やはり彼らのラブコメは見ていて楽しい。 (ぐるっぷ)
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こうして彼らの愉快なラブコメが始まる。

 「なぁ、比企谷、七里ヶ浜。私が出した作文のテーマは何だったかな?」

 放課後、俺は隣にいる腐った目をした男と共に、目の前で青筋を立てながらこちらを睨みつける美人な三十路教師、平塚静の呼び出しを喰らって職員室へと足を運んだ。

 「こ、高校生活を振り返って、ですね」

 声を裏返しながら答える隣の男は、比企谷八幡くんという名前らしい。話した事は一度も無く、接点と言えば精々、総武高校二年F組に二人とも所属している位だった。

 「なら、君のこの作文はなんだ?  よくもまあこんな作文を私に出せたものだな」

 笑顔で比企谷くんを見やる平塚先生。笑顔なのに、こめかみの青筋がピキピキと音を立ててると錯覚するほど自己主張していて物凄く怖い。

 「……大体、本当にこんな事をおもっているなら、こんな事は作文に書くべきではないよ、比企谷。これじゃ構ってもらいたいと言ってるようなものだ」

 幾分落ち着いたのか、諭すような声音で比企谷くんに話しかける平塚先生はまるで聖母のようで、はっきり言ってしまうとファンになりそうだった。こんな先生に放課後呼び出してもらえるなんて楽し過ぎるだろう。最高だな、俺の青春。

 比企谷くんは不服そうな顔をしていたが、ここで言い返しても何の意味もないと悟ったのか、腐った目を更に腐らせていた。

 「そして七里ヶ浜」

 「ひゃい、何でしょうか」

 またもや先程までの顔に戻ってこっちを睨みつけた平塚先生にビビり、思いっきり噛んでしまった。

 「君は一体どういうつもりでこんな嘘八百、いや、嘘八万を書いた」

 上手い事言ったつもりか、先生はドヤ顔で俺と比企谷くんに胸を張ってきた。ただでさえ自己主張の激しい胸部が、更に自己主張を始め、比企谷くんは少し顔を赤くしていた。多分俺の方が赤くなっているだろうけど。

 「いや、何で嘘だなんて言うんですかね?  僕は、こう見えても結構友達が多い方なんですが」

 「嘘を吐くな嘘を。君が学校で他の生徒と話している所を私は一度として見てないぞ」

 「そりゃ、先生の目の届く範囲だけが学校という訳じゃありませんからね」

 こう言われると何とも言い返せない筈だと思っていると、予想外にも平塚先生は口を開いた。

 「馬鹿を言っちゃいけない。学内でも言われてるよ。『七里ヶ浜七之助が起きているのを見た事がない』とな」

 「酷い噂ですね、僕だって学校に来る時と学校から帰る時は起きてます」

 「いや、それは当たり前だろう……」

 今まで無言を貫いてきた比企谷くんがボソリと呟き、それを皮切りにして彼は俺を攻撃し始めた。

 「大体、何が友達との素晴らしい時間だよ。嘘ばっか書きやがって。平塚先生、俺の作文よりこいつの作文の方がよっぽどタチの悪い作文ですよ」

 言い切って、平塚先生を見やる比企谷くん。俺を非難して自分はとっとと帰るつもりなのだろうか。

 俺も、平塚先生と二人きりで説教される方が楽しそうだと思ったので、それに乗っかる事にした。

 「確かに嘘はダメですよね。僕の方がよっぽど酷い作文でした。本当にすみません。でも、比企谷くんの作文からは熱い何かを感じるし、この辺で許してやってくれませんかね?」

 すると、比企谷くんと平塚先生はまるで宇宙人でも見るかのような目でこちらを見てきた。

 「……え?  俺何か変な事言いました?」

 「いや、君が特に接点のなさそうな比企谷を庇ったのが意外でな。すまない」

 「…………」

 比企谷くんが無言でこちらを見ている。何か裏があるんじゃないかと疑っている目だ。そうなんです比企谷くん。君は僕と平塚先生のランデブーの邪魔なんです。悪いけどとっとと帰ってください。

 比企谷くんへ懺悔していると、平塚先生の咳払いで現実へと引き戻された。

 「私はな、怒っている訳じゃないんだ」

 そう言った平塚先生は割と本気で怒ってないらしく、胸ポケットからタバコを取り出して、葉を詰めた後、百円ライターで火を付け、柔和な顔で紫煙を吐き出した。

 俺はそれを見て、ブンターなんてウンコの臭いのするタバコをわざわざ吸うなんて奇特な人だなと全く関係ない事を考えていた。

 「君たち、部活はしてなかったな?」

 「「はい」」

 「友達とかは居るのか?」

 「びょ、平等を重んじるのが俺のモットーなので、特に親しい人は作らない主義なんでしゅ、俺は!」

 盛大に噛みまくる比企谷くんを呆れた目で見てから、俺の方を見る平塚先生。

 「七里ヶ浜、お前は?」

 「居ますよ。もちろん比企谷くんもそうですし、もっと言えばクラスみんなと友達です」

 俺がそう言うと、比企谷くんが盛大に舌打ちをした。え? そんな俺の事嫌いなの? 普通に傷つくよ?

  「……本当の事を言え、そうすれば一発で勘弁してやる」

 マジで!? 殴ってもらえるの!? ご褒美じゃん!! などとは思う訳も無く、出来れば殴られずに済むよう正直に話すことにした。

 「僕は友達だと思ってるんですけど、向こうが僕を友達だと思ってくれてるかは分からないです」

 率直に思った事を言うと、平塚先生は頭を振って更に語りかけてきた。

 「七里ヶ浜、一度も喋ったことの無い奴を勝手に友達扱いするのは、流石に無理があるだろう」

 「三十路が結婚出来る可能性に比べりゃマシなんじゃ……」

 「何か言ったか? 比企谷。うっかり君の頭を光にする所だったんだが」

 「俺の頭を光にする位じゃ承認下りないでしょ……」

 比企谷がボソリと呟くと、平塚先生は満足したように頷いた。話が通じて嬉しかったと見える。可愛い。嫁に来てくれ。

 「ほら、人類皆兄弟って言うでしょ? そんな感じで楽しくいきましょうよ! ね?」

 俺が話を戻すと、平塚先生は何を言っても無駄だと思ったのか、タバコをもみ消してから立ち上がった。

 「はっきり言って、君達は社会不適合者だ。それに心ない発言で私を傷つけた。よって君たちには奉仕活動を命じる」

 「平塚先生へのですか!? なら僕一人に任せてください! 炊事洗濯掃除は結構なレベルで出来ると自負してますし、なんならご満足頂けるまで修行します! あ、でも、夜の方はちょっと満足頂けないかもしれません……経験無くて……ごめんなさい……」

 「……バカは死んでも治らんかもしらんが、クズなら何とかなるだろう……着いて来い」

 そう言って、平塚先生は颯爽と職員室から出て行くのであった。

 

 

 途中で逃げ出そうとする比企谷くんを目で牽制する平塚先生の後ろを歩く。この高校に入ってもう一年になるが、未だにこの高校の構造――何か韻踏んだみたいになってるな。俺がクルーに居ればヒットチャートなんて総ナメだ!――を理解してないので、今何処を歩いているか分からなかった。帰れるのかこれ。

 「ここだ」

 そう言って平塚先生の立ち止まった場所は、プレートに何も書かれていない教室の前だった。

  先生はからりとドアを開け、スタスタ中へと入って行く。

  椅子や机が大量にあるので、どうやら倉庫に使われている教室らしい。

 そこには一人の少女が居た。

 夕日の中で一人本を読む少女は掛け値無く美しく、隣の比企谷くんなんかは数秒動きを止めて見惚れていた。時よ止まれ君は誰よりも……ってか。いやあれフリーズしてる訳じゃないけどさ。

 「雪ノ下雪乃か……」

 小さくこぼす比企谷くん。

 「知ってんの?」

 「完璧超人で有名な奴だからな、顔と名前だけは知ってる」

 「へー、比企谷くんって、結構普通に他人見てるんだな」

 「普通ってなんだよ……まあ、人間観察は趣味だが」

 それを聞いた時、比企谷くんは、別に友達が欲しくない訳ではないんだなと思った。

 本当に友達なんていらないと思ってる奴は、そもそも他人なんて見ていないから。

 「……何かトラウマでもあんの?」

 「はぁ? トラウマ? いやまぁ大量にあるが……」

 「何をブツブツ喋ってる……彼らは、あー、目の腐ってる方が比企谷で、太ってる方が七里ヶ浜だ」

 雪ノ下さんとしていた話が終わったらしく、平塚先生はこちらに話を振ってきた。

 「二年F組比企谷八幡です。てか入部ってなんすか?」

 「二年F組、進入部員の七里ヶ浜しちゅっ……七里ヶ浜七之助です! 奉仕しに来ました! よろしくお願いします、雪ノ下さん」

 噛んだ。盛大に噛んでしまった。隣の比企谷くんは笑いを噛み殺しているし、雪ノ下さんは冷めた目でこちらを見ている。針のむしろとはこの事か。

 「奉仕……? まさか今までの情報からこの部の名称を推察したというの……?」

 雪ノ下さんは、どうやら噛んだ事ではなく、奉仕という単語に反応していたらしい。

 「まあ、何となくそんなんじゃないかなと思ってただけです。当たってましたか?  いやー参っちゃうなぁ」

 「息するみたいに嘘吐く奴だなお前……」

 「あ、バレた?」

 当然嘘である。適当に言ってたら雪ノ下さんが何か言い出したので乗っかっただけだった。

 「……君たちにはペナルティとして、ここでの部活動を命じる。異論反論抗議質問口答えには拳で答える」

 俺たちを飽きれた目で見たのち、平塚先生は怒涛の勢いで判決を言い渡した。これには流石の比企谷くんも苦笑い。

 「見ての通り彼らはなかなか性根が腐っている。そのせいでいつも孤独な憐れむべき奴らだ」

 見ればわかるのか。デブ状態の俺はともかく、比企谷くんは悪くない感じだと思うんだが。いい感じにやさぐれてるし。

 「こいつらをおいてやってくれ。彼らの孤独体質の更生が私の依頼だ」

 いや比企谷くんはともかく、俺は孤独体質なんかじゃないんすけど……。

 「先生が殴るなり蹴るなりで躾ければいいと思うんですけど」 

 ……雪ノ下さん、サラッと怖い女だった。

 「こいつらは、殴られたところでどうにもならなそうだしな」

 殴られたら、全力で謝って平塚先生の奴隷にして貰います。嘘です。

  「お断りします。そこの男たちの下卑た目と暑苦しい身体を見ていると身の危険を感じます」

 雪ノ下さんは、何故か体を縮めるようにしてこちらを睨みつけた。酷い言い草だ。下卑た目をした男は良いとしても、こちらは傷つきやすいガラスのハートなのだ。瞬間接着剤で立ち直るけど。

 「安心したまえ、雪ノ下。そいつらは性根が腐っているだけあって、リスクリターンの計算と自己保身に関してだけは中々のものだ。刑事罰になるような真似は決してしない。彼らの小悪党ぶりは信用してくれていい」

 比企谷くんとかは、あんな作文出してる時点でそんなに保身してないような気がするんですが。むしろギリギリを生きてる。どこの北酒場だ。あ、原曲はものすごく良い曲なので是非みんな聴いてみよう!  誰に言ってるんだ。

 「何一つ褒められてねぇ……。普通に常識的な判断が出来ると言ってほしいんですが」

 「小悪党……。なるほど……」

 「聞いてない上納得しちゃったよ……」

 落ち込む比企谷くんを慰める為、肩にポンと手を置き頭を振った。言いたい事はただ一つ、『諦めろ』。

  意思を受け取ってくれたのか、比企谷くんは溜息を一つ吐いた。

 「まあ、先生からの依頼であれば無碍には扱えませんし……。承りました。」

  物凄く嫌そうな顔をしているのでとても申し訳なかったが、これは俺のせいじゃなくて平塚先生のせいだと思う事にして精神のバランスマンションを取った。これは落ちものゲームだけで無く、実生活においても大切な技術だ。

 「そうか、ではよろしく頼むぞ」

 とだけ言って、平塚先生はさっさと部室から出て行った。

 取り残される三人の高校生。

 美少女と、腐った魚と、チビデブな俺。

 さて、どんな『楽しい事』を起きるだろう。

 

 

 

 



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どうやら俺のダイエットはおかしいらしい。

 結論から言うと、奉仕部なるものは、大して面白くなかった。

 最初の一日は、雪ノ下さんの毒舌や、それに誘発されて語られる比企谷くんの自虐がそれなりに面白かったし、何より同い年の奴らとこんなに話すのは初めてだった為、新鮮に感じられた。

 しかし、二日もすればマンネリ化、三日も経てばただのゴミ。

 残酷なほどに、彼らとの会話は俺を満たしはしなかった。

 しかし、平塚先生はこの部活を辞めると楽に進級をさせてくれないと言ったので来なければならない。

 学校などという、こんなにも楽しくない場所に一年長く拘束されるなんて考えられない事だ。

 従って俺は、部室へ来ては現実逃避のように眠り、終わればすぐ帰るというパターンを確立していた。

 そんな生活が一週間ほど続いたある日、部室に着いた俺が眠りの国へ誘われようとしてる最中、雪ノ下さんがいきなり話しかけてきた。

 「七里ヶ浜くん」

 「はいぃ?」

 寝呆けていたため、何故か渾身のモノマネを披露してしまった。

 「……モノマネ、上手いわね……」

 雪ノ下さんが笑いを堪えてプルプルしていた。

 そうだろうそうだろう。一時期狂った様に声帯模写を練習したからな。あれは結構長く持った方だったから、よく覚えている。多分三ヶ月はハマっていた。

 「まさか雪ノ下さんからお褒めに与れるとは。感謝感激雨ざらしだな」

 雪ノ下さんは笑いが収まってきたのか、軽く座り直してこちらを見た。

 「ところであなた、本当に更生する気はあるのかしら?」

 と、問う雪ノ下さん。

 遂に来てしまったか。まあ流石にここまで不真面目な態度だとそう思われても仕方ないかもしれない。比企谷くんでさえ部活中に寝てはいないのだから。

 それにしても、何と答えれば良いのだろう。

 当然更生する気なんてサラサラ無いし、そもそも更生する必要も無い。

 何故なら俺は、自分が楽しい事を楽しいようにやれていればそれで満足だからだ。

 ならば正直にそう言うか? 馬鹿を言っちゃいけない。そんな事を言って目の前の女に噛みつかれるのは楽しくないし、何より、俺たちをありがた迷惑ではあるが更生させようとしてくれている雪ノ下さんにそんな事を言うのは、楽しくない上に失礼だろう。

 そこまで思い至って、俺は比企谷くんにぶん投げる事にした。

 彼なら失礼な事を言ってもいつも通り雪ノ下さんの毒舌に沈むだけだろう。

 「俺は、まあそこそこに。比企谷くんは?」

 適当な言葉で濁し、比企谷くんに丸投げした。比企谷くん、君には水底が似合いだ。

 「俺は無い」

 「あなたは変わらないと社会的に不味いレベルだと思うのだけど……」

 「大体俺は今の自分に満足してんだよ。それに、社会的に変わらなきゃ不味いのは七里ヶ浜の方だろ。ほっとけば秒間幾らってレベルで嘘吐いてそうな奴見た事ねえよ。マシンガンかよ」

 比企谷くんがこちらに話を戻すと、雪ノ下さんも納得したのかこっちへ身体を向き直した。

 「あなたに同意するのは癪だけど、確かにそうね。彼の虚言癖は何としても治すべきだわ」

 メインブースターがイかれただと!? 狙ったのかハチマン・グリント……よりによってこの状況で……! 認めん、認められるかこんなこと!

 「大体、そんなに嘘は吐いてないと思うんだけど?」

 悪あがきとは自分でも分かったがとりあえず反論してみる。

 「いーや大量にあるね。勉強は出来る方だとか、三日あれば痩せられるとか、色々楽器出来るとか、全く信用出来ねえ。大体そんな完璧超人みたいな奴は息するみたいに嘘をつかないだろ」

 こ、この野郎……。いや、俺も比企谷くんを陥れようとしたのだ。これ位の奸計は甘んじて受けいれてやろう。

 「確かに私も、信用出来ないわね。こんな社会不適合者と意見が一致するのはとても悔しいけれど」

 「いや俺たち今七里ヶ浜の話してるんだよね? 当然の様に俺の事揶揄すんのやめてくんない?」

 「自分の事を棚に上げて人をあげつらうような事をするからよ、棚が谷くん」

 ものすごい良い笑顔で雪ノ下さんが比企谷くんを貶すもんだから、てっきり褒めてんのかと思ったけど全くそんな事はなかった。憐れ比企谷くん。合掌。

 とまあ冗談はこのくらいにして。この人たちの漫才を見るのもそこそこ面白くはあったが、はっきり言って飽きてきたので辛いものがある。

 「更生って言っても、そこまでダメか? 俺と比企谷くん。別に俺たちはそこそこ楽しくやってるし、他人に迷惑かけてる訳でもないだろ?  なぁ?」

 埒があかない気がしたので、俺は比企谷くんを引き入れる事にした。これから毎日雪ノ下さんを攻撃しようぜ?

 「そうだよ。大体、変わるだの変わらないだの、そんなの結局逃げじゃねえか。そんな簡単に変えれるような『自分』なんて自分とは呼ばないだろ」

 そんな邪悪な考えに共鳴したのか、比企谷くんはあっさり俺側へと寝返った。何でこの部室こんなドロドロしてんだ。次は俺が雪ノ下さんへ寝返る番か……。それにしても雪ノ下さんへ寝返るって、なんかそこはかとないエロスを感じるぞ。

 ああダメだ、あまりにつまらなさ過ぎて遂に脳内がピンクになりはじめた。助けてくれ笑いの神様。

 そんな祈りを知ってか知らずか、比企谷くんと雪ノ下さんの舌戦は激化の一歩を辿っていた。

 「あなたのそれは逃げよ。変わらなければ前には進めないわ」

 雪ノ下さんには、出来れば『だから神を信じましょう』まで言って欲しかったな。ついでに壺の紹介も始めてくれたら、きっと大笑い出来た筈だ。

 「本当に逃げてないならそこで踏ん張んだろ。どうして今の自分や過去の自分を肯定してやれないんだよ」

 物凄く良いこと言ってんなぁ比企谷くん。相変わらず目が腐ってるせいで台無しだけど。

 「……それじゃ悩みは解決しないし、誰も救われないじゃない」

 そう言った雪ノ下さんの表情を見て、俺は少し憐れみを感じた。

 上から目線で何言ってるんだと思われるかもしれないが、あんな表情は女子高生のするべきもんじゃないし、強迫観念じみた考えで動いても碌なことがないだろう。

 「分かった。更生するよ。すりゃあ良いんだろ」

 険悪になりそうな二人の空気を察して、俺は結構思い切った提案をした。

 「……具体的には、何をするつもりなの?」

 「……ダイエットとか」

 季節は春。衣替えにはまだ早いが、どうせもうすぐやるんだから、今からやってもいいだろう。いい加減こいつ等にデブだなんだと言われるのも飽きた。

 「ほら、こんな身体なのは自己管理が出来てないからだろ? 頑張って痩せるわ。目に見えて変わるから分かりやすいし、な?」

 無茶苦茶言ってるなという自覚はある。

 平塚先生の言ってた更生というのは、むしろ目に見えない所の話だ。しかし、俺も、多分比企谷くんも、そうやすやすとは自分の生き方、ポリシーを変えないだろう。まあ比企谷くんのポリシーなんて知らないんだけど。

 ならば、目に見える場所を変えてみて、それで納得してもらおうという作戦だ。上手くいくかは分からないが、却下されても先ほどまでの険悪な雰囲気は白けてくれるだろう。

 俺は、人が喧嘩してるのを見るのが嫌いなんだ。

 「まさか二日でダイエットとかマジで言ってんじゃねーだろうな」

 比企谷くんが疑わしそうな目で見ている。彼の目は『疑わしきは罰せず』の色をしてるが、雪ノ下さんの目は『疑わしきは見つけ次第殺せ』みたいな感じだった。こえーよ。もっとソフトな言い方……見敵必殺……サーチアンドデストロイ……。あ、ダメだこれ。言い換えても怖さ変わらねーわ。

 「とにかく、信じられないなら、二日後を楽しみにしてるんだな。見事にチビデブからチビにランクアップしてやるよ」

 一肌、いや一脂肪脱ぐというべきか。

 てか、この放課後の活動が余りに代わり映えしなさ過ぎるせいで、いい加減飽きてしまったのだ。何か面白い事をして気を紛らましていたい。でなきゃ確実にバックれる。

 「そこは変わらないのね……」

 「……中学の頃から一センチも伸びないから、もう諦めた」

 「「可哀想に……」」

 ハモってんじゃねーよ。

 ねーよ……。

 

 

 それから二日後、俺は見事暑い脂肪を脱ぎ捨て、チビデブからチビになることに成功していた。

 「まさか本当に痩せてくるなんて……」

 「あり得ねえだろ……どうやったんだよ……」

 二人の驚きを一身に受け、身も心も少し軽くなった気がした。どうだ。それ見たことか。

 それにしても、何故だろうか。

 毎年夏前にやってることなので達成感など毛ほども無かった筈なのに、彼らの驚いた顔を見ていると、何だか心が弾んだ。

 「というか、そんな簡単に痩せたり太ったり出来るなら、最初から太らなければ良いのでは?」

 雪ノ下さんが物凄く素人臭い疑問を投げかけてきたので、俺は全力でクールを気取ってこう答えてやった。

 「だって、これだと冬寒いじゃん」

 ってね!



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比企谷八幡と雪ノ下雪乃は友達じゃないらしい。

 愚かにも衣替えを待たずに暑い脂肪を脱ぎ捨ててしまった俺は、春特有の寒暖の差にすっかり当てられていたらしく、うわの空な時間が増えていた。

 完全に昼夜逆転させている俺は、深夜にひたすら趣味に没頭し、学校で睡眠を取っているのだが、昨日は珍しく午後十一時などというお子さんのおねんねタイムになった途端眠りに落ちてしまった。

 その為久々に学校で起きているのだが、果てしなく面白くない。

 好きな事が出来ない。

 いやまあ、普段から深夜に遊んでる為、あまり音の出る様なことは出来ないのだが、それにしてもこの授業というものは辛いものがあった。やっぱ俺の生活スタイルは間違っちゃいなかった。

 などということを授業も聞かずに考えていると、教壇に立っていた先生の目が驚愕に見開かれていた。というか平塚先生だった。そんなに俺が起きてるのが珍しいか。

 「……あー、では比企谷、ここからエリスが発狂するところまで読め」

 「ほぼ全部じゃねーか……」

 どうやら相当無茶な要求だったらしく、あの比企谷くんが衆人環視の中にも関わらず文句を零していた。

 「適当な所で止めるよ」

 そう言って比企谷くんに朗読を促した平塚先生は、こちらへ向かって歩いてきた。

 相変わらず綺麗な人だなぁ。フォーリンラブに恋してる感じが無ければ貰い手くらい見つかりそうなもんなのに。

 先生が結婚出来ないのはきっと、重いとか暴力的だからではなく、妙に乙女過ぎる所があるからだろうなぁなどと考えていると、平塚先生は俺のすぐ目の前に立っていた。

 「一体何があった。神託でも受けたのか」

 小声で話しかけてくる平塚先生。授業中にこんな事してて良いのか? ほら、比企谷くんが死にそうな声になってるし。

 「そんな事あるわけないでしょ……たまには学生するのも面白いかなと思っただけです」

 「そ、そうか……出来ればずっとそうしててもらいたいものだな」

 うん、それ無理。

 「努力します」

 心にもない事を言うと、平塚先生はコツンと俺の頭を叩いてから「せめて教科書くらい出しておけ」と言い残して教壇へ戻った。

 すみません。俺のカバンの中には教科書なんて入ってないんです。と心の中だけで謝り、今度からはせめて教科書くらいは持って来ることを決めた。

 

 

 放課後、このところ習慣の様になってしまった奉仕部の部室に向かう。

 最初何度かは比企谷くんと一緒に行っていたが、場所を覚えた今となっては二人で来る事に何の意味も無くなった為、バラバラに来ている。比企谷くん、一緒に行くの嫌がってたしな。

 つくづく彼のロンリーウルフ的思考には頭が下がる。自分の見識も広がる思いだ。いや、この学校の制服学ランじゃないし、引用するなら心が見える指揮者志望君のセリフの方がいいかな。

 などとすこぶるどうでも良い事を考えながら部室へ入ると、既に雪ノ下さんは読書を始めていた。

 「相変わらずノックもまともに出来ないのね、七里ヶ浜くん」

 「チワーワ。いや、ついつい忘れちゃうんだよね。ごめんごめん」

 「その挨拶は何語なのかしら……どこかの部族のもの?」

 「名前を呼んではいけないあの人……あ、多分雪ノ下さん知らないからいいや」

 「そ、そう……」

 はっきり言ってドン引きである。まあこういうネタは内輪でしか使わない方が良いんだろうな。いや、内輪に入れてもらえないから言う機会ないじゃん! しっちゃんたらドジっ子!!  

 ダメだ、すっかり脳内会話の能力が爆上げされまくっている。

 奉仕部などという時間の浪費の代名詞みたいな部に参加させられてから、退屈を紛らわせるために一人漫才をしまくったのがいけなかったか。

 これ以上いけないと一人漫才を切り上げ、俺はいつも通り教室の後ろの方に積んである机によじ登り横になった。

 あと数分すれば比企谷くんが来るだろう。はっちゃんが来るのとしっちゃんが寝るの、どっちが早いか競争だ!

 ……そうだ。今度比企谷くんをはっちゃんと呼んでみよう。きっと面白い顔をしてくれるだろう。

 なら雪ノ下さんはどんな呼び方してみようか。ゆきのん……は何か面白くないし……。というかその法則だと俺しちりんじゃん。やだよそんなサンマ焼きマシーンみたいな名前。勘弁してくれ。

 俺は雪ノ下さんを何と呼ぼうかという、俗に言う悪巧みをしながら眠りに落ちていった。

 

 

 予感。

 普段探し求めているものが、すぐそこまで来ている予感がした。

 「……むぐっ」

 さっきまで眠っていたというのに、頭はとても冴えている。

 俺は部室の前―比企谷くんや雪ノ下さんのいる方―を見やった。

 「なあ、雪ノ下。なら、俺が友」

 「ごめんなさい。それは無理」

 …………。

 だ、ダメだ……まだ笑うな……こらえるんだ……し、しかし……。

 「ひゃあ我慢出来ねえ!!」

 盛大に吹き出してしまった。

 しかし、比企谷くんと雪ノ下さんが人殺しのような目でこっちを睨んだので、全力を以て笑いを心の中に押し込めた。

 「スミマセンデシタ。ドウゾツヅキヲ」

 光の速さで謝罪して、二人の目から逃れるように後ろを向いた。

 未だに背中がヒクヒクしてるのが自分でも分かるので、残念ながら近いうちに物凄い爆撃を喰らうだろう。こういう時の比企谷くんと雪ノ下さんの団結力はハンパじゃない事を、俺は経験から学んでいた。

 それにしても、見れて良かったな。あの時の比企谷くんの顔は永久保存版だ。それ位最高だった。

 ひとしきり笑い終えた俺は、もう一眠りするかなとゴロンと横に転がった。あー、動物も一緒にゴロゴロしてえ。うん、争いはよくない。対話重視の姿勢でいこう。

 アホな事を考えながら、段々と意識が遠ざかる。微睡み、一瞬の浮遊感。誰もが愛しているであろうこの感覚。

 その中で俺は不覚にも、この部活も、高校生活って奴も、案外楽しいもんじゃないのかなと思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

進路指導アンケート

 

総武高校二年F組

 

七里ヶ浜七之助

 

出席番号7 男

 

・あなたの信条を教えてください

天網恢恢疎にして漏らさず楽しい事は何でも拾え

 

・卒業アルバム、将来の夢なんて書いた?

百年暮らせる家造りならぬ、百年遊べる暇潰し

 

・将来のために今努力している事は?

娯楽探求

 

 

先生からのコメント

君らしい実にふざけた信条で安心しました。

卒業アルバムですら君はふざけているんですね。

たしかに娯楽は大切ですが、社会を生きる為、まずは君の軽佻浮薄な生活態度と言動を見直しましょう。

 

 

 

 

 




取り敢えず一区切りなので、俺ガイル二次創作恒例進路指導アンケート入れました。


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そして由比ヶ浜結衣はラブコメに参戦する。(前編)

 中学生の頃の俺には、友達百人が真実味を帯びてくる程『大量』の友達がいた。

 何故そんなにたくさん友達がいたのか。簡単な話だ。作ろうとしたからだ。

 中学生の頃の俺は、たくさん友達がいれば楽しいのではないだろうかと思い立ち、全力を以って友達を作ったのだ。

 しかし、友達になったところで全員同じような話題しか出さない為実際に楽しいのは友達になるまでだったし、それだって回数を重ねる毎に加速度的につまらなくなった。

 なんせ、全員似たような手口で話しかければ仲良くなってくれるのだ。

 派手っぽい奴ら、暗い奴ら。または所属しているグループ、孤立している個人。それらに対して二、三の取っ掛かりのパターンを持ってさえいれば、「こいつ等何こんなペラペラ喋ってんの?」と白ける程に気を許してくる。

 それじゃつまらないし、何の意味もない。しかし、事実そうなのだから仕方ない。つまり、友達など無意味だ。

 だから俺は、中学生の頃に『青春』なるもののノルマを全てを終えたと考え、似たような精神性のままであると考えられる高校生という存在には、ほとんど期待していなかった。その為俺は今のような生活スタイルを確立する事となったのだ。

 しかし、二年生を迎えた今日この頃、幾つか誤算が生じた。平塚先生のファンになってしまったのと、奉仕部の部員が割と面白いという事だ。

 平塚先生は美しい上に身長まで高く、しかも面白い。まるで俺の理想の体現みたいな存在だったが、どうやら比企谷くんとのフラグが立っているようなのでステディな仲になるのは諦めた。俺と比企谷くんの扱いの差激しいだろ。どんだけ比企谷くんの事好きなんだ。比企谷くんの方も、満更ではなさそうなので、平塚先生に押されればなし崩し的にそういった関係になるかもしれない。

 まあ、それでもファンを続けるくらいには彼女は美しいし面白いのだ。

 そして奉仕部。

 比企谷くんは、自分語りを聞いてた限り、中学生の頃までは簡単に友達になれそうな人種だったが、その後ここに至るまでに色々あったらしく、人間関係というものを諦めきっていた。

 ひねくれているとみんな(と言っても平塚先生と雪ノ下さんにだけだが)には言われているが、俺は彼のそういった人間性が嫌いではない。あまり接したことのないタイプなので、どのようにすれば間合いに入れるのか、空いた時間でシミュレーションしたりして研究している。実行する気はあまり無いけど。

 それに対して、雪ノ下さんはあまり好きではなかった。

 話自体はそこそこ面白いのだが、俺の根底にある思想と彼女のそれは、高校を卒業しても、もっと言えば死んでも相入れないだろう。少し前にあった、変わるだの変わらないだのという下りを聞いた時、俺は強くそう感じた。

 上手く言語化出来ないが、きっと彼女は俺の「あり方」を理解してくれないだろう。それくらい俺と彼女の生き方には断絶がある。

 ま、そういうのもアリだろう。違人間なんだ、正反対の思想を抱いていてもおかしくないさ。そういうものを受け入れるのも楽しい人生のスパイスだ。雪ノ下さんスパイス、何だか劇薬みたいだな。こわいなーとずまりすとこ。

 「七里ヶ浜、ちゃんと話を聞け」

 平塚先生のお叱りを受け、現実に戻ってきた。そうだった、呼び出し食らって職員室に来てるんだった。

 「すいません。先生に見惚れてました」

 「嘘をつけ、焦点が私に合ってなかっただろう」

 一瞬で看破された。いや実際見惚れたせいで今に至るまでの回想をしてたんですよ?

 「すいません。何の話でしたっけ?」

 「やっぱり聞いてなかったのか……。今日の調理実習についてだ」

 素直に謝ると、溜息混じりに先生は答えた。

 「調理実習? 先生って家庭科も担当してるんですか? 似合わないなぁ……」

 「……今のは不問に処してやる。鶴見先生から、生徒指導としての私に回ってきた話だ。何故参加しなかった?」

 額に青筋をビキビキ立てる先生。からかいがいがある人だなぁ、ホント。

 「寝てました」

 「起こしてくれる奴は……まあ居ないのだろうが……。それならそれで、ちゃんとスケジュール管理くらいは自分でしろ。大体移動教室や体育はどうしているんだ?」

 「参加してません」

 「したり顔で言うな……。本気で進級出来なくなるぞ」

 やれやれと言わんばかりに頭を抱える先生。

 「確かに体育の単位とかヤバそうですね」

 言われてみれば、二年になってから一度も体育に参加していなかった。これは流石に不味い。

 「一年の時はどうやってたんだ?」

 「夏過ぎからは、心優しいクラスメイトの女の子が毎回起こしてくれてました」

 「ほう。君がそんな青春ポイントの高い一年を過ごしていたとは知らなかったよ」

 平塚先生は本気で意外そうな顔で俺を見た。

 「もしかしたら好かれてたのかもしれませんね。自分で言うのも何ですけど、結構整った顔してる方ですし。特に夏秋は」

 「比企谷と同じような事を言うんだな……」

 「比企谷くんの方が女の子ウケは良さそうですけどね。痩せてる時期とか、やたら男ウケ良いんですよ、僕」

 「それは……まあ、頑張れ」

 「貫く前に貫かれるのは僕も勘弁願いたいですしね、精々気をつけます」

 ていうか話ずれ過ぎだろ。何の話してたんだっけ? ああ、調理実習の話か。

 「という訳で、君には補習として何らかの料理の製作過程についてのレポートを書いてもらう。題材はなんでも良いそうだ」

 「レポートっすか……。そういえば、前のレポートは再提出って事でいいんですよね?」

 「ああ、比企谷にもそう伝えておいてくれ。用紙は……これだ」

 そう言って、平塚先生から紙を三枚ほど手渡された紙を鞄にしまう。一枚が補習、もう二枚は俺と比企谷くんの作文用か。

 「かしこまり!」

 「……君はふざけていないと死ぬ病気にでもかかっているのか」

 「性分なもんで。TKOは弁えてるつもりです」

 「TPOだ。君はそんなに私にKOされたいのか。タオルを待たずに一発で気持ち良くしてやれるが?」

 一発で気持ち良くしてくれるのか。話の流れさえこうでなければ、物凄く淫靡な台詞なんだけどなぁ。

 「僕は先生の魅力にいつもKOされてますよ」

 ドヤ顔で軽口を叩いた瞬間顎に衝撃が走り、俺の意識は刈り取られた。

 

 

 

 「……ふがっ」

 「ごきげんよう七里ヶ浜くん。気分はいかがかしら?」

 目覚めると俺は、雪ノ下さんの座っている椅子の前で、うつ伏せに転がっていた。地べたは流石に扱いが酷過ぎると思います。俺は鶏は鶏でも飛べる鶏なのだ。雷○丸なのだ。

 「起き抜けに雪ノ下さんの御尊顔を拝めるなんて、最高の気分っすわ」

 「……うざ」

 ……あ、この体勢、雪ノ下さんのパンツ見えるんじゃね?

 「おい雪ノ下、七里ヶ浜が変な事企んでるぞ」

 比企谷くんの言葉を受け、雪ノ下さんが数秒の思考の後、物凄い速度で椅子ごと後ずさった。

 シット! 比企谷八幡、今度絶対お前が付けてる「絶対に許さないノート」を雪ノ下さんに見せてやるからな。覚悟しておけ。

 「……驚いたわ。比企谷くんに助けられる事があるとはね」

 「この期に及んでまだ攻撃対象俺なの? おかしくね? おかしいよね?」

 はっちゃん、君を裏切ろうとした僕を許してください。

 「平塚先生は?」

 ずっと転がってるというのもおかしな話なので、俺は制服をパンパンと払いながら立ち上がり、雪ノ下さんに質問した。

 「平塚先生ならあなたを運んで来たきりよ」

 「そっか、ありがと」

 残念、今日の平塚先生とのランデブーはあそこまでか。

 一つ伸びをして、定位置である後ろの机によじ登る。痩せたせいで机への負担が減った為、あまり音を鳴らさずに済むのが、今年の余りにも早過ぎるダイエットを敢行した数少ない利点の内の一つだ。

 一メートルは越えるであろう二つ積まれた机に登ると、寝転がっても比企谷くんや雪ノ下さんを上から見れる。

 それにしてもこの人たち、貴重な放課後に雁首揃えて読書とは一体どういう了見なのだろう。暇なのだろうか。

 ていうかこの部活、結局何する部活なんですかね? 読書クラブなの?

 寝転がると、味方の基地を襲撃する作戦並に不可解なこの部活に対する疑問が膨らんできた。

 すると、その疑問の答えらしきものが、弱々しいノックの音と共にやってきた。

 「どうぞ」

 雪ノ下さんは読書を中断し、扉に向かって声をかけた。

 「し、失礼しまーす」

 少し上ずった女の子の声。緊張しているのだろうか。

 からりと扉が引かれて少し隙間が空き、そこから滑り込むようにして彼女は入ってきた。

 茶髪、着崩した制服。見た目からして、明らかにこの空間に馴染まないタイプの人間だ。

 彼女はキョロキョロと視線を彷徨わせた後、比企谷くんの方を見て、ひっと小さく悲鳴を上げた。

 ……流石にヒドいだろ、それは。

 そこまで彼女の行動を観察して、俺はようやく彼女のことを思い出した。クラスメイトの由比ヶ浜結衣さんだ。

 「な、なんでヒッキーがここにいんの!?」

 「……いや、俺ここの部員だし」

 由比ヶ浜さん、結構失礼である。

 それにしても、由比ヶ浜さんは一体どんな理由でここへ来たのだろう。この三人に比べると、人付き合いも上手だし、更生とやらをする必要はなさそうなものだが。

 「まあ、とにかく座って」

 そう言って比企谷くんが椅子を引き、彼女に席を勧める。紳士だ。顔を見るなり引きこもり扱いされたのに、あの対応とは恐れ入る。

 「あ、ありがと……」

 由比ヶ浜さんは戸惑いながらも、勧められた椅子にちょこんと座った。

 「由比ヶ浜結衣さん、ね」

 雪ノ下さんが澄んだ声で彼女の名前を呼び、由比ヶ浜さんは表情を明るくさせた。

 「あ、あたしのこと知ってるんだ」

 「お前よく知ってるなぁ……。全校生徒覚えてんじゃねえの?」

 「そんなことはないわ。あなたと、あそこに転がっている変態覗き魔の事なんて知らなかったもの」

 雪ノ下さんにつられて俺の方を見た由比ヶ浜さんは、俺の存在に全く気づいていなかったらしく驚きに目を見開いていた。

 「あ、あんなところに人居たんだ……気付かなかった……」

 「大丈夫よ由比ヶ浜さん。彼はああやって怠惰に寝転がっているだけだから気に掛けなくて構わないわ」

 「どうも由比ヶ浜さん! みんなのアイドル七里ヶ浜七之助です!  同じクラスですよね?」

 一応自己紹介すると、由比ヶ浜さんはしばらく硬直した後、あぁと小さく声を上げ、そのあと不思議そうな顔をした。ああ、痩せたからか。最初の自己紹介の時と結構顔違うもんな。

 「え? じゃあこいつ、俺とも同じクラスなん?」

 「まさかとは思うけど、知らなかったの?」

 雪ノ下さんの言葉に、由比ヶ浜さんがピクリと反応する。

 やー、まあ実際仕方ない部分もあると思うよ? 比企谷くんが苦手そうなタイプだし。

 比企谷くんと由比ヶ浜さんの視線がしばらく交わり、痺れを切らしたように由比ヶ浜さんが口を開いた。

 「そんなんだから、ヒッキー、クラスに友達いないんじゃないの? キョドり方、キモイし」

 やめろ……そんなに圧をかけたら……ガラスの心が壊れる!

 「…………ビッチめ」

 流石ハッチだ、何ともないぜ!

 いや、いきなりビッチ呼ばわりはちょっと不味くない?  

 「ビッチじゃないし! 私はまだ処……」

 由比ヶ浜さんは顔を真っ赤にさせて反論するが、途中でとんでもない事を口走っていることに気付き、更に顔を赤くした。

 「安心してくれ由比ヶ浜さん。俺も童貞だし比企谷くんもきっと童貞だ。恥ずべき事じゃない」

 流石に由比ヶ浜さんが可哀想だったので、軽口を交えて慰める。

 「いや童貞は恥ずべき事だろ。ていうか勝手に俺を童貞扱いするな」

 「違うのかしら? あなたとそういった関係になる女の人なんて世界中探してもいない気がするのだけど……」

 「違わねえけど……。ていうか世界中は言い過ぎだろ。言い過ぎだよね? 言い過ぎだと言ってくれ……」

 「大丈夫よキモ谷くん。私はあなたがこれ以上気持ち悪くなろうとも、百メートルほど遠くであなたから目を逸らすわ」

 「遠い過ぎるし目逸らさないでください……せめて見守ってくれ……」

 相変わらず仲の良い奴らだなぁ……。柄にも無くちょっと孤独感を感じちゃうぜ。まさしく「咳をしても一人」だ。嘘だけど。

 「……ぷ」

 そんな比企谷くんと雪ノ下さんの掛け合いを見て、由比ヶ浜さんが小さく吹き出した。

 「全然普通じゃん……クラスでもそんな風にしてれば良いのに……」

 ボソリと呟く由比ヶ浜さん。

 他の二人は気まずくなったのか、頭を掻いたり落ち着き無く座り直したりしている。こっぱずかしいなぁおい。

 「ひ、比企谷くん、それに七里ヶ浜くんも、飲み物でも買ってきてくれないかしら」

 雪ノ下さんが由比ヶ浜さんの方をチラチラ見ながらそう言った。

 これはあれか、由比ヶ浜さんの分も買って来いってことかな。

 「了解であります! 行こうぜヒッキー」

 俺は寝転がっていた机から飛び降り、比企谷くんを促す。

 「わーってるよ。あとヒッキーって言うな」

 「何でだよ、良いじゃんヒッキー。俺にもあだ名とか付けて欲しいもんだね」

 「なら七輪な」

 「……勘弁してくれ」

 俺たちは軽口を叩きながら、奉仕部を後にした。

 



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そして由比ヶ浜結衣はラブコメに参戦する。(後編)

 「それにしても、由比ヶ浜さん何しに来たんだろうな」

 比企谷くんと並び自販機へ向かう道中、俺は素朴な疑問を比企谷くんへ投げかけた。

 「知らん」

 もとより期待してなかったので、すげない返答を聞きながらも自分の思考を纏める。

 多分彼女は俺たちと違う理由で来たのだろう。なら何をしに奉仕部へ? そこまで考えて、至極単純なことに気付く。そうだ、俺たちは奉仕部なのだ。

 なら、由比ヶ浜さんの目的は単純に、『奉仕されに来た』ということだろう。

 ……あの子、見た目に似合わず主従プレイとか好きなのか……。

 女の子の秘密の性癖に背筋を寒くさせながらも、自販機の前に着く。

 「比企谷くん何飲む?」

 「スポルトップ。お前は?」

 「コーラ。もちろんコカコーラね」

 「残念ながら、ここにはペプシしか売ってねーぞ」

 俺は絶句した。

 「……嘘だろ?」

 「お前じゃあるまいし、こんなくだらねえことで嘘つかねえよ……。ほら、よく見ろ」

 そう言って比企谷くんは自販機に目をやる。

 それにつられて俺も自販機を見ると、なるほど売ってなかった。

 「……勘弁してくれ」

 「残念だったな、七里ヶ浜」

 比企谷くんがすごい良い笑顔をしながら、一人でさっさとお金を入れてスポルトップを買っていた。この野郎……。

 「何がゼロカロリーだよ……女々しいことすんじゃねえよ……」

 「珍しくお前の意見に同意したわ」

 嘆いていても始まらないので、俺もスポルトップを買い、雪ノ下さんと由比ヶ浜さんの分に無難なレモンティーも買っておいた。

 「ほい」

 「何で俺が……」

 「持って行くの面倒くさい。飲んでから行くから、先行っといて」

 比企谷くんにレモンティーを押し付け、俺は飲み物に口をつけた。コーラ飲みたかったなぁ……。

 「あいよ。とっとと来いよ」

 そう言って比企谷くんは適当に後ろ手を振って部室へと戻っていった。

 ……さて、帰るか。

  由比ヶ浜さんに奉仕というのも面白そうではあったが、今日は久しぶりに旧交を温めたい気分だったので、とっとと帰る予定だったのだ。

 俺は一気にスポルトップを飲み干し、空になった容器を放り上げてからゴミ箱に蹴り入れる。ゴール!! ミドルレンジからのボレーシュートがネットに突き刺さったー!! ……久々にサッカーをしたい気がする。体育ってサッカーあるのかな。

 「さ、帰ろ。ていうか今日店開けてんのかな……」

 「帰る?」

 「うん、帰る」

 「奉仕部はどうするつもりだ?」

 ……あれれ~? おっかしいぞ~? 何で後ろに平塚先生がいるの~?

 「……ジュース奢ってやったんで今日はこれで」

 「バカを言うな。とっとと戻れ」

 平塚先生はそう言ってこちらに手を伸ばし、俺の首根っこを掴んだ。

 「……行きますから、放してください」

 平塚先生の手を振り払う。

 「む? 調子でも悪いのか?」

 「……は?」

 「いや……いつもならこんな時つまらない軽口の二、三でも叩くだろう」

 「……ぅあ……えっと、そうそう!  部室に舌を落としてきちゃったんですよね! どうりでジュースの味もよく分からなかった訳だ! んじゃ舌装着しに戻りますね、それではまた明日!」

 平塚先生の不思議そうな視線を振り切って、俺は一目散に部室へと戻ることに決めた。旧交を温めるのはまた今度だな、うん!

 

 

 「七里ヶ浜くん」

 部室へと戻る途中、雪ノ下さんに出くわした。

 「あ、あぁ……雪ノ下さん」

 「? どうしたのかしら。らしくないわね」

 「やー、部室に舌落としてきちゃったからちょっと回りが悪いんだよね、ハハッ!」

 俺は渾身の某ネズミのモノマネをした。

 「あなた、本当にモノマネが上手ね」

 雪ノ下さんがクスクスと笑う。

 「ウケたようで何より」

 「ふふ……七里ヶ浜くん、着いてきなさい」

 ひとしきり笑った後、雪ノ下さんはスタスタと歩き始めた。

 「どこ行くんだ?」

 「家庭科室。由比ヶ浜さんのクッキー作りを手伝うのが今日の活動内容よ」

 「ああ……。なんだ、そういう奉仕か」

 てっきりイケナイ奉仕かと思っていたが、健全な話だった。そりゃそうか。

 「一体どんな奉仕だと思っていたのかしら、エロヶ浜くん」

 「それ由比ヶ浜さんと被るからやめた方が良いと思うぞ」

 「……言われてみればそうね。ならエロ之助くん」

 「雪ノ下さんにファーストネームで呼んでもらえるなんて男冥利に尽きるなぁ」

 「呼ぶわけないじゃない。不愉快だわ」

 「ツレない雪ノ下さんも素敵!」

 「……うざ」

 軽口を叩く。大丈夫だ、落ち着いてる。

 雪ノ下さんの毒舌を軽口で適当に流していると、ようやく家庭科室に着いた。

 「由比ヶ浜さん、用意は出来たかしら?」

 ドアを引いた雪ノ下さんは、先に来ていたらしい由比ヶ浜さんに声をかけていた。

 「えっと……」

 「はぁ……これは骨が折れそうね……」

 雪ノ下さんが本気で頭が痛そうに額を押さえる。

 それもそのはず、机の上には用意してくれと頼まれていたのであろう色々な器具がごった返していた。俺も頭が痛くなってきた気がする。

 「……雪ノ下さん、クッキー作るのに包丁って使うのか?」

 「……寡聞にして聞かないわね……」

 ……骨が折れそうである。

 

 

 

 予想通り、クッキー製作は難航した。

 散々苦戦した挙句由比ヶ浜さんの作り上げたクッキーは、まさに暗黒物質という他なく、隣にいる比企谷くんは「え? これ食わされるの? それなんて罰ゲーム?」みたいな顔してるし、雪ノ下さんに至っては精も魂も尽き果てた様子だった。

 「……とりあえず、コレ……いや、クッキーか、どうにかしようぜ」

 「冗談だろ? ジョイフル本田で売ってる木炭みたいになってんぞこれ」

 「い、一応食い物だから、粗末にしちゃいけないんじゃないか?」

 「お前はコレを食い物扱い出来るのか……」

 「ヒッキーも七里ヶ浜くんも酷すぎだから!!」

 由比ヶ浜さんが涙目で反論する。

 「一応、食べられない原材料は使ってないから問題ないわ、たぶん」

 雪ノ下さんが自信なさげに言う。

 まあ、これ見て食べ物だって迷いなく言える奴はそうそういないわな。うん。

 あ、そうだ、この依頼そのままレポートに流用出来るな。次は積極的に参加してみよう。

 暗黒物質を前に現実逃避をしてても始まらないので、俺はそれを二、三切れ鷲掴み、ライアン二等兵並の悲壮感を持って由比ヶ浜さんに向き直る。

 「とりあえず、次は見た目だけでも良いからマトモにしような」

 そう言ってから、俺は一気に手の中にあった物質Xを口の中に放り込んだ。

 

 

 

 「……はっ!?」

 「起きたか」

 目覚めると、比企谷くんの脚が目の前にあった。

 また地べたかよ。俺はそんな地べたが好きだと思われてるんだろうか。ていうか一日何回失神させりゃ気が済むんだよ。

 「で、首尾は良さそうか?」

 「さしもの雪ノ下雪乃でもいかんともしがたしってとこみたいだ」

 制服を払って立ち上がりながら比企谷くんの視線を追うと、雪ノ下が今までになく狼狽していた。くわばらくわばら。

 「一回雪ノ下が由比ヶ浜の……なんて言えば……あ、主体性だな。主体性の無さって奴にマジ切れしたんだが、由比ヶ浜が何を思ったか感銘を受けたらしくてな。そんで今に至る」

 上手くまとめて貰えた為、すぐに状況を把握出来た。

 「あ、あと雪ノ下の作ったクッキーがクソ美味かった」

 「俺の分は?」

 「俺が全部食った」

 「血も涙も友達もねえな」

 「友達はねえんじゃなくて、要らねえんだよ」

比企谷くんがハッと笑って吐き捨てるように言う。

 俺にも軽口叩いてくれるようになったんだなぁ……。などと少し感動しながら、手こずる雪ノ下さんを鑑賞する事にした。

 ……こんな時くらいしか見れそうにないしね。

 

 

 

 オーブンを開けた由比ヶ浜さんが持ってきたクッキーは、さっき食べたアレとは比べ物にならないくらい良く出来ていた。

 「お、マトモになってる」

 「雪ノ下のはもっと美味そうだったがな」

 「ヒッキーデリカシーねえのか? こういう時は多少不味そうでも美味そうって言うんだよ」

 「ヒッキー言うな」

 比企谷くんを諌めると、由比ヶ浜さんがこっちを睨んできた。え、何で?

 「ヒッキーも大概だけど七里ヶ浜くんもデリカシー無さ過ぎだから! 大体、料理食べてもらって失神される方の気持ちにもなってよ!」

 「え? それ俺のせいになっちゃうの?」

 とんだ言い掛かりだと思うんなけど。……そんなもんなのか?

 「由比ヶ浜さん、そこにいる男たちにデリカシーを求めても無駄よ。彼らは人の形をしているだけのお猿さんだもの」

 「猿扱いかよ……」

 「ワイは猿や、プロ○ルファー猿や!」

 なんとなく声真似しながら猿っぽい顔をすると、雪ノ下さんが口元を押さえ、肩をプルプルさせ始めた。

 ……前から思ってたけど、雪ノ下さんって結構下らないネタで笑うよね。笑ってもらえると評価されたみたいで嬉しいけどさ。

 「く、下らない事を言ってないで、早く食べてみてはどうかしら」

 早口で言い切り、俺たちにクッキーを食べさせようとする雪ノ下さん。

 「へーへー分かりましたよ食えば良いんでしょ食えば」

 憎まれ口を叩きながら比企谷くんがクッキーを口に運ぶ。

 「……いいんじゃね? 少なくとも不味くはねえよ。たまにジャリってするくらいで」

 比企谷くんの言葉を受けて、クッキーを口に運んだ由比ヶ浜さんも少し渋い顔をしていた。

 「うーん、やっぱり雪ノ下さんのと違う」

 俺も食べてみたが、食えたもんじゃないとまでは思わなかった。普通にマズイけど。

 「……あのさぁ、さっきから思ってたんだけど、なんでお前らうまいクッキー作ろうとしてんの?」

 クッキーを齧りながら切り出した比企谷くんを、由比ヶ浜さんが心底馬鹿にした表情で見ていた。

 「お前、ビッチのくせに何も分かってないのな」

 その表情につられてか、比企谷くんも馬鹿にしたような顔で切り返す。

 「だからビッチ言うなっつーの!」

 「男心がまるで分かってないんだよ、お前」

 「し、仕方ないでしょ! 付き合ったことなんてないんだから!」

 由比ヶ浜さんが顔を真っ赤にして反論する。この人の顔は信号機か。

 「別に、由比ヶ浜さんの下半身事情はどうでもいいのだけれど、結局、比企谷くんは何が言いたいの?」

 雪ノ下さん……下半身事情って……死語だと思うんすけど……。

 「ふぅー……、どうやらおたくらは本当の手作りクッキーを食べたことがないと見える。十分後、ここへ来てください。俺が"本当"の手作りクッキーってやつを食べさせてやりますよ」

 比企谷くんが自信満々に言い放つ。それを聞いてカチンときたらしい由比ヶ浜さんが、捨て台詞を吐いたあと雪ノ下さんを連れて家庭科室から出て行った。

 「……俺も出て行った方が良いのか?」

 「別にどっちでもいいけど」

 フワッとしてんなぁおい。ワンコインボーグの社長かよ。

 「んじゃ出てくか。サプライズ楽しみにしてるわ」

 そもそも十分やそこらでクッキーが作れるとは思わないので、搦め手でくるのだろう。なら見ない方が良い。そっちの方が楽しい。

 後ろ手を振り、雪ノ下さんたちの後に続くことにした。

 

 

 

 気まずい十分を過ごした後、もう一度家庭科室に入ると、そこにはさっきと全く同じクッキーが置かれていた。

 隣の雪ノ下さんも気付いたのか、テーブルの上のクッキーを怪訝な表情で眺めている。

 「ぷはっ、大口叩いた割に大したことないとかマジウケるっ!  食べるまでもないわっ!」

 由比ヶ浜さんがそれを見て爆笑していた。……いや、それあんたが作ったクッキーなんだけど……。

 「ま、まあそう言わず食べてみてくださいよ」

 「そこまで言うなら……」

 由比ヶ浜さんがむぅっと唸り、恐る恐るクッキーを口にした。雪ノ下さんも無言でそれに続く。

 「お前は食べないのか?」

 比企谷くんが俺に尋ねる。

 「必要なくね?」

 「まあな」

 ニヤッと悪そうな笑みを浮かべる比企谷くん。

 そう、比企谷くんはさっき反語的に「うまいクッキーを作る必要なんてない」と言ったのだ。食べれるレベルでさえあれば良いのだと。

 それがどう解決方法に結びつくかは分からないが、あの顔を見るに自信があるのだろう。

 「ときどきジャリってする! はっきり言ってそんなにおいしくない!」

  由比ヶ浜さんがプンプンとオノマトペが頭上に浮かんでいるような怒り方をしながら比企谷くんを睨む。

 雪ノ下さんも比企谷くんに「何がやりたいの?」みたいな視線を向けていた。

 そんな二人の視線を受けていた比企谷くんが、不意に目を伏せる。

 「そっか、おいしくないか。……頑張ったんだけどな」

 比企谷くんが迫真の演技を見せている。それを見た由比ヶ浜さんが、気まずそうに視線を床へと落としていた。

 「わり、捨てるわ」

 そう言って、比企谷くんは皿をひったくり、くるりと背を向けた。

 「ま、待ちなさいよ」

 「……何だよ?」

 由比ヶ浜さんが比企谷くんの手を取って止め、そのままクッキーを口に放り込んだ。

 「別に捨てるほどのもんじゃないでしょ。……言うほど不味くないし」

 「……そっか、満足してもらえたか」

 しおらしい顔でそう言った比企谷くんは、次の瞬間ものすごいドヤ顔を披露していた。

 「ま、由比ヶ浜の作ったクッキーなんだけどな」

 そして、ようやくネタバラシが始まる。

 

 

 

 

 

 

 「つまりあれだ。男ってのは残念なくらい単純なんだよ。手作りクッキーってだけで喜ぶの」

 比企谷くんがネタバラシかつ自虐トークを締める。

 「だから、ときどきジャリってするような、大しておいしくないクッキーでいいんだよ」

 言い切った比企谷くんに、顔を真っ赤にさせた由比ヶ浜さんが、手近にあったものを片っ端から投げつける。

 「ヒッキーマジ腹立つ!  もう帰るっ!」

 比企谷くんを睨み、由比ヶ浜さんはカバンを掴んで立ち上がった。

 ドアに向かってずんずん歩く由比ヶ浜さんに、流石に不憫に思ったのか、比企谷くんが気まずそうに声をかける。

 「まぁ、その、なんだ……。お前が頑張ったって姿勢が伝わりゃ、男心は揺れるんじゃねえの」

 「……ヒッキーも揺れんの?」

 言いにくそうに語る比企谷くんに、振り返った由比ヶ浜さんは尋ねた。

 「あ? あーもう超揺れるね。つーかヒッキーて呼ぶな」

 「ふ、ふぅん」

 比企谷くんが肩を竦めて答えると、由比ヶ浜さんは気のない返事をして顔を逸らす。

 ……ほほう。これはこれは……。比企谷も罪な男よのぉ……。

 扉に手をかけてそのまま帰ろうとする由比ヶ浜さんに、雪ノ下さんが声をかけた。

 「由比ヶ浜さん、依頼の方はどうするの?」

 「アレはもういいや! 今度は自分のやり方でやってみる。ありがとね、雪ノ下さん」

 由比ヶ浜さんは笑って振り返り、また明日と手を振って帰っていった。エプロンを着けたまま。

 その後、比企谷くんと雪ノ下さんが努力がどうの自己満足がどうのという話が終わるのを待って、俺は比企谷くんに質問した。

 「……アレ貰って男心が揺れるのか?」

 「揺れねぇの?」

 「手作りとか言われると、ちょっと食う気が起きないんだけど」

 「それはまたどうして?」

 雪ノ下さんが会話に入ってくる。

 「いや……今回は目の前で作ってるの見たから大丈夫だったけどさ、いきなり手作りのモノなんて渡されたら、普通気持ち悪くない?」

 少なくとも、バレンタインデーとかいう日に貰った「手作りチョコ」なんてものは、気持ち悪さから中身も見ずに捨てていたので、俺は軽いカルチャーショックを覚えていた。

 「そりゃまあそういう奴もいるだろうが、大多数の男は喜ぶんじゃね?」

 「そっか」

 比企谷くんと雪ノ下さんが不思議そうな目でこちらを見ていた。

 「や、なんか変な薬とか盛られてたら怖いじゃん?」

 気まずくなったのでおどけてみせると、上手く空気を変えられた。

 「お前はどっかの大名かよ……」

 「安心していいわ、七里ヶ浜くん。あなた如きを抹殺するのにそんな手の込んだことをする必要はないもの」

 「「こ、こえぇ……」」

 良い笑顔でこちらを見た雪ノ下さんは、「それじゃ」と言い残し家庭科室から出て行き、俺と比企谷くんはそれを呆然と見送った。

 「……帰るか」

 しばらくの無言ののち、ようやく気を取り直して俺は切り出す。

 「……そうだな」

 こんな感じに、俺たちの奉仕部初依頼は、びっくりするほど締まらない終わり方を迎えたのだった。

 

 

 「でさ、ゆきのんお昼一緒に食べようよ」

 翌日、相変わらず読書してたり寝てたりと好き勝手やっていた奉仕部に、またもや由比ヶ浜さんが襲来していた。

 「いえ、私一人で食べるの好きだからそういうのはちょっと。それからゆきのんって気持ち悪いからやめて」

 「うっそ、寂しくない?  ゆきのん、どこで食べてるの?」

 「部室だけど……。ねぇ、私の話、聞いてたかしら?」

 「あ、それでさ、あたしも放課後とか暇だし、部活手伝うね。いやーもーなに? お礼? これもお礼だから、全然気にしなくて良いから」

 「……話、聞いてる?」

 由比ヶ浜さんの怒涛のマシンガントークに当てられている雪ノ下さんが、明らかに狼狽しながら俺の方をちらちら見てきた。

 俺は「比企谷くんに頼め」とボディーランゲージで答えると、殺意のこもった視線を送られた。

 その後雪ノ下さんは比企谷くんにも視線で助けを求めていたが、比企谷くんもやはり助けてはくれず、文庫本を閉じて立ち上がった。

 「あ、ヒッキー」

 振り返った比企谷くんに、由比ヶ浜さんが黒い物体を投げつけた。

 「いちおーお礼の気持ち? ヒッキーも手伝ってくれたし」

 由比ヶ浜さんがモジモジしながら感謝を述べる。

 …………ほほぅ。比企谷氏、これはまたまた分からなくなってきましたなぁ……。拙者、少々羨ましいでござる! コポォ!

 部室を出る比企谷くんの背中を見送り、気色悪いニヤケ面を隠すため、雪ノ下さんたちに背を向けて丸まるように寝転ぶ。

 

 また、面白くなりそうだ。

  



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いつも通り稲村ヶ崎紫はふざけている。

 「七之助が部活!?」

 「うん。奉仕部ってとこに入った」

 カウンターをバンバン叩きながらゲラゲラ笑うお姉さんを見ながら、そんなに変なことだろうかと自問し、変なことだなと自己解決する。

 彼女は俺の人となりを知っているため、そりゃ笑うだろう。

 「ゆか姉、笑い過ぎだから。お客さんめっちゃ見てんぞ」

 「あーゴメンゴメン。でもあんたが部活とはおねーさんビックリ」

 彼女は稲村ヶ崎紫。俺の小さい頃からの知り合いで、俗に言う幼馴染である。

 ひとしきり笑って落ち着いたゆか姉は、ポケットからタバコを取り出して火を付けていた。

 「また変えたの?」

 ゆか姉が取り出したタバコは、見たことのない銘柄だった。外国のものだろうか。

 「うん。だって続かないんだもん」

 紫煙をくゆらしながら答えるゆか姉。

 あまり共感は得られないだろうけど、こんな風に色っぽくタバコを吸う女の人は好きだ。

 「続かないって……。ああ、また男振ったのか」

 「そ。前の男もつまんなかったなぁ。一週間持たないって酷くない?」

 「……ビッチめ」

 「あ! ひっどー! 七之助が私のこと見てくれないのが悪いのにー」

 ゆか姉がカラカラと笑う。

 「はっきり言って、私より可愛い女の子なんてそうそういないよ?」

 「俺の好みは、可愛い女の子じゃなくてカッコ良い女の子だ」

 自分で言うだけあって、ゆか姉の容姿はとても整っている。

 作りの整った顔、庇護欲をそそる小さな体躯、人好きのする笑顔。

 彼女を目当てにこの店「バーむらさき」に訪れる客は多い。一応、ゆか姉は源氏名として『むらさき』と名乗っている。ほとんどの常連は本名知ってる為ほぼ無意味だけど。

 開いてるか開いてないかがゆか姉の気分だなんてやる気のないふざけた店に常連がつくのも、彼女の容姿と人徳の成せる技なのだろう。

 十九だか二十だかでバーなんて洒落たもの開いてんじゃねえよと思うが、親に頼んだら土地と店、ついでに営業許可書までもが一週間を待たずに揃ったらしい。流石稲村ヶ崎。金持ちは違うね。

 「で、今日は何すりゃ良いの?」

 「うーん……みんなは何が良いー?」

 ゆか姉は、喋っている時より大きな声で、四人ほどで楽しそうに喋りながら飲んでる大人の人に尋ねた。

 「俺ピアノが良い」

 「俺もー」

 「久々に二人で何かしてくれよー!」

 「んー……じゃ、七之助はしばらくピアノ弾いててちょーだい。私はみんなと喋ってるから」

 そう言ってゆか姉はピアノの鍵を俺に投げ渡した。

 「リクエストは?」

 一段高くなっているステージに上がりゆか姉に尋ねる。

 「んー……そういえば前あんた来た時、マズルカとかノクターンとかずっとショパン弾いてたよね。次の日雨降ったの、アレ絶対あんたのせいだよ」

 「マズルカ弾いたら雨が降るって……ロダーリかよ……」

 「とにかく、今日は明るいやつ!」

 「りょーかい」

 無駄にデカくて値の張りそうなグランドピアノの鍵盤台を上げ、うろ覚えのハノンを軽く弾きながら何を弾くか思案する。

 「んじゃ……うし、子供の領分通しで全部」

 「おー! おねーさんたちに、子供の頃のキラキラした気持ちを取り戻させてくれるんだね!」

 「うるせえ知るか。あとコーラ飲ませろ」

 言い捨てて、深呼吸を一つ。

 あ、全曲とか吹いたけど、四番とかどんなタイトルだったかすら思い出せねえ。飛ばすか。

 

 

 

 

 

 

 

 「ほい、今日のお駄賃!」

 「サンキュ」

 店仕舞いをしたゆか姉から手渡された五千円札を財布に納める。

 「それにしても今日は酷かったねぇ、演奏。や、演奏というか態度か」

 「そりゃ悪うござんした」

 「通しって言ってたのに何食わぬ顔でサラッと四番のトッカータ飛ばした時は、今日お金あげるのやめようかなと思ったわ、マジで」

 「……ゆか姉の酔っ払ったみたいなギターの方が酷かったろ。無茶苦茶弾きやがって」

 「七之助なら合わせてくれるっていう信頼だよ、信頼!」

 バチコーン! と音がしたかと思うほど見事なウインクを見て、文句を言う気すら失せた。

 「今日泊まってくの?」

 「うん。泊めて欲しい」

 「遂に私を抱いてくれるんだね!」

 「……帰るか」

 「もー素直じゃないんだからぁ!」

 「マジで帰って良いっすか?」

 素で帰りたくなってきた。頭が痛くなってきた。

 「七之助がそんなにお家大好きだったなんて知らなかったなー」

 「……あ、そういえば最近ギャザリング熱が再発してるんだよな」

 「ふーん? で?」

 「お金に物言わせて作ったデッキで圧殺させてもらうわ」

 「ふっふっふ、おねーさんに勝てるなんて思ってるんなら、まずはその幻想をぶち壊す!」

 「ゆか姉、そういうアニメ嫌いじゃなかったっけ?」

 「おねーさんは何でも知ってるのよ」

 ゆか姉がカラカラと笑いながら店の奥──彼女は普段そこに住んでいる──に入っていったので、俺もそれに続く。

 「今日は長い夜になりそうだねぇ」

 ゆか姉はそう言って、もう一度カラカラ笑った。

 

 

 

 

 「部活の話?」

 お風呂上がりから一時間ほどカードで負かされ続け、いい加減気が滅入ってきていた俺に、ゆか姉が尋ねてきた。 

 「そう。七之助が二週間も続けてるってことは、それなりに楽しいんでしょ?」

 探るように俺の目を覗き込むゆか姉。

 「あー……まぁな。少なくとも一ヶ月や二ヶ月ではやめないと思う」

 「ほほぅ。その心は?」

 「部員のラブコメ見るのが割と楽しいから」

 実際のところあの二人……いや、三人か、がお互いのことをどう思っているのかは分からないが、個人的には比企谷くんはどっちかとくっつくんじゃないかなと思っている。

 「自分のじゃねーのかよ!! 七之助あんた相当頭焼かれてるね!」

 大笑いするゆか姉。

 「ほっとけ、個人の嗜好だ」

 「随分と趣味の悪い嗜好だこって」

 「面白いんだから良いだろ」

 「ま、そうだね」

 ゆか姉がケラケラ笑い、タバコに火を付ける。

 「そういや七之助タバコ吸ってないね、今日」

 「明るい青春を送る為にやめた」

 「本音は?」

 「ゴールデンバット売ってるとこ少な過ぎ」

 「そんなこったろうと思った……ほい」

 ゴソゴソとポケットを漁ったゆか姉は、目当てのものを取り出したらしく、俺に向かって放り投げた。

 お前のポケットはドラ○もんの四次元ポケットか。

 「お、バット」

 ありがたく頂戴して、ズボンのポケットにしまった。

 「全く七之助ちゃんは……生意気にタバコなんて吸っちゃってぇ」

 「自分が仕込んだんだろうが……大体、最近はちゃんと夜寝て学校で起きてるからあんま吸ってねえよ……」

 いたいけな中学生に余計な事を教えこみまくったクソ女子高生への恨みは死んでも忘れないからな。

 「そんな時は学校の非常用階段がオススメだぞ!」

 「実体験か」

 「実体験。あと、屋上は南京錠かけてるだけだから七之助なら勝手に入れるよ」

 満足げな顔で紫煙を吐き出すゆか姉。……サラッと犯罪幇助するのやめてくれませんかねぇ……。今更だけどさ。

 「とにかく、良い女には非常用階段とタバコと……あと瓶コーラって相場が決まってんのよ」

 そんな相場はねーよ。……いや、どストライクだけれども。

 「で、部員に可愛い女の子とかいんの?」

 ズイッと、楽しげな顔を俺に近づけるゆか姉。

 「んー……、あ、雪ノ下って子がいるんだけど、その子は学校でもトップレベルに可愛いと評判らしい」

  俺はあんまりタイプじゃないけど、と心の中で付け加える。

 「雪ノ下!?」

 心底ビックリしたらしく、おうむ返すゆか姉。

 「知ってんの?」

 「や、高校の時の同級生に雪ノ下陽乃っていうクソアマがいたなぁって思って」

 「クソアマって……。……珍しい苗字だし、姉妹なのかな」

 「かもねー。どーでもいいけど」

 ゆか姉は興味なさげに呟く。

 「ま、雪ノ下陽乃には気を付けな」

 「何で?」

 ゆか姉が他人に敵意を剥き出しにするのが珍しかったので、思わず聞き返す。彼女は基本的にこういった事を言わない人間だ。気に入らなければ無視するし、余程気に入らない奴は四の五の言う前に潰しているような奴なのである。気に入られない方が、その後の社会生活においては有利なのだが。めんどくさいし、こいつ。

 「なんていうかー……見てて面白くないんだよね。気に食わないというか」

 これまた珍しく、こいつにしてはえらくフワッとした物言いである。

 「私が気に食わないんだから、七之助も気に食わないと思うよ。……何でって聞かれても、私は上手く答えられないけど……」

 ゆか姉は「タバコが不味くなっちった」と言いつつ、心底嫌そうな表情でタバコをもみ消した。

 「ま、七之助なら、会って話せば一発で分かると思うよ。あんた好みの女って訳でもないし」

 「ふーん……。ま、会うことがあったら出来る限り仲良くしてみるわ」

 「絶対無理だと思うけどねー」

 そう言って、ゆか姉はケラケラ笑った。

 「……そろそろ寝たい」

 「おりょ? 七之助が寝たいなんて言うの、ここ来るようになってから初めてだなぁ」

 「俺は真人間に生まれ変わったんだよ」

 「へいへい。そんじゃ電気消すよー」

 そう言って電気を消した彼女は、横になったと思うや否や寝息を立て始めた。の○太くんかよ。

 俺も横になり、寝相が悪いせいかやたらとくっつこうとしてくるゆか姉を振り払いながら眠りに落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 バーむらさきをあとにして学校へ向かった俺は、珍しくちゃんと授業を受けていた。

 果てしなく面白くなかったが、まあ、面白くないのも青春って奴の一部なのかもしれない。

 そして迎えたお昼休み。やる事ないなぁと思いつつも購買でマズそうなパンを買い、ゆか姉が言ってた非常用階段へ向かう。

 非常用階段を上り切ると、なるほど、屋上よりもこっちの方がプライベートスペースにはうってつけかと思った。手頃な狭さだし、日向と日陰、どちらもある。

 こりゃ良いなと思い、日向に腰を下ろす。

 案の定マズかったパンを食べながら周りを見回すと、下で比企谷くんが俺と同じように一人でパンを食べていた。

 ……あぁ、ぼっちだもんな……俺ら……。

 俺は教室で食っても何ら気まずくないけど、比企谷くんのように他人の視線に敏感なタイプには辛いものがあるのだろう。

 ぼっちはぼっちでも色々あるよなぁと思いつつ、ゆか姉から貰ったバットに火を付けた。

 わたくしこと七里ヶ浜七之助は、禁煙ファシズムに断固抵抗します! とっとと肺がんになってくたばる事をここに宣言します! ……アホか。

 両切り特有のストロングな紫煙を肺に入れた。

 ……ハズレだ。妙な味がする。

 こういう味のバラツキもゴールデンバットの魅力の一つである。飽きずに済むから。

 何か理由があってこんな味になってたはずだが、すっかり忘れてしまった。

 プカプカとタバコをふかしながらぼーっと比企谷くんを見ていると、風向きが変わって、今までとは違う流れに煙が乗った。

 「……流れ流され生きるじゃんよってか……。まさしく俺だ……」

 思わず零れた独り言に、一人苦笑いした。

 

 

 



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果てしなく三浦優美子は面白い。

 銀色の糸が空から下りる憂鬱な朝。ゆか姉の馬鹿話がいつもの数倍面白く感じられず、いつもより相当早い時間にバーむらさきを出て学校へ向かう。

 つまり、今日は雨だった。

 どうやら今日は一日雨らしく、厚い雲からは微塵も晴れる気配を感じられない。

 「こうも雨だとやる気も糞もないな」

 傘など持ってるはずもなく、ずぶ濡れになりながら一人呟き、しばらく立ち止まる。

 ……サボろう。どうせ行ったって一日クソつまらない授業受けて、面白くない日の確率の方が高い奉仕部に強制参加させられるだけだ。

 ポケットからタバコを取り出して火をつけながら、考えを進める。

 いやしかし、面白いかどうかが分からないというのも面白い要素だし、そもそもサボった所で行く当てもないんじゃないか?  

 パッと思いつく場所は本屋、ゲーセンくらいだ。何度もサボりに使っているが、通報された試しがないのでその点は安心だろう。

 現在の時刻は八時過ぎ。どちらかに行くにしても、ああいうところは往々にして十時くらいにならないと開かない為、時間を潰す必要がある。

 ゆか姉のとこに戻るか? ……無いな……。

 うんうん唸っていると、何時の間にかタバコの火が消えていた。

 これだから雨は嫌いだ。

 もう一本、今度はちゃんと吸うぞと思い火をつける。

 それにしても、一度サボると決めてしまうと一気に行く気が失せるのってなんでだろうね?  

 ちなみに俺はこの現象を「誘惑の魔の手現象」と名付け、親しみを持って二年ほどお付き合いしている。中々良いカップルだと思います。キャッ! 言っちゃった!

 アホな事を考えてると、指に火が当たりそうなほどタバコが短くなっていたので、火を消した。

 うん、時間潰すアテもないし学校行くか。誘惑の魔の手を振り切る、その意気やよし。

  

 

 

 

 

 

 チャイムが鳴り四限が終わった。一気に空気が緩む。

 俺はとりあえず、コンビニで買ってきたパンを齧っていた。

 普段なら非常用階段で煙と戯れているところだが、こんなに雨だと、外に出るのも億劫なのである。

 それにしてもクソまずい食べ物だ。変な味しかしやがらねぇ。売り物ならもっと魂懸けて作りやがれ!

 一人でパンに文句をつけつつも、ゴミ箱に叩き込むのも食べ物に悪いので食べきった。うん、今度からこのパンは絶対食べない。

 ご飯を食べ終えると、クラスの喧騒がやたら耳につくようになる。こういうのもきっと青春の一部なのだろう。外から見る青春、それもまた乙なものだ。

 教室の前の方でPSPを持ち寄って楽しそうに狩りをする奴、後ろの方で異性と仲良くサーティワンがどうのと談笑する奴、そしてそれを腐った目で見ている奴……比企谷くんだった。

 クラスの中では俺と比企谷くんは全く干渉しない為、教室に比企谷くんがいるという事をあまり気にかけていないのだが、流石にあの目は……ちょっと……。

 気を取り直して、俺はカバンの中からPSPを取り出し一人でゲームをする事にした。

 五分で狩りを終えると、物凄い虚無感に襲われた為やめることにした。やっぱり、無駄に上手くなってしまうとつまらなくなっちゃうよね。やる事が無茶な縛りプレイくらいしかなくなってしまう。

 前で騒いでる奴らくらい下手くそならみんなで騒ぎながら出来るんだろうけど、俺やゆか姉ほどになるとマジで作業になってしまう。三分あれば終わってしまう為喋る間も無いので非常につまらないのだ。出会って三分で討伐。何かのタイトルみたいだ。

 俺はソフトを変え、一人で連鎖の頂へ登る事にした。

 いつ聞いてもユウちゃんの声は可愛いなぁ。

 一人でほのぼのしながら連鎖を組んでいると、後ろの奴らの声が耳に入った。

 「俺ら、今年はマジで国立狙ってるから」

 え、この学校そんなにサッカー強かったの? 初耳なんだけど。

 ゲームを中断して後ろを振り返ると、声の主はその中心にいた。

 えーっと、アレは……そうそう葉山くん、葉山隼人くんだ。

 彼について知ってる事はほとんど無いが、イケメンで社交力の高い、文部省の理想の高校生みたいな人間だということは知っている。

 あ、文部省といえば「異性と交際しているが、エロいことには全く興味がない」というのが彼らの理想の高校生像らしい。腹筋がこむら返りそうになるほど笑ったのが記憶に新しかった。

 「それにさー、優美子。あんまり食い過ぎると後悔するぞ」

 後悔するぞ……って、葉山くんは一体何スターダークさんなんだ……。

 「あーしいくら食べても太んないし。あー、やっぱ今日も食べるしかないかー。ね、ユイ」

 高らかに太らない宣言を謳い上げるのが、葉山くんの相方の三浦優美子さんだ。

 意義が不明なほど短いスカートの主。そして金髪ロール。ものすごい勢いで片っ端からいろんな要素を詰め合わせている、今時中々見れないステレオタイプな女の子だ。

 美人で整った顔なのだが、派手な格好と言動のせいで相当数の男から敬遠されているのは想像に難くない。

 しかし、俺は彼女のことが全くと言っていいほど嫌いではなかった。

 彼女の極めて動物的で刹那的快楽主義な立ち振る舞いは、何処までも俺と似通っている。やはり人間こうでなくちゃいけない。

 外から見ているだけなので、彼女が実は思慮深いとかそういう展開があるのかもしれないが、出来ればそういう展開は勘弁して欲しいものである。

 「あーあるある。優美子スタイル良いよねー。でさ、あたしちょっと今日予定あるから……」

 「だしょ?  もう今日食いまくるしかないでしょー」

 臣下の休暇届を見事に無視して三浦さんが話を続けると、周りの人たちがどっと笑った。え? 今の笑いどころどこだったの? や、三浦さんの存在自体が面白いってのはわかるけど。

 彼らの声が大きいのと、三浦さんが面白い為、俺は連鎖の頂を目指すのを諦め、彼らの会話に完全に耳を傾けることにした。うぅむ、青春である。

 「食べ過ぎて腹壊すなよ」

 葉山くんは彼らの中心で人好きのする笑顔を浮かべながら、三浦さんに進言する。

 ていうか女の子相手に腹下すなとか言うのは大丈夫なのか。自分の見識も広がる思いだ。

 「だーからー、いくら食べても平気なんだって。太んないし。ね、ユイ」

 三浦さんはいくら食べてもトイレに行かないらしい。見上げたアイドル精神である。

 「やーほんと優美子マジ神スタイルだよねー脚とか超キレー。で、あたしちょっと……」

 今更気付いたが、ユイと呼ばれてた女の子は由比ヶ浜さんだった。さっきから全て見事にスルーされている為、精神的にかなりキテそうだ。

 それなのに健気に殿の機嫌を取り続けるその姿、まさしく臣下の鏡だ。天晴れである。由比ヶ浜さんには臣下オブザイヤー賞を進呈しよう。ありがたく受け取れ。くっだらね。

 「えーそうかなー。でも雪ノ下さんとかいう子の方がやばくない?」

 「あ、確かに。ゆきのんはやば」

 あ、遂にやらかした。殿の御前での抜刀は反逆行為ぞ。

 「…………」

 案の定、三浦さんはお怒りの様子である。三浦さん、素直で良い子だなぁ。

 「……あ、や、でも優美子のほうが華やかというか!」

  由比ヶ浜さんは慌ててフォローするが、どうやら三浦さんはそれじゃ満足出来なかったらしく、不機嫌そうに目を細めた。満足出来ねぇぜ……。

 「ま、いんじゃね。部活の後でなら俺も付き合うよ」

 張り詰めた空気を察したのか、葉山くんが軽いノリでそう言った。すげーな葉山くん。空気清浄機かよ。マイナスイオンどばどば出てんぞ。

 葉山くんの一言で機嫌を直した殿……違う、三浦さんの「おっけ、じゃメールして」という言葉と笑顔で会話が再開する。

 それを見て安堵したように胸を撫で下ろす由比ヶ浜さん。そんな気を遣うくらいなら、つるまなきゃ良いのに。

 しばらく由比ヶ浜さんを見ていると、彼女は何かを決意したように深呼吸した。

 「あの……あたし、お昼ちょっと行くところあるから……」

 お、遂にちゃんと言えたぞ。偉いぞ由比ヶ浜さん。まるではじめてのおつかい見ている時の気分だ! ちょっと前にゆか姉に無理やり付き合わされて一回見ただけなんだけどね。

  あのクソアマ、自分で誘ったくせに、隣でくだらないだのつまんないだの散々文句言ったり、いきなり泣き始めたりして、色々と困った。

 「あ、そーなん? じゃさ、帰りにレモンティー買ってきてよ。あーし、今日飲み物持ってくんの忘れててさー。パンだし、お茶ないときついじゃん?」

 ナチュラルにパシリ扱い。やっぱ三浦さん最高だわ。

 「え、え、けどほらあたし戻ってくるの五限になるっていうか、お昼まるまるいないからそれはちょっとどうだろーみたいな……」

 由比ヶ浜さんらしくふわっとした物言いである。

 しかし三浦さんはそれを明確な裏切り行為であると判断したらしく、飼い犬に噛まれたような表情をしていた。どうやらあんな性格をしていても、他人の悪意には割と敏感らしい。器用な女だ。

 三浦さんは魔女裁判の真似事みたいな雰囲気を醸し出しながら友達がどーのこーのと言い始め、由比ヶ浜さんはどんどん落ち込んでいく。凄まじく憐れだ。これが他人の顔色を伺うしかしてこなかった奴の末路である。

 「ごめん……」

 「だーからー、ごめんじゃなくて。何か言いたいことあんでしょ?」

 ま、この言い方を受けちゃうと普通の人なら何も言えないわな。ゆか姉辺りなら単刀直入に「てめーとつるむのつまんねえから死んでくれ」くらい言いそうだが。あ、雪ノ下さん辺りも良いそう。

 しばらく無言のまま険悪な空気がクラスに流れる。

 前の方でゲームしながらはしゃいでたクソ雑魚共も、三浦さんにあてられてかすっかり無言になってしまった。

 だからお前らはいつまで経っても下手くそなんだよ。修羅となりたいなら、この空気の中で黙々と狩りを続けられるメンタリティを手に入れてみろ。

 や、彼らはそんなコミュニケーションツールとして使ってるだけだから、そこまでガチにはならないんだろうけどさ。

 一人でゲームをしていた奴らをけなしたり弁護していると、ガタッと椅子を引く音がした。

 次は何だと思い音のした方を見ると、なんと比企谷くんだった。

 「おい、その辺で──」

 「るっさい」

 「……そ、その辺で飲み物でも買ってこようかなぁ。で、でもやめておこうかなぁ」

 一世一代レベルの決意を見事に粉々にされた比企谷くんに黙祷を捧げる。

 すごすごと座り直す比企谷くんには目もくれず、三浦さんは小さくなった由比ヶ浜さんを見下ろす。やっぱ三浦さん素質あるなぁ……。

 しかし、アレは流石にやりすぎである。唯我独尊も度が過ぎてしまうと周りの気分を害してしまう。あと比企谷くんがあまりにも憐れだ。

 そこで俺は一計を案じる事にした。

 立ち上がり教室を後にした俺は、廊下の窓ガラスの前で制服をちゃんと着直してから、メガネをかけて髪の毛を前に下ろす。

 よし、大丈夫だろ。

 深呼吸して、もう一度教室に入り直す。

 さあ、七里ヶ浜七之助様の数ある特技の一つ、「猿芝居」を披露しよう。

 「あ、あの、由比ヶ浜さん」

 「え? ……あ、七里ヶ浜くん……?」

 変装は中々上手くいったらしい。何回か俺をしっかり認識したことのある由比ヶ浜さんを戸惑わせることが出来るなら、三浦さんには分からないだろう。

 「えっと、その、待ってても中々来ないから、その……何かあったのかと思って……もしかして今日は都合悪いですか……?」

 完璧である。いかにもな声が出せた。

 ちなみに演技のコンセプトは「奥手だが勇気を振り絞って気になる女の子を食事に誘った気弱な少年A」である。

 普段とのギャップがあまりに大きすぎるため由比ヶ浜さんはしばらく戸惑っていたが、あまりにも大きなギャップが逆に俺の真意を由比ヶ浜さんに伝えてくれたようだ。

 「えっとね、優美子。今日はこの人にご飯誘われちゃってさ。あんまりアレするのもアレじゃん?  今日一回だけって話だし、行ってあげよっかなーって思ってさ」

 ふわっとしてて中々良い感じだ。ここまで行ったら三浦さんも折れるだろう。

 何やかんや言って、彼女も人のしがらみの多い場所で生きている。ここで「関係あるか死ね」なんて言える奴は、『そこ』じゃ生きていけない。俺やゆか姉みたいになる。や、俺はそんなこと言わないけどね?  人に迷惑をかけないのが俺の信条なのだ。

 「ふーん……。ていうかホントにそいつに誘われたん?」

 疑わしそうな目で俺を見てくる三浦さん。さて、どうリアクションすりゃそれっぽいか。……怯えてみるか。

 「す、すみませんでした! 迷惑ですよね……こんなのに誘われても……」

 「そんな事ないよ!」 

 わたわたとしながら由比ヶ浜さんが乗ってくる。中々素養のある奴だ。やっぱりあの社会を生きるにはこの程度のお芝居は当然のようにうてなくちゃいけないらしい。

 「そーいうことなら早く言いなよ」

 そのあと三浦さんは由比ヶ浜さんの耳元で何か囁き、ひらひらと手を振った。

 「う、うん、分かった! てわけでゴメンね優美子!」

 そう言って俺の背中を押してくる由比ヶ浜さん。彼女の体温が背中に伝わる。

 ……我慢だ。我慢しろ。ここで手を払うのは色々マズイ。

 廊下に出ると同時に由比ヶ浜さんの手を払った。

 「あ……えっと、ありがと……」

 「つまんなそうなことしてるなぁ、ホント。正直に言えば良いのに」

 俺は制服を元通り着崩しメガネを外して由比ヶ浜さんに苦言を呈す。ここまでやってやったんだ。これくらい言わせてもらってもいいだろう。

 由比ヶ浜さんが俯いたので、一応フォローというか、声をかける。

 「……あー、なんだ? ちゃんと奉仕部の事とか言っといた方がいいぞ? これから先似たようなことになるの、目に見えてるしさ」

 「うん……」

 「ま、余計なお世話かもしれんけどさ」

 「うん……」

 二人の間に沈黙が落ちる。

 これまだなんか言った方がいいの? いい加減終わらせてくれない?

 「……ホント、ありがとね」

 由比ヶ浜さんがこちらをしっかり見て感謝を伝えてきた。うん、整理付いたみたいだな。

 「や、比企谷くんがやったから便乗しただけ。あいつに言ってやれよ」

 「……うん、それじゃ!」

 笑顔で手を振ってから駆け出す由比ヶ浜さん、こちらも手を振って見送る。 

 ……ふぅ。ていうかホントに雪ノ下さんとご飯食べるつもりなんだな。よく雪ノ下さんが認めたもんだ。

 「お前だって全く気づかなかったわ」

 教室に戻ろうとすると、比企谷くんが教室の前で立っていた。

 「やっぱり? 今度から俺のことは怪盗七面相と呼んでくれ」

 「……微妙にショボくね?」

 軽口の応酬で口元が綻ぶ。

 「ショボいくらいで良いんだよ。完璧な人間なんてつまんねぇし」

 「雪ノ下みたいな?」

 射抜くような視線を感じて、反射的に比企谷くんを見る。

 比企谷くんは、まるで俺を値踏みするような視線を向けていた。

 「雪ノ下さんは……完璧じゃあないだろ。所々抜けてるところもあるし、自分の感情だってあんまり上手くは隠せてない」

 「ふーん……。俺はてっきり、お前は雪ノ下のこと嫌いだと思ってたわ」

 こともなげに言う比企谷くんに、少し驚いた。

 特に表に出した事もないし、むしろ悟られないよう隠していたことなのに、彼は容易く見破ったのだ。

 「まあ、好きではないけど。でもどっちかっていうと由比ヶ浜さんの方が苦手だな」

 「なんで?」

 「……ああいう風に、他人に気ぃ遣いまくってる人見るのが苦手なんだよ」

 「分からんでもないな」

 そう言って比企谷くんがハッと笑う。

 「大体、雪ノ下さんの事嫌い? とか聞かれて『いや超好きだよ』とか言えねえだろ。後々に禍根残るわ」

 「まーな。んじゃ」

 そう言って比企谷くんは教室に引っ込んだ。こういう時に一緒に教室に入らないのが俺と比企谷くんの距離感を如実に表してるなぁ。まあ、比企谷くんの性分ってところもあるんだろうけど。

 俺も教室入って寝ますかね。

 廊下の窓で自分の身だしなみがうまく元に戻ってることを確認してから、俺は教室に戻った。

 



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つまり材木座義輝は貫いている。(前編)

 由比ヶ浜さんが奉仕部のレギュラーメンバーとなり、四人体制での部活動が日常化して幾らか過ぎたある日のことである。部室へ向かうと、何故か比企谷くんと雪ノ下さん、そして由比ヶ浜さんが部室の前で立ち尽くしていた。何してんだこの人らと思って見ていると、どうやら少し開いた扉から中の様子を伺っているようだった。

 「何やってんの?」

 「よく分からん奴が部室にいる」

 比企谷くんがこちらを見ずに答える。

 俺も中を覗いてみると、なるほど、なんかコートを着ている大柄な男が立っていた。

 「依頼なんじゃないの? ていうかさっさと入ろうぜ。眠いし……」

 流石に中に人がいるくらいでこんなに警戒する必要はない気がするが、女の子的には危険を感じるのかもしれない。これは良い口実だと思っていたのか、比企谷くんは今にも帰りそうな顔をしていた。

 「依頼……確かにその可能性はあるわね」

 雪ノ下さんがふむと頷く。……ていうかそれ以外に何か考えられる可能性なんてあるのか? 痴漢? いや流石に校内での痴漢はリスクが高すぎる。それに来た人を見境なしに襲うというのも頂けない。男しか来ない可能性だってあるんだ。やはりここは依頼、もしくは入部希望の人物であると考えるのが妥当である。

 「だからとっとと入ろうぜ。話聞くのは雪ノ下さんが頑張ってくれ。俺は寝る」

 「あなたね……」

 雪ノ下さんが呆れ顔で何か言っていたが、気にせずに俺は部室の扉を開き、比企谷くんと同じタイミングで部室に入る。

 その瞬間、部室の窓から風が吹き込んできて、紙の束がバラバラと吹き散らばった。

 中々に粋な光景である。紙が舞い散る白い世界の中、ただ佇む大柄なコートの男。それだけで相当絵になる。これであの男の横幅がもう少し細ければ文句無しだろう。

 「クククッ、まさかこんなところで出会うとは驚いたな──待ちわびたぞ。比企谷八幡」

 待ちわびていたのに驚いたのか。器用なマネをする奴だ。

 舞い散る白い紙の隙間から、俺は相手を見る。

 どうやらやっこさんは中々愉快な男らしい。初夏を前にしているにも関わらずコートを羽織っている上、指ぬきグローブまで装備しているときた。その上あの言葉遣い……良いねぇ、こういうの。

 「比企谷くん、あちらはあなたのことを知ってるようだけど……」

 俺の背中に隠れる雪ノ下さんが、怪訝な顔であちらさんと比企谷くんを見比べる。ちなみに由比ヶ浜さんは比企谷くんの方に隠れていた。雪ノ下さんも向こう行ってくんねーかな。暑苦しい。

 雪ノ下さんの視線に怯んだのも一瞬で、やっこさんは比企谷くんに視線を戻し、腕を組み直してクックックッと低く笑い、ハッと大げさに肩を竦めたのちもったいつけて首を振った。

 「まさかこの相棒の顔を忘れたとはな……見下げ果てたぞ、八幡」

 「相棒って言ってるけど……」

 由比ヶ浜さんが比企谷くんへ冷ややかな視線を向ける。まるで「ゴミはもろとも消え失せろ」みたいな目だった。ひでーな由比ヶ浜さん。

 「そうだ相棒。貴様も覚えているだろう、あの地獄を共に駆け抜けた日々を……」

 「体育でペア組まされただけじゃねぇか……」

 言い返した比企谷くんの言葉を受けて、苦々しげな表情を浮かべる彼。

 「あのような悪しき風習、地獄以外の何物でもない。好きな奴と組めだと?  クックックッ、我はいつ果つるともわからぬ身、好ましく思う者など、作らぬっ! ……あの身を引き裂かれるような別れなど二度は要らぬ。あれが愛なら、愛など要らぬっ!」

 お師さん……哀しい別れだ……。うっかりピラミッド建てちゃうくらい哀しい。ていうか北斗好きな奴多いなおい。平塚先生も比企谷くんに北斗ネタ振ってたぞ。

 そこまできて、ようやく思い出す。俺は彼のことを知っている。

 「あぁ、材木座くんか」

 「……七里ヶ浜くんも彼の知り合い?」

 ふと漏らした言葉を聞き止めたのか、雪ノ下さんが小声で話しかけてくる。

 「直接の知り合いってわけではないけどな。見ての通り目立つ奴だから覚えてた」

 「そう」

 雪ノ下さんは短く言うと、比企谷くんに説明を求めるように視線を向け、比企谷くんがそれに答える。

 「あいつは材木座義輝。……体育の時間、俺とペア組んでる奴だよ」

 「むっ、我が魂に刻まれし名を口にしたか。いかにも我が剣豪将軍・材木座義輝だ」

 材木座くんの設定紹介はスルーしながらも、俺は少し悲しくなった。……ああ、体育のペアね……。確かに材木座くん、結構アレな性格らしいし、友達少なそうだもんな。比企谷くんは言うまでもないし。それで余り物どうしくっつけられた訳だ。哀しい関係だ。

 因みに、俺にも体育の時間にペアを組めるような知り合いはあまり居ないが、そもそも体育はほとんどサボっているため全く問題がない。いや、問題しかないか。そうですね。

 「類は友を呼ぶというやつね」

 雪ノ下さんが残酷な結論を出していた。いや、材木座くんは比企谷くんと比べると社交性はある方だよ?  多分。友達いるし。まあその友達が『アイツ』っていうのは頂けないが。

 「ばっかお前いっしょくたにすんな。俺はあんなに痛くない。第一友じゃねっつーの」

 「良いじゃん友達で。仲良くしようぜ」

 「俺はてめーみたいに脳内お花畑じゃねえんだよ」

 ……流石に脳内お花畑扱いは酷くない? 俺でも傷つくことはあるんだよ?

 「なんでもいいんだけど、そのお友達、あなたに用があるんじゃないの?」

 雪ノ下さんのお友達という言葉に物凄い棘を感じた。往々にして過剰な丁寧語というのは人の心を傷つけるのにうってつけなのである。嫌味や当てこすりに使われる事も多い。嫁が姑のことを「お母様」とか呼んじゃうみたいな。真っ黒だ。

 「ムハハハ、とんと失念しておった。時に八幡よ。奉仕部とはここでいいのか?」

 何だその笑い方。初めて聞いたぞ。

 「おう、合ってるよ」

 比企谷くんの代わりに俺が答えると、材木座くんはこちらを一瞬見た後すぐさま比企谷くんに視線を戻した。そんな俺の顔はダメか。可愛い系男子で売ってるんだけどなぁ。嘘だけど。

 「……そ、そうであったか。平塚教諭に助言頂いたとおりならば八幡、お主は我の願いを叶える義務があるわけだな? 幾百の時を超えてなお主従の関係にあるとは……これも八幡大菩薩の導きか」

 さっきの相棒云々はどうした。主従関係なのかよ。手下じゃねえか。

 「別に奉仕部はあなたのお願いを叶えるわけではないわ。ただそのお手伝いをするだけよ」

 雪ノ下さんが「お願い」とか「お手伝い」とか言ってるの何か可愛いなぁと思ってると、またもや材木座くんがすごい速さで比企谷くんに視線を戻した。……ああ、知らない人と喋れないタイプの人なのかな。雪ノ下さんも由比ヶ浜さんも容姿の整った女の子だし、話しにくいのかもしれない。

 「……ふ、ふむ。八幡よ、では我に手を貸せ。ふふふ、思えば我とお主は対等な関係、かつてのように再び天下を握らんとしようではないか」

 「「主従の関係どこいったんだよ」」

 思わずツッコミを入れると、図らずも比企谷くんとハモってしまい、比企谷くんがバツの悪そうな顔をしていた。

 分かるよその気持ち。俺もゆか姉と一緒にテレビ見てておんなじツッコミした時死にたくなるし。

  「ゴラムゴラムっ! 我とお主の間でそのような些末なことはどうでもよい。特別に赦す」

 材木座くんはあり得ない咳き込み方をして、設定の綻びを誤魔化そうとしていた。

 「すまない。どうやらこの時代は在りし日々に比ぶるに穢れているようだな。人の心の在り様が。あの清浄なる室町が懐かしい……。そうは思わぬか、八幡」

 「思わねえよ。あともう死ねよ」

 「ククク、死など恐ろしくはない。あの世で国獲りするだけよ!」

 どこの人斬りだ。そのうち発火するぞ。

 「うわぁ……」

 由比ヶ浜さんがリアルに引いていた。しかも顔色まで悪く見える。

 それにしても、楽しそうで良いなぁ、材木座くん。やっぱり自分が楽しいと思うことをするのは重要だ。

 その点、彼は物凄く純度が高い。ベクトルの違う三浦優美子といった感じだ。三浦さんと違う点があるとすれば、材木座くんは多分、現実逃避的にああなってしまってるところだろう。

 「比企谷くん、ちょっと……」

 雪ノ下さんが比企谷くんに小声で話しかける。由比ヶ浜さんもそれに参加して何やら話し込みそうだったので、俺は材木座くんに話しかける事にした。

 「で、何頼みに来たの?」

 「えっ、えっと……その……」

 材木座くんが半端なく動揺していた。いやそんな怖がらなくても……。

 「あー、極楽寺楽太郎の……知り合いで、七里ヶ浜七之助って者です。楽にしててくれ、頼むから」

 じゃないと話が進まない。楽しそうな事にお預け喰らうのは、あまり好きじゃないんだ。

 「ぬっ!? 七里ヶ浜七之助だと!?」

 「そうそう。楽太郎から話聞いた事ない?」

 あのアホは俺のことを話すことが多い為、あいつの友達が俺のことを知ってる事は多い。話のネタに困るような奴じゃないんだから俺のことなんて話さなければ良いのにと思うが、どうやらあいつは俺の話をするのが好きらしい。死ね。

 「楽太郎から話は聞いておる。お主が、我が眷属を所望する選ばれし者か……」

 知ってる人間の名前が出たからか安心したらしく、キャラに戻った材木座くんが仰々しい喋り方に戻っていた。

 「いや所望してねーよ……あいつ俺のことなんて説明してんだよ……」

 「『楽園を探し求める求道者』と聞いておる」

 楽園を探し求める求道者、か。確かに悪くないな。今度からそう名乗るのも良いかもしれない。

 「まあそんな感じではあるけどさ、眷属とかじゃなくて普通に友達になんない? この際相棒でも何でも良いけど、流石に材木座くんの手下になるのは勘弁願いたいわ、マジで」

 「友達……だと……?」

 低く呟いた材木座くんがプルプル震えだす。ていうか半泣きになっていた。何でだよ……。

 「七之助よ……貴様が我が眷属となる事を赦そう……」

 「…………おう」

 もうなんでも良いや。材木座くん面白そうだし。仲良くなっておけば、学校で退屈することも少しは減るだろう。

 「で、何の用なんだ? あんまり難しいことは勘弁して貰いたいんだけど」

 「うむ……実は我、とある新人賞に応募しようと小説を書いたのだが、友達がいないので感想が聞けぬ。読んでくれ」

 「むしろ友達には見せない方がいいんじゃないか? 恥ずかしいだろ」

 意識的に友達がいないというところには触れないようにした。だって可哀想だし。

 「ネットとかに匿名で晒した方がいいんじゃないか?」

 「それは無理だ。彼奴らは容赦がないからな。酷評されたら多分死ぬぞ、我」

 豆腐メンタルかよ! そのメンタリティじゃ物書きなんてやってけねーぞ多分!

 それに……。

 「なら余計、ここに持ち込むのはやめといた方がいいと思う」

 俺は、話し込んでいる三人──特に雪ノ下さんを見る。あの人はそういう容赦とは無縁な人なのだ。

 材木座くんの小説がどのレベルのものかは知らないが、このキャラから考えるに、『ヤバい』ブツである事は疑いようのない事実だ。耐性のなさそうな雪ノ下さんが見たら、下手したら卒倒するまである。

 「ま、俺で良かったら読むよ。原稿は?」

 「これだ」

 そう言って材木座くんの手渡してきた紙束を受け取り、早速読み始める。

 ペラペラ紙束を捲っていると、ようやく三人が話を終えたのか、材木座くんと話し始めていたが、それには参加せずに集中力を高めて原稿を読み続けた。

 

 

 「……ふぅ」

 十分ほどかけて読み終える。けっこう集中して読んだため、脳みそが熱くなっているのを感じる。こういう倦怠感は心地良くて好きだ。

 「材木座くん、読み終わったぞ」

 「えっ、もう?」

 材木座くんがキャラを作るのを忘れて素で答えていた。徹底しきれてないなぁと内心苦笑する。

 「ああ、結構集中して読んだからな。感想は今言った方がいいのか?」

 「……心の準備が出来ておらん。明日、他の者と共に述べてくれ」

 「了解。んじゃ俺帰るわ」

 部員のみんなに告げて、俺は部室から出た。

 予定では部室で寝るつもりだったのだが、アレを読んだ以上じっとはしていられない。

 …………さて、ゆか姉に読ませに行くか。

  



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つまり材木座義輝は貫いている。(後編)

 材木座くんの書いた小説はジャンルで言うなら、学園異能バトルものだ。どうでもいいけど異能って聞くとむせる。

 そして物凄く長かった。少なくとも新人賞に送る分量の小説ではない。おかげで、いい嫌がらせになった。

 「……で、わざわざこれ読ませに来たの?」

 「うん。どうだったよ? 俺の友達にも中々見所のある奴いるだろ?」

 「殺すよ?」

 学校から直接バーむらさきに向かった俺は、早速ゆか姉に材木座くんの書いた小説を読ませていた。

 「ったく……。珍しくお金ねだり以外の目的で来たと思ったら、これ読ませに来ただけなの? 七之助、私になんか恨みでもある?」

 「恨みなら数限りなくあるけど、別に嫌がらせが目的じゃないからな。感想もらいに来たんだよ」

 感想は多いに越したことはないだろうし。まあただの嫌がらせなんだけど。

 「……感想ねぇ。取り敢えず、てにをはの使い方マスターしなきゃお話にもならないんじゃない?」

 「まあそれはそれとして。話の内容は?」

 「くどい」

 ゆか姉が簡潔に、バッサリと斬り捨てる。

 「まあそうなるか。ありがとな」

 「いや良いけどさ……ねむ……」

 「今日は店開けねーの? 開けるんなら今日はタダで弾くけど」

 「んー……折角だし開けよっか……。んじゃわたし顔洗ってくるね……」

 ゆか姉はあくびを噛み殺しながら洗面所へ歩いていった。どうやら昨日はお友達と夜中まではしゃいでいたらしい。元気なことだ。

 「どうやってその子と友達になれたの? 高校生くらいになると、昔のあんたみたいなやり方じゃ中々友達作れないでしょ?」

 ゆか姉が洗面台から話しかけてくる。

 「友達になったのはついさっき。多分楽太郎の友達ってのが大きいな」

 「あー、楽太郎かぁ……そういや最近あいつ来てないね」

 「俺も最近見てねーな。ま、元気にやってるだろ」

 大体、あいつが元気にやってないというのは想像すら出来ない。あいつは地球滅亡一分前でもヘラヘラしているような奴だ。俺も人の事は言えないけど。

 「まあそうだねー。たまには顔出すように言っといて。可愛がってやるからって」

 「あんまり楽太郎虐めてやるなよ……いっつも泣かされてたじゃんあいつ」

 楽太郎と俺たちの付き合いはそこそこに長い。小学校に入る前からの付き合いだ。ここ最近はあまり喋っていないが、それでも俺が心を許せる数少ない友達──友達は恥ずかしいな。ダチ公である。

 「泣かされる方が悪いんですー!」

 遂にジャイアンみたいな事言い始めたなおい……。今更だけどさぁ。

 「よっし! 準備万端!」

 先程までのダウナーな雰囲気は雲散霧消しており、目の前に立つゆか姉は、街を歩けば男なんて選り取り見取り食べ放題なレベルに可愛かった。

 「化粧は?」

 「そんなブス御用達のアイテムに頼らなくてもわたしは超可愛いから、のーぷろぶれむ! もーまんたい!」

 「……さいで」

 言うだけあって可愛いのがムカつく。そりゃ、顔見ただけなら騙されてしまうのも無理はないな。

 俺は心の中で、かつてゆか姉にこっぴどいフられ方をしていった数多の男たちに黙祷を捧げることにした。

 

 

 

 

 

 「おはようドスサントスー!」

 部室に入って開口一番、元気な挨拶をした俺を出迎えてくれたのは、雪ノ下さんの恨みがましい視線だけだった。

 雪ノ下さんはうたた寝をしていたらしく、扉を開けた音でビクッとなって目を覚ましたようだ。

 「……どこの国の挨拶かしら?」

 「強いて言うなら、集英国サッカー県の挨拶だな。ちなみに前のチワーワもそこの言葉だ。また一つ賢くなったな、ゆきのん」

 「……貴方、死にたいの?」

 「その様子じゃ、さしもの雪ノ下さんも結構苦戦したみたいだな。そんなに読むのに時間かかったのか?」

 人一人くらいなら十分殺せそうな雪ノ下さんの殺意のこもった視線は気にしない事にして、これでもかってほどに強引に話をそらした。そんな怒るほどダメな愛称でもないと思うんだけどなぁ。

 「……ええ、徹夜なんて久しぶりにしたわ。私この手のもの全然読んだことないし。……あまり好きになれそうにないわ」

 相変わらず殺意のこもった視線で俺を殺そうとしながらも、雪ノ下さんは話に乗ってきてくれた。なんだかんだ言って、雪ノ下さんは良い人なのである。

 「まあ、毒にも薬にもならない本が多いのも確かだな。たまにメッセージ性の強い奴とかもあるけど、そういうのはマイノリティだ」

 大半は、ジャンクに、安易に、大量に、だ。しかし俺はそれが悪いことだとは思わない。大量にあるというのは、それだけで価値がある。時間を潰すのにもってこいだ。

 「ちなみに雪ノ下さんはどんな本が好み?」

 「英米文学かしら。有名どころは大抵読んだわ」

 英米文学とはまたざっくりした括りである。そもそも何を以って文学とするのかという議題で十分は潰せる。そして多分十五分で飽きてやめる。

 「英米文学ねぇ。……あ、『ハックルベリーフィン』とかは俺も好きだよ。あれは良い本だ。思わずニグロって言いたくなるくらい」

 「それは色々不味いと思うのだけれど……。というかあなた、そんな知識もあるのね。てっきり、本なんて全く読まない人だと思っていたわ」

 心外である。俺は結構本が好きな人間だ。暇つぶしにもってこいだし、何より他人に邪魔されずに済む。一人で引きこもるにはうってつけのアイテムだ。

 「本は好きだぞ? 前に雪ノ下さんが比企谷くんバカにするのに使った賢治も読んでる。俺は『よだかの星』より『セロ弾きのゴーシュ』の方が好きだけど」

 「なぜ?」

 「ゴーシュの最後のセリフの、あのなんとも言えない余韻が好みなんだ」

 まあ、単純に『よだかの星』があまり好きじゃないってのも大きいんだけどね。

 「へぇ……」

 感心するように、雪ノ下さんが目を細めてこちらを見る。

 「七里ヶ浜くん。何か、オススメの本はあるかしら?」

 微笑みながら問いかけてくる雪ノ下さんに、一瞬言葉を失う。

 その顔は、反則だろう。

 「…………俺が読んだ本は、雪ノ下さんなら全部読んでるよ、きっと」

 気恥ずかしくなったので、俺は雪ノ下さんの目を見ず、適当に答える。

 ガキだな。素面に戻った途端これだ。

 「そう?」

 雪ノ下さんがクスリと笑い、俺は更に気恥ずかしい気分になった。

 それきり、雪ノ下さんは何も話さず。俺も何も話す事が出来ず。気まずい時間を過ごしていると、ようやく部室に比企谷くんと由比ヶ浜さん、そして材木座くんがやって来た。

 「頼もう」

 材木座くんが古風なもの言いと共に入ってくる。

 「さて、では感想を聞かせてもらうとするか」

 材木座くんは椅子にどかっと座り、偉そうに腕組みをして何故か優越感じみた表情を浮かべていた。自信ありと見える。あの小説の何処に自信を見出しているんだと口に出してやろうかと思ったが、流石にやめた。

 対して雪ノ下さんは申し訳なさそうな顔をしていた。

 「ごめんなさい。私にはこういうのよくわからないのだけとわ……」

 そう前置きした雪ノ下さんに、鷹揚な頷きで材木座くんが応える。

 「構わぬ。凡俗の意見も聞きたいところだったのでな。好きに言ってくれたまへ」

 材木座くんの言葉を受けて、そう、と短く返事をすると、雪ノ下さんは小さく息を吸って意を決したように口を開いた。

 「つまらなかった。読むのが苦痛ですらあったわ。想像を絶するつまらなさ」

 「げふぅっ!」

 一太刀で斬り捨てやがった……。

 がたがたと材木座くんが椅子を鳴らしながらのけ反ったが、どうにかこうにか体勢を立て直す。

 「さ、参考までにどの辺がつまらなかったのかご教授願えるかな」

 「まず、文法が滅茶苦茶ね。なぜいつも倒置法なの? 『てにをは』の使い方知ってる? 義務教育は受けた?」

 義務教育を受けたかどうかを疑問視されるって……。

 「ぬぐ……そ、そらは平易な文体でより読者に親しみを……」

 「そういうことは最低限まともな日本語を書けるようになってから考えることではないの? それと、このルビだけど誤用が多すぎるわ。『能力』に『ちから』なんて読み方はないのだけれど。だいたい、『幻紅刃閃』と書いてなんでブラッディナイトメアスラッシャーになるの? ナイトメアはどこから来たの?」

 「げふっ! う、うう。違うのだっ! 最近の異能バトルではルビの振り方に特徴を」

 あまりにも言い訳が見苦しかったので、俺は小声で比企谷くんに話しかけた。

 「異能って聞くとむせるよな」

 「お前はどこのPSだ。制服の肩の所赤く塗ってやろうか?」

 「貴様……塗りたいのか!?」

 「へっ……冗談だよ」

 比企谷くんと軽口を叩いていると、材木座くんが白目剥きながら四肢を投げ出しピクピクしていた。どうやら雪ノ下さんの剃刀はものすごい切れ味らしい。分かってたことだけど。

 「雪ノ下、その辺でやめとけ、あんまりいっぺんに言ってもあれだろうし」

 「まだまだ言い足りないけど……。まぁ、いいわ。じゃあ次は七里ヶ浜くんかしら」

 「あいよ」

 比企谷くんの言葉を受け、ようやく舌刀を収めた雪ノ下さんは、次に俺を指名してきた。

 「あーなんだ。内容的な事は他のやつが言ってくれるだろうから、構成の事を」

  そう前置きして俺は材木座くんを見る。どうやら未だに雪ノ下さんの酷評から立ち直れていないらしいが、気にしてたら日が暮れても終わらないだろうから気にせず続ける。

 「全体的にくどい。そのせいで見せ場とそれ以外の緩急が付いてない」

 雪ノ下さんに比べてまだマシな批判だったためか、材木座くんが自信を取り戻したようにこちらを見る。

 「凡俗には分からんだろうが」

 「黙って聞け。この話ならこれの半分に削ること。時間の無駄だから。あと新人賞に送るんならせめて完結させろ、思わせぶりな台詞全部カットして」

 一息に言うと、材木座くんが半泣きでこちらを見ていた。

 「や、まあ良い暇つぶしにはなったから、感謝はしてる」

 嫌がらせも出来たしな、と小さく付け加えた。

 「という事で精進してくれ。んじゃ次は由比ヶ浜さん、よろしく」

 「え!? あ、あたし!?」

 材木座くんが縋るような視線を由比ヶ浜さんに送っている。その目は優しかった。いや半泣きだった。

 それを見て流石に哀れに思ったのか由比ヶ浜さんはどうにか褒める部分を探そうと虚空を見つめて言葉をひねり出す。

 「え、えーっと……。む、難しい言葉をたくさん知ってるね」

 「ひでぶっ!」

 「とどめ刺してんじゃねぇよ……」

 比企谷くんの言うとおり、これはほぼとどめに等しい言葉だ。つまりこの言葉の意味は、褒められるところがそこしかないという事に他ならない。

 「じゃ、じゃあ、ヒッキーどうぞ」

 由比ヶ浜さんは逃げるように席を立ち、比企谷くんにその席を譲る。どうやら燃え尽きて真っ白になった材木座くんを正視するのが耐えられなかったようだ。

 「は、八幡。お前なら理解出来るな?」

 比企谷くんを見る材木座くんの目は「お前を信じている」と告げている。

 そんな目を見た比企谷くんは、一つ深呼吸したあと、優しくこう言った。

 「で、あれって何のパクリ?」

 その言葉を聞いた瞬間、材木座くんはごろごろと床をのたうち回り、壁に激突して動きを止めるとピクリとも動かなくなった。

 「……あなた容赦ないわね。私よりよほど酷薄じゃない」

 雪ノ下さんがものすごい勢いで引いていた。

 「……ちょっと」

 気の毒に思ったのか、由比ヶ浜さんが比企谷くんの脇腹を肘でつついた。どうやら慰めてやれと言っているらしい。

 しばらく考え込んだ比企谷くんは、重々しくその口を開いた。

 「まぁ、大事なのはイラストだから、中身なんてあんま気にすんなよ」

 …………死体蹴りはしちゃダメだぞ! お兄さんとの約束だ!

  

 

 

 

 材木座くんはしばらくの間、ラマーズ法を繰り返してから、プルプル手足を震わせながら立ち上がった。

 そして、ぱんぱんと身体についた埃を払うとまっすぐに俺たちを見る。

 「……また、読んでくれるか」

 「読むよ。いつでも持って来い」

 即答した。暇潰しになるとかそんな理由ではない。ただ、材木座くんの目に、憧れてしまった。

 「お前……」

 比企谷くんが材木座くんの真意を図り損ねたのか困惑している。

 「ドMなの?」

 由比ヶ浜さんは比企谷くんの陰に隠れて、材木座くんに嫌悪の視線を向けている。少し気分が悪くなる。

 「お前、あんだけ言われてまだやるのかよ」

 「無論だ。確かに酷評されはした。もう死んじゃおっかなーどうせ生きててもモテないし友達いないし、とも思った。むしろ、我以外みんな死ねと思った」

 「そりゃそうだろうな。俺でもあんだけ言われりゃ死にたくなる」

 しかし材木座くんは、そこでは終われない、終わってなるものかと、そう思ったのだろう。そんな熱さを、俺は確かに感じたのだ。

 「だが。だがそれでも嬉しかったのだ。自分が好きで書いたものを誰かに読んでもらえて、感想を言ってもらえるというのはいいものだな。この想いに何と名前をつければいいのか判然とせぬのだが。……読んでもらえると、やっぱり嬉しいよ」

 そう言って、材木座くんは笑った。

 きっとそれは、剣豪将軍の笑顔ではなく、材木座義輝の笑顔で。

 これは、材木座くんが中二病を突き詰めた結果辿り着いた境地だ。馬鹿にされて、無視されて、笑われても、それでも彼はきっと書く。

 そうあって欲しいと思う。

 「ああ、読むよ」

 比企谷くんが真剣な顔で言う。

 「また新作が書けたら持ってくる」

 そう言い残して材木座くんは俺たちに背を向けて、堂々とした足取りで部室を後にした。

 閉じられた扉は、いやに眩しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして数日後、材木座くんは相も変わらずダメダメなことを言っているらしかった。比企谷くんからの又聞きなんだけど。

 それでも、その話をする比企谷くんは、少しだけ楽しそうだった。

 



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どうにもこうにも川崎沙希はこちらを見ない。

 今日も今日とて暇である。新しい暇潰しを探そうにも、パッと思いつく様な遊びは全て潰してしまったので、エキセントリックかつエレガントな遊びを考えなければいけないのだが、そんなものがポンポン思い浮かぶのならば苦労はしない。思いつかないからエキセントリックかつエレガントなのだ。

 そんな暇を持て余した神々である俺であったが、珍しく体育の授業に出るとサッカーをやれるようなので少しばかり興奮する。

 総武高校の体育は、三クラス合同で、男子総勢六十名を二つの種目に分けて行う。

 この間まではバレーボールと陸上だったらしいが、今月からはサッカーとテニスらしい。

 どうも、テニスが人気だったらしく、余った奴や休んでいた奴はサッカーの方に放り込まれたようだ。まあテニスの方がやれる人数も少ないし、妥当だろう。

 ちなみに比企谷くんはテニス、競技選択の時にじゃんけんで負けた材木座くんは俺と同じでサッカーをやっていた。

 比企谷くんや材木座くんは個人技に重きを置くファンタジスタ的な存在なので、サッカーよりテニスの方が好きなのだろう。

 俺もどちらかと言うと個人競技の方が好きなのだが、かといって団体競技が嫌いなわけでもないためどっちでも良かった。

 そういった経緯で、俺は対面にいる材木座くんにボールを蹴り出しているのだった。

 「七之助よ……もう少し手心を加えてくれんか? はっきり言って我、死にそうなんだが?」

 「いやいや、ちゃんと動かなくても取れる所にしか蹴ってねーよ?」

 結構な強さで蹴っているが、それでも普通のパスの範囲だ。インサイドキックだし。

 「……ところで七之助。球の扱いに手慣れているようだが、経験があるのか?」 

 「俺も男だからな。タマの扱いに関しちゃ一家言あるさ」

 俺がドヤ顔をしながら材木座くんを見ると、材木座くんはこれでもかというくらいドン引きしていた。何でだよ……。

 「サッカーの話なら、暇潰し程度にやってたよ。つっても一人でしかやらなかったから、リフティングだったり壁蹴りだったりしかした事ねーけど」

 というかそれ以外はやる気にならない。下手くそな味方を見ていると殺意が湧くので、どうやら俺には団体競技は向いていないらしいという事に小学生くらいの頃に気づいたからだ。つくづくクソ野郎である。

 「そうか……お主も我が魂の御旗の元に集った同志であったな……」

 三秒くらい考えて、材木座くんが俺をぼっち扱いしているということにようやく気づいた。

 少々ムカついたので、材木座くんの腹部めがけて、インステップキックで思いっきりボールを蹴り飛ばした。

 「へぶらっ!?」

 「おー材木座くんナイストラップ!」

 寸分違わず材木座くんの腹部を撃ち抜いたボールは、彼の体に完全に勢いを吸収されたらしく、見事に彼の足元に収まっていた。ついでに材木座くんもうずくまっていた。

 「七之助……お主我にどんな恨みが……」

 そんな感じで、俺は材木座くんと仲良く(?)やれているのである。

  

 

 

 

 

 

 四時限目が終わり、昼休みになる。

 俺はいつものように非常用階段に向かうのではなく、屋上へと向かっていた。

 「さてさて、開けますかね」

 一人呟き、ポケットからヘアピンを取り出し、屋上のドアにかかっている南京錠の鍵穴にそれをあてがう。

 鼻歌交じりに三十秒ほど格闘すると、鍵はすんなり開いた。やはり南京錠は糞である。校務員さん、今すぐ別の鍵に取り替えた方が良いですよ。  

 南京錠は、シリンダーを無視して一番奥の部品だけ回せば開くため、慣れれば一瞬で開けられてしまうのでオススメできない。

 開けたついでに少し細工して、分かりにくく壊しておく。これで誰でも開けられるだろう。

 さあ皆さんお待ちかね、青春の代名詞こと屋上ランチを楽しみますかね。ぼっちだから青春もくそもねーな。大体ご飯持ってきてないし。そのうちゆか姉に弁当でも作ってもらうか。

 屋上に侵入し、貯水タンクの上に登る。バカと煙は高い所が好きなのである。ちなみに俺はバカも煙も好きだ。

 ポケットからタバコを取り出し火をつけようとしたが、オイルが切れていたらしく火がつかない。

 小さく舌打ちして、空を見上げる。

 「あー、都合良くライター持った背の高い美人な女の子とか来ねえかなぁ……」

 酷くレベルの低い妄想だったが割と切実な独り言である。

 ご飯はない、タバコも吸えないとなるとやる事は一つだ。

 「……寝よ」

 午後の授業は起きれたら行こう。多分日が暮れるまで寝てるだろうけど。

 貯水タンクの上で寝そべって仰向けに空を見ると、五月の空にしてはやけに高くて、それが更にムカついた。黄砂仕事しろ。いや来たら来たでムカつくんだけど。

 そう、気分はまさに『ショーシャンクの空に』だ。春以外なんの関係もない。

 ちなみにこの映画の原作はスティーブンキングの中編小説集『恐怖の四季』に収録されている春の物語『堀の中のリタワース』で、この本にはかの有名な『スタンドバイミー』──原題だと『ザ・ボディ』か──も収録されている。『スタンドバイミー』は夏の話だと思っている人も多いが、実は秋の話である。サザンの曲に思ったより夏真っ盛りな曲がないのに似た感じだ。確か夏の物語は『ゴールデンボーイ』だったか。ゴールデンバットみたいな名前である。もしくはゴールデンボール。死ね。

 もっと突っ込んだ話をすると、この『恐怖の四季』というタイトル自体が当時の日本でのスティーブンキングの評価を表していて、原題は『different seasons』なのだが、ホラー作家としてのキングを目当てに買っていた人を離さないためにあえてこんな訳にしたとかなんとか。

 ここまで考えて、そういえば雪ノ下さんからオススメの本を教えてくれと言われていたのを思い出した。

 うーん……悩むなぁ。英米文学といわれてもいまいちピンとこない。というか小説限定なのだろうか。詩集とかでも良いならディキンスンでも勧めてみようか。

 あ、でも雪ノ下さんはああ見えて割と少女趣味なところもありそうだし、児童文学とかで攻めてみるのも面白いかもしれない。読んでるかもしれないけど、アリス辺りなら原書のペーパーブック持ってるし貸してやろうかな。アレは英語で読まないと魅力が半減するし。カバン語とか。

 英米の縛りがなければ、ドイツやフランスの作家の本を勧めるのも良い。サン=テグジュペリの『夜間飛行』とか『星の王子様』……これはメジャーだし雪ノ下さんも読んでそうだな。他にはヘッセの『車輪の下』とか……これも読んでそうだ。自伝色の強い本から選ぶならケラーの『緑のハインリヒ』とかは読んでないかもしれない。

 ……ていうかなんでこんな教養小説めいたものばっか挙げるんだよ。あくまで女の子にオススメする本なんだ。もっと気楽に読める奴で良いだろ。

 滔々と誰にも語れないであろう衒学を披露してると、屋上のドアがどんと音を立てて閉まった。あれ? 俺閉めなかったっけ?

 疑問に思ってドアの方を見ると、そこには背の高い女の子が立っていた。

 長く背中にまで垂れる青みがかった黒髪。リボンはしておらず開かれた胸元、余った裾の部分が緩く結びこまれたシャツ、長くてしなやかな足。そして、ぼんやりと遠くを見る、覇気のない瞳が印象的だった。泣きぼくろが一層倦怠感を演出している。

 有り体に言えば、タイプの女の子である。

 彼女はキョロキョロ周りを見渡したあと、梯子を登って貯水タンクに寄りかかったようだ。死角に入ったため見えないが。

 「ちょいとそこの御仁、ライターなんてもっとらんかね?」

 意識して老人の声を出すと、彼女は音を立てて驚いていた。面白い。

 「上だ上」

 そう言って顔を出すと、彼女は心底ウザそうな顔でこっちを見ていた。

 近くで見て思い出す。そうそう、クラスメイトの川崎沙希さんだ。

 「どーも、川崎さん」

 挨拶すると、川崎さんはゴソゴソとブレザーのポケットを漁ってから、僕に何かを投げつけてきた。ライターだ。

 「あんがとね」

 礼を言って、タバコに火をつける。

 「あんた誰? 何であたしの名前知ってんの?」

 「みんなのアイドル七里ヶ浜七之助くんですよー。クラスメイトの」

 自己紹介をしながら、今の状況が実はものすごい事だということにようやく気付いた。だってこれ、さっきの超低レベルな妄想そのまんまじゃん! ビビるわ。川崎さん天使かよ。 

 「あっそ」

 カンカンと音がしたと思うと、川崎さんが貯水タンクの上に登ってきていた。

 「煙大丈夫?」

 「別に」

 相変わらず気だるげな目で遠くを見ている川崎さん。うーむ、見れば見るほどタイプだ。ワンチャン押し倒すまである。嘘だけど。

 暫くの間、俺たちは無言でぼけーっと空を見ていた。

 「そろそろ昼休み終わっちゃうけど、戻らなくても良いの?」

 煙を吐き出しながら質問する。俺より先に帰るのが気まずいって理由でぼーっとしているなら、流石に不味いだろう。帰る気ないし。

 「別に」

 短く答える川崎さん。あんたさっきからそれしか言わねーなおい。超ベリーグッドだ。チョベリバならぬチョベリグ……ないな。というかまずチョベリバがない。

 まあ、本人がそう言うんなら大丈夫なのだろう。見たところ優等生って訳でもなさそうだし。

 「ところでさ」

 タバコをもみ消し、折角だしと思って二本目を口に咥えた俺に川崎さんが話しかけてくる。

 「ん?」

 火を付けながら答える。

 「あの鍵壊したのあんた?」

 「いや、来たら壊れてたぞ?」

 「ふーん……」

 しれっと嘘をつく。余計な罪は被りたくないのだ。目の前で堂々とタバコ吸ってるから今更だけど。

 「……川崎さんは男と二人きりで怖かったりしないの?」

 「空手やってたから」

 簡潔に、興味なさげに答える川崎さん。へー、空手かぁ。カッコ良いなぁ。ますます惚れるね。ノーカラテ、ノーニンジャと広く言われているし、川崎さんは実は忍者なのかもしれない。ドーモ、カワサキ=サン。

 「あ、そうだ。川崎さんはプレゼントに本貰えるならどんなのが良い?」

 丁度いいやと思い、川崎さんに雪ノ下さんに貸す本の範囲を絞ってもらうことにした。

 「……参考書」

 しばらく考えた川崎さんは夢も希望も女子力もない答えを返してきた。まあ雪ノ下さんにやる本に、女子力は全くと言っていいほど要らないけど。

 「お、おう……」

 何とも言えない空気になる。流石にその答えは想定外だったのだ。

 空気が上滑りししばらく無言のまま過ごすと、タバコがそろそろ短くなってきていた。

 「……俺、このままここで寝るけど、ご一緒しません?」

 火を消し、冗談めかして川崎さんに問いかけてみる。

 川崎さんは、こちらを見て一言。

 「バカじゃないの?」

 言い捨てて、彼女は貯水タンクから降りて行った。

 「つれないなぁ」

 一人呟いたセリフは潮風に掻き消え、彼女の耳には入らなかった。

 

 

 



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嘘か真か戸塚彩加にはついている。

 「比企谷くんがテニス部に?」

 天使、いや違う川崎さんとの邂逅を経た後、宣言通り六限が終わるまで寝てた俺が部室へ向かうと、比企谷くんが雪ノ下さんにテニス部に入部したいという旨を伝えているところだった。

 ちなみに日が暮れる前に起きれた理由は、寝相の悪さが災いして貯水タンクから落下したからだ。死ぬかと思った。

 「無理ね」

 比企谷くんの要求をにべもなくはね除ける雪ノ下さん。

 「ていうか何でテニス部なの?」

 尋ねると、比企谷くんが事の経緯を説明してくれた。

 曰く、この高校の弱小テニス部を奮起させるため、戸塚彩加が比企谷くんをテニス部に誘ったという話らしい。

 「あー、戸塚ちゃんね、クラスメイトの」

 戸塚彩加。俺と比企谷くん、由比ヶ浜さんのクラスメイトだ。一見女にしか見えないが実は男らしい。事実は小説よりも奇なり、である。信用出来ねえ。

 「「…………ちゃん?」」

 比企谷くんと雪ノ下さんが言をシンクロさせながら、怪訝な顔で俺を見た。

 「や、戸塚ちゃん男に見えないから戸塚くんっていうのもアレだし、かといって戸塚さんっていうのも無いだろ?」

 俺がそう言うと、比企谷くんは何度か頷いていたが雪ノ下さんは相変わらず怪訝な顔をしていた。そんなに変か。

 「で、話戻すけどよ、俺を入部させようっていう戸塚の考えも間違っちゃいないとは思うんだよな。要はテニス部の連中を脅かせばいいんだ。一種のカンフル剤として新しく部員が入れば変わるんじゃないか?」

 比企谷くんが尚も食いさがっている。というか比企谷くんがここまで必死になっているという事は裏でなんか考えているに違いない。戸塚ちゃんとイチャイチャしたいとか、このまま奉仕部を円満退部したいとか……多分後者だな。

 「あなたに集団行動ができるとでも思っているの? あなたみたいな生き物、受け入れてもらえるはずがないでしょう?」

 「うぐっ……」

 図星を突かれたのか、比企谷くんが黙り込み、それを見て雪ノ下さんはふっと笑い声をあげる。

 「つくづく集団心理が理解できてない人ね。ぼっちの達人だわ」

 そりゃあんたもだろう、と誰にも聞こえないように小さく呟く。

 比企谷くんも「お前が言うな」と言っていたが、それを無視して雪ノ下さんは話を続ける。

 「共通の敵を得て一致団結することはあっても、それは排除するための努力をするだけで自身の向上に向けられることはないわ。だから解決にはならないの」

 「えらく生々しいな。実体験?」

 あまりにも憎々しげに言っていたので思わず立ち入った質問をしてしまった。失礼だったかもしれない。

 「ええ、私中学のとき海外からこっちへ戻ってきたの。当然転入という形になるのだけど、学校の女子は私を排除しようと躍起になったわ。誰一人私に負けないように自分を高める努力をした人間はいなかった……あの低脳ども……」

 言い切った雪ノ下さんの後ろから煉獄の炎が立ち上る。……あれ? ここってムスペルヘイムとかそんな場所だったっけ?

 「ま、まぁなんだ。その、お前みたいな可愛い子がきたらそうなるのはしょうがないんじゃないの」

 雪ノ下さんに恐れをなしたのか、比企谷くんがフォローじみたものをいれると雪ノ下さんは真っ赤になって、自分をやたらめったら賛美する言葉を早口でまくし立てていた。可愛い。比企谷くんグッジョブ。

 「で、テニス部はどうすんの?」

 ほっといたらまたもや甘酸っぱい空間になりそうだったので話を戻す。別にそれを見ているのも楽しいから良いんだけど、戸塚ちゃんのお悩みを解決してからでも遅くない。何よりこの流れだとお手伝いと称してテニスができるかもしれないし。

 テニスはほとんどやったことがないので、少しやってみたい気分なのだ。

 「そうね……。全員死ぬまで走らせてから死ぬまで素振り、死ぬまで練習なんてどうかしら」 

 微笑み混じりで雪ノ下さんが答える。

 「確かにそれが一番の近道だろうけど、強豪校でもないうちのテニス部がそれに耐えれるとは思えないな」

 強豪校の練習はえてしてそんなものなのだろう。身体をデカくするために吐くまでご飯を食べさせるなんてのもよく聞く話だ。

 しかし、弱小の部がそんな事をすると、良くても廃部、悪けりゃ人死にまである。なんせ覚悟も糞もないのだから。大体そこまでやる奴らはこんなところで燻ってはいない。

 「誰かが入部するのもダメ、練習のレベルを上げるのもダメとなると、こりゃいよいよ打つ手なしじゃねえか。どうすんだよ」

 比企谷くんがぼやく。

 「雪ノ下さんあたり景品に出して天下一テニス大会でも開けばいいんじゃね?」

 「あなたが死にたいということはよく分かったわ」

 「冗談です許してください」

 音速で謝った。こえーよ、冗談通じないタイプかよ。勘弁してくれ。

 しばらくの間雪ノ下さんの殺意を一身に受けて身も心も冷え冷えさせていると、がらりと部室の扉が開けて間の抜けた挨拶をする由比ヶ浜さんと共に、今回の依頼人(仮)である戸塚ちゃんが深刻そうな顔をして中に入ってきた。うぅむ、相変わらず男には見えないな。

 しかし、幾ら可愛いと言っても、ここまで露骨に女女している女の子はノーサンキューだ。もっと背が高くてカッコ良い女の子を連れて来い。

 ……や、そもそも戸塚ちゃん男だけどさ。

  

 

 

 

 

 という経緯を経て、俺たち奉仕部はテニス部、ではなく戸塚ちゃん個人を鍛える事になった。「部活を変えれないなら、変わりたい人が勝手に変わればいいじゃない」という雪ノ下さん理論に従ったのだ。

 その結果、奉仕部feat.TOTSUはここ何日か毎日昼休みにコートに集まって練習している。ヒェア!

 「おら走れー! ちんたらするんじゃねー!」

 雪ノ下さんは、何やらこういう嫌な先輩役にハマったらしく、死ぬ寸前まで戸塚ちゃんを走らせてはそれを野次っていた。中々いい趣味をしている。楽しいもんな、マネとかフリとかって。

 戸塚ちゃんがフラフラになりながらも健気に走ってるのを見てか、隣の比企谷くんは半分泣いていたが無視する事にした。しばらくすると蟻の観察し始めたし。

 良いよな、蟻って。昔女王蟻捕まえて瓶の中にコロニー作らせたのを思い出す。あれは中々楽しかった。飽きて外にぶちまけた時の蟻たちの慌てようも面白かったし。

 昔の事を思い出して一人ニヤニヤしていると、ノルマである三キロを走破した戸塚ちゃんは、給水を経てすぐさまウエイトトレーニングに移っていた。最初の頃は腕立て伏せ十回で死にかけていたのが、いまや三十回ほど出来るようになっているのも雪ノ下さんのしごきの賜物だろう。ひどい女だ。

 そんな雪ノ下さんは木陰で呑気に本を読みながら思い出したように戸塚ちゃんに檄を飛ばし、その隣で由比ヶ浜さんがスヤスヤ寝ている。暇だし仕方ないだろう。蟻の観察してる奴までいるんだし。それにしても良い顔で野次るなぁ、雪ノ下さん。ありゃ真性だわ。

 そう言う俺も、戸塚ちゃんの手伝いをする訳でもなく一人で壁に向かってラケットを振り回しているだけだった。中々面白いため結構ハマっている。三日保たないだろうという予測が簡単についたが、飽きるまでは全力を以てして色々試していく所存である。

 「お前延々と壁打ちしてて飽きねえの?」

 ファーブルくんならぬ比企谷くんが蟻の観察を止めこちらを見て尋ねてきたので、跳ね返ってきたボールを適当に打ち上げて手に収める。

 「小便漏らすくらい楽しい」

 そこまでは面白くないけど。もっと面白いことないかなぁ。

 「……あっそ」 

 比企谷くんは興味なさげに呟き、またもや蟻の観察に戻っていた。どんだけ蟻好きなんだよ。いよいよファーブルだな。ファブ谷くん。これだと良い匂いしそうだ。それか某バンドの関連グッズか。

 再び壁打ちに戻ると、今の会話のせいかさっきまでより面白くなかったのでやめることにした。興が削がれたというやつだ。ま、これくらいで削がれるような興ならその程度である。

 「やーめた。戻るわ」

 比企谷くんに言うとこちらも見ずに手をひらひらさせて答えていた。

 さて、煙でも呑みに行きますかね。

 

 

 

 次の日、雪ノ下さんは戸塚ちゃんの基礎トレーニングを軽めに切り上げ、ラケットとボールを使った練習をさせていた。コートの左右にボールを投げて、それを打ち返す練習だ。野球の練習で例えるとアメリカンノック的な感じ。あ、戸塚ちゃんこーろんだ。

 結構派手に擦りむいたらしく、続行するという戸塚ちゃんの宣言を聞いて、雪ノ下さんはスタスタと何処かへ歩いて行った。ああ見えて優しい子だから、多分保健室にでも行ったのだろう。

 そんな光景を横目に俺は、何故かちょくちょく参加している材木座くんを誘ってゲームもどきをしていた。

 「七之助よ……頼むからもう少し遅い球を打ってくれ、ゲームにならんだろう」

 容赦なく打ち込んでいると、材木座くんが速攻で音を上げた。

 「そこはほら、前世より受け継ぎし秘められた力でボール光らせたり王国作ってくれないと」

 「ふむ……。遂にこの拘束具を外す時が来たか……」

 「材木座くん、そういう時は『アンテ』って叫ぶもんだぜ」

 で、俺が「良い試合をしよう」って呟く。完璧だ。

 それにしても、本当にボールが帰ってこないためゲームにならない。これじゃ壁相手にしてる方が楽しい。

 「……あ、比企谷くん一緒にやんない?」

 そうだ、一対二なら面白くなるかもしれない。それでもダメなら由比ヶ浜さんか雪ノ下さんも追加して一対三だ。

 「あ? やだよ。面倒くさい」

 比企谷くんが相変わらず蟻の観察をしていたので、俺は近付いて蟻の巣を踏み潰した。

 「親父いいいいいいい!!」

 絶叫していた。え? そこまで感情移入してたの?

 「比企谷くんって蟻の子だったのか。蜂の子は食べられるけど蟻の子なんて何の価値もないから、とっとと人に戻った方が良いぞ」

 「お前に動物愛護の精神ねーのかよ……」

 「面白いんなら虐待でも愛護でもするんだけどな、俺以外を虐めようが守ろうが、俺じゃないからつまらないだろ」

 大体昆虫は動物に含まないだろう。ゴキブリ見て動物愛護を叫ぶ奴にはいまだかつて会ったことがない。現代日本にそんな奴はほとんど居ない筈だ。

 「屑め……」

 比企谷くんが普段の三割増くらい目を腐らせてこっちを見ていた。伝説のにらみつける並の迫力だった。

 「そんな事より野球……じゃない、テニスしようぜ!」

 差し出したラケットを渋々受け取った比企谷くんは、材木座くんのいる方に向かって歩いて行った。どうやら話は聞いていたようだ。

 「うっし、そんじゃ──」

 「あ、テニスやってんじゃん! あーしもやりたいんだけど」

 二人が構えたのを確認してから言いかけると、唐突に後ろから声がした。

 まさしく「振り向くと奴がいた!」という奴である。

 果たして、そこに立っていたのは殿様三浦様。臣下を引き連れこちらを伺っていた。

 

 さて、どうする比企谷八幡。わさわさしてきた。

 



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言うまでもなく葉山隼人はイイ奴である。

 三浦様御一行は、材木座くんと比企谷くんの横を通り過ぎた辺りで俺や由比ヶ浜さんがいる事に気付いたらしい。

 「あ……。ユイたちだったんだ……」

 三浦さんの横にいた女の子が小さく漏らす。あ、由比ヶ浜さんちゃんと奉仕部の事言えてたらしいな。良かった。

 しかし三浦さんは俺たちをちらりと見ただけで軽く無視して戸塚ちゃんに話しかけた。

 「ね、戸塚ー。あーしらもここで遊んでいい?」

 「三浦さん、ぼくは別に、遊んでるわけじゃ、なくて、練習を……」

 戸塚ちゃんが詰まりながらも意思表示をする。殿様相手にそこまで言えるのは中々根性のある奴だ。声はものすごい小さかったけど。

 「え? なに? 聞こえないんだけど」

 三浦さんの、どこぞの難聴系主人公のようなセリフで戸塚ちゃんが押し黙る。仕方ないね。怖いもん。

 「れ、練習だから……」

 戸塚ちゃんはなけなしの勇気を振り絞って再び口を開く。

 「ふーん、でもさ、部外者混じってるじゃん。ってことは別に男テニだけでコート使ってるわけじゃないんでしょ?」

 「それは、そう、だけど……」

 「じゃ、別にあたしら使っても良くない? ねぇ、どうなの?」

 三浦さんがぐうの音も出ない程の正論を並び立てる。こりゃ勝ち目ないな。

 案の定戸塚ちゃんは押し黙り、比企谷くんの方を見た。適切な人選……なのか? とてつもなく嫌な予感しかしないんだけど?

 「あー悪いんだけど、このコートは戸塚がお願いして使わしてもらってるもんだから、他の人は無理なんだ」

 「は? だから? あんた部外者なのに使ってるじゃん」

 比企谷くんが一瞬詰まる。ここしかないな。

 「言ってなかったけど、実は俺たち戸塚に頼まれてテニス部入ることになっててさ、一応部外者じゃないんだわ」

 三浦さんの方を見て一気に言い切る。嘘だけど。いやー嘘を付くのは心が痛いなぁ。

 「え!? そうなの!?」

 ……由比ヶ浜さんが男だったら確実にぶん殴ってたぞ、これ。

 「あー、俺と比企谷くんだけな……」

 これで部外者になった由比ヶ浜さんがいるせいで、三浦さんに言い分が復活する。

 「そうなんだ。でもユイがいるんだから、あーしらも使っていいっしょ?」

 ……もうこのまま練習付き合って貰えば良いんじゃない?

 「あいつは戸塚の練習に付き合ってるわけで、業務委託っつーかアウトソーシングなんだよ」

 比企谷くんが苦しい言い訳をする。流石にこりゃキツいだろう。

 「はぁ? 何意味わかんないこと言ってんの? キモいんだけど」

 こういう屁理屈というかそういうのって、三浦さんみたいな人種は一番嫌いっぽいもんね。俺はこういうの聞くの楽しいから好きなんだけど。

 「まぁまぁ、あんまケンカ腰になんなって」

 空気清浄機こと葉山くんがとりなすように間に入る。やっぱ葉山くんは良い奴だなぁ。

 「ほら、みんなでやった方が楽しいしさ。そういうことでいいんじゃないの?」

 相変わらず良い事を言う。しかし、この場においてそれは確実に失言だ。何故ならここには……。

 「みんなって誰だよ……」

 「比企谷くんちょい待ち」

 比企谷くんが爆発したので、出来るだけ早く鎮火する事にした。

 こういう雰囲気は、あんまり気持ち良くなくて好きじゃないんだ。

 「そうだこうしよう。部外者同士で勝負して勝った方がテニスコート使えるってことにしない?」

 最初から考えていた提案をここで切る。

 そもそも、戸塚ちゃんの練習はコートじゃないと出来ないような練習じゃないのだ。適当な場所で走ったりウエイトやればそれで済むのだから。ボールに触るのは放課後でも全く構わない。

 しかし、だからと言って最初っから降参してコートを譲るのも『面白くない』。

 故の提案。当然三浦さんは受けるだろう。こんなに『楽しそう』なんだから。

 「テニス勝負? なにそれ超楽しそう」

 予想通り、三浦さんは獰猛な笑みと共に話に乗る。やっぱ三浦さん良いなぁ。

 「んじゃ、比企谷くん頑張れな。俺ちょっと戻るわ」

 「はぁ? お前が勝負すんじゃないの?」

 比企谷くんが怪訝そうな顔でこちらを見る。

 「勝負するんなら『着替えなきゃ』ダメだろ? 戻ってくるまで適当にやっといて」

 比企谷くんにそう言って、俺はひらひらと手を振ってから校舎の方へと歩いて戻った。

 

 

 

 

 ジャージに着替え、少し小細工をしてからコートへ出る。

 どうやら試合はまだ始まっていないらしく、ギャラリーだけが騒いでいる状況だった。ていうかギャラリー多いなおい。百人単位でいるぞこれ。葉山くんか三浦さんか知らないが、人望厚すぎだろ。

 「比企谷くん」

 比企谷くんに近付いて話しかける。

 「……あ、えっと、どちら様でしょうか?」

 物凄いキョドっていた。どんだけだよ。

 「七里ヶ浜七之助の妹の、七里ヶ浜七味唐辛子です」

 大真面目な顔でふざけて見せると、比企谷くんの顔が驚愕に歪んだ。

 「え、七里ヶ浜なの? マジで?」

 「え!? 七里ヶ浜くん!?」

 由比ヶ浜さんも驚いて声を上げていた。

 「そう。中々ハイレベルな女装だろ? あと声がでけぇ」

 女装はあまりしたくないが、勝負するためには仕方ないだろう。男子対女子だと不公平だと言われるし。

 「どんな魔法使ったんだよ……。前に怪盗七面相とか言ってたけど、マジで百面相じゃねえか……」

 「ショボいくらいが丁度良いんだよ」

 軽口を叩きながら三浦さんの方を見ると、何やらこちらを怪訝そうな顔で見ていた。え? 女装甘かった? ちゃんとゆか姉から貰った化粧品とか使ったよ? いつもと違ってフルメイクだよ?

 まあ、大丈夫だろ。自分の変装には絶対の自信がある。今回みたく結構本気を出した変装なら、肉親だって騙す自信がある。

 「ちゃんと、男女混合ダブルスって事になってるか?」

 俺を見て口をぽかんと開けている由比ヶ浜さんに尋ねる。

 「なってるけど……何で分かったの?」

 「部外者同士でってルールだとこっちにはまともにテニス出来る奴が比企谷くんしかいないし、向こうの三浦さんは絶対に勝負したがるだろうから、順当に行けばそうなる」

 そこまで見越しているのだ。俺、すごくない? みんな俺を崇めて何か面白いこと遊びを奉納してくれ。

 「じゃ、俺と比企谷くんで軽くボコってくるわ。ラケット貸してくれ」

 由比ヶ浜さんからラケットを借り受け、コートの中に入る。

 「あんた誰? ヒキオの知り合い?」

 三浦さんが相変わらずこちらを疑わしそうな顔で見ている。あぁ、俺が疑わしいんじゃなくて、比企谷くんが女の子連れて来れたことが疑問なのね。ひでーなおい。

 「七里ヶ浜七海です。二年F組七里ヶ浜七之助の妹の」

 声まで完璧に女の子である。狂ったようにやった声帯模写で女の人の声も練習した成果だ。

 俺の説明を聞いた三浦さんは、ふーんと言いつつも更に不思議そうな顔をしていた。……あ、この人俺の名前覚えてねーのか! 酷い女だ。

 「あーし、女テニの服借りてくるけど、あんたも来れば?」

 「汗で汚すのも悪いんで、遠慮しときます」

 「あっそ」

 素っ気なく断ると、三浦さんも素っ気なく答えてスタスタ歩いて行った。付いて行って三浦さんの生着替えを拝むのも悪くないが、流石にそれは由比ヶ浜さんや比企谷くんに止められそうなのでやめた。そんなに興味も無いし。

 「あのさー、ヒキタニくん」

 三浦さんを見送る俺の横に立っている比企谷くんに、どうやら三浦さんの相方としてテニスをやるらしい葉山くんが話しかけている。名前間違ってんぞ。

 「なんだよ?」

 比企谷くんがつんけんしながら答える。そんなんだから友達出来ないんじゃないですかねぇ……。

 「俺、テニスのルールよくわかんないんだよね。ダブルスとか余計難しいし。だから、適当でも良いかな?」

 そんな比企谷くんの悪態にも構わず、葉山くんは相変わらず爽やかに話を続けていた。

 「……デュース無しで、先にブレイクした方の勝ちにしませんか? そっちの方が早く決着付きそうですし」

 俺が話に入ると、比企谷くんが俺の声にびっくりしたのかこちらを凝視していた。

 「……そうだな。で、後はバレーボールみたいに単純に打ち合って点取るって感じでいいんじゃねぇか?」

 「あ、分かりやすくて良いね」

 爽やかに笑う葉山くんを見て、比企谷くんが悪い顔をする。俺も倣って爽やかに笑おうかと思ったが、一応今は女の子なので声を出して笑うのは控え、顔だけを微笑ませる。

 しばらくしてから、三浦さんが着替えを終えて戻ってくるのが見えた。

 さぁ、楽しいゲームの始まりだ。

 

 

 

 

 ゲームは相手のサーブゲームから始まった。

 どうやら、三浦さんは経験者だったらしく、中々えげつないサーブを打ってきた。打ち返せはするのだが、スライスだかなんだか知らないが、曲がったり曲がらなかったりで翻弄され、二回返せなかった。

 そこまでは中々神経を使って面白かったが、何球か受けてしまうと慣れてしまった。

 「ほいさっと」

 リターンエースを狙いハードヒット。ガットに当たった瞬間、スイングの力がほぼ全てボールに乗ったような、手応えを感じない良いショットが打てた。

 しかし敵もさる者。葉山くんが持ち前の身体能力を生かして何とかボールを返してくれる。

 しかし、甘い球な上、葉山くんは横に振られている。次のショットで終わりだ。

 比企谷くんがラケットを振り、そのボールを……空振った。

 「だぁ!」

 女の子の声を出す事は忘れなかったものの、妙な声が出た。いかんいかんと思いつつ、結構無茶な動きをして比企谷くんが空振りした球を打ち返し、点を取る。

 「さ、サーティオール!」

 戸塚ちゃんが声を張り上げてコールする。声には驚きが混じっていた。

 「あのさ、比企谷くん」

 誰にも聞こえないよう、比企谷くんに近付いて小さな声で話しかけた。

 「何だ?」

 「俺がサーブ返したら下がってくんない? 前で俺が捌くからさ」

 はっきり言って邪魔である。正直一対二の方が俺的に楽しい。むしろ、味方がいるせいで俺が気持ち良くなれない。

 「勝算あんのか?」

 「無いけど勝つ。そもそも俺サーブ打った事ないから、ここで決めなきゃ確実に負ける」

 「何だよそれ。最初からクライマックスじゃねえか」

 「だから……」

 「邪魔だからじっとしてろってか?」

 比企谷くんが俺の言葉を引き継ぐ。

 「いや、そういうわけじゃねーんだけど……」

 「わってるよ。……精々気持ち良くなってこい」

 驚いて顔を上げると、比企谷くんは、卑屈さは感じさせないが相変わらず黒い笑みを顔に浮かべていた。

 「はっ、あいつらに吠え面かかすにゃこれが最善手だしな」

 「比企谷くん……とことん屑だな」

 「てめーに言われたかねえよ」

 言って、二人で笑う。

 「完膚無きまでに叩き潰してくるわ」

 「おう」

 短く答えた比企谷くんが前へ歩いて行く。

 俺が構えると、向こうで三浦さんがボールを放り上げ、ラケットを力強く振り抜いた。

 速い球。回転数の少ない綺麗なフラットサーブだ。

 きっと三浦さんはドヤ顔しているだろう。それでこそ三浦さんだ。

 そんな事を、ぼんやりと考える時間があった。

 「サーティ・フォーティ!」

 完璧なライジングショットで打ち返し、ドヤ顔で比企谷くんを見やる。比企谷くんは三浦さんの、驚きに目を見開いた様を見てケラケラ笑っていた。性格わりぃなおい。そういうの、嫌いじゃないけどさ。

 「お蝶夫人の割に、大したことないんですね、三浦先輩」

 前へ歩き、ニコリと笑いながら三浦さんを虐めると、三浦さんは顔を真っ赤にしてプルプル震えていた。や、流石にそこまでリアクションされると次で決めにくくなっちゃうなぁ……。勝負事で手を抜くのは性に反するから普通に終わらせるけど。

 「早く打ってくれません? 私、お弁当食べに戻りたいんで」

 言ってて自分でもブン殴りたくなるくらい腹の立つ後輩である。試合が終わったら精々俺の妹を虐めてやってくれ。俺が許す。

 「あ、あんた……」

 「打てないんなら葉山先輩でも良いですよ。どっちにしろ終わりでしょうけど」

 言い捨てて後ろへ戻って構えると、三浦さんが葉山くんからボールを受け取っていた。次も三浦さんが打つようだ。

 中々のガッツである。しかし、もう飽きた。はっきり言って壁打ちの方が速い球がくるし、キツイ。あっちの方が面白い。どうでも良くなってきたし、とっとと決めよう。

 三浦さんが代わり映えのしないサーブを打ってくる。ここでもフラットを打ってきたのが三浦さんらしい。力でねじ伏せたいと見える。

 適当に打ち返すと、少々甘いコースに入ってしまった。三浦さんが食らいつき、ギリギリのところで返してきた。

 まあ、材木座くんとやるより楽しくはあったなと思いながら、決めるつもりで返球。葉山くんでは届かないし、体勢を崩した三浦さんにも取れない位置に打った──つもりだった。

 「届け……!」

 三浦さんが、弾かれたように横へダイブ。ギリギリのところでラケットがボールに触れ、こちらへ帰ってきた。

 思考が凍る。何も考えられず、体も動かない。自分の身を省みず飛び込んだ三浦さんが、ボールの行方を確認するのを、ただ突っ立って、ぼーっと見ることしか出来なかった。

 ──彼女が、とても美しく、尊いものに思えたから。

 「おい! 七里ヶ浜!」

 比企谷くんがダッシュでこちらにきて、打ち返す。

 しかしミスショットだった。大きくコートを越えるようなフワリとした球。ほっとけばアウトになる球。

 それでも三浦さんは立ち上がって、覚束ない足取りでボールを追いかける。

 「っ! 優美子!」

 葉山くんが声を上げ、それでようやく現実に戻る。あのまま行けば、三浦さんはフェンスに突っ込んでしまう。

 葉山くんはラケットを投げ捨て、フェンスにぶつかる直前の三浦さんを身体で受け止めようとする。

 砂埃が派手に舞い、静寂がコートに満ちる。

 砂埃が晴れると、葉山くんは見事に三浦さんを受け止めていた。髪の毛を撫でている。こんな時でも彼は爽やかだった。

 三浦さんが顔を赤くし、ギャラリーが大声で隼人コールを始め、葉山くんと三浦さんは胴上げされながら校舎の方へと連れて行かれた。

 これで、終わり。

 

 「「「「……え?」」」」

 

 比企谷くん、由比ヶ浜さん、材木座くん、戸塚ちゃんの心が一つになった瞬間だった。

 「……今の馬鹿騒ぎしていた集団は一体何だったのかしら?」

 振り向くと、救急箱を持った雪ノ下さんが、小首をかしげながら此方へ歩いてきていた。

 「……青春って奴だろ、多分」

 その返し以外、俺には思いつかなかった。



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そして七里ヶ浜七之助は考える。

 放課後、いつも通り部活へ向かうと、部室には雪ノ下さんしか居なかった。

 「あ、雪ノ下さん。これ」

 丁度良いやと思い、鞄から本を取り出して雪ノ下さんに渡す。

 「藪から棒にどうしたのかしら、七里ヶ浜くん」

 「前にオススメの本教えてくれって言われたから持って来たんだ」

 「そう……ちなみにどんな本なの?」

 「官能小説」

 「………………」

 「……冗談です」

 極寒という言葉が相応しいまでの、凍える冷気を雪ノ下さんが無言で放出していた。名前に恥じない氷の女王様っぷりだ。

 「『月と六ペンス』って本なんだけど、読んだことある?」

 「名前を聞いたことはあるけど、読んだことはないわね。確か……ゴーギャンをモデルにした本だったかしら」

 「合ってる合ってる。まあ有名な本だけどね。今朝、何となく、この本を渡そうかなって思ったんだ」

 理由は分からない。本当になんとなく、だ。

 「ま、気が向いたら読んでくれ。なんならそのままあげるし」

 言い足してから、俺は雪ノ下さんに背を向けて部室を出た。

 「七里ヶ浜くん、どこへ行くつもり?」

 「……今日は帰る。また今度な

、雪ノ下さん」

 「……そう」

 後ろ手を振って、部室の扉を閉めようと半身になると、雪ノ下さんが微笑みながらこちらを見ているのが視界に入った。

 「どったの?」

 不審に思って尋ねると、雪ノ下さんは少し咳払いをして、相変わらず微笑みながらこちらを見ていた。

 「七里ヶ浜くん。本、ありがとう」

 彼女の表情は、まるで花が咲いたような美しいもので、まるで初めてここへ来た時の比企谷くんのように、時間が止まったんじゃないかというほど体を硬直させた。

 「おう、じゃ」

 メドゥーサもかくやという程の凄まじいまでの魔力をようやく振り切ると、とてつもなく気恥ずかしくなったので言葉少なくもう一度挨拶をして、手を振る。

 「ええ。……また明日」

 そう言って、雪ノ下さんは何やら胸の近くまで手を上げ、開いたものか握ったものかと悩んだのか中途半端な掌を小さく振っていた。

 「……今日は金曜日だぞ」

 「…………っ!?」

 雪ノ下さんが顔を真っ赤にして俺から目を逸らした。

 「じゃ、またあ・し・た」

 わざとらしく明日を強調していうと、後ろを向いた雪ノ下さんの肩が更に震えていた。やー、良いリアクションするなぁ。

 ま、今日は普通に木曜日なんだけどね。

 余りに連続で動揺させられたから、最後に雪ノ下さんにも痛い目見せてやりたかったってだけで思いついた嘘だ。

 普通に気付かれると思ったけど、そこまで手を振るのが恥ずかしかったのだろうか、見事にひっかかっていた。

 さて、面白いもの見れたし、非常用階段にでも行きますかね。

 

 

 

 

 

 いつもの非常用階段。俺はタバコに火をつけながら、ここ最近の出来事について考えていた。

 例えば材木座義輝は、どんなに酷評されても、読んでもらえれば嬉しいと目を輝かせていた。

 また戸塚彩加は、自分の不甲斐なさを感じ、全力で練習に励んでいた。

 そして三浦優美子は、プライドを賭けて自分の身も省みず、我武者羅に飛び込んだ。

 なら、七里ヶ浜七之助は。

 俺は、一体何に夢中になれるのだろうか。

 一人、タバコを吸いながら考える。

 「何やってんだよ」

 「……比企谷くんか」

 気が付くと、俺の隣には比企谷くんが立っていた。

 「そっちこそ、何しにこんなとこ来たんだよ」

 ああ、いけない。妙につんけんしている。変な事を考えてたからだ。

 「別に。平塚先生に作文再提出しに行った帰り、お前が階段登ってるの見えたから」

 「あ、そ」

 煙を吐き出し、比企谷くんの方へ身体を向ける。

 「先生には言わないでくれよ? 停学喰らうのは良いんだけど、平塚先生にこれ以上ペナルティ貰うのは勘弁願いたいし」

 「……DQNめ」

 比企谷くんが、いつも通り腐った目でこちらを見る。

 「俺の場合どっちかというと、ただの中二病だと思うけどな」

 答えてそれっきり黙ると、潮風が吹き抜け、紫煙が風に乗り砂で霞んだ空へと消えていった。

 しばらくの静寂。比企谷くんも俺も、何も話さずにぼーっと佇む。

 「…………お前は」

 比企谷くんが、静寂を破るようにその口を開いた。

 「お前は、一体誰なんだ?」

 えらく哲学的な問いである。どう答えれば良いのだろうか。

 「誰って言われても……七里ヶ浜七之助としか言えない。哲学的な話なら、俺じゃなくて雪ノ下さんとでもやってくれ。俺には学がないから、そんな難しい話、分からない」

 「……部室で寝ている時。酔っ払ってんじゃねえのかってくらい適当な事言う時。材木座や三浦を見る時。そして今。雰囲気が全然違う」

 比企谷くんは言外に、「お前は信用出来ない」と、はっきり告げていた。

 そりゃそうだ。邪魔だからじっとしてろなんてこと平気で言う奴を信用出来る方がおかしい。

 「実は俺、解離性同一性障害で多重人格者なんだ。一之助二之助三之助四之助五之助六之助七之助の七人が俺の中にいる」

 もちろん嘘だ。そうだったら身に覚えのない事件の犯人にされたりして面白そうだが、残念ながらそんなエキセントリックなオモシロ設定の持ち合わせ、俺にはない。

 「そうだったら面白そうだが……チッ、俺もお前に毒されてきてんのかこれ。そうじゃなくて、真面目な話だ」

 比企谷くんは心底忌々しいと言わんばかりに視線で俺へ抗議していた。抗議ばっかりしやがって。プロ市民かよ。

 「……そりゃ、人は場合によって態度を変えるってだけだろ。比企谷くんだって、家族への態度と俺への態度は全然違うだろ?」

 「……ペルソナって奴か」

 「そう」

 そして、それを区切りに比企谷くんは押し黙った。

 俺も、特に話すことが見つからなかったので、黙ってタバコを吸い続ける。

 「例えばさ」

 ふと、声を漏らしてしまった。

 比企谷くんが言葉の続きを待つようにこちらを見ているので、色々話す事に決める。

 「比企谷くんは、『努力すれば必ず夢は叶う』って言われたらなんて返す?」

 比企谷くんは、しばらく考え込んでから話し始める。

 「『夢が叶わなかったのは、お前の努力が足りなかったからだ』っていうのは、乱暴過ぎるだろう」

 「数学じゃねえんだから、わざわざ対偶持ち出さなくても良いだろ……」

 少しだけ、比企谷くんの捻くれっぷりに苦笑いしてから、もう一度口を開く。

 「でもな、俺は努力は大切だと思うんだ」

 「……お前も、『失敗しても、努力した経験が大事だ』とか言うクチなのか?」

 比企谷くんが、鼻白むように吐き捨てるのを見ながら、肺に入れていた煙を吐き出す。

 「失敗しても云々を否定する気もないけど、また少し違うかな。というか、努力自体も、割とどうでも良いんだ」

 「はぁ?」

 そう、俺が色んな事をやってきたのも、誰かの格好や声を真似るのも、全部、ただ──

 「……夢中になりたかったんだ」

 しっかり出したはずの声は、思っていたより掠れていて。

 ただ、想いにだけは、臓腑を締めつけるような質量があった。

 色んな事をやれば、もしかしたら夢中になれるものが見つかるかもしれない。

 誰かを真似れば、もしかしたらその人が夢中になっているものに、自分も夢中になれるかもしれない。

 そうすれば、七里ヶ浜七之助は俺じゃなくなれるかもしれない。こんな、惨めで醜い俺じゃなくて、美しい誰かになれるかもしれない。

 なれないものに焦がれて、見えない地平に願いをかける。俺は、冷めて、迷って、腑抜けている。

 

 だから俺は、俺が嫌いだ。

 

 比企谷くんに振り返り、ニカっと笑う。

 「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」

 「は? いきなりなんだよ。ていうか何語だよ」

 「フランス語。我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのかって聞いたことない?」

 「あぁ、何か聞いたことあるな……何だっけ」

 「家で調べな。つまりそういう事。……な? 中二病だろ?」

 これで、話は終わり。

 タバコをもみ消して階段へ向かうと、風の音は消え、自分が階段を降りる音しかしなくなった。

 「なら、お前は」

 背中から、比企谷くんの声が聞こえた。

 振り返ると、彼はいつも通り腐った目で、しかし確かな力を感じさせる目でこちらを見据え、柄じゃない言葉を紡いだ。

 「夢中になれるものを探す努力をすべきだろ」

 努力出来るものを探す努力、か。

 そんなもの、言わないだけでたくさんしてきた。

 「……ああ、努力が大切だって思う理由、もう一つあるんだ」

 比企谷くんの目を見つめ、ただそこにあるだけの言葉を発する。

 「自分の限界を見るために、だ」

 この言葉の裏には、一体どんな気持ちがあったのだろう。

 嫉妬? 諦め? いや、そんなもんじゃない。自分の言葉の筈なのに、それを説明することは出来なかった。

 比企谷くんもそれきり黙ったので、俺はそのまま階段を降りていく。

 そこで、ようやく俺はさっきの感情を説明する言葉を思いつく。

 それは、ずっと思い続けて、捨てられずにこんなところまで持って来て、さっきも散々感じていたものじゃないか。

 

 俺はどうしようもなく、俺に失望しているんだ。

 

 



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こうして俺はいつも通りにこき使われる。

二巻部分開始(話が進むとは言ってない)


 「七之助ー! ご飯ー!」

 雪ノ下さんに本を貸した日から数日が経ち、特に何事もなくいつも通り学校から直接バーむらさきへ赴くと、ドアを開けた途端いきなりゆか姉が俺の胸に飛び込んできた。

 これだけ聞くとドラマチックだが、残念なことに飯の無心をしながら、である。

 「先生はトイレじゃありませんって小学校の時言われなかったか?」

 飛び込んできたゆか姉の頭を抑えて接触を最小限に留め、軽く押し返す。

 「フッ、私は過去を振り返らない女……そう、峰不◯子」

 「知らねえよ……。死んでくれよ……」

 ちなみに、◯二子ちゃんはファーストの四話でルパ◯のこと心配して泣いてたりするから割と純情派なところもある。はぐれ刑事並だ。

 「何でも良いけど早くご飯作ってくんない? 嫁の食い扶持も確保出来ない甲斐性なしに育てた覚えはないんだけど?」

 「誰が誰の嫁なんだよ……」

 「ゆかりオネーサンが七之助の」

 俺は断じてお前を嫁に迎えたりはしないぞと心の中だけで固く誓う。言うと冷戦になりバイトに来にくくなる可能性があるので言わない。

 「はぁ……。何食べたいの?」

 いい加減アホらしくなってきたので、ご飯を作ってやることにした。別に料理自体は嫌いじゃないしな。

 「フレンチのフルコース!」

 ゆか姉がものすごい良い笑顔で言い放つのを見て、頭が痛くなってきた。

 「……明日まで我慢出来るなら作ってやってもいいけど……ていうか今日は店開けねーの?」

 「今日はお休み。んー……何でも良いけど、デザートは出してね! 絶対だよ!」

 どうやら今日は店を開く気分じゃないらしい。お金の無心が出来ない上、ご飯まで作らなきゃいけないらしい。来なきゃ良かった。

 「はいはい……買い物行ってくるからお金くれ」

 「え? 奢りじゃないの?」

 「…………」

 絶対に、びた一文出さないぞという固い決意の元、俺は押し黙る。

 「ったく……。ケチな男だなぁ、七之助は!」

 愚痴りながら俺に財布を投げつけるゆか姉。

 「ま、やるからにはそこそこのもん作ってやるよ。任せろ」

 俺はそう言い残し、ひらひらと手を振ってバーむらさきを後にした。

 

 

 

 

 

 「出来たー?」

 それから大体二時間程経ち、ようやくある程度の調理を終えた俺に、後ろから抱きついてきたゆか姉が尋ねてきた。

 「一通りはな。サーブするから座ってろ」

 幾つもの鍋を火にかけながら、最初に出す前菜──ゆか姉の要求に合わせた言い方をするならばオードブル──の盛り付けを終え、やたらと体温を感じさせるゆか姉を少々乱暴に振り払う。

 それにしても、ゆか姉の家のキッチンは妙に広い。店の方と兼用なのを差し引いても明らかに大きめである。そうでなければ、こんな多数の料理を同時並行させながら作るのは物理的に無理だっただろう。

 「お、本格的! そんなにオネーサンに気に入られたかったの?」

 本当にフレンチのフルコースを用意するとは思っていなかったらしく、それっぽいオードブルを見ながらゆか姉は目を丸くしていた。

 「そりゃあ、こんな可愛らしいお嬢様に頼まれてんだから、張り切らなきゃ男じゃねーだろ」

 「あら御上手」

 もちろん嘘だ。単純に凝った料理を作る方が楽しかったっていうのが一つ、シェフの気分になりたかったのがもう一つだ。

 ……実質一つだ。相変わらず救えない。

 「てかとっととあっち行ってくんない? まだオードブルしか上がってねーんだけど」

 鍋の一つで煮ていた洋梨が透き通る程の具合になっているのを確認して火を止めながら、自分でも無愛想だなと思う物言いでゆか姉を追っ払う。

 「ていうかホントにフルコース作ったんだね。引くわ……」

 何故かドン引きしていた。このクソアマ……。

 「無駄に料理の上手い男の子って、女から見ると大概ポイント低いよ?」

 すこぶるどうでも良い。結婚しても女の人に飯作って貰おうなんて思ってないしな。

 自分で働いて自分でご飯作って自分で掃除して自分で洗濯するのが俺の理想だ。嫁という形さえあればそれで十分。高望みはしない。というかレストランだとかゆか姉とかならまだしも、素人の他人が作った料理なんて食いたくないし。

 「てめえが作れって言ったんだろうが……全部俺が食べるぞ」

 「滅相もございません! ありがたく頂かせてもらいます!」

 高速で手のひらを返してから、ゆか姉はキッチンを飛び出してリビングのソファに座って、ナイフとフォークを振り回しながら野球中継を見はじめた。……フォークとナイフ叩き合わせてカチカチ鳴らすのはマナー以前の問題じゃない?

 まあ、外行きの時はこんなこと出来ないし、してるのも見たことないもんな。ゆか姉もああ見えて、色々抑圧されてるのかもしれない。

 「とっとと引っ込めヘボピッチャー!!」

 抑圧……されてる……かもしれない……。

 炎上してマウンドを降りるピッチャーに散々な野次を飛ばすゆか姉の前に、料理を持って行く。

 「お、きたきた! あ、お店みたいに次の料理までにバカみたいに時間かけるのはやめてね?」

 「アレはアレで意味があるから一概に叩くのはどうかと思うが……。そもそもゆか姉しかいないんだから、食べ終わってたらすぐ持ってくよ。料理が出来てたらな」

 「良かったー。で、これ何?」

 「見りゃ分かるだろ」

 「フレンチなんて食べたことないから、ゆかりわかんなーい!」

 衝動的にブン殴りそうになった右腕を全力で抑えて平静を保つ。

 落ち着け……ここで殴ったら後々どんな命令を聞かされるか分かったもんじゃないんだぞ。クールダウンだ。まだあわてるような時間じゃない……。

 「……鯛のマリネでございます……」

 俺の言葉を完全に無視してしばらく料理を眺めていたゆか姉は、淀みない所作でナイフとフォークを操って料理を口にした。

 「ソースには……フランスっぽいソースににトマトとバジル混ぜたやつ!」

 音速でキャラを投げ捨てたゆか姉に一つため息をつき、俺も普段通りの受け答えに戻す。

 「合ってる。テリーヌにしようかと思ったけど、時間的にやめた」

 具体的に言うと、白ワイン酢に油や玉ねぎとリンゴを摩り下ろしたものとレモン汁を入れてそれを濾したものだ。ヴィネグレットソースと言うらしい。これを入れると、とりあえずフランスっぽい味になるから便利である。

 「なるほど……中々やるじゃない。八十五点をあげるわ」

 「オードブルだけでもう採点すんのかよ……ミシュランも真っ青だな」

 「まあね。あとは何出てくんの?」

 「ん、カボチャのポタージュとホタテのグラタン、サーロインのステーキに玉ねぎのコンポート乗っけたやつと、あとはフィナンシェに洋梨のコンポート添えたやつ用意してる。酒は?」

 「相変わらずの病気っぷりね……お酒はワインで」

 どこが病気だ。所詮一時間やそこらで出来るものばっかりだ。凝りはじめたらもっと徹底的にやるぞ。フィナンシェだって買ってきたやつだし。

 「へいよ。店から勝手に取ってくるぞ」

 「あいよー」

 受け答えを終え、適当なワインを取って戻ってくる。

 酒には興味がないため、コップと一緒にテーブルに適当に置き、栓抜きを放り投げる。

 キャッチしたゆか姉は丁度前菜を食べ終えていたので、スープを持って行く。

 「んー、美味しそう! 私レベルには到達出来たみたいだね」

 「最初っからこんなんだったろ。才能のない人間にはここが限界」

 言った瞬間、失言だと思った。どうも、非常用階段でした比企谷くんとの会話のあとから、調子がおかしくなっている気がする。らしくない言葉ばかり口に出してしまう。

 「……決め付けは、良くないよ、七之助」

 すぅっと、梅雨を前にして暑くなる一方の室温が、急激に冷えていく錯覚を覚える。下げたのはゆか姉か、それとも俺か。

 「……冷める。とっとと食べれば?」

 「……そうだね! 折角美味しそうなんだから、アツアツを頂かないと!」

 ゆか姉はそう言って、黙々とスプーンを口に運び始めた。

 それを見ながら、制服のポケットを漁ってタバコを取り出す。

 まあ、あんな話をしたところで、俺の生活が変わるはずもないのだ。これは全部、いつも通り。

 もしいつもと違うというのなら、それはゆか姉の無茶な注文に答えたからだろう。

 咥えたタバコに火をつけ、舌を火傷したらしくペロッと口から舌を覗かせるゆか姉を見て笑う。

 うん、いつも通りだ。……いつも通り。

 こうして俺とゆか姉は、多少の気まずさを感じながらも、いつも通りの軽口の応酬に戻っていく。

 



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唐突に極楽寺楽太郎は現れる。

オリキャラ祭り



 ゆか姉に美味しいご飯をたらふく食べさせて丸々太った彼女を食べる(意味深)という、現代におけるヘンデルとグレーテル的超銀河一大スペクタクルオペレーションを発動させた翌日、俺はいつも通り奉仕部へ足を運んでいた。

 ちなみに今言ったことはほとんど嘘である。言わなくても分かる。

 「ゆきのんは昨日なにしてた?」

 近頃やたら雪ノ下さんとの距離を詰めている由比ヶ浜さんが、相変わらずパーソナルスペースの存在にガン無視を決め込んでいるとしか思えないほど雪ノ下さんの近くに座り、当たり障りのない会話を振っていた。

 「そうね……いつも通りだったわ」

 読書をしていた雪ノ下さんは顔を上げて、しばらく思案したあと口を開く。

 「…………ヒッキーは?」

 由比ヶ浜さんは少々目元をヒクヒクさせたあと、話を振る対象を変更した。雪ノ下さんはもう少し友達の気遣いというやつに敬意を払うべきだな。ま、由比ヶ浜さんは彼女のそういうところを気に入っているのかもしれないが。

 「あ? ……いつも通りだよ」

 読書をしていた比企谷くんは顔を上げて、しばらく思案したあと口を開く。

 「…………し、しちりんは?」

 由比ヶ浜さんはそこそこ目元をヒクヒクさせたあと、話を振る対象を変更した。比企谷くんはもう少し異性の気遣いに真摯になるべきだな。ま、由比ヶ浜さんは彼のそういうところを気に入っているのかもしれないが。

 ……そんなわけあるか。ていうか揃いも揃ってどんだけコミュ障拗らせてるんだよ。色々すっ飛ばして感動するわ。

 「俺はどうだったっけなぁ……。あ、昨日は家帰ってから五時間くらいずっとナメクジの交尾動画観てたな。深淵なる生命の神秘を感じたね。俺も、ナメクジのように荘厳な交尾がしたいもんだ。あとしちりんやめろ」

 まるっとするっと全部嘘。あ、ナメクジの交尾を五時間観ていた経験があるのは本当だ。嘘というのは真実を織り交ぜてこそ信憑性を増すのである。

 それにしてもアレには本当に感動した。思わずエクスカリバーが天を衝くところだった。自家発電は流石にしていないが。それをやってしまえばマジでドン引きされそうだし。いやドン引きされなくてもしないけど。

 「「「…………」」」

 どうやら観ただけでドン引きされるらしい。いや、比企谷くんは何やら納得したような顔をしている。何を納得したんだ。俺はナメクジの交尾を好んで観る人間に見えていたのか。実際そうだけど。

 「や、バカにしてるけどな? 家帰ったらインターネットか何かで調べてみ? ガチで感動するから。シチノスケ、ウソ、ツカナイ」

 「……色々と言いたいことはあるけれど……。そうね、まずそのような異常性癖をあけすけに語るのは軽犯罪よ、七里ヶ浜くん」

 雪ノ下さんが重い口を開いた。

 感動して言葉もないのかと思っていたが、どうやら俺の趣味に感銘を受けていた訳ではないらしい。

 「……セクシャルハラスメントって軽犯罪なのか?」

 「セクハラって認めちゃってるし……キモ……」

 由比ヶ浜さんも感動していなかった。ドン引きしていた。知っていた。

 「まぁまぁ、比企谷くんも似たようなことしてただろ? 言ってみ?」

 こういう時は比企谷くんに全部ぶん投げるのが一番丸い解決方法である事を、俺は経験上学んでいた。

 雪ノ下さんはともかく、由比ヶ浜さんは分かりやすい程に彼へ対して矢印を出しているので、大抵の事は笑って流されるのである。

 「俺にはお前みたいな異常性癖はねーよ。プリキュア観てただけだし……」

 藪蛇な感のある比企谷くんの返答に、女性陣はまたもやドン引きしている。

 いいじゃん、プリキュア。作画凄いし。作監当てゲームが遊戯王より楽しいし。ちなみにこのゲームに参加してくれる知り合いはゆか姉と楽太郎のみである。寂しい遊びだ。

 「まあなんにしろ、男ってのは浪漫を求める生き物なんだよ、なぁ?」

 強引に話を打ち切って、比企谷くんに同意を求める。

 「まあな。求めすぎてドン引きされるまである」

 「それは浪漫と言うより、単に欲望を満たしてるだけなのでは……」

 雪ノ下さんは頭が痛くなったのか、何度かかぶりを振りながらもなんとか言い切る。由比ヶ浜さんも似たような感じで比企谷くんに対して呆れていた。俺にも呆れていた。

 「バッカお前。人類っつー生き物はなぁ、食欲やら性欲やらの欲望を満たす事によってその版図を拡大してきたんだよ。つまり欲求に素直なのは生存競争において大事な事だ。だからマクロな視点で見ると、俺には働きたくないという欲望を満たす、生物種としての義務がある!」

 凄まじい力技で自己を正当化した比企谷くんは、異論反論更生勧告は全て無視だと言わんばかりに再び読書に戻った。

 女性陣は物凄く何か言いたげにしていたが、言っても無駄だと悟ったのか、雪ノ下さんは読書へ、由比ヶ浜さんはケータイ弄りへ──なんか桃太郎の冒頭みたいになってんな──戻っていた。

 ……あ、働きたくないといえば、そういえばもうすぐ職場見学とやらがあったな。

 昨日だったか一昨日だったか、それの希望場所について平塚てんてーに呼び出し食らって怒られたのが記憶に新しい。

 ちなみに俺はバーむらさきと書いた。そんなにダメか? ダメかも。ダメだな。

 「別の場所を書くまで家には帰さん」という平塚てんてーのありがたい言葉を受け、ない頭を絞った結果、呉服屋という選択肢が出てきた。

 呉服「極楽屋」。何か銭湯みたいな名前だが、創業三百五十年の歴とした老舗呉服屋らしい。

 ピンときた人もいるだろうが、材木座くんの友人であり、ゆか姉に散々泣かせれてきた哀れな少年である、極楽寺楽太郎の実家である。

 ま、楽太郎には家を継ぐ気なんて毛頭ないらしく、将来は中学の頃からやっている御用聞きとして生計を立てていく気らしい。俺もタバコや瓶コーラなどを楽太郎から仕入れる事が多い。どうやら、奴は最近調子が悪いらしく、あまり精力的にはやっていないようだが。

 とにかく、ダチの家だというのもあるし、何より楽太郎と一緒に適当にフケる事が出来そうなので、職場見学は是非とも極楽屋へ行かせてもらいたいものである。

 寝転びながらそのような益体もない事を考えていると、我らが奉仕部の開かずの門にノックの音が響いた。普通に開くけどね。

 「どうぞ」

 雪ノ下さんが再び読書を中断して、凛とした声音で応対する。

 「しっつれいしまーす!」

 そんな、明らかに悩みなんてなさそうな能天気かつ軽薄な声と共に、背の高い男が部室へと入ってくる。

 俺にはその声に、顔に、ものすごい覚えがある。

 というか、楽太郎だった。

 「どもー。奉仕部ってここであっとる?」

 「……その不快なエセ関西弁をやめて今すぐ立ち去れ」

 「またまたぁ、シチみたいなこと言う奴やなぁ」

 相変わらず奴はヘラヘラ笑いながら、まさしく柳に風と受け流す。

 「そうだよ」

 「そかそか……って本物やないかい!」

 「とりあえずゆか姉召喚されたくなきゃ今すぐ出ていけ」

 「そ、それだけは堪忍してくれ……後生や……」

 怪訝な顔で見つめる奉仕部メンバーを尻目に、楽太郎は恥も外聞もなく突然ガクガクと震えはじめた。お前どんだけゆか姉のこと怖がってんだよ。

 「……七里ヶ浜くん、あなたの知り合い?」

 雪ノ下さんがツカツカとこちらに歩いてきて尋ねてくる。

 「ああ、極楽寺楽太郎っていう……材木座くんの友達」

 自分の友達だというのは楽太郎の手前恥ずかしかったので、あえて材木座くんを引き合いに出して説明する。

 「え? あいつに友達なんていんの?」

 比企谷くんが真剣にびっくりしながらこちらを見る。流石に失礼過ぎるだろ……。

 「アレも人類皆兄弟思考で、比企谷くんに言わせりゃ脳内お花畑野郎だ」

 「……お前みたいな奴だな」

 「そりゃ、物心ついた時から知ってるからな。考え方に相似点もあるさ」

 「つまり、しちりんの幼馴染ってこと?」

 由比ヶ浜さんが邪気のない瞳を俺へと向けてくる。

 「……まあ、そうなるな。あとしちりんやめろ」

 業腹だけどな! ……や、嫌いじゃないんだけどね?

 「ていうかお前、何しにこんな所まで来たんだよ。恥ずかしいだろ。俺が」

 「あなたに羞恥心が残っていたということが驚きだわ……」

 雪ノ下さん、あんた俺の事何だと思ってんだ。

 「や、ちょっと相談があってな」

 何とか立ち直ったらしい楽太郎は、雪ノ下さんに一瞥してから手頃な椅子に座った。

 「つまり、依頼ということかしら?」

 「そそ。平塚センセーにここ行け言われて。今大丈夫なん?」

 「ええ、今は受けている依頼もないし、構わないわよ」

 珍しく雪ノ下さんがやりやすそうにしていた。話がちゃんと通じるというのは大切なのである。

 「んじゃ早速……あ、待って。シチ、ちょい席外してくれへん?」

 楽太郎が申し訳なさそうに俺を見る。

 「ああ? ……ああ、ナナ絡みか?」

 「おおぅ……せーかい」

 「や、別に気にしねーから言えよ。めんどくさそうな話なら、俺は勝手に寝てるし」

 「ほな……」

 そうして語り出した楽太郎の話を纏めると、どうやら楽太郎は最近元気のない仲の良い友達の妹をどうにかしてやりたいらしい。そのことで悩んでいるせいで、ここ最近はすこぶる調子が悪いのだと言う。

 「……その妹さんは、この高校の生徒なのか?」

 比企谷くんの疑問はもっともである。何故なら、他校の生徒に関係する悩みの解決などたかが一部活である奉仕部の手には盛大に余る問題だからだ。

 「もちろん。一年の子や」

 楽太郎が鷹揚に頷く。ムカつく。

 …………ん? あれ?

 「……ちょっと待て、ナナって総武来てたのか?」

 これは無視出来ない問題点だと思います。というか、もうすでに答えが出てしまった感しかない。

 「はぁ? シチ知らんかったん? 流石にあり得んやろそれは……。どんだけゆか姉とこ入り浸っとるんよ……」

 楽太郎がドン引きしていたが、それに尊敬の眼差しも混ざっていたのを俺は確かに感じた。どんだけゆか姉苦手なんだよこいつ。

 「……この話、俺一人でやらせてくんない?」

 これに奉仕部の奴らを関わらせるのは半端じゃなく恥ずかしいだろ。軽く死ねるわ。

 俺の言葉を聞いた雪ノ下さんは、何を思ったのか首を横に振る。

 「これは奉仕部に持ち込まれた依頼よ。あなただけに任せることは出来ないわ」

 とても良い笑顔で言われた。比喩でなく、俺は完全にフリーズする。あれは獲物を狩るチーターかなんかの目だ。ネコ科だ。

 「それにしても、今日はエラい恥ずかしがり屋やな、シチ。今月のスローガンか?」

 「……関係ねーよ。今月のスローガンは『妥協』だ。ちなみに先月が『人類皆兄弟』」

 「そら丁度良かったやん。妥協して、みなさんと一緒に解決しいや」

 楽太郎がニヤニヤ笑う。ブン殴りたいが、確かに今月のスローガンは妥協なので、ここは折れることにしよう。我慢だ、我慢。

 「で、そのナナさんとやらには、どうやって会えばいいのかしら」

 「あ、それやったらもう呼んでるから安心して。おーい!」

 「はぁ!?」

 こ、心の準備ってのがあるだろうが!

 俺は飛び起きて、やたら大量に積んである椅子と机の山に紛れ込んで隠れることを選択する。

 ガタガタ音が鳴るのも気にせず飛び回ると、何故か部室の「後ろ」の扉が開き、そこそこ見知った、しかしここ最近はめっきり見ていなかった女が、ニコニコと笑いながらこちらを見つめていた。

 「久しぶり……お兄ちゃん」

 そして俺は、見事に机から足を踏み外し、爆音を立てて約一メートルの高さから落下した。




お気に入りが77になりました。アリシャス!
※ユニークアクセス7777は華麗に見逃しました。辛いです。

あと、キャラのイメージアニマルを決めようと思ってるんですがなんとも決まらず。まあ書く所も決める必要もないんですが。
主人公の尊敬する人物が七色インコなんですけど(七推しなのはそこから)、インコにしては可愛く無い奴なんで良いとこカラスなんですよね……。

なんにせよ、御意見御感想お待ちしてナス!


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相変わらず七里ヶ浜七海は笑っている。

 「確か私が中学校卒業して以来だよね、お兄ちゃん」

 「あ、ああ……そういえばそうだったな……」

 太陽のような笑みを浮かべる彼女に、俺もなんとか苦笑いで応えながら、もう一度机の上に飛び乗った。高い所にいないと落ち着かないのだ。そんな筈あるか。いや、高い所が好きなのは本当だ。バカと煙は……ってこれ前にも言ってたな。

 「あ! その笑い方してるお兄ちゃん見るの久しぶり! 私が中一の年の九月二十八日の八時四十七分に、私がフィリップKディックって卑猥な名前だよねってお兄ちゃんに言った時以来!」

 ……こえーよ。軽くホラーだよ。

 「……こちらがナナさん?」

 何と答えれば良いのか分からず押し黙っていた俺だったが、雪ノ下さんが彼女に話しかけたことによって九死に一生を得る。サンキューゆきのん!

 「はい。七里ヶ浜七海です。七里ヶ浜七之助の妹の」

 先ほどまでの笑みとは一転し、ほとんど感情の乗っていない、薄っぺらな笑みでナナが自己紹介をする。

 「……あれ? 七里ヶ浜七海って……」

 比企谷くんが怪訝な顔を俺に向ける。そうです。多分比企谷くんの想像通りです。

 「そういえば、一度会ったことがあるわね。確か戸塚くんのお手伝いをしていた時だったかしら……」

 「ああ、それ多分お兄ちゃんです」

 「!?」

 事も無げに答えるナナに、雪ノ下さんが言葉を失う。まさしく絶句していた。

 ……あ、そういえばあの時、雪ノ下さんには説明してなかったな。

 「それのせいらしいんや、最近元気ないんは」

 そう切り出す楽太郎。やはり予想通りか……。

 「つまり、あれのせいで上級生に目を付けられたってことか?」

 確認の意味を込めてナナに尋ねる。

 ていうかホントなんでこいつこんなショボい学校来てるんだよ。ナナならもっと良いとこ行けただろ。や、ゆか姉が行ってたからって理由でここ選んだ俺が言えた義理じゃねーけどさ。

 「まーそれもあるかな。カビラさんだっけ? あの人面倒くさいんだよね。もう一回勝負しろだのなんだの。何回も『知らない』って言ってるのに」

 軽く肩までかかった髪の毛を弄りながら、興味なさげに告げるナナ。カビラじゃなくて三浦だ。らしか合ってねえよ。どこの実況者さんだ。

 「でも」

 そう言って、ナナはもう一度ニコリと笑ってこちらを見る。

 「丁度良かったんだー。お兄ちゃんに会う口実になると思ったし」

 「……口実ってなんだよ。兄妹なんだから、会おうと思えばいつでも会えるだろ……」

 「えー? だってお兄ちゃん、

ゆかりさんのとこに入り浸ってて中々帰ってこないし、ケータイだってずっと電源切ってて連絡付かないじゃん」

 ツカツカとこちらへ歩いて来たナナは、人差し指で俺の胸をツンツンと突きながら笑う。

 「あっ、お兄ちゃんに触るの中二の五月十六日以来だー! えへっ」

 「『えへっ』じゃねえよ……。キャラ変わりすぎだろ……」

 ナナの手を弾きながら俺が呟くと、楽太郎がうんうんと頷いた。……やっぱりこの部屋入ってからこんなになっただけで、普段の性格が変わってる訳じゃないんだな。良かった。

 「キャラだけじゃなくて顔まで変わってるお兄ちゃんには言われたくないかなー」

 ナナがクスッといたずらっぽい笑みを浮かべる。

 言い返そうと俺が口を開きかけると、ナナは人差し指を俺の口に当ててそれを封じた。

 「とにかく、一週間に一回くらいは、ちゃんと夕方にお家に帰ってきて一緒にご飯を食べること! お父さんは何も言ってないけど、お母さんはケッコー怒ってるよ?」

 「……善処する」

 「……うん、待ってるからね? それじゃ、いこっかラクちゃん」

 そう言ったナナは、一度も振り向かずに部室から出て行った。

 それを楽太郎が追いかけようとするが、思い留まってもう一度比企谷くんたちの方を見た。

 「……ま、これで解決ってことになるんかな? あ、ついでにカビラさん? の方にもナシつけといたってくれへん?」

 奉仕部の面々へ拝む楽太郎。ナシつけるってお前どこの組のもんだよ。反社会的勢力じゃねえか。あとカビラじゃねえって。

 「ええ、分かったわ」

 雪ノ下さんが釈然としないながらも承諾する。

 「おおきにな。ほなまた!」

 そういってもう一度頭を下げた楽太郎は、今度こそナナを追いかけて部室を後にした。

 「「「…………」」」

 三人が一斉にこちらを見る。いやーこんなに注目を集めちゃうなんて、人気者は辛いよなぁ!?

 「説明を」

 「比企谷くんと由比ヶ浜さんに聞いてくれ。全部知ってるだろうから」

 ノータイムで雪ノ下さんの質問に返すと、彼女は由比ヶ浜さんに視線を移した。

 「えっと……多分だけど……しちりんとヒッキー、前に優美子たちとテニスしたんだけど、その時しちりん、ナナちゃんに変装して勝負してて……」

 「しかもご丁寧に七里ヶ浜七海って名乗ってな。で、その状態でめちゃくちゃ三浦のこと煽ったせいで反感買ってんだろ」

 由比ヶ浜さんのたどたどしい説明を比企谷くんが引き継ぎ、完璧な説明をしてくれた。

 「……あなた、女装癖まであったのね……」

 「あ、ツッコミ入れるところそこなんだ」

 「けど良いわ。今更あなたの奇行をとやかく言うつもりもないし。それより、家に帰っていないというのはどういうことかしら」

 雪ノ下さんが凍てつく波動を飛ばしてくる。どこの大魔王さまだあんたは。こえーよ。バイキルトかけてる場合じゃねえぞこれ。

 「実は俺、彼女と同棲してるんだ」

 嘘だけどな。

 「嘘ね」

 「嘘だな」

 「嘘でしょ?」

 「……どんだけ信用ないんだよ」

 三人のあまりの即答っぷりと息の合いっぷりに言葉を失いかけたが、俺も仲間に入れてくれよ~という視線を送りながら文句を言うと、比企谷くんたちは汚物でも見るような目で俺を睨んでいた。

 「あー……別に、家庭内に複雑な事情があるわけでもなんでもないし、親との関係もそれなりには良好だよ」

 一応、弁明。言わなくても良いような気がしたが、別に俺には自分の情報を執拗なまでに隠すような趣味もないので割とあっさり答えてやった。どうでもいいことだしな。

 「なら、どうして?」

 ……えらく食いついてくるな、雪ノ下さん。そんな俺の家庭環境に興味があるのか? まさか七里ヶ浜に嫁入りしたいとかか!?

 困っちゃうな~あんまり雪ノ下さんはタイプじゃないんだけどな~でも雪ノ下さんみたいな可愛い女の子の求愛を無下に断るのも悪いしな~。

 グヘグヘと笑いながら自分でも自覚出来るほど下卑た目で雪ノ下さんを見ると、彼女はさっと自分の体を守るように深く腕を組んだ。

 「……七里ヶ浜くん」

 「スンマセンシタ!」

 「はぁ……。聞いても無駄なようね。……七里ヶ浜くん、後始末は自分で付けるつもり?」

 「まあ、皆様方のお手を煩わせるような問題でもないですし、不肖私めが小槌の一振りで解決してご覧にいれましょうか」

 ヘラヘラ笑いながら机から飛び降り、後ろ手を振ってニヒルを演出して部室から足を踏み出し扉を閉める。

 …………さて、タバコ吸いに行くか!!

 「七里ヶ浜くん」

 「如何な御用向きでございましょうか雪ノ下様」

 何で出てきてるんだよこの女。ストーカーかよ。ていうか今日の雪ノ下さんちょっとウザくないですか? 車間距離も大切だけど人間距離はもっと大切だぜ?

 「あなたに任せるのは不安だわ。明日私たち全員で片付けましょう。勝負のこともあるし」

 「勝負?」

 俺に任せるのが不安というのも聞き捨てならなかったが、それよりも勝負という単語に興味が湧いた。何の勝負なんだろう。

 「平塚先生が言っていたでしょう? 誰がより多くの問題を解決出来るか、という勝負よ」

 初耳である。ていうかなんでそんな勝負する羽目になってんだよ。

 「……どういう経緯でそんな勝負することになったんだよ。あと勝ったら良いことあるの?」

 「あなたがダイエット宣言したあとすぐに、平塚先生が部室に入ってきて言い出したことよ。勝った人は負けた人に何でも命令出来る、だったかしら」

 ん? 今なんでもって言ったよね?

 「マジか。勝ったら是非とも雪ノ下さんにはどじょうすくいやってもらいたいもんだな」

 ほっかむりでどじょうすくいをする雪ノ下さん。想像しただけで爆笑もんだ。絶対に録画して一生保存しよう。そして定期的に雪ノ下さんの家に郵送しよう。

 「……どうしてそのチョイスなのかは分からないけど、あなたが私に勝つことは絶対にありえないから、そんな事を考える必要はないわ」

 「ふふん、あんまり俺様の事を舐めるなよ? こう見えても日本の至宝と呼ばれて長いからな。我が闇の炎の前に震えろ」

 「ざいなんとかくんを揶揄するのはやめて上げなさい」

 名前くらいちゃんと覚えておいてやれよ……。

 「モハハハハ! 八幡!! 二人で駆け抜けた、あの室町を再び蘇らせようではないか!!」

 なんかディテールが甘い気がしたが気にせず真似する。声は多分完璧だったが、セリフが不味い。俺はタイプの違う中二病だから、イマイチ彼のセリフを上手く思い浮かべる事ができないのだ。

 「……っ!」

 「雪ノ下さん沸点低過ぎだからね。クール系気取るんならもうちっとキャラ作り頑張った方が良いよ。じゃ」

 一息に言い切って、屋上へ一直線に向かう。

 雪ノ下さんが後ろで何やら早口にまくしたてていたが、いい加減興味も失せてきたしこれ以上こいつと喋っててもどうせつまらないだろうから無視して歩く事にした。

 あ、何か露骨に態度悪くなってきてるなこれ。ナチュラルにこいつとか言っちゃってるし。ダメだダメだ。

 ……まあ、アタマの中でだけだから大した問題では無いんだけど。雪ノ下さんみたいに顔や態度に出るわけじゃないし。

 つまり、精神衛生上の問題だ。アタマの中でだけでも、自分のバイアスのかかった評価を人に下すのは気分が良くない。そんなのまるで、自分がその人に興味があるみたいじゃないか。

 とにかくなんにせよ、雪ノ下さんがちゃんと仮面を被れるようになるのはまだまだ先になるらしいというのが、彼女を客観的に見た時の今の状況だ。

 それが悪い事なのか、良い事なのか。俺には判別が付かなかった。

 

 

 

 

 

 「これで満足していただけましたか? ……もしまだ何か言いたいんなら、あなたと同じクラスの兄に言ってください」

 翌日の昼休み、俺はもう一度ナナに扮して三浦さんとテニス勝負をしてやった。「これで最後」と前置きして。

 結果は快勝。汗一つかかずに三浦さんを退ける。そもそも汗をかいてしまうと化粧が落ちてしまって不味い。

 それにしても、性別差が大きいだけだとは思うが、流石に経験者がここまでショボいのは憐れみを通り越して怒りすら感じる。これじゃ全く楽しめない。

 無駄な時間だ。この時間を面白い遊び探しに使う方が有意義だろう。

 「それでは失礼します。三浦先輩」

 挨拶をすると、三浦さんの取り巻きの女の子たちがこちらを睨んできたが──ちなみに由比ヶ浜さんも、なんとも形容し難い苦笑いを浮かべながらそこに居た──俺は気にせず踵を返して校舎へ向かう。

 「あんたは……!」

 ここにきて、試合後初めて三浦さんが口を開く。

 無視するのは可哀想だったので振り向いて先を促す。

 「……ごめ、いいわ」

 しかし、三浦さんは俯いて黙ってしまった。何を言いかけたのだろう。

 「……落ち込まないで下さい。先輩は私なんかより、よっぽどすごい人です」

 ナナでなく、「俺」の実感を口に出してしまった。雪ノ下さんのことを笑えないな、こりゃ。

 案の定三浦さんはポカンとした顔をしている。

 「先輩は好きなようにやってて下さい。私、そういう自己中な人、嫌いじゃないですから」

 それを最後に、俺はもう一度校舎の方に歩く。

 「……次は勝つから」

 後ろから聞こえた声は、聞こえなかったことにした。

 ……さて、今回の遊びはここまでだ。とっとと着替えて煙を呑みに、屋上へでも行こうかな。予想外に早く終わったから、時間はまだまだ余ってるし。

 「終わったのか」

 丁度、グラウンドのクレーとアスファルトの境界のところに彼らは立っていた。

 「……比企谷くんに、雪ノ下さんも」

 声を作らず普段の声で話す。事情を知らないとビックリするだろう。ニューハーフ界隈だとすんなり受け入れられるかもしれないが。

 「ホントに七里ヶ浜くんなのね……。……由比ヶ浜さんからメールを貰ったの。ナナちゃんが三浦さんのところに来たって」

 「俺は教室で全部見てたからな。で、どうやって決着付けるのかと思ってきてみたが……言っちゃワリーが、ありゃ悪手だろ」

 「まあね。でも良いんじゃない? 別にナナもめんどくさいってだけで大して困ってたわけじゃないし」

 それだけ言って俺はもう一度校舎へ向かう。

 そもそもナナは、他人に何言われようが気にするような人間じゃない。そんな出来た人間では断じてない。

 あいつは、親しい人間以外なんて視界にすら入れる気がないような奴だ。

 それでも一見普通に見えるのは、しっかり仮面を被っているからに他ならない。

 それに気付かずにアレと仲良くしてる奴らが多いことに、反吐が出るような感覚を覚える。

 因果なものだ。

 どこまでも真っ直ぐな雪ノ下さんは集団から弾かれる。

 他人になんて興味の欠片も持たないナナは、仮面を被って集団に上手く溶け込んでいる。

 クソくらえだと思ったが、俺にはナナを非難することが出来ない。

 

 ヘラヘラ笑う俺とニコニコ笑うナナに、大した違いなどないのだから。




名前が思いつかないというのもあり、これでオリキャラは最後だと思います。
もし出すとしたら腰越五右衛門とかになります。斬鉄剣持ってそうですね。
ないですね、ハイ。


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思っていたより川崎沙希は乙女である。


ようやく二巻本編開始




 「マイボーニライオーバジーオーシャー……」

 昼休みに何となく来た屋上、一人ボーイソプラノでスコットランドの民謡を歌う。

 ちなみに俺は歌を歌うのも好きだ。○ASRACに金を出したくはないのでこんな歌を歌う気しかないが。

 「……飽きた」

 ここにトランペットかハモニカでもあれば間奏部分を演奏するのもやぶさかではないのだが、残念ながら俺のポケットに入っているものなんて精々タバコとライターくらいだ。つくづくクソ野郎である。

 急激に暇を持て余し始める。とりあえずタバコに火を付けてみるが、どうにも落ち着かない。何か面白いこと無いかなぁ。

 その時不思議なこと……でもないが、屋上のドアがバンと音を立ててしまった。誰か来たのだろうか。

 貯水タンクの上から入り口の方を見ると、そこにはマイエンジェル川崎さんが相変わらず不機嫌そうかつどこを見ているか分からないよう目をしながら、一直線にこちらへ歩いて来ているのが見えた。

 「……いた」

 そのまま貯水タンクへ上がってきた川崎さんは、俺を見ても表情を全く変えずにそう言った。

 「何? 俺のこと探してた感じ? やーやー困っちゃうなぁ!」

 「バカじゃないの?」

 「そんなツンケンしたところも素敵! 抱いて!」

 「はぁ……。七里ヶ浜だっけ。今日はライター持ってたんだ」

 呆れたようにため息を付いて、俺の求愛を無視するように俺が咥えているタバコに視線を移す川崎さん。

 「前はオイル切れてただけだからね。あと、呼び方は七之助で全然構わないよ。むしろそっちで呼んでくれたらもう川崎さんのストーカーになるくらい嬉しい」

 ポケットからやたらといかついジッポーを取り出して笑う。こんないかついライターは俺の趣味ではないのだが、ゆか姉に貰った──というより首輪のつもりなのだろうが──ものなので、仕方なく使っている。ゆか姉はやたらと俺に物を持たせようとする奴なのだ。

 「……教室いる時と全然違うし」

 「キャラ作り必死だからな。これが素」

 こんなんが素なわけがないだろう。これが素だったらとんだ狂人だぞ、俺。材木座くんも目じゃないレベルでアタマおかしい。や、別に材木座くんのアタマがおかしいって言いたいわけじゃないけどさ。

 「嘘でしょ?」

 「そうなんですよ川崎さん」

 どこぞのワイドショーみたいなセリフだったが、川崎さんは全く気付かなかったようだ。そもそも世代じゃないし気付く筈がない。こんなんに気が付くのはゆか姉くらいだ。

 「まあ何でも良いけど……」

 そう言った川崎さんは、制服のポケットから百円ライターを取り出し、それを弄び始める。

 特に話すこともない上、下手に話しかけると嫌われそうなので、俺も黙ってタバコを吸うことにした。

 そうやって五分ほど無言の時を過ごした俺たちの耳に、またもや屋上の入り口が開閉する音が聞こえた。

 今度は川崎さんと二人で入り口を注視──二人で注視って何かエロいな──すると、入ってきたのはなんと比企谷くんだった。

 比企谷くんは、初めて川崎さんがここに来た時のようにキョロキョロ辺りを見渡している。

 その時、一陣の風が屋上を吹き抜けた。

 比企谷くんが持っていた紙がヒラヒラ飛ぶのが視界の端に映ったが、無視して俺は川崎さんのスカートを凝視した。凝視全一と呼ばれた俺の実力、見たけりゃ見せてやるよ。

 「……バカじゃないの?」

 しかし川崎さんはスカートをしっかり抑え、蔑み混じりの顔でこちらを睨んでいた。

 残念ながら、川崎さんは全部読んでいたらしい。どこのカンフース○夫ファイターだ。

 しかし、この程度でくじける俺ではない。俺は川口探検隊も真っ青な、往年の上○湯隆も思わず蘇ってもう一度サハラ横断に挑戦するほどのチャレンジ精神を以って、躊躇いなく三メートル程の高さがある貯水タンクから飛び降り、バキで学んだ五点着地を華麗に決める。

 衝撃を分散するために回転する最中、俺は確かに川崎さんのパンツを見た。

 ──黒の……レース……!

 ……ま、だからどうしたって話だけど。俺は立ち上がり、未だにヒラヒラ飛んでる紙を人差し指と中指で挟んでキャッチして、ボーッと貯水タンクの方を見る比企谷くんを見る。

 「さ、サンキュー……。……つかアレ、ちょっとやべーんじゃねえの?」

 俺が急に飛び出てきた事にはさして驚かなかった様子の比企谷くんが、貯水タンクの上を指差す。そこには川崎さんが立っていた。当たり前だろ。何がヤバいんだよ。

 「川崎さんがどうかしたのか?」

 「川崎さんっていうのか……。や、すげえ顔真っ赤っかだぞあの人。確実にお前のせいでキレてるだろ」

 「パンツ見られたくらいで怒るなよな。てか比企谷くんも見たんだろ?」

 「み、見てねえよ……」

 比企谷くんは白々しく目を逸らし、下手くそな口笛を吹き始めた。某ネズミ王国のマーチだった。逮捕されちゃうぞ。

 「黒の?」

 「レース……っ!」

 見事に誘導尋問に引っ掛かった比企谷くんを尻目に、俺は手に持ったプリントを見た。

 どうやら職場体験の希望書らしい。比企谷くんの希望欄には、大きく『自宅』と書かれていた。

 「……平塚先生、三人一組って言ってたから、もしこれが通ったら、クラスメイトが比企谷くんの家に大挙して乗り込む事になりそうだけど、そこは大丈夫なのか?」

 「……なんてこった。クラスの奴が俺んちに来るなんて絶対に嫌だ……」

 気持ち悪いもんな。俺も自分の家に家族以外は出来れば入ってこられたくないし。ちゃんとスリッパ用意して置いてあるのに無視して履かずに上がってくる奴はキモイから死滅して欲しい。

 ゆか姉とか楽太郎くらいに親しい人間なら大丈夫なんだけど、とかく他人というものは気持ち悪くてかなわない。

 一人怨嗟を募らせていると、川崎さんが貯水塔の梯子を下りる音で現実に引き戻された。

 「…………」

 ……も、ものすごい睨まれてる……。ていうか、そんなに見られたくないパンツならもっとスカートを長くしろ。そっちの方が俺の好みだし。

 「何か言う事ないの?」

 オーラが漂っている……。審問撃ったら相手がラスゴ握ってた時並みのプレッシャーを感じる……。

 「アネキ、こいつも見てましたよ」

 というわけで単体除去じゃなくて全体除去になるようにしてみました。比企谷くん、恨むなら自分の間の悪さを恨んでくれ。

 「て、てめぇ……」

 すまんな比企谷くん。しかし、科学の発展に犠牲は付き物なんだ。諦めてくれ。……科学も発展も全く何一つ関係ないけど。

 「あんたが見た事実に変わりはないでしょ」

 瞬間、川崎さんの拳が俺の腹部にめり込んだ。なるほど。空手をやっていただけあって、中々良い当身をする。この当身なら簡単に搦め手へも移行出来るだろう。

 「ふぐっ!」

 大してダメージが大きかった訳ではないが、大袈裟に声を上げながらとりあえず前へ倒れ込んだ。当然もう一度パンツを見るためである。

 「っ、死ね!」

 俺の意図に気付いた川崎さんが声を荒げる。

 短いスカートと黒のレースが躍動するのと同時に、彼女の足が高速で振り抜かれんとする。どうやら次は踏みつけられるらしい。……あ、……これは流石に、ヤバ……。

 

 

 

 

 

 「という夢を見たのさ!」

 目覚めると同時に叫ぶ。

 どうやら誰かが部室へと運んでくれたらしく、ギョッとした顔の雪ノ下さんがこちらを見ていた。

 「……あれ、まだ昼休み?」

 他の面子が見当たらなかったので、昼休みのようだと当たりを付ける。

 「放課後よ。由比ヶ浜さんは中々来ない比企谷くんを探しに行っ」

 「ゆきのーん! ヒッキー全然見つかんない! 人に聞いても誰それって言われるだけだし……って、しちりん起きたんだ」

 「……何かさ、気絶した人の扱い方ってこんなんじゃなくない? 大体さ、普通運ぶんなら保健室じゃない?」

 「なんならそのまま永眠してもらってもこちらは一向に構わないのだけれど」

 軽口を叩く雪ノ下さんに、こちらも軽口で返そうかと思って開いた口を途中で閉じる。

 このまま軽口を言い合うのも面白いかもしれないが、ここはもっとエキサイティングな軽口をチョイスしよう。

 「出来れば雪ノ下さんに膝枕とかしてて欲しかったなぁ」

 「……うざ」

 雪ノ下さんは、まるで動じずいつものようにそう言った。どうも俺の言う事は全て、立て板に水とばかりに流す気らしい。酷い話だ。

 「……確かにあなたは嘘を付くのが上手だから、あなたの嘘を見抜くのは少々骨だけど、それならもっと簡単に、あなたの言う事は全て嘘だと考えるのが合理的な方法でしょう?」

 「全ての七里ヶ浜七之助は嘘つきですってか?」

 「あなたはいつからクレタ人になったのかしら」

 クスりと笑う雪ノ下さん。

 「く、くれたじん……?」

 キョトンとしながら俺たちを見る由比ヶ浜さんに、心の中で少しだけ苦笑する。ホント、何の話してるんだよ。

 「……比企谷くん探すんだろ? 手伝うから、はやく行こうぜ。ほっといたらすぐ帰りそうだし、比企谷くん」

 「そ、そうだね……あ、ゆきのんも一緒に行こうよ!」

 「いえ……私は……」

 「何だよノリ悪いなゆきのん」

 「どうやら死にたいようね……」

 「もー! 二人とも早く行こうよ!」

 由比ヶ浜さんが廊下から俺たちへと手招きする。

 「……ほら、行こうぜ。由比ヶ浜さんの頼みなんだ。どうせ断れないんだろ?」

 雪ノ下さんへ問いかける俺の声は、どこか笑いを含んでいた。なんとなく、この二人のこの、奉仕部という隔離病棟に相応しくない関係がおかしかったのだ。

 ホント、二人で仲良く何処へなりと行けばいいのにな。

 「……あなたの言葉の意味はわからないのだけれど、あまり無下にするのも悪いし早く行きましょうか。別に私が由比ヶ浜さんの頼みを断れないというわけではないけれど、一般論として部内での人間関係は大切にするべきよね、ええ」

 高速で捲し立てる雪ノ下さんが余りにおかしかったので、彼女に気づかれないようにこっそりと笑う。気付かれるとまた雪ノ下さんに噛み付かれて由比ヶ浜さんにどやされる。

 「じゃ、行きますかね」

 俺はそう呟き、立ち上がりながらさっさと出ていった雪ノ下さんを見送るのであった。

 

 

 

 部室をあとにし、三人で廊下を歩き始める。

 「ところで目星は付いているのかしら」

 「多分職員室だろ」

 「え、なんで? ヒッキーまた平塚先生に怒られてるの?」

 「比企谷くん、昼休みに職場体験の希望所持ってたんだけど、それに書いてあるのが中々ひでー内容だったから」

 屋上でのことを思い出しながら由比ヶ浜さんに答える。黒いレースが脳裏を横切るどころか反復横跳びを始めていたが全て無視した。

 川崎さんがここにいればからかっていただろうが、残念ながら彼女はここにいない。あんなのからかうネタくらいにしかならないのだから、相手がいなければ無駄なものである。今度から川崎さんのことは黒レースちゃんと呼ぼう。

 「なんて書いてあったの?」

 「希望場所『自宅』と、いつも通りの小理屈。働くのはリスクを払いリターンを得る事だとかなんとか」

 彼はリスクを払うのを厭っているようだが、俺はむしろリスクとスリルを愛する男なのでその点では彼より社会人に向いているかもしれない。人生常にプリフロップオールインだ。俺の方がよっぽど社会人に向いていない。ジャンキー一歩手前だ。むしろ両足突っ込んでるまである。

 「彼は相変わらずなのね……」

 雪ノ下がこめかみを軽く押さえながら零す。彼女からすれば、比企谷くんの更生が上手くいっていないというのは業腹な事なのかもしれないな。

 「いやそれにしても、比企谷くんと結婚する人は稼ぎ頭になるわけだから、頑張って勉強とかしないといけないんだろうなー」

 話題を転換させようとして俺が白々しくそう言うと、由比ヶ浜さんは何やらブツブツ一人で呟き、大きな胸の前で小さく拳を握っていた。うむ、学生が勉学に励むのは良い事である。

 「……そのような優秀な女性が彼を選ぶ事はなさそうなものだけれど……」

 雪ノ下さんがボソリと呟いた言葉は聞かなかった事にして、俺たちは更に歩を進める。

 そんなこんなで七之助と奉仕部の愉快な仲間たちは、無事に職員室前まで辿り着いたのである。

 ちなみに俺が職員室への行き方を知らなかった事で、愉快な仲間たちがパーティーを解散しようとしたことは秘密である。





川なんとかさんが暴力系ヒロインじみてましたが、やられても仕方ないということで一つ。
あと今回はやたら主人公がチャラいです。誰一人として相手にしてないですが。


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そして比企谷八幡は地味に傷つく。

 案の定比企谷くんは職員室で平塚てんてーに怒られていたようだ。今は何か手伝いさせられている。余計な事を書くからである。俺も人の事を言えないが。

 「ヒッキー!」

 由比ヶ浜さんが、まるで犬が飼い主を見つけた時のような風に目を輝かせながら声を上げる。見えない尻尾がブンブン振られていた。犬系女子だ。流行るか? 流行らないな。褒めてるのか貶してるのか分からないし。

 「おや、由比ヶ浜。悪いが比企谷を借りているぞ」

 「べ、別にあたしのじゃないです! ぜ、全然いいです!」

 「先生、どうせなら僕をこき使ってくださいよ」

 「お前の相手は比企谷以上に疲れるのでな。それに、お前はこの間呼び出した時にもう提出しただろう」

 「そう言えばそうでしたね。てか僕の相手ってそんな疲れますかね? こんな毒にも薬にもならない人間他にはそう居ないと思うんですけど」

 俺が尋ねると、俺以外の四人が一斉に頷いていた。マジかよ。

 「……なんか用か?」

 比企谷くんの問いに、由比ヶ浜さんの後ろにいる雪ノ下さんが、ツインテールをぴょこりと跳ねさせながら前に出て答える。

 「あなたがいつまで経っても部室へ来ないから捜しに来たのよ、由比ヶ浜さんは」

 「倒置法で自分は違うアピールいらねぇから、知ってるから。つか七里ヶ浜目ぇ覚ましたのか」

 「おかげさまでジャスト一分良い夢見れたわ。雪ノ下さんに膝枕してもらったし」

 どうやら部室まで運んでくれたのは比企谷くんらしい。比企谷くん、なんだかんだ言って面倒見良い奴だもんなぁ。働きだしたらこき使われそうなタイプだ。

 「どこの邪眼使いだよお前……てか膝枕ってマジか?」

 「そんなわけないでしょう……」

 雪ノ下さんが殺意の波動を飛ばしながら否定する。やべえよ波動○紫色になっちまうよ……。雪ノ下さん瞬獄殺とか撃てそうっすね。

 「わざわざ聞いて歩いたんだからね。そしたらみんな誰それって言うし。超大変だった」

 由比ヶ浜さんがプンスカしながら比企谷くんを責める。ていうか比企谷くん責めても知名度はどうにもならねーだろ。

 「その追加情報いらねえ……」

 まあ、多分俺も似たような感じになるだろうから比企谷くんを笑えない。

 「超大変だったんだからね」

 大切な事なので二回言いました。ていうかメールなり電話なりすりゃあ良かったんじゃないのか?

 疑問に思いながら由比ヶ浜さんを見ていると、彼女は手をもにょもにょこちょこちょと弄んでからその口を開いた。

 「別に良いんだけど……その、だからさ……携帯教えて? わざわざ捜して回るのもおかしいし、恥ずかしいし……」

 ……えっ!? 知らなかったの!? そのナリで奥手!?

 「別にいいけどよ……」

 言いながら携帯を取り出す比企谷くんと由比ヶ浜さん。比企谷くんの携帯はスマートフォン。由比ヶ浜さんの携帯はやたらゴテゴテと装飾された普通の携帯だった。ガラケーって言うんだっけ? 携帯にはあまり興味がないのでよくわからない。

 「赤外線使える?」

 「いや、俺スマートフォンだから赤外線ついてない」

 「えー、じゃあ手打ち? ……めんどっ」

 「アドレス交換する機会がないから必要ねぇんだよ。だいたい俺携帯嫌いだしな」

 そうだよな。俺も、何か首輪みたいで苦手だ。まあ嫌いと言っても、首輪どころか手錠レベルで付けられまくってるんだけどな。

 比企谷くんが由比ヶ浜さんに携帯電話を差し出すと、少し驚きながらも彼女は物凄い打鍵速度でアドレスを入力していた。すげーなおい。シューマッハ並だろこれ。今度から由比ヶ浜さんの事はシューマッ浜さんと呼ぼう。

 「……雪ノ下さんは交換しなくて良いの?」

 ふと疑問に思い、俺は比企谷くんと由比ヶ浜さんを尻目に雪ノ下さんに話しかけた。

 「逆に、私が比企谷くんとメールのやり取りをする必要性はあるのかしら?」

 雪ノ下さんが眉一つ動かさずに答える。……あ、あれ? 俺の予想ではもうちょっと慌てるはずだったんだけど? 雪ノ下さん、比企谷くんのこと何とも思ってないのか?

 「……あ、そう。じゃ俺と交換する? 一日に百件くらい送るよ?」

 嘘だけど。そもそもメールなんて送った経験すらない。基本電話だし、十秒で終わるような連絡事項を告げる為だ。しかも自分から電話するわけでもない。なんの為に持ってるんだ、携帯。

 「……それ、ストーカーじゃない……」

 「実は俺、雪ノ下さんの熱烈なストーカーなんだ。ちゃんとカーテンは閉めた方が良いよ。お風呂上りで無防備な姿の雪ノ下さんは他の人に見られたくないし」

 「嘘ね。私、カーテンを開けっ放しにした事なんて一度も無いし、お風呂上りでも無防備な姿になんてならないもの」

 「あ、バレた?」

 「そもそもあなたは、人にそこまで執着する人間じゃないでしょう……」

 「いや超するよ? 執着し過ぎて逮捕されるレベル」

 否定すると、雪ノ下さんは遂に何のリアクションもせずに俺を無視し始めた。そら(ウザい絡みしたら)そう(無視される)よ。

 話し相手を失ったのでもう一度比企谷くんたちの方を見ると、何故か平塚てんてーまでもが比企谷くんの携帯電話に何かを打ち込んでいた。多分メールアドレスだろう。ていうかずりーぞ比企谷くん。俺も平塚てんてーとアドレス交換してーよ。

 「比企谷。もういいぞ。手伝い助かった。行きたまえ」

 羨みながら比企谷くんを見ていると、平塚てんてーは咥えたタバコに火をつけてそう言った。

 ……タバコ吸いてーな。

 「んじゃ俺はこれで」

 思い立ったが吉日、俺は奉仕部の面々と平塚てんてーにそう告げて職員室をあとにして、すごすごと我が城こと非常用階段へ向かう事にした。

 

 

 

 

 特別棟の四階、東側。グラウンドを眼下に望む場所に我らが奉仕部の部室はある。

 開け放った窓からは、下手くそな吹奏楽部の管楽器の演奏や、これまた下手くそな運動部の掛け声などが聞こえてくる。

 羨ましい。素直にそう思う。

 トランペットもサックスも、確実に俺の方が上手い。テニスやサッカーだって俺の方が上手いだろう。

 それでも、下手くそだろうが何だろうが、熱くなれる奴らはそれだけで眩しいのだ。

 そして我らが奉仕部に目を移せば、やっていることと言えば読書か携帯。何一つ熱くなる要素の無い、ゼロ点の青春だった。

 かくいう俺も、机の上で寝転がってぼーっとしているだけなので人のことは言えない。ままならないものである。

 「どうかしたの?」

 半分眠りの国の七之助になっていると、いきなり雪ノ下さんの声が耳朶を打った。

 彼女の方を見やると、彼女は相変わらず本を読んでいた。一体何を言い始めたのだろう。雪ノ下さんは遂に霊能力まで手に入れたのだろうか。

 「あ、うん……何でもないんだけど、ちょっと変なメール来て、うわって思っただけ」

 一人で霊界探偵雪ノ下雪乃を思い浮かべて腹筋がつりそうになりながらも無表情を保っていると、由比ヶ浜さんが雪ノ下さんの声に答えていた。どうやら雪ノ下さんは由比ヶ浜さんを心配していたらしい。

 「比企谷くん、警察のお世話になりたくなければ今後そういう卑猥なメールを送るのは控えなさい」

 そこで俺の表情筋は臨界点を迎え、声こそ上げなかったがとうとう笑ってしまう。ま、誰もこっち見てないから笑ってても怒られないんだけどね。

 「俺じゃねえし……。証拠はどこにあんだよ。証拠出せ、ソース示せ」

 「その言葉がそのまま証拠といっていいわね。犯人の台詞なんて『証拠はどこにあるんだ』や『大した推理だ、君は小説家にでもなった方がいいんじゃないか』だったり『殺人鬼と同じ部屋になんていられるか』と、相場は決まっているのよ」

 「や、最後のは違うだろ」

 それは被害者、それも二人目くらいのあまり印象に残らない殺され方をする超脇役の台詞だ。最初でも最後でもない為、ほとんど目立たないという不遇の死を遂げる人の台詞だ。

 「そうだったかしら」

 比企谷くんにも同じようなことを言われた雪ノ下さんは、首を捻ってぱらぱらとページを繰る。どうやら推理小説を読んでいたらしい。雪ノ下さんのことだから、シャーロックとかポワロとかだろうか。ミステリと言っても、彼女がマーロウを好んで読むタイプには見えない。ここにいる奴らも全員ハーフボイルドだし。

 「いやー……ヒッキーは犯人じゃないと思うよ?」

 由比ヶ浜さんがそう言うと、雪ノ下さんが「証拠は?」と尋ねている。どんだけ比企谷くんを犯人扱いしたいんだよ。

 「んー、内容がうちのクラスのことなんだよね。だからヒッキー無関係っていうか」

 「いや俺同じクラスだろ……」

 「なら無関係ね」

 「証拠能力認めちゃったしさ」

 「まあ、関係無いだろうな」

 「てめぇ……」

 無関係扱いされた比企谷くんに内心爆笑しながらも、そんなことはおくびにも出さず便乗する。実際関係無いだろうしね。

 「大丈夫だって! 比企谷くんは俗世のしがらみに囚われてないだけだから!」

 「てめえに言われても嬉しくないどころか、白々しい分余計腹立つわ」

 「慰め甲斐のない奴だなぁ……」

 比企谷くんの余りのひねっぷりに少々苦笑いしてしまう。ホント、どんな奴だと思われてんだよ、俺。

 「……うん、あんま気にしないことにする。こういうの、時々あるしさ」

 そう言って由比ヶ浜さんが携帯電話をぱたんと閉じる。まさに『臭いものに蓋』だ。

 当たり前の事だが、他人との繋がりなんてものは、どこまで行っても本質的には『臭いもの』なのだ。そんなものを切って捨てることに、何の呵責を感じよう。それこそ無駄というものだ。

 「……暇」

 携帯電話を使えなくなった為、由比ヶ浜さんは退屈そうな顔で呟く。同感である。

 「勉強でもしていたら? 中間試験も迫っていることだし」

 「もうそんな時期か!」

 『中間試験』という単語を聞いた俺はガバッと起き上がり声を上げた。

 「……定期試験を嫌がる人は多いけれど、そんな笑顔を見せる人はそういないでしょうね」

 雪ノ下さんは予想外の方向からの声に少々驚いたようで、軽く座り直して俺に視線をやった。

 「何でそんな楽しみにしてんだよ……」

 比企谷くんが相変わらず腐った目でこちらを見ながら聞いてくる。

 「今回こそリベンジが掛かってるからな。それに、二年になって初めてのテストだ。傾向と対策を練るために、データ収集は欠かせない」

 「定期試験如きで傾向と対策なんて必要ないでしょう……」

 雪ノ下さんが塩度の高い冷笑を俺に送ってきた。甘いぞゆきのん。

 「そりゃ百点取るのに対策なんて要らないけどさ。百点阻止問題だって大した問題じゃないし」

 「……え? じゃあ何の対策するの?」

 由比ヶ浜さんが何言ってんだこいつ的な目をしていた。完全にバカにしてる。

 「いやまず百点取るのを当然みたく言ってることを疑問に思えよ。雪ノ下かよ……」

 「いや、テストなんて本に書いてあることさえ理解すりゃ簡単なもんだろ。なぁ?」

 同意を求めて雪ノ下さんに話を振る。

 「まあ、そうね。でも、あなたにそれが出来るとは思えないのだけど」

 ひでぇ言い分である。俺のことを何だと思っているのだ。これでも生まれる前までは神童と呼ばれていたんだぞ。つまり生まれてからはダメだということだ。ダメダメである。

 「対策ってのはだな、各教科担当がどんな問題をどんな配点にしてテストをするか予想することだ」

 「……それ意味あるの?」

 由比ヶ浜さんは相変わらずキョトンとしながら尋ねてくる。雪ノ下さんはというと、俺が何をしようとしているのか理解したのか、こめかみを抑えながら生ゴミを見るような目でこちらを見ていた。

 「テストで遊ぶ奴にはある」

 「テストで遊ぶって何だよ。真面目にやれよ」

 比企谷くんにしてはマトモな意見である。ていうか俺も結構酷い奴だな。比企谷くんにしてはって何様のつもりだよ。

 「……おそらく七里ヶ浜くんは、点数を調整して遊んでいるのよ」

 「点数……調整……?」

 「何点を狙っているの?」

 先ほどより更にポカンとした顔をしている由比ヶ浜さんを無視して話を進める雪ノ下さん。

 「当然七十七点だろ。人呼んでラッキーセブンシッチーとは俺のことだ!」

 俺がビシッとサムズアップを決めると、部室の温度が急激に下がった。……あれ? もう五月だよね?

 「ちなみに、一年の時のチキチキバンバン全教科七十七点ピッタンコチャレンジは三勝二敗だった」

 ちなみに、期末でしか試験をしない実技科目のペーパーテストは無理があるのでやめた。一応狙いはしたが、そもそも一問二点で五十問だとか五十点満点やらのせいで不可能だ。結局七十六点と三十八点に甘えた。

 「敗因は?」

 乗り気になったのか雪ノ下さんが中々突っ込んだ質問をしてくる。多分雪ノ下さんも、ルーチンワークじみた定期試験を楽しく乗り切る方法に興味があるのだろう。

 「一学期中間は情報不足。三学期期末は物理のテストの問題ミスがあったせいで、全員四点プレゼントでズラされた」

 「あら、その程度も読めなかったの?」

 「ハナから計算に入れてなかったから見てすらない問題だったんだよ……」

 まさかあんな伏兵が潜んでいたとは。定期試験、侮り難し。

 「甘いのね、七里ヶ浜くん」

 雪ノ下さんが勝ち誇ったような笑顔を浮かべる。そもそも競ってないだろ。

 「まあ、何にせよ勉強は大事だからな、由比ヶ浜さん」

 俺が由比ヶ浜さんの方を見て意味深に言うと、彼女は職員室への道すがらの会話を思い出したらしく、気合の入った表情をしてから大声で宣言した。

 「と、いうわけで。今週から勉強会をやります」

 「「「あ、そう」」」

 「リアクション薄っ!!」

 「だって……なぁ?」

 意味もなく比企谷くんに同意を求めると、彼も面倒そうな顔をしてしきりに頷いていた。

 「じゃあ、プレナのサイゼでいい?」

 「私は別に構わないけど……」

 雪ノ下さんが言いごもると、次は比企谷くんが口を開きかけた。

 「由比ヶ浜、その、なんだ」

 「ゆきのんと二人でお出かけって初めてだね!」

 「そうかしら」

 …………あぁ。比企谷くんの心に、また余計な傷が……。

 



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いつかのように葉山隼人は爽やかである。

 「今日のサティ、結構良かったよ」

 五千円札を俺に差し出し、微笑みながらゆか姉は語りかけてきた。

 「そうか? 今日は楽譜すらマトモに見たことない曲しか弾いてないんだけど」

 「あー、やっぱり耳コピだったか。七之助っぽいアレンジだったもんね」

 「俺っぽいアレンジってなんだよ……」

 「んー、何というか、やる気ない感じ?」

 「じゃあ良くねえだろ……」

 相変わらず、ゆか姉の言うことはよく分からない。

 「しばらく聴かん内に随分うまなったな、シチ」

 「大して変わってねーよ」

 珍しいことに、今日は楽太郎もバー紫に来ていた。さっきまではゆか姉と客に弄られまくっていたからなのか疲れきった表情だったが、営業が終わった途端元気になりやがった。現金な奴だ。

 「そういや、カビラさんはどうなったん?」

 「カビラじゃなくて三浦な……。三浦さんは、もう一回ナナに化けてボコっといた」

 「それ解決になってないやろ……」

 「良いんだよ、適当で」

 肩を竦めて答える。何事も適当に、妥協するというのが今月のスローガンなのだ。

 いつもの俺は、何事にも全力投球で納得するまでずっとやり続けるタイプの人間なのだが、やはり一つの思想に凝り固まり過ぎるのも良くないだろう。

 「ていうか七之助まだ女装してんの!? ハマっちゃった!?」

 「ハマってねえよ。必要に応じてやるってだけだ」

 あんな面白そうなこと他の奴にやらせるのも癪だったしな。まあ実際はあんまり面白くなかったわけだが。

 「なんにせよ、ナナにももうちっと構ったれよ? お前の代わりにあいつのお守りすんの疲れるし」

 「馬鹿言えよ。嬉しい癖に」

 俺が流し目で楽太郎を見ると、奴はみるみる顔を紅潮させ、茹でダコみたいな顔色になっていた。……男のこれは気持ちわりーな。

 「は、はぁ!?」

 声を荒げる楽太郎を見ていると、少し気分が良くなった。やっぱりこいつと居るのは面白い。

 「ラクちゃん、まだナナちゃんのこと諦めてないんだ! 長い片思いだねぇ」

 ニコニコ、というよりニヤニヤしながらゆか姉も楽太郎弄りに参加する。この女は暇さえあれば他人で遊ぶ嫌な奴なのだ。もう少し自分との対話を重視すべきだと思う。じゃないと卍解出来ねえぞ。あ、アレは違うか。

 「ナナはそんなんちゃいますよ! ホンマに!」

 「キッキッキ! ラク、こういうのは、否定すればするほど泥沼にハマるんだよ」

 俺が笑いつつもそう忠告すると、ゆか姉と楽太郎は何故かこちらを見たまま固まっていた。

 「……どうした?」

 「その笑い方、えらい久しぶりやな。ラクってのも久々やし」

 「だよねー! 喋り始めてから小学校卒業するくらいまでずっとその笑い方だったのに、最近めっきり聞かなくなって寂しかったんだよねぇ」

 そこまで言われて、ようやく奴らが何を言っているのかに気がついた。

 「待て、今のは無しだ……」

 「「キッキッキ!」」

 「……殺す」

 楽太郎に全力で殴りかかると、前腕を軽く弾かれていなされた上、あろうことか抱きつかれた。

 「何しやがる! 離せ!」

 ジタバタと、傍から見ると見苦しいことこの上ないであろう暴れ方をして、楽太郎の拘束を逃れようともがく。

 「おーおー七之助ちゃんはちっこてかぁいいなぁ! お兄ちゃんがナデナデしたろ!」

 そう言って楽太郎は俺のアタマをグシャグシャと撫で回してくる。

 「てめぇ!」

 「ひゃーこわ。ゆかさんパース!」

 気が付くと俺は楽太郎に押し出されてぶっ飛び、ゆか姉の胸に抱きとめられていた。

 「なになに? ママのおっぱいが恋しいの? 飲ませてあげようか?」

 「…………」

 「……ねえラクちゃん。何か七之助すっごいブルブル震えてるんだけど。何かドリキャス思い出しちゃう」

 「可愛いおねーちゃんに抱っこされて嬉しいんとちゃう? てかぷるぷるパックとかごっつ懐かしいな……」

 「やーん、ラクちゃんったらお上手!」

 ゆか姉はクネクネ動きながら、楽太郎のように右手で俺の頭を撫で回す。

 しばらくしてからゆか姉はその手を止め、しばらくの間楽太郎と共に押し黙り始めた。

 「あ、あれ? 七之助くん?」

 遂に視界がゆか姉の胸から解放される。眩しい。

 「し、死んでる……!」

 死んでねーよ。ブッ殺すぞ。

 「……おーい、七之助くん?」

 うっせーよ。何だよ。

 「ラクちゃん……何か七之助の口がパクパクしてるんだけど……。しかも顔色真っ青だし……」

 「いや、痩せとる時の顔色はいっつもこんなんやろ。口パクパクしてんのはゆかさんがやたら触りたくったからちゃう? ホラ、こいつ人にくっつかれるのやたら嫌がるし」

 「そこまで分かってんならやるんじゃねぇよ!!」

 我慢出来ずに叫び声を上げる。こいつらいつか絶対にブッ殺す……。

 

 こんな感じで、俺は幼馴染共と最高に愉快でクソッタレな夜を送ったのである。

 この後ゆか姉と楽太郎が「久々のゴミ屑トリオ集合記念!」とか言い出しておっぱじめた酒盛りに無理矢理参加させられ、喉が焼けるんじゃないかと疑う程に度数の高い日本酒をガブガブ飲まされた挙句十分で潰れたのも中々愉快な経験だった。声を大にして言わせてもらうが、俺はゴミ屑トリオとやらに入った覚えはない。お間違えのなきよう。

 ……ホント、これも嘘なら良かったのにね。残念ながらアニメでも嘘でもなく、翌日は割れるような頭痛のせいで学校サボって寝てました。許せサスケ。

 あ、ちなみに、俺だけじゃなくてゆか姉と楽太郎も一緒になって雑魚寝でくたばってました。まる。

 

 

 

 

 「あ、川崎さん。どうも」

 昼休み、俺はまたもや屋上に来ていた。どうやら俺は、非常用階段ではなく屋上を選ぶ程度には川崎さんを気に入っているらしい。

 「……何しに来たの?」

 「もちろん川崎さんに会いに!」

 「……あっそ」

 すげない返事を聞き流し、給水塔に上ってみると、そこにいた明らかに寝不足な顔の川崎さんに驚いた。

 少なくとも俺の知っている彼女は、人に弱みを見せることを良しとしない人間だった筈だ。

 何かあるなと、直感的に理解する。前にも言った気がするが、こういうときの勘を外したことは、今まで唯の一度もなかった。

 「……川崎さん」

 「なに?」

 川崎さんがこちらにパッと向き直る。ちょっとビックリして転落しかけた。あぶねえ。

 「……夜はちゃんと寝た方が良いぞ。身長が伸びなくなる」

 川崎さんの身長は、女にしてはそこそこ高い部類ではあるのだが、もう少し高くても俺はウェルカムである。出来ればそっちの方が良い。

 ……流石に百八十センチとか言われると、百五十五と少しの俺には無理があるけど。

 「……これで満足してるし」

 「じゃあ、肌が荒れる」

 身なりに気を遣わない女というのは周囲から低く見られがちだしな。

 それに文句を言う人もいるが、可愛けりゃ持ち上げられるんだから整形でもなんでもすれば良いと俺は思っている。

 文句を言う女に限ってヒゲ生えてたりするし。彼女たちに種としての存在価値があるのかは、俺の中で永遠の疑問である。

 「……別に良いし」

 言い終えると川崎さんは鼻白んだように俺から視線を外し、遠くを見る作業に戻った。川崎さん、歩哨とかそういう職業に向いてるんじゃなかろうか。

 それにしても川崎さん、何で夜更かしなんてしてるんだろう。出来ればやめてもらいたい。彼女に体調を崩されるのはあまり嬉しくないからだ。少し理由を考えよう。

 んー、夜更かしか……。

 「そう言えば……川崎さんってゲームとか好き?」

 「別に。何で?」

 これはハズレ、と。

 「いや、今度面白そうなゲーム出るから、一緒にやってくれないかなーと」

 「無理。ゲーム買うお金なんて無いし、やってる時間もない」

 ゲームを買うお金がないかぁ。川崎さんって、家計が結構大変な家の娘さんなのかな。

 欲しいものが買えなかった経験というのをして来なかったし、今でも欲しいものは大体買える程の小遣いを貰っているので、そういう感覚は全く感じたことのないものだ。

 「そうなんだ、すまんち」

 そう言いながら俺はようやく、川崎さんは参考書を欲しがっているという情報を記憶の隅から引っ張り出せた。

 なるほど。これで全ての謎は解けたぞ。

 つまり、川崎さんは苦しい家計を助けたいがそれと同時に大学にも行きたいから、出来る限りお金のかからない大学に行く為に頑張って勉強しているのだろう。リアル蛍雪の功である。

 こう仮定すると、お金と時間に余裕がないという川崎さんの言には確かな説得力が生まれる。

 ……ふぅ、我ながら素晴らしい推理力だ。これがこの問に対する最適解だろう。

 それにしても、大学に行きたいから勉強するという精神性は相変わらずよく理解出来ないな。周りの人間から『そういうもんなんだ』という知識を仕入れていなければ、確実に解けない問題だっただろう。

 「親に迷惑かけたくないってのも分かるけどさ、無理しないで早く寝るのも大切だぞ?」

 俺がしたり顔でそう言うと、川崎さんはハトが豆鉄砲喰らったような顔で俺を見た。

 「……あんた、なんで……」

 「ん?」

 「……誰にも言わないで」

 「は? 何を?」

 意味が分からなかったので聞き直したが、それを無視した川崎さんは、ハシゴをカンカン鳴らしながら給水塔を降りていく。しばらくすると扉の閉まる音がして、後には風の音しか残らなかった。

 ……一体何だったんだ?

 寝転がって目を瞑ると、疑問が鎌首をもたげ始めたが、一気に眠くなってきたので考える事を放棄して寝ることにした。

 ……うん、午後の授業はこのままフケよう。

 

 

 

 

 夕陽が海へと還る頃、ようやく目を覚ました俺は、とりあえず奉仕部へ向かうことにした。みんなはもう帰ってしまっているかもしれないが、一応。

 部室の扉を開くと、そこには何故か材木座くんが立っていた。

 「は、八幡、ではな!」

 そう言って材木座くんは何故か微妙に微笑みながら、目の前に立っている俺に気づかずそのまま部室から出て行った。俺の身長じゃ材木座くんの視界に入らないから仕方ないね。……言ってて哀しくなってきた。

 材木座くんを見送って部室に足を踏み入れると、そこではいつもの四人が謎会話を繰り広げていた。雪ノ下さん、比企谷くん、由比ヶ浜さん、そしてマンソンだ。よし、いつもの四人だな! いつものリズムだ!

 「……何で葉山くん?」

 ハイ、マンソンじゃなくて葉山くんでした。いつもの四人なんて最初からいなかったんだ。

 一斉にこっちを見るいつもの三人と葉山くん。

 「えっと……ごめん、誰だっけ? クラスメートだよね?」

 しばらく記憶をさらっても俺の名前が出てこなかったのか、申し訳なさそうな顔をこちらへ向けた葉山くんが、友好的な態度で応えてくれた。

 彼の事をしっかり認識するのは前のテニス以来だが、相変わらず爽やかな奴である。俺も葉山くんを見習って、爽やかな人間を目指して余生を過ごそう。

 「七里ヶ浜七之助ね、愛称のしちっちで呼んでくれ」

 「しちゅっ……しちっち……?」

 雪ノ下さんが何やら呟いていたが無視してやることにした。これを弄ってやるのは余りに哀れである。顔真っ赤にしてるし。そんなに恥ずかしいなら試すなよ……。

 「言いにくそうだしやめとくわ」

 葉山くんは朗らかな笑みを浮かべながらサラッと俺の張ったトラップを躱した。中々のツワモノである。

 「……由比ヶ浜さん、説明してくんない?」

 「え!? わたし!?」

 今の雪ノ下さんに説明させると物凄い早口になりそうだし、比企谷くんだと妙なバイアスのかかった情報を聞いてしまいそうなので、ここは由比ヶ浜さんにワトスンくんをロールしてもらうことにした。頼むぞワトヶ浜ちゃん。

 「えっと……」

 由比ヶ浜さんの割と分かりやすい説明を聞きながら、自分でも情報を纏める。

 どうも、クラスメートの中で特定の人物──戸部くんと大和くんと大岡くんの三人──を中傷するチェーンメールが出回っていて、それに心を痛めた我らが葉山隼人様がその腰を上げてここへ来たということらしい。

 「なるほど。なら、回した奴を全員半殺しにして回ったら良いんじゃない? 二度と携帯電話なんて持てない身体にしてやろう」

 軽く笑いながらそう言うと、他の四人がドン引きしていた。何故だ。

 「なんでそんなバイオレンスなんだよ。お前はそういうキャラじゃないだろ」

 「比企谷くん。俺の座右の銘が『酒と煙草と女と喧嘩』なの知らなかったのか?」

 「流石に初耳過ぎるわ。つーか七里ヶ浜。お前もちっとは真面目に考えろ」

 比企谷くんに叱られてしまったので、少し考えてみようと思ったが、残念ながら考える材料が少なすぎる。これの解決方法は、関わった奴を全員皆殺しにするくらいしか思いつかない。

 「原因とかの察しはついてんの?」

 「そうね。由比ヶ浜さん、いつからそのメールが回り始めたか分かる?」

 ようやく持ち直したらしい雪ノ下さんの言葉を受け、由比ヶ浜さんは携帯電話をカコカコと音を鳴らしながら操作する。

 「んーと、先週くらいから……かな?」

 「何か原因として思い当たるような出来事はなかったかしら」

 雪ノ下さんがもう一度由比ヶ浜さんに尋ねると、流石にすぐには思いつかなかったのか、由比ヶ浜さんは押し黙ってしまった。

 「あったことっていうと……職場見学の班分けとか」

 比企谷くんがボソッと呟くと、由比ヶ浜さんがパッと視線を上げ、比企谷くんの方を見て呟く。

 「それかも……」

 「「え? そんなことでか?」」

 いわゆる一つのシンクロニシティが比企谷くんと葉山くんの間で起こり、葉山くんはニカっと笑い比企谷くんはバツの悪くなったのかソッポを向いた。

 「こういうのはその後の人間関係に影響するらしいからな。……つまり、ハブられたくない奴がばら撒いたってことだろ」

 「たぶん……」

 俺の見解を述べると、由比ヶ浜さんは自信なさげに頷いた。

 こういう事でナイーブになる人間を中学の頃は腐るほど見てきたので、理解は出来ないが知識としては持っている。

 「けど、それならなんで葉山くんについての悪口は回ってないんだ?」

 「そりゃ、単純にハブにされたくないってだけじゃないからだろ」

 比企谷くんが俺の質問に答えたので、俺は黙って続きを促した。

 「あくまで、葉山と同じグループになることが重要なんだ」

 「なんで?」

 「そりゃお前……葉山だぞ?」

 比企谷くんの伝える努力をほとんど放棄したような返答を聞いた俺は、ようやく納得することができた。

 つまりこの内ゲバは、葉山くんと愉快な仲間たちのものではなくて、三人の愉快な仲間たちが葉山くんと同じ班になるために二つの枠を巡って争っているということなのだろう。

 つくづく、面倒くさい奴らである。自分の価値すら自分で決められないなんて、生きてる意味がないだろう。

 「俺が言えた義理じゃないな……」

 誰にも聞こえないよう、苦笑いしながら一人自嘲する。

 「ま、そういう事なら簡単だろ。葉山くんが上手いこと『お前らとは組まない』って言えば、全部丸く収まるんじゃない? もし犯人探しがしたいなら、全員殴って回るけど」

 「……確かにそうだな。いや、犯人探しがしたいわけじゃないんだ。……うん、七里ヶ浜くんの言ったようにするよ。ありがとう」

 そう言って葉山くんは人好きのする笑みを浮かべ、ペコりと一礼してから部室を後にした。

 葉山くん、去り際まで爽やかだったな……。

 「……なあ雪ノ下さん」

 「どうかした? 七里ヶ浜くん」

 俺は雪ノ下さんに思いっきり人の悪そうな笑みを向けて、勝利の宣言を高らかに謳い上げた。

 「今からでも遅くないから、どじょうすくいの練習したらどうだ?」



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とにかく雪ノ下雪乃はブレている。

 中間試験が目前に迫っている。といっても、特に勉強が必要な訳でもないので俺はいつも通りバー紫でピアノを弾いていた。

 今日はなんとなくバロック音楽を攻めようと思い、「主よ、人の望みの喜びよ」などを弾いている。この曲を聞くと不安になる人が一定数居そうなのは無視だ。

 

 見も知らぬ、既にくたばった人間のアタマが生みだした音を奏でる。

 いや、これは正しくないな。

 俺が今奏でている音はきっと、ただ音階が重なっているだけで、彼の頭の中にあった音とはまるで違うのだろう。そういうもんである。

 それでも俺は音を紡ぐ。何の主義も主張もなく紡ぐ。俺に出来る事は、精々がそれくらいなのだ。

 聴いてるのか聴いてないのかよく分からない客へ向かって。

 上機嫌に鼻歌交じりでグラスを磨くゆか姉へ向かって。

 代わり映えしないクソッタレな日々へ向かって。

 なるべく何も考えないよう、ただ鍵盤を叩いて、音を紡ぐ。

 「……ふぅ」

 一曲弾き終え一息ついてから、グランドピアノの脇に置いた小さなテーブルにちょこんと乗った瓶コーラを口へと運ぶと、口の中で炭酸が弾け、気持ちの良い刺激と心地良い甘さが俺の味覚を埋め尽くした。

 「……それにしても、日も落ちてないのにこんな所で酒飲んでるってすげえよな、この人ら」

 ぼそりと呟き、指を軽く揉みながら次に弾く曲を選定する。

 うーん。特に弾きたい曲ねえしなぁ……。

 「ゆか姉、リクエスト」

 「ドビュッシー! 月光!」

 ゆか姉は満面の笑みを浮かべて、まるでこのタイミングでリクエストを求められる事を予期していたかのように淀みなく答えた。まさしく電光石火だ。

 「月の光ねぇ……。気分じゃねえな」

 「じゃ、喜びの島」

 「あの曲ってさ、何回弾いても喜びなんて感じないんだけど」

 なんか、生理の重い女の心情みたいで全く楽しい気がしない。どこが喜びだよ……。

 「なら聞くな! 文句が多い、とっとと弾け! お金あげないよ!?」

 ゆか姉は大変おかんむりである。プリプリ擬音が鳴って……いや、自分で声に出して言ってるのか。何考えてんだあいつ……。それ見て喜んでる客も居るし。こいつらちょっと精神的にキてるんじゃねえのか……?

 などとアホな事を考えながら手慰みにハノンを弾くと、ようやく考えがまとまってきた。よし、今日はあんまり難しい曲を弾かない事にしよう。

 「んじゃ、ランゲの……花の名?」

 完全にうろ覚えである。……いや、言い訳ならちゃんとある。俺はあまりタイトルを気にして曲を弾かないから、弾ける曲でも名前を知らない曲が多いのだ。まともに楽譜を見たことがないなんて事もザラだし。

 「ランゲは花の歌でしょ……。それじゃ某三丁目の主題歌じゃない……」

 珍しく、呆れたような流し目で俺を見るゆか姉。おちょくられる事は多いが、こういうバカにされ方をするのは結構久々である。

 「そうだっけか。ま、何でもいいや……。んじゃ……」

 適当に受け流し、俺はもう一度鍵盤に指を走らせた。

 

 

 

 

 「川崎さんの更生?」

 「まあ、かいつまんで言えばそういう事になるかしら」

 翌日、いつものように部室へ行くと、何故か戸塚ちゃんが居たことに疑問を覚えつつも雪ノ下さんから次の活動についてのレクチャーを受けた。

 雪ノ下さん曰く、川崎さんは非行少女らしい。当然俺には何を言っているのか理解が出来なかった。

 「いや、川崎さんは超真面目少女だろ。寝る間も惜しんで勉強してるんだぞ?」

 「残念ながらそのような事実は存在しないわ。実際、彼女と同じ屋根の下で暮らす弟さんが証言しているんだから間違いないでしょう」

 「はぁ……。川崎さんが夜遊びねえ……」

 まるで現実感がない話だ。そもそも彼女は家族に心配をかける事を良しとしないだろう。

 「なんでも、『エンジェルなんとか』というお店から電話もかかってきているらしいわ」

 川崎さんがエンジェルつまり天使である事に異論はないのだが、エンジェルなんとかとやらには、どこか記憶に引っ掛かるものがあった。

 「川崎さんがエンジェル……エンジェルっていうと……あ、エンジェルラダーか?」

 「なんかオシャレな単語だ!」

 由比ヶ浜さんが興奮していたがスルー。

 「ロイヤルオークラの最上階のバーだ」

 由比ヶ浜さんに説明してやると、彼女はふんふんと頷いていた。

 「なんでそんな店知ってんだよ」

 「あー……敵情視察……?」

 比企谷くんに言うと、彼だけでなく雪ノ下さんもが、まるで意味が分からない的な顔で俺を見てきた。よせやい照れるじゃねえか。

 「川崎さんならあそこでバーテンやってても雰囲気出そうだしな」

 ……あ、じゃあ川崎さんはバイトのせいで寝不足だったのか。

 しかし、家計が大変だというのは想像が付くが、そんなことをしていては、勉強する暇もないだろう。参考書代稼ぎに夜通しバイトなんて、それこそ本末転倒というやつだ。

 ……いや、待てよ? 参考書代を稼ぐのに、そこまであくせく働かなきゃいけないもんなのか? まともなバイトなんてしたことがないから断言は出来ないが、参考書代なんて精々一週間に三回程度コンビニのシフトにでも入れば普通に稼げる額のはずだ。それなのに何でわざわざ……。それとも川崎さんちの家計はそこまで火の車なのか?

 「……川崎さんの弟くんとはどういう経路で知り合ったんだ?」

 「俺の妹の塾での知り合いだ。それ以上の関係じゃあ断じてねーぞ」

 「そ、そうか……」

 鬼気迫る釈明(?)を受け流し、更に思考を進める。

 弟くんが塾に行っているということは、川崎さんの家はそこまで切羽詰まった状況じゃないということだ。余裕があるとは言えないが、子供一人を塾に通わせてあげられるだけのお金はちゃんとあるのだろう。

 ……子供一人?

 「川崎さんが夜歩きするようになったのはいつからだ?」

 「二年に上がってからと言っていたわ」

 「弟くんが塾へ通い始めたのは?」

 「……聞いてないわね。何か関係が?」

 答えながら、雪ノ下さんが怪訝な顔をする。そこまで脈絡のない話だとは思わないんだけどな。

 「そうか。いや、ちょっと気になっただけ」

 多分予備校代でも稼いでるんだろうという予測は立ったが、別に言う必要もないだろう。ここまで情報が揃えば誰でも分かることだ。先に気付くのが誰かまでは知らないが、あとは時間の問題。

 「で、考えてる作戦はあるのか?」

 ま、川崎さんが何をしてるかなんて俺からすればどうでも良いことだ。ちょくちょく屋上に来て遊んでもらえるのなら、何の文句も無い。

 今の俺は、そんなことより比企谷くんたちがどんな作戦を立てたのかの方によほど興味をそそられている。何せ非行少女の更生という難問をたかが同級生が処理しようとしているのだ。気にならない方が嘘だろう。

 「アニマルセラピーよ」

 アニマルセラピー。動物との触れ合いがどうこうというコンセプトの精神療法だったか。

 「で、そのアニマルはどっから調達するんだ?」

 比企谷くんの疑問はもっともである。この学校には兎も鳩も居ないはずだが……。

 「それなのだけど……、誰か猫を飼っていないかしら?」

 「畜生を養う趣味はないなぁ」

 図鑑やら動物園やらで見るのは好きなんだけどね。どうにもわざわざ自分で飼う気にはならない。あんまり面白そうじゃないし。

 「……あなたホントに人間としてマズイんじゃない?」

 「今更気付いたか。いかにも、我が名は人出梨だ!」

 「……うざ」

 雪ノ下さんの流し目に某猫型ロボット並の暖かい目で返すと、流し目が殺人鬼のそれになったのですぐさま視線をそらした。

 「あのさゆきのん、犬じゃダメなの?」

 由比ヶ浜さんが狐のハンドサインを作って首を傾げた。色々おかしかったが最早ツッコむまい。

 「猫の方が好ましいわ」

 それ単に雪ノ下さんの個人的な趣味なんじゃないのかという問いはすんでの所で飲み込んだ。この女相手に余計なことを言うと少々面倒なことになってしまう。触らぬ神に祟りなし、だ。

 

 

 

 雪ノ下様の御要望に応えたのは比企谷くんだった。

 あのあと彼はすぐに妹さんに電話をかけ、それに快く応えた妹さんが彼の家で飼っている猫を輸送してきたという運びだ。

 「初めましてー。いつも兄が御世話になっているようで……」

 深々と頭を下げる年下の女の子は、比企谷くんの妹で名を小町と言うらしい。

 比企谷くんとよく似ているのだが、中々に可愛らしい子だった。何より、彼女からは愛嬌を感じる。きっと友達も多いのだろう。

 「どうも初めまして! 比企谷くんとは、クラスメイトかつ部活の仲間かつそれよりもっと深い仲の」

 「小町、それ以上そいつに構うな。耳が腐るぞ」

 「酷くない? あの日の夜の八幡はもっと優しかったのに……」

 比企谷くんにしなだれかかると思いっきり肩で押し返された。こけるかと思った。ひどい奴である。

 「ブッ殺すぞホント。誰が八幡だ」

 「はいどうも初めまして。お兄ちゃんのクラスメイトの七里ヶ浜七之助です。しちっちって呼んでね!」

 「しちゅっち……」

 …………無視だ無視。触らぬ神に祟りなしって、さっき言ってたとこだろう。雪ノ下さんに言う言葉は「イエス」と「はい」だけで充分だ。

 「うわぁ……お兄ちゃんと普通にコミュニケーション取れてる……」

 自己紹介を終えたばかりで俺の人となりなんて全く知らないはずの比企谷さんは、何故かその目に薄く涙を浮かべていた。これだけで比企谷くんが彼女にどう思われているかが知れるな。

 仲の良い兄妹、羨ましいね。ホント。

 「どこをどう見ればコミュニケーション取れてるように見えるんだよ。むしろディスコミュニケーションだ。謎の彼氏Xだ」

 「え? さっきのマジなの?」

 「マジな訳ねーだろ……」

 比企谷くんが出したほぼ死にかけみたいな声が妙にツボに入り、笑いを堪えるのに苦労した。面白過ぎるわ比企谷くん。

 「七里ヶ浜くん。あなたの特殊な性癖について語るのは後にしてくれないかしら」

 雪ノ下さんが、咳払いをしてから俺へと抗議してきた。いや、今の流れほとんど俺関係ないだろ……。

 政治家並の遺憾の意を視線に込めながら雪ノ下を見やると、彼女はそわそわとしながら比企谷さんの持っているキャリーバッグをチラチラ見ていた。

 「……何見てんの?」

 「別に何も見てないわ。あなたこそ私の方ばかり見て一体何を考えているのかしら。国家権力のお世話になりたくないのなら今すぐその下卑た目を私に向けるのをやめなさい」

 ウソつけ絶対見てたゾ。などとは口が裂けても言えないな。

 ……ていうか雪ノ下さんホント面白いな。最初会った時のとっつきにくそうな印象はどこ行ったんだよ……。

 「……で、こいつどうすんの?」

 比企谷くんがキャリーバッグから猫の首根っこを引っ掴みながらそう言うと、戸塚ちゃんがそれを見て目を輝かせながら「わぁ……」と小さく声を上げた。いや、この猫そんなに可愛いか? ものすげえふてぶてしい奴にしか見えないんだけど?

 「段ボールに入れて川崎さんの前に置いておくわ」

 「それで心揺れるとかいつの時代の不良だよ……。まいいや。段ボール貰ってくるわ」

 言いながら比企谷くんは猫を俺へと預けてきた。

 「……何で俺?」

 「由比ヶ浜は猫が苦手なんだとよ」

 「さいで……」

 諦めて受け取ると、その猫は何故か居心地が良さそうにゴロゴロと喉を鳴らし始めた。重いし煩い。

 比企谷くんが複雑そうな顔でそれを見てから、もう一度「行ってくる」と俺たちに告げて、校舎の方へと歩いて行った。ちなみに由比ヶ浜さんもそれについて行った。

 比企谷くんを見送ってから、俺は腕の中で未だゴロゴロ言ってる猫を比企谷さんに手渡し、首をぐるりと回した。

 「やー、それにしても本当に普通に友達なんですね、七里ヶ浜さん」

 「残念ながら比企谷くんとは友達って感じじゃねえなぁ。壁作られてるし」

 「またまた。同い年の人とあんな普通に喋ってる兄を見るのは久し振りなんですよ?」

 「……そんなもんかね。あんな感じで良いんなら、比企谷くんには結構友達出来てるから安心しな」

 「ホントですか!? 良かったね、お兄ちゃん……」

 嘘は付いてない。材木座くんとか戸塚ちゃんとかは、誰がどう見ても友達と言えるほどの仲になっているだろう。他は知らんが。

 「いやぁ、それにしても比企谷くんにこんな可愛い妹ちゃんがいるなんてなぁ! あ、比企谷さん、電話番号とか教えてくれない?」

 「あ、結構です」

 「あっ、そっすか……」

 「七里ヶ浜くん……流石にそれは犯罪よ?」

 「いやいや、二つ三つしか変わらないんだからセーフだろ。七歳とか差のある夫婦なんてザラだぜ? つまり高校三年生は小学五年生位までなら手を出して良いってことだ!」

 「それは双方成人しているからこそ成り立つロジックよ」

 「あ、あはは……七里ヶ浜さんって、変わった人なんですね……」

 引き攣った笑顔を浮かべながら比企谷さんがこちらを見る。ちなみに雪ノ下さんは蔑んだ目でこちらを見ていた。つまり平常運行。『西部戦線異常なし』だ。し、死んでる……。

 

 

 

 その後、雪ノ下さんが遂に未知との遭遇ならぬ猫との遭遇を達成し、見事彼女の口から『にゃー』やら『ごろにゃー』を頂けた所で、比企谷くんの携帯電話に川崎さんの弟くんから電話がかかってきて、それにより残念ながら川崎さんは猫アレルギーだという驚愕の事実が明かされた。俺はこの程度の驚愕の事実じゃCMを跨がせないぞ。

 「で、次はどーする? 何か考えないとな」

 珍しく比企谷くんが音頭を取る。余程とっとと終わらせたいらしい。

 「あ、あの……」

 おずおずと手を上げたのは戸塚ちゃんだった。

 戸塚ちゃんは雪ノ下さんや由比ヶ浜さんへ「自分が言っても大丈夫かな……」的な不安げな視線を送っていた。あざとかった。そして、比企谷くんの目も急速に腐っていった。

 「どうぞ。自由に言ってくれて構わないわ」

 「じゃあ……、あのさ、平塚先生に言ってもらうっていうのは……」

 そう言った戸塚ちゃんからは後光が刺していた。まさしく天才である。

 「それだ!! よし行こう今すぐ行こう平塚先生に会いに行こう!!」

 まさに我が意を得たりである。ナイス戸塚ちゃん。愛してるぜ。今度から俺も比企谷くんと一緒に戸塚ちゃんを崇める教に入ろうと決心するくらい魅力的な提案だった。

 「しちりんキモ……」

 「由比ヶ浜さん、彼に生理的嫌悪感を抱くのは人として当然の事だから安心していいわ……」

 「し、七里ヶ浜くん……?」

 「お、お兄ちゃん……。話で聞いてたのよりもっと酷いんだけど……?」

 「ここまでネジが飛んでんの見るのは俺も初めてだ……」

 場にいる全員どころか、帰宅途中の生徒まで何事かとこちらを見ていたが、そんな事は気にならない。気にしない。俺は今なんだよ!!

 「うっせーぞてめぇら! 今日はあんまり平塚先生に絡めてねーんだよ! 分かるか? この気持ちがよぉ!?」

 その後俺は、身振り手振りを交えながら俺の中にある平塚先生という"光"を説明しようとしたが、語り始めてから三分ほどで比企谷くんに蹴られたせいで、平塚先生への愛を語り切る事はできなかった。野郎ぶっ殺してやる。

 「七里ヶ浜、お前は一回病院行け。それとも今この場で黄色い救急車呼んでやろうか?」

 「確かに今の俺は病にかかっている……『恋』という病に!! ラブパワーだ!!」

 今なら影山さんにスカウトして貰える気がする。今年のドラフトはちゃんと確認しておこう。

 「お前はどこのコナミ君だよ……野球選手にでもなるつもりか」

 「いや、別になりたくないんだけど……」

 飽きてきたのでテンションを元へ戻す。いい加減話を進めないと片がつかない。

 ま、平塚先生に言ったところで問題は解決しないだろうけど。

 「急に素に戻るな。なんか恥ずかしいだろ、俺が」

 「何でも良いけど、早く平塚先生のとこ行きません? いい加減飽きてきたんですけど……」

 「……この屑」

 雪ノ下さんの絶対零度はギリギリかわした。……ありゃ一撃必殺だ。しかもマッキースマイル並の。喰らったら心が折れかねないからしっかりと気をつけよう。

 「じゃ、じゃあ行こっか……」

 戸塚ちゃんが控え目にそう言うと、みんなは深い溜め息をつきながら校舎の方へと歩いていった。当然俺を置いて。

 「ちょ、待てよ」

 某アイドルの声真似を披露しながら彼らの背中を追うと、一応無視されたが、ほぼ全員の肩が震えていた。特に雪ノ下さんの肩が。……雪ノ下さん、もうちょっとキャラ作り頑張ろうよ……。

 



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意外にも平塚静は打たれ弱い。

 「状況は理解した。詳しい話を聞こう」

 そろそろ大所帯の様相を呈しはじめた川崎さん更生させ隊の面々は、昇降口にて平塚先生を仲間に加え更に肥大化していた。

 携帯灰皿にタバコを揉み消す平塚先生へ、比企谷くんが知る限りの情報と推測される事柄をつぶさに説明する。

 「なるほど、ゆゆしき事態だ。これは早急に解決する必要がありそうだな」

 平塚先生はくつくつと不敵に笑う。ヤバい、これは思った以上に噛ませ犬だ……。

 「あの、殴る蹴るとかそういうのはダメですよ?」

 「まさか……。わ、私がそういうことをするのは君にだけ、だぞ?」

 「僕にもしてくださいよ! 僕はいつだって静先生の愛の鞭に打たれる覚悟と期待をしてますから!」

 「……七里ヶ浜は相変わらずのようだな……。お前には上手く技を極められないから、あまりしたくない。あと下の名前を呼ぶな。分かったな?」

 そう言ってニコリと笑った平塚先生の顔に、俺もひきつった笑みで返した。……迫力あるなぁ、やっぱ。

 そうこうしているうちに、川崎さんが昇降口に現れた。気怠げに欠伸を漏らしながら、肩に引っ掛たカバンが肘のあたりまでずり落ちるのも気にせず、やる気なさげに揺らしている。

 「川崎、待ちたまえ」

 そんな彼女を平塚先生が後ろから呼び止めた。それに振り返った川崎さんの目は細く、俺を見つけたらしいその目はまるで睨みつけるかのように更に細められた。

 「最近周りが煩くなったと思ってたら……七里ヶ浜、あんたのせいか」

 「俺はなんにも言ってないですよー。言ったのは川崎さんの弟くん」

 「あっそ。で、なんの用ですか? 大体察しは付いてますけど」

 「最近、君は家に帰るのが遅いらしいじゃないか。いったい、どこで何をしているんだ?」

 「誰から……って決まってるか」

 そう言って、もう一度彼女は俺を睨みつけた。……いやこれ関係修復不可能まであるぞ。俺なんも言ってねえよマジで。勘弁してくれ。

 「ふぅ……どこでもいいじゃないですか。それで誰かに迷惑かけたわけじゃないし」

 「詭弁だな。仮にも君は高校生だ。補導でもされてみろ。ご両親にも学校にも迷惑をかけることになる」

 川崎さんは相変わらずぼんやりとした表情で平塚先生を睨めつけていた。眠いんだろうな、きっと。その様子に耐えかねたのか、平塚先生は川崎さんの腕を掴む。……先生、その掴み方じゃ投げられるから、やめておいた方が良いですよ。

 「君は親の気持ちを考えたことはないのか?」

 一人心の中で茶化していると、平塚先生はまるで某三年の担任教師、もしくは修造並の熱さを以って川崎さんを説得しようと懸命に声を届けようとしていた。

 「先生……」

 そう呟き、川崎さんは平塚先生の手に触れ、まっすぐ先生の目を見つめる。

 そして、

 「親の気持ちなんて知らない。ていうか、先生も親になったことないからわかんないはずだし。そういうの、結婚して親になってから言えば?」

 「ぐはぁっ!」

 残念ながら思いは届かなかったようだ。DJDJ……。

 平塚先生はアッパーを貰ったかのように川崎さんによっかかりながらダウンし、川崎さんはそれを軽く押してからとっとと歩いていった──かと思ったら、振り返った彼女はもう一度口を開いた。

 「先生、あたしの将来の心配より自分の将来の心配したほうがいいって、結婚とか」

 追撃まで入れちゃうかー。前もそう言えばこけた俺を思いっきり踏みつけたりしてたし、川崎さんはダウン攻撃をするのが趣味らしい。

 「うっ、うぅ……」

 もう先生泣いてんじゃん……。

 しかし川崎さんはそんなものは知らない見えないと言わんばかりにそれを無視して、さっさと駐輪場へと歩いて行った。

 場に残った俺たちの空気はお察しの通りどんよりと沈んでいる。由比ヶ浜さんと比企谷さんは気まずげに視線を地面へと落とし、戸塚ちゃんは「先生、可哀想……」と呟きを漏らす。

 そして俺は、二つの手から同時に、とんと背中を押された。振り返ると比企谷くんと雪ノ下さんが「あれちゃんと撤去しろ」みたいな目でこちらを見ていた。いやそんなこと言われてもですね……。

 まあ、平塚先生が落ち込んでるのを見るのは少し心苦しいし、何とかしてみよう。

 「比企谷くんたちはエンゼルなんとかって店行っといてくれ……あ、二軒あるんだっけか。じゃ、バーじゃない方先に頼むわ」

 比企谷くんにこれだけ耳打ちをしてから、俺は平塚先生へ歩み寄った。歩み寄りの姿勢が大切だよね、うん。

 「……ぐすっ…………今日は、もう帰る」

 「先生、どっかご飯食べに行きませんか? 一万円くらいなら奢りますよ」

 一万円という額に対した意味はなかった。ただ、確か今の持ち金はそんなもんだったかなといううろ覚えの記憶に従ったまでだ。足りなかったら最悪カードで払おう。

 「……どこの世界に、生徒に食事をたかる教師がいる……」

 「ま、今日くらい良いじゃないっすか。一応、川崎さんのことは友達だと思ってるんで……。尻拭いするのも友達の仕事でしょ?」

 そう言って俺はにかりとはにかんでみせた。流石に、ニコリと笑えば即女の子に惚れられる、なんてことは無いが、こういうのも割と得意な方なのだ。

 「よし、んじゃ行きましょうか!」

 そう言って平塚先生へ手を差し出すと、彼女はその手をパチりと弾き、目元を拭ってから俺の制服の首根っこを掴んで持ち上げた。……いや、どんな怪力だよ。それとも俺が軽いだけなのか?

 「と、いうわけで、これから私は舐めた口を叩く生徒に対し、特別指導を行う。君たちも早く帰るように」

 平塚先生の声音は随分平時のものに戻っており、俺は一人胸を撫で下ろす。きっと奉仕部の面々も同じ気持ちだろう。これにて一件落着である。……余計な面倒ごとを背負いこんだだけとも言う。

 

 

 

 

 「で、ラーメンっすか……」

 その後、平塚先生にやたらカッコいい左ハンドルの車に放り込まれ、気まずい空気を必死で繋ぎきった俺が連れて来られたのは、よく分からない小汚い感じのラーメン屋だった。こういう店のラーメンは割と美味しかったりするから侮れないらしい。

 「ラーメンが嫌いな人間は居ないだろう?」

 「いやまあ居ないとは思いますけど」

 しかし積極的に食べたいと思うほど好きではない。俺はもうちょっとアッサリした食べ物の方が好みなのだ。

 「さ、早く決めたまえ」

 そう言って平塚先生は満面の笑みを浮かべながら俺へとメニューを手渡してきた。ちょっと手が当たってドキドキしたりもした。来て良かった……!

 「はぁ……あ、これなんか美味しそうですね」

 メニューをざっと見ると、梅塩ラーメンというものに目を奪われた。多分普通の醤油ラーメンあたりを頼むことになるだろうなと思っていたが、こういうのもあるか。

 「……お前、男子高校生のくせに割となよっちいんだな」

 「勘弁してくださいよ。こんなチビが、好き好んでアブラアブラしたもの頼むわけないでしょう」

 「しかし前まで結構太っていたじゃないか。なんだかんだ言ってイケるクチなんだろう?」

 「アレは、寒いの苦手だから、無茶に食べまくって無理矢理に太ってるだけですよ」

 「……そう言えば、お前はいつも寒そうにしているな。六月も近づいているというのに、いまだにブレザーの下にしっかりベストを着込んでいる」

 「冬は基本的に嫌いなんです。暗いし、寒いし……あと妙なイベントもいっぱいあるし……」

 そう、冬は嫌いだ。俺は全面的に夏の方が好きである。あ、半袖のカッターシャツを着るのが妙に好きなのも理由の一つだ。

 「お前にも苦手なものはあるんだな。意外だよ」

 「……普通に嫌いなもんばっかりですけどね。冬とか……、あとインターネットとかも」

 「ほう、インターネット。それはまたどうして?」

 「なんか、他人の意見を見るのが嫌なんですよね。純度が下がってしまう気がして」

 「……なるほど、お前は相変わらずのようだ」

 それだけ言うと平塚先生は俺から目を外し、頑固一徹、素材に拘ってそうな店長のおっちゃんにオーダーし始めた。ちなみに注文は二つともとんこつだった。……勘弁してくれ……。

 「一つはコナオトシで。七里ヶ浜、お前は?」

 「へ? 何の話っすか?」

 いきなり出てきた聞き慣れない単語のせいで、頭の中がとっ散らかった。コナオトシってなんだ?

 「麺の固さだ。そんなことも知らなかったのか?」

 「ラーメンあんまり食べませんからね……あ、平塚先生が連れてってくれるんなら毎日三食ラーメンでも一向に構わないですけど」

 「流石にそれは体に悪過ぎるだろう……」

 「あ、普通のにしてください」

 店主のおっちゃんに手短に告げると、おっちゃんはデカい声でオーダーを確認してからカウンターの中へ引っ込んでいった。

 「奉仕部はどうだ?」

 それを見送りながら、平塚先生はこちらを見ずに尋ねてくる。

 「まあ、良い感じなんじゃないですかね。雪ノ下さんのどじょうすくいも見れそうですし」

 「……雪ノ下がどじょうすくい……?」

 平塚先生が何とも形容し難い顔をこちらへ向けてくる。『面白そうだな』が三割、『信じられない』が四割、『何言ってんだこいつ』が三割といったところか。

 「ほら、依頼の解決数が一番多い奴が何でも命令できるっていうアレですよ」

 「そんなくだらないことを命令するつもりなのか……」

 平塚先生が呆れた目で俺を見る。

 「『美女のパンティーおくれ』とかよりはなんぼか健全だと思うんですけど」

 「健全な男子として不健全だろう……」

 「いやいやいや、先生がそれ言っちゃダメでしょ。なに不純異性交遊認めちゃってんすか」

 「……まあ、どうあっても七里ヶ浜はそういった事を言わないだろうがな」

 そう言って平塚先生はふっと短い溜め息をつき、カウンターの隅っこの方に置いてあった灰皿を手元へと持ってきた。

 「タバコ、大丈夫か?」

 「良いっすよ」

 「そうか、すまんな」

 俺も吸いたくなるので出来ればやめて欲しかったが、今日は一応平塚先生を慰めるという名目で来ているので、文句を言うのは控えておいた。

 平塚先生ははち切れんばかりの胸ポケットからタバコを取り出し、とんとんと葉を詰めてから口に咥える。

 「とにかく、お前はもう少し素直になるべきだよ」

 「何にですか?」

 「自分の心に、だ」

 自分の心と来たか。俺ほど本能のままに脊髄反射で生きている人間は、そう多くないと思うんだが。

 「……そうだな、お前は考え過ぎなんだ。もっと適当に過ごせば良い」

 しばらく考え込んでから、平塚先生は諭すような声音でそう言った。

 「いや、こんないい加減に生きてる奴は俺くらいでしょ」

 「『いい加減』と『適当』は、全く別の物だろう?」

 そう言ってからしばらく俺の顔を見つめていた平塚先生は、突然くつくつと笑い始めた。

 「くっくっ! すまない……お前の顔があまりにもおかしくてな……!」

 ツボに入ったのか、平塚先生は更に大声で笑う。

 しばらくしてから落ち着いたタイミングを見計らって俺は口を開く。

 「……そんな変な顔してましたか?」

 「ああ、お前があんな生意気なガキみたいな顔をするとは思わなかったよ」

 ふふっと笑う平塚先生は、先程まで死にそうだった事から考えると相当持ち直していた。普段とそんなに変わらない。

 「いや、私は嬉しいよ。生徒の様々な顔が見れるというのも教師の特権だな!」

 そう言って笑う彼女を見ていると、今自分が考えていた事なんてどうでも良くなってきて、ふっと力が抜けた。

 すると、丁度そのタイミングに店主のおっちゃんがラーメンを俺たちの前にごとりと置いた。背脂が……すげえ……。

 「ボケっとするな。早く食べないと麺がのびるぞ」

 「いや、こんなクソ熱そうなもん、食べれるわけないでしょ」

 「あれもダメこれもダメと注文の多い奴だ」

 そう言って平塚先生は俺の頭を軽く殴った。結構痛かった。

 「すんません、どうにも猫舌で……。あ、先生が冷ましてくれるならじゃんじゃんばりばり食べますよ?」

 「さ、お前も早く食べ始めろよ」

 完全に俺を無視した彼女は、そのままラーメンをズルズルと啜りだした。……いや、立ち直ってくれたようで何よりです。ホントに。

 

 

 

 「ホントに奢ってもらって良かったんですか?」

 「さっきも言ったろう。どこの世界に生徒に食事をたかる教師がいる?」

 「いえ、女の子には言われなくても金を出してやれって……姉に言われてて」

 「お、女の子……。そうか……女の子か……」

 平塚先生がにわかにそわそわしはじめる。

 「……ん? お前には姉がいたのか?」

 「あー……姉『みたいなもん』です。女の子をエスコート出来ない男はクズだとかなんとか、よく言われたんですよ」

 基本的にそんな言いつけは守ってないけどね。ゆか姉をエスコートなんて、想像するだけで寒気が……。

 「うむ、良い心がけだ」

 満足げに頷く平塚先生を見ていると、なるほど、お金を出してやりたい男の心理というのはこういうものなのかと目から鱗が落ちるかのように理解した。まあ、年長者である彼女としては、自分で払う以外の選択肢などあり得ないのだろう。

 ……もし次の機会があったら、今度はちゃんとエスコートとやらをしてやろうと、強く思った。

 「それじゃ、僕はこれで。お疲れ様でした」

 「家まで送って行くぞ?」

 「あ、寄るところあるんで大丈夫です。それじゃ」

 後ろ手を振りながらそれだけ言って、俺はすっかり暗くなってしまった道を一人歩き始めた。

 さて、比企谷くんたちはどうしてるだろう。そんな事を考えながら歩く夜道は、未だに寒くてうんざりした。

 



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おしなべて奴らはラーメンが好きである。

 翌日、俺たちはまたもや川崎さん更生作戦を決行していた。

 次の作戦は、『イケメン一本釣り! 恋が始まる五秒前!』だ。名前は俺が心の中で一人で勝手に付けた。ネーミングセンスがないのはご愛嬌。

 内容は簡単、我らが爽やか貴公子こと葉山隼人くんに御足労ねがい、川崎さんにイケメンな感じで話しかけてもらって上手いことバイトを辞めさせるという作戦だ。言っててアタマが痛くなってきた。いくらなんでもふわっとし過ぎである。

 そんなわけで、俺たちは駐輪場で川崎さんがやってくるのを今か今かと待ち受けているのである。

 そして、ついにその時は来た。

 川崎さんは昨日と同じようにかったるそうに歩いていた。あくびを一つ噛み殺し、自転車の鍵を開けたところで葉山くんが予定通り現れる。

 「お疲れ、眠そうだね」

 おお、上手だ。演技しているという意識のせいで喉が閉まって声が何時もより若干、普通なら気付かない程度に上がってはいたが、及第点はあげられるだろう。俺基準ほどアテにならないものもないけど。

 「バイトかなんか? あんまり根詰めないほうがいいよ?」

 ……それにしても良い奴だなあ、葉山くん。由比ヶ浜さんに頼まれてからパターン考えたんだろうなぁと思うと、彼の好青年っぷりに涙がちょちょぎれてしまう。

 しかしそんな葉山くんの気苦労なんてまるで知らない川崎さんの対応は酷くおざなりなものだった。

 「お気遣いどーも。じゃ、帰るから」

 ため息交じりにそう告げて、川崎さんは自転車を押して去っていこうとする。しかし、葉山くんのプロ意識はこんな事でへし折れるほどやわではなかった。

 「あのさ……」

 まるで天が葉山くんに味方したように、爽やかな初夏の風が二人の間を吹き抜けた。さ、さみぃ……。

 一人身体をこすっていると、雪ノ下さんから変な視線を貰ったが、気にせず続行する。寒いんだよ……。

 というか他の奴も似たり寄ったりだ。由比ヶ浜さんは見るからに恋愛映画に夢中になっている女子高生そのものだし、材木座くんに至っては今にも葉山くんのことを殺しに行きそうな顔をしている。どうやら二人とも、葉山くんが纏うラブコメの波動に当てられたらしい。

 「そんなに強がらなくても、いいんじゃないかな?」

 これはオチましたわ。流石の川崎さんもこれには頬を赤らめるくらいしてくれるだろう。

 「あ、そういうのいらないんで」

 あっ……。

 スタスタカラカラと川崎さんは自転車を押して歩いていった。

 「まだだっ! 俺が吶喊する!」

 時間が止まったかのように硬直した葉山くんや、それをエサに爆笑するクズ野郎二人──当然比企谷くんと材木座くんだ──を尻目に、俺は全速力で走って川崎さんの前へと回り込んだ。

 「あのさ……」

 「……七里ヶ浜?」

 不思議そうな顔でこちらを見る川崎さんに、俺は出来うる限りの爽やかな笑顔を以って言い放った。

 「そんなに強がらなくても、いいんじゃないかな?」

 「死ね」

 

 

 

 

 

 

 さて、ここで一つ言っておかなければならない事がある。

 俺は今回の川崎さんの一件について、深入りする気は一切まるでなかったということだ。

 家庭の事情だ。たかが一同級生、しかも大して話したこともなければ、お互いの事なんでまるで知らない奴が介入してどうにかなる範疇を大きく越えているし、何より川崎さんからすれば迷惑極まりない行為でしかないからだ。

 それでも俺は今日ここに来てしまった。これは、奉仕部で強制されたからではない。

 ただ、少し興味が湧いたのだ。俺が提示する解決法に、川崎さんがどんな顔をするのだろうかと。

 目的地の最寄りの駅前に、俺と比企谷くんと由比ヶ浜さん、それに成り行き上関わった材木座くんと戸塚ちゃんは集まっていた。

 雪ノ下さんのオーダーには、大人っぽい格好──つまり、ドレスコードに引っ掛からない格好──をしてこいというものがあったが、残念ながら要求を満たしているのはジャケットを着た比企谷くんと、スーツを着ている俺だけだ。材木座くんに至っては作務衣を着ている上、アタマにタオルまで巻いている。良いセンスしてるぜ、材木座くん。

 「それにしても、葉山のアレ最高だったな」

 比企谷くんがニヤニヤと思い出し笑いをしながら、ぽつりと呟く。

 「性格悪いぞ、比企谷くん」

 「葉山が失敗して一分も経ってないうちに、しかも葉山の目の前で、一字一句変えずに全く同じ声で言ったお前も相当性格悪いがな」

 「アレは言うなればエンターテイメントだからな。面白かったろ?」

 「……悔しいが完璧だったな」

 「ムホン。それにしても、七之助にあのような特技があるとは知らなかったぞ、我」

 「今更何言ってんだ材木座、テニス勝負の時に出てきた女はこいつだぞ」

 「え!? そうなの!?」

 「そ、そうだったんだ……」

 そういえばこいつらにも言ってなかったっけか。あの時は、比企谷くんと由比ヶ浜さんにしか言ってなかったのか。

 「ソーーナンス!」

 渾身のポケモンモノマネを披露する。ちなみに俺のポケモンモノマネは百八まである。マジで。ついでに言うと一番得意なのはキモ○。フシギ○ナもイケる。

 「「ぶふっ!」」

 「た、楽しそうだね、ヒッキー達……」

 「……この男達は何をやっているのかしら」

 「あ、ゆきのん!」

 氷の殺戮者のエントリーだ!

 「……こちらの男の人は?」

 「はーいどうも! あなたのハートにずっきゅんきゅん、七里ヶ浜七之助きゅんですよー!!」

 「……比企谷くん、彼の喋っている言語を翻訳してくれないかしら?」

 「なんで俺なんだよ……。いつもの顔だとスーツが似合わないんだとよ」

 「……確かにあの顔でスーツは少し無理があるわね」

 雪ノ下さんは不思議そうな顔をしながら俺の格好を見た。黒いスーツに白いシャツ。一応ダークブルーのネクタイまで締めている。どっからどう見ても社会人の格好だ。

 「ちなみにこの状態で駅前ハンティングすると、五人に一人くらいは女子高生引っ掛けられる」

 「お前ナンパまでやってんのかよ……」

 比企谷くんが呆れたように一人ごちり、雪ノ下さんや由比ヶ浜さんも同じように呆れた視線を俺へと送っていた。

 「たまには女の子とお話しないと、どんどん潤いがなくなっちまうからな」

 ま、別にやらなくてもいいし、そもそも中学の時の話だ。最近はほとんどやっていない。飽きた。

 「まあいいわ。それより……」

 そう言った雪ノ下さんは、集まっている面子をくるりと見渡した。

 「不合格」

 「む?」

 「不合格」

 「え?」

 「不合格」

 「へ?」

 「不適格」

 「おい……」

 「……不愉快」

 「雪ノ下さんに不愉快に思われるくらいなら死ぬわ」

 スラックスのポケットからナイフを取り出し、自分の首にあてがう。

 まさに早業。刃を起こしてから自分の首筋に当てて止まるまでに、誰一人として俺が何をやっているかに気付かなかったようだ。暇さえあれば早抜きやってた時期もあったからな。

 「え!? しちりん何やってんの!?」

 しばらく惚けていた由比ヶ浜さんが声を上げる。

 「今言った通りだけど……?」

 「さ、流石におかしいでしょ!」

 「おかしくねえだろ。昔の侍は自ら命を絶つことで自らを生かしてたんだ。それと同じだ。なあ材木座くん」

 「そ、そうだな。そういうのもあるな。だが我、流石に目の前で死なれるのは嫌かなーとか思ったり」

 材木座くん……キャラぶれ過ぎだろ……。

 「ダメだよ七里ヶ浜くん!」

 「悪いな戸塚ちゃん……男にはやらなきゃなんねえ時ってのがあるんだ……」

 「そ、そうなんだ……」

 ……いや、納得すんなよ。もしかして戸塚ちゃんも結構なアホの子だったのか?

 「つかなんでナイフなんて持ってんだよ。明らかに逮捕されるレベルの刃渡りじゃねえか」

 相変わらず腐った目で比企谷くんが尋ねてくる。あんまり驚いてないようだった。

 「だってナイフってカッコいいじゃん。こんな使い方出来るとは思ってもみなかったけど。ちなみにこのナイフについての薀蓄聞きたい? メーカーも材質も値段も結構凄い奴なんだけど」

 「聞きたくねえよ……。おい雪ノ下、話が進まねえからこれ直せ」

 そう言って比企谷くんは俺を指差しながら雪ノ下さんを見やった。

 「はぁ……。不愉快じゃないから、早くそれをしまいなさい。人通りも多いし、本当に捕まってしまうわ」

 「雪ノ下様っ……! ありがてぇっ……!」

 俺は涙を流しながらナイフを折り畳んでポケットにしまった。

 「ガ、ガチ泣きしてるし……」

 「で、俺と比企谷くんの格好なら大丈夫だと思うが、他の奴はどうするんだ? そこまで煩い店じゃなかったはずだけど、流石に作務衣は拒否られるぞ?」

 一瞬で涙を引っ込めて雪ノ下さんに向き直る。残念ながらこの寸劇はここまで。飽きたし。

 「呆れた……。そうね、由比ヶ浜さんが着れそうな服なら用意出来そうだから、戸塚くんたちには悪いけど……」

 「あ、全然良いよ。無理言っちゃってゴメンね?」

 「こちらこそ感謝してるわ。ここまで付き合ってくれてありがとう。……それじゃ、由比ヶ浜さん」

 そう言って雪ノ下さんと由比ヶ浜さんはテクテクと元来た方角へと歩いて行った。

 そして俺たちは置き去りを喰らい、ぽつねんと突っ立っていた。

 「さて、これからどうするか……」

 比企谷くんが重い口を開く。

 「八幡、みんなでご飯食べに行こうよ」

 「行く。絶対行く。むしろ二人で行こう」

 「で、何を食す?」

 急速に目を腐らせ始めた比企谷くんを無視して、材木座くんはお腹をなでくりまわして誰にともなく問いかけた。

 「何で着いて来る気満々なんだよ……」

 「いや、俺は普通に行きたくねえんだけど」

 「どうして……?」

 出来れば行きたくないなと思いながら言うと、戸塚ちゃんが心なしか目をウルウルさせながらこちらを見た。

 「……おい」

 比企谷くんがものすごいプレッシャーを放っている……。比企谷くんガチ過ぎるだろ……。

 「……行きますがな」

 こうなると折れるしかない。マイノリティは死すべし、だ。ついでに野獣も死すべし。

 「で、何を食うかに戻って来る訳だが……」

 「ラーメンだろう」

 「ラーメンだよね?」

 「やっぱラーメンか」

 「……そうだね、ラーメンだね」

 またラーメンかよ……。勘弁してくれ……。

 

 

 

 

 死にかけながらも妙に脂っこい醤油ラーメンを逃れた俺を待っていたのは、また、地獄だった。……ってわけでもなく、ラーメン屋で材木座くんと戸塚ちゃんと別れた俺と比企谷くんは、ホテルオークラへとその足を運んでいた。

 比企谷くんの携帯電話が受信した由比ヶ浜さんからのメールにはもうすぐ到着とあったので、俺たちはロビーのソファーに座って暇を潰していた。

 「なあ、比企谷くん」

 「んだよ」

 「喫煙所とか知らない?」

 「知るわけねえだろうが……勝手に探して来い。つか由比ヶ浜達ももうすぐ来るぞ?」

 「ああ……帰ってくるまでに由比ヶ浜さん達来たら先行っといてくれ……んじゃ……」

 「妙にテンション低いなおい」

 高いわけねえだろうが! むしろ死にかけだわ! 

 「ラーメンがな……ちょっとな……」

 よっぽど言ってやろうと思ったが、残念ながら吠える気力すら失せていた。

 そんなこんなで喫煙所探しの旅に出ようと振り返ると、サマードレスを着た雪ノ下さん達が丁度入り口に立っていた。タバコすら吸えねえのかよ……。

 「さ、行きましょう」

 「そうですね。早く行ってとっとと終わらせましょうね」

 そう、心はまさに明鏡止水。吐き気を堪えて進軍する、孤高の戦士だ。

 …………うん。

 

 




なんか、バーがオレンジ色になってたり、お気に入りが一気に10とか増えてて物凄くびっくりしました。俺ガイルの面白い奴から流れてきてくれたとかですかね?ありがたい限りです。
あと、何故か評価が9にしか入ってなくて裏があるんじゃないかと不安だったんですが、ようやく低評価も入れてもらえるようになって安心しました。ネット小説はこうでないとね!!
とにかく、今まで読んでくれていた人も新しく読み始めてくれた人も楽しめるようこれからも頑張って更新させて頂きます!


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つまり川崎沙希は苦労している。

 「あのさ、雪ノ下さん」

 エレベーターがの低い駆動音が鳴り響く小さい箱の中、俺は雪ノ下さんに小さく耳打ちした。

 「なにかしら」

 彼女もそれに倣い、俺の耳元で小さく囁く。息が耳にかかって少しこそばゆい。

 「川崎さんにさ、結構無茶苦茶なこと言うかもしれないけど、黙って見ててくんない?」

 「それはつまり、自分に全部任せろって事?」

 「や、話の流れ如何によっては、ってことなんだけどな。アッサリ片付くんなら、特に何も言うつもりはない」

 あんまりガツガツ口出しするのは、俺の主義に反するしな。

 「そう」

 髪を払いながらそう言った雪ノ下さんがそれっきり黙ったので、俺も黙って、ゆっくりと数字を刻んでいくパネルを眺める。……遅いなぁ、このエレベーター。

 あまりにもゆっくりその数字を上げていくエレベーターに少しイライラしていると、ようやくチンと音が鳴り、川崎さんが働いているであろうバーがある階に俺たちは降り立った。

 久しぶりに来たが、相変わらず雰囲気の良い場所である。バー紫とは雲泥の差だ。あそこに来てる客もこっち来りゃいいのに。ゆか姉目当てとかいう意味の分からない理由であそこを選ぶより、こちらの方がよっぽど健全だろう。

 「おい……、おい、マジか。これ……」

 比企谷くんが物凄くキョドり始め、それに当てられたせいか由比ヶ浜さんもブンブンと頷いていた。

 「キョロキョロしないで」

 「いっ!」

 雪ノ下さんのピンヒールが比企谷くんの足を踏み抜く。痛そうである。

 「背筋を伸ばして胸を張りなさい。顎は引く」

 雪ノ下さんはそう比企谷くんに耳打ちして、比企谷くんと由比ヶ浜さんを順に見てから、ふっと息を吐き出して俺の右肘をそっと掴んできた。彼女の指が俺の身体に食い込み、反射的に振り払いそうになったが寸前で踏み止まる。

 「由比ヶ浜さん、同じようにして」

 「う、うえ?」

 素っ頓狂な声を上げながらも、由比ヶ浜さんは支持に従って比企谷くんの右肘に手を添えた。

 「いやぁ、雪ノ下さんのエスコートが出来るなんて、今日はホント来て良かったなぁ」

 俺がそう言うと、隣の雪ノ下さんが塩度の高い目を俺に送ってから、またもや足を踏もうと試みてきた。当然避けた。

 「 ……うざ」

 「じゃ、今宵のシンデレラちゃんに会いに行きますかね」

 軽い調子でみんなに告げると、彼らは黙って頷き、ゆっくりと歩き始めた。開け放たれた木製のドアをくぐると、すぐさまギャルソンの男が脇に現れ、すっと頭を下げる。

 彼は黙ったまま一歩半先行し、俺たちをバーカウンターへと連れて行く。

 そこにはグラスを磨いている女のバーテンがいた。すらりと背が高くて顔立ちも整っており、泣きぼくろと儚げな表情が激しく俺の好みどストライクだ。一フレームで求愛行動フェイズに移行しそうになったが、それを察したのか雪ノ下さんが俺の肘を思いっきりつねってきた。

 「痛い痛い痛い痛いです雪ノ下さん」

 「あなたがバカなことを考えているからよ」

 彼女は涼しげな顔をしながら言い放ち、川崎さんが黙って差し出したナッツを見つめている。

 「かーわさーきさーん! あーそびーましょー!」

 俺が小声ではしゃぐという高等テクニックを見せつけながら川崎さんに話かけると、彼女は目を細めながら俺を見て、しばらくのちにようやくその口を開いた。

 「……七里ヶ浜……?」

 「すげーな川崎。何で分かったんだよ。普通分かんねーだろ」

 「雰囲……じゃなくて、こんなウザい話し方する知り合いが他に居なかったから。ていうかあんた誰?」

 「どうして七里ヶ浜くんが分かって比企谷くんが分からないのかしら……」

 「クラスメイトにすら名前覚えられてないんだ……ヒッキー可哀想……」

 「うるせえよ勝手に哀れむんじゃねえ……むしろぼっちとして正しい事だろうが」

 「そもそもぼっちが正しくないわね」

 「お前も人のこと言えねーよな?」

 「げこげこうるさいわね、ヒキガエルくん。少し落ち着いたらどうかしら?」

 「てめぇ……」

 ものすごい勢いで軽口の応酬をする比企谷くんと雪ノ下さんを、川崎さんが冷めた目で眺める。ホントに興味なさげな感じで、彼女の雰囲気ととても良くマッチしていた。素晴らしいね、俺もそんな目で見てくれ。

 「瓶コーラで」

 「かしこまりました」

 未だにお互いを罵っている比企谷くんと雪ノ下さんや、それを見てオロオロしながらちょくちょく仲裁しようとする由比ヶ浜を尻目に、俺と川崎さんは、バーテンと客の正しい関係を構築していた。

 「瓶コーラなんて置いてんのかよ」

 「や、むしろ無い店の方が少ねえだろ。カクテルに使うことも多いしな」

 「そうなのか?」

 「ああ。ビールやらテキーラなんかに混ぜるのはかなりポピュラーだし、変わったところだとゴディバのリキュールに混ぜたりするのもある」

 「お前酒までやるのかよ……」

 「流石にお酒は飲まないなぁ。あんまり興味もないし」

 隣の比企谷くんに薀蓄を語る。因みに並び順は、雪ノ下さん、俺、比企谷くん、由比ヶ浜さんだ。残念ながら比企谷くんの両手に花は阻止させてもらった。狙った訳じゃないけど。

 「お待たせいたしました。他のお客様はいかがなさいますか?」

 川崎さんが、氷の入ったグラスに適量のコーラを注ぎ、瓶と共に俺の前へと置きながら比企谷くんたちに尋ねた。プロである。

 「私たちはペリエをお願い。比企谷くんは?」

 「マックス……いや、俺もコーラで」

 「かしこまりました」

 そう言って川崎さんは、テキパキとグラスやらなんやらの用意を再び始める。……マックスコーヒーくらいあると思うんだけどな。少なくともバー紫にはあったはずだ。ゆか姉、やたら甘いもの好きだからな。

 ちなみに俺は甘いものもそこそこ好きだが、酸っぱいものの方が好きだ。レモンとか丸齧りするレベル。

 「で、あんたら何しに来たの? まさかそんなのとデートってわけでもないんでしょ? 七里ヶ浜は……まあ、違うだろうけど」

 「なんでだよ。俺は今日、雪ノ下さんをエスコートする為だけに来てるんだぞ?」

 「…………そうなの?」

 ……や、わざわざ手を止めて俺のこと凝視するくらい信用出来ないのか? 酷くない?

 「嘘に決まっているでしょう……」

 雪ノ下さんが呆れたようにため息をつき、短く否定する。……ちょっとくらい乗っかってくれてもいいんじゃないかな。

 「……そっか、うん。そっか……」

 何回そっかって言うんだよ。めっちゃ納得してるじゃねーか。

 「お前、最近家帰るの遅いんだってな。このバイトのせいだろ? 弟、心配してんぞ」

 埒が明かないと思ったらしい比企谷くんが口火を切った。

 「そんなこと言いにわざわざ来たの? ごくろー様。あのさ、見ず知らずのあんたにそんなこと言われたくらいでやめると思ってんの?」

 川崎さんが、ハッと人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、比企谷くんに啖呵を切る。うーん、あんまりこういうことして欲しくないなぁ。自分でもイメージの押し付けだとは思うけど、川崎さんがこういう風な物言いをするのを見たくはなかった。

 「クラスメイトに見ず知らず扱いされてるヒッキーすごいなぁ……」

 「由比ヶ浜さん、感心するとこそこじゃないからな」

 この扱い、余りにも比企谷くんが憐れである。

 「川崎さん、俺からもお願いするからやめてくんない?」

 「……何であたしがあんたの言うこと聞かなきゃいけないの?」

 「そりゃあ、寝不足はお肌の天敵だからな。川崎さんの肌荒れを見るのは、俺の心が痛んじまう」

 「あっそ。あたしは痛まないから大丈夫だよ」

 ハッと笑いながら、川崎さんは吐き捨てる。

 「俺が、痛むから、やめろっつってんだよ。言ってる意味は分かるよな?」

 ああ、ダメだ。ダメなモノが漏れ出ている。そう理解しながらも、気付けば俺は、川崎さんの目をじっと見ながら言葉を紡いでいた。

 「……っ、関係ないでしょ、あんたには」

 ……埒が明かないな、こりゃ。これじゃ何処まで行っても平行線だ。俺もちょっとらしくないし。らしくないのは致命的だ。

 「あのさ、大志から何言われたか知らないけど、あたしから大志に言っとくから気にしないでいいよ。だから、もう大志と関わんないでね」

 川崎さんはそう言って俺たちを睨みつける。これ以上自分に踏み込んでくるなという意思表示だろう。

 しかしここには残念ながら、こんな程度じゃ止めらない、火の玉みたいな氷の女王様がいるのだ。

 「止める理由ならあるわ」

 雪ノ下さんが、川崎さんから自分の腕時計へと視線を動かし時間を確認する。

 「十時四十分……。七里ヶ浜くんが言うようなシンデレラなら、あと一時間ちょっと猶予があったけれど、あなたの魔法はここで解けたみたいね」

 雪ノ下さんはつまり、川崎さんが吐いた年齢詐称という嘘を魔法に見たててこういう言い方をしたのだろう。

 法律はよく知らないが、確かに十時だったか十一時以降だったかは十八歳未満の奴が働いちゃいけない、みたいな法律があった気がする。

 「魔法が解けたなら、あとはハッピーエンドが待ってるだけなんじゃないの?」

 「それはどうかしら、人魚姫さん。あなたに待ち構えているのはバッドエンドだけよ」

 ……この人らなんでこんな仲悪いの? もうちょっと可愛らしい言い方すればいいのに……。嫌味とあてこすりしか言ってないんだけど?

 「やめる気はないの?」

 「ん? ないよ。……まぁ、ここはやめるにしてもほかのところで働けばいいだけだし」

 川崎さんはクロスで酒瓶を磨きながら、なんでもないことのように言い放った。その態度に腹が立ったのか、雪ノ下さんが炭酸水を軽く煽る。……そういえば俺、炭酸水ってウィルキンソンしか飲んだことないなぁ。外国だと置いてない店はないってレベルでペリエあるらしいけど。

 ピリピリと肌が泡立つほど険悪な雰囲気の中、由比ヶ浜さんが恐る恐るといった感じで口を開いた。

 「あ、あのさ、川崎さん……。なんでここでバイトしてんの? あたしもほら、お金ない時バイトするけど、年誤魔化してまで夜働かないし……」

 「別に……。お金が必要なだけだけど」

 「あー、や、それはわかるんだけどよ」

 比企谷くんが軽い調子でそう言うと、川崎さんはその表情をこわばらせ、比企谷くんを睨みつけた。

 「わかるはずないじゃん……あんなふざけた進路を書くような奴にはわからないよ」

 あ、川崎さん、あの時の俺と比企谷くんの会話聞いてたんだな。しかも覚えてたんだ。

 「別にふざけてねぇよ……」

 「ならガキってことでしょ。人生舐めすぎ」

 川崎さんは先ほどまで使っていたクロスをカウンターへ放り投げ、壁へともたれかかった。

 「あんたも、……いや、あんただけじゃないか、雪ノ下も由比ヶ浜にも分からないよ。別に遊ぶ金欲しさに働いてるわけじゃない。そこらの馬鹿と一緒にしないで」

 川崎さんは、潤んだ目で比企谷くんを睨み付けた。

 ……ていうか、ナチュラルにスルーされてるんだよね、俺……。これもう脈ないどころか存在まで抹消されてんじゃねえの……? フられまくりじゃねえか、今日の俺。フられっぱなしのロンリーボーイだ。何だその昭和ネーム。

 「やー、でもさ、話してみないと分からないこともってあるじゃない? もしかしたら、何か力になれることもあるかもしれないし……。話すだけで楽になれること、も……」

 由比ヶ浜さんの声は、川崎さんの冷え切った視線によって切り裂かれていって、遂に彼女は言葉の続きを失った。

 「言ったところであんたたちには絶対わかんないよ。力になる? 楽になるかも? そう、それじゃ、あんた、あたしのためにお金用意できるんだ。うちの親が用意できないものをあんたたちが肩代わりしてくれるんだ?」

 その言葉を聞いた時、そして、その言葉を放つ彼女の目を見た時、俺は少しガッカリしていた。何故か? 決まっている。結局彼女も、俺と同じだったのだ。

 ……ま、丁度良いか。これで気兼ねなく、あそこへ連れて行くことが出来る。

 「そ、それは……」

 「その辺りでやめなさい。これ以上吠えるなら……」

 雪ノ下さんが、怒りを露わにしながら川崎さんを睨めつける。

 川崎さんも一瞬たじろいだが、小さく舌打ちをして雪ノ下さんに向き直った。

 「ねえ、あんたの父親さ、県会議員なんでしょ? そんな余裕がある奴にあたしのこと、わかるはず」

 「川崎さん」

 気付けば俺は、まるでゆか姉や楽太郎、ついでにナナ辺りに話しかける時のような声音で川崎さんの言葉を遮っていた。

 「な、なによ……」

 「お金が要るんだよな」

 「……だから働いてるんでしょ。何言ってんの?」

 川崎さんだけじゃなく、奉仕部の面子も皆、俺のことを不思議なものを見るような目で眺めている。そりゃそうか。今までキャラ作り必死だったもんな。

 「そっか」

 そう言って俺は、ポケットの中に入れていた封筒を、川崎さんへと気遣い無しに投げつけた。

 それを受け止めた川崎さんは、不思議そうな顔でこちらを見る。

 「なに、これ……」

 「百十万入ってます。二百万にしようかと思ったけど、一応脱税になるからやめました……。ま、百万あれば予備校くらいには通えるでしょ」

 「な、なんで……!?」

 封筒の中身を確認した川崎さんの顔色が、みるみるうちに青くなっていく。

 「なんでって……さっき川崎さんが言ったじゃないですか……。『あんたらがお金用意してくれるの?』って。ホラ、親にも用意できないお金を用意してやったんですから、ちっとは俺の言うこと聞いてくれません?」

 「七里ヶ浜くん、これは……」

 「黙っててくれって言ったよな?」

 雪ノ下さんの言葉を遮るように、俺は鋭い声を彼女へと向けた。

 「……そうね。ごめんなさい。でも、これを奉仕部の解決として認めることは出来ないわ」

 「魚を恵むんじゃなくて、魚の釣り方を教えるだったか……。安心してくれ雪ノ下さん。釣り堀に連れてってやるだけだから」

 それが良い事かどうかは、俺にも判別出来ないけど。

 「こ、こんなの受け取れるわけないじゃん……!」

 川崎さんが涙目になりながらも、封筒をカウンターへと叩きつける。そのせいでコーラの瓶が倒れそうになったので、俺は慌てて瓶を持ち上げた。

 「別に遠慮しなくてもいいぞ?」

 「……おい七里ヶ浜、いきなり何言い出してんだよ」

 半泣きの川崎さんを見ながら、どのタイミングで話を切り出そうかと考えていると、比企谷くんが俺へ非難めいた視線を送ってきた。

 「何って……奉仕?」

 「これだと奉仕っつーより援交じゃねえか。こんなやり方、らしくねえだろ。面白くもなんともねぇって、何時ものお前なら言うんじゃないのか?」

 中々上手いことを真面目な顔で言う比企谷くんに、少し笑ってしまう。

 「いやいや、流石の俺でも、お金出してまで女の子と遊びたくはないからな?」

 「「なら、どういう……」」

 雪ノ下さんと川崎さんが全く同時に同じことを口走ったせいでお互いを睨み合い、由比ヶ浜さんがそれをオロオロしながらたしなめようとする。……普通に仲良いじゃん、あんたら。

 「……ふぅ、ゴメンゴメン。ちょっとおかしくなってたわ。雪ノ下さんと由比ヶ浜さんに良いとこ見せようと張り切っちまったのかな」

 比企谷くんや雪ノ下さんの普段と変わらない態度を見ていると、ふっと力が抜けた。……そうだよな。こういうやり方は、らしくないんだよな。

 俺は、もっと楽しく、軽い感じじゃないと。

 「えっとさ、川崎さん。ちょっと一口、俺の話に乗ってみない?」

 

 

 



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なんだかんだで稲村ヶ崎紫は頼りになる。

 「お疲れ」

 「あんたらのせいで普段の倍は疲れた……」

 真っ暗になった街をぼけーっと見ていると、カラカラと音を鳴らしていた川崎さんの自転車が、俺の手前で小さくブレーキ音を上げながら止まった。

 あの後、俺は比企谷くんたちを先に帰して川崎さんのあがりをコーラのみで粘りながら待ち、ようやくここまで漕ぎ着けたわけである。

 「いや、さっきはごめんね。なんか、ちょっとムカついちゃってさ」

 「……何に?」

 川崎さんが、こちらをじっと見つめながら問うてくる。

 何に、か。苛ついた理由は、たくさんあるようで、結局ただ一つ。シンプルな話だ。

 「自分に、だろうな」

 自嘲を混ぜながら答えると、川崎さんは自転車から降りて、押しながら歩く体勢になっていた。

 「……結構時間かかるから、二人乗りするか?」

 「いや、あたし道分からないし」

 「流石に俺が漕ぐよ……。川崎さん、俺のことなんだと思ってんだ?」

 「……クズ?」

 「キッキッキ、否定はしねーよ?」

 笑いながら川崎さんを見ると、彼女は不思議そうな顔をしながら俺を見ていた。

 「どったの? センセー」

 「いや、変な笑い方だなと思って」

 「笑い方?」

 「うん。キッキッキって」

 「……さ、行くか」

 都合の悪いことは全て無視! これが人生で一番大切な技術なんだよね。うん。

 俺は川崎さんから自転車のハンドルをぶんどり、少々高いサドルに面食らいながらもなんとか座ることに成功した。ちょっとグラグラしてるけど。……この世界には、俺に都合の悪いものが多過ぎる。

 「七里ヶ浜……あんたホント」

 「それ以上言ったらマジでしばく」

 「……キャラ変わりすぎでしょ」

 川崎さんが、はぁとため息をつきながら自転車の荷台に座ったのを確認して、俺はペダルを踏み込んだ。

 「キャラ作り必死だからな。これが素」

 「ホントに?」

 「少なくともこのテンションの時が多いのは本当だな」

 「……それって」

 「ん?」

 「いや、なんでもない、けど……」

 そう言って、川崎さんは誤魔化すように俺の腰へと手を回してきた。生暖かい感触が背中に広がり、ゾワリと鳥肌が立つ。

 「……いきなりアグレッシブだな川崎さん。もしかして惚れちゃったか?」

 「…………」

 ソッポを向いているのだろうか。背中越しに聞こえる声は妙に遠くて聞き取り辛く、車輪の回る音や風の音に紛れたせいなのか、ごにょごにょ言っているようにしか聞こえなかった。多分いつもみたいに「バカじゃないの?」って言ってたと思う。

 これは別に難聴とかじゃなくてガチで聞こえなかったから、セーフだろう。聞き直すのも失礼な気がするし。

 「……ねえ」

 無心で自転車を漕ぐ俺に、心なしか腕の締め付けを強くした川崎さんが、不機嫌そうな声で話しかけてくる。

 「ほいさ」

 「これ、どこ行ってるの?」

 「俺の知り合いがやってるアヤシイお店」

 「アヤシイって……。いや、そうじゃなくて、場所の話なんだけど」

 「ああ、場所ね。高校から歩いて十五分くらいのとこだな。近くて良いぞ」

 自分の家から学校通うよりあっちから通った方が早いってのも、俺があの店に入り浸ってる理由の一つだ。

 「で、結局何のお店?」

 「うーん、まあ、川崎さんが今さっきまで働いてたところとおんなじようなもんだな。少なくとも変なお店じゃないから安心してていいよ」

 中にいるのは変な奴だけなんだけどな。言う必要はないだろう。すぐ分かることだ。

 「……あと、さっきのお金なんだけど……」

 「冷静になってみるとやっぱり欲しいとか?」

 「いや、そんなんじゃないけどさ……。アレ、どこから用意してきたの?」

 「実は俺、中学の時株でしこたま儲けさせてもらったんだよな」

 「嘘でしょ?」

 「うむ」

 ため息をつく川崎さんの様子がおかしくてケラケラ笑っていると、川崎さんが更に腕の締め付けを強くしてきて吐きそうになった。ただでさえラーメンのせいで死にかけてるのに、流石にこの仕打ちはちょっと……。

 「ま、ガキの小遣いみたいなもんだし、欲しくなったらいつでも言えよ。俺が持ってるより、川崎さんが使った方がよっぽど有意義だ」

 どうせ使う気も機会もないお金だ。自分で遊ぶ分くらいはゆか姉からタカる。……うん、まごうとなき屑だな。残念ながら俺はしっかり「ゴミ屑トリオ」とやらの仲間入りを果たしていたらしい。死ね。

 「そう言えば、なんで予備校行くつもりだって分かったの?」

 「ん? 前に川崎さん、参考書欲しいとか言ってただろ? でも明らかに参考書代を稼いでる風じゃなかったし、弟くんが塾に行き始めたって聞いて『川崎さんの家は一人分の塾代なら払えるのか』って思ったんだ。……これで、川崎さんは予備校行きたいんだなって予想が付いたって流れ」

 「そういえばあたし、そんな事あんたに言ってたね……」

 「川崎さんとの会話なら一字一句漏らさずに全部覚えてるからな。俺、川崎さんガチ勢だから」

 ハッと笑いながら言うと、またもや川崎さんの締め付けが酷くなった。コルセットじゃねえんだぞ……。俺はどこの英国淑女だ。内容物どころか内臓そのものまでコンニチハしそうだぞこれ。勘弁してくれ。

 「ていうかなんであの時いきなりあんなこと聞いてきたの?」

 「確か……、雪ノ下さんに貸してやる本をどうするか考えてたんだっけか」

 「ふーん……。結局どうしたの?」

 「『月と六ペンス』って本にした」

 「なんの本?」

 「夢と現実についての本」

 「余計意味わかんないんだけど……」

 「興味湧いたんなら自分で読んでみればいい。哲学書みたいに意味不明な文章でもないし、むしろ読みやすい方だ」

 「へー」

 「……興味ないのはよく分かった」

 一人で熱く語ったのがアホみたいだ。恥ずかしいことしてんなぁ、おい。

 「ま、面白い本だぞ。あの時代から『利口な男は結婚しない』なんて言ってんだから、やっぱすげーよ」

 モームのシニカルな人間論みたいなものは、個人的に結構好きだ。普通に読んでも楽しいってのが小説では一番大切だと自分で言うだけあって、お話としても面白いし。

 「なんか、意外」

 「何が?」

 「本なんて読まないやつだと思ってた」

 「それ、よく言われるけどさ、俺は結構本好きだぞ? 邪魔されないし」

 「邪魔?」

 「ああ……っと、電話だ電話」

 川崎さんの質問に答えようとすると、ポケットに入った携帯がいきなり震え出した。こういう事があるから携帯電話は嫌いなんだ。

 携帯をポケットから取り出し、画面も見ずにそのまま応答する。この携帯電話に電話をかけてくる奴は一人しかいない。

 「どうしたゆか姉」

 『遅過ぎ! こっちは待ちくたびれてるんだけど?』

 「あー……あと十分ちょいは見てくれ」

 『まだそんなにかかるの!?』

 「しゃーねーだろ。お姫様がお城を抜け出すのに苦労するってのは鉄板ネタだと思うが?」

 『はいはい。そんじゃ早く来てねー』

 ブツっと音がして、通話は終わる。言いたいこと言ったらすぐ切るんだもんな、あいつ。スタンダードな通話とやらは知らないからなんとも言えないけど、少なくとも異性間の電話という奴はもっと長い気がする。

 「さて、川崎さん。オーナーがお怒りみたいだ。飛ばしていくから、しっかりどっかに捕まっててくれ」

 「は?」

 「んじゃ……」

 そう言ってから、俺はペダルを力一杯踏み込んだ。気分はさながらなんたらペダルだ。チャンピオンの漫画はバキしか読んでないけど。

 

 

 

 

 

 「遅い! 何時だと思ってんの!」

 「俺は時間に縛られない男なんだよ」

 ツールドフランスならぬツールド千葉を終え、バーむらさきの扉を開けた俺たちを待っていたのは、仁王像と化したゆか姉だった。……ゆか姉はあまり背が高くないから、ほとんど迫力がなくてむしろ滑稽ですらある。

 「まあ良いけど。で、そっちがバイト希望の子?」

 「おう」

 「オッケー。じゃ、面接だね」

 「「面接?」」

 川崎さんがこちらを訝しげに見る。いや、俺も初耳だからそんな顔しないでくれ。

 「簡単にお話しするだけだからあんまり身構えなくて良いよ」

 「はぁ……」

 ゆか姉は吸っていたタバコを灰皿へと押し付け、川崎さんへと向き直った。

 「お名前は?」

 「……川崎沙希です」

 「沙希ちゃんね。うん、採用!」

 「えっ!?」

 川崎さんがこんな派手に困惑してるのは初めて見たなぁ……。まあ、ここで働き始めたらこんな程度じゃ驚かなくなるだろうけど。

 「じゃ、バイト内容の確認だけど……」

 マジで面接とやらは飾りだったらしく、ゆか姉はすぐに仕事の話へと入っていった。

 「日給五千円で来るのは自由。仕事内容はサーブと皿洗いで、仕事がない時は勉強してても良いし、むしろ勉強メインでも構わない、だな」

 それにしても、普通なら考えられない程破格の条件である。どうしてこんな条件をゆか姉が提示してくれたのかは謎だが、相談すると速攻で決めてくれた。今回ばかりはゆか姉に感謝である。

 「うんうん。予備校代稼ぎなんだっけ? 若い内から大変だねぇ……」

 「ちょ、ちょっと待ってください」

 「うん? どったの沙希ちゃん」

 「流石にそれは迷惑のかけ過ぎじゃないですか……?」

 「あー、いいよいいよそんなこと。若い女の子に座ってもらってるだけで、こっちとしてはオッケーだから」

 「でも……」

 「それにこんな可愛いんだもん! あの店に置いといて固定客とか付かれると困るし!」

 いや……あそことここじゃ明らかに競合してないだろ……。などと冷めた目でゆか姉を見ると、彼女は俺にだけ分かるよう、小さくウインクをしてきた。

 つまり今のは、あながち嘘ではないが本当の理由でもないということだろう。

 「……何から何まですみません」

 言っても無駄だと悟ったのか、川崎さんが遠慮がちに口を開いた。

 「タメ口で良いし、呼び方もゆか姉とかでいいよー」

 軽い調子で言うゆか姉に、川崎さんが面食らう。俺も結構驚いていた。ゆか姉は会ったばかりの人間にここまで友好的な接し方をするような奴じゃない筈だが……。

 「わ、わかりま……うん」

 「それにしても予備校かぁ。ここに来るんなら、予備校なんて行かなくて良いと思うけどねー……」

 「どうして?」

 「だって私と七之助がいるんだよ?」

 自慢げに言うゆか姉をスルーして、川崎さんがどういう意味だと視線で俺に尋ねてくる。

 「あー、アレ、一応医学部入るくらいには頭がいいからな……」

 ゆか姉は基本脳みそお花畑なのだが、一度やり始めるとこれが中々出来る奴なのだ。つまり、やったから出来た系女子。これは流行らない。

 「一応って何? 一応って」

 「一応で十分だろうが……。俺と一緒の学年になるーとかほざいて休学届出したような奴が、立派な医学生なわけあるか」

 不満げな流し目で俺を見てくるゆか姉に、こちらも呆れた目で応える。

 「相変わらず私には厳しいなぁ……あ、これも一つの愛ってやつ? ま、沙希ちゃんも分からないところとかあったら何でも七之助に聞きなよ。ガッコーやら予備校やらの先生より分かりやすく教えてくれると思うから!」

 「はぁ……」

 川崎さんは曖昧に頷きながら、疑わしげに俺のことを眺めた。

 「よっし、それじゃ沙希ちゃん。明日からよろしくねー!」

 そう言ってゆか姉は、川崎さんの手を握って、ブンブンと振り回した。

 「七之助、沙希ちゃんのこと送ってってあげなよー」

 「なんで?」

 「女の子のエスコートも出来ない男は?」

 「……りょーかい。んじゃ先に外で待ってるから」

 何故かゆか姉に抱き着かれている川崎さんを尻目に、俺はもう一度外へ出る。

 「さて、タバコでも吸おうかなっと……」

 一人呟き、胸ポケットからタバコを取り出して火を付ける。

 しばらくの間、手持ち無沙汰な感じで自転車にまたがりながら紫煙を吐き出していると、ようやく川崎さんが中から出てきた。

 「……なんで真っ赤?」

 出てきた川崎さんの顔は何故か真っ赤で、いつか見た由比ヶ浜さん並に信号機の様相を呈していた。要するに面白かった。

 「い、いや、ちょっと緊張したから……」

 「ふーん、何か変な事でも言われたのかと思っ」

 「そんな事より、眠いから早く帰りたいんだけど?」

 川崎さんが強引に俺の言葉を遮って、荷台へどかりと座り込む。いつもと様子が違うし、これはゆか姉に余計な事をされたんだろうな。……ああ、百合の花が幻視出来る……。

 「うっし、じゃあ帰りますかね」

 そう言って、俺は自転車を漕ぎ出す。夜は、そろそろ明けそうだった。




今回は物凄く強引な上文章も変な気がするのでその内書き直す可能性が微粒子レベルどころじゃないレベルであります……。
あとお気に入りがここ一週間で倍どころの騒ぎじゃなく増えててリアル「何が何だか分からない」状態です。



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またしても彼らは元来た道へ引き返す。

 「勝ったっ……! 勝ったぞっ……! 打ち勝ったぞ、中間テストっ……!」

 ざわ……ざわ……とクラスメイトが騒がしい声を上げる教室のただ中、俺は一人会心の勝鬨を上げていた。

 そう、今日は試験結果が全て返却される日だ。

 俺の手元に戻ってきた愛しき答案用紙の全てには、でかでかと「七十七」の刻印が押されていた。

 「んぐふっ……ふふふ……」

 ああダメだ、テンションが上がって仕方が無い。完膚なきまでに勝った後というのは何故にここまで気分がいいのだろう。達成感と高揚感がない交ぜになり、俺は一人、肩を震わせる。

 「おい、七里ヶ浜」

 「これは勝利の祝杯を上げるしかねえな……フケてゆか姉のとこ行くか!」

 瞬間、俺の頭に衝撃が走った。どうやら上から殴られたようだ。

 いきなりの敵襲に驚きながら顔を上げると、そこには青筋を立てる平塚てんてーが強敵オーラを放ちながら立っていた。バトル漫画的展開である。

 「静、どうかしたか?」

 「ふむ……キャラどころか立場まで忘れたらしいな……」

 バキバキと拳を鳴らし、何処かで見たような拳の握り込み方を俺に見せつけながら平塚てんてーは不敵に笑う。

 「冗談ですよ冗談。どうかしたんですか? もしかして、遂に僕とステディな仲になってくれる気になったとか」

 「馬鹿者。誰がお前とそんな関係になるものか」

 「いてっ」

 彼女は俺の頭をこつりと軽く殴り、それからもう一度俺の目を覗き込むように向き直った。

 「周りを見てみろ。もうみんな行ってしまったぞ?」

 言われてみれば、先ほどまでの喧騒は既になく、教室には俺たちを除いて人っ子一人いなかった。どうやら俺がトリップしてる間に、みんな何処かへ行ってしまったらしい。どこ行ったんだよ。

 「みんな何処行ったんですか? 移動教室とかでしたっけ?」

 「はぁ……。お前は職場見学の存在すら忘れているのか……」

 心底呆れたようにため息をつく平塚てんてー。そういえば職場見学とかなんとか言ってたなぁ……。あれ、俺どこ行くんだっけ? ていうか俺の班ってどうなってんの?

 「残念ながらお前の希望は通らなかったので、私に着いて来て貰う。すまんな、七里ヶ浜」

 「あ、そうだったんすか……ていうかそれって、もっと早く教えるもんなんじゃ……」

 「ああそうだな。まさか五日連続で同じリアクションをされるとは思ってなかったよ」

 蔑みを交えながらこちらを見やる平塚先生を見て、どうやら俺はこの告知を少なくとも五回は受けていたことが知れた。物覚えが悪いってレベルじゃねぇぞ!

 「いやはや、中間テストで僕の鳥頭はいっぱいだったんですよ。すみませんでした」

 「ほう。結果はどうだった? 確か現国はそこそこ良かった筈だが」

 「最高でしたね。多分学年で一番美しい点数だと思います」

 そう言って俺は、机の上にまとめてあった答案用紙を、最高の笑みで平塚先生にまとめて渡す。

 「……なんだこれは?」

 「……いや、答案用紙ですけど?」

 「そういうことを聞いているんじゃない。何故、全部同じ点数なんだ?」

 「……あっ」

 「そう言えば、お前の点数は去年から毎回全く同じだなと疑問に思っていたんだ」

 素で忘れていた。確かにこれは先生には自慢しちゃいけない類のもんだった。これを自慢するのは、これが『作為的である』ことを完全に認めちゃってるのと全く同義だ。しっちゃんたらドジっ子! てへぺろ!

 「……お前とは、じっくり話す必要があるらしいな」

 「そうですね愛を語り合いましょう!」

 平塚先生は俺の言葉を無視して、無言で俺の背中を鷲掴んで俺を引きずって連行した。その後のことについては、自主規制ということにしておこう。……勘弁してくれ。

 

 

 

 

 そんなこんなで職場見学。

 平塚てんてーに連れられて来た場所は何処かで聞いた名前の電子機器メーカーだった。

 どうやら五つくらいの班がここに来ているらしく、比企谷くんや由比ヶ浜さんといった奉仕部メンバーだけでなく、戸塚ちゃんや葉山くん、三浦さんなどといった見知った顔を見つけることが出来た。

 会社の人からは中々に興味深い話を聞けて、結構良い場所に連れて来てもらえたと思いながらガラス張りの向こうにある機械の展示を見ていると、急に首根っこをひっつかまれてグイと引っ張られた。……最近こういう扱い多くないですか?

 「比企谷。ここへ来ていたのか」

 どうやら比企谷くんに話しかけたいのに、いつまで経っても動く気配のない俺に痺れを切らした平塚てんてーが、無理矢理俺を展示から引き剥がしたらしい。一人で行けよ……。

 「先生は見回りですか? ていうかなんで七里ヶ浜?」

 「まぁそんなところだ。こいつは行く場所がなくなったから私に着いて来させている」

 平塚先生は展示されている機械を見ながら「私が生きてるうちにガンダム作られるかなぁ」などという呟きを小さく漏らしていた。

 「七里ヶ浜」

 「なになになんでしょ比企谷くん」

 「川崎、どうなったんだ?」

 「あー、中々上手く回ってると思うけど」

 その後、川崎さんはほぼ毎日といった頻度でバーむらさきを訪れていた。仕事の覚えも早く、勉強に関しても相当上手くいっている。やっておけと言ったところは素直にやってくれるし、疑問に思ったこともすぐ質問しに来てくれる。少々物分りが良すぎるきらいもあるが、概ね生徒として申し分のない女の子だ。流石天使。

 「そうか。ダメそうなら他の手もあったんだが、大丈夫そうだな」

 そう言って、比企谷くんは一つ、どこか『らしくない』ため息を付いた。いつも通りの皮肉気な笑みを浮かべているはずのその姿は、まるで、言いにくい事を言う直前のようで……。

 「んじゃ、俺行くわ」

 「……うん、頑張ってこいよ」

 そう言うと、比企谷くんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてこちらを見た。

 「……らしくねぇな。お前はそういうキャラじゃなかったはずだろ?」

 「それはお互い様。比企谷くんにに幸あらん事を」

 「どの口が言ってんだよ」

 顔を見合わせ、二人でケラケラと笑う。これで、ちょっとは比企谷くんの気が軽くなってくれると嬉しいなと、俺は少し思った。

 

 

 

 

 

 「何の話だったんだ?」

 ユニバーサルセンチュリーから帰ってきた平塚先生が不思議そうな顔で首を傾げ俺に聞いてくる。

 「よくわからないですけど……比企谷くんなりに決着、つけに行くんじゃねーですかね。なんの決着かまでは知りませんけど」

 「ほう、決着か……」

 そう言って平塚先生が不敵に笑う。この人こういう単語好きそうだもんな。決着とか勝負とか。あと意地とかプライドも好きそうだ。

 とにかく先生の嗜好は、男の王道をことごとく押さえているのだ。こういう精神性も、普通の男女関係を築けない理由の一つなのかもしれない。

 「……七里ヶ浜。お前今、何か失礼なことを考えたな?」

 「結婚しましょう」

 「シャイニングフィンガー!!」

 「すんませんすんませんすんません!」

 掛け声と共に、ギリギリと頭部を握力のみで潰しにかかってくる平塚先生の身体能力に心底ビビりつつ、全力で平謝りする。

 「お前はもう少し、自重という言葉を覚えた方が良いな」

 「危うく頭部破壊されて、失格どころか普通に人生ゲームオーバになるとこでしたよ……」

 どんな握力だ。ホントに人間なのかこの人。実はゴリラなんじゃ……?

 「七里ヶ浜」

 「はい」

 「……分かるな?」

 ニッコリと、平塚先生はこちらへ笑みを向ける。漏らさなかったことに関しては褒めて貰いたいなと、強くそう思った。

 「……委細違わず」

 「そうか! それは良かった!」

 言いながら、バシバシと俺の背中を叩く平塚先生の手の平の勢いがあからさまに増していることは気にしない事にした。もうホントすんませんでした。

 「例の勝負についてなんだがな」

 ようやく背中を叩くのをやめた平塚先生が、何やら思案顔で話を切り出した。

 「勝負ですか」

 「ああ。不確定要素が現れたせいで、現状の枠組みでは対処出来なくなっている」

 不確定要素。つまりルールを決めた以降に現れたプレイヤー──由比ヶ浜さんの事だと考えられる。なるほど、確かに由比ヶ浜さんが解決の一助となった事は多い。例えば葉山くんの持ち込んだ、チェーンメール? 事件だとかは、由比ヶ浜さんのお陰でカタがついたというのが正しいだろう。アレに関しては、彼女がいなければ確実に奉仕部では解決出来なかった筈だ。

 「で、どうするんですか?」

 「ま、適当に考えるさ。一応比企谷や雪ノ下にも伝えておいてくれ。……お前に頼み事をするのは些か以上に不安だが」

 平塚先生が諦めたように苦笑するのを見て、俺も苦笑いで返した。……流石に頼まれたことはちゃんとやりますよ、マジで。

 「それでは私は帰らせてもらうよ。お前も遅くならないようにな」

 「了解です。明日は普通に学校あるんでしたっけ?」

 「ああ。真面目に来いよ?」

 そう言ってイタズラっぽい笑顔で俺を見据えてから、平塚先生は踵を返して帰っていった。その仕草にちょっとドキッとしたのは内緒である。

 

 そんな平塚先生の後ろ姿を見送りながら、俺は色々と考えていた。

 それは例えば、バーむらさきに来るようになった川崎さんの事だったり、先ほどまで会話していた比企谷くんの事だったり、親の話を持ち出された時に真っ青な顔をしていた雪ノ下さんの事だったり、今さっき平塚先生を見送っていた俺の前を、思いつめた顔をしながら駆け抜けていった由比ヶ浜さんの事だった。

 一体彼ら彼女らが何を考えているのか、なんてこと、俺に推し量ることは出来ない。

 

 それでも、俺は少しだけ、そこに近付きたいと思っていた。

 きっと、俺にはそれしか出来ない。何故なら俺は、いや、俺たちは、そうする事でしか誰かを理解することなんて出来ないから。

 話せば分かる? 川崎さんの言った通り、そんなのは嘘っぱちかもしれない。

 それでも、話さなきゃ分からない事は、確実に、ある。

 だって、俺たちに誰かを理解することなんて、出来るはずがないのだから。

 そこまで考えて、俺は一人、自分でも分かるほどに仄暗く、陰気に笑った。

 

 何が「理解したい」だ。そんな事、本気で思っている訳じゃないだろうな? 一体いつから、俺はそんな真っ当な人間になったつもりをしていたんだ?

 首を振って、無駄な考えを振り払う。

 大丈夫だ。俺はナナとは違う。他人を好きだと大声で言うことも出来ないけど、世界に俺一人だなんて、間違っても考えたことはない。

 「……だから、大丈夫だ」

 確かめるように出した声は、どこか空々しい響きを持って、そのまま空へと溶けていった。

 



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こうして俺はまたもや懐かれる。

三巻部分開始(話が進むとはry)


 「大体なんで買い出しなんかしに行ったんだよ……。楽太郎に言えばよかったじゃねえか」

 六月、辛気臭く広がる分厚い雲の下、俺はゆか姉と共に荷物を持っててくてくと歩いていた。

 「いーじゃんたまには! 最近沙希ちゃんずっといるし、久しぶりに二人で喋りたかったんだもん!」

 「どの口がほざいてんだ……」

 当然荷物は全て俺が持っているので、腕のダルさと精神的なダルさがない交ぜになった、とてつもなくダルそうな声で文句を付ける。天候のせいもあり、俺の気分は相当滅入っていた。

 あー、雲全部消えねーかなぁ。直射日光カモン。俺の夏を演出するため、奴らには片っ端から消え失せてもらいたい。

 「ぶー……だって、最近構ってくれないしさぁ……」

 そう言ってゆか姉は頬を膨らませてこちらをジトリとねめつける。タダでさえジメジメした空気が、更に身体にまとわりつく錯覚を覚えた。端的に言えば、暑苦しい。

 「別に構ってないってこともねぇだろ……いつも通りだよ、全部」

 「うーわ、出たよ七之助の口癖トップテン、『いつも通り』。それ、辛気臭くてあんまり好きじゃないなー」

 「トップテンってなんだよ……。俺にそんな大量の口癖はない」

 大体辛気臭いのはこの天気だ。誰かドライアイスでもヨウ化銀でも何でも良いからバラ撒いて晴れにしてくれ……。

 「いーや、いっぱいあるよ、七之助の口癖。『勘弁してくれ』とか『嘘だけど』とか『コーラ飲ませろ』とか『ナナ死ね』とか。あ、あと『キッキッキ』も!」

 「……キッキッキなんて笑い方をした覚えは、誓って一度もねえ」

 「流石にそれは無理があるでしょー」

 カラカラ笑うゆか姉をどう言い込めてやろうか考えていると、ゆか姉は急に、獲物を見つけた肉食動物のように目を見開いてからいきなり走り始めた。

 「……ほっとくか」

 薄情にもそう呟き、俺はポケットからタバコとライターを順に取り出し火をつける。

 「うげっ、すげーラム酒の味する……」

 この、舌先がピリピリと痺れる感覚はあまり好きじゃない。

 それなのに、なんだかんだ言ってこのタバコを選んでいるあたり、相変わらずの我ながらあっぱれな中二病っぷりである。

 「おーい! 七之助ー! こーい!」

 いつの間にか結構遠くでしゃがみこんでいたゆか姉の大声で現実に戻される。ああそうだ、荷物運びをしてたんだな。

 返事をするのも面倒に感じたので、俺は軽く走ってとっととゆか姉のいる場所へと向かうことにした。

 「何やってんだ?」

 「ネコ」

 そう言ったゆか姉の視線の先には、段ボールの中から間抜けヅラを晒してこちらを見ている、大方成長しきった黒い猫と灰色の猫がいた。

 「……まさか、その段ボールの中身、あの距離で判別したんじゃないだろうな?」

 「いや、特に何が入ってるとかは考えてなかったかなぁ。面白そうだなーと思って!」

 ゆか姉はうりうりと両方の猫を撫で回し始め、猫たちは嫌そうに身体をよじって魔の手から逃れようとしている。

 「……おい、やめてやれよ」

 どうにも他人事と思えなかったので、俺は珍しくマトモな事を言ってゆか姉を止めようと試みる。

 「んー……ねえ七之助、この猫の種類分かる?」

 「……スコティッシュフォールドと……ブリティッシュショートヘアだな。何でこんな良い猫が野良になってんだ?」

 俺は二匹の猫──特に耳の折れた黒い猫を注視しながらゆか姉にそう告げる。

 「珍しいの?」

 「んなことも知らねえのかよ……。スコティッシュなんかは長毛種みたいだし、かなり珍しいんじゃねえの。長毛は短毛に比べて劣性遺伝だからな。確か……ハイランドフォールドっていうんだったか。もう片方のブリティッシュも、イギリスやらアメリカだと色まで含めて一番人気の猫種だ」

 俺が薀蓄を垂れ終えると、ゆか姉がちょっかいを出すのをやめたせいか猫たちは幾分落ち着いた様子になり、かと思えば俺を見てまたもやソワソワし始めた。このパターンは……。

 「相変わらず詳しいねぇ……引くわ……」

 「なんでそんなことで引かれなきゃなんねえんだよ……早く帰るぞ」

 これ以上ここにいると、また厄介なことになる。俺の直感がそう告げていた。

 「ね、そんなことよりさ」

 俺の呆れた声をまるで無視した風に、ゆか姉は能天気な声で余計なことを言い始めた。

 「この猫ちゃんたちさ、店で飼えないかな?」

 「……勘弁してくれ」

 「出たよ、『勘弁してくれ』」

 

 

 

 

 「ダメな理由その一、飲食店なのに店内で猫が闊歩してるって、何の冗談だ?」

 懇々と諭すように、俺はゆか姉を説得する羽目になっていた。ちなみに全く諦める素振りすら見えないので、既に半分以上諦めている。今までの人生の中で、ゆか姉がやりたいと言ったことを俺が止めれた事は、全くと言っていいほどなかった。今回も例に漏れず、と言ったところだ。

 「猫カフェとかあるじゃん。別にダメならウチで飼えば良いし」

 「……ダメな理由その二、川崎さんは猫アレルギーだ」

 「それもウチの中で飼えば良いだけでしょ?」

 「はぁ……。二匹とも連れて帰るつもりなのか?」

 もうどうにでもなれーみたいな投げやりな気持ちで俺はタバコに火を付け、煙を上空へと吐き出す。

 どのみち、ゆか姉の店なのだから、俺がこれ以上何を言える義理もないだろう。俺は基本的に、彼女には感謝しているのだ。

 「そうだけど?」

 「悪いことは言わねえから、スコティッシュの方はやめとけ」

 俺はそう言って空いた方の手を段ボールに突っ込む。

 案の定二匹とも、興味津々といった様子で俺の手の匂いを嗅ぎ始め、遂にはペロペロ舐め始めた。くすぐったいし、猫特有のザラザラした舌のせいでちょっとした痛さすらある。まあ、心地の良い痛さだからそこまで苦にはならないが。

 「どうして?」

 「リスクが高過ぎる。血統書なしのスコティッシュ飼おうだなんて、バカにも程がある」

 「じゃあこの子だけ置いて行くの? そっちの方がよっぽど酷いじゃん」

 「んなこと言っても……。じゃあ、ゆか姉はこいつが人生……いや猫生か、の半分くらい歩けない状態で生きていくのを、間近で見ていられるのか?」

 俺はゆか姉の方を見ず、黒い猫をずっと見ながら、その尻尾をフニフニと動かす。触った感じだとしなやかではあり、少し頬が緩むのを感じながら「良かった」と小さく呟いた。

 こういう品種改良を重ねた愛玩動物は、その見た目の愛らしさと引き換えに、生物種として大きな欠陥を持っていることが多々としてある。

 例えば、今目の前にいるスコティッシュフォールドなんかだと、耳が折れる因子を持った遺伝子のホモ接合が原因で関節異常をわずらう場合が多いのだ。

 こいつ自体は尻尾もちゃんと動くみたいだから今のところその兆候が見られないけど、それでも油断は出来ない。そもそもこいつらは、骨格に異常をきたさなくとも、遺伝性の内臓疾患で普通に死ぬ確率だって相当高い。

 意識の高いブリーダーやらなんやらのお陰でアホな交配をさせているクソ野郎の数は減ったが、それでも先天性の内臓疾患は外見からだと見分けが付かない為、飼ったそばから死ぬなんてこともザラだ。

 そんな猫を家に連れ帰り、見事に死なれてワンワン泣いてるゆか姉の守りをする役目なんて引き受けたくはない。絶対にゴメンだ。それに、俺も……。

 「やっぱり七之助は動物好きだねぇ……」

 深く思惟の海に潜っていると、いきなり頭をグリグリされたせいで飛び起きるように意識が覚醒していった。

 「別に。図鑑やら動物園で見るのは好きだが、飼うのはノーサンキューだ」

 ゆか姉とは目を合わせずに言い切ると、段ボールの中の猫どもが一斉に俺の手をカジガジ齧り始めた。なんか文句あんのか。ていうか普通に痛えよ。

 「またまた、心にもないこと言っちゃって。素直じゃないなぁ……」

 そう言ってどこかこそばゆい視線を送るゆか姉は、こちらを見て微笑んだ。

 「大丈夫だよ、七之助。絶対に、ちゃんと面倒見るからさ」

 不意に、俺は胸が締め付けられるような息苦しさを覚える。それがゆか姉の笑顔のせいなのか、それとも彼女の言葉のせいなのかは、俺には判別が付かなかった。

 「……そうか。それなら、俺からは何の文句もねーよ」

 なんとか言い切ると、ゆか姉は満面の笑みで俺に抱きついてきたので、それを軽くいなしてからポケットに入った携帯電話に手を掛ける。

 「なら、とりあえず楽太郎だな」

 「ん、そだね。てかそのケータイで電話するの?」

 「これしか持ち歩いてないし」

 「そのケータイは私と電話する用だからダメ!」

 「……まあ、お金払って貰ってる訳だから、言うことは聞くけどさ……」

 面倒臭い奴である。携帯電話なんだ、電話しなきゃ意味ないだろ。大体、自分だって大して電話かけてこないくせに、何でわざわざわこんなもん持たせてるんだ。俺は携帯電話なんて欲しくないっての。

 「ていうかそのケータイにラクちゃんの番号登録してあんの?」

 「してないけど覚えてる。……そもそも登録ってどうやるんだ?」

 「……七之助に聞いた私がバカだった」

 「触らないんだから仕方ねえだろ……」

 名誉のために言っておくが、俺は機械オンチではない。事実パソコンはちゃんと扱える。ネットゲームくらいしかしないけど。あ、機械オンチかもしれない。だが、携帯電話くらい、必要さえあればちゃんと扱えるのだ。

 「まいいや。そんじゃ帰ろっか」

 「……こいつらは?」

 「んー、こうでしょ!」

 そう言って、ゆか姉は黒い猫を俺の頭へ、灰色の猫を俺の肩へと順番に乗せていった。

 「…………おい」

 屋上へ行こうぜ……久しぶりに……キレちまったよ……。

 「良いじゃん、ほら、猫ちゃんたちも喜んでるしさ」

 言われてみて気付いたが、確かに猫たちはゴロゴロと喉を鳴らしながら呑気に眠っている。おかしいだろ……。

 「相変わらず、すごい懐かれっぷりだよねー。七之助、ムツ◯ロウさんより凄いんじゃない?」

 「う、嬉しくねえ……」

 ゆか姉はこちらを振り返りもせずに言うだけ言って、とっとと一人で帰り始め、俺の魂の叫びに応えたのは猫どもの呑気な寝息だけだった。

 

 

 



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完全無欠に雪ノ下雪乃は猫好きである。

 「……七里ヶ浜くん、あなたは一体何をしているのかしら?」

 「……名前を考えなきゃいけない羽目になってな……。まさか自分の子供の名前を付ける前に名付け親になるとは……」

 部室にて、珍しく普通に座って図書室から借りてきた名前辞典を真剣な顔でペラペラめくっていると、不思議そうな顔をした雪ノ下さんが話しかけてきた。

 「あなた、叔父にでもなったの?」

 「叔父ってことは……ナナにガキが出来たって事になるのか。もしそうだったらあいつも家から出てってくれて最高なんだけどな。残念ながら、俺にはまだまだ甥も姪も出来そうにないなぁ」

 あいつが結婚出来るとなると、割とマジで楽太郎くらいしか相手がいなさそうで、今から少し妹の行方が心配である。あいつ、俺と楽太郎以外に素面で喋れる男とかいるのか……?

 「なら、何に名前を?」

 「いや……まあ、色々。そんなことより、今日も由比ヶ浜さん来ないの? ここ最近全然見てなくないか?」

 以前、動物を飼う気などさらさらないと言った手前、雪ノ下さんに「猫飼う事になったんだよね〜」なんて恥ずかしくて言えないので、俺はやたら分厚い本から目を上げて話題を逸らすことにした。

 「……そうね。今日も、来ないそうよ」

 そう言って気まずげに俺から目を背ける雪ノ下さんを見て、中々可愛らしいところもあるじゃないかとぼんやり考えていると、いきなり部室のドアがガラガラと耳障りな音を上げながら開いた。

 「まいど〜」

 能天気な声の主は楽太郎。幸せそうな面をしていて、見れば見るほど殴りたくなってくる。こいつは俺をムカつかせる世界選手権とかがあれば相当な上位に食い込むポテンシャルを持っているな。優勝はゆか姉で、特別審査員賞が裸足で家の中をペタペタ歩く奴。……何人いるんだよ、それ。

 「もう持ってきたのか。相変わらず仕事が早いな」

 楽太郎の荷物に視線を移すと、奴はキャリーバッグを軽々と振り回し、ニンマリと笑った。

 「そりゃあ、お客さんのご要望とあらばヒマラヤやろうがマリファナ海溝やろうがひとっ飛びやからな」

 「海溝はマリアナだろ……。お前運び屋までするつもりか?」

 前持って楽太郎から言われた分のお金を渡しながら、ツッコミを入れる。流石に危険過ぎるわ。病院でも仕入れたら捕まるってのに……。

 「欲しいんやったら持ってくるけど?」

 「何考えてんだよ……」

 「アッハッハ! 楽太郎ジョークやん! それくらい笑い飛ばしてくれな困るわぁ」

 何でもない事のように言う楽太郎に、心底頭を抱える。こいつも相当吹っ飛んでやがるな。勘弁してくれ。

 「てか、何で昨日来なかったんだよ。ゆか姉ブチ切れてたぞ」

 「……ほ、ほんまに?」

 先ほどまでの余裕を一切合切失った楽太郎は、一転して哀れなほどに顔を青く染め、懇願するような目でこちらを見た。いや、俺に懇願するなよ……。

 「嘘だけどさ」

 「タチの悪い冗談やな……」

 「七之助ジョークだ。これくらい笑い飛ばしてくれねーと困るな」

 ニヤリと笑って言ってやると、楽太郎もようやく趣向を理解したのか、ポンと手を打ち笑い始めた。

 「うーん、一本取られたな、こりゃ。キッキッキ!」

 「……殺されたくなかったら、今すぐここから消え失せろ……」

 「ほんじゃま。あぁ、雪ノ下さんもお邪魔しましたー」

 ケラケラ笑いながら後ろ手を振って部室を出て行く楽太郎に軽く殺意を抱きながらも、どうにかこうにか抑え込んで、奴の持ってきたキャリーバッグに目を通す。

 なるほど、一通りは揃っていそうだ。やっぱり、モノを頼むならあいつに言うのが一番早くて確実だな。

 「……七里ヶ浜くん、順を追って説明してくれないかしら」

 どうやら雪ノ下さんは、キャリーバッグの中の猫砂に興味津々のようだ。私、気になります!

 「いや、ちょっと猫拾っちゃってさ。で、名前もそれで」

 「へぇ、そう。写真とかは持ち歩いているの?」

 「写真? なんで?」

 ……今の俺は、ものすごくイヤらしい顔をしていると思う。こういうアウトボクシング的なやり口はあまり趣味じゃないが、たまにはやってみてもいいだろう。雪ノ下さん面白いし。

 「別に私自身が興味を持っている訳ではないのだけれど部員の趣味趣向を把握するのももしもの際に役立つ可能性がなきにしもあらずだしそもそもあなたは以前動物は嫌いだと言っていたからそのダブルスタンダードを矯正するためにも私には奉仕部部長としてその写真を見てあなたを咎める義務があるわ」

 一息に言い切る雪ノ下さんの様子に内心腹を抱えて笑いつつも、そんな様子はおくびにも出さずに俺はもう一度楽太郎の持ってきた荷物の確認作業に移る。

 ……うん、完璧だな。総重量が約三十キロくらいありそうなモノをこれから運ばなければいけないと思うと、とてつもなく気が重いが、やはりあいつは役に立つ。……ていうかあいつ、なんでこれを片手で振り回せるんだよ……。

 「で、写真は?」

 「まだ言ってんのか……。あー、写真は持ってないなあ。携帯電話とか使いこなせれば簡単に撮れるんだろうけど、残念なことにイマイチ使い方がわからないし」

 「あなた、どれだけ携帯電話が嫌いなの……」

 「可愛い女の子と連絡の取れないコミュニケーションツールなんて何の意味もないからなぁ。あ、雪ノ下さんがメールアドレス交換してくれるんなら使いまくるけど」

 軽く笑って冗談を飛ばしてポケットからゆか姉専用機の携帯電話を取り出して雪ノ下さんを見やると、彼女も何故か携帯電話を構えてこちらを見ていた。

 「え? どしたの?」

 「あなた、自分が数秒前に言っていたことすら覚えていられないの? 大した記憶力ね」

 「いや、マジで交換するの? 要らなくない?」

 「今の奉仕部には、能動的にあなたへと連絡を取れる人物が一人としていないの。よくよく考えると、これは少々いただけないわ」

 やれやれと首を振る雪ノ下さんは、最後に「比企谷くんですら取れるのに……」と小さく付け加えていた。おい。……おい。

 「あ、あー、ホントに交換してくれるのか。いやー嬉しいなー! でも今ちょっと恥ずかしいメールアドレスにしてるから、今度にしない?」

 藪蛇だったなと思いつつ、お茶を濁すために適当な嘘をつく。この携帯電話にゆか姉以外のアドレスを入れる気は今のところないのだ。余計なメールや電話が増えるのはノーサンキューだし。

 「あなたにメールアドレスが変更出来るとは思えないのだけれど……」

 雪ノ下さんは、冷たく射抜くような目で俺の嘘をなかなかえげつなく抉った。いや、確かにメールアドレスの変え方なんて知らねえけどさ、もうちょっと優しいアレはないんですか? いや、アレってなんだよ。ついでに若さってなんだよ。

 「……あー、ちょっと待っててくれ。これ実はオモチャのチャチャチャで、モノホンはカバンの中にあるんだわ」

 「……その寒いギャグに、私はどう対応すればいいのかしら?」

 「ハンドは?」

 「抹殺、屠殺、殲滅ね」

 「ハンド三枚じゃ落ち着かないだろ? 求婚とかいれてみない?」

 「……うざ」

 カバンの中からお目当てのブツを取り出して電源を入れるのに集中することにより、雪ノ下さんの冷たい視線をかいくぐる。……あ、ついた。

 「いや……流石にこれは……」

 約三ヶ月振りくらいに電源を付けた携帯電話は、ナナからのメールを五百件ほど着信していた。何を言っているか分からないと思うが、俺も分からん。普通にこえーよ勘弁してくれ。

 「? どうかしたの?」

 「……悪質な迷惑メールで気分を害したってとこだな、うん」

 「へぇ、あなたごときを貶めるのにそんな姑息な手段を使う必要があるなんて、相手も大したことないのね」

 「いや、貶めるっていうか……まあいいや。交換の仕方とか知らないから、全部任せていい?」

 「躊躇いなく他人に携帯電話を渡せるところは比企谷くんと同じね」

 そう言って、雪ノ下さんがくすりと笑った。そんなことで笑われても何一つ嬉しくねえです。

 俺は雪ノ下さんに携帯電話を手渡し、我関せずを決め込んでもう一度名前辞典という大海原へと帆を上げ……。

 「出来たわ」

 「うっす」

 ることは出来ませんでした。早いなおい! シューマッ浜さんならぬセナノ下さんかよ! 語感悪いわ!

 「それにしても、あなたらしいメールアドレスね」

 「へ? どんなアドレスになってんの?」

 全く覚えがなかったため、気になって雪ノ下さんの携帯電話を横から覗き込むと、画面にはやたらと七が並んでいて、なるほどと小さく声を出してしまった。

 「……七里ヶ浜くん、離れてくれないかしら。くすぐったいのだけれど」

 「あ、ゴメン」

 パッと雪ノ下さんから距離を取る。流石に好奇心に負けすぎだ。

 雪ノ下さんは髪をさらりと掻き上げて、こちらを睨みつけながら座り直した。

 「あなたね……」

 雪ノ下さんの目を見ていると、ようやく思い出した。そうだ、家で買い与えられた時、父さんに勝手にアドレス変えられたんだった。あの人も大概俺と同じ神経してやがる……。

 ちなみに俺は、七は好きだがセブンスターは臭いから嫌いだ。いえこれは別に平塚先生をdisっている訳ではなくてですね……。あ、そういえば父さんもセブンスター吸ってたな……。

 徹底してるなぁと一人苦笑いしていると、雪ノ下さんはこちらを睨む眼力を更に上げ、今にもナイフでも持ち出しそうな顔になっていた。ていうかもう視線がナイフ並みに鋭い。怖い。

 「それから、写真の撮り方なのだけれど」

 「分かった! 分かりました! 喜んで撮って来させていただきます!」

 まだそれ引っ張るのかよ……。ここまでくると呆れるのを通り越して尊敬するわ。雪ノ下さん、猫ガチ勢だな。なんだよ、それ。

 「そう、分かればいいのよ」

 そう言って、満足げに頷く雪ノ下さんを見て、この人には敵わないなと再確認した六月の昼下がりだった。

 あ、猫の名前は結局決まりませんでした。ていうか見てた図鑑が人名図鑑だったし。指摘してくれた雪ノ下さんにはDJ並の感謝とひとしくん人形を差し上げます。持ってないけど。




猫の名前を募集してます。言ってくれると嬉しいです。あと、出来れば神奈川の地名でオナシャス!
……これくらいのアンケートなら大丈夫ですかね?w


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思った通り比企谷小町は兄思いだ。

結構間が空いちゃった上そんなに話が進みませんでした。すみません!許してください!なんでもしますから!


 「何だこれ…………」

 ピアノを弾き、休憩時間のうちに携帯電話のディスプレイを眺めると、そこにはやたらと長い猫への薀蓄をつらつらと綴った謎のメールが表示されていた。……送り主は、言うまでもない。

 ていうか、知ってる薀蓄を延々と読まされるのって結構精神的にクるんだな……。今度からゆか姉あたりとは気を付けて話そう。

 「いきなりどうしたの?」

 「川崎さん……。川崎さんは、謎に長いメールとか送らないでくれよ」

 「いや、あたしあんたのアドレス知らないし……」

 そう言って、川崎さんはグランドピアノへ視線を落とし、大屋根の縁をそっと撫でた。

 「それなら良かった。そんな事より、これ、どう返信したら良いんだ?」

 俺は真剣に、どうするべきか手をこまねいていた。メールのやり取りにすら慣れていないのに、いきなりこんな難易度の高い地雷を処理する羽目になるなんて何の冗談だ。勘弁してくれ。

 「良かったって……。自分で考えなよ、そんなこと」

 すげなく冷たく簡潔に、川崎さんは俺に背を向けて答える。

 ……あっれー? 川崎さんには結構仲良しフラグ立ってた筈なんだけど勘違いだったのかなー? もしかしてあの夜の出来事は全部イリュージョン、幻想だったのか?

 どこで間違ったのか、俺の数少ない脳細胞をフル稼働させながら考える。……あれ、なんか考えるべきことが他にあったような……。

 こうなってくるともうダメだ。往々にして俺は、こういうややこしいことを考えるのに向いてないのだ。諦めて次に弾く曲の選定に入ろう。うーん、何弾こう……。

 「あ、ていうか質問しに来たんだけど」

 言いながら、そのままカウンターの中に戻りかけた川崎さんが思い出したと言わんばかりに踵を返して戻ってきた。

 「はいよ、なに?」

 「これなんだけど……」

 そう言って川崎さんはこちらへ紙を差し出した。

 「物理か……」

 受け取った紙を眺めながらしばらく考える。川崎さんが持ってきたのは力学の範囲の問題だったのだが、問題云々よりも川崎さんの書いたバネの図がとても綺麗でちょっと笑えた。

 受け取った紙に書き込んだりしながら、俺は川崎さんに中々親切な説明をする。

 「……うん、大体分かった。ありがとね」

 説明を終えると、川崎さんははにかみながら礼を言った。

 「これも一応、給料に入ってるからな。あと、何回も言ったと思うけど、やった問題は死ぬまで繰り返してやること。じゃないとすぐ忘れるから」

 「死ぬまでって……」

 「言葉の綾だ。標準問題なんかだと、もう見た瞬間解法見えるようになるまでやらないと、難しい問題なんて手も足も出ない。そうはなりたくないだろ?」

 軽く笑いながら冗談めかして言うと、川崎さんも少し笑いながら俺の差し出した紙を受け取った。

 「あ、ゆかさん、明日中で猫の名前決めるって言ってたよ」

 「……マジで? 俺なんも考えてないんだけど」

 「あんたね……」

 川崎さんが、呆れたように頭を振る。いやホントすみませんね。自分、不器用ですから。

 「まあ、考えとくわ。……あ、猫っていうと、雪ノ下さんのメールどうすっかな……」

 またもや思考の海へと潜りこみかけたが、制服のズボンに入った携帯電話の振動で強引に引き上げられる。

 次は何だよと思いながら携帯電話をぱかっと開けると、電話は再び雪ノ下さんからのメールを受信していた。内容はこうだ。

 『そういえば今日、比企谷くんと偶然会って話をしたのだけれど、明日、由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを選ぶことになったわ。貴方も何か用意しなさい』

 簡潔な内容である。先のメールに比べりゃなんぼかマシなものだ。しかし、それでもこれにどう反応するべきかは分からない。いや、由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントって言われてもですね……。ていうか雪ノ下さん、由比ヶ浜さんの誕生日まで把握してるのか。こりゃ下手すると俺の誕生日とかも割れてるんじゃないか? 

 まあ、雪ノ下さんは俺なんかにプレゼントをくれるような殊勝な女じゃないし、関係ない話だろうけど。言ってて哀しくなってきた……。

 「『はぁ、プレゼントですか。どんなものを用意すればいいんですか?』っと……」

 かこかこと携帯電話のキーを打鍵してメールを作成し、そのまま送る。まあ、無難なメールが作れたんじゃないかなと思っていると、もう一度、今度はノータイムで返信があった。いや、俺今のメール打つのに三分かかったんすけど……。どんだけみんな携帯電話の扱い方に慣熟してんだよ……。

 『そう言うと思ったわ。明日比企谷くんと小町さんと一緒に選びに行くから、あなたも来なさい』

 そのメールの後ろには、場所と集合時間が書かれていた。

 なるほど、確かにみんなで選んだ方が良いものをプレゼント出来るかもしれないし、そもそも雪ノ下さんが選ぶものに、普通の女子高生は興味がないだろう。あの人は、妙にハイソなものを選んでドン引きされてしまいそうだ。

 「『了解しました。それではまた明日』っと……」

 「……あんた、口に出さないとメール打てないの?」

 メールを打ち終えた後に聞こえた呆れ声に振り返ると、川崎さんが珍獣でも見るかのような目で俺を眺めていた。キョトンとした顔がかなりキュートなのだが、それ以上に悪気のない毒舌の破壊力に心が震えた。思わずうずくまるレベル。なんというか、初体験でナニが反応しなかった時の男みたいな気分だ。知らないけど。

 「機械にはあんまり強くなくてな……。あ、ゲームは好きだけど」

 「へぇ。それにしてはゲームやってるところなんて見たことないけど」

 「携帯ゲームってあんまり好きじゃなくてな……。やってんのは据え置きのゲームばっかりだ」

 どうにも、あの小さな画面でわざわざゲームをしたいとは思わないのだ。充電がかったるいというのもあるし。そういう訳で、俺はあまり人前でゲームをしない。

 「へー、プレステとか?」

 「いや、サターンとかドリキャスとか。あとスーファミも」

 「……え、サターンって何?」

 俺が適当にゲーム機を挙げると、川崎さんは不思議そうな顔をしながら、少し間を開けて尋ねてきた。そうだよね……知らないよね……。

 「……土星のことだ」

 俺は軽く首を振りながら、川崎さんの質問に投げやりな声で答えた。

 

 

 

 

 

 翌日の日曜日、俺はてくてくと目的地へ向かって歩いていた。

 川崎さんを誘ってみようかとも思ったが、断られたときのことを考えると後々の関係に影響が出て面倒臭そうなのでやめておいた。まあ、川崎さんは奉仕部の部員じゃないから、出来上がった関係の中に無理やり放り込まれてしまうのも辛いだろうというちょっとした思いやりも、あるにはあるのだが。

 そんなわけで俺はちょこまかと一人で歩いているのである。

 「ふへー。良い天気だなぁ……」

 季節は梅雨……のはずなのだが、空には雲一つなく、青空が広がっている。まさしく皐月晴れである。あ、皐月晴れというのは五月の晴れた空のことではなく、梅雨の合間に珍しく晴れた空のことを示す。五月の晴れなんてよくあることで、そんな特別な名前をつける必要がないんだから勘違いのしようがないと思うんだけど、他人というのは分からないものである。大体旧暦で言ってるんだから……。

 「……ふぅ」

 不毛である。これ以上ウダウダ言う必要性を感じない。ていうか俺は誰に文句を言ってるんだよ……。

 それにしても良く晴れている。晴れていた方が気分は良いんだけど、ここまで綺麗に晴れていると、何だか嫌なことがありそうだと勘ぐってしまう。

 そんな事をつらつら考えながら歩を進めると、ようやく目的地へ到着した。

 どうやら俺が一番遅かったらしく、比企谷兄妹も雪ノ下さんも「ようやく来やがったよ……」みたいな胡乱げな目でこちらを見つめていた。いや、比企谷くんが胡乱げな目をしているのは今に始まったことじゃないな。うん。

 「はいどうもー、みんなのアイドル七之助くんだよー!」

 「つまらないことを言ってないでとっとと行くわよ、七里ヶ浜くん」

 「最早スルースキルを超えた何かだな……」

 「比企谷くんも早く行きたいでしょう? ならこれで良いじゃない」

 「いや、七里ヶ浜完全に固まってんじゃねえか……」

 「そうっすね……早く行きましょう……遅れてすみませんでした……」

 「「滅茶苦茶落ち込んでるし……」」

 比企谷兄妹が全く同じタイミングで同じツッコミをするのを聞いて、やっぱり兄妹だとツッコミも似るんだなと、変なところで俺は感心していた。

 

 

 

 「驚いた……かなり広いのね」

 なんとか気分を盛り返しつつショッピングモールに辿り着くと、雪ノ下さんが感心したような声を上げた。

 「はい、なんかですね、いくつにもゾーンが分かれてるんで目的を絞った方がいいですよ」

 そんな雪ノ下さんの声に応えるように比企谷さんが早速アドバイスを送る。見事なアドバイザーっぷりだった。

 「と、なると効率重視で回るべきだな。じゃあ俺こっち回るから」

 「ええ、では私が反対側を受け持つわ」

 「じゃあ俺が奥か……比企谷さんはどうする?」

 色々と言いたいことはあったが、ここは流れに乗っかることにした。比企谷さんならツッコんでくれるだろう。アドバイザー兼ツッコミ役とか一人で何個役割持つんだよ。エースだな。

 「ストップです♪」

 比企谷さんは案内板を指差す比企谷くんの指をくきりと折り、わざとらしくオーバーなため息を一つ吐いたあと、俺たちを見回した。

 「みなさん、一人じゃ選べないからみんなで来たんですよね?」

 「そう言えばそうだったな……」

 「……言われてみればそうね」

 「じゃあみんなで回るか」

 「そうですよ! じゃないと意味ないじゃないですか! 小町の見たてだと結衣さんの趣味的にここを押さえておけば問題ないと思います!」

 そう言って比企谷さんは案内板に備え付けてあるパンフを開き、明らかに女の子女の子した店を指差した。

 「じゃあそこ行くか」

 比企谷くんがそう言うと雪ノ下さんはこくりと頷いたので、それを合図に俺たちは足を動かし始めた。無言の行軍である。

 「すみません、七里ヶ浜さん……」

 比企谷くんと雪ノ下さんの後ろを黙ってついて歩いていると、比企谷さんに後ろから肩をちょんちょんと突つかれた。

 「ん? どしたん?」

 小声で話しかけられたのでこちらもそれに倣って答えると、比企谷さんは申し訳なさそうな顔で俺の服をくいくいと引っ張って、進行方向と違う方を指差した。

 「……あー、なるほど。いいよ」

 比企谷さんの言いたいことを察した俺は、雪ノ下さんたちにバレないよう集団から離れた。

 「ホントすみません……」

 比企谷くんたちから十分な距離をとってからも、俺と比企谷さんはのろのろと歩く。

 「やーやー。全然良いよ。兄ちゃんがああまで草食系だと、妹ちゃんとしても困ったもんだねぇ」

 つまり比企谷さんは、比企谷くんと雪ノ下さんを二人っきりにしたかったということだ。前に会った時も思ったけど、比企谷さんすげえ兄ちゃん思いの良い妹だよなぁ。兄思いの妹、泣けるね。

 あ、人の言ったことの内容とその時間を秒単位で完全に覚えているようなちょっとアタマのおかしい妹はノーサンキューで。……まあアレは、別に俺だけって訳でもなく楽太郎とかゆか姉の言ったことも全部覚えてるのが唯一の救いだ。そうじゃなければ完全にヤンデレだ。いや、知り合い全員に対してヤンデレなのか。どうでも良いわ。

 「……分かってたんですか?」

 「そりゃあ流石に。ここでいきなり……んんっ、『実は小町、七里ヶ浜さんのことが前から好きだったんです!』なんて言われるとは思えないしさ」

 「えっ!? 今の声……えっ!?」

 「中々似てるだろ?」

 俺のモノマネで真剣にビックリしてくれている比企谷さんにホッコリしながら、おどけたように笑ってみせる。

 「変な人だとは思ってましたけど、七里ヶ浜さんって実はものすごく変な人なんですね……」

 「今更だなぁ。あ、コーラでも飲む? 奢るけど」

 比企谷さんの言葉に苦笑いを浮かべていると、視界に自販機が現れた。丁度良いやと思い、俺は比企谷さんへと振り返る。

 「ホントですか!? ありがとうございます! あ、でも小町、紅茶の方が良いかなーとか思ったりして」

 「チッ!」

 「え、何で舌打ち……」

 「……気にすんな。ただ、趣味の不一致を感じただけだ」

 「キャ、キャラ変わってるし……」

 「冗談だよ冗談! 流石の俺でも、二つも下の、しかも女の言うようなことに腹立てるほど人間腐っちゃないからさ。ほい」

 比企谷さんに紅茶を手渡してから俺もコーラを買い、プルタブを引いてコーラを口に含む。うん、やっぱコーラって神だわ。

 「あ、ありがとうございます」

 「いいよいいよ。俺は適当に由比ヶ浜さんへのプレゼント選んで帰るから、比企谷さんも気を付けて帰れよ」

 言うだけ言って、俺は軽く手を振ってからその場を後にした。これ以上あの子と二人で話を持たせるのは、面倒臭いしごめんだ。

 さてと、邪魔者はいなくなったし、喫煙スペースでも探しますかね! ……最高に屑いな、俺。

 



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つまり俺と彼女は相容れない。

遅い上にものすごく短くなっちゃいました。
あと、陽乃さんのファンの方ごめんなさい。陽乃さんを貶める気は全くないので許してください。


 タバコを一本吸い終えた俺は、あてもなくぶらぶらと雑貨屋やら何やらを回っていた。

 正直誕生日に送る物品など全く思いつかないのでかなり辛いものがあるが、人間関係を円滑に進めるためにはこういうご機嫌取りみたいなものも重要なのだ。

 それにしても人が多い。やはり休日にこんなところへ来るべきじゃなかったなと半ば後悔しはじめる。どこを見ても人、人、人だ。家族連れ、カップル、老夫婦、そして犬。雁首揃えてうじゃうじゃと湧いている。

 「……犬?」

 気付いた時には遅かった。その犬はいきなり俺の肩辺りまで飛びかかり、そのまま首筋をベロベロと舐めはじめた。

 「なんだこれ……うぜぇ……」

 躾のなっていない犬である。飼い主は一体何をやってるんだ。普通に躾をしてりゃ知らない奴にいきなり飛びかかるなんてことしないだろ。いや、するのか? 犬は飼ったことがないので分からないが、それでもこれはちょっと異常だろう。

 まあ、自分の妙な体質のせいだろうと半ば確信していたが、それは意図的に無視した。俺、悪くない。

 犬を適当に振り払い服をポンポンと叩くと、丁度毛の生え変わる時期だったのか結構な量の毛が落ちていった。

 「ふぅ……。やっぱ嫌なことあったな」

 まあ、この程度で済むなら安いものである。こんなに良い天気はもうしばらくないだろうし、ここからは存分に羽根を伸ばして好きなように遊ぼう。最近あまりやれていない、楽しいこと探しに行くのも良い。

 「さしあたってはこの犬か……どうすっかな、これ」

 流石にこのまま放置して歩いて行くのは良心の呵責がある。ていうか多分勝手に着いて来るだろうから、放っておくと飼い主の人と完全にはぐれてしまう。別に俺には関係ないからどうでも良いんだけど、これでゆか姉の家にでも転がり込まれるのは流石に面倒なので、一応飼い主を探すことにした。

 キョロキョロと周りを見渡してみるが、誰が飼い主かなんて分かるはずもなく途方に暮れる。

 「……どうすっかな、これ」

 相変わらず犬はハアハアと舌を出しながら俺の顔を見上げている。お前、ちょっとは飼い主の心配とかしろよ……。何自由楽しんじゃってんだよ……。

 どうしようと頭を痛めていると、唐突に女の声が聞こえた。

 「あ! いたいたー! サブレー!!」

 多分飼い主の人だろう。その声はまさに俺を救う福音だった。いや、ホントよかった。これ以上こいつにかかわずらう羽目になってたらと思うと自分でも気が滅入る。

 「あ、飼い主の方で……あっ」

 振り向いて犬を引き渡そうとすると、相手の顔に既視感を感じた。というか、由比ヶ浜さんだった。

 「しちりん!? 何やってんのこんなとこで?」

 犬──サブレというらしい──を抱きかかえながら彼女は頭の上に疑問符を浮かべている。

 「綺麗に晴れてたから、適当に女の子でもコマそうかなと思って」

 「へぇー……って最低だ!?」

 「冗談冗談。実は……」

 ここで俺の口は次の台詞を紡ぐことを拒んだ。そうだ、サプライズプレゼント選びにきましたって言うのはちょっとまずいだろう。サプライズなんだから秘密にしておかないと。

 「……いや、普通に買い物しに来ただけ。休みの日なんだから、なんも珍しくないだろ?」

 「そ、そだね」

 短く相槌を打つ由比ヶ浜さんの態度はどこか他人行儀で、そういえば最近由比ヶ浜さんは部活に来ていなかったことを思い出した。

 「……最近なんかあった?」

 何故か、投げかけた言葉の裏に比企谷くんの顔がちらつく。

 「んーん、別になんにもないよ?」

 そういってクスリと笑う由比ヶ浜さんから、その表情とは裏腹な強い拒絶を感じて、俺は何も言えなくなった。

 「……そっか。そんじゃ俺行くわ」

 「うん、また……」

 控えめに手を振る彼女を振り返って見ることは、意識的に避けた。少なくとも俺には彼女に付き合って自分から面倒な荷物を背負い込む義務などないのだから、関わらない方が良い。願わくば、一刻も早い解決を。といったところだ。

 ……でも。

 「……奉仕部、来てくれよ。由比ヶ浜さんいないと、雪ノ下さん死んじまうからさ」

 これくらいなら、言ってしまっても良いのだろうか。

 残念ながら、後ろにいるはずの由比ヶ浜さんがどんな顔をしているかを確認することは、俺には出来なかった。

 

 

 

 

 「うわ」

 行く当てもなかったので、結局モールの中をダラダラ歩いていると、当然と言うべきか、比企谷くんたちに再び出くわしてしまった。

 「うわってなんだよ。ていうかお前今までどこほっついてたんだ」

 「や、トイレ行ってたらはぐれちゃって。ごめんごめん」

 「まあ別に良いけどよ……お前はもう由比ヶ浜に渡すやつ決めたのか?」

 「大体は。後は比企谷くんと雪ノ下さんが選ぶやつと被らないか確認しとくくらいかな」

 「そう。私はエプロンを用意したわ」

 そう言って雪ノ下さんは自慢げに、手に下げた袋を俺に見せるように持ち上げた。

 「……由比ヶ浜さんはエプロン、使うのか……?」

 「いやそこツッコんじゃダメなところだろ……」

 比企谷くんから至極ごもっともなお叱りを受け、俺は自分の髪の毛をくしゃくしゃと軽く撫でた。

 「比企谷くんは……まあ良いや。どうせ被んないだろ」

 「お前は何渡すんだよ」

 「料理の本でもと思ってる。付き合ってるわけでもないのに、普段身につけるやつとか渡すのも重いしな」

 「へぇ。あなたのことだからアリスの原書でも渡してドン引きされると思っていたのだけれど、案外マトモな物を渡すのね」

 「それはどっちかと言うと雪ノ下さんの方だと思うけどな」

 「確かにな」

 「……あなたたちが私のことをどう思っているのか、よく分かったわ」

 「まあまあそうカッカしなさんなや。今度パンさんの原作貸してやるからさ」

 「……持っているから必要ないわ」

 「「持ってんのかよ!!」」

 俺と比企谷くんは、衝撃のカミングアウトに口を揃えてツッコんでいた。

 …………衝撃でもないか。うん。

 それにしても、このまま合流してしまっても良いのだろうか。比企谷さんの思惑丸つぶれしちゃってるんだけど。でもここからもう一度ふけるのもおかしな話だし……。

 

 「あれ? 雪乃ちゃん?」

 唐突に聞こえたその声は、凛とした響きで以って俺の思考を著しく妨げた。

 「……姉さん」

 背中越しに聞こえた雪ノ下さんの声は、少し震えている。

 声の主は人好きのする微笑を浮かべ、とてとてとこちらへ走ってきた。

 その顔を見た瞬間、俺は理解した。なるほど、あれはきっと雪ノ下陽乃だろう。

 以前、ゆか姉の言ったことに間違いはなかったなと、一人思う。

 

 俺はあれに、とてつもない嫌悪感を感じていた。

 

 自分が圧倒的な高みに立っていると思っているような堂々とした顔。全てが自分の思い通りに行くと思っている顔。

 彼女の顔は、つまりそういうもので、俺はそれにたまらなく腹が立った。

 ああゆか姉、あんたの言う通りだ。たった少し見ただけで、ここまで俺に殺意を抱かせるこの女はきっと、ものすごく有能であらゆる事で結果を出してきたのだろう。

 なんて、面白味のない人間なのだろうか。

 「あっれー? ダメだよ雪乃ちゃん! 男の子二人も侍らせてちゃ!」

 「ああいや、俺らはそういうんじゃなくて……」

 比企谷くんが否定の言葉を紡ごうとするが、彼女はその声を遮り、もう一度姦しく喋り始めた。

 「あ、自己紹介してなかったね。私は雪乃ちゃんの姉の、雪ノ下陽乃です。よろしくね?」

 「……どうも、比企谷です。こっちは……」

 そう言って比企谷くんがちらりとこちらを見る。

 「七里ヶ浜です。すみません、自分ちょっと用事あるんでこれで」

 出来る限り、雪ノ下陽乃と目を合わせないように、俺は俯いたままで一息に言い切った。

 「えー残念だなー。お話ししたかったのに」

 何やら言っているが、聞こえない振りを貫いた。

 「おい七里ヶ浜何逃げようとしてんだよ」

 「うるせぇ俺には用事があるんだよ」

 耳打ちする比企谷くんの脇腹を軽くはたき、俺は逃げるようにその場を後にしようとする。

 「七里ヶ浜くん、男の子なのにお化粧上手だね」

 「…………は?」

 背後から聞こえた声に、咄嗟に振り向く。

 「いやいや、いっつも見る顔と全然違うでしょ? あっちがすっぴんなの? それともこっち?」

 心臓が、止まるかと思った。まさかこいつが俺のことを知っているとは思わなかったのだ。少なくとも俺にはこいつと会った覚えなど一度もない。

 「いや、言ってることがよくわからないんですけど……」

 「え? 七里ヶ浜の七之助くんだよね? 結構ウチの後援会に来てくれてたはずなんだけど……」

 「……人違いですよ、きっと」

 嘘だ。

 後援会という言葉で、ようやく俺は理解した。なるほど、雪ノ下というのは、あの雪ノ下か。ならば俺を知っていることに何の不思議もないだろう。

 

 ああ、ますますこいつの事が嫌いになっていく。全てが俺の精神を、平衡を、在り方を、乱しているようだ。

 「まあ、そういうこともありますよね。それじゃ、さようなら」

 言って、俺は振り向かないようにじっと前を見つめながら歩を進めた。



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やはり俺は奴らが嫌いだ。

リハビリに短め。
みんなああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!すまん!!!こ!!!


 「で、逃げてきたの?」

 「人聞きの悪い言い方すんじゃねえ。戦略的撤退だ、撤退」

 塩っぽい笑みを顔に張り付けたゆか姉に適当に返答しながら、俺は瓶コーラを呷る。何時飲んでもコーラは美味しい。素晴らしいな、ホント。

 「ね? 気に食わない女でしょ? 雪ノ下って」

 「ああ。ありゃ無理だ。あれ以上同じ空間に居たら突発的にブン殴ってたかも」

 言いながら、雪ノ下陽乃の顔を思い返す。なるほど、相当なバイアスがかかっているらしく、物凄くムカつく顔しか思い浮かばない。俺らしくもないと一人自嘲しながら、ゆか姉を見やる。

 「きっと七之助の方が私より合わないと思ってたけど、まさかそこまでとはね」

 「まあな。ナナほどではないけど、嫌いだ」

 まあ、俺がナナを嫌う理由は、見た目だの性格だのの話じゃなくて、もっとガキっぽい理由ではあるのだが。

 「でもナナちゃんと違っておっぱいおっきかったでしょ?」

 「……そうだな。確かに良い乳してた。ゆか姉の5倍くらい」

 「あんたねぇ……」

 額に青筋を浮かべるゆか姉を尻目に、ピアノの上で毛繕いをしてる猫二匹の首根っこを掴んで膝の上に置いてから、俺は鍵盤に向かい合う。さて、今日は何を弾こうか。

 「そういえば猫ちゃんの名前考えた?」

 「黒いスコティッシュの方は……オスだしトノマチとかどうだ?」

 これは帰り道、脳裏にちらつく雪ノ下陽乃の顔を極力無視するために考えていた名前だ。自分で言うのもなんだが中々に良い名前だと思う。イケてるといってもいいだろう。

 「殿って……可愛くない……」

 「オスなんだから可愛くなくて良いだろ。かっけーじゃん、殿」

 「あんたのセンスの悪さには相変わらずびっくりするわ、ホントに」

 ……センス悪いのか、俺。地味にイケてると思ってたのに……いやめちゃめちゃイケてるだろ……。

 「じゃあブリティッシュの方はゆか姉が決めろよ。俺はトノマチって付けたし」

 「……ショウナン?」

 「…………ゆか姉、あんたの方がよっぽどだよ」

 メスなのにショウナンって……。

 俺はふうと一息ついて、不思議そうな顔でこちらを見上げる猫二匹改めトノマチとショウナンの頭を、適当に決めちまってごめんな、という意味を込めて乱暴にかき混ぜた。

 

 

 

 

 

 月曜日。この世の憂鬱を一言で表すならば、それはきっとこの言葉だろう。で、この世の祝福は日曜日。救済を感じる。なるほどサンデーじゃねえの。あ、水曜のサンデーの話でもアイスのサンデーの話でもないです。ついでに言うとそろそろサンデーがゲシュタルト崩壊してきた。

 まあ、そんな訳で月曜日だ。

 別に学校が嫌いなわけでもないので、俺は何時も通りにバー紫の冷蔵庫から瓶コーラを一本くすねて学校へと向かう。

 日曜日の晴天が嘘のように外は曇っていて、どうにも気分が乗らなかった。

 「早く明けねえかな、梅雨」

 「来週には明けるらしいぞ」

 振り返ると、そこには自転車から降りる比企谷くんがいた。

 珍しいことだ。比企谷くんは知り合いを見つけても、無視してさっさと学校へ向かうタイプだと思ってたけど、どんな心境の変化なのだろう。

 「そうなんだ。夏になったら男二人で海でも行こうぜ。ナンパしに」

 「一人で行けよ。夏休みは家で休むべきだ。休みなんだから」

 「そんなこと言ってるといつまで経っても童貞だぞ、比企谷くん」

 「てめえもだろうが」

 「………………えっ?」

 「…………えっ」

 「あ、ああうん、そうだそうだ、童貞だったわ。前世の記憶が蘇ってきて童貞じゃないみたいな錯覚しただけだわ」

 「なんで朝から妙なダメージ受けなきゃいけねえんだよ……クソ、話しかけるんじゃなかった……」

 気分を害したのか、そう言って比企谷くんは自転車のサドルへ腰を下ろした。

 「冗談だよ冗談! 折角なんだし、雑な談に花咲かせようぜ」

 比企谷くんの方を見やると、彼は胡乱げな顔をしながらも自転車をもう一度押し始めた。

 「そういえばさ」

 「なんだよ」

 「由比ヶ浜さんとなんかあったのか?」

 言って、比企谷くんを見ると、比企谷くんは出し抜けに撃たれたような顔でこちらを見ていた。

 「そんな驚くことじゃあないだろ。見てりゃ分かる」

 「……ちょっと、色々あってな」

 それっきり比企谷くんは口を噤んだ。

 「なんでもいいからとっとと終わらせてくれよな。これ以上ギスギスしはじめるんなら、俺はここで抜けさせてもらうぞ」

 「……平塚先生はどうするんだ?」

 「脅し? 先生は関係ないだろ。俺は楽しくないことに時間を費やすほど暇でもマゾでもないからな」

 そうだ。俺はこういう人間なんだ。

 薄情だと思われたかもしれない。でも、これが生まれもっての性分というやつなのだから仕方ない。

 「だから、これ以上あの箱の居心地、悪くしないでくれ」

 そう言って比企谷くんの目を覗き込むと、彼の目は相変わらず腐っていて少し笑えた。

 「まあ、善処はするが。ていうかお前昨日すぐ逃げやがって。あの後大変だったんだぞ」

 「あー、それに関してはもう全面的に俺が悪いわ。ごめんち」

 「いや良いけどよ……。何で急に逃げたんだ?」

 「あの人嫌い。超嫌い。どれくらい嫌いかっていうとゼロカロリーのコーラくらい嫌い」

 「……まあ、分からんでもないが。あと喩え下手すぎな」

 比企谷くんはそう言って俺の最上級の貶し言葉をバッサリと切って捨てた。そんなにダメか、この喩え。絶妙だと思うんだけど。

 「まあ、俺もあの人は苦手だけどな。誰だってあんな底の見えない人とは、そうそう付き合いたくないだろ」

 「……底が見えない、ねぇ」

 「なんだよ」

 「底が見えないってだけで、浅いか深いかは別問題だろ?」

 「へぇ、珍しくやけに辛辣じゃねーか。なんか思う所でもあるのか?」

 言って、こちらを覗き込む比企谷くんの視線を嫌って、俺は脇道のゴミ箱に焦点を合わせる。

 「別に。ああいう訳知り顔が苦手ってだけだ」

 これは嘘じゃなかった。俺はああいう、つまらない顔をしていた人間を、少なくとも一人知っている。

 「訳知り顔ねぇ。あの雪ノ下雪乃に『あらゆる面で自分を凌ぐ』なんて言わしめる人なんだ。そうなっても仕方ないんじゃねえの?」

 比企谷くんの言葉に、自分でも分かるほどに表情が酷く歪んだ。

 「つまり、何でも出来ると?」

 「まあ、有り体に言えばそうだな」

 「くっだらねぇ」

 吐き捨てて、俺は水色のゴミ箱を睨みつける。

 「なんでも出来る、なんて思い上がりだ。増上慢も甚だしい」

 そう言って俺は、たまたま足元にあった石を思いっきり蹴り付けた。

 そんな奴、居て良い訳がない。この世界は、一人で成り立つものではないのだから。

 確かに、才能というのは全ての人に平等に与えられている訳じゃない。それでも、人が人であるためには、その人にしか出来ない事が存在しなければならない筈だ。

 もし本当に、『何でも出来る』奴がいるとするならば、そいつはきっと、永遠に何者にもなれないだろう。

 

 

 そんな奴を規定出来る『型』を、俺たちは持っていないのだから。

 

 



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相変わらず七里ヶ浜七海は鬱陶しい

 始まりから憂鬱だった一日も、残すは放課の部活動だけど相成った。

 相変わらず奉仕部の雰囲気は中々にエキサイティングかつエキセントリックにギスギスしている訳だが、それについて考えるのはもうやめた。というか、俺が考えたところでどうにかなるもんでもないということに気付いた。

 そんな訳で俺は、部室にて一人妄想を膨らましていたのだった。

 「…………七里ヶ浜くん、さっきから一体何をブツブツと呟いているのかしら。はっきり言って、気持ち悪いを通り越して気味が悪いわ」

 「え、ああ。もし学校に来る途中の曲がり角で、パンを咥えた女の子と激突した場合、どんな対応をすればその女の子とステディな仲になれるのかシミュレーションしてて」

 「大体分かったから結構よ。二度とその口を開かないでくれるとありがたいのだけれど」

 驚く程に冷たかった。流石、アナと雪乃女王。あ、もしかしてこれ、ライン越えか?

 一人ディスティニーランドにケンカを売ってないか不安になりつつ、俺は特等席である積み木机から飛び降りる。

 「身軽になったせいで躍動感がまるでねえな……やっぱ男に大切なのは重量感ってことか」

 「いや違うだろ。もっとあんだろ色々と」

 文庫本を読む手を止め、比企谷くんが胡乱気な瞳をこちらに向けた。彼がこういった俺の軽口に反応するのは珍しい。

 「へぇ。例えば?」

 「…………甲斐性とか?」

 「貴方に一番欠けているもの……いえ、ごめんなさい。貴方が持っているものなんて、その腐った目だけだったわね」

 「いやちょっと待て、どうしてちょっとツッコミ入れただけで俺の存在全否定されてるんだよ……」

 相変わらず舌鋒鋭い雪ノ下さんではあったが、その顔はいつものように嗜虐心を満たせて満足、といった風ではなかった。

 彼女もやはり、由比ヶ浜さんが来ない事で多少なりとも思うところはあるのだろう。多少で済むかどうかまでは知らないが。

 思えば比企谷くんが反応した所から、俺たちの『いつも通り』では無かったのだろう。

 「…………ふぅ」

 俺は一つ息を吐いて、部室のドアへと向かう。

 「何処へ、行くのかしら」

 「えらく弱気だな、雪ノ下さん。なんかあったの?」

 「それは…………いえ、何でもないわ。何処へなりと行って頂戴」

 「はいよー」

 言い残し、俺は部室を後にする。

 単純にタバコを吸いに行こうかなと思って部室を出ただけで、思うところがあって意地の悪い言い方をした訳じゃないのだが、後から考えるとちょっと雪ノ下さんをイジメ過ぎたのかもしれない。戻ったらちょっと茶化してお茶を濁そう。

 そんな事をぼーっと考えながら、俺の足は半ば機械的にベストプレイスである非常用階段へと向かう。

 特別棟から出た所で由比ヶ浜さんとすれ違ったが、何やら思いつめた様子だったので軽く手を振って挨拶をするだけに留めておいた。

 

 ああ、面倒くさい。一体俺は何に気を遣ってるんだ? 俺はいつからこんな間の抜けた茶番にまでマトモに付き合うお人好しになったんだ?

 頭の中で昔の自分、きっと小学生くらいの頃の俺が声を荒げる。

 うるせぇ。これが今の俺のやり方だ。

 こんなのとっとと解決すりゃ良い。お前が出張ればすぐにでもこの不和は収まるだろう。

 次は中学生の頃の自分が非難がましい目で俺を見る。

 それじゃ意味がねえだろが。あと妄想の分際でこっち見んな。

 今の俺のやり方はこれなんだ。変えるにしろ変わるにしろ、今はまだ、これが良いんだ。

 そこそこ居心地の良い空間があって、そこそこ気心の知れた奴らが居て、そこそこ満足できる程度には楽しい。それで良いだろう。

 過ぎたるは及ばざるが如しと言うが、まあそんな感じだ。

 今は確かにギスギスしているが、きっとこれは一過性のものだ。すぐに元に戻る。

 ここで全てを投げ出して今まで通りの退屈な生活に戻るくらいなら、暫くの間傍観してる方がまだマシだ。

 タバコの灰が風に舞い、俺は現実に戻る。えらく長い時間妄想の海を泳いでいたようだ。

 殆どが自然燃焼したタバコの火を惜しみながら消して、俺は一つ伸びをしてから立ち上がる。背伸びをすると屋上の給水塔が見えたが、川崎さんはどうやら居ないようだった。ま、放課後だしな。

 さて、現実逃避は止めにして、そろそろ部室に戻りますかね。

 

 

 

 部室に戻るとナナがいた。

 「それでお兄ちゃん、なんて言ったと思います? 『俺はお前と違って常識弁えてるから』ですよ? どの口がって思いません?」

 「確かに、あいつが常識弁えてたら俺なんかもう歩くルールブックだな」

 「何を言っているのかしら非常識谷くん。私はあなたが日曜の朝に何をしているか、七海さんに言ってもいいのよ」

 「いやなんで俺脅されてんの? プリキュア観てることくらい、別に言われても構わねーし非常識でもなんでもねえだろ」

 「比企谷さんプリキュア観てるんですか!? 因みに一番好きなのは!?」

 「ちょっと待て」

 余りにもナチュラルに会話してるもんだからいつ割り込めば良いか分からなかったが、流石に我慢の限界だった。何で居るんだよこいつ。

 「あら七里ヶ浜くん、戻ってたのね」

 「あ、お兄ちゃんだ。おかえりー」

 「おかえりじゃねえよぶっ飛ばすぞこの野郎」

 後半は某芸人兼映画監督の真似をしながら凄んでみる。俺はどんな状況でもユーモラスな人間なのだ。

 「……相変わらず変態的な声帯模写だな。何年修行したんだよ」

 「千年」

 呆れた様子の比企谷くんに、サムズアップを決めながら簡素に言うと、彼は更に呆れた顔をしながら首を振った。

 「お前には碁打ちの持ち霊でもいんのか」

 「ああ。神の一手を極めるのが俺たちの目標だ。因みに碁石にオーバーソウルも出来るぞ」

 「いや漫画変わってるし」

 やれやれと言わんばかりのツッコミを受け流してから、俺はナナの方へ向き直ってこれでもかという程の怨念の籠もった眼差しを向けた。

 「何しに来た」

 言うと、ナナはにへらと笑ってこちらへ駆け寄ってきた。重ねて何しに来たって感じだ。死ね。

 「あのねお兄ちゃん。私今度文化祭の実行委員する事になってるんだけど、手伝って欲しいなと思って予約しに来たの」

 「は? 文化祭? 一人でやれよ。大体、そんな依頼受けてたら、俺たちは学校でイベントがある度駆り出せる、とんでもなく都合の良い便利屋になっちまうだろうが」

 勘弁してくれ。俺は文化祭を楽しむ準備はしても、楽しい文化祭の準備をする気はさらさらないぞ。

 「七里ヶ浜くん、貴方の意見ははっきり言ってどうでも良いの。私はこの依頼、受けるつもりよ」

 なんでやねん。なんでこの人こんなノリノリなん?

 思わず関西弁でツッコミを入れながら、やたらとにこやかな笑顔を浮かべる雪ノ下さんを見やると、彼女は無い胸を張って、ふふんと笑った。それにしても見事な直線だ。定規の代わりになるぞ、ありゃ。

 「いや、何でだよ。そもそもこの部活、予約とか受け付けてるの?」

 俺が純粋な疑問をぶつけると、雪ノ下さんはまるでとんでもないアホを見るような目でこちらを見た。

 「私はね、奉仕部も部活である以上、文化祭には積極的に参加する義務があると思うの。出し物をする予算上の余裕が無い以上、裏方としてでも文化祭には参加すべきだわ」

 割と真っ当な理由で攻めてこられた。何も言えねえ。水泳で世界を獲った時みたいな気分だ。知らんけど。

 「え、この部活予算とか出てんの? 金の無駄じゃね?」

 「ええ、比企谷くんの人生に比べれば、とても有意義な使い方をさせて貰っているわ」

 「アナタホントに僕の事イジメるの好きですね……。ていうかまさかこの紅茶って……」

 「それは私の私物よ」

 「ならこれからも遠慮せず飲ませてもらおう」

 ほぼノータイムで畜生じみた発言をかました比企谷くんと、「ありがとうございますゆきの先輩ー!」などと人好きのする笑顔を浮かべながらほざくナナを横目に、俺はひたすらに考えていた。

 

 どうすれば、このカオス空間を抜け出すことが出来るのだろうか、と。



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