を飛ばせば、彼らは素直に考えていなかったと言うだろう。取り繕うような真似ができるタイプではないのだ。

 

 

 由子が控室へと戻ってきたのはその少しあとだった。やはり得点を削られてしまったことが影響しているのか、どこか申し訳なさそうな顔つきをしている。彼女の結果を健闘と見るか失敗と見るかは意見の分かれるところだろうが、本人からすれば最後の振込みですべてが決まってしまったと考えていても不思議ではない。それで胸を張って帰ってこいというのも難しい注文だ。だから誰もそのことに対しては何も言わなかった。

 

 「……やー、その、お恥ずかしいかぎりなのよー」

 

 いつものように黙りこくっている拳児以外の労いの言葉を受けたあと、由子が耐えかねたようにもごもごと口を動かした。彼女からすれば思うところだらけなのだろう。しかしそんなことは我らが主将にはまったく関係がなかった。

 

 「なんも恥ずかしないで、ゆーこ。あとはうちに任しとき」

 

 そう言うとわざとらしく下手なウインクをしてみせた。全部わかっているのだ、麻雀はどうしたって運が関わる競技だから、良くないほうに転ぶことは珍しくない。それでも数字として結果が残る以上は個人にのしかかる面が避けようもなく存在する。そういう時に自分が必要とされることを愛宕洋榎はきちんと理解している。期待だとかプレッシャーだとか、そういったものは全部自分に乗せてしまえばいいとさえ考えている。なぜならそのほうが()()()からだ。

 

 程なくして中堅戦開始前の館内放送が入り、それを聞いた洋榎は立ち上がってぱたぱたと制服をはたいて埃を落とした。緊張している様子はまるで見られない。ちょっとコンビニでも行ってくるといったような落ち着いた目をしている。監督である拳児が声をかけることもないし、コーチの立場にある郁乃もにこにこと微笑んでいるだけで何も言わない。チームメイトはそれぞれ一度ずつ目を合わせて頷くだけだ。しかし姫松高校はそれでいい。それ以上はもはや余計なのだ。

 

 

―――――

 

 

 

 「……まあ、ウチの中堅が渋谷っていうのはツイてる方だと考えるべきか」

 

 なんとも歯切れの悪い言葉を菫はぽつりと呟いた。渋面を作っている辺り、思わしくない事情がそこにはあるのだろう。次鋒戦終了時点で差のついたトップと呼べる位置にいる白糸台の雰囲気には似つかわしくないものがある。

 

 「へ? どーいうこと?」

 

 菫としては淡のそばに座っていた宮永照に話しかけたつもりだったが、意外なことに食いついたのは自分に関わること以外には大して興味を抱かないスーパー一年生だった。まるで自室のようにくつろいだ姿勢から体を起こして、淡は菫に質問を投げる。ソファと背中に挟まれて、ぞんざいな扱いを受けているようにしか見えない長い髪はまるで傷んでいないようだ。ひょっとしたら人目につかないところで丹念にケアしているのかもしれない。

 

 この、ある意味シンプルに過ぎる質問でさえ菫からすると嬉しいものであった。対戦校の研究をするために集合をかけても時間通りに来ることのほうが珍しいくらいの自由人が、正しい興味を持って質問を飛ばしているのだ。どこか基準を下げ過ぎているような気がしないでもないが、菫はそのことについて見ないフリをした。

 

 淡が直接ぶつからない相手に対しての興味を持ったこと自体は喜ぶべきことだが、菫にとって、ひいては白糸台にとって喜べる内容ではないのは確かである。そこが実に困りものだった。当然ながらその内容を説明することそのものに否やはない。さてどの順番で話したものか、と菫は頭を働かせながら話し始めた。

 

 「大星、おまえ渋谷の異能はきちんと覚えてるか?」

 

 「あれでしょ? 最後にわーって来るやつ」

 

 既に控室を出ている渋谷尭深の異能の説明と呼ぶにはあまりに言葉が抜け落ちているが、話者が大星淡であることを考えれば正当な理解を示していると捉えていいだろう。菫はひとつ頷いて話を続けた。

 

 「その利点が何だかわかるか?」

 

 「んー、わりにおっきいのを結構な確率で和了れること、かな。オーラスで」

 

 菫の持って行きたい話の方向から考えればほとんど完璧に近い解答だった。

 

 「つまりそれがありがたいんだよ、取り返せる見通しが立ってるってことがな」

 

 「なにそれ。なんかタカミーがボコボコにされるって言ってるように聞こえるんだけど」

 

 自由人ではあるが仲間意識の強い少女は不満そうに菫の言葉に反発した。菫がチームメイトである渋谷をけなしているわけではないことは理解しているが、不当に下に見られた感じがして我慢がならなかったらしい。いつの間にか座りなおして、食って掛かりそうなほどにまっすぐ視線を菫に飛ばしていた。

 

 すると淡の隣で黙って本を読んでいた照が、目を紙上に落としたままでゆっくりと口を開いた。

 

 「姫松の愛宕さんはそれくらいの覚悟で挑まないとだめ」

 

 「姫松! ハリマケンジのとこだ!」

 

 即座に淡が反応する。選手ではなくて監督に反応するあたりズレていると思わなくもないが、それを言ったところで始まらない。興味を持っているうちに話を進めておくのが吉だと菫は考えた。間違いなく大星淡は天才ではあるが、それだけに他の選手を軽んじる傾向にある。怖がらせる意味でなく、淡自身のために彼女は見識を広げる必要があった。幸い照が参加したこともあって、この話の重みは増している。おそらくそれを照も感じ取っているのだろう、目こそ本から離していないが話を途中でやめるつもりもないようだ。

 

 「淡、菫はたぶん愛宕さんの強さをフラットに伝えようとしただけだと思う」

 

 「……実際彼女も特殊だからな、フラットかどうかはそこまで責任が持てないが」

 

 「どういこと? 別に異能とかそーゆーの全然感じないけど?」

 

 眉をひそめた淡の表情は普段の快活そうな顔立ちからはおよそ離れたもので、よくわからないと思っていることがありありと伝わってくる。たしかに異能が関わっていないのに特殊なのだと言われたところで、すぐにピンと来る人などそうはいないだろう。

 

 「大星、たとえば他家の聴牌気配はないのに妙に切りたくない牌を握ったことはないか?」

 

 「あー、あるかも! そういうのって捨てちゃうとたいてい振り込むことになるんだよね」

 

 「その感覚がどこから来るか知ってるか?」

 

 「それこそ勘じゃないの? 切りたくないってなんとなーく思うわけだし」

 

 淡は菫の質問に素直に返答していく。初めに淡が持った疑問からは離れた部分での話題になっているのだが、素直な彼女はそれに気付かない。段取りを持って話を進めていきたい菫からすれば素晴らしい聞き手だ。反面、もう少し賢い振る舞いを覚えてもいいのではないかと思っているのだがそれはまた別の話。

 

 「ある意味その通りだな、相手を情報の総体として見たときに無意識下で判断しているんだ」

 

 「無意識はわかるけど、ソウタイってなに?」

 

 「つまり脳が自動で相手を分析して警告を出してくれるんだ。それが切りたくない牌だな」

 

 自分の頭をとんとんと指でたたきながら菫は話を続ける。一方で話を聞いている淡は言葉の意味としては理解したようだが実感が湧かないようで、わかりやすく首をひねっている。たしかに言葉として説明したところで、脳の働きを体感として理解するのは難しい。それはたとえば体を動かすときにいちいち脳や神経のことを意識しないのと同じことだ。もちろん説明している菫であってもそれは同様である。ただ彼女は脳の働きの範囲としてそれを知っているだけのことなのだ。

 

 「もう少し噛み砕くと自動ビビり機能か。もちろん相手次第でいろいろ変わるわけだが」

 

 「えぇー……、もうちょっとマシな名前ないの」

 

 「……ほっとけ。さて、ここからが本題だ。他人のこの機能を自在に操れるとしたら?」

 

 淡の表情が訝しむものに変化していく。あまりセンスがあるとは言えないネーミングに目を瞑るにしても彼女が口にした内容はさすがに流していいものではない。()()()()()()()()()()()? そんなもの魔法でも使えない限りあり得ない。牌の流れそのものに影響を与える異能を持つ淡でさえそう考えるのだ。どれだけ現実離れしているかの見当さえつかない。

 

 「むちゃくちゃじゃん、そんなの」

 

 絞り出した言葉は抽象的なものだった。しかし方向性だけははっきりしている。

 

 「そう、むちゃくちゃだ。だが彼女は現実にそれに近いことをやってくるんだよ」

 

 「でも、いい手が来続けるなんてあり得ないよ。どっかで崩れるに決まってる」

 

 また不満そうに言葉を返す。今の彼女にとっては白糸台こそが最強であり、その他は取るに足らないおまけでしかない。そう考えている彼女からすれば、それをまとめる立場にある弘世菫が他校の選手に対して高い評価を与えることなど許されないことですらあった。

 

 「その通りだ、だから彼女はブラフをうつ。ここまで言えばわかるか?」

 

 「……ねえスミレ、それ本気で言ってるの?」

 

 「だから渋谷みたいに決まったところできちっと和了れる雀士はある意味相性がいいんだ」

 

 前提をすべて呑み込めば、たしかに愛宕洋榎は怪物と称するに値する雀士だろう。しかし淡にはそれがどうしても信じられなかった。いくら尊敬している先輩が丁寧に教えてくれたことであっても鵜呑みにできるようなことではない。冗談でないことはわかっていても半信半疑にすらならない。どのみちもう少し時間が経てば試合が始まるのだからそこまで苛立つ必要はなかったのだが、どうにも彼女には面白くないようだった。

 

 

―――――

 

 

 

 対策など初めからわかっている。まるで心を読むようにこちらの出方を見抜くのなら、見抜かせないようにすればよい。その上での駆け引きが得意というなら、その土俵に上がらなければよい。そもそも彼女に意識を回すことこそがいけないのなら、無視してしまえばよいのが道理である。しかし愛宕洋榎はそれを許さなかった。ただその実力の一点において、どうあっても自分に目を向けなければならないと主張した。このたび彼女が記録した決勝戦での七連続和了は、歴代タイ記録に並ぶものだった。

 

 ( ……まったく、冗談もほどほどにしてほしいものです )

 

 準決勝でも洋榎と打った雀明華だからこそ持てる感想というものがある。誤解なく表現するのならば、彼女と一度は卓を囲んでおかなければ持ちようのない感想が存在するのだ。それは地底湖を見つけたときの感覚に酷似している。いったいどれだけ底が深いのだろうか。

 

 明華の目に映る他家の表情が、一人を除いて青くなっているのがありありとわかる。おそらくは自分自身もそうなっているのだろうと思うが、この場には鏡などないから確認はできない。しかし七万以上もあったトップとの差を南場まで行かない段階でほとんど埋めきったという事実を考えれば、確認の必要などないのかもしれない。もはやここまで来れば化生や神仏の類と思いたくなってくるが、明華はなんとかそれだけは踏みとどまった。

 

 彼女が強いのは肯定するしかないが、だからといって七連続和了が当然かといえばそういうわけではないはずだ。技術的な側面と幸運がかみ合っての成果であることに違いはないはずだ。ブラフに見せた罠も、ブラフで時間を稼いで手を仕上げるなんて芸当も、自摸運がなければ成立しないものなのだから。そして幸運がずっと続くなどということはあり得ない。雀士として長く、また濃い経験を積んできている明華は自分に言い聞かせる。そして最悪でもどこかで純粋な技術での戦いに持ち込まなければ勝機はない、と既に判断していた。

 

 彼女が三巡目で六萬を切る。それだけで何かが始まったのではないかと思いたくなった。それは明華が事前に調べた南大阪予選の決勝を思い起こさせるから。一挙手一投足に意図が潜んでいないかと探してしまう。それこそが彼女の術中だと理解しているというのに。何を切っても悪くなりそうなイメージだけが明華の意識に先行して手が縮む。それを振り払おうとして強引に行けばカウンターが突き刺さる。まるで心の中を覗かれたまま戦っているような気分になってくる。気持ちを強く持たなければならないと頭ではわかっているが、そのための労力が尋常ではなかった。

 

 

 海底にいるような息苦しさを感じさせる愛宕洋榎の親番を閉じたのは、得点で見ればあまり振るっているとは言えない阿知賀の新子だった。振り込んだのは白糸台の渋谷であり、印象としては差し込んだと言っても差し支えのないものかもしれない。とにかく彼女の時間が終わることを望んでいた三人は、表に出すことはなかったが内心で大きく息をついていた。少なくとも完全に愛宕洋榎のものになっていた流れを、わずかでも崩すことができたに違いないからだ。

 

 それでも愛宕洋榎に変化は見られなかった。あくまで表面上は、ということではあるが。対局が始まってからずっと部内での練習を想起させるほどの自然体で打っている。だからといって集中していないわけでも緊張感がないわけでもない。おそらく実力を発揮できるベストな状態に近いのだろう。仕草に特別なものが見られないのが、明華にとっては逆に気味が悪かった。

 

 だがそれにずっと怯えているようでは臨海女子の中堅としての名折れである。自分に期待されているのは勝利であると明華は自覚している。これまでもずっとそうだったし、またこれからもそうであり続けるべきだと考えていた。こういった自負は留学生という特異な立場にあるからこそ持てる、ある種の特別なものだった。ほんの一秒だけ目を閉じる。今大会ではここまで見せてこなかった異能を解放するべき時だ。もちろん他の経路からそれを調べることは可能だが、そこはさして重要なポイントではない。重要なのは、本気を出すと決意すること。明華の異能は飛び抜けた性能を持っているわけではないが、ずば抜けていないからこそ応用の利く自身の能力が彼女は好きだった。

 

 山がせり上がってきてそれぞれが崩して手を作っていくなかで、異能を解放した明華はひとつの確信を持ったまま配牌を待つことができる。攻防にある程度の安心感を抱いて戦えるという確信だ。常に自風を手に握って打つことがそれを可能にする。それこそが彼女の異能のひとつだった。

 

 東四局で明華は四巡目に自風である南の刻子を完成させる。これで一役だ。エンジンを入れてすぐにこれであれば調子は上向きと判断してもいいだろう。トップギアまではもうひと手間を入れなければならないが、これで何を鳴いても和了れる上に他家がきな臭くなっても南を連打することで逃げられる。明華にとっての勝利への絶対条件は前半戦での出費を抑えることだった。これまでの中堅卓の経緯を見る限り、オーラスは事故が起きることが確定しているようなものだからだ。そのために無駄に振り込んではいけないし、和了れるなら少しでも点数を稼いでおかないとならない。()()()()()()()()()()()()()()。どこかで誰かが笑っているような気がした。

 

 見事に明華は東四局を和了り、勢いに乗ってその次も自摸和了ったものの、せっかくの一本場は稼げないままに閉じてしまった。彼女が期待した一本場を止めたのはまたも阿知賀の新子であった。連荘を切られるのは非常に不愉快だが、姫松あるいは白糸台に和了られるよりはマシと言えたし、何より阿知賀もまた点数で見ればかなり特殊な位置に立っていることもあって明華はそれほど気にはしていなかった。今の和了で五万とちょっとに点数を戻したが、心もとない点数であることには違いない。役満一発で吹き飛んでもらっては困るのだ。阿知賀がハコを割った時点で決勝戦そのものが終了してしまう。もし自分がトバす立場にいるのなら問題はないだろうが、しかし明華は自分が役満を和了るのに向いていないことを熟知している。したがって阿知賀には生き延びてもらわなければならない。扱いを間違えればどの学校にとってもプランが崩れる頭の痛い位置にいるのだ。

 

 

 速度と確実性に重点を置いている今の明華にとって、洋榎は何よりも邪魔な存在だった。自身の武器を持ってはいるが、それが彼女に対して完全な優位を築けるものではないことは明白である。それどころか彼女は明華の武器を知って、なおプレッシャーをかけてきていた。その繊細な技術の上に成り立ったかすかな攻撃的な匂いは明華の出足を鈍らせた。おそらくこの卓でそれに気付けているのは自分だけだろうと明華は受け取っていた。気付けるとするならば、少なくとも臨海女子の面々と同レベルになければ難しいだろう、と。その証拠に白糸台の渋谷も阿知賀の新子も無警戒に手を進めている。おそらく洋榎は真剣に誰かから直撃を奪い取ろうとしているのだろう、だからこそ気付かれにくいやり方で準備を整えているのだ。そこまで読み切った明華は引き下がらざるを得なかった。ここで勝負してはいけないと感じ取ったからだ。

 

 しかし結果的に南二局を和了ったのは、またもや新子だった。それも満貫を白糸台に叩き込むという理想的な運びを実現している。先に考えていた事情を踏まえれば明華にとっても良い材料の多い新子の和了ではあったが、どうにも引っかかるところがあった。愛宕洋榎は結局のところ仕掛けに失敗したのだろうか。実際に自摸次第のところがある麻雀において見通しが完璧に通ることなどまずないと考えるのが当たり前なのだから、別に彼女の目論見が成立していないことそのものにおかしなところは何もない。

 

 ( 満貫、ですか。……満貫? おやおやおや? )

 

 ぎいこ、と大きな仕掛けが作動を始めたような音が、はっきりと聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


         中堅戦開始   東四局開始時   南四局開始時

雀 明華   → 一二二八〇〇 → 一〇九五〇〇 → 一一八一〇〇

渋谷 尭深  → 一四九六〇〇 → 一二四四〇〇 → 一〇七五〇〇

愛宕 洋榎  →  七三三〇〇 → 一一六八〇〇 → 一一三八〇〇

新子 憧   →  五四三〇〇 →  四九三〇〇 →  六〇六〇〇


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52 其を我らは魔法と呼べり

―――――

 

 

 

 ( …………すべてはヒロエの掌の上、でしたか )

 

 前半戦も終わろうという局面で、明華はやっとこの半荘がどのような意志のもとで進行していたのかをつかみ取った。パズルのピースは決して多いものではなかった。しかし完成形は複雑で、何より組み上げるのに要求されるプレイヤーのレベルが並大抵のものではない。言ってしまえば愛宕洋榎にしか見えない完成図があるようなものだ。

 

 彼女はそれぞれにとっての状況も個々人の能力も、果ては警戒心でさえも利用して半荘を完璧に支配した。たしかにまだ南四局は残っている。しかしその局はほとんど争点にないと言っていい。準決勝において三翻以上の和了を他家に許さなかった愛宕洋榎が、ここへ来て新子に満貫を許した理由。透けて見えるようだ、なぜならつい先ほどまで明華は同じことを考えていたのだから。

 

 明華は表情を殺した冷たい仮面を顔に貼りつけて、連荘を含めて前半戦で何局を打ってきたかを数えた。渋谷尭深を相手にする時は常にそのことを意識しなければならないからだ。数えた結果が全部で十三局。それらの局での動きも考慮に入れれば、彼女がさほど苦しむことなく役満を和了るだろうことが推測された。もちろん明華も初めからそのことは意識していた。してはいたのだが、それを真上から力で抑えつけるような打ち手の存在が彼女の注意を一気に攫っていってしまった。論理的には考えるならば、明華はできる限り早い段階で洋榎の連続和了を止めなければならなかった。それを止めない限りは洋榎が得点を伸ばすことになる上に、その裏で渋谷の優位性が着実に築かれていくからだ。しかしあの七連続和了の時の彼女を相手に簡単に食って掛かるわけにもいかないだろう。反撃を食らってしまえば本末転倒もいいところだ。

 

 半ば結果の決まった山牌が、自動卓の天板を割ってせり上がる。それを崩して手に入れた配牌は味も素っ気もないもので、もともと望みの薄かった前半戦オーラスの明華の希望をさらに薄めた。自風が二枚入っているからといって、それがいったいなんの役に立つだろう。渋谷尭深は字牌だらけの配牌で字一色を狙っているというのに。

 

 渋谷尭深の異能は少し珍しいタイプのもので、オーラス以外の局が直接オーラスに影響を及ぼすかたちをとっている。具体的には各局の第一打がオーラスに配牌として帰ってくるというものだ。ある意味で言えば配牌を選ぶことを許された異能であり、そのことが麻雀において (特定の一局に限定されはするが) どれだけ有効かは簡単に想像がつくだろう。その半荘の連荘数と各局の第一打次第では緑一色だろうが九蓮宝燈だろうが、望むままに作れてしまうのだ。だからこそ彼女がいる卓では連荘を控えるべきだったし、許してはならなかった。それをどこ吹く風と無視したのは誰かなど問うだけ時間の無駄でしかない。

 

 無論だが弱点は存在している。どちらかといえばはっきりしている方に分類さえできるだろう。まずは彼女の異能の効力が一局にしか影響を及ぼさないこと。これでもしも彼女がラス親であれば目も当てられないような惨状になることは避けられないが、現実にはそうなっていない。次にオーラスにおける渋谷の配牌が割れていることが挙げられる。彼女の異能の特性としてそれは避けられない。また同時に他家同士で協力して連荘を避けてしまえば、帰ってくる牌を七つで止められる。そこまで持って行けばただの手の割れた宙ぶらりんの選手がそこにいるだけの状況を作り出すことができる。加えるなら渋谷尭深がその異能を有していることによる精神的な傾向をも計算に入れて場を進行させていくことさえ可能だろう。しかしそれだけのハンデをつけられても、彼女が恐ろしい存在であることに違いはなかった。役満という重たい一撃は、それだけで戦況をひっくり返す可能性を常に秘めている。

 

 深窓のお嬢様然とした柔らかい顔のまま、渋谷は既定路線でさえあった字一色を自摸和了った。ここまで展開を仕込んだ洋榎であっても素直に和了らせたかったわけではなかっただろう。明華も振り込むのは問題外として、自摸和了られるだけでも被害は大きいと考えていた。最終局で親番を迎える新子はなおさらそう思っていたに違いない。ただそれでも抵抗の隙はほとんど与えられなかった。それも仕方のないことだろう。十四の牌で完成する麻雀で、すでに十三の牌が渋谷の望みの通りになっているのだから。

 

 

―――――

 

 

 

 「連続和了歴代タイ記録にオーラスでの役満和了。見どころの多い中堅戦前半戦でしたね」

 

 「スリリング!」

 

 決勝戦の実況を任されている村吉みさきは、隣に座る解説の野依理沙にパスを出す。ほとんどの場合において彼女は自分から話すことをしないため、折を見て話題を振らなければ放送事故になりかねない。とはいえみさきも理沙と組んでそれなりに長い。いまさらそんなミスをしようはずもなかった。

 

 「それでは野依プロ、前半戦を振り返っていかがでしたか」

 

 「姫松の伸びが顕著!」

 

 これについては異論を唱えられようはずもなかった。一人だけわかりやすく三万点ものプラスを叩き出しているのだから。姫松のエースの名は伊達ではなく、改めてその得点の推移を見て観客たちはため息をこぼした。さすがに偶然なのだろうが三家から綺麗に一万点ずつを削り取っている。

 

 「しかしこれで勝負の行方がさらにわからなくなりましたね」

 

 何の気なしにみさきはこの言葉を口にした。アナウンサーとしては話の流れを作るための当然とも言うべき発言だが、どうやら解説を務めるプロからすると状況にマッチしていないものであったらしい。喋らないぶんを取り返すかのようにぶんぶんと首を振っている。長い黒髪はさらさらと遅れて揺れるだけだった。

 

 「まだ中堅戦!」

 

 「失礼しました。それでは――」

 

 理沙の解説がより多くの人に伝わるように質問を絞って話を広げていきながら、みさきは一つの疑問を手放せずにいた。なぜいま彼女は勝負の行方がわからなくなることに対して異を唱えたのだろう。得点状況を見ればわかるように、急激に追い上げてきたのは姫松だけだ。後半戦も似たような展開になると単純に考えるのであれば混戦模様になることは明白で、否定する要素などないはずだ。おそらく理沙はまた別の何かを見ている、とみさきは考えた。

 

 “まだ中堅戦” という言葉から推測するに、おそらく彼女の言いたいことは判断が性急だ、という辺りのことだろう。もしもこの事態をまだ混戦と呼ぶには早いという意図のもとで先ほどの発言があったのだとしたら、それが指すことはたった一つだ。四校での優勝争いになると言っているのとそう違いはない。ここまで考えてみさきは考えすぎだと自分を諌めた。阿知賀女子は三位とでさえ六万点もの差がついているのだから。そもそもが推測に推測を重ねた上での突飛な発想だ、自分でたどり着いたとはいえ信じる方がどうかしている。みさきは理沙との言葉のやり取りが途切れないように意識を集中しなおした。

 

 

―――――

 

 

 

 前半戦が終了して、対局室に残ったのは洋榎と明華の二人だった。前半後半の合間の休憩時間の過ごし方は基本的に自由であり、ホールの外に出ない限りは咎められることはない。とはいっても十五分程度のものであることを考えればやれることは限られてくる。したがって対局室から出ないままに試合再開を待つというのもよくある選択肢のひとつだった。

 

 洋榎はおしりの位置をすこし前にずらして、背もたれに思い切りしなだれかかるように座っている。疲れているようには見えない。むしろまだ体力が余っているのに強制的に休まされているといった退屈そうな表情を浮かべている。あるいは続けて打たせていたら彼女の調子がより上がっていたかもしれない。なにせ思い描いていた策を通しきったのだから。そういった点で見れば明華にもツキがあるのかもしれない。この休憩時間こそが彼女の待ち望んでいたものであった。

 

 「あの、ヒロエ。ひとついいでしょうか」

 

 「ん? なんや」

 

 つい、と言葉を差し向ける。ゴールデンウイークでの合宿で面通しは済んでいるし、準決勝でも卓を同じくしている。投げかけた言葉は自然なものだった。

 

 「歌を、歌ってもよろしいですか」

 

 「うちが聴いてもええんやったらかめへんけど」

 

 それだけ聞くと明華はにっこりと微笑んで、席から降りて雀卓からは少し離れた位置に立った。くるりと振り返って対局室の中央、雀卓のあるほうを向いて何度か足で床の調子を確かめる。果たして歌うのに床の具合が関係してくるのかは洋榎にはわからなかったが、とりあえず興味を引いたようでしばらく眺めてみることを彼女は決めたようだった。

 

 右手を胸へと持ってきて目を閉じ、すう、と明華は大きく息を取り込んだ。一瞬、上半身の、それも胸骨から肩の辺りにかけて膨らんだように見えて洋榎は自分の目を疑った。弾けるように開かれた口から放たれた声は圧力を持って押し寄せ、伴奏だとかそういった概念を吹き飛ばすほどの波は洋榎の鼓膜をかつてないほど震わせた。洋榎の頭に最初に浮かんだのは、透明なクジラだった。大きくて、やさしくて、きれいな存在感が力強くそこにあった。明華の歌声は決して太いものではなく、細いが力強い声という矛盾を成立させていた。

 

 メロディも言語も洋榎にはさっぱり聴きなれないもののようだったが、不思議と聴き入っている様子だった。明華の歌唱技術が高いことがあったのかもしれないし、この至近距離でオペラのような歌曲を聴いたのが初めてだったからかもしれない。

 

 

 「詳しいことはわからんけど立派なもんやったで。おひねりは持ってへんけど」

 

 「ふふ、ありがとうございます」

 

 やりきった表情に少し汗を滲ませて、雀明華は恭しくお辞儀をしてみせた。もちろん彼女は洋榎のために歌ったわけでも意味なく歌ったわけでもない。

 

 「ええなあ、それ。チョーシ上がるんやろ?」

 

 「やはりご存じでしたか、仰る通りですよ」

 

 楽しさと期待感を隠そうともせずに尋ねてくる洋榎に、明華は薄気味悪いものを覚える。ここが遊びの場ならばその反応もわからなくはないが、ここは団体戦決勝の場で、一番とそれ以外に分けられる決定的な場である。強い相手と打ちたいという願望は明華も持っているが、少なくともこの場で叶えたいとは思っていなかった。個人戦ならまだ残念なのは自分だけで済むが、団体戦はそうはいかない。チームを背負っている以上は一歩でも勝利に近づきたいと考えるのが自然であり、相手が調子を上げて喜ぶプレイヤーなどいていいはずがない。

 

 自負だ、と明華は確信する。愛宕洋榎は誰がどんな調子で出てきても制圧できると思っているのに違いない。もちろん彼女自身の傾向としての部分が大きいのだろうが、それを支えているのは思い込みや勘違いの混じらない純粋な自負だ。彼女には自分が崩れたらチームが崩壊するという恐怖はないのだろうか、と余計なことを考えずにはいられなかった。

 

 「な、それ対局の合間やったら反則ちゃうんやろ? なんで前半は歌わんかったん?」

 

 「中途半端に調子を上げたらヒロエに喰われると思ったからですよ」

 

 くく、と短く笑って洋榎はもういちど背もたれに思い切り寄りかかった。言葉があったわけではないが、指しているところはおそらく肯定だろう。正直なところ調子を上げた状態でも真正面からぶつかれば彼女に勝つ見込みは少ないだろうと明華は考えていた。卓を囲んで受ける印象はまるで違うが、絶望感とさえ呼びたくなるほどの感情を喚起する力の差はチームメイトである辻垣内智葉を思い出させた。しかしそんな相手が敵に回っているここで足を止めれば、より被害は甚大になるだろう。彼女は前に進まなければならなかった。今の明華を支えているのは、頼れる仲間が後ろに控えているという事実一つだけだった。

 

 決勝戦そのものが始まって三時間以上もの時間が経過していたが、場内にいる誰もがそのことに意識を回してはいなかった。時間などどうでもよいと考えているのではなく、時間の感覚そのものを失っていた。外で太陽が地球の周りを何周していようが月が公転周期を変えようが、そんなことは知ったことではなかった。それほどまでに出場選手の意識も観客の意識も集中していた。先鋒戦から続いていることを考えれば、疲れを感じている人が出ていないのが不思議なくらいだった。やがてそれらの意識の先に、退室していた渋谷と新子が帰ってきて、再開のブザーが鳴らされるのが待たれた。中堅戦後半戦が、始まった。

 

 

―――――

 

 

 

 渋谷尭深を除けば、後半戦の展開に望むことは他の三人で一致していた。連荘をしないことだ。もしも連荘を重ねることを選ぶのならば、役満に対抗できるほどの成果を出さなければならない。それは単純に自分の得点を伸ばすことだけではなく、渋谷が役満を和了る前に彼女の点数を32000以上削ることを指している。達成できないのなら控えるべきだろう。中堅戦開始時よりは削られたとはいえ未だにトップに立っている白糸台をさらに逃がすことに意味があるとは思えない。

 

 いかに調子を上げた明華とはいえ、その論理からは離れられそうもなかった。出親である彼女は初めから我慢を強要される。渋谷尭深を不利に追い込むためには親番を我慢しなければならない。これもまた彼女の異能の気付かれにくい利点のひとつだった。

 

 後半戦の東一局において明華のやるべきことは決まっている。阿知賀の新子に和了らせることだ。現時点でやってはいけないことを順番に挙げていけばその結論は簡単に導かれる。まず連荘になってしまうため明華自身は和了れない。トップを走る白糸台に和了らせるわけにもいかないし、姫松はもってのほかだ。卓のレベルを考えれば流局というのは考えにくく、であれば他を封じつつ阿知賀を和了らせる以外に道はない。自身が和了を目指すよりもはるかに難しい目標を前にして、明華は奇妙なおかしさを感じて笑みをこぼしそうになった。

 

 ( そっくりそのままヒロエがやっていたことではないですか! )

 

 明華を除く全員が全力で牌を倒しにいく理由がある中で、それらを制御するというのは至難であった。それぞれの意図を読み手を読み、またそれぞれが他家の手に対してどれだけの推測を立てているのかまでを確と見抜かなければならない。未曽有の情報量に脳の回路が焼き切れそうになる。しかし雀明華も一流の雀士だった。未体験の情報の処理の仕方であったはずなのに迅速かつ的確にそれらを選り分け、ついには愛宕洋榎を攻めの状態から一歩退かせることに成功した。

 

 新子が渋谷から直取りした2000点は、直接点数の動いていない明華と洋榎の間での勝敗にもなっていた。これまで思い通りにタクトを振るっていた存在に、ついに牙が突き立てられた。若くして世界ランキングに名を連ねているのは伊達ではないということだ。新子が和了ったときの洋榎のきょとんとした顔が、明華が読みを通しきったことを如実に告げていた。

 

 次の親番が来るまでは明華は自由に和了を目指せる身となった。しかし実態としてはそこで和了らなければならないと言い換えても何ら問題のないものであった。当然ながら勝利を目的として。重たい道だが今の局が達成可能であることを示している。勝てる可能性のある相手から逃げる必要などどこにもない。まして個人としては現時点で圧倒的な差をつけられているのだ。ここで後ろへ退けば失われるものがある。まだ十代の半ばを過ぎた辺りだというのに、あるいは()()()()()なのかもしれない、明華は雀士として前のめりにならなければならなかった。

 

 ギアをトップに持ってきた明華の手が悪くなろうはずもなく、配牌時点で二向聴の攻撃的なものだった。育て方を間違わなければ満貫までは持って行けるだろう。それに他家を膨大な情報処理の果ての捨牌で抑え込むことに成功したのだから、同じ手法を採っている洋榎のやり方に引っかかる可能性はぐんと下がったはずだ。もう和了ったとしても二翻が限界などという屈辱的な状況に戻るつもりは明華には毛頭なかった。差があるとすればせいぜいその道での経験の差くらいしかない。それを大きいものと見る向きもあるかもしれないが、だからといってそれを言い訳にしていられる場ではないのだ。

 

 

 初めは何かの勘違いだろうと思っていたものが、七巡目にはっきりと意識に上ってきた。まるでコールタールが手の平にべったりとくっついているかのように一部の牌が手から離れなくなった。隠さずに言うなら、絶対に切れない牌が生まれてしまった。動かそうとすればぎしぎしと手が軋むような気さえした。先ほどまでの感覚とは重さがまったくと言っていいほど違う。“切りたくない” なんて甘いものではない。“切ってはならない” 牌なのだ。この違いがどこから来るのかがまったくわからなかった明華は、いま進行している局とそれ以前のものを比べてみることにした。

 

 結論から言って、違いなどどこにもなかった。

 

 決勝戦の東一局から、あるいは準決勝からそうだったのかもしれない、愛宕洋榎はまったく同じ濃度で対局を進めていた。特定の牌に対する他家の危険度の認識を操作することで他家そのものを操っていた彼女は、手が震えるほどの恐怖をおそらく叩き込み続けていたのだ。どうして今になって明華がそれに気付くことができたのかと問われれば、それは彼女がやっと愛宕洋榎のステージに手をかけたからに他ならない。その年の高校生の最高峰が集うこのインターハイにおいて、彼女の技術は異次元にあった。プロやそれに準ずる実力者たち()()が彼女を宮永照に対抗し得る存在だと呼んだのには理由がある。一定のレベルになければ理解が及ばないところに彼女はいたのだ。

 

 初めて直視した世代を代表するプレイヤーのほんとうの姿は、明華の想像を超えて凶悪なものだった。もはや蠢く黒い線のカタマリがヒトの形状を成しているようにさえ見える。比喩でもなんでもなく、彼女は化生の類だ。明華はそう思わずにはいられなかった。

 

 “切ってはならない” 四筒は明華にとっては切らなければ先に進めない重要なものだった。和了りにいくなら、勝ちにいくならどうしたって邪魔になる牌だ。ただ、それが致命的なまでの危険信号を発している。切れば突き刺さるぞと彼女の打牌が主張している。これまでの愛宕洋榎との対局で何度も感じてきたよくない何かが、何倍にも濃くなって警鐘を鳴らす。捨てなければ前へ進めない。捨てれば撃ち落とされる。いつからか明華の手は震えている。この四筒が通れば。この四筒が当たってしまったら。明華の長考は二十秒にも及び、そしてついに結論を出した。

 

 捨てられたのは、北だった。

 

 黒い線のカタマリが、どくんと跳ねた気がした。それだけで明華は強制的に降ろされ、東二局において敗北したことを察することができた。四筒は、本当は通ったのだ。手を崩すことを余儀なくされた明華がなんとか立て直そうとしている間に彼女はぐいぐいと手を進め、そして結局は満貫を和了ってしまった。

 

 

 何より辛かったのは脅威を知覚してしまったことだった。知ることは重要なことだが、この場合においてはむしろ気付かないままに打ち進めていたほうが伸びやかに打てていたことだろう。しかしそれでも明華が強い意志を持ち続けていられたのには、ひとつの新しい根拠が生まれたことが関係していた。たしかに彼女は絶対的に見える力を持ってはいるが、そのまま絶対の存在ではない。たとえば前半戦オーラスの渋谷による役満和了を止めることはできなかったように、たとえばついさっき明華自身が彼女を降ろすことに成功したように。

 

 幸いなことに後半戦では洋榎も連荘をするつもりはないようで、そのことはわずかにでも点数を稼いでおきたい明華にとってはっきりと有利に働いた。彼女がこの東三局で息を潜めるのならば、この場は明華のものだ。それを証明するかのように明華は渋谷から直撃を奪って和了ってみせた。手こそ伸ばしきれずに終わってしまったものの、この和了には弾みになりそうな感触があった。

 

 続く局が明華にとって試金石だった。もちろん手を尽くして和了りを狙うだろう洋榎と、彼女の正体を知った上で戦うことを決意した明華とがぶつかる最初の局だからだ。ここを取ることができれば勝ち負けのレベルまで持っていける。相も変わらず彼女は自分が和了れないのなら他家を二翻以下の和了で収めるような打ち回しをして、また実際にそれを成功させていたが、明華が打ち破らねばならないのはこの部分にあった。そこから脱出できない限りは洋榎の支配から抜け出せていないことになる。三翻以上で和了ることが何よりも肝要だった。

 

 その熱に応えるように配牌は十分に明華を前向きにさせるものだったし、頼りにしている自風もきちんと手には入っていた。ここから彼女の読みと意図を超えて叩き伏せる。条件としては上々のものであり、だからこそ余計に明華には気合が入っていた。明華にはまだ彼女のことが蠢く黒い線のカタマリに見えているが、逆にそのほうが今はありがたかった。怯えを認識することができて、冷静になることの重要性をすぐに思い出させてくれる。落ち着け、と小さく明華は呟いた。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


        南四局開始時   後半戦開始時   東三局終了時

雀 明華   → 一一八一〇〇 → 一一〇一〇〇 → 一一〇七〇〇

渋谷 尭深  → 一〇七五〇〇 → 一三九五〇〇 → 一三〇九〇〇

愛宕 洋榎  → 一一三八〇〇 → 一〇五八〇〇 → 一一三八〇〇

新子 憧   →  六〇六〇〇 →  四四六〇〇 →  四四六〇〇


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53 face

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 別に敵意を見せているわけでもない洋榎の打牌のひとつひとつにびりびりと肌を震わせるものを感じた明華は、思い込みの凄まじさというものを実感していた。実際に怖れる必要のないはずのものが妙に怖く見えてくる。勝手に相手の虚像を作り上げ、それに自分が殉じてしまえばロクなことにはならないのが世の常である。相手を見る目は常に正確でなくては意味がないのだ。その意味で麻雀が精神力を要求するというのは当然だろう。もちろんそれは一側面であるのに違いないが。

 

 ただ、それらを承知の上で勝負を挑んだ明華は一歩も引き下がらなかった。ともすれば手拍子で言うことを聞いてしまいそうになる彼女の打牌に対して立ち止まり、考え、捨て鉢になることなく一定の判断を下し続けた。初めての集中力の領域にいると自覚した明華には、今なら白糸台の手も阿知賀の手もすべてが見えるような気さえしていた。実際は出てくる牌をピンポイントで予見するのではなく、いくつか想定されるパターンのうちのひとつに該当するケースが存在するというかたちをとってはいたが、それでも常人には立ち入ることのできない領域には違いない。自分や他家の動きを見て、大雑把にでも他家の打牌を推測していると言い換えれば、彼女が実行している内容が多少はわかりやすくなるだろうか。

 

 脳が聞きなれない音を立てて軋んでいるような気がした。麻雀をする上ではごくごく普通の頭の使い方だが、深度と密度がこれまでとはけた違いだからだろう。ここまでしなければ同じ舞台にすら上がれないのは明華からすればある種信じがたいことではあったが、だからといって取りやめるという選択肢は彼女の中には存在していなかった。

 

 ひょっとしたらこの中堅戦の流れそのものが、ひとつの終着点を目指したものであったのかもしれなかった。それはどの高校が勝つのかなどということと全く関係のない部分で。

 

 

 観客席のスクリーンやテレビ画面にはあまり映らなかったが、卓に着いている少女たちの表情はどうしてか多様なものだった。眉間にしわを寄せて厳しい表情を浮かべていたり、それとは反対に普段とまるで変わりなく落ち着き払った顔もあった。そしてもうひとつには鬼気迫るような、苦しみのうちにありながら妙に迫力のあるものさえあった。一手の持つ重みと情報量とが、それ自体がほとんど言葉を話すかのように変化していく。虚実を織り交ぜて進行していく局の結末は、本来の情報量の違い以上に観客たちのほうが読み取れていたに違いない。卓上は霧がかかったように不透明で、不親切だった。

 

 明華の打牌は、時に恐怖で進む道を曲げさせ、時にわざと隙を見せることで強気な打牌を呼び込んだ。しかしそれらはすべて道を制限する結果に繋がっていることに明華と()()以外は気付いていなかった。そして彼女はそれに気付いていながらも、わかりやすい反発を見せることはなかった。言う通りに従っていると言えば聞こえが悪いかもしれないが、明華の戦い方は、たしかに苛烈だった。白糸台の渋谷にせよ阿知賀の新子にせよインターハイの決勝まで勝ち進んできたチームの一員であり、そんな彼女たちが見破れないような戦術が簡単に破れようはずもない。この局のゴールはほとんど見えてさえいた。

 

 それは十一巡目のことで、ひたすらに狙われ続けた渋谷から零れた牌で明華は和了を宣言した。明華にとってこのことが持つ意味は計り知れないものだった。きちんと三翻以上で和了ったことによる実力の証明をきっかけのひとつとして、それに歓喜し解放感を覚えた。それどころかほとんど表に出てくることのなかった彼女の自尊心をさえ十分に満たす大きな大きな和了だった。恐怖に立ち向かい、それを乗り越え、そして労苦が報われたのだ。いまこの瞬間に自分より満たされた人間はいるだろうか、と明華は誇張なくそう思っていた。一局とはいえ全力の愛宕洋榎を上回ったのだと、そう確信していた。

 

 果たして彼女の表情は、すこし楽しそうにほころんだだけだった。

 

 後半戦の東一局で見せた、あのきょとんとしたものでさえない。あの時よりもよほど真正面からぶつかって抑え込まれたはずなのにもかかわらずだ。悔しがる、とまではいかなくとも後ろ向きな気持ちになるのが筋だろうと考えて、次いで麻雀に関する彼女の性格の特異性について頭を回した瞬間のことだった。黒い線のカタマリが、それはもちろん比喩であり錯覚に違いないが、ノイズが走ったようにその輪郭をときおり崩しながら圧倒的な威圧感とともにそこに存在していた。

 

 出力を上げただろうことは明らかだった。そしてそれが指すところは、たとえいくつかの意味があったとしても、いちいち言葉にする必要のないものだ。がこん、と大きな仕掛けが作動してしまった。明華は虎の尾を踏んで、そして重たい扉を開けたのだ。

 

 

―――――

 

 

 

 見たことのない領域は、たしかにそこにあった。明華が先ほどたどり着いたステージは、決して到達点ではなかった。その奥に潜んでいた彼女の思考の奔流は、明華を呑み込んで押し流した。必死で抵抗を試みたところでそれは許されなかった。彼女が明華の考えの先にいつも座り込んでいたからだ。彼女がやっと本気を見せるつもりになったのか、あるいはそれを引きずり出してしまったのかの判別は明華にはつかない。動かせないのは、もう明華の手には負えない凶悪なプレイヤーがそこにいるという事実だった。

 

 結果として愛宕洋榎は雀明華から12000点を奪い取って彼女を叩きのめした。そのことは明華から戦意を根こそぎ持って行ってしまった。文字通りに、一切の過不足なく。

 

 そうして洋榎はちょっとだけ残念そうな顔をして点棒を受け取った。それまで彼女を包んでいた覇気はきれいに霧散していた。そこにいたのはときおりノイズの走る黒い線のカタマリではなく、長い髪をポニーテールにしたたれ目の特徴的な少女だった。

 

 中堅戦の以後の局にも小さな変動はあったが、姫松高校が首位に立ったこと以外には特筆する必要もないだろう。

 

 

―――――

 

 

 

 「……こりゃ播磨少年が優勝を豪語するわけだわ」

 

 盛大なため息とともに、どさりと椅子の背もたれに倒れ込んでアレクサンドラが感心したように口を開いた。彼女についてある程度の予想はつけていたのだろうが、少なくともその予想をちょっとは上回られたということなのだろう。それこそ手を額に持ってきてわかりやすい “やられた” というポーズまでとっている。テーブルに置いてあるコーヒーはすっかり冷めてしまったようで、今は湯気なんて影も形もない。

 

 ひとりの雀士としては今の中堅戦は実に興味深いものであったが、臨海女子の監督として見るとそうはいかない。得点状況だけで見れば三位に落とされてしまったのが残る現実である。とはいえ明華に対してアレクサンドラから言えることなど皆無と言っていい。相手が悪かった、それに尽きる。間違いなくさっきの彼女は宮永照や辻垣内智葉と勝ち負けになる段階にあった。つまり日本の高校生で一番にならなければ勝てない相手である。いくら留学生だからといってそこまでを要求するわけにはいかない。たとえば運動能力が決定的なものになるスポーツとは根本的に考え方が違うのだから。

 

 「んー、サトハ。ここからどう見る?」

 

 もちろんアレクサンドラ自身、この問いを発する前にある程度の結論を自分の中で出している。それでも尋ねる必要があるから尋ねるのだ。こういう時に全幅の信頼を寄せられているリーダーがいることは有利に働く。大会に選出されたメンバーは、どうやら部活動の中や学校生活の中だけでなくプライベートでもよく遊んだりしているらしい。いくらなんでもそこまでは面倒を見きれないアレクサンドラからすれば大助かりだった。

 

 「勝たないことを選ぶなら簡単です。そのままなんとなく局を過ごせばいい」

 

 「ワオ、サトハの冗談なんて珍しいじゃない。出来はあんまりだけど」

 

 これで智葉がアレクサンドラの意図していることを汲み取っていることがわかった。頭までよく回るとは実に頼りがいのあるリーダーだ。

 

 「……結果論にせよ過程を重く見るにせよ、大将戦がキーでしょう」

 

 冗談がつまらないと言われたことが気に障ったのか、機嫌を若干悪くして智葉が返す。どうにも彼女の口調が天気予報みたいで、アレクサンドラにはそっちのほうが面白かった。

 

 「そうなのよね、見事にどこも厄介そうなのを大将に集めてきてる。まあ当然なんだけど」

 

 「カントク、副将は無視でスカ?」

 

 「違う違う、メグは勝つの前提だっての。どれだけ勝つかは別にしてだけど」

 

 わざと大げさにリアクションを取る。今さら緊張に押し潰されるような精神をしているとは思っていないが、わざわざプレッシャーをかける必要もない。これはまったく真面目に言ってダヴァンが副将戦で負ける要素はないと断言してもいい、とアレクサンドラは考えていた。麻雀そのものが運次第の競技なのだから見当はずれだという声もあるかもしれないが、それは誰もが同じ条件なのだからダヴァンの負ける要素と捉えるほうがお門違いというものだろう。

 

 準決勝では妙に気の入っていないところが見受けられたが、それでもダヴァンは勝っている。つまるところ彼女はそういうレベルのプレイヤーなのだ。彼女を相手に真剣にプラスを考えようと思うのなら、最低でもインターハイ出場校のエースクラスを引っ張ってこなければならない。だからアレクサンドラはその辺りの心配をほとんどしない。というよりも先の中堅戦のような例外が無い限り、メンバーたちは基本的には期待に応えるため、これまでアレクサンドラは心配という行為をしたことがない。実に楽な仕事だ、ただ試合を観ていればよかったのだから。しかしここへ来て、それが崩されようとしていた。組み合わせの妙や局における幸運不運すべてを含めて楽観できない状況が作り上げられていた。繰り返しになるが、だがそれでも彼女は副将戦に対しては砂粒ほどの心配もしてはいない。

 

 

―――――

 

 

 

 館内放送を受けて廊下を歩く絹恵の前に立っていたのは、先鋒戦以降まったく姿を見せていない上重漫だった。いったい廊下のどこに隠れていたのだろうか。この廊下は少なくとも由子と洋榎が一回ずつは往復しているはずの通路で、対局室へとつながる扉以外には入るところすら存在していない。多少は不思議な点が残るが、それでも本当に姿を消してしまうよりははるかにいい。わずかに腫れた目が、少女の感情の経緯を教えてくれた。

 

 「なあ、絹ちゃん」

 

 絹恵が聞く限りはいつもの漫の声だった。震えてもいないし妙に強いわけでもない。どことなく優しい感じのする声で思い出すのは、ふたりでコンビニに飲み物を買いに行ったときのことだった。そろそろ副将戦が始まるのも事実ではあったが、かといって時間がないわけでもない。絹恵が漫の話を聞かない理由がなかった。

 

 「どしたん?」

 

 「頑張ってな、うちにはもうこれ以上のことは言われへん」

 

 そう言ってじっと見つめる少女の顔から絹恵は目を離すことができなかった。なんとも奇妙な (奇妙という言葉でも重要な要素を落としているように絹恵には思われた) 表情をしていた。多くの感情が混ざり過ぎて色を失ったような印象を受ける。なぜ絹恵がそのような感想を抱いたかといえば、表情に反して言葉からはわかりやすく応援の色を感じ取ることができたからだ。

 

 「うん。頑張るわ。大丈夫とかおっきなことは言えへんけどね」

 

 言葉と視線を受け止めて絹恵は力強く頷いた。同い年の二人だからできる会話だった。それ以上の言葉を交わすことなく、絹恵は対局室へと歩き出し、漫はその背中を見送った。絹恵が曲がり角を曲がってその姿が見えなくなると、漫は控室へ向けて歩き始めた。

 

 

―――――

 

 

 

 「……へ?」

 

 先鋒戦が終わってから控室に顔も出さずに心配をかけただろうことで怒られると思い込んでいたものだから、叱られるどころか拳児からその行動は正解だと言われたせいで漫は面食らっていた。室内を見渡せば恭子だけはわずかに不機嫌な様子が見られるが、あとは由子がほっとした表情を浮かべているくらいで他は特別な事象が起きたとは考えていないらしいことが見て取れる。

 

 室内に入ったきり、ぱちくりと目をしばたたかせ続けている漫に、拳児がそのまま続ける。いつものように一言だけで済ませるわけではないらしい。思い返してみれば大会中は普段よりも拳児の話を聞いている気がする。やはり実戦に放り込むことで見えてくるものがあるということなのだろうか、と漫は余計なことを考えていた。

 

 「別に理由は聞かねえし、何を考えてんのかを知るつもりもねえ」

 

 「え、えーと、はい……」

 

 漫はなんだか手がかりのない草原に放り出されたような気分になった。これでその言葉を口にしている相手が播磨拳児でなければ、“どうでもいい” と言われているに等しいくらいだ。しかし拳児の積み重ねた四ヶ月は、部員たちにそう思わせないだけの信頼を彼に与えていた。もちろんそこには郁乃のフォローの影響も間違いなく大きな要素として存在はしていたが、拳児個人の働きも要素として外せないものになっていた。

 

 「ただよ、オメーが今回の負けに対してナンか抱えてるってーのはわかる」

 

 口を開くわけにはいかなかった。別に拳児が責めているわけでも慰めているわけでもないことは彼女本人にもわかっている。しかしどうしてか拳児のその言葉は、漫の奥深くに刺さった。堪えることを意識しなければ何かが決壊していたかもしれない。漫の立っている位置と拳児の座っているソファの方向と位置の関係上、拳児が顔の向きを変えなければ互いに顔を見ることはできないが、漫にはそれがありがたかった。

 

 「だからまァ、それでいいんじゃねーの」

 

 大げさに言えば、救われたような気さえした。先鋒戦の組み合わせが生み出した限定的で特異な状況は、彼女の精神にもまた限定的で特異な状況を生み落とした。試合結果は複雑に組み上がった漫の内心を打ち砕き、そうしてそのことが彼女の目を赤くした。拳児の言葉は全面的な肯定ではなかったが、決して否定というわけでもなかった。

 

 漫がその場に立ち尽くして動けなくなったのには理由があって、つん、と喉の奥を熱いなにかが通るのを感じて、少女はそれがどうにかかたちにならないように耐えようとしていたからだった。監督としての播磨拳児はいつもこうだ。前置きはなく、言葉は足りず、そのくせ妙に鋭いところがある。麻雀に関して漫がはじめて拳児からもらった言葉は、いまだに漫の心に小さく火を灯している。勝てないやり方を選ぶバカはいないと監督が言ったから、漫は火力一辺倒の戦い方から速度の有用性を考えるように変わった。彼女にとって播磨拳児はひとつの契機であり、道標だった。

 

 さらに言葉が続く可能性もある一言だったが、どうやら拳児の話はこれで終わりらしかった。彼の視線は話している途中と変わることなく前に注がれていたが、もうなにかを言いそうな雰囲気はない。それどころか気が付いてみれば、控室にいる誰もが拳児と同じように視線をテレビ画面のほうへと固定しているではないか。ああ、この人たちは先輩なのだな、と漫の心は理解した。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


        東四局開始時   南一局終了時   中堅戦終了

雀 明華   → 一一〇七〇〇 → 一〇二六〇〇 → 一〇〇三〇〇

渋谷 尭深  → 一三〇九〇〇 → 一二七〇〇〇 → 一二一二〇〇

愛宕 洋榎  → 一一三八〇〇 → 一二五八〇〇 → 一三〇〇〇〇

新子 憧   →  四四六〇〇 →  四四六〇〇 →  四八五〇〇


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54 嘘のつけないひとたち

―――――

 

 

 

 龍門渕一行が宿泊しているホテルの部屋は、座り心地のよかったホールの座席なんかを遥かに飛び越えて快適だった。座っているソファからしてもそうだし、飲食物の類も透華付の執事のおかげで一流のものが味わえる。一人ひとりのスペースの事情を考えてもさすがにホールとは比較にならないし、アロマでも焚いているのかなんだか落ち着く甘い香りまでする。そのうえ周囲を気にせず話せるものだから、八雲も愛理も結局は彼女たちのお世話になることを選んだ。

 

 窓から見える空の大部分はまだまだ青いが、端の辺りは次第にその色を変え始めていた。時刻で言えばもう夕方といって差し支えのない頃だ。かたちだけでは判別のできない鳥の影が遠くの空を横切った。部屋自体が高いところにあるためか、セミの声はほとんど聞こえない。あるいはセミたちでさえもいま行われている決勝戦に意識を奪われているのかもしれない。

 

 

 「愛理さん、そろそろお聞きしてもよろしくて?」

 

 タイミングとしては出し抜けのものであるはずだったが、透華の問いかけは突然の印象を与えなかった。どこかで普通の人の目には見えない、言葉の波のようなものが彼女には見えているのかもしれない。

 

 「何のこと?」

 

 儀礼的な返答だった。とりあえずこの段階を踏んでおかなければいけない種のもの。

 

 「それはもちろん愛理さんと播磨拳児監督の関係について、ですわ」

 

 それは執事を除いた龍門渕側のメンバーの誰もが知りたいと思っていた事柄だった。もともとのクラスメイトが名門校の監督としていきなりデビューを果たしたとはいえ、その行方を見守るために貴重な高校三年生の夏を二週間ほども費やすというのはなかなかのことだと言える。少なくともただの友人程度の関係性でできるようなことではないだろう。もちろんほとんど同じようなことが彼女といっしょにやってきた八雲にも言える。愛理と八雲が違っている点は、龍門渕側からすれば年齢だけだ。

 

 愛理はきまり悪そうな表情を浮かべる以外になかった。こんな質問をされてにこやかにしているほうがどうかしている。聞かれるのはわかりきっていたことだが、それでもどうしようもないことだ。

 

 「……気が進まないわね」

 

 「愛理さんの執事のナカムラさんに尋ねてもよいのですけど」

 

 にっこりといたずらっぽい笑みを浮かべて透華は口を開いた。普段は育ちの影響もあって淑やかで大人びた印象を与える外見をしているが、こうして笑うと年齢相応のかわいらしい顔立ちをしていることに気付く。もちろん愛理は透華の本性がこちらのほうに近いことをよく知っている。でなければこんな提案が出てくるはずはないのだ。

 

 「ナカムラだけは勘弁して。脚色して話すに決まってるわ」

 

 目を閉じてため息をつきながら降参の意を示す。元軍属という異色の過去を持つ沢近家の執事はその頃の血が騒ぐのか、拳児のことを妙に気に入っており、たびたび愛理と拳児をくっつけようとする動きを見せていた。そんな彼に拳児のことを聞かれたら、面白半分どころか面白さ八割ほどで嬉々として話し始めるだろう。おそらくは愛理の気に入らない感じで。

 

 仕方なく愛理は思案を始めた。どのような順番で話をするかも大きな要素になり得る類のものだからだ。先の発言があったというのにこのまま黙ろうとしたところで、そうは問屋が卸さないだろう。既に透華はもとより、赤いリボンがやけに目立つ衣も目を輝かせている。救いと言えば八雲を囲む面子の三人が比較的離れたところで彼女にちょっかいを出していることぐらいだろうか。それでもどのみちいずれ透華から彼女たちに伝わることは避けられないだろうけれど。

 

 「関係、と言えばクラスメイトくらいのものね。二年生のときの」

 

 「それだけですの?」

 

 「とりあえずはそれだけよ」

 

 愛理の言葉はそっけない。もともと素直ではない性格なのだ。

 

 「では愛理さんにとって、彼は他の男性とどう違うのでしょう」

 

 透華は愛理の扱いを心得ていた。質問の仕方しだいではさっさと打ち切られてしまいかねない。そうはさせないためのやり方というものがこの世にはあったりする。

 

 ついで小さな頭がぴょこんと跳ねた。体の向きを愛理のほうへ変えて、じっと瞳を覗き込んでいる。その奥になにか目新しいものが見えるのかもしれない。

 

 「……なんというか、関わったことのないタイプだったわ。粗野で、バカ正直だった」

 

 ほとんど遠い過去のことのように話してはいるが、愛理が話しているのは去年のことであって、時間の連続性はまったく途切れていない。あるいは愛理からすればそうではないのかもしれない。愛理はアイスティーの入ったカップを口元へと運んだ。

 

 透華はいったんその言葉を要素に分解して組み立てなおしていた。素直でない彼女と話すときはこの作業が必要不可欠だった。とくに人物の印象については気を付けたほうがいい。言い方ひとつで受け取り方がずいぶんと変わるものが非常に多く、また彼女はそれを使って巧妙に煙に巻こうとするだろう。少なくとも()()()()()()()()()と透華は確信していたが。

 

 「……つまり愛理さんに対して心理的な壁がなかった?」

 

 「そうね、その言い方でも間違ってないと思うわ」

 

 「エリ。エリはハリマとやらとの間に特別ななにかを抱えたのだろう? 衣はそれが聞きたい」

 

 ひどく答えにくい質問に、愛理は頭痛を感じたような気がした。まず愛理の中ではっきりさせておかないとならないのは、愛理と播磨拳児はいわゆる彼氏彼女の関係にはないということだ。もちろんなったこともない。そのうえで先の衣の問いかけに答えるとなるとなかなか難しい。ただ事実を淡々と伝えるにはまだ愛理は若すぎたし、なにより記憶が鮮明過ぎる。その当時の感情まで呼び起こしてしまいそうで、それこそ気が進まなかった。

 

 それでも愛理はどうにかして答えることに決めた。気休め程度かもしれないが、できる限り古い記憶から話を持ってくることで先に挙げた弊害を回避しようとした。

 

 「別に私とアイツはそういう関係じゃないわ。まずそれを理解してもらいたいんだけど」

 

 愛理がそう言うと透華と衣がすぐに頷いた。金糸の髪から花の香りが漂ってくる。きっとシャンプーの香りに違いないだろう。

 

 「去年の体育祭でね、私とヒゲと両方に責任があるかたちで私が怪我したの。軽い捻挫」

 

 その際に行われたのが騎馬戦の騎馬を二人で同時に蹴り崩すというとてもまともではない行動だったことには触れない。その体育祭ではそういった行為がなぜか禁止されておらず、意外と主流の戦い方だったことも忘れてはいけない。彼らふたりが特別に外道だったわけではないのだ。

 

 ちなみに愛理が怪我をした直接の理由は、彼女が剃ってしまった拳児の頭を守るためである。なぜ拳児の頭が月代のように剃られていたのか、そしてどういった段階を踏んでそこに至ったのかを説明するのにはあまりにも事情が込み入りすぎていた。それらはすべてまともな理由ではないことだけは断言できる出来事だった。

 

 「それでそのあと女子のクラス対抗リレーにも出てたんだけど、まあ、本調子じゃなくてね」

 

 痛みをこらえて出場した愛理は、捻挫のことをほとんど誰にも悟らせずに走った。実際にそのスピードは目を見張るものだったし、その働きはアンカーの手前の走者として十分なものであった。しかしその途中、痛んだ足の影響で彼女は転倒し、バトンと順位を大きく落とした。彼女はかなりオブラートに包んだ言い方をしているが、そこを確かめる術は透華にも衣にもなかった。

 

 「私の怪我の責任でも感じてたのかしらね、あいつが男子リレーで勝つって言いに来て」

 

 「言いに来て?」

 

 「そのまま勝ったってだけのハナシよ、それでおしまい」

 

 ちょうど言葉を切ったところでテレビから歓声が上がった。副将のうちの誰かが大きな和了りでも見せたか、あるいは見事な打ち回しを見せたのだろう。しかし透華と衣の興味はいまはそちらには向いていなかった。

 

 「衣には男女の機微がわからぬ。比翼連理にも聞こえるし、そうでないようにも聞こえる」

 

 「そういうものじゃないわ、たまにはいいところあるじゃないってくらいのこと」

 

 愛理には比翼連理の指すところの意味がつかめなかったが、とりあえずの訂正を入れておいた。当然ながら愛理はそのあとの後夜祭についての話をしなかった。あるいはこここそが透華と衣が聞きたがっていた部分なのかもしれないが、なんとも気恥ずかしいうえにその時間が持っていた意味を愛理は正確に説明できない。外からみればそれはたしかに男女の関係を思わせるものだったかもしれないが、愛理からすればそれはわずかにピントがずれていると言わざるを得ないものだった。

 

 見る人が見れば一目でわかる、誤魔化すような笑みを愛理は浮かべた。薄い皮膚の一枚下にはこれ以上の具体例の追及を拒絶するといった感情が透けて見えるようだった。もうここはレッドゾーンだ。思い出す内容によっては怒りが抑えられないかもしれない。それを言葉にすることなくできるだけ正確に愛理は表現したつもりだ。透華がどう受け取るかまではわからないが。

 

 透華は視線を上げて、天井を見つめながら考え事をしている。愛理の発言の内容を精査しているのか、それとも新たな質問を案出しているのかはわからない。愛理としてはできればこれ以上は勘弁してもらいたいところだろうが、きっとそうはならないだろう。

 

 「それでは愛理さんは播磨監督に対してどんな思いをお持ちなのでしょう」

 

 「とくに何もないわ」

 

 「ほんとうに?」

 

 むしろ言葉に詰まるのが自然ですらあった。愛理の拳児に対する感情は、単純な好悪で表せるようなものではない。ちょっとしたことや些細な行き違いが積もり積もって重なって、一歩も後ろに戻れない複雑な感情を形成した。もちろん人と人のあいだの感情もおしなべてそういうものなのかもしれないが、愛理と拳児のあいだのそれはそれこそ独自に名前をつけられても不思議ではないような特殊なものだった。それは素数のようにそれ以上の単純化ができない感情なのだ。

 

 「わたくしには愛理さんが播磨監督を、少なくとも嫌っているようには思えませんでしたわ」

 

 「粗野で粗雑でバカでサイテーだけど、たしかに嫌いなわけじゃないわ」

 

 「道理だ。でなければエリは東京までインターハイを見には来るまい」

 

 その瞬間、あるひとつの疑問が愛理の脳裏を過ぎった。その疑問に対する答えを用意する前に、これが致命的な問いになることが時間を置かずに愛理にはわかった。衣が何気なく声に出したその言葉は、愛理の頭に生まれた疑問を連れてくるものだった。まず間違いなくこの疑問を透華も口にするだろう。これは問われなければならない質問だ。そしてそれに対する返答がどのようなものであれ、愛理にとっての “前” がここで定まるだろう。どうして今までこのことに気が付かなかったのだろうか、と愛理は自問した。しかしそんなことに意味はなかった。

 

 一拍置いて、やはり透華がその質問を口にした。

 

 「それでは愛理さんは何をしに東京へ?」

 

 自然で、当然で、逃げ道のない質問だった。そもそも麻雀に強い関心を抱いていたわけではないのだから、麻雀を見に来たとは言えない。いやそれすらも言い訳で、彼女たちの関心はひとりの男にしか初めから向いていない。そして透華が問うているのはその一歩先だ。大会中に会えるかどうかもわからない拳児の後を追ってきて、そこでいったい何をどうしようとしているのかを聞いているのだ。それこそ結果を追うだけなら自宅のテレビを見ていればそれでよいのだから。

 

 愛理は静かに目を閉じて、東京に来てからの自分のこれまでの行動を振り返った。そうしてその振り返りは愛理をあるひとつの事実にぶつけた。彼女はとくに何か行動を起こしたわけではないのだ。ただスクリーンあるいはテレビの前に座って、彼の所属する姫松高校の試合を眺めていただけだ。あまつさえ彼のチームメイトに出会ったときにはエールまで送っている始末だ。自分の行動が指し示す意味を理解できないほど愛理の頭は鈍くできてはいない。彼女は初めからわかったうえで東京に来たということを認めなければならなかった。東京に来たのはひとつの区切りの儀式であって、それ以外の意味は些末なものに過ぎなかった。

 

 「……なんというか、そうね、立ち位置の確認をしにきたの」

 

 「立ち位置?」

 

 不思議そうに聞き返す透華に、愛理は頷くことで答えた。

 

 「その立ち位置はきちんとわかりまして?」

 

 「初めからわかってはいたの。確認をしにきただけよ」

 

 そこまで話すと愛理は心の中が妙にすっきりしていることに気が付いた。どうしてすっきりしているのかが初めはわからなくて、しばらく黙り込んで考え続け、そうしてやっとその答えが脳裏に浮かんだ。それはとても単純なことで、彼女が認めたくないことだった。愛理は、播磨拳児という男がほんとうに違う場所にいるのを()()()()()()()話したがっていたのだ。たまたま話した相手が透華たちだっただけで、おそらく誰かに話していただろうことは動かない。八雲を連れてきたのがその証拠だ。

 

 我ながらバカな時間の使い方をしたものだ、と愛理は首を振りながら大げさにため息をついた。それは愛理もまたただの女子高生であり、相応に不安を抱えていることを示していた。そして彼女自身は東京まで出てきたことから導かれる重要なことにまだ気付いていなかった。愛理にそのことを告げれば、きっと彼女は顔を真っ赤にして否定するだろう。

 

 テレビでは緑色の上で四人の右腕と雀牌が躍っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 こつこつとローファーが誰もいない廊下の床を叩く。足取りには軽いものも重いものも感じられない。しかし迷いの無さから考えるに、目的地ははっきりと決まっているのだろう。平均よりはずいぶん高い位置にある腰のポケットに手を突っ込んでのしのしと歩く姿は、傍から見ても近くから見てもやはりチンピラだった。

 

 副将戦の場面は確実に進行して、いまはちょうど東場が終わったところだった。インターハイでの優勝そのものに主眼を置いていない拳児とはいえある程度は現状が気になってはいたが、それとは別に単純に喉が渇いたらしい。加えて控室の近くに置いてある廊下に置いてある自販機には彼の気に入る飲料がなかったらしく、わざわざその足をホールのエントランスへ出るほうへと向けていた。褒められた行動でないのは明らかだが、拳児がそんなことを気にするタイプと考える人もいないだろう。

 

 どのみち決勝戦が白熱していることもあり、贔屓目に見てもホールのエントランスは閑散としていた。そのぶん観客席の人口密度が高まっていると言われても信じられないほどに。しかしそれは拳児からすれば都合のいい状況でもあった。誰に騒がれるでもなく目的の飲み物が買えるのだから。気を楽にして少し距離のある自販機のほうへ目をやると、そこには先客の姿があった。小学校四年生くらいの身長にまっすぐなポニーテールをぶら下げて、なぜか長袖のジャージを着込んでいる。ひょっとしたら館内の冷房が彼女にとっては利きすぎているのかもしれない。そのわりに下はホットパンツと夏らしい服装をしているから、まったく事情が異なっている可能性もあるだろう。小学生までもが直接に足を運んで見学するとは麻雀の人気もどうやら本物らしいなと考えながら、とりあえず拳児は自分も利用するつもりの自販機へと歩を進めた。

 

 拳児があと二歩ほどで立ち止まろうと考え始めたあたりで、がこん、と缶ジュースの落ちてきた音が自販機の口から響いた。少女は当然そこに手を突っ込んで缶を取り出し、いざ帰ろうとして振り向いた。そうしてまた自然の流れとして、拳児と面を合わせることになった。拳児自身は露とも思っていないだろうが、大抵ならば面倒なことになるのが筋だろう。少女が泣きだすか逃げ出すかするのが目に浮かぶようだ。しかしその少女はどちらも選ばなかった。きらきらと輝く瞳で拳児を見上げていた。

 

 「播磨拳児監督ですよね!?」

 

 そう嬉しそうに声をかけてきた少女の顔を、拳児が忘れるはずがなかった。異能を持った雀士がそこらじゅうにいるこの大会で、ただひとり拳児に不思議な印象を残した少女だったからだ。信じられないことに、拳児は初めて会うその少女の名前さえ記憶していた。

 

 「オメー、たしか阿知賀の高鴨とかなんとか……」

 

 「はい! 高鴨穏乃ですっ!」

 

 多くの疑問が拳児の頭を駆け巡りはしたが、いまこの場でそのいちばん上に来たのは、どうしてこれほどまでに輝いた目で自分を見ているのだろうということだった。接点と呼べるほどに濃い接触は、ふたりの間どころかチーム同士に枠を広げても見当たらない。姫松がBブロックだったのに対して阿知賀はAブロックだ、決勝に来るまでまともに顔を合わせることすらできないのだ。だから拳児にはその理由がよくわからなかった。ただ、拳児のそのささやかな疑問は彼の口の端に上がることもなく解決を見た。

 

 「すごいですよね! 監督一年生で決勝進出なんて! 赤土先生とおんなじだ!」

 

 あまりにも屈託がなさすぎて拳児はそれを頭から呑み込まざるを得なかった。彼女が言うのならきっとそうなのだろう。嘘をつかないとかつけないというレベルではなく、嘘をつくことの意味を理解していないタイプだ。

 

 拳児にはその赤土なる人物が誰なのかはわからなかったが、おそらくは目の前の高鴨穏乃という少女の尊敬を受けていることだけは理解できた。ついで面と向かって褒められているということにやっと気付いた。基本的に褒められるという機会が極端に少ない拳児は、実際に直面したときにどうしても反応が遅れてしまう。そうでなくても高校生という年代で真正面から人を褒められる人間は少ない。照れくさかったりなんなりで心が邪魔をして、そうして結局は口にしないなんてことがよくあるものだ。ある意味で言えば拳児は貴重な体験をしているのかもしれなかった。

 

 「戦ってんのァあいつらだ、別に俺がすげぇワケじゃねえよ」

 

 決まりきった文句で拳児は答える。本心から出ているのだから変えようもない。

 

 「赤土先生も同じこと言ってました。でも、絶対に力になってるって私は思います!」

 

 

 それきり別れの挨拶をして駆け足に去っていく彼女の後ろ姿を、拳児はぼんやりと眺めていた。そして恭子にそれを含めた話をどう話したものかと考え始めた。拳児が控室を出た理由がここにもうひとつある。どうも漫が控室に帰ってきたあたりから彼女の様子が明らかにおかしくなっているように拳児には見えており、その対応策を本人から離れたところで考えようとしていたのだ。優勝を決める立場にある彼女がそれでは困ってしまうのだが、しかし拳児はそういう細かい心の動きが苦手だ。何をどうすれば元通りになるのかを必死に考えはしたが、もともとそちらのほうには向いていない拳児の頭は解答を導いてはくれなかった。

 

 ( チッ、いるとこにゃいるもんだな…… )

 

 答えの出せない問題をいつまでも考え続けられるほど我慢強くない拳児はいつの間にか別のことに思考を回してしまっていた。たった数語しか言葉を交わしてはいないが、それと同じ感じを拳児は前に受けたことがあったことを思い出していた。同時にそういう人物があらゆる意味でどれだけ厄介かも思い出した。現時点で阿知賀の得点が落ち込んでいることくらいは拳児も承知していたが、果たしてそれがどれだけ安心材料になるかは正直なところわからなかった。あくまで拳児が感じ取った可能性だが、あの少女は他三校のリードをぶち壊すだけのものを持っている可能性がある。臨海女子、白糸台と共に厄介な大将が控えていることはわかっているが、そこに阿知賀の高鴨が加わる。彼はそれに対して打てる手などはじめからひとつも持っていなかった。

 

 しばらくのあいだ、高鴨が姿を消したほうを見つめたまま、拳児は自販機に硬貨も入れずに立ち尽くしていた。そうしてもう一度、無いと自覚している頭を働かせ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


           副将戦開始時   東四局終了時   前半戦終了時

鷺森 灼      →  四八五〇〇 →  四九五〇〇 →  四六八〇〇

メガン ダヴァン  → 一〇〇三〇〇 → 一〇六六〇〇 → 一一三二〇〇

愛宕 絹恵     → 一三〇〇〇〇 → 一三〇二〇〇 → 一二三九〇〇

亦野 誠子     → 一二一二〇〇 → 一一三七〇〇 → 一一六一〇〇


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55 リメンバー播磨拳児

―――――

 

 

 

 「で、で、八雲ちゃん。播磨さんとは結局のところどうなの?」

 

 タイミングとしては透華が愛理に仕掛け始めたのにわずかに遅れた程度だった。ひょっとしたら龍門渕の面々は揃ってこの日に話をしようと相談していたのかもしれない。しかし麻雀の話のできない愛理と八雲が相手であることを考えると、そういった方面にも話がいくのは自然なこととも言えた。なぜなら彼女たちは女子高生である。他にも話題は探せばいくらでも見つかるのだろうが、どうしたってそっちに寄っていってしまうのは仕方のないことだと言えよう。

 

 透華と違って関係のないところからいきなり話を放り込んできた一の発言に八雲は固まった。ミルクティーの入ったカップを口に運ぶ途中でよかったと考えるべきだろう。もし口に含んでいたら噴き出してしまっていたかもしれない。硬い動きで顔を一のほうに向けると、そこにはにっこりと笑顔を浮かべる少女の姿があった。まったく悪いことをしたとは考えていないような顔をしている。東京に来てからの付き合いだから決して長く接しているわけではないが、八雲は彼女が表情を隠すような演技を得意としていることを知っている。なにせ本人が自分から言っていたのだから。 “マジシャンならそれくらい隠せるようじゃなきゃね” と。したがって彼女がいまどんなことを考えているのかなどわかったものではないのだ。少なくとも愉しんでいる方面であることに間違いはないだろうが。

 

 ねえねえ、と急かしてくる一に八雲は懐かしいものを覚えた。矢神にいる友人たちも似たような攻撃を八雲に対して仕掛けることおびただしかった。特に拳児が矢神を離れて以降はその聞き方がだんだんと直接的になっていったような記憶がある。もちろんそのたびに八雲は困ってしまった。いくら仲の良い友人とはいえ気恥ずかしい部分はあるし、これは思春期に特有のものかもしれないが、懸想している人のことをわざわざ口に出すこともないだろう。つまり八雲は、地元の友人たちのおせっかいに対するのとまったく同じ理由で困っていた。

 

 「いえ……、そのっ、なにもない、というか……」

 

 「うわぁ、八雲ちゃん顔真っ赤。いつもよりタメ多いし」

 

 けらけらと今度は隠すことなく愉しそうに笑う。

 

 「でもさ、何もないってことはないと思うんだよね。東京まで来たわけだし」

 

 そう言って一は傍らにいる純と智紀に視線を送った。意外というべきか当然というべきか、八雲を囲む三人が三人とも八雲のその事情に対して興味を抱いており、これまたちょくちょく個人的に質問を飛ばされたりもしていた。そしてそこのところに前向きな彼女たちが一のアイコンタクトを取り逃がすはずがなかった。

 

 「まあまあ国広くん、結論を急ぐなよ。まずは彼がどんな人なのか詳しく聞いてみようぜ」

 

 「そういえばボクたちが質問するばっかで八雲ちゃんから話してもらうことなかったね」

 

 得心したように純の提案に頷いて、一はまたにっこりと笑って八雲に目で促した。なんとも自分勝手に見える行動だが、彼女は彼女で八雲が本気で嫌がっていないことをきちんと理解している。大体において好きな人の話をするのがイヤなわけがないのだ。恥ずかしいから隠したい部分があるくらいなら理解はできるが、完全シャットアウトとなればそれは嘘だろう。一はそう考えていた。

 

 播磨拳児のことを聞きたい、というのであれば八雲のほうに断る理由はない。多少でも躊躇する理由があるとするなら、それは八雲から話し始めるという部分だった。質問を受けて答える方式ならば、播磨拳児という題材ほど答えやすい人物もなかなかいないだろう。その一方で塚本八雲というフィルターを通すと、そこに変化が生じるのではないかと八雲には思われた。誰であれよく知っている人について話すとき、主観というものがどうしたって入り込むということを正確な意味ではまだ八雲は知らなかった。そんなものは入って当たり前なのだということも。

 

 「……あくまで私から見た播磨さんになりますけど、それでもいいですか?」

 

 そんなことはまったく気にしないとでも言いたげに三人ともが頷いた。よく見れば智紀はいつの間にか手にボイスレコーダーなど握り込んでいる。ひょっとしたら話をしないほうがよいのでは、と思いはしたが、彼女の悪ふざけもこの一週間足らずで何度か目にしている。顔色ひとつ変えずに悪ふざけをする理由はよくわからないが、あまり気にしないほうがいいと八雲は考えることにした。

 

 「播磨さんは、とても、とても強い人です」

 

 

―――――

 

 

 

 自販機で買ったペットボトルを適当に指で挟んで持ちながら、ゆっくりとした足取りで拳児は廊下を控室へと歩いていた。考えなければならないことがあるのだ。

 

 播磨拳児はこのインターハイにおいて姫松を優勝させなければならない。それは義務でもあり、既に決定事項でもあった。なぜならそれは塚本天満へと続くたったひとつの道であるからだ。聞くところによると世界的にもある程度の注目を集めているという白糸台を打ち破ることで、はじめて拳児が麻雀部の監督に就任していることに意味が生まれるのだ。一番でなければ天満にふさわしくないという思考の裏に、拳児にとっての彼女の大きさがようやく読み取れる。もちろん彼はそんなことを口には出さないために誰もそれを知らない。

 

 以前に拳児が言ったように、彼自身は負けた後のことなど砂粒ほども考えていない。少し複雑な言い方になるが、拳児からすると既に確定している勝利という未来をどうにかしてその通りに落ち着ける、というのがいまの彼の考え方の中心にあった。当然だが拳児に未来を見通す力などない。それはただの願望でありわがままであり思い込みである。その上で先に挙げた不思議な思考のできる人間は、おそらく世界中に五本の指で足りるほどしかいないだろう。あるいはそれでも多すぎる見積もりかもしれない。それが良いことかどうかは別にして。

 

 ( ……ヤベーのは末原が普段通りに戦えねえパターンだ )

 

 拳児の目から見て既に兆候は現れていた。はっきりと仕草に出始めたのは漫が帰ってきてからの話だが、単純に二回戦や準決勝のときと比べて恭子の口数が減っているように拳児は感じていた。もともと彼女は立場からして喋る機会の多い存在だが、今日はその機会が少ないような気がする。あるいはそれは拳児の思い違いで普段とまったく変わりない可能性もあったし、むしろそれが理想的ではある。だがもしも理想的でなかった場合、それは拳児の決定事項を覆しかねない。だから拳児は必死で頭を働かせていた。

 

 ( こういうときゃどーすりゃいいんだ? おかしくなったヤツの戻し方なんざ知らねえぞ )

 

 

 

 「オウ、末原」

 

 拳児が飲み物を片手に控室に戻ってきてしばらく。普段とまったく変わらない調子でかけられた声に、恭子は目だけで答えを返した。どうも最後の大将戦が迫ってきている緊張からか、背もたれに身体を預ける余裕はないようだった。背すじがきれいに伸びているところを見る限り、日常的に良い姿勢を保っているであろうことが推測される。

 

 「感謝しろ。俺様がオメーの話を聞いてやる」

 

 「はァ?」

 

 誰が恭子の立場にあっても同じように反応しただろう。いま耳にしたものは日本の言葉としてはセーフだ。意味そのものは通じるレベルにあることは間違いない。しかし状況もタイミングもその目的も、すべてが意味不明だった。拳児が素っ頓狂なことを言いだすのには慣れていたつもりだったが、恭子はその認識が甘かったことを痛感し、即座に反省した。恭子からすれば話したいことがあると口に出したことはおろか、そぶりに出した記憶さえない。というよりもその考え自体をすくなくとも意識していないところに先の言葉を放り投げられたものだから、恭子の頭の中が真っ白になったことは決して不思議なことではない。

 

 よくよく顔を見てみれば、目こそサングラスで見えないが、間違いなく自信満々の表情を浮かべていることがよくわかる。それがとある問題の一番の解決策でもあるかのように。もし仮にそうであるとするならば、状況から見て問題を抱えているのは末原恭子ということになるのだろう。でなければこの監督代行が自分に話しかけるわけがないのだから。恭子はそこまでシンプルに考えて、妙な苛立ちを覚えた。

 

 「逆やろ。フツー監督のほうからなんか話あるんとちゃうん」

 

 「いまさらオメーに言うようなことはねえ。だから言いてえことがあるなら聞いてやる」

 

 接続語が正しく機能しているかがかなりアヤシイ論理を拳児は投げつける。いったいどういう道筋をたどってその結論に達したのかはよくわからないが、とにかく拳児は恭子が心理的な原因で調子を崩しているのなら、その原因を彼女自身の口から教えてもらおうと考えたのだ。なぜなら拳児にはその原因がつかめないから。込められている意図をそのまま伝えれば、あるいは恭子が素直に話し始めた可能性もゼロではなかったかもしれない。しかしそれはやはり現実には起きていないのだから考えるだけ無駄なことだった。

 

 言いたいこと、と言われて恭子の頭にすぐに浮かぶのは次に控える大将戦のことだった。向きとしては不安の方向である。その意味で考えれば拳児の問いも意外とピンポイントで勘所を押さえているようにも見える。ただしだからといってそれで恭子が弱気を晒すかというとまた別の話だが。何も知らずに暴れまわった二年前とは違って、今の彼女には立場と責任がある。特に恭子自身が見出した漫の前で怖気づいているわけにはいかないのだ。後輩にとって、無条件で憧れることのできる先輩というものは思いのほか重要な存在になる。恭子はそれを知っている。だから彼女は自分がそれにならなければならないと考えていた。

 

 「……なんもないな」

 

 吐息と同時に吐き出された小さな声を拳児は怪訝に思った。末原恭子は大体においてこういった反応をするタイプではない。拳児に対してということを前提にすれば、小言のひとつでも付け加えるのがいつもの彼女というものだ。つまり普段通りではないと判明したのだが、このぶんだと何も話してはくれないだろう。結局のところ拳児はまだ何も理解できてはいない。初戦のあとに危惧していた事態が発生してしまったということ以外は。

 

 

―――――

 

 

 

 「ええと、八雲ちゃん。それ、実在する人物なの?」

 

 あらかたの話を聞いた一がなんとも言い難い表情で八雲に問いかける。マグロ漁船に乗ったかと思えば動物園から脱走したと思われる大型動物たちを手懐けたり、果ては飛行訓練もなしにパラシュートダイブを決めてみたりと話の筋が定まっていない創作物のような人生を一年間で経験した人がいると言われたところで信じられないのは当然だろう。しかし八雲の話したそれらすべては事実であり、また彼女の知らない事実も含めれば余計に謎の人物像が組み上がる。そうしてその人物が脈絡もなくインターハイ団体決勝に進出した高校の監督を務めているというのだからいよいよ謎は深まるばかりである。

 

 一の問いに対して八雲はこくりと頷いた。彼女からするとできるだけ誠実に拳児の人物像を描くために話をしたのだが、そのエキセントリックな人生経験が彼の個性を覆い隠してしまっていた。すべてが終わった今 (すくなくとも八雲にとって) だから言えることだが、播磨拳児の行動の基幹には常にひとりの女性がいたことは間違いない。どれだけ不運に見舞われても、どれだけ空回っても、彼は一度も逃げず、嘘のひとつもつかなかった。これを強いと呼ばずになんと呼ぶのだろう。そういった意味では八雲からしても実在しているのが奇跡のような人であった。

 

 「……八雲ちゃんがLOVEずっきゅんなのも、わかる」

 

 不意に口を開いた智紀が愉快な語彙を披露したのに合わせて、八雲が首と手をぶんぶん振った。本人の自覚とは別に他人から言われると恥ずかしくてどうしようもないのだ。自分の周りにはこういうことにあけすけな人が多すぎる、と八雲は珍しく心の中で愚痴を零した。

 

 「でも実際それだけ一途に想われるってのも憧れるよな」

 

 「わかる。わかるけど純くんがそれを言い出すのはちょっと面白い」

 

 なんだとう、とどたばたじゃれ合いはじめた二人を見て八雲は小さく笑った。しかしファストフード店で偶然に出会ったあの日に、彼の想いはまたこちらを向いていないのだということを八雲はどこかで理解してもいた。

 

 ひとしきり物理的コミュニケーションを取り終えた二人がぜいぜい息を切らしながら元の位置に戻ってきて、もう一度八雲へと目を向けた。どうしてかはわからないが、八雲には二人が話の続きを待っているのではないことがその表情から読み取れた。実際に先ほどまでのように促してくるようなこともなく、ただやさしい目をしているだけだった。

 

 「あの八雲ちゃんがあれだけの量の話を熱っぽく語ったんだったら、ねえ? 純くん」

 

 「そっから先は野暮、ってもんだよな」

 

 

―――――

 

 

 

 副将戦で得点を伸ばしたのは、やはりメガン・ダヴァンただひとりだった。それも前半と後半とをそれぞれ別にしても一人勝ちしているところを見るに、数字以上の差があっただろうことが容易に推測された。得点の削り方から見えるのは、次に出てくる大将や現時点での得点を考慮に入れたケアの度合いといったところだろう。あるいはそこにはダヴァン以外の選手たちの必死の抵抗があったのかもしれないが、結果として優位に立ったのは彼女だけであってそれ以上の意味はない。こと決勝においてはその意味合いがぐんと濃くなることは周知のことである。優勝と決勝進出の間にどれだけの差があるかは、言葉の響きを考えてみるだけでもよくわかるだろう。

 

 これで臨海女子がトップに立ち、わずかに後ろを姫松、一万点ほど離されて白糸台、それと現時点で五万点にも届いていない阿知賀女子の並びで今年の団体戦の優勝が争われるかたちが決まった。そこの卓に座るのは、テレビの前のみならず、ホールに観に来ている観客たちにとっても謎に満ちた選手だった。

 

 インターハイ初出場の一年生であることを無視しても、それ以外の公式大会の出場記録すらないネリー・ヴィルサラーセ、大星淡、高鴨穏乃はもとより、なぜかはわからないが昨年の一年間姿を隠し続けた末原恭子も選手としては未だ知れない部分が多い。もちろん今大会で打っているぶんはデータとして有用なものになるのだろうが、たったの二試合や三試合ですべてを理解してしまうような観客はいない。それこそ出場選手にだってできないだろう。つまり視点を出場校に置いてみれば、互いが互いに警戒を怠れない状況が生み出されているということだ。

 

 現場とは一本の線を引いた場所にいる観客たちは無責任に優勝予想などを語り合ってはいたが、それは実際にどれも起こり得ることに違いなかった。あえてその内訳を確認する必要もないだろう。どこまでも論理を要求しながら徹底的に理不尽な麻雀という競技は、常にどこかに可能性を潜ませている。それは掘り出されるのかもしれないし、まったく目をつけられることなく局を閉じるのかもしれない。ただひとつ言えることは、大将戦に残された二半荘は選手ごとに違う長さに感じられるということだけだった。

 

 

 外の気温はやっと落ち着きを見せようとしていた。しかしそれでも少し歩けば滲む汗は止められないほどのもので、間違ってもそこに涼しいという感覚は存在していない。あるとするならば相対的にマシという程度のものだった。どうやら今年もゆっくりと夜が押し寄せてくる時間帯に大将戦が行われるようで、きっと決着がつく頃には三日月がぽっかりと浮かんでいるだろう。巌のように聳えていた入道雲も気が付けばどこかへ行って、東京都心では最高峰と呼べるほどの星空の準備も済んでいた。しかしおそらく誰しもがそちらには目をやらないだろう。それよりも見るべきものが他にあるからだ。

 

 各校の控室ではそれぞれの選手やあるいは監督の立場にある者が、それぞれに違った態度や振る舞いを見せていた。その中でむりやり共通点を挙げるとするならば、これから試合に臨もうという大将たち全員が気合の入った顔をしているというところだけだった。とは言っても気合の入った顔というものにも種類があり、やはり彼女たちはそれぞれ違った思いを抱いていた。結局のところ、どこにも共通するところのない少女たちの戦いであることに変わりはなさそうだった。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


           後半戦開始時   東四局終了時   副将戦終了時

鷺森 灼      →  四六八〇〇 →  五六〇〇〇 →  四八四〇〇

メガン ダヴァン  → 一一三二〇〇 → 一一〇五〇〇 → 一二二五〇〇

愛宕 絹恵     → 一二三九〇〇 → 一一二七〇〇 → 一一九七〇〇

亦野 誠子     → 一一六一〇〇 → 一二〇八〇〇 → 一〇九四〇〇


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56 ベイビーフェイス・モンスターズ

あとがきにお知らせがあります。よろしければぜひ。


―――――

 

 

 

 足元が綿になったかのように覚束ない。普段は意識に上ることすらない視界が、見える範囲が狭まっていることがはっきりと実感できる。いったん立ち止まって手を握っては開いてみるが、ある一定以上の力を入れることができなくなっている。たとえばそれは風邪をひいたときの症状によく似ていた。考える力が遠のいて、たくさんのものがぼんやりと感じられるのだ。しかし恭子は体調を崩しているわけではなかった。頭痛もしなければ喉にも痛みはなく、熱も鼻水も出ていない。そんなものの原因は恭子自身もだいぶ前からわかっている。廊下のたわんだ光の中で、恭子は緊張を自覚していた。

 

 

―――――

 

 

 

 「いい? 宣言するからよく聞いてよね。この淡ちゃんが全員ぶっ飛ばして優勝するから」

 

 大星淡が高らかに声を上げたのは、対局室にいちばん遅れてきたネリーがある程度近寄ってからのことだった。どうやら彼女は対局相手全員に聞かせることに意味があると考えたらしい。おそらく自分を鼓舞する狙いもあったのだろうが、主眼は別のところにあるようだった。わざわざ思考を紐解いていかなくとも、その意味するところは彼女の挑戦的な眼差しから十分に看取できた。

 

 ちょうど強調するように胸の下あたりで腕を組んだ淡は、順に対戦相手の顔に視線を送ってから得意げに鼻を鳴らして口の端を吊り上げた。どの種類の笑みなのかは彼女に聞いてみない限りわからないが、大雑把に見るならばそれは攻撃的な笑みだった。滑らかに変化する表情を眺めながら、恭子はまだどこかぼんやりした頭の中で何かを思い出しかけていた。それは間違っても誰か特定の人物だとかではない。もっと大きな種類のものだ。

 

 ( 姫松が優勝するいうんは、少なくともこの子ら相手に私が負けへんいうことや )

 

 そう思うと、体が震える気がした。勝利はおろか席順すらも手にしていないのに、すぐ目の前に求めてやまなかった栄光が浮かんでいるような錯覚に陥った。掴めてしまえばいいのに、と思わないでもなかったが、いくらなんでもそこで手をまっすぐ伸ばすほどに恭子は幼稚ではなかった。

 

 恭子は唯一面識のあるネリーのほうへと視線を向けてみた。彼女は何かを見ているというわけでもないが、かといって視線をさまよわせてもいなかった。その表情はやはり合宿で見た自由奔放なものではなく、準決勝で見た冷たさを残している。不思議なことに恭子には何らの感慨も湧かず、そうだろうなという単純な納得だけが残った。もう一人の選手である阿知賀の高鴨は純粋にやる気に満ちていた。これから始まる二半荘という長いのか短いのかわからない地獄を心待ちにしているようなのだから恭子の始末には負えない。あるいはもう優勝の見えない得点差であることが彼女を吹っ切れさせているのかもしれないとも思ったが、結局それは恭子の勝手な推測に過ぎなかった。

 

 誰からともなく卓上に伏せられた牌へと手を伸ばし、団体戦の最後に座る席が決定された。

 

 

 恭子の座る席は西家であった。対面である東家にはネリー、南家に高鴨、北家に淡といった具合である。恭子は浅めに座ってひとつ息を吐き、どこか靄のかかった頭で、これから始まる、とだけ思った。

 

 ぐちゃぐちゃな配牌だった。手筋を考えるのを放棄したくなるほどに、見事に和了から遠ざかったものだ。向聴数、あと最短いくつの手で聴牌まで持っていけるかを数えれば五向聴。麻雀の経験のない人から見れば、あるいは和了るまでに十数手かけるのもよくあることなのだから五向聴もさほど珍しいものではないと感じられるかもしれない。しかし事実はいつだってそれほど簡単なものではない。もちろんあり得ないというほどのことではないにせよ、この向聴数はよほどのことである。ましてやそれがある一人の選手の意図のもと行われているというのならなおさらだろう。

 

 ( 他家全部に強制五向聴……。むちゃくちゃやな )

 

 大星淡は自身のその異能をまったく隠すようなことはしなかった。試合に出るたびに、どれだけリードを与えられていても自己を主張するようにその力を見せつけ続けた。実際にそうであったように、まるでそれさえあれば彼女は、ひいては白糸台は勝てるのだと言外に主張しているかのようだった。たしかに大将に回す前までの圧倒的攻撃力でリードを奪ったあとでの強制五向聴は凶悪としか言いようがなかった。彼女自身はその影響を受けないのだから、他家が出足でもたついているところを早鳴きでもなんでもして和了ってしまえばそれで済む。しかし大星淡がそれだけのプレイヤーでないことに、出場選手たちはもちろん観客たちもうすうす気付いていた。それは白糸台高校に対するある種の信頼のようなものを根拠としていた。

 

 そうして彼女が牙を剥いたのは恭子が第一打を打ってすぐ、淡からすればはじめの自摸の直後だった。引いた牌が有効なものだったのか、淡はそれを手に収めて代わりの牌を捨てようとして、それをワンテンポだけ遅らせた。手元のケースへと手を伸ばし、ひとつ掴んで放り投げ、そして牌を横に曲げた。()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

 このダブリーについては同卓している全員がおそらく異能によるものだろうと感づいた。そのことを何より雄弁に語っているのは淡の表情だ。そこには偶然性による歓喜などなく、むしろどこか解放されたかのような満足が見て取れる。準決勝まで見せていた闘牌とは明らかに攻め方が異なっているが、恭子の目にはこちらのほうが自然なように映った。実は強制五向聴と今のダブリーにはタイプとして似通っているところがある。配牌前の山に働きかけるという意味ではおそらく根源は同一のものだろう。そんなことよりも重大なのは、それらの能力が併用できるという点にあった。相手にだけハンデを負わせて自分だけはダブリーなど冗談では済まされない。ここに来て白糸台が大星淡を大将に置いた理由がはっきりとわかるような気がした。

 

 仕掛けてきた淡がいつ和了るか知れない状況は、明確なストレスとなって彼女以外を刺激した。大前提として出足が遅らされているのだからそれはなおのこと重くのしかかる。足の早いリーチの怖いところはどれが当たり牌なのかのヒントがないところにある。何も考えずに捨てた直後の牌がぶつかるなどということも十分にあり得る話なのだ。論理的にはそんなもの考えたって仕様がないのだから考えなければよい、ということになるのかもしれないが、それを土壇場で実行できる人間がどれだけいるだろうか。焦りはじりじりと恭子を蝕んでいく。

 

 気こそ抜いていないものの自摸っては牌を捨てる作業に恭子が慣れてしまいそうになったとき、またも淡が動いた。そしてそれは恭子にあまり愉快とは言えない出来事を思い出させた。

 

 「カン。……ちぇっ、引けないかあ」

 

 そう言って彼女はくすくす笑った。卓の端に寄せられた裏と表に分かれている四つの牌を見て、恭子の脳裏には嶺上開花を自在に操る怪物が浮かんだが、どうやら彼女とは別物であるようだ。しかしどこか気味の悪いところのあるアクションであることに変わりはなかった。恭子が見る限りの大星淡の像からすると、ここで派手に決めるくらいが正当なほどだった。もちろん槓には自摸の回数が増えるという利点があるにはあるが、それにしたって粗末な気がした。あるいはたまたま槓ができる条件が揃っただけなのかもしれない。進んでいく局のなかで、恭子はそんなことを軽はずみに考えていた。

 

 自身の槓から三巡後の自摸で彼女は牌を倒し、和了を宣言した。淡以外が強制的に和了から遠ざけられている現状から考えると当然のこととさえ思われる。ただ、その内容はダブリーのみという最低限の役での和了であった。もしこれが大星淡の異能の制約であるとするならば、そこまで彼女を恐れる必要はないということになる。和了られることが痛いのには違いないが、その攻撃力が小さいものであれば他家が前に進むのを止めるには不十分であると言わざるを得ない。()()()()()()()()()()()()()、だが。淡の手が、裏ドラをめくるためにゆっくりと山へ向かっていった。

 

 

―――――

 

 

 

 「うわ、裏ドラモロ乗りで一気にハネた」

 

 リーチを宣言して和了った際にボーナスのようなものとしてめくられる裏ドラは、ほとんどの選手がそれを頼りにしない。乗ればラッキー、乗らなくても納得するような手作りをするのが基本、程度に考えられている。したがって今の淡のように槓を宣言した牌に裏ドラが見事に被さるなど、その極端な例と言っていい。おそらく姫松の控室だけでなく、臨海や阿知賀の控室でも同じようにあまり喜ばしくない驚きから訝しむものへと表情が移っていったことだろう。今局の淡の打ち回しを見てきな臭いものを感じないというならば、それは平和的すぎると評さざるを得ない。断定こそできないものの、そこには少なくとも人為の可能性がちらついている。

 

 漫や絹恵の表情は動いたが、控室の空気そのものはまだ動いていなかった。一見どうしようもなさそうに見える異能のコンビネーションを目の当たりにしても、二年生以外は誰も目立った反応を見せていない。そのうちで拳児だけは当然のように違う地点にいるのだが、結果として与える印象に差がないのだから分けて語る必要もないだろう。誰もが淡の異能を決定的なものとは考えていないようだった。現に準決勝では、原因こそ何によるものかが判然としていないが淡の強制五向聴は何度か破られている。つまり絶対的ではないのだ。

 

 もちろん跳満による点数移動が小さいなどと言っているわけではない。ただ現時点では阿知賀以外の三校の得点差が詰まっていることで、実際に卓についている選手の精神的動揺を無視するならば、控室で一喜一憂することにあまり意味がないのだ。それこそ後半戦のオーラスの後に一番に立っていればよいのだから。そしてその意味において大将以外のメンバーは、ある一点を除いて手出しができない。その一点が重要な意味を持つことになろうとは、現場に立っている恭子は思いもしていないだろう。

 

 「言うても漫ちゃん、あそこ末原先輩以外はみんな変なんばっかやで」

 

 絹恵が淡のプレイングに非難じみた感想を述べた漫に、フォローにならないフォローを入れる。それを聞いてもう一段階げっそりした表情で、そやったね、と漫は頷いた。

 

 「ネリーちゃんはほとんどガン牌みたいなもんやー、言うてたしね」

 

 「あれなんやったっけ、ちょっと面倒なルールやったよね」

 

 前日に恭子が話していた推測によれば、ネリー・ヴィルサラーセの異能は単純にして強力なものであるとのことだった。発動条件は恭子が目にした彼女の奥行きを失った平板な目に違いはないだろうが、その目が見ていたものは局ごとに変化する特定の牌であるという。そう推定することで彼女が準決勝で見せた奇妙な打ち回しに説明がつくのだと恭子は言い切った。

 

 

―――――

 

 

 

 「んー、あの東四局のヘンテコな鳴き憶えてる? 前半戦の」

 

 「憶えてます。末原先輩が和了る前の、ようわからん七索チーですよね」

 

 決勝前の対策ミーティングはすこし前に終わって、実際に相手をするのは自分だからと省略したネリーの異能について漫と絹恵が話を聞きにきたのはだいたい夜の九時だった。窓から見える東京の街の景色は人工の光がやかましいが、それでも夜というだけで静かな印象を与えた。

 

 「ん。それでな、やっぱりあのタイミングやったら目的はひとつや」

 

 「自摸順ずらし、ですよね」

 

 出場選手の多くがたどり着いた結論に恭子もたどり着いたようで、その通り、と大きく頷いた。気が付けば講義のような形式になっているが、誰もそれに気が付かない。あるいはこんな風景が当たり前になっているからなのかもしれない。

 

 恭子は自分が座っている椅子の近くに置いてあるカバンから筆箱とノートと、選り分けるのが面倒だったのか、牌譜の束をごっそりと取り出してテーブルの上に広げた。おそらく説明をする上でやりやすくなると考えたのだろう。

 

 「で、まあその時に避けた牌、うちの当たり牌やったわけやけど、が九筒」

 

 ノートに “東四局:九筒” と書く。

 

 「これやとただ勘が鋭いってこともあるからまだ結論は出せへん」

 

 そう言いながら恭子の指は牌譜の束を繰っていた。おそらく準決勝大将戦のものを取り出そうとしているのだろう。あるポイントで手が止まり、そこから二枚を抜き出した。漫と絹恵の視界にちらりと入ったそれには、赤ペンで何やら走り書きが残されているようだった。

 

 「でもその局と別の一局で明らかに変な手順があってな」

 

 「あー、憶えてます。のちのち使えそうな牌さっさと切ったりしてました」

 

 「そのおかしかった部分とおかしくなかった部分見比べてたら、ちょっと見えてきてな」

 

 ひらひらと指を紙上に躍らせながら恭子が言葉を続ける。顔つきはいつものように平静そのものだが、その声色にはどこか弾んだようなものが感じられた。今度は明確な意図をもってすいすいと指を動かして、ネリーの打牌へと二年生たちの意識を集中させる。

 

 「あと東四局で違和感あんのはここや。七萬切りが早すぎる。あとで四萬くっつくけどな」

 

 そう言ってネリーの手の最終形では完成している四五六萬の辺りを指で軽く叩いた。全国大会にレギュラーとして参加できる程度には麻雀に心得のある二年生ふたりもそこには疑問を感じていたようだった。最悪のパターンを考えるならば、フリテンというロン和了りのできない状態になりかねない動きなのである。それこそ事前に四萬がくっつくことを知っていなければできない打牌だ。恭子はそんな二人のことなど知らぬげに、さきほどノートに書いた九筒の隣に四萬と付け加えた。どうも恭子はアクションのきっかけになった牌よりもその結果の牌を気にしているようだった。どちらかといえば目に留まりやすいのは “七” がついた牌がどちらにも絡んでいるということのほうだろう。それを疑問に思った絹恵は、間髪を入れずに質問を飛ばした。

 

 「七のつくほうに注目するんやないんですか?」

 

 「東四局だけやったらむしろその可能性のがおっきいけどな、次のこっちの局や」

 

 今度はどこか病的なほどに赤ペンで走り書きのされた牌譜を広げる。さきほどの恭子が和了った局のものにくらべて、思考するポイントが極端に多かったことが一目でわかる。準決勝の大将戦を見ながら漫が未来予知だと口にしたほどに、その牌譜は手順の違和感と打ち手の自信を内包していた。恭子が対局中に河から感じた正しくない、という違和感もおそらくはそこから来るものなのだろう。そしてその違和感を叩き潰すために徹底的に考え抜いたのだろう。

 

 そこから先の恭子の解説は仮定を根拠に仮説を立てるような、あまりに不安定で確証性には乏しいものであったことは否定のしようがなかった。しかしそこには間違いなく一本の道筋が貫かれており、聞いているだけでは半分も理解が及ばなかった漫と絹恵のふたりにもそうなのだと思い込ませる力があった。ネリーの打牌傾向や性格、同程度の価値を持った二つの牌のうちのどちらを捨てる確率が高いかなどということまで調べ上げて潰しまわった可能性のうちで残ったのは、一局では一と六、二局では二と七、三局では三と八、四局では四と九のつく牌が見えるのではないかというものだった。当然だが少ない資料からわかることはあまり多くはなく、その特定の牌のすべての居所がわかるのか、あるいは個数が制限されているかどうかなども未確定である。その上そこまで推論を重ねてみても正解かどうかは知りようがない。ただ恭子は自分がたどり着いたそれを信じるしかないだけのことだ。

 

 「他の可能性を捨てるわけやないけど、まあ本線はこれで行こ思てる」

 

 「え、あ、そうですか」

 

 納得したように結論を出されても理解が追いついていなかったため、漫は呆けたような返事しかできなかった。もしもここまで徹底しなければ研究と呼べないのなら、漫や絹恵どころか世界中のほとんどの人が研究という言葉に近づくことすらできないだろう。

 

 おそらく恭子が自身の調べ上げた全てを語り聞かせていないだろうことを漫はどこかで理解していた。捨て去られた推論や可能性が、それこそ山のようにあるだろうことを感じ取っていた。彼女が普段から主張してはばからない “末原恭子は凡人である” というのはまったくの事実であり、だからこそ徹底的に戦い抜く覚悟をきっと手に入れたのだろう。もちろん本人はそんなことを一度も口に出したことはないが。

 

 

―――――

 

 

 

 つい二十分ほど前まで卓を囲んでいたはずであったが、メガン・ダヴァンはすでにその緊張感をどこか遠くに置いてきてしまったようだった。まだ試合は続いているというのに、どこを探しても剣呑な要素は見られない。あるいは自分の仕事を終えたのだからあとは野となれ山となれと考えているのかもしれないが、だとすれば大した傭兵気質だと認めなければならないだろう。彼女の手にした湯呑からはまだ湯気が立ち上っている。

 

 「で、阿知賀の大将のフシギはわかったんでスカ、カントク?」

 

 「確信は持てないっていうか、こういう影響が、ってタイプのものじゃないのよね、たぶん」

 

 忌々しそうに息を吐きながらアレクサンドラはぽろりと零した。監督である以前にプレイヤーとして数々の経験を積んできた彼女だからこそ思い当たるフシがあるのだろう。そしてそれはどうもロクな思い出には分類されていないらしい。個別にネリーに話していることは間違いないのだろうが、積極的に話のタネにしたいものでもないらしい。それでも部員からの質問ということもあり、彼女はゆっくりと口を開いた。

 

 「単純に言っちゃえば、状況が進行していくほど実力自体が上がるのよ」

 

 アレクサンドラの言葉を聞いてダヴァンが眉をひそめたのは当然だろう。彼女の物言いには二つ曖昧な部分がある。状況が進行していくほど、とはいったい何を指しているのか。

 

 「……巡目が後ろに行けば行くほど、という意味でスカ?」

 

 「ノー。もっと大きいわ」

 

 「オーラスに近づくホド?」

 

 「それも含めてもう一段階あるように見える。で、それがイヤなのよ」

 

 範囲は示された。すくなくとも局の進行と()()()()()()()の進行とが関わっているらしい。だがまだ示されていないものがある。その示されていないものこそが、アレクサンドラをしてイヤだと言わせ、播磨拳児をして消化しきれないものがあると言わしめたのである。

 

 誰が姿勢を動かしたか、革張りのソファのスプリングが、ぎ、と軋む。

 

 状況はまだ動いていないと見るほうが、その反対よりもまだ正当なように感じられた。

 

 

 

 

 

 

 




最新の活動報告にてアンケートのようなものを実施しています。
大会後のおまけについてのことですので、お時間があればよろしくお願いします。


色々気になる方のためのカンタン点数推移


             大将戦開始時   東一局終了時

ネリー ヴィルサラーセ → 一二二五〇〇 → 一一六五〇〇

高鴨 穏乃       →  四八四〇〇 →  四五四〇〇

末原 恭子       → 一一九七〇〇 → 一一六七〇〇

大星 淡        → 一〇九四〇〇 → 一二一四〇〇


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57 深山寵姫

―――――

 

 

 

 実戦の中ではある程度の決め付けが必要であることを恭子はよく理解している。絶対的に情報が不足するなかであらゆる可能性を追っていけば、追う者が先に壊れてしまうのは自明だろう。特に独自の体系を構築している異能を相手に考えれば、それはさらに顕著なものとなる。だから恭子は淡の異能を東一局が終わった段階で断定することにした。間違っている可能性はあったし、新たな要素が姿を見せることもあるかもしれない。しかしそんなことはその場面に出くわしてから考えればよいことだ。このある種の思考停止は、いまの恭子にとってはとても自然に馴染んだ。もっともそのことに原因があることに彼女自身は気付いていなかったが。

 

 恭子が淡の異能に対して下した判断は以下の通りだ。強制五向聴はすくなくとも自分の力では止めようがない。よってこれについては無視する。一方でダブリーについては手を加える余地が明確に存在する。したがって手を打つならば当然こちらだ、と。このとき恭子はダブリーまでを含めて異能だと断じた。あの状況下でそう判断するのは当然とも言えるが、実際にその場に立ってすぐさま断定するのはそうそう簡単にできることではない。それを可能にしたのは、歴戦のというよりも参謀としてチームに貢献し続けてきたという自負であった。

 

 ( 要はダブリーさえさせなければそっちのルールは壊れる。五向聴でもやれることはある )

 

 同じ論理を高鴨が理解していたとしてもさすがに狙うのは無理だろうから偶然なのだろうが、運の良いことに東二局でそのチャンスがいきなり訪れた。恭子の上家に座る高鴨から鳴ける牌が河に捨てられたのである。この場合の “鳴ける” とは手の進行に甚大な影響を与えないということを意味している。鳴いて淡のダブリーを潰したところで自分が和了れないのなら、それはただの他家へのアシストだ。現状そんな余裕などどこにもない。つまり恭子はある程度の勝算を見込んで動いたのである。たしかにいま恭子は緊張しているが、動きを阻害するほどのものではない。彼女の敵は別にあった。

 

 世界規模の対局データやあるいは恭子の経験則から言って、異能は崩されると()()()。精神的なダメージを残すに至らなくとも、その局でのリカバーを考えるのはまず不要と言い切っていいくらいだ。それは大星淡も例外ではなく、するつもりであっただろうダブリーを逃してからは、聴牌までのたった一つの牌が掴めずに沈黙していた。しかし恭子の策がいつでも実行可能かと問われれば、間違いなくそれは否であり、したがって次局以降の淡の脅威はまったく去ってはいない。そう都合よく一巡目で鳴ける牌が何度も捨てられるわけがないのだから。

 

 しかしこのことはひとつの風穴であったことに違いはない。おそらくはネリーと高鴨の脳裏にもダブリーを封じること自体は過ぎっただろう。ただ、もちろん実行に移せる条件下にあったかどうかは別にして、鳴ける牌を恭子と同じように実際に鳴けたかどうかは定かではない。いや、どちらかといえば彼女たちには難しかったと見るのが妥当だろう。恭子が鳴いた瞬間の、あのわずかな表情の硬さを確認できたならば。だからこそ恭子が鳴きを通して和了ったことは大きな意味を持っていた。すくなくともひとつの道筋を示していた。

 

 とはいえ風穴はどこまでいっても風穴であり、どれだけ贔屓目に見ても、淡の異能が卓の中心を占めてしまうことは動かしようのないことだろう。他家に対して五向聴を強いるというのはそれだけの値打ちがある。ここには非常に捉えにくい有利不利が存在していた。たとえるなら暗闇の中のロウソクは驚くほど眩しく見えるが、それでも勢力としては圧倒的に暗闇が優っているような状態だ。一方でひとつの道筋はネリーと高鴨に明確な希望を与えてしまうことになる。微妙な精神的な押し引きが決定的な要素を握ってしまいかねないこの場において、それがどういった重みを持つかを正確に理解できるのは卓についている四人を除いて他にはいない。緊張の構図が動き始めた。

 

 

 あるいはいつかの絹恵を襲った偶然と同種のものかもしれない。とにかく一言では説明のつきにくい()()は、今回は大星淡に災厄として降りかかったようだった。一巡目にして鳴かれるというのは (それもこの場合、淡は南家でさえあるのだから他人が鳴くチャンスはたったの二度しかない) ツイていない事柄を集めたなかでもとりわけ酷いものであることに違いなかった。彼女にとっての不運な鳴きを挟んだ見慣れない民族衣装に身を包んだ少女は、そのことを当然と受け取っているといった顔をしていた。()()()()()()()()()()()ということだ。

 

 はたして恭子の決め付けは正しく、その結果を拾って自らに使えるものとしたネリーの和了は、言ってしまえば順当なものであったということになるのかもしれない。彼女たちの麻雀において意図を通すということは勢いのうえで極めて重要なことであり、それを覆せるのはそれを超える意図か偶然しかあり得ない。偶然に満ちたこの競技で意図と意図とをぶつけ合うのはそれこそ稀にしか見られるものではなく、そして偶然は常に誰かに微笑むとは限らない。準決勝においてネリーが見せた異能に拠らない実力の片鱗を思えば、この程度は和了れてしかるべきだろう。彼女は宮永咲と獅子原爽を相手取ってさえ、その印象を霞ませなかったプレイヤーだ。

 

 恭子の初めに捨てた牌をポンしてもなお満貫を自摸和了ったことは、その手作りの柔軟性と引きの強さを証明した。このレベルにおいていまさら触れる話でもないのかもしれないが、基本的には鳴けば役が下がったり役の成立条件を満たさなくなると考えるべきものである。すくなくとも鳴くことで役が上がることはあり得ない。試しに麻雀で遊ぶとき無計画に鳴いてみるといい。たまたま上手くいくこともあるだろうが、たいていの場合は打点が上がらずに苦労することだろう。意図を通すとはそういう段階までを含めて言うのである。

 

 

―――――

 

 

 

 どさりと態度大きく一人用ソファに座っていた拳児が、ぴくりと反応して体を起こした。それはまるで机で寝ているときに体が跳ねるジャーキングのように、少々過敏なもののように周囲からは見えた。

 

 「播磨? なにかあったの?」

 

 たまらず由子が声をかけた。いくらなんでも同じ部屋にそんな妙な反応を見せた人物がいるのに無視をしろというのもできない相談だろう。今は恭子が控室にいないから、そのお鉢が由子に回ってきたというだけの話だ。普段なら二年生たちが触れていてもよさそうな事案ではあるのだが、残念なことにどちらも意気消沈とまではいかないまでも決して他人に話題を振れるほど元気ではないのだ。洋榎に関しては眉根を寄せて難しい表情 (これは正しいリアクションなのだろうか) をしているし、郁乃はもってのほかだ。

 

 なぜか拳児は視線をテレビ画面ではなく、とくに何が飾ってあるわけでもない壁のほうへ向けていた。たとえるなら猫が虚空を見つめてじっとしている様子に近いだろうか。気味が悪いわけではないが、なんとも奇妙な気分にさせられる仕草だ。由子の声はもちろん拳児の耳に入っていたのだろうが、すこしの間だけ言葉は返ってこなかった。

 

 「……すげーイヤな予感がすんぜ」

 

 「は?」

 

 播磨拳児に異能を感知する能力はないことはすでに知れたことだし、加えて控室にいる誰もが、洋榎は渋面を作っているが、異能に対して反応を示していない。このことから拳児のそれはただの動物的カンであることがわかるが、しかし彼のカンが告げるイヤな予感などこれまでに例がない。部員たちのあいだに共通して浮かんだのは、とりあえず規模が小さくないだろうことと、そしてそれが彼の言うとおり決して良い方面の出来事ではないのだろうということだった。

 

 「いきなりどうしたの?」

 

 「……真瀬、オメーよ、たとえば山ん中をバイクで走ったことはあるか?」

 

 「まず免許がないのよー」

 

 例に漏れず拳児の話はよくわからない地点から始められた。バイクに跨っている姿こそ見たことはないものの、由子は拳児がバイクに興味を持っていることを知っている。夏休みに入る前まで、彼は学校の授業の合間などによく牌譜を見て選手の特徴を掴もうと勉強していたが、たまに雑誌を引っ張り出してカタログを読んでいることがあったのだ。おそらくそのことを麻雀部で知っているのは、席が隣の自分しかいないだろうと由子は思っている。実際に播磨拳児のことで話をするときに彼の趣味のことなど一度も出てきたことはない。それどころか拳児についての話で麻雀が関わらなかったことなどたった一度しか思い当たらないくらいだ。

 

 どちらかといえば拳児には大きいバイクのほうが似合うなあ、なんてことを頭の片隅で考えていると、拳児がどうやら話の続きをするようだった。

 

 「山ってよ、天気が変わりやすいんだが、そん中でもたまにすげー天気になることがあってな」

 

 話しているのは播磨拳児だ、彼がどれだけ姫松の少女たちの想像を超える経験をしていても不思議はないし、また彼女たち自身もそれはおかしなことではないと思っている。それが山の変わりやすい天候を語ったところで、むしろ疑問をもつほうが異常だと言われそうなくらいだ。

 

 「前兆っつーのか? わかるんだ、こっから先ヒデーことになるってな」

 

 「さすがに屋内で雨は降らないと思うけど?」

 

 わかりきった上で由子は口を開く。人によっては冗談であってほしいという願いに聞こえたかもしれない。由子の表情にはどこか引きつったものが感じられた。

 

 「そんときと同じ感じだ、イヤな予感がするぜ」

 

 再び繰り返されたその言葉は、まだ何をも指してはいない。だから、拳児を含めた控室の面々にできることもまだ何もない。せいぜいその予感が軽いものであることや恭子がそれを乗り越えることを祈るくらいのことしかできない。

 

 重たい沈黙がわずかにあって、そうして拳児がすっくと立ち上がった。ぴくりと跳ねたり急に立ち上がったりと忙しい男である。体の大きな拳児の立ち姿は壮観だ、近くにいた由子からすると見上げるような格好になる。何をするつもりなのかと視線を送っていると、彼はやおら口を開いた。

 

 「……便所に行ってくる。クソだ、長え」

 

 きょとんとする女性陣を一顧だにすることなく、拳児はドアを開けて控室を出ていった。あとに残されたのは、突然のトイレ宣言を食らった部員たちだけである。

 

 「なんや播磨もけったいなやっちゃな、あんなんわざわざ言うかー?」

 

 「前まで無言で出て行ってたと思うけど? ……ああ、ひょっとしてそういうことなのよー?」

 

 由子が急に合点がいったように手をぽんと叩いた。その表情は先ほどまでの訝しげなものから、どこか含みのある笑顔に変わっている。

 

 「たぶんだけど、戻ってくるのは後半戦が始まる前後だと思うのよー」

 

 

―――――

 

 

 

 末原恭子は本来であれば目敏く、またそうすることで自分の戦い方を確立してきたプレイヤーであったから、大星淡の顔が苦々しげなものになっていたのを見逃すはずはなかった。しかしいまの彼女はそうではない。淡の表情が変わったのは山がせり上がってくる前のタイミングのことであり、ネリーが満貫を和了ったことに対する反応としてはいささか遅い。もちろん彼女には彼女の事情があるのだろうからはっきりとしたことは言えないが、普段の恭子であればやはり奇妙に感じていたことに間違いはないだろう。

 

 どこか冷たく感じる空気のなか、ゆっくりと配牌を揃えて恭子は違和感を覚えた。牌そのものが変わったわけではないし、多牌も少牌もしていない。だがこの卓における前提条件のようなものがなくなっているような感じがした。前提条件、と頭の中で意識してやっと気が付いた。手が五向聴ではなくなっている。何が起きているのかはわからない。淡のこれまでの闘牌を見れば全局を通して強制五向聴を仕掛けてくることは明白であり、またここで解除するメリットが見当たらない。おそらくはなんらかの妨害が入ったのだろうことを推察するのは簡単だが、誰の何による影響なのかがまるでわからない。選択肢としてはネリーと高鴨の二択に絞られるにせよ、そこから先が見えないのでは意味がないのだ。

 

 ついに推論すら立てられなくなった状況に、はっきりと恭子の動揺が生まれた。かろうじて体裁を保っていた彼女の打ち筋から思慮が姿を消した。当然ながら同卓している三人が即座にそのことに気付く道理はない。彼女たちが気付けるとすれば、それは恭子が誰かに振り込んだ瞬間だ。それほどまでにこの卓の面子は誰をも侮ってはいない。恭子の、ひいては姫松の幸運は、ここで彼女が振り込まなかったことだった。

 

 この決勝での大将戦が始まって以降、恭子のなかで、本当なら持たなくていいひとつの責任感がじわりじわりと膨らんでいた。そしてこのとき恭子の頭の中を満たしていたのは、まさにそれだった。これこそが一回戦の後の反省会において拳児が危惧したことだ。恭子の考えていることなど、彼女の性格を条件に入れれば誰にでもつかめる。それこそ拳児にでさえ。

 

 

 高鴨がネリーに直撃を叩き込んで、にわかに空気が変わったことに観客席のほとんどが気付いた辺りで今度は淡が反撃に出た。五向聴を強いることができなかったということは単純に山牌を支配しきれなかったということであり、それならばと彼女が選んだ手段はダブリーを取らずに五向聴を強制するのを優先することだった。ふたつの異能を同時に展開することは労力を要することであったのかもしれないし、あるいは決勝に来るまでダブリーの能力を隠していたことで、自身の自然な力の一部としては歪んでしまっていたのかもしれない。推測はいくらでも立てられるが、現実としてはもう一度あの五向聴が帰ってきたことに変わりはない。技能においてもじゅうぶんに全国クラスと渡り合える淡が、五向聴ぶんのハンデをもらって負けるわけがなかった。

 

 

 前半戦のオーラス至るまでの経緯で、はっきりしたことがひとつだけあった。淡の強制五向聴に対して干渉する能力を持っているのは、絶望的な点差であるというのに毅然とした態度を崩さない高鴨だということである。局に対するアクションであるとか、小さなクセであるとか、そういった恭子の得意とするロジックから判明したことではない。単純に大星淡が彼女に対して敵対的な視線を送り続けたことによる。強制五向聴を封じ込まれた淡は、それでも決して弱いというわけではなかったが、終わりに近づくにつれて勢いを増すように感じられる高鴨を相手にしては届かなかった。しかしながらその局で被害をこうむったのは淡ではなく恭子であり、そしてその時点では、やはり阿知賀の得点はまるで脅威にはならないものだった。

 

 

―――――

 

 

 

 山深きは、人の手の入らぬところ。

 

 しかし、その山がひとりの自然の寵児を愛した。少女は季節の区別なく方々の山を巡り、頂上へ最奥へとたどりつき、山と一体となることを愉しんだ。少女はそれと知らぬ間に、修験者と変わらぬことをやってのけた。

 

 山は、ひとりの少女を愛した。

 

 

―――――

 

 

 

 高鴨穏乃の特性は、これは異能と呼ぶには不可解なところのあるものだ、高くへ深くへ分け入るほどにその実力を発揮するところにあった。一局めよりも二局め、前半戦よりも後半戦、一回戦よりも、といった具合である。そしてそれと同時に山々が彼女に助力をしているように見えてくる。明らかに引きの強さが変化していると断言してしまいたくなるほどに。少女の顔つきは決して諦めたようなものではない。せいいっぱい戦ってそれでよしとしよう、という顔でもない。勝利を信じて疑わない顔だ、敗北の可能性を知らない表情だ。この少女も、まともな精神構造をしていない。百人いれば百人が負けを認めるような絶望的な状況で、笑って任せろなんて言えるような人間などそうそう見つかるわけがないのに、そういった意味では今年のインターハイは大豊作に違いない。

 

 論理的に考えれば、山を自在に操れる能力こそ最強である。それこそ破る方策が見当たらない。しかし辛うじてのところで高鴨の特性はそれとはまた違ったものだった。彼女が自在に山を操るのではないことと、山の深いところでないと山の愛が届かないということがそれにあたる。実はこの辺りに淡の異能が通ったり通らなかったりした原因が潜んでいる。彼女の異能は配牌となる山を支配して他家と自分の手に影響を及ぼしたが、高鴨の特性は山の奥深くを規定するものだ。奥深くが規定された山を、イメージ通りに淡が支配できるはずもなく、彼女の強制五向聴は打ち破られた。それでも複数回にわたって異能を通した淡の力の強さも驚嘆すべきところだろう。

 

 しかして、場はオーラスである。前半戦とはいえ半荘の最も奥深いところ。それは即ち高鴨穏乃が山の懐に抱かれて、もっとも実力を発揮する局であることを意味している。傲然とさえ言えるほどの力強い衝動が、ホール全体を覆っていた。だがそれに気付けた者はほんの一握りしかいない。当然だ、山は常にそこにあって、雀士にとってはまるで空気と同じように当たり前の存在であるからだ。多くの人にとっては、ただわずかに五感が鋭くなったような錯覚がしているだけだろう。実情はそんなものではないのだが。

 

 まるで大きすぎるものを目の前にしたときのように、恭子はひとりでに地響きのようなものを感じ取っていた。これほどおかしなこともない。なぜならその圧倒的な威圧感を放っているのは、この場にいる誰よりも小さな、小学生でも通るような体躯の少女だったからだ。恭子にはまるで経緯がつかめていないから、ただ呆然とその状況と対面しているだけだ。特殊な才能を持たず、そしていま特別に鈍っている彼女がそれに鋭い反応を示せるわけがない。

 

 大げさに言えば、彼女たちが相手取るのは麻雀そのものだ。本来なら一個人が向かい合うような存在ではない。そもそも出てくることを想定すること自体がおかしいとさえ言える。しかし、現実には山に愛された少女がそこにいる。アレクサンドラが嘆息し、拳児を立ち尽くさせた例外的なダークホースがそこにいるのだ。

 

 山の奥深くをより仔細に規定すれば、それだけ表面に与える影響も大きくなる。当然の帰結だ。なぜなら麻雀は牌の数が決まっているのだから。半荘において最も高く深いオーラスの場は、彼女が最も力を発揮できる環境である。これらのことから導かれる結論は誰の目にも明らかだ。そんじょそこらの異能がなんだと言うのだろう。グラムとキログラムのように、そもそもの腕力の単位が違ってしまっているのだから。高鴨が和了って前半戦が終わったというだけならどれだけ救いがあったかわからない。

 

 

 高鴨穏乃は大将戦前半の最後を、国士無双を和了ることで終わらせた。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


             東二局開始時   南一局開始時   前半戦終了時

ネリー ヴィルサラーセ → 一一六五〇〇 → 一一九三〇〇 → 一〇九七〇〇

高鴨 穏乃       →  四五四〇〇 →  四八六〇〇 →  八二九〇〇

末原 恭子       → 一一六七〇〇 → 一一四七〇〇 → 一〇四六〇〇

大星 淡        → 一二一四〇〇 → 一一七四〇〇 → 一〇二八〇〇


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58 正しくない信頼の使い方たち

―――――

 

 

 

 逃げるように対局室から立ち去った恭子は、走ることもできず、ゆっくりと歩くこともできず、不安定な速度でベンチを目指していた。誰も見ていないというのに顔さえも上げられないといった有様だ。廊下がおそろしいほど広く長いものに感じられる。彼女の頭の中をぐるぐると回っているのは、仲間たちと、優勝できるかどうかの関係におけるグラデーションだった。そこに恭子自身は含まれていない。空気が冷たいのか暖かいのか、何かの音が聞こえるのかどうか、匂いはどうか、そういったすべてが恭子のもとから離れてしまっていた。ほかの神経を引きちぎって、ただひとつ脳だけを生かし、そして答えの出ない問題を考え続けるような状態に陥っていた。

 

 やがて言葉にしづらい彼女の歩みも、目的のベンチへと近づいていった。多くの神経情報を無意識のうちにオフにしていた恭子であっても、床しか見ていないとはいえさすがに視覚情報を切ってはおらず、そこにまったく予期していない脚を見つけて驚いた。なんだと思って咄嗟に顔を上げてみれば、そこにいたのは腕組みをした我らが播磨拳児であった。

 

 いつもと変わらず体も態度も大きく、胸を張っている。この廊下が長い一本道であることを考えると、どうやらふらふらと歩く恭子をベンチのわずか先で待ち続けていたらしい。決して心配して駆け寄ってくるような真似はしない。拳児には恭子がふらついている理由が体調不良でないことはわかっていたし、それに試合中の人間に対して見せてはいけない態度もわかっていた。彼の立場は監督だ、堂々と構えていなければならない。

 

 恭子が自分の姿を認めたのを確認して、やっと拳児が口を開いた。

 

 「オメーはこれから何もしゃべるんじゃねえ。ただ俺様のハナシを聞いてろ」

 

 まともに頭を働かせられていない恭子は、もはや拳児の乱暴な論理にさえ何も言い返すことはできなかった。血の気の引いた彼女の顔色が、拳児には気に入らなかった。

 

 「どーせオメーのことだ、愛宕だの真瀬だの他人のことばっか考えてたんだろうがよ」

 

 そこで拳児はいったん短く言葉を切った。廊下に野太い声が反響する。それは鼓膜を震わせて聴神経を刺激し、電気信号へと姿を変えて恭子の脳の中で意味をかたちづくりはじめる。単語と単語のあいだの深い断絶に細い糸がわたりはじめた。

 

 拳児が恭子の状態を正確に見抜いていたわけではない。拳児は拳児で自分の言葉を生み出すのに必死だった。そもそもが話上手に分類される人間ではない。伝えたいことを思うように伝えられていたら拳児はこんなところにはいなかっただろう。できる限りに力を振り絞って自分が伝えるべきことを拳児が考えている時間が、たまたま恭子の内側に響く時間と一致しただけだ。いま二人は、普通の物差しから言えばのんびりしたペースで話を進めている。

 

 「忘れろ。そいつは全部余計なモンだ」

 

 かすかに恭子の瞳に反抗の光が灯った。

 

 「何も関係ねーんだ、末原。テメーのついた卓はテメーのためだけのもんだ。テメーが勝て」

 

 「せやけど、私が負けたら姫松が……!」

 

 黙っていろと言われていたはずなのに口を返した恭子に、拳児は誰も気付けないほど小さく口の端を上げた。ここで口答えができてこそ末原恭子だ。言われるがままに、ましてやその発信の源が拳児だ、黙っているなどあってはならない。本調子には程遠いが、すくなくとも彼女は拳児の知っている末原恭子と呼べそうだ。しかし拳児のするべき仕事は恭子を元に戻すことではない。彼女を勝てる状態にまで持って行くことだ。今のままではまだ足りない。

 

 「アホか、そいつがいらねーっつってんだ。オメーはただ勝つことだけを考えりゃいいんだ」

 

 一拍だけ置いて拳児が続ける。

 

 「全部あとにしろ。そんなのはオメーの試合が終わってからで十分だ」

 

 「……本気で言うてんのか」

 

 「ビビって動けねーよかマシだな」

 

 はン、と吐き捨てるように言葉を返す。当然これは拳児の論理で、誰にでも通用するかと聞かれれば素直に頷くのは難しい。もちろん世の中に世界共通の論理など存在しないのだから、そういう意味で考えればふつうのものと捉えることもできるのかもしれない。しかしこの場でその考え方は適切ではない。それこそ一般的に考えるならば、拳児は恭子を鼓舞するような話をするべきだったろう。自分を見失った彼女を勇気づけ、戦意を取り戻してやり、再び戦場へと向かう彼女の背中をひとつ叩いてやるべきだった。

 

 しかし拳児にそんな器用な真似ができるわけがなかったし、またそういう考えが浮かぶこともなかった。いつだって人は自分を基準に考える。拳児があらゆる意味での戦いにおいて不覚をとってきたのは余計なことに気を取られていた時に限る。だから拳児の中から導ける結論はたったひとつしかなかったのだ。その意味では彼は本気で恭子を救うつもりでいた。かみ合っているとはお世辞にも言えなかったが。

 

 しかしかみ合わないことこそが重要なことだった。仮に恭子がその言葉をそのまま受け取っていたら、彼女の崩れ方は余計に酷いものになっていただろう。しかし現実にはそうはならなかった。拳児の間違った威厳は、聞き手がその言葉をよりよく受け取ろうと無意識に思ってしまうほどには保たれ、あるいはその姿をより大きくしていた。

 

 「……“マシ” 程度やったら足りひんのやろ。ずいぶん回りくどい言い方するもんやな」

 

 「あ?」

 

 恭子は拳児の言葉を皮肉ととった。仲間の存在を重荷に感じるのならいっそ捨てろ、と拳児が言ったことは、仲間という存在の捉え方が間違っているとの指摘なのだと理解した。本当なら彼女にとって部員とは、レギュラーであろうがなかろうが大切な存在である。ちょっとした考え方の変更なのだ、負けたら彼女たちが悲しむと考えるのではなく、勝てば皆が笑えると思えばいい。そしてそれを心の底から信じさえすればいい。拳児が口にしたのはひとつの逆説に過ぎない。彼がどのような環境下で戦い抜いてきたのかを恭子に知るすべはないが、それはきっといまの自分の現況よりもハードなものだったのだろうと自然に思うことができた。

 

 「播磨」

 

 「ナンだ?」

 

 「ありがとう」

 

 それだけ言って恭子は身を翻した。もう足取りに不安定なところはない。

 

 残された拳児はがしがしと頭を掻いた。よくわかっているものなどもともとあまりないが、女というものはその中でもわからない、と息を吐く。あれだけ死にそうな顔をしていた人間が、よくもまああれだけ変わるものだ。あるいは末原恭子という少女が特別に切り替えが早いのかもしれない。なんにせよ結果オーライになりそうだな、と拳児も振り返って歩き始めた。その二分後には後半戦開始のブザーが鳴り、ホールの中にある全ての意識がひとつの卓へと向けられた。

 

 

 まるで音が立つような回転数を取り戻した恭子の頭脳は、ほんの五秒だけ仲間たちに対する暖かい感情に浸って、そして冷徹な論理を組み立て始める。今にして思えば、手も足も出せなかった前半戦の状況は()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 末原恭子は凡人で、だからこそできることとできないことをはっきりと見極めることができる。勝利の為に捨てたほうがよいものがあれば迷いなく捨てられる。卓の向こうの三人のうち二人は、あまりに情報を見せすぎた。そうしてそれらから恭子が導いた結論は、見方によっては捨て鉢にも見えるような考え方だった。恭子が正しく相手にするつもりなのは、その残ったひとりだけだ。おそらく総合的な意味ではこの大将卓で最強の存在だろう。

 

 彼女が以前に自分に対して放った言葉を思い出して、恭子はどちらのセリフだ、と薄く笑った。

 

 

―――――

 

 

 

 インターハイでは決勝でのみ開放される対局室は、扉から卓までの距離が想像以上に長い。しかしそんなことはその部屋に入ったことのある人間でなければわからない。半ば無意味とさえ思えるほどのスペースの余裕は、そこにいる選手たちに何の影響も与えない。ただ広いだけだ。要求するのは麻雀を打つことだけだ。そんな部屋の重たい扉を押し開けて対局室に入った恭子のすぐ隣を、軽い足取りで追い抜いて、くるりと少女が振り向いた。前半戦ではほとんど目立たなかった少女だ。ただ、恭子は彼女が意図的にそう立ち回ったことを知っている。少女が振り向いて恭子の顔を確かめ、一言呟いた。

 

 「ああ、キョーコ、帰ってきちゃったの」

 

 一瞬だけ目を細め、そうしてからまた半回転して卓へ向かって歩き始めた。少女の言葉の意味の正確なところは当の本人である恭子にはつかめない。それでも歓迎されてはいないだろうことにはなんとなく推測がついたが。

 

 雀卓のほうへと目をやれば、すでに淡と高鴨は着席している。かたや希望に燃えた表情であり、もう一方は敵意や絶対にこいつには負けたくないといった個人的な感情が漏れ出している。恭子はそれを見ても顔の筋肉を動かすことはなかったが、どこか自信のようなものが感じられる顔つきに変わっていた。ネリーが先に行ってしまったから恭子が最後に席につくことになる。よく考えなくとも相手は全員が一年生だ。末恐ろしいといえばその通りだが、そんなことは現時点では恭子には関係のないことだった。

 

 

 恭子にとって最も重要なことは後半戦第一局ですぐにわかる。配牌を検めればそれでよかった。つまりは淡の強制五向聴が成立しているかどうかが問題だった。ゆっくり息を吐いて、丁寧に山から配牌を作り上げていく。自分の力などまったく及ばない部分での話だというのに、恭子は緊張していた。乱雑に並んだ牌を理牌していく。そこにあったのは、()()()()()()()()()()()()

 

 ( そうやろなあ、大星。高鴨に負けたないんやろ? 意地でもそれは通さな、な )

 

 淡の性格の傾向など対局前の一幕でほとんど割り出せたに等しい。加えて高鴨の何らかの力によって (恭子は彼女のそれが何であるのかを突き止めてはいない) 抑え込まれた強制五向聴を、ダブリーを捨ててまで即座に取り返そうとしたことでそれはより確度を増した。きっとこの子は誇りを取り戻すために、この先一歩も譲ろうとはしないだろう、と恭子はそう考えた。これは別に恭子が仕掛けた罠ではない。ただの傾向の話だ。しかしそれこそが恭子の求めたものだった。これで第一段階はクリアーだ。

 

 心理的に優位を得たと思ったところで、何も持たない恭子の不利など実際には覆らない。卓上で争えるのは現在の支配権を手にしている淡と、その標的の中心であろう高鴨だけだ。ネリーはどうやらまだ動かないらしい。彼女がこの状況をどう捉えているかはわからないが、おそらく黙って負けてくれるつもりなどないのだろう。でなければ先ほどの発言の説明がつかない。

 

 異能を通した淡がその局を自摸和了ってもなお高鴨を意識し続けていたことは、彼女たちのあいだでしか通じない何かがあるということなのだろう。それはそれでいい、というよりはそのほうが都合がいい、と恭子はその様子を眺めていた。

 

 恭子には、あるいはネリーにとってすらそうかもしれない、理解の及ばない淡と高鴨の力学は、次第にそのバランスをより微妙にしていった。意識的であるものと無意識的であるものの違いこそあったが、重要なのは両者が拮抗し得る範囲内での力比べをしているところにある。後半戦に入ったことを考えれば、前半戦の東一局よりは高鴨に有利なものになっていたに違いない。そしてそれが東一局のことだけを指してはいないのは自明だ。おそらく重荷になっていたのだろうダブリーを淡が捨てたことはまさに英断で、また彼女の苦戦の根本原因でもあった。あるいは最善であってもその状況にしかならなかったのかもしれない。

 

 

 前半戦のとある局から完全に自分を見失った恭子が、それに対して明確に悔いたことがひとつだけある。卓を囲んでいる相手に目を配れなかったことだ。もうすこし突き詰めて言えば、ネリーの目の変化を追い損なったことだ。もしもあの奥行きを失った目が見られなかったとすればそれでいい。しかしそう考えるのは楽観的に過ぎる気が恭子にはしていた。前半戦の大星淡と高鴨穏乃の影響下で、仮にネリーが独自の動き方を模索していたのだとしたら。見えている牌の動きを確かめて、それに応じて後半戦のアクションを考慮しているのだとしたら。そう仮定することは簡単だったが、実際にどの局でその確認をしていたかがわからなければ意味はない。そうとなれば末原恭子に打てる手はたったひとつしかなくなる。

 

 どうやら今度の力比べは山の加護が勝ったようで、恭子の手には五向聴よりはいくぶんかたちの整った、ふつうと呼べるようなものが揃っていた。もちろんこんな場で気を抜くつもりなどはじめからないが、恭子はもう一度だけ心の中で自分に気を抜かないよう呼びかけた。ここへ来てネリーの目が例の光を失ったものになっていたからだ。もう最後も最後の後半戦で様子見もないだろう。恭子が感じ取ったように淡と高鴨はすでにその全てを卓上に晒している。そのことをネリーがわかっていないとも思えない。ならば動きを起こすということはそのまま攻めることを意味している。

 

 ()()は、もちろん恭子の推測が当たっていればということだが、間違いなく凶悪な異能に違いない。局ごとに異なるとはいえ、複数の牌の位置を掴めることがどれだけ有利なことかなど論じるまでもないだろう。それを手にしている人物が、もともとその異能を必要とせずとも十分すぎるほどに強いということがその問題をさらに厄介にしていた。異能である限りははほぼ間違いなく制約が存在してるはずだが、現時点ではそれは見えていない。したがってそこに付けこもうと考えるのはあまり賢いとは言えないだろう。

 

 ときおり歪む卓を叩くリズムが、思考をしているという事実を如実に表していた。それは決して誰かひとりの場所に決まっているわけではない。誰もが推測を巡らせている。正道であれ突飛な道であれ、和了に、勝利に最も近いものを選び抜こうとしているのだ。人と人とがそれぞれ違うように、そのままそれぞれが違う道筋をたどっている。正解は存在しない。いろんな要素が絡み合った結果でしか麻雀は語れない。どれだけ不思議な現象が発生しようとも。その意味で言えばこの卓で行われているのもたしかに麻雀であった。

 

 とはいえ一部の牌の居場所がわかるというのは明らかなアドバンテージであったのか、東二局と三局を連続でネリーが和了ってみせた。当然ながら四人が四人とも極まった段階での勝負に臨んでいるのだから、その結果は大きなものだった。恭子の視点で言えば、二局とも勝負のできる手であったにもかかわらず先に和了られた。これはやはり痛手に違いなかった。というのもネリーが動き始めた理由と恭子が動いた理由は同じだったからだ。あとすこし状況が進行すれば南場に入る。それが意味するところを忘れている人間がこの卓にいるとは思えない。そこは詳細など理解する必要もないほどに強烈な印象を残した、高鴨穏乃の特性が色濃く発揮されるゾーンなのだから。

 

 

 どこか空気が薄くなるような感じがあって、恭子は知らず知らずのうちに呼吸を浅く短くしていた。この東四局が恭子の考える、いや感じているといったほうが正しいだろう、ギリギリのポイントだ。すべてが決まるわけではないが、卓の流れの大枠が固まる。その枠の中に “末原恭子が勝つ” というビジョンが入るかどうかの瀬戸際にあると言っていいだろう。すくなくとも勝てるイメージが存在していないところに勝利はまず存在し得ない。現実的な話をすればそれは打牌に影響するからだ。麻雀において精神的に敗北するというのは、つまりはそういうことなのだ。

 

 配牌は五向聴ではない。しかし場のスピードを考慮に入れれば派手に仕上げるのも難しそうだ。この後のことを考えればできるだけ大きな和了が欲しいところだが、そうそうわがままも言っていられないということなのだろう。彼女は論理的であったから、決断にそれほど時間はかからなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 「……まさか中堅戦の時点でここまで見通していたのですか?」

 

 かすれそうになる声を必死でお茶の間に流しても問題のないレベルのものまで調整して、決勝戦の実況を務める村吉みさきは隣に座るプロに問うた。実況席は基本的には映像としては流れないため、彼女が実はひきつったような表情をしていることを知っているのは世界中でたった二人しかいない。その事実を知るもうひとりが、首を横に振って否定の意を示した。相変わらず声を出す頻度は少ないようだ。

 

 「違う、ということですが、これはあまりにも」

 

 「可能性のひとつ!」

 

 予想を飛び越えて予言にしか思えない、とみさきが言おうとした矢先に理沙が口を開いた。たしかに彼女は、混戦になりそうだ、というみさきの言葉に対して、早すぎる、と返したのだ。そしてその結果が現時点の点差だ。一位から四位までの点差が13000点以内に収まっている。どこが勝ってもおかしくないと断言できる。誰がこの試合展開を予想できただろうか、なんてテレビでよく使われるような煽りを、今まさにみさきは頭のなかで繰り返していた。

 

 コツ、と理沙が人差し指の爪でデスクを叩いた。誰かの意識を引くための彼女の極めて珍しいアクションなのだが、その貴重さと奥ゆかしすぎる意思表示のせいで、そのアクションの意味を正確に理解している人間はほとんどいない。幸いなことにみさきは数少ない理解している側の人間だったからそれに気付くことができた。

 

 「先のことは誰にもわからない!」

 

 そう言われてみさきは思い出す。この大将戦に限っても、既にそういった事例は見られている。前半戦では途中から一気に内容が崩れていた末原恭子が、後半戦の東四局という重要局面で機転を利かせて和了を勝ち取っている。もちろん可能性でいえば濃度の違いはあるのだろうが、未来は常に確定しない。何よりずっと一校だけ離れて四位を走り続けていた阿知賀がトップを喰らい得るところまで迫ってきている。それだけで十分すぎる証明になっていた。

 

 南一局において高鴨がふたたび急激に追い上げたことを受けてから、多少実況としての身であることを忘れてしまっていたみさきは、ここへ来てようやく自分を取り戻した。実況席として解説に仕事をしてもらわなければならない。ホールにいる観客もテレビの前の視聴者も聞きたいであろうところを問わねばならない。

 

 「それでは野依プロ、どこが抜けだすかわからないこの状況で、どこがポイントになりますか」

 

 結局、理沙は口を開かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


             後半戦開始時   東三局終了時   南一局終了時

ネリー ヴィルサラーセ → 一〇九七〇〇 → 一一八七〇〇 → 一〇五七〇〇

高鴨 穏乃       →  八二九〇〇 →  八一六〇〇 →  九二六〇〇

末原 恭子       → 一〇四六〇〇 →  九五六〇〇 →  九九六〇〇

大星 淡        → 一〇二八〇〇 → 一〇四一〇〇 → 一〇二一〇〇


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59 凡人にだけ起きる奇跡

―――――

 

 

 

 実戦の場では、実況席が捉えているよりは事態を重く見ていた。どちらが正しいということではなく、それはある種の避けられない意識の違いによるものだ。どれだけ外部の人間が真剣に深刻に考えたところで、常にそれは内側にいる人々のものには及ばない。理沙が口を噤んだ残りの局のポイントは、場合によってはすでに過ぎ去ってしまっている可能性すらあった。高鴨が南一局で和了った跳満は、それほどまでに重要な意味を持ちかねないものであったのだ。

 

 点数状況で言えば未だに阿知賀は最下位に甘んじてこそいるものの、最後の追い込みの強烈さはとんでもないものがある。前半戦最後に見せつけられたあの流れに乗せられてしまえばもう誰にも止められない。百歩譲ったところでネリーと高鴨の叩きあいになるだけで、恭子が立ち入る隙などどこにもないだろう。あるいはネリーでさえも簡単に弾き飛ばされてしまうかもしれない。ここが恭子にとっての最大のギャンブルだ。彼女がベットするのは、またも大星淡だ。彼女の異能が山の寵愛に敵わなければそれで負け、彼女が諦めても負け。もしも彼女の異能が通れば、五向聴ならばすくなくともまだ戦える。それとは別に大当たりの項目もあるのだが、それに縋るのは虫の良すぎる話だろう。とにかくこのギャンブルに勝ってはじめて、恭子は舞台に上がることができる。

 

 恭子は今日このときほど、自分が凡人であることを恨んだことはない。ずっと目標に掲げてきた優勝がやっと手に届くところに来て、他人に下駄を預けなければならなくなったことは屈辱ですらあった。しかし彼女はそのことと最後に勝つことを絶対に混同しない。なぜなら彼女は凡人だから。利用できるものはなんでも利用しないと勝てないことを十分すぎるほどに知っているからだ。だから恭子は大星淡を、自分が戦うための舞台を整える装置として利用する。高鴨の独壇場とさせないためだけに。卑怯でも邪道でもどんな誹りでも受ける覚悟は済ませている。泥臭くていったい何を恥じることがあるだろう。亀が昼寝をしない兎に勝てるのであれば、もはやそんなことはどうでもよいのだ。

 

 

 決定的な違いがどこにあったかと問われれば、そんなものはないと答えるしかなかった。しかしわずかにでもその力学に影響を及ぼすものがあったとするなら、それは一方が意識的なものであり、また一方は無意識的なものであったという事実だろう。ただ少しだけ、淡と高鴨のあいだでしか通じないなにかの中で、少しだけ淡のほうが自由が利いたというだけのことなのだ。ただしそのことは結果的にこの大将戦の、ひいてはインターハイそのものの勝敗に大きく関わった。あるいは恭子からすれば、それはとうに知れたことだったかもしれない。だが恭子の思考にまで考えが及んでいない観客たちにとってはまるで予想のつくことではなかった。

 

 淡の髪はわずかに乱れ、息を吸うごとに肩がちいさく上下している。うっすらと額に汗も浮いている。しかし顔には不敵な笑みが貼りついている。表情が示す事実はたったひとつだ。この終盤に来てもなお、淡が自身の異能を通したということだ。しかしそのことはもはや恭子やネリーを静かにさせておく理由にはならない。他家を不利にすることはできても自分を有利にするところまでは行きついていないのだから、まだまだ対戦相手には抵抗の余地を残しているということになる。乱暴かもしれないが、言ってしまえばたかが五向聴だ。ひっくり返せない差ではないし、また実際に淡自身が先に和了を譲ったシーンなど決勝以前にも何度も見られている。それは勝負が可能であるということを、あるいはそれだけを示していた。

 

 恭子は和了りからは距離のある手を見ながら、達成しなければならない優先事項と可能であれば実行しておきたい優先事項を頭のなかにざっと並べる。この期に及んで、なにか、確信のようなものなど持ってはいない。いつだってそんなものは持っていなかったかもしれないが、いまは特別に持っていない感覚があった。その代わりに集中はこれまでにないほど高まっている。これから始まるのは舞台装置そのものが意思を持って動く舞台での、ネリー・ヴィルサラーセとの一騎打ちだ。なぜなら彼女が現時点でトップに座しており、恭子が動ける環境下において最も強さを発揮するだろうプレイヤーだからだ。臨海女子の大将が彼女だと判明したとき、恭子は心のどこかでこうなるだろうことを予想していた。あるいはそれはお互いにそうだったのかもしれない。

 

 もうネリーの目など確認する必要もない。ひとつの和了が直接順位に関わる状況だ。彼女がその異能を発揮することくらいは前提として考えてもまったく問題はない。恭子はこの局で、準決勝のあとでネリーの異能を推測して以降、かねてから考えていた対策を実行に移そうと考えていた。それは決してその異能の弱点をつくというような種類のものではなく、現実的な対応とでも言えばいいのか、とにかくそういったものだった。

 

 今は南二局であるから、恭子の推測が正しければ (牌の種類こそ未確定だが) 二と七のつく牌の在り処がネリーにはわかっているはずだ。であるならばネリーからすると背の透けた牌がいくらか見えているようなかたちになるのは疑いのないところだろう。もちろん恭子は実際的にその異能を有しているわけではないから事情は違っているのだろうと思いながらも、その状況について疑問を抱いたがために、前日の段階で考察を進めていた。そうしてたどり着いたのは、もちろん有用であることを否定するものではないが、しかしそれは恐怖心を呼び起こす要因になりかねないというものだった。たとえば局の終盤に、あるいは中盤でもいいだろう、一萬を捨てたいと考えたときに、誰かの手に二萬が見えていたとしたら素直に捨てられるだろうか。

 

 麻雀とはある意味で言えば無知が支配する競技でもある。究極のところ誰が聴牌しているかわからないからこそ誰かが振り込むのであり、確実に当たる牌というものが見えないからこそ危険牌を通すというような現象が存在し得る。それはナイフを手に持った人物と、ナイフを懐に隠した人物とを比べるようなもので、人はどちらを選ぶかと問われれば目に見える恐怖を持たない人物を選ぶだろう。その人物が何を考えているかがわからないという事実に目をつぶって。

 

 ( たぶん、見えてるからこそ怖いんやろ。それやったら準決勝の変な手順の説明もつくしな )

 

 四度の自摸で和了の厳しさを悟った恭子は方策を切り替える。二と七のつく牌を使って、ネリーに対して目眩ましが通用するかを試すことを決断した。当然だが六種類すべてを集めてキープなんてバカな真似をするつもりは毛頭ない。キープするのは多くて二つだ。もちろんそれがネリーの手牌にかすってもいなければ徒労に終わることは間違いないが、手の進み具合でほぼ和了れないとわかっている以上はそれ以外のことを実行しなければならない。漫然と打って勝てるような相手ではないことは、あの合同合宿の時点ではっきりとわかっているのだから。

 

 配牌の時点で手にあった七索と五巡目の自摸で拾った二筒を手に収め、外から見ればあたかも手が進んでいるように見える打ち方を恭子は徹底した。いま一番やってはならないことは恭子自身が振り込んでしまうことだから、かなり気を遣ってブラフを打つ必要があった。その目的はもう手の届く距離にいるとはいえ、トップを走るネリーに和了らせないことだ。わがままを言えばいくらでも要望は出てくるが、恭子がこの局で達成しなければならないものといえばこの二つに限られるだろう。

 

 幸いなことに恭子の通う姫松高校には他家の動きを制限するような打ち方や、あるいは心理的なレベルまで操作するような打ち方を得意とするプレイヤーがいる。つまりブラフを打つお手本には事欠かないということだ。普段から彼女たちと打ち、それを直に体験し続けてきた恭子にはやり方というものがわかっている。懸念するべきことは振る舞いのなかにぎこちなさが混じらないかどうかということだけで、集中が高まっている恭子にその心配が必要かと問われれば、それにいちいち答えるというのは野暮とさえ呼べるほどのことだった。

 

 恭子のブラフは丁寧に、かつ完璧になり過ぎないように徹底された。順調に進行しているように見えているのに、いつまでも和了らないような事態に陥れば疑われるのは当然である。ネリーにはそこに対する意識を通常通りのものに保っていてもらわなければならない。もし無意識下で感じている恐怖を、一度でも意識に上げさせてしまえばすぐさま対応してしまうだろう。ネリーにはネリー自身の異能に対する無意識下の恐怖を抱き続けてもらわなければならない。策を弄するならそのこと自体に気付かれてはならない。ただ願うのではなく、実力や技術といった部分でそれを実行しなければならない場だった。

 

 結果として恭子の策は功を奏した。どれだけだますために自信満々の態度をとれたかは自身ではわからなかったが、南二局の中盤に差し掛かって以降、ネリーの視線がときおり恭子に向けられていたことがその証明になっていた。もちろんその局でネリーが和了ることはなく、南二局を持って行ったのは淡だった。どう低く見積もっても恭子の推測がネリーに影響を及ぼしたと言えるものだった。その一方で勝敗は未だどこにでも落ち着きそうな気配を見せている。この局で直撃を奪われたのは阿知賀の高鴨だった。しかしながら彼女なら二局もあれば二万にも届かない差を埋めるには十分だろう。言うまでもないが、高鴨以外は彼女よりもさらに優勝に近い点差につけている。誰の予断でさえも許されない状況であった。

 

 

 より状況が深くへ進んだことを原因とするのか、またもや淡の強制五向聴が破られた。おそらく微妙な力学の天秤が、再び傾く方向を変えたのだろう。もし淡の異能や高鴨の特性、あるいは異能全体に対する認識が表面上のものにとどまっていれば、この強制五向聴の解除された状況が恭子にとって良いと判断する観客もあったかもしれない。卓上の牌にどのような力が働いているかなどわかるわけがないのだから、むしろ当然だとさえ言える。しかしその実態がまるで違っていることはきちんと頭に入れておく必要があるだろう。

 

 山の加護がさらに威力を増し、卓につく彼女たちが山から引いてくる牌にも影響が出るならば、その自摸は、最初の辺りはまだしもある程度局面が進めば明確に牙を剥く。もともと手の動きやすい自摸ではなかったものが、河が一列目から二列目へと差し掛かるあたりで、はた、と動かなくなった。それはのちに牌譜で振り返って “ああ、ここで止まっていたんだね” などという呑気なものではない。ぴったりとその場の空気でわかるのだ。見えない何かが根っこの辺りを押さえてしまって、どう転んだところで聴牌にはたどり着けないことが。

 

 つまり南三局において、和了へ歩いていくことを許されたのはたったひとりだけだった。しかし高鴨自身はそのことに気付いていない。無意識とはそのことを指し、あるいはそのことが彼女の決定的な弱点と呼べたのかもしれない。

 

 高鴨穏乃は、自分の手を限界まで練ることなくその局を和了ってしまったのだ。なぜなら彼女にとって同卓しているこの面子は、選りすぐりも選りすぐりのいっさい気の抜けない相手であって、わずかにでも油断をすれば切って落とされる、と捉えるべき相手であったのだから。高鴨のなかでは、それは当然のように打点や技術だけではなく速度についても同様に考えが及んでいた。そして繰り返しになるが、彼女は自身で山の加護そのものの存在を知ってはいない。ましてや山の寵愛が他家の手を途中で完全に止めてしまっていることなど、彼女の頭には過ぎりさえしなかった。だから高鴨は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 もしも卓を囲む面子が違っていたなら、もっと言えばこの場に大星淡がいなければ、オーラスに勝負を回したところで、高鴨の勝利は動かなかっただろう。しかし彼女たちふたりの持つ力は反発し合うものだった。片方を通せば片方が通らなくなるような関係性のものだった。したがって高鴨の和了は、知らなかったことを原因とするとはいえ、軽挙と言えた。言うまでもなくこれも結果論である。奇跡の条件は、次第に整いつつあった。

 

 

―――――

 

 

 息を呑むことができたのは大星淡と高鴨穏乃の両名の特殊性に気付けている者だけだった。ホールにいる観客やあるいはテレビの前の視聴者たちを含めればその割合は極端に低く、その意味ではプロの対局を観戦しているのと大差はないと言ってもいいのかもしれない。仮に奇妙な力が働いていることを察したとしてもその正体が見抜けていなければ、このオーラスで何が起きたのかを理解することはできなかった。

 

 決勝卓大将戦のオーラスという考え得るなかで最も最奥にある場面であることから、高鴨の特性は最大限に発揮されようとしていた。そして本能的にそれを理解していた淡は、ラス親という状況も相まって死力を絞ることに迷いを持たなかった。

 

 オーラスの恭子の配牌は五向聴ではなかった。しかしだからといって高所のような空気の薄さが感じられるというわけでもない。その事実を知っている者などほとんど存在していなかったが、この卓始まって以来の、余計な力学の入っていないまったくの平場であった。淡と高鴨の力が真正面からぶつかって、そして完全に釣り合ったのである。互いが互いに影響を及ぼそうとして、その結果として対消滅をしたのだ。

 

 ( ……なんや? なんかこれまでと違うけど……。って、まさか!? )

 

 凡人を自称する末原恭子は、起こり得る可能性を追求する。もはやそれはクセのようなものだ。だから拳児の (間違った) エールを受けてもとの頭の回転を取り戻した恭子がこの状況を想定していないわけがなかった。これまでにもっと不可解な異能と戦ったことなどいくらでもある。大星淡の異能が配牌に影響を及ぼす、すなわち山に力を行使することなどすぐにわかる。そこから逆算すれば高鴨が彼女の異能を妨害できた理由も同じところに帰結するのは当然だろう。可能性で言えばほとんど願望の領域を出ないものではあったが、先に想定していたぶん、恭子の動き出しは早かった。ラス親でもないのだから、もうこの局に賭けるしかないのだ。

 

 

 六巡目を過ぎてはっきりとプレッシャーを感じ取ることができた。どこから放たれているのかなど考えるまでもない。目をやる必要もない。舞台の特殊な効果がかき消えたこの卓で、勝負になるのはネリー・ヴィルサラーセただひとりなのだから。あとは技術と運と、読み合いのシンプルな項目で争われるだけだ。

 

 もちろんネリーは一定の牌の位置を特定しているだろう。それが彼女のスタイルである。それどころかその事実を恭子が逆手に取ろうとすることも呑み込んだ上で最後の勝負に出るつもりなのだ。もうどの高校も点は僅差なのだから、その部分で圧倒的な差を見せつけるのは不可能であり、だからこそ彼女はプレーの内容で圧倒しなければならなかった。異能が割れたところで勝敗に違いなど出ないと証明しなければならなかった。

 

 一局で勝敗が決まる場において、弱点を持たないということの有用性は計り知れない。なぜならたった一巡の遅れがそのまま敗北につながることもそう珍しくはないからだ。割合で言えばそんな事態はなかなか起きない。それは間違いのないことだが、可能性は常に存在する。そして可能性が存在する限り、いつなにが起きるかなど誰にもわかったことではないのだ。

 

 恭子はその時点で四筒と四萬を握っていたから、それを絶対に手放すまいと覚悟を決めた。仮に自分がある特定の牌の在り処を知っていたとすれば、その牌を狙い澄まして和了るのがいちばん理に適っていると恭子は考える。ロン和了を狙うのであれば、もちろんそれまでの打牌の様子から浮き牌かどうかを見極める必要こそあるものの、その程度の手間で合理性が崩れるはずもない。だから恭子は四筒と四萬はネリーが待ち構えている可能性があると読んだ。見方によっては積極的な防御とも呼べる。あとはその二つの牌を使い切って和了手を仕上げるだけだ。

 

 結局それは、執着心の違いと呼んでもよかったのかもしれない。

 

 大抵のスポーツで、たらればを言ってはいけないという言葉が聞かれるが、それは麻雀も同様である。もしもネリーが準決勝卓で異能の一部を披露していなければ。もしも淡が自身の能力をもっと使いこなしていたら。もしも高鴨が山の加護を自分の支配下に置いていたとしたら。恭子であっても精神状態が完全なものであったなら、という仮定の話はつきまとう。しかしそれらのもしもを超えて現実に勝ち切ったのは、勝つためには自分の力だけでは足りないことを自覚して、不確定なギャンブルに身を投じた自称凡人の少女であった。

 

 恭子を除く少女たちは、あまりに経験が足りていなかった。それは勝ち方にしろ負け方にしろ、また勝つこと負けることそのものに対する経験が貧弱であった。楽しいつまらないを超えた、まだ名前の知らない感情がそこにあることをまるで知らなかった。インターハイにだけある宝物というものがある。それを横目にした彼女たちがいったい何を思うのかは、また別の話だろう。

 

 

 どさりと背もたれに寄りかかって、小さく震える右腕をゆっくりと掲げる。

 

 彼女の顔はあまりに憔悴しきっていて、表情を見ただけでは誰も彼女が並み居る怪物一年生たちを押しのけたとは信じられないだろう。卓の上に転がっている彼女の最後の自摸は三筒で、それが運んできた打点が姫松高校の優勝を決めた8000点だった。

 

 

―――――

 

 

 

 恭子が聴牌してからずっと扉に手をかけていたレギュラー陣は、卓に三筒が置かれた瞬間に扉を蹴破る勢いで飛び出していった。三十秒もしないうちに対局室の観音開きの扉が開いて姫松の面々が恭子のもとへとなだれ込む。それからわんわん泣く様子をテレビ越しに見ながら、拳児は大きく息をついた。一時は本格的にどうなることかと思いかけたが、つまるところ播磨拳児に敗北の二文字はあり得ない。これで目標は達成だ。アメリカでも姫松の優勝は報道され、きっと監督として注目を浴びた拳児の映像が塚本天満のもとへと届くことだろう。そう思うと拳児は拳を握らずにはいられなかった。

 

 そんな拳児を後ろから見ていた郁乃は、声を出さずに思い切り頬を緩ませていた。これまで誰も見たことのないような深い深い笑みだった。郁乃の目標もまさに全国優勝であったのだから当然と言えば当然だろう。そして彼女の怜悧な頭脳は、次なる計画に向けて早くも動作を始めていた。

 

 「なあなあ、拳児くんはみんなに混じらんでええの~?」

 

 「何言ってんスか、そんなガラでもねーっスよ」

 

 「え~? 別に行ってもみんな怒らんと思うけど~?」

 

 微妙どころかはっきりかみ合っていないやり取りに、拳児は面倒くさくなったのか顔さえ向けることなく右手だけを振って否定の意を示した。それなら、ということで郁乃はこの後の姫松全体の予定をざっと拳児に伝えて控室を出ていった。なんでも彼女にはいろいろと回らなければならないところがあるのだという。その足取りはいつものようにふわふわと軽く、その表情はいつものようにやわらかかった。

 

 ( ふふ~、拳児くんみたいなんそうそうカンタンには逃がすワケにはいかんからな~ )

 

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


             南二局開始時   南三局終了時   決勝戦終了時

ネリー ヴィルサラーセ → 一〇五七〇〇 → 一〇三七〇〇 → 一〇一七〇〇

高鴨 穏乃       →  九二六〇〇 →  九六七〇〇 →  九四七〇〇

末原 恭子       →  九九六〇〇 →  九五六〇〇 → 一〇三六〇〇

大星 淡        → 一〇二一〇〇 → 一〇四〇〇〇 → 一〇〇〇〇〇


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全国おまけ編
60 金魚の詩


―――――

 

 

 

 もうとっぷりと日は暮れて、濃い藍色の空の下。夏祭りの出店と人だかりの熱気のなかを、とある男女ふたりが連れ立って歩いている。一方は清涼感のある水色を流した地に、水仙の花が綺麗に収まった浴衣を纏っている。決して短くはない髪をひっつめにして紅の髪留めでしっかりと留めて白いうなじを覗かせている。歩を進めるたびにからころ鳴る履物の音も小気味よく、静かに揺れる裾が彼女の鋭い目をさえ絵画の中のもののように印象を作り変えた。左手には巾着の紐と、出店でよく使われる薄いプラスチック容器に入ったたこ焼き、それとビンラムネが握られている。

 

 その隣を歩くのはヒゲグラサンにカチューシャを身につけた不良風味の男で、なぜか私服ではなく学生服を着てこの出店通りを歩いている。隣を歩く少女とは違って、手には焼きそば、焼き鳥、たこ焼きと食べるものだけでずいぶん大荷物のようである。視線がまだ出店のほうをさまよっているところを見るとまだ食べるつもりなのかもしれない。

 

 「なんだ、オメーそれしか食わねーのかよ」

 

 「別にそんなに急いで食べる必要もないだろう。こういうのは風情を楽しむものだ」

 

 だしぬけに飛んできた質問を少女は、あるいは女性と表現したほうが描写としてはいくぶん正しいかもしれない、あっさりといなしてみせた。きれいな顔立ちをしているのだが、その表情はなんだか複雑なものだ。なにか面倒事に巻き込まれたかのような、しかしそれだけではないといった部分も窺える。有無を言わさず帰っていないところを見るに、どうやら絶対にイヤというわけでもないようだ。

 

 ところで、こんな奇妙な状況が生まれたのにはもちろん理由がある。

 

 

―――――

 

 

 

 「サトハ、お祭りに行きまショウ。明日」

 

 「メグ、知っているか。今はインターハイ個人戦の真っ最中だ」

 

 若干かわいそうなものを見るような目で、辻垣内智葉はやさしく教え諭した。この二人はこういったやり取りが自然なものとなっているから、どちらもお互いの発言に違和感を持たない。仲の良い友達同士のポジションというやつだ。一年生の頃からの付き合いということもあって、どこまで押せるか理解しているし、どれだけ押してくるかも承知している。たとえば智葉からすればメグがこれだけで退くなどとは露とも考えられない。

 

 「ハッハ、明日のサトハの出番は早めに終わりですヨネ? 組み合わせ見ましタヨ?」

 

 インターハイ個人戦は人数規模とその公平性との関係もあり、団体戦に比べて複雑なシステムを採用している。地方の予選を勝ち抜いてきた選手たちをもう一度足切りにかけ、そのうえでトーナメント戦を実施するかたちを採っているのだ。当然足切りをかけるには平等な対局回数を各選手に割り当てなければならず、選手によっては試合時間に偏りが出てしまうこともそう珍しくはない。そしてメグの言う通り、智葉の明日の予定は午後三時の対局を終えればがら空きだった。

 

 笑顔とドヤ顔を七対三で混ぜたような表情で迫るメグに、智葉は降参の意を示した。外国人留学生が個人戦に出場できないことが、まさかこんなかたちで襲い掛かってくるとは思いもしていなかった。しかし気を張り続けるのもよろしくないことは智葉自身も理解しており、その意味では渡りに船といったところかもしれないな、とこっそりメグに感謝をした。

 

 「……で、どこの祭りだ?」

 

 「お、ノリのいいサトハは珍しいでスネ! 場所は学校の近くの神社でスヨ」

 

 ネットで調べまシタ、と楽しそうに笑う彼女を見て智葉もついつい笑みをこぼす。

 

 「ああ、あそこか。あいつらも呼ぶのか?」

 

 「これから声かけるツモリでスヨ」

 

 「じゃあ先に待ち合わせ場所とか決めておくか」

 

 「ア! サトハ! 浴衣見てみたいデス私!」

 

 無邪気そうにはしゃぐメグが罠を張っていようなどとは、智葉は夢にも思っていなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 郵便局の角を左に折れると、幅の広い歩道とその先に山を上がっていく階段が見える。その階段を上がると昨日メグの言っていた神社が小さく見えるのだが、今日はおそらく人ごみですぐには見えないだろう。智葉は日本文化に触れたいと言っていた友人のために自身も自宅で浴衣を着付け、留学生たちにはリーズナブルな貸衣装屋を教えてやった。待ち合わせは曲がり角にある郵便局ということになっているが、地元の人たちはたいていここを目印に集まる。今日も老若男女と問わずに多くの人が集まっていた。

 

 まだ太陽は沈み切ってはおらず、空を眺めると夕暮れから夜への傾斜のきついグラデーションが見て取れた。夕暮れに似合うヒグラシの鳴き声が山のほうから聞こえてくる。ちらと郵便局のほうへ目をやると、見慣れた顔はまだ到着していないらしい。おそらく慣れない服装に戸惑っているのだろうとアタリをつけて智葉は待つ姿勢に入ろうとした。その瞬間だった。

 

 「オウ、あいつらはまだ来てねーのか?」

 

 ゆっくり一息つこうと考えたのも束の間、いつかのごとくまったく警戒していない後ろから声をかけられて、智葉はとっさに振り返った。わりにのんびり歩いていたところを突然に振り向いたものだから、なにかあったのかと周囲の人々の視線が次第に集まり始める。そこにいるのは高校麻雀に関心のある者ならば絶対に見間違えることのない男だ。夏の学生服にサングラス、カチューシャで後ろに抑えつけたヘアスタイル、それに山羊ヒゲなんて風采は日本全土を探して回ったところでたったひとりしかいないだろう。智葉はこのままこの場にいたら面倒事が起きることを瞬時に理解した。麻雀での勘の鋭さや判断の良さはこういうところにも表れるのだろうか、とりあえず智葉は何も言わずに拳児の手を引いてその場をダッシュで離れることにした。

 

 

 わずかな距離とはいえ走ったことで乱れた呼吸を整えようとわざとゆっくり息を吐く。本当なら呼吸とは息を吐くことから始まるのだ。肺をいったん空にすることで自然と空気が取り込まれる。足を止めて回復のために取り入れる空気は新鮮で、それがすこしだけ智葉の気持ちを落ち着けてくれた。外から見ればどこの青春映画かと言いたくなるようなふたりのダッシュの目的地は近所の児童公園であり、近くで祭りがあるということもあって、夜も迫る今の時間には誰もいない。他人に見つからずに息を整えるのにここ以上の場所はないだろうというくらいの場所だった。

 

 賢い智葉はある程度どころかほとんど全体像まで推測していたが、その確信を手に入れるためになぜかこんなところにいる播磨拳児に聞いておかなければならないことがあった。というよりもこの状況に出くわせば誰であってもこの質問はするだろう。

 

 「播磨、お前なんでこんなところにいる?」

 

 「あ? なんだオメー聞いてねえの? ダヴァンのヤツに祭り行くからって呼ばれてよ」

 

 突然に手を引かれて走らされたことについては特に思うところもないのか、拳児は平然として質問に答えた。夕暮れの児童公園は最後の陽光が当たっているところと当たっていないところとで、まるで塗りつぶしたように色が分かれている。

 

 「…………あのバカどもが」

 

 推測が見事にぴたりと当たっていたことと何も知らないチンピラが目の前にいるという事実が、彼女に思い切りため息をつかせる。メグをはじめとした臨海女子のバカものどもはまず間違いなく祭りには姿を見せないだろう。つまり、そういうことだ。

 

 さっさと帰って二時間コースの説教でもかましてやろうと強く決意したタイミングで、智葉は何かがおかしいことに気が付いた。目の前にいるヒゲグラサンは、少なくとも公的にはインターハイの団体戦で忌々しくも優勝をかっさらった姫松高校の監督代行であり、そして団体戦からは日が移った今日も明日も個人戦が行われているのは昨日の時点で智葉自身がダヴァンに確認したことだ。というか姫松から個人戦に出場している選手がいるというのに応援も練習相手も務めないでこんなところにいるのは明らかにおかしいことのはずなのだ。

 

 「待て、お前なんでこんなところにいる?」

 

 「いま言っただろーが。呼ばれたから来たんだっつーの」

 

 「そうじゃない。お前自分のところの部員は放っておいていいのか? 個人戦があるだろう」

 

 智葉がそう口にすると、目の前の男は素っ頓狂なことを言われたかのように呆けた面をこちらの方へ向けていた。お互いの重要視されるべきポイントに食い違いが生じているのは明白だった。

 

 「ナンで個人戦まで面倒見なきゃならねえんだ、俺のシゴトは団体までだ」

 

 今の状況が突然の事態ということもあって、播磨拳児が独特の価値観を有しているということをまるっきり忘れていた智葉はその発言に面食らってしまった。正しくは自身が監督を務める高校の試合中でも平然と外出して昼食を摂りに行ける男である。かなり好意的に解釈したところで無責任極まりない発言と取られるのがスジだろう。これがプロでの話ならばその論理は通用するが、どう頑張ったところでインターハイは高校生の大会である。学生の大会である。団体戦か個人戦かで監督の動作が変わる理由などどこにもない。

 

 「……それに姫松の連中は納得しているのか」

 

 いまだ拳児の不思議な事情を思い出してはいないものの、一瞬のうちに冷静さだけは取り戻した智葉はどこか詰問口調で問うた。不義理に対して厳しい彼女の眼鏡の向こうの視線は鋭い。しかし数々の命にかかわるような修羅場を潜ってきた拳児はそれを意に介さない。それに彼からすればまったく不義理を働いているつもりもない。このことについては拳児の転がされるようなこれまでの人生と、優勝を目指す理由を知っておかなければきちんとした把握は難しいだろう。

 

 「あ? ンなもん要るかよ。そもそも俺があいつらにひっついて何すりゃいいんだ」

 

 「助言でもおくってやるのがお前の役割じゃないのか」

 

 「……あのな、俺より麻雀できねえ奴なんざウチの部にゃいねーぞ?」

 

 若干きまり悪そうに視線を外して口を開いた拳児の姿は、なんだかおそろしく似合っていない違和感の集合体のように智葉の目に映った。うまく言語化できないが、なんとなくこれまでのイメージとのあいだにずれが生じているような気がした。

 

 ここまで来てやっと智葉は思い出した。目の前のこの男はどういう星のめぐり合わせの下に生まれたのか、新入部員にも勝てないと自覚している腕前なのになぜか名門校の部の監督代行を務めていることを。先日 (あれはたしか二回戦当日のことだったか) 聞いたところによれば、どうやら姫松の部員たちは全員が播磨拳児の実力を勘違いしているのだという。智葉自身それを確かめてこそいないものの、彼が嘘をつく意味も理由も必要もないことから事実なのだろうと受け止めている。改めて考えてみれば、たしかにこの男が個人戦についていく意味は、ゼロではないがだいぶ薄い。

 

 「そうだったな……、お前は、そうだったな……」

 

 こうして彼女は今日一晩くらいは相手をしてやろうと決めたのだった。

 

 

―――――

 

 

 

 「別にそんなに急いで食べる必要もないだろう。こういうのは風情を楽しむものだ」

 

 「イヤそりゃ構わねーけどよ、単純に腹減んねーの?」

 

 そもそも見た目も振る舞いもせいぜい不良がいいところの拳児は、普段から会話にデリカシーのようなものを求められることは少ない。もちろんそんなものは欠片も持ち合わせていないし、仮にそれを要求されたとしても気付かないのが関の山だろう。デリカシーのない発言をしてため息をつかれたり、じとっとした視線をもらっても不思議そうな顔をするだけだ。しかしながら拳児の周囲にはそういったことを気にする人物がほとんどおらず、いま一緒に歩いている辻垣内智葉もどちらかといえば無頓着に分類されるタイプだった。

 

 「男の胃袋と女のそれを同じレベルで考えるな、それに腹拵えをしに来たわけでもないんだ」

 

 拳児のちょっとずれた心配にもそれなりに丁寧に智葉は返す。言葉遣いはぶっきらぼうと言えるが、トーンはどこか優しい。そういう見方をすれば智葉と拳児とは似たような系統のパーソナリティをしていると言えるかもしれない。もちろんそれは局地的な見方であって、全体的に見てしまえばまるで違っているのは当然の事実ではあるが。

 

 どちらから言うともなく、すこしだけ歩く速度がゆっくりになった。だんだんと空の藍色が暗く沈んでゆく。まだ腰を落ち着ける場所を見つけてはいないから、手に持ったビニールだのプラスチック容器だのががさがさと音を立てる。辺りはもうすっかり食べ物を焼く匂いと煙に包まれている。とくに言葉が必要でもない場だったが、珍しいことに拳児が口を開いた。

 

 「そうか、ひょっとしてオメー、こういう雰囲気好きなんだな?」

 

 「……まあ、そうだな。祭りの夜は嫌いじゃない」

 

 ひどくゆっくりとして、途切れそうな会話がかろうじて繋がる。狭い範囲しか照らさない出店の電灯のせいで、幅の広い道の、すこしでも真ん中寄りを歩くと隣を歩く人の顔も見えなくなった。

 

 

 腰を落ち着けて食事を終えて再び出店をひやかす前に、智葉はどうにかこうにか留学生どもが、その中でも呼び出しておいて来ない、という荒業を実行してみせたメグがこの場にいない理由を誤魔化し終えた。メグたちの目的を隠さずに本人に教えてあげるようなミスなど彼女はしない。そうして腹ごなしも兼ねて通りを歩き始めると智葉の目にあるものが留まった。そこでは何のために動き続けているのかわからないエンジンが、がやがやと騒がしい周囲の喧騒のなかでも妙に目立って音を立てている。簡素に張られたビニールプールの中をちいさな赤や黒や金色がひらひらと舞っていた。

 

 ほとんど無意識にビニールプールを横目で見つつ、歩く速度をわずかに緩める。それを自覚していなかったから、智葉は誰かにぶつかって驚いた。彼女が驚くのも誰かにぶつかるのもなかなか珍しい光景である。智葉の歩行線上にいたのは、やはりというべきかさすがというべきか、見も知らぬ人間ではなくイカ焼きの串を片手に持った播磨拳児であった。

 

 「っ、申し訳ない、っと、播磨か。なんで突っ立っている?」

 

 「ン? オメー金魚すくいやるんだろ?」

 

 自分がぶつかった経緯をそこで理解して、智葉は視線をそらして小さくため息をついた。取り繕うような言い訳が出てこないあたりは男らしいというか、女子高校生としては損をしそうな振る舞いである。

 

 「……見られてたか。まあいい、それなら一回やらせてもらおうか、せっかくだしな」

 

 

 

 折り目正しく浴衣を来た美女が金魚すくいをしている図は実に絵になるものであったが、しかし辻垣内智葉のイメージからはかけ離れて、彼女は金魚すくいが下手だった。落ち着きがないというわけではない。しっかりと狙いを定めて、ポイと呼ばれるすくいを水中にくぐらせる。ここまではいい。だが水中からポイに金魚を乗せて引き上げる際に、なぜか金魚を必ず中心に乗せていた。濡れて破けやすくなった紙が小さいとはいえ金魚の重量に耐えられるはずもない。結局は水滴を残してビニールプールへと帰ってしまうのが常となっていた。

 

 すっくと立ちあがった智葉の目は、どこか遠くを見ているようだった。一回やらせてもらおう、なんて言っておきながら五回も挑んで収穫がなかったのだから無理もないだろう。気の毒すぎて誰も自分に声をかけられまいと乾いた笑いを浮かべていると、隣に立っていた男がしゃがむのが智葉の目に入った。さっきまで食べていたはずのイカ焼きはもうどこにもない。

 

 「オウ、おっちゃん、一回頼むぜ」

 

 

―――――

 

 

 

 「本当にいいのか?」

 

 「いいもクソもホテルじゃ飼えねーし、大阪に戻ってもなんにもねーしな」

 

 ビニール袋の中を、赤と黒の金魚が一匹ずつ泳いでいる。

 

 「そういうことなら、まあ、大事に育てよう」

 

 ふたりは金魚すくいの店をすっかり後にして、目印である郵便局を目指して歩いていた。智葉の手元には新たに金魚の入ったビニール袋、拳児の手元にはわたあめが握られている。智葉からのお礼ということで受け取ったものだが、おそろしく姿にマッチしていない。食べ方としては空いた手でちいさくちぎって食べるのが本流なのだが、男子はだいたい顔を突っ込んで食べるものである。拳児もその例に漏れず、だんだん顔がベタベタになってきていた。

 

 「しっかし辻垣内、オメーあんなに下手だとはな、チト意外だぜ」

 

 「うるさい、ずっとやってみたかったけど経験がなかったんだ」

 

 祭りの喧騒や明かりがだんだん遠ざかって、次第に虫の声が聞こえてくる。夜空はもうすっかり真っ暗で、例外的に明るい一等星だけがぽつぽつと浮かんでいる。合同合宿で見た夜空よりは星の数は少ない。ここ数日に比べれば過ごしやすいと言える夜は、だんだんと終わりに近づいていた。

 

 女性を家まで送るなんていう気の利いた真似のできない拳児は、そのまま駅へ向かってまっすぐ帰っていったが、智葉は心底それでよかったと息をついた。下手をすればどころか高い確率で、今日のことを仕組んだ連中がどこかで待ち構えているだろう。そのときに当人である播磨拳児がいたら面倒なことになるのは火を見るよりも明らかなことだ。

 

 「……とりあえず、こんど金魚鉢でも見繕うか」

 

 智葉は右手に持ったビニール袋を軽く掲げて、またひとつ息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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61 AM4:49

―――――

 

 

 

 しん、と寝静まったホテルの一室。カーテンの向こうはどの時間よりも暗い。聞こえるのは小さく調整された空調の音とささやかな呼吸と、かすかな衣擦れの音だけだ。そもそもが十一階にあって防音が徹底されたこの部屋には、ときおりホテルの近くを通る車の走行音すら入っては来ない。そんな、静謐がルールとして明文化されていそうなこの空間で、ベッドがひとつもぞもぞと動き出し、ついにはそこに寝ていた少女が半身を起こした。

 

 真っ暗な空間で影だけが動作していることがわかる。影の手が枕元へ伸びて、そこがふんわりと明るくなった。どうやらスマートフォンを起動させたらしい。複雑な操作をしているようには見受けられないから、おそらく現在時刻を確認したかったのだろう。ディスプレイに表示された数字を見て、影はやれやれと頭を振っている。考えてみれば目を覚ましてすぐに意図のはっきりした行動を取れているあたり、意識は覚醒状態に近いとみてよさそうだ。

 

 ( あー、まだ四時にもなってへん……。でもなんか寝直せるカンジとちゃうなこれ…… )

 

 早朝と呼ぶのも憚られるような時間に寝ている仲間を起こすという選択肢はあまりにも非人道的すぎるということで、少女は静かにコンビニに行ける程度の軽装に静かに着替える。いつもならば結んでいる髪も下ろしたままだ。そこまで長いあいだ外出するつもりもないが、自分と同じように何かの拍子に目覚めてしまう仲間もいるかもしれないと考えた少女は、ベッドの上に簡単な書置きを残していくことにした。念のための備えというやつで、十中八九は誰の目にも留まることはないだろう。彼女は音を立てずに扉を開け、一階のロビーへ向かうためにエレベーターに乗ることにした。

 

 ホテルに宿泊している客というのは実にさまざまで、たとえば夜にすべての人が睡眠をとっているとは限らない。少女がエレベーターのボタンを押したときも、なぜかエレベーターは停止してはいなかった。いったん上に上がって、それから彼女のいる階へと降りてくる。文字盤は順番どおりに明滅する。おそらく誰かが乗っているのは間違いのないことで、そのことは少女の気分を明るくはしなかった。

 

 到着を知らせる音が鳴って、ゆっくりと戸が左右へ引かれていくと、可能性としてはゼロではなかったが少女がまったく考えていなかった現実がそこにあった。長身のてっぺんにあるばさばさとしたそれなりの長さのある髪をカチューシャで抑え込んで、外はまだまだ陽が出ていないのにサングラスをかけている。制服のポケットに突っ込まれた両腕は少女のものと違ってかちっと筋張っていて、いかにも()()()だ。いちいち思い出す必要もない。ここ数ヶ月のあいだに見慣れたものだ、まさか見間違えるわけもない。

 

 「お、末原じゃねーか。ナンだこんな時間によ」

 

 「そっくりそのままお返し、やな」

 

 

―――――

 

 

 

 「レンタルバイク?」

 

 「おおよ、借りて走れンだよ。こっち来てから乗ってねーし退屈だしな、昨日借りた」

 

 話を聞いてみるとどうやら拳児はこれからバイクを走らせるとのことだった。なんでまたこんな時間に、と恭子ももちろん訝しんだが、たしかに普段の東京の街は交通量が多すぎてそういうものを素直に楽しむのは難しいのかもしれないと思い直した。なんともうさんくさい話ではあるが、拳児の口ぶりからすればこの時間に走りに行くことはどうやら慣れたものであるらしい。それどころか恭子がほとんど見たことのないどこか嬉しそうな様子をしている。ひょっとしたらいわゆる走り屋という性分を持っているのかもしれない。

 

 「で、オメーは何してんだ?」

 

 早朝四時にもなる前から部屋を抜け出してエレベーターに乗り込んできた少女に対しては正しい質問と言えるだろう。いくらなんでもこの追及から逃げるわけにはいかないし、逃れられるわけもない。ただ、部屋を出た恭子自身もその行動の根っこがよくはわかっていなかった。

 

 「いや、なんか目ぇ冴えてもうてな」

 

 「ふーん、ま、そういうときもあるか」

 

 アゴヒゲを撫でて得心したように頷く。仕草と言動だけを捕まえれば似たような思い出を抱えているように見えなくもない。しかし拳児が朝早くに目を覚ましてしまう図はなかなか想像しにくいものがある。寝相悪く大いびきをかいている、というのがおそらく外部からのイメージに最も即しているのではないだろうか。

 

 隣を歩いていると改めて拳児の大きさがよくわかる。並んだところで恭子の頭がせいぜい拳児の肩ぐらいにしか届かない。三月の終わりに突然やってきたときよりもまた身長が伸びたような気さえする。寝起きだという (これは正直あまり関係ないが) のにずっと顔を上げて話さなければならず、ちょっとだけ理不尽であることは理解しながらも恭子は不満を募らせた。

 

 

 とくに約束をしたわけでもないが、恭子はなんとなく拳児の借りたバイクがあるという駐輪場についていった。実際問題、恭子もヒマなのだが時間の潰し方が思いつかないというのもある。陽も出ていない早朝の東京で何ができるかと聞かれれば、持て余すのが当たり前である。外はすこしだけ涼しくて、夏の中のどこかしら特別な場所にいるかのような錯覚をしそうになる。恭子は中学で習った飽和水蒸気量のことを思い出す。それの影響で植え込みの葉にも借り物のバイクにも細かい水滴がついているのだろう。

 

 恭子はまるでバイクのことなど知らない。原チャリとそうでないものの区別すらアヤシイところだ。だから拳児が借りたバイク自体に対しては特別な感想を抱くことはしなかった。ただ、初めてのまじまじと見る機会であったため、それなりの興味を持って眺めていた。

 

 「なんだそんなに気になんなら後ろ乗ってみっか?」

 

 そう声をかけられて拳児のほうへ振り返ると、白い半球のヘルメットが飛んできた。落とさないように慌てて抱え込むと同じヘルメットを被った拳児がバイクにまたがろうとしていた。どうやら提案をした割には返答など待ってくれないらしい。拳児が手首を回すとエンジンが始動を始める。周囲の空気だけを震わせる音が響いて、その熱を伝える。いまバイクが走り出していない理由などひとつしかない。恭子自身も返答をしたわけではないのに、これから自分の取る行動が当たり前のものなのだと思っているフシがあった。いかに聡明で通っている恭子と言えど寝起きであることが関係していたのかもしれない。

 

 後部シートに乗ろうとして初めて恭子はバイクに足をかける段のようなものがあるのに気付く。なるほどある程度大きいバイクはそもそもが二人乗りくらいは前提なのだなと妙なところで感心した。そこに足をかけて拳児の肩に手を置き、またぐようにして後部シートに座る。明らかに上がった目線の高さがすこし面白く感じられる。

 

 「オウ末原ァ! ヘルメットはしっかり被っとけよ! 警察に捕まンのは面倒だからな!」

 

 「不良のくせにきちんと交通ルールは守んねんな!」

 

 「うるせェ!」

 

 エンジン音の影響で声を張らなければならなくなった二人は、そのせいもあってか気分が高揚しているようだった。恭子は両手をしっかりと拳児のそれぞれの肩へ乗せて走り出すのを待っている。そのほんのすこし前のシートでは拳児がわずかに首をひねっていた。

 

 ( なんだかチャリンコ二人乗りしてるみてーだなコレ…… )

 

 ともあれ拳児は出発することにした。

 

 

 薄明のなかを二輪車が駆ける。夜の一番暗い時間を抜けて、文字通りの夜明け前というやつだ。ぽつぽつとだけ点在する車を気分よく二人乗りのバイクが躱していく。後部シートに座る恭子の長い髪がなびく。普段は垂らして途中で折り返して留めている髪がすべて流れているのだ。オレンジ色のライトで照らされた道路の向こうの景色も、暗いなかでも次第にはっきりと姿を見せ始める。恭子の生活では体感できない速度は、彼女の両目に映るものを新鮮に見せた。リアシートの高さのおかげもあって背の高くない恭子が見ることのできた、播磨拳児の上からの風景というものもまたどこか特別なものに思えた。ばたばたと頬をうつ風でさえ面白いと感じられた。

 

 そのうち恭子の興奮も落ち着いてきて、拳児がただやみくもにバイクを走らせているわけではないことに気が付いた。ツーリングなのかドライブなのかはわからないが、これにはどうやら目的地があるらしい。一日のなかでいちばん暗い時間を過ぎたとはいえまだまだ明るいとは言えない。そんな時間にいったいどこへ行くと言うのだろうか。

 

 「播磨ァ! これどこ向かってんの!?」

 

 「いーもん見せてやっからよ! 楽しみにしとけェ!」

 

 もう都心のど真ん中はとうに過ぎて、どちらかといえば自然の割合が増してきた。東京といえど郊外に出れば長閑な風景が広がっているもので、畑なんかも別に珍しいわけではない。空気の匂いが明らかに変わって、静けさの意味が変わる。空の色がもう一段階明るさを増して、夜明けが近いことを知らせる。気の早い鳥はもう声を上げている。恭子はときおりヘルメットの具合を調整していた。

 

 バイクはついに山に入った。これまでとは違う登り坂に恭子も多少は驚いたのか、それまでよりも拳児に引っ付かざるを得なくなった。木々に囲まれた道路はぐっと気温が下がったように感じられる。さすがに出発前に慣れているようなことを話していた拳児は、様子を変えることなく飄々と運転をしている。この山を越えた先に、本当に拳児の言う “いーもん” があるのかはまだ疑わしいが、かと言って急に降りるわけにもいかない。降ろされても困る。帰れない可能性が大である。そんなことを考えているうちに木々のぽっかり刈られた道に出て、拳児がゆっくりと道端にバイクを止めた。

 

 恭子に先に降りるよう指示を出して、その後で拳児も降りる。拳児はすぐそこのガードレールに腰かけて、ひとつ大きく伸びをした。ある程度の時間を運転しっぱなしだったことを考えて、休憩だろうかと恭子は推測した。もちろん恭子はバイクの運転経験などないため、どれくらい乗るとどれくらい疲れるのかなどまったくわかっていない。恭子も拳児にならってガードレールに腰かけ、ふいと後ろを振り返る。これまで登ってきた山道は曲がりくねっていて、ちょっと先はもう見えなくなっている。

 

 「オイどこ見てんだ、向こうだ向こう」

 

 「へ?」

 

 拳児の指す方向には木々がなく、山裾の町並みが広々と見えるはずなのだが、今の時間ではまだ暗すぎるためにほとんど何も見えない。若干の心配の視線を拳児に送る。いつも通りのサングラスに山羊ヒゲだ。相変わらずよくわからない、とため息をつきながらもう一度視線を前に向けたそのときだった。遠くの山の合間がじりじりと暖色に染まっていき、そこまで間を置かずに太陽が顔を覗かせた。

 

 真っ暗だった山裾が一気に色づいて、世界中がきらきらと輝き始める。二人が走ってきた道も、今いるところも、全てが陽光に包まれて、息を吹き返す。ほとんど夕暮れと変わらないやわらかい光線が辺り一面を染めていく。例外なのは陰になっているところくらいで、それでもその全てが同じ方向に伸びているのを確認できる以上は不思議な眺めの一部としか言いようがない。太陽が眩しいことなど知っているが、それでも恭子は目を離せなかった。

 

 「な、スゲーだろ?」

 

 「……ようこんな場所知っとったな、驚いたわ」

 

 「前に来たことがあってよ、こういうのァいいよな」

 

 「ふふ、似合わんな」

 

 「るせェ」

 

 

 二人がガードレールに留まっていたのはたったの五分だけだった。太陽がその姿をすっかりと空に現してしまうと、拳児はさっさとバイクにまたがった。不思議と恭子もそれに違和感を覚えなかったようで、二度目にして慣れたような動作でリアシートに乗り込んだ。もう空の色は明るくなり始めており、朝と呼ぶには十分だ。気が付けばいつの間にかセミも鳴き始めて、真夏の朝が東の空からやってくる。気温も湿度も上げて、今日も熱中症の患者をたくさん出すのだろう。恭子は長い髪をはらってヘルメットを被りなおした。

 

 

―――――

 

 

 

 「あ、恭子、おかえりなのよー」

 

 恭子が部屋の扉を開けると、由子だけがテーブルで紅茶を飲んでいた。あとはまだ夢の中にいるらしい。しかし時間を潰してきたとはいえまだ七時になる前の早い時間で、どちらかといえばまだ寝息を立てているほうが高校生らしいと言えそうだ。

 

 「ただいまー、って由子もずいぶん早起きやな」

 

 「起きたら姿ごとなかった恭子に言われてもねえ」

 

 くすくすと笑い合いながら恭子もテーブルにつく。もうすっかり外は明るいが、起きているのはテーブルについているふたりだけだ。カーテンが直射日光を防いでくれていることが大きいのかもしれない。

 

 「こんな時間にどこに行ってきたの?」

 

 「ん、まあちょっと散歩というか」

 

 ふうん、と聞いているのだかどうだか曖昧な返事とともに由子はテレビの電源を入れた。昨晩にも点けていたこともあって音量は小さいままだ。この程度ならいま寝ている面々はまず起きないだろう。ディスプレイには東京の街を上空から撮った映像が流れている。空の具合を見れば今日の天気などわかりそうなものだが、それでも番組では律儀に晴れる予報を知らせていた。

 

 由子はまだ湯気を立てている紅茶をもういちど口に運ぶ。そうしてひと息ついてから思い出したように、あ、とわざとらしく間を置いて恭子に尋ねた。

 

 「なにか面白いものはあった?」

 

 ほとんど反射的に恭子は首を横に振る。どうして咄嗟に隠すような判断をしたのかは彼女自身にもわからない。ただ一般論を述べるなら、恋人同士であるわけでも昔馴染みであるわけでもない異性と日の出前からふたりで出掛けたなんてことを話すには恥ずかしさがいささか強すぎる。思い出してみればどうしてリアシートに乗ったのかから詰めなければならないレベルの行動だが、恭子はそこに “早朝だから” と蓋をすることにした。

 

 テレビは天気予報を終えて、いまはエンタメ情報を流している。注目の映画やアミューズメント施設、それに今の時期は大型プールなどそれなりに時間を使うような場所が多く紹介されている。そんななかにも麻雀のインターハイ観戦が入ってくるところを見ると、どれだけ一般に麻雀というものが浸透しているかが察せるというものだろう。

 

 テレビに映る人々は誰もが明るい顔をしていて、それぞれ思いきり楽しんでいるように恭子には見えた。きっと彼らは自分たちが愉快な状態にあるという考えすら頭に起こらないほどに楽しんでいるに違いない。そんな映像を見ていたかと思えば、何をきっかけとしたのか恭子はいきなりテーブルに突っ伏した。それはたとえば、高校の授業でどこをヒントに解けばよいのかすらわからない難問に出くわしたかのような倒れ方だった。突然のアクションに由子も多少は驚いたが、それでもちらと視線を向ける程度で取り立てて騒ぐ様子は見られない。あるいは彼女のこういった仕草は案外と見られるものなのかもしれない。

 

 「どうしたの?」

 

 「……いや、客観視いうのをちょっと意識してな」

 

 恭子が突っ伏したままでもごもごと口を動かしているのは仲の良い真瀬由子の前だからである。なんだか面白い動きをしているなあ、と由子が横目で見ていると恭子が突然立ち上がって着替えだのタオルだのを取り出してバスルームへと駆け込んでいった。夏の朝にシャワーはつきものだが、恭子のあんな様子をいつも通りと受け取るほど由子は緩い判断基準を持ってはいない。せっかくだから洋榎の応援をしている間にでもつっついてみようかと考え始めた。

 

 いくら麻雀のインターハイ団体を制した高校の大将であっても、ひと皮剥けばただの女子高生に変わりないのだということを真瀬由子はよく知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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学校生活編
62 彼の進む道について


―――――

 

 

 

 全国的に快晴の予報が出された朝、きれいな水色の空の下のまっすぐな道をのしのしとヒゲグラサンが歩く。途中の曲がり角が最寄りの駅へとつながっており、電車通学をしている姫松の生徒はここから拳児の歩く道へと合流することになる。

 

 目につく生徒のほとんどは半袖のシャツで登校しており、ベストを着ている生徒ですら間違いなく少数派になるほどに気温は高い。たとえば姫松高校においてベストを着なければならないだとか逆に着てはいけないだとかのルールは生徒手帳を確認しない限りはわからないが、そもそも拳児の格好が許されている段階で校則はそれほど厳しくないことが伺える。

 

 「お、播磨、おはよう!」

 

 「播磨くんや、おはようさん」

 

 インターハイ団体優勝のおかげと言うべきか、つい春先には周囲から恐怖の視線を集めていたはずが、今となってはその辺の知らない人からも声をかけられるくらいに親しみをもって接されるようになっている。しかし別にケンカを売られているわけでもないこの状況は、彼にとっては意外と処理のしにくいものだった。拳児からすればうっとうしいのベクトルが変わった感覚だ。できることはただ適当に挨拶を返すことだけである。そういえば似たようなことをインハイのさなかにも思ったような記憶があるな、と思い出していた。

 

 高校生としての最大の大会が終わったからといって拳児の生活はほぼ変化を見せなかった。東京から大阪へ帰ってきて一週間の夏休みがあったくらいで、そこからは新体制での麻雀部が動き出している。当然ながら監督の立場にある拳児が部を離れられるわけもない。高校の残りの夏休みのあいだは土日と同じの、すこしハードな時間割が組まれた。少なくとも一年間は王者としての扱いを受けることは避けられず、であればそれに恥じないだけの練習を積まねばならないのは当然といえば当然の帰結である。本当ならば指導する立場になければならないのだが、実際には拳児に部員たちの指導をするだけの実力はない。そのため余計に早く登校したりあるいは居残りをして郁乃と指導方針の確認をしなければならず、さらに余計に負担がかかっていたのは内緒の話である。

 

 学校に近づくにつれて挨拶の飛んでくる頻度が増してくる。クラスメイトの名前や顔さえ未だに覚えきっていない拳児が、よそのクラスや後輩たちをきちんと区別しているわけがない。もちろん拳児や挨拶をしている彼ら自身にそんな意図はなくとも、拳児が通るたびに周囲が声をかけたり頭を下げたりしている絵面だけを見ているとなんだか不健全なものに思えてくる。

 

 

 たいていの高校が始業式の翌日から通常通りに時間割を組むものであり、姫松も例外ではない。午前中に四時間と午後に二時間の一般的なカリキュラムだ。授業の中身自体は選択授業があったりと小さな自由が保証されてはいるが、基本的に高校生というものは授業に対して文句を言うことでコミュニケーションを図る生物である。自分で選択したわりには、面倒だよね、なんて口にする。必要性だとかそういうことは別にして。

 

 拳児は歩いて十分ほどの距離のところに住んでいることもあって、ぎりぎりの時間に登校してくるのを常としている。だから拳児が教室に入るころにはほとんどの座席が埋まっていて、今日もいつものように最後から三番目くらいに教室に入っていちばん後ろの座席につく。このクラスでは席替えをしないようで、隣には真瀬由子がいつも座っている。オウ、と簡単に声をかけると、由子が手で挨拶を返しつつなにやら小さな紙を取り出した。

 

 「ねえ播磨、あなた進路調査票出してないでしょ?」

 

 「あァ? なんだそりゃ」

 

 ぴらぴらと示された紙には第一希望だの第二希望だのといった文字と、おそらくそれを書くためなのだろうスペースが存在している。拳児は提出していないどころか見覚えすらない紙をまじまじと見つめる。

 

 「……そんなに見つめなくてもいいのよー。本当なら去年に書いてるはずのやつだし」

 

 「ンだオイ、別に俺悪くねえじゃねえか」

 

 「まあ、高三で転校とかかなり珍しいし、ね? それで先生が書かせろって」

 

 拳児は由子から用紙を受け取って、とりあえず机にしまった。学校という場所はこういうものを奇妙なくらいに大事にすることを拳児は知っている。従姉が高校の物理教師ということもあって、その辺りには多少詳しいのだ。どうせ書かなければならなくなるのだろう。とはいえ進路なんてものは拳児からすればたったひとつしかない。それが一般的に受け入れられるものかは知らないが。

 

 「ふふ、正直言ってあなたに書かせる意味はないような気がするんだけどね」

 

 そう言って由子はふんわり笑う。

 

 「お、なんだオメーわかってんじゃねーか」

 

 珍しく朗らかに返すと、拳児はそのまま腕を組んで担任が来るのを待ち始めた。

 

 

―――――

 

 

 

 「播磨先輩の進路?」

 

 六時間目の授業が終わって部活動が始まる前のちょっとした時間、たまたま部室に向かう途中で洋榎に出くわした漫は聞き返した。一般的にはインターハイが終わって三年生は部からは引退しているはずなのだが、プロ入りが確実視されている愛宕洋榎だけは例外的に部活に顔を出していた。

 

 スクールバッグを右肩にかけて漫の隣を歩く洋榎は、ひとつ頷いて話題がそれであることを肯定した。窓を全開にしているのにもかかわらず、ほとんど風は吹きこんでこない。むしろ窓の外にアシナガバチが飛んでいるのを見かけて漫は窓を閉めたくなった。

 

 「そ、今日な、ゆーこがセンセに進路の紙? 渡すの頼まれたんやって」

 

 「言うても播磨先輩の進路なんて決まってるようなもんとちゃうんですか」

 

 不思議そうに漫は返す。全国的に見ても他に例を見ない高校生監督であることと、それが名門の姫松にいることに加えてインターハイの優勝というおまけつきになったこともあって、拳児はほとんど姫松の象徴のような存在になっている。出自が不明という点が問題になるかとも思われたが、むしろそれはある種のスパイスとなって彼の立ち位置を明確にしている。どちらかといえば拳児が姫松を離れることを考えている人間がいないと言ったほうが適切だろうか。また三年生の引退した新体制でも普通に監督として拳児が指導に当たっている現況を考えれば、それが崩れるとは漫には到底考えられなかった。

 

 基本的には洋榎も漫と同じように、ただの学生生活の一コマと捉えているようだった。口調から緊急性など微塵も感じられない。それにもしそれが麻雀部全体に波及するような問題だった場合、元監督代行であり現コーチである赤阪郁乃が動かないわけがない。ヘンテコな論理ではあるが、この姫松ではそれがきれいに通るのである。そこまで考えなくても高校三年生が紙に希望する進路を書くだけの、ふつうの日常の一ページと見てどんな問題があるだろうか。

 

 「漫が播磨みたいな状況やったらどうする?」

 

 「へ? どういうことです?」

 

 「進路決まってんのにいちいち紙に書いてー言われたら」

 

 視線を上に飛ばしてそんな場面に置かれた自分を想像する。もともとゆっくりだった歩調がさらに遅くなる。今日は近くにはセミはいないようで、一ヶ月以上も朝から日が暮れるまで耳に残った声は聞こえない。

 

 「……あー、そーいうことですか。でも播磨先輩ってそんなキャラでしたっけ」

 

 「ここまでお膳立てされといてスルーとかありえへんやろ」

 

 洋榎が拳児に期待する “何か” を漫が察したところでふたりはちょうど部室に着いた。夏休みのあいだの練習の慣例に従えば、拳児が先に第一部室でメモを片手に考え込んでいるはずである。

 

 

 学校特有の引き戸を開けると、拳児が予想通りにいつものところに陣取っていた。そのほかにも一年生たちが準備のために駆け回っている。さすがにひと夏を超えると怯えまくっていた部員たちも慣れてきたようで、いまでは見かければ挨拶もするし、プレイングにちょっとした疑問がわけば質問さえできるようになった。決して仲良く話ができるようになったわけではないとはいえ、これは大きな進歩と言えよう。信じられないことに拳児を監督として部活が回るようになったのである。このことに対して郁乃を除いて誰も驚かないというのがこの環境の異常さを示している。

 

 麻雀部の部室は第一第二とともに後ろのほうに縦長のロッカーが二段重ねで積まれており、そのロッカーひとつにつき二人分のカバンやら荷物やらを入れるルールを採用している。大所帯であり続けたことからそんな伝統ができて、三年生が引退したいまでもそれは変わらない。三年生が使っていたスペースは来年の部員のためにずっと空けておくのが決まりとなっている。

 

 漫と洋榎はそれぞれのロッカーにカバンをしまうと、そろって拳児のところへと向かった。まだ部活を始めるにはすこし時間が早い。大所帯だけあって全員が揃うのを待つと時間がかかることが多いため、基本的には時間で区切って活動を始めているのである。よって部活が始まる前のちょっとした時間はわりとどうでもいいような話をしている部員も多い。そうでなくても末原恭子と真瀬由子の両名が抜けたいま、漫と洋榎の現主将と元主将が二人して雑談を始めた場合、止められるのは絹恵と郁乃、それに拳児くらいのものである。

 

 視線こそサングラスで判断できないものの、おそらく意識を手元のメモに集中しているであろう拳児に、楽しいことが起きるとわかっているような表情で洋榎が話しかける。

 

 「なあなあ播磨、進路の紙もらったんやろ?」

 

 「オウ、なんで知ってんだ」

 

 どうやら完全には集中しきっていなかったようで、拳児は自然と顔を洋榎のほうへと向ける。

 

 「ん、ゆーこに聞いてん。もう書いた?」

 

 「書いたぜ、まだ出してねーけどな」

 

 もう書いたと聞いて漫が意外そうな表情を浮かべた。たしかに拳児に対して真面目だとか仕事が早いだとかいった印象を持っている人間はまずいないだろうが、進路調査票にすぐ記入しただけでここまでの反応をされるとなるとさすがにかわいそうになってくる。

 

 「え、センパイ、なんて書いたんです?」

 

 彼女からすれば拳児が紙に書ける回答など大別してふたつのパターンしかなく、それを理解したうえで質問しているのだから漫もなかなかいい性格をしていると言える。仮にこの場で漫が聞いていなかったとしても洋榎が尋ねていただろうことは明らかだ、逃れられる質問ではない。

 

 拳児はほんのわずかの間だけ考え込むように時間を空けて、ついで首を振った。

 

 「ナンでオメーらに教えてやんなきゃなんねえんだ」

 

 「え? なになに? ひょっとして照れくさいとかそういうの?」

 

 この洋榎の一言が本人の意図とはまったく別のところでピンポイントに刺さっていたことなど、拳児を除けば誰も知るわけがなかった。三人が騒いでいるあいだにいつの間にか部員の数がある程度揃い、また時間もそろそろちょうどよくなったこともあって、拳児は話を打ち切って練習を始めるよう漫に指示を出した。姫松の基本的な方針としては自発的な行動を尊重しているため、拳児や郁乃の主導による部活動を行わないことに決めている。夏前までは末原恭子という全国的に見ても屈指のプランニング能力を持つ部員がいたために、彼女がいない現在はそこで苦しんでいる部分もあるが方針は曲げないことに決めている。拳児と郁乃の立ち位置としては個人個人のプレイングの相談に乗る等のアドバイザーとしての側面が強い。この辺りは郁乃が監督代行としての拳児を守るためにいろいろと手を回しており、それがきちんと機能していまのかたちを維持している。

 

 

―――――

 

 

 

 真夏に比べればちょっとだけ日が沈むのが早くなった夕方、一日の練習を終えて漫と絹恵が校門に差し掛かる。帰る場所が同じなのだからいつもなら愛宕姉妹はいっしょに下校するはずなのだが、拳児と洋榎は今後のことで詰めることがあるらしく、今日は残って郁乃と話をしている。そんなこともあって今日は二年生ふたりで最寄りの駅へと向かうことになったのだ。よその部も似たような時間に部活を終えたらしく、周囲には少人数のグループがいくつか点在している。

 

 雑談の例に漏れず、彼女たちの会話はあっちへ行ったりこっちへ来たりと忙しいものだった。世界史の担当教師への文句であったり、雑誌に紹介されていたスイーツバイキングのことだったり、毎週木曜十時から放映されているテレビドラマのことだったり。そのなかで、不意に三年生たちの卒業に話がおよんだ。

 

 「でもウチのセンパイたちって心配なるようなヒトいーひんやんな」

 

 「んー、お姉ちゃんもたぶんプロやろしな」

 

 どちらも手にはハンドタオルを持っている。秋の夕暮れとはいえ、まだ九月になったばかりだ。残暑は呆れるほどに動く気配を見せない。

 

 「そーいえば」

 

 「ん、どしたん絹ちゃん」

 

 赤く燃える空を見上げて、重力に牽かれるままに口をちょっとだけ開けて絹恵が言葉をこぼす。彼女は女子としては大きめの背をしているために、漫からすると滑らかな顎の稜線がよく見える。中学までサッカーをやっていたことに加えて、いまでもある程度の運動はしているという絹恵の肉付きはとても健康的できれいだ。そんな彼女が思い出したように発した言葉は自然と漫の気を引いた。

 

 「播磨さんって卒業したらそのまま監督になるんかな」

 

 「ん? どういうこと?」

 

 「いや、ほら播磨さんってたしか正式には監督 “代行” やったやんか」

 

 「うっそ、代こ、えっ何それ、知らんかった」

 

 漫が知らないのも無理はない。麻雀部員たちに拳児が監督代行であることがきちんと言葉で説明されたのは、郁乃が連れてきたあの春の日の一度だけであるからだ。それ以降というものの、拳児は部内で監督と呼ばれることも監督代行と呼ばれることも一度もなかった。むしろ呼んでくれたのはインターハイの実況席だけである。実のところ、本人が考えている以上に拳児のポジションは複雑というか、奇妙なものになっている。

 

 「はー、そんなん絹ちゃんよう知っとったね」

 

 「あはは、ほら、インハイのプログラムあったやん? アレ見てたら書いてあって」

 

 拳児が代行である事実を知っている絹恵であってもこの程度である。播磨拳児に注目する際にはどうしたって高校生監督であることが先行してしまうのは仕方のないことだ。それに代行であることを知っていることが重要になる場合があるとはとても思えないために、もし目や耳にしたとしてもすぐ忘れてしまうひとが多いのだろう。

 

 遠くでカラスが間の抜けた声を上げた。駅へと続く曲がり角が近づいてくる。先を行っていたグループは既に角を曲がって姿が見えなくなっている。彼らの話は盛り上がっているようで、声だけが角の向こうから聞こえてくる。

 

 「でもそれやったら “代行” 取れるパターンが可能性高いんちゃうかな」

 

 「一年だけでしたー、とかないよね?」

 

 「優勝監督インタビューであんなこと言うてくれたんやし、姫松に思い入れあるんちゃう?」

 

 もうじき三週間は経とうかという団体戦終了直後のことを思い出す。最後に満貫で優勝を決めた恭子のもとへ、誰の手が扉を開けたかもわからないくらいにひとかたまりになって駆け込んで、五人で固まって泣き合った。もちろんプレイヤーであった漫や絹恵たちのところにもメディア関係者は集まってきたが、その一方で監督を務めた拳児のもとへも一言をもらいに記者たちは訪れていたのである。そのときは彼女たちもそんなことなど知らなかったが、メディア的にも大注目であった播磨拳児のコメントを生中継の一回だけしか流さないなんてことがあるはずもなく、それこそ連日ニュース番組に拳児がコメントを残したシーンが何度も何度も流された。

 

 外部の人間ですらしばらく忘れられないほどのインパクトを残したそれが、直接指導を受けている (ことになっている) 姫松高校麻雀部の面々の脳裏に刻まれないわけがない。それがあまりにも印象に残りすぎたがために、個人戦が実施されている期間に姫松団体メンバーのあいだでその拳児の物まね大会が開かれたほどである。さすがに本人の前でやるとへそを曲げるに違いないということで、拳児のいない女子部屋での開催ではあったが。

 

 『勝ったのは俺じゃなくてあいつらッスよ』

 

 「んっふ、絹ちゃんぜんぜん似てへん」

 

 もともとハスキーボイスというよりも女の子らしい声をしている絹恵が、同世代では間違いなく渋い声に分類される拳児の声真似をしたところで似るわけもなく、ただ笑いの種になるだけである。それどころか未だに麻雀部員の共通の持ちネタとしての扱いを受けているのだが、悲しいかな拳児だけがやはりその事実を知らない。

 

 「えっへへ、でもあれやね、播磨さんがめっちゃ明るい顔してるの初めて見たね」

 

 そのインタビューでの表情を見るまで一度たりとも拳児のうれしそうな顔を見たことのなかった姫松の部員たちにとって、その変化はかなり重大なものだった。それまで何があっても自分たちの前ではにこりともしなかった裏プロが、自分たちのことで明るい気分になったのだ。すくなくとも拳児が姫松に対してチームメイトくらいの意識を持ってくれていることが彼女たちのなかではっきりした。

 

 「センパイもやっぱいきなり転校とかでキツかったんちゃうんかな」

 

 「でもきっとこっからは播磨さんも楽しなる思うよ。体育祭も文化祭もあるし」

 

 「……ダメや、絹ちゃん。播磨先輩がテンション上げてるの想像つかへん」

 

 それを聞いて絹恵はぷっと噴き出した。言われてみればヒゲグラサンのチンピラが文化祭で楽しそうにはしゃいでいる姿などなかなか想像もできない。ついでに言えば学校行事の準備に積極的に参加している様子ですらなかなかイメージができない。彼の名誉のためにフォローを入れておくと播磨拳児は矢神高校二年次の文化祭のときにも準備を真面目に手伝っていたし、体育祭のときには優勝を決めるリレーのアンカーで逆転を決めるという大活躍を見せている。誰も知らないが。

 

 「ま、でも漫ちゃん、再来週からテストやし、まずはそっちやね」

 

 「うー、二期制って慣れへんなあ。夏休みのあとテストて感覚狂うわ」

 

 姫松は高校ではあまり数の多くない二期制を採用しており、前期期末テストが九月の半ばに実施される。それが終われば体育祭が行われ、準備期間を経て文化祭の運びとなる。さらに二年生には修学旅行までが後ろに控えており、驚くほどに予定の詰まったシーズンとなるのが姫松高校の秋である。生徒たちからすると意外とシャレになっていないハードスケジュールなのだが、一部の教員たちはもっとハードというのが定説である。とにかくこの時期はあらゆる生徒が浮足立っており、なんだか不思議な空気に包まれる。

 

 夕焼けの色が、もう一段階濃くなった。

 

 

 

 

 

 

 




おそらく今年最後の更新です。なにかの間違いがあればもう一回あるかもしれません。
それではよいお年を。


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63 ウワサのオトコ

―――――

 

 

 

 ( ん、珍しいな、まだ誰も来てねーのか )

 

 部室の開放係は一年生のあいだで持ち回りの当番制になっており、拳児が部室を訪れるころにはまず開いているのが通常である。というのも一年生たちからすれば、いくら慣れたと言ったところで拳児の存在は怖いのである。姫松高校の監督代行はあまり怒らないどころか今まで一度もそんな姿を見せたことがないが、どう考えても怒らせるのはマズいという考え方が一年の間で浸透しており、その結果として拳児が来る前に部室を開けておく、という通常のパターンが形成された。もちろんそんなことは拳児は露とも知らない。

 

 そこでため息ひとつつかずに、たまにはそういうこともあるか、と軽く舌打ちをしつつも自分でカギを取りに行こうとしてしまう辺りが “播磨拳児と書いてバカと読む” と言われ続けてきた所以であり、あまり物事を疑うことをしない人間性の証明となっている。ついでに言えば環境への順応性が意外と高いことをも示している。放課後になっているというのにいまだに部室の前に部員がひとりも来ていないという時点でふつうなら何かしらの疑問を持つものだが、彼の頭には考えそのものが浮かんではこなかった。

 

 階段を下りて職員室へ向かうあいだの校内は、いつもより雰囲気が落ち着いているような感じがあった。普段はもう少し騒がしいというか活気があるのだが、今日に限ってはどうも違う。そんな周囲の様子にちょっとした違和感を覚えながら、拳児は部室のカギを受け取るために職員室の扉をノックする。

 

 扉を開けた瞬間に殺気に似た圧力を感じて思わず身構え、そうしてからはじめて室内の教員の刺すような視線が自分に集まっていることに拳児は気付いた。間違っても生徒に対して放つような圧力ではない。あまりの事態に拳児が出入り口で立ちすくんでいると、いつの間にかコーチを務める赤阪郁乃が拳児を不思議そうな目で見つめていた。いつものように口元には人差し指が添えられている。さすがに気が動転しているときに気付かぬうちに接近を許せば拳児も驚かずにはいられないようで、思わず声をあげてしまった。

 

 「おっわァ!? あ、赤阪サンか……。驚かさねーでくれよ……」

 

 「あれ~、拳児くんが来るなんて珍しいけどどうしたん~?」

 

 いつものふんわりした調子にかすかに安堵を覚えつつ、拳児は部室のカギを取りに来たことを説明した。あるいは一年生と入れ違いになったかもしれないが、それはそれで構わないとも。

 

 すると郁乃はその言葉を聞いたとたんに、肩と羽のような髪を震わせてくつくつと笑い出した。すぐには収まらないところを見ると、わりと本格的な笑いであるらしい。

 

 「ふっふ、拳児くんそれはアカンわ、センセのハナシはよう聞かな」

 

 いったい何を言っているのか理解できない拳児は、ただただ呆けたように口を開けっ放しにしている。そして郁乃の口から追撃が放たれた。

 

 「あんな、今日からテスト一週間前で部活も職員室入るんも禁止やねん」

 

 部室の前から職員室までのあいだで感じてきたすべての違和感がいっせいに結びついて、大きな衝撃を拳児に与えた。その衝撃は彼から言葉を奪い、愕然とした表情をもとに戻すための知性を消し飛ばした。ぶっちゃけてしまえばあまりにカッコ悪い一連の流れに逃げ出し方すら思い浮かばなくなったのである。

 

 その後、自分がどのようにして家に帰ったのかを拳児は覚えてはいない。

 

 

 実は、このテスト前というシーズンは拳児にとって最も過ごしにくい時期なのである。そもそも播磨拳児は不良であり、そんな存在がテストが近いからといって真面目に家だの図書室だので勉強するかと聞かれればノーと答えるしかない。麻雀部の監督として真面目にやっているのだからそれくらいはできるだろうと見る向きもあるかもしれないが、それにはちょっとした誤解が含まれている。たしかに拳児は一本気な性格をしており、やると決めたことはきちんとやり抜く男だが、その範囲はきちんと狭い。もともと塚本天満のために姫松を優勝させると決めたのであって他は範囲に入っていないのだ。もっと言えばテスト勉強は拳児の頑張る項目にない。

 

 ところで、播磨拳児が現在住んでいる部屋にはテレビもパソコンもない。なぜないのかと問われれば、それは必要がないからだ。拳児はインドアとアウトドアのどちらかで比較すれば圧倒的なアウトドアであり、自宅でやることなどほとんどないとさえ考えている。暇でしょうがなくなればバイクでそこらを走り回ったり、あるいは街に出てうろつくのが彼の時間のつぶし方である。もちろんテレビが置いてあれば点けることはあるだろうが、わざわざ買うという段階までいかないのが彼の生活だ。近いもので購入したのはラジオだが、それほど真面目に聞いていないのが現状である。テスト勉強の環境としては上出来と言えるものなのだが、ある意味もったいない話だ。

 

 

―――――

 

 

 

 テスト直前職員室乱入未遂事件から週末をはさんで月曜日、朝練も禁止の通学路はなんだか妙に居心地が悪かった。運動部の朝練がない関係上、校門へ向かう生徒の数がバラけていないのは当たり前のこととして、それとは別に視線がやけに自分に集まっているように拳児は感じていた。もちろん普段から注目を集める存在であることに間違いはないし、ある程度は拳児自身も慣れている。しかし今朝の空気はふだんのそれとは違うのだ。どこか、そう、拳児が初めて姫松への道を歩いたあの日を思い出す。好奇と不審の入り混じった視線なのだ。

 

 しかしいまさらそういった視線を集める理由が拳児には思い当たらない。転校直後ならば理解はできるし、夏休み明けも優勝を経験してきたということで注目されてもそこまで不思議ではない。ただ、今日は九月も三週目の月曜日であって、タイミングとしてはどうにも違和感が残る。奇妙なことは重なるとはよく言うが、土曜の晩にもメガン・ダヴァンからよくわからない電話があったばかりだ。そんなことを思い出しているあいだにも視線は拳児に突き刺さり続けた。

 

 

 開きっぱなしになっていた二組の扉をくぐって教室に入っても、やはり好奇の視線は途絶えなかった。むしろ他のクラスや学年よりも距離が近いぶんだけ無遠慮になっている気さえする。そんなものに晒されて機嫌がよくなるわけもなく、拳児は自分の机にカバンを軽く放って席に着いた。何だってんだ、と小さく愚痴るのも忘れない。

 

 「ふふ、ずいぶん機嫌悪そうだけど?」

 

 隣の席の、シニヨンが特徴的な少女が声をかける。クラスメイトも拳児への恐怖がだいぶ薄らいできたとはいっても、さすがに機嫌が悪そうなときに絡んでいけるほどではない。そこを見ると真瀬由子は播磨拳児の扱いにいちばん長けていると言ってもいいのかもしれない。彼女の話し方は心配してのものなどではなく、どこかからかうような要素の入ったものだ。

 

 「朝からジロジロ見られてるような気がしてよ、ワケわかんねーぜ」

 

 「……ん? あれ、なにも知らないの?」

 

 由子のまるで深刻でない楽しそうな表情がわずかに濃度を下げる。

 

 「俺ァなにを知ってりゃいいんだ?」

 

 「播磨、あなたひょっとしてニュースとか見ない?」

 

 「ウチにゃテレビはねーからな」

 

 「とするとパソコンなんて持って……」

 

 「ねーよ。使い方もよくわかんねえしな」

 

 みるみるうちに由子の笑顔がひきつったものへ変化してゆく。ひいき目に見たってグッドニュースが入ってきたようには見えない。由子はわりといろいろなパターンを想定してきたつもりだったが、さすがにこれは予想外だった。もちろん拳児がテレビ等を持っていないことを予想したところでどうなるものでもないことはわかりきっているが。

 

 そんな会話をしているうちに担任の教師が教室へ入ってきた。拳児が登校してくるのがぎりぎりなのだから、担任が入ってくるのもだいたいが似たようなタイミングになる。さすがにそれを無視して話を続けるわけにもいかず、ふたりの話は一時中断となった。

 

 

 担任が教室を出て一時間目が始まる前、由子がなにやら全速力でスマートフォンをいじくっているのを拳児は感心しながら眺めていた。画面の上に指を滑らせる簡単な操作だけで実に様々なことができるのだという。当然ながら拳児は彼女が何をしているのかはわかっていない。由子がスマートフォンを操作し始めて二十秒ほどだろうか、突然拳児の前にそれが差し出された。

 

 「オイ、何の真似だこりゃあ」

 

 「いいから見てほしいのよー、たぶんジロジロ見られてる理由がわかると思うから」

 

 そう言って彼女が差し出した画面には、どこかで見たことのある少女が映っている。長い金髪、猫のように丸い目、にじみ出る傲岸不遜な態度。

 

 「コイツは……、大西じゃねえか」

 

 ( 大星さんなんだけどね )

 

 由子が画面に触れると映像が動き出す。どうやら彼女が見せたいのは動画だったようだ。

 

 画面の中の少女はインタビュアーから投げかけられる質問に淀みなく答える。目の奥にあるのはもう絶対的な自信だけではなく、決意のようなものがちらついている。敗北を経験することで何かを得たのかもしれないし、考え方に変化が起きたのかもしれない。しかし拳児からすればはっきり言ってどうでもいいことである。そもそもにおいて自身との関連の薄いこの少女が、今日やたらと視線を集めることにどう関わっているいるのだろうかと思い始めたその瞬間だった。

 

 話題はそのとき姫松に及んでいた。団体戦で優勝をしているのだから当然だろう。大将を務めていた大星淡の頭に刻まれていたのはやはり恭子で、その話が終わればまた別の話題に移るか、あるいはインタビューそのものが終わるかといったところだった。しかし実際にはそうはならず、少女の口から播磨拳児という言葉が紡がれたのである。

 

 『うん、ハリマケンジとは二回。たまたまホールの外と、街で』

 

 『そんなには話さなかったよ、アイサツと、……えっと、アドバイス?』

 

 『えへへ、それがね? 女の子用のアクセ見てて、あれたぶんプレゼントだと思うんだけど』

 

 『誰に渡すんだろーね』

 

 件の動画を見て、思わず拳児は立ち上がって後ずさった。ショッピングセンターでの出来事がありありと思い出される。小さな画面の中でえへへ、とかわいらしく笑っているこの少女は完璧だった偽装 (拳児的には) を見破り、拳児がアクセサリを買おうとしているのを突き止めた挙句に好き勝手にアドバイスをして何も聞かずに帰って行ったのだ。

 

 口を開けたまま満足に言葉を発することもできない拳児に、申し訳なさそうに由子が補足情報を付け加えてくれた。

 

 「これね、おとといの土曜の生中継なんだけど、動画サイトで話題になっちゃって……」

 

 つまり拳児は自身が知らない間に、女の子にアクセサリをプレゼントする予定の男として日本中に認知されたということになる。そんな予定はまったくないというのに。ちなみに拳児が固まっている理由は恥ずかしいから、などという軟弱なものではない。彼は想い人さえいれば他はまあいいや、というあまりに男らしすぎる思考回路の持ち主であり、そんな拳児に対して贈り物をすることを囃し立てたところで一発殴られて終わりである。重要なのは彼の想いの矛先が塚本天満以外に向いていると周囲に思い込まれてしまうところにあった。どうせこの流れならば贈り物をする相手は姫松の連中の誰かということにされているのだろう。それくらいは拳児にもわかる。実は前にも、周囲の勘違いを発端として塚本天満の妹である塚本八雲と付き合っていることになってしまい、想いを寄せる本人から恋の応援をされるという苦い経験をしたことがある。要するにこういった状況に軽いトラウマのようなものを抱えているのだ。

 

 「……オイこれ誤解を解くには」

 

 「無理じゃない?」

 

 ほとんど拳児の言葉にかぶせるように由子が否定する。不特定多数に対して広まったあまりにも面白そうな事案を収束させる方法などたったのひとつしかない。そして見るからに拳児はその手段を選ばないだろう。そもそもが誤解だと言っているのだから。

 

 一時間目の開始を知らせるチャイムが鳴って、数学教師が教室に入ってきた。何らかのリアクションを取ったのであろう拳児のポーズをちらと見やって、さっさと席につけと軽く注意だけした。それを聞いて、拳児は力なく自分の席につく。むしろ授業が始まることが彼にとっては救いだったのかもしれない。

 

 

―――――

 

 

 

 帰りのホームルームも終わって時刻は放課後、校門から出て二分のところにある馴染みのコンビニで拳児がどの飲み物を買おうかと紙パックの陳列棚の前で悩んでいると、誰かが隣に並んだような気配があった。気配というよりは隣に立ったことによる風圧を感じたと表現したほうがあるいは近いかもしれない。しかし拳児はあまり周りを気にするようなタイプではないため、誰が近くに来ようと確認をしない。たまたま視界に入った相手が知り合いであれば彼から接触を図る場合もあるが、基本的には声をかけたり肩をたたいたりしないと気付かない。今日も隣にいる相手に自分から注意を向けることはなさそうだ。

 

 知り合ってからそろそろ半年は経とうかという麻雀部員たちは当然ながらそのことを知っており、現時点でそれが可能なのは三年生と一部の二年生に限られてはいるが、拳児に用があるときは気兼ねなく接していくことが要求されるのである。そしていま拳児の隣に立っている少女はそれができる側の人間だった。

 

 「ん? オウ、愛宕か。で、ナンだそのカオ」

 

 左肩をたたかれて拳児が振り向くと、いつもより若干してやったり感の強い顔をした愛宕洋榎がそこにいた。その表情の理由はまったくわからない。とくに何をされたという記憶もないのだ。

 

 「まあ気遣いと察しの良さは大阪一の洋榎ちゃんやからな、そこは感謝してええで」

 

 「いや、オメー何言ってんの?」

 

 「ガッコの近くのコンビニいうんが雰囲気ないけど、そこはまけといたる」

 

 いくら察しの悪い拳児といえど、さすがに雰囲気という言葉にはピンときた。昨日の今日ならぬ今朝の今で目の前の少女が何を言っているのかが理解できなければ鈍いどうこうの話ではなくなってくる。国のレベルで指折りの才能を持つとされる期待の星は、おそらく存在しないプレゼントを拳児から受け取るつもりなのだ。

 

 拳児の脳内を、わかったこととわからないことが駆け巡る。間違いなく世間は拳児が渡すためのプレゼントを持っていると確信している。そうでなければ洋榎のこの言動は考えられない。そしてわからないのが、どうしてこの少女はそれを受け取るのが自分だと疑っていないのだろうということだった。拳児からすれば勘違いも甚だしい。それに相応しい女性などこの世界にたったひとりしかいないはずなのだ。しかしこれは逆に誤解を解くチャンスでもあった。直に話をする機会があるのならそこで否定をすればよい。まさか拳児がテレビに出て大星淡の発言は間違いだと言うわけにもいかず、彼にできることは地道ではあるが一人ずつ誤解を解くことだけだ。

 

 「待て、ハナシを聞け」

 

 「なんや、場所変えるんか?」

 

 「違え、いいか、あの大西のやつのインタビューは間違いだ。あいつは勘違いしてやがる」

 

 ( あれ、大星やなかったっけ )

 

 普段からは考えられないほどに拳児の話には力が入っていた。なぜなら目の前のこの少女の誤解を解くことができれば他の部員たちにも同様の見通しが立つからだ。紙パックの陳列棚の前であることなどもはや覚えていないだろうことは明白で、コンビニ側からすればいい迷惑に違いない。

 

 「どーいうこと?」

 

 「たまたま出くわした以外は事実じゃねえんだよ、そもそも俺はアクセなんて選んでねえ」

 

 実際のところはショップの前で妄想していただけである。

 

 「なんやそやったんか、ってそれやとずいぶん面倒なことになってへんか」

 

 「オメーの言う通りだぜ、どいつもこいつも大西の言ったことを信じてやがる」

 

 

―――――

 

 

 

 言うべきことはすべて言ったと見えて、拳児は紙パックのレモンティーを買ってさっさとコンビニを出て行った。洋榎もテスト勉強のお供を探すという目的を果たしたので店の外へと出ることにした。意外と商品の前で悩んだ時間が長かったらしく、ちょっと先に出たと思っていた拳児の姿はもう見えなくなっていた。南寄りのそよ風にいつの間にかコンビニに売られていたおでんの匂いと外の匂いの違いを感じ取る。これが部活終わりの夕方だったらアウトだったな、と小さく頭を横に振ると、ひとりで何をしているの、と声をかけられた。

 

 顔を上げると仲間であり親友でありクラスメイトでもある由子がそこに立っていた。あらためて親友の姿をよく見てみると、着ているものはまったく同じ制服なのにどうしてか彼女のほうが品があるように思えてしまう。育ちの良さというのはそういうところに出るのだろうか、と洋榎は暇な時に考えたりもするのだがいっこうに結論は出ない。

 

 「ん、おでんの誘惑を振り切ってたとこやな」

 

 「おでん? ああ、たしかにコンビニはいい匂いがするのよー」

 

 由子は洋榎の真後ろにあったコンビニに目をやって納得したように頷いた。

 

 「あ、なあなあゆーこ、播磨問題が間違いやったって知ってた?」

 

 話題の転換としてはあまりに唐突だが、彼女たちの間はこれでいい。別にいまさらそんなことを気にするような間柄でもないし、そもそも重要視するような事柄でもない。

 

 「大星さんが言ってたやつなら知ってるのよー」

 

 「アクセなんて選んでないってさっき言うとったで。アイツも大変やんなあ」

 

 「んー、でも播磨の言ってることも意外と曖昧なのよー?」

 

 コーチよろしくかわいらしい顎に人差し指を当てつつ、由子が拳児の発言に疑問点が残ることを指摘した。ふたりはもう顔を合わせた直後からいっしょに駅に向かって歩を進めており、周囲の帰宅する姫松生と合わせて見れば風景の一部として馴染んでいる。

 

 「だって大星さんの言ってることは間違いだーって言うだけで他になんにも言わないんだもの」

 

 「……言われてみればゆーこの言うとおりやな」

 

 「だからひょっとしたら大星さんが100%間違ってるわけじゃないのかもしれないのよー」

 

 雑談の接ぎ穂にしては面倒な可能性を含んだ話題だが、これが面白いのだから始末に負えない。未だもって播磨拳児とは謎に包まれた男であり、そのプライベートを知る者は誰一人としていない。面と向かってそういう話題を振りにくい人物に対する無責任な噂話ほど盛り上がるものも少ないだろう。こういうときの高校生の想像力は必要以上にたくましい。もちろんそれは男子も女子も問わないが、細かいところまで詰めていくのは往々にして女子のほうである場合が多い。

 

 「もしかしたらアクセやなくて別のもん選んでたんちゃうか?」

 

 「そういえば買ってないともプレゼントしないともギリギリ言ってないような……」

 

 そこまで言ってふたりは顔を見合わせた。行き止まりと思い込んでいた道を試しに進んでみたら意外と奥に続いていたのを見つけてしまったような感覚があって、戸惑いというか、その先に進んでいいものかお互いに判断に迷ったのである。いくら楽しそうなことであっても良識の範囲というものがあるからだ。

 

 足を止めてまばたきを何度か繰り返して、洋榎と由子はほとんど同じようなタイミングで苦笑いを浮かべた。思っていることを正確に言葉にするのは難しいが、互いに何を思っているかはわかりきっている。だからあえてその部分だけは言葉にするのを避けた。

 

 「……別にうちらがフォローに回る必要もないな」

 

 「放っとけば自力でなんとかすると思うのよー」

 

 いまではただのクラスメイトと言っても差し支えのない関係性なのだから、たしかに彼女たちが拳児のために動き回るのも奇妙な話ではある。それにもしふたりが行動を起こした場合、周囲にさらなる誤解を生む可能性が非常に高い。ただでさえ拳児の意中の人と勘違いされつつある状況なのだ、拳児のフォローにまわることはその勘違いを補強する要素にしかなりえない。優しいとか冷たいとかそういう話ではなく、動けばどちらにとっても迷惑がかかる。そこまでわかっている以上、彼女たちには動きようがなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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64 Change

―――――

 

 

 

 九月の半ばに実施される奇妙な期末テストを終えた次の週の火曜日の昼休み、播磨拳児はいつもの通りに屋上で昼食を摂りつつぼんやりとしていた。真夏の苛烈な日差しもすこしずつ遠のいて、半袖のシャツで過ごすにはベストに近い気候と言ってもいい。屋上ほどの高さになれば周囲に遮るような建物もなくなるため、まっすぐ通り抜けていく風が肌に心地良い。飛ばないようにパックの飲料で押さえたビニール袋ががさがさと音を立てる。白い千切れ雲が浮かんだ空はむしろ色調がはっきりとして清潔に高く見える。拳児はフェンスに背を預け、そのフェンスのために一段上げられた段差の縁に腰をかけていた。隣には額が印象的な少女が座っている。少女は弁当を持参しているようだ。

 

 「そーいえばセンパイ、体育祭どれに出るんです?」

 

 春のいつごろからだったかを拳児は正確に記憶してはいないが、とにかく週に一度か、あるいは二度ほど昼休みの拳児の場所と化しているこの屋上に姿を見せるようになった漫が問いかける。基本的には漫が話題を振って拳児がそれに答える形式をとっており、それが続くにつれてよく話題が途切れないものだと拳児が感心するようになったのだが、やはり誰もそのことを知らない。

 

 漫の問いかけは季節限定の話題で、この機を逃せば二度と尋ねることはできない種類のものだ。なぜなら週末にその体育祭が控えているからである。この姫松高校はそこらの義務教育とは違って体育祭において競技以外のプログラムが存在しない。フォークダンスもなければ応援合戦もない。それどころか色分けから存在せず、完全にクラス対抗のかたちを採用している。つまり集団演目の練習に時間を取られるということがなく、だからこそテスト直後に体育祭を行うという無茶を通すことができるのだ。このクラス対抗という形式がクラスの団結が異様に強めるという特色を生み、その代わりと言えるかどうかはあやしいところだが、各クラスの競技決めが終わってから体育祭当日までは同学年のあいだの空気が殺伐としてくる。同調圧力とは恐ろしいもので、どう見てもそれほど乗り気になりそうには思えない女子でさえもその空気を部活にまで引っ張ってくるようになるのだから困りものである。

 

 ほんのすこしだけ間をあけて、拳児は漫の質問に答えた。

 

 「玉入れ」

 

 「……へ?」

 

 拳児の口から零れた言葉は、漫のすべての予想のなかで最もありえないとされるものだった。おそらく日本全国を探したところでこの男ほど玉入れが似合わない人物もいないだろう。それ以前に学校中に噂となって広まっている彼の運動能力を考えれば、最低でも100m走か綱引きくらいには出さねばならないはずである。

 

 「だから、玉入れだよ玉入れ」

 

 「えっ、なんでです? 走るのとかめっちゃ速いって聞きましたけど……」

 

 「ナンで俺がわざわざ真面目に走んなきゃなんねーんだよ」

 

 「……ようクラスのひとが許してくれましたね」

 

 ( それでも体育祭に出るだけ生真面目いうかなんというか…… )

 

 実際のところは大紛糾であった。玉入れの競技に出たい人、と司会進行を務めていた恭子が呼びかけ、拳児がそれに手をあげた途端にクラスメイト全員が口々にツッコミを入れたほどである。誰もが華の大トリである学年別クラス対抗リレーのアンカーとして拳児を考えており、一位に与えられる大きな得点に期待を寄せていた。それが他の競技には出ないとばかりに玉入れに出場を希望したのだから教室中がざわめいたのも不思議はないだろう。その後もそれに乗じて洋榎がクラス対抗リレーに出ようとしたり、混乱のうちに競技決めのホームルームが終わったりしたのだが、それはまた別のお話である。

 

 そんな騒動を思い出した拳児は面倒くさそうにひとつ息をついたが、何も知らない漫は不思議そうにその様子をただ眺めていた。あまり付近では見られない大きな鳥が空の高いところで啼いた。

 

 「あ、播磨先輩はテストどうでした? 三年のってやっぱ難しいんですか?」

 

 「……うるせェ」

 

 どう聞いてもこれまでとはトーンが変わっているのにそこをイジらないわけがない。漫から見た播磨拳児という人物は驚くほどに嘘をつくのも誤魔化すのも下手だ。そのくせ逃げることを良しとしない美学のようなものを持ち合わせているがゆえに、つつけばつつくだけ何かしら面白いものが出てくる。見た目からでは口が裂けても言えないが、もうその振る舞いは可愛いと言って差し支えないところまで来ているのではないかと漫は考えている。

 

 「……まさか、アカとか」

 

 「んなヒドかねーわい!」

 

 その反応だけでおおよそどれくらいの出来だったのかが推し量れてしまうのも相手が拳児だからである。すくなくとも姫松高校麻雀部の監督は、恭子や由子側の人間ではないらしい。隠さずに言ってしまえば漫もデキるタイプではなく、さすがに常に学年トップを争うような人たちと比べられても困るだけなので、その辺りのからかい方はかなり丁寧にやっていたりする。

 

 漫はくすくす笑いながらちょっと失礼なことを考えていた。どのみち来年もここで監督業をやるのだから留年したところでいったいどんな問題があるのだろう、と。それどころか同じクラスになる可能性もあって、もしそうなれば楽しいことになりそうだな、と拳児の事情など一切考慮しない仮定の話は夢に溢れていた。一般的に日本の高校までの教育機関において学年とは決定的な要素であり、仲の良い先輩やあるいは憧れの先輩とその部分が違っていることは、時にどうしようもないもどかしさを胸に残すものなのだ。彼女がそこまでのものを抱えているかはわからないが。

 

 

 機嫌が良くないことは良くないのだが、どこか拗ねてるだけにも見える態度を取っていた拳児がいつもよりちょっとだけ早く教室に戻るのを漫はのんびりと見送った。拳児は行動を起こす際には他人の状況を確認もしなければ一声かけるということもまずしないため、たとえば今のような状況でいっしょに屋上を後にしようと考えてもなかなか難しい。しかし漫からすると結局は帰る教室も違うのだからそれほど優先順位は高くなく、あまりその辺りを気にしてはいなかった。

 

 じきに午後の予鈴が鳴る時間になり、漫はいそいそと手回りのものを片付けて教室に戻る準備を始めた。拳児が来て以降だれも来なくなった屋上は、いま漫ひとりのものであり、立っている場所から見える青空と薄汚れた屋上の地面に挟まれただけの景色は、気分のいいものであると同時にどこか寂しくもあった。スカートを軽くはたいて扉へ向けて歩き出したとき、あ、と間の抜けた声をあげた。

 

 ( またプレゼントのハナシ聞くん忘れた…… )

 

 大星淡による播磨拳児の東京における行動報告からすこしばかり日が経って、多少なりともその過熱ぶりは収まったと言えるが、それでも興味の対象としての価値を失ったわけではない。程度で言えば無遠慮な視線が減ったくらいのもので、拳児の意中の相手が誰であるのかはやはり誰もが気になるところであった。加えてインターハイの二回戦を終えたあとのインタビューにおいて拳児がふと見せた表情も相まって、余計に世間は()()()()()()に期待を寄せた。ある種のおせっかい心が働いていると言えるのかもしれない。世間は、拳児がすくなくともここ一、二年のあいだに恋人を喪ったのだと認識している。

 

 

―――――

 

 

 

 いつもよりちょっとだけ早めに屋上を出たせいか、廊下で見かける他のクラスの生徒の顔ぶれも普段とは違っているように拳児には感じられた。とはいっても人の顔と名前を覚えない彼からすればそんな気がする程度のもので、別に大事なことでもなんでもない。それに常に完全に決まった時間に拳児が教室に戻ろうと廊下を歩いたところで日によってちょくちょく顔ぶれは変わっているはずである。変わらないのは屋上から教室までの距離だけだ。

 

 しかし拳児が教室に戻る時間が、ひいては廊下を歩いている時間というものが一学期までの彼の生活を通してだいたいは決まっていたということがひとつの引き金になった。

 

 拳児のおよそ五メートル先を歩く男子ふたりが周囲のことを気にせずにそれなりの音量で話している。彼らの後ろ姿にまったく見覚えがないということはおそらく別のクラスの生徒なのだろう。それ自体はとくに校内であれば不思議はないのだがその内容が問題だった。もちろん彼らは後方を歩く拳児に気付いてなどいない。

 

 「やっぱ言うほどちゃうんやって、尾ひれやろ、噂やし」

 

 「ま、さすがに玉入れはないわな。フツー足速いんやったら100mとリレーやしな」

 

 「あんなん見た目だけやって! えぐい言うても麻雀部やろ?」

 

 彼らに悪意はない。きっと話しているうちに盛り上がってつい口をついて出てしまった言葉の綾というやつなのだろう。誰だって友人と話していて必要以上に大きなことを言った経験くらいはあるものだ。ましてや今回の対象はふらりと姫松に訪れ、間違いなく名門である麻雀部の監督の座にいきなりついた上にインターハイの優勝をかっさらってきた人物である。そのことはもちろん、また別の意味でも男子の嫉妬を集める要件を拳児は満たしており、敵対的な態度を裏で取られるのはある意味で仕方のないことと言えた。

 

 ただ、そのこと自体を拳児が仕方のないこととして呑み込むかどうかは別の話である。今でこそ優勝監督などという肩書をつけられてはいてもその本質は不良であって、そしてその本能はナメられっぱなしであることを強烈に拒否する。もしここが姫松高校でなければ、あるいは現在の拳児でなければ五メートル先の彼らは殴られていたに違いない。しかし拳児はこめかみをひくつかせながらも踏みとどまることに成功した。なぜならば彼は大きな目的のためにこの学校を卒業しなければならず、そのためにはここで問題を起こすわけにはいかなかったからだ。従姉である絃子の厳命には逆らえない。それ以上に自由の国にいる塚本天満を必要以上に待たせるわけにはいかない。いま暴力に訴えることのできない拳児は、それとは異なる方法で自身に対する侮りを払拭しなければならなかった。

 

 

 授業中以外は開きっぱなしになっている引き戸を猛烈な勢いでくぐってきた拳児に3-2の誰もが注目した。こんなことは今まで一度もなかったからだ。たとえ寝坊をして遅刻したとしてもまるで急ぐ様子を見せたことのない男が、明らかに何かを抱えて教室に戻ってきたのだ。耳目を集めないわけがない。一瞬で静まり返った教室の様子に気付くこともなく、拳児はずんずんと歩を進めてある少女の席の前で立ち止まった。

 

 「末原、俺をリレーに出せ」

 

 「は?」

 

 拳児の事情など何一つ知らない恭子からすれば当然の反応だろう。なにせこの男は、つい先日のホームルームで周囲の期待をまるごと裏切って玉入れへの出場を希望したのだから。それが心変わりか何なのかは知らないが、いきなりリレーに出せとはずいぶんとわがままが過ぎる。ここでにこやかに了承などすればそれこそ脳の代わりに蒸しタオルかなにかが詰まっているのではないかと疑われること間違いなしである。つまり、そうそう簡単に拳児の要望を認めてやるわけになどいかないのだ。

 

 「だからリレーに出せっつってる。ナメられっぱなしは性に合わねえ」

 

 「何言うてるかわからんけど、ダメに決まっとるやろ。もう実行委員に提出したし」

 

 「くそっ、マジかよ! なんとかなんねえのか末原!」

 

 「マジやしなんともならん。そもそも明々後日が当日やからね?」

 

 恭子の否定はかちんと固いものだった。3-2の全員がそうであるように、恭子ももちろん競技決めをするまでは拳児のリレー出場を期待していた。その意味で言えば彼女も裏切られた被害者のひとりであり、当然ながらルールの上でもそれは無理なのだが、いまさらの拳児のリレー出場を止めたことに私情がわずかながら入っているのは事実である。というよりそれが入らないほうがおかしいだろう。拳児の運動能力はそんな夢を見せるほどなのだから。

 

 こうなれば恭子は梃子でも動かない。彼女が頑固というよりは意固地になる場面ができあがってしまったと捉えたほうがより近いだろう。拳児も何度かこの状態の恭子と接したことがあり、こうなった以上は諦めるしかないというのが彼の出した結論であった。もしかしたら彼女が有能な参謀役であったがゆえに、ある種のイメージを抱いてしまっているのかもしれないが、それはやはり誰にもわからないことであった。

 

 

 それからごく短いあいだ、教室と麻雀部の部室、それと特定のルートの廊下以外では見られなかった拳児の姿がちょくちょくほかのところで散見されるようになった。

 

 

―――――

 

 

 

 校風がそうさせるのか、誰一人としてジャージを着ることなく半袖とハーフパンツで校庭に出てきている。クラスごとに色分けされた鉢巻きは頭に巻いたりネクタイのように首にかけたり、そのまま手に持ったりとそれぞれ扱い方が違ってこそいるが、やる気に満ちていることだけは伝わってくる。七百人に届こうかという全校生徒が静かに闘志を燃やしている、あるいは睨みをきかせているさまは異様な眺めとしか言いようがなかった。どうしてこれほどまでに体育祭に入れ込んでいるのかは誰にもわからない。それをさらに煽るように綺麗な青空が姫松高校を包んでいた。

 

 校長と実行委員長による開会の挨拶を誰もが適当に聞き流し、競技が始まるのを今か今かと待っている。高校生にもなると整列の順番は適当な場合が多い。それでも雑談の声があまり聞こえないところを見ると、体育祭に対して真剣であることが伝わってくる。

 

 その開会式が終わって、各クラスがそれぞれのビニールシートが敷いてある場所に向かい始めた辺りからだろうか、ひとつの奇妙な噂が流れた。()()()()()()()()()()。その噂は大々的になることはなく、あくまでほそぼそと伝わっていった。しかし現実的に考えればそんなに短時間で人は縮まない。それに拳児の体格を正確に把握しているかと問われれば、他クラスの生徒たちはただの勘違いかもしれないと考えざるを得なくなる。したがって噂はずっと噂のままでしかなかった。

 

 

 学年別のクラス対抗の形式を採ってはいても体育祭自体は全学年で並行して進められるため、仕方のないことではあるが進行はそれほど早いものではない。しかし生徒一同の熱気はそれに比例しない。どの学年の競技であってもうるさいほどの応援がどの方向からも飛んでくる。座って休憩するための場所であるビニールシートになど寄り付きもしないで応援している生徒も珍しくないほどだ。ちなみに体育祭から明けて二日くらいは喉が嗄れる生徒が続出するのが半ば風習のようなものになっている。

 

 3-2の面々も半分以上はビニールシートを離れて、残りはそれでも立ち上がって応援をしている。音頭をとるのはもちろん愛宕洋榎である。翌日どころか午後からのことさえ考えにないかのごとく声を張り上げて応援をしている。正直なところ運動能力においてまず貢献できないことがはっきりしているぶん、力を注ぐべき部分を定めているのだろうことがよくわかる。しかしその一座にまるで馴染まない姿があった。カチューシャとサングラスをした男がそこで声を張り上げている。まず考えられない事態であることに加えて、その姿はどこか物足りなさを感じさせた。

 

 ちょうど三年男子100m走で3-2の柿沢という文字が胸に躍る男子がぶっちぎりで一位を獲っていた。その様子を見ながら他クラスの男子が感心したように言葉を漏らす。

 

 「ふだん目立たんいうてもやっぱ柿沢のヤツ速いわ、さすがサッカー部だけあるわな」

 

 「な、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 



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65 哀愁の体育祭

―――――

 

 

 

 各学年の数々の競技をはさんで、午前最後の種目の時間となった。三年生の各クラスの得点差はそれほど開いてはおらず、それだけにそれぞれ応援の熱の入りようはすさまじいものがあった。表面上、というかその目的の中心がそこにあるのは間違いないのだが、別の要素がひとつ紛れ込んでいるのもまた事実であった。例年の通り、姫松高校における体育祭午前最後の種目は三年生による “玉入れ” である。

 

 

 サングラスとカチューシャの男が出るということで下級生からも異様なほど注目を集めているというのに、3-2の一部の生徒、数名の男子と女子だ、の表情は奇妙に固いものになっていた。大半が拳児の名前を叫んだり他の出場者の名前を叫んだりしているのと比べると、その煮え切らない表情はひどく浮いて映る。

 

 しかし引きつった表情をしている人物がわずかにいることになど気付く者は誰もなく、そんなことは選手入場のくだりになって更に盛り上がる歓声に余計に塗りつぶされた。本来なら玉入れという競技において、誰かひとりに注目することは無意味だ。ただそれでも視線を集めてしまうのが播磨拳児という個性であり、またここ数ヶ月で培われた要素だった。端的に言ってしまえば、玉入れとは思えない熱狂がそこにはあった。この種目が終われば昼食休憩に入るということもその熱狂に拍車をかけたのだろう。その渦の中で違和感に気付ける者がいようはずもない。そう、今日の播磨拳児には決定的にあるものが足りていないのだ。

 

 ちなみに姫松高校の玉入れはたとえば小学校でやるようなものとは多少違っており、各クラスの玉入れに出場する選手のうちのひとりが他のクラスの籠、これは三メートルの棒の先端に籠がつけられたものだ、を体に巻き付けて逃げ回る。それを追いかけて玉を投げ入れるという全力を尽くそうと思えば意外にヘビーな競技なのだ。走って逃げ続けるのもおそろしいほど難しく、結局は動く籠を目がけて玉を放るくらいの競技となっている。

 

 起きようのないミラクルが起きることもなく、玉入れはつつがなく進行していく。それに向けられる熱の入ったエールは、一歩引いて眺めてみると異様としか言えないものだった。振ればしゃらしゃらと鳴るクラスごとに色分けされた玉が宙を舞ってそれぞれの籠へと向かっていく。時に玉どうしがぶつかり、時に籠に直接ぶつかり、あるいはそのまま目的の場所へと吸い込まれていくさまは何も考えずに眺めていればどこか幻想的ですらあった。しかしそれでもたった三分の競技時間に変わりはなく、あっけないとさえ言えるほどにあっさりと三年生による玉入れは終わりを迎えた。

 

 

―――――

 

 

 

 多くの生徒が学年もクラスも関係のない位置取りで玉入れという競技を見ていたおかげで、競技終了と同時に昼食休憩が始まったとき、絹恵は違うクラスである漫の隣に立っていた。周囲は先ほどの前後不覚の熱狂からは脱したようで、いつも通りの、日常会話なら通る程度の騒がしさに落ち着いている。そこで絹恵は、熱狂のなかとはいえ大声では口にできなかったことを漫に話してみることにした。

 

 「なあ漫ちゃん、さっきの播磨さん……」

 

 「やっぱり絹ちゃんも気付いた?」

 

 「うん……。いつもよりちょっと小さなってる気もするし、なにより」

 

 「ヒゲがない」

 

 ふたりの音声が完璧に合わさった。そう、ほとんどの姫松生はサングラスとカチューシャだけで播磨拳児をそれと認識していたが、それでは見た目の要素としてはひとつ足りていないのだ。拳児といえば夏休みを終えて以降多くの人に声をかけてもらえるようになったことは事実に違いない。しかしだからといって彼を見かけたら挨拶をしてくれるような人々であってもその顔をしっかりと見ているというわけではない。親しくなろうとしての接触でないぶん、むしろ全体像としてぼんやりとした映像が頭に残ることもあって、最も強い印象を残しているのは普段から身に着けている装飾品なのである。もちろんヒゲも印象を残してるのに違いはないが、サングラスとカチューシャに比べて、言われれば思い出す程度の位置づけになっているのは仕方のないことと言えよう。

 

 しかし麻雀部員は一般生徒と比較して拳児と接する機会が多く、そのぶん鮮明に彼の顔を思い描くことができる。団体戦メンバーとして夏を戦った彼女たちならなおさらだ。絹恵も漫も玉入れに出場していた人物が播磨拳児ではないことに確信に近いものを抱いている。

 

 「でも誰と入れ替わってるかなんてお姉ちゃんにも聞かれへんしな」

 

 「播磨先輩のクラスのひとは絶対ごまかすやろ」

 

 「どう考えても反則やけど、なんでそんなことしてるんやろなあ」

 

 拳児の思考回路など本人を除いて世界中の誰ひとりとしてわかるものではなく、ましてや今回の場合は本人でさえ本来の目的を見失っているという緊急事態である。したがって団体戦での全国制覇などという稀有な経験をしている彼女たちであってさえも、彼がヒゲを剃ってまで誰かに成り代わっている理由はわからない。なおこれは余談だが、拳児は必要であれば意外なほどにあっさりとヒゲを剃り落とす。矢神高校時代にもすくなくとも二度はヒゲを剃った姿が確認されており、それがまた別に違和感を残すほどの印象を与えなかったのが実情である。

 

 ふたりして教室に置いてある弁当を取りに歩いているときに、ふたりともが黙って頭を働かせていた。いま起きている事態は (一部の人間にとって) 一種の異常事態であり、そのことが及ぼす影響について瞬時に理解が追い付くような状況ではなかったのだ。

 

 ( ……待ちや。なんかいっこ見逃してる気がする )

 

 ( 偽播磨さんはヒゲはないけど、サングラスとカチューシャはしてる…… )

 

 弾かれたようにお互いのほうを向いた絹恵と漫は目を見た瞬間に同じ結論にたどり着いたことを理解した。拳児がいつもの格好をしていないというのなら、それが導く解はたったひとつだ。

 

 「播磨()()、いま素顔や!」

 

 実はこのふたりにとって拳児の素顔というのは臨海女子へ合宿へ行ってから異様なほどの興味の対象となっているのである。姫松に初めて訪れたその日からあの格好だった拳児は、もう半ば以上あの姿が素のものなのだと認識されつつあり、またそう認識されていたのだがそれを叩き壊す事件が臨海女子での合宿で起きた。辻垣内智葉による “播磨拳児は笑うと意外とかわいい顔をしている発言” である。この事件は知識欲だとか女子としての危機感だとか、実にさまざまなものを刺激した。実際問題、普段は隠されっぱなしになっているものを見るチャンスがそこに転がっているとだけ考えても彼女たちの心情は簡単に理解できる。そこへずっと気になっていたもの、という条件がつくのだから、反応としてはごく当たり前のものと言えるだろう。

 

 絹恵も漫も今すぐ3-2の教室に駆け込みたいくらいの気持ちではあったが、さすがに上級生の教室にそんな用事で訪ねるわけにもいかない。それに姿を変えているであろう拳児が教室にいる保証はなく、またいつもの昼休みは屋上にいるのが定番となっているが、体育祭と文化祭のときだけは閉められている。これは気分が高揚しているときに屋上に上がってはいけない、という考えから来るものである。そうなると拳児の居場所の手掛かりはまったくなくなる。事実上、彼を捜すのは不可能であった。

 

 

―――――

 

 

 

 昼食休憩も午後の競技も、あとひとつを残してすべてが消化された。三年生の各クラスの得点は均衡しており、残る種目で一着を獲れば文句なしで優勝が決まることがはっきりしていた。それだけにどのクラスの出場選手の気合の入りようもすさまじく、全員が譲る気などなさそうに見える。一陣の風が吹き抜けて、乾いたグラウンドの砂を運んでゆく。学年別クラス対抗リレーの出場者は男女三人ずつの計六人であり、それぞれが200mを走りつつバトンをつなぐのがこの種目のキモである。選手たちがそれぞれのスタート位置に向かっている最中に3-2が走る順番を変更したというアナウンスがなされた。そのアナウンスを、ほとんど誰もがさほど重要なことではないかのように聞き流していた。

 

 “柿沢” という文字を胸に備えた男が、アンカーを務める選手の集合場所に姿を見せた。他のアンカーは集中力を高めているのかその男に注意を払わない。誰も気付かない。その男が播磨拳児であるということに。

 

 普段あまり意識されることはないが、カチューシャで押さえつけられている拳児の前髪は意外と長く、何もせずに垂らすと鼻の先まで隠れてしまう。通常状態と今の状態を見比べて同一人物だとすぐに判断できるひとはまずいないだろう。そのこともあって現時点で拳児は、“いつもは目立たないが実はかなり足の速い柿沢くん” として認識されている。たしかに播磨拳児は注目を集める存在だが、いまは決定的に意味が異なっている。求められているのは拳児ではなく、最後の勝負に直接影響するアンカーだ。

 

 ヒゲを剃りサングラスもカチューシャも外して仕込みも臨戦態勢も整えた拳児は、丁寧にウォーミングアップを行いながら既に充足感に包まれていた。なぜならこれで自分に対する侮りを払拭できるからである。誰であっても播磨拳児をナメることなど許されてはならない。拳児はこみ上げる笑いを必死に抑えながらアップを続け、まだレースが始まってもいないのに途切れることなく続く応援に耳を傾けていた。

 

 「柿沢ー! ぜんぶお前に懸かってんで!」

 

 「オトコ見せえよ! カッキー!」

 

 「柿沢ー! 柿沢ー!」

 

 ( …………アレ? )

 

 拳児は気付いていなかった。自分で成り代わることを思いつき、柿沢本人との交渉から何からすべてを自分でやったにもかかわらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

 ( これひょっとして俺が勝ったところで意味ねーんじゃ…… )

 

 拳児が真理に到達しかけたそのとき、スタートの合図が鳴り響いた。なぜかはわからないが一年生のレースも二年生のレースも妙なくらいに白熱した展開であったため、その熱が最後を締めくくる三年生のリレーまで持ち越されていた。もう誰もこの雰囲気からは逃げられない。さすがの拳児も総勢七百人近くの熱狂からは逃れる術を持たず、心のなかでただこうこぼすしかなかった。

 

 ( ……世の中ってホント空気読まねーのな )

 

 姫松高校のグラウンドに白線を引いてトラックを作ると一周がおよそ400mになり、また女子と男子とが交互に200mを走るというルール上、ストレートコースの対角に男子と女子が分かれるのが通例となっている。もうすでに第一走者の女子がカーブに差し掛かっていた。第二走者の男子が準備に入っているのを見ながら、もうひとりの男子が拳児の顔を見ることなく、しかしはっきりと聞こえるようにつぶやいた。

 

 「俺たち二組の優勝は任したからな」

 

 強い決意を宿した瞳は勝利へ向けて燃えており、それはもはや美しいとさえ評しても何ら問題のないような力強さを湛えていた。誰が何を言ったところでひとつの目標に向けて魂を燃やす人の姿はかっこいいものであって、拳児に声をかけた彼はまさにその姿に合致していた。彼の顔立ちは精悍を超えてほとんど戦士に近いものになっており、その存在だけで士気を高揚させるような立ち姿であった。それを見て拳児がさきほど思ったことをふたたび思っただろうことは想像に難くない。

 

 

 躍動する肉体は空気を切り裂き、踏み出される一歩は次の瞬間には大地を置き去りにする。手も足も何もかも壊れたってよさそうに見えるほどの走りだ。すくなくとも明日以降のことを考えているものとは到底思われない。まるで意思そのものがかたちをとって走っているかのようだった。

 

 バトンの受け渡しはどのクラスもスムーズに行われ、脱落するようなクラスはなくレースは終盤戦へと入っていた。拳児のいる二組は現時点で前から三番手を走っている。トップと比較しておよそ七メートルほどの差。時間にして一秒ほどといったところだ。200mのレースで一秒差はかなり大きなものであり、ましてや相手は各クラスのナンバーワンに違いない。常識的に考えれば逆転して勝利をつかむなど厳しいと言うほかない。すでにバトンゾーンに入って準備を済ませている拳児の目には、走り終えて呼吸を整えるクラスメイトの姿が映っていた。

 

 トップを走る六組、ついでわずかな差で三組のアンカーがバトンを受け取ってスタートを切る。彼らがスピードに乗り始めたそのとき、ついに拳児が第五走者からバトンを受け取った。そこから全速力まで一気に持っていくためにありったけの力を脚へと注ぎ込む。まだ助走段階に等しい二歩目三歩目のときに、拳児はちいさく口を動かしていた。

 

 「……もうなんでもいいけどよ、この俺様が」

 

 四歩目で信じられないほどの爆発的な加速を見せる。

 

 「この俺様が! 負けてたまるかってんだよおおおおおおおおおお!!」

 

 そのフォームは決して洗練されたものではなかった。テレビで見るような陸上選手どころか姫松の陸上部のそれと見比べてもどこか歪なものだ。しかし力強い。地面を蹴る脚が、振られる腕が、次第に前傾から起き上がっていく肉体が、弾丸のようにバトンを運んでいく。呼吸すらも邪魔になる純粋な世界。駆ける。風景は引き伸ばされてもはや意味を成していない。その目に映るのは前を走る二人だけだ。視界の端がちかちかと明滅する。左曲がりのカーブに差し掛かる。ここを抜ければ短いストレートコースの先にゴールが待っている。

 

 慣性という物理法則が存在し、また実際に走る距離に差が出る以上、短距離を走って順位を競う競技においてカーブの内側と外側には大きな有利不利が存在する。一般的に考えればカーブの間の追い抜きはよほど実力に開きがないと無理である。むしろカーブで前を行く選手を追い抜こうというのは愚かしいとさえ言えるほどのことだ。しかし拳児はヘアピンカーブの半ばを過ぎた辺りで明らかに走るコースを膨らませた。一メートルの差でさえ致命傷になりかねない短距離走でわざわざそのコース取りをする理由など呆れるほどに単純だ。

 

 一位しか目に入っていないこと、そして十分に勝てると思っているということだ。

 

 巻き上がる砂塵が僅かに足を滑らせていることを如実に伝える。しかし拳児の絶対的なバランス感覚はそれをまったく苦にしない。カーブの外側から巻き込むように体を合わせ、ストレートコースに入るころにはすでに歩幅一歩分の差をつけてトップを追う態勢に入っていた。もう標的は手を伸ばせば届くところにいる。獲物をその目に捉えた狼がその脚を緩めるわけがない。外から見てもはっきりとわかるほどに回転数を上げた拳児が瞬く間にトップに並び、抜き去り、そして片手を突き上げながらゴールテープを切った。

 

 ほとんど雄叫びと変わりない歓声とともに3-2のクラスメイトたちが走り終えたばかりの拳児のもとへと駆けつける。ある者は背中をたたき、ある者はただただ騒ぎながら周囲を動き回っていた。一貫して誰もがリレーでの勝利を祝福していた。

 

 「柿沢! やるやん!」

 

 「ホンマかっこよかったで、カッキー!」

 

 「俺もなー、脚ケガしてなかったらホンマはそこにおったんやけどなー、惜しいことしたわー」

 

 「お前100m十四秒台やろ」

 

 拳児は、もう何も言わなかった。すべては決定されたことだったのだ。拳児が面倒くさいという理由で玉入れに出場を希望した時点であらゆる道は閉ざされていたのだ。この瞬間、世界は柿沢のためにあった。立役者はもちろん拳児だ。体育祭のあいだじゅう騒がしかったせいでほとんど忘れ去られていた実況席がリレーの順位をアナウンスしていたが、やはりそれは騒ぐ生徒たちの耳には届かないようだった。悲鳴も、怒号も、歓喜も、すべてを混ぜ込んだ大きな渦が姫松高校のグラウンドを支配していた。ほんのすこしだけ日が傾き始めた空の下で、体育祭は終幕を迎えた。

 

 

―――――

 

 

 

 週末が明けて月曜日の昼休みの終わりごろ、計画がきれいに頓挫した拳児の機嫌はとくに悪いというわけでもないようだった。むしろ廊下を歩くその足取りはどこか軽ささえ感じさせる。いま学校中の噂の中心になっているのは拳児にとってかわられた柿沢であり、そのおかげで拳児が玉入れに出場したことに関する話はまったく聞かれなくなったのである。計画そのものは初めから間違った進路をとっていたが、結果として “拳児への侮りを払拭する” という目的は達成された。正確には払拭ではなく別の噂による上書きなのだが、彼はそんな細かいことを気にはしない。

 

 意気揚々と教室に戻り、午後もきちんと前向きに授業を受けた。なんとも信じられないことに、拳児が一日を通して真面目に教師の話を聞いたのである。これはまったく初めてのことで、隣に座る由子は内心で彼の体調を心配したほどである。

 

 拳児に変なものでも口にしたのかと尋ねるべきかどうかを由子が悩んでいるあいだにその日の授業は終わり、帰りのホームルームの時間がやってきた。普段通りならばとくに担任から話があることはない。時期的には近くに文化祭が控えているが、その話は体育祭の前にされているため繰り返されることもない。つまるところ帰りの挨拶だけをしてさっさと部活に行くなり帰るなりするはずの時間である。教室はいつものように騒がしい。普段通りの日常で、担任が口を開けばすっと静かになるのもまた3-2の日常だった。

 

 「今日もとくにないけど、播磨は部活行く前にちょっと残ってな」

 

 その一言だけを残して号令がかけられ、クラスメイトたちは教室を出たり雑談を始めたりとそれぞれの行動に移っていく。いつもなら拳児も教室をさっさと出て部室へと向かうはずなのだが、担任に呼び止められたためにまだ席についていた。取っている行動だけを見ればただの真面目な生徒である。もちろん見た目と舌打ちのせいで誰もそんな風には見ていないが。

 

 さて拳児には居残る理由が皆目見当もついていない。進路調査票はきちんと提出したし、先日のテストでも赤点は取っていない。部活に関してのことであるのならば郁乃から話があるだろうからこれもナシだ。卒業するためなのだから当然といえば当然だが、特筆するような事件など起こしていない。顎をさすりながら考えていると担任が手招きをして拳児を呼んだので、拳児は素直に付き従うことにした。

 

 いったいどういうタイミングなのかどのクラスもホームルームが終わってそれほど経っていないというのに、拳児と担任が歩いている廊下には誰もいなかった。前を歩く担任が不意にゆっくりとした口調で話し始める。

 

 「なァ、播磨」

 

 「なんスか」

 

 振り向くことなく声をかけてきたものだから表情というものがまるで見えない。はっきり言ってしまえば不気味だ。廊下の窓の外に見える空はまだはっきりと明るい。太陽の位置は窓のほうには存在していないようで、差し込む光は見当たらない。ほんの一拍だけおいて、さらに担任が続けた。

 

 「お前、口元と顎がずいぶんすっきりしたよなァ……?」

 

 ( こっ、コイツ、まさか……!? )

 

 「体育祭で替え玉とはええ度胸や。おっと、赤阪センセにも許可もろとるからな、長いで」

 

 

 インターハイ団体優勝の栄冠を手にした姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児が、お説教をもらったことを知る人物は、ほとんどいない。

 

 

 

 

 

 

 

 



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66 もくようび

―――――

 

 

 

 時計の短針が指すのは4と5のちょうど真ん中で、長針はきれいに真下を向いている。西の空がゆっくりと色を変え始めたそのころに、真瀬由子は革のスクールバッグを肩に提げて廊下を歩いていた。ゲームセンターのUFOキャッチャーで取れそうな、小さなサイズのピンク色のぬいぐるみが由子の歩くリズムに合わせて揺れる。歩調は緩く、なにか緊急の要件があるようには見受けられない。しかし目指す場所は決まっているようで、決して無目的というわけでもないようだ。

 

 単純に時間的なこともあって廊下は静かだった。いま校内に残っているのは部活に精を出している生徒か、あるいはどこか静かな場所で勉強している生徒くらいだろう。聞こえる声は空気の壁にこそぎ落とされた運動部のものだけだ。夕暮れの廊下というシチュエーションはどこか物憂い。

 

 目的の教室にある程度近づいて、そこにまだ明かりが点いていることに由子は気が付いた。消し忘れなのかもしれない。または教室に誰かが残っている可能性も捨てきれないが、こんな時間まで残る意味などあるのだろうか。いくつかの疑問とともに一歩ずつ近づいて、由子は3-2の教室の戸を滑らせた。目に入ったのは学校の机と椅子が驚くほど似合わない男だった。

 

 「あれ、播磨? 部のほうは、って今日は木曜だっけ」

 

 

―――――

 

 

 

 荷物をすっかりいつもの席に置いてしまって、由子は何かの作業に打ち込む拳児を遠慮なくじろじろと眺め始めた。右手にはペンが握られて、机には真っ白なルーズリーフが一枚置かれている。さすがに様子だけで何をしているのかを当てるのは難しそうだ。あまりにも幅が広すぎる。どうせ気兼ねするような間柄ではないのだ、わからなければ聞けばいいか、と由子は考えた。

 

 「ねえ、何してるの?」

 

 「オウ、赤阪サンに言われてよ、新チームの候補考えてんだ。順番含めてな」

 

 視線を机の上に落としたままで返事をする。仮に顔を相手のほうへ向けたところでサングラスをしているのだから目が合っているかどうかはわからない。麻雀部員やクラスメイトたちはその辺りのことをもはや気にしない。それに、麻雀を別にしてと注釈はつくが、同時にいくつものことを同時にこなせるほど器用ではないのだろうと由子は思っている。これは普段の生活ぶりを見ていればよくわかる。むしろこれでよく裏プロなんてやってこられたものだと感心するほどだ。

 

 由子は少しのあいだ黙って拳児の作業の様子を眺めていたが一向に進まないようだった。実際のところ姫松には麻雀部員がかなり多くいる上に、実力者も相当数いる。そこから五人を選抜してチームを組めというのも簡単な話ではないのだ。たとえば漫がそうであったように部内戦の成績だけでは決められないといった特別な場合も存在する。順番や組み合わせによる相性など、考えるべきことはそれこそ山のようにある。宿題をいつもらったかにもよるが、詰まってしまうのも無理はないと言えるだろう。

 

 「これって提出期限とかあるの?」

 

 「そんなに急ぎじゃねえ。さっき赤阪サンに捕まって言われたばっかだしな」

 

 拳児の返事を聞いた由子にはささやかなやさしさと、ちょっとしたイタズラ心が生まれていた。行き詰まっているときに頑張っても成果が得られることはあまり多くはない。気を晴らすというか逸らしてあげることが大事な場面もたしかに存在するのだ。

 

 「ところで聞いていい?」

 

 「ナンだ」

 

 「どうしてわざわざ教室に残って?」

 

 自分の席に座っている拳児を姿を見た瞬間に頭に浮かんだ疑問を由子は投げかけた。今日は部活も休みなのだから家に持って帰ってゆっくりと考えるほうがどちらかといえば一般的ではないだろうか。たしかに拳児に一般的という物差しを当てたところであまり意味がないことは由子も知るところだが、単純に話のタネという側面もあった。

 

 「考えんだったら早いほうがいいだろ、俺はこういうの時間かかるしよ」

 

 「あ、家遠かったの。知らなかったのよー」

 

 「いや近え。ただどうにも家だと鉛筆握る気にならなくてよ」

 

 なるほど拳児が家でペンを走らせている姿は想像しにくいと由子は納得した。しかしそれ以前にこうやって教室で頭を悩ませている段階でミスマッチの感があるということに本人は気付いているのだろうか。

 

 コチコチと時計が鳴らす音をBGMに二人の時間は続く。椅子の背もたれを肘掛けにしてすっかり横を向いている由子と机の上に片肘をついて頭を抱える拳児の姿は、奇妙な対比にも見えた。まだ夕日と呼べるほどの位置にはない太陽は、由子が廊下にいたときと比べればすこしだけ動いたようだった。

 

 さすがの拳児も考え通しで疲れたのか、別のことに思考を回したようだった。

 

 「つーかよ、オメーなんでこんなとこいんだ」

 

 「ん、ちょっと忘れ物しちゃって」

 

 「家から取りに来たんかよ」

 

 「まさか! 図書室で自習してたのよー」

 

 手を口にやって目を細めて笑う。まさか、と言われたところで拳児は由子の住んでいる場所など知らないからどれほどの冗談になっているのかもわからない。反応だけを見ているとどうやら出来としては上々のものであるらしい。しかしここから話を広げる技術もつもりもない拳児は、素直に前期期末テストが終わったばかりのこの時期に勉強しなければならない理由にぴんと来たようで、足りない言葉でその理由に思い至ったことを告げた。

 

 「……ああ、勉強しなきゃなんねえのか」

 

 「そ、受験生はなかなか忙しいの」

 

 拳児と一対一で話せば大抵はこのような感じになる。楽しく盛り上がっているというわけではないが、居づらさを感じない限りは成功と捉えるべきだ。二人の座っている位置は黒板からは最も遠いいちばん後ろの席なのだが、不思議とチョークの匂いが届いてくる。ほんのり甘く、しかし思いきりは吸い込みたくないような匂い。とくに深呼吸をするような場面ではないためあまり気にするようなことでもないのだが、他に気にかかるようなこともないせいでなんとなく由子の意識に上ってきた。

 

 忙しい、という言葉とともにいたずらっぽく笑った由子の顔を見て、拳児もふと浮かんだ疑問を口にしてみることにした。もちろん忙しいとは言ってもまだ十月にもなっていないし、それ以前にこんなところで拳児と話をしている時点で本格的な追い込みの時期にないことは明らかである。

 

 「なあ真瀬、オメーはプロに行かねーのか」

 

 「……はあ」

 

 これ見よがしに大きなため息をつく。心なしかインターハイが終わってから由子の対応に遠慮がなくなってきているように拳児には感じられていた。

 

 「あのね、そうそう簡単にプロなんて言葉は口にできないの」

 

 「オ、オウ」

 

 「あなたも覚えてるでしょ? 個人戦の洋榎のあの試合」

 

 個人戦といえば愛宕洋榎の出た試合だけでもいくつかあったが、“あの試合” と呼ばれるものだけは当該試合を見ていた人間にはそれだけで通じるような激戦であった。それが決勝戦でないことだけが悔やまれたのだが、組み合わせ自体はドリームマッチとさえ称されるほどの面子が揃っていたのである。たまたま会場に来ていた拳児ですら思わず見入ってしまうほどの一局だった。

 

 「あのときの洋榎レベルの才能の塊がふつうに数えられるくらいにいるのよー?」

 

 「…………」

 

 「それも()()()()()()()()()、ね」

 

 わかりやすく強調したい部分の言葉をわずかに間を空けながら声に出す。由子からすればこんなことはいまさら拳児に言うまでもないことだ。彼女たちの意識の上では、拳児は磨かれた才能側の人間なのだから。ある意味では先ほどの拳児の言葉は残酷なものであったのかもしれない。彼が裏プロであるということは、もはや公然の秘密の扱いを受けているほどなのだ。勘違いから生まれた一方的な受け取り方であるにせよ、そんな人間の発言が軽いものであるはずがない。だからといって由子は決して暗くはならなかった。そういう集団でずっと過ごしてきたのだ、持っているものの違いに苦悩する時期などとうに乗り越えている。

 

 「そんななかで一際輝くだなんて口が裂けても言えないのよー」

 

 どこか自分の言葉が上滑りしたように由子が感じたのは、麻雀界に関わる情勢をまったく知らないという拳児の設定に付き合ったからかもしれない。本当のことを言えば拳児がなにも知らないのは設定でも何でもなく事実であるのだが、このタイミングでそれを言ったところで誰も信じてはくれないだろう。しつこいようだがインターハイ団体優勝校の監督が、実は最近やっと初心者の域に入り始めたと言ったところで冗談にすら受け取ってもらえないだろう。見方を変えれば拳児は自分で自身の立場を固めるような動きを選んできている。自業自得とまでは言えないが、現在の状況を受け入れなければならないことくらいは理解して然るべきだろう。

 

 「そういえば播磨、あなた進路調査票には何を書いたの?」

 

 「ナンだいきなり」

 

 「だってせっかく進路の話になったし」

 

 もともと自身の会話能力に自負があるわけではないが、拳児は真瀬由子を相手に会話の主導権を取ることはできないことを確信した。話をしていて感じるのは同年代を相手にしているときのものではなく、年上を相手にしているときのそれだ。すくなくとも拳児の人生のクラスメイトのなかにこういった印象を与えるような人物はいなかった。

 

 さて以前に洋榎と漫にも聞かれて断ったこの内容だが、どうも相手と状況を考えるに逃げられそうもないような感じが既にあった。それが拳児の思い込みである可能性はたしかにある。それでも無駄な抵抗はやめろという自身の内側からの声に拳児は逆らえなかった。

 

 「……アメリカ」

 

 「へ?」

 

 万人が同じように反応するだろうように、由子も間の抜けた返しをするしかなかった。今しがた投げかけた質問は進路調査票に何を記入したか、だ。一般的には志望大学や就職希望が書かれるべきで、一種例外的な拳児は監督とでも書いておけばいい箇所だ。由子の呆けた返事を聞き逃したと取ったのか、拳児がふたたび同国の名前を呟いた。これで聞き間違いの線は消えた。ごく短い間にあれこれと考えを巡らせた由子の頭にひとつの解答が導かれた。

 

 「ぶふっ、いや、それ、んふふふ」

 

 途端に由子が堪えきれずに噴き出した。当然ながら拳児の事情など姫松にいる誰もが知らない。であれば拳児の選択肢の中にアメリカなんぞが入ってくる理由は存在しないも同然である。というよりその段階に至る前に進路調査票に国名を書くバカがどこにいるだろう。それは進路ではなくただの行き先だ。それらのことを考慮に入れれば、きっと由子は拳児が調査票にボケをかましたのだと思ったのに違いない。

 

 「お、おい」

 

 「あっははは! ふ、ふふっ、播磨、そ、それボケとしては、ふふ、三流以下なのよー」

 

 事態は予想されたものよりもひどいようだった。どうも状況を総合してみると、播磨拳児が進路調査票を使って突然にボケたこと、そしてその出来があまりにも酷いものであったことが由子の笑いのツボを刺激したらしい。たしかに年がら年中不機嫌そうな顔を当たり前のものとしている男がいきなり笑いを取りに来ようとしたら、そしてそのネタがあまり理解されない系統のものであれば大ハマリする人が出ても不思議ではないだろう。もちろんだが拳児にボケたつもりなどかけらもない。しかしそう誤認されるだけの状況はじゅうぶんに作り上げられていると言えた。なにせ拳児の進路など彼女たちからすれば麻雀部の監督に決まっているのだから、真面目に書くだけ無駄といえば無駄なのだ。

 

 ひいひいと呼吸を整えている由子の横で拳児の機嫌が明らかに斜めを向いた。自分から話すような内容ではないものの、想い人のいるところへ行くことを笑われてしまえばそうなるのも当然だろう。見た目と立ち位置のせいで忘れられがちだが、拳児はまだ高校三年生である。というかそこらの高校三年生の男子より純情でさえあるのだ。

 

 

 「さっきはたしかに笑いすぎやったって。私が悪かったのよー、ごめんね?」

 

 「チッ、気にしてねえよ」

 

 かたやちらっと思い出しては継続的に笑い続け、もう一方はご機嫌ななめのふたりが隣に並んで座っているというなんともヘンテコな空間は、意外なことに維持され続けていた。あるいは席について考え事をしているという建前で抜けられないのかもしれないし、あるいはまったく関係のない別の理由があるのかもしれない。ただひとつだけはっきりしているのは、どちらも席を立つつもりがないということだけだ。

 

 もう謝ることができるくらいに状態を戻した由子は、おかしさから来るものとは別種の微笑みを浮かべて思案をしているようだった。

 

 「ねえ播磨、なにかお話して」

 

 「あァ? ナンで俺がそんなことを」

 

 「だって考えてみたらあなたとこうやって話をしたことないんだもの」

 

 ある程度は拳児もそうなるように動いてきたのだから由子の導いた結論は自然なものだ。半年も同じ集団で過ごしてきて、それもかなり近い立ち位置にあって個人的な話を一度もしたことがないというのも不健康な話ではないだろうか。

 

 「別に面白い話なんざねえぞ」

 

 「構わないのよー。ね、なにか最近変わったこととかなかった?」

 

 もうすっかり話し込む前提の運び方で、拳児のチームのことを考える時間をまるごと持っていくつもりであるらしい。本人も急ぎではないと言っている以上、口をさしはさむような場面ではないが、それでも簡単に誘いに乗ってしまっているあたりには今後に不安が残る。

 

 なにか変わったこと、と言われて拳児の頭に浮かぶのはここのところの生活すべてだ。だいたい家出をしたら経験のない麻雀部の監督になっていたなどという事態は、この世の変なことランキングを並べたとしてなかなかの上位に入るだろう出来事だ。その辺りのことを言ってしまってもいいのだが、いくら拳児とはいえそれが話題に沿っていないことくらいはわかっている。ただそれを除いたところで彼の身に起こった奇妙なことなど枚挙に暇がないほどなのだから始末に負えない。

 

 「……珍しいことと言やあこないだダヴァンのやつから電話があったな」

 

 「メグちゃん? たしかにそれは意外かも。どんな話したの?」

 

 「よくは覚えてねーけど十月のいつだったかの予定聞かれたな」

 

 電話があったのは大星淡によるあの播磨拳児プレゼント問題を生んだインタビューが放送された日の夜である。何を疑うでもなく拳児はこれらを独立した事象だと捉えており、背後に控える因果関係についてなどかけらも考えは及んでいない。拳児からすればあのインタビューを生で見ていたわけではないからか、それとメグからの電話が同日のことであることに気付けない。しかしながら姫松側で両方にきちんと関わっているのは拳児だけである。仮に当事者である拳児を除いて姫松にその因果関係について想像を働かせることができる人物がいるとすれば、条件的には二年生のふたり以外にはあり得ない。

 

 「ま、そんな先の予定はわかんねーっつったけどな」

 

 「ていうかあなたいつの間にメグちゃんの携帯番号聞いたの?」

 

 「あ? 聞いてねーよ、つーかアイツなんで俺の番号知ってんだ?」

 

 「えっ、大丈夫なのそれ」

 

 拳児の特徴の一つとして、“電話を取る際に相手の名前を確認しない” というものがある。着信があったときにしっかりと携帯の画面を確認していれば、実は辻垣内智葉の携帯から電話がかかってきていたことがわかっていたのである。臨海女子では意外と携帯の奪取が日常化しているのだが、そんなことを他校の人間が知るわけもない。つまり別に拳児の電話番号は流出してはいないし、拳児の記憶が吹き飛んだわけでもない。心配するなというほうが難しい案件だが、何も知らない彼らに打てる手はなかった。実際には着信履歴を確認すればいいだけの話だが、このとき由子はすくなくとも冷静ではなかったために簡単な採るべき行動を選べなかったのである。

 

 二つ三つとまばたきをして、由子は拳児の携帯番号流出疑惑についてはいったん置いておくことにした。それはいま考えたところでどうしようもないからだ。

 

 「えっと、結局メグちゃんは何の用やったんやろね」

 

 「さァな、合宿とかの誘いだったんじゃねーの? 夏はウチが勝ったしな」

 

 学生の身分でもあるが間違いなく監督でもあるため、そういった相談が拳児に来ていても決しておかしくはないのである。無論だが麻雀部において拳児にそういった裁量権はなく、仮に拳児に話を持ってこられた場合には郁乃と相談することが前もって本人たちのあいだで約束されている。しかし部員たちはそんなことなど当然知らない。だから由子であろうが恭子であろうが拳児のこの言葉に疑いを持つことができないのだ。これは拳児の権威をできる限り保つための情報統制であって、それ以外の効果についてはとくに考慮されてはいないことを原因としている。

 

 窓の外を覗いてみれば、サッカー部員たちの影がだんだんと伸び始めていた。短針はあと少しで5に届きそうなところまで進んでいる。もう夕方と呼んでも差し支えのない時間だ。廊下からは相変わらず物音ひとつしてこない。この教室ひとつだけが世界から切り離されているような感覚さえあった。

 

 「そういえば、なんだけど」

 

 「オウ」

 

 「あなた再来週に文化祭あるの知ってるわよね?」

 

 「体育祭前からそれでうるさかったからな、それくれーは知ってるぜ」

 

 どこか得意げに拳児が返す。

 

 「うちのクラスが何をやるかは?」

 

 わかりやすくぴくりと反応して、言葉が詰まる。スムーズに言葉が出てこない時点で知らないと言っているようなものなのに、素直に言わないのはある種の申し訳なさでも感じているのだろうか。普段はろくに気も利かないくせに、こういう勘所だけはピンポイントに押さえてくる。たとえば麻雀部員たちが拳児に対する評価を決めきれないのはこういう部分があるからだ。

 

 由子はいつもより長く鼻から空気を押し出した。表情はどちらともつかない。

 

 「ま、準備の協力くらいはきちんとしたほうがいいと思うのよー」

 

 「面倒くせえったらねえぜ」

 

 「……聞かなかったことにしてあげる」

 

 そう言うと由子は席を立って椅子を戻し、カバンを肩に掛けた。どうやら拳児の気付かない間に忘れ物はカバンに入れていたらしい。ねずみ色のカーディガンと胸元の緩く留められたリボンはもう見慣れたものだが、なぜか惰性のようなものは感じない。由子はゆるく微笑んで、拳児の手元を指さした。

 

 「じゃ、もう帰るけど、それ頑張ってね」

 

 よくよく思い出してみれば秋以降の団体メンバーを考えるためにこの教室に残っていたのだが、ルーズリーフは真っ白だ。急ぎというわけではないから肩を落とす必要はないが、結果としては見事に時間を持っていかれたかたちだ。手をひらひら振って教室を出て行った由子を見送って、拳児はもう少しこの場に残ることを決めた。

 

 

 

 

 

 

 



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67 ほんとうの初めまして

―――――

 

 

 

 祭りと言えば血が騒ぐ人種がいる。もちろんそうでない人もいる。しかし大体の場合において、祭りというものは参加してしまえば面白いというのが相場である。大勢の人の中でただ単純に騒ぐという行為がすでに非日常であり、そしてそれが祭りの根幹なのである。姫松高校に通う生徒は直近で体育祭というイベントを経ているためにその辺りの事情の理解度がきわめて高く、また楽しいことは大好きという素直な考え方を持っている。つまるところどこが出所なのかわからないパワーを使って準備に心血を注いでいるのが姫松高校の現状ということだ。

 

 廊下を歩けば段ボールだの布だのが足の踏み場をなくし、試しによその教室を覗いてみればインクのにおいが鼻をつく。いつもなら部活に出ているはずの人間がそこらに残って作業をしている。聞けばクラス内でローテーションを決めて部活を休む日取りを順に回しているらしい。かく言う拳児の所属している麻雀部も水木金土と部を休みにして文化祭の準備に取り組むことが決定しているため、それほどものを言える立場にないのは秘密である。とはいえここまでお膳立てされてしまうと、拳児も選択肢が準備を手伝うか逃げてサボるかのどちらかしかない。いまは用事がある振りをして校内をうろつきながらサボっているが、どうせ近いうちにバレるのは目に見えている。恭子あたりに小言をもらうだろうことを想像して拳児はため息をついた。

 

 

 見つからないためには人の少ないところに行けばいい、と単純に考えた拳児は、頭の中にあった該当箇所を目指して歩き出した。いくら拳児とはいえもう半年もこの学校で過ごしているのだ、そういった場所くらい簡単にアタリをつけられる。ちなみに脱走しない理由はカバンを持って下駄箱まで行けば確実に途中で止められるからだ。

 

 姫松高校の校舎の造りの特徴は、主に二棟に分けられているところにある。正式に名前が付けられているわけではないが、一棟を教室棟、もう一棟を部室棟とほとんどの人が呼んでいる。ちなみに部室棟と呼ばれてはいるものの、理科室などといった特別教室やその準備室など一般授業で使う教室もいくつかあるため、部に所属していない生徒が部室棟とまったく関わらないかと言えばそういうこともない。さて部室棟の一階にはグラウンドや体育館に出る運動部の部室があり、二階からは文科系の部が活動場所として部室を構えている。もちろん吹奏楽部など活動内容の関係で教室棟で活動するなどの例外はあるが。そして多くの部が気を利かせるこの時期は、部室棟にいる人間が少なくなる。拳児が目を付けたのはそこだ。四階の端までいけばおそらくほとんど人など来ないだろうと推測したのだ。

 

 四階の端にあるのは半ば物置になっている教室で、基本的に用のある生徒はいない。あまりにも使われることがないため、教師陣が鍵をかけることすら忘れている始末である。何かを求めてこの教室に来るとすれば、せいぜい一般的ではないものを無くて当たり前の感覚で探しに来るくらいのものだろう。あるいは物置としての利用をしに来ることもあるかもしれない。

 

 そこでなら煩わしい準備の手伝いなどせずに過ごせるだろうと拳児は考えた。多少退屈かもしれないが、面倒ごとにかかずらうよりはだいぶマシだ。それに郁乃から出されている新チームの構想についての宿題もまだ終わっていないことを考えれば、そちらに時間を費やしてもいいかもしれない。姫松に通い始めたころと比べてずいぶんと振る舞いが改善されたように思われているが、やはり要素としての不良の素地はそう簡単に拭い去れるものではないらしい。この学校には拳児がいいところを見せるべき相手がいないのだからもともと張り切る理由もないのだ。

 

 サボる場所へと向かうのに急ぐ必要があるわけもなく、えっちらおっちらと拳児は歩いていた。教室棟にいるあいだはどこもかしこも誰かしらが走っていて、そのたびに忙しい連中だと心の中で憐れんだ。そうして部室棟のほうに入ると途端に生徒の数が減って、まるで別世界のように静かになった。あの夏のインターハイでホールの外に出たときのことにどこか似ているような気がした。とはいえあんなに暑くはないし、セミの声などどこにもない。本当はどこにも共通点などないのかもしれなかった。

 

 四階の端の扉の鍵はやっぱり開いていて、拳児が動かした手の方向に沿って素直に滑った。誰もいなくて、ちょっと埃っぽい匂いがした。おおかた年度末の大掃除にならなければ手を入れてもらえないのだろう。その辺のことをあまり気にしない拳児は後ろ手に戸を適当に閉めて、ずかずかと物置に足を踏み入れた。そしてそこに彼にとって、あるなじみ深いものがあるのに気が付いた。

 

 

―――――

 

 

 

 「ええ? さすがにそれは無いんちゃうん」

 

 「やっぱそう思う? 買いに行くしかないんかな」

 

 「あ、でも “物置” やったらあるんちゃう? うち行ってこよか?」

 

 「ホンマに!? 絹恵ちゃんありがとう! もし無かったら携帯鳴らしてな、買い行くから」

 

 全学年全クラスが文化祭の準備に勤しんでいるのだから、当然ながら絹恵のクラスもその準備で賑わっていた。普段の学校生活でまず使わないだろうものを文化祭で使おうとするというのはよくある話で、絹恵のクラスの出し物でもそういったヘンテコなものが必要となっていた。本当なら普段から使わないものが学校にあるわけがないのだが、そこはそれ “物置” には何があるかわからない。うまくすれば探しているものが見つかる可能性だってあるのである。そういうこともあって、絹恵は四階の端にあるあの教室へと足を運ぶことになった。

 

 

 他クラスの友達や部の仲間達と軽く言葉を交わしながら絹恵は歩いていく。そうして思うのは、全体的に雰囲気が明るいということ。祭りは準備しているときがイチバン楽しいというのもあながち間違いじゃないのかもしれない、と絹恵はそう思う。文化祭自体はそれぞれが好き勝手に楽しむものだが、準備は集団がひとつの方向を向いて団結する。そうやって考えるとそもそも同じ枠組みで考えてはいけないものなのかもしれない。

 

 教室棟と部室棟とのあいだには間仕切りのようなものはないのだが、多くの生徒がここから先は部室棟、という共通の認識を持つ一本の見えない線が存在する。そこをまたぐとたしかに空気の匂いが変わるのだ。決して具体的に説明できるような力のある匂いではなく、たとえるなら季節ごとに変わる空気の感じというのが最も近いだろうか。絹恵はその線を意識することなく踏み越えて、部室棟へと歩を進めた。

 

 不思議なくらいに静かだった。たしかに文化祭の準備中なのだから教室でいろいろと作業をしているのが当たり前なのだが文化部が活動していてもおかしくはないはずだ。なにせ文化部の発表の機会でもあるのだから。一定の時間まではクラスの準備を手伝って、それから部のほうに顔を出すなどといったやり方なのかもしれないが、こうも誰もいないと誰かの作為を疑いたくなってくる。誰か、などといってもそれに当てはまりそうな人物が思い当たらないので、絹恵は思った矢先からそれを却下した。

 

 三階への階段を上がると、ごくごく小さな音が聞こえた気がした。物音、という感じではない。なにか規則性を持った音の連なりだ。いつもなら絶対に気が付かないほどの音量、しかし今この場所は気味が悪いくらいに音が無い。だから遠くでかすかに鳴る音が絹恵の耳に届く。

 

 さらに階段を上がっていくと次第に音がはっきりと聞こえるようになってきた。わずかに残響を残すのは聞き覚えのあるストリングスだ。軽く、どこか牧歌的なイメージを抱きたくなるようなこの音は、アコースティックギターのそれに間違いない。既に四階の廊下を歩き始めた絹恵の耳には音の連なりが輪郭を持って聞こえていた。人生のどこかで聞いたことがあると断言できる曲なのだが、曲名も誰の曲かも出てはこない。わかるのは親しんだ邦楽ではないだろうということだけだ。

 

 できる限り足音を殺して音のするほうへ近づいていく。“物置” のほうから聞こえるのだから仕方がない。やがてなだらかなストリングスに加えて、鼻歌が混じり始めた。否応なく安心したくなるような低い声。どうやら気分はよさそうだ。しかしいったい誰なのだろう。部室棟の様子を見る限りはおそらく部としての活動ではないのに違いない。だとすれば残る可能性は個人ということになるが、個人にしてもこんなところで弾き語りをするかというとそれも首をひねりたくなる。

 

 歩く速度を落としてまで気付かれないようにして、あと三歩で音の出所に届くところまでたどり着いた。もうギターと鼻歌ははっきりと聞こえている。乱暴に閉めたのか戸はすこしだけ開いていて、中にいる人物が戸のほうを向いていなければ覗くことはできそうだ。しかしそれを確かめる手段はない。結局は運任せに覗いてみるしかないのだ。奇妙な緊張が絹恵の胸を支配していた。

 

 

 そっと、戸の隙間に視線を通す。まだ細い直線上には誰の姿もない。ゆっくりと顔の位置をずらして見える範囲を変えていく。教室の奥のほうを向いているのだろう、背面の左半身だけが見えた。ギターネックも見える。もうそこにいる人物が弾き語りをしていることに疑いの余地はない。だんだんと見えてくる後ろ姿に、誰だろう、と思う気持ちと同時に淡い期待と呼べばいいのか予感と呼べばいいのかわからないなにかが、絹恵の頭の隅に小さく浮かんだ。

 

 大きな背中と後ろに流れる黒い髪を見た瞬間に絹恵は身をひっこめた。見間違えるはずがない。なにせ半年間ものあいだ、ほとんど毎日休むことなく見続けてきた後ろ姿だ。この学校の男子全員を連れてきて後ろ向きに並べたところでピンポイントで当てることができるだろう。一目でわかった、播磨拳児がギターを弾きながら鼻歌を口ずさんでいるのだ。

 

 ( えーっ!? 播磨さんなにして、えっ、ギター弾け、うそ、めっちゃええ声してる )

 

 絹恵が混乱するのも無理はなかった。彼女から見れば拳児は元裏プロの麻雀部監督であり、その手腕で姫松をインターハイ優勝へと導いた存在である。しかし、裏返せばそれ以上の情報は皆無と言っていい。せいぜい運動能力がずば抜けているだとか勉強面はつつかれたくないらしいだとかが関の山である。まさか音楽方面に手を伸ばしているなどとは誰も思うまい。しかもギターにしてもアコースティックギターなのだからまるでイメージに合致しない。いま弾いている曲もハードなものではなく優しいメロディだ。まるで小高い丘のような滑らかな音の連なりとチンピラの見た目はそぐわない。誰だって自分の目を、あるいは耳を疑うだろう。

 

 時間にして十秒か二十秒のあいだ、絹恵はそこに立ち尽くしていた。精神的な整理がつかなかったのもあるが、想像の埒外と言ってもいい穏やかなストリングスとそれに乗せられた気のいい声を楽しんでいたのもまた事実であった。そうして気を取り直した瞬間に、誰もいない廊下を脱兎のごとく駆け出した。もうクラスの出し物のための探し物のことなど頭から吹き飛んでいる。とりあえず拳児が弾き語りしていたのを聞いてしまったことを本人に知られないように、一目散に階段を目指した。音を立てないようにしてゆっくり立ち去るなんて選択肢は頭に入っていなかった。早くこの場から去らなければならないとの思いが先行しきっていた。ただどうして逃げる選択肢をノータイムで選んでしまったのかは絹恵自身にもわからなかった。それこそギターなんて弾くんですね、なんて普段のように話しかけてもよさそうなものだというのに。

 

 それは言わば、播磨拳児が播磨拳児でなくなったからだった。

 

 もう少しやわらかい言い方にするならば、拳児の新たな一面が見えて途端に人間としての輪郭がはっきりしたからだ。過去は謎に満ち、趣味も好物も何もかもがわからない存在を関わり合っていくなかで人間と呼ぶのなら話は別だが、そうではない絹恵にとってこのときはじめて拳児は人間になった。勝手なイメージを抱いていた霧の中から突然に親しみやすいものが現れたとき、戸惑ってしまうのはよくある反応のひとつと言えるだろう。

 

 

―――――

 

 

 

 

 部室棟の廊下を駆け抜けて階段を下りる途中でそのまま自分のクラスに戻るわけにもいかないと不安定な頭で考えた絹恵は、一階まで下りて呼吸を整えることにした。心臓が体全体に酸素を送るために、いつもより早く強く脈を打つ。周囲の姫松生たちも全力で駆け下りてきた絹恵に対して何事かと視線を送りはしたが、それほど大事ではなさそうなことを確認すると元の位置に目を戻した。

 

 呼吸は落ち着いたが頭の混乱のほうはそうもいかず、奇妙な気怠さも手伝って絹恵はその場から動く気になれなかった。階段の目の前はちょうど下駄箱になっており、買い出しに行くのだろう学生たちが上履きを履き替えている姿がよく見える。買い出し、と頭の中で繰り返して、絹恵は “物置” に行った理由を思い出した。結局のところ目的のものは見つけられなかったのだからクラスメイトに電話をしなければならない。アドレス帳から番号を呼び出してコールをする。簡単すぎるあいさつと目的のものが見つけられなかったことを伝えて早々に電話を切った。この時期は文化祭の準備が何よりも優先される。長電話に興じている場合ではないのだ。

 

 ふう、とひとつ息をついて落ち着こうとしていると、突然背中を叩かれた。ひっ、と悲鳴になる直前の声を上げて振り向くと、そこには絹恵の人生でいちばんよく見知った顔があった。

 

 「きーぬ。なんやこんなトコでぼけーっとして。サボリはあかんで?」

 

 「なんやお姉ちゃんやないの、びっくりさせんといてよもう」

 

 「そらもう可愛い妹が不良の道を突き進むのを止めるんは姉の役目やからな!」

 

 まったく悪びれもせずに、それどころかよくわからない決めポーズまでとって話を進める自分の姉に呆れながらも、ずるいなあ、と絹恵は思う。高校に入ったばかりくらいの頃は単純でただ強い存在だと思っていたが、それはどうやら見方として間違っていたらしい。たしかに開けっぴろげで単純な性格をしていることに間違いはないのだが、思考の奥となるとどうしても見通せないということに気付いたのは一年生の冬になってからだった。悪いことは考えられないタイプの思考回路を持っていることもそうだが、その思考の奥を見せてくれなくても構わないと思わせる愛くるしさに対して、ずるいなあ、と思う。

 

 「言うてお姉ちゃんもどうしてこんなトコおんのん? 買い出し?」

 

 「ん? なんや準備のほう手伝っとったら播磨がおらんー、いうことになってな」

 

 姉の発言を途中まで聞いて、絹恵は一瞬だけ身を震わせた。重なるときは本当に重なるもので、その名前は完全には整理のついていない彼女の頭をもう一度かき回すだけの効果を持ち合わせていた。あるいはダッシュで逃げてきたことで脳内でその存在が妙な膨らみ方をしているのかもしれないが、絹恵本人はそれに気付けない。

 

 ちなみに実際は洋榎が準備を手伝っていたら見事に不幸が重なって、ある程度順調に進んでいたこしらえ物を半壊させたため教室から理由をつけて放逐を食らったのだが、さすがにそこに自分から触れていくほど彼女も恥知らずではない。雀牌ならばおそろしく器用に扱えるわりには手先は絵に描いたような不器用で、トンカチを持たせれば指を打たない日はないという噂さえ立っている。

 

 「……あー、播磨さん」

 

 「お、なんや絹。その反応はどこにあのアホがおんのか知っとるな?」

 

 「うーん、さっき見かけたいうかなんというか……」

 

 「ん? 居場所を秘密にしてくれとか頼みよったんちゃうやろな」

 

 「あー、いや、そういうんやなくて、お姉ちゃん信じてくれるかな……」

 

 絹恵が言いよどむ理由が洋榎にはわからない。“伝わるかな” ではなく “信じてくれるかな” という言葉を選択しているのにもちょっとした違和感が残る。しかしどのみちこうやって迷っているときには動くほうに決断するということを洋榎は知っているため、それほど焦ることなくのんびりと続きを待つことにした。

 

 「えっとな、播磨さんな、ギター弾いててん。四階の “物置” で」

 

 「えー……、嘘やろそれ……。絹の言うことやから信じたろ思とったけどそれはなぁ……」

 

 「ホンマなんやって! めっちゃ気分よさそにして鼻歌まじりに弾いてたんやって!」

 

 「どんどんあり得へんやん。播磨にそんなテクニック的なアレがあるわけないやろ」

 

 傲岸不遜で唯我独尊かつ硬派な不良のイメージを持つ播磨拳児がギターを弾けると思いますか、とアンケートを取ったとすればおそらく弾けないを選択する人が圧倒的に多いだろう。その意味で洋榎は何も間違ってはいない。いま拳児は情報として明らかになっている部分が少なすぎるためにイメージ先行で語られることが半常態化しているのである。もちろん本人はそんなことなど露とも知らない。そのイメージというのも見た目のものと、インターハイでのインタビューで噂が立った悲恋の経験者であるというものと、大星淡による暴露によってなかなかに複雑なパーソナリティが形成されつつある。だいたいにおいてそれらは拳児の実像と一致していないのだが、そんなことはお互いに知らないのだからなかなかうまくいかないものである。

 

 半信半疑の目こそ向けてはいるものの、いま洋榎にとって重要なのは拳児がどこにいるかであって本当にギターが弾けるかどうかではない。したがってこれはただのコミュニケーションのひとつだった。それに拳児を見つけた際の話題もひとつ手に入れたことだし、彼女にとって上々の時間であったのは間違いのないところである。

 

 「おっと、播磨を捜しにいく途中やったん忘れてた。場所教えてくれてありがとな、絹」

 

 そう言って洋榎は階段をテンポよく駆け上がっていった。

 

 

―――――

 

 

 

 洋榎が部室棟の四階までたどり着いても別にストリングスの音が聞こえてくるわけではなかった。残念と言えば残念だったし、当然と言えば当然だなとも思った。そもそもが期待をしていたというわけでもなく、どちらかと言えば脱走に対してお冠の恭子への捧げものを捜しに来た側面のほうが強い。だからいまの洋榎にとって大事なのは “物置” に拳児がいることであって、それ以外はあまり気にすることではなかった。

 

 “物置” までの廊下を半ばくらいまで行ったところで、目的の教室から大きな男が、ぬ、と顔を出した。なんでそんなところにいたのかはよくわからないが、自分の妹が言っていたことはすくなくとも半分は本当だったらしい。とりあえず探し物は完了だということで、洋榎は拳児のもとへと駆け寄って行った。

 

 「なんやけったいなトコから出てくるもんやな。何しとってん、こんなところで」

 

 「あ? あー、準備だなんだでやかましいからよ」

 

 「サボっとったんか」

 

 「察しろ」

 

 あくまで自分からはサボったと言わない小さな抵抗に洋榎はちょっぴり笑んだ。さて標的を捕まえたら、残ったするべきことは連行だけだ。くい、と手でサインを送って洋榎は歩き出した。

 

 「そーいえば風の噂に聞いたんやけど」

 

 「ンだよ」

 

 「ギター弾けるってホンマ?」

 

 「あー、まあ、できなくはねえな」

 

 「……お前意外とええヤツやよなあ」

 

 よくわからない話の流れは拳児の首を傾げさせるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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68 判定は照れ隠し

―――――

 

 

 

 「なァ」

 

 「なんや」

 

 午前九時ちょうどの開場を目前に廊下を駆け回る姫松生を横目に見ながら、借り切った大会議室の入口で拳児がいつものように不機嫌そうに声をかける。慣れたもので恭子もそれに特別な意識を向けることなく返す。二人の座っている座席には、受付と大きく書かれた紙が貼りつけてあった。

 

 「ナンで俺がこんなトコに座ってなきゃなんねえんだ?」

 

 「客引きや客引き。自分の知名度考えや」

 

 「別に俺じゃなくていーだろが。クラスにゃ愛宕も真瀬もいんだろ」

 

 心底迷惑そうに拳児は反論を試みる。しかし拳児が恭子に論戦を挑んだところでどうやったって勝てないだろうことは誰の目にも明らかだった。思えば三年生が、もちろんそれはクラスメイトか元麻雀部員に限定される、誰も拳児に怯えなくなっていることに拳児も気付いていなかった。ひょっとしたら彼が裏プロだという噂をいつの間にか意識せずに接するようになったのかもしれない。もしそうであるとするならば、きっと拳児も転入当初よりもずいぶんとこの学校に馴染んだということなのだろう。

 

 「由子がめっちゃ働いてたん知らんとは言わせんで。そんな子にまだ仕事させる言うんか」

 

 そもそもが有能でありスポーツ以外なんでもござれの由子は、この文化祭の準備においてもその万能ぶりを如何なく発揮した。小物の作成に始まって、最終的には下校時刻を過ぎての居残り作業をしていたクラスメイトに家庭科室を借りて差し入れを作ってきてくれたほどである。もちろんそのとき意に反して残されていた拳児もお世話になっている。ちなみにクラスの男子どもには、それ以降の作業能率が見違えるように上がったという確かめようのない噂が立っている。

 

 「ぐっ、な、なら愛宕は」

 

 「ここに置いて何も起こさん思うんか」

 

 彼女の名誉のために触れておくが、決して愛宕洋榎という少女が受付を担当できないというわけではない。事実として彼女は部の主将として、インターハイの最中もそれ以外の場面でもチームを率いてきたという実績がある。彼女にしかできないやり方でチームを鼓舞し、及ばないところは仲間と協力して切り抜けてきた。部を牽引する存在として得難い個性であったことに間違いはない。ただ、高校生としての彼女は仲の良い友達にはガンガン甘えるし、楽しそうと見るやすぐにふざける。もし恭子のとなりに彼女を置いたとすれば、おそらくはなんらかの事態を引き起こすだろう。

 

 拳児も拳児で彼女の名前を出す際に言葉に詰まっているところを見れば、恭子からの返しにおおよその見当をつけていただろうことが読み取れる。失礼な話ではあるが、ガテン系の作業に関しては高い技術を有する拳児からすれば、不幸が重なったとはいえ大小を問わずにこしらえ物を壊して回った愛宕洋榎が何もしないとは到底思えないのであった。

 

 「……チッ、そもそもよ、俺ァ客引きに向いてねーんじゃねーのか」

 

 「変に絡まんのやったら座っとるだけで十分や。テキトーに挨拶とか相槌くらい打てるやろ」

 

 期待されているのはその程度であって、まさか彼に愛想よく振る舞ってもらおうなどとは恭子も考えていない。というか拳児が対外的に受け入れられる対応をしたところで気味が悪いだけで、その辺りの認識は3-2のあいだでは一致している。あるいは拳児をテレビで見たことがあるという人も同じ認識を持っているかもしれない。インタビューの際にふてぶてしい態度であったことは、それらの映像を見ていた人々の記憶に新しい。

 

 つまるところ座っているだけのラクな作業とはいえある種の見世物になるのが拳児に任じられた仕事であって、となれば彼でなくともあまり気分のいいものではないだろう。たしかに好奇の視線を長らく受け続けてはきたが、すくなくとも自分からその立ち位置に身を置いた記憶は彼にはない。想い人のいない高校生活とはこんなにも疲れるものなのか、と短く息を吐いた。

 

 この日、拳児は “播磨拳児” という名前がどういう意味を持つのかを初めて知ることになる。

 

 

 開場の、普段ならば授業開始のものだ、チャイムが鳴って各クラスが来客に備える。人気を集める出店こそ実行委員会により数の制限を受けているが、それ以外の出し物もバリエーション豊かに校門に置かれているパンフレットに記載されている。所詮は高校生の文化祭とはいえノリと気合でどうにでも楽しめるのだから捨てたものではない。

 

 目の前に群がる人、そして人。一年前までは外を歩けば避けるように足早に通り過ぎていくだけだったはずの存在が、いまは歩く速度を変えないどころかむしろ一様に立ち止まりさえしている。群集心理とは面白いもので、大勢で取り囲んでしまえば当の人物が暴れださない限りは、場合によっては暴れだしたとしても勝手に精神的に優位に立ってしまう。立ち止まってしげしげと眺める、手を振る、気軽に声をかける、果ては許可なくスマートフォンで撮影までする始末だ。拳児はいま起きている状況をほとんど理解できていない。なぜ、という単語だけが頭の中に浮かんで、それに続く言葉がまったく出てこない。若干ではあるが恭子の顔もこわばっている。

 

 理由など単純だ。播磨拳児がいまだもって時の人であるというその一事で事足りる。要素に分解するならば、まず高校生の身にあって名門の監督に就任しそのまま全国優勝をかっさらったという最大のポイントに加え、どうあっても目を引くその容姿ならびに言動から見え隠れする秘密など、細かいものまで含めれば枚挙に暇がない。そんな彼を文化祭に行くだけで見ることができるというのだから、世間からすればこれを放っておく手はないだろう。現に淡による (間違った情報の) 暴露のブーストもあって、ただ隣に座っているだけの恭子にまで飛び火している。もう二組の出し物であるお化け屋敷など拳児を見るおまけになりそうな気さえしてくる。ちなみに拳児と同じクラスで半年も過ごしてきた二組の面々がこの事態を想定していないわけがなく、拳児で釣ってマジビビリさせて帰すという伝説を打ち立てたりするのだがそれはまた別のお話である。

 

 「あっ、ひょっとして隣の彼女がウワサの……?」

 

 知らない顔が入れ替わり立ち替わり同じようなセリフを口にしていくのに対応するのが、拳児はどこまでも面倒なことに感じられた。ひどい時には本人の返答を待たずに言うだけ言って先へ進んでいく者まであった。一方的に納得をして、勝手に応援したり幸せを祈っては満足して立ち去っていく。どれだけ否定しようが勘違いだと説明したところで照れ隠しだの何だのと言って話題を自分のグループに持ち帰っては盛り上がるのだから手の打ちようがない。面倒ごとには関わらないと決めたのか恭子が機械的に受付の業務をこなしている隣で、これまでまったく見たことのないレベルで拳児が苛立ち始めた。

 

 意中の女子といっしょにいるだけで舞い上がるほどの純情ぶりと喧嘩っ早い不良の側面を同時に持ち合わせるという誰も知らない驚異的な二面性を有する播磨拳児は、だからこそこの状況を適当に流すことができなかった。彼にとって女子といえば塚本天満のみを指し、それ以外はそういう対象ではありえない。もちろんこれはたとえば姫松の麻雀部員たちが悪いというわけではなく、拳児自身も彼女たちのことを悪く思っているわけではない。活動に対する応援であるとか、あるいはさまざまな意味において感謝している部分もある。ただ、まだ高校生の純情な少年が間違った認識に基づいてからかわれ続けたとすれば、その反応を想像するのは難しいことではないだろう。

 

 がたん、とわかりやすく大きな音を立てて立ち上がり、あからさまに不機嫌な様子で拳児が歩き出した。人垣がまるで指示を与えられたようにきれいに割れる。彼が長身ということも相まってひときわその姿は目立つものだった。声を発するものはひとりもいない。これまでテレビ、あるいはクラスを隔てた存在であった播磨拳児が本当に修羅場を潜り抜けてきたことがその雰囲気だけで読み取れた。複数の意味で信じられない人生を送ってきているのだ、ひとたび本気で機嫌を損ねれば冗談ではなく一般高校生の手に負えない存在になるのは当然だろう。

 

 隣で機械的に受付業務を担当していた恭子でさえ目を丸くして去っていく拳児の背中を見つめていた。その場にいた誰もがお化け屋敷に入ろうとはしていなかったから、クラスの出し物の運営としてはとくに問題はなかった。しかしこれは本格的にまずいことをしてしまったのではないかという思いが恭子をかすめた。これまでもなにかあるたびに恭子に対して小さな文句ばかり言っていたのは事実だが、それ以上のことに発展したことはない。しかし今回のことが “それ以上のこと” になっているのはもはや疑いの余地のないことで、周囲の客も気まずそうに視線を移動させるだけで黙りこくってしまっている。拳児のあとを今すぐ追うわけにはいかない恭子は、いったんそのことを脇に置いてこの場の空気をもとに戻すべく動き始めた。

 

 

―――――

 

 

 

 両手をポケットに突っ込んでずかずかと歩く。いつもの廊下に比べて驚くほど人が多いがまるで気にすることなく真ん中を突っ切る。ときおり呼びかけるような声が聞こえてくるがそれに反応は示さない。パンフレットに記載された出し物の多くが校舎内にある以上、校舎内が人でごった返すのは自明である。もちろん使用されていない教室もあるにはあるが、そこには鍵がかかっている。したがって拳児はわずかにでも安息を求めるために、最悪でも校舎を出ようと足を動かしていた。学校から出てしまえるのなら御の字だが、さすがにその辺りは教師陣が張っていそうだ。とすると落としどころは校庭だろうか、と頭を働かせながらまたひとつ息をつく。

 

 拳児の感覚からすれば、根本的におかしいのだ。誰が誰を好こうが嫌おうがそんなことは当人の問題であって、外部が口を出すことそのものの理解に苦しむ。拳児のなかにそんな言葉が存在しているかどうかは知らないが、デリカシーがはじめて彼の問題として姿を現したのである。

 

 普段の拳児を知っているかどうかをまったく無視して、彼の様子はその不機嫌さを十分すぎるほどに伝えるものだった。いかつい歩き方をしているのには間違いがないのだが、いくらなんでもそれだけで彼の行こうとする道の先が自然と開けていくことに説明をつけるのは難しいだろう。その姿を目にしたものはあからさまに身を引き、話しながら歩いていて視線がよそを向いている友人がいれば避けるように腕を引いた。苛立っている拳児はそれを見てすら何も思わない。

 

 そうやって拳児を避ける人ごみの中に部員が紛れていたところで不思議はないだろう。

 

 

 のしのしと歩いて一瞬の沈黙を強制する背中を見送って、はてと首を傾げる少女の姿があった。先輩から聞いたところによるとすくなくとも今の時間、午前いっぱいだ、は受付にいるはずなのにどうしたことだろう、とふたつに提げた黒髪と額が特徴的な少女は疑問を進める。本来いるべき場所におらずに階段を降りていったということ、それを追いかける人がいないこと。それと見た限りでは機嫌が悪かったということ。漫は拳児をけっこうからかってきたという自覚があるが、怒ったところを見たことはない。そう考えるとよほどのことがあったのではないかと推測されるのだが、さてそうなると見当がつかないので首を傾げざるを得なくなるのだ。

 

 現時点でクラスの仕事がなく自由時間をもらっている漫は、初めから向かうつもりだった3-2のスペースである大会議室へと急ぐことにした。

 

 大会議室の近辺はとりあえず播磨拳児を一目見ようと集まってきた人たちと、やたらクオリティが高いお化け屋敷があるという噂につられてやってきた人たちとでごった返していた。それでも拳児本人がいたときよりはマシになってはいるのだが、それを知らない漫の感想は、大変そう、の一言に尽きた。とはいえ敬愛する先輩に挨拶に来たのであって、人ごみにリアクションを取るために来たわけではない。事前に聞いていた受付のところへどうにかこうにか人垣を抜けて顔を出した。二人掛けの受付に座っているのは恭子ひとりだ。

 

 「やっぱり! 末原先輩、播磨先輩いったいどうしたんです?」

 

 仕事もあるためにおおっぴらに長話もできない恭子は、自分の隣の空いている席を指して言外に座るように指示を出した。本来なら漫はこの受付席に何らの関係もないのだが、この場は文化祭であるので別に誰が注意をするということもない。とある事情があって漫は客への対応というものに慣れているため、恭子の動きを見て流れを確認してからは自然なかたちで手伝うことにした。

 

 そうしてある程度の時間が経って拳児が受付にいないという噂が全体に浸透すると、受付業務もようやく落ち着きを見せ始めた。つまり二人に話をする余裕ができてきたということだ。

 

 「漫ちゃん、助かったわ。ホンマありがとな」

 

 ふう、と恭子は長めに息をついた。実際問題として拳児の (いないにもかかわらず) 集客能力は半端なものではなく、あるいは開場前に諭した自分ですらそれを見誤っていたのかもしれない、と恭子に思わせるほどだった。

 

 「……階段近くで播磨先輩ちらっと見ましたけど、なんで脱走してるんです?」

 

 ここで “どうして怒っていたのか” を直接尋ねるほど漫は野暮ではない。

 

 「私のミスやな、文化祭で舞い上がってたいうてもヒドいことしたわ」

 

 「えっ、何かしてもうたんですか」

 

 「受付に置いといただけやけど、恋人の話で囃されまくったらそら播磨でもアタマくるわな」

 

 「あー、そういうことですか……」

 

 根本的な部分で勘違いが起きてはいるが、大雑把な理由としては間違っていない。ある意味では理由が間違っていないこと自体こそ面倒を引き起こす原因になりかねないのだが、当然ながら誰もそれにたどり着くことはできない。どちらかといえば恋人を喪ったという悲しみからの立ち直りという意味も含めてシリアス寄りかつ間違った方向に捉えている部員勢と、ただ一途であり続ける拳児のあいだには、決定的な違いがある。

 

 「いくら監督いうてもせいぜい同い年やいうこと忘れてたわ」

 

 「よう考えなくても同じ教室に播磨先輩いるんですもんね、想像しにくいですけど」

 

 3-2の面々からすればもう馴染んではいるものの、たしかに他のクラスや下の学年から見れば拳児が席について授業を受けているさまなどイメージしにくいに違いない。馴染んだとは認識しているクラスメイトの多くがいまだに似合わない、と思うほどには教室という場所は播磨拳児にそぐわない。いっそのこと授業中にマンガでも読み始めてくれたほうが絵としてはしっくりくるくらいなのだ。

 

 「謝るんは決まりやけど、どーしょかな。わりとマジっぽい感じやったしなぁ……」

 

 「マジっぽいてどないなったんですか」

 

 「なんも言わずにガタン、て席立って行ったパターンやな。見たことある?」

 

 「うわー、見たことないですそんなの。マジっぽいですね」

 

 重そうなため息をついた恭子の隣で漫の顔が引きつった。すくなくとも部員たちの前では本当に怒ったところを見せたことのない監督が、どうやら今度は本当に怒ったらしい。階段をのしのしと降りていった後ろ姿がはっきりと思い出される。どれだけ甘く見積もっても気にしていないということはあり得ないだろう。この場や恭子の様子を見る限りここで暴れたということはなさそうだが、よそでどうなっているかは軽々しく断定はできなさそうだった。いまだ知れない部分がほとんどを占める上に持っている背景が背景だ、それこそ何が起こるかわかったものではない。

 

 3-2のお化け屋敷は多少はマシになったとはいえ客足が途絶えたというわけでもなく、加えてどちらも拳児に関することで実りのあることが話せるわけでもなかったために自然と二人の口数は減っていった。わからないものへの対策など取りようがない。きちんと謝ることだけは外せないが、その上で拳児がどんな対応をするのかはまったく別の話である。場合によってはその前段階から難しいことになっている可能性も恭子には否定できなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 自分のクラスでの仕事の時間が来たという漫と途中で別れ、担当の時間が終わって恭子が最初に取り掛かったのは、あまり人の立ち入らないスポットを見て回ることだった。拳児が単独行動を取りたがることはよく知られた話である。昼休みにはいつも一人になるために屋上に行くことなど逆に学校中に知れ渡っているほどだ。しかし文化祭が行われているなかで一人になれる場所などほとんど限られており、恭子もはじめはすぐに見つかるだろうとタカをくくっていたのだが、捜し方が悪かったのか思い当たるところをすべて見回っても目的の人物の姿は影も形も見当たらなかった。

 

 あまり締まらないので手段としては選びたくなかったものだが、背に腹は代えられない。自分の落ち度で人を怒らせておいて何もしないなどというのはあってはならないことである。他人にわざわざ聞かせるような話でもないということもあって、恭子も人気のないところへ移動してスマートフォンを手にとった。

 

 友人に掛けるのとはまるで違う緊張のなかでコールする。呼び出し音が二回だけ鳴った。

 

 「オウ、俺だ」

 

 「あ、えっと、播磨? いまどこ?」

 

 「……末原か、どこでもいーだろが」

 

 「えーと、その、用があってな?」

 

 あからさまに面倒だと言わんばかりの舌打ちが耳元で響いた。電話の向こうの拳児には見えないだろうが、恭子の顔色が変わっていく。

 

 「用なら電話で足りんだろ、いちいち顔合わせるまでもねえ」

 

 恭子の顔が青ざめていく。どう好意的に捉えても、顔も見たくない、と言われているに等しい。状況はすべて恭子の考えを後押ししていた。決して特別な好意を持っているわけではないにせよ、人から拒絶されるというのは堪えるものである。もちろんそれも高校生という身において重要なことだが、それ以前に恭子は人としての礼儀を通そうとしているのだから簡単に引き下がるわけにはいかなかった。

 

 舌の付け根がこわばるのがはっきりとわかった。喉の奥にはひりつくような感覚がある。恭子の語勢はいつもと比べるまでもなく弱まっていた。いまは声が震えないようにするのが精一杯だ。

 

 「わ、私としてはできるだけ直に話しておきたいんやけど」

 

 「なんだ、直接じゃねえと都合悪いのか?」

 

 「……大筋では」

 

 「オイ末原、何が言いてえのかさっぱりわかんねえぞ」

 

 拳児の声がすべて圧力を持って発されているような気さえした。すべてに対して否定を唱えているように思われた。言うことを聞かない喉から必死に声を絞り出す。

 

 「あっ、あ……」

 

 「あ?」

 

 「……謝るんやったら、直接やないとダメやろ」

 

 「どういうことだ?」

 

 「だから! アタマ下げるんやったら面と向かわんと礼儀も何もないやろ!」

 

 「ナンでオメーが俺に謝んだ?」

 

 まるで想定していなかった一言に、恭子の思考は停止した。どうやっても話の筋道が通らない。恭子の頭はただただ混乱に巻き込まれていく。先ほどまでとは違った意味で言葉に詰まる。

 

 「いや、だって、その、さっき播磨が怒ったん私のせいやし」

 

 「ありゃ口やかましいバカが大勢いたからだ」

 

 「でっ、でも、受付に置かんようにしとったらあないならんかったやろ」

 

 「バカ言え、どこ歩いても大差ねーよ」

 

 膨らみすぎたビニール袋に穴が開けられて、ぷしゅう、と音を立てて空気が抜けていくような感覚が恭子の頭に残った。つまるところ思い込みが過ぎて、勝手に拳児が自分に対して怒りを抱いているということにしてしまっていたのだ。その前提を作り上げたからこそ電話を掛けるのにも緊張し、話が始まれば怯え、断られたらどうしようとひたすら弱気な思考が頭を巡っていた。思い出してみれば拳児はもともと不器用な話し方をする人物なのであって、普段の口調とこのたびの会話での口調に差はないと言っていい。恭子はなんだかこれまでの自分が急に恥ずかしくなってきた。

 

 空気が抜けるや今度は頬に熱が集まる。力の限り叫ぶなり携帯を叩き壊すなりしたかったが、そうすることに意味はない。先ほどまでのこわばっていた体とは反対に力の入らなくなった体を壁に預け、恭子は安堵のため息をついた。

 

 「怒ってないって聞いて安心したけど、こういうのはきちんとせなな。本当にごめんな」

 

 「いやアタマにゃ来てんだよ、オメーが関係ねーってだけで」

 

 いつもの拳児の調子というものを感触として思い出したことで、恭子もいつもの頭の回転を取り戻した。たしかに落ち度は彼女にあったし勝手に思い込んで先走った判断をしたのも彼女だ。しかし喉元過ぎればなんとやら、というやつで必要以上に気にしている様子は見受けられなかった。

 

 「それにしても意外やったんやけど」

 

 「何がだ」

 

 「播磨ってああいうとき暴れたりしないんやなー、って」

 

 「そういうワケにもいかねーだろが」

 

 拳児からしてみれば当然のことである。もしも暴れて卒業に響くようなことがあればこの環境に身を置く手配をしてくれた従姉との約束を破ることになる上に、卒業と同時にアメリカへ発つというプランが崩壊することになる。彼の想い人たる塚本天満に会えなくなるのではこの姫松にいる意味がなくなると言っても過言ではないのだ。

 

 既にアメリカに行く宣言は進路調査票で済ませてあるもののどうしてかクラスメイトには冗談として認識されているために、恭子がその拳児の計画に言及するわけがない。となれば自然、拳児の現在のポジションである監督という立場に絡めて思考を進めていくことになる。その基準となる拳児の監督としての評価は、もちろん彼の実力を別にして、インハイ優勝という最高レベルのものであることを忘れてはいけない。

 

 ( ……そっか、いくらなんでも監督が暴れたりしたらシャレならんもんな )

 

 「部のために我慢してくれた、いうことか」

 

 「……は? いや違げーけど」

 

 まったく部のことなど考えていなかった拳児は、恭子の言葉を理解するのに手間取って、返事をするのに多少の時間がかかってしまった。拳児が考えるために使ったその時間を電話の向こうの相手がそのままの意味で捉えてくれるわけがないなんてことは、彼にわかるわけがなかった。

 

 

 

 

 

 




諸事情ありまして、今後は更新がさらに不安定になります。
大変申し訳ありません。ですがもしよろしければ変わらぬお付き合いをいただきたいと思います。


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69 罠を張ったのは、誰?

―――――

 

 

 

 さすがにインターハイ決勝と比べるわけにはいかないが、それでもじゅうぶんに大勝負と言える拳児との対決を終えて、恭子はひとり空を見上げていた。

 

 聡い彼女はふたりの間にあった認識のずれをすでに整理している。たしかに自分が早とちりした面もあるのだろうが、だからといって拳児の割り切りのよさも普通とは言えそうにないなと恭子は思う。いつもであればここから個人的な反省なりなんなりを行うような流れだが、このたびの文化祭に限っては今ひとつそんな気分にはなれなかった。表現として正確かどうかはわからないが、どこから来るのかわからない気恥ずかしさと奇妙な疲れが恭子の思考を邪魔していた。

 

 恭子が今いるのは何にも使われていない教室、いわゆる休憩室のひとつだ。姫松高校の文化祭は毎年かなりの数の来客があるために休憩室は各階に二つずつ設置されることになっている。恭子がここにいるのは、クラスの仕事の影響で午前中は離れていた由子が集合場所としてここを指定したからである。窓の外へと向けていた視線を室内のほうへと向けてみると、だいたいが食べ物や飲み物を手に持って楽しそうに笑いあっていた。文化祭においてはお昼時などという考え方そのものの存在があやしいが、頃合いとしてはたしかにちょうどいい時間帯ではあった。

 

 電話口で由子が言うには少しだけ準備があるからちょっと待っててほしいということだったが、恭子はその準備とやらに大雑把な見当をつけていた。おそらく彼女の性格から考えて食べ物の類を持ってきてくれるのだろう。話の流れとはいえ由子ひとりにその準備をさせてしまうことに多少の後ろめたさはあったが、やはり先ほどの疲労が残っているのか自主的に動こうとは思えなかった。

 

 とくに体調を崩しているわけでもないのに風邪をひいたときのような頭の重さが残る感覚はひどく珍しいような気がして、その頭の調子のままにぼーっと由子を待つことを恭子は選んだ。じきに月が替わって秋の色がだんだんと濃くなっていく。紅葉が始まるまではもうしばらくかかるが、さすがに夏とは空気そのものが入れ替わる。緊急の要件がなければみんなでどこかに遊びにでも行きたくなるような季節だが、自分たちには受験が控えている上にひとりはプロ雀士としてやっていくために腕を磨く必要がある。案外と高校生のあいだには自由に使える時間が少ない、なんてことを恭子はとりとめもなく考えていた。

 

 

 「あれあれ、恭子はお疲れなのよー?」

 

 何も考えずにただ空に浮かぶ小さな雲を眺めていると、頭の後ろから聞きなれたやわらかい声が飛んできた。不意にかけられた声には驚いてしまうのが普通ではあるのだが、彼女の声は決まってそういう驚きを与えなかった。声をかけられたから振り向いて、そうするといつものようににこにこしている由子の顔がそこにあった。

 

 別にそれほど心配されていないことを表情から察して、恭子も笑って応対する。高校で二年半もいっしょに過ごすということは、ある程度の言葉を省略してもコミュニケーションを成り立たせることを可能にするのだ。

 

 「受付だけでへばるほど貧弱ちゃうわ。ってあれ、洋榎もいっしょやと思てたけど」

 

 「お祭りでヒロを抑えるなんて無理やって。今日は私もすれ違うくらいしか見てないのよー」

 

 何をどうやっても一座の中心についてしまうタイプであるがゆえに、彼女の交友範囲は恭子や由子と比べると圧倒的に広い。三年生に限定すれば洋榎と話したことのない生徒を探すのに苦労するほどだ。驚くべき人懐っこさと他者の心にずかずかと入り込んでさらにイヤな印象を与えない個性は大変に貴重で、そしてこっそり恭子と由子の不安の種にもなっている。幼稚まで言ってしまうと言葉が過ぎるが、それでももっと警戒感を持ってほしいというのが二人の正直なところだったりする。

 

 ビニール袋を机の上に置いて、由子は恭子の隣に腰を下ろした。がさがさとビニールの袋は音を立てて存在を主張する。袋の中身は事前に恭子が予想した通りにお昼のための軽食であるらしい。粉物文化の中心とさえ言える大阪の高校の文化祭だけあって、たこ焼きやお好み焼きを中心につまみやすいものがいくつか並んでいる。もうひとつの袋にはペットボトルが二本入っている。

 

 「あ、炭酸とそうじゃないのどっちにする?」

 

 「んー……、炭酸で」

 

 はい、と手渡されたペットボトルのフタを開ける。ぷしゅう、と気のいい音がして透明な気泡が上へと向かっていくのがよく見えた。由子と二人で袋から食べ物の入ったパックを取り出して、がしゃがしゃと音をさせながら輪ゴムを外す。まだまだじゅうぶんに温かい。恭子は由子に手を合わせてから、さっそく割り箸を動かし始めた。

 

 午前中は他のクラスの出し物を見て回る時間がなかったため、恭子は昼食をつつきながらどんな出し物があったのかを由子に聞くつもりだった。由子がまだ見ていないところは午後からいっしょに回ればいい。そんな平和なプランを練ってはいたものの、いまは口の中にたこ焼きがまるまる入っており、そのまましゃべるわけにはいかなかった。由子は隣でたこ焼きを食べる恭子を楽しそうに見ている。案外とこの教室に来る前にいくらかつまんできたのかもしれない。そんな彼女が見計らったようなタイミングで口を開いた。

 

 「そういえば途中で漫ちゃんと会って聞いたんだけど」

 

 「ふむ?」

 

 ティーンを中心層として人が集まるこの教室のなかで、妙なくらいに由子のちいさなはずの声が耳に刺さる。経験的に言ってこのパターンは恭子からすればロクな流れにならないのがほとんどだ。

 

 「播磨相手にやらかしたんやって?」

 

 「いや、まあその、間違ってはないけど行き違いはあったいうか……」

 

 複雑とまでは言えないにしてもヘンテコな事情とこっ恥ずかしさが相まって説明したくない、というのが恭子の偽らざる本心であった。話題が話題であるために普段通りの表情を維持できるはずもなく、なんとも居心地の悪いというかどぎまぎしているような印象を与えるものになっていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 視線を逸らして飲み物を流し込む恭子を見てもやはり由子は微笑んだままだった。彼女は彼女で考えるところがあるのだ。具体的には臨海女子との合宿で見聞きしたことが。そもそも共学でありながら女子麻雀部しかないという姫松高校の現状そのものがおかしいということに気付いてはいたがそれ自体はどうしようもなく、だからこそ播磨拳児というイレギュラーは部としても別の意味においてもうってつけの存在であったのだ。女子高生という生き物はよほどの理由がない限り恋愛の話を好むものであり、真瀬由子もまた例外ではなかった。

 

 「恭子もずいぶん厄介な相手を選んじゃったもんなのよー」

 

 それを聞いた恭子が、口の中のものをほとんど飲み下していたにもかかわらず、げほげほとむせ始めたのは由子にとっても意外なことだった。ひょっとしたら彼女が選んだ飲み物が炭酸であったからかもしれない。どうやら入ったところが悪かったらしく鼻の付け根を押さえている。おそらく目には涙がたまり始めているだろう。いま話しかけたところでどうにもならないと判断したのか、由子は大変そうな様子の恭子をただじっと見つめていた。

 

 由子がごめんごめんと謝るのを手で承けて、恭子はやっと呼吸を整えた。意外と派手にせき込んだために周囲からちょっとした注目を集めたが、やはりその注目はわずかなあいだしか続かなかった。さて恭子が受けた謝罪はあくまで変なタイミングで妙なことを言ったことに対してであり、その妙なことの内容についてはさすがに看過していない。たしかに具体的な言葉は出てきていないがその指すところは明白だ。

 

 「待ち待ちゆーこ、今のは私の聞き間違いやんな?」

 

 「聞き間違うような言い方はせえへんかった思うのよー」

 

 「わ、私が播磨にその、んんっ! えらっ、そういうのとは違うから!」

 

 「18歳にもなってそのリアクションは正直どうかと思うのよー?」

 

 わずかに呆れたようなジト目と楽しむような表情という両立しにくそうな二つを同時に成立させて、由子は飄々と言葉を返した。無論だが友人として幸せになってもらえるのならそれ以上のことはないと考えている。女子高生としての幸せがそういうことに限ると言うつもりはさすがにないが、ひとつのかたちとしてはあって然るべきものだろう。ところで由子がいつか漫と絹恵に話したように末原恭子個人のスペックは相当に高い。頭は回るし気立てもしっかりしている。また服装の趣味こそ野暮ったいところこそあるものの顔もかわいらしく整っている。これだけの条件を前提に考えれば、おそらく表面化していないだけで隠れファンのような存在はかなりいるだろうと由子は推測している。ならばなぜ彼女に挑戦していく男子がいないのかと部活を引退してできた夏休みに考えたとき、由子の脳裏にはいくつかの要因が浮かんだ。

 

 いちいちその要因を挙げてもどうしようもないのだから、そのことについては由子は放置をすることに決めた。問題は播磨拳児が姫松に来る以前の段階から恭子を口説く男子がいなかった部分にある。加えて言うなら恭子の目に麻雀以外が入っていなかったところにも問題がある。由子も我ながら趣味が悪いと思いながらもからかうのをまだやめるつもりはなかった。恭子と拳児がお似合いなのではないかと考えているのもまた本当のところではあるのだ。

 

 「いや、播磨はそういうのとちゃういうか、そういうタイプとちゃうやろ」

 

 「えー? どっちかいうたら恭子からどう見えるかが聞きたいところやけど」

 

 ぎしり、と椅子が軋む音がした。単純に姿勢を変えただけなのかもしれないし、何かの理由があって体を動かさざるを得なくなったのかもしれない。

 

 「……どう見えるー言われても悪いヤツやないくらいちゃうん」

 

 「私はもうちょっと良く言うてもええかなて思うのよー」

 

 「へ?」

 

 「意外と周り見てるし率先して動けるタイプやし」

 

 ちょうど郁乃がそうするように顎に人差し指を当てて視線を上にやり、ひとつひとつ探すように由子は言葉をつないでいく。監督としての動きを見てみれば、手段こそ彼にしかわからないような難解なものではあったが、漫や絹恵の精神面を考えた行動をきちんと採ったことや白糸台の弘世のクセを見抜くなど選手にはできなかったことをしたのは事実である。もちろん当の拳児はその辺りのことに何らの意識も割いてはいないが、そんなことは当人でない部員たちにとっては知る由もないことである。

 

 「頭いいタイプとはちゃうかもしれへんけど、ふつうにええ子やと思うのよー」

 

 「えっ、由子ひょっとして……」

 

 「別に好きとか言うつもりはないのよー、話してて面白いのはたしかやけどね」

 

 そう言ってお好み焼きを割り箸で一口サイズに切る由子の様子は実に自然で、自分がこの話題を他意なく選んだと恭子がきっと思うだろうと由子は自覚していた。由子個人の考えでは、他人の恋愛を無理やりどうこうというのはあまり好ましくないが、何かしらのきっかけを与えるくらいならいいのではと思っている。というより恭子に限定して言うならば、何らかのきっかけでもない限りそちらに意識がまるで向かないなんてことすらあり得る。そう考えれば真面目に過ぎる恭子にとってはある種必要であるとさえ言えるほどのおせっかいなのだ。うまく転がればかなり面白いことになりそうだが、由子の見込みとしてはそれほど期待できるものではなかった。もうひとつ事件が起きなければ状況は変わらないだろう。

 

 これ以上同じネタでイジり続けてもおそらく恭子がへそを曲げるだけで、この場では何も得るところがなさそうだと判断した由子は話題を変えることにした。午前中はずっと受付に座っていた恭子はきっとこの文化祭のパンフレットさえ満足に読めていないだろう。そう考えた由子はカバンからパンフレットを引っ張り出して、自分が見たところとまだ見ていないところとを分けて話し始めた。もう一度行ってもいいと思えるアトラクションや見ただけで手を出していない店の話など、午後だけで回り切れるか心配になるほどの情報は恭子の表情をすっかり明るくしていた。

 

 

―――――

 

 

 

 本来であれば、拳児の携帯電話は普段あまり鳴ることはない。そもそも電話番号を知っている人の数が限られている上に、さらに拳児に電話をかけられるような人物となるといっそう数は少なくなる。それはメールだろうが事情は変わらない。だいいち実際のところがどうであれ、少し前には裏プロという噂が立っていたほどの人物なのだから、気軽に接しろと言われても難しいのが当然のところなのに間違いはないだろう。部員であれば簡単な質問まではこなせるようになったとはいえ、それと電話をかけることのあいだにはいまだにちょっとした溝がある。したがって日に二度も電話がかかってきたこの文化祭は、彼にとって珍しい日に分類できる一日であった。

 

 

 見も知らぬ口やかましい外部の連中から逃れてよじ登ってたどり着いた体育倉庫の屋根の上は、汚いだけで何もなかった。校庭の端にあるぶん校舎が迫ってくるような感じもなく、上を見上げればただ真っ青な空が広がっている。わざわざ顔を上げて空を眺めることからは、しばらくどころかぱっと思い出せないほどに遠ざかっていた拳児は、他にやることもないからか素直にそれを享受することにした。高くて青いだけの空だというのに不思議と “飽きる” という考えが拳児には浮かんでこなかった。

 

 あまり知られていないことだが、意外なことに拳児にとっては空というものは一般的な人生を送っている人々よりは身近なものでさえある。それはヘリから飛び降りたり凧として舞ったなどといういつも通り常識からは離れた体験をしてきたこともそうだが、なによりバイクで遠出をした時に目に飛び込んでくるさまざまな空がいつでも傍にあったものだからだ。もともとそれを見てはしゃぐような性格をしていないことは周知の事実だが、ひとりで自然と向き合うような拳児の姿も逆に貴重な姿と言えそうだ。

 

 別に寒くもないのに突然に何かがこみ上げて、拳児はひとり盛大なくしゃみをしていた。鼻水が出るわけでもない乾いたくしゃみだった。ただくしゃみをしたあとの脳がわずかにぼんやりするあの状態だけはしっかりとあって、多くの人がそうするように彼もその状態に合わせてにごった声を出していた。そうやって頭をからっぽにしてただ呆けていると、拳児のポケットから着信音が響いた。彼自身が気に留めるようなことはないが、客観的に見ればそれだけで珍しい事態である。それも恭子からの電話からそれほど間を置かないタイミングでのものだ。それに対して拳児が採る行動はいつもと何らの変わりもない。よく画面も確認せずにさっさと通話ボタンを押していた。

 

 「オウ、俺だ」

 

 「あ、拳児くん~? いまちょっと時間ある~?」

 

 電話口から聞こえてきたのは、ここ半年でもはや耳慣れてしまった妙に間延びのする声だった。拳児からすると現在の生活の基盤を整えてくれたあらゆる意味で頭の上がらない存在である。もちろん可能性の話ではあるが、もし彼女がいなければ拳児はそこらで野垂れ死ぬパターンさえあったかもしれないのだ。

 

 「あぁ、赤阪サン。別にいいスよ」

 

 「よかった~、ええとな、来週の土日のハナシなんやけど~」

 

 姫松高校麻雀部の活動は木曜が休みでそれ以外は練習日というかたちを基本形にしており、そのかたちから外れる場合には少なくとも二週間前にはプリントを配布して周知することを徹底している。人数が多いために情報の伝達には気を遣わなければならないからだ。当然ながら拳児もすでにその形式に慣れており、だからこそ郁乃が突然に来週の話を始めたことに違和感を持った。

 

 体育倉庫の屋根の上には余計なものは何もなく、強すぎない日差しにときおり吹くそよ風は実に過ごしやすい。しかし拳児の脳裏にはイヤな予感がこびりついていた。具体的にどんな予感であるかを言葉にすることはできないが、はっきりとそこにあることだけは感知できる。まるで曲がり角の向こうから大きな車体のアイドリングの音だけが聞こえてくるように。それでも彼に話を聞かないという選択肢は残されていなかった。

 

 「実はな~、拳児くんにちょっとしたお誘いが来てて~」

 

 「お誘い、スか」

 

 「うん~、それでちょっとそっちに行ってもらえへんかな~、て思てて~」

 

 このわずかなやり取りのなかに郁乃の悪癖がきちんと出ているのに気付けるようになれば、彼女への理解が一段階深まったことの証明になるだろう。彼女自身は作為をもっているわけではないのだが、その言葉の選び方は結果的に相手の逃げ道を奪っているのが常となっている。

 

 電話口の向こうではまず間違いなくいつものようにふわふわとした笑みを浮かべているだろう。声色もいつもの調子とまるで変わりない。というか拳児は郁乃がいつもの調子から外れたところを見たことがない。いくらなんでも二年生や三年生であればそれくらいは見たこともあるだろうとは拳児も思うのだが、断言できないところがまたなんとも消化しきれない気味の悪さを残した。

 

 しかし今はそんな個人的なことばかりを考えているわけにもいかず、春に比べ姫松高校麻雀部の関係者としての思考ができるようになった拳児は心の中である程度の方針は決めていた。そもそもインターハイ以前からインタビューは受けていたし、本選に出場してからは試合ごとに対応してきた。こちらから出向くという部分だけがよくつかめないが、大筋では似たものだろうと考えて、拳児は決めた答えを返すことにした。

 

 「別にいいスよ、責任みてーなモンなんだろーし」

 

 「ホンマ? ありがとう拳児くん~。実はついさっき電話きたばっかでな~」

 

 「で、どこ行きゃいいんスか」

 

 「えっとな、臨海女子、なんやけど~」

 

 

 

 

 

 

 



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70 播磨拳児の価値2nd

―――――

 

 

 

 自然に囲まれた環境と比べるわけにはいかないが、それでもすっきりとした秋晴れの下に辻垣内智葉の姿があった。寮から部室までのそれほど長くはない見慣れた景色をゆっくりと楽しみながら歩いていく。すでに部を引退しているのだからとくに部に顔を出す必要はなく、それどころか智葉個人はOGが頻繁に顔を出すのは好ましくないとも考えているのだが、可愛がってきた後輩たちのたってのお願いとあらば聞かないわけにもいかないだろう。唯一智葉にとって奇妙に思える点は、一緒に寮を出ればいいものをメグがさっさと先行してしまったことだった。たしかに練習開始時刻と比べればずいぶん重役出勤だと言えるが、そもそも呼び出されたのがこの時刻なのだから仕方がない。むしろメグがそんなに練習に出たがっていたのかと智葉は驚きをさえ覚えていた。

 

 時期としては制服の夏服から冬服への衣替えを済ませてすこしだけ経った辺りで、まだ日によっては上着を脱いでしまいたいこともある。今日は特別に暑いとも寒いとも感じないが、おそらく歩いているうちに汗がにじんでくるだろう。見慣れ過ぎたやけに大きな校門を通り過ぎる。思えば休日に高校へ来るのはしばらくぶりで、そういえば校内に入るまでは運動部の声がよく響いていたのだったと智葉は思い出した。現役だったころはほとんどそちらに気を配ることはなかったが、余裕のある身となった今では意外と興味の対象となる。自身でもそれほど運動が苦手だとは思っておらず、またそれを眺めるのも嫌いではない智葉は先ほどよりも歩くペースをすこし落とした。

 

 普段ならまずありえないことだが親しんだ高校の敷地内ということもあったのだろう、わき見をしながら歩いていた智葉は前を行く誰かにぶつかってしまった。どれほど気を抜いていたのかと自分に呆れながら謝罪をしようと視線を前に戻すと、とても奇妙というか存在するはずのない背中がそこにあって、智葉の頭からは謝罪の言葉が吹き飛んでしまった。

 

 「あ?」

 

 不機嫌そうに振り向いたボタンを一つも留めていない学ラン姿のその男に智葉は見覚えがある。いや見覚えがあるどころか彼女からすればぶっちぎりで複雑な立場にいる男だ。臨海女子の優勝を阻んだ姫松の監督でありながら多大なる勘違いに巻き込まれており、なぜかその秘密を智葉だけが知っているという、どう扱えばいいのかわからないことこの上ない男だ。ついでに言うなら智葉の個人的事情に顔を出し始めているとする説が、本人は全力で否定するだろうが臨海女子の麻雀部で上がってもいる存在でもある。

 

 本当にいつ見ても変わらない出で立ちのおかげで一目で判断がつく。サングラスにカチューシャに山羊ヒゲ。せいぜい違うところを挙げるとするならカバンを肩から提げているところだろうか。なぜか荷物を持たない印象がついているため、似合わないような気さえしてしまう。さすがに大阪から東京まで来てフリーハンドは考えにくいのだから、拳児が荷物を持ってきていることは別段おかしいことではないのだが。ちなみに彼女は例外的にサングラスをかけていない拳児を見たことがあるが、そのことに今は触れる必要もないだろう。

 

 「ンだ、オメーか」

 

 「あ、ああ。すまない」

 

 ある種の混乱状態から智葉がやっと絞り出したのは、ぶつかったことに対する謝罪の言葉だった。この辺りに彼女の律儀な性格が透けて見える。内面がどうであれ外から見ればそれほど取り乱したように見えないのも鍛錬の賜物だろうか。

 

 ぶつかってきたのが智葉であると確認した拳児がさっさと向きを変えて歩き出す。拳児らしいと言えば拳児らしいが、それをそのまま放っておけるわけもない。言ってみれば問題が服を着て歩いているようなものなのだ。

 

 「いやちょっと待て播磨、お前そもそもなんでここにいるんだ?」

 

 「呼ばれたからに決まってんだろ。でなきゃわざわざ大阪から来ねーよ」

 

 その一言に隠された拳児の事情を智葉はかなりの精度で読み取った。智葉からすれば拳児が麻雀に関して指導をするレベルにないことを知っているのは赤坂郁乃、辻垣内智葉自身の二名のみであり、世間的に見れば姫松を優勝に導いた高校生にして新人のとんでもない監督ということになる。それは智葉が所属していた臨海女子の麻雀部でも認識は同じであって、たとえば郝慧宇は彼に敬意を表して “(ラオ)” と呼んでいる。そしてそんな拳児がどんな指導をしているのかを知りたいと思えば実際に呼び寄せるのが最上の策に決まっている。また都合のいいことにと言うべきか悪いことにと言うべきか、ゴールデンウイークのあいだにともに合宿を行ったという縁もあってよその高校より依頼を通しやすいのはたしかなところだ。つまるところ彼に関する誤解が呼び込んだ事態であると考えていいらしい。

 

 彼が監督を務める姫松においてどうやってその指導ができないという問題に対処しているのかはわからないが、同じ手法がここで取れるとは智葉には考えられなかった。たまたまインターハイの本選のあいだに出くわしたときに交わした会話のおかげで、智葉は拳児の異常な目のことを知ってはいる。しかしその能力がもたらすものはあまりに抽象的すぎて指導に使うのには向かないのではないかと思われた。そしてそうなればこの臨海女子での指導で馬脚を露わにしてしまうことになりかねない。一瞬でそこまで思考した彼女は拳児にこう問わざるを得なかった。

 

 「断る選択肢もあっただろう。どうして話を受けたんだ」

 

 「るせェな、なんでもいいだろ」

 

 ふいと智葉のほうへ向けていた顔を前へ戻して再び拳児は歩き出した。今度は止めるのではなく智葉がついていくかたちで話を続けていく。ただ、どの順番で話したところでどうしてここにいるのかを話すつもりは拳児にはもうないようだった。そもそも拳児は周囲に誤解されっぱなしの実力を正しいものに認識し直してもらおうとしてきたにもかかわらず、それがまるでうまくいかなかった現実があるということを彼女が思い出すのはもう少し先のことである。

 

 

―――――

 

 

 

 部活動が始まる前から気になっているのに誰も言い出さないからなんとなく言い出せなくて、練習そのものは粛々と続けられていくのがまた余計に漫の気になるセンサーを刺激した。誰一人として表情には出していないが、それでも全員が同じことを気にかけていることを漫はわかっていた。象徴というか、あって当たり前のものが今日に限ってないのだから。

 

 そのことに一枚噛んでいるだろうコーチは、いつものようにふらふらと卓のあいだをさまよってはメモを取ったりときおり立ち止まってじっと特定の卓を見つめたりしていた。もちろん打っている最中に止めて話を始めるようなことはないし、対局の合間のアドバイスははっと気づかされるようなものがほとんどである。改めて考えてみれば郁乃だけでも相当に優秀な指導者だというのに、よく播磨拳児を迎え入れようとしたものだ。

 

 ふんふんと気分良さそうに鼻歌混じりであっちへ行ってはこっちをのぞき込む彼女の姿は、このまま黙っていたら拳児がこの場に姿を見せていない理由をきっと話してくれないだろうと思わせるのに十分だった。漫個人としても気になるのには違いないし、新主将としても監督がいない理由は知っておかねばなるまい。想像しにくいがもし病気などしていたらお見舞いなども選択肢に入れる必要があるだろう。漫はついに決心して郁乃のほうへと足を向けた。

 

 「あの、コーチ。播磨先輩は今日お休みですか?」

 

 「ん、ああ、拳児くん今日は東京におってな~」

 

 「えっ」

 

 漫が郁乃に質問をしに行った時点で部員のほとんどがそちらに意識を集中していたが、郁乃が答えを返した瞬間に彼女たちはいっせいに振り向いた。初めからぼんやりとした予想しかしていなかったにせよ、彼女たちにとって東京というアンサーは文字通り遠いところにあるものだった。

 

 「東京いうたら東京しかないやん~。ほら、あの夢の国のある~」

 

 「それは千葉です」

 

 うふふ、と郁乃は満足そうに微笑んだが、漫をはじめとして部員たちの顔は困惑に満ちていた。監督が部活を休むところまではわかるにしても、なぜ東京に行く必要があるのだろう。東京で開催される大会に出る予定はないし、そもそも拳児がひとりで行ってどうなるわけでもない。それにきちんと郁乃が行き先を知っているということはサボリでもないのだろう。

 

 もはや練習が完全に止まったことに郁乃以外は誰も気付いていなかった。郁乃はほんのわずかに笑みを深めて漫に答えてあげるふりをして部室全体にそのやわらかい声を届けた。練習が止まっていることに不快感を示すだろう洋榎は先ほどトイレにダッシュで向かっているため、この空間は完全に郁乃のものだった。

 

 「あんな~、実は拳児くん臨海さんにお呼ばれしててな~」

 

 「臨海て、辻垣内さんのトコですか!?」

 

 「もう辻垣内ちゃんは引退してるけどな~。そろそろ練習に参加しとるんちゃうかな~」

 

 「なんでまた……」

 

 「ホントのこと言うとな~、インハイ終わってからいろんなオファーたくさん来とってん」

 

 実際問題、高校生監督ということで就任直後から注目を集めに集めた拳児ではあったが、本人の経歴がまったくわからないことと年齢のことを踏まえて、その実力を疑問視する向きがあったのは事実である。それに加えて年度初めはインターハイの予選が近いために、近隣の学校とはよほど力が均衡していない限り合同練習や練習試合を行うことはない。さらに予選が終わってしまえば残すは本選だけとなり、より高密度の練習が要求される。たとえばインターハイ出場校同士ならばその要求は達成されるだろうが、予選以降はその条件にあてはまる学校同士での練習が規定で禁止されている。これは完全とは言えないものの地方ごとの練習格差を少なくしようとする動きから来るものである。

 

 インターハイを終えてみれば姫松は団体戦でみごとに優勝を決めてみせ、それは各選手の能力の証明と同時に監督がすくなくとも無能ではないことの証明にもなっていた。そんな姫松と合同練習を行いたい、あるいは未だ高校生という若さにして白糸台と臨海女子を押しのけて優勝へと導いた播磨拳児から話を聞きたいと考える学校が出るのは自然な流れとさえ言えるだろう。とはいえ今回の出張は双方ともに意図するところが違っているのだが、それに部員たちが気付くにはヒントが足りなかった。

 

 「でもそれ全部受けてると私らも練習ならんし、拳児くんずっと大阪におれんくなるから~」

 

 「それやとどうして臨海はオッケーやったんですか?」

 

 「サンドラちゃんがすごいから勉強してほしいのと~、偵察?」

 

 ふわふわとしたいつもの笑顔のまま放たれたその言葉を聞いて、漫の口は思わずひくついた。

 

 「あと言うても拳児くん高校生やし、他の環境も見やんと進路狭まってまうもんな~」

 

 「……進路?」

 

 漫からすれば、あるいは部員たちからすれば郁乃の言っていることの意味がよくわからなかった。現在監督を務める拳児の進路などひとつしかない。というより進路という考え方そのものが存在せず、あの春の衝撃的な出会いから彼が監督なのであってそれが続くものだと思い込んでいた。いや、もっと正確に表現するなら続くか続かないかで考えたことすらなかった。

 

 じわりとねずみ色をした空気があらゆる物の隙間から滲んでくるような気がした。インターハイで感じられるような不安感とはまた違った、何かが崩されていくのではないかというイヤな予感が初めて生まれた。大会中に絹恵が教えてくれたように、拳児は()()()()である。そうだ、彼はまだ監督ではない。それはつまり来年にはいない可能性があるということでもあって、漫はそれがイヤだった。単純に持っていかれてしまうような気がした。

 

 「えっ、ちょっ、播磨先輩卒業したら辞めてまうんですか!?」

 

 「それは拳児くんに聞いてみいひんとな~、もちろん私も続けてほしいとは思うけど~」

 

 顎に人差し指をあてる仕草は普段と変わりないが、いつもと違って少しだけ眉を困らせて郁乃は返答した。その様子は部員たちに、郁乃から見ても拳児は重要な役割を担っているのだろうことを思わせた。同時にその言葉から拳児自身が姫松に居たいと思えば監督を続けてくれるということに思い至った。

 

 とはいえあの男が相手となると何がその琴線に触れるのかがまるでわからない。たとえば拳児が好むものは何か、と問われたところでせいぜい漫に答えられるのはバイクぐらいのものだ。それも別に乗り回している拳児に遭遇したことがあるというわけでもなく、インターハイ決勝の控室での話題にちょろっと出ただけでどの程度の入れ込み具合なのかはまるで知らない。そのほかとなるとさっぱりだ。立ち止まって考えてみれば播磨拳児という男の趣味も嗜好も思考回路も判断基準も何一つとしてわかっていないことに初めて気付いて漫は愕然とした。つい最近似たような体験をした少女がいるのだが、もちろんそんなことを彼女が知るわけもない。

 

 見方によっては全国優勝を目指す名門としての環境がこの状況を生み出したと言えるのかもしれない。全体的に生活のリソースの大部分を部活に捧げてきた彼女たちに大きな余裕はなく、謎に満ち満ちた新監督について考えている暇などそれこそなかった。そしてその大目的であるインターハイを終えて、“播磨拳児の人間化” がやっと始まったのだ。細かい部分の解釈はそれぞれ分かれるかもしれないが、いきなり奇妙な環境に放り込まれて半年ほど経ってようやくこの扱いになる辺り、彼は同情をされて然るべきだろう。

 

 

―――――

 

 

 

 最終的に諦めた智葉を連れて臨海女子麻雀部の部室の扉を開けた拳児は、姫松とは違うタイプの広さを有している室内を見回して初めに足を運ぶべきところを見定めた。もちろんいきなり開いた扉に日本を含むさまざまな国籍の部員たちがその視線を拳児に集めたが、いまさら彼がそんなものを気にするわけがない。当たり前のように一歩踏み出そうとして途中でやめ、くるりと振り向いて智葉に向かって口を開いた。

 

 「オメーもあれか、先に監督サンとこにアイサツするつもりか?」

 

 「まあ、そのつもりだ」

 

 この言葉が拳児の口から自発的に出されたということをいったい誰が信じるだろうか。あるいは姫松の部員たちであればまだ理解してくれるかもしれない。もしも姫松以前の彼を知る人物に聞かせたら間違いなく冗談だと笑うだろう。それもずいぶん下手くそだと付け加えた上で。以前から振る舞いは粗暴だったわりに誰かに叩き込まれたのかと思うくらいに意外と目上に礼儀を通すことは知られていたが、そこに “誰かに対して気を遣う” という新たな芽がゆっくりと育っていたことは知られていない。実は姫松に来る前の段階からわずかなりともその萌芽は見られていたのだが、粗暴という凝り固まった拳児のイメージがそれを改めて認識することを阻害していた。

 

 こう声をかけられたからには智葉としても拳児の後ろをついていくのが自然な流れだろう。気を遣われたこと自体に、へえ、と思わなくもなかったが、ここで監督として来ている彼の前に立って歩くのはいくらなんでも無礼が過ぎるというものだ。それなりに礼儀に通じているのかと思いきやポケットに手を突っ込んでチンピラのように歩く拳児に疑問を抱きながら、智葉は彼の後ろを数歩下がって歩き始めた。

 

 

 OGとしての挨拶を先に済ませた智葉はとりあえずその場を離れることにした。監督同士の話に首を突っ込む気はさらさらなかったし、自分の居所としても違うと感じたからだ。ひょっとしたら部員には聞かせたくない話題が出ることもあるかもしれないしな、と智葉なりに気を遣った部分もないわけではない。智葉の足は特に距離の近かったあの夏の団体メンバーのもとへと向いていた。

 

 「この面子で卓を囲んでいるのを見てもとくに新鮮味は感じないな」

 

 「あ、サトハ」

 

 智葉が声をかけると、卓についていた四人がいっせいに視線を上げた。面子はそのまま全国大会上位レベルの卓と言っても過言ではない。対局途中で声をかけるのはよろしくない行為だと理解はしていたが、今日のメインとされているだろう男が到着したのだから問題ないと智葉は判断した。四人の表情を見るに彼女が声をかけてきたことに不満を持っている者はいないようだ。

 

 もともとの立場もあるため彼女たちとの会話も挨拶程度に収めて、新たに部を担っていくことになった新部長に声をかけにいくつもりだったが、智葉のその見通しは甘かった。彼女はまだ渦に巻き込まれていることにさえ気付いていない。ちょうど背中を向けて座っていたネリーが、振り向いて夏以前を思い出させるような調子で口を開いた。

 

 「監督とのお話終わったの?」

 

 「ああ、私は簡単な挨拶だけだから」

 

 「ふーん。ケンジはいつ話終わりそう?」

 

 「監督同士の話だから見当もつかん。……あまりちょっかい出し過ぎるなよ?」

 

 思い返せばあの合宿でちょくちょく一緒に行動していた映像がよみがえる。身長差で言えばメグとネリーのほうが差が開いているはずなのだが、拳児とネリーの並びはそれ以上に違和感を与えるものだった。現実に何がどうなるというものでもないが、とりあえずよその監督の邪魔をするのは止めるべきだろう。そんなことを話しているうちに拳児とアレクサンドラの話も終わったようで、軽い会釈をして姫松の監督が移動を始めた。

 

 「あ、終わったみたい。ちょっと行ってくるね!」

 

 どうせこうなるだろうと思っていた智葉はちいさくため息をつくだけで済ませた。視線を卓についている残った三人に戻すと、なんとも言い難い表情をしていた。悪いことが起きたときの表情ではないことは確かだが、ならば良いものに分類できるかと言われても困るタイプのものだ。三人ともがそれぞれ浮かべている表情は違っていたが、その根源にあるものは同じであるように智葉には思われた。

 

 ネリーは席を立ってしまったし、誰も手を動かしていない。彼女たちの注意はもう卓上には向けられていないようだった。ある意味では正しいだろう。今日のゲストである拳児と智葉、それに先に到着していたがメグが揃ったのだから。しかし本来ゲストの身分であるはずのメグは、どちらかといえばホストの立場にいるような雰囲気だった。なにか面倒くさい匂いを嗅ぎ取った智葉はわずかに言葉に険を滲ませてメグに問うた。

 

 「そのカオはどういうつもりだ?」

 

 「どういうもナニもありませンヨ。ただ播磨クンとサトハが監督のところに行くノガ」

 

 「行くのが?」

 

 「お世話になったヒトに結婚報告してるようにしか見えなかっただケデ」

 

 メグが言葉を切ると同時にそれまで頑張って黙っていた明華と郝が噴き出した。いちばん付き合いの短い郝とでさえそれなりの密度の時間を過ごしてきた自負はあったしその郝より学年がひとつ上の明華は言わずもがなだが、それでも初めて見るほどの勢いであった。よく見なくても笑いださないようにくつくつと堪えているのがわかる。つまりこのどうしようもないアホどもは未だに同じネタを引っ張り続けるつもりなのだな、と智葉が修羅になりかけたとき、郝が震えながらまさかの追撃を加えた。

 

 「さ、三歩下がってついていくなんて、くふっ、り、立派な奥方ではありませんか……!」

 

 「なあ前から思ってたんだが日本文化の知識が妙に偏ってないかお前」

 

 いま智葉が実力行使に出ていないのは練習時間だからであって、もし練習時間でなければ確実にネリー以外を追い回す場面が見られただろう。それは臨海女子の持つ対外的なイメージからすると衝撃的ですらある。しかしどれだけ外から大人っぽく見えようと中身は高校生なのであって、友人とはバカなことをしているのが実際のところなのである。

 

 即座に実力行使に出られない智葉はかなり本気で三人を睨んで、後で起こることを意識させた。それは彼女たちから苦笑いを引き出したが、そのなかに苦くないものがわずかに混じっていることなど智葉にわかるわけがなかった。彼女が評した “どうしようもないアホども” はまだその本領を見せてはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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71 立場の変化

―――――

 

 

 

 「サトハー、ちょっといい?」

 

 外国人留学生が多数派を占めるこの臨海女子麻雀部 (智葉からすれば問題児集団と読む) を新たに引っ張っていくことになった新部長に挨拶を済ませると、すこし距離のあるところから聞きなれた感じで声をかけられた。これからどうしたものかと考えていたところでもあったから、彼女にとっては渡りに船、といったやつだ。

 

 声の調子から急ぎであるようにも思えなかったこともあって、智葉は焦ることなく声の主であるアレクサンドラのもとへと向かった。当のアレクサンドラも椅子に腰かけて、のんびりと部室全体に目を配っている。しっかりと二年半過ごしてきた智葉だからわかることだが、この空間は指導を受けるというよりは実戦で牙を研いでいく空間だ。部としての方針や実績もあって未経験者が入ってくることはまずなく、したがってアレクサンドラが指導に回ることもそうそうない。

 

 「なんでしょう」

 

 「ん、今日の動きについて話してなかったなと思ってね」

 

 言われてみればそのとおりだ。いったんは挨拶だけを済ませて場を辞したのだから当然だろう。とはいえ播磨拳児が控えていたのだから仕方のないことでもあって、言ってみればここまでの流れは初めから決まっていたものだったのかもしれない。それとは別に自分を呼んだのには、部として何らかの理由があるのだろうし、とりあえず智葉は立ったまま意識の上で背筋を正した。

 

 「今日はさ、サトハに播磨少年についてもらおうかなって思ってて」

 

 「……は?」

 

 「まあ合宿の経験もあるから彼も練習の具合とかある程度わかってるとは思うんだけどね」

 

 「それなら私がつく必要もないでしょう」

 

 てっきり練習相手として呼ばれたものだと思っていた智葉の返答はかなりトゲのあるものになっていた。すくなくとも部の監督に対する言葉遣いでないのは明白だ。ただ国民性の違いかもともと持っている気質のせいか、アレクサンドラはそれについては何も思ってはいないようだった。あるいは自由に振る舞う部員たちと比べれば何でもないことなのかもしれない。ぼんやりと視線を中空にさまよわせて次にどんな言葉を選ぶべきかを悩んでいるように智葉には見えた。

 

 会話の進行が途切れたこともあって、智葉は話題に上がった当の拳児を不意に探してしまった。ちょうど肩から提げていた荷物を部屋の隅に置き終えてその辺の卓に移動しようとしているところだった。ちなみにちょっかいを出しに行ったネリーが近くをちょろちょろと動き回っている。正直どうでもいいことではあったが、拳児の荷物の中身がまったくイメージできないことが智葉の気にかかった。カバンそのものは小さいというわけではない。意外な趣味でも抱えているのだろうか、と考えたところでアレクサンドラの声が智葉を現実に引き戻した。

 

 「さすがにぶっつけでうちの子たちの戦い方を理解するのはしんどいでしょ?」

 

 「ですがアイツの目は」

 

 「それは知ってる。でも人数を考えてあげるといい、効率にも差が出るし」

 

 伊達にこの臨海女子の監督を務めていない、と智葉は心のなかで嘆息した。あのインターハイの蕎麦屋での彼の言葉を信じるなら、拳児が自身のスペックについて語ったのは自分に対してだけだ。それをいつの間にか把握しているということは内容こそわからないがそれなりのアクションを取ったということであり、また同時に彼に対して何らかの違和感を抱いたということの証左でもある。ここまで言われてしまえばこれ以上の反抗はただの子供じみたわがままでしかない。それを悟った彼女は了承の意を伝えて身を翻した。

 

 

―――――

 

 

 

 「ねえケンジ、今日は何しにきたの?」

 

 「何しに、っつってもな……。いちおう監督として呼ばれたんだから指導とかじゃねーの」

 

 本来なら彼の口からは出てこないような返答がなされたのには理由がある。実は姫松の監督になりたての頃とは状況が変わって、拳児は明確に監督としての立場を守らなくてはならなくなったのである。だからこそ拳児は秋以降もサボることなく部に顔を出したし、郁乃から出された新レギュラーを考えるという宿題にも時間を割いていた。全国優勝をするまでは気付いていなかったのだが、箔というものはその価値をキープしてこそ意味を成すものであり、もし今それを崩してしまえば播磨拳児はただの嘘つきチンピラになってしまいかねない。むしろ拳児の戦いが始まったのは大会が終わってからのことだった。最高にかっこいい播磨拳児を保ったまま愛する塚本天満に会いに行かねばこれまでの生活のすべてが水泡に帰すということを拳児ただひとりだけが理解していた。

 

 したがって拳児はもう “バレてもいいや” という思考のもとで行動することができなくなっている。彼が最も苦手とする隠し事をしながらの生活が始まっていたのだ。校舎に入る前の段階で智葉からどうして断らなかったのかとさんざん聞かれたが、できれば拳児も嘘が露見する可能性のあることは避けたかったというのが本当のところだった。ならばなぜ来てしまったのかと問われれば、それが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の頼みだからである。彼女がいなければ生活もままならなかったこともそうだが、現状を維持することにおいてもその存在は欠かせないものになっている。勝手に出来上がった構図とはいえ、拳児が郁乃の頼みを断ることなどまずありえないのである。拳児はどちらかといえばお人好しに分類されるうえに、誰かの行動の意図を考えるようなタイプでもない。だからどうして自分がここにいるのかということは考えず、どうやってここから先をしのごうかということばかり考えていた。

 

 「なんだ、遊びに来たんじゃないの?」

 

 「んなコトのためにこっちにゃ来ねーよ」

 

 「まあいいや、ネリーたちのとこおいでよ」

 

 言うだけ言って弾むような足取りで彼女が向かった先には、臨海女子の中でも印象に残った顔が揃っていた。ついさっきまで一緒にいた辻垣内智葉を合わせて考えれば団体メンバー勢ぞろいというやつで、姫松の人間としての印象から言えばずいぶん苦労させてくれた相手だ。実際に個々人がどう思っているかまでは拳児は知らないが、全体としての印象はそういうことになる。とはいえ合宿をともに行った間柄でもあり、年がら年中敵対しているわけでもない関係上、その辺りのことをあまり気にせずに拳児はネリーのあとをついていった。

 

 

 拳児の感じた違和感は、むしろ異物として扱われないことだった。悲しい話だが今ではホームである姫松でさえもともとそんな扱いを受けてきた彼からすると、この歓迎に近い彼女たちの対応はまったく身に馴染まないものだった。唯一あるべき反応をしてくれたのは道中で質問攻めにしてくれた智葉だけである。もちろん大阪からやってきた他校の監督に対して敵対的な態度を取るというのは失礼極まりないもので、あってはならないことだ。ただそのことを別にしても果たして文化の違いや校風と言われて納得できるかと聞かれれば素直には頷きづらいだろう。

 

 すでに郝、明華、メグ、ネリーに対してそれぞれがぶつかった姫松の面子の話を尋ねられたから話をしておいてはみたものの、やはり違和感は拭えない。ある種の雑談といえば雑談なのだから当たり前とも言えるが、先の話題が彼女たちの本筋であるようにはどうしても思えなかった。会話をしているときのテンションなどは拳児の記憶に残っている合宿時のものと差がないように思われるのだが、どこかが違うような気がする。確信を持てない上にどう問いただせばよいのかもわからないため、結局のところ拳児は黙ることを選択せざるを得なかった。

 

 「ところで播磨クン、来るときサトハと一緒みたいでしたケド、何話してたんでスカ?」

 

 「ああ? 別に面白れーハナシはしてねーよ、なんで来たのかずっと聞かれてた」

 

 「……サトハもソートー奥手でスネ」

 

 ちいさなため息とともに呟かれたメグの言葉は拳児の耳には届かなかった。一瞬だけ奇妙な間が空いて、それを拒むようにネリーがふいと視線を別のところへ投げた。どうやらあまり落ち着きのあるタイプではないらしい。たしか年齢で言えば郝と同じだったはずだが、高校一年生にもなるとずいぶんと成長に差が出るようだと拳児は感心していた。自身もかなり偏った成長をしていることには当然気付かない。投げた視線の先にネリーがうれしそうに声をかけた。

 

 「サトハ! またこっちに来てくれたの!?」

 

 「今度は監督の指示だよ。まあ、お前らというよりは播磨なんだが」

 

 「おや、いっしょに何かするのですか?」

 

 智葉の言葉を承けて今度は郝が反応した。ついさっきの彼女の笑いを堪えきれなかった姿を思い出すと、おそらく智葉からすればロクなことを考えているようには思われないだろう。というより彼女の携帯争奪戦の一翼を担っている存在なのだから、こと播磨拳児に関する件について良いイメージを持っているわけがないのだ。普段の生活で楽しいことがあったときのものとも麻雀のときのものとも違う笑顔を浮かべている郝を見て、わずかに眉間にしわを寄せて智葉が口を開いた。

 

 「サポートにつくってだけの話だ、それよりメグ」

 

 「どうしまシタ?」

 

 「お前は播磨のサポートにつかないのか」

 

 「タイプ的に私がサポート向いてないの知ってますヨネ? だからサトハを推薦したんでスヨ」

 

 何を当たり前のことを、とでも言うように飄々と答えるメグと彼女を相手に頭を抱える智葉のやりとりを、はじめ拳児は口をはさむこともなくただじっと見ていた。なぜなら話にまったくついていけていないからだ。そもそも女子集団であるうえに彼女たちはもともとチームメイトでもあったのだから、そっちのけにされること自体は決しておかしなことではない。しかしそのことと本人の目の前でその本人が理解していない話を展開することの正当性とのあいだに関わりがあるわけでもない。やっと言葉の理解が追い付いた拳児が、ついで確認を取ろうとしたのは自明のことである。

 

 「えっ、なに辻垣内オメー俺のサポートにつくの?」

 

 「待て、お前監督から聞いていないのか?」

 

 聞いていないものは聞いていないのだから、拳児は素直にそう答えた。すると目の前の少女の顔が、麻雀を打つ準備を整えていないために眼鏡をしているわけでも髪を後ろに下げているわけでもないその顔が、一段階険しくなった。誰かを咎めるようなものではなく、真剣に考察を進めているときのものだ。状況だけ見れば自分の発言が智葉に何かを考えさせていることになるのだろうことは拳児にもわかったが、その内容がまるでわからなかった。彼女がサポートにつくのを聞いていなかったと答えただけで考えるべき事柄が生まれるとは到底思えない。拳児からすればこの状況そのものが不思議でしかたなかった。

 

 五秒ほど思考の海に沈んだ智葉は意識をこちら側に戻し、静かな声色のなかにはっきりと赤い色をした感情を乗せてこう問うた。そうは言っても半ば以上問いではなかった。

 

 「……お前ら、監督まで巻き込んだな?」

 

 

―――――

 

 

 

 愛宕洋榎にはときおり自分の世界に閉じこもるクセがあって、その世界の風景がどんなものなのかを知っているのは当然本人しかいない。周囲の人間にわかっていることは、そこに入り込むのは麻雀について考えるときに限られているらしいということだけだ。そのせいで彼女に解説を頼んだとき、その口から言葉となって出てくるのはいろいろと抜け落ちたものであるのだという。いま洋榎はまさに自分の世界に閉じこもっていて、それもお手洗いから戻ってくるなりいきなりその状態に入ったものだから、部員たちとしてもなんとも声をかけづらかった。

 

 しかしその中でただひとりだけ、額の特徴的な少女だけが自分の世界に閉じこもっている彼女のもとへとまっすぐ進んでいった。

 

 「主将! ちょっとええですか?」

 

 「……お、なんや漫か。ちゅーかもううちは主将ちゃうやろ、そろそろ二ヶ月経つで」

 

 「あ、えっと、それやったら、……先輩!」

 

 「まあなんでもええけど。で、なんや」

 

 それほど深くは潜っていなかったのか、想定していたよりも速やかに、かつ穏やかに対応してくれたことに漫は安堵していた。漫個人の感想としては、ここ最近の洋榎はどこか不安定な面が顔を覗かせているような気がしていたからだ。ただ具体的にどこがおかしいと言えるような部分はないし、そんな感じがするというレベルのものではあったが。それよりも今は話を聞いてもらうことのほうが重要であったため、漫の頭はそちらにしか向いていなかった。

 

 「あのですね、えーっと、今日播磨先輩来てないじゃないですか」

 

 「ん、おおホンマやな。なんか足りん思ったらそれか」

 

 「それで実は臨海女子に指導に行ってるらしいんですけど」

 

 「ほー、呼ばれたんか。出世したもんやな」

 

 呑気に答えを返す洋榎が漫には不満だった。だが彼女はついさっきこの部室に戻ってきたのであって、どうして漫がいま拳児に関する話の説明をしているのかといえば、洋榎がその話を知らないからである。漫はこの当たり前の論理に気が付けないほどに動転したまま話を続けていた。

 

 「いえその、それで、播磨先輩が卒業したら監督辞めてまうかもしれなくてですね」

 

 「待ち待ち、なんで臨海に呼ばれたら監督辞めることになんねん」

 

 言われて一拍置いて、やっと漫は自分の説明が穴だらけどころの騒ぎではないことに気が付いた。恥ずかしさと壊れていた思考回路を吹き飛ばすように顔をぶるぶると振って、そうしてから漫は先ほど郁乃が話した内容を洋榎に説明した。

 

 

 きちんとした説明を聞いて洋榎が口にした言葉は、そうか、という一言だけだった。

 

 漫が話をしている途中にも表情に微細な変化はあったものの、そこから感情の動きを正確に読み取るのは困難な程度のものでしかなかった。それは漫が想定していたものよりずっと淡白なもので、ひどく冷淡に感じられるものだった。ひょっとして嫌いになるようなことでもあったのだろうかと考えてみるが、どうにもイメージがしにくい。そもそも昨日の段階ではいつも通りに接しているのを見ている。漫はまたも不満を感じると同時に不思議で仕方がなかった。

 

 「え、もっとなんか無いんですか」

 

 「そら続けてもらいたいのもわかるけどな、結局は播磨自身の問題やろ?」

 

 漫の印象では三年生の中でいちばん精力的に動いてくれそうな存在だったために、余計に彼女の口からこぼれた言葉はかつんと頭に響いた。欲しかったのはオトナの意見ではなく、女子高生の無謀でもなんでもいいワガママな意見だった。

 

 返す言葉が思いつかなくて、漫は少しのあいだ黙り込んでしまった。洋榎の表情は先ほどまでと変わらずいつもよりはいくぶん真面目なままだ。視線は漫からは外されている。ここからいきなり冗談でした、と態度を改めるようなことはまずないだろう。いくらなんでも何も思っていないということはないのだろうが、その中身が外面からでは読み取れないのだ。

 

 それから洋榎は腕を組んで目を閉じ、沈思黙考の構えに入った。漫が初めて見る彼女の姿だった。麻雀について考えるときは放心したように遠くを見つめるのが彼女の習わしで、それ以外は存在しない。漫が息を呑んで一分か二分かが経過し、ゆっくり目を開いた洋榎が拾うように言葉を紡いだ。

 

 「なァ、漫」

 

 「っ、はい!」

 

 「播磨のヤツもどこかは知らんけど地元を離れてこっちにおんのやろ?」

 

 「えっと、たぶんそうやと思います」

 

 そやんなあ、とこぼすと、洋榎はまた腕を組んで目を閉じた。

 

 

―――――

 

 

 

 「なあ、オメーらってよ、後釜とかいんの?」

 

 「なんだ藪から棒に」

 

 拳児の目のことを知っている智葉がまず全員の対局を見て回ることを提案し、それにしたがって卓から卓のあいだを移動しているときのことだった。珍しいことに顔を智葉のほうに向けての問いかけだった。智葉からすると拳児の目 (サングラスだが) を見るためには見上げるかたちになる。身近にメグという長身の友人がいるためにそれほど違和感を抱くことはなかった。

 

 「ウチんとこもよ、愛宕の、……末原もだな、代わりをどーすっか考えててな」

 

 「あんなのがぽこぽこ出てきてたまるか」

 

 「だからヨソがどーなってんのか聞くのもアリかと思ったんだよ」

 

 拳児が言い終わると同時に智葉の視線が顔ごと動いた。その先にはひとつの卓があって、当たり前のことだが四人の少女がそれを囲んでいる。拳児が見る限り、そこには日本人がひとりいるようだった。なんとも奇妙な話だが、国ごとの人数割合としてはいちばん多いはずなのにここ臨海女子ではむしろ日本人のほうが浮いて見えるような気さえしてくる。

 

 「ひょっとしてあの日本人か? てっきり外国のヤツかと思ってたぜ」

 

 「先鋒だけは日本人じゃないといけなくてな、他の学校は気にすることもないだろうが」

 

 「そんなルールはじめて聞いたぞオイ」

 

 「この間のインハイから改正されたんだ、条項の細かいところだよ」

 

 いつの間にか足を止めて、その少女がいる卓を遠目に見ながらふたりは話をしていた。その卓の進行は淀みもなく雰囲気も穏やかなようで、局の合間にはなんらかのやりとりもあるようだった。公式の試合やあるいはそれを意識した練習ともなれば話は変わるのだろうが、そういった特別ななにかが無い限りは同じ部の仲間と打っていればそういう雰囲気になるのは自然な話であり、また拳児にとっても見慣れた一幕であった。

 

 本来ならゴールデンウイークの合同合宿で既に面通しは済んでいるはずなのだが、まさか拳児にその少女のことを覚えていることを期待するわけにもいくまい。なにせ姫松においてもようやく顔と名前が全員一致し始めたくらいであり、臨海女子においては辻垣内智葉とメガン・ダヴァン以外は名前をきちんと覚えていないのだから。失礼と言ってしまえば実際否定はできないのだが、悲しいかなこれが拳児のマックスである。したがって次の拳児の発言はごくごく正当なものに違いなかった。

 

 「一応名前くれー聞いとくか」

 

 

 その異常性を知っているとはいえ、それを目の当たりにするとさすがの智葉もなにかうすら寒いものを感じずにはいられなかった。卓を見回り始めたときには二局かせいぜい三局見る程度で、しっかりと見るわけではないのだなと思っていたのだが、それは智葉の思い込みでしかなかった。いま拳児はちょうど打ち終わった智葉の後釜に質問を飛ばしているところなのだが、その内容が問題だった。

 

 麻雀においてすべての局で全力で攻めるというのはそもそもあり得ない話で、自分の手の具合や相手の出方を見て動き方を決めるのが自然である。言い方を変えれば手の抜き方というものがあって、その調整次第では対局相手の自らに対する認識をずらすこともできる。もちろんそんなものは超々高度な技術であって成立させるためには複数の厄介な条件が存在するのだから基本的には考える必要はない。とはいえ手の抜き方そのものが重要な技術であることには変わりがない。当然ながら同卓していても外から見ていてもそれを見抜くのは至難である。普通ならば。

 

 問題は彼が未だ麻雀のスキルに関して初心者でしかない身でありながら麻雀を打っている人間の実力と全力かどうかを見抜いてしまう目を持っていることであり、そこから生まれる質問はされた側にとっては凶悪そのものでしかなかった。“なんでさっきの南三局、獲りに行かなかったんだ?” と、彼はごく当たり前のように問うたのである。

 

 明白にオリを選択したりミスをしたならば、外から見ているぶんには理解できることもあるだろう。しかし拳児が指した局には明白なオリなど見られなかったし、臨海女子においてそういったミスなどまず見られない。つまり技術的に隠蔽された手抜きを拳児はたった三局眺めただけで見て取ったのであり、それは智葉のレベルにあってもはっきりおかしいことだと断言できた。下手をすれば部員が潰されてしまいかねないと思った智葉は、どうにかしてあの男をこの場から引き離さねばならぬと決意した。

 

 

―――――

 

 

 

 結局あちらこちらと見て回り、拳児が事故を起こしかけては智葉がフォローに回るという形式で進んでいった練習も、いつしか終盤に差し掛かっていた。他校からの客が来ているとはいえ別に長期の休みでもないため、自主的なものを例外とすればさすがに夜まで練習を組んでいるということもない。自分がまだ現役で練習していたころと比べて日が短くなったな、と窓の外を眺めた智葉が感傷に耽りかけたそのとき、なにかがおかしいことに気が付いた。もう日が暮れつつある。おかしくない。そろそろ練習が終わろうとしている。これもおかしくない。播磨拳児がまだ智葉の隣にいる。これだ。

 

 「おい播磨、お前新幹線の時間は大丈夫なのか?」

 

 「は?」

 

 声色と表情から、何言ってんだコイツ、と言外に含んでいるのがありありと感じられる。

 

 「ちょっと待て。お前いつ帰るつもりだ」

 

 「明日の夕方四時くれーのに乗るから、それよりは前だな」

 

 何言ってんだコイツ、と今度は智葉が言いたくなった。明日もいるだなんて聞いていない。たしかに尋ねてもいないがそんなことは考えないのが普通ではないだろうか。ああそういえば似合わないカバンを提げていたな、と智葉は思い出す。気付くきっかけはゼロではなかったのだ。ずいぶん弛んでいるようだ、とため息をつく。

 

 「……泊まる場所は?」

 

 「宿直室を借りることになってんな。ま、寝れんならどこでも問題ねーよ」

 

 ここまで来てようやく智葉は事態の大きさを理解した。これは決してあの問題児どもの突発的な行動ではない。アレクサンドラどころかおそらく姫松までもが一枚噛んでいると見るべきだろう。そうでなければご自慢のインハイ優勝監督を泊まりがけで貸し出すわけがないからだ。何を企んでいるかはわからないが、さてそうなるとこれまではあるかどうかがわからなかった正解の行動そのものが完全に消滅する。何らかの特別なアクションを起こせば、それはきっと常に誰かの思うつぼだろうからだ。今日一日の疲労感と、このタイミングで巻き込まれていたことに気付いたせいでイラッときていた智葉は反骨精神の塊だった。そしてそいつらの要求なんて呑んでやるものかと考えた智葉はひとつの決断をした。問題児どもにからかわれるのは勘弁願いたいところだが、それでも拳児に対して徹底的に普通に接することにしよう、と。

 

 直後に第二ラウンドの始まりを告げるゴングが手を振りながらやってきた。

 

 「サトハー、せっかくでスシ播磨クン誘って一緒にディナーにしましョウ!」

 

 

 

 

 

 

 

 



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72 揺れろ金魚藻

―――――

 

 

 

 「へー、俺ァてっきりオメーはプロに行くもんだとばっかり思ってたけどな」

 

 それなりに栄えた駅前へと向かう住宅街の道を六人の集団が行く。いったん寮に戻って着替えたのだろう、さすがに外に出る目的が食事だけなのだから華やかというわけにはいかないが、一人を除いてこざっぱりとした服装に変わっている。もちろん例外の一人は女性陣の中に学ランで平然と歩いている。二週間以上ものあいだホテル住まいになるインターハイにおいてさえ外用の私服を持ってこなかった彼が、まさか一泊二日程度の日程で学ラン以外を持ってくるはずがあるまい。箇条書きにして彼の服装を羅列していくと明らかにヘンテコなのだが、どうしてか拳児の場合はそれが似合ってしまう。なんとも奇妙な話だった。

 

 話題の中心になっているのは、どうやらこの夏まで先鋒を務めた彼女の進路についてであるらしい。拳児の発言に呼応するようにあちこちから “不思議だった” だの “ネリーもそう思ってた” だのと声が上がる。たしかにそれこそ世界ランカーやジュニアとはいえ銀メダリストを抱える臨海女子において、誰からも文句の出ないエース格なのだからその道に進むことに対する期待が高まるのも当然といえば当然ではある。また本人もそのことに対してある程度は自覚的であると見てよさそうだ。どんなに低く見積もってもそんなことがわからないほど頭が鈍いようには見受けられない。

 

 「……別に麻雀が人生のすべてというわけじゃないだろう」

 

 「や、まあそうなんだけどよ」

 

 「時間をかけていろんなものを見て、それから判断しても遅くはないと思ったんだよ」

 

 会話は成立こそしているが、歩きながらのものであるために互いに向き合うことなく視線をただ前に投げながら行われた。もともとどちらも話をする際に手の動作や表情を使うことの少ないタイプだ、声さえ届けばほとんど問題はない。あとの四人のうちでは郝だけがその系統に属し、メグに明華にネリーの三人は表情豊かに話を進める。現にいまも智葉の進路の話に関係あるなしを無視して楽しそうに会話を繰り広げている。まだ早い時間帯とはいえ女子高校生という身分にとって友達との夜のおでかけは楽しいものなのだろう。

 

 月は雲に隠れているらしく、夜の明かりはせいぜい街灯や民家からこぼれる光程度のもので、隣の顔を確認するのがやっとといったところだった。智葉が何気なく拳児のほうに顔を向けてみると、珍しいことに考え事をしているように見受けられた。わずかに顎を上げて、視線もきっと同様だろう。このタイミングで何を考えることがあるのかは知らないが、思うことがあるというのはいいことだと智葉は視線を戻した。

 

 「そーいえばサトハ、あのキンギョ、だっけ? は元気?」

 

 話題が切れたと見たのか、ネリーがなんでもない雑談のネタを口にした。臨海女子に通う生徒の多くは学校指定の寮住まいをしており、それはここにいる拳児を除く全員に共通していた。同じ建物の中に住んでいるのだから互いの部屋に遊びに行くこともそう珍しいことではなく、口を開いたネリーだけでなく全員がその存在を知っているようだった。拳児を除いた全員の視線が一気に智葉に集まって、その金魚に対する感想を次々と述べ始めた。いわく、ちっちゃくてかわいいだとか綺麗な色をしているだとか。拳児がまだ中空を見据えて物思いに耽っている一方で、智葉の表情がほんのわずかなあいだ苦いものに変わった。

 

 「ああ。すいすい泳いでいるしエサもよく食べる」

 

 「しかし突然でしたヨネ、ゴールドフィッシュ飼うなんて一言も言ってなかったノニ」

 

 「別に言う必要もないだろう。現役のころに比べて時間ができたってだけの話だ」

 

 一瞬で平静を取り戻して、まったく違和感を抱かせない応対をしてみせる。意外と、と言っては失礼なのかもしれないが、彼女はどうやら演技派であるらしい。しかし同時にそこが限界でもあるらしかった。いくらなんでも人の口から飛び出す言葉を止めることなどできやしない。ほとんど話を聞いていないであろう拳児にパスを送ったのは郝だった。

 

 「老はサトハの金魚の話、知ってました?」

 

 「ん? ワリィ聞いてなかった。なんだって?」

 

 「金魚ですよ金魚。サトハが飼い始めたんです」

 

 「お、なんだオメーあれきちんと世話してんのか」

 

 拳児のその発言におや、と首を傾げるのが四人。一気に顔がこわばるのが一人。彼の言い方だと本来なら知らないはずの金魚の存在を智葉が手に入れる段階で知っていたことになる。これはおかしなことだ。言うまでもなく普段ふたりは大阪と東京という離れた土地にいるのであって、彼女たちのように部屋の様子を知ることができないのが道理だからだ。連絡手段もあるにはあるが、智葉は強制的に電話をかけさせない限り連絡を取ることはないし、また拳児も気軽に誰かに電話をかけて会話を楽しむタイプでないのも自明である。

 

 もし四人のうちで誰かが日本のお祭りをきちんと知っていて、なおかつ智葉にとって面倒な想像力を備えていたとすれば、そこで事情を察することができたのかもしれない。しかし現実はそうではなく、むしろ彼女にとって最も面倒なほうに事態は転がっていった。

 

 「不思議ですね、なぜ老がサトハの金魚のことを知っているのですか」

 

 「なんでも何も俺が金魚すくいで取ってやったんだよ。笑えるぜ、コイツ意外に下手でな」

 

 笑えるぜ、などと言うわりにはちっとも笑わず、ただ機嫌だけはよさそうに話す拳児に視線が集まって、その直後にやはり四人ともが智葉のほうを振り返った。言葉は弾丸と同じだ、放たれてしまえばもう戻ってはこない。なかったことにはできず、大抵の場合は弾痕を残していく。

 

 お祭りに詳しくなかったように、彼女たちはきっと金魚すくいについてもあまり知らなかったのだろうが、それでも智葉と拳児がふたりで遊びに行くシーンなどあの夏の仕組んだお祭りに限定されていることだけは知っていた。その辺りのつながりを導き出せないほどの鈍い頭などこの場には存在していない。むしろ状況的には回転数を上げていく場面ですらある。

 

 「サトハに苦手なものがあったのも気になりまスガ、それっていわばプレゼントですヨネ?」

 

 「あん? そうなんのか?」

 

 あの播磨拳児がそんなことに自覚的であるわけがなく、誰かに確認を求めてしまうのはある意味自然な流れと言えた。ただそこで本人に確認してしまう辺りが拳児が拳児たる所以である。

 

 「なるわけがないだろう。あれは情けをかけてもらったようなものだ」

 

 「情け、でスカ? ンー、あんまりピンときませンネ」

 

 「やかましい。だいたいあれはお前たちが……」

 

 仕組んだんじゃないか、と言いかけて智葉は口を閉じた。その言葉はほとんど決定的なものになってしまいかねない。何を仕組んだ、と聞かれてしまえば逃げ道がなくなるからだ。無論これは素の拳児をよく知らないからそう考えてしまうのであって、彼をよく知ってさえいれば別に目の前で何を話しても察することはないとわかるものである。いま智葉も含めて臨海女子の面々が知っているのはそこに有能かそうでないかの違いはあっても監督としての拳児であって、やはり一個の人間としての拳児には誰もたどり着いていない。そして彼が恋愛面においての察しの良さにおいてどれだけ低く見積もっても平均的なものを備えていると思い込んでしまうのは自然といえば自然なことであり、智葉が言葉を続けることができなかったのは避けられないことでもあった。

 

 「ねえねえ、そんなことよりケンジはよくプレゼントあげるの? ネリーにもくれる?」

 

 「やらねーしそんなモン考えたこともねえ。他を当たんな」

 

 彼の事情を完全に理解している人間ならば嘘だと言うことができる発言だが、驚くべきことに拳児のなかではこれは嘘に分類されない。なぜなら彼にとってプレゼントとは塚本天満に渡すものを指すのであって、それ以外はとくに意味を持たないものだからだ。

 

 しかし他方で拳児に対する勘違いは全国的に広まっており、その意味でも彼の発言は周囲にダウトと取られるものでしかなかった。姫松ではもはや公然の秘密と化しつつあることと、拳児に正面から向かっていける人材がいないという事情が相まって半ば忘れていたことが再び彼に牙を剥いた。

 

 「ウソだよ、だって大星がテレビでプレゼント買うのの手伝いしたって言ってたよ」

 

 「もしかして今日サトハにあげるために持ってきまシタ?」

 

 「違げーっつの、あれはアイツの勘違いであってだな……」

 

 姫松で三年生を相手に何度もしてきた説明をここでも繰り返すのか、と拳児は若干疲れたように言葉を返した。世間的に見れば彼は優勝監督であると同時に悲恋を乗り越えて新しい一歩を踏み出そうとしているひとりの男でもある。むしろ夏の大会が終わってひと息ついてしまえばそういう男としての側面が強くなる。いったんはそれぞれのチームが落ち着いてかたちを変えていく時期という関係上、個人に注目が集まるのは仕方のないこととも言える。言い方を変えれば彼の強烈すぎる個性の弊害でもあった。

 

 話題が拳児に移ったときに安堵した智葉だったが、ほんの短い時間でそれを修正しなければならなくなっていた。いつの間にか話題の範囲に自身が含まれていることに気が付いたからだ。いま下手に口を出してしまえば槍玉にあがることは間違いないし、黙っていても話を振られる可能性は高い。もし初めから計画されていた運びだとすれば恐るべき展開力だと思わずにはいられなかった。雑談でそんなことがあればの話だが。

 

 「ケンジはサトハに金魚をあげたのですから、更に、なんてくどいということですね」

 

 「オイ日傘、オメー実はまともに話とか聞いてねータイプだな?」

 

 そうこう話しているうちに目的の店についたことで気が付けばその話題も止まり、今度は食事に向けての話題が始まった。拳児にはそういう習慣がないから見られなかったが、智葉は店につくまでため息の連続だった。なにせ誰も悪いことをしていないのだから感情の矛先をどこにも向けられなくて、結局は自身のなかで消化かあるいはため込むことしかできなかった。こういう立場になった経験が浅いということもあるが、智葉はその疲労感からいわゆるいじられキャラというポジションにある人に対して畏敬の念を抱き始めていた。

 

 

―――――

 

 

 

 平均的な女性から見れば明らかに異常な量を食べる拳児や、お互いに普段は何を食べているのかなどの話、またもや拳児と智葉の話題で食事は盛り上がりには事欠かなかった。初めて見る料理に騒いだり、とりあえず拳児に毒見させてみたり、そんな騒がしいなかでもきちんと上品に食事を続けていた智葉だったりと、どこかあの合同合宿のときよりも自然な姿が見られた。そのなかに当然のように拳児が紛れ込んでいることをどう捉えるべきかはわからないが。

 

 外へ出てみるとすこしだけ空気が冷たくなったようだった。食後ということで体が温まっていたことも関係しているのかもしれない。空の色は青の濃度をうんと上げたような色をしていて、暗いのには違いないのだが決して黒と呼ぶべきではない色であった。いくらか顔を動かして探してみるとひとつだけ星が見えた。住宅街とはいえ都心にかなり近いこの場所で見えるということはまず一等星だろう。雲は流れていったのか見当たらなかった。

 

 「ところで、結局のところ播磨クンから見てサトハはどういうポジションなんでスカ?」

 

 「あ? ……そーだな、あー……、ケッコー感謝してんぜ」

 

 唐突なメグの質問ではあったが、言うまでもなく智葉自身にそれを止める術はない。もうすでに状況は完成されている。彼女にできることは過敏な反応と取られない程度に口をはさむことと、拳児が帰ったあとにこの問題児どもを締め上げることだけだ。

 

 「感謝? それはまたどうシテ」

 

 「辻垣内のおかげで上重のやつの意識が変わったってのがデケーな」

 

 「ちょっと待て。そういう話は本人のいないところでするものだろう」

 

 いきなり感謝をされても反応に困るうえに、放っておけばエスカレートしていきそうな気がした智葉はあくまで常識の範囲内で収めるように手を打った。間違っても照れ隠しに声を荒げたり手を出したりはしない。そういう隙のなさが問題児どものやる気を煽っていることに本人が気が付いていないのは秘密の話である。

 

 「でも老は普段こちらにいないのですから機会は今しかありませんよ」

 

 「上重、ってあのおでこおっぱいでしょ? どう変わったの?」

 

 多勢に無勢、というやつで智葉の意見などすぐさま流されていく。これが部としての活動であればそれなりの強制力を発揮することもできるのだが、いかんせん場としてはプライベートなものであってどうしようもない。しかも時期的に彼女はすでに引退してしまっている。こういった無力感はこれまであまり感じたことはなかったが、意外と楽しんでいる自分もいることを否定しきれないのが智葉の最近の悩みの種でもあった。

 

 拳児が漫の変容をどうにかこうにかと説明している横で、行きとは逆に今度は智葉がぼんやりと物思いに耽っているようだった。高校三年生という多くのことを考えなければならない特別な時期であることを考慮に入れればどこにもおかしいところはない。ほとんどの場合どれだけ時間があっても足りないのだから。具体的に彼女が何を考えているかを知ることは誰にもできないが、しかし播磨拳児が関わっているだろうことだけは容易に推測できた。なぜなら彼女の口からごく自然にこんな言葉が飛び出したからだ。決して不満が込められた言葉ではなく、わからないものの目の前に立ったときに身体の内側から湧いてくる純粋な疑問だった。

 

 「おい播磨」

 

 「ナンだ」

 

 「お前、いったい何なんだ」

 

 彼の経歴を考えれば妥当も妥当の質問ではある。それでもこの問いが拳児の実際的な事柄を知るためのものでないことは言わずと知れたことだった。ただ同時に何を指しているのかが不明瞭であることも事実であり、決してよくできた質問ではなかった。しかしそんなこと以上に重要なことは辻垣内智葉がこれを自身のうちに留めておけなかったというところにある。思慮深く、怜悧とさえ言っていいかもしれない彼女が何かの思考の果てにこう問わざるを得なかったことは、播磨拳児の存在がすくなくとも確実に彼女になんらかの影響を与えていることを示していた。

 

 これは明確な変化であった。人によってはちいさなものだと言うかもしれない。拳児はおろか、臨海女子の部員の大半でさえも同じように考えるかもしれない。しかし短くないあいだ仲睦まじく智葉と付き合ってきた彼女たちは、その変化を大きなものと捉えた。もともと女子高という環境もあってそういった話題とはあまり縁がなく、また興味も薄かった彼女が興味の対象に選んだということと同義であるからだ。それにすくなくとも悪い意味での興味でないことは間違いない。たとえこの場ではできないにしても、メグをはじめとした問題児たちは祝福しないわけにはいかなかった。

 

 「俺様は俺様だ。覚えときな、テストに出るぜ」

 

 「……そうか」

 

 「オイ、せめて触れろや」

 

 はじめからまともに答えが返ってくるとは思っていなかった智葉は、特別にリアクションを取るでもなく拳児の言葉を受け取った。そもそもの問いが不出来なのだから欲しい答えも不確かで、だから性質としては問いでさえなかったのかもしれない。

 

 「おいコイツひょっとしてツッコミとかできねータイプか?」

 

 「イエイエ、いつもはきちんとツッコんでくれまスヨ? 冷淡ですケド」

 

 

―――――

 

 

 

 寮の玄関前で解散したあと、智葉は部屋に戻ってすぐに英語の復習を始めた。本当ならすぐに大浴場へ向かってもよかったのだが、風呂ではひとりで過ごすのが好きな彼女にはできるだけ人数が少ない時間帯を選ぶ習慣がついていた。本当なら部屋ごとに備えてあれば最高だと考えているのだが、寮に入っている人数規模を考えればそれは無理な話だった。彼女の部屋は女子高生という前提を置くとひどく殺風景なもので、クローゼットのついた一般的なワンルームの空間に本棚と机とベッド、それにあまり活用頻度の多くないテレビが台の上に置かれている。ただひとつ視覚的に楽しめるものといえば流し台のそばに置いてある噂の金魚鉢だけだ。

 

 取り組んでいる内容は単語と熟語の確認で、英語を母国語とするメグに聞いてみると、どうやらかなり珍しい言い回しが試験では人気らしい。あまり日常会話では使わないものが多い、とのことだが、たしかに考えてみれば日本語も似たようなものかと納得した経緯が智葉にもある。文法をかちっと守ってしゃべる日本人になど会ったことがない。とはいえそれは勉強をおろそかにする理由にはならないため、彼女のペンを動かす手は止まらなかった。

 

 

 ふと麦茶が飲みたくなって、智葉は冷蔵庫に立つついでに鉢のほうへ足を向けてみた。けさ部屋を出た時と変わることなく二匹ともすいすい泳いでいる。それにあわせて金魚藻がゆっくりと揺れていた。智葉はこの眺めが好きだった。朱と黒で見分けがすぐにつくから、二匹ともとくに名前はつけていない。部屋に来た連中にさんざん言われてはいるが、呼んで応えるようなものではないのだから必要ないと彼女は考えているのだ。

 

 ほんの二分ほど目線の高さを合わせて鉢の中を眺めて、彼女は冷蔵庫のほうへ振り返った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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73 密着播磨拳児24時

―――――

 

 

 

 私生活が想像できない、という声が校外どころか校内からさえ聞かれる男、播磨拳児。

 

 今回はそんな彼の、彼にとっては取るに足らない一日の生活を追ってみよう。

 

 

 

―――――

 

 

 

 午前七時半。太陽はすっかり空に上がり、すでに活動を始めている人のほうが多くなっているこの時間に播磨拳児は目を覚ます。携帯電話のアラーム機能を目覚ましとして使用しているようで、けたたましく音を立てる枕もとの携帯へと手を伸ばす。学校まではちんたら歩いて十分と少ししかかからないためにこんな時間に起きてもまったく問題はなく、それどころか時間的な余裕がかなりできるほどである。

 

 彼が起きてまず行うことはトースターに食パンを二枚入れて電源を入れることである。そうしてから洗面所へ向かって顔を洗う。とくに洗顔料などは使っていないようで、単純に水の音がぱしゃぱしゃとだけ聞こえてくる。次第に意識がはっきりしてきた辺りでちょうどよくトースターが出来上がりを知らせ、拳児は冷蔵庫のバターを取りにゆっくりと動き始める。そのときの気分次第ではジャムなんかも塗ることがあるようで、冷蔵庫の中にその姿が確認できる。

 

 手早く食事を済ませるとハンガーにかけてある制服に着替えて身だしなみを整える。とはいえそれはかなり大げさな表現で、いちばん時間をかけるのが山羊ヒゲだというのだから程度が知れる。カチューシャで髪を無理やり後ろに抑え込んでサングラスをかければそれで完成だ。それから家を出るまではとくに何をするでもなくぼーっとしたり、なんとなくラジオをつけてみたりと定まっていない。間違っても余裕のある時間に学校へ行ったりはしないようだ。

 

 

 教科書やノートの類を学校に置きっぱなしにしている拳児は、筆記用具以外はほぼ何も入っていないカバンを手に家を出て通学路をちんたら歩く。まっすぐ道を歩くだけで姫松高校にたどり着くのだが、その途中の曲がり角が最寄りの駅に通じている道であるためにそこから急に姫松生の数が増える。しかし拳児の姿を見るということは時間的に相当ギリギリであることと意味を同じくしており、走っている生徒も少なくない。教室が四階にある者はなおさらである。ただ、面白いことに拳児を追い抜いていくほとんどすべての生徒が彼に挨拶を投げていく。それは男女を問わないし、走っているのと歩いているのも問わない。文字通りほとんどが拳児に声をかけていくのである。

 

 いつからこうなったかと言えばはっきり夏休み明けであり、あのインターハイ制覇が強く影響しているのは疑う余地のないことだった。夏休み前までも声をかけていく生徒はちょろちょろとはいたものの、現在のようにほとんど全員などということは決してなかった。どこかヒーローというかそういった扱いが始まっているのだ。拳児は拳児でかけられた声に適当に返事をする。言ってみれば小学校の校門の前に立っている校長先生のようなものなのかもしれない。これが姫松高校のいつもの朝の風景である。

 

 この中に麻雀部の面々が入ることはあまりなく、よほど寝坊かなにかをしない限りは登校時に拳児と顔を合わせる部員はいない。基本的には真面目に学校生活を送っているようだ。

 

 下駄箱にさしかかってもまだ後ろから走って自身を追い抜いていくような遅刻寸前の生徒を横目に、拳児はのんびりと歩く。これは別に遅刻になっても構わないという考えと同時に、三年の秋にもなるとその辺りの判定がびっくりするほど緩くなることが原因となっている。言ってしまえばホームルーム中に教室に入ってもセーフの判定が下されるくらいなのだ。内申が気になる項目にない拳児にとってはまったくどうでもいいことではあるのだが。

 

 拳児が教室に入ると、職員会議でも長引いているのか担任の教師ははまだ教室に着いてはいないようだった。教室に入ったからといって歩くペースを上げるわけでもなく、ただ最後列にある自分の席を目指す。途中でかけられた声にいつものごとく適当に返事をしてスカスカのカバンを机の上に放り投げる。馬鹿馬鹿しいくらいに軽い音を立てたカバンに注意を払うこともなく椅子を引いて席につく。背も高く脚も長いためにどうやら椅子の高さが微妙にフィットしていないらしい。

 

 ひとつ息をついて拳児は隣に座る真瀬由子に、オウ、と一言だけかけた。これは転校直後の間もないころに由子が隣の席に座っている人に挨拶もしないのはあまりにも礼儀を欠いている、と叱責し、そのあとも挨拶に関してだけは口酸っぱく言い続けたための結果である。姫松高校内において拳児を叱ることができる麻雀部関係者は郁乃と由子のふたりしか存在していない。それ以前に意外かもしれないが拳児はあまり “やってはいけないこと” をやるタイプではないので叱る機会が少ないというのも実際のところではある。

 

 はい、おはよう、とにこやかに承けた由子が拳児の顔ではなく胴体のあたりを見ながらなんでもない時間潰しのように口を開いた。

 

 「ねえ播磨、あなたいつ学ランの前閉めるの?」

 

 「あ? 寒くなったらだな、別にまだ寒くねーしよ」

 

 「ふーん。なんか似たようなこと言ってコートとか着なさそうなのよー」

 

 「着ないもクソもコートなんざ持ってねーよ。せいぜいマフラーがいいとこだろ」

 

 それはありえないと思ったのか由子の顔が、うええ、と苦いものを食べてしまったときのように歪んだ。実際のところ学ランというものは女子たちが思っている以上に暖かいものなので、意外と真冬でもコートなどの上着を必要としない男子学生は多い。決して拳児だけが特別というわけではない。むしろ男子からすればよくスカートで冬を越せるな、という女子に対するある種の畏怖というか敬意というかちょっと複雑な思いを抱いているものである。このあたりは基本的にわかりあえず、またわかりあえなくていい部分でもある。

 

 雑談がひと段落したところで開きっぱなしの引き戸から担任が顔を覗かせて、やっとホームルームが始まるらしい。こうなると拳児は何らかの資料を手にしているのがほとんどである。先生からの話を聞かずに牌譜やバイク雑誌や、最近だと新レギュラー決定のための名簿を片手に頭を悩ませていることもある。これはもう日常風景以外の何物でもなく、誰も注意を入れたりはしない。大事な話があればあとで伝えればいいか、と隣に座る由子でさえ思っているほどで、そういった些細なことからも拳児の扱いが見て取れる。どうやら今日はこれといった連絡事項はないらしい。

 

 

 一時間目は英語のようで、それぞれクラスメイトたちがカバンなりロッカーなりから教科書や辞書、ノートを出して準備を整えている。もちろん拳児は全部ロッカーから引っ張り出してくる。彼に言わせれば何が悲しくてテストでもないのに教科書やらノートやらを持ち帰らなければならないのか、ということらしい。それでもいちおう一式そろえているのは卒業までに妙な事態を引き起こさないためだという。後見人でもある従姉からの厳命であるためにそれだけは守らなければならないのだ。

 

 とはいえ三年のこの時期にもなってしまえば指導要領は終わってしまっているもので、授業中に行われるのは教科書とは別に生徒が持っている問題集を中心とした授業であり、詰まったところで質問をしていくような形式となっている。もちろん拳児が問題を解いていて、わかる問題ばかりであるわけがない。したがって拳児が質問をするような場面もあるはずなのだが、そんなもの彼がクソ真面目に従うわけがない。本当は教科書や辞書を丁寧に調べればどの問題もわかるようになっているから拳児がその手段を取っていると見ることもできるはずなのだが、誰もそんなふうに彼を信頼してはいない。それでも座学についているのだから滑稽というか、妙なものである。もう何か月も同じ教室で過ごしているクラスメイトたちは違和感を抱かなくなっているが、やはり拳児が黙ってペンを動かしているさまはひどくミスマッチであるとしか言いようがなかった。

 

 チャイムが鳴って英語の担当が教室を出ると授業と授業のあいだの短い休憩時間がやってくる。何ができるというわけでもないのだが、多くの学生にとっては一日続く授業をしのぐための大事な時間でもある。次の授業の準備をしたりトイレに行ったりするのも実際的な意味合いで大事だが、友達と話をするというのもそれらに引けをとらないくらいに重要だったりする。3-2の元麻雀部員たちも例外ではない。

 

 「なあなあゆーこ、昨日エッちゃんが教えてくれたんやけどな……」

 

 「いやそれエッちゃんの冗談とちゃうの?」

 

 「ん? 何の話なのよー?」

 

 細部に違いはあるがだいたいはこのような感じで由子の席に洋榎と恭子が集まってくるのが通例である。ただそれは麻雀部の会話の場合であって、彼女たち以外にも由子のところにはわりと人が集まる傾向にある。周囲に積極的な人物が多いために由子が止まり木のような立場になっているのだ。そして大概の場合その止まり木の隣に座る男もその会話に巻き込まれるのである。

 

 「そや、播磨はどー思う?」

 

 「んなモン俺が知るわけねーだろ」

 

 もちろんほとんどの場合ゴールはこんなものである。

 

 

 こうやって教室で、時には移動教室で授業を受けながら彼の一日は進んでいく。自分から騒がしいものに首を突っ込む習性を持たない拳児は、ひょっとしたら教師陣から好感を抱かれる生徒の扱いを受けているのかもしれない。出来うんぬんは別にして、あまり真面目に授業を受けてくれそうにない見た目と、高校生にして全国制覇を成し遂げた監督という側面を併せ持つ彼に対して物事を教えるというのはすこし特別な優越感を与えるのかもしれない。黙って座っているだけで評判が上がっていくとはずいぶんラクな立場を手に入れたものである。

 

 四時間目の終わりのチャイムが鳴ると一部の生徒はさっさと席を立ってしまう。その目的は学食の席を取るためだったり購買の目当ての品を買うためだったりと分かれているが、基本は昼食に関わっていると見て間違っていない。お弁当組も移動はするが焦って動くようなことはまずない。

 

 さて料理の類はいっさいできない拳児がどうするのかというと、購買で何かしら買って屋上で食べるというのがお決まりとなっている。学校の購買の常として人気商品が生まれるのは仕方のないことで、姫松高校にもそれに該当するものがある。拳児が購買に行くころには売り切れとなっていて彼は食べたことがないのだが、そのことを気にしたことは一度もない。なぜならその商品にはえびが使われていて、拳児がこの世で唯一食べられないのがそのえびだからである。いわく見た目がどう見ても虫で、過去にあれを食べている連中が宇宙人にしか見えないとこぼしたことさえある。ちなみに姫松に来て以降は人前でえびを食べる機会に遭遇していないため、拳児の苦手なものがえびであるということを知っている者はこの学校にはいない。

 

 きょう拳児が残っているもののなかから選んだのは、たまごとハムのサンドイッチに焼きそばパンだった。それに紙パックの飲み物を持ってのしのしと階段を上がっていく。屋上は地上より風が強いせいで、たいてい扉が重く感じられる。半ば拳児のせいで昼休みに人の来なくなった屋上は、雨ざらしなのだから汚れているといえば当然そうなのだが、ただそれとは別に爽快感があるというのもたしかだった。もともと騒がしいところがあまり好きではない拳児にとって、ここは数少ない心休まる場所なのである。

 

 週に一度か二度ほどの頻度で漫が屋上に乗り込んでくることがあるが、どうやら今日はその日ではないようで、今日の屋上は風の音と鳥の鳴き声だけで静かなものだった。授業だけを考えれば折り返しも過ぎて、あとは午後の睡魔との戦いが終わればまた明日ということになるのだが、拳児の場合はそうはいかない。というか学年問わずに高校生の多くはここから先が本番の人が多いだろう。部活や予備校や、あるいは習い事なんかもあるかもしれない。家に帰ってひと息つくなんていうのはまだまだ先の話なのだ。

 

 何をするでもなく、ただ晴れ渡った空を見上げる。誰も邪魔するものはない。この感覚はどこか懐かしかった。何にも縛られない、圧倒的な自由。誰も周りにいないかわりに、遮るものはひとつもない。そんな感覚からしばらく離れていたことに今更になって気付いて、拳児はひとり奇妙な感慨に耽っていた。あの頃は現在のような考え方を自分がするだなんてちっとも思っていなかったのだから。それは塚本天満に恋をするよりももっと前の、今よりはるかに原始的な播磨拳児のかたち。もう今は “俺は俺だけのモノ” だなんて口が裂けても言えなくなってしまった。

 

 五時間目の予鈴が鳴るまで、拳児はずっとそこに佇んでいた。

 

 

―――――

 

 

 

 これから日が短くなっていく季節に特有の、午後三時あたりのほとんど透明なオレンジ色の膜を通したような青空が下校時刻を告げていた。太陽の位置は夏と比べるとはっきり低いところにあって、これから日を重ねるごとにどんどんそれは加速していく。この時間を夕方と呼ばないだけまだマシと言えるだろう。

 

 さすがに三年生ということもあって、拳児のクラスメイトたちはホームルームが終わるとすぐにカバンを持って教室を出て行った。いつかの由子のように図書室で勉強するのかもしれないし、予備校に向かうのかもしれない。あるいは単に遊びに行くのかもしれない。しかしそれはどれも彼には関係ない。拳児には拳児のやるべきことがあるのだ。

 

 すでに使った教科書やノートはすべてロッカーに入れ終えて、カバンの中にはやはり筆箱だけを入れて立ち上がるかと思いきや、拳児は座ったまま動き出さなかった。いつからだったか判然とはしないが、こうすることが拳児の習慣になっている。というのも監督である彼が部室についてしまうと問答無用で練習が始まってしまうため、それなら部員が揃ってから行ったほうがいいだろうとの判断によるものからだ。もちろん明確な遅刻をした部員に関しては考えないことにしている。

 

 ここ最近お決まりの新レギュラー構想に頭を悩ませる時間をすこしだけ取ったあと、いつものようにゆっくりと拳児は歩き出した。誰がどんな目的を持っているのかなど拳児にはわからないから、いつだって廊下に人通りがあることを気にしたりはしない。彼自身がいまいち信じにくい理由で監督を務めているのと同じように、人にはそれぞれ様々な理由があるのだろう。部室まではあと少しだ。

 

 

 姫松の麻雀部には部室が二つあって、練習しているあいだは拳児がその二つを不定期に行ったり来たりしている。郁乃に関しては教員としての仕事もあるためつきっきりというわけにはいかず、その面からしてもやはり彼のポジションは重要なのである。麻雀で鍛え上げる部分などきわめて限定的であり、そのためのトレーニングなど検討と実践の二つしかないと断言してしまってもいいほどだ。注意しなければならないのは絶対的な最善を追求することは不可能であって、自分にとって最善と思われるものを探していくことが麻雀における練習であると理解することである。残念ながら単純な確率論で勝てるほど易しい構造をしていないのがこの競技なのだから。

 

 拳児が春からずっと行っているのは郁乃から受け取ったメモをもとに思考の方向性にヒントを与えたり、あるいは考え方に明確な偏りが見られる場合に指摘をしたり、場合によっては自分を見失っている部員と話をするなど、外から見ればきちんと指導に見えることだ。ここで注目するべき点は、郁乃はメモを渡すだけでどうやって話をするかなどについてはいっさい触れていないところにある。郁乃が指導に回ることも当然あるが、拳児が動くぶんには信頼して任せているということだ。的確な彼女の観点が拳児に味付けをされて指導として実を結ぶ。その効果は今さら語る必要もないだろう。

 

 練習を始める際には拳児が第一部室に顔を出してから第二部室に入るのが常となっている。第一のほうに団体戦メンバーに近い部員が集まり、まだそこまでは届かない実力の部員が第二に集まっている。無論まだ高校生なのだから指導する必要を感じない部員などいないのだが、より指導する部分が多いのは第二のほうの部員であることに違いはない。気が付けば練習開始直後は第二にいるのがいつもの流れになっていた。

 

 

 「……結局、もっとこだわりを持って打つってどういうことなんです?」

 

 「周りの状況に流され過ぎってコトだ。ホントならもっと押せるタイプだと思うぜ、俺ァよ」

 

 そう言われて思い当たるフシがあるのかないのか、あの臨海女子との合宿にも参加した一年生の少女はその場で拳児よろしく腕を組んでわかりやすく悩み始めた。部室において拳児と部員が話をするときの構図は基本的にはふたつで、部員が卓についているか立っているかにしか違いはない。拳児が座って話をすることはまずないと言っていいだろう。ひとところに留まり続けるということがなく、部活中は立ちっぱなしの歩き通しなのである。その姿がまるで熱心な指導者のように見えて部員たちのやる気を出すのに一役買っていたりもするのだが、そんなことを拳児は知らない。そのうえほんとうに熱心かどうかも本人にしかわからない。

 

 一年生の少女のその仕草を前に、拳児はその場に立ったままだった。これが昔であれば言うべきことを言ったと判断した拳児はすぐにどこかに行ってしまっただろう。しかし今は違う。明らかに付き合いが良くなっている。目の前の少女が何らかの答えを出すまでは移動することもなく、ただ待っているつもりなのだ。部活中には部室以外にトイレくらいしか行ける場所がないというのも関係あるのかもしれないが、それを含めても監督としての動きというものが染みついているのがよくわかる。姫松に転入した当初はたしかに案山子でしかなかったが、今となってはすくなくとも案山子に収まるような仕事量ではない。しかしそんな変化に自身で気付かないあたりは純粋というか何というべきか。

 

 決められた時間が来て練習が終わっても、拳児は他の部員と同様にすぐに帰れるわけではない。戸締りうんぬんはさすがに郁乃の持ち場であるが、帰る前に郁乃とすり合わせをしなければならない。これがないと誰に指導をして誰にまだ指導が行き届いていないかがわからなくなってしまう。また成長するのが仕事のようなものの部員たちは、人によってはたったの一日で目覚ましいような進歩を遂げることもある。その辺りの所見を拳児から伝達するのも非常に重要な作業となるのだ。基本的にはメモを使っての指導方針の確認が中心となっているのだが、ここにはたまに洋榎が混じることもあり、その場合はひたすら部員の成長具合について話をするだけの場となる。それが終わってやっと拳児の監督としての仕事が終わるのである。

 

 すっかり暗くなった帰り道を朝と変わらぬ速度で拳児は歩く。特別に機嫌が良くなるようなこともなければ疲労が溜まってどうしようもない、というようなことになることもない。もはや拳児にとってこれらはすべて日常なのであった。

 

 

 拳児が自室に帰って行うことの中に宿題が入っていないのは秘密である。

 

 

 

 

 

 

 

 



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74 いつかあなたが帰るところ

―――――

 

 

 

 常緑樹のものを除く木の葉はもう色を変えるか落ちるかしてしまっているが、太陽が姿を隠してしまったこの時間にそれを楽しもうと思っても無理な相談だ。日はどんどん短くなっていき、あと二ヶ月も経てば一年で最も日の短い冬至がやってくる。夜はもうすっかり冷えるということで、一部の女子生徒は早くもマフラーを持ち出し始めている。どうやら日が沈んでから少しずつ雲が出てきたようで空を見上げても月も星も見当たらない。しかし天気予報によると日付が変わるころには雲が晴れるとのことだった。

 

 普通なら生徒を帰しきっているはずの時間帯に昇降口から洋榎が姿を見せたのは、彼女が郁乃と拳児の部員に対する所見を交わす会議に参加していたからだ。麻雀において中学生や高校生という時期は、覚え始めのころとはまた違った意味での爆発的な成長を見せる可能性を持つ時期である。それは本格的な意味で麻雀というロジックに慣れることをきっかけとしているのかもしれないし、あるいは頭の使い方そのものがわかってくるということに起因するのかもしれない。なんにせよ大会も終わってしばらく経って、余計なことに気を回さずに打ち込める今の時期はそういった急成長が見られ始める時期であるとも言えるのだ。

 

 ひとつの嬉しい悲鳴とでも呼ぶべきこの状況を、もちろん洋榎も喜んでいた。かわいい後輩たちが成長していくのを見るのはいつだって気分のいいものだ。気が付けば部の主体としてのものではない思考が当たり前にできるようになっていて、洋榎はそのことにちいさく苦笑した。どうやら主将という立場からは意外と自然に離れることができていたらしい。

 

 洋榎にほんのわずかに遅れて、同じように会議に参加していた拳児が昇降口から現れた。なんでも聞くところによるとここしばらくはずっとこんな時間に帰っているらしい。なるほど監督というものの仕事は表面に出ないところがあるようだ、と洋榎は感心していた。基本的に目立つ性質を持つ播磨拳児であるからこそ、余計に水面下での働きは誰の目にも留まりにくいということもあるのかもしれない。それにしても教室ではまったく疲れたそぶりなど見せたことがない辺りを考えるとすさまじい体力だと言えそうだ。

 

 「ンだオメー、先帰ってなかったのか?」

 

 「言うほど時間差ないやろ、それにこんな暗いなか女の子を一人で帰すんは感心せんなぁ」

 

 「アホか、だったら半笑いで言ってんじゃねえよ」

 

 おっと、と大げさに口元を隠す洋榎に拳児はため息をついた。ツッコミ待ちのちょっかいを放っておいたら放っておいたで面倒になるのが彼女の悪癖である。ひょっとしたらこの数ヶ月で拳児のそっちのスキルを上達させたと言えるかもしれないほどに。

 

 校門から出てしばらく歩いて右に曲がれば最寄りの駅へと続く道になるのだが、そこまでは案外と距離がある。ちなみにそこで曲がらずにもう少しまっすぐ行くと拳児の家にたどり着く。

 

 「そういえばアレやろ、こないだ臨海行っとったて聞いたけど、どやった?」

 

 「ゴールデンウイークん時と変わんねーよ、行くのがめんどくせえってとこもな」

 

 わざわざ行くこと自体を別にしている辺り、とくに臨海女子に悪印象を抱いているというわけではないらしい。拳児があの合宿のどこに照準を合わせて “変わらない” と言っているのかはわからないが、ためらいもせずに先の言葉が出るのは実に彼らしいと言える。本当に取り繕うということをしない男だ。

 

 「面白い子ぉとかいーひんの?」

 

 「オメーも合宿でひと通り打っただろが、大して変わっちゃいねえよ」

 

 監督として全幅の信頼を得てしまっている男の発言ということもあって、洋榎はそれを疑ってかかろうともしなかった。彼女は拳児の特殊な目のことなど露とも知らないが、それの有無が影響を与える時期はとうに過ぎ去ってしまっている。それに彼女を満足させるような打ち手が高校レベルでそう簡単に見つかっても面倒な話だ。もちろんそれは姫松を含む他の高校から見て、という意味においてであるが。

 

 そら残念やな、とちょっとだけつまらなそうに洋榎は口をとがらせた。これで傍にいるのが拳児以外の人間ならば何かしらの反応を見せたりちょっかいをかけたりするのだろう。けれども拳児はその仕草を見てもこれといって行動を起こさなかった。歩く速度さえ落とさない辺り、筋金入りとさえ呼べそうだ。

 

 雲が出ているせいか、空気はそれほど乾いてはいない。とはいえ梅雨や夏のようなじっとりした空気ほどひどいものでもない。積極的に気にしようと思わなければ意識にも上がってこない程度のものだ。まっすぐな道の両脇にある住宅から漏れるかすかな光の中を、ふたりはすいすいと泳いでいく。

 

 「あれ、なあ播磨、ジブン帰る道こっちで合ってるん?」

 

 「あ? ナンだいきなり」

 

 「考えてみたら駅で見たことないなあ思て」

 

 「そりゃそうだろ、このまままっすぐ行きゃ家だしな」

 

 「なんや意外とガッコから近いとこに家あんねんな」

 

 「寮だしな、そりゃ近えだろ」

 

 寮住まいは全員が新しいほうの寮へと移ってしまったために、現時点でそこには拳児以外に誰も住んでいない。そのおかげもあって、拳児のプライベートは相も変わらず謎に包まれている。どう転んでも拳児の後を尾行して自宅を突き止めようなんて発想が一般的な高校生から出てくるわけがないのだから当然と言えば当然のことだった。

 

 拳児の部屋にはいったいどんなものが置いてあるのかを聞いて、そのあまりの物の数の少なさにいくらなんでも冗談だろうと受け流した辺りで洋榎はあることにピンと来たようだった。

 

 「ああ、どっからかは知らんけど引っ越してきたんやったな。や、それでも物少なすぎやけど」

 

 「言っとくけどほとんど引っ越しってレベルじゃなかったからな」

 

 洋榎にはその意味がまったくわからなかったが、拳児が矢神を飛び出したときに所持していたと言えるのはバイクとちょっとした着替えと存在意義を失くしかけている財布だけだった。持ち運んだ家具などひとつもなく、大げさでなく身一つでしかなかった。もしも従姉が手を差し伸べてくれなかったらと考えるとさすがの拳児も言葉を濁すしかなくなるほどだった。拳児の言葉にそんな意味が乗せられていることなどもちろん洋榎には読み取りようがないのだから、この話題はこれ以上深く追求されなかった。

 

 「にしてもアレやろ、高三でひとりで知らんところに引っ越してしんどかったんちゃうん?」

 

 「は? なんでだ?」

 

 「いやいや友達がーとか住み慣れた環境がーとかあるやろフツー」

 

 「別にそういうのがねーワケじゃねーけどよ、しんどいとかにはなんねーだろ」

 

 拳児の場合、一般的な付き合いというよりは悪友と言うべきかわずか一年で作り上げた腐れ縁と言うべきか非常に判断の難しい関係を矢神の地に残している。それはいつも一緒にいて放課後には遊ぶなどという関係からは程遠く、やむを得ず協力体制を取ったり、酷い時には真正面から殴り合うような、それでいてそれぞれお互いに悪い評価を下すことのない非常に不思議な関係性なのだ。拳児は彼らとぱたりと会わなくなったことに対しては何も思わなかったし、おそらくその逆もそうだろう。しかし再び会えば、離れていた期間を思わせないほど自然にやり取りをするだろうことを疑わせない人物たちなのである。少なくとも拳児と一年間まともにやり合ってきたという事実から誰一人として一筋縄ではいかないことが推測できる。

 

 洋榎のものさしでは友達とは離れることになれば寂しいものであり、慣れ親しんだ街は常に自分が帰るべき場所であったから、拳児がさらっとそれを否定したことが変なことに思えて仕方がなかった。あるいはそれは女子と男子の考え方の違いなのだろうかとも思ったが、目の前にいる男を男子の代表として捉えるのも微妙に思えてすとんと納得するのも難しい。そこで洋榎はちょっとだけ質問のかたちを変えてみることにした。

 

 「そやったらこっちに来るん決まったときも何も思わんかったん?」

 

 「あー……、助かったくれーには思ったな、ショージキ」

 

 「えっ、むしろプラスなんか。なんでなん」

 

 「なんでっつってもな……。まあ、そんときゃ何も考えてなかったからよ」

 

 実際のところがどうだったのかを別にして、洋榎はこれを何も考えられなくなったというふうに解釈した。謎だらけの存在として認知されている拳児について考えるときに、現時点で判明している事柄を中心に考えを進めることは決しておかしなことではない。彼が何も考えられなくなるほどのショックな出来事、それまでいた土地から離れたくなるほどの大きな事件。そんなものは洋榎のなかではたった一つしかなかった。

 

 ( ……そっか、恋人亡くしたんやったっけ )

 

 塚本天満は死ぬどころか自分の目標を達成するためにアメリカに単身で乗り込むなどという生の活力に満ち溢れた人生を送っているため、洋榎のその感傷は空振りである。ただ拳児がそのことを言わないものだから、何も知らない彼女たちのあいだではそれは事実へと成り代わってしまっている。思い返してみれば姫松に来たてのときはどこかつっけんどんな感じがしたのも、間違った彼の事情を考えれば驚くほど納得のいく振る舞いだ。恋人に関する誤解が広まったあのインタビューの日以降、沈むどころかいっさい弱いところを学校で見せていなかったことに思い当たった部員たちのあいだで、精神的にタフだという評価が本人の知らないところでつくほどだった。

 

 前々から思っていたことだったが、こうやってあらためて話をして、洋榎はこの男が自身の求める答えを持っていると信じられそうな気がしていた。それはむしろ部の仲間や友達や家族だからこそできない相談で、完全にフラットに彼女を見てくれるような存在でなければいけないことを洋榎は理解していた。そういった意味で播磨拳児が姫松にいるというのは奇跡のようなめぐりあわせだった。

 

 「なあ、播磨」

 

 「あ?」

 

 「うちはこれからプロに行く、んやけど」

 

 「みてーだな」

 

 「いくつかのチームから誘いが来ててな、なあ、どんな風に考えたらええ思う?」

 

 普段の彼女を、雀士としての彼女を知る者ならばその耳を疑うだろう弱弱しい声だった。

 

 歩幅が違うぶんすこしだけ早足だった洋榎のテンポが鈍る。それがどうして拳児にわかったのかと言えば、彼女の発言に違和感を抱くと同時に聞き返そうとして振り向いてみれば物理的な距離ができていたからだ。視線はどう見ても下を向いている。

 

 「……は?」

 

 「播磨の目から見て、うちはどこに行くべきや?」

 

 こういう問い方をした時点で洋榎はもう覚悟を決めていたのかもしれない。

 

 「ンなモン俺が知るワケねーだろ」

 

 洋榎は俯いたままの顔に左手を寄せて、やっぱりなあ、と口の端を上げた。どう考えたところでこれが一番フラットな回答なのだ。自分の周りにいる人々は優しいから、きっと親身に相談に乗ってくれただろうことを洋榎は理解していた。しかしそれではダメだということが痛いほど彼女にはわかっていた。欲しかったのはたったのひと押しだった。洋榎から見れば思考回路が似通っているだろう拳児だからこその一言だった。

 

 「何が引っかかってんのか知んねーけど、オメーが結論出さなきゃどうにもなんねーよ」

 

 「そやんなあ。や、わかっとったつもりやってんけどな」

 

 「下のヤツらもいんだからよ、情けねーとこ見せんじゃねーぞ」

 

 「アホ、人前でこんなんせんわ」

 

 

―――――

 

 

 

 「ただいまー」

 

 ドアを開けていつものように帰ってきたことを告げる。ふつうの家庭よりもちょっと広い玄関のせいもあって、靴の少ないぶんだけそのスペースはすこし寂しい。視線を上げるとぱたぱたとスリッパの音が近づいてきた。

 

 「おかえり、お姉ちゃん。今日はまたずいぶん遅くまでやってたんやね」

 

 「いや冗談なしに嬉しい悲鳴やな、播磨のやつがメンバー組み切れんのも納得や」

 

 洋榎はローファーの向きを整えながら、言葉の奥に本当に嬉しそうな感情を滲ませる。もともと隠し事が苦手なタイプではあるのだが、喜色満面に話をするのも何か違うということでできる限りいつもどおりに話そうとした結果だった。生まれたときからそんな表情と付き合ってきた絹恵には見慣れたものである。だからそういうとき彼女は優しい相槌だけを打つのだが、今日はその見慣れた表情に何かが上乗せされているように絹恵の目に映った。

 

 「あれ、キヌ、おかんは?」

 

 「さっき電話あって、もうちょっとかかるー、て」

 

 「ふーむ、それやったら先にお風呂にしよかな」

 

 これまでふたりのあいだで何度も行われてきたやり取りだからこそ、絹恵にはほんのわずかに違う何かがあるように感じられた。なんだかいつもよりすっきりしているような印象さえ受ける。具体的にどこがどう違うとは言えないが、ずっといっしょに過ごしてきた人間にしかわからない “なんとなく” がそう訴えかける。

 

 絹恵の性格上、姉に対して何かを怪しむということはまずない。姉がうれしそうであればいっしょに喜ぶし、逆に辛そうであればなんとか力になろうとする。今日の場合は前者だ。単純に誰かに喜ばしいことがあったとして、それを尋ねられて怒る人間などいないのだから絹恵もその当たり前の論理に従って自分の姉に話を振ってみた。

 

 「今日なんかいいことあったん?」

 

 「お、さすがうちの自慢の妹なだけあるわ。ふふん、ま、ちょっとあってな」

 

 もちろん絹恵は絹恵で部活に出ていたのだから、その “いいこと” が起きた時間はだいぶ限定される。言ってしまえば帰り道くらいでしか何かが起きようがないのであって、さて今日の帰り道を思い出してそこに何かあったかな、と絹恵は首を傾げた。どうやら即物的なものではなさそうだ。

 

 「えー、なんなん?」

 

 「奥歯に挟まっとったもんがようやっと取れたーいうこっちゃ」

 

 「歯磨きはきちんとせんとダメやん」

 

 「せやけどたまにはしてもらうのも悪ないで」

 

 いつもならノリノリでツッコんでくるところをむしろ乗っかってくるのだから、それだけを見ても余程なのだろう。尋ねられたから更にウキウキしているのかもしれない。歯磨きをしてもらうと聞いて頭に一瞬だけインモラルな想像が過ぎったが、なんとかして絹恵はそれを追い払った。

 

 汗を流すにせよ着替えてだらけるにせよいったんは自室に向かわなければならないのだから、洋榎は軽い足取りで二階へと上がっていった。絹恵は姉よりはだいぶ早めに帰ってきていたためにこの時間はとくに二階に上がる気にはならない。手のかかる宿題でも出ていれば話は別だが、今日はそんなものは出ていないしなんとなくバラエティ番組を眺めていたい気分だった。

 

 

 仕事終わりの両親の帰宅時間に合わせて、姉妹のふたりは台所に立っていた。多くの家庭では母親が夕食の支度をする光景が当たり前なのだろうが、こと愛宕家ではそうはいかない。姉妹が通う姫松とは別の、千里山女子という高校で監督を務めている彼女たちの母親は驚くほど忙しい生活を送っている。そのため帰りの時間が安定せず、いつしか夕食は姉妹が用意する機会が増えていった。今では冷蔵庫の残り物からそれなりのものを作れるレベルにまで達している。ちなみに洋榎は家庭科の調理実習で意外すぎると褒められて何とも言えない気分になったことがあるがそれはまた別のお話。

 

 ふたりの手際は慣れたもので、雑談交じりに料理を進めながらきちんと作業は分担されている。もちろん普段通りの夕食なのだからそれほど手間がかかるわけでもなく、分担することで生まれる余裕が気楽な感じを生み出していた。あとは米が炊き上がればそれでおしまいだ。料理を温めなおす前に帰ってきてくれればいいな、なんて軽口を叩きながらダイニングルームから繋がるリビングルームに足を運ぶ。

 

 勢いよくソファに身を投げて、ひと息ついたところで出し抜けに洋榎が口を開いた。

 

 「な、キヌ」

 

 「ん、どしたん」

 

 「うちな、札幌に行くことに決めたわ」

 

 驚きのあまり、絹恵が目を見開いて俊敏な動作で洋榎のほうへと顔を向ける。洋榎はまっすぐテレビのほうへ視線を投げている。しかしこれはきっと洋榎にとっての精一杯だった。母親相手ならいざ知らず、絹恵を相手にあらたまって話をするとなれば必要以上に仰々しくなってしまうだろうことが彼女には姉としてなんとなくわかっていた。ベストなやり方とも思えないが、他のやり方が思いつくわけでもない。何よりそれがいちばん()()()と彼女は考える。どこかの監督のように、愛宕洋榎はいつだって愛宕洋榎でなければならないのだ。

 

 少しのあいだ硬直していた絹恵は、何かを堪えるような表情で二階へと駆け上がっていってしまった。まったく出来た妹を持ったものだ、とため息をつきながら、洋榎はまるで頭に入ってこないテレビ番組を眺め続ける。今日のところはあと両親に話せば済む。夕食のときに絹恵が降りてきてくれるかはちょっとだけ心配だが、きっとどうにかなるだろう。そう自分に言い聞かせて、洋榎はソファの隣の空いたスペースにごろりと転がった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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75 距離をおいて見る

―――――

 

 

 

 3-2の元麻雀部レギュラー三人組は疑いようもなく仲が良いのだが、その一方でクラス内での人気も相当なものがある。それぞれ異なった個性を持っていて、それらがきちんと受け入れられているのはひとえに彼女たちの立ち居振る舞いによるものだろう。後ろ暗いもののまるで感じられない健康的な明るさを持てる人は本来ならそこまで数の多いものではない。その辺りは嘘をつけない男ナンバーワンであり、彼女たちを統括する立場にあった播磨拳児の影響もあるのかもしれないがはっきりしたことはわからない。

 

 そうなってくるとその三人組が固まってのんびり話をする機会が減ってくる。何も別に悪いことではないのだが、たとえば事前に決めておかない限りは昼食時にその三人が揃うことなどほとんどなくなってしまうと言っていいくらいだ。もう三年生なのだから部活以外にも昨年や一昨年のクラスで作った人間関係もあって、要するに他のクラスから声がかかることもさして珍しくはないのである。今日もまた三人ともがそれぞれ別のグループにお呼ばれされていった。

 

 

―――――

 

 

 

 今日の由子は同じクラスの食堂組のひとつに誘われており、わりとよく昼を共にしているメンバーでもあったので彼女はとくに迷うこともなく了承していた。由子は基本的にお弁当を母親に作ってもらったり、あるいは自分で作ったりして学校に持ってきているのだが、食堂にそれを持って行ってもとくに問題はない。余程の偶然が重ならない限りは相席が必要になるほど混み合うことはまずないと言っていいだろう。今日もいつものように席を取るのに困るほど混み合っているわけではないようだった。

 

 いつもならその辺の空いている席にさっさと座ってしまうはずなのに、今日はなぜか奥のほうが目的地であるようで、由子にはそれが不思議だった。トレイの受け取り口からも離れてしまうのだから、奥に席を取る利点が思いつかない。あるいは由子がいなかったときに何らかの意識改革が行われたのかもしれないが、それはそれでなんとも奇妙な話である。とはいえ由子はそのことに対して何の不満があるわけでもない。とくに何を言うでもなく三人組についていった。

 

 お弁当組は席についたらさっさと包みを開けて食べ始めてしまうのが通例というか、どこか常識となっている部分さえある。仲の良い友達であるからこそおかしくないという面もあるし、購入組を待っていると食堂のテーブルに着いておきながら座って待っているだけになってしまって居心地がよくないという面もある。今日の由子のいるグループは彼女を含めてお弁当組が二人、購入組が二人であった。由子ともう一人の少女は例にならってお弁当の包みを開ける。

 

 二人のお弁当はいかにも女の子、といった感じのかわいらしいものだった。たいていの男子からすればそれで足りるのか疑ってしまいたくなるようなサイズのものである。もちろん男子高校生に比べて消費カロリーが少ないのも事実だが、あれやこれやと女子にはいろいろな事情があるものなのだ。

 

 少しあって購入組が由子たちのところに戻ってきて、やっとグループ揃っての食事が始まった。よく食堂を利用する女子からの話では日替わり定食かセットメニューにしかサラダがついてこないのが不満らしい。ほとんど利用経験のない由子にとってはなかなか実感の湧きにくい文句だった。野菜が摂れなくて困るというのには非常に納得できるものがあったが。

 

 声量に違いがあったとしても基本的に学生同士の食事などやかましいものであって、それは由子たちも例外ではなかった。上品で、ふわふわしていているけれど落ち着いている、という評価を受けていようが関係はない。もちろん品の無い振る舞いなどは控えるが、人間ならば楽しいほうに傾くのは当然だろう。今日はどんな話が飛び出すのだろうと由子はわくわくしていた。

 

 「で、ゆーちゃん。ダンナとは最近どーなん?」

 

 そこで飛び出してきたのがこの話題なのだから、なるほどわざわざ奥のほうに席を取ろうとするわけだと由子は一連の不思議な流れに納得した。十中八九出てくるだろう名前は推測できているがそのまま乗ってあげる義理もない。まずはすっとぼけることにした。

 

 「ダンナ? 私まだ結婚した覚えはないっていうか、そもそも相手は誰なのよー?」

 

 「えっ、そんなん播磨やん」

 

 何を当たり前のことを、とでも言うように友人のうちのひとりはこともなげに監督代行の名前を口に出した。それぞれ三人の顔を見回してみても、由子には誰一人としてそれに違和感を持っているようには見えなかった。真剣な話ということもないのだろうが、完全な冗談として言っているわけでもないらしい。どうやら丁寧に解きほぐしていく必要があるようだ。

 

 「……播磨の恋人の話が気になるのはわかるんだけど、なんで私?」

 

 「やって播磨とイチバン仲ええのゆーちゃんやし」

 

 「外から見てるとようわかるわ、なんや雰囲気違う感じするもん」

 

 混じりっけなしの純粋な勘違いではあるのだが、焦って否定などしてしまえば泥沼になることを由子は知っている。だから取り乱したりはしない。文化祭のときに拳児に対してそれなりの評価をしていると恭子に話したのは事実だし、それが嘘だと言うつもりはないがだからといってすぐさまそういう話になるわけもない。あまりにも短絡的すぎるというものだ。実際のところは雰囲気も何も、お互い慣れた形式でほんのちょろっと言葉を交わす程度だ。由子からすれば一日の会話量の中での比率はかなり低い。播磨拳児が会話をするシーンがあまり見受けられないから相対的に由子と話をしているのが印象に残ってしまうのは否定できないが、それにしたってそんなことは。

 

 「いやそれ、ただ席が隣だってだけの話だと思うんだけど」

 

 この一言で片付いてしまう貧弱な論理だった。

 

 「えー、でもうち播磨の隣におってもしゃべれる気せんわ」

 

 「そんなんうちの部の子に聞いたらみんな “そうでもない” って教えてくれるのよー」

 

 「嘘やん四六時中カオむっすーしとるやん」

 

 「言うてもデフォルトであれやし、機嫌のよさそな播磨なんて一度しか見たことないのよー」

 

 由子以外はしゃべるのと食べ物を口に入れるのとで見事に交替しているが、由子だけは完全に箸を止めざるを得ない状況に陥っていた。さすがに三人を相手にしてゆっくり食事を楽しむ余裕はない。いくらなんでも昼休みが終わるまでこの状態が続くわけもないだろうと由子も考えてはいるが、可能性としてゼロと言い切るのは無理に思えるためか、面倒ごとに向かい合うときのスイッチを既にオンにしていた。そうなってしまえば麻雀においても日常生活においても面倒相手なら海千山千の真瀬由子がそうそう崩れようはずもない。

 

 しかし実際にそのネタを使って恭子をいじった経験のある身としては彼女たちの気持ちがわからないでもなかった。こういった話題はどうしたって面白い。もちろん程度というものはあるし、それ以前にお互いの距離感が測れるくらいに仲良くなければ成立しないコミュニケーションでもある。麻雀部というくくりの中でなら由子は恭子や洋榎に対して何の遠慮もなくそう振る舞うことができるし、その逆も然りだ。そしてそのくくりが3-2ということになった場合、いまテーブルについている面子がそれにあたるということだ。互いにやりたい放題できる相手なのだから由子が手を緩めてあげる必要性などどこにもない。

 

 「それゆーちゃんが近くにいたからー、とかそういうオチとちゃうの?」

 

 「夏に優勝決めたときやって。あとはずーっと変わらへんのよー」

 

 サングラスで目が見えないせいもあるが、それを差し引いても拳児はいつもぶすっとした表情をしている。への字口と言ってもいいくらいだ。本当のところがどうかは別にして、外見に出るすべての部分がそう思わせる要因につながっているのも大きいのだろう。クラスメイトたちは変に怯えるようなことはもうないが、かといって自ら近づいていこうとすることもなかった。身も蓋もない言い方をすれば、難しい立ち位置にいるのだ。

 

 「で、実際のトコロどうなん? 仲悪いことはない思うけど」

 

 「それは否定しないけど、特別に仲がいいってこともないのよー」

 

 「えー? 恭子とか洋榎ちゃんと比べても?」

 

 「フツーに同じくらいやと思うのよー。誰に対しても平等だし」

 

 この由子の実感は見事なまでに正確だった。拳児にとって世界の構図など基本的には塚本天満とそれ以外、の単純な成り立ちであって他ではない。無論状況次第で例外が生まれることはあるが、それは彼が恩を受けた場合や負い目ができてしまった場合に限られる。現在に至るまで部員たちはそのどちらも満たしていないため、結果としてあの拳児が完璧に平等な振る舞いを続けることになっているのだ。それでもインハイ優勝のために必死に監督を務めてきた時期と、その名残で今でも麻雀部員に対してはほんの少しだけ扱いが良くなっているのだが誰もそれには気付いていない。

 

 ここまである程度の会話を交わして、由子はなんとなく話の最初から感じていたもやもやしたものが認識のずれに起因するものだということに気が付いた。麻雀部の外から見ると、たとえ適当にあいさつを投げかけることができるようになったとしても、今でもあの男は怖さの残る存在であって、だから誰も彼に積極的に話しかけには来ないのだ。一方で彼とコミュニケーションを取らなければほとんどの物事が成立しない麻雀部という環境に身を置いていた側からすれば、そんな時期はとうに過ぎ去ってしまっている。由子はもう部に顔を出していないから詳しいことは知らないが、洋榎から聞いた限りでは一年生ももうすっかり慣れたらしい。すくなくとも拳児が気の利く男だとは思わないが、それでも見た目でけっこう損をしているんだな、と由子は心の中でちょっとだけかわいそうに思った。

 

 「LINEとか電話とかしやんの?」

 

 「播磨相手に? 緊急で何かない限り連絡なんて取らないのよー」

 

 「麻雀部のみんなもそうなん? それやったらしっかり線引きしとるんやね」

 

 「あくまで私は、ね。あと他のみんながどうしてるかは私は知らないのよー」

 

 言われてみてはじめて拳児に対して誰がどんな行動を取っているかなどわからないということに由子は気が付いた。文化祭の時の反応を見る限り恭子が何かしらの行動を起こしていることだけはないと断言できるが、恭子以外のことは知ろうにも知りようがないのだ。あらためて環境を見直してみると女子部の監督というのはとんでもない環境である。よくもまあ変な事態にならずに済んだものだ、来たのが播磨拳児以外であれば成立し得なかった可能性すらある。

 

 「くぅー、思っとったより色気ないなあ麻雀部」

 

 「あのねえ、そんなヒマなんてないの。まずは部活、それが終われば受験なんだから」

 

 「あっ、ゆーちゃんそれは言わんといて。これ逃避も兼ねてるから」

 

 蓋を開けてみれば結局はこういうことで、やはり真剣な話題ではなかった。もちろん昼食中に真面目な話をする道理もない。ひょっとしたらあまりいじられることの多くない立場にいる由子を珍しくいじれる可能性がある話題だったから選んだのかもしれない。ただ由子を相手取るには彼女たちにちょっと強靭さが足りなかった。そのあともある程度は似たような話が続いたが、雑談の常というか、どこにも行けない話だった。

 

 

―――――

 

 

 

 学校のチャイム、と言えば誰もが簡単にそれをイメージできる。また学校から卒業した身ともなればそれに付随する思い出なんかも出てくるのかもしれない。しかし一方で実際に鳴り終わるまで聞いていると、どこか空虚な感じがするのも否定できない。鳴り終わったことに対して何の感慨も抱かないし、下手をすればついさっき鳴ったはずのチャイムが本当に鳴ったかどうか自信が持てなくなってしまうことすらあるほどだ。恭子もまたその音が消え去った廊下を、いつの間にか頭の隅に湧きだす不思議な思いとともに歩いていた。

 

 廊下の窓から見える外はいつもと変わらぬ町並みで、どこがどう特別というものは一つもない。ここから見える景色は他の季節と違って、これが秋だ、という特別なものが何もない。あるいはそれが特徴なのかもしれないが、もしそうなのだとしたらなんとも寂しい話だ。それほど歩くことなく階段までたどり着いて、恭子はいつものように降りていく。

 

 

 恭子がちょうど二階へ降りたとき、廊下から漫がひょっこり顔を出した。カバンを背負っているわけではなく、両手でゴミ箱を抱えている。誰が見たって一目でゴミ出しに行くのだなとわかる姿だった。

 

 「あ」

 

 「あ、末原先輩」

 

 絵で描いたように目をまん丸にして、そうしてからうれしそうに漫は笑顔を見せた。自他ともに認めるほどに末原恭子に目をかけてもらい、世話になり、そして仲良しだった。根本的な意味で彼女の姫松における立ち位置を決定した人物でもある恭子からしても、漫はかわいくてしかたのない後輩である。

 

 「どしたん、ジャンケンで負けたん?」

 

 「ちゃいますよ、うちのクラス当番制なんです」

 

 視線の先のゴミ箱に気付いて、わずかに持ち上げて漫が答える。もともと嘘をつけるタイプの子でもないからきっと本人の言う通りなのだろう、と恭子はひとり納得した。ちなみに恭子のクラスではゴミ出しのたびにジャンケンで決めるものだから、毎度やかましいことになっている。

 

 引退してからというもの恭子は一度も部に顔を出していなかったから、たまに校内で顔を見かけていたとはいえ、それでもなんだか漫と会うのは久しぶりな感じがしていた。ひょっとしたら勉強漬けの毎日にすこしだけ疲れていたのかもしれない。そんなところに上重漫という現役の主将が現れれば、あの部室のことを思い出してしまっても仕方ないだろう。そこにはたしかにいまの生活とは違った現実が存在していたのだ。ほんの三ヶ月前までは自身がそこに含まれていた現実が、ここのところはどうなっているのか気になるのも自然なことだと言えるだろう。

 

 「ふうむ、エライなあ漫ちゃんは」

 

 「いやいやこんなん普通ですやん。死ぬほど面倒! ってわけでもないですし」

 

 「そうは言うてもやな、きちんと主将の役割もこなしてゴミ出しもきちんとするのは立派やし」

 

 ちょっといたずらっぽい笑みを浮かべて、恭子は急に漫を褒め始めた。そのことがどうして漫にとってちょっと不安に思えるのかといえば、末原恭子は基本的に厳しい振る舞いをする存在であったからだ。そのことには時には必要最低限のことすら言わない拳児や、物事を伝えるのに決定的に向いていない独自の回路を持つ洋榎を部に冠していたことが関わっている。集団にはどこかできちんと締めることのできる人物が必要で、それが姫松では恭子だったのだ。実力で見ても実務能力で見ても性分で見ても彼女以上の適任はいなかった。もっとも、彼女がいちばん厳しく接したのは自分自身だったのだがそれはまた別の話だろう。

 

 「な、なんなんですかいきなり」

 

 「いやあ、もう主将様にはしっかり敬語使わないといけませんね」

 

 「ちょっ、それホンマやめてくださいよ、慣れなさ過ぎて何言うたらええかわかりません」

 

 あからさまに落ち着かない様子を見せる漫に、こんなだからちょっかいをかけたくなるのだ、と恭子は困ったような不思議な笑顔でため息をついた。いちばん世話もしてきたが、いちばんちょっかいをかけてきたのも恭子なのだ。

 

 「それはそれとして、漫ちゃんのほうは最近どんな感じなん?」

 

 「えーっと、主将としては足りんと思いますけどみんなに助けてもらってなんとかやってます」

 

 「ほー」

 

 「わたしは器用なタイプやないですから、まずできることをやろうって」

 

 イメージしていたよりもはきはきと答えが返ってきたことに恭子は感心していた。下手を打てば泣き言が飛んでくることもあるかもしれないと思っていたほどだから、その落差は大きいものだったと言えよう。立場が人を作るという言葉があるが、いまの漫はそれを体現していると言えるのかもしれない。ちょっと見ないあいだに大きくなったなあ、とまるで親戚みたいなことを恭子は思う。それと同時にわずかに寂しさのようなものが胸を過ぎった。事実上、しばらく前に漫は恭子の手を離れていたが、今度はそれがたしかな実感になったからだ。

 

 元気のよい漫の返事に、恭子は二度三度としみじみ頷いた。目の前のこの少女はたしかに異能を持ってこそいるが、できないことをできないと自覚するという自分の魂のようなものを受け継いでいると恭子は理解した。それは()()()()()()()()()。どうしたってセンスや才能やその他いくつかの言い方を持つそれが幅を利かせるこの世界で、それと向き合うことは何より大事になるだろう。そう恭子が思うのは、誰より彼女がそう感じてきたからだ。

 

 「えらい殊勝な考え方するようになったなぁ、なんかきっかけでもあったん?」

 

 「……まあ、播磨先輩ですよね」

 

 ちょっとだけばつが悪そうに笑って、漫は自分が思うきっかけを口にした。

 

 「播磨?」

 

 「ほら、インハイの準決のときに先輩言うてたやないですか。頼れるヤツになれって」

 

 「ああ」

 

 言われてみればそんなことを聞いた記憶が恭子にもあった。たしかそのあとには尻拭いは自分に任せればいい、なんてことも言っていた。たしかに現役時代はそんな立場にあったが、他人からそう言われるとなんだか微妙な気持ちになるんだな、と思ったことを恭子はよく覚えている。

 

 根が真面目で、真面目すぎてちょっと融通が利かなくなりそうなところのある少女は、監督から言われたことを律儀に考えていたのだろう。そうして出した結論が、助けてもらいながらでも主将として立つというものだったのだ。このことに対して恭子は本当に立派なものだと称賛したくなった。口に出して褒めてはあげないけれど。

 

 「なるほど、それやったら団体レギュラーとしてはどんな感じ?」

 

 「うー……、中堅には座られへんかもしれませんね、わたしやと」

 

 姫松における中堅とはエースを指し、それは他校が外から見るよりはるかに重い。そこは勝利に直結する絶対的な何かが要求される場所なのだ。とくにここ二年間はそれがより色濃かった。その自信なさげな漫の様子は、恭子からすれば実に自然なものだった。

 

 「漫ちゃん、それは比較対象があかん。洋榎と比べるんは酷が過ぎるってもんや」

 

 「いや、そうやなくても安定して勝つんはわたしやとキビシイんやないかって」

 

 「やっぱりその辺はいまいち理解してないんやな」

 

 「へ?」

 

 「こっちの話。ま、コーチも播磨もそこは見誤らんと思うけどな」

 

 エース、なんてものの在り方は時と一緒に変わっていくべきで、はっきり言ってしまえば定まったかたちを持ってはいけないと恭子は考えている。すくなくとも理想形が、こうあるべきだというかたちが存在してはならないと考えている。なぜならそれはその理想を実現できないエースを生み、きっと潰してしまうから。そういった意味で愛宕洋榎は危険なエースだった。彼女自身が何も言わなくても、結果と背中ですべて済ませてしまうことができたからだ。あまり好きなやり方ではないが、“特別” と決めて蓋をしてしまうのがいちばんの存在だった。

 

 きっと漫をはじめとした一、二年生たちはその幻影に苦しむことになるだろう。いまは意識していないとしてもそれは必ずどこかで顔を覗かせる。しかし自身が手を出してはいけないことを恭子は理解していた。あのとき拳児が突き放したのも、結局それは彼女たちが自力で乗り越えなければならないことだからだ。後進の育成ほど難しいものはないとよく言うがそれは当然だろう、新たな世代はそれまでとは違った新たなかたちを生み出さなければならない。それは伝統を継ぐこととは違う部分での話で、言わば現実的な運用面での話なのだ。

 

 「え? へ?」

 

 「大丈夫。漫ちゃんならきっと大丈夫やから、ね」

 

 とりあえず新主将はどうにかなりそうな気がして、そのことが恭子にはうれしかった。まだしばらく先の話にはなるけれど、これで安心して卒業できる。ゴミ出しに行く途中の主将を捕まえて卒業の安心とはずいぶん偉くなったものだと自分でも思ったため、恭子はそこで話を打ち切って漫を解放してあげることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 



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76 補足としての夏休みの話

―――――

 

 

 

 「播磨先輩、主将っていったいどんなふうにしたらいいんです?」

 

 「あァ? ナンだいきなり」

 

 それは三年生が引退してしまって直後の、まだ夏休みのあいだのことだった。新体制になっての練習が始まって初日には役職関連の話を決めてしまって、その翌日か翌々日のことである。詳しいことは漫も拳児も覚えていないが、うすぼんやりした記憶によれば何かの弾みで二人が隣同士に座ることになって、そこで漫が話を始めたのだ。

 

 

―――――

 

 

 

 その日は運動部が走るグラウンドから立ち上る土煙が空気の乾燥具合をよく教えてくれるくらいに晴天が続いた日で、天気予報ではうんざりするような最高気温が示されていた。駅から学校まで歩いてくるだけで最低でもハンドタオルが必要になるほど汗をかくのだから、この炎天下で強度のある運動をしている彼らはきっと驚くほど喉が渇くのだろう。たとえばボールが飛んできても危険がないようにネットで仕切られたグラウンド脇を歩きながら漫はそんなことを思っていた。もちろん、うへえ、と理解できないものを見るような反応も忘れない。どちらかといえば漫は運動が得意なほうには分類されないのだ。

 

 昇降口で上履きに履き替えて階段を上がる。その途中でちょっとした興味が湧いて窓から校舎裏を覗いてみたが、そこには単に濃い日陰があるだけだった。見た感じ日なたと比べて涼しそうではあったが結局そこを通りがかることもないし、歩く校内の廊下の暑さも変わらない。クマヤナギの小さな小さな白い花が咲いていたが、漫からの距離だとはっきりしたところはわからなかった。

 

 特別なことは何も考えず、それこそ習慣どおりに部室の戸を滑らせると、いきなり昨日までとは違う感じのするあいさつが飛んできて、思わず漫はそのまま戸を閉めた。頭ではわかってはいるのだが、それをぶっつけ本番で呑み込めるほど彼女のキャパシティは大きくない。考えてみれば、今日からあなたが姫松の主将ですよ、と言われてすんなり受け入れられるほうが珍しい。立場の持つ意味というものは本当にその立場に立ってみないとわからないものがある。その意味で漫は自分の役割をまだ理解してはいなかったと言えるだろう。

 

 さすがの地域性というべきか、もういちど戸を開けた漫に対して部員たちは何事もなかったかのように再び自然にあいさつを投げかけた。よくよく耳を澄ませてみれば主将という単語がちらほら聞こえてくるのは一年生からのようだ。この辺りには個人差があって、これまでどおりの呼び方をする部員と呼び方を変える部員とに分かれる。ちなみに漫自身は一年前に呼び方を変えた側であったために、慣れないからといってそうそうわがままは言えない立場にある。

 

 

 自分のロッカーに荷物を入れるついでに時計を確認してみると、いつも来る時間よりはしっかりと早い。ということは漫より先に来ていた部員たちは単純に考えて気合が入っているのだろう。三年生たちが抜けて新しい世代として動き出すのだから、そういった考え方は間違っていない。この部に所属している以上は試合に出たいと考えているだろうし、であるならば監督やコーチに対するアピールは絶対に必要だ。大げさに思われるかもしれないが、この麻雀部にとって勝利とはある種の義務であり、それを達成するのにより有用だと判断されなければ看板を背負うことはできない。自分もその渦のなかにいるのだと自身に言い聞かせて漫はひとつ息をついた。練習まではもう少し時間があり、それまでは適当に目についた椅子に座ることにした。

 

 漫のクセのひとつとして、何かひとつに集中してしまうと他のものに目を配れなくなるというものがあって、それはあるいは年を重ねることで解決するものなのかもしれないが、とにかく彼女はそのクセのおかげでときおり困ることがあった。

 

 身を投げるようにして座った椅子の隣には大きなチンピラが座っていて、隣に目をやってから彼女はびくりと跳ね上がった。よくもまあ気付かないものだと言いたくもなるが、実際に彼女の意識に入ってこなかったのだから言ったところでどうなるというものでもないだろう。

 

 「あっ、播磨先輩、おはようございます」

 

 「オウ」

 

 漫が声をかけると、拳児はいつものように一言で返事を済ませた。腕組みをしたままただ前方に視線を向けているのだが、いつものようにサングラスのせいで何に注目しているのかはわからない。あらためて隣に座ってみると一八〇を超える身長というだけではなく、体のつくりが根本的に違うという意味で大きい。厚みも肉質もまるで違っていて、漫からすればほとんど別種の生き物にさえ思える。筋ばった二の腕をじっと見つめて、ちょっとつついてみたいなあ、なんて考えていると頭の上から声が降ってきた。

 

 「あー、オイ、もう末原も愛宕もいねえからな、アタマに入れとけよ」

 

 新監督の言い回しにもだいぶ慣れてきた漫にはわかる。これは彼なりのエールなのだ。間違っても直接に応援するようなことは言わないが、せめて派手に転ばないようにと事前に注意してくれる。基本があまりしゃべらない人だからこそ、受け取る側が意を汲まないとならないのだ。実際のところ漫の目から見れば拳児と三年生、それも特にレギュラーを張っていた三人はそれが実によくできているようだった。そのことは麻雀部が部活動として滞りなく回っていたことにきっと関係していただろうし、またこれからもそうであるべきだろうと漫は考える。まずさしあたっては主将という立場の自覚が急務のようだ。

 

 そこまで考えて漫は、はて、と立ち止まらざるを得なくなった。

 

 主将とはいったい何だろう。

 

 無論一般的な意味なら漫にもわかる。ひどく大雑把に言ってしまえば部の代表だ。そんなことではなくて、どう振る舞えば主将らしく見えるのかがわからなかった。あるいは何を要求されるのかがわからなかった。つい最近まで尊敬すべき先輩がいたのだが、失礼な話、その姿を思い出しても具体的に何をしていたというのは浮かんでこない。せいぜいが楽しそうに笑っている姿くらいのもので、しかしこの部の主将であるというところにはひとつとして疑う要素はなかった。ちなみにその前主将は諸々の事情で夏休みのあいだは部に顔を出さないことが決まっている。

 

 自分で考え始めておきながら、いったい何について考えているのかわからなくなってしまった漫は、助けを求めるという意味合いも含めて拳児に向かってこう問うたのであった。

 

 「播磨先輩、主将っていったいどんなふうにしたらいいんです?」

 

 「あァ? ナンだいきなり」

 

 

 隣に座ってなんのかのとやり取りを始めた漫と拳児のふたりを見て、絹恵はシンプルにすごいなあ、と思っていた。比重としてはわからないことにぶつかって即座に誰かに聞きに行くことのできる漫のほうが大きいが、いきなり答えにくい質問を投げかけられてイヤな顔ひとつしない拳児にも素直に感心している。これまでの傾向から考えれば、おそらくあの監督は答えになることを言いはしないだろう。漫もそのことはわかった上で尋ねているはずだ。どちらかといえば儀式に近いものであるとさえ言えるかもしれない。尋ねて、突き放されて、じゃあ考えよう。絹恵はそれが言葉ほど簡単ではないことをよく知っている。だから彼女を立派だと思うのだ。

 

 そんなことを考えているといつの間にか練習開始の時間が来ていたようで、気が付けば絹恵以外の部員たちはそれぞれ動き始めていた。夏休みのあいだはいつもと練習の始まるタイミングが違っている、というのは下手な言い訳になるのだろうか。実際に普段は拳児が部室に入ってくることがその合図であり、練習前に拳児がいるということにはちょっとした違和感が残らないわけでもないのだ。

 

 第二部室へ練習開始の通達をしに行った拳児を見送って、絹恵はとりあえず卓につく。気合の入っている部員たちが目につくが、絹恵の気分はいまひとつ乗り切らなかった。もちろん麻雀という競技の性質上、気合が入っていないから絶対に勝てないだとか気分が乗っているから自摸が良くなるなんてことにはならない。せいぜいが集中力の欠如による見落としの頻度の差といった程度だ。昨年の春の大会には他に三年生がいたなかで副将の座を勝ち取った彼女の技術は頭一つ抜けたものであり、データで見ればその安定感ははっきりしていた。あるいはそのことも絹恵の気分に関係していたのかもしれない。

 

 この状態がよろしくないだろうことは絹恵も自分で理解していたし、部の仲間に対して隠し通せている気もまるでしていなかった。隠さずに言ってしまえば、絹恵は姫松のインターハイ優勝をうまく呑み込めていないのだ。当然ながら事実はどうやったってひっくり返りっこないし、そのメンバーに絹恵が含まれていたことも現実であって動きようがない。点差で見ればギリギリだったかもしれないが、あの決勝はそれだけ切羽詰まった戦いだったとしか言いようがない。どこに問題があるかと言えば、絹恵がその優勝にほとんど貢献できていないと自覚してしまったことにあった。

 

 一回戦こそ収支一位を記録したものの、それ以降はすべて大きなマイナスというのが数字上の愛宕絹恵の結果である。当然ながらそのことに対して彼女にだけ文句をぶつけるのはお門違いというものだ。よそのチームだって必死に勝ちに来ていたのだし、インターハイに出てきているのだから実力も申し分ないのは前提条件であって、その上で偶然なり意図なりが絡み合って生まれた結果なのだから。ただ、それと絹恵本人が自身の成績をどう捉えているかとはまったく関係がない。

 

 燃え尽き症候群とはまた違うような気がする、と絹恵は考えていた。それは目標に対して十分な達成が為されたときに発症するべきものであって、いまの自分の状態にはそぐわないはずだ、と。別に苛立ちがあるわけでも焦りがあるわけでもない。スイッチの入らなくなってしまった絹恵にとって、自分から積極的に前に進むことのできる漫や野心に燃える一年生たちは眩しい存在だった。

 

 ( ……やる気ってどうやって出すんやったかなあ )

 

 いくつかの対局をこなした絹恵は、牌譜を見る、と卓を離れた。部で管理している棚から昨年の春の大会のファイルを取り出して、そのためなのかははっきりしていない椅子の置いてある部室の隅へと足を向ける。配牌という始まりがあって、取捨選択という過程があって、点棒が動くという結果が詳細に複雑に記載されている。しかし対局にさえ集中しきれない彼女が牌譜と向き合ったところで新たに得られるものは何もない。ただぼんやりと手元を眺めて、そのあとで吟味するかのようにファイルから目を離してまたどこか別のところを眺めるだけだった。

 

 気が付くと絹恵の視界には監督代行の姿があった。彼以外には女子しかいないこの部において、圧倒的に目立つ存在なのだから自然と言えば自然ではある。どうやらレギュラー候補の一年生と打牌方針の考え方について話をしているらしい。そもそもこの姫松高校で麻雀部に入ろうなどと考えるということはそれなりの我を持っていることが多い。実力に自信を持ち、だからこそここで活躍できると考えて門を叩く。もちろん大抵の場合は上級生と実際に打つことで差を自覚し、そこからやり直すことになる。いま拳児と話している一年生もそうだろう。自身を成長させようと考えたときに、全国優勝に導いた監督がすぐそこにいるのだから話を聞かない手はない。

 

 絹恵は、椅子から立ち上がることができなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 ( ……たまには播磨先輩もすぱーっと答え教えてくれてもええやろ、わかってたけど )

 

 午前の練習を終えてお昼休みに入り、珍しく漫はひとりでお弁当を食べていた。難しい顔をしているからそれが原因で誰も近寄れないということではなく、自らひとりになれる場所へと足を運んだのである。学校という広大なスペースには探せば穴場などいくらでもあるもので、とくに夏休みのあいだは競争率も下がるのだからそういう場所に落ち着くのに苦労はない。

 

 咀嚼をしながら監督の言葉を思い出す。いわく、愛宕がいたポジションだけどオメーは愛宕じゃねえからまた違うんじゃねーの。まったくその通りで、漫もそんなことははじめからわかっていたつもりだった。知りたいのは部員のみんなを引っ張っていくに足る振舞いやものの考え方だった。完璧にこなせると考えているつもりもないし、あるいは尊敬されたいという思いがあるわけでもない。ただ、チームとして動くことを考えたときに、主将という立場にいる人間は優秀であったほうがいいに決まっている。たまたま一つ上の世代に愛宕洋榎と末原恭子という傑物が揃ってしまっていたために余計にそう思うようになってしまっていた。

 

 しっかりしなければ、とは思うが、しっかりするとは具体的にどうすればよいのだろう。それと似たような悩みばかりがぐるぐると渦巻いて、結論などどうやっても出せそうになかった。窓の外には飛行機雲が一本だけまっすぐに走っている。口の中の卵焼きを飲み込んでも別に何も変わらなかった。

 

 

 午後に入って最初の対局でもあっさりと一位が取ることができて漫は驚いた。午前中にもなんとなく感じていたことだが、()()()()()()()()()()。決して午前の対局で全勝なんてことはなかったが、意識の上での変化が如実に感じられる。囲んだ面子と自分の差がどこにあるかと問われれば、漫に答えられるものはたったひとつしかない。経験だ。あの東京で、最低でも地方予選を勝ち抜いてきた強豪の先鋒とぶつかり続けた経験の差しかない。チームメイトをけなすつもりはないが、明らかにあの先鋒の選手たちとは違っている。春の大会では意識すらしていなかったことが、いまはありありと感じられる。

 

 「漫先輩! たとえば臨海の辻垣内さんと比べてうちの打牌ってやっぱり甘いですか!?」

 

 「へっ?」

 

 「それとも読みの問題なんですかね」

 

 「え、いや、そーいうのは播磨先輩に聞いたほうが……」

 

 「監督が “俺様より実際に打ったヤツに聞いたほうがいいに決まってんだろ” って」

 

 後輩の言葉を聞いて漫はぴしりと固まった。拳児の言っていることは決して間違っていないが、漫からすればただ丸投げをされたような印象しかない。指導といえば拳児や郁乃をはじめ、あとは三年生の先輩がたが担当するべき分野である。すくなくとも漫個人にお鉢が回ってくるようなものではないはずだった。しかし彼女はそこで立ち止まらなければならないことにすぐに気付いた。先輩はもういないのだ。

 

 「あの、先輩?」

 

 「あっ、あーあーごめんごめん、辻垣内さんとの違いやったね」

 

 大事なことをひとりで考えるよりも先に、そう言って漫は思いつく限りの違いをその後輩の少女に教えてあげることにした。途方もなく高い目標であることには違いないが、辻垣内智葉も高校生であり、それは個人の資質などを無視した論理上であれば同じ高校生である後輩にも到達不可能ではないということを示してもいる。ちなみにどうして宮永照の名前が出なかったのかを聞いてみると、あれは参考にならないからというもっともな返答があったらしい。

 

 鼻息荒く気合を入れて別の卓に向かって行った後輩の背中を眺めながら、漫はこれまで感じたことのない種類の不安に襲われていた。先輩になるということは、今のような出来事が当たり前のものになるということだ。自分がお世話になり続けた存在の立場に自分が立つということだ。不意にインターハイ中に監督に言われたことが頭を過ぎる。単に実力を向上させればいいというものではないのだ。頼られる、という言葉の意味をまるで履き違えていた。すぐに時代が来るとも言っていた。だから甘やかさないとも。どれだけ低く見積もってもあの準決勝の副将戦の時点で全部見えていたのだ、と理解して漫は歯噛みする。同時に自分が情けなくなる。気付くチャンスなどいくらでも転がっていたのだ。それらをまるごと見逃して主将らしい振舞いとはなんたる思い違いだろう、と。

 

 両手で顔をふさいで思い切り悔いたあと、ぶるぶると顔を振って漫は思考を切り替えた。はじめから完璧なんてできないのだから、今日この時点ではこれでもいい。大事なのはここから先だ。とりあえずの目標は部員の誰かに相談事ができたときに相談相手の選択肢として浮かぶくらいの存在になることだ。そう決めた瞬間に、拳児を含む先輩がたがどれだけ自分のためにそうと伝えることなく指導や手助けをしてくれているかに思い当たって漫は泣きそうになった。普段の部活どころかインターハイにおいてさえ気を回していてくれたのだから。

 

 ( あー……、真面目に先輩ってスゴいねんな、かなんわぁ )

 

 ひとつ息をついて、漫は一歩踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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77 キミ本当に高校生?

―――――

 

 

 

 珍しく拳児が教室からまっすぐ部室に向かっていかずに職員室へと歩を進めているのにはワケがある。というのも授業のために教室を移動しているときに郁乃から呼び出しを受けたからだ。部の監督などという立場にある拳児にとって、そういった呼び出しは特別に珍しいものではない。部員たちの耳目を避けたい話題もないわけではないし、そもそも拳児そのものが避けるべき話題だということもある。結果的にそれなりの事情が絡み合うことで、彼が職員室を訪ねることは割と当たり前のこととして受け入れられているフシがある。

 

 相変わらず怖いもの知らずというか、作法のようなものには疎い拳児はノックひとつすることなく郁乃が待つ職員室の戸を引いて開けた。中にいる先生方もちらと拳児のほうに目を向けてそれで済ませている辺り、拳児のこの入室方法は常態化しているのだろう。並ぶ机の合間をずんずんと進んで自身を呼び出した人物のもとへと向かう。

 

 拳児がある程度近づくと、キャスター付きの椅子がくるりと回っていつものとろけそうな笑顔が出迎える。この学校に通うようになってすっかり半年経過しているが、拳児はいまだに彼女のこれ以外の表情を見たことがない。従姉も相当の鉄面皮だったが、確定した笑顔というのもそれはそれで別種の圧力があるように最近は感じ始めていた。とはいえだからといって何が起きるというわけでもないため、拳児はさっさと頭を切り替えて話を聞こうと視線を合わせた。

 

 「ん。じゃあ、さっそくやけど本題に入ろか~」

 

 声も仕草もふわふわしていて緊急性があるとはとても思えないが、そのことは別に何の保険にもなっていないことを拳児はよく知っている。まったく同じフォームから直球と変化球を投げ分けるピッチャーのように、いつも通りの話の入り方からときおりとんでもない話題を放り込んでくることもある。とりあえず拳児にできることは油断しないことだけだ。

 

 「えっとな~、絹恵ちゃんのことなんやけど~」

 

 「妹さんスか?」

 

 「うん~、ここ二、三日ちょっと元気ないような気がして~」

 

 言われて思い出してみるが、拳児にはここ数日とそれ以前の違いがわからなかった。いつものように真面目に練習に取り組んでいたように記憶しているし、かと言って練習に集中するあまり口数が極端に減ったというような感触もない。部員たちが打っているなかを見て回っているときにも、いつもくらいの頻度で声を聞いたような気がしていた。

 

 「俺にゃちっとわかんねースけど」

 

 「ん~、どう言うたらええんかな、無理していつもどおりっぽく見せてるーいうか……」

 

 そう言われてしまえば拳児はそうかと言うしかなくなってしまう。誰かが演技をしているとしてそれを見抜くような目を彼が持っているわけがないし、加えてそのことに自覚的でもあるせいで、演技をして何かを隠しているのではないかという選択肢を初めから消してしまっているのである。あくまで拳児にできることは強さを測ることと全力を出しているかどうかを正確に判断することだけであって、隠そうと努めている人の機嫌どうこうを判断することなどまったくできない。もちろん拳児にできることそのものが異常の極みであることは間違いのないところではあるが。

 

 拳児により正確に伝えるために頭の中で言葉を探しているのか、郁乃は頬に人差し指を当ててちいさく首を傾げた。誤解と勘違いの中で過ごしてきている拳児だが、どうも裏プロだとかそういう勘違い以前に、言葉を尽くせば言いたいことが伝わると思われているらしいのが非常に面倒に感じられていた。まずもって播磨拳児はバカである。相手の気持ちを考えて行動することなどほとんどないし、細かいことは気にもしない。だから言葉を尽くしてニュアンスを吟味されても、そこからきちんとしたものを拾うことはめったにない。それなのに麻雀部の関係者がどうして丁寧に言葉を選ぶ傾向にあるのだろう、と当事者である拳児も考え込むことがたびたびあった。

 

 「あー、細けーとこはいいんで、俺の役割はなんスか?」

 

 「そう? それやったら、できれば拳児くんに元気づけてもらいたいな、て思てるんやけど~」

 

 「愛宕とか仲の良い連中とかじゃなくて、俺?」

 

 「はっきりした事情は掴めてへんからアレやけど、たぶん拳児くんが適任かな、て」

 

 あまり聞くことのできない拳児の素っ頓狂な声にも、郁乃は特にこれといった反応を見せることなく返した。ときおり、ぎ、と椅子が軋む音がするのは体重をかける向きを変えているということなのだろう。

 

 「それとなーくでいいからお話聞いてあげてくれる~?」

 

 「ま、それぐれーならいいスけど」

 

 

 職員室を出て、考えをまとめるためにえっちらおっちらと拳児が歩く。スクールバッグを右肩にかけて両手をポケットに突っ込んでいる。学ランのボタンは一つとして閉められていない。内に着たシャツもインナーが見える程度には胸元が開いており、それだけ見れば比較的どこにでも見られる男子学生と呼ぶこともできそうだ。もちろんそれ以外の要素はあまりどこにでも見られるようなものではない。

 

 ( つってもな、元気づけるってどーやりゃいいんだ……? )

 

 これまでの人生でとがり続けてきたこの男にとって誰かを元気づけるというのは未経験に属する事柄である。実際には無自覚にやっていることを含めれば案外と経験を積んではいるのだが、なにしろ本人がそう思っていないのだから学習のしようもないのである。漫や恭子、つい最近では洋榎も拳児のおかげで立ち直ることができたが、本人がそう認識していないと教えてもちいさく笑って納得するだろう。噛み合っていなくて成立する関係などいくらでもあるものだ。

 

 単純な拳児の脳みそでは、頑張れ、と言うくらいしか方法が思いつかない。しかしもしそんな程度でいいのならわざわざ郁乃が自分を指名するわけがないということくらいは彼にもわかる。だから悩むのだ。

 

 ( ……クソ、埒があかねーな。誰かに聞いたほうがいいのか? )

 

 ( 聞くにしてもウチの連中だと本末転倒だな。それじゃあ赤阪サンが俺を呼んだ意味がねえ )

 

 条件は校外の人間で、かつ人を元気づける術を知っていそうな人間ということになる。そもそも連絡先を知っている知り合い自体が極端に少ない拳児の選択肢は驚くほどに限られる。そして拳児が矢神時代に仕込まれた年上に対する敬意を持った思考回路は、平日の昼日中に社会人に連絡を取るのは褒められた行動ではないという結論を弾き出した。この瞬間に誰に相談するかの選択肢はひとつしかなくなってしまった。とはいえプロ雀士と高校生の二択になればほとんどの人が後者を選ぶだろう。その意味では拳児に選択肢などなかったと言うことができるのかもしれない。

 

 

―――――

 

 

 

 校門を出て一〇分と少し歩かないと寮までたどり着けないが、意外と智葉はこのからっぽとも言える時間が好きだった。具体的に何を、というわけではないが、この歩くだけの時間は切り替えるのに実に適している。どうせ部屋に戻っても勉強しかしないのだから、そういった最低限の精神的余裕は欲しいところなのだ。

 

 すっかり秋も深まって、きっとこれから加速度的に冬が近づいてくるだろう。緩く巻いたマフラーの隙間から冷たい風が忍び込んでくる。そのうちきちんと冬用の衣類の虫干しでもしないとならないな、と考えているとポケットの中のスマートフォンが震えた。どうやら電話がかかってきているらしい。この時間は珍しいなと思いつつ、電話をかけてきた相手を確認してみると目を疑いたくなるような名前がそこにあった。

 

 「……もしもし」

 

 「は? 相談? いやなんで私なんだ」

 

 「妹、というと愛宕のところのか。ああ、はぁ? そんなことわかるわけないだろう」

 

 「違う違うそういうことじゃない。そもそもの事情がわからないと言っているんだ」

 

 「はぁ……、あのな、単純に元気づけると言っても中身は単純じゃないんだよ」

 

 「というかその妹さんは部の重要なポストにいるんじゃないのか?」

 

 「それならなんというか、そうだな、責任感みたいなのを自覚させたらどうだ」

 

 「そうだ、忙しいというのも案外悪くない」

 

 「あぁ、うん、あぁ、部員は大事にしてやるといい。じゃあな」

 

 ここが一人の帰り道で本当によかった、と智葉は深いため息をついた。たまたまとはいえメグが隣にいないことに関しては、信じてすらいないが神に感謝してもいいとさえ思った。それにしても、と監督代行の秘密を知っている智葉は歩きながらぼんやり思う。

 

 ( ……あいつ、意外とまともに仕事してるんだな )

 

 

―――――

 

 

 

 地域によってはもう空から白いものがちらつくだろう晩秋も晩秋の昼下がり。お弁当を食べ終えた恭子はなんとはなしに教室を見回してぎょっとした。普段ならチャイムが鳴るくらいにやっと姿を見せる男が、今日に限っては既に机について頭を悩ませているのだから。よく見てみれば机の上には開かれたノートらしきものが置いてあって、状況から見るにおそらくペンを動かしては消し、というのを繰り返しているのだろう。それがあの男に似つかわしいかどうかは別にして。

 

 ちょくちょく耳に挟んだ噂話やら実際に拳児に聞いた話を思い出せば、彼が何をしているのかというのはすぐにわかる話だ。新しい団体のメンバーの選定に頭を悩ませているということだろう。しかしそんな話を聞いてからもう軽く二ヶ月以上は経過しているが、未だ決められないのだろうかと恭子はすこし不思議に思っていた。たしかに春の大会までに決めさえすればいいのだから焦る理由はひとつもないし、それに春までわずかな期間とはいえ急成長する部員が出ないとも限らない。そう考えればまだ決まってないこと自体には納得がいく。そのかわりにしばらく放っておけばよいのでは、という疑問が湧いてはくるが。

 

 「さっきから何してんの?」

 

 「あ? 末原か、イヤ実はちと考えてることがあってよ」

 

 拳児はほんの一瞬だけ視線を上げて、すぐにノートの上に視線を戻した。そこには苗字がずらっと並んでおり、ぱっと見た感じでは現麻雀部の名簿のような印象を受ける。

 

 「ああ、また団体メンバー考えて……」

 

 「そうじゃねえ。……あー、まあ間接的には間違っちゃいねえのか」

 

 「は?」

 

 予想外の返答があって聞き返した恭子にも動じることなく手を動かし続ける様子は、播磨拳児という名前を前提に置くとあまり見られるものではない。そもそも教室の最後列に席があるために普段の授業でも彼の勉強している姿を見ることのできるクラスメイトはほとんどいない。実際に拳児が何について考えているのかが気になった恭子は、そういう珍しいものが見られるといった事情も含めて空いている隣の席に座ることにした。

 

 あらためてノートをよく見てみるとやはりそこには部員たちの名前があって、恭子には先ほど口にした内容で考え込んでいるようにしか思えなかった。違和感を挙げるとするならなぜかノートが四つに区分けされていて、そこに部員たちが学年も実力もばらばらに配置されているといったことくらいだ。このまま眺めていても埒が明かないだろうと考えた恭子はそのノートに書かれた区分けが何なのかを尋ねてみることに決めた。

 

 「で、その四つに分けてんのはどういうこと?」

 

 「一度よ、部の中でチーム分けして団体戦やってみようかと思ってんだ」

 

 「団体戦?」

 

 「おおよ、ウチは人数は十分にいるしよ。逆に多すぎてチーム分けで困ってんだけどな」

 

 ぱっと聞いた感じでは悪くなさそうだと恭子にも思えたが、一拍置いてみるといくらか疑問点が湧いてきた。監督としての手腕を考慮すれば、この男はおそらく自分が質問するだけ時間の無駄になるだろうプランを練っているのだろう、と恭子は思うのだが、しかしいまは昼休みで退屈な時間だ。せっかくなのでいろいろと尋ねてみようと考えた。

 

 「団体戦やるなら別に四つやなくてもええんやないの? 五人組たくさん作ったら」

 

 「たしかに勝負の仕方を体験するってのもあるんだけどよ、主眼はそこじゃねえんだ」

 

 「ほーぅ」

 

 「二年生の連中が先頭切って考えたり決めたりすんのにもちっと慣れなきゃなんねえ」

 

 「そこは漫ちゃん中心にしっかりやってるんとちゃうの」

 

 「そりゃ構わねーけど最終的に上重に行き過ぎなんだよ、負担を分散してやんねーと」

 

 拳児の言ったことが恭子にはすぐにピンと来た。どちらかといえばこれは漫側の問題ではなく、部員側の問題だ。これまで頼りにするべき存在がいる状態が当たり前だったために、自覚的かどうかは別にして新しく頼るべき存在に思い切りもたれかかってしまっているのだ。もちろん漫自身は頑張ろうとするだろうから、問題がすぐさま表面化することはないだろう。そしてそれが続けば、いつの間にか彼女が潰れているといった事態になりかねない。そこまでは自身でも考えることがあったから、恭子はなるほどね、と相槌を打って理解を示した。方策としてはまあまあ乱暴と言えそうだが効果がまるで見込めないということもなさそうだ。ついでに言えばいくらかプラスアルファが望めそうでもある。

 

 部員を四チームに分けて、それぞれ五人ずつの代表を決めてから団体戦形式で試合をするとなると、代表を決める話し合いも含めて考えれば少なくとも土日のどちらかを使う必要がありそうだ。恭子は軽く脳内でシミュレーションしてみて、二度三度とうなずいた。シビアな話をすれば二年生よりも一年生のほうが強い、なんてこともざらにあるために、二年生は勝利を優先して自身を切らなければならないこともあるだろう。というよりそれができなければならないのだ。

 

 ペンを机の上に放り投げて顎を撫でていた拳児がぴたりと動きを止めて、誰に聞かせるでもなく独り言のようにつぶやく。

 

 「いや、そうか。上重まるごと外しちまったほうがやりやすいんじゃねーのかこれ」

 

 「へ? 漫ちゃんひっぺがす意味は?」

 

 「上重が入ったチームは上重に頼っちまうだろ? それがなくせるってのがひとつだ」

 

 「もう一個は?」

 

 「愛宕にゃ及ばねーにしても外から全体を見る練習は必要だろ、それだ」

 

 「んー? それ漫ちゃんに要る?」

 

 「バカ言え。負担かけすぎるのはアレでも主将は主将なんだから最低限はあんだよ」

 

 そーだそーだその辺のことは愛宕に教えさせりゃあもっと都合いいだろ、といつの間にか手にしていたペンを走らせている様子を見ると、よほど新しい主将の扱いに困っていたということなのだろう。恭子にはもう詳しいことはわからないが、今の部に絶対的と呼べるほどの実力を有している部員がいるとは思えない。そう考えるならば、たしかに全体として動くこと、あるいは逆に全体を見極めることも必要になってくる可能性はある。世代が変わればチームの運営方法も変わるのだ。それはもちろん当たり前、と言ってしまえばそれまでのことだし、どこの部でも同じような苦労をしているだろう。ちょっと例外的な彼女たちの世代は普通の世代交代ではなかったから体験しているわけではないが、その移行作業が簡単ではないだろうことくらいは恭子にもわかる。決して口には出さないが、自分と同い年でさらに監督一年生なのにそんなことまで考えてよくやるなあ、とその辺りは素直に尊敬している。

 

 拳児がひたすら手を動かしているものだから、必然として恭子は手持ち無沙汰になる。もともと真剣でも何でもない興味本位から近づいたのであって、真面目に相談に乗ってあげるつもりもない。することもなければ自分の席にさっさと戻るのも億劫だったので、由子の机に頬杖をついて、これまで眺めることのなかった播磨拳児という男をまじまじと眺めてみた。よく見てみると、変な男だ。

 

 「なあ、播磨」

 

 「ンだ」

 

 「本当に高校生なん?」

 

 ぐるりと拳児の顔が恭子のほうへと向き直る。それだけで脅迫になりそうだ。

 

 「西暦から生年月日教えてやろうかコラ」

 

 「それはいらんけども、改めて見るとおかしないかなー思て」

 

 「どこもおかしかねーだろが」

 

 「身体大きいのはまあええけど、高校生でそのヒゲはおかしいやろ」

 

 確認しておくが拳児のヒゲは無精ヒゲのようなレベルではなく、口ヒゲにアゴヒゲときちんと整えられたものであり、本人としてもツヤなどを気にかけているほどである。たとえば社交界に出てくるような身分の人物がそんなヒゲをしていれば、立派ですね、と声をかけられるようなレベルにある。もはや見慣れ過ぎて誰もそこには触れないが、そのこと自体がおかしいのだ。

 

 恭子の言葉をどう受け取ったのか、拳児は得意げに自分のヒゲを一撫でして鼻を鳴らした。普通なら褒めていないことくらいはわかるのが自然だろうと恭子も思うのだが、付き合いを持ってしばらく経つというのに目の前の男の価値観が彼女にはまるでつかめていなかった。ちょっとわからないところがあるだとかそういった領域の話ではないし、詳しく聞いたところで共通の言語なのに何を言っているのかさっぱりわからないといった事態が起きることは想像に難くない。

 

 「うん、褒めてないからね?」

 

 「オイ末原、オメーこれにどれくらい手間かかってんかわかってねーだろ」

 

 拳児との噛み合わない会話の応酬に、恭子はこれまで人前で見せたことのないような疲れた目で対応をしてみせた。憐れんでいるようで、蔑んでもいるようで、ひどく複雑な感情の乗った視線だった。後輩たちがこの恭子の顔を見たら、きっと彼女に対するイメージが変化してしまうに違いない。そう確信させるほどのあまりにもな表情が生まれた会話が、平和な昼休みの片隅で展開されていたことなど誰も知るわけがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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78 大人たちの攻防

―――――

 

 

 

 カレンダーに描かれる絵が、色を変えた木々の葉から雪やモミの木やサンタクロースやらにすっかりと取って代わられて、拳児のいる教室からも少しずつ自習のために授業から抜け出す生徒が目立ち始めた。国公立と私立とで多少は時期が前後するが、年が明けてちょっと経てば受験の季節である。わかりやすく殺気立つ者はあまりいないが、どこかしら雰囲気は異様になってくる。どこか周囲に置いていかれるようなこの感覚をいつか味わったことを思い出して、拳児は窓の外に目をやった。音のない雨がやわらかく降り注いでいる。底冷えのするような空気だった。

 

 一時間目の授業が終わってひと息ついていると、隣に座る由子がいつものようになんとはなしに声をかけてきた。

 

 「そういえば播磨、あなた冬休みってどうするの」

 

 「あ? 休むんじゃねえの?」

 

 「じゃなくて、実家に帰ったりしないの? 夏とは違ってきちんとした休みでしょ」

 

 夏はインターハイが終わったあとも、取材対応に今後の方向性の策定に宿題と実はあまり休めていなかったのが拳児の実際のところである。それと比べて冬には年末年始としっかりした休みがある。一般的に考えれば、なんらかの事情があってこちらに来たにせよ、家族と会う機会というのは大事なものだろう。すくなくとも由子はそう考えたからこそ拳児にそうやって話を振ったのだ。

 

 「あー、いや別にいいんじゃねーかな。電話一本入れりゃ問題ねーだろ」

 

 「ご家族はそれで納得されるの?」

 

 「あんまそーいうの気にするタイプじゃねーしな、大丈夫だろ」

 

 わずかな顔の動きから、思い出すように拳児が視線を上に飛ばしたのが由子にはわかった。彼の動きをそのまま受け取れば、この姫松に来てからこれまでのあいだにほとんど家族や実家近辺のことを考えず、今になって久しぶりに思い出したということになりそうだ。ふつうならなんとも考えにくいことだが、相手がこの男だとあり得ないと言い切れないのが恐ろしいところである。同じような感覚を何度も何度も体験してきたが、どうにも毎度驚かされるばかりだというのが由子の感想だった。ご家族、と自分で口にした言葉に引っかかって、由子は少し会話の方向性をいじってみることにした。

 

 「そういえば、なんだけど」

 

 「あァ?」

 

 「家族構成とかってどうなってるの?」

 

 「別にフツーだぜ。両親と、あと弟が一人いるだけだ」

 

 本人は大真面目に普通だと思っているのだろう、もったいつける様子もなく、まるで天気のことでも話すかのようにその事実を零した。拳児は自分を振り返るようなことはしないから、“弟がいる” という事実が衝撃的なほどに自身に似つかわしくないということに気付かない。失礼だとは思いながらも、弟どころか両親の時点でイメージできないというのが由子の内心の本当のところだった。どんな人物からならこのヒゲグラサンが生まれるのだろう、あるいはミニサイズ播磨拳児など存在し得るのだろうか、と奇妙な好奇心は後を絶たない。もちろん誕生と同時にヒゲもサングラスもセットでついてくるわけがないことくらいは由子も理解しているのだが。

 

 どれだけ理解を超えていてもやはり播磨拳児も人の子である、ということがあまりにも新鮮で、由子は笑顔なのかどぎまぎしているのか判別のつかないような表情を元に戻すことができないでいた。

 

 「えっ、おと、弟いるの? や、やっぱり似てたり……?」

 

 「どーいう意味だコラ。つーか当人同士似てるかなんてわかんねーよ」

 

 「あはは、というか弟さんもいるんだったらやっぱり実家帰ったほうがいいと思うのよー」

 

 「や、俺がいねーのはいつものことだから慣れてンだろ」

 

 拳児の口から出てくる言葉はどれも不思議な響きを持って由子の耳に届いた。彼にとっての当たり前が他人にとっての当たり前でないことは重々承知していたつもりだったが、今回ばかりは同じ言語を使っているのに意味が通じていないような錯覚すらしてしまいそうになる。拳児は由子のそんな内情などもちろん知るわけがなく、またその奇妙な彼の現実を世間話のような軽さで話すものだから、二人の理解の地点がぐいぐい離れてしまっていた。由子はとりあえず浮かんだ疑問を投げてみることにした。そうしないことには共通理解などとても得られそうにない。

 

 「いやいやあなたが家を離れたのは今年に入ってからでしょ? すぐ慣れるとは思えないけど」

 

 「ん、ああ違げーんだ、俺ァ向こうの高校行ってたときから従姉の家に世話ンなっててよ」

 

 「えっ、複雑な事情とかあったりするの? だとしたらごめんなさい」

 

 「……単にそっちのがガッコに近かっただけだ、事情なんか一個もねーよ」

 

 姫松や矢神の高校、あるいは男子女子を問わず、彼の周りにいたのはほとんどが遠慮のないというか精神的な壁を作らない人物であったために、こうやって丁寧に対応されることに拳児は慣れていない。雑に扱われるほうが自然であって、正直に言えばどう返したものか苦慮するレベルなのである。これを口下手な拳児の自業自得の一言で済ませてしまうべきかどうかは意見の割れるところだろう。もう少しいろんな人との会話を経験しておいたほうがよかったのは事実だが、真瀬由子が同世代では飛び抜けてしっかりしていることも関係していないわけではないのだ。

 

 暗黙の了解とでも言うべきか、自然と作り上げられたふたりのルールと呼ぶべきか、会話をする際に拳児と由子は互いに視線をあまり合わせない。もともと自分のほうに視線を合わせて会話をしていないということはわかっていたが、拳児の顔が気持ちそっぽを向いたように由子には感じられた。

 

 そっぽを向くとなると、そんなアクションから導かれる心情などそうは多くない。果たして由子の思い至った心の動きが拳児にぴたりと当てはまるかはわからない。わからないが、ちょっとだけ由子にはそれが楽しかった。

 

 

―――――

 

 

 

 ピンポイントに見れば偶然と言えたし、時期的な見方をすればそれは必然と言えただろう。

 

 その日の学校でやるべきことをすべて終えて、拳児は部屋でぼけっとしていた。頑健な肉体を持つ拳児とはいえ、ここ最近で急に冷え込んできた夜の空気には堪えるものがあって、暖房器具を点けてそれで暖まっているのだ。意外に思うかもしれないが、寒いのも暑いのも、我慢できたところで我慢する意味などないと拳児は考えている。そんなものを我慢したところで得られるものは何もない。せいぜい体調不良とその反省くらいだ。

 

 突然、いつまで経ってもマナーモードを知らない拳児の携帯が着信を知らせた。いつもと同じように誰からの着信かを確認することなく拳児は電話に出る。

 

 「俺だ」

 

 「いいかげん電話口でのまともな応対くらい覚えたまえ、拳児君」

 

 ほとんど温度を感じさせない透き通った声が拳児の鼓膜を震わせる。しばらく前までは日常的に耳にしていた声だ。かなり限定的な見方とはいえ、ある意味で言えば彼が矢神で暮らしていたころの象徴とさえ言えるかもしれない人物だ。それこそ想い人である塚本天満以上に。

 

 「あ? 絃子か」

 

 「なんだ、久しぶりだというのにそっけないじゃないか」

 

 「何の用だよ、卒業なら問題ねーぞ」

 

 「……ほんとうにつれない男だな。まあいい、用事はそれほど多くない」

 

 普段からそれほど口数の多いわけではない拳児だが、いま進行している対応にはまた別の意味がある。彼の同年代あるいは年下の女性への態度に比べて年上の女性に対してまるで強く出られない原因を作り上げたのが、現在電話に出ている拳児の従姉である刑部絃子なのだ。決していじめられていただとかそういった過去はないが、彼女はずば抜けて頭が良く、また子供のころの拳児がからかうのにあまりにも適していたために、彼の頭の中で “絃子には勝てない” という刷り込みに近い処理がなされ、それがいつの間にか “年上の女性には勝てない” にすり替わったのである。

 

 別に恐怖感情まで抱いているわけではないが、無意識レベルでの刷り込みもあって拳児は黙って絃子が話すのを聞いていた。それに基本的には彼のことを思いやってくれているのも間違いのないところである。現に大阪で生活できているのも彼女の尽力によるところが大きい。

 

 「まずはインターハイの優勝おめでとう。……ずいぶんと遅れてしまったが」

 

 「構わねーっつーか別にいらねーよ、俺ァなんもしてねーし」

 

 突然の優しい声色に驚いたのか、ぶっきらぼうに拳児が返す。ときおりこういう変化球を入れてくるのがただ単純に彼女をつっぱねることができない理由である。

 

 「ま、そう言うだろうとは思っていたがね。それでも実績は実績だと覚えておくといい」

 

 「そういうのは部の連中か赤坂サンに行きゃあいい。俺には勝った事実だけで十分だ」

 

 「とりあえずは男らしい、と評しておいてあげよう。ところで」

 

 拳児からすれば、あの宮永照を擁する白糸台の団体三連覇を阻止したという事実が何よりも重要なのであり、姫松のチーム作りに貢献しただとか士気を高めただとかいう本来監督が評価されるべきところは彼にとってはまるで価値がない。そんな発言を聞いてここで絃子が彼を男らしいと評価することができるのは、彼女が拳児の事情と思考回路をきちんと理解しているからである。

 

 「なんだ」

 

 「まず君に年末年始にこっちに帰ってくるつもりがあるかどうかを聞いておこうか」

 

 「あァ? 別に今さらそんな必要もねーだろ」

 

 「さすがに休みはもらえるんだろう? それなら一旦は戻ってくることを勧めるがね」

 

 「どーいうこった。なんか意味でもあるみてーな言い方じゃねーか」

 

 「何も強制しているワケじゃない。あくまで勧めているだけだよ」

 

 どう聞いても含むところのある言い方に拳児は警戒心を高めざるを得なくなっていた。経験からくる判断によると、本心から勧めている場合と罠の場合とがあって、それがまったく読めないのが問題なのである。これがもし罠であった場合、年末年始ということを考慮に入れると絶え間なく酌をさせられ、酔っ払いどもの相手をさせられる可能性が非常に高い。ちなみに相手は揃うとすれば超がつくほどの美しいお姉さまがたなのだが、世の男性が血涙を流して羨むほどの状況であっても拳児にとってはただの面倒な雑事に過ぎない。しかしもし彼女が善意から言っているのだとすれば、矢神に戻ることに決定的な意味が生まれるのも見過ごせない。その決定的な意味が何なのかはまだわからないが、それだけでも一考に値するほどなのだ。

 

 さすがの拳児と言えど即座に返事をすることができず、珍しく電話口で、むう、と唸った。

 

 「ま、今すぐ結論を出せとは言わないよ。帰ってくるなら当日でいいから連絡をくれればいい」

 

 「オウ、わかった」

 

 「さて、話は変わるんだが」

 

 おそらく年末年始のことについて話をすることが用件のひとつだったのだろう、今度はよっぽど彼女との会話の経験を積まなければ判断できないほどに微妙にしか変化しない声の調子を朗らかなものに変えて絃子は話を進める。あるいは拳児にお祝いを言うこともそれに含まれていたのかもしれないが、そんなことは彼にはわからないし、そもそもどうだっていいことでもある。

 

 暖房を入れてそれなりの時間が経っているため、拳児はわずかに喉の渇きを覚えていた。冷蔵庫にいくらかペットボトルのお茶が放り込んであるが、この電話もそれほど長くはかからないだろうと考えて後回しにすることにした。

 

 「団体戦に出ていた子たち、ずいぶんと優秀そうじゃないか。それに可愛らしい」

 

 「あ? 観てたのかよ、麻雀なんざ大してキョーミねーんじゃねーのか」

 

 「弟分が監督を務めているというのに見ないわけにもいかないだろう」

 

 「そーかい」

 

 「で、キミのカノジョはどの子かな?」

 

 「ハア!?」

 

 絃子はこの世で最も早く拳児の事情を突き止めた存在であり、その上でちょくちょく遊び半分でイジってきた存在でもある。もちろん程度は弁えていたし、基本は拳児の後押しになるようなものが中心ではあった。しかしちょっとだけ歳の離れた弟分があまりにもかわいらしい恋愛観を持っているとなれば彼女のいたずら心に共感する人も多いのではないだろうか。

 

 「ふむ、あのしっかりしていそうな大将の子なんか拳児君と相性よさ……」

 

 「ちげェよ! なンだいきなり!」

 

 さすがにまだ高校生だと言うべきか、立ち上がって携帯に向かって怒鳴るも状況を見ればもはや完全に術中にはまっているとしか形容のしようがなくなっている。話題の急な転換に拳児の脳はついていくことができず、否定のポイントを完全に間違えている。もちろんからかっている絃子は何を言っても否定の言葉が飛んでくることを理解した上でやっている。彼の塚本天満に対する想いがそうそう簡単には動かないことを確信しているのだ。どう考えても性格が良いとは言えそうにないが、拳児が過敏に反応するのも一因と言えば一因ではある。

 

 「すると中堅、いや次鋒の子もじゅうぶん……」

 

 「勝手に納得してんじゃねえ!」

 

 「なんだ後輩の子か? たしかにあのスタイルはどちらも蠱惑的と言ってもいいくらいだが」

 

 「お前コラほんといい加減にしろよ、何のつもりだ」

 

 「冗談だよ、冗談。そんなにムキにならなくてもいいだろう」

 

 「うるせェ!」

 

 「しかし本当に君は一本気というか何というか、損な性格をしているな」

 

 このままだと長くなるのを感じ取ったのか、ほっとけ、と通話口に向かって叫ぶと拳児は無理やり通話を切った。いろいろと知られている相手に恋愛関連の話を振られることほどやり場のない思いをすることもないだろう。どのみち用事は多くないと言っていたのだし、もし不十分であればまた電話がかかってくるだろうから構わない、と判断して拳児はそれ以上考えるのをやめることにした。自身でも思った以上に冷静に思考を回せたことにすこしだけ満足したのか、お茶を取りに行く足取りはいつもに比べて軽く見えた。

 

 

―――――

 

 

 

 部室に入れば自動的に練習が始まるようになっていることから、拳児は授業が終わったあと、少しの間をおいてから教室を出る習慣を身に付けた。そして引退した身ではありながら今後のために部の練習に参加している洋榎も別の用事、とは言ってもせいぜいが友人と話をしながら昇降口まで一緒に行くといった程度だが、がない時、たまに拳児と同じ行動を取るようになった。先に行けば後輩たちがいるが、教室で待っていれば拳児がいる。部室に向かう最中に廊下で話す相手としては不適当に思われるかもしれないが、案外と洋榎と拳児は会話の相性がいい。拳児が楽しんでいるかどうかは別にして、洋榎が話を振る場面は決して少なくない。今日も洋榎のそんな思考のもと、二人は静かになった廊下を歩いていた。

 

 「せやろ? 播磨もそう思うやろ? どっちか言うたらそんなんカレーになるやん」

 

 「まあ俺はカレーのほうがウメェと思うぜ」

 

 「それがちょっと前にキヌにおんなじハナシしたら “肉じゃがかなあ” 言いよんねん」

 

 愚にもつかない話題をぎゃあぎゃあ騒ぎながら話して歩く様子は、どこからどう見ても高校生の生活の一幕だった。とくに関係ないことではあるが、この二人はこれでもこの夏インターハイを制した監督とそのチームのエースである。つまるところインターハイに出たからといって、物事の考え方や捉え方は別にして、人格的な部分にはさして影響は出ないらしい。

 

 「こらもう教育したらな思て……」

 

 「あ、拳児くんと洋榎ちゃん。ナイスタイミングやね~」

 

 洋榎が話を進めようとしている途中で、いつものふわふわした声が真後ろから飛んできた。足音もなく突然に後ろから声をかけられて咄嗟に振り向いた拳児と洋榎をいつものように顎に人差し指を当てて眺めている。足音がしなさそうな雰囲気こそあっても実際に足音が立たないのはおかしな話で、しかしなぜかそのことについては聞けない妙な空気が場を支配していた。どのみち会話の方向性を操る技術において赤阪郁乃に敵う人間はこの学校には存在しないのだから、多くのことは考えるだけ無駄だった。

 

 うふふ、とすこしだけ笑みを深くしてから郁乃は口を開いた。

 

 「あんな、これちょっと先の話なんやけど~」

 

 拳児は似たような話の持って行き方をそう遠くない昔に体験したような気がしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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79 awakening to femininity

―――――

 

 

 

 見上げれば空は二枚くらい薄い膜を透かしたような青が広がっているが、気温は空の色のもつイメージと一致しない。風が吹いてくる方向は大まかに北からのものになって、朝の天気予報では西高東低という気圧配置の単語がよく聞かれるようになった。特別な加工などされていない教室の窓は結露するようになり、教室に入るたびにクラスメイトの眼鏡は白く曇った。日の当たらない廊下はバカみたいに冷え込んで、便座が冷たすぎるという愚痴が聞こえるようになった。そんな時期の出来事なのだから、彼のちょっとした変化は何の不思議もないだろう。

 

 

 掃除のゴミ出しを終えた漫は教室に置いてあった荷物を取って部室へと向かっていた。学校の敷地内とはいえ意外とゴミ捨て場への距離があるために、当番になったときには練習開始に間に合うかどうかが五分五分だったりする。遅れたところで罰則があるわけではないが、主将としてはあまり望ましくない。そんなこともあって漫は小走り気味に廊下を移動していた。

 

 ある程度行くと先のほうに見慣れた後ろ姿がのしのし歩いているのが目に入った。学校でいちばん大きいというわけでもないが、まあとにかく目立つ容姿をしているために見間違えることはまずない。一八〇センチオーバーでカチューシャをしている男などたったひとりしかいないのだから。その人物が部室に着けば練習が始まるということで、それならせっかくだしということで漫はその男に声をかけることにした。

 

 「おーい! 播磨せんぱーい!」

 

 足の回転をすこし上げて漫は拳児に駆け寄っていく。いまさらどうこう言うことでもないかもしれないが、彼女はあまり周囲を気にするタイプではないらしい。呼ばれて拳児が振り向いて、オウ、オメーか、といつものように返事をする。部員たちは彼の定型句にもはや何も思わない。

 

 「いやあ、珍しいですね、このタイミングで会うのは」

 

 「単純にオメーが遅せーからだろ。掃除かなんかか?」

 

 「あ、はい。ぴったりそれです」

 

 あっそ、と自分で聞いておきながらまるで話を広げようとしないのもこの男の特徴である。慣れていなければイラッとくる人もいるかもしれない。拳児と会話をするのにはちょっとしたコツがあるのだということを知っているのは、やはり麻雀部員だけである。とはいえ根本的に忙しい身分の人物であることは確かであり、そうホイホイ捕まえて長話をするのは難しいというのも事実には違いない。だからこういうたまたまの出会いは意外と貴重な機会だったりもするのだ。

 

 「あ、おい、聞いておきたかったんだけどよ」

 

 「はい、なんです?」

 

 「こないだの部内団体戦、外から見ててなんか思ったか?」

 

 「あー、なんですかね、あそこに自分がおらんのがすごいイヤでした」

 

 聞くだけ聞いて拳児はとくに何も返さなかった。これが夏前であれば、この様子は何も考えていないと断ずることができたが今はそうもいかない。いつの間にか監督としての思考回路を埋め込まれた拳児は、部に関わる事柄についてはしっかりと頭を回すようになったのである。言い方を変えれば、部員たちの幻想にわずかながら追いつき始めたということだ。もちろん漫は目の前の監督にはじめからその幻想を抱いていたから、何も言わない拳児に対してマイナスのイメージを抱くことはない。せいぜいもうちょっとかまってくれたほうが楽しいといった程度だ。

 

 そんなことを考えていた漫は拳児のほうへ視線をやって、いつもとは見た目がちょっとだけ違うことに気が付いた。頭部はいつもどおりだが、服装がすこし違う。

 

 「あ、播磨先輩やっと学ランのボタン留めたんですね」

 

 「そーいう主義でもねーしな」

 

 とはいえ真面目な学生のごとくすべてのボタンを留めているわけもなく、拳児が留めているのはだいたいみぞおちの辺りにあるボタンから下に限られていた。そこから視線を上にあげるとキャラメルカラーのカーディガンと、やっぱりある程度ボタンの空いたシャツが目に入る。

 

 「へー、先輩カーディガンなんて持ってるんですか、てっきりそんなもん着ないぜ派の人やと」

 

 「バカ言え、寒けりゃ着るわ」

 

 「意外としっくりきますね、やっぱスタイルええからかな」

 

 「制服なんだからそこまでおかしくなるわきゃねーだろが」

 

 気が付けば二人の会話は、漫が拳児の前に出たり後ろに回ったりして着こなしをチェックしながらのものになっていた。拳児の周りをくるくる回りながら身振り手振りを加えて話をしている様はどこか微笑ましいものだった。すくなくとも編入当時よりは拳児の安全性が確認されているため、それを見て動揺するような生徒はずいぶんと減ったという事実も関係していないわけではない。

 

 

―――――

 

 

 

 部活が始まってしばらく時間が経ち、同じ姿勢を続けてちょっとこった体を漫が伸ばしていると、卓にはつかずに牌譜を読み漁っている前主将の姿が目に入った。イメージとは一致しないかもしれないが彼女は意外と研究熱心であり、だからこそ継続的に強さを発揮している部分もあるほどだ。ただ彼女の思考の軸にあるのは打つことが麻雀の根本であるというもののため、まずは卓に着いて、それから気になるところができたら反省を含めて研究を始めるのが常だった。どうして今日になって漫の目に留まったかといえば、昨日から練習が始まって以降いちども卓に着いている姿を見てもいなければ元気のいい和了宣言を聞いてもいなかったからだ。一日程度なら打たない日もあるかもしれないが、二日目もそれが続くとなればそれはさすがに異常と言わざるを得ない。

 

 次の年度にはプロのとしての生活が始まる洋榎はさらに腕に磨きをかけるべく他の三年生が引退した今でも練習に参加しているが、実質的な成果で見るならば現役部員たちの成長に寄与しているといった側面が強い。爆発状態の漫をさえ平気で抑え込むような彼女が実力を鍛え上げられるような相手は、やはりというか現在の姫松には存在しない。言ってしまえば高校生が相手となると宮永照だの辻垣内智葉だのといったような相手でなければ身を削るような試合にはならないのだ。もしそれ以上を望むのなら、それこそこれから飛び込むプロの世界にしか適切な相手はいないと断言できる。そういった見方をするならば洋榎が牌譜を読み漁っている現状もおかしくないといえばその通りではある。

 

 しかしさすがにそこまで考えが及んではいない漫からすれば、いつもと違うこと、で済まされてしまうことに変わりはなく、素直な彼女は既に洋榎のほうへ足を向けていた。

 

 「せーんぱいっ」

 

 「ぅわあっ! お、おお、なんや漫か……」

 

 まるで暗い夜道で後ろから突然に声をかけられたかのような驚きぶりに、さすがの漫も心配になった。確認しておくがまだ外は明るく、漫も別に後ろからこっそり近づいたわけでもない。普通に声をかけたら普通ではない反応が返ってきたのだ。

 

 「え、いや、なんかあったんですか」

 

 「んにゃ、単にびっくりしただけや。ま、強いて言うならいつもより肌ツヤがええかな」

 

 「それはいつもと変われへんと思いますけど」

 

 「えぇー……、もうツッコミですらないやん……」

 

 イメージとはまったく違った返しに洋榎はわかりやすく元気をなくした。これが彼女のイメージした通りなら、もうちょっと漫もノってくれて会話も弾んだはずだったのだが、いったいどこで何をどう間違えたのか状況はそうは進まなかった。

 

 「なあ漫、今のボケそんなあかんかったかな」

 

 「いやいやボケどうこうの前に心配なりますからね、センパイが卓つかへんとか」

 

 「ん、なんや気付いとったんか」

 

 「あっはっは、やってセンパイめっちゃ目立ちますし。播磨先輩ほどやないってだけで」

 

 にっこり笑う漫と対照的に洋榎の眉間には少しだけ皺がよった。どこか不機嫌というよりも消化不良の物事を抱えているといった印象を与える表情だ。いまさら播磨拳児と比べられて怒るような関係性ではないのだから、何やら他に思うところがあるのだろう。もちろんその内容が漫にわかるはずもなく、そのことについては放っておいて、彼女の頭はプロ行きを決めた先輩が卓に着いていない理由のほうへシフトしていた。ちなみに話題に上がった拳児はいま第二部室に足を運んでいるためここに姿はない。

 

 普段から特別に仲の良い末原恭子や真瀬由子、あるいは妹である愛宕絹恵を別にして、ひとりの部員という観点から見ると、愛宕洋榎という存在は掴みづらいというのが正直なところだった。麻雀に関しては超人的であり、その成果だけで部員全員を引っ張っていく存在。かと思えば初対面だろうが対戦相手だろうがお構いなしにコミュニケーションを取って、気が付けば友達を増やしている。弱音を吐かない、不安な表情は見せないといったある意味人間らしくないとさえ言えるような振る舞いと、ごくごくまれに零れる達観したような一言のせいで余計に人物像とでも呼ぶべきものが見えにくくなっているのである。だからこそ漫は尊敬するべき対象のいつもとは違う行動を心配し、またそんな彼女がナイーブになる可能性のあることについて思考を巡らせた。

 

 「あ、ひょっとして一人暮らし始まるのの心配ですか? 北海道やし、遠いですもんね」

 

 「んー、そこは大丈夫やろ、どのみち最初は寮らしいしな」

 

 「それやったら何が大丈夫とちゃうんですか」

 

 「えっ」

 

 いつもの調子で返答するものだから、何が事情があることを証明する返しをしてしまったことに言われてから気がついて、あまり聞けないような濁った感嘆詞が漏れる。もともとが嘘のつけない性格なのだから追究されているうちに隠しきれなくなることはわかっていたことだったが、それにしたって素直に過ぎるというものである。

 

 「あっ、や、やー、ないで! 全然ほんまにオールオッケー大丈夫!」

 

 「目ぇ泳ぎまくりやないですか、寒中水泳ですか」

 

 「もう年末も近いしな、ってやかましいわ」

 

 「それで何があったんですか」

 

 「……ハァ、ええか、いまから言うことはウソちゃうからな? これ昨日のハナシなんやけど」

 

 

―――――

 

 

 

 「うっそぉ!?」

 

 話の前に念押しをされてもなお、練習中の部室だというのに漫は驚きの声を抑えきることができなかった。第一部室にいる部員たちの目がいっせいに漫と洋榎のほうへと集まったが、ああ、あのふたりか、と納得するとそれぞれがすぐさま自分の練習へと戻っていった。仮にも視線を集めたのは現主将と元主将だというのになかなかの扱いである。ちなみに拳児と郁乃は現在第二部室のほうへ指導に回っており、そこはかろうじて幸いだと言えた。もしもどちらかが大声を上げた漫を確認していれば洋榎も合わせて説教コースだっただろう。話は逸れるが播磨拳児という男は勝つための練習というものに対しては一貫して真面目であり、もし部員が練習中に気を抜いているようであれば普通に注意を飛ばすくらいのことは監督就任直後から行っている。矢神時代にはなぜかバスケットボールを練習する姿も確認されていたりする。

 

 一瞬とはいえ練習を止めてしまったことで気まずさを覚えたのか、二人ともが眉を困らせながら目を合わせて、そして何とも言えない笑みを浮かべた。しかし話そのものはまだ終わっていないため、漫は話を聞こうと椅子を洋榎のほうに寄せた。反省もあって声量は先ほどよりも明らかに小さい。

 

 「だからウソちゃうんやって。コーチに直に言われたんやもん」

 

 「え、それなんかいろいろ大丈夫なんですか」

 

 「……あっちはそう思とるんやろな」

 

 「それ身も蓋もない言い方したらふたりで北海道旅行ですよね?」

 

 そう言った瞬間に洋榎の右手が漫の左肩をつかんだ。口こそ開いていないがぶるぶると首を振る動作のおかげで言いたいだろうことはすぐに漫にも察することができた。頭ではわかっていても言葉にしたくない、してはいけないものがこの世には意外なほど多く存在しているのだ。こくこくと頷くことでこれ以上NGワードを言わないことを示したあとで漫は話を続けることにした。

 

 「……ちなみに播磨先輩は何て?」

 

 「漫、あいつたぶんアホやで。“はぁ、北海道スか” ってそれだけや」

 

 「えええ、どう考えても大事なトコにピンと来てないやないですか」

 

 「まあ言うてもいろいろあったみたいやし、そっちのアタマが働かんのもわかるけどな」

 

 「でもそれこっちからすると」

 

 「まあ、うちがモテへんのはおかしいとまでは言わんけども、女としての自信失くすわなぁ」

 

 

―――――

 

 

 

 「えっちょっ播磨、え? 行くの? ほんまに?」

 

 予定を言うだけ言って足早に去ってしまった郁乃に取り残されて、洋榎と拳児は部室へ向かう途中の廊下に突っ立っていた。カバンを左手に提げた洋榎が珍しくはっきりと動揺している。学校生活ではそうでもないが麻雀が関わっているときにはまず見られない振る舞いだ。

 

 「あの言われようじゃ行くしかねーだろ」

 

 「言うてもジブン高校生やで? そのへんわかっとるんか」

 

 「鏡見ろ鏡」

 

 状況や会話の内容だけを見れば日常的な友人同士の応酬と取ることもできそうだが、実際のところは混乱が洋榎の頭を支配していた。もう西の空は白に橙色を透かしたような色に染まり始めている。時計の針はおおよその部が活動を開始するような時刻を指しているが、冬至も近いこの季節でははっきりと日は短い。

 

 「大体よ、入るプロチームにアイサツに行くってんなら俺様が行くのは当然だろ」

 

 「そやけどこーいうんはフツー大人が行くもんちゃうんか」

 

 「まあそこに関しちゃ俺もそんな気はするけどよ、立場を出されちゃナンも言えねーよ」

 

 「お前ほんまなんで監督なん」

 

 うるせえ、と一言だけ返して拳児が歩き出して、それに洋榎がついていく。リノリウムの床を上履きの靴底が叩いて出す独特な響きが二つのリズムを刻み始めた。ポニーテールの少女の顔はまだヒゲグラサンのほうに向いているし、時々そのヒゲグラサンの顔もポニーテールのほうに向けられているようだった。

 

 「別に移動費も他もいろいろ出してもらえんだから問題ねえじゃねえか」

 

 「アホ! そんなケチくさいことこの洋榎ちゃんが言うワケないやろ!」

 

 「あーもう、じゃあなんだってんだよ」

 

 「あれや、部のほうはどうすんねん。練習見なあかんやろ」

 

 「そもそも俺が来る前は赤阪サンひとりで回ってたんだからその必要もねーだろが」

 

 そこまで言ってしまうと、話は終わったと言わんばかりに拳児は歩調を早めた。体格的に差のある拳児が早歩きをしてしまえば洋榎に追いつけるわけもなく、結局彼女は微差とはいえ練習開始に遅れてしまうかたちとなった。卓に着こうにもあれだけ予想外の話をぶつけられた直後にいつもどおり心穏やかに物事を考えることはさすがの愛宕洋榎にもできず、余計な考えが欲しくもないのにいくつもいくつも浮かんでくるような事態に陥っていた。もちろんそんななかで集中できるわけもなく、しかし部室に顔を出しておいて練習に参加しないという選択もできないために彼女が導いた結論が牌譜を読むふりをするというものだった。彼女への信頼が厚かったこともあって周囲はそれほど違和感を覚えなかったが、翌日になって漫に見つかるというのがこの後の流れである。

 

 

―――――

 

 

 

 第二部室での指導を終えたのだろう、第一部室のいつものお決まりの場所に座っている拳児のもとへと額の元気なおさげの少女が近づいていく。

 

 「せんぱーい」

 

 「オウ、どうした」

 

 手元の資料から顔を上げて、漫のほうへと視線を向ける。漫から拳児に質問を投げることはそれほど珍しいことではない。なにせ彼のアドバイスのおかげで彼女は考え方を変えるきっかけをつかんだのだから。もちろん質問の範囲が大雑把な質問には答えてくれないが、きちんと的を絞った質問であれば最低でも方向性は示してくれる。ちなみにこの漫の継続的なアクションのおかげで拳児への質問が増えるようになったのだがそれはまた別の話である。

 

 「いっこだけええですか?」

 

 「ナンだ」

 

 「いくらなんでもナシやと思います」

 

 「……は? 何が?」

 

 

 

 

 

 

 



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80 いろんな限界

―――――

 

 

 「そういえば元主将から見て漫ちゃんはどうです? うまくやってますか?」

 

 「んー、漫はアレ播磨と組んだら意外とええ主将になるで。人柄っちゅーんかな、あるわ」

 

 「まあ自分が引っ張るーいうタイプちゃうしね」

 

 「周りの二年もいろいろフォロー回っとるしな。もうだいたいのカタチできてんちゃうんかな」

 

 由子の近くの席の椅子を勝手に拝借して、由子の机の上に弁当を広げた三人が楽しそうに声を弾ませる。引退したとはいえ目をかけた後輩たちが頑張っている部のことが気にならないわけがなく、また後輩から話自体は聞いているにしても洋榎という特殊な立ち位置にいる存在から話を聞ける状況にあれば誰だって聞きたくなろうというものだ。もちろん拳児に尋ねてみてもいいのだが、そこには付き合いの長さ深さというものもある。わけのわからない回答が返ってくる可能性も含めて考えれば洋榎を相手に選ぶのは自然な判断だろう。

 

 「実力のほうはどう?」

 

 「今は一年が追い上げる時期やしな、まだまだ足らんけど面白くはなる思うわ」

 

 「誰か特別伸びてきてる子とかいてます?」

 

 「……あー、マルとかこのままいけば結構な戦力になる気もするけどな、どやろな」

 

 ああ、マルちゃん、と納得したような声が二人ぶん重なる。どちらも、というより洋榎も含めればどうやら三人ともが目をつけていたらしいことが窺える。さすがに名門の名を冠するだけあって人材に窮するというようなことはなさそうだ。ついでに言えば今年のインハイ優勝が宣伝になって有望な新入生が集まる目算も例年よりはわずかながらに立つのだからなおさらである。

 

 ときおりお弁当を食べるためだけの言葉のない時間があって、気が付けばしゃべるための時間に切り替わっている。なんとも不思議な話だが、彼女たちはそれを何の合図もなしに当然のようにやってのける。いっしょに過ごした時間の力は馬鹿にできないらしい。

 

 彼女たちのお昼の雑談はそれこそどこにでもいる女子高生のように話題がころころ転がって、いったんは麻雀などまったく関係のないような地点まで流れたあとに、いまひとつ経緯がわからないが再び話題が麻雀へと戻ってきた。年齢で見ればもう半生以上の付き合いになる競技であることを考えれば、ひょっとしたらその話題は彼女たちにとっては安心感をさえ覚えるものなのかもしれない。身近なものどころか生活の一部と言ってしまってもそれほど反発はないだろう。

 

 「そういえばプロ入りするんやったらそろそろチームに挨拶とかあるんちゃいます?」

 

 「毎年この時期ちょくちょくニュースで見たりするのよー」

 

 「それ聞く? どうでもいいむっちゃ微妙な問題抱えてんねんけど」

 

 「何ですその変な言い回し」

 

 言葉通りに本当に微妙な顔つきを浮かべた洋榎を見て、恭子と由子の二人は表情を普段通りのものからきょとんとしたものに変えざるを得なくなっていた。プロの道を考えていない二人にとってはその辺りの事情はまるでわからず、ただどちらかといえば華やかな印象を抱いてはいたために “問題” などという単語が出て来るとはまったく想定していなかったのだ。加えるならその単語にくっついている言葉も彼女たちの理解を余計に邪魔していた。

 

 「いやまあ北海道行くねんけどな、ヒコーキで」

 

 「いつ行くの?」

 

 「来週の火曜。ビックリしたわ、平日て」

 

 「向こうも休日に呼びたくないんちゃいます? うちらもまあ自由登校みたいなもんですし」

 

 「それでどこに微妙な問題があるの?」

 

 こっそり話を逸らそうとしていたのがアテを外してしまったようで、諦めたように洋榎は乾いた笑いを机の上に零した。恭子と由子はそれを見て目を見合わせ、いっしょに首を傾げた。どれだけ記憶の棚を漁ったところで目の前のポニーテールの少女のこんな様子は出て来ない。そんな姿などそもそも見たことがないのだから。彼女の言う問題がよほど酷いものなのかとも考えたが、洋榎自身がどうでもいいという前置きをしている。輪をかけてわからなくなったこともあって二人は黙って洋榎のほうに視線をやり、彼女が話し出すのを待った。

 

 「……だからな、行くねん。北海道」

 

 「それで?」

 

 いつの間にかすっかり箸まで置いて聞く態勢に入っている。

 

 「平日なのもええし、寒いのもまあええわ。でもな」

 

 「でも?」

 

 「播磨のやつがついてくんねん」

 

 聞いた途端に二人ともが顔を背けて、同時に口から多量の空気を噴き出した。笑うというよりはまったく予想外の発言に我慢ができなくなったという側面のほうが強そうだ。なんだか楽しそうな、かつ若干いやらしい目をしながら視線を洋榎へと戻す。当の彼女はどこか遠い目をしている。すると三人ともが突然にお弁当を食べ始めた。一瞬のうちに全員が理解したのだ、この後に始まる話以上に優先されるべきことなどないのだと。余分な要素でしかない食事などさっさと終わらせて全神経をそこに注ぎ込むべきなのだと。

 

 弁当箱もすっかり片付けて、審問の準備は整った。洋榎と由子の座っていた席を交換して二人で挟む位置関係にするほどなのだから気合の入りようが窺える。洋榎がどうしてそれに従ったのかはわからない。ごほん、とあからさまな作り物の咳ばらいを由子がひとつ入れる。

 

 「それではまず、被告と播磨はふたりで北海道に行くのかね?」

 

 「……間違いありません」

 

 「経緯の説明を」

 

 「そんな! 私は何もしていません! コーチが一方的に……っ」

 

 普段の口調を崩してまで始まった審問はどうやらノリノリな感じで進行していくらしい。正しい審問の意味など誰も把握はしていないがそんなことは知ったことではなさそうだ。問題を抱えているはずの洋榎が楽しそうに参加しているところを見ると、本当にその問題がどうでもいいものであることがわかる。あるいはその楽しそうなノリのうちの何パーセントかに諦めの成分が含まれているのかもしれないが、それこそどうでもいいことに違いない。いまさら何を言ったところで拳児が北海道に同行することは決定事項なのだから。

 

 「被告は播磨との北海道旅行が決まったときにガッツポーズをとったりは?」

 

 「まさか! むしろ行く考えを改めるよう説得さえしたというのに!」

 

 結果として洋榎の説得は拳児に対しても郁乃に対しても失敗に終わってはいるが試みたのは事実である。しかし論争を仕掛けたところで高校生が郁乃に勝てるはずはなく、同時に行くと決めた拳児の考えを変えるのも相当に難しい。ある種の無謀な挑戦であることは否めず、そこを理解しているからこそ由子も恭子も何も考えずに洋榎の言葉に突っ込んでいくような真似はしなかった。

 

 周囲に目を向けてみると、クラスメイトたちはクラスメイトたちでそれぞれが勝手に島を作ってお弁当を食べたりあるいは食堂に向かっているようで、とくに三人組の話に興味を示しているわけではなさそうだ。もし彼女たちの会話が耳に入るとしてもほとんどが断片的で意味を成さない単語だろう。もともと麻雀部に所属していた三人から播磨なんて名前がいまさら聞こえてきたとしてもとくに誰も驚くこともない。せいぜい周りが思うのは、今日も楽しそうにやってるなあ、といった程度のものだ。

 

 「真瀬裁判長、よろしいでしょうか」

 

 「発言を認めます」

 

 「被告と播磨の北海道旅行ですが、泊まりがけですか?」

 

 「んなワケあるかァ! 朝バーッと行って夕方には帰ってくるわ!」

 

 「えー、もうノリ崩しちゃうのよー?」

 

 「アホなこと言われとったらそら崩すに決まっとるやろ! いちおう女子高生やねんぞ!」

 

 身内のおふざけとはいえここまで来るとさすがに恥じらいが勝ったらしい。暴れ出しこそしないものの、精神状態がいつも通りでないのは明白だ。正直なところ、まだ本人にも整理がついていないのだろう。

 

 洋榎の言う “アホなこと” を問うた恭子は返答をもらって興味を失ったのか、いつの間にかスマホをいじり始めていた。真面目な彼女の対応としてはまず見られることのないもので、彼女をよく知る二人からすれば衝撃的ですらあった。恭子がスマホを操作する場面は本来の携帯電話として使用するか、あるいはなにか調べ物をするかのどちらかしかあり得ない。さも時間潰しかのように手元に視線を送る恭子の姿はかつてない存在感を持ってそこにあった。

 

 「……え、えーと、ぶっちゃけ北海道行って何するの?」

 

 「ん、あー、エラい人との顔合わせやな。なんか写真とか撮るんやと」

 

 「それやったら播磨が呼ばれるのは納得な気もするのよー。絶対に話題にはなるし」

 

 「そのせいか知らんけど契約のハナシはまた別や言うてたわ、面倒ちゃんやなほんま」

 

 「でも実際そんなもんやと思うのよー。契約は契約できっちりやらなあかんもん」

 

 まだその世界に飛び込んでもいないのに辟易としたような表情を浮かべる洋榎を由子は楽しそうに眺めていた。

 

 「裁判長、よろしいでしょうか」

 

 「あ、恭子はまだそのノリ続くのね? 発言を認めます」

 

 「調べたところ、天気予報では来週の火曜は大雪だと」

 

 「火曜にヒコーキ飛ばれへんようになっても別の日に振り替えるだけやん」

 

 「大阪ちゃいます。北海道のほうです。それも午後です」

 

 そこまで聞いて由子が再び噴き出した。洋榎はただぽかんとしている。なるほど恭子がとっさにスマホをいじり出したのはどうやら調べ物をするためだったらしい。それも内容が北海道の天気予報となればかなりイメージのはっきりした調べものだと言えそうだ。その行動がちいさな期待からだったのか、それとも愛宕洋榎と播磨拳児というとにかくなんらかの星の下に生まれてしまったふたりが共に行動するとなれば何かが起きるという確信があったからなのかはわからない。

 

 「あ! それ北海道から帰ってこられんなるやつやん!」

 

 「これ泊まりで決まりちゃいます?」

 

 「いやいや言うても来週の予報やろ? そうそう当たらんて」

 

 「まあ、お天気の話はどうしてもね、難しいところがあるのよー」

 

 

―――――

 

 

 

 「なんでいつもの学校行く時間に家出なあかんねん。なんやったらちょっと早いくらいやん」

 

 わざとらしくあくびをしながら適当な不満を投げる。もちろん隣には拳児が立っている。この監督代行の得意なことに早起きが入っているかは洋榎の知ったところではないが、苦手にしていたところでどうせ底の知れない体力にものを言わせてどうにかするのだろうと思っている。そういえば体育の授業でも本気で息を切らせている姿を見たことがないような気もするな、と思ってちらりと拳児のほうへ目をやった。もともと洋榎自身が大きいわけではないが、それを抜きにしたって播磨拳児は大きい。骨格のレベルでのことでもあるし、しばらく前の水泳の授業のことを思い出しても肉体としての意味合いでまるでサイズが違っていたことがはっきりと脳裏に甦る。そんなほとんど別種にさえ思える生き物が隣にいることが、洋榎にはだんだん奇妙なことに思えてきた。

 

 「どんなに遅くても離陸の一時間前には空港に着いてろって言われてんだから仕方ねーだろ」

 

 ただ前方を見て電車を待ちながら拳児が返す。もうすっかり空気は冬のもので、吐く息は白く、肌に触れる外気は冷たくとがっている。学校ではまだ学ランとカーディガンで済ませている拳児が分厚い生地のジャケットを羽織っている。これから行くところを考えれば当然ではあるのだが。

 

 わかりきっている正論をいちいち返してくれる辺り、とくに機嫌が悪いということはないのだろうと洋榎は思っている。本格的に機嫌が悪くなった場面に出くわしたことがあるわけではないが、おそらく積極的に近づきたくはならなくなりそうだ。そう考えるとひょっとしたらこの男は意外とおおらかな人柄をしていると言えるのではないかと考えて、洋榎は誰に向けるともなく苦笑した。言葉の大事な根幹が崩れてしまいそうだ。

 

 「……お前もそんなジャケットみたいなん持っとったんやなあ」

 

 「赤阪サンにさんざん言われておととい買ったんだよ、さすがに上着なしはやめろってよ」

 

 「ほーん、やっぱそんだけ寒いんかな」

 

 「行ったコトねーから知らねー」

 

 そんなことを話していると空港へと向かう電車がホームへ着いて、二人は黙って電車に乗り込んだ。どうやら平日の朝から空港に用がある人はそれほど多くはないようで、満員電車でよそから文句をつけられるような事態にはなりそうもない。日帰りとはいえ遠出をするための最低限の荷物を持った洋榎と拳児からすればありがたい話だった。

 

 

 日本国内の大阪と北海道という旅客機からすればそれほどでもない距離の便ということもあって、離陸から時間を置かずに二人が乗った飛行機は安定飛行に入った。どちらも飛行機特有の体調不良に襲われることもなく、静かにシートに設置された液晶を眺めたりなどしていた。

 

 「いやー、しかしアレやな、離陸の一時間前に着いといてほんまよかったな」

 

 「ほっとんどオメーひとりの問題だったじゃねーか」

 

 「搭乗口がどれも似とるんがちょこっとだけあかんかったわ、でも意外と空港て楽しいねんな」

 

 「……お前あしたガッコで絶対に真瀬にバラしてやるからな」

 

 「ほんま迷子になってすいませんでした」

 

 向き直ることなくそのまま前に頭を下げて済ませる。拳児が謝罪を求めていないことなどわかりきったことだし、真面目に怒ってなどいないことも当たり前すぎてそもそも洋榎の頭には浮かんですらこない。だからそんな適当なアクションでじゅうぶんだった。その証拠に隣の男は追撃を加えてくるわけでもない。まったく関係のないことだが、それにしても機内でサングラスはいろいろと大丈夫なのだろうかと思い至って、洋榎はまた服装のほうに思考をシフトしていった。

 

 「な、制服でヒコーキて修学旅行みたいな感じせーへん? 人数足りんけど」

 

 「あー、まあ、わからなくもねーな」

 

 「うちら沖縄やったんやけど、播磨はどこやった?」

 

 なんだかよくわからない思い出のひとつに分類される去年の修学旅行のことを思い出して、拳児はサングラスの奥で遠い目をしていた。多くの偶然が重なり合った結果、箇条書きにすれば最高にわけのわからない事態になったことは彼の記憶に新しい。イギリス人と正面切って殴り合うなど、おそらくこれから先の人生で二度とない体験に違いない。

 

 「京都だ。なんだか知らねーが急に行き先が変更になったとか聞いたな」

 

 「近っ! お隣さんやん」

 

 「まあそんな感じだから飛行機乗るのは初めてでよ、ちょうどいい練習になりそうだぜ」

 

 「はっは、何の練習やねん」

 

 緊張感もなければ気を遣うこともないどこまでも日常的な会話だった。二人の座席の位置からは離れている窓の向こうでは、眼下に白い雲が流れている。見渡せる限りの雲の海は、ずっと眺めていたら気分が悪くなりそうなほどにひとつの色しか存在していなかった。しかし窓から見える遠くにはその雲海より高い位置にも縦に伸びる雲がひとつだけ浮かんでいた。どうやら雲というものも一律の高さに限界高度というものを備えてはいないらしい。ただ、どう見ても雨が降るのにじゅうぶんな量を持ってはいないようだった。雨さえ降らない空というのもいまひとつ想像しにくいが、現実問題として飛行機はそんな環境を飛んでいた。

 

 

―――――

 

 

 

 「寒っっっっ!! さっっっむ!!!」

 

 空港の建物から出ての洋榎の一言めがそれだった。大仰な反応を見せているようにも思えるが、拳児が口を出していないところを見るとすくなくとも大げさではないらしい。いつもであれば肩で風を切るように歩く拳児がきゅっと肩を竦めている。まるで誰かに叱られているかのようにも見えるその姿は、ヒゲとサングラスがその滑稽さをより際立たせていた。とはいえ二人がそのような反応をするのも仕方がないほどに北海道の地は寒かった。道東や道北に行けばより厳しい環境であるのも事実だが、本州は大阪の地からやってきた二人には千歳の外気も相当に堪えるのである。そもそも平均気温の水準からして違うのだ。

 

 「おい愛宕、さっさと駅行くぞ、いつまでもこんな寒みートコいられるか」

 

 「え、でも駅どこ? それっぽいの見当たらんような気ぃすんねんけど」

 

 このあと二人はしばらく外をうろうろと歩き回って結局自力で駅を見つけることができず、道行く人に尋ねてターミナルビルの地下に駅があることを初めて知るのだが、それはまた別のお話。

 

 

 帰りの電車に乗った拳児と洋榎が同時に大きなため息をつく。二人の顔に浮かんでいるのは緊張による疲労というよりも、いまいち意味のわからない儀式がやっと終わったことに対しての安堵の表情だった。洋榎からすれば早く練習に混ざりたいところをそれは叶わずチーム代表との話に終始したこと、拳児からすれば先方の話にただ相槌を打って気が付けば洋榎とセットで写真を撮られるハメになっていたことは日常生活に比して普段とは違う精神的な部分の極度の疲労を伴うものだった。電車の窓の外に見える空はいつの間にか厚い雲が出張ってきており、それはどこか二人のうんざりした気分を象徴しているようにも見えた。

 

 予約してある帰りの飛行機のシートは時間的余裕を見積もって取ったため、ターミナルビルに着いてからある程度は待たなければならないようだった。しかしもちろん空港とはそういった事情を前提とした施設なのだから、待つという行為に対する解決策をいくつも用意してくれている。とはいえ何とも言いがたい精神的疲労を背負った二人にそれらが効果的かと問われれば、素直に首肯するのは難しい。ロビーの椅子に座ってただ時間が過ぎるのを待っているほうが、拳児と洋榎にはずっと心が安らぐ選択肢だった。

 

 「なー、播磨」

 

 「ンだ」

 

 「……大人の世界って思っとったよりも大変なんやな」

 

 「今回ばかりは同情してやるぜ」

 

 それっきり二人は黙り込んでしまった。お互いに話す必要を認めなかった。楽しい話で気を紛らわせるような気分でもなかったし、その楽しい話を頭の奥からひねり出す気力もなかった。ただロビーの暖かい空気に抱かれて、帰りの飛行機に乗る時間を待ち続けた。ロビーの椅子は飛び抜けて座り心地が良いというわけでもなかったが、環境的条件や疲れの具合が重なって、いつしか洋榎は眠りについてしまった。

 

 

―――――

 

 

 

 音声としてのかたちを成さない意識の覚醒に伴ったうめき声は、幸運にも隣に座っている拳児には聞こえなかったようだった。はじめだけゆっくり、ついでぱっと視界がクリアになって洋榎は眩しさを意識した。まだどこか霞がかかった頭で状況を整理する。ひと通り整理をしてみたものの、いま意識している眩しさには疑問が残った。光が人工的なものなのだ。いきなりぱちんと弾けるようにいつもの働きを取り戻した頭が、目の前に広がるガラス越しの外の景色を理解しようとして高速回転を始める。いつの間にか体にかけられていた毛布にも気付かず、目を見開いたまま眼前の音さえ聞き取れそうな大荒れの天気に言葉を失っていた。

 

 「う、……っそやろ」

 

 風の向きがこちらへ向いていないのかガラス窓には雪が付着しておらず、そのため向こうの風景を見渡せなくなるようなことはなかった。ただ、その向こうの風景では思いきり濃くした灰色の下で大きな白い塊がとんでもない速度で降りしきっている。あるいは降るというよりもテレビ画面の砂嵐の配色を逆にしたように高密度で移動しているように見えたと表現したほうが近いかもしれない。一目でわかる。こんな天候の下、飛行機が飛ぶわけがない。

 

 「オウ、起きたか。ま、見ての通りだ」

 

 まったく参ったぜ、とため息まじりに拳児が呟くのを聞いて、洋榎は状況を完全に理解した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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81 モノクロに包まれて

―――――

 

 

 

 「お前、ちょ、なんでこんなん、もっと前に起こすとか」

 

 「どうしようもねえよ、五分十分で()()だ。見てみろ、周りの連中もボーゼンだぜ」

 

 外の景色に釘付けになっていた目をロビー内に向けてみると、同じようにじっと外を眺めている人々が見受けられる。年末が近いとはいえ帰省のピークでもない平日ということで目を背けたくなるほど混雑してはいないが、それでも一定程度はいるこの雪の嵐に捕まった人たちのほとんどすべてが外の雪の飛び交う様子に目を奪われたようだった。上に向けた顔を両手で覆って状況に対する不満を飲み込んだすぐあと、あれ、と洋榎は再びまわりを見渡した。

 

 「なあ播磨、いっこ聞きたいことあんねんけど」

 

 「たぶんオメーの思ってるとおりでビンゴだよ」

 

 「ひょっとしてこれ、閉じ込められてるパターンのやつやんな?」

 

 「……飛行機どころか電車もバスもタクシーも動いてねーからな」

 

 「ちょっと外に散歩ー、いうんは」

 

 「自殺行為だ」

 

 冗談ともそうでもないともつかないやり取りがあって、洋榎はまだ聞いていなかったが定期的に行われていたであろう館内アナウンスが流れる。外の景色を目にした瞬間に理解はしていたが、すでに警報は出揃っているらしい。むしろ何の警報も出ていなかったら気象庁に文句を言いたくなるほどの惨状なのだから当然と言えば当然のことだ。

 

 もう一度だけ周囲をぐるりと見渡したあとで盛大にため息をついて、いつの間にか背もたれから起こしていた体を思いきり後ろに預けた。いまここでどんな文句を言ったところで状況が変わるはずはないし、そもそも拳児が天気に関係しているわけがない。必然として洋榎は口を閉じることになった。毛布をすっかり肩まで掛けてどうしたものかと眉根を寄せる。その様子をある程度は落ち着いたものと取ったのか、めずらしく拳児が声をかけた。

 

 「おい、外こんなんだからよ、さっさと家族とかに連絡してこい」

 

 「ん、おお、そやな。心配するかもしれへんしな。にしてもなんや、意外と気ぃ利くやんか」

 

 「うるせェ。オメーが思ってるよりは面倒くせぇ立場なんだよ」

 

 

 家族への連絡を聞かれるのはさすがに気恥ずかしかったのか拳児からは離れて電話をかけにいった洋榎が戻ってきて、拳児の隣に腰を下ろした。どういった話の進め方をしてきたのかさっぱりわからないが、拳児からはどうしてか洋榎が妙な疲れ方をしているように見えた。そのくせ何も聞くなオーラを発している。経験上こういった態度を取っている相手から話を聞こうとしてはいけないことを拳児は知っている。絶対に面倒に巻き込まれるのだ。

 

 立ち上がったときに置いていったはずの毛布を、洋榎はもういちど抱え込んだ。館内は不均質なざわめきとときおり流れるアナウンスで満たされている。二人とも意識に上げることはなかったが空気はさすがに快適なもので、本来ならもっと積み重なっていたはずのストレスの軽減に役立っていた。窓の外の景色は変わることなく大荒れで、時計がなければ大雑把な時間の把握すら難しい。わかるとすればせいぜいまだ夜にはなっていない程度のことが限界だろう。

 

 手元のスマホをいじりながら、ぼんやりと洋榎が零す。仕草だけ見ればどこをどう切り取っても女子高生のそれだが、その内容は一般的な女子高生のものよりよほど現実的だった。

 

 「あかん、アナウンスの言う通りや。もう今日のぶんはぜんぶ欠航になっとる」

 

 「そうかよ、にしても気の利かない連中だぜ。事前にわかってりゃ延期くれえしとけってんだ」

 

 「そら言ったらあかんやつやろ。なんや爆弾低気圧? いうんが急に進路変えたらしいからな」

 

 「爆弾低気圧だか武者小路実篤だか知らねーがメーワクな話だぜ、まったく」

 

 「あー、それ教科書に載っとったな」

 

 それが何を指すのかよくは理解していないが、とりあえず音として頭に残っていたものを愚痴に使って二人はほんのわずかに溜飲を下げた。拳児と洋榎という普段からほとんど本格的な文句など口に出しそうもない二人がなぜこんなに対象を明確にして愚痴を零しているのかといえば、二人に許されているのがしゃべることと、あとは実際的な手続きなどを行うことに限られていたからである。そもそも学校生活の段階で、そのほとんどが部活絡みであるところには寂しい印象を抱かないわけでもない、やるべきことが詰まっている二人はゆっくり趣味に没頭する時間など取れた試しがないために趣味など持てず、だからこそこのようにぽんといきなり空いた時間を与えられても何をしたらよいのか見当がつけられないのが現実である。悩んだところで結局は手持ち無沙汰となってしまって採れる選択肢が口を動かすくらいしかなくなってしまうのだ。さらにそのうえ会話があったにしても仲良くわいわいと会話を楽しむような関係性、これは一方的に拳児による部分が大きいが、ではないためにその内容にせよお互いのテンションにしろ必然として明るくはないものに落ち着くことになってしまうのである。

 

 「……チケットの払い戻しンとこ行くぞ」

 

 「うちが寝とるあいだにやっとってくれたらええのに」

 

 「バカ言え、オメーのチケットをなんで俺が持ってなきゃいけねーんだ」

 

 「それは、まあ、セクハラになるなあ」

 

 

―――――

 

 

 

 外がすっかり夜の闇に呑まれて、積み重なっていく白い雪さえもそれほど距離を置かずに黒く見えた。天候は変わらず酷いもので、館内の光が漏れる範囲だけでもそのことがじゅうぶんにわかるほどだった。そのくせ音がきれいに遮断されているから、感覚としては奇妙なものだった。普段は近くで飛行機が離発着していることもあって防音は行き届いているらしい。

 

 ただ座っているだけの時間は二人にとって退屈なものだった。彼らが特別に生き急いでいるというわけではないが、いくらなんでもじっと腰を落ち着けて荒れ狂う風景を眺めて時間を潰すことに楽しみを見出せるほど達観しているわけでもない。ちょっと普通の人生ではできないような体験をしてきているとはいえどちらもまだ身分としては高校生でしかなく、この偶発的に生まれた時間を退屈に感じるのも仕方のないことと言えた。現時点でできること、やるべきことはすべて済ませていたし、食事も終えたばかりだ。残ったことと言えばせいぜい天気が早く回復するように祈ることくらいだが、どうやらその祈りはガラスを通り抜けることができないらしかった。

 

 「なァ、なんでいっつもサングラスつけとんの」

 

 「別になんでもいいだろ、俺様の勝手だ」

 

 館内にいるほとんどの人が状況を受け入れたのか、洋榎が起きたばかりのときにはあれだけ満ちていたざわめきもすっかり落ち着いていた。もちろん人がいる以上まったくの静けさというわけではないが、今では声量に気をつけなくても問題なく会話が通じるくらいにはなっている。

 

 「なんか意味とかあんの」

 

 「ねえよ、ねえ」

 

 そう言って拳児は首を横に振った。疑える材料を持たない洋榎はそれを疑うことができない。播磨拳児が変な男であることは春からの付き合いでよくわかっている。そんな彼のこだわりなど理解しようとしたところで及ばないのがオチだろう。そう考えた洋榎は質問を重ねるのをやめることにした。それにもともと強い興味が湧いての質問でもないのだ。修学旅行のクラス単位のバスでの移動中に見かけたヘンテコな建物の用途は何だろう、と聞いているのと変わりない。結局はなんとかしてひねり出した時間つぶしの一方策でしかなかった。

 

 あっそ、と洋榎の言葉が空中でちいさく弾けると、また言葉のない時間がやってきた。

 

 あまりにも退屈が極まって、洋榎は自分の左手の指を一本ずつ点検し始めた。生まれてからずっと自身の身体の一部として近くにあった割には明確に意識に置いた記憶がほとんどないことが、なんだか洋榎には面白かった。彼女自身この指が長いとは思っていないが、それでもいつの間にか十八歳然とした長さになっている、と思う。正直なところ十八歳然とした指の長さなどよく理解してはいないが洋榎はただそう感じていた。動かす。動く。薬指だけを独立して動かすことはできなかった。どうしても中指か小指がつられて動く。右手でいろんな方向に引っ張ってみたりする。手の甲側には九十度までしか曲がらなかった。これがずっと自分を支えてくれた片割れなのだと思うと、そこで初めて親近感が湧いてきた。磨いたわけでもない爪を眺めて、洋榎は得意げな笑みを浮かべた。そうしてまるでポンチョのように体に巻き付けている毛布の中に左手を仕舞った。

 

 収まりが悪いのか毛布の中でもぞもぞと体を動かしていた洋榎の動作が、あるタイミングでぴたりと止まった。じっと毛布を見つめて怪訝そうな顔をしている。

 

 「なあ播磨、この毛布ひょっとして」

 

 「風邪でもひかれると面倒だからな、持ってきてもらった」

 

 「お前ほんまに実はええヤツやろ。ナリで損ばっかしてるんちゃうん」

 

 「毛布くれーでやかましい」

 

 気が付いてみると拳児はいつもの学ラン姿だ。調整された環境下なのだから外で着ていたジャケットを脱いでいることはおかしくないが、いま洋榎にあるものが拳児にはない。ポケットに手を突っ込んで、腰をすこし前に出して背もたれに寄りかかっている姿勢はいかにもチンピラの匂いがする。膝下が長いせいで座っている椅子が小さく見えた。しかしその姿はただ座って待っているだけにしか見えなかった。

 

 「ちゅーかなんで毛布一コやねん。フツー自分のももらうやろ」

 

 「使わねーんだからもらう必要もねーだろ」

 

 「えぇー……。自分でそう言うんやったらもうなんも言わんけども」

 

 「余計な世話だ。明日に備えてさっさと寝てろ」

 

 「そらこっちのセリフや。うちと違て昼寝もしとらんのやろ?」

 

 「フン、俺様を誰だと思ってやがる。一日寝ない程度でどうにかなるようなヤワな体じゃねえ」

 

 自信満々な態度はさておき、言い方にちょっとだけイラッときた洋榎は、それ以上の救いの手を出さないことに決めた。それにこの男の体力バカぶりを考えれば本当に一晩の徹夜くらいはどうってことはなさそうに思える。この事態を含めて考えればおそらく明日も学校は公欠扱いにしてくれるだろうし、どうしても辛いなら帰りの飛行機で仮眠は取れる。さすがにそれくらいの自己判断はできるだろう。洋榎はそう考えた。まだ彼女自身眠くはなかったためすぐ目を閉じるようなことはなかったが、寝かせてもらえるのはありがたいところだった。とはいえここは日本なのだから二人ともが眠ったところでどうなるものとも思えなかったが、そろそろ頭を働かせるのも面倒になってきていた。気を抜いたからか不意にあくびが出そうになったが、人前ということで洋榎はなんとかそれを噛み殺して視線を真っ暗な外へと向けた。

 

 窓のすぐ近くをちいさく白い何かが横切るだけなのだから殺風景であることに変化はなかった。防音が行き届いていることもあるのかもしれないが、外が音の無い世界のように見えた。雪の動きから強い風が吹いていることは間違いないのだが、洋榎にはどうしてもその音がイメージできなかった。テレビの音量をゼロにして映像だけを眺めているような感覚が残った。

 

 

 

 

 

 



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82 解釈

―――――

 

 

 

 「きーぬちゃん」

 

 「うひぃっ!?」

 

 背すじを指でなぞられたかのように絹恵の体がびくりと跳ねる。共通点は背後から仕掛けたというだけで、漫が掛けたのは声だけだ。思わず振り返った絹恵の目には、なぜか困ったように笑う漫の顔が映った。いたずらを仕掛けたときの表情には見えないし、まず声を掛けただけでいたずらではないのだから根本的な部分で違うように思える。なんというか、親戚の子を見るような表情のように絹恵には思えた。

 

 時間帯で言えば部活が始まってからしばらく経ったところで、もう冬ということもあって夕方と言っても問題のないような辺りだ。絹恵もいくつか練習対局を済ませており、休憩がてら窓際の椅子に腰かけて校庭を眺めていたところだった。漫のほうがどういった流れで今日の部活をこなしていたのかは見ていないのだから絹恵にはわからなかったが、おおまかに言えばどちらもあまり変わりのないものだと言ってしまってもいいだろう。それとはうってかわっていつもと違うのは、漫がこの麻雀部の活動の真ん中の時間帯に声をかけてきたことだ。夏に同じ二年生レギュラーとして戦い抜いたふたりの仲が悪いわけがなく、むしろ誰に聞いても仲が良いと答えるだろう漫と絹恵だが、話をするのはもっぱら休み時間や部活が始まる前と終わった後ばかりだった。もう彼女たちに立場ができていたことも関係していただろうし、もしかしたらもうひとつくらいは別の理由があるのかもしれない。

 

 「す、漫ちゃん……。びっくりさせんといてよ……」

 

 「あ、えっと、ごめんね? そんなびっくりするとは思ってなくて」

 

 思った以上に漫がしおらしくなったのを見て絹恵が別に気にしていないということを仕草で示すと、漫は困ったような笑顔を浮かべたまま近くに置いてあった椅子を引っ張ってきて絹恵の隣に座った。窓から見えるのは校庭の大部分を使ってサッカー部がいくつかのチームに分かれて練習している風景だ。ちょっとはずれたところには陸上部の姿が見えた。

 

 なんだか物珍しそうに校庭を眺める漫の顔がそこにあって、それは絹恵からするとヘンテコなことに思えた。放課後に運動部が校庭を走り回るのは当たり前のことで、物珍しさなどどこにもないはずだ。中学生の時分には走り回る側にいた絹恵にとってはむしろ見慣れた風景でさえある。漫は見慣れていないのだろうか、という考えがふと絹恵の頭に浮かんだ。もしかしたら彼女は部活動のあいだに校庭に目をやることなどしてこなかったのかもしれない、と考えた。一途な漫のことだ、それくらいのことはあってもおかしくはない。

 

 「それで、どうかしたん?」

 

 「あー、ほら、絹ちゃんが部活のときしばらく元気ないの続いてるから心配なって」

 

 「……やっぱり気になる?」

 

 「私以外の子がどう思てるかはわかれへんけど、そろそろしんどいんちゃうかなって」

 

 校庭を覗いたまま話を進めているのはあくまでこの話題を必要以上に深刻にしないためだろう。真面目な話はもちろん時には必要になるだろうが、深刻にし過ぎてよかったというためしは聞いたことがない。漫も主将という立場にたって数ヶ月、多くの事態に直面してきたが、それらの経験から自分の立場の持つ力というものをここ最近になってようやく理解してきたところだった。

 

 「まあ、元気の出し方ってどうやるんやったかわからんくなった感じはあるかな」

 

 「何があって絹ちゃんがそうなったかは絹ちゃんが知ってたらそれでええと思うんやけども」

 

 「それは自覚あるよ、だいじょうぶ」

 

 「それやったら私の役目はいっこだけやから」

 

 そう言うと漫は視線を校庭から絹恵へと戻して、白い歯を見せて少年のように笑った。

 

 「あんな、絹ちゃん。夏が終わって先輩たちいなくなって、私ずっとテンパっててん」

 

 懐かしい思い出のことのように漫が話し出す。顔つきはやわらかいままで、ちょっとした失敗談を披露するような感じにも見える。ただ、話を始めた漫から受ける印象は夏以前のものとははっきりと違っている。絹恵にはその違いを明確に言葉にはできないが、確信を持つことだけはできた。ただ、その出だしからどんな話につながるのかは想像がつかなかった。

 

 「何をしっかり考えたらええのかもわからなくて、ずっとインハイのこと考えとってな」

 

 「インハイ?」

 

 「そ。播磨先輩に言われたことと、“あの試合” のこと」

 

 「……お姉ちゃんが、負けた試合」

 

 トーナメントの決勝に進んだ選手には失礼だが、事実上の決勝戦とさえ呼ばれた “あの試合” については語られることが多すぎて、いまだに何一つとして結論らしい結論が導かれていない。それは競技として順位を競う麻雀という観点からのことでもそうだし、あるいは観点のレベルを個人のものに下げても同様だった。確定しているのは結果としての順位だけ。それほどまでに凝縮された一戦だった。

 

 漫は自分から口に出したのだから当然として、絹恵も実姉が敗れ去った試合になにか感じ取るものがあった。むしろどちらかといえば漫よりも強烈に感じ取っていたのかもしれない。

 

 「あのあと主将はいろいろ言うてたけど、言うほど悔しそうには私には見えへんかった」

 

 「私には暴れてたように見えたけど……」

 

 「まあ、それは、うん。でも本気やとも思えんかったし復帰も早かった」

 

 「言われてみればそうかも」

 

 「そのことが私にはずーっと不思議やってん」

 

 窓から見える空の色が、水色から橙色へと変わっていく途中の、正しくは何と呼ぶのかわからない色になっている。方角があっているかわからないが、あの空の向こうではいまごろ監督代行とプロ行きを決めた元主将が飛行機に乗って帰ってきているのだろう。どの時間に出発するかは知らないから、あるいはまだ空港にいるのかもしれないし既に大阪に帰ってきているのかもしれない。どちらにしろ今日は二人とも学校のほうへは顔を出さないことになっている。

 

 絹恵は話をきちんと聞いてはいたが、いまひとつ話の方向性が掴めていなかった。おそらくは漫が自分を元気づけるために話をしてくれているとは思うのだが、それと今の話題がくっつくとは現段階では思えない。というかこの話題はどちらかと言えば絹恵にとっての急所にさえなりかねない。彼女がすこし怯えているように見えたのは見間違いではないのかもしれない。

 

 「なんですっきり切り替えられるんやろなー、って」

 

 「答えは、出たん?」

 

 「うん。なあ絹ちゃん、覚えてる? たしか準決勝やったと思うんやけど」

 

 「え?」

 

 「私が試合終わって、すみっこでヘコんでるときに播磨先輩が来て話をしてくれたやつ」

 

 「あー、なんとなくそんな覚えはあるかも」

 

 あれはたしかに漫の言うとおりに準決勝先鋒戦が終わったあとのことで、絹恵の目を通せば控室の隅に向かって拳児が立ったままで話を進めているといったちょっと怖いものでもあった。下手をすれば不良が誰かに絡んでいる構図に見えなくもないものだった。しかし結局は拳児が漫を励ますものだとわかっていたし、そもそも彼は自分たちの味方なのだから心配する必要はない。ただ、あらためて言われてみると何か話をしていたことは覚えているのだが、その内容までは覚えていない。なぜか覚えているのはその場面で自身が思っていたことだけで、そのとき思っていたのは、暗い顔をして帰ってきた子を相手にどうして物理的に同じ目線で話をしないのだろうということだった。あれでは余計に威圧されているように感じてしまっても仕方がないだろう。

 

 思い出そうとしてみると案外とするする記憶が蘇るもので、他にもいくつか考えていたことがあったなと絹恵はそれらのことを丁寧になぞる。そういえばどうしてあのとき監督代行以外はまったく動かなかったのだろう。あり得そうな可能性でいけば、まず末原先輩が漫ちゃんのそばへ駆け寄っていったはずなのに。絹恵がそんなことを考えていると、隣に座る漫が話を続けた。

 

 「あん時な、先輩は “機会の大事さを知れ” って言うててな」

 

 「キカイ?」

 

 「ほら、メカじゃなくて、格上に挑む機会とかそういうほうの」

 

 「ああ、うん、ごめんごめん」

 

 「正直な、その時はあんまりわかってなくて。なんの機会やろ、って」

 

 ラシャを叩く牌の音が遠くに聞こえるような気がしていた。視界には漫がいるだけで、奥に見えるはずの部員たちや雀卓も目に入らない。ちょっとだけ照れ笑いをしている彼女が離れて行ってしまうような不安に襲われた。

 

 「でもな、やっとわかった気がした。結局は播磨先輩も主将もおんなじこと言ってるんやって」

 

 「え?」

 

 「初めは先輩の言うてたコト、貴重な機会を大事にしろーくらいの意味やと思ってた」

 

 漫は顔を絹恵のほうに向けたり窓の外のグラウンドのほうへ向けたりとせわしない。あるいは漫が本当に真面目に話をするときはこうなるのかもしれないが、残念ながら絹恵は彼女と本当に真面目な話などしたことがない。だからそこのところは確かめようのないことだった。

 

 「でもそんなんずっと口すっぱく言われてきたし、もちろん大事にもしてきた。けどな」

 

 ふっと漫の表情が引き締まる。

 

 「たぶんそれは違かってん。きっと機会があることそれ自体が大事やってことなんやと思う」

 

 「機会があること、それ自体……?」

 

 「ちょっと説明は難しいけど、麻雀部やから対局があるのを当然と思いすぎなんかな、って」

 

 「…………」

 

 「末原先輩もゆーこ先輩ももう高校生として打つことはなくて、でも主将は先に行くから」

 

 「…………!」

 

 「強がりやなくて、もうあのとき主将はプロでやり返すて決めてたんちゃうかな」

 

 絹恵は眼鏡の奥の目を見開いて漫を見ていた。去年の春の仮入部期間に初めて会って、それからずっと仲良くやってきた。もちろんこれまでのあいだにも彼女の変化や成長はいくつも目にしてきたし、絹恵自身も成長してきた自負はある。だがそれらはすべて、今ここで表情豊かに話を進めている彼女と比べれば些細なものとしか言いようがなくなっていた。自身もまたそうであったという自覚はあるが、漫も夏までは間違いなく先輩に頼り切っていた。おんぶにだっこと言っても言い過ぎではないくらいに。しかしそんな彼女の姿は今は目の前にない。そこにいるのは姫松高校麻雀部の先頭に立つ者としての自覚を手に入れたひとりの主将だった。

 

 いつの間に、と思った瞬間に絹恵はその問いの無意味を悟った。大事なことは漫がすでに変貌を遂げたところにある。絹恵が空虚な時間を過ごしているあいだに彼女は階段を上がっていた。もし無理に時期を当てようとするなら、それこそ漫本人が言っていたとおりに “ずっとインハイのこと考えとった” 期間が彼女を変えたのだ。サッカーのパスが綺麗につながるように、そのインターハイで監督代行が自分たちに向かってまだ頼りないと言っていたことを思い出す。だからこそ放っておく、と口にしたことも。

 

 言いたいことや言うべきこと、それと考えなければならないことが溢れてしまって絹恵は結局なにも言葉にできないまま目を泳がせていた。手の置きどころも落ち着かない。さながら人見知りの極まった子が自己紹介のために教壇の前に立たされているかのような有様だ。

 

 今の絹恵の感情成分のうちで最も大きい部分を占めているのは恥だった。自分がまったくどうしようもないところで足踏みをしていると理解してしまったこともそうだし、それ以上に誰よりも共有している時間が長いはずの姉の振る舞いについて、わからないどころか考えようとさえしていなかったことに気が付いてしまったからだ。あの夜ほかに誰もいないリビングで、大阪から出ていくと聞かされて子供みたいな態度しか取れなかったことが脳裏を過ぎる。何度でも尋ねるチャンスはあったのに。それこそ漫の言うように姉妹が揃っているのを当たり前だと思い込んでいた。ある意味では漫よりも先に、当たり前に思える状況が想像以上に簡単に崩れるということに気付いて然るべき立場であったことも絹恵のダメージに拍車をかけた。

 

 「な、絹ちゃん、うちな、最近もっと練習大事にしよ思うようになってな」

 

 「……うん」

 

 「ほんのちょこっとだけ、はじっこだけやけど播磨イズムがわかったような気がしてきてん」

 

 突然出てきたなんだか奇妙な造語に思わず笑いそうになってしまったが、なんとなく言いたいことがわかるような気がして絹恵は頑張って視線を漫に合わせる。

 

 「これ、なんて言ってええんかわからんけど、大っきなことのような気がしててな」

 

 「うん」

 

 「絹ちゃん、うちはもう準備できたで。このチームでいっしょに勝とう、な?」

 

 「……ふふ、漫ちゃん知らん間にえらいカッコよくなったなあ」

 

 「そらもう一コ上が凄すぎるもん、無理にでもそうならな」

 

 「ちょっと出遅れてもうたけど、まだ間に合う?」

 

 「絹ちゃんやったらラクショーやん。だってまだ冬に入ったばっかりなんやから」

 

 少年のように歯を見せて笑う漫の顔を再び見て、今度は絹恵もはっきりと笑顔を返した。もちろんのこと顔立ちや持っている雰囲気の違いから与える印象は別物ではあったが、気持ちの向きが一致したことは本人たちのあいだではしっかりと感じ取れた。なんの弾みかお互いの笑みがいたずらっぽいものになり、励ましとそれを受ける者の空気がすっかりなくなった辺りで、それにしても、と絹恵がやっと自分から口を開いた。

 

 「それにしても漫ちゃん、なんでこんな普通に学校ある日にお話してくれたん?」

 

 「えっ、いやー、最初に言うたやん。そろそろかな、って思っただけで」

 

 「やったらおとといでもええような気ぃするけどなあ。日曜のが時間もとれるし」

 

 ここへ来て初めて漫にわかりやすい動揺が見られた。さっきまでの凛々しいまでの顔つきはどこへ行ったのかと聞いてみたくなるほどに目が泳いでいる。絹恵の質問は気付いてみれば当然の疑問で、わざわざ火曜の部活の合間に話さなくてもよさそうなものである。彼女の言うように二日前の日曜でもいいし、次の日曜もそれほど遠いというわけでもない。絹恵からしてみればまったく意味がわからないというほどの謎ではないが、何故だろうと思うくらいの謎ではある。

 

 「いや、ほら、その、今日はおらんやん?」

 

 「おらん、って……、お姉ちゃんと播磨さん?」

 

 何とも言えない微妙な笑みを浮かべながら漫はこくりと頷く。人数規模が大きいわりには健康優良児が揃っている当麻雀部では誰かが休めばまずわかる。当然ながら第二部室からも出欠の連絡は部活が始まって早い段階で主将である漫に回ってくるために確認が難しいということもない。そんなことをしなくても状況と話の流れでわかると言いたくもなるが、そこは彼女の名誉のために言わないことにしておくべきだろう。

 

 後頭部に手を回して変に腰の低い態度を取りながら、うえへへ、と普段に比べるととびきり気味の悪い笑い方をしながら漫が言い訳のように口を開く。

 

 「……やってこんなハナシ、あの二人がおったら恥ずくて無理やんか」

 

 「えぇー…………」

 

 「百歩譲って主将はええにしても、こんなん毎日おる播磨先輩に聞かれたないでしょ!?」

 

 「別にええんとちゃうの」

 

 「なんかプロとかなら握手して “尊敬してます” でええけど、毎日顔合わせんねんで!?」

 

 「あー、まあ、わからんでもないけど」

 

 途中から変なキレ方をしている辺り本当に尊敬しているのだろうと絹恵は思ったが、別に隠さなくてもよいのではと考える絹恵がいないわけでもなかった。たしかに他人に、それも尊敬や敬愛やそういった類の感情を抱いている相手に心の内を伝えることが恥ずかしいことは絹恵にも理解できる。そこには絶対に個人的な心情の機微が存在していて、それは本人以外には、あるいは本人でさえも把握できない感情の揺れ動きがある。だから絹恵は、人によっては矛盾していると捉えるかもしれない漫の反応に納得はしていた。なにせ人と人との関係性などたったひとつの要素だけでどうにでも変わってしまうものだと知っていたから。

 

 それとはまったく別に絹恵は自分に呆れていた。元気の出し方がわからないも何も、ただずっと拗ねていただけのことだということに気が付いた。インターハイでは活躍できなかった。姉から大阪を離れると聞かされて落ち込んだ。どっちも事実で自分にとって重要なことには違いないが、それらのことといま練習に身が入らないことを関連付けるべきではないということをやっと真正面から意識できるようになった。もう自分たちの時代はとっくに来ていて、そのことを知っていたはずだったのに言い訳を並べ続けていた絹恵は自分が情けなかった。この瞬間、“愛宕洋榎の妹” ではなく “愛宕絹恵” が誕生したのだが、それを世間が知るのはもう少し先の話である。

 

 その後の対局で絹恵は見違えるような戦績を残すのだが、それはまた別のお話。時刻は短針がぴったりと5に合うころ。愛宕洋榎が目を覚ますのとほとんど同じタイミングでの出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 



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83 高校生デイズ

―――――

 

 

 

 

 観察のためか気を利かせたのかはよくわからないが、二人が大阪に戻ってきてからの一日、つまり木曜は誰も拳児と洋榎に厄介な話題を持ち掛けてくる輩はいなかった。まったく誰も匂わせすらしないものだから、うっかりすればそれこそ二人が休んだ日がたまたま重なっただけで、北海道に行く用事などなかったと間違えてしまいそうになるほどに。当然ながら当事者からしてみればそのことはずいぶん気楽なことで、もしかすると感謝の気持ちさえ抱いているかもしれない。冷静に考えれば片方はそんなことで感謝などしないだろうことは簡単に想像がつくのだが。

 

 さすがに北国とは比べるまでもないものの、しっかりと冷え込んだ大阪の朝は学生社会人問わずに上着を着て行こうと思わせるのにじゅうぶんだった。十二月も半ば近くまで来れば日によっては真冬のそれと差はなくなる。北から吹く風は身を切るように冷たく、道行く人を見れば耳や鼻を赤くして身を縮こまらせていた。

 

 今となっては逆に貴重かもしれないが、姫松高校の教室には暖房器具がひとつとして備えられておらず、とくに寒さが直接ダメージになりやすい女子の多くはブランケットが手放せなくなっていた。担任の方針もあって席替えをしないせいで拳児の席は変わることなくいちばん後ろで、そこから見えるずいぶんとカラフルなひざ掛けの並ぶその光景はひどくミスマッチのように感じられた。ひょっとしたら授業を自主的に休んでいるクラスメイトが増えてきたのもそれに拍車をかけているのかもしれない。

 

 

 二時間目の古典の授業が終わっての十分休み、次の授業も教室は変わらない。ロッカーに教科書やらノートやらの類をすべて放り込んである拳児が古典を片付けて数学の教科書を持って座席に戻ってくると、そこには部活でも教室でも見慣れた三人が集まっていた。部活が終わっても継続的につるんでいるあたり本当に仲が良いのだろう、と拳児は判断している。しかし彼女たちの仲が良いことは結構だが、そのちょっかいの矛先が自分に飛んで来たりすることがあるのでそこは勘弁してほしいとも思っている。自身の隣の由子の席に集まっていること自体にはもはや何の感想を抱くこともなく、拳児は出しっぱなしにしておいた椅子に腰かける。

 

 洋榎も恭子も拳児が戻ってきたからといって即座に話を振るようなことはしない。もともとが話好きではないことはきちんと知っているし、それよりは三人のあいだで進んでいた話を続けることのほうが重要であると考えているのだろう。そう考えるのは自然というか、健康的とさえ言える。もちろん隣で話されている内容に拳児は毛ほども興味を抱かない。余計なことをシャットアウトできるような耳を持たなければやっていけないような環境に長いあいだ身を置いていたおかげで、拳児は意図的に “聞かない” という技術を身に付けていたりもするのだが、そんなことは誰にも知りようのないことだ。周囲の目から見れば、ただ単に隣で女子が楽しそうに話をしているのにそれに興味を払わないという不思議な男の姿にしか映らないだろう。しかしそんな光景がゴールデンウィークを過ぎたあたりから当たり前に見られるようになったのだからそれこそ不思議な話なのかもしれない。

 

 どうして毎回わざわざ自分の席の隣に集まるのかという疑問を拳児も持ったことがあるが、結局は答えの出ないことだと途中で謎を追うのを放棄した。理由は言うまでもなく由子がそこに座っているからなのだが、他にも最後部の座席は集まりやすいだとか由子のキャラ的な立ち位置であるとかいくつかの要因が絡んでいるのである。そのうちの一つに拳児にちょっかいをかけやすいというのもあるのだが、悲しいかな本人はそれには気が付いていない。隣の会話もひと段落ついたのか、拳児に矛先が向いた。

 

 「なー播磨ー、播磨からも言うたってや、北海道マジでシャレならん寒さやったって」

 

 「あァ?」

 

 「きょーこもゆーこも行ってへんからからわからんねん。な、寒かったやんなぁ」

 

 「いやまあ寒かったけどよ、どうでもよくねえか」

 

 話題の軽さの割には助けを求めるような目をして洋榎が言葉を投げかけてくる。実際どこへ行ったって高校生の会話などくだらないものが多くを占めているものだ。たとえ拳児があまり話をしないとはいっても耳にするのはほとんどがそういったものであった。そういう意味では耳慣れた内容であるとも言える。

 

 「ここは播磨も乗ったらなダメなとこちゃうの」

 

 「なんでだよ、実際どうでもいいことじゃねーか。別にオメーら北海道行かねーだろ」

 

 「せやけどほっとくとこの子面倒なことなるからな?」

 

 本人が目の前にいるというのに視線で示してあまりうれしくない人物評を恭子が下す。仲の良さから来る扱いだということはよくわかっているが、そういったポジションそのものに拳児はわずかばかり同情した。とはいえ彼自身も洋榎を放っておいたときの面倒さは体験して知っているため、洋榎本人には砂粒一つほども同情するつもりはなかった。日頃の行いがものを言う場面というやつだろう。現に当の本人はどう見ても真剣さのかけらもない適当な怒り方をしている。

 

 とくに気を払うことなく洋榎をいなしながら、拳児は自分の北海道の感想を口にした。プロへ行くという大きな枠組みのなかで呼ばれた洋榎とは違い、ある種添え物としてついて行った拳児は彼女に比べてフリーな時間もいくらかあった。もちろん遠出するわけにはいかず、ちょっと街を散策する程度のものだったが、その感想として初めに出てくるのはやはり寒いというものだった。根本的に空気の質が違うのか、冷たさが喉を通り越して肺まで届いたような気がしたというのは単に指先や顔が冷えたことよりも拳児に寒さを実感させた。

 

 「はーん。そら難儀やったなあ」

 

 「難儀いうたら空港で一晩明かすのもけっこうなもんやと思うのよー」

 

 昨日の一日で他の誰もが踏み込まなかったというなら、今日この日に踏み込めるのはこの二人を措いて他にない。本来なら部以外には広まる必要のない情報とはいっても高校生の情報網に引っかからないはずがない。どこがどうつながっているかを把握しきっている者など一人としていないと言い切れるほどにそれは巨大で複雑化しているのだ。誰もが拳児にしろ洋榎にしろどちらかの動向を気にかけていたに違いない。しかし誰にも踏み込めない。相手を考えれば仕方のないところだ。普通に言葉を交わすことができたとしても、その一歩先が周りの人間にはあまりにも遠い。空港、という単語は出すだけで開戦の合図に等しいものだった。

 

 「まあ外にほっぽり出されるよりゃマシだが、気の利いてねえ連中だとは思ったな」

 

 「なんや意外と堪えてないみたいな言い方やんか」

 

 「あの程度なんでもねえよ、よほどヒデーのならいくらでも経験済みだ」

 

 「あ、その話はええのよー」

 

 聞きたくない単語がごろごろ出てきかねない話題はさっさと切るに限る。他の知り合いならいざ知らず、播磨拳児の言うひどい経験などおそらく別世界の出来事並みに理解が及ばないだろうから。いま由子と恭子がしたいのはこちらの世界の笑える話であって他ではない。彼女たちからすればたしかに播磨拳児は姫松に馴染んだと胸を張って言うことができるが、いくらなんでも彼の過去を書き換えられるわけではない。姫松以前の拳児などどのみちヤバかったに違いない、というのが麻雀部どころか姫松高校に通う生徒全体の総意ですらある。だからそこには蓋をして絶対に覗き込まないことを決めている。それが賢い選択というものだろう。

 

 いくつか質問してみると、拳児も洋榎も空港の様子を素直に教えてくれた。競技の性格もあって洋榎が記憶力に優れているのは二人も知っていたが、拳児のどこから来るのかわからない細かな観察眼には驚いた。実際インターハイで対戦相手のクセを見抜いたりしたこともあったのだが、どうやらそれは忘れられてしまったようである。拳児の目がどうして細かいところまで届くのかと問われれば、それはやはり高校二年生の一年間によるものとしか言いようがない。何の因果かマンガを描くことにのめり込んだ拳児は、その修行の過程で背景やら人物の微細な動きに敏感になったのだが、マンガに関しては基本的に秘密であるため知っている人物はほとんどいない。つまるところ、その観察眼はただの意外な特徴に収まってしまうのである。それにバラしたところで理解されにくい冗談として処理されてしまうのがオチだろう。

 

 「聞いてるとそれほど過ごしにくかったようには聞こえへんけど、どやったの?」

 

 「んなモン寝床がねーんだから比べるまでもねえ」

 

 「あー、播磨ってひょっとして意外と神経質やったり? 枕変わるとダメとか」

 

 「なるほど、それで寝えへんとか言うとったんかジブン」

 

 アホか、と拳児が否定するすぐそばで由子と恭子が目を見合わせる。初めからその辺りのことをそこそこいじるつもりだったが、まさか自ら火種を投げ込んでくるとは思っていなかったからだ。何があったにしてもなかったにしても、空港での顛末など話したがらないだろう。当事者が揃っていることも踏まえると、高校生なら多くが同じ判断をするはずだ。

 

 目を見合わせて一秒も経たないうちにふたりが同時に、あ、とぽかんと開いた口から間抜けな声を漏らす。それはまるで家を出て五分以上経ってから鍵をかけ忘れたことをはっきりと思い出したかのような有様だった。麻雀部に長く身を置き彼女の背中を見続けた影響か、洋榎の普段の振る舞いが頭から抜け落ちてしまっていたのかもしれない。

 

 「えっちょっ播磨、それもうちょっと詳しく」

 

 「別に一日完徹くらい変なことでもねーだろ、こいつはグースカ寝てたけどよ」

 

 「そこは言う必要ないやろ!?」

 

 ほとんど反射のレベルでツッコミを入れるも今の話の向きには即していない。

 

 「え、ヒロがガン寝してる横でずっと起きてたの?」

 

 「荷物取られても厄介だろーが」

 

 「主将、そんなん隣に置いといてスヤスヤて」

 

 「しゃあないやろ! 思てるよりしんどかったんやからな!?」

 

 ひとりだけ語勢が強くなってもそれはいつもの風景と変わりなかった。大阪の高校での一場面と考えればあまりにも自然すぎて、むしろ埋没してしまいそうだと思えるくらいに当たり前のものだった。わざわざこんなところに部活のことや肩書のことを持ち出すのは無粋というものだろう。授業の合間の休み時間などどうせどこでだって同じような光景が見られるに違いない。その意味で四人はこの瞬間、完全にただの高校生だった。

 

 その後もすこしだけ決して真剣には怒らない範囲での洋榎いじりは続いた。距離感の把握はさすがの年季と言うべきか、いじられる側も半ばわかってやっているようなフシがある。そうなると拳児が置物になりそうだが、話題からいってそうなることはあり得なかった。拳児にいじるという意識はなく、ただ話を振られた際に素直に返していただけだったのだがそれがちょくちょく洋榎にダメージとして入っていた。しかしそんなことは彼の知ったことではなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 「あ、ねえ播磨」

 

 「あ?」

 

 「あなたお正月ってヒマ?」

 

 「……いや、何も考えてねェな」

 

 六時間目の授業も終わって残すところはホームルームだけの、またちょっとした空白の時間に不意に由子が話しかける。周りは周りでざわついている。内容自体は春のころの呑気なものに比べて予備校だ模試だと方向性が絞られたように感じられる。とはいっても悲惨な雰囲気を出すものは一人としてなく、実情はどうだかわからないが、せめてもの配慮として誰もが空気を読むことを選択しているのだろう。たとえば隣の組がどうなっているかはわからないが、とにかく暗くなるよりはマシだろうと拳児は思っている。

 

 「だったら初詣行かない? ヒロと恭子と」

 

 「別に構やしねえがオメーら三人で行きゃあいいじゃねえか」

 

 「あら、あんな人がわんさか来るところにか弱い女の子三人だけで行かせるつもり?」

 

 「…………前にもどっかで聞いたことある気がすんぜ、それ」

 

 からかうように由子が薄く笑う。これで決まりだ。拳児は面白くなさそうに軽く舌打ちをした。拳児も由子を相手に言葉のやり取りで勝てるとは初めから考えていないが、どうにも決着がつくのが早すぎて不満なのだろう。なんというか、完全に子ども扱いをされている感がある。ほか二人からは決してそんな印象は受けることはないのだが、それが当然のことなのか不思議なことなのかもよくわからなくなってくる。そういった意味で言えばたしかに拳児は由子の相手をするのが苦手だった。

 

 拳児はクセなのか両手をポケットに突っ込んだまま、椅子の背に思い切りよりかかって座っている。どうせ教室を出るまでにちょっと間を取るのがいつものことなのだから移動の準備などはまったくしていない。そうでなくてもカバンなんかは基本的に教科書が入るようなことはなく、荷物が入っている時でもせいぜい筆箱とルーズリーフ程度でスカスカなのだ。

 

 「それにほら、監督なんだし部のために神頼みもしなくちゃじゃない?」

 

 「ガラじゃねえし信じてもねえよ。ついてってはやるから神頼みはオメーらでやんな」

 

 「そ。まあ本人がそう言うならそれでいいのよー」

 

 「……ああそうか、オメーと末原は受験あんのか」

 

 「まあね。正月くらい息抜きしておかないとやってられないのよー」

 

 よくよく見てみると由子の顔が夏の頃に比べてすこしやつれたような気もした。たしかに全力で勉強するのは意外に疲れるものだと拳児でも知っている。それを継続的に頑張るというのはなかなか大変そうにも思えて、珍しく感心した。拳児から見て頭の良い由子であってもそれだけ努力しなければならないのだから、受験というものはなるほど厳しい戦いなのだろうと見当をつけてみる。しかし具体的にどれほどのものなのかはまるで予想がつかなかったから、ひとつだけ無責任な言葉をかけることにした。

 

 「そうかよ、ま、ビョーキしない程度に頑張んな」

 

 がたっ、と音がしたかと思えば由子が距離を置くようなポーズで拳児のほうに体を向けていた。もともと大きい目をさらに大きくして、口元はなにやら不安定な感じになっている。たとえば洋榎や漫であったならばこういったリアクションをとっても違和感を覚えることはないだろうが、これが真瀬由子となると話は別である。あるいは友人間ではこういった姿も見られるのかもしれないが、拳児の記憶のなかにひとつも残っていないのだからこの状況においては関係がない。何が原因かわからずにぽかんとしていると、おずおずと由子が口を開いた。

 

 「え、あなたそんなこと言うキャラだったっけ……?」

 

 「オイコラ、どーいうこった」

 

 「すくなくとも面と向かって応援してくれるようなタイプじゃないでしょ」

 

 「えっ」

 

 「あれ、自覚もなかったの」

 

 今度は驚きで目を丸くする。拳児が自分で普段から応援をしていると思っているのではなく、単に自身の言動を省みないことからあんな反応を返したことは由子にはよくわかっていた。見方によっては衝撃的な思考回路の発露とも取れるが彼女からすれば案外と慣れたものである。これであと拳児が麻雀においてとんでもない実力を備えているという勘違いを取り除けばあと少しで素の播磨拳児にたどり着けるのだが、それには時間と機会が足りなくなってしまった。

 

 驚きこそしたものの生来冷静で頭の回る由子はすぐに落ち着きを取り戻した。外から見ているとわかりにくいが、由子の人生とて信じられない出来事との出会いの連続である。近いところで言えば愛宕洋榎と末原恭子という方向性の違う才能との出会いに、目の前にいる経歴不詳のインターハイ優勝監督との遭遇。つまりびっくりするような経験にはいくらでも覚えがあるのだ。だから由子はほとんどの場合、どんなことがあっても自然に自分に立ち返ることができる。もしかするとこういう部分があまりにも違いすぎるから拳児は由子に勝てないと思うのかもしれない。

 

 「ん。じゃあ若干気味が悪いけど素直に受け取ることにするのよー、ありがとね」

 

 「わーったからほっとけ」

 

 「あ、初詣の話は時間とか決まったらまた連絡するから」

 

 それに拳児が頷くとホームルームのために担任が教室に入ってきて、話はぴったり終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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84 積もらない雪の日に

―――――

 

 

 

 軽い灰色の空からちらちらと小さな白い粒が降りて来る。息を吐けば、そのままそれが白い塊として一瞬だけ占めた空間を温める。濃度の違う白がいくつも近くに存在するせいで、街並みという背景はいつもよりずっと印象が薄く、透明ではないという意識だけを人々の頭に残すだけだった。

 

 雪は地面に降りてはすぐに消え、それを眺めているといったいどうすれば降り積もるなんていう事態になるのだろうと不思議に思えるのだった。かすかな風のせいで大雑把な指向はあってもその中で不規則に揺れる軽い冬の象徴は、たしかに見ていても単純な飽きというものをすぐには感じさせない。傘をさすのは大げさに思われて、それでも何もせずに歩いていると多少のわずらわしさが生まれる程度の天候だった。昨晩の日付が変わるよりは前の辺りで降り始めた雪は、東京ではこの冬で最初のものだった。時期としてはおかしいものではないし、かと言って降らなかったところで変なことでもない。東京での雪などそんなものだ。

 

 黒く湿ったアスファルトの上をのんびりと歩く。朝が弱いなどということはないのだが、余裕を持って家を出て、そうしてゆっくり歩くのが彼女は好きだった。しかし彼女を知る人間はほとんどがそれに対して意外だと口を揃える。彼女の驚くほど生真面目な姿勢は、どこか生き急いでいるように映っていたから。きっと本人からすれば大きなお世話なだけだろう。

 

 

―――――

 

 

 

 「サ・ト・ハー」

 

 「ええい、なんだうっとうしい。声をかけるなら普通にかけろ」

 

 四時間目の授業が終わって昼休みが始まった直後に、いつもどおり機嫌よさそうにメグが智葉の席へとやってきた。臨海女子は生徒数が多いために学年ごとのクラスも多く、その影響かはわからないが二人のクラスは別である。大抵は昼休みになるとメグが隣のクラスから何の躊躇もせずに智葉のクラスの戸を開けるのが習わしと呼べるほどのものとなっている。当然ながら二人ともそれぞれ自分のクラスに友達はいるが、昼休みを共に過ごす面子となると固定されてくるのはわりとよく見られる傾向だろう。智葉も気が付いてみれば一年の頃から昼休みはメグと過ごすのが自然となっていた。三年生になってからに絞るとネリーがいたりいなかったりするが、彼女はどこまでも自由人であるためにいないのが通例であると認識することが暗黙の了解となっている。

 

 智葉は基本的には弁当を作って学校に来ているが、メグは一も二もなくラーメンを食べることに奇妙なほどの情熱を燃やしており、そのため二人が食事を摂るのは学生食堂と決まっている。食堂は学生の数も考慮して効率が重視されていることもあって、長机に椅子がずらっと並んでいる。端のほうまで行けば四人テーブルなどもあるにはあるが、人数規模から導かれる競争率を考えれば取りに行く気にもなれないというのが智葉の認識だった。

 

 若さとは成長の余地を残していることを指し、成長は多大なエネルギーを要求する。高校三年生でそれも女子ともなれば成長も止まっているだろうという声もあるかもしれないが、それは外面にしか目が行かない者の言である。内面の変化にも当然エネルギーは必要で、言い換えれば性別に関係なく高校生が腹を空かせることは自然なことである。したがって智葉の隣を歩くメグが楽しそうにしているのも自然なことと言える。智葉自身がどんな気持ちなのかは表情からだと判断のしようがないが。

 

 

 二人が座れたのは長机の真ん中辺りの席で、席に対する評価としてはあまり良いものは与えられない位置だった。いつものことだがメグは場所を確認するや否や注文をしにさっさとカウンターに向かって行ってしまって席には智葉がぽつんと残った。いま現在は麻雀が関わっていないから彼女は髪をまとめてはいないし眼鏡もかけていない。かわいらしいサイズの弁当箱が包みのハンカチの上に乗っているのがよく似合っていた。一般的な女子高生として不釣り合いなのは姿勢の美しさだけで、それ以外の要素におかしいところはどこにもない。ちなみに麻雀部での練習でひっつめ髪と眼鏡のまま弁当を食べようとしたところをメグに “その弁当箱のサイズは似合わない” と笑われ、彼女をその休憩時間のあいだ黙らせ続けるほど睨みつけた経緯があったりする。

 

 メグが帰って来るまでは多少の時間があるが、性格上自身はきちんとしていなければ気が済まない智葉は先に食べることなく待つのが常だった。そのあいだが退屈かといえばそういうこともなく、重ねた年月が増やした知り合いが通りすがりに声をかけていったりする。智葉は自分のことを無愛想で面白くない女だと思っているが、外からの評価はどうやらそれとは違ったものということのようだ。

 

 「イヤー、今日は悩みまシタ! 醤油にするか味噌にすルカ!」

 

 「残ったほうを明日食べればいい話だろう」

 

 「そういうハナシじゃありまセン、イチゴ一円、安い! というやつでスネ」

 

 「そのイチゴ不良品かなんかだろ、……一期一会か? それ」

 

 ボケなんだか真面目に言っているのか判別のつかない会話はメグの十八番で、正直なところ智葉は目の前のこの少女が本当は日本語を完璧にマスターしているのではないかと疑っている。しかしいちいちそのことに触れるのも馬鹿らしいと考えて、わざわざ聞くようなことはしていない。

 

 もちろん話題の提起はメグからのほうが多いが、智葉から話を始めることも別に珍しいわけではない。真面目な話もすればくだらない話もする。外からのイメージほど彼女が固い存在ではないということを知っている人物はあまり多くないのだが、それが良いことなのかどうかは本人にも判断がついていない。ただメグだのネリーだのと問題児ばかりを相手にしていると、面倒な話を持ってくる対象を減らすという実感できない効果を発揮しているのではないかという考えも浮かぶようになるのだから困りものである。

 

 「そういえばお前、正月は実家に帰るのか?」

 

 「そうでスネ、今年くらいは帰ろうカト」

 

 「高校も卒業で節目だものな」

 

 「そんな時にメールじゃ味気ないですかラネ」

 

 そろそろ周囲も空席がなくなるほどに混み合ってきた。臨海女子は強豪の運動部も数多く抱えているために越境入学をしている生徒も多く、彼女たちは寮に一人で住んでこそいるものの、だからといって家事が十全にこなせるということにはならない。寮では朝食夕食と出してもらえることもあって、掃除洗濯まではできても炊事となると手が回らないパターンがよく見られるのだ。したがって昼食時には食堂が大人気なのである。智葉とメグの二人も授業が終わってからそれなりに早く教室を出たはずなのにそれほど良い席が残っていなかったのにはそういった事情が控えている。

 

 周囲を人に囲まれ過ぎると逆に孤独になったような錯覚に陥ることがあるが、いま智葉はそれと似たような感覚を味わっていた。おそらく学年も違うのだろうグループに前後左右を占められている。無論メグがいるというのもあるが、智葉はこういう状況も案外と嫌いではなかった。何を話そうとも周りに気を配らなくていいというのは実に気楽な話だ。冷静に振り返ってみると、あの部をまとめる立場というのは心労が大きかったのではないかと思えてくる。不意に苦笑いがこぼれた。

 

 「サトハもご実家には顔を出すんでショウ?」

 

 「まあな。遠いわけでもないし、それに帰っておかないと両親がうるさい」

 

 「ハッハッハ。大事な機会でスヨ」

 

 「でもまあすぐに戻ってくるつもりだよ、幸い今年は受験勉強って建前もあるしな」

 

 「フーン、年末はどうするんデス?」

 

 「寮でいいよ。実家は年が明けてからでじゅうぶんだ」

 

 すっかり一人暮らしに慣れたように返す。両親の立場からすればきっと寂しいだろうことはわかっているが、無意味に変な意地を張りたくなる年頃というやつなのかもしれない。単純な反抗期とは違って、いまの彼女は自立心みたいなものが根拠として大きな位置を占めている可能性もある。本当のところがつかめないのは彼女が自分の本音を話してくれないから、という結論になってしまうのが残念だ。このことに関しては部員たちも直接文句を言ったりしているのだが、当の智葉は取り合わないのが現実だった。

 

 きっと昼休みが始まる前から効いていたのだろう暖房と人口密度、それに目の前のラーメンの熱気で、食堂は季節に似合わないほど暖かかった。むしろ温度を失った弁当がバランスを保っているようにさえ思える。午後がいきなり体育の授業から始まるのはすこし気に食わないが、運動不足になりがちな今の時期には大事な時間であるとも言える。そういうことを考えていると、熱というのは重要なのだなという当たり前すぎてどうしようもない考えがぽんと智葉の頭に浮かんだ。

 

 「年明けと言エバ、あいさつ回りみたいなのはするんでスカ?」

 

 「……元旦にはすることになるだろうな、早めに切り上げさせてくれればいいんだが」

 

 「しっかりした環境って大変ですヨネ」

 

 「いろいろあるんだよ。好きかどうかは別にしてな」

 

 「播磨クンとかにもちゃんと連絡するんでスカ?」

 

 「世話になったしな、それが道理だろう。姫松ならあと連絡先知ってるのは……、愛宕か」

 

 「……なんといウカ、その辺が彼氏のいない原因なんでしょウネ」

 

 そう言いながらため息をつくメグの表情は、どうしたものかと真剣に頭を悩ませているもののように見えた。智葉はいまの会話の流れから彼氏という単語が出てくる理由もため息をつかれる理由も思い当たらなくて、ただただ困惑するばかりであった。播磨拳児はゴールデンウイークの合宿でも十月ごろに練習に参加してもらった時にも、実力は別にしてお世話になったのは事実だし、愛宕洋榎に関してはそもそもしょっちゅう全国だの選抜だので顔を合わせている。そんな人物たちに年始のあいさつをするのは当たり前の話であってそれ以上に何があるというのだろうか。

 

 「おい、話がつながらないぞ。それ以前にうちは女子高だろう」

 

 当然のことを口に出したつもりが、それを聞くや否やメグは食事の手を止めて額に手をやった。言葉にされてはいなくても、呆れられていることくらいはわかる。いまはただの仲の良い友人として話をしているぶん、メグの態度がちょっと引っかかって、智葉は自分の正当性を主張しようとした。

 

 「というか今の時期に彼氏だなんだは邪魔になるんじゃないか? 受験が近いんだぞ?」

 

 そこまで言ってしまうとメグは額に手を当てたまま思いきりうなだれた。もしかしたら小声で、あちゃあ、と呟いたかもしれない。智葉はそんな声を聞いたような気がした。

 

 「わかりまシタわかりまシタ、別の話にしまショウ。ゴールドフィッシュは元気でスカ?」

 

 「ん、ああ、元気だよ。調べてみて初めて知ったんだが、越冬くらいなら簡単らしいな」

 

 「へえ、小さいのにタフなんでスネ」

 

 「個体差もあるらしいが三十年生きるやつもいるそうだ」

 

 「冗談でショウ?」

 

 「どうだかな」

 

 そう言ってちいさく智葉は笑った。彼女は本当にごくごくたまにだけ茶目っ気を見せる。これは気を許せる友人を相手にしているときにだけ見られる貴重な振る舞いなのだが、智葉自身は何の気にも留めないしその持つ意味も考えない。仲が良いのだからたまには軽口くらい叩いてもいいだろう、くらいにしか思っていない。どういった環境で育ったのかはわからないが、どうやら彼女と自己評価という観念はかなり縁遠いものであるらしい。

 

 「そういエバ、あの、なんでしたっけ、金魚すくい? サトハが苦手なんて珍しいですヨネ」

 

 「いいだろ別に。昔からあれだけはうまくできないんだ」

 

 「てっきりサトハは完璧超人なのだとばっかり思ってましたケド」

 

 「まずそんな人間はいないし、金魚すくいごときでそれが崩れるのも酷い話だろ」

 

 「それもそうでスネ。あ、忘れてまシタ、ご両親と播磨クンによろしく伝えておいてくだサイ」

 

 「会う機会もそうないだろうしな、忘れないようにしておくよ」

 

 

―――――

 

 

 

 手洗いに行くと言ってメグがさっさか廊下を駆けて行ったせいで、智葉はひとりで弁当箱の入った包みを持って教室に戻ることになった。こんなことは三年も一緒に過ごしていれば何度もあるために彼女は気に留めることもないし、それにゆっくり歩くのは嫌いではない。朝には粒は小さいながらしっかりと降っていた雪は気が付けばすっかり止んでいた。

 

 とくに頭を働かせることもなく、教室に戻ることと泡のように浮かんでは消えていくどうでもいい思考だけが脳を掠めていくだけの折、ふと声をかけられた。意識を急激に引っ張られたのは声の主が智葉の脳内のブラックリストに登録されているからだった。もうこれはクセになってしまったと言ってもいいだろう。夏までは臨海女子麻雀部で起きた事件の処理をするのは智葉の役目だったのだから。

 

 「サトハ! 久しぶり!」

 

 「そうでもないだろ、先週には顔を見た覚えがあるぞ」

 

 「だって部活にいたときは毎日会ってたから、それと比べたら久しぶりだよ」

 

 麻雀を打つ時とは違う、高校の制服に身を包んだネリーがまるっこい笑顔でそこに立っていた。場所と制服があるから成立しているようなもので、言ってしまえば小学生の集団にいたらそのまま小学生で通ってしまうほどに彼女は骨格レベルで小さい。初対面の人物に高校生だと紹介すれば冗談だと思う人が大半に違いない。ただそれでも観点を麻雀という競技に移せば、彼女に肩を並べられるプレイヤーさえほとんどいないのだから面白いものだと智葉は思う。

 

 「まあそれはそれでいい。麻雀のほうはどうだ?」

 

 「チョーシは悪くないよ、戦績もそこそこだし」

 

 「十分だ。お前くらいになるとあとは打ち続けないと何にもならない領域だからな」

 

 「カントクと同じこと言ってるね」

 

 「経験者は語るんだよ、鈍った勘ってやつは簡単には取り戻せないからな」

 

 それなら今から打てばサトハにも勝てるね、と無邪気に笑うネリーにつられて智葉も笑ってしまった。強気なことは実にけっこうだったが、生意気だったのでとりあえず智葉は頬をつねっておくことにした。

 

 お互いわざと大げさにやり取りをしたあとで、もう一度会話が始まった。智葉からするとこれでずいぶんマシなほうに分類される。引退する前には部活が始まる前に真後ろからタックルをかましてくるレベルが決して珍しくなかったのだ。携帯電話の取り合いが果たしてどこに位置するのかは未だもって智葉にもわからないが、とにかく平和な日常になったと思わざるを得ない。

 

 「でもアレだね、早く試合やりたいよ」

 

 「春になればあるだろ、監督も練習試合なら組んでくれるだろうし」

 

 「練習試合じゃダメだよ、向こうもこっちも本番みたいに気乗りしないもん」

 

 「じゃあ春まで我慢しろ」

 

 「遠いよお、早くオオホシとかシシハラとかともっかいやりたい」

 

 「大星は構わんが獅子原は三年だ。春には卒業してるぞ」

 

 「えっ!? シシハラあんまり大っきくなかったよ!?」

 

 「それをお前が言うのか」

 

 本人がいないからこそなのか、失礼な言葉が飛び交う。本気で驚いた顔をしているネリーは、もう一度全国の舞台でぶつかれるつもりでいたのだろう。外から見ていた限りでも彼女の打ち回しは見事なもので、準決勝で有珠山が落ちたのは展開の綾だったとさえ言えるだろうと智葉は考えている。あの場にもしも姫松がいなかったのなら、決勝に上がったもうひとつの高校はわからなかったはずだ。そういう前提を置くとするなら目の前のこの少女が試合をしたがるのも道理なのかもしれない。

 

 「まあいい。少なくとも次の夏にはまた楽しめる相手も出てくるさ」

 

 「ヒメマツもいるしね」

 

 「ほう?」

 

 「あそこケンジがいるから強くなったんでしょ? じゃあ次も大丈夫だよ」

 

 「あー、まあ、うん、そうだな。ん? 待て待て、あいつ卒業したらどうなるんだ?」

 

 「え、日本だとカントクって卒業あるの?」

 

 「播磨のやつは高校生だ」

 

 「え"」

 

 「…………ふむ」

 

 廊下を歩きながらネリーが拳児の高校生とは思えない要素をひたすら挙げ、それに対して智葉が制服を着ていたなどの証拠を返しながら議論は続いた。あれだけ高校麻雀界隈で騒がれていたのにそのことに対してまるで無頓着だったことにさすがに智葉も呆れたが、ネリー・ヴィルサラーゼとはこういう人物である。そうこうしているうちに階段までたどり着いて、多くの学校と同じように学年ごとに分けられた階に二人は別れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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85 おもひで

―――――

 

 

 

 「せーんぱーい、クリスマスとかって休みちゃうんですか」

 

 「あァ? なんだいきなり」

 

 第一部室の隅には椅子が置いてあり、そこは室内が一望できる拳児の指定席である。監督代行という立場もあって全体を見渡せる位置は必要なものであり、また部員たちにとっても特定の場所にいてもらえるのは話を聞きたい時に探す手間が省けるのでありがたくもある。普段の例に漏れず拳児はいつものポジションで手元の資料に目を落としていた。ここしばらくの成績であったり傾向であったり、誰かひとりの指導方針を考えることひとつ取っても周囲が考える以上に麻雀というものは情報が重要になる。なにがどう転んでも全国レベルを主戦場としている学校で “なんとなく” のような根拠のないものは指導には使えないのだ。

 

 そんなハイレベルな常識を知らず知らずのうちに教え込まれている拳児のもとへとやってきて声をかけたのは上重漫だった。口ぶりもそうだが、並んでいる単語を考慮に入れると大事な要件とはとてもではないが思えない。どちらかといえば浮かれて口にする系統の内容だろう。拳児は資料からすっと目を離して視線を上げる。

 

 「だって街もクリスマス一色ですし、そんななか部活オンリーなんて切ないやないですか」

 

 「木曜じゃねえなら休みじゃねえよ、日程表に書いてあんだろ」

 

 「えぇー……、播磨先輩は文句ないんですか」

 

 「なんで俺様がクリスマスに部活があるかどうかでぎゃーすか言わなきゃなんねーんだよ」

 

 そんな言葉がさらりと出てくるのだから、なんにせよすぐにやってくるクリスマスに彼が関心を持っていないと判断するのは自然だろう。あるいはスパルタなのか、あるいは色恋沙汰に興味がないのか、はたまた別の理由なのか。漫からすれば二番目の理由がもっとも納得できるところに違いない。なにせそういった艶っぽいウワサはゼロなのだ。二学期の初めごろにせっかく立ち上がった宛先不明のプレゼント購入疑惑も三年生たちの丁寧な火消しによって疑いは完全に晴れてしまっている。正直なところ、漫も初めからチンピラ監督のこの返答を予想してはいた。

 

 見た目こそいまどきマンガですら見ないようなチンピラだが、少なくとも麻雀部に対する態度は真面目である。そうでなければインハイ優勝をはじめとして説明のつかない事柄が多すぎる。そう捉えるとスパルタというのも案外と的を外してはいないのでは、という気もしてくるがこの際それは漫にはどうでもよかった。上重漫は、完全に油断していた。絹恵をスランプから立ち直らせたことと、播磨イズムをわずかにでも理解し始めたという自負が彼女に行動を決意させた。漫は未踏の地へ踏み込もうとしたのだ。

 

 「いやー、だってクリスマスいうたら大イベントやないですか、高校生ですし」

 

 「カンケーねーよ、なんかしたきゃ練習のあとにやんな」

 

 「えぇー、冷めすぎでしょ先輩。なんとなく楽しなったりしません?」

 

 やかましい、と言って拳児は視線を手元の資料に戻そうとする。サングラスがある関係上、目の動きがどうなっているのかは正確にはわからないが、顔の向きと手の動きを見れば誰にでもわかることだ。もっと言えばこの会話を面倒くさがっていることもわかる。漫のようなタイプからはほとんど考えられないことだが、会話に楽しみを見出さないタイプの人間というのはどうやら本当に存在するらしく、目の前のヒゲグラサンがそこに属しているらしい。やれやれ、と漫は思う。どんな環境があればこんな人物が出来上がるのか。

 

 「じゃあじゃあ、たとえば去年のクリスマスとかどんな感じやったんですか」

 

 「……去年の、か」

 

 基本的に横柄な態度を崩さない拳児が珍しく沈むのを見て漫は驚いた。心の中をこまかく見ていけばある種の恐怖を抱いてたとさえ言えるかもしれない。これまで何がしかのリアクションを取ることはあっても本気で怒ったり声をあげて笑ったりすることはなかった彼の振る舞いを考えると、それは明らかにイメージからずれた姿だった。普段からむすっとしているのだから、単に想像するだけなら怒っている姿のほうが簡単に違いない。しかしいま漫の目の前にはあの拳児が沈んでいる姿が現実としてある。インターハイの時のインタビューの影響で存在すると噂された、亡くなった想い人に関する特大の地雷を踏んでしまったのではないかと漫は怯えた。

 

 もはや漫の表情は引きつった口元と今にも泣きそうな目で構成され、知らなかったとはいえ軽率にも世界の終わりの引き金を引いてしまったかのような絶望をはらんでいた。

 

 「そーいや去年のクリスマスは大雪だったな」

 

 「え、あ、そ、ソーデスネ」

 

 この時点で既に漫に話を聞いている余裕はない。まさに右の耳から入って左の耳から抜けていくような状態だ。一年前に拳児は大阪に来ていないし、何より去年の大阪に雪は降っていない。今の彼女はただこれ以上踏み込まないように相槌を打つだけの機械と化していた。

 

 「バカみてえに寒くてよ、そうだ、イヴに旧校舎に忍び込んでたんだ」

 

 「へー、ソーデスカ」

 

 「ああ、でもそこにも居られなくなっちまったんだ、考えてみりゃトーゼンだわな」

 

 努めて心を無にしようとしていた漫であったが、そこで違和感に気が付いた。もともと播磨拳児という人物は話をするのがあまり好きではなく、とりあえず用事がない限りは自分から声をかけたりしない。それは日常会話だとか雑談だとかに対しても積極的ではないことを意味し、ましてや自分語りなどは彼の行動選択のうちに決して入らないだろう。もし彼が聞いてもいないのに自分のことをべらべらしゃべるような人物だったとすれば、その壮絶な過去の思い出のせいで部員の数が減っていたに違いないと漫は考える。はっきり言えば過去を語らない人物だからこそ元裏プロである播磨拳児が姫松で監督としてやっていけるのであり、そういう意味では彼のそのパーソナリティは必要かつ最低条件であったのだ。そしてそれがいま漫の目の前で崩れようとしている。何かあるのだろうか、と漫は訝り始めた。

 

 「気付きゃあブチ込まれてて、出てきたのは次の日でよ」

 

 ( ブチ込まれてた!? どこに!? んでどこから出てきたん!?)

 

 「考えてみりゃあ留置所からサンタが出所してくるってのも変なハナシだぜ」

 

 ( ウソやろ!? イチバン考えたくなかったヤツやん!)

 

 どこか遠くを見ながら話をする拳児と、視線を逸らそうとしているはずなのに新情報が入るたびに顔だけ振り向いてリアクションをとる漫のふたりの姿は、そういう仕組みの使い道のない奇妙な舞台装置に見えた。とはいえ話の内容がぶっ飛び過ぎているせいで漫がいちいち振り向いてしまうのは仕方のないことと言えそうだ。付け加えておくと漫にはもはやサンタに反応している余裕などまったくない。

 

 拳児が留置所から出てきたところまでを話すと、彼を取り巻く空気がもう一段階沈んだ。いまの状態と比べるならばさっきまでは投げやりに話していたのだとはっきり理解できる。漫にとって不可解な要素が重なっていく。投げやりになることそのものには文句をつける気はないが、いまのところ話の中にそうなる要素が見当たらない。自分の過去のことについて語り始めたことも合わせて謎だらけだった。

 

 「出てきて、それでどないなったんですか」

 

 「……約束を破ってでも大急ぎで届けなきゃなんねえモンがあってな」

 

 「で、それを届けた、と」

 

 「つっても破りかけた約束も守んなきゃなんなくてよ、だが交通機関は全部雪で死んでた」

 

 「そんな大雪やったんですか。あー、なんか去年ニュースで見たかも」

 

 「だから俺ァ皿に乗った」

 

 「は?」

 

 想像の埒外どころか日本語として成立しているのかどうかあやしい発言に、漫はまさに目が点にならざるを得なかった。まともな会話をしているつもりならすぐさま病院に連れて行くべきとしか思えない発言である。雪が降っていて交通機関がまともに機能しておらず、それでも約束を守るために何かをしなければならなかった。ここまでなら納得できるどころか美談としても受け入れられるだろう。しかしそこから先はどう考えてもおかしかった。話の流れからして手段として皿を選んだのだろうが、皿に乗ったところで何が起きるというのだろうか。空でも飛ぶのだろうか、冗談にしては理解されにくすぎて落第点で決まりだ。あるいは何かの隠語なのかもしれないが漫は隠語としての皿など聞いたためしがない。そもそも人が乗ることができるレベルの皿の段階で存在するかどうかが疑わしいのだ。割れるだろう、普通。

 

 あまりの発言に漫が二の句を告げないままに軽く飛んだ意識を取り戻すと、あの常にむすっとした表情を崩さなかった監督代行が悲痛に顔を歪めていた。これほどまでに明確に、かつくるくると変化する拳児の心情をはじめての目の当たりにした漫の思考回路はパンク寸前だった。頭のなかを巡るのは疑問符だけで、具体的な言葉はひとつとして浮かんでこない。

 

 「おい知ってっか? 皿ってのはけっこうモロいんだ」

 

 「え? あ、はい。瀬戸物ですし」

 

 「どー考えてもサイテーだわな、俺は知らなかったとはいえその皿を結局割っちまったんだ」

 

 頑張ってこれまで聞いた話を矢印でつないで考えようとしてみたが、漫にはどうやってもそれができなかった。それぞれの行動のあいだに脈絡がなさすぎる。皿のくだりは噴飯ものだ。最終的に皿を割って自己嫌悪に陥ったらしいことはわかるが、どうしてそういった感情の動きになるのかはまるでわからない。なんだか数種類のジグソーパズルを混ぜてむりやり組み立てているような気分になってくる。継ぎ接ぎどころの騒ぎではない。

 

 「……クリスマスにゃロクな思い出はねえよ」

 

 独り言のように呟いて、そのまま拳児は口を閉じてしまった。そうなると対応しなければならない漫は大忙しである。これまでの表情の変化を見るにまず間違いなく目の前の男の気分はいいものではないのだろうし、そうであれば話を振った漫の責任は重大だ。謝罪は何か違うし、真剣に沈んでいる相手に軽い調子で合わせるのは下の下だろう。いかに話の内容が意味不明であったとしてもだ。

 

 意味不明。その単語に漫はわずかに引っかかりを覚えた。播磨拳児と意味不明といえば、ある意味等号で結んでもとくに問題のないふたつである。いまだに生態も割れていないし、そもそも姫松にやってきた経緯からまったく謎なのだからそれも当然だろう。しかしもう一点、漫の頭の中でなにかがかすかに光っていた。ちょっと前に播磨拳児と意味不明という言葉を並べたことがあったはずだ。秋の、そう、ある先輩との会話の中でだ。

 

 ( そうや、ゆーこ先輩といつやったか話をしたんや )

 

 ( いつの間にか播磨先輩のハナシになって、そんで先輩のスベったボケが…… )

 

 漫は由子との会話を思い出して一気に推測を広げる。そう考えるしかないのだ。かつて播磨拳児が進路希望調査票に “アメリカ” と書き、最終的に拗ねることになったように、ふたたびシュール全開の理解不能のボケをかましてきたのだと考えなければ説明がつかなかった。播磨拳児という個性を前提にすれば百歩譲って留置所までは通るかもしれないが、サンタだの移動手段としての皿だのは通るわけがない。やり過ぎない程度に笑い飛ばさねばならないと漫は考えた。

 

 そう認識してみると普段に比べてやけに感情豊かなところも、この自虐風理解不能ギャグのための仕込みにしか思えなくなってくる。あれだけへの字口がスタンダードになっている男が、たかが去年のクリスマスの思い出程度で沈んだりするわけがないのだ。当然だ、と漫は確信した。何を思ったのかは知らないが、播磨拳児はきっといま自分をからかっているのだと。

 

 「あっはっは、ほんまロクでもないですね」

 

 努めて明るく、また相手も返しやすいように短い思考時間のなかでできる限り無難な返答を漫は選んだ。これが普通なら仮にどんな返しであれ笑いながらというのが自然だろうし、この場は問題なく収まるはずだろう。しかし彼女は前提からして間違っていた。

 

 「……つーかサボってんじゃねえ、さっさと行け!」

 

 ( うっそおおお!? これでハズすん!?)

 

 明らかに怒気混じりの声に漫は驚いた。もし声のとおりに怒っているのだとしたら、先に話した内容がギャグではないか、あるいはギャグであったとしても求めていた反応ではなかったということになる。どちらも信じがたいがそう結論するほかないのだ。

 

 実際のところの構図は、由子が拳児の進路希望調査票を笑ったときとまったく同じだった。どちらも拳児にとっては笑ってはいけないものだったし、それは聞き手がどれだけの理解力を備えていたとしても追いつくことのできない内容であった。本当に拳児は移動手段として巨大な皿を用いたし、そして塚本天満が想い人 (拳児ではない) のために作ったその皿を割ってしまった。もちろんわざとではなかったが塚本天満を悲しませてしまったことは事実であり、それは拳児にとってこの世の行いのなかで本当に最低に位置するものだった。その “やってしまった” 出来事のせいで拳児はクリスマスにいい印象を持っていない。彼の行動の優先順位を考えればそれは当然の話だった。

 

 すたこら駆けていく漫の後ろ姿から目を切って、拳児は手元の資料にもういちど目を落とした。

 

 

―――――

 

 

 

 「なぁ絹ちゃん」

 

 「ん?」

 

 「播磨先輩の過去はやっぱ気軽につついたらあかんわ」

 

 「えっ、それタブーのやつやん」

 

 「いや勝手な暗黙の了解かな思てチャレンジしてみたんやけど、マジのタブーやったわ」

 

 「あ、漫ちゃんそれで今日あんまり元気なかったり?」

 

 「うん。絹ちゃんも聞く?」

 

 「いりませんー。それやったら普通に打ち方とか聞くもん」

 

 「えっとな、留置所とか皿とかいろんな単語が出てきてな」

 

 「いらん言うてますよー。って、きついきつい、まともな想像できんけどなにそれ」

 

 「んはは、絹ちゃんもうちの半分くらいの恐怖を味わえー。そんでな……」

 

 

―――――

 

 

 

 翌朝、拳児がいつものようにチャイムギリギリで教室に入ると、これまたいつものように由子の席に三人組が揃っていた。毒にも薬にもならないし、意味なんてものもはじめから求められていないような会話が繰り広げられている。日常の風景にいちいち拳児が反応するわけもなく、適当にあいさつにも聞き取れるような声を出しながら席に着く。話が彼に飛んでくるかどうかは日によってまちまちだ。だから拳児は構えることなく黙って担任が来るのを待つつもりだった。しかし今日は声をかけられる日であったらしく、朝から元気のいい声が飛んできた。

 

 「おー、なんや去年は大変やったらしいな。今年はええことあるといいな」

 

 「ハァ? いきなりなに言ってんだオメー」

 

 突然なにを言い始めたのかと残りの二人に目をやると、どちらもきょとんとしている。すくなくとも事前に三人で計画してイジろうと決めていたわけではなさそうだ。脈絡もなく出会い頭にこんなことを言われれば誰だって虚を突かれるに決まっている。もし仮に拳児の立場にいるのが頭の回転の速い人物であったなら、洋榎がそう話しかけた経緯に気が付くかもしれない。しかし残念ながら拳児はそういうタイプではない。何の話をしているのかをただただ考え続けることが拳児に許された限界であった。

 

 「おい、末原でも真瀬でもいいけどよ、コイツ何のこと言ってんだ?」

 

 「さあ?」

 

 三人ともが首をかしげる奇妙な朝だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




メリクリ。そしてまた来年に。


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86 初詣と考え方と

―――――

 

 

 

 一年の終わりの、深く静かな夜を明けて新年。元来であれば親族や親しい人に、それこそ方々を回ったり里帰りをして挨拶をするのが一般的なのだろうが、拳児にそのつもりはまるでなかった。もしかしたら想い人である塚本天満が正月ということでアメリカから日本に帰って来るということもあるかもしれないが、もともと住んでいた矢神に戻る気はしない。拳児にとって矢神とは彼女と出会えた奇跡の地であると同時に、どう頑張っても彼女に思い通りには近づけないという呪われた地でもあった。たとえるなら回し車のように、どれだけ走ってもちっとも前に進まないのだ。加えてたまに邪魔さえ入る。さすがの拳児といえどまるまる一年のあいだそれが続けば学習もする。彼女がたまに帰省している可能性を踏まえてなお拳児が矢神に一度も帰らなかったのにはそういった理由もあった。それにもう二、三ヶ月経てばその日はやってくる。播磨拳児に焦る必要などどこにもないのだった。

 

 とりあえずは起きたまま新年を迎えたが特別に夜更かしをすることもなく、半ば強引に詰められた初詣の予定のために拳児は眠りについた。夢を見た覚えはなく、目を開けてみれば朝が来ていたといった感覚だった。もそもそと布団を出てひとつ伸びをし、窓を開けると急に冷たい空気が流れ込んできた。天気予報は見ていないがそれでも傘の準備は必要なさそうな空模様で、拳児はそれを見ると鼻を鳴らしてさっさと窓を閉めた。

 

 

 比較的早い集合時間の設定だったためか、集合場所である最寄り駅までの道のりはかなり静かなものだった。人の姿は数えるほどしか拳児は確認していない。あるいは正月といえば自宅でのんびり過ごすか気合を入れて二年参りをするかの極端な選択をする人が多いのかもしれない。だからお参りをする人はすでに出払ったあとで、家にいる人はまったく出て来ないという状況なのかもしれないが、そんなことは拳児にはわからないしどうでもいいことでもあった。

 

 拳児の、つまり一般的な姫松生からすれば高校の最寄り駅が集合場所になったのは四人で初詣をするなら結局だれもがこの駅を経由するからであり、その意味で非常に便利な立地にあると言える。高校ともなれば場合によってはなぜこんな僻地に建てたのかと言いたくなるようなところもさして珍しくはなく、したがってこれから初詣に向かう四人は恵まれた環境にあると言えた。しかし言ってみたところでおそらくそんなことには誰も気付いていないだろう。

 

 拳児が時間通りに駅に着いてみると、すでに三人組は揃ってなにかを楽しそうに話していた。全員が全員暖かそうだが動きやすそうな服装で、よくニュースで見るような気合の入った参拝をするというわけではないようだった。

 

 「お、播磨ー」

 

 体の向きの関係で、拳児に最初に気付いたのは洋榎だった。体格が大きいわけではないが、長いポニーテールが駅前の人ごみの中でもやけに目立つ。続いて恭子と由子も振り返って拳児の姿を確認したようだった。たとえどれほど人の波がすごくても拳児を探すのには苦労しないだろう。どちらも軽く手を振って呼んでいるようだった。

 

 「あけましておめでとう、ってなんや播磨、お前私服持っとったんか」

 

 「なんだイキナリ。それくらい持ってるに決まってんだろーが」

 

 「でも言われてみれば合宿もインハイもずーっと制服やったような……」

 

 新年の挨拶も満足に終わらないうちに話は一気に逸れた。とはいえこれまで実際のところ姫松に彼の私服を見た人間はいない。新鮮だという反応も当然だろう。しかしそれでもまだ見た目で一番印象に残るのがヒゲグラサンにカチューシャという主に頭部だというのだからどうしようもない。逆に言えばそれらを取り除いてしまえば誰も拳児には気付けないのだから、姫松とはまるで関係ない変装の当初の目論見は達成できていると判断できそうだ。どのみちロクでもないのは否定できそうもないが。

 

 拳児が歩いてきた道に比べればさすがに駅前には人の姿が見られたが、それでも平日の通勤通学の時間帯に比べればおとなしいものだった。空気も澄んでいる。まるで誰かが意図して作ったような静かな朝に、拳児たちも風景の一部として溶け込んでいた。

 

 「で、どこ行くんだ」

 

 「そんなん神社に決まっとるやろ」

 

 「バカ言ってんじゃねえ、場所を聞いてんだ場所を」

 

 「あれ、言うてもこの辺に住んでそれなりに経つのに知らへんの?」

 

 「住もうが何しようが外に出る時間がねーんだからどうしようもねーだろ」

 

 夏まで同じ部活に出ていたのだから彼女たちはもちろん知っているが、全国大会常連のレベルともなれば土日のどちらか一日であってもすっかり休みということはまずない。たしかに木曜日だけは週に一度の部活休みとなっているかもしれないが、監督代行である拳児は外部が思っている以上に忙しく、加えて彼は学校が終わってから神社仏閣を巡るような趣味をしていない。となれば拳児が神社の場所を知らないのはあまりにも当たり前すぎることだった。

 

 「ゆーて私、播磨がわりと小さいころからこの辺におったような感覚やったのよー」

 

 「あ、わかるわそれ。なんや春に来たばっかいう気せーへんやんな」

 

 けらけら笑いながら拳児いじりに花を咲かせつつ、四人は改札へ向かって行った。

 

 

―――――

 

 

 

 平和なものだと拳児が思っていたのもつかの間、電車が駅に停まるたびに乗客の数はぐんぐん増えていき、目的の駅に着くころには熱と密度と混じりあった匂いでうんざりするほどまでになっていた。気が付けば近くに三人が見当たらない。拳児と違って平均的な女性の身長とさほど差のない彼女たちは、満員電車の中だとすっかり埋もれてしまうのである。彼女たちから降りる駅の名前を聞いていない拳児はどうしたものかと考えたが、それは乗客のほとんどが参拝に行くということで杞憂に終わった。一斉に人が流れたのでそれに合わせてホームに降りてみると、車内がつらかったのだろう三人がすこしだけ息を切らせていた。

 

 「去年も思ったけど、やっぱり大阪ってホント人多いのよー」

 

 ため息と同時に歩き出そうとしても前がぎゅうぎゅうに詰まって思うように進めないのがなんとも滑稽に思えて、女子三人組はくすくすと顔を見合わせて笑っていた。後ろのグラサンは本気で面倒くさそうな顔をしている。初詣だからといってわざわざこんな朝から行かなくてもよかったんじゃないかと今にも言い出しそうな雰囲気だ。すし詰めになってはちょっとずつ押し出されていく自動改札を見てところてんみたいだな、と思ったのは拳児だけではないだろう。ぐいぐいと押し出された駅の外はやっぱり寒かった。

 

 参ろうとしている神社に近づけば近づくほど、それこそ伝統になるほどに長いこと続けてきたのだろう、屋台やらいまひとつ判断のつかないものやらの呼び込みがそこらじゅうから聞こえてくる。普段イメージする雑踏という言葉よりもずいぶん濃度を上げたそれは、電車の中と比べてみるとたしかに華やかな感じがあった。

 

 くらくらしてしまいそうになるほどの人の海は、なるほど目の前の三人組だけでは大変だったろうと拳児にさえ思わせた。見渡せる限りの人の中にも数こそ少ないが晴着が散見され、からころと特徴的な音も耳に入る。どうにも動きづらそうなのと合わせて色合いのせいでやけに目について、知らないうちに拳児は目で追っていたらしかった。

 

 「なんや播磨、おもろいモンでも見えるんか」

 

 「あー、いや着物の連中が動きづらそーだなって思ってよ」

 

 「たぶん播磨が思っとるよりはしんどいで。外できちんと直せる人もおらへんやろし」

 

 「んだオメー着たことあんのか」

 

 「着付けはやってもらわんとダメやけどな」

 

 拳児には着付けがどういうものか知識がなかったが、とりあえず言葉の感じから一人ではできないものなのだろうと結論付けた。そのうえでそんな面倒なものをわざわざ人の集まる日に着てくる女性たちをただ不思議に思うのだった。すぐそばでは今の拳児と洋榎の会話から派生したのか成人式だの神前式だのという単語がぴーちくぱーちく聞こえてくる。この辺りの長いこと一緒に過ごしているだろうに話題の尽きないところは素直に拳児が驚くポイントになっていた。

 

 大きな鳥居をくぐってそのまま賽銭でも放りに行くのだろうと拳児は思っていたが、人の流れに任せてそのまま進もうとしていたところで腕を引っ張られた。拳児がきょとんとしていると脇にそれるコースの先頭で洋榎が親指で行く先を示していた。恭子と腕を引いた由子はやれやれといった顔をしている。

 

 人の流れがかなり大きくなっていたこともあってそこから抜け出すのにいくらか苦労したが、それでも不可能ということもなく、抜け出すとあの息苦しさが和らいだような感じがあった。視線を先にやると、小さな屋根の下に岩から水が湧き出ているように見える手洗い場があった。いわゆる手水場というやつで、柄杓が意外なほど置かれている。たしかに手洗いうがいは大事かもしれないが、外でやったところでそれほど効果がないのではと考えた拳児はつい片眉を上げた。

 

 「ああ、そういえば播磨はあんまりお参りしないって言うてたっけ」

 

 「なんだ、ここ寄んなきゃなんねーのか?」

 

 「そ、ヒロがやり方教えてくれるから聞いておいたほうがいいのよー。恭子より詳しいし」

 

 「ホントかよ、全然そんなふうにゃ見えねーけどな」

 

 手水場の水は冬だからといって特別に温められているということもなく、単純に冬の気温のせいで驚くほど冷たくなっていた。手を洗うのも一苦労だし、人によっては口をゆすぐときに歯に染みるかもしれない。それくらい暴力的な冷たさだった。

 

 「人多いし流されたら仕方ないけど、できるだけ真ん中通らんようにな」

 

 「あ? なんでだ、なんかあんのか?」

 

 「いちおー神社やからな、真ん中は神様の通り道いうわけや」

 

 「オメーがそういうの詳しいってのはなんか違和感があんぜ」

 

 「やかましいわ、オカンがそういうのきっちりしとるだけや。せやからキヌも詳しいで」

 

 「や、妹さんはなんとなく納得できんだよな」

 

 聞いていた恭子と由子の二人が同時に噴き出した。実は去年の初詣で似たようなやり取りをしていたのだ。どうやらどちらも似合っていないという認識が共通していたらしい。二人が笑っていて拳児が本当に意外そうにしている光景は、愛宕洋榎には失礼な話かもしれないがなんだか救いがなかった。とはいえ特に夏を過ぎてからはこういうやり取りが自然なものになりつつあるのでそれほど洋榎にダメージが残ることはないだろうが。当然ながら反撃を加えようにもびっくりするような人口密度の中では迷惑になってしまうためそれもできないのだった。

 

 

―――――

 

 

 

 「しっかしよ、終わったから言うわけじゃねーがなんであんな待たなきゃなんねーんだ」

 

 「ようさん人がお参りに来てんねやからしゃあないやろ、なあきょーこ」

 

 「まあ、行事ごとくらい大目に見たったらええんやないかなとは思うけど」

 

 列の先頭にたどり着くまでやたらと時間がかかった初詣もどうにか済ませて、一行は近くのファストフード店に陣取っていた。さすがに朝も早かったことと周囲を人で埋められた状況のこともあって満足に食事を摂ることができるわけもなく、こうしてひと息つきがてら朝と昼兼用の食事をしに来たのだ。幸いなことにボックス席が空いていて、困ることなく腰を下ろすことができている。テーブルの上を見てみれば食事はもうある程度のところまで進んでいるようだ。

 

 「それっくらい大事なお願い事があるんやと思うのよー」

 

 「ああいうのって大抵決まってるモンじゃねーか? 健康祈願とか学業成就とかよ」

 

 「だとしても大事やからお願いもするし、それに結局は自分の頑張りも必要やからねー」

 

 「そーそ、ゆーこの言うとおりや。言葉にすると気合の入りも変わるしな」

 

 そんなもんかね、と曖昧に返事をして拳児は紙コップを傾けた。店内に入ってそれなりの時間が経っていることもあって、トレイに乗せて受け取った時には熱いほどだったコーヒーも今では中途半端な温かさになっている。もともと味で売っているとは言えないそれはお世辞にもおいしいとは言えないものになっていた。

 

 気が付けば、というよりも大概の場合がそうなのだが、グループで話をしている時には拳児は何も聞いていないのがほとんどで、今回も例に漏れずにいつの間にか話題が変わってしまっていた。注意深く聞いてみるとどうやら冬休み明けのことについての話をしているらしい。会話の勢いから判断すると拳児が話に参加しているかどうかはどうでもいいことのようでもあった。拳児からしてもこういう扱いは慣れっこというか、言ってしまえばむしろこういった状況に自身が置かれていること自体が不自然ですらあった。

 

 「へー、じゃあヒロは部のほうに出られなくなるの?」

 

 「ん、ちょくちょく戻ってくるみたいやからそんなこともないと思う」

 

 「授業はまあええにしても卒業式は出られんの?」

 

 「大雑把に言うたら野球選手のキャンプと似たようなもんやろし、大丈夫ちゃうの」

 

 「お、なんだ近いうちに北海道行くのかオメー」

 

 「この距離でハナシ聞いてないとかウソやろ、チームの練習で呼ばれてんの」

 

 しっかりとリアクションを取ってくれた割には説明をしてくれる辺り拳児にとってはありがたい存在である。あるいは彼女たちにとっても未だによくわからない部分があるせいで、対応が一段慎重になっているのかもしれない。

 

 「そォか、そんならせいぜい頑張んな。応援くれーならしてやるぜ」

 

 「…………」

 

 ちょっと待っても叩いた軽口への返しがないものだから、別に何を見ているというわけでもなかった拳児も不審に思ってとくに何もないテーブルのある点から視線を上げると三人娘がそれぞれ説明しづらい表情をしていた。共通しているのは何を言ったものか困惑しているところである。さてそうなると拳児も困ったもので、別におかしなことを言ったつもりもない。それほど日を置かずにプロとしての練習が始まると聞いたから、それに対してエールを送っただけの話である。それだけだというのに真瀬由子に至ってはぷるぷると小刻みに震え始めているというのだから始末に負えない。いったん言葉を切ってしまっていることもあり、拳児も簡単に口を開けなくなってしまった。

 

 やはりと言うべきか、見るからに我慢の限界が近そうだった由子がもういちど噴き出した。ふふふと必死に声を殺してはいるのだが、笑っているのはいくらなんでも隠せていない。そうかと思えば他の二人は変わらず微妙な表情を浮かべており、拳児からしてみると余計に状況が掴みにくくなってしまった。ボックス席でそれぞれの距離も近いせいで、さすがの拳児も降参ということらしい。

 

 「オイ真瀬、何がそんなに面白れーんだ」

 

 「いや、ふふ、その、あなたがっていうんじゃなくてね、この変な空気が」

 

 「ハァ?」

 

 「だって、インハイでも言わなかったようなこと、急に言ってこの空気って、んふふ」

 

 なんとも気まずそうに目を逸らした二人を見て、拳児はそれが事実なのだと理解した。同時に考え始めて、おや、と立ち止まらざるを得なくなった。つまり拳児は監督代行という身分にありながら部員に対して応援をしてこなかったということになる。言われてみて初めてそうなのかと疑い始めた程度である、これまで自身が監督としてどんな態度を取ってきたかなど拳児は考えもしなかった。

 

 実際にはそれでどうにかやれたどころか団体優勝まで決めてみせたのだから文句の出る筋合いはないが、実質お飾りのポジションであることに拳児自身思うところがないわけではなかった。見た目がどれだけアレであっても彼とて男子高校生であり、その本質は何もせずに転がり込んできたものを後生大事に抱えるようなタイプではない。だから拳児は普段から麻雀部の監督であることを他人にアピールしたりはしないし、きちんと真面目に部に関わろうという姿勢を維持している。もちろんこれらはすべて塚本天満を攫うために利用するつもりであるが、それでも男児として納得のいく行動を取ろうとしている辺りに彼の美学がちらついている。

 

 「あー、オイ、そんなに似合わねーこと言ったか俺」

 

 「すくなくとも “頑張れ” なんて聞いた覚えがないのよー」

 

 見方を変えればそれでも部は回っていたということでもあって、それは部活そのものが持っている地力のようなものに拳児が甘えていたということでもあった。部員たちは露ともそんなことを思ってもいないだろうが、拳児にとってはそういうことになってしまうのである。

 

 動作にこそ表れていないものの拳児が軽くヘコんだのだろうことがなんとなく空気で察せられて、そのことがその場の雰囲気をなぜか明るくした。基本的に弱いところを見せない男が、こういったくだらない会話で普通の高校生みたいなリアクションを見せたからかもしれない。それはなんだか普通の友達みたいで、どちらにとってもひどく新鮮に感じられた。

 

 「ま、漫ちゃんたちにはちゃんと言うたり。新しい子もおるんやしな」

 

 「うるせーよ」

 

 「せや播磨、来年言うたらスカウトとかしてへんの?」

 

 「なんだそりゃ」

 

 「優秀な中学生に姫松に来えへんかって声かけんねん、うちもそれやで」

 

 「つーかそもそも練習あんだから探しに行く余裕ねーだろ」

 

 それもそうかという話になって、そこから話題は赤阪郁乃のことに移っていった。それならいったいいつの間に彼女はいろんな情報を仕入れているのだろう、というような始まりである。いろいろと謎の多い人物であるために、いったん話が始まるともう止まらなかった。特定の人物に対してイメージだけでしゃべり始めるとどうしたってロクなことにならないいい例である。しかしこれはこれで学生のガス抜きのひとつの方策ではあって、なんとも平和な年始のひとときであった。

 

 

 

 

 

 

 




誤字報告機能で初めて連絡をいただきました。ありがとうございます。
なるほどこれは便利やでぇ。


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87 言葉にしてこなかった意味

―――――

 

 

 

 第一部室全体を見渡せる部屋の隅には監督代行を務める播磨拳児の指定席があって、部活中に彼に用事があるのならまずはそこを目を向けるというのがお決まりになっている。ちなみにそこにいないのなら第一部室のどこかの卓を立って見ているか、そこにも姿がないなら第二部室を見に行けば九十五パーセントは見つかる。残りの五パーセントを探し出したことのある部員は一人もいないが、そんなことを言ったところで常に居場所を把握されている人物というのも気味の悪いもので、誰もそのことを気にしたりはしない。

 

 今日はそんな部屋の隅に、めずらしく椅子がもう一つと、どこから運んできたのか普通の教室に置いてある机が準備されていた。椅子程度なら拳児と話をしようと思った部員が自分で持っていく光景は間々見られたが、机となるとまだ誰も見たことがなく、また自動卓が点在している部室に普段の授業で使っている机がひとつだけあるのはひどく珍妙な印象を部員たちに与えた。ましてやそこにいるのが播磨拳児なのだから、まだ十六、七年しか生きていない彼女たちにその異物感を他のものに喩えることは不可能だった。

 

 第一部室にいるほとんどの部員の集中力を削ぐそれがしばらく盗み見の視線を集め続けたあとで、ひとりの少女がそちらのほうに近づいていった。

 

 「オウ、上重。終わったか」

 

 「えーと、はい。終わりましたけど、どないしたんですか、机まで引っ張り出して」

 

 「話の進み次第でなんか書くことになるかもしれないってだけのコトだ、気にすんな」

 

 素直な漫はそうかと納得して、そのまま目の前にある椅子に座った。机があるせいでどこか面談っぽく見えるような気もするが、立場で考えると席についているのは監督代行と主将なのだからそのままで実は自然である。しかし拳児は部員と話をするときはほとんど立ち話というか、たまたま相手が近くにいるタイミングで話をするという手法を採っていたために、この呼び出して話をするという形式は妙なプレッシャーを振りまいていた。姫松の部員たちももう播磨拳児という存在に慣れてはいるのだが、威圧感を感じないわけにはいかず、これからなにかとんでもないことが始まるのではないかとそれぞれが内心で考えていた。

 

 冬の学校は自然に任せればとても寒く、ましてや頭脳スポーツである麻雀には体が温まる要素はかけらもない。よその文化部からは文句が出るかもしれないが全国的に優秀な成績を残し続けていることもあり、麻雀部の部室には空調がついていた。ただし工事が行われたのがかなり前のせいで部室の中は加湿器を持ってこないと乾燥がきつくなるのだった。今日は空が気分よく晴れていることもあってなおさら空気は乾いている。

 

 「でだ、他に聞くこともねーからさっさと本題いくぞ」

 

 「は、はい」

 

 「赤阪サンとも話し合ったんだけどよ、オメー中堅やるつもりねーか? 団体の」

 

 呆けたような顔だった。わざわざ場のセッティングをしたとはいえ、監督代行の話し方がいつもどおりだったせいでそこまで重要な話ではないのではないかと彼女が思っていた矢先のことだったからだ。

 

 「ほぇっ」

 

 「別にやりたくねーならそれはそれで構わねー。いろいろあんだろーしな」

 

 漫がすぐに反応できなかったのには理由がある。これまで指導やアドバイスを行う際にさえ、直截的にでなく考えさせながら導く方針を採っていた拳児が明確な言葉を以て話を進めたことがひとつ。もうひとつが、その言葉から気遣いのようなものがはっきりと感じ取れたことだ。もちろん話の内容を踏まえれば迂遠な言い方をしないことも必要以上に重たい場にしないことも自然なのだが、その出所が播磨拳児になると途端に価値が変わるような気がした。

 

 すぐに返答をしないのを考え込んでいる時間と取ったのか、漫の目の前に座るヘンテコな外見をした男は黙って待っている。漫はこの状況に対してあることを思い出さずにはいられなかった。

 

 「あ、あのっ、中堅やりたいです、けど、ほんまに私でええんですか」

 

 「あ?」

 

 それはわかりきっている答えを出させるための威圧的なものではない。彼は腕を組んで首を傾げている。おそらくは本当に自分が何を確認したいのかがわかっていないのだと漫は判断した。末原恭子と違って細かい説明を一切しない傾向にある播磨拳児にはこういうところがある。彼にとって答えは答えなのであって、そこに至るまでに引っかかる可能性があることを考慮に入れないのだ。それを思いやりがないと取るべきか信頼と取るべきかは難しいところである。

 

 「だって、その、私ってあんま安定感はないですし……」

 

 「愛宕と比べようってんだったらやめときな、オメーは愛宕じゃねーんだしよ」

 

 「それはっ、そのとおりですけど……」

 

 語尾の力弱さから感じ取れる不安はそれこそ拳児にさえ察知することができたに違いない。

 

 「ああわかった。オメー自分が中堅でチームが勝てるかどうか怖がってんだな?」

 

 デリカシーとは縁遠い拳児は人のやわらかいところを意識しないうちに突いてしまうことがあるが、まさにそれがはっきりと出たかたちだった。声質こそ重たいものの深刻さが窺える言い方ではないから、おそらく拳児はどうして漫がそういった恐怖を抱くようになったのかまでは考えていないのだろう。

 

 それを聞いてぴくりと跳ね上がった漫は、五秒も経たずにおずおずと頷いた。すると目の前の男がわかりやすくため息をついて、あからさまに面倒くさそうな表情を作った。

 

 「あのよ、あんまりヒトをナメんじゃねーぞ」

 

 「へっ? そんなこと……」

 

 「いいかよく聞けデコスケ。オメーの特徴なんざオレたちゃ全員知ってんだ、一年も含めてな」

 

 「えっあっはい」

 

 「そのうえでオメーを真ん中に置こうってんだ、()()()()組み方くれー考えてんだよ」

 

 漫は何も言えなかった。大きな衝撃を受けたような表情のままで、ただ拳児から視線を外せないでいる。サングラスのせいで目は見えないが、もうおおよそ一年ものあいだ、部活という密度を考えればクラスメイトの一年よりも濃い時間だろう、見慣れた顔がそこにある。どう見ても怖い部類の顔立ちには違いないが、そこには不思議と安心感もあった。人間という種に備わった慣れる能力のおかげかもしれない。もう漫には他の回答など選択肢になかった。先輩たちが引退したことも、なぜかこうして部室の隅で話をしているのも、こまごまとしたこれまでのすべてが漫のこの一言のためだけにあった。すくなくともそういう瞬間だった。

 

 「……わかりました。任せてください」

 

 「ならいい。春はそれで行くからよ、準備はしとけ」

 

 「はいっ。それで、あの、他のメンバーって決まってるんですか」

 

 「なんのためにオメーに中堅で行けるか聞いたと思ってんだ、これから赤阪サンと話し合いだ」

 

 そうですよねー、と合わせて席を立とうとすると、珍しく拳児のほうから声がかかった。

 

 「いいか、オメーに愛宕を期待はしてねえ。そんかしオメーの役割を考えろ」

 

 この言葉の意味がわからないほど漫はもう子供ではなかった。だから漫はそのまま一人で洗面所に向かい、周囲に誰もいないことを確認して、拳を握った。

 

 

―――――

 

 

 

 「これはもうつまり、そういうことで決まりやんな、なあ?」

 

 「うんうん、何が?」

 

 朝から続く練習も昼食時ということで、部員はそれぞれ思い思いの場所へと散っていっている。ものぐさならばそのまま部室で昼食を摂りたいと考えるかもしれないが、自動卓の上で食事はさすがに禁止されているためそれは叶わない。普段から使っている子どもたちはあまり気にしていないかもしれないが、一台で結構な値段がするので食事テーブル代わりに使われて壊されでもしたら部としてはたまったものではないのだ。

 

 姫松高校は休みの日であってもそれなりに学内を開放しており、別の部活の友達同士がいっしょに昼食を摂るなんてことも珍しくはない。人気なのはテーブルの揃っている食堂である。漫と絹恵もいつものように食堂のテーブルに座って和気あいあいと食事を進めていた。

 

 「いやさっき播磨先輩から中堅打診されたやんか」

 

 「うん、頼りにしてるで」

 

 「ありがとう。いやいやそうやなくて」

 

 昼休憩の終わりはまだまだ先ということもあって彼女たちの会話はひどくのんびりしていた。先を急ぐということはなく、合間合間のやりとりを楽しんでいる。高校生の会話なんてものは本来こういうものであって、どこかのヒゲグラサンのようにいるだけで殺伐とした雰囲気がにじり寄って来るような気がするほうがおかしいのだ。

 

 「先輩がな、あのとき断る選択肢も残してくれてん」

 

 「うん」

 

 「きっとこれはもうそういう時期が来たいうことやんな」

 

 「そこのそういう時期がどういう時期かがわかれへんねんけど」

 

 「先輩から見て頼りにならへん時期が終わったんやないかな、って」

 

 ほう、と片眉を上げて続きを促す。その言葉は今の二年生の中でも特にこの二人には重要な意味を持つからだ。もう季節は冬の中ほどを過ぎようという辺りだが、絹恵も漫も夏に言われたことを未だに意識せずにはいられなかった。だからこそ漫は主将としての振る舞いを考えるようになったし、絹恵に至ってはスランプに陥るほどだった。それほどまでに自覚症状があった。

 

 「だって結論をこっちに任せてくれるいうことは答えを信頼してくれてるいうことやんか」

 

 「…………そうかも」

 

 「な、わかる? 絹ちゃん」

 

 「わかるよ、うん。重たいなあ、大丈夫って思われるん」

 

 目を伏せて笑う絹恵の表情も大人びて見えたし、いつものように快活に笑う漫もどこか雰囲気が違って見えた。すでにしっかりかたちは出来ているが、麻雀部は実際に全国を体験した自分たちを中心に動いていかなければならないのだとあらためて二人は理解した。拳児が黙って見ているのではなく二人と部全体の話をするようになるということは、意図を汲み取れると認められたということであり、また見えないところでフォローに回ることをしなくなるということでもある。もちろん第二部室のこともある以上まったく手出しがなくなることはないが、それでも大きな意味がある。

 

 それまで楽しそうに話していたが、二人は急に静かになった。周りは誰もそのことに気付かずに、変わることなく笑顔で食事を続けている。すっと二人の目が合って、同時にちいさく笑う。

 

 「なあ絹ちゃん、先輩たちイジワルやと思えへん?」

 

 「思う思う、こういうことなーんも教えてくれんのやもん」

 

 日差しもあって、気温はいつもより暖かかった。

 

 

―――――

 

 

 

 その日絹恵が家に帰ると、ここ一週間ほど見ていなかった靴が玄関にあったことに気が付いた。思い出してみればたしか昨日がプロ初キャンプの練習最終日で、今日が姉の帰宅予定日になっていたはずだ。思いがけないうれしい出来事にすこし気分を良くした絹恵は足取り軽く二階の自分の部屋に着替えに行った。わざと早めに顔見せしないことに決めたのだ。

 

 リビングに降りてきてみるといつもの感じでソファでだらけている姿が目に入った。着ているものも普段着だから、とても特別に何かをして帰ってきたようには見えない。横顔だけで判断するとどうやら機嫌が良いというわけではなさそうだ。

 

 「あ、お姉ちゃんおかえりー」

 

 「おうおうおうキヌ、いつも通りは芸がないんとちゃうかー。うちが帰ってきとんのやで?」

 

 それを聞いて絹恵はなんだかほっこりした気持ちになった。このちょっとした面倒くささが何とも言えずかわいらしいのである。

 

 「それよりお姉ちゃん、北海道のほうはどないやった?」

 

 「ええ、冷たない……? で、北海道いうたら練習のことやろ、たまらんでほんま」

 

 「ん?」

 

 「考えてもみーや、右見ても左見てもその年の世代代表クラスしかおらんねんで? 最ッ高や」

 

 この切り替えの早さも姉の魅力だと絹恵は思っている。ころころ変わる表情は見ていて飽きたためしがない。ほんのちょっと前までむっつりしていたはずなのに、今は希望に満ちた表情で新しい環境について話している。それもそのそれぞれの感情にひとつも混じりっ気がないのだから不思議なものだと絹恵は思う。すくなくとも自分にはできない芸当だとも。

 

 「想像もつかんなぁ、まあそれがプロいうことなんやろけど」

 

 「アホ言うたらあかんで、まだまだ先があんねん。そんなヒトたちがヒネられる世界や」

 

 そう言って屈託なく笑う洋榎の顔はどうしてか強く絹恵の印象に残った。

 

 しばらくは具体的な名前を出しながらのチームメイトの話が続いたが、やはりそれはおそろしく分析的なものだった。他校どころか姫松の部員たちでさえ知らないことが間々あるが、愛宕洋榎というプレイヤーは極めてロジカルな思考を得意としている。見た目や普段の振る舞いの印象から感覚派だと思われがちだが実態は異なっている。もちろん印象通りに感覚も圧倒的に優れており、その信じがたい両立が彼女のほとんど冗談のような守備率を成り立たせている。ちなみにどうして彼女の分析能力が知られていないかといえば、それは末原恭子という名前ひとつで片が付く。

 

 恭子と違って資料を用意せず全てを脳内で済ませてしまう彼女のプロへの分析は、絹恵には理解できない部分のほうが多かったが、それでもひとりの雀士として聞いていて興味深い内容だった。同時に強烈な焦燥感を覚えたが、絹恵はそれを胸にしまうことにした。

 

 「ところでお姉ちゃん」

 

 「んー? なんや」

 

 「なんでお姉ちゃんたちは先輩としての心構えとか教えてくれへんかったん?」

 

 「……んー、説明して無意味とまでは言わんけどなぁ。」

 

 先ほどまでのプロの分析とはうってかわって洋榎の言葉が途端に詰まった。珍しく眉を困らせて言葉を探している。絹恵としてはそれほど難しい質問を投げかけたつもりはなかった。

 

 「……まず、漫にうちの真似はできんやろ?」

 

 「そうやね」

 

 「実はその時点で根本的に話す意味がソートー薄くなんねんけど、わかる?」

 

 全然、と言いながら絹恵は首を横に振った。

 

 「あー、自分だけの経験があってやな、それを材料にして動き方を理解してくんやけど」

 

 「それは先輩として、ってこと?」

 

 「そ。んで、漫もキヌもうちの体験自体はしてへんから、話しても知識にしかならんやろ?」

 

 「うん」

 

 「それでな、知識さえあればキチンと動ける人間なんておれへんねん」

 

 絹恵もしっかり聞いてはいるのだが、人の話を聞きながら同時に理解するのは意外に難しい。当たり前のように洋榎が言い放った言葉もすぐに意図を完全に理解できるほど簡単ではなく、絹恵は無意識のうちに小首を傾げることになった。

 

 「乱暴な言い方やけど、完璧な走り方の話だけ聞いてできるやつがおらんのと同じやな」

 

 「それやとちょっとわかる気もする」

 

 「結局はキヌだけの体験があって、それで自力でひとつずつ勉強していかなあかんの」

 

 すこし愛宕洋榎としてのテイストが強いような感じもあったが、これまで彼女が先輩としての振る舞い方について話をしてこなかった説明としては概ね満足できるものであった。それにしてもこういう説明ができるのなら前もって話しておいてくれればいいのに、と絹恵は思う。そう思うからつい口をついて零れてしまった。

 

 「お姉ちゃんも先輩たちもヒトが悪いわ」

 

 「何を言うとんねん、うちらが引退してから春まではその体験期間みたいなもんやで」

 

 「えーっ! わざと言わへんようにしてたん!?」

 

 「前もって構えてたらそれこそ意味ないいうハナシやからな」

 

 ふふん、と鼻を鳴らして正当性を主張する。もうじき高校を卒業してプロの世界で生きていくとは思えないほどに幼稚な振る舞いなのだが、そんな一般的な考え方を飛び越えて似合ってしまうのが絹恵の姉だった。あるいは姉妹の間にしか成立しない無条件に肯定させるような不思議な力学が働いて絹恵がそう思い込んでしまっているだけなのかもしれないが、本当のところは誰にも確かめようがない。

 

 「なんやお姉ちゃんも意外といろいろ考えとんねんな」

 

 「初耳かもしれへんけどな、実はうち、キヌよりちょっとだけ長生きしとんねん」

 

 「ほんまに? 知らんかったわー」

 

 何の合図もなしに二人は同時にテレビに視線を移した。一時間経つころには家族がみんな揃っていつもと変わりのない愛宕家の夕食が始まっていた。

 

 

 

 

 

 



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88 逆オオカミ少年計画

―――――

 

 

 

 受験も近づき、授業も自習が増えてきたある日のこと。

 

 ( あれ、俺フツーに監督してねえか? )

 

 教室を見渡してみれば、予備校に行っているのか静かなところで自習をしているのか空席がいくつも見受けられる。日によっては隣に座る真瀬由子がいないこともある。当然ながら残っているクラスメイトもそのほとんどが机に向かってペンを走らせたり学校の教科書とは違う冊子を開いたりしている。そんな環境の中で拳児がいま現在やっていることと言えば部について考えることなのだから、先ほど拳児が自分に対して持った疑いを否定する要素はどこにもない。単純な話、監督業を放棄するなら放棄するでサボってしまえばいいのだから。

 

 いま拳児が麻雀部で行っているのはほとんどアドバイスや提案に近い指導と団体戦の編成を煮詰めていくことと、これらはどちらも郁乃と組んで進めている、それととりあえず部室の戸締りまでである。まだ指導に関して独り立ちできていないだけで、動きとしては完全に監督のものと言い切ってしまって差し支えないだろう。もうそれに馴染んでしまってしばらく経つし、部員たちは誰も拳児が郁乃のメモをもとに指導していることを知らないからもはや言い訳はきかない。来たばかりのときはあれほど囁かれた裏プロなどという単語はまるで出てこなくなり、春から来るであろう新しい部員たちにとってはあの白糸台をねじ伏せて姫松を優勝に導いた優秀な監督という評価になるだろうことが動かせないところまで来ていた。

 

 ついでに言えば節分にはどういうわけか鬼の役を任され豆をしこたまぶつけられたし、バレンタインデーにチョコを渡そうとする愚か者がもしも複数いるならまとめて一個にしろと通達も出した。これはもちろん郁乃の指示によるものだ。この指示がなかったなら血糖値的な意味合いで播磨拳児を殺す量のチョコが集まる可能性は高かっただろう。ちなみに拳児自身は塚本天満から来年にもらうことだけを考えているため、今年もらうことなど毛ほども考慮していなかった。この辺りの扱いを見ても、もう一般的な生徒からは離れた存在であることははっきりしている。

 

 しかしそんな状況に置かれているにもかかわらず、拳児に焦りはなかった。余裕さえあった。春に向けたメンバーの選定をしながら自分が監督っぽいことをしてるのではないかと考えているほどなのだからよほどである。ちなみに外から見ると周囲のクラスメイトと同様に真剣に机に向かっているため、はた目には真面目に勉強しているチンピラという不思議な映像が拝める。

 

 ( 俺様もバカじゃねえ、なんだか知らねえが監督としてうまく行っちまったのはわかる )

 

 ( そんで部の連中も俺が来年も当たり前にいると思い込んでんのも最近わかってきた )

 

 正しく言えば夏休みに入るころには部員のうちほぼ全員がそうなるものと認識していたのだが、彼にそんなことを知る由はない。

 

 ( 認めたくねーが俺様は日和っちまったらしい。居心地悪くねーと思ってんのはホントだ )

 

 ( ただ悪いがよ、ここは踏み台でしかねえ。アメリカが、天満ちゃんが俺を待ってる )

 

 ( 男にゃ曲げちゃならねえモノがあんだ。そのための計画だって順調だぜ! )

 

 変な気合が入って、ふう、と力強く息を吐いた拳児を妙なものを見る目で由子が見ていたが、彼はそのことにまるで気付いていなかった。由子は由子で隣に座る男が誰なのかを考えて、別におかしなことでもないかと再び問題集とのにらめっこに戻った。

 

 

―――――

 

 

 

 授業と授業の合間の短い休み時間に用を足しておこうと拳児が廊下を歩いていると、向かいのほうから恭子がちょっとした荷物を片手にやってきた。拳児は授業が終わってすぐに教室を出たはずなのでなんだか状況がおかしい気もするが、事実なのだからどうしようもない。

 

 「オウ、末原じゃねーか。何してんだこんなトコで」

 

 「自習の科目変えよ思てな、さすがにはじめっから全部図書室に持ってく気はせんし」

 

 「言われてみりゃさっき教室にいなかったような気がしてきたぜ」

 

 「……ま、別にええけど」

 

 やれやれといった感じで恭子が返すのも、拳児に他意というものがまるでないと知っているからだった。雑談そのものをすること自体が少ないこともあるが、彼が人をからかうシーンを恭子は見たことがなかった。真面目かどうかは曖昧だし態度はひいき目に見たところで悪い。それでも監督として信頼を得ているのはそういう部分があるからなのかもしれないと恭子は考えたことがある。ちなみにこれはまったく関係ないが、意味もなくもしも彼が平均的な高校生のノリで活動していたらどうだろうと考えて頭の奥に鈍い痛みを覚えたこともある。

 

 思い出してみればここしばらくは受験受験で目の前にいる男と話した記憶がないことに恭子は気が付いた。ざっと記憶を浚った限りでは正月以来まともな会話をしていない。彼女は集中するためにしょっちゅう授業をサボって図書室に通い詰めていたし、そう決めて動いていたときには学校の授業時間に合わせて行動などしなかったのだから拳児と顔を合わせることすらなかったのも道理である。そもそもよほどタイミングが合わない限り、学校の友人ともあまり話せていなかったことに思い当たって恭子はこっそりダメージを受けた。

 

 「あ、ああ、そういえばやけど、なんや最近頑張っとるらしいやんか」

 

 「は? ナンの話だ」

 

 「漫ちゃん中堅に置いてやっていく、みたいな話したんやって? 本人から聞いたけど」

 

 「そりゃトーゼンだろ、最後になるんだしよ」

 

 そこまで言って拳児はおっと、と自分の手で口を塞いだ。仕草から見るに言ってはいけないことを言ってしまったか言いそうになったかのどちらかだが、恭子には前者も後者もさっぱり思い当たりそうもなかった。年度最後の仕事になるのだから力を入れるのはそれこそ拳児自身が言ったように当然なのだから。

 

 わからないことを拳児が言うのはいつものこととして、その一方でその言葉が流れるように出てきたことに対して恭子は感心していた。裏プロなどというおそらく個人主義が中心となるであろう環境で過ごしてきたはずなのに、学校としての強さにきちんと目を置けていると理解できたからだ。麻雀における強さとは継続性である。一度の半荘、あるいはもっと凝縮すれば一局であれば、ラッキーでなんとかなってしまうのがこの競技であり、その中で勝ち続けることができるからこそ評価というものがついてくる。夏を制しても三年が抜けて春の結果が散々ならば相応の評価が下される。次代のメンバーを恐れる必要はないと言われることさえある。だからこそこれ以上ない栄誉を手に入れた姫松は春に注力する必要があった。

 

 「言うても出場校はまだやけどエグいとこ多いんちゃうん」

 

 「さあな、赤阪サンからも色々聞かされてっけどどこもオーダーが見えねえしよ」

 

 「そやったな、急にぽこっと出てくるような子もいるし」

 

 「去年出た印象とかなんかねーのか」

 

 「どこも案外お試しでやってるとは思うけどな、ヤバい新入生は無視しての話やけど」

 

 実際に何度も泡を吹かされたことを思い出して恭子は乾いた笑みを浮かべた。思い出してみれば決勝戦に限っても姫松以外は一年生を大将に据えていたし、他にも清澄、有珠山など頭の痛くなるような一年生はごろごろいた。もう一年さかのぼれば荒川憩などという異物が出たこともあって、正直なところ恭子は他校の新一年生という層にあまりいい印象を抱いてはいない。

 

 ところで恭子は自分が言ったことがそのまま姫松自身にも当てはまるのだろう、とその回転の早い頭で推測していた。素質はたしかなものだし実力が伸びたと聞けば素直に信じる用意はあるが、だからといって漫を中堅に置くことが最善になるとは限らない。そう考える恭子はこれを実験の一種だろうと捉えていた。もちろんベストである可能性はあるどころか一番高いのは間違いないのだろう。そうでなければ春に試す意味がないからだ。情けない結果を残すわけにもいかず、そのうえで次の夏を見据えた動きをしなければならないとなるとなんとも厄介な大会だと言えそうだ。選手の立場から離れてみると意外とよく物事が見えるものだと恭子はちょっぴり驚いていた。

 

 「結局は自分のとこの事情が最優先だァな。それでも簡単じゃねーけどよ」

 

 「ほー、どっかで詰まってんの」

 

 「主に妹さんの置き所でな。他の連中との兼ね合いがあんのが団体はメンドクセー」

 

 「なんや意外とさらっとバラすんやな」

 

 サングラスで目が見えないはずなのに、そのとき恭子は拳児が目を開いてきょとんとしていることがなんとなく雰囲気で感じ取れた。

 

 「現役じゃねーんだから問題ねーだろ。オメーが後輩どもを変に煽るとも思わねーしよ」

 

 信頼と取れる言葉を恥ずかしげもなく吐いてもらったことは本音を隠さず言えばたしかに嬉しかったが、同時に現役ではないのだと直接言われてショックな面もあった。もうずっと練習に出るどころか牌を握ってすらいないのに、どうしてかそこには寂しさがあった。

 

 しかし彼女は幸か不幸か頭が良く、ここで感傷に浸るのはお門違いだとしっかり判断していた。

 

 「それもそやな、煽るんはコーチか監督の仕事やもんな」

 

 「なんならオメーが監督やるか? 俺ァそのほうがずっとラクだぜ」

 

 「アホか。どこに大学生になるのと同時に監督なるのがおんねん」

 

 「……それは俺様が誰だかわかった上で言ってんだよなオイ」

 

 なんだか拳児が意識していじられる位置に動いたように思えて、恭子は思わず笑ってしまった。洋榎の言い分ではないが、たしかにおいしすぎる。しかも本人がそのことに自覚的でないということが、なんというか余計にずるい。こんな人物が裏の世界にいたと言われても今ではとても信じられないほどだ。どの立場でものを言っているのかと自分でも思うが、彼にとって姫松という場所は正解だったのだろうと恭子は思う。他のどこでもこううまくはいくまい。つまりきっと、播磨拳児という男は運の強い人物なのだ。そんなのが姫松に今後もいるのだからと思うと、今度は安心感が恭子を包んだ。

 

 「いやいや悪かったて、それより播磨もなんか用事あって廊下に出てきたんとちゃうの」

 

 「あ? ああそうだ、便所行こうと思ってたんだ。時間なくなっちまうぜ」

 

 そう言うと拳児はポケットに手を突っ込んで、いつものチンピラくさい歩き方でその場を離れた。そこまで長く話をしていたわけではないから彼が授業に遅れることはないと思うが、もしも遅れてしまったらと思うと恭子はちょっと悪いことをした気になった。なにせ自分は授業には出ないで自習するつもりなのだから。しかしすぐにいまさら授業に一回だけ遅刻したところでどうなるものでもあるまいと思い直し、ほんの一瞬だけトイレを向かう拳児の背中に目を向けて恭子は自分のロッカーへと歩いて行った。

 

 ( ……しっかし丸一年も女子の群れにおったのにデリカシーだけは身に着かんかったな )

 

 

―――――

 

 

 

 「は? 卒業式?」

 

 「そ。ジブンなんかやらへんの?」

 

 授業もホームルームも終わって、忙しい受験生たちはさっさと教室を出てしまっている時間帯。拳児の行動サイクルで言えば今は部活前に教室でちょっとだけ待つ時間だ。拳児が姿を見せることが部活開始の合図という形式がいつの間にか出来上がってしまったため、ある程度の間を置いて行かないと練習を始めるための準備が整わなくなってしまうこともあるのだ。この時間、やることがなければ拳児が退屈だということを知っている人物は意外と少ない。外の明るさと教室の電灯の明るさはおおよそ釣り合っているように見える。

 

 「やるワケねーだろ、考えたこともねー」

 

 「高校最後なんやし播磨みたいなんがバーッとやったらおもろなるんちゃうん」

 

 「んーなガキくせえことやってられっかよ」

 

 「なんやつまらんやっちゃな」

 

 「うるせー俺様は意外とオトナなんだ」

 

 拳児の返しまで聞くと洋榎はわざとらしく頬を膨らませた。どのみち最初からノってくれるとは考えていなかったのだろう。あるいは拳児が自分で “意外と” なんて言っているのに注目するならば、むしろ洋榎の反応は予想以上のノリの良さに驚いていると取るのが自然かもしれない。そんな彼女は日中であれば由子が使っている机にわかりやすく頬杖をついた。拳児は拳児で話を始める前から自分の机に頬杖をついており、二人の様子はポーズだけはまるで鏡移しのように話をしやすいものになっていた。ちなみに真瀬由子は育ちのおかげか頬杖をつくようなことがなかったから、もしかすると拳児は新鮮な感じを覚えていたかもしれない。

 

 教室にはそれほど急ぐ理由がないということなのか、まだいくらかクラスメイトが残っている。しかし彼らあるいは彼女たちはそれぞれに意識を向けるべきことがあるようで、一人として拳児と洋榎のほうへ注意を払うことはないようだ。相変わらず頬杖をついて前を向いたまま拳児が口を開いた。

 

 「つーかよ、オメーこっちいるんなら練習出ねーの?」

 

 「あれ、言うてへんかったっけ。出られへんねん。もうプロ契約してもうたからな」

 

 「どういうこった」

 

 「プロはなんや資格取らんとアマに指導したらあかんのやって。プロアマ協定いうてたかな」

 

 「ハッ、ご苦労なことだぜ」

 

 「ま、播磨からしたらそういう反応にもなるわな」

 

 よく意味が掴めなかったのか拳児は眉根を寄せたが、その割に眉はすぐに元に戻ってしまった。考えることを放棄したのかもしれない。

 

 これは部の一年生や二年生、つまり現在の麻雀部にはあまり知られていないことだが、播磨拳児はまったく無口というわけではない。部でこそ資料と格闘したり対局を見たり考えごとに集中したりでしゃべる機会が少ないが、日常生活では話を振られれば答えるし軽口を叩くこともある。クラスではむしろ裏プロなどという色眼鏡がないぶん馴染んでいるとさえ言ってもいいかもしれない。たしかに自発的に話を始めることは少ないかもしれないが、合宿やインハイなどを見る限り社交性は普通にあると言っても問題ないだろう。あくまで問題なのは見た目の威圧感だけであって、そこを乗り越えればいちおう男子高校生の範囲に収まりはするのだ。バカかもしれないが。

 

 「そーいやよ、北海道ってまだ寒みーのか?」

 

 「寒いなんてもんちゃうわ、いま二月やで。なんやもう空気から違うわ」

 

 「すくなくとも冬にゃ二度と行きたくねーな」

 

 「……ホーム試合のチケットとか送ったろかホンマ」

 

 「もうちょくちょく向こうで生活してんだろ? どんな感じなんだ」

 

 「送る荷物はもうあらかた送ったからなあ、部屋だけで考えたらあんま変わらんで」

 

 しれっと言い放つ洋榎の様子に拳児は何か思うところがあったようで、珍しく感心したような声を上げた。それを聞いた洋榎が頬を掻く。もともと拳児のほうに寄せていなかった視線をわざとらしくさらに逸らした。

 

 「……お前サングラスいつまでしとんねん、たまには外したらどや」

 

 「やなこった」

 

 「よう考えたらお前そのカッコおかしいやろ、なんやねんヒゲにサングラスにカチューシャて」

 

 「うるせーな、これは特別なんだよ」

 

 「さすがに卒業式はまともなカッコするんやろ?」

 

 「カンケーねえから気にすんじゃねえ」

 

 その言葉に洋榎が違和感を覚えてその原因を考え始めると、拳児がすっくと立ちあがった。横に立っているときの身長差にはだいぶ前から慣れてはいるが、一八〇センチを超える身長を座った状態から眺めると、やはり大きいのだなあと妙な感慨が湧く。拳児は中身の少なそうな音しかしないカバンをひっつかむとそのまま首をぐるりと回して洋榎のほうを向いた。

 

 「じゃーな、時間切れだ。俺様が行かねーと練習が始まんねえもんだからよ」

 

 それだけ言うと洋榎からの返事も待たずにさっさと廊下のほうへと歩を進めていく。いまさらそんなことに何を思うでもなく、洋榎は由子の席に座ったままさっきの違和感について考え続けていた。

 

 ( なーんか言い方おかしい気がすんねんけど、なんやろ )

 

 

 

 

 

 

 




次でおしまいです


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89 終われなかった男

―――――

 

 

 

 今日の式の主役たちが教室に集まる時間まではまだまだ余裕があるというのに、不思議なことに姫松高校には、あるいはどの学校もそうなのかもしれないが、校門に驚くほど制服姿が見られた。比率で言えば女子のほうが多く、また表情に幅があるのも女子だ。大いに笑いあったり涙を流したりと大変そうだ。比率として少ないほうの男子たちはほとんどが楽しそうに話をしている。ちらほらとはしゃいでいるのも散見されるようだ。多少の肌寒さは残るが真冬の寒さはもうとうに過ぎ去って、コートなどの上着は見かけられない。ときおり風が髪や制服を揺らしていくが、それは口を揃えて強いと言うほどのものではない。空はきれいな浅縹色をしている。三月八日は、全国的に晴れだった。

 

 

 しばらく経って予鈴が鳴り、その音を聞いた三年生に限らない生徒たちは名残惜しそうにそれぞれの教室へと向かうことになった。卒業式の段取りだけを考えるならば最後に入場する三年生だけはまだ余裕があるとも言えるのだが、下級生たちが体育館に向かっている途中で卒業生の姿が目に入るようなことになってしまえばいささか締まりが悪いことになるだろう。それを知ってか知らずか、予鈴が鳴り終るころにはもう校舎の外に生徒の影はひとつも見られなかった。

 

 ひとつの区切りとしての卒業式というものは、まだ十八歳の少年少女にとってはその人生の中で間違いなく大きなイベントだった。三年二組のクラスメイトたちも普段の登校時間よりずっと早く学校に来て思い出話をしたり別れを惜しんだりしていた。たった一人を除いて。

 

 「センセ、播磨のやついないみたいやけど大丈夫なん?」

 

 式が始まるまではまだ時間があるなかで、クラスメイトがきちっと正装をした担任教諭に呼びかける。担任教諭はすこし困ったような顔をして、欠席の連絡は入っていないことを前置きした上でとりあえずの自身の考えを口にした。

 

 「いっつも時間ぎりぎりに来とるし、今日もそうなんやろとは思うけど」

 

 拳児の性格を考えれば納得のいく論理ではある。高校三年生とはまるで思えないほどにとにかくはしゃがない。学校の授業でそうならないのは特筆すべきことではないが、インターハイを制した後のインタビューでさえ普段と変わりない態度で受け答えしてみせたのだ。人によっては達観しているというか、あるいはすさまじく大人びているような印象を与えるような振る舞いであった。唯一の例外といえば体育祭でアンカーと入れ替わった事件であるが、あれは真相を知る者が意外と少なく、拳児のイメージを一新させるような出来事として認知されなかったのが実際のところである。つまるところ播磨拳児という男は卒業式だからといっていつもと態度を変えるようなことはしないと言ってしまえば、それはそれで頷けるような過ごし方をしてきたのである。

 

 呼びかけたクラスメイトは担任教諭からそう聞くと、それもそうかと納得して他の生徒と話を始めた。当然ながら人によって進路は異なるし、そうなればこうやって顔を合わせる機会は減るだろうからこの時間は誰にとっても貴重なものだった。あるいは思いの丈を打ち明けるような甘酸っぱい出来事も控えているかもしれない。今日は、三年間という期限付きの “いつも” が終わる特別な一日なのだ。

 

 

―――――

 

 

 

 下級生たちがおおよそ神妙な態度で体育館の後ろ半分に敷き詰められたパイプ椅子に座って待っている中を、卒業生たちがクラスごとに担任教諭の後をゆっくりと付き従う。気軽に声を発することができないような空間として成り立ってしまっているために、我慢してすすり泣くような声があちらこちらから聞こえてくる。特定の先輩後輩の間柄が部活などを通して出来上がったのかもしれないし、あるいはまたまったく別の事情があるのかもしれない。わずかに館内の空気が変化したのは二組が入場し終わったあとのことで、その原因はいちばん目立つはずの男の姿がそこに見当たらなかったからだった。いても目立つしいなくても目立つというのはなんとも厄介なことだった。

 

 そのまま後続のクラスがどんどんと体育館に集まっていき、そして最後のクラスが席に着いた。それでもやはりあの男の姿はなかった。誰もが途中のどこかのタイミングで姿を見せるだろうと考えていたが、それらはすべて空振りに終わった。この良き日の卒業式に、四月にいきなり転入してきて麻雀部の監督代行となった播磨拳児の姿は、なかった。

 

 もちろんのこと誰も余計な言葉を発することはできない。そうでなくとも拳児と同じクラスのあの三人は出席番号が離れているために話すことは叶わない。混乱とまではいかないが、困惑が精神状態を占めるなかで式は進行しようとしていた。

 

 ( えっ、結局アイツ来てへんって何してんの )

 

 ( 寝坊、はなさそに思うけど。何気にこれまでそんなんなかったしな )

 

 ( 卒業したくなーい、ってキャラには思えへんのよー )

 

 姫松高校では生徒の数も考慮して、クラスごとに名前を全員呼び、その後でクラス代表に卒業証書を渡すという方式を採っており、個人個人に証書が渡されるのは教室に戻ってからということになっている。もちろん名前を呼ばれれば返事をするのが当たり前の対応であり、そこで返事がないというのはあってほしくないことに違いなかった。

 

 一組から出席番号順に名前が呼ばれていく。元気よく返事をする者もあれば、涙ぐんで返事にならないような声で返す者もあった。時間が過ぎていけば状況が進むのは当然のことで、二組のあいだでは次第に変な緊張感が高まりつつあった。やがて一組の名前がすべて呼ばれ、クラス代表がもう一度呼ばれて壇上へ証書を受け取りに行く。それが終われば間を置かずに二組の名前が呼ばれることになり、そこで播磨拳児の欠席が周知も含めて確定する。既に知れ渡っているだろうことはさておいて、デッドラインはもうすぐだった。

 

 

 出席番号一番の洋榎はとうに呼ばれ、恭子も返事をし終わっている。由子こそまだ名前を呼ばれてはいないが、もう十人もしないうちに呼ばれる位置だ。二組の生徒のやきもきはもはや頂点に達しようとしていた。

 

 「野島隆行くん」

 

 「はい」

 

 「播磨、拳児くん」

 

 「…………」

 

 「春田由香さん」

 

 「……はい」

 

 姿を見せていないことは事前に知らされていたのだろう、拳児の名前を呼ぶときにはかすかな間があった。しかしそれでもあの特徴的な声が聞こえてくることはなかった。それでもたった一人のために式を止めるわけにはいかず、粛々と卒業式は進んで、最後のクラスの代表者が証書を受け取るところまで行き着いた。クラスとして、高校生としての最後のイベントに欠員がいるというのはあまり気分の良いものではなく、さらにそれが中心的人物ではないにしても圧倒的な存在感を持つ人物となれば消化不良の感が残るのは仕方のないことだった。既に式次第で言えば卒業生の退場の段まで状況は進んでいた。

 

 式さえ終わってしまえば特有の重苦しい雰囲気からは解放され、教室へ戻る途中の廊下ではもうほとんどのクラスメイトが普段通りに話を始めていた。ただしその内容は言い方や調子に差こそあれど、どれもこれも変わりのないものだった。なんだかんだと一年ものあいだ一緒にやってきた仲間である。無視しろというのが難しい話だった。

 

 

 校門の近くに麻雀部員全員が揃って大所帯を形成しており、そこでは先輩の卒業を祝う姿とそれに応える姿が見られたが、そのうちほとんどがどこか納得のいかないといった表情をうすく滲ませていた。その理由にはいまさら触れる必要もないだろう。ただし彼女たちの先輩後輩としての絆は非常に強く、外から見た程度ではまだ足りないものがあると思っているようには見えなかった。それは麻雀部という組織の中にいて、やっとお互いにわかる程度のものでしかなかった。彼女たちの卒業に対しての想いは、祝いの気持ちにせよ悲しみの気持ちにせよ間違いなく本物だった。

 

 夏のインターハイでレギュラーメンバーを務めた五人はさすがと言うべきか、すでに涙を流して別れを惜しむような段階はとっくに越えてしまったようだった。今でこそ五人で集まっているが、それまではむしろ大泣きしている部員たちをなだめに回っていたほどである。

 

 「なんやっけ、卒業式のあとも普通に練習あるんやったっけ」

 

 「ありますね、なんやいったん学校から出なあかんみたいなこと聞きましたけど」

 

 「ほっといたらいつまでも学校に居座る子みたいなのもおるいうことやと思うのよー」

 

 彼女たちはやはりどこまでいっても麻雀部なのであり、結局のところ話題の大部分はそこに関係のあることばかりだった。青春の大半を部活に捧げたのだからどこにもおかしなところはないし、どちらかといえばそうであるべきと言えるのかもしれない。そんな卒業生たちがいろいろなことに興味を持ち始めるのはこれから先のことであり、そしてそれ以上に麻雀一色の高校生活を良しとするかどうかは、これから様々な経験をしていった先でいつの間にか理解することである。

 

 校門のそばにいる関係で、彼女たちの近くを卒業生たちがちらほらではあるが通り過ぎていく。それぞれの性格や事情があるのだろう。ときおり麻雀部の知り合いに声をかけていく生徒もいた。どのみちどのクラスも時間を置いて卒業パーティーのようなものをやるのだろうから、今はあっさりと帰っても問題がないのかもしれない。

 

 「あの、コーチ、学校出なあかん時間っていつぐらいなんです?」

 

 「ん~、まだ大丈夫やと思うわ~」

 

 「ていうかコーチこんなとこいてええんですか、仕事とかないんですか」

 

 「まあまあ~、たぶんもうちょっとやと思うから~」

 

 一年を通して変わらなかったふわふわした笑顔を浮かべて、郁乃はずっと視線を校門のほうへと向けていた。それは明らかに何かを待っている様子だった。わいわいと雑談が広がっている空間にあってなお、なぜか郁乃の言葉は部員たちに届いたようだった。あるいはコーチの声というものは聞くべきものだと叩き込まれているからかもしれない。そして誰もが同じような疑問を持った。

 

 するとこの近辺ではあまり聞きなれない大型のバイクの音が近づいてきた。そのこと自体は誰も気に留めようともしなかった。ただ、やかましい、という感想ばかりが彼女たちの頭の中を渦巻いた。どうやら校門の前の道をまっすぐ走ってきているようで、どんどんと音が大きくなっていく。通り過ぎるときには耳を塞ごうかと思う者が出始めた辺りで、急にその音が小さくなる。停車しようとしているのだとしか考えられなかった。そして音が完全になくなってわずかにあったあと、ある一人の男が校門にふらりと姿を見せた。

 

 

―――――

 

 

 

 「もしもし、愛宕か」

 

 卒業式が終わってその後のあれやらこれやらをこなしてひと息ついたところで、辻垣内智葉は電話をかけていた。いまは周りにクラスメイトも友人も例の留学生どももいない状況で、ひどく落ち着いて話をすることができる。彼女の学校での立ち位置を考えると、あるいは無理やり作った時間なのかもしれない。

 

 「ああ、突然すまないな、ちょっと時間取れるか?」

 

 「違う違う、ただ世話になった連中に挨拶しようと思っただけだ」

 

 しかしスマートフォンから聞こえてくる音声を聞いているうちに智葉の表情が怪訝なものに変わっていった。騒がしい音が漏れ聞こえてくるわけでもなければ逆に音が小さすぎるということもない。となれば残すはその内容だけだ。

 

 「ちょうどよかった? 何がだ? というかお前ちょっとテンションおかしくないか」

 

 「播磨? あいつ卒業式でなにかやらかしたのか」

 

 「なんだひょっとしてサボりでもしたのか? 見た目よりは真面目なやつだと思ってたが」

 

 「逃げっ、おいおいなんだそれ、不穏な話じゃないだろうな」

 

 「アメリカとはずいぶん剛毅な……、って待て、それはおかしいだろう」

 

 「…………は?」

 

 「なあ愛宕、あいつ本当はただの馬鹿なんじゃないか」

 

 それは事情を知ってしまった智葉の拳児に対する最後の援護だったのだが、結局のところそれが彼女の望んだ正しい効果を発揮するかどうかは誰にもわからないことだった。

 

 

―――――

 

 

 

 校門に現れた拳児はいつもの姿からは信じられないほど消耗した様子で、彼の身になにか普通でないことが起きたのは誰の目にも明らかだった。がっくりとうなだれたように肩を落とし、足取りは右に左にと覚束ない。何よりいつもの自信満々と言ってもいいあの覇気が霧散してしまっている。これではチンピラというよりも浮浪者と呼んだほうがいくらか近い。学生服であることだけがそれを否定する唯一の要素と言ってもよさそうだった。

 

 「…………ートが、……ぇんだ」

 

 「なんや!? はっきり言い!」

 

 彼の姿を見るや否や飛び出した洋榎が胸倉をつかんで揺さぶると、あのいつもの野太さとはまるで縁のない消え入りそうなか細い声で拳児はぼそぼそとつぶやいた。初めから聞かせるつもりがないのかうわ言のようにつぶやき続けるだけだったため、洋榎は拳児の口元に耳を近づけてなんとか聞き取ろうと胸倉をもう一段階引き寄せた。するとそのとき彼の手から一枚のチケットがはらりと落ちたのだが、あまりにも拳児に意識を向け過ぎていた洋榎はそれに気付けなかった。

 

 「……俺は、アメリカには、行けねーんだよ……」

 

 「アメリカ!? 何言うとんねん、しっかりせえ!」

 

 どれだけ声をかけてもまともな反応が返ってこない隣で、拳児の手元から落ちたチケットに気が付いた由子がそれを拾って眺めている。盛大にため息をついて、そして笑い飛ばしていいのかどうか困ったような表情で恭子へと視線を飛ばした。

 

 目だけで応じて恭子もチケットを覗き込むと、彼女はそこでぴしりと固まった。そこに記載されている情報と拳児の発言を合わせると驚くほど簡単な結論が導かれた。しかしそうだとするとおかしい。状況からすると渡米したくて仕方がないはずの拳児がどうして戻って来る必要があるのか。突然の事態と意味のわからない状況に一斉に襲われて、恭子は混乱してしまっていた。その一方で由子がやさしく洋榎に声をかける。

 

 「ヒロ、これたぶんあんまり真面目に心配するような案件とちゃうのよー」

 

 「へ? でも播磨こんなんなってるって相当やろ?」

 

 「んー、それやったらちょっと聞いてて」

 

 そう言うと由子は拳児に近づいて普段と変わらないような調子で話しかけた。

 

 「ね、播磨。あなた何を持ってなかったの?」

 

 「…………パスポート」

 

 それを聞いた途端に由子を含む十数人が堪えきれずに噴き出した。残りは未だに状況が理解できずに呆けている。飛行機のチケット、帰ってきた播磨拳児、そしてたった今の発言。混乱が押し寄せているこのタイミングは別にしても、冷静であれば理解できないほうがどうかしている。混乱状態から立ち直った部員たちが同時に必死に笑いを堪える状態に移行していく。校門近くの風景は、外から見るとあまりにも異様なものだった。ときおり吹く風に拳児の大きな体が揺られるのがいつもと違って部員たちの目に映った。それは姫松高校麻雀部では一人として抱いたことのない、滑稽という言葉にぴたりと当てはまっていた。

 

 そのあまりにも混沌とした空間に他の生徒たちも気が付いたのか、だんだんと校門近くの集団の人数は膨らみ始めていた。すこし離れたところからでは視認できないが、今日の卒業式に姿を見せなかったはずの播磨拳児という名前が飛び交っているのだから仕方のない部分もあるだろう。近くへ行ってみれば雰囲気がいつもとは違っているとはいえその姿も確認できるのだからなおさらだ。下手をうてば場が変な熱狂に包まれかねない空気の中で、大満足といったふうに羽のような黒髪を遊ばせて一人の女性が動いた。

 

 実家にパスポートを置いてたんだった、と頭を抱える拳児の姿を見ながら、いつもどおりのとろけそうな笑顔を浮かべながら郁乃がぱん、と手を叩く。堪えきれずにもう普通に笑ってしまっている部員たちもなんとか意識だけはそちらに向けた。

 

 「はい、それじゃあ拳児くんも帰ってきたことやし、いったん解散な~」

 

 そう言ったあと、念のために確認しておくけど、と前置きをする。

 

 「今日の練習は二時からやからね~、遅刻したらあかんで~」

 

 びゅう、と突然強い風が吹いて、恭子の手から例のチケットを奪っていく。チケットは風に乗って、ひらひらと舞い、遠くへ飛んで、まるで初めから何もなかったかのように一度も地面に降りることなく姫松高校から姿を消した。ひとつ浮かんだ乾いた笑いは果たして誰のものだったのか。

 

 

 どうやら播磨拳児の伝説は、まだ始まったばかりということらしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 




おしまいです。
長い間お付き合いいただき本当にありがとうございました。

長々と書くのはあまり得手ではありませんので、この辺で失礼させていただきます。


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if編
播磨拳児が奈良に流れ着いた場合の第40話


01話~39話までは各自で補完してネ☆


―――――

 

 

 十一月にもなれば日が沈むのは早く、学生が部活を始めようとするころには空の端の色が入り混じっていることも当たり前になってくる。同時に気温が下がることもあって、とくに屋外で活動を行う運動部にとっては消化不良の季節と呼ぶこともできそうだ。

 教室でも通学路でも楽しそうな話し声が飛び交う放課後は穏やかなもので、風景の一部として切り取ればポートレートとしての価値さえ持つかもしれない。どう考えたって平和が一番で、そんなことはいちいち誰も意識に持ってくることもない。これから始まるのもある意味ではそんな一幕ではあるのだろう。当人たちにとってどうであるかは知ったことではないが。

 

 男女ふたりが連れ添って歩く様子など、文字の並びだけを見れば青春の一ページを想起させる。しかし事ここに至ってはそう簡単にはいかないらしい。まずはシルエットだけで整理すると、明らかに平均的な男子高校生の体格を飛び越えた筋骨隆々が先に立っている。眼鏡でもかけているらしい影がそこには浮かんでいる。後ろに続く少女は体格的には小さめと言えそうだが、特徴と呼べそうなのその部分ではない。頭の横に下向きの三角形が揺れている。こんな髪型など全世界を探したってそうはいないだろう。はっきり言ってしまえば彼ら二人は、少女に関してはグラサンヒゲメガネがやってきたことによる弊害と言えるかもしれないが、晩成高校の問題児といえば生徒の九割がピンとくる二人であった。

 二人の歩くペースは遅く、拳児は死ぬほど面倒そうな表情を隠しもしない。ただ、やえのほうが頭をどこかにぶつけたらしく、後頭部に手をやって下を向いたまま歩いているせいで拳児のその表情には気付いていないようだった。状況から推測するに保健室に行くのか、あるいはその帰りかのどちらかなのだろう。

 

「くぅ、屈辱だ……。なんであんなところに教卓があるんだ……」

 

「いやトーゼンだろ、黒板の前なんだからよ」

 

 やえは自分の頭をさすっている。かなり強くぶつけたのかもしれない。

 

「というか播磨、なんで付き添いがお前なんだ」

 

「保健委員とかいうのが俺様だからだそうだ、メンドクセーったらねーぜ」

 

「お前保健委員とかいうキャラじゃないだろうが……」

 

「うるせーな、ホームルームで寝てたら勝手に決められてたんだから仕方がねーだろ」

 

「なんでその辺真面目なんだ」

 

 痛みのせいか力弱いツッコミは秋の廊下の空気に吸い込まれるだけだった。

 

 

―――――

 

 

 紀子は手元のスマホがある人物からの着信を告げているのに気づいてため息をついた。たとえば昼休みとか夜に来た連絡であればこんな反応はしない。唯一この放課後になった直後の時間に来る親友からの連絡だけは、さすがにもううんざりするのだった。しかしこの電話を紀子は取らなければならない。それは使命感とか、慈悲の心などといった崇高なものから生まれる行動では決してない。放っておくとスマホが鳴りっぱなしになるか鬼のように電話がかかってくるからだ。どう転んでもロクな方向には転がらない。だから彼女はため息をつかざるを得ないのだった。

 振動パターンが二回繰り返されたのを確認して、紀子はゆっくりカバンに手を伸ばした。馴染んだスマホカバーの感触に知らず知らず安心して、そうして手慣れた様子でスマホを耳へとあてた。

 

「いちおう聞いてあげる。どうしたの、やえ」

 

 向こうから流れてくるあまりにも予想通りの返答に脱力感を覚えて、紀子は廊下の壁に背中を預けた。向こうから聞こえてくる声が真剣そのもので、なんというか感情のうまい収めどころが見つからない。わかったわかったと適当にいなしながら居場所を聞いて、紀子は足の向きを変えるのだった。

 

 

 空き教室のドアを開けると待っていたのは、どうだと言わんばかりに腕組みをして仁王立ちをした二人組だった。片方は少女らしい身長と顔の造作も相まってかわいらしいと表現できそうだったが、もう片方は学生服でなければ手下さえ従えていそうなスジモノのオーラを放っている。どちらも意味合いは異なるが、そのポーズが驚くほど似合っていた。しかし紀子を待っていただけのはずなのに、どうして拳児もやえも得意げな顔をしているのかがわからない。いや実は紀子はその理由に対するだいたいのところの結論を導いてはいるが、二人の名誉のために言葉にはしていないというのが本当のところだった。

 これまでさんざんこの晩成高校においてぶつかり合うことで事件を起こしてきたこの二人だが、その解決方法を知るものは驚くほど少ない。四月のクラス替え直後の事件もそうだし、大きいもので言えば体育祭が記憶に新しい。どうにせよ放課後になってすぐ呼び出されたということはそれに連なるものに間違いはないし、紀子はあえて原因が何かを聞くつもりはもうなかった。原因を知ったところで事態が好転するとは到底思えなかったからだ。

 

「よう、待ってたぜ。あー、えーっと、中林」

 

「だから丸瀬だっての、そろそろ名前くらいは覚えてよね」

 

「おい播磨、それは失礼だろう」

 

「わーったよ、悪かった。これが終わったら覚える」

 

 その場で覚えるのが普通だろう、というか覚えてないっておかしくないかと拳児を除くふたりは思ったが、彼がそんな通常の物差しで測れるはずもない。そして拳児は嘘をつかないから、本当に丸瀬紀子の名前を覚えていなかったし、これから始まる用事が終わらない限り覚えないのだろう。拳児に関してはいろんな方面から諦めの声が挙がっており、言うまでもないことだが紀子もそれに従っていた。

 ちょうど拳児とやえのあいだの奥に机がひとつぽつんとあって、その上に絵本のような厚さのものが置いてある。二人の立ち位置のせいでそれが強調されたように見えた紀子からすると、それがいやに気にかかる。それに目を奪われていると、明るい声が飛んできた。

 

「うむ! さすがは紀子だな、今日はそれが種目だ!」

 

「え、ああ、あれ何?」

 

「ヲーリーを探せ、だ」

 

 額に手をやって深いため息をつく紀子の姿は、なにか思い病状を宣告されたかのようにさえ見えた。こんなことに四十回以上も付き合わされているのだから彼女のリアクションも頷けるだろう。平等なかたちで決着をつけるならジャンケンでいいじゃないかと思っているのだが、目の前の真剣な様子の二人には言い出せないのであった。

 

「私がこの勝負で勝てば、小走やえは抜けている、というのは撤回だ。いいな?」

 

「逆に俺様が勝ったときの意味は理解してんだろーな」

 

「はン! 始める前に負けることを考えるのは二流三流のやることだ、ってね」

 

 聞いてもいないのに賭けているものを説明されて、死ぬほど気のない感じでなるほどねーと紀子は呟いた。それとは別に彼女には気になることがあったので、せっかくということで聞いてみることにした。

 

「つか、どっから持ってきたのこれ。うちの図書室にはないでしょ、小学校じゃあるまいし」

 

「このあいだ本屋に寄ったらたまたま見つけてね、買った」

 

「三冊も!?」

 

「ま、いずれこんな日が来るだろうとは思っていたからね」

 

( 駄目だ、やっぱりやえはバカだったんだ…… )

 

 まだビニールに包まれているところを見ると本当に開けてさえいないのだろう。この勝負シリーズは常に平等な戦いを標榜しており、どちらかが事前にわかる有利を持ってはいけないというルールが定められている。たとえばやえは麻雀を種目に選んではいけないし、拳児は運動系の種目を選んではいけない。変なところで律儀なところのある二人はいちいち言葉にせずにこのルールを守っている。どう見ても仲がいいとしか思えない。この前はビンゴゲームでどちらが先に上がれるか、その前はスーパーマリ○を互いに三十分ずつプレイしどちらがよりステージをクリアできるか、さらにその前は人生○ームとおそろしく平和な対決を続けてきている。もちろんすべての審判を務めているのは丸瀬紀子であり、途中でキレて帰らないことはもっと評価されて然るべきだろう。

 バカとバカが机を並べて座り、紀子が二人の前の机に向かい合って座る。彼らが各ページのヲーリーを見つけたら紀子に報告して答え合わせをしてもらい、正解なら次のページへ進む。もしもハイレベルな試合になった場合にはヲーリーではなく、冊子の後ろのほうのページに書いてある特定の人物を探すことも今回のルールに加えられた。

 

「はい、はじめー」

 

 絶対に効果がないどころか作業能率が落ちそうなのに、うおお、だの、わああ、だの声を出しながらヲーリーを探す姿はどう見ても高校三年生には見えなかった。実際、紀子はテキトーにページを眺めていたが二人よりも先に目的の人物を見つけることができた。

 

「っああ! なんでお前ちょっと違うんだ!? どこだ!?」

 

「クソ、どいつもこいつも邪魔しやがる! 浮き輪の模様じゃねーか!」

 

 一生懸命になれるのはいいことだよね、と西日の差す教室で紀子はそんなことを思う。もう十一月で、高校三年生は大学受験の追い込みの時期である。この、ほほえましいとしか言いようのない対決に彼女が立ち会っているのは、実は息抜きの側面もあった。その辺りのことを考えると丸瀬紀子も意外と大物なのかもしれない。

 

 

 

 



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三十五年後の幻

―――――

 

 

 月が、照っていた。

 

 風が吹けば木々のざわめく音が聞こえる。東京都のベッドタウンなどという表現よりもずっと閑静な住宅地。どの家にも門構えと玄関までのあいだに十歩以上の距離がある。その途中に視線を横に飛ばせば庭がある。たいていは木が一本から植わっている。鯉の跳ねる池のあるところもある。想像されるとおり空気は綺麗だ。

 

 夜なのに空が高いことがよくわかる。深く沈んだ青は、きっと球形をしている。それを二人は何の疑いもなく信じることができた。知覚することは不可能なのに。また草木が鳴った。ざざざと通り道を見せつけるようにゆっくりと流れていく。それがあったから窓を開け放しておけば熱帯夜をしのぐのには十分だった。

 

 ある家の庭に面した板張りの廊下に二人は座っている。それぞれ甚平姿とスウェット姿と気楽な服装をしている。二人の視線の先の庭には特別なものは何もない。小さな家庭菜園に十年以上も前に植えた柿の木、あとは塀だけだ。しかし二人はそこでじっとしていた。そこにいると近いうちに珍しい何かが見られるのかもしれない。

 

「……はァ、やっと片付いたな」

 

「あれだけ感極まっておいてよく言うよ」

 

「んなワケねーだろ、あれは、なんだ、しゃっくりをこらえてただけだ」

 

「まあいいさ」

 

 取り合ってもらえなかった男は恨めしそうに視線を送ったが、それでも取り合ってもらえない。さっきの会話はもう終わってしまっていた。その場をずっと支配していたのは何かに対しての感慨であったから、男の小さなプライドは些事として扱われたらしい。大事なのは男に精神的影響を及ぼした出来事だ。知らない虫の声が聞こえるが、二人は悪いものとは思っていないようだ。

 

 顔の前に手を持ってきて、開いて、握って、また開く。動作を確認しているようでそこに意味はない。手持無沙汰というのとも違う。ただなんとなくの仕草で、そこには思考の過程の自覚すらない。

 

「穂波はうまくやるかな」

 

「問題ねえよ。家事はお前が一通り仕込んだんだろ」

 

「そういうことじゃなくてだな。親というのはいつだって心配するものなんだよ」

 

「いらねえよ、あいつらだって頼る相手くらい勝手に見つける」

 

 朝のうちにはそれなりにあった雲が午後にはほとんど流れて、いまはまったく見当たらない。夏は夜、と言い切った古典もある。一方で朝のラジオ体操を思い出す人もいるだろうし、バカみたいに強い日差しの真下が印象に残るという人もいるに違いない。それぞれがそれぞれ思うなかで、二人にとって夏は夕方だった。蝉の声があってもいいしなくてもいい。ただ強いオレンジ色の夕焼けが夏の象徴だった。

 

「いざ穂波もいなくなってみると、さすがに寂しいな」

 

「どっちも騒がしかったってこった、ずっとピーチクパーチクよ」

 

「香枝も穂波もそっちの血だな」

 

「んなワケねーだろ。俺ァいちいち騒ぐようなガキじゃねーんだからよ」

 

「ふふ、それは自覚症状がないだけさ」

 

 首をひねるがどれだけ考えても思い当たる節はないようだった。隣が楽しそうに笑っているせいで余計にピンと来ていないらしい。

 

 庭から向かって右の廊下から猫がやってきて、我が物顔で二人の間に陣取った。三毛猫で、まあまあ年を取っている。年数で見れば一番の新参者ではあるのだが、彼女もこの家に来てから長い。血統書だとか由緒のあるものなどないのだが、異様に物分かりのいいところがあって、男を除いていつか化け猫になるだろうと家族では話題にしている。よくこの廊下で日向ぼっこをしており、好き勝手に外に出かけては気付けば家に戻っていた。

 

 猫と男が視線を合わせて数秒、猫が視線を逸らして喉を鳴らした。隣ではその光景を不思議そうに眺めている。動物園に遊びに行ったときの囲まれぶりを知っているから疑ってはいなかったが、それはやっぱりつかみにくい状況だった。動物と話せるというのはいっそファンタジーだ。動物に関わる仕事をしていて感情がわかる、くらいなら聞くが、隣の男は本当に会話をしている。らしい。彼女はこれをどちらの娘にも教えていない。まあ頼れる存在だとは思っているだろうが、それとこれとは関係がない。いきなり話せばイカれたと思うだろう。だから彼女はこの事実を墓場まで持っていこうと決めている。

 

「そーいやオメー、久々に会った連中とは話せたか?」

 

「ああ、とはいえそこまで時間が空いたわけでもない。何かと理由をつけてウチに来てるし」

 

「そォか」

 

「でもそうだな、みんなで集まったのは久しぶりだったよ。旧友というのもいいもんだ」

 

「おう」

 

「お前のところにも行ったろう?」

 

「俺は話が短けーからな、監督ん頃からそれだから今回もさっさと終わったぜ」

 

「姫松の監督時代か、ほとんど古い夢だな」

 

 もう一度風が吹いた。猫は気分良さそうに体を伸ばしている。ざざざと風が通る。少しだけ夜が深くなって、夜空の青がまた濃くなった。

 

 月が、照っている。

 

 

 

 



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