【依存】から始まるヒーローアカデミア (さかなのねごと)
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プロローグ
00.少女は、


 

 

 少女はたいして優秀ではなかった。

 座学は好きな方ではなかったし、飲み込みもそう早くはない。要領もまた、悪くはないけど良くもなかった。

 

 少女はたいして勇敢ではなかった。

 人並みに虫や幽霊が苦手で、一人でなかなか眠れなかった。痛いのも苦しいのも嫌で、怪我をするのが怖かった。

 

 少女は臆病だった。

 ひどく人見知りで、誰かに心を許すことが難しかった。嫌われるのが怖くて、言葉を飲み込んでしまうことが多々あった。

 

 少女は卑怯だった。

 自分を守るために何度も嘘をついた。誰からも攻撃されないように、“イイコ”のふりをした。

 

 少女は弱かった。

 身体は勿論、心までもが弱かった。弱さを見せまいと虚勢を張るばかりで、ますますもって心の芯が柔かった。

 

 

 少女は、

 そんな自分を好きにはなれなかったけれど、

 

 “それでもいい”と、“大丈夫だ”と、──“救ける”と、

 そう言ってくれた人がいた。

 

 

「──ホークス!」

 

 

 “ウイングヒーロー ホークス”。21歳になったばかりだというのに、早くもヒーロービルボードチャートトップ3入りを果たした彼は、にっと笑って声の方を振り返った。その藤黄色の目に、小走りで近付いてくる少女の姿が映る。

 

「お、久しぶり。ちょっと見ない間に大きくなった?」

 

 白い髪が肩口でふわりと揺れる。それに合わせて背中の白い羽根もゆったりとはためいた。色白の肌も相まって“白”の印象が強い中、空のような青い瞳が映えている。華奢で儚げな容姿とは裏腹に、少女はホークスのからかいにむっと口を尖らせた。

 

「そんなに変わんないでしょう、茶化さないで。……今日はこっちでのお仕事だったの?」

「まーね。出張ついでにたまたまフラッと寄っただけ」

 

 飄々とした言動から繰り出される言葉は、真実のみとは限らない。それでも今の彼から嘘は感じられなかったので、そう、と頷いて、少女はまたホークスを見上げる。

 

「また全国を飛び回ってるって聞いたよ。ちゃんとご飯食べてる? 寝てる?」

「お母ちゃん……!」

「こんな息子持った覚えはありません! ……まったく、もう、」

 

 こうして煙に巻かれるのもいつものことで、不貞腐れたように視線をそらす。そんな少女の、年相応に幼い仕草に、ホークスはおかしそうに目を細めた。柔らかくなった表情で、ぽん、と大きな手でわしゃわしゃと白い髪をかき混ぜる。

 

「そんな拗ねんでって」

「すっ、拗ねてないし……もう! 髪ぐしゃぐしゃにしないで!」

「はっはっは」

 

 手を振り切り距離を取って、むっと睨み上げた少女を、面白そうに細められた目が迎える。へらへらと笑って、ホークスは廊下の隅に置かれたソファに向かった。

 

「久々会ったんだし、そこでお茶でもどーですか、お嬢サン?」

 

 ふわり、体が浮く。気づいた時にはもう既に、少女の体はホークスの赤い羽根によってソファに運ばれていた。彼女を座らせた後、その羽根たちはホークスの背に戻ってゆく。

 

「……どうですかって、聞く前に移動させてるじゃない」

「ハイハイっと。ホラ、これ好きでしょ?」

 

 ぽいっと投げ渡されたのはコンポタだった。今は3月の終わりに差し掛かっていて、春の陽気も麗らかな暖かい日。それでも手の中にある馴染み深いパッケージも、あたたかさも、……思い出も、

 

「……うん、好き」

 

 少女にとっては大切で大好きなものだったから、カシュ、とプルタブを開けて、中身に口をつける。ほうと緩めた口許が笑みの形になっていく。それを横目で見て、にっとホークスが笑った。

 

「俺が渡しといてなんだけど、それホント好きだねぇ」

「いいでしょ。ホークスだって、その甘いコーヒーばっかりじゃない」

「甘いのがいーの」

 

 こくこく、とそれぞれの好きな飲み物をただ並んで飲んでいる。たったそれだけだけど、少女にとっては何より大切な時間だ。大好きな、時間。ホークスが大人気ヒーローとして多忙になってからは、より貴重になった、ふたりだけの時間。

 

「っと、」

「救助要請?」

「そ。おちおちコーヒーも飲んでらんない」

「……大変だね」

 

 残ったコーヒーを一気に流し込んで、さっとゴミ箱に投げ入れる僅かな合間に、ホークスはその翼を広げていた。非常階段に続くドアを開け放つ。外は夕焼けの光に満ちていて、ホークスの赤い剛翼を眩しく輝かせた。

 

「それじゃ、行ってくるね」

「うん、──」

 

 辺りに誰もいないことを確かめて、少女は非常階段の踊り場に走った。ホークスが今にも飛び立ちそうな元に駆け寄って、小声で呼び掛ける。

 

「──啓悟くん、気をつけて、ね」

 

 それは、幼い時に彼が捨てた名前。幼い少女がぐずるのを止めようと、彼があやすように教えてくれた名前。ふたりだけの、ひみつのなまえ。

 

「……ありがと。愛依(あい)、おまえもね」

 

 少女の“愛依”という名前だって、もう今となっては誰も──ホークス以外は誰も呼ばない名前だ。

 彼はふっと優しく囁くように言って、翼のはためきと共に彼方へ飛び去った。彼はその翼で、あらゆる人のサインを聞き取って、あらゆる人の元へ駆け付けて、あらゆる人の命と心を救う。いつか、少女にそうしてくれたように。

 

「……すごい、なあ……」

 

 この人みたいになりたい。

 この人の力になりたい。

 この人を、救けたい。

 

 あの日の想いは原点として、今も少女の中で光っている。太陽のように、月のように、星のように。標となって輝いている。まだとてつもなく遠い距離だけれど、それでも追いかけるのをやめられない。ずっと、ずっと、少女は彼を目指し続けている。

 

「……よし、」

 

 そろそろ訓練の時間だ、戻らなければと踵を返す。かつてホークスも受けたという、“特別なヒーローになるためのプログラム”。……優秀で勇敢で、堂々としていて賢くて強い、彼のようにはいかないけれど、と口許に自嘲の笑みがこぼれる。

 だって少女は優秀ではないし、勇敢でもない。臆病で卑怯で弱い、──ヒーローとは程遠い人間だと自覚している。

 

 それでも頑張って、頑張り続けて、いつか、

 

 

「あのひとみたいな、ヒーローに」

 

 

 憧れに照らされた決意が瞳に灯る。

 これはとある少女が、大切な人を救けるまでの物語。

 

 

 

00.少女は、

 

 


 

 プロローグのようなもの。

 主人公は緑谷たちと同い年なのでホークスとは7歳差です。女の子が年上の仲のいい男の子のことを「くん」付けで呼ぶのが大好きです。

 



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番外編
XX.何時かのクリスマス


 

 それは、わたしがまだ5歳だった頃。

 ホークスによって公安に引き取られてから、約1年が経とうとしていた、そんな日の出来事。

 

「そういえば、今年のケーキは何がいいですか?」

 

 公安での訓練の後、息を切らしてへたり込むわたしにタオルを手渡しながら、目良さんはそう尋ねた。唐突な質問に、わたしはきょとんと目を丸くする。

 

「……ケー、キ?」

「ええ」

「……えっと、何の……?」

「……え?」

「……え?」

 

 互いに首を傾げ合って、頭上にハテナを飛ばし合ってしばらく。奇妙な沈黙を破ったのは傍で聞いていたホークスだった。彼は訓練の疲労なんて感じさせない笑顔で、にんまり笑う。

 

「クリスマスケーキのことだよ。もうすぐ24日だしね」

 

 そう言われて、やっと幼いわたしは納得した。この公安に引き取られてからというもの、ビルの外を出歩くことは無かったから、季節感というものを失念していたのだ。

 そうか。そういえば、クリスマスか。

 そんな風に思い出して、わたしは、……胸元をぎゅっと握った。

 

「ていうか目良さん、俺らにケーキなんていいんですか? 去年も怒られてましたよね?」

「怒られるっていっても形式的なもんです。会長も何だかんだ言って目を瞑っていますし」

「……甘いなァ」

「ケーキだけにね」

「いやそういうことじゃなくてですね」

 

 ホークスと目良さん。2人の間にそんな会話がなされていたことに、わたしは気付けずにいた。

 気付く余裕なんて、無かった。

 

「……わ、たし、……」

 

 握り締めた手が震える。かたかた、と、震える。

 揺らぐ視界の端に、あの日を垣間見た。

 

 

 

『おまえがいるから、おまえの“個性”がそんなだから……っ』

 

 ずっと楽しみにしていた誕生日。きらきら輝くケーキにご馳走。にこにこ笑うあの人たちの笑顔──それら全てが、ぐちゃぐちゃになった日。

 

『わたし……いないほうが、よかった、なぁ……っ』

 

 あの独りきりのベランダで、白い息と共に吐き出した泣き声。たった1枚のガラス戸を隔てて、あの人たちとわたしが、永遠に別たれてしまった瞬間。

 

 覚えている。忘れない。

 今もまだ、こんなにも、鮮明に脳裏に甦る。

 

 煌めくクリスマスは、

 甘いケーキの匂いは、

 ──どうしようもなく、あの日を思い出してしま……、

 

 

 

「──愛依(あい)

 

 ふと、名前を呼ばれる。それでわたしが我に返った時には、ホークスがわたしの前に片膝をついて、視線を合わせていた。藤黄色の目が、優しく細められている。

 

「またおまえ、ヤなこと思い出してたんでしょ」

「……、……なんで、わかるの……?」

「だっておまえわかりやすいもん。顔に出過ぎ」

「う……」

 

 ホークスは笑う。からりと、何でもないことのように。

 ホークスは微笑む。ふわりと、慈しむように。

 

 

「……俺と初めて会った日も、クリスマスだったでしょ」

 

 

 だから、嫌な記憶ばかりじゃないでしょ、と。

 そう、少し照れたような、小さな声で付け足されて、わたしは息を飲んだ。数瞬遅れて──ぶわわ、と熱くなる。

 

「! ……ハハ、顔真っ赤」

 

 頬が熱い。胸の奥が、熱い。ホークスにからかわれて悔しいのもあるけれど、それよりずっとずっと、ずっと、……嬉しいって心が叫んでる。

 

「……っあ、あなたのせいだもん……」

「アララ。照れちゃって、まァ」

「う”~~~」

「頬っぺた隠さなくていいのに」

 

「……そんなこと言う君だって照れてるくせにね」

「目良さん」

 

 顔を見られまいと両手で頬を覆って唸るわたし。俯くわたしの頭を、ぽんぽんと笑いながら叩くホークス。そんな彼を横目にぽそっと呟いて、肩を竦めて笑う目良さん。

 ビルの片隅。小さな部屋の中の、何でもないようなやり取り。人によっては取るに足らない雑談なのかもしれない。

 

 それでも確かに、あたたかく、わたしの記憶を塗り替えた。

 

 

 

 

 

 

「……そんな話もしましたね」

「「はい」」

「……そう、それに満足して、肝心のケーキをどうするか相談できてなかったんですよね。ケーキ屋に行ってようやく思い出しました、……すみません」

「め、目良さんがあやまることじゃ、ないです」

「そうですよ。年末は公安だって繁忙期でしょ」

「はんぼーき?」

「“忙し過ぎる”ってこと」

「! そう、そうです、目良さんちゃんとねるひまもなかったんですから、あやまっちゃだめです!」

「君たちは本当に聞き分けの良すぎる子たちですねぇ。

 ……で、まァ、そういったワケで、ご覧の通りです」

 

 そんな前置きと共に、目良さんがケーキの箱を開けた。現れたその目(・・・)が凄まじい眼光を以て、わたしを射る。

 

「「…………」」

 

 均一に美しくナッペされた生クリームが眩しい、5号のホールケーキ。その頂上に鎮座(?)しているのは、ケーキのファンシーさとは真逆といっていい、厳ついお顔だった。

 何とも言い難い沈黙を、ホークスの絶叫が破る。

 

「……いや何でエンデヴァーのキャラデコケーキと!?」

 

 思わず方言が出ているホークスの隣で、わたしはしげしげとそのケーキを見下ろした。

 フレイムヒーロー・エンデヴァー。数多いる日本のプロヒーローの中で、長年No.2に君臨し続けるヒーローだ。彼はあまりファンサしない、そんな硬派な態度がむしろイイと評判のヒーローだからか、デコレーションされたその顔も至極真面目な表情をしていた。……微笑みの欠片もない、甘さを微塵も感じさせないその佇まいは、ケーキの上に在って何とも言えない空気を醸し出している。言ってしまえばシュールである。

 

「もうちょっと何か、何か……! 可愛い感じのイチゴのケーキとかあったでしょ!」

「でも君は好きじゃないですか」

「ぅぐ、いや、ウン、そうなんですけど……!」

 

 うぐぐ、と珍しく唸っているホークスは、わたしと目が合うと気まずげに眉を寄せた。への字に結ばれた口許が、躊躇いがちに、ゆっくりと開かれる。

 

「……愛依にとっては、仕切り直しというか、楽しんでほしいというか……だから俺の好みじゃなくて、この子の好きそうなのがよかったっていうか……」

 

 いつも余裕そうな飄々とした口振りで、わたしをからかうことも多かった。そんなホークスの移ろう視線に、言い淀む声に、わたしはいつの間にか笑っていた。口許が、ほころぶ。

 

(……ああ、ほんとうに、ほんとうに、……)

 

 わたしのことを考えてくれたんだなって、わかって、

 胸がぎゅうっとなるくらい、嬉しくて。

 

「ね、ね、」

「、ん?」

「あのね、わたし、うれしいよ」

 

 くんっ、と袖を引っ張って、視線を合わせて、笑う。

 

「あなたがすきなの、うれしいの、わたしもだいすき!」

 

 ホークスはきょとんと目を瞬かせた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、ぱちぱちと瞬き。そうしてゆっくりと、眩しそうに目を細めた。

 

「……っとに、おまえ、……馬鹿だなぁ」

 

 馬鹿って言わなくてもいいのに、とむくれるわたしを宥めるように、ホークスは頭を撫でてくれた。その優しい手付きが髪を梳いていく。じんわりと伝わる熱が、胸の奥まであたためていく。

 あたたかい。ちっとも寒くなんてない。

 あたたかい人たちと一緒にいられる幸せを、ちゃんとわたしは知っている。

 

「……さて、よい話が出来たということで、」

 

 静かにわたしたちの話を聞いていた目良さんが、すっと右手を掲げた。いつの間にかその手にケーキナイフが握られている。

 

「さっそくケーキを切り分けましょうか」

「えっこの流れで??」

「……エンデヴァーさんのおかお、きっちゃう、ですか?」

「大丈夫です。彼もきっと本望ですよ」

「ほんも……?」

「“僕の顔をお食べ”ってことです」

「それ絶対違うやつでしょ目良さん」

 

 やいのやいの言いながら頭を突き合わせて、ケーキナイフの行方を見守る。何とも言い難い表情のわたしたちとは裏腹に、目良さんは何の躊躇いもなく、「無難に4等分にしましょうか」とエンデヴァーさんの眉間に切っ先を入れた。そのまま真っ二つである。

 

「ヒエ……」

「よっと。はい、右目と左目の部分は君たちにあげます」

「目良さんのデリカシーはどこに出張してるんですかね」

「……お目目、きらきらしてきれい」

「……おまえはおまえで案外割りきりがいいね」

 

 苦笑するホークスがケーキを口に運ぶのを見て、わたしもフォークに手を伸ばした。ふわふわのスポンジと、生クリームと、エンデヴァーさんの輪郭を描いたチョコペンと、彼を彩るカラーゼリー。炎の部分はオレンジゼリーで、肌色や青い目の部分は林檎や桃のゼリーに着色料を混ぜたのだろう、甘酸っぱいフルーツの味が口の中で弾けた。

 

「! おいひい!」

「よかった。喜んでもらえて何よりです」

「目良さんも、どうぞたべてください!」

「はい、……うん、エンデヴァーさんこんな顔して意外とフルーティーですね」

「おいしい?」

「ええ、とっても」

「! えへへ、」

 

 いつも寝不足で草臥れたような目良さんの頬が、もごもご動いて、柔らかに微笑んでいる。それが嬉しくってわたしはえへえへと笑った。

 美味しくて、あったかくて、嬉しくて。

 

「愛依、」

 

 そうして、笑って名前を呼んでくれるあなたがいる。

 

「メリークリスマス、愛依」

「……っうん、うん……っメリークリスマス……!」

 

 この聖夜を以て、わたしは、あの雪の日を越えたのだ。

 今も、今でも覚えている。

 きっとこの先、どんなことがあっても忘れはしない。

 

 

 

 

 

 

 

「……そんな話も、しましたね」

「はい」

 

 懐かしいなあ、と微笑みながらわたしは頷く。あの日の記憶は幸せを呼び起こしてくれる。思い出すだけで、あたたかさが胸を満たす。

 

「……だから、目良さん。あなたがそんな顔をする必要はないんですよ」

 

 カタカタとキーボードを叩く指を止めて、ディスプレイから顔を上げて、わたしは目良さんに微笑んだ。彼は、何とも言い難い表情をしている。ぼんやりとしたポーカーフェイスに、ほんのりと渋さを混ぜ込んで、目良さんはわたしを見つめ返す。

 

「こんな日くらい、雄英に戻ったらどうなんです。あちらではクリスマスパーティーをしてるんでしょう?」

「さっきビデオ通話したから大丈夫です。みんなにいっぱい元気もらえたから、まだまだ頑張れちゃいます」

「……ですが、」

「今は、」

 

 がらんとした部屋の中だからか、嫌に声が大きく響いた。

 

 

「今は、頑張らなきゃいけない時期です。……そうでしょう?」

 

 ──わたしたちには、日本には、時間がないのだから。

 

 

「……だから、謝っちゃだめですからね。目良さん」

 

 ね、と念押しすると、目良さんは苦しげに目を伏せた。

 ……そんな顔しなくていいのにな。しないでほしいな。

 だってこの状況を望んで選択したのは、わたし。

 目良さんはそれに協力してくれたのだから。

 

「……君は相変わらず、しょうがない子ですねぇ」

 

 目良さんはやっと、笑ってくれた。仕方ないなあと言いたげだけれど、柔らかなその表情に、わたしもほっとして笑う。

 

「ふふ、だってわたしたち、共犯者でしょう?」

「ええ、……悪どい悪巧み中のね」

 

 くすくすと小さな笑い声が、夜に溶けていく。

 本当は、こんな風に笑って口にできる話ではない。わたしたちが目指すのは途方もなく遠い地点にあって、それこそ一生叶うことなく、半ばで潰えてしまうことなのかもしれない。

 ……でもこうして笑っているのは、信じているからだ。

 どんなことがあっても、どんな目に遭っても──決して諦めることなく一緒に戦って、そうして望む場所に辿り着くと、信じているから。

 

 

「──オイ、何ニヤニヤしてんだおまえら」

 

 

 そんな時、ドアが開かれた。やや乱暴な開閉音の理由は、現れた人物の手がトレイで塞がっていて、足で開けたからなのだとわかった。彼女はわたしたちがいるローテーブルにトレイを下ろし、それぞれにマグカップを差し出した。

 

「ありがとうございます。頂きます」

「ん」

「ありが……えっ、わたしもコーヒーが、」

「文句言うな」

 

 目良さんはコーヒーを受け取っているのに、と思わず口を出したわたしの額をぴんと指で弾いて、彼女はわたしから視線を逸らす。

 

「……ガキはミルクでも飲んで早く寝ろ」

 

 そっぽを向いて、素っ気ない口調で、そんな労りを口にする。彼女のそんなぶっきらぼうな優しさが嬉しくて、わたしは頬を緩めてマグカップに口をつけた。

 

「あちち、」

「火傷すんなよ」

「はあい、……ふふ、甘くておいしい」

 

 ホットミルクがふわりと甘い匂いを漂わせる。マグカップを両手で持ちながら、ふわり浮き立つ湯気をふーっと吹き飛ばしてみた。白く滲む視界に、あの日を思い出す。

 

(あの日も、たっぷりの砂糖と蜂蜜を入れたっけ)

 

 ……ふいに会いたくなってしまった気持ちを飲み込んで、わたしは彼女に笑いかける。

 

「ありがとうございます」

「敬語」

「あ、」

 

 うっかりしてた、とわたしは苦笑を溢す。彼女はわたしより年上だというのに、わたしに敬語を許さない。それは上下関係(・・・・)を徹底させるためだと彼女は言ったけれど、照れ屋な彼女なりの親しみの証だったらいいなあなんて、そんな能天気なことをわたしは思った。

 

「……ごめんなさい、ナガン」

 

 

 

 

 それから、「とっとと寝ろ」とナガンにリビングから追い出されて、わたしは寝室として宛がわれた部屋で横になっていた。複数あるセーフハウスのひとつであるから、調度品は必要最低限のものしかない。がらんと広く、どこか寂しい、ひとりの部屋。12月の夜は酷く寒くて、ひんやりとした空気から遠ざかるべく、毛布を引き寄せて丸まった。

 そうしてぽつりと、口から溢れる。

 

「……ホークス、」

 

 呼ぶ声に、返る声は無い。

 それでもいつか、笑って名前を呼べるように。

 

「頑張るよ、わたし。……頑張るからね」

 

 祈るように、誓うように呟いて、わたしは目を閉じた。

 

 

XX.何時かのクリスマス。

 

 


 

 何時かの、過去と未来のクリスマス。



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XX.名前のない君たちへ。

 
 クリスマスに引き続きホークス誕生日お祝い短編です。
 目良さん視点となります。
 


 

『啓悟くん。この名前とは今日限りでさよならだ』

 

 そう告げられても、“啓悟”だった少年は静かだった。

 まるで本物の鳥類のように、空高くから世の全てを俯瞰したような目つきで、大人たちをまっすぐ見つめていた。まるで、遠くにある目的地だけを見つめて──それ以外の全てを削ぎ落としたような、そんな眼差しだと、僕は思ったのだ。

 

 

 

「──、」

 

 薄暗い情景から瞬きひとつ、意識が現在地に戻ってくる。必要最低限の調度品しかなく、装飾品や嗜好品も飾られていない、殺風景な部屋。白を基調としたその部屋がほんの少し華やいで見えるのは、パーティの余韻がそうさせているのだろうか。

 

「ありゃりゃ、船漕いでる」

 

 ぼうっとした意識の隅から、そんな声が聞こえた。ぱちりと瞬きをして視界をクリアにする。ソファーの端に座った少女。その頭がうつらうつらと揺れている。その前に屈み込んでいる少年が、夜更かしさせ過ぎたかなァ、と苦笑していた。

 

「ホラ、ここで寝ない。歯磨きまだでしょ」

「ん、うううう……」

「唸らんの」

 

 ぽすぽすと肩を揺すられても、少女の白い睫毛が震えるだけで、青い目は一向にお目見えしない。てこでも起きてやらないぞ、と言わんばかりの幼い我が儘は、この少女にしては珍しかった。いつもしっかりしなければと気を張って、我が儘はいけないと口をつぐんでしまうものだから。

 その少女の頑なな性分を、少年もわかっている。だから彼は、仕方ないなあと言いたげで、けれど柔らかく微笑んでいた。嬉しさが隠しきれていない。

 

「目良さん、俺、この子を部屋に戻しますね。片付けは寝かしつけた後に、」

「いいですよ、片付けくらい僕がやります」

「え、でも」

「その子の傍にいてあげてください」

 

 少年の腕に抱えられた“その子”は、むにゅむにゅ、と口をふやけさせながら眠っていた。そのマシュマロみたいな頬が緩むのを見て、少年は微かに、ふ、と笑う。

 

「……なんか食べとるみたい」

「あれだけケーキを食べたのに。食いしん坊ですねぇ」

 

 この公安に保護されてから、初めてのクリスマスだったからか、幼い頃のトラウマを塗り替えることができたからか──少女はいつもの控えめな態度を引っ込めて、白い頬を染めてはしゃいでいた。年相応に声を弾ませる様は、……彼女がまだ5歳にもなっていない子どもだということを、僕に思い出させた。

 

「幸せそうだ」

「はい。……よかった」

 

 少女がまだ4歳の子どもだとしたら、目の前の少年はまだたったの11歳の子どもである。それなのに彼は、何とも言えない表情で笑って、目を伏せた。その横顔があまりに大人びていたから、僕は何かがぐっと胸に詰まる。それをそのまま口に出した。

 

「3日後にはあなたの誕生日ですね。何が欲しいですか?」

「要りませんよ」

 

 一瞬、時が止まったかのように空気が凍りついた。そう感じていたのは僕だけのようで、少年は何でもないことのようにつらつらと話し始める。

 

「だって目良さん、さっきは大丈夫って言ってましたけど、本当はこのクリスマスパーティだって無理してますよね」

 

 何でもないことのように。つらつらと。澱みなく。

 

「ケーキの代金とか、経費ではもちろん落とせないし、それ以外にも……同僚の人たちに色々言われてるでしょ」

「……まったく、耳がいいですね」

 

 さらりと宣う彼に、下手な誤魔化しは効かないとわかっている。だから僕は肩を竦めた。やれやれと首を振ってもなお、彼の赤い羽根は視界を鮮明に染め上げる。

 少年から名前を奪う代わりに、【剛翼】と名付けられた、大層お強いその翼は。きっと聞こえなくてもいい声を、たくさん聞き続けてきたのだろう。

 

「クリスマスならまだしも、個人の誕生日なんて祝っちゃ駄目です」

 

 それなのに、こちらを見据える鷹の目は澄んでいる。

 もっと怒ってもいいはずだし、何だったら恨んでもいいはずだ。それぐらいの仕打ちをされてきただろうに、彼の瞳はいつだって静かだ。“目的のためならこのぐらい何ともない”と、そう、思えるようになってしまった。

 

「それに、ホラ。世間一般的にクリスマス近い誕生日の子どもは、クリスマスと一緒くたに祝われるっていうじゃないですか。それと同じですよ」

 

 ──けれど君は、きっと、一緒くたに祝われたこともなかったでしょう。

 そう真正面に尋ねることは憚られた。その代わりにひとつ溜め息。

 

「……無欲な子どもですねぇ、君は」

「そんなことないでしょ」

 

 彼は笑いながら視線を落とした。腕の中の少女に目を留め、ゆっくりと目を細める。それは微笑みでもあり、眩しすぎるものを前にした仕草でもあり、辛いことを飲み込む仕草にも似ていた。

 

「俺はもう、充分貰いすぎてます」

 

 そうして彼が少女を連れて退出していった部屋の中、僕はケーキを食べ終えた皿やフォークを重ねがら、考えを巡らせていた。

 “個人の誕生日なんて祝っちゃ駄目”──なるほど確かに、上層部はいい顔をしないだろう。聖人の記念日を不特定多数で祝するクリスマスとは違って、誕生日ともなれば、その個人にケーキだのプレゼントだのを用意する必要がある。それで足がつくかもしれない。考えすぎかもしれないが否定もできない。エンデヴァーのクリスマスケーキを注文したケーキ屋に、今度またホールケーキを注文したらどうなるだろうか。「お誕生日用ですか?蝋燭をお付けしましょうか?ネームプレートには何とお書きしましょうか?」──そこで僕は誕生日用ではないと言うだろうし、蝋燭も辞退するだろう。

 僕の身近に、12月28日が誕生日の子どもはいない。

 そしてまた、ネームプレートに書く名前もない。

 

 そういうことに、しなくてはならない。

 

 

 

「──ハァ、」

 

 あの聡い少年も、そんな理由を脳裏に並べていたのかもしれないと、そう気づいた時には天を仰いでいた。

 祝ってはいけない理由はわかった。存分に。充分に。

 ……ですが、けれども、でも、……しかしながら、

 

 

 

「知ったこっちゃないって話です」

「しったこっちゃ?」

「“ガンガンいこうぜ”という意味です」

「???」

 

 僕の物言いに、少女は不思議そうに首を傾げる。しかし、

 

「赤い羽根の男の子、明後日が誕生日なんですよ」

「!」

 

 そう告げた途端に、青い目が煌めいた。彼女は疑問も躊躇もなく、一も二もなく、声を上げる。

 

「おいわい、したい、です!」

 

 おいしいもの食べてもらって、にこにこわらってほしい。あとそれと、と、あどけない言葉がきらきらと繋がっていく。そうして彼女はにっこり笑った。

 

「……生まれてきてくれてありがとって、いっぱい言いたい」

 

 白い頬を染めて、口許に両手を添えて。まるで宝物のように大切に紡がれた言葉は、きっと本物の宝物と成り得るだろう。だから僕は頷き、用意していたものを差し出した。

 

「ではそれを、君は手紙に書きなさい」

「てがみ」

「そうです。ひらがなとカタカナは全部覚えられたでしょう?」

「うん! じゃなくて、はい!」

 

 渡されたクレヨンや画用紙をそうっと抱き締めて、少女は嬉しそうに笑った。そこに誇らしさも混ざっているのは、“彼を喜ばせたい”という使命感ゆえか。幼く純粋な想いは心地よくて、僕は自然と頬を緩めてしまう。

 

「では君が頑張っている間に、僕はケーキの準備をしましょうかね」

「わあっ、ありがとございます、目良さん!」

「でも作るのは、君にも手伝ってもらいますよ」

「え?」

 

 満面の笑顔から一転、きょとんと目を丸くする。そんな百面相にそうっと耳打ちした。静かに、密かに、大事なナイショ話のために。

 

「あの子のお誕生日ケーキは、この世にひとつしかない……なんと、僕と君による手作りケーキです」

 

 物は言いようだ。既製品のケーキではない本当の理由は、僕の行動を予想した一部の同僚が僕がケーキ屋に行くのを咎めたからだ。僕個人がアレコレ言われるなら兎も角、彼らはどちらかというと僕を案じていたから、彼らの鋭い眼差しは少年少女らに向かうのだろう。

 『あの子どもたちがおまえに我が儘を言っているんだろう』と、したり顔で同情されるのも、勘違いされるのも御免だった。

 

「わああ……! すてき! すてき!

 わたしわたし、おいしいの、がんばって作る、ます!」

 

 そんなささくれた気持ちを知ってか知らずか、少女はその輝いた笑顔と声を以て僕の心を癒した。感情に連動しているのか、まだ小さな白い羽根がぱたぱたとしきりにはためいている。外見特徴上は白い小鳥、けれど何故か勢いよく振られる尻尾とぴんと立った犬耳を想像してしまって。僕は思わず噴き出してしまった。不思議そうに小首を傾げる少女の頭を、撫でる。

 

「ええ。……僕も、頑張りますからね」

 

 それから少女と別れて、僕はケーキの準備に取り掛かった。既製品のケーキは買いに行けない。スーパーでスポンジケーキを買うのも一応避けた方がいい、……ということで色々調べた結果、僕はカステラとフルーツなどを買い物カゴに入れていた。搾ってそのまま使える生クリームは、まァ、「ウインナーコーヒー用です」と言えばごり押せるだろう。

 

 トライフル、というケーキがある。イギリスで生まれたデザートで、カスタードやスポンジケーキ、フルーツなどを器の中で層状に重ねたものをいう。スポンジケーキの代用としてカステラも使えるらしく、あまりオーブンも包丁も使わないから僕らでも何とか作れるだろうと選んだ。

 カステラは予め一口サイズに切って、フルーツ缶のシロップで湿らせておく。ほのかに甘酸っぱい香りがついたのを確認したら次はフルーツだ。バナナや苺などのフルーツもカステラ同様、一口サイズに切っていく。これは、

 

「君もやってみますか?」

「! い、いい、ですか……?」

「ええ。ただ、しっかりと注意して使うんですよ」

 

 興味深そうに見つめていた少女にやらせてみることにした。彼女は包丁を持つのは初めてのようで、怖々と、けれどウズウズと目を輝かせていたものだから、無視できなかった。後ろから支えるようにして、包丁を持つ幼い手を握り込む。そうしてゆっくり、ひとつずつ、バナナを輪切りにしていった。

 

「左手は、何でしたっけ……ああそう、猫の手ですよ」

「ねこのて?」

「招き猫……は、そうか、見たことがありませんでしたね。こうです」

「こう?」

「はい、それで食材を押さえて、……両手で猫の手をしては、包丁が持てませんねぇ」

「あれ? ほんとだ……」

 

 どうしよう、と至極真面目そうに呟く。そんな少女が両の手を猫の手にしながら悩むのを、僕はどうしましょうかねぇ、と笑いながら見守っていた。

 そんな閑話を挟みつつ、トライフルは出来上がっていく。カステラと、バナナや苺、みかんなどの色とりどりのフルーツをガラス製のコップに詰め込んでいき、時には生クリームを搾って、ジャムで飾りつけをして。そうして折り重なっていく甘い色彩に、少女は頬をほころばせる。

 

「よろこんで、くれるかな。くれるといいなぁ」

「そうですね。大丈夫ですよ、きっと」

 

 そんな会話をして暫く。12月28日の夜がやって来た。

 いつも通りの訓練をこなし、食事を終え、自室に戻って入浴を済ませた後は子どもたちの自由時間だ。いつもは訓練の疲れからすぐにベッドに入るところだけれど、少女の目は期待と使命感に燃えている。打ち合わせしておいた時間に廊下で待ち合わせて、にひひと笑う彼女と呼吸を合わせ──一気に件の部屋に入り込む。

 

「おたんじょう日、おめでとう!!」

 

 部屋の主は、課題か何かの予習をしていたのか机に向かっていた。が、突然飛び込んできた大声に肩をびくつかせて目を見開いていた。大人びた横顔は、どこにもない。

 

「え、……は? え?」

「? もしかして、おたんじょう日、わすれてた?」

「え……いや、そんなこと、は、」

 

 躊躇うように視線を移ろわせている。彼にしては珍しい、狼狽を隠せずにいる表情だなァと見守っていると、不意に鋭い眼差しが眉間に突き刺さった。少女に悟らせないように、器用にもその目が問い掛けてくる──“個人の誕生日は祝わないって話だったじゃないですか”と。

 

(知ったこっちゃありませんねぇ)

 

 だから僕も言葉なく、肩を竦めて返事した。それに片眉を跳ね上げようとしたところで、少女が少年の袖口を掴んだ。険しくなりかけた表情が、それだけで一気に和らぐ。

 

「ね、ね、あのね、」

「、ん? 何?」

「……このまえのクリスマス、ほんとうにありがとう!」

 

 微笑みのために細められていた鷹の目が、丸くなる。その目を見上げながら、青空を思わせる少女の目が柔らかに弧を描いた。

 

「おいわい、すっごくすっごくうれしかったの。つらいこと、おもいだすことないくらい……うれしいでいっぱいだった」

 

 目を伏せているのは、当時を目蓋の裏に思い描いているからだろうか。反芻するように、噛み締めるように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。ぽかぽかあたたかいのだろう胸元を、大事そうに抱き締めるべく、両手を添えて。

 

「だからあなたのことも、いっぱいおいわいしたかったの」

 

 そうして顔を上げた少女は、その目に、声に、笑顔に、ありったけの感謝と祝福を込めて、告げた。

 

 

「おたんじょう日、おめでとう!

 生まれてきてくれて、いっぱい、いっぱい、ありがとう……!」

 

 

 さて。真正面からそうした気持ちをぶつけられた側は、というと、

 

「……、……」

 

 目を見開いて、薄く口を開いて、これまた冷静な少年にしては珍しい表情をしていた。ぱちぱちと瞬きを繰り返すのは、今この状況を上手く処理しようとして、できていないことの表れか。そうして彼は暫くの沈黙の後、噛み締めるように口許を結ぶ。それがゆっくりと笑みを象っていった。

 

「……こちらこそ、ありがとね」

 

 嬉しいよ、本当に、すごく。

 そう溢した言葉は、どこか泣きそうな気配を孕んでいた。じわりと熱をもって赤くなった目元が、言葉に出さない少年の気持ちを如実に表していた。

 けれど少年のプライドが、彼に涙を許さない。

 少年は受け取った手紙を片手に、にやり、いつもの飄々とした顔で笑った。

 

「この手紙、おまえが書いてくれたの?」

「あっ、だめ! まだよんじゃだめ、あとでよんで」

「えーダメ? 音読したい気分なんだけど?」

「だめ! 先にケーキ、食べるの」

 

 頬を膨らませる少女に手を引かれて、テーブルにつく。膨れっ面の少女をハイハイといつものように宥めながらも、少年は疑問に首を傾げる。

 

「というか、ケーキ? あるんだ」

「うふふ、なんとなんと、わたしと目良さんの手づくりなの」

「、手作り?」

「そう! わたしもね、ほうちょ、がんばってつかったよ。ねこのて!」

「へえ、……怪我してませんでした?」

「大丈夫ですよ。張り切ってましたが、真剣そのものでしたし」

 

 兄心か何なのか、どうしても喜びより心配が上回ってしまうらしい。そんな憂いも微笑ましいが、今は忘れてもらいたくて、僕は隠していたトライフルたちをテーブルに並べた。

 さまざまなフルーツやクリームが折り重なった、色とりどりのトライフルが、照明の光を弾いて宝石のように煌めく。その様をじいっと見つめてから、少年は目を閉じた。この光景を、目蓋の裏に焼き付けるように。

 

「……美味しいよ、すっごく」

 

 そうしてぽつり、呟くように言った。彼の手は少女のそれと繋がっている。小さな手と手に、ぎゅっと力が込められたのを、僕の目は見逃さなかった。

 

「? まだ食べてないのに?」

「食べなくても、美味しいってわかるんだよ」

「そうなの?」

「そうなの」

「……そっかあ」

 

 ソファーに隣り合って座りながら、きゃらきゃら笑う。そんな2人を見ていると、何だかお腹いっぱいになってしまった。……正しくは胸がいっぱいになった、なのだろう。ふっと微笑んで、目を伏せる。

 

 トライフル。それは残り物または有り合わせで作られたものだから、「つまらないもの」「あまりもの」という意味があるらしい。けれどここにあるものを、目の前の光景を、2人が交わしている笑顔を、誰が“つまらないもの”と言えるだろうか。

 少なくとも僕には、できない。

 僕にとっては、とても尊いものだったから。

 

(……どうか、……どうか、)

 

 どうか、2人が笑って生きられるような時間が、ずっと続きますように。

 そんな夢物語を子どもみたいに願ってしまって、気恥ずかしくなって僕はコーヒーを口に運ぶ。砂糖もミルクも何もないブラックコーヒーが、何故かほんのり甘い気さえして。

 

(……毒されてるなァ)

 

 あるいは絆されているのかと。

 そんなことをぼんやり思って、苦笑のままに肩を竦めた。

 

 

XX.名前のない君たちへ。

 

 


 

 クリスマスに引き続きホークス誕生日お祝い短編です。28日なんです。今日は28日、にじゅうはちにち……

 それにしても弊SSの目良さんは本当に魔改造ですね。これから本編でも魔改造目良さんが登場していくので、今更ながら独自設定ということでご承知置きください。



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XX.雛鳥ふたり

 

 弊オリ主愛依とホークスが公安にて訓練を受けていた頃のお話です。

 

 


 

 

 羽根といえば、翼といえば、大抵の人は自由の象徴として思い浮かべるだろう。しかし少女が“個性”の暴発により手に入れてしまったそれは、ずしんと華奢な背中にのし掛かっていた。“個性”因子に反応し、がき、ごきんといびつな音を立てながら変形した骨格は肌を食い破り──そうして【翼】を得た当初、愛依はほとんどの時間をベッドで過ごした。急激に身体を作り替える負担は大きく、【自己再生】も扱えないほどに消耗し、激痛と高熱に魘されることも少なくなかったのだ。

 そのことを思えば、少女が羽根を得て2年経った今、何の後遺症もなく訓練や勉学に励むことができるのは僥倖といっていいだろう。しかし少女──愛依の表情は晴れなかった。

 

「……っう、!」

 

 本日の訓練内容は【悪天候の中で飛行する】といもので、公安委員会の所属するビル、その地下にある訓練施設の一室では、高い天井から暴風雨を模した水や風が吹き付けていた。愛依は全身ずぶ濡れになりながら必死に羽根を動かしていたが、不規則に吹き荒れる横殴りの風に煽られ、体勢を崩し、床に落下する。羽根を羽ばたかせることで落下の衝撃を緩和させることはできたし、肘や膝はサポーターによって守られている。それでもすぐに身体を起こすことができないのは、疲れと悔しさからだった。

 

(どうして、うまくとべないんだろう……)

 

 あの男の子ならこんな程度の雨風、気にもせずに飛べるのに。奪ってしまうところだった【翼】なのだから、せめてもっと、上手に飛べるようになりたいのに。

 脳裏に浮かぶ赤い羽根。その強さと鮮烈さに、愛依はぎゅうと唇を噛む。泣くことなどできない。そんな暇はない。だから少女は指導係の講評を聞く間も、悔しさと不甲斐なさをただただ飲み込んでいた。それでもすぐに心の雨雲が晴れるわけもなく、少女は指導係が部屋を辞した後も、隅にある長椅子に腰掛けて項垂れていた。そんな時。

 

「──愛依(あい)

 

 俯く彼女の頭上から、そんな声が降ってくる。それは日溜まりのあたたかさに似ていて、愛依はぱっと嬉しさに顔を輝かせたが、……すぐにはっとして周囲を見渡した。

 

「……、ぁ、あの、」

「だーいじょうぶ。……今は誰もいないから」

 

 癒月(ゆづき)愛依(あい)という人間は、戸籍上鬼籍に入っており、もう何処にも存在しない。そういうことにしなくてはならないのと、彼女の持つ“個性”上の理由も合わさり、彼女はもうずっと自分の名前を名乗っていない。誰も呼ばない。誰も知らないふりをする、──目の前の、彼を除いては。

 

「うん、……けいごくん」

 

 何だか名前を呼び合うだけで、我慢していた涙腺が決壊しそうな気がして、愛依は誤魔化すようにへにゃりと笑った。けれどそんな拙い少女の隠し事など、鷹の目にはお見通しのようで。

 

「なァに落ち込んでんの」

「え、……お、おちこんでなんかないよ?」

「ハイ嘘。……ホラ、隠さんでもいいから、」

 

 啓悟の指先が、愛依の凝り固まった眉間の皺を優しくほぐす。そうして少女の膝上に乗せられた握り拳に手を重ね、宥めるように包んだ。膝立ちになった彼は少女を見上げて、囁くように言葉を紡ぐ。

 

「言ってみなよ、愛依」

「え……」

「何か、俺に力になれることがあったら嬉しいからさ」

 

 そうしてからりと笑ってみせた啓悟に、愛依はとうとうその青い目を潤ませた。泣き顔なんて見せたくないのに、彼は少女の手を離してくれない。ぽろぽろ零れる涙を見つめて、“それでいいよ”と微笑むばかり。愛依はスンスンと赤くなった鼻を鳴らしながら、辿々しい口振りで話し出した。

 

「くんれん、じょうずにできなくて……」

「さっきの飛行訓練ね」

「あの、ね、すごくすごく……しょうもないこと、なんだけど」

「いいよ、何?」

「……わたし、羽根で風をうまくうけとめられなくて、すぐバランスくずして、おっこちちゃって……どうしたらいいのかな……?」

「……風を?」

 

 頷く少女は先程の訓練のことを思い出していた。自分の羽ばたきで起こす風ならともかく、人工的または自然界の風だとその流れを把握しきることは難しい。柔く、弱く、小さな白い羽根は、翻弄されるまま上手く風を掴めないでいる。

 一方で啓悟は少女の言う“風向き”の概念に口許に手を添え思案した。【剛翼】と名付けられた彼の翼は、その名に違わぬパワーとスピードを誇る。暴風時には多少動きが鈍るものの、彼の飛行を妨げる程でもない。そのため追い風ならラッキーだなと、その程度に考えていたが──もっと突き詰めればあるいはと、少年の目に決意の光が閃いた。

 

「なるほど……じゃあ飛びながら、飛行姿勢を崩さずに羽根の向きの調整する方法を探ってみようか」

 

 うん、とひとつ頷いて、啓悟は立ち上がった。そして少女に向かって、手を差しのべる。

 

「一緒に飛ぼ、愛依」

「っうん、けいごくん……!」

 

 いつかの時も、自分をモノクロの冬から救い出してくれたその手を取って、愛依は満面の笑みを浮かべた。自分より大きくて、強くて、優しくて、あたたかい手。繋ぐだけで心がぽかぽかするようで、その熱が頬まで上って、知らぬ間にゆるゆる緩む。

 そんな風にふわふわ笑う愛依を見下ろして、啓悟は目を細めた。微笑みのように、目を細めた。

 

(……たった、これだけで、)

 

 たったこれだけのことで、この少女は全部が救われたように歓喜する。そのことに安堵しながらも、同時に悲しさを拭いきれなくて、啓悟は奥歯を噛み締めた。──嬉しさを感じる自分を、鈍い痛みを以て罰する。

 

「ぅわ、わっ」

「、……手繋いでいるから落っこちんよ、大丈夫」

「う、うん……!」

 

 床から遠く離れて飛行するのは、まだ6歳の少女にとって大きな恐怖を感じるはず。それなのに愛依は縋りつくように啓悟と繋いだ手に力を込めて、懸命に翼をはためかせた。時に身体をぐらつかせ、恐怖に頬を強張らせながらも、吹き荒れる風の中で飛行を続けた。

 

 

 

 

 

 そうして数週間ほど練習及び訓練を続けた愛依は、【暴風雨】を想定した訓練でついに成功を収めた。“指定された通りに障害物を避け、複雑な飛行も問題なくこなすことができた”と、指導係の淡々とした講評もそわそわしながら聞く。何故なら、

 

「できた……!」

 

 できた、飛べた!、とそのことが嬉しくて堪らなくて、愛依は跳び上がってしまいそうな足を何とか床に縫い付けながらも、急ぎ足で部屋に戻った。烏の行水もかくやという勢いでシャワーを浴びて、髪を乾かすのもなおざりに部屋を跳び出る。

 早く、早く、このことを彼に伝えたい。その一心で探し回り──廊下の先で特徴的な赤い翼を見つけて、少女は呼び掛けようとして──できなかった。啓悟はスーツ姿の男性、目良と、何事かを話している。

 

「……っ、……!」

 

 みんなの前で呼んでいい名前はない。それがじわりと少女の心を締め付けるけれど、それでも浮き立つ思いは抑えられなかった。弾む足取りそのままに、転がるように少年の背中に飛び付く。

 

「わ、」

「おや、」

「あっ、……あの、お、お話中にごめんなさい……」

「いいえ、構いませんよ」

 

 二対の視線を向けられて我に返った愛依は、きっと話に割り込んでしまったのだろう自分を恥じて肩を落とすが、そんな少女に“気にしないで”と目良は努めて優しく声を置いた。啓悟もまた小さく笑んで、自分の背中にひっついた少女の頭を撫でてやる。そうして視線を目良に戻した。

 

「目良さん、」

「ええ。何やら話したいことがあるようですし、行ってあげてください」

「ありがとうございます」

「あっ、ありがとございます……!」

 

 まるで鳥の雛のように少年の後ろから顔を出しながら、同じ言葉を紡いで頭を下げる少女に、目良は草臥れた目を和らげる。そしてひらりと手を振ってその場を後にした。静かな足音が遠ざかっていくのを見送って、啓悟は少女に視線を落とした。少し小首を傾げてみせる。

 

「それで?」

「?」

「なんか良いことあったみたいだけど」

「! っうん!」

 

 そうなの!、と元気よく頷くと、愛依は両手に握り拳を作る。そのまま笑顔で声を弾ませた。

 

「あのね、今日のくんれんでじょうずにとべたの! このまえけいごくんがおしえてくれたみたいに、羽根のむきをうごかしてね……!」

 

 にこにこきらきら笑っていた愛依だったが、ふと言葉を切り目を伏せた。白い睫毛が小さく影をつくり、青空の目に翳りが滲む。

 

「……いつも、そうだね。わたし、けいごくんにたよってばっかり」

 

 無力感と悔しさと心苦しさが、少女の瞳を揺らがせる。それなのに口許は取り繕うように笑みを貼り付けているから、啓悟は片眉を跳ね上げた。俯いた愛依はそれに気付かないまま、更に言葉を続けようとして、

 

「ごめ……、っ!?」

 

 続けようとして──できなかった。頬を両手でつままれて、無理やり上を向かせられる。目を白黒させる少女の先で、しょうがないなァと言いたげに啓悟が笑っていた。

 

「まーた俯いてる」

「けいごくん……?」

「そんな愛依には、頬っぺむにむにの刑~」

「ぅやっ? もっ、もうなに……!?」

 

 からかいに頬を膨らませる幼い表情だって、少年は嫌いじゃない。けれどもっと、その空の瞳に光が射しているのを見たいと思うのだ。だから啓悟は愛依のまろやかな頬を指先で優しく撫で、微笑んだ。

 

「俺も今日の飛行訓練、成績よかったんだ」

「! すごい……っ!」

「ん、ありがと。……でもこれ、愛依のおかげだよ」

「……??」

 

 ぱちくり、と不思議そうに目を瞬かせる愛依に、啓悟は可笑しそうに喉を鳴らす。少年は手を伸ばして少女の白い髪を、そして羽根の先を撫でた。

 

「おまえが教えてくれた羽根の動かし方を、俺の飛び方にも取り入れてみたんだ。そしたらもっとよく飛べたんだよ」

「そう、なの……?」

「そうなの」

 

 ──自分の考えが、啓悟のためになっていた。

 そのことがまだ信じきれず、愛依はか細い声で再度尋ねる。そんな愛依の不安と期待を見抜いているから、啓悟は強く声を重ねた。

 

「今の速さが出せるのは、愛依のおかげなんだよ」

 

 何度だって、何度だって、少女の空に光が射すまで。

 そう決意する少年の藤黄色の目と、少女の青い目が真正面からぶつかる。その真摯な眼差しに射られて、愛依ははくりと息を溢した。呆けた口が微かに震えて、そして、

 

「……そう、なの……」

 

 そうしてふにゃりと、頬が蕩ける。その白い頬がじわじわ赤く染まるのが、まるで花がほころぶようだなんて、そんなことを啓悟は思った。同時に(あまりに気障すぎる)と内心自分に向かって舌を出したが。

 

「ふふ、……ゆめみたい、だなぁ」

 

 それでも。小さな羽根をぱたぱたとさせて、蕩けるように笑う少女を見ていたら、何だか力が抜けてしまって。彼は小さくふっと吹き出して、それから柔らかに微笑んだ。手を伸ばして、白い髪を指で梳く。

 

「てか髪も羽根も、まだ濡れたままなんだけど?」

「あっだいじょうぶ! くんれんおわったあとちゃんとシャワーあびたよ」

「それで乾ききってないんだったらなお悪いでしょ」

「う、……だ、だって」

「だって?」

「“できたよ”って、はやくけいごくんに、つたえたくて……」

 

 自分の身体を白い羽根でくるみ、その羽先をいじりながらもごもご言う愛依は、今になってやっと叱られると思い至ったのだろう。それまではきっと、ただ嬉しくて早く知らせたくて仕方なくて、そこまで考えが及ばなかったのだとわかってしまって、啓悟は眉を下げて笑った。

 

「……馬鹿だなァ」

 

 可笑しくて、いじらしくて、可愛くて。でもそれをそのまま口に出すのは気恥ずかしかったから、啓悟はふやけた口でいつものようにからかった。むーっとむくれる愛依を宥めるように頭を撫で、その手を引く。

 

「? けいごくん?」

「髪乾かしたげるから、おいで」

 

 そうして連れてきた部屋の中。少女をベッドに座らせた啓悟は向かい合うように座り込み、ドライヤーのスイッチを入れた。愛依に少し下を向かせ、上向きになった白い羽根に温風を当てていく。羽根の隙間に手を差し込んでみると、くすぐったかったのか、啓悟の肩口にある愛依の頭が震えた。ドライヤーの音に紛れて、ふすふす笑う声が聞こえてくる。

 いないはずの子どもたちの部屋に、ふたり。今はドライヤーの音と微かな笑い声しか聞こえないものだから、愛依は“まるで本当にふたりきりになったみたい”だなんて想像した。少年の手が少女の背中に伸ばされていて、彼の身体と腕とに包み込まれているような体勢になっていることも拍車をかけた。優しい手つきとあたたかな体温に、少女の目蓋がとろりと重くなる。

 

(……ああ、たしかまえにも、こんなことが……)

 

 落ちかけた目蓋の裏に、少女は、1年前のことを想起した。

 

 

 

 

 

 生まれてから今まで、備わってなかった羽根が生えてくる。それは少女の身体へ深刻なダメージを与えただけでなく、衣服や身体の動かし方、姿勢など、生活の至るところに変化をもたらした。公安から与えられた衣服には羽根用の穴が空けられ、中にはかつて啓悟が着ていたお下がりなんかもあって、愛依はどこかくすぐったい気持ちで袖を通した。そうしたところは、よかったのだが。

 

『愛依、羽根の洗い方、わかる?』

 

 愛依がベッドから起き上がれるようになって、勉学や翼の適応訓練をして日々を過ごす中。いつものように笑って現れた啓悟は少しだけ沈黙した後、“突然で悪いけど”と切り込んだ。愛依はそれにびくりと肩を跳ねさせ、それから視線を俯かせる。

 

『え、と、その、……』

『うん』

『……ほ、ほんとは、わからないの……』

 

 そうして幼い少女は口ごもりながらも話し出す。曰く──これまでは1人で入浴できたのが、羽根が生えたことで重心がずれ、すぐに尻餅をついてしまう。羽根が邪魔して上手く背中を洗えない。洗おうと思えば思うほど後ろにひっくり返ってしまって、また転んでしまうのだと。

 入浴時のことだから言いづらかったのだろう。胸元を握り締めながら言いづらそうにする愛依の肩に、啓悟はそっと手を置いた。気付けてよかったという安堵を微笑みに変えて、ぽんぽんと優しく叩く。

 

『なんも可笑しいことないよ。俺も昔はそうだったし』

『……ほんとう……?』

『ホント』

 

 そこでようやくほっとしたように笑みを覗かせた愛依に笑い返し、啓悟は考えた。どうしたらいいか、どうすべきか。ただでさえ速い思考をぐるぐる回して、

 

『……まァ小さい子やし、しょんなかね』

『……? なにかいった?』

『なーんも? ホラおいで』

『えっ?』

『洗い方、教えてあげるよ』

『……えっ?』

 

 そうして出された啓悟の提案に、愛依は一時呆けた後、慌てて首を振った。いつも勉強や訓練で忙しそうにしてるのに、これ以上啓悟くんに迷惑をかけるのは嫌だという。その表情の中に申し訳なさはあれど羞恥や嫌悪感は見当たらなかったので、啓悟はにっこり笑みを深めた。

 

『大丈夫だから。ね?』

 

 啓悟はこれまでの経験から、愛依が“申し訳ない”と自分の思いを飲み込んでしまう時、多少強引になっても引き出してやろうと思っている。困っていることがあれば、少しでも力になりたいと。

 そうして少女の手を引けば、愛依は少し躊躇うように立ち止まって、それから少年について歩き出した。きゅっと、微かな力で手を握る。

 

『けいごくん、めいわくじゃ、ない?』

『ちっとも』

『……ん、うん……、』

 

 ありがとう、と小さな声で言う愛依はふやりと口許をほころばせていた。そんな彼女を連れて脱衣場に来た啓悟は事前に用意しておいた水着に手早く着替える。相手はたった5歳ではあるが、少年は12歳ということもあり少々気恥ずかしかったのだ。

 そんなこんなで浴場に入った啓悟は浴槽にお湯を入れながら、まずは少女の羽根を何とかしようと向き直る。

 

『愛依、羽根、外してみて』

『はずす……?』

『あぁそうか、何て言ったらいいかな……羽根を床に落とすってイメージ』

『おとす、……!?』

 

 “落とす”、そう意識した途端愛依の背中を飾る羽根が一気にザアッと抜け落ちた。その勢いときたら床に散らばった羽根がふわりと目の高さまで舞い上がるくらいで、2人は暫く沈黙して──静まり返った浴室に、噴き出す声がひとつ。

 

『豪快だなぁ』

『だっ、だっておとすっていった……!』

『いや違う違う、上手だよ愛依』

『うそ! にやにやしてるもん!』

『いやちがっ……ふくく、顔真っ赤』

『もっ、もーっ、いじわる……!』

 

 むくれてそっぽを向いた少女を何とか宥めすかして、少年は床に散らばった羽根を拾い集めて桶に入れ、ざぷざぷと洗ってみせた。シャンプーをお湯に溶かし入れ、泡立たせて羽根を手洗いする。それを見ていた愛依も一緒になってざぷざぷと見よう見まねで洗ってみた。汚れや埃を指で拭い、シャワーで流していく。そうしてひとつ手に取った羽根はどこまでも白く、ぴかぴかに光を弾いていた。

 

『羽根はまぁ、こんな感じで洗うといいよ』

『あなたのはねも、こうやってあらってるの?』

『うん』

『……あなたのはねもあらいたい、な』

『ん? んー、じゃあ、お願いしようかな』

『! っうん!』

 

 そうして2人並んで啓悟の【剛翼】を洗った後、お礼と称して啓悟は愛依の髪を洗ってやった。少年の指先が白い髪を梳くように通るのが心地よくて、少女はうっとりと目を閉じる。

 そんな頃を見計らって、啓悟はこっそり少女の背中に視線を落とす。折れそうなほどに細く、華奢な背中。そこにある羽根の生え際に傷痕は無い。

 

(あんなに、酷い怪我をしていたのに……)

 

 まるで何事もなかったかのように、その背中は滑らかだ。それに安堵しつつもまた違う憂慮もあって。啓悟は静かに目を閉じ、誰にとはなしに願った。

 

(……どうか、)

 

 この子が、どうか。笑顔で自由に生きられるように。そのためなら、自分は──

 

『……? どうかした?』

『、いーや、なんも』

『そう?』

『そう。ところでお客さん、かゆいところはございませんかぁ?』

『! ふふ、ないですっ』

 

 きゃらきゃら、ころころ、と鈴を鳴らすように笑う。久し振りに見た年相応な少女の笑顔に、少年も破顔した。

 そうして髪や身体を洗い終えた2人は揃って湯船に浸かる。一人用の浴槽は狭く、2人が小さな子どもとはいえ足を伸ばして入るには難しい。だから2人は膝を抱えて所謂“三角座り”の体勢で隣り合った。肩が触れ合うほど窮屈で、けれどそれが何故か嬉しくて。

 

『あったかい……』

『そだね』

 

 愛依ははふ、と息をついて、傍らの少年を見上げた。柔らかく細められた藤黄色を見つめて、ゆっくりと口を開く。

 

『……けいごくん、ほんとに、ほんとに……ありがとう』

『ええ、なに急に』

『きゅうじゃ、ないの。ずっとおもってる……』

 

 膝小僧の上で握り締めた手に、ぎゅっと力を込める。

 

『わたし、いっつもいっつも、なにもできないで、……けいごくんに、もらってばかり』

 

 自分への不甲斐なさ、悔しさ。もっと頑張りたいという向上心と、……寄り添える嬉しさと安堵と。その全てを綯交ぜにして、泣きそうに笑う。そんな愛依に虚を突かれ、何ともいえない気持ちになって──啓悟もまた、くしゃりと笑った。

 

『いいよ、……いいんだよ、愛依』

 

 強く握られた手をほどいて、繋ぐ。そうして少年はその手を持ち上げ、自身の額に押し当てた。ぱしゃんと湯が揺れて、静かに波紋を散らす。

 

『愛依が困ったこと、してほしいこと、救けてほしいこと、……何かあったらすぐに教えてほしい。我慢しないで、ちゃんと言って』

 

 いつも明るいその声が、どこか真に迫った様子で訴えるものだから、少女は遠慮の言葉を飲み込んだ。迷うように口を開閉させて、……それからおずおずと、啓悟の肩に自分の身体を寄り掛からせた。

 

『じゃあ、あのね、……いまだけ、こうさせてね』

『……だから、いつも甘えていいんだってば』

 

 しょうがないなァ、と目を細めて、自分に寄り掛かる少女に笑い、啓悟もまた寄り掛かってみた。愛依の頭の上に自分の顎を乗せる。きっと重いだろうに少女は少しも嫌がらず、そればかりか嬉しそうにくすくす笑うものだから、2人はぱしゃぱしゃと水面を歌わせながら寄り添っていた。

 

 

 

 

 

「……愛依?」

 

 こてん、と自分に寄り掛かってきた愛依に呼び掛ければ、……いつの間に寝てしまったのか、小さな寝息を立てていた。粗方乾かし終えた彼女を抱き抱え、彼女の部屋に向かう。しんと静まり返った夜の廊下に、すうすうと小さな寝息が響くのが何だか可笑しくて、鷹の目が優しく緩む。

 そうして愛依の部屋のベッドに彼女を寝かせて、啓悟はその寝顔を眺めやった。頬にかかった髪を撫で払い、小さな声で囁く。

 

「……“なにもできない”なんて、そげんことなかけんね」

 

 啓悟はいつか、彼女が泣きそうに笑って言った言葉を、その声を、笑顔を思い浮かべた。“自分は頼ってばかり”と、“上手くできない”と卑下する少女に、少しずつでもいい、わかってほしかった。

 飛行訓練の件に限ったことじゃない。少女が“何もできない”なんて、そんなことは少年にとって有り得ない。

 だって傍にいて、その笑顔と言葉だけで、こんなにも──

 

「……おやすみ、愛依」

 

 いつだって甘えるのが下手で、それでも誰かと一緒が嬉しくて。おずおずと寄り掛かって、花開くように頬を染める。

 そんな少女が夢の中でも穏やかであれますようにと、そんな願いを込めて啓悟はその手で愛依の額を撫でた。

 

 こうして今日も、優しい夜が更けていく。

 

 

XX.雛鳥ふたり

 

 


 

 支援絵を描いていただいた◯べさんより頂いたネタを元に錬成しました。ありがとうございました!!



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XX.日溜まりに浸かる

▽注意事項

・本編より過去軸の番外編です。

・幼少ホークスとオリ主愛依と若目良さんがいます。

・ホークス視点。

 


 

 

 あの家はいつも酷く、寒かった。

 

 見るからにぼろっちいプレハブ小屋で、雨漏りや隙間風なんて当たり前。足を踏み出した床板はところどころ腐っていて、何ともいえない感触に顔を歪めることも少なくなかった。

 

『どけ!! 背中向けるな! 言うたろが! 何度目や!!』

 

 少しでもマシにしようと、ベニヤ板で穴を塞ごうとしたらコレだ。背中を強かに蹴りつけられ、半ば作業のように“ごめんなさい”と口にする。

 ……父親だった男は恐らく、俺の羽根を疎んでいた。呼吸をするように殴る蹴るをしてくるのは八つ当たりのためだったのだろう。俺が生まれたせいで“自分が自由でなくなったこと”をいつも嘆いて怒鳴っていたから。

 

『ねえ、逃げんでね?』

 

 そして母は、そんな“日常”に表情も動かさず、ただぼうっとつかないテレビを見つめていた。耳元に落ちてくる雨水のように、どろりとした声で何事かを呟きながら。

 

『……。』

 

 こうは、ならない。俺は、壊れない。

 毎晩そう心に誓いながら、ゴミ溜まりの中で眠った。すえた臭いが鼻につく。吹き荒ぶ寒風が入り込んで身体を震わせる。毛布なんて上等なものは与えられなかったから、自分の翼で身体をくるんだ。エンデヴァーの人形さえ抱いてれば、心は熱を保ったままでいられた。

 

 それで俺は、耐えられた。

 ──それだけで俺は、よかったのに。

 

 

 

 

 

「けいごくん、……けいごくん?」

 

 小さな声での呼び掛けに、意識が現在へと戻ってくる。はっと目を開いて、素早く瞬き。すぐにいつもの笑顔を浮かべて隣の愛依(あい)を見下ろした。

 

「、ごめん。どしたの?」

「あのね……」

 

 控えめに袖口を引かれて、俺は身体を屈めた。愛依のこれは【耳打ちしたいから屈んでほしい】という合図。いつの間にかいつもの“決まりごと”になっていたなァと、そんなことをぼんやり考えた。

 

「あのねけいごくん、めらさん、みて?」

「目良さん?」

 

 彼女が小さな指で差した先を見れば、廊下に設置されたソファーに深く腰かけた目良さんの姿があった。いつもの缶コーヒーを飲みに来たのだろうに、プルタブに手も掛けないでぼうっと天を仰いでいる。

 見事に燃え尽きとーね、と目良さんのいつもながらの多忙さに心で合掌していたのだが、愛依は心配そうにその眉を寄せていた。

 

「つかれてるのかなって、おもったの。どうしたらいいかな……」

「んー? ……んー、そーだなァ」

 

 まさか公安の仕事を手伝うわけにもいかないし、そもそも愛依だって訓練や勉強で忙しい身だ。そんな大掛かりなことはできないし──と、そんなことを考えている時だ。

 ふと、薄暗い部屋で気まぐれに映ったあのテレビが脳裏によぎった。ゴミ部屋を場違いに明るく照らしたあの番組で、やたら声を弾ませていた、どこぞのタレントの言葉だったように思う。

 

「──そうだ愛依、ハグとかどう?」

「は……ぐ?」

「ふは、……ええとね、“はぐ”って噛むことじゃないんよ実は」

「?」

 

 あ、と口を開け、ん、と閉じてみせる愛依の顔は至極真面目そのもので、だからこそ込み上げる笑いを堪えながら俺は続けて説明する。

 

「ハグってのは、誰かをぎゅっと抱き締めることだよ」

「ぎゅっと?」

「ぎゅーっと」

「……それでつかれてるのがなおるの?」

「らしいよ」

 

 ふぅん、と小さな声で相槌を打つのを聞きながら、俺は目良さんに視線を戻した。彼は先ほどと同じ体勢で天を仰ぎながら指で眉間を揉んでいる。ウン、相当キテると。

 

(こんな時に愛依にハグされたら……まァ目良さんだし嫌な思いはしないでしょ)

 

 きっといい感じに慌てたり、びっくりして固まったりした後に、笑ってくれるだろう。そんな想像に笑みを浮かべながら愛依をけしかけようとした時だった。

 

 ぎゅむ、と。

 俺の脇腹辺りに回された腕に、笑ったまま固まった。

 

「……え、」

 

 見下ろせば、白い髪と小さなつむじ。それがぐりぐりと身動いで、暫くして青い目が俺を見上げた。じっと俺の様子を窺うような、真っ直ぐな目。ぱたり、小さな白い羽根がはためいた。

 

「えーと、あの、愛依?」

「けいごくんがつかれてるのも、これでなくなった……?」

 

 ──疲れている? 俺が?

 “そんなことないよ”って笑えばいいだけなのに、いつも軽々動くはずの舌が何故か、言うことを聞いてくれなかった。黙り込んだままの俺を不思議そうに、心配そうに愛依が見ている。……早く、早く、取り繕わなくちゃ。この子を心配させたいだなんて、少しも思っていないのに。

 

「……うん」

 

 それなのに、その目が俺を見つめてくれるのが嬉しい、なんて。

 情けないなァ、と苦い気持ちが心を掠めるけれど、それより大きな、あたたかい何かの感情が俺に笑顔を浮かばせた。

 そのまま白い髪を撫でると、愛依は嬉しそうに頬をほころばせて笑う。……何だかそれがあんまり幸せそうで、見てる俺まで擽ったい。

 

「……んー、でもまだ足りないなァ」

「えっ……わ、わかった!」

「ワァ力強……ふくく、」

「……なんかおかしい?」

「なーんも?」

 

 ちょっとふざけてみれば、それも愛依は真剣に受け取ってしまうものだからおかしくてたまらない。ぎゅうぎゅうに力を込めて抱きついてくるのが可笑しくて、可愛くて、……ああ嫌だな、顔がにやけて仕方ない。

 

「うん。元気でたよ、愛依」

「ほんとっ?」

「ホント」

 

 “からかわれてるかもしれない”とやや不機嫌そうだったのはどこへやら、俺の一言でぱあっと声と笑顔を輝かせる。いつもは白い頬が蕩けて、林檎みたいに赤く染まった。

 

「んふふふ、」

「にこにこ顔だ」

「だってね、おかしいの」

「ええ? 何が?」

「だってわたしのほうが、うれしくなっちゃった」

 

 げんきをだしてほしくてやったのに、ふしぎだねぇ。

 愛依がほやほや笑ってそんなことを言うから、俺は何かが胸に迫って何も言えなかった。それを飲み込んで、引き結んだ口許を笑みの形にして、俺は愛依の背中を柔く押す。

 

「効果覿面ってやつだね」

「てきめん?」

「こうかはバッチリってこと! だから目良さんにもホラ、やってあげな」

「! うんっ!」

 

 促す俺ににこっと頷いて、愛依は小走りで目良さんの元に向かった。足音に気づいて視線を向けた目良さんにはじめはもじもじしていたけれど、暫くして覚悟を決めたのかぎゅっとその足に抱きつく。……あァやっぱり、驚いたんだろう、いつも眠たげな目良さんの目がぱっちり開いて、それから柔らかく弧を描いた。骨ばった大きな手が、おずおずと愛依の頭を撫でている。

 そんな光景を遠目に見ながら、俺はこっそり息をついた。溜め息というにはあたたかく、ただの呼吸とするには重たいそれを。

 

(……あァ、ほんっとに……)

 

 あたたかいなと、ふと思う。いつかの時を思えばなおのこと、何でもないようなやり取りが、言葉が、笑顔が、心に熱を昇らせた。それは俺に笑顔をもたらすけれど、同時にどうしようもなく、途方に暮れる。

 

 憧れた太陽を抱き締めるだけで、幼い俺は耐えられた。心に熱を保っていられた。それだけでよかったと、本気で思っていたのに。

 

 今はもうこのあたたかさを知ってしまった。それを失う時が来たら、──俺は“大丈夫”でいられるだろうか?

 

(……でも、せめて。……今だけは)

 

 今だけは、この日溜まりに浸かっていたい。そんなのはただの現実逃避に他ならないのに、ふわふわ笑う青空の目が、目に焼き付いて離れない。

 

 

 


 

 ◯べさんより頂いた素敵ネタを小説にさせていただきました。ありがとうございました!!!!



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XX.しあわせを頬張る

▽注意事項

・これは弊宅hrakss『【依存】から始まるヒーローアカデミア』の過去軸番外編です。

・幼少時オリ主愛依やホークス、若目良さんたちが登場します。

・主にホークスの過去を(幼少期はオリ主とともに公安ビルで暮らしていた、ということにして)捏造しています。

・三人称視点。

 

───

 

「これから言うことをよく覚えておきなさい」

「はっ、はい……!」

 

 淡いプラチナブロンドに透き通るような碧眼は、どこか北の海を思わせた。常に冷静な声も相俟って、いつも背筋が伸びるというか、畏まった気持ちになる。そんな公安会長に対し白い羽根先までぴんと伸ばした少女──愛依は、直立不動で返事した。そんな愛依にひとつ頷き、会長は手に持っていたものを机に置く。

 

 コトン、と小さな音。小さな皿。そこに鎮座している丸いフォルムは。

 

「……、……これ、は……?」

「昨年1月に何人もの人が“不慮の窒息”で亡くなっている。その原因がこれよ」

「……!」

 

 愛依が顔を強張らせ、会長が神妙に頷く。2人の視線は皿の上──餅に注がれていた。

 

「餅を喉に詰まらせた場合、患者は声が出ない、咳ができないなどの兆候を見せるわ。反応がない場合はどうするの?」

「は、はいっ。きゅうきゅう車を、よびます」

「よろしい。迅速な行動が必要となります」

 

 その後も会長はつらつらと餅による窒息への対処法を教授していった。患者の意識がある場合は背部叩打法、それでも駄目なら腹部突き上げ法を試すこと。掃除機のノズルを口に入れるのは不衛生からの合併症を引き起こすリスクがあるため奨励しないということ──至極真面目に話す会長と、至極真面目に頷く愛依。そんな彼女たちを遠目に見やって、目良がぽつりと呟く。

 

「……お餅を食べるときは小さく切るとか、水分と一緒にとか、そういう話でいいんじゃないでしょうか?」

 

 何故こんなに訓練じみた内容に……との呟きに、会長はつと目を逸らし、愛依は首を傾げる。不思議な沈黙が数秒続いたのち、素知らぬ顔をした会長が口を開いた。

 

「とにかく、縁起物だからといって油断しないこと。いいわね?」

「は、はいっ!」

「油断ねぇ」

「目良。貴方が監督責任者なのよ、わかっているわね」

「ハイ勿論」

 

 ぺこりと礼を返して、目良は愛依の手を引いて会長室を辞した。最上階からエレベーターに乗り込み、いつものフロアーへ。しんと静まり返った“いないはずの子どもたちの部屋”。そこにかつんと心なしか軽やかに、革靴の音が鳴る。

 

「さて行きましょうか。他の準備も済んでいますよ」

「ほかの……?」

 

 不思議そうに首を傾げる少女に柔らかく目を細めて、目良は“仮眠室”のドアを開けた。明るい室内と温い空気、そしてどこか華やいだ雰囲気が少女と男を出迎えた。

 

「お帰り」

「! ……ただいま」

 

 そして部屋の奥からひょこっと顔を覗かせた少年に、愛依はほわりと破顔する。安堵と歓喜に足取り軽く駆け寄る少女を抱き留めて、ホークス少年は緩く首を傾げた。

 

「会長のお話何だったの?」

「えと、あのね、あなたがおもちのどにつまらせたら、はいぶこうだほうとふくぶつきあげほう、わたしがしてあげるね……!」

「何て??」

 

 何やら意気込んで両手を握る愛依から目良へと視線を移すホークス。目良は何とも言えない顔で肩を竦めた。それで概ねのことを理解したようなしていないような、まァ大事じゃなさそうだしいいかと少年は気持ちを切り替える。

 

「じゃあその時はよろしくね」

「うん!」

「わァいい返事……まぁ今はそれよりこっち」

「こっち? ……!」

 

 ホークスが愛依の背を押し、後ろから手を重ねるようにしてローテーブルの上の重箱を開けさせる。漆塗りの重箱は三段重ね。蓋を開けて広げていくと、中に詰められていた多種多様な具材がお目見えした。見るも鮮やかな品の数々に、愛依の青い目もきらりと光る。

 

「わ、わ……! これおせち、だよね?」

「そ。……お正月だからって買ってくれたんだよ。誰かさんがね」

「日本の伝統行事に触れるのも教養のひとつですからね」

「物は言いようだなぁ」

 

 ホークスの苦笑に飄々と返して、目良はテーブルへと足を進めた。少年少女を席に座らせ、取り皿を渡す。

 

「おせちにはそれぞれ意味があるのを知っていますか?」

「? いみ、ですか?」

「ええ。例えば“黒豆はまめまめしく働くように”、“栗きんとんは豊かな年になるように”。“伊達巻は知識が豊富になるように”……全てに意味がこじつけられているんですよ」

 

 数の子は子孫繁栄、田づくりは五穀豊穣、昆布巻きは喜び……時に言葉遊びを取り入れながら意味づけられた品々の解説に、愛依はふんふんと相槌を打ち、ホークスはそんな少女を横目で見守っている。

 

「ちしきがほうふ……かしこくなるってことで、合ってます、か?」

「そうですね」

「じゃあわたし、だてまき食べたい……!」

 

 目良の言葉を聞いて、愛依は笑うように意気込むように口角を持ち上げた。

 

「もっとべんきょうがんばって、もっとかしこくなって、……ちゆも上手にできるようになれたら、いいなあ」

 

 にこにこと笑う顔は無邪気そのもので、少女の発言に何の含みもないことは明らかだった。けれどそこに“微笑ましい”以外の感慨を抱いてしまうのは、普段から思うところがあるせいか。ホークスははたりと目を見張った後、その藤黄色を細めて微笑んだ。

 

「……そんなに頑張んなくてもいいんだけどなァ」

 

 少年が少女の頭を撫でると、その指の隙間を柔らかな白髪がさらりと流れる。それが心地いいのか、撫でられることが嬉しくて仕方ないのか。愛依はホークスの言葉に少しだけ不思議そうにしつつも、ふすふすと頬を蕩かせている。

 そんな幼い少女に、仕方ないなと言いたげに柔らかく微笑む。少年の慈しむような眼差しはその年に見合うとは言い難い。穏やかで、あたたか。そうした光を自分以外の誰かに全て注いでしまいそうな、そんな危うさも感じさせた。

 

(……本当に、困ってしまうくらい、いいこたちだ)

 

 そうさせているのは自分たち大人──そんなやり切れなさに目良はほろ苦く微笑む。けれどそれを露わにするのは狡い気がして、彼は努めて飄々と振る舞った。“さて”、とわざとらしく手を打って、少年少女に諭すように言う。

 

「甘いものばかりはいけませんよ、野菜も魚も肉もバランス良く食べなくては。……そうだ、海老食べましょう海老」

「? えび?」

「海老です。ホラがぶっといっちゃってください」

「……! 頭ついてる……!?」

「さすがに頭と殻は取りなね」

 

 隣に座るホークスが手本を見せるのに倣いながら、おっかなびっくりといった様子で海老を剥いていく愛依に、目良はそっと目を伏せた。

 

 ──“海老のように背中が丸くなるまで、長生きできますように”。

 そんなこじつけにすら縋りたくなったのだ。

 目の前で笑うこの子たちの笑顔が、枯れずに咲き続けますように。背中の紅白の羽根が、傷つくことなく飛べますように。

 

 ずっとずっと健やかに、長生きできますようにと。

 

「……? あの、目良、さん?」

 

 そんな風に思いを馳せていた目良だったが、呼び掛けに我に返る。気づいた時には少女の青い目が真っ直ぐこちらを向いていて、彼は驚きに瞬きひとつ。それからふと微笑んだ。

 

「どうしました?」

「えと、えび、上手にむけました!」

「本当だ、とっても綺麗に。なのでどうぞ食べ」

「目良さんどうぞ!」

 

 エッ、と声に出すのは何とか堪えたが、その眠たげな目は真ん丸に見開かれている。そんな目良の様子に肩を震わせながら、ホークスはにんまり笑った。

 

「目良さんも長生きしなきゃ、ですもんね?」

 

 少し生意気そうに笑いながらも、その目に労りの色が窺える少年に、意気揚々と海老を差し出して目をきらきら輝かせる少女。2人を前に目良は呆気に取られ、暫くした後に右手で顔を覆った。

 

「まったく、君たちは……」

 

 隠した手の中で、くしゃり、噛み締めるように笑う。そうして深く息を吸って、吐いて。顔を上げた時にはいつも通りの眠たげな顔で、けれどいつもより少し、あたたかく笑っていた。

 

「ではお言葉に甘えて、頂きます」

「はい! いっぱい食べて、いっぱい長生きしてくださいっ」

「これ食べるたびに残機が増える感じですかね」

「ざんき?」

「長生きパワーって感じのやつ」

 

 だいぶふわっとした解答をしつつ、ホークスは愛依から視線を移し、目良をじとりと半眼で見やる。

 

「まァ目良さんには? 海老で栄養摂ってもらうのもいーんですけど、ちゃんと寝てもらわなきゃってのもあるんですよ。わかってます?」

「1日4時間睡眠厳守を今年の抱負にします」

「! 目良さんまたねてない、ですか?」

「おっと藪蛇」

 

 むぅ、とむくれそうになった愛依を誤魔化すべく目良は立ち上がった。パンパンとややわざとらしく手を叩く。

 

「さてと、うかうかはしていられません。お餅もあるんですからね」

「おもち……! はいぶこうだほう、ふくぶつきあげほう……!」

「何でさっきから餅詰まらせる前提??」

 

 ……というよりは、習った言葉を反芻して覚えたいのと、使いたいのと、両方なのだろう。そう察したホークスは「まァ好きにさせてあげるか」とやんわり笑い、愛依の肩を叩いた。

 

「ホラ、お餅どうやって食べる? 確かきなこと砂糖と醤油と海苔はあったから、甘いのもしょっぱいのもいけるよ」

「煮るのも焼くのもお好きにどうぞ」

「えっ? ええと、えっと、」

 

 “どうしよう”、と小さな声で呟く愛依に、“どうしたの”とホークスが問う。そんな何でもないやり取りに少女はふわりと眉を下げて微笑んだ。

 

「おいしいこと、たのしいこといっぱいで、まよっちゃう」

「ふは、……ン、そうだね」

 

 交わす眼差しでさえ、こんなにもあたたかい。きっとその頬も、心までもがぬくいんだろうなあと思って、ホークスは笑みを深めた。

 

 美味しいこと。楽しいこと。嬉しいこと。あたたかいこと。そんな幸せばかりに埋もれて、困りきってしまえばいい。

 

(そんな1年に、してあげなきゃね)

 

 決意と願いを込めて、少年はまたふすふす笑う少女の頭を撫でてやった。

 

 



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雄英高校入試編
01.少女、日常を送る。


 

 救助、避難、撃退とは、ヒーローに求められる基本三項である。災害から人々を避難させ、救助すること。ヴィランから人々を避難させ、ヴィランを撃退すること。ヒーローの活動とは基本的にそうしたものが主だと言われている。

 けれど多種多様な“個性”の存在、それに伴う社会情勢の複雑化を前に、ヒーローもそれだけではいられなくなった。“やろうと思えば誰だって何だってやれる”超人社会であるからこそ、表沙汰にできない、水面下での悪巧みが絶えない。そうした悪事を暴くために、ヒーローにも潜伏、諜報といったスキルが求められるようになった。

 

 【特別なヒーローになるためのプログラム】とは、基本三項に加え、諜報活動にも特化したヒーローを育てるために公安委員会が組んだものだ。

 かつてホークスが受けたそれを、わたしも受けている途中で、日々訓練を続けているのだけれど……。

 

「……っ」

「疲労に気を取られるな。集中しなさい」

「、はい」

 

 注意を促され、深く息を吸い込んだ。弾む呼吸を無理やり整えて、飛ばした羽根の動きに意識を集中させる。

 わたしの保持する“個性”【翼】は、その羽根の1枚1枚を射出したり形状変化したりできる。また、羽根は身体から離れてもある程度は感知でき、その振動から遠く離れた音を聞き取ることも可能だ。──“個性”を上手く使うことさえできれば。

 

「……ぅ、く……!」

 

 隣室にいる密やかな話し声を聞き取ろうと羽根の感度を上げれば、他の音まで拾ってしまう。一階上のフロアーを歩く人の足音、エアコンの室外機の音──そして何より、この部屋で妨害用にと鳴らされているラジオの音が鼓膜を破りそうな大音量で、頭が、がんがん揺れる。

 

「──そこまで」

 

 ピ、とラジオの電源を切りながら、今日の訓練の担当官がそう告げた。その瞬間、張り詰めていた気が緩んでどっと汗が吹き出た。は、は、と、整わない息が、恥ずかしい。

 

「隣室での会話内容は? 要点のみ報告を」

「っ……指定ヴィラン団体である“い組”と“ろ組”による麻薬取引の段取り。“い組”からはハヤマという人物が、“ろ組”からはニイミという人物が現場に来るとのこと、で……取引現場は横浜市の◯◯地区の港にて行う」

「取引の日時は」

「……聞き取れません、でした」

 

 単なる世間話や腹の探り合いもあって、計1時間ほどの会話を盗聴していたのだけれど、最後の最後に話していた取引決行の日時は聞き取れなかった。集中力や体力の低下による感知能力の低下、……まだまだ未熟だ、と歯噛みする。

 

「課題は、自分でわかっているね」

「はい、……今回のミスは、わたしの集中力や体力が足りないために羽根の感知能力が最後まで働かず、起こったものです」

「その集中力や体力の低下は、次回はどう防ぐ?」

「……え、と……トレーニングによって、体力を強化する、とか……」

 

 思い浮かぶ打開策がそれしかなく、自信のなさから声が萎んでいく。なんとなく担当官の顔が見られなくて、俯いた時だった。

 

「そもそも羽根の使い方が下手くそだよ。そこから見直さなきゃね」

 

 背中に掛けられた声にバッと振り返ると、そこには扉を開けて部屋に入ってくるホークスの姿があった。どうしてここに、とか、いつから訓練見てたの、とか。いろんな疑問は一旦置いておいて、彼に向き直る。

 

「ホークス、下手くそっていうのは……」

「盗聴するために羽根に意識を集中させたでしょ?」

「? ……はい、して、ましたけど」

「隣室に忍ばせた羽根のみに限定しては、なかったよね」

「……!」

 

 ホークスの指摘通り、わたしは羽根全てに意識を集中させていた。だからあんなにも広範囲の音を拾ってしまっていた。大音量の無数の音に囲まれて、必要な情報を聞こうとすればするほど雑音のボリュームを上げてしまっていたのだ。理屈はわかった。

 ……でも、理屈がわかっても実践できるかどうかは、また別の話だ。わたしが露骨に眉を下げたのがわかったのか、ホークスが肩を竦める。

 

「羽根を限定しての精密動作は、まだ慣れない?」

「……はい」

「じゃあ次はその訓練だね。……できる?」

「っ、やります!」

「いい返事」

 

 口の端を吊り上げて、面白そうに目を細めて、ホークスが笑う。……きっとホークスがわたしの年の頃には、もうこんなことで躓かないくらい“個性”を使いこなしていたんだろうな、なんて、ぼんやり思う。いくらこの【翼】が生まれ持ったものではない(・・・・・・・・・・・・)とはいえ、こんなに手こずるなんて、……情けない。

 

「今日の訓練はここまでとする。ホークスの指摘通りに明日の訓練は進めるよう、次の担当官に伝えておく。課題は確かに多いが、……着実に以前より聞き取れるようになっている。今後も励むように」

「……はい。ありがとう、ございました」

 

 あまりに酷い顔をしていたのかもしれない。担当官のフォローを申し訳なく思いながら一礼する。彼が部屋を出ていって、パタン、とドアが閉じる音がしてから、……はあ、と大きな息を吐き出した。

 

「随分お疲れのようで」

「うう……返す言葉もない……」

 

 訓練時に座っていたパイプ椅子にもう一度腰掛ける。前に向かって上体を倒して項垂れると、ぎし、と軋む音がした。

 

「……ラジオうるさかった……まだ耳の奥でガンガン鳴ってる気がする……」

「あー、わかるわかる。【剛翼】で音を聞き取るの、俺も最初苦労したし」

「ええ……ホークスも?」

「うわ、あからさまに信じてなさそうな顔」

「だって……、」

 

 だって、担当官の人たちは言葉に出してわたしとホークスを比較するようなことはしないけれど、この訓練をしたらこう成長する、といったような見込みが明らかに高い水準に設定されているのだ。それは同じプログラムを受けてきたホークスが、わたしより速く、優秀な成績を修めてきたということに他ならない。

 わたしよりずっと飲み込みも早くて優秀で、そんなホークスにも苦労する時期があったのだと聞かされても、現実味がないというか……。

 

「……そんな子には、こうだ」

「っわ!?」

 

 ひた、と項に押し当てられた冷たい感覚に声が裏返る。慌てて顔を上げると、ペットボトル片手にホークスが笑っていた。いたずらに成功した子どものような、気の抜けた笑顔で。

 

「も……っもう、ホークス! びっくりした……っ」

「相変わらず驚かせ甲斐があるなァ」

「にやにやにこにこしないで!」

「ハイハイ」

 

 こっちが怒ってもどこ吹く風とばかりに、ホークスは笑う。余裕だ。微笑ましいものを見るかのような視線に、わたしばかり心が動く。わたしばっかり、怒るし、恥ずかしいし、嬉しい。

 

「……お水、もらうね。ありがと」

「どーいたしまして」

「ホークスの分は?」

「俺はさっき飲んだからいいよ」

 

 ペットボトルに口をつけて、ひんやりした水を飲みながら、隣のホークスを窺う。その横顔は涼しげで、確かに、疲労をおして無理をしているようには見えない。

 

「こっちにはいつ着いたの?」

「3時くらいかな。それから事務所に連絡とか色々して、おまえが訓練中って聞いたから見学に来た」

「そう、……今日ここに泊まる?」

「そのつもり」

「……そっか」

 

 九州で事務所を構え、本拠地を中心に文字通り全国を飛び回って活躍しているホークスは、それはもう多忙を極めている。そんな中でここに来て、わたしに会って、話をしてくれる。それがなにかのついでだったとしても、嬉しい気持ちが止められない。

 今日はここに泊まるってことだし、もう少し話せるかな、とか、夕御飯は一緒に食べられるかな、とか、口許がにやけそうになるけれど、いやホークスは忙しいんだからゆっくり休んでもらわないと、という気持ちがせめぎあいになって、わたしは素知らぬ顔をして頷いた。

 

「……愛依(あい)、」

 

 わがままを言ってはだめ。

 ……ちゃんとわかっているのに、そんな優しい声で、名前を呼ばないでほしい。

 

「な、に?」

「お腹すいたでしょ。着替えたら一緒に飯食お」

「っ、い、いいの?」

「なァに遠慮しちゃってんの。そんな遠慮しいには……そーだ、訓練頑張ってたし、デザートは好きなの買ってきてやろっかな」

「え、あ、ほー、くす、」

「うん?」

 

 なに?、と向けられる眼差しまで優しいから、本当にこの人は、ずるい。

 

「……啓悟くん、ありが、とう」

「ふは、どーいたしまして」

 

 ……本当にこの人は、わたしを甘やかすのが上手だ。

 ずっとずっと昔から、そうだった。

 

「んじゃ、上に上がりますか。俺も着替えてきたいし」

「う、ん。わかった」

 

 頷いて立ち上がる。部屋を出た後はカードキーで施錠して、上へと繋がるエレベーターを、これもカードキーで起動した。一つ一つ面倒ではあるけれど、ここの存在は機密事項に当たるから仕方ない。

 ここはヒーロー公安委員会が所属するビル。公安の人だけじゃなく、ヒーローや警察の人もたくさん出入りするけれど、この地下の施設を知っているのは一部に限られる。地下1階から5階までのフロアーはさまざまな訓練を想定してつくられており、吹き抜けの高さのある部屋や、市街地みたいに入り組んだ部屋などがたくさんあって、わたしやホークスはそこでさまざまな訓練を受けてきた。公安の言う、【特別なヒーロー】になるために。

 【特別なヒーロー】とは、基本三項に加えて諜報活動に特化したヒーローを指す。そのためなのかは知らないけれど、ホークスやわたしは本名を捨てた。役所にある戸籍を確認しても、“鷹見啓悟”という人間も、“癒月(ゆづき)愛依(あい)”という人間もいないだろう。そうして存在しないはずのわたしたちは、公安によって秘密裏に育てられた。

 

「んじゃ、着替えたらまたここで集合で」

「うん。またあとで」

 

 ビルの奥まった廊下の、そのまた奥。普段はあまり誰も通りかからない廊下の隅の、“仮眠室”とプレートの提げられた部屋。それがわたしとホークス、それぞれの部屋だった。斜向かいの部屋に入って行ったホークスに手を振って、わたしもわたしの部屋に戻る。

 だいたい10畳ほどの1LDK。ユニットバス付き。もう目を閉じていたってだいたいどこに何があるかわかる。なにせ、3歳の頃から使ってきた部屋だ。もう11年ほどになる。それだけ長い間、わたしはここで、公安の庇護の下に暮らしてきた。

 この自室と訓練所とを往復するような毎日だけど、外には滅多に出られない日々だけど、それでもそこまで苦じゃなかったのはホークスが傍にいてくれたからだろう。彼がヒーローになってからはあまり会えなくなったけれど、それでもこうして、多忙な日々の隙間を見つけて会いに来てくれる。

 

「……早く行こう」

 

 脱ぎ捨てた服を洗濯機に押し込んで、軽く顔を洗って汗を吹いて、……汗臭いのは嫌だから制汗剤を使って。そうしてクローゼットから取り出したワンピースに袖を通した。翼を出して、姿見で確認する。前髪を手櫛で整えて、小走りでドアを開けた。

 

「お、来た来た。急ぐことなかったのに……そんなに楽しみだった?」

「い、急いでないよ」

「ほんとに?」

「ほんとに!」

 

 けらけらと面白そうに笑うホークスは、わたしの意地っ張りも全部全部見透かしているんだろうな。ずるいけど、面白くないけど、それでもいい。そんなことよりずっとずっと、一緒にいられることが嬉しい。

 わたしは笑って、今日は何食べる?とホークスに尋ねる。いつも美味しい食堂のごはんが、今日はよりいっそう美味しいだろうな、なんて思いながら。

 

 

01.少女、日常を送る。

 

 


 

 本編では【特別なヒーロー】=諜報活動に特化したヒーローであるという描写はありませんし、公安委員会のビルの地下に訓練施設はありませんし、戸籍がどうのビルから出ないで暮らしていただのは全て独自設定です。

 これからもこんな風に息をするように独自設定が盛り込まれていきます。ご注意ください。

 

 



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02.少女、青天の霹靂。

 

 それは3月の終わり。もうすぐ春を迎える、少し肌寒い日々の中でのことだった。今日の分の訓練を終えて一息ついたわたしに、会長から「話がある」と入電があり、珍しいなと思いつつ部屋に向かったわたしを出迎えたのは、驚きの言葉だった。

 

 

「突然だけれど、あなたには来年度の雄英高校ヒーロー科の入学試験を受けてもらうわ」

 

 

 ヒーロー公安部の会長を務めるのは女性だ。確かな年月をしっかりと積み上げてきたとわかる、上品で綺麗で、いつも冷静なご婦人。そんな彼女は冗談を言う人ではないと知っているけれど、それでもわたしはぽかんと大口を開けてしまった。

 

「驚いたかしら」

「お……驚き、ました。というかその、本当なんですか?」

「エイプリルフールはまだ先よ」

「そ、そうなんですけど、でも……」

 

 確かにわたしは14歳で、本来ならもうすぐ中学三年生で、再来年度から高校一年生になってもおかしくない年ではある。けれどわたしは今まで一度も学校というものに通ったことがない。それが当然だと、思っていたから。

 

「……質問しても、いいですか」

「ええ」

「……【特別なヒーローを育てるためのプログラム】は、公安での訓練が主で、……学校には通わないと記憶していたのですが」

 

 思い起こされるのは、ホークスが辿った十代の記録。わたしの先輩にあたる彼は、幼少の時に公安に保護されて以降、秘密裏に教育されるために学校には通っていなかったはずだ。わたしもそれをなぞるように、今まで小学校にも中学校にも行っていなかった。

 それなのになぜ、と問いかけたわたしに、会長はいつもの冷静な顔で、冷静に頷く。

 

「あなたの疑問は尤もね。我々もつい先日までは、あなたもその方針で育てるつもりでいたから」

「……それでは、どうして?」

「理由は三つ。まず一つは、あなたの保持している【治癒】の“個性”。【治癒】系の“個性”は非常に希少ということは、あなたも知っているでしょう」

「……今は、雄英高校の養護教員であるリカバリーガールを筆頭に、2、3人しかいないと言われていますね」

 

 以前知らされた情報をなぞるように唱えれば、会長はまたも頷く。

 

「そう。そして希少かつ有用な個性ゆえに、【治癒】系“個性”を持つ者には義務教育終了以降、リストに名を載せる義務が生じる。非常時に協力を要請できるように。

 そうしたリストがあるにも関わらず、いきなりヒーローとして社会に出ると、それまでの過去を必要以上に詮索されかれない」

「……どうして今までリストに登録しなかった、協力しなかった、って追及されるということですか」

 

 『今まで何していた』と問われれば、わたしの過去を洗い、公安まで辿り着く人がいるかもしれない。わたしだけ非難されるならまだしも、そこでホークスについての情報が明らかにされてしまうのはまずい。

 

「そう。そして二つ目の理由は、今あなたが考えているホークスに関係しているわ」

 

 思考していたのを見透かされたような発言に、わたしは取り繕えずに目を見開いた。すぐ、それを咎めるような眼差しを投げられる。

 

「わかり易過ぎる。減点よ」

「……すみません」

 

 『心情を悟られるな。表に出すな』……そう何度も言われ続けてきたというのに、わたしはまだうまくいかない。頭を下げたわたしに一つ息をつき、彼女は話を再開させる。

 

「ホークスは予定した通りのプログラムを終え、18歳でプロデビューを果たした。以来、破竹の勢いで事件を解決し、No.3まで登り詰めた。社会も、メディアも、彼に注目している──し過ぎている」

 

 そう。有能過ぎたか勤勉過ぎたか、ホークスは公安の人たちの予想を遥かに超えて有名になり過ぎた。そこまで有名になれば、それまでの過去に焦点が当てられても仕方ないと思われたのに。

 

「『ミステリアスなところもいい!』、でしたっけ。なんだかんだでメディアが良い風に受け取ってくれて、そこまで大事にはなりませんでしたね。エッジショットさんという前例もありましたし」

「そうね。こちらが気を揉む以前に、うまく煙に巻いてくれた。露出の操作はさほど意味は無いと教えてくれたわ」

 

 ふう、と少し遠い目をして息を吐く。そうして会長はわたしを見据えた。真っ直ぐに透き通る、氷のような目。

 

「秘密裏にあなたを育てても、表で育てても、同じ。ならば【治癒】系“個性”持ちのリストの件もあるし、高校は通わせようと意見が出たのよ。ここまではいいかしら」

「はい。……ではなぜ、雄英なのでしょうか」

 

 今や日本中にヒーロー科のある高校は星の数ほどある。その中でも最高峰と謳われる雄英高校に限定されるのには、きっと訳があるのだろう。

 わたしの問いに、彼女はそうね、と静かに返した。

 

「それが三つ目の理由にあたるけれど、あなた、察しはついているのではなくて?」

「……リカバリーガール、ですか?」

 

 雄英の屋台骨とも称される、【治癒】の“個性”を持つ大先輩でありその道の第一人者である彼女の名前を挙げれば、首肯が返ってくる。

 

「そうよ。あなたの保持する“個性”のうち【翼】に関しては、ホークスのデータもあるしこちらの者で指導できる。けれど【治癒】については不可能、……より効率良く伸ばそうとするならば、その道のプロに委ねる他ない」

 

 確かに、と相槌を打ってわたしは頷いた。確かに会長の言う通り、さまざまな状況を鑑みても雄英高校に通う他ないのだと思わされる。

 それでも、胸の中のもやもやが消えないのは、きっと。

 

「あなたがどう思おうと、これは決定事項よ」

「……、わたしまた、顔に出てましたか?」

「ええ。わかり易過ぎるのは減点と言ったのだけれど」

「……すみません……」

 

 俯くわたしに会長の視線が注がれる。彼女はふう、と溜め息を吐いた。

 

「今日はこちらに来ているそうだから、直接話を聞いてきなさい」

「……、え、」

「あなたを雄英に進学させることに、一番賛成していたのは彼だったわ」

 

 その、言葉に。わたしは目を見開くと同時に、きゅっと唇を噛み締めた。

 

 

 

 

 

「──ホークス!」

「お、なになにそんな怖い顔して」

 

 食堂で見つけた赤い翼に駆け寄ると、彼ははじめ、いつものようにへらりと笑っていたけれど、わたしの顔を見て笑顔の色を変えた。何かを察したような、眉を下げた笑みに。

 

「雄英の話、聞いたんだ」

「……っなんで、ホークス、なんで……?」

「あーはいはい、まずは落ち着いて」

 

 ぽんぽん、と宥めるように肩を叩かれても、落ち着いてなんていられない。そんな気持ちのままホークスを見上げて見つめる。彼は根負けしたように、仕方ないなァ、と肩を竦めた。

 

「ここじゃなんだし、部屋に行こ。そこでちゃんと話すから」

 

 そう言われてやって来たホークスの部屋で、わたしはソファーを勧められて腰掛けた。飲み物でも用意するよ、と腰を浮かせたホークスの袖を握って、引き留める。

 

「いいよ、いらない。……話して、くれるんでしょ?」

「……せっかちだなァ」

 

 苦笑を浮かべて、ホークスはソファーに座り直した。彼は静かにわたしを見つめる。わたしの言葉を、待っている。その視線に促されて、聞きたかったことを尋ねるために口を開いた。

 

「会長たちに、わたしを雄英に通わせるよう勧めたのは、ホークスなんだよね」

「俺だけじゃないけどね」

「……どうして?」

「どうしてって、気に入らなかった?」

 

 緩く首を傾げて、ホークスは微笑む。

 

「学校、ずっと、通いたかったんでしょ」

 

 その声が、笑顔が、あまりに優しいから。

 だからこそわたしは、ぎゅうと胸が締め付けられるようで、泣きそうになるのを必死に堪えた。

 

「っ……でもそしたら、ホークスはどうなるの。わたしだけ、こんな、……こんな……」

 

 今でも思い出す。公安のビルの窓から外を眺めて、わいわいしながら登校していく子どもたちを見ていたこと。学校からの帰り道、疲れたなんて話しながら楽しそうにしていた彼らのこと。背負えなかったランドセル。着られなかったセーラー服。本を読んで知識ばかり増えても、それは絶対に届かなくて。

 こっそり泣いていたわたしを、いつもホークスは見つけて、頭を撫でてくれた。慰めてくれた。……そんなホークスだって、寂しそうな顔をしていたくせに。

 

「あー……もー、なんで泣くん」

 

 堪えきれずに溢れた涙は、頬を伝って膝小僧を濡らした。嗚咽を噛み殺すわたしの背を、とん、とん、とさすってくれる。困らせたいわけじゃないのに、涙腺がいうことをきかない。

 

「っく、ぅ、な、泣いてない……っ」

「いやさすがにそれは無理があるでしょ」

「……っう、ぅぅ……」

「……ホラ、あれだって。俺が今から高校生とか無理でしょ。制服姿想像してみ? アウト臭ヤバいって」

「……ブレザーも、学ランだって、似合うよ……」

「それもさすがに無理がある」

 

 はは、と掠れた笑い声が聞こえて、わたしは涙を拭って顔を上げた。泣いてびしょびしょになったわたしの顔を見て「鼻真っ赤」だなんて言って、また笑っている。

 

「……どうして、笑ってるの? わたしだけ学校通うなんて、ずるいでしょ。どう、考えたって……そう思うのが、当たり前で……」

愛依(あい)、」

 

 ぽん、とわたしの頭に彼の大きな手が乗った。ゆったりと撫でられるようにして、上を向かせられる。ホークスの優しい藤黄色の目と、目が合った。

 

「俺はもう、一番なりたいものになれたから、いいんだよ」

「……ヒーローに?」

「そ。愛依もヒーローになりたいんだよね?」

「っうん」

「でも、まだ訓練中」

「……うん、」

 

 そうだ、わたしはまだ、彼には遠く及ばない。【ウイングヒーロー ホークス】には、まだまだ、もっと頑張らないと追いつけない。

 頷くわたしに、「ならさ、」とホークスは言う。

 

「ヒーローになるまでの間、“高校生”にだってなってもいいんじゃない?」

 

 それぐらいのわがまま、叶えさせてよ。

 そんなことを軽い口調で、それでも柔らかな声で言うから。だからわたしは、まるで丸ごと許されているような、そんな気持ちになってしまう。

 

「……いいのかな、そんな、……恵まれすぎてる、よ……」

 

 ぽろりと涙が一筋こぼれる。それを指先で拭って、ホークスは目を伏せた。ひどく、切なそうに、口許に微笑を浮かべて。

 

「……本来なら、当たり前のことなんだよ。そんなに感謝されることじゃない」

「当たり前なんかじゃ、ないよ」

 

 そう、当たり前なんかじゃない。こんなわたしに、大切な人が、優しくしてくれてる。願いを叶えてくれている。

 それが奇跡じゃなくて、他になんといえばいいんだろう。

 

「……っわたし、わたし、頑張るね、啓悟くん」

 

 雄英高校のヒーロー科は国内最高峰と名高く、その倍率は例年300を超える。でもそんなことは大した難関じゃないと、そう思えるくらい、わたしの心は光に満ちていた。

 

「絶対に受かってみせるから……見ててね、啓悟くん」

「うん。応援してるし、信じてる。……できるよね?」

「! っうん!」

「いい返事」

 

 大切な人がつくってくれたチャンスを、絶対に掴む。

 その決意を新たに、わたしは微笑んだ。

 

 

 

02.少女、青天の霹靂。

 

 


 

 ホークスは学校に通ってたか定かじゃないですけど、とりあえずこの小説内ではこんな感じです。それにしてもhrks先生によるミルコとのイラストは最高でしたね。

 



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03.寝ぼけ眼、見守る。

 

 眠い。眠たい。寝たい。そんな気持ちが目蓋を重くする。コーヒーという名のカフェインで無理やり眠気を散らすも、身体のじんわりとした疲労感は抜けきらない。瞬きほどの一瞬の気の緩みで、フッと意識が飛ぶ。重力に従ってパイプ椅子の背もたれに身体を預けると、ぎしり、軋む音がやけに大きく響いた。

 

「め、目良さん、目良さん、」

 

 控えめな呼び掛けとともに、肩を揺すられる。

 

「寝るならちゃんと、仮眠室で寝た方が……」

 

 ここはヒーロー公安委員会の事務仕事をするためのデスク。今日も今日とて同僚たちはみな血眼になりながらデータの集計、分析、報告書の作成をしている。誰かの淹れたコーヒーの匂い。古びたコピー機のガガガという悲鳴。激情を叩き付けるかのようなキーボードのタップ音。その中で聞こえる小さな少女の声は、かえって、なかなかに異質だ。

 

「……ああ、君ですか……」

 

 重い目蓋を抉じ開けると、思った通り、あの少女の姿があった。白い髪に白い肌、白い翼。こちらを心配そうに窺う目だけ、空を映したような青色だ。秘密裏に育てられ、訓練や勉学に追われている彼女が、こうしてこの場にやって来るのは珍しい。何かあるのだろうと視線をやれば、そっと後ろ手に何かを隠すのが見えた。

 なるほど、と思う。この子はまた、遠慮しいになっている。

 

「手に隠したメモを見せなさい。なにか頼むものがあったのでしょう?」

「! ……えと、でも、目良さん寝なきゃ」

「今寝たら一生起きられないような気がするので」

「……目良さんも冗談言うんですね」

「冗談じゃありませんよ」

「なお悪いじゃないですか!」

「冗談です」

「……どっちですか、もう」

 

 苦笑も笑顔の一つだ。少し気が緩んだのか、彼女は手にしたメモをおずおずと差し出した。昔からこうして、気軽に外に出られない彼女の代わりに必要なものを買いに行っていたのだから、少しくらいは慣れてくれてもよいものを。いつも彼女は、こうして遠慮がちに目を伏せてしまう。

 

「子どもが変な気を回さないの」

「……、はい、目良さん」

 

 お願いします、と小さな声で言った彼女に、いいですよ、と返す。メモを見てみると、“雄英高校の入学試験の過去問題集”とあった。

 

「……ははあ、なるほど。そういえば君、雄英高校を受験することになったんでしたね」

「は、はい」

「僕なんぞを心配している場合ですか。君だって受験勉強大変なんでしょう。目に隈ができてますよ」

「だ、大丈夫です。それに隈っていったら、目良さんのがすごいことになってますし」

「僕は大人だからいいんです」

「へ、屁理屈だ……」

 

 そうです、大人は屁理屈を言う狡い生き物。そして子どもは、我が儘を言ってもいい生き物なのです。

 それを今、僕が伝えたところで、この子どもは納得しないでしょう。眉を下げて笑って、「そんなことないです」と言うのでしょう。昔からそうなのだから。そうさせたのは、僕たちなのだから。

 

「……受験勉強のおともにでもどうぞ」

「わっ、……ふふ、じゃあ、わたしからも、どうぞ」

 

 ころんと飴玉を手のひらに転がしてやれば、少女もお返しとばかりに僕に飴玉を渡してくる。飴玉の交換。昔からの約束事に、この子どもは本当に嬉しそうな顔をする。

 

「……じゃあ、過去の問題集を買ったら君の部屋に届けに行きますね。不在だったらドアノブのところに袋ごと掛けておくので」

「え、だ、駄目ですよ。手間になっちゃうじゃないですか。わたしが取りに行きますし……そんな時間があるなら少しでも寝てください」

「言ったでしょう。子どもが変な気を回さない」

「……、ごめんなさい」

 

 ふふ、と唇が笑っている。それを見てほっとしてしまう自分がいる。子どもが心配されて嬉しくなって笑う──ただそれだけのことが、かつては、当たり前ではなかったのだから。

 

 

 

 

 あれから2日ほど経って、ようやく本屋に買いに行けた僕は、問題集の入った手提げ袋を片手に少女の部屋へ向かっていた。どのオフィスもないからかあまり人の立ち入らない階の、奥まった廊下の先、そこに彼女や彼の──いないはずの子どもたちの部屋がある。

 

「……、」

 

 目を丸くする。古くなってきたのか少しぼやけた光を放つ自動販売機。その横に置かれたソファーに、鮮明な赤が陣取っていた。……より正しく言うなら、赤い剛翼を備えた青年、ホークスが座っていた。

 

「ホークス、こちらに来て、……」

 

 来ていたんですね、と言いかけた時、ホークスが唇の前に人差し指を立てた。静かに、のポーズに自然と口をつぐむ。視線はホークスの隣に注がれた。そこに、青年の肩に寄り掛かって、微かな寝息を立てる少女の姿があった。

 

「……寝てます?」

「話してたら、ついさっき。寝不足みたいですね」

 

 まあ目良さんほどじゃないでしょうけど、と。ホークスは静かな声で笑う。彼はソファーの空席を指してどうぞと僕に促したけれど、僕は固辞し、手に持っていた袋を渡した。

 

「彼女に頼まれていたものです。この子が起きたら渡してあげてください」

「了解ですけど、目良さんは?」

「僕は仕事があるので」

「真面目だなァ、少しくらい休んでいったらいいのに」

「寝るために仕事するんです」

「……それほんとヤバい考えになってますよ。マジでほどほどにしといてくださいね」

 

 ホークスがわりと真剣な顔で言うけれど、僕だってワーカホリックではない。……いやその気は多少あるものの、それだけじゃない。

 

「僕だって、少しは気を使えるというだけですよ」

 

 この子たちの邪魔をしたくないという、それぐらいの気は使えるだけ。だって、そうだろう。そうでしょう、ホークス。

 

(なんとまァ、大切そうに見つめるものだ)

 

 眠る彼女が風邪を引かないようにと、赤い翼で覆ってやっている青年の顔は、この上なく穏やかで。No.3ヒーローとして広く顔が知られている彼の、こんな表情を知っている者が、一体どれほどいるというのか。

 

「では、また。ホークス、あなたも風邪を引かないように」

「はは、はい。目良さんこそ気をつけて」

 

 ひらりと手を振って、僕はその場から離れた。静かな廊下だ。革靴の足音でさえ、こんなに響いてしまうほどに。

 こんなに静かな場所で、息を潜めるように生きてきた。悲しいことも苦しいことも、僕たち大人には見せずに、彼らは互いを拠り所として生きてきた。……そんな彼らが、片方はプロヒーローとして飛び立ち、そしてもう片方も、広い世界へ飛び立とうとしている。

 

「……子どもは巣立つべき、ですね」

 

 そして大人は、それを見守り、支えてやるべきだ。

 ひとりごちるこの声が彼らに届くはずもないけれど、そうあってほしいと願いを込めて、静かに静かに目を伏せた。

 

 

 

03.寝ぼけ眼、見守る。

 

 


 

 目良さんが好きなので身勝手に絡ませます。口調やキャラが迷子ですが独自設定ということでひとつお許しを。

 



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04.少女、受験する。

 

「今日は俺のライブにようこそー!!! エヴィバディヘイセイ!!!」

 

 ……なんだか本当にライブハウスでの台詞に聞こえるけれど、ここは雄英高校。2月26日。わたしは受験生の一人としてここに訪れていた。すり鉢状になった大きな講堂。その中央にはボイスヒーロー・プレゼントマイクが声を張り上げている。

 

「こいつァシヴィー!!! 受験生のリスナー! 今から実技試験の概要をサクッとプレゼンするぜ! アーユーレディ? YEAHHH!!!」

 

 講堂を埋め尽くすほど膨大な数の受験生。毎年倍率が300を超えるとされているから、きっと一万人ほどの人がいるのだろう。その誰もがプレゼントマイクのテンションに着いていけないのは、みんな、この試験に真剣に挑んでいるからだろうな。かく言うわたしも、朝からずっと胸がざわざわして落ち着かない。

 

(……頑張らなきゃ、)

 

 公安の人たちから訓練をつけてもらってきた。勉強だって頑張ってきた。ホークスにチャンスを貰った。……これだけやってきたのだから、わたしは合格しなくちゃいけない。合格、してみせる。

 

「……ついでにそこの縮れ毛の君!! 先程からボソボソと……気が散る!! 物見遊山のつもりなら即刻ここから去りたまえ!」

 

 近くに座っていた眼鏡の男の子もピリピリしているけれど、それだけこの試験に対して真剣なんだ。気を取り直して、モニターに映し出された概要を再度確認する。

 

 10分間の模擬市街地演習。仮想ヴィランが3種、多数用意されていて、受験生はそれらを“行動不能”にさせたら該当のポイントを得られる。アイテムの持ち込みOK。受験生同士の攻撃はNG。……そして、

 

(0ポイントの、お邪魔虫、ね)

 

 なんだか色々考えさせられそうな試験だなあと、小さく息を吐く。思わず胸元を握り締めたのは不安の表れだったのかもしれない。

 

「俺からは以上だ! 最後にリスナーに我が校“校訓”をプレゼントしよう。かの英雄ナポレオン=ボナパルトは言った! ──『真の英雄とは人生の不幸を乗り越えていく者』と!!」

 

 でも。それでも。

 わたしだって、乗り越えていきたい。

 

「“Plus Ultra”!!それでは皆よい受難を!!」

 

 

 

 

 

 

「──やあっ!」

 

 上空から羽根を操作して仮想ヴィラン──ロボットに差し向ける。狙うはロボの足部分の繋ぎ目。回路を深く傷つけると、自重を支えきれなくなったロボットはバランスを崩してその場に転倒した。

 

「よし、これで28ポイント……!」

 

 ぐん、と気流を捕まえて上昇する。上空から市街地を俯瞰して見下ろすと、始めはそこかしこに溢れていたロボも残り僅かとなっていることがわかる。制限時間も、あと少し──

 

「!」

 

 ふと目に入った光景に、頭で考えるよりも先に翼をはためかせていた。耳許で風が鳴る。それと同時に、大きな大きな、ビルぐらいに巨大なロボが大通りにその足を踏み出した。─ー0ポイントの、お邪魔虫ロボだ。

 受験生たちはみんなその場から離脱し、別のポイントを持つロボへと向かっている。みんな、みんな、──一部の人を除いては。

 

「ッぐ、くそ……っ!」

 

 ロボが歩を進めるたび、ビルの群れを砂糖菓子のように崩していく。その瓦礫に足を挟まれて動けずにいる受験生がいた。そして、そんな彼の元に駆け付けようとする、一人の女の子が。

 

「ケロッ!」

 

 女の子ががぱっと大きく口を開くと、そこから長い舌が飛び出て瓦礫に挟まれていた男の子を掴んだ。彼女はそのままぐんと首を回し、男の子を安全な場所へと放り投げる。彼は女の子をびっくりしたように見ていたけれど、何も言わずに別の場所へ駆けていってしまった。女の子をひとり、残して。

 

「っ、そこの女の子!こっち!」

 

 その子にロボが迫るより速く、滑り込むように、わたしは彼女の元へ飛んだ。伸ばした手の意味を理解してくれたらしく、彼女は顔を上げてわたしの手を掴む。ぎゅっと落とさないように強く掴み直して、わたしは彼女を連れて上空へと飛び立った。後方で、瓦礫が踏み潰される音。もう少し遅かったら危なかったかもしれない。

 ひっそりと安堵の息をこぼしながら、わたしは少し距離を置いた地点に女の子を下ろした。彼女は丸く大きな目をわたしに向けて口を開く。

 

「助かったわ。ありがとう」

 

 ケロケロ、と笑う声や長い舌を見ていると、蛙を連想させる子だった。その大きな手の甲に切り傷を見つけて、わたしはその手を取る。

 

「ケロ?」

「ちょっとだけ、動かないで」

 

 傷口に手を当てて、意識を集中させる。じわりとあたたかい感覚が、わたしの手と彼女の手の中で溢れ出す。

 

「……誰かを助けてたの、すごく、格好よかったけど……でも、あまり無理はしないでね」

 

 そっと手を離す。そこにあった傷跡が綺麗さっぱりなくなっているのを見て、蛙の子はびっくりしたように目を丸くした。ちゃんと治ってることにほっとして笑うと、周りからざわり、と声。

 

「【治癒】の“個性”……!?」

 

 ……そういえば、公安での訓練以外に【治癒】を使ったのは初めてだった。珍しいとは聞いていたけれど、こんな反応されるとは思っていなくて、びっくりする。

 視線を反らして別のポイントに向かおうとしたわたしだったけれど、ざわめきの中から飛び出してきた男の子に呼び止められた。

 

「すまん、一緒に来てもらっていいか。負傷をした奴がいる。治癒を頼む!」

「、わかった。案内してくれる?」

 

 頭部が黒い鳥のような男の子は、わたしに頷いて走り出す。その後に着いて羽根を広げて飛んでいっていると、先導する男の子はちらりとこちらを見上げた。

 

「……すまん。試験中だというのに」

「……それは、……でも、あなたも、だよね」

 

 この男の子だって、時間制限のある試験中だというのに負傷者の救助を選んだ。誰かを救けようと、救けたいと思ったんだ。

 

「わたしも、そうしたいって思ったから、来たんだよ」

 

 だから、責任は感じないでね。

 そんなわたしの呟きに、男の子は視線を前に戻して、小さく「感謝する」と言ってくれた。それに「うん」と返して、わたしたちは急行する。

 

 彼のいう人物は、破壊されたロボの瓦礫に潰されていた。意識を失っていて、特に足の傷が深かったけれど、【治癒】の“個性”ですぐに治すことができた。彼の治療を終えたちょうどその瞬間、プレゼントマイクによる『終了』の合図が鳴り響いて。わたしはふぅ、とひとつ大きく息をついた。

 

 

 

 

 

 たった10分間の試験だったのに、それまでの緊張のせいか、起こった出来事のせいか、ひどく疲れた気がする。公安から用意してもらった体操服から制服に着替えた帰り道、うんと伸びをすると。

 

「そこのあなた、ちょっといいかしら」

 

 背後から声を掛けられて振り向く。そこには実技試験で会った蛙の女の子がいて、わたしは目を見開いた。

 

「あ……と、さっきの……」

「蛙吹梅雨よ。梅雨ちゃんと呼んで」

「つゆちゃっ? ぁ、えっと、その、」

 

 同年代の子と話すのも初めてなのに、いきなり名前呼びなんてしていいんだろうか。しどろもどろになるわたしに対し、蛙吹さんは落ち着き払っている。

 

「もしよければ、名前を教えてもらえるかしら」

「え、と……わたしは、空中(そらなか)愛依(あい)っていいます」

 

 受験にあたって、わたしは“愛依”という本来の名前と、“空中”という偽名を名乗ることになった。公安での協議の結果の末に与えられた名前を、口にする。

 すると蛙吹さんは「空中愛依ちゃん」、と呟いて。ケロリとわたしを見た。

 

「試験のお礼をもう一度言いたかったのよ」

「お礼なら、あの時もう言ってもらったよ?」

「その後の、傷を治してくれたことのお礼」

 

 隣り合って歩きながら、彼女はわたしに手の甲を見せ、ケロケロと微笑んだ。

 

「飛んで救けに来てくれたことも、傷を治してくれたことも、とても嬉しかったから、どうしてもお礼を言いたかったの。本当にありがとう」

「……!」

 

 試験中はいっぱいいっぱいだったけれど、こんな風に改めて「ありがとう」と言われると、なんだか、嬉しさで胸がいっぱいになってしまった。頬が熱くなるばかりで、わたしはうまく言葉と表情を繕えない。

 

「お互い雄英に受かったら、同じクラスがいいわね」

「う、うん」

「お友達になりたいわ。愛依ちゃんと呼んでもいい?」

「……っ、うん!」

 

 蛙吹さん、……梅雨、ちゃんの、言葉に、赤べこのように顔を赤くして頷くしかできない。ぽんこつにも程がある。けれど梅雨ちゃんはそんなわたしを笑わないで、同じ歩幅で歩いてくれた。しどろもどろになりながらも話をしながら、駅に到着する。

 

「あす、……えと、梅雨ちゃん、は、電車で帰るの?」

「ええ、私は愛知県出身だから。愛依ちゃんは?」

「……わたしは東京都なんだ。反対方面だね」

 

 嘘は言っていない。本当に出身は東京都だから。そんな風に心で思いながら、にこりと笑ってみせる。

 

「そうね、……ああ、もう次の電車に乗らなくちゃ」

 

 梅雨ちゃんは電光掲示板を見上げてそう呟いて、わたしに視線を戻す。にこり、けろり、と微笑んだ。

 

「愛依ちゃん、また、雄英で会いましょう」

「っうん、またね、梅雨、ちゃん」

 

 手を振りあって、彼女は改札の向こうに消えていった。蝶々結びにした黒髪が見えなくなっても、わたしはしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 

(……“またね”って、言ってくれた)

 

 “さようなら”というこれっきりの言葉ではない。彼女は、わたしが雄英に受かると信じてくれたのか、受かってほしいという願いの現れだったのか。どちらにせよ、心がじんわりあたたかくなる。また会いたいと、思ってくれた。……友達になりたいと、言って、くれた。

 彼女にとっては特別なことではないのかもしれない。それでもわたしにとっては、こんなにも大きい。滲んできそうな涙を誤魔化すために、ぎゅっと目を瞑った。

 

 

04.少女、受験する。

 

 


 

 演習試験会場は緑谷とも爆豪とも違うという設定。A組の中でも特に大好きな梅雨ちゃんと常闇くんと一緒にしてみました。

 この二人とはこれからも絡ませる予定です。

 



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05.少女、合格する。

 

 雄英高校の実技試験と筆記試験を追えて1週間が経ち、願書に書いていた住所宛に雄英高校からの通知が届いたとの知らせがあった。会長に呼び出されて受け取った封筒を、ペーパーナイフを借りて開く。中に入っていたのは紙だけではなく、円盤状のなにかがころんと出てきた。机に転がったその途端、円の部分から出た光が、宙にある女性の姿を映し出した。

 

「リカバリーガール……!」

 

 小柄な体に一つにまとめたお団子髪。それをまとめる注射器型の簪といえば、彼の有名なあの人しかいない。思わず呟いたわたしの声が聞こえているわけがないけれど、彼女は『はいはい』と相槌を打って、こちらを見て口を開く。

 

『筆記は余裕をもって合格点。そして実技であんたが取ったポイントは28ポイント。まあこちらは雄英生としてはそこそこってところだね』

 

 そこそこ、ということは、良くはなかったということ。ざあっと不安が胸を覆って、前を向いていられず、わたしは俯いてしまう。けれど。

 

『だけどね、ヒーローってのは、ただ敵を倒してればいいってわけじゃない』

 

 続いた言葉に、顔を上げる。映像の中のリカバリーガールは、ゆったりと微笑んでいる。

 

救助(レスキュー)ポイント。自分のことばかりではなく、他の受験生をヴィランから救ける者を、我々は見ていたんだよ。人々を守るというのが、ヒーローの基礎能力だからね』

救助(レスキュー)、ポイント……?」

空中(そらなか)、あんたの得た救助(レスキュー)ポイントは55ポイント。他の者を飛んで救けに行く姿を、その【治癒】の“個性”で傷を治す姿を、見させてもらったよ』

 

 どくん、どくん、と心臓がうるさい。

 

『──空中、あんたは合格さ。おめでとう』

 

「……!」

 

 合格。それを言い渡された瞬間に、ぶわっと胸が、頬が、目が、熱くなる。あの入試試験の時に考えたこと、選んだこと、今まで頑張ってきたこと。そのすべてが正しかったと、認めてもらえたようで。

 

「……まだ続きがあるようよ。聞きなさい」

「……っは、はい、」

 

 泣いてはいけない、と込み上げてくるものを飲み込む。深呼吸して、会長に倣って映像の続きを見つめた。

 

『さて。4月から雄英高校ヒーロー科に通うにあたって、あんたに話しておかなきゃならないことがある。少し長くなるけど聞いておくれ。

 あんたの持つ【治癒】の“個性”は、知っての通り希少かつ、有用だ。ヒーロー活動だけでなく、数多の医療現場で活躍出来得る力だ。雄英にとっても、その“個性”を存分に鍛え、育てたいと考えている。

 

 そのために、あんたには【治癒個性教育プログラム】に参加してもらいたい』

 

 リカバリーガール曰く、今までこの雄英高校に在籍した【治癒】“個性”持ちは、本来のカリキュラムを調整してリカバリーガールの講義を受けていたとのこと。リカバリーガールを師として、多くの人の、さまざまな怪我を治癒するのだと。

 

 

『そうして【治癒】の“個性”を伸ばし、多くの人を救けることのできる──そんなヒーローとなっておくれ』

 

 

 そこで映像は途切れた。会長は同封されていた通知書にざっと目を通し、わたしに視線を向ける。

 

「【治癒個性教育プログラム】は、一般教科に、最も単位の多いヒーロー基礎学、それに加えて【治癒】を学ぶとあるわ。“個性”の補助として、医療知識も修める必要がある、と。すべてを並列してこなさなければいけないわ。……あなたは、」

「やります」

 

 会長の言葉を遮ってしまったけれど、それだけ、わたしの中に迷いはなかった。困難なのはわかる。ましてや特に優秀でもない、パッとしないわたしなのだ。無理に無茶を重ねないとやっていけないだろう。

 ──それでも、それを成したいと、強く思う。

 

「わたし、できます。……やります。必ず」

 

 雄英高校に通える。救えるヒーローになるための道を、踏み出せる。その証である合格通知を、ぎゅっと、大切に抱き締めた。

 

 

 

 

 

「……よし、こんな感じで、だいたい片付いたね」

 

 それからさらに1週間が過ぎ、わたしは今、新しい住まいになる部屋を見渡していた。段ボールに入っていたものはすべて片付けることができたし、これから生活していく上で不便はないだろう。

 合格通知が来て、雄英高校の近くのアパートに部屋を借りて、引っ越して──と、色々あったけれど、ここまであっという間だった。あまりに早い展開にまだ頭が追いついていない。公安の所属するあのビルから離れて暮らすのは初めてのことで、なんだか不思議な感慨がある。

 

「今日からここで、独り暮らしかあ」

 

 この胸が小さくざわめくのはなぜだろう。高校生活への期待か、不安か、ひとりへの寂しさか、今までとの違いに懐かしさを覚えたのか。なんだか綯交ぜになってしまって、なんとも言えない気分だ。

 

「……さて、と」

 

 苦笑を浮かべてベッドから起き上がる。そろそろ夕ごはんを作り始めなきゃ、と立ち上がった時、手にした端末が震え出した。着信、と共に表示されている名前に、目を瞬かせる。

 

「……もしもし、ホークス?」

『よっ。どーですかぁ? 初めての独り暮らしは?』

「感想求めるの速すぎない?」

 

 まだ一泊すらしてないのに、と苦笑すると、電話の向こうで彼も笑った。それと一緒に、びゅうびゅうと風を切る音が聞こえてくる。

 

「今飛んでるんだ。仕事中?」

『いーや、終わった終わった。今帰る途中』

「そっか。今日もお疲れさま」

『ありがと。そっちは今なにしてんの』

「わたしは今からご飯作ろうかなって」

『エッ、包丁持てたっけ?』

「持、て、ま、す! もう、わたしを何歳だと思ってるの」

 

 もう15歳なんだからね、と念を押せば、わかってるわかってる、と軽い笑い声が返ってくる。わかっては、……いるんだろうけど、この人はいつまでも、わたしを子ども扱いする。

 

『ほら、もう拗ねんでって』

 

 あやすような声色も昔から変わらない。……わたしがそれに毎回絆されちゃうから、そうなのかもしれないけれど。

 

「……もう、拗ねてないよ。とりあえずごはん作り始めるから」

『おっ、なにするか決めた?』

「シチューにしようかなって。コーンも入れるの」

「ほんっと! 好きだねぇ」

「いいでしょ別に。わたしひとりで食べるんだか、ら、……?」

 

 ……幻聴が聞こえた気がして、くるりと後ろを振り返る。すると、ベランダで彼がへらりと笑って手を振っていた。──幻覚じゃない。……幻覚じゃない?!

 

「ホークス!?」

「やほー」

「やほー、じゃない! え、ちょ……とりあえず早く中に入って」

 

 こんなところをご近所さんに見られたら大事になるかもしれない。慌てるわたしをよそに、ホークスは「お邪魔しマース」なんてへらりと笑っている。ふわりと舞う赤い羽根が、彼のブーツを玄関口へ運んでいくのが見えた。

 

「な、なんでホークスここに? 帰る途中って言ってたじゃない」

「今日は公安の方に泊まる予定だったし、ついでに寄ってみようかなーって」

「そうなの、……もう、それならそうと言ってくれたらよかったのに」

 

 驚かされたことに拗ねる気持ちもあって、可愛くない言い方をしてしまう。来てくれたことは、とても嬉しいのに。

 

愛依(あい)、」

 

 優しく宥めるような呼び方に、むう、とむくれるも、それも長くは続かない。仕方ないなあ、とわざとらしく言ってみる。そんな些細な反抗も、ホークスは笑って受け入れてくれるから。

 

「……ホークス、ご飯食べてく?」

「御相伴に預かりましょーかね! 鶏もも多めに入れて」

「相変わらずの鶏肉好きめ。……あの奥が洗面台だから、手はそっちで洗って」

「ほーい」

 

 ふわふわした金髪が向かったのを見送って、わたしは腕まくり。真新しいキッチンに立って、食材を用意していく。人参、じゃがいも、玉ねぎ、冷蔵庫に鶏ももあったし、最後にコーン缶も入れよう。

 そうやって用意していると、ふっと隣に影が差した。いつの間にかヒーロースーツの上着とグローブを脱いで、インナー姿になったホークスがこちらを見下ろしている。

 

「ホークス? 仕事終わりなんだから、座ってゆっくりしてていいよ」

「いや手伝う手伝う。愛依が手ぇ切ったら大変だし?」

「大丈夫だって言ってるでしょ、もう……、……野菜の皮剥きから、お願いね」

「はーいよ」

 

 ホークスは手にした包丁でするするとじゃがいもの皮を剥いていく。……ほんと、この人にできないことって無いんじゃない?ってくらい、器用だなあ。

 そんなことを思っていると、ホークスと目があった。鋭い藤黄色が、にんまりと弧を描く。

 

「なァに。見とれてた?」

「みっ、見とれてなんかない。ほらちゃきちゃき剥くよ」

「あらま。厳しかー」

 

 ふざけた会話。なんでもないようなやり取り。おどけた笑い声。……それがあるだけで、心がうんと軽くなる。ふわりと柔らかな熱を持つ。笑みが、こぼれる。

 

「……ありがと、啓悟くん」

「なーにが」

「独り暮らし初心者を、心配して来てくれたんでしょ」

 

 切った鶏肉と野菜を炒めて、水を入れて、煮込む。静かなキッチンにくつくつと音が鳴る。でも彼が来てくれなかったら、もっと静かで寂しかった。啓悟くんが、来てくれなかったら──

 

「啓悟くんは、わたしを甘やかすのが上手だね」

 

 目を伏せながら笑う。ぐるぐるおたまを回していると、隣で小さくため息。しょうがないなあと言いたげな、けれどもなんだか、あたたかな。

 

「……大人みたいなこと言って。俺が独り暮らし始めた時、わんわん泣いたの誰だっけ?」

「……う、わー……そんなこともあったね。ホークスが18歳で、わたしが11歳の時か……」

「もう泣かないの?」

「な、泣かないよ。もう子どもじゃないんだから!」

「そんなこと言ってる間は、まだまだお子さまだよ」

 

 からかうようにしながら、わたしの頭をぽんと撫でる。その手が大きくて、あたたかくて、どうしようもなく、優しい。

 

「ま、独り暮らしが寂しいのはせいぜい2、3日だよ。新生活が始まるなら、なおさら」

「……そういうもの?」

「そういうもんそういうもん。ほら、入試の時に仲良くなった子がいるんでしょ」

「! ……う、ん、」

 

 あの入試が終わって、梅雨ちゃんの話を聞いてくれたのもホークスだった。初めて同年代の女の子と話して、ありがとうと言ってもらって、笑ったのだと。舞い上がったわたしの話を、うんうん、と今みたいに柔らかく頷いて聞いてくれた。

 

「大丈夫。きっと、楽しくなるって」

「……うん!」

 

 その笑顔に力を貰ったみたいに、わたしの中の不安や寂しさが溶けていく。敵わないなあ、なんて、悔しく思う気持ちもあるけれど、それよりずっと、あたたかさが勝った。

 出来上がったシチューを器に取り分けながら、ふと思い出す。

 

「あ、ねえ、ホークス」

「んー?」

「さっき独り暮らしが寂しいのはせいぜい2、3日って言ってたよね。……それって実体験からの意見?」

「さァ? どうだろうね」

「……はぐらかした」

「ほら食べるよ。腹減ったな~~」

「……もうっ」

 

 わたしの弱さはいくらでも優しく許してくれるのに、自分の弱さは全然見せようとしない。……わたしなんて彼よりずっと弱いから、頼るなんてできないんだろう。わかってる。

 ……でも、今のままで駄目なら、今よりずっと、もっと強くなれたなら。そしたらその時は、わたしを頼ってくれるかな。彼の力になれるかな。

 

「……ね、啓悟くん」

「どした?」

 

 彼を救けられるような、ヒーローに、なれたら、

 

「……なんでもない」

 

 まだ、言葉にするには弱すぎる。

 だからもっともっと、もっと、強くなる。

 

 そんな願いと誓いを込めて、わたしは笑った。

 

 

05.少女、合格する。

 

 


 

 【治癒個性教育プログラム】なんてのも独自設定です。このためA組が21人になったと無理やりこじつけてます。

 合格通知ですが、切島くんは校長先生だったし他の先生も手分けして撮ってたのかなと思ったら、やっぱりリカバリーガールしかいませんでした。彼女もどんどん絡めます。絡めたいキャラが多すぎて困る……。



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雄英高校入学編
06.少女、個性把握テスト。


 

 白いシャツにスカートは緑の無地。ネクタイの結び方はホークスに教わっている。黒いハイソックスを履いて、最後にブレザーを羽織って翼を出せば。

 

「……よし、」

 

 姿見に映るのは、雄英生としての、わたし。制服に袖を通すことになるなんて、今でも不思議な気持ちだ。けれどこれは夢なんかじゃない、紛れもない現実。今日からわたしは、雄英生。

 

「いってきます」

 

 誰もいない部屋に向けて呟く。それでも、「いってらっしゃい」なんていう彼の笑い声が返ってきた気がして、わたしは小さく微笑みながら家を出た。

 

 ──雄英高校。静岡県に位置する高校で、国内最高峰と謳われるヒーロー科が存在する。“最高峰”の理由は、さまざまな訓練を可能にする膨大な敷地、整えられた設備。それに何より教師陣にあるだろう。

 

(13号に、ミッドナイト、セメントス、プレゼントマイク、それに、リカバリーガール……)

 

 ふと思い出すだけでもそうそうたる顔触れだ。以前公安の人たちから渡されたリストには、もっとたくさんの力あるプロヒーローの名前が並んでいた。今年度からはそれに、あのオールマイトまで加わるのだという。

 青空に聳え立つ校舎を前に、小さく息を吐く。ここで何が待っているのだろう。これから何が起こるのだろう。わたしは何と、出会う?

 

「……わたし、頑張るからね、」

 

 啓悟くん、と。心の中で呟いて、わたしは桜並木を駆け抜けた。

 

 

 

 

 わたしが1年A組の教室へ辿り着いた時には、もうほとんどの人が自分の席に着いていた。遅れてしまったかな、なんて焦りながら扉を締めると、視界にあの緑がかった黒髪が映り込んだ。

 

愛依(あい)ちゃん」

「あ、っつ、梅雨ちゃん」

 

 彼女はわたしに向かって呼び掛けながら、ケロリと大きな手を振った。思わず小走りで彼女の席に駆け寄る。

 

「愛依ちゃんもA組だったのね」

「うん、梅雨ちゃんも」

「入試で言ってたことが本当になったわね。よかった。嬉しいわ」

「っわ、わたしも……」

 

 ゆるゆると顔がふやけるのがわかる。そんなわたしの声を掻き消すような大声が、すぐ後ろから聞こえてきた。

 

「机に足をかけるな!! 雄英の先輩方や机の製作者方に申し訳ないと思わないのか!?」

「思わねーよてめーどこ中だよ端役が!」

「ボ……俺は私立聡明中学校出身、飯田天哉だ」

「聡明~~!? クソエリートじゃねーか、ブッ殺し甲斐がありそだな」

「君ひどいな本当にヒーロー志望か!?」

 

「……に、賑やかだね」

「濃い顔触れになりそうね」

 

 梅雨ちゃんはそう言うけれど冷静だし、周りの人たちも軽く受け流しているような感じだ。……わたしが学校に通ってなかったから知らないだけで、このノリは普通なんだろうか。はじめからフルスロットルだ……と、呆然としてしまう。

 そう、呆然としていた。だから気づかなかった。

 

「お友達ごっこしたいなら他所へ行け」

 

 低い声が低い位置から聞こえた。え、と思って入り口を見ると、そのすぐそばの廊下で横たわっている寝袋が見えた。……え、ほんとになに。さらに混乱するわたしをよそに、声は続く。

 

「ここは……ヒーロー科だぞ」

 

 ゼリー飲料をジュッと吸い込んで寝袋から出てきた、ぼさぼさ頭のその人には見覚えがあった。公安から貰ったリストに載っていた、わたしたちの担任となる人。

 

(抹消ヒーロー、イレイザーヘッド……)

 

 メディアを嫌うアングラヒーローだから、周りの人たちも彼を知らないようだった。わたしだって資料を貰うまでは存在すら知らなかった。そんな彼は寝袋をごそごそして、何かを取り出すとわたしたちの前に高々と掲げて、言った。

 

「早速だが、体操服を着てグラウンドに出ろ」

 

 

 

 

 

「個性把握……テストォ!?」

 

 グラウンドで待ち受けていた展開に、驚愕の声が響く。周囲にわたしたち以外に人影は無く、こんなことをしているのがわたしたちだけだということを思い知らされる。

 

「入学式は!? ガイダンスは!?」

「ヒーローになるならそんな悠長な行事に出る時間ないよ」

 

 みんなの驚きをよそに、相澤先生は淡々と続ける。

 

「雄英は“自由な校風”が売り文句。そしてそれは“先生側”もまた然り。

 ……ソフトボール投げ、100m走……中学の頃からやってるだろう?個性禁止の体力テスト。国は未だ画一的な記録を取って平均を作ってる。合理的じゃない。まあ……文部科学省の怠慢だよ」

 

 鬱陶しそうにそう言って、彼はようやく顔を上げた。ゆるりと視線を巡らせて、一点で止める。

 

「爆豪、おまえ中学の時ソフトボール投げ何mだった」

「67m」

「じゃあ個性を使ってやってみろ。円から出なきゃ何をしてもいい。早よ」

 

 爆豪くん、と呼ばれた男の子はボールを受け取って、軽く腕を伸ばして、助走して。

 

「死ねぇ!!!」

 

 ……まあ、掛け声はこの際置いておくとして。

 彼はボールを放つ時、指……手のひら?から爆風を出して押し出した。相澤先生が見せた記録は【705.2m】。

 

「まず自分の最大限を知る。それがヒーローの素地を形成する合理的手段」

 

 どこまでも落ち着いている相澤先生とは対照的に、他のみんなは盛り上がった。700mってマジかよ、とか、個性アリの体力テストなんて“面白そう”、とか。

 その一言に、先生の目が不穏に光るのを見た。

 

「……面白そう、か……ヒーローになるための3年間、そんな腹積もりで過ごす気でいるのかい?」

 

 口の端が吊り上げる。不穏な笑みに、なっていく。

 

「よし。トータル成績最下位の者は見込みなしとし、除籍処分としよう」

「!? ハアア!?」

「除籍処分って……まだ入学初日ですよ!? いや初日じゃなくたって……理不尽すぎる!」

 

 当然の不満に、反応に、相澤先生は言う。曰く、唐突に訪れ牙を剥く災害やヴィランから民衆を救い出すのがヒーロー。理不尽に対応できなければ意味がないと。

 

「生徒の如何は俺たち教師の自由──ようこそ。これが雄英高校ヒーロー科だ」

 

 わたしは知らず知らずのうちに拳を握り締めていた。それは不安であり、決意の表れだった。

 ……わたしは、ヒーローになる。あのひとみたいなヒーローになって、あのひとの力になって、救けるんだと、そう決めている。だから、

 

(……こんなとこで、躓いてなんかいられない……!)

 

 

 

 

 

 そんな決意とともに幕を開けた個性把握テストは、概ね想定通りの結果を出せている。

 100m走とは言っても別に走らなくてもよいようで、レーザーや爆破の推進力で飛んでいる人もいる中、わたしは【翼】を使って飛ぶことを選んだ。立ち幅跳びも同様に、この後ある持久走でも同じようにするつもりだ。

 長座対前屈や握力、反復横飛びなんかは自力でやる他なかったけど、ソフトボール投げは羽根を操作してボールを運ぶことができたから、そこそこの成績を残せている、と、思う。

 

(……少なくとも、あの人よりは……)

 

 ちらりと横目で窺った先にいる、緑の癖っ毛の男の子。彼は、……一般的な男子生徒の体力テストの成績を見るに、そう悪くない身体能力を持っている。それでもこの個性把握テストにおいては下位を争うような成績ばかり。

 

(……どうして個性を使わないんだろう?)

 

 そう、みんなが個性を使う中で、彼だけはまったく使う素振りを見せなかったのだ。それではどんなに頑張ったって、良い成績は手に入らないのに。

 試験中ずっと何かを必死に考えるような顔をしていたから、わざと手を抜いているとは思えない。なら、……個性が使えない?

 

(……どう、するんだろう……)

 

 わたしは絶対に除籍処分になりたくない。それでも、……クラスメイトとして出会った人が、たった1日でいなくなってしまうのも、嫌だ。

 緑の髪の彼の、ソフトボール投げ第1回目──46m。ああ、と思ってわたしは俯いた。ちらりと見えた彼の顔が真っ青だったのもあって、わたしまで苦しくなる。わたしにはどうしようもない、どうすることもできない。わかっているけどやりきれない気持ちに、ぎゅっと目を瞑っていた。だから、

 

「──え、?」

 

 だから、突然顔に吹き付けた突風に、驚いて目を開ける。開けた視界には、遠く、遠く、見えないぐらい遠くに向かって放たれるボールと、投げた直後のポーズで固まった彼。そして、そんな彼の記録に沸き立つみんなの姿。

 

「705.3m!?」

「わー、やっとヒーローらしい記録出したよー」

「指が腫れ上がっているぞ。入試の時といい……おかしな個性だ……」

「スマートじゃないよね☆」

 

「、指が……?」

 

 周囲の言葉に従って注視すると、確かに右手の人差し指がぱんぱんに腫れ上がっているのが見えた。なぜそうなったのかはわからないけど、あの超パワーだ。体が耐えられなかったのかもしれない。眼鏡の人が言う通り個性としてはおかしいけれど、でも今、それは重要じゃない。

 怪我をしている人がいるなら、治すのがわたしにできること。

 

「あの、」

「どーいうことだこらワケを言えデクてめぇ!!!」

「、わっ!?」

 

 突如轟いた大声に、思わず身がすくむ。わたしの横をすり抜けて緑の髪の彼に向かっていこうとした爆豪くんは、相澤先生の捕縛布と個性によって沈黙させられていた。ギチギチと布を軋ませ、爆破の個性を消されながらも、彼の目には感情が溢れてやまない。──怒り、驚き、……焦り?

 どうして個性を発動しただけでそうなるのかは知らないけれど、とりあえず彼が止まったのだから、とわたしは足を進めた。指大丈夫?と心配されている、彼の元へ。

 

「あ、あの、」

「へ? えと……なにか?」

「指、見せてくれるかな。今、」

 

「──空中(そらなか)。治すな」

 

 え、と思い振り返る。伸ばした手は中途半端に宙にぶら下がる。相澤先生は刺すような視線をわたしたちに注ぎながら、淡々と口にした。

 

「俺は緑谷に言った。『個性を制御できないまま、また行動不能になって、誰かに救けてもらうつもりだったか?』と。それを受けて緑谷は指先のみに限定して発動するという制御を見せた。……まだ、動けるんだな? 緑谷」

「っはい!」

「なら、空中。おまえが出る幕はない」

「……で、ですが……」

 

 どう見ても、その指は腫れ上がっていて動かせる状態じゃない。骨も折れているだろうし、内出血で内側はぐちゃぐちゃだろう。指一本とはいえ、痛みで他の動きの障害になりかねない。

 相澤先生の言うことは理解できる。それでも納得はできずにいたわたしに、緑の髪の男の子──緑谷くんは言った。

 

「えっと、空中、さん? 僕は大丈夫だから」

「でも、その怪我じゃ……」

「……大丈夫!」

 

 少し涙ぐんでいるくせに、震えているくせに、それでも笑みを浮かべてみせた彼に、わたしはそれ以上なにも言えなかった。これ以上でしゃばっては、彼の頑張りや決意の邪魔をしてしまうのだろうと、わかった。

 

「……そっか。……、」

 

 無理しないで、なんて、とてもじゃないけど言えなかった。ヒーローになりたくて雄英に来て、ヒーローになるために頑張りたいから無理をする。その気持ちは痛いほどわかったから。

 

「……お互い、頑張ろうね」

 

 だからわたしは、月並みな言葉しか吐けない。それでも緑谷くんは痛みに堪えながら、うん!と笑ってくれた。

 

 

 

 

 

 それから、残りの種目も終えて、結果発表の時がやって来た。はらはらと緊張しながら胸元を握り締める。

 あれから緑谷くんは個性を発動しなかったものの、やっぱり痛みでうまく動けないというのが見ているだけでわかった。顔色も真っ青で、ぎゅっと目を瞑っている。それはそうだ。当たり前だ。どうしようって、不安になるのも当然だ。

 

「ちなみに除籍は嘘な」

 

 どうしようって、思うのも、とうぜ、ん……。

 

「君らの最大限を引き出す、合理的虚偽」

 

「……はーーーー!!!???」

 

 思わずみんなと一緒にあんぐり口を開けてしまった。驚きの後に、がくりと虚脱感が襲ってくる。誰もいなくならないという安心感はあるものの、今までの緊張はなんだったの……という思いが拭いきれない。

 

(……あれ? でも、相澤先生って……)

 

 公安からの資料で見た中では、確かに過去、何人もの人を除籍したっていう記録が残っていたような……。

 

「それと、──空中」

「っは、はい?」

 

 我に返って顔を上げると、相澤先生と緑谷くんがこちらを見ていた。緑谷くんの手には“保健室利用書”と書かれた紙が握られている。

 

「今から保健室で緑谷の傷を治すが、その時におまえの個性を見せてもらう。おまえもついて来い。……顔合わせもしとかなきゃならんからな」

 

 保健室。顔合わせ。……そう来たら、思い浮かぶ人は1人しかいない。はい、と返事をして、わたしも小走りで2人の後に続いた。

 

 

 

06.少女、個性把握テスト。

 

 


 

 初めての学校、初めてのクラスメイトとの会話、ということで、初期主人公はコミュ障とまではいきませんが吃り癖があります。慣れてくるうちに無くなるかと思います。



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07.少女、初めての友達。

 

「おやまあ、よく来たね。怪我人と……ああ、あんたが空中だね」

 

 相澤先生に連れられて緑谷くんとやって来たのは保健室。その主はにこやかな笑みでわたしたちを出迎えた。リカバリーガール。雄英の屋台骨とも称される養護教諭。希少な【治癒】の“個性”を持つ、大先輩。

 

「はっ、初めましてリカバリーガール! 緑谷出久といいます……!」

「っ改めまして、初めまして。空中(そらなか)愛依(あい)です」

「はいどうも。さて、さっそくだけど、空中」

「は、はい」

「あんたの治癒がどんなものか見せてもらいたいからね。その緑谷の怪我を治してみな」

 

「……はい」

 

 緑谷くんに向かい合って、彼の右手を取る。その人差し指にわたしの手を当てた。手当て、とよく言うように、わたしの治癒のイメージは手にある。わたしの手のひらから彼の人差し指へと、治癒の力を注ぎ込むように、意識を集中させる。

 砕けていた骨が再び組み立てられ、破けていた血管が元通りに血液を運んでいく。歪に歪んでいた緑谷くんの指がまっすぐ綺麗な色を取り戻していくにつれて、彼は目をまあるく見開いた。

 

「う、わあ……!」

「……どう、かな。痛かったり、違和感があったりは……」

「しないよ! すごい! すごい“個性”だ……! ありがとう、空中さん!」

 

 緑の目をきらきらさせて、興奮気味にそんなことを言われて、わたしは一瞬息を詰めた。驚きと、……喜びに。

 

「う、うん。……どう、いたしまして」

 

 やっぱりまだ、“個性”を使って「ありがとう」と喜ばれることには慣れない。心が沸き立って、顔が熱くなって、口許がふやけてしまう。

 

「……なるほどねえ」

 

 だから、落ち着いたリカバリーガールの声が有り難かった。はっと我に返って、彼女の方に向き直る。

 

「緑谷。空中の治癒を受けてどうだい?」

「はい! もう痛みもなんにもなくて……すごいです!」

「その様子だと、疲労が溜まってる感じもないね」

「? はい、疲れどころか、むしろ元気になった気がします」

「……元気に? ……なるほど、」

 

 相澤先生がなにか思案するように目を細めた。その様子が何を意図するのかわからなくて、答えを求めるようにリカバリーガールを見る。彼女はわたしの視線に、うん、とひとつ頷いた。

 

「どうやら私の治癒とあんたの治癒は、仕組みが違うようだね」

「仕組みが?」

「そうだね、緑谷も聞いておいき。私の“個性”は人の治癒力を活性化させるだけ。治癒ってのは体力が要るんだよ。大きな怪我が続くと体力消耗しすぎて逆に死ぬから気を付けな」

「逆に死ぬ!!! ……え、じゃあ空中さんは?」

 

 水を向けられて、わたしは思わず肩を揺らした。え、と、と吃っていると、リカバリーガールが間に入る。

 

「体を治癒するエネルギーの出所が違うんだろうね。私は患者自身のエネルギーを、空中は……空中自身のエネルギーを使っているんじゃないのかい?」

「そ、そうです」

 

 そうだ。わたしの治癒はわたし自身のエネルギーを媒体にして発動するもの。たった1回の治癒でそれを見抜くリカバリーガールは、何度も何年も人々を癒し続けてきた方なのだと実感する。

 

「じゃあ空中さん、僕の治癒のためにエネルギーを使っちゃったんじゃ……!」

「え、や、だ、大丈夫だよ。エネルギーを使うとはいってもそんなに疲れないし……」

 

 あ、でも、と思い至ることがあって、改めて緑谷くんの目を見る。

 

「……でも、大きな怪我を治そうとすればするほど、エネルギーが必要になる。わたしにそのエネルギーが無いと、治しきれなくなっちゃうから、……だから、緑谷くん。あまり無理はしないでね」

 

 あのすごいパワーが、誰かを救けることもあるだろう。それでも傷ついて、痛い思いをするのはやっぱり、嫌だから。

 緑谷くんははじめぽかんとしていたけど、はっとして、きりりと顔を引き締めて。

 

「うん……! ちゃんと制御できるように、頑張る!」

「言ったな?」

「アッ相澤先生……はい、頑張ります!」

 

 気持ちを新たに宣誓する緑谷くんを見てると、なんだかわたしも頑張らなきゃ、頑張ろうって気持ちになっていく。【翼】も【治癒】も、どっちの“個性”も伸ばしていこう。もっとたくさんの人の力になれるように。

 

「……わたしも、頑張ろう」

 

 小さく呟いた言葉は、リカバリーガールに拾われていた。誰にも聞こえないと思ったのに、と慌てるわたしに、彼女は目を細めて笑う。

 

「緑谷の課題が“個性”の制御、って話が出たからね。空中の今後の課題についても話しておこうかね」

「お、お願いします……!」

 

 突然の話で驚いたけれど、元々リカバリーガールに師事するつもりでやって来たのだ。断る理由なんてない。頭を下げたわたしに、リカバリーガールは頷いて話し出す。

 

「あんたの治癒はいい“個性”だよ、空中。エネルギーの消費に比べて回復量が多いと見た」

 

 リカバリーガールの話を、相澤先生は腕を組みながら、緑谷くんは目を丸くしながら、わたしは胸元を握り締めながら聞く。

 

「だが、いかんせん治癒の性能が高い分、使い方が大雑把だ」

「お、大雑把、ですか」

「そうだよ。空中あんた、ただ患者にそのままエネルギーを注ぎ込んでいるだけだろう」

「、はい……リカバリーガールは、違うんですか?」

 

 今まで【治癒】の“個性”持ちの人に会ったことはなかったから、治癒の仕方に繊細とか大雑把とか、そんなものが存在するなんて知らなかった。びっくりして尋ねると、彼女はわたしにゆったりと頷く。

 

「患部はどこか。どの細胞を活性化させるべきか。患者の様子から判断しているよ。患者のエネルギーを使っているのだから、無駄遣いはできないからねぇ」

「……じゃ、あ……わたしも、そうしてエネルギーを調整したら、無駄遣いが減るってことです、よね」

「そう。それが当分のあんたの目標になるだろう」

 

 公安での訓練で【治癒】の“個性”がどこまで使えるか、上限を確かめたことがあった。“個性”の使用限界──キャパオーバーを起こしたわたしは昏倒して、その後熱を出して寝込んでしまったという、苦い経験が思い出される。

 

「っあの、リカバリーガール……!」

 

 あんな風にはなりたくない。ならない。

 エネルギーの調整ができれば、わたしはキャパオーバーを起こして行動不能になることなく、もっとたくさんの人を治すことができる。もっと、役立てる。

 

「わたし、まだまだ未熟者ですが、頑張りますので……、これからご指導、よろしくお願いします……!」

 

 立ち上がって、深く頭を下げる。そんなわたしの肩を、ぽん、と優しく叩く手があった。顔を上げると、満面の笑みのリカバリーガール。……あれ、なんだかにっこり、というより、にんまり、といった感じの笑顔なんだけれど。

 彼女はその笑顔のまま、近場のデスクに積まれた山を杖で示した。山──医学書やテキストの山が、どどんとこちらを見下ろしている。

 

「みっっっっちり教え込んでやるから、楽しみにしときんさい」

 

 妙に凄みのある声で念を押されて、わたしは声も出せずに頷いた。……なんだろう、一見可愛らしいおばあちゃんといった感じなのに、逆らえない迫力があるというか……。

 ──と思っていたら、次の瞬間、リカバリーガールは笑みの色を変えた。凄みや迫力は消えて、ほわほわとした柔らかいそれになる。

 

「さて真面目な話は終わり。ほらペッツだよ、ペッツをお食べ」

「へっ? あ、ありがとう、ございます……」

「僕もっ? あいえ、あ、りがとうございます……?」

 

 シンリンカムイのキャラクターヘッドからカコカコと出されたペッツを手で受け止める。隣の緑谷くんと顔を見合わせ、落差に戸惑いながらもとりあえず口に放り込んだ。

 

 

 

 

 

「ご、ごめんね緑谷くん、持ってもらっちゃって……重いでしょ、やっぱりわたしが全部持つよ」

「だっ、大丈夫、ゼンゼンっ、大丈夫だから!」

「本当……?」

 

 保健室を後にして教室を目指す。その道中、リカバリーガールから持たされた医学書やテキストを、緑谷くんが半分以上持ってくれていた。彼は大丈夫というけれど、顔が赤くなってるし無理をさせてるんじゃないのかな。

 

「だっ、大丈夫だよ! 本当に……こんなんで治してもらったお礼になるとは思ってないけど……それでも手伝わせてほしいな」

「そんな、気にしなくていいのに……でも、ありがとう」

 

 そんな風に思ってもらえるのは嬉しくて、笑みがこぼれる。緑谷くんはうん、と頷いて、それから紙袋に入った医学書たちを見た。

 

「いやそれにしてもすごいね、分厚い医学書やテキストが何冊も……ヒーローもある程度の応急手当とか診断方法は習うけど、やっぱり医療ヒーローを目指すともなると本格的なんだね!」

 

 途端に饒舌になって、目がキラキラし出したから。

 

「……緑谷くん、ヒーロー大好きなんだね」

「えっ!? そ、そんなにわかりやすかったかな……?」

「ふふ、うん」

 

 それが伝わってきて、わたしはなんだか嬉しくなる。本当に、除籍処分にならなくてよかったと、心の底からほっとした。

 そんな風に話しながら1年A組の教室に辿り着く。バリアフリー対応の大きな扉を開けたわたしたちを、ふたつの声が出迎えた。

 

「愛依ちゃん、お疲れさま」

「つ、梅雨ちゃん?」

「緑谷くん、指は治ったのかい?」

「わ! 飯田くん……うん、空中さんのおかげで」

 

 眼鏡の男の子……飯田くんが緑谷くんに話し掛けるのを横目に、わたしは梅雨ちゃんに向き直る。

 

「梅雨ちゃん、残ってたんだね」

「ええ。せっかく会えたのだから、愛依ちゃんと一緒に帰りたいと思って」

「えっ、っあ……ありがとう……っ」

 

 まさかわたしを待ってくれていたとは思わなくて、ぶわわと頬が熱くなった。待っててくれたことにびっくりして、嬉しくなる。それはわたしだけじゃなくて緑谷くんもらしい。飯田くんと話しながら、にこにこ笑っている。

 

「しかし相澤先生にはやられたよ。俺は『これが最高峰!』とか思ってしまった! 教師が嘘で鼓舞するとは……」

「あはは……確かにそうだね」

 

 そうして話していると、ガラリと扉が開いた。そこからヒョコ、と茶色のボブカットがのぞく。

 

「あ! よかったー、まだいた!」

「君は∞女子」

「麗日お茶子です! えっと飯田天哉くんと、蛙吹梅雨さんと、空中愛依さんと……緑谷デクくん!、だよね!!」

「えっ?」

 

 緑谷くんはデク、という名前ではなかったはず。疑問を呟くと、それを引き継ぐように梅雨ちゃんが首を傾げた。

 

「緑谷ちゃんはデク、という名前ではないわ」

「え? でもテストの時に爆豪って人が『デクてめェー!!』って」

「あの……本名は出久で……デクはかっちゃんがバカにして……」

「蔑称か」

「えー! そうなんだごめん! でも……」

 

 麗日さんは謝った後、にこっと明るく笑って。

 

「“デク”って……“頑張れ!!”って感じで、なんか好きだ私」

「デクです」

 

 秒で肯定した緑谷くんの顔は真っ赤だ。そこにさっきまでのしょんぼりした暗い影は欠片も見当たらない。

 

「緑谷くん!! 浅いぞ!! 蔑称なんだろ!?」

「コペルニクス的転回……」

「コペ?」

 

「……梅雨ちゃんわかる?」

「たしか、物事の見方が180度変わる、という意味だったかしら」

「180度……そっか」

 

 嫌なからかいが、素敵な応援へ。たった一言かもしれないけど、人の言葉がそんな力を持っているというのは、わかる気がする。

 

「ね、デクくんも飯田くんも、蛙吹さんも空中さんも、一緒に帰らない?」

「っい、いいの?」

「うんうん」

「一緒に帰りましょ、愛依ちゃん」

 

 にっこり笑った麗日さんも、呼び掛けてくれた梅雨ちゃんも、頷いてくれた緑谷くんも飯田くんも、みんな、当たり前のようにわたしと一緒に行こうと言う。当たり前のことなのかもしれない。特別に思うことなんて、ないのかもしれない。それでも、

 

「……っうん……!」

 

 それでも、こんなに嬉しくなった帰り道は初めてだった。

 

 

07.少女、初めての友達。

 


 

 常闇くんとも話したかったけど流石に待ってはいないかなあと思って断念しました。

 コペルニクス的転回とか作者は聞いたことすらありませんでしたが、梅雨ちゃんなら知ってると思います。



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08.少女、服を着る。

 

 雄英高校ヒーロー科。ヒーローを養成する学校の最高峰とはいっても、高校は高校。午前中は現代文、古文、英語、数学……といった、普通の授業が行われる。

 

(プレゼントマイクが普通に英語の授業をしてるのは、驚いたけど……)

 

 いや普通ってのは決して悪口じゃない。ただ、あまりにもプロヒーローとしての印象が強い彼が、当たり前のように教壇に立って当たり前のように英文を教えてくれるのは、なんというか、不思議な気分だった。

 しかし午後からはヒーロー基礎学の時間。ヒーローになるための素地を培う訓練を行う、最も単位の多い科目。

 

「わーたーしーがー!! 普通にドアから来た!!!」

 

 その記念すべき第1回目の講師は、あのオールマイトだった。HAHAHA!!と高らかに笑いながらやって来たNO.1ヒーローは、テレビ越しに見ていた彼そのもので、夢みたいな光景にどきどきしてしまう。

 

「オールマイトだ……! すげぇや本当に先生やってるんだな……!!」

銀時代(シルバーエイジ)のコスチュームだ……! 画風が違いすぎて鳥肌が……」

 

 ざわざわとするみんなの前で、オールマイトはグググ……と溜めた後、腕を突き出してプレートを掲げた。そこに書かれているのは──戦闘訓練。

 

「早速だが今日はコレ!! 戦闘訓練!!

 そしてそれに伴って……こちら!!」

 

「「「!?」」」

 

 オールマイトが何かのリモコンを操作すると、教室の前方の壁がせり出てきた。そこはロッカーとなっていて、1から21……このクラス全員分の数が割り振られている。

 

「入学前に送ってもらった【個性届】と【要望】に沿ってあつらえた、戦闘服(コスチューム)!!」

「「「おお……!!」」」

 

 思わず立ち上がったみんなに向けて、オールマイトはニッと力強く笑って告げる。

 

「着替えたら順次グラウンド・βに集まるんだ!!」

 

 

 

 

 

 【被服控除】とは、入学前にサポート会社へ【個性届】と【身体情報】を出し、【要望】を伝えると、自分に合ったヒーロースーツを用意してくれるというシステムで、わたしも入学前には色々と頭を悩ませた。

 わたしは【翼】での飛行がメインとなる。だから羽根の動きを邪魔しないのが第一で、その次は防御性能、防寒性能、ゴーグルをして目を風から保護しなきゃ──と、色々考えているうちに、……なんだかホークスに似てきたと気づいてしまい、慌ててデザイン画も付け加えたのも記憶に新しい。いや意識してるとかじゃなくて、“個性”が同じだから求めるものも同じだし……。

 

「百面相してる! どったの?」

「! う、ううん。大丈夫、なんでもない」

「そー?」

 

 首を傾げてこちらを覗き込んできたのは芦戸三奈さんだ。薄桃色の肌と黒目がちの大きな目が印象的な女の子で、同じA組のクラスメイト。彼女はヒーロースーツに着替えたわたしを見て、わ、と目を輝かせた。

 

「へー、空中(そらなか)のヒーロースーツ可愛いね!」

「そ、そうかな?」

「うん! なんかアレだ、戦闘機に乗ってる人みたいな、あれのワンピースみたいで!」

 

 芦戸さんが評する通り、わたしは暗い紺色のインナースーツの上に白いレザー生地のフライトジャケットに似たワンピースを着ている。もちろん背中には羽根を出すための穴も空いていて、飛行の邪魔にならない、ぴったりとした動きやすいデザインだ。尚且つ全力で飛んでも寒くないように露出を無くし、手首や首元にファーをつけた。まだ改良はそのうちしていくだろうけど、初めて自分で考えたにしては気に入っている。

 褒めてくれた芦戸さんにありがとうと返して、ロングブーツを履く。これで準備完了だ、と立ち上がって顔を上げると、他のみんなも一通り着替え終わったところだった。

 

「芦戸さんのも可愛いね。迷彩すごく似合ってる」

「えへへー、でしょー!」

「ノースリーブも動きやすそう……でも剥き出しだといざという時防御しづらくない?」

「あたしの“個性”は【酸】で、肌から出すんだよね。だから腕部分はなるべく肌見せときたくって!」

「ああ、そっか、なるほど……」

「わかりますわ。防御力は下がりますけど、個性が最大限に発揮できる方がいいですもの」

「……!?」

 

 頷いた八百万さんのヒーロースーツは、足も手も、なんならへその辺りもがっつり肌を見せるタイプのレオタードだったので、思わず言葉を無くしてしまった。

 

「八百万さんの、その、なんというか、すごいね」

「これでも要望より布の面積が多くなってしまいましたの」

「これで!? ……でも、似合うからやっぱりすごい……」

 

 明け透けに言ってしまえば、八百万さんのプロポーションは抜群だ。背もすらりと高いし、手足も長いし、出るとこはしっかり出てる。とてもじゃないけど高校1年生……わたしと同い年だとは思えない。

 

「発育の暴力だよあんなの……」

「……正直、わたしもそう思う……」

「ね……」

 

 耳郎さんの密やかな呟きに心の底から同意する。彼女のヒーロースーツはそこまで露出が高いわけでもなく、体の線が出るものでもないから、なんだか親近感がわく。パンキッシュ、というのだっけ。耳郎さんの雰囲気にぴったりだ。

 体の線が出るもの、といえば。視線を動かすと、梅雨ちゃんの大きな目と目が合って、わたしはわあ、と思わず歓声を上げてしまう。

 

「梅雨ちゃんのヒーロースーツ、蛙モチーフだよね?」

「ええそうよ。小学生の頃から温めてきたデザインなの」

「すっごく似合ってる! 可愛い」

「ケロケロ、ありがとう」

 

 照れたように微笑んだ梅雨ちゃんだけど、本当に似合ってる。緑を基調としたボディスーツ。足元は蛙の吸盤みたいな形で、頭のゴーグルも蛙の大きな目を模している。動きやすさと可愛さとモチーフが合致していて、素敵だなあと思う。

 可愛い、モチーフがぴったり、といえば麗日さんもだ。視線を送ると、彼女はたはは、と苦笑めいた笑顔を浮かべた。

 

「要望ちゃんと書いてなかったから、パツパツスーツんなった……恥ずかしい……」

「そう? 宇宙飛行士みたいで、色合いもすごく素敵なのに……」

 

 ブーツなんかも丸みがあってすごく可愛いと思うのにな、と首を傾げると、視界の端にグローブが浮いているのが見えた。……グローブが、浮いている?

 

「……葉隠さん?」

「んー? どしたの愛依(あい)ちゃん」

「あ、やっぱりそこにいるんだよね、グローブとブーツがあるし。……えと、ということは、その、」

 

 葉隠透さんの個性は【透明人間】。その名の通り透明人間なので、姿はまったく見えない。だから身に付けているものが浮いて見えるというのが普通なのだけれど、……今はグローブとブーツしか見えない。

 

「……あっ、そうだ。体と同じく透明になるスーツを着てる、とか」

「んーん。なーんにも着てないよ!」

「着っ、!?」

「ちょ、葉隠あんた真っ裸なわけ!?」

「だってこれが一番個性を活かせるし!」

「根性やねえ……」

 

 葉隠さんがあっけらかんと笑い、麗日さんがしみじみと呟く。……個性を活かすためには恥ずかしさは捨てるべきなのかもしれないな、なんて、新しい価値観を学んだ。

 

 

 

 

 

 なんだかんだで着替え終わって演習場に出たわたしたちを、オールマイトが出迎える。彼は先ほど言った。『形から入るのも大切なことだぜ少年少女!!』と。──『今日から自覚しろ!!』と。

 

(“今日からわたしも、ヒーロー”……!)

 

 真新しいヒーロースーツに身を包み、意気込んで進み出るわたしたちを見て、オールマイトはニカッと笑う。

 

「いいじゃないか皆、かっこいいぜ!!

 さァ始めようか有精卵共!!! 戦闘訓練のお時間だ!!!」

 

 初めてのヒーロー基礎学。講師はオールマイト先生。授業内容は【戦闘訓練】。昨日の今日でいきなり戦闘だなんて、と驚く人も、喜ぶ人も、疑問を持つ人もいて、反応はさまざまだった。今も戦闘訓練とはいっても何をするのか、勝敗のシステムはどうなるのか、チームの組分けはどうするのか、ブッ飛ばしてもいいのか、このマントよくない?とか──最後の方はよくわからないけど──質問責めに合ったオールマイト先生は、口許をひくつかせながら詳細を話し出した。

 

「君らにはこれからヴィラン組とヒーロー組に分かれて、2対2の屋内戦を行ってもらう! いいかい? 状況設定は、ヴィランがアジトに核兵器を隠していて、ヒーローはそれを処理しようとしている! ヒーローは制限時間内にヴィランを捕まえるか核兵器を回収する事。ヴィランは制限時間まで核兵器を守るかヒーローを捕まえる事」

 

 ヒーローとヴィラン、それぞれの勝利条件を述べて、オールマイト先生はくじを取り出した。チーム分けはくじ分けにすると聞いて、飯田くんが驚いたように声を上げる。

 

「チーム分けは適当なのですか!?」

「プロは他事務所のヒーローと急造チームアップすることも多いし、そういうことじゃないかな……」

「なるほど……先を見据えた計らい! 失礼致しました!」

「いいよ!! 早くやろ!!」

 

 ……今思えば、入試のあの質問の声は飯田くんだったんだろうなあ、と。ぼんやり思い出しながら、これからに思いを馳せる。

 緑谷くんが言った急造チームアップ。どんな個性とも、どんな人とも協力して任務に当たらなければならない。これも未来に繋がる大事な訓練、と、気持ちを引き締めた。

 

「えっと……葉隠さん、尾白くん。改めまして、わたしは空中愛依です。よろしくね」

「うん、空中さん。よろしく」

「私のことは透でいーよ! よろしくね!」

「う、うんっ」

 

 わたしはIグループで、葉隠さ……透ちゃんと尾白くんと一緒になった。全員で21人だからどうしてもどこかで3人になってしまい、数の上で有利不利ができてしまうのだけれど、

 

「問題ない」

 

 対戦相手の轟くんは、ただ一言それだけ言った。それは静かな自信に溢れてる気がして、……たったそれだけで気圧されてしまったような気がして、わたしは頬をぱちんと叩いた。

 

(気持ちで負けちゃ駄目。……頑張るんでしょう、わたし)

 

 気を取り直して、前を向く。ここは屋内戦闘が行われるビルの地下にあるモニタールームで、前にはビル内にあるらしい定点カメラの映像が幾つも映し出されている。

 

「さあ君たちも考えて見るんだぞ!!」

 

 画面には爆豪くん、飯田くん、麗日さん、緑谷くんの姿が映し出されている。ぐっと手を握り締めて、彼らの戦いの様子を見守った。

 ──わたしたちの初めての戦闘訓練は、こうして幕を開ける。

 

 

08.少女、服を着る。

 

 


 

 まるで今まで服着てなかったかのようなタイトル。

 オリ主のコスチュームのイメージはTOAのノエル・ニークスが一番近いのですがそれを文章で上手く表現できませんでした。ふわっとイメージして見てくだされば幸いです。



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09.少女、戦闘訓練。

 

 初めてのヒーロー基礎学。初めてのオールマイトの授業。初めての戦闘訓練。……こんな“初めて”尽くしの状況だというのに、

 

「すげぇなあいつ!!“個性”使わずに入試一位と渡り合ってるぞ!!」

 

 モニターに映る彼らの動きに、わたしたち観戦者は歓声を上げた。ヴィランチームは爆豪くんと飯田くん。ヒーローチームは緑谷くんと麗日さんのこの対戦。潜入したヒーローチームにいち早く気づいて奇襲を仕掛けた爆豪くんもさるもの、その動きを読んで対処している緑谷くんも、初めてとは思えない動きだ。すごいな、と沸き立つ声と同時に、訝しむ声が交互に上がる。

 

「……なんだか爆豪くん、緑谷くんばかり狙ってる、ような……」

「麗日のことあっさり先に行かせちゃったよね」

 

 隣にいる芦戸さんも不思議そうに首を捻っている。わたしたちには彼らの喋っている音声は聞こえないから、何を話しているのかはわからないけれど、それでも、目を剥いて咆哮する爆豪くんの様子は明らかにおかしい。

 

「なんかスッゲーイラついてる。こっわ」

 

 そう、金髪の……上鳴くんが言うように、なんだかイラついているような気がするのだ。ただの戦闘訓練にしてはおかしいくらいに、ヴィランに成りきっているといってもおかしいくらいに。

 

「まさに修羅の様相」

「だいぶキレてるわね、爆豪ちゃん」

「……大丈夫、かな。酷い怪我をしないといいんだけど……」

 

 常闇くんや梅雨ちゃんに続いて、モニターを見上げる。戦闘訓練なのだからある程度の怪我は仕方ない。怪我を恐れていてはヒーロー活動は難しいし。

 それでも、爆豪くんは先ほどから“個性”の【爆破】を収める気がまったく無さそうに見える。緑谷くんが上手く動きを読んで避けているからいいものの、これが続いてしまえば、いつか、

 

「──“爆豪少年ストップだ。殺す気か”!!」

 

「、え?」

 

 オールマイトの言葉に虚を突かれた瞬間。鼓膜を突くような衝撃音とともに体が揺れた。爆豪くんによる爆破で、ビルが大破した衝撃だった。

 

「な……っ」

「授業だぞコレ!!」

「っ……緑谷少年!!」

 

 地下でこれなら、地上、それもこの直撃を受けたであろう緑谷くんは──ばっと顔を上げた先のモニターでは、尻餅をついた彼の姿が映し出されていた。直撃はしておらず、目立った外傷はないとわかって、ほうと安堵の息を吐く。

 ……それでも、爆豪くんの目はぎらぎら輝いていて、まったく気持ちが落ち着いたようには見えない。むしろ更に好戦的な目つきをしている。この爆破がまた、繰り返されるような気がしてならない。

 

「……オールマイト先生、今の爆破がまたあったら、今度こそ危険です」

空中(そらなか)の言う通りだって先生! 爆豪あいつ相当クレイジーだぜ!? 殺しちまうよ!」

「ムム……いや……、

 “爆豪少年! 次それ撃ったら……強制終了で君らの負けとする。屋内戦において大規模な攻撃は守るべき牙城の損壊を招く。ヒーローとしてもヴィランとしても愚策だそれは! 大幅減点だからな!”」

「っ、オールマイト先生?」

 

 まだ続行させる気なのか、と傍らの巨躯を見上げると、彼は眉間に皺を寄せてなにかを考えるような表情をしていた。険しいその顔に、少しの違和感を感じる。

 

(普通だったら、止めてもおかしくない場面。それはきっとオールマイトもわかっている。……なのに止めないのは、どうして?)

 

 なにか、理由があるのかもしれない。オールマイトに、爆豪くんに、……緑谷くんに。

 

「リンチだよこれ! テープ巻き付けたら捕らえたことになるのに!」

「ヒーローの所業に非ず……」

「緑谷もすげえって思ったけどよ……、戦闘能力においては爆豪は間違いなく、センスの塊だぜ」

 

 きっとなにかがある。だって普通じゃない。

 爆破の方向を器用に変えて自由自在に立ち回り、圧倒的な才能で緑谷くんを追い詰めている爆豪くんが、あんなにも、

 

「緑谷は逃げてる!」

「男のすることじゃねえけど仕方ねえぜ。けど変だよな……」

 

 壁際に緑谷くんを追い詰めてるのは爆豪くんの方なのに、あんなにも、

 

 

「──爆豪の方が余裕なくね?」

 

 

 あんなにも、焦燥で焼き切れそうな顔をしてる。

 そうして緑谷くんは、決意を込めた目でそれを受け止めている。

 

 ただのクラスメイト同士の戦闘訓練、では片付けられないなにかが、きっとこの2人の間にあるのだろう。けれどそれを考えている暇はない。2人は同時に駆け出して──、

 

「……っ!?」

 

 危ない、止めなきゃ、そんな声を掻き消すような轟音に、みんなは目を丸くして。そしてモニターに映る光景に目を見開いた。

 ──緑谷くんはただ追い詰められていただけじゃない。先行した麗日さんと連絡を取って、奪取すべき核兵器の場所を確認。そして、爆豪くんと同時に殴り合うふりをして、思いきり天井に向けて打撃を放った。空気すら穿つそれは、衝撃波となって床を幾つかぶち抜き、麗日さんのところまで届く。ぶわりと浮いた無数の破片を、麗日さんは“個性”で浮かした柱でフルスイング──瓦礫の雨に怯んだ飯田くんの隙を見て、彼女が核兵器を確保した。

 

(これを……緑谷くんは狙っていたの……?)

 

 あんなに追い詰められながらも、チームとしての勝利を目指して動いていたのだ。……今、麗日さんはキャパオーバーがきたのか項垂れているし、緑谷くんは重傷を負っているけれど。

 

「負けた方がほぼ無傷で、勝った方が倒れてら」

「勝負に負けて、試合に勝ったといったところか」

「訓練だけど」

 

 そんな風に感想を交わし合っていると、麗日さんと飯田くん、爆豪くんがオールマイトに連れられてモニタールームにやって来た。今から講評の時間というけれど、そこに緑谷くんの姿がない。

 

「あの、オールマイト先生、緑谷くんは……?」

「彼は保健室だ。なに、我らがリカバリーガールがついている! 心配ないさ!!」

「そう、ですね」

「ウム!! では講評を始める──っても、今回のベストは飯田少年だけどな!!」

「なな!!?」

 

 ベストと評された飯田くんが一番驚いているけれど、他のみんなも不思議そうな表情を浮かべている。

 

「勝ったお茶子ちゃんか緑谷ちゃんじゃないの?」

「何故だろうな~~~? わかる人!!」

「ハイ、オールマイト先生」

 

 静かに挙手をしたのち、八百万さんは一人一人の理由を挙げていく。曰く、飯田くんが今回の状況設定に順応していたからと。爆豪くんの私怨丸出しの独断専行や、屋内での大規模攻撃は愚策だと。緑谷くんも同様の理由だと。麗日さんは中盤の気の緩みと核兵器だと想定していない大雑把な攻撃がいけなかった、と。淀みなく述べた。

 ……すごいな、と思う。これだけ短い間に的確な分析ができることも、それに、わたしみたいな公安の訓練があったわけでもなく、自力で辿り着いていることも。

 

「常に下学上達! 一意専心に励まねば、トップヒーローになどなれませんので!」

 

 そんな八百万さんの凛とした横顔を見てると、わたしもやらねばならないと、頑張らなければと気持ちが奮い立つ。

 

(次は、わたしたち……!)

 

 大破したビルから場所を移して、第2回戦を行うらしい。モニタールームから移動する間、わたしはぎゅうと拳を握り締めた。少しでも震えを収めて、強くありたかった。

 

 

 

 

 

「ねーねー! 作戦どうする?」

 

 わたしと透ちゃん、尾白くんのIチームはヴィランとしてヒーローたちを捕らえるか核兵器を時間制限まで守りきることが勝利条件だ。ヒーロー組は、……障子くんと、轟くん。

 

「えっと……轟くんは氷結を使うよね。個性把握テストで見た」

「ああうん……かなり範囲が広そうだ。立て続けに地面を凍らせて、移動にも使ってたな」

「機動力もある、と考えておいてよさそうだよね。……でも、障子くんの“個性”がいまいちわからないな。腕力がすごいのは握力測定で知ってるけど」

 

 核兵器を配置して、どう迎え撃つかの作戦会議中。尾白くんとうんうん頭を悩ませていると、透ちゃんがあっ!と声を弾ませる。

 

「私知ってる! 入試の会場で一緒だった!」

「本当? どんな個性なんだ?」

「えっとねー……障子くんって腕がいっぱいあるでしょ? その先に耳を生やして、辺りの様子を探ってたよ! たぶん、そうしたら周りの音をよく拾えるんじゃないかな」

「……そっ、か。諜報にも長けてるんだね……」

 

 彼が音を拾えるとしたら、どのくらいの範囲なのか。どのくらいの精度なのか。わからないなら、最大限の構えをしておくべきだろう。ひとつ思い付いたことがあって、わたしは顔を上げる。

 

「……あの、透ちゃん、尾白くん」

「んー?」

「どうしたの?」

「えっと、ね……足音を拾われるのだとしたら、こちらの位置も伝わってしまうよね。それを逆手に取って迎え撃つことは、できないかな」

 

 そうして話した作戦は拙いものだったけど、2人は頷いてくれた。頑張ろう!と言ってくれている。

 

「頑張るぞー! よし、2人とも私ちょっと本気出すわ。ブーツも手袋も脱ぐわ!」

「えっ、いや透ちゃんそれは、その……」

「……。……うん、まあ……透明人間としては正しい判断かもだけど……」

 

 女の子として止めなきゃって思う気持ちと、尾白くんの言う通りかもしれないって思う気持ちがせめぎ合って、ついにはなにも言えなくなった。だって本当に、何も身につけていない透ちゃんは透明人間そのもので、きっと誰にも気づかれない。

 尾白くんは尾を使った武術が得意とのことで、わたしたちに足りない近接戦闘もこなしてくれるだろう。

 

(……よし、やるぞ。)

 

 わたしだって、頑張るんだ。

 そう決意を改めて、わたしは翼を広げた。

 

 

 

 

 

 わたしが立てた作戦。それは、透ちゃんと尾白くんを予め羽根で浮かしておくこと。そうすれば2人の位置はきっと障子くんに気取られない。そしてわたしは囮役として、核から離れた場所で歩いておく。とにかくまずは位置を掴ませないこと──それを目標に動いていたのだけれど、それが別の意味で功を奏すことになるとは、思ってもみなかった。

 

「、わ、ぁ……っ!?」

 

 なにかひやりとした風が吹いたな、と思った瞬間、ビルの床から壁、天井に至るまですべてが氷に覆われていた。あまりに突然のことすぎて、床につけていたわたしの足元まで凍ってしまった。ピキピキと音を立てながら、氷結はわたしの足を伝ってすべてを凍らせようとしてくる。

 

「っまずい……!」

 

 咄嗟にブーツを脱いで宙に浮くことで事なきを得たけれど、あまりに速く広範囲の氷結は予想外。……でも、これは、

 

(……もしかしたらチャンス、かも、しれない)

 

 氷結は、きっとビル全体を覆ったのだろう。だったらきっと、轟くんは仲間を巻き込まないために障子くんを外に出しているはず。彼はきっと、ひとりでここに来る。それなら。

 

「尾白くん、聞こえる? そっちに氷結は?」

『来てる。けど、空中さんが浮かしといてくれたからなんとか無事。俺も葉隠さんも』

「よかった、……まだそこで準備しておいて。とりあえず尖兵として、わたしが轟くんと会敵してみる」

『えっ、大丈夫なのそれ』

「わから、ないけど……様子見は必要だから。でもプランBの時は、よろしく」

『……わかった。気をつけて』

「うん」

 

 ひゅん、と風を切って宙を飛ぶ。外に出ることも考えたけど、障子くんに見つかってしまうのもまずい。彼にわたしの位置や飛んでいることを気取られて轟くんに伝えられてしまうと、もう打つ手がない。

 きっと轟くんは、みんなの動きを止めたと思って油断しているはず。……この油断を突かなきゃ、彼らには勝てない。

 

(……! 来た、轟くん)

 

 ゆっくりとこちらへ向かってくる気配がひとつ。微かな足音もひとつ分。十中八九轟くんだろう。息を殺して、気配を消して、わたしは意識を集中させる。あの赤と白のツートンカラーの髪が、眼下で揺れた。

 

「……ッ!」

 

 瞬間。わたしは用意していた羽根を飛ばす。捕獲用テープを付けたそれが、轟くんの体を拘束するようにぐるぐると回っ、て、──回りきる直前に、氷に捕らえられる。

 

「ッあ!」

 

 テープから羽根へ、そしてそれを操るわたしへと、あっという間に伸びてきた氷は、わたしを壁に叩き付けてそのまま拘束した。咄嗟にもがいた腕も押さえつけられるように凍らされて、今はもう身動ぎすらできない。

 

「抵抗すんな。もう動けねえだろ」

「う……っ」

 

 轟くんが、捕獲用テープを手にこちらへ歩いてくる。あれを巻き付けられたら終わり。わたしは参戦できなくなる。なんとか抵抗しようと力を込めるも、身体中のどこかしこも寒いし冷たいし痛い。とてもじゃないけど、動けそうにない。

 

「……手荒になって悪かったな」

 

 ぼそりとした謝罪は、彼なりの優しさだったのかもしれない。でもわたしの中には悔しさがまだ生きていた。もう勝ったつもりでいる轟くんに、なんとか報いたかった。だから、

 

 

「……今だよ、プランB!」

 

 

 通信機のスイッチは入れっぱなしにしてある。だから“彼”が了解、と小さく呟いた声がわたしの耳に届いた。ひゅん、と風を切る音も。

 

「──ッらァ!!」

「、!?」

 

 わたしの操作する羽根に乗ってきた尾白くんが、飛び降り様に轟くんに回転蹴りを放った。完全に不意をついたと思ったのに、轟くんは驚きの反射神経でそれを回避する。

 

「チッ……! おまえも止まってろ!」

「うわ……!」

 

 だん、と轟くんが右足を踏み締めると、そこからわき出た氷結が尾白くんの右足を掴んだ。そのまま体のほとんどを凍らされて、身動きができなくなる。

 は、と吐く息が白い。わたしや尾白くんはもちろん、これを放った轟くんまでもが、だ。ビル全体を包む広範囲の大氷結に加えて、わたしたちを捕らえるのに使った分もある。

 

(使いすぎると、動きに制限がかかるのかな……?)

 

 微かに震えている轟くんを見つつ、わたしは目を細める。彼はゆっくりになった足取りで、わたしたちを確保しようと歩いてくる。──その後ろにいる存在には、気づいていない様子で。

 

(氷結自体も、無尽蔵じゃなさそう)

 

 だから、最初に張った氷結が薄くなっている。

 だから、透ちゃんが素足でも歩けるようになっている。

 あと数歩のうちに、透ちゃんが轟くんをテープで確保すれば、わたしたちは──、

 

「……轟、葉隠だ!後ろにいる!!」

 

 わたしたちは勝てる、──そう思っていたのに、割り込んできた声に阻止された。轟くんはバッと振り向きざまに氷を放つ。

 

「……!」

「わ、わ、わっ!」

 

 透ちゃんがいるであろう透明な空間を除いて、氷が埋め尽くす。3人仲良く氷に包まれたわたしたちに、もう成す術はない。悔しさに歯噛みして、わたしは入り口に目を向けた。

 

「いつのまに……」

「複製腕でビルの中の様子を伺っていたんだ」

 

 触手の先に生やした口がそう告げる。障子くんの索敵範囲と精度を、そして轟くんの氷結のキャパシティを見誤っていたわたしたちの敗けだった。

 

「“ヒーローチームWin”!!」

 

 オールマイトの判決がビル内に響き渡る。するとおもむろに轟くんが氷に左手を当てた。ブアッと熱が沸き起こって、氷がみるみるうちに溶けていく。

 

「熱……!」

「凍らせるだけじゃなく、燃やせるの~?」

 

 すごーい、ずるい!なんて言う透ちゃんは見えないけれど、まるで頬を膨らませているかのような声色で、思ったより元気そうだとほっとする。……いやでもその、は、裸で凍り漬けなんてやっぱり駄目だな。

 

「あ、あの、轟くん」

「なんだ」

「わたしはスーツの関係もあって平気だから、先に透ちゃ……葉隠さんの氷を溶かしてあげて。その、スーツの関係も、あるし、」

「……、……ああ」

 

 そうか、と納得してくれたようで、轟くんはそっちに向かってくれた。ほっとしてその後ろ姿を見送る。ぽた、ぽた、と溶けてきた氷が水となって、わたしたちに降り注ぐ。生ぬるいそれに打たれながら、はあ、と息を吐いた。

 

「ごめんね、空中さん。俺があの蹴り当てられてたら……」

「え、そ、そんなことないよ。むしろその、そもそもわたしの作戦が見きり発車すぎたというか……」

「えー? でも惜しかったよね、私たちよくやったよ! 轟くんと障子くんがズルすぎただけだって!」

「透ちゃん……」

 

 底抜けに明るくそう言ってくれると、なんだか沈んでいた気持ちが浮上する。

 

「ズルくはないぞ」

「ズルくはねえ」

 

 しかも至極真面目に障子くんと轟くんがそう言うものだから、思わずふふ、と笑みがこぼれた。尾白くんも苦笑混じりに笑っている。

 そんなわたしたちに不思議そうな顔をしながら、轟くんは左手で氷を溶かしてくれた。解放されてとん、と床に足をつけたわたしに、轟くんは無表情のまま口を開く。

 

「空中、だったか」

「え……、う、うん」

「その右腕、氷の中でもがいたんだろ」

「あ、あー……うん、そう、だね」

 

 轟くんが目敏く見つけたのは、わたしが轟くんの氷に捕まった時、もがいて皮が一部剥がれてしまった傷だった。ばつが悪くなって視線を反らしたわたしに、彼は続ける。

 

「無茶すんな。凍傷になってもしらねえぞ」

「ご、ごめんなさい。……でも、」

 

 左手で傷口に触れ、意識を集中させる。そんなに深い傷でもなかったから、あっという間に綺麗に治った。

 

「うん、ほら、大丈夫だよ」

 

 大丈夫。もう痛くもなんともない。

 そんな風に思いを込めて笑う。そうしてわたしたちはオールマイトの放送に促されてモニタールームに向かったから。

 

「……。」

 

 なにか考え込むようにしている轟くんには、気づかなかった。

 

 

09.少女、戦闘訓練。

 

 


 

 尾白くんの武術シーンも書きたいし葉隠ちゃんの隠密も書きたいし轟くんの他を寄せ付けない圧倒的強個性感も出したいし何より障子くんを活躍させたいしで大変でした。

 障子くんめちゃめちゃ格好いいのでこれからも隙あらば出していきたい所存。



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10.少女、治癒について。

 

 “体の内側から爆竹が爆発したみたい”。それが、緑谷くんの右腕の怪我に対する第一印象だった。不思議な現象ではあるけれど、そう言う他ない。爆豪くんの爆破を受けた左腕とは明らかに違う。骨が砕けて、血管がぶち切れている。その力の掛かり方はどう見ても“内側”からだった。

 

「どうしてこんな……、……“個性”が体に、合ってない?」

 

 全チームの戦闘訓練が終わり、ホームルームを終えた放課後。わたしはリカバリーガールに呼び出されて保健室を訪れていた。ベッドで眠っている緑谷くんの容態を見て首を傾げるわたしに、リカバリーガールは重々しく頷く。

 

「あんたの見立て通り、緑谷の体に“個性”が馴染んでいないんだろうさ。緑谷は去年突発的に“個性”が発現したと聞いているからね」

「去年……? それは、レアケースですね」

 

 普通、“個性”が発現するのは4歳までだ。それを過ぎてもなお発現しない場合は【無個性】として登録されるはずなのだけれど。でも“普通”があれば“特例”もある。緑谷くんはレアケースの中のレアケースだったのだろう。

 そうわたしの中で結論付けたけれど、リカバリーガールは浮かない顔だ。渋い表情で眠る緑谷くんを見つめている。……そこにある感情は、なに?

 

「リカバリーガール?」

「……本当に、難儀な子だね」

 

 その声にある感情は、ただ“個性”が体に合ってないことを可哀想に思っているのとは違う気がした。リカバリーガールはきっと、わたしの知らない“なにか”を知っている。

 

「……空中(そらなか)、よくお聞き」

「は、はい」

「あんたはこれから緑谷と長い付き合いになるだろう、同学年なんだからね。きっと、こうした怪我を治す機会も、これっきりじゃない」

 

 彼女は“なにか”に苛立つように、けれど“なにか”を憐れむように、複雑な音で言葉を紡ぐ。

 

「あんたの【治癒】を使えば、治すだけなら簡単だろう。……でもね空中、本当に大切なのは、怪我をさせないことだ」

「……怪我を、させない……」

「そう。ヒーローに、『どうせ治してもらえるから無茶したっていい』と、思わせちゃいけないのさ」

 

 【ヒーローはいつだって命懸け】──それは理想的なヒーローの在り方とされる。誰かの命のために自分の命を投げ出せる人は、英雄と呼ばれるから。

 わたしはそんな人たちを、すごいと思っていた。眩しい気持ちで見つめていた。けれどそれでは駄目なのだと、リカバリーガールは諭すように言う。

 

「これを褒めちゃいけないよ。少なくともあんたは。あんただけは」

 

 “私たちだけは駄目なのだ”と、彼女はわたしの目を見据えた。

 

「治す者として、生命を守る者として。諌めなければならない時があることを学びんさい」

 

 

 

 

 

「ほ、ほんとにごめんね、空中さん……!」

「う、ううん。いいの、気にしないで」

 

 あの話の後、リカバリーガールの指導の元、わたしは緑谷くんを治癒した。爆破されて火傷と破傷が酷かった左腕と、内側から壊れた右腕、それぞれに治癒のエネルギーを施すと、程なくして彼は目を覚ました。『また無茶をして!』と彼をひとしきり叱ってから、リカバリーガールはわたしたちに飴玉をくれた。それを口の中で転がしながら、わたしたちは教室に戻るところで。

 

「その……“個性”の制御は、やっぱりまだ難しい?」

「う、うん……」

「……あのね、緑谷くんたちの戦闘訓練、モニタールームで見てたよ。たくさんの作戦を練ってて、それを実行してて、すごかった」

「うえっ!? い、いやいやそんな、ぁ、ありがと、う……?」

 

 複雑そうな顔をしている緑谷くんは、きっと気づいている。わたしもまた、複雑な思いを持っていることに。

 

「でも、やっぱり……心配になるよ。はじめからうまくいかないことはわかるけど、制御、諦めてしまわないでね」

 

「──……うん、わかった」

 

「……ご、ごめんね、なんか上から目線だ……」

「そんなことないよ!! っあ、と……大声でごめん……!」

「え、や、いいの、その、わたしが謝るべきで、」

「いやいやいや僕の方こそ……!」

 

 そんな、端から見れば何やってるんだって感じで、わたしたちは教室に戻ってきた。大きなドアをスイーっと開けると、賑やかな声が飛び込んでくる。

 

「おお緑谷と空中来た!! お疲れ!!」

 

 赤いツンツンとした髪が特徴的な男の子、切島くんはニカッと笑って緑谷くんに向き直った。ギザキザの歯がきらりと光る。

 

「いや何喋ってっかわかんなかったけどアツかったぜおめー!」

「へっ!?」

「よく避けたよー!」

「1戦目からあんなのやられたから俺らも気合い入っちまったぜ!」

 

 いきなりの称賛に囲まれて、緑谷くんがびっくりしたように目を丸くしている。

 

「俺ぁ切島鋭児郎! 今みんなで戦闘訓練の反省会してたんだ!」

「あっ、私芦戸三奈! それにしてもよく避けたよねー!」

「蛙吹梅雨よ。梅雨ちゃんと呼んで」

「俺! 砂藤!!」

「わわ……」

 

 わいわいと賑わう教室。その奥から麗日さんがてててと走り寄ってきて、緑谷くんにぱあっと笑った。

 

「あ、デクくん怪我! よかったあ、治ったんやね」

「うん、リカバリーガールの処置と空中さんの治癒で、もうすっかり。あ、そうだ麗日さん、かっ、……爆豪くんはどこかな」

「ん? 爆豪くんは……皆で止めてたんだけど、さっき黙って帰っちゃったよ」

 

 それを聞いた緑谷くんの顔に、一瞬、さまざまな表情がよぎった。まずい、とか、やっぱり、とか、そういったものが綯交ぜになったような。けれどそれを取り繕うような笑顔を浮かべて、緑谷くんは麗日さんにお礼を言った。そうしてくるりと踵を返す。

 

「、緑谷くん?」

「ごめん、ちょっとかっちゃんに話があって!」

 

 それだけ言い残して、バタバタと足音が忙しなく遠ざかっていく。残されたわたしたちはしばらく無言になって顔を見合わせた。

 

「かっちゃん……って、爆豪くんのこと、だよね?」

「あだ名?」

「やけにかわいい感じで呼んでんだなァ」

「同中なのかな? 緑谷と爆豪って」

 

 高校に入ってからの仲ではないことは確かなようだ。……だから戦闘訓練の時、あんなにも刺々しい、物々しい雰囲気だったのかも。

 そんなことをぼんやり思い出していると、ふいに隣から呼び掛けられて、はっとして我に返る。

 

「それにしてもあの怪我をこうも治すとは……! すごいな空中くん!」

「へっ、」

「緑谷両腕がバキバキのグシャグシャだったもんねぇ」

「スマートじゃなかったよね☆」

 

 飯田くんや芦戸さん、青山くんだけじゃなく、他のみんなの視線を感じて、思わず声が裏返った。

 

「ち、違うよ。緑谷くんも言ってたけど、リカバリーガールの処置があってのことで、」

「入試の時の傷も、綺麗に治してくれたものね」

「も、もう、梅雨ちゃん……」

「照れなくてもいいのに」

 

 けろろ、と口許に人差し指を当てながら、梅雨ちゃんが軽やかに言う。そんなわたしたちのやり取りに対し、耳郎さんがああ、と頷いて。

 

「そういえば2人、初日からお互いに“ちゃん呼び”だったよね。同中出身とか?」

「いいえ、入試の演習会場が一緒だったのよ。その時に愛依(あい)ちゃんが私を助けてくれたの」

「もともと、梅雨ちゃんが別の人を助けてたのが始まりだし……」

「ふふ。素敵な出会いがあったのですね」

「あの演習大変だったよなー。怪我を治してくれるなんて有難いぜ!」

「あ、う、えと……」

 

 なんだか変な照れがあって、顔が熱くなる。八百万さんが微笑ましいというように手を合わせるから、なおのこと。切島くんの賛辞にも上手に返せないでいる、と、

 

「……ぉぃおいおいオイ、そこじゃねぇだろ? そこじゃねぇだろ! 大事なところはよォ!!」

 

 今まで黙っていた紫の髪の男の子、峰田くんが、なんだか変な気合いを見せてそう言った。丸くくりっとした目が、ぎろりとわたしを見上げる。

 

「なあ……空中ァ……」

「な、なに?」

「リカバリーガールと同じように、空中も治癒ができるんだよなァ?」

「う……うん、そうだけど……」

 

「峰田、どうした。目付きが尋常じゃないぞ」

「人としてアウトな域に入ってっぞ?」

「黙れぃ! これが落ち着いていられるかァ!!」

 

 障子くんや瀬呂くんが宥めるも、峰田くんは止まらない。なんだかよくわからないけれど、話せば話すほど、呼吸が荒くなっている、ような?

 

「よくよく考えてみろよ! 思い出してみろよ! リカバリーガールの治癒! ならぬ、チュー!! ……ということはだ、同じチューの“個性”を持つ空中もまた……!! 緑谷に……!!」

「っ!!」

 

「ちっ、がう、から!!」

 

 何を力説するかと思えば、とんでもなく馬鹿なことだった。ぼぼぼと熱くなる顔が嫌で、それでも声を上げずにはいられない。

 

「確かにわたしは【治癒】の“個性”ではあるけど、違うところがあって……! 上鳴くんもハッとしたような顔しないで!」

「ええ~でもなぁ~?」

「変に焦るところが、怪しいよなァ?」

「も、もう、違うって言ってるのに……っ」

「いやいや責めてるとかじゃないんだって。ただ、これから、俺もお世話になることもあるだろうから?後学のために聞いておこうと──ぶえっ!!」

 

 ビタン!といい音を立てて、梅雨ちゃんの長く伸びた舌が峰田くんをビンタした。上鳴くんは両手を上げていて、口を素早く閉ざしている。

 

「アウトよ峰田ちゃん」

「あ、ありがと、梅雨ちゃん……」

「こういう時はもっと怒っていいのよ愛依ちゃん」

「上鳴、あんたもわかってんね?」

「オッケー黙ります!」

 

 峰田くんが梅雨ちゃんに、上鳴くんが耳郎さんに黙らされたことで、少し落ち着きを取り戻す。軽く深呼吸をしてから、みんなに向き直った。

 

「わたしも、取り乱してごめんね……。でも峰田くんの言うことにも一理あるし、みんなにもわたしの【治癒】について説明しておくね」

 

 これから治癒の場面が来るかもわからないし、知っておいてもらうべきだろう、とわたしは口を開く。

 

「とりあえずわたしの【治癒】は、さっきも言った通りリカバリーガールと違うところがあるの。エネルギーの出所もそうなんだけど、発動方法もそう。

 手当てって、“手を当てる”って書くでしょう?わたしの中で“治癒”のイメージといったらそれなの。だから、わたしは患部に手を当てることで、治癒を発動する」

 

「……そんなのって、そんなのってありかよ……!」

「峰田ちゃん」

「ハイ」

 

 キュッと絞められた峰田くんを見て、「煩悩の塊……」と常闇くんが小さく呟く。身も蓋もない……けど間違っちゃいないな、とわたしは苦笑した。そう、笑った。

 

(……、なんだか、不思議)

 

 放課後の教室で、こんな風にクラスメイトとお喋りして、冗談を聞いたり、怒ったり、笑ったりしてる。こういうことがあるとは知っていたけど、自分がその輪の中に入ってることが不思議だ。まだ実感がわかないというか、現実味が無いというか、……夢のようだと、ぼんやり思う。

 

「峰田くんじゃないけどさ、これから絶対お世話になると思うんだよね。今日みたいな戦闘訓練の時とかさ!」

「そうだね。空中さんがいてくれると心強いや」

 

 今日チームを組んだ透ちゃんや尾白くんがそう言って、他のみんなもよろしくね、よろしくな!と声をかけてくれる。夢のようだけど夢じゃない、そんな出来事を前に、胸の奥が熱くなった。

 

「……わたしの方こそ、よろしくね」

 

 夕日が目に滲んで、あつい。込み上げてくるものを誤魔化すように、ゆっくりと笑った。

 

 

10.少女、治癒について。

 

 


 

 峰田書くの面白かったです。多少振り切ったテンションで書いても峰田なら何とかしてくれるという変な信頼が生まれました。



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11.少女、投票する。

 

 オールマイト。圧倒的な力とカリスマを兼ね揃えたヒーローの中のヒーロー。長らくNo.1ヒーローを務めてきた平和の象徴。そんな彼が急遽事務所を休業して雄英で教鞭を取るときたのだから、社会は、メディアは揺れていた。

 

「……うわ、」

 

 登校中、遠目に見えてきた校門の前に、無数の記者さんたちが陣取っていた。誰もがマイクやカメラを構え、通りかかる生徒たちにコメントを求めている。連日テレビや新聞で取沙汰されている、今最も注目されているニュースだ。マスコミが押し掛けるのも無理ないだろうな、と思いつつも、ため息が漏れてしまう。

 軽く深呼吸をして、意を決して、素知らぬ顔で通り過ぎようとしたけれど、こういう時の記者さんたちは怖いくらい目敏く速い。

 

「あ、そこの君! 雄英生だよね?」

「、あ……はい、」

 

 そうです、と答えた声は重ねられた質問に掻き消された。3、4人の大人に囲まれて足が止まってしまう。

 

「オールマイトの授業はもう受けた?」

「No.1ヒーローが教壇に立ってるってどんな感じ?」

「え、と、」

「先生としてのオールマイト、どう思う?」

「あの、すみませんわたし、そろそろ行かなくちゃ、」

「ちょっとだけ! 一言でいいからコメントください!」

 

 相手方もお仕事だ。だからこのグイグイくる感じも仕方ないことなのだけど、やっぱり今は困ってしまう。どうしよう、適当に当たり障りのないコメントをして立ち去るべきか、と考えていたら、

 

空中(そらなか)、」

 

 背後から呼び掛けれるままに振り返る。そこに相澤先生が立っていて、くい、と顎で学校の方を指した。

 

「遅刻するぞ。早く来い」

「はっ、はい!」

 

 これぞ天の助けとばかりに駆け寄る。相澤先生はわたしを背に庇って、やって来る記者さんに向かい合った。

 

「オールマイト、って小汚なっ! なんですかあなた!」

「彼は今日非番です。授業の妨げになるんでお引き取りください」

 

 少し失礼な記者さんにも表情を変えず、淡々と手を振って彼は学校へと歩き出した。その背を追い掛けるように、わたしも小走りで続く。

 

「オールマイトに直接お話伺いたいんですが!」

「あなた小汚なすぎません!?」

「どこかで見たことあるような、ないような……」

 

 校門の方では質問の嵐が止まない。ついにはオールマイトコールまで始まってしまって、この騒ぎはいつ収まるんだろうかとちらりと視線をやった。

 ──ら、いきなりガゴガコゴ!!と大きな音を立てて、重厚なシャッターが降りて校門を封鎖した。記者さんたちのざわめきが門越しに微かに聞こえる。

 

「……え、あれ、シャッター……?」

「人呼んで“雄英バリアー”だ。学生証とかの通行許可証を身につけてない者が門を潜ろうとするとセキュリティが働く。校内のあちこちにセンサーがあって、それに引っ掛かってもアウト」

「……さすが雄英というか……」

 

 セキュリティの強度も最高峰だったらしい。呆れたような感心したような不思議な気持ちで息をこぼす。そうして気づく。相澤先生へのお礼がまだだったことに。

 

「あ、相澤先生、先ほどはありがとうございました」

「礼を言う必要はない。だが……空中、ああいう手合いを軽くあしらうのは慣れておけよ。クソ真面目に取り合うのは時間の浪費だ。不合理の極みに尽きる」

「……はい、わかりました」

 

 よっぽどマスコミやメディア露出が嫌いなんだなあ、とわかって、苦笑混じりに頷いた。そんなわたしを横目でちらりと見て、彼は再び口を開く。

 

「空中、昨日緑谷の腕を治したんだってな」

「え……は、はい」

「それによる体調の負担はないか」

「な、無いです。大丈夫です」

「……それならいいが、」

 

 フウ、とため息を吐いて、伸ばしっぱなしでぼさぼさになった髪をくしゃくしゃして、相澤先生は静かに言う。

 

「緑谷が“個性”を制御できるようになるまで、まだ時間が掛かるだろう。その間おまえに負担を掛けることになるかもしれんが、」

「わたしは、大丈夫ですが」

「話を遮るな」

「はっ、はい! すみません……」

「……謝らんでもいい。だが、いいか、何かしら体調に異変があった時は、俺やリカバリーガールに必ず言え。いいな」

 

 “合理的”なことを重視して入学式やガイダンスをすっ飛ばして。わたしたち生徒のやる気を出させるために『除籍処分』なんて嘘を言う。ぶっきらぼうな言動も相まって掴みどころがない、という印象だった。

 それでも、それだけだったなら、治癒に自分のエネルギーを使うわたしを、こうも気遣うことなんてないはずだ。きっと、それだけじゃ、なくて。

 

「オイ空中、返事は。」

「は……はい、わかりました。相澤先生」

 

 わたしの返事に、どこか安心したように目を伏せた相澤先生は、……優しい人なのかもしれない。

 

 

 

 

 

「昨日の戦闘訓練お疲れ。Vと成績見させてもらった」

 

 始業のチャイムが鳴り、ホームルームが始まった。相澤先生は淡々とそう言って、すっと視線を“彼”に向ける。

 

「爆豪。おまえもうガキみてえな真似するな。能力あるんだから」

「──わかってる」

 

 俯きながら答える爆豪くんは、なにかを押し殺したような声だった。思うところはあれど、昨日の感情の爆発は消化した後なのかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えていると、相澤先生は次に緑谷くんに水を向けた。

 

「緑谷はまた腕ブッ壊して一件落着か。“個性”の制御……いつまでも「できないから仕方ない」じゃ通させねえぞ。

 俺は同じことを言うのが嫌いだ。それ(・・)さえクリアすればやれることは多い。焦れよ、緑谷」

「っはい!!」

 

 はじめは相澤先生の指摘にビクッと体を震わせていたけれど、最後は力強く返答していた緑谷くん。……きっと大丈夫。諦めないで、制御できるよう頑張ってくれるはずだ。わたしの治癒が要らなくなるのも、そう遠くない日かもしれない。

 

「さてホームルームの本題だ。急で悪いが今日は君らに──学級委員長を決めてもらう」

「「「学校っぽいの来たーー!!!」」」

 

 相澤先生が神妙な顔つきで言うものだから、また何かの抜き打ちテストかと思ったら、学級委員長の選出だった。みんなはホッとしたのもつかの間、一斉に挙手をし始める。

 

「委員長!! やりたいですソレ俺!!」

「ウチもやりたいス」

「ボクの為にあるやつ☆」

「リーダー!! やるやるー!!」

「オイラのマニフェストは女子全員膝上30cm!!」

 

 ハイ・ハイ・ハイ!!!──と、みんながみんな手を挙げるものだから、なんだか圧倒されてしまう。本で読んだ限りでは、学級委員長ってそんなに人気職ってわけじゃなかったけど……ここはヒーローになりたい人が揃っているのだからまた違うのかな、なんて1人納得する。あの爆豪くんでさえ「やらせろ!!」と挙手しているし、緑谷くんも控えめながら挙げている。

 手を挙げていないのは、わたしと麗日さんと、右斜め前に座っている轟くんだけだった。ハイ・ハイ・ハイ!!と依然として声が響く中、そっと轟くんの肩を叩く。

 

「……なんだ」

「ご、ごめんねいきなり……手、挙げないの?」

「……俺はそういうのに長けてない。……おまえこそどうなんだ」

「わたしは……そうだね、わたしも、自信ないや」

 

 彼を追いかけてばかりだったから、誰かを先導してまとめる自分は想像できない。考えてみてもやっぱり無理で、苦笑をこぼした。

 

「静粛にしたまえ!!!」

 

 そんな時、飯田くんの一喝が響き渡る。

 

「“他”を牽引する責任重大な仕事だぞ……! 「やりたい者」がやれるモノではないだろう!! 周囲からの信頼あってこそ務まる聖務……民主主義に則り真のリーダーをみんなで決めるというのなら……、

 

 ──これは投票で決めるべき議案!!!」

 

「手ぇ聳え立ってんじゃねーか! 何故発案した!!」

 

 ……飯田くんも委員長やりたいんだなあと、ひと目見ただけでわかるほど、真っ直ぐ天に向かって挙手していた。葛藤があるのかふるふると震えてさえいる。

 

「知り合って日も浅いのに信頼もクソもないわ飯田ちゃん」

「そんなんみんな自分に入れらぁ!」

「だからこそここで複数票を獲った者こそが、真にふさわしいということにならないか!?」

 

 相澤先生は決まれば特になんの文句もないらしく、やり方は任せるとのこと。飯田くんの他にどうすべきか案は上がらなかったので、1人1票、委員長にふさわしい人物に投票することになった。

 ……たぶん、飯田くんが発案しなければ、みんな委員長をやりたいという熱意がありすぎて、話がまとまらなかったんじゃないかと思う。自分の願望を抑えてまで、みんなのためになるよう意見を出した──

 

(飯田くんが、ふさわしいんじゃないかな)

 

 そう思い投票した、その結果に、緑谷くんの声が裏返る。

 

「僕、3票ーー!?!?」

 

 黒板に記された結果は、確かに緑谷くん3票、八百万さん2票、その他に立候補した人たちに1票ずつ、というものだった。……あれ、飯田くんが1票ってことは……。

 

「1票……わかってはいた! 流石に聖職といったところか……!! 投票してくれた誰か、申し訳ない……!!」

「他に入れたのね……」

「おまえもやりたがってたのに……何がしたいんだ飯田」

 

 うちひしがれる飯田くんに、八百万さんと砂藤くんが呆れたように呟く。その気持ちもわかるけど、自分じゃない誰かがふさわしいと思って投票する飯田くんも、らしいというか、すごいというか。選ばれはしなかったけど、投票してよかったなと思う。

 こうして委員長に緑谷くん、副委員長に八百万さんが就任したところで、ホームルームは終了した。

 

 

 

 

 

 【ランチラッシュのメシ処】──雄英高校の食堂は、なんとあのプロヒーローランチラッシュが切り盛りしている。プロ級の料理が安価で食べられると聞いて、食堂はいつも大勢の生徒が集まる。

 

「相変わらず騒がしい……」

「ヒーロー科だけでなく、他の科の生徒が一堂に会すからな」

 

 常闇くんの呟きに障子くんが頷く。そうだね、と相槌を打ちながら、わたしは親子丼に舌鼓を打った。お肉はぷりぷり、玉子はふわふわ。よく味の染みた玉ねぎを噛むと口の中でじゅわっと旨味が広がるし、三つ葉の爽やかな苦味がいいアクセントになっている。

 

「おいしい……」

「本当に美味しそうに食べるわね、愛依(あい)ちゃん」

「だ、だって本当に美味しいから……。梅雨ちゃんはうどんだね。好きなの?」

「つるっとした喉ごしが好きなの。一番の好物はゼリーなんだけれど」

「そうなんだ」

 

 ゼリーか、なんだか梅雨ちゃんに似合うというか、ぽいというか。興味がわいて、わたしは向かいに座っている2人に問いかける。

 

「あの、障子くんの好きな食べ物って何?」

「俺か? 俺は……たこ焼きとイカスミパスタだな」

「イカスミパスタ……って、食べたことない、かも」

「そうなのか。ペペロンチーノに魚介とトマトの旨味が入っている、という感じで美味いぞ。機会があったら食べてみるといい」

「うん……あれトマトも入ってたんだね……」

「私も食べてみたくなったわ。常闇ちゃんは何が好きなの?」

 

「知恵の実……禁断の果実とも称される、林檎だな」

 

 フッとニヒルに微笑んでみせた常闇くん。その懐から、ヒョコ、と黒い影が飛び出てきた。

 

「リンゴ! リンゴ! 甘クテ瑞々シイノガウマイ!!」

「!?」

「っこら黒影(ダークシャドウ)! 戻れ!」

「エー、ナンダヨウ! フミカゲのケチ!!」

 

 ぶすっと頬を膨らませるようにして、その“影”はまた常闇くんの中に消えていった。唖然としながらも、今までの“個性”把握テストや戦闘訓練で見たこと自体はあったなと思い出す。

 

「い、まのって、常闇くんの“個性”だよね? 喋るんだ……」

「……ああ、俺の“個性”黒影(ダークシャドウ)には自我があってな」

「可愛いわ。なんだか常闇ちゃんの弟みたいで」

「可愛い……まあ、今の状況ならな」

「? それって……」

 

 “今”じゃなければ、また違うということ?

 そう尋ねようとしたわたしの声は、突如鳴り響いたサイレンに掻き消された。ウウーーー、とまるで何かが吼えるような物々しい音に、びくりと体を震わせる。

 

『セキュリティ3が突破されました。生徒の皆さんは速やかに屋外に避難してください』

 

 淡々としたアナウンスとは裏腹に、それを聞いた生徒たちはパニックに陥った。みんながみんな急いで避難しようとしているのだけれど、そのせいで人が押して押されて集まって、渋滞を起こしている。

 

「いてぇいてぇ!!」

「押すなって!!」

「ちょっと待って倒れる!」

「押ーすなって!!!」

 

「! ケロっ、」「くっ」

「、梅雨ちゃん、常闇くん!」

 

 この人の波に、比較的小柄な2人が呑まれようとしているのが見えて、咄嗟に羽根を飛ばして2人を浮かせた。他の人より頭ひとつ分高くして端に寄せたので、これで2人が巻き込まれることはないと思うけど──と、そう考えているのは一瞬の間。だけどその一瞬の間に、出口に向かって走ろうとする人たちにぶつかった。ぐらりと押されるままに、倒れそうになって、

 

「空中!」

 

 ぐいっと力強く引っ張り上げられて、気づいた時にはわたしは障子くんの腕の中にいた。彼が引っ張り起こしてくれなかったら、今頃誰かに蹴倒されていたかもしれない。

 

「あ、ありがとう、ごめんなさい、障子くんは大丈夫……?」

「俺は平気だ。……しかしこれは、どうしたものか」

 

 低く唸るようにそう言って、障子くんは辺りを見渡した。依然として食堂中はパニックになった人たちで溢れかえっていて、止まれ!危ない!皆さんストップ!!といった声が飛び交っている。このままじゃさっきのわたしみたいに、倒されて他の人に踏まれて、大怪我をする人だって出るかもしれない。

 どうしよう。どうしたら、──迷うわたしの頭上から、声が降ってきた。

 

「皆さん……ダイジョーーーブ!!!」

 

 バッと顔を上げると、視界に入ったのは非常口。それと、その非常灯の近くまで浮き上がり、“非常口に駆け込むあのポーズ”をした──飯田くんがいた。

 

「ただのマスコミです! 何もパニックになることはありません! 大丈ーー夫!! ここは雄英! 最高峰の人間にふさわしい行動をとりましょう!!」

 

 飯田くんのインパクトのある、的確でわかりやすい言葉に、1人、また1人と立ち止まっていく。一気にパニックが落ち着いたのを見てとって、わたしはほっと息を吐いた。

 

 

 

 適切に状況に応じて判断して、適切な行動を取ることができる──やっぱり人をまとめる立場に立つ人というのは、そうした人がふさわしいんじゃないかな、と、そう思っていたのはわたしだけではなかったようで。

 

 

 

「委員長は……やっぱり飯田くんが良いと……思います!」

 

 他の委員会を決める会議の途中、緑谷くんがそう言った。彼は人の前に立って話すことにはじめ震えていたけれど、飯田くんのことを話すときは、ハキハキと迷いがなかった。

 

「あんな風に人を格好よくまとめられるんだ。僕は……飯田くんがやるのが正しい(・・・)と思うよ」

 

 そんな緑谷くんの称賛に、切島くんや上鳴くんが続く。

 

「あ! いいんじゃね!! 飯田食堂で超活躍してたし!! 緑谷でも別にいいけどな!」

「非常口の標識みてえになってたよな」

 

「何でもいいから早く進めろ……時間がもったいない」

 

 クラスメイトからの同意。相澤先生からの催促もあって、飯田くんは口許を引き締めて立ち上がった。その目にやる気がきらきら輝いている。

 

「委員長の指名なら仕方あるまい!!! 不肖飯田天哉!! 学級委員長を務めさせていただく!!」

「任せたぜ非常口!」

「非常口飯田!! しっかりやれよー!」

 

 非常口、という呼び掛けにわたしも笑みをこぼしながら拍手した。飯田くんの委員長就任についてはもちろん賛同する。……するのだけれど、心の中のもやが少し残っていた。

 

(……飯田くんや先生は、マスコミが校内に侵入したからって、言っていたけれど……)

 

 本当にそうなのだろうか。……本当に、マスコミにそんなことができるのだろうかと、そんな疑問が後をついて出る。脳裏によぎるのは今朝の出来事。相澤先生に教えてもらった“雄英バリアー”の存在。

 

(あれを破ることが、できた人がいる……)

 

 それは本当に、ただのマスコミだったのだろうか。

 考えても答えが出るわけではないけれど、なんだか胸にしこりが残ったようで、わたしは胸元を握り締めた。

 

 ──この予感が、後に重大な事件に繋がるのだけど、この時のわたしにはまだ知る由もなかった。

 

 

11.少女、投票する。

 

 


 

 A組のみんながそれぞれ大好きなんですけど、中でも大好きなのが梅雨ちゃん、常闇くん、障子くんなので積極的に絡ませていきたい所存(n回目)。

 イカスミパスタは“気になるけど食べたことのない料理トップ3”ぐらいに入ってるような気がします。



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12.少女、B組と。

 

 【治癒個性教育プログラム】──読んで字の如く、【治癒】の“個性”を教育するための学習カリキュラムだ。具体的には、ヒーロー基礎学の単位を調節して、空いた部分を【治癒】特化の学習内容に変更するとのことで。

 

「【治癒】“個性”の訓練のため、今日はA組の空中がおまえたちの怪我を治癒する。空中、」

「はい、……空中(そらなか)愛依(あい)です。今日は、よろしくお願いします」

 

 リカバリーガール曰く、“個性”というのは基本的に使えば使うほど伸びるので、医学の知識を詰め込む以外は実際に治癒しまくろうとのこと。そのため今日のヒーロー基礎学の時間は、治癒係として1年B組の戦闘訓練に同行させてもらうことになったのだ。

 B組担任のブラドキング先生に促され、みんなの前に出てお辞儀をする。ぱちぱちとあたたかな拍手と、よろしくなという呼び掛けに、緊張が少しだけほどけた。

 

「空中さん、いや、空中でいいかな?」

「好きに呼んでくれたらいいよ、えっと……拳藤さん」

「そう? じゃ、そうさせてもらう」

 

 さっぱりとした笑顔を浮かべているのは、拳藤一佳さん。B組の学級委員長を務めているらしい。

 

「今日はよろしく。A組はちょっと前に戦闘訓練やったんだよね。怪我人とか結構出た?」

「う、ん、……重傷者は1人だったね」

 

 脳裏に緑谷くんの姿がよぎる。同時に爆豪くんの姿も。……彼らみたいなことがそうポンポンと起こるとは思えないけど……。

 

「……B組の人の中で、こう……すごく好戦的な人っている、かな」

「好戦的? 鎌切とか鉄哲とか、回原もそうかも。あとある意味で物間」

「? ある意味って……」

 

 その意味を問おうとしたけれど、ブラドキング先生による点呼が始まってしまった。拳藤さんはごめん、よろしく!と言いながら手を振ってくれたので、わたしも手を振り返して準備に向かう。

 ……思ったより好戦的な人はいるそうで、大怪我しないか心配になる。……いや、うん。今は戦闘訓練。そしてわたしは、怪我を治癒するために呼ばれた。なら、やることはひとつ。

 

「リカバリーガール、」

「おや、来たね。そこにお座り」

「はい」

 

 リカバリーガールの出張用テントに入り、促されるまま彼女の横のパイプ椅子に腰を下ろす。後ろにはベッド、目の前にはモニターが並び、ビル内の様子を映し出している。

 

「いいかい空中、戦闘中の様子をあんたにも見せるからね。どんな攻撃があって、どんな動きをして、どの部分をどう負傷したか──きちんと見て判断するんだよ」

「……っはい」

 

 ただエネルギーを注ぎ込むだけではいけない。どの部分に、どのように注ぎ込むか考えなければいけない。そうしてエネルギーの無駄遣いを無くして、以前指摘された問題点をクリアするのだ。

 そう気合いを入れ直して、モニターを見つめる。画面の中では1組目の戦闘訓練が始まったところだった。

 

 ──正直、裂傷や打撲傷辺りが主だろう。それなら公安での訓練で治したことがあるから大丈夫、とたかをくくっていた。今日はとにかく反復練習だと、そう思っていた。けれど、

 

「え、……え……?」

 

 ゲホゲホと咳き込む黒色支配くんを前に、わたしは固まってしまった。黒色支配くんは苦しそうに咳き込んで話せずにいるけど、どうしてこうなったのか、何が原因かは、彼に寄り添う他のメンバーの証言やモニターでの画面で把握している。それでもわたしは、動けなかった。

 

「き……きのこが、体内に……?」

 

 黒色くんの背中を擦っている小森さんが涙目で頷く。彼女の“個性”は【キノコ】。体から胞子を飛ばしてキノコを生やすというもので、訓練中、相手チームに確保されてしまいそうだった小森さんが咄嗟に発動したものが、黒色くんの気管に入り込んでしまったのだ。

 

「ごめんねごめんね黒色、私焦っちゃって……」

「ゲホッ、ゴホ、ッ、グ、ゲホッ……」

「黒色、大丈夫か」

 

 黒色くんを心配する小森さんや泡瀬くんの声や、黒色くんの咳を聞きながら、わたしは頭を巡らせた。早く、治してあげたい。早く治さないと、……でも気管に入ったキノコをどう処置したらいいの?

わたしがエネルギーを送ったら、キノコまで活性化してしまうのではないの?

 迷っている間にも黒色くんの咳き込みは止まらず、ついには涙まで浮かんできている。呼吸にも異常が見られる。どうしよう、どうしたら、早く、早く──

 

「……り、リカバリーガール……」

「……仕方ないね」

 

 はあ、と溜め息を吐きながらリカバリーガールが腰を上げる。今回彼女は、わたしの治癒が効率よく行えていたかチェックするためだけじゃなく、こうしてわたしがうまく治癒を行えなかった場合、代わりに治癒してもらうために同行してくれている。

 彼女はテント内に置かれていた棚から薬品を取り出し、手早く調合すると、黒色くんに向き直った。

 

「黒色、これをお飲み。……そう、ゆっくりでいいよ」

「ノコ……リカバリーガール、黒色だいじょぶなんです?」

「スエヒロダケが肺に入り込むってのは症例としてあるからね、抗真菌薬の投与でよくなるさ。ただ、“個性”で生えたキノコだからね。小森、人に生やしたキノコはいつまで保つんだい?」

「わ、わからない……人に生やしたのははじめてで……」

「そうかい、とにかく薬で様子を見よう。さあもう暗い顔はおやめ。ホラ浅田飴、浅田飴をお舐め」

「ノコッ」

 

 黒色くんや泡瀬くん、小森さんはリカバリーガールの処置で安心したようで、和らいだ顔で飴を口に放り込んだ。そんな様子をただ見ていたわたしを、リカバリーガールが見つめた。厳しい表情で。

 

「【肺スエヒロタケ症】、知らなかったようだね」

「……はい。すみません、勉強不足でした」

「入学して間もないからね、勉強不足なのは仕方ないさ。……でもね空中、あんた、知らない症例が出たからといって、本番でもそうやって狼狽えるつもりかい?」

 

 黒色くんたちが出ていったテントは、元の静けさを取り戻した。しいんと静まり返る中で、リカバリーガールの言葉が、真っ直ぐに届く。

 

「確かに現場にいる以上、知らない症例など無い方がいいに決まっている。でもね、この多種多様な“個性”溢れる超常社会、医学の事例に当てはまらない症例なんか、それこそ溢れるくらいあるんだよ」

 

 言われて、気づく。確かに“個性”が発現した今となっては人の体質や形状なんてさまざまなで、医学の常識というものが通らなくなってくるのも当たり前だ。……でも、じゃあ、

 

「なら、医学を学ぶのは……」

「医学を学ぶのが無駄って意味じゃないよ。さまざまな症例、それに伴う対応策を知っていることで、それを応用して治療にあたることができる」

「……っはい」

 

 思っていたことを見透かされて、恥ずかしくなって俯く。こんな視野の狭いわたしより、リカバリーガールはたくさんのことを知り、たくさんの怪我や病気を治してきたんだ。

 

「あんたに必要なのは、さまざまな症例にも対応できるほどに、確固たる医療知識や技術、そして治癒の経験を積むことだよ」

 

 そしてなにより、と付け加えたその声が、諭すような柔らかさを帯びる。

 

「あんたの前には、身体に異変を感じて不安になっている患者や、意図せず“個性”を使ってしまって、人を害してしまった人がいるんだよ。……あんたがオロオロした顔を見せてどうするんだい」

 

「! ……はいっ……」

 

 ヒーローは、人を救ける人。人に安心を与える人。……そんなヒーローが不安にかられてしまっていたら、誰かの心を救けることなんてできない。

 わたしは頷いて、ぎゅっと口許を結んだ。わたしはまだまだ未熟で、情けない。……けれどこの情けなさを傷として覚えておかなければ、わたしは前に、進めない。

 決意を新たに、モニターに視線を戻す。まだ訓練は続いていて、わたしの治癒係としての役目も終わっていない。頑張らなければと意気込んだわたしの肩を、リカバリーガールは優しく叩いてくれた。

 

 

 

 

 

 最後の組は宍田獣郎太くん、塩崎茨さんのペアと、鉄哲徹鐡くんと物間寧人くんのペアだった。宍田くんと鉄哲くんの派手な殴り合いで肝を冷やしたものの、負った傷はそうした打撲と塩崎さんの茨による引っ掻き傷程度で、わたしにも治癒できる範囲だった。

 

「……うん、これでおしまい。どう? 痛みとかは……」

「ねェ!! もうすっかり元通りよ!!」

「感謝致しますぞ」

「、よかった」

 

 鉄哲くんと宍田くんの打撲傷も完治して、2人とも元気そうに笑ってくれたからわたしも安心する。思わず笑みがこぼれた時、横から手が差し出された。

 

「ありがとね、空中さん。助かったよ」

 

 そう言ってにこやかに笑うのは物間くんだった。握手……されるほど大したことをしたつもりはないけど、でも断る理由もない。そっと右手を出して、彼と繋ぐ。

 

「そんな、たいしたことじゃ……」

「たいしたことない、ねぇ」

 

 物間くんの目が、すうっと細められた。ぎゅっと掴まれた手が、離れない。

 

「──羨ましいよ。いい“個性”だね」

 

「……!?」

 

 嫌な感覚にばっと手を振り払った。体の内側に触れられたかのような、そんな──

 

「あれ? 随分と敏感だね。普段はほとんど気取られないんだけど」

「今、なにを……?」

 

 物間くんはわたしの質問に答えず、何やら自分の身体をぺたぺた触っている。しばらくそうした後、つまらそうな顔になって呟いた。

 

「なァんだ、“スカ”か」

「す、スカ……?」

 

 いきなり握手して、なんだか変な感じがして、それで出てきた“スカ”という言葉。わけがわからなくなって目を白黒させるわたしに、宍田くんがそっと口を開く。

 

「物間氏は、触れることで空中氏の“個性”をコピーしたのですぞ」

「コピー? ……! それが物間くんの“個性”?」

 

 対戦を観戦している時は、音声は伝わってこないこともあってわからなかった物間くんの“個性”。それが明らかになってなお、意味がわからないことがまだある。

 

「そ。でも君のは“スカだったけどね」

「その、“スカ”って、どういう……?」

「それを君に教える義理はないと思うけど?」

 

 皮肉げな笑顔に、うっと言葉がつまる。た、確かにそうかもしれないけど、でも面と向かって“スカ”と呼ばれたら気になってしまう。──わたしの“個性”の、問題もあるし。

 そんな風に困って口ごもっていると、傍で見ていた鉄哲くんたちが声を上げてくれた。声というか、ブーイングを。

 

「オイ物間ァ! いいじゃねェか教えてやっても!!」

「そうですよ。空中さんは私たちの傷を癒してくださったのです。隠し事はすべきではありません」

「流石に“スカ”と言われては、空中氏が気になってしまうのも道理ですぞ」

 

「……君たちはいいね。正々堂々生きてるもんだ」

 

 ふう、と物間くんはため息を吐いた。羨望の滲んだ、眩しいものを見つめた時のような。彼はクラスメイトの言葉を受けて、渋々と言った様子で話し始める。

 

「僕の【コピー】は“個性”の性質をコピーするだけ。何かしらを蓄積したものをエネルギーに変えるような“個性”だった場合、その蓄積まではコピーできないようになってる。

 君の【治癒】は自分の中のエネルギーを使って発動するんだろう? 僕の中にそのエネルギーが無かったから、【治癒】は発動できなかった。……こういう、僕に発動できない“個性”を“スカ”って呼んでるだけ」

 

「……そう、なんだ」

 

 多分、だけれど。その説明の通りならば。

 物間くんは今、わたしの“個性”をコピーできている(・・・・・・・・・・・・・・・)

 でもそれを幸いにも気取られてはいないようだ。……そう、気取られては、いけない。努めて平静を装う。

 

「教えてくれてありがとう、……その、ついでに聞きたいんだけど、物間くんの【コピー】って、相手の“個性”は奪わないんだよね」

「……そうだよ。相手の“個性”を奪って自分のものだけにできるなら、もっと(ヴィラン)退治でも役立ったろうね。でも、」

「そんなことない!!」

 

 思わず大声が出てしまった。わたしらしくない。平静を装うなんて言っておいてこれだ。物間くんたちもびっくりしている。でも、でも、

 

「相手も自分も【コピー】した“個性”が使えるなら、たとえば、怪我人が多すぎる場面に出会したら、医療系ヒーローの“個性”をコピーしたら、そのヒーローと手分けして治療ができる……! 誰かと協力することができる“個性”だよ!」

 

「……その医療系ヒーローになりそうな君が“スカ”だったんだけどね」

「……あっ、えと、それは……」

 

 感情のままに喚いただけだから、率直に事実を突きつけられて確かにそうだと固まってしまった。そんなわたしを、物間くんは半目で見やる。

 

「というか、なにそれ。慰めのつもり?」

「え……!? ちが、そんなんじゃ、なくて、」

「物間ァ」

「……わかったよ鉄哲。この辺にしとく」

 

 全員の治癒は完了しているからと、彼らはリカバリーガールの出張用テントから出ていく。最後尾の物間くんは、ふと足を止めて、振り返ってわたしを見た。びく、と肩を揺らしたわたしを見て、ハッと鼻で笑う。

 

「アッハハ、随分とビビってるじゃん。なに、さっき言ったことは嘘だったの?」

「! 嘘じゃないよ!」

「うるさ。必死なの?」

「う、嘘じゃないって、思ってほしいだけで……」

 

 嘘じゃない。誓って、嘘なんかじゃない。物間くんに詳しく説明することはできないけど、でもそれは本当なのだ。

 ……こんなんじゃ信じてもらえそうもないけど、と、顔を上げると、物間くんが笑っていた。寂しそうだけど、柔らかい微笑み。

 

「……じゃあ、そういうことにしておくよ」

 

 ひらりと後ろ手に手を振って、彼はテントを去っていった。訓練の全行程が終了したから、わたしはリカバリーガールを手伝って撤収準備を始める。

 

(……なんだか、濃かった、な……)

 

 わたしのできないこと。すべきこと。わたしの“個性”のこと──この短い間に考えることがたくさんあって、なんだかどっと疲れてしまった。それでもまだ、頑張りたい気持ちは消えていない。やるべきことは目の前に並んでいる。ぐっと溜め息を飲み込んで、わたしは手を伸ばした。

 

 

12.少女、B組と。

 

 


 

 まだA組がUSJで会敵する前なので、マイルド物間くんのつもりで書きました。でも【ヒーローっぽい個性持ち】に対する思いは色々あると思うので、若干オリ主に対しては刺々しいです。もうちょっと仲良くなるにはもうちょっと腹割らないといけない。

 B組もみんな可愛くて好きですが、特に今回出てきた面子が好きです。宍田くんやきのこちゃんと仲良くなりたい。



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USJ襲撃編
13.少女、救助訓れ


 

 雄英に入学して1週間ほど経った。独り暮らしも、高校生としての生活も慣れてきて。世間もオールマイトが雄英の教師に就任したことをすっかり受け入れて、校門前のマスコミも姿を見せなくなっていた。

 そんな矢先の、出来事だった。

 

「今日のヒーロー基礎学だが、俺とオールマイト、そしてもう1人の3人体制で見ることとなった」

「ハーイ! 何するんですか?」

「災難水害なんでもござれ、救助(レスキュー)訓練だ」

 

 見ることに“なった”という言い方に引っ掛かりを覚えたものの、救助(レスキュー)訓練という言葉に気を取られてしまった。救助(レスキュー)──ヒーロー基本三項のひとつで、わたしが最も、頑張りたいと思っていること。

 

「レスキュー……今回も大変そうだな」

「ねー!」

「バカおめーこれこそヒーローの本分だぜ!? 鳴るぜ! 腕が!!」

「水難なら私の独壇場ケロケロ」

 

「おいまだ途中」

 

 ギロ、と睨みをきかせて静かにさせた後、相澤先生は説明を続けた。今回はコスチュームの着用は自由だということ。演習場は遠いからバスに乗っていくこと──以上準備開始、と締め括られ、わたしたちはそれぞれ席を立った。

 

 

 

 

 

 コスチュームに着替えたり、装備を確認したりして、準備を終えたわたしたちはバスに乗り込んだ。「バスの席順でスムーズにいくよう番号順で2列に並ぼう!!」と意気込んでいた飯田くんが、「こういうタイプだったくそう!!」とバスの内装に項垂れる様子を慰めたり励ましたりしながら、バスは進んでいく。

 

「私思ったことなんでも言っちゃうの緑谷ちゃん」

「あ!? ハイ!? 蛙吹さん!!」

「梅雨ちゃんと呼んで。──あなたの“個性”、オールマイトに似てる」

「!!!」

 

 そんな中、梅雨ちゃんが何気なく言った一言に、緑谷くんは飛び上がらんばかりにビクッと肩を揺らしていた。……そんなに驚くことかな、と不思議に思って、そちらに視線を向ける。

 

「そそそそそうかな!? いやでも僕はそのえー」

「待てよ梅雨ちゃん、オールマイトは怪我しねぇぞ。似て非なるアレだぜ」

 

 何故か慌てる緑谷くんを見かねてか、切島くんが間に入る。

 

「しかし増強型のシンプルな“個性”はいいな! 派手で出来ることが多い! 俺の【硬化】は対人じゃ強えけど、いかんせん地味なんだよなー」

「僕はすごくかっこいいと思うよ。プロにも十分通用する“個性”だよ」

「プロなー!! しかしやっぱプロも人気商売みてぇなとこあるぜ!?」

「僕のネビルレーザーは派手さも強さも折り紙つき☆」

「でもお腹壊しちゃうのはヨクナイね!」

 

 ……しばらく妙な沈黙が続いて、それを破ったのは切島くんだった。要所要所で会話を繋いでくれる人なんだなあと、改めて思う。

 

「派手で強ええっつったら、やっぱ轟と爆豪だな」

 

 轟くんの氷結と炎。爆豪くんの爆破。確かに2人とも凄い威力だし、使い方が上手い。けれどそんな褒め言葉を受け取った当の本人たちはクールだった。轟くんは、……聞こえてないかのように目を伏せたままだし、爆豪くんはそっぽを向いている。

 

「ケッ」

「爆豪ちゃんはキレてばっかだから人気出なそ」

「んだとコラ出すわ!!」

「ホラ」

「つ、梅雨ちゃん……」

 

「この付き合いの浅さで既にクソを下水で煮込んだ性格と認識されるってすげぇよ」

「テメーのボキャブラリーは何だコラ殺すぞ!!」

 

 梅雨ちゃんに引き続き上鳴くんまでもがガンガン言うし、周りのみんなも爆豪くんの反応に気にした様子もない。八百万さんは「低俗な会話ですこと!」と眉を少しひそめるだけで、麗日さんに至っては「でもこういうの好きだ私」とうららかに笑っている。「爆豪くん君本当口悪いな!」と突っ込んでいるのは飯田くんだ。

 

「……みんな物怖じとかしないんだね……」

「かっちゃんがイジられてるとか信じられない……」

 

 ぽつりと同時に呟いたのは緑谷くんだった。視線が合って、ああ気持ちがわかると苦笑を交わす。すると緑谷くんはなにかに気がついたように、あっと目を輝かせた。

 

「そういえば、空中(そらなか)さんの“個性”はホークスに似てるよね! ただ飛行できるだけじゃなくて、羽根1枚1枚を操作できるんでしょ?」

「あー確かにな! No.3ヒーローのホークス!」

「かっこいいよねーホークス! 人気なのもわかるっていうか」

「確かに羽根の使い方が似てるかも」

「っわ、わたしは、そんな、ホークスほど上手に操作できないよ」

 

 唐突に水を向けられて焦る気持ちと、ホークスがかっこいいと思われてることが嬉しい気持ちとで、顔に熱が集まる。劣等感とか、憧れとか、悔しさとか、嬉しさとか、いろんな気持ちが綯交ぜになって、わたしは目を伏せて笑った。

 

「わたしと彼では全然違うけど……でも、そうだね。ああなりたいって目標にしてたから、似てるところは、あるかも」

 

 本当のことすべてを話してはいないけど、嘘だって言っていない。ああなりたい。彼みたいなヒーローになりたいと、そう憧れた気持ちに嘘はないのだから。

 

 

 

 

 

「すっげーー!! USJかよ!!?」

 

 バスから降りたわたしたちが目にしたのは、滝のように巨大なウォータースライダーとプールに、炎や土砂に包まれた町並み、倒壊したビルの群れ。ひとつひとつがなにかのアトラクションか何かかと思うような施設が、目の前の広大な敷地に幾つも聳え立っている。わたしも資料で見たことはある“あの遊園地”みたいだな、なんて思っていると、入り口に立っていたその人が進み出てきた。

 

「水難事故、土砂災害、火事……エトセトラ。あらゆる事故や災害を想定し僕がつくった演習場です。その名も……

 ──嘘の()災害や()事故ルーム()!!」

 

(((USJだった!)))

 

 進み出たその人は、宇宙服で全身を包んでいた──いや、宇宙服に似たヒーロースーツを着たその人は、この雄英高校の教師であり、プロヒーローの1人。

 

「スペースヒーロー13号だ! 災害救助で目覚ましい活躍をしている紳士的なヒーロー!!」

「わー! 私好きなの13号!!」

 

 興奮気味に緑谷くんがそう言って、嬉しそうに麗日さんが飛び跳ねる。そんな2人に軽く会釈して、13号先生は相澤先生に近づいた。

 

「13号、オールマイトは? ここで待ち合わせるはずだが」

「先輩それが……」

 

 先生たちは更に声をひそめて話し出したから、聞き取れたのはそこまでだった。……本来ならいるはずのオールマイトがいない、ということは、何かあったのかもしれない。マスコミに捕まっているとか、そんな様子は無かったと思うんだけど……。

 

「えー始める前にお小言を1つ、2つ、3つ、4つ……」

 

 オールマイト不在ではあるけれど、授業は始めるらしい。わたしたちの前に立った13号先生は、指折り数えて、ゆったりとした口調で話し始めた。

 

「皆さんご存知だとは思いますが、僕の“個性”は【ブラックホール】。どんなものでも吸い込んでチリにしてしまいます」

「知っています! その“個性”で、どんな災害からも人を救い上げるんですよね」

 

 緑谷くんの返答に、こくこく、と力強く頷く麗日さん。2人の尊敬が詰まったきらきらした目に、けれど13号先生は、静かな声で続けた。

 

「ええ……。しかし、簡単に人を殺せる“個性”です。皆さんの中にも、そういった“個性”がいるでしょう」

 

 ──例えば、と、考えてみればいくらでも思いつく。

 緑谷くんの超パワーで殴ったら。飯田くんの脚力で蹴ったら。爆豪くんが至近距離で爆破したら。轟くんが燃やしたり凍らせたりしたら。麗日さんの【無重力】で空高く浮かした相手を、急に解除したら──わたしの【翼】だって、人を浮かして高い所から落としたり、刃のように形状変化させて切りつけたりできる。

 

 わたしたちは、誰もが、人を殺せる。

 その事実を、ただ静かに13号先生は突きつける。

 

「超人社会は“個性”の使用を資格制にし、厳しく規制することで、一見成り立っているように見えます。しかし一歩間違えれば、容易に人を殺せる“いきすぎた個性”を個々が持っていることを忘れないでください」

 

 しんと静かに、13号先生の言葉を、この場にいる誰もが聞き入っていた。

 

「相澤さんの体力テストで、自身の力が秘めている可能性を知り、オールマイトの対人戦闘で、それを人に向ける危うさを体験したかと思います。

 この授業では……心機一転! 人命の為に“個性”をどう活用するかを学んでいきましょう」

 

 ヘルメット越しのくぐもった声が、柔らかくなったのがわかった。明るく穏やかな音で、13号先生は話を締め括る。

 

「君たちの力は人を傷つける為にあるのではない。救ける為にあるのだと心得て帰ってくださいな」

 

 人を、救ける為にある。そう言われるだけでなんだか、心がほっとあたたかくなるような、そんな気がした。

 

「──以上! ご静聴ありがとうございました!」

「ステキー!」

「ブラボー!! ブラーボーー!!」

 

 ぺこり、と一礼した13号先生に、拍手が沸き起こる。わたしも心のままに、手が痛くなるまで拍手をした。

 そうした歓声と拍手が鳴り終わる頃を見計らって、一歩下がって様子を見ていた相澤先生が進み出る。

 

「んじゃあまずは……」

 

 これからのことを指示しようとした相澤先生が、その口を止めた。彼は後方にある広場の方に視線をやる。

 どうかしたのだろうか、と視線を追うようにそちらを見つめると、広場の中央──何もない空間に、じわりと影が滲んだ。ズズ……とそれはまるで白い紙にインクを垂らした時のように、微かにじわりと、広がって。

 

「──っ!?」

 

 広がった影の穴から、手が、のぞいた。

 

「全員ひとかたまりになって動くな!!

 ……13号! 生徒を守れ!!」

 

 普段の気だるげな態度をかなぐり捨てて、相澤先生が鋭く叫ぶ。広場の影は一気に広がって、そこから何人もの人が現れた。

 全員成人はしているだろう。男性も女性もいて、中には異形型の“個性”だろうと思われる人物もいる。さまざまな人たち、共通しているのは──目に宿る殺意だけ。

 

「何だアリャ!? また入試ん時みたいなもう始まってんぞパターン?」

「動くな! アレは、──(ヴィラン)だ!!」

 

 さっきまでただの影だと思っていたものが、人形をとった。それは鋭い金の目を揺らめかせて、低い男性の声で話し始める。

 

「13号に……イレイザーヘッドですか……先日頂いた(・・・)教師側のカリキュラムでは、オールマイトがここにいるはずなのですが」

「やはり先日のはクソ共の仕業だったか」

 

 頂いた(・・・)教師側のカリキュラム。先日。クソ共の仕業。……考えなければならないピースは散らばっているのに、うまくまとまらない。心臓の鼓動が、うるさい。

 

「どこだよ……せっかくこんなに大衆引き連れて来たのにさ……オールマイト……平和の象徴……いないなんて……」

 

 細身の青年だった。わたしたちとそこまで年も変わらないだろうと思える、若い男性の声。それでもここまで嫌な予感がするのは、その身体中を押さえつけるようにくっついている数多の“手”のせいなのだろうか。

 “手”を纏った彼は、顔にも“手”を仮面のようにつけているので、その人相や表情はわからない。それでも、

 

「子どもを殺せば、来るのかな?」

 

 ──狂ったような笑い声に、ゾッと、背筋が凍る。

 

 本来ならば命を救うための訓練を行っていた、この時。

 わたしたちは初めて、(ヴィラン)と相対した。

 

 

13.少女、救助訓れ

 

 


 

 “個性”は人を簡単に殺せるというここでの話を、24巻のトガちゃんの使い方を見て思い出しました。お茶子ちゃんとトガちゃん。使う人によって全く用途も印象も違ってきますね。

 ところで13号先生が女性だとこの時点で思ってた人ってどのくらいいらっしゃるのか。私はファンブックで知って驚いて変な声が出ました。

 

▼0521追記

 誤字報告ありがとうございます!今回の「救助訓れ」については原作漫画のタイトルをなぞったのでそのままにさせて頂きます(恐らく救助訓練になりそうでならないって話なので原作の遊び心かと思います)。

 私はそそっかしいので他にも色々と誤字等があるかと思いますので、また見かけたらご報告頂けるとありがたいです。ありがとうございました! 



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14.少女、会敵する。

 

(ヴィラン)ンン!? バカだろ!? ヒーローの学校に乗り込んでくるなんてアホすぎるぞ!!」

 

 雄英高校はヒーローを養成する最高峰の学校ということもあって、教諭の多くがプロヒーローだ。そんな本拠地ともいえる場所に乗り込んでくるなんて、と、わたしも目の前の光景を信じられずにいた。

 それでも何度目を凝らしても、見えるものは変わらない。(ヴィラン)が目の前にいるという、その事実は変わらない。

 

「先生、侵入者用センサーは!?」

「もちろんありますが……!」

「あるのに、鳴ってない……誰かが妨害してる……?」

「ああ、現れたのはここだけか学校全体か……何にせよセンサーが反応しねぇなら、向こうにそういうことができる“個性(やつ)”がいるってことだな」

 

 轟くんは広場を見下ろし、普段と変わらない淡々とした口調で続ける。

 

「校舎と離れた隔離空間、そこに少人数(クラス)が入る時間割──バカだがアホじゃねぇ。これは、何らかの目的があって、用意周到に画策された奇襲だ」

 

 ……轟くんは冷静に言うけれど、とんでもないことだ。雄英の長い歴史の中で、こんなことが起きたのは初めてなんじゃないのかな。

 みんなが緊張に顔を強張らせる中、相澤先生が鋭く叫んだ。

 

「13号避難開始! 学校に連絡(電話)試せ!

 センサーの対策も頭にある(ヴィラン)だ、電波系の“個性(やつ)”が妨害している可能性もある。上鳴、おまえも“個性”で連絡試せ」

「っス!」

 

「先生は!? 1人で戦うんですか!? あの数じゃいくら“個性”を消すっていっても!!」

 

 ゴーグルをつけ、捕縛布を手にした相澤先生に、緑谷くんが駆け寄ろうとした。今にも戦線に赴きそうな先生を心配して眉が下がっている。

 

「イレイザーヘッドの戦闘スタイルは敵の“個性”を消してからの捕縛だ。正面戦闘は……っ」

 

「──一芸だけじゃヒーローは務まらん」

 

 目を隠すゴーグルをつけているから、相澤先生の表情はわからない。ただ静かな、それでいて強い意思のこもった声が、わたしたちを安心させるかのように返ってきた。

 たった一言、それだけ告げて、先生は駆け出す。

 

「13号! 任せたぞ!!」

「相澤先生……!」

 

 呼び止める声に振り返ることなく、相澤先生は高く跳躍して広場に降り立った。単身飛び出した先生に狙いを定め、(ヴィラン)たちが舌舐りする。

 

「射撃隊、行くぞぉ!!」

「情報じゃ13号とオールマイトだけじゃなかったか!? ありゃ誰だ!?」

「知らねぇ!が、1人で正面突っ込んでくるとは──大まぬけ!!」

 

 鞭のような髪をしならせた女が、ガスマスクをした男が、指に射出口を持った男がそれぞれ構えたけれど──

 

「あれ? 出ね……」

 

 何も出ない(・・・・・)。異常に戸惑ったその一瞬をついて、相澤先生は捕縛布で3人の身体を捕らえ、引き寄せ、頭を強打させて昏倒させた。一瞬の攻防で一気に3人を伸した彼を見て、(ヴィラン)たちがざわめく。

 

「馬鹿野郎! ありゃ見ただけで“個性”を消すっつう……イレイザーヘッドだ!」

「消すぅ~!? へっへっへ、俺らみてえな異形型の“個性”も消してくへんのかあ!?」

 

 進み出たのは身体中に鉱石のようなものを纏った大柄の(ヴィラン)だった。筋骨隆々なその男に対し、相澤先生は怯むことなく「いや無理だ」と答えて。

 

「俺が消せるのは変化系や発動系に限る。──が、」

 

 素早く懐に入り込んだ先生が顔面を殴り付ける。と同時に捕縛布がよろめいた相手の膝を掴んだ。反対から殴りかかってきた別の男のパンチを、体勢を低くして避けて──

 

「おまえらみたいな奴の旨味は統計的に、近接戦闘で発揮されることが多い」

 

 先ほど捕縛布で掴んだ鉱石の男を投げ飛ばし、ぶつけた。2つの巨躯はぶつかった衝撃に耐えられず崩れ落ちる。

 

「だからその辺の対策はしてる」

 

 あっという間に5人を沈めた相澤先生に、緑谷くんは歓声を上げた。

 

「すごい……! 多対一こそ先生の得意分野だったんだ!」

「分析してる場合じゃない! 早く避難を!!」

「うん、ここに留まってちゃプロヒーローたちの邪魔になっちゃう。だから、」

 

 だから早くこの場から離れよう、と。飯田くんに続いてみんなを促そうとした。その時。

 

「──させませんよ」

 

「!!」

 

 さっきまで広場にいたはずの黒い影のような(ヴィラン)が、出口に向かおうとしていたわたしたちの前に立ち塞がる。ゆらりと揺らめくその姿に口のようなものは確認できない。それでもその(ヴィラン)は、この緊急事態にそぐわない、落ち着いた声で話し出す。

 

「初めまして。私たちは(ヴィラン)連合。僭越ながら……この度ヒーローの巣窟である雄英高校に入らせていただいたのは、

 ──平和の象徴オールマイトに、息絶えて頂きたいと思ってのことでして」

 

「……え、?」

 

 平和の象徴に、オールマイトに、……息絶えて頂く?

 あまりに穏やかな口ぶりだったからか、その意味を咀嚼するのに時間が要った。噛んで、飲み込んで、──その言葉の重さに胃がじくりと痛む。

 

(オールマイト、を、殺す……?)

 

 そんなことは不可能だとか、そんなことをしたら社会は、とか。いろんな考えが脳裏に飛び交って、全然まとまらない。

 

「本来ならばここにオールマイトがいらっしゃるハズ……ですが、何か変更があったのでしょうか? まあ……それとは関係なく……、」

 

 わたしの役目はこれ。

 そう低く呟いて、その(ヴィラン)は何かをしようとした。それを察知した13号先生が指部分の装飾を外して戦闘態勢を取るも、その前を横切る2つの影。切島くんと、爆豪くん──!

 

「──っだめ、待って!」

「うおっ!?」

「アァ!?」

 

 それぞれの“個性”を発動させて(ヴィラン)に向かおうとしている2人を、咄嗟に羽根で持ち上げた。突然宙に浮いた体に2人が戸惑いや怒りの声を上げるも、今は聞くことはできない。そのまま羽根で2人を後方へ下がらせると、入れ代わりに13号先生が前に出た。

 

空中(そらなか)さん、2人と、皆と一緒に避難を!」

 

 13号先生の指先が開いて、そこから先生の“個性”であるブラックホールが渦を巻いて漏れ出した。どんなものでも吸い込んで塵にするという強力な“個性”。彼女はそれを使っての捕り物や救助に長けているプロヒーローだ。

 だからわたしが成すべきは、13号先生の足手まといにならないよう、みんなと一緒に戦線を離れること。

 

「みんな、早く外に……!」

 

 そう判断して13号先生たちに背を向けた。その瞬間。

 

「13号……災害救助で活躍するヒーロー。やはり……戦闘経験は一般ヒーローに比べて半歩劣る」

 

 ぶわりと、血の匂いがした。

 

「──自分で自分を塵にしてしまった(・・・・・・・・・・・・・・)

 

「「「先生ーー!!!」」」

 

 (ヴィラン)はその影を自在に操り、13号先生の【ブラックホール】を受け止め、その出口を先生の背後に出現させた。──ブラックホールは、音もなくすべてを飲み込み、塵にする。それは“個性”の発動者だとしても同じこと。彼女のヒーロースーツが、背中が、肌が、自分自身の“個性”で吸い込まれ、塵と化していく。

 

「13号先生……!」

 

 振り返ってはいけない。足を止めてはいけない。早くみんなを脱出させなければいけない。──わかってはいた。それでも視線を向けた先で13号先生がうつ伏せに倒れ込んでいるのを、その背中の傷跡を見て、わたしは踵を返した。返してしまった。

 

「っ先生から離れて!」

「死ねやクソがぁ!!」

 

 鋭く、固く形状変化させた羽根を射出する。それを追うように爆破で飛んできた爆豪くんが(ヴィラン)に向かって拳を振るう。ほぼ鈍器となった羽根をぶつけ、爆豪くんもほとんど容赦なく攻撃しているにも関わらず、影の(ヴィラン)は効いた様子は欠片も見せない。声も平静のままだ。……むしろ、

 

「危ない危ない……そう……生徒といえど、優秀な金の卵」

 

 むしろ──その声が、凄味を帯びた。

 

「ダメだ……どきなさい、2人とも!!」

 

 13号先生の制止が遠くなる。ブアッと瞬く間に広がった影がわたしたちを包み込み、視界を、聴覚を、隔絶した。きっと(ヴィラン)が見せた【ワープ】の“個性”だろう。わたしたちをどこかへ飛ばすつもりだと、そうさせてはいけないとわたしは翼を広げた。少しでも多くの人を退避させないと──!

 

「させませんよ」

「……!?」

 

 黒いもやが身体に纏わりつく。実体があるようには感じないのに、なぜだか羽根が締め付けられたかのように動かせなくなる。金色の目のような光が、すうっとわたしを見て細められた。

 

「機動力は削がせていただきます。……そうですね、あそこがいいでしょう」

 

「──空中!」

 

 視界が黒く染まって、空を飛んでいる時とも違う、不思議な浮遊感に包まれる。五感のすべてが遠退いていく中、微かに聞こえたのはわたしを呼ぶ誰かの声。そして、

 

 

『──散らして 嬲り 殺す──』

 

 

 そんな声が脳裏に響いて、次の瞬間、わたしは空中にいた。

 

「え、──!?」

 

 がくんと重力に従って落ちていく感覚に、咄嗟に翼を広げて宙に浮かぶ。辺りを見下ろすと、まず視界に入ってくるのはビルの群れ。びゅうびゅうと横殴りの風と雨。それから、

 

「っ常闇くん、口田くん!!」

 

 地上に向かって落ちていく2人の元に羽根を飛ばす。カーペットのように敷いた羽根で2人を受け止めて、ほっと息をつく間もない。

 

「来た来た!」

「3人か……仲良く三等分といこうぜェ」

 

「!? (ヴィラン)……!?」

 

 地上にはわたしたちを待ち受けていたかのように、10数名の(ヴィラン)がこちらを見上げて舌なめずりしていた。こちらにはっきりとした敵意を見せている以上、見逃してはくれないだろう。

 

(──どうする?)

 

 わたしの【翼】は、羽根を鈍器のように固くして射出することによって飛び道具になる。けれどパワーは低く、人ひとりを昏倒させようと思うなら数枚は必要だ。ここにいる(ヴィラン)全員をノックアウトさせるには羽根が足りない。大多数を相手取る戦闘は避けたい──なら一度このまま空を飛んで身を隠そうかと、そう思った時だった。

 

「空中、この羽根はこのまま俺を乗せて動くことはできるか!?」

「!? で、きるよ!」

「ならば俺の指示通りに! ──下へ!!」

 

 常闇くんの目に迷いはなく、もう既に臨戦態勢に入っている。わたしは一瞬考えた後、常闇くんを乗せた羽根を地上に向けて動かした。吹き付ける暴風雨に逆らうように、彼はバッと羽根から飛び降りて──影を振るう。

 

「薙ぎ払え! 黒影(ダークシャドウ)!!」

「アイヨォォォ!!」

 

 以前食堂で見た時はわたしたちより少し小さな身体で、声も高く、どこか可愛らしささえあったのに、今の黒影(ダークシャドウ)は違った。人間より一回りは大きいその身体で、鋭い爪で周囲を薙ぎ払う。その威力は足元のコンクリートにヒビをいれ、(ヴィラン)たちを根こそぎ吹っ飛ばした。

 

「くそッ、ガキ、が……!!」

 

 ビルの壁に身体をうちつけ、悪態をつきながら男が崩れ落ちる。彼らの意識が完全に途切れたのを見てとって、わたしと口田くんは常闇くんの元へ降り立った。

 

「……すごい威力だね、常闇くん」

 

 わたしの隣でこくこくと口田くんが首を縦に振る。そんなわたしたちを見て、常闇くんは嘴を開いた。

 

「俺の“個性”【黒影(ダークシャドウ)】は、闇が濃ければ濃いほど力を増す。その分獰猛になって制御が難しくなるが──逆に光の下だと弱くなる。御しやすくはなるがな」

「そう、なんだ……」

 

 だから昼の食堂で会った時とは様子が違ったのだと、あの時常闇くんが言った『今の状況ならな』という言葉の意味を知り、なるほどと頷いた。そうして話に一区切りついたところで、辺りを見渡す。

 

「ここは……USJの施設の1つ、暴風・大雨エリアだね」

 

 頭上を仰げば、この辺り一帯をドームが覆っているのが見えた。わたしたちは間違いなくUSJのエリア内にいる、ということは。

 

「……さっきの影の(ヴィラン)は『散らして嬲り殺す』って言ってた。黒いもやで包まれた時、みんな各エリアに散らされたんじゃないかな」

「フン……そして待ち受けている他の(ヴィラン)が我々を嬲り殺すと」

「コノ程度デ、チャンチャラオカシイゼ!!」

 

 常闇くんから顔を覗かせた黒影(ダークシャドウ)がハッと鼻で笑う。確かにこの子の言う通り、あの影の(ヴィラン)と違ってここで待ち構えていたのはチンピラの類いのようなものだった。けれど、

 

「……あまり強くはないとはいえ、多くを一度に相手取りたくはないな。どんな“個性”かもわからないし、闇雲に突っ込みたくはない」

 

 わたしたちを逃がすつもりがないならば、ドームの入り口にでも陣取ってそうだけど、敵の数も配置もわからずに突撃するのは危険だろう。

 

「確認すべきは敵の数、配置。……でも、」

 

 天を仰ぐと、ざあざあと降りつける風と雨が頬を打つ。この雨風が、今のわたしにとって最大の敵だ。

 

「……わたし、この【翼】の振動を読み取って少し遠くの音を聞き取ることができるんだけど……この大雨と暴風の中じゃ難しい」

 

 ホークスなら違ったかもしれないけど、少なくとも今のわたしには、この暴風雨を掻い潜って振動を拾うなんて芸当は無理だ。

 わたしに次いで、常闇くんが厳しい表情で口を開く。

 

「【黒影(ダークシャドウ)】はある程度の中距離攻撃が可能だが、現時点ではあまり遠くまで飛ばすことができん。そも、黒影(ダークシャドウ)と俺は繋がっているのでな、逆にこちらの位置を探知されかねん」

「そうなんだね、じゃあ……」

 

 わたしと常闇くんが揃って口田くんを見ると、彼は慌てたように視線を反らしながらも、おずおずと答えてくれた。

 

「ぼ、僕の“個性”は【生き物ボイス】……声で動物たちにお願いをきいてもらえるんだ」

「お願い……口田くん、それは生き物に偵察をお願いして、その結果を聞くことも?」

「……、……できるよ」

 

 少し続いた沈黙は、躊躇の表れだったのかもしれない。それでも口田くんは「できる」と自信をもって告げた。俯きがちだった視線が、真っ直ぐわたしたちを見ている。

 

「……口田くん、お願い。あなたの力が必要なの」

 

 わたしたちを殺す気で待ち構えているチンピラ。(ヴィラン)連合と名乗った【ワープゲート】の黒もや。手を纏った不気味な青年。異形型の大柄な男──乗り越えるべき壁は数多い。それでも。

 

「わたしも、頑張る。……一緒に、頑張ろう」

 

 『乗り越えて、更に向こうへ』と、校訓が声高に叫ぶ。

 わたしたちは視線を交わしあって、強く頷き合った。

 

 

14.少女、会敵する。

 

 


 

 次は口田くんと常闇くんとついでにオリ主のターン。

 口田くんて自身なさげな印象ですけど、“個性”強いですよね。動物に限らず後々虫まで使えて、しかも意志疎通が可能なのが万能すぎる。蜂とか蝶とか飛ばしておけばどこでもなんでも索敵諜報できるのでは……?

 

▼0522 書き直し

 ご指摘いただいて色々考えた結果、直したいところを書き直させていただきました。改訂後の方が個人的にお気に入りです。ご意見ありがとうございました!



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15.少女、雨風越えて。

 

 暴風・大雨ゾーンは巨大なドーム状となっていて、薄暗い市街地を覆っている。天井に備えられた装置からは絶えず暴風大雨が降り注いでいるため、雨粒がコンクリートや窓を叩く音や、びゅうびゅうと鳴る風の音に溢れ、飛沫が景色をぼんやりとさせていた。

 聴覚や視覚が不鮮明になるこの状況下で、“我々”の歩行音を聞き取ることは困難だろう。“我々”は家屋の隙間、それこそ排管やエアコン導入口から入り込んで、屋内と屋外を行き来しながら歩みを進める。そうしてたどり着いた排水溝のある一点で、“我々”は丸い耳をぴくりとそばだてた。さほど耳は大きくないものの、“我々”は聴覚に秀で、遠くの物音を察知することができるのだ。自慢の耳である。

 

「あいつら戻ってこねぇな」

「……まさかガキ共にやられちまったってのか」

「ハァ!? ねぇだろ、まだ15かそこらのガキだぜ?」

「歳がどうのとかマジで言ってるとしたら、相当頭沸いてんぞおまえら」

「アァ!?」

 

 複数人の男たち。その中で苛立ちの声が上がった。

 

「この超常社会、年功序列なんてモンがまだあると思ってんのか。おめでたい頭だな」

「ンだと、」

「すべては“個性”。それだけだ。未だに歳がどうのって古い価値観にしがみついてっから、さっきの奴らはやられたんだろ。……よかったなァ、お仲間にならなくて」

 

 すらすらと皮肉っぽく話す男がリーダー格のようだ。他の連中はその言い様に舌打ちをしつつ、言い返す素振りを見せない。

 

「奴らが脱出するにはここに来るしかねぇ。わざわざこんな土砂降りの中で這いずり回る必要なんぞない。ここで迎撃体勢を整える」

 

 リーダー格の男が采配を振るい、男たちが行動し始める。それをただ見ている“我々”ではない。このゲート付近を中心に扇状に包囲網を張り、連絡動線を確保。フォロー用の隊員を各地に配備させてもなお、お釣りが来る。

 男たちは自分たちが数で勝るゆえに余裕を崩さずにいるようだが、残念ながらその十八番は“我々”のものだ。数とは力──まさしく至言。そして“我々”に数で勝る者などいない。

 

「ここからどうされます」

「一度雇い主に現状を報告に行く。貴様は私の名代として全部隊の指揮を執れ」

「Yes,sir!」

 

 後続に後を託し、私は暗い下水道を駆け戻る。いかに視界が暗かろうが“我々”の障害にはなりえない。自慢の耳が、自慢の髭が、どんな闇の中でも行くべき道を教えてくれる。当然である。ここは“我々”の庭。後から来て踏み荒らして行く者には、相応の制裁を与えねばならぬ。

 そのために盟約を結んだ契約者の姿が見えた。“我々”への敬意を示してか、膝をついたその者には好感を覚える。何より声がいい。“我々”の心をめろめろにする魅惑ボイスだ。まだまだ小僧ではあるが、今知り得た情報を渡してやってもいいし、これからも協力してやらんでもないぞ!

 

 

 

「──ちう、ちゅうぢゅ、ちゅちゅちゅ!」

「はい、貴殿方のご協力に感謝いたします」

「ちゅー!」

 

「……常闇くん、わかる?」

「さっぱりわからん」

 

 口田くんの“個性”は【生き物ボイス】。どんな生き物でもその声で働きかけることによって、お願いがきいてもらえるのだと先ほど説明を受けた。けれどそれだけでなく生き物と意志疎通ができるのだから、いろんなことに応用がきく“個性”だなあと、目の前で何事かを熱心に話す“ネズミ”と口田くんを見ていて思う。

 彼はネズミに視線を近付けるように膝をついて話を聞いていたけれど、しばらくして立ち上がってわたしたちを見た。ネズミはまたどこかへ駆けていく。

 

「口田くん、ありがとう……どうだった?」

「うん、いろいろわかったよ。えっと、まず、この地点から大通りに出て真っ直ぐいったところに、このドームの唯一の出入り口があって、そこにリーダー格を含めた10人が待ち構えている。あっちは僕たちがそこへ向かうことを見越して、迎撃するつもりだって。口振りから察するに、他に潜伏してる仲間はいなさそう」

「……、……」

「え、っと、どうかした?」

「いや……本当にすごいなって思って」

「す、すごくなんかないよ。すごいのはネズミたちだよ」

 

 確かにネズミもすごいのだろうけど、彼らとコミュニケーションをとってこんなに詳細な情報をすぐさま集めたのは口田くんあってのことだ。謙遜する必要はないのにな、と思いつつ、口を開く。

 

「じゃあ……口田くん、申し訳ないけど引き続き索敵をお願いできるかな。迎撃するつもりとはいっても、ゲート付近で姿を隠してる場合もあるし」

「わかった」

空中(そらなか)、作戦は先ほど話した通りでいいんだな」

「うん、」

 

 バッと羽根を広げて動作を確認する。雨を吸って重くなっていて、暴風で動きは鈍るだろうけど、まったく動かせないわけじゃない。動かす羽根を絞って集中すれば、問題はないだろう。……ちゃんと、動けるはず。

 

「──行こう」

 

 ぢゅ!とどこか意気込んで先導するネズミを追って、わたしたちは嵐の中に足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 一説によると、ネズミは小さい種類のものなら10円玉程度の隙間があればどこにでも入り込むことができるという。それこそ排水管の隙間、押し入れの天板、換気扇──この大雨・暴風エリアは寂れた市街地を模しているようで、そういった彼らの出入り口には事欠かない。

 だから、一番先にそこに辿り着いたのはネズミたちだった。彼らは口田くんのお願い通り、口をガパッと開ける。鋭く伸びた自慢の前歯で、かしかしとコードを齧り出した。束になったコードが1本、1本、ぷつりぷつりと切れていくたびに、天井から吊られている照明がぎこちなく揺れる。そうしてついに、ぷつん、と落ちて。

 

「──、ん?」

「音……あっちからだな」

「……てめえら様子を見てこい」

「チッ、わーったよ」

 

 ガシャ、という音に数人の男が動く。ゲートからそう遠くないところにある2階建てのアパート。辺りがコンクリートの塀に囲まれている、ごく普通の木造アパートだ。音を辿ってその角部屋に辿り着いた男たちは、足音を殺して忍び寄り、慎重にドアノブを回す。

 

「ぅおっ、」

 

 ドアを開けた瞬間、足元を走り抜けた小さな影に、肩を跳ねさせたその(ヴィラン)は舌打ちした。苛立ちを吐き捨てるかのように足元を蹴りつける。

 

「ンだよ、ネズミかよ!」

「驚かせやがって……」

 

(こういう台詞、なんだったっけ。映画かなにかで……そう、ホークスが言ってたな)

 

 フラグ(・・・)って、いうんだっけ。

 

「……っぅおおお!!?」

「な──!」

 

 玄関口の天窓を噛みきって、大量のネズミが(ヴィラン)たちの上に降り注いだ。1匹1匹の噛みつきの威力は低くとも、それが束となって襲いかかるのだから十分脅威だ。驚きに、振り払っても振り払っても群がってくる恐怖。それで大声で悲鳴を上げてくれるのも、とっても好都合だ。

 

「おい、何が──」

 

 アパートの入り口で警戒していた(ヴィラン)が中に踏み入る。くるりと向けた背中に、わたしは羽根を飛ばした。後頭部に綺麗に入った衝撃に、彼は白目を剥いて倒れる。

 その間にもネズミの攻撃を受けている(ヴィラン)の野太い悲鳴はやまない。……少しえぐいような気がしないでもないけれど、致命傷は避けるよう甘噛みでお願い、と口田くんが予めお願いしていたから大丈夫だろう。気を取り直して、先ほど放った羽根を回収して、わたしは再び身を潜めて構えた。

 

 ゲート付近で迎撃体勢を整えるとあっては、“個性”で連携をとられて、あっちの思うままに展開が進んでしまう危険がある。だからわたしたちはあちらの体勢を崩すため、(ヴィラン)を分断させて各個撃破する作戦を決行した。

 口田くんのネズミによる陽動、奇襲。その悲鳴を撒き餌に寄ってくる(ヴィラン)をわたしが羽根によって昏倒させる。

 

「ガキ共か……舐めやがって!!」

 

 やまない悲鳴。1人また1人と様子を見に行っては帰ってこない状況に、ついに痺れを切らしたリーダー格の男が立ち上がった。

 

「ッおいてめぇら……!!」

 

 戻ってこい、とでも言うつもりだったのか。それももう、

 

「──遅い。そこはもう、俺の間合いだ」

 

 リーダー格なだけあって、この(ヴィラン)だけは油断なくゲート前から動かず警戒を続けていた。だから彼は待っていた。状況が動き、迎撃体勢が綻び、その男の意識が横に逸れるのを──闇に潜んで待っていた。

 

黒影(ダークシャドウ)!!」

 

 常闇くんの呼び掛けに応じて飛び出た黒影(ダークシャドウ)が、一瞬で距離を詰めてその身体を薙ぎ倒す。一撃目は耐え、ふらつく身体で水弾を放つ(ヴィラン)だったけれど、そんな攻撃は意も貸さないとばかりに返す腕で(ヴィラン)を地面に叩き付けた。今度こそノックアウトした男を押さえつけながら、黒影(ダークシャドウ)が咆哮する。

 

「アァア!? コンナモンカヨ!! モット歯応えのアル奴ァイネェノカ!!!」

 

「……ッ鎮まれ、黒影(ダークシャドウ)!!」

 

 暴風雨すら震わせるような咆哮にわたしと口田くんが駆けつけると、巨大な腕を振りかざそうとしている黒影(ダークシャドウ)と、そんな影に向かって呼び掛ける常闇くんがいた。黒影(ダークシャドウ)は低い唸り声を上げた後、渋々といった様子で姿を消して、常闇くんは自分の腕を強く掴んだまま深く息を吐き出した。

 

「く……ッ」

「だ、大丈夫、常闇くん?」

「──、……大丈夫だ。すまん」

 

 深呼吸をして顔を上げた常闇くんは、もういつもの常闇くんだった。嘘をついて無理をしている様子はなかったから、とりあえず安堵の息をつく。

 

「みんな、無事だね……よかった」

 

 なんとかエリア内の(ヴィラン)を全員制圧し、出入り口を確保できた。ひとまず第一関門はクリア、といったところだろうか。改めて気を引き締める。

 

「急ぎ広場に戻るぞ。他の皆や13号先生が気にかかる」

「うん……!」

 

 わたしたちを庇うべく前に出た13号先生。彼女が背に受けた傷跡を思い出し、ぎゅうと拳を握り締めた。ゲートを抜けて、一気に射し込んできた陽の光に目を細めた時。

 ──バァン!!と何かが派手に破壊される音が響いて、走る足に力を込める。何度か翼をはためかせて、雨の雫を打ち払う。そうして走りながら跳躍し、風に身を踊らせた。

 

 見えてきたセントラル広場。倒れている数多の(ヴィラン)たち。水難ゾーン近くで(ヴィラン)に襲われそうな梅雨ちゃんたち。そして、目にも止まらぬ速さで彼らを救い出した、

 

「オールマイト……!」

 

 来てくれた、という嬉しさと、来させてしまった、という心配が胸でざわめく。それでも脳味噌を剥き出しにした大柄の(ヴィラン)と手を纏ったあの青年(ヴィラン)に、なんの躊躇もなく立ち向かっていくその背中に、どうしようもなく安堵してしまう。そんなオールマイトから視線を移して、わたしは梅雨ちゃんたちの元に降り立った。

 

「梅雨ちゃん、みんな!」

愛依(あい)ちゃん……!」

 

 梅雨ちゃんと緑谷くんと峰田くん。ざっと視線を巡らせて、緑谷くんの左手の親指と中指、峰田くんの頭皮に血が流れているのを見つけた。けれどそれより重傷なのが、緑谷くんと峰田くんに担がれている相澤先生だった。

 

「空中ァ! 相澤先生を治してやってくれよォ!! あの脳ミソ(ヴィラン)にやられちまったんだ!!」

「両腕と、あと顔面を掴まれて何度も地面に打ち付けられてしまっていたわ。目の辺りを傷つけているかも」

 

 峰田くんが泣きながら、梅雨ちゃんが冷静を装いながら話してくれる。どちらも相澤先生のことを心から心配しているのが伝わってきて、わたしは強く頷いた。

 

「わかった、……大丈夫、絶対、治す」

 

 自分に言い聞かせるように、唱えるように口にする。本当は、こんなに酷い怪我を治すのは初めてで、声が震えそうになるのを必死に堪えた。できるだろうか、という弱音を殺す。──大丈夫、絶対に、治してみせる。

 決意を込めて相澤先生の頭に触れると、ぬるりと血の感触がした。傷跡に手を当てて、意識を集中させる。……頭部の骨折、切れた血管、そして眼窩底骨。粉々に砕かれてしまったそれを、再び組み立てるようなイメージに沿ってエネルギーを注ぎ込む。

 

「すげえ……」

 

 ぽつりと峰田くんが呟くのが聞こえる。どうにか頭部の負傷は治癒することができた。は、と安堵と疲労の息を吐き、次は腕をと指を伸ばした。

 

「……蛙ス……っユちゃん!」

「頑張ってくれてるのね、なあに緑谷ちゃん」

「相澤先生を担ぐの代わって……!!」

「? うん……でもなんで……」

 

「……、緑谷くん?」

 

 梅雨ちゃんに相澤先生を託した緑谷くんの表情が見えない。それに嫌な予感がして呼び掛けたけれど、遅かった。

 わたしたちの背後でズドン!!と轟音が響く。振り返ったわたしたちが見たのは、脳味噌(ヴィラン)をバックドロップでコンクリートに突き刺したかに見えたオールマイト。その地面にワープゲートを出現させた黒もやの(ヴィラン)。オールマイトの脇腹に爪を食い込ませながら、ワープゲートに引きずり込もうとする脳味噌(ヴィラン)と──

 

「──オールマイトォ!!!!」

 

 オールマイトを救け出そうと、飛び出した緑谷くんの姿。

 

「緑谷くん……!!」

 

 駄目だ、行ってはいけない、止めなくてはという焦りと、いまだ重傷を負っている先生たちを置いては行けないという気持ちがせめぎあう。躊躇するわたしに、追い付いた常闇くんが声を上げた。

 

「空中! おまえは相澤先生を連れ、疾く13号先生の元へ!」

「、常闇くんは……!」

「俺は緑谷の元へ行く。口田、空中たちを頼む!」

「うん……!」

 

 中央へ駆けて行く常闇くんの背を見送って、わたしはぱちん、と両頬を叩いた。……気持ちを切り替えろ。自分はあの場所へ行くべきじゃない。今のわたしの成すべきことは、先生たちを一刻も早く治癒すること!

 

「相澤先生……」

 

 ……きっと、わたしたちを守るために多勢に無勢で戦ったんだ。そうとわかる傷跡の深さに、唇を引き締める。口田くんに抱えられた両腕に手を当てて、エネルギーを注ぎ込んだ。

 

「……っ」

「……愛依ちゃん?」

「なん、でもない。……これで相澤先生は大丈夫のはず。13号先生のところへ急ごう!」

「おう! こっちだぜ!!」

 

 先導する峰田くんに続いて走り出す。元々わたしたちが13号先生の話を聞いていた入り口の広場。そこに芦戸さんに寄り添われて、倒れている13号先生を見つけた。

 

「空中、みんなあ!」

「芦戸さん! みんなも怪我は?」

「ないよ! でも13号先生が……!」

 

 広場に残っていたのは芦戸さん、麗日さん、砂藤くん、瀬呂くん、障子くんの5人だった。みんなを守り抜いたのだろう13号先生には、まだ微かに意識があった。芦戸さんの隣に座り込んで、その背中に手を翳す。

 

「先生、聞こえますか」

「……そら、なか……さ……?」

「今、治しますからね」

 

 ブラックホールによる傷──皮膚が剥がれ、広い範囲の筋肉に深い裂傷が見られるも、先生の“個性”解除が速かったからか骨や内臓には届いていないようだ。不幸中の幸いに息をこぼしつつ、治癒を施していく。

 しばらくして傷跡が塞がり、芦戸さんの顔に笑顔が戻った瞬間、13号先生はうつ伏せの体勢から立ち上がろうとした。慌てて2人でその身体を支える。

 

「先生、治ったばっかなのに動かないで!」

「もう、傷は癒えました……芦戸さん、心配してくれてありがとうございます。空中さんも、治してくださったんですね」

「はい……違和感や痛みはありますか、先生」

「ありません。疲労も……そうか、これがあなたの“個性”」

 

 ヘルメットに覆われて、わたしから13号先生の顔は見えない。それでもその声色から、彼女が微笑んでいるとわかる。

 

「人を救うために“個性”を使ってくださって、ありがとうございます」

 

 そう言って先生は立ち上がった。はじめは少しふらついたものの、すぐにしっかりとした足取りで歩き出す。

 

「──だから僕も、救うために“個性”を使わねばなりません」

 

 先生はセントラル広場を見下ろす。そこでオールマイトがグッと拳を握り締めたのが見えた。

 いつもの日常を裂いて割り込んできた(ヴィラン)による襲撃。それがついに、終息を迎えようとしていた。

 

 

15.少女、雨風越えて。

 

 


 

 ネズミ隊長書いてるときが一番楽しかったなんてそんな。食糧も無さそうなUSJ内にネズミがいるのかはわかりませんが、周囲は森ですし、この世界観ではいるということでお許しを。

 どこで話を切ったらいいのかわからず中途半端に終わっています。もうちょっとだけ続くんじゃ。



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16.少女、帰り道。

 

「オールマイト……!」

 

 相澤先生の腕をあんなにも粉々にするような剛腕。得体の知れない手だらけの(ヴィラン)。希少な【ワープ】の“個性”を駆使する黒い影。いくらNo.1ヒーローオールマイトといえど危険なんじゃないかと、──そんな心配を吹き飛ばすような衝撃が、ドン、と身体を揺らす。

 オールマイトの振りかざした拳が、脳ミソ(ヴィラン)と激突した。

 

「真正面から殴り合い!?」

 

 目で追えないほどに速すぎる乱打が、ヒーローと(ヴィラン)の間で交わされる。1発1発の威力が重すぎて、遠くで見ているわたしの元にも振動が走る。圧倒、される。

 

「【ショック無効】ではなく【ショック吸収】ならば!! 限度があるんじゃないか!!? 『私対策』!? 私の100%を耐えるなら!! 更に上から捩じ伏せよう!!!」

 

 数えきれない拳を放ちながら、口許から血を吐きながらも、彼は笑っていた。

 

「ヒーローとは常にピンチをぶち壊していくもの!

 (ヴィラン)よ こんな言葉を知ってるか!?」

 

 ──これがNO.1ヒーローなのだと、眩しいくらいに。

 

 

Plus(更に) Ultra(向こうへ)!!!」

 

 

「……すごい……」

 

 最後に放った一撃で、脳ミソ(ヴィラン)は吹っ飛んだ。USJ全体を覆うドームをぶち破りながら、その姿は空の彼方へ消えていく。まるでコミックのような、凄まじい出来事。

 

「やはり衰えた……全盛期なら5発撃てば充分だったろうに、300発以上も撃ってしまった」

 

 それを成したオールマイトは、笑っていた。力強いその笑みを浮かべたまま、ぐるりと視線を向けて、その先を見据える。

 

「さてと(ヴィラン)、お互い早めに決着つけたいね」

「……チートが……!」

 

 手だらけの青年が忌々しげに呻く。がりがりと首元を力任せに掻きむしり、吼えた。

 

「衰えた? 嘘だろ……完全に気圧されたよ。よくも俺の脳無を……チートがぁ……! 全っ然弱ってないじゃないか!! あいつ(・・・)……俺に嘘を教えたのか!?」

 

(……あいつ(・・・)?)

 

 その口振りに疑問を覚える。あの男は今冷静ではない。それでも、いや、だからこそ、その言葉に嘘はないんだろう。

 少なくともあの人になにかを教える立場の人がいるということ。そして、オールマイトの弱体化だなんて嘘にしか思えないことを、信じてしまえるデータか、信頼があるということ──

 

「……どうした!? 来ないのかな? クリアとかなんとか言ってたが……出来るものならしてみろよ!!!」

「うぅうぅぅおおぉおぉぉおおおぉ……!!」

 

 言葉にならない呻き声に、悔しさと苛立ちがある。それでもオールマイトに気圧されているのが見てとれたから、このままオールマイトが圧倒すると、そう信じて疑わなかった。

 何も危険はない。もう大丈夫。“彼がいるなら大丈夫”。

 

 ──それなのに、緑谷くんが飛び出した。

 オールマイトを庇うように、黒もやの(ヴィラン)に向かって拳を振りかざす。

 

「!? みっ……!」

 

「オールマイトから、離れろ!!!」

 

 どうして飛び出したの。どうして今その必要があったの。──そんな驚きが思考を奪って、一瞬なにもできずに立ち尽くす。すぐに羽根を飛ばしたけれど、一瞬のタイムラグが大きすぎた。

 

「二度目はありませんよ!!」

 

 黒もやが、あの不気味な手が、緑谷くんに迫る。

 間に合わない、羽根が、届かない──!

 

「させない!!」

 

 絶望するわたしの隣で、13号先生が“個性”を発動させた。【ブラックホール】──どんなものでも吸い込んで塵にする。その吸引力はこれほど離れていても健在のようで、緑谷くんを襲おうとした(ヴィラン)の動きを止めて、引き寄せる。

 

「っんだよ、コレ……! ムカつくなぁぁあ……!!」

 

 それでも。追い込まれた(ヴィラン)の執念ともいうべきか。ワープゲートを介して押し出された手が、じりじりと伸ばされる。緑谷くんは倒れ込んだまま動けない、指先が、手が迫って──

 

 ──その手を、銃弾が貫いた。

 

「ごめんよ皆、遅くなったね」

 

 背後のゲートが開く。聞こえてきた声に振り返ると、麗日さんが泣きそうな顔で笑った。その目に映る人物に、安堵がやってくる。

 

「飯田くん……!」

「1ーAクラス委員長飯田天哉!! ただいま戻りました!!!」

 

 飯田くんはその駿足を生かして、学校に救けを求めに行ってくれていたらしい。彼が連れてきてくれたプロヒーローたちを見て、わたしもほっと息をこぼした。(ヴィラン)はというと、はぁ、と力が抜けた溜め息をついている。

 

「あーあ……来ちゃったな。ゲームオーバーだ。帰って出直すか黒霧……──ぐっ!!」

 

 スナイプ先生の銃弾が手だらけの青年を射抜く。それでも黒もやは効いていないようで“個性”を使って脱出しようとしているけれど、13号先生の【ブラックホール】に引きずられてうまく発動できずにいる。

 

「この……ブラックホール!! 厄介な……!!」

「オイ黒霧! 行動不能にさせたんじゃないのか!?」

「確かに先ほどまでそうだったのですが……!」

 

「今度は後れをとりませんよ……! 大人しくしなさい!」

 

 ズズズ、と引き寄せられた黒もやと手だらけの(ヴィラン)が、わたしたちのすぐ傍までやって来た。すると、青年がわたしを見た。手で覆われたその隙間から、見開かれた目がのぞく。

 

「……あぁそうか、おまえ、回復キャラだったのか」

「……っ」

 

 無表情の中に、言い知れぬ不気味さを感じ取って、わたしは一歩退いてしまった。そんなわたしから興味を失くしたように、ふいと視線を反らして、(ヴィラン)はオールマイトを見る。

 

「今回は失敗だったけど……今度は殺すぞ、

 平和の象徴……オールマイト」

 

「、待っ……!」

 

 黒もやが青年を包み込み、小さくなっていき、わたしたちの眼前で完全に消えてしまった──逃がしてしまった。その後悔に俯きそうになって、唇を噛んで首を振る。顔を上げる。まだやるべきことが残っている。

 

「!? 空中(そらなか)さん!」

 

 ばさ、と翼を広げて跳躍し、セントラル広場に降り立つ。どうしてセメントス先生が“個性”で壁を展開させているのかは気になるけれど、とにかく今は、と壁の前で倒れている緑谷くんの傍に駆け寄った。

 

「緑谷くん……!」

「空中、さん……」

 

 先ほど確認した左手の親指と中指、それに加えて両足の骨が折れている。きっと、さっきオールマイトを救けに入った時の踏み込みだろう。

 

「……どうしてこんな、無茶を……」

 

 どうして飛び出したの。どうしてそれが必要だったの。……わからないことや訊きたいことはあるけれど、何よりまずは、やるべきことをしないと、と治癒にとりかかった。

 緑谷くんの両足、そして左手。それぞれに触れてエネルギーを注ぎ込む。完治の気配に目を開けると、……目の前がくらりと眩んだ。

 

「……ぇえっ!? そ、空中サン!!?」

 

 前のめりで緑谷くんにもたれ掛かったわたしに、緑谷くんが驚いている。声がひっくり返って、わたわたして……申し訳ないなと思ってはいるのだけど、今は身体が、動かない……。

 

「……空中さん? 空中さん!?」

「おいどうしたんだよ、緑谷!」

「空中さん、急に倒れて……すごい熱だ……!」

「なんだって!?」

 

 ぼんやりとする聴覚で、緑谷くんと切島くんの声を拾う。

 

「……だい、じょうぶ。“個性”、少し、使いすぎちゃった、だけ」

 

 心配することないと伝えたくて、無理やり口を開いた。

 けどそれも、長くは続かない。

 

「寝てたら、すぐ、治……」

「空中!!?」

「空中さん!!」

 

 ふ、と電源を落とすかのように、すべての感覚が途切れた。 

 

 

 

 

 

 ぼんやりと熱に浮かされた頭が、ぼんやりとした世界を捉える。視覚も聴覚も水の中にいるかのようで、ひとつ膜を隔てているようで、はっきりしない。まばたきを繰り返す。次第にクリアになっていく感覚で、自分がベッドに寝かされていることに気づいた。わたし自身が熱いからか、シーツが程よくひんやりしていて気持ちいい。

 

「……わたし……、──!」

 

 ぼうっとした意識が、一気に覚醒する。わたし、あのUSJで、(ヴィラン)の襲撃に遭って──!

 ガバッと上体を起こすと、衝撃についてこれなかった頭がくらりとした。う、と小さく呻いたわたしの肩に、誰かの手が乗った。

 

「馬鹿だね、飛び起きる奴がいるかい」

 

 これをお飲み、と差し出されたコップを受けとり、水をゆっくりと喉に流し込む。飲み干して、は、と息をこぼした頃には、目眩はもうなくなっていた。しゃっきりした頭で、傍らのリカバリーガールに向き直る。

 

「リカバリーガール……! みんなは無事だったんですか? 誰も怪我をしてたり……そう、オールマイトも口から吐血してて……!」

「落ち着きんさい」

 

 ぴしゃりと言われて、口をつぐむ。どうやらここは保健室のようで、わたし以外にベッドは使われていないようだけど──と、視線で探っていたことを見破られたらしい。また大きな溜め息を吐いて、彼女は話し出す。

 

「……怪我人はいないよ。みんな掠り傷程度さ。重傷者は、あんたが治癒したあの3人だけだったからね」

「……よかった……」

 

 オールマイトに治癒はできなかったし、他のクラスメイトの安否もわからなかったから、今のリカバリーガールの言葉に心底ほっとした。……けれどリカバリーガールの表情は晴れない。

 

「……今回は事情が事情だから、あまりお小言は言えない……ところだから、控えめにいこうかね」

 

 複雑そうに目を伏せて、彼女は話し始める。

 

「あんたの【治癒】は、エネルギー源があんた自身だ。使いすぎて体内のエネルギーが不足して、熱が出るというのも、仕方ないんだろうさ」

 

 しわくちゃの手が、わたしの手をとる。

 

「それでもね、心配はしてしまうんだよ。

 ……こんな年寄りに心労をかけるんじゃないよ」

 

「……はい。ごめんなさい、リカバリーガール」

 

 謝って下を向く、そんなわたしの肩をぽんと叩いて、帰宅する準備をおし、と彼女はわたしに制服を手渡した。いつの間にか着替えさせてもらったらしい病院服から制服に着替えて、シャッとカーテンを引く。外はもう、すっかり夜だった。

 

「お世話になりました」

「はいよ。ペッツをお食べペッツを」

「あ、ありがとうございます……」

「ちょうどいいタイミングだよ。迎えも来たからねぇ」

「? 迎えって……」

 

「よう」

 

 廊下の暗闇に溶けるように立っていた相澤先生に、悲鳴を上げることはなんとか堪えた。それでも口に入れたばかりの飴を飲み込んでしまって、少し咳き込んでしまったけれど。

 

 

 

 

 

 (ヴィラン)の襲撃もあったし、もう夜闇も深い、ということで、わたしは相澤先生の運転する車に乗せてもらっていた。アパートまで送ってくれるとのことで、恐縮してしまう。

 

「あの、本当にすみません……」

「謝るな」

「はい……」

 

 先生は淡々といつものように言った後、沈黙した。ブロロロ、とエンジン音だけが聞こえる静かな車内で、何を言うべきか躊躇うような沈黙が続いて。

 

「……謝るのはこちらの方なんだがな」

 

 それが破られたのは先生の方からだった。助手席から視線で問いかけると、相澤先生は前方を見つめたまま返した。

 

「俺らの負傷を治癒したせいで、エネルギー不足になったんだろ」

「……でも、それはわたしがそうすべきだって、そうしたいって選んだからです。先生の“せい”って、そんなことは全然なくて……」

 

 選択には責任が伴う。だとするなら、

 

「責任があるとしたら、それは、わたし自身に他ならない」

 

 わたしは心からそう思うのだけれど、相澤先生は不服なようで、あからさまに眉根を寄せた。不機嫌そうな顔がミラー越しに見える。

 

「生意気言うな、空中」

「な、生意気って、」

「おまえは生徒だし、俺は担任。……守られるべきなんだよ、おまえは。そういう立場にある」

「……守られる、立場……」

 

 なんだか擽ったいような、慣れないような。不思議な感覚に口ごもる。……でも、本当に、公安の元に所属していて、それを隠しているわたしに、そんな権利はないように思う。こんな風に気遣ってもらって、嬉しい気持ちと罪悪感とが、同時に胸を襲って。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 何故だかこぼれてきそうな涙を、俯いて笑って、誤魔化した。

 

 

 

 

 

「あの、ありがとうございました、相澤先生」

「おう」

 

 アパート前で下ろされて、深く頭を下げたわたしに、相澤先生は髪をぐしゃぐしゃしながら言う。

 

「……後でケータイ見とけ。クラスの奴らも、おまえを心配していた」

「え、……わ、わかりました」

「じゃあな。明日は臨時休校だ、しっかり休めよ」

「はい。……では、また」

 

 車が路地に消えていくのを見届けて、わたしは振っていた手を止めて鞄を探った。『ケータイ見とけ』……確かに保健室で起きてから今までスマホを確認する間がなかったしな、と部屋に向かいながら操作する。

 ぱっと明るくなった画面に、その表示された内容に、目が点になってしまった。

 

「……へ?」

 

 着信履歴に“ホークス”の名前が並んでいた。忙しい彼が電話してくるのも珍しいのだけど──着信数がエグい。数える前に数えるのが億劫になってしまうようなその量に、疑問が沸き上がる。

 

「え、な、なんで……?」

 

 こんなことは初めてで、いつも感じる嬉しさより心配が勝った。まさか、ホークスの方でも何かあったんじゃないだろうかと眉をひそめたその時、また着信が入ってきた。驚いて、慌てて部屋に入って、玄関口でスマホをタップする。

 

「……あの、もしもし、」

愛依(あい)、……愛依だよね?』

「うん、わたしだよ。ホークス、いっぱい着信入ってたけど……何かあった?」

 

 沈黙。深い溜め息。困惑するわたしが呼び掛けると、彼はまた溜め息を吐き出した。苛立ちと安堵が混じったような、そんな声が耳元でする。

 

『何かあったのそっちでしょ。だから電話してたんだよ』

「! さすがというか……もう知ってるんだね」

 

 まだマスコミが発表してないはずの情報を、どこで誰からどうやって知ったのか。気にはなるけど、ホークスだったら知ってるだろうなと納得してしまう。

 靴を脱ぎながら部屋に入る。ぱち、とスイッチを操作して電気をつけると、真っ暗だった部屋が光で満たされた。

 

『今スマホ見た?』

「うん、……その、ごめんね。着信気づけなくて」

『……(ヴィラン)襲撃で負傷した人を治癒。そんで“個性”過剰使用(キャパオーバー)起こして熱出して寝込んでた。……合ってるでしょ』

「……ホークス、実はどこかで見てたりした?」

『馬鹿』

 

 端的で辛辣な言葉に苦笑をこぼす。馬鹿って酷いなあ、なんて軽い口調で返しながらソファに沈んだ。柔らかい感触に身体を預けて、ほうと息を吐いて。そんな無防備な瞬間だったからかもしれない。

 

『……心配した。仕方がなかったとはいえ……あんま無茶せんでね』

 

 ホークスの声が、すっと、心に入り込んだ。

 

「……ごめんなさい、啓悟くん……ありがとう」

 

 リカバリーガール、相澤先生、クラスのみんな、そして、ホークス。こんなにたくさんの人に心配してもらえて、今日という日がなんとか無事に終わろうとしているのを実感した。それと同時にあの時の、誰かが殺されるかもしれない恐怖とか、力が足りずに(ヴィラン)の好きにさせてしまった悔しさとか、それでもみんなが無事でよかったっていう安堵とかが、込み上げてくる。

 だから、なのか。さっきは我慢できた涙が溢れてきた。こんな情けない様をホークスには知られたくなくて、必死に嗚咽を噛み殺す。

 

『──愛依、』

 

 我慢、してるのに。なんで。

 

『……よく頑張ったね。だからもう、泣いていいよ』

 

 なんでそんな優しい声で、暴いてしまうの。

 

「……っふ、ぅ、……っ」

 

 ぼろぼろと涙が流れてぐちゃぐちゃになった顔。ひぐひぐとみっともなく溢れる嗚咽。どれもこれも情けないのに、ホークスはうん、うん、と優しい相槌を打ってくれる。

 そんなことを繰り返して、わたしの涙が落ち着いてきたころ、ホークスが冗談めかして笑った。

 

『……あー……でも、困るなァ』

「……?」

『電話越しじゃ、なんもしてやれん』

「、なにそれ」

 

 涙が滲んだまま、ふふ、と笑う。なんもしてやれんって、絶対そんなことありっこないのに。今も、今までも、ずっと。わたしはあなたに救けられてきたのに。

 

「……十分すぎるほどだよ、啓悟くん」

 

 

16.少女、帰り道。

 

 


 

 オリ主の治癒した人物が活躍することで展開が少しずつ変わっていく。そんな原作沿いにしていきたいです。願望です。



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17.鷹、プレゼント。

 

 ここは東京にある、公安委員会が所属するビル──の1階に併設された喫茶店。もう温くなってしまったコーヒーを、時間潰しのためにゆっくりと飲む。ざらり、微かに残った砂糖を舌で溶かした。午前10時。まだ始業から然程時間が経っていないからか、店内の人間は疎らだった。きっとこの上階のオフィスでは、今も鬼気迫る顔した職員さんらがキーボードを叩いているんだろな、目良さんちゃんと寝てんのかな、なんて、ぼんやり思う。

 そんな暇潰しにも飽きてきた時。喫茶店の厨房側から、さも「バイトです」と言わんばかりの顔をした女の子が見えた。

 

(……お、)

 

 オーバーサイズの紺色のパーカーに、ダメージの入ったスキニージーンズ。足元はゴツめの真っ赤なスニーカー。肩より少し長い、切り揃えられた黒髪に白い肌。ギターケースらしきものを背負ったその女の子は、まさにパンキッシュなロックンガール、といった出で立ち。彼女は店員に軽く頭を下げて、店内に入ってきた。軽く視線を巡らせて、俺と目が合う。

 

「よ」

「……びっくりした、来てたんだね」

「まーね。座ったら? まだ時間あるでしょ」

「……なんで知ってるの?」

「ただの勘」

 

 というか鎌を掛けただけ。それにすっかり騙されて信じ込んでいる愛依(あい)は、やっぱり相変わらずだ。向かいのソファに腰を下ろした彼女に向かって笑いかける。

 

「相変わらず……だけど随分イメチェンしたじゃん」

「イメチェンっていうか、一応変装の訓練も兼ねてるから……というか、なんでわたしだってわかったの? そんなにわかりやすかったかな……」

 

 すぐに見破られたことがショックだったのか、自分の姿を見下ろすその眉がしょんぼりと下がっている。白い髪を覆うように被ったウィッグは黒髪のストレートヘア。いつもは着ないようなパンクな服に、きつめの印象を与えるメイク。リップを塗っているのか真っ赤な唇は、いつものこの子とは違う、大人びた雰囲気を出している。それでも黒ぶち眼鏡の奥の目はいつもの青色で。それに少し安心した、なんて──そんなことは言わないけど。

 

「俺と目が合った時、あからさまに動揺したでしょ。わかりやすいったらない」

「む、……今度は、気を付ける」

 

 公安のビルにただの子どもが出入りするのは不自然だということで、愛依はここを訪れるたび、訓練も兼ねて変装することになっているらしい。背中を飾る白い羽根も大部分を落としてきているのか、すっぽりとパーカーに隠れているし、メイクやウィッグ、服装で印象を変えるのも少しずつ板についてきたんじゃなかろうか。

 

(……まだまだ、わかりやすいけど)

 

 小さく苦笑をこぼす。それは仕方ないなという気持ちだけではなくて、安堵もあった。それを悟られたくなくて話題を逸らす。

 

「そういえばおまえ、そんなジャンルの服持ってたっけ?」

「ううん、じろ、……クラスの子が雑誌を見せてくれて」

「へえ、パンク・ロックが好きなのかな。女の子?」

「っうん、耳郎さんっていってね……!」

 

 こっちが聞く姿勢を見せると、ぱあっとあからさまに目が輝く。まだ慣れない照れと嬉しさで、白い頬が赤く色づいていく。そんな愛依の様子に、自然と俺も笑っていた。

 そうやって笑っててほしい。きっとこれからのことで、この子はここに来る道中、緊張していたと思うから。

 

「あ……もうこんな時間。わたし行くね」

「お、そっか。……なあ、」

「なに、ホークス?」

 

 愛依が席を立つ。微笑みは少しだけ固くなっていた。それを和らげてやりたいなと、俺は笑う。

 

「また後で、話そ」

「! ……うん、……ありがと」

 

 にっこり笑って、愛依はこちらに背を向けて歩き出した。その背中に背負ったギターケースの陰に、ひっそりと剛翼を1枚忍ばせる。……歩きに不自然なところはないから、気づいてないんだろうなぁ、まだまだ訓練不足だなぁとひっそり笑う。

 

(……俺はそれでもいいと思うけど、)

 

 さてあの御方はどうだろうなと思いを馳せる。

 今日愛依がここに来たのは、昨日起こった(ヴィラン)による雄英襲撃の件について、報告するようにと命じられてのことだった。

 

 

 

 

 

 ノックの音。失礼します、と控えめな声。パタンとドアが閉じる音。掛けなさい、と椅子を勧める会長の声。そして、

 

『早速だけれど、昨日の件について、あなたの知り得る情報を報告なさい』

『はい』

 

 愛依につけた剛翼が震え、その会話を俺に届かせる。

 雄英高校内部にある訓練施設に、突如として【ワープ】の“個性”を持った(ヴィラン)が現れ、およそ50人以上の(ヴィラン)を瞬時に転移させたこと。ほとんどは“個性”を持て余したチンピラのようなもので、生徒たちが各自対応できたものの、迷わずこちらを殺そうとしてきたこと。そんな彼らの目的は【オールマイトの殺害】で、そのための策として強“個性”を複数持つ怪人【脳無】を連れていたこと。主犯格は【ワープ】の黒いもやを纏った男と、身体中に手を身につけた男。彼らはそれぞれ『黒霧』『死柄木』と呼ばれていたこと。それらは自分たちのことを【(ヴィラン)連合】と名乗っていたこと──

 

『……あと、黒霧という(ヴィラン)が言っていたことで、気になることが』

『何かしら』

『なにがしかの用件があったのか、授業のはじめオールマイトはいなかったのですが……本来ならオールマイトがUSJで教鞭を取る予定だったそうです。それを黒霧は、先日頂いた教師側のカリキュラム(・・・・・・・・・・・・・・・)で知ったと言っていました』

『その口振りからすると、襲撃以前に雄英に侵入していた、ということになるわね』

『……わたしが入学して3日目に、雄英のセキュリティが反応したことがありました。その時は、押し掛けたマスコミが校内に入り込んだと聞いていました、が……』

『その報告は受けていないのだけれど』

『、すみません。それと関係していたとは、思わなくて……』

 

 一通りの報告を聞き終えて、2人の間を沈黙が満たす。しばらくしてから会長の声が聞こえた。

 

『その3日目に(ヴィラン)が雄英内に入り込んでいた可能性もあると考えられる。……これから在学中、少しでも違和感を覚えた時は報告なさい』

『っはい』

『それと、……心に留めておいてほしいことがあるわ』

 

 会長の声が低くなる。不穏な気配を感じ取ったのか、なんでしょう、と応える愛依の声も、少し震えていた。

 

『──雄英内部に、内通者がいるかもしれない』

 

『……え、?』

 

 信じられない、といったような声色。それに対してどこまでも冷静な声が、現状を突き詰めていく。

 

『雄英のセキュリティを抜くのは容易ではないわ。それなら、内部にいる者が外部の者へ──(ヴィラン)連合に情報を流す方が確実。しかも黒霧は教師側のカリキュラム(・・・・・・・・・・)と言っていたのでしょう』

『はい、そうです』

『短時間の侵入で、そんなものが上手く手に入るものかしら』

『……、……それは……』

 

 現在得られる情報をもとに考えると、会長の推論は正しい。それはきっと愛依もわかってはいる。理解している。それでも納得できないのか口ごもる彼女に、会長は静かに溜め息を吐いた。

 

『あなたの思っていることを当てましょうか。

 “雄英の先生方が、そんなことするとは思えない”』

『……っ』

『……いつも言っているでしょう。感情に絆されてはいけない。感情に流され、呑まれてはいけないと』

 

 幼い頃から繰り返し、何度も何度も教え込まれた言葉。

 人の懐に入り込んでも、自分の心を晒してはいけない。心のままに、感情のままに動いては、いざって時に冷静さを欠く。判断を下す時に要るのは鋼鉄の理性だけ。情で、行動を左右してはならない──

 

『あなたは甘い。それを自覚なさい』

 

『……、……はい』

 

 そうして上手に心を殺して、この子は何になるのだろう。

 

 それがここで求められていることは嫌になるほど知っているけど、そんな風に“上手に”笑えるようになったあの子を見るのは嫌だなァ、なんて、ひとり息をついた。

 その息が、自嘲の笑みに変わる。

 

「……はは、」

 

 “上手”じゃなくていい、なんて──何を今さら。

 

 

 

 

 

「ホークス、なに飲む?」

「甘ーいコーヒー」

「糖尿病……にはならないか。運動量が違うもんね」

「そゆこと」

 

 会長の話を終えた愛依と合流した俺は、彼女の部屋に訪れていた。変装を解いた愛依は、動きやすい訓練用の服に着替えていた。はたはた、と白い羽根をはためかせながらコーヒーを淹れる彼女の背中を眺めながら、目を細める。

 

「今日この後に訓練だっけ? 明日も学校だってのに、よくやるねぇ」

「……ホークス。さっきの話聞いてたんでしょ」

「おっと」

「! 剛翼……もう!」

 

 わざとらしく口チャックのジェスチャーをして、忍ばせていた剛翼を元に戻すと、愛依は眉を吊り上げた。ごめんごめん、と軽い言葉で宥めながら、話を続ける。

 

「戦闘訓練ね、……なに、この前の(ヴィラン)襲撃で、なんか思うところあった?」

「……うん」

 

 コーヒーをお礼を言って受け取る。愛依も自分用のカフェオレを持ってソファに腰を下ろした。すぐ飲むでもなく、その水面をじっと見つめている。

 

「なんか、ね、」

「うん」

「……わたし、訓練受けてたくせに(ヴィラン)にビビっちゃって、思ったように動けなくて」

「うん」

「できないことも、いっぱいあったし」

「うん、」

「……もっとちゃんと、強くならなきゃだめなんだって」

「……真面目だなァ」

 

 真面目なのはいいとこだけど、その思い詰めた顔はどうにかしてやりたいなって、隠していた小包を差し出す。

 

「じゃあ今のうちに渡しとこ。はい、」

「へ? え……これなに?」

「開けてみて」

 

 きょとん、と目を丸くした愛依は、おずおずと包装を解いていく。その青い目がきらきら光を取り戻すのを、そっと笑って見守った。

 

「ちょっと遅くなったけど、雄英入学祝いのプレゼント」

 

 雄英でいろいろあったこんな時だけど、雄英に合格したことも、そこで頑張っていることも、誇っていいことに変わりはないから。

 

「デジカメ……こんな、ほんとにもらっていいの……?」

 

 いろいろ考えたけど、プレゼントはデジカメにした。両手で抱えながら俺を見る愛依に、ふっと笑みを返す。

 

「ほら、昔俺が渡した写真とか、よく眺めてたでしょ。今度は自分が撮る側にまわってもいいんじゃないって思ってさ」

 

 いつかの時、外に出られなかったこの子が『空をとぶのってどんなかんじなの?』と興味をもってくれたから、調子に乗って飛び回って集めた空の写真集。たいして上手でもない俺の撮った写真を、本当に嬉しそうに何度も何度も眺めていた。

 それを愛依も覚えていたのか、笑いながら頷いた。ありがとう、とお礼を言ってから、少しだけ首を傾げる。

 

「うーん……撮る側かぁ、何を撮ったらいいのかな?」

「何でもいいよ」

「それが一番困る答え」

「えー……じゃあそだな、愛依が思い出に残しておきたいものとか、そういうのを撮ったら」

 

「思い出、に……」

 

 口許に手を当てて、うんうんと考えている愛依を横目にコーヒーを口に含む。程よい甘みと苦み、温かさに目を細めた時だった。

 

「啓悟くん」

「ん、な……に、」

 

 ──パシャ、と焚かれたフラッシュに咄嗟に目を閉じなかったのは、雑誌撮影の賜物か。それでもいきなり自分を撮られたことに、若干の気恥ずかしさが出てきてしまう。

 

「……えー、なになに、いきなり」

「だ、だってホークスが言ったんでしょ。思い出に残しておきたいものを撮ったら、って……」

 

 恥ずかしそうに早口で言ってから、愛依は胸元に抱いたデジカメを見た。伏せられた目元に白い睫毛が淡い影を落とし、頬が赤く色づいて。

 

「だから、第1号はあなたがいいの」

 

 そんなことを言って微笑むから、俺は一瞬息を忘れた。いつもは止めどなく出てくる言葉も、胸の辺りで塞き止められて蟠る。

 

「……馬鹿だなァ、」

 

 なんとかそれだけ絞り出したけど、それからが続かなかった。本当なら「そういうのは学校での新しい友達と一緒に撮ればいいんだよ」とか、そういったことを言おうと思ったのに。

 “俺以外の誰か”と撮ればって、言おうと思ったのに。

 

 もっと広い世界を見てほしい。もっと広い世界を知ってほしい。もっと広い世界で生きてほしいと、そう思ったから背中を押した。その気持ちに嘘はないのに、それ以外の何かがいまだに拭いきれない。

 馬鹿げてる。未来を明るく照らしてやりたいのに。どこまでも飛んでいってほしいのに。立ち止まってこちらを振り返ってくれることに、こんな喜びを覚えるなんて、

 

「……ほんと、馬鹿」

「ばっ、馬鹿って、そんなに言わなくてもいいのに」

 

 む、とむくれる愛依の頭に手を置いて、さらさらとした髪を撫でた。憤然としていた顔が、照れたような笑みに変わる。この距離も、いつかは手放さないといけないと、わかっている。

 俺は、いつものようにけらけらと笑いながら、指先に走る痛みを殺した。

 

 

17.鷹、プレゼント。

 

 


 

 ホークス視点。サクッとした小話にするつもりだったのになんでこんなに長くなったんでしょうね。永遠の謎です。 



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雄英体育祭編
18.少女、意気込む。


 

 USJ襲撃事件が終息した次の次の日。臨時休校を経て学校が再開した。日にちとしてはまったく久しぶりじゃないのに、起きた出来事が衝撃的過ぎたからか、なんだか不思議な感慨がある。

 ぼんやりとそんなことを考えながら廊下を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。

 

「おはよう愛依(あい)ちゃん」

「梅雨ちゃん……! おはよう」

 

 梅雨ちゃんは小首を傾げた。緑がかった長い黒髪がさらりと揺れる。

 

「愛依ちゃん、もう体調はいいのかしら?」

「あ……うん、あれは風邪っていうよりただの“個性”過剰使用(キャパオーバー)だから、そんなに後には引かないし……」

 

 あのUSJ襲撃の終局で、熱を出して倒れてしまった不甲斐なさはまだ胸に残っている。それでもあの後確認したスマホには、わたしの身体を気遣い、心配するメッセージがたくさん届いていた。その嬉しさだって、胸の中に残っている。

 

「あの、メッセージのこと、本当にありがとうね」

「お友達を心配するのは当然よ。元気になって、よかったわ」

「! あ、りがと……」

 

 へにゃ、とだらしなく笑っている、そんな自覚はある。でもそんなわたしをからかうことなく、梅雨ちゃんもけろけろと微笑んでくれた。

 そんな風に会話しながら教室に辿り着く。ドアを開けると、あっ、という声が耳に飛び込んできた。

 

「あー! 空中(そらなか)じゃん! もう大丈夫なの?」

「芦戸さん、」

「心配したんよー! 無茶しとらん?」

「麗日さんも……」

 

 2人だけじゃなく、耳郎さんや八百万さんも来てくれて、口々に大丈夫?、よかった、とあたたかい声を掛けてくれる。

 

「もう平気だよ。……みんな、ありがとう」

 

 くすぐったくて、恥ずかしくて、嬉しくて。小さな声になってしまったけれど、それでもちゃんとお礼を言えた。そんな時。

 

「ぎゅーーっ」

「わっ、と、透ちゃん?」

「愛依ちゃん元気になってよかった! 心配してたんだよー!」

 

 制服から覗く手は見えないものの、後ろから腕を回されている感覚から、抱き着かれていることはわかった。心配してくれたことも、喜んでくれたこともその声色からわかるんだけど、有り難いんだけど、その、頭ぐりぐりしないで……!

 

「あっ、あの、透ちゃん、」

「ていうかこれすっごい! 羽根すごいモッフモッフワフワ!」

「っうん、傷んだり無くなったりした分も生え変わったし、……っく、くすぐったいよ……!」

 

 【翼】の大部分の羽根に神経は通っていないのだけれど、骨のある小雨覆の辺りや付け根のところには感覚がある。だからその辺りを触られるとむずむずするというか、くすぐったい。

 透ちゃんはごめーん!と明るく謝ってくれて、少し体を離してくれたけど、その透明な手はまだ羽根をもふもふしている。

 

「あ、あの……?」

「へー、ちゃんと鳥みたいに生え変わるんだねぇ」

「真っ白でとても綺麗ですわね。……後学のために、私も少し触ってもよろしいですか?」

「後学……? いや、うん、べつにいいけど……」

「あっ、じゃああたしも触るー!」

「えっそんなん私も! もふもふさせてっ」

「じゃあウチもー」

「えっ、ちょ……っふは、だからそこはっ、くすぐった……つ、梅雨ちゃん……!」

「みんなずるいわ。私も触れさせてくれるかしら」

「梅雨ちゃんまで……!」

 

 みんな力任せじゃなくて優しく触ってくれているからこそ、笑いが止まらなくなってしまう。少しだけ涙が滲んできた頃、この状況を止めてくれたのは明るい委員長の声だった。

 

「うむ! 元気になったようでなによりだ空中くん!!」

「あ、ありがとう飯田くん」

「うむ!! しかし空中くん、そして皆ーー!!

 朝のHRが始まるぞ、席につけーー!!」

 

「あっもうそんな時間かぁ」

「はーい。愛依ちゃん羽根ありがとねー!」

「よかったらまたもふらせて」

「……お手柔らかにね……?」

「けろっ」

 

 イタズラっぽく梅雨ちゃんが笑って、わたしたちは全員席に着いた。それとほぼ同時に、教室のドアが開く。

 

「おはよう」

「「「おはようございます!」」」

 

 相澤先生はぐるりと教室全体を見渡しながら教卓の前に立った。

 

「先日は災難だったが、全員無事でなにより。……しかしまだ戦いは終わってねぇ」

 

「!?」

「戦い?」

「まさか……」

「また(ヴィラン)が……!?」

 

 相澤先生の不穏な言葉に教室がざわめく。そんな反応を目を閉じて受け止めていた先生は、カッ!!!と目を見開いた。

 

「──雄英体育祭が迫っている!!」

 

「「「クソ学校っぽいの来たあああああ!!!」」」

 

 (ヴィラン)などではない、これぞ学校といったようなイベントに、安堵と高揚感で教室中が沸いた。……けどやっぱり、そんな明るい気持ちだけではないようで。

 

「待って待って! (ヴィラン)に侵入されたばっかなのに大丈夫なんですか!?」

 

 一昨日のことを思えば、そうした不安が出るのも当然だろう。相澤先生は頷き、その質問の問いを返す。

 

「逆に開催することで雄英の危機管理体制が磐石だと示す……って考えらしい。警備は例年の5倍に強化するそうだ。何より雄英(ウチ)の体育祭は……最大のチャンス(・・・・・・・)(ヴィラン)ごときで中止していい催しじゃねぇ」

 

「いやそこは中止しよう……?」

「峰田くん……雄英体育祭見たことないの!?」

「あるに決まってんだろ。そういうことじゃなくてよー……」

 

 ひそひそとやり取りする峰田くんと緑谷くんの会話が聞こえてくる。先生も聞こえたのか、ちらりと視線をやりながら続けた。

 

「ウチの体育祭は日本のビッグイベントの1つ!! かつてはオリンピックがスポーツの祭典と呼ばれ全国が熱狂したが、今は知っての通り規模も人口も縮小して形骸化した……。

 そして日本に於いて今、“かつてのオリンピック”に代わるのが、雄英体育祭だ!!」

 

 ひとつの高校の体育祭が、全国的な催しになる。……改めて雄英って規格外だなあと実感する。学校に通っていなかったわたしだけど、この感覚は間違っていないはずだ。

 規格外で凄まじい──それは注目度もだ。競技の様子はテレビ中継され、全国の人々が、全国のヒーローがそれを観る。

 

「当然全国のトップヒーローも観ますのよ。スカウト目的でね!」

資格取得後(そつぎょうご)はプロ事務所にサイドキック(相棒)入りが定石(セオリー)だもんな」

「そっから独立しそびれて万年サイドキックってのも多いんだよね。上鳴あんたそーなりそう、アホだし」

「くっ!!」

 

 八百万さんが、上鳴くんが、耳郎さんが言うように、雄英生にとってこの体育祭は、プロヒーローへの足掛かり。

 

「当然名のあるヒーロー事務所に入った方が経験値も話題性も高くなる。──時間は有限。プロに見込まれればその場で将来が拓けるわけだ」

 

 相澤先生のいつも静かな声が、どこか熱を帯びる。

 

「年に1回……計3回だけのチャンス。

 ヒーローを志すなら絶対に外せないイベントだ!!」

 

 

 

 

 

 4限目の現代文の授業が終わり、セメントス先生が教室を出ていく。昼休みの訪れに、教室内ががやがやと賑やかになる。

 

「あんなことはあったけど……なんだかんだテンション上がるなオイ!!」

「活躍して目立ちゃプロへのどでけぇ一歩を踏み出せる!」

 

 会話の内容は体育祭一色だ。誰もが目を輝かせる中、きょろりと緑谷くんは視線を移ろわせている。

 

「皆すごいノリノリだ……」

「君は違うのか? ヒーローになるために在籍しているのだから燃えるのは当然だろう!!」

「飯田ちゃん独特な燃え方ね。変」

「相変わらずざっくりいくね梅雨ちゃん……」

 

 梅雨ちゃんと向かい合わせに座りながら、お弁当箱の包みを開く。グッ!!!と握り拳を作り燃えている飯田くんに、ズバッといつも通りのようで表情がどことなく明るい梅雨ちゃん。きっとみんな、それぞれのやり方で燃えているんだとわかる。かくいうわたしだって、今からどきどきしているもの。

 

(……ホークスも、観るかな。観てくれるかな……)

 

 そんなことを思っていると、ふと麗日さんと目が合った。彼女はゆっくりと顔を上げて、笑った。

 

「デクくん、飯田くん……──頑張ろうね体育祭!!!」

「顔がアレだよ麗日さん!!?」

 

「どうした? 全然うららかじゃないよ麗日」

(せい)……」

 

 たぶん峰田くんが余計なことを言おうとしたんだろうな。視界の端でビシィッ!!と梅雨ちゃんの舌ビンタが唸る。

 けど、本当にみんなが不思議がっているように、いつもの麗日さんとは全然様子が違う。いつもはほわっとした笑顔が強ばって、眉間に影が落ちて、目が吊り上がっている。

 

「皆!! 私!! 頑張る!!!」

「お、おー……?」

「どうしたキャラがふわふわしてんぞ!?」

 

 いまいち煮え切らない様子の緑谷くんや、逆に気合いが入りまくりな麗日さんという、だいぶカオスになってきた教室内を覗き込んで、その人は溜め息をつく。

 

「まったく合理的じゃないな……騒がしいぞ」

「相澤先生?」

 

 休み時間になるとゼリー飲料で食事を済ませて、その他は寝袋で寝ていることが多い相澤先生が、こうして教室にやって来ることは珍しい。どうしたのかな、なんて思っていると、その鋭い目がわたしを見たから、思わず驚いて肩が跳ねた。

 

「空中、悪いが保健室まで来れるか。おまえの体育祭参加について話がある」

 

 

 

 

 

「“特別治癒補助員”?」

 

 耳慣れない言葉をおうむ返しに諳じたわたしに、相澤先生とリカバリーガールが頷いた。相澤先生に呼ばれてやって来た保健室で、わたしは2人の先生と向かい合わせになってソファに座っている。

 

「そうだよ。これは“治癒個性教育プログラム”を受けている者にしか話していないから、耳慣れないのも仕方ないね」

 

 そうおっとり微笑んだリカバリーガールは続ける。

 曰く、“治癒個性教育プログラム”に参加している生徒が、リカバリーガールの補助員となり、体育祭で怪我をする生徒を治癒する役割を負うのだという。

 

「雄英体育祭はテレビで観たことあるかい?」

「はい、何度か……」

「それなら知っているだろうけど、参加する生徒は皆“個性”を使って覇を競うからね、毎年怪我人が絶えないのさ」

「数多の治癒の経験を積むだけじゃなく、テレビ越しに自分の【治癒】を全国へアピールすることもできる」

 

 相澤先生は教室でも言っていた。時間は有限。ヒーローとしての将来を掴むためにも、自分の有用性をアピールしなければいけないと。

 

「体育祭では予選、本選を経て、上位4名を決める。そこに注目が集まる中、おまえは競技に参加しない以上、どうあっても表彰台に昇ることはできないが──それでも【治癒】の“個性”持ちとしてのおまえは、充分に見てもらえるはずだ。

 空中、おまえはどのように参加する」

 

 相澤先生にそう尋ねられて、わたしは然程迷わなかった。他のみんなのようには見てもらえないかもしれないけど、【治癒】“個性”を使う回復役としてのわたしを見てもらえる。そして何より、たくさんの治癒の機会が得られるのだから。

 

「やります。わたしに……“特別治癒補助員”をさせてください」

 

 そう頭を下げたわたしに、相澤先生はわかった、と頷き、リカバリーガールは朗らかに笑う。

 

「よし。じゃあ今年はあんたに1年グラウンドを任せようかね」

「……えっ、い、いいんですか?」

「元よりグラウンドすべての負傷者を私が見ていたんだ。もしあんたが何らかのアクシデントで治癒できなくなったとしても、充分カバーできるさね」

 

 例年雄英体育祭では、1年・2年・3年でグラウンドが分かれており、各学年全学科全生徒による総当たり戦形式で行われている。……確かにそのすべてを治癒できていたのだから、わたしのミスぐらいどうってことないのだろう。……でも、

 

「……わたし、途中で倒れることのないよう、最後まで役目を務めます」

 

 そう意気込みを告げれば、リカバリーガールは正解だとばかりに大きく頷いた。そうだ、これがわたしの体育祭での課題。みんなの傷をしっかり治癒しつつ、自分もエネルギー不足を起こして行動不能にならない。そのためにエネルギーの無駄遣いを無くすんだと、心中で決意した。

 

 

18.少女、意気込む。

 

 


 

 雄英体育祭編開始です。オリ主は上記の通りリカバリーガールの補助員として動くため、競技には出ません。治癒を施しつつ、いろんな人の葛藤にやや触れていく感じになると思います。サクサクいきたいなという願望はあります。



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19.少女、開会式。

 

 告知からあっという間に2週間が過ぎ、今日、雄英体育祭当日を迎える。このスタジアムに来るまでちらりと見ただけでも、何百、何千人もの人たちが入校審査を受けるべく長蛇の列を作っていた。きっとスタジアムでは、そうした人々が今か今かと開催を待ちわびているのだろう。この控え室にも、彼らの熱狂がひしひしと届いてくるかのようだった。

 

「人ヤバかったよね、ね! あんなに集まるんだねぇ!」

「葉隠……改めて言わないでよ……あー緊張する……」

「耳郎さん、お飲み物はいかがですか? 落ち着かれるかと」

「うん、ありがとーヤオモモ……」

「あっヤオモモ、あたしも貰っていーい?」

「ええ芦戸さん、もちろん」

 

 ここは1年A組に割り当てられた控え室。みんなは緊張していたり、落ち着いていたり、テンションが振り切っていたりと反応はさまざまだ。「そういえば、」と声をかけられてそちらを見ると、麗日さんがわたしを見ていた。

 

愛依(あい)ちゃんて、競技には出ないんだよね?」

「うん、補助員をするから……だから怪我した時は、任せて」

「そか、うん、ありがとう!」

「頼もしいわ」

 

 麗日さんと梅雨ちゃんにそう言ってもらえて、緊張が少しほどけた気がする。頑張ろう、と前向きな気持ちになる。「ありがとう、頑張るね」──そう返そうと口を開きかけた時。

 

「緑谷」

 

 轟くんがおもむろに立ち上がって、緑谷くんの前に立った。轟くんはいつもクールで、口数が少なく、誰かに話しかけているのはとても珍しい。それは緑谷くんも思ったようで、不思議そうに目を瞬かせている。

 

「轟くん、……何?」

「客観的に見ても、実力は俺の方が上だと思う」

「へ!? うっ、うん……」

 

 轟くんの声の調子が、どこかいつもと違う。落ち着いた低い声で淡々と話すのは知っているけれど、今日の彼はなんだか、そこに凄みというか、怖いものを感じてしまう。

 

「おまえオールマイトに目ぇかけられてるよな。別にそこ詮索するつもりはねぇが、──おまえには勝つぞ」

 

 「おお!?クラス最強が宣戦布告!?」だなんて上鳴くんが場を明るくしようとおどけるけれど、轟くんの視線は一切揺らがない。真っ直ぐ、鋭い眼差しで緑谷くんを射る。

 

「急にケンカ腰でどうした!? 直前でやめろって……」

「仲良しごっこじゃねぇんだ、なんだっていいだろ」

 

 場を取り持とうとした切島くんの腕も振り払い、轟くんは素っ気なく吐き捨てる。控え室にいる誰もが、なんていったらいいのかわからない空気の中、俯いている緑谷くんが口を開いた。

 

「……轟くんが何を思って僕に勝つって言ってんのか……は、わからないけど、そりゃ君の方が上だよ……。僕の実力なんて、大半の人に敵わないと思う……客観的に見ても……」

「み、緑谷もそーゆーネガティブなこと言わねぇ方が、」

 

「でも……!! 皆……他の科の人も本気でトップを狙ってるんだ。僕だって……遅れを取るわけには、いかないんだ」

 

 緑谷くんが顔を上げた。ぎゅっと、拳を握り締めて。

 

「──僕も本気で、獲りに行く!!」

 

 

 

 

 

『雄英体育祭!! ヒーローの卵たちが我こそはとシノギを削る年に一度の大バトル!!

 どうせテメーらアレだろコイツらだろ!? (ヴィラン)の襲撃を受けたにも拘わらず鋼の精神で乗り越えた奇跡の新星!!!

 ──ヒーロー科!! 1年!! A組だろぉぉ!!?』

 

 そんなプレゼント・マイク先生の実況で、会場はワアア!!と歓声を上げている。そんな中スタジアムに進み出るわたしたちを──(ヴィラン)の襲撃を退けた1年A組を──スタジアムにいるたくさんの人たちが見ていた。注がれる視線の重さに、心臓の辺りが重くなる。

 

(これ……マイク先生の発言だけで、そうなってるんじゃない、よね)

 

 テレビや新聞など、数々のメディアでUSJ襲撃事件は取り上げられた。『(ヴィラン)の襲撃を許した雄英の怠慢』だとか、『最高峰のヒーロー養成校、(ヴィラン)に出し抜かれる』だとか、雄英を叩く風潮がある一方で、『1年生にも関わらず果敢に立ち向かったヒーローの卵たち』と、わたしたちA組を褒め称えようとする動きがあった。

 だから、みんなそういう目でA組を見る。視線が集まる。

 他の誰かに注がれるかもしれなかった視線を、奪う。

 

「俺らって完全に引き立て役だよな」

「たるいよねー……」

 

 【翼】がそんな呟きを拾う。……引き立て役だなんて、そんなつもり、わたしたちには無い。あの(ヴィラン)襲撃だってわたしたちが望んでやったことじゃないし、ただ必死だっただけだ。頑張らなければ死ぬ、だから頑張った。それだけなのに。

 

(……なんだか、もやもやする)

 

 他の人たちが面白く思わないのも当然、というのもわかるから、やりきれない。そんなわたしみたいに俯きがちな人、多くの人を前に緊張がぶり返す人、テンションをアゲる人──そんな悲喜交々ぜんぶを引っくるめて、体育祭は始まりを告げた。

 

「選手宣誓!!」

 

 ビシッ!!と鞭をしならせて壇上に立ったのはミッドナイト先生だった。極薄タイツに、ボンデージ、というのだっけ、セクシーな衣装を身につけている。……セクシー過ぎるような気がしないでもないけど。

 

「わたしたち1年ステージの主審は、ミッドナイト先生なんだね。……18禁ヒーローって呼ばれてるんだっけ」

「18禁なのに高校にいてもいいものか」

「いい」

「静かにしなさい!! 選手代表──1年A組爆豪勝己!!」

 

 常闇くんや峰田くんとのひそひそ話をやめて、名前を呼ばれた爆豪くんに視線を移す。

 

「え~~かっちゃんなの!?」

「あいつ一応入試一位通過だったからな」

 

「……ヒーロー科の入試な」

 

 意外そうで、大丈夫なの?というような緑谷くんの呟き。瀬呂くんのフォロー。普通科の人の皮肉。他にもざわざわと好奇の目と声が壇上に向かう爆豪くんに集まる。

 けどそれを、爆豪くんは一切気にした様子もない。

 

「せんせー」

 

 ポケットに手を突っ込んだまま、気だるげな淡々とした声で、彼は言う。

 

 

「──俺が一位になる」

 

「……絶対言うと思った!!!」

 

 

 切島くんの叫びを皮切りに、ブーイングが巻き起こった。

 

「調子乗んなよA組オラァ!!」

「何故品位を貶めるようなことをするんだ!!」

「ヘドロヤロー!!」

 

「せめて跳ねのいい踏み台になってくれ」

 

(うわあ……)

 

 A組内外を問わず飛び交うブーイングに一歩も退かず、逆に挑発し返す爆豪くんを見てると、2週間前を思い出す。

 2週間前。良くも悪くも注目されているA組を一目見ようと、教室にたくさんの人が押し寄せたあの放課後。出入り口を塞ぐほどに集まった多くの人たちが、ざわざわと何かを話していたり、スマホでわたしたちの写真を撮ったりしていた。そんな彼らを見て爆豪くんは言ったのだ。

 

『敵情視察だろザコ』

(ヴィラン)の襲撃を耐え抜いた連中だもんな。体育祭の前に見ときてぇんだろ』

『──意味ねェからどけモブ共』

 

(……うん、ヘイトが集まるのも仕方ないというか……)

 

 爆豪くんはなんというか、とにかく口が悪いし態度も悪い。そこに批判的な声が集まるのも仕方ないだろう。……それだけの人ではないように思うけど、爆豪くん自身が選んで見せている姿がそれなのだからどうしようもない。

 

「どんだけ自信過剰だよ!! この俺が潰したるわ!!」

 

 鉄哲くんが憤る声を聞きながら、でも、と考える。

 口が悪いし態度も悪い。真似をしようとは思わないし、できない。……それでも迷いなく上を目指す姿を見てると、どこか眩しくもある。

 

(……すごい、なぁ)

 

 誰にどう思われてもいいから、目指す場所へ行く。そんな強い思いはきっと、わたしには無いものだから。

 そんなことをぼんやり考えていると、ミッドナイト先生が“特別治癒補助員”について説明を始めた。ハッとして顔を上げる。

 

「紹介するわ、──空中(そらなか)さん! 前へ!」

「、はい」

 

 示されたミッドナイト先生の隣に立つ。ドーム状の観客席を埋め尽くさんばかりの人たちの視線を感じて、一瞬喉が震える。それでもしゃんとしなければと背筋を伸ばした。

 

「今年の1年ステージでは、彼女がリカバリーガールの代理を務め、選手たちの傷を治癒します。空中さん、じゃあ一言」

「はい、……ご紹介に与りました空中といいます。どうぞ、よろしくお願いします」

 

 ざわめく会場に立ち向かうよう、ぐるりと見渡して、一礼した。そんなわたしの肩をポンと叩いて、ミッドナイト先生が話を進めた。

 

「空中さんには第一種目において、救助者としても動いてもらうわ。所定の位置に向かい、準備なさい」

「わかりました」

 

 頷き、【翼】で飛翔する。ここから“個性”の使用は許可されているからと、上空から事前に言われていた位置へと向かう。

 雄英体育祭、1年ステージの第一種目は──障害物競走。この特設ステージを一周する約4kmのコース、用意されている3つの関門を、“個性”を使って乗り越えるというものだ。ルールらしいルールとえば“コースアウトしない”ことだけ。何でもありなこの競技は……下手すると死人が出かねないギミックも用意されているので、補助員であるわたしも念のための救助者として動くことになったのだ。

 

「オマエガ養護教諭の代理カ」

「空中愛依──写真データと一致。コレを身にツケロ」

「あ、はい……」

 

 スタート位置と第一関門の間あたりに降り立つと、2体のロボットがわたしにインカムを渡した。言われた通りに身につけると、幾つかのポイントに配置しているらしいロボットたちの声が聞こえてきた。要救助者やリタイアする人が出た場合、これでその人の容態、状況、位置を教えてくれることになっている。

 

「フン……救助が必要ナド人間トハヤハリ脆弱」

「我々の足下ニモ及ばヌ!!」

 

(口悪いなあ)

 

 製作者だろうパワーローダー先生にそんな印象はないのに、どうしてか入試の時に出たロボしかり、このカメラロボしかり、人間に敵対的というかなんというか。

 そんな風に苦笑を溢したついでに、ふ、と息をついた。ばくばくと忙しない心臓を、宥めるように深呼吸を繰り返す。

 

(ちゃんと……しっかり挨拶、できてたかな)

 

 あんなに大勢の人の前で話すのなんて初めてだから、たった一言だけとはいえ緊張した。声、震えてなかったかな、みっともなくなかったかな、と心配になってしまう。

 

(……ホークス、観ててくれた、かな)

 

 先日電話した時、彼は会場には行けないけどテレビで観てるよと言っていた。言ってくれた、──「頑張れ」って。

 

「……頑張るよ。わたし、頑張る、だから、」

 

 だからどうか、観ていてね。

 ひとり呟いて、わたしは翼を広げた。スタートの時は、もう目前に迫っている。

 

 

19.少女、開会式。

 

 


 

 体育祭編でオリ主は目立った活躍はしませんが、他の登場人物の強さや頑張り、葛藤や覚悟を目の当たりにします。それが後々のフラグに繋がるかもしれません。

 遅ればせながら評価・感想・お気に入り登録など本当にありがとうございます!これから私生活が忙しくなり更新が不定期になるかもしれませんが、いつも励みにさせていただいています。



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20.少女、障害物競走。

 

 雄英体育祭、その火蓋が今、切って落とされる。

 

『スターーーート!!!』

 

 大音量で宣言された始まりの合図に、生徒たちが一斉に走り出した。全科の生徒……ざっと数えて200人が、狭いスタートゲートに殺到してギチギチになっている。

 

(……こんなところで固まってしまったら、)

 

 そう危惧したその瞬間に、轟くんの氷が迸った。足元を凍らされて身動きできない生徒たちを尻目に、彼は先頭を走り抜けていく。

 

「ってぇー!! なんだ凍った! 動けん!!」

「寒みー!」

「んのヤロォオオオ!!」

 

 残されたのは、不意を突かれて行動不能になってしまった人たちと、

 

「甘いわ轟さん!」

「そう上手くいかせねぇよ半分野郎!!」

 

 それぞれの“個性”を使って氷結を避け、轟くんを猛追するA組のみんなや、その少し後を続くB組のみんながいた。爆豪くんは【爆破】で宙を行き、八百万さんは長い棒のようなものを【創造】して足を浮かせた。他のみんなも、芦戸さんのように“個性”を使ったり、逆に使わないで跳躍でかわしたりと、それぞれの方法で妨害を乗り越えていく。

 そんな中、1人の生徒が目に留まった。

 

「使い慣れてんなぁ……“個性”」

 

 逆立った紫色の髪と目の下の濃い隈が印象的な男の子は、ぼんやりとした表情でそう呟く。彼は4人の男子にお神輿みたいに担ぎ上げられていて、それで足元の氷結を逃れたんだとわかった。……どうしてそんな状況になったのか不思議だけれど、4人の男子の目が虚ろでなにひとつ喋ろうとしない様子から、きっと彼の“個性”によるものなのだと見当はつく。

 

「助かったよ、ありがとね」

 

「ん、……え、ええ!?」

「ハァ!? んだこれ、なんで……!」

 

 薄く笑って、彼は男子たちを残して走り去っていく。ヒーロー科の面々や、運良く氷を逃れた人たちが眼前を走り抜けて行き、後に残されたのは氷に捕まった人のみとなった。そんな彼らに向かって声を張り上げる。

 

「……リタイアする人は申し出てください! 救助します!」

 

 基本的にわたしが救助および手助けができるのは、競技からリタイアする人のみ。そうでないと競技の公平さを欠いてしまうからと、開会式でミッドナイト先生からも説明があった。

 それを覚えていてくれたのか、スムーズにリタイア宣言が続く。その人たちの足元の氷を強化した羽根で砕いて回り、最後の1人を救助したところで、インカムに通信が入った。

 

『補助員! 第一関門スポットに急行セヨ!! 生徒が2名ロボの下敷きトナッタ!!』

「!? っ了解しました!」

 

 とん、と地を蹴り、宙に浮かび、大きく羽根を動かして風を捕まえる。わたしにできる最高速度で飛んでいくと、一定の幅を保っていたコースが大きく開けた場所に来た。その広場のようなところに、所狭しと巨大なロボがひしめいている。

 

(第一関門、ロボ・インフェルノ……だったっけ)

 

 マイク先生命名らしいそこには、入試の時に出たビルよりも大きい……あの0ポイントのお邪魔虫ロボが蠢いていた。あまりに数が多すぎるので、ただその脇を走り抜けるわけにはいかない。生徒たちはどうにかロボの動きを止めるなり無力化することを強いられる。

 

「……っあそこか……!」

 

 ぐるりと眼下を見下ろして、ひとつ、あの巨大なロボが氷漬けになって倒れているのを見つけた。あの装甲の下敷きになってしまっているのだとしたら、大怪我の危険もある。急ぎ地上に向けて降り立とうとした──その目の前で。

 

「死ぬかぁーー!!」

 

 と、装甲をぶち破りながら切島くんが飛び出てきた。

 

『1ーA切島潰されてたーーッ!!』

 

「轟のヤロウ! わざと倒れるタイミングで! 俺じゃなかったら死んでたぞ!!」

「……いや本当、切島くんでよかったよ……」

 

 切島くんの“個性”は【硬化】。ガチガチに固くさせた身体に生半可な攻撃は通用しない。切島くんの言ってることは冗談なんかじゃなくて、彼じゃない別の人が下敷きになっていたらと思うとゾッとしない。

 ……あれ、でももう1人は?と視線を巡らせると、

 

「A組のヤロウは本当に嫌な奴ばかりだな……! 俺じゃなかったら死んでたぞ!!」

「B組の奴!!」

「鉄哲くん……!」

 

 ベコボコ、バコン!!と轟音を立てながら、鉄哲くんが飛び出してきた。『B組鉄哲も潰されてたー!!ウケる!!』なんてマイク先生の明るい声が聞こえるけど、本当、彼じゃなかったらウケるウケないどころの話じゃなかった。

 “個性”【スティール】。その名の通り身体が鋼のようになり、生半可な攻撃は通用しなくなる。

 

「……“個性”ダダ被りかよ!!」

「んなっ!? 待てコラァ!!」

 

(確かに似てるなあ)

 

 “個性”もだけれど、性格が。切島くんは“個性”被りに嘆いてみせたけど、組の違いを取っ払っていい友達になれるんじゃないのかな。

 そんなことを考えるくらいには、わたしはほっとしていた。下敷きになったのがあの2人だったから、現状、目立った怪我をしている人はいない。

 

「いいなアイツら……潰される心配なく突破できる」

「とりあえず俺らは一時協力して道拓くぞ!」

 

 他のヒーロー科の人たちも自分の“個性”を使ってどんどん突破していく。頭ひとつ抜き出た轟くんを追うように爆豪くんと瀬呂くんと常闇くんが上空を駆け抜け、上鳴くんが電気で、耳郎さんがイヤホンジャックで、それぞれロボを撃退していた。他のみんなも固まらずに動けている。普段から訓練を受けているだけあって、A組B組の人たちは心配ないだろう。

 心配なのは、そうしたヒーロー科とロボとの戦闘の脇を走っている、他の科の人たち。彼らは隙を見て一心不乱に走り抜けようとするけれど、その分ロボの動きには──こぼれ落ちた残骸には気を配れない。

 

「う、うわあっ!!?」

 

 宙から落ちてきたロボの装甲が、ばらばらに降り注ぐ。それに足を止めてしゃがみこんでしまった人たちを見て、わたしは羽根を飛ばした。カーペット状にした羽根を操って、装甲の欠片を受け止める。

 

「怪我は! ……ない、ですね、続けますか?」

「……いや……リタイアするよ」

「わかりました、じゃあ……あのカメラロボのところへ」

 

 助かったことにハアッと大きく安堵の息を吐く人や、悔しそうに俯く人、いろんな反応はあったけれど、誰も大きな怪我をせずに済んでほっとした。リタイアしなかった人たちも、第一関門を全員クリアしたようで。

 

『第一関門ニテリタイアした者は全員回収完了』

『他生徒ノ突破を確認。第二関門に来ラレタシ!!』

「了解、向かいます」

 

 そうした通信を聞きながら、次のポイントに向けて飛び立った。眼下を走るみんなを見ながら状況を見つめ直す。

 リタイアせずに残っている生徒は、ほとんどがA組、B組のヒーロー科だ。……やっぱりというかなんというか、障害物の難易度はヒーロー科のそれに合わせてきているから、こうなってしまうのも仕方ないのだろう。

 そんなことを考えていると次のポイントに辿り着いた。コースに唐突に空いた巨大な穴。底が見えないほど深い大穴で、足場となるのは幾つか聳え立った石柱、それを繋いでいる細いロープのみ。第一関門【ロボ・インフェルノ】がヒーローとしての戦闘能力を試されるなら、【ザ・フォール】と名付けられたこの第二関門は、足場の悪い中いかに素早く行動できるか、ヒーローとしての機動力を試される場だった。

 

「先頭のみんなは……もう行った後か」

 

 この場に残されているのは、それより少し後に続いた人と、大穴を前に尻込みをしている人たちだった。……確かに、このロープを素早くぶら下がって進むことができる腕力とか、細い道でも問題なく進めるバランス力とか、空を飛ぶことができる機動力とか──そうしたものが無い限り難しいだろう。わたしは改めて、辺りの人たちに向かって口を開く。

 

「……もし、リタイアされる方がいたら申し出てください。コース脇にカメラロボがいるので、そちらに、」

 

「俺はリタイアしないよ」

 

 不意に声を掛けられて、わたしはびっくりして振り返った。紫色の逆立った髪と目の下の濃い隈に、よくよく見覚えがあった。それはこの障害物が始まった時と、そして──

 

「は、い。うん、頑張って」

「ありがとね、……そうだ、少しいい?」

「え、う……うん」

 

 今は競技中なのに、足を止めてどうしたんだろう。もしかして競技に関する質問かもしれないと、彼の話に耳を傾ける。

 

「A組の空中(そらなか)、だっけ?」

「う、ん」

「その【翼】の羽根で人を運ぶこともできるんでしょ?」

「? そう、だけど、」

「……いい“個性”だね。羨ましいなァ」

 

 耳を傾ける(・・・・・)その声に言葉を返す(・・・・・・・・・)

 

「そ、そんなこと、──」

 

 その途端、ふつ、と意識が途切れる。まるで装置の電源を落としたかのように──いや、リモコンが他の人の手に渡ったかのように、身体の自由が効かなくなる。

 

「悪いね。とってもいい“個性”だから」

 

 そんな声が聞こえた気がしたけれど、ぼんやりとした感覚の中ではよくわからない。何が聞こえているのか、何が見えているのか、わたしは今何をしようとしているのか、全部、全部、ぼやけていく。

 

《俺を、その羽根でゴールまで運べ》

 

 その声だけが鮮明に聞こえて、何の疑問もなく、わたしは羽根を飛ばす。大穴を越えて、うんと先まで、ずっと向こうへ──

 

 

 

 

「……オイ、オイ補助員!! 我に返レ!!」

「っ!? ぃ、たあ……っ」

「ヤット戻ったカ! 全く、叩けば直るナンテひと昔前ノテレビカ!! コレダから人間ハ!! ポンコツ!!」

 

 ごいん、と頭を叩かれて、目の前に星が散る。痛む箇所を押さえながら、カメラロボにぷんすかと罵倒された。けどその言葉の中に聞き捨てならないものがあって、わたしは顔を上げる。

 

「戻る、直るって……わたし、何があったんですか?」

 

 そんなわたしの問いに答えを返したのは、インカムから聞こえてきた声だった。

 

『……空中、聞こえるか』

「っ相澤先生……?はい、聞こえてます」

 

 マイク先生と一緒に実況席にいた相澤先生なら、何があったか知っているはず。そう思って彼の言葉を待っていたわたしは、そのしばらく後、絶句することになる。

 

「──わたしが、あの紫の髪の……心操くんを羽根で飛ばした……?」

『ああ、……思い至る節はあるか』

「……、……はい」

 

 相澤先生が言うには、わたしと心操くんが会話した後、わたしが羽根を使って心操くんを乗せ、ゴール直前まで飛ばしたんだそうだ。その間、わたしはぼうっとした表情で棒立ちだった、と。

 ……夢のような朧気な記憶しかないけれど、確かにあの時、わたしに《ゴールまで運べ》と命令した声は、あの人のものだった。でも今の相澤先生の話を聞くに、それは夢なんかじゃなくて現実だった。ということは、

 

「……わたしは、会話の後から意識を失っていました。でもその朧気な意識の中で、心操くんから《ゴールまで運べ》と言われたことを覚えています。たぶん、彼の“個性”……」

『“意識操作”、いや……“洗脳”といったところか』

「恐らくは」

 

 そう答えながら、じわじわとした不安が胸をよぎる。そっと、体操服の胸元を掴んだ。

 

「……あの、相澤先生、」

『なんだ』

「心操くん、失格にはなりません、よね……?」

 

 基本的にわたしが救助および手助けができるのは、競技からリタイアする人のみ──そのルールを破ってしまったことにならないかが心配だった。

 

「彼は、“個性”を使って場を切り抜けただけであって……、わたしを利用したとか、そういうわけではないと、思うんです」

 

 心操くんはこの障害物走が始まった時と、もうひとつ。2週間前にたくさんの人が押し寄せたあの放課後に会っていた。爆豪くんが宣った『敵情視察だろザコ』、『意味ねェからどけモブ共』という言葉に、真っ向から反抗したのが彼だった。

 

『どんなもんかと見に来たが随分偉そうだなァ、ヒーロー科に在籍する奴は皆こんななのかい?』

 

 こういうの見ちゃうと幻滅しちゃうな、と。群がる人波を掻き分けて前に進み出て、彼は言った。

 

『普通科とか他の科って、ヒーロー科から落ちたから入ったって奴が結構いるの知ってた? ──体育祭のリザルトによっちゃ、ヒーロー科編入も検討してくれるんだって』

 

 淡々とした静かな声が、熱を帯びているような気がした。

 

『敵情視察? 少なくとも普通科(おれ)は──調子乗ってっと足元ゴッソリ掬っちゃうぞっつー──宣戦布告しに来たつもり』

 

 

「……心操くん、大丈夫、ですよね?」

 

 ──こんなことで、彼が先へ進めなくなるのは、嫌だ。

 そんな思いを込めて相澤先生に確認すると、インカム越しに深い溜め息を吐かれた。

 

『……おまえが心配しなくても、心操は予選通過だ。奴はルールなど何も破っていない。“個性”を使って障害を突破しただけだ』

「! ですよね……!」

『……それより空中、そんなところで油売ってる場合か?』

「え、……あっ」

 

 我に返る。心操くんの【洗脳】が解けてインカム越しに会話をしてどれだけ経ったのか。少なくとも心操くんの予選突破が確定しているのだから、第一種目は終わっているはず、で。

 

『第二種目はミッドナイトの隣で備える手筈になってたろ。わかったなら早く向かえ!』

「はっはい!」

 

 慌てて翼を広げてスタジアムへ急ぐ。そうだ、まだ第一種目が終わっただけに過ぎない。これから第二種目が、そして、第三種目が待っている。

 

「……まだまだ、気が抜けないな……」

 

 ぽつりと呟いて、眼前に見えてきたスタジアムに急行した。

 

 

20.少女、障害物競走。

 

 


 

 心操くんがどうやってあの順位で障害物競走を突破したのかがわからなかったので、こういった次第になりました。原作とやや離れた展開は楽しいですけど、書くのは難しいです。



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21.少女、舞台裏にて。

 

 雄英体育祭1年ステージ。第二種目は騎馬戦。

 第一種目を突破した上位42名が、それぞれ2人から4人までの騎馬を組む。出場者には障害物競走での順位によってそれぞれポイントが振り当てられ、そのチームの合計ポイントが騎馬のポイントとなる。そのポイント数が表示されたハチマキを奪い合ってポイントを稼ぐ、というものだ。

 例によって“個性”の発動はありだけれど、あくまで騎馬戦ということで、騎馬を狙う悪質な崩し目的の攻撃はレッドカード。つまりは生徒間で激しい攻撃はそれほどなく──競技中わたしの出番はなかった。その分、ミッドナイト先生の傍らでみんなの戦いをじっくり観戦することができたのだ。

 

「……すご……」

 

 ぽつり、呟く。先ほどまでの熱戦に圧倒されて、胸が熱くなっていく。

 みんな、自分の持ち得るすべてを駆使して戦った。峰田くんと梅雨ちゃん、障子くんの騎馬は、大柄な障子くんが2人を複製腕で守り、小柄な2人がもぎもぎや舌で敵を妨害。上鳴くんは電撃で他騎馬を牽制して、八百万さんはその電撃から自分たちを守るべく絶縁シートを創造していた。芦戸さんは【酸】で拘束を溶かしたり移動に用いたり、瀬呂くんはテープで騎手や騎馬全体の移動の補助をしたり──ここでは言い表せないくらい、たくさんの工夫があり、協力があった。その中でも特に印象的だったのが3人いる。

 

 まずは爆豪くん。爆豪くんは終盤まで物間くんに煽られ、彼の“個性”【コピー】や作戦に翻弄されて、一時は0ポイントに陥ってしまったのだけど、そこで終わりはしなかった。

 物間くんだってクラスのみんなと協力して第一種目ではあえて後方に位置し、他のライバルの“個性”や性格を観察して、虎視眈々と“予選突破”に向けて動いていた。──それでも、爆豪くんが目指していたのは“予選突破”じゃなくて、“完膚無きまでの1位”。

 ラスト1分で同じチームである芦戸さんや瀬呂くんの“個性”を駆使して、自分たちのポイントのみならず根こそぎ奪って、0ポイントから第2位へと躍り出てみせた。あれだけ容赦なく“個性”の【爆破】を使うことができたのは、前騎馬に【硬化】の切島くんがいたからだろう。

 

(常に1位を、トップを狙う、その執念……)

 

 そういった意味では、緑谷くんもそうだといえるだろう。第一種目を1位で通過したらしい緑谷くんは、1000万ポイントとかいう重すぎるハチマキを背負うことになった。そのため最序盤からいろんな騎馬に狙われていたのだけど、同じチームのみんなの“個性”を、“力”を駆使してそれらを退けてみせた。

 サポート科の発目さんのさまざまな道具で機動力を強化。麗日さんの【無重力(ゼログラビティ)】で移動を補佐。そして常闇くんの【黒影(ダークシャドウ)】が彼らの死角を含めた全方位を防御する。緑谷くんは司令塔としてそれらを統括し、残り時間1分まで1000万ポイントを保持してみせた。──飯田くんの“奥の手”レシプロバースト”による超加速で、轟くんが奪うまでは。

 制限時間は1分もない。自分は0ポイント。相手は攻防・スピードを兼ね揃えた轟くんチーム。けれど緑谷くんは諦めなかった。迷いなく突っ込んで、あの超パワーで防御する轟くんの左腕の炎(・・・・)を吹き飛ばして、ハチマキを奪還してみせたのだ。それは1000万ポイントでは無かったにしても、彼の気迫があの轟くんの隙を生み、黒影(ダークシャドウ)が別のハチマキを奪うことに成功していた。

 

(爆豪くんも、緑谷くんも、最後の1分間でも決して諦めなかった。……ずっと、全力だった)

 

 ずっと、全力。……そう、わたしは先ほど“みんな、自分の持ち得るすべてを駆使して戦った”と称したけれど、ある意味ではそれに当てはまらないのが轟くんだった。

 他騎馬を牽制、動きを止めることができる上鳴くん。その電撃から自分たちを守り、他にも【創造】でサポートができる八百万さん。そして機動力に他の追随を許さない飯田くん。チーム選びからして、轟くんが真剣にこの戦いに臨んでいたことはわかる。

 それでも彼は左側を、炎を使おうとしなかった。今までの授業でもそうだったけれど、轟くんは戦いにおいて氷ばかり用いて頑なに炎を使わない。その理由はわからない、けれど──騎馬戦の終盤、緑谷くんと相対した時、彼は左腕に炎を宿した。

 

(……不本意、だったのかな)

 

 今こうして騎馬戦が終わり、戦いを振り返っているのか、拳を握る轟くんの顔は歪んでいた。唇を噛み締めて、まるで悔やんでいるかのように。

 

 騎馬戦の結果は、1位轟くんチーム。2位爆豪くんチーム。3位心操くんチーム。4位緑谷くんチーム。ここに所属していた全員が本選である第三種目へと進める。

 それなのに一向に晴れない轟くんの表情に疑問を覚えた。彼を縛っているものはなんだろうかと思いを馳せた。──その答え合わせは、すぐに訪れてしまったのだけれど。

 

 

 

 

 第二種目を終えて、わたしは参加者の怪我を一通り治癒した。大きな怪我は無かったとはいえ、小さな傷はそれぞれにある。これからも体育祭は続くのだからと、今のうちに全員を治してしまいたかったのだ。なのに、

 

「……緑谷くんに轟くん、爆豪くんも……どこに行ったんだろ」

 

 騎馬戦が終わって早々に姿を消したらしい3人が見当たらず、わたしはスタジアム周辺を探し回っていた。そしてようやく、1人で歩いているベージュのツンツン頭──爆豪くんを見つける。

 

「ば、爆豪くん、待って」

「アァ? んだよ」

「小さいとはいえ、怪我してるでしょう? 本選までに治しとこうって思っ、」

「──黙れ」

 

 唐突に手のひらを差し向けられて、思わず口をつぐむ。どうしていきなり彼がそんなことを言ったのか、理由はすぐにわかった。

 

「なぁ……緑谷、おまえ、」

 

 人通りのない通路の外れ。そこから轟くんの声が聞こえた。緑谷くんに何事かを問い掛けるその声色は不穏で、なんだかお取り込み中のようだとわかる。わたしたちがここにいると知られてはまずいと、息を潜めて。そうして。

 

「──オールマイトの隠し子か何かか?」

 

「……ンなわけねぇだろ馬鹿かテメッ、」

「だっ、だめだよ抑えて……!」

 

 くわっと吼えそうになった爆豪くんの腕を抑えて、再びわたしたちは息を潜めた。どうして轟くんがそんなことを訊いたのか、緑谷くんもわからないようで。

 

「違うよそれは……って言ってももし本当にそれ……隠し子だったら違うって言うに決まってるから納得しないと思うけどとりあえずそんなんじゃなくて……。……そもそもその……逆に聞くけど……なんで僕なんかにそんな……」

「……『そんなんじゃなくて』って言い方は、少なくとも何かしら言えない繋がりがある、ってことだな」

 

 緑谷くんは、答えない。躊躇うように口をつぐむ。そんな彼を待たずに、轟くんは続けた。

 

「俺の親父はエンデヴァー。知ってるだろ。

 万年No.2のヒーローだ。おまえがNo.1ヒーローの何かを持ってるなら俺は……尚更勝たなきゃならねぇ」

 

 ──フレイムヒーロー、エンデヴァー。彼が20歳の時には既にNo.2に上り詰めていて、以来25年間、その地位を保持してきた。数多いるヒーローの中でNo.2で居続ける。それは、わたしだったら偉業と讃えるだろう。讃えるべきことだと思う。

 けれど、エンデヴァー自身にとっては、違ったらしい。

 

「親父は極めて上昇志向の強い奴だ。ヒーローとして破竹の勢いで名を馳せたが……それだけに生ける伝説オールマイトが目障りで仕方なかったらしい。

 自分ではオールマイトを超えられねぇ親父は、次の策に出た」

 

「……何の話だよ轟くん……僕に……何を言いたいんだ……」

 

 緑谷くんの声が震える。今は5月。爽やかな晴天に恵まれた。それなのにここには寒々しい空気が蟠っている。

 

「“個性婚”──知ってるよな」

「……!」

 

 “個性婚”。“超常”が起きてから、第二~第三世代間で話題となった社会問題。それを、淡々と轟くんは口にした。

 

「自身の“個性”をより強化して継がせる為だけに配偶者を選び……婚姻を強いる。倫理観の欠落した前時代的発想。

 実績と金だけはある男だ……親父は母の親族を丸め込み、母の“個性”を手に入れた」

 

 淡々としていた、声の調子が変わっていく。

 

「俺をオールマイト以上のヒーローに育て上げることで自身の欲求を満たそうってこった。……鬱陶しい……! そんな屑の道具にはならねぇ」

 

 寒々しく、重々しく、──まるで彼の氷結のようだ。

 

「記憶の中の母はいつも泣いている……」

 

 痛々しいほどに、悲しい、声。

 

 

「『おまえの左側が醜い』と、母は俺に煮え湯を浴びせた」

 

 

 ひゅ、と息を飲む。呼吸の仕方を一瞬忘れた。轟くんの顔の左側を覆う大きな火傷痕。それが、こんな過去からきたものだったなんて、思いもしなかった。

 

「ざっと話したが俺がおまえに突っ掛かんのは見返すためだ。クソ親父の“個性”なんざ無くたって……いや……、

 ──使わず《一番になる》ことで、奴を完全否定する」

 

 轟くんの炎を使わない理由。決意。誓い。……それに複雑な思いを抱いてしまうのは、わたしのせいなんだろうな。ぎゅうと、もやもやを殺すように、胸元を握り締める。

 

「言えねぇならべつにいい。おまえがオールマイトの何であろうと、俺は右だけでおまえの上に行く。……時間とらせたな」

 

 話は終わったらしい。轟くんはいつもの淡々とした調子に戻って、声が遠ざかっていく。歩き去ろうとしているのがわかった。……その背中に、緑谷くんが口を開く。

 

「……僕は、ずうっと助けられてきた。さっきだってそうだ、僕は──誰かに救けられてここにいる」

 

 今まで黙っていた分、思うところもたくさんあるんだろう。確かめるようにゆっくりと、緑谷くんは言葉を紡ぐ。

 

「オールマイト──彼のようになりたい。……そのためには一番になるくらい強くなきゃいけない。君に比べたら些細な動機かもしれない……」

 

 廊下の奥側に隠れているわたしからは、緑谷くんの表情は見えない。それでも彼が顔を上げたのがわかる。

 

「でも僕だって負けらんない。僕を救けてくれた人たちに、応えるためにも……!」

 

 強い決意を、目に宿していると、わかる。

 

「──僕も君に勝つ!!」

 

 

 

 

 轟くんが去っていって、緑谷くんもその場を後にして。ようやくわたしは身体を動かすことができた。何か考え込んでいる爆豪くんの腕を取り、その傷を治癒する。

 

「……とりあえず、はい、治癒はおしまい」

「! ……おー」

 

「……びっくり、したね」

「……つーかこんなとこでセンシティブな話すんなや!!」

「まあそれは、うん……一理あるかも」

「十理あるわクソが!!」

 

(キレてるなあ……)

 

 爆豪くんの言わんとすることはわかる。まあ人気を避けたであろう轟くんが選んだ場所に、わざとではないにしろ来てしまったこちらも悪いという気もするのだけど。

 

「……とりあえず昼ごはん食べなきゃ。わたしも食堂に行かないと」

 

 そこで緑谷くんたちに会えるだろうし、何食わぬ顔で治癒しなきゃな、と思いながら、わたしは歩き出す。

 

「──チッ……オイ羽根、俺の前を歩くなや」

「は、羽根って……身も蓋もない……」

 

 爆豪くんに道を譲りつつ、苦笑する。苦笑も笑顔だ。少しだけ張り詰めていた緊張がほどけた気がして、深く息を吸って、吐いた。

 

(……エンデヴァーさん……)

 

 “媚びない姿勢が格好いい”と通なファンから称されるほど、ファンサービスとかそういった露出が少ないヒーローだ。トーク番組にも出ないから、プライベートはほとんど謎に包まれている。だから──と言ってしまっていいのか、その家庭にこんな事情があるなんて知りもしなかった。

 

(……ホークスはこのこと、知ってたのかな……?)

 

 エンデヴァーさん、と聞いて、一番に脳裏によぎったのは彼だった。その藤黄色の目がきらきら輝いていたのを、今でも思い出す。

 

 

『オールマイト。不動のNo.1──超えようとしている人なんて、あの人以外におらんかった』

 

 幼い頃から一緒にいたけど、その話を聞いたのはごく僅かだったような気がする。それだけホークスは憧れを大事に胸に抱いていた。胸に抱いて、抱き続けて、それが溢れてしまった時、わたしに宝物を見せるようにこっそりと話してくれた。

 

『あの人が、おれを救ってくれた。……明るく照らしてくれたんよ』

 

 だから自分もヒーローを志したのだと、そう話す声が熱を帯びていた。光を纏っていた。まるで、太陽に照らされたかのように。

 

 

(ホークスにとって、エンデヴァーさんは紛れもなくヒーローだった。誰よりも何よりも、眩しい憧れだった)

 

 たとえホークスが轟くん家の過去を知っていようと知っていまいと、それだけは変わらないのかもしれない。いかにエンデヴァーさんがホークスの過去を救っていたからって、轟くんや彼のお母さんにした酷い過去は変わらないように。

 人は綺麗なだけじゃない。そして汚いだけじゃない。

 きっとどちらも持ち合わせていて、どちらも簡単には切り捨てられないんだろう。

 

(……わたし、だって、)

 

 どうしようもなく恨まれたし、疎まれたけど、

 ──それでもいいって、許してくれる人もいた。

 

 きっとそういうものだろうと割り切るには、まだ、傷は痛んで消えてくれない。ぎゅうと拳を握り締めて、やりきれない気持ちに蓋をした。

 

 

21.少女、舞台裏にて。

 

 


 

 裏側の話に触れるの巻。こちらにスポットを当てたくて騎馬戦はダイジェストでお送りしました。

 本当に疑問なんですけどホークスって轟家の事情知ってるんですかね?【目聡く耳聡い】と称されるなら知ってそうではあるんですけどここでは濁してみました。本誌で胃をやられながらもホークス裏事情が明かされるのを楽しみにしてます。



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22.少女、カメラマン。

 

『じゃああんたの体力にも問題はないんだね?』

「はい、リカバリーガール」

『それなら午後も引き続きあんたに1年ステージを任せるよ。でも何かあったら必ず報告すること。いいね』

「はい!」

 

 スマホでの通話を終えて、ふう、と息をつく。ここはスタジアムの中にある一室に簡易ベッドを運び込んだ臨時保健室。第三種目の展開次第では、治癒はしたものの気絶してしまったり、ミッドナイト先生の“個性”で眠ったりする生徒も出てくるだろうとのことで用意された部屋だ。念には念をと備えられた医療キットも確認できたし、リカバリーガールへの報告もできた。これで午後の準備は万端だろう。

 

「……はー……」

 

 体育祭の熱狂や興奮から遠ざかって、こうした静かな部屋でひとりでいると、なんだか知らぬ間に強張っていた身体から力が抜けていく。丸椅子に座って深く長く息を吐くと、脳裏に午前中のさまざまな出来事がよぎった。

 A組とかB組とか、ヒーロー科とかサポート科とか普通科とか、そんな垣根を取っ払ってトップを目指す人たち。“個性”や持ち得るすべてを駆使した戦い。爆豪くんの執念。エンデヴァーさんの過去。轟くんの憎悪。緑谷くんの宣誓──思い返すと心臓が締め付けられるようで、ぎゅっと胸元を握り締める。それでも。

 

「──よし、」

 

 わたしがやるべきことは変わらない。特別治癒補助員として、ひとりのヒーローを目指す人間として、今できることをやるだけだと、気合いを入れて拳を握った。

 そんな時、ノックの音が響いて。

 

「リカバリーガール! 少々よろしいです、か……?」

「…………、……え……?」

 

 忙しなくドアを開けて入ってきたその人は、わたしを見て大きく目を見開いた。……ああ、驚かせてしまったのかと、一拍遅れて気づく。

 

「……あの、すみません、リカバリーガールは2年か3年ステージの方へ詰めているんです。この1年ステージはわたしが補助員として担当していて……」

「あ、ああ! そう、そうだったね! いやはや失礼した!」

「いえ、そんな。……あの、もしリカバリーガールに御用でしたら連絡しましょうか?」

「いやそれには及ばないよ! ごめん! 失礼したね!」

 

「あ……」

 

 律儀に頭を下げて、その人は扉の向こうへ消えていった。止める間もないほどあっという間の会話だったけれど、その姿は妙に目に焼きついている。

 

「……オールマイトに、似てる?」

 

 そう感じた自分に疑問を覚えた。どうしてそんなことを思ったのだろう。確かに今の男性は金髪碧眼で、前髪を2房伸ばした髪型も、声だってどこか似ていた。それでもあのNo.1ヒーローとはあまりに体格が違う。筋骨隆々としたオールマイトとは裏腹に、がりがりに痩せて、頬の肉も削げ落ちているほどだった。オールマイトとは、似ても似つかないくらいに──

 

「っと、いけない」

 

 ぼんやり考え込んでいる間にもうこんな時間だ。体育祭午後の部──レクリエーションを経て、最終種目であり本戦でもある、第三種目が待ち構えている。遅れてはいけないと、慌てて部屋を飛び出した。

 

 

 

 

『最終種目は進出4チーム、総勢16名からなるトーナメント形式!! ──1対1のガチバトルだ!!』

 

 マイク先生によって明かされた最終種目の内容に、みんながざわめく。それは例年見ていた憧れの舞台に立つのだという感慨や、期待、不安、全部が込められていた。そんな生徒たちを見渡して、ミッドナイトが微笑む。

 

「それじゃあ組み合わせ決めのくじ引きしちゃうわよ。組が決まったらレクリエーションを挟んで開始になります!

 んじゃ1位チームから順番に……」

 

「──あの……! すいません」

 

 早速と言わんばかりに進んでいく展開。“待った”を掛けたのは尾白くんだった。彼は思い詰めた表情のまま、ゆっくりと口を開いて。

 

「俺、辞退します」

 

 そう、告げた。わたしは驚きに目を見開いてしまう。

 

「え……!?」

「尾白くん、なんで!?」

「せっかくプロに見てもらえる場なのに!!」

 

 みんなも驚きに声を大きくして、どうして、そんな、勿体ないよと尾白くんを止めようとするけれど、彼は揺らがない。

 

「騎馬戦の記憶……終盤ギリギリまでほぼボンヤリとしかないんだ。多分奴の“個性”で……」

 

(奴、って……)

 

 尾白くんが騎馬戦で組んでいたのは、庄田くん、青山くん、そして──心操くん。その意識云々の話からして、彼は心操くんの【洗脳】にかかっていたんだとわかる。

 そう思って心操くんに視線を向けると、ふいっと反らされてしまった。その顔はいつもの無表情だけど、どこか固く強張って見えたのは、わたしの勘違いだったのかな。

 

「チャンスの場だってのはわかってる。それをフイにするのが愚かなことだってのも……!」

「尾白くん……」

「でもさ! みんなが力を出し合い争ってきた座なんだ。こんな……こんなわけわかんないままそこに並ぶなんて、俺にはできない」

 

 心操くんは、わかってるのかな。

 尾白くんは、あなたを責めてるわけじゃないんだって。

 

「気にしすぎだよ! 本戦でちゃんと成果を出せばいいんだよ!」

「そんなん言ったら私なんて全然だよ!?」

 

「違うんだ……! 俺のプライドの話さ……俺が嫌なんだ」

 

 尾白くんが辞退するのは本人の言う通り、彼の気持ちの問題であって、“個性”を使って勝利を目指した心操くんを責めてるわけじゃない。彼が“嫌だ”と言っているのは、“何もできなかった自分”に対してであって、“何もさせてくれなかった心操くん”ではない。

 

「僕も同様の理由から棄権したい! 実力如何以前に……何もしてない(・・・・・・)者が上がるのは、この体育祭の趣旨に相反するのではないだろうか!」

 

 庄田くんだってそうだ。きっと悔しさとか釈然としない気持ちとか、そういったものもあるんだろう。でもそれで誰かを責めるんじゃなくて、自分自身を振り返って、彼らは辞退を選んだんだ。

 

「なんだこいつら……!! 男らしいな!!」

 

 くうっ、と感極まる切島くんの気持ちもわかる。……でもこの案件をどう捌くのかは、主審であるミッドナイト先生に掛かっている。彼女はシリアスな眼差しで鞭を掲げて──

 

「そういう青臭い話はさァ……、──好み!!!」

 

 パァンと鞭を振り抜いたミッドナイト先生は、実に、心の底から晴れやかな顔をして「庄田、尾白の棄権を認めます!」と宣言した。

 そんな時、スッ……と尾白くんに近づいて、その肩を叩く人物がいた。青山くんだ。

 

「──ボクは、やるからね?」

 

 いつものキメ顔でそう言って、きらめいてる青山くんを見ていると、なんだかわたしはほっとして笑ってしまった。

 自分の心に従って退く人がいたっていいし、自分の心に従って突き進む人がいたっていい。ましてやこんな体育祭という1年で1回しかない場なのだから、自分に後悔のないようにしてほしい。

 

(心操くんも、そうだったらいいな)

 

 視線は絡まない。言葉を交わせるほど近い距離にない。それでも彼の頑張りを見てると、応援したくなる気持ちが沸き上がってしまう。どうか悔いなく進めるようにと、祈るように目を伏せた。

 

 

 

 

「というわけで、鉄哲と塩崎が繰り上がって16名!! 組はこうなりました!!」

 

 あの後、棄権した尾白くんと庄田くんの代わりに、誰がトーナメントに上がるのが相応しいか話し合われた結果、拳藤さんや他のB組の面々の後押しを受けて、鉄哲くんと塩崎さんが選ばれた。方やクラスメイトの心意気に号泣し、方や深く頭を下げていた2人を加えて、トーナメントが組まれる。

 第一試合は、緑谷くん対心操くん。

 第二試合は、轟くん対瀬呂くん。

 第三試合は、塩崎さん対上鳴くん。

 第四試合は、飯田くん対発目さん。

 第五試合は、芦戸さん対青山くん。

 第六試合は、常闇くん対八百万さん。

 第七試合は、鉄哲くん対切島くん。

 第八試合は、麗日さん対爆豪くん。

 ……いろいろと思うところがあるのか、参加者のみんなはそれぞれの表情で組分け結果を見つめていた。けれどそれも一旦、マイク先生の明るい声に遮られる。

 

『よーしそれじゃあトーナメントはひとまず置いといてイッツ束の間! 楽しく遊ぶぞレクリエーション!!』

 

 そう、本戦の前にレクリエーションが始まるのだ。トーナメント参加者はレクリエーションに出るも出ないも自由らしく、スタジアムの外に歩いていく人が何人かいる。わたしはというと、A組のみんなが集まっているところに戻った。訊きたいことがあったのだ。

 

「……えっと、ところでずっと気になってたんだけど……

 その服、可愛いね。チアガールっていうの? どうしたの?」

 

 お昼休憩が終わってスタジアムにやって来たら、A組の女の子たちが揃ってチアガールの衣装を着ていた。そういえば八百万さんがお昼時に時間あるかわたしに尋ねてて──その時わたしは臨時保健室に向かうところだったから断ったんだけど──あれはこの話だったんだろうかと今になって思い至る。

 そんなことを思い出しながら尋ねた途端、八百万さんがガクッと膝から崩れ落ちた。……崩れ落ちた!?

 

「……ッ」

「え、えっ!? どうしたの八百万さん!?」

愛依(あい)ちゃん……それまだ古傷にもなってないんよ……えぐるのはやめたって」

「なんの話!?」

 

 麗日さんが言うには、この衣装は八百万さんが【創造】で創ったのだそうだ。『午後から女子はチアガールの衣装を着て応援合戦をしないといけない』と峰田くんと上鳴くんから吹き込まれて。

 

「しかも『相澤先生からの言伝てだからな』って駄目押ししたらしいの」

「そ、か……そんなことが、あったんだね……」

 

 淡々としたポーカーフェイスな梅雨ちゃんも、どこか怒ってる気がする。ぷんすかしてたり諦めてたり落ち込んでたりするみんなを前に、わたしはそっか、と繰り返した。

 

「でもみんな可愛いよ、すっごく似合ってる」

「えー……でも恥ずかし、……待って空中(そらなか)、何持ってんの」

「デジカメ」

「すっごいいい笑顔! てかちょ、待って待って撮るの!?」

 

「……だめ?」

 

 こんなこともあろうかと、わたしは先日ホークスに貰ったデジカメを持ってきていた。デジカメを両手で抱えて、首を傾げる。

 

「思い出に残しときたくって、……だめ、かな?」

 

 耳郎さんに訊くと、彼女はうっと声を詰まらせた。彼女の頬や耳が赤く染まっていく。

 

「くっ……そんな目で見ないでよ断りづらいな……!」

「まぁまぁ耳郎ちゃん! これも思い出! いい思い出だって!」

「峰田さんと上鳴さんに騙されたという、ね……」

「もーっヤオモモってば! 切り換えてこーよ!」

 

 テンションが上がっている透ちゃんと下がりきっている八百万さんの落差が激しい。我ながらこんな提案をして大丈夫だろうかと見守っていると、芦戸さんがニカッと笑ってこう言った。

 

「後からこの写真を見たらさ、『こんなこともあったね』って笑って思い出せるって!」

 

 その言葉がすとんと心に落ちてきた。心の真ん中で、じんわりとあたたかな熱を持つ。

 

「けろ、愛依ちゃん嬉しそうね」

「あ、梅雨ちゃん……うん、嬉しいよ」

 

 その熱は頬にのぼって、思わずわたしは微笑んでいた。

 

「さっき芦戸さんが言ってた『こんなこともあったねって笑って思い出せる』って言葉が、嬉しくて、……楽しみだなって」

 

 いろんなことがあったし、これからも起きるのだろう。でもそんな体育祭の悲喜交々すら、いつか笑って思い出にしてしまえるのなら、どんなに素敵だろうか。

 

「そうね、私もよ」

 

 にこ、と微笑んで梅雨ちゃんが頷いてくれて。わたしはもっと嬉しくなって笑った。

 

 

22.少女、カメラマン。

 

 


 

 展開とタイトルに悩んで悩んで難産でした。

 原作で初めて棄権の回を見た時、尾白くんと庄田くん格好いいなって思ったんですけど、後になって読み返すと青山くんもいいな好きだなって思いました。周りがどんな空気だろうと自分の思いのままに突き進める人って、なんだか見てて嬉しいしほっとします。



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23.少女、普通科の星を見る。

 

「オッケーほぼもう完成」

 

 レクリエーションを終え、スタジアムの中央では極太パイプから流し込まれるセメントをセメントス先生が“個性”で操り、巨大なステージを造り上げていた。雄英のマークが刻まれ、四方には松明まで焚かれている。

 

『サンキューセメントス!!

 ──ヘイガイズアァユゥレディ!!?』

 

 この時を待ちに待っていたのだろう、マイク先生の煽りに、観客が一気に沸き上がる。

 

『色々やってきましたが!! 結局これだぜガチンコ勝負!! 頼れるのは己のみ!! ヒーローでなくともそんな場面ばっかりだ! わかるよな!!

 心・技・体に知恵知識!! 総動員して駆け上がれ!!』

 

 ステージの両端から、2人の生徒が進み出る。とうとう始まる最終種目──その第一回戦の対戦者だ。

 

『一回戦!! ──成績の割になんだその顔! ヒーロー科緑谷出久!! (バーサス)!! ごめんまだ目立った活躍なし! 普通科心操人使!!』

 

 緑谷くんは強張った笑顔を浮かべていて、対する心操くんはマイク先生の失礼な紹介に微塵も表情を揺らがせない、いつもの無表情だった。ステージの中央で、2人が向かい合う。

 

『ルールは簡単! 相手を場外に落とすか行動不能にする! あとは「まいった」とか言わせても勝ちのガチンコだ!!

 ケガ上等!! こちとら次代の治癒ヒーローの卵、空中(そらなか)リスナーが待機してっから! 道徳倫理は一旦捨ておけ!!』

 

「……あまり煽らないでほしいけど……」

 

 思わずぽつりと呟いた声を、隣の彼は聞いていた。

 

「心配かい?」

「セメントス先生……」

 

 セメントス先生は“個性”で造り上げた椅子をわたしに勧めながら、柔らかく笑っている。その顔や声が優しくて、わたしは促されるまま本心を吐露する。

 

「……はい、正直なところ。──みんな、この体育祭に強い思いを持ってる。それがぶつかり合って、……酷い怪我に繋がらないといいなって、思うんです」

 

 言っている間に気づく。……これはわたしの弱音だと。

 セメントス先生の椅子に腰を下ろして、ぱん、と頬を両手で叩いて、わたしは前を見た。

 

「でも、ううん、そのためにわたしがいるんですよね」

「うん。それに我々もいるしね」

 

 セメントス先生の穏やかながら揺るぎない声に、マイク先生の賑やかな説明が続く。

 

『だがまぁもちろん命に関わるよーなのはクソだぜ!! アウト!! ヒーローは(ヴィラン)捕まえる為(・・・・・)に拳を振るうのだ!!』

 

「……“まいった”、か……わかるかい緑谷出久。これは心の強さを問われる戦い」

 

 マイク先生の実況や観客席からの声援に掻き消されてしまいそうだけれど、なんとか聞き取ることができたのは心操くんの声だった。【翼】は飛ばしてないけれど、この距離なら振動を拾って小さな話し声でもわたしには届く。

 

「強く思う“将来(ビジョン)”があるなら、形振り構ってちゃ駄目なんだ……」

 

 なにか、覚悟を決めたかのような、彼の声が。

 

『そんじゃ早速始めよか!!』

 

「──あの猿(・・・)はプライドがどうとか言ってたけど、」

 

 マイク先生の明るい声の裏側で、暗く、低く、

 

『レディイイイイイイイーーSTART(スタート)!!』

 

「チャンスを溝に捨てるなんて馬鹿だと思わないか?」

 

 吐き捨てるような──問い掛けが(・・・・・)

 

「……ッ何てこと言うんだ!!!」

 

 それに咄嗟に応えてしまう(・・・・・・)、緑谷くんの絶叫が。

 

 

「──俺の、勝ちだ」

 

 

 ……心操くんの顔には、してやったりというような笑みは浮かんでいない。そんな気持ちではないんだろう。ただただ、鋭い眼差しで目の前を見据えている。

 

『オイオイどうした大事な初戦だ盛り上げてくれよ!?』

 

 心操くんの“個性”【洗脳】は、発動方法は恐らく問い掛け(・・・・)応え(・・)。【洗脳】する側とされる側でそれが為された時、【洗脳】は完了する。

 

『緑谷開始早々──完全停止!? アホ面でビクともしねぇ! 心操の“個性”か!!?

 全っっっっ然目立ってなかったけど彼、ひょっとしてやべえ奴なのか!!!』

 

 発動に必要なのは会話だけ。ネタが割れてしまえば対応策も取れるけれど、やりようは幾らでも考えられるし、何より最強の初見殺し(・・・・)だ。わたしから見たら、とても応用の効く強“個性”だと思う。けれど──

 

「おまえは……恵まれてていいよなァ緑谷出久」

 

 心操くんの呟きは、心の底から緑谷くんを羨んでいた。薄暗い所から眩しい場所を見上げるような、そんな声色。

 それは、わたしにも、覚えがあった(・・・・・・・・・・・・)

 

「《振り向いてそのまま、場外まで歩いていけ》」

「…………」

『ああーー! 緑谷! ジュージュン!!』

 

 ぼうっとした表情のまま、緑谷くんは言われるままに心操くんに背を向けて歩いていく。【洗脳】を掛けられた時は“命令”以外の感覚がひどく遠くなってしまうから、緑谷くんも自分の意思で身体を動かすことができないんだろう。ざわざわという観客の声や、場外まで近づいていく自分の視界なんて、多分ほとんどわかってはいない。

 

「わかんないだろうけど……」

 

 遠ざかっていく背中に向けて、彼はまた呟いた。

 

「こんな“個性”でも夢見ちゃうんだよ。

 ──さァ、負けてくれ」

 

 

 あと一歩。あと一歩を踏み出せば、緑谷くんは場外判定となって心操くんの勝利が決まっていただろう。

 ──緑谷くんの左手の指が、バキ、と無理やり弾かれた(・・・・・・・・)かのように動かなければ。

 

「え……!?」

 

 まさか、と目を疑うけれど、この顔に吹き付けてくる風圧にわからされる。彼の弾いた指がぼろぼろになっているのを見て、わからされる。緑谷くんの超パワー。それが指先に宿ったのだと。

 

「っ……!! ハァ……ハァ……!!」

 

 荒い呼吸をしながら、ゆっくりと心操くんを振り返る。やっぱり──【洗脳】が解けている!

 

『これは──緑谷!! とどまったああ!!?』

「うそ……」

 

 わたしが【洗脳】を受けた時は、カメラロボがわたしの頭を打ったことで解けたから、恐らく解除方法は衝撃だろう。それは予想できたけど、この一対一の状況下、緑谷くんの【洗脳】を解くことはできないと思っていた。

 

「なんで……身体の自由は効かないハズだ、何したんだ!」

 

 それは心操くんも同じのようだ。そんなはずはないと見開く目は、確かに自由を取り戻した緑谷くんを見ている。

 

「……無理やり超パワーを暴発させて、解いた……?」

 

 緑谷くんの指の状態を見るに、そうとしか考えられない。でもわたし自身【洗脳】に掛かったことがあり、その強力さを知っているからこそ、こんなことができるだなんて信じられなかった。別の誰かの介入(・・・・・・・)も無しに、自力で解くなんて……。

 

「……なんとか言えよ」

 

 でも、信じられなくても、状況は止まらない。心操くんは再び緑谷くんを【洗脳】に掛けようと口を開く。

 もうネタはわかっているのだろう、緑谷くんは口をつぐむ。つぐんだまま、じりじりと心操くんに近寄っていく。

 

「~~~……!

 指動かすだけでそんな威力か、羨ましいよ!!」

 

 緑谷くんを煽って口を開かせる為──その為だけの叫びではないのだと、わかった。“羨ましい”というその言葉が、嘘だとは到底思えなかった。

 

 

「俺はこんな“個性”のおかげでスタートから遅れちまったよ。恵まれた人間にはわかんないだろ、」

 

 『いいなあ』と、泣きじゃくる声が、遠く、聞こえる。

 

「……誂え向きの“個性”に生まれて!! 望む場所に行ける奴らにはよ!!!」

 

 『だれかをたすけられるような“こせい”だったら』って、

 ずっと、ずっと、ずっと──思っていた。

 

 

「なんか言えよ!」

 

 2人が組み合って、心操くんが緑谷くんの左頬を殴り飛ばした。緑谷くんはそれに怯むことなくキッと顔を上げ、力任せに心操くんを押し出そうとする。

 

「……ぁああ!!」

「押し出す気か? フザけたことを……! おまえが出ろよ!!」

 

 避けて、顔を掴み、力任せに押し出そうともがく。

 そんな攻防に終わりを告げたのは緑谷くんだった。

 

「んぬぁあああああ!!!」

 

 心操くんの右腕と胸倉を掴んで、渾身の一本背負い。それで彼を場外に投げ飛ばした緑谷くんは、指先をぼろぼろにしながらも、左頬に青あざを作りながらも、鼻血を出しながらも、まだ呆然とした顔をしながらも──

 

「心操くん場外!! ──緑谷くん、二回戦進出!!」

 

 勝者として、ステージに立っていた。

 

 

 

 

『IYAHA!! 初戦にしちゃ地味な戦いだったが!! とりあえず両者の健闘を称えてクラップユアハンズ!!』

 

 第一回戦が決着し、観客席からの拍手を浴びながら、2人はステージ中央で一礼した。勝者と敗者とはわからない、どちらも何か思い詰めた顔をしながら、小さな声で会話を交わす。

 

「……心操くんは、なんでヒーローに……?」

 

「──憧れちまったもんは仕方ないだろ」

 

 その答えに、同じなんだな、と気づいた。きっと緑谷くんも心操くんもわたしも、根っこは同じ、憧れから始まったのだ。

 

『2人ともお疲れさんってことで! ここで空中リスナーによる治癒タイムだ!』

 

 わたしは立ち上がって、揃ってステージから降りてくる2人を出迎える。2人を見比べて、とりあえず先に重傷な方からと、緑谷くんに向き直る。

 

「まず緑谷くん、手、貸して」

「う、ん……ありがとう、空中さん」

 

 頬に触れて、鼻に触れて、手に触れて、それぞれに治癒を施していく。そんな最中、観客席から声が降ってきた。

 

「かっこよかったぞ、心操!!」

 

 顔を上げると、確か普通科の生徒だっただろうか、どこかで見た男子生徒と女子生徒が揃って心操くんに向かって手を振っていた。その後ろには、たくさんの笑顔が浮かんでいる。

 

「正直ビビったよ!」

「俺ら普通科の星だな!」

「障害物走1位の奴といい勝負してんじゃねーよ!!」

 

 降り注ぐ声は、生徒のそれだけじゃない。

 

「この“個性”対(ヴィラン)に関しちゃかなり有用だぜ、欲しいな……!」

「雄英もバカだなー、あれ普通科か」

「まァ受験人数がハンパないから仕方ない部分はあるけどな」

「戦闘経験の差はなー……どうしても出ちまうもんな、勿体ねぇ」

 

 この戦いの一部始終を見届けたプロヒーローたちからの称賛が、降り注ぐ。

 

「聞こえるか心操。おまえ、すげェぞ」

 

 心操くんはたくさんの声を受け止めて、瞳を震わせていた。緑谷くんの治癒を終えたわたしは、その背に手を添える。投げ飛ばされた時の痛みを消したいと、

 

「……心操くん、」

 

 少しでも伝えられたらいいなと、口を開く。

 

「……あなたの“個性”は(ヴィラン)を拘束する時にもだけど、“個性”の暴発を意図せず起こしてしまった人にも使えるよね」

 

 目を伏せる。脳裏によぎるのは、いつかの光景。

 

「その人が誰かを傷つける前に、止めてあげられる。傷つくことなく、救けてあげられる。……素敵な“個性”だね」

 

 卑下することなんか、少しもない。こんなにたくさんの称賛を受ける“個性”なのだと、わかってほしい。

 そんな気持ちが伝わったのかどうなのか、心操くんはゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「……結果によっちゃヒーロー科編入も検討してもらえる。覚えとけよ? 今回はダメだったとしても……絶対諦めない。ヒーロー科入って資格取得して……絶対おまえらより立派にヒーローやってやる」

 

「──うん、」

 

 緑谷くんが応えて(・・・)、フッと意識を飛ばす。【洗脳】に掛かったのだろう彼を見て、心操くんはため息をついた。

 

「……フツー構えるんだけどな、俺と話す人は……」

 

 その溜め息がどこか嬉しそうだったのは、きっとわたしの勘違いじゃないんだろう。緑谷くんの【洗脳】を解いて、語りかける心操くんの横顔は、笑っていた。

 

「そんなんじゃすぐ足元を掬われるぞ?

 せめて……みっともない負け方はしないでくれ」

 

「っうん、──」

 

 ……緑谷くんの2度目の頷きに、心操くんはどこか遠い目をしてわたしを見た。

 

「……お人好しだな、緑谷って。あんたもだけど」

「わたしも?」

「障害物走の時、あんたのこと【洗脳】したの覚えてるだろ」

「覚えてる、けど……それはルールを破ったわけじゃないし、今関係ないよね?」

 

 普通科の彼の言葉を借りるようだけど、わたしは星を見た。どんな“個性”だって、どんな境遇だって諦めずに進む、星を見たのだ。 

 

「あなたに負けないよう、わたしも頑張るね」

「……ヒーロー科って奴は、どいつもこいつも」

 

 皮肉げにだけど、笑ってくれたのが嬉しくて、わたしも笑みを溢した。

 

 

23.少女、普通科の星を見る。

 

 


 

 前回と違って展開もタイトルもすんなり決まった安産でした。

 どうしてこんなに心操くんと絡ませたいかというと、作者の好みと趣味と、後々の展開に関わってくるからです。



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24.少女、自身の泥を見る。

 

 緑谷くんと心操くんの第1試合が終わり、息つく間もなく次の試合がやってくる。プレゼントマイクが明るく煽り立てるアナウンスとともに、2人がステージに進み出た。

 

『お待たせしました!! 続きましては~こいつらだ!!

 優秀! 優秀なのに拭いきれぬその地味さは何だ!! ヒーロー科瀬呂範太!! (バーサス)!! 2位・1位と強すぎるよ君! 同じくヒーロー科轟焦凍!!』

 

 ひでぇ、と苦笑をこぼす瀬呂くんと、彼の表情は対照的だった。──轟くんは、ひどく冷たい、凍りついたような眼差しでステージに立っている。

 

(……なにか、あったのかな)

 

 体育祭が始まってからというもの、轟くんはどこか思い詰めたような表情ばかりだった。父親であるエンデヴァーさんとの確執がそうさせているのだと昼に知ったけれど、今は、午前中のそれよりずっと強張っている、ような……。

 

START(スタート)!!!』

 

「んー……まァー……勝てる気はしねーんだけど……」

 

 ぐぐっと伸びをしながら空を仰ぐ瀬呂くんは、ハァ、とため息でもつきそうな顔だった。今まで見てきた轟くんの強“個性”。戦闘センス。会場の雰囲気や予想──瀬呂くんは聡い人だから、そうした空気を嫌でも感じ取っているんだろう。

 けれど、空から引き戻した眼差しは、鋭く轟くんを見据えていた。瞬時に肘部分から彼の“個性”であるテープを射出し、轟くんに巻き付けて。

 

「つって負ける気もねーーー!!!」

 

 力強く笑う、瀬呂くんの行動は速かった。きっとこうすると予め決めていたんだろう。テープの切り離し、巻き取り、そして腕の振り。そうして生まれた遠心力で、轟くんの身体を場外へと運ぶ。

 

『場外狙いの早技(ふいうち)!! この選択はコレ最善じゃねぇか!? 正直やっちまえ瀬呂ーー!!!』

 

 時間を掛ければ轟くんの氷結でテープが凍らされてしまう。マイク先生の言う通り、きっとこれが瀬呂くんの最善。最も太い勝ち筋。──それを、

 

 

「悪ィな」

 

 

 その、たった一言で、轟くんは断つ。

 ほんの瞬きの間に、身体を包み込む冷気。それはこの広いスタジアムを瞬時に駆け巡って──

 

「は……」

 

 氷の世界、だなんて、あまりに陳腐な表現だ。けれどそんな言葉が頭に思い浮かんだ。轟くんを中心に生成された、スタジアムの半分を埋め尽くすような──巨大な氷結を目の当たりにして。

 

「…………や…………やりすぎだろ…………」

 

 その氷山のふもとで、瀬呂くんがぽつりと呟く。あまりに強い冷気を直で浴びて、舌が震えていた。

 

「…………瀬呂くん……動ける?」

「動けるハズないでしょ……痛ぇえ……」

「うん……そうよね……瀬呂くん行動不能! 轟くんの勝利!」

 

 氷結は瀬呂くんだけに留まらず、2人の中間に位置していたミッドナイト先生にも及んでいた。彼女は身体の右側を凍らされながらも、第2試合の勝敗を告げた。

 

「ど……どんまい……」

「どんまーい……」

 

 それと同時に会場から沸き起こったどんまいコール。あまりにも強“個性”だった。強すぎた。仕方なかったよ、しょうがないよと、瀬呂くんへの慰めと轟くんへの称賛がそうさせたのかもしれない。 

 

「すまねぇ……やりすぎた」

 

 瀬呂くんの元へ歩み寄って、左手の熱で氷結を溶かしていく。その間にも、会場にいる人のほとんどを巻き込んだどんまいコールが、どんどん勢いを増していく。

 

 ──どーんまい! どーんまい!!

 

 会場のあちこちから押し寄せる声が、「すごい“個性”だね」と、「さすが強い“個性”を持っているね」と、そんな風に言っているように聞こえる。だから、だろうか。

 

「──イラついてた」

 

 ぽつりと呟き、俯く。そんな轟くんの姿が、悲しかった。

 

 

 

 

 

「ま、待って、轟くん……!」

 

 巨大な氷結が溶かされ、瀬呂くんの傷を治癒したわたしは、轟くんを追って控え室に続く通路を走っていた。ステージは今びしょ濡れで乾燥させる必要があるため、まだ猶予はある。それまでに治癒しておきたいと、わたしは紅白のツートンカラーを追った。

 

「……なんだ」

 

 氷を溶かしてすぐにステージを去った轟くんは、ここに来るまでわたしに見向きもしなかった。きっと今は、誰にも話しかけられたくないんだろう。振り返った目は冷えきっていたけれど、わたしは意を決して口を開く。

 

「治癒、しておこう? きっとまだ、身体冷えてるでしょう」

 

 そう、入学して間もない時に行った戦闘訓練での時にもあったように、轟くんの身体は小刻みに震えていた。きっとあまりに強大な冷却の力に、身体が耐えきれないのだろう。今は身体に降りた霜も消えているけれど、低体温症になってしまえば臓器にも影響が出る。そうなる前に、と思ったけれど、轟くんは首を横に振る。

 

「いらねぇ。……、……」

「轟くん……?」

 

 ただ断るだけではない。拒絶するだけでもない。その俯きがちな目に、さまざまな感情が揺らめいた。きっとしつこいわたしに対する苛立ちもあるだろう。でも、それだけじゃない。

 

「──なあ、」

 

 暫くの沈黙を経て、轟くんのオッドアイがわたしを射抜いた。

 

「……おまえも、俺と同じなのか?」

「……同じって、何が……」

 

「おまえも“個性”2つ持ちだよな。【翼】と【治癒】」

 

 轟くんの氷のような低い声に、苛立ちと、ほの暗い期待と、同情が、ぐちゃぐちゃに混ぜられていく。

 

「……【治癒】だけでも相当稀少な“個性”だ。それに加えて【翼】まで持ってるなんて、珍しいどころの話じゃないだろ。発動型と異形型の“個性”、2つ揃ってなんて、……

 その2つが揃うように、揃って受け継ぐように、おまえ、親に強いられた(・・・・・・・)んじゃないのか」

 

 ひゅ、と喉が鳴る。それを図星と解釈したのか、轟くんは続けた。

 

「……俺には兄姉がいる。みんな、俺のように【炎熱】と【氷結】を併せ持つよう、親父につくられた。……クズの道具となるべくして、育てられた」

 

 きっと轟くんは、エンデヴァーさんを、自分の父親を憎悪している。お母さんの人生を、自分たちの人生を、悉く踏みにじって望まぬ道を強いてきた父親を、憎んでいる。

 おまえもそうなのかと、轟くんは問いかけた。おまえも同じ憎しみを持って生まれてきたんじゃないのかと、轟くんはわたしを見た。

 

(同じだと、答えたなら……轟くんはどう思うんだろう?)

 

 その気持ちはわかると、寄り添ってくれるのかな。奇妙な仲間意識でも芽生えるのかな。……傷を舐め合うなんて轟くんがするとは思えないけど、それでも、何か、近しいものが欲しかったのかもしれない。側にいるわけではないけど、独りじゃないと思えるような、そんなものが。

 

空中(そらなか)、おまえは、」

 

「……わたし!」

 

 ──でも、わたしは違う。

 わたしは、轟くんと同じじゃない。

 

 

「……わたし、親、いなくて。だからきょうだいのことも、わからないけど……多分いないと、思う」

 

 

 轟くんがはっとしたように目を見開いた。嘘をついた(・・・・・)罪悪感で喉が渇く。

 

「親が、それを望んでたかどうかも、わたしにはわからない」

 

 またもうひとつ()を重ねて、わたしはわらった。

 

「……ごめん、次の試合始まるから、わたし戻るね」

「、待……!」

 

 待て、と言いたかったんだろうか。それでも聞こえないふりをして、わたしは轟くんに背を向けて走り出した。

 は、は、と呼吸が荒くなる。苦しい。心臓が痛い──でもそれは、走っているからじゃない。

 

「……ああ、わたし、嫌だ……」

 

 轟くんの話を聞いてから、ずっと思っていることがある。それはあまりに身勝手で、底意地が悪くて、汚くて、まるで泥のように心に纏わりついてくる。その泥に足を取られてしまったかのように、わたしは足を止め、その場で踞ってしまった。

 

「……ぅ……」

 

 口許を両手で押さえる。そうでもしなければ、嗚咽と一緒にその泥が溢れてしまいそうだった。

 口にしてはいけない。言ってはいけない。わかっているのに気持ちが塞き止められない。ぐるぐると蟠るその感情が、あまりに苦しくて──とうとうわたしは唇を震わせた。今ここには誰もいないからと、誰も聞いてはいないからと、幾つも言い訳を並び立てて、そうして、溢れた。

 

「……ずるい……」

 

 口にした瞬間、罪悪感で胸がいっぱいになる。

 轟くんは望んであんな状況にいるわけじゃない。彼が父親を憎んでいるのはお母さんを大切に思っているからで、そのお母さんは心身ともにひどく傷ついてしまっている。そんな家庭環境の中で生きてきた轟くんもまた、どこまでも傷つき、苦しんできた。決して羨むようなことじゃない。とんだ御門違いだ。

 

(“ずるい”、だなんて、馬鹿げてる)

 

 もしそんなことを轟くんに言ってしまったら、彼がどんなに怒るか、悲しむか──想像に難くない。わかっている。わかって、いる。……わかっている!

 

「……っ、でも、それでも……」

 

 少なくとも轟くんは、親に望まれて生まれてきて、そして生きている。この先の将来を期待されている。親に望まれた“個性”に生まれて、生きていてほしいと、願われている(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

「……いい、なあ……」

 

 ぎゅっと閉じた目の縁に、涙が滲んだ。

 

 

 

 

 あれから何食わぬ顔でステージに戻ったわたしは、続く対戦を観戦し、治癒して、の繰り返しだった。

 上鳴くん対塩崎さんは、塩崎さんの圧勝に終わった。上鳴くんの電撃は対人には効果抜群だけど、塩崎さんの“個性”【ツル】は植物で耐電性があり、あっという間に上鳴くんを捕らえてしまった。

 

「上鳴くん、大丈夫……?」

「ウェイ……」

「……うん、擦り傷、治しとくからね」

 

 いやにか細いウェイを聞いたことも記憶に新しい。

 それに続いたのは飯田くん対発目さん。発目さんはサポート科のため自分で作ったアイテムを装備することが許されてるのだけれど、何故か飯田くんまでもがアイテムフル装備で現れた。飯田くん曰く、発目さんが「ここまできた以上対等だから、対等の条件で戦いたい」とアイテムを渡してきたと、そのスポーツマンシップに心打たれたのだということで、そのままの対戦が許可された。

 ……蓋を開けてみれば、発目さんによるアイテム解説付きの鬼ごっこが始まったのだけれど。恐らくは会場に来ているサポート会社への宣伝のためだろう。発目さんの貪欲なまでの売り込み根性の凄まじさが感じられた。

 

「ふー……すべて余すことなく見て頂けました。もう思い残すことはありません!!」

「騙したなあああああ!!!」

 

 ……そんな飯田くんの悲痛な叫びもあったけれど、2人に怪我はなく、すぐに次の対戦が行われた。次々に繰り広げられる戦い。それをわたしは、拳を握り締めながら見つめていた。

 

(……すごい、なあ……)

 

 芦戸さんも青山くんも、八百万さんも常闇くんも、自分の“個性”を駆使して、自分のできる精いっぱいで相手に立ち向かっている。今だってそうだ。【硬化】と【スティール】。ともに硬化させた拳をぶつけ合って、一歩も退かない殴り合いをしているのは、切島くんと鉄哲くん。ガキン!!ガゴン!!とおよそ人間の出し得ない音を立てながら2人の戦いは続いて、同時に決まったクロスカウンターを最後に、切島くんたちは同時に倒れた。

 

「両者ダウン!! 引き分け!! 引き分けの場合、回復後に簡単な勝負……腕相撲などで勝敗を決めてもらいます!」

 

 身体中に打撲傷や裂傷をつくった2人を治癒して、ロボが運ぶ担架に寝かせる。後はロボが予備保健室に連れていって寝かせてくれるだろうと、わたしは次の試合に向き直った。

 次の試合が──1回戦の最後の試合だ。

 

『中学からちょっとした有名人! カタギの顔じゃねぇ!! ヒーロー科爆豪勝己!! (バーサス)…… 俺こっち応援したい!! ヒーロー科麗日お茶子!!』

 

 2人とも、それぞれに気合いが入った顔でステージに現れた。その目には決意が込められている。迷いなんて微塵もないくらい。

 ……そんなみんなを見ていると、なんだか自分がとてもちっぽけなように思えてきて、わたしは俯きそうになるのを必死に堪えた。ちゃんと見ていなくてはと、眩しさを堪えて前を見た。

 

 

24.少女、自身の泥を見る。

 

 


 

 星を見て泥を見たオリ主。あまりに素敵なものを見ると自分の汚さが浮き彫りになるねっていう話を書きたかったんですけど、あまりに暗くてうーんという感じ。

 現時点でガンギマリな轟くんは、オリ主に対して八つ当たり3割・同情7割なイメージで書いています。

 

 めちゃめちゃ遅筆になってしまいすみません!しかしまだ諸々の予定が詰まっていまして次回更新も遅くなるかと思います。それでも見ていただけるなら幸いです。



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25.少女、何の為に。

 

 麗日お茶子さん。裏表が無いから時に鋭いことをズパッと言うけれど、朗らかで、まさに麗らかって感じの女の子。彼女の“個性”は【無重力(ゼログラビティ)】。その力で災害救助を主とするヒーローを目指しているのだと、いつだったか聞いた。“優しく”て、“ふわふわ”で、“麗らか”。そんなイメージが先行するからか、サポート中心というか、あまり武闘派という印象は無い。

 だから、だろうか。爆豪くんは開口一番こう告げた。

 

「おまえ浮かす奴だな丸顔。退くなら今退けよ。“痛ぇ”じゃすまねぇぞ」

 

 爆豪くんはこれまでのヒーロー基礎学の授業でも見てきた通り、ゴリゴリの武闘派だ。“個性”も戦闘向きなだけじゃなく、本人の戦闘センスそのものがずば抜けている──そんな爆豪くんの言葉は刺々しいけれど、忠告に他ならない。

 麗日さんは口許をきつく結んだ。結んだそれが、決意をもって開かれる。

 

「……退くなんて選択肢ないから!」

 

 マイク先生の『START(スタート)!!』の声と同時に、麗日さんは姿勢を低くして突進した。構えた指先は爆豪くんに伸ばされている。

 

(……そうか。【無重力(ゼログラビティ)】なら、触れた相手を浮かせることで自由を奪う)

 

 麗日さんの勝ち筋はきっとそれだろう。きっとそれを狙っての突進だろう。──でもそれを易々と許すような爆豪くんではない。彼の選択は正面切っての迎撃。大きく右腕を振りかぶって──

 

「ぶわっ!!」

 

 爆豪くんの右腕が唸り、轟音がスタジアム中に響き渡る。一切の躊躇のない爆破をモロに受けて、麗日さんは顔を腕で庇いながら煙幕の中に吹き飛ばされていく。

 

「うわあモロ……!!」

「女の子相手にマジか……!」

 

 観客席からそんな呟きが降ってくる。爆豪くんは聞こえているのかいないのか、淡々と麗日さんから距離を取って再び身構えた。

 彼の前には爆破による煙幕が広がっている。麗日さんはその視界の悪さを利用して、体操服の上着を浮かせて囮にし、自分は爆豪くんの背後に回り込んだ。

 

『上着を浮かせて這わせたのかぁ、よー咄嗟にできたな!!』

 

 マイク先生の称賛の通り、いい作戦だ。伸ばした指先はあと少しで爆豪くんに触れるところまで近づいた。もう少しだった(・・・)。けれど爆豪くんはそれよりも、速い。

 

「わっ……!」

 

 振り向きざまに放たれた爆破は、ガリガリとステージの床を削り、破片を巻き上げながら麗日さんを吹き飛ばした。視界の悪さなんて関係ない、至近距離に近づかれてからでも迎撃が間に合うほどの、凄まじい反射神経。速度。

 

(これは……)

 

 思わず胸元を握り締める。勝つためには相手に触れなくてはいけない麗日さん。そんな彼女の思惑を見透かして、迎撃に徹して距離を取る爆豪くん。……どう見ても麗日さんの分が悪い。このまま続けていても、爆破のダメージが積み重なってジリ貧になるのは麗日さんの方だ。

 それを彼女もわかっているのか麗日さんの表情は険しい。

 それでも、

 

『麗日、間髪入れず再突進!!』

 

 それでも、麗日さんは低姿勢で再び爆豪くんに向かう。

 ……それでも、

 

「おっせぇ!!」

 

 また、爆豪くんは吹き飛ばす。“何度やっても同じ”だと言わんばかりに、同じように、何度も、何度も。

 

「おらあああああ!!!」

 

 それでも麗日さんは突進を止めない。

 

「まだまだぁ!!」

 

 何度爆破を間近で受けようと、怯まずに、何度も。

 

『休むことなく突進を続けるが……、これは……』

 

 擦り傷や火傷を幾つもつくりながら、何度も。

 

「あの変わり身が通用しなくて、自棄起こしてる」

「なァ止めなくていいのか? 大分クソだぞ……?」

 

 そんな観客の声なんか聞こえていないんだろう。……聞こえていてもきっと彼女は止めなかった。

 姿勢を低くして、吹き飛ばされたその瞬間に立ち上がって走っていく。瓦礫で頬を切りながらも向かっていく。何度も、何度も、何度も──何度も。

 

「見てらんねぇ……!!」

 

 そんな試合展開に耐えかねたのか、1人の男性が立ち上がった。ヒーロースーツの上に羽織ったマントがひらりとはためく。

 

「おい!! それでもヒーロー志望かよ! そんだけ実力差あるなら早く場外にでも放り出せよ!!」

 

 恐らくはプローヒーローの1人だろう。そんな彼に呼応するように、彼の傍に座っていたヒーローたちが次々と立ち上がった。

 

「女の子いたぶって遊んでんじゃねーよ!!」

「そーだそーだ!!」

 

 批判の声が轟き、それに戸惑うようなざわめきがわたしの羽根を震わせる。きっと彼らにあるのは正義感なんだろう。1人の熱が伝播していくように、その“正義”は次第に声を大きくしていく。

 

『一部から……ブーイングが!! けど正直俺もそう思……わあ肘っ!』

 

 そんな、胸がざわつくような熱気を、

 

『何SOON(スーン)、』

『今“遊んでる”っつったのプロか? 何年目だ?』

 

 ひやりとした声が、切って捨てた。

 

『シラフで言ってんならもう見る意味ねぇから帰れ。帰って転職サイトでも見てろ』

「相澤先生……」

 

 実況席にいるマイク先生を黙らせて、今まで黙っていた相澤先生が話し出した。淡々とした口調の中に、底冷えするような怒りがある。辛辣な皮肉を口にしてから、一呼吸置いた先生は、静かに丁寧に言葉を紡いだ。

 

『ここまで上がってきた相手の実力を認めているから、警戒してんだろう』

 

 “遊び”なんかではないと、先生は理解している。

 爆豪くんがどこまでも真剣なのだと、わかっている。

 

『本気で勝とうとしてるからこそ、手加減も油断も出来ねぇんだろうが』

 

 事実、爆豪くんの顔に勝者の余裕なんてものは浮かんでいない。鋭い目で、警戒するように麗日さんを見つめている。

 そう、麗日さんはまだ強い目をしている。自棄でもなんでもない。実力差に膝をついていない。──諦めてなんか、ない。

 

「……そろそろ……か……な……ありがとう爆豪くん……」

 

 おもむろに呟く麗日さんに、爆豪くんは怪訝な顔をする。“そろそろ”の意味も、唐突な感謝の言葉も、まだ彼は理解していない。

 だってそうだ。麗日さんは最初から気取られないように立ち回っていた。走る時も低姿勢を保って、爆豪くんの打点を下に固定した。巻き上がる爆風の中で、巻き上がる破片に包まれながら、ずっと武器を蓄えていた(・・・・・・・・)

 

「──油断してくれなくて」

 

 ぴと、と麗日さんの両手の指が合わさる。それは合図だ。彼女の“個性”【無重力(ゼログラビティ)】解除の、──そして、

 

「勝あアァァつ!!!!」

 

 反撃の、合図。決意の咆哮とともに、空から無数の瓦礫が落ちてきた。爆豪くんの爆破で削れたステージの破片。それを麗日さんは【無重力(ゼログラビティ)】で空に浮かせていた。空を埋め尽くそれらは、重力を思い出して地上を目指して真っ逆さまに落ちてくる。

 

『流星群ーー!!!』

 

 そんなマイク先生の喩えも過言ではないくらい、ステージの上空はまさに瓦礫の雨といった様子だ。これだけの瓦礫を迎撃するにしても避けるにしても、きっと隙が生まれるだろう。そこを麗日さんは狙ったんだろう、……自分も瓦礫の雨に打たれる危険をものともしないで、爆豪くんに突っ込んでいく。

 そうした瓦礫が、作戦が、決意が、──凄まじい轟音と爆風に呑まれた。

 

「……デクのヤロウとつるんでっからなてめェ、何か企みあるとは思ってたが……」

 

 きぃん、と耳鳴りがする。たった一度。けれどその一撃は、わたしたちの視覚と聴覚を眩ませるほどに強烈だった。それを間近で受けた麗日さんの衝撃はどれほどのものだろう。

 

「……ッ、一撃て……!」

 

 息を飲み、震える唇を噛み締める。虎視眈々と蓄えていた武器。狙っていた作戦。勝ち筋。そうしたものをただの一撃ですべて無に返されてしまったのだ。

 

『改心の爆撃!! 麗日の秘策を堂々──正面突破!!』

 

 降り注ぐ瓦礫の雨を一掃してみせた爆豪くんに、会場からおおお、と歓声が沸き上がった。そんな熱狂とは裏腹に、爆豪くんは至極冷静に深く息を吐く。

 

「危ねぇな」

 

 フー……と息を吐いて。顔を上げる。その先で麗日さんが立ち上がろうとしていた。ふらふらとよろめきながらも、唇を噛み締めながらも、それでも、

 

「いいぜ、こっから本番だ。──麗日!!」

 

 それでも、勝利に向かっていこうと立ち上がる。

 ……その身体が、かくん、と崩れ落ちた。

 

「ハッ……ハッ……んのっ……体、言うこと……きかん……」

 

 “個性”は身体機能のひとつ。あまりに酷使し続ければ身体に負担がかかってしまう。……あれだけの瓦礫を浮かせていたんだ、もう“個性”過剰使用(キャパオーバー)を起こしていてもおかしくない。爆破でのダメージもある。身体が思うように動かせないのも当然だ。

 

「まだ……」

 

 当然、なのに。麗日さんは這いずりながらも、まだ止まらない。ずりずりと、力を振り絞って爆豪くんに向かっていこうとする。

 

(……どうして?)

 

 ミッドナイトが制するけれど、それでも、震える身体で前に進もうとする。もう立ち止まったって、おかしくない。誰も責めたりしない。それなのに、

 

「……~~っ……」

 

 麗日さんは、諦めない。

 

(どうして、そこまで……)

 

 どうしてそこまで頑張れるのか。どうして強大な壁に対して、諦めずに向かっていけるのか。

 

 

「父ちゃん……!!」

 

 

 ……ああ、きっと、それが原動力。それが、原点。

 あまりに眩しいものを見た気がして、わたしはそっと目を伏せた。

 

「……麗日さん、行動不能。2回戦進出爆豪くん──!」

 

 

 

 

 

 爆豪くんと麗日さんの対戦を最後に、1回戦が一通り終わった。小休憩挟んだら次に行くとのことで、爆豪くんの治癒を終えたわたしは選手控え室に向かっていた。治癒はしたものの立ち上がれずにロボに運ばれていった麗日さんが心配で、様子を見たかったのだ。そう思い廊下を進んでいると、ちょうど控え室から出てきた緑谷くんと鉢合わせた。彼はいきなり現れたわたしに目を丸くしている。

 

「! 空中(そらなか)さん……」

「緑谷くん、お疲れさま。えっと……そこの控え室から出てきたよね? 麗日さんいるかな」

「えっ、あ、いや今は、」

 

 しどろもどろになって視線を移ろわす緑谷くん。どうしていきなりそんな反応を見せたのか、疑問の答えはすぐにやってきた。

 

「……電話さっきごめんな、父ちゃん」

 

 控え室から聞こえてきたのは、涙混じりの声。麗日さんが彼女のお父さんと電話をしているのだろう。それを立ち聞いてしまうのはいけないと、わたしは緑谷くんに頷いて控え室から離れた。

 スタジアムに続く廊下に人は無く、静かで、歩きながらもひっく、ひっく……と押し殺したような泣き声が聞こえてきた。それに俯き、ぽつりと呟く。

 

「……麗日さんは、家族のために頑張ってたんだね」

 

 思い出されるのは、体育祭が告知されてからのお昼休み。いつもとは違う凄まじい形相で、『私、頑張る!!!』と意気込んでいた麗日さんのこと。

 

「……うん。麗日さん言ってたんだ、自分がヒーローになって、お父さんとお母さんに楽させてあげるんだ、って……」

「……、……そう、なんだね」

 

 羨望と納得が同時に胸を覆って、わたしはただ頷く。

 自分の頑張る理由。原動力。原点──“何の為に進むのか”。それが自分以外の“誰かの為”だという点は、わたしも麗日さんと同じだった。彼女みたいに家族を思うことはできないけれど、あの人を大切に思う気持ちに嘘はない。

 

(ホークス、……啓悟くん)

 

 わたしは彼みたいになりたい。彼の力になりたい。

 彼を救えるようなヒーローに、なりたい。

 

(そうだ、それが、わたしの原点)

 

 わたしがどんなにちっぽけでも、嫌なところばっかりでも、その思いが足元を支えてくれる。泥に足を取られたりしない。そうして彼を、空を目指して進んでいける。

 

「……、空中さん」

 

 そんなことを考えていると、ふいに緑谷くんがわたしを呼んだ。顔を上げると、彼が何かを決意したような、そんな瞳でわたしを見ている。

 

「ごめん、僕、次の試合……勝っても負けても、きっとぼろぼろになる。……ごめん」

 

 重ねられた謝罪に、その言葉に、思い当たることがある。

 

「……あの超パワーを使うんだね?」

「うん」

「確かに……氷結の攻略にはそれしかないだろうけど……」

 

 それでも素直にゴーサインなんか出せはしない。言い澱むわたしに対して、緑谷くんは申し訳なさそうな目をした。眉も下がっている。……そのくせ、退く気はまったくないような顔をしている。

 

「……あのね緑谷くん。わたしのことは気にしないで。わたしに対して申し訳ないとか、思わないで」

「でも、」

「いいの。エネルギーの消費なんて、いうほどないもの。ちゃんと治してみせる。倒れるなんてこともない。心配なんかいらないよ」

 

 そんなことよりもっと、あなたに伝えたいのは。

 

「……だから、もっと自分自身のことを心配して」

「僕、自身……」

「怪我を負うのも痛みを感じるのも、緑谷くんだよ。わかってるよね?」

「──うん」

 

 問い掛けに、より迷いを削ぎ落としたかのように頷くから、わたしは胸元を握り締めた。脳裏によぎるのは、“個性”把握テストや初めての戦闘訓練、USJ襲撃事件の時、……ぼろぼろに傷ついた、彼の姿。

 

「……なんで迷わないの? いくら治るっていっても、痛いのには変わりないでしょう。辛かったり、怖かったりは……しないの?」

 

 緑谷くん、あなたは、

 

「どうして、そこまで頑張るの? ……何のため?」

 

「……僕は──」

 

 

 

 

「おっ」

 

「「──!!?」」

 

 突然曲がり角から現れたその人に、わたしたちは揃って息を飲んだ。2mを超える鍛え上げられた巨体に、炎を纏っているその人は、

 

「おォ、いたいた」

 

 長年No.2に君臨し続けるフレイムヒーローであり、轟くんのお父さんであり、……あの人の揺るぎない憧れ。

 

「エンデヴァー、さん……」

 

 間近で感じる彼の熱が、じりじりと心まで焦がすような、そんな心地だった。

 

 

25.少女、何の為に。

 

 


 

 爆豪くんとお茶子ちゃんの試合が大好きなのでだいぶ尺取りました。体育祭はサクサクいくとかいってたのは何だったんでしょうね……展開が遅くなって申し訳ないです。

 いつかオリ主のオリジン回は絶対書くのですが、それはもうちょっと後の話なんじゃ。



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26.少女、炎の目覚め。

 

「エンっ……エンデヴァー……何でこんなとこに……」

 

 まさかこんなところで会うとは思わず、わたしは黙って彼を見上げた。エンデヴァーさん。No.2ヒーローであり、轟くんの、お父さん。彼は真っ直ぐ緑谷くんを見つめている。先ほどの『いたいた』という言葉から、彼が緑谷くんを探していたのだとわかった。

 

「君の活躍見させてもらった。素晴らしい“個性”だね、指を弾くだけであれ程の風圧……!

 パワーだけで言えばオールマイトに匹敵する“個性(ちから)”だ」

 

 それを聞いた緑谷くんは顔を強張らせる。そうしてエンデヴァーさんの隣をすり抜けてこの場を後にしようとした。

 

「何を……何を言いたいんですか! 僕もう行かないと……」

 

 そう、後にしようとした。けれどできなかった。

 次にエンデヴァーさんが口にした言葉が、緑谷くんの足を地に縫い付ける。

 

「ウチの焦凍には、オールマイトを超える義務がある」

「君との試合は、テストベッドとしてとても有益なものとなる」

 

「くれぐれも、みっともない試合はしないでくれたまえ」

 

 ……義務だとか、テストベッドだとか、有益とか。おおよそ自分の子どもが戦う試合に向ける言葉じゃない。けれどそれをエンデヴァーさんは当然のように口にするから、わたしは胸が苦しくなった。

 

「言いたいのはそれだけだ。直前に失礼した」

 

 思うところがあったのは、きっと緑谷くんもだったのだろう。言うだけ言ってこの場を去ろうとするエンデヴァーさんに向かって、口を開く。

 

「……僕は……オールマイトじゃありません」

「そんなことは当たり前、」

「当たり前のことですよね」

 

 緑谷くんの声は震えているようで、そうではなかった。

 はっきりとした意志があった。

 

「──轟くんも、あなたじゃない」

 

 

 オールマイトと緑谷くんが違うように、エンデヴァーさんと轟くんも違う。当たり前だけど大切なこと。それを緑谷くんがきっぱり言ってくれたから、わたしは、なんだか背中を押してもらえたような気がした。

 

「……空中(そらなか)さん?」

「すぐ、行く。……先に行ってて」

 

 ステージへ向かう緑谷くんにそう言って、見送って、わたしはその場に残った。エンデヴァーさんは目をすがめてわたしを見下ろす。

 

「君は【治癒】の“個性”持ちだったか……何か用が?」

 

 わたしのことなんかきっと眼中にない。辛うじて“個性”には目を留めていたようだけれど、それまでだ。

 

「……わたしの言葉なんか、きっと、どうでもいいこと。……だから、言わせてもらいますね」

 

 だからこそ、無遠慮に踏み入る。

 

「エンデヴァーさん、あなたは……本当に、轟くんでオールマイトを超えることを望んでいるんですか」

 

 見上げる彼の眉間が、深い皺をつくった。

 

「何が言いたい」

 

 低い声にも、こちらを見下ろす眼差しにも、不機嫌さがありありと見てとれる。こんな小娘にずけずけとプライベートなことを言われるのは不快だろう。それはわかっているけれど、わたしの口は止まらない。

 

「……あなたは、本当は、そんなこと望んでなんかないと思うんです」

「……君に、何がわかると?」

「わたしにはわかりません。けれど、」

 

「けれど、あなたをずっと見てきた人を、わたしは知っています」

 

 止まらない。今のわたしを突き動かすのは怒りであり悲しみだった。エンデヴァーさんが自分のもののように轟くんを扱うのは、轟くんという存在を無いものとして扱うようなものだし、それだけではない。──“エンデヴァー”という自分自身をも、無いものとして扱っているような、そんな気がしたのだ。

 だってそうだろう。もしいつかの未来で轟くんがオールマイトを超えたといっても、それは“轟くん”であって“エンデヴァーさん”ではない。

 そんな当たり前のことにすら、気づけなくなってしまっているの?遠すぎるNo.1の背中(オールマイト)を見続けて、目が眩んでしまったの?もう“エンデヴァー”として進んでくれないの?──本当に?

 

「あなたに人生を救われた人を、あなたに憧れて生きてきた人を、知っています」

 

 少なくとも、ホークスが信じている“エンデヴァー”は違うはずだ。

 

「エンデヴァーさん、あなたは、ヒーローなんです」

「……馬鹿にしているのか。そんなことは当たり前だ」

「……ええ、そうですね。……ですが、」

 

 轟くんがホークスを救ったんじゃない。

 わたしの誰より大切な人を救ったのは、紛れもなく彼だ。

 

「あなたがご自分でそう思っている以上に、もっとずっと、あなたは眩しいヒーローなんです」

 

 どんなことがあっても諦めない。たとえ不器用で泥臭くても、ただ強く、もっと上へと邁進し続けるのが“エンデヴァー(努力)”というヒーローなのだと、彼は信じている。

 

「……これからも、ずっとヒーローでいてほしいと、わたしは思っています」

 

 だからわたしも、それを望んでいる。ホークスの憧れと現実との齟齬に怒りや悲しみを感じるのはそのためだ。もっときっと、エンデヴァーさんは鮮烈にヒーローであるのにと、身勝手な願いを抱いている。

 ホークスの憧れでい続けてほしいという、そんな、身勝手な。

 

「……勝手にまくし立てて、申し訳ありませんでした。ご不快ならば、わたしの言葉は忘れてください。ですが、……あなたに救われた人がいるということだけは、どうか、覚えていてほしいです」

 

 無遠慮で失礼なことを宣った自覚はあるから、深く深く頭を下げて、わたしは黙ったままのエンデヴァーさんに背を向けて走り出した。走る。地を蹴る。拳を握る。……前へと進む。

 

「ホークス、……ホークス、……」

 

 ホークスの原点はエンデヴァーさんだ。エンデヴァーさんに救われて、憧れて、彼のようになりたいと前へ進んだ。

 そうした原点があるのは、彼やわたしだけではないだろう。

 ホークスならエンデヴァーさん。わたしはホークス。麗日さんなら家族。大切な何かの為に、前へ進んでいる。

 

『今回の体育祭 両者トップクラスの成績!! まさしく両雄並び立ち、今!!』

 

 暗い廊下を抜けて、陽の光に照らされたステージへと辿り着く。同時にマイク先生の声がスタジアムの熱気を煽り立てた。

 

『緑谷!! (バーサス)! 轟!!』

 

 ステージの中央で向かい合う2人は、真剣な眼差しで前を見据えている。……彼らにとっての原点とは、なんなのだろう。

 

START(スタート)!!!』

 

 そんなわたしの疑問を余所に、2人の対決は始まった。瞬間、轟くんの足元から築かれる大氷結。自分に向かって真っ直ぐ迫ってくるそれに対し──緑谷くんは指を弾いて迎え撃った。超パワーによる爆風は氷を割り、冷却された空気をぶわりと広げる。

 

「やっぱそうくるか……」

 

 轟くんの呟きが聞こえる。彼も予想していたんだろう。一瞬にして相手を拘束し得る氷結に対して、緑谷くんが採れる択は──自損覚悟の、打ち消し。

 

『おオオオ!! 破ったァァァァ!!』

 

 マイク先生や観客席の人々は盛り上がりを見せるけれど、緑谷くんの表情は真逆だ。バキバキに骨が折れ、変色するほどに傷ついた中指の激痛に耐えているんだろう。強張った顔で轟くんを見据えている。そうして、息つく間もなく再び迫る氷結を、今度は人差し指を弾いて破った。『まーた破ったあ!!!!』と上がる歓声の中、

 

「~~~ッ……!!」

 

 押し殺した呻き声が聞こえて、わたしは拳を握り締めた。

 

「緑谷、くん……」

 

 歪に歪む指。爪の間から飛び散る血。……見ているだけで重傷とわかる傷だ。痛みも相当なものだろう。それなのに緑谷くんは目をかっと開いて轟くんを見ている。勝機を探るような眼差しで、前を見据えている。

 

(諦めては、いない……)

 

 あんなにぼろぼろになっているのに。このまま続ければ、更に傷を負ってしまうと、わかっているだろうに。

 轟くんもそんな緑谷くんに何か思うところがあるのか、小さく舌打ちして次々と氷結を繰り出す。

 

「……すぐ終わらせてやるよ」

 

 相次ぐ氷結を打破するために、薬指、小指もぐちゃぐちゃに傷ついていった。試合が始まって間もないのに、もう右手の指は全滅。『すぐに終わらせる』と、その言葉を遂行するかのように、轟くんは足を踏み出した。

 

『轟、緑谷のパワーに怯むことなく近接へ!!』

 

 走りながら生み出された氷は、緑谷くんにとっては轟くんの姿を隠す壁のように、轟くんにとっては跳躍のためのジャンプ台のように築かれる。緑谷くんは左手の指でそれを破壊したけれど、轟くんは氷を盾にしながら高く跳躍し、一気に緑谷くんとの距離を詰めた。

 

「っぶなっ!!」

 

 ダン!と着地と同時に迫る氷から、緑谷くんは後方にジャンプして避ける。空中でバランスを崩す身体。その着地を待たずに仕留めようと、轟くんは直ぐ様氷結を放った。──瞬間、スタジアムを冷気を纏った暴風が吹き抜ける。吹っ飛ばされた轟くんは、自分の後ろに氷結の壁を造り、場外を防いでいた。

 目隠し、跳躍のための踏み台、盾、壁──この数瞬の間に轟くんが見せた氷結の使い方は、まさに多岐に渡った。氷結を自在に操るスピード、緻密性に、状況に応じて使い分ける判断力に応用力……その上、一気に巨大な氷山を生み出すパワーまで兼ね揃えている。

 

(……強い……)

 

 轟くんは顔を覆っていた腕を下げ、ぽつりと呟いた。

 

「……さっきより随分と高威力だな。近付くなってか」

「ううヴ……!」

 

 対する緑谷くんは……先ほどの接近を防ぐために左腕を振るったんだろう。指先から二の腕辺りまで、すべてが歪み、変色していた。骨は幾つも砕け、血管も幾つも破れてしまっていると見える。押し殺しきれない呻き声が、その痛みを確信させた。

 

「守って逃げるだけでぼろぼろじゃねぇか」

「……!!」

 

「もうそこらのプロ以上だよアレ……」

「さすがNo.2の息子って感じだ」

 

 轟くんの言う通り、緑谷くんは満身創痍で防戦一方。片や無傷でぴんぴんしていると見れば、観客席の呟きも納得だ。

 でも轟くんだって消耗していないわけじゃない。氷結を連続して使い続けていたからか、彼の身体に霜が降り始めている。あの戦闘訓練の時と同じだ。あまりに強すぎる冷気に身体が耐えきれず、彼の身体が震えてしまっている。

 ──それでも、彼は、使おうとしない(・・・・・・・)

 

「悪かったな、ありがとう緑谷。おかげで……

 ──奴の顔が曇った」

 

 それどころか、轟くんは、緑谷くんを“見て”すらいない。視線は観客席の一部へ、エンデヴァーさんのところへ注がれていた。きっと頭の中はそればかりなんだろう。『奴を完全否定する』と言っていた、その悲願ばかり浮かんでいるんだろう。

 目の前に立つ人のことなんか、歯牙にもかけないで。

 

「その両手じゃもう戦いにならねぇだろ。終わりにしよう」

 

 その言葉は轟くんにとっての優しさだったのかもしれない。

 

『圧倒的に攻め続けた轟!! トドメの氷結を──』

 

 ──でも、きっと、緑谷くんにとっては違ったんだ。 

 

「どこ見てるんだ……!!」

 

 項垂れていた顔を上げ、ぐちゃぐちゃになった右手を掲げ、弾く。放たれた力強い風圧は氷結ごと轟くんを場外手前まで吹っ飛ばした。氷結の壁で身体を支えた轟くんは、信じられないものを見るかのような目で緑谷くんを見た。

 

「てめェ……なんでそこまで……」

「……震えてるよ、轟くん」

 

 かっと目を見開いて、緑谷くんは口を開く。

 

「“個性”だって身体機能のひとつだ。君自身冷気に耐えられる限度があるんだろう……!?

 で、それって、左側の熱を使えば解決できるもんなんじゃないのか……?」

 

 緑谷くんは、顔を歪めた。それは痛みのせいでもあるだろう。ゴキャ、グチッ、と右手を軋ませながら、それでも話すことを止めない。

 

「……っ! みんな、本気でやってる……! 勝って……目標に近付く為に……っ1番になる為に……っ!」

 

 痛みだけじゃない。轟くんや、これまで戦ってきた“みんな”へのさまざまな気持ちを乗せて、叫ぶ。

 

「“半分(・・)の力で勝つ”!? まだ僕は君に、傷ひとつつけられちゃいないぞ!」

 

 ──拳を、握る。

 

 

全力(・・)でかかって、来い!!!!」

 

 

 ……どこからどう見ても、満身創痍で、ぼろぼろなのに。

 それでも光のように見えて、わたしはそっと目を細めた。

 

「……何の……つもりだ」

 

 でも轟くんにとっては違ったらしい。彼は忌々しそうに唇を噛み締める。

 

「全力……? クソ親父に金でも握らされたか……? イラつくな……!!」

 

 また距離を詰めようと走り出した轟くんだけれど、明らかに先程より動きが鈍い。身体が冷えすぎて、身体機能に影響を及ぼし始めているんだろう。その隙を見逃さず、今度は緑谷くんが踏み込んだ。何事かブツブツ呟きながら、右腕で轟くんの腹部を殴り付ける。

 

『モロだぁーー生々しいの入ったぁ!!』

 

「はっ……く……ッ」

「ぐぅう!!!」

 

 お腹を押さえて咳き込む轟くんだけでなく、攻撃した緑谷くんの方がダメージを受けている。……あのぐちゃぐちゃの右腕を酷使したのだから当然なのだけれど。それは緑谷くんだってわかりきっているだろうに、彼は怪我を無いもののように走り、跳び、動き回っている。

 

「……君はどう思う? 空中さん」

「、えっ……」

 

 隣に座っていたセメントス先生から呼び掛けられ、思わず肩を揺らす。そんなわたしに「急にごめんね」と目を伏せてから、セメントス先生はステージに視線を戻した。緑谷くんを、見ている。

 

「緑谷くんのあの怪我……アレ「どうせ治してもらえるから」と無茶苦茶してる。君の【治癒】は患者の体力を削るものではないとはいえ……あまりに自身を顧みない行動はよろしくない」

 

 彼の言葉に、わたしはリカバリーガールを思い出した。『名誉の負傷を褒めてはいけない』と──わたしたちは、【治癒】を持つ自分たちだけは、それを止めなければならないと、彼女はわたしに教えてくれた。

 

「……セメントス先生の仰る通り、です。褒められた行為ではないし、わたしはそれを、止めなくてはいけない」

 

「なら、」

「ですが……っあと少しだけ、待っていただけませんか」

 

 リカバリーガールの教えが、ベッドに横たわる緑谷くんの傷が、……緑谷くんの決意の表情が、脳裏によぎる。

 

「緑谷くん、試合前に何かを決意した様子でした。何も考えなしにあんなことをしてるわけじゃない、そんな人じゃない。……怪我は、まだ、わたしの【治癒】で何の後遺症も無しに瞬時に治すことができる範囲です」

 

 リカバリーガールの教えは正しい。それに背くつもりもない。……けれど、あと、少し、わたしの【治癒】でどうにかできる範囲なら……!

 

「もし緑谷くんに何らかの危険が及ぶ危険域に近付いてしまったなら、その時はすぐに伝えます。だからそれまでは……!」

 

 それまでは、まだ、彼の決意の行く末を見届けたい。

 わたしの訴えを聞いて、セメントス先生はしばらくの沈黙の後、静かに頷いてくれた。それに安堵して、わたしはステージに視線を戻す。

 ステージでは、緑谷くんがとうとう握れなくなった右手で、それでも口許を使って指を弾くという、これまた滅茶苦茶な戦いをしているところだった。風圧で吹き飛ばされながら、轟くんは目を見開く。

 

「なんで、そこまで……」

 

 どうしてそんなにぼろぼろになってまで、

 諦めないのか。戦うのか。前に進み続けるのか。

 

「期待に応えたいんだ……!」

 

 指や腕だけじゃなく、口許まで真っ赤にしながら、緑谷くんは言う。

 

「笑って、応えられるような、カッコイイ(ヒーロー)に……なりたいんだ(・・・・・・)!!」

 

 試合前には聞けなかった緑谷くんの理由。前に進むための原動力。──原点。

 

「だから全力で! やってんだ、みんな!」

 

 手は使えないからと、走る勢いのまま緑谷くんは轟くんに頭突きした。身体が冷えて動けないからか、……緑谷くんの言葉にはっとしたからか、轟くんは避けきれずにそれを受ける。

 

「君の境遇も君の決心(・・)も、僕なんかに計り知れるもんじゃない……、でも……」

 

 緑谷くんは轟くんの過去を聞いて知っている。……知ってるからこその言葉だろう。その悲しみや怒りを知っているからこそ、今、彼は、よろめきながらも立ち上がり叫んでいる。

 

「全力も出さないで1番になって、完全否定なんて、フザけるなって今は思ってる!!」

 

 “轟焦凍”という人間は、“そんなもの”じゃないだろうと、叫んでいる。

 

「うるせぇ……!」

 

 轟くんは顔を歪めて、また氷結を放とうとしている。それでも上手くいかないのは、あまりに寒すぎるからだろうか。

 あまりに寒くて、冷たくて──彼が歩んできたのは、そんな道だったのかもしれない。

 

「だから……僕が勝つ!! 君を超えてっ!!」

「俺は……っ」

 

 【炎】の“個性”があるから、お母さんを苦しめた。

 だから氷で閉じ込めて、ずっとずっと、それを抱えて、凍えながら歩いてきたのかもしれない。まるで呪いのように、【炎】を父親の象徴として、憎みながら、ずっと──

 

「俺は、親父を──」

 

 轟くんにとって、【炎】は父親だった。呪いの証だった。

 ──でもそれは違うと、緑谷くんは、叫ぶ。

 

 

「君の!! ──力じゃないか!!」

 

 

 その声を受けた瞬間。轟くんの目が見開かれた。

 そのエメラルドブルーの目に、いろんなものを映したように、揺れて、揺れて、……潤んだ。

 

『これは──!?』

 

 ブァッと目を焼く光があまりに眩しすぎて、わたしは思わず目を閉じた。先程までの冷えた空気が散らされて、代わりにひりつくような熱気が伝わってくる。

 

(……ああ……、そっか……)

 

 きっとこれは、長くかかりすぎた雪融けで。

 これを緑谷くんは待っていたんだと、理解した。

 

「勝ちてぇくせに……ちくしょう……敵に塩送るなんて、どっちがフザけてるって話だ……」

 

 ちくしょうだなんて言いながら、その声は晴れやかだった。わたしはゆっくりと目を開ける。そこには、

 

「俺だって、ヒーローに……!!」

 

 右手からは氷を、左手からは炎を。ふたつの力を携えて立つ、轟くんの姿があった。

 

 

26.少女、炎の目覚め。

 

 


 

 体育祭はサクサクいくって言ってたのはなんだったのか!!!!()でも1番の見せ場かつ山場が終わったのであとはウイニングランみたいなものになると……信じたい……

 オリ主のエンデヴァーへの感情は複雑なものです。個人的な関わりは無いですが、大切なホークスを救ってくれたという話を伝え聞いていたため、感謝や尊敬の気持ちを少なからず持っていたのですが、轟くんに対する所業を目の当たりにしてもやもやしています。それでもどちらかというと『ホークスの言うことを信じる』という気持ちが強いため、「本当の“エンデヴァーさん”はそんなんじゃないでしょう」とかいう身勝手な願いを押し付けたというわけです。“ヒーロー”はそれすらも応援にしてしまえるんでしょうかね。



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27.氷炎、考える。

 

 幼少期の俺は、毎日のように泣いていた気がする。

 

『立て。こんなもので倒れていては、オールマイトはおろか雑魚(ヴィラン)にすら……』

 

 俺が五歳になったと見ると、あのクソ親父は“オールマイトを超えるための特訓”を課し始めた。あのただただ広いだけの家の奥、薄暗い廊下を引き摺られて辿り着く訓練場。筋トレで何度床に崩れ落ち、組み手で吹っ飛ばされて何度嘔吐したかなんて、もう覚えちゃいねぇ。

 

『やめてください! まだ五つですよ……!』

 

 床に踞ってげぇげぇと胃のものを吐き出す俺を見かねて、お母さんはあのクソ親父に訴えてくれた。静かで穏やかな人だったから、それ以外で声を荒げたとこなんて見たことない。俺を庇おうと、守ろうと、あいつに立ち向かってくれたんだ。……それを、

 

『もう五つだ! 邪魔するな!!』

 

 それを一蹴する声を、覚えている。見上げたお母さんが、あいつにぶたれて、体勢を崩して、床に倒れたのを覚えている。いつもは白いその頬が、赤黒くなっていったのを、覚えている。

 それを見た瞬間、沸騰するように身体の奥から沸き上がった怒りを、悲しみを、……恐怖を、覚えている。

 

『嫌だよお母さん……僕……僕、お父さんみたいになりたくない』

 

 あのクソ親父みたいになりたくないと、夜毎お母さんに泣いてすがった。

 

『お母さんをいじめる人になんて、なりたくない』

 

 あいつは常々『ヒーローになれ』と俺に言った。そうして訓練を受け続けていたら、いつか、“あんなヒーロー”になってしまうのではないかと本気で思った。それが嫌で、怖くて、ぐすぐす泣いていた。何度も、何度も。毎日のように。

 

『…………』

 

 そんな俺に思うところはあったのだろう。でもお母さんはただ、膝に乗せた俺を抱き締めて、優しく頭を撫でながら、言ってくれたんだ。

 

『……でもヒーローにはなりたいんでしょう?』

 

 

 

 

『焦凍見るな。兄さん(アレ)らは、おまえとは違う世界の人間だ』

 

 だからきっと、俺は耐えられたんだ。

 夏兄たちが楽しそうに遊んでいるところを見ることさえ許されなくても、腕を痣になるくらい強く引かれて、引き摺られて、毎日あの薄暗い訓練場に連れて行かれても、そこでどんなに苦しんで泣いても、俺自身はきっと大丈夫だったんだ。

 けど俺以上に、ずっと、ずっと、お母さんは苦しんでいた。

 

 

 

 

『お母さん……私、変なの……もうダメ』

 

 ある日の夜。トイレに行こうと布団から起き上がった俺は、台所からお母さんの声がしたことに気づいた。電話しているのだろうかと、眠い目を擦りながら立ち止まる。……話している内容はよくわからなかった。わかっていなかった。

 

『子どもたちが……日に日にあの人に似てくる……』

 

 だから、その場で立ち止まって耳をそばだててしまった。本当なら、聞かなかったふりをしてその場を後にすればよかったのに。あの時の馬鹿な俺は、あれ(・・)を聞いてしまう。

 

『焦凍の……あの子の左側が、

 ──時折とても醜く思えてしまうの』

 

 眠気なんて吹っ飛んだ。でも理解が追い付かなかった。

 

『私……もう育てられない。育てちゃダメなの……』

 

 だから、俺は。廊下の影から顔の左半分を覗かせて(・・・・・・・・・・)、お母さんを見てしまった。

 

『お……母さん……?』

 

 振り返ったお母さんの、あの見開いた目に、俺はどんな風に映ったのか。その表情からなんとなくわかった。

 お母さんは怒っていた。悲しんでいた。苦しんでいた。あいつを、俺の左側を憎んでいた。子どもすら憎んでしまう、そんな自分自身を1番、憎んでいた。何年も何年も貯め続けたその感情が、耐えて堪えて、そしてこの瞬間、ぷつりと堰が切れたのだろう。感情に呑まれて、きっと何も考えることなんてできてなかった。

 

 手元のコンロでぼこぼこと沸いている、その薬缶を手にとって俺に向かって振り上げる。乱暴に扱われたその薬缶から熱湯が俺の左側に降り注ぐ。──こんな一瞬の出来事だ。その間お母さんは、我を忘れてしまっていたのだと思う。

 

『あああ焦凍!!』

 

 だって、熱さと痛みに泣き叫ぶ俺を見て、お母さんははっとして駆け寄ってくれた。すぐさま布巾を手にとって、俺の左目に押し当てて、【冷却】の“個性”を使ってくれた。

 

『ごめんなさい焦凍……! ああなんてことを、ああ、あああなんてことを!!』

 

 俺以上に苦しそうに泣き叫ぶお母さんを見て、わかった。

 お母さんは本当は、こんなことしたくなかったのだと。こんなことしたくなかったのに、そうなってしまったのだと。行き場の無い、どうしようもない感情が溢れてしまっただけなのだと。

 だったら言ってあげないと。『お母さんは悪くない』って。『俺は大丈夫だから、だから泣かないで』って。泣き止んだら、ちゃんと、伝えないとって──

 

 

 ──けど、泣き疲れて起きた次の日に、お母さんはいなかった。

 

 

『お母さんは……?』

『おまえに危害を加えたので病院に入れた』

 

 事も無げにそう言ったクソ親父に、俺は一瞬呼吸を忘れた。目の奥がカッと熱くなる。指先がぶるぶる震えて痺れた。……いや、“事も無げに”は、違ったな。

 

『まったく……大事な時期だというのに……』

 

 迷惑そうに溜め息を吐き、お母さんを悪者のように言う。

 ……誰のせいだと思ってるんだ。お母さんがあんなにも怒って、悲しんで、苦しんで、憎んでしまったのは、ぼろぼろに傷ついてしまったのは、全部、全部、全部──!!

 

『……おまえのせいだ……!!』

 

 あのクソ親父のせいだ。【炎熱】のせいだ。俺の左側のせいだ。こんなものがあるから、お母さんを追い詰めてしまうんだ。だったらもう、こんなもの全部“いらない”と──これが俺が【炎熱】を封じる決定打になったんだが、それより前から、俺は自分の左側が嫌いだった。【炎熱】の“個性”が嫌いだった。クソ親父との繋がりを感じてしまう、この熱なんて無ければいいのにと、そう思っていた。

 

 そんな考えを救ってくれたのは、テレビ越しに見たあの人だった。

 

 

 

『“個性”というのは親から子へと受け継がれていきます。しかし……本当に大事なのはその繋がりではなく……自分の血肉……自分である!と認識すること。

 そういう意味もあって私はこう言うのさ!』

 

『“私が来た”──ってね!!』

 

 オールマイトはニカッと笑ってそう言った。その言葉に救われ、その存在に憧れた。

 どんな“個性”を持っていても、どんな親から受け継いだとしても、“自分自身”であることに変わりはないのだと。

 

『いいのよ、おまえは……血に囚われることなんかない』

 

 お母さんも、そうだ、言ってくれていたんだ。始めから。

 親父への憎しみに呑まれて見えなくなってしまっていた。あの優しい声を、忘れてしまっていた。それでもちゃんと俺の中に残っていたんだ──俺の、原点に。

 

 

 

『なりたい自分に、なっていいんだよ』

 

 

 

 

「俺だって、ヒーローに……!!」

 

 ヒーローに、なりたい。オールマイトみたく、誰かを救えるような、“自分は自分だ”と、胸を張って言えるような強いヒーローに。

 

「焦凍ォォオオオ!!」

「やっと己を受け入れたか!! そうだ!! いいぞ!!」

「ここからがおまえの始まり!!」

 

「俺の血をもって俺を超えて行き、俺の野望をおまえが果たせ!!」

 

 いつもは煩わしくて、いちいち勘に触っていた親父の声も、どこか遠い。思わず溢れた涙が視界を洗って、まるで新しい世界にやって来たかのようだった。

 涙をぬぐう。俺をこの世界に連れてきた張本人を見る。

 

「……凄……」

「……なに笑ってんだよ」

 

 ぼろぼろになって、何を笑ってるんだよ。

 

「その怪我で……この状況でおまえ……イカれてるよ」

 

 そんなになってまで、俺の全力(・・)を望むなんて、フザけたやつだ。

 

「──どうなっても知らねぇぞ」

 

 ダン!!と足を踏みしめて右足から【氷結】を、左手に【炎熱】を纏わせる。氷の向こうで緑谷も構えたのがわかった。……おまえも全力で来てくれるのなら、俺だって。

 

「緑谷、」

 

 氷結に向かって炎熱を振り下ろす。

 ……なぁ、こんな時に、こんな声、きっとおまえには聞こえてねぇんだろうが、それでも、

 

「……ありがとな」

 

 それからのことは、あまりよく覚えていない。氷結で散々冷やされたスタジアム中の空気が一気に炎熱で暖められて大爆発を起こしたのだと、実況席から聞こえる解説を他人事のように聞いていた。俺は、セメントス先生が張ったのだろうセメントの障壁をぶち壊して、ぼろぼろになったフィールドに、息を切らして立っていた。視界の先で、緑谷が壁に叩きつけられて、ずるずると地面に倒れていくのを見ていた。

 

「……緑谷くん、場外。轟くん──3回戦進出!!」

 

 呆然とする俺に、ミッドナイト先生の判決や、観客のざわめきが聞こえてくる。

 

「緑谷のやつ、煽っといて負けちまったよ……」

「策があったわけでもなくただ挑発しただけ?」

「轟に勝ちたかったのか負けたかったのか……」

「何にせよ恐ろしいパワーだぜありゃ」

「気迫は買う」

「騎馬戦までは面白い奴だと思ったんだがなァ」

 

「……轟くん、」

 

 知らずに握り締めていた拳をそっとほどかれて、あたたかい力が流れ込んでくる。はっとして顔を上げると、そこで空中(そらなか)が控えめに笑みを浮かべていた。

 

「……あの、今からわたし緑谷くんについて臨時保健室に向かうんだけど、轟くんも一緒に行こう。そこに体操服の予備があるから」

「……ああ」

 

 言われて気づく。ロクなコントロールもせず全力で【炎熱】を使ったから、体操服の上着の左半分が焼け焦げてしまっていた。頷き、白い羽根がふわふわ揺れる背中を追って歩き出す。

 スタジアムから廊下に差し掛かったところで、空中がびくりと肩を揺らして立ち止まった。どうした、と問い掛けるより先に、その理由に気づく。目にする。クソ親父が、腕組をして俺たちの前に立っていた。

 

「“邪魔だ”、とは言わんのか」

 

 ……そんな感情すら、遠くなっているのに気づいた。言葉なく考え込む俺をよそに、親父は勝手に熱くなっている。

 

炎熱(ひだり)操作(コントロール)……ベタ踏みでまだまだ危なっかしいもんだが、子どもじみた駄々を捨ててようやくおまえは、完璧な“俺の上位互換”となった!!」

 

 “上位互換”という言葉に、空中の羽根が不自然にはためいた気がした。

 

「卒業後は俺の元へ来い!! 俺が覇道を歩ませてや、」

「捨てられるわけねえだろ」

 

 勝手に並べ立てられる言葉を遮る。子どもじみた駄々なんて言ってくれたが、そんな簡単に今までの過去が、思いが覆るわけねぇよと、吐き捨てるように告げて。

 

「ただ、あの時あの一瞬は……、──おまえを忘れた」

 

 緑谷と全力で向かい合ったあの時、あの感覚。あの世界。

 

「それが良いのか悪ィのか正しいことなのか……少し……考える」

 

 黙り込んだクソ親父を残して、この場を去ろうと歩き出す。けれど空中は立ち止まったままだったから、俺は振り返って呼び掛けようとした。……それができなかったのは、親父を見上げる、空中の表情を見たから。

 怒りや悲しみや、もどかしさとか、どうしようもない感情を綯交ぜにしたような目で、親父を見ていたから。

 

「……空中?」

「! ごめん、行くね。……失礼します」

 

 親父にお辞儀して、小走りでこっちに来た空中に疑問が湧く。親父の姿が見えなくなってしばらくして、俺は口を開いた。

 

「空中。さっき何だか妙な感じだったが……どうしたんだ。もしかして、親父に何か言われたのか」

「えっう、ううん違うよ大丈夫! ……むしろわたしが失礼なことを言っちゃったというか、……」

「?」

 

 もごもご言ってる真意を問い詰める前に、話はここで終わりだと、空中はぱっと明るく微笑んだ。

 

「とにかくわたしは何ともないよ、大丈夫」

 

 そうして、笑みの色を変えて、俺を見た。

 

「……轟くんは、大丈夫?」

「……そう、だな」

 

 その『大丈夫』にいろんな意味があるんだろう。俺は考えを巡らせて……思いついた全部を言葉にすることはできないけど、それでもぽつりと呟いた。

 

「案外、こんなもんだったのかって……妙な気分だ」

「……うん、そっか」

 

 空中は静かに相槌を打つ。それ以上は何も言わなかった。

 そのまま臨時保健室に入り、俺に体操服の上着を差し出した後、空中は奥のベッドへ向かった。静かにカーテンを引いて、ああ、と溢す。

 

「緑谷くん、起きたんだね、大丈夫?気分はどう……?」

「……そら、なか、さ……」

 

 場外判定の後、搬送ロボによって運び込まれたらしい緑谷は、もう意識を取り戻してベッドに横になっていた。思わず俺も、空中の隣に立って緑谷に向き合う。

 

「……緑谷、」

「あ……轟、くん」

「……すまねぇ、悪かった」

「え、い、いや……僕もなんかズケズケ言っちゃったし……」

「確かにズケズケきたな。意外だった」

 

 俺の事情を知ってるくせに、腫れ物にするどころか、拳を振るってぶつかってきやがった。俺が抱えていた過去や決意や憎しみを、ブッ壊していきやがった。

 

「けど、それが……」

 

 それがなければ俺は、埋もれていた原点に返れなかった。

 

「……ありがとな」

 

「……ううん、……」

 

 たくさんの言葉は言えない。それでも緑谷は、ほっとしたように笑って頷いた。……どうしようもなくお人好しだな、なんて、思う。そんな時。

 

「緑谷くん!!」「デクくん!!」「緑谷ァ!!」

 

 バァン!と扉を開け放って飛び込んできた声に、びくりと振り返る。そこには飯田と麗日と蛙吹、それに峰田がいた。

 

「みんな……次の試合は?」

「ステージ大崩壊のためしばらく補修タイムだそうだ」

「心配できたんよー! ……でも愛依(あい)ちゃんが治してくれたんやね、よかったぁ」

「お疲れさま、愛依ちゃん。流石ね」

「あ、ありがと……梅雨ちゃん」

 

 わいわいと雪崩れ込んできたみんなに圧倒されていると、峰田が顔を強張らせて言った。

 

「怖かったぜ緑谷ぁ、あれじゃプロも欲しがんねーよ」

「塩塗り込んでくスタイル感心しないわ」

「でもそうじゃんか」

 

「……なんか、本当に色々、すまねぇ……」

 

「アッ轟くん!」

「違うぞ! 謝ることなど何一つ無いだろう!!」

 

 せっかくプロに見てもらえる場だったのに、と俯く俺に、飯田が声を張り上げる。

 

「君は全力で戦った。緑谷くんもまた全力で戦った。素晴らしいことじゃないか!!」

 

 真っ直ぐに向けられた称賛に、笑みに、少し固まる。

 

「そうそう、ナイスファイト! ってやつだ!」

「炎も使いこなせるなんて、強いわね、轟ちゃん」

「強“個性”のイケメンとか爆ぜろってんだ」

「峰田ちゃん」

「キョエッ」

 

「うん……やっぱ、轟くんは凄いよ!」

 

 緑谷までもがそう言ってくれて、うまく、言葉が出てこない。 

 

「……す、……すま、ねぇ」

 

 やっと絞り出した声に、ふふ、と空中が笑う。

 

「そういう時は、“ありがとう”でいいんだと、思うよ」

 

 眩しい。こんなに、視界は明るかったのかと、眩しすぎる世界に目眩すら覚える。日陰から日向に出たように、心が熱くなるのがわかった。

 

 ──でも、いいのか。このままここにいて、いいのか?

 ……本当に?

 

 

 

 

 それからしばらくして、俺は再びステージに立っていた。向かい合う先に、飯田が気合い十分な顔で立っている。

 

『準決! サクサク行くぜ! お互いヒーロー家出身のエリート対決だ!

 飯田天哉!! (バーサス)! 轟焦燥!!』

 

 ヒーロー家、と聞いて思い出す。……そういや飯田の兄はあのターボヒーロー・インゲニウムだったな。今さら思い出すなんて、本当に、今まで考えもしなかったんだな。

 

「STAAAART!!」

 

 開始の合図と共に、飯田は地を這う氷結を避け跳躍した。一気に距離を詰められ、俺はなんとか身を低くして一撃目を避ける。けれどそこから流れるように打ち込まれる、二撃目の蹴りは避けられなかった。

 

「──決める!!!」

「っぐっ」

 

 迷いの無い蹴り。動き。速さ。感心すると同時に、右手を伸ばし、力を込めた。

 

「すげぇ! 速すぎだろあの蹴り!!」

「だいぶ重そうなの入ったぞ!!」

 

 体勢を崩した俺を掴み、飯田は走り出す。俺を場外に放り出すつもりだろうが、そうはさせねぇ。

 

「!!!」

 

 ──プスン、と音を立てて止まった足に、飯田が目を剥く。排気筒(マフラー)を詰まらせた氷を目にし、叫んだ。

 

「いつの間に!!!」

「蹴りん時」

 

 動きが止まったその隙に、飯田の腕を掴み、全身を氷で覆わせる。

 

「範囲攻撃ばかり見せてたから……こういう小細工は頭から抜けてたよな」

「ぐうう……っ」

「警戒はしてたんだがレシプロ……避けられねぇな流石に……」

 

『飯田、行動不能! 轟、炎を見せず決勝進出だ!!』

 

 ……“炎を見せず”、か。確かに、炎を出して迎撃していれば、飯田を近寄らせることもなかったかもな。

 ……それでも俺は、迷っている。──考えている。

 

「くっ……兄さん……!」

 

 飯田の呟きに、兄への思いを見た。兄のために、兄への憧れのために飯田は戦ってきたのかと、ぼんやり思った。……兄を、思っている。慕っている。何の躊躇も疑いもなく。

 インゲニウムがすごいのか、飯田がすごいのか、……どちらだとしても、俺にはきっと、真似できない眩しさだ。

 

 

 

 

『君の力じゃないか!!!』

 

 決勝戦を待つ控え室。脳裏に、緑谷の言葉が甦る。

 緑谷にそう言ってもらえるまで“考える”なんて考えもしなかった。

言われるまでもなく、あの親父は、俺のこの左側は、【炎熱】は、同じものだと思っていた。すべて無くなってしまえばいいと、疑いもなくそう思っていた。

 ……だけど違うとしたら?この左側は“俺の力”だと認めてしまえるのだとしたら?──お母さんは、どう思うだろうか。

 

「あ?」

 

 そんなことを考えていると、急にドアが乱暴に開かれた。顔を上げると、爆豪が目を丸くして入り口に立っていた。

 

「あれ!? なんでテメェがここに……控え室……あ、ここ2の方かクソが!!」

 

 ……わいわいと賑やかだな、なんて、それだけ思って、俺は視線を反らして俯いた。別に他意はなかった。

 

「……部屋間違えたのは俺だけどよ……決勝相手にその態度はオイオイオイ……」

 

 だけど爆豪にとっては違ったらしい。ゆらりと揺らめくようにこちらに近寄って、バァン!!と爆破させながら机を叩き付ける。

 

「どこ見てんだよ半分野郎が!!!」

 

 ──“どこ見てるんだ……!!”

 

「……それ……緑谷にも言われたな」

 

 思わずふ、と唇に笑みがのぼる。

 

「あいつ、無茶苦茶やって他人(ひと)が抱えてたもんブッ壊していきやがった」

 

 あんなぼろぼろになっても、無茶苦茶やって、俺の心を無理やり軽くしてきやがった。……不思議な奴だな、と今も思う。

 

「幼馴染なんだってな。昔からあんななのか? 緑谷は……」

 

「──ッあんなクソナード……どうでもいんだよ!!!」

 

 ……何か、爆豪の琴線に触れたのかもしれねぇ。爆豪はさっきよりはっきりした怒りを見せて、机を蹴り飛ばした。

 

「ウダウダとどうでもいんだよ……テメェの家事情も気持ちも……! どうでもいいから、俺にも使ってこいや(そっち)側。

 ──そいつを上から捩じ伏せてやる」

 

 ……どこで知ったかは知らねぇが、爆豪も俺の事情を知っていたらしい。肩を怒らせながら歩き去っていく爆豪の背中に、俺は心中で謝罪した。

 

 ごめんな。きっと、おまえも全力で戦ってほしいって思ってるんだろうな。あんなにも勝利に、トップに拘っていたやつだ。【氷結】も【炎熱】もすべて出しきった俺に勝ちたいと、心から思ってるんだろう。

 ……だが、まだ、俺は考えている。

 

 俺の心は軽くなった。視界は開けた。

 こんな世界に、俺は、俺の納得だけで来ていいのか?

 

 ──お母さんはまだ、格子付きの病室にいるのに?

 

「……お母さん……」

 

 まだ、まだ、考えている。考えなくちゃいけない。

 俺はぎゅっと、左手を握り締めた。

 

 

27.氷炎、考える。

 

 


 

 轟くんの過去の凄惨さを表現したくてこんなに長くなってしまった……オリ主やホークスはエンデヴァーを1人のヒーローとして見ているけど、こんな地獄の轟くん家をつくりあげたという点は決して忘れてはならないと思います。

 やっっっとここまできました体育祭編!こんなに長くなるなんて思ってもみませんでした。あと1、2話で終わる予定です。



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28.少女、決着と。

 

 とうとう、ここまで来た。──雄英体育祭、決勝戦。

 

『さァいよいよラスト!! 雄英1年生の頂点がここで決まる!! 決勝戦!!

 轟!! (バーサス)!! 爆豪!!』

 

 1人は、瀬呂くん、緑谷くん、飯田くんを降した轟くん。

 そしてもう1人は、麗日さん、切島くん、常闇くんを降した爆豪くん。

 A組の中でもトップクラスの実力者である2人は、片や静かな眼差しで、片や好戦的な笑みを浮かべて相手を見据えている。……そして、

 

『今!! スタート!!!』

 

 マイク先生の合図と共に、轟くんは両手を地につけて大氷結を生み出した。スタジアムの天を衝くかのような氷山を見上げて、わたしはは、と息を吐き出す。溢れたそれは白く染まっていた。

 

『いきなりかましたぁ!! 爆豪との接戦を嫌がったか!!

 これは早速優勝者決定かぁ!?』

 

「……違う……」

 

 本当に一撃で決めようとするなら、瀬呂くんの時のような規模の攻撃をするだろう。でも違う。目の前に聳え立つ氷結は巨大ではあるけれど、あの時より小さい。……次に備えて、温存した?

 

「!」

 

 ボゴン、ゴゥン、という鈍い破壊音が遠くからして、どんどん近づいてきたと思ったら、一際大きな爆破と共に彼は姿を現した。爆豪くんは、その【爆破】で氷結を掘り進めてきたらしい。

 彼はすぐさま右腕を突き出して迎撃しようとした轟くんから逃れ、跳躍し、(こおり)側を掴んで投げ飛ばす。そのまま場外になりそうなところを、轟くんは氷壁で防ぎ、同時に滑るスピードを活かして接近。近い間合いで組み合って、数瞬の攻防の末、轟くんの左腕が爆豪くんを掴んだ。爆豪くんの表情に焦りが生まれる。

 

(ここで、【炎熱】で攻撃したら……)

 

 爆豪くんにダメージを負わせられる。たとえ爆豪くんがそれを避けるべく飛び退いたとしても、体勢を崩してしまい、追撃することができるだろう。圧倒的に轟くんが有利、そのことをわかっているからこそ、爆豪くんは焦ったのだ。

 ──けれど、そうはならなかった。轟くんは左手を放し、右腕からの氷結で攻め立てた。爆豪くんはバックステップで距離を取りつつ、やって来た氷を爆破で砕く。……轟くんは、【炎熱】を使わなかった。

 

「──……俺じゃあ力不足かよ」

 

 見開かれた目が充血している。吐き出した声は、怒りと悔しさで揺れている。爆豪くんはぎり、と歯軋りした後、咆哮した。

 

「……てめェ虚仮にすんのも大概にしろよ!!」

 

 両手から爆破させながら、彼は叫ぶ。

 

「ブッ殺すぞ!!! 俺が取んのは完膚なきまでの1位なんだよ!! 舐めプのクソカスに勝っても取れねんだよ!! デクより上に行かねえと意味ねぇんだよ!!」

 

 言葉遣いが悪いとか、緑谷くんに対しての感情が大きすぎるとか、いろいろ思うところはあるけれど、爆豪くんが真剣に勝利を求めていることはわかった。執念とも言っても差し支えないくらい、あまりに強い意志。体育祭の始めから一貫して、彼はそれを心に、いつも全力で戦っていた。

 

「勝つつもりもねぇなら俺の前に立つな!!!」

 

 だから、苛立ってしまうのかもしれない。

 轟くんは緑谷くんと戦ってから、どこか迷っているような、……何かを深く考えているような顔をしているから。ただ、ただ、勝利のみを目指してがむしゃらに戦っては、いないから。

 

「なんでここに立っとんだクソが!!!」

 

 目を剥いて、声を枯らさんばかりに叫んだ。両手を振り上げ、打ち下ろすと同時に地面に向かって爆破を放つ。その推進力で空高く浮かんだ爆豪くんは、掌からの爆破を巧みに使い分けて空中で身体を回転させ始めた。爆風が頬を打つ。──きっと大技を放つつもりなのだとわかった。

 それをきっと、相対する轟くんも察知しているはず。それでも彼は、まだ、迷うように目が揺れていた。どうするべきかわからず、立ち尽くしていた──その時。

 

「負けるな、頑張れ!!!」

 

 観客席から届いた大きな声援は、緑谷くんのものだった。それを耳にした轟くんははっと目を見開いた。歯を噛み締めた。そうして俯いた彼の顔の左側に、赤い光が、灯る。

 

「轟く、……!」

 

 回転しながら勢いをつけた爆豪くんが突っ込んでいく。それを【炎熱】を左側に纏わせながら轟くんは迎え撃とうとして──激突する直前に、炎が、宙に溶けるように消えていった。

 え、と見開いた目が爆風に晒され、わたしは咄嗟に目を瞑った。大爆撃による豪風、轟音。じりじりと肌を焼くような熱。それを何とか堪えて目を開けると、ステージを煙幕が覆い、視界を白く染めていた。

 

『麗日戦で見せた特大火力に勢いと回転を加え、まさに人間手榴弾!! 轟は緑谷戦での超爆風を撃たなかったようだが、果たして……』

 

「………………は?」

 

 マイク先生の実況の影で、爆豪くんの呟きが聞こえた。

 

「──は?」

 

 大技の余波か、ステージにうつ伏せになっている爆豪くんの視線の先には、砕かれた氷の中で倒れている轟くんの姿があった。彼は、場外に吹き飛ばされた衝撃を受けてか、気を失って倒れていた。

 

「オイっ……ふっ……」

 

 場外で気を失っている轟くんと、ステージにいる爆豪くん。……どっちが勝者かなんて、誰の目にも明らかだ。でも爆豪くんは、痛む身体に鞭打って立ち上がった。轟くんに駆け寄り、その胸倉を掴み上げる。

 

「ふざけんなよ!!!」

 

 全力で戦う。それに勝利する。それを誰よりも渇望して戦い続けてきた爆豪くんは──この結果を受け止められないでいる。彼のこんな泣きそうな顔は、今まで見たことがない。それだけ、自分の中の感情を抑えきれないんだろう。

 

「こんなの!! こんっ……」

 

 けれど、どんなに納得いかない結果でも、勝負はついた。ミッドナイト先生はスーツの袖を破り、その眠り香を漂わせ、爆豪くんを眠らせた。その場に崩れ落ちた爆豪くんを見下ろしながら、バッと左腕を上げて高らかに告げる。

 

「轟くん場外! よって──爆豪くんの勝ち!!」

 

『以上ですべての競技が終了!!今年度雄英体育祭1年!!

 優勝は──A組爆豪勝己!!!』

 

 観客席からは、最後の展開に戸惑うざわめきがあったものの、それはすぐに割れんばかりの拍手に包まれ掻き消えた。わたしも同じように拍手しながら、小さく息を吐く。

 

(……本当に、優勝しちゃった……)

 

 選手宣誓の通り、爆豪くんが優勝を収めた。有言実行だね、……なんて言ったらきっと、烈火の如く怒り狂うことは予想できる。きっと今だって、ミッドナイト先生がいなかったら大荒れだっただろうな。

 

「……寝ててよかった」

 

 眠る2人の傷を治癒し終えて、搬送ロボに運ばれる2人を見送りながら、ふと思う。

 

「……これ爆豪くん、起きた時大変なんじゃ……」

「んー、やっぱり空中(そらなか)さんもそう思う?」

「はい……」

 

 いつの間にか隣にいたミッドナイト先生は、そうねぇ、うんうん、と頷いて、同じく隣にいたセメントス先生に顔を向ける。

 

「じゃあセメントス、柱お願いね」

「アレ本当に造るんですか」

「爆豪くん次第だけどね。じゃあ私は鎖とか手錠とか用意しておくわ!」

「まっ待ってください何をするおつもりですか……!?」

 

 びっくりして尋ねてもミッドナイト先生は軽く笑って『大丈夫よ!』としか言ってくれない。……まあ、これは全国にテレビ中継されているし、こう……NGなことにならないとは、思う。うん、そうだよね。

 とりあえずの納得を得たわたしは、A組のみんなのところへ戻ろうと歩き出した。誰もいない廊下を進む最中、プルルと端末が震える。取り出して表示された名前を見て、わたしは目を丸くした。

 

「、リカバリーガールから……?」

 

 なんだろう、何かあったのかな、と首を傾げながら通話アイコンをタップする。

 

「はい、空中で……」

『すまないね、急に。そっちはトーナメント終わったかい?』

「え? は、はい、今、」

『怪我人の処置は』

「終わって、います」

 

 リカバリーガールの声がいつもとは違って固かったから、応えるわたしの声も固く強張っていく。リカバリーガールは電話越しに、硬質な声のまま続けた。

 

『入学前に渡した書類にあった、【治癒】系“個性”持ちが名を連ねるリストについて、覚えているかい』

「……義務教育を終えた【治癒】系“個性”の者が、緊急時に協力するための、リスト、でしたよね」

 

 ……どうして今、その確認をするのか。それが今、必要なのか。嫌な予感と答え合わせは、すぐにやって来た。

 

『そう、その緊急時の治癒要請が出た。あんたには今から私と共に西東京にある保州市に向かってもらう。そこの病院に搬送された、あるヒーローの治癒をするために』

 

『ターボヒーロー・インゲニウム。……知っているかい』

 

 ひゅ、と喉が鳴る。一呼吸の後、わたしは頷いた。

 ターボヒーロー・インゲニウム。代々続くヒーロー一家に生まれた1人。腕部分にある【エンジン】を噴射し、高速移動を可能とするヒーロー。誰よりも速く現場に駆けつけ、人々を救う、そんなヒーローは、

 

 ──飯田くんの、お兄さんだ。

 

 

 

 

 

 あれから学校を早退したわたしは、校門で待っていたリカバリーガールと見知らぬ男性と女性と合流し、タクシーや新幹線を乗り継いで保州市に向かっていた。見知らぬ男性と女性はインゲニウムさんのサイドキックらしく、わたしたちの護衛と案内をするために来てくれたのだという。

 

「移動しながらで申し訳ないですが、リカバリーガール、カルテに目を通して頂けますか」

「勿論だよ」

 

 新幹線で1時間程。東京駅に着いてからは駅前で待っていたインゲニウム事務所の車で保州市に向かう。その車中で渡されたカルテに目を通したリカバリーガールは、きゅっと眉を寄せた。

 

「……空中、よくお聞き」

「っ、はい」

 

 その表情や声色から、インゲニウムさんの容態が良くないことはわかった。サイドキックの皆さんは気丈に振る舞ってはいるものの沈痛な雰囲気を隠せずにいたから、わたしはびくりと肩を揺らしてしまう。そんなわたしを気遣ってくれたのだろう。リカバリーガールはわたしの肩にそっと手を置いて、宥めるように撫でてくれた。

 

「今回の患者は術後で体力が落ちている。そのため私の治癒は使えない。あんたに頑張ってもらうしかない」

「……! は、い」

「要請に応えた以上、私たちは全力で治癒に当たらなければいけない。あんたにもそうしてほしい」

「も、もちろん、です」

「……だがね、これだけは、覚えておいで」

 

 リカバリーガールは微笑んだ。やりきれぬように。

 

「もし、全力でやって治癒できなかったとしても──それはあんたのせいじゃあない。あんたはまだヒーローになってもいない学生なんだ。決して、荷物を背負うんじゃないよ」

「、ですが……」

「大人の仕事を奪うなんて、生意気を教えた覚えはないよ」

「……っ」

「返事は。空中」

「……は、い……」

 

 厳しい声音は、優しさの証拠だ。わたしは優しく守られている。それなのに震えが止まらないのは、きっと重ねて考えてしまっているから。

 

 過去17名ものヒーローを殺害し、23名ものヒーローを再起不能に追い込んだ、神出鬼没な殺人者。何人ものヒーローを襲ってきたことから、ついた異名が“ヒーロー殺し”。(ヴィラン)名は、ステイン。

 その凶刃に倒れたのが、もし、ホークスだったら?──想像すら背筋を凍らせる。身体の奥側から震えがわき起こって、止まらなくなる。

 想像しかしてないわたしがこんな有り様だ。……実際に、それが間近で現実になってしまった飯田くんの心境はどれほどのものだろう。どれだけ悔しいのか。どれだけ悲しいのか。どれだけ、どれだけ──

 

「……お気遣い、ありがとうございます。リカバリーガール」

 

 ぎゅっと、拳に力が入る。

 

「でもわたし、……頑張ります。頑張らせて、ください」

 

 そう言ったわたしに、リカバリーガールは深く溜め息を吐いて、こつんと軽く頭を小突いた。

 

 

 

 

 

 保州総合病院。その奥まった所にある集中治療室の一室に、彼は横たわっていた。たくさんの管に繋がれ、呼吸器を身に付け、心電計の音が控えめに鳴り続ける静かな病室で、目を閉じ、眠っている。

 

「……インゲニウム、さん……」

 

 呼び掛けに反応は無い。深く眠っているようだ。そのままそっと、ガーゼに覆われた腹部に触れて、エネルギーを注ぎ込む。

 傷はすべて刃物によるもの。頭部の出血も酷いものだったけれど、それは既に手術で縫っているとのことだ。1番の深手は腹部──刀を深く刺し込まれ、背中まで貫通してしまったのだという。そして脊髄を損傷してしまったのだと──

 

「……っ」

 

 脊髄に集中してエネルギーを注いでいるはずなのに、一向に回復する様子が見えない。伝播したエネルギーが他の身体の傷を治していくけれど、断ち切られた神経が、元に、戻らない……!

 

「……空中、」

「嫌、です」

「わかっているだろう」

「……でも、まだ……!」

 

 まだ、治っていない。治せていない。脊髄が損傷したままでは彼の足は、動かない。ターボヒーロー・インゲニウム。誰よりも速く現場に駆けつけ人々を救う、そんなヒーローの足が動かなくなるなんて、そんなの駄目だ。嫌だ。そんなの、

 

「……ヒーローが、終わってしまう……!」

 

 そうならないために、わたしはこの力を使わなければ。

 そうでなければ、わたしは……!

 

 

「もう、……もう、いい。やめてくれ、空中くん」

 

 わたしの腕を掴んだのは飯田くんだった。いつの間にか背後にいたらしい彼は、わたしの腕を掴んで離さない。

 

「飯田くん、っでも……」

 

 抗議しようと振り向いて、舌が止まってしまった。飯田くんの顔は俯きがちになっていて、あまりよくは見えない。それでも髪から覗くその目は、表情は、……絶対に「もういい」なんて思ってなかった。

 だからわたしは、手を振りほどこうとした。再び治癒しなければと身をよじった。やだやだと、子どもみたいに頭を振って。

 

 

「……ごめんな、迷惑かけて」

 

 そんなわたしを止めたのは、ベッドから聞こえてきた声だった。顔を上げると、目が合った。さっきまで眠っていたはずのインゲニウムさんが、静かに微笑みながらこちらを見ている。わたしははっとして、首を横に振った。

 

「迷惑だなんて、思ってません! だから、」

「ん、そうか。じゃあ、」

 

「ありがとう、だな」

 

 ──ありがとう、なんて、そんな言葉が返ってくるなんて思ってなくて、わたしは喉を震わせた。うまく言葉が、出てこない。

 

「救けようとしてくれて、ありがとう。……でも、」

 

 眉を下げて、わたしを宥めるように、笑う。

 

「そのために、君が傷つくなんてこと、あっちゃ駄目だ」

 

 ……ああ、ああ。言葉にならずとも、思いが湧き上がる。

 どうしてこんな優しいヒーローが、傷つかなくてはいけないの。どうしてわたしは、そんなヒーローを治すことができないの。どうして、どうして、……優しい人ほど、笑って痛みを隠してしまうの。

 

「だから、……ありがとうな」

 

 “もういいよ”と、柔らかく遠ざけられるような、そんな優しい拒絶の前に、わたしは泣くことしかできなかった。

 

 

28.少女、決着と。

 

 


 

 無力感とひそかな決意の話。

 ヴィジランテで出てきた飯田くんのお兄さんめちゃくちゃ格好よかったので、きっとこんな状況でも優しい言葉を掛けてくれるんじゃないかなと思いました。すごくいい人だったのに何故ステイン判定に引っ掛かったのか……本当に何でなんでしょうね。

 体育祭編もラストスパート!次の1話で終了です。



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29.大人たち、思惑。

 

「エッ、エンデヴァー体育祭の指名参加するのか!?」

 

 事務所内に響き渡る大声で、バーニンが意外そうに言う。大きな目を丸くして俺を見た後、キドウやオニマーに視線を移した。

 

「昨日の体育祭は見応えあったもんな」

「今年は特に粒揃いだったし」

「んー、けどまァ所長のお目当ては焦凍くんっしょ」

「ああ……」

「ウンそうだな」

 

「おまえたち、何が言いたい」

 

 3人揃って生暖かい目を向けてくるものだから、意図せず声が低くなる。こいつらは昨日シフトの合間に端末で雄英体育祭を観ていたらしく、「所長めっちゃ目立ってたな!」「なんで観客席のエンデヴァーにカメラが寄るんだよ」「意外と親バカだったんすね」などと好き勝手宣ってくれたものだ。いつもは頼りになるサイキックたちなのだが、こうして会話が始まるととにかく姦しい。

 今も3人で顔を合わせ、わいわいと会話を弾ませている。

 

「まァでも焦凍くんは確定として、今年は【治癒】“個性”持ちの子がいたから通常2名までの指名が3名入れられんだよな?」

「じゃあまだ2人……ならエンデヴァー! あの子どうだ? あの【治癒】と【翼】の“個性”のやつ!」

 

 ぴく、とこめかみが動く。それに気づいた様子もなく、確かになぁとキドウとオニマーが頷き合っている。

 

「希少な【治癒】持ちってだけじゃなくて、【翼】で飛べるのいいよな。機動力ある」

「あの羽根を操作して救助活動もしてたしな。確か……第一競技で人も運んでなかったか? やれることは幅広そうだな」

「な! 【炎熱】のデメリット緩和も楽になるんじゃないか! エンデヴァー!」

 

「──あの者の指名はせん」

 

 ぴしゃり、盛り上がった熱をシャットダウンする。切って捨てた俺につまらなさそうな顔をするでもなく、バーニンは曖昧に頷いている。

 

「ふーん、まァあの子はうちの弱肉強食! 下剋上!! って感じのノリには着いてけそうにないかもなー」

「そのノリおまえが筆頭だろ」

「そんなことないない! まず所長からしてアレだから!」

「アレとはなんだアレとは」

「……焦凍くんはどんな子なんだろうなぁ、エンデヴァーに似てるのか?」

「確かに気になるな!」

「出で立ちはシュッとしてたよな。中身は……」

 

 溜め息を吐く。もう話題は焦凍のことに移っている。指名に興味があるのか無いのか……切り替えが速いことを良しとすればいいのか……。

 

「……。」

 

 手元の書類を眺める。“個性”の簡単な概要が書かれた書面の右上には、白い髪に白い肌、白い翼の少女の顔写真が載っていた。それは昨日の体育祭で会った、あの少女だった。

 

『エンデヴァーさん、あなたは……本当に、轟くんでオールマイトを超えることを望んでいるんですか』

 

 “自分の言葉など、あなたにとってはどうでもいいでしょう”と、そんな前置きと共に、俺に訴えるように口にした。

 

『……あなたは、本当は、そんなこと望んでなんかないと思うんです』

 

 俺のことなど何も知らんだろうに、何故、あんなことを言った。

 

『けれど、あなたをずっと見てきた人を、わたしは知っています』

『あなたに人生を救われた人を、あなたに憧れて生きてきた人を、知っています』

 

 怒ったような、悲しんでいるような、苦しんでいるような、悔やんでいるような、……期待、するような、そんな顔で。

 

『あなたがご自分でそう思っている以上に、もっとずっと、あなたは眩しいヒーローなんです』

 

「──フン、……」

 

 何も知らぬ小娘が偉そうに、と、ただ切り捨てられたら楽だった。

 

 

 

 

 

「……ええ、また、何かあれば報告するように」

 

 ピ、と通話を終了した端末を置いて、会長は小さく息を吐いた。そのアイスブルーの目が、すっとこちらに向く。

 

「ごめんなさいね、目良。会話中に」

「構いませんよ。あの子からの報告を把握する方が先決でしょう」

 

 公安委員会所属のビル。その上層に位置するここは、目の前の会長の執務室だ。僕は今その部屋の主と対面し、あの子のことを話している。

 

「体育祭終了後、インゲニウムの治癒に当たっていたんですよね。あの子はなんと?」

「脊髄損傷は治癒できなかったそうよ。他の傷は治癒できていたことから考えると、人間の自然治癒を超えた治癒は不可能といったところかしら」

「脊髄……では、麻痺が残るんですね」

「下半身麻痺。……ヒーロー活動は今後不可能でしょうね」

「……そうですか」

 

 目を伏せて、思いを馳せる。あの子はどんな思いで治癒したのか。治癒できないとわかったとき、どんな思いをしたのか。……今、どんな思いでいるのだろうか。

 僕に心配する権利は無いのかもしれない。それでも、あの控えめな笑顔が曇らなければいいと、ひっそり願う。

 

「話を戻すわ。いいかしら」

 

 俯いた顔を上げる。会長は依然として静かに僕を見ていた。アイスブルー、氷、鉄、……そうしたものを連想させるような表情で。

 

「……はい。あの子の、職場体験のことでしたね」

「ええ、ホークスの元に行かせることにしたわ。あなたにも知っておいてほしくて」

 

 一瞬柄にもなく驚いてしまった。眠気すら飛んでいった。

 

「……理由を、お伺いしても?」

 

 何故あの子とホークスを一緒に行動させるのか。問い掛けた僕に、会長はつと目を細めて口を開く。

 

「いずれあの子が資格を取得し、プロヒーローになった暁には、“こちら”の任務もこなしてもらうことになる。中にはホークスと連携して事に当たる場合(ケース)もあるでしょう。その時に接触しても周囲から怪しまれない関係性を作る。これが今回の狙いよ」

 

 至極当然のように、つらつらと声は続く。

 

「幸い、あの子の【翼】とホークスの【剛翼】は同じもの。『同じ“個性”のヒーローに憧れて』でも、『同じ“個性”だから教わって上達を目指したい』でもいい。指名を受ける理由は何とでもなるでしょう。不自然に思われることもない」

「……ええ、そうでしょうね」

 

 相槌を打ちながら、その合理的な考えに舌を巻く。同時に自分を恥じた。我ながら馬鹿なことを考えたものだ。「会長もあの子を案じてホークスの元へ行かせたのだ」なんて──そんなことは有り得ないだろうに。

 

「とても理に適っていていいんじゃないですかね」

 

 あの子は元々、ホークスに憧れていた。こんな指示がなくたって、ホークスからの指名が来たならあの子は喜んで飛んでいっただろう。今回は会長からの指示ということだから、思うところはあるだろうけれど──久しぶりに共に過ごすことで、あの子がより成長できるのなら、心が軽くなるのなら、それが望ましい。

 目を閉じる。目蓋の裏に、空をゆく赤と白の翼を思い描いた。

 

 

 

 

 

「ええ? ホークス、体育祭指名に参加すると!?」

「珍しかね、いつもは興味なさそーにしとるのに」

 

「まーね! 面白そうな人見つけたんで」

 

 一通りのパトロールを終えると、事務所で書類仕事の時間。いつものようにそれをこなす傍ら、昨日の体育祭について話題を出すと、サイドキックのお2人は予想以上に食いついてきた。

 

「お、気になるってあの優勝者の子?」

「いやァ~、あの子すっごい我が強そうじゃないですか。面白い子ですけど、俺には御し切れませんて」

「てことは2位の……エンデヴァーの息子?」

「ええ、まァ、期待半分ってとこですけどね」

 

 なんとなくウチには来てくれなさそうだけど、と予想しつつ、あと2枚の書類を差し出す。

 

「あとは……そうだなァ、この子とこの子、指名しようって思ってるんですよ」

 

「ああ、3位の!」

「黒い影みたいなん操っとったね。この子も速くて強かったばい」

 

 常闇踏陰くん。今回の1年体育祭で3位に入賞していた子。第3種目のタイマントーナメントを見る限り、“個性”の扱いは素早く強力。素早い攻撃で懐に踏み込ませない戦法で勝ち上がっていた。あの爆豪くんとの試合で判明したように、光には滅法弱いみたいだけど、その相性差が無ければもっといい試合をしていたに違いない。

 

(……少し、“勿体ない”んだけどね)

 

 俺が彼を指名したのは、そんなもどかしさがあったからかもしれない。いや俺が後進育成なんて柄じゃないけど。アドバイスしようと思えるような子かどうかはまだわからんけど。

 そうこう考えに耽っている間に、サイドキックさんたちの話題は次に移ったようだった。2枚目の書類を見て、ぱちくり、目を瞬かせて。

 

「「ああ、やっぱり」」

 

 そんなことを声を合わせて言うものだから、俺はキーボードを打つ手を止めてしまった。半眼で2人を見やる。

 

「……なんです? 「やっぱり」って」

「やってこの子の“個性”、ホークスのと同じやもん」

「気になっとるやろねって、前に話しとったんよ」

「あ~~……お見通しってやつですか」

 

 はは、と笑う。まぁ俺があの子を気に掛けるのはそれだけが理由じゃないけど、そのすべてを明かすわけにもいかない。雄英への申請はしておいてくれるとのことなので、お言葉に甘えて席を立った。執務室を出て、廊下をゆっくり歩きながら端末を取り出す。

 

「……さーてさて、」

 

 あの子はどうしてるかな、なんて思い立ち、端末をタップした。しばらく待つと、鳴り続けていた通知音がふつりと止まる。

 

「お、愛依(あい)、今大丈夫?」

『……ホークス、うん、大丈夫だよ』

「……“大丈夫だけど大丈夫じゃない”って声してる」

 

 電話越しに聞こえてきた声は、取り繕っていても憔悴した雰囲気を隠しきれていない。……どうしたの、何があったの、なんてわざわざ訊かなくても、予想はつく。

 

「インゲニウムさんのこと、後悔してんの」

 

『……、……ちがう、』

 

 少しの躊躇いと、歯を食い縛るような悔しさと決意を声に込めて、愛依は言葉を続けた。

 

『まだ、後悔、しない』

「うん」

『……今は無理でも、もっと、もっと……わたしが頑張って力を上手く使えるようになったら、あの人を治せるようになるかもしれない』

「うん」

『だから、……っだから、まだ、後悔しない。終わってない、終わらせない。あの人も、わたしも、……まだ、頑張る……』

「……そっか」

『うん、……うん……っ』

 

 今まで我慢して、我慢して、その堰がやっと切れたのかもしれない。押し殺した嗚咽に、俺はしばらく相槌を打ち続けた。

 

『……ごめんなさい、また、泣いてる……』

「やっぱ泣き虫だなぁ」

『ごめん……』

「ああ違うよ、責めてるんじゃない」

 

 きっとひとりじゃ、色んなものを押し殺してばかりでしょ。だから、いい。いいんだよ。せめて俺といる少しの間だけでも、

 

「いーんだよ、泣いたって」

 

 そう言えば、愛依は涙まじりに笑った。電話越しだから顔が見えてるわけじゃないけど、でも、わかる。……ほら今、ちょっとムッとした。

 

『啓悟くん、わたしを甘やかしすぎ。駄目だよそういうの』

「ええ、駄目?」

『駄目。……わたしが弱くなっちゃうから』

 

 別にいいのになぁ、とは、口に出さない。それを愛依は望んでいないと知っているから。だから代わりに、意地悪そうに声をつくる。

 

「心配しなくても職場体験では甘やかさないから、覚悟してて」

 

 少しの沈黙。その後に、ああ、と納得の声。

 

『……そっか、もう会長から聞いてたんだ?』

「まーね。そっちも?」

『うん、インゲニウムさんのこと報告する時に』

 

 もう愛依にも会長から指示があったらしい。相変わらず仕事のお早いことで、と考えていた俺に、愛依は続ける。

 

『職場体験で甘やかさないのは当然だよ。わたしもそうしてほしい』

「お、やる気満々だ」

『そうだよ、やる気いっぱいなの。……でも、』

 

 真面目な声色が、ふわりとほころぶ。

 

『……楽しみでも、あるんだ。ホークスがヒーローしてるの、テレビ越しじゃない間近で見るの、初めてだから』

 

 こんなの浮かれてるかな、駄目かな、なんて、声が弾みそうになるのを必死に押さえつけているあの子の様子が手に取るように伝わって、思わず緩みそうになる口元を手で覆った。いやまあ、誰が見てるわけじゃないけど、ね。

 

「…………、」

『? なにか言った?』

「いや? なーんも?」

 

 “あいらしか”、なんて、言えるわけが、

 

「……とにかく、間近で(・・・)、ねぇ。それができたらいいけどね」

『……? どういうこと?』

「はは、それは来てのお楽しみってことで」

 

 さてさて、仕事は仕事。足並みを揃えるほど俺はお優しくはない。愛依も、あの常闇くんも、どこまで俺に着いてこられるのかな。食らいついてきてくれるのかな、なんて。……そんなことを考えるくらいには、俺は楽しみにしているようだ。

 

『そっか、楽しみにしてる。……頑張るからね、わたし』

「……うん、頑張って」

『うん!』

「いい返事」

 

 素直な愛依に、ただ笑ってそう返した。 

 

 

29.大人たち、思惑。

 

 

 

 

 

「……おや、死柄木弔。それは……この前の体育祭の映像ですか?」

「そ。“おさらい”ってやつ」

 

 バーのテレビを借りて、昨日先生と見たあの体育祭をリプレイする。希望に満ちたヒーロー予備軍の戦いなんて嘔吐が出るってのが本音だが、少し、見ておきたいものがあった。

 エンデヴァーの息子と、あのモジャモジャ頭の地味な奴との対戦。先生はこいつらを『いずれ君の障壁になるかもしれない』と言っていたが、その他に、こんなことを言っていた。

 

『──あの【治癒】“個性”、使えそうだね』

 

 試合後、吹っ飛ばされて身体中をぼろぼろにしたモジャモジャ頭に、あの白い羽根の女が駆け寄った。その手が触れると、ぐちゃぐちゃの傷が一瞬にして治ってしまったのを見て、先生は呟くように言ったのだ。

 

『……先生のその傷も、治せそうなのか?』

『どうだろう。試してみないことにはわからないけど……試してみる価値はありそうだ』

 

 【治癒】“個性”は希少だ。その上、実践レベルで扱える者となったら片手の人数で足りてしまう。その筆頭であるリカバリーガールとやらも、既に失った部位については治せないのだという。

 ……先生の失った目、鼻、他にもたくさんの部位を、治すことができるのなら、

 

「……なァ、黒霧、」

 

 ──やっぱり回復キャラって、大事だよな?

 

「ええ、あなたがそう望むのであれば」

「だよな」

 

 まぁちょっとした親孝行?先生孝行をしたって、バチは当たらないだろ、と、ニヤリと口角を吊り上げた。

 

 


 

 体育祭とオリ主に関わる色んな大人たちの動向を書きたくて書きました。炎のサイドキッカーズ好きです。エンデヴァーに従いキッチリ仕事する上で、上司にも言いたいことはしっかり言いそうなところが。

 ホークスのサイドキックも色々動かしたいんですが、名前と個性がわからん!判明させてくれ……!と祈りながら本誌を追ってたんですが、未だわかりませんね。博多ハイエンド戦で鳥っぽい頭の方の人は時空を歪ませてパンチを繰り出してたのを見たんですけど、他はまったく情報がなく……次回からの職場体験編では、捏造設定で臨ませていただきます。ご了承ください。



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職場体験編
30.少女、名付ける。


 

 色々あった体育祭から2日経ち、本日は雨。駅から出て傘を差したところで、とんとんと肩を叩かれ振り向くと、けろりと微笑む女の子がそこにいた。

 

「おはよう愛依(あい)ちゃん」

「梅雨ちゃん……! おはよう」

 

 少し身構えていた気持ちがほっと緩む。そのまま梅雨ちゃんも傘を差してわたしの隣に並んでくれたから、一緒に学校に向かって歩き出した。

 

「何だか羽根、いつもより少なくなってないかしら?」

「あ……羽根、濡れると乾かすの面倒だから、雨の日に移動する時は落としてバッグに入れてるの」

 

 そう言って肩に提げていたトートバッグを軽く叩くと、梅雨ちゃんは納得したように頷いた。

 

「確かに愛依ちゃんの羽根は雨の日大変そうね。濡れるとやっぱり飛びづらいのかしら」

「そうだね、水分吸って重くなっちゃうし、ゴーグルすればマシだけど視界も悪くなっちゃうし……でも、雨の日は嫌いじゃないんだ」

「あら、そうなの?」

 

 そう、雨の日はホークスが「雨宿りしに来た」とか言って来てくれることが多いから、昔から嫌いじゃない。……でもそれは、小首を傾げた梅雨ちゃんには言えないから、わたしは曖昧に笑った。

 

「うん、……梅雨ちゃんは、やっぱり雨好き?」

「けろろ。そうね、しとしと降ってくる雨の音とか、聴いていると落ち着くわ」

「ああ、確かに落ち着くかも……」

 

 傘が視界を守るように覆って、優しく叩く雨の音に包まれて、わたしは静かに息を溢した。身体の緊張がほどけて、頬が綻んでいく。

 

「よかった。少し元気が出たかしら?」

「……、え……」

「今日の愛依ちゃん、何か思い悩んでいるようだったから」

 

 心配していたの、と微笑まれて、わたしは目を見開いた。ただ何気なく話していただけなのに見透かされていたなんて、……胸元を握り締めた。不甲斐なさと、嬉しさに。

 

「理由は、体育祭で注目されたこと? それとも体育祭の後、何かあったの?」

「……両方……が、1番近いかな」

 

 雄英への登校途中で電車に乗った時、沢山の人から声を掛けられた。『雄英体育祭見たよ』と、『【治癒】すごかった』『これからも頼むぞ』『沢山のヒーローや怪我人を治してやってくれよな』──と。

 

「【治癒】“個性”は、それだけ期待されるんだなって……今更だけど、実感したというか……」

 

 だからこそ、治せなかったあの人が脳裏によぎる。切なそうに、宥めるように、優しく笑うインゲニウムさんが、その、笑顔が──

 

「……もっと、頑張らなきゃって、思って」

 

 そう話すわたしに、梅雨ちゃんは優しく「そうね」と相槌を打った。

 

「でもひとりで抱え込んでは駄目よ、愛依ちゃん」

「梅雨、ちゃん」

「私も頑張るわ。だから、一緒に頑張りましょうね」

「……! あ……ありが、とう」

 

 ぶわっと湧き上がる感情が頬を、目頭を熱くさせる。赤くなって緩んだ顔を見せたくなくて、変に力が入って、きっとおかしな顔になっているんだろうな。

 

「どういたしまして」

 

 それでも梅雨ちゃんは、おかしなわたしを笑うことなく、優しく頷いてくれた。

 

 

 

 

 

「超声かけられたよ来る途中!」

 

 A組の教室に入ると、みんながわいわい話していた。みんなわたしのように、雄英体育祭を観た人たちに声を掛けられたらしい。

 

「私もジロジロ見られてなんか恥ずかしかった!」

「俺も!」

「俺なんか小学生にいきなりドンマイコールされたぜ」

「ドンマイ」

 

 嬉しかったり、微妙な気分だったり、感じるのは人それぞれみたいだけれど、注目されているというのはみんな一緒だ。

 

「たった1日で一気に注目の的になっちまったよ」

「やっぱ雄英すげぇな……」

 

 そんな、わいわいがやがやしていた喧騒は、

 

「──おはよう」

 

 相澤先生が教室に入った瞬間ぴたっと止まった。かくいうわたしも条件反射的に口を閉ざして席に着き、みんなと一緒に「「「おはようございます!」」」と言っている。慣れってすごいなとぼんやり思った。

 

「さて早速だが諸君、今日の“ヒーロー情報学”は特別だぞ。

 ──“コードネーム”……ヒーローネームの考案だ」

 

「「「胸膨らむヤツ来たああああ!!!」」」

 

 ある人は叫び、またある人は天高くガッツポーズをした。そんな風にドッッッと沸いた教室を、相澤先生は一瞥で黙らせてから説明を再開した。

 

「というのも先日話した“プロからのドラフト指名”に関係してくる」

 

 曰く、指名が本格化するのは経験を積み即戦力として判断される2、3年生からで、まだ1年生のわたしたちに来た指名は、謂わば“将来性に対する興味”なのだとか。

 

「卒業までにその“興味”が削がれたら、一方的にキャンセルなんてことはよくある」

「大人は勝手だ!」

 

 ダン、と拳を机に叩き付ける峰田くんとは裏腹に、透ちゃんは楽しそうに声を弾ませる。

 

「頂いた指名がそのまま自分へのハードルになるんですね!」

「そ。で、その指名の集計結果がこうだ。

 例年はもっとバラけるんだが……一部に注目が偏った」

 

 轟くん   4223

 爆豪くん  3976

 わたし   3882

 常闇くん   482

 飯田くん   354

 上鳴くん   276

 八百万さん  110

 切島くん   84

 麗日さん   41

 瀬呂くん   20

 芦戸さん   11

 

 相澤先生が黒板に書き出した結果にみんながそれぞれの反応を示す中、わたしはぎゅっと胸元を握り締めた。本当なら、こんなにもたくさんのヒーロー事務所が気に掛けてくださっていることに、感謝や喜びを感じなきゃいけないんだろうけど……今のわたしにはまだ、できそうにない。 

 

(……【治癒】“個性”は、こんなにも求められてるんだ)

 

 この胸に感じる重圧をはね除けられるくらい、いや……バネにすることができるくらい、わたしはもっと、強くならないと。

 

「……かさん、空中(そらなか)さん?」

「っ、ご、ごめん、なに?」 

「いえ、大したことでは……どうかしました? 何か考え込んでいらっしゃったみたいですが」

「ううん、大丈夫。なんでもないよ」

 

 ありがとう、と八百万さんに笑って返す。これができるのはきっと、今朝、梅雨ちゃんに心を軽くしてもらったからだろう。心の中で「ありがとう」と呟いて、相澤先生の話に耳を傾ける。

 

「これを踏まえ……指名の有無関係なく、いわゆる職場体験ってのに行ってもらう。おまえらはUSJで一足先に体験してしまったが……プロの活動を実際に体験して、より実りのある訓練をしようってこった」

 

「それでヒーロー名か!」

「俄然楽しみになってきたァ!」

 

 ヒーローとして現場に立つ。ヒーローとして動く。夢に見た自分に一歩近付くようで、みんなの目がきらきらと輝いた。

 

「まァ仮ではあるがテキトーなもんは、」

「つけたら地獄を見ちゃうよ!!」

 

 相澤先生の言葉を継ぐように、その人はカツカツとヒールを鳴らして進み出た。教壇に立った彼女は、グラマラスボディを惜し気もなく晒している。

 

「この時の名が! 世に認知されてそのままプロ名になってる人多いからね!!」

「ミッドナイト!」

「まァそういうことだ。その辺りのセンスをミッドナイトさんに査定してもらう。俺はそういうのはできん」

 

 寝袋にくるまる準備をしながら、相澤先生は言う。

 

「将来自分がどうなるのか、名を付けることでイメージが固まりそこに近づいていく。それが【名は体を表す】ってことだ。……“オールマイト”とかな」

 

 オールマイト……オールマイティ、とか、すべて、とか。わたしはそんなに沢山のものを背負えるのだろうか。未来の自分を思い描いてみるも、そんなことは不可能のように思われた。

 

(そもそも、まず……わたしはどうなりたいんだろう)

 

 ホークスのようになりたい。ホークスの力になりたい。あの人を、救けたい。──そんなヒーローになりたいという、漠然とした願いはある。でもそれを名前にするって、一体どうしたらいいんだろう。

 

(ホークスに倣って鳥の名前? “イーグル”? “ピジョン”? ……いまいちピンと来ないな)

 

 うんうんと、ああでもないこうでもないと頭を悩ませるも、まったく思い付かない。願いがかたちになる気配は無い。そうこうしているうちに、だいぶ時間が経っていたらしい。

 

「じゃ、そろそろ、できた人から発表してね!」

「「「!?」」」

 

 もう!?それに発表!?と焦るわたしをよそに、青山くんは迷いなく前へ進み出た。事前に渡されていたホワイトボードを高々と頭上に掲げる。

 

「輝きヒーロー・“I can not stop twinkling.”(キラキラが止められないよ☆)!」

「「「短文!?」」」

 

「そこはIを取ってcan'tに省略した方が呼びやすい」

「それねマドモアゼル☆」

 

「い、いいんだ、短文……」

 

 結構自由なんだ……と呆然とする間もなく、青山くんと入れ替わるように芦戸さんがやって来た。

 

「じゃ次アタシね! リドリーヒーロー・“エイリアンクイーン”!」

(ツー)!! 血が強酸性のアレ目指してるの!? やめときな!!」

「ちぇー」

 

 (ツー)?とか血が強酸性のアレ?とかはよくわからないけど、駄目な時はハッキリ駄目と判定されるらしい。教室内が妙な空気に包まれる中、そっと挙がる手があった。

 

「じゃあ次私いいかしら」

「梅雨ちゃん!」

 

 ぴょこ、と教壇に立った梅雨ちゃんは、少し頬を赤らめてホワイトボードをみんなに見せた。

 

「小学生の時から決めてたの。梅雨入りヒーロー・“FROPPY(フロッピー)”」

「カワイイ! 親しみやすくていいわ!!」

 

 ミッドナイト先生の声が弾み、教室中から歓声が上がる。わたしも思わず感想が口からこぼれ出た。

 

「可愛くて素敵……! 梅雨ちゃんに似合うね」

「ありがとう、愛依ちゃん」

 

 にこ、と微笑みを交わし合う。妙な空気が穏やかに変わり、ちらほらと手が挙がり出した。その中の1人が先生に指定されて前に出る。切島くんはキリッと表情を引き締めて、力強くホワイトボードを置いた。

 

「んじゃ俺!! 剛健ヒーロー・“烈怒頼雄斗(レッドライオット)!!」

「“赤の狂騒”! これはアレね!? 漢気ヒーロー・“紅頼雄斗(クリムゾンライオット)”リスペクトね!」

「そッス! だいぶ古いけど俺の目指すヒーロー像は“(クリムゾン)”そのものなんス」

 

 “紅頼雄斗(クリムゾンライオット)”……公安で資料を見たことがある。身体を硬化させる切島くんと似た“個性”を持っていて、(ヴィラン)の攻撃から身を呈して民衆を守る、そんなヒーローだったそうだ。

 

「フフ……憧れの名を背負うってからには相応の重圧がついて回るわよ」

「覚悟の上ッス!!」

 

 ……すごいな、と思う。比較とか、期待とか、そうした重圧を背負う覚悟を、あんなにも迷いなく決められるなんて。

 

(……ホークス……)

 

 わたしは……わたしは、どうしたらいいんだろう。

 再び考えを巡らせる、その間にも、みんなの名前が次々と決まっていく。

 

 音のスペシャリストである耳郎さんは、ヒアヒーロー・“イヤホン=ジャック”。

 【複製腕】を持つ障子くんは触手ヒーロー・“テンタコル”。

 瀬呂くんはテーピンヒーロー・“セロファン”。

 尾白くんは武闘ヒーロー・“テイルマン”。

 砂藤くんは甘味ヒーロー・“シュガーマン”。……“マン”が被ってしまった、と2人は顔を見合わせた。

 

PINKY(ピンキー)!!」

 

 再考を喰らって再提出した芦戸さんは、若干ヤケクソ感があるものの、それでも可愛い名前を考え付いていたし。

 

「スタンガンヒーロー・“チャージズマ”!」

「ステルスヒーロー・“インビジブルガール”!」

 

「いいじゃんいいよさァどんどんいきましょー!!」

 

 上鳴くんが、透ちゃんが、次々に名乗りを上げていく。ミッドナイト先生もテンションが上がる中、わたしの前の席に座っていた八百万さんが立ち上がった。 

 

「この名に恥じぬ行いを」

 

 決意を込めて、静かな声でホワイトボードを示す。そこに書かれていたのは万物ヒーロー・“クリエティ”。それに続いて席を立った轟くんは、いつもの淡々とした表情だ。

 

「“ショート”」

「名前!? いいの!?」

「ああ」

 

 シンプルに本名……そういうのもいいのか、とぼんやり思う。それからも常闇くんの、峰田くんの、口田くんの発表が続いた。

 

 漆黒ヒーロー・“ツクヨミ”。

 もぎたてヒーロー・“GLAPE JUICE(グレープジュース)”。

 ふれあいヒーロー・“アニマ”。

 それぞれの名前に朗らかに笑って頷いていたミッドナイト先生は、爆豪くんのフリップを見た途端、スッ……と真顔になった。

 

「“爆殺卿”」

「そういうのはやめた方がいいわね」

 

 「なんでだよ!!」「あっ爆発さん太郎は?」「だァれが付けるかボケカス!!!」……なんて、爆豪くんと切島くんがわいわい言い合う中、麗日さんがぽっと頬を染めて口を開く。

 

「私も考えてありました……“ウラビティ”」

「洒落てる!」

 

 “うららか”と重力(グラビティ)を掛けているのね、と麗日さんを褒めた後、ミッドナイト先生は教室を見渡した。

 

「思ったよりずっとスムーズ! 残ってるのは再考の爆豪くんと……飯田くん、緑谷くん、それに空中さんね!」

 

 そう言われて、わたしは飯田くんを見た。この席からは彼の俯いた表情は見えないけれど……ペンを持つ手が、震えているような気がする。何かを迷うように、葛藤するように震えて、消して、そうして新たに書かれたのは“天哉”──飯田くんの名前だった。

 

「あなたも名前ね」

 

 みんなの前でそれを見せた時、飯田くんは無言で俯いていた。……いつもの溌剌とした飯田くんらしくない。理由は考えるまでもなく、お兄さんのことだろう。昨日の今日で、気持ちの整理がつくはずもない。

 彼は無言のまま席に戻った。それと入れ替わるように進み出た緑谷くんがホワイトボードをみんなに示すと、教室がざわついた。

 

「!?」

「ええ緑谷いいのかそれェ!?」

 

 教室がざわつくのも無理はない。だってそれは、一般的に蔑称とされるものだから。

 

「うん、今まで好きじゃなかった」

 

 緑谷くんも頷いて、それでも彼の顔は明るかった。

 

「けどある人に“意味”を変えられて……僕には結構な衝撃で……嬉しかったんだ」

 

 あの時のことが脳裏によぎる。初めてみんなと会った日、あの放課後に、麗日さんが笑って告げた言葉を、思い出す。

 ──『頑張れって感じで、なんか好きだ私』

 

「“デク”──これが僕のヒーロー名です」

 

 本来の“意味”を、変える。それに衝撃を受けて、わたしは目を見開いた。そんなわたしを不思議に思ってか、轟くんがこちらを振り返る。

 

「空中は……何か、迷ってるのか」

「うん、ちょっと……でも、思いついたよ」

 

 “空中”というのは公安の人たちから与えられた偽名だ。“名は体を表す”この世の中、わたしの背中に生えた羽根、【翼】の“個性”からして、不自然じゃないようにと考えられたこの名字。ぴったりだな、なんて、当時わたしは驚いたものだ。公安の人がそこまで考えていなかったにしても、“空”というのはわたしに当てはまっていた。……(そら)じゃなくて(から)という意味で、だけれど。

 

(だって……ずっと、そうだった)

 

 わたしを名付けるなら、(そら)じゃなくて(から)だと思ってた。

 それがわたしだと思っていた。わたしはそれでしかないと思っていた。……でも、

 

『空は、いいよ。俺は好き』

『おまえに自由に飛んでほしいし、……空を、好きになってほしいな』

 

 そう言って笑って、小さなわたしに空の飛び方を教えてくれたあの人がいる。わたしに【翼】をくれたあの人は、きっと、わたしに(そら)をもくれた。(から)の中に、(そら)を注いでくれたのだ。

 

 (から)じゃなくて、(そら)

 “意味”を変えられるのなら、わたしだってそうありたい。

 

「わたしの、ヒーロー名は……」

 

 空を飛んで、どこにだって救けに行く。

 そんなあなたに近付けるように。救けとなれるように。

 

「ヒーラーヒーロー・“シエル”」

 

 ホワイトボードの字は小さく、我ながらどこか頼り無さげだ。それでもみんなは笑みを浮かべて、いいじゃん、と言ってくれる。

 

Ciel(シエル)……フランス語で空のことだね☆ 美しいじゃないか☆」

 

 青山くんがキメ顔でそう言って、わたしは笑って頷いた。

 

 

30.少女、名付ける。

 

 


 

 オリ主の席はヤオモモの後ろです。出席番号順に座っていないのは【治癒個性教育プログラム】を受ける関係で教室を移動することが多いから……という設定を今になって思い出しました。

 やっっっと新章突入です!ここまで来れたのは読んでくださる皆様のおかげです。UA、感想、ブクマ、評価、誤字報告などなど、ひとつひとつに元気を貰っています。ありがとうございます!

 福岡での職場体験。ホークスの活躍、オリ主と常闇くんの成長をたくさん書きたいと思っています。また読んでいただければ嬉しいです。



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31.少女、福岡へ。

 

 指名云々の説明を受け、ヒーロー名を決めてから、1週間。職場体験の日がやって来た。コスチュームの入ったケースを持ち、駅に集まったわたしたちをぐるっと見渡し、相澤先生が口を開く。

 

「コスチューム持ったな。本来ならおまえたちは公共の場じゃ着用禁止の身だ。落としたりするなよ」

「はーい!!」

「“はい”、だ。伸ばすな芦戸。くれぐれも先方に失礼のないように! じゃあ行け」

 

 その声を皮切りに、みんながそれぞれの方向へ歩いていく。

 

「楽しみだなぁ!」

 

 声を弾ませたのは透ちゃんだろう。その声も遠く、行き交う人々の波の向こうへ消えていった。駅内にはたくさんの人がいて、その中には「雄英生だ」とこちらをしげしげと見ている人もいる。

 

(……やっぱり、目立つなあ)

 

 ぎゅっとケースの持ち手を握り締めた時、とん、と軽い足音が目の前からした。緑がかった長い黒髪が揺れて、梅雨ちゃんがわたしを見つめていた。

 

愛依(あい)ちゃんはホークスの事務所だったわね」

「うん、だから九州方面。梅雨ちゃんはセルキー事務所だよね? 海難救助や海上保安を中心に活動している……」

「ええそうよ。私も将来は水難に携わるヒーローになりたいと思っているから」

 

 そこで梅雨ちゃんはいつものように口許に指を当てて、けろりと微笑んだ。

 

「愛依ちゃん、よかったわね」

「え?」

「ホークスのところに行けて。目標だったのでしょう?」

「! ……うんっ」

 

 そうだ、初めてUSJに行く時に話したんだった。“わたしとホークスは全然違うけど、ああなりたいって思ってる”って。

 

「……少しでもあの人に近付けるように、頑張ってくるね」

 

 ああなりたい。彼のようになりたい。

 傍にいられる貴重な時間だ。ひとつひとつを糧にしないと。

 そう意気込むわたしを見て、梅雨ちゃんはひとつ瞬き。そうして苦笑混じりに息をついた。

 

「気負い過ぎてはいけないけれど、頑張ろうとする愛依ちゃんは素敵ね」

 

 仕方ないわね、と言わんばかりの声色は、優しい。

 

「梅雨ちゃん……」

「それぞれの場所だけれど、お互い、頑張りましょうね」

「うん……!」

 

 あの雨の日。情けない姿を見せたわたしを、優しく心配して、励ましてくれた。そんな梅雨ちゃんの気持ちが嬉しくて、わたしは頬が緩むのを止められない。

 こんな風に友達に思いやってもらえるというのは、未だに慣れない。慣れる日は永遠に来ないんじゃないかってぐらい、胸がいっぱいになって、あたたかくなる。前に進む力が湧いてくる。

 

(……あの人も、そうだったらいいのに)

 

 梅雨ちゃんを見送って、わたしは視線を彼に向けた。彼──飯田くんは緑谷くんと麗日さんと向き合っている。

 

「……飯田くん、」

 

 眉を下げて、心配を目に滲ませて、緑谷くんが口を開く。

 

「……本当にどうしようもなくなったら、言ってね。

 ……友達だろ」

 

 緑谷くんの隣では麗日さんがこくこくと頷いている。2人ともよく飯田くんと一緒に過ごしているだけあって、飯田くんのことを深く気に掛けている。飯田くんはこの数日、無口ながら気丈に、“いつもと同じように”振る舞っていたけれど、本当は大丈夫なんかじゃないって2人はきっと気付いている。

 友達からの心配は、嬉しい。心があたたかくなる。……それでも、 

 

「──ああ。」

 

 飯田くんは、何も言わなかった。

 何かを堪えるような硬い笑みを浮かべて、緑谷くんたちに背を向けて歩き出した。

 

 ……飯田くんは、大丈夫だろうか。胸元を握り締める。

 彼が職場体験先に選んだのは“保須市”にあるヒーロー事務所だそうだ。何故そこを選んだのか──その意図を察することはできたし、心配もしている。それでも所詮あの人の傷を治せなかったわたしなんかが何かを言うなんてとてもじゃないけどできなかった。

 それに、わたしだってきっと、飯田くんと同じだから──

 

空中(そらなか)

 

 呼び掛けに、知らず俯いていた顔を上げる。そこに立っていた人物は、親指で電光掲示板を指差しながらわたしに告げた。

 

「新幹線の時間が迫っている。行くぞ」

「う、ん、わかった。ありがとう、常闇くん」

 

 頷いて、先導する常闇くんに着いて歩く。

 常闇踏陰くん──同じA組のクラスメイトで、体育祭3位入賞の実力者──今日からわたしは1週間、彼と一緒にホークスの元で職場体験に臨む。

 

 

 

「あの、訊いてもいいかな」

「なんだ?」

「常闇くんは、どうしてホークスの事務所を選んだの?」

 

 静岡県から博多駅までざっと4時間半。到着する頃には昼を過ぎるということで、わたしたちは新幹線内で簡単に昼食を済ますことにした。一通り食べ終えて一息ついて、わたしは気になっていたことを常闇くんに尋ねる。彼はああ、とひとつ頷いて答えてくれた。

 

「ヒーローとなるべく己を高めるには、より高みを見る必要があると感じたのでな。No.3ヒーローから指名が来ていたのは驚いたが、渡りに船ということで乗らせてもらった」

 

 静かな声色の中に、隠しきれない高揚と決意がある。その気持ちはよくわかるからわたしも頷いた。わたしへの指名は……公安からの指示だけれど、それでも嬉しいことに変わりはなかったから。

 

「うん、頑張ろうね。……そうだ常闇くん、よかったらこれ」

「? これは?」

「ホークス事務所が担当している地区全域の地図だよ。地域名とか、知っておいた方が何かと便利かなって」

 

 ホークスの活動は担当地区のパトロールが中心になっていると聞く。事務所で電話を待つだけではなくて、街中に姿を見せることで(ヴィラン)犯罪を抑止する狙いもあるのだとか。

 

(きっと、日がな1日飛び回ってるんだろうなあ)

 

 軽薄そうでいて、その実誰よりも理想が高く、真面目で、自他共に厳しいところがある人だから、ヒーロー活動に妥協を許さないんだろう。そんなホークスを思っていると、知らず知らずのうちに口許が緩んでいたらしい。常闇くんは赤い目をゆっくりと瞬かせた後、フッと笑った。

 

「空中、嬉しそうだな」

「え……そ、そうかな」

「ああ、これからに期待しているのが見てとれる」

「期待……そう、かも。……あああ浮かれちゃ駄目なのに」

「ム? いや、ただ浮かれてるというわけでもないだろう。ヒーロー活動に必要な物の準備もしているのだから」

 

 頑張らなきゃ、という気持ちと、ホークスの元で学べるという嬉しさが胸の中で混ざりあって、いっぱいになって、何だか変なテンションになっているのかもしれない。常闇くんはフォローしてくれているけれど、やっぱりわたし、ふわふわしてる。もっとしっかりしないと。

 

「地図、感謝する。有り難く受け取ろう。

 ……空中、お前に負けぬよう、俺も邁進してみせよう」

 

 だから、そんな風に対等みたい(・・・・・)に扱われるのは違う気がして、わたしは慌てて首を横に振った。

 

「そんな、わたしなんか全然……常闇くんやホークス、サイドキックの皆さんの足を引っ張らないよう、頑張るね」

 

「? ……ああ」

 

 少し引っ掛かったように首を傾げながらも、常闇くんは頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 博多駅はとてもとても大きな駅だった。人の波を遮らないよう、少し早足で改札へと向かう。ビジネススーツを着込んだ会社員らしき人たちに、今日はお出かけだろうか、お洒落なワンピースを身に付けたお姉さんたち。さまざまな人が行き来しているのは、この駅が交通の便もいいし、たくさんのお店が建ち並ぶ駅ビル街でもあるからだろう。

 改札を抜けてしばらく歩けば、街路樹が点在する駅前広場に出た。道路の向こう側には背の高いビル郡が並び、やっぱり都会なんだなあと改めて息をこぼした。

 

「はー……すごい人だね」

「やはり栄えているな。こういう都市部は犯罪数も多いと聞く」

「うん確かに……これだけ人が多いと、どうしてもそうなっちゃうだろうね」

 

 常闇くんの言葉に頷きながら思う。……そんな街でヒーローをやるって、どんな感じなんだろう、と。

 脳裏に彼を思い浮かべながら、鞄からメモ帳を取り出した。ぱらぱらと捲って、目当てのメモを探り当てる。

 

「……うん、とりあえずバスターミナルに向かおうか。そこの15番線から出るバスに乗ったら……」

 

 メモの内容を確認していたから、わたしは俯いていた。

 だから気付くのに遅れた。──炸裂するような、光に。

 

「キャアァァァァァ!!!」

 

「……、っえ!?」

「空中、向こうだ!」

 

 響いた轟音。地を揺らす衝撃。視界の外れでカッと広がった光。一拍置いて聞こえてきた悲鳴。それらの情報を繋げるより先に、駆け出した常闇くんを追い掛けるように、わたしも走り出していた。悲鳴を上げて逃げて行く人の波に逆らうように、爆音が聞こえてきた地点に向けて走る。

 駅前広場の外れ。ジュースの自動販売機とベンチが幾つか並んでいるそこを中心に、何人かの人が遠巻きに輪になって固まっていた。その人混みに紛れて様子を窺おうとすると、押し殺した泣き声が聞こえてきた。4、5歳ぐらいだろうか。小さな女の子が、コンクリートにへたり込んで泣いている。

 

「……どうしたの? 何があったの?」

「ぅ、ぐっ、おかあざん、おがあざんがぁ……っ!」

 

 かがみ込んで背中を擦ると、大きな目からぼたぼた涙を流しながら、その子は訴えるように口にした。震える手が、人混みの中心部分を指差す。いち早くそちらを確認した常闇くんは、眉間に皺を寄せて目を細めた。

 

「常闇くん、」

「……女性が1人、拳銃を持った男の足元で倒れている」

「……!」

 

 それを聞いた瞬間、女の子の体が震えて、ぼろりと大粒の涙が溢れた。……常闇くんの言う“女性”がこの女の子の“お母さん”なのだとわかって、わたしは歯噛みする。女の子を宥めるように抱き締めながら、考えを巡らせた。

 

「おいヒーローは!? まだか!!?」

 

 男を取り囲んでいる人たちがそんな声を上げているのだから、ヒーローは現着していない。それでもあんな大騒ぎを起こしたのだから、駆け付けるまでそう時間は掛からないだろう。だとすれば、今は男を刺激しないよう、待つしか──

 

「さっき通報したから、もうヒーローが来る!! アホなことすんな!!」

 

「! 待っ……」

 

 まずい、と思ったその瞬間、男が顔を上げた。ぐるんと白眼が剥いて、噛み締めた口許には泡が浮いている。明らかに常軌を逸しているとわかるその男は、言葉にならない呻き声を上げて拳銃を握り締めた。ダァン!!と轟く発砲音と共に、コンクリートが割れて破片が飛び散る。

 それと同時にコンクリートがぼこりと隆起した。まるで生き物のように蠢いて、観衆の足元が盛り上がる。わあ、と悲鳴を上げて転がり体勢を崩す人の向こうで、コンクリートが波打ち──倒れていた女性が空中に打ち上げられているのが見えた。

 

 スローモーションのように、それはゆっくりと見えた。

 打ち上げられた衝撃に顔を歪ませる女性。

 女性の腕から流れる血。

 沸騰した水のようにボコボコと無数の凹凸をつくるコンクリート。……もしも女性があのまま落ちてしまえば、骨折はおろか、それ以上の大怪我は免れないだろうと、そのこともわかってしまった。

 

 この思考が何秒の間だったのかはわからないけれど、

 ──気付いた時、わたしは既に背中の羽根を飛ばしていた。

 

黒影(ダークシャドウ)ッ!!」

 

 常闇くんも女性を救けるべく自身の影を飛ばす。

 常闇くんと黒影(ダークシャドウ)の黒に、わたしの白。2つの色は立ち塞がるコンクリートを避けて空を進み、投げ出された女性の元へと向かう。

 

 けれど彼女には届かなかった。

 届いたのは、青空によく映える、真っ赤な色。

 

 

「はーい、そこまで」

 

 

 呑気そうな声とは裏腹に、そこからは一瞬だった。

 落ちそうになっていた女性を受け止める。(ヴィラン)の持っていた拳銃を弾き、それを拾い上げる。動揺した(ヴィラン)に羽根の弾丸を喰らわせ昏倒させ、がくりと力の抜けた身体を持ち上げ拘束する。──それらはすべて、宙を舞う赤い羽根によって一瞬で成されたことだった。こんなにもたくさんの羽根を同時に、速く、精密に操れる人を、わたしは1人しか知らない。

 

「ホークス……」

 

 わたしの呟きは、わあっと湧き上がった歓声に掻き消された。(ヴィラン)が昏倒したことによって隆起していたコンクリートも元に戻り、空から降り立ったホークスに、人々が笑顔を向ける。

 

「ホークス! よう来てくれたな!」

「さっすが【速すぎる男】! (ヴィラン)なんて一瞬たい!」

「いやいやー……遅くなってすんませんね。あっ、そこ! (ヴィラン)を護送するまでは近付かないで待っててくださいね」

 

 わいわい、がやがや。歓喜の声が広がっていく中で、ホークスは事後処理をしようとしているのだろう。そんな声を羽根が拾う。

 その横をすり抜けるように、女の子が走っていった。赤い羽根によって地面に優しく降ろされた女性の元へ。おかあさんの元へ。

 

「おかあさん、おかあさんっ!!」

「……ああ……よかった……怪我は? 無い……?」

「ないもん! ないっ! ……でもおかあさんがぁ……っ」

 

 女性の右肩はあの(ヴィラン)の拳銃で撃たれたのだろう傷があった。血が流れるその肩を左手で押さえながら、女性は大丈夫よと笑ってみせる。その額には脂汗が滲んでいて、きっと痛みは相当なものだろう。でも“お母さん”は笑っている。我が子を安心させるために。

 

「……おねえちゃん?」

「? あなたは……」

「……今からのこと、どうか、秘密にしてください」

 

 そんな様子を見ていたら、見ているだけではいられなかった。わたしは女の子の隣で膝をつき、女性の右肩に触れる。ぬるりと指先で感じる血の感触に目を瞑り、エネルギーを注ぎ込んだ。治癒の感覚からして、銃弾は貫通している。だからそのまま破かれた血管を、筋肉を、皮膚を再生していく。目を開けると、完治した傷跡が見えた。そして目を真ん丸にしている母子の姿。

 

「すごっ、」

「しー、だよ。……ごめんね、できる?」

「……!」

 

 大声を上げかけた女の子を制すると、女の子はわたしと同じように口許に人差し指を立て、こくこくと頷いてくれた。それから周りをきょろきょろと見渡した後、わたしに耳打ちする。

 

「おねえちゃん、ありがとう……っ」

 

 耳元を擽るような、それでも嬉しさが溢れるような声に、わたしも頬が緩んでしまう。

 ……でもこれは、本当は駄目なこと。いけないこと、だ。

 

「人として、困った人を見捨てず助けることができるのは、いいことだね」

 

「でもヒーローの卵としては減点だよ。理由はわかる?」

 

 そう、背後に降り立った──ホークスの言葉通り、わたしのこれは“減点対象”なのだ。ゆっくりと振り返ると、ホークスは静かに笑ってこちらを見下ろしている。こちらを、見定めるかのような(・・・・・・・・・)目で。

 

「……超常黎明期、世の中に“個性”が溢れて、それによる犯罪が増加した。犯罪係数の増加、治安の悪化──国家は“個性”の使用を制度化することで、それを食い止めようとした。社会の平穏のため、特別に“個性”を使うことを許された存在、それが、」

「【ヒーロー】。うん、よくわかってるね」

 

 にこ、と笑うけれど、目は笑っていない。

 

「まだ仮免も取っていない君たちは、監督者もなしに公の場で“個性”を使うことは許されない。わかるね?」

「……はい……申し訳、ありませんでした」

 

 ホークスの言葉は、正しい。頭を下げるわたしの隣で、常闇くんが進み出た。

 

「お言葉ですが、ホークス。申し上げたき儀がある」

「っ、常闇くんっ?」

「おや、なにかな?」

 

 常闇くんの声が明らかに怒りを孕んでいたから、わたしは慌てて常闇くんを、ホークスを見た。それなのにホークスは面白そうに目を細めるばかりで、常闇くんの眉間に皺が寄る。

 

「空中が女性を治癒しなければ、女性の痛みは続いていた。治癒したことが間違いだとは、思えません」

「“個性”の種類で特別扱いをしては、社会を乱すよ」

 

 正論だ。それは常闇くんもわかっているのだろう、ぐっと悔しそうに口をつぐんだ。そんな彼をどこか嬉しそうに見つめてから、ホークスは笑みを消した。

 

「でも君の言うことは一理あるね。怪我を負わせたままなんて許されない……もっと言えば、そもそも怪我を負わせてはいけない」

 

 すっと目を細めて、ホークスは口にする。

 

「そしてその責任は、君たちではなく、ヒーローにある」

 

 ホークスはわたしたちの会話を見守っていた親子に向き合った。座り込んだままのお母さんと、寄り添う女の子に目線を合わせるように膝をついて、……頭を下げた。

 

「救助が遅くなってしまい、怪我を負わせてしまったこと、申し訳ありません」

 

 呆気に取られたように言葉を失っていた女性は、下げられたホークスの頭を見て、ハッとして首を横に振った。

 

「そんな……! あの(ヴィラン)はいきなり発砲してきたんです。ホークスが謝る必要はありませんよ。間に合うはずがないんですから」

「それでも、ですよ。……この書類を持って警察へ届けてください。(ヴィラン)被害保険が降りますんで」

 

 さらりと署名を入れた書類を渡し、お辞儀をしながら去っていく親子を見送る。そんなホークスの横顔は、微笑みながらも、苦しそうだった。まるで、救けられなかったことを悔やんでいるみたいに。

 あの女性の言う通りならば、女性が撃たれるより先にヒーローが駆け付けることなんて不可能だ。予知でもしないかぎり、あの女性を救けることはできない。不可能だ。なのに、

 

「……ヒーローは、全部、背負わなくちゃいけないの……?」

 

 こぼれた疑問に、ホークスは、“ヒーロー”は頷いた。

 

「そうだよ」

 

 へらりと笑う、その裏に、どんな覚悟を抱えているの。

 

「遅くなったし、ゴタゴタに巻き込んじゃってごめんね。

 俺はホークス。ようこそ、歓迎するよ──雄英生」

 

 よく知っているはずの人が、どこか遠くに感じる。そんな不安を掻き消すために、わたしは、胸元を強く握り締めた。

 

 

31.少女、福岡へ。

 

 


 

 福岡へ、ホークスの元での職場体験が始まりました!原作ではホークスが何でもかんでも解決してしまうため「特に何も」なかった常闇くんですが、この物語ではオリ主ともども事件に関わります。そのため常闇くんのイベントが前倒しになるというか、若干の常闇くん強化が入ります。ご了承ください。



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32.少女、誓う。

 

「いやあ、来て早々に災難やったねぇ」

 

 事件後、居合わせたわたしと常闇くんはホークスから事情聴取された。その後は駆け付けた警察やサイドキックたちが事件現場を後処理をすることとなり、その手伝いとしてわたしたちはなんだなんだと見に来る街の人を誘導する役割を担い──すべてが終わってホークスの事務所に着いたのは、夕方に差し掛かる頃だった。

 事務所の応接間でソファーを勧められ有り難く腰を下ろす。ふかふかの感触に、知らず知らずのうちに張り詰めていた息がほっとほどけた。どうぞ飲んで、と差し出されたコップを受け取り、ありがとうございます、と返す。常闇くんも頭を下げて、また顔を上げた。

 

「御気遣い痛み入る。しかし我々は未熟者ゆえ、少しでもヒーローの活動に携わる機会を得られたのは僥倖です」

「はい、その……ひとつひとつが貴重な経験なので、わたしたちのことはお気になさらないでください」

 

「……聞きました? めちゃくちゃいい子たち……」

「今時の若者って礼儀正しいんやね……」

 

 口許に手を当ててそんな会話を交わすのは、ホークスのサイドキックらしい。そんな会話を聞きながらホークスは「みんな真面目だなあ」と笑っている。彼らが全員それぞれの飲み物を持ってソファーに着いたのを見計らって、ホークスが切り出した。

 

「さて、改めて……今日から職場体験ということで、雄英から2人来てくれました。まずは自己紹介からしようかな」

 

 どうぞ、と手を差し向けられて、先んじて口を開いたのは常闇くんだった。彼はびしりと姿勢を正す。

 

「雄英高校1年A組在籍、常闇踏陰と申します。此度の職場体験、ヒーローとなるべく研鑽を積みに参りました。よろしくお願い申し上げる」

「わたしは、空中(そらなか)愛依(あい)といいます。常闇くんと同じく、雄英高校1年A組です。……その、頑張ります。よろしくお願いします」

 

 常闇くんに倣って深く頭を下げると、頭上からふふ、と笑声が降ってきた。ホークスが頬杖をついて、にんまりと笑っている。

 

「初々しいというか、お堅いなァ。もっと砕けていいのに」

「……え、と……」

 

 なんと返せばいいかわからず、まごつく。からかわれてることにむっとすればいいのか、笑顔が見られたことに喜べばいいのか、……判断できないまま、頬ばかり熱くなる。

 

「ホークス! 茶々入れんの」

「やだなぁ、単なるコミュニケーションですって」

 

 わたしが困ってると思ってか、間に入ってくださったサイドキックさんにへらりと笑って、ホークスは続ける。

 

「じゃあまあ、続き。といっても俺のことは知ってるみたいだから手短に──ホークスです。一応この事務所の所長をやってます。だから職場体験中は君たちの保護者になりますんでよろしく」

 

 ホークスが視線をやると、サイドキックさんたちが心得たとばかりに頷いた。ひょいと片手を上げたのは、トーガに似たヒーロースーツを纏った男性。

 

「俺はエスパースっていうんよ。ホークスのサイドキックを務めとる。そんでこっちは、」

「シンセンス。同じくサイドキックだよ、よろしくね」

 

 シンセンスさんはフルフェイスメットを被っていて、こちらから表情は見えないけれど、声の調子は穏やかで明るかった。ほっとしながら、改めてよろしくお願いしますと挨拶を交わす。

 

「君たちには1週間、同じようにヒーロー活動をしてもらうから、お互いの“個性”は知っておいた方がいいね」

 

 一通りの自己紹介を終えたわたしたちを見渡して、ホークスは羽根を広げた。鮮明な真っ赤な色が、視界を染め上げる。……胸が熱くなるような、赤い色。

 

「俺の“個性”は【剛翼】。1枚1枚を操ったり、固く鋭く形状変化させることで武器にしたりすることができる。これは……空中さんも同じだったね」

「、はい」

 

 “空中さん”という呼び掛けに、気を取り直して頷く。そうだ、ここではわたしとホークスは“初対面”なのだから、そういう風に振る舞わないと。

 わたしが答えると、エスパースさんとシンセンスさんがほー……と腕を組んで頷いた。

 

「体育祭でも観たけど、ほんまに一緒なんやねぇ」

「改めて思うけど便利やね」

「あっ、でもい、一緒というには……わたしなんか全然、スピードもパワーも緻密性も、ホークスさんには遠く及ばないです」

「いやホークスと比べたらあかんよ」

「こん人規格外やからね」

「なーんか人聞き悪くないですかぁ?」

「気のせい気のせい」

 

 慣れたようにイタズラっぽく笑って、エスパースさんがわたしと常闇くんに向き直る。

 

「俺の“個性”は【空間接続】。離れた空間と空間を瞬時にくっつけることができる──これだけやとわかりづらいやろし、実践するね」

 

 そう言った途端、何気なく掲げたエスパースさんの肘から先が消えた(・・・)。いや、消えたのではないと一拍置いて気付く。エスパースさんの肘を包むように空間に穴が開いていて、その穴に突っ込んだエスパースさんの肘から先は、自分から離れたところ──ホークスの隣で手を振っていた。別々の空間を穴で繋いで、そこに手を伸ばすことができる……それがエスパースさんの“個性”!

 

「すごい……!」

「なるほど……相手の視覚外からの攻撃が可能なのですね」

「そういうこと。ただまぁ、色々制限はあるんやけどね」

 

 たはは、と照れたように笑いながら、次々、とエスパースさんは隣に手を差し出した。それを受けて、シンセンスさんが頷く。

 

「そうですね、じゃあ俺は……折角だし当ててもらおうかな」

 

 そう言うと、彼はわたしと常闇くんに握手するように手を差し出した。なんだろう、と首を傾げつつ、手を重ねる。そっと触れたその瞬間──目の前が真っ暗になった。今までいたはずの応接間から、上と下も右も左も、何もかもが暗闇に覆われた空間に放り出される。

 

「え……!?」

「!? なんだ、俺をどこかへ転送したのかっ?」

「と、常闇くん? いるの……?」

 

 今まで座っていたソファーも、隣に座っていた常闇くんも、何もかもが掻き消えていた。それなのに隣──常闇くんがいたところからは声が聞こえる。いるのかどうか確かめたくて手を伸ばしても、なにも掴めない。なんの感触もない(・・・・・・・・)

 

「空中!? ッくそ、一体何がどうなって……」

 

 ぎりっと歯噛みする音も聞こえるのに、何も見えない(・・・・・・)。これがシンセンスさんの“個性”なのだろうけど、どんな“個性”なのか、焦りと混乱でうまく頭が回らない。なんだろう、どうしたら、と困り果てていたその時、声が響いた。

 

「フミカゲ!! チガウ! シッカリシテ!」

黒影(ダークシャドウ)?」

「フミカゲドコニモイッテナイ! そふぁー二座ッテルダケ!」

「なに……!?」

 

「……転送では、ない。ということは、」

 

 何の感触も感じられず、何も見えない。──これは、

 

「わたしたちの触覚と視覚を……感覚を、封じた?」

「正解」

 

 ぱちん、と指を鳴らす音がした。その瞬間、先ほどの応接間の風景を視界に捉えた。隣にはびっくりした顔をした常闇くんが同じソファーに座っていて、ホークス、エスパースさんが微笑んでこちらを見ている。

 

「ちょっと驚かせてしまったかな。ごめんね」

 

 そしてシンセンスさんが、ぺこりと頭を下げた。

 

「俺の“個性”は【感覚操作】。自分や対象の視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を操作することができる。今みたいに相手の感覚をシャットダウンして動きを封じたり、逆に五感を鋭敏にして探索に役立てたり、やね」

「……強力な“個性”、ですね」

「まぁエスパースさん同様、俺も制限があるんよ。触覚は、相手に触れなきゃ操作できない、とかね」

 

 制限があるといいつつも、エスパースさんもシンセンスさんも、様々なことに応用が効く“個性”だなあと改めて思う。そんな風に呆けていたわたしをよそに、ホークスは常闇くんを見て目を細めた。

 

「それにしても面白いね。その黒影(ダークシャドウ)ってのは常闇くんの意識とは別に存在してるのか」

「はい、……普段は俺の意思で制御していますが」

「へぇ」

 

 目を細める。笑みを深める。面白そうなものを見るような顔で。

 

(……珍しいな)

 

 いつも飄々としているホークスの、そんな表情を引き出せる人はほとんどいない。それでも、高みから見物されてると感じたのか、常闇くんの表情は固かった。それにまた、ホークスはくすりと微笑む。

 

「じゃあ今紹介し合ったこのメンバーで今後1週間活動していきます。基本的にはいつもと同じ業務に、雄英生2人も参加してもらうから、そのつもりで」

 

「御意」「はい」

「「ええ……?」」

 

「……?」

 

 即座に頷いた常闇くんとわたし。そして怪訝そうなエスパースさんたちの声が重なった。なんだろう、と視線を向けたわたしに、何でもなかよと優しく笑ってくれる。……この優しげな反応を見るかぎり、わたしたちを邪険に思ってるようには思えないのだけど……。

 

(なんだろう、何か、あるのかな)

 

 わたしたちが一緒に業務に就くことに、思うところがあるのかな。そんな思考を遮るように、サクサクとホークスは話を進めていく。

 

「でも今はもう夕方近いし、そうだな……他の事務所ではヒーロー活動の内容や仕組みを教えたりもしてるって言ってましたね」

「そうやね」

「じゃあ1日目はそれにしましょ。んでもって、明日からは通常通りってことで」

 

 そうと決まればすぐに行動、と言わんばかりににっこり笑ったホークスが、【剛翼】でホワイトボードやペンを運んできた。それにわたしたちも慌ててノートと筆記用具を用意して──そうして1日目は座学を詰め込んで終わった。

 

 

 

 

 ヒーローは公務員ではあるけれど副業が許されている。実務の基本は犯罪行為の取り締まりで、逮捕協力や人命救助等の貢献度を専門機関に申告し、それによって歩合で給金が支払われる──そういったことは公安にいた頃も習っていたので、すんなりと頭に入ってきた。

 それなのに眠れずにぼうっとしているのは、他のことが気にかかっているからだ。宛がわれた部屋のベッドで寝返りを打ちつつ、ぼんやりと部屋内を見渡す。

 ホークスの事務所は応接間にホークス用の執務室、簡単なキッチンにシャワールームもついていて、仮眠用だという個室も幾つか用意されていた。その個室の1室を使うように言われたのだけど、仮眠用というには立派というか、ビジネスホテルの1室みたいだった。ユニットバスに洗面台、小さな冷蔵庫までついている。

 

(確か廊下には、自販機もあるって言ってたっけ)

 

 そう説明を受けたことを思い出し、体を起こした。どうにも眠れないから、散歩がてら飲み物を買ってこようと、部屋のドアノブに手を掛ける。

 

「……うん?」

 

 扉を開けると、ちらりと赤い色が視界を横切った。ふわりと宙に浮いたそれは、赤い羽根──ホークスの【剛翼】だ。【剛翼】はすいと宙を滑るように動き、廊下の向こうを指し示す。まるで、わたしを案内するかのように。

 

「……ホークス、さん?」

 

 ふわ、と肯定するように動いた【剛翼】を追って、わたしは廊下を歩いた。壁はガラス張りになっていて、まだ眠りに就いていない街並みの灯りを見下ろせた。騒がしい夜の街。それでもビルの上階に位置するここは、しぃんと静まり返っている。

 

「お、来た来た」

 

 そんな不思議な夜の中に、ホークスは立っていた。

 

「どうかなって思ってたけど、まだ起きてたんだ」

「……はい。少し、眠れなかったんです」

「ああ、いーよ敬語じゃなくて」

「? でも、」

「大丈夫。今ならね」

 

 【剛翼】が幾つか個室の方へ飛んでいく。確かに【剛翼】を忍ばせておけば、誰か来たらすぐに感知するだろう。でも、

 

「……【剛翼】の無駄遣いじゃ?」

「ええ? だってずっと堅苦しい話し方じゃ肩凝るでしょ」

「わたしは、べつに大丈夫だもの」

「あらら、お堅いなァ」

 

 わざわざ“個性”を使うなんて、疲れちゃうだろうからやめてほしい。……そう言えばいいのに、わたしの口からは可愛くない台詞ばかり出てしまう。……いや違う、駄目だ。こんなことが言いたいんじゃない。もっと言うなら、“やめてほしい”も違う。

 

「……うそ、だよ」

 

 絞り出した声は小さく頼りない。自分自身に叱咤して、ちゃんと言え、と声を励ました。

 

「本当は、いつものように話せて、嬉しいの。……ありがとう、啓悟くん」

 

 ちらりと見上げたその先で、ホークスはふわりと微笑んでいた。なんだか恥ずかしくなってしまって、熱くなった頬を誤魔化すように首を横に振る。

 

「あっ、もちろん勤務中は別だからねっ? しゃんとしなきゃいけない時はするもの、わかってるからっ」

「はいはい」

 

 くすくすと面白そうに笑って、ホークスは自分の背後を指差した。

 

「立ち話もなんだし、座ろ。飲み物もあるよ」

 

 そこには背もたれのないソファーと自販機があった。いつか公安のビルでしたやり取りを思い出しながら、わたしは頷く。

 

「うん、……あっ、コンポタある」

「やっぱそれか。相変わらず好きだねぇ」

「いいの。……あれ、ホークス、コーヒー飲むの? 眠気覚めちゃうんじゃない?」

「んー、まだ少しやりたいこと残ってるから」

「……いつもこんなに遅くまで仕事してるの?」

「いや? 今日はちょっとね」

 

 ピッ、ガコン、と出てきた缶をそれぞれ受け取って、ソファーに腰掛けた。隣に座ったホークスの横顔を見上げる。……今日のあれこれで仕事が増えたのだろうかと、申し訳なさが溢れてくる。

 

「……あの、ホークス。今日は、ごめんなさい」

「それは、何に対して?」

「昼間の……あの女性に、許可なく“個性”を使ったこと」

 

 ホークスは静かに目を伏せた。そうして、ゆっくりと口を開く。

 

「こんな話を知っているかな」

 

 ホットコーヒーの缶を弄びながら、彼は話を切り出す。

 

「ある作業員がビルから転落した。それを、とあるヒーローを目指す少年が“個性”で受け止めようと、救けようとした。……ここまでなら美談だね。自分のできることをして、人を救けようとしたんだから」

 

 話す声が段々と冷えていくのがわかる。だから、この話がただの美談で終わらないのだと、わかった。

 

「けれど綺麗には終わらなかった。──その少年の“個性”は救けに入ろうとしたヒーローの行動を阻害してしまった。結果として転落した作業員は全治6ヶ月の大怪我。救けに入った勇敢な少年は、ヒーローの救助活動を妨害したとして、“公務執行妨害”が適用された」

「……、それ、は……」

 

 なんと言ったらいいのか。どうにもやりきれない話だった。ただ“人を救けたい”と、善意からの行動の結果は“公務執行妨害”──前科がついたその人は、ヒーローには、きっと……。

 

「“個性”は多種多様だ。それを勝手に使うことは──善悪はどうあれ──自分や相手の未来を閉ざすことに繋がる。理解できるね」

「……はい」

「ん、いい返事。……だけど愛依、今日俺がおまえを諌めたのは、それだけが理由じゃないんだよ」

「え……?」

 

 顔を上げる。視界に映ったホークスの顔は強張っていた。その表情の理由がわからず戸惑っていると、彼は難しい顔のまま口を開く。

 

「状況を伝えておくよ。今日逮捕したのはあの地面を隆起させる“個性”持ちの男。今時珍しいヤクザ者だったよ。……ヤクザのことはわかるよね?」

「昔裏社会を取り仕切っていたっていう……今は指定(ヴィラン)団体として監視されてる人たち、だよね?」

「そ。その下っぱが“個性”を増幅強化させる麻薬(ドラッグ)を使って暴走。女性を傷つけ、コンクリを操作し、危害を加えようとした」

「う、ん。……、?」

 

 どこか違和感を感じて、発言と今日の出来事を思い返す。あの拳銃を所持していた男は地面を隆起させる“個性”。麻薬(ドラッグ)を使ったというのも、あのおかしな様子から納得できる。……あの時わたしは、常闇くんと一緒に、目を焼くような閃光(・・・・・・・・・)を見て、現場に駆けつけて──

 

「……捕らえたのは、1人、なんだよね?」

「そうだよ」

「……その男は拳銃を持っていたよね。閃光手榴弾とか、そういったものは持っていなかった?」

「持っていなかった」

 

「じゃあ、あの閃光は、」

 

 なんだったのだろう。……誰の、“個性”?

 

「捕らえたのは1人。でも、同じ現場に居合わせた者が──同じ現場にいたにも関わらず、逃げおおせた者がいた可能性が高い。あの(ヴィラン)の行動も……ヒーローや民衆の目を引き付けるための囮って考えれば納得できる」

「……その逃げた人がわたしたちの姿を見ていると、それを心配しているの?」

 

 わたしの問いに、ホークスは頷く。そして、

 

「……愛依」

 

 少しだけ苦しそうに、微笑んだ。

 

「おまえの力は、誰かを救けることができる。でも同時に、やろうと思えば、色んな悪巧みに使えるものでもあるんだよ」

 

 切々と語りかけるホークスの声が、降り積もるようにわたしの中に落ちてきた。すとんと落ちて、じわりと広がる。これからの不安や、これからを案じてくれる嬉しさで、熱を持ちそうになる眉間をぐっと引き締めた。

 

「わたし、ちゃんと、正しくこの力を使うよ」

 

 それがきっと、優しいこの人に報いる方法だと、信じている。

 

「悪用もさせない、絶対に。……大丈夫だから、見ててね、啓悟くん」

 

 決意を固めるべく、ぎゅっと拳を握り締める。そんなわたしにふっと笑って、ホークスはわたしの髪をくしゃりと撫でてくれた。

 

 

32.少女、誓う。

 

 


 

 めちゃくちゃ更新遅くなってしまって本当に申し訳ありません!!!待っててくださった方、ここまで読んでくださった方に無限大感謝です。

 タイトルや展開、サイドキックさんたちの設定に悩みまくって難産でした。その甲斐あってサイドキックさんたちのヒーロー名は気に入ってます。ネーミングセンスが無いのは置いておくとして……。でも後半のホークスとの会話はとても楽しく書きました。これからもっと格好いいとこ書いていきたいです。願望です。



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33.少女、憧れる。

 

 見慣れない部屋、嗅ぎ慣れない寝具の匂いに、少しそわそわする心地で目が覚めた。ペットボトルの水を喉に流し込み、顔を洗って意識をしゃっきりさせる。窓から見える街並みも起き出していて、通勤途中の人々が行き交っていた。

 

(……今日からここで、職場体験)

 

 この福岡の空を、あの人と飛ぶのだ。

 嬉しいような、緊張するような、どきどきと騒ぐ胸を宥めるように、そっと深呼吸した。

 

 

 

「じゃあ朝礼ね、おはよーございまーす」

 

 それから、コスチュームに身を包んだわたしたちはみんなで朝食を摂った。それぞれがひと心地着いた頃、徐にホークスが間延びした声で話し始める。

 

「今日から雄英生もいるし、まずは1日の流れを確認しとこうか。基本うちの事務所は積極的にパトロールを行っています。この事務所に帰ってくるのは飯時だね。休憩と書類作成等を兼ねて」

「それまでは街で見回りを続ける、と?」

「なるべく多くヒーロー(俺たち)の姿を見せて、犯罪の抑止になるようにね。あと、少しでも速く現場に向かえるように」

「なるほど」

 

 納得し、深く頷いた常闇くんとわたしを見て、ホークスは何かを手渡した。小さなイヤーカフのような、これは……、

 

「……インカム?」

「そ。これないと連絡できないし」

「? 別行動……手分けしてパトロールするんですか?」

 

「あー……」

「うん、まあ、手分けではあるね」

「? それって、」

 

 歯切れの悪いエスパースさんたちの様子に疑問を持つも、それに「どういうことですか」と問い掛ける時間をホークスは与えない。てきぱきと話を進めていく。

 

「そうだね。常闇くん、空中さん、君たちはエスパースさんとシンセンスさんと一緒に行動してもらうことになるから、2人の指示をよく聞いて」

「はっ、はい」

「了解した、が……ホークスは別動隊なのか」

「うん? ああ、」

 

 そうだね、とホークスはすっと目を細めた。

 微笑むように、試すように、わたしたちを見据えた。

 

「やることは一緒だよ。ただ、それぞれの速さが違うだけ」

 

「……え?」

「それは、どういう、」

 

 

『──救援要請! こちら北区の✕✕✕番地、引ったくり犯が逃走中! 60代女性のハンドバッグを強奪し【疾走】の“個性”を使って逃走中! 繰り返す──』

 

「ホラ来た。お仕事だ」

 

 インカムから流れてきた情報に、ホークスはソファーから立ち上がった。剛翼がローテーブルの上に置かれていた食器を流し台に運んでいく。その間にも彼はゴーグルを装着し、窓を開け放っていた。赤い羽根が、朝の風にばさりと広がる。

 

「それじゃあ、頑張って」

 

 ふっと笑って、彼は窓から身を踊らせた。空中で体勢を立て直し、翼をはためかせ、上昇する。

 そんなホークスに驚くことなく、エスパースさんたちはまたか、と眉を吊り上げた。

 

「あっ、こらホークス! まぁた窓から出て!」

「行儀悪か!」

「すみませーん。先に行かせてもらいますねー」

 

 悪びれた様子もなく謝って、ホークスはひとつ羽ばたき、あっという間にビルの間に消えていく。もう豆粒ほどに小さくなった後ろ姿に、はぁ、と溜め息を吐いた。

 

「まったく……いっつも窓から飛んでいくんよね」

「さあ、追いかけ……」

 

 そんなお2人の横をすり抜けるようにして、わたしは駆け出していた。開けっ放しだった窓から、ホークスと同じように宙に身体を投げ出す。

 

「空中ちゃん!?」

「空中!」

「すみません、わたしも空から行きます……!」

 

 ばさりと翼を広げて、ホークスを追って飛び出した。朝のひんやりとした空気が頬を打つ。ゴーグルを着けているから向かい風でも視界は良好だ。……それなのに、ホークスは見えない。あの背中が、あまりに遠い。

 

「ッはあ、はあ……っ」

 

 羽ばたく。翼で生んだ気流に乗って、風を捕まえて更に強く、速く──わたしにできる全速力で飛んでいるはずなのに、距離は埋まるどころか引き離されているように感じる。

 

『間近で……、ねぇ。それができたらいいけどね』

 

 あのホークスの言葉の意味が、今ならわかる。

 俺に着いてこられたら(・・・・・・・・・・)って、そう言っていたんだ。

 

 ぜいぜいと息を切らしながら通報にあった場所に降り立つ。ホークスはひったくり犯を追ったようでここにはいない。それでも、被害者だろうおばあさんが腰掛けているのは【剛翼】で作った椅子だった。右足は、捻ったのだろうか。動かさないようにこれまた【剛翼】で固定させている。

 

「あれ、君は……雄英の?」

「はっ……はい、ホークスさんのところに職場体験で来ています。ヒーロー名はシエルです」

「おお、そうやったんやね!」

 

 おばあさんの側についていた警察の方に挨拶をして、許可を得ておばあさんの怪我を診る。バッグを引ったくられた時に転倒したそうで、足首を捻挫していた。腫れや痛みはあるものの靭帯は切れてはおらずほっとする。

 そうして手を当てた。伸びてしまった靭帯を、切れてしまった血管を治すべく、エネルギーを注ぎ込む。幸いにもそう深い傷ではなかったから、すぐに完治できた。顔を上げると、おばあさんがびっくりしたように目を丸くしてから、ふわりと微笑んだ。

 

「ありがとうねぇ、かわいいヒーローさん」

「かっ、かわいいとかそんな……あの、痛みはもうないですか?」

「大丈夫だよ、ああそうだ、飴食べるかい?」

「よかっ……え、や、待っ、あのそんなに頂くなんて申し訳ないです……!」

「いいからいいから」

 

 はい、と渡される飴玉が手のひらの上に降り積もっていく。それがちょっとした山になる頃。わたしが困りきってテンパりまくっていた頃。

 

「あはは! せっかくのご厚意だよ。受け取っておきな」

 

 頭上から笑声が聞こえて、振り仰ぐとそこにホークスがいた。いや、ホークスだけじゃなくて、ひったくり犯であろう気を失っている男性が【剛翼】で吊るされている。そしてホークスの腕には、婦人用のバッグ。

 

「ああ! 私のバッグ……!」

 

 ホークスから受け取ったバッグの中身を確認して、ほう、と安堵の息をこぼしたおばあさんは、一枚の封筒を取り出した。その中から手紙と、小さな男の子が写った写真が出てくる。おばあさんは心の底から嬉しそうに、皺をくしゃくしゃにした。

 

「孫からの手紙でねぇ……絶対に無くしたくなかったんだよ。本当に、ありがとうねぇ、ホークス」

「どーいたしまして」

 

 軽い口調のくせに、写真を見つめるおばあさんを見やる、その眼差しが優しい。柔らかく緩んで、よかった、と安堵して、自分のことのように喜んでいる。そんなホークスは、次いでインカムに入ってきた通信に表情を引き締めた。すっと、猛禽の鋭さをもってわたしを見つめる。

 

「さて、次の仕事だよ。息つく間も無いけど、頑張れる?」

「っやれます!」

「いい返事」

 

 ニッと口角を持ち上げる、その笑みは強い。

 それから瞬きをひとつする間に、もうホークスは空高く飛び立っていた。それを見上げるわたしの後ろから、エスパースさんたちが駆けつける。

 

「あー、もう行きよった」

「さすが、速かね」

 

 ホークスを見上げながら呟く彼らの言葉に、わたしは大きく頷いた。速い。強い。器用で、優しくて、すごい。……すごい!

 

「すごい、なあ……!」

 

 思わずこぼれる笑みを、今は抑えきれなかった。

 

 

 

 

 それから、何件かの救援要請が入ったけれど、そのほとんどすべてをホークスが捌いていた。誰よりも速く現場に駆けつけ、誰よりも速く解決してしまう。

 

「遅いですって」

 

 わたしたちが追いつくと、既にホークスが強盗事件を起こした(ヴィラン)を取り押さえていた。(ヴィラン)が持っていたのだろうアタッシュケースも、武装していたのだろう包丁も、【剛翼】が拾い上げている。意識を飛ばした男性の四肢が、ふらりと宙に揺れている。

 

「完庭那のバーで客が暴れてるらしいから次そこで! 事後処理よろしくお願いしまーす」

 

 ホークスはそう言い残して、電柱から飛び立っていった。それと同時に息を切らして追いついた常闇くんに、エスパースさんが振り返る。

 

サイドキック(オレら)はほぼ後始末係でね。ホークスは速すぎるもん。やけんこの形が一番効率的とよ」

 

 なるほどなあ、と頷く。確かにホークスの性格を思うと“みんなで足並み揃えて行こう”って感じじゃないもの。それなら彼はきっと、市民の被害を抑えるべく誰より速く飛び続けるはず。

 

「……嬉しそうだな、空中」

 

 そんなことを考えていたら、常闇くんにそう指摘された。驚いて声が揺れてしまう。

 

「えっ、そ、そうかな?」

「ああ。目が輝いている」

「そ、そっか……」

 

 そんなにわかりやすかったかな、と頬を両手で叩きながら俯く。

 

「……ホークスは、わたしの、憧れで、」

 

 顔の熱を冷ましたいのに、胸の奥がずっと、熱い。

 

「だからその活動が間近で見られて、やっぱりすごいなあって、改めて思って……。……ううん、駄目だね、気持ちを引き締めないと」

 

 ぱん、と両頬を打って顔を上げる。気を取り直してエスパースさんたちに従って事後処理を行った。

 

 

 

 (ヴィラン)の警察への引渡し、現場の補修の手続き、被害者へのケア──事後処理だって立派なヒーローの仕事だ。それがなければ社会はやっていけない。それは誰だってわかっているはずだ。

 

 でも、ずっと──ずっと(・・・)それに終始するというのは、また別の気持ちが沸き上がってきたのだろう。

 

 

 

「……。」

 

 1日の業務を終えて、夕食を食べ終えてから、常闇くんはずっとむっつり黙り込んで、なにかを考え込んでいる。個室に向かう廊下の途中で、わたしは意を決して口を開いた。

 

「……あの、常闇くん?」

「! すまん、なんだ、空中」

「ううん、その、どうかしたのかなって、気になって……」

 

 立ち止まってこちらを振り返った常闇くんの、その赤い目を見つめる。

 

「……今日の活動のこと、気にしてる?」

「……、ああ」

 

 少しだけ躊躇うように沈黙してから、常闇くんは思いを話してくれた。

 

「相手は数多いるヒーローたちの中でNo.3に君臨し、【速すぎる男】と称される猛者。わかってはいた、……わかっていたつもりだったが、今日は改めて突きつけられた心地だ」

「突きつけられ、た?」

「彼我の、実力差を」

 

 淡々とした口調の裏に、じわりと悔しさが滲んでいる。

 

「ホークスの【剛翼】は、パワーもスピードも精密性も凄まじいの一言に尽きる。今日のヒーロー活動は、それこそ、“何でもやっていた”。“何でもひとりでこなしていた”。……たったひとりで」

 

 ホークスは、すごい。アカデミー生であるわたしたちと力量が違うのは当たり前だ(・・・・・)。だからこそ、わたしはぎゅっと拳を握った。言わなければいけないことを、言わなければと。

 

「ホークスと常闇くんを比べる必要なんて、ないと思う」

 

 わたしの言葉に、常闇くんはじっとわたしを見た。それに促されるように、言葉を続ける。

 

「わたし、今もまだ、本当に全然できてないけど……昔はもっとどうしようもなかったんだ。何かしようにも、何もできなくて、何かを成し遂げる力もなくて……」

 

 思い出すのは、わたしが今よりずっと小さかった時のこと。力も全然制御できなくて、痛くて苦しくて、何も上手くいかない自分が悔しくて、泣いてばかりだった頃。

 

「そんな時ある人から、『まずは手札を増やそう、強くしよう』って教えてもらったの」

「手札……とは、“個性”のことか?」

「そう、“個性”で出来ることを考えて、いろいろやって、選択肢を増やせって」

 

 いつかの時、ホークスが教えてくれた。【翼】で出来ること。その、可能性。

 

「例えばわたしの【翼】だけど、最初は“音を聞き取る”使い方なんて思いつきもしなかった。可能か不可能か試そうなんて、そんなこと、思いもしなかった」

 

 いやだって本当、“羽根の振動数を感知して聞き取る”ってなに?そんなこと『出来そう!』って思って試してみるってどんな発想力なの?──と、未だに疑問に思うけど、でも、それが大事なんだ。

 

「その時に思ったんだ、“個性”は本当に多種多様で、やろうと思えばわりと何でもできるんだなって」

 

 大切なのは、『この“個性”で何が出来るか』じゃなくて、『この“個性”でどんなことがしたいか』なんだ。

 

「常闇くんの黒影(ダークシャドウ)だってそうだよ! スピードもパワーも兼ね揃えているんだもの、もっともっと……わたしなんかより、やれることがたくさんあるはずだよ」

 

 だって常闇くんの凄さは、USJでも体育祭でも見てきた。(ヴィラン)や強敵に怯むことなく立ち向かい、黒影(ダークシャドウ)で困難を打破していく様を。

 

「常闇くんは、どうしたい? ……どうなりたい?」

 

 常闇くんは、こんなところで立ち止まる人じゃない。

 そう信じてるから、わたしは問い掛けた。

 

「わたし、的確なアドバイスなんてできないけど、話を聞くことなら……一緒に考えることなら、できるから」

「俺は……、」

 

 はっと目を見開いてから、彼は思案に目を伏せた。そうして、ゆっくり話し出す。

 

「……課題は機動力だ。もっと速く動けるようになりたい」

「うん、わたしも」

 

 今日ずっと飛んでいたけど、一度もホークスには追いつけなかった。初動の速さ、加速、速度を持続する……どれにしたってわたしはまだまだ未熟。わたしも頑張らなきゃな、と決意を固めながら、常闇くんの課題について考えを巡らせた。

 

「機動力、移動、速さ、か……」

 

 常闇くんの戦闘スタイルについて回想する。彼の戦闘は中距離から黒影(ダークシャドウ)による素早い攻撃を主軸にしていた。黒影(ダークシャドウ)を飛ばしている間、常闇くんはその場に立ち止まっているから、あまり移動ってイメージはないけど……そうだ。

 

「……体育祭の障害物競走で見たけど、黒影(ダークシャドウ)を使って移動の補助をしてたよね。あの巨大ロボを飛び越える時とか」

「ああ、あれか。そうだな、黒影(ダークシャドウ)自体の移動力は高いからな」

「……?」

 

 常闇くんの返しに小さな違和感を感じた。首を傾げて、その疑問を口にする。

 

黒影(ダークシャドウ)は常闇くんの“個性”だから、常闇くんそのものだよね?確かに、常闇くんと黒影(ダークシャドウ)は別の人格を持ってるから、同じだって考えづらいかもだけど……」

 

 わたしの何気ない言葉に、常闇くんは目を見開いた。

 

「俺と黒影(ダークシャドウ)は、一心同体……同一なるもの……」

 

 そんなことを、呟いて。彼はフッと笑った。

 

「空中。お前の指摘のお蔭で、光明が掴めそうだ」

「へっ? も、もう?」

「ああ、感謝する」

「いや、感謝なんて……こんなことで閃けるなんて……それはもう常闇くんがすごすぎるんだよ……」

 

 ……なんだかこう、発想力というか閃きの差に愕然としてしまったけど……でも、常闇くんが晴れ晴れとした表情になっているから、わたしも嬉しくなって笑った。少しでも役に立てたなら嬉しいなと、頬が緩む。そんな時。

 

「じゃあそんな若人たちに朗報!」

「トレーニングルームに案内するばい!」

 

「ム!?」

「え、エスパースさん、シンセンスさんっ?」

 

 突如として廊下の曲がり角からエスパースさんたちが飛び出してきた。お二人に話を伺うと、今日の業務を終えてからの常闇くんを心配してくださっていたらしい。

 

「ホークスは容赦なかけんね」

「でも学ぶところは多い人だから、きっといい刺激にもなる。トレーニングするってなら大歓迎だよ!」

 

 そうして通されたトレーニングルームは広く、……飛行も想定されているのか、天井もビル4階分ほど高かった。投影装置を使えば、移動するポインタを狙って攻撃する練習も出来るとか。

 

「すごい、こんな……いいんですか?」

「よかよか! 未来あるヒーローの卵の助けになれたら嬉しかもん」

「何から何まで……感謝致す」

「ありがとうございます……!」

「うん、どういたしまして」

 

 エスパースさんとシンセンスさんは、頭を下げるわたしたちに優しく笑ってから、

 

「ええ~いいなあ、俺も行っていいですかぁ?」

「駄目に決まっとるやろ」

「俺らは仕事! ほいサクサク書類捌く!」

「うえ~~……」

 

 ひょこっと現れたホークスの首根っこを掴んで歩き出した。シンセンスさんに引っ張られるホークスはげんなりと肩を落としていたけれど、わたしと目が合うとにこっと笑った。

 がんばれ、と、口の動きだけで伝えてくる。

 

「鍛練に注力できるのも、学生の特権といったところか」

「うん、……そうだね」

 

 常闇くんに頷きながら、わたしも拳を握り締めた。そうして改めて思う──わたしたちは、守られている。優しいヒーローたちに。だからこそ、彼らに追いつけるよう、頑張らないと。

 

「頑張ろう、常闇くん」

「ああ」

 

 決意を新たに、わたしたちは頷き合った。

 

 

33.少女、憧れる。

 

 


 

 ホークスやサイドキックさんたちのやり取りめちゃくちゃ楽しく書けましたが、博多弁って難しいですね……いつも翻訳サイトにお世話になってます。それでも変なところはあるでしょうがふわっと軽い気持ちでご覧いただきたいです。

 サイドキックさんたちの言動や“個性”は原作の様子から想像を膨らませて書いているのですが、だいぶオリキャラと化しているので、設定を活動報告の方にまとめました。もしよろしければご覧ください。

 最後になりましたがいつも閲覧、評価、ブクマ、感想などなどありがとうございます!ひとつひとつがとても嬉しく、励みとなっております!次回もまた読んでいただければ嬉しいです。



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34.少女、前兆。

 

 職場体験、3日目。昨夜の特訓を経て少し身体に疲れが残っている、もっと言えば翼や背中辺りがだるい。漏れ出そうな欠伸を噛み殺して、ぐうっとひと伸び。

 

「眠そうだな、空中(そらなか)

「ふあ、常闇くん……! お、おはよう」

「おはよう」

 

 朝の身支度を終え、コスチュームに着替えた常闇くんも、今から朝食を摂りに応接間に向かうらしい。気の抜けたところを見せちゃった、と恥ずかしい気持ちになりながらも、廊下を歩く彼の隣に並ぶ。

 

「よく眠れなかったか?」

「そんなことはないけど、少し疲れが残っちゃってるのかな……? 常闇くんは?」

「問題ない。体調も良好だ」

「……そっか、よかった」

 

 なんとなくだけど、それは嘘なんじゃないかなって思った。廊下を歩く常闇くんの、その表情にほんのりと翳りがある気がする。あくまでなんとなく、だけれど。

 それでも追及しなかったのは、常闇くんの目に意気込みを感じたからだ。頑張ろうと、決意している。昨夜の特訓で身につけた技を試そうと、それでホークスに食らいつこうと──

 

「今日も、頑張ろうね、常闇くん」

「ああ」

 

 決意とともに頷き合う。その気持ちは確かだ。

 ……でもそれがいつだって、すぐさま結果に結び付くとは限らない。

 

 

「纏え、黒影(ダークシャドウ)……!!」 

「アイヨ!」

 

 顕れた黒影(ダークシャドウ)が、常闇くんの身体を包み込む。元々中長距離攻撃を得意としていた常闇くんは、懐に入り込まれる近接戦闘が苦手だとも言っていた。今回の課題とした機動力の向上に、弱点の近接・フィジカルをカバーする──その2つを解決するために、常闇くんは考え、閃いた。

 黒影(ダークシャドウ)の戦闘力も機動力も高い。

 ──ならばそれを、我が物としたらいいのだと。

 

「“深淵暗躯”!」

 

 外套のように黒影(ダークシャドウ)を纏った常闇くんは、生身の時より格段に上がった脚力で跳躍した。道に建ち並ぶ街灯を足場に、飛ぶように跳び、渡っていく。

 

「ツクヨミくんキバるなあ!」

「伸びしろですね、昨日の今日で!」

 

 エスパースさんたちのそんな声が聞こえたのか、先を行くホークスがこちらを振り返った。高みから、見下ろしてくる。そうして、

 

「へえ」

 

 ふ、と笑った。

 ……なんだろうな、わたしはホークスがこういう時に人を小馬鹿にするような人ではないと知っているし、あの笑顔も「やるじゃん」って頑張りを認めている時のそれだと知っているんだけど、なんだかこう……客観的に見ると、物理的だけじゃなく心情的な意味でも“高みから見下ろされてる”と感じてしまう。

 きっと常闇くんもそうだったのだろう、ギリッと歯噛みする音を羽根が拾う。ダンッ!!と強く踏み込んだ足音は、ホークスに追い付こうとする決意と悔しさの表れなのだろう。

 けれど力み過ぎたのか、再度強く踏み込もうとしたその姿がぶれた(・・・)。影が揺れて、身に纏ったはずの黒影(ダークシャドウ)が剥がれて──身体のバランスが崩れる。

 

「……ッ!」

「! 常闇くん!」

 

 空中(くうちゅう)で体勢を崩した常闇くんを、羽根で受け止める。そのまま街灯の上に下ろすと、彼はひとつ息を吐き出した。

 

「すまん、空中……助かった」

「ううん、わたし、こんなことしかできないけど……」

 

 大したことはできないけど、少しでも力になれたら嬉しい。そう、思ったから。

 

「サポート、するよ。大丈夫。焦らずいこう」

「…………、」

「? 常闇くん、どうかした?」

「……いや、……何でもない。すまん」

 

 常闇くんがなにか言いたげにしていたけど、口をつぐんだ理由がわからなかった。彼が「何でもない」と言うならそうなんだろうと曖昧に頷くだけだった。だから、

 

「アア? ナンだヨオメー、随分ト余裕綽々ダナァ?」

 

「……え?」

 

 常闇くんからひょこりと顔を覗かせた黒影(ダークシャドウ)の言葉に、目が点となってしまった。理解が追いつかないまま、意味を聞き返す間もなく、常闇くんは黒影(ダークシャドウ)を引っ込めてしまう。

 

「控えろ! 黒影(ダークシャドウ)!」

「エー!? チェっ、ナンダヨウ」

 

「あの、常闇くん……」

 

 今のは、と問い掛けたわたしに、常闇くんは「何でもない(・・・・・)」と繰り返した。

 

「すまんな、空中。黒影(ダークシャドウ)の戯れ言だ。聞き流してくれ」

「……うん」

 

 何故わたしが“余裕綽々”だと思われたのかわからなかった。その意味を聞き返す勇気がなかった。だからわたしがこの言葉の真意を知るのは、もう少しだけ後のこと。

 

 

 

 

 

 No.3ヒーロー、【速すぎる男】、……そうした肩書きはホークスが着実に積み上げてきた実績によるものだ。そのヒーローとしての活動を、この4年間、福岡の人々は見てきたんだと、

 

「ホークス!」

「ホークス~~!」

 

 そうわかるほどに、ホークスに向けられる歓声は大きかった。本日8件目となる事件を解決して、居合わせた人たちにファンサするホークスを眺めながら、わたしは頬をほころばせた。

 下校途中の小学生だろうか、飛び上がってホークスに呼び掛けるたび、背負ったランドセルがばたんばたんと跳ねる。わたしと同い年か少し年上のお姉さんたちからは、きゃあきゃあと黄色い声も上がっている。甲高い声だけじゃない、少し野太い低い歓声は、店先から拳を掲げる板前さんのものだ。ネクタイを締めたサラリーマンの男性も、子どものように目を輝かせている。

 

「……愛されてるんだなあ、」

 

 わたしに近しいと感じていた人は、遠い福岡の地でたくさんの人に受け入れられていた。No.3にまでなった人だもの、わかっていたけれど、改めて直にそれを目の当たりにすると深く実感する。それに寂しさを感じるも、嬉しさの方が大きかった。サインを書いてあげたり、一緒に写真を撮ってあげたりするホークスの顔は、「ファンサは慣れたもの」と言わんばかりの涼しさがあったけれど、瞳の奥に光があった。……ホークスが喜んでいるんだと、わかった。

 

「……よかった」

 

 そんな輝かしい場所から視線を移すと、夕方の薄暗さに染まった路地裏が目に留まった。そこに、1人の男性が、ずるずると身体を壁に預けている。

 

「! あの、大丈夫です、か……」

 

 反射的に駆け寄って声を掛けると、その人はしばらくの沈黙の後にのろのろと顔を上げた。その顔に──傷跡に、息を飲んでしまう。

 顔の大部分はケロイドで覆われていて、青黒く変色していた。一般的な黄色人種の肌色の部分は、……移植したのだろうか、継ぎ接ぎになっていて繋ぎ目にはピアスが幾つか付けられていた。第一印象は、“痛々しい”。この人の素性も事情もわからないけど、何とかしなければと、わたしは思ったのだ。

 

「あの……! お兄さん、傷に少し、触れてもいいですか?」

 

 意気込むあまり、よくわからない言い方になってしまった。首を傾げるお兄さんに、慌てて言い直す。

 

「えと、その、わたしは【治癒】の“個性”を持っていて、患部に触れることで怪我や病気を治すことができるんです。だから、」

「……? あァ、俺のこの傷のことか」

 

 やっと納得がいったかのように頷く、お兄さんの表情に痛みはなかった。「傷を治したい」「治さなければならない」という意思が感じられなかった。それでようやく、わたしは自分が先走っていたことに気づく。

 

「え、と……すみません、具合が、悪そうに見えて……」

「それで? 心配して来たってのか」

 

 は、と笑う。嗤うといった方が正しいかもしれない。

 

「お優しいこった」

 

 お兄さんはそう言って、路地裏をぐるりと見渡した。

 

「だけどこんな路地裏に1人で来るもんじゃないな。それに“個性”についてベラベラと……目ェつけられても知らねぇぞ」

「……え? 他にどなたかいるんですか?」

 

 お兄さんは路地裏の先をじっと見ていたから、わたしも同じように視線を追う。そこには夕暮れの闇が蹲るばかりで、人影は見えない。少なくともわたしにはそうだった。

 

「……いや。俺の気のせいだったみたいだ」

 

 お兄さんも緩く首を横に振った。その目が路地裏の闇からこちらに戻ってくる。黄昏時、薄暗い路地裏、黒づくめの服、無造作な黒髪──どこか暗いところを思わせるお兄さんだからこそ、その目が印象的だった。まるで、そこだけが夏の太陽に照らされた海であるかのようだった。

 

「なんだ? じっと見つめて」

「え、あっ……す、すみません! 不躾でした……」

「別に構わねェが、何をそんなに見てた? 誰かに似てたりしたか?」

「いや、そ、の……」

 

 そのエメラルドブルーが、とてもとても、碧くて、

 

「あなたの目が、とても綺麗で、びっくりして……」

 

 しどろもどろになりながらも、正直に口にする。そんなわたしを無感情に見つめる、その数秒の沈黙が痛かった。じりじりと刺されるような視線に縮こまっていると、ふぅん、と声。

 

「新手のナンパか」

「ナンっ……!? ちが、違います! ごめんなさい本当に重ね重ね失礼を……!」

 

 そんな風に思われていたなんて!!と慌てるわたしも、初対面の方にナンパまがいなことを言うわたしも、さぞ滑稽だったのだろう。くく、と喉でわらわれて、わたしは恥ずかしくて申し訳なくて頬を赤くするばかりだった。そんな時。

 

「なーにしてんの」

 

「! ホークスさん……!」

 

 振り返ると同時に、肩を掴まれて後ろに下がらされる。たたらを踏みながらお兄さんたちの方を見ると、ホークスの背中が見えた。赤い翼が、まるでカーテンのように視界を覆っている。

 

「保護者さんか」

「そんなとこです。すんませんね、うちのが何かしました?」

「いいや? 和ませてもらったよ」

「ほ、本当に、すみませんでした……」

 

 ホークスの剛翼に遮られてうまく見えないけれど、その人が背中を向けざまに、ふっと淡く笑ったような気がした。

 

「じゃあな、未来のヒーローさんよ」

 

 彼はひらりと後ろ手に手を振って、路地裏の闇に消えていった。

 こんな、職場体験中の、何でもないような一幕の出来事。わたしが先走って変なことを口走って恥をかいたってくらいの出来事だと、思っていた。この時のわたしはまだ、あんな再会が──あんな未来が待ってるなんて、思いもしなかったんだ。

 

 

 

 

 

 一通りのパトロールを終えて、事務所に帰ってきた時、それは鳴り響いた。わたしの端末からビー、ビー!と、まるで警告音のように叫ばれるのは、いつもの着信音じゃない──“治癒個性保持者リスト”に送られる治癒要請時の着信音だ。突然のことに身体をすくませるわたしの肩を、誰かが叩く。

 

「スピーカーにして」

 

 ホークスの冷静で端的な指示に、わたしは頷いて従う。画面をタップすると、緊張で引き締まった声が流れ出た。

 

『【治癒】“個性”保持者に申請します。現在西東京保州市にて、脳無と思われる(ヴィラン)が3体出現。ヒーローが応戦中ですが、怪我人を多数確認。保州市総合病院へと搬送中。怪我人の治癒を要請します。なお現在山梨、東京間の新幹線で事故が起きた関係で、一部交通機関が麻痺しており──』

 

 つらつらと知らされる現状に、わたしはひゅ、と息を飲む。そうして隣で聞いていたホークスに向き直った。

 

「ホークス、さん、わたしを保州に向かわせてください」

「そう思う理由は? きちんと説明して」

「……っ先月、雄英の施設内部に(ヴィラン)が入り込んで、その中に脳無もいました。あれが3体も街で暴れているのであれば、被害は甚大なはず。一刻も早く、治癒に向かうべきです」

 

 USJでの出来事は、まだ記憶に新しい。あんなモノが街中で暴れたら、建物や、人への被害は──命を落とす人がいたっておかしくない。そう思うと背筋が凍る気がした。それに、……保州には、今、

 

「先ほどの通信で、山梨、東京間の交通機関が麻痺しているとありました。現在雄英高校に……静岡県にいるリカバリーガールも、到着できないか、できても遅れることでしょう。でも、わたしなら【翼】がある。許可を頂けたなら、飛んで、いけます!」

 

 保州には今、──飯田くんがいる。

 お兄さんがヒーロー殺しに襲われたあの地で、きっと、どうしようもない気持ちに駆られている。

 嫌な予感がして、握り締めた手の中が汗でぬめる。それを強く握り締めることで誤魔化しながら、わたしはホークスを見つめた。彼はわたしを、静かな目で見下ろしている。

 

「脳無は、君の手には終えないと思うけど? 君に危険が及ぶ」

「戦闘にならないよう、回避します!」

「絶対に戦闘には関わらない? 病院での治癒に専念できる?」

「できます!」

 

 だから早く、と目で訴えると、ホークスもまた視線で答えた。「仕方ないな」「頑固なんだから」と、その仕方なさげな眼差しが語っている。

 

「わかった。まァ、元々治癒要請を受けるか否かは、特別の場合を除いて本人の意思に委ねられるからね。俺が君の行動を阻害することはできない」

「じゃあ……!」

「うん。俺も一緒に行くよ」

 

「……えっ?」

 

 ぽかん、と口を開けてしまった。そんなわたしにおかしそうに目を細めて、ホークスは言う。外しかけていたゴーグルを再び身に付けながら。

 

「治癒要請は君が受けるもの。でも、今君が、このホークス事務所に職場体験として来ている学生だってことも忘れないで」

 

 ゴーグル越しの目が、優しく、わたしを見ている。

 

「君を守るのも、俺の役目だってことだよ」

 

 その、言葉に。目頭が熱くなるのを必死で堪えた。

 わたしの勝手に巻き込んでしまうことへの申し訳なさとか、本当は脳無の暴れる街に飛んで行くことへの不安が解かされた安堵とか、守ろうとしてくれることへの嬉しさとか、……いろんな気持ちが一気にやってきて、溢れそうになる。

 

「……ごめんなさい、ホークスさん」

「“ごめん”は要らないかな」

「っ、……ありがとう、ございます……」

「どーいたしまして」

 

 軽い口調。軽い笑み。それがどこまでも、わたしの心を軽くする。俯いたわたしの肩をぽんと叩いて、ホークスはエスパースさんたちに向かって眉目を引き締めた。

 

「じゃあそういうことで、俺は空中さんに着いて保州に向かいます。エスパースさんとシンセンスさんには、今日の事務処理と、常闇くんのこと、そして明日俺たちが戻るのが遅れた場合、通常通りのパトロールをお願いします」

「任せろ」

「うん。こっちは心配せんで、気をつけて行っておいで」

「あ……ありがとうございます……!」

 

 頼もしげに了承してくれたシンセンスさんと、優しく笑ってくれたエスパースさんに頭を下げる。そのわたしの耳に、たたたと駆け寄る足音が聞こえた。

 

「空中!」

「常闇くん! ごめんなさい、いろいろ勝手に決めて……」

「いや、俺のことはいい。案ずるな。……気をつけて行け」

 

 ふるりと首を振って、常闇くんは、じっとわたしを見つめた。赤い瞳に、心配の色が見える。

 

「……ありがとう、本当に……」

 

 たくさんの心配と助けを得て、隣にはホークスがいてくれる。そんな幸福とともに決意を固める──絶対に救けるのだと。

 

「行くよ、空中さん」

「はい、……行ってきます!」

 

 わたしはホークスに続いて、夕闇迫る空の中に羽ばたいた。

 

 

34.少女、前兆。

 

 


 

 すごくすごく楽しんで書けました。書きたかったこと、書きたいところへの布石をいろいろ詰め込んだ感じ。このように作者の好き勝手にこのSSは作成されております。基本ご都合主義です。

 荼毘の正体は本当になんなんでしょうかね?考えれば考えるほどワケわからんとなるんですが、とりあえず作者は轟家とホークス、ひいては公安に関係している人物として捉えているので、このSSでは今後オリ主とよく関わる(ヴィラン)として書きます。御了承ください。



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35.少女、飛んで救ける。

 

 事務所の窓から飛び出して、ぐんぐん上昇。明かりを灯し出す街並みを遥か足元に見下ろして、東へ視線を移す。何の遮蔽物もない空の世界。そこを、ただただ真っ直ぐ飛んで行く。

 

(ここ福岡から東京まで、ざっと900km……)

 

 空を行くから直線距離で行けるとはいえ、とてもじゃないけど短い距離とは言いがたい。公安本部のビルで飛行訓練はしていたけど、こんなに長距離をぶっ通しで、ほぼ全速力で飛んだことなどなかった。びゅうびゅうと吹き付ける風が頬を打ち、少し息苦しさを感じる。は、と吐き出した息には不安もあったのかもしれない。

 「飛んでいけます!」などと宣ったものの、わたしはちゃんと辿り着けるのか。間に合うのか。間に合うように無理して飛んで、力尽きて、途中で墜落してしまわないか──

 

 そんな不安に駆られるわたしに、気づいていたのかもしれない。すっとわたしの前を行く、赤い翼が振り返る。

 

「せっかくだし飛び方レクチャーしようか。久々に」

 

 ゴーグル越しの目が弧を描く。ホークスはこのスピードを維持したまま器用に身体を傾け、わたしに視線を向けたまま話し始める。

 

雨覆(あまおおい)大雨覆(おおあまおおい)風切羽根(かざきりばね)……俺らの羽根は、基本的に鳥類の羽根を模した形になっている。これは勉強したね、覚えてる?」

「羽根の1番外側にある大きな羽根は、前に進むための初列風切(しょれつかざきり)、その内側にある次列風切(じれつかざきり)は、浮かぶための羽根。……覚えてるよ、ちゃんと」

 

 風切羽根を羽ばたかせて打ち下ろす時、後ろへ流れる風が生まれる。その風を捕まえて、更に羽ばたいて、どんどんどんどん前へ進む風を増やしていく──そうした鳥類のメカニズムになぞらえて、わたしは飛び方を教わった。ひとつひとつの羽根をそうして動かすようにと、公安で、目の前の彼からも教わったのだ。

 忘れるわけない、覚えてる。そう告げれば、ホークスは「正解」と笑う。そうしてにんまりと笑みを深めた。

 

「それも正しいよ。実際今、おまえはそれで飛んでるしね」

「……ま、待って。その言い方じゃ、別の飛び方ができるってことに……」

 

 ホークスは黙って微笑んでいる。わたしの言葉を否定しない。つまりそれは、そういうことだ。

 

「考えてもみなよ。俺は風切羽根を両手に持ったり、幾つか羽根を他に飛ばしたりしながら、それでも飛んでるでしょ?」

 

 改めて考えてみれば、当然すぎるほど当然のことだった。普通の鳥はそんな状態で飛ぶことはできない。

 羽根を減らしても、飛べる。少ない羽根で、人ひとりを宙に浮かせ、動かす──それは、つまり、

 

「……ホークスは羽根の1枚1枚を操って、人を運ぶことができるよね」

「うん」

「じゃあその技術を使って、自分を飛ばしてる……?」

「そ。正解」

 

 ホークスは自分の背中を指差す。剛翼がゆったり羽ばたくその背中の真ん中に、見えづらいけど、大雨覆が1枚、背中を押すようにくっついていた。

 種がわかれば、なんてことはない技術。飛び方。普通の羽ばたきと合わせて使いこなせれば、わたしはもっと速く飛ぶことができるだろう。……でもそれを、今の今までわたしに教えなかったのは……。

 

「“今まで教えなかった理由”、わかってる?」

「、……」

 

 まるで、わたしの考えを見透かしているかのような目だった。それに一瞬息を飲んで、うん、と頷く。

 

「これを使いこなすには、複数枚の羽根を、それぞれ精密に動かす必要がある。……わたしはたくさんの羽根を別々に動かそうとすると、並行処理に頭が追い付かなくって、頭痛を起こしたり、酷い時は短時間だけど、意識を飛ばしたりしてたから……」

 

 そんな不安定な状態で、空を行くことはできない。

 空は自由で、綺麗で──同時に死に近しい、厳しい場所だから。

 

 だから今まで、わたしは羽根を飛ばす時はその場で立ち止まっていることがほとんどだった。もしくは落ちても然程問題ない高さで浮きながら、だ。公安での訓練の時も、雄英高校の入試でロボを倒した時も、USJで(ヴィラン)と相対した時も、体育祭の障害物競走で救助した時も──例えば今みたいな遥か地上から離れた状態で試すことはなかった。しようとしなかった。

 

愛依(あい)、」

 

 でも今、ホークスは、それをわたしに教えた。

 

「──怖い?」

 

 たった一言。けれどその一言で、わたしの中にさまざまな感情や考えが駆け巡る。うまく制御できなくて、落ちたらどうしよう。この空から落っこちて、冷静さを欠いて、そのまま地面に叩き付けられたら……そうした恐怖を、もうひとつの思いが覆い隠す。

 ホークスは、わたしに教えた。可能性を示した。つまりそれは、そういうことだ。“今ならできる”と、信じてくれたということ。

 

「……怖く、ない!」

 

 ホークスが、信じてくれている。傍にいてくれている。

 だったらわたしのこの言葉は、虚勢じゃない。

 

 わたしは風切羽根での羽ばたきを継続しながら、大雨覆を幾つか操作し、自分の身体を前に押すように動かした。推進力が加わり、ぐんと速くなるスピードに視界が揺れる。

 

「身体と羽根のバランスはいつでも意識して。飛行姿勢を保てるように」

「っ、はい!」

 

 生まれた風を翼で受け止めるにも、正しく翼を広げなければならない。ホークスから指摘されることをひとつひとつクリアしていって、ようやっと飛行が安定した時、わたしは眼下を見下ろした。目をひとつ、瞬き。

 

(う、わ……)

 

 夜闇の中に、街の明かりがぽつぽつと浮かんでいる。その明かりが瞬く間に後方に過ぎ去っていくのは、まるで流れ星を見ているかのようだった。それだけ速いスピードの飛行は初めてだから、こんな景色を見るのも初めてで、……吹き荒ぶ風は冷たいのに、胸の奥は熱くなる。

 

「ホークスは、いつも、こんな世界を見てたんだね……」

 

 すごいなあ、と呟くわたしに、ホークスは笑う。

 

「俺の本気は、まだまだこんなもんじゃないけどね」

「む、……でもそっか、そうだよ、ね……!?」

 

 突如として横殴りの風が吹いて、わたしはぐらりと身体のバランスを崩してしまう。文字通り風に殴られたわたしは、受け止めるべき風に弾かれ、浮く力を失い、落っこちる──

 そうなる前に、ぱしん、とわたしの手を掴まえてくれた。赤い羽根がわたしの身体を支え、元の飛行姿勢に戻してくれた。そんなホークスは、穏やかな目でわたしを見ている。

 

「焦らなくていいよ、愛依。……大丈夫、」

 

 今は俺が、傍にいるからね。

 

 優しい言葉に、繋いだ手の温もりに、わたしはいつかの時を思い出した。それはわたしがこの【翼】を生やしたばかりの頃。今まで無かった(・・・・)【翼】をどう動かしていいかわからず、飛ぼうとしては落ちて、落ちて、落ちて、痛みと恐怖で泣いていた時、

 

『愛依、』

 

 大丈夫、傍にいるから大丈夫だよと、

 手を繋いで一緒に飛んでくれたのも、この人だった。

 

「……ありがとう、啓悟くん」

「どーいたしまして」

 

 あの時と変わらない、へらりと軽いようであたたかい笑顔に、わたしも頬を緩ませた。

 

 

 

 

 

 あれから数時間ほど飛び続け、少しずつ高度を下げつつ飛んでいたわたしたちの眼下に、街灯とは違う光が広がった。……いや、そんな優しい光ではない。ごうごうと、まるで保州という街すべてを呑むように燃え上がる火が、夜闇を暴力的に照らしていた。

 

「……酷い……」

 

 バスが横倒しになり、コンクリートがずたずたに引き裂かれている。電光看板が半分にへし折られ、そこから行き場を失った電気がバチバチと寂しそうに鳴いていた。被害は地上だけに収まらず、高いビルの上部の窓が割られ、そこから火の手も上がっている。

 今はもう、ヒーローたちが脳無を制圧した後なのだろう。それでもその戦いの過酷さを物語るように、傷跡は生々しく残されていた。……血痕も、飛び散っている。

 

「何をすべきか、わかってるね?」

「っ、“わたしは病院での治癒に専念”」

「正解」

 

 以前訪れた時を思い返しながら、保州総合病院へと向かう。道中の被害も大きかったけれど、ヒーローや一般人が怪我をしているところは見掛けなかった。避難誘導も済んでおり、怪我人は病院に搬送された後なのだろう。そんな予想を裏付けるように、病院は以前の時とは明らかに違う慌ただしさに満ちていた。

 

「うわああん……! 痛いよお……!」

「いきなり火が上がって、子どもが……! 早く診てください! 早く!!」

「落ち着いて! 必ず診ます、だからまずは指示に従ってください」

 

「トリアージ早く! 緑Ⅲの方は隣室へ案内して」

「黄Ⅱの方が2名! こちらに先生回してください!」

 

「聞こえますか、移動しますからねー?」

「そちら持って! いきます、1・2・3!」

 

 備え付けのベッドでは足りないのだろう、病院の待ち合いロビーでも、そこかしこから処置に駆け回る医療従事者さんの声が、痛みに呻く患者さんたちの声が聞こえてくる。誰もがみんな、命を守るために必死だ。

 その空気に一瞬気圧され、立ち尽くしたわたしの背中を、どん、と叩く手があった。ホークスは厳しい眼差しで、わたしに問い掛ける。

 

「やれる?」

「……っやれます!」

 

 そうだ、立ち止まってる暇なんかない。わたしはそのために来たのだと、拳を握って進み出た。看護士さんに小走りで駆け寄り、口を開く。

 

「あの……! わたしは【治癒】“個性”持ちリストに登録している、雄英高校1年A組空中(そらなか)愛依です。要請を受けて来ました」

「! 助かります! 早速だけど治癒に取りかかれる?」

「はい!」

「ありがとう、感謝します……! まずはこっちへ!」

 

 そうして看護士さんの後を着いていく最中、ホークスの方を振り返る。彼はひらりと手を振った。

 

「空中さん。俺は街に出て救助や後処理の手伝いをしてくる」

「、はい」

「ここは、頑張れるね?」

「はい!」

 

 頷くわたしにホークスも頷いて、ひとつ瞬きの間に病院の外へ出て飛び立っていった。それを見送ることなく背を向けて、わたしは看護士さんの背中に口を開く。

 

「先ほどトリアージをされていましたが、赤Ⅰの方はおられますか」

「ええ、脳無と交戦したヒーローの中の3人に、出血が激しく呼吸に乱れがある方がいます。今からあなたには、その方の治癒をお願いします」

「、了解しました」

 

 一般人にそうした重傷者がいないのは、ヒーローたちが身体を張って守ってくれたからだろう。その勇気ある人たちを必ず救けなければと、決意を改めながら階段を昇る。

 そうして、ここです、と通された病室に、その人たちは寝かせられていた。それぞれのベッドの傍には、同じ事務所のヒーローたちだろうか、数人のヒーローたちが付き添い、呼び掛けている。その人たちの驚きの視線に会釈しながら、わたしは早足でベッドサイドに歩み寄った。

 ざっと傷を見る。その男性は胸部から腹部にかけて包帯を巻いていた。処置はされているだろうに、それでも包帯が新しい血で赤く染まっていることから、その人の傷の深さが伝わってくる。

 

「そいつは、あの黒い脳無に胴体を鷲掴みにされたんだ! それから呼吸も苦しそうで……!」

「……では肋骨も折れている可能性が高いですね」

 

 それが肺や、他の内臓を傷つけているのかもしれない。思案から顔を上げると、怪我の経緯を教えてくれたヒーローの表情がよく見えた。……悔しさに、心配に、顔を歪めている。

 

「……!」

 

 わたしは雄英高校に通って、リカバリーガールにたくさんのことを教わった。カルテの見方、さまざまな症状例、処置方法、エネルギーを患部に集中して注ぎ込むこと──そうした医療技術だけじゃない。

 

『あんたの前には、身体に異変を感じて不安になっている患者や、意図せず“個性”を使ってしまって、人を害してしまった人がいるんだよ』

 

 思い出す。初めてB組の戦闘訓練に治癒員として同行した時のことを。あの時のわたしは、身体の中に生えたというキノコをどうしていいかわからず、苦しむ患者を前に、心配そうに付き添う人を前に、何もできなかったこと。

 

『……あんたがオロオロした顔を見せてどうするんだい』

 

 オロオロしない。不安に駆られた顔を見せない。

 医療に携わる者の端くれとして、わたしはリカバリーガールに教わった。……教わってきた!

 

「……大丈夫、です!」

 

 オールマイトのように完全無欠には笑えないけれど、でも、弱い表情は見せない。

 

「絶対、絶対に……治します!」

 

 決意を込めて、そう口にする。そうして患部に手を当てて治癒を開始した。傷ついているだろう内臓から、それらを守る肋骨、そして筋肉、血管、皮膚──内側から順にエネルギーが行き渡るよう、意識を集中させる。

 最後の傷跡が閉じた感覚に目を開ければ、横たわるヒーローの、その苦悶に満ちていた表情が安らいでいた。すう、すう、と落ち着いた寝息が、呼吸音が聞こえる。

 

「ああ、よかった……! ありがとう、本当に!」

 

 目の前で、笑顔と声とが輝いた。不甲斐なさや不安で強張っていた顔が、まるで花が咲くかのようにほころんでいる。

 それを受けて、わたしの心も、ふわりと熱が灯るのを感じた。

 

「……っ、お力になれて、嬉しいです」

 

 傷ついた人々を治す。不安を晴らす。

 そのためにこの力を使うのだと、迷いなくそう思える。

 

 わたしは一礼して、次々に治癒に取りかかっていった。

 黒い脳無に足を掴まれ、地面に叩き付けられた人。頭部を強打した人。火の手が上がるビルから市民を救うために火傷を負った人。──傷は浅いとは言えないけれど、それでも即死に繋がるような怪我はなくて、何とか治癒は間に合った。誰も、命を取り零さずに済んだ。

 1通りの重傷者の治癒を終えて、それでもまだ、安堵の息を吐くには早かった。看護士さんに耳打ちされた情報に、わたしは驚いて息を飲む。そして告げられた病室に向かって走り出した。病院内では走ってはいけない、そんな当たり前のことを守れないほど、わたしの胸は早鐘を打っていて。

 

「っ緑谷くん、みんな……!」

 

 その勢いのまま病室に飛び込んできたわたしに、緑谷くんが、轟くんが──飯田くんが目を丸くした。

 

「えっ!? そ、空中さん!?」

「なんでここに……」

「“なんでここに”、は、わたしの台詞だよ……」

 

 視線を巡らせる。病院服に身を包みベッドに腰掛けている3人は、それぞれに傷を負っていた。轟くんは左腕、緑谷くんは右腕と左足、そしてこの中で1番重傷と見られる飯田くんは、両腕に厚く包帯が巻かれていた。飯田くんに至っては、動かさないよう三角巾で腕を吊っている。ならばまずは飯田くんからだと、わたしは彼の前に進み出た。

 

「飯田、くん……」

 

 なぜ職場体験中の3人がこんな怪我を負ってしまったのか。その原因も、先ほどの看護士さんから聞いていた。

 

「……ヒーロー殺しに、会ったんだね」

 

 幾つもの深い刺し傷は、鋭利な刃物によるもの。それぞれに治癒を施していると、飯田くんはぎゅっと唇を結んだ。その目に、悔恨が色濃く映る。

 

「そうだ。俺が……復讐心に駆られ、先走った結果だ。緑谷くんと轟くんは、こんな俺を救けに来てくれたんだ」

「……うん、」

 

 飯田くんが何故、保州のヒーロー事務所を選んだのか。予想はしていたはずなのに、わたしは何もできなかった。……そもそもの話、わたしがちゃんとできていたら、こんなことにはならずに済んだ。こんな表情をさせずに済んだ、はずなのに……。

 

「わたし、……何もできなくて、ごめんなさい……」

「!? 何故空中君が謝る!?」

「だって、気持ち……わかるのに。わかって、いたのに……」

 

 “わかる”だなんて、傲慢かもしれない。それでも憧れのヒーローが、大切な人が凶刃に倒れてしまった飯田くんを見て、ホークスを失ってしまう自分を重ねた。どれだけ悔しいか。どれだけ悲しいか。どれだけ、どれだけ──下手人が、憎いか。

 

(わたしだってきっと、飯田くんと同じだ)

 

 もしホークスが失われてしまいそうなら、そうならないためにわたしは何だってするだろう。何だってできるだろう。そして、もし手が届かなくなってしまったら(・・・・・・・・・・・・・・・・)──きっとその原因を許せない。許せは、しない。

 

「空中君、」

 

 けどそんなわたしに、落ち着いた、厳しい声が届く。

 

「俺の気持ちなど、わかってはいけない。……いけないんだ」

 

 静かな眼差しで、飯田くんはわたしを射る。諌めるように。

 

「……どうして、」

「どんなに義憤に、憎悪に、正義心に、復讐心に駆られようと、その果てに粛正という手段を選んではいけないからだ。それでは、……あのステインと、同じになってしまうから」

 

 たくさんの悲しみと、怒りと、憎しみを抱えていただろう飯田くんの声は、しっかりと芯を持っていた。感情に呑まれてはいない。感情から目を背けてもいない。それらすべてを受け止めた強さがあった。

 

「ステインと、ヒーローは、違う。俺がなりたいのは、兄のようなヒーロー・インゲニウム」

 

 そこで彼は緑谷くんと轟くんを見て、静かに微笑んだ。

 

「“なりたいものをちゃんと見ろ”と、今日俺は教わったからな」

 

 雨上がりの空のような、晴れ晴れとした微笑みだった。それは輝きに満ちていて、わたしは眩しくなって目を細める。

 

「……飯田くんは、すごいね。強いね」

「ム!? いやそんなことは、」

「うん! 飯田くん、すごかったよ。立ち向かってた!」

「救けに来たつもりが逆に救けられたしな」

「緑谷君、轟君まで……! やめたまえ!」

 

 わいわいと言い合う3人。この声が、笑顔が失われずに済んで、本当によかった。

 

「……みんなが無事で、よかった……」

 

 そう安堵の息とともに呟けば、心配させて悪かった、もう大丈夫だと、そう力強い答えが返ってきて、わたしも嬉しくなって笑った。

 

 

 

 

 

 緑谷くんたちの治癒を終えて、他の患者さんたちの傷も治して回った頃、夜はもうすっかり更けていた。治癒が必要な患者さんがいなくなったことで、とりあえず今は待機していてよいと看護士さんに言われ、勧められたソファーに腰掛ける。

 

「本当に、協力してくれてありがとう。助かりました」

「いえ、そんな……」

「……顔色が悪いわ。ごめんなさいね、無理をさせて」

「わたしが、望んでしたことです。お気になさらないでください」

「……本当に、本当に、ありがとう。せめて今は、ゆっくり休んで」

「はい……でもまた、必要になったらいつでも呼んでください」

 

 ありがとう、と深く頭を下げて、看護士さんはこの仮眠室を出ていった。……看護士さんだって疲れてるはずなのに、まだ働いておられる。それを思えばわたし1人がこうして休んでいるのは気が引けるけど、それでも、身体に覆い被さる疲労がわたしの目蓋を重くさせる。

 

「う……、」

 

 じんわり広がる疲れは熱となって、意識をぼんやり遠くさせる。何とか抗おうと頬をつねってみたけれど、そんな微かな痛みより眠気の方が遥かに強かった。ぐらりと傾いだ首が、ごんと壁にぶつかる。そのままずるずると横向けに倒れていって、ソファーの上で横倒しになる頃には、わたしはもう夢の世界に旅立っていた。

 

 そう、たぶん、いい夢だった。夢の中のわたしは誰かに横抱きにされて、そのあたたかさにくるまれる。

 

「愛依、」

 

 そうして優しい優しい声が、雫のように降ってきて。

 

「……よく、頑張ったね」

 

 その労りの声にすべてが報われたような気がして。

 わたしは安心しきって、最後の意識を手放した。

 

 

35.少女、飛んで救ける。

 

 


 

 まずこの話を書くにあたって悩んだのはホークスの飛行速度です。“速すぎる男”とは言うけれど物理的にはどんなぐらいの速さなの?と色々原作やスピンオフを読んで考えたのですが、余計にワケわからんとなりました。

 

▼参考例:オールマイト

①神野事件の際、5kmを30秒で走破

→5000m÷30秒=約166m/秒

→約166m/秒=約597km/時

(現代日本で最も速い新幹線「はやぶさ」320km/時)

(衰えてこれ???)

 

②スピンオフ漫画ヴィジランテ3巻より、北海道から東京まで約1000kmをおよそ5秒で移動

→約1000km÷5秒=約200km/秒

→約200km/秒=約72万km/時

(地球一周約4万km)

(化け物かな?????)

 

 さすがにヴィジランテのは誇張表現な気がしますが、とりあえずNo.3ヒーロー、特に速さに特化したホークスですので、①のオールマイトぐらいの速さはあるんじゃないかなと夢見ることにしました。「道のり÷時間=速さ」しか出来ない筆者の頭の悪さに免じて許してください。

 

 飛んで救けるという基本方針を鍛えたオリ主。保州事件はこれにて終幕となりますが、まだ職場体験は終わりません。もうひと波乱が福岡で待ってます。



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36.少女、裏の世界。

 

 目蓋の裏に光を感じて、揺蕩っていた意識が浮上する。ぴちち、ちゅんちゅんと井戸端会議する雀の声が聞こえて、ああ、朝が来たんだとわかった。朝日が眩しいな、もうちょっと寝ていたいなあ、とそんなことをぼんやり思いながら寝返りを打つ。

 ……ちょっと待って、朝? ──朝!?

 

「……っ!」

「あ、起きた。オハヨー」

「っえ、おは、……えっ?」

 

 いきなり上体を起こしたからか、視界が揺れてくらくらする。混乱する頭を振って、目を何度か瞬かせて、やっとクリアになった視界の中で、彼はひらひらと手を振っていた。

 

「ほ、ホークス……!」

 

 昨夜、あの混乱の中で街に飛んでいった彼は、何でもないように、いつものようにへらりと笑っている。

 

「そんな慌てて飛び起きることないのに」

「ぇ、あの、でもわたし、治癒を、」

「だいじょーぶ。治癒が必要な患者はもういない」

 

 ホークス曰く、昨夜あれから他のヒーローたちと協力して街の後処理をしていたけれど、逃げ遅れた市民はおらず、ヒーロー含め新しい怪我人も出なかったらしい。それにほっと胸を撫で下ろす。

 

「よかった……。……あれ? わたしいつの間にベッドで寝てたんだろ」

「さあ? 看護士さんが運んでくれたんじゃない?」

「えええ申し訳ない……重かっただろうな……」

「気にすることないって。ホラ、シャワー使えるみたいだしさっぱりしてきな。髪ぼさぼさだよ」

「!」

 

 そう指摘されて、やっと自分が昨日お風呂に入らないまま寝てしまったことに気づいた。顔も少し汗ばんでる感じがするし、髪も言われたようにぼさぼさだと。……そしてそれを、ホークスに見られたと!

 慌てて備え付けの脱衣所に入って扉を閉めると、くすくすとおかしげに笑うホークスの声が聞こえてきた。かあっと頬に熱がのぼる。

 

「っもう、もーっ……わたしの馬鹿……」

 

 別にこんなことでホークスがわたしを馬鹿にするなんて思ってない。でもやっぱり、だらしないわたしは見せたくない。少しでもきちんと、というか……格好いい姿を見せたいのに。

 今後寝落ちには気を付けないとと決意して、わたしはシャワーを浴び始めた。

 

 

 

 

 それからシャワールームを出たわたしは、髪を乾かしつつホークスが買ってきてくれたサンドイッチで朝ごはんを済まし、院長さんへの挨拶を済ました。治癒が必要な患者さんはもういないこと、命を落とした人はいないこと、要請はきちんと果たせたことを確認し、そのことについてお礼を言ってもらった。しわくちゃの顔が優しく微笑んでいるのを見て、わたしは改めて安堵したのだ。

 そうして博多に帰る前に緑谷くんたちへも挨拶しておこうと、彼らの病室へ向かった。コンコン、とドアをノックしようとして、その手が止まってしまう。

 

「資格未取得者が、保護管理者の指示なく“個性”で危害を加えたこと──たとえ相手がヒーロー殺しであろうと、これは立派な規則違反だワン」

 

 その声の主が「保州警察署署長の面構さん」だということはホークスが小声で教えてくれた。それに頷きつつ、署長さんが緑谷くんたちを訪ねてきたこと、会話の内容に、思わず拳を握ってしまう。

 昨夜、ヒーロー殺しがあるヒーローを殺害しようとする場面に飯田くんが居合わせ、戦闘を開始。そのピンチに緑谷くんが、轟くんが駆け付ける形で、3人は“個性”を駆使してヒーロー殺しと戦った。……保護管理者にあたる、職場体験先のヒーローたちの許しもなく。

 

「君たち3名及びプロヒーロー エンデヴァー、マニュアル、グラントリノ。この6名には厳正な処分が下さなければならない」

 

 ……職場体験初日、あの博多駅前での騒動の後、ホークスから言われた言葉が頭をよぎる。『まだ仮免も取っていない君たちは、監督者もなしに公の場で“個性”を使うことは許されない』と。それに食って掛かった常闇くんに対し、『“個性”の種類で特別扱いをしては、社会を乱すよ』と。

 

「──待ってくださいよ」

 

 特別扱いは許されない。……わかっている。

 それでもあの日の常闇くんのように思うところがあったのだろう、声を上げたのは轟くんだった。

 

「飯田が動いてなきゃネイティブさんが殺されてた。緑谷が来なけりゃ2人が殺されてた。誰もヒーロー殺しの出現に気づいてなかったんですよ」

 

 轟くんは、自分を庇おうとしていない。ただただ、緑谷くんと飯田くんの──友達の行動を咎められるのはおかしいと、声を張り上げる。

 

「規則守って見殺しにするべきだったって!?」

「結果オーライであれば規則などウヤムヤでいいと?」

 

「……人をっ……救けるのが、ヒーローの仕事だろ」

 

「……ふーん、」

 

 なんだか彼、雰囲気変わったねぇ。

 署長と言い合う轟くんの言葉に、ホークスは目を細めて微笑んだ。わたしはというと、一触即発な空気にハラハラして笑うどころではない。胸元を握り締め、どうしたらいいのとホークスに視線を投げ掛けると、

 

「大丈夫だって。しばらく静かに聞いてて」

「な、なんでそんな余裕なの……」

「……大人(・・)ってのは、ズルいもんなんだよ」

 

 そう囁くホークスの顔が、少し苦しげだったのは、わたしの見間違いだったのだろうか。苦いコーヒーを飲んだ後のような、何かが喉につっかえたような……。

 その真意はわからなかったけれど、少なくともホークスは、これから続く面構さんの台詞を予想していたに違いない。

 

「以上が──警察としての意見。で、処分云々はあくまで公表すれば(・・・・・)の話だワン」

 

 面構さんは言う。世に真実を公表すれば緑谷くんたちは世間から褒め称えられる代わりに、処罰は免れない。けれど、公表しない場合──ヒーロー殺しが火傷を負っていることから、エンデヴァーさんを功績者として擁立してしまえるのだと。

 

「幸い目撃者は極めて限られている。ここでの違反はここで握り潰せるんだワン。しかしそうすれば……君たちの英断(・・)功績(・・)も、誰にも知られることはない」

 

 署長さんは、規則を守るべきだと強く主張した。けれど一方で、こうした汚い話(・・・)を提案する。

 

「どっちがいい!? 1人の人間としては……前途ある若者の“偉大なる過ち”に、ケチ(・・)をつけさせたくないんだワン!?」

 

 少し間違えれば、誰もが誰かを殺せる“個性”社会。そんな“個性”社会を維持するためには、厳正なルールが必要だ。

 でもそれは、社会に生きる人々を守るためであって、誰かを無意味に罰するためではない。──面構さんだって、ただ3人を罰したいだけじゃないんだ。ルールだけじゃなく、3人を守りたいと思ったからこそ、汚い話(・・・)をしたのだろう。

 そのことを、緑谷くんたちも……轟くんも、きっとわかっている。

 

「……よろしく、お願いします……」

 

 3人の声が重なった。頭を、下げているのだろうか。少し掠れた声に、署長さんが少しの沈黙の後、応える。

 

「……大人のズル(・・・・・)で君たちが受けていたであろう称賛の声はなくなってしまうが……

 せめて、共に平和を守る人間として……ありがとう!」

 

 もう大丈夫だろう、とホークスが静かに扉を開ける。そこでは犬の異形型“個性”の持ち主なのだろうか、面構さんと思われるスーツの男性が、深々と緑谷くんたちに頭を下げていた。

 彼は顔を上げると、部屋を後にしようと踵を返した。そこで入り口に立っていたわたしたちに目を留める。

 

「治癒要請を受けて来てくれた子だワンね」

「はっ、はい」

「聞いての通りだワン、申し訳ないが君たちにも黙っていてほしい。ホークスも」

「わかり、ました」

「りょーかいでーす」

 

 カチコチになって頷くわたしと、飄々と笑うホークス。対照的なわたしたちに笑って頷き、署長さんは病室を出ていった。そんな会話が聞こえていたのか、緑谷くんがふっとこちらを見る。

 

「あ、空中(そらなか)さ、ンッ!?  ホッ、ホホホホークス!?」

「や。確か緑谷くんだったっけ。指破壊する子」

「うンぐっ、」

 

 自他共に認める(らしい)ヒーローオタクの緑谷くんだ。ホークスの登場に声を裏返していたけれど、ホークスのあんまりな認識に口許をギュッとさせていた。

 “指破壊する子”……確かにあんまりだけど、体育祭の時の試合がそうした印象を与えたのは仕方ないだろう。……あれ、でも、緑谷くん……、

 

「でも今回はそんなに怪我してなかったね、いつもの爆竹が弾けたみたいな壊れ方してなかったし……」

「あの、全然まだまだだけど……グラントリノとの組手で、少し“個性”のコントロールが効くようになったんだ」

「! そうなんだ、すごい、よかった……」

 

 職場体験が始まって4日しか経っていないのに、大きな進歩があったみたいだ。それが嬉しくて緑谷くんと笑っていると、ホークスが轟くんに話し掛けていた。

 

「君は焦凍くんだよね。職場体験、エンデヴァーさんの事務所に行ったんだって?」

「? ……そうですが」

「えっ……そ、そうなの?」

 

 聞こえてきた話題に驚いて、思わず口を挟んでしまった。まずい、と口許を手で覆ったけど、轟くんは気にした様子もない。ああ、と俯きがちに、それでも穏やかに話し始めた。

 

「あいつが死ぬほどクソ親父でクズなことに変わりはないが、No.2と呼ばれるだけある判断力と勘の良さは確かなものだった。……それを、この目で確かめられてよかった」

「……、……そっ、か」

 

 轟くんの心の整理がついたことは、嬉しい。喜ばしい、……けれど同時に、エンデヴァーさんが“クソ親父”、“クズ”と称されたのを聞いてホークスがどう思ったのか気になった。そろり、視線を持ち上げる。見上げた先でホークスはいつもの──いつも以上に飄々とした笑みを浮かべていた。目が、静かだ。

 

(……ああ、)

 

 その顔をされてしまうと、わたしはわからなくなる。

 この人は、一体何を思っているんだろう。

 本気で隠されると、こんな一瞬の内に遠くなってしまう。……遠ざけられて、しまう。

 

「……ホークス、さん、」

 

 こちらを向いてほしくて、名前を呼んだ。彼はひとつ瞬きの後、ああ、と笑った。……いつもの顔だ。

 

「そうだね、俺らもそろそろ博多へ戻らんと。空中さん、準備はいい?」

「っはい、大丈夫です」

「え? ……ま、まさか空を飛んで?!」

「900kmはあるだろうに!」

 

 ホークスは軽く手を振って、窓枠に足を掛けた。そのまま空に飛び出した。青い空に、ばさりと広がる赤い翼が輝く。それに着いて飛ぶのだ。わたしは、彼と飛ぶ。

 心配してくれた緑谷くんと飯田くん、案じるような眼差しを投げ掛ける轟くんに、わたしは振り返って微笑んだ。

 

「わたしも少しは、飛ぶの上手になったんだ。……頑張ってくるね」

 

 

 

 

 

 びゅうびゅうと風が耳許で吹き荒ぶ。この保州市に来るまでにホークスから学んだ飛び方をなぞりながら、彼の少し後ろを飛んでいく。そう、少し後ろだから、ホークスの表情は見えない。今どんな顔で見ているのか、わたしにはわからない。

 悶々と考えているのが伝わったのか、ホークスがこちらを向いた。びくりと肩を揺らしたわたしに、きっと気付かぬふりをして、彼は柔らかく笑う。

 

「心配してくれる、いい友達ができたね」

「! ……うんっ」

 

 たぶん、わたしを気遣ってそう言ってくれたのだろう。それはわかったけれど、やっぱり嬉しくて、わたしは頬が緩むのを止められない。

 

「嬉しそうな顔。……こんな時に水を差すのは忍びないんだけど──ちょっと聞いておいてほしいことがある」

 

 ホークスの声の調子が、固くなる。真剣な話だと判断して、わたしも眉目を引き締めた。

 

「……脳無の……(ヴィラン)連合のこと?」

「そ。それとヒーロー殺し……ステインも関わってくる」

「ホークスも、その2つが繋がってるって思ってるの?」

 

 今朝の朝刊で見た記事を思い出す。どの新聞も、どのテレビ番組もこぞって保州の襲撃事件を扱っていて、そのどれもが保州に同時に現れた“脳無と(ヴィラン)連合とステインが共謀している”可能性が高いと報道していた。ホークスは、厳しい眼差しで頷く。

 

「そうだね、既に繋がっているのか、これから(・・・・)繋がるのか。どちらかだと思ってる」

「これから……? ステインはもう捕まったでしょう?」

「今ネットに、ヒーロー殺しについてやたらと動画が上がってるんだよ。奴の生い立ちとか、思想とか、そういうのがまとめられてる動画がアップされては消されて、またアップされてる。いたちごっこみたいに」

 

 英雄回帰。ヒーローとは、見返りを求めるものであってはならない。自己犠牲の果てに得うる称号でなければならない。

 

「“現代のヒーローは英雄を騙るニセモノ。粛清を繰り返すことで、世間にそのことを気付かせる”──だって」

「……そんなのおかしい。何をもってニセモノとするかなんて、あの人個人が決められることじゃない」

「うん、俺もそう思うよ。……けどまァ、何をもって正しいとするかも、1人1人が決めることだ。俺らがとやかく言えることじゃない」

 

 ホークスは皮肉げに笑って、続ける。

 

「だから、ステインに感化されて、思想に共感する者がきっと現れる。“ヒーローを粛清する”……今の“個性”社会を壊す。そんな考えを持つ者たちが──(ヴィラン)連合の元に集うかもしれない」

 

 息を、飲む。ホークスの言葉を咀嚼して、飲み込んで、ようやくわかった。わたしは保州の事件が昨日で終息したと思っていた。でも違う、本当は終わってなんかなかった。──始まりの狼煙(・・・・・・)だったのだ。

 

「これから裏の世界が騒がしくなる。……今の博多も、その影響かもしれないね」

「、え?」

 

 まさか博多の名前が出てくるとは思ってなくて、思わず聞き返す。目を丸くするわたしに、ホークスは目を細めた。

 

愛依(あい)と常闇くんが博多に来た初日、駅前で暴れたヤクザがいたでしょ」

「う、ん……。他にも仲間だろう人がいて、逃げた可能性が高いって……」

「あれから探りを入れてわかったんだけど、ヤクザの間で何件か失踪事件が起きてた」

 

 目を焼くようなあの【光】の“個性”の持ち主は未だ捕まっていない。そのことを思い出すと同時に、ホークスが夜遅くまで何かをしていたことを思い出した。あれはこのことを調べていたのだと、今更ながらに気付く。

 

「失踪……? その人たちはまだ見つかってないの?」

「そうらしい。警察は組同士の抗争だと思って決定的ないざこざを掴むまで泳がせているんだけど……それにしてはどうも様子がおかしい」

 

 何故泳がせているのと問い掛けそうになって、止めた。そうだ、ヤクザは指定(ヴィラン)団体として、(ヴィラン)になるかもしれないグレーの存在として監視を受けていて、もし非社会的な行動が確認された場合、そのまま逮捕されることとなっている。

 そんなグレーの世界について、ホークスは淡々と話し続ける。

 

「極道の世界では面子が大事とされる。組員がいなくなったとわかれば……それが敵対する組の仕業だとわかれば、彼らは黙っちゃいない。いくら昔に比べて弱体化したとはいえ、カチコミかけるくらいするだろう」

「……それなのに、何も動きがない」

「動きがないのは、下手人が誰かわからないってことだと俺は見てる。おまえが遭遇したヤクザは、その下手人を追っていたか、追われていたのか……」

 

 思案に伏せられていたホークスの目が、こちらを向いた。真剣な眼差しの中に、心配の色がある。

 

「昨日の夜にエスパースさんから報告もらった。大きな動きはないけど、やっぱりピリピリしてるみたい」

 

 得体の知れない“何か”が忍び寄ってきているような気がして、わたしは息を飲み込む。ひゅ、と音がした。

 

「脅かすわけじゃないけど、十分、気をつけて」

「……はい」

 

 

 そうしてホークスに忠告を受けていたから、わたしはわたしなりに気をつけていた。注意を払っていた。

 

 ──けれど“何か”は、そんなわたしを嘲笑うかのように、足元を掬っていったのだ。

 

 

36.少女、裏の世界。

 

 


 

 本当はもっと続きのイベントまで書きたかったけど長くなりすぎるのでここで切ります。もっとサクサク端的にわかりやすく書けるようになりたいなあ!!!!

 あとオリ主以外の視点の話を「○○.5」と表記していたのをやめ、全部まとめました。番外編というわけでもなく、オリ主以外の視点でも話は進んでいくので。



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37.少女、憧れと正しさと。

 

 保州襲撃事件。ヒーロー殺しの余波。(ヴィラン)連合……兆した影の気配に、自覚はないけど緊張していたのかもしれない。ただ上空を長時間飛び続けていたってだけかもしれない。それでも福岡に降り立ったわたしの身体はひどく冷えきっていて、

 

「や、皆さんお疲れさまでーす」

「おお、お帰りホークス、シエルちゃん!」

 

「! ……った、ただいま戻りました……!」

 

 “お帰り”とあたたかく迎え入れてもらって、それでやっと、深く息ができた気がした。

 

 

 

「現状は?」

「いつもの時刻にパトロール開始。事件件数6件。すべて解決済み。備考としては……北港通りが(ヴィラン)の攻撃によって整備中で通行止めってとこかね」

「了解です。ありがとうございます」

「ああ、あとね……」

 

 ホークスが早速エスパースさんと伝達事項を確認している。それを横目で見ながら、わたしは「休憩だよ」と渡されたあたたかいココアをちびちび飲んでいた。温かさと甘さで、強張っていた身体が緩んでいく。ほ、と息を溢すと、シンセンスさんが声をかけてきた。

 

「それにしても、お疲れだったねシエルちゃん」

「へ……あ、いえ、そんな」

「被害の大きさはニュースで見たよ、怪我人も多かったろうに、よく頑張ったね」

「わたしなんか、全然です。でも……ありがとう、ございます」

 

 わたしはいっぱいいっぱいで、必死だっただけ。結局昨夜だって疲労で看護士さんたちより先に眠ってしまったし。

 そう思って苦笑いを浮かべると、常闇くんの嘴が開いた。

 

「謙遜する必要が、どこにある」

 

 その声色の複雑さに、思わず目を丸くする。

 

「……さすがだ、空中(そらなか)。誇るべきことだろう」

「……常闇くん……?」

 

 彼はわたしを見て、目を細めた。それは微笑むようで、眩しい何かを見つめるようで、……見たくないものを見ているようでもあった。

 

「? どうかしたか」

「いや、わたしは……。……常闇くんこそ、どうかしたの?」

 

 “何かあったの”。

 そう問い掛けたわたしに、彼は繰り返した。

 

「何もない。──何でもない(・・・・・)

 

 だから気にするな。踏み込むなと、遠ざけられる。

 本当は何もなくはなかったのに、見過ごしてはいけなかったのに、わたしは言葉のまま、頷くしかできないでいた。

 

「それじゃあ行こうか、いつも通りに」

 

 エスパースさんと話し終えたホークスが、いつものように微笑んで、いつものように飛び立って。

 そうしていつものように、幾つもの事件をホークスが解決していった。わたしたちはそれを追い掛け、後処理をし、また追い掛けていく。

 

「──くそッ……!」

 

 わたしが憧れとともに見上げる空を、常闇くんは厳しい眼差しで見据える。ぎり、と聞こえてきた歯軋りの音が、耳にこびりつくかのようだった。

 

 

 

 

「ホークス、少し時間をいただけるか」

「うん? 何かな?」

「……尋ねたいことがある」

 

 昼休憩も兼ねて帰ってきた事務所で、わたしたちは執務室のソファーに座っていた。エスパースさんは午前中の事件に関する書類を作成していて、シンセンスさんはホークスに届いていたのだろう取材依頼をまとめている。カタカタとノートパソコンのキーボードが軽やかに叩かれる音。その中で、学校に提出する用のレポートを書いていた常闇くんが、徐に鉛筆を置いた。

 

「……ホークスが雄英の体育祭指名に参加したのは、此度が初めてだと伺った」

「そうだよ」

「ならば、訊きたい。……自分は何故、声をかけられたのか」

 

 その声には、すがるような響きがあった。それにホークスは気付いていなかったのか、それとも、気付いていて尚そう言ったのか。今となってはわからないけれど、ホークスは、何でもないかのような軽い口調で口にした。

 

「鳥仲間」

 

「──御巫山戯(おふざけ)で……?」

 

 声は静かで、冷静で、……それでもその底は燃え滾っているように思えた。或いは冷えきった氷のような、触れると火傷するような、そんな痛々しいまでの鋭さを孕んでいた。

 

「いーや2割本気。半分は1年A組の人から話を聞きたくて。君らを襲った(ヴィラン)連合とかいうチンピラのね」

 

 ホークスは既にUSJのことは粗方わたしからの報告で知っているはずだ。それでも常闇くんの話を聞きたがっているのは、保州でのこともあって、より多面的に情報を得ておきたいのだろう。

 

「んでどうせなら俺に着いて来られそうな優秀な人ってことで、上位から良さげな鳥人を」

「っあの、ホークスさ、」

 

 それでも今、このタイミングでそう話すのはまずい気がして、わたしは喉を震わせる。話に割って入る、それより先に、

 

「……あの日。(ヴィラン)が現れたのは、授業前に13号先生の話を聞いている時だった」

 

 USJに訪れた(ヴィラン)がどんな様相だったか、どんなことを言っていたか、どんな“個性”を持っていて、どんな行動をして、どんな風にこちらを襲ってきたのか──それを常闇くんは、淡々と静かに話し出した。何でもない(・・・・・)ことのように話す、その声が沸々と沸き立っているようで。

 

「へえ、じゃあ2人は大雨・大風ゾーンに飛ばされたんだ」

「ああ、……だったな、空中」

「う、ん……」

 

 わたしは時折振られる話に頷き、捕捉する。……それぐらいしかできなかった。

 

 

 

 

 午後のパトロールに出て、ホークスの後を追いながら博多の街を駆け回る。それも終盤に差し掛かり、夕闇に包まれる頃、街灯がぽつぽつと明かりを灯し出した。その光に怯んだのだろうか、踏みつけ、跳躍しようとした常闇くんたちの体勢が崩れる。

 

「ヒョワッ」

「! 黒影(ダークシャドウ)……っ!」

「ゴメェンフミカゲ……」

 

 深淵暗躯で纏っていた黒影(ダークシャドウ)が剥がれ、跳躍力を失った常闇くんの姿が路地裏に落ちていく。ツクヨミくん!と呼び掛けるエスパースさんたちに、わたしは背を向けた。

 

「わたしが行きます……! お2人は先にホークスの元へ!」

 

 羽根を幾つか先に飛ばして常闇くんの落下を防ぐ。それでも人ひとりを持ち上げるにはパワーが足りず、彼はゆっくりと路地裏に降り立っていた。そこに向け、わたしも着地する。

 

「常闇くん……!」

「……空中、か」

「うん、……あの……常闇くん、大丈夫……?」

 

 怪我はないか、心配した。昼の話の後から、いつも以上に焦っている(・・・・・)とわかる姿が心配だった。

 

「──“大丈夫”?」

 

 でもそれは、きっと、傲慢な言葉だったのだ。

 

「大丈夫に、見えるのか」

「……と、こやみ、くん?」

「空中は、悔しくは、ないのか?」

 

 薄暗い路地裏にわたしたち以外の人気はなく、大通りの喧騒はひどく遠かった。しぃんと静まり返るこの場所で、常闇くんの声が響き渡る。然程大きく張り上げているわけではないのに、わたしに、突き刺さる。

 

「俺は悔しい。俺は、ヒーローになるためここに来た。……なのに俺がここに呼ばれたのは、(ヴィラン)連合の事を話す伝書鳩として、らしい」

「っそんな! そんなこと、ホークスは、」

 

「現に言っていただろう!」

 

 ホークスはたったそれだけのために誰かを呼ぶような人じゃない。常闇くんが呼ばれたのは、絶対に何か理由がある。 

 そう伝えたいのに、臆病なわたしはびくりと肩を揺らしてしまった。喉が、張り付く。

 

「……すまん。声を荒げてしまって」

 

 そんなわたしに頭を下げて、常闇くんは再び顔を上げた。赤い目に先程の激情を何とか封じ込めて、ぐっと、堪えるように目を細めている。

 

「空中、おまえは、ホークスに憧れていると言っていたな」

「……、うん」

「俺は、おまえがホークスに向ける憧れまで否定しまい」

 

 ふるりと首を横に振ってから、わたしを見た。

 

「だが、──憧れとは、理解から最も遠い感情だという」

 

 真っ直ぐに見据える、その眼差しがあまりに強いから、わたしの弱い部分が暴かれていく。

 

「おまえの、憧れは、

 “ただ見上げているだけで満足”と、足を止めてはいないか。

 空を、見上げるばかりではないのか」

 

「……そんな、こと、……」

 

 そんなことないと言い切れたらいいのに、できなかった。だって常闇くんの言葉は的を射ていた。

 

 

『ホークスと常闇くんを比べる必要なんて、ないと思う』

 

 だってホークスと自分たちが違うのは当然のこと(・・・・・)だもの。それだけ彼はすごくて、素敵で、強い人なのだ。

 

『サポート、するよ。大丈夫。焦らずいこう』

 

 焦ったって、何したって、届くはずのない人だから。

 

 

(……ああ、わたし──)

 

 ホークスみたいになりたい。ホークスの力になりたい。

 ホークスを、救けたい。

 

 そう思っていたのは嘘ではないけれど、根っこの部分で、一歩退いてしまっていたんだ。彼へ近付こうと飛び立ったつもりが、足を止めてしまっていた。あの眩しい空を、翼を──見上げるだけで嬉しがっていた。

 

 

「……俺は、空中、おまえが羨ましい」

「……え……?」

 

 そんな情けないわたしに、何故か常闇くんは“羨ましい”と言った。わけがわからなくて、俯いていた顔を上げる。目と目が合ったその先で、常闇くんは力強く頷いた。

 

「空中、おまえには力がある。USJの時も、保州の時もそうだ。人々の元にいち早く駆け付け、癒し、……救う力がある」

 

 そんな風に思ってもらえていたとは知らなくて、思わず、「そんなことない」と言おうとした。口を開きかけたわたしを、けれど常闇くんは、鋭い目で制する。

 

「学友の1人として、尊敬している。それと同時に──もどかしく、腹立たしい」

 

 今、“わたしなんて”と、言おうとしたな?

 そう確信をもって問われて、わたしは言葉にならずに頷いた。常闇くんは、ぎゅっと眉を寄せた。その表情が彼の羨みやもどかしさ、苛立ちから来ていたのだと、やっと気付く。

 

「おまえは力を持って尚、『わたしなんて』と一歩退いて、『焦らなくていい』と足を止めて、

 それで、いいのか? ──本当に?」

 

 常闇くんは拳を握った。それが、ぶるぶると震えている。

 

「俺はよくない。現状が許せない。未熟な我が身が呪わしい。だから──俺は足掻くと、この心に決めた」

 

 だから“深淵暗躯”を編み出したのだと、彼は胸元を握り締めた。それが彼が何度も跳んで、何度も落ちても、挑み続けるのを止めない理由。

 

「焦っていると言われれば、そうなのだろう。泥を掻き、土を食むような、惨めな姿と映るだろうな。……だがこの焦燥を糧としなければ、俺は一生、あの背中に追いつけまい」

 

 あの背中、と溢した声が、ふと柔らかくなる。

 

「この数日の間ではあるが、俺も理解した。ホークスは速い。強い。……あの背中は、あまりに遠い」

 

 その声で、常闇くんもホークスに憧れたんだとわかった。

 それでも彼の憧れとわたしの憧れは、あまりに違う。 

 

「だが俺は諦めんぞ。焦燥し、足掻き……いつか必ずやあの背に追いつき、飛び越してみせる!」

 

 彼は憧れを胸に進もうと決めた。空に向かっていってる。

 それに比べて、わたしは──

 

「おまえはどうなんだ、……空中」

 

「……わ、たし、は……」

 

 わたしは、と答えを探している。そんな時だった。

 

 

 

 

 

「なんだ喧嘩かぁ? 随分と──余裕なモンだな、雄英生」

 

 軽いようで、冷え冷えとした声とともに、目を焼くような閃光が路地裏の暗闇を引き裂いた。

 

「っ!?」

「ヒャンッ!」

「ぅ、ぐッ……!」

 

 思わず目を固く閉じると、どん、と誰かに身体を押された。そのまま尻餅をつきそうになって、何とかバックステップで体勢を建て直す。ーーでもそれは遅すぎた。目を開けると、知らない男性が常闇くんの首を片手で掴み、押さえ込んでいるのが見えて。

 

「! 常闇く、」

「おおっと、」

 

 苦しげな常闇くんの表情に咄嗟に羽根を飛ばして救出しようとするも、それはできなかった。ごり、と常闇くんの頭に押し付けられた拳銃に、動きを封じられる。

 

「動いちゃくれるなよ、お嬢サン」

 

 へらりと浮かぶ酷薄な笑みに、ひゅ、と喉が鳴った。

 動けずにいるわたしに、常闇くんを引きずりながら、その男性は歩み寄る。

 

「、いかん、逃げろ、早く……!」

「卵とはいえ、ヒーローが人質見捨てて逃げんのか?」

 

 ホークスたちに知らせなければ、常闇くんを救けなければ、この人の動きを封じなければと、やらなければならないことはたくさん浮かぶのに、そのどれもが今のわたしには不可能だった。じりじりと焼けつくような焦燥感の中、最後の一歩が詰められる。

 

「そうそう……イイコ、だ」

 

 男が拳銃を持った手を振りかぶる。振り下ろす。

 ガン、という音と頭を揺らす衝撃に、わたしは意識を手放した。

 

 

 

 

 ──そうして暗転していた意識は、腹部への衝撃と痛みと一緒に戻ってきた。

 

「……っ、ぐ……! げほ……っ」

「おはよーさん。いい夢は見られたか?」

 

 どうやらお腹を蹴り飛ばされたらしい。革靴を目の前でぷらぷらさせた後、しゃがみこんでわたしの顔を覗き込んでくるのは、襟を開いて着崩したブラックスーツに、まるで場違いのように輝くプラチナブロンド──間違いない、あの路地裏でわたしたちを襲った男だ。

 状況を把握しなければ、と視線を巡らせる。わたしは後ろ手に両腕を縛られ、床に転がされていた。ざり、と頬にはコンクリートの感触がある。どうやら港近くの倉庫の中にいるようだと、高く積み上げられた荷物やうっすらと聞こえてきた汽笛の音で判断する。男の仲間は、……見えるかぎりでは、いない。

 

「貴様……ッ乱暴はやめろ!!」

 

 聞こえてきた声を頼りに顔を向けると、少し離れた柱の根本に常闇くんが縛られていた。怒りに震えてはいるものの、目立った怪我はしていないようで、わたしはひっそり安堵の息を吐いた。

 

「ピーチクパーチクうるせぇなぁ、連れてくるんじゃなかったか?」

 

 男は煩わしそうに自身の金髪を掻いて、それからわたしを見下ろした。すっと、拳銃の先を向けられる。

 

「でもま、わかるだろ? ……互いが互いの命を握ってる」

 

 その銃口が、常闇くんの方へ向く。その動作と言葉で、互いが互いの人質なのだとわからされた。……路地裏からこの倉庫まで搬送するリスクを犯してなお、人質を連れてきた。ということは、つまり、

 

「……わたしに、何をさせたいのですか」

「おっ、いいねぇ話が早い」

 

 何らかの要望がある。そう踏んで尋ねると、男は気を良くしたのかパッと笑った。彼はその笑顔のまま、わたしの両腕を拘束するロープを掴んで立たせた。わたしを引っ立てるように、倉庫の隅へと引き摺っていく。

 

「【治癒】の“個性”持ち。その手で触れることで、相手の傷や病を治す」

 

 その隅のスペースには、カーテンが掛かっていた。倉庫自体が暗闇に閉ざされている。それでも、より深く、暗い何かが、カーテンの向こうに踞っているような気がした。

 

「──彼ら(・・)を、治してやってくれ」

 

 男はシャッ、と一気にカーテンを引いた。それと同時に、言葉にならない呻き声が上がる。

 

「あぅ、あ”、ああ”……」

「ああああああ”! あぁ”……」

 

 そこには4つのベッドが並んでいて、そこに、4人の男性が寝かされていた。2人は目を閉じたままぐったりと横たわっていて、残る2人は、……光の灯らない目を見開いて、濁った叫び声を上げている。両腕をめちゃくちゃに振り回したり、上体を起こして壁に頭を打ち付けたり……その様子から、心神喪失をしていることは明らかだった。

 思わず立ち竦むわたしを置いて、プラチナブロンドの男はベッドに歩み寄った。頭を打ち付ける男性の肩をそっと掴み、優しくベッドへと戻す。

 

「いきなりでびっくりしましたかね。すんません」

 

 その声は、驚くほどに優しかった。掛け布団越しにとんとんと身体を宥めるように叩く、その手つきも。それを見て、この人たちは男にとって大切な人たちなのだとわかった。

 ヤクザ、拳銃、閃光、失踪事件──いろいろな事柄が、頭の中で繋がっていく。

 

「この人たち、は……失踪事件の……?」

「……ま、全員は(・・・)帰ってきてねぇがな」

 

 言外に肯定しながら、男は話を続ける。目を伏せて、目蓋の裏にさまざまなことを思い描きながら。

 

「この人たちは組でも有数の武闘派だった。……強かったよ。俺は一度も勝てなかった。

 そんな人らが、1人、また1人と消えていって──帰ってきたのは腕一本、足一本や……この状態の、この人たちだけ」

 

 淡々と話しながらも、その声の裏に憎悪がこびりついていた。カッと見開いた目に激情を宿して、彼はわたしを振り返る。

 

「というか知ってたんだな、事件のこと。やっぱホークスは耳が早ぇ」

 

 ホークスの名前を聞いて、身体の震えが止まった。

 ……そうだ。ホークスなら、きっと異変に気付いてわたしたちを探してくれているはず。見つけて救けに来てくれると、信じている。

 

「ここも、いつ嗅ぎ付けられるかわかったもんじゃねぇし」

 

 信じている。だから、

 

「だから、──わかるよな?」

 

 だから、わたしにできることは──

 

「っ……」

 

 乱暴に髪を掴まれて、ベッドに引き寄せられる。そのまま寝ている男性たちの方へ顔を向かせられた。後ろ手に縛られたロープは、いつの間にか焼き切れている。

 

「治せ」

 

 頭を、回す。思考を巡らせる。

 今のわたしにできるのは、ホークスが駆けつける時間を稼ぐこと。わたしが反抗すれば男は常闇くんを傷つけようとするだろう。今、常闇くんとわたしの位置は離れている。触れられない。治癒できない。

 

(常闇くんを、傷つけるわけにはいかない……!)

 

 だったら、常闇くんに意識が向かないくらいに、

 徹底的に、すべての悪感情(ヘイト)を、

 

「……でき、ません」

「……気持ち悪いってか。触れるのも嫌ってか」

「違います」

「──(ヴィラン)だから、治せねぇってか」

 

 悪感情(ヘイト)を、わたしに、向けろ。

 

「──はい」

 

 答えた瞬間、肩が焼けるように熱くなった。それは痛みに代わり、ぎりとわたしは歯噛みした。想定していた銃声よりうんと小さなそれは、サイレンサーを使用しているからだろう。銃声から位置を割り立たせる目論見は外れたなあと、痛みの中でぼんやり思う。

 

「空中!!」

 

 わたしを案じる常闇くんの叫びが、遠く聞こえる。それに大丈夫だと返したかったけれど、男がぐっと左手で首を締めてくる。

 

「……勉強不足か? 雄英生。極道は(ヴィラン)じゃねぇ」

 

 やっぱり“(ヴィラン)扱い”は逆鱗に触れるんだなと、唇を引き締めた。無事にヘイトをこちらに向けることができた安堵と、緊張感に。

 

「……わたしは、この人たちを(ヴィラン)と言ったのではありません。……(ヴィラン)は、あなたです」

 

 わたしと常闇くんを連れ去る時の、あの【閃光】。

 あの時点で、彼は、もう、

 

「“個性”を用いて誰かを傷つけた時点で、(ヴィラン)となったのです。……そしてヒーローは、(ヴィラン)に、屈してはならない」

 

 痛みに堪えてそう告げると、首に掛かる手に力がこもった。ぎりと気道が締められて、目の前が霞む。

 

「苦しんでる奴がいてもか? ……普通に歩いて、生活してたってのに、……話すことさえできなくなった奴を前にしても! てめぇは治さねぇっていうのか!!」

 

「じゃあどうして! 正しくあってくれなかったんですか!!」

 

 ヘイトを向けろ、時間を稼げと理性的な部分が言う。

 同時に感情的な部分が、叫び声を上げてしまう。

 

「正しく、救われようと、してくれさえすれば……!」

 

 やりきれない思いが、胸の内に湧き上がる。目の前には落ち窪んだ目を見開き、大きく開けた口から意味のない呻きと唾液を垂らしている人たち。……わたしだってこの人たちを前に、何も思わないわけではない。治癒したいと、思っていても、できない。

 

「……“個性”の無断使用は、“個性”社会の崩壊を招く。それがわかっていて、ルールを破ることは……わたしには、できません」

 

 それでも然るべき手段を取れば、治癒はできるだろう。わたしの治癒で治らなかったとしても、保護してもらえるだろう。こんな薄暗い倉庫で隠れ住まなくていい──ルールの、法律の枠組みの中にあれば。

 

「病院に、行きましょう」

「……できない」

「どうしてですか」

「わかってんだろうが! 問題を起こしたとわかれば、組は解散させられる」

 

「ヤクザじゃなければ、どうしていけないんですか」

 

 どうして、正しくあってくれないの。

 

「……枠組みの中で、やり直すことは、できませんか……?」

 

 そうすれば社会は、ヒーローは、きっと救けてくれる。

 かつてわたしが、救けてもらったように。

 

 

 

「……小さなヒーロー様は、“正しい”ことが大好きらしい」

 

 暫くの沈黙の後、男はぽつりとそう言った。首から左手が離れ、だらりと垂れ下がっている。わたしがゆっくりと身体の向きを変えて彼を見上げると、プラチナブロンドの間から、ぎろりと覗く目が見えた。

 

「けどなぁ……“正しい”だけじゃ、生きていけねぇ奴もいる」

 

 その瞬間、首元を掴まれざま、ダンッと後ろの壁に叩き付けられた。右手に握られた拳銃が、その銃口が、わたしの顎を、輪郭をなぞり、耳たぶをつつく。

 

「ピアスホールすら開けてねぇじゃんか。開けちゃ駄目って校則も無いだろうに、真面目だねぇ」

 

 へらりとわらう顔が、──すべての感情を殺ぎ落としたかのように、冷たい無表情になって、

 

「──記念に開けてやるよ」

 

 鈍い銃声。燃え上がる痛み。飛び散る血痕。

 ぎゅっと目を積むってそれに耐えていたから、だから、気がつかなかった。

 

 

 

「……ぁあ、あ、」

 

 わたしを見る常闇くんが、どんな表情をしていたのか。

 どんな思いで、いたのか。

 

「あぁ、ぐ、ぅ……ぐ、ぁあああああああッ!!!」

 

 咆哮が轟く。驚いて顔を上げると、目の前の男が“暗闇”に薙ぎ倒されていった。いや、ただの暗闇じゃない。それは鋭い爪を持ち、意思を持っていた。──持っていた、はずだった。

 

黒影(ダークシャドウ)……?」

 

 月のような金色の目は、陽の元ではおどけたように煌めいて、夜の中ではちょっと悪そうに輝いていた。そのはずだ。けれど今、目の前に聳え立つほどに肥大化した闇の身体は、血のような赤い目を見開いていた。その赤い瞳でぐるりと辺りを見下ろして、咆哮と共に腕を薙ぐ。わたしの隣にあったベッドが、横たわっていた人ごと吹き飛んだ。

 

「常闇、くん……!?」

 

 呼び掛けても返る声はない。常闇くんは依然として苦しげな叫びを上げていて、それに呼応するかのように、黒影(ダークシャドウ)は暴れ回っている。

 “個性”の、暴走──思いもよらぬ展開に、わたしは息を飲み込んだ。

 

 

37.少女、憧れと正しさと。

 

 


 

 クッソシリアスですが書きたかったところです。

 オリ主と常闇くん。共にホークスに師事する2人とはいえ、憧れの在り方は違うだろうなと思って。オリ主が無意識に諦めていることは、はじめは期末試験で爆豪くんにキレながら指摘してもらおうと思ってたんですが、常闇くんに変更しました。彼の成長の糧にしていきます。

 正しさについては、まだ清濁併せ呑むことができないオリ主の頑なさと傲慢さが出ています。まだまだ15歳の子ども。精神も未熟者です。



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38.少女、天秤を掲げる。

 

「常闇くん、常闇くん……! わたしはもう大丈夫だから! 落ち着い、ッ──」

 

 常闇くんの黒影(ダークシャドウ)のおかげで男の拘束を逃れた。肩や耳たぶ、その周辺のヒーロースーツは赤く染まっているけれど、後でいくらでも治癒できる範囲だ。

 だから大丈夫、と張り上げた声は届かなかった。返答の代わりに返ってきたのは鉤爪の一撃。咄嗟に飛び上がって避けなければ直撃していただろう。先ほどまで立っていたコンクリートが、まるで砂のように粉々になっている。

 

「あ、っあ”ああ、あ”」

「! ARGHHH!!」

 

 その衝撃でベッドから転げ落ちた男性が声を上げた。その声に、黒影(ダークシャドウ)はぐるりと鎌首をもたげ、床を這う男性を赤い目で見下ろす。重々しい唸り声と共に、両腕が振り上げられた。

 

「! 危な、」

「駄目……!」

 

 プラチナブロンドの男が身を呈して庇いに行こうとするのを、突き飛ばして止める。その横をすり抜け、わたしは走った。床に倒れている男性を抱き留め、その場を離脱する──

 

「、う……っ」

 

 ──離脱するはずだったのだけど、少し遅かった。黒影(ダークシャドウ)の爪が背中を掠める。

 

「おまえは……」

 

 幾つか散った羽根が、影の腕に押し潰される。それを見た男は意外そうに目を見開いていた。その男に保護した男性を預け、口を開く。

 

「あなたはこの人たちを守りたい。そうですね?」

「……っ、ああ」

「あなたに託します。あなたは、彼らを守っていてください」

「は? ……ッオイ!」

 

 わけがわからない、といったような声で男はわたしを呼び止めた。それに振り返ると、男の顔にさまざまな感情が巡っていた。疑問、苛立ち、そしてそれだけじゃない──別の何か。

 

「……俺の“個性”は【光】だ。あいつを止めるなら、俺が要るんじゃないのか」

「いいえ。(ヴィラン)は、“個性”を使ってはいけません」

 

 きっぱり言い放てば、男は憮然とした顔になった。

 そんな顔をされたって、違反は違反だ。……だからこそ、

 

「……これ以上、罪を重ねないでください」

 

 それだけ言って、ふい、と視線を逸らす。そうしてわたしは駆け出し、大きな大きな闇の塊を見上げた。

 

「……常闇くん……」

 

 先ほどわたしの背を傷つけた後から、ひどく、苦しそうにもがいている。自分の制御を離れて好き勝手に伸びる影の腕を、何とか手繰り寄せようとしている。

 

「グッ……(そら)(なか)……!」

「常闇くん、」

「早、く……逃げろ……! 俺のことは、ッ捨て置け……!」

「……そんなの、できないよ」

 

 暴れまわる“個性”は、身体を苛むのだろう。額には脂汗が滲み、見開いた目は充血している。そんな状態だというのに、常闇くんは食い縛る歯の間から声を振り絞った。

 

「頼、む……ッおまえをこれ以上、傷つける、前に……ッ!」

 

 こんなになってまで、わたしを案じてくれている。

 

「鎮まれッ……黒影(ダークシャドウ)……!!」

 

 こんなに苦しんでまで、常闇くんは──

 

「常闇、くん……」

 

 (ヴィラン)が“個性”を使うのはいけないこと。でも、わたしがこれからしようとしていること──ホークスの傍を離れて“個性”を使うことも、いけないことになるのかもしれない。……いや武力に使うわけじゃないし、これがパトロール中の出来事として処理されたらまた違う扱いになるのかもしれないけれど、と考えを巡らせて、やめた。

 今考えなければならないのは“正しい”か“正しくない”かじゃない。……“正しくなくても”わたしは動くのか、どうか。……自分に問うのはそれだけだ。

 

 心の中に天秤を掲げる。両の秤に、“大切”を載せる。

 ひとつには、【許可無しに“個性”を使ってはならない】。

 もうひとつには、──【常闇くんを救けたい】。

 どちらも“大切”で、どちらも取りこぼしたくなくて、天秤がゆらゆら揺れるたびに、心が軋む。

 

(……ああ……)

 

 (ヴィラン)の、あの人の気持ちなんてわからない。「わかる」と言えるほどあの人のことを知らない。気持ちを察せるほどに人生経験を積んでいるわけでも、優しいわけでもない。……それでも、胸によぎるこの気持ちは同じなのかもしれない。

 

(痛い、辛い、申し訳ない、苦しい、……)

 

 “正しく”ありたいのにできないのって、こんなに心が痛むのか。

 選べない何かを捨てなければいけないのは、こんなに、……こんなに──

 

「……ごめんなさい、ホークス」

 

 天秤は傾いた。ひとつを取って、ひとつを捨てた。

 

 翼を広げる。これで直ぐ様飛び立って、ホークスを、応援を呼びに行くことがヒーローの卵として正しいのだろう。でもそれは、ここにあるすべてを置き去りにすることだ。

 まともに動けない人々を置き去りにするの?

 逃げるの?……苦しんでる常闇くんを置いて?

 

「……それは、できない……!」

 

 ダン!とコンクリートを蹴飛ばして、わたしは上空へ飛び上がった。音を立てた足場は、黒影(ダークシャドウ)の一撃で砕かれる。音もなく浮かび上がったまま羽根を飛ばし、倉庫の換気扇を撃つ。ガラガラと甲高い音を立てて地に落ちたプロペラは、翻る黒影(ダークシャドウ)の腕にぺしゃんこにされた。

 

(反応するのは、動くものと、音……!)

 

 それもどうも音を優先して攻撃しているらしい。あの赤い目は凶暴化の証のようだけれど、もしかしたら視力も落ちているのかもしれない。得られる情報は確かではないけれど、今この状況においてはすがるしかない。

 そしてもうひとつの、すがる情報は──

 

『俺の“個性”【黒影(ダークシャドウ)】は、闇が濃ければ濃いほど力を増す。その分獰猛になって制御が難しくなるが──逆に光の下だと弱くなる。御しやすくはなるがな』

 

 かつて、USJで共闘した時に教えてくれた彼の“個性”。──光があれば、制御しやすくなる!

 

 羽根を飛ばして倉庫の荷物を撃ち続ける。その物音目掛けて黒影(ダークシャドウ)が腕を薙いだのを確認して、倉庫の天井へ向けてゆっくりと飛び上がった。目指すは、搬送作業用に備えられていたのだろう大きな照明器具。焦る気持ちを抑えて、抑えつけて、手を伸ばす。

 

(あれをつけることができれば……!)

 

 黒影(ダークシャドウ)の標的がこちらに絞られないよう、絶えず羽根を射出していなければいけない。そして羽ばたきの音を捉えられてはいけないから、羽根によってわたしを引っ張り上げなければならない。同時に、複数枚の羽根を、さまざまな強度と速度で動かす──ずきずきと響く頭痛を、歯を噛み締めて堪えた。たった数十秒の間でも、頭で処理しきれない情報がエラーを吐き出し、目の前が霞んでいく。

 堪えて、堪えて、堪えて──張り詰めた緊張の糸。わたしの指先がスイッチに触れた時、それがとうとう、プツリと切れた。

 

「……っぁ……」

 

 がくりと崩れる体勢。身体を包む浮遊感。それに小さく声を上げて──自分の失態に気付いた時には遅かった。眼下の黒影(ダークシャドウ)が、その灼眼が、ぐるりと上を向く。

 

「GRAHHHHHH!!!」

 

 咆哮。そして轟音。振るわれた大腕が倉庫の天井をまとめて薙ぎ払った。そのついでとばかりに打ち払われて、わたしは為す術なく床に叩き付けられる。墜落の衝撃を覚悟し、ぎゅっときつく目を瞑った。

 

「っ──、……え?」

 

 けれど痛みはやってこない。ふわりと、柔らかい感触。

 恐る恐る目を開けて、わたしは一瞬、呼吸を忘れた。

 

 それは暗いトンネルの先に光を見たような、

 激しい嵐が去った後の虹のような、

 厳しく降り積もった氷雪を融かす春のような、

 ──こんなにも眩しく、あたたかな、光。

 

 

「っ……ホークス……!!」

 

 

 ただいてくれるだけで、不安を溶かす。未来へ向かう勇気をくれる。

 そんなわたしのヒーローが、そこにいた。

 

「……遅くなって、ごめん」

 

 剛翼でわたしを受け止めて地上に降ろすと同時に、ホークスもわたしの前に降り立った。こちらを見下ろす目が、辛そうに細められている。怪我を心配してくれているのだろう、でも今はその時間も惜しくて、わたしは首を横に振った。

 

「わたしは大丈夫です。でも常闇くんが……!」

 

 ガゴン、と響く破壊音が夜気を震わせた。少し離れたここからでも衝撃が伝わってくる。それほどに凄まじい力で、黒影(ダークシャドウ)が倉庫の残骸を打ちのめしていた。

 

「“個性”が、黒影(ダークシャドウ)が暴走してるんです、光を浴びなきゃきっと収まらない……!」

「なるほど、」

 

 頷きつつ、ホークスは剛翼を飛ばす。黒影(ダークシャドウ)の視界をちらちらと横切るように飛ぶ赤い羽根を、影の巨躯は煩わしそうに押し潰す。傷つき、制動権を失った羽根がひしゃげて地に落ちた。

 

「確かにすごいパワーだ。ちゃちな手は通用しないな」

「か、感心してる場合じゃ……っ」

「わかってるって」

「光……照明が必要なのに、さっき壊されちゃって……!」

「空中さん」

 

 おろおろするわたしを余所に、ホークスは人差し指を立てた。静かに、のジェスチャーとともに、軽やかに笑う。

 

「心配しなくていいよ。傷を治して、少し待ってて」

 

 そっとわたしを、柔らかな眼差しで見下ろして。

 顔を上げる頃には、もう強く鋭い目となっている。

 

 次の瞬きの後には既に地上にホークスの姿は無く、彼は空高く飛び上がっていた。星がちらつく夜空に、剛翼が大きく広がる。翼を翻し、上へ、下へ、右へ、左へ。大きく動いているのは黒影(ダークシャドウ)の狙いを自分へ引き付けるためだろう。その意図通り、影の鉤爪がホークスを狙う、けれど、

 

「速い……!」

 

 暴走した黒影(ダークシャドウ)の動きは激しく、力強く、速い。けれどそれをホークスは上回っていた。振りかぶる腕をかわし、噛みつこうと閉じた口許で急転換。急上昇と急下降を織り交ぜながら自分を捕らえさせない。

 

「常闇くん、聞こえるかい?」

「っ……ホ、クス……ッ!」

「うん。ごめんね、ひとりで頑張らせて」

 

 黒影(ダークシャドウ)の周辺を飛び回りながら、中心にいる常闇くんに呼び掛ける。歯を食い縛り、何とか黒影(ダークシャドウ)を制御しようとする常闇くんに、柔らかに笑った。

 

「もう大丈夫だから。安心して、無理に抗わずに……黒影(ダークシャドウ)に身を委ねて」

 

 制御しなくていい(・・・・・・・・)という言葉を意外に思ったのは、わたしだけではなかったようだ。遠目に微かに見える常闇くんも驚きに目を見張っている。それでも、穏やかながら有無を言わせないような、自信に満ちたホークスの声色に、ふっと眉間の皺がほどけた。

 

 ホークスなら、絶対に救けてくれると。

 きっと常闇くんも、わかったんだ。……信じたんだ。

 

 そう見守っていると、突然、黒影(ダークシャドウ)の身体が浮いた(・・・)。いつの間に飛ばしていたのか、数十枚の羽根が影の巨躯を持ち上げている。常闇くんの意思とは裏腹に、突如として身体の自由を奪われたことに怒っているのだろう、黒影(ダークシャドウ)が腕を振り回し、赤い翼を目掛けて手を伸ばす。

 危ない、と声を上げかけて、止めた。飲み込んだ悲鳴の変わりに、は、と息を吐き出す。だってホークスは微笑んでいたから。全部想定通り(・・・・・・)とばかりに、口角を吊り上げていたから。

 

「ホラ、もう──大丈夫」

 

 にこ、とホークスが笑ったその時、

 闇を裂くような光が、彼らに降り注いだ。

 

「ワ、ァァアァ……!」

 

 暴走時の低い声とは違う、いつもの声で可愛い悲鳴を上げて、黒影(ダークシャドウ)はみるみるうちに縮んでいった。それもそうだろう、だって常闇くんたちを照らしているのは、遠く暗い海まで届く光──灯台の光なのだから。

 

(一体、こんな、どうやって……)

 

 どうやって灯台の光を届かせたのか。……後で知ったことなのだけれど、ホークスは黒影(ダークシャドウ)を引き付けて飛んでいる間に海上保安庁に連絡し、いつもは自動運転になっている灯台を操作してもらい、それに合わせて黒影(ダークシャドウ)を誘導していたらしい。

 黒影(ダークシャドウ)の注意を自分に絞らせ、捕まらないよう素早く飛び続けつつ、灯台の操作許可を得るために連絡し、タイミングを合わせて羽根を飛ばし、操作する──これらすべてを完璧に為すために、どれほどの鍛練を重ねてきたのかと思うと、ただただ、胸が詰まる。

 

「すご、い……」

 

 強い。速い。すごい。その背中があまりに遠すぎて、ただ見上げるばかりだったのだ。憧れて、憧れに目を焼かれて、眩しく思うばかりだった。

 

(……いや、駄目。駄目でしょう、わたし)

 

 それだけでは駄目だと、言ってもらったばかりでしょう。

 そう自分に言い聞かせ、首を横に振る。そうして、常闇くんを抱えて地上に降り立ったホークスの元に駆け寄った。

 

「ホークスさん! 常闇くんは……?」

「気を失ってるだけだよ、大丈夫。──で、」

 

 その瞬間、さまざまなことが起きた。

 まずホークスがわたしの肩を引き寄せ、後ろに下がらせる。赤い剛翼がカーテンのように視界を覆う中、──ジュッ、と何かが焼ける音とともに、光の矢が走った。光の、矢。光線。……【光】。はっと息を飲むわたしを、ホークスが背に庇う。

 

「動かんでくださいね」

 

「……ックソが……!」

 

 淡々とホークスが制するのに対し、罵声が叩き付けられる。鋭く形状変化させた幾枚もの剛翼が、その切っ先が、プラチナブロンドの男を取り囲んでいた。

 

「今、うちのサイドキックが、警察と一緒にあなたのお宅にお邪魔してます。こっちにも応援呼んだんで、そう遠くないうちに到着するでしょう」

 

 淡々と、ホークスが告げる。

 

「……うちの子たちが、世話になったね」

 

 淡々と、……冷ややかな声で、最後通告を。

 わたしが向けられているわけじゃないのに、思わず胸元を握り締めていた。思わず──投げ掛けてしまった視線と、男の視線が、絡む。

 

「……なんだよ、その目は」

 

 ぎり、と歯軋りの音とともに、睨み付けられる。

 

「中途半端に救けておいて、肝心なところは放り投げるのか、テメェは。最悪の偽善者だな」

「……、」

 

 わかっていた。そう思われるだろうことも。実際わたしという人間はそんなものなのだ(・・・・・・・・)。オールマイトのように、完全無欠に、全部を救うことはできない。

 

「死ね。……オイ、死ねよ、おまえ」

 

 わたしは天秤を掲げた。

 選ばなかった方は、転がり落ちた。

 

「好き勝手に手ェ出して、高みから見下ろしてんじゃねぇ」

 

 だから、そう言われるのも当然だ。当然のこととして受け止め、ただ立ち尽くす。それだけしかできなかったけれど、それでも、耳を塞ぐことだけはしたくなくて。

 遠く、サイレンの波が近付いてくる。治したはずの耳が、じんじんと痛みを訴えていた。

 

 

 

 

 あれからパトカーで駆け付けた警察に(ヴィラン)を引き渡し、わたしは警察署で事情聴取を受けた。どういった経緯で拉致されたのか、どんな要求を受けたのか、どんなことをされたのか──話すうちに大丈夫だったか気遣われたり、よくぞ(ヴィラン)に屈さなかった!と称賛されたりするたびに、胃がしくしく痛んだ。

 そうして夜も更ける中、ホークスの事務所に帰ってきたわたしは、ふらつく足取りでコンポタのある自販機を目指した。あの程よい甘さとあたたかさで、ほっとしたいなと思って、

 

「よ、……お疲れさま」

 

 廊下の曲がり角の先。自販機の横に置かれたソファー。そこで腰掛けてひらりと手を振るその人の姿に、なんだか涙腺が緩みそうになった。

 

「ホー、クス……」

「ほら、座りなって」

 

 言われるままに彼の横に腰掛けると、ぽん、とコンポタの缶を手渡された。じわりと手のひらの中に熱が生まれる。同時に生まれた熱が、わたしの目蓋を熱くした。

 

「っ、ごめ、」

「“ごめんなさい”も、“すみませんでした”も要らないよ」

「……でも、」

「謝るのはこっち。……ごめん、危険な目に遭わせて」

「な、なんでホークスが謝るの……わたしが、油断してたから、こうなったのに……」

 

 俯くわたしの頭を、ホークスの大きな手が撫でる。わしゃわしゃと髪をかき混ぜられて、思わず顔を上げた先で、ホークスは眉を下げて微笑んでいた。

 

「おまえは謝る必要ないけど、俺が謝っちゃうと“そんなことない”って言って自分を責めちゃうんでしょ。……だったらもう、この話は終わり」

 

 乱れた髪を、そっと撫でながら。

 

「それよりも、話したいこと、あるんじゃない?」

 

 こちらを見透かしたような、それでも優しい眼差しで言うものだから、わたしは喉を震わせた。

 

「……今日のことで、難しいなって、思ったの」

 

 思い出す。(ヴィラン)となった男の叫び。正常な意識を失い、床を這うあの人たち。……(ヴィラン)病院に運ばれたあの人たちは治療を受けたけど、もう、元には戻れないだろうと、そう診断を受けたのだと。

 

「“正しく”いるって、誰かを救けるって、難しいね……」

「……そうだね」

 

 自分なりに頑張ってきた。頑張った。

 それでも取り溢してしまうものは、あまりに多い。

 

「なあ、愛依(あい)

「? なに……?」

 

 なんだろうと、俯いていた顔を上げる。

 

「……、」

 

 普段言い澱むことのないホークスが、口ごもっている。それが珍しくて、意外に思って、わたしは目を瞬かせた。

 

「ホークス? どうしたの?」

「……いや、」

 

 何かを飲み込んだような、少し切ない笑顔だった。

 

 

「愛依、おまえは──ヒーローに、なりたい?」

 

 

「……うん」

 

 迷ったのは、一瞬。その一瞬で迷いを掻き消して、わたしは頷く。

 

「わたし、ずっと、ヒーローになりたいって思ってたよ」

 

 幼い頃から抱えてきた夢を、こうして改めて話すのは初めてだった。どきどきと騒ぐ胸元を握り締めて、ホークスの目を見つめ直す。

 

「あなたのようなヒーローに、あなたの力になれるようなヒーローに、……啓悟くんを救けられるようなヒーローになりたいって、ずっと、夢見てた」

 

 夢を語るというのは、自分の胸のうちをさらけ出すことに似ていた。

 

「……でも、心のどこかで“なれるわけない”って思ってた。あなたに憧れながら……あなたを超えられない。あなたみたいには、天地がひっくり返ったってなれないって、諦めてたの」

 

 自分の弱さをさらすことだって、こんなにも怖い。

 それでもわたしが喋ることを止めないのは、あの人のおかげだ。

 

「……常闇くんに言ってもらって、初めてそれに気付けた」

「そうだったんだね」

「うん……それで、ね」

 

 あの人が、常闇くんがいてくれたから。

 わたしの弱さを、甘えを指摘してくれたから。

 わたしに、──

 

「わたしには力があるって、言ってくれたの。人々の元にいち早く駆けつけて、傷を治して……救う力があるって。それが、羨ましいって……」

 

 わたしの唇に、自嘲の笑みがこぼれる。

 

「【翼】も、【治癒】も、わたしの本当の“個性”じゃない。そんな風に言ってもらうなんて、おこがましいって、わかってる」

 

 彼の称賛は、わたしが受け取るべきではない。治してくれてありがとうと、救かったよと──そう聞くたびに喜んでしまうわたしは、どこまでも浅ましい。そんなわたしが嫌で、自信が持てなくて、“わたしなんて”ちっぽけな奴だと、そう思っていた。

 でも、駄目だ。“わたしなんて”と退いては駄目。

 それでは駄目だと、叱ってもらって気づいたんだ。

 

「わたしの“個性”じゃなくても、わたしが、どれだけ狡くて卑怯でも……、この力があることは事実だから。力の責任を取らなきゃいけないってのは確かだから、」

 

 だから、と拳を握る。決意を込めて。

 

「だから、もっともっと頑張りたい。この“個性”を使って、正しく人を救けてみせる」

 

 そうして頑張って、頑張り続けて、いつか。

 

「あなたみたいなヒーローに、なるよ。……ううん、あなたを、ホークスを飛び越えちゃうくらい、高く飛んでみせるから!」

 

 声が上ずる。頬が熱い。この決意表明くらいは格好よく決めたかったのに、ホークスはわたしのことをどこまでも見透かしているようだ。きょとんと丸かった目が、柔らかく弧を描いていく。

 

「うん、楽しみにしてる」

「ほ、本気なんだから。……見ててね、啓悟くん」

「わかってるって、……愛依」

 

 ふは、と楽しげに、優しく、ホークスは笑った。

 

 

38.少女、天秤を掲げる。

 

 


 

 ホークスは言いたかったことを飲み込みました。それを改めて口にするのは、またもっと後の話。

 

 戦闘?描写ってどうしたらいいの……とクソ難産でした。亀更新本当にすみません。それでも読んでくださる方には本当に無限大感謝です。

 次回は常闇くん回です!長かった……!今までたくさん葛藤してもらった分、思う存分プルスウルトラさせたいです。



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39.黒翼、飛躍する。

 

 端的に言ってしまえば、俺は自惚れていたのだ。

 

 体育祭3位入賞の際、オールマイトから『強いな君は!』との御言葉を貰い、更にはNo.3ヒーロー・ホークスからの指名を頂戴した。

 それに胡座をかくまいと、更なる高みを目指さんと、そう誓って福岡に訪れた。その決心に偽りは無い。それでも心の奥底に、“ホークスに選ばれた”という自負があったのだろう。

 

『そんな、わたしなんか全然……常闇くんやホークス、サイドキックの皆さんの足を引っ張らないよう、頑張るね』

 

 だから、共に選ばれた空中(そらなか)が、どうしてそこまで謙虚になるのかわからなかった。謙虚、と言えば聞こえはいいが卑屈に近いその声色に、首を傾げたのを覚えている。

 空中愛依(あい)という学友は、背中の【翼】を用いた機動力に定評があり、ひとつひとつの羽根を操り、攻撃や援護に応用する器用さもある。極めつけは、希有な【治癒】の“個性”。ヒーローに打ってつけの“個性”を手にしているにも関わらず、いつも自信なさげに、控えめにしているクラスメイトだった。

 

(何故そのように、卑下するのか)

 

 “わたしなんて”と、一歩退いてしまうのか。

 ホークスに憧れているという彼女が空を見上げる瞳は、輝いてはいたものの、深い諦念を宿していた。諦めていたのだ。ホークスに追いつけはしないと、空へ飛び立つ前から決めつけていた。

 

 それがひどく、もどかしかった。

 ……それに羨望が、それに伴う苛立ちが混ざったのは、保州事件を経てのことだった。

 

『わたしなら【翼】がある。許可を頂けたなら、飛んで、いけます!』

 

 (ヴィラン)災害に見舞われた保州を救うため、傷ついた人々を救うため、いつもの控えめさをかなぐり捨てて飛び立つ空中は、ヒーローだった。自分の“個性”を用いて人を救わんとする、紛れもないヒーローの姿。

 

(……ならば、俺は?)

 

 俺は何をしている。何が、できる?

 職場体験でホークスのパトロールについて出たはいいものの、ホークスの速さに追いつけず、追いかけるばかりで、事後処理すら遅れを取っていた。それで終わってたまるかと編み出した“深淵暗躯”も、不完全で不安定で、踏み外しては空中の助けを借りる始末。

 

(何故俺は、ここにいる?)

 

 人々の元へいち早く駆け付け、癒し、救うことのできる空中に対し、俺という人間は──ここにいる意味があるのか?

 事件解決のみならばホークス一人で事足りる。事後処理もまた、俺がいなくても事足りる。……俺が、いなくても。

 

(俺がここにいる意味は、あるのか……?)

 

 何故ホークスは俺を指名したのか。俺を呼んだのか。選んだのか。問い掛けるのはすがることにも似ていたが、それでも俺は、彼の真意を知りたかった。……いや、知って、安心したかったのだろう。“俺はここにいてもいい”と、確信を得たかったのだ。

 ……なんて浅ましい。なんて脆弱な心持ちだろうか。もしかするとホークスは、そんな俺の心をも見抜いていたのかもしれない。

 

『鳥仲間』

 

 もしくは、USJのことを伝える伝書鳩として。

 そのために呼ばれたのだと知って、そのためだけ(・・)に選ばれたのだと思い知って、俺が抱いたのは怒りだった。それは軽薄に笑うホークスに対するものだけではなく、未熟な我が身に、思い上がっていた我が身に向けられたものだった。

 

 そう、我が身に向けられたものだった。そのはずだ。

 しかし俺はその憤怒を──空中に向けてしまった。

 

『常闇くん……!』

『……空中、か』

 

 パトロールの最中、またも“深淵暗躯”に失敗し街灯を踏み外した俺を、救ってくれたのは空中だった。落下する俺を羽根で受け止め、気遣わしげな眼差しを向けてくる。

 

『うん、……あの……常闇くん、大丈夫……?』

 

 空中は、ただ俺を案じてくれているだけ。

 頭では理解していた。心は、納得しなかった。

 

『大丈夫に、見えるのか』

『……と、こやみ、くん?』

『空中は、悔しくは、ないのか?』

 

 自分の弱さが許せず、怒りや悔しさが抑えきれなかった。呆然とする空中にありのままの気持ちを叩きつけてしまい、彼女が肩を震わせる様を見て、罪悪感とともに更なる苛立ちを募らせた。

 何故力を持ちつつも諦めるのだ。

 何故力を持ちつつも自分を卑下するのだ。

 何故、──卑屈になる必要など無いと、気づかない。

 

 そんな身勝手な怒りに呑まれていたからだろう。(ヴィラン)の接近に気づけず、我らは共に囚われた。我が黒影(ダークシャドウ)の天敵ともいえる【光】の“個性”に手も足も出ず、無様に拘束され、見ているだけだった。

 何もできなかった。空中が蹴飛ばされた時も、無理やり引き摺られていった時も、肩を拳銃で撃たれた時も。空中が俺の人質として敵の手中にある──その状況が俺を縛り付けていた。

 しかし空中は、俺と同じ状況だというのに、俺を守ろうとしていた。彼女らしからぬ冷たい声色は、会話は、(ヴィラン)悪感情(ヘイト)を自分に向けさせるためだったのだろう。

 

 あんなことを言った俺を、守ろうとして。

 そうして空中は、耳に風穴を開けられた。

 

 鈍い銃声とともに飛び散る鮮血。痛いだろうに苦鳴ひとつ漏らさず、固く目を閉じて耐える。

 そんな空中を見た刹那、俺の心の糸がぷつりと切れたのがわかった。暗闇にあってざわめいていた黒影(ダークシャドウ)が、俺の怒りの炎をくべられて、狂乱した。

 

(そうして俺が為したのは、何だった?) 

 

 暴走した黒影(ダークシャドウ)の腕は、(ヴィラン)を吹き飛ばすのみに収まらなかった。心神喪失し、まともに動けぬ人々に鉤爪を振るい、あまつさえ──それを庇おうとした空中の背を、傷つけた。もしもホークスが止めてくれなかったら、あれ以上の惨事を引き起こしていたに違いない。

 

 

 事件後、気を失った俺はいつの間にかホークス事務所で宛がわれた自室で目が覚めた。現時刻は深夜で、まだ寝ていなくてはならないにも関わらず、どうしても眠れずに身体を起こした。身体中が悔恨の念で焼かれているかのようで、息苦しく、喉が渇く。

 

「常闇くん」

 

 自販機で水を飲もう。そう思い立ち向かった廊下で、ホークスと鉢合わせた。目を白黒させる俺に、彼は笑いかける。

 

「……ホークス」

「起きてたんだね、気分はどう?」

「体調は良好だ。……心情は、穏やかとは言い難いが」

 

 身体に傷はない。空中とホークスが守ってくれたから。

 だからこそ、この息苦しさと喉の渇きがあるのだから。

 

「君にも謝っとこうと思って」

 

 そんな俺の内心を知ってか知らずか、ホークスは笑みを引っ込め、真剣な眼差しを投げ掛ける。

 

「危険な目に遭わせた。救けるのが遅くなって、ごめん」

 

「ッ……」

 

 何故謝る。頭を下げる。謝罪するべきは俺なのに。

 

「……“納得いってない”って顔だ」

 

 顔を上げたホークスは、へらりと笑ってそう言った。へらりと笑いながらも、その目を鋭くさせている。

 

「この職場体験中、何度もその顔してたよね」

「……それは、」

「うん、いい機会だからさ、思ってること聞かせてよ。今なら俺以外誰もいないし」

 

 空中さんも寝てるしね、と付け加えられて、こちらを見透かすかのような微笑みに促されて、俺は思い口を抉じ開けた。

 

「……ホークス、」

「うん」

「俺は、ずっと、……悔しかった」

「うん」

 

 そうして洗いざらいを白状した。俺が体育祭の結果やホークスからの指名を受けて思い上がっていたこと。共に呼ばれた空中は自分の“個性”を使って人々を救けているのに対し、俺はあまりに無力だったこと。にも関わらず自分を卑下する空中を責め立てたこと。身勝手な俺を、それでも空中は救けようとしていたこと。そんな彼女を、暴走して傷つけたこと──

 

「……俺は、身体能力や技術だけでなく、心も未熟だった。その苛立ちやもどかしさを空中にぶつけ、傷つけてしまった挙げ句、思うまま感情を暴発させ、黒影(ダークシャドウ)を暴走させてしまった……」

「元々暗所で凶暴になる“個性”だったね。それに常闇くんの感情が乗ってしまった……でもそれは、君の意図するところではなかったんでしょ?」

「それは、そうだが、傷つけてしまったことに変わりはない」

 

 ぎり、と歯を食い縛る。話せば話すほど悔恨の念に駆られ、自分の未熟さを思い知り、顔を上げていられなかった。俯く視界には、自動販売機の電光に浮かび上がる影が伸びていた。

 影。暗闇は、俺の力だった。なのに──

 

 

「じゃあ、やめる?」

 

「──は……?」

 

 唐突に突きつけられた言葉に、呆然として顔を上げた。

 その先でホークスは、薄く笑っている。

 

「ここでやめるかい? ヒーローになることを」

 

 いつだったか、初めて“深淵暗躯”を使って街灯を足場に飛び回った時も、俺を顔だけで振り返り、肩口でこんな笑みを覗かせていた。高みから下界を見下ろすような、そんな表情だと、あの時の俺はより悔しく思ったものだが。

 

(……違う(・・)。)

 

 こちらを見下ろしているわけでも、見下しているわけでもない。ましてや侮っているのでもない。 

 こうして向かい合った、今ならわかる。

 

 

「常闇くんは、諦める?」

 

 

 ホークスは俺を、試している。

 

 

「──否……!!」

 

 

 みっともなく声を震わせてでも、これだけは言わなければならなかった。空中にあんなに偉そうに宣っておいて、俺が足を止めるわけにはいかない。空を見上げるばかりで満足するまい。

 あの紅い翼は、あまりに鮮烈──だからこそ!

 

「諦念など不要……! 俺は今日の未熟も悔恨も糧とし、歩み続ける。空中にも、そしてホークス、貴方にも負けん! いつかは貴方の空をも超えてみせる……!!」

 

 吼える俺に、ホークスは目を瞬かせた。猛禽の鋭さが、面白げに弧を描く。

 

「俺は結構、速さを信条としてるからね」

「承知している。嫌というほど」

「君の成長を足踏みして待つ気は無いよ。それでも俺に、食らい付いてこられるかな」

「無論!!」

 

「……はは、」

 

 こちらを見据える藤黄色の目に、光が射した気がした。

 

「いいね。その目、悪くない」

 

 うん、とひとり頷いて、ホークスは言葉を続ける。

 

「君はきっと、もっと強くなる。もっと高みへ行ける」

 

 穏やかに紡がれた言の葉は、真っ直ぐ俺の胸の中に落ちてきた。降り積もるそれが、熱を生む。

 

「俺でよければ、少しレクチャーしようかな」

「!! ……感謝する!!」

 

 そんな会話を経て、俺は自室に戻ってベッドに横たわった。もう先ほどの息苦しさも渇きもない。早く眠らなければならないのに、それとは違う感情が心の内をぐるぐる駆け巡るようで、なかなか眠れはしなかった。

 

 

 

 どんな夜が来ても朝が来るように、昨夜の目まぐるしい出来事など無かったかのように、穏やかな朝が訪れた。窓から覗く街並みには、普段通り世話しなく人々が行き来している。いつもと変わり無い──それでも俺にとっては、一歩を踏み出す朝だ。深呼吸して、意を決して、自室のドアを開ける。

 廊下を歩いてしばらくすると、白い人影が見えた。白い肌、白い髪、白い翼──それを備える空中は、ガラス越しに街並みをぼんやりと見下ろしていた。その青い目が、はっとしてこちらを見やる。

 

「常闇くん……! あの、昨日は、ごめんなさい」

 

 開口一番に謝られ、頭を下げられて、その眉の下がった表情に胸が苦しくなる。そんなことはしなくていいと、申し訳なさと共に口にした。

 

「顔を上げてくれ……空中が謝る必要など無い」

「でも、」

「昨夜は俺が悪かったのだ。俺が……感情を、黒影(ダークシャドウ)を暴発させてしまい、おまえを傷つけた」

「そんな、それは常闇くんのせいじゃ、」

「否。……俺のせいだ」

 

 それだけではない。物理的な怪我だけではない。

 

「……言葉でも、傷つけた」

 

 こちらを見上げる空中の目を見つめ直し、謝罪を続ける。

 

「あの路地裏で放った言葉は、あまりに身勝手で不躾だった。俺の未熟を、不甲斐なさを、空中に八つ当たりしていたようなものだ。

 重ね重ね、本当に──申し訳ない」

 

 深く、頭を下げる。頭上で空中が息を飲む音が聞こえた。それから数秒の間、考え込むような沈黙が続いて。

 

「……じゃあ、やっぱり、常闇くんが謝る必要なんてないよ」

 

 そんな柔らかな声と共に、肩に手を置かれ、顔を上げさせられた。空中は何かを堪えるような、それでも穏やかな笑みを浮かべている。

 

「路地裏でのあの言葉……あれを聞いて気づいたの。わたしはホークスへの憧れが強すぎて、あの人を超えられるわけないって無意識に諦めてた。常闇くんの、言う通りだったんだって」

 

 空中愛依という学友は、いつも自信なさげで、控えめで。

 でも今は、それだけではない。

 

「自分の弱さや甘さは、確かにあった。でもそれに気づけたから、次に活かすことができる。……空へ向けて、飛んでいける」 

 

 俯きがちだった瞳が、前を向いている。朝日を受けて輝く青い目で、空中はそれに、と付け加えた。嬉しそうに頬をほころばせている。

 

「あの男の人に連れ去られてからも、常闇くん、ずっとわたしを心配してくれてたでしょう?」

「無論、そんなものは至極当然のことだ」

「……常闇くんにとっては“当然”のことでも、わたしにとっては、嬉しかったんだよ」

 

 ありがとう、と。俺にそんなことを言う義理はないはずなのに、それでもその言葉が心からのものだとわかった。彼女は目を反らすことなく、真っ直ぐに俺を見ている。

 

黒影(ダークシャドウ)の暴走は、常闇くんが優しいから。優しく誰かを思いやっているから。だからどうか、自分を責めることはしないで」

 

 微笑んでから、ああそうだ、と俺の胸元に視線をやった。

 

「常闇くんだけじゃないね、黒影(ダークシャドウ)も、優しい」

「ウウ……ソラナカァ……いっぱいゴメンヨウ」

「ううん、いいの。こちらこそごめんね」

 

 ひょこりと顔を覗かせた黒影(ダークシャドウ)の頭を撫でる、空中の表情は穏やかだった。晴れやかでもあり、何の遺恨も残していないように見えた。しかし──

 

「俺には、やはり昨夜のあれを、流すことなどできん」

「……常闇くん、」

 

 何か言いたげな空中を制す。

 許されているといっても、俺は、忘れてはならない。

 

「空中、おまえは、“自分の弱さや甘さに気づいた”と言ったな」

「……、うん」

「俺もだ。俺も、気づいた」

 

 自分の未熟に気づいた。だからこそ、

 

「俺もそれを“次に活かす”。……“空に向けて飛んでいく”!」

「! ……うん、わたしも……!」

 

 決意を口にする俺に、空中は笑顔を輝かせた。わたしも、と同じように頑張ると決意してくれた。それが嬉しくて口許に笑みがのぼる。

 

 

「アララ、青春だなぁ。いいね若いって」

 

 そんな時、軽やかな笑声がやって来た。ホークスはいやに年上ぶっているが、いやしかし、

 

「ホークスは我らと7つしか変わらないと記憶しているが」

「まだまだ十分お若いでしょう」

「まー、こういうのは心の問題だから」

 

 飄々と笑ってから、ホークスは眉目を引き締める。

 

「さて、と。とりあえず現状を伝えておこうか」

 

 昨夜俺たちを拐った者は、博多を根城にしている指定(ヴィラン)団体の一員で、昨日の誘拐事件を経て組員全員が警察に逮捕されたのだそうだ。しかし組員の全貌が掴めるまでは、他の残党が逆恨みで我らに報復するおそれもある。そのため今日を含めた2日間はこの事務所で待機しなくてはならなくなったのだと。エスパースとシンセンスは、警察に協力して調査に動いてくれていて、我らの保護役はホークスとなったのだと。

 ……現状を知るにつれ、事の重大さと申し訳なさが肥大する。それはきっと空中もそうなのだろう、青い目が落ち込んでいる。ホークスが話し終わるのを待って、俺たちは揃って頭を下げた。

 

「勝手な行動をしてしまい、申し訳ない」

「本当に、すみませんでした……」

「ん。謝罪は受け入れた。……で?」

 

 ホークスは笑うように問い掛ける。

 君らはそうして、俯くばかりでいいのかい?、と。

 

「否!!」「っいいえ!」

「はは、息ぴったり」

 

 仲いいねぇ、とからかうように笑いながらも、その目が嬉しそうだったのは、きっと俺の見間違いではないのだろう。

 

「じゃあこの2日間は、君たちにトレーニングを課そう」

 

 そうしてホークスは、我々にそれぞれの課題を呈した。

 俺が“深淵暗躯”の強化をしたいと進言すると、ホークスは何かを考え込むように沈黙したが、それもつかの間、了承して俺の訓練を見てくれた。

 トレーニングルームで黒影(ダークシャドウ)を纏い、駆け、跳ぶ。その動きに視線を走らせ、指示を飛ばす。

 

黒影(ダークシャドウ)が剥がれかけてるよ」

「ッ、了解、再度纏い直す!」

「見たところ、常闇くんと黒影(ダークシャドウ)の行動意思がバラバラになる時に剥がれちゃうんだろうね」

 

 俺と黒影(ダークシャドウ)の間に、右に行く、左に行くといった大まかな選択に齟齬は無い。それでも前進する際に視線を動かす、足に力を込めるといった1秒ほどのラグが“深淵暗躯”を崩壊させているのだと、ホークスは指摘する。

 

「その僅かなラグを無くすには……やっぱ実践あるのみだね」

 

 頷きと共に、ホークスは剛翼を展開した。幾枚もの羽根が、俺たちを取り囲むように切っ先をこちらに向けている。

 

「今から俺は、剛翼で君を追い詰め、攻撃していく。それを黒影(ダークシャドウ)と一緒に避けてみな」

 

 へらりと、何でもないことのように課された課題に、一瞬目眩を覚えた。雄英でも当然のように高い壁を用意されてきたが、それと寸分変わらぬスパルタ加減を前に、口許を引き締める。──笑う。

 

「行くぞ! 黒影(ダークシャドウ)!!」

「アイヨォ!!」

 

 “空に向けて飛んでいく”と決めたのだ。こんなところで、地べたを這いずっている暇は無い。高い壁をこさえてくれたのだから、俺はそれを乗り越えるまでのこと!

 駆け出し、跳躍した俺に、ホークスは口角を吊り上げた。

 

 

 

 

 俺がトレーニングルームでホークスに訓練をつけてもらっている間、空中は別の課題を与えられていた。昨夜の事件で羽根を使いすぎたらしく、まだ羽根がまだ生え替わってない空中には激しい動きはできない。それを踏まえて、ホークスは笑った。

 

『激しい動きは必要ないよ。空中さんには、……ごはん作ってもらおうかな』

『へ? ……ごはん?』

『そう、ごはん』

 

 食事を作る、と聞いて戸惑いを隠せずにいた空中だったが、ホークスの次の言葉に表情が強張った。

 

手を使わないで(・・・・・・・)、ね』

 

 ホークスの出した課題は、羽根を操って料理を作る、ということだった。食材を洗う、野菜の皮剥きをする、包丁を使って食材を切る、煮込む、炒める──普段何気なく行っている動作のひとつひとつは、さまざまな力加減を必要とする。複数枚の羽根を、さまざまな強度で、速度で、それぞれの動きで、同時に。……それを行うというのは、かなりの負荷が掛かるのだろう。

 

「だ、大丈夫か、空中」

「……こんなにジャガイモの芽を取るのが大変なんて初めて知ったよ……」

 

 夕方、トレーニングルームから戻ってくると、キッチンの椅子にへたりこんでいる空中がいた。声を掛けると、弱々しい呻き声が返ってくる。何とか夕飯のカレーライスを煮込む行程までやりきったらしい。くつくつと煮える鍋の中身を見て、ホークスはにこりと笑う。

 

「おっ、旨そうだ。楽しみにしてるね」

「うう、はい……」

「明日の朝食、昼食、夕食も頼むよ」

「ひえ……」

「ん? ……できる?」

「っ、やれます!」

「いい返事」

 

 満足そうに微笑んだ後、ホークスは視線をこちらにやった。目と目が合う。

 

「で、常闇くん。ちょっといいかな?」

「?」

 

 ニッ、と、少しだけ悪戯っぽく笑って。

 

「夜間飛行と洒落込もうよ」

 

 

 

 

 眼下には博多の夜景が広がり、まるで星空の上を行くようだった。ヒュオオと吹き荒ぶ風が耳元で鳴っている。頬を風が打つ。……いや、まるで、俺自身が風となっているかのようだ!

 

「ホ! ホークス!! 我々風となっている!」

「飛ぶの初めて?」

 

 俺はホークスに抱えられ、夜の街の上空を飛んでいた。声を弾ませる俺に、ホークスはゆっくりと話し始める。

 

「昨日の昼過ぎ、俺が言ったの覚えてる? 『常闇くんを呼んだのは2割が鳥仲間、半分はUSJのことを聞きたかったから』って」

「……記憶している」

 

 それは苦い記憶として俺の中に刻まれていた。悔恨を糧とするべく忘れまいと、誓ったばかりだ。

 しかしそれだけで終わらせようとする俺をとめて、ホークスは続ける。あの時の話の続きを。

 

「残りの3割さァ、常闇くんがもったいないことしてるなーって思ったからなんだよね」

「!」

「空はね、いいよ。物事を俯瞰して見られるから」

「……?」

 

 ホークスは恐らく、頭の回転が速いあまりに会話が飛び飛びになってしまうことがあるのだろう。それでも、断片的な言葉の中に、何かを伝えようとする意思がある。

 

「後進育成なんてする気ないんだけどさ」

「……“もったいないこと”とは?」

 

 だから、問い掛けた。

 “もったいないこと”──俺の欠点と、伸びしろを。

 

「弱点の近距離カバーに尽力もいいけど、“得意”を伸ばすことも忘れない方がいい」

 

 鉄塔の上に俺を下ろし、ホークスは歩いていく。夜風が吹き抜ける中、俺は壁を伝ってホークスの後に続いた。

 

「君はもっと自由に動ける。ホラ……鳥仲間のよしみさ」

 

 未だ眠らぬ街並みの灯りが、ホークスの静かな横顔を照らしている。

 

「飛べる奴は飛ぶべきだよ」

 

 その声色に、複雑な思いが込められている。それは同胞意識だとか、願望だとか、高みに立つ者の孤独だとか、苦悩だとか、決意だとか、──そうしたさまざまな感情が混ぜられているような、そんな気がした。

 

「──地面に縛り付けられる必要なんてない」

 

 赤い剛翼から覗くその目に、俺は、頷いた。

 

 

 

 翼を持たぬ俺が飛べるなど、思いつきもしなかった。まさに青天の霹靂といっていい、……天啓だった。

 信じる信じない、の話ではない。疑うなどしない。

 あのホークスが、“俺は飛べる”と、そう言ったのだ。

 

「俺は翼は持っていない。俺が持つのは──黒影(ダークシャドウ)だ」

 

 だったらその力で、俺は空へ行く(・・・・)

 

「うん……! 常闇くんと黒影(ダークシャドウ)なら、絶対にできるよ!」

 

 夜が明けて、ホークスとの話を打ち明けた空中は、まるで自分事のように喜び、信じてくれた。6日目はホークスも日課のパトロールに出向いたことから、俺と空中で残された課題に挑む。その傍らで、俺が空に行く手助けをしてくれた。

 

 ホークスからの助言。空中のサポート。

 黒影(ダークシャドウ)は「オレタチナラデキル!!」と力強くサムズアップした。生涯を共に歩んできた半身は、もうすべてを信じきっている。

 それらを手に入れた俺に、恐れるものなど、何も無い。

 

 

 

(ホークス)よ」

 

 職場体験、最終日。2日の待機期間を経て、俺と空中は午前中のパトロールに参加することになった。いつものミーティングを経て、いつものように窓から飛び立とうとする(ホークス)の背に、呼び掛ける。

 

「どうか、見ていてほしい」

「……うん、見てるよ」

 

 ふ、と笑って、空中に身を踊らせる。赤い翼がごうと強く羽ばたいて、その背中があっという間に小さくなっていく。

 ……それをもう、地上から追うだけの俺ではない!

 

「行こう、常闇くん!」

「承知!」

 

 空中が翼で飛び立つのに続いて、俺も窓から飛び出した。背中にエスパースたちの慌てた声が掛かる。事実、俺の身体は地上4階の高さに投げ出されたようなものだ。重力に従って落ちていく身体──しかし空中は羽根を飛ばさない。俺を、信頼を込めて見ている。

 

黒影(ダークシャドウ)ッ!!」

「任セナァ!」

 

 咆哮と共に、黒影(ダークシャドウ)に自身を抱えさせる。黒影(ダークシャドウ)は常に浮遊状態。俺を抱えれば空を飛ぶことも可能だと、そう気づくことができた。

 

黒影(ダークシャドウ)……黒の堕天使!!」

 

 ホークスに可能性を見出だされ、空中に励まされ、黒影(ダークシャドウ)に信じられて。そうして俺は、飛べる!

 

「……君たちは、すごいね。水をあげればどこまでも育つ……いや、」

 

 飛びながら身体を反転させ、ホークスは呟いた。その目が俺たちを映して、眩しそうに細められる。

 

「風をあげれば、どこまでも飛んでいけるね」

 

 嬉しそうにほころぶ師の笑みに、胸が熱くなっていく。

 それがきっと、どこまでも、俺の身体を飛ばしていける。

 

 

39.黒翼、飛躍する。

 

 


 

 念願の常闇くん回だからってはしゃぎすぎましたね……長くなって本当に申し訳ないです。ここまで読んでくださってありがとうございました。

 常闇くんはオリ主がいる関係で原作よりずっと焦燥感や劣等感、悔しさが募っていました。書いてる途中で「申し訳ないな……」と思いもしたんですが、常闇くんのメンタルなら葛藤があればあるほどバネにしてプルスウルトラしてくれるよな!!と信じてこうしました。ホークスと常闇くん、どちらも大好きなので、強化した常闇くんの活躍も、ホークスと常闇くん師弟の関わりもどんどん書いていきたいです。



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40.鷹、影と光。

 

 極道、ヤクザ──かつては裏社会を取り仕切っていた団体。オールマイトの台頭によって多くが解体され、生き残った少数は指定(ヴィラン)団体として監視を受けながら生活している。反社会的行動が見受けられた場合、組ごと逮捕、解体させられるという流れだ。

 組の取り潰しは、仁義と結束を重んじる彼らにとって最も避けなければいけない事態。そのためならば、自らの何もかもを差し出すのだという。

 

「お疲れさまです」

「ああホークス、……面会希望だったな」

「はい」

「……まともな会話になるかはわからんが」

 

 それでもよければ、と前置きと共に通された面会室。その椅子に腰掛けると、ガラス越しに同じように座る男と同じ目線になった。しかし視線は絡まない。男は、ごん、ごん、とガラスに頭を打ち付けている。

 

「花が咲いている咲いたさいたさけた裂けなければなりません日曜日はいいです月曜日がいいです火曜日に終わります水すいす曜日はおりますもくよう日は木きききき日木になりま金曜金曜日はびびはお祈りをします祈りいのしますしました死にました土曜日ど土曜どうよびははし恥死に死にました土曜日は死に死ななければばばならななりません花を花が花を」

 

 ごん、ごん、と鈍い打撃音と共に、ぶつぶつと何事かを呟き続けている。この男は1週間前、愛依(あい)と常闇くんが福岡に到着した時に駅前広場で暴れていたところを確保されて以降、ずっとこの調子だった。登録されている彼の“個性”はせいぜい地面を10cmほど隆起させる程度の筈だったのだけど、“個性”を強化させる麻薬(ドラッグ)を過剰に用いた結果、あの暴走を引き起こした挙げ句、心神喪失してしまったのだという。

 

「今日も相変わらずの様子で。……ま、そう(・・)でなきゃ困りますもんね」

 

 【組の下っ端が麻薬を持って逃亡。他の組員が制止しようと追い掛けるが、麻薬を使用して暴走。心神喪失となった。】……こういうシナリオでなければ、あの時既に組全体が取り潰しになっていただろう。何らかの理由(・・・・・・)で【光】の“個性”を放ってしまった兄貴分を逃すため、この筋書きを選んだのだろう。

 これを遂行したのは上の指示だったのか。この男の献身だったのか。仕方なく行ったのか。すべて覚悟してまともな人生を手放したのか。本当に心を失ったのか。狂人を演じ続けることを選んだのか──どれが嘘で、真実だったとしても、言わなくちゃならないことがある。

 

「あなたの組は、昨夜、解体されましたよ」

 

 ごん、と、最後の打撃音と共に、音が死ぬ。呟き声も聞こえなくなったから、重い沈黙がこの面会室に充満する。

 

「あなたの兄貴分、……光坂さんっていうんですね。彼が動いた結果です」

 

 ガラスにもたれ掛かったままの頭部は動かない。けれど、その体勢のまま、ぐるりと目玉がこちらを向いた。瞳孔が開き、どこまでも暗い穴のように、ぽっかりと広がる。

 

「あにき」

 

 ひどく、幼く感じる声色だった。透明な声だった。

 

「あにき、……かげ、が、」

 

「──影?」

 

 その透明が、どす黒く濁っていく。

 

「あ、あ”、あああ”ああ”あ”あッはッ八波は!!! かげ影陰蔭カゲ影ぇええ”!!! 影がくる狂来る影かげ影が影が呑むのんでのん飲む影ちぎれ影カゲ陰影がちぎ千切った腕うあ足指ゆび親指ちぎ取れた取れてて手手くび手首ないないないい”ない”いい”!!!」

「おい、大人しくしろ!!」

 

 ガラスや机、椅子にぶつけても気にすることなく、めちゃくちゃに頭や両手を振り回して男は叫んだ。入り口に待機していた警官に取り押さえられると、暴れる気力も無くなったのか、腕の中でかくりと糸が切れたように崩れ落ちる。

 その様をじっと見ていた俺を、ガラス越しに男は見返した。暗い、暗い、穴のような目で。

 

「……どうせ、ヒーローは、オレらのことなんか、救けるわけなか」

 

 その言葉を最後に、男は沈黙した。視線はもうこちらに向いておらず、虚空を見つめている。喚き散らした口はぽかんと空いたまま、端から涎を垂らしていた。

 ここまでだなと判断して、俺は席を立った。こちら側の入り口を警護していた警官に会釈する。

 

「ありがとうございました」

「……もういいのか」

「ええ、聞きたいことは聞けたんで」

 

 にこりと微笑み、開けられたドアをくぐって外に出る。その瞬間、背中の剛翼が舌打ちの響きを拾った。

 

「……眉ひとつ動かさんて、ほんまに人の心があるんか」

「おい、やめろ」

「先輩、でも、」

 

 あいつ、ヒーローのくせに。

 そんな義憤に駆られているのは、あの若い方の警官だろう。真っ当な正義感に頷き、小さくわらった。

 

「“ヒーローのくせに”、ね」

 

 ほんと、どうあればヒーローはヒーローでいられるんだか。

 そんな愚痴を溢す俺を「そんな時間は無い」と咎めるかのようなタイミングで通信が入った。拘置所を出て、アスファルトを蹴り、上空に飛び上がって耳元に手を当てる。

 

「お待たせしました」

『ご苦労様。捕らえた組員から話は聞けたかしら』

「ええ、ご報告しますね」

 

 耳朶の“ピアス”から聞こえる、公安委員会会長の声に返事を返す。

 

「今回博多で起きたヤクザ者の失踪事件ですが、恐らく実行犯は黒霧──(ヴィラン)連合が関わってる」

 

 俺の言葉に驚くことなく、会長は『根拠は』と短く尋ねてきた。それに先程の男の供述を思い浮かべながら答える。

 

「言動に乱れはあったものの、【影】【来る】【呑まれる】【千切れる】【取れた】【腕】【足】【指】といったワードは聞き取れました。あと雄英生徒からの証言で、黒霧は“個性”【ワープ】を用いて身体を切り離すことが可能とありますし、関連性は高いと思われます」

 

 USJ襲撃の際、オールマイトを援護しに広場に向かった常闇くんは、黒霧がオールマイトの身体を【ワープ】でバラバラに位置させた後、ワープゲートを閉じることで切断しようとしていたのを見ている。腕や足、手や指が千切れていたのは、【ワープ】で拉致しようとしたヤクザ者らが抵抗した結果かもしれないと想像はつく。

 それに、今回の事件と(ヴィラン)連合が関わっているかもしれないというのには、もう一つ理由がある。

 

「脳無って、素体は人間ですよね」

 

 USJを襲った脳無のDNA検査を行った結果、一人のチンピラの身体に、少なくとも4人以上のDNAが混在していることがわかった。全身麻薬でこねくりまわされて、複数の“個性”に適応するよう人為的につくられた改造人間。

 

「これは推測ですけど、“個性”を使った戦闘に慣れている人間を素体とする方が、理に敵ってますよね?」

 

 麻薬を使うとはいえ、全身を弄られるのだ。元々屈強な身体を持っているか、強“個性”を持っているか、そうした人間を選ぶ方が手間は無いだろう。

 

「“個性”をわりかし使い慣れてて、荒事に慣れてて、かつ拐っても騒ぎになりにくい人間……」

 

 ヒーローや一般人を拐うとなれば、警察が黙っちゃいない。けど、その警察が静観するグレーゾーンの人間ならば?

 

「指定(ヴィラン)団体……中には“個性”を使い慣れた武闘派の人間もいるでしょうし、いい人材、集めやすそうですよね」

 

 拘置所の男は『ヒーローがオレらを救けるわけない』と呟いたが、きっとそうだったのだろう。黒霧から逃れるために【光】の“個性”を使った光坂、そんな兄貴分を救おうと麻薬を打ったあの男に、他にも多くのヤクザ者が影に呑まれた。「救けて」と声を上げられない、救いの手を差し伸べられない。そんな人たちを影と共に拐っていったのだ。脳無の素体とするために。

 

『その可能性は高そうね。拐われて帰ってきた一部の者は、意識が無いか、心神喪失状態だったのでしょう?』

「はい。病院に連れていけず、倉庫に匿われていました」

『無理に“個性”を植え付けようとすると、その負荷に耐えられず廃人になるケースがあると聞くわ。彼らは、そうだったのでしょうね』

 

 温度の無い声で淡々と推察していた会長は、ふと言葉を切って息を吐いた。溜め息とは違う、けれどそれに似てる響きで、呟くように言う。

 

『それにしても、その倉庫に一番に辿り着いたのがあの子だったとはね』

「……拐われて、ですけどね」

『それでも、いいえ、だからこそ、よ』

 

 あの子にも、“ピアス”を持たせるべきかしら。

 会長の言葉に、心臓が一瞬嫌な音を立てた。それを覆い隠すようにわざとらしく笑ってみせるのは、もう癖のようなものだった。

 

「いやー、やめといた方がいいですって。あの子、天下の雄英に通ってんですよ。なんかの拍子でピアス落として、それが誰かの……パワーローダーさんとか、機械に明るい人の手に渡ったら事です」

 

 “ピアス”とは、それを模した通信機のことだ。公安と秘密裏にやり取りするためのもので、GPSを内包している。それなりに高性能なそれを一介の女子高生が持っていると知られれば、立ち位置を疑われかねない。

 せっかく雄英で学び始めたってのに、そんなこと、あってはならない。

 

『随分と可能性の低いレアケースを引き合いに出すのね』

「無い話じゃないでしょ」

『あの子を信用してないと?』

「最悪の事態を想定しているだけですよ」

 

 まだ早い。まだ必要ないだろう。

 あの子に首輪(・・)をつけるのは。

 

 ……この思いを口にしてはいないのに、公安のトップを務める女傑にはお見通しだったらしい。彼女は深い溜め息を吐いた。

 

『……距離を置けばあなたの過保護も直るかと思ったけれど、効果は薄かったようね』

「あ、やっぱそれ込みであの子を雄英に行かせたんですね」

『そうね。幾つかある利点(メリット)の一つに過ぎないけれど』

 

 ねえ、ホークス、と。声の調子を改めて、彼女は俺に呼び掛ける。

 

『翼でくるんで庇護するだけでは、あの子は強くなれないわ』

「そうですね。全面同意です」

 

 確かにその通りだと頷いた。

 強くなる必要があるのか(・・・・・・・・・・・)は、置いておいて。

 

『本当にわかっているのかしら。……いえ、わかっているから、なのでしょうね』

「何です?」

『あなたは、あの子に強くなってほしくない(・・・・・・・・・・)と思っているかのようだわ』

 

 ──弱いままなら、自分の庇護下に置けるものね?

 

「ええ? そんなことないですって」

 

 そうだ。そんなことはない。そんなに簡単に事が済むなら、そんなに単純な思考でいられるなら、こうもぐるぐる考えたりしない。

 

「強くなりましたよ、あの子は。雄英の先生やクラスメイトたちにいい影響を受けているみたいで」

『それならばいいけれど』

 

 ふ、と小さく息をついて、彼女は思案し続ける。

 

『本来ならば、彼女の持つ【治癒】の“個性”はもっと強力な筈よ。あの子は無意識に、自分自身を枷に嵌めている』

「……それは、当然ですよ」

 

 だってそういう環境で生きてきたのだ。生まれもった“個性”が、あの子にそれを強いた。

 誰かを守り、救いたいと思っている彼女は、“個性”でそれを成せた時に嬉しそうに微笑む。それと同時に、そんな自分を“浅ましい”と評した。称賛を受け取る度に、罪悪感で胸を焦がしていた。

 

 けど、そうして俯いていた小さな女の子は、顔を上げたのだ。

 

『わたしの“個性”じゃなくても、わたしが、どれだけ狡くて卑怯でも……、この力があることは事実だから。力の責任を取らなきゃいけないってのは確かだから、』

 

 新しくできた友人の叱咤で、前を向いた。

 

『だから、もっともっと頑張りたい。この“個性”を使って、正しく人を救けてみせる』

 

 あの事件を経て、疲れきった瞳に光を灯して、いつかの未来を宣言した。

 

『あなたみたいなヒーローに、なるよ。……ううん、あなたを、ホークスを飛び越えちゃうくらい、高く飛んでみせるから!』

 

 それがあまりに眩しかったから。だから俺は嬉しくて、誇らしくて、ほっとして、寂しくて、苦しくて、……そうして決意とともに笑ったのだ。

 

 

 

 

「あ、お疲れさまで、……」

 

 会長への報告を終えて事務所に帰ってきたけど、一足先に帰ってもらってたエスパースさんたちの姿が執務室になかった。不思議に思って剛翼を飛ばして探すと、何故か2人揃ってトレーニングルームの入り口に立っていた。その背中に声を掛けようとするも、2人が素早く振り返って口許に人差し指を立てるものだから、俺は声を低めて歩み寄る。

 

「どうしました?」

「いやね、ちょっとね」

「かわいーもん見られるんで、そのままこっちへ」

 

 手招きされてトレーニングルームをちらりと覗き込む。視界の中に愛依と常闇くんの姿はなかった。不思議に思って、ひとつ瞬き。すると()から声が降ってきた。

 

「うん、常闇くん、そこからもう少し頭を下げて、足を上げて、背を真っ直ぐ、地面に平行に……そう、それ! 今の姿勢きれいだよ」

「ムム……飛行姿勢というのは、意外と筋肉を酷使するものなのだな」

「そうなんだよね……わたしも苦労したなあ……」

 

 彼らは遥か上空にいた。常闇くんは黒影(ダークシャドウ)に自分の身体を支えさせて宙に浮いていて、愛依はその姿勢をきれいに保つべく羽根で補助している。

 

「でも本当にすごいよ、常闇くん! たった1日で空を飛んじゃうんだもの」

 

 愛依の声が興奮で弾んでいる。その言葉から考えると、常闇くんは昨夜の夜間飛行からたった1日で空に辿り着いたということになる。飛べる奴は飛ぶべきだよ、と。地面に縛り付けられる必要なんてない、と。そう言った俺の言葉を信じて。

 

「今時の若者の成長速度って、すごかね……」

「ええ、本当に」

「“憧れ”のホークスに追いつくんやって、2人ともよく頑張っとったばい」

「ええ? ……なーんか照れちゃうなぁ」

 

 へらりと笑って、上擦る声を隠す。

 ……ほんと、“憧れ”なんて、俺はそんな人間やなかとに。

 

「……眩しいなあ」

 

 ぽつりと呟いた俺は、何故か両脇から伸びてきたエスパースさんとシンセンスさんの手に頭を撫でくり回された。わしゃわしゃと髪をかき混ぜられて、軽い拳骨なんかも降ってくる。

 

「ちょ、ちょちょちょ、何なんすかいきなり」

「せからしか!」

「“眩しいなあ”……ってなに黄昏てるったい」

「ほんまそれ。“おまえが言うな”って話ばい!」

 

「……何すか、それ」

 

 ほんとにもう、暗すぎるのも目に悪いけど、眩しすぎるのだって目に悪いのに。だからきっと、こんなにも目蓋の裏が熱いのだ。ほっと身体の強張りが解けて、腹が空いてたことを思い出してしまう。

 

「っあー、もう!」

 

 とりあえず飯にしましょ!!とヤケクソ混じりに叫ぶと、びっくりしたようにこちらを見る愛依と常闇くんの視線が面白くて、俺は声を上げて笑ってしまった。

 

 

 

 

 それから一夜明けて、職場体験最終日がやって来た。雄英生の2人は午後の新幹線で帰るとのことで、せっかくならと提案する。

 

「お祝いにお昼をご馳走するよ」

 

 そうして連れてきたUMAIビルの15階、焼鳥ヨリトミミドリ。着物を綺麗に着付けた女性に案内され、廊下を飾る上品な生け花や高そうな花瓶を見る愛依が、どことなく強張っているのが見てとれる。

 

「おや、緊張してる?」

「し、……して、ます」

「はは、素直」

 

 一瞬は強がろうとしていたのだろう。けれど意地より緊張が勝ったらしい。かちこちに固まった愛依に笑って、宥めるように肩を叩く。

 

「肩の力抜いていーよ。個室とってあるし」

 

 そうして部屋に通されて、温かいお茶を飲んで一息つき、多種多様な焼き鳥が目の前に並べられていくにつれて、彼女の目がきらきらと輝いていった。それに笑って、俺もレバーに手を伸ばす。

 臭みや噛んだ後のパサつきは全くなく、程よい歯応えが楽しい。甘辛いタレが絡んだ柔らかい鶏肉を堪能していると、ねぎまに舌鼓を打っていたエスパースさんが明るく切り出した。

 

「いやあそれにしても、2人が職場体験に来てくれてよかったばい」

「うんうん。2人が頑張ってる姿を見てると、俺も頑張らんとって、いい刺激になった」

 

 しみじみと頷くシンセンスさんが、愛依と常闇くんに微笑む。

 

「改めて、ありがとうね」

「そ、そんな……」

「恐悦至極」

 

 片や顔を赤くして、片や静かに目を伏せて、それぞれ頭を下げる。そんな愛依や常闇くんを指名して受け入れた時は、こんな気持ちになるなんて思ってなかったな。

 

「確かに、いい刺激だったなぁ」

 

 2人とも、水を得て光を浴びて葉を伸ばす植物のように、俺の想像を超えて成長していった。……いや、地に根を下ろす点ではその例えは違うか。

 2人は翼を広げた。風を受けて、どこまでだって飛んでいける、伸びやかな翼を。

 

「インターン……次の機会も、よかったらおいで」

 

「……っはい!」「! 感謝する、(ホークス)よ」

 

 揃って頷いた2人に、また息ぴったりだ、と笑いながら、思う。

 

(……早よせんといけん、ね)

 

 早く、速く、実現しなければ。

 この子たちがどこまで飛んだって大丈夫なような、翼を広げても傷つかなくていいような、そんな世界を──必ず。

 

「楽しみにしてるね」

 

 いつかの未来を思い描いて、俺は、笑った。

 

 

40.鷹、影と光。

 

 


 

 ホークス視点から見える職場体験の裏表。脳無の素体はヤクザから拾ってくることもあったんじゃないかと思ってこうしました。黒霧さんの“個性”便利すぎて働かせすぎちゃいましたね。

 これにて職場体験編は終幕と相成ります!サイドキックたちをあまり活躍させられなかったのが無念ですが、それはいつかのインターン編に持ち越させてください。原作から離れた拙いオリジナル回でしたが、読んでくださって嬉しいです!評価やお気に入り登録などなど、本当にありがとうございます。

 次回からは期末試験編!また読んでいただければ嬉しいです。



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期末試験編
41.少女、1週間のその後で。


 

「「アッハッハッハマジか!! マジか爆豪!!!」」

 

 1週間ぶりの雄英高校。1年A組の教室を開けたわたしの耳に飛び込んだのは、ゲラゲラと賑やかな笑い声だった。それが向けられる先が爆豪くんだということが意外で、思わず目を向ける……と、爆豪くんがイメチェンしていた。

 

「笑うな! クセついちまって洗っても直らねぇんだ。……オイ笑うなブッ殺すぞ……!」

「「やってみろよ8:2(ハチニイ)坊や!! アッハハハハハ!!」」

 

 瀬呂くんと切島くんが言うように、爆豪くんの髪は綺麗な8:2(ハチニイ)分けにされていた。いつもは【爆破】の“個性”を表したかのようなツンツン頭をしているのに、キッチリと撫で付けられてる今は全く違う印象を受ける。まるでベストジーニストのような……、

 

(……そっか、そういえば爆豪くんはNo.4ヒーロー、ベストジーニストの元に行ったんだっけ)

 

 だからあんな髪型に……いや何で職場体験に行って髪型を変えられて帰ってくるんだろう? ……あ、爆発で元に戻った。瀬呂くんたちが締め上げられてる。

 

「……賑やかだなあ」

 

 入学初日は、この濃い面子の中でうまくやっていけるのか不安だったけれど、今は慣れてきたのか逆にほっとしてしまう。口許に緩い笑みを浮かべた時。

 

「おはよう、愛依(あい)ちゃん」

「! 梅雨ちゃんおはよう」

 

 挨拶をしてくれた梅雨ちゃんの元に歩み寄ると、今職場体験のことを話していたのよ、と彼女はけろりと口許に指を添える。そこには芦戸さんが、耳郎さんの話に目を輝かせていた。

 

「へえー! 耳郎のとこは(ヴィラン)退治までやったんだ! 羨ましいなあ!」

「避難誘導とか後方支援で、実際交戦はしなかったけどね」

「それでもすごいよー! ね、空中(そらなか)!」

「うん、すごい。梅雨ちゃんはどうだった?」

「私もトレーニングとパトロールばかりだったわ。一度隣国からの密航者を捕らえたくらい」

「それすごくない!!?」

 

 ぎょっとして目を丸くしたのは芦戸さんだけではない。わたしも胸元を握り締め、梅雨ちゃんを見た。

 

「つ、梅雨ちゃん大丈夫だったの? 怪我とかは……」

「セルキーたちが守ってくれたし、大丈夫よ」

「そ、か……よかった」

「心配してくれてありがとう。そういう愛依ちゃんたちこそどうだったの? ホークスのところの職場体験は」

 

 梅雨ちゃんに問われて、わたしは常闇くんと視線を交わした。わたしの無許可の“個性”使用や常闇くんの暴走は“不可抗力”として扱われたものの、ヤクザが深く関わったあの事件をむやみやたらに口外すると他の団体を刺激するおそれがあるからと、箝口令が敷かれることとなった。わたしと常闇くんは何の事件に巻き込まれることなく、職場体験を終えた──その認識を頷き合って、わたしは口を開く。

 

「ん、と……こっちもパトロールばかりだったよ。後半、少しだけトレーニングをつけてくれたけれど。ね?」

「ああ。……実りの多い日々だった」

「! うん、本当に」

 

 フ、と口許に微笑を浮かべる常闇くんが嬉しくて、わたしも笑う。そんなわたしたちを見て、梅雨ちゃんも目元を柔らかくした。

 

「よかったわ。愛依ちゃんも、常闇ちゃんも」

「うん」

「お茶子ちゃんはどうだったの? この1週間」

 

「とても──有意義だったよ」

 

 静かな声に、据わった瞳。綺麗な構えから繰り出される左ストレートは、ボッ──と音を置き去りにするような速さで空を裂いている。……いつもの麗かな感じじゃない、どこか歴戦の拳士を思わせる風格に、わたしたちは息を飲む。

 

「目覚めたのねお茶子ちゃん」

「バトルヒーローのとこに行ったんだっけ」

「確か、ガンヘッドのとこだよね……?」

 

 ゴリゴリの武闘派であるガンヘッドの事務所では、本人は勿論、サイドキックたちも皆G・M・A(ガンヘッド・マーシャル・アーツ)と呼ばれる格闘術を修めているという。麗日さんもそれを学んできたのだろうか、身のこなしがしなやかでいて力強い。

 

「たった1週間で変化すげぇな……」

「変化? 違うぞ上鳴……女ってのは……元々悪魔のような本性を隠し持ってんのさ!!」

「Mt.レディのとこで何を見た」

 

 何故か青ざめる峰田くんが自分の指をガリガリ齧るのを止めながら、上鳴くんが顔を上げる。

 

「ま、一番変化というか大変だったのは、お前ら3人だな!」

 

 そう言って視線を向けたのは、緑谷くん、轟くん、飯田くんの3人だった。その声に他のみんなも注目し、ある人は声を弾ませ、ある人は眉を下げる。

 

「そうそうヒーロー殺し!」

「……心配しましたわ」

「命あって何よりだぜマジでさ。エンデヴァーが救けてくれたんだってな! さすがNo.2だぜ!」

 

 面構署長の提案した汚い話(・・・)によって、ヒーロー殺しと交戦し彼を捕らえたのはエンデヴァーさんだということになった。そのことを思い出したのか、職場体験中のことが頭によぎったのか、轟くんのオッドアイが揺れて、静かに伏せられる。

 

「……そうだな、救けられた(・・・・・)

「うん……」

 

 同意した轟くんを、彼の事情を知る緑谷くんが気遣わしげに見ている。そんな2人に頷いて、それにしても、と尾白くんが声を上げた。表情が強張っている。

 

「俺ニュースとか見たけどさ、ヒーロー殺し、連合とも繋がってたんだろ? もしあんな恐ろしい奴がUSJに来てたらと思うとゾッとするよ」

「……、そう、だね」

 

 連日の報道で、それが真実か嘘かはともかく、ヒーロー殺しと連合が繋がっているのだと沢山の人が思っている。それは尾白くんのようなヒーローの卵だけでなく、ヒーローをはじめとした表側の人間だけでなく、きっと、裏の人間も(・・・・・)──

 

(ホークスが危惧していた通りだ。これから(・・・・)繋がっていくんだって……)

 

 そして、何気なく続いた上鳴くんの言葉も、ホークスは想定していた。

 

「でもさぁ、確かに怖ぇけどさ、尾白動画見た? アレ見ると一本気っつーか執念っつーか、かっこよくね? とか思っちゃわね?」

 

 

『何をもって正しいとするかも、1人1人が決めることだ。俺らがとやかく言えることじゃない』

『だから、ステインに感化されて、思想に共感する者がきっと現れる。“ヒーローを粛清する”……今の“個性”社会を壊す。そんな考えを持つ者たちが──(ヴィラン)連合の元に集うかもしれない』

 

 ホークスが厳しい眼差しで告げた未来の話。上鳴くんは“今のヒーローは間違ってる、だから粛清する”──そんなところまで共感しているわけではないけれど、じわりと影響は受けている。そんな人がきっと、彼の他にもたくさんいるのだろう。これから増え続けていくのだろう。ネットに上がり続ける動画のように。

 ……でもわたしは、未来永劫、それに賛同することはない。

 

 

「上鳴く、」

「──違うよ」

 

 緑谷くんも止めようとしたのだろう。それに被る形になってしまったけれど、既に言葉は放たれていた。

 

「あ、え? 空中?」

「かっこよくなんか、ないよ。……絶対に」

 

 “粛清”の結果、失われた未来があった。それが悲しくて、悔しくて、憎悪が止められなくて、苦しんだ人がいた。わたしはそれを目の当たりにしたんだ。治癒で治せない傷跡が、“取り返しがつかなくなること”が、どんなに人を傷つけるのか──

 

「空中くん、いいんだ」

「飯田くん……?」

「確かに信念の男ではあった……クールだと思う人がいるのも、わかる」

「っそんなこと……!」

 

 そんなことないと声を荒げそうになったわたしを、飯田くんは止めた。静かな、落ち着いた眼差しで。

 

「ただ奴は信念の果てに“粛清”という手段を選んだ。どんな考えを持とうとも、それだけは間違いなんだ」

 

 あの保州事件後、病院にて、飯田くんはわたしに言った。

 俺の気持ちなど、わかってはいけないと。

 どんな気持ちを抱えていようと、“粛清”という手段を選んでしまっては、ヒーロー殺しと同じになってしまうと。

 

『ステインと、ヒーローは、違う。俺がなりたいのは、兄のようなヒーロー・インゲニウム』

 

 過去の自分への自戒と、未来への夢を込めて、飯田くんの目が輝く。

 

「俺のような者をこれ以上出さぬ為にも!! 改めてヒーローへの道を俺は歩む!!!」

 

「飯田くん……!」

「……すごい、なあ」

 

 やっぱり、飯田くんはすごい。

 

「さァそろそろ始業だ席に着きたまえ!!」

「なんか……ワリィ。ごめんな、飯田」

「構わんぞ上鳴君!! 気にしないでくれ!!」

 

 ああも簡単に上鳴くんを許せるのも、心が強い証拠だ。

 もし、わたしなら。わたしがホークスを失ったとしたら、きっと何もかもを許せなくなる。下手人も、(ヴィラン)も、それを生んだ社会も、止められなかったヒーローも、何もできなかった自分自身も、きっと憎んでしまうだろう。

 

(……そんな自分に、なりたいわけではないけど……)

 

 だからこそ、そうならないために、わたしは何だってするだろう。ホークスを失わないためなら、きっと、何だって(・・・・)

 

 始業のベルを聞きながら、ぼんやりと熱に浮かされるように、そんなことを思っていた。

 

 

 

 

「ハイ私が来た」

 

 そんな台詞と共にヌルッと始まった、今日のヒーロー基礎学の授業。講師は(緑谷くん曰く)黄金時代(ゴールデンエイジ)のコスチュームに身を包んだオールマイトだった。

 

「職場体験直後ってことで今回は遊びの要素を含めた、救助訓練レースだ!!」

 

 飯田くんの「救助訓練ならUSJでやるべきではないのですか!?」という質問に対し、オールマイトは人差し指を立てた。USJ(あすこ)は災害時の救助訓練を想定した場所であり、今回はレース(・・・)なのだと。

 

「ここは運動場γ(ガンマ)! 複雑に入り組んだ迷路のような細道が続く密集工業地帯! 5人3組……1組は6人、それぞれに分かれて1組ずつ訓練を行う! 私がどこかで救難信号を出したら街外から一斉スタート! 誰が私を一番に救けに来てくれるかの競争だ!! ……もちろん建物の被害は最小限にな!」

「指さすなよ」

 

 入学当初の出来事だとはいえ、初めての戦闘訓練で爆豪くんがビルを吹っ飛ばしたことは記憶に刻まれている。オールマイトもニカッとした笑顔で釘を刺し、爆豪くんは苦い顔をしていた。

 

 そんなこんなで組分けも終わり、わたしたちは目の前に掲げられたモニターを見上げた。そこには1組目の、緑谷くん、飯田くん、芦戸さん、尾白くん、瀬呂くんの様子が映し出されている。

 運動神経のよい芦戸さん、尻尾を使った移動が可能な尾白くん、テープを用いた滞空性能の高い瀬呂くん、スピードに特化した飯田くん……【誰が1位になるか】予想が上がる中、ひとり、名前が上がらなかったのは緑谷くん。彼は今まで“個性”を使うたびに大怪我をしていたから、こうしたレースでは不利なのではと思われていた。

 ……そう、思われていた(・・・・・・)。レースが始まってからというもの、みんなの視線は緑谷くんに吸い寄せられている。

 

「おおお緑谷!? なんだその動きィ!!?」

 

 身体中に緑の閃光を纏わせて、ビルの間を跳躍して進む。そんな緑谷くんを見て、麗日さんが頬を染めている。

 

「すごい……! ピョンピョン……何かまるで……」

 

 爆豪くんみたい、とその言葉は続いたのだろう。確かに【爆破】の推進力で宙を行く爆豪くんと移動の仕方が似ていた。緑谷くんは建物を蹴りつける脚力で、あの推進力を生み出している。蹴って、跳んで、また蹴って──繰り返しているにも関わらず、怪我をしていない。

 

「“個性”の制御の仕方、身に付けたんだ……!」

 

 保州で言っていた通り、グラントリノさんというプロヒーローの元で過ごした1週間で、たくさんのことを学んできたのだろう。……まあまだ1週間ということで慣れていないのか、緑谷くんは途中で足を滑らせてしまったけれど、それでもわたしは嬉しくて堪らない。あのぼろぼろになって赤黒く変色していた腕が、足が、あんなにも綺麗な緑の光を纏っていたのだから。

 

「そろそろ私たちの番よ、愛依ちゃん。行きましょう」

「あ、うん、わかった。ありがとう」

 

 梅雨ちゃんに呼び掛けられ、わたしは立ち上がる。2組目はわたし、常闇くん、轟くん、爆豪くん、梅雨ちゃんという組分けになった。移動し始めるわたしたちの背に、わいわいと話すみんなの声が掛かる。

 

「ここも機動力ある奴集まったなァ」

「どう見る?」

「やっぱ飛べる空中じゃね? さっきの見たろ、こんなごちゃついたとこは上行くのが定石だって!」

「でも瞬間的な速度っていえば爆豪や轟のが速くない?」

「デクくんのピョンピョン具合を見たら、脚力強い梅雨ちゃんもなかなかいけると思う!」

「常闇くんは……この中ではちょっと不利かなあ?」

 

 【誰が1位になるか】、【誰が1番速いか】──その話し合いの中、不利かなあと予想された常闇くんは、そんなこと気にした様子もない。

 

「空中」

「常闇くん、」

 

 歩み寄って来た常闇くんは、静かにわたしを見据えて、宣言した。

 

「俺は、おまえにも挑戦する。……勝つぞ」

「、わ……」

 

 “わたしなんて”、とは、もう言わない。

 退いたりしない。前へ、空へと、進むと決めた!

 

「……わたしも! 負けない、から!」

「フッ……それでいい。それでこそ、我が好敵手だ」

 

 わたしは退かない。だってあの常闇くんが、好敵手だと、対等だと認めてくれている。

 それが嬉しくて、背中を押してもらえるようで、わたしは決意を込めて頷いた。彼と別れて所定のスタート位置について、ゴーグルを装着する。深呼吸をして前を向いた。

 

 瞬間的な速さ。……確かに今までわたしは、加速するために羽ばたく時間が必要だった。【爆破】や【氷結】で瞬間的に推進力を生み出せる爆豪くんや轟くんには、入学時の“個性”把握テストで後れを取った。

 

(でも、わたしだって……!)

 

 わたしだってこの1週間、さまざまなことを学んだんだ。誰よりも速いヒーロー……ホークスの元で。

 

START(スタート)!!!」

 

 その声が轟くと同時に、ダンッ!、とコンクリートを蹴りつけて上昇。翼を広げて大きく羽ばたき、身体を雨覆いで押す。羽ばたく羽根と、推進力を生む羽根。それぞれを操作し、前へ、前へ。

 強くなる風圧に負けず、飛行姿勢を保つこと。翼を正しく広げて、風を上手に受け止め、流すこと。ひとつひとつ、あの空で教わったことを実践していくたび、わたしの身体は前に進んでいく。

 びゅうびゅう感じる風の向こうで、常闇くんが黒影(ダークシャドウ)とともに飛んでいるのが見えた。彼はもう空を恐れない。自分は飛べると信じて、誰にも後れは取らないと決意して、前へ高くと飛び続けている。

 

(彼に負けないよう、わたしも頑張るんだ……!)

 

 そんな思いを込めて、羽ばたき、急降下。眼下で手を振るオールマイトの元に、ふわりと風を受けながら着地した。

 

「ゴォォーーール!!」

 

 No.1ヒーローの声と笑顔が輝いて、彼はわたしに襷を掛けてくれた。【助けてくれてありがとう】と、その文字が煌めく。

 

「すごいぞ空中少女! 見違えるほど速くなったな!!」

「あ……ありがとう、ございます……!」

 

 手放しで誉められて、わたしの頬に熱が集まる。嬉しい。ホークスから教わったことがちゃんと身についていると実感できて、……嬉しすぎて、頬が蕩けそうだ。

 

「そして君もだ! 常闇少年!! まさか1週間で飛べるようになってたとはな!!」

「恐悦至極。……しかし、2番手に甘んじた」

「ンーッ! クヤシイっ!」

 

 わたしに次いで到着した常闇くんは、黒影(ダークシャドウ)を宥めるように撫でてから自分の中に戻した。そうしてわたしを見つめる、その切れ長の目が微笑む。

 

「やはり、速いな、空中」

「常闇くん……」

「次は、俺も負けん」

「……! うん、わたしも、負けないよう頑張るね」

 

 好敵手だからこそ、気は抜けない。対等な仲間だからこそ、互いの力を認め合う。そんな関係は初めてのことで、嬉しくて胸が熱くなる。

 

「……“少しは飛ぶの上手になった”って言ってたが、“少し”どころの話じゃなくねぇか?」

「すごいわね、びっくりしちゃった」

「轟くん、梅雨ちゃん……」

 

 2人からも頑張りを認めてもらえたようで、わたしの頬は更にだらしなくふにゃふにゃ緩んでしまう。

 

「──ックソが……!!」

 

 だから、だろうか。ひりつくような怒りと焦燥感を吐き捨てる、爆豪くんの表情が気にかかった。

 

 

 

 

「ん~……ウチ、機動力ないなぁ……改めて思ったよ」

 

 救助訓練レース後、更衣室でコスチュームから制服へ着替える中、ぽつりと耳郎さんがそう溢した。先ほどのレースで順位が奮わなかったことを気にしているみたいで、俯いた目に悔しさが滲んでいる。そんな彼女の隣で着替えていた透ちゃんが、でもでも!と声を上げる。

 

「でも耳郎ちゃんは音で(ヴィラン)の動きを察知できるじゃん! 1番速く動き出すことができるよ! 私はそれもできないしなあ……」

「透ちゃんは、【透明】で(ヴィラン)に見つからないよう動けるよ。それは人質を救出する時に絶対に役立つ。透ちゃんの強みだよ」

「っ愛依ちゃーん! 嬉しいよう、ありがとー!」

「わっ……どういたしまし、っだから、羽根はくすぐったいの……!」

 

 ぎゅっと後ろから抱き締められて、羽根に顔を埋められてぐりぐりされる。決して乱暴な仕草ではないからこそ、羽根の付け根がぞわぞわしてしまう。身悶えするわたしに、透ちゃんは透明な顔でごめんごめんと笑っている。

 

「いやあ久々のもふもふ感! 癒されるねぇ」

「っもう、透ちゃん絶対わかってやって、……?」

 

 そんな時、ぴく、と羽根が音を拾う。音というか、声を。

 

「……見ろよこの穴ショーシャンク!! 恐らく諸先輩方が頑張ったんだろう!! 隣はそうさ! わかるだろう? 女子更衣室!!」

 

 峰田くんだ……と、思わず眉間に皺が寄る。ふと視線を上げると、耳郎さんも同じように表情を険しくしていた。……そうか、音のスペシャリストの耳郎さんにもこの騒ぎは届いているはず。

 

「……耳郎さん、聞こえた?」

「……うん、空中も?」

「うん……」

 

 2人で頷き合ってる間にも、峰田くんの悪いところは暴走を始めていた。飯田くんの制止も何のその、テンションが鰻登りって感じだ。

 

「峰田くんやめたまえ!! ノゾキは立派なハンザイ行為だ!!」

「俺のリトルミネタはもう立派なバンザイ行為なんだよォォ!!」

 

「クソが」

「じ、耳郎さん……気持ちはわかるけど……」

 

「八百万のヤオヨロッパイ!! 芦戸の腰つき!! 葉隠の浮かぶ下着!! 麗日のうららかボディ!! 蛙吹の意外おっぱァアアア!!」

 

「クソが」

「本当にそれ」

 

 わりとガッツリ見てるのを知って、遠慮は要らないことがわかった。耳郎さんは音が漏れ出る穴に近づき、【イヤホンジャック】を突き刺す。そうして1コンマ後、

 

「──あああ!!!」

 

 声にならない叫び声が聞こえてきた。きっと耳郎さんの【イヤホンジャック】で心音を爆音で流されたのだろう。その威力は相当のものだろうけれど、可哀想と思う気持ちは既に掻き消えていた。

 

「次、わたしね」

「おっけ」

 

 耳郎さんがプラグを引っ込めるのと同時に、雨覆いを幾つか穴に通す。

 

「……あ?」

 

 壁越しで姿は見えないけれど、ホークス程の性能は無いけれど、それでも峰田くんはよく叫んでいたから、見えなくても羽根が感知できる。衣擦れ、悲鳴、荒い呼吸音──聞こえる。わかる。その位置が。

 

「っうおおっおおおうお!!?」

 

 峰田くんの首根っこを羽根で引っ付かんで、ダンダンダン!!と床に打ち付ける。これでいくらか記憶がトんでくれればいいのだけれど。

 

「ヒェ……」

「凄まじいな、空中……」

「聞こえてるよ、緑谷くん、常闇くん」

 

 それだけ言って羽根を回収した。後ろを振り返ると、胸元を服で隠した梅雨ちゃんが、困ったように眉を下げている。……梅雨ちゃんにこんな顔をさせたんだから、やりすぎってことはない、よね?

 

「ありがと、響香ちゃん、愛依ちゃん」

「なんて卑劣……! すぐに塞いでしまいましょう!」

「うん、お願い、八百万さん」

 

 八百万さんの【創造】ならこんな小さな穴を塞ぐなんて朝飯前だろう。そう思いながら前へ進み出る彼女を見ていた。コスチュームのレオタードで守られた胸元が、ぽにょん、と揺れる。

 

(…………、)

 

 自分の身体を見下ろす。起伏の少ない、細いだけの身体。

 ……いや別に峰田くんのコメントが欲しかったわけでは決してないし、これは空を飛ぶための身体なんだから細い方が何かと都合がいいし、……別に気にしてなんかないもの。うん。

 

「空中……」

「! ……耳郎さん……」

 

 でも何だか、何だろう。ポン、と耳郎さんに肩を叩かれると、少し虚しい気持ちの中に、ほんのりとした仲間意識を感じた。顔を見合わせて、ふへ、と笑い合う。

 そんなドタバタ劇もあってか、ああ今わたし、“学校にいる”んだなあと改めて実感して、そんなくすぐったい気持ちを笑みに浮かべた。

 

 

41.少女、1週間のその後で。

 

 


 

 職場体験後に変わったあれこれ、得たあれこれを書きたかったのですが、タイトルのネタ切れ感が毎回すごいです……。

 内容は学園に戻ってきた!って感じでA組のみんなでわいわいできるのが楽しくて比較的早く書けました。本誌も早くこんな感じで僕のヒーローアカデミアしてほしいですね……。

 

 オリ主は耳郎ちゃんと同じくらいか、それ以上に華奢な体型を想像して書いてます。耳郎ちゃんの引き締まった足の良さがわからない峰田くん的にはオリ主も圏外なのでは??と思ってこの展開。やっぱり峰田は書いてて楽しいキャラですね。



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42.蛙、甘やかに。

 

 今でもはっきりと覚えているの。

 小さな頃から目指していた雄英高校。その入試試験を迎え、ロボットを蹴り倒しながらポイントを重ねていた最中、現れた0ポイントのお邪魔虫ロボ。瓦礫に足を挟まれて動けなくなった男の子。「救けよう」と思った瞬間に舌を伸ばしていた。ぐんと首を回して、男の子を瓦礫から引き上げて、そうして立ち止まっていたから巨大なロボは私のすぐ傍まで近付いていた。降り仰ぐ私を影が覆う。あと数秒後には、私は踏み潰されていたかもしれない。……でもそうはならなかった。

 

『っ、そこの女の子! こっち!』

 

 必死な顔で、私に手を伸ばしてくれた。自分も巻き込まれてしまうかもしれないのに、真っ直ぐ飛んで救けに来てくれた。

 ねえ、今でもはっきり覚えているわ。

 手の傷を“個性”で治してくれたこと。試験が終わってからの帰り道、「ありがとう」とお礼を言えば、真っ赤な顔で、泣きそうに、嬉しそうに笑っていたこと。

 

『お友達になりたいわ。愛依(あい)ちゃんと呼んでもいい?』

『……っ、うん!』

 

 それからずっと、あの子は大切なお友達。

 

 

 

 

「えー……そろそろ夏休みも近いが、もちろん君らが30日間1ヶ月休める道理はない。

 ──夏休み、林間合宿やるぞ」

「知ってたよー! やったあああ!!」

 

 夏も近付いてきたある日のHR。相澤先生の宣言に教室中が沸いた。かくいう私も、人差し指を口許に当てて、夏の楽しみを思い浮かべてしまう。

 

「肝試そー!」

「風呂!!」

「花火」

「風呂!!」

「カレーだな……!」

「行水!!」

「峰田ちゃんうるさいわよ」

 

 風呂だの行水だの、きっとやらしいことを考えてるに違いないわね。そんな峰田ちゃんから視線を逸らすと、愛依ちゃんが百ちゃんにひそひそと話し掛けているのが見えた。

 

「林間合宿……みんなでお泊まりするんだよね?」

「ええ、そうですよ。自然環境ですとまた活動条件が変わってきますし、宿泊となると昼夜といった時間帯も変わってくるでしょうね」

「いかなる環境でも正しき選択を……か。面白い」

「なるほど……」

 

 真面目な百ちゃんや常闇ちゃんの言葉に、真剣な顔をして頷いたかと思えば、 

 

「寝食皆と! ワクワクしてきたぁあ!!」

 

 “皆と!”、という声に目をきらきらとさせる。そんな愛依ちゃんが可愛くてこっそり微笑むけれど、それは長くは続かなかった。

 

「──ただし、」

 

 教室の浮わついた空気を、ぴしゃりと先生の声が打つ。

 

「その前の期末テストで合格点に満たなかった奴は……学校で補習地獄だ。……ああ、空中(そらなか)

「っは、はい?」

「おまえは【治癒】“個性”教育プログラムを受けているから、リカバリーガール(バアさん)からの指導の分テストも多いが……それで条件を緩和することはできんからな」

 

 相澤先生がじっと愛依ちゃんを見据える。それにびくりと肩を揺らして、愛依ちゃんは表情を強張らせた。

 

「中間試験、医学系テストの学習に時間を割いたのかはしらんが、普通科目の点数落ちてるぞ」

「う、……はい」

「医学系テスト、普通科目、演習試験……すべてをこなしてみせろ。林間合宿に行きたければな」

「……わ、わかり、ました」

 

「空中! 頑張ろーな!!」

「そうだぜ! 女子頑張れよな!!」

「切島くんありがとう……峰田くんは、うん」

「おいオイラの扱い慣れてきてんなよ!」

 

 愛依ちゃんは先生に対し重々しく頷いて、切島ちゃんたちの声援に力なく苦笑を浮かべた。

 そんなことがあってから、時は流れに流れて、あっという間に6月最終週。期末テストまで1週間を切った頃、私は緑谷ちゃんと飯田ちゃん、轟ちゃんに、お茶子ちゃんと透ちゃん、そして愛依ちゃんと一緒にランチラッシュの食堂に来ていた。

 

「普通科目は授業範囲内からでまだ何とかなるけど……演習試験が不透明で怖いね……」

「突飛なことはしないと思うがなあ」

「普通科目はまだ何とかなるんやな……」

 

 いただきます、と合掌しながら、お茶子ちゃんは遠い目をして呟く。頼んだ焼き魚定食の鯖に箸をつけながら、ふるふると首を振った。

 

「私は不安だ……でも愛依ちゃんはもっと大変やもんね。弱音は吐かれへんわ」

「え?」

「あー! 相澤先生に名指しされてたもんねぇ。【治癒】“個性”教育プログラムのやつ!」

「リカバリーガールから指導を受けているのだろう? 流石だな!」

「入学当初に山ほど貸し出された医学書……あれを勉強してるんだよね、すごいよ……!」

「……ううん、まあ、すごいのはそれを他と両立できてからだね。あと1週間、頑張らないと」

 

 目を細めて愛依ちゃんは苦笑する。勉強が大変なのか、目元に疲れというか翳りが見えた。それを指摘しようとしたけれど、それより先に、彼女はにこりと微笑む。

 

「それより、演習試験ってどんなことするんだろうね」

 

 ……あからさまに話を逸らされてしまったけれど、愛依ちゃんの気持ちを無視して蒸し返す人はこの場にいない。透ちゃんも明るく声を上げる。

 

「あーね! 1学期でやったことの総合的内容」

「とだけしか教えてくれないんだもの相澤先生」

「戦闘訓練と救助訓練、あとはほぼ基礎トレだよね」

 

 透ちゃん、お茶子ちゃんと一緒に何だろうと首を傾げ合っていると、眉間に皺を寄せた緑谷ちゃんが言葉を継いだ。

 

「そうだよね、わからない以上は試験勉強に加えて体力面でも万全に……あイタ!!」

 

 ごつん、と鈍い音が響く。緑谷ちゃんが頭を押さえながら顔を上げると、ぶつかった人物はフッと口角を吊り上げてこちらを見下ろしていた。

 

「ああごめん、頭が大きいから当たってしまった」

「B組の! えっと……物間君! よくも!」

 

 1年B組の物間ちゃん。体育祭では先を見越した策を練り上げ、騎馬戦で活躍していた男の子。弁が立って頭の回転も速い子……なのだけれど、何故かA組に対して当たりが強いのよね。今も鬼気迫る表情であれこれ喋っている。

 

「君らヒーロー殺しに遭遇したんだってね。

 体育祭に続いて注目を浴びる要素ばかり増えてくよねA組って。ただその注目って決して期待値とかじゃなくてトラブルを引き付ける的なものだよね」

「!?」

「え、と、」

「あー怖い! いつか君たちが引き寄せるトラブルに巻き込まれて僕らにまで被害が及ぶかもしれないなあ! ああ怖……ふっ!!」

 

「シャレにならん。飯田の件知らないの?」

 

 物間ちゃんの首筋に当て身を喰らわせて黙らせつつ、彼が持っていたトレーを支えてあげる。それを一瞬で流れるように為したのは、

 

「ごめんなA組、こいつ心がちょっとアレなんだよ」

「拳藤さん!」

 

 B組の委員長を務める一佳ちゃんだった。愛依ちゃんがほっとした顔で名前を呼ぶと、オレンジのサイドテールを揺らして、彼女は微笑み返した。

 

「空中たちさ、さっき期末の演習試験不透明とか言ってたね」

「? うん」

「それ、入試ん時みたいな、対ロボットの実践演習らしいよ」

「……えっ?」

 

 突然知らされた情報に、愛依ちゃんだけじゃなくて緑谷ちゃんも目を丸くする。

 

「え!? 本当!? 何で知ってるの!?」

「私先輩に知り合いいるからさ。ちょっとズルだけど聞いた」

「ズルじゃないよ! そうだきっと前情報の収集も試験の一環に織り込まれてたんだそっか先輩に聞けばよかったんだ何で気づかなかったんだ……」

「……!? ……緑谷っていつもこんな感じ?」

「そうやねぇ、久々でもキレキレやねぇ」

 

 にこにこと、どこか嬉しそうにお茶子ちゃんが言う。そんな中意識を取り戻したらしい物間ちゃんが、ぐぎぎ、と歯軋りの音を溢した。

 

「馬鹿なのかい拳藤、せっかくの情報アドバンテージを!! こここそ憎きA組を出し抜くチャンスだったんだ……!」

「憎くはないっつーの」

「クッ……しかしまだ終わらないよ……!」

 

 バッと顔を上げた物間ちゃんは目を見開く。爛々と目を輝かせて、アレな笑顔のまま愛依ちゃんを見た。

 

「空中さん! 君は普通科目に加えて医学系テストも受けるそうじゃないか!」

「えっ、う、うん?」

「あれもこれもと手を伸ばしては抱えきれなくなってしまうかもしれないよ!? 自分のキャパシティより多くのものを望んだ結末は、さてさてどうなることだろうねぇ!?」

 

「いい加減にしろっつの」

 

 ドッ──とさっきよりも強めの当て身に、今度こそ物間ちゃんは沈黙した。意識を失った彼の首根っこを掴みながら、一佳ちゃんは頭を下げる。

 

「ごめんな空中、こいつがアレなだけだから、あんま気にすんなよ」

「う、うん……ありがとう拳藤さん、演習試験のことも」

「いいよ。お互いテスト頑張ろうな」

 

 さっぱりと爽やかに笑う、そんな一佳ちゃんに愛依ちゃんも笑みを浮かべる。それでもやっぱり物真ちゃんの捨て台詞に思うところはあるようで、ふとした瞬間に浮かぶ表情に翳りがあった。

 食堂を後にして、教室に向かう時。俯きがちの横顔が不安そうだった。だから私は口を開いたの。

 

「ねえ愛依ちゃん、普通科目はどれが心配なのかしら」

「へ、……えっと、数学とか……」

「私、少しは教えられそうだわ。放課後一緒に勉強会しない?」

 

 そう提案した途端、ぱっと彼女の青い目が明るくなった。けれどそれはすぐに萎んでしまう。遠慮とか、申し訳なさとか、そうしたものに押し潰されて。

 

「で、でも梅雨ちゃんに迷惑、」

「私思ったことは何でも言っちゃうのだけれど」

 

 遠慮とか、申し訳なさとか、そんなものは要らないのだと、伝わるように言葉を続ける。

 

「迷惑だって思ってたら、そもそもこんな提案しないわ」

「……! そっか、うん……」

 

 目を見開いて、それからぎゅっと、何かを噛み締めるような笑顔を浮かべて、愛依ちゃんは胸元を握り締めた。 

 

「……ありがと、梅雨ちゃん。お言葉に甘えるね」

「ええ、任せて」

「わっ、私もお願いしてよいですか……!」

「勿論よお茶子ちゃん。ね?」

「うん……! 頑張ろう、麗日さん」

「やったあ!」

 

 そんな会話があって、その日の放課後に勉強会を開くことになった。放課後の教室で机を合わせて、頭を突き合わせて問題を解き続ける。はじめこそ「点Pはなんで動くの? じっとしてて……」とか「古文も漢文もみんな関西弁になったらええのに……」とか言っていたけれど、青い空が夕焼けの橙に染まっていくにつれて、愛依ちゃんとお茶子ちゃん、2人の眉間の皺がほどけていった。うんうん唸っていた2人が「わかった!」と目を煌めかせるのが、まるで小さな妹のようで、可愛くて、

 

「……けろけろ」

 

 こっそり笑ってしまったのは、夕日と私だけの秘密。

 

 

 

 

「本当にありがとう、2人とも。すごく集中できた……」

 

 下校時刻を迎えて、学校を出た私たち。最寄り駅までの道を揃って歩きながら、愛依ちゃんがほっと息をつきながら呟いた。お茶子ちゃんが続いてにこっと笑う。

 

「私もすっごく助かった! 家やと家事してアレコレしてって気が散るんよね」

「そうそう、ご飯作らなきゃとか洗濯しなきゃとか……そっか、麗日さんも独り暮らしだったね」

「そやよー」

「2人ともすごいわ。家のこともしながら勉強もだなんて、大変でしょう?」

「そんなん梅雨ちゃんだって! 弟くんや妹ちゃんの面倒見とるやん」

 

 勉強のこと、家事のこと、今日の訓練のこと。話すことは尽きないまま、私たちは駅に辿り着いた。ここでそれぞれの路線に別れてそれぞれの帰路に着く……はずだったのだけれど、駅内は多くの人々で埋め尽くされていた。ホーム、改札前、券売機前、売店といったすべての場所から、困惑した人たちのざわめきが聞こえる。

 どうしたのかしら、と顔を見合わせていると、頭上からアナウンスの声が降ってきた。

 

『只今、16時30分に起きた(ヴィラン)災害により、○○線と△△線で運行を見合わせています。復興の目処は──』

 

「あら……困ったわね。家に帰る路線だわ」

「えっ、私の使っとる路線もあかん!」

 

 どうしよう、困ったわね、と再び顔を見合わせる。しばらく待てば電車も動き出すかもしれないけれど、明日も学校があるし、あまり夜遅くなるのは避けたい。両親が迎えに来るのは、私もだけど、独り暮らしのお茶子ちゃんも難しいだろう。

 うーん……と頭を悩ませる。そんな私たちを見て、愛依ちゃんがおずおずと口を開いた。

 

「……あ、あの、もし、よかったらでいいんだけど……」

 

 うちに、泊まらない?

 

 

 

 

「お邪魔しまーす!」

「うん、どうぞ」

 

 お茶子ちゃんの楽しげな声に、愛依ちゃんが小さく笑う。電灯のスイッチを着けながら部屋に入り、ダイニングのテーブルに買い物袋を置いて振り返る。

 

「荷物てきとうに置いてね。狭くてごめんだけど」

「いや全然狭ないし! 豪邸やん……」

「いや全然豪邸とかじゃないよ、……物が少ないから、ちょっとだけ広く感じるのかもね」

 

 愛依ちゃんの言葉通り、一般的な1LDKの大きさの部屋だ。キッチンを見ても余計な物は置かれていないし綺麗に片付けられている。……だからなのかしらね、少し、がらんとしているように感じるのは。

 そんなことを考えていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。表示は“お母さん”から。さっき電話したから折り返してくれたのね。

 

「ごめんなさい、電話が掛かってきたから出るわね」

 

 ひらりと手を振ると、うん、はーい、とそれぞれに返事が返ってくる。電話に出ると母が大丈夫かと、今はどこにいるのかと心配してくれた。それに応えながら、もう片方の耳は愛依ちゃんたちの声を聞いていた。

 

「買い物したの、冷蔵庫に入れていい?」

「うん、お願い。お買い物手伝ってくれてありがとう」

「いいよいいよそんなん! 泊まる場所だけじゃなくご飯までお世話になるんやもん! こんくらいはせな!」

「そんな……元はと言えばわたしが勉強教えてもらってたせいなんだし、麗日さんは気にしなくても」

「あっ、そうだそれ!」

 

 キッチンでにこにこと、明るい声が弾む。

 

「“麗日さん”やなくて“お茶子”でいーよ」

「え……いいの?」

「うん! ずっとね、言おう言おうと思ってたんやけど遅なってしもた」

 

 たははと笑うお茶子ちゃんに、息を飲む愛依ちゃん。その丸くなった青い目が、ゆっくり、柔らかく細められる。白い頬が、ほんのりと赤くなる。

 

「……ありがと、お茶子、ちゃん」

「うん」

 

 照れ臭そうに、にひひ、と笑い合う。そんな2人を見ていると、私の頬もほころんだ。緩んだ口許から笑声が溢れる。

 

『梅雨、楽しそうね』

「え? ……ふふ、ええ、そうね」

 

 それが聞こえたのだろう。お母さんの声に笑って頷く。

 雄英に入って大変なことも多いけど、素敵なお友達もたくさんできた。毎日が充実してて、楽しい。その思いが声から伝わったのかしら。お母さんがうん、と優しく頷いて。

 

『愛依さん、だったかしら? 少し話したいわ』

 

 そう言ったものだから、私はひとつ瞬き。そうしてキッチンの愛依ちゃんに顔を向けた。

 

「ごめんなさい愛依ちゃん、少しいいかしら。母が電話代わってほしいって」

「えっ!? わ、わたし……?

 ……あの、もしもしお電話代わりました、梅雨さんのクラスメイトの空中といいます。……はい、急にすみませ、……いえそんな! こちらこそ……」

 

 はじめこそおっかなびっくりといった様子だったのだけど、話しているうちに声が落ち着いてきた。はい、いいえそんな、と相槌を打つその顔が微笑んでいる。

 しばらく話した後、通話を切った愛依ちゃんはわたしにスマホを返した。それを受け取りながら、わたしは首を傾げる。

 

「ごめんなさいね、いきなり」

「ううん、……優しいお母さんだね」

 

 愛依ちゃんは不思議な目をしていた。優しくて穏やかで、けれどどこか、寂しそうな目。

 思えば愛依ちゃんはそういう子だった。

 優しくて、楽しいことに目をきらきらさせて、“誰かと一緒”が嬉しくて、控えめににこにこと笑う。それでも光ばかりじゃない。その綺麗な青い目に、俯きがちな横顔に、翳りを滲ませていた。

 

 そう──この夜だって。

 

 

「……愛依ちゃん?」

「……えっ、あ、れ? 梅雨ちゃん」

 

 大きめのベッドに3人でわいわい言いながら横になって眠ったはずだった。けれど、深夜といっていい頃。ふと目を覚ますと隣に寝ていたはずの愛依ちゃんはいなかった。すうすうと眠っているお茶子ちゃんを起こさないよう、静かに身を起こす。微かな物音を辿ってダイニングへの扉を開けると、そこで愛依ちゃんが参考書を開いていた。

 

「ごめんね、起こした?」

「いいえ、自然と目が覚めただけ。愛依ちゃんこそまだ勉強していたのね」

「う……ん、もう少しだけ、やっておきたくて」

 

 歯切れ悪く俯くのを見る限り、本心ではないとわかる。

 

「愛依ちゃん、眠れなかったのね?」

「、……うん」

「人の気配がすると、眠りづらいのかしら」

「違うよ! っ、……ごめん」

 

 声を跳ね上げた愛依ちゃんは慌てて両手で口を塞いだ。彼女が視線をやる先は寝室、……お茶子ちゃんは眠っているようで、ほっと安堵の息をついた。それから、目を伏せて笑みを溢す。

 

「嫌じゃないんだよ、ただ……嬉しいだけ」

 

 柔らかな声が、滲むような熱を帯びる。

 

「今日、一緒にご飯作って食べたでしょ? チョコおもち」

「お茶子ちゃんが張り切っていたわね」

「うん、はじめはおもちとチョコってどうなのって思ってたけど、美味しかったよね。一緒にご飯作って、食べて、笑って……」

 

 そっと、大切な宝物に触れるような声だった。

 

「そんな風に友達と一緒にいろいろできるって、すごく、すごくすごく、嬉しいの。楽しくて、嬉しくて……胸がいっぱいになっただけ」

 

 だから眠れなかったの、と愛依ちゃんは教えてくれた。眠るのがもったいないと、そう思ったと。

 ……その気持ちはわかるから、私も微笑んだ。

 

「私も、楽しいわ。嬉しいわ」

「梅雨ちゃんも?」

「ええ、こういうのって、“当たり前”なんかじゃないのよね」

「! うん、そう、本当に……」

 

 “友達”は、“当たり前”なんかじゃない。

 私だって、羽生子ちゃんに出会うまで友達はいなかった。友達ができない寂しさも、友達を遠くから見つめるばかりの心細さも、友達ができたときの嬉しさも。よく、知っている。覚えてる。

 

「でも夜更かしはいけないわ」

「う、」

「私、あなたの隈を濃くするために来たんじゃないもの」

「それは梅雨ちゃんのせいじゃ、」

「愛依ちゃん?」

「はい……」

 

 嗜めると、しゅんと背中の羽根が垂れた。なんだか子犬が耳をぺたりとしているみたいで、可愛く思えちゃう。同い年なのに年下のように見えて、思わず頭を撫でた。きょとんと目を丸くする愛依ちゃんに、笑いかける。

 

「牛乳と蜂蜜あるかしら」

 

 不思議そうにしながらも頷いた愛依ちゃんを連れて、キッチンに向かう。小鍋に牛乳を注いで、火をかける。ふわりと甘い匂いが漂った。

 

「ホットミルク?」

「ええ。あったかくてよく眠れるわ、きっと」

「へえ……っえ、えと、梅雨ちゃん、そんなに砂糖と蜂蜜入れていいの? 夜中だよ……?」

「たまにはね。とびっきり甘くしちゃいましょ」

 

 キッチンに視線を走らせるとわかった。珈琲の袋ばかりへこんでいるのに、砂糖はあまり使った形跡がない。こんな夜をひとりで、ブラックコーヒーを飲みながら過ごしてきたんじゃないかしら。頑張るために苦味を飲み込んで、そうして、ひとりで。

 

 頑張ろうとする愛依ちゃんは確かに素敵よ。

 でもきっと、それだけじゃ駄目なの。

 

「愛依ちゃんはとびっきり、自分を甘やかさなくちゃ駄目」

 

 くつくつと煮える音に紛れるくらい、小さく微かに、息を飲む音。そちらに視線はやらなかった。そうしてほしくないだろうなと、わかっていたから。

 

「……もう十分すぎるくらい、甘やかされてるのになあ」

「あら、もう1匙お砂糖いるかしら?」

「えええ、……もう、大丈夫だってば」

 

「……ありがとね、梅雨ちゃん」

「どういたしまして」

 

 愛依ちゃんがマグカップに口をつけて、あちち、と舌を出す。それがおかしくってくすくす笑うと、愛依ちゃんも同じように噴き出して笑った。

 お砂糖とミルク、蜂蜜。そして隣り合う温度が、夜を優しく温めていく。

 

 

42.蛙、甘やかに。

 

 


 

 梅雨ちゃんがA組女子の中で一番小さくて一番年下(月齢)なのに一番お姉さんしてるところがめちゃくちゃ好きなので、そうした作者の趣味が爆発したような話になりましたね。梅雨ちゃんほんとすき。

 梅雨ちゃんとお茶子ちゃんときゃっきゃさせるのは楽しかったんですが如何せん遅筆で申し訳ないです。待っててくださった方、読んでくださった方、改めてありがとうございます!



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43.少女、壁を前に。

 

 林間合宿をかけた期末テスト。筆記試験の最終日である今日、わたしは保健室でリカバリーガールからの医学系テストを受けていた。トリアージの判断基準は何か、あらゆる症状に対してどんな処置を施すか──さまざまな問題を解き終わり、あらかたの見直しを終えたところで、ピピピ、とタイマーが鳴った。

 

「ハイ、そこまで」

「っ、はあぁあ……」

 

 その瞬間、緊張の糸が切れて机に突っ伏してしまう。ぐにゃりと垂れたわたしの背中を、リカバリーガールがテストを回収がてらぱしんと叩く。

 

「なんだいだらしないね。そんなに自信がないのかい?」

「いえ! 我ながら結構良い感じだと……! 最近梅雨ちゃんとお茶子ちゃん……蛙吹さんや麗日さんと勉強会してて、昨日終わった普通科目のテストも、赤点はないって断言できます」

 

 身体を起こしてそう答える。声は自然と弾んでいた。梅雨ちゃんに提案してもらって、お茶子ちゃんも一緒に始めた勉強会。あれから1週間ほど互いに励まし合いながら、うんうん唸りながら、一緒に頑張ってきた。その時のことが思い出されて、わたしの頬がほころんでいく。

 そんなわたしを見て、リカバリーガールは目を丸くした。それからゆっくりと笑う。

 

「断言ねえ、……あんた変わったね」

「え……? ええと、それは……」

「早合点するんじゃないよ。すぐに悪い方に考える、その自信の無さはどうにかなんないのかい」

「す、すみません」

 

 スパスパとした彼女の物言いにはじめはたじろいだものの、……いや今も少しは慌てるけど、それでもだいぶ慣れたものだ。思えば彼女に師事してから早3ヶ月。情けないわたしを叱り、激励し、さまざまなことを教えてくれた。医療の知識、技術、そして心意気……そんな風に“今まで”を思い出していたのは、わたしだけではなかったようで。

 

「……入学して、この保健室に初めて来た時のことを覚えているかい?」

「は、はい」

「あんたときたらおどおどして、びくびくして……別に取って食いやしないのにね」

「うぐ……」

 

 リカバリーガールもまた、昔のわたしを思い出していたらしい。入学初日、“個性”把握テストを経て怪我をした緑谷くんと相澤先生と一緒に訪れたのが始まりだった。……うん、確かにあの時のわたしはそんな感じだったなあと、恥ずかしさから顔が熱くなる。

 リカバリーガールはほほと笑って、柔らかく目を細めた。懐かしむようなあたたかい眼差しで。

 

「でもそれが今は、“自分は大丈夫”って断言できるんだ。たった3ヶ月ちょっとの間だけど、よく成長したね」

「……そう、でしょうか」

 

 わたしは、さほど優秀でも勇敢でもなくて、臆病で卑怯で弱い。ホークスと比べたら月とすっぽん。……そんなわたしの根っこはあまり変わってはいないように思うけど、それでも、リカバリーガールがそう言ってくれるなら。その理由はひとつでしかない。

 

「わたしは、人に恵まれたんです」

 

 雄英高校に来て、わたしはたくさんの人に出会った。

 入試で知り合い、友達になってくれた梅雨ちゃん。

 初めての戦闘訓練でチームとなった尾白くん、透ちゃん。

 【治癒】の“個性”を扱う方法と責任を教えてくれたリカバリーガール。

 “個性”の危うさを教えてくれた13号先生。

 USJで(ヴィラン)相手に共闘した口田くん。

 怪我をおしてわたしたちを守ってくれた相澤先生。

 体育祭で、家族のためにと立ち向かったお茶子ちゃん。

 誰よりも強くなりたいと死力を尽くした爆豪くん。

 なりたい自分(ヒーロー)になるために腕をボロボロにしながら立ち上がっていた緑谷くん。

 そして、そんな彼に炎を目覚めさせた轟くん。

 その後の職場体験では、辛い思いを乗り越えた飯田くん。

 わたしの甘えを指摘し、叱咤激励してくれた常闇くん。

 

 そして、──こんな出会いをくれた、ホークス。

 

「たくさんの人たちと出会えたから、今のわたしがあります」

 

 わたしは人に恵まれた。出会いに、恵まれた。

 こんなわたしには勿体ないくらい、素敵な人たちに。

 

「……そうかい」

 

 微笑むわたしに、リカバリーガールも優しく微笑み返した。

 

「演習試験も、頑張りんさい」

「……はい!」

 

 出会いに報いるためにも、わたしはもっと強くなりたい。強くなったと、成長の証を残したい。

 そのためにも演習試験を頑張ろうと、決意を新たに頷いた。

 

 

 

 

「それじゃあ演習試験を始めてく」

 

 筆記試験終了から数日後、ついに演習試験の日がやって来た。

 

「この試験でも赤点はある。林間合宿に行きたけりゃみっともねぇヘマすんなよ」

 

 A組の面々は全員ヒーロースーツに着替え、意気込む。それを前にする相澤先生はいつも通り淡々としていた。そう、彼()いつも通りだ。いつも通りじゃないのは、その横に並んでいる人たち。

 

「先生多いな……?」

 

 耳郎さんが不思議そうに呟き、透ちゃんがひいふうみい……と先生の数を数えていく。相澤先生を中心に、パワーローダー先生、スナイプ先生、マイク先生、ミッドナイト先生、13号先生、セメントス先生……そうそうたる顔触れが揃っていた。

 

「諸君なら事前に情報を仕入れて、何するか薄々わかっていると思うが……」

「入試みてぇなロボ無双だろ!?」

「花火! カレー! 肝試しーー!!」

 

 上鳴くんと芦戸さん。彼らは演習試験が対ロボの戦闘演習だとわかったとき、特に喜んでいた2人だ。確かに彼らの【帯電】や【酸】の“個性”ならロボなんて楽勝だろう。それがわかっているから、現実味を帯びてきた林間合宿を思い描いた2人は「FOOO!」とテンションを上げていた。笑顔が眩しい。

 

「残念! 諸事情あって今回から内容を変更しちゃうのさ!」

 

 ひょこん!と相澤先生の捕縛布から飛び出してきた校長先生、その言葉に──眩しい笑顔のまま、上鳴くんと芦戸さんは固まった。

 校長先生曰く、昨今の(ヴィラン)活性化の動きを受けて、ロボとの戦闘訓練は実践的ではないと判断されたそうだ。確かにロボなら相手をどれだけ傷付けても痛むのは誰かのお財布くらいで、人命を奪うおそれもない。動きも画一的だし、対処も容易い。

 でも実際は違う。ヒーローが相手取る(ヴィラン)とは“個性”を使って犯罪を犯す者。さまざまな“個性”や行動を対処して捕縛しなければならない。そう、捕縛だ。(ヴィラン)とはいえ必要以上に傷付けてはいけない──命を奪うなんて、もってのほか。

 

「これからは対人戦闘・活動を見据えた、より実践に近い教えを重視するのさ!」

 

 だからこその提案。だからこその変更。根津校長先生の、そのつぶらな黒い目が閃く。

 

「というわけで、諸君らにはこれから──二人一組(チームアップ)で、ここにいる教師一人と戦闘を行ってもらう!」

 

「!? 先……生、方と!?」

 

 ざわめくわたしたち生徒とは違い、相対する先生たちは落ち着き払っていた。パワーローダー先生やマイク先生、ミッドナイト先生なんかは不敵な笑みを唇に乗せている。

 

「なおペアの組と対戦する教師は既に決定済み。動きの傾向や成績、親密度……諸々を踏まえて独断で組ませてもらったから発表してくぞ。

 まず、轟と八百万がチームで……俺とだ」

 

 わたしたちのどよめきや戸惑いを他所に、相澤先生はいつもの静かな声で話を進めていく。轟くんと八百万さん、共に推薦入試の実力者──他にはどんな組み合わせがあるんだろうと考えを巡らせる前に、わたしは次の言葉に目を見開いた。

 

「そして緑谷と、──爆豪がチーム」

 

「デ……!?」

「かっ……!?」

 

「そして相手は……」

「私が、する!!」

 

 ドン!!と普段の茶目っ気をかなぐり捨てて、威圧感たっぷりに現れたのはオールマイトだった。凄みのある笑顔で、緑谷くんたちを見下ろしている。

 

「協力して、勝ちに来いよお2人さん!!」

 

 緑谷くんと爆豪くんがペア。そして相手はオールマイト先生。何かと一波乱ありそうな組み合わせに、わたしは心の中で合掌した。もちろん宛先は、緑谷くんへ。

 

(……緑谷くん、頑張って……)

 

 親密度も踏まえてペアを決めたって言ってたけれど、これは仲が良いから組んだって感じじゃない。むしろ逆──どうしようもなく拗れてしまっているから、だろう。

 最近も2人は衝突を起こしていた。衝突、といっていいのか、爆豪くんの一方的なものだったけれど。

 

『うるせぇな“個性”の調整なんか勝手に出来るもんだろアホだろ! ……なあ!?  デク!』

 

 緑谷くんは爆豪くんを『かっちゃん』と呼び、爆豪くんは緑谷くんを『デク』と呼ぶ。小さい頃からの幼馴染みなんだといつか緑谷くんは教えてくれた。2人の間にある空気が、ただの幼馴染みとは到底思えないほどドロドロしていることについて──踏み込んで尋ねる勇気は、わたしには無かったけれど。

 

『“個性”の使い方……ちょっとわかってきたか知らねえけどよ、てめェはつくづく俺の神経逆撫でするな』

 

 救助訓練レースで緑谷くんが見せた動きは、爆豪くんに似たものだった。それを目の当たりにした日、爆豪くんは怒りを露にした。たじろぐ緑谷くんを睨み据えて、咆哮する。

 

『体育祭みたいなハンパな結果はいらねえ……! 次の期末なら個人成績で、否が応にも優劣つく……!

 完膚なきまでに差ァつけて、てめェぶち殺してやる!!』

 

 緑谷くんに宣言を叩き付けて、爆豪くんは次いで轟くんに視線をやった。血走った目は怒りを湛えている。

 

『轟ィ……!! てめェもなァ!!』

 

 体育祭以降、……あの決勝戦での出来事がしこりとして残っているのだろう。爆豪くんはこうして轟くんに突っ掛かることが多くなった。けど今は、突っ掛かる(・・・・・)という言葉だけでは、彼の感情を表せないのかもしれない。

 

『焦燥……? あるいは憎悪……』

 

 スライドドアを荒々しく叩き付けるようにして出ていった爆豪くん。その後ろ姿を見つめて、常闇くんが落とした呟きが印象的だった。焦燥と、憎悪。ただの幼馴染みやクラスメイトに対して抱えるにしては、あまりに重々しい感情。それを向ける理由は……轟くんについては体育祭のアレだろう。……でも緑谷くんは?

 

(どうして、なんだろう……)

 

 爆豪くんを侮ることも、馬鹿にすることもしなさそうなのに。温厚な緑谷くんの何がそんなに癪に触るのか。

 そんなことをぼんやり考えていたわたしは、次の言葉で現実に引き戻された。

 

「……で、うちのクラスは21名なんで、当然ひとつは三人一組となる。

 蛙吹、常闇、そして……空中(そらなか)。おまえたちの相手は、」

 

「──これまた、私だ!!」 

 

 え、と。一瞬時が止まったようだった。

 それから数秒して、わたしはようやく事態を飲み込む。

 

「え、……ええっ!?」

「オールマイト……!? しかし何故、」

「緑谷ちゃんと爆豪ちゃんの相手をするのではないの?」

「そうだよ! 私だけダブルブッキングというわけさ!」

 

 HAHAHA!!とオールマイトはアメリカンに笑ってみせるけど、わたしは笑うどころではない。はくはく、と金魚のように口を開いては閉じて、また開いて、うまく息が、できない。

 

「まずは緑谷少年と爆豪少年から試験を開始する。君らは別室で待機後、私と戦闘訓練だ!!」

 

 刑の執行を待つ囚人、……気分はそんな感じだった。

 

 

 

「まずは落ち着きましょう、愛依(あい)ちゃん」

「う、ん……ありがと、梅雨ちゃん……」

 

 待機所として連れてこられたテントの中で、わたしは梅雨ちゃんに肩を叩かれた。それに少しほっと息を溢して、わたしは2人と同じくパイプ椅子に腰掛ける。ぎし、と軋む音が、やけに大きく響いた気がした。

 

「……試験内容を、確認しとかないとだね」

 

 全体での説明が終わると、わたしたち以外の組はそれぞれバスに乗って用意されているという試験会場へ向かった。

 校長先生 (バーサス) 芦戸さん・上鳴くん。

 13号先生 (バーサス) 青山くん・お茶子ちゃん。

 マイク先生 (バーサス) 耳郎さん・口田くん。

 ミッドナイト先生 (バーサス) 峰田くん・瀬呂くん。

 スナイプ先生 (バーサス) 透ちゃん・障子くん。

 セメントス先生 (バーサス) 切島くん・砂藤くん。

 パワーローダー先生 (バーサス) 飯田くん・尾白くん。

 そして、オールマイト先生 (バーサス) 爆豪くん・緑谷くん。

 

 それぞれがどんな戦いをするのだろう、なんて感慨に耽る間もなく、わたしたちはエクトプラズム先生から試験の概要を聞かされた。

 曰く、試験時間は30分。わたしたちチームの目的は【ハンドカフスを仮想(ヴィラン)である先生たちに掛けること】、もしくは【誰か1人がステージから脱出すること】。

 確かに“個性”の相性が悪かったり、あまりに強大すぎる相手に出会したりしたら、そこで自滅するよりも情報を持ち帰り、応援を呼ぶ方が賢明だろう。より実践を想定した訓練だと、より実践を想定した行動をしろと、先生は言った。

 ちなみにこの状況だとプロヒーローである先生方があまりに有利なので、先生方はみんな自分の体重の約半分に相当する重りをつけるらしい。オールマイトなら、確か体重は250kgを越していたはずだから……大雑把に見積もっても125kg相当のハンデがあるということだ。

 

(……それでも勝てる気がしないって、何なんだろう……)

 

 長くNo.1ヒーローとして君臨してきた、平和の象徴は伊達じゃない。授業中に見かける、まだ教師としては少し不慣れな、茶目っ気のある優しい顔はどこへやら。一瞬だけだったけど、先ほど相対した威圧感は凄まじかった。

 思い出すだけで冷や汗が流れる。吐き出す息が揺れる。

 ……それでも、と。わたしは震える拳を握り締めた。

 

「……わたしたちだけ、こうして試験の概要を事前に伝えられたということは……考える時間を与えられた(・・・・・・・・・・・)ってことだよね」

 

 作戦を立てる。それを許可されたということ。もしくは作戦込みでオールマイトとかいう核弾頭をぶつけられたのかもしれない。3人で、それぞれの“個性”と強みを活かして、強大な敵に立ち向かえと──相澤先生の真意は不明だけど、そうなのかもしれない。……相変わらず大きな壁を用意してくれるものだと苦笑が浮かぶ。

 

「……でもそれを乗り越えるのが、雄英生、だよね?」

「ああ。空中、おまえの言う通りだ」

 

 顔を上げると、常闇くんがニヒルな笑みを浮かべて頷いていた。その赤い目に、より高みを目指す意志と、挑める喜びとが込められている。

 

「高き壁を乗り越えてこそ、我らはより高く飛べる」

 

 常闇くんの強い声色に、梅雨ちゃんはひとつ瞬き。

 そうして、けろりと微笑んだ。

 

「PLUS ULTRA、しちゃいましょうか」

 

 壁を前にして、笑う──それは簡単なことじゃない。わたしひとりだったらきっと緊張で縮こまってできなかっただろう。でも今は違う。雄英に入学して3ヶ月、わたしなりに頑張ってきた。たくさんの人に励まされ、支えられ、少しは成長できたはず。

 それに何より、わたしを好敵手だと認めてくれた常闇くんが、友達だと励ましてくれた梅雨ちゃんがいる。2人がそれぞれの笑みを浮かべて、わたしを見てくれている──

 

「うん……! 頑張ろう、2人とも!」

 

 だからわたしも、笑える。

 虚勢じゃなくて、壁を前に、笑えるんだ!

 

 

43.少女、壁を前に。

 

 


 

 試験突入直前までのあれこれ。オリ主追加や常闇くん強化に伴って試験相手をエクトプラズム先生からオールマイトへ変更しました。今からどうやって戦おうか白眼剥きながら考えています。

 あと緑谷くんと爆豪くんの葛藤や衝突は本誌がめちゃくちゃ熱いのでなるべく丁寧にスポット当てていきたいなと考えています。大体そういう時はオリ主はナレーターしてるしかないのですが、あしからず御了承いただければ嬉しいです。



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44.少女、演習試験。

 

 わたしたちの演習試験場は屋内──店舗の入ってない巨大ショッピングモールといったような場所だった。7階建てとなっていて、各所に置かれたエスカレーターで登り降りが可能。円形の広間は吹き抜けとなっていて、飛ぶこともできるけれど……、

 

「……機動力を削ぐ地形だね」

「ああ。故に我らに宛がわれたのだろう」

 

 ひとつの広間はまあまあの広さではあるものの、広間と広間を繋ぐ通路は狭く、充分に翼を広げられそうにない。屋外なら緊急避難として上空に逃れたり、上から(ヴィラン)の位置を補足したりできそうだったけれど、天井のあるここでは無理だ。

 ステージ中央のスタート位置。ここに着くまでに観察した印象を話し合い、3人で頷き合う。

 

「想定していたほどの機動力は望めない……けど、」

「そうね。作戦は、既に話した通りでいいと思うわ」

「うん、……」

 

 梅雨ちゃんの言葉に頷くと同時に、スピーカーから声がした。出張所で待機、モニタリングしているというリカバリーガールのものだ。

 

『では蛙吹、常闇、空中(そらなか)組の期末試験を始めるよ!

 レディーーー……ゴォ!!』

 

 スタートの合図がアナウンスされた瞬間、わたしは羽根を飛ばした。ひとつは、いざという時のアレ(・・)のところへ。そして他は、わたしを中心に円形上に広げていく。

 

「逃走成功には指定のゲートを通らなくちゃいけないから、先生はゲート付近で待ち伏せかしらね」

「うん、上手くいけば先生とゲート……両方の位置を補足できるかも」

 

 梅雨ちゃんとわたしの視線が交錯する。そして、互いに頷き合った。

 

「何かあれば報せる(・・・)ね」

「ええ」

 

 梅雨ちゃんの緑がかった黒髪が靡き、通路の向こうへと消えていく。それを見送って、わたしと常闇くんは吹き抜けスペースを使って上昇。7階の通路に進んだ。

 ……まだ、飛ばした羽根に反応は無い。羽根の振動に注意深く耳を傾けながら、わたしは常闇くんに続いて走った。脳裏には、先ほど待機場所で立てた作戦がよぎる。

 

 

 

『やはり、逃げ切りを軸に行動するべきではないか』

 

 開口一番そう断言した常闇くんに、梅雨ちゃんも同意した。

 

『私もそう思うわ。常闇ちゃんと黒影(ダークシャドウ)ちゃんはともかく……私と愛依(あい)ちゃんでは拘束力も攻撃力も足りない』

『否……相手はあのオールマイト。相対すれば俺たちとて力不足。容易に押し切られてしまうだろう』

『となればやっぱり逃走が勝ち筋ね。会敵したとしても引き付けて……出来ればこの中で一番スピードのある愛依ちゃんだけは逃がす形にしたいわ。愛依ちゃんはどう思う?』

 

 常闇くんと梅雨ちゃんが考えを深めてくれている間に、わたしもわたしなりに考えた。わたしたちの強み、“個性”……それを知っている先生(オールマイト)なら、どう動くか。

 

『……戦闘よりも逃げ切りを狙うのは、わたしも同意見だよ。でもわたしを逃がすっていうのは、きっと、オールマイトも予想してるはず』

 

 あのパワー、スピード、威圧感。それが迫ってくると思うと、やっぱり身体が恐怖を訴える。震える手を握り締めて、不安を押し殺した。深く、息をする。

 落ち着け。頭を冷やして、冷静に。いつもホークスが言っていたでしょう。視野は常に広く保て。ひとつの考えに囚われてはいけない。さまざまな可能性を想定して、探るんだ。たくさん、もっと、見つけないと。

 

『オールマイトはきっと、わたしを真っ先に潰しに来る』

 

 この状況を打破する矢は、ひとつでは足りない。

 

『──だからこそ(・・・・・)、そこを突こう』

 

 

 

 ぴく、と。羽根が振動を拾う。地響きといっていいほど凄まじい勢いで、こちらに近付いてくる!

 

「常闇くん二時の方向! 来ます!」

「了解、黒影(ダークシャドウ)ッ!」

「アイヨォ!!」

 

 察知した瞬間、常闇くんに警告を飛ばして、散った羽根を回収し始める。そこに躊躇もタイムラグも無かった。不意を突かれたわけでもなく、予め想定した通りのことを、自分にできる最速で行っていただけ。

 それなのに、

 

「やあヒーロー、ご機嫌如何かな!?」

 

 ひとつ瞬きの間に、オールマイトが寸前に迫っていた。小粋なジョークのつもりだろうか、やけに明るい声色とは裏腹に、突き出された拳に容赦は一切感じられない。咄嗟に羽根を硬化させて自身をくるみ、後方に思い切り飛ぶ。

 

「……ッう、く……!」

 

 翼の盾で拳を受け止めると同時に、後方へ飛ぶことで衝撃を逃がす──それだけやってもこの威力なのだから、本当にデタラメな強さだ。壁に打ち付けられ、ずきずき痛む頭と腹と背中を【治癒】しながら立ち上がる。顔を上げると、黒影(ダークシャドウ)を纏った常闇くんがオールマイトに立ち向かっていた。

 

「オールマイト、如何に偉大な貴方であろうと、ここで止めさせていただく!!」

「……ほう、そうか! なるほどね、てっきり空中少女を逃がしていると思ったが──蛙吹少女を行かせたのか!」

 

 そう。逃げ切りを行うのならば、狙われてるわたしよりも梅雨ちゃんが適任。そう判断して彼女を別ルートから先に行かせた。オールマイトの接近を察知した時、梅雨ちゃんにくっ付けた羽根も回収してある。羽根がわたしの元に戻る動きを見て、梅雨ちゃんにもどこにオールマイトがいるのか伝わっただろう。

 一の矢は、通った。ならば次はと気を引き締める。

 

「さてさて! そうとわかったなら、」

「“梅雨ちゃんの元に向かう”──ですよね」

 

 踵を返そうとしたオールマイトに向かって飛び立つ。

 

「させま、せん!」

 

 刃のように鋭くさせた羽根を、上から浴びせるように放つ。無数の羽根を受けて、オールマイトは顔を覆った。

 

「ウーム。行動できないよう脳を揺らしたつもりだったが、【治癒】で治してしまったかな!? ってあイタタタ!」

「……ご冗談を」

 

 大袈裟に痛がってくれているけれど、羽根の刃は分厚い筋肉に遮られてほとんど通っていない。わたしのパワー不足もさることながら、オールマイトの耐久力も規格外だ。わたしの全力は、ほんの浅い切り傷程度にしかなっていない。

 

(……でも、)

 

 わたしは、これでいい。

 今のわたしの役割は、撹乱と仕込み(・・・)なのだから。

 

「どうしたどうしたヒーロー! そんな弱攻撃じゃ(わたし)は止められないぞ!!」

「……ならばこれは、どうだ!!」

 

 羽根の雨はシャワーのように視界を覆っている。その死角から常闇くんがオールマイトへ肉薄した。“深淵暗躯”で黒影(ダークシャドウ)と一体となった彼が、その鉤爪を鋭く振るう。

 その衝撃が暴風となって頬を打った。今のはなかなか良い手応えだったのでは、とわたしは目を細めながら、放った羽根を回収して次に備えようとした。

 

「ンン、なかなかいい拳だ常闇少年!! ……だがね、」

 

 “良い手応えだったのでは”。

 “次に備えようとした”。

 ……そんなわたしの思考は、甘く、悠長だった。

 

「まだまだ腰が入っちゃいないな!!」

「ッぐぅ!!?」

「! 常闇く、──!?」

 

 わたしの甘さを打ち砕くような一撃が、常闇くんの身体を吹っ飛ばす。治癒しなければ、カバーに行かなければ──そんな思考がよぎったけれど、次の瞬間、それは真っ白に塗り潰された。遅れて腹部に、強烈な痛み。

 

「か、は……ッ!」

 

 はじめは呼吸ができなくなった。目が霞んで、耳鳴りがして、五感のすべてが遠くなる。一拍置いて息を吸い込もうとして、それより先に頭部に衝撃。ぐわん、と、世界が揺れて、わたしは床に崩れ落ちた。

 

「……ぁ……う……」

「悪いね空中少女! 君の【治癒】は少々厄介! だから強めに脳を揺らさせてもらったよ!」

 

 ぐわん、ぐわん、と依然世界は揺れている。身近で話しているんだろうオールマイトの声も、ぼんやりとしたフィルター越しに聞こえる。彼は明るく容赦ないことを宣って、わたしの身体を担ぎ上げた。両手を頭上でロープで拘束し、崩れた壁に引っ掛けるようにしてわたしを吊るす。

 

「HAHAHA! これで治癒はできまい! ここでしばらく大人しくしているんだな! じゃっ、(ヴィラン)の私は蛙吹少女の元へ急ぐんで!!」

 

 ヒーローらしい眩しい笑顔にサムズアップを残して、オールマイトは駆け出していった。明るい仕草とは裏腹に、やっていることは完全に(ヴィラン)そのものだ。一生懸命(ヴィラン)になりきっているんだなあ、なんて思いながら、わたしは小さく笑った。 

 オールマイトの腹パンによって甚大なダメージを受けたわたしたちは、治癒しないと動けない。常闇くんを治癒するためには、まずわたし自身を治癒しなければいけない。わたしを治癒するためには、患部に手で触れる必要があると──そうオールマイトは思っているんだ。だからわたしの手を拘束して行った。

 

(……念のためのカモフラージュ(・・・・・・・)が、変なとこで功を奏したな)

 

 初めての戦闘訓練。轟くんの氷結に囚われて右腕を怪我をしたわたしは、左手で患部に触れて傷を治した。他の訓練で傷を負った時も同じ。治癒するために、手で触れてきた。そうしなければできないとでもいうように。

 

「……は、……」

 

 静かに呼吸を整え、意識を集中させて──わたしは“個性”を発動させた。

 わたしは自分の怪我なら(・・・・・・・)、ノーアクションで治癒できる。

 

「……っ、常闇くん!」

 

 殴打された腹部を、壁に打ち付けた背中を、揺らされた頭部を治して、腕を拘束しているロープを羽根で切った。少しふらつく視界を頭を振ってクリアにしつつ、床に倒れ伏している常闇くんに駆け寄る。

 

「ぐ……!」

「大丈夫、すぐに治す……!」

 

 腹部に手を当てて、エネルギーを注ぎ込む。常闇くんの眉間の皺がゆっくりと薄くなり、赤い目が細く開かれる。

 

「すまん、空中……助かった!」

 

 治癒しきったと同時に、常闇くんは跳ね起きた。その目はオールマイトが走っていった方をきつく見据えている。……梅雨ちゃんのことを心配しているんだとわかって、わたしは強く頷いた。

 

「羽根を先行させる。わたしたちも行こう!」

「……ああ!」

 

 まだ負けていない。まだ、わたしたちは行ける。

 二の矢が与えた傷は浅かったけれど、傷はつけたのだ。まだ望みはある。ちゃんと、三の矢に繋げられた!

 

(後は、3人揃って……!)

 

 ぎゅうと拳を握り締めて、わたしは翼をはためかせた。

 

 

 

 

「……!」

 

 オールマイトを追いかけ、追いついたその場所には、可愛らしくファンシーに飾られたゲート……ゴール地点があった。けれどわたしが息を飲んだのはそれが理由ではない。

 

(梅雨ちゃん……!)

 

 オールマイトに片足を掴まれて、上下逆さまに梅雨ちゃんが吊るされていた。ここまで身を隠しつつ進み、見つかっても諦めず抵抗したのだろう。ヒーロースーツはぼろぼろで、ダメージのせいかぐったりと辛そうに目を閉じている。

 

「なんと! ここまで追いついたかヒーローよ!」

 

 わたしたちの気配を察したのだろう、オールマイトがこちらを振り返った。片眉を跳ね上げて、ウムム!と唸ってみせる。

 

「どうやって治癒したかは知らんが、まったく! やんちゃな少年少女どもめ!」

 

 プンスカ!といった擬音が似合いそうな口調だけれど、こちらに向けて身構えるその姿には、ほんのひとかけらの隙も見当たらない。彼は梅雨ちゃんが持っていたカフスを遠く投げ飛ばし、グッ──と低く身を屈める。

 

「大人しくしていれば、痛い思いをせずにすんだものを!!」

 

 低い体勢からの、突進。それはまるでロケットのようにこちらに迫り、そのスピードは衝撃波となってわたしたちの頬を打つ。吹き荒れる暴風に目を細めながら、わたしは見た。

 

 一気に距離を詰められ、そのヒーロースーツの色彩が視界を埋めた。わたしたちに再び一撃を喰らわせようと、目前で逞しい腕が引かれる。グッと音がしそうなくらい強く、拳が握られて──

 

 不意に、その巨体が、傾いだ。

 

「な──」

 

 何故かその瞬間だけスローモーションになったかのように、ゆっくり、はっきり、鮮明に見えた。

 がくりと突然糸が切れたかのように崩れる右膝。信じられない、というようなオールマイトの表情。彼に抱えられたままの梅雨ちゃんが、薄目を開けてそっと微笑む。

 

(そう、その隙をずっと、わたしたちは待っていた!)

 

 梅雨ちゃんの笑みを見て、わたしも口の端を吊り上げる。そうして手を下に払った。その動きに連動するように、遠くに置いてきた羽根が動く。

 いざという時のアレ(・・)は、最後のダメ押しをするために目をつけていた。わたしたちの中で一番の攻撃力を誇る常闇くん。彼がその真価を発揮できるようにと、そのレバーに羽根を絡ませていたのだ。

 

 アレ(・・)を、ブレーカー(・・・・・)を落とす。

 バツン、という音とともに、広間が暗闇に閉ざされた。

 

「!? これは……!」

「ゆくぞ、黒影(ダークシャドウ)……闇は俺たちの縄張り(テリトリー)……」

 

 オールマイトはわたしたちの目前に迫っていた。それは同時に、こちらにとっても攻撃のチャンスだということ。

 暗闇の中、ゆらりと隣から強大なエネルギーが迸るのを感じる。静かな声で半身に呼び掛けていた常闇くんが、鋭く息を吸って、吐いた。

 

「出し惜しみは要らん!! 全力をぶつけろッ!!!」

「ッオラアアアアァァァァァ!!!」

「ぐぬぅ!!?」

 

 暗闇下の、黒影(ダークシャドウ)の最大火力。それを受け止めて流石のオールマイトも床を削りながら大きく後退した。仕込んだ麻痺毒で足元が覚束ないのも効いているようだ。大きく肥大した影の腕。その乱打に防戦一方となっている。

 

(今だ!)

 

 この機を逃す手はないと、わたしは足元を強く蹴って飛び立った。目指すはオールマイトの後方にある脱出ゲート。常闇くんと黒影(ダークシャドウ)と交戦している今ならばとトップスピードで突っ込んで、

 

「おおっとっと危ない危ない!」

「、いっ……」

 

 脇をすり抜けようとして、その大きな左手に捕らえられた。代わりに梅雨ちゃんは床へと投げ出される。……右手でこの状態の黒影(ダークシャドウ)を相手取りながら、わたしを難なく捕まえてみせる。そんな化け物じみた戦闘能力に、乾いた息をこぼした。

 

「この隙にゴールへ、ってことかい? させないけどな!!」

「さすが、ですね……!」

 

 腕を掴まれる痛みで顔をしかめながら、わたしは笑った。このまますんなりゴールへ行けたらそれはそれでいい。でもそれが不可能になったとしても構わない。

 だってわたしの本命は既に果たされている。

 わたしの手は、梅雨ちゃんに届いた!

 

 

 

『梅雨ちゃんを先行させて、囮のわたしにオールマイトが接近した時に、わたしと常闇くんでコレ(・・)を喰らわせよう』

 

 “ちょっとピリッとする程度の毒性の粘液”。事前にそれを梅雨ちゃんに作ってもらい、わたしの羽根と黒影(ダークシャドウ)の鉤爪に塗っていた。梅雨ちゃん曰く、そこまで強い毒じゃないから動きを止めるにしても少しの間だけだし、あのオールマイトには効かないかもしれないと。それでも、浅いけれど皮膚を切り裂き、体内に直接塗り込んでいったら効くんじゃないか。ほんの一瞬の隙を積み重ねることで勝機が見えるんじゃないか。そう思って話し合いを続ける。

 

『梅雨ちゃんの麻痺毒の他に……わたしは最後のダメ押しとして、羽根でブレーカーを落とせるよう用意しておくね。光源が無くなって、黒影(ダークシャドウ)の威力も上がるはず』

『ソレデオレタチがオールマイトをヤッツケルンダナ? マカセロ!』

『傲るな、黒影(ダークシャドウ)。それで倒れるほどNo.1(オールマイト)は柔じゃない』

 

 テンションを上げる黒影(ダークシャドウ)を静かな声で宥めつつ、常闇くんはわたしを見た。

 

『無論俺たちに出来ることは全力を尽くそう。……しかし、暗黒の利点はそれだけではなかろう』

 

 おまえはもっと他の可能性を見出だしたのだろう?、と。

 わたしへの信頼を込めて、常闇くんは赤い瞳で微笑む。それが嬉しくて、わたしも笑って頷いた。

 

『うん。その通りだよ、常闇くん』

 

 暗闇に閉ざされた中なら、梅雨ちゃんが何をしていても(・・・・・・・)、オールマイトにはわからない。

 

『最後の、本当に最後の手段……お願いね』

『ええ、任せて』

 

 梅雨ちゃんはいつものように人差し指を口許に当てて、けろりと言った。

 

『私の胃袋は出し入れできちゃうの。だから──』

 

 

 

「……なるほど……なるほど!!」

 

 ガチャン、と金属の擦れる音。それから少しの沈黙を経て、オールマイトの声が熱を帯びる。

 

「……蛙吹少女がカフスを1つ持っていたから、私は常闇少年か空中少女のどちらかが残りのカフスを持っているものと考えていた。だが、……それすら、見越していたのかい?」

 

 明るい目が興味深そうにわたしたちを見る。それに頷いたのは、この最後の一手を提案してくれた梅雨ちゃんだ。

 

「私は常闇ちゃんと比べて攻撃力は無いし、愛依ちゃんと比べて速さも無い。挙げ句はじめ持っていたカフスを奪われ、放られてしまったら……」

 

 ──そんな私への警戒は、薄くなるわね?

 

「だからこそ、もう1つのカフスを胃の中に飲んでいたの。麻痺毒の粘液に、暗闇、黒影(ダークシャドウ)ちゃんの一撃、愛依ちゃんの撹乱……ほんの一瞬の隙を、何度も何度も積み重ねて、やっと見つけたオールマイト(あなた)の無防備をつくために」

 

 梅雨ちゃんの手が、オールマイトの左手首を指差す。そこには金色のハンドカフスが、まるでやり遂げたと胸を張るように煌めいていた。

 

「……素晴らしい! 素晴らしいぞ少年少女!! よくぞ3人で力を合わせ、策を練り、実行し、(ヴィラン)を捕縛した!!」

 

『蛙吹・常闇・空中チーム、条件達成!』

 

 オールマイトから満面の笑みとともに讃えられて、リカバリーガールのアナウンスが響いて。そこでようやく、演習試験をやり遂げたことを実感した。あの高すぎる壁を越えられたのだと自覚した途端、胸の奥から立ち上った熱が頬を染めていく。

 

「……やっ、たぁ……!」

 

 込み上げる喜びが声を弾ませる。気を抜けばその場でぴょんぴょんと跳ね回ってしまいそうなのを何とか堪えて、ぎゅうと拳を握り締めた。

 

「フッ……成し遂げたな」

「ええ。みんな、お疲れさま」

「うん……! 梅雨ちゃんも常闇くんも本当にありがとう……!」

「オイソラナカァ! オレハ!?」

「ふふ、うん! 黒影(ダークシャドウ)も強かった。格好よかったよ、ありがとうね」

「ヘッヘヘヘ! トーーーゼンっ!」

 

 みんなで笑みを交わして、胸を張る黒影(ダークシャドウ)を撫でて、梅雨ちゃんの傷を治癒して。そうこうしていると背中の羽根が咳き込む音を拾った。その小さな音を辿って振り返る。するとこの場を後にしようとしていたオールマイト先生が、その大きな背中を丸めていた。

 

(……先生?)

 

 傷は浅かったはずなのに、その咳は苦しそうだった。苦しいのを悟られまいと、必死に押し殺すような響きだった。もしかして麻痺毒が想定より身体に残っているのかもしれないと、わたしははっとして駆け出した。

 

「オールマイト先生……!」

「、うん? どうしたんだい空中少女?」

「すみません、少しだけお時間をください」

 

 断りを入れて、彼の前に立つ。無数の浅い切り傷。そのひとつに触れてエネルギーを注ぎ込んだ。容器に水を注ぎ込む時のように、ゆっくり、丁寧に、溢さぬように──

 

(……?)

 

 その途中、違和感を覚えた。注ぎ込んだエネルギーは患部の他にも伝播していくものだけれど、この筋骨隆々の身体は何かがおかしい。

 エネルギーが、呼吸器官や胃袋に行き渡らない。まるでそこだけ、生きていないみたい(・・・・・・・・・)

 

(……なんて。何を馬鹿なことを考えてるの、わたし)

 

 オールマイトが、No.1ヒーローが、そんなことあるわけないのに。万が一呼吸器官や胃がほとんど無い状態なら、あんな風に戦うなんてできっこないのに。

 見当違いも甚だしいな、と、有り得ない考えを取り払う。

 

「……終わりました。これで、傷は全部治ったかと……、

 ……? オールマイト、先生?」

 

 治癒を終えて顔を上げると、オールマイト先生が不思議な顔をしていた。驚愕、疑問、歓喜、心配──さまざまな感情がない交ぜになったかのような。

 

「……」

「……あ、あの……」

「……まさか、いや、……」

「えっと……?」

 

 彼の青い目が、ぐるぐると思案で揺れていた。それが不思議でならなくて、わたしは恐る恐る口を開く。

 

「あの、わたしの【治癒】に何か……?」

「……ああ、いや、……私の気のせいだったようだ!」

「え?」

「いやホント、気にしないでね! 治癒ありがとう! 助かったよ!!」

「……お、お役に立てたなら何よりですが」

「うん!! ありがと! それじゃね!」

 

 ばちこん!と眩しいウインクを残して、オールマイトは駆け出していった。その大きな背中があっという間に通路の影に消えていく。……よくわからないけど、オールマイトが元気ならよかった。ほっと胸を撫で下ろす。

 

 最後に芽吹いた小さな疑問は、期末テストを無事終えたことの安堵に包まれ消えていった。こうして目まぐるしかった1学期の幕は下り、わたしたちは夏休みを迎える。

 

 わたしにとっては一生忘れられない──そんな夏休みを。

 

 

44.少女、演習試験。

 

 


 

 Q.梅雨ちゃんの粘液ってどれくらいの威力なの?

 

 A.わからん!!!!!

   とりあえずヒーローズライジングを参考にしました。

 

 オールマイトがあまりに強すぎたので常闇くん、梅雨ちゃん、オリ主のできること全部ぶつけようとしてこんな感じになりました。ふわっと見ていただければ嬉しいです。

 梅雨ちゃんは結構策士なイメージがあるので、最後のどんでん返しを担ってもらいました。梅雨ちゃんが格好いいアニメ5期が最高に楽しみです。



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45.少女、買い物に行く。

 

 期末試験の最後を飾った演習試験。さまざまな組が先生たちに挑んだのだけれど、その内容も結果もさまざまだった。

 

 まず轟くんと八百万さんのチーム。“個性”を【抹消】する相澤先生との対戦は、如何に【抹消】を回避して立ち回れるかが鍵だった。轟くんの大氷壁で身を隠した後、八百万さんが【創造】したものはマネキン、暗幕、カタパルト。そしてニチノール合金という、加熱によって元の形状に変化する形状記憶合金を混ぜ込んだ捕縛布。一度創り出した物は【抹消】でも消せないことや、轟くんの【炎熱】と【氷結】の“個性”──手札のカードをすべて上手く噛み合わせた作戦によって、相澤先生を捕縛してみせた。

 この作戦は八百万さんによるものだった。試験後に轟くんがそう説明している傍ら、八百万さんは照れたように目を伏せつつ、その瞳に光を宿していた。

 

(なんだか、吹っ切れたのかな)

 

 体育祭が終わってからというもの、どこか落ち込んでいた様子だったから、そんな八百万さんの嬉しそうな笑顔が見られてよかった。

 

 吹っ切れたというのは、口田くんにも当てはまるだろう。彼は耳郎さんと組んでプレゼント・マイク先生との試験に臨んだ。【生き物ボイス】に【イヤホンジャック】という、2人とも音に纏わる“個性”を持っているからこその、マイク先生。“個性”【ヴォイス】の凄まじい音量、音圧に“個性”をかき消され、為す術なく劣勢に追い込まれていた。

 それを打破したのが口田くんだった。耳郎さんの身を呈した励ましに覚悟を決め、大の苦手だったという虫たちに声を届かせてマイク先生を奇襲。泡を噴いて倒れたマイク先生を突破し、耳郎さんを抱えてゲートを潜り抜けたのだという。

 

「……マイク先生が泡噴いたって、何があったの?」

「……ええと、それは……」

 

 ちょっと躊躇いつつも教えてくれた緑谷くん。彼が顔をひきつらせていた理由がわかって、わたしも小さく悲鳴を飲み込んだ。口田くんほどじゃなくても虫はあまり好きじゃないから、もしわたしがそれ(・・)を受けていたら悲鳴のひとつぐらいは上げていたに違いない。

 

「口田くん、本当にすごいね……」

「そ、そんなことないよ……」

 

 口田くんは照れたように謙遜するけれど、本当に、万能な“個性”だ。USJでは数多のネズミに指令を出して索敵、陽動、奇襲を担ってもらったのだけど、虫にも声が届くのであれば、その可能性は大きく広がる。

 だって彼は、生き物と意志疎通ができる。それはつまり、虫たちが得た情報をそのまま知り得るということ。……やろうと思えばいくらでも、どこへでも、自分の目と耳を飛ばせるということ。

 

「“すごい”だぁ? すごいってんならオイラだってそうだぜ! なあ……来いよ空中(そらなか)ァ……!」

「そろそろ予鈴が鳴りそうね愛依(あい)ちゃん」

「そうだね梅雨ちゃん、席についとこっか」

「おうおう! なんかオイラの扱い手慣れたって感じを出すなよな!! 雑になってんぞ!!」

 

 吼える峰田くんに、わたしは笑って振り返る。

 

「冗談だよ……本当にすごかったんだってね、峰田くん」

 

 峰田くんは瀬呂くんとペアだった。対戦相手は18禁ヒーロー・ミッドナイト。何だかにやけた顔でバスに乗った峰田くんだったけど、その後が大変だったらしい。

 試験のフィールドは荒野。狭い屋内よりはましだったのかもしれないけど、遮蔽物もほとんどなくただ風が吹き抜けるその場所で、彼女の【眠り香】を相手取るのは至難の技だった。【眠り香】──その身体から放たれる香りは、強制的に相手を眠らせる。実際ただミッドナイト先生が近付いただけで瀬呂くんは深い眠りに落ちてしまった。彼が咄嗟にテープで峰田くんを後方に庇わなければ、2人の試験はそこで終わっていただろう。

 

『やってられっかこんなクソ試験~~~~!!!!』

『ファッ○だ!! 圧倒的ファッ○!!』

『こんな理不尽試験やってられるかーーー!!!』

 

 ……その後の峰田くんは、まあ、色々と喚きながら逃げ回っていたらしい。リカバリーガールが溜め息を吐きながら話していたのを思い出す。

 でも彼女はその後、峰田くんのことを“しょうがない子だね”と称したのと同じ唇で、微笑んだ。

 

『器用な子だね、すっかり騙されちまったよ……!』

 

 そう、峰田くんはただトンデモ難易度の試験を呪って逃げ回っていたのではなかった。ミッドナイトがゲート前に鎮座したままなら、近付いただけで【眠り香】によって行動不能・不合格になってしまう。だから彼はミッドナイトを誘き寄せることにした。弱音を吐いて、涙をばら蒔いて、18禁ヒーローの嗜虐心を煽った。鞭を片手に舌舐めずりしながら一歩一歩と足を進めるミッドナイトに、──不敵に笑ってみせたのだ。

 

『奥まで逃げたのも、ぶちまけた弱音も! あんたの“嗜虐心”煽ってここまで引っ張ってきたのも!!

 全っっ部かっけえ男になる為なんだよなあ!!!』

 

 瀬呂くんのテープで口と鼻を覆い【眠り香】を防いだ峰田くんは、【もぎもぎ】で鞭ごとミッドナイトの身体を地に縫いつけた。彼女の動きを封じて走り、ゲート前で眠っていた瀬呂くんを担いで共にゲートを潜る。……その時の峰田くんは格好よかったんだよ、と緑谷くんも太鼓判を押した。

 緑谷くんは試験後、リカバリーガールの出張所で彼女と一緒に試験の様子をモニタリングしていたとのことで、今わたしは彼から試験の色んなあれこれを教えてもらっている。誰々がこんな活躍をしたんだよ!と目をキラキラさせる緑谷くんは、けれど、自分のことを話そうとしない。

 

「緑谷くんはどうだったの? 条件はクリアしたって聞いたんだけど……爆豪くんと何かあった?」

「んっ!? う、うーん……」

 

 試験前から色んな思いがぐちゃぐちゃにぶつかっていた2人だ。試験中も、何かあったに違いない。緑谷くんの図星を突かれたような、何とも言い難い表情がその証拠だろう。彼は眉間に深い皺を刻んでいたけれど、……それでも、

 

「言語化は、難しいんだけど……」

 

 へにゃりと浮かべた微笑みは、明るかった。

 

「でもクリアしたよ! 終わってみると……よくもまああのオールマイトを相手に粘れたなあって気が遠くなっちゃうや。とんでもなかったよね……」

「わかる」

「わかるわ」

「心から同意する」

 

 思わず頷くと、同じように梅雨ちゃんが、常闇くんが深く頷いた。あの時のオールマイトの圧倒的な強さや容赦のない腹パンを思い出すと今もゾッとするくらいだけれど、でもそんな高い壁を乗り越えたという記憶が小さな笑みをかたちづくる。

 

 

 ──その一方で、

 

 

「「「「……………………」」」」

 

 沈鬱な表情で沈黙していたのは、切島くん、芦戸さん、砂藤くん、上鳴くんの4人だった。ふいに、芦戸さんがその目に涙を浮かべる。

 

「みんな……土産話、っひぐ……楽しみにうう……してるっ……から……!」

「まっまだわかんないよどんでん返しがあるかもしれないよ……!」

「緑谷それ口にしたら無くなるパターンだ……」

 

 しゃくり上げる芦戸さんを気にかけたんだろう、緑谷くんが明るい声で励ますも、一部の人には逆効果だったようだ。上鳴くんが白眼を剥きながら緑谷くんに迫る。

 

「試験で赤点を取ったら林間合宿に行けずに補習地獄! そして俺らは実技クリアならず! これでまだわからんのなら貴様らの偏差値は猿以下だ!!」

「落ち着けよ長え。……わかんねえのは俺もさ。峰田のおかげでクリアはしたけど寝てただけだ」

 

 キエエエとなってる上鳴くん、まだ涙を滲ませる芦戸さんに、硬い表情のまま俯いている切島くん、砂藤くんは、実技試験をクリアできなかったという。荒れ狂う上鳴くんを宥める瀬呂くんも、その目は憂慮に沈んでいる。

 

「とにかく採点基準が明かされてない以上は……」

「同情するならもう何か色々くれ!!!」

 

「──予鈴が鳴ったら席につけ」

 

 とうとう収集がつかなくなってきたかと思いきや、スパン!とドアを開け放って相澤先生がやって来た途端、みんな席についていた。しぃんと静まり返る教室内に、先生の淡々とした声が響く。

 

「おはよう。今回の期末試験だが……残念ながら赤点が出た。したがって……」

 

 眠たげな目のまま、口許が弧を描いた。

 

「林間合宿は全員行きます」

「「「どんでん返しだあああああ!!!!」」」

 

 うおおお、と歓喜で教室が沸いた。特に切島くん、砂藤くん、芦戸さんの喜びようはすごかった。ある人は目を見開き、ある人は明るい未来を噛み締めるようにぎゅっと目を瞑る。ただ1人、上鳴くんは驚きすぎてキャパオーバーを起こしたのか、ヒョッ──とした顔をしていたけれど。

 

「筆記の方はゼロ。実技で切島・上鳴・芦戸・砂藤……あと瀬呂が赤点だ」

 

 相澤先生は続ける。曰く、今回の試験ではわたしたち生徒に勝ち筋(・・・)を残しつつ、どう課題と向き合うのかを見たと。……確かにオールマイトの腹パンを受けて意識を飛ばさずにいられるってことは、そうだ。そういう風に手加減されていたのだと、今更ながらに思い返される。もっと無情に、本気だったら──あんなものでは済まなかっただろう。

 

「“本気で叩き潰す”と仰っていたのは……」

「追い込むためさ。そもそも林間合宿は強化合宿。赤点取った奴こそここで力をつけてもらわなきゃならん。

 ま、合理的虚偽ってやつだ」

「ゴーリテキキョギィーー!!」

 

「クッ……またしてやられた……! さすが雄英だ! ……しかし! 二度も虚偽を重ねると信頼に揺らぎが生じるかと!!」

 

 “みんなで林間合宿に行ける!”という喜びの中、席を立ちながら真っ直ぐ挙手して発言したのは飯田くんだった。確かに彼の言う通り、“個性”把握テストの時も相澤先生は嘘をついてわたしたち生徒を追い込んだ。それを思ってか、相澤先生も頷いた。

 

「確かにな、省みるよ。ただ全部嘘ってわけじゃない」

 

 彼はニヒルな笑みを消して、じろり、と教室を見渡す。

 

「赤点は赤点だ。補習組には別途に補習時間を設けてる。……ぶっちゃけ学校に残っての補習よりキツいからな」

 

 せいぜい頑張るようにと言い含めて、先生は合宿のしおりを配っていく。それを手に取って表紙を撫でると、……色々大変そうではあるけれど、それでも確かに林間合宿に行けるんだとわかって、頬が緩むのを抑えきれない。

 

(楽しみ、だなぁ)

 

 顔を上げると、窓から射し込む夏の日差しが眩しかった。それすら嬉しくって、真っ青な空を見上げて微笑む。

 

 

 

 

 そんなことが昨日あって、今日は日曜日。わたしは東京のビル街に買い物に来ていた。……今頃みんなも買い物してるんだろうなと、静岡県へ思いを馳せる。

 

『林間合宿に必要なものもたくさんあるし、いい機会だからみんなで買い物に行こう!』

 

 そう提案したのは透ちゃんだった。同じクラスになって初めてのイベントに、みんな概ね同意して顔を輝かせていたのだけれど、例外が3人。1人は爆豪くん。切島くんが誘っていたけれど、かったるいの一言で断っていた。もう1人は轟くん。彼は休日はお見舞いがあるそうで、こちらもきっぱりと断っていた。……あの体育祭以降、お母さんといろんな言葉を交わせているようでよかった、と安堵でわたしは目を細めた。同時に、心に寂しさがよぎる。

 

『あの……ごめん。わたしも日曜は家の用事があって……』

『ええーっ! 愛依ちゃん来れないの!?』

『ノリ悪ぃぞ! 空気読めよなぁ空中!』

『う、うん、ごめんね。行きたかったんだけど……』

 

 わたしは土曜日の夜から東京にある公安所属のビルに戻って、公安からの訓練を受けなければいけない。……でもそれを正直に言うことはできないから、曖昧に笑って断った。透ちゃんも、何だかんだ言って峰田くんも、わたしが来ないのを残念がってくれているようで、嬉しい反面申し訳なさや寂しさが込み上げてくる。

 

『用事があるのは仕方ないわ』

『……梅雨ちゃん』

 

 俯きそうになったわたしの肩を、ぽん、と優しく梅雨ちゃんが叩く。

 

『また今度、予定を合わせて行きましょう』

『……、うん、ありがと……』

 

 “また今度”があるかはわからないけど、そう言ってもらえるのは嬉しくて、わたしは笑った。

 

 

 

「それで僕と一緒、だなんて、君も災難ですね」

「! なんでですか、そんなことないです……!」

 

 訓練の昼休憩の時、変装してなら買い物してきていいか尋ねたわたしに、会長は少し思案した後に許可をくれた。“変装して雄英生徒だとバレないように”という条件の他にもうひとつ、“監視員と一緒に”という条件を付け加えて。

 

「お昼休みが潰れちゃって、目良さんにとってはそれこそ災難でしょうけど……、……わたしは、嬉しいんです」

 

 そう、会長が“監視員”としてわたしに付けたのは目良さんだったのだ。目良さんはわたしが公安に来たばかりの頃からの付き合いで、よく気にかけてくれていた。公安にはたくさんの職員さんがいるけど、わたしは彼の名前しか知らない。知らされなかった。そう望んだのはわたし(・・・・・・・・・・)なのだけれど、……名前を呼んで、とりとめのないことを話していいというのは、やっぱり嬉しい。

 

「物好きですねえ」

「そうでしょうか?」

「ええ」

「じゃあ……その物好きに、少しだけお付き合いください」

 

 にへら、と、我ながらふやけた笑顔がこぼれる。それを見た目良さんは、いつもの眠たげな半眼を丸くした。その珍しい表情の理由を問い掛ける前に、彼は静かに微笑んで。

 

「……仕方ありませんねえ」

 

 その声色が、あまりに優しかったから。

 だからわたしは問い掛けることも忘れて、また笑った。

 

 それからわたしはビル街を見て回って、必要なものを買い求めた。合宿は1週間ということで結構な大荷物となる。大きめのキャリーバッグに、アウトドア用の靴、動きやすい衣服。わたしは【翼】があるからなあと服を手に取って選んでいると、隣の目良さんが渋面をつくった。

 

「それ、背中が開きすぎてませんか?」

「え……? でもわたし【翼】がありますし、こういったデザインの方が便利ですから」

「店員に言って羽根用の穴を開けてもらえばいいでしょう」

 

 目良さんが言う通り、服屋さんには異形型の“個性”に合わせて服を整えてくれるサービスがある。熟練の職人さんがその場で採寸、仕上げまでやってくれるのだけど、それでも普通に買うより時間が掛かってしまう。

 

「で、でも時間が掛かっちゃいますし……」

「構いませんよ」

「わたしは、このままで困ったりしませんよ?」

「ダメです」

「う、……なんでそんなに頑ななんですか」

「年頃の女の子が、みだりに肌を見せないの」

 

 わたしはびっくりして、しばらく固まった。……いや目良さんはただ注意してくれてるだけで他意はなくて、……でもその言い方は、まるで……。

 

「あらあら。可愛らしい“娘さん”ですから、“お父さん”は心配ですね」

 

 不意に飛び込んできた声は店員さんのものだった。お姉さんはにこにこと微笑ましいものを見るかのような笑顔でそう話す。わたしは二重にびっくりして、固まって、……我に返った時には遅かった。

 

「っちが、」

「そうなんですよ、“個性”も外見も母親に似て。心配なので幾つか見繕った服に羽根用の穴を開けてください」

「!? ちょっ」

「かしこまりました。加工したお洋服は後日郵送もできますが」

「いえ、今日中に持ち帰りたいので。なるべく早くだと有り難いです」

「では今から1時間半ほど掛かりますがよろしいですか?」

「よっよろしくないです……!」

 

 そんなに時間を掛けたら目良さんの昼休みだけじゃなく、就業時間まで潰してしまう!とわたしは慌てて口を挟んだ。だって目良さんは過去に『仕事が終わらない? そんなことは無いですよ。時間はどこまでも続いてるんですから』なんて言っていた人だ! 仕事が終わらなければ絶対に残業する人だと確信している。だから流されてはいけないと、わたしは顔を上げた。

 

「いいんですよ、……大丈夫」

 

 顔を上げた先で、視線が絡んで、肩を優しく叩かれた。

 

「今日僕、実は午後に年休もらってるんです」

「……えっ? ……え!? うそ……」

「嘘じゃありません。ですから今日くらい、甘えなさい」

 

 宥めるように微笑まれて、わたしは言葉を失ってしまった。その隙にあれもこれもと服を積み上げられて、にこやかながら押しの強い店員さんに採寸されている間にお会計を済ませられてしまい、待ったをかける暇もない。

 更には「服を待つ間に昼御飯を済ませましょう」とあれよあれよという間にレストランに連れて来られた。ウエイトレスさんが運んできたお冷やを喉に流し込んで、ようやく呆然としていた意識がしゃっきりする。向かいに座った目良さんを、じっと見つめた。

 

「……年休って本当ですか」

「まず気にするのそこなんですね」

「いや他にも色々と話したいことはあるんですけど……」

 

 服のお会計なら後で払えば済むことだし、ともごもご言いながら、今一番の心配事を口にする。

 

「……あなたのお邪魔になってないかなって、心配で……」

 

 両手で持ったコップの結露が、涙のように流れる。そのひんやりとした感覚に目を伏せると、頭上で溜め息がこぼれた。

 

「また、遠慮しいだ」

「……だって、」

「僕ね、嬉しかったんですよ? ……久しぶりに会った君が、“ごめんなさい”と言わなかったこと」

 

 以前の君なら、“お時間を取らせてすみません”と、顔を強張らせて恐縮しきっていたでしょうに、

 

「それが今日は、“嬉しい”ときましたからね。……まァ相手が僕ってのは物好きとしか言いようがありませんが」

 

 眉を下げて、仕方ないなと言いたげな表情で、微笑む。そんな目良さんの笑顔にわたしも嬉しくなってしまう。笑ってしまう。

 

「笑ってる場合じゃ、ないのにな……折角目良さんが年休使ってるのに、その時間を取っちゃってるのに」

「また気にしいですか。そちらがそのつもりなら僕にも考えがありますよ」

「、えっ?」

「そうですね……お子様ランチにベリーワッフルパフェなんてどうです?」

「わっ、わたしもう子どもじゃありませんから!」

 

 店員さんを呼ぶボタンに伸びる手を慌てて止めると、目良さんは冗談です、といけしゃあしゃあと宣った。

 

「何でも好きなものを頼みなさい。これは遅くなった高校の入学祝いですけど、お詫びのつもりでもあるので」

「お詫び?」

「正体を欺くためとはいえ、こんな僕と親子扱いされるのは嫌だったでしょう」

 

 そう、言われて。わたしは言葉に詰まった。

 さまざまな感情が胸の内に巡って、……しばらくして、わたしは首を横に振る。

 

「……そんなこと、ないです」

 

 そう、そんなことなかった。嫌じゃなかったのだ。

 わたしがそんな風に感じるのはあまりに浅ましいし馬鹿馬鹿しいこと。ちゃんとわかっている。……それでも、

 

「目良さんにとっては災難だったでしょうけど、わたしは、……嬉しかったんです」

 

 ざわざわと賑やかなお店の中で、ここだけ音を無くしたかのようだった。しぃんと、静かに、目良さんはわたしの言葉に耳を傾けて。

 

「やっぱり君は、物好きですねえ」

 

 そうして、穏やかに微笑んでくれた。

 

「……なら僕も、同じように物好きなんでしょう」

 

 君と同じように、嬉しいのですから。

 

 ……そんな返事が返ってくるとは思ってなくて、わたしはびっくりして固まってしまう。じわりと目に熱が込み上げるのを、なんとか笑ってやり過ごした。

 

 

 この時、A組のみんなの方では大変なことが起きていた。賑やかで平和な街の裏で大きな闇が蠢いていることを、それが間もなく牙を剥こうとしていることを、この時のわたしは知る由もない。

 でもいつか、どうしようもなく辛くて苦しくて悲しくなっても、この時の記憶はきっと忘れない。この瞬間に感じた“しあわせ”は、決して消せやしないのだ。

 

 

45.少女、買い物に行く。

 

 


 

 「どんでん返しだああああ!!!」の上鳴くんの顔がすごい好きなんですけど、作者の語彙力ではヒョッーーとしか表せませんでした。

 あと目良さんとのショッピングが書けて個人的に大満足なんですが、これ自分の他に需要があるのか……?は毎回思います。こんな風に趣味に突っ走るSSですが、お付き合いいただければ嬉しいです。

 

 【早く神野編を書きたい自分】を【今後のあれこれのためにI・アイランドに行っておきたい自分】が殴り倒したので、次回からは二人の英雄編です。



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2人の英雄編
46.少女、飛行機に乗って。


 

 壁に映るポインタを追って羽根を飛ばす。上下左右不規則に動く的は、ふと瞬きをするだけで見失ってしまいそうだ。……でもそれだけに集中してはいられない。部屋の四方、それぞれ上下に二つ、計八つの装置。そこからわたしを狙って射出されるボールを避けたりいなしたりしなければならない。

 右後ろ、ボール、もっと高く飛んで避ける。的は、左方。まだ追える。ひゅんと風を切る音を羽根が拾った。後ろから、左右同時に迫るボールは避けきれない、羽根でくるんでガード!

 

「よし、……!」

 

 上手くできた、と息つく間もない。次いで飛んできたボールを飛んで回避、移動した先に待ち構えていたボールは背中の羽根で受け止めようとして──そこで気づく。手持ちの羽根が、ない!

 

「……っわ!」

 

 左肩をしたたかに打たれて、飛行姿勢が崩れる。痛みと衝撃に一瞬思考と身体が硬直した。その隙を逃さないとばかりに、鳩尾、右足、胸元、立て続けにボールを喰らってしまう。そして最後に側頭部に一撃。くらりと目眩がして、羽根の制動権を失って、落ちる。……最後の意地で崩れ落ちることなく着地したけれど、それが限界だった。へたりと片膝をついてしまう。

 

「そこまで」

「……あ、ありがとうございました……」

 

 静かな制止の声とともに、装置の電源が切れる。スーツ姿にサングラスを掛けたその男性は、ここ公安に所属している職員さんの1人。わたしに訓練をつけてくださっている1人だ。

 彼は訓練中にさまざまなメモを取っていたのだろう、バインダーに挟んだ資料をめくりながら話し始める。

 

「3ヶ月前より複数枚の羽根をそれぞれ自在に操れるようになっている。羽根を使った移動、防御、攻撃、感知……精度も上がっている。後は放った羽根の回収を怠りなくするべき、だが……」

 

 サングラス越しの目がこちらを向く。わたしはずきずきと痛む頭を押さえながら、その眼差しを受け止めた。

 

「……それ以前に、その頭痛をどうにかするべきか」

「……は、い……」

 

 そう、わたしにも成長したところはある。けれど当然課題も山盛りだ。その課題のひとつに【複数枚の羽根を動かす並行処理に頭が追いつかなくなり、頭痛を起こすこと】が挙げられる。まるで処理落ちするコンピューターみたいに、脳が軋み、ついにはブラックアウトしてしまう。最近は意識を失うまでいかないけれど、脳の痛みもあってパフォーマンスが低下してしまうという弱点があった。

 夏休みに入ってからというもの、この公安のビルで訓練を受け続ける日々を送っているわたしだけれど、いつもこの痛みで躓いてしまっていた。

 

「特に強い頭痛が発生するのは、どんな時?」

「……羽根の振動を感知する時です。小さな音を感じ取ろうとすると、その分意識を集中させなければいけないので」

 

 少し考えてから答えると、職員さんはふむ、と思案の息をつき、何事かを書類に書き込んだ。そうして幾つかの書類を見比べている。とん、とん、と手にしたボールペンがなぞるように記述を叩いた。

 

「頭痛軽減の術を探るためにも……そろそろ君の“個性”の状態も検査しなくてはいけないだろうな。前回のメディカルチェックから間も空いているだろう」

「そう……ですね」

 

 最後に検査を受けたのはいつだっただろうか、と考えなくてはいけないくらいには、その記憶は遠かった。口許に手を当てて、視線を落とし、思考に沈む。

 だからか、部屋にその人(・・・)が入ってくるのに気付くのが遅れた。

 

「そういうことなら、うってつけの話がありますよ」

 

「……!  ホークス!」

 

 呼び掛けると、ホークスはへらりと笑って応えた。久しぶりだね、と軽やかに手を振りながら、こちらに歩み寄ってくる。

 

「ホークス、あの、“うってつけの話”って……」

「おまえのメディカルチェックと、頭痛の軽減。どっちもできるところがあるんだよね」

 

 にんまりと笑みを深めて、ホークスは続ける。

 

「I・アイランド。知ってるでしょ?」

 

 “I・アイランド”──その単語にわたしは目を丸くした。知ってるも何も、そこは今何かと話題になっている場所だ。

 

「確かもうすぐ、いろんな研究成果の発表の場としてI・エキスポが開催されるんだよね?」

「そ。そこに公安部が懇意にしてる科学者がいるんだけど、そのI・エキスポの準備で島を離れられないんだってさ。『おまえらが出向くなら診てやってもいい!』……なーんて言われちゃったんだって」

「……それ本当に診てくれるのかな……?」

 

 なんか声真似がやたらドスの効いた声だったのだけれど、と心配になってしまうわたしに、ホークスは大丈夫大丈夫!と至って軽やかに笑ってみせる。

 

「ホークス、君がスポンサードしてる企業から招待を受けているのは聞いていたが、……彼女も連れていくのか」

「ええ。招待券には【同伴者を2名まで連れて来てもいい】ってあるので。ちょうどいいでしょ? 端から見れば【プロヒーローとその事務所に職場体験に来た将来有望なヒーローの卵】って感じで」

 

 わたしに向けるその笑顔とは、少し色を変えて、ホークスは職員さんを見据える。

 

「こういう時に変な勘繰りをさせないための、“指名”──ですよね?」

 

 声は、穏やかだ。……それなのにどうしてこんなに、有無を言わせないような響きがあるのだろう。

 

「……このことを会長は?」

「知っていますよ。さっき許可も取ってきました」

「なるほど。相変わらず行動が速い」

「それが俺の取り柄なんで!」

 

 ホークスがにぱっと明るく笑う頃には、固い雰囲気は霧散していた。職員さんはひとつ頷き、部屋を出ていく。思わず肩の力が抜けて、深く息をしたわたしに、ホークスは向き直った。

 

「おまえもね、見たことは無いけど会ったことあるんだよ」

「? その、さっき言ってた科学者さん?」

「うん。昔メディカルチェックのためにこのビルに来てたドクター、覚えてる?」

「……確かに顔は見てないけど、……その人が?」

「そ、」

 

 ホークスは目を細めた。

 静かに、優しく、……どこか翳りを滲ませて。

 

「……おまえの“個性”についても、よく知ってる人だ」

 

 

 そんな話をしたのが3日前。それからあれよあれよという間に、わたしは空の上にいた。空の上──飛行機の中に。

 

 

「では(ホークス)は懇意にしているスポンサーから招かれたと」

「そういうこと。ま、ヒーローってのは人気商売なとこあるからね。愛想よくしてなきゃならない時もあるんだよ」

「そんな身も蓋もない言い方……」

 

 企業に用意してもらったというプライベートジェットの中で、わたしはホークス、常闇くんといつものように会話していた。……今でこそ“いつものように”だなんて言えるけど、わたしも常闇くんも、ここに足を踏み入れたばかりの時は緊張でカチコチだった。

 プライベートジェット、と聞くだけで気後れしてしまっていたのに、実際に乗ったそこはまさに“別格”──もはや“別世界”と言っていいところだったのだ。机やキャビネットなどの家具はダークウッドの木目調で統一されていて、ぴかぴかに磨かれていた。オフホワイトの座席は上質なレザーで出来ているそうで、これだけ座っていても疲れが全くやってこない。足を伸ばしてゆったり座れるスペースがあるのは勿論、後方にはトイレだけでなくシャワールームまで完備されていた。

 そんな中でホークスは緊張なんて欠片もなく、慣れたように備え付けの冷蔵庫から高そうなジュースを持ってきてくれたけれど、わたしはグラスを持つ手さえ震えてしまった。……それを見たホークスがおかしそうに笑っていたのは、うん、もう忘れたい……。

 

「フム……No.3の肩書きは重いのだな」

「重いっていうかねー……まァ俺に限らず、ヒーローには色々とあるもんだよ」

「そういうものか」

 

 ホークスに届いたI・アイランドへの招待券。同伴者は2名までということで、常闇くんも一緒に来てくれることになった。今は好物だという林檎のジュースを口に運びながら、ホークスの話に真剣な顔で相槌を打っている。

 

「ホークス、貴方が招待されたということは、他にも多くのヒーローが来ているということだろうか」

「そうだと思うよ。I・アイランドの科学者たちの発明にお世話になってるヒーローは多いからね」

 

 俺も含めて、と顔を上げたホークスは、その目をイタズラっぽく閃かせた。

 

「さてここで問題。“I・アイランドの成り立ちや特徴を答えよ”」

「えっ? えっ、と、」

 

 まるで学校の教師然とした声を作って、彼はわたしに問い掛けた。びっくりして吃りながらも、わたしは出発前に目を通してきた情報を諳じる。

 

「I・アイランドは……世界中のヒーロー関連企業が出資して、“個性”の研究や、ヒーローアイテムの発明等を行うために作られた学術研究都市です。この島が移動可能な人工島になっているのは、研究成果や発明品を狙う(ヴィラン)から科学者たちを守るためで……島の警備システムは、(ヴィラン)犯罪者特殊収監施設タルタロスに相当する能力を備えている。……ですよね」

「その警備の強固さから、今まで(ヴィラン)による犯罪は一度も起こっていないと聞き及んでいる」

 

「正解! さすが2人とも、よく勉強してるね」

 

 ぱちぱちと小さく拍手しながら、ホークスは目を細めた。その藤黄色の目に、面白げな光を湛えて。

 

「君らにとって、きっと得るものが多い旅になると思うよ。なんせ世界中の技術の粋を集めた場所だ。頭がメチャクチャおかし、……良い人たちが研究に研究を重ねているからね」

「今“頭おかしい”って言いませんでした?」

「あっはっは」

「……露骨に笑って誤魔化すのは如何なものか」

「本当に! もう、それで誤魔化せると思ったら大まちが、」

 

 常闇くんに続いて言い募ろうとして、やめた。機内にアナウンスを告げるチャイムが鳴り響いたからだ。

 

『本日は当機をご利用頂きありがとうございます。大変長らくお待たせ致しました。当機は間もなくI・アイランドへの着陸態勢に入ります』

「さて、ようやくか」

 

 んーっ、と伸びをして、ホークスは笑う。

 

「I・アイランドは“個性”を研究する大機関。日本と違って“個性”の使用は自由だから、ヒーローコスチュームで行動するのが普通なんだって。常闇くんや空中(そらなか)さんも、学校に申請して持ってきてるでしょ? 順番に着替えておいで」

「はい、……常闇くん、お先にどうぞ」

「ム? そうか、では先に失礼する」

 

 スーツケースを手にバスルームの方へ歩いていく常闇くんを見送って、わたしは窓の外を見下ろした。遠目にぼんやりと見えてきた島が、件のI・アイランドなのだろう。真っ青な空や海は眩しく、快晴に恵まれているというのに、……わたしの心は曇っていた。

 

「心配いらないよ、愛依(あい)

 

 ……そんなわたしの思いを、いつだって、この人は見透かしてくる。

 

「信頼の置ける科学者でありドクターだ。彼はおまえに危害を加えるような人じゃないよ」

「それは、わかってるよ」

「じゃああれだ、……“個性”の変化が気になる?」

「……、……うん」

 

 頷くと同時に、視線が落ちる。気付かない間に掴んでいたスカートはぐしゃぐしゃだ。その皺は、まるで今のわたしみたい。感情がぐちゃぐちゃになっている、わたしの中身みたい。

 

 だって、だってわたしの“個性”が、もし──

 

「大丈夫」

 

 ぎゅっと目を瞑ったわたしの頭上に、

 その声が、まるで羽根のようにふわりと落ちてきた。

 

「大丈夫だよ、……ちゃんと、傍にいる」

 

 ……ああ、きっと、ホークスは知らないんだろうな。

 わたしがどれだけ、あなたに救われているか。

 

「……嬉しそうな顔しちゃって、まあ」

 

 わたしを見て、ホークスは苦笑を浮かべた。仕方ないなあ、と言いたげな目で。声で。

 

「俺が言うのもなんだけど、悪い人に騙されちゃ駄目だよ」

「そっ、そんなのわかってるよ、子どもじゃないもの」

 

 また子ども扱いして、と眉が吊り上げる。わたしが何もわかっていない、何も考えていない子どもだと思ってるなら、それは大間違いなんだから。

 

「わたしだって、……信じていい人とそうじゃない人の違いぐらい、わかるよ」

 

 わたしはこれを言った時、何だか気恥ずかしくてそっぽを向いていた。だから知らなかった。知る由もなかった。

 

「…………、」

 

 ホークスが息を飲んで、目を見開いて、

 

「……ほんと、馬鹿だなぁ」

 

 そうして浮かべた表情が、どんなものだったかなんて。

 

 

 

 

 飛行機から空港に降り立ったわたしたちは、水平型エスカレーターに乗って入国審査を受けた。ただ乗っているだけで空中モニターに健康チェックや個人情報のスキャン映し出される。さすがのハイテクさに感心している──暇もなかった。それから数分後、……時間としては短いものの、空港を出たわたしと常闇くんはげんなりと項垂れてしまっていた。

 

「いやあごめんね? 俺、腐ってもNo.3だからさ」

「……重々、身に染みた……」

「右に同じく……」

 

 No.3ヒーロー、【速すぎる男】……そう呼ばれる彼の人気を侮っていたのかもしれない。もちろん職場体験で見たように、ホークスが老若男女たくさんの人に愛されているということは知っていた。……知っていたけれど、その規模を、熱量を見誤っていた。

 

『I・アイランドにようこ、……っほ、ホークス!?』

『どもー、こんにちは』

『ええっ本物!? ちょ、ちょっとサインいいですか!!』

『あはは、どーぞどーぞ』

 

 ホークスが手慣れた様子でファンサを重ねるたび、歓声が更なる歓声を呼ぶ。そうしてあっという間に膨れ上がった人だかりに、わたしたちはぎゅむぎゅむ押され、まともに身動きもできずもがくしかできなかった。キリの良いところでホークスが切り上げていなければ、わたしはグロッキーになっていたに違いない……。

 ……思わず手で口を覆ったわたしの肩を宥めるように叩いて、ホークスは前方を指し示す。

 

「ごめんね空中さん。でもホラ、見てみて」

「……わあ……!」

 

 顔を上げた先には、まるで近未来のような世界が広がっていた。“個性”研究の粋を集めて建てられたパビリオンは数多く、巨大なハープを模したものや、さまざまな球体が太陽系のように連なり回転しているもの、球体のすべてが水で覆われたものなど多種多様だ。今まで見たこともないほどに不思議な、夢のような光景に、わたしの声が上擦った。隣にいる常闇くんも驚きに目を見張っている。

 

「すご……何だか、タイムスリップして未来に来たみたい」

「……さすが、世界最高峰の”個性“学術研究都市といったところか」

「スゲー!! オイフミカゲ、ソラナカ! 見てミロヨ! バイクが宙に浮イテルゼ!」

 

 常闇くんの肩口から現れた黒影(ダークシャドウ)も、まるで小さな子どもみたいにはしゃいでいる。すごいねと相槌を打ちながら、先導するホークスに続いて歩みを進めた。

 本格的なI・エキスポは明日からだけど、今日はプレオープンということで多くの人で賑わっていた。パビリオンを運営する研究者や、わたしたちのような招待客。ホークスと同じように招かれたのだろう、テレビで見るようなヒーローの姿もあった。

 さまざまなパビリオン、さまざまな人々……それらを眺めながら歩いていくと、島の中央部に聳え立つセントラルタワーが近付いてきた。この島の心臓部とも言えるその塔を──ホークスは素通りしていく。

 

「……え? あ、あの、ホークスさん」

「うん?」

「その……わたしたちは今、あなたのお知り合いの研究者さんのところへ向かっているんですよね?」

「そうだよ」

「研究室があるの、セントラルタワーじゃないんですか?」

 

 不思議に思って声を上げると、隣の常闇くんも頷いた。

 

「俺も空中と同じく疑問を抱く。著名な研究者は、あの高き塔に研究室を持つことができると聞いた。それがこの島に住まう者にとって、最高の栄誉だと」

「よく調べてるね。だけど今から訪ねる研究者は随分な偏屈さんでね。研究室の話を辞退したんだよ」

「辞退……?」

 

 ワケがわからずに?マークを塗り重ねるわたしに、そう、とホークスはおかしそうに笑う。

 

「『あいつの下で部屋もらって研究なんてできるか! 僕は1番になってここに帰って来てやる!!』……だってさ」

「それは……なんというか、」

「……癖のある御人だな」

「面白い人だよね。俺好きだよ、そういうガッツのある人」

 

 からかいの混じった軽やかな笑顔。へらりと浮かべられたその裏に、隠しきれない熱がある。

 

(……エンデヴァーさんと、重ねているのかな)

 

 ホークスのオリジン。忘れられない憧れ。彼が愚直に努力を重ねてきた姿をずっと見てきたんだと、いつだったか話してくれた。不器用だよね、と笑いながら目を細めるホークスは、まるで太陽を見つめているかのようだと、小さなわたしは思ったのだったっけ。

 知らず知らずのうちに、口許に笑みが浮かぶ。そんな風に昔のことをぼんやり思い出していたから、だから、気が付かなかった。

 

 

「人が聞いていないと思って、好き勝手話してくれるな」

 

 

 突然聞こえてきた声は、まるで氷柱のように鋭くわたしの耳を穿った。思わず肩を揺らしてしまうも、ホークスは気にした様子もない。振り返りざま、笑いながら()を見上げた。

 

「やだなぁ、こう付け加えようとしてたんですよ? 『変人で偏屈で情緒不安定だけど腕と頭は一級品』って」

「No.3ヒーロー様にそうまで褒めていただけるとは、まこと光栄の至りで」

 

 刺々しい皮肉を放つ()は、はぁ、と深い溜め息を吐いて自身の黒髪をがしがし掻いた。彼はビルの2階の窓から、こちらを胡乱げに見下ろしている。

 

「……で、ホークス。そいつらが今日の客か」

「そうですよ。ほら、自己紹介」

「雄英高校1年A組、常闇踏陰と申します」

「わ、わたしも同じく、1年A組の、空中愛依です」

 

 わたしがそう名乗った途端、男性は眼鏡越しの黒い瞳を揺らした。不機嫌そうだったそれが驚きに丸くなって、

 

「……なるほど、」

 

 それから何かを思案するように、注意深く細められた。

 

「ならば僕も名乗らねばならないな。

 僕は最上(もがみ) (かい)。ここで研究者をやっている」

 

 よろしく、と淡々と紡がれた声を聞いて、やっと思い出す。わたしは昔、この人と出会ったことがある。

 

(そうか、この人が……)

 

 公安部と懇意の科学者でありドクター。あの時、幼いわたしの“個性”を解析、分析してくれた人。

 ──わたしの“個性”を、よく知る人。

 

「……よろしく、お願いします」

 

 不安はある。それでも、ホークスが“大丈夫”と言ってくれたから。

 だからわたしは声を落ち着けて、深く頭を下げた。

 

 

46.少女、飛行機に乗って。

 

 


 

 まず始めにたくさんの評価並びにお気に入り登録、感想などなど、本当にありがとうございます。拙いSSですが、こうも書き続けていられるのは読んでくださる皆様のおかげです。本当に本当にありがとうございます!

 

 そして2人の英雄編ですが、展開に悩んで悩んでなんとまたオリキャラを出すという暴挙。オリキャラは(ポンコツ筆者が書ききれないので)なるべく出したくはなかったのですが、今後の展開を鑑みてどうしても必要だったので……悪しからず御了承いただければ嬉しいです。

 ちなみに最上ですが、名字は違うもののスピンオフ作品のヴィジランテに出てきたとある人と親戚関係にあります。またいずれほのめかしていきたいです。ヴィジランテといえば最新話に出てきた学生ミルコがメチャクチャカワイイヤッター!なので全人類読んでください(ダイマ)。



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47.少女、“個性”について。

 

 最上(もがみ)(かい)と名乗ったその男性は、わたしたちを自身の研究所に招き入れてくれた。外観は、目立った装飾もないシンプルなビル。1階部分は受付と応接間となっているらしく、わたしたちは受付のお姉さんに2階へと通された。エレベーターの扉が開いて辿り着いたそこは、壁を全て取り払った広大なワンルーム。それを埋め尽くさんばかりに敷き詰められたモニター、パソコン、それらを繋ぐ幾重ものケーブルに、何の用途かわからない機械……まさに研究所といった様相に、わたしはぽかんと口を開いた。

 

「すごい……」

「呆けるのは構わないが、ケーブルに足を取られてくれるなよ。引っこ抜かれてはかなわん」

「は、はい」

 

 視線をやらずに釘を刺しながら、最上さんはわたしたちを窓辺の休憩スペースへと案内した。それまで機械的な印象だったのが、ウッドパーテーションを境にがらりと変わる。木目調のシンプルながら品の良いローテーブルに、それを囲むように置かれたソファーはバニラに似た甘い色合い。赤や黄色、青やピンクなど、カラフルな鉢に植えられた多種多様な観葉植物は、高窓から射し込む陽光を浴びて瑞々しい緑の輝きを弾いていた。

 わたしたちにソファーを勧めて、最上さんは少しの間姿を消したかと思うと、お盆を手に戻ってきた。透明なグラスに注いだカフェオレをわたしたちの前に置いてくれる。仏頂面だけれど、恐縮するわたしに「気にするな」と、「アレルギーは無いか」と気遣ってくれた。深く頭を下げたわたしの向かいで、ホークスはありがとーございます、と笑っている。彼はちらりと研究所を見渡した。

 

「そういえば助手さんたちはみんな出払ってるんですね」

「皆I・エキスポに出展するパビリオンの準備に向かってる。大体どこの研究室も同じだろう。……本来なら僕も現地で調整してたんだがな」

「すっ、すみません、お忙しい時にお邪魔して……」

「御時間を頂き、感謝申し上げる」

 

「……おまえの弟子にしては礼儀正しいな」

「でしょー?」

 

 にんまり、とホークスは笑みを深める。そうして自身の隣に腰を下ろした最上さんを手で指し示した。

 

「んじゃ、改めて紹介するね。こちらは最上解博士。専門は“個性”の鎮静化。(ヴィラン)を収容する移動式牢(メイデン)を開発した人だよ。あのタルタロスの建築にも関わってる」

「え……!」

 

 びっくりして声を上げて、慌てて口をつぐむ。そうして彼の人を見上げた。移動式牢(メイデン)は身体を拘束するとともに“個性”の出力を弱めるという、(ヴィラン)を拘束し護送するために必要不可欠なものだ。タルタロスも、ギリシア神話にちなんだその名に恥じない堅牢さを誇る牢獄。その2つに、関わってるだなんて……。

 

(……改めて……すごい人なんだ)

 

 けれどそんな最上博士は、ホークスの紹介やわたしの驚きなんて意にも貸さず、黙々とアイスカフェオレを飲んでいる。クールな人なのかな、なんて──そう思っていたのだけど、

 

「鎮静化というと……相澤先生の【抹消】みたいなものか」

「イレイザーヘッドを知っているのか!」

「!? は、はい、」

「イレイザーヘッドは、我らの担任だが……」

「担任! そうだ彼は雄英の教師も兼任していたな……!」

 

 常闇くんの嘴から相澤先生の名前が出た途端、最上博士が目を剥いて立ち上がった。ついさっきまでの冷静さはどこへやら、興奮しきった声を弾ませて部屋を歩き回っている。

 

「彼ね、イレイザーヘッドのフォロワーなんだ」

 

 相当重度のね、とホークスが囁いた。その声は聞こえていないらしく、最上博士は足音高く歩きながら、両手を広げて叫んでいる。

 

「まったく【抹消】は素晴らしい! 多種多様な“個性”溢れるこの超人社会で、その力は真の意味で人をフラットにする!」

「フラット……?」

「そう!! 争いは同じレベルの者同士でしか発生しないとある人は言ったが、犯罪は格差によって生じる! 人脈、才覚、金銭、権力、そして何より“個性”! この世は空より高く地よりも低く、格差ばかり!」

 

 彼は吼える。世の鬱憤を晴らさんとばかりに。それからぴたりと立ち止まったかと思うと、ハッ、と鋭く息を吐いて、

 

「それが彼の前では真っ平らだ。瞬きの間とはいえ──痛快だろう?」

 

 にやりと口角を上げた。彼は間違いなく大人の男性であるのに、その笑みにはイタズラが成功した子どものような輝きがあった。こんな風に笑うんだ、とわたしが驚く暇もなく、その顔が怒りを思い出したかのように歪んだ。笑ったり怒ったり、……本当に百面相だなあ。

 

「それに引き換え……! 何でもかんでも“個性”を強化すればいいだなんてアホの考えることだ! 何故あいつはそれがわからない!」

 

「……“あいつ”って……?」

「デヴィット・シールド博士だよ。ライバル視してるんだって」

「……デヴィット・シールド博士って、あの?」

 

 “あの”と称されるほどに、彼の博士は有名人だった。

 デヴィット・シールド博士とは、ノーベル“個性”賞を受賞した“個性”研究の第一人者だ。オールマイトのアメリカ留学時代の相棒としても知られ、オールマイトの数々のコスチュームを手掛けた天才発明家。

 ……そんな人をライバル視するなんて、そういった意味でもすごい人なんだなあと視線を送る。最上博士は苛立ちのままに部屋を一周してからこちらに戻ってきた。ソファーにドカッと腰を下ろして、深く長く、息を吐く。

 

「はーーーーーー……すまんな。些か熱くなった」

「「些か」」

 

 ……本当に“些か”だったかな、と思ったのは常闇くんもだったようで、思わず呟いた声が重なった。ホークスはおかしそうに笑って、それを最上博士は煩わしそうに小突いている。そうして彼は咳払いをした後に口を開いた。

 

「さて、本題に入るぞ。おまえたちは何しにここへ?」

 

 眼鏡越しの瞳に問われて、わたしたちは姿勢を正した。ここに来た最大の目的に眉目を引き締める。

 わたしと常闇くん、梅雨ちゃんは期末の演習試験後、反省会を行った。オールマイトという大きすぎる壁を前にした自分の強み、弱み、どうすれば克服して強くなれるのか。さまざまなことを話し合って、見えてきたものがある。

 

「わたしは……、【翼】を使って1枚1枚の羽根を操ることができますが、それが大量になると並行処理に頭が追いつかず、頭痛を引き起こしてしまいます。それを何とかしたい、です」

 

 わたしの場合、もっと【翼】を自在に操れるようになれば攻防ともに隙が無くなるはず。それは公安での訓練でも露呈した、わたしの課題。弱さ。

 

「……なるほど」

 

 最上博士は何かを考え込むかのように目を伏せて、それから顔を上げた。視線で“次”を促された常闇くんは頷き、ハキハキと話し始める。

 

「俺の“個性”は【黒影(ダークシャドウ)】。今、この光の下ではこの様態だが、闇の下では獰猛になる。パワーもスピードも強大になりはするが、俺の制御を離れ暴走するおそれがある」

 

 彼の赤い目が黒影(ダークシャドウ)を見て少し細められた。……職場体験の、あの倉庫でのことを思い出していたのだろうかと、わたしは彼の横顔を見上げる。

 けれどそんな心配など無用だった。彼の目に浮かんだ僅かな翳りは、すぐに意志の強さで吹き飛ばされた。

 

「しかし闇とは己が糧。我が力。獰猛な黒影(半身)をも受け入れてこそ、俺は強くなれるだろう。

 そのために、サポートアイテムで“光”と“闇”を自在に操れないか、その知恵を、術を、貴殿に求めたい」

 

 彼はもう迷わない。迷わず上を目指すと決めている。

 環境に左右されがちな黒影(ダークシャドウ)の力をいつでもどこでも最大限に発揮するため、導き出された答えがそれだった。光と闇を操るだなんて、わたしたちにはどうしていいか考えすら浮かばない。それでもこのI・アイランドで研究を重ねている優秀な研究者ならばと、常闇くんは強い眼差しで博士を見据えた。

 そんな博士はというと──さすがに虚を突かれたのか、目を真ん丸に見開いて硬直していた。ぽかんと開いた口がしばらくして、……にやりと笑みの形をつくる。

 

「常闇とやら、おまえは太陽に喧嘩を売る気なのか?」

「それが必要であるならば」

「……面白い!」

 

 彼はローテーブルに置かれていたI・エキスポのパンフレットに何事か書き込んだ。幾つかの○を描かれたそれを、常闇くんに渡す。

 

「印を付けた場所が僕の研究所が開催しているパビリオンだ。僕たちが開発したサポートアイテムが展示されている。まずはそこで、おまえの願いに流用できそうなアイテムを見繕え。

 自分の現在の戦闘スタイル、目指すべき戦闘スタイル……さまざまを考慮して選べよ」

「御意」

「ホークス、おまえも師匠ならアドバイスぐらいしろ」

「了解でーす」

 

 常闇くんが固く、ホークスが柔く頷く。そんな2人をそれぞれ見てから、最上博士はわたしを見た。黒い目が、すうっと細められる。

 

空中(そらなか)、おまえはまず“個性”が身体に及ぼす影響を知ることからだ。これからメディカルチェックを受けてもらう」

「! ……はい」

 

 そうか、こういう流れならメディカルチェックも不自然じゃない。感心するとともに、わたしの胸の奥底で不安が顔を覗かせる。……その小さな靄を振り払うように、わたしは胸元を握り締めた。大丈夫、大丈夫、……だって、

 

(ホークスは、“傍にいる”って言ってくれた)

 

 そっと視線を向けると、……わたしがそうするのをわかっていたかのように、ホークスの微笑みが待っていた。彼は明るく笑う。『何でもないよ』『何ともないよ』と、そう告げるみたいに。

 

「じゃあ、また後でね」

「ああ、空中。後ほど」

 

 “またね”は、最後の言葉じゃない。当たり前のように“次”を信じる言葉だ。ホークスも常闇くんも、当たり前のように口にする。

 

「……うん。また」

 

 だからわたしも同じように信じたくて、彼らみたいに笑って、そう口にした。

 

 

 

 

「雄英高校に通っていたんだな」

「はい。……あの、“お久しぶり”、なんですよね?」

「そうだ」

 

 研究フロアの1階上には、診察室と銘打たれた部屋があった。奥に置かれた巨大なベッドには、半透明の殻のような形状の機械が連結されている。わたしが指示された通りインナー姿になってそこに横たわると、その機械がわたしの身体を覆った。

 

「今まで何回か検査を行ってきたが、僕はあのビルに赴いてもおまえに会ってはなかったからな。“個性”について問答の必要がある場合は会話もしたが、覚えているか?」

「……はい」

 

 ドクターからの問答に答える時は、わたしは部屋に1人で座って、スピーカーから流れる質問に対して答えて、……あれ?

 

「……その時聞こえていた声って、女性のものだったように思うんですが、」

「あれは変声機で声を変えていた。当時、“何”がおまえの“個性”の発動条件に当たるかわからなかったからな。おまえの前に姿を現さなかったのもそのためだ。

 視覚、聴覚、発言内容、名前──どれがおまえの認識に引っ掛かるか、それを探るためでもあった」

 

 ピピ、と甲高く鳴る機械音の向こうで、最上博士がそう話す。……そうだ。昔のわたしは、誰にも会えなかった(・・・・・・・・・)。面と向かってお喋りなんて、夢のまた夢で──

 

「……だってそうじゃなきゃ、わたしは……」

 

 

 わたしは、誰かの“個性”を奪ってしまう(・・・・・・・・・・・・・)

 

 

「……わたしのせいで、ご迷惑をお掛けして、すみません」

 

 笑おうとして、できなかった。いびつに歪んだそれを何とか笑みの形にして、わたしは声を繕う。

 

「以前のメディカルチェックの時、博士がわたしの“個性”の許容量を見極めて、念のためとして深く眠らせてくれたから、……だからわたし、こうして誰かと会って話すこともできますし、雄英に通うことだってできてます! 本当に、感謝しているんです。……でも、」

 

 取り繕った声が、揺れる。震える。いびつに。

 

「でも、もしこの数年の間で、気づかないうちに“個性”が強くなっていたら……」

 

 わたしが恐れているのはそれだった。もし仮定した通りに“個性”が強くなっていたとしたら、わたしは──

 

「少なくとも、学校に通うことはできないだろうな」

「……、……はい」

 

 脳裏にさまざまな人たちの姿がよぎる。お友達になりましょう、と微笑んでくれた梅雨ちゃん。こんなわたしなんかを好敵手と認めてくれた常闇くん。他にもたくさん、雄英で出会ったいろんな人たちがよぎって──消えていく。

 仕方ないことだと、諦めて目を閉じる。そのまなうらに、じわりと熱が滲んだ。

 

『僕ね、嬉しかったんですよ? ……久しぶりに会った君が、“ごめんなさい”と言わなかったこと』

 

 わたしの“個性”が、誰かの“個性”を奪うと知っても、

 

『大丈夫だよ、……ちゃんと、傍にいる』

 

 それでも傍にいると、そう言ってくれた人もいた。

 その記憶を思い出すだけで、身体の震えが止まった。冷えきった指先が、生きている熱を思い出す。

 

「……覚悟は、しています」

 

 雄英に通えなくなると思ったら、悲しいし、寂しい。……それでもきっと、あの人たちがいるなら、生きていける。

 ぎゅっと拳を握り締めて、わたしは診察結果(判決)を待った。それは何分か、何十分だったのか。よくわからなくなるほどに長く感じた。わたしを取り巻く機械音、キーボードのタップ音……それがやんで、沈黙を貫いていた最上博士が口を開く。

 

「診察の結果……おまえの“個性”数値に変動は無い。であるからして、おまえの言う“個性”の強化並びに許容量に変化は無い」

「! そうなんですね……!」

「話を早合点で完結させるな。まずは聞け」

「はっ、はい、すみません……」

 

 喜びに声が上擦るも、すぐに冷や水を浴びせられる。そんなわたしに小さく溜め息をついて、彼は話を再開させる。

 

「おまえが本来持つ“個性”に変動は無いが、おまえが取り込んだ“個性”はそれぞれの数値が高くなっている。

 おまえの本来の“個性”が器だとすると、取り込んだ“個性”は水……それが溢れそうになっていて、器が、身体が悲鳴を上げているんだ」

 

 彼はそう言って、3本の指を立てた。 

 

「おまえが取り込んだ“個性”は3つ。【自己再生】に、【譲渡】、そして【翼】」

 

 そのうち2つの指を揺らして、最上博士は目をすがめる。

 

「おまえの治癒のメカニズムは、【自己再生】で高めた治癒力を他人に【譲渡】している。これはわかるな?」

「は、い」

「それら2つの“個性”を同時に使っていても然程身体に負担が掛からない反面、【翼】の“個性”で頭痛を引き起こすのは何故か。……わかるか?」

 

 問い掛けられて、わたしは息を飲んだ。

 【自己再生】・【譲渡】と、【翼】。それらの“個性”の違いを考えて、……考えるまでもなく、すぐにわかった。

 

「……【自己再生】と【譲渡】の時、わたしは、あの人たちの“個性”を奪いました。でも【翼】の……ホークスの時は、わたしは奪わなかった。彼の“個性”を、コピーするに留まった」

 

 そう答えるわたしに、博士は頷いた。僕もそう考えている、と同意を口にしながら。

 

「おまえの“個性”は、取り込んだ“個性”因子に合わせておまえの身体を創り変える(・・・・・)。だが……ホークスが異形型の“個性”だったからか、あいつの“個性”因子をそのまま奪い、取り込むことはできなかった」

「それは、異形型の“個性”だからですか?」

「……、わからん。ただ、おまえも知っているだろう? 異形型の“個性”因子は身体に密接に結び付いている。だからかつてのおまえも身体を創り変える時、痛みに苦しんだ」

 

 ……そうだ。わたしがホークスの“個性”をコピーした時、わたしの背中に【翼】が生えた時、わたしは何日もの間ベッドから起き上がれなかった。背中の皮膚が破れ、中から翼が突き出てきて、神経が千切れ、新しく繋がれて……痛くて苦しくて仕方なかった。

 

「“個性”因子を取り込めなかったから、無理に“個性”を再現しようとして……身体が悲鳴を上げている」

 

 今のわたしの頭痛の原因は、そうなのだろう。それがわかって、……かえって安堵の気持ちが沸いてしまう。

 

「わたしがホークスの“個性”を根こそぎ奪わなかったから、この痛みがあるのなら……わたしはこれでいいです。……ううん、これがいい」

 

 だってこの痛みは、あの人の翼を奪わずに済んだ証。

 

「あの人が飛べなくなるくらいなら、……わたしはずっと、苦しいままでいい」

 

 知らず知らずのうちに、唇に笑みが灯る。

 そんなわたしを博士はじっと見つめて、──頭を叩いた。

 

「いっ……!? な、何をなさるんですか……!」

「やかましい! このアホめが!」

「あ、アホって……!」

「どうしようもない現状に、“仕方ない”と肩を落として諦める! これをアホと言わずに何という?」

 

 彼の不機嫌そうに細められた目が、ゆっくりと弧を描く。

 

「どうしようもない現状? 上等じゃないか。

 それを覆し、第3の解決策を拓くのが──研究者だ」

 

 獰猛といっていいほどの、強い笑み。それは自分の積み上げてきた技術、研鑽、それによる確かな実績から来ているのだろう。強かな自信は、わたしの不安をほどいていく。

 

「おまえの【翼】を用いる上で生じる身体への負担を軽減する、その術は既に思い付いている」

「え……! そ、そうなんですか……!」

「当たり前だ! ……あのホークスのことだ、それを見越しておまえをここにやったのだろう」

 

 あいつは嫌になるぐらい聡いからな、と憎まれ口を叩きながら、博士はぶっきらぼうに言った。

 

「だからおまえは、何も心配することはない」

 

 こちらに視線をやることはないけれど、特に柔らかな声色というわけではないけれど、……それでも、その言葉はどこまでも優しい。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 わたしは本当に、出会う人たちに恵まれてるなあと。

 そう実感して、微笑んだ。

 

 

 

 

 あれから、念のためとして改めて“個性”を深く眠らせてもらい、その処置を終えて診察室を出ると、外はもう夕闇迫る空模様だった。

 

(ホークスは……もう、出掛けたかな)

 

 夜には明日からのI・エキスポ開催を記念してレセプションパーティが開かれると言っていた。それに参加しなくちゃいけないのだと、げんなりした顔をしていたのを思い出す。接待は嫌いだ嫌だと、ちょっとした子どもみたいに駄々を捏ねていたなあと、口許が緩む。

 

「遅くなって悪かったな」

「え、いえ、そんな! こちらこそすみません、お手数お掛けして……」

「おまえが謝る必要はない。……ん?」

 

 研究フロアに戻ってきた最上博士は、部屋の灯りがついていることに気づき、目を瞬かせた。

 

「なんだおまえ、ここにいたのか」

「え、……!」

 

 昼間に話をした窓辺の休憩スペース。そこに、常闇くんが座っていた。彼はこちらに気づき、顔を上げる。

 

「常闇くん!」

「空中、メディカルチェックは終わったのか」

「うん、今。……常闇くん、ホークスとパーティに行かなかったの?」

 

 確かホークスは、常闇くんに礼装を用意していたはずだ。一緒に出席して、いろんな研究者やヒーローに話を聞けるチャンスだったのに……。

 

「あのような場は、いずれ俺がヒーローとして招かれて行くべきだと判断したまでだ」

 

 わたしの問い掛けにクールに返した常闇くん。その肩口から、ひょこっと影が覗く。

 

「フミカゲ言ってタ! 『ソラナカを待っテル』ッテ! 『置イテ行クノハ嫌ダ』ッテ!」

「……え?」

「っおい、黒影(ダークシャドウ)、」

「ホラ見ろヨソラナカ! リンゴ飴! デケー! ツヤツヤ!」

 

 常闇くんの制止も何のその、黒影(ダークシャドウ)は大きなリンゴ飴を手にご満悦だ。彼がはしゃいでいる傍ら、常闇くんは顔を手で覆って項垂れている。

 

「……常闇くん、待ってて、くれたの?」

「……、……まあ、なんだ。エキスポ開催に合わせて、さまざまな屋台が出ていたのでな」

 

 そっぽを向く彼が照れているのだということは、もう、わたしにもわかる。それだけの時間を一緒に過ごした。

 

「ありがとう、……嬉しい、本当に」

 

 友達がいてくれること。普通に顔を見合わせて、話ができて、笑い合える。この“当たり前”が“当たり前”じゃないことを、わたしはよく知っている。

 

「お、このケバブ旨いんだよな」

「よろしければ是非、ご一緒しましょう」

「助かる。もう腹と背中がくっつきそうだ」

「ふふ、わたしも」

 

 ローテーブルの上には、所狭しと世界中のさまざまな料理が並んでいる。博士が旨いと言ったケバブをはじめに、焼きそばやたこ焼き、ホットドッグや大きなバーガー、カップに入っているのはベトナムのフォーだろうか。ふわりといい匂いが漂って、胃がきゅうっと空腹を思い出す。

 みんなでわいわいしながら、さあ食べよう!と大口を開けてトルティーヤにかぶりついた。──その時。

 

 

『I・アイランド管理システムより、お知らせします。警備システムが、I・エキスポ会場内に爆発物が仕掛けられたという確定情報を入手。I・アイランドは現時刻をもって厳戒モードに移行します』

 

 固い機械音声で告げられた情報に、わたしは身体を固くした。え、と目を見開くわたしとは対照的に、博士は目を睨むように細める。

 

『今から十分以降の外出者は、警告なく身柄を拘束します。また、主な施設は警備システムによって強制的に封鎖します』

 

 状況が把握できないまま、事態は進んでいく。I・アイランドのセキュリティはさすがの一言で、瞬く間に警備システムが展開されていった。……それなのに、この胸に残る不安は何だろう。

 

(何が、起きている……?)

 

 研究所の外から聞こえる人々のざわめき。目の前に座る最上博士の固い表情。……どうしても拭えない不安に、わたしは胸元を握り締めた。

 

 

47.少女、“個性”について。

 

 


 

 どうしても事件勃発まで詰め込みたかったので、こんな長さになってしまいました。読みづらくてすみません!それでも読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

 今回はオリ主の“個性”を少しだけ明かしてみました。【翼】がホークスのものと性質は同じで、しかしスペックが下回るのはこれが理由です。“個性”の名称や詳細については、また神野編でということで。

 

 2人の雄英編、これまでほとんどオリジナル回でしたが、次は本編に少しだけ介入していきます!どうぞ次回も読んでいただければ嬉しいです。



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48.少女、乗り込む。

 

「──おかしい」

 

 緊急事態を知らせるサイレン。道という道を埋めつくすかのように展開する警備ロボの駆動音。戸惑いにざわめく人々の声。それらを背景に、最上(もがみ)博士は唸った。眉間の皺が深く刻まれている。

 

「博士? おかしいって何が、」

「住民や観光客を建物内に押し込め、外出者は警告なしに身柄を拘束する──これはこのI・アイランドにおける最高厳戒モードだ。たかが爆弾が設置されただけで移行されるわけがない」

「……爆弾が設置されたって、“たかが”で済む話じゃないと思うんですけど」

「ここをどこだと思ってる? ありとあらゆる“個性”の研究・サポートアイテムの発明を行う学術研究都市だぞ。爆発なんぞ日常茶飯事に決まってるだろうが」

「決まってるのだろうか……?」

 

 わたしと常闇くんはピンと来ないけれど、ここに住んでる博士が言うのだから間違いではないのだろう。

 

「まあ今はI・エキスポの関係で招待客も滞在しているからな、多少お上品に振る舞いはしてるが……それでもこの警戒は度が過ぎている」

 

 この島に何より詳しいであろう彼が、おかしいと、そう断言するのだ。

 

「じゃあ、爆弾の設置ではない……もっと大変な何かが起こっているってことですか?」

「……一番可能性が高いのは、そもそもこの警備システムを乗っ取られた、ということだ」

「え……!?」

 

 その説はまさに寝耳に水だった。“何らかの事件が起きたから警備システムが過剰反応している”のではなく、“警備システムを掌握した者が厳戒モードに引き上げた”というのだから。

 ……でもそれは、単に事件が起きた以上にとんでもないことが起きているということなのではと、そう思ったのはわたしだけではなかった。常闇くんが緊張の面持ちで口を開く。

 

「博士、お待ちを。このI・アイランドの警備システムはタルタロスと同等の堅牢さを誇ると聞く。その警備を掻い潜りシステムを掌握するなぞ、ただの(ヴィラン)に出来よう筈もない」

「そうだな、ただの(ヴィラン)には不可能だろう」

「じゃあ……」

 

 システムの不具合とか、誰かの操作ミスとか、……そんな可能性を思い浮かべたわたしは根本的な考えが甘いのかもしれない。

 

「十中八九──研究者の中に、内通者がいる」

 

 そいつが(ヴィラン)を手引きしたのだろう、と淡々と語る博士に、息を飲んでしまう。

 

「そんな……だってこの島は、ヒーローや世の中のためになる研究をしている人が集まってるんじゃ、」

「僕は倫理やら道徳やらの話をしていない。現実の話をしている」

 

 最上博士は何でもないことのように、涼やかな顔だ。

 

「それに僕は研究者という職に誇りを持っているが、それをやっている人間を聖人とは考えていないからな。腹に一物抱えているやつなんて、吐いて捨てるほどいるだろうさ」

 

 涼やかな顔のまま、割り切ったことを口にする。……大人というのは、こういうものなのだろうか。“こう”でなきゃいけないのだろうか。当たり前のように隣り合う人が、次の日には裏切るかもしれないと、そう思って生きているのだろうか。

 

(……、いや違う。こんなこと考えてる暇はない)

 

 頭を振って、ネガティブばかりの考えを振り払う。今考えるべきは、(ヴィラン)が何を狙って警備システムを掌握したか、彼らが何をしようとしているのか、みんなに被害は無いのか、そして──

 

「……内通者の誰かが(ヴィラン)を手引きしたと仮定して、彼らの狙いは何なのでしょうか。研究成果や、発明品?」

「その可能性は高いな。この島にいる研究者の皆殺しを目論むなら、警備システムで警告など出すまい」

「警備システム、……その警備システムを操作できるのはどこですか?」

「セントラルタワーの最上階」

「! じゃあ……!」

 

 そして──ホークスは、無事なのか。

 

「じゃあ(ヴィラン)は、セントラルタワーを占拠しているってことですよね……!」

 

 行き着いた最悪の展開に、声が震えてしまう。どうしよう、どうしたらと視線を移ろわせるわたしの肩を、常闇くんが掴む。

 

「落ち着け空中(そらなか)……! 我らが(ホークス)が並みの(ヴィラン)に後れを取る筈がないだろう」

「でも! ……でもホークスさんが何ともないのなら、きっともう(ヴィラン)を制圧しているはずだよ」

 

 被害拡大を防ぐために、より多くの人を救うために、ホークスが何より速さを信条としているのは常闇くんだって知っている。わたしを宥めようとした彼の表情が、厳しくなる。

 

「それに、ホークスさんだけじゃなく他にもたくさんのヒーローがパーティに招待されているはず。その人たちがいて、……それでもまだ、警備システムは解除されてない。(ヴィラン)の手中にある」

 

 わたしが重ねて言えば、最上博士が口許を手で覆い目を伏せながら、それを補足する。

 

「……招待客の中には、オールマイトもいたはずだ」

「オールマイトが……!?」

「……じゃあやっぱり、彼らに何かあったんだ……!」

 

 ホークスとオールマイトが揃ってセントラルタワー(現場)にいながら、(ヴィラン)を野放しにしておくわけがない。きっと何らかの理由で──人質か拘束か──身動きできないでいる!

 それがわかっていて、じっとなんかしていられない。わたしは立ち上がってこの場を後にしようとして──

 

「どこへ行く」

 

 背中に鋭く声を投げ掛けられて、振り返ることなく、立ち止まった。

 

「……セントラルタワーの、最上階に」

「無謀だな。オールマイトすら敵わなかった(ヴィラン)を相手に、所詮アカデミー生でしかないおまえに何ができる?」

「……確かにヒーローではないわたしに、戦闘は許可されていません。ですが(ヴィラン)があのオールマイトを……ホークスを真正面から制したとは思えない」

 

 わたしには(ヴィラン)と戦う力も権利もない。そんなわたしが行ったところでできることはほとんどないだろう。わかっている、……それでも!

 

(それでも、できることはゼロじゃない……!)

 

 わたしは振り返り、最上博士を見つめ返した。虚勢でもいい。怯えず、真っ直ぐ、背筋を伸ばして。

 

「ですからわたしも、(ヴィラン)の隙を突いて、不意を打って──彼らが自由に動けるよう、枷を取り除きます!」

 

 枷さえ無ければ、ホークスはどこへだって飛んでいける。

 わたしのやるべきことは、その羽ばたきを少しでも自由にさせること。……そのためならわたしは、何だってできる。

 

「わたしは1人でだって行きます。だから、」

「──1人ではない」

 

 決意とともに拳を握る。痛いほどに。

 けれどその手にもうひとつの手が重なった。宥めるように、同意するように、……“傍にいる”と、伝えるように。

 

「俺も共に行くぞ、空中」

「! 常闇くん……!」

「我らが空を行くは、きっとこのような時の為だろう」

「ソレニ今ハ夜ダゾ! オレラのドクダンジョーだ!!」

「……っうん!」

 

 常闇くんがフッと微笑み、黒影(ダークシャドウ)がニカッと笑う。そんな2人が一緒に行くと言ってくれて、込み上げる嬉しさに頷いた。“ありがとう”は口にしていないけれど、でも、きっと伝わっている。

 

「……はーーー……」

 

 そんなわたしたちに、最上博士は深く、長く、溜め息を吐いた。自身の黒髪をがしがしと掻いて、呟く。

 

「……【(ヴィラン)の居場所】、【打開策】、【向かうべき場所】」

 

 俯いているその黒い目が、どこか遠くの誰かを映しているかのように、ぼんやりと揺らめいた。

 

「あの人ならきっと、迷わずセントラルタワーを指差すんだろうな」

「あの人?」

「……何でもない」

 

 最上博士は首を振って、顔を上げる。目の前のわたしたちを何とも言えない渋面で見つめた後、さっと踵を返す。

 

「着いて来い。屋上のガレージに飛行移動用のモービルがある。僕はそれで行く」

「えっ?」

 

 ぽかん、と呆けている間にも、博士は早足でエレベーターへ向かう。その背中を、わたしたちは慌てて追いかけた。

 

「は、博士も着いて来てくださるんですか!? でも、」

「タワーには(ヴィラン)が待ち受けている。面と向かって争う気は無いが、貴方の身に危険が及ぶかもしれん」

「じゃあ聞くが、おまえたちに警備システムの解除ができるのか?」

「それは……」

 

 ……確かに、肝心のシステムを操作できなければ意味がない。押し黙ったわたしたちに、博士は歩き続けながら溜め息を吐いた。

 

「空中、常闇……おまえたちは無理に無謀に無鉄砲を重ねたアホだ。見るに見かねない」

 

 けれどその溜め息は、先程より柔らかく聞こえた。

 仕方ないな、と言いたげな、響き。

 

「だが、……裏切り者や(ヴィラン)どもに、このままこの島を好きにさせておくのも癪だな」

 

 エレベーターの扉が開く。この状況を打破するべく、道が開く。その前に立った最上博士はこちらを振り向いて、

 

「馬鹿どもの鼻を明かしてやる。これは僕の、最適解(・・・)だ」

 

 ニヤリと強く、──ほんの少し悪どく──笑った。

 

 

 

 

 見た目は少し大きなオートバイといった感じで、サイドカーがついている。特徴的なのは、地上に向けて光の粒子を噴射しているホイールに、車体を覆うように展開している半透明のシールド。まるでいつか見たSF映画に出てくるような、近未来的な空飛ぶバイク。……それに乗ることになるなんて、思いもしなかった。

 

「……ほんとに空飛んでる……」

「ああ? なんだその発言は。僕の発明が疑わしいとでも?」

「いやそんなこと言ってないです……」

 

 小さく言い合うわたしたちの前を、すい、と飛行ユニットを積んだ警備ロボットが行く。思わず口を押さえるも、その飛行ユニットは目のようなカメラを巡らせて──何事もなかったかのように飛んでいった。

 

「……光学迷彩は問題なく機能しているようだな」

「防音機能もな。まあこの僕が作ったものだ! 当たり前だがな!」

「ちょっ、でもこの状況で大声出さないでください……!」

 

 研究所を出たわたしたちが見たのは、今や警備ロボが跋扈する街と成り果てたI・アイランドの姿だった。警告に従って人々はみんな建物内に避難しているのだろう。カメラを巡らし、センサーを照らして回るロボの群れの他には、ひとっこひとり見当たらない。

 この無数に蠢くロボに見つかってはいけない。捕まってはいけない。そんな緊張感を持っているのはわたしだけなのか、博士は喜び勇んで声をあげている。もう、と漏らした溜め息は強い夜風にさらわれていった。顔を前方に向けると、それはもう間近に迫っていて。

 

「! これが、セントラルタワー……」

 

 目の前に聳え立つセントラルタワー、その大きさに小さく息を飲む。世界中の知識技術の粋を集めて造られた塔は、普段はガラス張りだったはずだけれど、今はその全てに頑丈そうなシャッターが下ろされている。

 ……確かセントラルタワーは、タルタロス並みの強固さを誇ってるんだっ、け?

 

「……あの塔に、そもそもわたしたち入れるんでしょうか……?」

「おまえそれ考えてなかったのか」

 

 わたしを呆れたように見てから、最上博士はモービルを操縦してタワー周りを旋回し始めた。シャッターに閉ざされ、沈黙を守っているセントラルタワーを見下ろしながら。

 

「I・アイランドの心臓ともいえるセントラルタワーは、この島において最も重要な施設だ。最上部には警備システムを司るシステムルームに加え、世に出すことができない発明品や研究成果を保護する保管室もある」

「……じゃあ、(ヴィラン)はそれを狙って……」

「間違いなくそうだろう。……まったく、だから重要な施設をひとまとめにするのは愚策中の愚策と言ったんだ!」

「わわっ、だから声……!」

 

 諌めるも博士は聞く耳を持たない。何かを、“誰か”を睨み付けるように、鋭く目を細める。

 

「……僕はかつて、重要施設がセントラルタワーに集中することへの危険性を説き、新たに都市建設計画を立案、提案した。……それは諸々の関係で残念ながら、実に残念ながら叶わなかったが……折衷案ということで非常口を取り付けることに成功した」

 

 過去の無念さに歯軋りをしながらも、当時もぎ取ったのだろう功績にアレな笑みを浮かべている。……うん、本当にアレな笑顔だけれど、それは紛れもなく彼の功績だ。現に今、それがわたしたちの唯一の突破口となる。

 

「じゃあ、その非常口を使って中に入れるということなんですね」

「そうだ。今から向かうぞ」

「しかし博士、その非常口も(ヴィラン)に押さえられてはいないだろうか」

「ふむ。……まあ、そうだな。可能性はゼロではない」

 

 常闇くんが危惧を口にすると、博士は懐からカードキーを取り出した。それを横目で見ながら、話し続ける。

 

「この非常口の存在を知る者は、ごく僅かだ。このI・アイランドにいる研究者のほんの一握りが、このカードキーを所持し、パスコードを知っている」

「じゃあ……」

 

 じゃあ安心ですね、と言いかけて、やめた。

 今博士は、“(ヴィラン)に押さえられている可能性はゼロではない”と言ったのだ。

 

(……博士は、想定しているんだ)

 

 セントラルタワー上層部に降り立ち、隠されていたカードキーの認証装置を軽やかに操作する。現れたタッチパネルを打つ指先に淀みはない。やるべきことを迷わずやる、その背中に揺らぎはない。

 

(自分も知っている“誰か”が、(ヴィラン)を手引きした内通者かもしれないって──)

 

 ……そんなこと、あってほしくはなかった。最上博士はわたしよりずっと冷静な大人で、きっと色んな覚悟を決めている。それでも何も思わないはずがない。心が揺れないはずがないだろう。

 あってほしくない。違っていてほしい。どうか、どうかと願う気持ちが、わたしの握り拳を固くする。

 

 ──そんなわたしの願いを嘲笑うかのように、無情に、機械音声は告げた。

 

『パスコード・エラー。不正なアクセスを確認。

 入力者を侵入者と想定し、捕捉します』

 

 ビーーー!!とけたけましく鳴り響く警告音に、息を飲む。博士は数秒沈黙した後、小さく溜め息を吐いた。

 

「……、……なるほどな。僕が来るのを見越していた……」

「博士……」

 

 わたしは、博士が落ち込んでいるんじゃないかと気掛かりだった。漏れ出た吐息が悲嘆によるものなのかもしれないと、そう思っていた。……そう、過去形(・・・)だ。

 項垂れていた博士の肩が震えた。目を見開くわたしの前で彼は、……笑っている。

 

「……博士?」

「……上等だ。この程度で僕が止まると思うなよ……!」

 

 低く唸るような笑い声とともに、最上博士は顔を上げる。彼は白衣の内ポケットから端末を取り出し、カードキー認証装置に繋いで何事かを打ち出した。そのタップの鬼気迫る勢いのまま、彼は叫ぶ。

 

「僕がここを抉じ開けるまで、ロボの足留めをしておけ!」

「こっ、抉じ開けるって、……っわ!」

「簡単に宣ってくれるものだ……!」

 

 先ほどの警告音に伴い、空からロボの群れが現れた。わたしたちを捕らえようとしているのだろう、伸びてくるアームを羽根で打ち払う。それでも、次から次へとロボは無数に飛んでくるのだから、どう考えたってきりがない……!

 

「おや、できないか? ヒーロー候補生!?」

 

 ……それでも、そんな風に煽られてしまっては、わたしも常闇くんも黙っていられない。

 

「っできます!」「笑止!!」

 

 若干ヤケクソ気味に答えたわたしたちに、博士はフッと笑って端末に向き直った。ロボの方は、見ない。わたしたちに背中を預けている。……ならばわたしたちは、やるべきことをやるしかない!

 

「空中、俺と黒影(ダークシャドウ)が攻撃の主軸を担おう」

「お願い。わたしは討ち漏らしをサポートする」

 

 短い言葉で確認し合って、頷き合う。刹那、常闇くんは駆け出した。グッと強く拳を握って、大きく振るう──その動きに合わせて、彼の半身も大きく腕を薙いだ。

 

「墜とせ! 黒影(ダークシャドウ)ッ!!」

「オラァァ!!」

 

 夜空を埋め尽くさんばかりに犇めいていた飛行ロボを、夜より暗い巨大な腕が叩き落とす。その圧倒的な攻撃力に惚れ惚れしてる暇はない。視界の端に、黒影(ダークシャドウ)の手から逃れたロボを見つけた。

 

「目標捕捉、捕縛銃ノ照準ヲセット──」

「……させない!」

 

 常闇くんに向けて何かを撃ち出そうとしていたロボを、羽根の弾丸で撃ち落とす。そうして何度も何度も、押し寄せてくるロボを薙ぎ払い、撃ち、落とす。繰り返して何分経っただろうか、じわじわと頭痛の影が忍び寄ってくる頃、端末を操作していた最上博士がバッとこちらを振り向いた。

 

「解除! ──来い!」

 

 その声が聞こえた瞬間に羽根を広げた。最上博士が扉の中に駆け込んだのを確認して、常闇くんを羽根で中に運ぶ。その後ろをついて飛びながら、追い掛けてくるロボを羽根で弾いて転倒させた。わたしが扉の中に飛び込んだ瞬間、ピ、という短い音とともに扉が閉じる。突っ込んできたロボが激突したのだろう、分厚い壁越しに微かな振動が伝わってきた。

 

(……なんとか、なった……)

 

 安堵の息が掠れている。それを整わせながら、わたしは辺りを見渡した。200F、と表示されたフロアは幾つかの区画に分かれているらしい。壁に沿って歩いていると、ガラス張りになった一室に辿り着いた。

 

「ここは……」

「静かに」

 

 すっと博士が声を低めて、指を指す。その先を見て目を見開いた。──誰かが、いる。

 

「……やりましたね博士、すべて揃っています」

「ああ……ついに取り戻した。この装置と研究データだけは誰にも渡さない。……渡すものか」

 

 彼らはガラス張りになった一室──保管室とネームプレートが提げられているーーの中にいた。端末を操作した後、取り出したアタッシュケースを抱き締め、何事かを話している。

 

「プラン通りですね、(ヴィラン)たちもうまくやってるみたいです」

「ありがとう、彼らを手配してくれた君のお蔭だ……」

 

 呟きは、羽根がなくても届いていた。けれどその会話の内容に驚いて、わたしは声も無く息を詰める。

 彼らは“プラン通り”と口にした。(ヴィラン)を手配したと口にした。……そんな話をしている2人組のうち、1人は──

 

「……そんな、」

 

 わたしも知っている人だった。それぐらい著名な、偉業を成した人だった。こんな時に、こんな場所で、あんな会話をしているべき人ではなかった。

 呆然と声を失うわたしと常闇くんの隣で、深く、息を吐く音がした。

 

「……ああ……」

 

 やっぱり、と続きそうな響きだった。

 そして、それだけではない感情の渦が、そのたった一言に泥となって蟠っていた。

 

「あの、馬鹿が」

 

 どす黒い声で唸って、最上博士はふいに駆け出した。わたしたちが止める間もなく、懐から何物かを取り出す。

 

「──Freeze(動くな)!」

 

 緊迫した声が、沈黙を切り裂く。最上博士は駆け寄りざまに拳銃を突きつけ、銃口を向けられた2人の人物は固い表情で両手を挙げた。銃を境に、それぞれの視線が、絡む。

 

「まさかおまえたち相手に、これを言うことになるとはな」

「……“まさか”とは、心にも無いことを言うね、最上博士。最上部へ繋がる非常用のパスコード、変更されていたのには気付いただろう?」

「ああ。まったく、厄介なことをしてくれる」

 

 軽やかに会話を交わす2人の口許には、この場にそぐわない笑みが浮かんでいる。けれどその銃口は揺らがず、真っ直ぐに彼の人を捉えていた。

 

「何故、こんな馬鹿をしでかしたのか。……後学のため教えてくれないか? デヴィット・シールド博士」

 

 氷の声と、眼差し。それを以て最上博士は詰問した。

 それを受ける彼の博士は、“個性”研究の第一人者は、オールマイトのアメリカ留学時代の相棒は──ただ、その碧眼に暗い色を灯している。

 

 

48.少女、乗り込む。

 

 


 

 長くなりすぎて無理やり区切りました。オリ展開は何でもできて楽しいですけど描写とか展開とか考えるのが難しすぎる……よくわからない部分があれば補足しますので仰ってください。

 閲覧、評価、お気に入り登録などなど本当にありがとうございます!こんなssが続いているのは誇張なく読んでくださる皆様のおかげです。本当にありがとうございます!次回は2人の英雄編終結に向けて動きますので、また見ていただければ嬉しいです。



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49.少女、足掻く。

 

 銃を突きつける最上(もがみ)博士に、両手を上げながらそれをじっと見据えるデヴィット・シールド博士。2人の間を流れる空気は凍りつきそうなくらい冷え冷えとしていて──このままでは発砲しかねないのではと、わたしは傍らの最上博士を振り仰ぐ。

 

「博士、銃なんて……!」

「これは僕の改造した非致死性のテーザー銃だ。当たれば少々の痛みと麻痺で、身体が動かなくなるだけ」

 

 捕り物にはうってつけだと冷たい微笑のまま、デヴィット博士から視線を逸らさないまま、最上博士は続ける。

 

「しかしこの銃にも欠点があってな。撃てば麻痺で相手はしばらく話せなくなる。……裏切り者に、この馬鹿なやらかしの理由を聞かねばならんからな」

「……馬鹿なやらかし、か」

「おや、不服がおありか? デヴィット・シールド」

 

 声は静かなまま、デヴィット博士の目がぎらついたように見えた。それを受け止める最上博士からも、笑みが消え去った。

 

「……その装置、“個性”を機械的に増幅させる、だったか。そもそもの考え方がアホなのだ」

「何がアホなものですか! まだ試作段階ではあるものの、これを使えば薬品などとは違って人体に影響を与えることなく“個性”を増幅できる! それがどれだけ画期的なことか……!」

「確か助手のサム、だったか。随分ご執心のようだが、その装置がこの保管室にぶちこまれたのは何故だった?」

「それは! スポンサーによって研究が凍結されたからで、」

「違うだろう」

 

 サム、と呼ばれた人が憎々しげに捲し立てるのを、氷の声がぶったぎる。

 

「それが、“個性”社会の新たな争いの火種となるからだ」

 

 考えてもみろ、と最上博士は言う。

 あるひとりが過ぎた力を持てば、それに対抗しようと必ず別の誰かが力を求める。そうしてそれを繰り返すだけだと。

 

「そんなこともわからないほど、馬鹿になったのか? ……あんまり幻滅させてくれるなよ、デヴィット・シールド」

 

 目をすがめたのは、呆れの感情だったのだろうか。それとも嘆きか、憐憫か。そのどれもをない交ぜにしたような眼差しに、デヴィット博士の口許がきつく結ばれた。彼は少しの間俯いて、目を閉じ、また開く。

 

「確かにこれが心ない者の手に渡れば、この社会に争乱を招くのだろう。だが、そうはならない」

 

 顔を上げた彼の顔からは、悲壮な決意が見てとれた。

 

「この装置は、オールマイトに渡す。私はそのために、この騒動を起こしたんだ。──彼の力に、なるために」

 

 No.1ヒーローのために、(ヴィラン)の力を借りる?

 ……わけがわからない、馬鹿げてるといってもいい──なのに、デヴィット博士の目に揺らぎはない。心底、これ(・・)がオールマイトのためになると信じきっている。

 

「……どうして、」

 

 どうしてあなたほどの人が、これを選んだのか。選ばざるをえなかったのか。わたしはそう問い掛けようとした。

 

「……パパ……」

 

 それより先に、声がした。か細くゆらりと、震える声。

 

「メリッサ!?」

「お嬢さん、どうしてここに……!?」

 

 保管室の入り口に、1人の女性が立っていた。青を基調としたパーティドレスは、彼女の金髪がよく映えてとても似合っていたけれど、それは煤けて、破れ、ぼろぼろだった。そんな彼女の少し後ろに、これまたぼろぼろな礼服を着た……、

 

(!? 緑谷くん!?)

 

 なんでI・アイランドの、しかもこんなところに!? と思ったのは緑谷くんもだったようで、わたしや常闇くんを見て大きく目を見開いている。けれどそれも、メリッサと呼ばれた女性が話し始めたことで、ハッと視線を移した。

 

「『手配した』って何? もしかしてパパたちが、この事件を仕組んだの!? その装置を手に入れるために……!

 マイトおじさまのためって、どういうことなの!?」

 

 金髪を振り乱しながら、碧眼に涙を滲ませながら、メリッサさんはデヴィット博士を問い質す。その表情や会話内容からして、彼女は博士の娘さんなのだろう。それも相当、仲の良い。大好きな父親がこんなことをするなんて信じられない、という気持ちが、その叫びから痛いほどに伝わる。

 それを真正面から受けて、デヴィット博士の顔が悲しげに歪んだ。彼は苦汁を飲み干すかのように、ゆっくり、重い口を抉じ開ける。

 

「……お前たちは知らないだろうが、彼の“個性”は消えかかっている。だが私の装置があれば、彼の“個性”を元に戻せる……いや、それ以上の力を彼に与えることができる。

 No.1ヒーローが、平和の象徴が、再び光を取り戻すことができるんだ!!」

 

 デヴィット博士の話は、まるで現実味がなかった。だって何度もいうように、あの(・・)オールマイトだ。長年No.1に君臨し続けた、実力も人気もトップ中のトップ。ただ在るだけで犯罪を抑止できるような平和の象徴。あまりにも輝かしいヒーローのひとり。その強さは、USJでも期末試験でも目の当たりにしてきた。(ヴィラン)には畏怖を、味方には鼓舞を与えるその姿が、……“個性”が、消えかかってる……?

 

(そんなの、太陽が死にかけているのと同じことだ)

 

 もうじき太陽が潰えますと言われて、信じる人がいるだろうか。落ち着いてその事実を受け止められる人が何人いるだろう。どうしようもなくなって喚き、逃げ出したり思考を停止したりする多くの人の中で、『どうにかしなければ』と立ち上がったのが彼だったのかもしれない。

 

「頼む、オールマイトにこの装置を渡させてくれ! もう作り直している時間は無いんだ! その後でなら、私はどんな罰でも受ける覚悟を……!」

 

「……命懸けだった! みんな、命懸けだったのよ!?」

 

 必死な形相。血を吐くような叫び。懇願。

 けれどそんな父に対するメリッサさんもまた、悲しみながら、怒りながら、必死に言葉を叩きつける。

 

「捕らわれた人たちを救けようと、デクくんやクラスメイトのみんなが(ヴィラン)と戦って……! ここに来るまで、どんな目に遭ったと思ってるの!?」

 

 彼女は腕にハンカチを巻いていた。そこに滲んだ血を見て、ぼろぼろになったドレスや礼服を見て──ようやくデヴィット博士は気づいたかのように目を見開いた。そこに、はっきりと狼狽の色が見える。

 

「ど、どういうことだ……サムが雇った(ヴィラン)偽物(・・)……すべては芝居の筈で……」

 

 その時、わたしは博士の言動を注視していた。

 注視して、その他が疎かになってしまっていた。

 

「──もちろん芝居をしていたさ」

 

 だから、踏み入ってきたその音に、気づくのが遅れた。

 

偽物(・・)(ヴィラン)という、芝居をな」

 

 冷徹な、愉悦を含んだ声とともに、金属の擦れる音。それを察知して羽根を飛ばしたわたしを、鞭のように連なった金属片が拘束し、壁に叩きつける。僅かな身動ぎすら咎めるようにぎちぎちと締め上げられ、痛みに顔が歪んだ。

 

「おまえは……!」

 

 何かに気づいたらしい緑谷くんは、その口を塞ぐように金属片を押し付けられた。もごもごと声にならない声を上げる彼に、仮面を被った(ヴィラン)がちらりと視線をやる。

 

「少し大人しくしていろ。……サム、装置は?」

「ここに。研究データも入っています」

 

 緑谷くんに常闇くん、最上博士にわたしの4人は金属を操る(ヴィラン)にその身を拘束されていた。例外は愕然とするデヴィット博士とメリッサさんと、……アタッシュケースを差し出した、サムという助手。

 

「サム、まさか、はじめから(ヴィラン)に装置を渡すつもりで……私を、騙して……」

「騙したのはあなたですよ。長年あなたに仕えてきたというのに、あっさりと研究は凍結。手に入るはずだった栄誉、名声……すべてが無に帰した」

「なるほどな、馬鹿な上に下衆だったと」

「……なんとでも。せめて、金ぐらい貰わないと割に合いません」

 

 サムさんはその目に涙を溜めながらも、最上博士の罵倒に一瞬沈黙しながらも、行いを止める気は無いようだ。そうして(ヴィラン)に、アタッシュケースを渡してしまった。(ヴィラン)はその中身を満足そうに見やって、頷いて。

 

「サム、約束の謝礼だ」

 

 おもむろに、銃声が轟いた。(ヴィラン)が懐から取り出した銃によって、サムさんは肩から血を流しながら棚に倒れ込み、崩れ落ちる。

 

「ううっ! 何故……!? 約束が違う……!」

「おいおい、何を勘違いしてるんだ?」

 

 (ヴィラン)は肩を竦めて、おどけたように嗤ってみせた。

 

(ヴィラン)が約束を守るわけがないだろう?」

 

 動けないサムさんの眉間に銃の照準を合わせ、引き金を引く──その指に向かって散らしておいた羽根を射出した。ずれた銃口から放たれた銃弾が、床を抉る。

 

「……この、羽根は……」

 

 (ヴィラン)の手から離れた拳銃を羽根で遠くに弾こうとして──そうする前に、金属片の鞭によって床に叩き付けられた。わたしの羽根はダメージによって制動権を失う。ひらりと力なく地に落ちた羽根を、ぐしゃり、(ヴィラン)は踏み潰した。

 

「こんな奴も庇わなきゃならんとは、ヒーローの卵も大変だなァ」

 

 同情というよりは、呆れであり嘲笑。そして苛立ち。そんな響きを以て、(ヴィラン)がゆらりと顔を上げた。わたしを、見る。

 

「なぁ、翼のお嬢さん。まだ縛りが足りなかったか?」

「……ッぐ、う!」

 

 たたでさえきつかった金属の鞭が、より強固にわたしの身体を締め上げる。骨が軋み、内臓が圧迫されて、うまく息ができなくなる。

 

「……やめろ! その子は関係ないだろう!」

「今さらヒーロー気取りか? 無駄だ」

 

 ぼんやりと霞む視界の中で、デヴィット博士がサムさんを背に庇い、(ヴィラン)と相対しているのが見えた。そんな彼を見下ろし、蔑む。

 

「俺たちが本物だろうが偽物だろうが、あんたが犯した罪は消えない。俺たちと同類さ。あんたはもう科学者でもなく研究者でもなく、ただの(ヴィラン)。そんな今のあんたにできることは、俺の元でこの装置を量産することぐらいさ」

 

 そう言い放ちながら、デヴィット博士の元にゆっくりと足を進める(ヴィラン)。奴は父親の前に両手を広げて立ち塞がったメリッサさんを、まるで道端の小石のように蹴飛ばす。

 

「メリッサ!!」

「……ぱ、パパを、返して……!」

 

 床に倒れ伏しても、メリッサさんはなお立ち上がろうとする。親子の間で心配と親愛の視線が交わされるのを、(ヴィラン)は無感動に見下ろした。

 

「……そうだな。博士の未練は断ち切っておかないとな」

 

 まるで『ゴミが落ちていたから掃除する』というような、何でもないような声色で、(ヴィラン)は拾い上げた銃を握った。その銃口が、すっと、メリッサさんに向けられる。

 

「……や、め……」

 

 彼女が撃たれる。殺される……! 拘束を外そうともがくも、暴れれば暴れるほど金属の鞭が身体に食い込む。無理な形で縛られた翼が、みしり、ごきり、と嫌な音を立てた。

 どうしよう、どうしたら、と痛みを堪えて目を開ける。するとそこに、

 

「……ろぉ!!」

 

 ──緑の閃光が、煌めいた。

 

SMAAASH(スマァァァッシュ)!!!」

 

 咆哮とともに放たれた【超パワー】が、金属の波を打ち払う。拘束を解いた緑谷くんは高く跳躍し、その勢いのまま拳を振るった。(ヴィラン)は金属をかき集めてそれを受け止めるも、緑谷くんは諦めない。何度も、何度も、拳が激突する。そのたびに緑色のエネルギー粒子が飛び散り、煌めいた。

 

「デクくん……!」

「メリッサさん!」

 

 (ヴィラン)との激しい攻防の中、緑谷くんがメリッサさんに呼び掛ける。彼はその目で、笑った。

 

「僕、博士を救けます! だから、みんなを……!」

 

 窮地にあっても浮かぶ笑みは、誰かを鼓舞する。自分は絶対大丈夫だと、必ずやり遂げると──そのメッセージを受け止めて、メリッサさんの表情が引き締まる。

 

「ええ、──救けるわ!!」

 

 ドレススカートの裾を翻し、メリッサさんは最上部への階段を駆け上がる。それを阻止しようと追い縋る(ヴィラン)の前に、緑谷くんと黒影(ダークシャドウ)が立ち塞がった。

 

「常闇くん……!」

「緑谷、俺も助太刀する! 黒影(ダークシャドウ)ッ!」

「任せナァァァ!!」

 

 飛来する数多の金属片を、緑谷くんの拳が打ち砕き、黒影(ダークシャドウ)の鉤爪が引き裂く。それに加勢しようと翼を動かそうとするも、響く鈍痛に息を飲んだ。

 

「……っ」

「大丈夫か、空中!?」

「わたしは、平気! それより緑谷くんの援護を!」

 

 わたしと同じく拘束されたままでも、常闇くんは黒影(ダークシャドウ)を飛ばして攻撃できる。さすがだ、すごい、と。それで終わりたくなくて、考えを巡らせた。

 

(わたしも何か、できることを……!)

 

 緑谷くんの一撃によって、若干だけれど鞭の拘束は緩んだ。今なら幾つかの羽根を飛ばすことはできる。この羽根で、わたしができること──部屋の中を見渡して、ある一点で目を留める。

 

「サム、しっかりするんだ……!」

「はか、せ……」

 

 先ほど(ヴィラン)による銃弾で肩を撃ち抜かれたサムさんは、ぐったりと顔を青くしていた。撃たれたところが悪かったのか、止めどなく血を流している。傍に寄り添うデヴィット博士がハンカチで止血を試みるも、それは見るまに赤く染まっていく。

 

(サムさんは、(ヴィラン)を招き入れた、この騒動の原因ともいえる人物……)

 

 ──けれど、死んでしまっていい人なんていない。

 死んでしまっては、そこで終わりだ。何も始まらない。何もできない。罪を償うことも、やり直すことも、何もできなくなるんだから。

 だから、わたしは治す。終わらせない。

 ……誰かの未来を閉ざすのは、もう、嫌だ!

 

(……落ち着いて、集中して。いつもやってることを、同じようにやるだけ。手を介してエネルギーを【譲渡】するのを、羽根でするだけ)

 

 この【翼】はもう、わたしの一部だ。わたしの手足と一緒。身体の一部分。そう、何度も何度も心の中で唱える。

 体内で高めた【自己再生】のエネルギーを、【譲渡】で【翼】に込める。この3つの“個性”は、わたしの“個性”で取り込んだもの。わたしの“個性”で繋がっている。だからきっと、こうした使い方もできるはずだ。

 ……わたしが奪った力をこんな我が物顔で振るうなんて、いつかバチが当たるだろう。それでも、今この力を持つのはわたしだ。この力を正しく使うと、あの時決めた。決めたなら後は実行するだけ。

 

(治癒する。治す、絶対に──!)

 

 そのためにこの手が届かないのなら、羽根を飛ばそう。

 何度も、何度も。何度だって、どこにだって。

 

 そうして宙を飛んだ羽根は、ふわり、サムさんの肩に降り立った。傷口に触れた羽根に、じわりと血が滲む。その白が赤く染まるにつれて、──サムさんの銃創が、塞がっていく。

 

「これは……!」

「……! できた……!」

 

 傷痕が塞がったサムさんの顔色が、ゆっくりと血色を取り戻すのを見て、わたしはほっと息をついた。それと同時に、薄暗かった保管室内に照明が灯る。

 

『皆様には大変ご迷惑をお掛けしました。I・アイランドの警備システムは、通常モードとなりました』

 

 そんなアナウンスが響き渡り、(ヴィラン)が荒い息を吐き出す。

 

「警備システムを、戻したのか!」

 

 その反応に、メリッサさんがやり遂げたことを確信した。これできっと、ホークスたちの枷は取り払えたはず。あの人が自由ならば、きっとみんなを救ってくれる。

 そうやって、わたしは安堵していた。これですべての事態が好転すると、ハッピーエンドだと、勘違い(・・・)していた。

 

「……まぁいい。目的のブツは手に入った。それに、思わぬ拾い物(・・・)もあったしな」

「拾い物……?」

 

 何だろう、と思わず疑問を呟いてしまった。そんなわたしを、(ヴィラン)が見据えた。仮面越しの鋭い眼差しに、ひゅ、と息を飲む。

 

「まさか【治癒】の“個性”持ちにこんなところで会えるとは思ってもみなかったが……今日はツいてる」

「何を、……っぐ、あ!」

「貴様……ッ! 空中を離せ!」

 

 ほどけかけていた金属の鞭が、またわたしの身体に巻き付いていく。先ほどは壁に叩き付けられていたのに、今度は拘束されたまま持ち上げられ、(ヴィラン)の傍に連れてこられた。

 身動ぎできずに呻くしかないわたしに、常闇くんが声を上げる。それを煩わしそうに見やって、(ヴィラン)は手を振った。

 

「悪いが、ヒーローごっこはここで終わりだ」

 

 その瞬間、先ほどよりも大量の金属片が集って、常闇くんたちを飲み込んだ。抵抗するように上げていた指先すら、見えなくなる。

 

「常闇、くん、緑谷くん……!」

「大人しくしていろ。オトモダチが大切ならな」

 

 抵抗を封じられたわたしは、ざっと視線を走らせる。金属片に飲み込まれたのは2人で、最上博士は、部屋にいない。混乱に乗じて最上部へ走ったのか、……そうであればいいと、祈るしかなかった。

 

「そしておまえもだ、デヴィット・シールド」

「……何が望みだ」

「言われた通りに歩け。大人しく、犬のように従順に」

 

 そうやって拘束したわたしを肩に担ぎ上げて、デヴィット博士に前を歩かせて、(ヴィラン)は歩き出した。白衣を着る背中に銃を突きつけながら、悠々と。

 ……何が彼を刺激するかわからない。何が引き金を引くかわからない以上、何もできない。じりじりとした沈黙に唾を飲み込んだ時、(ヴィラン)の方から話しかけてきた。

 

「せっかくの力を持て余すのは、勿体ないことだと思わないか? なァ、お嬢さん」

「……この、【治癒】の“個性”のことですか」

 

 かつん、かつん、と階段を登りながら、(ヴィラン)は喉の奥で低く笑う。

 

「そうだ。考えてもみろ、この世に怪我や病気に苦しむ奴らが何人いると思ってる? かけがえのない命のために、大金を湯水のように使う奴らが、何人いると思ってる?」

「……わたしはこの力を、悪用しようとは思いません」

「悪用? 人聞きが悪いな。有効利用(・・・・)というんだ」

 

 笑う。嗤う。(ヴィラン)のほの暗い声が、心に忍び寄ってくる。

 

「従順に翼を畳んで、檻に入れば、優しく優しく囲ってやる」

 

 おまえはただ、目の前に連れてこられる人間を治癒していればいい。数多の苦痛を癒す、“ヒーロー”になればいい。

 

「他には何も、考えなくていい」

 

 それはどろりと甘かった。甘い、……甘すぎる言葉。

 

「……反吐が、出る……!」

 

 怒りに任せて放った言葉に、(ヴィラン)はそうかい、と呟くように言った。そうして銃で博士を小突き、屋上へ繋がる扉を開けさせる。

 屋上に設けられたヘリポートには、(ヴィラン)が待機させていたらしいヘリコプターがあった。その後部座席に乱暴に投げられ、わたしと博士は小さく呻く。

 

「……彼女を解放して、私を、殺せ……」

「おいおい、それじゃああまりにおまえに都合がいいだけだろう」

 

 馬鹿にしたように肩を竦めた後、(ヴィラン)は博士の胸ぐらを掴んだ。彼を引き寄せて、眼前でせせら嗤う。

 

「もう少し罪を重ねよう。その後で望みを叶えてやる」

 

 ヘリのプロペラが回り出す。もう、飛び立とうとしている。どうにかしようともがいて、もがいて、……それでも何も変わらない現実に歯噛みした。

 その時。

 

「──待て!!」

 

 その声が、届いた。驚いて顔を上げると、屋上に駆け込んできた緑谷くんがそこにいた。あの金属片の塊を力任せに突破してきたのだろう、礼服はもっとぼろぼろで、緑谷くん自身も傷を負っている。

 それなのに彼は、そこに立っている。

 目に光を宿して、真っ直ぐこちらを見ている。

 

「空中さんを、博士を、返せ……!」

「ほう? 博士もか。なるほど、悪事を犯したこの男を捕らえに来たのか?」

 

 (ヴィラン)が手を翳すと、また金属片が鞭のように連なって緑谷くんに殺到した。それを殴って打ち払い、蹴って跳躍しながら、緑谷くんは吼える。

 

「違う! 僕は博士を救けに来たんだ!」

「犯罪者を?」

「僕はみんなを救ける! 博士も救ける!」

「おまえ、何言ってんだ?」

 

「うるせえ!! ヒーローはそうするんだ! 困ってる人を救けるんだ!!」

 

 緑谷くんは駆ける。懸命に決意を叫びながら、無数に飛んでくる攻撃にも怯まず、救けに走る。

 そんな緑谷くんを、(ヴィラン)は冷徹に嘲った。

 

「──どうやって?」

 

 男の手に握られた拳銃が、デヴィット博士に向く。それを見た緑谷くんはハッとして拳を引っ込めた。命を救うためには、動きを止めるしかない。

 

「……まったく、ヒーローってのは不自由だよなあ。たったこれだけで身動きが取れなくなる」

 

 いっそ同情じみた声でそう呟き、(ヴィラン)は翳した手を振った。刹那──緑谷くんを押し潰すように、数多の金属片が殺到する。

 

「どっちにしろ、利口な生き方じゃない」

 

 確かに、ヒーローは背負うものが多い。守らなければならないものが多いからこそ、大変なこともある。悲しいことや辛いことだってあるだろう。……それでも!

 

「利口じゃ、なくても……!」

 

 緑谷くんに対して集中して“個性”を使ったからだろう、わたしの拘束は緩んでいた。まだ翼は広げられなくても、両腕を縛られていても、立ち上がることはできた。わたしは走り、自由な口で(ヴィラン)の手に噛みつく。

 奴が取り落とした拳銃はヘリからこぼれ落ちた。それにふと笑った瞬間、わたしは頬を張り飛ばされて横倒しに倒れる。殴られた頬も、叩き付けられた全身も、どこもかしこも痛い。……それでも、ただここで踞るだけの子どもにはなりたくない!

 

「それでもわたしは、正しくありたい。正しく誰かを救けたい、……救けようとする誰かを、救けたい!」

 

 緑谷くんがそうしたように、わたしも立ち向かっていたい。その決意を込めて身体を起こすわたしを、(ヴィラン)は目を細めて見下ろした。

 

「馬鹿だな。ヒーローって奴は、どいつもこいつも」

 

 その声に、返る声は無いと思っていた。わたしは呼吸を整えていたし、デヴィット博士は固唾を飲んでいる。

 それでも声は返ってきた。

 ──ヘリの外の、誰も届かないはずの空中(・・・・・・・・・・・)から。

 

 

「そうだね、大馬鹿だ。……こんなに無茶をして」

 

 

 ハッとして目を見開く。それより速く、ヘリの中で風が巻き起こった。瞬きの最中、赤い色が空を横切る。赤い、……彼の、羽根。

 

「あ……」

 

 赤い羽根は刃となって(ヴィラン)に突きつけられた。その鋭さとは裏腹に、わたしと博士の身体を運ぶ羽根は柔らかい。泣きたくなるくらいに、優しい。

 その羽根に運ばれ、わたしたちはヘリの外に連れ出された。吹き荒ぶ風も冷たい夜空の中だ。もしここから落ちてしまえばあっという間に地面に叩き付けられ、ひとたまりもないだろう。

 

 でも、そうはならないと確信している。

 今はもう、恐れることなんか何もない。何も怖くない。

 だってわたしのヒーローが、来てくれたのだから!

 

「ホークス……!」

 

 事件はまだ解決していない。まだ何も終わっていない。それでも彼の姿が傍にあるだけで、こんなにも安堵に包まれる。緊張と恐怖がほどけて、ぶわりと目に熱が籠っていく。

 夜闇に翻る赤い翼。それを背負うホークスを見るわたしの目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちて、宙に舞った。

 

 

49.少女、足掻く。

 

 


 

 亀更新本当に本当にすみません……!展開を悩みに悩んでクソ難産でした。毎回のことですが原作の展開にどこまでオリ主を介入させるかは悩んでしまいます。

 でも次回こそ!2人の英雄編ラストです!その後の林間合宿編並びに神野事件編を楽しみに頑張って参りますので、また読んでいただければ嬉しいです。



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50.少女、“ヒーロー”。

 

 夜の闇を、地上の灯りが照らしている。びゅうびゅうと吹き抜ける風を受けて、赤い翼がはためいた。

 

「遅くなってごめん。……って、これ前にも言ったね」

 

 苦しげに微笑むホークスに、わたしは首を横に振った。そんなことない。遅くなんてない。あなたが、そんな顔をする必要なんてない!

 

「……来てくれて、嬉しい……!」

 

 わたしの言葉に、ホークスは瞬きひとつ。それからふっと優しく笑った。彼の右手がわたしの頬を労るように撫でて、それから指先が離れていく。わたしとデヴィット博士を運ぶ羽根が、地上に向けて降下を始めていた。

 

「! ホークス……!」

「今から下へ降ろすから、博士と一緒にタワーで待ってて」

「ホークスは!?」

「お仕事」

 

 ひらりと手を振ったホークスは、そのまま飛んでヘリに向かっていく。(ヴィラン)に相対するのだろうその背中を、拘束されたままのわたしは見送るしかできない。

 

空中(そらなか)さん!」

「パパ!!」

 

 剛翼によってタワーに降ろされたわたしとデヴィット博士に、緑谷くんとメリッサさんが駆け寄る。

 

「空中さん大丈夫!? 今コレほどくね……!」

「あ……ありがとう、緑谷くん」

 

 緑色のエネルギー粒子が夜闇に輝く。あの【超パワー】を以て鞭を破ってくれた緑谷くんは、笑った。

 

「無事で、本当によかった……!」

 

 うっすらと涙さえ滲んでいる緑谷くんに、息を飲む。自分だって(ヴィラン)との戦闘で傷ついているのに、【超パワー】の使用で疲れているだろうに、彼は笑っている。くしゃくしゃになった笑顔で、心の底から無事を喜んでくれている。

 

(……ああ、“ヒーロー”、なんだなあ)

 

 なんだか眩しくなって、目を細める。そうしてわたしも笑った。自由になった手を緑谷くんに伸ばす。

 

「……救けてくれてありがとう。治癒するね」

「あっ……ありがとう!」

「『ありがとう』は、こっちの台詞なのに」

 

 緑谷くんの腕に触れる。【自己再生】のエネルギーを【譲渡】する。そこで少し意外だったのは、緑谷くんは細かい傷はあれど、体育祭などで見せたあの皮膚が染色してしまうほどの大怪我を負ってはいないということだ。あの拳の威力を見るに、全力で【超パワー】を振るっていたと思っていたのに、彼の手や腕は健在だ。

 

(……、ガントレット?)

 

 緑谷くんはレセプションパーティに参加する予定だったのだろう、そんな礼服に身を包んでいた。だからこそ、それに似合わないガントレットを右腕に着けているのが気にかかった。もしかしたらそれが、彼を守ってくれたのかもしれない。

 わたしはガントレットについて尋ねようとして、できなかった。聞こえてきた会話に、緑谷くんの視線を追う。

 

「パパ、パパ! ああ、よかった、パパ……!」

「……メリッサ……」

 

 メリッサさんはデヴィット博士の胸に顔を埋めて泣きじゃくっていた。安堵の涙が彼女の頬と、博士の白衣を濡らしていく。それはメリッサさんが、心から博士の安否を憂いていたからこそ。博士の無事を願っていたからこそだ。

 だけど──だからこそ、デヴィット博士の表情は曇っていた。

 

「……メリッサ、私は……」

 

 娘さんが自分を心配している。それが嬉しくないわけないだろう。だからこそ彼は、どんな顔をしていいかわからずにいる。自分が起こした事件、それを決意させたオールマイトのこと。きっと博士の中で、いろんな感情が渦を巻いているんだろう。

 でもそれはきっと、時間が解決してくれる。博士の蟠りはメリッサさんが解いてくれるはずだと、そう思って目を伏せる。でもこれは油断だった。またしてもわたしは、これで終わると勘違い(・・・)していたのだ。

 

 それをわからされたのは、びゅん、と何物かがわたしたちの前を横切った時。──金属の鞭が、博士の身体を巻き取った時。

 

「──な!?」

 

「博士!!」「パパ!!」

 

 わたしは驚きに声を上げることもできず、鞭に身体を拐われていく博士を見ていた。見上げた。そこにあったのは金属の鞭が群をなし、まるで触手のように蠢いている様だった。触手はヘリコプターまで取り込もうとしているようで、そのプロペラが、ドアが、ばきりべしゃりとへし折られ、触手の中へ埋もれていく。

 

「ホークス!?」

 

 ホークスはあのヘリに向かったはずだ。まさかあの触手に呑まれてしまったのかと声を上げた矢先、金属片の塊から赤い羽根が飛び出してきた。あの拘束から無理に逃れようとしたからだろう、羽根の多くを失っているし、黄土色のヒーロースーツに血が滲んでいる。腕に抱えているのはヘリを操縦していた(ヴィラン)だろうか。

 

「ッこの……!」

 

 そんな中でも、デヴィット博士が飲み込まれそうになっていることに気づいたホークスが背中の羽根を飛ばす。鋭く刃のように硬化させた剛翼の雨。けれどそれは、金属の表面を幾らか傷つけた後、事も無げに弾かれてしまった。

 

「日本のNo.3といっても、案外ヤワなんだな」

 

 そんな低い嗤い声が、微かに聞こえて。次の瞬間、大きくうねった金属の束がホークスに襲い掛かった。轟音。衝撃が瓦礫を巻き上げる。その向こうで、タワーに叩き付けられたホークスの姿が見えた。

 

「……ッ」

「! ホークス……!」

 

 駆けつけようとしたわたしの足元に、ガラン、と何かが落ちてきた。それは先ほどデヴィット博士が、サムさんが、そして(ヴィラン)が持っていたアタッシュケース。上空からタワーに落下してきたそれは、蓋が開いていた。中身が、無い(・・・・・・)

 

「さすがデヴィット・シールドの作品……“個性”が活性化していくのがわかる……ははは、いいぞこれは。いい装置だ!!」

 

 わたしたちに影が射す。それほどに、振り仰いだソレ(・・)は巨大だった。ソレ(・・)は数々の金属を取り込み、どんどん肥大していく。その中心で高笑いをしているのは、何らかの装置を身につけた仮面の(ヴィラン)。……『何らかの』っていっても、この状況で思い当たるのはひとつしかない。

 

「“個性”増幅装置……!」

 

 かの有名なデヴィット・シールド博士の作だ。(ヴィラン)がこうまでパワーアップしてしまうのだから、本当に『いい装置』なのだろう。

 

「さて、」

 

 だからこそわたしたちにとって、『最悪の装置』になりうる。

 

「邪魔者にはそろそろ、ご退場願おうか!」

 

 一瞬。今までとは比にならない金属の鞭が大挙して押し寄せてきた。わたしに見えたのはその一瞬の光景だけ。そしてその光景がブレる(・・・)。そこからは同時だった。え、とわたしが目を見開くのも、背中をクンッと引っ張られる感覚も、──身体を包む、ふわりとした浮遊感も。

 

「ぁ……」

 

 わたしだけじゃない。緑谷くんも、メリッサさんも、剛翼で身体を運ばれていく。金属の鞭が届かない、安全圏へ。……それを成したホークスは、まだダメージから立ち上がれていないのに!

 

「なんだ、“身を挺して”ってか? そういうタイプには見えなかったのに、しっかりヒーローじゃないか、No.3」

 

 ゆらりと顔を上げた(ヴィラン)が、口許を歪ませる。

 そうして手を翳した。金属の鞭の先が、まるで槍の穂先のように変形していく。

 

「──“ヒーロー”に殉じて、格好よく死んでいけ」

 

 “終わり”だと言わんばかりに、手を振る。その途端、槍が真っ直ぐホークスに向かう。その穂先がぎらりと光ったように見えて、喉の奥がひきつった。

 

「! だめ、嫌だやめて、ホークス……!」

「クソッ……ちくしょう、やめろ!!」

 

 どこかから緑谷くんの声がしたけれど、わたしの耳には届かない。指の先がびりびり痺れて、喉が渇く。身体中が寒くて熱くて震える。頭の中はぐちゃぐちゃで、言葉にならない悲鳴ばかりが耳鳴りのように木霊する。

 

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ! あの人を傷つけないで、殺さないで、奪わないで! お願いだから、わたしの全部を失くしたって構わないから、どうか! どうか……!

 

(あの人の未来を、奪わないで……!!)

 

 剛翼を打ち払って、翼をはためかせる。わたしにできる全速力で空を裂くと同時に羽根を射出した。頭が焼ききれそうに痛むけれど、そんなことどうでもよかった。届け、届いてと願う気持ちとは裏腹に、目の前をちらつく5文字がわたしの呼吸を奪う。

 

 ──とどかない(・・・・・)

 

「ッ……ホークス!!!」

 

 目から溢れた涙が、風に拐われて飛び散る。その小さな雫と同じに掻き消えてしまうのではないかと、怖くて怖くて仕方なかった。

 

 

「こういう時こそ!!」

 

 そんな恐怖を、絶望を、

 

「笑え! 緑谷少年!!」

 

 撃ち破るような、そんな声。

 

「そして! 泣かずとも大丈夫だ空中少女! 何故って!?」

 

 “彼”はまるで、閃光のように駆け抜けた。

 そして、世界中の光を集めたような笑顔で、宣言する。

 

 

「──私が、来た!!!」

 

 

「オールマイトォ!!」

 

 感極まったような緑谷くんの呼び掛けに、オールマイトは力強くサムズアップ。そしてホークスの前に庇い立った。グッと拳を握り、筋骨隆々なその腕を引いて、溜める。

 

T E X A S(テキサス) S M A S H(スマッシュ) !!」

 

 その渾身のひとふりで、ホークスに襲い掛かった金属片の波は粉々に砕けて霧散した。それにほっと安堵の息をこぼしながら、わたしはホークスたちの方へ向かう。

 

「……すみません、オールマイトさん」

「いいや! こちらこそ遅くなってすまなかった!」

 

 吹き荒ぶ風の向こうから、そんな会話が聞こえてくる。

 

「皆を、子どもたちをよくぞ守ってくれた! ホークス!

 後は私に任せてくれ!!」

 

 ニカッと力強くそう笑って、オールマイトは強靭な脚力をバネに高く跳躍。あの(ヴィラン)へと向かっていった。

 

「……ッは……」

 

 その背中を見送って、見上げて、ホークスが掠れた息を吐く。

 

「スッゴい、なァ」

「ホークス……!」

 

 無理に立ち上がろうとしたのだろう。ふらついたホークスを何とか支えて、座らせる。そうして治癒を始めたわたしを横目で見て、何か言いたげな表情をしたホークスは、けれど口をつぐんだ。気になりはするも今は治癒が最優先。わたしも治癒に集中していたから、しばらく沈黙が続いた。

 それを破ったのは、ぽつりと呟く、ホークスの声。

 

「……おかしい」

「え?」

「あの人なら、あんな(ヴィラン)にこれほど苦戦しないはずだ」

 

 ホークスの視線を追うと、あの(ヴィラン)に立ち向かうオールマイトの背中が見えた。“個性”増幅装置を用いて、さまざまな金属を取り込んでパワーアップしている(ヴィラン)と相対できるというだけですごいと思う。

 けれどオールマイトは、“あの”オールマイトだ。超人社会においても輪をかけて超人的な戦闘力を誇る、No.1ヒーロー。その強さとカリスマ性はただそこに存在するだけで犯罪を抑止するといわれる、平和の象徴。わたしもUSJでの一件で、その強さの一片を目の当たりにした。……確かにその時に比べて、どことなく動きに精彩を欠いている、気がする。わたしにとっては『気がする』程度の違和感だけれど、ホークスの目にははっきりと映っているのだろう。オールマイトの、異変が。

 

「……『“個性”が、消えかかってる』……」

 

 デヴィット博士が危惧していたオールマイトの異変。セントラルタワーでわたしは、『そんなはずない』と一蹴した。

 でもそれが、もしそれが、本当なら──

 

「装置の価値をつりあげるためにも、このままオールマイトをブッ倒すデモンストレーションといこうか!」

 

「! オールマイト……!」

 

 次第に防戦一方へと追い込まれていったNo.1に、最後の駄目押しをと(ヴィラン)が吼えた。その声に呼応して数多の金属の塊が押し寄せ、オールマイトを押し潰そうとする。危ない、と悲鳴を上げかけたその時、夜空に閃光が走った。

 閃光──それは炸裂する爆発の炎だった。鋭く伸びる氷槍でもあった。弧を描きながら宙を行くミサイルが、バチバチと弾ける雷撃が、オールマイトに迫る金属を退ける。

 

「あんなクソだせぇラスボスになにやられてんだよ! え!? オールマイト!!」

 

 その声は乱暴で、粗暴で、身も蓋もない。でもそれだけじゃない気がした。『オールマイトがこんな程度なわけがない』と、どこまでも信じきっているような、そんな響き。

 

「爆豪くん!」

「今のうちに(ヴィラン)を!」

「轟くんも、みんなも……!」

 

 爆豪くんの【爆破】が、轟くんの【氷結】が、八百万さんの【創造】で創られたミサイルが、飛来する金属の鞭を撃ち落とす。上鳴くんの【帯電】が真っ直ぐ飛んでいっているのは、八百万さんがサポートアイテムを創り出したんだろうか。不可視の爆撃は耳郎さんの音波攻撃で、あの紫のボールは峰田くんの【もぎもぎ】だとわかる。みんなに近寄ってきた金属による攻撃はお茶子ちゃんが【無重力】で無効化し、飯田くんが蹴り払っていた。

 みんな、みんな……自分にできることを、一生懸命頑張っている。戦っている。自分にできるせいいっぱいで、“ヒーロー”をしている。

 

「ヒーローの卵たちも、頑張ってるなあ」

 

 治癒し終えたホークスが、笑いながら立ち上がる。ゴーグル越しの目を眩しそうに細めて、

 

「……このまま、見てるだけじゃ立つ瀬がないね」

 

 ニヤリと、口角を吊り上げる。

 そんな笑顔に呆気にとられたわたしをよそに、ホークスはヒーロースーツの懐から通信機を取り出し、笑みを浮かべる口許に近づけた。

 

「ポインタは全て、所定の位置に行き渡らせました。準備はバッチリですよ、──最上(もがみ)博士」

 

『よし!!!』

 

 通信機から轟いたのは、待ちに待ったと言わんばかりの歓喜の声。それは淀みなく、次々と紡がれていく。

 

『ポインタα、ポインタβ、ポインタγ、──全システムオールグリーン。範囲固定──クリア。出力調整──セット』

 

 淀みなく続けられていた確認操作。その声が途絶え、息を吸い込む音がした。その時にハッと笑ったような声がしたのは、きっと、わたしの聞き間違いじゃない。

 

『広範囲“個性”鎮静化装置・《終幕》・起動!!』

 

 博士の朗々とした宣言とともに、この夜空を呑むような、巨大な青い光の壁が現れた。それは(ヴィラン)を囲むように、6角形状に展開されている。それぞれの頂点部分にはこの障壁を生み出す装置──きっとこれがホークスが言っていた“ポインタ”だろう──が置かれていて、遠目にひらりと赤い羽根が翻るのが見えた。

 

「な……ッ」

 

 ホークスが動けずにいたのはこのポインタを設置するためで、それを(ヴィラン)に悟られないようにするためだったのかもしれない。そう考え込んでいたわたしは、(ヴィラン)の呻き声に顔を上げた。その声に色濃く滲むのは、驚愕と狼狽、苛立ち。

 

「なんだ、クソッ、これは……!」

 

 腹立たしげな(ヴィラン)の身体から、ひとつ、またひとつと金属の塊が剥がれ落ちていく。金属を操るという(ヴィラン)の“個性”。装置によって増幅(ブースト)されたそれが、弱まってきているんだ……!

 

(そうだ、最上博士の専門は“個性”の鎮静化……!)

 

 この状況にはぴったりだ! さすがだ! と、……素直に称賛させてほしいのに、それを台無しにするかのような笑い声が通信機越しに響き渡った。

 

『アッハッハッハッハ!!! ざまぁみろ(ヴィラン)!! ついでにデヴィット・シールド!!』

 

「……今すごく格好よかったのに……」

『言動が暗黒面に堕ちているぞ……』

「! 常闇くん、そこにいるんだね」

『ああ。空中、無事で何より』

 

 常闇くん曰く、セントラルタワーの最上階でわたしが連れ去られた後、最上博士を連れて彼の研究室へ戻ったらしい。博士の護衛と助手を請け負い、ホークスにポインタを託して、今こうして、装置の発動に漕ぎ着けたのだと。

 

『さぁ空中、(ホークス)よ。今こそ好機』

『デバフは掛けてやったからな。ここで決めてみせろ』

 

 常闇くんの改まった声に、暗黒高笑いから戻ってきた最上博士が続く。

 

『今のうちにあのクソッタレな装置を、跡形もなくブッッッッッ壊せ』

 

 まるで親指を下に向けているような、そんな声。それでも激励には違いなくて、ホークスは「ホント面白い人だよね」と笑った。そのまま軽い声で了承を返し、彼は通信機を懐に戻す。わたしを、振り返って。

 

「じゃあ行こうか、準備はいい?」

「ホークス、身体はもう大丈夫……?」

「うん、おまえの治癒のおかげでね」

 

 ありがとね、と笑ったホークスは、その視線を前方へと投げ掛ける。

 

「クライマックスを飾る英雄(主役)を、救けにいこう」

 

 それだけ言って、ホークスは背中の剛翼を広げて飛び立ってしまうから、わたしは慌ててその後を追った。

 眼下には、最上博士による障壁の影響から逃れんともがく(ヴィラン)の姿。苦し紛れではあるけれど、ただただがむしゃらに振り回される触手は何の加減もされていないせいで、打ち下ろされるたびに空が、塔が引き裂かれていく。オールマイトは腕をクロスさせて受け止めようとしていたけれど、あんなものをまともに受けては、あのオールマイトといえど危なかっただろう。

 

 でもそうはならなかった。

 

「オール、マイト!!」

 

 飛び散ったのは血の赤ではなく、鮮烈な、緑の輝き。

 

D E T R O I T(デトロイト) S M A S H(スマッシュ) !!」

 

 間一髪。跳躍して駆けつけた緑谷くんの一撃が、オールマイトへ降りかかる苦難を打ち払う。オールマイトは驚いたように碧眼を見開いた。

 

「緑谷少年! なんて無茶を……! もう下がってくれ!」

「いいえ、……いいえ! 僕もいきます!」

 

 入学当初からそうだった。彼は穏やかで、控えめで。時々あまり人と接するのに慣れていないって顔をする。慌てて、どもって、顔を赤くして──ほんの少しだけ、わたしと似てるかもしれないって思った時もあった。

 でも彼は、緑谷くんはわたしとは違う。

 彼は持っている。もっと強靭な、“救ける”という意志を。

 

「だって……困ってる人を救けるのが、ヒーローだから……!」

 

 自分だってぼろぼろになってるのに、そんなのお構い無しって顔で笑ってみせる。それはまさしく“ヒーロー”の笑顔だった。……それにほんの少し、得体の知れない恐ろしさを感じてしまうなんて、きっとわたしがまだ“ヒーロー”ではない証拠なんだろう。でも、オールマイトは違った。

 

「HAHAHA、なるほど。確かに今の私はほんの少しだけ困っている」

 

 嬉しそうに、誇らしそうに、“同じ意志を持つ者”へと手を差し伸べる。

 

「手を貸してくれ! 緑谷少年!」

「っはい!」

 

 目線が交わされ、強く、頷き合って、

 

「──行くぞ!!」

 

 そして同時に、駆け出した。猛然と近づいてくる2人に気づいた(ヴィラン)が、怒りの叫びを上げながら金属片の雨を降らせる。

 

「ゴミの分際で往生際が悪ぃんだよ!」

「そりゃてめェだろうがァ!!」

 

 怒鳴り返した爆豪くんが、宙にある金属片を1つ残らず爆破させる。轟音と衝撃。花火のように闇夜を切り開く光を受けて、オールマイトは、緑谷くんは、止まらない。轟くんが築いた氷の橋を走り抜ける。道中襲い掛かってきた金属の群れは、八百万さんたちの援護射撃の前に沈んだ。

 その時、攻撃に弾かれた1つの金属片が宙を舞い、軌道を変え、後方にいた耳郎さんたちに向かっていく。猛スピードで突っ込んでくる瓦礫に、援護射撃に専念していた彼女たちは反応しきれずに息を飲む。激突する、危ない──と、オールマイトたちが前へと進む足を止めようとして、

 

「大丈夫」

 

 その声とともに、迫りくる金属片がふわりと浮いた。瓦礫を受け止めてみせた赤い剛翼が、はためく。

 

「後ろは守ります! 気にせんで進んでください!」

「ありがとう! ホークス!」

 

 オールマイトはニカッと笑って、更にスピードを上げて駆け抜けていく。それに緑谷くんも追い付こうと速度を上げるけれど、(ヴィラン)の“個性”の影響で歪みのたうつ足場では至難の技だ。

 

「、うわあっ!」

 

 前触れなく隆起した瓦礫に足を取られバランスを崩す──その前に、わたしは羽根を飛ばした。落っこちそうな身体を支え、走り出すその背中を押す。

 

「! 空中さ、」

「そのまま走って!」

 

 金属片の雨を避けながら、緑谷くんたちに並走して飛ぶ。今この状況下でわたしにできること。それを成すために、意識を集中させる。力を、込める。

 

「わたしには、こんなことぐらいしかできないけど……!」

 

 治癒の力を込めた羽根を、2人に向かって飛ばす。肩口に降り立ったそれが彼らの傷を治していくのを見てとって、わたしは叫んだ。祈るように。

 

「お願いです、頑張って……勝って!」

 

「……ああ!」「っうん!」

 

 たくさんの人の激励と祈りを受け取めて、彼らは疾走する。止まらない。いくら強大な壁が立ち塞がろうとも拳で撃ち抜き、踏み締める足場が揺れても意志は揺れない。

 そうやって大きく跳躍──眼前に迫った(ヴィラン)に向けて、その拳を振りかぶる。

 

DOUBLE(ダブル)!」

DETROIT(デトロイト)!」

 

「「S M A A A A S H(スマアァァッシュ)!!」」

 

 2人の拳を受けて、(ヴィラン)が仰け反る。その隙を逃すまいと手を伸ばした。事件の終結を、“平和”を掴むまで、あと少し──!

 

「「「行けぇぇぇぇ!!!」」」

 

 気づけば拳を握り締めていた。声を枯らして叫んでいた。

 わたしはあの場所には立てないけれど、それでも傍にいると、気持ちは同じだと、頑張ってと、願いを込めて。 

 

「「更に、向こうへ!!」」

 

 緑谷くんとオールマイトは、迷うことなく(ヴィラン)の中心部へと向かっていく。立ち向かう。何度も何度も口にしてきた、あの校訓を胸に。

 

「「 PLUS(プルス) ULTRA(ウルトラ)!!! 」」

 

 咆哮とともに叩きつけられた拳が、ついに金属の魔物を打ち砕いた。かき集められた金属片が、衝撃によってバラバラに宙に舞う。射し込んだ朝日が、それを眩しく煌めかせていた。

 

 

(……終わったん、だ……)

 

 やっと、この苦しく長い夜が明けた。そう安堵の息をつこうとして、できなかった。ふと視線をやった先で、わたしはヒュッと息を飲む。

 何かに気づいたらしいホークスが剛翼を幾つも飛ばしながら飛んでいって、その背中がガクリとバランスを崩して──塔の下へ落下していく。

 

「、ホークス!?」

 

 慌てて飛んでいき落下地点を覗き込む。そこはタワーの出っ張り部分で、ホークスは地上に叩き付けられることなく、器用にそこに着地していた。

 

「よかっ……わ、あっ!?」

 

 安堵した瞬間、横殴りの風に体勢を崩す。変な角度になった羽根で風を受け止めてしまったから、煽られて、空の中へ投げ出されてしまいそうになって──

 

「!? ちょ……っと!」

 

 そんなわたしの腕は掴まれ、引き戻された。その勢いのまま腕の中にしまい込まれて、わたしは目を見開く。耳元で、彼の深い溜め息が聞こえた。

 

「……何やってんの……」

「そっ、それはこっちの台詞、で……」

 

 ホークスから飛び退いて、赤くなった頬を誤魔化そうと視線を巡らせて、そこでようやく気づく。オールマイトたちの拳で意識を失った(ヴィラン)から、彼が取り込んでいた数多の金属片が崩れ落ち、ヘリポートからはみ出て地上に流れ落ちていた。中には建物を破壊しかねない大きな塊もあって──それを、ホークスの剛翼が受け止めていた。

 

(そうか、ホークスはこの雪崩による二次災害を防ごうと……)

 

 『羽根を使いすぎると飛行性能が落ちる』と言っていたのはホークスだ。でもそのリスクを犯してでも、みんなの安全を選んだ。みんなを守った──そんなホークスと比較すると、わたしはとてもちっぽけだと改めて思い知らされる。

 

「……ごめんなさい、かえって、足手まといだった……」

 

 これでもう安心だと、すべて終わったのだと安堵しきっていた。そうじゃないことはホークスみたいに注意深く見ていればわかったはずなのに、わたしはまだまだ、視野が狭い……。

 

愛依(あい)、」

 

 反省の気持ちが視線を俯かせる。そんなわたしの頭に、ぽん、と彼の手が乗った。

 

「そんなことないよ。……ありがとね」

 

 あたたかい手が、優しくわたしの髪を撫でる。何も言えずに喉を震わせるわたしに、ホークスは柔らかく微笑んでから、パッと笑みの色を変えた。

 

「てか、情けない姿を見せちゃったのは俺の方だしね」

「え?」

(ヴィラン)に拘束されて駆け付けるのが遅くなったし、(ヴィラン)を確保しきれずに装置を使わせた。それに、」

 

 飄々とした笑みが、声が、翳りを帯びる。

 

「……おまえを、泣かせた」

 

 そこにあるのが悔恨なのだと、自虐なのだと、今ならなんとなくわかる。

 

「いやー、やっぱ俺はパワー押しには無力だけども、その点オールマイトはすごいね!」

「ホークス、」

「“安心できる背中”って、あんな感じなんだろうなあ」

「……ホークス!」

 

 それ以上聞きたくなくて、わたしは声を荒げた。そんなことしなくたっていい。自分に厳しいのは彼の性質(たち)なのだろうけれど、これ以上あなたを貶めることを、わたしは許さない。

 自信満々で、いつも余裕ぶっておきながら、そのくせ根っこではあんまり自分を信じていない。そんなホークスがもどかしくて、わたしは首を横に振った。

 

「わたしは確かに泣いたし、あなたを心配した」

「うん、ごめ……」

「なんでそこで謝るの。馬鹿だよホークス。……ばか、」

「……愛依?」

「誰かを信頼することと、その人を心配しないことは、イコールじゃないよ」

 

 信じてるから、大切で。大切だから、無事でいてほしい。この気持ちに矛盾は無いはずだ。

 だからわたしは顔を上げる。わたしはありとあらゆるところで劣っていて、他に誇れることはあまり無い。けれどこの気持ちだけは、胸を張って言える。

 

「わたしにとっては、あなたが1番のヒーローだもの」

 

 『パワー押しに弱い』とあなたは言うけれど、その速い翼でみんなを庇ってくれた。『飛行性能が落ちる』と言いながらも、瓦礫の雨を受け止めるべく羽根を飛ばしてくれた。オールマイトのような完全無欠じゃなくても、英雄(主役)じゃなくても、……どんな時だってずっと、誰より格好いいヒーローだから。

 

「改めて、言うね。……救けてくれて、ありがとう!」

 

 だからわたしは笑う。この気持ちが伝わるように。

 

「あなたが来てくれて、わたしはとっても安心できた。嬉しかったんだよ、……啓悟くん」

 

 そう言えば、ホークスは切れ長の目を真ん丸にした。……普段は鷹のような目をしているのに、今はまるで鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。これを正直に言ってしまうとホークスは怒るかな。それとも照れてしまうかな。……あ、腕で顔を覆った。

 

「あれ、ホークス照れてる?」

「照れてないよ」

「じゃあ顔こっちに向けて」

「……ちょっと待って」

「! ふふ、」

「あー、もー! ……笑わんで」

 

 耳の端がちょっとだけ赤くなっているのを見つけて、嬉しくなって笑みをこぼす。ホークスはじろりと半眼になっているけれど、そのふて腐れた表情さえ嬉しくて、わたしはふふ、と息を吐き出した。

 朝が来る。新しい朝日に洗われて、世界がほんの少し綺麗に輝いた気がした。何だか前途まで明るく感じられて、わたしは未来のことを口にしてしまう。

 

「今度はわたしが、ちゃんとあなたを救けたいな」

 

 海の向こうに昇る朝日を眺めながら、そんなことを呟く。そうしてわたしはホークスの方を見ていなかったから、彼が口を開いたことに気づかなかった。吹き抜ける風が、彼の小さな声を拐っていく。

 

「? なにか言った? 風で聞こえなくて」

「いや、」

 

 ホークスは何かを飲み込むように口を瞑った。それが柔らかく弧を描く。

 

「俺を救けるかぁ、大きく出たね。十年早いよ、愛依」

「む……そ、そんなに余裕ぶっていられるのも今のうちなんだから!」

 

 今はホークスに救けられてばかりだけれど、いつかはわたしが彼の力になりたい。彼を救けられるようなヒーローになりたい。

 そんな夢を、このまま(・・・・)見ていられると思っていた。こんな風にホークスにからかわれながら、支えられながら、追い続けていけると思っていた。

 

 ──でも、そうはならなかった。

 わたしたちはこの夏、ある転機を迎える。

 

 

50.少女、“ヒーロー”。

 

 


 

 亀更新本当に申し訳ありません!しかも何とか2人の英雄編終了まで書いてしまいたくてこんなに長くなり……読みづらい中ここまで読んでくださった方、改めてありがとうございます。

 

 先週のヒロアカ本誌で胃を痛めながら書いてました。各キャラの過去などの情報開示はすごくワクワクして嬉しいんですが、如何せん一気に来すぎ……情報過多で吐き気がしましたね。でもこのssの着地点も少しずつ見えてきたというか、目標はできました。原作は原作で楽しむとして、当ssはあくまでホークス救済を掲げていきます。

 ところで話は変わりますがヴィジランテの方はミルコと乱波くんの掛け合いが最高に面白くて癒されたので本誌でメンタルやられた方は是非見てください(ダイマ)。



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林間合宿編
51.少女、合宿に行く。


 

『……そう、そんなことがあったのね』

『はい』

 

 デヴィット博士作の“個性”増幅装置に端を発する騒動が終結し、それに関連する後処理も終えたわたしたちは、最上(もがみ)博士に依頼した本来の用事もこなしてI・アイランドを後にした。空港で常闇くんや緑谷くんたちと別れ、わたしは東京へ──公安所属のビルへ戻った。公安会長に事の次第を報告すると、彼女はふう、と目を伏せて溜め息を吐いた。

 

『災難だったわね。ご苦労様』

『いえ、わたしはそんな』

『それにしても今年の雄英1年A組は、何かと(ヴィラン)に遭遇するわね』

『それは……はい』

 

 否定できないなあ、と遠い目になる。春から数えて何件になるだろう。まずはUSJ襲撃事件から始まり、職場体験では保州襲撃事件。飯田くんたちはヒーロー殺しステインに遭遇して戦闘したし、わたしと常闇くんは福岡でヤクザ者に拐われた。そして極めつけには、みんなで行った木椰区ショッピングモールで、緑谷くんが死柄木弔に遭遇──戦闘は無かったものの、緑谷くんの冷静な対応がなければ買い物客にも被害が及んでいたかもしれない。

 

『そして今回のI・アイランドでの一件を考えると……単なる偶然だけで片付けてはいけないわね』

『……と、いうと?』

『狙いはオールマイトか、雄英生徒か、雄英そのものか……また狙われる危険性がある』

 

 会長は、冷徹な眼差しでわたしを射た。氷のようなそれに、わたしは固唾を飲む。

 

『あなたにも話しておくわ。(ヴィラン)連合……その裏にいると思われる、巨悪の存在を』

 

 そうして会長は話してくれた。巨悪──AFO(オール・フォー・ワン)について。

 AFO(オール・フォー・ワン)とは“個性”の名前であり、それを持つ(ヴィラン)の名前でもある。AFO(オール・フォー・ワン)──【皆は一人の為】という名称通り、他者の“個性”を奪い自分のものとし、その“個性”を他者に与えることができるのだという。

 

(“個性”の有無を、自分の思うままに……)

 

 超常黎明期において、人々に突如として“個性”が発現し、そのあまりの多様さから既存の法が機能しなくなった。文明は歩みを止めて、人々は混乱のままに暴力が横行する、まさに混沌の時代だったと──それは歴史の教科書でも語られている。

 

『だから民衆から“個性”で悪に立ち向かおうとする自警団が──ヴィジランテが生まれて、そこから国が正式に認めたものが、ヒーローとなっていったんですよね』

『けれどそれは表向きの歴史。国の法整備が整うより先に、いち早く人々をまとめ上げた者がいた。それが、』

『……AFO(オール・フォー・ワン)……?』

 

 まさか、という気持ちで呟く。けれど会長は揺らぐことなくそれを肯定した。

 

『彼は人々から“個性”を奪い、圧倒的な力をつけていった。同時に自分を信奉する者たちには望む“個性”を分け与え、勢力を拡大していった。それらはすべて計画的に行われ……瞬く間に彼は“悪”の支配者として君臨したのよ』

 

 確かにAFO(オール・フォー・ワン)の“個性”が実在するのならば、そうすることも可能かもしれない。どくどくとうるさい心臓を宥めるように、胸元を握り締めた。

 

『その人が、今も生きて、(ヴィラン)連合の裏にいるってことですか……?』

『成長を止める“個性”か、長寿の“個性”……そうした類いを使っていると思われているわ。確かなことは不明だけれど、可能性は高い』

 

 そうして会長はわたしに尋ねる。

 ──脳無のことは記憶に新しいでしょう? と。

 

『……は、い』

 

 USJ襲撃事件では、あのオールマイトを追い詰めるほどの強“個性”を幾つも備えていた。保州に現れた脳無はそれほどではなかったらしいけれど、それでも街に甚大な被害を及ぼした。……そしてその素体は、わたしが職場体験で遭遇したヤクザたちなどの──人間が使われていると聞かされた。それを知った日の夜はほとんど眠れなかったから、よく、よく覚えている。

 当時を、脳無のことを思い返して、そうして気づいた。備えられた(・・・・・)“個性”、“個性”を与える“個性”の存在、──点と点が、線で繋がっていく。

 

『まさか、AFO(オール・フォー・ワン)で奪った“個性”を、脳無に植えつけて……?』

 

 そんなこと、あってはならないことだ。人の命や尊厳すべてを踏みにじるような、おぞましい行為。

 

『そう考えるのが自然でしょうね』

 

 でもそれが実在しているのだと、そう考えるのが“自然”だと頷かれて、わたしは喉が乾くのを感じた。それは緊張か、恐怖か。握り締めた拳の中が、冷ややかな汗で濡れていく。

 

『気を付けなさい。常に注意を払い、想定するのよ』

 

 静かな部屋で、静かな声で、忠告が行われた。

 

『──あなたが、狙われる可能性を』

 

 

 

 

「あれあれあれぇ!? 聞こえてないのかなァ? それとも聞こえていて無視してるのかなァ!? どっちにしろヒーローの所業じゃないよねぇ!!?」

 

 きぃんと耳鳴りがしそうなくらいの大声に、わたしは瞬きをひとつ。ああ、と息を吐いて、目の前の彼を見つめた。

 

「……あれ、物間くんだ……」

「まさかホントに聞こえてなかったってのかい!! その聴力や注意不足はヒーローになる者として如何なものかなあ空中(そらなか)さん!?」

「えっと、ごめんね……? ぼうっとしてたみたい」

 

「……いやあれ気づかないって『ぼうっとしてた』ですむ?」

「完全にガン無視の構えだったぜ……」

 

 上鳴くんと峰田くんがひそひそと話す声は、物間くんにも聞こえてしまったらしい。ビキビキと青筋を立てたと思いきや、晴れやかな笑顔を浮かべてみせた。相変わらずの百面相だなあ、なんていっそ感心しながら、彼の演説を眺める。

 

「空中さんは期末試験どうだったんだい!? 一般試験に医学系試験、演習試験、どれか取りこぼすなんてことは、」

「あ、何とか大丈夫だったよ。梅雨ちゃんたちのおかげで」

「……へええ? あっっっそう、フーン……」

 

「露骨に残念そうね、物間ちゃん」

 

 梅雨ちゃんの指摘を聞いているのか聞かないふりをしているのか、物間くんは無になった表情から一転、またも笑った。目は爛々と輝いていたけれど。

 

「じゃあ君以外のA組の中で4人も補修が出たの!? 補修ってつまり赤点取った人がいるってこと!? ええ!? おかしくないおかしくない!? A組はB組よりずっと優秀なハズなのに!!? アレェェェェェ!!?」

 

 と、そこまで言って、物間くんは拳藤さんの手刀に意識を刈り取られた。いつもながら鮮やかなお手並みの拳藤さんは、緩い苦笑を浮かべている。

 

「毎度ごめんな、空中、A組」

「ううん、いいよ。拳藤さんもいつもありがとう」

「いやいや」

 

 【治癒】“個性”教育プログラムの一貫でB組のみんなの怪我を治癒することもあったから、こうして物間くんに絡まれては拳藤さんに間に入ってもらうのも、何というか慣れてしまった。

 

「いやまァ確かに毎度のことなんだけど、悪いな空中」

「ちょっとな……物間は頭回るんだけど心がアレだから」

「本当に、大丈夫だよ」

 

 心がアレなのは知ってるし……とはさすがに言えなかったけれど、泡瀬くんや円場くんもどこか遠い目をしていたから、言葉なく頷き合った。小森さんがわたしの背中をぽんと叩き、取蔭さんが肩を組んでくる。

 

「気にしないのがいちばんノコ!」

「そーそー。まぁ体育祭じゃなんやかんやあったけど、よろしくねA組」

「ん」

「うん……! よろしくね」

 

 にこりと笑いあってわたしたちはそれぞれのバスに乗り込んだ。今日は林間合宿初日。1年ヒーロー科はA組B組合同で行われるらしく、一緒にこれから1週間、寝食をともにして強化訓練を敢行するそうだ。

 

「音楽流そうぜ! 夏っぽいの! チューブだチューブ!」

「バッカ夏といやキャロルの夏の終わりだぜ」

「終わるのかよ」

 

 上鳴くんと切島くんがやいやい言いながらスマホでBGMを選んだり、

 

「“しりとり”の“り”!」

「“りそな銀行”!」

「“ウン十万円”!」

 

 透ちゃんと芦戸さんが明るい声でしりとりをしたり、

 

「ヤオモモ、これ聴く? クラシックをアレンジしたバンドなんだ。最近ヘビロテ」

「まあ、興味深いですわ」

「ん。じゃあ一緒に聴こ」

 

 耳郎さんと八百万さんが、ひとつのイヤホンを半分こして音楽を聴いたり、

 

「おおい皆! 静かに!! 林間合宿のしおりに書いてあっただろう! いつでも雄英生徒であることを忘れず、規律を重んじた行動をとるようにと……!」

「ま、まあまあ飯田くん。それより危ないから座った方がいいよ」

「ム! すまない、俺としたことが」

 

 今日も絶好調な飯田くんを、優しい苦笑を浮かべながら緑谷くんが宥めたり、……そんなわいわいと賑やかな空間にいると、何だか心がふわふわ軽くなる。

 

(わたしって、単純だなあ……お気楽なのかも?)

 

 公安会長からの忠告を忘れたわけじゃない。気を付けなければという思いは今もある。……それでも今、こうしてみんなと一緒にいて、これからも一緒に訓練したり、ご飯を食べたり、眠ったりすると思えば、口許が緩んでしまう。

 

「ケロ、愛依(あい)ちゃん嬉しそうね」

「梅雨ちゃん。……うん、すごくすごく、楽しみなんだ」

 

 ふへへ、と我ながらだらしない笑みがこぼれる。それを笑うことなく、梅雨ちゃんとお茶子ちゃんは「私も!」と明るい声で頷いてくれた。

 

「そーんな愛依ちゃんに、はい! 飴玉をあげよう」

「わあ……! ありがとうお茶子ちゃん」

「私からはポッキーよ。みんなで食べましょ」

「梅雨ちゃんも……ありがとう。わたしもね、チョコレートとか持ってきてるんだ」

 

 リュックからお菓子袋を取り出しながら、東京にいる目良さんに思いを馳せる。目良さんと買い物に行ったあの日、『こういうのも必要不可欠ですよ』と言ってくれた彼に感謝の念が絶えない。彼が教えてくれなければ、しおりに書いてないからとわたしは買うことを思いつきもしなかっただろう。

 お菓子を分け合って、食べ合って、取り留めもないことを笑って話して。そうしてわたしは感慨深くなって、小さく息をついた。

 

「……何だか、遠足みたい」

 

 学校に通えなかったわたしにとって、遠足なんて夢のまた夢だった。まさかわたしがこんな場所にいられるなんて、と何だか不思議な気持ちになってしまう。

 

「あっそうかも。みんなで一緒にどっか出掛けるって、テンション上がっちゃうよね。修学旅行とか! ず~っと起きて話そうっていって、結局はいつの間にか寝ちゃうんだよね」

「あるあるよね。お茶子ちゃんの修学旅行はどこだったの?」

「東京! 夢の国、楽しかったなあ……梅雨ちゃんは?」

「私は北海道よ。……ふふ、寒くて大変だったけど、今思えばそれも楽しい思い出だわ」

「ねー」

 

 にこにこと会話を弾ませていた梅雨ちゃんとお茶子ちゃんが、こちらに顔を向ける。

 

「愛依ちゃんはどこだったの?」

「、わたし?」

 

 話を向けられて、一瞬息を飲む。……少しだけびっくりした風を装って、何でもないように、そう、笑う。

 

「わたしは、修学旅行行けなかったんだ」

「えっ!? そうなん?」

「うん、熱出しちゃって……昔は少しだけ、“個性”の影響で体調を崩しやすかったから」

 

 嘘の基本は、本当を織り交ぜること。リアリティを持たせること。公安で受けた交渉術の訓練で、初歩の初歩として教わったことだ。これぐらいならわたしにもできる。問題なく、染み着いている。

 

「そうだったの……今は、大丈夫なのよね?」

「うん、もちろん。今は身体も丈夫になったし」

 

 ……それでも、眉を下げて心配そうにわたしを見つめる梅雨ちゃんを見ていると、申し訳なさがじわじわと胸の底を焦がす。こんなわたしが言えた義理ではないけど、そんな顔しないで、笑ってほしくて、わたしは努めて明るく笑ってみせた。

 

「だからこそ、今回の林間合宿が楽しみだったんだ。訓練はまあ……雄英だしキツいんだろうけど、それでもみんなと一緒にご飯食べて、お風呂入ったり寝たりとか、きっと楽しいだろうなって」

 

 そう言えば、梅雨ちゃんの頬もふわりとほころんだ。ケロリとした顔で、柔らかに頷いて。

 

「ケロ……そうね。この前のお泊まり会も楽しかったし」

「えー何!? 空中たちお泊まり会したのー!?」

「いいなあ、私たちも誘ってくれたらよかったのに!」

 

 “お泊まり会”という言葉に、前の前の席にいた芦戸さんたちが反応して、羨ましがる2人にお茶子ちゃんがいいでしょうと胸を張って。そんなみんなの笑い声に包まれながら、わたしは梅雨ちゃんと顔を見合わせて、また笑みを交わした。

 

 

 

 

 先日緑谷くんが死柄木に接触したことから、(ヴィラン)連合の目を欺くべく、雄英は例年の合宿場所を変更したという。バスに乗り込んでから1時間。指示されるまま下車したわたしたちの眼下に広がるのは、見渡すばかりの広大な森だった。

 

「休憩だー……って何ここ、パーキングじゃなくね?」

「あれ? B組は?」

「お、おしっこ……」

 

 わたしたちがいるのは、ちょっとした空き地程度の広さしかない崖の上。見るかぎりトイレも自販機も売店も何もない。何でこんなところでバスが停まったんだろう、B組がいないのは何故だろう、トイレはどこ……?、などなど、それぞれの思いでざわめくわたしたちに視線もくれず、相澤先生が呟くように言う。

 

「“何の目的もなく”では、意味が薄いからな」

「? それって、」

 

 どういう意味なのか。そう尋ねる時間はなかった。

 

「よーーうイレイザー!」

「ご無沙汰してます」

 

 ザッ──と現れたその人たちに、視線を奪われる。

 

「煌めく眼でロックオン!」

「キュートにキャットにスティンガー!」

 

 猫耳を模したヘッドセットに、肉球と爪を備えたモフモフのグローブ。フリルをふんだんに使ったミニスカートのベルトにも、猫の形のバックルが使われている。そんな“猫”を前面に押し出したヒーロースーツに身を包み、彼女たちはポップな口上とともにポーズを決めてみせた。そして、名乗る。

 

「「ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ!!」」

 

 わ、と驚きに目を見張りながら、情報を整理する。プッシーキャッツ──彼女たちのことは昔資料で読んだし、メディアにも出てたから知っている。赤茶のボブカットの女性がマンダレイ、金髪のロングヘアの女性がピクシーボブだ。……確かあとお2人いたはずだけど、と不思議に思っていると、相澤先生が彼女らをわたしたちに紹介した。

 

「今回お世話になるプロヒーロー【プッシーキャッツ】の皆さんだ」

「ワイプシ! 連名事務所を構える4名1チームのヒーロー集団! 山岳救助等を得意とするベテランヒーローだよ! キャリアは今年でもう12年にもなる、」

「心は18!!」

「へぶ!」

 

 緑谷くんの詳しい説明を聞いて、ああ間違ってなかったんだとひとり頷く。そうしてピクシーボブが緑谷くんに詰め寄っているのを苦笑混じりに眺めていると、……彼女らの後ろに立っている男の子に気づいた。

 夏らしい薄手のシャツに半ズボンを履いた、まだ5、6歳に見える小さな男の子。2つのとんがり角が生えた帽子は年相応って感じで可愛いけれど、その目つきの鋭さが、どうにも気にかかって仕方なかった。

 

「……あの、こんにちは」

 

 挨拶したわたしに一瞬びくりと肩を揺らして、それから強く睨み付けてきた。そんな男の子に掛ける言葉を見失って、わたしは口をつぐんでしまう。

 

「洸汰」

「……フン!」

 

 洸汰、が名前だろうか。男の子は顔を思いきり背けてそっぽを向いてしまった。そんな男の子をマンダレイは目を細めて見つめた後、何事もなかったかのように笑みを浮かべる。

 

「ここら一帯は私らの所有地なんだけどね」

 

 彼女は崖際に歩み寄り、猫の手グローブで森の向こうを指差き。

 

「あんたらの宿泊施設はあの山の麓ね」

「「「遠っ!!」」」

 

 障子くんの複製腕ならいざ知らず、わたしの目には豆粒程度も見えやしない。ここから何kmぐらいあるのだろう、などと考えているうちに、はた、と瞬きひとつ。

 

「……え? じゃあなんでこんな半端なとこに……?」

 

 お茶子ちゃんの疑問に、クラス全体がざわついた。みんなはっとして顔色を悪くしたり、口許をひくつかせたりしている。

 

「いやいや……」

「まさかそんな、ねえ?」

「……バス……戻ろうか。な? 早く……」

 

「今はAM9:30。早ければぁ……12時前後かしらん?」

 

 ぺろり、と舌なめずりするような声色で、マンダレイが微笑む。それはとっても綺麗ではあったけれど、嫌な予感は加速していく……!

 

「ダメだ……おい……!」

「戻ろう!」

「バスに戻れ! 速く!」

 

 切島くんが叫ぶように言って、わたしもバスに向けて走り出そうとした。踵を返すその瞬間、ピクシーボブの姿が視界の端によぎる。彼女は青いフリルスカートをふわりと揺らしてしゃがみこむと、両手を地面に着けた。

 

「12時半まで辿り着けなかったキティはお昼抜きね」

 

 その言葉の意味を知るより早く、地面が揺れた(・・・・・・)。ピクシーボブが触れている場所から土砂が盛り上がり、津波のようにわたしたちに覆い被さって──

 

「悪いね諸君」

 

 相澤先生のニヒルな声が、やけに大きく聞こえた。

 

「合宿はもう──始まってる」

 

「「「ッウワアアアアア!!!??」」」

 

 その言葉を最後に、わたしたちの身体を土砂が押し流した。視界と動きを制限される中でふわりと感じた浮遊感。崖から追い落とされる!とわたしは無我夢中で翼を動かして飛び上がった。

 

「げほっ……」

 

 口の中に入った砂利を吐き出しながら、上空から辺りを見渡す。ピクシーボブを中心に発生した土石流に、わたしと、同じように黒影(ダークシャドウ)で上空に逃れた常闇くん以外は飲み込まれてしまったようだ。みんなの姿は──見当たらない。きっと森の中へ落ちてしまったんだ……!

 

「みんな……!」

「おっ、そうだ」

「!? ぐえっ!」

「ぐっ!?」

 

 みんなの元へ向かおうとしたわたしたちを、相澤先生の捕縛布が捕らえる。先生は『ああそういえば』といったような気軽な声色だけど、急ストップを掛けられた衝撃と捕縛布の巻きつきがきつくて、若干お腹の辺りがグロッキーです先生……。

 

「っな……何をするんですか相澤先生……」

「おまえらは飛べるからな。やろうと思えば森のトラップを飛び越して施設まであっという間に行けるだろう」

「トラップ……?」

「そうだ。選ぶといい」

 

 相澤先生は問う。このまま飛んで楽に行くか。──トラップがあると知っていても、森を選び、苦難を乗り越えるか。

 

どうする(・・・・)?」

 

 口の端を吊り上げるその笑みは、悪どい。ずるい。

 ……だってそんな風に訊かれたら、答えなんてひとつだ。

 

「~~やらせていただき、ます!」

「無論、苦難の道を選ぶ!」

 

 若干ヤケクソ気味に答えたわたしたちに、相澤先生はどこか満足そうにひとつ頷く。そうして、

 

PLUS(プルス) ULTRA(ウルトラ)。──良き受難を」

 

 いつもの激励を淡々と口にして、捕縛布を解く。

 それと同時に頭上から降ってきた土砂に押し流されて、わたしたちの林間合宿は幕を開けた。

 

 

51.少女、合宿へ行く。

 

 


 

 物間くんの台詞と扱い楽しいんですけど難しい……物間くんはイヤミな奴ではありますが嫌な奴にはしたくないんですよね。ですが匙加減がどうもアレなので、もし違和感がありましたら仰ってください。

 

 やっとここまで来ました林間合宿編!前半部分ではA組B組の面々との関わりをなるべく書いていけたらなあと思っています。また次回も読んでいただければ嬉しいです。



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52.少女、魔獣の森を抜けて。

 

「げほ、ぷはっ、うええ……」

「無事か、空中(そらなか)

「大丈夫だけど……っ口の中がじゃりじゃりする……」

「オーっ! ココ暗くテイイナ!」

黒影(ダークシャドウ)は元気だね……」

 

 自分から森を選んだんだから、わざわざ土砂を降らさなくてもいいのに……、なんて不満を飲み込んで辺りを見渡した。さっき上から見ていた通り、鬱蒼とした森が広がっている。分厚い葉っぱの波に遮られて、太陽の光があまり届かず、薄暗い。

 

「私有地につき“個性”の使用は自由だよ! 今から3時間! 自分の足で施設までおいでませ!

 この……“魔獣の森”を抜けて!」

 

 マンダレイの明るい声に似合わないその単語に、思わず声が裏返る。

 

「ま、魔獣の森……?」

「…………」

「……、常闇くん、テンション上がってる?」

「! 否……! このような些事で心を揺らすなど笑止!」

「そう? ……そうかなあ」

 

 常闇くんは否定するけれど、その赤色の目がどこか輝いているような気がした。黒影(ダークシャドウ)と常闇くんは別個の意思を持っていると聞いてはいるけれど、心情がリンクすることもあるのかもしれない。そわそわしている常闇くんとワクワクしている黒影(ダークシャドウ)を見ていると、何となくそんな気がした。

 こんな風に、お気楽な会話をして、お気楽なことを考えていたけれど、そんな暇はないんだと思い知らされた。ぱき、と木の枝を踏みながら現れたソレ(・・)に。

 

「……ああ、なるほど……“魔獣の森”ってそういう……」

 

 見上げんばかりの巨体は、ざっと4mほどあるだろうか。四つ足をついている姿勢は野生動物を思わせるけれど、動物にあるべき毛皮どころか、目も鼻も耳も無かった。その代わり、人ひとり簡単に飲み込めそうなぐらい大きく空いた口には、鋭い牙が並んでいる。およそ自然界に存在しないクリーチャーは“魔獣”といって差し支えないだろうなと、遠い目をしながら思う。

 

「この魔獣……土で創られている!」

「みたい、だね!」

 

 振り上げた前足から溢れ落ちた土くれを見るかぎり、この魔獣をつくったのはピクシーボブだろう。確か彼女の“個性”は【土流】。土石流を生み出して足場を操作する他にこんな使い方もできるんだなと感心しつつ、魔獣の攻撃をバックステップで避ける。トンっと跳躍して宙に浮きながら、思考を巡らせた。

 目や鼻、耳といった感覚器官が無いのにどうやってこっちを捕捉して襲ってきているのかわからない以上、羽根による目眩ましや撹乱は意味を成さないだろう。だったらやることはひとつ。シンプルだ!

 

「……やあっ!」

 

 全体重を支えている後ろ足を狙って、羽根の弾丸を放つ。わたしの羽根にそこまでの威力は無いから、破壊ではなくバランスを崩すことが目的だった。けれど土魔獣は案外脆かったらしく、弾丸を受けたその両足から崩れ落ちていく。

 あれ、と瞬きひとつ。思ったよりも柔かったそれに、ああアカデミー生であるわたしたちに合わせて耐久性を低くしているのかもしれない、と思い至ると同時に、ある考えが頭によぎった。

 わたしの羽根でこれなら、常闇くんと黒影(ダークシャドウ)は──

 

「マダ! オワランゾォォォ!!」

 

 咆哮に視線を吸いとられ、そちらを見る。するとそこでは黒影(ダークシャドウ)のひとふりで土魔獣が横薙ぎに吹っ飛ばされて、引っ掻かれて、押し潰されて……うん、こういうの何ていうか知ってる。“オーバーキル”っていうんでしょう?

 

「見事に粉微塵……いっそすがすがしいね」

「フン……他愛ない」

 

 常闇くんは何でもないようにクールに振る舞うけれど、圧倒的な攻撃力は頼もしいの一言だ。さすがだねと笑いかけた時、遠くの方でドォンと派手な爆発音がした。他にも色んなところから喧騒が聞こえてくるから、みんなあの土魔獣と交戦しているのだろう。質より量を重視した結果があの脆さなら、納得がいく。……でもいくら脆いとはいえ、A組のみんながみんな攻撃に適した“個性”じゃない。

 

「みんなをアシストしながら、」

「施設まで行く。……だな」

「うん!」

 

 意図を汲み取ってくれた常闇くんに頷き、頷き合って、わたしたちは同時に飛び立った。上は幾重にも折り重なった枝や葉っぱで塞がれてるから、低空飛行で木々の間をすり抜けていく。そうしてしばらく行くとみんなの姿が見え出した。みんな、それぞれの“個性”で土魔獣に相対している。

 視線を巡らせる。緑谷くん、爆豪くん、轟くん、飯田くんの姿は確認できなかった。攻撃力と機動力を兼ね揃えた彼らだから、きっともう先に行っているのだろう。彼らは心配しなくていいと判断して方向転換。羽根を降らせて土魔獣の手足を砕く。

 

「! 助かりましたわ空中さん!」

 

 動きを封じた魔獣に追撃し、それが完全に沈黙したのを見てとって、わたしは八百万さんの傍に降り立った。彼女は薄く汗をかいて肩で息をしている。疲労しているようなのは、恐らく、

 

「八百万さん、何か創ろうとしてるんだね?」

「ええ、ですが魔獣の波状攻撃が続いていて……それを防ぐための小物を【創造】すると、元々創ろうとしていたものはリセットされてしまうんですの」

「そうなんだ……」

 

 ありとあらゆる万能“個性”にも、大抵弱点や副作用は存在する。八百万さんの【創造】もそうなんだなと頷く。そうこうしているうちに重たい足音が近づいてきて、わたしは彼女の前に庇い立った。

 

「じゃあ……八百万さんは【創造】を続けてくれる? わたしが時間を稼ぐよ」

「……すみません、申し訳ないです」

「ううん。その、ほんとに気にしないで」

 

 八百万さんが俯く必要なんてない。そう伝えたくてわたしは笑った。思い浮かべるのは、期末試験での一件。

 

「『時間さえあれば、私たちの勝ち』」

 

 あの時。相澤先生を相手に八百万さんが言った言葉。それを思い出したのか、八百万さんの黒曜石の目が瞬いた。

 

「あの時の八百万さん、とっても頼もしくて格好よかったもの。最善策を考えて、【創造】して、突破口を開く──そのための準備とか時間稼ぎなら、わたしにもできるから」

 

 わたしも頑張るから、お願いね。そう言ったわたしに、八百万さんはその目を閃かせた。決意と、自信に。

 

「ええ、お任せください!」

 

 そこにはもう、自信を無くして俯く女の子はいない。勝ち気な眼差しに、口許には微笑。それがとても頼もしくて、わたしは笑って視線を前に戻した。迫り来る魔獣に対し硬化させた羽根を飛ばす。

 魔獣は相変わらず脆いけれど、数は多い。わたしはよく手持ちの羽根を使いきって失敗することが多い。それは公安での訓練で身に染みていたから、放った羽根の回収は優先して行った。羽根で土魔獣を貫き、砕き、回収しつつ次に備える。

 幾つかの魔獣を土に還した時、ふと、視界の端から短い悲鳴が聞こえて、わたしは咄嗟に羽根を向かわせた。硬化はさせない。柔らかいままのそれは、カーペット状になってその子を受け止める。

 

「透ちゃん! 平気? 怪我は?」

愛依(あい)ちゃん~~! 怪我は大丈夫! ありがとう!」

 

 魔獣の間合いから引き離し、自分の傍に寄せる。透ちゃんは明るい声でお礼を言ってくれた。羽根から降りた彼女を背に庇い、ほっと安堵の息をつく。透ちゃんの“個性”【透明人間】は隠密性に優れた唯一無二のものだけれど、面と向かっての戦闘だとやや分が悪い。だからこうして合流できたことに胸を撫で下ろしていた、そんな時。

 

「──できた!」

 

 背後からの声に振り向くと、八百万さんが制服のスカートをたくしあげていた。下着が見えたわけではないけれどだいぶギリギリなそれにストップを掛けようとして、言葉を飲み込む。剥き出しになった太ももからにゅるり(・・・・)とタイヤが出てきたからだ。前輪、そして比較的スリムなボディに後輪。その全貌が現れて、わたしは呟くように言った。

 

「……バイク?」

「その中でもモトクロスなどで使われる、所謂オフロードバイクですわ!」

 

 八百万さんはスカートの裾を払いながら颯爽とバイクに乗った。大物(バイク)の前に創っていたのだろうグラス付きのフルフェイスヘルメットを被りながら、エンジンを入れる。

 

「ちょうどよかったですわ、葉隠さん、私の後ろに同乗していただけますか? そしてこれを追従する魔獣に向けて投げてほしいのです」

「何これ? マトリョーシカ?」

「中身は私特性の閃光弾ですわ」

「ああ、これ、期末試験で創ってたやつ?」

「ええ。しかしそれから少し改良を加えて、聴覚障害を引き起こすまでいかなくとも、派手な音が鳴るようにしてあります」

 

 わたしの質問に答えながらも、八百万さんは絶えず【創造】を続けていた。透ちゃんの分のヘルメットに、わたしにはゴーグル。閃光弾による眩惑効果を防ぐものなのだと、すらすらと説明は続く。

 

「空中さんには私たちの前を先行して飛んで、なるべく他の方々がいない道を選んでいただきたいのです」

「他のみんながいない道? それはどうして?」

「閃光弾による光と音で他の魔獣を引き付け、皆さんの進行ルートを確保するためです」

「!」

 

 八百万さんは、今ここにいる自分たちが施設に行くことだけを考えているのではなかった。広く視野を持って、クラスみんなの無事を考えていた。これが彼女の、最善策。

 わたしは感心と尊敬の念とともに、強く頷いた。

 

「うん……! わかった、先導は任せて」

「私も私も! ぽいぽい投げちゃうよー!」

「助かりますわ!」

 

 意気込むわたしたちに微笑んで、八百万さんはブォンとエンジンを噴かした。前に進み出るわたしと後ろに乗り込む透ちゃんを見て、声を張り上げる。

 

「発車いたしますわよ! 準備はよろしいですか?」

「ばっちりです!」

「オッケー! いつでもどんとこい!」

「では……行きます!」

 

 合図の声とともに、翼を打ち鳴らして進む。「まずは景気付けに一発どうぞ!」「よしきた!」なんて会話が後方から聞こえてきたと思ったら、一拍置いて炸裂する衝撃音。びりびりと振動が木々を震わせる。羽根を幾つか前方に飛ばすと、振動を感知してか魔獣がこちらにやって来る足音を拾った。よし、と気合いを入れ直す。

 

「八百万さん! 右方から何匹か来てる!」

「了解! 左方向へ行きましょう!」

「わあ、後ろからも魔獣いっぱい来てる! 第2弾いっくよー!」

 

 飛んで感知してまた飛んで、バイクも悪路を跳んで跳ねては閃光弾をぶっぱなす。作戦のために遠回りの道を選んだことや、そもそもの距離が長過ぎたせいもあって、わたしたちが施設に辿り着いたのはみんなと同じ、カラスが鳴く夕闇迫る頃だった。施設の時計は5時を指していたから、約7時間弱もの間森を爆走していたことになる。

 

「なんかあんたらのとこだけ爆音すごかったからさ、映画みたいなドンパチ始まったかと思っちゃった」

「うむ……何事かと思ったな」

「あはは、ごめんねー」

「ご心配お掛けしました……」

 

 夕食の席でそう話す耳郎さんに、障子くんが深々と頷く。特に聴力に長けた2人だから、意図して距離を置いたとはいえ大変だったのだろう。頭を掻く透ちゃんの隣で、わたしも苦笑いを浮かべた。そんなわたしのもう片方の隣では、八百万さんがぐったりと項垂れている。

 

「うう……」

「本当にお疲れさま、八百万さん……だ、大丈夫?」

「ええ……はい……」

「少しは効果あるかな……治癒しておくね」

 

 そっと彼女の肩に触れて、エネルギーを送り込む。わたしのこれは【自己再生】のエネルギーを【譲渡】する仕組みだから、怪我や病気ではない脂質の喪失に効果があるのかはわからない。それでも何かしたくて触れ続けていると、八百万さんの目がゆっくりと瞬き、目にハイライトが戻ってきた。脂質の喪失が“欠損”にカウントされて【自己再生】の対象となったのか、どうやら効果はあったみたいだ。ほっと息を吐くと、微笑む八百万さんと目が合った。

 

「まあ。ありがとうございます、空中さん」

「ううん、そんな。一番大変だったの八百万さんだもの。これぐらい当たり前だよ」

「そうそう! 功労者ってやつだよ! さぁどんどんお食べ!」

「まあまあ! ふふ、では遠慮なく、頂きますわ」

 

 透ちゃんが盛り付けたご馳走を前に、八百万さんは目を輝かせて箸を手に取った。色とりどりの野菜をふんだんに使ったサラダに、肉料理や魚料理まで並んでいる。このご馳走はプッシーキャッツの皆さんが用意してくれたようで、みんな歓声を上げながら口にしている。峰田くんなんかは泣いて喜んでるし、上鳴くんと切島くんは「美味しい!米美味しい!!」「土鍋……土鍋ですか!?」と変なテンションになってるし。

 

「まー色々世話焼くのは今日だけだし、食べられるだけ食べな」

 

 ……ピクシーボブの言葉に嫌な予感がするけれど、うん、今は気にしないでわたしもご飯を楽しもう、と箸を取る。

 豚の角煮はよく味が染み込んでいて、口の中でふわり、じゅわっととろけた。一緒に煮込んであった大根も柔らかく、鷹の爪の辛みがアクセントになっている。ポテトサラダにらっきょうが入っているのは初めてでびっくりしたけれど、プチプチとした食感が楽しく、らっきょうの爽やかな風味がじゃがいものクリーミーさを引き立てるようで、思わずおかわりしてしまった。目の前の大皿に並ぶどの料理も本当に本当に美味しくて、どんどん箸が進んでいた、そんな時。──小さな、本当に小さな溜め息を羽根が拾った。それはこの喧騒の中、きっと耳だけでは聞こえなかっただろう。それぐらい微かなもので。

 

「……透ちゃん、どうかしたの?」

「えっ、あー、と、……聞こえた?」

「うん、ごめんね」

「謝んなくていいよ! というか、こっちこそごめんね」

 

 その溜め息の発生源である透ちゃんは、たはは、と頬を掻く仕草をした。その顔は“個性”の影響で見えないけれど、きっと悲しげな苦笑を浮かべているのだろうなと、声の調子でわかる。

 

「なんかさ、今日は愛依ちゃんと百ちゃんに頼りっぱなしだったなあって思ったんだ。私の“個性”はこんなだし、戦闘とか、移動とか、みんなのために何かするとか……そういうのは難しいって、割りきってるつもりなんだけどねぇ」

 

 今日のあの魔獣の森を抜けた時、終始明るく振る舞っていた透ちゃんだけど、笑顔の裏でこんな風に思っていたんだ。確かに八百万さんの“個性”は万能で、それを目の当たりにして色んなことを思うのも当然かもしれない。八百万さんの“個性”と透ちゃんの“個性”は違う。やれることだって変わってくるだろう。……でもそれは、悲観することなんかじゃないはずだ。

 

「透ちゃんは【透明人間】だから、スニーキングに秀でてる」

「うん、まあそれは、」

「それだけじゃない。相手に視認されないってのは、戦闘にも活かすことができるよ」

「へっ?」

 

 透ちゃんの声に疑問符が浮かんでいる。だからわたしは続けた。透明だということは、相手に視認されないということ。こちらが繰り出すパンチとかキックとか、攻撃の挙動を相手に読ませないということ。それは相手のガードを崩して攻撃を与えたり捕縛したり、絶対に役に立つと思う。

 そう力説するわたしに、斜向かいに座っていた尾白くんが同意した。ぱたぱたとその尻尾が揺れている。

 

「確かに! 葉隠さんって身体も柔らかいし、バランス力もあるし、足技なんかいいんじゃないかな。ホラ体育祭のチアの時、すごい体勢で飛び跳ねてたし」

「……見てて(・・・)くれたんだ」

 

 ぽつりと呟いた声に、尾白くんは何とはなしに頷く。彼にとっては当たり前のことも、多分、透ちゃんにとっては当たり前じゃない。えへへ、とこぼれた笑い声は、本当に嬉しそうだった。

 

「愛依ちゃんも、尾白くんもありがと! ふっふっふ、足技かあ……新生インビジブルガール爆誕の予感!」

 

 もーっと格好よくなっちゃうかもね?、と笑う透ちゃんに、尾白くんも八百万さんも笑う。みんなの笑い声が響く、あたたかい食卓。それにわたしも一緒にいられることが嬉しくて、頬が緩んでしまう。

 

「──くだらん」

 

 と、そんな時。そんな呟きを羽根が拾う。視線を向けると、1人の男の子が険しい眼差しでこちらを見ていた。ばちんと視線が絡んで、ふいっと逸らされる。男の子は──洸汰くんはこちらに背を向けて、野菜の入った段ボール箱を手に部屋を出ていってしまった。

 

(……洸汰くん、)

 

 その小さな後ろ姿に、この宿泊施設に辿り着いた時のことが脳裏によぎる。

 

 

『ずっと気になってたんですが、その子はどなたかのお子さんですか?』

『ああ違う、この子は私の従甥だよ。

 洸汰! ホラ挨拶しな、1週間一緒に過ごすんだから……』

 

 緑谷くんが尋ねて、マンダレイが答える。彼女に促されて俯きながら進み出た洸汰くんに、緑谷くんは軽く身体を屈めて右手を差し出した。

 

『あ、えと僕、雄英高校ヒーロー科の緑谷。よろしくね』

 

 柔らかな笑顔。柔らかな声。握手しようと差し出された手は、けれど取られることはなかった。洸汰くんはなんと、……何て言ったらいいのか、うん、緑谷くんの急所を強かに殴り抜いたのだ。

 

『きゅう』

『緑谷くん! おのれ従甥! 何故緑谷君の陰嚢を!!』

 

 小さく悲鳴を上げて緑谷くんは倒れた。彼を心配して飯田くんが生真面目に声を張り上げるも、洸汰くんは見向きもしない。その場を歩き去りながら、吐き捨てるように言った。

 

『ヒーローになりたいなんて連中とつるむ気はねえよ』

 

 その横顔はあまりに険しかった。このヒーロー飽和社会で、ヒーローに対して否定的な人も当然いる。でもその中でも、この男の子が持つ嫌悪感は相当根深いものだと感じた。ただ「嫌い」とか「気に食わない」とか、そんなものだったらまだよかったけれど──洸汰くんの目に、どうしようもない悲しさを感じてしまう。

 

 

(何か、あったのかな……)

 

 何の理由もなく、あんな顔をするなんて思えない。でもどうしたらいいかわからず、そもそも踏み込んでいいかすらわからない。だからもやもやした気持ちを抱えたまま、わたしは水を一気に飲み込んだ。

 

 

 

 外へ通じる引戸を開けると、ひんやりと冷えた夜気と一緒に湯気を顔に被った。ふわりと香る独特な匂いを、深く吸い込む。ぺたりと足に伝わる石造りの感触や、装飾として植えられている松などを見ると、昔ながらの日本庭園といった感じだった。

 

「わあーーー!」

 

 宿泊施設には、なんと露天風呂まであった。たたたと小走りで駆け寄る芦戸さんに、危ないわよと声を掛ける梅雨ちゃんも、顔が嬉しそうに綻んでいる。

 

「まさか合宿に来て温泉入れるなんて思わんやった!」

「プッシーキャッツ様々だねぇ」

「ねー……気持ちいいねぇ」

「ホント、サイコーだわ……」

 

 少し熱いくらいのお湯が、身体をほぐしてくれる。お茶子ちゃんと梅雨ちゃんの目が蕩けているのを見て、わたしもふあ、と深く息を吐いて気持ちよさに浸っていた。

 そんな時。耳郎さんが顔を上げた。その目はじろりと壁を──男湯の方を睨んでいる。

 

「耳郎さん?」

「あれ、どったの?」

「……嫌な予感がしてたんだよね」

 

 彼女はイヤホンジャックを揺らして、わたしたちに向けて人差し指を立てた。『静かに』の合図に、わたしたちは口をつぐむ。今はわたしも背中から羽根を外して桶に浸けているところだし、耳郎さんみたいに精密には聞き取れないけれど……それでも、あの(・・)声が聞こえてきた。

 

「ホラ……いるんスよ……今日日男女の入浴時間をズラさないなんて……事故……これはもう事故なんスよ……」

 

「峰田……」

「峰田くん……」

「やっぱクソだわあいつ」

 

 以前の更衣室の一件からまるで懲りてないらしい。こちら側では溜め息を吐いたり呆れたように顔をしかめたり、耳郎さんなんかは握り拳を震わせている。

 

「峰田君やめたまえ! 君がしていることは己も女性陣も貶める恥ずべき行為だ!!」

「やかましいんスよ……」

 

 飯田くんの制止も何のその、峰田くんは穏やかな声色でそんなことを言って、途端に口調を荒げる。

 

「壁とは超えるためにある!! PLUS(プルス) ULTRA(ウルトラ)!!」

「速っ……校訓を汚すんじゃないよ!」

 

「シメなきゃ」

「待っ……待って耳郎さん! 今裸だから……!」

 

 どうやらあの【もぎもぎ】で壁を登ってきているらしい。怒りに耐えかねた耳郎さんが立ち上がろうとしたのを押さえて、代わりに羽根を宙に浮かせる。まだちょっと湿っているけれど、峰田くんにお仕置きする程度なら余裕だと、壁の上方へと向かわせる。

 ──と、その時、壁の上にひょこっと小さな頭が覗いた。その子はこちらに背を向けて、男湯の方を見下ろして、

 

「ヒーロー以前にヒトのあれこれから学び直せ」

 

 そんな言葉とともに峰田くんを突き落としたのだろう。峰田くんの「くそガキィィィイ!!?」だなんて断末魔を背景に、賑やかな歓声が上がる。

 

「やっぱ峰田ちゃんサイテーね」

「ありがとー! 洸汰くーん!」

 

 わっと沸き上がった声に、思わず振り返ってしまったのだろう。洸汰くんは女湯を見下ろして、目を見開いた。

 だってお湯に肩まで浸かっているのはわたしと梅雨ちゃんくらいで、お茶子ちゃんたちは浸かる暇がなかったのか胸元を手で隠しているし、芦戸さんなんか岩の上に腰掛けて、その身体をさらけ出していて──

 

「わっ……あ……」

 

 あまりに衝撃的だったのだろう、洸汰くんは仰け反って、そのまま身体が、壁の向こうに落ちていく。

 

「危ない……!」

 

 咄嗟に羽根を向かわせるも、まだわたしはホークスみたいに、聴覚のみで対象の場所を感知して羽根を動かすことは慣れてない。洸汰くんが着ていた服の僅かな衣擦れを追うも、向こうでドンガラガッシャンと大きな音がしたものだから、完全に見失ってしまった……!

 

「洸汰くん、洸汰くん!?」

「空中さん、大丈夫だよ……!」

「、緑谷くん?」

 

 緑谷くん曰く、落ちてきた洸汰くんは緑谷くんが受け止めてくれたらしい。どこも打ってはいないけれど、鼻血も出てるし気を失ってるみたいだから、マンダレイのところへ連れていってくると。それを早口で言って、緑谷くんはバタバタと浴室を出ていった。……とりあえず頭を打ってないなら大丈夫かなと、ほっと胸を撫で下ろす。

 

「よかっ……へっくし!」

「あらくしゃみ」

「身体が冷えてしまったのではないですか?」

「もっかいあったまりなおそーよ!」

「うん、そうする」

 

 みんなに頷いて、もう一度湯船に浸かる。温かいお湯の中でほうっと息をついた。

 これから始まる合宿──洸汰くんのヒーロー嫌いの理由とか、気になることはあるけれど──それでもこうしてみんなと協力して、ご飯を食べて、お風呂に入って。一緒に過ごす時間が楽しくて、ふふと笑みが溢れる。空を見上げると満点の星空がこちらを見下ろしていた。きっと明日もいい天気だろう。いい日になると、そんな予感に、わたしは目を伏せて微笑んだ。

 

 

52.少女、魔獣の森を抜けて。

 

 


 

 ヤオモモみたいな高身長グラマラス美少女が果敢にバイクを乗り回すの見たくない?筆者は見たかったので書きました。今回は普段あまり絡めてない女の子と絡めて書いててめちゃくちゃ楽しかったです。そして葉隠ちゃん強化フラグ。葉隠ちゃんのみならずA組の面々は少しずつ強化していきたい所存。

 

 最後になりますがUA、お気に入り登録などなどいつもありがとうございます!基本的に平日は忙しいため亀更新となってしまいますが、また読んでくだされば嬉しいです。



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53.少女、コイバナをする。

 

「お早う諸君」

 

 山際から朝日が昇り始めるAM5:30。髪のセットが間に合わなかったのかいつもと違う感じの青山くんに、目がしょぼしょぼしてる梅雨ちゃん、寝癖をつけたお茶子ちゃんに、欠伸を漏らしている耳郎さん。常闇くんは普段通りしゃきっとしているけれど、みんな寝起きでどこかぼうっとしていて、わたしもまだ開けきらない目を擦っている。

 

「本日から本格的に強化合宿を始める」

 

 そんなわたしたちを見渡して、相澤先生は淡々と告げた。

 

「今合宿の目的は全員の強化及びそれによる“仮免”の取得。

 ──具体的になりつつある敵意に立ち向かう為の準備だ。心して臨むように」

 

 “具体的になりつつある敵意”……(ヴィラン)連合のことを、彼らが蠢いている現実をストレートに突きつけられて、わたしはハッとして拳を握り締めた。眠気はもう吹き飛んでいる。他のみんなも顔を引き締めて、ごくりと唾を飲んでいた。

 

(立ち向かわないと、いけない……)

 

 わたしだけじゃなく、みんなそう思ってるんだろう。相澤先生を見るその眼差しに、緊張と決意が窺えた。

 

「と、いうわけで爆豪、こいつを投げてみろ」

 

 そんな空気を知ってか知らずか、相澤先生は普段通りだ。淡々とした仕草で爆豪くんにボールを放る。

 

「これ……体力テストの」

「入学直後の記録は705.2m……どんだけ伸びてるかな」

 

 入学式に出ずに行われた“個性”把握テスト。その時のハンドボール投げに使われたボールだった。“あの時”からどう変わっているか──その期待にみんなが声を弾ませる。

 

「おお! 成長具合か!」

「この3ヶ月色々濃かったからな! 1kmとかいくんじゃねえの!?」

「いったれバクゴー!!」

「……んじゃよっこら、」

 

 わいわいと賑やかな歓声を受けながら、爆豪くんはぐるぐる腕を回してストレッチ。そうして思いきり振りかぶった。ちらりと見えた口許は、口角がつり上がっていて。

 

「くたばれ!!!」

 

 ……うん、まあ、なんというか、掛け声も爆豪くんなのは相変わらずというか。確か前回の時もそうだったような気がするなあと、隣の梅雨ちゃんと苦笑を交わす。

 前回の時も、デモンストレーションは爆豪くんだった。前回と同じシチュエーションに、同じような掛け声。……けれどまさか、記録まで同じようになる(・・・・・・・・・・・)なんて、わたしは思いもしなかった。

 

「──709.6m」

 

「!?」

「……あれ? 思ったより……」

 

 相澤先生が読み上げた記録に、みんな驚きや困惑の色を隠しきれない。かくいうわたしもそうだ。前回から僅か4mほどしか伸びていないなんて信じられないけれど、先生が示して見せた計測器にはその数字が映し出されている。

 

「約3ヶ月間……様々な経験を経て、確かに君らは成長している」

 

 “個性”把握テストにUSJで起きた襲撃事件、体育祭、職場体験に、期末試験……そうしたイベント事に限らず、日々の戦闘訓練や救助訓練も重ねてきた。

 

「だがそれはあくまでも技術面や精神面、あとは多少の体力的な成長がメインで、“個性”そのものは今見た通りそこまで成長していない。

 だから──今日から君らの、“個性”を伸ばす」

 

 でもそれでは足りないのだと、先生はニヒルに微笑んだ。

 

「死ぬほどキツいがくれぐれも……死なないように」

 

 

 

 そんな不穏な言葉とともに始まったのは“個性”伸長訓練。……言ってしまえば“地獄絵図”だった。“個性”は身体機能の1つで、筋肉や脳と同じで使えば使うほど強くなる。だから使いまくれと、いっそヤケクソなほどシンプルな理論で掲げられた訓練は、シンプルなだけに、きつかった。

 爆破を、氷を、雷を、テープを、レーザーを、ひたすら射出する人もいれば、尾っぽやイヤホンジャックを硬いもの──硬化した切島くんに打ち付けている人もいる。常闇くんは『暗闇下の黒影(ダークシャドウ)を従える』と言って暗い洞窟に入っていったし、口田くんは崖の上で声を振り絞って発声練習をしている。八百万さんや砂藤くんは脂質や糖分といった食物エネルギーがそのまま“個性”の使用上限に関わってくるからか、山のようなお菓子を食べながら延々と“個性”を発動し続けていた。

 

「……まさに地獄絵図……」

 

 みんな苦しそうに顔を歪めながら訓練に取り組んでいる。そんな状況を眼下に見守りつつ、わたしは上空を飛んでいた。各地に羽根を飛ばしてあるから、「ぎゃあああ」「痛ぇええええ」「クソがぁぁあ」とひっきりなしに上がる悲鳴を聞きながら。

 羽根を同時に、複数枚をそれぞれ別に操作する──羽根が増えれば増えるほど多くの並行処理が発生し、それに耐えきれない脳が頭痛を訴え、ついにはシャットダウンしてしまう。それがわたしの弱点なのは夏休み当初から変わりない。I・アイランドで出会った最上(もがみ)博士がその負担を和らげるサポートアイテムを作ってくれているけれど、そもそもの許容量を増やしておくに越したことはないだろう。

 だからわたしは、上空を飛び続けて耐久力の向上を図り、みんなの元に羽根を飛ばして音で複数の状況を把握する──これを同時に行うことにした。もし何らかの異変を羽根がキャッチすれば、直ぐ様駆けつけて救助や治癒を施す……こうすればわたしの“個性”を満遍なく鍛えられると思ったのだ。

 

「うっぷ、……っわあ!」

 

 そして、今まさに悲鳴が聞こえてきた。振り返りざまに羽根を羽ばたかせ、そちらに急降下する。【土流】で形成された斜面を、人間大のボールが転がり落ちている。そのボールがぽんと跳ねてコースから外れた森へ落下していくのを、飛ばした羽根で受け止めた。

 

「だ、大丈夫お茶子ちゃん……?」

「あ~~……愛依(あい)ちゃんだあ……」

「うん、だいぶキてるね」

 

 人間大のボール……バンパーバブルボールのようなものにすっぽり入ったお茶子ちゃんは、顔色悪くへにゃりと笑った。彼女の“個性”は【無重力】。色んなものの重力を無くして浮かせることができるけれど、自分自身を浮かすとなると勝手が違うらしく、すぐに気持ち悪くなってしまうのだとか。その許容量を上げるべく酔っても酔っても“個性”を発動し続けているらしく……うん、見ただけでだいぶグロッキーなんだとわかる。

 でも「無理しないで」とは言えない。言わない。そういう訓練なのだし、頑張ると決めたのはお茶子ちゃんなのだから。だからわたしはボールの中に手を差し込んで彼女の手に触れた。少しでも力になれればと、エネルギーを送り込む。

 

「っはあ~~~……うん、元気でた! ありがとー」

「よかった、……お互い頑張ろうね」

「うんほんまにね……愛依ちゃんも頑張って」

 

 にこっと笑って、お茶子ちゃんは浮かしたボールを抱えながらまた坂の頂上に向かって登り始めた。その背中を見送って、わたしも気合いを入れ直す。ぱちん、と両頬を叩いて、翼を広げた。

 

 

 そうして飛び続けてふと見下ろすと、B組のみんなが訓練に参加し始めるところだった。拳藤さんが「私たち40人それぞれの“個性”を、たった6人で管理できるのか」という疑問を口にして、それに答えるべく彼女らは現れた。

 

「煌めく眼でロックオン!」

「猫の手手助けやって来る!」

「どこからともなくやって来る……」

「キュートにキャットにスティンガー!」

 

「「「「ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ!」」」」

 

 前回はマンダレイとピクシーボブの2人バージョンだったけれど、今日は本来のメンバー全員が揃ったフルバージョンだった。揃いの猫を模した赤と青のヒーロースーツ。そこに更に、茶色と黄色が並んでいる。

 

(茶色のヒーロースーツが、虎さん。“個性”は【軟体】)

 

 今も緑谷くんたち増強型“個性”の面々を相手取りスパーリングしている、筋骨隆々でマッシブな方だ。そしてもう一人。黄色のフリルスカートと緑色のロングヘアを揺らしながら笑っている、彼女が──

 

(──ラグドール)

 

 昨日バスを降りて現れたのがマンダレイとピクシーボブだったから、わたしは安堵した反面、不安に駆られた。ラグドールがいなくてよかったと思う気持ちと、彼女のあの目(・・・)に見られたらどうしようと思う気持ちを抱えた。

 何故ならラグドールの“個性”は【サーチ】。その目で捉えた人物の情報を見通すという。居場所も、弱点も、

 

(きっと、その人の“個性”が何であるかも……)

 

 その精度の程はわからないし、何らかの制限があるかもしれない。こちらで打った手(・・・・・・・・)が通じるかもしれない。でも──わたしの隠してきた本当の“個性”を暴く可能性だって、十分にある。

 

 わたしは唇を噛み締めて、ラグドールに背を向けた。彼女から距離を取れば、なんて小細工が通用するかはわからなかったけど、それでも今のわたしにはそうするしかできなかった。

 

《……空中(そらなか)さん、ちょっといい?》

 

 だけどやっぱり、そんなわたしの子ども騙しで、プロヒーローの目を欺くことはできなかったみたいで。

 

《ラグドールとイレイザーヘッドから話があるそうよ。宿泊施設のロビーに向かってくれる?》

 

 マンダレイの【テレパス】が脳裏に響く。息を吸い込もうとして上手くできず、歪な音が鳴った。深く、長く息を吐き出して、胸元を握り締める。……こうなってしまえば、もう行くしかない。

 

 

「あ、来てくれてありがとにゃん!」

 

 意を決して、宿泊施設のドアを開けたわたしを、ラグドールは明るく笑って出迎えた。彼女が勧めるソファーの向かいには、相澤先生が腕を組んで座っている。会釈し、緊張しながら腰を下ろすと同時に、ラグドールは切り出した。

 

「早速で悪いけど、ちょっと聞かせてほしいことがあって」

 

 彼女は猫の手グローブで、テーブル上の書類を指し示した。それは紛れもなくわたしが雄英高校入学時に提出した“個性”届。猫の爪が、その一部を指差している。

 

「あなたの“個性”、届け出は【治癒】と【翼】になってる」

 

 でもね、と続けるラグドールの目が瞬いた。その目がきょろりと、わたしを見据える。見透かす。

 

「あちきの(サーチ)には、【自己再生】と【譲渡】と【翼】って映ってるにゃん」

 

 それを聞いた瞬間──身体の強張りがほどけた。ほっとして緩みそうになった口許を慌てて結ぶ。それでも心の中で「よかった」という言葉が鳴り止まない。

 

(……わたしの本来の“個性”は、上手く隠せているみたい)

 

 I・アイランドに行って、最上博士のメディカルチェックを受けた後、わたしは彼に本来の“個性”を深く眠らせてもらった。彼の専門分野は“個性”の鎮静化──その技術で本来の“個性”を停止させ、他の活性化してる“個性”で上書きし、隠してもらった。それが上手くいったとわかって、内心胸を撫で下ろす。

 

「何故隠していた、空中」

 

 ……それでも、“個性”届を偽っていたことには変わりない。厳しい表情でこちらを見る相澤先生に、気を取り直して向き直った。膝の上に置いた握り拳に力を込める。……嘘を吐かなければいけないことには、変わりないのだ。

 

「……両親には、“個性”が3つもあるなんて気味が悪いと、言われました」

 

 それを口にした途端、静かな相澤先生の目が僅かに、けれど確かに揺らいだ。それを認めて、畳み掛ける。

 

「だから今、遠縁の親戚にお世話になっていて……その人たちにお願いして、“個性”届には【治癒】と【翼】って書いてもらったんです」

 

 本当に隠したい嘘を隠しておくためには、別の嘘を重ねた上で、剥がす。そこに僅かな真実を含めれば尚信憑性が増すのだと、公安の訓練で教わった。

 両親に気味悪がられたことは事実だし、両親と一緒に暮らしていないことも事実。……その他のことはほぼ嘘なのだけれど、相澤先生は信じてくれているようだ。その目が、案じるような色を滲ませている。

 

(……ああ……)

 

 相澤先生は、優しい人だ。リカバリーガールはいつだったか『何だかんだいって甘いのだ』と言っていた。普段は冷徹に振る舞うのに、そのくせ甘いくらい、優しい人。

 

「すみません、公式書類を偽装するなんて真似……でもおじさんたちは悪くなくて、全部わたしの、我が儘です……」

 

 そんな人に嘘を吐いて、自分の保身のために騙すなんて。わざとらしく落ち込んでみせる自分が嫌になる。顔を上げていられなくて俯く。これは演技でもあるけれど、それ以上に、先生と顔を合わせることが辛かった。

 

「……込み入ったこと聞いちゃったにゃん、……ごめんね」

 

 そんなわたしなのに、頭を撫でないでほしい。ラグドールの手は優しかったけれど、だからこそ、泣きたくなった。

 

「……おまえの事情はわかった」

 

 相澤先生はしばらくの沈黙の後、そう言った。顔を上げると、先生は静かな声で続ける。

 

「だが、この夏合宿が終わったら“個性”届を変更しに行くぞ。雄英では絶えず“個性”を鍛え続ける。その時そもそもの“個性”の実情を教師が把握できなければ、時間の無駄だ。合理的じゃない。それに……」

 

 静かな声が、労るような優しさを含む。

 

「……あいつらに“個性”のことを話しても、問題ないと思うがな」

「問題、ない?」

「ああ。きっと、偏見なく受け入れてくれるだろう」

 

 受け入れてくれる? ……本当のわたしの“個性”でも?

 

「……はい。……ありがとうございます」

 

 そうとは思えなかった。だって先生はヒーローで、みんなはヒーローになるために頑張っている人たちで。

 

 “ヒーロー”だからこそ、

 わたしの本当の“個性”は、受け入れられない。

 

 そんなもやもやした気持ちを隠したくて、だからわたしは、綺麗に綺麗に笑みを整えた。

 

 

 

 

 それから、色んなことがあった。夕方までぶっ通しで訓練し続けて、わたしたちはくたくたになった身体でカレーを作った。昨日ピクシーボブが『世話を焼くのは今日だけだからね』と言っていたのはこういうことだったんだと、少し心が砂になりかけたけれど、みんなでわいわいしながら料理するのは楽しかった。

 爆豪くんの華麗な包丁さばきだったり、砂藤くん特製の隠し味だったりに、驚いて、笑って。そんなこんなで沈んでいた気持ちも浮上してきた。さっきの今で我ながらどうしようもない奴だなあと呆れるけれど、どうしても口許が緩んでしまう。

 それからお風呂にも入ったんだけど、

 

「奪衣婆のおっぱいでも揉むんだな!!!」

「ぎぃああああ……!!」

 

 ……そんな断末魔が上がったのは、うん、みんなで聞かなかったことにした。というか峰田くん、さっき女子のみんなであんなに覗きを妨害したのに、まだ諦めてなかったんだね……。

 

「ここまで来ると一種の執念だね……」

「ただのアホだろあんなの」

 

 耳郎さんがむすっと顔をしかめるのに、みんながそうだそうだと同意する。八百万さんが髪を乾かしながら、そっと頬に手を添えた。

 

「そして今回はB組の皆さんにまで被害が及ぶところでしたわ。同じA組として、恥ずかしい……」

「気にすんなよ、忠告してくれたお陰で大丈夫だったんだしさ」

「ん」

 

 そうやって拳藤さんは明るく笑ってくれて、小大さんも小さく頷く。柳さんや塩崎さんも大丈夫だよと言葉を添えてくれて、本当に申し訳ない反面、救われる気持ちだった。

 そう、今この部屋にはA組の女の子だけじゃなく、B組の拳藤さん、柳さんに小大さん、塩崎さんがいる。A組のみんなで峰田くんの覗きを止めたことに対するお礼だと、お菓子やジュースを持ってきてくれたのだ。はじめは申し訳なさから辞退しようとしたけれど、折角だしと、みんなで女子会なるものを始めることになって。取蔭さんに小森さん、角取さんはブラド先生に呼び出されて不在だけれど、こんな風にみんなと集まれたのは初めてでわくわくする。

 

(峰田くんが繋いでくれた縁……って、言っちゃっていいのかな)

 

 当の本人がやったことはアレだし、今は虎さん監修のもと簀巻きにされてるらしいけれど。なんてぼんやり考えていると、八百万さんが口を開いた。白い頬が淡く色づいて、目がきらきらしている。

 

「実は私、女子会初めてなんですけど、どういうことするのが女子会なんでしょうか?」

「女子が集まって、なんか食べながら話すのが女子会なんじゃないの?」

 

 真ん中に広げたお菓子をつまみながら、芦戸さんがそう答える。そこに待ったを掛けたのは透ちゃんだった。彼女はちっちっち、と見えない指を振る。

 

「女子会といえば~~……恋バナでしょうが!」

 

 コイバナ、……コイバナ?

 首を傾げるわたしとは裏腹に、みんなの反応はさまざまだった。

 

「そうだ! 恋バナだ! 女子会っぽい!」

「うわあ~」

「恋ねぇ」

 

 テンションをぶち上げる芦戸さんに、ほんのり頬っぺたを赤くするお茶子ちゃんに梅雨ちゃん。

 

「えー……」

「あー……そういうノリかあ」

 

 何とも言えない顔で眉をひそめる耳郎さんに、困ったように苦笑する拳藤さん。

 

「こ、恋っ!? そんな、婚前前ですのに……!」

「婚前前って、ヤオモモ真面目だなあ」

「いいえ、八百万さんの言う通りですわ。そもそも結婚というのは神の御前での約束で……」

 

「鯉バナナ?」

「んーん」

 

 ちょっと違う方面に盛り上がってる八百万さんと塩崎さんに、首を傾げる柳さんと首を横に振る小大さん。そんなみんなの反応を見渡して、ああ、とひとつ頷く。

 

「コイバナって、恋の話のことか……」

 

 正直ついさっきまで「コイバナって何?花?」って思ってたのは秘密だ。柳さんのことを笑えない。くぴっとジュースを口に運んで、みんなの話を見守る。

 

「それじゃ、付き合ってる人がいる人ー!」

 

 言い出しっぺの法則というものがあるらしく、音頭は透ちゃんが取ることになった。まず手始めに、と明るく問い掛けたけれど、返ってきたのは沈黙だけ。

 

「……えっ、誰もいないの!? ほんとに!?」

「中学の時は受験でそれどころじゃなかったけど、雄英に入ったら入ったでそれどころじゃないもんな」

「ん」

 

 こくん、と深く頷く小大さんに、みんなもそうだよねえと頷き合う。雄英の、それもヒーロー科のカリキュラムはぎっしりみっちり詰まっている。誰かと恋愛する時間はなかなか取れないようだ。

 それをきっと芦戸さんもわかっているけれど、納得はできないらしい。ううう、と唸る、その目の端に涙すら浮かんでる。

 

「うわー、でも恋バナしたい! キュンキュンしたいよー! ね、ね、片想いでもいいから誰か好きな人いないのー?」

 

 補習を乗り切るために何とかひとつトキメキが欲しい!と芦戸さんが心から叫んだ、そんな時。

 

「好きな、人……」

 

 ぽつりと落ちた呟きに、みんなの視線が集中する。

 

「あら? どうかしたのかしらお茶子ちゃん」

「えっ? い、いやっ? なんでも、」

「えーなになに!? もしかして好きな人いるの!?」

「おっっっっおらんよ!? おるわけないしっ」

「お茶子ちゃん……」

 

 その可愛い反応は気になっちゃうよ、と苦笑する。ほら、もう透ちゃんと芦戸さんが詰め寄っていった。目が狩人のそれになってる。

 

「その焦り方は怪しいなあ~?」

「その頬っぺた赤いのも怪しいなあ~?」

「ち、違うしっ」

「緑谷か飯田!? よく一緒にいるもんねぇ」

「ほらほら、ゲロっちゃいなよぉ~」

「もっもうっ、ほんまに、そんなんと違うから!」

 

「容赦ないな」

「厳しい取り調べだね……」

 

 もぐもぐ、チョコレートを堪能しながら耳郎さんと話す。あ、これ美味しい、どれ?、だなんてのんびり会話を交わしていたから、透ちゃんがこっちの方を見ていたことに気づかなかった。

 

「むむむ! そこの2人! 対岸の火事だと思ってない?」

「えっ?」

「げ……飛び火した」

 

 呆けるわたしより一足先に、耳郎さんは状況を把握したらしい。そんな彼女をターゲットとして定めたのか、透ちゃんがずずいと詰め寄る。気分はまさにインタビュアーといった感じで。

 

「耳郎ちゃんさ、上鳴くんとはどうなのさ!」

「はぁ!?」

「ああ確かに、お隣の席ですし、よくお喋りしていらっしゃいますものね!」

「ちょっ、ヤオモモまでやめてよマジで! 上鳴は話しやすいっちゃ話しやすいけど、チャラいしやだ!」

「ええ~? そういうのから恋が始まるっていうじゃん?」

「漫画で見た」

「ん」

 

「ちょっ……と! もう!」

 

 善意100%な八百万さんの笑顔や、透ちゃんと芦戸さんのぐいぐい来る感じに、柳さんと小大さんの意外な援護射撃。それらにたじたじな耳郎さんは頬を赤くして慌てている。彼女は視線を移ろわせて、──静観していたわたしを見た。

 

「……そ、そういうことならさ、空中はどうなの」

「へ?」

「常闇とは職場体験一緒だったんだよね? 終わった後、よく喋るようになってたし」

 

 なんかあったんじゃないの、なんて、ちらりと微笑む耳郎さんを見て気づく。……耳郎さん、わたしを売ったな!

 

「耳郎さっ、」

「そうだよねそうだよねぇ! 愛依ちゃんにも話聞きたかったんだよー!」

「ぐえっ、と、透ちゃん……」

「なになになに~? ときめいちゃうやつ?」

 

 透ちゃんに抱きつかれながら、芦戸さんがインタビュアーよろしく手をマイクに見立てて差し出してくる。それに、わたしは苦笑いを浮かべた。

 

「ときめいちゃうやつじゃ、ないよ」

 

 恋は、きらきらしているもの。可愛いもの。綺麗なもの。

 

「……わたしには、そんなの無いから」

 

 それだけ言って、わたしは八百万さんを見た。視線と視線が絡んだ先で、彼女はきょとんとした顔をしている。さっき耳郎さんがやったみたく、わたしもしてみよう、とにっこり笑う。

 

「わたしとしては八百万さんと轟くんが気になるな。2人とも推薦入学者だし、この前の期末試験でも素敵だったし」

「えっ!!? そ、そんな、私は……!」

「おやおやぁ? これはインタビュー必要なやつっぽい!」

 

 ぽっと頬を赤らめた八百万さんに、透ちゃんは声を弾ませて近寄っていった。アワアワしている八百万さんには少し申し訳ないけれど、追及が止んでほっとしたのも事実。ふう、と安堵の息をつくと、

 

「……ねーぇ、空中」

 

 隣にいた芦戸さんが、難しい顔でわたしを見ていた。てっきり透ちゃんと一緒にあっちに行くと思っていたから、びっくりしてしまう。

 

「あ、芦戸さん? どうかした?」

「“どうかした?”は、こっちのセリフー」

「え? っわ、」

 

 芦戸さんの手が、わたしの額に触れた。それは少し下に行って、眉間の辺りをぐにぐにとほぐしていく。

 

「なんか、あった?」

 

 黒目がちな目が、じいっとこちらを見ている。そこに心配の色があることには、気づいていた。

 

「……何も、ないよ」

 

 だからこそ、何も言えない。言えることが、ない。

 言葉にできるような気持ちなんて、どこにも。

 

「いや、ね、大したことじゃないんだよ。恋とか、そういう気持ちになったことなくて、わからなくて……」

 

 へらりと笑って、何でもないように振る舞う。それでも芦戸さんは何か言いたげにしているから、どうしようかなと考えを巡らせる。そんなわたしの肩に、優しく手が置かれた。

 

「焦る必要などありませんよ、空中さん」

「塩崎さん、」

 

 振り返ると、塩崎さんは柔らかく微笑んでいた。木漏れ日のように穏やかで、慈愛に満ちた微笑み。

 

「いつかきっとその時が来たら、自然と誰かを愛する気持ちは生まれてくるものです。“愛は決して、絶えることはありません”から」

「……聖書のやつ?」

「ご存知だったのですか」

「昔、目を通したことがあって」

 

 わたしの“個性”が判明した時、名前を付けるなら何だろうと調べたことがあった。どんな気持ちが当てはまるのだろうと読み漁った本の中には聖書もあって、そこにはこう書かれていた。

 

 “愛は寛容であり、愛は親切です。”

 “すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”

 “愛は決して絶えることがありません。”

 

 そう読んで、わたしは思ったんだ。──違うと。

 

(わたしのは、愛とか恋とか、そんな素敵なものじゃない)

 

 だってわたしの“これ”は、相手と分かち合うものでも、支え合うものでもない。一方的に相手に寄りかかって、すがって、寄生して、──未来を奪う。

 

(だからわたしの“これ”は、【依存】でしかない)

 

 ホークスの翼を奪わなかったのは、きっと運が良かっただけ。そんなわたしは寄生虫と何ら変わりない。そんな、取るに足らないどころか、足手まといでしかないのが、わたし。

 

(そんなわたしが、誰かを好きに、なんて……)

 

 そんなの無理だと、子どもの頃からわかってる。割り切ってるし、理解している。

 それなのに芦戸さんはそっと手を伸ばした。わたしの頭をくしゃりと撫でて、肩を組んで、ぐんっと身体を抱き寄せて。

 

「あっ、芦戸さん?」

「今がわかんなくても、未来だってわかんないよ!」

 

 そうして明るい声が、わたしのすぐ傍で弾けた。

 

「今が何にも無くたって、来年には変わってるかもしれない。もしかしたら来月とか、明日とか! ときめくきっかけがあるかもしんないじゃん!」

 

 弾けた声が、光が、わたしの心を照らしていく。

 

「だから、今から恋を諦めるってのは勿体ないって!」

 

 

 こんな“個性”があるから、みんなと同じようには生きられないとわかっていた。誰かを話すことや一緒に過ごすことすら難しいと思っていたから、学校なんて夢のまた夢で。……恋、だなんて、夢にすら見なくて。

 こんなわたしを、芦戸さんは知らない。知らないからそんなこと言えるんだろう。わかってる。割り切ってるし、理解している。……それでも、

 

 

「……う、ん、」

 

 “どうせ無理だ”と頑なになっていた心が、溶かされていくような気がした。頷きたく、なってしまった。

 

「……ありがと、芦戸さん」

 

 呟くようにしか言えなかったけれど、芦戸さんは嬉しそうに笑って、「どーいたしまして!」と抱き着いてきた。

 

 

53.少女、コイバナをする。

 

 


 

 更新遅くなってしまってすみません!そしてこれからも遅くなってしまいそうな予感がしてます。仕事とソシャゲが忙しくて時間が無い……このss全てスマホで打ってるのでソシャゲしてると小説書けないんですよね、申し訳ないです。

 

 実は林間合宿編で一番ネックだったのがラグドールの存在でして、彼女のサーチがどれぐらいの精度なのかいまいちわからず、今回は難産でした。ラグドールは緑谷のオールフォーワンについて気づいてなかったみたいですけど、死柄木が使った時はバッチリ捕捉してましたよね?どういう仕様なのかわからんすぎて、オリ主の個性を隠すために大分こじつけました。御了承ください。

 

 芦戸ちゃんとの恋の話は、前から書きたかったところだったのでとても楽しかったです。何でもないような言葉ですが、オリ主にとってはひとつの光となります。

 

 最後になりましたが、いつも閲覧並びにお気に入り登録、評価や感想等々本当にありがとうございます!こんなssですが、本当に皆様に支えられて何とか続けていられています。次回はいよいよ肝試しに突入します!また読んでいただければ嬉しいです。



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54.少女、思い出。

 

「! 痛た……」

 

 林間合宿3日目。昼に差し掛かり陽光眩しい空の中、わたしの羽根がそんな呟きを拾う。翼を傾けて方向転換、下降してその人の元に降り立った。彼女は火傷したような手のひらを庇い、顔をしかめている。

 

「芦戸さん、ちょっと待って」

 

 その手に軽く触れて、エネルギーを送り込む。酸の影響で薄く焼けた皮膚が元に戻っていくにつれて、芦戸さんの表情も晴れていった。

 

「ありがとー空中(そらなか)!」

「どういたしまして、……なんか疲れてる?」

「うぐ……わかる? やっぱ眠くて……」

 

 聞くところによると、補習はわたしたちが10時に就寝してから始まるらしく、芦戸さんが昨夜眠ったのは夜中の2時だったらしい。昨日の訓練での疲労の上に寝不足もあって、彼女の足元は若干ふらついていた。それは切島くんや瀬呂くん、砂藤くんに上鳴くんといった面々も同じで。

 

「だから言ったろ、キツイって」

 

 そんな補習組の面々に向かい、相澤先生は口を開く。

 

「砂藤、上鳴は容量(キャパ)が直接死活に関わる。容量を増やすには反復して使い続けるのが基本」

 

 その後も相澤先生は各自の訓練目的を述べていった。

 瀬呂くんは容量に加えテープの強度・射出速度の強化。

 芦戸さんは溶解液に対する皮膚の耐久力強化。

 切島くんは筋力と硬度を上げることで相乗効果を狙う──と、一通り口にした先生はぎろりとまなじりを吊り上げた。

 

「そして何より期末試験で露呈した立ち回りの脆弱さ!! お前らが何故他より疲れているか、その意味をしっかり考えて動け」

 

 気を抜くなよ、と。ダラダラやるな、と。彼らだけでなくわたしたちにも檄を飛ばす。

 

「何をするにも原点を常に意識しとけ。向上ってのはそういうもんだ。何の為に汗かいて何の為にこうしてグチグチ言われるか、常に頭に置いておけ」

 

 原点──その言葉を聞いて、脳裏に浮かぶのは赤い羽根。空をゆく彼の背中。わたしの、揺るぎない憧れ。

 彼のようになりたいと、彼の力になりたいと、ホークスを救けたいと、そんな願いは職場体験を経てより強固な目標となった。夢は朧気でも儚くもなく、目指すべき光なのだと。

 

(……わたし、ホークスに少しは、近付けてるかな……?)

 

 彼の剛翼は、どんなに小さな泣き声も聞き逃さない。悲鳴をキャッチして、直ぐ様飛んで駆けつけて、多くの人を救う。そんな彼のようになりたくてわたしはこの訓練に取り組んでいた。羽根を各地に飛ばして、誰の苦しみも取り零さないように……まだまだあの人のようにはいかないけれど、微々たる一歩でも、近付いていきたい。踏み出していきたい。

 

 

「そういえば相澤先生もう3日目ですが……今回オールマイト……あ、いや、他の先生方って来ないんですか?」

 

 そんなことを思っていたら、そんな緑谷くんの声が聞こえて、わたしはそちらに視線をやる。緑谷くんにそう問い掛けられた相澤先生は、淡々と答えを返した。

 

「合宿前に言った通り、(ヴィラン)に動向を悟られぬよう人員は必要最低限。特にオールマイトは(ヴィラン)側の目的の1つと推測されている以上、来てもらうわけにはいかん。

 ……良くも悪くも目立つからこうなるんだあの人は……」

 

 はあ、と吐き出した溜め息が重い。オールマイトとイレイザーヘッドのスタイルは真逆といっていいほど違うから、何か思うところがあるのかもしれない。オールマイトがメディアに露出するのにも、イレイザーヘッドがメディアに出ないのにも、それぞれ意味があるからなおのこと。

 と、その時。どこか神妙になりつつあった空気を、明るい笑い声が吹き飛ばす。

 

「ねこねこねこ……それよりみんな! 今日の晩はねぇ……クラス対抗肝試しを決行するよ!」

 

 しっかり訓練した後はしっかり楽しいことがある! ザ! 飴と鞭! と歌うように楽しげにピクシーボブが言う。それに対するみんなの反応はさまざまで。

 

「ああ……忘れてた!」

「怖いのマジやだぁ……」

「闇の饗宴……」

「ちゃんとイベントっぽいこともやってくれるんだ」

「フフ……対抗ってところが気に入った」

 

 きょとんとした顔の拳藤さん。項垂れる耳郎さん。クールながら目を輝かせる常闇くん。意外そうな鱗くんに、青ざめた顔でそれでも笑う物間くん。

 他にもそれぞれの表情でざわめくわたしたちを見渡し、虎さんが吼える。猛々しく。

 

「と、いうわけで……今は全力で励むのだあ!!!」

「「「イエッサァ!!!」」」

 

 虎さんによる“我ーズブートキャンプ”が異様な盛り上がりを見せているのを横目に、わたしは項垂れたままの彼女の元に近付いた。肩を叩くと、耳郎さんは力なくこちらを見やる。

 

「耳郎さん……えと、大丈夫?」

「……空中はさ、怖いの平気なの」

「怖いの……うーん、わたしも幽霊とか虫とかあんまり得意じゃないけど、今はそれより、楽しみが勝ってるかな」

「楽しみ?」

「うん! だって、肝試しってやったことなかったから」

 

 驚かして、驚かされて、きっと怖いしびっくりしちゃうんだろうなとは思うけど、それでもみんなでわいわいしてるのは楽しそうで。テレビとか本とかでしか見たことがなかったその輪の中に、まさかわたしが入れるなんて、今もまだ慣れない。どうしようもなくどきどきして、わくわくしてしまう。

 そう話すわたしをじっと見つめていた、耳郎さんの口許がほころんだ。ふっと噴き出して、目がやわらかに細められる。

 

「なんか、あんたのへにゃっとした顔見てたら力抜けるなあ」

 

 そういう耳郎さんだって、眉を下げて、ふにゃりと笑っているのに。でもそれは指摘せずに、わたしは両手で頬を押さえた。じわりと伝わる熱は、頬が赤くなっている証だろう。

 

「へ、へにゃって、そんな顔してた?」

「してた。いいじゃん、褒めてんだし」

「本当に褒めてる……?」

「褒めてる褒めてる」

 

 どこかてきとうにあしらわれてる感じは否めないけれど、耳郎さんに笑顔が戻ってきたのは嬉しい。だからわたしは気を取り直して、気になっていたことを口にした。

 

「そういえば、耳郎さんは何の訓練してたの? イヤホンジャックを岩にぶつけまくってたけど……」

 

 耳郎さんの“個性”は【イヤホンジャック】。耳朶の先がその名の通りイヤホンジャックになっていて、それを接続することで微かな音を聞き取ったり、逆に自分の心音を爆音で流して攻撃したりと、音を使いこなす“個性”だ。今までの訓練の中でもイヤホンジャックそのものを鞭のように振り回して攻撃することはなかったから、どうしてそうしているのか気になっていた。

 わたしの疑問を受けて、耳郎さんはああ、と頷く。

 

「ウチの【イヤホンジャック】は鍛えれば鍛えるほど音質が良くなるんだよね。だからこれ」

「岩に打ち付けて、強くしてるってこと?」

「そ。音質が良くなれば、聞き取る精度も上がるだろうし、こっちから流す心音も通りがよくなるだろうしね」

「なるほど……」

 

 納得とともに頷きながら、考える。

 わたしにも、同じことが言えないだろうかと。

 

(わたしの羽根が、もっと強く、もっと鋭敏だったら……そしたらきっと、もっと多くの音を聞き取れるようになるはず)

 

 利点はそれだけじゃない。わたしの羽根のパワーが上げれば、戦闘や救助の場面でもできることが増える。選択肢が広がる。

 

(『まずは手札を増やそう、強くしよう』……だものね、)

 

 ホークス、と。心の中で呼び掛けて、意を決する。決まったら後は行動するだけ。わたしは耳郎さんと手を振り合ってその場を後にし、ピクシーボブの元を目指した。訓練の場を形成してもらいたかった──のだけど、タイミングが悪かったのか彼女の周りに人だかりができていた。これは暫く待たないといけないかな、と息を溢した、そんな時。

 

「どうした? 空中」

「拳藤さん!」

 

 背後から声を掛けられて振り向くと、拳藤さんがわたしを見ていた。小首を傾げる彼女のサイドテールが揺れる。

 

「ピクシーボブに用事?」

「そうだよ。えっと、土壁を作ってもらいたくて」

「土壁? 訓練に必要なの?」

「うん、羽根を打ちつけて強化すれば、もっと羽根の攻撃力や耐久力が上がるんじゃないかって」

 

 わたしが説明すると、拳藤さんはほー、と頷いた。その明るい緑色の目が、きらりと閃く。

 

「ならさ、空中。私と組み手しない?」

「……えっ?」

 

 その申し出は突然のもので、わたしは呆気に取られてしまう。そんなわたしに拳藤さんは人差し指を立てた。

 

「私も硬いもの相手に拳を打ちつけて強化してたんだけど、動かない的相手じゃ体さばきは訓練できない。空中の羽根って、固くできるんだろ? それを捌けば対人格闘訓練も“個性”伸長訓練もこなせる。それはきっと空中も同じで、一石二鳥……と思ったんだけど、」

 

 そこで言葉を切って、彼女はすうっと目を細めた。

 

「どうする? ──やめておく?」

 

 その眼差しに気圧された自分がいたことは事実だ。雄英に入学するまでの自分だったら、そこで諦めていただろう。……でも今は、違う。負けたくない。退いてたまるか、と拳を握る。

 

「ううん……! お願いするね、拳藤さん」

「そうこなくっちゃ!」

 

 拳藤さんは嬉しそうに笑って、すっと右半身を引いて構えた。わたしも体勢を低くして意識を集中させる。……拳藤さんの“個性”は【大拳】。拳を巨大化させることによって攻撃や防御に応用することができる。巨大化した分拳の攻撃力も耐久力も上がる上に、彼女は近接戦闘が得意──間合いを詰められた時点でわたしに為す術はないだろう。それを、きっと拳藤さんもわかってる。だからこそ(・・・・・)

 

「じゃあ、行くよ!」

 

 拳藤さんが駆け寄って来ると同時に、地を蹴って飛び上がる。そうして上空から羽根の弾丸を撃った。拳藤さんは巨大化させた拳で難なくそれを打ち払う。……元より期待はしていなかったけれど、やっぱりまともなダメージは通らない。気持ちを切り替え、わたしは彼女の背後を取った。さっきの羽根の弾丸は目眩まし──本命はこっち。

 

「っさせ、るか!」

「!」

 

 完全に裏を突いたはずなのに、さすが、というべきか。拳藤さんは驚異の反射神経でもって振り向き、攻撃を防いでみせた。そのまま勢いを殺さないどころか、更なる加速を以て突進。一息の間だ。そのたった一瞬の間に、わたしの眼前に拳が迫る。

 

「もらった!」

 

 眼前に拳が迫る──だなんて、それだけじゃだめだ! ここで呆けている暇なんかないと鋭く息を飲む。そうして翼に意識を集中させた。

 ──硬く、もっともっと硬く! 強固な盾に!

 

「……ったあ……!?」

「う、く……っ!」

 

 硬化させた翼で身をくるんで攻撃を防ぐ。これは期末試験の時にも使った手だけれど、その時よりもっとずっと羽根を強く固く硬化させている。ガン!!、とおよそ羽根を殴ったとは思えない衝撃音と、痛みと驚きに声を上げる拳藤さんがその証拠だ。羽根の隙間から、インパクトの反動で微かに、だけど確かによろける彼女の姿が見える。

 

(……間合いを詰められた時点でわたしに為す術はない。それを、きっと拳藤さんもわかってる)

 

 だからこそ、彼女はそれを狙って接近するだろう。

 だからこそ(・・・・・)──その瞬間に、隙が生まれる。

 

 わたしは拳を握り締めた。その手に握った風切羽根を硬化させ、真っ直ぐ突き出す。拳藤さんの首筋を狙ったその一撃で一本取るつもりだった。

 ……そう、つもりだった(・・・)。そうはならなかった。わたしの攻撃を見てとった拳藤さんは仰け反り、その勢いのままバク転。遠心力の乗った足がわたしの手首を強かに打ち、一瞬怯んでしまう。その一瞬で身を起こした彼女は右手をわたしに突き出した。風切羽根を握り直したわたしも、それを突きつける。互いの攻撃が首筋に迫って──そこで互いに静止した。はあ、と荒い息がこぼれて、こめかみを汗が伝う。

 

「……一旦ここまで、かな?」

「そう、だね……」

 

 互いにへらりと笑い合って、同時に腕を下ろした。風切羽根や他の羽根を背中に戻すと、その様子を見ていた拳藤さんの目が輝いた。

 

「すごいじゃん空中、あの羽根の盾! 羽根だと思えないくらい硬くてびっくりしたよ」

「そうでもしないと、わたし一撃で吹っ飛ばされてたしね……拳藤さんの【大拳】こそすごい威力だよ」

「でも、負けるつもりはなかったんだろ?」

 

 にやりと口角を上げて、拳藤さんは面白そうに微笑んだ。その緑の目に、わたしの思いは筒抜けだったようで。わたしが頷くと彼女は口許に指を当てた。

 

「最後の羽根の剣は、ホークスの影響?」

「……うん。でも、付け焼き刃はやっぱり駄目だね」

 

 近接戦闘をカバーする、と考えて、思い浮かんだのはやっぱり彼の姿だった。今まで腕力が心許ないからと剣術の訓練はしてこなかったから、本当に、付け焼き刃にすらなっていないけれど。自嘲の笑みを何とか飲み込み、顔を上げる。そんなわたしに、

 

「今は付け焼き刃でも、鍛練を重ねれば立派な刃になるよ」

 

 鍛練は裏切らないと、必ず実を結ぶと、真っ直ぐな声が降ってくる。それはわたしの心に落ちて、じわりとあたたかく広がっていく。

 

「……うん、ありがとう、拳藤さん」

「どういたしまして。と、いうわけで……もう一本お願いしたいんだけど、いいかな?」

 

 小首を傾げる。サイドに結ったオレンジブロンドが揺れる。そんな拳藤さんが眩しくて、わたしは微笑みながら頷いた。

 

「……うん! こちらこそ、よろしくお願いします!」

 

 

 

 そうして夕方。本日分の訓練が終了し、わたしたちは夕食作りに取り掛かった。今日の献立は肉じゃがということで、わたしは梅雨ちゃんたちと野菜の下拵えをすることになった。

 

「なんだかこうしてると、お泊まり会の時を思い出すね」

「けろ、そうね。みんなで夕食作りをしたものね」

 

 あの時はお茶子ちゃんのリクエストでお餅パーティだった。トースターでどんどんお餅を焼いて、きな粉や砂糖醤油、チョコなどをつけて食べる他、『それだけじゃ喉に詰まっちゃうわ』と梅雨ちゃんがお吸い物を作ってくれたのだ。それは後々お雑煮にリメイクされたんだけど、本当に美味しかったし、楽しかったなあ。思い出すだけで頬が緩む。

 

「けろろ、」

「? 梅雨ちゃん、どうかした?」

「いいえ、愛依(あい)ちゃんがとっても素敵な笑顔だったから、私まで嬉しくなってしまっただけ」

「……そんなに笑ってた?」

 

 耳郎さん曰く、へにゃりとした顔になっているのかもしれない。今はじゃがいもと包丁を持っているから確かめられないけど、と顔に力を込める。

 

「あら、恥ずかしがらなくてもいいのに」

「……でも絶対、だらしない顔してる」

「そんなことないわ」

「うう、そうかな……?」

「……ねえ、愛依ちゃん」

「なあに?」

 

 梅雨ちゃんはゆっくりと、目を瞬かせて。

 

「今、楽しいかしら?」

 

 彼女がそう尋ねた意図はわからない。

 けれど、答えはひとつだ。

 

「……楽しいよ、すごく。顔がだらしなく緩んじゃうくらい!」

 

 雄英は、ヒーロー育成の最高峰。だから大変なことだっていっぱいあった。今年は特に(ヴィラン)の影響もあって、“大変”じゃ済まない出来事だってあった。

 それでもこうして学校に通って、みんなと一緒に勉強して、一緒に訓練して、時には一緒にご飯を食べたり、寝たり──誰かにとっては当たり前のことは、わたしにとっては当たり前じゃない。まるで奇跡みたいに、心が光に満ちていく。

 

(……また、顔、だらしなくなってるんだろうな)

 

 それでもいいや、とわたしは笑う。そんなわたしの考えなんか見透かして、梅雨ちゃんも微笑む。

 

「それならやっぱり、だらしなくなんてないわ」

 

 ……なんだろうな、梅雨ちゃんがそんな風に言ってくれるから、わたしの顔だけじゃなくて心まで緩んでしまう。何だかむず痒くて、目頭が熱くなってしまうようで。それを笑って誤魔化して、別の話題を口にした。

 

「そ、そういえば、肉じゃがに枝豆入れるの初めてだ」

「そうなの。確かに絹さややいんげんが多いかもしれないわね。うちは妹が枝豆の方が好きだし、よく入れていたのだけど」

「そっか。そうだね、妹さんいるって言ってたもんね」

 

 梅雨ちゃんはええ、と頷く。そうして、じゃがいもの芽を取りながら続けた。

 

「愛依ちゃんって、ご兄弟はいるの?」

「わたし? ──、」

 

 ただの、世間話だ。何でもないように、「いないよ」って笑えばいい。ただそれだけなのに、……嘘を吐くことなんて、いっぱいしてきたはずなのに、

 

「……空中、」

 

 言葉に詰まったわたしの背中に、声が掛かった。

 

「轟、くん?」

「悪ぃが、ちょっと向こう手伝ってくんねえか? 俺は今手が塞がってて」

「えっ……と、」

「こっちはもう終わりそうだから大丈夫よ、愛依ちゃん。行ってきてあげて」

「うん、わかった」

 

 お鍋を両手で持ってる轟くんの後に続いて、その場を後にする。轟くんは釜戸の辺りで立ち止まった。ここでお鍋を火にかけに来たのかな、わたしは薪の用意を手伝えばいいのかな、なんて考えていたら轟くんがこちらを振り返った。何故か、微妙な表情をしている。

 

「……手伝ってもらいたいってのは嘘だ。悪ぃ」

「え? でも、だったらなんで、……」

 

 そこまで言ってはた、と気づいた。体育祭でのあの時のことが、脳裏によぎる。

 

『……わたし、親、いなくて。だからきょうだいのことも、わからないけど……多分いないと、思う』

 

 そうだ、わたしはあの時、こうして轟くんに嘘を吐いた。それを聞いた轟くんが、はっと目を見開いていたことも覚えている。……じくりと痛む、罪悪感と一緒に。

 

「……あの時は、無神経なことを言った。……ごめん」

「そんな! ……ほんとに気にしてないから、謝らないで」

 

 嘘なのだ。親は、いる。今だって生きてる。わたしの保身のために吐いた嘘でしかないのに、そんな風に謝らないでほしい。わたしなんかに、謝る必要なんてない。

 

「本当に、いいんだよ。……むしろ助けられちゃったから、わたしがお礼を言わなきゃ。ありがとうね、轟くん」

「……、いや……」

 

 まだ釈然としない表情だけれど、轟くんは下げていた頭を上げてくれたから、ほっとして頷く。彼はわたしから視線を反らして、……そうして目を見張る。

 

「……緑谷だ」

「え? ……あ、本当だ」

 

 彼の視線を追うと、釜戸に薪を入れている緑谷くんを見つけた。緑谷くんは遠目にもわかるほど、その眉をしょんぼりと下げている。微かに開いた口からは、恐らく、

 

「……溜め息吐いてる?」

「なんかあったのかもしれねえな」

「うん……、轟くん?」

 

 轟くんは歩みを進めて、緑谷くんに向かって口を開いた。

 

「緑谷、オールマイトになんか用があったのか? 相澤先生に聞いてたろ」

「ああ……っと、うん、洸汰くんのことで……」

「洸汰? 誰だ?」

「ええ!? ほ、ホラあの子だよ」

「マンダレイの従甥って紹介されてた……」

 

 緑谷くんに続いて補足すると、轟くんはああ、と頷いた。やっと名前と顔が脳内で結び付いたらしい。それを確認して、緑谷くんは悲しげな顔で話を再開させる。

 

「その子がさ、ヒーロー……いや、“個性”ありきの超人社会そのものを嫌ってて……僕は何もその子の為になること言えなくてさ」

「超人社会、そのものを?」

「うん……オールマイトなら、何て返したんだろって思って」

 

 マンダレイの従甥……いとこの息子さん。確かマンダレイのいとこはウォーターホースというヒーローで、……そうだ、数年前(ヴィラン)との戦闘の末、市民を守って殉職していたはず。そのことを今さらになって思い出して、わたしは息を飲んだ。

 洸汰くんは、両親を亡くしている。そのために(ヴィラン)だけじゃなく、ヒーローや、それを許容する社会そのものを嫌うなんて、……どれだけ傷ついたんだろう。きっとその傷は、わたしには想像つかないほど深いのだろう。

 

「……轟くんなら、何て言う?」

 

 そんな小さな男の子に、何て言うのか。

 轟くんは黙考に黙考を重ねた数秒後、重々しく答えた。

 

「……場合による」

「っ……そりゃ場合によるけど……!」

 

 そりゃそうだけど、と緑谷くんがツッコむのもわかるくらい、身も蓋もない正論だった。でもそれは、轟くんが投げやりだったわけじゃない。轟くんはしっかり考えた上で、そう答えたのだ。

 

「素性もわかんねえ通りすがりに正論吐かれても煩わしいだけだろ。大事なのは、“何をした・何をしている人間に”言われるか……だ」

 

 言葉単体で動くようならそれだけの重さだったってだけで、と、目を伏せながら彼は言う。

 

「……言葉には常に行動が伴う……と思う」

 

 轟くんがそう言うのは、きっと、体育祭での出来事が関係しているんだろう。あの緑谷くんとの対戦で、たくさんぶつかり合って、たくさん言葉をぶつけ合って、それでようやく気づけたことなんだろう。

 そんな轟くんの言葉に、緑谷くんはハッと目を見開いた後、静かに頷いた。

 

「……そうだね、確かに……通りすがりが何言ってんだって感じだ」

「お前がそいつをどうしてぇのか知らねえけど、デリケートな話にあんまズケズケ首突っ込むのもアレだぞ。……そういうの気にせずブッ壊してくるからなお前、意外と」

 

「……でもそれがあったから、変わったこともある、よね」

 

 思わず口を挟んでしまったのは、どうしても伝えたかったからだ。今にも「ごめんなさい」と言いそうな緑谷くんに、ひとつ、言いたいことがあったから。

 

「確かに、良かれと思って言ったことが、誰かを傷ついてしまうことだってあるけれど……」

 

 ありとあらゆるすべての人を救うなんて、できないかもしれない。それでも誰かが誰かを思いやって差し伸べた手が、すべて無駄に終わるなんて──そんなことは絶対ないはずだ。

 

「誰かに慰めてもらったことや、思いやってもらったことは……失くならないよ。思い出したらほっと安心するような……心強くなるような、そんな思い出に、きっとなる」

 

 わたしはそう信じている。いつかホークスがわたしにそうしてくれたように、きっと緑谷くんの言葉も、いつかは洸汰くんの心に届くと。

 

「……ありがとう、空中さん」

 

 途切れ途切れになって上手く話せなかったわたしに、それでも緑谷くんはにこやかに笑ってくれた。落ち込んでいた目元が、柔らかくなっている。それが嬉しくてわたしも笑った、そんな時。

 

「君たち手が止まってるぞ! 最高の肉じゃがを作るんだ!!」

「お」

「「わわ、ごめんなさい……!」」

 

 遠くから響き渡った飯田くんの号令に、わたしと緑谷くんは背筋を伸ばした。轟くんも僅かに目を丸くしていて、……そんな顔を見合わせて、わたしたちはふっと笑みをこぼす。

 

「肉じゃが、楽しみだね。いい匂いがしてきた」

「うん……! お腹すいてきちゃったね」

「その後は肝試しか。……俺、肝試しって初めてだな」

「そうなんだ! あの、実は僕もで……」

「緑谷くんも? わたしもだよ」

 

 話しながら、みんなの元へ戻るべく歩き出す。わいわいと賑やかな声が大きくなってきて、わたしはほう、と息をついた。

 

「楽しみ、だね」

 

 みんなと一緒に過ごすことは、わたしにとって幸福なこと。楽しくて嬉しくて、思い出すだけで心があたたかくなるような、幸せな思い出。……みんながみんな同じような気持ちになるわけじゃないけど、少しでもいいから、あの子の苦しみもほどけたらいいなって、そんなことを思っていた。

 

 そうしてわたしたちは、肝試しの夜を迎える。

 

 

54.少女、思い出。

 

 


 

 前回の後書きで『次回は肝試しに突入する』と言ったのは何だったのか……実際に書くと色々付け足したくなってしまって肝試しまで入りきりませんでした。楽しみにしていた方、申し訳ないです。次回こそは必ず肝試しなので……!

 

 今回は嵐の前の静けさ回。耳郎ちゃんとの会話や拳藤さんとの組手は書く予定なかったのにいつの間にか出てきました。ヒロアカの女の子たちみんな可愛いから仕方ないですね。本当はもっといろんな子たちと関わりたかったですが、筆者の力ではこれが限界でした。

 

 最後になりましたが閲覧並びにお気に入り登録などなど、本当にありがとうございます!次回もまた見ていただければ嬉しいです。



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55.少女、黒煙。

 

 複製腕の欠損は残酷な表現に入るんでしょうか。

 筆者の表現力はアレのためぬるいですが念のため注意しておきます。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。次回の前書きで簡単なあらすじを用意しておきます。

 

 


 

 

 みんなで作った肉じゃがを、みんなで食べる。じゃがいものホクホク感と枝豆のつるっとした食感の違いが楽しくて、あったかい味付けにほっこりさせられた。満足感の中お皿を手分けして洗い終わった時には、辺りはもう夜闇に包まれていた。

 

「……さて! 腹も膨れた、皿も洗った! お次は、」

「「肝を試す時間だー!!」」

 

 芦戸さんと上鳴くんが声を弾ませる。2人とも拳を突き上げたりガッツポーズしたりと、全身で喜びを表現していて。よっぽど楽しみだったんだなあ──と、ほのぼの見守るのも束の間、相澤先生がぼそりと口を挟んだ。

 

「その前に大変心苦しいが、補修連中は……これから俺と補修授業だ」

「ウ ソ だ ろ !!!」

 

 急転。転落。天国から地獄。そんなワードが頭に浮かぶ。それぐらい芦戸さんの落胆っぷりはすごかった。あんなに可愛く輝いていた笑顔はどこへやら、見開いた目の端に涙が滲んでいる。

 そんな驚愕や絶望の反応をものともせず、相澤先生はいつもの淡々とした表情で、淡々と補修組のみんなに捕縛布を飛ばした。ギュッ、と手綱を握るみたいに、その手に力が籠る。

 

「すまんな。日中の訓練が思ったより疎かになってたのでこっち(・・・)を削る」

「うわああ堪忍してくれえ! 試させてくれえ!!」

 

「芦戸さん、あんなに楽しみにしてたのにね……」

「仕方ないこととはいえ、可哀想ね」

 

 相澤先生の捕縛布に絡め取られて、ずるずると引き摺られていく彼女たちを見送りながら、梅雨ちゃんと視線を交わす。梅雨ちゃんは口許に人差し指を当てて、ことんと小首を傾げた。

 

「せめてお土産話は、たくさん用意してあげましょうか」

「いいかも……だけど、追い打ちにもなるかも……?」

「“そんなに楽しそうだったなんて! 私も行きたかったー!” ってなるかもしれんね」

「ケロっ」

 

 言われてみればそうね、だなんて、梅雨ちゃんとお茶子ちゃんとこっそり笑い合う。芦戸さんたちには本当に申し訳ない反面、わくわくが止まらない。どっぷりと夜に沈んだ森を前に、どきどきしているのが大きいかもしれないけど。

 

「はい! というわけで脅かす側の先攻はB組。もうスタンバってるよ」

「A組は2人1組で3分おきに出発。所要時間は約15分」

「ルートの真ん中に名前を書いたお札があるから、それを持って帰ること!」

 

 プッシーキャッツたちのルール説明によると、脅かす側は直接接触禁止で、“個性”を駆使した脅かしネタを披露してくるのだとか。

 

「創意工夫でより多くの者を失禁させたクラスが勝者だ!」

 

 何ともアレな感じで締め括った虎さんの言葉に対し、みんなの反応はさまざまだ。

 

「やめてください汚い……」

「なるほど! 競争させることでアイデアを推敲させその結果、“個性”に更なる幅が生まれるというわけか! さすが雄英!!」

「闇の饗宴……」

「常闇くん、それ好きだね」

 

 クールな常闇くんはそわそわと楽しみなようで、飯田くんはいつものプルスウルトラなポジティブを発揮して、耳郎さんはげんなりしながら顔を強張らせている。そんな悲喜交々をひっくるめてくじ引きによる組分けは進んでいった。そうしてわたしが手に取った番号は“3”。

 

「3番は……空中(そらなか)か」

「! 障子くんだったんだ、よろしくね」

「ああ」

 

 穏やかに頷いてくれた障子くんに、わたしはほっとして笑う。わたしがこうして安堵しているのは、組の中には思わず二度見してしまうような組み合わせもあったからだ。

 

 1組目、常闇くんと透ちゃん。

 2組目、轟くんと爆豪くん。

 3組目、わたしと障子くん。

 4組目、八百万さんと青山くん。

 5組目、梅雨ちゃんとお茶子ちゃん。

 6組目、尾白くんと峰田くん。

 7組目、飯田くんと口田くん。

 そして8組目が、緑谷くんと耳郎さん。

 

 ……なんというか、うん。ほとんどみんな楽しく行けそうな組み合わせの中で、轟くんと爆豪くんのペアが異彩を放っている。この2人でどんな話をするんだろうと、他人事ながら心配してしまうぐらい。

 改めて障子くんでよかったなあとひとり胸を撫で下ろしていた時、項垂れている耳郎さんが視界に入った。その横顔が強張っているように見えたから、わたしはそっと手を伸ばす。

 

「……あの、耳郎さ、」

「ひゃっ!?」

「へっ?」

 

 指先が触れた途端、その細い肩がぴゃっと跳ねた。呆気に取られるわたしを見て、耳郎さんはひとつ息をつく。行き場を失ったイヤホンジャックがゆらゆら揺れて、ゆっくり元の位置に戻っていった。

 

「な、なんだ、空中か」

「えっと、ごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど」

「いやウチこそごめん。どったの?」

「特に理由はないんだけど……その、大丈夫かなって」

 

 耳郎さんは昼頃も『怖いのマジやだ』と溢していたから、少しでも元気づけられたらと思っていたんだけど……、

 

「かえって怖がらせちゃったみたいで、ごめんね」

「……んーん。……ありがとね、元気出た」

 

 うまくできないわたしに、それでも耳郎さんは笑ってくれた。にへら、と、どこか気の抜けたような緩い笑顔。

 

「てか空中、あんたは大丈夫なの」

「う……ん、だ、ダイジョブ」

「駄目そう」

「だっ、駄目じゃないし……」

 

 わたしは人並みに虫やら幽霊やらが怖いだけ。そう、あくまで“人並み”だからきっと大丈夫。だって驚かせてくるのはB組のみんなであって幽霊とかじゃない、大丈夫、ほらウン全くもってだいじょ──

 

「さぁてそろそろ! 障子キティと空中キティ出発だよ!」

 

 ──いやビクッてなったのはピクシーボブの声に驚いただけだから。怖いとかじゃない。……怖くないってば!

 そう訴えるわたしを「はいはい」と軽く受け流して、耳郎さんは口許に指を添えた。弧を描く口から、くすくすと笑みが溢れている。

 

「帰ってきた時あんたが泣いてたら、慰めてあげよっか」

「だっ、大丈夫だよ、泣かないし……!」

「そ? 遠慮しなくていいのに」

「……耳郎さん、わたしで面白がってるでしょう」

「“自分より怖がってる人がいると冷静になれる”ってホントだったんだなって思ってるだけだけど」

「もうっ」

 

 遠くから障子くんがわたしを呼ぶ声がする。そちらに向かって歩き出したわたしに、耳郎さんは「ごめんごめん」と笑って。

 

「じゃあ、また後で」

「うん、耳郎さん──また後でね」

 

 ひらり、と手を振って。“またね”と言い合って。

 わたしは夜の森へと足を踏み出した。

 

 

 

 

「や。えーと? これで3組目だっけ?」

「っ、」

 

 耳のすぐ後ろで声がして、慌てて振り返る。けれどそこには誰もいない。ただ歩いてきた暗い道だけが佇んでいる。なんだ気のせいかと、小さく息をついたその時。

 

「──ばぁ!!」

「ひっ……!」

 

 目の前に()があった。顔ではないし、生首ですらない。元はひとつだった顔が幾つものパーツに分かれ、そのうちのひとつである()が、にんまりと弧を描いて浮いていた。

 

「……大丈夫か」

「ご、ごめん障子くん……うん、大丈夫」

 

 驚いて後ずさって、転けそうになったわたしを、障子くんの腕が支えてくれた。それにお礼を言いながら体勢を建て直して、わたしは彼女(・・)に向かって口を開く。 

 

「取蔭さん、容赦ないね……」

「だってそんなにイイ反応されたら、ねぇ?」

 

 くすくす笑うその口に、方々に散っていた鼻が、頬が、目が集まっていく。そうしてそれは1人の女の子の顔になった。雄英高校1年B組、取蔭切奈さん。“個性”は【トカゲのしっぽ切り】といって、身体の部位をばらばらに切り離し、それらを自在に操ることができるのだとか。

 A組B組対抗肝試し。プッシーキャッツが説明した通り“個性”を駆使した驚かし合戦となっていて、スタートしてからというもの、わたしはB組のみんなの本気に驚いて怖がってばかりだった。

 

「空中は存外、怖がりだったんだな」

 

 意外そうな障子くんの言葉に、否定できずに苦笑を返す。

 

「う……やっぱりそうなのかな。自分では“人並み”くらいって思ってたんだけど。障子くんはほとんど平気そうだよね」

「驚くことはあるがな」

「そう? ああでも、さっきの小大さんのはびっくりしたよね。小大さんが綺麗だから余計雰囲気あるというか」

 

 骨抜くんの“個性”で泥状になった地面に足を取られ、身動きできなくなったわたしたちの前に、すっ──と現れた生首。冷静になって見てみれば泥状の地中に身を潜めていた小大さんが顔を出しただけ。だけどあの時は突然身動きできなくなって焦っていたのと、風もないのにガサガサと乱暴に木の葉が揺れる音がして──拳藤さんが【大拳】で音を出していた──いたのと、夜に包まれた暗い森というシチュエーションと、出てきた生首が無表情ながらとっても綺麗で、それが余計に幽霊を思わせてしまったと、いろんな要素が噛み合ってしまっていた。だからわたしだけでなく、障子くんもその大きな身体を強張らせていたのは記憶に新しい。……まあ障子くんでこれだから、わたしなんかは盛大に悲鳴を上げてしまったのだけど。

 

「ム……あれが中間地点ではないか?」

「え? ……ほんとだ」

 

 あれが怖かったね、わたしたちはどう驚かそうか、だなんて会話をしながら歩いていると、ふと障子くんが前方を見てそう言った。複製腕によって視力を上乗せしている彼ほど鮮明には見えないだろうけど、わたしの目にもそれがぼんやりと映って、近付いていくたびにそのいかにも(・・・・)な机がはっきり見えた。

 木箱のような直方体の机はぼろぼろで、掛けられている白布も端が千切れ、煤けたように汚れている。そして側面にはいわくありげなお札が何枚も貼られていて、この机周辺の雰囲気を決定付けていた。ゆらりと揺れる蝋燭の灯りも何だかそれっぽい(・・・・・)。わたしはカラカラになった喉で唾を飲み込んで、薄汚れた白布の上に散らばるお札に手を伸ばした。

 ざわざわ、と。まるで蠢くかのように森が騒ぐ。

 騒ぐ。

 蠢いている。

 まるで何かが、忍び寄って来ているかのような(・・・・・・・・・・・・・・・)──

 

 

「あちきだよーーー!!」

 

「わあああ!!?」

 

 

 静寂やら雰囲気やらわたしの不安や緊張感やら、その他の一切合切を引き裂いて彼女は飛び出てきた。それは今まさにお札を手に取ろうとした眼前で、わたしは驚きのあまり後ずさり、勢いのまま尻餅をついてしまった。一拍置いて顔を上げたわたしに、彼女は面白そうにけたけた笑っている。

 

「らっ、ラグドール……」

「あはは! とってもいい驚きっぷりだにゃん!」

「ズルいですよ、もう……うう、びっくりした……」

「心音がすごいことになっているぞ。深呼吸だ」

「うん……──」

 

 促されるまま、深く息を吸って、吐く。それを3度繰り返したあたりで、わたしははた、と目を瞬かせた。

 おかしい。先ほどまでの空気と違う。涼しさの中にじっとりとした熱を帯びているような、夏の夜の風。そこに起きた異変(・・)に、わたしはすんと鼻を鳴らした。

 

「……焦げ臭い?」

 

 その異変を、異臭を認識した途端。

 目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。はっとして見開く視界も、まるで絵の具でぐちゃぐちゃに塗られたみたいにぼやけている。この中で辛うじて、苦しそうに身体を折る障子くんとラグドールの姿が見えて。そこでようやくわたしは気づいた。

 この臭い、煙は──有毒!

 

「っ障子くん! ラグドール!」

 

 自分を治癒しながら立ち上がり、2人に駆け寄る。ふらついた彼らの身体に触れてエネルギーを注ぎ込むと、項垂れていた障子くんが顔を上げた。ラグドールの目も、元の輝きを取り戻していく。

 

「これは……」

「治癒を施しました。症状は?」

「だいぶ楽になったにゃん、けど、」

「ええ……この煙を取り払わないと、ですよね」

 

 揺らめく煙がこちらにまとわりついてくる。まずはこれを打ち払わないと、とわたしは翼を広げた。大きくはためかせ、風を生む。視認できる程度の煙を吹き飛ばすことに成功して、わたしはほっと息をついた。

 

「よし、これで、」

 

「──空中!!」

 

 え、と思う間もなく、わたしは突き飛ばされた。地面に両手両膝をつき、何が何だかわからないまま顔を上げる。

 と、そこに。

 ぼたり、と。濡れた音とともに何か(・・)が落ちてきた。

 ひゅっと息を飲む音が遠く聞こえるくらい、わたしの意識はそこに吸い寄せられていた。夜闇でよくは見えないはずなのに、その赤が鮮明に視界を染め上げていく。

 

 それは、手だった。

 手首のあたりで断ち切られた手だった。

 ぎざぎざに傷つけられた断面から、血が、溢れて……

 

「ぐぅ……ッ」

「障子くん!! ああうそ、そんな……!」

「取り乱すな!」

 

 障子くんの複製腕。そのひとつが切り落とされたのだと知って──それが、わたしを庇ってのことなのだろうとわかって──わたしは震えた声で呼び掛ける。けれどそんなわたしにピシャリと一喝する、障子くんの声は強かった。

 

「大事ない。俺の複製腕はまた生成できる。失ったわけじゃない。それより今見据えるべきは、」

 

 彼は軽く身体を屈めて戦闘態勢を取っている。鋭い眼光が、闇の向こうのソレ(・・)を捉えて閃いた。

 

「──目の前の苦難だ」

 

 ヴィィン、と響く駆動音に、背筋が凍るかのようだった。ソレ(・・)は見上げんばかりの巨体で、本来備えている2つの腕とは別に、背中から6本の腕のようなものを生やしていた。そしてその先には、チェーンソーや削岩ドリルといった凶器がくっついていて、殺意をもってこちらに向けられている。

 おおよそ人間とは思えない、まるで、『こうしたら強くなるだろう』『こうしたら多くの人をブッ殺せるだろう』と、そんな夢見がちな悪意を煮詰めて塊にしたような怪人。それは、

 

「脳無……!」

 

 AFO(オール・フォー・ワン)が手を施したとされる改造人間が、そこにいた。筒のようなものを噛まされた口許から、よだれとともに声にならない呻き声が漏れる。

 脳無がここにいるということは、ひょっとして──浮かんだ予想の答え合わせはすぐにやってきた。

 

《皆!!!》

 

 鼓膜を震わせない、脳内に直接響く声は、マンダレイの“個性”【テレパス】によるもの。彼女は緊迫した様子で続ける。

 

(ヴィラン)2名襲来!! 他にも複数いる可能性あり! 動ける者は直ちに施設へ! 会敵しても決して交戦せず撤退を!》

「マンダレイ……!」

 

 (ヴィラン)の襲来。当たってほしくはなかった予想に唇を噛む。ラグドールからもいつもの朗らかな表情は消え失せた。険しい眼差しでヘッドセットに手を当てて返信する。

 

「マンダレイ、こっちにも襲撃アリ! 視認できる範囲では脳無が1体。そして範囲外に、麻痺毒の【ガス】を撒いている(ヴィラン)がいる! 生徒たちの何人かはそのガスによって行動不能! すぐに救助に向かいたいけど……!」

「! 危ない!」

 

 脳無の腕が振り下ろされる。そこに握られていたメリケンサックがギラリと光るのが見えて、わたしは咄嗟に羽根を飛ばした。ラグドールの衣服に羽根を引っ掛けて引き寄せると同時に、脳無の剥き出しの腕に硬化させた羽根を突き刺す。けれどわたしの攻撃なんかものともしないで、脳無は突進してきた。痛みを感じていないような動きで振るわれたメリケンサックが、ラグドールのヘッドセットを吹き飛ばす。地面に転がったそれはひしゃげて、もう通信することは叶わないだろうとわかった。嫌でも、わからされる。

 

(援軍はきっと、望めない……!)

 

 マンダレイは《交戦せず撤退を》と告げた。けれど今この状況下で撤退した場合、この脳無がガスで動けなくなったみんなを襲う危険がある。

 だから今、この場にいるわたしたちがやるしかない。この脳無を退ける他に、道はない……!

 

「……ネホヒャンッ!」

 

 意味のわからない鳴き声も、ぎらつく凶器の輝きも、肌がざわつくチェーンソーの駆動音も、何もかも不安を煽る。緊張で震える手をきつく握り締めた。不安を、恐怖を、押し殺す。

 わたしはまだまだ弱いけれど、少しでも強くありたくて。

 ただ目の前の苦難を、見据えた。

 

 

55.少女、黒煙。

 

 


 

 クッッッッソ更新遅くなって本当に申し訳ありませんでした!!!なんやかんやで多忙だったこともありますが、展開がなかなかしっくりいかず何回か書き直していました。

 連載当初はオリ主が常闇くんとペアになるパターンを考えていたのですが、この話を書くにあたって緑谷くんとペアになって、最終的に障子くんとペアになっていました。やっぱり障子くん格好いいですね。次回は彼をいっぱい活躍させたいです。

 最後になりますがいつも読んでくださる皆様方、本当にありがとうございます。更新が遅くて申し訳ありませんが、次回も見ていただければ有り難いです。



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56.少女、苦難と。

 

▽前回のあらすじ

・A組とB組対抗肝試し開始。

・肝試しの組み合わせは

 ①常闇と葉隠 ②轟と爆豪 ③オリ主と障子

 ④八百万と青山 ⑤蛙吹と麗日 ⑥尾白と峰田

 ⑦飯田と口田 ⑧緑谷と耳郎

・③のオリ主、障子組が中間地点のラグドールに会ったところでネホヒャン脳無襲撃。

・障子の複製腕のひとつが切断される。

・今からネホヒャン脳無と交戦。

 

 


 

 

 見上げた空には黒煙が立ち上り、すぐ向こうにはわたしたちの意識をトばす毒ガスが揺らめいている。もう、さっきまでの夜はどこにもない。しんどいながらもみんなで互いを高め合っていた、楽しかったはずの合宿は──(ヴィラン)襲撃という最悪の事態に変じてしまった。

 

「ネホヒャンッ!!」

 

 僅かな月明かりさえ掻き消すかのように、脳無がその巨体を伸ばし、大きく振りかぶった。その手に握られたメリケンサックがぎらりと光る。

 

「っく……!」

「、ラグドール!」 

 

 脳天に向かって振り下ろされた凶器を、ラグドールは地面に転がりながら避ける。彼女はわたしを心配させまいと「大丈夫!」と笑ったけれど、その目には焦燥が滲んでいた。

 ラグドールの“個性”は【サーチ】。彼女が一度その目に映したものは、居場所も弱点も丸わかりだという。だからラグドールは焦っている。毒ガスの中に倒れたままの生徒たちの姿を確認しているから、一刻も早く救出に行かなければいけないから──逃走も、時間稼ぎも、選ぶことはできないのだ。

 だから残された選択肢は、ただひとつ。

 

「やはり、こいつはここで、倒さねばなるまい」

「……うん!」

 

「っだめにゃん! キミたちは早く施設へ、ッ」

「危ない!」

 

 わたしたちを制止しようとしたラグドールは、けれどその言葉を中断せざるをえなかった。脳無は脇目も振らずにラグドールに突進し、今度は背中から生えた金槌を振り下ろす。彼女がそれを避けたと見るや飛んでくる2撃目、3撃目。執拗に彼女に向けられる攻撃から守るべく、わたしは羽根でラグドールを引き寄せた。

 脳無は、横槍を入れたわたしを目のない顔で一瞥するも、すぐにラグドールに向かって駆け出す。わたしが羽根で足元を掬ったり膝裏を攻撃したりしても、何も気にした様子がない。

 ただただ執拗にラグドールを目指して、駆け、攻撃を加えていく様は──まるで、そうインプットされたみたい(・・・・・・・・・・・)

 

「ラグドール、脳無はあなたを狙っているようです!」

「そんな状況で、ひとり置いていくわけにはいかない」

「っ、でも……!」

 

 ラグドールも状況はわかっている。それでも首を縦に振らないのは、ひとえに彼女がヒーローだからだろう。

 ヒーローは、みんなを救ける人。災害、事故、(ヴィラン)……ありとあらゆる理不尽から人々を守る存在。わたしたちみたいなヒーロー候補生なんて庇護対象でしかない。わかっている。そんな、庇護対象のわたしたちを同じ戦場に立たせるなんてこと、ヒーローが頷けるわけがないって。

 

「……ごめんなさい、ラグドール。あなたの立場や、気持ちを、軽んじているわけではないんです。……でも、」

 

 でもここで退いてしまえば、多くの人が傷ついてしまうかもしれない──未来が、喪われてしまうかもしれない。

 

「それだけは、わたし、絶対に嫌です」

 

 そう言ったわたしに、ラグドールは大きな目を見開いた。それからきゅっと、眼差しが強くなる。そこに込められているのは生徒を巻き込んでしまう自分への不甲斐なさや、悔しさもあるのだろう。それでも確かに決意の色があって、わたしも強く頷いた。

 

「ラグドール! あいつの“個性”や弱点、わかりますか!」

「……もちろん!」

 

 ラグドールの目が凛々と輝く。たくさんのものを見通す彼女の【サーチ】が、脳無の秘密を暴いていく。

 

「……これは……」

 

 その中で、彼女は知ったのかもしれない。

 脳無は元はわたしたちと同じ人間で、でもそうとは思えないくらいに身体を弄られてしまっているのだと。

 その事実を目にして、彼女は一瞬息を飲んだ。けれどそれも束の間、薄く開いた口を結び直し、ラグドールは表情を改める。強く、凛と、必要な情報を告げる。

 

「あいつが持ってる“個性”は【身体強化】【毒無効】【武器格納】【身体エネルギーの動力変換】。この4つだにゃん!」

「【毒無効】……敵のガスで行動を鈍らせることはできませんね」

「それも見越して、(ヴィラン)中間地点(ここ)に脳無をやったのかもしれん、な!」

 

 これで何度目だろう。もう数えきれないくらいに振り下ろされた金槌。それが握られている腕を障子くんが掴んだ。彼は自身の“個性”【複製腕】を用いて手を増やし、脳無の両腕と、背中から生えた6つの触手をそれぞれ掴み、動きを封じにかかる。

 

「ヒャン!」

「ぐ……ッ」

 

 がっぷり組み合った両者が、ぐぐぐと互いを押し合う。脳無は凶器を振り回そうともがき、それを押し留める障子くんの腕に血管が浮いている。チェーンソーの先が障子くんの頬を僅かに掠め、薄く血が飛び散ったけれど、それでもなお障子くんは離れようとしない。じりじりと押され、地面に轍を残しながらも、一歩たりとも退こうとしない。

 

「障子くん……!」

 

 いくら握力540kgを誇るとはいえ、チェーンソーやドリルといった凶器にまみれた脳無に向かっていくのは危険だ。そんな危険をおしてまで彼は脳無に立ち向かった。至近距離で組み合うことから逃げない──わたしたちを、守るために。

 

「っ、障子くん、もう少しだけそのまま!」

 

 そんな障子くんの思いを無駄にするわけにはいかないと、意を決して翼をはためかせ、脳無の上空に陣取る。上からその巨体を、荒れ狂う凶器を見下ろし、鋭く息を吸った。

 

(こいつの“個性”が【武器生成】じゃないなら……!)

 

 今持つ武器を無力化させてしまえば、新たな武器は生まれない。こちらからの接近、攻撃、捕縛も容易になる。

 狙うはチェーンソー。その本体とカッティングアタッチメントの隙間。よく見て、集中して──そこに羽根を滑り込ませる。1枚で足りないなら2枚、3枚、もっと多く。羽根の摩擦を以てして、チェーンソーの振動を止める。

 

「よし……!」

 

 これでチェーンソーはただの棘のついた鈍器だと、ほっと息をついたその時、わたしの横を彼女が走り抜けていく。緑色のロングヘアを靡かせながら跳躍し、脳無の胸元に着地。強く踏みつけながら駆け上がり、

 

「【身体強化】は主に上半身、次いで脚。防御が薄いのは──頭部!」

 

 黄色のフリルミニスカートから伸びる足が、強かに脳無の頭を蹴り飛ばす。所謂サマーソルトキックを喰らわしたラグドールは、宙返りしつつ脳無から距離を取り、再度体勢を低くして構えを取った。その視線の先で、脳無は仰向けになった状態から起き上がろうとしていた。けれどその動きは明らかに鈍い。

 

「効いてる……!」

 

 ラグドールが看破した弱点は、間違いなく脳無に大きなダメージを与えていた。奴が持つ武器の大半は無効化し、弱点が通用することもわかって、戦況がこちらに傾いていることを実感する。ならばとわたしは声を励ました。

 

「障子くん、もう一回脳無の動きを止められる?」

「やってみせよう」

「お願い、わたしも今度は羽根で援護する。ラグドールには引き続き回避に専念してもらって、脳無の攻撃を引き付けてもらう隙、に……」

 

 と、その時。

 目の無い顔が、ゆらりと、こちらを見た。

 

「、な──ッ」

 

 瞬きひとつ。その僅かすぎる間に、わたしの眼前に脳無が迫っていた。驚きにまともな声も出せないまま反射的に身を捩る。わたしのすぐ後ろにあった木が、メリケンサックの一撃を受けてへし折れた。回避できたことを安堵する暇を与えず、脳無はわたしに向かって突進してくる。まるで、さっきまでラグドールを相手取っていた時みたいに。

 

「なんで、今になって、わたしを……っ!」

 

 (ヴィラン)の襲撃。脇目も振らずにラグドールを狙う脳無──この状況からわたしは、(ヴィラン)連合、ひいてはその後ろに控えるAFO(オール・フォー・ワン)がラグドールの“個性”を欲しているのではと予想していた。実際に目の当たりにした【サーチ】の精度が素晴らしく高かったから、この予想は外れていないだろう、彼女を守らなければと、そう思っていた。

 そこまで考えて、はっと息を飲む。

 あの時の、公安会長の言葉が脳裏によぎった。

 

『気を付けなさい。常に注意を払い、想定するのよ』

 

 彼女はAFO(オール・フォー・ワン)の存在と、わたしの【自己再生】と【譲渡】の“個性”を指して、そう述べていた。

 

『──あなたが、狙われる可能性を』

 

 

「! ぐ、ぁっ……!」

「空中!」

 

 羽根を無造作に掴まれ、そのまま地面に叩き付けられる。脳と身体全体を揺さぶる衝撃と痛みに、意識が一瞬遠退く。急いで態勢を整え直さなければと、治癒しながら顔を上げた。

 

「……あ、」

 

 迫り来るのは、何も持っていない右手の握り拳。わたしの命を奪うなら、まだ駆動音を響かせているドリルを向ければそれで済むことだ。そうしないのは、やっぱり──。

 

「──おおお!」

 

 気合いの声。グッと強く握られる4つの拳。それらがひとつの力となって脳無の身体を吹き飛ばす。はっと我に返ったわたしが見たのは、殴られて地面を転がる脳無と、

 

「しょうじ、くん」

 

 わたしを庇うように立つ、大きな背中。

 

「空中、怪我は!」

「大丈夫にゃん!?」

「だ……だい、じょうぶ、です。ありがとう……」

「……無事で何よりだ」

 

 わたしの無事を認めた障子くんとラグドールはほっと息をつき、けれど表情は緩めず脳無の状態を確認しに行った。脳無は、起き上がらない。蓄積されたダメージから行動不能になったのだろう。その様子を見守りながらゆっくりと立ち上がる。頭の中では、予想と不安がぐるぐるとない交ぜになっていた。

 わたしは、殺されなかった。生かされた。生かしたまま、どこかへ連れ去ろうとしたのだろう。どこかといっても、それは十中八九AFO(オール・フォー・ワン)の元といえる。はじめの標的はラグドールだったに違いないけれど、その後、わたしに標的が切り替わった。本当にそのまま、スイッチで命令を切り替えた(・・・・・・・・・・・・・)みたいに──

 

「……“命令”……」

 

 USJに現れた脳無は、死柄木弔の命令を受けて動いていた。……なら、今は?

 

(今は、誰の、命令で……)

 

 そこまで考えて、わたしは周囲を見渡した。ラグドールからわたしへ標的を移したのは、わたしたちの戦いをリアルタイムで見て、判断しうる誰か(・・)がいたということなのではと、そう考えたからだ。

 暗闇に閉ざされた森に、じっと目を凝らす。そこに潜む誰か(・・)を見逃さぬようにと、意識を集中させていた。だから、

 

 だから、目の前を埋め尽くすその光に息を飲んだ。

 一瞬のタイムラグ。その後に、

 

 ──ごう、と熱が膨れ上がった。

 

「ぎ……っ!!」

 

 呆けた口から水分が失われる。身体の内側からジュッと焼ける音がして、反射的にわたしは上空に飛び上がっていた。熱い。痛い。息苦しい。このままでは駄目だと身体が訴えるまま、ただひたすらに上空へ。熱と光を振り切ったわたしが見たのは、眼下に広がる──青い炎だった。

 

「これ、は、──ッ!」

 

 考える暇なんて与えないとばかりに、その炎は波打ちわたしに向かってきた。慌てて翼をはためかせて逃れるも、炎はまるで大口を開けた怪物のように再度わたしを飲み込もうとしてくる。その度に紙一重で避けていくけれど、1枚、また1枚と羽根が焼け落ちていく。夜空を一瞬だけ照らして、煤になって消えていく。

 

『俺の【剛翼】もおまえの【翼】も、基本的には同じもの。だから弱点も一緒』

 

 いつか、わたしがもっと小さかった時、ホークスが教えてくれたのに。気を付けないといけないよ、って。

 

『羽根は燃える。火に弱い。だから火を使う相手と会敵した時のパターンはいくつか想定しておかなきゃね』

『うん』

愛依(あい)、おまえには【自己再生】があるけど……【翼】には効きが悪かったね?』

『……うん』

 

 わたしの持つ“個性”【自己再生】には、身体の傷や病を治癒する効果がある。けれど何故か【翼】などの“個性”因子が絡む部分については、上手く治癒できないという弱点があった。羽根が傷つくことで制動権を失い、身体から離れてしまったら、自然に生え変わるのを待つしかないのだ。

 

『愛依の【翼】、スピードやパワーはともかく、再生速度だけは俺を上回ってるんだよね。だから【自己再生】の影響は受けてると思うんだけど……』

 

 ホークスは思案にしばらく目を細めて、それから「まァとにかく」と話を締め括った。

 

『どっちにしろ火に注意するに越したことはない。(ヴィラン)を捕まえるにしろ脅威から身を守るにしろ、羽根は必要不可欠だからね』

『う、ん。火には素早く対抗する。できない時はとにかく逃げる、だよね』

『そうだよ。できる?』

『っでき、ます!』

『ん、いい返事』

 

 彼がそっと髪を撫でてくれた理由を、目を伏せながら笑った理由を、当時も幼心に理解していた。

 ホークスは、こんなわたしを案じてくれた。心配してくれた。それが泣きたくなるほど嬉しくて、こんなにも優しい人に報いたくて、……その気持ちは今も変わっていない。

 

 だから今は逃げないとと、必死に飛び続けた。襲い来る炎を上下左右に飛んでかわす。大切な人の教えの通りに。それが正しいと、自分や誰かを救うことになると信じて。

 逃げて、逃げて、逃げて、

 逃げて──

 

 

「あれ? そっちに逃げていいのか?」

 

 はっ、と気づく。逃げて逃げて逃げ続けて、いつの間にかわたしの背後にはガスだまりがあった。

 目の前には青い炎。逃げなきゃいけない、でも、でも!

 

 炎がガスに引火したら、そこに倒れているみんなは……!

 

「──ぁ、」

 

 迷いは、思考と行動を停止させる。

 次の瞬間、わたしの身体は炎に呑まれていた。肌をいたぶる熱と痛みに呼吸を奪われ、意識が霞んでいく。身体が傾いで、浮遊感に包まれる。地面に叩き付けられる前に飛び上がろうとしたけれど、それも束の間、最後の羽根が焼け落ちる音が聞こえて、わたしは地に転がった。

 

「げほ、っぐ……!」

 

 炎が掻き消えて、息ができるようになっても、わたしは起き上がれずにいた。酸欠で目の前がくらくらする。ダメージが大きすぎて、すぐに治癒が、できない……!

 

「そりゃヒーローの卵だもんな。他の奴らを盾にされちゃ逃げられないわな」

 

 地面を這いずるわたしの元に、誰か(・・)が近付いてくる。わたしより年上で、でもまだ若いと思える男性の声。

 彼は笑う。嗤うといった方が正しいかもしれない。

 

お優しいこった(・・・・・・・)

 

 その言葉を聞いた途端、わたしの脳裏にあの日の路地裏が甦った。痛みに呻く身体に鞭打って、わたしは顔を上げる。

 夕闇迫る路地裏の影に、まるで溶けていきそうだと思ったんだ。その無造作な黒髪も、継ぎ接ぎだらけの服も。

 

「……あな、たは……」

「お? 俺のこと覚えてたのか」

 

 彼は、嗤う。継ぎ接ぎの皮膚を歪めて、にんまりと。

 それは確かに、あの日、あの路地裏で出会って言葉を交わした“お兄さん”で、わたしは震えた声で問いかけた。

 

「……っどうし、て、」

 

 どうしてここにいるのか。どうしてこんなことをしたのか。そう尋ねたかったのに、喉がずきずき痛んで上手く言葉にならない。ざらついた問い掛けを、彼はどう受け取ったのだろう。彼の無感動な笑みからは、何も読み取れない。

 

「“どうして”、ねぇ」

 

 彼はわたしの近くにしゃがみこみ、視線を近付けた。

 

「……どうしてだと思う?」

 

 その、綺麗な綺麗なエメラルドブルーの目が、

 わたしを、見ている。 

 

 

「……あ、……」

 

 

 何かがふと、頭に浮かぼうとしていた。

 けれどそれは、目の前を通った銀の壁に遮られる。呆けたわたしの口から漏れるのは白い息。ひやりとした冷気が身体の熱を冷ましていく、──氷の壁。

 

「空中!!」

「と……どろき、く……」

 

 氷の壁が、継ぎ接ぎの男性とわたしを隔てる。それを築いた轟くんはわたしに意識があることを確認し、ほんの少し表情に安堵を浮かべた。そんな彼の向こうでは、爆豪くんが吼えている。

 

「っんの、待てやこのクソ(ヴィラン)! 逃げんな!!」

「待て! 駄目だ爆豪、お前の“個性”じゃガスに引火する」

「……ックソが!!」

 

 会話を聞くかぎり、さっきの男性は逃げていったようだ。少し心にもやが残るも、危機が去ったことは確かだと息をつく。

 

「空中!!」

 

 その時、草むらを掻き分けて障子くんとラグドールが駆け込んできた。2人とも息を切らしてはいるけれど、目立った怪我はしていないようで、わたしは安堵を重ねる。

 

「障子、くん……ラグドール……よかった、無事で……」

「……おまえが無事ではない」

「そうにゃん! こんな、酷い火傷……」

 

 障子くんは眉間に皺を寄せながら拳を握り、ラグドールはわたしの肩に手を添えて上体を支えてくれた。……2人が心配してくれているのだと痛いほど伝わって、わたしはそっと微笑む。

 

「あり、がとう。でも大丈夫、です。また、治るから……」

 

 ゆっくりと治癒を掛けていくうちに、ひび割れた声も焼け焦げた肌も元通りになっていく。そんなわたしの治癒を待ちながら、みんなはこれまでの状況を話してくれた。

 轟くんと爆豪くんは、途中ガスで倒れていた円場くんを保護して、宿泊施設に戻ろうとしていたらしい。けれどその道中で常闇くんととある(ヴィラン)が交戦していた。“個性”の相性もあって助太刀も難しく戦況を見守っていたら、後方で青い火の手が上がり、わたしが空で追い回され、ついには撃墜したところを目撃して──氷に乗って駆けつけてくれたのだという。

 

「常闇くんが、(ヴィラン)と……?」

「常闇は大丈夫なのか」

「ああ、相手も戦い慣れてはいたが、常闇が優勢だった。俺らの助けは要らないってハッキリわかる程度にはな」

「ケッ」

 

 不貞腐れながらも否定しない爆豪くんが、轟くんの言葉が真実なのだと裏打ちする。常闇くんは大丈夫なのだと、それにひとまず胸を撫で下ろした、そんな時。

 

《A組B組総員──プロヒーロー・イレイザーヘッドの名に於いて、戦闘を許可する!!》

 

 脳裏に響いたのはマンダレイの【テレパス】。

 彼女は続いて、こう述べた。

 

(ヴィラン)の狙いのひとつ判明──!

 生徒の“かっちゃん”!! 並びに、空中さん!!》

 

「「「!」」」

 

 互いに視線を交わして、息を飲む。

 

《わかった!? “かっちゃん”! 空中さん! 2人はなるべく戦闘を避けて! 単独では動かないこと!!》

 

 わたしは胸元を握り締めていた。さっきの脳無や男性の襲撃で、わたしが狙われていることは何となく予感していたから、そこまでの衝撃はない。でも、

 

(でもどうして、爆豪くんが……?)

 

 わたしの場合は【治癒】の“個性”を狙ってのことだろう。ラグドールが狙われていたのもきっと【サーチ】の“個性”欲しさだろうし、爆豪くんもそうなのだろうか。それだけなんだろうか、……本当に?

 

「空中、……大丈夫か」

「! ご、ごめん、うん、大丈夫」

 

 少し考え込んでいただけ、と答えると、障子くんは気遣わしげに目を細めた。その仕草に「本当に大丈夫だから」と声を重ねて、わたしは爆豪くんに視線を向けた。彼はぷんすかと、眦を吊り上げながら怒っている。

 

「……爆豪くん、は……狙われる心当たりとか、ある?」

「あるわけねぇわ!!」

「う、ん、そう、だよね……」

 

 疑問は、まだある。わたしたちの身柄を狙ったのが、どうしてこの林間合宿中だったのだろうということだ。少数とはいえプロヒーローがいるこの状況より、下校途中や帰宅後を狙った方がよっぽど確実に誘拐できただろうに、(ヴィラン)はそうしなかった。

 

(何か、別の目的があった?)

 

 プロヒーローがついてる合宿中でなければならなかった理由──けれどそれを考えている時間はない。轟くんは顔を上げて、わたしたちを見渡しながら口を開いた。

 

「とにかく、2人を保護しながら施設へ行こう。ここにはラグドールもいるが、相澤先生とブラド先生がいる施設の方がより安全だ」

 

 その言葉に頷き、立ち上がる。その拍子にふらついてしまったわたしの肩を、ラグドールが両手で支えてくれた。お礼を言おうと、わたしは振り返る。

 

「立てるにゃん?」

「は、い、大丈夫です。ありがとうございま──」

 

 

 

 わたしは、知覚を補助する羽根のほとんどを失っていた。

 だからこの瞬間の気づきは、まさしく“奇跡”といっていいものだった。

 

 視界の端で何か(・・)が近付いてくるのに気づいて、

 わたしは咄嗟に、ラグドールの身体を突き飛ばした。

 指先から離れる身体。驚いたラグドールの顔。

 ゆっくりとスローモーションで見えていたそれらが、

 

 ──ばつん、と、遮断される。

 

「空中!?」

 

 わたしを呼ぶ声。それすら遠く、隔絶。

 

 

56.少女、苦難と。

 

 


 

 明けましておめでとうございます。今年も拙いながらssを書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

 新年の挨拶をさせていただいたはいいんですが、全くもっておめでたくない展開で笑ってしまいますね。荼毘との二度目の邂逅など、以前から書きたかったところが書けて個人的には楽しかったです。

 

 次回は林間合宿編ラストです!さまざまな人物の視点から原作との解離点を書いていきたいと思います。その後の神野襲撃編も合わせてまた読んでいただけると嬉しいです!



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57.卵たち、懸命に。

 

 薄暗くて鬱蒼とした魔獣の森。その中で肝試しだなんて雰囲気あるねって、“個性”ありの脅かし合いだなんて楽しみだねって、……そう笑って話していたのが嘘みたいに思えてしまう。

 嘘みたいに──今が、怖い。

 

「ひっ……!」

 

 無数の刃が、星明かりに鈍く光る。不規則に枝分かれしながら襲い掛かってくるそれは、ほんの少し掠めただけなのに私の髪を切り落としていった。込み上げてくる悲鳴を唾と一緒に飲み込む。

 “もしまともに当たっていたら、今頃──”そんなイフが頭によぎって、慌てて振り払う。目の前には私たちを何の躊躇いもなく攻撃してくる(ヴィラン)がいる。こんなとこで、呆けているわけにはいかないんだよ!

 

(……っなのに、なのに……!)

 

 黒いボディースーツに身を包んだその(ヴィラン)は、両手両足を拘束されていた。顔もほとんどをマスクで隠していて、唯一肌が見える口許から、あいつの“個性”なんだろう歯の刃が伸びては迫り、私たちを傷つけようとしてくる。

 

「肉」

「肉、見せて」

「断面、断面、だぁんめん……肉、肉肉肉……!」

 

 ブツブツと聞こえてくる声も、姿も、その何もかもがゾッと背筋を冷たくさせる。私はヒーローになるために雄英で頑張ってるのに、頑張ってきたのに、(ヴィラン)の攻撃を避けるので精いっぱいだ。走って、跳んで、転がって──その足もぐらついてしまいそう。何度も何度も向かってくる刃が、振り絞る勇気を掻き消していく。震えて、ぐらつく。

 そんな私の前に、夜よりも深く暗い()が立ち塞がった。

 

黒影(ダークシャドウ)ッ!!」

「オラァ!!」

 

 私の肝試しのペアは常闇くんだった。その彼の肩から伸びた黒影(ダークシャドウ)は、いつか見た時よりもずっと大きい。月のような金色の目は赤く染まってぎらついている。……でも、

 

「いいぞ黒影(ダークシャドウ)、鉤爪をもっと大きく──薙ぎ払え!!」

「オウヨォ!!」

 

 でも、怖くない。黒影(ダークシャドウ)と常闇くんはきちんと言葉を交わして、意思を通わせている。

 降り注ぐ刃の雨を、その肥大した腕が打ち払った。その力は凄まじくて、(ヴィラン)ごと幾つかの木も一緒に薙ぎ倒していく。ズドンとお腹の底に響く地響き。風圧が見開いた目を乾かしていく。

 

「すっごい……! すごいよ常闇くん! 黒影(ダークシャドウ)も!」

「ああ。……俺たちはもう、間違えない」

 

 矛を向ける先を。──守るべきものを。

 

「常闇くん?」

「いや、……何でもない」

 

 一瞬、その赤い目に苦いものがよぎった。そんな気がしたけれど、常闇くんはすぐにまた前を向いた。伸びた歯を支えに立ち上がろうとする(ヴィラン)を、きつく睨んで。

 

「葉隠! ここは俺たちが引き受ける! おまえは疾く施設に駆け戻り、先生たちにこのことを伝えろ!」

「えっ……で、でも!」

 

 常闇くんを一人で置いていくなんて、と私は首を横に振ろうとした。そんなことできないと、一緒に留まろうと、でも──

 

「肉~~駄目だぁああ……肉、肉~……にくめんんん……」

 

「……! 葉隠!」

「わ、ぁ!?」

 

 いきなり突き飛ばされてたたらを踏む。そんな私の目の前を白線が横切る。白線──歯の刃が枝分かれしてこちらに歯を伸ばしてくるのを、黒影(ダークシャドウ)が叩き折った。

 

「君たちの断面を見るのは僕だぁぁあ! 邪魔をするなああ!!」

強請(ねだ)るな、三下!!」

 

 殺到する刃を薙いで、払って、防ぎ続けながら、常闇くんが叫ぶ。

 

「さあ葉隠! 今だ、駆けろ!!」

「ぁ……」

 

 空気を、木々を、そして私たちを切り刻もうと向かってくる(ヴィラン)の刃。それを真っ向から受け止めてみせる常闇くんと黒影(ダークシャドウ)。そんな戦いを前にして、私は、わかってしまった。

 私は、わたし、は、

 

 ──ここにいても、何も、できない。

 

「……っ!」

 

 唇を噛み締めて、踵を返す。背を向けて走る。逃げる。

 その拍子に目から涙が溢れたけれど、それは誰にも見えない。見えないから、わからない。

 だって私は、私の涙も、透明にする。

 

 

「葉隠!」

「響香、ちゃ……っ」

 

 それから広場を避けて走り続けて、施設に戻った私を出迎えたのは響香ちゃんだった。走ってくる足音が聞こえたのだと、入り口で待ってくれていたのだという。私はその腕にすがって、荒い息を吐き出した。

 

「常闇くんっ、常闇くんが、(ヴィラン)と戦ってて……!」

「そう、なんだ。常闇が……」

 

 響香ちゃんは頷いて片膝をついた。イヤホンジャックを地面に突き刺して、音を探る。しばらくそうした後、集中するために閉じていた目を開いて私に向き直った。

 

「大丈夫、聞こえる。常闇が押してる。平気だよ」

「……聞こえるの?」

「うん。だから、葉隠、」

 

 響香ちゃんが私に向かって手を伸ばす。手探りで私の頬に触れて、そっと、親指で涙を拭って。

 

「だから、泣かなくていーよ。大丈夫」

 

 いつものハスキーボイスが、柔らかく鼓膜を打つ。じんわりと響いて、私の目蓋を熱くさせる。

 

「……っき、聞こえて、た?」

「ん」

 

 見えなくても、聞いてくれていた。私の涙に、気付いてくれた。

 

「今さっき、相澤先生も森に向かってくれた。……きっと、きっとみんな、無事だよ。大丈夫」

「う、ん……っ。……きょーかちゃん、すごいね……」

 

 私の背中を優しく叩いて、慰めてくれる。そんな響香ちゃんに思ったことをそのまま言った。

 でもその瞬間、隣から息を飲む音。響香ちゃんはぴたりとその動きを止めて、

 

「すごくなんか、ない」

 

 そう、吐き捨てるように口にした。その横顔が、みるみるうちに強張っていく。

 

「……そりゃ、さ、聞こえてるよ、でも……ッ」

 

 響香ちゃんは顔を上げた。その目が、燃える森を見つめる。夜空を焦がすかのように上がる黒煙を、睨むように。

 

「響香ちゃん……?」

「なんで、なんでウチ、何にもできないんだろ……!」

 

 ぎゅうと握られた拳が、悔しさを込めて震えている。何もできない悔しさ。無力感。……それは痛いほどわかるから、私はその握り拳を包み込むように握った。

 ごうごうと燃える森の向こうから、微かに聞こえてくる轟音。誰かがどこかで、戦っている。私ですら聞こえるこの音を、響香ちゃんの耳はどんな風に受け取っているんだろう。どんな気持ちで、聞いているのか。

 

(響香ちゃんは、悔しくて、悔しくて……それでも私を慰めてくれた。“大丈夫”って、元気付けてくれた)

 

 そんな思いを知って、いつまでも泣いていられない。

 ぐっと歯を食い縛って、こっそり指で涙を払って、私は前を向く。今の私にはこれしかできないけど、それでも涙を溢すだけの自分にはなりたくなかった。

 

(……どうか、どうか、みんな、無事でいてね……!)

 

 せめて祈るくらいは、していたかったんだ。

 

 

 

 

 

「お茶子ちゃん大丈夫?」

「う、うん」

 

 白いシャツに血が滲む。お茶子ちゃんは気丈に頷いているけれど、それが決して浅い傷ではないことは、広がる赤い染みが証明している。

 

「ん! んーー浅い少ない!」

 

 いきなり現れて、いきなり斬りかかって、いきなりお茶子ちゃんに傷を負わせたのは、セーラー服にカーディガン姿の女の子だった。それだけ見たら私たちとそう年も変わらない女子生徒、といった感じだけれど、物々しいマスクにチューブのついた謎のボトル、……それに何よりナイフを携えている。それで斬りかかってきたのだ。警戒を解くことなんてできない。

 

「急に斬りかかってくるなんて酷いじゃない。何なのあなた」

「トガです! 2人ともカァイイねぇ──麗日さんと、蛙吹さん」

「! 名前バレとる……」

「体育祭かしら……何にせよ情報は割れてるってことね。不利よ」

 

 トガ、と名乗った彼女の声は明るい。まるで世間話をしているみたいだけれど、ナイフの切っ先は真っ直ぐこちらに向けられたままだ。

 

「血が少ないとね、ダメです。普段は切り口からチウチウと……その……吸い出しちゃうのですが、」

 

 背負った装備から取り出したのは、チューブのついたシリンジ。右手にナイフを、左手にシリンジを構えて、彼女は軽く上体を屈めた。

 

「この機械は刺すだけでチウチウするそうで、お仕事が大変捗るとのことでした。──刺すね」

 

「っ来たぁ!」

「お茶子ちゃん、」

 

 ご丁寧にも宣告してくれたのだけれど、それにバカ正直に付き合う必要はない。だからまず、突進してきた相手からお茶子ちゃんを逃がす。ベロでお茶子ちゃんを投げ飛ばし、驚いている彼女に続けた。

 

「施設へ走って。戦闘許可は『(ヴィラン)を倒せ』じゃなく『身を守れ』ってことよ。相澤先生はそういう人よ」

「梅雨ちゃんも!」

「もちろん私も……、っつ!」

 

 私もこの場を離脱しようとした。けれど痛みに足が止まる。引っ込めようとした舌を斬りつけてきたトガは、

 

「──梅雨ちゃん」

 

 にんまりと、笑った。

 

「梅雨ちゃん……梅雨ちゃんっ! カァイイ呼び方、私もそう呼ぶね」

「やめて。そう呼んでほしいのはお友達になりたい人だけなの」

 

 冷たい声を放って拒絶を突きつけても、トガはますます笑みを深めるだけ。

 

「やーーじゃあ私もお友達ね! やったあ!」

「っ!」

 

 蛙の跳躍で逃れようとしたのに、投げたシリンジによって髪を木の幹に縫い止められた。反動で身体を幹に叩きつけられて、息がつまる。この間にもトガは満面の笑みだ。襲撃してきた(ヴィラン)の1人に違いないのに、にこにこ笑って「お友達ね」と声を弾ませる。

 

(……“お友達”が、嬉しいの?)

 

 友達が大切で嬉しいっていう気持ちは、わかる。

 でもそれで躊躇なく斬りつけてくるのは、わからない。

 明るい声に、明るい笑顔。凶器を持って懐に入り込む躊躇いの無さ。私の動きを止めるためにシリンジを投擲した技術。──すべてがちぐはぐで、わからなくなる。

 

「梅雨ちゃん!!」

 

 鋭く名前を呼ばれて我に返る。考え込んでいたのは一瞬。けれどその一瞬の間にトガは距離を詰めていた。縫い止められて身動きできない私の両肩に手を置き、ぐいっと顔を近付けてくる。

 

「血ィ出てるねぇお友達の梅雨ちゃん! カァイイねえ血って私大好きだよ」

 

 ……血が出ているのが可愛い?

 どうして? だってお友達っていうのは、傷ついてほしくなくて、笑っていてほしくて、

 

『……誰かを助けてたの、すごく、格好よかったけど……でも、あまり無理はしないでね』

 

 そうだわ。傷を治せてほっとしたような、ふわりと浮かんだ笑顔が素敵で、私は嬉しくて──ああ、どうして。

 どうしてあの子とトガはこんなにも真逆なのに、トガを前にして、あの子を思い出してしまうの。

 

『お友達になりたいわ。愛依(あい)ちゃんと呼んでもいい?』

『……っ、うん!』

 

 泣きそうな目は潤んでいて、赤くなった頬を緩ませて、本当に、心の底から嬉しそうに笑っていた。

 そんな愛依ちゃんの笑顔と重なる(・・・)なんてこと、あってはいけないのに──

 

「梅雨ちゃんから離れて!!」

 

 叫んだお茶子ちゃんに振り向きざまトガはナイフを突き出す。それを身をよじってかわして、お茶子ちゃんは両手で突き出された腕を掴んだ。そのまま片足を軸に回転して後方に回り込み、トガの身体を地面に押し倒す。背中を踏んで拘束したお茶子ちゃんは、フーッと細く息を吐き出した。

 

「梅雨ちゃんベロで手! 拘束! できる!? 痛い!?」

「すごいわお茶子ちゃん……! ベロはちょっと待って」

 

 ガンヘッドの元で磨き上げたマーシャルアーツ。それを発揮してみせたお茶子ちゃんに続かなくてはいけないのに、血が滴る舌先は痺れて言うことをきかない。

 それをもどかしく思っている時だった。トガが口を開く。

 

「お茶子ちゃん……あなたも素敵」

「え……?」

私と同じ匂いがする(・・・・・・・・・)

 

 うつ伏せに押し付けられた状態から、首をよじってお茶子ちゃんを見上げる。その横顔に拘束された悔しさは焦りは微塵もない。

 

「好きな人がいますよね」

「!?」

「そしてその人みたくなりたいって思ってますよね。わかるんです。乙女だもん」

 

 本当に、心の底から嬉しそうに笑っていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

「好きな人と同じになりたいよね当然だよね同じもの身に付けちゃったりしちゃうよね。でもだんだん満足できなくなっちゃうよねその人そのものになりたくなっちゃうよねしょうがないよね」

「な、にを、」

「あなたの好みはどんな人? 私はボロボロで血の香りがする人が大好きです。だから最後(・・)はいつも切り刻むの──ねえお茶子ちゃん楽しいねえ」

 

 目を爛々と光らせて、口の端をにんまりと吊り上げて。 

 

「恋バナ楽しいねえ!」

 

 そんなことを、恋の話(・・・)と宣って。

 トガの左手に握られたシリンジ、その針がお茶子ちゃんの太ももに突き刺さる。驚きと戸惑いと痛みにお茶子ちゃんの顔が強張った。

 

「お茶子ちゃん!?」

 

 シリンジに連結したチューブが赤く染まる。彼女の血が、奪われていく。早く救けなければともがく私の目の前で、パッと光が瞬いた。

 血の薄暗い赤とは真逆の、──鮮烈な緑の閃光。

 

 

「……やめ、ろお!!」

 

 

 咆哮とともに飛び込んできたのは緑谷ちゃんだった。緑谷ちゃんはいつか見せた高速移動で瞬時に間合いを詰め、シリンジを弾き飛ばす。同時にお茶子ちゃんを背に庇い、トガに対峙した。

 

「デクくん!」

「麗日さん、大丈夫!?」

「大丈夫、って……」

 

 お茶子ちゃんがヒュッと息を飲む。その理由は、私の目にも明らかだった。

 

「緑谷ちゃん、その怪我は……!」

 

 緑谷ちゃんの両腕は、赤黒く変色していた。幾つもの骨折と内出血でそうなったのだろう、指の何本かは有り得てはいけない方向に曲がっていた。

 

「平気! それより……!」

 

 なのに緑谷ちゃんは自分のことなんて気にした様子もなく、お茶子ちゃんを守ろうと立ち塞がっている。今だって、激痛はその腕を襲っているだろうに。だらりと力なく垂れ下がった腕で、それでも退くことなく。

 そんな緑谷ちゃんに私は呆然としていた。そうして言葉を無くしている間に、トガは──顔を輝かせて。

 

「デク、緑谷ちゃん……出久くん! 出久くんですよね!」

「え、」

 

 ぱあっと光が弾けるような笑顔だった。声まで輝くようだった。

 

「出久くん! わああ会えた! 写真で見てたよりずうっとボロボロ! 素敵!」

「な、なん……何なんですかあなた……!」

 

 間違っても、こんな重傷の人を前に出る笑顔と台詞ではなかった。頬を染めて、目に星を浮かべて、まるできらきらしいものを見つめているかのような表情。……そう、それは、まるで──

 

(……いえ、駄目よ。戸惑っては駄目)

 

 ここで心を揺るがせてはいけないと、努めて冷静さを取り戻す。私がすべきことは、緑谷ちゃんに代わってトガを拘束すること。あの状態の緑谷ちゃんを放ってはおけないと、髪を縫い止めるシリンジを外そうと身動ぐ。視界の端でお茶子ちゃんも動き出そうとしているのが見えた。そんな時。

 

「……あーーー……」

 

 ふ、と気の抜けたような呟きがトガの口から漏れた。さっきまでの笑顔が嘘のよう。まるで電源を落としたかのように表情が削げ落ち、視線がぼんやりと虚空を漂う。

 

「ざぁんねん。もう行かなきゃです」

「は、え……?」

「“帰ってこい”って、言われちゃいました」

 

 むう、とむくれるように口を尖らせた後、ぱっと顔を上げて私たちを笑顔で見渡す。小さな子どもみたいな仕草とは裏腹に、緑谷ちゃんから音もなく距離を取り、

 

「じゃあお茶子ちゃん、梅雨ちゃん、出久くん! バイバイ! またね!」

 

 無邪気に手を振る。そうしてその姿が掻き消えた(・・・・・)。ハッとしてあのお団子頭を視線で追うも、ほんの瞬きの合間に暗い森の中に消えて行ってしまう。

 

「待っ──」

「危ないわ、何の“個性”を持ってるかもわからないわ!」

 

 追い掛けようとしたお茶子ちゃんを制する。(ヴィラン)を取り逃がすのは良いこととは言えないけれど、相手の情報も意図もわからないこんな状況で、アカデミー生である私たちが深追いするべきではない。

 私は、そう判断した。なのに緑谷ちゃんは首を横に振る。

 

「……いや、駄目だ。追いかけなきゃ……!」

「待っ……待ってデクくん、その怪我じゃ、」

 

「あの人は“帰ってこい”って言われてた! 退くってことはつまり、(ヴィラン)は目的を達成したってことだ!」

 

 その、振り絞るような叫びに、はっと息を飲む。

 (ヴィラン)の目的のひとつ──先程マンダレイのテレパスで伝えられた、それは、

 

「……愛依(あい)ちゃん……!」

「それに、爆豪くんも! さっきマンダレイのテレパスであった! 2人が狙われてるって……!」

 

 爆豪ちゃんに、愛依ちゃん。雄英でできた私の大切なお友達。彼らに、あの子に、危機が迫っている。

 

「行かなきゃいけない! 2人が危ない!」

「……っ! でも、どこに、……!?」

 

 どこに行くべきか。どこに行けば2人を救けられるのか。トガは見失ってしまって手掛かりはゼロ。……どうすれば、と唇を噛んだ。その瞬間、

 

 夜空を、光の柱が駆け昇った。

 空高く聳え立つ光の塔。それは青い粒子を舞わせながら夜闇を引き裂く。見上げる私の脳裏に、あの人(・・・)がよぎった。

 

「──青山ちゃん」

 

 彼の“個性”【ネビルレーザー】は、光線を発射する。そのレーザーは曲がることなく真っ直ぐ放たれるから、使用者である青山ちゃんが仰向けにならない限り、あの軌道で輝くことはないはずだ。

 

 青山ちゃんは、意図して(・・・・)撃ったのだ。

 この(ヴィラン)が何人いるかわからない状況で、自分の居場所を知らせるのがどんなに危険なことか、わからない彼ではないだろう。

 それでも青山ちゃんは撃った。

 誰かに、私たちに、「ここだ」と知らせるために。

 

 

「……あそこだ!! きっと、あそこにいるんだ!!」

 

 

 青山くんの意を汲んだ緑谷ちゃんは、次いで私たちに視線を走らせた。

 

「麗日さん! 僕を浮かして! そして浮いた僕を蛙吹さんの舌で思いっきり投げて! USJの時、僕を投げられるぐらいほどの力だ! すごいスピードで飛んでいける!」

 

 USJの時、と言われて、私の脳裏にもあの時のことが去来した。あの時の緑谷ちゃんと同じ。いつものオドオドした様子は鳴りを潜めて、作戦を組み立てるその横顔は覚悟に満ちている。

 

「麗日さんは見えてる範囲でいいからさっきの光との距離を見計らって、“個性”を解除して!」

 

「まるで人間砲ね。でも緑谷ちゃん、」

「その怪我でまだ動くの……!?」

 

 確かに緑谷ちゃんの作戦ならば、あの地点まで飛んで行けるだろう。でもそれは、緑谷ちゃんの負担を度外視している。USJ(あの時)と、同じ。

 

「痛みなんか今知らない……っ動けるよ、だから早く!!」

 

 緑谷ちゃんは、自分の痛みを度外視している。

 それに気付かない私たちではないし、重ねて言うなら、そんな緑谷ちゃんを放っておけるお茶子ちゃんではない。

 

「……っ私も行く!」

「!? 麗日さん、でも、」

「だってデクくん、ひとりで着地どうするの!?」

 

 お茶子ちゃんは怒ったように声を上げてから、へにゃり、とその眉を下げた。案じるように。安心させるように。

 

「入試の時みたいに、ってわけじゃ、ないけどさ」

 

 そうしてぎゅっと、拳を握る。

 

「私も、救けるよ! 行こうデクくん!」

「……っ、うん!」

 

 緑谷ちゃんの目が潤んで輝く。お茶子ちゃんも応えるように強く笑って、緑谷ちゃんに肩を貸して支えた。“個性”を使用して無重力状態になった2人に、私は舌を伸ばす。

 

「お願い、梅雨ちゃん」

「ええ、──」

 

 緑谷ちゃんの作戦を聞いて、これが(ヴィラン)に追い付くためのベストなのだと理解している。わかっている。私はこうするべきだと。

 私自身は、愛依ちゃんを、救けに行けなくても──

 

「……必ず、必ず……! 2人を、救けてね」

 

 ぐんと首を回して、思い切り投げ飛ばす。流星のように飛んでいく2人を見上げて、私も駆け出した。

 あの子の無事を祈っている。また会えると信じている。

 けれどただ立ち止まっては、いられなかった。

 

 

 

57.卵たち、懸命に。

 

 


 

 最近は更新遅いのがデフォになりつつありますね……本当に申し訳ないです。読んでくださった方、待っててくださった方、本当にありがとうございます!

 閲覧ならびにお気に入り登録及び評価などなど、いつも励みになっております。感謝しかない。

 

 今回は原作との解離点についてそれぞれの視点から書いてみました。常闇くんの強さと葉隠ちゃん、耳郎ちゃんが無力感を噛み締める話。特に他人よりいろんな音が聞こえる耳郎ちゃんは、他人よりいろんなことを思うのではないなと思うのです。また強化フラグに繋げていきます。

 そして後半はトガちゃんとお茶子ちゃんと梅雨ちゃん。この3人はオリ主を交えて本編以上に絡みを増やしていく予定です。

 

 本当は1話でまとめたかったんですが、長くなってしまったので2話に分けました。次の話は明日ぐらいに更新できそうですので、また読んでいただければ嬉しいです!



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58.卵たち、苦闘の果て。

 

 ごうごうと青い炎が夜空を舐める。森が、命が次々に燃えていく。その中に息を潜めて僕は縮こまっていた。キラメいていないって? ……確かにその通りさ。灰に埋もれるように、ただ座り込んでいるだけなんて。だけど今、僕を責められる人がどれほどいるだろう?

 雄英高校ヒーロー科といっても、僕が高校1年生であることに変わりはない。雄英の先生たちは僕らを“有精卵”と呼ぶ。つまりまだ命としてあまりに弱く、柔く、脆いのだ。想定されていなかった(ヴィラン)の襲撃に立ち向かえなくたって、誰も責めやしない。

 誰も、責めやしないのさ。だけど八百万さんは──

 

『私はB組の方々をお救いしなければなりません!』

 

 ガスが有毒であると見抜き、すぐさま皆の分のガスマスクを【創造】し、他の皆を救けに行くと立ち上がった。逃げたっていいのに、逃げなかった。躊躇いすらしなかった。

 

『青山さんは、──』

 

 “僕も行くよ☆”と、言えない僕に、

 八百万さんはそっと手を取って、微笑んだ。

 

『……大丈夫。このガスマスクがあればガスの影響は受けません。施設まで走ってください。そこに相澤先生たちがいるはずです』

 

 どうか、施設に戻って、救けを呼んでください。

 そんな八百万さんに僕は何も言えないまま、僕たちは別れた。言われたままに施設に向かって走って、そして。

 

「おい荼毘、無線聞いたか!?」

 

 聞こえてきた足音と話し声に、僕の繊細な心臓が嫌な音を立てた。そうして木陰に踞るに至ったのだ。(ヴィラン)に見つからないよう、頭を覆って、息を殺して。

 

「テンション上がるぜMr.コンプレスが早くも成功だってよ! 遅えっつうんだよなあ!? 眠くなってきちゃったよ」

「そう言うな、よくやってくれている。後はここ(・・)に戻ってくるのを待つだけだ」

 

 ここ(・・)(ヴィラン)の仲間が集まってくるのだという恐怖に息を飲んだ後、成功(・・)の言葉に目を見開いた。マンダレイのテレパス、(ヴィラン)の目的、爆豪くんと空中(そらなか)さん、そして成功──すべてが繋がっていく。そこで僕は、思わず視線をやってしまった。話していた継ぎ接ぎの男と、視線が、絡む。

 

「──!」

 

 目が、合った。

 直ぐ様視線を逸らして、身体を小さく小さく屈める。ガタガタと震える音やのたうつ心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと怖かった。口を両手で塞いで、ぎゅっと目を瞑る。さく、と草を踏んで近付いてくる足音の度、僕の命が削り取られていくような気がした。

 僕は、怯えて、震えて、何もできないまま──

 

「おい荼毘! そういやどうでもいいことだがよ!」

 

 その呼び掛けとともに止まった足音に、心の底から安堵した。安堵してしまった。

 

「脳無ってヤツ呼ばなくていいのか!? お前の声にのみに反応するとか言ってたろ!? とても大事なことだろ!!」

「ああいけねぇ、何のために戦闘加わんねえで様子まで見に行ったって話だよな」

「感謝しな土下座しろ!」

 

 2人組の(ヴィラン)は真逆だ。言動が少しおかしい方はオーバーリアクション気味の騒がしい男である一方、継ぎ接ぎの男はどこまでも淡々としている。

 

「死柄木から貰った、俺仕様(・・・)の怪物……」

 

 淡々と、嗤う。

 

「1人くらいは殺してるかな」

 

 命を奪う話を、あまりにも淡白にする。

 その声色の冷淡さに背筋が凍りつくかのようだった。震えて身動きできない僕に気付かなかったのか、放っておくことにしたのか、継ぎ接ぎの男はマスク面の男との会話に戻った。

 

「だがよお、そいつラグドールを仕留められなかったんだろ? 案外ヨワヨワなのか? 最強だけどな!」

「ガスで動きを鈍らせてる間に脳無で仕留めるって算段だったんだけどな。【治癒】の“個性”持ちが麻痺毒を治しちまって、計画はおじゃんだ」

 

 【治癒】の“個性”持ち……空中さんだ。彼女がラグドールを治癒して、(ヴィラン)の計画を頓挫させたのだと知って、よかったと息をつく。けれど。

 

「だからわざわざ出向いて、焼いてやったんだよ」

 

 安堵しかけた喉がひきつる。そんな僕をよそに、(ヴィラン)たちはのんびりと会話を続けている。人を焼いた話なんて、何でもないことのように。

 

「しゅっちょーご苦労さんだったな!」

「まぁな……しかし本当に、予定通りにはいかねぇもんだな」

「そりゃそうさ! 予定通りだぜ」

 

「俺のことも労ってもらいたいもんだね。なんだかんだ俺が1番の功労者でしょ」

 

 その会話にまた1人加わった。ロングコートにシルクハットを着込んでいる。奇妙な仮面をつけているから顔はわからないけど、その背格好や声色から男だと推測できる。

 

「おうコンプレス! お疲れ! くたばれ!」

「トゥワイスは今日も絶好調なことで」

「おいMr.、成果は?」

「抜かりなく、ここに」

 

 コンプレスと呼ばれた男は右ポケットから何かを取り出し、継ぎ接ぎの男に差し出した。手袋で覆われた手の上に、ビー玉のようなものが2つある。それを手に取って覗き込みながら継ぎ接ぎの男は口を開いた。

 

「これってこっちからの声は聞こえてんのか?」

「聞こえてるよ」

「ふぅん、」

 

 無感動に頷いたその口許が歪む。笑みの形に。

 

「残念だったな、でも安心しろよ。従順なイイコでいたら、おまえたちに危害は加えない」

 

 何故、そのビー玉に向かって話すのか。

 まるで人であるかのように呼び掛けるのか。

 嫌な予感が、ひたひたと僕に這い寄ってくる。

 

「わあっ! それがバクゴーくんと愛依ちゃんですか? トガにも見せてください!」

 

 嫌な予感は加速していく。ぴょこっと跳ねるように現れた女の子は信じられないことを宣った。信じられない、──信じたくないことを。

 あのビー玉に、爆豪くんと空中さんが囚われている(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

「んー……思ったよりボロボロじゃないです。もっと血ィ出てたらよかったのに」

「相変わらずのイカれっぷりだな……帰投まであと何分だ?」

「あと1分半ってとこ!」

 

 どうすればいいのか。

 (ヴィラン)は“帰投まであと1分半”と言った。その言葉を信じるなら、つまり、あと1分半で(ヴィラン)は撤退するということ。ひとまずの脅威は去るということ。

 どう、すれば、いいのか。

 あと1分半の間に、(ヴィラン)は、爆豪くんと空中さんを連れ去ってしまう。そのことを知っているのは僕だけ。この場にいるのは、僕だけ。

 

「もう少しの辛抱だな」

 

 どう、すれば、なんて。……考える余地が僕にあるのか?

 僕1人がこの(ヴィラン)たちに立ち向かったところで、どうにもならないのは火を見るより明らかだ。柔くて脆い有精卵は、ただ踏み潰される。死体がひとつ転がるだけ。

 命欲しさに踞っていたところで、誰も僕を責めやしない。

 だってそうだろう?

 ここには僕以外誰もいない。僕以外は、誰も、

 

 誰も、──いない。

 この僕以外は。

 

 

(……ああ、なんて、ナンセンス)

 

 死すら恐れずなんて、ナンセンス極まりない。苦しいことだけに向かい合ってちゃ、輝きなんて訪れない。

 けれど、……けれども。

 ここで動かない僕はナンセンス以下だ。

 他の誰も僕を責めやしなくても、馬鹿にしなくても、

 僕は、僕に、一生──輝きを見出だせなくなる。

 

 

「羽根のお嬢さんは【治癒】の“個性”持ちだからね。さっきまで火傷でボロボロだったけど、あらかた治しちゃったよ」

「! ……そうなんですか」

 

 僕の【ネビルレーザー】は一点突破のレーザーだ。あらゆる方向に同時に射出することはできない。

 だから、狙うのは、ひとつ。

 

「ボロボロでも、死なない……」

 

 ぼうっと、夢見るように、熱に浮かされたようにビー玉を掲げる女の子。その手に向かって──射出。

 

「「「!!」」」

 

 空を裂き、手のひらからビー玉を弾き落とす。女の子から遠く離れて宙を舞うビー玉に、ふっと笑う。

 その瞬間、(ヴィラン)の顔が一斉にこちらを向いた。ぐりん、と向けられた視線にびくりと身体がすくむ。そして次の瞬きの後、

 

「なんっだコイツ!!」

「、ぐ……っ!」

 

 マスク面の男が僕の頬を殴り飛ばす。確かトゥワイスと呼ばれてたっけと、馬乗りになられながらぼんやり思った。

 

「てんめぇ! トガちゃんが傷ついたらどーしてくれんだあ!?」

「が、っぐ、……」

「手のひらちょっと火傷したぐらいですし、だいじょぶですよ」

「ホラなあ!? 火傷したんだってよ! 無傷!」

 

 激昂した男が僕の顔を殴り続ける。別に殴られたって僕のキラメきは損なわないけど、痛みはある。それでも僕は心で微笑んでいた。仰向けに倒されたこの状態は、とてもいい(・・・・・)

 

「トゥワイス、どけ」

「いいやどかないね! 許せねえ! すぐどく!」

「そいつ、腹からビーム出してた。その位置は危ねぇ」

 

 継ぎ接ぎの男がトゥワイスを押し退けると同時に、空に向かって(・・・・・・)ビームを発射した。夜空を駆け昇る光の塔。それはまばゆく輝いた。

 きっと、きっと──誰かの目にも輝くだろう。

 

「! ひ、ぐ」

「危ねぇ危ねぇ。……でももうおまえ、終わりだな」

 

 僕の首を押さえて、にぃっと嗤う。その継ぎ接ぎ男の手から、じわりと青い炎が立ち上った。まだそこまで熱くはない。けれど僕の命が文字通りこいつに握られているのだと、そうわからされた。

 

「何かできるとでも思ったのか? おめでたいな」

 

 その歪んだ口が、呪いのような言葉を降らせる。

 

「おまえは何もできず、何も救えず、ここで死ぬんだ」

 

 ……間違ってはいないのかもしれない。僕が何もできなかったのは事実だ。でも、僕じゃなくても、誰か(・・)なら。

 

「おまえの全部、無駄だったなァ」

 

 僕の輝きを見てくれた誰か(・・)が、いたなら──

 そんなことを思いながら目を閉じた。

 

 

「──無駄なんかじゃ、ない!!!」

 

 

 その声は空から降ってきた。え、と思って目を開けると、緑谷くんと麗日さんが空から降ってきたところだった。突然のことで呆然としている僕の前で、緑谷くんは継ぎ接ぎ男に頭突きを喰らわせて、そうして僕を振り返った。

 

「ちゃんと、見えたよ! わかったよ! 青山くん!!」

 

 その言葉で、……ああ、報われたんだとわかった。

 とびきりのサプライズに、ゆっくりと微笑む。切れた唇が痛んだけれど、それでも、いい。

 

「大丈夫、青山くん!?」

「こんな……ボロボロになってまで……!」

 

 麗日さんが駆け寄って、緑谷くんが涙ぐむ。

 変なの。緑谷くんの方がボロボロじゃないか。なんで泣いたりするのかな。

 

「ありがとう……! 君のお蔭だよ!!」

 

 ああ……やっぱり、変なの。

 僕はまた笑って、そのまま意識を手放した。

 

 

 

 

 

「青山くん! 青山くん!」

「大丈夫、息ある! 気を失ってるだけ」

「……麗日さん、青山くんをお願い」

 

 頷いてくれた麗日さんに青山くんを預けて、僕は一歩踏み出す。視線の先で、継ぎ接ぎの男が頭を押さえながらゆらりと立ち上がっていた。

 

「ったく、あのレーザー、そういうことか。面倒なことをしてくれる」

「てめぇらにとっては、そうだろな」

 

 こちらに向けられた青い炎。それを丸ごと飲み込む大氷結を放った彼は、僕の隣に並ぶ。

 

「俺らにとっては、この上ない道しるべだ」

「轟くん……!」

「……へぇ」

 

 心強い援軍の到着に、僕は笑って、(ヴィラン)も笑った。

 

「炎と氷、ね。なるほど、お強いこった」

「ッなんだてめぇ……!」

「ちょっとぐらい遊んでくれてもいいだろ? なァ」

「チッ……!」

 

 轟くんに向かって青い炎が殺到する。それを氷で相殺する轟くんに、継ぎ接ぎの頬を歪めて笑いかける。そんな(ヴィラン)はどうしてか、……楽しそうに、見えた。

 

「っ轟く、!!」

 

 助太刀に入ろうとした直前、僕の前をメジャーが横切る。咄嗟に避けてそちらを振り向くと、メジャーを構えて僕に駆け寄る、マスク頭の男。

 

「死柄木の殺せリストにあった顔だな! そこの地味ボロくん! ……っておわ!?」

「うわっ!?」

「出久くん出久くん! トガです! さっきぶりです!」

 

 マスク頭……を、押し退けるようにしてやって来たのは、麗日さんたちを襲っていた女の子の(ヴィラン)だった。トガと名乗ってにこにこ笑って、僕にナイフを振り下ろしてくる。

 

「会えて嬉し、……!」

 

 その切っ先は僕に突き刺さることなく、途中で止まる。僕の目の前に背中が広がる。それは決して大きくはなくて、むしろ僕より小さいくらいで。それでもとても、頼もしい。

 

「させないから!」

「! うふふ、お茶子ちゃんも!」

 

 邪魔されたってのにトガは嬉しそうに声を弾ませる。にんまりと、頬を真っ赤にして。

 轟くんと継ぎ接ぎ男。麗日さんとトガ。僕と再度やって来たトゥワイス──あっという間に混戦にもつれ込んでしまった。かっちゃんと空中さんを、早く救けないといけないのに……!

 

「まったく……飛んで追ってくるとは、発想がトんでる」

 

 そんな中、呆れたような溜め息が聞こえた。視線をやる。シルクハットを被り直す仮面の男。その指先がビー玉を軽く投げたり、転がしたりしている。

 

「てかみんなして熱くなっちゃってどうすんの。もう帰投時間だってのに……、」

 

 愚痴をこぼすその姿に、突然、影が覆い被さった。

 思わず目を見開く僕の目に映る、──頼もしい6本の腕。

 

「ぬん!!」

「!? っぶね!」

 

 仰け反って、右側の腕を束ねた打撃からかわす。その身体の胸ぐらを掴み、地面に押し倒したのは、

 

「障子くん!!」

 

 その広い背中を間違えようがない。障子くんはシルクハットの男を逃がさないよう押さえつけてくれていたけれど、仰向けに倒れていたその姿が消えた(・・・)。目を剥く障子くんの足元からこん、こん、とビー玉が転がって、パッと弾ける。

 

「いてて……あんな図体して奇襲とは、おっそろしいねぇ」

「Mr.、爆豪と空中は?」

「だーいじょうぶ、……!?」

 

 シルクハットの“個性”だろうか。ビー玉の中に自身を入れて障子くんの腕から逃れた(ヴィラン)は、再び姿を現して継ぎ接ぎ男と話し始めた。その中で聞こえた“かっちゃん”と“空中さん”という言葉。コートの右ポケットを漁る男に問い質したかったけど、

 

「みんな、逃げるぞ!」

 

 それより前に、障子くんが鋭く声を上げる。

 

「今の行為でハッキリした……! “個性”はわからんがさっきおまえが散々見せびらかした──右ポケットに入っていたこれ(・・)が爆豪と空中だな。エンターテイナー」

 

「……ホホウあの短時間でよく……! さすが6本腕! まさぐり上手め!」

 

 シルクハットを捕まえていたのはほんの一瞬だった。けれどその一瞬で障子くんは成し得てくれたんだ。

 

「っし、でかした!」

「うん、逃げよう!」

 

 轟くん、麗日さん。そして障子くんの手の中にはかっちゃんと空中さん。僕らは成し遂げた! 救けることができた! だから後はここから離れなくちゃと、そう思って駆け出した。

 すべて上手く行った。前途は明るく思われた。

 そんな僕らの前に、──暗闇が広がった。

 

「……これ、は、」

 

 僕の脳裏に、USJ(あの時)のことがよぎった。

 じわりと虚空に滲む黒い渦も、そこに怪しく光る金色の目も、全部、全部、あの時と同じだ。

 

「ワープの……」

 

 僕らの前に立ち塞がった影の(ヴィラン)は、この場にそぐわないほどの丁寧な声色を出した。丁寧で、冷静で、……だからこそ、ゾッとする。

 

「合図から5分経ちました。行きますよ荼毘」

「トゥっ!」

「ごめんね出久くんまたね」

 

 幾つも広がっていくワープゲートに、(ヴィラン)たちが消えていく。

 

「さぁて荼毘、俺らも行こう」

「待て、まだ目標が……」

「ああ……アレは走り出すほど嬉しかったみたいだからプレゼントしよう」

 

 その最中そんな会話が聞こえて、僕は立ち止まる。ばくばくと心臓が跳ねる。つ、と冷たい汗が流れて、顎を伝って落ちた。

 

「悪い癖だよ、マジックの基本でね。モノを見せびらかす時ってのは……、」

 

 シルクハットの男が、仮面を、外してみせた。

 

「……見せたくないモノ(トリック)がある時だぜ?」

 

 べ、と出された奴の舌の上に、ビー玉が2つ。

 その中にいるかっちゃんと空中さんの姿が、何故か、やけに鮮明に見えた。

 はっと息が零れた瞬間、障子くんの手に握られていたビー玉が弾けた。そこから現れたのは2人じゃない──氷の、塊。

 

「ぬうっ!?」

「! くっそ!!」

 

 モノを圧縮して閉じ込める系の“個性”。今までの攻防からある程度の“個性”の概要はわかっていたのに、まんまと騙されてしまった! 慌てて駆け出すけど、奴との距離が、遠い……!

 

「そんじゃーお後がよろしいようで……」

 

 わざとらしくお辞儀する奴の身体は、もうほとんどワープゲートに呑まれてる。行ってしまう、2人が、連れて行かれてしまう!

 歯噛みしながらそれでも走る僕らを、

 

 ──ひとすじの光線が追い抜いていく。

 

「あ……!」

 

 振り返ることはできなかった。けれどわかる。青山くんだ。あんなに傷ついていたのに、最後の力を振り絞って【ネビルレーザー】を撃ってくれたんだ!

 彼のレーザーは真っ直ぐ宙を走り、シルクハットの男に向かう。

 

「っとお!?」

 

 それをまともに受ければ、奴の動きを止めることができるだろう。その隙に2人を救け出すんだ、絶対に!

 走る足に力を込める。もっと早く、もっと強く地を蹴れと命令する。もっと、もっとだ! もっと早く──

 

「──なぁんて、な」

 

 何が起きたのか、一瞬理解が追い付かなかった。

 光線は男の直前でヒュッと掻き消えた。目を見開く僕らの前で、男は手の中のビー玉を弄ぶ。光線すら閉じ込めたその球体を、見せつけるように。

 

「惜しかったなあ、でも残念。二番煎じで客は沸かない」

 

 そんな言葉に、諦めたわけじゃなかった。

 でも同時に、僕の身体が突然痛みを思い出した。雷に撃たれたような衝撃に、声も出せずに崩れ落ちる。地べたに這いずる僕は、唯一自由になる首をもたげて、そうして見た。

 

「哀しいなあ、轟焦凍」

 

 走り続ける轟くんの背中と、

 そんな彼に笑う(嗤う)、継ぎ接ぎ男の顔を。

 

「おまえの手のひらから、どんどん零れ落ちていく」

 

 まるで歌うようにそんなことを言う、その顔は歪んでいた。継ぎ接ぎの肌のせいじゃない。哀れむような、蔑むような、楽しむような……相反する感情がぐちゃぐちゃになって滲んでいるような、そんな表情で。

 

「最後に別れの挨拶をさせてやろうな」

 

 そんな台詞とともにビー玉が弾ける。シルクハットの男の手に空中さんが、継ぎ接ぎ男の手にかっちゃんが拘束されていた。身体のほとんどが、もう、暗い渦の中に呑まれている。

 

「空中!!」

「……だめ、だめ……みんな、逃げて……!」

 

 空中さんは、ふるりと首を横に振って声を震わせた。

 

「かっちゃん!!」

 

 行かせてたまるかと最後の力を振り絞って立ち上がり、駆ける。そうして目の前に来た僕に、かっちゃんは目を血走らせた。赤い目が、僕を見て。

 

「──来んな、デク」

 

 隔絶。断絶。そうした声色と一緒に、空間まで切り離された。ワープゲートは小さくなってついに掻き消えてしまった。飛び込もうとした僕は勢い余って、ただ地べたに叩きつけられる。

 

「……っあ、」

 

 見上げる。そこではただ木々がごうごうと燃える音だけが響いていた。焦げ臭い臭い。目に染みる煙。

 ──目を凝らしても、かっちゃんたちの姿は、無い。

 

「──ッあああ”……!!!」

 

 残されたのは、徹底的に敗北したという、事実だけ。

 

 

58.卵たち、苦闘の果て。

 

 


 

 Q.ラグドールどこ?

 

 A.中間地点から帰投ポイントに行く道中で生徒たちを救助しつつ、轟、障子組の後を追っていました。ヤオモモたちを守る時に再起動した脳無に怪我を負わせられましたが、ほぼ無事です。連れ去られていません。

 

 ラグドールのことも書きたかったんですが力尽きましたね……今回は後書きで説明することになってしまいすみません。精進します。

 あと今回は青山くんを活躍させることができて個人的にめっちゃ嬉しかったです。筆者はダイの大冒険を履修してから、普段はちょっと情けないというか、臆病な人間が勇気を振り絞って頑張る姿が大好きでして、青山くんも大好きなんです。

 

 これにて林間合宿編は終了し、ついに神野事件編!突入です!このssが第二部構成だとするなら神野編で第一部が終了するというイメージで書いてます。残酷表現、R15的な表現が入りますが、ひとつの大切な区切りでもありますので自分なりに気合いを入れて書いていきます。また読んでいただければ嬉しいです!

 最後になりましたが閲覧、お気に入り登録、評価などなど、本当にありがとうございます!とてもとても励みになっております。今後も頑張ります。



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神野事件編
59.少女、断る。


 

 今回はオリ主(の複製)への暴力表現があります。腕がもがれたり頭がパァンとなります。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。次回の前書きで簡単なあらすじを用意しておきます。

 

 


 

 

「──ッ!!!」

 

 声にならない声が鼓膜をぶった。乱暴に飛び込んできたその悲鳴に、沈んでいた意識が浮上する。目を開ける。身体を起こそうとする前に、ひたり、頬に触れる感触に息を飲んだ。

 それは、泥だった。泥のような何かだった。水のように流れることなく、糊のようにねばつくことなく、ただ力なく床に塗りたくられている。見た感じは泥でしかないけれど、土の臭いはしない。

 

(これは、……いや今はとにかく、悲鳴が……!)

 

 わからないことが多すぎるけれど、今ここで悲鳴を上げている人がいることは事実だと、わたしは身体を跳ね起こす。どこかで聞いたような声を辿って視線を向ける。そう、どこかで聞いたような(・・・・・・・・・・)──

 

「──ぁ、」

 

 ……ああ、そうか。

 “どこかで聞いたような”って、そんなの当たり前だ。

 だってそれは、わたしの声(・・・・・)なのだから。

 

「あ、……あ……」

 

 目の前に、わたし(・・・)がいた。

 わたし(・・・)は誰かに右腕を掴まれていた。それを振りほどこうともがいて、痛みに髪を振り乱している。ふいにその顔がぐりんとこちらを向く。乱れた髪から覗く青い目が見開かれて、その口が何かを言おうと薄く開いて、

 

「……! ぎ……ぃ……ッ」

 

 悲鳴を噛み殺す濁音。それが部屋に落ちると同時に、わたし(・・・)の掴まれていた右腕が引きちぎられた。ぶちぶちと繊維が千切れる音も、骨がへし折られる音も聞こえる。けれどそれが身体から完全に離れた瞬間、床に放られた右腕も、生々しい断面も、傾ぐ身体も、痛みに目を剥き、歯を食い縛って耐えるその顔も──すべてが溶けた(・・・)

 

「……は……?」

 

 どろどろに溶けて、泥になる。わたし(・・・)であったものが、泥になっていく。そんな現実とは思えない光景が、今まさに、わたしの目の前に鎮座していた。血の臭いも土の臭いもしない。けれど先程の押し殺した悲鳴が耳にこびりついている。

 

「ふむ……やはりトゥワイスの“個性”は便利だけれど、複製はどうにも脆くていけない。たかが腕をもいだだけで消滅してしまうとは」

 

 呆れたように息をついて、彼は身を引いた。高価そうな革靴に泥がつかないように、……そこにいたはずのわたし(・・・)なんか、はじめから無かったかのように。

 

「……おや、目が覚めたんだね」

 

 品のいいスーツに身を包んだ男性が、こちらに顔を向けた。……顔であることに違いない。けれどそこにあるべきものが幾つも無かった。髪や眉毛がないのは別に気にも留めないけれど、目が潰れているのは個性の範疇に止まらないんじゃないだろうか。

 そんな、顔の大部分を覆う大怪我を前に、わたしは必死に表情を固めた。驚いてはいけない。気づいたと、気づかれてはいけない。

 

(会長が、言っていた……6年前のこと)

 

 あのオールマイトが人知れず相対したとされる、巨悪の存在。激しい戦いの末にオールマイトに破れた()は行方を眩ませたのだという。あまりに酷い怪我(・・・・・・・・)を負っていたことから、もう生きていないのではと思われていたけれど──

 

(大怪我、(ヴィラン)連合の裏にいる頭脳役(ブレーン)、……間違いない、彼が、)

 

 AFO(オールフォーワン)

 超常黎明期から暗躍し続けている、悪魔であり、怪物。

 

「初めまして。空中(そらなか)愛依(あい)くん」

 

 豊かなバリトンボイスが優しく鼓膜を震わせる。彼は紳士めいた仕草で一礼し、わたしに右手を差し出してきた。握手のつもり、なのか。その声色も物腰も柔らかいからこそ、わたしの心臓は警鐘を声高に叫んだ。

 悪魔は誰よりも、聖人の真似事が上手なのだという。

 

「あなたは、誰、ですか」

「君の疑問も尤もだけれど、名乗る必要があるのかな」

 

 彼は小首を傾げて、おもむろに口許を覆うマスクを外してみせた。晒されたその素顔は、目だけじゃなく、鼻も、潰されてほぼ原型がない。唯一まともに存在している口が弧を描いているから、それで彼が笑っているのだとわかった。

 

「どうだい、酷い怪我だろう? 目も鼻も、潰されてしまった」

 

 口許で笑いながら、声で嘆きながら、AFO(オールフォーワン)はわたしを目の無い顔で見た。じいっと、見つめた。それを見つめ返しながら、わたしはわたしに問い掛けた。

 どうすればいい。どうすればこの場におけるベストを選べる。10畳ほどのこの部屋に窓は無い。ドアすら無い。わたしの背に翼はほとんど残されていない。この打ちっぱなしのコンクリートの壁をぶち破るほどのパワーは出せないし、目の前の彼を振り切れるスピードも出せない。考えろ。なら救援を呼ぶには、……一般的にコンクリートの壁は防音性能が高いと聞く。叫んで、届くのだろうか。窓もドアも無いこの部屋から、誰かに、届く?

 

(考えろ、……考えろ! 弱気になっては駄目!)

 

 わたしは(ヴィラン)連合に拐われてここに来た。爆豪くんの姿は見えない。この部屋に、人影はわたしとAFO(オールフォーワン)だけ。……別々に囚われているのは、爆豪くんとわたしに望む(ヴィラン)の目的は違うということかもしれない。考えろ。上手く受け答えして、立ち回らないと。考えて、考えて、考えて──

 

「君は【治癒】の“個性”で、たくさんの人を治すヒーローとなるんだろう? 僕を、治してくれないかな」

 

 ──考えて、いた。自分なりにどうすればいいのか。どうすればこの圧倒的に絶望的な状況で、ベストを選択できるのか。どうすればAFO(オールフォーワン)の目的を果たすことなく、幾らかの情報を持ってここを脱出することができるのか。考えては、いた。いたけれど、

 

「──でき、ません」

 

 気づいた時には、自然と口がそう動いていた。本当なら、要求に対して意図を確かめるなり交渉するなりすれば、時間稼ぎにもなるし何かの情報を掴めたかもしれないのに。

 でも、どうしても、……どうしてもできなかった。

 AFO(オールフォーワン)を治すという、選択は。

 

「ヒーローは、(ヴィラン)を、治せない?」

「……そういうわけでは、ありません。けれど、然るべき順序を踏んでいただかないと、できません」

「目の前で苦しんでいる人がいるのに?」

「……はい」

 

 ああ、わたし、ここで死ぬのかもしれないなあ、なんて、そんなことをぼんやり思った。

 こんな風に要求を突っぱねてしまえば、相手の機嫌を損なうに違いない。抵抗する術も逃げ出す術も、助けを求める術すら、わたしには何一つ残されていないのだ。相手の気分次第ですぐにでも殺されてしまう。そんな状況に、あるのだから。

 

「そうかい」

 

 けれどそんなわたしの覚悟とは裏腹に、AFO(オールフォーワン)は軽く微笑んでいる。わたしに怒っているわけでもなく、殺意を向けるわけでもなく、ただ、口の端を吊り上げて。

 

「ならば、少し話でもしようか」

 

 そうやって、わたしの背後を指し示す。振り返ると……いつの間にあったのだろうか、簡素な木造の椅子があった。AFO(オールフォーワン)が腰掛けるのを見て、わたしもゆっくりと座る。

 暗い部屋に、ぎしりと、椅子が軋む音が微かに鳴る。四方をコンクリートで囲まれたこの部屋に光源は無く、ただAFO(オールフォーワン)の傍らのデスクに置かれたパソコンの画面が、人工的な青い光を放っていた。それに照らされたAFO(オールフォーワン)が、目の辺りを歪ませる。笑っているらしい。

 

「……あなたの治癒を行わないわたしと、話すことなどあるのですか?」

「お喋りは嫌いかな」

「いえ……ですが、わたしにそれほどの価値があるとは思えません」

「おやおや、卑下はいけないよ」

「事実、です」

 

 そう、事実だ。【治癒】の無いわたしに、価値などない。

 

「わたしを拐ったのは、あなたの治癒をするためですよね」

「弔はそのつもりらしいね」

「……、あなたの指示ではないと?」

「うん。どうやら彼なりの“先生孝行”らしい」

 

 親孝行ならぬね、と彼は笑う。「可愛いものだろう?」と同意を求められても、わたしに頷くことはできない。

 

「……“可愛いもの”で、誘拐されては困ります」

「ハハ、確かに」

 

 何がそんなに可笑しいのだろう。笑い声を上げる目の前の男性は、まるで本当にただお喋りに興じているかのような気軽さだ。こんな異常事態なんて、何でもないことのように。

 ……ああ、駄目だ。気圧されている。ずっとこの人のペースに流されている。落ち着いて、気を取り直して。──死柄木弔がAFO(オールフォーワン)と確実に繋がっていることはわかった。本当に微々たるものでも、得られる情報はあるのだ。気を確かに、しっかり持って、前を向く。

 

「……話を戻します。わたしに、どんな話を望んでいるのですか」

「せっかちだね」

「生憎と、こんな状況で落ち着けるほど、わたしに胆力はありません」

「そうかな、十分しっかりしていると思うけれど……ああいけない、また脱線してしまうところだった」

 

 彼は、笑う。嗤う。

 

「それじゃあお望み通り、本題に入ろうか。聞かせてほしいんだ──君の“個性”のことをね」

 

 そんな言葉とともに指を鳴らした。その途端、AFO(オールフォーワン)の横の空間に黒い渦──ワープゲートが浮かび上がった。息を飲むわたしの前に、人影が現れる。白い髪に白い肌。青い目があるだろうところは目隠しをされていて、後ろ手に拘束されている──わたし(・・・)だった。

 

「……え……」

「“これ”は、トゥワイスの“個性”で創った君の複製品(・・・・・)だよ」

「わたし、の?」

 

「ここは、どこなんですか。あなたたちは誰ですか……!」

 

 いきなり知らない場所に飛ばされて不安なんだろう、わたし(・・・)が誰何の声を上げる。その声も、顔も、何もかもほぼ(・・)わたしと同じだ。まるで生き写しのようで、……でも、

 

「気づいたかい? 君との相違点」

 

 わたしの思考を見透かしたかのようなタイミングで、そんな声が突き刺さる。はっとして返答できずにいたけれど、それは彼にとってはどうでもいいことのようだ。AFO(オールフォーワン)は満足げに笑い、椅子から立ち上がった。床に座り込んでいたわたし(・・・)の髪を掴み、無理やり立ち上がらせる。

 

「い……っ」

「、あまり乱暴は」

「“やめてあげてほしい”って? 優しいね」

 

 君じゃないのに、優しいね。

 歌うようにせせら笑い、彼は続ける。

 

「トゥワイスの【二倍】でできた君には、見ての通り【翼】が無いんだよ。何度計測して、何度創っても」

「それは、……今のわたしの【翼】が、ほとんど焼け焦げているからじゃないんですか」

「それなら焼け焦げた【翼】が複製の君にも生えるはずだ。トゥワイスにも確認したけど、こんなことは初めてで首を捻っていたよ」

 

 トゥワイス、というのが誰のことかは知らないけれど、恐らくは(ヴィラン)連合の一員なのだろう。そして“個性”は【二倍】……物を、人を、二倍にする“個性”。AFO(オールフォーワン)の口振りから察するに、ただ見かけだけコピーするんじゃなくて人格や“個性”までコピーすることができるんだろう。

 

「本当に、興味深いよ。だって複製の君には、【翼】だけじゃなく、【治癒】の“個性”も無かったんだから」

 

 それなのに、わたし(・・・)にはあるはずの“個性”がコピーされなかった。

 

「だから僕はこう仮定したんだ。君の“個性”は【翼】でも【治癒】でもなく、別のものなんじゃないかって」

 

 とあるひとつの事実を突きつけ、それを元に真実を暴いていく。暗く、揺らぐ、嗤う。その声が無ければ、まるで探偵か何かのよう。

 

「そしてそれは、誰かの“個性”をコピーするか、奪う“個性”なんじゃないか、とね」

 

 ……ああ、本当に。痛いところを、暴いていく。

 肯定も否定もできず黙り込むわたしに、彼は笑みを深めた。

 

「ふふ、どうやら正解だったみたいだ」

「……わたしは何も、言っていません」

「沈黙は雄弁、ということだよ。……ほら、複製の君も同じ反応をしている」

 

 言われるままに視線をやると、口を引き結び沈黙するわたし(・・・)が見えた。平静を装おうとしてできていない、未熟な表情。今のわたしはこんな顔をしているのだろうか。

 

(……情けない、)

 

 見透かされて、暴かれて、唇を噛むしかできないなんて。この上なく情けない。これ以上恥の上塗りはできない。

 

「じゃあ……じゃあ、どうするんです。だったら尚更、わたしは用済みでしょう」

「それがね、そうでもないんだよ」

 

 だからわたしは、気丈であろうとした。どんなことを言われても心を惑わせないようにと、揺るがせないようにと、そう決意して巨悪を見据える。

 そう、決意、したんだ。──なのに、

 

「空中くん。君、(ヴィラン)になる気は無いかい?」

「……は……?」

 

 突拍子もない提案に呆気に取られる。脳裏が真っ白に塗り潰されて、薄く開いた口が震えた。

 そんなわたしを見てAFO(オールフォーワン)は笑った。まずい、と思った時には遅く、彼はつらつらと畳み掛けてくる。

 

「僕にも“個性”を奪う“個性”があってね。それで君の“個性”を奪おうとしたんだけれど、……ああ、知っているかい? “個性”には人格というか、思い出というか……面影が残るんだよ」

「……ま、待って、ください。何の、話を、」

 

「君の過去を垣間見たんだ」

 

 ……ああ、まずい。駄目。駄目なのに。

 息を飲んでは駄目。目を見開くのも駄目。感情を露にするのは減点だって、ずっと言われてきたのに。

 AFO(巨悪)相手に、つけこむ隙を見せてはいけないのに。

 

「君が初めて“個性”を発現したのは3歳の誕生日、だったかな。優しいご両親に囲まれて……ふふ、フルーツがたっぷり乗ったケーキが嬉しかったんだね。『きらきらして宝石みたい!』って、可愛いことを言うじゃないか」

 

 “出鱈目を言わないで”って、言わなければならなかった。舌が震えるなんてあってはならなかった。この人の話は事実だと(・・・・・・・・・・)、そう、認めてしまったら、

 

「けれど、可哀想に。君はケーキを食べられなかった。君は……」

「「やめて!!」」

 

 ああ、ほら、見てみろ。やっぱり悪魔が嗤ってる。

 子どものように耳を塞ぐわたしたちに、彼は微笑した。

 

「君は、ご両親に愛されていた。きっと君も、同じ愛を返したのだろう」

 

 嘲るように。慈しむように。手招きするように。

 

「けれど、いや、だからこそ君はあの時──ご両親の“個性”を奪った。それが君の“個性”、だろう?」

 

 彼は、笑う。嗤う。

 

「心を通わせた者の“個性”を奪う。愛につけ込み、愛に縋り、愛に寄生する。君の“個性”を名付けるならば……」

 

 

「【依存】──といったところか」

 

 

 わたしの『だいすき』は、汚い。

 だってわたしの“これ”は、相手と分かち合うものでも、支え合うものでもない。一方的に相手に寄りかかって、すがって、寄生して、──未来を奪う。

 それは、恋や愛にはならない。

 どこまでいっても【依存】でしかない。

 

「答え合わせは、してくれないのかい?」

「……必要ないでしょう。……沈黙は雄弁、なのでしょう?」

 

 ここまで正確に言い当てられては、何も反論する気が起きない。吐き捨てるようにそう返すと、AFO(オールフォーワン)は大袈裟に肩を竦めてみせた。

 

「残念。君の口から聞きたかったのに」

「……酷い人、ですね」

「おや、心外だな。君の両親よりはマシだろう?」

 

 そうして軽やかに続いた言葉に、かっと顔が熱くなった。激情が言葉となって、喉の奥からせりあがる。

 

「……っ違う、違う……! あの人たちは、悪くない!」

「そうかな」

 

 小首を傾げて、口許に手を当てて、彼は心底“わけがわからない”といった様子で話し出す。

 

「愛していたのに、ああも手のひらを返す。それを酷いと言わずに何と言うのだろう? 僕に教えてくれるかい?」

 

 それは、と、わたしの口から零れた。続きは舌の上で蟠った。二の句が継げずに視線を移ろわせるわたしに向けて、彼はゆったりと歩みを進めた。

 

「いいんだよ。嫌っても、憎んでも」

 

 低く揺らめく声が、甘さを帯びて広がっていく。

 

「君は何にも悪くないんだ。だって君は、その“個性”を持って生まれただけだろう? 誰を害そうとしたわけでもない。ただ人を、家族を愛しただけ」

 

 こつ、こつ、と革靴を鳴らしながら、

 

「それを悪だと責め立てる君の両親の方が、間違っている。大丈夫、大丈夫だよ……僕は君を許そう」

 

 彼はわたしの目の前に立った。そうしてその手をわたしに差し伸べる。

 ……両親は差し伸べてくれなかった、手を。

 

「君は、正しい。間違ってなんかいない。優しい子だ」

 

 どこまでもわたしを許すその言葉は、優しく甘い。まるで麻薬のようだった。ぼうっとしていく頭の中が、白く霞んでいく。

 

「そんな君が救われない社会なんか、見限ってしまって、構わないだろう?」

 

 

 

 白い。そうだあの日は、雪が降っていた。吐き出す息が白く濁るほど、痛いぐらい寒い日だった。

 真っ暗な夜空にちらつく雪の白。コンクリートのベランダは灰色。全部が全部、そんなモノクロの世界で、

 

 ──あの羽根だけが、真っ赤に輝いて見えた。

 

 

 

「──前提が、間違っています」

 

 ふるりと首を横に振って、顔を上げる。もう視界は澄み渡っていた。思考の靄も晴れている。

 

「わたしは、もう既に、全部、救われています」

 

 あの雪の日を越えて、今わたしはここに在る。

 

「とあるヒーローに、救ってもらいました」

 

 あの人に、連れてきてもらったのだから。

 

「あの人みたいになりたい。あの人の力になりたい。

 あの人を、救けたい。……揺らぐことなく、この胸に」

 

 何度も繰り返してきた誓いを、祈りのように口ずさむ。それだけで心に熱が灯る。勇気の火が、わたしの震えを止めてくれる。

 

「だから、もう……わたしは迷いません」

 

 だから為すべきことはひとつだと、わたしはまなじりを引き締めて目の前のAFO(オールフォーワン)を見据えた。

 

「もしも、わたしがあなたを治癒したとしたら……あなたはきっと、もっとたくさんの人を傷つける。それをさせまいとヒーローは戦う。戦って……きっと、傷ついて、しまう」

 

 超常黎明期から溜め込んでいた数多の“個性”で、何人もの人が血を流すのだろう。涙を流すのだろう。

 あの人は、それを見過ごせる人ではないから、きっと心も身体も傷ついてしまうだろう。わかっている。

 だから、わたしは、

 

「それがわかっていて、わたしは……(ヴィラン)にはならない。あなたを治すことは、できません」

 

 決別の言葉を、突きつける。

 それを受けたAFO(オールフォーワン)は、しばらくの沈黙の後、ふうと息を吐き出した。

 

「僕がお願いしても?」

「はい」

「何が、あっても?」

「──はい」

 

「……そうか、……残念だ」

 

 残念、というよりも、呆れを多分に含んだ溜め息。

 

「ならばもっと、“お話”をしなければいけないね」

 

 穏やかな口振りから、温度が抜け落ちたのがわかった。冷やかを通り越して冷徹となった響き。そんな声とともに、ぎちぎちと何かが軋む音がした。

 

「ひぎゅ、ぅ、」

 

 それは、肉と骨が軋む音だった。顔を上げた先で、わたし(・・・)がその顔を赤黒くしている。肥大したAFO(オールフォーワン)の手がわたし(・・・)の頭を掴んで、みちみちと力を入れて、輪郭が歪んで、がぎ、ごき、って、ああ、ああ──

 

「ひ、ぎ……ッ」

 

 ぼたり、と零れ落ちた眼球は、瞬く間に泥と化した。原型を留めていない頭部も、身体も、すべてが溶けて床に広がる。力なく広がる無臭の泥が、わたしの靴先を汚した。

 ……これがわたしの末路なのだと、彼は示したのだ。

 

「さて……どうだい? 空中くん」

 

 問い掛けられて、……わたしは微笑んだ。

 心はもう、決まっていたから。

 

「返答は、変わりません。……わたしは(ヴィラン)にならないし、あなたを治さない」

「……君は、案外強情だったんだね。……誤算だったよ」

 

 やれやれと肩を竦めて、彼は口許を歪めた。恐らく嗤っているのだろう。

 

「ただ死ぬよりずっと苦しいことも、痛いこともあるんだよ。それを今から、教えてあげよう」

 

 先ほど、あっという間にひとつの命を摘み取った手が、わたしにゆっくりと伸ばされる。それにわたしは目を閉じた。目蓋の裏に、あの人を思い描いた。

 

(ホークス、ホークス、)

 

 あの人の名前を、何度も何度も唱えた。

 

(……啓悟くん)

 

 それだけで、きっとわたしは大丈夫。

 だってあの日に、すべて救ってもらったのだから。

 

 

59.少女、断る。

 

 


 

 残酷表現ってどこまでなら平気なんだろうと心配していたんですが、そもそも本編が腕足欠損のオンパレードでしたね!まったくの杞憂でした。どんどんいきましょう!

 冗談はさておき、今回はAFO(オールフォーワン)との対話でした。AFO(オールフォーワン)との邂逅ならびに“お話”(拷問)はssを書き始めた当初から考えていたことなのでやっと書けたなあという気持ちでいっぱいです。次回はオリ主の過去編を書く予定です。これまたずっと書きたかったところなので楽しみです!本誌でガソリンをぶっこまれたので、この勢いで書いていきたいですね。

 

 最後になりましたがいつも閲覧ならびにお気に入り登録、評価などなど、本当にいつもありがとうございます!とてもとても嬉しく励みになっております。神野編はドシリアスな展開が続くのですが、また読んでいただければ幸いです。



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60.少女、縋った。

 

▽前回の簡単なあらすじ

・林間合宿で誘拐されAFO(オールフォーワン)と2人で会話。

・オリ主の“個性”が【治癒】でもなく【翼】でもなく【依存】だと見破られる。

・オリ主の過去を垣間見たAFO(オールフォーワン)が「(ヴィラン)にならないか?」と勧誘。

・オリ主断る。

・今から“話し合い”(拷問)が開始されそう。

 

▽今回の注意点

 今回は拷問表現はありませんが幼少オリ主(3歳女児)への虐待表現があります(性的虐待はありません)。苦手な方はご注意ください。次回の始めに簡単なあらすじを置いておきます。

 

 


 

 

 わたしの“個性”は【依存】。わたしと心を通わせた相手の“個性”を奪う。心を通わせる、なんてこの上なく曖昧で精神的な事柄なのだけれど、確かなことがひとつある。

 心が繋がるには、人と過ごす時間が必要だということ。

 誰かと過ごした記憶から想いが生まれるということ。

 

 だから、なのか。こういう“個性”だからか。

 ……わたしはあの人たちとの記憶を、鮮明に覚えている。

 

 

 

 

愛依(あい)、ほら、見て』

 

 小さなわたしは抱っこされていたから、お母さんの声がすぐそばで聞こえていた。ふわりと優しくて、あったかくて、誇らしそうな声。

 

『お父さん、頑張ってるよ』

 

 お母さんに言われて見上げると、ビルの屋上で暴れている(ヴィラン)と、それと戦うヒーローの姿があった。ヒーローは青空と同じ色のマントを靡かせて、(ヴィラン)の放つ銃弾にも果敢に立ち向かっている。怪我なんてなんのその、頬に赤いひとすじの線を走らせながら、一気に距離を詰めた。そうして(ヴィラン)を背負い投げ。衝撃に気を失った(ヴィラン)に安堵したのか、その勢いのままたたらを踏む。

 

『おわっ、とっとっと……!』

 

『! 危ない!』

 

 わっ、とビル下で見守っていた人々がざわめく。その多くの目が見開いて、それから柔らかに丸くなった。バランスを崩したヒーローは屋上のフェンスに掴まって、何とか落下を免れていた。

 はは、と照れ笑いが小さく零れる。青いマントがふわりとはためく。

 

『いやあ、ご心配お掛けして、お恥ずかしい……』

 

 その瞬間、わあっと歓声がその場を染め上げた。同時に笑い声も上がったけれど、それはとても、あたたかな。

 

『あはは、なんだそれ!』

『気を付けろよなあ!』

『なーんか格好つかないよなあ、相変わらず』

 

『いやほんと、返す言葉もないなあ……』

 

 へにゃりと下がる眉は、人によっては情けなく映るのかもしれない。けれど、

 

『おおい、怪我、大丈夫かぁ!?』

『あっ、それは平気ですよ。もう完治してます!』

『さっすが、不滅のヒーロー!』

 

 【自己再生】──自分の治癒能力を活性化させる“個性”。それを存分に活かし、身を呈して民衆を守る。ちょっとおっちょこちょいで、格好つかないこともあって、それでも誰よりみんなを守ろうと必死で。

 

『ありがとう! ヒーロー!』

『! どういたしまして!』

 

 誰かを守れた時に、とっても嬉しそうに笑っていた。

 

『……ふふ。すごいでしょ、お父さん』

『うん! おとうさん、かっこいい!』

 

 そんなお父さんが大好きだった。そんなお父さんのことが大好きなお母さんのことも大好きで。だからわたしは大きく頷いて、声を弾ませた。

 

 

 そう、大好きだったの。

 お父さんもお母さんも、大好きだった。

 

 

『おかあさーんっ』

『あらま、愛依。どうしたの?』

『うふふー』

 

 あの日。エプロンをつけて台所に立つお母さんに抱きついて、わたしはぐりぐりと頬を寄せた。そんなわたしの頭を撫でて、お母さんは笑う。

 

『今日はいつもより甘えたさんだ』

『きょ、きょうだけだもんっ』

『ふふ、そうだね。今日で愛依は3歳のお姉さんになるんだもんね?』

『うん!』

 

 その日はわたしの3歳の誕生日だった。3月のはじめの頃。冬の気配がほんのりと緩まって暖かくなってきた頃。ベッドから飛び起きた瞬間からわたしは浮き足立っていて、ずっとそわそわしていた。

 だって今日はわたしの誕生日。待ちに待った誕生日!

 お母さんは昼過ぎから夜ご飯のためのご馳走作りを始めていて、キッチンからは絶えずいい匂いがしていた。わたしの大好きだったハンバーグと、ホワイトシチューと、ポテトサラダ。お部屋で遊んでいなさいと言われたけれど、心がわくわくしてじっとしていられなくて、何度も顔を見せに行ったわたしにお母さんは柔らかく苦笑していた。しょうがないなあと、サラダに入れる用の林檎の切れ端をわたしの口に放り込む。しゃくっと口内で弾ける甘酸っぱさに、わたしはふにゃりと笑って、お母さんも頬を緩ませていた。

 

『愛依、お誕生日楽しみにしてたもんね』

『うん! だって、だって、おいしいのいーっぱいだし、うれしいのもいーっぱいなの!』

『幼稚園のこと?』

『そう! たくさんのおともだちいるんでしょう? わたしもはやくいきたいなあ』

『あともうちょっとだよ。4月になったらね』

『しがつ?』

『そう。桜が咲いたら、だよ』

『! うんっ』

 

 お母さんが作ってくれるたくさんのご馳走に、楽しみにしていた入園への期待を膨らませて、わたしは胸がいっぱいだった。胸の中が喜びとか嬉しさとか、そういうもので満たされていた。

 

『んー……お母さんも愛依が幼稚園に行くの嬉しいけど、寂しくもあるかな』

『えっ!? どうして!?』

 

 だから、お母さんが寂しいなんて思っていることにびっくりして、目を丸くした。おろおろするわたしを宥めるように、お母さんはわたしの白い髪を撫でる。お母さんのものとお揃いの、白い髪。

 

『お母さんは愛依のことが大好きだから、ずうっと一緒にいたいなって、思っただけだよ』

 

 お母さんは赤い目を微笑ませて、そんなことを言った。

 白い髪に赤い目、白い肌。所謂アルビノと呼ばれる特徴を持つ彼女だけれど、これは生まれつきのものではなく、“個性”の副作用だったらしい。【譲渡】──自分のものを他者に与える、それがお母さんの“個性”だった。体内を流れる血液や生命エネルギーを怪我人に与えることができたから、お母さんは結婚するまで医療スタッフとして働いていたのだという。何かを誰かに与える度に自分の色素を失うという副作用もあったけれど、それでもお母さんは誰かの命を救うために与え続けた。優しい、人だった。

 

『わたしっ、わたしもおかあさんのことだいすきだもん! ずっと、ずうっといっしょだもん!』

 

 だからぎゅうっと抱き着いた。わたしはここにいるって、ここにいたいんだって、そう伝わるように。

 そんなわたしに、お母さんは床に膝をついて抱き返してくれた。とんとん、と背中を撫でて、髪を撫でて。柔らかく包み込んでくれる体温と甘い匂い。大丈夫だよ、と響く声。

 

『ごめんね、そうだね、大丈夫。……ずっと一緒だよ』

『うん……!』

 

 今にして、思えば。

 わたしもお母さんも、嘘をついていたんだなあ。

 

『……さて! そろそろハンバーグ焼こうかな。お父さんも帰ってくる頃だし』

『おとうさん、けぇきかってきてくれるかな?』

『おっちょこちょいな人だけど、それは心配しなくていいよ。お父さんも愛依の誕生日、お祝いしたがっていたもの』

『えへへー!』

 

 たのしみだなあとわたしは笑って、そうだねとお母さんも笑って。じゅうじゅう焼けるハンバーグの音を背景に、夜が、近付いてくる。

 

『ただいまぁ』

『! おとうさん、おかえりなさぁい!』

『おっと! はは、ただいま愛依』

 

 駆け寄って飛びついたわたしを受け止めて、くるりと1回転。ぎゅうっと抱き締めて、抱き上げてくれた。お父さんはわたしと同じ青色の目で、にかっと笑う。

 

『玄関で待ってたのか? 寒くなかった?』

『へいき! あのねあのね、ここ、ぽかぽかしてるの』

『胸が?』

『うん!』

『楽しみで?』

『たのしみで!』

 

 そうかあ、と笑う。へにゃりと眉を下げて。そんなお父さんに抱っこされたまま、わたしは玄関から廊下を抜けて、リビングへ入った。ダイニングテーブルにはご馳走が並んでいて、お母さんがお帰りなさいと微笑んでいた。

 

『愛依、ほら』

『! うわあ……!』

 

 テーブルの真ん中は空いていて、そこにようやく今日の主役が鎮座した。白い箱から取り出されたのは、白いクリームで覆われた丸いケーキ。上には球状にカットされた色とりどりのフルーツが乗っていて、まるで……

 

『きらきらして、ほうせきみたい! すごいすごい! すてき!』

 

 そう、宝石みたいって、はしゃいだ。目をきらきらさせて、お父さんの腕の中で身体を揺らして。

 AFO(オールフォーワン)はきっと、この場面を見たんだ。

 この先を、見たんだ。

 

『美味しそうだろー? 綺麗だろー? 愛依にぴったりだって思って買ってきたんだ』

『ふふ、そうだね。よかったね、愛依』

『うん! うん……っ!』

 

 蝋燭が3本ケーキに飾られて、その先に火が灯った。リビングの電灯は消されて、蝋燭の灯りがふわりと浮かび上がる。チョコレートでできたプレートに書かれた文字がきらめいた。

 ──【あいちゃん おたんじょうび おめでとう】

 

『3歳のお誕生日、おめでとうな、愛依。大好きだよ!』

『うん、お母さんも大好き。……生まれてきてくれて、ありがとうね』

 

 だいすき。その言葉に、胸がぽかぽかしていた。さっきは『たのしみで!』って言ったけれど、きっとそれだけじゃない。それだけじゃなかった。

 嬉しかった。じんわりと胸に広がるこの熱が幸せだって、初めてわかった気がした。“生まれてきてくれてありがとう”って、ただ生きていることを望まれることが、どんなに、どんなに……。

 

『……ありがとう、おとうさん、おかあさん、』

 

 わたし、嬉しかったの。幸せだったの。

 

『──わたしも、だいすき!』

 

 大好き、だったの。

 

 

 

『うわっ、ちっち、』

『わ、大丈夫? あなた』

『だーいじょうぶ』

 

 抱っこしたわたしに蝋燭の火を吹き消させようと、お父さんは身体を屈めた拍子に軽く火傷をしたらしい。そんな高温でもなく、本当に軽い火傷。

 

『こんなの、すぐ治せるし』

 

 だから、何でもないことのように笑っていた。

 ……その笑みが崩れるのは、早かった。

 

『……あれ?』

『どうしたの?』

『おとうさん……?』

 

『……“個性”が、』

 

 “個性”が、使えない。

 震えた声でそう呟いた。その瞬間、リビングに痛いほどの沈黙が広がる。

 

『え? そ、そんな、どうして……?』

『わからない、いくら使おうって思ってもまったく……』

 

 お父さんとお母さんが怖い顔をして話し合うのを見ながら、わたしは胸元を握り締めていた。張り詰めた空気が痛い。ばくばくと跳ねる心臓が痛い。口の中が乾いて、ごくり、唾を飲み込んだ。

 

『おとう、さん……』

 

 こんなにも何もかも痛いのは、きっと、お父さんが傷ついたからだと思った。お母さんが心配して、笑えていないからだと思った。だから、だから……治してあげたかった。そうしたらみんな喜ぶだろうって思ったの。痛い顔をしないでほしいって、ただそれだけだった。

 だから、わたしは。

 お父さんの指先を手にとって、包んだ。

 

『、愛依……ごめんな。ケーキ食べよう、か……』

 

 痛いの痛いの、飛んでいけって。心の中で唱えた。

 いつかお父さんが、お母さんがしてくれたように。

 

『え……』

 

 黙り込んだわたしを心配してくれたのだろう。へにゃりと眉を下げて何とか笑顔を浮かべてみせた。そのお父さんの笑顔が強張って、消えて、青い目が見開かれる。その様をじっと見ていた。幼いわたしは、期待を込めて。

 

『指、……治ってる』

『……! よかっ、』

 

 “よかった”。“これでもう全部大丈夫”。

 この一瞬は、本気でそう思っていた。

 

『違う! 俺は“個性”を使ってない!』

 

 だから、叩きつけられたような叫び声に、ただ身をすくませることしかできなかった。信じられないような顔で治った指先を見つめるお父さんに、お母さんははっとして駆け寄る。【譲渡】を使う時のように手を翳してしばらくして、その赤い目を歪めた。

 

『……私も“個性”が使えなくなってる……!』

『お、おとうさ、……おかあさん……?』

 

 どうしたの、と手を伸ばして──弾かれた。

 ばちっと乾いた音。じんじんと疼く痛み。……それよりずっと、叩かれたという事実が痛くて、わたしは声を震わせた。

 

『い、たい……っおとうさん、なんで……?』

『……あ、……』

 

 涙を滲ませるわたしを見る、お父さんの目が揺らいだ。

 心配、後悔、焦り、……それを飲み込むくらいの、怒り。

 

『……、……治せるだろう、それぐらい』

『え……?』

『俺の“個性”を、愛依が、持ってるなら……』

 

 わたしに伸び掛けていた手が、握られて。その拳がダイニングテーブルに叩き付けられる。

 

『治せるだろう、……治せよ、早く!』

『ひ……っ!』

 

 叩き付けられた拳。その衝撃。罵声。ケーキに乗せられていたフルーツがぼたりと落ちた。目の前にある何もかもが怖くて怖くて、わたしは言われるままに自分の手を握った。無我夢中だった。胸にあるのは恐怖と混乱だけ。

 それでもわたしの手は治った。……治ってしまった。

 恐る恐る開いて見せたわたしの手に、お父さんとお母さん、2人の眦が吊り上げる。

 

『治った……やっぱり愛依、おまえが俺の“個性”を盗ったのか!』

『とる……!? わ、わたし、しらな……っ』

『お父さんの“個性”は自分の怪我を治すもの。誰かを治すことはできない』

 

 お父さんに詰め寄られて必死に首を横に振るわたしに、お母さんが近付いてきた。彼女は、わたしの肩に手を置く。

 

『……私の【譲渡】と合わせて使わない限り、できない』

 

 目線を合わせて、視線を合わせる。その眼差しは見たこともないくらい、冷たかった。ぞっと背筋に悪寒が走る。身体の震えが止まらない。

 

『わ、わたし、でも、ほんとにわからない……っ』

『愛依の“個性”、まだ発現してなかったね』

 

 尚も言い募るわたしを黙らせるためだったのだろうか。肩に置かれた手に力が籠った。そうしてお母さんは言葉を放つ。

 

『愛依の“個性”は、誰かの“個性”を奪うものなんだよ。

 ……その“個性”で、私とお父さんの“個性”を奪ったの』

 

『……っ』

 

 違う、と言いたかった。そんなつもりなかったのだと言いたかった。わたしはただ、2人に笑顔になってほしくて……だいすき、なのに、言えなかった。

 絶句するわたしにお父さんが背を向けた。その後ろ姿が離れていくのを見て、わたしはキッズチェアーの上から手を伸ばす。

 

『お、とうさん、どこに、』

『触るな!!』

 

 振り向きざまに横薙ぎにされた拳が、わたしの頬を捉えて椅子ごと薙ぎ倒した。床に投げ出されて、衝撃に息が詰まる。ずきずき痛む身体をゆっくりと起こして、涙の膜越しにお父さんを見上げた。

 くしゃりと顔を歪めた、お父さんがそこにいた。

 

『おまえがいるから、おまえの“個性”がそんなだから……っ』

 

 怒り、怒り、怒り。でもその目の奥に罪悪感があった。

 だから、わかった。

 

『だから俺は、俺じゃなくなる!』

 

 お父さんは、こう(・・)なりたくてなったんじゃないって。

 わたしのせい、なんだって。

 

『あなた……!? あなた、待って!』

 

 足早に部屋を出ていったお父さんを追って、お母さんも駆け出した。バタバタと遠ざかる足音を、わたしはただ聞いていた。わたしを殴った時に一緒に落ちたのだろうか、甘いジュースの入っていたカップが割れて床に散らばっている。ガラスの破片がきらきら輝いて、甘い匂いが広がっていく。その様をぼんやりと、静かな部屋でひとり、ただ、見ていた。

 

『……いたい……』

 

 頬や身体の傷なんて、すぐに治った。治ってしまった。

 

『……い、たい、いたいぃ……っ』

 

 そんなことより心の奥が、ずっとずっと、痛かった。

 

 

 

 

 わたしの“個性”は【依存】。わたしと心を通わせた相手の“個性”を奪う。心を通わせる、なんてこの上なく曖昧で精神的な事柄なのだけれど、確かなことがひとつある。

 心が繋がるには、人と過ごす時間が必要だということ。

 誰かと過ごした記憶から想いが生まれるということ。

 

 だから、なのか。こういう“個性”だからか。

 ……わたしはあの人たちとの記憶を、鮮明に覚えている。

 

 

 

 

 どさどさ、と乱暴にゴミ袋に捨てられる“それ”を、わたしはじっと見つめていた。それを疎んじたのだろう、お母さんの声が冷ややかな氷柱のように突き刺さった。

 

『なに。捨てられるの、嫌なの』

 

 わたしは答えられなかった。口を開けば泣いてしまいそうだったから。だからただ、宝物のトートバッグが、昨日の誕生日に食べられなかったご馳走と一緒くたになってゴミになっていくのを見ていた。

 柔らかな黄色に、たんぽぽのアップリケがついたそのトートバッグは、いつか幼稚園に通うためにとお母さんが作ってくれたものだった。来月に控えた入園を、いつかのわたしはトートバッグを抱き締めながら待ち望んでいた。けれど、

 

『幼稚園なんて行けるわけないでしょう。あなた、また誰かの“個性”を奪うかもしれないものね』

 

 せせら笑うお母さんの声に、わたしは黙って俯いた。ハンバーグの冷えた肉汁に、ケーキのぐちゃぐちゃになったクリーム。それらがトートバッグを汚していく。

 

『……なあに、その顔。お母さん、間違ったこと言ってる?』

『……、いって、ない……』

 

 そう、言っていない。お母さんの言葉は正しい(・・・)

 間違ってるのは、悪いのは、わたし。

 

『ごめんな、さい、ごめんなさい、おかあさん……』

 

 ひぐ、と、涙と一緒に嗚咽が零れる。いつかのお母さんはわたしが泣いた時、仕方ないなあと柔らかに苦笑して、それから抱き締めてくれた。大丈夫、だから泣かないのって、励ましてくれた。

 

『……うるさいなあ、』

 

 そんなお母さんはもう、いつか(・・・)に消えてしまったのだ。

 

『泣くなら声を出さないで。近所迷惑でしょう』

 

 わたしの方を見ることすらせず、吐き捨てられた。それにまた涙が溢れてしまったけれど、わたしは必死に口を覆った。嗚咽を押し殺す。何だかそれは、息を止める仕草に似ていた。

 

 

 

 振り上げられた拳。ぎゅっと目を瞑って身構えた瞬間、おでこの辺りに衝撃。かっと熱を持つ痛みばかり感じて、床に倒されたことも、背中を打ったことも、どこか他人事のように感じていた。

 

『ああ、くそ、くそ……ッ』

 

 ぎちぎちと握られる拳から、肉を痛め付ける音がしている。……お父さんも痛いだろうなって、そんなことをぼんやり思っていた。

 

『また駄目だった……そりゃそうだよな、“個性”を無くした元ヒーローなんて、どこも雇ってくれるわけない』

『あなた、』

 

 お母さんは心配そうに目を伏せて、お父さんに寄り添った。それから、わたしに視線を投げる。

 

『……あなたのせいで、お父さんはヒーローを辞めなくちゃいけなくなったんだよ。そのこと、わかってる?』

『……わ、わかって、る……』

 

『わかってるなら、どうして腕で頭を庇うの?』

 

 お母さんの声や目から温度が無くなって、もう随分経つ。

 

『立ちなさい』

『え……?』

『気をつけをして、じっとしていなさい』

 

 早く、と促されて、わたしは震える足で立ち上がった。お父さんの傍から離れて、お母さんがわたしの前に歩み寄る。その手には濡れた雑巾が握られていた。

 

『動いちゃ駄目だよ』

 

 ヒュッと空気を切る音が、わたしに叩き付けられる。それは1回だけじゃなく、2回、3回と続けられた。思わず腕で顔を庇おうとしたけれど、ぐっと耐える。“気をつけ”の姿勢で、ぐっと手を握り締めた。俯いても怒られたから、前を向いたまま。お母さんが無表情でわたしをぶつ姿を、ただ見ていた。

 

『……っぅ、』

『どうして泣くの。あなたが悪いのに』

 

 お母さんは不思議そうに首を傾げた。白い髪がさらりと流れる。

 

『あなたが悪いことをしたから、躾をしているだけ』

 

 そうでしょう、と尋ねられて、わたしは答えられなかった。嗚咽を噛み殺すことに必死だった。

 

『……そうだな』

 

 返答があったのはお父さんからだった。ふらりとこちらに歩いてくる、その俯きがちの顔に、薄い笑いが浮かんでいた。

 

『“個性”を使って他人に危害を加える……まるで(ヴィラン)だな』

 

 ……ああ、だから、お父さん(ヒーロー)たちにやっつけられるのかなって、妙な納得を覚えた。

 その納得は諦念という名前で、わたしの中にゆっくりと広がっていった。頬を張り飛ばされても、お腹を蹴飛ばされても、痛みは遠くなっていった。ただ心が、すかすかになっていく。

 

 

 

 心がすかすかになってもお腹は空くんだなって、初めて知った。

 お父さんとお母さんが連れたって家を出ていって、どれぐらい経ったのか。何も食べるものがなくて、お腹の音すら鳴らなくなって。床に寝そべっていたわたしは蹴り飛ばされて意識を取り戻した。

 

『邪魔なんだけど。こんなとこで寝ないで』

 

 久しぶりに聞くお母さんの声に、かさかさの唇を動かした。声の出し方を、本当に久しぶりに思い出した。

 

『……か、ぁ、さ……』

『なに。……ああ、お腹が空いたの?』

『っ……』

『へぇ、』

 

 起き上がることすらできないまま、必死に首を動かした。そんなわたしを見下ろして、お母さんは呟くように言う。温度の無い声で。

 

『悪いことしかしてないのに、お腹は空くんだね』

 

 侮蔑や嫌悪すら、あの時の彼女にはあまり無かったのかもしれない。温度も色もなく、真っ透明で冷たい。そんな人になってしまった。

 お母さんが投げて寄越した菓子パンに、わたしは飛びついた。包装を無茶苦茶に破いて、両手でかぶりつく。

 

『汚い。犬みたいに食べて、そんなに美味しいの?』

『……っ』

『ねえ』

『……お、おい、し……っ』

 

 嘘だった。味なんてなにひとつわからなかった。もうずっと前から、“美味しい”も“あったかい”も、わたしには無かったから。それなのにわたしの身体は久し振りの食べ物を喜んでいて、噎せながらも食べるのを止めようとしなかった。

 そんなわたしとお母さんに対し、お父さんはこちらに視線をやることすらなく、テレビをぼんやり見つめていた。そこでニュースキャスターが、痛ましい顔で痛ましい事件を読み上げていた。

 

《本日未明、マンションの4階にあるベランダから幼児が転落し、病院に搬送されましたが死亡が確認されました》

 

 死亡、という言葉の意味を、当時のわたしはぼんやりとしか知らなかった。けれど、

 

『……。』

 

 無言のまま、お父さんの視線がベランダに行って、それからわたしに移った。彼は、何も言っていない。それでもその眼差しの意味がわかった気がした。

 死ぬ(・・)ということの意味が、わかった気がして。

 

『……おと、さ……』

 

 もう枯れ果てたと思っていた涙が、流れた。ひやりと冷たい空気に晒されて、わたしの熱を奪った。

 

 

 

 この時のわたしはずっと部屋の中にいて、テレビも見られないまま日々を過ごしていたから知らなかったけれど、わたしの3歳の誕生日から幾つもの日々が過ぎていた。

 季節は巡り、桜はとうに散っていた。

 花びらの代わりに雪が降っていた。

 ──クリスマスが、やってこようとしていた。

 

 

 

『……は、ぁ……っ』

 

 シャンシャンと、どこからか陽気なベルの音がする。それを他人事のように聞きながら、わたしはがちがちと歯を震わせていた。せめてこんな日ぐらいは姿を見せないでと、ベランダに放り出されてからどれぐらい経っただろう。見上げる空は夕方の橙から真っ黒に染まっていた。吐き出す息が、白く濁る。

 

『さむい、なぁ……』

 

 薄っぺらいパジャマだけでは、この12月の寒空は厳しすぎた。身体を縮めて抱き締めて、ぶるぶる震えて耐え凌ごうとしたけれど、そんなわたしを嘲笑うように、空から雪が降ってきたのだ。

 

『わあっ、ホワイトクリスマスだねえ!』

 

 どこからか、そんな明るい声が聞こえた。姿は見えないから、マンションの下の道路を歩いている人のものかもしれないし、幻聴だったのかもしれない。だって去年のわたしも、同じようなことを言ってはしゃいでいたもの。今のわたしとは、別人のように。

 

『おなか、すいた、なあ……』

 

 お腹も、心も、空っぽだった。

 ご馳走もケーキもプレゼントも、一緒にいてくれる人だって、今のわたしにはなんにも、無かった。

 

『……っさみし、ぃ、なぁ……』

 

 思わず視線が移った。施錠されたガラス戸。カーテンの隙間から見えたお父さんとお母さんは、ソファーに寄り添って眠っていた。わたしの位置からでは横顔しか見えなかったけれど、とても安らいで見えて。わたしははっと息を飲む。

 2人ともあったかそうで、……幸せそうだった。

 

(わたしが、いなければ、)

 

 わたしさえ、いなければ、

 わたしが“個性”を奪っていなければ、

 きっと2人は今もこうして、幸せだったんだろうなぁ。

 

『……ぁ、あ……っ』

 

 わかってしまった。

 お母さんの言う通り、わたしが悪かったのだと。

 わかってしまった。

 お父さんの言う通り、わたしは(ヴィラン)なのだと。

 

 わかって、しまったの。……わたし、わたしは、

 

『わたし……いないほうが、よかった、なぁ……っ』

 

 嗚咽は押し殺す。“近所迷惑”、だから。

 雪が舞い散る冬の夜空に、微かな、本当に微かな泣き声が落ちる。このベランダは7階にあって、わたしは座り込んでいて、たとえヒーローだってわたしがここにいることに気づくことはできなかっただろう。

 こんな小さな泣き声を辿って、誰かが救けに来るなんて、

 

『──あの、』

 

 そんなこと、思いもしなかったのに。

 

『だい、じょうぶ?』

『……っ!?』

 

 知らない声が間近で聞こえて、わたしはバッと顔を上げた。夢かと思ったの。また幻聴かと思ったのに、その声の主はわたしの目の前に、確かに立っていた。

 藤黄色の、ふわふわした髪の男の子だった。その子の背中には真っ赤な羽根が生えていて、それでこのベランダまで飛んできたのかな、なんて、混乱した頭で考えた。そんなわたしを、男の子は静かな目で見つめている。

 

『……ねえ、こんなとこにいたら、風邪引くよ』

『……』

『……俺と一緒に、あったかいとこ、行こ』

『だめ』

 

 ふるりと首を横に振る。ほとんど無意識だった。こうしなければならないと、刷り込まれたみたいに。

 

『……おとうさんと、おかあさんに、おこられる……』

 

 そうして頑なに俯いて、胸元を握り締める。黙り込むわたしに、男の子も躊躇うように沈黙した。何か(・・)を抱き締めるようにお腹の辺りの服を両手でぎゅっと握っている。そうして、

 

『……駄目だよ』

 

 何か(・・)に力を貰ったような、そんな目で、わたしを見た。彼の手が服から離れてわたしの頬に伸びる。

 ──またぶたれる、と身構えたけれど、衝撃も痛みもやってこなかった。触れたのは、柔らかな体温。

 

『……こんなに、冷えとる』

 

 男の子の手は、あたたかかった。痛いぐらいに。

 今まで寒くて痛かったのだと、思い出させるぐらいに。

 

『俺は、……俺は、』

 

 男の子は慎重に、懸命に言葉を選んでいた。そんなゆっくりとした言葉は雫に似ていて、ひとつひとつ、ゆっくりと、わたしの中に落ちていく。

 

『俺は、きみが、こんなとこでひとりでいるなんて、嫌だ』

 

 ゆっくりと、落ちて、波紋のように広がっていく。

 

『きみに──生きてて、ほしい』

 

 言の葉が胸の中で燃えた。そう錯覚させるぐらい、男の子の言葉がわたしの心を揺さぶった。

 だって、だって、そうだろう。ずっと言われてきたんだ。

 わたしのせいだって。わたしが悪いんだって。

 言われてなくても、思われていた。

 ……わたしは、いない方が、って、

 

『おいで』

 

 なのに男の子は、離れていかない。わたしの目の前に片膝をついて、目線を合わせて、手を差し伸べた。

 

『……っわ、たし、』

 

 それは、まるで、

 

『わたし、いっしょにいて、いいの……?』

 

 わたしを丸ごと、許してくれるみたいで。

 

『──うん』

 

 ……ああ、わたし、わたし、またつけ込んだ。この人の頷きに、肯定に、優しさに、つけ込んでしまった。本当ならわたしから離れていかなきゃいけなかった。この人の手を、取ってはいけなかったのに。

 

『大丈夫、……大丈夫だから、』

 

 でも、ずっと、ずっと、寒くて痛かったの。

 悲しかったの。寂しかった、の。

 

『一緒にあったかいとこ、行こ』

 

 ──一緒にいたいって、思ってしまったの。

 

『……っ、う、ん……!』

 

 手と手が繋がって、そのままぎゅっと、抱き締められて。それからふわりと浮遊感に包まれた。足がベランダから離れていく。……飛んでる。びっくりして手足をばたつかせようとしたけれど、その前に耳元で声がした。

 

『大丈夫、』

 

 大丈夫、傍にいるから、大丈夫だよと。

 わたしの身体が震える度に、繰り返してくれた。わたしはそれにほっと息を吐く。そうして目を瞬かせた。

 

 雪のちらつく夜空に、赤い羽根が鮮明に翻る。それがあまりに眩しくて、まるで、太陽を見つけたかのようで。

 

(……あ、あ、)

 

 冷えきっていた心に、じんわりと火が灯る。

 これがわたしと、……後に“ホークス”となる少年との出会いだった。

 

 

60.少女、縋った。

 

 


 

癒月(ゆづき) 快青(かいせい)

 オリ主の父親。【自己再生】の“個性”を持ちヒーローをしていた。“人助けができる自分”を誇りに思い、そんな状況に依存していた。

 

癒月(ゆづき) (ゆずる)

 オリ主の母親。旧姓は献城(けんじょう)。【譲渡】の“個性”を活かして医療スタッフとして働いていた時、快青に出会い、結婚するに至る。大なり小なり依存体質なオリ主一家の中で群を抜いて依存体質。快青にベタぼれで、心の底から依存していた。

 

 今回はオリ主一家のお話でした。小さい子が痛い思いをしたりひもじい思いをしたりするのは個人的にドドドドド地雷なのですが、オリ主がホークスに依存する過程を書くためには必要かと思いまして書きました。書きたかったところではあるんですがしんどかったですね……。

 次回もオリ主過去編が続きます。10歳ホークスに救われた3歳オリ主がどんな道を辿るのか、また読んでいただければ幸いです。

 

 最後になりましたが閲覧及びお気に入り登録、評価などなど、本当にありがとうございます!皆様のおかげでこのssは何とか続いていけています。本当に感謝の念に絶えません。次回も頑張って書きます!



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61.少女:オリジン

 

▽前回の簡単なあらすじ

・【自己再生】の“個性”を持つヒーローの父と、【譲渡】の“個性”を持つ母の間に生まれたオリ主。

・どこか抜けているが朗らかな父と、そんな父と家族を深く愛する母の間で愛されながらすくすく育つ。

・3月の3歳の誕生日、両親に「だいすき!」と言った瞬間にオリ主の【依存】の“個性”が発現。意図せず両親の“個性”を奪ってしまう。

・“個性”を失いヒーローを辞めざるを得なくなった父と、そんな父を愛する母から虐待を受け続ける。

・季節が巡ってクリスマスの日。ベランダに閉め出されていたオリ主をホークスが救けに来た。

 

 


 

 

 赤い羽根の男の子──ホークスと出会ったわたしは、あのベランダから連れ出された。ぎゅっと抱き抱えられて空を飛んで、初めて感じる浮遊感とぬくもりに包まれて、……どうしようもなく安堵してしまった。今まで張り詰めていた気が緩んで、そのまま意識を手放してしまったのだ。

 元々まともな暮らしをしていなかったのもあって、深く、深く、眠りに落ちた。今にして思えば数日間は眠り続けていただろう。夢も見ず、泥のように、ただ、ただ。

 

 そんな眠りを経て目覚めたわたしが見たのは、知らない天井だった。

 

『……、……?』

 

 言葉にならない呟きは、吐息として漏れた。瞬きを繰り返して、ぼんやりする視界をクリアにしていく。白を基調とした部屋だ。わたしは大きなベッドに寝かされていて、その傍らには心電図モニターをはじめとした医療機器が並んでいて、ピッ、ピッ、と定期的な機械音を響かせていた。

 

(わたし、どうして、ここに……?)

 

 わけもわからないまま視線を巡らせる。自分に繋がれた点滴、ぽたりと落ちてくる雫、薄緑のカーテンが見えて、そして、

 

『……目が覚めたのね』

 

 ベッドサイドの椅子に腰掛けていた女性と目があった。静かなアイスブルーの目は少し冷ややかに感じるけれど、彼女に敵意はない。わたしを害そうなどという悪意は無かった。今ならわかる。ゆっくりと戸惑いがちに伸ばされた手が、わたしの顔に掛かった髪を払おうとしてくれたのだということも。今ならわかる、わかるけれど、

 

『!? や……っ!』

 

 幼いわたしには、わからなかった。当時その人はわたしの両親よりおよそ10歳ほど年上で、ひとつひとつ年齢を確かに積み上げてきた落ち着きと思慮深さを感じさせた。

 それでも、どうしようもなく大人(・・)だったから。

 伸ばされた手が、大きくて怖かったから。

 怖い記憶を、思い出させたから。

 

『っぁ……、』

 

 だからわたしはその手を弾いてしまった。ばちん、と乾いた音がする。力任せにした結果、爪で引っ掻いてしまったのだろう、その白い手に赤い線が走った。

 わたしが、傷つけてしまったのだと、知らしめるように。

 

『ご、ごめん、な、さ……っ』

『……謝らなくてもいいわ。大した傷では、』

『やだ、や……』

『? 何を』

 

 傷つけられるのは怖いけれど、傷つけることも怖かった。だって本当に、(ヴィラン)になってしまうと思ったから。

 恐怖と混乱で声が震えて、頭がぐちゃぐちゃだ。それでもやらなきゃいけないことに手を伸ばす。女性の手を自分の両手で包み込んで、そうっと心の中で唱えた。

 いたいのいたいの、とんでいけ。

 

『……! これは、【治癒】の“個性”?』

 

 驚きに目を見張る女性に、わたしははっとして頭を振った。ベッドの上で上体を起こして、ずりずりと後退りながら。

 

『ごめん、なさい、……ちがうの、ちゆじゃ、ない……』

『違う、とは?』

『わたしの、“こせい”は……わるいの、だめなの』

 

 ずりずりと後ずさって、壁にぶつかる。そのひやりとした感覚に目を見開いた。身体の芯から凍えるようで。

 

『わたし、わたし……ひとりでいなきゃ、だめ……』

『……それは何故?』

『だ……だれかの、“こせい”、とっちゃうから……』

 

 こんなに温いところにいちゃいけないって、思い出した。

 

『だから“ヴィランだね”って、おとうさんと、おかあさん、が……』

 

 ただ息を吸って吐く。それだけのことがうまくいかない。ヒュッと歪に喉が鳴る。熱い。目蓋の奥からじりじりと焼かれような熱。目の前がくらくら、して、暗く……。

 

『どうしたんです、その子』

『目良、医療スタッフに連絡を。それと……』

 

 ベッドにうつ伏せに倒れ込む直前、そんな会話が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 次にわたしが目を覚ましたのは、またも知らない部屋の中。けれどそれは点滴で繋がれていたところとは違う場所だった。医療機器や薄緑のカーテンは無い。けれど、壁も天井も床もオフホワイトでまとめられているといったところは似通っていた。大きなベッドに大きなテーブル、椅子。必要最低限の調度品がきちんと調えられている。

 どうして、わたしはここに。

 ひとりきりの部屋を所在無げに見渡していた、そんな時。

 

《聞こえますか》

 

 部屋に響いた声。それにわたしは飛び上がって掛け布団の中に潜り込む。誰にも見つからないように、見られないようにと姿を隠す。

 だってわたしは、誰にも、会ってはいけないから。

 そうして沈黙がしばらく続いて、次に聞こえたのはスピーカー越しのゆっくりした声。ゆっくりと、ひとつひとつ紡がれる、男の人かも女の人かもわからない声。

 

《……怖がらせて、すみません。ですが、大丈夫。スピーカーから音を出しているだけですよ》

『……このへやに、は、……いない……?』

《はい、いません。……怖い、ですか?》

 

 恐る恐ると訊いてくるその声こそ、怖がっているように聞こえて、わたしはひとつ息を吐き出す。そっと、布団から顔を覗かせて、ふるりと首を横に振った。

 

『だ、いじょう、ぶ』

《……ならよかった。じゃあ……これからの君について、説明しますね》

 

 布団にくるまったまま、わたしはスピーカーから流れ続ける音声を聞いていた。わたしはしばらく、この人たちと一緒に暮らすこと……つまり、保護されたということ。

 

《そこは君に与えられた部屋です。好きに使ってください》

 

 “誰かと一緒”が怖いならその部屋を出なくて構わないこと。トイレとお風呂もついてるから自由に使っていいこと。食事は毎日届けること。

 

《ああそうだ、君、アレルギーはありますか?》

『あれるぎ……?』

《ええと……そうですね、何かを食べて、しんどくなったことは?》

『ない、です』

 

 それから幾つかの質問に答えていったわたしに、なるほど、と相槌を打ったその声は、最後にこう尋ねた。

 

《君から質問……そうですね、訊きたいことはある?》

『ききたい、こと……』

 

 ぎゅうと胸元を握り締める。震える口から、溢れ落ちる。

 

『……わたし、ここに、いてもいいの?』

《はい》

『ほんとにだれも、こない? あわなくて、いい?』

 

 ずっとひとりで、いられる?

 

《……、……はい》

 

 きっとこの声の主は、色んな事情を知っていただろう。わたしのこれまでを踏まえて、これから辿るだろう道を予想していただろう。だから複雑な声色をしていたけれど、しっかりと、頷いてくれた。

 

《……とにかく君はゆっくり寝て、しっかりと食べなさい。身体を休めなくちゃあ、駄目です》

 

 声は変声機で変えられていたから、この人が男性か女性かもわからない。それでも、声に込められた悲しさや優しさがあることはわかった。……今思えば、きっと、あの人だったんだろうなぁ。

 

(目良さん……)

 

 たくさん、たくさん迷惑をかけてきた。こんな昔から。

 そうした優しい人たちに支えられて、わたしの“誰もいない部屋”での生活は快適に過ぎていった。はじめこそ本当に誰も部屋に入って来ないか警戒して、一日中ドアを見つめて過ごすこともあったけれど、数日繰り返すうちにそうした不安も溶けていった。

 暑くも寒くもない丁度いい空調。ふわふわのベッドで眠っている間に置かれている綺麗な着替えや温かな食事。スピーカー越しに時折降ってくるあの人の声は、わたしに《何か欲しいものはないか》しきりに尋ねてくれた。まごついてうまく話せないわたしに苛立つことなく《大丈夫ですよ》と言ってくれた。その数日後に食事と一緒に置かれていた絵本は──当時のわたしは文字が読めなかったから、内容はよくわからなかったけど──あたたかい色合いの絵が優しくて、何度も読んだ。恒例になっていた絵本の他に、ふわふわのぬいぐるみが置かれていたこともあったなぁ。3歳のわたしが抱えるには少し大きい、白いうさぎのぬいぐるみ。

 

『あの、こえ、さん』

《はい、何でしょう》

『すみ、ません。えほんだけじゃなく、うさちゃん、も』

《……うさちゃん?》

『? は、い』

 

 “声さん”は不思議そうな抑揚をしていて、幼いわたしも一緒になって首を傾げたっけ。

 それにしてもあの時、どうして目良さんまで不思議そうにしていたんだろう。目良さんはうさぎのこと“うさちゃん”っていうの、慣れてなかったのかな。

 

《その、うさちゃんが、部屋に置いてあったんですか?》

『はい……あ……あの、だめ……だった……?』

《え、いえ。……そんなことありません。大丈夫ですよ》

『! ……ふふ、』

 

 小さく芽生えた疑問は、嬉しさに流されてしまった。抱えたぬいぐるみに頬ずりして、そのふわふわな感触に目元を僅かにほころばせる。このぬいぐるみも、絵本も、わたしの宝物。殺風景な部屋が少しずつ彩られていくたび、わたしの凍りついた表情も緩んでいった。

 

 

 そんな日々が続いた、ある日。

 沈黙を保っていたドアが、突然、コンコンと叩かれた。

 

 

『……っ!!』

 

 その瞬間。わたしは悲鳴を押し殺して駆け出し、ベッドの中に潜り込んだ。頭から掛け布団を被って、暗闇の中でうさちゃんをぎゅっと抱き締める。

 しばらく誰とも会わずに過ごせていたからか、誰かの来訪というのが、それを知らせる音が、どうしようもなく怖かった。わたしが黙り込んでいることを知ってか知らずか、コンコン、という音は絶えず聞こえてくる。

 

『……あの、……聞こえる?』

 

 自信なさげに潜められた声に、わたしははっとした。震える唇から言葉が溢れる。

 

『……あ、なた……』

『うん、俺だよ、……覚えてる、かな』

『……!』

 

 覚えてる。覚えてた。だからわたしは布団をはね飛ばしてドアに駆け寄った。勢い余ってベッドから転がり落ちたけど、そんなこと眼中になかった。手を伸ばす。ひんやりしたドア。その向こうに、震えた声を投げ掛けた。

 

『あかいはねの、おとこのこ、だよね?』

『うん』

『! あの、あのとき……たすけてくれてありがとう』

『……、』

 

 あの寒空の下では言えなかったお礼を、ずっと伝えたかった。ありがとうと、あなたのおかげで今がある(・・・・・・・・・・・・)のだと、伝えたかったんだ。わたしはただ、それだけで。

 

『あれが、本当に救けたことになるのかは、わからない』

『……え?』

 

 だから、男の子の声が暗くなった理由も、わからなかった。“ありがとう”と伝えたら、“どういたしまして”が返ってくると思っていた。

 

『よく、聞いて。……君がこのままここにいたら、ずっと、ここから出られなくなる』

 

 戸惑うわたしに、声は続く。ひどく強張った、彼の声が。

 

『君がここから出たいと思っても、外に行きたいと思っても、……もう、どこにも行けなくなっちゃうんだよ』

 

 この時の男の子……ホークスは、わたしのこと“可哀想”って思ってたのかな。だからこんなに、悲しそうな、苦しそうな声をしていたのかな。

 

『でも今なら、俺が出してあげられる』

『……そと、へ……』

『そう。君をここから、自由にしてあげられる』

 

 ホークスの声が急いているのがわかる。静かな声が、次第に足早になっていく。

 

『……あまりいい手とは思わないけど、君のお父さんとお母さんの元に戻ってもいい。もちろんそこじゃなくても、君が自由に、安全に生きていける場所は他にもある。そこに連れていく』

 

 早口で差し出された提案に、けれどわたしは、動けなかった。

 

『どうしたい? 君は、どこに行きたい?』

 

 ……違う。本当は動けなかった、じゃなくて、

 

『……、わたし……』

 

 ──動きたくなかった(・・・・・・・・)

 

『……わたし、もう、どこにもいけないよ……』

 

 扉に触れていた手を、ぎゅっと握り締める。少しでも外へ──“誰か”に向かおうとしていた心を、殺す。

 

『どこにも、いけない。だれにも、あえない』

 

 “誰かと一緒”が、誰かの“個性”を奪うのなら、

 

『ここがいい。ここで、ひとりで、いたい……』

 

 わたしはずっと、ひとりでいい。

 そう、呟くようにわたしが言った数秒後、痛いくらいの沈黙が続く。そして、──それを引き裂く大きな音がドアを叩いた。びくりと肩を弾ませるわたしの目の前、扉の向こうで、ホークスが声を荒げている。

 

『……君は! あの時、“一緒にいたい”って思ったはずだ!』

 

 目の前には扉。そのはずなのに、頭の中であの日のベランダが浮かび上がった。雪の降ったクリスマスの夜。ひとりでいたわたしの元に、彼がやって来てくれた。

 

『“ひとりでいたい”だなんて、君の願いじゃないだろう!』

『……っち、ちがう。だって……っ』

 

 あの日、来てくれて嬉しかった。救けてもらえて嬉しかった。だからこそわたしは、もう、これ以上すがってはいけない。心がじわじわ熱を持つ。熱い。あつい。この感覚は──あの時(・・・)と同じ!

 

(あの、たんじょうびのときと、おなじ……!)

 

 さあっと、血の気が引く音がした。頭の天辺から冷や水を浴びせられたみたいに、身体中が冷えきっていく。

 あの時と同じに、この人の“個性”を奪ってしまう。

 この人の未来をぐちゃぐちゃに壊してしまう。

 わたし、わたし、わたしは──!

 

『だって君は、あの時、俺の手を……!』

『いや! いやだっ、いやあぁっ!』

 

 ごめんなさい。やっぱり間違いだったの。

 あの日、あなたの手を取ったのは。

 

『ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい……っ!

 あやまります、あやまり、ます、からぁ……っ!』

 

 わたしはひとりきりでいいから。

 わたしの全部を、失くしていいから。

 だから、だから、お願い、だから!

 

『でたくない、こないで、……こわい、いやだ……っ』

 

 もうわたしに、誰かの未来を、奪わせないで……!

 

 

 

 

『……きみ、は……』

 

 散々喚き散らしたわたしは、耳を塞いでしゃがみこんでいた。扉の向こうでホークスも、躊躇うように口ごもって。沈黙が続いた、その時。

 

『やめなさい。……もういいでしょう』

 

 新たな声が聞こえた。氷のように凛とした、冷ややかな女性の声。……あの薄緑のカーテンの部屋で会った、あの人の。

 

『雛鳥を飛ばせてあげようと、無理に空に放り投げたら……どうなるかはわかるでしょう』

 

 彼女はホークスに、言い聞かせているようだった。

 

『自由が必ずしも、幸せに繋がるとは限らない。

 自由を幸福に感じるのは、……強いものだけよ』

 

 諦めるよう、諭していた。

 

『あなたは強くて賢い子。だから、理解できるわね?』

『……、』

 

 本当に、微かな、歯軋りの音がした。

 それからこつ、こつ、とハイヒールの音が扉に近付いてきて、わたしははっとして胸元を握り締めた。足音はわたしの直前で立ち止まって、そうして沈黙が破られる。

 

『あなたは、“個性”をうまく使えないのが怖いのね』

 

 声は、比較的近い場所から降ってきた。彼女は扉の前で、膝を屈めていたのだろうか。

 

『その“個性”の使い方、学んでみる気はないかしら』

 

 扉を隔てて、近しい場所から、声が真っ直ぐわたしに届く。

 

『まな、ぶ? わたし、が……?』

『ええ。扱い方さえわかれば、あなたの力は人を救うことができる』

 

 その言葉は、寝耳に水だった。青天の霹靂だった。

 だって、奪うしかできなかった。壊すしかできなかった。そんな“個性”で、本当に──?

 

『あなたのその“個性”は、人の痛みを治せる。人を、救けることができる。その力を、世のために役立ててほしいの』

 

『っ駄目だ、それは──』

 

 止める声が、聞こえた。

 でもわたしは、この思いを止められなかった。

 

『……わか、り、ました』

 

 この選択が、どんな未来を招くのか。当時のわたしはちゃんとわかってなかった。ホークスがどうしてわたしを止めたのか──扉の向こうでどんな表情をしていたのか──何もわかっていなかった。

 この時のわたしは、ただ、差し出された言葉に心を奪われていたから。

 

『がん、ばる。わたし、がんばり、ますから……』

 

 女性の──後に公安委員会の会長となる女性の提案は、わたしにとって天啓だった。暗い世界に垂らさされた、光の糸のように思えたんだ。

 こんなわたしでも、誰かを救うことができるなら、

 

『だからわたし、ここで……まなばせて、ください……』 

 

 

 

 

 そうわたしが願い出て、会長が了承したあの日。その翌日からわたしの“個性”調査が始まった。わたしの“個性”は相手の“個性”を奪って自分のものにする──当時はそれだけしか判明していなかったから、まず始めに、それがどんな条件で発動するのか探る作業が始まった。

 “個性”発動のトリガーは何か。それは時間か、距離か。あの誕生日の夜、お父さんたちの“個性”を奪った時、わたしは何をしていたか。それらを明らかにするための問答はさまざまな形式で行われた。今まで通り変声機で変えられた声で問われることもあったし、扉越しとはいえ肉声で行われたこともあった。

 

『……あ、の……』

『どうしました?』

『……こんなに、はなして、だいじょうぶなんですか……? わたしがもし、あなたの“こせい”をとっちゃったら……』

 

 調査とはいえ不安になって、問い掛けたこともあった。わたしと会話……もとい、接触実験を行っていたのはただ一人。その人はもちろん、自分が“個性”を失う可能性を承知の上で来ていただろう。それでも“個性”が──自分の可能性や未来が無くなってしまって本当にいいのだろうかと、疑問が尽きなかった。

 

『……僕は構いませんよ、大丈夫。君は気にしないで』

『……、』

 

 彼……目良さんは、優しい声で『大丈夫』と言ってくれた。お父さんのように、怒ったり悲しんだりしなかった。

 

『……ごめんな、さい……』

 

 それでも、怖かった。どうしても怖かった。

 こんな“個性”を持つわたしを助けてくれた。“居場所”をつくってくれた。『人を救うことができる』と、糸を垂らしてくれた。その恩に早く報いなくてはいけない。早く、早く、役立たなくてはいけない(・・・・・・・・・・・)のに。

 

『わたし、ちゃんと……できなく、て……ごめんなさい……』

 

 怖い。怖い。……ずっとずっと怖かった。

 この“個性”も。こんな“個性”を持つわたし自身も。

 こんな“個性”で、また(・・)、誰かを傷つけてしまうかもって、怖がって、怯えて、閉じ籠って──どうしようもなく、俯いてばかりで。

 

 

 

 

『……聞こえる?』

『!』

 

 そんな、どうしようもないわたしなのに、彼は飽きもせず訪ねてきてくれた。呆れもせず、扉越しに、優しい声を掛けてくれた。

 

『また、きてくれたの……?』

『うん』

『ここにきちゃだめって、いわれてるのでしょ?』

『……うん、まァでも、大丈夫』

 

 後できちんと知ったのだけど、この時既にホークスは“特別なヒーローになるためのプログラム”を受けていた。『万が一にも“個性”を失ってはいけない』と、わたしに近付くことは禁じられていたはずなのに、ホークスはやんわりと笑っていた。

 

『“個性”調査で何度もやってたでしょ。扉越しに普通に話しても、“個性”を奪うことはなかった』

『……そう、だけど……』

『うん。だから、気にしないで』

 

 この頃のホークスはよく笑っていた。沈んでばかりのわたしに向けて、『大丈夫』だと軽やかに。初めて会った時の静かな眼差しとは真逆なその表情。……もしかしたら、無理して笑っていたのかもしれない。公安の職員さんたちの目を掻い潜って、何度もこの部屋を訪れては、彼は明るい笑声をくれた。

 

『ねえ、そういえばさ、最近この部屋にポストがついたんでしょ。君が眠っている間じゃなくても、物が渡せるように』

『う、うん』

 

 それまでわたしの食事や着替えなど必要なものは、わたしが眠っている間……つまり相手を視認しない間に部屋に置かれていた。けれどこの日、接触実験を兼ねてポストが導入されたんだ。部屋の壁を貫通するように備え付けられたポストを通して、ホークスはわたしにあるものを渡した。

 

『これ、は?』

『コンポタだよ。……ごめん、ジュースの方がよかったかな。今日も寒いし、あったかいの美味しいかと思ったんだけど』

『あった、かい……』

 

 ポストに置かれた缶に手を伸ばすと、その熱さにびっくりしてしまった。一度手を引っ込めてから、恐る恐るその缶を両手で掴む。包み込んだ手のひらが、じわりと熱を持った。

 

『……ほんと、だ』

 

 熱を持ったのは、きっと、手のひらだけじゃなかった。

 

『……あったかい、ね……』

 

 目蓋の裏の熱を誤魔化そうと、ぎゅっと目を瞑った。だから、わたしは気付くのが遅れた。ポストを通って音もなく部屋に訪れた“それ”に、わたしは驚いて目を見開く。

 

『! あかい、はね……?』

『開け方はわかんなかったか。ごめんね』

 

 羽根は意思を持ったかのように宙を泳ぎ、わたしが手に握っていた缶のプルタブを器用に開けた。まるで魔法のように動く羽根に、幼いわたしは瞬きを繰り返す。

 

『な、なんで、あけてないってわかったの……?』

『プルタブを開ける音、聞こえなかったし』

『……どうしてそんなにおみみがいいの……?』

『なーいしょ』

 

 扉越しの微かな音も聞き逃さなかったのは、ひとえにホークスの【剛翼】のお蔭だろう。けれど彼はそれを言わず、ただイタズラっぽく笑った。

 

『あなたのみみ、おおきくなかったのに』

『どうだったかな? このドアを開けて確かめてみる?』

『……もう。また、そんなこと……』

『駄目?』

 

 イタズラっぽく笑いながら、こうしてたまに、問い掛けてきた。扉を開けないのか。外に出ないのか。──傍に、来ないのか。

 

『……意地悪言ったね、ごめん』

 

 ずっとこうして救けようとしてくれていたのに、わたしは黙り込むばかりだった。伸ばしてくれた手を、振り払ってばかりで。「救けよう」としてくれる気持ちを、何度も、何度も、裏切ってきた。

 もう付き合いきれないって、見限って当然だった。呆れて、放り投げたって、おかしくなかったのに。

 

『ほら、それ飲んでみて』

『……あまいにおいが、する……』

『うん、甘くてあったかくて、美味しいよ』

 

 ホークスに促されて、そっと口をつける。とうもろこしの素朴な甘さが優しくて、心がほっとほどけていく。

 

『は、ふ……、ほんとだ』

『でしょ』

『うん……、!』

 

 そんな風に、何でもないように笑いながら、赤い羽根はわたしの涙を拭ってくれた。ふわりと触れる柔らかさに、何度も何度も救われた。

 

『……おいしい、ね……』

 

 “美味しい”も“あったかい”も、ここにあった。ぎゅうっと胸が締め付けられる。痛いくらい、あたたかかった。

 

 

 

 

『……あの、あなた、けが、してるの……?』

『……え?』

 

 “個性”調査が続き、ホークスが部屋に訪れることも日常になってきたある日。今日も寒いからとコンポタの缶を届けてくれた羽根を見やって、わたしは口を開いた。

 

『きょうのあなたのはね、げんきないきが、して……』

 

 いつも機敏に、時にはおどけたように動き回る羽根が、どこかしんなりしているように見えたんだ。扉越しのホークスの声も小さく、掠れているような気がして、わたしは慌てて問いを重ねた。

 

『だっ、だいじょうぶ? いたいとこ、ある?』

『……ああ、うん。痛くないよ』

『しんどくない? あっ、おなかいたい? おねつある?』

『しんどくない』

『そう? ──つらく、ない?』

 

 その問い掛けに、ホークスは一瞬、息を飲んだ。扉越しでは確かなことはわからないけれど、でもそう思ったんだ。

 

『……辛くないよ。俺は、大丈夫』

 

 きっと色々なものを飲み込んで、堪えて、そうして柔らかく笑ってくれているんだって。

 

『……ごめんなさい、わたし、なにもできなくて……』

 

 わたしが“個性”を上手く使ってホークスの怪我を治すことができたら、少なくとも痛みを消すことはできただろう。それなのにわたしは、触れることはおろか、近付くことすらできない。

 

『はやく、はやく……やくにたちたい、なあ……』

 

 何もできない自分が嫌だった。役立たずな上に、怖がってばかりの自分が嫌いだった。大嫌い、で……、

 

『本当に、大丈夫だよ。……ありがとね』

 

 それなのに彼は、『ありがとう』と、言ってくれた。

 

『……そうして心配してくれて、俺は、嬉しいから』

 

 彼にとっては何でもない言葉だったのかもしれない。それでもわたしの胸を揺さぶるには充分だった。堪えきれないほどの感情が込み上げて、心を染め上げていく。

 

 嬉しかった。

 きっと、『嬉しい』って言ってくれた彼よりずっと。

 じわりと心が熱くなる。熱くなる(・・・・)

 『ありがとう』って言葉は、当たり前にあるものじゃない。少なくともわたしにとっては、奇跡みたいな言葉だ。誰かの役に立てたという証明で、誰かに喜んでもらえた証明で、誰かに──“わたしでいいんだ”って、言ってもらえたみたいで。

 

『……ぁ、り、が……』

 

 わたしこそお礼を言うべきだと思って、声を震わせた。じわりと滲む涙を拭って、熱い胸を押さえて。

 そう、熱い。胸が熱い(・・・・)

 わたしは気付くべきだったのに、熱に浮かされた頭では気付けなかった。警鐘の音を、忘れてはいけなかったのに。

 

 手を伸ばす。額をドアにつける。彼に出来るだけ一番近い場所でお礼を言いたかった。目を閉じて、そうっと口を開こうとして、

 

 そうして、──ばりっと、破れる音。

 

 

『……、……え?』

 

 呆けたわたしの口から、ぽたりと赤い何かが零れた。今ならそれを“血”だと瞬時に判断できただろうけど、当時のわたしには、ただ目を見開くことしかできなかった。

 

『な、に……?』

 

 呆然としている間にも、ばり、ばり、と何かが破れる音は止まない。胸が、身体が、焼けるように熱くなる。わけがわからないまま視線を巡らせて、わたしはそれ(・・)を見た。

 

『──ぁ……』

 

 それ(・・)は白い羽根だった。振り向き様に白い羽根を視界に映して、気付く。

 

『……ぁ、あ”、あ……』

 

 白い羽根が、(・・・・・・)わたしの背中を突き破って生えてきていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。わたしは気付く。気付いた時には遅かった。状況を理解しても、それは最悪でしかなかった。

 身体を覆う熱が痛みであること。破れる音は肉を裂いた音だということ。生えてきた羽根は色こそ抜け落ちているものの、ホークスのものと同じだということ。それは、つまり──

 

(このむねが、あついのは……!)

 

 わたしの“個性”が、発動してしまったということ──!

 

『? 今なにか、』

『ぁ、ああああああ”っ!!』

『!? 待って、どうしたの!?』

 

 扉越しにホークスがわたしを案じる声がする。それに、応えることなどできなかった。

 あんなによくしてもらったのに、優しくしてもらったのに、『ありがとう』って、言ってもらったのに……!

 

(どうして……!?)

 

 どうして彼の“個性”を奪ってしまったのか。そんなこと望んでなんかなかったのにって、悲しくて苦しくて仕方なかった。身体の痛みなんてどうでもいいと思えるくらい、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 お父さんも、お母さんも、ホークスも、みんな、みんな、だいすきな人たちだったのにって、そう、思って、

 

『……ぁ、』

 

 ──だいすきだから奪ったんだ(・・・・・・・・・・・・)って、気付いたんだ。

 

『あ、ぁ、ぁああ……っ』

『返事をして、何があったんだ、ねえ!』

『ごめ、んなさっ、ごめんなさい、ごめんなさい……!』

 

 立っていられなくて、その場に膝をついた。ぼろぼろと零れる嗚咽を押し殺そうとして、できなかった。

 

『“こせい”、とっちゃ……とっちゃっ、たぁ……!』

『な、ん、……何を言って、』

『そんなつもり、なかっ……なかった、のに!』

 

 悲しくて、苦しくて、頭の中はぐちゃぐちゃで。それでもただひとつのことだけは確かだった。何もかもわからなくなる絶望の中で、その選択だけが鮮明だった。

 

『──かえさなきゃ』

 

 採るべき選択がわかった。やるべきことがわかった。だからわたしはふらりと立ち上がった。行くべきところに行くために、震える足に力を込めて。

 

『ごめん、なさい……すぐ、かえす、から』

『……? 何、を、』

『あなたの、“こせい”……かえす、から、』

 

 ぐしゃぐしゃに泣きながら、笑った。彼がいつもしてくれたようにと、扉の向こうに明るい声を投げ掛ける。

 

『すこしだけ、まってて、ね』

 

 “だいじょうぶだから”と言い添えて、“さようなら”は飲み込んで。そうしてわたしは、駆け出した。

 

『──ッ待って! ……待て!!』

 

 背中に制止の声が掛かるも、わたしは立ち止まらなかった。目指すはトイレの中にある、小さな窓。この部屋には他に窓はない。トイレのだって天井近くの高い位置にあるから、幼いわたしの手には届かなかった。

 けれど今は別だ。翼がある今なら、届く。

 背中の激痛に歯噛みしながら、何とか羽ばたこうと未熟な羽根を動かした。初めての飛行は下手くそで、何度も身体をトイレの壁にぶつけることになったけれど、それでも、届いた。震える手で鍵を開けて、窓から上体を外へ乗り出す。

 

『……っ』

 

 びゅうびゅうと吹き荒ぶ風が、眼下で叫んでいた。地上は遥か下で、夜闇のせいか涙のせいか、霞んで見えるくらい遠かった。こんな高所から飛び降りればどうなるかは、幼いわたしでも知っていた。

 

《本日未明、マンションの4階にあるベランダから幼児が転落し、病院に搬送されましたが死亡が確認されました》

 

 いつかの日、お父さんが見ていたテレビ。お父さんがベランダを見て、それからわたしを見た理由。その眼差しの意味。──もっと早くこうしていればよかったんだと、わたしは拳を握り締めた。

 

『こんなわたし、ここにいちゃ、だめ……』

 

 こんなことになる前に、消えなくちゃいけなかった。

 

『……っ、いきてちゃ、だめ……』

 

 ふわりと落ちる、白い光。見上げれば雪が降ってきているのだとわかった。あのクリスマスの夜によく似た真っ暗な空を仰いで、わたしは、祈った。

 

『おねがい、します……かみさま……』

 

 わたしはひとりきりでいいから。

 わたしの全部を失くしていいから。

 ──命だって、いらないから、

 

『わたしが、いなくなったら……わたしがとっちゃった“こせい”、みんなに、かえしてください……』

 

 身体を、前に、傾ける。ゾッとするほどの恐怖は、幼いわたしにも根付いていた生存本能。それを、“わがまま言うな”と黙らせて。かちかちと鳴る歯を噛み締めて。ぎゅっと目を瞑って。

 

 そうして、身体を窓の外へと投げ出した。

 

 身体を包む浮遊感。落ちていく感覚に、きつくきつく目を瞑った。“わたしはこうしなければならない”と頭ではわかっていたのに、身体は恐怖を訴え続けていた。相反する思いを受けて、心はただ痛かった。

 怖い。うるさい。痛い。

 死にたくない。死ななきゃいけない。苦しい。

 嫌だ。これでいい。迷い。

 誰か、誰か、──誰か、

 

 ぐちゃぐちゃに渦を巻く思いが、空に向かって手を伸ばした。目を開ける。ぼろりと涙が宙に落ちていく。それ以外に見えるものと言えば、真っ暗な空ぐらい。

 

 ──ただそれだけだと、思って、いたのに、

 

 

『……ッ愛依(あい)!!』

 

 

 真っ暗な空に、光が灯った。

 それは藤黄色の髪をして、赤い羽根を背中に負う、小さなヒーローの姿をしていた。

 

『ぁ……』

 

 空中で受け止められて、抱き抱えられて、驚きに息が詰まる。身体を包み込む温もりに、ぼろりと大粒の涙が溢れた。

 

『怪我は!? 痛いところは!? 背中!?』

『……かった』

『何!?』

『……よ……かっ、た……』

 

 涙で滲んだ視界にも、その赤い色は鮮明に映ったから。

 

『よかった、あなたの、はね……ちゃんと、ある……』

 

 あなたの羽根を、奪わずにすんだ。

 そのことが何より嬉しくて、ほっとして、わたしは泣きじゃくりながら笑った。そんな下手くそな笑顔に、ホークスはきつく目を細めていた。

 

『……馬鹿』

 

 やりきれない感情を、たった一言吐き出して、ホークスはわたしを抱えて飛び上がった。ビルの屋上に降り立って、座り込んだわたしを片膝をついて覗き込む。

 

『背中の怪我が……まずは医療スタッフに知らせな、きゃ』

 

 そのままビルに駆け戻ろうとしたホークスの裾を、きゅっと掴んで引き留める。ホークスはしばらく躊躇して沈黙したけれど、足を止めて、またわたしの前に膝をついてくれた。

 『どうしたの』と問われて、わたしは顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃで、みっともない。けれど訊かなくてはいけなかった。

 

『……どうして、たすけてくれたの?』

 

 わたしの背中を見て、生えてきた翼を見て、ホークスも気付いていただろう。奇跡的にホークスの【剛翼】を奪わなかっただけで、わたしは“個性”を発動させてしまった。彼の“個性”を、可能性を、未来を、奪うところだったんだ。

 

『わたし、こんな、“こせい”で……めいわくかけて、ばっかりで……いないほうが、いいのに……っ』

 

 だから“消えて”、“個性”を元に戻そうとしたんだと、たどたどしく話すわたしの言葉を、彼は静かに聞いていた。うん、うん、と相槌を打ってくれた。その声がわたしに優しく降ってくる。雪のように、けれど優しく、あったかく。

 

『自分のせいで、誰かを困らせたくなかったんだね』

『う、ん、』

『誰かに、……俺に、笑っていてほしかった?』

『……っうん、……うん……!』

 

『……馬鹿だなあ、』

 

 ぼろぼろと泣くわたしの頬に、手が添えられる。その指先が涙を拭っていった。目の前を見つめる。目の前の、彼を見つめる。

 

『君は、いつもそうやって、“誰かを救けたい”って、必死だ』

 

 鷹のような鋭い目を泣きそうに細めて、彼は笑っていた。

 

『それは君が、愛依が、優しいって証拠だよ』

『っ、そんなことない! わたし、いつも、いつもみんなをおこらせて、かなしませて、ばかりで、』

『それでも諦めずに、君は誰かを思っていたよ。もっと自分のことを考えていいはずなのに、俺なんかの心配までしてくれた』

 

 頬を撫でた手が動き、わたしの頭に乗せられる。そっと、壊れ物に触れるかのような柔い手つきで、撫でてくれた。

 

『誰かのために頑張れるんだ、君は。……どんな時でも』

 

 それは、“よく頑張ったね”って、褒めてもらえてるみたいで。わたしを、認めてもらえている、みたいで。

 

『そんな君だから、俺は救けたかったんだ。死なせたくなかった。……生きていて、ほしいんだよ』

 

 夢を見ているのかと思ったの。

 だってこの人が、欲しかった言葉を、全部くれたから。

 

『一緒に、生きよう』

 

 ずっと、寒くて痛かった。悲しかった。寂しかった。

 

『ひとりじゃなくて、……一緒に』

 

 ──でも全部、救われたの。

 

『──っ、ぅ、ああああああっ……!!』

 

 我慢の糸がぷつんと切れて、堰を切って泣き出したわたしに、ホークスはびっくりしたように目を丸くした後、くしゃりと笑った。そうしてわたしの身体を抱き寄せてくれた。そうっと、優しく、あったかく。

 寒くて痛かった心が、その温もりで溶けていくのがわかった。心の氷は溶けて、涙になって、悲しさや寂しさを流していく。嬉しかった。嬉しかったの。一度無くした幸せを、彼はもう一度わたしの手に握らせてくれたのだ。

 

 

 こんな“個性”を持つわたしでも、生きてていいって言ってくれた。一緒に生きていこうって、傍にいてくれた。

 こんな幸運、きっともう二度と無い。二度と無くっていいぐらい、わたしはもう、全部全部救われた。

 

 ──だから、もう、いい。大丈夫。

 

 

 

 

 

「おやおや、随分と我慢強いんだね」

 

 揶揄する声に、意識を引き戻される。コンクリートの床に投げ出された身体が痛みを叫んで、わたしはぎゅっと奥歯を噛み締めた。悲鳴は上げない。大丈夫、……大丈夫。

 

「痛いだろうに、苦しいだろうに……どうしてそこまで頑張るんだい?」

 

 こんな身体の痛みなんて、何ともない。

 

「身体を削られていくことは……命を失うことは、恐ろしくはないのかい?」

 

 AFO(オールフォーワン)なんか、怖くない。

 だってもっと痛くて苦しくて怖い、“自分なんか生きてちゃ駄目だ”って思ったあの瞬間から、救い出してくれた人が、いるから。 

 

「……それが、わたしの、原点だから」

 

 だから、もう、いい。大丈夫。

 もうわたしは、誰にも救われなくていい。

 

「今度、は……わたしが、頑張るの……」

 

 あの人みたいになりたい。

 あの人の力になりたい。

 あの人を、救けたい。

 

 そう心に刻んできた。これまでも、これからも。

 

「そうかい、……救えないね、君は」

 

 低く嘲笑ったAFO(オールフォーワン)が、再びわたしに手を伸ばす。その手がわたしを如何に傷つけようと、もう折れない。心は、折れない。大丈夫、

 

(ホークス、ホークス、……)

 

 心に呼ぶ名前があるだけで、全部全部、頑張れるよ。

 

(啓悟、くん……)

 

 あの救われた瞬間を、今も鮮明に覚えている。

 わたしの原点は、色褪せず、この胸に。

 

 

61.少女:オリジン

 

 


 

 更新3週間ぶりですね!!!!すみません!!!!思った以上に筆が進まないのに書きたいことは多すぎてこんがらがっていました。お待たせして申し訳ありません。

 今回は、前回の過去編でホークスに命を救われてから心を救われるまでのお話でした。切りどころが見つからなくてぐだぐだな長文になってしまいましたね……もっと書きたいところはあったのですが、それはまた別の機会にします。次回からは現実軸の物語を進めていきたいと思っております。

 

 最後になりましたが、閲覧ならびにお気に入り登録、評価等々、いつもありがとうございます!遅筆過ぎて心が折れかけた時など本当に励みにさせていただいています。また次回も読んでいただければ嬉しいです。ありがとうございました!



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62.少女、“大丈夫”。

 

▽今回の注意点

 オリ主が(描写不足でぬるいですが)拷問を受けます。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。次回に簡単なあらすじを用意しておきます。

 

 


 

 

「主義も価値観も違う、言葉も通じない……そうだね、獣と例えようか。獣を手懐けるためには、何が必要かわかるかい?」

 

 『僕を、治してくれないかな』

 『(ヴィラン)になる気は無いかい』

 ──AFO(オールフォーワン)の要求を2度も突っぱねたわたしに、彼はゆったりと微笑んだ。脈絡の無い会話に、静かに唾を飲む。……次の瞬間に自分は死んでいるかもしれないと、静かに、覚悟を重ねながら。

 

「……獣にとって、よりよく生きていける環境……?」

「ふむ、半分正解というところかな。惜しいね」

 

 まるで教師(・・)か何かのように彼はわたしの発言に頷き、口角を吊り上げた。

 

「より正確に言うなら、“生”を強く実感するための痛みだ」

 

 ……ああ、なるほど、この会話は前振りなんだ。

 だってAFO(オールフォーワン)は言っていた。ただ死ぬよりずっと苦しいことも、痛いこともあるんだよって。それを今から、わたしに、教えると──

 

「……自分に痛みを与える人に、喜んで尻尾を振るとは思えませんが。いつか牙を剥くのでは?」

「そんな悪さをする牙なら、抜いてしまおうか」

 

 バキ、ボコ、と。肉がねじ曲がる音がする。【肉体変化】か何かの“個性”を使っているんだろうか。スーツの先から見える右手が歪んで、ペンチのように形作られて、鈍い金属の光を弾いた。

 

「いきなり歯は可哀想だからね。オーソドックスに、爪から始めよう」

「……っ」

 

 AFO(オールフォーワン)の左手指。その指先が黒い紋様を刻んだ装甲を纏う。装甲は細く長く伸びて、椅子に腰掛けたままのわたしの手や足や胴に巻き付き、瞬く間に自由を奪った。力を込めてみても、びくともしない。完全に身動きを封じられた。

 ……わたしは、もう、逃れられない。

 こつ、とコンクリートの床を革靴で鳴らしながら、彼はわたしの前に立った。ペンチがわたしの爪を挟む。本当に軽く、上に向かって力が込められる。たったそれだけで肌が粟立つのが悔しくて、情けなくて、せめてもとわたしは唇を噛み締めた。

 そんなわたしの内心を知ってか知らずか、AFO(オールフォーワン)は大袈裟に嘆息を溢した。わざとらしく肩を竦める。

 

「僕も心苦しいんだよ? できるなら、君にこんなことはしたくなかった」

「……そうですか」

「“やめて”とは、言わない?」

「……はい」

「残念だよ」

 

 “残念”、だなんて、欠片も思ってないような口振りで。

 それ(・・)は、殊更ゆっくりと行われた。

 

「──ぎ、ッ……!」

 

 みちち”、ぶち、ぐちり、

 胸が悪くなるような音と、叫びだしたくなるような痛み。反射的に暴れるけれど、そんなわたしの抵抗を、AFO(オールフォーワン)の指先は嘲笑うように簡単に押さえ込む。身動ぎすらできず、ただ、ただ、じっくりと与えられる痛みに無理やり向き合わされる。

 

(い、っだ、いだい、いたいいだいいたい、ぃ……!!)

 

 いっそ叫べば楽になるのだろうか。そんな誘惑を、唇を噛み締めて堪えた。まともに目を開けてはいられなかったけれど、すぐそばで嗤う気配がする。

 わたしが痛みに屈するのを、悪魔が嗤って待っている。

 

「! ぅ”、~~~っ、……ッ!」

 

 唇を、歯を噛み締める。

 激痛や、吐き気、恐怖に──“助かりたい”という甘え(・・)

 それら全部を、押し殺す。

 

「はい、1枚目」

 

 ぐちり、という湿った音とともに床に落ちたそれは、真っ赤に染まった1枚の爪。生理的な涙が、震える頬を伝う。痛みと吐き気に呼吸が整わないわたしに、AFO(オールフォーワン)は微笑んだ。

 

「よく悲鳴を我慢できたね。出血は然程無いけれど、痛かったろう?」

「──っ、あ、ぐ……っ」

 

 彼の人差し指が、血に濡れたわたしの人差し指をぐい、と押した。爪を剥ぐに飽きたらず、その傷口を抉るように押し込んでくる。思わず睨み上げるわたしに、彼は首を傾げた。

 

「これ、“個性”で治さないのかい?」

「……爪を再生したら、どうせ、また……剥ぐのでしょう」

「君が頷いてくれさえすれば、そんなことせずにすむのにね」

 

 わたしの指を痛め付けるのをやめたかと思えば、彼はわたしの頭を撫でた。その、丁寧な、まるで慈しむような手つきに、背筋がゾッとする。

 

「痛いのは、嫌だろう? ……可哀想に」

 

 麻薬に砂糖をいくつもまぶしたような、そんな声。纏わりつくその手と声を振り払おうと、頭を振った。

 

「……我慢、でき、ます」

「本当に? この痛みが、ずっと、ずうっと続いたら?」

 

 声が、どろりと鼓膜に染み入ってくる。それはわたしの脳裏に、嫌な想像を掻き立てていった。何時間も、何日も、何十日も、何ヵ月も──ずっとずっとこの部屋で、痛みに耐え続ける。そんな、訪れるかもしれない、未来を。

 

「僕ならそれを、止めてあげられる。そうしたら君はもう、何の痛みも苦しみも感じなくていいんだ」

 

 くだらないマッチポンプだ。この痛みを与えているのは彼なのに、さも慈悲深い善人のように宣っている。……そう、冷静に、自分を見失わずに考えればすぐにわかる。なのに、

 

(……あたま、ぐるぐる、する……)

 

 剥がされた爪。突き刺すような激痛。優しい手つきで撫でられる頭。甘ったるい声。……相反する感覚を一気に与えられて眩暈を覚える。身体は痛くて、違和感が気持ち悪くて、未来()の見えない暗闇が怖くて、それでも優しさに似た何かがあって。頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 きっとこれ(・・)AFO(オールフォーワン)の常套手段なのだと、頭の冷静な部分では理解できた。くだらないマッチポンプ。救いのように手を差しのべて、わたしを引きずり込もうとしている。

 手を取ってしまえばわたしは後悔する。わかっている。

 わかっている、けれど。

 ……ああ、もし、もしも、 手を 取っ て、しまえ ば、

 わたし(・・・)は、痛みも苦しみも後悔も、過去(今までの自分)未来(これからの自分)も全部溶かして、嗤ってしまえるんじゃないかと、そん な──

 

 

「ヒーローも、(ヴィラン)も、ここには誰も来ない。

 僕だけが、君を“幸せ”にしてあげられるんだ」

 

「──、」

 

 

 AFO(オールフォーワン)は、とても賢しく、狡猾だ。わたしのような小娘なんか、あともう少しの暴力と甘言で丸め込んでしまえたのだろう。

 けれど彼はひとつのミスを犯した。

 わたしにとっての“幸せ”を、思い出させてしまった。

 

(……わたしの、“しあわせ”、は……)

 

 痛め付けられて、慈しまれて、ぐちゃぐちゃになりそうだったわたしの奥底で、それは変わらず輝いていた。太陽のように、月のように、星のように、標のように──わたしを導いてくれる、原点。

 

 わたしの“幸せ”は、わたし自身じゃない。

 それは、翼あるあの人の姿をしている。

 

(……ああ、わたし、馬鹿だなあ)

 

 こんな程度の痛みに惑わされるなんて、と、自嘲の笑みがこぼれる。

 

「……おや、」

 

 あの雪降るベランダで出会った時から、

 ビルから落ちるわたしを受け止めてくれた時から、

 

「これは誤算だったな。君を優しく歪めてしまいたかったのに……」

 

 ずっとずっとわかっていたでしょう。

 ホークスと比べたら、わたしなんかどうでもいい(・・・・・・)って。

 

もう手遅れ(・・・・・)だったとは」

 

 天秤を掲げよう。どちらが大切か、間違えないように。

 ホークスは、重しだ。わたしが揺らがないための重し。

 わたしがわたしを、擲つための重し。

 

 爪が剥がれたら、指が削がれたら、何も掴めなくなる。歩くことも、ひとりで立つこともできなくなるだろう。爪だけならまだしも切断指を再接着させることは、わたしの“治癒”では叶わないかもしれない。

 もう、きっと、治らない。──それでもいい。大丈夫。

 

(ヒーローが、……ホークスが、無事なら……)

 

 掠れた意識の中で、ガンガンと鳴り響く痛みの中で、わたしの身体が少しずつ削れていくのがわかった。両手両足の爪、足の腱、指、……悲鳴を殺すべく噛み締めた奥歯が砕けそうだ。口の中には血の味がいっぱいに広がる。

 ……それでも、いい。いいの。

 痛くても苦しくても、治らなくたって、構わない。

 

「っ、……!」

「うん?」

 

 羽根に手を掛けられて、思わず声が漏れ掛ける。ああ駄目だ。悪魔に動揺を見せてはいけない。いけないのに。

 

「足と手が使いものにならなくなっても平気だったのに、翼だけは失くすのを嫌がるんだね」

「っ……やめ、」

「それほどに、(これ)が大切?」

 

 くんっ、と翼を鷲掴みにされ、無造作に引っ張られる。背中に走る痛みよりも、ただ胸が痛かった。

 思い出が、軋んでいる。心が喪失を恐れている。

 

 

 

 

『……大丈夫?』

 

 そのたった一言で、全部“大丈夫”になった。

 【依存】の“個性”でホークスの“個性”因子を取り込んだわたしは、【剛翼】を身体に宿すために大幅に身体を創り変えることになった。背中から突き破るように飛び出た【翼】、ゴキゴキと軋み、折れて、砕けて、急速に組み上げられる骨格、……発熱と痛みとでベッドで魘されるわたしの元に、彼は来てくれた。

 

『……大丈夫、じゃないよね。ごめん、俺の、せいで……』

 

 わたしなんかよりずっと苦しそうに目を細めて、眉を寄せながら、わたしの手を握ってくれた。寝乱れる髪をすいてくれた。傍にいて、くれた。

 

『……あ、やまらな、いで……』

 

 それがどんなに嬉しかったか、きっと誰にもわからない。

 

『わたし、……“だいじょうぶ”、だから』

 

 

 

 

『怖がらないで。大丈夫だから』

 

 そうだ。その言葉で、わたしは“大丈夫”になる。

 翼を生やしてしばらく経ち、痛みは無くなったものの上手く動かせなかったわたしは、飛行訓練の時も失敗ばかりだった。いくら翼をはためかせても浮かばなくて、地上から浮上するのが無理でも飛び降りながらだったら上手くいくかもと、高台から飛び降りては落ちて転んで怪我をして、を繰り返していた。

 

『……ああ、もう、また無茶して』

 

 一人きりで訓練していたのに、いつも、わたしの目が潤んだ頃にホークスはやって来てくれた。泣くまいと必死に堪えていたのに、彼が同じようにしゃがみこんで、ぽんぽんと頭を撫でてくれるから、ぼろりと大粒の涙が溢れてしまって。悔しくて情けなくて、それでもホークスは微笑んでくれた。

 

『痛い?』

『い……っいたく、ない』

『そ? じゃあ、怖い?』

『っこわく、ない!』

『意地っ張りだなあ』

 

 ムキになるわたしは、きっと可愛くなかった。……でも、

 

『ほら、手』

 

 それでも、諦めずに手を伸ばしてくれた。

 

『一緒に飛ぼう。そしたら、大丈夫だよ』

 

 暗く、低い地の底にいるわたしを引っ張り上げてくれるような、そんな声と笑顔。わたしは吸い寄せられるように手を重ねた。それと同時にふわりと浮遊感が襲って、わたしは必死にホークスにしがみつく。

 

『ぅう、わっ』

『こら、怖がって下を見ない。背ぇ伸ばして前を向く!』

『は、はいっ……』

 

 叱咤に俯いていた顔を上げる。習ってきたことを脳裏に並べながら、姿勢を正して前を向く。

 

『! わ……』

 

 そうすれば、いろんなものが見えてきた。殺風景な訓練室。幼いわたしには大きすぎるトレーニングキット。それが遥か足元にあるのが不思議な気分だった。不思議な、視界。世界。

 

『ほら、大丈夫だったでしょ?』

 

 そして目の前には、柔らかに目を細める、あなたの笑顔。

 

『……うんっ……!』

 

 いつか飛び降りた空は、怖いばかりだったけれど。

 あなたと飛んだ空になったから、好きになったんだよ。

 

 

 

 

(……ね、ホークス)

 

 あのね、もう、“大丈夫”なんだよ。

 あなたの言葉さえあれば、わたしは“大丈夫”。

 

「もう抵抗しないのかい? 翼が無くなってしまうよ?」

「……どうぞ、お好きに」

 

 手が使えなくなっても、歩けなくなっても、立つことすらできなくなっても、飛べなくなっても。

 あなたとの思い出の証が、引きちぎられても。

 ……あなたのようなヒーローに、なれなくなっても、

 

AFO(あなた)に、尻尾を振るより、マシです」

 

 そうしてあなたが傷つくよりは、ずっといい。

 

「──ッ、……」

「おやおや、随分と我慢強いんだね」

 

 みぢ、ぶちり、ぎち、

 翼が、羽根が、引きちぎられていく。「やめて」と喉元まで出かかった悲鳴を無理やり飲み込んだ。

 

「痛いだろうに、苦しいだろうに……どうしてそこまで頑張るんだい?」

 

 “助けて”、なんて、言わない。乞わない。

 もうとっくに全部、救われたのだもの。

 

「……それが、わたしの、原点だから」

 

 ホークスみたいになりたい。ホークスの力になりたい。

 ホークスを、救けたい。だから、

 

 ……彼に救われるために、生きているのでは、ないから。

 

「今度、は……わたしが、頑張るの……」

 

 未熟で無力なわたしには、この場でAFO(オールフォーワン)から逃れることも、彼を倒すことも、何もできない。

 けれど、何もしないことを選ぶことはできる(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 それがこの場における最善策なのだと、信じている。

 

「そうかい、……救えないね、君は」

 

 

 

 

 そんな会話を交わしてから、どれぐらい経ったのだろう。この部屋は窓も扉も無く、ただつけっぱなしのパソコンが人工的な光を注いでいるだけだから、昼夜の感覚がわからなくなる。痛みと疲労に気絶しては、痛みによって起こされて、の繰り返し。一応死なないようにと食事は用意されていたけれど、何が盛られているかわからないものを口に運ぼうとは思えなかった。打ちっぱなしのコンクリートの床に身体を預けて、ぼんやりと息をする。ただそれだけで痛みを訴える身体の熱が、無機質な床の冷ややかさと混ざり合っていく。

 そんな時だった。

 

《生徒の安全……と仰りましたが、イレイザーヘッドさん、事件の最中に生徒に戦うよう促したそうですね》

 

 意図をお聞かせください、と問い詰めるその声は剣呑としていた。わたしは静かに瞬きをひとつ。ぼんやりとする意識の中で思い出した。悪魔に羽根をむしり取られる時、1枚だけ散るように見せかけて逃したことを。

 

《私共が状況を判断できなかったため、最悪の事態を避けるべくそう判断しました》

《“最悪の事態”とは? 25名もの被害者と2名の拉致は最悪とは言えませんか?》

 

 その小さな小さな雨覆が、ビリビリと震えている。パソコンから流れる音声を──よく知るあの人(・・・)の声を捉えて、震える。

 

《……私があの場で想定した“最悪”とは、生徒が為す術なく殺害されることでした》

 

 相澤、先生。相澤先生の声がする。問答の様子から察するに、記者会見の一幕だろうか。彼の声に続いたのは、根津校長先生の静かな声だった。

 

《被害の大半を出したガス攻撃。敵の“個性”から催眠ガスの類いだと判明しております。拳藤さん、鉄哲くんの迅速な対応のおかげで全員命に別状はなく……また、生徒らのメンタルケアを行っておりますが、深刻な心的外傷は今のところ見受けられません》

《不幸中の幸いだとでも?》

《未来を侵されることが“最悪”だと考えております》

 

 ……よかった。あの(ヴィラン)襲撃で命を奪われたり、再起不能な怪我を負ったりした人はいなかったのだと、安堵で頬が緩む。けれど、そんなわたしとは裏腹に、記者さんたちはそれで納得しないようだ。

 

《拐われた爆豪くんや空中(そらなか)さんについても同じことが言えますか?》

 

 質問ではなく詰問の語調で、その記者さんは言い募る。

 

《爆豪くんは体育祭における優勝者。ヘドロ事件では強力な(ヴィラン)に単身抵抗し続け、経歴こそタフなヒーロー性を感じさせますが、反面決勝で見せた粗暴さや、表彰式に至るまでの態度など、精神面の不安定さも散見されています》

 

 もしそこに目を付けた上での拉致だとしたら?

 言葉巧みに彼を勾引かし、悪の道に染まってしまったら?

 

《未来があると言い切れる根拠を、お聞かせください》

 

 ちらりと、静かに視線だけ動かして、パソコンの方を見る。先ほどまでわたしを痛め付けていたAFO(オールフォーワン)は、パソコンの前に腰掛け、肘をついて愉快そうに画面を眺めている。

 愉しい、のだろう。納得はできないけど理解はできる。

 (ヴィラン)にとっては、民衆がヒーローに責任を追求して責め立てるこの様子は、愉しくて仕方ないのだろう。

 

(相澤、先生……)

 

 ただでさえメディア嫌いの先生だ。自分だけでなく生徒(爆豪くん)のことまで攻撃的に言われて、その内心は荒れ狂っていることだろう。でも、ここで攻撃的に返答してしまったら、メディアはそれをより過剰に報道するだろう。それが(ヴィラン)の思うつぼなのに──と、そうやって、はらはらと沈黙を守るわたしの羽根が、画面越しのざわめきを拾い上げた。

 

《──行動については、私の不徳の致すところです》

 

 謝罪。だけれどそれだけではない。強く芯の通った声。

 

《ただ……体育祭でのソレら(・・・)は、彼の“理想の強さ”に起因しています》

 

 相澤先生の声音に迷いは無い。

 迷い無く、爆豪くんの“強さ”を信じている。

 

《誰よりも“トップヒーロー”を追い求め……もがいている。

 あれを見て“隙”と捉えたのなら、(ヴィラン)は浅はかであると私は考えております》

 

 そう、爆豪くんは、強い。……そりゃ言動は粗暴っていいぐらい乱暴だし、戦闘訓練の時なんかヒーローより(ヴィラン)って言われる方がしっくりくる表情をしている。緑谷くんに対する態度だって、ただの幼馴染みで収まるようなものではない。

 でも、それでも爆豪くんは──

 

《……根拠になっておりませんが? 感情の問題ではなく具体策があるのかと伺っております。……それに、爆豪くんだけではない。空中さんについてはどうなのですか》

 

 わたしの名前が出てきて、思わずふっと息を飲む。

 

《体育祭で彼女が見せた“個性”は【治癒】。大変稀少かつ貴重な“個性”です。……(ヴィラン)に狙われることはわかりきっていたのでは?》

 

 キィ、と、椅子のスプリングが軋む。その音とともにAFO(オールフォーワン)がこちらを向いた。目の無い顔でわたしを捉えて、にんまりと口角が吊り上げる。

 

《もし彼女が、(ヴィラン)に利用されることになったら、》

 

 ──嗤っている。

 

《「どうなるのだろうね、空中くん。君は、君がどう思うかは関係なく、(ヴィラン)になるのかもしれないね」》

 

 低く嗤う、その声が二重に聞こえた。この鼓膜を震わせる肉声と、羽根が捉える画面越しの声。……何の“個性”か、電波に干渉して会見会場に声を届けているらしい。

 

(……わたしとの会話をみんなに聞かせることで、より、ヒーローへの信頼を揺るがそうとしている)

 

 ……そうは、させない。わたしに出来ることはなくとも、思い通りになんか、なってやるものか。

 革靴を鳴らしながら近付いてくるAFO(オールフォーワン)を、上体を起こしながら睨み上げる。

 

「……随分、饒舌、なんですね」

「おや、そうかな」

「まるで、楽しくて仕方ない、みたい」

 

 掠れて擦りきれた声帯を【自己再生】する。……わたしに残された体力はもうほとんど無い。ギリギリだ。何とか維持していた羽根も力尽きて床に落ちる。

 

「あなた方(ヴィラン)の思惑通りに、ヒーローを責める民衆を眺めるのは、そんなに楽しいですか?」

 

 それでも、わたしも相澤先生みたいに強い声で、伝えたいことがあった。

 

「おかしい、ですよね。だってわたしがあなたの元にいるのは、(ヴィラン)のせいなのに。ヒーローのせいでは、ないのに」

「君を救えないのは、ヒーローの責任だろう?」

「もし仮に、ヒーローに責任を追求できる誰かがいるとしたら、わたしの件に関しては、わたしだけです」

 

 震える舌を励まして、わたしは語調を強めた。

 

「……他の誰にも、とやかく言われたく、ありません」

 

 無理やりなことを言っているという自覚はある。犯罪の責任を当人以外が追求するな、なんて、ただの我が儘だろう。この社会で到底受け入れられるものじゃない。

 それでもわたしは言いたかった。

 伝えたかった、──これで最期かもしれないから。

 

「ヒーローは、守ってくれてる。もう、十分過ぎるほどに」

 

 どこかで聞いているだろう、あなたに、

 

「それで足りないというのなら、わたしの努力と献身が、足りないということ」

 

 “どうか自分を責めたりしないで”、って。

 

「もうこれ以上、ヒーローに、……背負わせないでほしい」

 

 わたしの個人的な“遺言”はここまで、と呼吸を整えた。後は、……少しでも、みんなの役に立たないと。

 

「……相澤、先生……爆豪くんはここにいません」

 

 爆豪くんが(ヴィラン)によって拐われているのは、会見の問答からも明らかだ。

 

「わたしがここに来て数日経ちますが、一度も見ていません。他の(ヴィラン)連合の姿も、……きっとこことは別の場所にいる。お願いです、彼の救出を、優先してください」

 

 どうか、どうか。彼を救けてほしい。

 もしもわたしの所在がわからないせいで救出に踏み込めないのなら、そんな()は、解き払ってしまいたかった。

 

「わたしは、……わたしは、もう、喋りません」

 

 わたしはもう、死んだものと想定してほしい。

 その方がきっと、スムーズだから。

 

「お喋りをやめてしまうのかい? それはちょっとつれないじゃあないか」

「っ、~~~!」

 

 じゅくじゅくに膿んだ右手を、思い切り踏みつけられる。指を切られて、甲を突き刺されて、溢れる血を止めようと雑に燃やされた右手。その傷口を抉られて、漏れ出そうな苦鳴を殺した。

 

「はは、これで声を上げないなんて、本当に黙り込むつもりなんだね。ふむ、面倒だけれど、これはこれで少し楽しくなってきたな」

 

 そんなわたしを可笑しそうに嗤って、彼は顔を覗き込んでくる。

 

「君は何をしたら、悲鳴を上げてくれるのかな。

 その意志を、心を、どうやったら壊せるんだろう?」

 

 AFO(オールフォーワン)はまるで歌うように、呪いのような言葉を吐いた。

 

「だって君は、もう、たくさん失ったろう? 痛みに堪えるために床を掻いていた爪も、握り締める指すら。

 ……ああそうだ、翼だけは、嫌がっていたね。むしりとる僕に、『やめて』って言い掛けていただろう。またあの声を聞きたいけれど、どうしたものかな。もう全部、無くなってしまったし」

 

 ねえ、と、柔らかに問い掛けられる。

 

「次は何を失えば、君は泣いてくれる?」

 

 ……そんな風につらつらと饒舌なのは、わたしを、“可哀想な被害者”にしたいからだ。わたしを救えないヒーローたちを、失望させ、失墜させたいからだ。

 そんな悪魔に……一矢報いるまではいかなくとも、その愉悦に歪んだ笑顔に罅を入れてやりたいと、そう、思った。

 

「……あなたが、ひとりで何を仰っているのか(・・・・・・・・・・・・・)、わたしには理解できませんが……」

 

 わたしが悲鳴を上げない限り、“拷問に遭った可哀想な被害者”はいない。(ヴィラン)の一人芝居だということに、きっと公安の誰かが誤魔化してくれるはず。

 きっと、ヒーローを守るために、わたしの足掻きを役立ててくれるはず。

 

「あなたは、わたしの何も、奪うことはできません」

 

「……そうかい」

 

 ……少し、笑みがこぼれる。わたしの足掻きは、AFO(オールフォーワン)の気分を害すに至ったようだ。もう今となっては、それだけでいい。……“大丈夫”。

 

「じゃあ改めて、今度は、その綺麗な碧眼を削ごうか」

 

 もう、死んだって、“大丈夫”。

 

 

 

 ああ、AFO(オールフォーワン)の指先から鋲が伸びて、

 それ が、わた し の、 め、 に

 

 あ あ”、あ” 、 いだ、痛いいたいいた、 い

 ぐちゃ、ぐちゅ、っ て、おと、 が 、あたまの、

 あたま、いた、 痛い苦し きもちわ、る い

 あう”ぅ、や、ぁ 、 あ”あ”あ、ぁ い、た

 

 ──ぁ、あ、

 

 ……けいご、くん、……

 

 

 

「……驚いた。驚嘆に値するよ、君のイカれっぷりは」

 

 ぼと、り、と。どろりと溶けた“何か”がわたしの左頬を伝って落ちる。それが何なのか、直視しなくてもわかる。痛みと吐き気を堪えて顔を上げる。AFO(オールフォーワン)は呆れたように肩を竦めていた。

 

「何の意地を張っているのか知らないけれど、それだけ耐えられるのなら大したものだよ。大の男でもショック死しかねない痛みだというのにね」

「……っ、──っ」

 

 返答はできない。ただ荒い息を吐いて、嗚咽を殺すのに必死だ。そんな有り様だけれど、相対するAFO(オールフォーワン)は何やら思案顔だ。口許に手を当て、ふぅんと首を捻っている。

 

「さてはて、困った。単純な痛みじゃあ、君は折れてくれなさそうだ」

 

 そんなことを、軽い口調で宣って、

 

「それじゃあ、趣向を変えようか」

 

 低く、暗く、嗤った。

 それと同時に、パソコンから注がれる光が瞬いた。ここからははっきりとは見えないけれど、誰かの姿がディスプレイに映し出されている。

 

《──先生、力を貸せ》

 

「……ふふ、」

 

 静かな部屋に響いた、ひび割れた声。どこかで聞いたような、と思考を巡らせるよりも早く、AFO(オールフォーワン)は唇をほころばせた。

 

「いい判断だよ、それに、」

 

 ぱちん、と指を弾く。それと同時にAFO(オールフォーワン)の隣に闇が溢れた。その真ん中あたりで、鋭い金の目がふたつ、浮かび上がる。

 

「実にいいタイミングだ。死柄木弔」

 

 視界が、暗闇よりも暗い黒で塗り潰される。ぶわりと身体を包む浮遊感、【ワープ】の“個性”、黒霧、死柄木弔、USJ──さまざまなことが脳裏によぎって、そして、

 

「──ぇ」

 

 一呼吸の後に、世界は塗り変わっていた。投げ出された床は古びたフローリング。煉瓦の壁。薄ぼんやりとした橙色のランプ。鈍い光を弾く瓶が、カウンター裏の棚にずらっと並んでいる、……どこかの寂れたバーという感じの、場所。そこに、

 

「……羽根!?」

「ば、……くご、く……?」

 

 聞き覚えのある声に、ゆっくりと上体を起こす。そちらを振り返ると、赤い目を見開き、狼狽したような珍しい表情をした爆豪くんがいた。

 ……よかった、怪我はしてないみたい。無事でよかった。

 そう声を掛けようとして、出来なかった。背後から伸ばされた手が、わたしの首元を掴む。

 

「ああ……なるほどなァ」

 

 ひび割れた声が耳元で嗤う。彼の小指がわたしの肌に触れていないのは、慈悲のつもりか。……そうではないだろうと、唇を結び直す。

 だって今の状況は、慈悲には程遠い。

 

「わああっ! 愛依(あい)ちゃん、愛依ちゃんっ! ボロボロで素敵ですっ!」

 

 どこにでもいるような女子高生のようでいて、そうではないのだろう。今のわたしを見て頬を染めてはしゃぐ女の子がいた。そんな彼女を宥めるように肩に手を置く大男に、フルフェイスマスクの男、トカゲの異形型の男もいる。それだけじゃない。わたしを拐ったシルクハットの男に、青い炎の男に、黒霧。それに、

 

「じゃあ爆豪くんよ。もう一度、交渉(話し合い)を始めようか?」

 

 わたしの首を4本指で掴む、死柄木弔。

 ──(ヴィラン)連合のアジトに放り込まれたのだと、悟った。

 

 

62.少女、“大丈夫”。

 

 


 

 3月の間1回も更新してないってマジですか?マジでした。すみません死んでたけど生きてました!!!時間が空いたわりにあんまり展開進んでいないという体たらく……あと1話で神野編終わると思うので許してください……。

 

 そして今回はちょっとアレな展開でしたね。今回のオリ主の独白については「おや……?」と首を傾げて頂けていれば幸いです。作者は拷問を受けたことがないため詳しくはわかりませんが、多分ただ意志が強いだけで耐えられるものではないように思います。その人がイカれてるというか、予め変な方向に歪んでなければ、いくら清く正しくても耐えられないんじゃないかと思うんです。

 

 次回は神野編ラストに向けて頑張っていきたいと思います!また読んでいただければこの上なく嬉しいです。

 話は変わりますがヒロアカ本編、ヴィジランテ、チームアップミッションとヒロアカ関連の最新刊が出ましたね!みんなとっても面白かったです。特にチームアップミッションの尾白くんと葉隠ちゃんの話はめちゃんこ素敵で楽しかったので全人類読んでください(ダイマ)。



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63.少女、弱くなる。

 

▽前回の簡単なあらすじ

・AFOによる話し合い(拷問)が開始。

・両手両足の爪と指、左目、翼を失う。

・AFOがその時の音声を記者会見の場に流して、更なるヒーローへの信頼の失墜を狙ったが、意地で何でもないように振る舞う。

・自分の痛みよりも未来よりも、ホークスの方がずっとずっと大切。

・ボロボロのままAFOによって死柄木たち(ヴィラン)連合と爆豪のいるバーへ転送される。

・今度は死柄木による“話し合い”がスタートしそう。

 

 


 

 

 橙色は、夕焼けを想起させる。あたたかさと寂しさが同居する複雑な色。明るいはずなのに闇の到来を感じさせる色。相反する2つの概念が雑ざり合う“誰そ彼”の色──そうした照明の色が、わたしたちの頭上に降り注いでいる。

 

「じゃあ爆豪くんよ。もう一度、交渉(話し合い)を始めようか?」

 

 わたしの首を4本指で掴みながら、死柄木弔はそんなことを言った。耳元を暗い嗤い声が伝う。きっと、わたしの背後で唇を吊り上げているのだろう。わたしを人質にして、爆豪くんを追い詰めようとしている──

 

「ば、くご、っ」

「おっと、」

 

 そんなことはさせないと、身動ぐことすら許されない。

 

「動くと危ないぞ。……なァ?」

 

 その忠告(脅迫)は、わたしだけでなく、向かい合う爆豪くんにも向けられていた。死柄木の指がわたしの喉に食い込んで呼吸を潰す。苦しくて、悔しくて、顔を歪ませるわたしの耳に、鋭い舌打ちの音が聞こえた。

 

「……なァにが望みだ」

「言ったろ? 話し合いだよ」

「随分ヤサシー言葉を使うんだな。ヘドが出るわ」

 

「こんな状況だってのにまぁ強気だねぇ」

「やっぱ馬鹿だろこいつ」

「懐柔されたフリすらできねぇもんな」

 

 肩をすくめながら会話を交わす、シルクハットの男と継ぎ接ぎの男。彼らの言葉の意味を図りかねていると、そんなわたしの戸惑いに気づいたのか女の子がとととと小走りで寄ってきた。セーラー服にカーディガン姿の、女の子。

 

「あのねあのね! さっき、弔くんがバクゴーくんを誘ってたんですよ! (ヴィラン)にならないかって」

「……は……?」

「けどバクゴーくん、ダメだって。断られちゃったんです」

 

 女の子はにんまり笑っている。その顔立ちは可愛いといって差し支えないはずなのに、……どうしてこんなにも、笑顔が、怖い。

 

愛依(あい)ちゃんも、あっちでそういう話してたんですよね?」

「……わ、たし、は、」

「……むう。愛依ちゃんも断ったんですねぇ」

 

 ん、と彼女は両手を広げた。それを見た死柄木は溜め息をひとつ吐いた後、無造作にわたしを投げて寄越した。力の入らないわたしはされるがまま、女の子の腕の中に収まる。

 

「なんで? ネエネエ、なんでぇ?」

 

 女の子はぎゅうっとわたしを抱き締めた。今のわたしは血でどろどろに汚れているのにそんなこと気にした様子もなく、……むしろ、幸せそうに(・・・・・)

 

「なんで(ヴィラン)になりたくないの?」

 

 心底愛おしそうに頬ずりされながら、

 心底不思議そうに尋ねられる。

 

(ヴィラン)になっちゃ、ダメなんですか?」

 

 何故、(ヴィラン)になってはいけないのか。

 ……そんなの考えるまでもなく普通(・・)のことだ。みだりに“個性”を使えば社会を混乱させる。誰かを傷つける。取り返しがつかなくなることだってあるだろう。誰もが知っていることだ。誰もがわかっている、当たり前(・・・・)のこと。

 どうしてこの人は、そんなことを訊くのだろう。

 どうして、……どうして、本当に当然のこと、だったら、

 

 ──どうして(ヴィラン)は、いなくならない?

 

「……オイ、羽根! 余計なこと考えてんじゃねェぞ」

 

 その声に、はっと我に返る。瞬きしたわたしの右目に映るのは、唸るように眉間に皺を寄せる爆豪くんと、そんな彼にやれやれと肩をすくめてみせる死柄木弔。

 

「余計なことって随分な物言いだなぁ。そこの……空中サンだったか? は、“問い”について考えてくれていたのによ」

「……ハッ、“問い”だァ? くっだらねぇ」

「くだらないかどうかは人それぞれだ。……なァ?」

 

 死柄木が、こちらを向く。顔を覆う手から覗く目が、橙の照明を得てぎらついた。

 

「さっきの記者会見で流れた君の言葉、俺たちも聞いていたよ。『もうこれ以上ヒーローに背負わせないでほしい』って」

「……からかう、つもり、ですか」

「まさか! 俺はむしろ心から同意したんだ!」

「……同意?」

「そうさ、」

 

 現代ヒーローは堅っ苦しいよなァ?

 そんなことを善意ぶった声色で宣う、彼の演説は続く。

 

「ヒーローは何にも悪くない。ただすこーし対応がズレてただけ。なのにメディアは、民衆は、ひとつのミスをまるで鬼の首を取ったように責め立てる」

「……あなたたち(ヴィラン)が、企てた、ことでしょう」

「そうだよ。でも君も見たはずだ。あの記者会見で雄英に攻撃していたのは、(ヴィラン)じゃなかったろ?」

 

 反論しなければいけない。いけない、のに、

 

「この社会は、ヒーローの間違いを、弱さを許さない」

 

 その言葉が、胸の内に入り込んで、刺してくる。

 黙り込んでしまったわたしに気をよくしたのか、死柄木は両手を広げた。饒舌に声が弾む。

 

「重荷はぜーんぶヒーローにおっかぶせてればいい。そうして優しく易しく守られた民衆は、腐ったミカンみたいになっちまった。脆くて柔くて、甘ったるくて汚い。そしてその堕落は次から次へと侵食して、ついには段ボールにまで穴を開ける」

 

 ……ああ、駄目だ、わたし。想像してしまっている。

 あの人はきっと、みんなを救おうと手を伸ばす。どれだけ責められても、どれだけ詰られても、どれだけ、手や翼を汚しても──きっと立ち止まれずに誰かを救おうとするだろう。

 それできっと、誰かは救われる。社会は救われる。

 ……でも、あの人は?

 

「だから、段ボール(社会)を一度取っ払って、風通しをよくしなきゃいけないんだよ」

 

 社会とヒーロー(ホークス)を救うことは、イコールでは、ない?

 

 

 

「……上手いこと言ったつもりか? 笑わせやがる」

 

 それまでゆらゆらぐらぐら揺れていたわたしの思考が、ぴたりと動きを止めた。そうさせるような芯の強さが、その声にはあった。

 

「結局この社会が気に入らねーから一緒にブッ壊しましょうってことだろ? 『嫌がらせしてえから仲間になってください』だろ!?」

 

 爆豪くんが、声を張る。それは口が悪くて、粗暴で。でも決してそれだけではない。

 

「何度言われたって答えは同じだ。わからねーなら何べんだって言ってやる!」

 

 それは、まるで、

 まるで、強敵に向かって恐れず吼え立てるような、

 まるで、自分の弱さや迷いを打ち砕かんとするような、

 

 まるで、原点(・・)に両足を踏み締めて立っているような。

 

「俺は、オールマイト(・・・・・・)が、勝つ姿に憧れた」

 

 そんな決意の姿を、わたしは目の当たりにした。

 

「誰が何言ってこようが、そこ(・・)ァもう曲がらねェ!!」

 

 死柄木は、ヒーローが民衆や社会を弱くしたのだという。確かにその通りなのかもしれない。すべてを否定することは、わたしにはできない。

 でもきっと、それだけじゃないはずだ。

 だってこんなにも、オールマイトという存在が、爆豪くんを強くしているのだから。

 

「……あーあ、まァた振り出しか。やってらんねェな」

 

「慣れねェことするからだろ」

「言葉で説得なんて明らか配役ミスだしな」

「弔くんへったくそですもんねぇ」

「うるせェぞイカれ野郎ども」

 

 爆豪くんの熱意とは裏腹に、死柄木は冷めきった声と目で頭を振った。ガリガリと首を掻き毟る音が、朗らかに嘲弄する会話が、染み着いたバーの静寂を乱す。

 

「はーーー……ったく、穏便に済ませようと思ってたのにコレだ」

 

 要求を突っぱねたわたしたちに対し、これから、彼ら(ヴィラン)連合はどうアクションを起こすのか。

 

「でも、なァ? 君らが意固地だから、仕方ねェよな?」

 

 固唾を飲んで身構えるわたしに、死柄木は嗤いかけた。口の端が、まるで三日月のように吊り上がる。

 

「オイ、」

「ええー」

 

 死柄木に手招きされて、女の子が口を尖らせる。わたしを抱き締めたままの腕に、ぎゅっと力がこもった。

 それは何というか、誰かを身を呈して庇うとか、そんなものではなくて。……お気に入りのおもちゃを捕られないよう腕の中に閉じ込めるような、そんな幼さがあった。

 そんな幼い仕草で、彼女は首を傾げる。

 

「愛依ちゃん、壊しちゃうんですか?」

「そりゃ爆豪くん次第だな」

 

 ひゅっと浅く息を飲む。そんなわたしの緊張なんか知ったことではないようで、彼らはのんびり、何でもないように会話をしてから顔を上げた。

 じいっと、2対の赤い目が、爆豪くんを射る。

 

「じゃあ爆豪くんよ。ここにいるクラスメイトの命を救いたきゃ、代わりに誰か1人を殺してこい」

 

「…………アタマ沸いてんのか?」

 

 ハッと、嘲るように返答した爆豪くんだけれど、その声に先程までの精彩は無い。それがわかっているのか、死柄木は上機嫌で肩を震わせている。

 

「ああ、抵抗あるか? じゃあ別に一般市民じゃなくて(ヴィラン)でもいいぞ。黒霧に頼んでテキトーな小悪党を見繕ってもらえ」

「ま……まっ、て。なにを、しようと、」

 

「もし仮に、このまま苦渋の決断の果てに人を殺したとしたら、爆豪くんは世間からどう見られると思う?」

 

 口を挟んだわたしにも、死柄木は機嫌を損ねない。そればかりか、狼狽えるわたしを見て、よりもっと愉快そうに口許を歪ませる。

 

「言葉巧みに(ヴィラン)に取り込まれた、愚かで可哀想な“(ヴィラン)”だ。

 間違っても、“悲劇のヒーロー”とはならない。なれない」

 

 死柄木の言葉は続く。

 この超常社会への歪な確信と、諦念と、憎悪を以て。

 

「だってこの社会が望むのは“完全無欠のヒーロー”だ。腐りきった民衆は輝かしいヒーローの間違いも弱さも許さない」

「そんな、……どうしてそんなことを、」

「無理やりにでも(ヴィラン)になってもらえれば、俺たちの話をもう少し真摯に聞いてくれるだろ?」

 

 人を殺した、という既成事実を以て、爆豪くんの未来を壊そうとしている。それがわたしという()を使って為されようとしていることが許せなかった。悔しくて、けれど身体はぼろぼろで、動けなくて。どうにもならない現状にぎりっと歯噛みする。

 

「さァ、選べよ爆豪くん」

 

 でも、……それでも。

 わたしはゆっくりと口を開いて、笑って、みせた。

 

「このままクラスメイトを見殺しにして、塵となって崩れ落ちるのを見るか。どこぞの屑を殺して救ける(・・・・・・)か」

 

 どうにもならない現状でも、“大丈夫”という確信があった。

 

「普段から『死ね』だの『殺す』だの言ってるだろ? 有言実行、させてやるよ」

 

 その死柄木の言葉を最後に、すべての音が途絶えた。誰も何も喋らず、事の成り行きを見守っている。爆豪くんの頬を伝って、顎から汗がぽつりと落ちる。その音さえ聞こえてきそうな静寂の中で、

 

「……ふふ、」

 

 わたしの笑い声が、やけに大きく響いた。

 

「……やっぱり、爆豪くん……その口の悪さは、これから何とかしないと、だね」

「……うるせェ」

 

 こんな時まで、口が悪いのは相変わらずだ。思わず苦笑が溢れる。“黙ってろ”と言わんばかりに死柄木が首を締めてきたけれど、呼吸が苦しいだけ。“大丈夫”。

 

「……迷うこと、ない、でしょう。……あなたは、きっと、正しいことを選べる」

 

 “大丈夫”だから、伝えなきゃ。間違えちゃ駄目だよって。

 

「……うるせェっつってんだろ」

「爆豪くん、……わかってる、でしょう?」

 

 死柄木の言いなりに誰かを殺せば、爆豪くんの未来を閉ざす。憧れを汚す。いや、そもそもの話、わたしたちはヒーロー候補生。善人だろうが悪人だろうが、その命を奪ってはならない。

 選択肢なんかひとつしかない。

 わかってる。だからわたしは全部、覚悟できてる。

 ……爆豪くんだって、わかってるはずなのに、

 

「黙ァってろ!!」

 

 なのに彼は、吼える。目を剥いて、歯を剥き出しにして、荒々しいその顔は“まるで(ヴィラン)だ”と揶揄されることも少なくない。

 それでもその在り方は、(ヴィラン)と似て非なるものだ。

 

「ごちゃごちゃくだらねーこと言ってねぇで、逃げ出すことだけ考えてろや!! ──空中(そらなか)!!」

 

 どうにもならない現状だとしても、諦めない。悪足掻きと言われようと、生き汚いと言われようと、完全勝利を諦めない。その赤い眼差しは鋭く輝いている。

 

(……ああ、まるで、閃光みたい)

 

 眩しいなあ、と目を細める。もう目を開けていられるのも僅かの間だろう。さっきから首元に痛みが走っている。ぴし、ぱし、とひび割れる音が聞こえている。首を伝って頭が崩壊するのが先か、身体が崩壊するのが先か、なんて、ぼうっとした頭で考えた。

 ぼうっとした、頭で、

 

(ごめんなさい、……)

 

 啓悟くん、と。

 さいごに呼び掛けた、その時。

 

 

 

「どーもォ、ピザーラ神野店です──」

 

 

 

 え、と目を見開いたその時。その瞬間、

 ──バーのレンガ造りの壁が、轟音と共に大破(・・)した。

 

 ごうっと巻き起こった粉塵に思わず目を閉じる。目蓋の向こうから、色んな声や音が聞こえてきた。

 

「何だァ!?」

「、黒霧! ゲート……!」

 

 誰かの驚く声。咄嗟に指示を飛ばすけれど、何かに口をつぐんだらしい死柄木の声。しゅるると何かが伸びる音。(ヴィラン)連合たちの短い呻き声。

 

「木ィ!? んなもん、」

「──逸んなよ」

 

 継ぎ接ぎ男の、途切れた声。打撃音。それを為したのであろう誰かの、……おじいさんの声。

 

「大人しくしといた方が……身のためだぜ」

 

 壁の大破から始まって、たった数秒。その数秒の間にあまりにも多くの出来事が起きたのだろう。女の子と死柄木の手から離れて床に投げ出されたわたしには、何が起きたのかさっぱりだ。

 

「さすが若手実力派だシンリンカムイ!!」

 

 何も、わからない。でもひとつだけわかる。

 

「そして目にも止まらぬ古豪グラントリノ!!」

 

 声が聞こえる。あの人の到来を告げる。

 

「もう逃げられんぞ(ヴィラン)連合! 何故って!?」

 

 USJの時も、I・アイランドの時もそうだった。

 いつだって彼は、光のようだ。

 

「我々が、来た!!!」

 

 オールマイト。No.1ヒーロー。

 この左目はもう光を映さないはずなのに、

 それでもその光()は、鮮明に、まばゆく、輝いている。 

 

「オールマイト……!! あの会見後に……まさかタイミングを合わせて……!」

 

 シルクハットの男が動揺に声を揺らしている。それを聞きながらわたしは腕に力を込めて上体を起こそうとした。右目をゆっくり開けると、まだぼんやりとした視界の中でもよく映える、赤、黄、青。オールマイトのヒーローコスチュームに、薄く唇を開いた。

 

「おーる”、まい”、と……?」

「空中!! てめェ喋んな動くな!」

 

「空中少女!!!」

 

 わたしの喉から溢れた声に、爆豪くんが、オールマイトが駆け寄ってきた。わたしの前に片膝をつく。筋骨隆々の腕が、そうっと、壊れ物を扱うようにわたしを抱えた。

 

「……なんという、ことだ」

 

 絞り出すような声。義憤と悲嘆に声が掠れている。

 そんな風に思わないでほしくて首を横に振ったけれど、見上げるオールマイトの表情は晴れない。むしろ、眉を寄せて、音がしそうなくらい歯を噛み締めている。わたしなんかより、苦しそうに顔を歪めている。

 

「すまない、すまない……! 救けが、遅れて……!」

 

 そんな表情のまま、青い瞳が決意に洗われ、輝く。

 

「もう決して、これ以上、君を傷つけさせはしない!!」

 

 

(──ああ、)

 

 

 ……ああ、不思議。

 死柄木が『ヒーローがみんなを弱くする』って言っていたこと、確かにと、思ってしまった。

 だってわたし、今、生きられるんだって安心してる。

 死んでも“大丈夫”って塗り固めていた虚勢が、溶けて、

 

 ──“生きたい”って、泣き叫びたくなる。

 

 

「! これは……!」

 

 

 胸が、身体が、熱くなる。

 だってそうだ。炎が注がれて、光と熱が生まれたの。

 

 生きられるって希望を見てしまった。

 “生きたい”って、願ってしまった。

 

 生きて、また、……ホークスに、会いたい。

 

 

「……【治癒】、か……!?」

 

 

 彼の活躍を目にしたい。

 この足で歩いていきたい。彼に追い付きたい。

 彼と手を繋ぎたい。大切なものを繋ぎ止めていたい。

 この背の翼で、飛んでいきたいの。

 

 次から次へと生まれてくる願いと同じに、

 目が、足が、手が、指が、──翼が、戻っていく。

 

 

「……、……え……」

 

 ふと我に返って、目を開ける。両目が、ある。足も、手も、両の指も爪も、翼も。何もなかったみたいに(・・・・・・・・・・)そこにあった。

 視線を巡らせると、色んな人と目があった。信じられない、といった様子で目を見開く(ヴィラン)連合の面々と、彼らを拘束しているシンリンカムイ、黄色のマントを翻す小柄なおじいさん。そして、

 

「空中、てめェ……!」

「……ば、くご、くん……わた、し、……っ」

 

「空中少女!!」

 

 隣にいる爆豪くんの姿を認めると同時に、気が抜けたのか、自分の身体から力が抜けた。ぐらりと傾いだわたしを、逞しい腕が受け止める。

 身体が、熱い。しんどい。だるい。ぜいぜいと木霊する自分の息が煩わしい。……ぼんやりと白く霞む視界の中に、わたしを心配そうに覗き込む彼の姿が見えた。

 

「おーる、まいと、せんせ……」

「……ありがとう。君を、救ってくれて」

 

 オールマイトが、そうっとわたしを抱き寄せる。その手が震えているのは、きっと、わたしの勘違いではないのだろう。

 

「君を救えなかった私たち大人の不甲斐なさを、許さなくていい。本当に、よく、よく、頑張った……!」

「ああ……だが、もう大丈夫。ピザーラ神野店は俺たちだけじゃない」

 

 オールマイトに続いた声の主は、しゅるりとドアの隙間を縫ってバーに入り込んだ。紙のように薄く伸ばされた身体──“個性”【紙肢】を持つ忍者ヒーロー・エッジショット。

 彼が後ろ手にバーの扉を開けると、フルフェイスヘルメットと銃を構えた機動隊が雪崩れ込んできた。彼らは一糸乱れぬ動きで整列し、(ヴィラン)連合に向けて構える。

 

「外はあのエンデヴァーをはじめ、手練れのヒーローと警察が包囲している」

 

 もう逃げ場は無いぞと、念を押すようにエッジショットが鋭い目で射る。それに悔しそうに顔を歪める(ヴィラン)連合は、けれど、シンリンカムイの腕に絡め取られて身動きすら許されない。

 

「爆豪少年も怖かったろうに……よく耐えた! ごめんな……もう大丈夫だ少年!」

「こっ……怖くねーよ! ヨユーだクソッ!!」

 

 相変わらずの意地っ張りと口の悪さだけれど、先程までの強張りが緩んでいるのは爆豪くんの口許を見たら一目瞭然だろう。圧倒的な分の悪さが、ヒーローの登場で逆転した。

 ……そう確信できるこの空気を、重い溜め息が揺らす。

 

「……ハァ、何の茶番だ。ほんっと、くだらねぇな」

 

 そう吐き捨てた死柄木は、その目をぎらつかせた。

 

「せっかく色々こねくり回してたのに……何そっちから来てくれてんだラスボス……仕方ない……黒霧、持ってこれるだけ持ってこい!!」

「! 駄目……!」

 

 死柄木の口振りから、黒霧を使って脳無を呼び出そうとしているのがわかった。しかもそれが複数体用意されているのだと知って、わたしは思わず声を上げる。

 けれど。けれどオールマイトは大丈夫と言わんばかりにわたしの肩を優しく叩いた。意図がわからず振り仰ぐと、彼は茶目っ気たっぷりに微笑んで「Shhh!」と人差し指を立ててみせた。

 

「…………、……は……?」

 

 わけがわからないのは、わたしだけではないようで。

 ぽつりと呟いた死柄木もまた、信じられないと言わんばかりに目を見開いた。沈黙がこの場を満たす。──待てども待てども、脳無がやってこない。

 

「……ッオイ、黒霧!」

「すみません死柄木弔……所定の位置にあるはずの脳無が……ない……!」

 

 黒霧の声に焦りが滲み、金色の目が動揺したように歪む。(ヴィラン)連合たちにとって想定外の出来事だったようだ。対するヒーローは、オールマイトは、強い笑みを浮かべている。

 

「やはり君はまだまだ青二才だ! 死柄木!」

 

 そうして声を放つ。

 物語の終わりを決定づけるかのような、強い声で。

 

(ヴィラン)連合よ、君らは舐めすぎた。

 少年少女の魂を、

 警察のたゆまぬ捜査を、

 

 そして、──我々の、怒りを!!」

 

 それは、守られるわたしたちにとっては未来を照らしてくれる光だ。行く末を照らしてくれる、揺るぎない光。

 

「おいたが過ぎたな!! ここで終わりだ死柄木弔!!」

 

 でも同時に、夜の世界で生きるものたちにとっては、その光は強すぎるのだろうとわかった。だって今、彼らは一様に顔を歪めている。眩しそうに、煩わしそうに、苦しそうに。“救い”とは一番遠い表情をしている。

 それでも光から目を逸らそうとしない。死柄木の充血した赤い目は、真っ向からオールマイトを捉えている。オールマイト(平和の象徴)を恨んで、怨んで、憎んで、そうして。

 

「──ハ、」

 

 歪な三日月が嗤う。

 まだこの夜が、終わらない。

 

 

63.少女、弱くなる。

 

 


 

 久しぶりの更新ですね!!ご無沙汰してます!!毎度毎度遅筆で申し訳ありません。読んでくださる方、待っていてくださった方に多大な感謝を申し上げます。

 本当は今回で神野編終幕まで持っていきたかったのに無理でした。次回こそは終わらせるつもりなのでご容赦ください。

 

 話は変わりますが本日5月9日を以てこのSSが1周年を迎えました!こんな遅筆で稚拙なSSが1年も続けられたのは本当に読んでくださる皆様方のおかげです。いつも閲覧、お気に入り登録、評価、誤字報告等々に元気を貰っています。本当に励みになります。ありがとうございます!

 これからも自分のペースで頑張っていこうと思います。よろしければ次回も読んでいただければ嬉しいです。



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64.少女、「生きたい」

 

 溢した嘲笑は、誰に向けられていたのか。蔑みや怒りが色濃く滲んだそれは、空気を震わせ溶けていった。残されたのは、全てを噛み砕かんとするような歯軋りの音。

 

「“終わり”だと……? ふざけるな、始まったばかりだ」

 

 怨嗟の声を喉奥から振り絞りながら、死柄木は身を捩った。シンリンカムイの木腕は依然として強固に彼を縛り付けている。決して、死柄木の力でほどくことはできない。それは死柄木もわかっているはずなのに、それでも、身を捩る。軋ませる。

 

「正義だの……平和だの……あやふやなもんでフタされたこの掃き溜めをぶっ壊す……そのためにオールマイト(フタ)を取り除く……」

 

 ぎちぎちと締め付けられて、痛みもあるだろう。呼吸だって苦しいはず。

 

「仲間も集まり始めた。ふざけるな……ここからなんだよ」

 

 それでも、“そんなこと知ったことか”と言わんばかりに、彼は声を荒げる。

 

「黒ぎっ……!」

 

 “黒霧”と呼び掛けようとした声は、けれど、途切れた。

 目の前を横切って黒霧を貫いた、一閃に。

 

「──うっ……」

「……え……!?」

 

 一瞬のことだった。瞬きすら超える速さで事態が塗り変わっていく。【ワープ】を発動させようとしていた黒霧は、糸のような細い“何か”に貫かれ、呻き声を上げてよろめき、項垂れた。

 

「……キャアアやだぁもう! 見えなかったわ! 何!? 殺したの!?」

()を少々弄り気絶させた。死にはしない」

 

 ぴくりとも動かなくなった黒霧に悲鳴が上がる。その取り乱した声に答えたのは黒霧を貫いた“何か”だった。その“何か”は、むくむくと形を変える。ただの糸のようだったものが膨らみ、マスクに覆われた口許を、涼やかな目元をかたちづくった。

 

「忍法千枚通し! この男は最も厄介……眠っててもらう」

 

 エッジショット。“個性”【紙肢】を持つ忍者ヒーロー。その“個性”で身体を薄く引き伸ばせるのだと何かで見た覚えがある。その変化速度は音速を超えるのだとか、瞬時に身体の内側に入り込み、(ヴィラン)の身体の自由を奪うのだとか。

 

(やろうと思えば、きっと、この場にいる全員をすぐさま無効化できる)

 

 それを、(ヴィラン)連合も思い知ったのだろう。先程騒いでいた男性も、他のメンバーも、じっと注意深く黙り込んでいる。

 

「さっき言ったろ、大人しくしといた方が身のためだって」

 

 そんな彼らを見渡して、おじいさんが口を開く。

 

引石(ひきいし) 健磁(けんじ)

 

 その男性は厚い唇を結び、緊張に身体を強張らせた。

 

(さこ) 圧紘(あつひろ)

 

 仮面越しの表情は見えないけれど、この状況に固唾を飲んで身構えるような、そんな沈黙があった。

 

伊口(いぐち) 秀一(しゅういち)

 

 トカゲの異形型の、男性か少年か判断しづらい彼は、この中で最も動揺しているんだろう。その鱗に大きな汗が伝っていた。

 

渡我(とが) 被身子(ひみこ)

 

 わたしと同い年くらいの女の子は、悔しそうに顔を歪めて。

 

分倍河原(ぶばいがわら) (じん)

 

 フルフェイスマスクの男性は、何を思っているんだろう。ただじっと黙して固まっていた。

 

「少ない情報と時間の中、おまわりさんが夜なべして素性を突き止めたそうだ。わかるかね? ──もう逃げ場ァねぇってことよ」

 

 そんな彼らを見渡して、おじいさんは言葉を続ける。

 静かに、慎重に、一歩一歩、丁寧に、丹念に、……逃げ道を潰していくように。

 

「なァ死柄木、聞きてぇんだが……おまえさんのボスはどこにいる?」

 

 シンリンカムイによる拘束。エッジショットによる封殺。

 黒霧は動かず【ワープ】は使えない。

 名前と素性を握られているという事実。

 おじいさんやエンデヴァー、警察の機動部隊による包囲。

 そうして、目の前の、オールマイト。

 

「……ふざけるな。こんな、……こんなァ……」

 

 がさがさにひび割れた肌を汗が伝う。圧倒的に不利な状況をまざまざと見せつけられて、声が揺らいでいた。

 

「こんな……あっけなく……」

 

 死柄木の声が、わなわなと震える。それはわたしに一本の線を想起させた。一本の線──導火線は、火をつけられてのたうっている。どうしようもない怒りに身を捩って、どうしようもない憎悪に身を焦がして、

 

「ふざけるな……失せろ……消えろ……」

 

 そうして、さいご──焼き切れる。

 

()は今どこにいる。死柄木!!」

 

「おまえが!! 嫌いだ!!!」

 

 オールマイトに吼え返した、その瞬間。死柄木の背後の空間から黒い液体(・・・・)が現れた。それは堰を切ったように溢れて、溢れて。中から覗いたのは剥き出しの脳味噌──脳無。

 

「脳無!? 何もないところから……! あの黒い液体はなんだ!」

「エッジショット! 黒霧は!」

「気絶している! こいつの仕業ではないぞ!」

 

「……っどんどん、出てくる……!」

 

 唐突に現れた脳無。急激に動き出す状況に、わたしは息を飲もうとして、──できなかった。

 

「……えぶ、ぁ、!?」

 

 突然、喉の奥から“何か”がせりあがる。見開いた目の端に広がる黒い液体(・・・・)に、わたしはまともな声を上げることもできず呑まれていく。

 

「オイ空なっ、お”!!?」

 

 隣にいたはずの爆豪くんの姿すら、黒い影に呑まれて見えなくなる。どうにかしなきゃと液体を掻き分けようとする指の感覚すら、わからなくなる。

 

「っだこれ、身体が、呑ま……れ、」

空中(そらなか)少女!! 爆豪少年!!」

 

「ぜん、せ……っ」

 

 オールマイトに向かって伸ばした手は、届かなかった。

 ばしゃん、という粘った水音とともに、視界が、感覚が、溶ける(・・・)

 

「NOOOOOO!!!」

 

 憤怒と悔恨に轟くオールマイトの声も、遠くなっていく。

 視覚も聴覚も黒く塗り潰されて、ただひとつ残った嗅覚だけが形容しがたい酷い臭いを捉えていた。その臭いのせいなのか、頭に割れるような痛みが走る。飛んでいる時とはまるで違う浮遊感に、吐き気さえ込み上げてくる。

 それは僅か数秒の間だったのか。それとももっと長い間だったのか。時間の感覚すら朧気のまま、ふと、視界が開ける。

 

「……っ、げほ、っは、ぅ……!」

「ゲッホ!! くっせえぇ……んっじゃこりゃあ!!」

「ば、くご……く、」

 

 咳き込みながら目を開ける。隣で、同じように身体を折り曲げて液体を吐く爆豪くんがいることを確認して、辺りに視線を走らせた。……先程までいたバーじゃない。どこかの街の中、だけれど、何か大きな嵐が通り過ぎたかのように倒壊している。夜風に舞う粉塵は、今まさに、この惨状が起きたばかりだということを知らせていた。

 ……どうして。誰が。こんなことを。

 嵐の通り道──その出発点に視線をやって、

 

「……!」

 

 そこでわたしは、悪魔が嗤っていることに気付いた。

 

「……おやおや、人を見てそうも顔を青くすることもないじゃないか。つれないね」

 

 君と僕の仲だろう?、なんて、どこまでも白々しく宣う。

 その口調から、わかる。仰々しい黒いマスクで顔を覆っていようとも、わかる。……目の前で佇み嗤う彼が、AFO(オールフォーワン)だということが。

 

「……てめェが、クソ連合のボスか」

「ボス? ふふ、それはどうだろうね」

 

 爆豪くんもその異様さに気付いたのだろう、警戒心顕に声を低める。そんなわたしたちに対して、AFO(オールフォーワン)は可笑しげに、楽しげに声を弾ませ、両腕を広げた。

 

「にしても空中くん! 君のその姿はどういうことだい? すっかり元通りじゃあないか!」

 

 ここでわたしの採るべき選択はただひとつ、“爆豪くんを連れて逃げること”。幸いにもここは狭い部屋の中じゃない。わたしの背に【翼】も戻っている。万全とは言い難い、熱にふらつく身体でも、今、やらなきゃ。

 

(またあの部屋に……爆豪くんまで、連れ去られたら……!)

 

 今度こそ、成す術がない。だから今ここを離脱しなければと、必死になってAFO(オールフォーワン)の隙を探す。

 

「剥いだ爪も、削いだ指も、毟った羽根も、抉った左目も。すべて治っている。君の【治癒】は人間が自然治癒できる範囲しか治せないのかと思っていたけれど……」

 

 甘ったるい、砂糖をまぶした麻薬の声。それがわたしの頭を労るように撫でていく気がして、ざわりと肌が粟立った。

 

「“個性”が成長……進化したのかな。素晴らしい。素晴らしいよ。よく頑張ったね」

「っ、……よく、そんなことが言えますね」

 

 あんなことをしておいて、どこまでも白々しい賛辞。噛み締めた唇から思わず声が漏れ出て、冷静でいなければと握り締めた拳が震える。AFO(オールフォーワン)への怒りと、自分への情けなさと、……押し殺したはずの恐怖が、わたしを揺るがす。

 駄目だ。呑まれるな、落ち着いて──そう心中で唱えるわたしの前に背中が広がる。その髪の淡い金色が、薄暗い視界を染めた。

 

「どの口が、言いやがんだ、クソが……!」

 

 爆豪くんがきつく拳を握り締める。あまりに力を入れすぎているから、ぶるぶる震えて、骨が軋む音すらする。

 それでも彼が拳をほどかないのは、立ち向かおうとしているから。自分の恐怖に負けまいと、決意しているから。

 

(……そうだ。今は、わたし1人じゃないんだ)

 

 ……彼を、必ず、彼を待つ人たちの元へ帰す。

 それがわたしのやるべきことだと、そう決意を新たに、ふらつく足を踏み締めて顔を上げた。

 その時。──ふふ、と笑みのような吐息がひとつ。

 

「ふうん。この期に及んで守ってもらえるんだね、君は」

 

 “いい御身分だ。”

 そう、AFO(オールフォーワン)が嘲笑い、わたしを見た。

 

「差し詰め、“悲劇のヒロイン”といったところかな?」

「……わたしは、そんなんじゃ、」

「違うって? まさか! 君はこんなにも“ヒロイン”だ」

 

 小首を傾げた後、彼は両腕を広げた。

 

「君を救うために、たくさんの人が動いた。

 君を救うために、たくさんの人が──ほら、」

 

 そうして、わたしの後ろを指差す。わけもわからず、わたしは、吸い寄せられるようにそちらを見た。

 わたしの、背後で、瓦礫の中に倒れる、彼を見た(・・・・)

 

「見ただろ? それ(・・)は、君の無力が招いた現実さ」

 

 すらりとした長身は、全身デニム素材のヒーロースーツに包まれている。几帳面だと知られる彼の性格を表すかのように、そのスーツはいつでもきちんと整えられていたはずだ。一糸の乱れも許さない。きらきらした金色の七三分けだって、……そうだった、はず、なのに、

 

 

「死んでしまったね。可哀想に」

 

 

 今は。スーツも髪も、ばらばらに乱れて。

 お腹は胸元に掛けて大きく裂かれて、血が、溢れ、て──

 

「……っ!!」

「下手に動くんじゃねェ!!」

 

 駆け寄ろうとしたわたしの腕を、爆豪くんが掴む。ぎちりと爪が肌に食い込むくらい握られて痛いほどだったけれど、そんなことどうでもよかった。わたしの口からぼろぼろと覚束ない言葉が転び出る。

 

「離して! だって、だってベストジーニストが……!」

「背中を見せたらすぐ殺られる。そんなんもわかんねェのか!!」

 

 雷のような一喝に、足が止まる。衝動のまま動こうとしたわたしの脳に、一匙の冷静さが戻ってくる。けれど、一匙。その一匙の冷水で何とか地面に足を縫い付けてはいるけれど、頭の中は焦燥で焼け切れそうだった。

 AFO(オールフォーワン)に背を向けたら隙を生む。

 わたしだけじゃなく爆豪くんまで危険に晒す。

 ベストジーニストが大怪我で倒れている。

 死んでしまった、……嘘。嘘だ、まだわからない。

 すぐに治癒を施せば、まだ──

 

「空中、」

 

 きつく、きつく、手首が握られる。その声に歯軋りするような響きが混じったのを感じ取って、わたしは爆豪くんを見た。その、目に、──ああ、と吐息が零れる。

 

「……ばくごう、くん、」

 

 爆豪くんは、職場体験でベストジーニストの元へ行っていた。そこでの体験は散々だったと教室で怒り狂っていたけれど、……きっとそれだけじゃなかったんだ。

 だってそうじゃなきゃ、こんな表情をするはずがない。

 ベストジーニストに、何か感じ入るものがあって。それでも自分が選ぶべき選択がわかっているから、だからこんなにも、苦しそうに……。

 

「粗暴でありながら、冷静な思考は失わない。優秀だね、爆豪くん」

 

 そんな時。こんな雰囲気とは場違いの拍手が響いた。AFO(オールフォーワン)は優雅に手を叩き、肩を竦めてみせる。

 

「そんな彼を説得できないとは……しょうがないね、弔」

 

 ちらと視線を向けたその先で、黒い液体が虚空から溢れた。そこから次々に現れる(ヴィラン)連合の面々……その1人、死柄木弔に向けて、彼は語りかける。

 

「でも決してめげてはいけないよ。またやり直せばいい。こうして仲間も取り返せた。この子(爆豪くん)もね……君が“大切なコマ”だと考え判断したからだ」

 

 優しく肩を叩くような、励ますような声色。

 

「いくらでもやり直せ。その為に(先生)がいるんだよ」

 

 まるで本当に、死柄木(生徒)を教え導くかのように、彼は手を差しのべた。

 

「全ては──君の為にある」

 

 ひゅ、と浅く息を飲む。それしかできなかった。

 AFO(オールフォーワン)の言葉を否定することも、彼らを拘束することも。逃げ出すことすら、何もできない。舌が、足が、震えて動かせない。

 

 そんな。全てをAFO(オールフォーワン)に支配されてしまったと錯覚する感覚を、

 

 

「……やはり、来ているな」

「え……」

 

 

 瞬きの後、一筋の流星が、打ち砕く。

 目の前で巻き起こった暴風から目を庇う。閉じていた目を開くと、視界に赤、青、黄色──()の三原色が鮮やかに翻った。

 

「すべてを返してもらうぞ、AFO(オールフォーワン)!!」

「また僕を殺すか、オールマイト」

 

 流星──空から飛翔したオールマイトが振りかぶった拳を、AFO(オールフォーワン)は両手で受け止める。がっぷり組み合った両者は、同時に互いを弾き飛ばした。その衝撃は足元のコンクリートを割り、周囲に衝撃波を放つ。

 

「随分遅かったじゃあないか」

 

 あまりの衝撃に吹き飛ばされ、地面を幾つか転がって、ようやく身体を起こした頃にはわたしと爆豪くんの距離は遠く離れてしまっていた。

 

「バーからここまで5km余り……僕が脳無を送り(・・)優に30秒は経過しての到着……衰えたねオールマイト」

「貴様こそ、何だその工業地帯のようなマスクは!? だいぶ無理してるんじゃあないか!?」

 

 そして衝撃の中心部、クレーターの真ん中で、オールマイトは立ち上がってAFO(オールフォーワン)に対峙する。

 

「5年前と同じ過ちは犯さん。……AFO(オールフォーワン)

 

 トントン、と爪先で地面を軽くノック。軽く身体の動きを確認した後、グッ──と低く構え、弾丸のように飛び出した。

 

「爆豪少年と空中少女を取り返す!

 そして貴様は今度こそ刑務所にブチ込む!

 貴様の操る(ヴィラン)連合もろとも!!」

 

「それは……やることが多くて大変だな、」

 

 他人事のようにそう呟いて、AFO(オールフォーワン)はおもむろにわたしを見た。すっと掲げた左腕が一瞬で肥大して。そして、

 

「──お互いに」

 

 わたしに向かって、振り下ろされる。視認できたのはそこまで。立ち尽くすしかできないわたしに衝撃波が迫り、視覚と聴覚が真白に塗り潰される。

 何も、わからない。動けない。

 ただ死を待つばかりだったわたしを、“青”が包んだ。

 

「……ッ!!」

 

 “新幹線にはねられた”が、一番近いのかもしれない。それぐらいの衝撃に押し出され、吹っ飛ばされた先で、わたしは荒い息を吐き出した。世界が壊れたかと思うぐらいの衝撃に、まだ耳鳴りはやまないし立ち上がれない。……それでもこの程度で済んだのは幸運だった。“彼”が守ってくれなかったら、わたしはきっと──死んでいた。

 

「大丈夫かい!? 空中少女!」

「……っは、……は、い……」

 

 オールマイトの問い掛けに、息も絶え絶えに頷く。大きすぎる衝撃に心臓が早鐘を打っている。痛いぐらいに波打つ胸元を握り締めて、何とか呼吸を落ち着かせようとするわたしの肩に、彼は手を置いた。

 

「……怖い思いをさせたね。けれど、もう大丈夫!」

「オールマイト、先生……」

「あいつは私が何とかする。君は逃げるんだ!」

「っでも! オールマイト、爆豪くんはまだあそこにいます……!」

 

 AFO(オールフォーワン)がわたしだけを狙って吹き飛ばしたのは、きっとオールマイトがわたしを庇うのを見越してのことだ。それは全部、──爆豪くんを狙っているから。分断されている間に彼が連れ去られてしまうかもしれないと、拳を握る。

 

「救けに、行かないと……! それにベストジーニストが……!」

 

 血塗れで、仰向けで倒れている彼の姿が脳裏に焼き付いている。一刻も早く治癒しなければと訴え、わたしは立ち上がり顔を上げた。

 顔を上げた先で、オールマイトと、目が合う。

 

「……君はこのような時まで、皆を気遣う」

 

 オールマイトは、微笑んでいた。眉間に皺を寄せて、眉尻を下げながら。切なそうに。

 

「その強く優しい心は、きっと君をヒーローにしてくれる」

 

 そうして頭を撫でてくれた。それは柔らかくて、優しくて、……だからこそ、つきりと胸が痛む。

 

「けれどそれは、今じゃなくていい。……いいんだ」

 

 だってそれは、わたしを遠ざけることと同じだから。

 ひとりきりで戦うと、宣言しているのと同じだから。

 

「今はどうか、私に任せておくれ」

 

 そうやってみんなを守るために、ひとりで戦い続けてきたのだろうか。自分ひとりで矢面に立って、拳を振るって、みんなを背に庇って。

 

「……大丈夫! あんな工業地帯マスクなんぞ一捻りさ!」

 

 笑顔を浮かべる顔にも、身体にも、数えきれないくらいの傷がある。

 ──わたし。わたしは今まで、ずっと、

 ……この傷だらけの人に、すがってきたの?

 

「っ……オールマイト!!」

 

 爆豪くんの元へ向かおうとしたオールマイトの背中に、手を伸ばす。両手で触れて、額をつけて、……祈るようにエネルギーを注ぎ込む。

 

「、空中少女!」

「嫌です、待って、ください! ……わたしも行きます! 戦闘では役立たずでも、攻撃の範囲外でなら治癒できるはずです。だからわたしも……!」

「駄目だ、危険すぎる!」

「危険なのは、あなたもでしょう!?」

 

 声を荒げたわたしに、オールマイトは虚を突かれたように沈黙した。それからはっと眉目を引き締め、首を横に振り、わたしを引き剥がす。

 

「っ、オールマイト!」

「いいね、空中少女! 君は必ず逃げるんだ。戻ってきてはいけない!」

「待っ……!」

 

 引き剥がして、優しく突き飛ばす。

 わたしの伸ばす手は、もう、彼に届かない。

 

「オールマイト!!」

 

 叫ぶわたしに振り返らず、彼はわたしを置いて飛び立った。着いてきては行けないと、逃げなさいと、そう釘を刺して。

 

「……っ」

 

 頭では、わかっていた。オールマイトが正しいのだと。

 わたしがあの戦場に戻ったとして、先程のようにAFO(オールフォーワン)に狙われて殺されるだけだ。それだけならまだしも(・・・・)、オールマイトや爆豪くん、ベストジーニストを巻き込んでしまうかもしれない。わたしの存在が、みんなの足を引っ張ってしまう。そんな可能性があるのなら、何もせず、いち早く離脱するべきなのだ。

 

 頭では、わかっていた。心は納得しなかった。

 

「……っでも、でも、オールマイト……」

 

 ぼろぼろに崩れ落ちて、砂糖菓子のように壊された建物。瓦礫の街と化したあちこちから、聞こえてくるんだ。(オールマイト)が去った後の静寂が、それを浮き彫りにさせる。

 

「──ぅ、あ、」

 

 “声”が、聞こえる。

 

《たすけて、あし、あしがぁ……っ》

《いだいいだいい”だい”!!》

《やぁだあ、おがぁざん、どこ……?》

《嫌、嫌、嫌ぁ……! お願い、目を開けて!!》

 

 羽根が、震える。数多の声を拾う。

 わたしだけじゃない、たくさんの「生きたい」。

 そう切望する声が、願いが、悲しみが、

 

「──あ、ぁ……っ」

 

 わたしのせいで(・・・・・・・)巻き込んでしまった──たくさんの人たちの、「生きたい」が、

 

《おね、がい、お願い、お願いっ、誰かぁ!》

 

 「死にたくない」と、叫んでいる。

 

《誰か、救けて……!!》

 

 ──救けを呼んでいる。

 

「……ッ!!」

 

 「生きたい」と泣き叫ぶ“声”。それを頼りに無我夢中で羽根を飛ばした。熱を発している身体の怠さとか、羽根を何枚も動かし続けることに対する頭痛とか、感じているはずの苦痛が酷く遠い。

 

 わたしのことは後回しでいい。

 今はただ、ただ、一刻も早く治癒しなければ。

 

 その焦燥がわたしの身体を突き動かした。倒壊しかけているビルから怪我人を連れ出して、治癒して、また別の場所へ。それを何度も繰り返す。

 衝撃波を受け、特に下層部分の損傷が激しいマンション。斜めに傾いで今にも倒壊しそうな部屋から掬い上げた女性は、瓦礫に右腕を潰されたのだろう、酷い骨折と鬱血で肌が青黒くなっていたけれど、治癒のエネルギーを送り込むにつれ元の綺麗な肌色を取り戻していった。それにほっとして、同時に意識が白みそうだったのを内頬を噛んでやり過ごした。まだ、……まだ、気を失うわけには、いかない。

 

「……あ、れ……傷が……」

「……っ大丈夫ですか、動けますか」

「! あなたは、」

「ごめんなさい、避難場所へはご自分で向かっていただけますか。わたしはまだ、──」

 

 何度も繰り返した、その時だった。

 マンションの上層部の方から、泣き声が聞こえたのは。

 

「……赤ちゃんの、声。どこから……」

 

 聞いているこちらの胸が痛くなるような、悲痛な泣き声。火のついたように、わんわんと響くそれを頼りに浮上し、崩れかけているマンションの中へ。内部も外部同様ぼろぼろに壊れていて、粉々になった電灯の、行き場を失った電気がバチバチと鳴いている。それが暗い廊下の闇を気まぐれに散らしていた。

 奥へ、奥へと進む度に、灯りを断たれた暗闇が濃くなっていく。進む度に、声が──小さく、掠れていく。

 

「……っ待って!」

 

 狭い廊下では翼は広げられない。だからわたしは走る足に力を込めた。硝子や瓦礫が散らばっているのも、裸足に走る痛みも煩わしかった。蹴飛ばすように足を進める。

 だって赤ちゃんの声が、どんどん力を失っていく──!

 

「だめ、待って! おねがい、今行くから……!」

 

 まだ、終わってしまわないで。

 声にならない願いを胸に、息を切らせながら辿り着いたドアに手を掛ける。ドアノブを手にとって、ひやりとした温度に触れたその時、

 ──ふつ、と。 “声” が、途切れ た 。

 

「──ぁ……」

 

 ……ドアノブを捻って、部屋の中に足を踏み入れる。暗くて静かな部屋だ。今が夜で、停電していることを踏まえても静かすぎる(・・・・・)。何の音も、“声”も、しない。

 リビングには倒れた家具が散乱しているだけで誰もいなかった。それを確認して、寝室へと続くドアを開ける。真っ暗な部屋の大半は、崩れた天井と上から雪崩落ちてきた瓦礫で埋まっていた。その瓦礫の山の麓に視線を移して、わたしは浅く息を飲んだ。

 ──瓦礫に潰された“誰か”。その二の腕から先だけが崩落から逃れるように床に投げ出されていた。そうして、その腕に抱かれているのは──

 

「……、……ごめん、ね」

 

 小さな小さな、赤ちゃんだった。さっきまで、……本当についさっきまで泣いていたのだろう、その口は大きく開かれていて、頬や目尻に涙の痕がある。

 でももう、この子は、泣かない。動くことはない。

 ぼこりと陥没した頭部が、血にまみれたそれが、わたしにその事実を知らしめていた。

 

「痛かった、ね。苦しかったね、……」

 

 赤ちゃんを守るように抱いていた腕。その左手の薬指に光るのは結婚指輪だろうか。こんな血と埃にまみれた暗い部屋の中で、それだけが場違いに綺麗で、だからこそどうしようもなくやりきれない。

 我が子を身を呈して守ろうとした母親。

 きっと、愛されていたのだろう赤ちゃん。

 さっきまで、救けを求めて泣いていたのに、

 「生きたい」って、言ってくれていたのに……!

 

「……救けてあげられなくて、ごめん、なさい……!」

 

 どんなに、苦しかったろう。痛かったろう。冷たくなっていくお母さんの腕に抱かれて、どれほど心細かっただろう。想像しかできないわたしすら胸が張り裂けそうなのに、当事者のこの子は、どんなに……。

 

「……っ、ごめん、なさい……」

 

 きっと。きっと、こんな母子のような目に遭った人たちが、この神野の街で溢れているのだろう。今この瞬間も、どこか暗い部屋の中で、痛くて苦しくて心細くて、「生きたい」って泣いている人たちがいるはず。

 そう思えばこそ、わたしは立ち止まってはいられない。震える足を叱咤して、涙で歪む視界を睨んで、何とか立ち上がってこの場を後にしようとした。

 

 ──後にしようと、した。

 

 

「……、愛依(あい)

 

 

 その呼び掛けと一緒に、赤い羽根で視界が覆われる。 

 

 

「──もう、いい。……もういいんだよ、愛依」

 

 

 何もよくなんかない。わたしはまだ頑張れる。頑張らなきゃ。頑張らなきゃ、いけない。

 わかっているのに、身体が動かせなかった。背後から緩く抱き寄せられているだけだから、いくらでも振りほどけるはずで。わたしは行かなきゃ、頑張らなきゃ、なのに、なのに……!

 

 

「……っ愛依、」

 

 

 わたしの名前を呼ぶ声が、あまりに泣きそうだったから。

 だからわたしも、涙を零した。

 

 目から零れた涙が頬を伝って、顎から落ちる。それと同時にわたしの意識も、深い夜の底に落ちていった。

 

 

 

 

 

 

「……。」

 

 気付いた時には、わたしは見慣れない天井を見上げていた。まだぼんやりする頭で瞬きを繰り返し、混乱する思考を巡らせた。

 ここは、……白いベッドにカーテン。点滴に心電図モニターの電子音……病院だろうか。カーテン越しには月の光が注いでいて、今が夜なのだとわかる。でもそれだけ。目に見える範囲に時計もカレンダーもないから、今が何日の、何時何分なのか。あれから何日経ったのかわからない。何も、何も──

 

(あれから、わたし──今、どうなって……!)

 

 たくさんのことを考えなければいけない。

 あれから神野区はどうなったのか。オールマイトは、AFO(オールフォーワン)は、爆豪くんは、ベストジーニストは、(ヴィラン)連合は、……神野区の崩壊に巻き込まれた、たくさんの人たちは──!

 

「……っ、」

 

 焦燥と不安で肌が粟立つ。こんなところで寝てる場合じゃない。たくさんのことをしなければいけない。

 たくさんのことを、考えなければいけない。

 思うように動かせない身体に歯噛みしながら、ぐるぐる思考を巡らせる。その思考が──ふっと止まった。

 

 頭が、真っ白になる。

 視界に映ったサイドテーブル。そこに置かれた赤い羽根。

 

「……ホー、クス?」

 

 ホークスの羽根。剛翼の一欠片が、月明かりにきらりと輝いて見えた。震える声で、譫言のように名を呼ぶ。

 

「啓悟、くん……」

 

 この場に、来てくれていた。“そうかもしれない”という憶測だけで、こんなにも心が震える。熱くなる。

 たくさんのことをしなければいけない。

 たくさんのことを考えなければいけない。

 忙しいあの人(ホークス)の足を引っ張るなんて、あってはならないのに。足を止めてここに来てくれていたことを、喜んでは、ならないのに。

 

「……啓悟くん……」

 

 これ以上を、望んではいけないのに。

 わたしの弱い心が、彼の名を呼ばせる。

 

 もうこれ以上我が儘を言うわけにはいかないと、きつく唇を結んだ。歯を食い縛って、口元を手で覆って、身体を折ってシーツに頭を沈ませる。

 ちゃんと、……ちゃんと、我慢できたよ。そのはずだ。

 声を押し殺して、心を押し殺して、そうして一晩明かせば、何もなかったように振る舞えた、はずだ。

 

 ──それなのに、どうして、

 

「……ッ」

 

 荒々しい足音に、乱暴に扉を開く音。突然わたしの羽根を震わせたそれに、思わず驚いて顔を上げる。

 顔を上げた、先で、

 

「……。けいご、くん……?」

 

 ホークスが、いた。いつもの飄々とした表情はどこへやら、眉をひそめて、きつく顔を歪ませている。もしかしてどこか怪我をしているのかとざっと視線を走らせても、どこにも異常は見当たらない。それに対する安堵と、じゃあどうしてという混乱で、わたしは声を震わせた。

 

「え、……え? どうして、……」

 

 どうしてここに、と、言う暇さえなかった。いつの間にか大股で近付いていたホークスが、上体を起こしたわたしの身体を抱き締めていた。突然のことに頭が回らない。何も考えられず真っ白になった頭に、ふわりと浮かんできた。

 

 白い。そうだあの日は、雪が降っていた。

 あのベランダも、……あのコンクリートで覆われた部屋も、今は夏のはずなのに、わたしはずっと、寒くて痛かった。

 寒くて痛くて、悲しくて、寂しくて、……でも今は、

 

「……っ」

 

 ああ、──あったかい、なぁ……。

 

「……っぅ、……っ、~~~っ」

 

「……うん」

 

 顔をくしゃくしゃにして、ホークスのヒーロースーツを涙や色々で汚しながら、嗚咽を漏らすしかできないわたしは、酷くみっともなかった。こんなことしてる場合じゃないのに、こんなことしかできないでいる。そんな、みっともなくてどうしようもないわたしなのに、ホークスは突き放さない。

 

「泣いていいよ、愛依」

 

 そうっと抱き寄せて、髪や背中を撫でてくれた。

 

「誰のことも、何も、考えなくていい。頼むから、……今だけは、どうか」

 

 こんなわたしの我が儘を──「生きたい」を、

 

「どうか今だけは、……自分のためだけに」

 

 全部受け止めて、許してくれる。喜んで、くれる。

 それがどんなにわたしの心を熱くさせるのか、きっとこの人は知らない。さも当たり前のように、“奇跡”をわたしに与えてくれる。

 

「……っけいご、く、」

「うん」

「けいごくん、……っけいごくん……!」

「うん、……愛依」

 

 

「──愛依が生きていてくれて、よかった……」

 

 

 この時、わたしは泣いてばかりだった。

 押し殺していた悲しみと恐怖が溢れて、生き延びられたことに安堵する一方、救えなかった後悔が拭えずに、それでも生きてまたホークスに会えた喜びで、涙が溢れて止まらなかった。

 

 だから、気付かなかった。気付けなかった。

 ホークスがどんな思いで、いたのか。

 

 気付けないまま、わたしたちは、ひとつの決意と共にこの夜を越える。

 

 

64.少女、「生きたい」

 

 


 

 更新遅くなってすみませんでした!!7000字くらいまでは割とするする書けたんですが、そこからどう着地させようか悶々と悩んで難産でした……作中でオリ主の考えがいったりきたりで安定していないのですが、緊急時で追い詰められている状況下ということでお目こぼしを。

 

 この神野事件編終了と同時に、【依存】から始まるヒーローアカデミアが第1部完!と相成ります!ここまで長かった……というか神野事件編で何ヵ月かかっているんでしょうね本当に。

 全話通して2部構成のイメージで書いているため、やっとこさ折り返しといった感じです。第2部ではオリ主が公安で育てられたからこそ見えてくる視点とか、公安絡みで動ける展開とかを書けたらなあと思っております。また読んでいただければ幸いです。

 

 最後になりましたがいつも閲覧、お気に入り登録、評価、感想等々ありがとうございます!!いつも本当に元気を貰っています。このssが続けられているのは誇張なしに皆様のおかげです。これからもスローペースかもしれませんが頑張ります。

 



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ヒーロー仮免試験編
65.少女、目覚める。


 

 ふ、と。意識が浮上する。それと同時に身体がベッドに沈み込むような、そんな錯覚を覚えた。まるで鉛のよう。熱を孕んだ鉛が胸に埋め込まれたようだ。じくじく熱くて、重くて、息がうまくしづらい。

 

「……っ?」

 

 浅い呼吸と朧気な視界の中、わたしは視線を巡らせた。白い壁、白いカーテン、人工呼吸器、心電図モニター、点滴、……病院の一室だろうとは、わかる。つい最近、こんな状況で目を覚ましたような気がするけれど──ぼんやりする頭でそんなことを考えて、そうして息を飲んだ。

 白む視界の中に、黒い人影が入り込んだからだ。

 

「───」

「……あな、たは……?」

 

 絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような視界では、その人が誰なのかもわからない。ただその人がスーツを着ている男性だということや、ベッドで寝ているわたしを見下ろしていることは辛うじてわかる。

 疑問はあるものの、確認しなければいけないことは山ほどある。わたしはベッドに上体を起こしながら口を開いた。

 

「すみ、ません。あの、お訊きしたいことが……っ!?」

 

 すんでのところで悲鳴を飲み込むも、わたしはされるがまま掴まれた腕を引っ張られ、ベッドから引き摺り下ろされた。突然のことで頭と身体が上手く回らない。乱暴に取り外された人工呼吸器と点滴が床に散らばり、乾いた音が転がった。

 

「来なさい」

 

 そんな状況を意に介さず、スーツの男性はそれだけ言った。わたしの返事も待たず大股で歩き出す。わたしを、ずりずりと引き摺りながら。病室を出て暗い廊下に足を踏み出した時、わたしははっとして目を見開いた。

 

(……この人、は……)

 

 合わなかった焦点がはっきりして、ようやく気付けた。この男性は、公安委員会の一員だ。あのビルで訓練を受けていた頃に見かけた覚えがある。

 公安委員会の人が、どうして。……神野絡みで何かあったのだろうか。だったらしゃんとしなきゃと、わたしは痛む膝を叱咤して背筋を伸ばした。足元は震えて、覚束ないままだけれど。

 

「あ、あの、どう……されたんですか。わたしを、どこに、」

「どこに? 決まっている」

 

 掴まれたままの腕が、ぎゅっと握られる。きっと痕がついてしまったのだとわかるくらいには、痛かった。

 

「おまえの“個性”を、役立てるべき場所だ」

 

 “個性”を、役立てる。それがわたしの【治癒】を意味していることは何となくわかったし、断る理由も気もなかった。けれどわたしの足はふらつき、バランスを崩し、その場に座り込んでしまう。夜の廊下はひどく冷たくて、それが余計に自分の身体に籠る熱を際立たせているかのようだった。熱い。頭が、あつい、いたい……。

 

(ぐらぐら、する……)

 

 身体中が重くて、立ち上がれない。“個性”過剰使用(キャパオーバー)を起こしているのは明らかだった。ふっと気を抜けば意識を飛ばしてしまいそうだったけれど、右腕に食い込む痛みが、それを許さない。

 

「……っ、ぅ、」

「……何をしている、早く立ちなさい」

 

 ぐい、と上に向かって引っ張られる。それに合わせてわたしも立ち上がろうとしたけれど、震える足が言うことを聞いてくれない。思うように、動かない。そんなわたしに焦れたのだろう。

 

「早く、……早く立て!!」

 

 声を、荒げた。今まで必死に押さえつけてきた焦燥や怒りが溢れたような、そんな声。

 どうして、と少し舌足らずな口調でわたしは問い掛けた。どうして、そんなに苦しそうなのか。何があったのか。彼はそれを聞いて、くしゃりと顔を歪めた。

 

「……私の、娘が……」

「娘、さん……?」

「……神野の崩壊に巻き込まれ、壊死した両足を切断する他なかった」

 

 しいんと静まり返った夜の廊下は本当に静かで、わたしが小さく息を飲む音さえ大きく聞こえた。そんなわたしに彼は畳み掛ける。鬼気迫る勢いで。

 

「おまえは今回の件で、欠損すら治せるようになったのだろう」

「……あ……」

「……その力を、今、使わないでどうする。おまえはもう、全部治っているだろう(・・・・・・・・・・)?」

 

 今となっては、ぎちぎちと握られる腕も、熱が収まらない身体も、大した痛みではない。それよりずっと、ずっと、

 

「……このような時のために、育てられたのだろう! さっさと役に立て!!」

 

 ──心、が、

 

 

 

「……何をしているんです!」

 

 え、と。驚きに俯いていた顔を上げる。突然聞こえたその声と同時に、わたしと腕を掴む男性の間にその人(・・・)が割り込んだ。細く骨張った身体を包むスーツは、少し、草臥れている。

 

「……め、ら、さん……」

 

 呆然と呟くわたしにそっと視線を投げ掛けてから、目良さんは男性に向き直った。男性の手首を掴み、わたしの腕から引き離そうとしている。

 

「やめなさい。この子はまだ安静にしている必要が、」

「おまえは昔からこいつらに甘いな、目良」

 

 わたしを庇う目良さんのことを、彼ははっと鼻で笑う。それから眼差しを険しくした。

 

「こいつらは社会のための子どもだ。社会のため、社会の役に立つために育てられた子どもだ!」

「だから何だというんですか。この子だって、守られるべき子どもです」

「……そうやって甘やかして、つけ上がりでもしたらどうする気だ。反抗する余地など許してはまた(・・)繰り返すぞ」

 

 その目が、まるで、忌々しいもの(・・・・・・)を見るかのように細められて。

 

「この娘が、あの女(・・・)のようになってもいいのか」

 

 

 また(・・)忌々しいもの(・・・・・・)あの女(・・・)

 並べられたピースは繋がりそうなのに、何も知らないわたしには何もわからない。けれど、何だろう、と思案に耽る暇もなかった。──目良さんがいきなり、男性に掴み掛かったのだ。

 

「!? 目良さん……っ!?」

「彼女が何故、あのような行動に至ったのか、わからないのですか?」

 

 声こそ冷静だけれど、その底は沸々と熱を孕んでいた。

 

「……その態度こそが彼女を追い詰めたのだと、何故、わからない」

 

 沸々と沸き上がる怒りと、後悔と、悲しみが、その声と手を震わせていた。わたしには何故目良さんがそんな風になっているのか、何を知っているのか、“彼女”とは誰なのか──何一つわからないけれど、それでも一触即発なこの空気は伝わってくる。男性がわたしの腕を離し、目良さんの胸元を掴み返したこともそれに拍車を掛けた。

 

「! やめ、やめて、くださ……っ」

 

 このままでは殴り合いになってしまうかもしれない。そんなことはしてほしくなくて、それを止めたくてわたしは声を振り絞った。

 その時。

 

 

 

「あのー」

 

 間の抜けたような声とともに、目良さんと男性、2人の身体が浮いた(・・・)。少し引き離されたところで床に下ろされる。目を見開くわたしの前で、ひらりと赤い羽根が翻った。

 

「その話、俺らが聞いちゃ駄目なやつですよね?」

 

 Shhh、と口許に人差し指を立てて、ホークスがへらりと笑った。暗がりでも鮮やかな剛翼を背負い、肩を竦めながらこちらに歩み寄ってくる。

 

「公安の機密ってやつでしょ。それをこんな、人気の無い時間帯とはいえ、病院の廊下で大声で」

 

 鷹の目が、一瞬鋭くなって男性を射た。それも束の間、ホークスはまたへらりと笑う。

 

「あなたはどうもお疲れみたいですし、ゆっくり休暇(・・)を取られては? もう申請は済ましときましたし」

 

 まるで、のんびりと世間話をしているかのような声色だった。そう錯覚させるぐらい軽やかに、平穏とは程遠い話をしている。それが何故か、夜の薄暗さと寒々しさを思い起こさせるようで、わたしは胸元を握り締めた。

 

「……ね?」

 

 念押しするようにホークスが微笑んだ、その瞬間。4、5人の男性たちが足早にやって来て、スーツ姿の男性を取り押さえた。彼らもまた公安委員会の人たちだと、その静かな無表情を見て気付く。

 

「くそっ……、離せ!」

 

「! まっ……待って、ください!」

 

 そうこうしている内に男性が連れて行かれそうになって、わたしは慌てて口を挟んだ。慌てたまま、混乱しているまま、わたしはぎゅっと拳を握り締める。

 

「わたし、治します。ちゃんとやります、だから……っ」

 

「駄目」

 

 ぴしゃり、と。高揚するわたしに冷や水を浴びせるような、そんな声だった。抗議のために顔を上げたわたしと、そんなわたしを冷ややかに見下ろすホークスの視線がかち合う。

 

「駄目に決まってるでしょ。……まだおまえは絶対安静の身なんだから」

 

 冷ややか、……というのは、語弊があった。それに気付いて、わたしは口をつぐむ。そんなわたしにふっと笑って、ホークスは座り込んだままのわたしを横抱きにした。突然の浮遊感に戸惑うわたしを余所に、彼はこの修羅場にそぐわない軽口を叩く。

 

「と、いうわけで。俺はこの子を病室に戻しますんで、お先に失礼しまーす」

「っ、ホークス……!」

 

 わたしの本調子でない身動ぎなんて、ホークスは意にも介さない。彼はすたすたと歩みを進めて、病室への道を戻っていく。

 

「ホークス、離して! わたしはっ、」

「人を治して、治し続けて、……そうして死ぬつもり?」

 

 周囲から人の気配が途絶えて、ようやく沈黙を貫いていたホークスが口を開いた。さっきの軽やかさは消え失せた、静かに、暗く、夜のような声。

 

愛依(あい)、おまえは神野事件から1週間、ぶっ通しで眠り続けてた。【自己再生】のエネルギーを【譲渡】し過ぎて、自分の身体を維持するエネルギーが足りなくなって、冬眠に近い形で休眠してた。

 ……死にかけてたってことだよ。わかってる?」

 

 夜の静寂に、ホークスの声が切々と降り積もっていく。それを口にするホークスの顔を見上げて、……わたしはもう、何も言えなかった。

 

「一度目を覚ましてからは冬眠状態は解除されたみたいだけど、それから2日しか経ってないんだ。まだエネルギーが圧倒的に足りてない」

「ホークス……」

「ホラ、熱がある」

 

 病室のベッドに横たえられて、額に手が当てられる。グローブ越しの手が顔に掛かった髪を梳いてくれた時、わたしは改めて彼の顔を見た。

 ホークスは眉根を寄せて、何かを堪えるように、微笑んでいる。

 

「……っ、ごめん、なさい……」

 

 ──たくさん、心配してくれているのだとわかった。

 そしてわたしは、優しいこの人に、何も報いられていないのだと。

 

「わたし、ちゃんと……できなくて……」

 

「君が謝る必要はありませんよ」

 

 入り口から声が聞こえたと同時に、開けっ放しだったドアが静かに閉じられた。目良さんはベッドサイドに歩み寄り、がしがしと、ばつが悪そうに頭を掻いている。

 

「目良さん……」

「先程は、すみません。驚かせてしまって」

「い、え。それは、いいんです。でも……」

「あの人のことなら、君は気にしなくていい」

 

 “この話はこれで終わりだ”と、そう言わんばかりの強い口調だった。それにわたしは一瞬躊躇して、それでも意を決して向き直る。ベッドの上に上体を起こして、視線を合わせた。

 

「……、でも……でも、あの人の娘さんとか、他にも、たくさんの人が怪我をしているんです、よね」

「愛依」

「わかってる、今は“個性”は使えない。でも治ったらそうじゃないでしょう?」

 

 両足を切断せざるを得なかった、と、あの人は言っていた。……そんな風にたくさんの人が、あの悪夢の夜に傷ついたんだ。それだけじゃない。大切な人がそんな風に傷ついているのを目の当たりにして、心を痛めている人だって、数え切れないほどいるはずだ。

 

「その時のためにも、神野でどんなことがあったのか、今、どんな状況なのか。……きちんと知っておきたい」

 

 どれぐらいの被害が出たのか。怪我人は何人いるのか。爆豪くんやオールマイト、ベストジーニストは無事なのか。AFO(オールフォーワン)(ヴィラン)連合は、どうなったのか。

 尋ねるわたしと、黙り込むホークスの視線が錯綜する。彼は鋭く目を細めた。

 

「知ったら、おまえは立ち止まれないでしょ」

「それはホークスの方でしょう」

 

 神野で少し、わかった。

 悲鳴や苦鳴が、救けを求める声が聞こえて。

 そこに駆けつけられる翼があって。

 その2つが揃ってしまえば、足を止めてはいられない。多少傷付いたって、苦しくたってお構い無しに、“行かなくちゃ”って思いが溢れて止まらない。

 

「だから、“速すぎる男”なんて呼ばれて、何でもかんでも全部自分で解決しようとして……」

 

 ホークスはきっと、どこまでも止まれない。止まらない。

 

「ホークス、疲れた顔してる」

 

 いつも多忙でワーカホリック気味な彼だけれど、今は輪にかけて目元に翳りが浮かんでいる。そしてそれは、彼の隣に並ぶスーツ姿の彼だって同じだ。

 

「目良さんだってそう。……今もまだ、大変な状況なんですよね。だからわたしも、頑張りたいんです」

 

 そうして目良さんに視線を合わせて微笑むと、彼は何かを言いかけて、押し黙った。その表情や仕草から、何となくわかる。

 

「……わたしが休む暇なんて、本当は、無いんでしょう? だから目良さん、ここに来たんですよね」

 

 いつも公安委員会の本ビルで忙しそうに事務仕事に奔走している目良さんだ。ただのお見舞いか何かでわたしの元まで来るはずがない。多分会長への報告か何かだろうなと、そう推測するわたしに目良さんは目を伏せた。

 

「……そんなに聡くなくていいのに」

「目良さん……」

「可愛げないぐらい聡くて、意地っ張りで、聞かん坊で、甘えるのが下手で……心配なとこばっかり似てきますね」

「ええ? なんすか目良さん、聞き捨てなりませんね。俺ほど聞き分けのいいイイコもいないでしょ」

「鏡要ります?」

「ヒドッ」

 

「……ふふ、」

 

 何だか、今だけ、昔に戻ったみたいだった。あの公安所有のビルの中、訓練と勉強漬けの日々。出来の悪いわたしには大変だったけれど、目良さんがいて、ホークスがいて。こうして笑って過ごす時間が大好きだった。

 ……でも、昔は昔。今、やらなきゃいけないことがある。

 くすくす零れた笑みを引っ込めて、目良さんを見据える。彼は少しの沈黙の後、悲しそうに笑った。

 

「“君は、まだ、眠っている。”

 ……そういうことに、したかったのですが……」

「……先程の件で、きっと報告がいっていますね」

 

 わたしを病室から連れ出した公安の人と、それを取り押さえた人たち。わたしが起きたことは、複数の人が確認している。わかっている。大丈夫。

 

「わたしは、大丈夫です。ですから、目良さん」

 

 促すと、目良さんは荷物からタブレットを取り出して画面をわたしに向けた。そこに、見覚えのあるガラス張りのオフィスと、ソファーに腰掛ける彼女の姿があった。

 

「会長、……すみません、夜遅くに」

『構わないわ。あなたの体調は?』

「まだお医者さんに診てもらってはいませんが、こうして話す分には問題ないです」

 

「……高熱出してるのによく言うよ」

「ホークス、」

 

『……手早く済ませましょうか』

 

 会長は静かな眼差しで、画面越しにわたしを射た。それを受け止め、わたしも居ずまいを正した。そうして話し出す。──わたしがAFO(オールフォーワン)の元に連れ去られてから、何があったのか。何を話したのか。……何を、されたのか。

 

『……そう。会見の際にAFO(オールフォーワン)が話していたことは事実だったのね』

「……はい。でも、もう治っています」

 

 剥がれた爪も、削がれた指も、捥がれた翼も、もう全て元通りだ。広げて見せた指のどこにも、傷痕や痛みは残っていない。

 

AFO(オールフォーワン)は、わたしの【自己再生】の“個性”が進化したのだと言っていました。……確かにわたしも以前読んだ本で、“個性”が想いや気持ちによって進化することもあるとは、知っていましたが……」

『進化のきっかけに、思い当たることがあるのね』

「……もう、治らないと。助からないと覚悟していたんです」

 

 あのコンクリートに囲まれた部屋で、研ぎ澄ましたはずの“決意”。それが溶かされた感覚を、今も思い出せる。

 

「でもオールマイトたちが救けに来てくれて、“助かるんだ”って安心して……“生きたい”と、強く、思いました」

『……生存本能に、生存欲求……なるほど』

 

 何かを思案するように目を伏せた後、会長は神野事件の顛末について教えてくれた。

 爆豪くんは無事に保護されたこと。オールマイトは死闘の末にAFO(オールフォーワン)を打ち倒し、AFO(オールフォーワン)はタルタロスに収容されたこと。死柄木を始めとした(ヴィラン)連合は逃したこと。神野の一帯はほぼ半壊状態で、死傷者や行方不明者も数多いこと。今もヒーローたちによる捜索活動や救助活動が続けられていること。ベストジーニストは片肺を失う大怪我を負ったものの一命は取り留めたということ。そして──

 

「……オールマイトが、もう、戦えない……?」

 

 オールマイトが、ヒーロー活動を引退したこと。会見によると、既に“個性”に衰えがある中で活動してきたけれど、先だってのAFO(オールフォーワン)との激闘で全ての力を使い果たしてしまったらしい。

 

(……お前たちは知らないだろうが、彼の“個性”は消えかかっている──)

 

 I・アイランドでの事件の折、デヴィット博士が言っていたことが脳裏によぎった。あの時わたしは、まさかあのオールマイトの“個性”が消えかかっているなんて信じられなかったけれど……、

 

(……本当、だった、なんて……)

 

 だとしたら、わたしは──なんてことを。

 

『……オールマイトの激闘及び真実の姿は、メディアにより全国放送されたわ。今、それを受けて、社会は大きく揺れている』

 

 会長の氷のように凛とした声に、はっと我に返る。そうだ、今わたしは、少しでもやれることをやらなくちゃいけない。

 オールマイトへの称賛。彼が第一線を退くことへの不安。雄英高校への風向きは依然として厳しい。そもそもオールマイトがいたから雄英が巻き込まれたのではないのか、戦えなくなったオールマイトがいても生徒が守れないのではないのかと、批判の声が上がっているのだと会長は言う。

 またわたしのように、生徒が(ヴィラン)に拐かされて傷つけられてしまうのではないかと──

 

「……世間は、わたしが拷問に遭ったと思っているのですか?」

『半々、といったところね。あなたが沈黙を守ったことにより、(ヴィラン)による一人芝居なのではないかと思う人もいれば、あなたが表舞台に立たないのは深刻な怪我を負ったからだと噂する人もいる』

「……、世間の声は、わたしに同情的なんでしょうか」

『概ねそうね』

 

 拷問に遭ったかどうか、曖昧な認識。わたしへの同情。命と力を懸けて戦ったオールマイトへの称賛。……これらを手札に、わたしはどうするべきか、頭を回す。どうすれば、最も良い選択ができるのか。考えて、考えて──結んでいた口を開く。

 

「──明日の朝、マスコミの前に出たいと思います」

 

 わたしの発案に、みんなの反応は様々だった。目良さんは“やめなさい”と窘めて、ホークスは厳しい表情になって、会長は見定めるようにわたしを真っ直ぐ見据えた。そんな彼らに向かって訴える。今この状況で、わたしだからこそできることがあると。

 ……目良さんはわたしを“聡い”と言ってくれたけれど、それはみんなこそそうだ。彼らは一様に冷静に、わたしが起こそうとしている行動のメリットとデメリットを理解している。それらを天秤に掛けて、どちらが傾くか、理解している。

 

「わたし、きちんと、やります。……やらせてください」

 

 わたしももう、天秤を掲げた。揺らぐことはない。

 

 

65.少女、目覚める。

 

 


 

 本当はもう少し続く予定だったんですが、だらだら長くなったので区切ります。後編は明日か明後日には更新できるといいな。

 

 神野編辺りから更新スピードがガタ落ちしたのは、ただただ作者のアイディア不足と文章力が無かったせいなんですけど、本当にただの偶然なんですけど、このグダグダしている間にヒロアカ本編にレディ・ナガンが登場したのは幸運でした。レディどちゃくそに好きなのでここぞとばかりに今後捩じ込みたいと思います。

 



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66.少女、ピアスを着ける。

 

 一夜明けて、わたしは看護師さんたちの目を盗んで病室を抜け出し、入り口近くに立っていた。磨りガラスの向こうにざわめく記者さんたちの声がする。朝早くだというのに大勢で、それだけ皆神野事件について知りたがっているのだろうなとわかった。

 これだけたくさんの人を、──今からわたしは利用する。

 どきどきとうるさい胸を宥めるよう、とんとんと軽く叩いた。深く息を吸って、吐いて。そっと両頬に手を添える。

 

「……わたしは、“未熟で愚直で一生懸命なヒーローの卵”。“雄英を思うあまり、先生方を待たずに飛び出してしまった”……」

 

 その設定ならば、靴も履かずに飛び出した方が“それっぽい”だろうか。……いやそれはわざとらしすぎるかと、スリッパは脱がずに爪先を整えた。でも少しだけ髪を乱して、息を切らしたようにしておく。薄く開いた唇に触れて、……言葉は辿々しくていい。笑みは取り繕わなくていい。ただ懸命に、“真実”を訴えるだけでいい。

 

「──、よし」

 

 一呼吸の後、わたしは駆け出した。マスコミ対策で閉ざされていたドアを開け放ち、日の光の元に飛び出す。眩しさで目が眩みそうになるのを堪えて、真っ直ぐ前を向いた。

 

「……わたしは、空中(そらなか)愛依(あい)です。皆様においては、今回の件で大変お騒がせしてしまい、申し訳ありません」

 

 どよめきとざわめきの中、深く頭を下げる。別に謝罪会見というわけではないからきっちり30秒待つ必要はない。顔を上げたわたしに、そこかしこから質問が飛び交う。

 

「空中さん! このセントラル病院に入院していたとのことですが、容態は大丈夫なんでしょうか!?」

「はい。【治癒】のし過ぎでエネルギー不足に陥っていただけですから、もう大丈夫です」

「え……と、【治癒】のし過ぎ?」

「ええ、神野事件でオールマイトたちによって救出された後、わたしはその周辺の人々を【治癒】して回っていたので。……ヒーローでもなく、仮免も持たないわたしが勝手に“個性”を使ってしまったことについては、謝罪いたします。申し訳ありませんでした」

「えっ!? いえ、そんな……」

 

 人が良さそうな女性記者さんは、わたしが頭を下げたことによって勢いを挫かれたようだ。そんな彼女に代わって、男性記者さんが進み出る。その表情は険しかった。

 

「失礼します。空中さん、あなたは(ヴィラン)に負わされた怪我の治療のため、入院していたのではないのですか?」

 

 随分真っ直ぐ切り込んでくるなあと驚きつつも、……想定していた質問だと、内心口角を吊り上げる。それでも頬には、困ったような笑みを浮かべてみせた。

 

「……わたしを心配してくださって、ありがとうございます。……そのことについても皆様に誤解(・・)させてしまっているようなので、説明させてください」

「誤解、ですか?」

「はい」

 

 一礼してから、わたしは目を伏せて話し始めた。さも、あの時のことを思い出しながら話しているかのように。

 

「……雄英高校の会見会場に流れた音声について、ここにいる皆様も聞いていらっしゃるかと思いますが……、あの声はわたしではなく、(ヴィラン)の“個性”で創った複製のものです」

 

 一段と大きなどよめきが空気を揺らした。それが収まるのを待たずに畳み掛ける。

 

(ヴィラン)連合の中には、人の姿や人格をコピーして【二倍】に増やす“個性”の持ち主がいました。その【二倍】によって増やされたわたしの複製が、(ヴィラン)による暴行を受けていたのです」

「……何故そのような、」

(ヴィラン)連合は、【治癒】の力を狙って、わたしを連合へ引き入れようとしていました。……仲間にしたい者を、うっかり殺してしまってはいけないからと、わたしの代わりに複製を痛め付けることで、わたしを脅し続けていました」

 

 畳み掛ける。矢継ぎ早に“事実”を並べて、一呼吸。

 言葉尻を揺らして、……少し眉根を、寄せてみた。

 

「仲間にならなければ“こう”なると……そう言われました」

 

 “恐怖を押し殺して気丈でいようとする”固い表情は、みんなの同情を誘えただろうか。

 しいんと静まり返る中、視線を走らせる。言葉を飲み込む記者さんたちの中には、わたしへ同情を向ける人も、わたしの証言が真実かどうか見定めている人も、この先の行動を図りかねている人もいるようだ。──ああ、そして、

 

「失礼します。その証言が事実だという根拠はありますか」

 

 わたしの証言を、疑わしいと思っている人も。

 

「根拠、ですか」

「ええ。体育祭での様子を見る限り、あなたは優しく、他者に対して献身的であるように窺えます。……その献身が、雄英に向けられているのではないかと思うのです」

「……わたしが、雄英高校を庇って虚偽の証言をしていると……そう仰有りたいんですね」

 

 わたしは一応被害者なのに、そんなわたしの言葉を疑うなんて。周りの記者さんたちが思っても口に出せないことを、こんなにはっきり言うなんて。

 この記者さんがここまで切り込んでくるのは、わたしが(ヴィラン)によって暴行を受けたことが事実であってほしいからだろう。“事実”にしたいからだろう。その理由は何だろうかと、目を伏せながら考える。

 

 ──雄英高校の失墜を狙っている?

 有り得ないことではないだろう。国内最高峰のヒーロー養成学校が揺らぐということは、世間も揺れるということ。善悪は兎も角、一時的なセンセーションを得られる手っ取り早い手段だ。ただ切り込んで場を掻き乱せばそれで良しと、金銭を握らされた人なのかもしれない。

 それとも、

 

「あなたは、【治癒】の“個性”をお持ちだ。(ヴィラン)に負わされた傷は、全て自分で治して……そのためのエネルギー不足なのではないでしょうか」

 

(……ああ、)

 

 なるほどそうか、と思い至る。

 彼が追い縋る理由は──わたしの持つ【治癒】だ。

 

「……わたしの【治癒】が、欠損すら治せると?」

「はい」

 

 頷くその目に、懇願の色がちらついている。“そうあってほしい”という願いが、わたしの胸を貫いた。

 脳裏によぎるのは、昨夜の出来事。あの公安委員の男性がわたしを引きずり病室から連れ出した理由。……“娘を治してほしい”という、父親としての愛情。

 

「……申し訳、ありません」

 

 昨夜のあの人と、目の前のこの人と、……テレビの向こうにいるたくさんの人々に向けて、深く、深く、頭を下げる。

 

「現時点で、わたしの【治癒】に、それほどの力はありません」

 

 わたしがメディアの前に出たのは、雄英高校への、ヒーローへの批難の風向きを変えるため。そのためには、わたしが拷問に遭っていなかったことや、遭う前にヒーローに救われたことをアピールする必要がある。

 そのためには、……【治癒】の情報は伏せなければ。

 

「……そんな、……それは事実なのですか。あなたの【治癒】があれば、数多の人を救うことができるのでは、」

「申し訳ありません。……まだ、無理なのです」

 

 わたしがメディアに出ると決めてから、会長が言った。

 もしこの時この場所で、わたしが欠損部位すら【治癒】できると知られれば、救いを求める人たちによるパニックが起こるおそれがある。だから【治癒】の詳細を公にするのは、【治癒】系“個性”持ちリスト関連のシステムを整えて、関係者に根回しをしてからだと。

 ……わたし自身も、まだ不安はある。あの時は無我夢中で指や目の欠損部位を治癒したけれど、それ以外の欠損を治したことはない。他人の欠損まで治せるかどうか、わからない。【自己再生】のエネルギーを他人に【譲渡】することで成立するわたしの【治癒】は、そのシステム上、他人を治すより自分を治すことに長けているから、……

 

(『確証もないまま、いたずらに、希望を持たせてはいけない』……)

 

 会長の言葉に、反論できなかった。反論できるほどの力も実績も、わたしにはない。

 だから今、わたしはみんなに希望を示せない。

 今は、──まだ(・・)

 

「ですが、……いえ、だからこそ。この【治癒】の“個性”を高めるためにも、わたしは、これからも雄英高校で学んでいきたいと思います」

 

 胸元を握り締める。背筋を伸ばす。しゃんと、前を向く。

 

「今回、わたしと爆豪くんを拉致したのは、雄英高校……ひいてはヒーローの失墜を狙ってのことです。無防備な自宅にいる時ではなく、プロヒーローたちのいる林間合宿中をわざわざ狙ったのが、その証拠です」

 

 わたしは優秀じゃない。ホークスみたいにはいかない。

 あの人のように、公安で学んだ交渉術を、自然に自身の立ち振舞いに落とし込むことはできなかった。せいぜい“やる”と決めた時に、“別のわたし”を演じることしかできない。

 

「……わたしが(ヴィラン)によって利用されることを危惧されていた方が、あの会見現場でもいらっしゃったと記憶しています」

 

 “嘘なんか吐いてない”って表情を塗りたくって、

 ただ“真摯に”言葉を重ねる。

 

「彼らにとっての一番は、わたしが傷付いたり死んだりすることではなく、わたしが(ヴィラン)となって社会に牙を剥くことでした。そうしてヒーローという輝きを、ズタズタにすることでした。だからこそ、彼らはギリギリまで、わたしを傷付けなかった」

 

 真実はひとつしかなくても、“事実”は、変えられる。

 

「……でもそれも、あと少し遅かったら、危ないところでした」

 

 変える。変えてみせる。

 卑怯な嘘を吐いてでも、それがわたしのやるべきこと。

 

「でもそうはならなかった。ヒーローが、警察の方々が、救けに来てくださったから」

 

 微笑む。笑え。きちんと綺麗に、笑みを整えろ。

 一説によると、笑顔は本来威嚇を由来とするらしい。これ以上踏み込んでくるなと、これ以上詮索して疑うなと、笑顔の壁で溝を穿つ。

 全員が沈黙したのを見てとって、わたしは言葉を継いだ。今度は笑顔じゃなく、後悔を押し殺した無表情で。

 

「わたしは今回の件で、ヒーローたちに感謝するとともに、とても不甲斐なく思います。騒動を引き起こしたのは(ヴィラン)ではありますが、……わたしのせいで迷惑を掛けてしまったことは、事実ですから」

 

 目を閉じる。まなうらに浮かんだあの夜の光景を脳裏に焼き付けて、目を開ける。顔を上げる。

 

「だからこそわたしは、(ヴィラン)の思惑に乗って、ヒーローを貶めたくありません。

 わたし自身もまたヒーローとなるべく、頑張って、頑張って……たくさんの人を救うために雄英で学んでいきます」

 

 ──前を、向く。

 

「ヒーローに重荷を被せるのではなく、共に背負うために」

 

 ホークスはきっと、止まれないから。

 だからわたしも、進んでいく。

 

「……いきなりでしゃばって、好き勝手に話して、申し訳ありませんでした。それでは、これで失礼します」

 

「……え!? あ、あの……!」

 

 ぺこりと深く頭を下げて、踵を返す。背中にわたしを呼び止める声が掛かるけれど、振り返らずに病院に戻る。磨りガラスのドアを後ろ手に閉じて、ずりずりと座り込む。はっ、と吐く息が熱い。ひんやりとしたガラス戸の感覚に、身体が震えた。

 

「空中さん!!」

「どうして勝手に……こんな無茶な、」

 

 座り込んだわたしに、白衣を着た医療者の人たちが駆け寄る。わたしを心配してくれるらしい彼らにごめんなさいと返して、彼らに連れられ幾つかの検査を受けている間に──わたしはまた、眠ってしまったらしい。

 

 

 

 

「……まったく、本当に、無茶をする」

「……ごめんなさい」

 

 次に目を開けた時、わたしは元の病室で寝かされていて、ベッドサイドに置かれた丸椅子に座っていたのは目良さんだった。細く開けられた窓から、夏の夜の風がカーテンを揺らしている。

 

「あの、目良さん。メディアによる反応はどうでしたか。雄英は? ヒーローに対しては? わたし少しは役に、ッ……」

「ストップ。そんなに息を切らして……ああもう、咳き込んでしまってるじゃないですか」

 

 まずは落ち着きなさい、と、上体を起こしたわたしの背中を撫でてくれた。わたしの咳が落ち着いてから、彼はコップを差し出した。そこに注がれた水をゆっくりと飲み込む。……自覚していた以上に喉が乾いていたことに、今さら気づいた。

 

「ゆっくりで、……ゆっくりで、いいんですよ」

 

 ゆっくり、……それはきっと、ただ水を飲むことだけを指しているのではないんだろう。この人は急くわたしを宥めようとしている。ゆっくりでいいよって、眠っていていいって、言ってくれている。

 

(……でも、駄目)

 

 それじゃ駄目だ。検査を受けている時、朧気な意識の中で聞こえてきた。『もうこんなに治っているなんて』って、ドクターたちが驚いていたもの。

 

「わたしはもう、治ってます。……大丈夫ですよ」

 

 わたしの【自己再生】は、つつがなくわたしの身体を治している。昨夜の公安委員の人も、それを知っていたのだろう。目の前のわたしはどんどん治っていくのに、自分の娘さんは両足を喪ってしまって、……それを見ているしかできない彼の気持ちは、どんなものだったのだろう。どんなに、どんなに、……

 

(そしてわたしは、今回のことで、そんな救いを求める人たちに“待った”を掛けた)

 

 そんなわたしが、立ち止まっているわけにはいかない。

 

「……聞かん坊ですねぇ」

 

 目良さんは苦しげに微笑んだ。……優しい人だ。こんなわたしを心配して、心を傾けて、削っている。だからこそ甘えすぎてはいけないんだ。彼にもこれ以上、負担を掛けたくない。

 目良さんの言葉に首を横に振って、眼差しで促す。彼はひとつ溜め息を吐いた後、やれやれといった様子で口を開いた。

 

「……まず1つ目。君の証言は世間に概ね信じられた。雄英やヒーローへの風当たりを柔らかくしました。(ヴィラン)連合の思惑通りに貶めたくはない、ということですね」

「そう、ですか。よかった……、」

 

 ほっとして口許を緩めた時、わたしは目良さんの横にあるサイドテーブルに目を留める。そこに活けられた花や、ぬいぐるみ、本、フルーツ籠、……所謂お見舞い品とされるものがあった。朝までは無かったはずのそれに戸惑っていると、わたしの視線の意味を察したのか、目良さんがああ、と頷いて。

 

「それはイレイザーヘッドたちからのお見舞い品ですよ」

「! 相澤先生たちが……?」

「ええ。報道を見て、すぐさまここにやって来ましたよ。その時君は検査を終えて眠ってしまっていましたが……、……心配していましたよ。蛙の女の子も、他の子たちも」

「……っ」

 

 梅雨ちゃん、と声にならない声で呟く。相澤先生も、みんなも、来てくれたんだ。……心配させてしまった申し訳なさと、心配してくれた嬉しさが混ざり合って、どんな顔をすればいいかわからず俯く。

 

「……それに比べて、僕は、君に花すら贈れない」

 

 そんなわたしの頭上に、声が降ってきた。

 ともすれば掻き消えそうなくらい、掠れた、小さな声。

 

「……? 目良さん……?」

「イレイザーヘッドたちがやって来た時、僕は席を立ちました。身を隠すようにして、……君と僕が関係していることを、知られては、いけないから」

 

 彼が話すのは当たり前のことだ。わたしが公安に育てられたことは秘密事項なのだから、公安職員である彼と接触することも、接触を匂わせることも、誰かに知られてはいけない。当然のことで、わたしもちゃんとわかっている。

 

「僕では、君を、……真っ当に心配することもできない」

 

 だから、そんな、……苦しそうな顔を、してほしくない。

 

「──真っ当じゃないのは、わたしです」

 

 目良さんが顔を上げて、嗜めるようにわたしを見た。……そう、そんな風に、わたしを見てくれていた。わたしが真っ当じゃない、……誰かの“個性”を奪う“個性”を持つと知っても、発動条件を探るための実験に名乗り出てくれたのだと聞いた。

 

『僕は、目良善見といいます。これまではマイク越しでしたが……今日からは、こうやって、お話しましょう』

 

 彼が初めてあの部屋を訪れた時のことは、今でも鮮明に思い出せる。ホークスの一件で、わたしの“個性”が【依存】と名付けられてから数日後のこと。大半の人が“個性”を失うことを避けてわたしに近寄らなかったのに対して、目良さんは『僕はせいぜい目が良いくらいですから』と、あの部屋に訪れてくれたのだ。

 そんな彼に対して、わたしは怯えた。突然名前を知ってしまって怖かった。その人がその人だと認識できてしまえば、またわたしは心を寄せて、その人の未来を閉ざしてしまうかもしれないと──差し出してくれた手から逃れるように、ホークスの後ろに隠れた。今思い出しても、失礼な子どもだったように思う。

 

「それでもあなたは、一緒にいてくれました。わたしに色んなことを教えてくれました。……“目良さん”って呼んだら、“はい”って、“どうかしましたか”って返事をして、わたしを見てくれました」

 

 人によっては、取るに足らないことかもしれない。

 でも。それでも、わたしにとっては、

 

「……それだけで十分すぎるくらい、嬉しかったんです」

 

 思い出すだけで笑みがこぼれる。心が、あたたかくなる。こんな“個性”を持つわたしがそんな気持ちになれるなんて、奇跡みたいなものなのだ。だから気にしないでほしいと、言葉を重ねる。目良さんはぽかんと目を丸くしていたけれど、くしゃりと、微笑んだ。

 

「相変わらず、物好きだ」

「……目良さんだって」

 

 あの夏の日。一緒に買い物をして、レストランに入って。そうしてこんな風に笑い合ったやり取りを思い出して、わたしも笑った。

 大丈夫。消えはしない。“しあわせ”はずっと、胸にある。

 

 

 

 

「──話し中だけれど、失礼するわ」

 

 だからわたしは、訪れたノックの音に落ち着いて向き合うことができた。そこに立っていた人物に驚きはしたものの、心は揺るがない。

 

「会長……まさか、もう来ていただけたなんて」

「そのままで」

 

 品の良いスーツに身を包んだ彼女は、公安委員会の会長を務める女傑だ。ベッドから起き出そうとしたわたしを制して、目良さんの横に座る。視線が同じ高さになって、その氷のようなアイスブルーの目が、真っ直ぐわたしを見据えた。

 

「あなたに頼まれた物を持ってきたけれど、……いいのね?」

「……はい」

 

 頷いたわたしに、彼女は手に持っていたアタッシュケースを開いて見せた。そこに収められていたのは一対のピアスだ。白くて四角い、シンプルなスタッドピアス。どこにでもありそうなそれが、最先端技術の粋を集めて作られた、公安特製のものだと知っている。ピアスであり、通信機であり──発信器でもあるのだと。

 

「……わたしが拉致される前にピアスを着けていれば、発信器によってAFO(オールフォーワン)の居場所を明らかにできたはずです。そうすれば、それに連なる組織も、一網打尽にできたかもしれないのに……」

 

 いつだったか。まだわたしが雄英に入学する前、あの公安委員会が所属するビルに住んでいた頃、とある職員さんに言われたことがある。──『君は“ピアス”を着けないのか』と。その時はホークスに『まだ早い』って笑いながら誤魔化されたけれど、それに甘えちゃ駄目だったんだ。

 

「わたしの、甘えによる、ミスです」

 

 ピアス(首輪)を着ける覚悟を、改めて今、ここで。

 

「ですから、どうか。ピアスをわたしに」

「……わかったわ」

 

 会長は数秒の沈黙の後に頷いて、アタッシュケースから幾つかの道具を広げた。コットンに綿棒、消毒液、保冷剤に、タオル……。困惑するわたしを余所に、彼女はわたしの右耳朶を冷やし始めた。保冷剤と、それが直接当たらないようにタオルでくるんで。

 

「……え? あの、会長?」

「ピアスを開けるには、まずその箇所を冷やさなくてはいけない。痛みと炎症を防ぐためよ」

「いえ、わたしはすぐに【自己再生】できますし、そのまま開けていただいても……会長もお忙しいでしょうし、」

「駄目よ」

 

 アイシングも消毒も特に必要ない。時間と手間が掛かってしまう。そう言おうとしたわたしを彼女は遮った。ひんやりとした白いその手が、そっと、わたしの右耳を覆っている。

 

「……駄目よ」

 

 その沈黙と、その声が、何を意味しているのか。

 返すべき言葉が見つからず、わたしはただ沈黙していた。静かな夜が、静かに更けていく。月が緩やかに傾き、会長の長い睫毛に陰が降りる。耳朶が冷えに冷えて、感覚が朧気になる頃、

 

「……もう、痛くないかしら」

「……はい」

 

 大丈夫です、とわたしが返して。会長が目を伏せて。

 そして、──ばつん、と。音がした。

 

 

66.少女、ピアスを着ける。

 

 


 

 ピアスは“開ける”が正しいのかもしれませんが、ここでのピアスはピアスと書いて首輪と読むのでこういうタイトルになりました。ピアスのこと覚えておられる方いらっしゃいますかね……?一応職場体験編のホークス視点回に出てきたやつです。伏線回収するのに何ヵ月かかるのか……こんな遅筆なssを読んでくださる方に改めて感謝申し上げます。

 

 そして、閲覧ならびにお気に入り登録、評価、ここすき等々、いつも本当にありがとうございます!何回も言うようですが本当に励みになっております。また読んでいただければ嬉しいです!



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67.少女、聞こえる。

 

 【翼】──ホークスに【依存】することによって背中に生やしたこの羽根は、彼の【剛翼】とは違って色が無く、弱く、柔い。だから同じ名前を名乗ることはできなかったけれど、それでもわたしは彼のようになりたくて、彼の後を追うようにこの羽根を鍛え続けてきた。

 羽根が、周囲の振動を拾ってビリビリと震える。その振動幅と振動数が、声となってわたしの脳を震わせる。つきりと痛む頭を片手で押さえて、わたしは目を閉じた。深く呼吸をして、全神経をそこに落とし込む。

 

『神野区は半壊、死傷者多数──未だ行方不明者も……』

『ヒーロービルボードチャートJP!』

『不動のNo.1がまさかの!! 日本のみならずヒーローの本場アメリカでも騒然!』

 

『──オールマイト、本当の姿!!』

 

 病院から程近い、電気屋さん。その店頭に置かれた大きなテレビから流れるワイドショーで、声高に叫ばれていた、

 

『体力の限界!! 事実上のヒーロー活動引退を表明!!』

 

 ……平和の象徴(オールマイト)の、終わり。

 コメンテーターは平静を装いながらも、熱を帯びた声で続ける。オールマイトは既に限界を迎えた身体を引き摺りながらも、あの巨悪に立ち向かい、打ち倒したのだと。痩せ衰えた身体でなお、最後の力を振り絞って、正義の拳を振るったのだと。

 悲劇的で勇壮な英雄の姿は、たくさんの人の心を惹き付けたのだろう。惹き付けるのだろう。どのテレビ番組でも同じようなことが語られていた。

 ……ああ、羽根が、震えている。それに連動するわけではないけれど、窓についたわたしの左手も、震えた。

 

(彼はボロボロの身体で、あのAFO(オールフォーワン)に立ち向かった。……ううん、……立ち向かわせてしまった)

 

 あの夜に一度根本からむしりとられて、失って、……【治癒】によって新たに生え換わった羽根は、前よりずっと鋭敏になっているようだった。たくさんの音を、声を、わたしに届かせる。

 

『オールマイトやっぱすげェよ!! あの人こそ本物のヒーローだ!!』

『でももうヒーローやれないんでしょ? これから大丈夫なのかなあ』

『結局(ヴィラン)連合のほとんどは取り逃がしちゃったし』

『オールマイトの他のヒーローは何してたんだよ』

『オールマイトがいなかったら、今頃……』

『おかあさん……オールマイト、いなくなっちゃうの?』

『No.1ヒーローがいなくなって、これからどうなるんでしょう』

『彼がいなくなったら、これから、どうしたら……』

 

 テレビ越しの声が、通りを行き交う人々の声が、不安と悲しみで揺れている。そうさせて、しまったのは──

 

『そもそもの話、雄英生が拐われてなけりゃ、こんなことにはなってなかったんだ!』

 

(……ああ、)

 

 耳の奥で、胸の奥で、

 何かがわんわんと、木霊している。

 

 

 

 

「──空中(そらなか)!」

 

 ぐいっと肩を掴まれて、わたしは目を瞬かせた。その衝撃で羽根の振動に集中していた感覚が戻ってきた。わたしの足は病室の窓辺に立っていて、手は窓から離れて宙を掴んで、目は、わたしの肩を掴む彼を見ている。

 

「……相澤、先生……?」

 

 いつもは伸ばしっぱなしのぼさぼさ頭なのに、今は櫛で梳かされてハーフアップにまとめられている。無精髭も幾らか綺麗に整えられていて、極めつけは首もとまでボタンを留めたワイシャツにネクタイ。ヒーロースーツとは違う、かっちりしたフォーマルな装いを見るのは初めてだった。けれど疑問符がついてしまったのはそれだけが理由ではない。相澤先生の表情に疑問を覚えたからだ。どうしてそんなに、焦ったような目をして……

 

「あ、」

 

 さっきまでのわたしって、眉をしかめて目を閉じて、窓に向かって項垂れていて、右手は頭を押さえていて──うん、なんというかその、思い詰めたような背中をしていたのかもしれない。

 そう思い至って、わたしは眉を下げて微笑んだ。相澤先生の誤解を解くべく、努めて柔らかに声を紡ぐ。

 

「すみません、ちょっとだけ外の空気吸いたいなって、ぼうっとしてただけなんです」

「……それだけか」

「はい。ですからだいじょ、……」

 

 大丈夫。平気。だから気にしないで。

 そう伝えたかっただけなのに、気付いた時には、わたしは相澤先生のつむじを見下ろしていた。

 

「──すまん、空中」

 

 一瞬、言葉と呼吸を忘れる。歪にひゅっと喉が鳴る。目の前にある事実をやっとのことで飲み込んで、わたしは慌てて声を上げた。

 

「あ、いざわ先生!? なにを、」

「今回の件で、おまえに甚大な負担を強いた」

 

 いつも気怠げな声が、硬い。まるで氷のようだ。あまりに暗く、冷えきっていて、わたしまで凍りついたように言葉を失ってしまう。

 

「USJの後、“守られるべき立場”と説いておいてこのザマだ。神野のことといい、会見のことといい、おまえに要らん気を遣わせた。……何も守って、やれなかった」

「いっ、いいんです! ちが……わ、わたしは、」

 

 USJ襲撃後、車で送ってくれた相澤先生の表情と声を思い出した。あの夜よりずっと、ずっと、後悔が色濃く刻まれている。

 わたしなんかよりずっと、……苦しそうで。

 

「……頭を下げてほしいわけじゃ、なくて……」

 

 わたしが頑張った(・・・・)のは、そのためなんか、じゃ……

 

 

 

 

 

「はァい、そこまで」

 

 痛いほどの沈黙を、朗らかな声が破った。驚いて俯いていた顔を上げる。そうしてわたしは目を見開いた。目の前にはべちんっ、と──おでこを扇子で叩かれた、相澤先生。

 

「……何するんです、ミッドナイトさん」

「もうそこまででいいでしょ、ホラ顔上げてホラ」

 

 ほんのり赤くなったおでこを、うりうりと閉じた扇子でぐりぐりする。そうして彼女は軽やかな手捌きで扇子を広げた。そっと、静かに耳打ちした囁きを、羽根が拾う。

 

「俯いてばかりだと、肝心の相手の顔が見えないでしょうが」

 

 相澤先生の沈んでいた目が、僅かながらも開かれる。そこに光が差したのを見届けて、ミッドナイト先生は満足げに頷いた。彼女は黒髪を靡かせてわたしを見た。深い青色の目がゆっくりと瞬く。

 

「ミッドナイト先生……」

「ごめんなさいね、空中さん。かえってあなたに気疲れさせちゃったわね」

「! い、え、謝らないでください。わたしは本当に、大丈夫なので……」

「……優しい子」

 

 ミッドナイト先生が目を細めて微笑んだと同時に、ふわりと、優しい香りが漂った。ぐるぐる考え込んでいた心が、緩やかに凪いでいく。彼女の“個性”は【眠り香】。身体から放つ香りによって他人の行動や生理状態を支配すると聞いたことがある。眠らせるだけじゃ、なくて……、

 

(……なんだか、ほっとする……)

 

 何に例えるのが一番近いのだろうか。爽やかな花にも、甘やかなミルクにも似た、……優しい香り。

 

「身体の具合は、どうかしら?」

「だ、大丈夫です。ゆっくり眠れましたし、もう万全です」

 

 ……普段は“18禁ヒーロー”だなんて言っているのに。授業中でも鞭とか振り回して、まるで女王様みたいな振る舞いをしているのに。

 

「そう。……よかったわ、本当に」

 

 わたしを見つめる眼差しが、こんなにも優しい。

 

 

(…………ああ、)

 

 

 駄目。駄目だ、……緩んでは、駄目。

 この優しさに甘えてはいけない。駄目、……だめ。

 

 わたしは数秒、目を閉じた。その間に呼吸を整えて、目の奥の熱を散らす。そうして口角を吊り上げれば──ほら、もう、笑える。

 

「……お気遣いくださって、ありがとうございます、先生」

 

 わたしは十分過ぎるくらい守られてる。だからもう、しゃんとしないと。背筋を伸ばして、羽根のざわめきに耳を澄ませて、……確信を胸に口を開く。

 

「……どなたか、いらっしゃってますよね? 部屋の外に、お二人」

 

 わたしの声が聞こえていたのだろうか、戸惑うような微かな布ずれの音がする。部屋に入る機を窺っていたということは、医療従事者ではない。恐らくヒーローか警察の方……事情聴取のため、だろう。

 

「お待たせしてすみません。入ってください」

「空中、」

「先生。今は皆さん、お忙しいはずです」

 

 嗜めるような口調の相澤先生に、にこりと微笑む。そうして再度入室を促すと、少しの間を開けて静かな革靴の音がした。病室のドアを開けたのは2人。白シャツにネクタイを締めたスーツ姿の男性と、黄色を基調としたヒーロースーツの小柄なおじいさん。

 

「……すまないね、空中さん」

「少しだけ時間を貰えるかね?」

 

 申し訳なさそうに頭を下げて、彼らは名乗った。ネクタイの男性は塚内警部で、ヒーロースーツのおじいさんはグラントリノというらしい。そこでわたしは、はた、と瞬きをひとつ。

 

「グラントリノさんって、緑谷くんの、職場体験先の?」

「おう、そうだ。あの坊主がなんか言ってたか?」

「はい、あなたとの組手で、“個性”の制御ができるようになったって」

 

 嬉しそうに話してくれた、あの時の緑谷くんの顔を思い出す。それで頬が緩みそうになったのを、ああいけないと眉目を引き締めて、向き直った。

 

「……(ヴィラン)連合に拐われていた時のことを、お話するんですよね?」

「……すまない、頼めるかい?」

「はい」

 

 わたしはベッドに腰掛ける。塚内さんやグラントリノさん、先生たちがパイプ椅子に腰を下ろして、それぞれの視線を向けてくるのを認めて話し始めた。

 

「わたしは、林間合宿で拐われた時に気絶して……目を覚ました時には四方をコンクリートで囲まれた部屋の中にいました」

 

 扉も窓も、パソコン以外の光源も無かったから、そこがどこにあるのかはわからなかったけれど、と、あの時のことを脳裏に浮かばせる。

 

「そこに、AFO(オールフォーワン)と名乗る男性がいました。彼は目も鼻も潰れていて、たくさんの点滴に繋がれていて……『酷い怪我を負っているから、君の“個性”で治してほしい』と、わたしに依頼してきたんです」

 

 ざあ、と夏の風がカーテンを揺らす。みんみんとさざめく蝉の歌も相俟って外はとても賑やかだというのに、この部屋だけ酷く、静かだ。

 こくり。唾を飲み込む音が聞こえていませんようにと、心中で祈り、続ける。

 

「……わたしは、その要求を拒みました。AFO(オールフォーワン)とは初対面でしたが、誘拐の経緯から、(ヴィラン)連合と関係していることは予想できましたから。

 それで……、」

 

 口ごもるつもりはなかった。何でもないようにすらすら答える筈だったのに、呼吸が一瞬、ひきつる。

 たった瞬きほどの僅かな沈黙に、けれどミッドナイト先生は立ち上がった。わたしの傍に歩み寄り、そっと背中に手を添える。ふわりと漂う甘やかな香りは、わたしを落ち着かせようとする彼女の“個性”(優しさ)なのだろう。

 

(……ああ、失敗しちゃった、な)

 

 そんなつもりじゃないのに、うまくいかない。

 もどかしさと情けなさをへらりと笑って誤魔化した。そうして「ありがとうございます」とお礼を告げて、わたしは気を取り直して続ける。

 

「要求を飲むようにと、AFO(オールフォーワン)はわたしに暴行を加えました」

 

 先生たちの頬が強張った。けれどそれは動揺ではなく、想定していた事実を受け止める仕草に似ていた。……あの夜、あのバーに突入してくれたヒーローたちはわたしの負傷した姿を見ているから、報告がいっていたんだろうな。

 塚内警部は硬い表情で、重たげに口を開く。 

 

「……やはり、あれはトゥワイスの【二倍】による複製ではなかった、ということだね」

「はい」

「何故、メディアにはあのように言ったんだい?」

「……今回の件で、ヒーローや雄英を責めてほしくありませんでした」

 

 わたしがみんなを責められるわけない。だってわたしのせいだっていうのは純然たる事実だ。本当なら、公安で訓練を受けていたわたしが(ヴィラン)に後れを取ってはいけなかったのに。ちゃんとみんなを、自分自身を、守らなきゃいけなかったのに。

 謝るべきは、頭を下げるべきは、わたしなのに。

 

(言えない、な)

 

 わたしの身柄が公安にあることを言ってはならない。それは昔からの約束事でもあるけれど、わたしの保身でもあった。公安会長からの指示をいいことに、わたしは自分の汚い部分を押し隠す。

 わたしの本当の“個性”。大好きな人に【依存】して、彼らの“個性”(可能性)を奪う“個性”。両親の“個性”(未来)を奪っておきながら、我が物顔でそれを使っているわたし。こんな自分を知られて、みんなが離れていくのが怖くて──何度も嘘を吐くわたし。

 

(……汚い、なあ)

 

 やっぱりわたしの“だいすき”は汚い。

 それに比べて、先生たちはなんて優しいんだろう。こんなわたしを慮り、守ろうとしてくれている。もし“わたしのせい”って溢したら、“そんなことはない”、“気にしないで”って、そんな慰めが返ってくるのだろう。

 だから、駄目だ。言えない。……しまっておく。

 

「……それに、わたしが失った指や目を治した時は、とにかく無我夢中で……他の人も同じように治せるかどうか、まだわからないんです。ちゃんと治せるっていう確証もないまま、“怪我したけど治せました”って体で人前に出ると……混乱させてしまうと思って」

 

 怖くて公表できなかったのだと、“多少利己的な理由をちらつかせる方が信用される”。いつかの交渉術の訓練で学んだことだ。どくどく跳ねる心臓が痛い。そんな痛みなんか、罪悪感なんか無いって顔で──ちょうどいいぐらいの(・・・・・・・・・・)不甲斐なさを滲ませた笑顔で──笑え。

 

「この【治癒】を公表するのは、“救けて”って伸ばされる手を、ちゃんと取れるようになってからにしたいんです」

 

 そうしたら、ほら。相澤先生は静かに目を伏せた。さまざまな考えを巡らせながら、静かに、頷くように。

 

「……そうだな」

「ごめんなさい、相澤先生、わたしの勝手で……」

「気にするな。その方が、合理的だ」

「ええ。だから落ち込まないで、顔を上げて」

「ミッドナイト先生……」

 

 ……先生たちは、やっぱり優しい。いっそ甘いくらいに。

 信じてくれたことへの安堵と、騙した自分に対する嫌悪感。優しい相澤先生たちへの罪悪感が、どろりと胸で渦を巻いた。その泥に呼吸を一瞬奪われて、それを誤魔化すように小さく息を溢した。

 

「……少し聞きたいんだが、いいか?」

 

 そんな時だった。今まで沈黙を貫いていたグラントリノさんが、真っ直ぐにわたしを見る。

 

AFO(オールフォーワン)は、他人の“個性”を奪ったり、“個性”を強制発動させる“個性”を持っている。……それを、おまえさんに使わなかったのは何故だと思う?」

 

「──、」

 

 鋭い眼差しに、肩が揺れそうになるのを必死で抑えた。

 駄目。……動揺を、悟られるな。隠せ。押し殺せ。

 

「そう、だったんですね……、あの人の考えは、わたしにはよくわからないですけど……」

 

 さも“何もわからない”って顔で、真実混じりの嘘を吐け。

 

「恐らく、は……わたしを(ヴィラン)連合に引き入れたかったのだと思います。【治癒】“個性”持ちの雄英生が死ぬことよりも、(ヴィラン)の仲間になる方が、社会に与える影響は大きいでしょうし」

 

 グラントリノさんが嘘を吐く必要はない。彼の言う“個性”がAFO(オールフォーワン)にあったのは事実だろう。そしてそれを、わたしに使っていたはず……

 

(……多分、どちらも奴にとっては芳しくない成果だったんだ)

 

 トゥワイスの【二倍】による複製は“個性”をもコピーできるのに、わたしの複製には【翼】も【自己再生】も【治癒】も発現しなかった。【二倍】も、“個性”の強制発動も、“個性”の奪取も──恐らくわたしの本来の“個性”である【依存】に関与したのだろう。

 【自己再生】ならまだしも、【依存】なんてAFO(オールフォーワン)は必要としないはずだ。“個性”を自由に奪取できる奴からすれば、わたしの“個性”は下位互換もいいところだから。それを強制発動させたところで奴に利点は無い。

 

 そうやって、わたしは納得できる。理解した。

 ……でもこのことを、グラントリノさんには言えない。説明するにはわたしの本当の“個性”のことを話さなくちゃいけない。どうする、どうしたら、と考えを巡らせて──結局わたしは、狡い手を使わざるを得ない。

 

「あと、わたしはその時、欠損を治せるほどの力は持っていませんでした。……もしかしたらAFO(オールフォーワン)は、わたしを痛めつけて、追い詰めることで、【治癒】をより強くしようと……」

「空中、」

 

 声を小さくして、喉を固くして、俯きがちに話す。すると相澤先生が口を挟んだ。顔を上げたわたしを真っ直ぐに見ている。切れ長の黒い目に、焦燥と労りを乗せて。

 

「やめろ、もういい……もう十分でしょう?」

「あァ、悪かったな。……辛いことを話させた」

「……いえ、大丈夫です。こちらこそ、ごめんなさい。わたしにわかることは話した通りで、あまり役立つ情報は……」

「いいや。充分すぎるほどだよ。協力感謝する」

 

 “情に訴えて、話を有耶無耶にする”。……可哀想な弱い子どもの取った姑息な手は、大人に通用したらしい。

 幾つもの思いを込めて謝罪するわたしに、けれど塚内警部は追及せず、ぽんと優しく肩を叩いた。

 

「どうか、あまり気に病まないように」

「はい。……ありがとう、ございます」

 

 穏やかに微笑んだ塚内警部とグラントリノさんは、そのまま病室を後にした。ぱたん、と静かに閉じられたドアの音とともに、小さく息を溢す。

 

「先生方も、ありがとうございました。すみません、お忙しい時に……」

「塚内さんも言ってたが、おまえが気にする必要は無い。……別件もあるしな」

「別件、ですか?」

 

 部屋に残った先生たちは、椅子に座り直してわたしに向き直った。相澤先生は手にした鞄から、ある一枚のプリントを取り出し、わたしに手渡す。

 

「……雄英高校の全寮化?」

 

 そこに書かれていた文書にざっと目を通す。今年度の度重なる(ヴィラン)襲撃を重く見て、より強固に生徒たちを守るための措置だという。

 

(……多分、それだけじゃ、ないんだろうな)

 

 薄暗い推測は、今は飲み込む。

 プリントから顔を上げると、相澤先生が話を再開させた。

 

「寮制に移行するにあたって、全家庭に許可を伺ってるんだ」

「そうなんですね、……あの、その、親戚の叔父さんたちに連絡を取ってもいいですか?」

「おまえが昏睡している時、俺の方からも連絡を入れた。その結果、“愛依(あい)の好きにしていい”という風に聞いているが、」

 

 “親戚の叔父さんたち”というのは、勿論実在しない。戸籍は公安の方で細工してくださっているそうだけれど、わたしが学校に届け出た緊急連絡先は公安のとある職員さんに繋がるようになっている。元より円満な親族関係を演出する必要はないし、何かあっても必要最低限に対応するとは聞いていたのだけれど、

 

「……面談もできないほど忙しいのか?」

「……わたしのことにお時間を取らせたら、申し訳ないので」

 

 気遣わしげでありつつ、どこか不服そうな相澤先生は、わたしの“叔父さんたち”への不満もあるのだろう。ああ、と苦笑が浮かぶ。林間合宿での嘘も相俟って、わたしの親族関係は相当こじれていると思われてるんだろうなあ。本当は、そんな仲すら無いのだけれど。

 とりあえず重苦しくなった空気を変えようと、口角を持ち上げる。

 

「今はみんな、寮に引っ越したんですか?」

「ああ。元気だよ。仮免取得に向けて動いて、──」

「!」

 

 しまった、という顔を相澤先生がする。……ああそうか、わたしには黙っておきたかったんだろう。一応は病み上がりの身体なのだから、無理をさせたくないのかもしれない。

 彼は渋面をつくる。途端に険しくなった表情は、優しさのため。それがわかっているから、わたしは自然と頬がほころんだ。

 

「……相澤先生、わたし、何度か検査を受けましたけど、全て“健康”と診断されました。もう問題なく動けます」

 

 優しい人だ。冷たいようで、素っ気ないようでいて、そのくせ甘いくらいに優しい人。きっとわたしたち生徒のために、見えないところでたくさん心を砕いてくれているんだろう。

 

「わたしたちが仮免を取るのは、自衛のため、ですよね」

 

 そんな優しい人たちを、もう心配させないためにも。

 

「わたしも、ちゃんと、前に進みたいです」

 

 

 

 

 

 それから暫くして先生方が帰って行った後、わたしはピアスを使って公安会長に連絡を取った。会長も雄英の全寮制化について事前に知っていたらしく、すぐさま許可が下りた。

 

「寮に入るとなると、公安での訓練が出来なくなってしまいますが……」

『そのデメリットはあるけれど、仕方ないわ。ここで入寮を渋ると疑われかねない』

「……内通者、ですか」

 

 わたしの言葉を、会長は事も無げに肯定した。わたしの薄暗い推測は、彼女も想定していたらしい。

 誰も行き先を知らされずにいた林間合宿の場所を、どうやって(ヴィラン)連合は突き止めたのか──あの合宿にいた誰かが情報を流したなんて、考えたくない。けれどあらゆる事態を想定して備えなければ、また同じことが繰り返されるかもしれない。だからこそ雄英高校は全寮制へ踏み込んだんだ。生徒を目の届くところに置いておけば、その身を守れるし、行動を把握できる。もしも誰かが(ヴィラン)に脅されて情報を流していたとしたら──そうした誰かをも守れると、そう考えたのだろう。

 そんな風に思考を巡らせるわたしの鼓膜を、会長の淡々とした声が揺らす。

 

『とりあえず、あなたは入寮するように。ああ、それと、』

「、なんでしょう」

『そちらに来客があるわ。病室で待ちなさい』

「え……、は、はい」

 

 そんな言葉とともに通信を終えて、首を傾げる。わざわざ会長が言う“来客”とは誰なのだろう。うんうん頭を捻っても思い当たる節がない。

 そうして1時間ほど経って、窓の外が橙に染まってきた頃。ふいにノックの音がして、扉を開けて現れたその人に、わたしは驚きの声を上げた。

 

「……最上(もがみ)博士!」

「久しぶりだな」

 

 その声。黒髪。眼鏡を掛けた涼しげな顔。間違いない、この夏に行ったI・アイランドでお世話になった最上(かい)博士だ。彼はあの時と同じ仏頂面に、ほんの少し翳りを滲ませた。

 

「報道を見た。……大変だったようだな」

「……いえ、わたしは、そんな。……それよりI・アイランドはどうですか? ニュースを見るかぎり、そちらもお忙しかったのでは……」

 

 I・アイランドで起きた事件後、暫くしてからデヴィット・シールド博士と助手のサムさんが警察に出頭したというニュースが報道された。世界随一の技術者が集まると誉れ高いI・アイランドの科学者であり、あのオールマイトの親友でもあったデヴィット博士が(ヴィラン)に協力したという事件は、色んな物議を醸していた。

 その内容に思うところがあるのか、最上博士ははっと鼻で笑った。面白くなさげに目が細められる。

 

「だったらおまえも見ただろ? 『袂を分かったかつての親友に、オールマイトが正義の心で立ち向かった』のなんだの、ドラマチックに演出されていたのを」

「……はい」

「I・アイランドの不祥事を大事にはしたくなかったんだろ。だから大きな英雄の光を影に、有耶無耶にした。

 ……まァそのお蔭で、I・アイランドに対するバッシングもほぼ無かったからな。研究活動はすぐに再開できたさ」

 

 最上博士は、続ける。静かに目を伏せて。

 

「だがしかし、あのクソ真面目野郎はそれをよしとしない。きっちり罪を償ってくるんだと」

「博士……」

「だから!!!」

 

 静かに──目を伏せていたはずが、突然くわっと目を剥いた。

 

「だから、あいつが戻ってくる頃には階級も下がってるだろう! そこを僕が助手としてこき使ってやるのさ!! あいつを! 見下ろしながらな!!」

「相変わらずふり幅が大きい人だなあ……」

 

 これまでシリアスだった雰囲気が瞬く間に霧消したのがわかる。けたけましく響く高笑いに隠れて、わたしも微笑んだ。

 こんな悪の親玉みたいな笑い声だけれど、その実、彼はデヴィット博士が戻ってくると信じているし、その未来を待ち望んでいる。今回の事件では対立してしまったけれど、きっと彼の実力や研究成果を誰よりも認めているのは最上博士だ。きっとずっと、待ってくれる。

 暫くテンションが振り切れていた最上博士だったけれど、途中で看護士さんから「病室ではお静かに!」と叱られていた。それで我に返ったのか、咳払いをひとつ。冷静さを取り戻して話を再開させる。

 

「いいニュースもある。メリッサはうちの研究室に入った。今も元気にサポートアイテムを開発しまくってる」

「! そうなんですか、よかった……」

「ああ。で、そろそろ本題に入るぞ。そら──おまえの御所望の品だ」

 

 彼は重そうなアタッシュケースを開いて見せた。そこに収納されていた品に、わたしは瞬きをひとつ。

 

「ヘッド、フォン?」

「ああ。これがおまえの頭痛を軽減するサポートアイテムだ」

 

 わたしと常闇くんがホークスに連れられて最上博士に会った際、自分たちの弱みを補えるサポートアイテムを依頼した。それが目の前のヘッドフォンなのだと、最上博士は説明を続ける。

 

「こいつはおまえの羽根の振動を感知、増幅して聞こえやすくする。また、逆に脳の負担になるような音量は自動的に調節し、“聞こえすぎ”を緩和する。おまけに頭痛を軽減するツボ押し付きだ」

 

 黒を基調に、青の差し色が入ったデザインはシンプルなものだ。……あの人のものとは違うけれど、もしかして、

 

「これって、ホークスのものと……」

「ほぼ同じだな。ノウハウは奴のもので得ていたから、それの改良版となる」

 

 やっぱり、と小さな呟きがこぼれた。ホークスも最上博士にお世話になってるって言っていたもの、と過去の会話を思い出しながら目を伏せる。

 思い出す。思い出す、──神野でのあの夜を。

 

「……やっぱりホークスも、たくさん、聞こえてるんですね」

 

 きっとわたしだけじゃない。わたしよりも強く、鋭敏な【剛翼】を持つホークスのことだから、たくさんの声を聞いてきたんだろう。

 期待、羨望、声援。それだけじゃない。

 悲鳴に、怒声。痛みに呻く声、救けを乞う声、泣きじゃくる声、──命の責任を問う声、が。

 

 

 

「だからこそ、だ。選べ」

 

 

 

 ふと、暗闇に光が射した。

 そう錯覚させるような声色が、病室に響く。

 

「……最上博士……?」

「聞くべき声と、聞こえなくていい声を、選別するんだ。耳障りなノイズに頭を悩ませる必要はない」

 

 いつもの気だるげな半眼ではない。彼は真っ直ぐ、真っ直ぐな眼差しを、わたしに向ける。

 

「──おまえが、おまえたちが、選んでいいんだ」

 

 そうして告げられた言葉に、目を見開く。そんなことを言われるなんて、思っていなくて、……なんと返せばいいかわからないわたしに、今度は溜め息混じりの声が続く。

 

「空中、おまえはクソ真面目過ぎる」

「く、クソ真面目って、」

「自己犠牲はヒーローの常とはいえ、行き過ぎると潰れるだけだ。何でもかんでも抱え込んで解決したって、結局……」

「違うんです!」

 

 話を遮るなんて失礼な真似をしてしまった。その自覚はあるけれど、それでも口を出さずにはいられなかった。

 だってわたしは、何ひとつ、成せていない。

 

「……違うんです。わたし、もっともっと、頑張らなきゃいけなかった。まだ全然、何もかも、足りてないんです」

 

 わたしの【翼】がもっと速く強かったなら、(ヴィラン)連合に囚われて色んな人に迷惑と心配を掛けることもなかった。

 わたしの【自己再生】と【譲渡】がもっと強力だったなら、あの神野で苦しんでた人をもっと救えたはずだ。

 もっと、もっと、──あの日からずっと、後悔の声が頭の奥で鳴り響いている。

 

「……重症だな」

 

 暫くの沈黙の後、最上博士はそう呟くように言った。どこかもどかしそうに髪をかき混ぜて、深い溜め息を吐く。

 

「あの人ほどとは言わんが、もっと自由になれんものかね」

「あの人?」

「……“ただの善意の一市民”だと宣って、好き勝手に悪人殴ったりスナイパーライフルぶっぱなしたりする人だ」

「そ、そんなヒーローもいるんですね……」

「……まァもう(・・)ヒーローじゃないんだがな」

「、えっ?」

 

 “ヒーローじゃないのに、武力で悪人を退治する”?

 虚を突かれたわたしは混乱していて、それが何を指すのかわからずただ目を瞬かせた。

 

「昔、僕がとある街に住んでた時に世話になったことがある。……いや訂正だ! 誰が世話になるか! 僕が世話をしてやっていたんだ!!」

「も、最上博士、落ち着いて……!」

 

 最上博士が唐突に怒り出したこともあって、余計に何がなんだかわからない。あの人が誰なのか。どうして博士はこんなに怒っているのか。本当に彼の言う破天荒な人物が実在したのか。実在したのならば、──彼らの過去に何があったのか。

 

「あの人には本当に、……本ッッッッ当に手を焼かされたが……でもあの人は選んでた。自分に後悔の無いように」

 

 何もかもわからない中で、けれどひとつだけ、わかったことがある。

 

「選べよ、空中。おまえにとっての、最適解(・・・)を」

 

 最上博士は、わたしにそれを伝えたかった。

 わたしに“選ぶ”ようにと、そう訴えかけたのだ。

 

 その真意を理解し、わたしが“選ぶ”のはもう少し後のことなのだけれど──でも彼の言葉は、じんわりとわたしの中に広がっていった。窓から射し込む夕日のように、どこか寂しく、悲しく、それでもあたたかな想いが、心の奥底を微かに染めて。

 

「……はい、博士」

 

 きっと下手くそだったけれど、ちゃんと、笑えたんだ。

 

 

67.少女、聞こえる。

 

 


 

 更新遅くなりました!!書きたいものがあるのに思ったように書けなくてのたうち回ってました。次回は徐々に原作に沿っていくのでまだ書きやすくなると……信じたい……。

 

 今回のお話では①聞こえるオリ主、②相澤先生とミッドナイト先生のお見舞い、③事情聴取、④最上博士とヘッドフォンと色んなことを盛り込んでみました。どれも書きたかったところではあるんですが特にミッドナイト先生の大人な女性の包容力を書きたかったので嬉しいです。ヴィジランテでミッドナイト先生の魅力がいっぱい描かれていて、読んでいてすごく好きになったんですよね。もっといっぱいオリ主と絡ませたい。

 

 そして最後はヴィジランテの某キャラのフラグを立てました。後々の展開を今改めて固めているのですが、その中でクロスオーバーとして登場するかもしれません。その時は悪しからずご了承いただければ幸いです。

 

 最後になりましたがいつも閲覧、お気に入り、感想、評価等々ありがとうございます!!こんなぐだぐだssですが皆様のお蔭でなんとか更新できています。本当に本当にありがとうございます!



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68.少女、気付かない。

 

 神野事件以降1週間ほど眠り続けたわたしは、問題なく日常に復帰できるほど回復していた。【自己再生】の“個性”が上手く作用したのだろう、失った手指の感覚もちゃんとあるし、幻肢痛などもなく、すっかり元通り。だから退院して雄英に戻れると訴えたのだけれど、それは受理されなかった。院長さん曰く『いくら回復しているとはいえあれほどの大怪我を負ったのだから、経過観察のために暫くは入院していてほしい』ということだった。

 

(……もしかしたら、公安からの要請もあったのかもしれない)

 

 会長はわたしの【治癒】が欠損も治せることについて、各関係者機関に根回しすると言っていた。経過観察というのは、わたしの健康状態を通して【治癒】の威力・精度を調べるという意味合いもあるのかもしれない。

 そうした色んな思惑はあれど──とりあえずわたしは院内の施設を借りて“個性”訓練を重ねた。セントラルは国内最先端最高峰の治療を受けられる病院。“個性”に纏わるリハビリテーションに関しても注力していて、院内には“個性”機能回復訓練用の設備や機器も調っている。そうした設備を活用して【翼】による操作や飛行の感覚を取り戻す傍ら、【自己再生】と【譲渡】の“個性”訓練も兼ねて、わたしは入院患者の治癒をして回っていた。……はじめは多方面から渋られたものの、【治癒】系“個性”持ちリストに寄せられた要請の多さや、【翼】の“個性”機能訓練の結果は問題なしの健康優良児であること、これも【治癒】の訓練であるということを主軸に説得した結果、目良さんや院長さん、相澤先生たちの首を縦に振らせることに成功したのだ。

 

 そんな日々を送って、数日。ついに退院の日が訪れた。

 まだ熱が上がりきらない朝の中、涼しげな風が吹き込む。静かな病室には、はらはらと揺れるカーテンの音と、わたしがドアを閉める音しか聞こえない。そっと足を進めると、ようやく羽根が微かな寝息を拾い上げた。

 それほどに静かに、静かに──まるで時が止まっているかのように、彼は眠っている。

 

「……、」

 

 声を殺して、深呼吸。指先に意識を集めて、触れる。ベッドに横たわる彼の手は酷く冷たくて、嫌な考え(・・・・)が脳裏を掠めた。それを振り払うべくエネルギーを注ぎ込む。わたしの熱を彼の元へ。凍えないように、止まらないように、もっともっと、もっと──

 

 

「──やめなさい」

 

 低く柔らかな声とともに、わたしの手が優しく引き剥がされる。きっちり整えられている前髪から、鋭い目がわたしを射抜いた。

 

「君の【治癒】は君自身のエネルギーを使うのだろう。そこまでエネルギーを振り絞ると君の体調が危うくなる。色落ちジーンズのように」

「……おはようございます、ベストジーニストさん」

 

 彼が至極真面目な顔で口にするデニムジョークは、何というか、笑いどころが難しい。それでも彼の思いは伝わる。わたしを、元気付けようとしてくれている。それがわかっているからわたしは笑った。多少苦笑めいてはいるけれど、それでも明るく、振る舞わなきゃ。

 

「平気ですよ。このくらい何ともないです」

「許可できない」

「……こんなのいつもの【治癒】の範疇じゃないですか」

「今日は仮免試験があるのだろう」

 

 淡々と進む会話。その中で出てきたワードに瞬きひとつ。ベストジーニストはさらりと言ったけれど、今日がその日だとわたしは伝えていなかったはずなのに。

 

「いいか。よく聞きたまえ、空中(そらなか)くん」

 

 驚きに息を飲む間に、ジーニストは畳み掛けてくる。

 

「君には感謝している。君がこの数日掛けてくれた【治癒】のお蔭で、こちらの体調は大きく回復した」

「……ですが、」

「私は君に、感謝している。だから君は私に対し、『どういたしまして』と微笑むべきなのだ。『もっと感謝しろ』とふんぞり返ってもいい」

「っそんなことできませ、」

 

「──贖罪(・・)の気持ちを抱かれるよりずっといい」

 

 わたしの言葉を遮って、ジーニストはきっぱりと言い切った。その声にも、8:2(ハチニイ)分けにされた前髪にも、鋭い眼光にも、一切のほつれは見当たらない。一糸乱れぬ真っ直ぐさで、わたしを射抜く。

 

「私の片肺が欠けたことは、決して、君のせいではないのだから」

 

 朝日のように眩しく優しい言葉だった。わたしなんかには勿体ないくらい、彼が心を砕いてくれているのがわかる。

 ──けれど、同時に。どうしてもわたしの脳裏に焼き付いて離れない光景がある。瓦礫と化した街並み。痛みに呻く声。コンクリートに染み着いた鈍い赤色。泣きじゃくって、疲れ果て、消えていった赤ちゃんの泣き声。髪を振り乱して倒れている、傷付いたヒーロー(ジーニスト)の姿。──あの夜がまだ、終わっていない。

 

「…………、」

 

 だからわたしは何も言えず、黙り込んだ。謝罪の言葉も否定の言葉も封じられたなら、わたしに言えることなんて何一つ残らなかった。カラカラになった喉で沈黙を飲み込んで、しばらく。ふう、とひとつ、溜め息が落ちた。

 

「些かウィットが足らず直接的な物言いになってしまったが、許してくれ。なにぶん君は『でもでもだって』が過ぎる」

「そっ、……そう、なん、でしょうか……」

「ああ。素直にこちらの話を聞いているように見せかけて、聞く耳を全く持たない。そのふわふわ猫っ毛とは裏腹にガチガチの頑固者のようだ」

「……怒っておられるんですか」

「違う。……激励のつもりだ」

 

 激励、……その言葉に、俯きがちだった顔が持ち上がる。わたしの窺うような視線を受け止めて、ジーニストは頷いた。

 

「私もかつて、雄英生の1人として仮免試験を受けた身だ」

「! そうだ、OBでしたね」

「ああ。だから、先輩風を吹かせてもらおう」

 

 そう言って、ジーニストは両手の人差し指をぴんと立てた。その間に1本の白い線が走る。

 

「君にはこれが何に見える?」

「……糸、ですよね?」

 

 ベストジーニストの“個性”【ファイバーマスター】は、繊維を自由自在に操れる。その“個性”によって彼の入院服からほどかれた糸のひとつ、……のはずだ。それ以外の解答がわからず首を傾げるわたしに、彼は肯定とも否定とも言えない仕草で頷く。

 

「そう、これは糸であり、君でもある」

「? ……えっと、……」

「わかりづらいか? ならば言い方を変えよう。──1人とは、1本の糸なのだ」

 

 朝日を受けて、その糸はきらりと存在を証明するかのように輝いた。

 

「ただの一糸では脆く儚く、夢半ばで千切れてしまうこともあるだろう。しかし糸はただそれひとつで存在することは稀で、大概は他の糸と共に編まれるもの」

 

 その糸が、見るまに太く結われていく。ついさっきまでは手で千切ってしまえそうだった糸が、複数の糸で編み込まれ、太く、強く、頑丈になっていく。

 

「例えどんなに1本の糸が細くとも、縒って連なれば縄となる」

 

 1本ではなく、たくさんの糸があれば。

 1人ではなく、誰かがいれば。

 きっと千切れはしないのだと、ベストジーニストは言葉を重ねる。静かに、淡々と、真摯に。ひとつひとつの糸を丁寧に編んでいくみたいに。 

 

「共に在る人を、大切にしなさい」

「共に、在る人……」

「その人をちゃんと見て、話に耳を傾ける。そうして自分に向けられた言葉の意味を、きちんと理解することだ」

 

 ベストジーニストはいつもクールな表情を崩さない。だからこれも微笑みではなかったのだろうけれど、……それでも僅かに、目元が綻んだような気がした。

 

「クラスの皆と共に、頑張ってきなさい」

「……、はい!」

 

 まだちゃんと、彼の言葉の全てを咀嚼できたわけではない。それでも彼の激励はわたしの胸を熱くさせた。俯きがちだった目に力が籠る。頑張らなきゃと、胸元を握り締めた、その時。

 

 

「いやァ、思いがけず、いい話を聞けちゃったな」

 

 

 そんな声が入り口から聞こえて、驚いて振り返る。するとそこに、へらりと笑う彼の姿があった。

 

「ホークス、さん!」

「やほ。久しぶりだね空中さん」

「……、お久しぶりです。どうしてここに?」

 

 あの夜に病院で会ったことは内密に、ということらしい。その意図を飲み込んで尋ねると、彼は室内に歩みを進めながら答えた。

 

「雄英と連絡を取り合ってね。今日の仮免試験場まで、俺が君を送っていくことになったんだ」

「えっ、……え!?」

「ふは、いい反応」

 

 声を裏返すわたしを可笑しげに笑うホークス。……とてもじゃないけれどわたしは、そんな風に落ち着いてなんかいられない。驚きで胸がばくばくして、うるさい。

 

「マスコミ対策か」

「ですです。彼女が『自分は傷を負っていない』と証言したにも関わらず、入院を続けているのは何故かって、また要らん火種を起こされるのもちょっとね」

「なるほど、マスコミに目をつけられず退院する──そのための(ホークス)か」

 

 心中穏やかではないわたしを余所に、ホークスとジーニストは訳知り顔で頷き合っている。訳がわからずにいるわたしが疑問符を飛ばしていることに気付いたのか、振り返ったホークスはにんまりと笑みを深めた。

 

「学校から『退院時の荷物は寮へ郵送しておく』って話は聞いたでしょ?」

「は、はい」

「で、今君が持ってるのは最小限の手荷物と試験に必要なコスチュームケースだけ」

「そう、です」

「ホラ、飛ぶ(・・)準備は万端だ」

 

「……、え」

 

 マスコミに目をつけられずに退院する。最小限の荷物。駆けつけたホークス。飛ぶ(・・)準備。──並べられたピースがゆっくりと嵌まって、ひとつの答えを描き出す。

 答えを求めて見つめるわたしに、ホークスは頷きで答えた。

 

「さァ、快適な空の旅へご招待、ってね!」

 

 

 

 

 そんなこんなでベストジーニストの病室を後にしたわたしは、ホークスに連れられて病院の屋上に向かい、そこから空高く飛んでいた。高度が上がり、わたしたちの他には誰も見えなくなった頃、びゅうびゅう吹き荒ぶ風の中でホークスが口を開く。

 

「結構飛行姿勢サマになってるじゃん」

「うん! 何だろう、最近羽根の調子がいいみたいで」

 

 どういう原理かはわからないけれど、AFO(オールフォーワン)によって毟られて一度喪った【翼】は、前より強く、速くなって生え変わった。病院内の施設で機能訓練している時も、より重いものを少ない枚数の羽根で持ち上げられるようになっているなどの違いを感じたけれど、こうして大空を全力で飛んでいると、改めて以前の自分との違いを実感する。

 翼を広げて羽ばたくわたしに、ホークスはふぅんと相槌を打って、

 

「じゃあこの手はもう繋がなくていいかな?」

「えっ、や、待って、待ってホークス……!」

 

 わたしと繋いだ左手をほどこうとするものだから、慌てて待ったを掛ける。試験会場までの道すがら、せっかくだから飛行訓練をしようということで、今はホークスと同じくらいの飛行スピードで飛んでいる。こんなスピードで飛ぶのは初めてのことで、ちょっとでも翼と身体のバランスを崩せば落っこちてしまいそうで、──そうした理由を並べながら、繋いだ手に力を込める。

 

「お願い、もう少しだけでいいから、繋いでいて……?」

「……仕方ないなあ」

 

 ホークスはしょうがないなァと、目を伏せて笑う。そんな風にして甘ったれなわたしを許してくれるのだから、駄目だと思いつつも頬が緩むのを止められない。

 

「それにしても、びっくりした。まさかホークスが来てくれるなんて思わなかったから」

「職場体験での縁もあったしね。空を行くメリットもあったし、雄英側も納得してくれたよ」

「そっか、……ふふ、」

 

 止められない。心と顔がふやふやに蕩けていく。

 そんなわたしの少し前を行くホークスが、肩口で振り返ってわたしを見て目を丸くした。意外そうな目が、可笑しげに弧を描く。

 

「なァに、にやけちゃって」

「に、にやけてなんか、……あるかも」

「あれま、素直だ」

「だって! ……だって、嬉しいのには、違いないもの」

 

 甘えちゃ駄目。ちゃんともっと、頑張らないと。

 ちゃんとわかってるから、だからどうか、今だけは。

 

「ホークスと一緒に飛べて、嬉しい」

 

 あの神野での夜。わたしは死んでしまうかもしれないと思った。死んでしまっても仕方ないって、“大丈夫だ”って覚悟して、意地を塗り固めて、……オールマイトの登場でそれ(虚勢)が溶けた時に、溢れ出した想い。

 

 ──生きて、また、ホークスに会いたい。

 

「……嬉しいんだよ、啓悟くん」

 

 迷惑と心配を掛けてしまったことを、もっと謝らなきゃいけないし、これ以上こんなことがないように早く強くならないといけない。

 けれど今、わたしの胸を埋め尽くすのは嬉しさばかりだ。

 彼が傍にいる今この瞬間が、こんなにも、嬉しい。

 

「──、安上がりだなァ」

 

 ホークスは笑った。けれど顔を前に向けてしまったから、その表情は見えない。少しの沈黙と共に呟いた声が、ほんの僅かに、掠れて聞こえた。

 それに微かな違和感を覚えて、わたしは繋いだ手に力を込めた。すがるように。訴えるように。

 

「そんなこと、ないよ」

「そんなことあるよ。……もっとおまえは、我が儘言って、色々ねだっていいんだってば」

 

 ホークスも手を強く握り返した。でもそれは、何故だろう。わたしの声を振り払う仕草に似ているような、そんな気がした。

 

「もう十分過ぎるくらい、嬉しいよ。……幸せだよ」

「そういうところが、馬鹿なんだよな」

「なっ、ば、馬鹿って、そんな風に言わなくてもいいのに」

 

「──愛依(あい)、」

 

 からかわれて、それにわたしが怒って、ホークスが宥める。そうしたいつもの(・・・・)流れを断ち切るような声で名前を呼ばれた。はっとして言葉を引っ込めてホークスを見つめる。視線が絡む先で、ホークスは、目を細めて微笑んでいた。

 

 

「愛依、おまえは──ヒーローに、なりたい?」

 

 

 この時ホークスが、何を思ってこんなことを訊いたのか。

 

 

「うん!」

 

 

 わたしは何も、気付けなかった。

 気付けないまま声を改め、強く強く、頷いた。

 

 

「ヒーローになりたいし、なるよ。絶対。……もっとちゃんと訓練を重ねて、強く、速くなって……正しく“個性”を使えるようになる。

 そうしてたくさんの人を、救けられる人間になりたい」

 

 そうして意気込んで話している間、わたしは自分の手のひらを見ていた。ホークスの顔を、その表情を見ていなかった。

 

「……そっか」

 

 どこか寂しさを含んだ声色に、そこでようやくわたしは顔を上げた。でももうその時には、ホークスはいつもの軽やかな笑顔で小首を傾げていて。

 

「……ホークス?」

「ん? なに?」

「いや、ホークスこそ……何か、あった?」

 

 さっきから何らかの違和感があって、そこに手が届きそうなのに、すり抜けていくような。火花のような焦燥感が、不安の底をじんわり焦がす。

 

「最近忙しかっただろうし……あ、怪我とかしてない?」

「してないしてない」

「しんどくはない? 熱みたいな自覚症状が無くても、疲れが溜まってるとかは?」

「しんどくないって! 相変わらず心配性だなあ」

「そう? ……辛くない?」

 

 そうっと、手に力を込める。

 ホークスもまた、力を込めて握り返した。

 

「──辛くないよ。俺は、大丈夫」

 

 その瞬間、ヒュッ──と視界がぶれた。これまで一定に保たれていた高度が急激に下がり、落ちていく感覚に悲鳴が溢れる。

 

「わあっ!?」

「ホラ、着いたよ」

「え、え……っ!?」

 

 逆風に目を凝らすと、眼下に大きな競技場が見えてきた。国立多古場競技場──これが、今回のヒーロー仮免許取得試験の会場。

 石畳の上に降り立つと、長時間のフライトの影響か足元がふらついた。それを支えてくれたホークスを見上げてお礼を言う。街路樹の木漏れ日が、彼の顔に涼しげな影を落としていた。

 

「緊張してる?」

「……すごくしてる」

「素直。……まァ雄英だし色々あるだろうけど、おまえなら、落ち着いて頑張ればきっと大丈夫だから」

 

 自信を持って、行っておいで。

 そう背中を押されたから、わたしは笑って、歩き出そうとした。

 

「うん、ありが……」

 

 言葉と歩みが途切れる。くんっ、と引っ張られる感覚にたたらを踏んだ。目を見開くと、繋いだままの手が視界に映り込んだ。

 

 ……ああ。離すの、忘れてた。

 

 何やってるんだろうと苦笑が溢れて、じわじわ頬が熱くなる。情けなくて、不甲斐なくて、恥ずかしくて、それでもやっぱり嬉しかったから、自分からはほどけなかった。

 

 それから、たった数秒ほどのこと。

 

 繋がった手が、ぎゅうっと痛いほどに握られて。それからゆっくりほどかれた。わたしの指先とホークスの指先が微かに触れ合って、惜しむように残されていた熱が、するり、遠ざかっていく。

 

「行ってらっしゃい」

「うん、……」

 

 ひらりと手を振る彼に向かって、わたしも手を振って。そうして笑って、背中を見せて駆け出した。

 

「……いってきます!」

 

 

 もう少しだけでいいから、繋いでいて欲しかった。

 それは我が儘と知っていたから、しまっておくことにしたんだ。

 

 

68.少女、気付かない。

 

 


 

 ベストジーニストの口調わからん!!!とのたうち回っていたんですが途中から楽しくなってきました。似非感があるかもしれませんがお目こぼしいただければ幸いです。

 ホークスとの会話もこのssを書き始めていた当初から考えていた展開ですので楽しく書けました。ホークスの真意は後々のホークス視点回にて。

 

 最後になりましたがいつも閲覧、お気に入り登録、評価、感想等々ありがとうございます!!!真面目に更新の糧ですしリアル生活の活力となっています。多分皆さんが思っておられる5倍ぐらい嬉しく思っています。いつもありがとうございます。

 次回はやっっっと仮免試験です。長かった……!目良さん+ホークス+αによるオリ主の授業参観~血みどろ成分を込めて~が開幕です!



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69.少女、引き締める。

 

 ホークスに仮免試験場まで送ってもらったのは、マスコミを含めた人目を避けるため。そのためか、わたしが着いたのは受付終了間際のぎりぎりだった。会場前にも受付にも更衣室にも人影は無く、慌ててヒーロースーツに着替え終わったわたしは小走りで試験会場に駆け込んだ。

 スタジアム中央には大きなグラウンドがあるはずなのだけれど、通されたそこは四方を壁で囲んだ白い部屋だった。窓は無く、前方に大きなモニターと演壇がある。こんなところで試験が出来るのか、何をするのか、と不思議に思って周囲を見渡すと、幾つもの視線とぶつかった。そこそこに広いこの部屋を埋め尽くさんばかりの、数多の、何人もの受験生たち。

 

(思ってたより多い。……それに、)

 

 視線が痛い。そっと視線を持ち上げて辺りを窺えば、たくさんの人たちがさまざまな目をしてこちらを見ているのがわかった。驚きに目を見張る人もいれば、気遣わしげに眉を下げる人も、興味深そうにしげしげと眺めてくる人もいる。それ以外の感情を以てわたしを見やる人も、きっといるのだろう。向けられる視線の雨は色とりどりで、一緒くたに混ぜられたそれが、重苦しい灰色の雲になって心の中に垂れ込めた。

 ……こうなることは、わかっていたはずだ。元々雄英生は体育祭の関係で衆目を浴びやすい。名前や外見はもちろん、戦闘スタイルや“個性”すら割れているのだから、こうした試験では格好の的だと聞いたことがある。それにわたしは神野の一件でマスコミに報道されたのだから、人目を集めるのも仕方ないこと。

 

 だから、大丈夫。気持ちをちゃんと、落ち着けて。

 そう胸中で繰り返して深く息を吸い込んだ──その時。

 

 

「あっ!! アンタ雄英の……空中(そらなか)サンっスよね!!?」

 

「!?」

 

 突然大声で名前を呼ばれて、驚きとその声量に肩をすくませる。恐る恐る振り返ると、小走りでこちらに駆け寄って来る1人の受験生がいた。

 パイプとチューブといった機構と、ファーの着いたレザー生地のヒーローコスチュームは、スチームパンクの世界観を模しているようだった。のしのしと近付いて目の前で立ち止まった彼は、見上げるほどに背が高い。

 

「……はい。確かにわたしは空中ですけど、あなたは?」

「ああしまった! どうも大変失礼致しましたァ!!!」

「ひぇ……!?」

 

 名前を尋ねただけで咎めてはいないのに、彼はグオン!ガシッ!と風圧さえ感じる機敏さで気を付けをした後、思いっきり床に頭を打ち付けた。ガァン!!と轟く音はおよそ人の頭が出していい音ではない。案の定、顔を上げたその人は額からどくどくと血を流している……!

 

「ちょっ、ちょっとあなた、」

「俺は士傑高校1年!! 夜嵐イナサっス!!!」

「名前!? ええとはい、どうも、いやそれより血が、」

「血スか!? 平気っス!! 好きっス血!!」

「好きとかそういうのは関係なく頭部からの出血は駄目です!!」

 

 外出血はまだしも内出血や脳の損傷に繋がっていたらどうするつもりなんだ、とこちらも思わず大声が出てしまう。軽く飛び上がって視線を同じにして、彼の頭部に触れた。そうして【自己再生】のエネルギーを【譲渡】する。治癒の感じからして内側は損傷していないようで、ほうっと胸を撫で下ろしながら手を離した。床に降り立って、夜嵐と名乗った彼を見上げる。

 

「その、夜嵐くん。とりあえず治癒は問題なく終わりましたけど、あまり頭部に強い衝撃を与えることは避けて、」

「すっげー! もう治ってる!!」

「わっ、わかってますか? 聞いてますかわたしの話!?」

「聞いてるっス! ありがとうございまっス!!」

「……う、えっと、……はい……」

 

 会って1分で治癒することになるなんて驚きの連続だけれど、多分、悪い人ではないんだろうな。ただこちらがたじたじになるほどに元気で、熱血で、素直な人なんだ。それがわかったからくどくど説教する気にもなれず、溜め息と一緒に言葉を飲み込む。

 

「空中サン、他の雄英の人らと一緒にいなくていいんスか!?」

「その、わたしは諸事情で遅れてしまって。今来たばかりなんです」

「そうなんスね!! 一緒に探しましょうか!?」

「あ……、いえ、大丈夫です。これだけたくさんの人がすし詰めになってるんです。あまり動き回っては他の受験生さんたちに迷惑かもしれませんし」

「なるほど!!」

 

 すごく元気に受け答えをする人だなあと思いながら、フムフム頷く夜嵐くんを眺める。彼は勢い良く首肯した後、一転、ぐぐぐと首を傾げた。

 

「けど空中サン、やっぱ雄英の皆さんと合流した方がいいんじゃないスかね!?」

「え?」

「ホラ、“雄英潰し”っていうじゃないスか! 色々情報がバレてる雄英が、こういう試験でマークされて脱落することが多いって!!」

「……えっと、それここで言っちゃ駄目なやつなんじゃないでしょうか……」

 

 “雄英潰し”の単語を耳にして、周囲の何人かが気まずそうに視線を逸らしたのがわかった。恐らく雄英生でありながら1人でいるわたしに狙いをつけた人たちだったのだろう。暗黙の了解で行われるはずだったそれを、こうも堂々と本人に言ってのけるとは。思わず苦笑が溢れてしまったけれど、

 

「だって俺、あんたに落ちてほしくないっスから!」

「……? ありがとうございます、でもどうして?」

AFO(オールフォーワン)にあんだけ毅然と立ち向かえるんスよ!? めちゃくちゃ熱いじゃないスか!!」

 

 ──頬が強張るのを、内頬を噛んで誤魔化した。わたしが返答を選んでいる間にも、夜嵐くんは次々に捲し立てる。

 

「相手は(ヴィラン)のボス!! 巨悪!! その要求を飲まずに突っぱねる姿!! 激アツっスよ!!」

「……そんな、褒められるようなことじゃ、」

「謙遜しなくてもいいじゃないスか!! あんたがしたのはスゲーこと(・・・・・)なんスか……」

 

「──すごくなんか、ないです」

 

 胸の奥からせりあがる激情を、無理やり押さえ付けたような、そんな酷い声色だった。はっと我に返った時にはもう遅く、言葉は放たれた後。口許を手で覆って重い首を持ち上げると、ぽかんと目と口を大きく開けた夜嵐くんがいて、わたしは謝罪とともに話し出す。

 

「……ごめんなさい、いきなり。

 ただ、その……“すごい”っていうのは、本当に違うんです。わたしはあの時、何も出来なかったから」

 

 じわじわと後悔が押し寄せて、語尾を掠れさせる。こんなのただの八つ当たりだ。夜嵐くんは善意で言ってくれただけなのに。その気持ちを汲んで、「ありがとうございます」って柔らかく応えるべきだったのに。こちらの余裕の無さを、何も知らない相手にぶつけてしまった。

 もう一度謝罪を重ねようとして、顔を上げる。──そうしてわたしは目を見開いた。大柄な夜嵐くんの頭が、わたしの目線の下にある。そしてそれを押さえ付けている、もふもふとした……毛?

 

「……えっ?」

「うちのが大変失礼した。空中くん」

「え、……いえ、そんなことない、です」

 

 先程わたしが“毛”と称したのは、長毛に覆われた腕だった。全身を覆う毛はきっと彼の“個性”なのだろう。頭に乗っている士傑の校章が入った制帽は、夜嵐くんのものと同じだった。困惑しきったわたしを案じてか、目の前の彼は穏やかな声で話し始める。

 

「イナサは良くも悪くも真っ直ぐな男でな。悪気があったわけではないが、デリケートな問題に口を挟みすぎた。許してくれ」

「本ッッッ当に、失礼致しました!!」

「大丈夫です。こちらこそすみませんでし、夜嵐くん! また頭を強打したらそれこそ怒りますからね!」

「ウッス!!」

 

 グアッ!と床スレスレを掠めた頭が勢いよく元の場所に戻るのを確認して、溜め息とも安堵ともつかない息を溢す。そんなわたしの前に手が差し出された。特徴的な指抜きグローブを辿っていくと、鋭い切れ長の目とかち合う。

 

「私は肉倉精児という」

「あ……初めまして、わたしは空中といいます」

「委細承知している。君の、神野における言動も」

 

 軽く握手して、離れた手。その指先に僅かに痺れが走った。彼の鋭い眼差しに、静かに静かに、唾を飲み込む。

 

「緊急時であったことも理解している。尊き人命が懸かっていたことも。……しかし肝に銘じるべきである。──我等は未だ、ヒーローに非ずと」

「……、はい」

 

 彼の注ぐ視線に、忠告の色がはっきりと刻まれている。それから目を逸らすことだけはしたくなくて、わたしは殊更深く、頷いた。

 神野事件の日。あの夜の中。わたしは無免許であるにも関わらず治癒して回っていた。『緊急時であったから』『人命を救ける為だから』──だから“仕方ない”と見て見ぬふりをする方が楽だというのに、肉倉さんはそうしない。……きっと、いい加減にはできない人なのだろう。良くも悪くも、時に苛烈になろうとも、それで批判を受けることがあっても、自分の信じる正しさに真っ直ぐなのだろう。

 ……その苛烈さが心地いい。自然と背筋が、伸びる。

 

「わかっています。わたしは規則を破りました。そのことは、揺るぎのない事実です」

「……努々、忘れぬように願う」

「はい」

 

 重ねて首肯すると、そこでようやく肉倉さんの眼差しが緩んだ。……“緩んだ”とはいっても僅かなもので、未だその表情は険しい。きゅっと、眉間に皺が寄っている。

 

「皆、君のように謙虚かつ、品位ある者であれば良いのだが」

「……わたしはそのように、褒められるべき人間ではありません」

「否。少なくとも、爆豪とは雲泥の差である」

「……、」

 

 彼の、硬い口調や睨むような眼差しの先に、爆豪くんがいる。それがわかってわたしは言葉に迷い、沈黙とともに思考に沈んだ。

 爆豪くん。A組のクラスメイトで、間違いなくヒーロー科の一員ではあるのだけれど、表情や目つき、果ては舌鋒まで鋭く、立ち振舞いも結構荒れ狂っている。体育祭での宣誓や表彰式での様子を見て、色んな人が彼に悪感情(ヘイト)を抱くこともあったのだろう。

 粗暴で、ふてぶてしくて。ヒーローより(ヴィラン)みたいだなって言われるくらい態度も口も悪い。……それでも、

 

「爆豪くんは──」

 

 でも、決して、それだけの人じゃない。

 

「彼は確かに、荒く、攻撃的な言動が目立ちますが、……でもそれだけではなく、ひたむきに上を目指す強さを持った人です。

 わたしは神野で、彼にたくさん……励まされました」

 

 わたしが死柄木やAFO(オールフォーワン)の言葉に揺れそうになった時、確固たる意志を以てわたしを叱責してくれた。原点(オリジン)に足を踏み締めて、しっかり前を向いて立ち続けていた。

 そんな彼の姿にわたしがどんなに勇気をもらったか、直接目にしていない肉倉さんにはわからないのかもしれない。それでも、少しでも伝わってほしくて。わたしは彼から視線を逸らさない。

 

「……俄には信じがたい。それだけ彼奴の挙止は目に余る」

「そうかもしれません。けれど、わたしが言ったことにも嘘はありません」

 

 見据えるわたしの視線と、目を細める彼の視線が交錯する。真っ直ぐぶつかり、まるで火花が散ったかのような錯覚さえちらつく。そんな沈黙が数秒続いた後、肉倉さんはふいに踵を返した。振り向きざま、わたしを睥睨する。

 

「やはり納得しかねる。

 なればこそ──此度の試験で、見定めるとしよう」

 

 そんな言葉を残して、彼は歩き去って行く。その背に夜嵐くんたちが足早に続いて行くけれど、戸惑うわたしは呼び止めることさえできず、ただ立ち尽くしていた。

 

「……見定める?」

 

 肉倉さんは。彼は一体、何をしようとして──

 

 

「あんまり気にしなくていいですよ」

 

 困惑の只中にいたわたしの肩を、ぽん、とその人は叩いた。士傑高校の制帽を被った、黒いボディスーツの女の人。

 

「……、ありがとう、ございます」

「フフ」

 

 わたしより少し年上だろうか、大人っぽい唇が印象的な綺麗な人だ。彼女はひっそり微笑んで、少しだけその長身を屈める。緩く波打つ亜麻色の長髪が、さらり、流れ落ちた。

 

またね(・・・)

 

 耳元で囁く彼女の顔が、逆光でよく見えない。

 彼女はそのまま、音もなくわたしとすれ違って──人混みの中に消えていった。

 

 

 

 

 

「えー……ではアレ、仮免のやつを、やります」

 

 士傑の人たちとの邂逅から間もなく、部屋の前方から声がした。はっとしてそちらに顔を向けると、壇上に彼の姿。

 

「あー……僕ヒーロー公安委員会の目良です。好きな睡眠はノンレム睡眠。よろしく」

 

 目良さん、と。声なく呟く。生成色の少しボサボサの髪と草臥れたスーツはデフォルトではあるのだけれど、壇上に立つ……というより、もたれ掛かった彼は、いつも以上に疲れが染み着いているように感じる。

 

「仕事が忙しくてロクに寝れない……! 人手が足りてない……眠たい!」

 

 わたしが公安のビルに住んでいた頃だって、年中『人手と時間と経費が足りない。……全部か!』とヤケクソ気味に嘆いていたけれど、こんな大勢の前で、こんなにもぐったりしている目良さんを見るのは初めてだ。

 そんななのに、目の縁に濃い隈をつけた彼は、へらりと笑う。

 

「とと。──いやまァこの程度へっちゃらなんですけどね」

 

(……うそつき)

 

 そんなはずない。きっと、いつもよりずっと疲れてる。

 そしてそれは間違いなく神野事件のせいだとわかっているから、わたしはぎゅっと、拳を握り締める。たくさんの人に迷惑を掛けてしまっているのだと、わたしはきちんと、自覚しなければ。

 

「ずばりこの場にいる受験者1541人一斉に、勝ち抜けの演習を行ってもらいます」

 

 わたしが自戒している間にも、話は進んでいく。項垂れがちに、俯きがちに。声だけは淡々と、目良さんは続ける。

 

「現代はヒーロー飽和社会といわれ、ステイン逮捕以降ヒーローの在り方に疑問を呈する向きも少なくありません」

 

 “ヒーローとは見返りを求めてはならない。”

 “自己犠牲の果てに得うる称号でなくてはならない。”

 職場体験の時、ヒーロー殺しステインが唱えた英雄論だ。彼の掲げる理想から逸れればヒーローに非ずと、独断的な裁判によって幾つもの未来が絶たれた、あの事件。

 

「まァ……一個人としては……動機がどうあれ命懸けで人助けをしている人間に“何も求めるな”は……現代社会において無慈悲な話だと思うワケですが……」

 

 目良さんの脳裏にも、あの時の出来事がよぎっているのだろうか。疲れたように笑う目元に、やりきれない感情の色が滲んでいる。

 

「とにかく、義勇にしろ対価にしろ……多くのヒーローが救助・(ヴィラン)退治に切磋琢磨してきた結果──事件発生から解決までの時間は今、ヒくぐらい迅速になっています。

 君たちは仮免許を取得しいよいよその激流に身を投じる。そのスピードについていけない者はハッキリ言って厳しい」

 

 “速さは力に勝る”。ホークスがそう言ったのはいつだったか、なんて、そんなことを考え込んでいたわたしは次の瞬間、目を見開いた。

 

「よって試されるはスピード!

 条件達成者先着(・・)100名を通過とします」

 

「「「!??」」」

 

 会場内が一気にどよめいた。例年の仮免取得者は全体の5割だったはずなのに、それと比べてたった100名とは。あまりに狭くなった門に、思わずといった様子で驚愕と抗議の声も上がっている。わたしも──言葉は無くとも、信じられない気持ちは同じだ。

 No.1ヒーロー・オールマイトが引退した今、抑止力が消えて(ヴィラン)犯罪数が増えている。この状況下で仮免許の取得者を絞る、その意味は。

 

(──篩に、掛けられている?)

 

 選りすぐりの精鋭をヒーローにする。

 ……それだけ、(ヴィラン)の脅威が増して──社会が揺れているということ?

 

「で。その条件というのが、コレです」

 

 目良さんの落ち着いた声が、わたしを思考から引き戻す。彼は円盤状のターゲットとボールを掲げていた。

 

「受験者はこのターゲットを3つ、身体の好きな場所──ただし常に晒されている場所に取り着けてください。足裏や脇などはダメです。そしてこのボールを6つ携帯します。ターゲットはこのボールが当たった場所のみ発光する仕組みで、3つ発光した時点で脱落とします。

 3つ目のターゲットにボールを当てた人が“倒した”こととします。そして2人(・・)倒した者から勝ち抜きです」

 

 ボールを当てた回数ではなく、倒した(・・・)回数を問われている。……無差別にボールを放つんじゃ横からターゲットを掠め盗られる場合も考えられるのか。

 確実に相手の動きを封じて、確実に倒さなければ。それも迅速に──わたしならばどうする。わたしには何ができる。どれが最善策か、考えなくちゃ。

 

 わたしが、持っている手札は── 

 

「えー……じゃ、展開後(・・・)ターゲットとボールを配るんで、全員に行き渡ってから1分後にスタートとします」

 

 ……展開(・・)? 

 不可解な言葉に俯いていた顔を上げると、頭上の天井が動いた。わたしたちのいた部屋が、まるで箱を開くようにバタンバタンと展開(・・)していって、

 

「各々苦手な地形、好きな地形があると思います」

 

 背の高いビル群。市街地。山に森まで。もっと探せば水辺もあるかもしれない。さまざまな地形が広大なコロシアム内に広がっていた。そして頭上には、どこまでも広がる──青い空。

 

「……自分を活かして、頑張ってください」

 

 ……目良さんは別に、わたしに対して言ったんじゃない。

 それでも激励に聞こえてしまうのは、やっぱり自惚れているんだろうな。そんな自分の両頬を叩いて、わたしは顔を上げた。

 

「……、よし!」

 

 翼を広げて、打ち鳴らす。そうして大きく羽ばたいて、一気に上空に駆け昇った。他の受験生たちを眼下に見下ろして、視線を巡らせて──観客席のある一点が目に留まる。

 

「! 相澤先生、に……」

 

 あの黒ずくめのヒーロースーツは相澤先生だろう。緑髪の女性ヒーローも隣に座っているようだと、遠目にわかる。

 そして、その隣にいる、あの赤い翼は──

 

「……ホークス……!」

 

 ここまで送ってきてくれただけじゃなく、試験も見てくれるんだと、驚きと喜びで声が上擦る。緩みそうになった涙腺を、けれどきつく引き締めて、わたしは唇を結んだ。

 

 空を行くこの翼は、わたしの【依存】の証。わたしがあの人の剛翼を奪うかもしれなかったという、証。そのことを悔いて謝る幼いわたしの頭を撫でて、ホークスは言った。

 

『いーんだよ、謝んなくって』

『……っでも、』

『謝るよりも、そうだなァ』

 

 俯くわたしに膝をついて、視線を合わせて。

 

『俺はおまえにも、空を好きになってほしいな』

 

 そうして笑ってくれたあの日を、ずっと覚えている。

 そうして託してくれた力で、翼で、わたしは空を行く。

 

「……頑張るから。見ていてね、啓悟くん」

 

 この高い壁だって──必ず、超えてみせるから。

 決意を込めて、わたしは翼を再び打ち鳴らした。

 

 

69.少女、引き締める。

 

 


 

 やっっっと更新できました!その割に話は進んでいませんが、どうしても士傑の面々と会話させておきたくてこうなりました。イナサくんはするする会話が弾んでくれたのですが肉倉先輩が大変でしたね……頭のいい人は言葉遣いが難しい。

 次回は仮免試験一次試験です!ちょっと考えていることがあるのでオリ主以外の視点で進むかもしれません。

 

 閲覧、お気に入り登録、評価、感想、ここすき等々、本当にありがとうございます!いつも励みになっております。

 そしてこの度なんと!修羅イム様からオリ主のイラストを頂きました!重ね重ね本当に嬉しいです、ありがとうございます……!私も更新頑張ります!



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70.創り手、届かせる。

 

 

 林間合宿の(ヴィラン)襲撃に端を発する、後悔の日々。そのひとつひとつの情景が、染み着いた感情が──目蓋の裏に焼き付いて、まだ、離れてくれないのです。

 

 

 

 

 クラスメイトが(ヴィラン)によって襲われ、傷つき、拐われた──まるで悪夢のようなのに、紛れもない現実。そうして地獄(・・)と化してしまった街並みが、私の前に広がっていた。吹き荒ぶ風に粉塵が舞い、夜空を濁らせていく。倒壊したビルの残骸を、剥き出しになった鉄筋を掻き分け、ただ、ただ、走った。

 

空中(そらなか)さん! 空中さん、どこですの……!?」

「八百万!」

 

 鋭く名前を呼ばれて腕を引かれて、そこでようやく、私の頭上に瓦礫が迫っていたことに気付いた。頬を掠めるように落下した瓦礫やガラスが割れる音に、は、と息を漏らす。

 

「す、みません、轟さん……」

 

 

 林間合宿で(ヴィラン)連合に拐われた爆豪さんと空中さん。彼らを救い出すと駆け出した緑谷さんに切島さん、轟さんを諌めるべく飯田さんと合流してやって来た、神野区。脳無に取り付けた発信器を追って辿り着いた廃工場で、私たちは目にした。培養槽に沈んだ数多の脳無と──重厚なマスク顔の、(ヴィラン)

 

『せっかく弔が自身で考え、自身で導き始めたんだ。

 出来れば邪魔はよして欲しかったな』

 

 いっそ穏やかな口振りだからこそ、背筋に悪寒が走った。一瞬の轟音と衝撃。……その後に訪れた、息をするのも痛いほどの静寂。それが“死”そのものなのかもしれないと、恐怖に支配された頭で考えた。

 動けないまま、男の為したことをただ聞いていた。聞いていることしかできなかった。刹那の内に神野区を半壊せしめたこと、数多のプロヒーローたちを戦闘不能に追い込んだこと。そして。

 

『それにしても空中くん! 君のその姿はどういうことだい? すっかり元通りじゃあないか!』

 

 そして。──空中さんへの、仕打ちも。

 

『剥いだ爪も、削いだ指も、毟った羽根も、抉った左目も。すべて治っている。君の【治癒】は人間が自然治癒できる範囲しか治せないのかと思っていたけれど……』

 

 嬉々として語るには、あまりにおぞましい所業だった。そのアンバランスさに目眩を覚えながら、悲鳴を上げる鼓動の音を聞きながら、震える口許を引き結ぶ。

 空中さんは。彼女は林間合宿で拐われてからの数日間、ずっと、ずっと──

 

 

「八百万。……本当に、大丈夫か」

 

 思考から意識が引き戻される。こちらを心配そうに窺う轟さんの顔を見て、拳を握り直した。……何をしているのです、私は。今はそんなことをしている場合ではないでしょう。

 

「怪我は」

「いえ、……ありませんわ」

 

 私のことなど、今は構わない。爆豪さんが切島さんたちに救われた今、一刻も早く、(ヴィラン)に吹き飛ばされた空中さんの保護に向かわなくては。

 パンプスを少し動かせば、地に散らばる硝子片が刺々しく輝いた。どこもかしこも、今にも崩れ落ちてしまいそうな、こんなところで。

 

(……こんな危険なところで、空中さんは……っ)

 

 傷つきながらも気丈に振る舞っていた彼女は、どこに。

 焦燥で顔を歪めた、その時。

 

 

「あれ? 焦凍くんと……雄英の創る子だよね」

「「!」」

 

 頭上から降ってきたその声に、ハッとして振り仰ぎ、目を見開く。どこまでも暗い夜空を背景に、赤い翼がはためいた。

 

「ホークス、……!」

 

 突如現れたNo.3ヒーローに驚いたのも確かだ。けれどそれ以上に、彼に横抱きにされているのは──

 

「っ、空中さん!!」

 

 探し求めていた彼女の姿に叫び、駆け寄る。地上に降り立ったホークスの腕の中で、空中さんは固く目を閉じていた。いつも以上に白い顔色ではあるが、微かに胸部が上下している。呼吸している……生きている!

 

「空中、さん……、」

 

 けれど安堵するにはまだ早い。素足のまま投げ出された彼女の足裏は、硝子や瓦礫を踏んだのかずたずたに傷ついている。その痛ましい傷痕と同時に、気付く。──何故裸足にされていたのか。手足と頬にこびりついた夥しい血の跡が何を意味するのか──その予想が胸に迫って、私の声を奪う。

 

「プロヒーロー・ホークスの名において、“個性”の使用を許可する」

 

 そんな時、そんな言葉が鼓膜を打った。顔を上げる。視線が絡んだその先で、ホークスは眉を下げ、申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「悪いけど、消毒液と包帯、作ってくれる?」

「っもちろんです!」

 

 “個性”で依頼の品を創造し、それを用いて空中さんの足の応急処置を始める。彼女は、消毒の刺激に微かに顔を歪めるものの、目を覚ます気配がない。未だにぐったりと横たわったままだ。

 

「……空中は、どうしたんですか。どうして、」

「治癒の使いすぎが原因だろうね。目を覚ますにはエネルギーが足りないんだ」

「治癒のしすぎ、って……」

「ここ周辺の被災者を、治癒して回っていたみたいでね」

 

 ホークスはすらすらと、冷静に言を継ぐ。それは拳をきつく握る轟さんを、手の震えが止まらない私を宥めるような、そんな落ち着きに満ちていた。こんな時だからこそ、冷静でいなければならない。流石はトップヒーローだと尊敬の念を覚えると同時に、心を掠める違和感。

 淀みなく紡がれる声。揺らぐことなく静かな面差し。

 ……でも、何故でしょう。どうして、

 

(──苦しそ、う?)

 

 彼の目が翳りを帯びている。そう、錯覚してしまった。

 きっと、そう。この永遠に続くかのような、重苦しい夜の中にいるからかもしれない。そうに違いない。

 

「さて。俺は空中さんを病院に連れていくから、君たちは自分たちで帰れるかな」

「はい」

 

 思い違いを振り払って、ホークスの言葉に肯定を返す。彼に任せておけば、この騒動の中でも空を行き直ぐさま病院に辿り着けるだろうと、安堵を滲ませて。そんな私たちにホークスは改めて視線を向けた。その目が、面白げに細められる。

 

「ところで君ら、無断でここに来たんだね?」

「うっ……」

「ハハ、わっかいな。……大人としては、諌めなきゃいけないんだろうなァ」

 

 咎められても、雄英に通告されても仕方ない。私たちが今ここにいることは、れっきとしたルール違反なのだから。始めからわかってはいた。それでも身体が緊張で強張ってしまう。

 けれどホークスは、そんな私たちに何も言わなかった。ただ「これオフレコで頼むね、」だなんて、へらりと笑ってから。

 

「……ありがとね」

 

 その一言だけを残して、そうして彼は空中さんを連れて飛び立っていった。赤い剛翼がビルの合間に消えていったのを見送って、轟さんが私の方に振り返る。

 

「八百万、俺らも緑谷たちのとこに……、どうした?」

「……いえ、……」

 

 先程振り払ったはずの思い違い(・・・・)が、またも脳裏に甦った。飄々としていながらも冷静沈着。数多の現場を通して場馴れしているNo.3ヒーロー・ホークス。そんな彼が、

 

(今、……どうしてですの)

 

 “泣きそう”だ、なんて。

 そんな筈はないのに、どうしてか私は、この時の彼の言葉を、表情を、忘れられそうになかった。

 

 

 

 

 それから、色んなことが起きた。

 神野区の悪夢の終わり。オールマイト(平和の象徴)引退(終わり)(ヴィラン)襲撃を重く見た雄英が全寮制になったことを機に、両親を説き伏せて行った引っ越し。入寮。仮免取得に向けて再開した訓練。必殺技の開発──そうした目まぐるしい日々が始まって、1週間と3日目の朝のことだった。

 

「何だかテレビの方が騒がしいわね」

「何かあったのでしょうか……?」

 

 部屋が同じ階にある蛙吹さんと挨拶を交わし、ともに1階へとやって来た私の耳に届いたのは、常ならぬざわめきだった。それはどうやらテレビがあるリビングスペースから聞こえてきているようで、私たちは首を傾げながら歩みを進める。

 と、その時。走り寄ってきたのは麗日さんだった。彼女は息を切らし、焦燥に目を見開いている。

 

「あっ、八百万さん! 梅雨ちゃん!!」

「お茶子ちゃん? どうしたの、落ち着いて……」

「落ち着いてなんかいられんよ!!」

 

 ぶんぶんと首を振って、彼女は私を、蛙吹さんを見た。その円らな目の縁に、涙が浮かんでいる。

 

「……っあ、愛依(あい)ちゃんが……!」

 

 麗日さんに連れられて、私たちはテレビに映る空中さんを見た。セントラル病院前に詰め寄る記者を前に、凛と受け答えをしている。画面の左上にある“LIVE”の文字が、これがリアルタイムでの出来事なのだと知らせていた。

 彼女は微笑み、時に目を伏せながらも、気丈に言葉を継いでいく。雄英の記者会見に割り込んだ暴行の音声は、彼女本人のものではなく(ヴィラン)の“個性”によって創られた複製のものだったこと。自分は怪我をしておらず、被災者の治癒をし過ぎたせいで“個性”過剰使用(キャパオーバー)を起こしてしまったこと。そのために入院していたこと──そうしてまた、雄英で学びたいと思っていると、言ってくれた。

 その言葉を置いて記者の前から姿を消した彼女に、固唾を飲んで見守っていたクラスメイトたちの反応はさまざまだった。

 

「ん、だよ……心配させんなよって話だよなぁ!?」

「よかっ……た、よかったぁ、うええん愛依ちゃん……!」

「バカ葉隠泣くなよ、……つ、つられちゃうだろぉ」

 

 まず笑顔。空中さんが無事だったことに安堵し、涙を滲ませながら頬をほころばせる方々。

 

「……、」

 

 そして沈黙。クラスメイトの喜ぶ様を邪魔しないよう、柔らかく微笑みながらも、口元を引き結んでいる。“手放しでは喜べない”という疑念と戦っている、そんな表情。

 

「……っ」

「つ、梅雨ちゃん!? 待って、どこに、」

 

 蛙吹さんはいつものポーカーフェイスを強張らせながらどこかへ走り去り、そんな彼女を麗日さんが追った。

 

「……ッ、──」

 

 名状しがたい怒りを浮かべたのは爆豪さんだ。喚き散らすことはなかったけれど、その灼眼がぎらつき、揺れて、──叫ぼうとした何かを飲み込む代わりに、酷く苦しそうな舌打ちが漏れた。

 

 そんなクラスメイトたちの様子を見ていて、気付く。

 

「あの……耳郎さん?」

「……ん、どったのヤオモモ」

「……少しお時間よろしいでしょうか。こちらへ」

「え、」

 

 ひとり、じっと黙り込んで俯く彼女のことが気に掛かった。顔を上げた耳郎さんの顔色は、常の色白も通り越すほどに色がなかった。それでも、きっと、私を心配させまいとしているのだろう。微笑みを作る彼女を連れて、キッチンの端へ。

 

「お紅茶を淹れます。どの銘柄がよろしいですか?」

「ほ、ほんとにどしたの、ヤオモモ、いきなり……」

「……確かに性急すぎましたわね、申し訳ありません」

 

 こういった時、スムーズに励ますことができるような、そんな話術の1つでもあればよかったのですけど。自嘲めいた苦笑を押し込めて、私は耳郎さんの手を取った。願いと祈りを込めて、視線を合わせる。

 

「何か、思い詰めたような表情をしておられたので、少しでもお力になれればと……そう思ったのです」

 

 耳郎さんは、クールでさっぱりとした言動をする人だ。けれどそれが彼女の全てではないと、私はもう知っている。時に照れ屋で、恥ずかしがり屋で、繊細な感受性を持っている人。中性的な可愛さの底に、女性らしい柔らかな優しさを秘めてながらも、それを隠そうとする人だ。

 だから、そう。今やっと溢してくれた涙を、ずっと我慢していたのでしょう。

 

「ヤオモモ、……やおもも、」

「はい、耳郎さん」

「ウチ、うち、は……」

 

 ぽろぽろ、とこぼれ落ちる涙とともに、彼女はフローリングに膝をついた。私も彼女の肩を支えながら、一緒になって膝をつく。こうしてしまえばクラスメイトからは私の姿はキッチンの影になって見えない。そこでようやく、耳郎さんの唇が震えた。

 

「神野の、記者会見の時、……聞こえた。すごく小さくて……空中も我慢してたから、集中しないと、聞き取れなかったけど……」

 

 ぽろぽろ、と。彼女は言う。まるで今まで押し殺して溜め込んでいた悲鳴が、溢れてしまったみたいに。

 

「空中が、──酷い目に遭ってる、音が、……聞こえたの」

 

 彼女は言う。AFO(オールフォーワン)が嗤いながら“何か”を踏みつける音。ぐじゅり、と肉が爛れるような音。悲鳴を押し殺す空中さんの苦しげな吐息。それら全てを、──聞いていることしか、できなかったと。

 

「でも空中は、黙ってる。“自分は何もされてないから大丈夫”って、“雄英やヒーローの責任じゃない”って。……きっとこのまま、黙り込むつもりだよ」

「……そう、ですね」

「そんなの駄目じゃん。なんで、……なんで辛い目に遭った空中が、“苦しい”って溢しちゃ駄目なわけ……!?」

 

 納得できない、と怒りに駆られながらも、耳郎さんは気付いている。低めたその声が証拠だ。……このことを秘めておかなければ、また別の人が悲しむことになると、気付いているのだ。

 きつく噛んだ歯の隙間から、でも、と唸るように続ける。

 

「でも空中が黙ってることで、安心したって、よかったって喜んでる人がいる。それがほ、ほんとに、嬉しそうでさ……!」

 

 彼女は唇を噛み締めた。痛みによって、嗚咽を噛み殺そうとしている。……せめて今はそんなことをしてほしくなくて、私は耳郎さんの握り締めた拳をほどいた。手のひらについた爪の痕に、目を伏せる。

 

「……私に打ち明けてくださって、ありがとうございます。ひとりで抱え込むのは、お辛かったでしょう。ごめんなさい、気付くのが遅れて……」

「っヤオモモが謝ること、ない。ごめん、ウチがちゃんと、我慢できてれ、ば、」

「……そんなこと、仰有らないでください」

 

 ヒーローは人々を守る存在だ。時に自分の身を盾にしながらも、人々の命と笑顔を守るため困難立ち向かう。その憧れを志して、私たちは雄英(ここ)にいる。いずれ自分たちもヒーローになるべく、研鑽を続けている。

 けれど、思う。

 友人たちの我慢は、自己犠牲(・・・・)は──尊く美しいけれど、同時に酷く、かなしい。

 

「お願いです。どうか、……そんなこと、仰有らないで……」

 

 

 

 

 その日の夕方。あの中継を見た蛙吹さんが相澤先生に懇願したことにより、A組の女子と相澤先生で空中さんのお見舞いに行けることになった。神野事件に端を発する騒動はまだ収まってはおらず、雄英にもセントラル病院にも数多の記者が詰め掛ける中──こうしてお見舞いに行くことが、どれほど大変なことか。私たちをカメラの前に出さないために、どれほどの根回しが必要なのか。相澤先生は何も語らないけれど、きっと多くの人々に頭を下げたに違いない。

 

「こちらです」

 

 特別な場合に用いられるという地下のルートを辿って訪れたセントラル病院。その一室。私たちはベッドに駆け寄り、口々に呼び掛けた。

 

「愛依ちゃん……!」

「空中!」

 

 白を基調とした部屋の中で、白いベッドに寝かせられた空中さんは、まるでそのまま“白”の中に消えてしまいそうな儚さを感じさせた。血の気の失せた頬も、力なく横たわる翼も、枕に散らばる髪も白い。そんな白の中よく映えていた彼女の瞳の色は、今は固く閉じられていて見えない。彼女の目の青空は、まだ、遠い。

 

「空中は今朝目を覚ましたが、それからまた眠ったようだ。まだエネルギー不足で熱が高い。しばらく安静にしている必要があるが……命に別状は無いとのことだ」

「そっか! よかった、うん、うん……すぐよくなるよね!」

 

 相澤先生の言葉に、芦戸さんがにぱっと笑う。それは心からの笑顔というよりも、周りを元気付けるべく浮かべた明るさだった。彼女は黒目がちの目に涙を滲ませながらも、微笑み、汗で貼りついた空中さんの前髪を梳いてあげている。

 大丈夫だよ、早く元気になってね、待ってるよ、

 そうした囁き声が夕日射し込む病室を満たす。そんな中、

 

「……ほら、梅雨ちゃん」

 

 無言だったのは蛙吹さんだった。彼女は病室の入り口に立ち尽くしたままだったけれど、麗日さんに肩を支えられながらゆっくりベッドに歩み寄る。静かな、いつものポーカーフェイス。彼女の大きな手が、空中さんの手を取った。壊れ物を扱うみたいに、そうっと、柔く、握られる。

 

「……冷たいわ。氷みたい……」

 

 常に冷静さを湛えた、黒くて丸い、大きな湖のような目。それがゆっくりと決壊した。大きな目が涙を湛えて潤んで、ぽろり、ぽろり、と大粒の涙を溢れさせて。

 

「……っ、づゆ、ちゃ、~~ぅ、ヴーーっ……」

 

 とうとう堪えきれずに、麗日さんが落涙する。それにつられるように芦戸さんが、葉隠さんが嗚咽を漏らした。俯いて肩を震わせる耳郎さんを抱き締めながら、私も、ぎゅっと目を細める。

 霞む視界の中、目を凝らす。皆さんがそれぞれ俯いたり目を覆ったりする中、蛙吹さんだけはその目を閉じることなく開いていた。ぼろぼろ涙を溢しながら、じっと、眠る空中さんを見つめていた。

 深い悲しみと後悔を沈ませた、湖のような瞳。その黒い湖面に、私はあの夜を見た。

 

 

『私思ったことは何でも言っちゃうの。……でも何て言ったらいいかわからない時もあるの』

 

 入寮初日の夜。寮の外で蛙吹さんはこう切り出した。

 『ルールを破るのなら、その行為は(ヴィラン)のそれと同じなのよ』と──そう忠告してくれた彼女を振り切って神野区に赴いてしまった、私たちに。

 

『心を鬼にして、辛い言い方をしたわ。

 それでも皆が行ってしまったと今朝聞いて、とてもショックだったの。止めたつもりになってた不甲斐なさや、色んな嫌な気持ちが、溢れて……』

 

 いつも冷静で物怖じしない蛙吹さんの、俯きがちの視線は珍しい。戸惑うように掠れる語彙も、苦しげな息遣いも。そこに彼女の想いが痛いほどに込められている。

 

『私はヒーローになりたいわ。正しく“個性”を使って、人々を守りたい。そのために、ヒーローがヒーローでいるために、守らなきゃならないルールも守りたい。

 

 わかっている。わかって、いるわ。……でも、』

 

 蛙吹さんが胸元を握り締める。奇しくもそれは、空中さんの癖と同じだった。

 

『あの記者会見を見て、私は、何度──“このまま飛び出してしまえたら”って、そう思ったかわからない』

 

 そこてようやく、彼女は顔を上げた。

 夜の湖が、黒い瞳が、ゆらゆら揺れて、溢れる。

 

『私だって、──救けに、行きたかった……』

 

 

 

 

 林間合宿の(ヴィラン)襲撃に端を発する、後悔の日々。そのひとつひとつの情景が、染み着いた感情が──目蓋の裏に焼き付いて、まだ、離れてくれないのです。

 幾つもの嗚咽を聞いた。幾つもの涙を見た。

 あの夜、あの森で、届かなかった(・・・・・・)手が幾つもあることを知った。

 

 だから今、私が成すべきことは──

 

 

 

 

「──空中の声がした」

 

 ついに訪れた仮免取得試験。その試験が始まって間もなく、大規模な【振動】の“個性”によって高台が割れ、崩落に巻き込まれた私たち雄英1年A組は分断された。辛うじて集まれたのは私と耳郎さん、障子さんに蛙吹さんの4人。ボールが飛び交う中身を隠し、これからどうするか話し合おうと顔を見合わせて、開口一番に発言したのが障子さんだった。

 空中さんは入院生活を経て順調に元の体調を取り戻していると、けれど仮免試験に間に合うかどうかはわからないと、相澤先生から聞かされていた。その彼女が、

 

「仮免試験に、間に合ったのですね……!」

「障子ちゃん、それはどこから聞こえたのかしら」

「先程いた部屋の後方からだ。方角は……」

 

「! いた、あそこ!」

 

 耳郎さんが指差す先で、空高く翻る、白い翼。彼女は工業地帯エリアから舞い上がった竜巻から逃れるように羽ばたき、森の上空に差し掛かったところで──突如伸びてきた枝葉に絡め取られ、鬱蒼とした森に落ちていく。

 

「愛依ちゃん!」

 

 蛙吹さんが悲鳴のように叫ぶのを聞きながら、私は立ち上がっていた。先程言葉を交わした飯田さんの声が脳裏に甦る。

 彼は言った。“俺は委員長として皆を導く”と。

 断絶された地を隔てて、彼は私に、託した。

 

『そちらの皆を、頼むぞ! 八百万くん!!』

 

 耳の奥に。頭の奥に。胸の奥に。使命感が燃え上がる。

 ──だって私は、A組の副委員長ですもの!

 

「……参りましょう、皆さん!」

 

 突然の号令に、戸惑う人も拒否する人もいなかった。皆さん一斉に駆け出し、森へ向かう。説明会場(スタート地点)から幾らか高台に位置する森に足を踏み入れた途端、土煙を上げながら現れた木の根がこちらへ向かってきた。鞭のようにうねり、しなり、私たちの頭上に叩き付けられる。

 

「皆、下がれ!」

 

 それを6本腕で受け止めたのは障子さんだった。時に受け止め、時に拳で殴り抜きながら、根の鞭を打ち払う。その隙を縫うように脇から伸びてきた根は、耳郎さんの“ハートビート・ファズ”で薙ぎ倒されていった。

 

「──!」

 

 耳郎さんを始点とし、扇状に広がっていく音波攻撃。先程障子さん目掛けて襲い掛かってきた木の根も、その音につられるように攻撃の先を変えるのが見えた。

 

「“個性”【樹木】といったところか」

「枝葉や草花の葉擦れの振動を捉えて攻撃してくるようね」

「ええ。それも、より大きい音……大きな振動に反応するようですわ」

 

 障子さんや蛙吹さんの考察に頷き、知り得た情報を元にオペレーションを組み立てる。考えろ、考えろ、……

 

 

『“時間さえあれば、私たちの勝ち”』

 

 思考を巡らせる最中、ふと、そんな声が脳裏を掠めた。

 

『あの時の八百万さん、とっても頼もしくて格好よかったもの。最善策を考えて、【創造】して、突破口を開く──そのための準備とか時間稼ぎなら、わたしにもできるから』

 

 わたしも頑張るから、お願いね。

 そう言って笑ってくれた彼女を思い出した。私を信じて力を貸してくれた彼女を、共に魔獣の森を突破したあの時を。

 あの時、胸に込み上げてきた熱を──覚えている。

 

 

「……“ええ、お任せください!”」

 

 もう無力に俯かない。しかと前を、未来(さき)を見据える。

 

「耳郎さん、引き続き広域に音波攻撃を。私たちへの攻撃と索敵の矛先を散らしてください!」

「了解!」

 

 まずは耳郎さんに指示を飛ばす。幸いにも相手の“個性”に対し耳郎さんの“個性”は相性がいい。振動を捉えるという草葉は厄介だけれど、彼女の音波攻撃はその矛先を鈍らせ、防ぐことができる。

 時間を稼ぐことに成功したなら、次は最善策を考える。ここから木の根の妨害を押し退けて、空中さんの元へ辿り着くには。

 

「草原を歩めば振動を辿って妨害が来ます。ならば、」

「宙に浮いて、飛んでいけばいい(・・・・・・・・)わね」

 

 私の言葉を継いだ蛙吹さんは、全て心得たという眼差しで強く頷いた。その目の光に後押しされ、私もまた強く頷き返す。やるべきことは、オペレーションは定まった!

 

「障子さんはこちらへ。蛙吹さん! 耳郎さんの援護をお願いします」

「了解よ」

 

 蛙吹さんを耳郎さんの援護に回ってもらうのと入れ替わりに、障子さんを後衛に呼び寄せる。彼の【複製腕】の先に目を創ってもらい、前方を窺ってもらう。

 

「障子さん、空中さんの姿は見えますか?」

「……木の根に捕らわれかけている。すんでのところで逃れているが、木々で空を覆われて飛行を活かせず、かなり不利な状況だ」

「対象までの距離を、目測でいいので教えてください」

「約、300メートル!」

 

 それならば、と【創造】を開始した。頭の中で脂質から必要な物質を生み出し、創り変え、組み立てていく。

 私たちは空中さんのような翼を持たない。彼女のように空は飛べない。けれど、だからといって歩みを止めるなんてできっこありませんの。足踏みなんてしていられない。諦めるつもりは毛頭ない!

 翼がなければ、それに代わる何か(・・・・・・・・)を創り出せばいいだけのこと!

 

「……っ、できた!!」

 

 太ももから伸びるように射出された長大なゴムの帯と、その端に繋げられた鉄製の巨大な支柱に、障子さんは私の意図を理解してくれたらしい。直ぐ様支柱を抱え、走り、

 

「フンッ!!」

 

 ここぞというべき場所に、深く深く打ち立てた。そうして設置した2本の支柱の中央──繋がれたゴムの帯の中央部分を背に、障子さんと共にぎりぎりと後退する。そうすれば、

 人間をも飛ばせる巨大スリングショットの、完成!

 

「蛙吹さん、耳郎さん!」

「ケロッ!」

 

 装置の完成を2人に呼び掛けると、蛙吹さんは舌を伸ばして耳郎さんを回収しながら駆け戻った。彼女は私同様障子さんの腕に収まると、ふと、声の調子を変えて。

 

「百ちゃん、」

 

 前を見据えながら、静かに私の名を呼んだ。

 

「あの夜。私は、こうして空を行けなかったの」

 

 淡々と冷静な声音に、後悔の色が滲んでいる。けれど、そこで嘆いて終わる蛙吹さんではない。涙を幾つも溢して、それで視界を濁らせることなく、強い眼差しで困難を射る。

 

「だから今度こそは、……必ず、あの子の手を掴むわ」

 

 彼女は強く、決意を目に閃かせた。ならばと、私は口を開く。

 

「でしたら私は、それを必ずや届かせます」

 

 そうして始まるカウント。0、と唱えると同時に障子さんが大地を蹴る。瞬間、物凄い勢いとともに私たちは真っ直ぐ前方へと射出された。強烈な風圧で息さえも苦しい。霞む視界の中、私は必死になって目を凝らした。

 傍らの蛙吹さんは、目を閉じることなく開いていた。

 その目が、真っ直ぐ、──白い翼に向けられて。

 

 

「っ、愛依ちゃん!! ──こっち!!」

 

 

 呼び掛けと共に、伸ばされる手。

 振り返った空中さんの目が、大きく見開かれた。

 

 

「……つゆ、ちゃん」

 

 

 青空の目が、“いつかの時”を映したように瞬いて。

 そうしてあの夜に別たれた2つの手が、今ようやく──繋がれた。

 

 

70.創り手、届かせる。

 

 


 

 頭がいい人の台詞は難しいって前回も言ったような気がするんですが、私にとっては永遠の難題ですので何回も言います。

 

 今回のヤオモモ視点は、自分なりにではありますが満足がいくように書けました!オリ主が神野事件でああなった後のA組の様子や心情を書きたくてうずうずしていたのです。

 あとアニメ版での仮免一次試験では、ヤオモモチームと印照さんとの戦いが描かれていて、そちらも本当に好きなのですが、今回は違った展開にしてみました。

 【森という環境でオリ主に追い付く】【オリ主の窮地を救う】【梅雨ちゃんがオリ主の手を取る】という展開を入れたくてだいぶ捏造しましたが、ご了承いただけると有り難いです。

 

 最後になりましたがいつも閲覧、お気に入り登録、評価、感想等々ありがとうございます!これこそ何回も言っていますが本当に毎回励みになっております!

 

 次回は一次試験とオリ主と爆豪くんの何やかんやを書いていけたらと思います。またよければお読みください。



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71.少女、飲み込む。

 

 とうとう始まった、ヒーロー仮免取得試験。開始の合図とともに空高く飛び立ったわたしはA組のみんなの姿を探していた。相澤先生から、A組のみんなもここ多古場で試験を受けると聞いていたし、

 

(……それに、)

 

 心の中で理由を並べて、口許を引き結ぶ。

 現代のオリンピックとも謳われる雄英体育祭。それが広く放映されたからこそ、わたしたち雄英生はプロヒーローたちの目に留まり彼らとの繋がりを得られる。雄英体育祭で、たくさんの人たちにわたしたちの力を見てもらえたからこそ──“個性”も戦闘スタイルも弱点も、広く露見してしまっている。

 だから、こうした学校対抗の体をなす試験では格好の的なのだと、いつだったか公安で聞いたことがあった。夜嵐くんが言っていたような“雄英潰し”は、現に今までにも起こっていたのだ。

 だから、……だからと。

 脳裏に理由を並べながらわたしは飛んで、

 

「、わ……ッ!?」

 

 突如、工場地帯から巻き起こった突風を前に慌てて翼を翻した。逆巻く暴風に巻き上げられていくボールと、それを右手に掲げる彼の姿に目を凝らし、瞬き。

 

「夜嵐くん、……の、“個性”?」

 

 スチームパンク風のヒーローコスチュームとマントを靡かせる、夜嵐くん。彼が右手を振り下ろすと同時に、滞空していたボールが地上に向けて殺到した。無数のボールがまるで意思をもって空を飛んでいるみたいに、他の受験生を蹴散らしていくのを目の当たりにして──は、と息を溢した。

 

「……近寄るのは危険すぎるなあ」

 

 微かな呼吸さえ引き摺られそうな空気のうねりが、安全圏(ここ)まで伝わってくる。広範囲に及ぶ暴風は凄まじい威力であると同時に、大量のボールを的確にポインターに当てる精密な操作性も兼ね揃えている。……基本的に翼を羽ばたかせて風を掴みながら空を飛ぶわたしにとって、彼の風を操る“個性”は天敵に近い。──共闘するならなにがしかの術や選択肢はあるだろうけれど──少なくとも今は近付くことすらできない。

 

「とにかくまず、高台からみんなの位置を探らないと……」

 

 工業地帯からの暴風の余波を避けるように浮上し、高地にある滝へと向かおうと大きく翼をはためかせた、その時──地上から空を穿つように伸びてきた木の枝が、わたしの翼を掴んだ。

 

「!? っあ……!」

 

 即座に翼をバラけさせて枝から逃れ、硬化させた羽根で切り払う。切って、切って、それでも木々は次々伸びてきた。ついには羽根を減らしすぎて動きが鈍くなった隙を突かれ、一際太い枝がわたしの胴に絡み付く。まずい、と思った一瞬のうちに、鬱蒼とした森に引き摺り落とされた。

 地面に叩き付けられる、……ことは無かったものの、地上に落ちる間に腕や足にも枝が絡み付き、拘束されてしまった。逃れなくてはと空を仰ぐも、張り巡らされた枝葉が蓋のようにわたしの頭上を覆ってしまっている。

 

「おーっと……君かァ」

 

 宙ぶらりんで木に吊るされたわたしに、足音が近づく。現れた男性が手を翳すと、後ろ手に切り落とした枝葉の部分に、新たな枝葉が巻き付いた。……樹木や植物を操作する“個性”、といったあたりか。わたしの背後の状況も見通していたのは、樹木の振動でも読み取っているのだろうか。

 

(まずい、このままじゃ……)

 

 受験生の身体に装着されたポインターにボールを当てる、というルール上、相手に動きを封じられるのはいただけない。焦りが汗となってわたしの頬を伝う。細かい枝葉で切ったのか、じんとした痛みが走った。

 こくりと固唾を飲むわたしに対し、樹木を操作する男性は右手で髪をかき混ぜた。少しだけばつが悪そうに、目を伏せる。

 

「悪いね。全く恨みはないんだけど。たまたまここを通り掛かったのが君だっただけだ」

「……いえ、気にしないでください」

 

 試験中とは思えないぐらい、穏やかな声色だった。きっと神野事件のことでわたしを気に掛けてくださっているのだろう。……それは有難いけれど、“申し訳ない”とは思わないでほしくて。わたしは首を横に振る。前を、見据える。

 

「わたしも全力で足掻き、頑張ります。どちらが落ちても、通っても、恨みっこなしということで」

「いいね」

 

 ふ、と片頬をつり上げて彼が笑ったと同時に、周囲の草むらから男性と同じ学校の生徒だろう、数人の受験生が飛び出してきた。強靭な脚力と跳躍力を以て一気に間合いを詰めてくる人もいれば、地中に身を沈めた人もいる。そうして迫り来るボールの雨を避けるべく、羽根を総動員させて木の拘束を切り捨てた。地に落ち、転がりながら、跳んできた蹴りを避ける。

 

(動きを止めちゃ駄目、集中を切らすな、速く、速く!)

 

 公安の訓練でも同じようなことがあったな、なんて、思い出に耽る猶予も余裕も無い。視覚も聴覚も羽根の振動もフルに知覚して、周囲の状況を把握しろ。わたしはわたしの持ち得る全てで戦うんだ。……そう、わたしがあの人(ホークス)から得た【翼】は、

 

(武器であり探知機であり、制空権であり──盾!)

 

 避けきれないボールは、翼で身体をくるんでガードする。そうして第一波は防ぎきれたけれど、息つく間もなく第二波がやってきて。いつもの癖で空に逃れようとした【翼】が、覆い繁る枝葉に絡め止められる。はっと息を飲むも遅かった。

 

「おおっしゃ、一個目ェ!!」

「! ぐ……っ」

 

 鳩尾に着けていたポインターに光が灯る。思わず顔をしかめたのは痛みが理由ではない。ミスした自分への不甲斐なさと、この戦況における旗色の悪さを再認識したからだ。飛行できるという折角のアドバンテージも、閉ざされた森の中では真価を発揮できない。

 兎にも角にも、この包囲網を抜けなければ。反撃どころか何もさせてもらえないまま脱落しかねない。

 ぎり、と歯噛みして気合いを入れ直し、翼を打ち鳴らす。速く、速く、もっと速くと念じながら飛び続けた。迫りくるボールや木の根、枝葉を払い除けて、防ぎ、攻撃の雨を避け続ける──それでも、なお。どんなにどんなに振り払っても、暗い森(彼ら)はわたしを逃さない。頭上から、地上から伸びてきた木の群れが、わたしの進路を塞ぐ。そうして、

 

「捕まえたァ!!」

 

 地中から飛び出してきた手が、わたしの足首に迫る。

 まずい、とか。またやってしまった、とか。焦燥と後悔ばかりが思考を埋め尽くしてしまう。黒く霞む頭で、短く、鋭く、息をした。

 

 ざあっと血の気が引く音以外、途絶えてしまったかのように静かだった。向けられる攻撃の気配も何故か遠く感じる。

 だから、なのか。

 

 ──ブオン、と。

 何か(・・)が素早く風を切る音だけが、やけに大きく羽根を震わせた。

 

 

「っ、愛依(あい)ちゃん!! ──こっち!!」

 

 

 その声が、目の前の黒い靄を晴らす。

 

 こんな時に、暢気なのかもしれない。こんなことをしている場合ではないことは百も承知だ。……それでもわたしの脳裏には、いつかの時の記憶が駆け巡っていた。

 雄英高校入試試験。ビルの群れを薙ぎ倒すほどに巨大なお邪魔虫ロボットを前に、動けなくなった受験生を救けようとした女の子がいた。みんながロボから逃げようとしている流れに逆らうように駆け抜けて、身を呈して彼を危険から遠ざけて。それで自分が取り残されてしまうことを気にもせずに。ただ、ただ。誰かを救けるために。

 

 そんな彼女だからこそ、わたしは救けたかった。

 必死になって翼をはためかせて、手を伸ばした時のことを──今でもはっきりと、覚えているの。

 

 

「……つゆ、ちゃん」

 

 

 考えるより先に、差し伸べられていた手を掴んでいた。

 弾丸のように飛んで(・・・)やってきた梅雨ちゃん──梅雨ちゃんたちに引っ張られて、その場から逃れる。さっきまでわたしがいた場所にボールが殺到したのを横目で捉えた。もう少し遅かったら、危なかっただろう。

 

空中(そらなか)!!」

「障子くん、耳郎さん、八百万さんも……!」

「ご無事ですか!?」

「怪我は!」

「無い、よ。大丈夫……っ、」

 

 救けに、来てくれた。きっと耳郎さんと障子くんの索敵能力なら、たくさんの受験生がいることもわかっていただろうに。こんな包囲網の中に、それでも、来てくれたのだ。

 ぐっと唇を噛み締める。泣くのはやめろ。しっかりお礼を言うのも後だ。今はわたしにできることを、わかったことを伝えなければ!

 

「みんな、樹木を操る“個性”と、何らかの異形型“個性”で跳躍力がすごい人がいる。あと、地中に潜れる“個性”! 他にも数人!」

「わかりましたわ。耳郎さん、下へ!」

「りょーかい!」

 

 八百万さんの短い指示に、けれど耳郎さんは“全て心得た”と言わんばかりの笑顔で頷いた。イヤホンジャックをグローブに繋ぎ、その拳を地面に向ける。グッと突き出した両手から放たれた音波が地表を抉り抜いた。

 

「ぅ、ぐううっ!」

 

 音波攻撃は不可視かつ、振動が伝わる限りどんな防壁も透過する。だから地面という防壁も意味を為さない。地中に潜り込んだ受験生もろとも、耳郎さんが吹き飛ばしていく。

 

「野郎ッ、!?」

 

 それを拒もうと跳んだ青年の蹴りと、迎え撃つ梅雨ちゃんの蹴りがぶつかり合う。鈍い打撃音の後、衝撃をいなすため互いに後方に跳んだ。その間に障子くんは土埃を上げながら着地。バックステップと共に再び森の影に隠れた受験生を探すべく、その複製腕を広げた。

 

「障子ちゃん」

「ああ、蛙吹──10時の方向!」

 

 そちらを視認するより早く、梅雨ちゃんは口を開いた。瞬時に伸びた舌が受験生を拘束する。ぎりっと悔しげに歯噛みする彼の音が聞こえたのだろうか、梅雨ちゃんは小さく「ごめんなさいね」と口にして。

 

「けれど。こちらも譲れないの」

 

 そのまま彼を舌で振り回し、他の受験生を牽制。耳郎さんも障子くんも索敵しながら攻撃してくれているから、先程までの一方的な攻勢は防げている。

 今が好機。今こそ、ボールを確実に当てるために彼らの動きを封じなければと、わたしは身構えながら思考を巡らせる。

 

「空中さん」

 

 どうすればと、打開策を探すわたしの隣に八百万さんが並び立った。ボリュームのあるポニーテールが、ふわりと揺れる。

 

「私が空を開けます(・・・・・・)! その後はあなたの【翼】で!」

 

 後は、空さえ開ければ(・・・・・・・)。わたしはそう口にしてはいなかったけれど、八百万さんの黒曜石の瞳にはお見通しだったらしい。

 その目に閃く輝きは、いつしか見たものと同じ。

 冷静でいて聡明で、かつ自信に溢れた──先を見据える眼差し。

 

「うん……! 八百万さん、お願い!」

「任されましたわ!」

 

 力強く応じた八百万さんの両腕から、ぽこぽこと黒い何か(・・)が現れた。彼女はそれを周辺の木々の根本に放っていく。何をしようとしているのか。警戒のため八百万さんに差し向けられた根っこの群れは、耳郎さんの音波によって薙ぎ倒されていった。

 地面ごと(・・・・)抉れていった攻撃の跡を見やって、八百万さんは微笑む。“計画通り”と言わんばかりの、強い笑み。

 

「行きますわよ、……“FIRE(点火)”!」

 

 そうして八百万さんが高らかに宣言した瞬間──彼女がばらまいた爆弾が一気に破裂した。爆発の衝撃。凄まじい光と音が炸裂して、わたしたちの知覚を揺るがす。

 手で庇いながら必死になって目を凝らすと、それが見えた。揺らぐ大地に、焼かれてのたうち回る根っこや枝葉。そうして傾いでいく樹木の向こうに──抜けるような青い空。

 

 みんなのお蔭でやっと取り戻した、わたしの、アドバンテージ!

 

「……やあッ!」

 

 気合いと共に羽根を飛ばす。爆弾の衝撃でふらついていた受験生たちの服を引っ掛けて、空に宙吊りにする。いつかの時、ホークスがやっていたように──飛行能力の有無を以て、彼らの動きを封じる。

 仲間が捕らえられていくのを見て、“個性”【樹木】の男性が手を翳そうとしたけれど、その前に、その周囲に硬化させた羽根を展開させた。

 

「動かないで、ください」

「……ああ、これは……やられたな」

 

 地上の木々は焼かれたり吹っ飛ばされたりしていて、最早この空まで届かないだろう。対抗手段も、身動きすら封じられて、彼は苦笑しながら両手を上げた。

 けれど、彼は。同じ位置まで浮かび上がったわたしを見て、その苦笑を和らげた。ふっと可笑しげに、優しく笑う。

 

「そんな顔しないでくれよ」

「、え?」

「どっちが落ちても通っても、恨みっこなし。だろ?」

「……はい。ありがとうございます」

 

 これは真剣勝負であって、手を抜く余裕なんて無い。望む未来を得るために必要な戦いであって、そのためにどちらかが試験に落ちることは必須。

 それでも、……きっといつか、優しいこの人はヒーローになれるだろうなと、そんなことを思いながらわたしはボールを押し当てた。他のみんなも拘束した相手にボールを当てていく。そうして、

 

「これで、クリア……!」

 

 1人につき2人分、指定された数のポインタにボールを当てた瞬間、わたしたちのポインタが3つとも光った。恐らく“一次試験通過”の証なのだろう、《通過者は控え室に移動してください》と目良さんの声がポインタから聞こえたし。

 ……一時はどうなることかと思ったけれど、何とかみんなのお陰で窮地を脱することができた。ほっと胸を撫で下ろし、地上に降り立つ。

 

「あの、みんな。本当にありが、……」

 

 改めてお礼を言おうとして、固まった。薄く開いた口が、踏み出そうとした足が、動かない。

 駆け寄ってきた梅雨ちゃんが、わたしをぎゅうっと抱き締めて──その腕はただただ優しかったけれど、だからこそ、わたしは胸が詰まって何もできなかった。

 

「……つ、ゆちゃ……」

 

 だって、気づいてしまった。彼女が震えていることに。

 

「……ごめん、ね。心配、させちゃったみたいで」

「“みたい”じゃ、ないわ」

 

 肩口に雨が降る。ほろほろと、やわく、ぬるく。

 

「……ごめん、なさい……」

 

 不甲斐ない。申し訳ない。……そんな後悔の中で、ひっそりと喜びの感情が首をもたげる。梅雨ちゃんを泣かせているくせに、どうして嬉しく思うのか。ぐちゃぐちゃになった感情をどうすべきかわからなくて、わたしはただ、ぎゅっと彼女の身体を抱き締め返した。

 震えるわたしの背中を、八百万さんが撫でる。耳郎さんがぽんぽんと頭を、障子くんが肩を叩いてくれた。それに“ありがとう”と返さなければならないのに、口を開けば何かがこぼれ落ちてしまいそうで、わたしは唇を噛み締めることしかできなかった。

 

《…………、》

 

 そうして暫く、わたしたちはそのままでいた。

 ポインタからはただ、沈黙が続いていた。

 

 

 

 

 

 

「……空中!」

 

 控え室に移動したわたしたちを出迎えたのは、轟くんだった。一足先に通過していたらしい彼は、腰掛けていた椅子から立ち上がり、足早にこちらに歩み寄ってきた。

 

「轟くん、」

「試験受けてたんだな、もう身体は大丈夫なのか?」

「うん、何ともないよ。……心配掛けてごめんなさい」

「謝る必要ねぇだろ」

 

 彼は窺うような固い眼差しから一転、ふ、と笑う。まるで雪解けのような、淡くて、柔らかな。

 

「元気になって、よかった」

「……ありがとう」

 

 それに微笑み返していると、……ふと、視線を感じた。

 右頬に突き刺さるその視線を辿ると、見覚えのある巨体に辿り着く。

 

「……夜嵐くん?」

 

 あの特徴的なコスチュームに長身、そして頭に被った士傑の制帽を見れば、見間違えることなどあり得ない。それでも疑問符がついてしまったのは、彼の表情が不自然だったからだ。

 ほんのついさっき会ったばかりで、彼の何を知っているのかと問われれば反応に困るのだけれど……それでもあのハイテンションな笑顔が一切消え失せた厳しい無表情に、疑問を覚えずにはいられなかった。そして夜嵐くんはぐっと唇を結び、無言で踵を返した。その反応も不自然で、わたしは胸元を握り締める。

 

「知り合いか?」

「えっと、うん。試験前に少し話したんだ。わたしのことを心配してくれて……士傑高校の人だよ」

「そうなのか」

「……あの、轟くんこそ、夜嵐くんと知り合いなの?」

「いや、俺も試験前にちょっと見かけただけだ。話したことは無ぇ」

 

 轟くんとは、知り合いではない、と。

 彼の言葉に頷きながら、わたしは目を伏せた。

 

「そう、なんだ」

 

 でも、あの表情は──“何も無い”人がするものじゃない。

 

 

 

「皆さんよく御無事で! 心配していましたわ」

「ヤオモモー! ゴブジよゴブジ! つーか早くねみんな!?」

 

 思考に耽っていたわたしを引き戻したのは、そうした明るい話し声だった。控え室の扉が開き、外から入ってきたのは上鳴くん、切島くん、爆豪くんに、緑谷くんと瀬呂くん、そしてお茶子ちゃんだった。

 

「俺たちもついさっきだ。轟が早かった」

「爆豪も絶対もういると思ったけど……なるほど! 上鳴が一緒だったからか」

「はァ!? おまえちょっとそこなおれ!」

 

 軽い足取りと明るい笑顔でやって来た上鳴くんは、耳郎さんのからかいに眉を吊り上げた。

 

「いい? オレすげー頑張ったから! 大活躍したか、ら……」

 

 身振り手振りで活躍を話そうとしたのだろう上鳴くんは、ぴたっとその口を止めた。じいっと注がれる視線を受け止めて、わたしは笑う。ひらひらと手を振って、暫く。パッと彼らの声と表情が輝いた。

 

「空中ァ!!?!! 空中いんじゃん!!」

「愛依ちゃんやーーー!!」

 

「わぷ、」

 

 飛び込んできたお茶子ちゃんを抱き止める。勢いでたたらを踏みそうになったけれど、傍にいた梅雨ちゃんが微笑みながら支えてくれた。バシバシと肩を叩かれ、もみくちゃにされて、少しだけ苦しかったけれど、それすら嬉しく感じてしまう。笑う上鳴くんと切島くん、お茶子ちゃんの目の端に涙が浮かんでいることに、気づいていたから。

 

「こーらそこまで。病み上がりに無茶させんなっての」

「だ、大丈夫だよ。でもありがとう、瀬呂くん」

 

 暫くしてから3人にストップを入れた瀬呂くんも、へへ、と破顔している。そんなこんなでわいわい騒いでいるみんなを眺めながら、乾いた喉を潤そうと置いてあったジュースに口をつけた時だった。

 

 

「──オイ、」

 

 低いその声に、ごくりと、やけに大きく喉が鳴った。

 

「ちょっとツラ貸せや」

 

 ポケットに手を突っ込んだまま、顎をしゃくってわたしを呼ぶ。そんな爆豪くんにわたしは一呼吸置いて頷き、彼の後を追った。

 

 

 

 

 

 控え室とは逆側の扉から出て、暫く。受験生のほとんどは控え室で飲食をして身体を休めているからだろう、静まり返ったこの廊下には人っ子ひとりいなかった。痛い程の沈黙の中、爆豪くんは足を止める。

 

「……爆豪くん、話って何?」

 

 意を決して問い掛けると、彼はゆっくり振り向いた。刺すような鋭い視線が、わたしを射抜く。

 

「てめェ、何のつもりだ」

「……神野のことだよね?」

「それしか無ェだろうが。……なんで、マスコミの前で、何も無かったみたいに振る舞いやがった」

「……、」

 

 思わず息を飲む。だって爆豪くんのその問いは不自然だ。

 

「理由はあなたなら、わかってるんじゃないの?」

 

 爆豪くんならそんなこと、わかっているはずなのに。

 

「わたしが真実をそっくりそのまま発言したら、林間合宿で(ヴィラン)に生徒を拐われた雄英高校や、間に合わなかったヒーローたちへ非難が押し寄せる」

「……一から十まで庇ってやらなきゃ、雄英やヒーローが心折れるとでも思ってんのか」

「そういうわけじゃないけど、必要ない事実や悪感情(ヘイト)は無い方がいいでしょう」

 

「──必要ない、だァ?」

 

 刺すような視線の中に、何か別の感情が滲んだような、そんな気がした。

 

「そうだよ、必要ない」

 

 けれどわたしは気づかない。

 気づかないまま、語調を強め、続ける。

 

「だってヒーローは神様じゃないよ。その力は万全じゃないし、誰をも打ち倒せるわけじゃない。(ヴィラン)の攻撃によって傷つくことも、……人々の心ない言葉に傷つくこともある」

 

 “個性”社会を統制するため、政府は“個性”を正しく使える者をヒーローとし、模範的な英雄として祭り上げてきた。まるでご都合主義の化身(デウス・エクス・マキナ)か何かのように、“ヒーローに任せていれば大丈夫”と信じきってしまった。

 ……そうしなければ氾濫する“個性”とそれによる混乱が収まらなかったのもわかる。他の代替案なんて、今のわたしには挙げられない。

 それでも、と、顔を上げる。

 このままじゃいけないことは、わかるから。

 

「雄英高校は、ヒーローは……いつだってわたしたちを守ってきてくれた。もう、十分過ぎるほどに」

 

 脳裏によぎる、優しい人たち。わたしたちを(ヴィラン)から守るべく必死に戦ってくれたプッシーキャッツ。限界に近い身体を引き摺りながらもみんなを守るために巨悪に立ち向かってくれたオールマイト。入院したわたしを気に掛けてくれた相澤先生にミッドナイト先生。

 そして、……苦しげに微笑んだ、ホークス。

 

「優しい人ほど、笑って傷を、隠してしまうから……」

 

 そんな優しい人たちが、誰かを救うために、身と心を削ってしまうことがないように。

 

「これ以上は傷つけさせない。今度はわたしが、頑張る番だ」

 

 

 ぎり、と歯軋りの音がした。それはぐしゃぐしゃになった感情を噛み潰しているような、そんな音だった。

 

 

「……てめェ1人で傷を覆い隠して、ってか?」

 

「……そうだよ。いけない?」

 

 

 爆豪くんの声色に、揶揄するような、呆れたような色を感じてしまったのは、わたしの余裕の無さが招いたことだったのだろう。だからわたしは、声を尖らせた。

 

「オールマイトだって、痛い時に“痛い”と言った? “もう無理だ”って、“苦しい”って泣いた?」

「……、うるせェな」

「違うって、わかってるでしょう」

 

 わざと、言葉に棘を潜ませた。

 

「悲しいことを、苦しいことを、後悔を──他人に当たり散らすなんてこと、しなかったでしょう」

 

 そうわたしが言い放って、やってしまった、と後悔が頭を埋め尽くすより先に、胸元を掴み上げられた。そのまま背後の壁に叩き付けられ、鈍い痛みが後頭部に走る。

 

「うるせェッつってンだろ!!!」

 

 けれど、こんなわたしの痛みなんて何てことない。

 それよりもずっとずっと、ずっと、……爆豪くんの方が、苦しそうに叫んでいた。

 

「“後悔”、だ? てめェに何がわかるってンだ!!」

「爆豪、くん」

「高みから見下ろして、なんもかんも分かったような顔しやがって……!!」

 

 見開かれた灼眼が、ぎらぎらと燃えている。……“当たり散らしている”だなんて皮肉を放ったわたしに対して、怒るのは当たり前だ。そうなるだろうなと、想定していた。

 けれど、……わたしはわかっていなかったんだ。

 

「……ごめん、なさい」

「ッ、だから! そうした“全部わかってます”って顔が癪に触るんだよ!!」

「違うよ。……爆豪くんのことなんて、わたしは何もわからない」

 

 爆豪くんが、神野を経て何を思っているのか。

 こんなに苦しく叫ぶほどに、何を“後悔”しているのか。

 

「わからないから、あなたの痛みを不用意に抉ってしまった。わからないから、あなたの苦しみを丸ごと“わかる”なんて、言えないけれど……それが辛いんだってことだけは、わかる。

 ……だって後悔なら、わたしの中にもあるから」

 

 わたしの言葉に、爆豪くんは不可解そうに目を細めた。それでも口をつぐんで、わたしの続きを待ってくれている。

 

「わたしはI・アイランドでの一件で、デヴィット博士がオールマイトの“個性”について言っていたのを聞いていた」

 

 その沈黙に促されてわたしは口を開いた。脳裏には、セントラルタワーでの騒動が甦る。デヴィット博士が助手のサムと共謀して偽の(ヴィラン)を雇い──その偽(ヴィラン)は本物の(ヴィラン)だったのだけれど──オールマイトに“個性”増幅装置を渡したいのだと、思いを訴えた時のこと。

 

「オールマイトの“個性”因子が衰えているって、彼の身体が悲鳴を上げているって、聞いていた。……でもその時は信じられなくて、“そんなことあるわけない”って、聞き流した」

 

 そんなの太陽が死にかけているのと同じことだと、大変だけど起こるわけがない事実だと決めつけていた。

 “オールマイトなら大丈夫”って、決めつけていた。

 ……わたしもまた、ヒーローに重荷を任せきりになっていたのだと、全てが終わった後になって気づいた。

 

「神野で、オールマイトはわたしを救けてくれたのに、……わたしは何も、できなかった……!」

 

 瓦礫の海と化したあの街で、傷ついた顔に笑みを浮かべ、AFO(オールフォーワン)に向かっていった大きな背中を思い出す。それからテレビで何度も繰り返された、あの夜の戦い──傷だらけの身体から血を幾つも流しながら拳を振り抜いていた、痩せ衰えたあの姿が、目蓋の裏に焼きついて離れない。

 そうしてわたしは後悔を刻んだ。そして同時に、怖くなった。

 

 もしも、ホークスが同じ状況に陥ったとして。

 彼がひとりきりでたくさんの重荷を背負って、

 苦しいことも痛いことも悲しいことも、全部へらりと笑って押し隠して──その果てに傷ついて、飛べなくなってしまったとしたら。

 

 

「“何もできなかった”悔しさに比べたら、これから、“何もできないかもしれない”という恐怖に比べたら──過ぎ去った自分の痛みなんて、もう、どうでもいいの(・・・・・・・)

 

 

 心の中で天秤を掲げる。

 どちらが大切なんて、もう決まりきっているから。

 

「うじうじしてる暇なんて無い。わたしはもっと、ずっと、強くならなきゃいけない」

 

 決意を口にして、わたしは爆豪くんの腕を掴んだ。彼のはっと見開かれた赤い目と、わたしの青い目が、かち合う。

 

「爆豪くんは、強い人だよ。……強い人のはずだ」

「アァ……? 今さらてめェ、何を、」

「そりゃ、普段からして怒って怒って怒ってばかりで、」

「オイ」

(ヴィラン)っぽいだなんてよく言われてるけど、」

「喧嘩売ってんのか?」

 

 違う。そうじゃない。ただわたしは事実を述べているだけだ。

 爆豪くんという人は、粗暴で、ふてぶてしくて。ヒーローより(ヴィラン)みたいだなって言われるくらい態度も口も悪い。……それでも、

 

「でもあなたは、爆豪くんは──やるべきことを、為すべきことを、ちゃんとわかってる人でしょう?」

 

 それでも、決して、それだけの人じゃない。

 当たり散らすだけじゃなく、強く自身を奮い立て、どんな強敵や苦難にも立ち向かっていける人だと、信じている。

 

「てめェは、……」

 

 爆豪くんは、何とも言い難い表情を浮かべた。

 それは苦虫を噛み潰したような、感情の煮凝りを飲み下せずに苦心しているような、浮上する心を無理やり押さえつけているような。

 険しい表情のまま、彼は何かを言おうとして、……それは喉の奥に消えた。

 

 

「──何をしている」

 

 低い、抑揚に乏しい声が廊下に響いて、わたしは爆豪くんと同時にそちらに視線をやった。コツ、コツ、と革靴を鳴らしながらこちらに近付いてきたのは、かっちりとしたスーツに身を包んだ……公安の、職員さん。

 

「合格者は二次試験の説明がある。早く控え室に戻りなさい」

「……チッ」

 

 爆豪くんは舌打ちをこぼしながら、わたしの手を振り払って足早に控え室に戻っていった。その後ろ姿を見つめてしばらく、わたしも呼吸を整えて、

 

「すみません、わたしもすぐ戻りま、……」

 

 その場を歩き去ろうとした、その進路を塞ぐような仕草で腕が差し出される。

 ……公安の職員さんに、こんなところで口論していたことを咎められるのだろうかと、そんな予想をしながら恐る恐る視線を持ち上げると、サングラス越しの視線とぶつかった。固唾を飲んで叱責の言葉を待つ。

 けれど、その時。不思議なことが起きた。

 

「……、……」

 

 職員さんは何故か、声なく口を開閉させていた。サングラスをしているから目元はよく見えないけれど、その仕草から戸惑いや躊躇いの感情が伝わってくる。

 ……何かを、言おうとして、迷っている?

 けれどわたしもまた困惑しきっていたから、何も言えず、できないまま沈黙を守った。そうして奇妙な沈黙が続いた後、ようやく職員さんが唇を震わせる。

 

「……大丈夫、なのか?」

 

 ──何を問われているのかわからなくて、一瞬呆けてしまった。息を飲んで、唾を飲んで、それからようやく赤べこのようにこくこく頷く。

 

「……は、はい。問題、ありません」

 

 そんなわたしに対し、彼は小さく頷きを返すのみだった。サングラスのブリッジを押し上げて、冷静さを取り戻した声で続ける。

 

「ならば、いい。……行きなさい」

「は、い。……失礼、します」

 

 ぎくしゃくと一礼し、背を向けて歩き出した。廊下の角を曲がると次第に駆け足になっていく。それは早く戻らなければという焦りと、よくわからない感情を置き去りにしたいという気持ちの表れだった。

 

(なん、だったんだろう、……いや、)

 

 駄目だ、と首を横に振る。脳裏を掠める靄を振り払う。

 今は、色んなもやもやは置いておいて──試験に集中しなければ。絶対に受かって、仮免許を取得して、もっと早く、強くならなきゃ。

 

 そんな決意を胸に足を早めた。

 微かに弾む呼吸と一緒に、心の凝りは飲み込んで。

 

 

71.少女、飲み込む。

 

 


 

 もう更新が遅いのはデフォルトになりつつあるんですが、それでも本当に間を空けてしまいましたね……申し訳ありません。書きたかった部分は書けたのですが、戦闘シーンをどうしていいかわからず、後半のかっちゃんとの問答をどうすればいいかわからず悩んで難産でした。

 遅筆になるたび「これ本当に面白いか???」と正気に戻りそうになったのですが、皆様から頂いた絵や感想、評価に支えられ何とか狂ったままで書ききることができました。本当に本当にいつもありがとうございます。皆様のお陰でこのssは命を繋いでいます。

 

 次回は仮免試験の二次試験!また頑張って楽しんで書けたらと思っております。またよろしければお読みくださると嬉しいです。



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72.少女、二次試験にて。

 

 控え室に戻ったわたしが見たのは、崩れ落ちていくフィールドだった。聳え立っていたビルが、建ち並んでいた街並みが、森が、滝が、数多の爆発によって破壊されていく。

 

《この被災現場で、君たちにはバイスタンダーとして、救助演習を行ってもらいます》

 

 今この場において、わたしたちは仮免を取得した者として──つまり自分の判断で“個性”を用いて、どれだけ適切な救助を行えるのか。フィールド全域に待機しているという傷病者に扮した【HUC(Help Us Company)】の皆さんを、どれだけ適切に救い出せるか。

 それをポイント形式で採点するという目良さんの説明を聞きながらも、わたしの視線はモニターに吸い寄せられていた。瓦礫と化した街並みと、怪我を負った数多の人々の姿に、あの夜(・・・)が脳裏に浮かび上がる。

 

愛依(あい)ちゃん、……大丈夫?」

 

 そんなわたしの肩に手を添えたのは梅雨ちゃんだった。彼女は大きな目をゆっくり瞬かせて、わたしを見つめている。

 

「……大丈夫。平気だよ、梅雨ちゃん」

 

 ありがとう、と小さく微笑むと同時に、彼女の後方からこちらを窺う2人にも目を向けた。眉根を寄せた案じるような眼差しに、ほんのりと苦笑を返す。

 

「緑谷くん、飯田くんも、心配しなくて大丈夫だよ」

「しかし、……いや、すまない」

「謝るのはこっちの方だよ、ごめんね」

空中(そらなか)さん……」

 

 何か言いたげな緑谷くんたちを、緩やかに笑って制する。そうして静かに、言葉を置いた。

 

「頑張りたいんだ、わたし。……この試験が神野区を模しているなら、尚更」

 

 あの夏の夜。悪夢のような強大な悪意に晒されて、ひとつの街が半壊した。日中の仕事を終えて、「今日も大変だったな」なんて思いながら夜ごはんを食べたりお風呂に入ったりと、それぞれに1日を終えようとしていただろう人たちが──何の前触れもなく突然に傷つけられたのだ。壊死した両足を切断せざるを得なかった女性、我が子だけでもと身を呈して庇ったお母さん、そんなお母さんの腕に抱かれて、ひとりで泣きながら死んでいった赤ちゃん……。

 

「……、」

 

 まだわたしは忘れない。忘れられない。

 あの泣き声が潰える瞬間が、耳にこびりついている。

 

「……1人でも多くの人を、救けたい。

 そのためには、みんなの力を束ねることが必要なんだ」

 

 梅雨ちゃんに緑谷くん、飯田くん。そしてわたしたちの話を聞いてこちらに注目していたA組のみんなの顔をぐるりと見渡して、わたしは続ける。

 

「“1人で全部何とかしよう”っていうのは、この演習には合ってないと思う。自分の“個性”が災害救助にどう使えるのか、他のヒーローたちと連携して、自分は何ができるのか……それを考えて動くべきだよ」

 

 自分は、何ができるのか。

 かつて何もできなかった自分を超えるために、頭を回せ。思考を回せ。

 為すべきことを、為すために。

 

「──お願い。わたしの提案を聞いてくれる?」

 

 

 

 

 

 

 作戦会議を終えて、補給のために軽く飲み食いをしていたわたしたちは、突如鳴り響いたサイレンの音に肩を跳ねさせた。“非常事態”を知らせる剣呑とした響きに、静かに呼吸を整える。

 

(ヴィラン)による大規模破壊(テロ)が発生! 規模は◯◯市全域、建物倒壊により傷病者多数!》

 

「演習の想定内容(シナリオ)ね」

「うん、……」

 

 隣り合う梅雨ちゃんに頷きながら、思う。やっぱりこの試験は、神野事件を模している。あの夜を風化させないために、──あの夜を繰り返させないために。

 

「始まりね」

 

 あの夜を、超えるために。

 そのためにと、唇を引き結び、決意とともに頷く。

 

《道路の損壊が激しく救急先着隊の到着に著しい遅れ!

 到着する迄の救助活動は、その場にいるヒーローたちが指揮を執り行う》

 

 そのアナウンスと同時に、控え室の天井や壁が開いていく。展開していくその動きは一次試験と同じだったけれど、違うのは見えてくる風景。……背の高いビル群はへし折られ、市街地はほぼ瓦礫と化している。山に森は爆発で焼け焦げて──まあこれは一次試験のわたしたちの影響もあるけれど──青く広がっていた空は、黒煙で濁って見えた。

 

《1人でも多くの命を救い出すこと!!!》

 

 灰色がかった空を裂くように、羽根を四方へ飛ばす。わたしの持つ【翼】のありったけを展開させて、探知を開始。

 ごうごうと何かが燃えている。重いコンクリートの塊が落下して、剥き出しの鉄筋をぶつけながら地に転がる。滝の流れる音、痛みに呻く声、不自然に水が跳ねる音、誰かが溺れている、足を引き摺る音、泣き声、痛いと泣く声、救けて、救けてと──流れ込んでくる音の奔流に、息を飲む。

 

「……ッ」

「空中、」

「っ、平気」

 

 これだけ多くの羽根を探知に回したら、これまでのわたしは頭での処理が間に合わずにブラックアウトを起こしていた。でも今は違う。最上(もがみ)博士に作ってもらったサポートアイテム(ヘッドフォン)もあるし、不思議と、【翼】の調子がいいのもある。一度全て失って、再び生え変わった【翼】は、スピードも、強度も、探知性能も、以前より明らかに向上している。

 

「都市部に80人強、高層ビル群にはそれ以上で恐らく100人以上……水辺には60人ほど、山岳部には50人弱。大まかな数は補足できたけど、やっぱり正確な位置はみんなに探してもらうことになる」

 

「空中さん! できましたわ!」

 

 八百万さんの声が明るく跳ねる。そちらに目を向けると、彼女が腕から【創造】した通信機を事前に話していた4人に渡しているところだった。障子くん、耳郎さん、口田くん、常闇くん──索敵ないし飛行による機動に長ける4人とわたしに、通信機が渡る。これ以上の【創造】は時間のロスになるし、審査員から「初動が遅い」と判断されるのもマズいから、きっとこれがベスト。

 

「ありがとう八百万さん! うん、じゃあ障子くん、耳郎さん、口田くん、常闇くん」

 

 事前の話し合いによって、A組の面々を4班に分けることを提案してある。

 高層ビル群には常闇くん、青山くん、峰田くん、透ちゃん、飯田くん、緑谷くん。倒壊した建物を補強・固定できる峰田くんに、暗がりを照らせる青山くんと透ちゃん、逆に暗闇に強く機動力のある常闇くんに頼んだ。高層ビル群には要救助者も多いと踏んでいたから、機動力とパワーを兼ね揃えた飯田くんと緑谷くんにも参加してもらっている。

 入り組んだ都市部では、音の聞き分けに長けた耳郎さんを中心に、倒壊した障害物を固定できる瀬呂くん、浮かせて除外できるお茶子ちゃん、パワーのある砂藤くんを組ませて、オールラウンダーな八百万さんを添えた。

 滝のある水辺には、水中では誰にも引けを取らない梅雨ちゃんに、氷による足場を作れる轟くんと、酸や尻尾によるロッククライミングが可能な芦戸さんに尾白くんに行ってもらう。ここは滝がある影響で音が伝わりづらく、高低差が激しい地形だから、鳩を始めとした動物との交信が行える口田くんにお願いした。

 

「みんなが要だよ。よろしくね」

 

 それぞれの場所に向かっていくみんなを見送って、さてわたしも行かなければと振り返ったところで、爆音が轟いた。弾ける音と熱に遅れて、強い風が目を見開くわたしの頬を打つ。

 両手から【爆破】で空中を裂くように進む──爆豪くん。

 

「っ爆豪くん、ちょっと……!」

「うるせェ!!」

 

 1人で突出するのは、と声をかけたけれど、取りつく島もない。まあ人の指示に素直に従う爆豪くんは想像できないけれど、それにしたって反応に刺があるような気がする。刺々しい怒りと、……焦燥感?

 

(……追い詰めて、しまった?)

 

 先程の問答が彼を追い詰めたという確証はないけれど、可能性がある以上、このまま放ってはおけなかった。

 

「っごめん障子くん、わたしが山岳部に向かうから、高層ビル群のほうに向かってもらっていい?」

「わかった」

 

 即座に了承して動いてもらった障子くんに感謝しながら、わたしも回収した羽根を背中に戻して飛翔した。各場所で救助が進んでいるのを視認しながら翼をはためかせる。するとそこに、影が並んだ。

 

「空中、」

「! 常闇くん」

「俺も行こう。お前は幾らか要救助者を見つけたら、避難所に戻って【治癒】を行いつつ、我ら通信機組に指示を飛ばす手筈だったろう。ならば俺も山岳部(こちら)に回るべきだと判断した」

「うん、本当に助かる……! ありがとう」

 

 隣に並んで飛行する常闇くんは、少しだけ口角を持ち上げて微笑んだ。それもつかの間、彼は赤い目を気遣わしげに細めて、わたしを見やる。

 

「爆豪と、何かあったのか?」

「……、うん、少し。でも大丈夫だよ」

 

 お見通しかあ、わたしってそんなにわかりやすいだろうかと、不甲斐なさと恥ずかしさから苦笑が零れる。

 でもわたしは大丈夫。大丈夫(・・・)

 

「無理はするな。お前は、孤独の道に在るのではない」

「……ありがとうね、常闇くん」

 

 そんな会話を交わしてすぐ、目的の人物を見つけた。ツンツンした爆発頭が、足場の悪い荒野に立ち、要救助者であろう2人の男女を見下ろしている。

 

「腕を怪我したの!」

「助けてくれ! 痛い!」

 

 そう訴えるHUCの男性と女性は、庇った腕から血糊を流している。腕を怪我しているという設定ではあるけれど、他に怪我は見当たらないし、話し方は明瞭だし、そんなに重態ではなさそうだと──うん、まあ、爆豪くんもわかってはいたんだろう。

 

「うるせえ!! 自分でッ、もごお!?」

「わあああそうだよねウンそうだねあまり酷い怪我はしてないから救助優先度は低いねそうだね……!」

 

 だからといってその対応はいただけない!!

 慌てて羽根を飛ばして爆豪くんの口を塞ぐ。モゴモゴ言いながら目尻を吊り上げている彼の後ろに降り立ち、そっと囁く。

 

「でも、ヒーローが救けるべき人たちだよ」

 

 爆豪くんの灼眼が、ゆらりと揺れる。それを認めて、わたしは彼の隣をすり抜けて踏み出した。要救助者の2人に向かい合い、微笑む。

 

「お怪我は腕のところだけですか?」

「ああ、痛い、痛いんだ……」

「大丈夫。少しだけじっとしてください」

 

 2人の腕に手を当てて、治癒のエネルギーを【譲渡】。HUCの皆さんは実際に怪我をしているわけではないけれど、流れ込んでくる再生のエネルギーを感じ取ることはできたのだろう、彼らの目が丸くなる。

 

「……これは、」

「治癒を施しました。痛みはどうですか?」

「ああ……ありがとう」

 

 よかった。一応【治癒】できたという判定にしてもらえるらしい。これなら今後の避難所でのわたしの動きもマイナスにはならないだろうと、胸を撫で下ろす。

 

「安全な場所までご案内します。ね?」

「お、おう!」

「任してください!」

 

 爆豪くんを心配して着いてきていた上鳴くんと切島が、にかっと笑って頷く。その2人に要救助者の対応を任せてわたしは爆豪くんの元に戻った。彼の口許から羽根を取り去ると、爆豪くんはギロリとこちらを睨む。

 

「……救助優先度が低い奴に人手割いていーんかよ」

「確かにそれも一理あるけど、ほら、試験の始めにアナウンスがあったでしょう」

 

 この状況は、(ヴィラン)大規模破壊(テロ)によるものだって。

 

「ただの災害救助じゃなくて、わざわざ(ヴィラン)の存在を匂わせた……十中八九、救助中に(ヴィラン)役が襲ってくるはず」

 

 わたしが説明を続けるにつれて、爆豪くんの目が冴えていくのがわかった。……やっぱり彼は賢い人だ。今は、自分でもどうしようもない怒りや焦燥感に駆られているようだけれど、ちょっとしたきっかけで冷静さを取り戻せる。

 やるべきことを、為すべきことを──ちゃんとわかっている人だ。

 

「その時、爆豪くんは、……ヒーローのあなたなら、どうする?」

 

 わたしでは、彼の心を晴らすことなどできないだろう。

 せいぜいできて、焚き付けることだけ。

 

「……決まってる。(ヴィラン)は、全員ぶちのめす」

 

 だから彼は、感情の諸々をそのプライドで押さえ付けた。獰猛に、笑う。

 

「全員勝つ。全部勝つ。……勝って救けンだよ、俺は!!」

 

 咆哮のような爆豪くんの決意に、わたしの口許には笑みが浮かんでいた。ああよかった、きっともう彼は、大丈夫。

 

「じゃあ爆豪くん、わたしと一緒に避難所まで行こう」

「アッ!? なんでだ!!」

「救助された人々が集まるところに、(ヴィラン)は出現しそうじゃない?」

「うンぐッ、~~クソが!!」

 

 苛立ちで人を刺しそうな目してるなあ、……でもなんだか不思議。安心してる……というより、気が楽だ。

 わたしがどんなことを言っても、どんなことがあっても、きっと爆豪くんは心折れずにいられるって──大丈夫だっていう不思議な確信がある。

 

「常闇くん、わたしは爆豪くんと一度避難所に戻るね。常闇くんは高所から要救助者を探して、切島くんと上鳴くんは高所から見えない、隠れた部分をお願い」

「了解した」

「うん。じゃあ行きましょう。わたしの羽根でお送りしますね」

「ケッ……っぐ!?」

 

 HUCの2人を羽根のカーペットに乗せると同時に、悪態を吐きそうだった爆豪くんの後頭部をやんわり硬化させた羽根でぶつ。

 

「オイ何しやがる!」

「表情と態度。これも減点されるよ」

 

 要救助者を先に向かわせ、その後方を爆豪くんを連れて飛ぶ。彼らに聞こえない程度の声量で、注意を促す。

 

「ヒーローとしてあるべき姿は、色々あるだろうけれど……少なくとも、人々に不安を与えるべきではないと思う」

 

 メディアに積極的に出て、犯罪の抑止力となっていたオールマイト。メディアへの露出は極力避けて、【抹消】の“個性”の強みを活かして活動する相澤先生。ヒーローとしてのスタイルはさまざまだけれど、その根本はひとつだろう。

 

「そりゃ、爆豪くんに素敵なスマイルを期待するほどわたしはトチ狂ってないつもりだけど……」

「マジでてめェ喧嘩売るの好きだな」

「でも、あなたはあなたなりのやり方で。救けるべき人たちを安心させるの」

 

 ヒーローは、みんなを守る存在。

 みんなに安心を届ける存在。

 “もう大丈夫”って言ってもらえる嬉しさを、心を救ってもらった瞬間を知っているから、わたしもそうありたいと願う。

 

 ……、爆豪くんは、

 

「どう? ……できない?」

 

 爆豪くんがヒーローを志した理由をわたしは知らない。

 けれど、この挑発を受け流せるような人じゃないってことは、知っている。

 

「……うるせぇな、散々煽りやがって。そんぐらいわーっとるわ」

「うん、……頑張ろうね」

「ケッ」

 

 舌打ちを溢す爆豪くんが、ふと目を瞬かせる。その眼下に避難所が見えてきた。元は控え室だったそこには、受験者が連れてきたと思われる要救助者がいた。意外だったのはその人数。

 

「……もうこんなにいやがんのか」

「結構ペース早いね」

 

 流石に救助に向けての行動が早いと、そう再認識しながらわたしたちも避難所に降り立った。入口付近で、要救助者に対しトリアージを行っているのだろう受験者の女性に向き合う。

 

「すみません、要救助者の方を連れてきました。腕を怪我されていましたが、治癒済みです」

「なるほど、では右のスペースにお連れして」

「緑Ⅲの方は右のスペースに、という認識で合っていますか?」

「そう、中央のスペースは黄Ⅱ、左のスペースは赤Ⅰということで振り分けてる」

「了解しました。ではわたしは、赤の方々から治癒を施してきます。

 爆豪くんはこの避難スペースの周囲で(ヴィラン)襲撃に対する迎撃体勢を取ってて。できる?」

「舐めんな! とっとと行けや!!」

「絶好調だね本当。頼んだよ!」

 

 視線だけ交わして、すぐにその場を離れて左のスペースに向かう。赤Ⅰというのは、気道確保しなくては呼吸できない、橈骨動脈で脈拍が確認できない等、非常に衰弱している等の状態のことだ。素早く処置を行わなければいけない──だからこのスペースにも、要救助者以外に受験者の姿も多かった。彼らに向けて、わたしは声を張る。

 

「【治癒】の“個性”持ちです! 救助隊が到着するまでの間、わたしが治癒を行います」

 

 そうしてわたしは横たわっているHUCの皆さんを治癒して回る。彼らはあくまで傷病者に扮しているのであって、実際に怪我をしているわけではない。それでも治癒のエネルギーを注ぎ込むというのを察知してか、彼らは“治った”という体で身を起こしてくれた。

 そうした彼らに微笑んで、声を掛けて、暫く。次の人を治そうとしたわたしは、ふと動きを止めた。ぐったりと目を閉じて横たわる女性、……ではなく、彼女に付き添うスーツ姿の男性に歩み寄る。

 

「すみません、少しだけよろしいですか」

「私は付き添いの者だ! 私より妻を先に」

「はい、……そういう設定なのは、承知しています。これが減点になっても構いません」

 

 わたしが彼の手を取ると、男性は大きく目を見開いた。彼の手にあったのは血糊ではなく、本当の血。数多の爆発で崩れたフィールドのどこかで傷付けてしまったのだろう、その傷は真新しかった。

 どこも傷を負っていない、救出優先度が低い被災者。そういう設定の人を赤Ⅰの患者を差し置いて治癒するなんて、減点ものだろうとは思う。……でも、いい。それでもいい。

 

「……ありがとう、すまないね」

「いいえ。……治せてよかった」

 

 ほっと、安堵と共に微笑む。

 その瞬間に轟いた、──大気をつんざくような衝撃音。

 

「うわあ!!」

「何だぁ!!?」

 

 各地で爆撃が起こっているのだろう、断続的な爆発音が至るところから聞こえる。中でも一際大きい爆発が避難所のすぐ傍で起きた。爆風に目を凝らすと、フィールドを覆う壁に大きな風穴が開けられてしまったのがわかる。

 

「皆さん! 演習のシナリオ……!」

 

 要救助者を連れてきていたのだろう、爆発の意図に気付いた緑谷くんが他の受験者に呼び掛けている。

 そんな彼の向こう側から、ゆらりと大きな影が覗いた。

 

「市井の人々を守るため、ヒーローには複合的な動きが求められる。すなわち救護、そして──対敵」

 

 200cmを超える立派な体躯は、白いスーツと黒いマントに覆われている。太く低い、豊かなバリトンボイスは、今は状況も相俟って、酷く威圧的に響いた。

 

「全てを並行処理……できるかな」

「ギャングオルカ!!」

 

 ヒーローランキングNo.10の実力者、ギャングオルカ。味方としては頼もしいばかりだけれど、(ヴィラン)役として現れたからには、とてつもなく高い壁だ。

 ……絶望せず、乗り越えなくてはならない!

 

(ヴィラン)が姿を現し追撃を開始! 現場のヒーロー候補生は(ヴィラン)を制圧しつつ、救助を続行してください》

 

「さァ、どう動く!? ヒーロー!」

 

 ギャングオルカは肩に掛けた黒いマントを翻しながら、悠々と足を進める。その背後からは彼のサイドキックたちが扮しているのだろうか、黒いラバースーツを纏った男性たちが現れた。

 (ヴィラン)の数が多い。腕に装備したサポートアイテムも得体が知れない。何より彼らを率いるギャングオルカの存在感が、下手に動くことを躊躇させる。下手に踏み込んでも退いても、即座にやられてしまうと──嫌な予感に蟀谷を汗が伝う。

 

 そんな時だった。

 身構えるわたしの隣を、誰か(・・)が追い越していく。

 

 

「──上等だわ」

 

 

 爆発音が空を裂く。まるでこの重苦しい空気を爆破するかのように、彼は強く、声を張った。

 

「俺が前に出る!! てめえは他の奴らを下がらせろ、空中!」

「! うん!」

 

 いの一番に飛び出していった爆豪くんだけれど、その背中を最早不安には思わない。信頼を込めて見送って、視線を外し、避難所にいた人々に呼び掛ける。

 

「ヒーローの皆さん、二手に分かれましょう。要救助者の皆さんを避難させるのと、(ヴィラン)の迎撃に。

 (ヴィラン)は複数人いますから、なるべく制圧能力の高い方が前衛に出た方が──」

 

 不意に冷気を感じ、言葉を止めた瞬間、ギャングオルカたちからこの避難所を隔てるように、巨大な氷の壁が打ち立てられた。その発生源を辿ると、右足で大地を踏み締める轟くんがいる。それにわたしは安堵した。

 轟くんの【氷結】なら、(ヴィラン)役の人たちの動きを止めるにも最適だろうと──そう考えたわたしの横っ面を、吹き抜ける暴風がひったたいた。

 

「ふぅうきィィイイ飛べぇえええっ!!!」

 

 そんな声と共に轟いた風は、轟くんの氷壁ごと(・・・・・・・・)(ヴィラン)を吹っ飛ばした。流石にギャングオルカを吹き飛ばすまではいかなかったけれど、彼も腕で顔を庇い、足を踏み締めて吹きつける風に耐えている。

 

(ヴィラン)乱入とか!!! なかなか熱い展開にしてくれるじゃないっスか!!」

 

「夜嵐くんも! よかった、これで……」

 

 空中から眼前の(ヴィラン)たちを見下ろしているのは夜嵐くんだった。彼の“個性”であろう【風】の威力と精密さは、一次試験の時に目にした通りだ。きっと複数人相手にも引けを取らない……むしろ多人数を相手取るには最適の戦力といえるだろう。

 

 【半冷半熱】と、【風】。

 どちらも効果範囲と威力に長けた、制圧向きの“個性”。

 緑谷くんや爆豪くんに加えて、そんな2人が揃ったなら、この危機的状況も何とかなるだろうと、わたしは期待と安堵を込めて彼らを見上げた。

 

 見上げた先で、わたしは見た。

 明るく笑んでいた夜嵐くんの目が、轟くんを捉えて──酷く鋭く細められたのを。

 

「…………え?」

 

 わたしは知らない。あの快活で熱血な夜嵐くんが何故、こんなにも冷ややかに轟くんを睨み付けるのか。

 何も知らないし、わからないけれど……だからこそ胸を襲う嫌な予感に、わたしは胸元を握り締めた。

 

 

72.少女、二次試験にて。

 

 


 

 やっとこさ更新できました!お待たせして申し訳ありません。待っていただいていた方たちに改めて御礼申し上げます。

 今回は爆豪くんとの関わりをメインに書きました。彼の心境を書くのはすごく難しくて難産でしたしどことなく似非感漂ってるんですが、かっちゃんなら焚き付ける勢いで挑発すれば意地とプライドでプルスウルトラしてくれるんじゃないかなと信じてみました。彼がここにいることで、また今後に影響を与えられたらいいなと思います。

 あとかっちゃんをキレさせるの書いててすごく面白いですね。ちょっとクセになりそうです。

 

 最後になりましたがいつも閲覧、お気に入り登録、評価、感想等々ありがとうございます!何度も何度も言うようですが本当に嬉しく元気が出ます!リアル生活が忙しくて仕事がある日は基本更新できないのですが、また頑張って楽しみつつ書いていこうと思います。また読んでいただければ幸いです。



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73.少女、問い掛ける。

 

 ヒーロー仮免試験、第二次試験は大規模な被災現場を想定した救助演習だった。わたしたち受験者はこの場において、仮免取得者として、どれだけ適切に救助できるかをテストされる。

 そう、どれだけ適切に(・・・)動けるのか──

 

空中(そらなか)さん、聞こえますか!?』

「っ、八百万さん!」

 

 ヘッドフォンの内側に装着していたインカムから、八百万さんがわたしに呼び掛ける。各地で轟いた爆発音による状況の変化を確認しておきたいと、八百万さんに続いて耳郎さんに障子くん、常闇くんに口田くんがそれぞれに状況を話し合う。

 

「そっか、みんなの方でも爆発は起きたけど(ヴィラン)は出てないんだね」

『ええ』

『どーする? (ヴィラン)がそっちしか出てないんなら、加勢しに行った方がいい?』

「……いや、大丈夫。それより各場所の救助を優先した方がいいと思う」

 

 爆発物がフィールド各地に用意されていたのなら、(ヴィラン)役の人たちがどこかに潜んでいる可能性もある。戦力を1ヶ所に集中させて新手に対応できないのも、(ヴィラン)の対処に追われて救助が遅れるのもまずい。

 だからそう判断を伝えると、みんなも了解してくれた。今後の動きを確認しあってインカムを切ろうとした時、慌てたような小声が飛び込んでくる。

 

『あの、その、空中さん……!』

「口田くん?」

『轟くんは、そっちに行ってる……? (ヴィラン)が来たことを察知して、飛び出して行ったみたいなんだけど……』

 

 口田くんのまろやかな優しげな声が、心配そうに揺れている。そうだ、口田くんは轟くんや梅雨ちゃんたちと一緒に滝付近に向かってくれていたから……。

 

「……う、ん。来てくれたよ」

 

 口田くんを安心させるべく、わたしは彼ら(・・)を見上げながら答えた。見上げた先で、白銀の氷壁が地と空を繋ぐように聳え立つ。(ヴィラン)と要救助者を隔て、守る壁だ。そこを爆破で、緑のスパークを纏って飛び越えていく彼らの背中を見上げながら、声を続ける。

 

「今こっちには、轟くんと爆豪くん、緑谷くんと……士傑の夜嵐くんが前線にいる。今後の状況次第ではわからないけれど、ひとまずは問題ないと思う」

『ウワえげつな……何その過剰戦力』

『“頼もしい”の一言に尽きるな』

 

 耳郎さんと障子くんの声に頷こうとしたその時、氷壁が暴風によって吹き飛ばされた。砕かれた氷が、きらきらと光を弾きながら宙に舞う。それはとても綺麗な光景だったからこそ──頭が痛い。

 

(……全部がマイナスとは言えない。現に夜嵐くんの風は、(ヴィラン)役の人たちも吹っ飛ばしている)

 

 けれど、彼の意思が吹かせる風は何故か、何故か──致命的までに轟くんと噛み合わない。

 けれどこのことをそのまま伝えても、みんなに余計な心配を与えてしまうだけだろう。じわじわと胸に広がる嫌な予感を飲み込んで、努めて声を明るくする。

 

「……うん! だから大丈夫。みんなも気をつけて……」

『──本当に、大丈夫なのか』

 

 一瞬、よりも短い間だけ、息を詰める。

 

「、大丈夫だよ」

 

 心の片隅にある不安を気取られてしまったのだろうか、念を押してきた常闇くんに“大丈夫”を返す。

 わたしも早く動かなければと急いでインカムを切って、羽根を飛ばして要救助者の避難を手伝う。その傍ら、横目で氷片舞う空を振り仰ぐ。渦巻く風の中央で、ぐっと強く拳を握る夜嵐くんが見えた。

 

「あんたと同着とは……!!」

「……? なんだ?」

 

 険しい眼差しで見下ろす夜嵐くんに対し、轟くんは不可解そうに眉をひそめた。けれどそれも束の間、砕かれた氷壁を越えて(ヴィラン)が雪崩れ込むように近付いてくる。轟くんと夜嵐くんは彼らを蹴散らそうとして、同時に炎と風を放って──互いに反発し合ったそれは、(ヴィラン)とは見当違いのところに飛んでいった。

 ごう、びゅう、と吹き抜けていく熱風に髪を煽られながら、わたしは自分の背を冷や汗が伝っていくのを感じていた。ギャングオルカたちも目をすがめている。……この痛い沈黙に気付いていないのか否か、上空では夜嵐くんがグワッと目を剥き叫んだ。

 

「何で炎だ!! 熱で風が浮くんだよ!!」

「さっき氷結をおまえに吹き飛ばされたからだ」

「いや! あんたが手柄を渡さないよう合わせたんだ!!」

「は? 誰がそんなことするかよ」

 

 ギャングオルカに向き合おうとしていた轟くんは、困惑に目を細めながら夜嵐くんを見上げた。怪訝そうに首を傾げる。

 

「……何なんだよ、おまえ。俺が何かしたか?」

「ッ、……だって、あんたは!!」

 

「!? ちょっと、ちょっと2人とも待っ……」

 

 (ヴィラン)を前に一触即発な2人に慌てて声を掛ける。今はそんなことをしている場合じゃない。口論の片手間に対応できるほど、ギャングオルカは生半可な相手じゃない。救うべき人たちを放っておいて、喧嘩なんて──何らかの理由があっても許されることじゃない。

 だから止めようと声を上げたけれど、わたしの声より先に、もっとずっと苛烈に、この場に響く声があった。

 

 

「う る せ ェ !!!!」

 

 

 爆音が空を裂く。キィンと耳奥で鳴った耳鳴りを飲み込んで顔を上げると、そこに、凶悪な笑顔が浮かんでいた。

 

「ごちゃごちゃごちゃごちゃうっせンだよ」

 

 爆豪くんは轟くんたちを一瞥して、ハッと鼻で嗤う。

 

「互いに潰し合いしたきゃ勝手にやれや。俺のいねーとこでな!!」

 

 そう吐き捨てて即座に、彼の両腕が唸りを上げる。掌から生じたニトログリセリンが爆発を起こし、光と爆音、衝撃波を放ちながら真っ直ぐギャングオルカに向かっていく。それはまるで、一筋の閃光のように。

 

「ギャングオルカつったら、【シャチ】の超音波攻撃だよなァ」

 

 けれどそのまま愚直に突っ込む爆豪くんではない。彼は空中で器用に爆破を撃ち分け、ギャングオルカの頭上を飛び越えるようにして背後を取った。

 

「爆音で散らしゃあ、どうなんのか気になってたンだ。試させてくれよ!!」

「フン……随分と吼えるじゃないか」

 

 超音波と爆破がぶつかり合い、彼らを中心に衝撃波が生じる。辺りの空気をビリビリと震わせながら両者が間近で対峙した。爆豪くんの蹴りがオルカの右側頭部目掛けて放たれる。それはギャングオルカの掲げた右腕に防がれてしまったけれど、爆豪くんの横顔はニヤリと笑っていた。彼は空中で上下逆さまになりながらも姿勢を整え、開いた右掌に左手を添える。まるで銃口のように丸められた指の間が、凝縮された爆破の光で満たされた。

 

「──徹甲弾(A・P・ショット)!!」

 

 Armor-piercing shot。その名の通り装甲を突き通すような鋭い爆破が、がら空きの背中に向けて放たれる。爆豪くんのことだから対人用に威力を落としているだろうけれど、それでもその威力は推して知るべし、だ。ギャングオルカその攻撃を無視できない。攻撃を受けるか、ガードするなり避けるなり、どちらにせよ何らかの隙が生まれるはず!

 ギャングオルカのその隙に連撃を加えようと、わたしは羽根を備えて待機。硬化させて、飛ばそうと構えて──

 

「まだ、だ!!」

 

「ッ、ぐぅ!!」

「!? い……ッ!」

 

 ギャングオルカが高威力・高密度で放った超音波が、地表を穿ち、わたしたちの鼓膜を貫いて揺るがした。ぐわん、と。地面と空が揺れる。まるで世界ごと振動しているかのようで、わたしは立っていられず片膝をついた。

 

「蹴りはブラフ。本命はガードを避けて叩き込む爆破……なかなか考えて動いているが……この程度じゃまだ、倒れてやれないな」

 

 ふらつく頭を押さえながら視線を向けると、地面に踞った爆豪くんにギャングオルカが手を伸ばしているところだった。咄嗟に治癒力を込めた羽根を飛ばし、爆豪くんに届かせる。脳震盪から復活した爆豪くんは、ギャングオルカの追撃を転がって避け、身を起こして構えた。そんな彼を、彼の表情を見て、オルカは目を細める。

 

「フフ……ギラついた良い目だ。まだ、楽しませてくれるんだろう?」

「……上等!!」

 

 再びギャングオルカに向かっていく爆豪くんの背中を見届けて、わたしも治癒しながら立ち上がった。ふらつく足取りに、誰かが肩を支えてくれる。振り返ると肩口に緑の髪が見えた。

 

「大丈夫、空中さん!?」

「緑谷くん……うん、大丈夫。ちょっと音波を羽根が拾いすぎただけ」

 

 至近距離にいた爆豪くんに比べて、わたしもまあまあのダメージを負ってしまったのは、音の振動を増幅して拾い上げる【翼】の特徴も相俟ってのことだろう。この特性を考えると、わたしとギャングオルカの相性はとても悪い。それを緑谷くんも考えたんだろう、思慮が窺える緑の目で、真っ直ぐにわたしを射た。

 

「空中さんは、避難を手伝いに行ってくれるかな?」

「うん、緑谷くんたちは?」

「僕はかっちゃんの方に行って援護、……ウン、援護する! 轟くんはもう一度大氷壁を撃って、(ヴィラン)の侵攻を食い止めてくれる!?」

「、ああ……わかった」

 

 どこか所在なさげに立っていた轟くんは、緑谷くんの声に頷き、大きく右腕を振るった。彼の右足から迸った氷は瞬く間に大きく形成され、天を衝く大氷壁となる。

 この精製速度と範囲の凄まじさに、慣れつつはあるわたしたちだけれど、それでも口からは感嘆の息がこぼれる。

 

「……夜嵐くん(あの人)と何があったかは、僕にはわかんないけどさ」

 

 大氷壁を見上げていた緑谷くんが、轟くんに視線を戻す。

 

「やっぱりすごく頼りになるよ、轟くん! ありがとう!」

「……、」

 

 パッと輝いた笑顔と声とに、轟くんは瞬きひとつ。何かを言おうとして開閉した口元をふやかせて、彼は目を伏せて笑った。照れたように、しょうがないなと言いたげなそれは淡く、けれど確かにあたたかい。

 

「……おまえってやつは、気が抜けるな」

「エッ、ご、ごめん……?」

「謝る必要はねえだろ」

 

 ふるりと首を振って顔を上げた轟くんは、もういつもの(・・・・)轟くんだった。クールなようで時たま天然でぽやぽやしていて、それでも根っこは熱い、轟くんだ。

 

(……うん、もう大丈夫)

 

 轟くんは緑谷くんと一緒なら、もう大丈夫だろう。元々冷静かつ判断力と行動力のある人だから、もう、何をすべきか間違えることなんてない。そう確信できる。

 

「任せたよ。その代わり避難は、わたしたちに任せて」

 

 だからわたしが、すべきことは。

 

「夜嵐くん! ……こっちに手を貸して!」

 

 先ほどのギャングオルカの一撃を受けて空から地面に降り立っていた夜嵐くんの肩を叩き、治癒のエネルギーを注ぐ。夜嵐くんは何か言いたげに目と声を大きく開けたけれど、苦虫を噛み潰したような顔で口元を引き結んだ。士傑の制帽の鍔をつまんで、固く頷く。

 

「……他の受験者の人たちは、トリアージにおいて赤Ⅰ、黄Ⅱと判断されているHUCの皆さんから先に救助しているみたい。わたしは黄Ⅱの方たちから羽根で運んでいくから、夜嵐くんはその風で、多くの緑Ⅲの方たちを……」

「了解ッス」

 

 わたしが言い終わるより先に、夜嵐くんは両腕を広げた。彼から巻き起こる風は人を複数人持ち上げられるほどのパワーはあるけれど、それで誰かを傷つけることはない。彼のおおらかそうな人柄とは裏腹に、繊細かつ精密なコントロールでもって、無数の風を操作している。

 

「……すごい、ね」

 

 一次試験でも垣間見たように、夜嵐くんの“個性”は卓越している。威力も精密さも自在に操って、(ヴィラン)退治にも救助にも、大きな力となれるはずだ。

 

「……わざわざ俺をアイツから引き離して、庇うんスね」

 

 ──この、ほの暗く燃えているような感情が爆発しなければ、きっと。

 

「……アイツっていうのは、轟くんのことだね?」

「アイツは! ……アイツはヒーローになんかなれない!」

「……、どうして?」

 

 夜嵐くんは風を操作しながら、話し続ける。そうして彼が叫ぶ横顔を見上げて、わたしは問い掛けた。

 

「わたしには、そうは思えないけれど……そう思う理由が、夜嵐くんにはあるんだね?」

 

 試験開始前、あんなにもおおらかにわたしを気遣ってくれた夜嵐くんだから、それが嘘だとは思えなかったから、だからずっと気掛かりだった。

 どうしてこんなにも、憎々しげに、苦しそうに、轟くんを見やるのか。

 

「……だって、」

「うん」

「だってアイツは、あのエンデヴァーの息子だ……!!」

 

 

 それから夜嵐くんは色んなことを話してくれた。

 幼い頃にヒーローに“熱さ”を感じ、それこそ熱狂的に憧れたこと。ヒーローの熱い心こそ人に希望や感動を与えること。そう信じてやまないこと。そして、

 

『──邪魔だ』

 

 いつかの幼い日、ヒーロー活動をしていたエンデヴァーに出会い、サインを求めた夜嵐くんは、その差し出した色紙ごと振り払われた。尻餅をついた少年を顧みることなく、エンデヴァーさんは前を見ていた。

 

『俺の邪魔をするな』

 

 全てを振り切るように()を見据えるエンデヴァーさんからは、ただただ冷たい怒りしか伝わってこなかったこと。

 “個性”とは裏腹に、酷く冷えきったその眼差しは、

 

 

「雄英の推薦入試の時に出会った轟を見て、すぐ息子だってわかった。だってあの時のエンデヴァーと、全く同じ目をしていたんだから!!」

 

 轟くんと、同じ(・・)だったのだという。だからあの親子はヒーローとして認められないのだと、夜嵐くんは顔を歪めた。彼らもヒーローだと認めるのは、これまでの彼の価値観を壊すことと同義なのだろう。

 でもきっと、ただ許しがたいから顔を歪めているのではないのだろうとわかった。彼がこんなにも苦しそうに話すのは、きっと──

 

「……でもそれを、轟くんに言わないでいてくれたんだね」

 

 轟くんに『あんたはエンデヴァーと同じ』だと正面から言ってのけたのなら、彼は今みたいに冷静ではいられなかっただろう。夜嵐くんの言葉に反発して、心乱されて、……今よりもっとマズい状況に陥っていたかもしれない。

 でもそうはならなかった。

 

「……一次試験が終わって、あんたと轟が控え室で話しているのを見た」

「うん、そうだったね」

 

 あの時の、刺すような彼の視線を思い出す。今ならわかる。あれは敵意だけが理由ではなかった。

 

「その時の轟くんは、入試の時の轟くんと同じ(・・)だったかな」

 

 わたしの問い掛けに、夜嵐くんはグッと声を詰まらせた。見開かれた目が揺らいで、眉間に皺が刻まれる。それは、と溢れた声は小さく、彼の迷いを表していた。

 

「……確かに、体育祭までの轟くんは他の人を寄せ付けない感じだったよ。きっと入試の時もそうだったんだろうなって、夜嵐くんの話を聞いて思った」

「……っ、なら、」

「でも今の轟くんは、あの時とは同じ(・・)じゃないって思ったから、夜嵐くんは迷ってるんじゃないの?」

 

 とうとう夜嵐くんは沈黙した。引き結んだ口元の奥から、ギリッと歯軋りの音がする。

 

「……ね、夜嵐くん。訊いてもいい?」

 

 葛藤に苛まれる彼を、追い詰めたいわけではない。

 

「人は、一度間違えたら、もう駄目なの?」

 

 けれどこのままで迷ったまま足を止めて欲しくなかったから、わたしは問いを重ねる。これが痛みを伴おうとも、考えてほしかった。

 

「もう、おしまい? ……ヒーローを志しては、いけない?」

 

 わたし自身も、考えなければならないことだったから。

 

「……だったらわたしは、もう何にもなれないね」

 

 両親の“個性”(未来)を奪ったわたしは、あの日、取り返しのつかない間違いを犯したのだろう。本来なら、こんな風にヒーローを目指して、幸せに生きているなんて、許されることではないのかもしれない。

 

「でもそうじゃないのなら、間違えても、もう一度歩いていけるのなら、……」

 

 “大丈夫だよ”と、“いいんだよ”と。

 そう笑ってわたしの手を引いてくれた人がいるから。

 

「轟くんを、もう一度ちゃんと見て。

 今、あなたの目の前にいる轟くんは──ヒーローになるために、戦っているよ」

 

 だからわたしもまだ、諦めずに前に歩いていける。

 だから夜嵐くんも、見捨てずに受け入れてほしい。

 

「夜嵐くんは、どうする?」

 

 そんな自分勝手な理由でけしかけてしまったけれど、夜嵐くんは真剣に聞いてくれたようだ。いつの間にか、眉間の皺がほどかれている。彼は真っ直ぐな目で氷と炎を繰り出しながら(ヴィラン)と戦っている轟くんを食い入るように見て、──唐突に自分の顎に拳を叩き込んだ。

 ゴギン、とおおよそ人体から出てはいけない音が轟いて、わたしはぎょっとして声を裏返す。

 

「夜嵐くんっ!? い、痛くない? 治……」

「治さなくていいッス!!!」

「ウワ大声復活だね……」

 

 彼の頬に伸ばしかけた手を引っ込めて、わたしは笑った。ぐわんと鳴る耳鳴りでさえ嬉しくなってしまう。

 だって復活したのは大声だけじゃない。彼の目が、表情が、初めて会った時のように輝いているのがわかったから。

 

「こっちは夜嵐くんの助けもあって、ほぼ避難は終わってる。前線の助けに向かってくれる?」

「了解ッス!!!」

 

 赤黒くなった頬で、それでも爽やかに笑って、彼は風に乗って前線に戻っていった。その頼もしい背中を見送って、さてわたしも要救助者の元に戻って治癒を再開しようかと、そう思って踵を返した。

 その時だった。

 

 

 

「ねぇ」

 

 背中に掛かった声に振り返ると、いつの間にそこにいたのか、亜麻色の長髪が揺れていた。士傑の制帽を被った、ボディスーツの女性だ。彼女はすっと、瓦礫の向こう側を指差した。

 

「あっちの方に、動かしづらい怪我人がいるの。手伝ってくれる?」

「! わかりました、今行きます!」

 

 先導する彼女を追ってやってきたのは、爆発で崩れたのだろうビルの中だった。倒れた柱と柱が不安定なバランスで支え合っているだけで、天井は今にも崩れ落ちてきそうだ。灯りもなく、僅かに開いた入り口の他は瓦礫で埋もれているから、中は薄暗く視界も悪い。

 こんな場所に長らく留まっては、じきに倒壊する建物の下敷きになりかねない。一刻も早く救助しなければと、わたしはボディスーツの背中に呼び掛ける。

 

「怪我人は、どちらに──」

 

「うふふ、」

 

 彼女はゆっくりと振り返ってわたしを見た。

 その顔が、どろりと溶ける(・・・・・・・)

 

「ッ!? な──」

 

 溶けていく。その髪も目も、鼻も口も、輪郭さえも。

 信じられない光景に思考と動きが止まる。目を見開き硬直するわたしを捉えて、溶けた肌の向こうから覗いた蜂蜜色の目が、にんまりと弧を描いた。

 

「会えてうれしいです! 愛依(あい)ちゃん!」

「……トガ、ヒミコ……!?」

 

 あの神野の夜、あのバーで出会った(ヴィラン)連合の1人。……連続失血死事件の容疑者として追われている少女、トガヒミコ。

 彼女は白い頬を赤く染めて、わたしに向かって心底幸せそうに笑いかけた。

 

 

73.少女、問い掛ける。

 

 


 

 本当はこの後のトガちゃんとの問答も入れたかったんですが、長くなりすぎるので分けます。

 ちょっと最近リアル仕事と本誌のアレコレに心臓をぶっ叩かれているので更新速度が死んでますね。皆様にはご迷惑おかけしています……読んでくださるだけで本当に嬉しいのに、あたたかなお言葉や評価をいただき大変幸せに思っております。いつもありがとうございます。

 

 次回はオリ主視点、次々回は女の子視点、そのまた次の公安組視点回で仮免試験編は終了予定です。原作バイバイが近付いてきている。またお暇な時にでも読んでいただければ嬉しいです。



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74.少女、わからない。

 

 彼女の始まりは、中学校の卒業式だったのだという。

 卒業式後、閑散とした廊下。手にしたカッターで同級生の男子を斬りつけ重傷を負わせた彼女は、その傷口にストローを差した。そうして、

 

『チウ』

 

 そのままストローで、彼の血を吸い上げたのだと。

 その時の顔があまりに恍惚としていておぞましかったのだと、目撃者は語った。

 血溜まりの中に倒れる少年。その傍らに跪く少女。静寂の中でチウチウと音が流れる。焦点の揺れる目はぼうっと上を向き、吊り上げた口角のせいで頬は歪んでいた。

 

(……どんな思い、だったんだろう)

 

 彼女は、トガヒミコは──ぼろぼろと涙を流しながら、頬を真っ赤に染めて、笑っていたらしい。

 今わたしの目の前に現れた彼女もまた、ニコニコ嬉しそうに笑っているけれど、その心情はまるで読めない。ましてや、こんな状況にあっては。

 

「何のために、ここに。目的は何?」

「んー? ふふ、会いたかったら来ちゃいました!」

「……ふざけているの」

「ふざけてなんて! 本心なのに!」

 

 ここはヒーロー仮免試験の場だ。仮免を目指す数多のヒーロー候補生の他に、公安の目もある。生徒を引率してきたプロヒーローの先生方も観客席にいるのだから、そんな衆目の中に自ら飛び込んでくるなんて、正気の沙汰とは思えない。

 

(……、そうだ、ホークスもいる。いてくれる)

 

 そう思い至ったわたしは、背中の【翼】を広げた。自分の身を覆うように周囲に2割、残りの8割をトガヒミコに差し向ける。形状変化で鈍器と化した羽根が、彼女に向かって射出される。

 

「わきゃあっ! もうっ、いきなりですねぇ」

「動かないで。……何のつもりでこの多古場に来たのかは知らないけれど、姿を見せたからには捕縛させてもらう。トガヒミコ」

 

 彼女は“個性”とはまた違った“技術”で、非常に軽い身のこなしと隠密能力を誇るのだと、公安による記録で知った。数多の警察やヒーローから2年も逃げおおせているぐらいだから、わたしの小手調べ程度の羽根が当たるはずがない。

 8割は目眩まし。本命は、わたしの周囲に展開させた2割の羽根の内の1枚。その1枚がわたしの耳朶に触れる。会長から貰ったピアス型の通信機がONになった。

 これでわたしの会話が公安に伝わる。そうして公安の人たちに、目良さんに、ホークスに、トガヒミコがここにいることを伝えるのがわたしの仕事だ。

 

(後は、彼女を捕らえる包囲網が整うまで、何とかこの場に引き付けて持ちこたえていれば、──)

 

 ふと、巡らせていた思考が止まる。整えていたポーカーフェイスが崩れたのは僅かだったはずだけれど、トガヒミコはそれを見逃さなかった。きょとんと目を瞬かせた後、にこりと笑う。

 

「ああこの人ですか? だいじょぶです、死んでませんよ」

 

 わたしの視線の先に、トガヒミコの背後に、人が倒れていた。うつ伏せになっているから定かではないけれど、恐らく50歳ぐらいの男性。HUCの一員だろうその人は、予め浴びていた血糊の他に、もっと赤黒い血を腹部から滴らせていた。致命傷程ではなくとも、十分に深手だ。一刻も早く治癒しなければと、焦燥に震える手を握り込んだ。

 

「……わたしにその人を治療させて」

「いいですよ」

 

 ……予想に反して、あっさりとトガヒミコは頷いた。色々と脳裏に並び立てていた交渉事を飲み込んで、わたしはしばし呆然とする。

 

「その代わりに、ネェ、」

 

 そんなわたしに可笑しそうに、嬉しそうに、

 

「こっち、……私の傍に来てください」

 

 愛おしそうに(・・・・・・)微笑んで、わたしに向かって両腕を広げた。いつの間にかその左手にナイフが握られている。

 ギャングオルカたちとの戦いが佳境に入っているのか、賑やかな外側とは裏腹に、ここは酷く暗く、静かだ。わたしの息を飲む音が、トガヒミコにも聞こえているかもしれない。こつ、こつ、とゆっくり進み出たわたしの足音が、やけに大きく響いた。

 一歩。一歩。彼女の満面の笑みに向かって近付いていく。その足取りに焦れたのか、最後の一歩はトガヒミコが詰めてきた。ぴょこんと飛び付いてきた彼女は、わたしの背中に両腕を回した。

 

「ンふふ! 愛依(あい)ちゃん、愛依ちゃんっ、カァイイねぇ」

 

 ぴょこぴょこ跳び跳ねた彼女のお団子頭が頬を擽る。

 嬉しそうな声が弾んで、ぎゅうぎゅうに抱き締められる。

 ──身動きは、取れない。

 

「ボロボロだと、もーっとカァイイよ!」

「……ッ!」

 

 抱き締められながら、ナイフを背中に突き立てられた。スーツを突き破り、肉を抉る鋭利な刃物の感触は、燃え上がるような痛みに紛れてよくわからない。それでも何とかうつ伏せの男性を治さなければと、治癒を込めた羽根を飛ばす。複数枚の羽根が彼を包み、ぴくりと、投げ出された指先が動いた気がした。

 

(……ちゃんと、治せた、かな……)

 

 抱擁とナイフで拘束されたこの状況では、そう祈ることしかできない。

 そんな“心配”の感情で気が緩んだのか、突き刺さる斬撃に声が漏れた。せめてもの意地で堪えようと奥歯を噛むけれど、二度三度とナイフを振り下ろされてそれも叶わない。

 

「う、ッぐ……!」

「声、殺さなくてもいいんですよ?」

「~~っい”、や、だ……っ」

「頑張りやさんですねぇ」

 

 語尾にハートでも浮かびそうなくらい、トガヒミコの声は明るかった。まるで友達と一緒にクレープを食べてきゃいきゃいはしゃいでいるような無邪気さを以て、わたしの背を抉る。

 

「あの神野の日から、ずっと、ずぅっと思ってたんです」

 

 至近距離から、トガヒミコはわたしの顔を覗き込んだ。

 無邪気に夢見る女の子のように、トガヒミコはきらきらと目を輝かせている。恋に恋する乙女のように、そうっと大切そうに声を潜めて、彼女は赤い唇を開いた。

 

「ボロボロの愛依ちゃんがスキ」

「血塗れの愛依ちゃんがスキ」

「真っ白の肌が、髪が、羽根が、血で赤黒くどろどろになるのが、とぉってもカァイイ」

 

 この暗い瓦礫の中にあって、その目はまるで三日月のように、にんまりと弧を描いて輝いた。

 

「私、血の匂いがする人が好きなんです。だから好きになると、もっともーっと好きになって、好きになりたくて、その人自身になりたくて(・・・・・・・・・・・)、血を飲むんです」

 

 こんな状況で、こんなことをしながら、こんなことを宣う彼女のことがわからなかった。トガヒミコが自分のことを話せば話すほど、彼女の思いがわからなくなる。

 

「……大切な人には、傷ついてほしくない」

 

 ホークス。目良さん。幼い時からわたしの傍にいてくれた人たち。梅雨ちゃんに常闇くん……雄英に入学してできた初めての友だち。頼もしい先生たちも、いつもわたしを見守ってくれていた。

 そんな大切な人たちが脳裏に浮かぶ。彼らを思えば、ふわりとあたたかな気持ちになる。

 

「傷を負ってほしくない。病気にもならないで、元気に楽しく、幸せに笑っていてほしい。……大好き、だから」

 

 だからわたしは、わたしには、トガヒミコがわからない。

 

 

「あなたは、違うの?」

「あなた()、違うんですよ」

 

 

 ──言葉を失うわたしに対し、トガヒミコは不思議そうに首を傾げた。心底、不思議そうに。

 

「どうして私ばかり“違う”って言うんでしょうねぇ? いっつもいっつも。違うのはお互い様なのに」

 

 “違うのはお互い様”。……人を傷つけておいて、人を殺しておいて何を今さらと糾弾するのは簡単だ。“あなたは間違っている”と、突き放すだけならきっと誰にでもできる。むしろこの“個性”社会に生きる人間ならば、トガヒミコの言葉に耳を貸すべきではない。

 

「チウ」

「ッ、や……!」

 

 露にされた肩口にナイフが突き刺さる。血が溢れるそこにトガヒミコは口をつけた。焼けつくような痛みと、じゅるじゅると血が吸われていく不快感に頭が可笑しくなりそうだ。ぐらぐら、ぐらぐら。目眩がする。

 

「……は、ッ」

「痛い?」

 

 揺れる世界の中、耳元でトガヒミコが囁く。耳を、貸してはいけない。揺れてはいけない。

 

「……でも愛依ちゃん、死なないの、うれしいです」

 

 揺らいではいけないと、わかっている。

 彼女の刺殺(やっていること)好意(言っていること)はちぐはぐで、まるでわけがわからない。言葉は悪いけれど、“狂人”と、そう言ってしまっていいんだろう。

 

 それでも、何故か。何故か、

 ……彼女には嘘が無いように思えてしまう。

 

「私が大好きになる人、最後はいっつも死んじゃうの」

 

 どうしてそんなに、寂しそうな声をしているの。

 

「でも愛依ちゃんは、ずっと、ずーっと死なないで、ボロボロでいてくれます!」

 

 どうしてそんなに、嬉しそうに笑うの?

 

「……わたし、を、」

 

 傷つけたいけれど、大好き。

 大好きな人だから、傷つけたい。

 

 わたしには理解しがたいことが、彼女にとっての普通(・・)

 

「……わたしを殺したいわけでは、ないんだね」

「? 当たり前です」

 

 トガヒミコは頷いた。迷う素振りも、何かを押し隠そうとする素振りもない。話す声に淀みは無く、……嘘の気配は、感じられない。

 

「……当たり、前……」

 

 当たり前。当然。普通。

 そうした言葉は、こんなにも不確かなものだっただろうか。ぐらぐら、ぐらぐら。信じていた足元がぐらついて、崩れ落ちていきそうな感覚を覚える。虚空に放り出されてしまう、そんな幻覚の中で、──すいと、わたしの前を行く赤い羽根が見えた。

 

「だって私は愛依ちゃんのこと大好きですもん。このまま持って帰っちゃいたいくらい!」

 

 ──そうだ。わたしの、やるべきことは。

 

「……わたしを連れていって、どうするの。AFO(オールフォーワン)は既に捕縛されてる。わたしが連合の元に行ったとしても、役に立つとは思えない」

「役に立つとかはどうでもいいのです。だってトガが、愛依ちゃんと一緒にいたいだけなので」

 

 トガヒミコを捕縛するための包囲網の完成を、彼女を引き留めながら持ちこたえていれば、(ヴィラン)連合の一員である彼女を捕らえることができる。

 けれど、今、この場で。

 ピアス(発信器)を着けたわたしがトガヒミコに連れられて連合の元へ行けば、行方を眩ました死柄木たちの居所を公安に伝えられる。あの夜にできなかったことを、今、やり遂げるんだ。

 

(そうすればきっと、わたしは役立てる)

 

 剥き出しの肩口にナイフが突き立てられ、ぐじゅりと捻られる。内側の肉を抉られる痛みに、歯をきつく噛みながら悲鳴を殺した。悲鳴も、痛みも、傷も、今はもうどうだっていい(・・・・・・・)

 

「ッい”、……っい、一緒にいたいって、どうして、」

「“どうして”? トガはただ、カァイイ友達を、もっといっぱいカァイクしたいだけです」

「……じゃあ、わたしが、あなたと行けば、……他の人を、傷付けない?」

 

 息を飲め。恐怖を押し殺した顔をしろ。

 今のわたしは痛みをおして、人のため(ヴィラン)に身を差し出すヒーローの卵。そうした、未熟で無鉄砲で、一途な覚悟をちらつかせて、トガヒミコに警戒心を抱かせるな。

 “わざと(ヴィラン)連合の元へ行く”のだと、気取られるな。

 そうすれば、そうして頑張れば(・・・・)、きっと、

 

「……わたしが大人しくあなたに着いて行けば、士傑の、……あなたが血を吸って変身していた女の人の居場所を、教えてくれる?」

 

 

 そうすれば、きっと。

 このナイフはホークスには届かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──駄目よ、そんなの」

 

 

 

 

 突然、声がした。この場にいるはずのない声が。

 え、と目を瞬かせると同時に、視界がぶれる。わたしを抱き締めていたトガヒミコが何かに弾き飛ばされて、地面に尻餅をつく。呆然とそれを眺めていたわたしは、彼女(・・)に肩を支えられ、そっと腕の中にしまい込まれた。

 何故か透明だったその髪が、ゆっくり色を取り戻していく。緑がかった黒髪が揺れるのが、見えた。

 

「……つゆ、ちゃ……?」

 

 わたしの呼び掛けに、梅雨ちゃんはトガヒミコを見据えたまま表情を動かさない。けれどわたしの肩を抱く手に、微かに力が込められた。

 

「ワーっ、梅雨ちゃん! お友達の梅雨ちゃんだ! カァイイカァイイねぇ!」

「“やめて”と言ったはずよ」

 

 恐らく梅雨ちゃんの舌に弾き飛ばされたのだろうトガヒミコは、攻撃されたのも何のその、喜色満面の笑みで身体を起こした。そのまま飛び跳ねて来そうな彼女を、梅雨ちゃんの低い声が制する。

 

「“梅雨ちゃん”と呼ぶのも、──私のお友達を傷つけるのも」

 

 そう言い放つと同時に、梅雨ちゃんの舌が真っ直ぐトガヒミコに向かう。まるで鞭のような速さと鋭さを以てトガに迫るけれど、彼女はうっすらと笑いながらそれをかわし、距離をとり、低い体勢で構えながら唇の端を持ち上げた。

 

「うふふ、やっぱり梅雨ちゃんもカァイイ! ねぇね、梅雨ちゃんも愛依ちゃんと一緒に来ませんか?」

「結構よ」

「エー」

 

 梅雨ちゃんの冷静な眼差しと、トガの不満そうな眼差しが錯綜する。ほんの少し、息を飲むような沈黙が流れて、梅雨ちゃんは再び舌を伸ばすべく口を開いた。

 対するトガヒミコは、つと視線を反らし──ぽつり呟く。

 

「あれま」

 

 驚いたような、意外そうなその呟きの意図を尋ねるより早く、わたしたちの視界を()が埋め尽くした。()──蒼炎(・・)は瞬く間に膨れ上がり、わたしたちとトガヒミコを隔てる壁となる。

 ただでさえ倒壊しそうだったビルが容赦なく燃やされる。圧倒的な熱量に焼けそうな喉を庇いつつ、必死になって羽根を飛ばした。まだ意識を失ったままの男性を瓦礫から遠ざけながら、視線を周囲に巡らせる。

 

(まさか、荼毘まで来てるなんて……!)

 

 この蒼い炎は間違いなく彼の“個性”だろう。居場所を掴まなければと羽根を舞わすけれど、ごうごうと燃え盛る炎に阻まれて叶わない。

 

「あーあ」

 

 そんな時、蒼い炎の向こうに影が揺らいだ。それはトガヒミコのものに違いないのに、瞬きの内にそのシルエットが溶けた(・・・)。ぴょこぴょこ跳ねたお団子頭が崩れて、背中まで流れるロングヘアとなる。

 

「“終わり”、ですって。ザンネンです」

 

 トガヒミコのものではないその声で、トガヒミコは不満を溢す。しかしそれもつかの間、彼女はにこっと破顔した。士傑の制帽の鍔を軽く摘まんで、ひらりと手を振ってみせる。

 

「じゃあね愛依ちゃん、梅雨ちゃん、バイバイです! また会おうね!」

「、待っ……」

 

 黒いボディースーツを纏った身体が、軽やかに踵を返す。その背中に手を伸ばした。

 彼女を逃がしてはいけない。今この時が好機なんだ。

 トガヒミコを捕まえれば、(ヴィラン)連合に繋がる何かがわかるかもしれない。トガヒミコも、荼毘も、死柄木も、またどこかで牙を剥くかもしれない。

 その牙がみんなを──ホークスを傷付けることだけは──絶対に駄目だ!

 

「待って……!」

 

 だから待って、お願い。逃げるならせめて、

 わたしも、連れていって──

 

 

「駄目よ」

 

 

 伸ばした手を、後ろからぎゅっと掴まれ、下ろされた。思わず振り返った先で、梅雨ちゃんが真っ直ぐわたしを見つめている。

 

「いけないわ、愛依ちゃん」

「梅雨ちゃん、でも……!」

「駄目」

 

 ふるりと首を横に振って、梅雨ちゃんはじっと、わたしを見つめた。

 

「……駄目よ」

 

 その目に、声に、懇願の色が滲んでいる。それがわかってわたしは何と言っていいのかわからず、言葉を飲み込んだ。

 数瞬、沈黙するわたしたちの上から、不穏な物音が降ってくる。燃え落ちた瓦礫が迫ってくるのを仰ぎ見て、わたしは咄嗟に羽根を飛ばした。炎の塊に対し、この羽根がどれほど役立つかはわからない。それでも腕の中の梅雨ちゃんだけは、と、彼女を抱き締めて衝撃に備えた。

 その時だった。

 

 

「──空中(そらなか)!!」

 

 

 カッ──と、閃光が弾ける。一拍置いて凄まじい轟音が空気を揺らした。耳鳴りを唾を飲み込んでやり過ごし、わたしは強すぎる光を腕で庇いながら見上げた。

 

「何ボケーッとしとんだボケ!! 逃げろや!!」

 

 両の掌を空に向けて、強烈な【爆破】で以て瓦礫の雨を吹き飛ばしてみせた爆豪くんは、目尻を鋭く吊り上げて叫んだ。その頬に擦り傷程度はあるものの、目立った怪我は無いようだ。

 

「ば、くごう、くん」

「空中!」

「常闇くん、も……」

 

 ……よかった。駆けつけて来てくれた常闇くんにも、梅雨ちゃんにも、大きな怪我は無いみたいで、ほっと安堵で頬が緩む。トガヒミコを捕らえられなかったのは痛いけれど、みんなが無事ならまずはいい。

 そんなわたしとは裏腹に、常闇くんの表情は険しかった。苦しげに目を細め、眉間に皺を寄せている。彼の視線はわたしに、……わたしの背中に向けられていた。

 

「空中、出血が激しい。一刻も早く手当てを……!」

「え。あ、だ、大丈夫……」

「ッ、何が“大丈夫”なものか!!」

「っ?」

 

 爆豪くんならいざ知らず、常闇くんが声を荒げるのは珍しくて、思わず肩を跳ねさせる。その理由を考えてしばらく、ひとつ思い至ったわたしは苦笑を浮かべた。

 

 

「本当に、大丈夫だよ。──もう治ってるもの(・・・・・・・・)

 

 

「──、」

「常闇くん?」

 

 常闇くんはハッと目を見開いた後、固まった。わたしの背中や肩口はトガヒミコの攻撃によって血塗れになっているから、余計な心配をさせてしまったのかもしれない。わたしのヒーロースーツが白を基調としているから尚更、赤黒い色が際立ってしまっている。

 でも、もう“大丈夫”。心配する必要はない。

 服は確かにズタボロだけれど、その下の肌はもうすっかり元通りだからと、わたしは言葉を重ねた。

 

「あの、ごめんなさい。こんな格好じゃ誤解させちゃうのも無理ないよね。でも本当に……」

 

「“大丈夫”、ってか?」

 

 押し黙ったままの常闇くんの隣から、爆豪くんが進み出る。彼はいつもの不機嫌そうな顔に、何か、複雑そうな感情を混ぜ込んだ目をして、引き曲がった口許を開く。

 

「……爆豪くん?」

「……なんでテメェは、ポニーテールに創らせた通信機を使わなかった」

 

 二次試験開始直後、わたしは各地にバラけたみんなと連絡を取り合うため、八百万さんに通信機を創ってもらうよう依頼した。インカム型のそれは、確かにまだ、わたしの耳元に装着されている。爆豪くんの言う通りそのインカムを使えば、みんなに助けを求めることができただろう。

 それをしなかったのは──理由を問われ、それは、と口ごもるわたしを、爆豪くんの鋭い目が射る。

 

「“他の奴を巻き込みたくなかった”か? 笑わせやがる」

「っち、違うよ、その、……ビルが倒壊しそうで、人が集まると逆に危険で、」

「言い訳なんざ要らねーんだわ」

 

 多分彼は今、わたしに怒っている。いつもの彼なら怒鳴り散らしているはずなのに、何故か今は、驚くほど静かに、淡々と、わたしを見据えている。

 そうして彼は、わたしに言い放つ。

 

 

「自殺の真似事がしたきゃ、ヒーローになんざなるな」

 

 

 一瞬、時が止まったかのようだった。

 そんな錯覚から我に返って──爆豪くんの言葉の意味を咀嚼して──わたしはカッと、顔を赤くして叫んだ。

 

「じ、さつ、って……そんなんじゃない!!」

 

 頬が熱い。頭が、胸が熱い。燃え上がる感情が怒りと焦燥なのだと、どこか他人事のように理解していた。熱に突き動かされるように、わたしは爆豪くんに食って掛かる。

 

「わたし、そんなんじゃない、そんなつもりない……!」

「ハッ、どっからどう見てもそうじゃねェか」

「違う! ……わたしは、これが一番正しいと思っただけ」

 

 羽根が、ざわつく周囲の声を拾う。それがわたしの心に一匙の冷静さをもたらした。

 

(この会話は、公安に、……目良さんに聞かれている)

 

 だからしゃんとしないとと、努めて声を落ち着ける。握り締めた拳が震えているのには、気付かないふりをして。

 

「あの場には、負傷したHUCの人が倒れていた。トガヒミコが吸血して変身していた、あの士傑の女の人の所在もわからなかったし、……彼らの安否を確認するためにも、不用意には動けなかった」

 

 なるべく冷静に、淡々と、経緯を説明する。

 みんなにわかってもらいたかった。

 わたしは別に、死にたいと思っていたわけじゃない。

 ただ、傷付いた誰かを救けたかった。みんなの役に立ちたかった。そう思って行動しただけ。

 目的を果たすために、ただ、天秤を掲げただけだ。

 

「……何よりわたしの“個性”は、【治癒】。あの程度の怪我なら、すぐに、何の後遺症もなく治せる」

 

 わたしのすぐ治る傷と、救うべき男性の命。

 わたしのすぐ消える痛みと、(ヴィラン)連合の捕縛。

 2つの“大切”を天秤の両皿に乗せただけ。

 ──どちらを選ぶべきかなんて、決まりきっている。

 

「多少の傷は、何も問題、ないよ」

「……そうかよ」

 

 だからわたしは間違っていないと、そう語気を強めれば、爆豪くんは眉間の皺を険しくして吐き捨てた。これで問答は終わりかなと、そっとわたしは詰めていた息を溢した。

 

「……本当にテメェが、問題ねーって思うんなら、」

 

 その息を、ひゅっと飲み込む。

 爆豪くんの灼眼が再び、わたしを射抜いていた。

 

「それを、そっくりそのまま、後ろのヤツ(・・・・・)に言えや」

「……? 後ろ、って、……」

 

 困惑のまま、言われるままに振り返る。ゆっくりと移ろう視界に、わたしは彼女(・・)の姿を捉えた。

 

「──つゆ、ちゃん?」

 

 梅雨ちゃんはひとり、立ち尽くしていた。丸く大きな目も、静かな表情も、引き結ばれた口許もいつもと変わらない。

 ただ、ひとつ。

 

「え、……え? なんで、梅雨ちゃん……」

 

 梅雨ちゃんは、泣いていた。大きな目からぽろぽろと大粒の涙を溢して、わたしを見ていた。思わず駆け寄って彼女の頬を指先で拭うと、梅雨ちゃんは顔をくしゃりと歪めて、より大きな嗚咽を漏らした。

 

「……っ」

「や、うそ、なんで……やだ、」

 

 梅雨ちゃんはいつも冷静で、穏やかで。そのポーカーフェイスが崩れることはあまり見たことがなかった。ましてやこんな、顔をくしゃくしゃにして、泣くなんて……。

 

「つ、つゆちゃ、梅雨ちゃん……泣かないで……」

 

 どうすればいいかわからないまま、わたしは梅雨ちゃんを抱き締めた。自分より少し背の低い梅雨ちゃんの頭を肩口に抱き寄せて、おずおずと背中を撫でる。腕の中の梅雨ちゃんは顔を上げない。

 しとしと、ほろほろ。胸元にやわく、雨が降る。

 

「……ごめんなさいね、愛依ちゃん」

「な、なんで、梅雨ちゃんが、謝るの……」

「私は、あなたの言う正しさを否定できない」

 

 わたしの背中に回された梅雨ちゃんの腕に、力がこもる。

 

「“個性”を正しく活かして、人々を救う。時には身を呈する必要もあるわ──それがヒーローなんだって、わかってる。わかっては、いるのよ。でも、」

 

 時々嗚咽で声を震わせながら、梅雨ちゃんはそう言った。

 言って、ようやく顔を上げる。

 

 

「──それでも私は、愛依ちゃんが傷付くのは、嫌よ」

 

 

 間近で見つめてくる梅雨ちゃんの目は、涙をめいっぱいに湛えて、輝いていた。しとしと、ほろほろ。梅雨ちゃんの頬を伝って溢れ落ちる涙は、まるで光の中に降り注ぐ雨のように綺麗だった。

 

 ……綺麗だと、感じてしまった。

 わたしは、その涙を、──嬉しい、と。

 

「……っそん、な、……わたし、っ……」

 

 わたしはなんて、浅ましい人間なのだろう。羞恥と申し訳なさで顔を上げていられない。そうして俯くわたしを、梅雨ちゃんは抱え込むように抱き締めてくれた。とん、とん、と。鼓動と同じリズムで、柔らかく背中を叩いてくれる。

 

「っ、や、ぅ、……うぅう……っ」

 

 そのあたたかな衝撃が、わたしの涙腺を打ち砕く。

 泣くなんておかしい。泣くな、泣き止め、と必死に目元に力を入れても、全然言うことを聞いてくれない。泣きたくない。嫌だ、嫌だ、だって──わたしが泣く権利なんてない。

 

 神野で失態を犯したわたしは、もっと頑張らないといけない。もっともっと頑張って、強いヒーローになって、みんなを救えるようになりたい。あの人を守れるようなヒーローに、ならなければいけないの。

 だから痛いのだって平気。傷付くのも問題ない。

 それでみんなが救えるなら、それでいいって思ってる。それが“正しい”って、信じてる。

 

(なのに、……なのに、どうして……っ)

 

 どうしてわたしは、梅雨ちゃんの涙に喜んでいる。

 “あなたに傷付いてほしくない”と、そう言ってくれる人がいることを──どうしてこんなにも、嬉しく思ってしまうの。

 

「~~っつ、ゆ”ちゃ……」

「……ええ」

「、っく……ぅ、う……っ」

「いいの。……いいのよ、愛依ちゃん」

 

 わからない。トガヒミコの言う“違い”も“普通”も。わたしが思う正しさも、感じる嬉しさも、全部全部ぐちゃぐちゃだ。

 ぐちゃぐちゃな心のまま、わたしはただ、みっともなく梅雨ちゃんに泣きつくしかできないでいた。

 

 

74.少女、わからない。

 

 


 

 トガちゃんのお蔭で(比較的)(当社比)早めに更新できました。やはりこう爆発的な魅力を持つキャラはいいですね。めちゃくちゃ助かりました。原作でトガちゃんが語った“普通”が個人的にすごく衝撃的だったので、いつか絶対オリ主と問答してほしいと思っていた部分が書けてホクホクです。

 爆発的といえば爆豪くんにも二次試験ではお世話になりました。轟くんと夜嵐くんの修羅場に喝を入れつつオリ主に斬り込むという重要な役目を担ってくれました。かっちゃんの身も蓋もない舌鋒の鋭さに助けられています……。

 

 なんか思った以上に長くなってしまいましたが、そろそろ仮免試験編が終わりに差し掛かってきました。あと乙女視点回の後に公安組視点回を書いてフィニッシュ予定です。

 こんなにグダグダ更新の遅い弊ssを読んでくださり、本当にありがとうございます。皆様の閲覧、お気に入り登録、感想、評価等々にいつも命を繋いでいます……!次回もよろしければ、また読んでくだされば幸いです。



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75.乙女たち、思いやる。

 

 トガヒミコが去ってから、状況は目まぐるしく駆け抜けていった。公安の職員さんたちに誘導された先で、愛依(あい)ちゃんの怪我の確認、着替え、事情聴取──医務室の先生も職員さんも警察の方々も私たちを慮ってくれたのはわかったけれど、それでも細々とした疲労は心身に降り積もっていって。終わった頃には私たちは、とある一室のソファーに深く身体を沈み込ませていた。

 

「……ううううう……」

「愛依ちゃん、疲れたのかしら、大丈夫?」

「あ、いや……違うのこれは何というか、……穴があったら入りたい気持ちというか……」

 

 愛依ちゃんの小さな声がくぐもっているのは、両手で顔を覆っているから。そうして身体をくの字に折り曲げている彼女の背中を擦った。白くてふわふわの羽根が、心なしかしゅんとしている。

 

「……あんなにびゃんびゃん泣いて、恥ずかしい……」

 

 今にも消え入りそうな萎れきった声だった。恥ずかしい、とは言うけれど、羞恥というより悔恨が色濃く滲んでいる。“申し訳ない”、“やってしまった”、……そうした気持ちを少しでも和らげたくて、私は努めて声を明るくした。

 

「気にしては駄目よ。ほら、頂いたコンポタ飲みましょ」

「……、……うん」

 

 ゆっくりと愛依ちゃんは上体を起こして、手の中にあるコンポタの缶を見下ろした。

 このコンポタは、諸々の事情聴取を終えた私たちに、1人の公安職員さんがくれたものだ。スーツをかっちり着込んで、サングラスを掛けた彼の表情は見えなかったけれど、どこかおずおずと差し出されたそれは温かかった。この8月の終わりにあったかいコンポタというのは中々に意外なチョイスで、お礼を言って頭を下げた愛依ちゃんも、驚いたように目を丸くしていたのが記憶に新しい。

 それでもこうして口に運び、温かい素朴な甘さが喉を通っていくと、凝り固まっていた身体がほぐされていく気がした。ほうっと吐き出した息も、ぬくくて甘い。

 

「夏のコンポタも、いいものね」

「……うん、びっくりした、けど……」

 

 うれしい、と。

 そこでようやく愛依ちゃんは小さく微笑んだ。何かを噛み締めるように口許を結んでいる。その眦は、もう赤くない。そうっと指先で触れると、愛依ちゃんは不思議そうに首を傾げた。

 

「? 梅雨ちゃん?」

「目元の腫れは引いたわね」

 

 “よかったわ”、とは言えなかった。

 上手く飲み込めない感情を均して、言葉として紡ぐ。

 

「愛依ちゃん、涙は透明な血だということは知っているわね?」

「え、と……うん。涙は血漿からできているから」

 

 リカバリーガールに師事している彼女だから、そういった知識は勿論あるのでしょう。けれど、だからこそもう一度、この場この時に言っておきたかったの。

 

「流れる血は、アラートなのよ。“もうこれ以上傷付いてはいけない”という、身体が発する警鐘なの」

 

 そんなこと、百も承知のくせに。

 愛依ちゃんは“大丈夫”と、悲しく笑ってみせるから。

 

「だからどうか、ヒーロースーツは、白のままでいてね」

「……それは、」

 

 思い出す。目蓋の裏に鮮明に焼き付いた光景を。

 医務室で検査を受ける愛依ちゃんの背中は、白くて、細くて、とても綺麗だった。……傷ひとつ無かったわ(・・・・・・・・・)。まるで最初から何も無かったみたいに。

 そうして制服に着替え終わった時、自分の──ズタズタに引き裂かれて血塗れのヒーロースーツを手に取って見下ろして、愛依ちゃんは眉を潜めて、小さく小さく呟いた。

 

『……目立っちゃうなぁ』

 

 愛依ちゃん。ねえ、あなたはきっと、それを嫌だと思ったのでしょう。許せないと思ったのでしょう。ヒーローとしていけないと、そう思ってしまったのでしょう。

 

「傷を負う時、痛みを感じるのは……、命を守るためなのよ」

 

 だからこそ私は、今、あなたに伝えたいの。

 

「あなたが痛みを隠してしまうのなら、せめて、傷痕は隠してしまわないで」

 

 わかっているわ。これはただの我が儘。戦闘における合理性を突き詰めるならば、汚れや傷が目立ってしまう色は避けるべきなのでしょうね。

 でもどうか、……どうか、と。

 祈るように、愛依ちゃんの手を両手で包み込んだ。

 

「……傷付いたってことを、隠さないで、教えて」

 

 愛依ちゃんは瞳を揺らした。青い目が、まるで波打つ海のよう。ほの暗く揺らいで、揺らいで、揺らいで、……そうして苦しげに俯いた。

 

「……梅雨ちゃん」

 

 まだ彼女の青に、光は射さない。

 

「でもわたし、やっぱり心配は掛けたくないよ。……みんなを守りたいし、安心させたい」

 

 コンポタの缶が微かに軋む。ぎゅうと強く握られるその手に、彼女の葛藤を見た。私の言葉は届いているけれど、それは確かに愛依ちゃんの心を揺らしたようだけれど、それでも譲れない思いが手放させないでいる。

 

「……そのためなら、わたしは──」

 

「“大丈夫”って?」

 

 苦しげに愛依ちゃんが言葉を継ごうとした、その時。

 カチャリとドアが開き、そこから明るい笑顔が覗いた。頭に巻いたオレンジのバンダナ。そこから真っ直ぐ流れる緑色の髪──スマイルヒーロー・Ms.ジョークは、ひらりと私たちに手を振った。

 

「まぁなぁ、そりゃ、“大丈夫!”って笑って応えたくなるのがヒーローだよなぁ」

「あ、え、……と、」

「わかるぜ? 笑顔ってのはいいもんだからな。なんたって私の商売道具であり人生の友だ!」

 

 戸惑う愛依ちゃんの肩をぽすぽす叩いて、Ms.ジョークはからりと笑う。“個性”【爆笑】を持つ彼女だからか、そういう人柄だからか、彼女の言葉には説得力があった。

 

「でもだからこそ、私たちは、無理して笑っちゃダメだ」

 

 でもただ賑やかなだけじゃない。彼女はふっと笑みの色を変えた。滲むような感情を湛えて、堪えるように目を細めて。

 

「……“ああ、あの時、無理して笑っていたんだな”って、後からわかるのはしんどいだろ?」

 

 そうして告げられた言葉に、愛依ちゃんははっと目を見開いた。その目に映っているのはきっと、あの人なのだと私にもわかった。見開かれたその青色が、ほんの僅かに潤んだ──Ms.ジョークはそれに気付かないふりをして、愛依ちゃんの髪をかき混ぜる。わぷ、と小さく呻いた愛依ちゃんに笑って、その白い髪を梳かすように撫でた。

 

「笑顔が泣くぜ、ひよっこヒーロー」

 

 にっかり口角が持ち上がる、その笑顔に愛依ちゃんが目を瞬かせる。言葉を探して開閉する口は、ついぞ声を為すことはなかったけれど……それでもちゃんと、前を向いていた。辛そうに俯いていたさっきよりずっといい。

 そうして安堵したのは私だけではなかった。扉口に静かに寄り掛かっていた相澤先生が、穏やかに目を伏せる。

 

「……まともなことも言えるんだな、お前」

「おっ、惚れ直したか!? 結婚する!?」

「えっ!?」

「しない」

「!?」

 

 相澤先生とMs.ジョークの掛け合いに、愛依ちゃんは肩を跳ねさせた。きょときょとと2人の顔を見比べて、目を真ん丸にしている。驚きの感情に連動しているのか、白い羽根が忙しなくぱたぱたしているのが可愛くて。思わず私まで笑ってしまう。

 

「えっ、……え? ……こ、恋人とかそういうご関係?」

「昔、お2人の事務所が近かったらしくて。仲がいいみたいなの」

「わあ……」

 

「わあ、じゃない。蛙吹も変なこと言うな」

「事実じゃないか!」

 

 一頻り笑ってから、Ms.ジョークは「さーてと、そろそろ帰るとするか」と伸びをした。その視線が相澤先生から愛依ちゃんに移る。

 

「またな。……今度見かける時はテレビ越しかわからんけど、素敵な笑顔を見せてくれよな」

 

 視線と視線が絡んだ先で、彼女はやっぱりにかっと笑った。そうしてドアへ向かう道中、相澤先生の背中をバシン!と強く叩いた。

 

「イレイザーも! たまには全力笑顔をお茶の間に披露したっていいんだぜ!」

「放送事故過ぎるだろ」

「あっはっは確かに! ……けどまァなんだ、気負いすぎるよりマシだろ?」

「……早よ行け」

「照れ隠しかよーイイ年してさー!」

「早よ行け」

 

 ……相澤先生はやや邪険にしてるみたいだけれど、やっぱり仲良しなんじゃないかしら。そんな風に思いながら愛依ちゃんの方を見ると、愛依ちゃんも同じタイミングで、同じことを思っていたのかしら。ばちりと視線がぶつかる。2人で顔を見合わせて、小さく笑った。

 

 けれどそれもつかの間、Ms.ジョークと入れ替わりに入ってきたその人の姿を見て、愛依ちゃんは姿勢を正した。少し疲れたような眼差し──試験の説明をしていた、目良さんという人だ。

 彼が相澤先生に会釈して、勧められるまま私たちの向かいのソファーに座った途端、愛依ちゃんは震える声で切り出した。

 

「あ、の」

「何です?」

「……すみません、騒ぎを起こして、御迷惑をお掛けして」

「お前が謝る必要は無い」

「ええ。それにこちらが、警備の隙を突かれて(ヴィラン)の侵入を許してしまったのですから、……申し訳ありません」

「っいえ、……いいえ、そんな、」

 

 そんなことないです、と小さく付け足した愛依ちゃんから、目良さんは視線を逸らす。彼は手に持っていた封筒から、2枚の書類を取り出した。

 

「ゴタゴタはありましたが……とりあえずここで、あなた方の仮免取得試験の結果をお渡しします」

 

 目良さんは試験の採点方法について話し出す。公安委員会とHUCの皆さんによる二重の減点方式で、私たち受験生の行動を見ていたと──危機的状況において、どれだけ間違いのない行動を取れたか(・・・・・・・・・・・・・)──それを点数で示したのだと彼は言った。

 

 説明が終わり、手渡された用紙に視線を走らせる。私は……合格だった。内心安堵の息をつきながら、どの行動が減点に当たったのか記述をなぞる。そうしている時だ。

 

「……え……」

 

 隣の愛依ちゃんが、思わず、といった様子で溢したから、私は彼女に断ってから用紙を見せてもらった。

 そこに書かれていたのは合格という文字と、申し分のない高評価だった。【(ヴィラン)の襲撃にも人質の無事を第一に、冷静に対処した】──そんな褒め言葉が並んでいる。

 

(……つまり、これは、)

 

 つまり、彼らは、公安は、

 愛依ちゃんのさっきの行動を、ヒーローとして正しい(・・・・・・・・・・)と、そう判断したということだった。

 

 そう認識した途端、胸にせぐり上げてきたこの思いをどう表現したらいいのか、私にはわからなかった。怒り?悲しみ?正しい?正しくない?……どれもそうであってそうではなくて、綯交ぜになっているようで。上手く言葉にできないまま、握り締める手だけ力がこもる。

 

 

「俺はそうは思いませんけどね」

 

 

 相澤先生の手が私の握り拳をほどく。そこでようやく、手のひらに爪が食い込む寸前だったことを思い出した。はっと我に返った私の隣で、相澤先生は身を屈めて愛依ちゃんの手から書類を取る。それを睨むように見下ろして、先生は固い声を放った。 

 

「今日の行動を是としてしまえば、こいつは、空中(そらなか)は繰り返すでしょう。きっと何度でも、他人のために命を投げ出す」

 

 固い声だった。

 ……固い信念が込められた声だと、わかった。

 

「ヒーローとして他人のために立派に死ねば、100点満点っていうのもおかしいでしょう」

 

 その厳しい声色に込められた感情に、愛依ちゃんも気付いてるんでしょうね。だからその何かを噛み締めるように、受け止めるように黙って俯いていた。

 俯いていた──そう、だから愛依ちゃんは、気付かない。

 

 

「そうですね」

 

 さらりと頷いてみせた目良さんが、何故か一瞬、ぎゅうっと目を細めたこと。それがとても苦しげで切なそうで、けれど同時に、とっても嬉しそうだったことに──愛依ちゃんは気付かない。

 

 

「空中さん」

「っは、い」

「あなたの行動は、ヒーローとして正しかった。そう我々は判断し、あなたに免許を渡します」

 

 顔を上げた愛依ちゃんに視線を合わせて、目良さんは淡々と言葉を置いた。とても静かだ。良く言えば穏やかで、悪く言えば冷ややかな、そんな声。

 

「──ただ、ひとつ」

 

 そこにほんの僅かに熱が籠ったような、そんな錯覚を覚えた。

 

「あなたが行動不能にならない限り、もっと多くの人の元へ駆けつけることができるでしょう。その翼を以て空を行き、庇い、治癒して……」

 

 その声が、ゆっくりと降り積もっていく。愛依ちゃんは胸元を握り締めながら聞いていた。何とも言えない表情で、口許を引き結びながら。

 

「ヒーローとして動けるのも、命あっての物種です。

 命あってこそ、君は、誰かを救けることができる」

「命、あってこそ……」

「ええ。努々、忘れることのないように」

「……、はい」

 

 そんな風に言葉を交わす2人を見守りながら、私は口許に手を添えて考えていた。

 私、思ったことは何でもすぐに言っちゃうの。だから、

 

「すみません、目良さん。少し訊いてもいいかしら」

「何でしょう」

「あなたと愛依ちゃんは、お知り合いなのかしら」

「いいえ」

 

 問い掛けた私に、彼はふるりと首を横に振る。

 

「初対面ですよ」

「そうだよ、どうしたの梅雨ちゃん、いきなり」

「そう……ごめんなさい、そんな気がしたものだから」

 

 首を傾げた私に、愛依ちゃんが笑いかける。そんな私たちの会話を見守っていた相澤先生が腕組みをほどいた。

 

「……そろそろ帰るぞ」

「あ……! ごめんなさい、最後にお訊きしたいことが、」

 

 ドアノブに手を掛けた相澤先生に待ったをかけて、愛依ちゃんは目良さんに向き直る。一呼吸置いて、彼女は意を決した様子で口を開く。

 

「士傑高校の……現見ケミィさんという方が見つかったという話は先程警察の方から聞きました。命に別状は無かったと。

 ……トガヒミコや、荼毘は……どうなりましたか? 彼らを追っていたヒーローたちは……」

 

 窺うように見つめる愛依ちゃんに対し、目良さんは黙考を返した。その情報を私たち学生に聞かせていいか、判断していたのだろう。

 

「あなたは当事者ですしね、気になるのも道理でしょう」

 

 暫くの沈黙を経て、彼は口を開く。

 

「……ホークスをはじめとしたヒーローたちで包囲網を形成しましたが、隙を突かれ、逃げられてしまったようです」

「! ヒーローの皆さんにお怪我は……!?」

「それは大丈夫。みんな無事とのことです」

 

 無事、という一言に安堵しながらも、愛依ちゃんの表情は翳っていた。何かを思うように目を伏せる。白い睫毛が、ふるりと震えた。

 

「未だ(ヴィラン)連合は潜伏中です。雄英に手出しできるとは思いませんが、どうぞお気をつけて」

「ええ、わかっています。……では失礼します」

「ハイ、それでは」

 

「……行きましょう、愛依ちゃん」

「、うん」

 

 愛依ちゃんの肩を叩いて促して、相澤先生に続く。隣を歩く愛依ちゃんはいつも通りなようでそうではなかった。伏せがちな眼差しが、どこか遠くを見ているようだった。

 寂しげに、心細げに、迷い揺らぐ。

 それが夕焼けのせいではないことは、私にもわかるのよ。

 

(……愛依ちゃん、)

 

 ねぇ、愛依ちゃん。

 きっとまだあなたは、葛藤の中にいるのね。

 

 

 

 

 

「待たせて悪かったな。委員長、点呼は」

「済んでおります!!」

「助かる」

 

 会場前の駐車場に停めてあったバスに乗り込む。まず出迎えたのは飯田ちゃんの元気な声。そしてみんなの視線だった。一挙に集まる視線──それは決して悪意あるものではなかったけれど、愛依ちゃんは小さく息を飲む。

 ほんの微かに、ピリッとした緊張が走った。そんな時。

 

「っ、梅雨ちゃん愛依ちゃん! こっちこっち!」

 

 バスの一番後ろの、続きの座席となっているところに、お茶子ちゃんが待っていた。手招きされるままそちらに向かうと、彼女は一瞬だけきゅっと口をへの字に結んだ。

 その一瞬で、不安や悲しみ、心配を、笑みに変える。

 

「……お帰り!!」

 

 にぱっと輝いた笑顔と声に、愛依ちゃんが目をぱちくりと丸くする。無意識に身構えていた肩から力が抜けたのが、みんなにもわかったのだろう。口々に声が溢れた。

 お帰り、大変だったね、お疲れ、頑張ったね、……降り注ぐ言葉のシャワーを受けて立ち尽くす愛依ちゃんは、お茶子ちゃんに手を引かれて座席に腰を下ろした。その反対側に座っていた透ちゃんがぎゅっと彼女に抱きつく。

 

「ううう~~……よかったよ愛依ちゃん! お疲れさま!」

「っわ、わたしはそんな、……あの、ご、……」

 

 ごめん、と。そう言いかけて、やめた。

 震える唇が、ゆっくり滲むように、笑みの形に和らいで。

 

「……ありがとう、みんな」

 

 そうしてようやく、愛依ちゃんは笑った。白い頬がほんのり染まって、花のようにほころんで。

 それと同じに柔らかになった空気の中、バスは出発する。かたん、かたん、と心地よい揺れと談笑の中で、ふと思い立ったように峰田ちゃんがこちらを振り返った。

 

「……そういやよォ、空中、蛙吹……お前ら試験って、」

「ちょっと峰田、いきなり過ぎ」

「そういうのは、その、ご自身のペースが一番かと、」

「そーは言ってもみんな気になってんだろ? なあなあ、どうだったんだ!?」

 

「え? ……ああ、そっか」

「そういえば、そうね」

 

 2人で、ふふ、と顔を見合わせて笑って、頷き合う。

 

「受かっていたわ。私も愛依ちゃんも」

「うん、……」

 

 多分愛依ちゃんは、“みんなはどうだった?”と訊こうとしたのね。でもそれより、高く、低く、バス中から歓声が沸き上がる方が早かった。

 

「よぉおおおおおっしゃァァァァァァ!!」

「えーすごくないすごくない!?」

「A組みんな仮免取っちゃったあ!!!」

 

 一気に膨れ上がった歓喜の声が、熱をもって広がっていく。それに温められた頬が緩んで、愛依ちゃんは蕩けるように笑った。“よかった”と小さく呟く声に、安堵の感情が滲んでいる。

 

「なァ空中これ見てみ! かっちゃん序盤の減点やべーの! 要救助者に対しても通常運転だからほんとにさァ」

「おう! すっげぇヒヤヒヤしたな!!」

「うわ……」

 

「“うわ”って何だコラ空中! ンで何でアホ面が俺の書類持ってんだクソが! 返せや!!」

 

 相変わらずの爆豪ちゃんに苦笑しながらも、愛依ちゃんは楽しそうにくすくす笑っている。何の無理も繕いもなく、心のままに。

 あの子のそんな笑顔を見るのは林間合宿以来で──それがひどく懐かしく思えてしまって──私はひとり、目を伏せて祈った。

 

 

 ……ねえ、愛依ちゃん。

 大好きよ。とても、とても。大切に思ってる。

 

 だからひとりで傷付かないで。それが無理ならせめて、傷付いたことを隠さないでほしいの。痛みをひとりで堪えて、“大丈夫”って笑うあなたを見るのは、ひどく怖いから。

 

 “大丈夫”って、笑ってそうして、

 そのままあなたが消えていく気がして、恐い。

 

「? 梅雨ちゃん、どうかした?」

「いいえ、何でもないのよ」

 

 何でもないわ。何でもないって、思わせて。

 どうか今みたいに、みんなの中で笑っていて。

 あなたが喜びに目を輝かせて、嬉しさに頬を染めて。時に怒って泣いてもいいの。心を押さえつけないで、優しくほどいて。そうしてあなたが笑っていてくれるなら、私は何だって頑張れちゃうのよ。

 

「……けろけろ」

 

 だってあなたは、大好きなお友達だもの。

 

 

 

 

 

 

 ──ネェ、愛依ちゃん。

 大好きだよ。いっぱいいーっぱい、大好きです。

 

 だからもっと血を見せて。どろどろに滴って、べたべたに染まって。血みどろになってください。

 白い頬っぺたも、白い髪も、白い羽根も、真っ赤になるともっとカァイクなるのです。血の気が引いて真っ青みたいな真っ白が、溢れ出た血で真っ赤になるの。そのコントラストがまばゆくって仕方なくて、想像だけでキュンとなる。

 そのために白く生まれてくれたんだなって、そう思えるくらいに。奇跡みたいに嬉しくなるの。

 

 だって愛依ちゃんは、きっとずっと、赤くてカァイイままでいてくれる。色褪せて黒くなって、ひんやりして、動かなくなってしまわないから。

 

 

「……あーあ、もっと一緒にいたかったなァ」

「てめェ今の状況わかって言ってんだろうな?」

「わーかってますよぅ」

 

 廃ビルの残骸を、ふて腐れながら蹴っ飛ばす。からりと乾いた音がした。外ではセミがうるさいぐらいにじゅわじゅわ鳴いているのに、この中は音が死んでいるみたいに静かだった。

 暗い、暗い、暗がりに。今にも溶けていきそうな真っ黒のジャケットが翻る。

 

「そんなにグチグチ言うなら、なんで荼毘くんはトガが遊びにいくのを許してくれたんです?」

 

 ヒーローのナントカ試験に潜り込んで、愛依ちゃんたちに会いに行く──誰かに言えば流石に止められちゃうだろうなと、それぐらいはわかってました。だから荼毘くんに呼び止められた時は舌を出したくなったし、『俺が助けてやろうか』って言われた時は目を真ん丸にした。ついでにトガの耳と荼毘くんの頭を疑っちゃいました。だっていつもならこういう時、我関せずってそっぽを向いちゃうのに、……

 

「愛依ちゃん、そんなに気になってたんですか?」

 

 荼毘くんがわかりづらくもその目の色を変えたのは、愛依ちゃんの名前を聞いた時だった。気だるそうないつもの目が、少しだけはっと開いて、それから三日月みたいに細められた。

 笑ってるみたいで、泣いてるみたいだった。

 

「別に、」

 

 今の荼毘くんはもう、いつものだ。何にも興味ないですって顔して、どこか遠くをぼうっと見ている。

 

「……よくよく考えりゃ、別に口止めする必要も無かったな」

「なんの話です?」

「イカれたガキのお守りなんざ、やっぱ損しかねェって話だ」

「ふーん」

 

 てきとうに相槌を打って、セミがみんみんうるさいなあなんて、そんなことをぼんやり思った。その時──私たちの爪先辺りの床に、赤い羽根が突き刺さる。

 

「……!」

「っとォ、」

 

 跳び退って四つ足になりながら構えると、荼毘くんが大きく腕を振るうのが見えた。蒼い炎が、暗がりを舐め尽くす。それは空を裂いて向かってくる羽根の弾丸を焼き払ったけど、背後から迫った羽根が炎を掻い潜って荼毘くんの喉元に迫る。すんでのところで炎は間に合った。羽根だったものがぼろぼろと灰になって崩れ落ちて──その欠片が床に散らばるのと、荼毘くんの左腕、その袖口に羽根が突き刺さって、背後の壁に縫い止められたのは同時だった。

 荼毘くんは小さく舌打ちを溢して、口の端を吊り上げる。

 

「勤勉だなァ、ヒーローさんよ」

「君らほどじゃないよ。わざわざこんなとこまで来てくれるなんてね」

 

 このひりついた空気に似合わない、やけに明るい声が響いた。うっすら笑いながら現れたそのヒーローは、そのくせ何の隙も見せない。荼毘くんの援護をしようかと身動いだ私に、牽制の羽根が差し向けられる。

 ゴーグル越しの目が、鋭く笑う。No.3ヒーロー──確かホークスといった──は大きく翼を広げた。窓から射し込む夕日を受けて、まるで血のように、真っ赤に輝く。

 

「俺らヒーローの包囲網、抜けられると思った?」

「さァな。死に物狂いで頑張れば、数人は焼けるかもな」

 

 見下ろすような鷹の視線と、挑発するような荼毘くんの視線がぶつかり合う。じりじりとした沈黙が続いた。熱い。夏の暑さと炎の余韻が混ざり合って、ゆらりと陽炎が立ち上る。頬と顎を汗が伝う──これが一滴でも落ちてしまえば、弾かれるように戦いが始まるんだろうなって何となくわかった。無言のうちに、身構える。トガはナイフを、荼毘くんは手のひらの炎を、それぞれに研ぎ澄ませて。

 

 ──けれどホークスは、笑いながら肩を竦めた。

 

「……は?」

 

 それと同時に、私たちを制していた赤い羽根がホークスの背中に戻っていく。拘束を解かれた荼毘くんは呆けた声を溢した。でもワケがわからないのはトガも同じ。

 だってヒーローは、警察は、私たち(ヴィラン)を捕まえに来る人たち。生きづらい世の中を押し付けてくる人たち。だからワケがわからない、わからないけど──でも、

 

「あっち、……会場西方面は俺の管轄。そこを抜ければ駅と繁華街が見えてくる。そうしたゴチャついたとこは得意でしょ」

 

 何故かこのヒーローは、(私たち)を逃がそうとしているらしい。

 

「……なんのつもりですか?」

「誰もいなさそうな廃ビルでも、景気良く燃やされちゃあ……(ヴィラン)の捕物より、周囲の避難誘導を優先するよ」

 

 ヒーローは笑う。へらへらと、にんまりと。

 まるで他愛のない世間話のように、私たち(ヴィラン)に逃走先を指し示す。それが罠だという可能性もあるけど、何だかそうは思えなかった。だってトガたちを捕まえるつもりなら、そんな回りくどいことをする必要はない。ここで捕まえればいいだけで、逃がせばそれだけリスクが高まる。

 まともなヒーロー(・・・・・・・・)が、こんなことするわけない。

 

「ヒーローは人命第一、だからね」

「へェ……流石はNo.3ヒーロー様。有り難いお言葉だ」

 

 トガが考えたように、荼毘くんも判断したらしい。警戒態勢を解いた荼毘くんは、試すような目で笑った。

 

「でもいいのか? ホークス」

「何が」

「お前、あいつの“保護者さん”じゃなかったっけか?」

 

 荼毘くんの問い掛けの意味は、トガにはわかりません。でもホークスには伝わったみたいでした。いつかの時を思い出して、鷹の目が一瞬丸くなる。それから。

 ぎゅっと押し潰すみたいに目を細めて、ハ、と嗤った。

 

 

「──ンなわけないでしょ」

 

 

 何にもない声だった。温度も、抑揚も、感情も。何もかも削ぎ落としてまっさらになった声だった。

 荼毘くんは何やらツボに入ったみたいで、珍しく上機嫌に肩を震わせて笑っている。暑さと熱さで頭がおかしくなっちゃった、……というわけではないみたい。一頻り笑ってから、目元を指で拭ってゆらりと顔を上げた。涙は流れていない。

 

「じゃあね。また会えることを楽しみにしてるよ」

「ああ、……俺もだよ、ホークス」

 

 またな、と。

 荼毘くんは手を振るようにして、蒼炎を放った。

 

 

75.乙女たち、思いやる。

 

 


 

 自分はどうやって長編を書いてたんだっけ……という迷走期に入ってました、まあいつものことなんですが……()読んでくださる皆様におかれましてはお待たせして大変申し訳ありません。

 あとアンケートご協力ありがとうございました!結果を鑑みて、番外編を書きたい時は書いて、本編の更新と同時に更新することにします。とにかく本編を進めなければ……出来るだけ頑張ります。

 

 今回のお話には色々と詰め込みました。ジョーク、目良さん、相澤先生、梅雨ちゃんと、オリ主と絡めたい人が多すぎて嬉しい悲鳴です。あと後半の荼毘とホークスの会話も連載当初からやりたかったとこなので楽しかったです。次回は公安回と言っておきながら10割ホークス回になるかもです。またよろしければお読みください。



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76.正義の味方、懺悔する。

 

 日射しが無いにも関わらず、じわじわと染み入る暑さの名残がある。そんな夜だった。生温い夜風を剛翼で掻き分け、ネオンが照らす空を行く。

 もうほとんどの人は眠りに就いている真夜中だ。こんな時間に起きている人といえば、夜を生業にしている人に、それを求めに来る人だろう。それだけじゃない。眠りたくなくて目を抉じ開けている人も──眠りたくても眠れない人もいる。常日頃「寝たい」「布団が僕を呼んでいる」「多分意識はもう寝てますこれ」とぼやいている彼なんかはその筆頭だろう。ゴーグル越しに目を凝らして、目当てのビルの屋上にいる彼の姿を捉える。そうして剛翼の浮力を切って、その元に降り立った。

 

「目良さん」

 

 呼び掛けに、ベンチに深く腰掛けていた彼はゆらりと顔を上げた。相変わらず目の下の隈には疲労が色濃く滲んでいる。また寝てないんだろうなァ、と苦笑が浮かんだ。昔から何かと無理して抱え込んで、なまじ能力のある人だからこなせてしまって、結果どんどん自分の時間と健康を削っている。

 草臥れたスーツ姿に頭を下げて、俺は目良さんの隣に腰を下ろした。

 

「やーすみませんホント、こんな時間に呼び出しちゃって」

「構いませんよ。それで、どうかしたんですか?」

 

 ホークス、と窺うような目をしている一方で、目良さんは何かに気付いているみたいだった。声色の端にそうした気配がある。いつものように何でもない顔をしながら、注意深く、慎重に、俺を見ている。

 やっぱりこの人は、気付くのか。

 ……気付かせた上で、俺は、こんな話をしようとしている。

 

「……すみません、目良さん」

 

 こんな時間に、こんな人に対して、罪悪感が無いわけではない。

 それでも今、この胸のつかえを取り払っておかなければ、きっと俺は上手く飛べないから。

 

「少しだけ、話しておきたいことがあるんです」

 

 

 

───

 

 

 

 神野の事件が起きる前、俺は九州方面で頻発していた“個性”薬物の事件を追っていました。……ええ、そうです。あの子(・・・)と常闇くんが職場体験に来た時に起きた、あの件に端を発しています。あれ以降ヤクザを中心に……ヤクザ未満のチンピラの間でも“個性”を過剰に強化する違法薬物が広まっていて。その売人チームを捕らえたり、薬物の出所(・・)を探ったりしていました。

 裏の世界が活発になっている。その出所が、大元がわかれば、(ヴィラン)連合に通じるんじゃないかって。そうして暫くサイドキックの皆さんと一緒に駆けずり回ってたんです。わりかしデスマーチな、そんな時期のことでした。

 

 売人チームを警察に引き渡して、さァこれから報告書を作らんと、とか。警察での事情聴取に同席させてもらってもいいかもとか、でも腹も減ったしまずみんなでメシかなとか、そんなことをぼんやり考えていて、

 

 ──ふと、目線をやった電気屋に並ぶテレビで、あの子のニュースが流れていました。

 

《雄英、またも(ヴィラン)連合の襲撃を受ける》

《何故繰り返す!? 雄英の怠慢か 襲撃再び》

《林間合宿中の悲劇! 25名もの被害者、病院へ搬送》

《ヒーロー科生徒2名が行方不明 (ヴィラン)による拉致か》

《爆豪勝己くん。彼は今年の雄英体育祭の1年優勝者ですね。そして彼は昨年4月に起きたヘドロ事件の被害者でもあり……》

 

 剛翼が音を拾う。あからさまに憤慨したり、神妙な顔をしたりするニュースキャスターの声を拾う。数秒の間、立ち尽くしていた俺をビリビリと震わせて。

 

空中(そらなか)愛依(あい)さんは体育祭でも見せたように、稀少かつ強力な【治癒】“個性”の持ち主です。それを狙った犯行と見られており──》

 

 そんなコメントと一緒に、体育祭の映像が流れていたのを覚えています。傷ついた友人を治癒できて、ほっとしたように笑うあの子の笑顔と、画面にデカデカと映し出された【行方不明】【拉致】の文字が重なって。……気付いた時には上空に飛び上がっていました。

 我を忘れて飛び出すなんて、笑っちゃいますよね。

 ……その後の展開も含めて、ホント、笑っちゃうんですけど……ああ、そっか、目良さんも知ってますよね。

 

 

 そうですよ。

 俺、あの子を救けに行けなかったんです。

 

 

『待ちなさい、ホークス』

 

 耳朶に飾られたピアス型の通信機から、冷ややかな声。公安委員会会長のいつもの声が、しました。

 

『あなたは、神野に行ってはいけない。すぐに戻りなさい』

『ッ……、何故、ですか』

 

 誰もいない上空だからか、俺は上手く取り繕えないでいたっけな。

 

『雄英の、あの子のニュースを見ました。きっと今多くのヒーローたちが捜索のために動いているんでしょう。その中に俺が紛れたって問題ないはずです。職場体験時の上司と部下だとか言っておけばみんな納得するでしょう基本的にヒーローってのは情に厚いですし、……こうして関わっても違和感を感じさせないために、あの子を俺の元に来させたんじゃないんですか』

 

 努めて声を荒げずに、冷静でいようとしましたよ。でもどうしても、気が急いてしまって。矢継ぎ早に訴える俺に対して、彼女は声を重ねました。氷みたいに。

 

『そう、あなたの言う通り多くのヒーローが集結して被害者を取り戻すべく動いているわ。だからあなたの出る幕は無い』

『遅すぎる!! あの子たちが被害に遭ってもう1日経ってるんです。一刻も早く動かなければ……!』

『ホークス、』

『俺が神野に救けに行かないことに、何か意味があるっていうんですか!?』

 

『ええ』

 

 あるわ、と。静かに会長は言いました。

 

『ホークス、あなたの出る幕は今じゃない(・・・・・)

 

 そうして続いたのが、あなたも知ってるアレです。

 “(ヴィラン)連合へ取り入れ”という、指令です。

 

(ヴィラン)連合は、何らかの手段を使って(・・・・・・・・・・)秘密裏に行われていた林間合宿の場所及び日時を突き止め、襲撃を果たした。こちら側の情報力より、相手側の情報力が勝っている。だから今回の拉致が起きたのよ』

『……だから俺に、奴らに取り入って情報を探れと。そのために今回は(ヴィラン)連合に敵対姿勢を見せずに傍観に徹しろと、そう言うんですね』

『話が早くて助かるわ』

『貴女こそ、見通しが良くていらっしゃる。今回の神野で(ヴィラン)連合を全部取り押さえてしまえばそれでいいのに、とんだ取り越し苦労ですよ』

『ホークス。あなたは時に、とても楽観的になるのね』

 

 言外に“先のことばかり見ている”と皮肉った俺に対して、彼女も丁寧に皮肉を返した。

 

『私たちは(ヴィラン)連合の全貌を知らない。何故彼らが雄英の秘匿情報を知り得たのか、構成員は何人なのか、協力者は誰で、何人いるのか、AFO(オールフォーワン)はどのように関与しているのか──何も知らない相手を、本当に一網打尽にしてしまえると、あなたは思っているのかしら』

 

 ええわかります。わかっていましたよ、あの時だって。そんなことは不可能だって。少なからず裏側の仕事に関わってきたんだから、俺だってわかっています。

 でも、理解と納得は同義じゃないでしょう?

 

 

『……じゃあ、貴女は、』

 

 いつかの未来のために、今に目を瞑れと、

 

『俺に、あの子を……見殺しにしろと、そう言うんですか』

 

 

 ほんの少し、沈黙が続いたんです。でもそれは躊躇いとか迷いとかそんなんじゃなくて、むしろ真逆。

 覚悟を研いでいるような、そんな沈黙でした。

 

 

『──それが、社会のために必要であるならば』

 

 

 その声で、ぐわんと脳が揺れました。頭をぶっ叩かれたような衝撃は、多分、ショックだったんでしょうね。

 無慈悲なことを言う会長に、ではなくて、

 ──それで納得してしまっている(・・・・・・・・・・)自分に。

 

 

 

───

 

 

 

「俺が公安で保護される前のこと、目良さんも知ってますよね」

「……ええ」

 

 徐に立ち上がって、自販機で缶コーヒーを2つ買う。ブラックの方を目良さんに手渡しながら、俺もプルタブを開けた。ぱきゃ、と能天気な音が鳴る。喉を通っていくぬくみは甘いはずなのに、何故かあまり味がしなかった。

 

「俺の両親は、生活力も思考力も倫理観もブッ壊れてた。……ブッ壊れていることに、気付いたんです」

 

 この翼のお蔭で、と剛翼をはためかせる俺を、目良さんは何とも言えない眼差しで見つめていた。

 

 

 

───

 

 

 

 父の“個性”の名は、知りません。両腕に翼を生やしているのは知っていたけど、それで何をするでもなかったから。俺に怒る時も使ってなかったから、多分然程役に立たない“個性”だったんでしょうね。

 だからか、彼は俺の翼を疎んじていました。

 

『嘘をつくな』

『人と関わるな』

『家を出るな』

『何もするな』

 

 いつもそう言って、俺が誰かに会うことを禁じていました。俺が外に出て、自由になることを禁じていました。

 

『背中向けるな』

 

 多分、彼にとって。この背中の翼は自由の象徴だった。だからいつも目にするたびに蹴り飛ばしていた。羽根を散らすように、痛め付けるように、……いやまァ途中から我流ですけど受け身も取ってましたし大丈夫ですよ。すみません暗い話して。そんな顔しないでくださいってば。

 で、話を戻しますけど。父の心配は過剰でしたけど、そう外れてはなかったんですよ。

 

 この羽根はただ動き回るだけじゃなくて、遠くの振動を感じ取って、俺に伝えることもできました。これは母の“個性”【遠見】も関係していたんでしょうね。

 遠くを見渡す母のように、俺はこの羽根を使って、遠くの音を拾いました。たくさんの声を聞きました。──たくさんの人々の姿を、知ったんです。

 

 羽根を飛ばした先の街では、たくさんの人たちが行き来して生活していました。取引先に電話をしながら駅へ向かうサラリーマン、屋台の呼び込み、学校ではしゃぐ子どもたち、買い物帰りに子どもと手を繋ぐ母親……『今日の晩御飯はハンバーグにしようか』なんて笑う声だって聞こえた。こんなにもたくさんの人が、働いて、学んで、笑って、生きている。それがわかったんです。

 目を開ければ俺は、電気さえ止められがちな、薄暗くて寂れたプレハブ小屋の中に踞っていたけれど。羽根の振動に耳を澄ましているうちは、目の前に光が射した気がしたんです。

 

 真っ当に生きている人たちの姿は、眩しかった。

 見えていなくても、眩しいってわかった。

 これが正しい人の在り方だって、

 ……俺の両親が正しくないって、気付けたんです。

 

 

 

───

 

 

 

「だから俺、知ってるんですよ。

 ひとりひとりの生活が本当に眩しくて、大切だってこと」

 

 俺と会ったことない人だろうと、名前も顔も知らない人だろうと、その人は誰かにとっての大切な人で、その人の掛け替えのない人生がある。

 その事実は小さい俺の正しさの拠り所だった。ヒーローになってからも、そうした人々を守っているんだと思えば誇りが胸を満たした。……嬉しかった。守りたいと、より強く思ったんだ。

 

「だから、……だからね、目良さん」

 

 声が震えたのは、夜風が冷たかったせい。それだけ。

 

 

「……あの子ひとりのために、他のみんなを犠牲にすることはできない」

 

 

 俺が今、あの子の元に駆け付けて、その場にいる(ヴィラン)連合を捕縛できたとして。逃げ延びた協力者やシンパが復讐心に駆られてどこで何するかわからない。それなら俺が内部に入り込んで、情報を掴んだ上で動くのが最善──最速だ。

 最速でみんな(・・・)を救うにはこの方がいいと、俺は、納得してしまった。

 

「結局俺は、会長に同意したんです。だから神野に行かなかった」

「でもそれは、違法薬物の取り締まりもあってのことです。君が君を責める必要は、」

「責める?」

 

 思わず上げた笑声が、ひび割れた。目良さんの頬が微かに強張るのがわかって、ああ申し訳ないなと思いはしたけれど、止められなかった。

 

「多分、責めるとは違うんです。ただわかった(・・・・)だけで」

「……わかった、とは?」

 

 口許には知らず知らずのうちに笑みが整っている。もう、随分前から癖になっていた。眉尻を下げて、目を細めて、口角を吊り上げて。嫌みなく、隙なく、完璧に──笑え。

 

「俺とあの子じゃ、あまりに違うってことですよ」

 

 脳裏にあの子の、愛依の姿がよぎる。公安の訓練後、久しぶりに会えて嬉しそうに笑う顔。雄英入学が決まって初めての独り暮らし、不安と期待で揺らいだ瞳。電話越しの泣き声も、まだ忘れられずに覚えている。

 ずっとそうして笑ってほしかった。泣いてほしかった。

 心を磨り減らし過ぎて、疲れきって。空っぽの目で俯く愛依を見るのは、もう……。

 

「……俺はあの子を、二度見捨てました。一度目は神野で。そして二度目は今日、多古場試験場で」

 

 そう思っていたはずだった。

 確かにあの子を大切に思っていたはずだった。

 でもその結果。俺に一体、何ができた?

 

「あの子がトガヒミコによって傷つけられたって知ったのに、俺は公安からの指令を優先した。……“(ヴィラン)連合に取り入るために、奴らの逃亡を助けて恩を売れ”って」

 

 俺は、何も、してやれんかった。

 

「“ヒーローが暇をもて余す社会”っていう、先の目標を最速で達成するには、それが最善だって判断しました。俺は、……納得してしまったんです」

 

 

 そうして廃ビルで邂逅した荼毘は、ピエロになった俺を見て嗤った。

 

『でもいいのか? ホークス』

『何が』

『お前、あいつの“保護者さん”じゃなかったっけか?』

 

 ……ああそう言えば、そんなことも言ったっけと懐かしさを覚えた。職場体験の時、あの博多の路地裏で、愛依を背に庇いながらそんなことを俺は宣った。守っているつもりだったんだ。

 今にして思えば、なんて自惚れだったのか。

 

『──ンなわけないでしょ』

 

 保護者を名乗る資格なんざ、最早俺にあるわけがない。

 

 

「俺はこんなだから、何もできない。でもせめて最後にひとつだけ。早く、速く──あいつを“ここ”から、逃がしてやらんと」

 

 懐から取り出したケースを、強引に目良さんに握らせる。彼はいつもの半眼を一層険しくした。

 

「……このチップやUSBは何です」

「あの子が公安に引き取られてからのカルテ、生育記録等々のデータがまとめられています。……公安職員があの子に掛けた言葉とかも、色々とね」

 

 試しに起動してみた投影装置からは、セントラル病院の映像が浮かび上がった。真夜中の廊下、疲労困憊で膝から崩れ落ちる愛依の腕を掴む、あの公安職員の姿。彼はぐったり目を伏せる愛依にがなり立てた。

 

『……このような時のために、育てられたのだろう! さっさと役に立て!!』

 

 ピ、と無機質な機械音とともにあの日の映像は掻き消える。これもまた愛依の保護に役立ってくれるだろうと、願いと確信を込めて目良さんに託した。

 

「雄英の根津校長は、“個性”人権教育に多大な貢献をした世界的“偉人”です。公安の圧力にも簡単には握り潰されないハズ。このデータを上手く役立てて、あの子を守ってくれる」

「……これを、」

「はい?」

 

 目良さんは、俯いていた。生成り色の髪から僅かに覗くその口許が、ぎゅっとひん曲がって。それから苦しげに言葉を絞り出す。

 

「これを手に入れるために、あなたは何を差し出したんですか」

 

 ……目良善見という人は、きっとめちゃくちゃ貧乏クジを引くタイプだ。今目の前にあるこの表情が、その声色が、これまで過ごしてきた数年間が俺にそう確信させる。

 社会のために情を削ぎ落とさなければやっていけない、こんな公安という組織にいるには、彼は優しすぎた。削ぎきれない情のために、身を引き裂かれる思いをしたことだって、一度や二度ではないんだろう。それでもずっと、俺やあの子のために、多くの心を砕いてくれていた。

 “ありがとうございます”という礼の代わりに、俺は肩を竦めて笑う。

 

「いーんすよ。俺のことは」

 

 もう、本当にいいんです。だって俺はもう貰いすぎた。

 クリスマスも誕生日も楽しかった。“生まれてきてくれてありがとう”なんて言われる日が来るとは思ってなかった。

 あなたのお蔭で、あの子のお蔭で、俺は充分過ぎるほどの幸せを貰ったから。だから後はもう、ただあの子のために。

 

「あの子は公安(ここ)じゃなくて、もっと広い世界で生きるべきです。それがあの子に合ってる」

 

 もっと広い世界で生きてほしいと送り出した雄英で、あの子はたくさんの人たちと出会った。

 治癒の使い方を教えてくれている師匠(リカバリーガール)

 叱咤激励して、共に高め合う好敵手(常闇くん)

 あの子の自己犠牲をきちんと咎めて、制止してくれる先生(イレイザーヘッド)。そして、

 

『──それでも私は、愛依ちゃんが傷付くのは、嫌よ』

 

 そう言って愛依のために泣いてくれた、友達(蛙の子)

 彼女らを見て、確信した。……愛依はもう大丈夫だって。

 

「雄英はあの子を、守ってくれる」

 

 いつの間にか飲み終えていた缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れ、俺は立ち上がった。そろそろ行かなくちゃいけない。最近派手に探ったり交渉したりしたせいで厳しくなった監視の目を誤魔化すために色々と細工はしたけど、もう限界だろう。じきに睡眠薬の効果も切れて、現時刻の当番である職員さんの目も覚めるはず。

 でももう言うべきこともやるべきことも託せた。

 だからもう、大丈夫だと、足を踏み出したその時。

 

「……君だって、ずっとあの子を守ってきたでしょう!」

 

 背中に掛かった大声が、剛翼をビリビリと震わせる。びっくりして振り返ると、目良さんが拳を握り締めながら立ち上がっていた。普段大声を出しなれていないせいか、声が少し裏返っている。……それだけ真剣に言葉を紡いでくれているのだと、わかった。

 

「あの子の命を救ったのは君だ。“個性”の関係で閉ざした心を開いたのも君だ。自殺しかけたあの子に、生きる意味を与えたのは……! 誰でもない、他ならぬ君でしょう、ホークス」

 

 そう言う目良さんこそ、ずっと守ってきてくれたくせに。

 “(ヴィラン)連合と直接相対しなければ作戦に問題ないはず”、“数多のヒーローが救助活動を行っている今、神野に赴かなければヒーローとしての体裁を保てない”……そうやって会長をはじめとした上層部に抗議したんだと聞いた。そうやって俺の背中を押して、あの子の元に向かわせてくれた。

 そうやって、いつも。俺とあの子のことを気にかけ、一緒にいる時間を守ろうとしてくれた。

 

(……でも、もう)

 

 もうそれに、甘えてはいけない。

 

「始めはそうだったかもしれませんね。あの子は、俺に【依存】して始まった。……でも今はそうじゃないでしょ」

「だから離れてもいいのだと?」

「そうするべきです」

「君がずっと遠くに離れたら、あの子は必ず、深く傷付く」

 

 そうかもしれない、と頭の片隅で声がした。目を閉じる。目蓋の裏でいつかのあの子が笑っていた。

 

 

 

『ね、啓悟くん』

 

 過去のいきさつもあって、愛依は色んなことを我慢してきた。公安の訓練や生活には辛いこと、痛いこと、寂しいこともたくさんあったろうに、それを丸ごと飲み込んで唇を引き結んでしまうような子だった。

 そんな子が、俺が傍にいるだけで、ぽたぽた涙を流した。絵本を読んでほしいだなんて細やかな願いをおずおずと溢した。時にははにかんで、時にはきゃらきゃら声を上げて、頬を染めて笑った。

 

『生まれてきてくれて、いっぱい、いっぱい、ありがとう……!』

 

 ずっと俺は、守っているつもりだったけど。

 傍にいて救われていたのは、きっと。

 

 

 

「……ねえ、目良さん」

 

 あの子が傷付くことのないよう、守ってあげたい。

 だからこそ(・・・・・)俺は、離れていかなくちゃ。

 

「あの子、AFO(オールフォーワン)の頼みを突っぱねたせいで拷問を受け続けていたでしょ」

「……、はい」

「その時こう考えてたんじゃないかなって思うんです。

 俺を守るためなら、どんだけ傷付いても、歩けなくなっても、ヒーローになれなくなっても、……最悪死んでもいいって」

 

 我ながら酷く自惚れた台詞だ。でもこれを自惚れではなく実際にそうだと思えるほど、あの子は俺を大切に思ってくれてる。そう確信するほどの時間を重ねた自負がある。

 

「俺はあの子のために命を懸けられないのに、あの子は俺のために命を落とすことを恐れない。

 ……フェアじゃないでしょ。真っ当じゃない」

 

 時間を重ねて、一緒に過ごして、そうして確信した。

 愛依は俺のためにと言って死を選ぶことができる。その過程で怖がったり躊躇ったりしてくれない。恨み言のひとつすら遺さず、ただ笑って消えていってしまうような、そんな予感があった。

 

「オールマイトが来た時に、やっと“生きられるんだ”って、“生きたい”って思ったんだって、あの子は言ってました」

 

 打ちのめされるより、納得が先にやって来た。だってそうだ、あの夏のI・アイランドでも実感しただろう。

 俺は、オールマイトやあの人みたいになれない。

 ……俺の背中じゃ、安心させてやれんって。

 

「俺じゃあ、駄目なんです。

 俺じゃあの子に、……“死んでもいい”と思わせる。“生きたい”って思わせてあげることは、できない」

 

「っ違います! ホークス、それは、」

「俺はね、」

 

 目良さんを制して、俺は続けた。知らず知らずのうちに声は上擦り、夜の空に反して陽気に響いた。

 

「あの子が泣くのは、まァ嫌だけど、もうちゃんと立ち直れるってわかってるから大丈夫です。心配なのはそれぐらいですかねー。後はもう、俺のこと嫌ったって恨んだって構いません」

「っあの子がまさか、そんなことするとでも、」

「わかんないですよ? 可愛さ余って、ってヤツかも」

 

 愛依がそんな風に思えない子だってのは、俺だってよく知ってる。わかってる。だからこそ俺は笑って目を伏せた。“そうであればいい”と願って目を伏せた。

 俺のことなんか、嫌ってしまえばいいのにって。

 

「たとえ嫌われたって、傍にいなくたって、あの子がどこかで笑って生きてくれるならそれでいい。……こういうのを“オヤゴコロ”っていうんでしょう?」

 

 背中に掛かる声を振り切って歩き出す。大きく足を踏み出すと同時に跳躍し、フェンスの上に立った。

 空を仰ぐ、──朝はまだ遠い。

 目良さんを振り返って、ひとつ笑って一礼。そうして仰向けになるようにして屋上の空へ身を投げた。ひゅうひゅう吹き荒ぶ風と一緒に、暗い暗い夜の底へ。

 

「親は子のために、離れんといけん、ね」

 

 

 

───

 

 

 

「ホークス……!!」

 

 慌てて駆け寄り、フェンスにしがみつくようにしながら、僕はホークスが落ちていったビル間を覗き込んだ。光がロクに射さない夜の中でも、この目ならその姿を捉えることができる。真っ逆さまに落ちていった赤い翼は、地上スレスレのところで浮上し、そのまま羽ばたいて彼方へ飛んでいってしまった。もう豆粒ほどの大きさになった彼の背を見送って、がくりと膝をつく。はあ、と深く息を吐き出した。

 

「……本当に、……」

 

 本当に、心臓に悪い。退場の仕方も、残した言葉も。

 本当に、本当に、……色んなことがやりきれない。

 

「君のその感情が、本当に親心なら、……そんな顔しないでしょうに」

 

 ぽつりと呟く言葉はもう、彼に届かないのだろう。

 ──届かせるためには、どうすればいいのだろう?

 

「……僕は……」

 

 手の中のケースは、重かった。託された願いの分だけ重かった。それを決して取りこぼすことのないよう両手で握り締めて、僕はまた眠れないまま、白み始めた空の端を見つめていた。

 

 

76.正義の味方、懺悔する。

 

 


 

 更新遅くなりまして申し訳ありません……!あまりに遅筆で書けなさすぎて頭抱えてたんですが、皆様のあたたかいお言葉やお気に入り登録、評価等々にお力を頂いて何とかこぎ着けました。いつもいつもありがとうございます!!

 今回の話はホークス独白回でしたね。場面転回がわかりづらくて大変申し訳ないのですが、書きたかった部分は書けたので個人的には楽しかったです。それにしても今更ながら弊ssのホークスも目良さんも魔改造が過ぎますね……特にホークスに関しては今回めちゃくちゃ私的な自己解釈が含まれてます。何でこうなったのかはまた余裕があるときについったか活動報告に書きます。

 

 次回からはちょっとインターン前の雄英新生活編って感じで雄英でのアレコレを書いていこうと思います。【雄英新生活編】【インターン編】【解放戦線編】でラストまでいこうと考えているので、ちょっと広げた風呂敷を畳むのに更に時間が掛かりそうで恐縮ですが、またよろしければお読みくださると嬉しいです。



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雄英新生活編
77.少女、引き摺る。


 

 目蓋越しに光の気配。ふわりと浮上する意識とともに、目を開けた。まだぼんやりとした視界に映るのは、あのアパートでも病院のものでもない、見慣れない天井。

 

「……え……、あ」

 

 驚きから一拍置いて、そうだったと息をついた。上体を起こして辺りを見渡すと、わたしと同じように布団を敷いて眠っているみんなの姿がある。

 “個性”防止のためかミトンをつけているお茶子ちゃんに、横向きになって静かに寝息を立てる八百万さん。掛け布団に手を添えて綺麗な仰向けになっている梅雨ちゃん……とは対照的に、元気よく布団をはね除けて寝ているのは透ちゃんと芦戸さんだ。「元気だなあ」と小さく笑って、わたしは羽根を飛ばして彼女たちの布団をかけ直した。布団にくるまり直した2人をぽんぽんと撫でながら、昨日のことを思い出す。

 

 昨日。ヒーロー仮免許取得試験からバスに乗って雄英に帰ってきたわたしは、試験中に色々あったのもあって眠くて眠くて仕方なかった。うとうとしながら食事と入浴を終えて、さあ寝ようというところでまだ部屋の荷解きが終わっていないことに気付いて──

 

『あ、じゃあさじゃあさ! せっかくだしみんなでお泊まり会しよーよ!』

 

 そんな風に言った透ちゃんの一声で、女子のみんなで布団を持ち寄って、リビングで横になったんだった。枕を近付けて、ふわりと香るシャンプーの香りとみんなのささやき声、ふわふわの布団に包まれて、蕩けるように意識を手放して、……うん、よく眠れたなあとひと伸び。

 

(……気遣って、くれたんだよね)

 

 仮免取得試験であんなことがあったからか、わたしをひとりにしないようにって思ってくれたんだろう。だからみんな、きっと試験で疲れていただろうに、わざわざ布団を運んでまで、こうして一緒にいてくれた。

 ……“みんなと一緒”が嬉しいのと、みんなに心配を掛けて申し訳ないのとで、心の中がくすぐったい。何とも言えない気持ちに口許を結んで、目を細めた時だった。

 

「……あれ。おはよう空中(そらなか)、早いね」

「耳郎さん」

 

 隣に寝ていた耳郎さんが、ころんと寝返りを打つ。そうして目を擦りながら身体を起こした。

 

「おはよう……ごめん、起こしちゃった?」

「んーん、だいじょぶ。もうそろそろ起きる時間だしね」

 

 緑のカーテン越しに朝日が射し込んでいる。その光を受けて、耳郎さんの黒い目が静かに輝いた。

 

「……あのさ、空中」

「なに? ……わっ」

 

 ひゅ、と小さく音がして、次の瞬間わたしは耳郎さんの【イヤホンジャック】に肩を抱かれて引き寄せられていた。肩と肩がぶつかって、少し弾んで、またぶつかる。慌てて耳郎さんを見たけれど、彼女は三角座りでそっぽを向いていた。

 

「じ、耳郎さん?」

「……改たまって言うとなんかあれだけどさ、……お帰り」

 

 早口は、合わない視線は、照れているからなのか。わたしの位置からは彼女の顔は見えない。ただ耳元を擽る小さな声が、ほんの、少し、

 

「ほら、林間合宿の肝試し前にちょっと話したじゃん。『あんたが泣いて帰って来たら、慰めてあげよっか』って」

 

 ほんの少し、揺れた。その掠れた語尾に、耳郎さんの感情が込められている気がして、わたしは何も言えずに息を飲む。こくりと鳴った喉の音、耳郎さんには聞こえていたのかな。

 ……そうだ、耳郎さんは音のスペシャリスト。

 ──あの日。あの会見で、彼女は何を(・・)聞き取った?

 

「なんかしんどくなったらさ、……それがちょっとしたことでもいいから、いつでもいいから。絶対言いなよね」

 

 

 ……ああ、と。唇を噛みたい気持ちで、微笑んだ。

 心配してくれて嬉しくなるのと同じくらい、申し訳なくて、悔しくて……気持ちがぐちゃぐちゃで、正解(・・)がわからない。

 

 みんなに心配かけないように自分なりに頑張った(・・・・)つもりだけど、全然足りなかった。もっと隠し通すべきだったって、今度はちゃんと上手くやらなくちゃって、そう思ってる。

 そうして後悔する心と、耳郎さんの言葉をただ受け止めていたい心がぶつかり合っている。心配してくれて、頼っていいって言われて、ただ嬉しくなっている自分がいる。

 

(……どうしたら、いいの?)

 

 脳裏に昨日の出来事がよぎる。

 最善(・・)の選択をしたはずなのに、みんなは笑顔にならなかった。梅雨ちゃんの瞳が揺れて、涙が零れて──わたしは、

 

 わたしは、どうすればよかったの?

 みんなを傷つけないための、わたしの正解(・・)は何?

 

 

「……ありがとう、耳郎さん」

 

 わからない。わからないけれど、今は俯いちゃ駄目だ。

 とにかく今は、ちゃんと綺麗に笑っていよう。

 

「でももう大丈夫だよ」

「……ほんとに?」

「ほんとのほんとに」

「……ふーん」

 

 そんな会話を交わしていたからか、他のみんなも目が覚めてきたようだ。小さな唸り声や身動ぎの音がする。隣の布団からは、くあ、と可愛い欠伸が聞こえてきた。

 

「……あら、おはよう愛依(あい)ちゃん、響香ちゃん」

「おはよう梅雨ちゃん。……ふふ、まだ眠い? 目蓋くっついちゃってる」

「んん……」

 

 まだ目が開けきらない梅雨ちゃんを筆頭に、透ちゃんが、芦戸さんが、八百万さんが、眠たげな声とともに上体を起こす。

 

「ふわあ……おはよう……」

「おはよー……」

「ん……おはよう、ございます……」

「……あっ、やばい! 男子起きてきちゃう!」

「布団持って上がろ! 私の“個性”で浮かしてくよー」

 

 ミトンを外したお茶子ちゃんが触れた途端に、布団がふわりと宙に浮かぶ。それを捕まえて抱えて歩いていって、順番にエレベーターに乗り込んだ。わたしは梅雨ちゃん、八百万さんと一緒に5階へ向かう。窓から見える景色の中に、あの雄英の特徴的な校舎が聳え立っていて──ああ本当に引っ越したんだ、と不思議な感慨を覚えた。

 度重なる(ヴィラン)襲撃を鑑みて、全生徒が雄英敷地内で寮生活を送ることになった。その結果建てられたのがこの“ハイツアライアンス”──

 

 今日からわたしは、A組のみんなとここで生活していく。

 

 

 

 

 

 あれから。わたしたちは急いで身支度をして、久々の制服に袖を通して、相変わらず美味しいランチラッチシュによる朝食に舌鼓を打って寮を出た。僅か徒歩5分で辿り着いた雄英校舎の1―Aの教室では、相澤先生から「始業式に出席するように」との御達しがあった。

 

「入学式出れやんかったから今回も相澤先生何かするんかと思った」

「まー4月とはあまりに状況が違うしね」

 

 そんなお茶子ちゃんと尾白くんの会話を横目に聞きながら、わたしは御手洗いに急いだ。「朝礼10分前には教室を出発するぞ!!」と飯田くんも言っていたし、遅れるわけにはいかない。足早に用を済ませて教室に戻ろうとしたその時だった。

 

「おっ、なあなあ君、空中さんじゃん?」

 

 俯きがちに歩いていたわたしに影が射す。顔を上げると、見知らぬ男子生徒3名と女子生徒がわたしの前に立っていた。ブレザーのエポレットにあるボタンは両端に2つ、襟口のラインは2本、袖口のラインは1本……普通科の、恐らく先輩だろうとあたりをつけて微笑む。

 

「……はい。なんでしょう」

「神野の事件大変だったねー! テレビで見たよ!」

「めっちゃかっこよかったよなー」

「そんなこと、……すみません、御迷惑をおかけして」

「いや謝んなくてもいーじゃん。それよりさ、」

「……?」

 

 ずい、と手が差し出される。わたしがその意図を問うより先に、にかっと笑った顔がわたしを覗き込んできた。

 

「未来のヒーローと握手しときたくて。記念! いい?」

「……、はい」

 

 わたしの、目を見ている。

 それに気付かないふりをして、握手に応じた。はじめは確かめるように怖々と、次第に強く握られる手に笑みを返す。

 

「ありがとねー!」

「いいえ、こちらこそ。では失礼します」

 

 明るい声に頭を下げて、背を向けて歩き出す。しばらく歩いて、廊下を曲がったところで──背中の羽根が、その声を拾い上げた。

 

『おまえさ、握手は露骨すぎっしょ』

『いーじゃん手っ取り早いし! つか賭けは俺の勝ちってことでいいよな?』

『明らかに義手とか義指とかじゃなかったっぽいしねー』

『いやマジそれ。義眼でもなかったよなアレは』

『じゃあ神野のは本当に(ヴィラン)の創った偽物が痛めつけられてたってことか?』

『そうなるんじゃない? 何となくマジっぽい気がしたんだけどなぁ』

 

 ……神野のことが気になる人がいるのは当然だ。真正面から罵倒されたって仕方がないと思えば、こういう好奇の目ぐらい軽いもの。表向きを取り繕ってくれているだけ優しいと感じる。

 わたしはそう納得している。納得できている。

 

「賭けだァ? くっだらねェことしてんなァ」

 

 でも()の辞書に、安易な納得という言葉は無いのかもしれない。

 

「楽しーンかよ、センパイ?」

 

 ハッ、と嘲るような笑い声が聞こえて、わたしは慌てて踵を返した。元来た道を戻って角を曲がれば、そこに先ほどの先輩たちと向かい合う、金色の爆発頭が見えた。

 

「ば、くごうくん、」

「ハァ? 何おまえ、いきなり」

「……ああ爆豪くんだ。君も神野の被害者だよね」

「ついでに言うとヘドロのやつもそう。すっかり浚われ(ヒロイン)役が板についちゃって」

 

「……ハ、そういうアンタらこそ随分な真似するじゃねェか。もうさっきのうすら寒ぃ善人顔は飽きたのか?」

 

「!? ちょ、ちょっと……!」

 

 先輩たちに凄まれても煽られても、爆豪くんの威勢は挫けない。わたしが宥めるのも聞いちゃいないんだろう。燃えるような灼眼が、ただ真っ直ぐ先輩たちを射ている。

 そんな爆豪くんに対し、先輩たちの表情も強張っていく。図星を突かれたことによる焦り、気まずさ、怒りが、渦を巻いているのだとわかった。ひりつく空気に喉が乾く。羽根が音もないのにざわめく。……この一触即発の状況をどうしたらいいかわからず、悩んで──もうこうなったら爆豪くんの口を羽根で塞いで教室まで持って帰るしかない、と行動に移そうとした時だった。

 

「あの、」

 

 声が聞こえた。

 低く、落ち着いた抑揚の、聞き覚えのある声。

 

「ちょっといいですか?

 ──“そろそろ校庭行かないとまずいですよ”」

 

「はァ? んだよおま、え……」

「今取り込み中なんだけど、──」

 

 突然の乱入者に胡乱げに振り返った先輩たちは、そのままふつりと、まるで機械のスイッチを押したように沈黙した。微動だにしなくなった彼らに、その“声”は続く。

 

「“黙って校庭まで向かいましょうね”」

 

 先輩たちは沈黙したまま、ゆらりと踵を返す。その横顔を盗み見る、……ぼうっと夢うつつのような、呆けた表情をしていた。

 この状態を、下された命令に従う姿を、わたしは体育祭で直に体験したし、この目で見た。“個性”【洗脳】──自分が発する“問い”に対して“応え”を返した人を洗脳して操る、()の“個性”。

 

「心操くん……」

「……てめェ、あの体育祭の時のヤツか」

 

 紫色の逆立った髪に、少し濃い隈。間違いなく心操人使くんだった。その姿を爆豪くんも覚えていたのか、さっきよりはマシだけれど、それでも鋭い眼差しを注いでいる。

 

「助けたつもりかよ?」

「そっちこそ。助けに入るつもりなら、もっと上手くやんなよ」

「アァ!? 誰がこの羽根女を助けるかよ!! 俺ァ、」

 

 目を鋭利な三角に吊り上げたまま、爆豪くんは静止した。……うん、多分わたし、この【洗脳】が解けたらめちゃくちゃにキレられるんだろうなあ。後の展開を思うと乾いた笑いが漏れる。そんなわたしを憐れんだか、心なしか心操くんの眼差しが柔らかくなった。

 

「……どこに向かわせたらいい?」

「……A組の教室でお願いします」

「わかった」

 

 ふらふらした足取りで教室に向かっていった爆豪くんの背中を追いかけながら、わたしも心操くんと共に歩き出した。その静かな横顔を見上げて、口を開く。

 

「……さっきはありがとう、心操くん」

「いいけど。そっちも大変だね」

「そんなことないよ」

「……、……あのさ、」

「? うん」

「爆豪みたいにしろとか、言うわけじゃないんだけど」

 

 廊下は始業式へ向かう人たちが行き来していて、ざわついている。夏休みはどうだった、なんて楽しそうに話す人たちの声の中で、彼の声は小さく掠れていたけれど。

 

「でもさっきの、アンタは怒っていい場面だったんじゃない」

 

 でも不思議と、わたしの鼓膜を揺らした。

 揺れて震えて、わたしの心に波紋を散らす。

 

「いくらヒーロー目指してるからって、何でもかんでも笑顔で耐えるべきってのはおかしいでしょ」

「……でも今回のは、わたしが蒔いた種だし」

「もしアンタの友達が同じ立場に立ってたら、同じ言葉をかけるのか?」

「……、」

 

 答えが出ずに、喉の奥で蟠る。視線がうろついて足元に落ちた。そんなわたしの様子に気付いたのか、心操くんは首に右手をやって俯いて。

 

「……ごめん。追い詰めたいわけじゃない」

「……うん、わかってるよ」

 

 そんな風に言うものだから、わたしは笑った。

 謝らなくてもいいのになって。……謝るのははっきりしないわたしの方なのに、責めないでいてくれるんだなって。

 

「心操くんの言葉は、優しいね」

 

 おおい、と呼び掛けてくる大声にわたしは顔を上げた。いつの間にか教室の前まで戻ってきていて、名簿順に並んだみんなと、そんなみんなを整列させている飯田くんがいた。

 

「そろそろ行くぞ! 空中くん! 整列したまえ!!」

「はーい。……や、爆豪くん、さっきぶり」

「どの口がきいてンだてめェがよ……!!」

「わあぶちキレてる……今日も元気いっぱいだね」

 

 青筋立てている彼から目を逸らして、そそくさと最後尾に並ぶ。何かあったのか心配そうに訊いてくれた八百万さんに笑って返して、心操くんに手を振って。そうしてグラウンドに向かって歩き出した。──何とも言えない表情をしていた心操くんには、気付かないまま。

 

 

 

 

 

『入学式出れやんかったから今回も相澤先生何かするんかと思った』

『まー4月とはあまりに状況が違うしね』

 

 お茶子ちゃんと尾白くん、2人のそんな会話を聞いていたから、自分なりに気構えて臨んだ始業式だったけれど、特筆すべきことは何も無かった。……いや根津校長先生の毛並みの美しさを保つ秘訣とか、ハウンドドッグ先生魂のシャウト──ブラド先生の翻訳によると『慣れない寮生活で気苦労も多いでしょうが節度をもって生活しましょう』ということらしい──がどうでもいい話ってわけじゃないんだけれど。

 

(……そうじゃなくて、)

 

 もっと直接的に、神野事件のことに、……オールマイト引退のことに触れるのだと思っていた。日本国内に留まらず海外にも大きな反響を生んだ、平和の象徴の終わり。これから変動するだろう日本に対し、わたしたちはどう動くべきなのか。覚悟を問われると思っていたのに。

 

「空中少女」

 

 責められても仕方ないと、当然だと心を固めていたのに。

 今わたしを見つめる青い目は、柔らかく弧を描いていた。差し出されたマグカップを受け取ると、彼は、茶目っ気と穏やかさを湛えた眼差しで微笑む。

 

「林檎の紅茶だよ。砂糖はいくつ?」

「……2つ、頂きます」

 

 今日の授業を全て終えて迎えた放課後、わたしは相澤先生に言われて“仮眠室”と札の掛かったこの部屋を訪れていた。多忙を極める雄英の先生方のために設けられたのだろう、カーテンで仕切られたベッドの他にも簡素なローテーブルや給湯室が置かれていて、その中央のソファーにオールマイトとリカバリーガールが座っていた。彼らに勧められるまま向かいのソファーに腰掛け、紅茶を受け取り、今に至る。

 ぽちゃん、ぽちゃん、と角砂糖が2つ赤茶色の水面に消えた。それをティースプーンでぐるぐるかき混ぜると、ふわりと林檎の香りが鼻腔を擽った。甘酸っぱい、優しい香り。……それに反して重苦しいままの感情が、わたしを俯かせた。

 

「オールマイト先生、……本当に、すみませんでした」

 

 自ずとわたしの手に力がこもっていた。握り締めたスカートのプリーツがぐしゃりとひしゃげる。

 

「わたしが(ヴィラン)連合に捕まりさえしなければ、あなたが怪我をおして、AFO(オールフォーワン)と戦うこともなかった」

 

 あの神野事件からしばらく、テレビや新聞、ラジオ等々のあらゆるメディアで連日報道されていたことを思い出す。不滅のNo.1ヒーローの勇姿、平和の象徴たる輝き、死闘──或いはそれが、燃え尽きる様を。

 

「……わたしはこの“個性”を持ってるのに、何もできなくて」

 

 AFO(オールフォーワン)の攻撃を受けて、身体中ボロボロだった。内出血で青黒く変色した腕と溢れ出る血液が、まだ目蓋の裏に焼き付いている。どんなに痛かったのか、苦しかったのか──想像を絶するほどなのに、それでも尚、この人は人々を守るべく立ち続けてくれた。

 そうしなければきっとAFO(オールフォーワン)は倒せなかった。彼が戦わなければもっとたくさんの人が亡くなっていた。わたし程度が戦場に戻っても、足手まといにしかならなかった。

 そう頭では理解していても、心は納得しなかった。

 

(……ああ、だから、デヴィット博士は……)

 

 オールマイトの旧友であった彼は、犯罪を犯してでもオールマイトに自身の発明品を渡そうとした。彼や(ヴィラン)の企みを阻止したことに後悔はないけれど、ふとした瞬間に考えてしまう。

 (オールマイト)の“個性”が消えかかっている、と危惧した博士の訴えをもっとよく聞いていれば。オールマイトが消耗していることに気付いていれば。『オールマイトなら大丈夫』と、思い込んでいなければ。

 

 ──輝かしいヒーローが、燃え尽きることはなかった?

 

「……あなたひとりに任せきりで、全部背負わせて……そのせいで、」

 

 続こうとした言葉は声にならず、短い吐息となって空に溶けた。驚きに目を見張るわたしの視線と、軽く上背を屈め、微笑むオールマイトの視線が絡む。その頬は酷く痩せ細っていた。

 

(……わたしは、この人を知っていた)

 

 雄英体育祭の日、昼休みに臨時保健室の準備をしていたその時、リカバリーガールを訪ねに彼はやって来た。髪型や声がオールマイトに似ていると思ったのに、わたしは『この痩身の男性がオールマイトのわけがない』って思考を止めていた。

 それだけじゃない。期末試験の時だってそうだ、と唇を噛む。試験後に咳き込むオールマイト先生を治癒した時、確かに違和感があった──エネルギーが呼吸器官や胃袋に行き渡らない。まるでそこだけ、生きていないみたい(・・・・・・・・・)だって。そこでもわたしは、『あのオールマイトがそんな状態なわけない』って、そう思ってばかりで。

 幾つものサインを、わたしは見逃してしまっていたんだ。

 

「……オール、」

「君のせいじゃないよ」

 

 それなのにオールマイトは、柔らかく声を紡いだ。骨張った大きな手がわたしの握り拳をほどいて、包み込む。

 

「空中少女、君は優しく責任感の強い子だ。……だからこそ、少しだけ頑固なところがあるようだね。

 だったら私も言葉を重ねよう。君のせいじゃない」

 

 元の筋骨隆々な姿と今の痩身では何もかもがまるで違うのに、落ち窪んだ眼窩の奥の瞳だけは、変わらず優しく強かった。

 

「私が選んだことだ。君のせいじゃない。……君が謝る必要なんて、ほんとうに、これっぽっちもないんだよ」

 

 そう言って笑う彼の笑顔があまりに優しかったから、わたしは何かが胸に迫って何も言えなかった。

 ベストジーニストもオールマイトも、そうだ。あまりに優しくわたしから責任を奪っていく。“君のせいではないのだから”と、当たり前のようにこの重石を拐っていく。……大人として当たり前なのだと、彼らは思っているのかもしれない。ヒーローとして当然のことをしているのだと。

 

「……っ、でも、……」

 

 確かに彼らヒーローは、わたしの心を軽くした。そこに喜び以外の感情を覚えてしまうのは、わたしの我が儘なのだろう。

 オールマイトが言う【優しい子】ならば、こんな口答えなんかせずに『ありがとうございます』と笑うんだろうな。そんなことを考えながらも、言い募る舌は止まらなかった。

 

「でも、わたしは──」

 

 だってそうだ、いつだって。

 伏せた目蓋の裏に、赤い羽根が翻る。

 

 

 

 

 

「まだ言う気かいこの子は」

「ったぁ……!?」

 

 ごいん。鈍い打撃音とともに、目の前に星が散る。突如後頭部を襲った痛みに目を瞬かせていると、呆れたような溜め息が聞こえた。

 

「り、リカバリーガール、もう少し手心を、」

「大人の責任まで背負い込もうなんざ、生意気になったものだね、空中」

 

 まず始めに視界に入ったのは杖。ああこれで叩かれたんだと気付くと同時に、それを手にする人の表情にも気付いた。年を重ねた小さな手が、ほんの微かに震えている。

 

「私はあんたに、そんなことを教えた覚えはないよ」

 

 小柄で可愛らしい風貌とは裏腹に、医療に関しては非常に厳しい人なのだとわたしも知っている。雄英に入学してからの数ヶ月で身に染みた。誰よりも治癒に真摯で、冷静で、……同じ治癒を施す側のわたしのことを、気に掛けてくれていた。

 

「……はい、リカバリーガール」

 

 彼女が心から心配してくれていることがわかって、これ以上の我が儘は続けられなかった。口をつぐんで、飲み込んで、笑みを浮かべる。

 彼女らが後悔を嗜めるのなら、過去の話はもうやめよう。

 確かにそれでは、何も変わらないから。

 

「……それでは、未来のお話をさせてください」

 

 ソファーに腰掛けたまま姿勢を正す。しゃんと背筋を伸ばして前を見ろ。まだ心配そうなオールマイトとリカバリーガールを見据えて、口を開く。

 

「神野を経て、わたしの【治癒】の“個性”は進化しました。これはオールマイトたちももうご存知ですね?」

「より正確に言うなら、【自己再生】の“個性”だろう」

「! ……相澤先生から聞いておられたのですね。すみません、隠していて」

「“個性”届の偽装は褒められたものじゃないけど、もう謝罪はいらないよ。事情は聞いてる」

 

 “事情”と口にするリカバリーガールは、冷静を装っていながらも、その目を気遣わしげに細めた。……ああまた、嘘をついてしまったなあと申し訳なく思う。思うけれど、真実を明かすわけにはいかなくて。代わりに深く頭を下げて、続ける。

 

「【自己再生】は自分の身体の傷や病、不調を治すものです。その特性上、わたしは昔から他人より自分の怪我を治す方が得意でした」

 

 わたしの治癒は、自分の身体で生み出した【自己再生】のエネルギーを他人へ【譲渡】することにより成り立つ。行程が増える分エネルギーの伝わり方も違ってくるのだろうと公安でも考察されていた。

 

「今回は自分の身体だから、指や目の欠損まで治せたのかもしれない。それはわかっていますが、でももっともっと“個性”を強化したら、他人の欠損をも治せるようになる。

 そうしたら今回の神野で傷ついた人々や、飯田くんのお兄さんの脊髄や……オールマイトの臓器だって、治せるはずです」

 

 でももう、誰かの傷を治せないと無力に嘆くことはない。

 それはとても嬉しいことに違いないから、わたしは知らず知らずのうちに声を弾ませた。だからこれからもご指導お願いしますと、そう続けようとしたんだ。

 ──けれど、何故か。わたしを見つめ返すリカバリーガールたちの目は凪いでいた。いっそ悲しさを覚えるぐらいに。

 

「……え、リカバリー、ガール……?」

「それが歓迎すべきことだと、あんたは思っているんだね」

「……違い、ますか?」

 

 彼女はわたしの問いに、肯定も否定もしなかった。伏せた目の奥に逡巡と苦悩が窺える。彼女はしばらくの沈黙の後、ゆっくりと重い口を開いた。

 

「空中、あんたは欠損まで治せるほどの強い治癒“個性”を持つことは、どんな意味を持つと思う? ……どんな事態に繋がると把握しているんだい?」

 

 以前、リカバリーガールから【治癒】“個性”について聞いたことがある。日本国内においては勿論、世界においても【治癒】“個性”は数が少なく、他人の深手まで癒せるものは数えるほどしかないのだと。現在その界隈のトップともいえるリカバリーガールでさえ、失ったものまでは治癒できないのだと。

 

「あんたの能力を世間に公表してしまえば、あんたはもう、元の生活には戻れないと考えた方がいい」

「……それは、」

「あんただってわかっているだろう? 需要がありすぎるのさ」

 

『考えてもみろ、この世に怪我や病気に苦しむ奴らが何人いると思ってる? かけがえのない命のために、大金を湯水のように使う奴らが、何人いると思ってる?』

 

 脳裏にI・アイランドの事件がよぎる。そこで出会した(ヴィラン)はこう言っていた。わたしの【治癒】を使えば幾らでも金稼ぎができるのだと、嗤っていた。

 

「……過度な需要から【治癒】“個性”保持者を守るため、さまざまな法が適用されました。日本における“治癒個性保持者リスト”も、そのひとつですよね」

 

 “治癒個性保持者リスト”は、【治癒】“個性”を人々に正しく行使するためだけのものじゃない。【治癒】の行使を国が管理することによって、“個性”保持者に過度な負担を掛けないように、もしくは──拉致されたり脅迫されたりして【治癒】を悪用されるのを防ぐためにあるものだ。

 このことは勿論、リカバリーガールは知っている。彼女はそうだねと頷いてくれたけれど、まだその表情は晴れない。

 

「けど空中の“個性”は、その枠組みを超える可能性があるんだよ」

 

 彼女は続ける。民衆の求めによって、わたしはより頻繁に治癒のために駆り出されるだろうと。プライベートの時間は確保されるかもしれないけれど、ヒーロー活動の時間はほぼ治癒に当てられるだろうと。

 

「あんた、職場体験はホークスのところに行っていただろう。……いつかヒーローになったとしても、あんな風に活動できなくなるかもしれないんだよ」

「そうだね、空中少女。よく考えた方がいい」

 

 リカバリーガールの隣で深く頷いた、オールマイトがわたしを見つめる。

 

「君がなりたいヒーローが、どんなものなのか。よく考えて決めてほしいんだ」

 

 彼らは、きっと。わたしがこの治癒を扱うことによって、将来の自由が奪われることを危惧している。わたしの未来をわたしの手に委ねようとしてくれているんだ。

 そのことについて、心から感謝している。いるけれど、

 

『……愛依』

 

 やっぱりわたしの心を決めるのは、苦しげに、けれど優しく微笑む彼の姿だった。

 

『おまえの力は、誰かを救けることができる。でも同時に、やろうと思えば、色んな悪巧みに使えるものでもあるんだよ』

 

 職場体験初日、彼が守る博多の街へやって来たあの日。静かな夜の中でこんな話をした。あの時から、……ううんきっと、それよりずっと前から、ホークスはわたしを案じてくれていたんだ。

 案じてくれるのは、心配してくれるのは、嬉しい。

 ……うん、そうだ。嬉しいんだ。この上なく心が熱くなって、ふやけて、幸せだって間違いなく思える。だからこそ(・・・・・)

 

「大丈夫です、リカバリーガール、オールマイト」

 

 だからこそ(・・・・・)わたしは、頑張りたいんだ。

 

「わたしはもうこの力を悪用しない、させないって──ちゃんと正しく使うんだって、誓っているんです」

 

 ホークスみたいになりたい。ホークスの力になりたい。

 ホークスを、救けたい。

 

 わたしの原点(オリジン)は今も、鮮烈に光を放っている。

 

「……こんなに意固地だったとはねぇ」

「そう、でしょうか?」

「入学当時のおどおどっぷりが懐かしいよ」

「あ、あれは……忘れていただけると嬉しいというか……」

 

 ふう、と。幾らか軽くなった溜め息を吐き出して、リカバリーガールが肩を落とした。まだその顔は渋面を作っているけれど、さっきまでの緊張感は無い。“しょうがないねぇ”と言いたげな雰囲気に、何とか納得してもらえたのかなとわたしも頬をほころばせた。

 よかった、と、安心していた。だから油断もしていた。

 

「まったく。あんたのその献身っぷりは、“個性”に引き摺られているからなのかねぇ」

「……“個性”、に?」

 

 特に深い意味はなかったのだろう、何とはなしに紡がれたその言葉に、わたしは小さく息を呑んだ。

 

「“個性”によって人の性格や趣味嗜好が引き摺られるのは、よくあることなのですか?」

「全てがそう決まったわけでは、ないけどね」

 

 オールマイトは否定せず、曖昧に笑う。それは肯定を示していた。何年もの間No.1ヒーローとして戦い続けてきた彼だ。きっとさまざまな“個性”を持った人間に──(ヴィラン)にも会ってきたのだろう。その上で彼は、ほんのりとやりきれなさを滲ませて、頷いた。

 

 

 

 

 

(……“個性”に、引き摺られる……)

 

 脳裏に浮かんだのはトガヒミコだった。彼女が流血や吸血を好む、所謂血液嗜好症(ヘマトフィリア)と思われる言動をしていたのは記憶に新しい。その衝動がいきすぎて、中学生の同級生をカッターで刺し、血を吸ったのだと。

 ……その衝動が、“個性”によってもたらされたものだとしたら。生まれ持った“個性”によるものだったとしたら。生まれた時から、決まっていたことだとしたら。

 

(……わたしは?)

 

 わたしは、どうなのだろう。

 性格が“個性”に引き摺られるのならば、わたしは生まれた時から、誰かをすきになることが決まっていたのだろうか。誰かをだいすきになって、【依存】することが、決まっていたの?

 

(……小さい頃のわたしって、人見知りをほとんどしない、人懐っこい子どもだった気がする)

 

 朧気な記憶の中で、能天気に笑う幼いわたしがいる。にこっと笑って抱きついて、『だいすき!』って口にして。……そうしてだいすきな人の“個性”(可能性)を奪った、わたし。

 

 わたしの“だいすき”は、汚い。

 それは誰かを傷つけるものでしかないから。

 ……それが、生まれた時から決まっていたのだとしたら?

 

 

(わたしとトガヒミコは、何が違うんだろう)

 

 ──きっと何も、変わらない。

 わたしの本質はきっと、誰かを傷つけたり、悲しませたりするようなものでしかない。

 

 

(……駄目だ、わたし、駄目な考えになってる……)

 

 仮眠室を退室して廊下を歩きながら、わたしは奥歯を噛み締めた。脳裏を覆う影を振り払うべく、頭を振る。

 

「しっかり、しなくちゃ」

 

 こんな後ろ向きな考えに耽っている暇はない。未来に向けて歩き出さないといけないのだ。ぱん、と両頬を手で叩いて顔を上げる。こういう時はとにかくトレーニングで身体を動かそうと、わたしは職員室へと向かった。

 雄英は生徒の自主性を重んじている。使用申請書さえ通れば、放課後は雄英の潤沢な施設を借りてトレーニングを行うことができるのだ。リストにざっと目を通すと──今日は利用者が数多くいるようで、借りられるのは体育館のひとつしか無かった。

 何とかギリギリ間に合った、と安堵しながら鍵に伸ばした手が、誰かの手とぶつかる。

 

「……え、」

「アァ?」

 

 チャリ、と鍵が擦れて音が鳴る。それと同時に、まるで音がしそうなくらいの勢いで視線がぶつかった。火花が散るような幻影に、思わず苦笑がこぼれてしまう。

 

「……わあ、奇遇だね爆豪くん」

 

 へらりと笑うわたしに対し、爆豪くんの蟀谷に青筋が走った。

 

 

77.少女、引き摺る。

 

 


 

 本当はこのじとじと湿った空気をかっちゃんに爆破してもらいたかったんですが長すぎるので断念しました。シリアスクラッシャーかっちゃんの活躍はまた次回に持ち越しです!

 何だか長々と書きすぎて非常に読みづらくなった気がします……大変申し訳ありません。でも全部書きたかったところであり、これからの展開に必要なフラグでもあります。耳郎ちゃんの思いやりもかっちゃんがキレたのも心操くんの注進もオールマイトへの謝罪も【治癒】“個性”の有用性と危険性もトガとの類似性も全部フラグです。フラグでありたい。ちゃんと未来の自分が回収できるよう祈っております……。

 

 本当に遅筆過ぎて申し訳なさで心折れてるんですが、皆様の閲覧、お気に入り登録、感想、評価等々に元気を頂いています……!本当にこのssが続いているのは皆様のおかげです。ありがとうございます!!

 

 そしてご報告が1ヶ月遅くなって切腹ものなんですが、またもや修羅イム様にオリ主のイラストを頂いてしまいました!今回はホークスとのイラストで、公安での訓練後のいちシーンを描いていただきました……!すごくすごく嬉しかったです、修羅イム様改めてありがとうございました!イラストはこれまでと同じく小説表紙に掲載させていただいていますので、またよろしければ見てください。



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78.少女、言葉を交わす。

 

 職員室の片隅で爆豪くんと鉢合わせてからしばらく、所変わって今は体育館の中にいる。部屋面積も天井までの高さも充分にあり、走る飛ぶといった運動も存分にできそうだ。それだけでもすごいのに、隣室には筋力向上のためのトレーニングルームや更衣室、シャワー室も完備されているとのこと。“流石雄英だなあ”と何度目かわからない吐息を溢すと、隣の爆豪くんと目が合った。ばちん、と音が鳴ったような錯覚に、思わず肩が揺れる。

 

『オイ寄越せや鍵』

『……わたしの方が早かったんじゃない?』

『ア? 俺の方が万倍早かったわ!!』

『いや万倍は絶対うそでしょ!』

 

『おいお前らうるさいぞ』

 

 相澤先生の“グダグダ言い争うよりまとめて行ってこいその方が合理的だ”という一喝により、まとめて職員室から放り出されたわたしと爆豪くんは、微妙な沈黙の中この体育館に来ていた。互いに更衣室で体操服に着替えて、再び体育館に居合わせた今も尚、会話が弾むような空気には程遠い。

 

「チッ……こっち見んじゃねぇわ」

「が、柄悪いなあ相変わらず……」

 

 舌打ちしつつ視線を逸らす爆豪くんは、今日も今日とて相変わらずだ。あまりにも通常運転すぎて最早安心感さえ覚える。柔い苦笑を頬に乗せて、わたしも彼に背を向け、数十歩距離を取った。

 

「……うん、よし」

 

 いつもの準備運動を終えて、ばさりと翼を広げる。まずはウォーミングアップだと一気に天井近くまで飛び上がった。急上昇に急降下、スピードを維持したまま急旋回、急停止──さまざまな場面でより速く、より良く動けるようにならないといけない。

 

(きっと公安は、ヒーローにそれを望んでる)

 

 昨日の仮免許取得試験での大幅な合格者の削減は、ヒーローを篩に掛けることと同義だ。オールマイトという平和の象徴が引退した今、ヒーローの数を減らすことは悪手なのではと思いはしけれど、むしろ逆──だからこそ(・・・・・)今なのだ。

 ヒーロー、ヴィラン、ヴィジランテ……よりさまざまな思想を持つ人々が、複雑化・深化した“個性”を手に動き始めている。顕著なのが(ヴィラン)連合及びヒーロー殺しステイン。彼らの保州での動きを見て、ホークスは懸念していた。

 

『だから、ステインに感化されて、思想に共感する者がきっと現れる。“ヒーローを粛清する”……今の“個性”社会を壊す。そんな考えを持つ者たちが──(ヴィラン)連合の元に集うかもしれない』

 

 そうして次に連合が現れたのがわたしたちの林間合宿。その時彼らは、USJの時にはいなかった仲間を連れていた。

 凄まじい蒼い炎を放つ継ぎ接ぎ肌の男性、荼毘。

 血を飲むことで対象に【変身】するトガヒミコ。

 対象の身体能力・記憶・能力・感情諸々を写し取った分身を増やすトゥワイス。

 わたしと爆豪くんを球体の中に閉じ込めて浚ったMr.コンプレス。

 他にも【磁力】の“個性”を持った人と、【トカゲ】の異形型“個性”を持つ人もあのバーにはいたはずだ。

 

 始めの襲撃では死柄木弔、黒霧、脳無はともかくとして、他はチンピラ崩れの雑兵程度だったのに、ステインを機にこれだけの戦力を集めてみせた。ホークスの発言に誤りはなかったのだ。

 

(そしてきっと、これからも)

 

 AFO(オールフォーワン)がタルタロスに捕縛された今も、神野を逃れた死柄木たちは捕まっていない。仮免試験で現れたトガヒミコも荼毘も、……人を傷つけることに躊躇はひとつもなかった。

 彼らが活動を続ける以上、もっとたくさんの人が傷つく。

 それはきっと──矢面に立つヒーローたちが、一番。

 

(……生半可な力しか持たないヒーローでは、犠牲者を増やしかねない)

 

 USJで襲撃してきた(ヴィラン)に立ち向かおうとした13号先生と相澤先生でさえ、重傷を負ったのを知っている。ヒーロー殺しに殺された、もしくは再起不能にされたヒーローたちもいた。

 そして極めつけは今回の神野だ。

 ……わたしが弱かったせいで、(ヴィラン)連合に捕まったせいで、神野は一夜のうちに廃墟と化した。あの戦いに巻き込まれて一体どれ程の人々が傷ついただろう。命を落としただろう。瓦礫と化した家々を、砕け散ったコンクリートに染み込んだ赤黒い色も、わたしはずっと忘れない。

 

 オールマイトやベストジーニストは、“君のせいではない”とわたしを諭した。その優しさを有り難く思うけれど、ただ甘んじて享受してはいけない。わたしは、弱いままのわたしを許せない。

 

 強くならなきゃいけないんだ。

 もっと強く、速く、──もう誰かを悲しませないために。

 

「……よし、」

 

 そのためにまずは、わたし自身の戦闘能力を磨かなきゃ。わたし自身が(ヴィラン)を無力化できればそれでよし。それが無理でも、(ヴィラン)と戦う誰かを支援するため、足手まといにならない程度の身のこなしは必要だ。……捕まって迷惑を掛けるなんて、もう二度とあってはならないから。

 翼の浮力を切って、緩くはためかせながら床に降り立つ。確か雄英の体育館にも(ヴィラン)の攻撃を模したボール射出機があったはず。公安で行っていた訓練みたくやってみようと、足を踏み出したその時。

 

「オイ」

「、爆豪くん?」

 

 低い呼び声に振り返ると、爆豪くんはその灼眼で鋭くわたしを見据えていた。いつものぶちギレてるそれではない、酷く静かな眼差しに少し身構える。

 “どうかした? 何か用事?”

 そう尋ねようとしたわたしより先に、彼は口を開く。

 

「てめェ、俺の組手の相手しろ」

「……えっ」

 

 色々用意していた無難な言葉は吹っ飛んだ。それぐらいの衝撃にわたしはぽかんと口を開けて呆けてしまう。

 

「え、あの、……えっ」

「ンだよ」

「や……その、爆豪くんからそんな言葉が出てくるなんて、少し意外だったの」

 

 嘘だ。少しどころじゃない。意外過ぎて今も信じられないぐらい。

 だって爆豪くんはA組の中でもトップクラスの戦闘力とセンスを誇る。けれど彼の強さを裏付けているのは生まれ持った“個性”や才能だけじゃない。“誰にも負けない”という強靭なプライドこそが彼をここまで強くしたのだと、神野の一件を経て感じた。

 ……そのプライドエベレスト爆豪くんが、わたしなんかを訓練相手に選ぶ?

 

「……爆豪くんは、わたしとの組手に何を望んでるの?」

 

 いつもぶちギレてるようでいて観察力も判断力もある爆豪くんのことだから、きっと何かの意図がある。そう思って問い掛けると、彼はわかりづらくもひとつ頷いた。

 

「空中戦じゃあ、現状てめェの方に一日の長がある。……けどこのまま遅れを取ってたまるか。てめェを相手取ることで、俺ァもっと上に行く」

 

 ……やっぱり意外だ。あの(・・)爆豪くんが誰かを自分より上だと認めるなんて。でも現状に満足するでなく、更に上へと向上し続けるところは流石爆豪くんといった感じで、わたしも見習わなきゃと顔を上げる。ばちん、と視線と視線が絡んだ先で、彼は目をすがめた。

 

「てめェももっと、戦えるようになりてぇんだろ」

「……どうしてわかるの?」

「そういう動きだった。……で? どうすんだ」

 

 やんのか、やんねーのか。

 切っ先のような鋭い声と目とに、こくりと唾を飲む。けどわたしだって、ここで退きたくはなかった。

 

「やるよ。……お相手、よろしくお願いします」

 

 互いに頷き合って、一拍の沈黙。それから同時に体育館の床を蹴って天井近くまで飛び上がった。小手調べとして放った羽根は即座に【爆破】で焼き払われる。その噴煙を裂いて爆豪くんは突進。目の前に肉薄した彼をすんでのところで避け、高度を下げながら距離を取った。

 そんなわたしを見下ろしながら、彼は鼻で笑う。

 

「手加減した方がいーんか?」

「……いらない、よ!」

 

 再び放った羽根は全方位に撒かれた爆炎に防がれる。……わたしの羽根は燃えてしまうから、まともにぶつかれば負けることは必至。だから何らかの術を以て彼の不意を突かなければ。

 

(……大丈夫、落ち着け。つけ入る隙なら作れる)

 

 彼の【爆破】は両の手のひらから放たれる。わたしの羽根を防ぐために全方位に爆破し続けるのならば、宙に浮くための推進力を確保できない。彼が空に在るためには、攻撃ばかりに手を割けないのだ。

 だからわたしはそこにつけ入る。

 制空権の有無を以て、彼を地につける!

 

「やあッ!」

「甘ぇ!!」

 

 多方面から一斉に迫る羽根は、一帯を焼き払われて終わり。だからそこに、時間差で羽根を追わせる。爆破の直後を狙った羽根の弾丸は──爆豪くんの頬を掠めた。本当は直撃させたかったのだけど、彼の驚異的な反射神経に防がれてしまった。

 微かに頬を赤くした爆豪くんは、不敵にその口角を吊り上げる。

 

「それで終わりかよ、アァ!?」

「っまだま、だ!」

 

 円形状に広げた包囲網も、隙を突くための時間差攻撃も、まだ彼には足りない。届かない。……ならもっとたくさんの手を!

 爆撃を免れた羽根を手元に回収しながら、小さく呼吸を整える。数多の羽根を絶えず操作しているからだろう、脳が熱く、鈍い痛みを訴えている。それを奥歯で噛み殺しながら、わたしは第一の矢を差し向けた。

 

(まずは、誘発)

 

 扇状に広がった羽根を、爆豪くんは即座に爆破で焼き払う。その威力は大きく見た目も派手で、吹き荒れる爆風に煙が巻き上げられている。それは彼の“個性”の凄まじさを表しているけれど、同時に──こちらにとっての目眩ましにもなる。

 

(撹乱と仕込みを、この隙に……!)

 

 噴煙に乗じて彼の周囲に羽根を忍ばせる。緩急をつけながらも攻撃の手は休めない。波状攻撃を以て爆豪くんの意識を割く。意識の外に、暗煙の中に、仕込みの羽根を展開させて──

 

(……ここ!)

 

 一際大きな爆破が両の手から放たれた瞬間、爆豪くんの腕が不自然に硬直したのを見て、わたしは右手を振り下ろした。手の動きに連動して、爆豪くんの少し後方に位置していた羽根が床に向けて動き始める。

 くんっ、と──爆豪くんの体操服を引っ掛けながら。

 

「ッ!」

 

 鋭い息遣いが聞こえた。突如として空中で体勢を崩されたのだから当然だろう。彼が背中の羽根を取り払うにしろ、体勢を整えるにしろ、そのために【爆破】を使わざるを得ない。

 その瞬間なら、わたしに攻撃を向けることはできない!

 

「取っ……」

 

 “取った”。そう確信してわたしは詰めの羽根の弾丸を射出したと同時に、大きめの羽根をナイフのように持ち爆豪くんに迫った。二重三重と仕掛けた策だ、然しもの爆豪くんだって全部を避けられはしない。

 床に向かって落ちていく爆豪くん。その首筋に羽根のナイフを突きつけて──そうして伸ばした手を、彼は掴んだ。

 

「、は、えっ!?」

「──しゃらくせェ!!」

 

「ッ、ぶわ!!?」

 

 落下しながらも、後頭部や背中に羽根の弾丸を受けながらも、爆豪くんはわたしの腕を掴んで拘束し、こちらに一発喰らわすことを選んだのだ。まさに肉を切らせて骨を断つというか、凄まじい執念というか……!

 

「ぐ、ぅ、げほっ、……!」

 

 顔面を焼く閃光と爆音、熱と痛みに、わたしは咳き込みながら慌てて距離を取る。それと同時に爆破が轟き、体勢を立て直した爆豪くんが再び空中に浮かび上がるのを見た。

 

「容赦ないなあ!」

「容赦いらんっつったのはそっちだろうが」

 

 ハ、と笑う爆豪くんは、攻撃を受けたはずなのにいやに上機嫌だ。その灼眼が、爛々と輝いている。

 

「で? もう終わりかよ、空中(そらなか)

 

 ……そんな風に煽られたら、わたしだって、もっと立ち向かいたくなる。ほんの少しムッときた感情を力に変えて、舞わせていた羽根を爆豪くんの後頭部にぶつける。ゴッ──と、我ながら良い音がした。

 

「まだまだいくよ。……後ろには気をつけた方がいいかもね」

「……いい度胸だクソがァ……!!」

 

 煽り返したことへの後悔3割、今度はもっとイイのを喰らわせようという決意が3割、その他諸々の感情を唾と一緒に飲み込んで、わたしは再び羽根を展開させた。

 

 

 

 

 

 

「けほ、っんん……手合わせありがとう爆豪くん、怪我治すね」

「いらねー」

「……いや“いらない”は流石に……わたしもガンガン羽根当てたし」

「当たってねーわ」

「それは流石に無理があるよね?」

「仮に当たったとしてもテメーの攻撃なんざ蚊みてぇなもんなんだよ!!」

「い、意地っ張り……!」

 

 あの後もしばらく組手を継続していたわたしと爆豪くんだけれど、羽根と爆破の応酬の結果、わたしの手持ちの羽根がほぼ尽きたタイミングで手合わせを終え、2人して体育館の床に座り込んでいた。会話のキャッチボー……ドッヂボールを終えてから、わたしは隣の彼を見上げる。

 

「……爆豪くんて、昔からそうなの?」

「ア?」

「小さい頃から、……えっと、その、」

「はっきり喋れやウゼェ」

「昔から今みたいに全方面爆破していくみたいな感じの子どもだったの?」

「はっきり喋ったら喋ったでムカつく奴だなテメーはよ」

 

 爆豪くんは面差しも眼差しも舌鋒も苛烈だ。それがさっきの手合わせでも味わった【爆破】を連想してしまって、どうにも気になって仕方なかった。

 

「……どうしても、“個性”と人格はリンクしちゃうのかなって、気になって」

 

 【“個性”で為人(ひととなり)を判断するのはやめよう】──というのは、誰もが聞いてきたであろう有名すぎる一文だ。幼少期に行われる“個性”カウンセリングの根幹を示す言葉。その人が生まれ持った“個性”が如何に凶悪な性能であろうと、その人個人の性格や思考までもが凶悪ではないとする言葉だ。

 わたしも、そうやって習ってきたのに。

 そうやって信じてきたことが、今、揺らいでいる。

 

「爆豪くんは、“個性”に人格が引き摺られるって思う?」

「……ア?」

「ほら、例えば、そう……空を飛べる“個性”の人が飛び上がるくらい楽天家だ、とか」

「てめーは真逆じゃねェか」

 

 爆豪くんの、何でもないように吐き捨てた指摘は、この上なく的を射ていた。わたしは胸を突く衝撃に、ただへらりと苦く笑う。

 だってわたしの本当の“個性”は、空駆ける自由のための【翼】じゃない。どんなことがあってもへこたれない【自己再生】でも、誰かのために分け与えられる【譲渡】でもない。

 

「……ほんとだ、真逆、だね」

 

 わたしの“個性”は【依存】。

 大切な人に頼って縋って寄生する、【依存】だから。

 【依存】でしか、ないのだから。

 

(わたしは生まれた時から、こうなるって、決まっていたのかな)

 

 先ほど封じ込めていた疑問が、心の奥底から湧き上がってくる。それは底無し沼に足を取られてしまう感覚に似ているのだろう。振り払おうと踠くけれど、余計に泥濘に嵌まっていく。問題なく呼吸しているはずなのに、息が苦しい。

 

(わたしの“個性”が、こうだから、……こういう風にしか、生きられなかったのかな)

 

 ちゃんと(・・・・)笑ってるはずなのに、上手く口角が上がってくれない。

 

(これからの未来も、そう、なのかな……)

 

 きっと歪な表情をしているんだとわかったから、わたしは俯いていた。抱え込んだ膝小僧に顔を伏せて、心の中で言い訳を唱える。

 大丈夫、だいじょうぶ。

 ちゃんと(・・・・)笑って立ち上がるから。

 あとほんの少しだけ時間をください。

 

 そうしたら問題なく振る舞えたはずだった。そろそろ帰ろうか、なんて無難な言葉を吐いて、こんなどうしようもない心の泥なんて踏み潰して、明日に向かって歩き出せたはずだった。

 けれど、

 

 

「テメーはそれを話して、俺になんて言ってほしいんだ」

 

 

 けれど、わたしが顔を上げるより早く、低い声が鼓膜に突き刺さる。それに驚いて、わたしは取り繕えないまま顔を上げてしまった。

 

「……え、」

「“個性”なんて関係ねぇって、そんな言葉を期待してたか? ……だァれがわざわざンなこと言うか。甘えてんじゃねぇわ」

「わ、わたしは、甘えてなんて」

「うるせぇ口出しすんな羽根女!」

 

 爆豪勝己という人は、言動は苛烈かつ粗暴……“なんか(ヴィラン)っぽい”と言われれば否定できないような人だ。全方向に向かって爆破していくような、そんな激しさを孕んでいる。

 

 

「“個性”でどうなるかじゃねぇ、どうなりたいか(・・・・・・・)だ」

 

 

 でも、もしかしたら。彼の本質は静かで揺るぎないものなのかもしれない。今彼が放つ声のように、どんな障害にも迷うことなく立ち続ける、その強靭な意志こそが彼を彼たらしめているのかもしれないと、そんなことを思った。

 

「どう、なりたいか……」

「“個性”は手段で武器。それ以上でも以下でもねぇのに、振り回されてやる義理はねェ」

 

 だからか、わたしは疑うことなくその言葉を受け止めていた。“個性”は手段や武器であって、その人そのものではない──確かに爆豪くんの“個性”は【爆破】で、その戦い方は派手で苛烈だけれど──彼がわたしを見据えるその瞳は、どこまでも静かで、揺るぎない。

 

「……うじうじしてる暇なんざねぇって、テメーが言ったんだろが、空中」

 

 爆豪くんの指摘に、はっと目を瞬かせる。そうだそれは、あの仮免取得試験の時、わたしが彼に押し付けた言葉。

 

「この俺にご高説垂れといてテメーはあっさり手のひら返すんか。いい御身分だなァ?」

「そ、そんなことしない……!」

「ハッ、……ならいい」

 

 慌てて言い返せば、爆豪くんは鼻で笑った後すぐさま笑みを引っ込めた。こちらから視線を逸らして僅かに目を伏せる。その赤い目は、今ではない、これまでとこれからを見つめていた。

 

「もっとずっと、強くならなきゃいけないんだろ」

 

 “お前も、俺も”──だなんて、爆豪くんは口にしない。

 それでも言外にそう伝えてくれているのがわかって、わたしは胸元を握り締めた。呼吸を奪う泥はもう、飲み下せてしまった。じんわりとした痛みはあるけれど、ちゃんと息ができる。笑える。

 

「爆豪くん、……ありがとう」

「うるせェ黙れ。テメーの為に言ったんじゃねーんだわ」

「相変わらずザクザク言うなあ……」

 

 はは、と苦笑するわたしと、そっぽを向く爆豪くん。……うん、わたしたちの間の距離はこれぐらいでいいのかもしれない。決して優しい言葉を掛け合いはしないけれど、互いに檄を飛ばすには、これぐらいがちょうどいい。

 

「……意外とめちゃくちゃ根に持つタイプなんだね」

「ハァ!? ンな訳ねー!」

「だってわたしの言ったことなんか忘れてると思ったのに」

「テメーと違って記憶力がいいだけなんだわ」

「“みみっちい”とか言われたことない?」

「聞けや!!!」

 

「おいお前らそろそろ帰……、」

 

 そんなやり取りの最中、体育館の扉を開けて相澤先生が顔を覗かせた。いつも気だるげな半眼が、こちらを見るやいなや、驚いたように見開かれる。

 

「えっと、相澤先生、どうかされましたか?」

「……2人で手合わせしてたのか」

「? はい、でも何でわかっ……あ、爆音とか外まで響いてましたか?」

「いや体育館はある程度の防音機能がついているが……」

 

 ととと、と歩み寄ったわたしを見下ろして、相澤先生は黙り込んだ。……いつもクールでズバズバ迷いなく切り込むタイプの先生には珍しい様子に、わたしは首を傾げる。

 

「…………、…………」

「あ、あの、先生、その沈黙は……?」

「…………何でもない。それよりもう体育館を閉める時刻だぞ。あと1分」

「えっ!? す、すみません……!」

「謝罪はいいからはよ荷物取ってこい。着替えは寮でしろ」

「ッス」

「はい……!」

 

 言われたままに焦って走り出す。……そう、わたしは焦っていた。急がなきゃいけないと焦っていた。()を見ることすらなく荷物を抱えたのはそうした気持ちの表れだった。

 

「……ちゃんと風呂入って温まって寝ろよ」

「? はい、わかりました」

 

 相澤先生の言葉の裏にも気付かず、わたしは爆豪くんと共に、とっぷり暮れた夜の中帰路に着いた。

 

 

 

 

 

 

「ただいまー……」

「あ、お帰、りっ!?」

 

 ハイツアライアンスの玄関を抜けて、はじめに出迎えたのは尾白くんだった。彼はにこやかに笑みを向けようとして、何故か声を裏返す。そのまま固まってしまった尾白くんを不思議に思ったのか、リビングにいた数人が寄ってきて──わたしを見て、同時に声を揃えた。

 

「「「どうした空中それェ!!?」」」

「えっ?」

 

 突然指を指されて絶叫されてわたしは訳がわからないけれど、峰田くんたちも訳がわからないといった表情をしている。騒ぎを聞き付けてやって来た他のみんなも同じような表情をしていて、……えっ本当に何がどうなってるの……?

 

「あ、あのみんな、本当にどうしたの……?」

「ウン……とりあえず現実を見せた方がいいね……」

「はい……」

「待って何でそんなに神妙な顔してるの」

 

 何故か眉を下げたお茶子ちゃんと八百万さんが頷き合っている。そうしてお風呂に行く途中だったらしい耳郎さんが、何とも言えない表情でコンパクトミラーを差し出して来た。不思議に思いながらも受け取って、その鏡面を覗き込んで、

 

「!!?」

 

 そうして絶句した。鏡に映った自分は、いつもの自分ではなかった。より具体的に言うなら──髪がアフロみたいに爆発していた。

 

「何こ……爆豪くん!!」

 

 心当たりの名を呼べば、「チッうるせーな」と言わんばかりの半眼で彼はこちらを見た。い、いや確かにうるさいかもしれないけど、これは物申させてほしい!

 

「な、なんで髪爆発してること教えてくれなかったの?」

「普段と然程変わんねぇだろ」

「ねえ爆豪くんにはいつもわたしがどう見えてるの??」

 

 むしろその視界にわたしはちゃんと収まってるのか疑問を覚えた。この人“羽根”以外の特徴を捉えているのかな……いや流石に出会って5ヶ月は経過してるし……いやでも人のことを「黒目」とか「耳」とか宣う爆豪くんだしな……と思考を彷徨かせている内に、ぽんと肩を叩かれた。次いでぼわぼわした髪をそっと撫でられる。

 

「うわあふわふわ……これはこれで」

「もこもこして羊みたい」

「ちょっと焦げ臭いけど可愛いよ!」

「フォローが優しくて辛い……」

 

 芦戸さん、耳郎さん、透ちゃんに続いて八百万さんやお茶子ちゃんまで撫で繰り回してくるものだから、わたしは何だか気が抜けて笑ってしまった。ふは、と溢した笑い声に、ふふ、ともうひとつの笑い声が重なる。

 

「晩御飯の前に、お風呂に入りましょうか」

 

 口許に指を添えて、梅雨ちゃんは笑った。

 

 

 

 

 

 

 大きな浴槽から立ち上る湯気が、シャンプーやボディソープの匂いを纏わせてふわふわと漂う。そんな中髪を洗い終えてわたしは顔を上げた。目の前にある鏡には、しっとり濡れた白い髪。そのままなら良かったのだけれど、……時間が経つにつれてぴょこ、ぴょこん、と毛先が好き勝手に跳ねてしまう。

 

「う、うう……」

「あらあら、なかなか手強いわね」

「ほんと……やだもう恥ずかしい……」

「そうかしら? 可愛いのに」

 

 でもそんなになっちゃうなら、と梅雨ちゃんがコンディショナーを貸してくれることになった。緑色のそれからは、爽やかなシトラスミントの匂いが広がる。

 

「というかこれ、絶対相澤先生も気づいてたでしょ……! 何で言ってくれなかったのかな……!」

 

 コンディショナーを髪に塗り込みながら、恥ずかしさから思わず愚痴ってしまうわたしに、隣の梅雨ちゃんはくすくす笑った。そうして、そっとわたしの髪に触れる。

 

「多分だけれど、相澤先生、私にあなたの髪を梳かす時間をくれたのよ」

「、え?」

 

 梅雨ちゃんの大きな手が、長い指が、わたしの髪を梳かしていく。その手を止めないまま彼女は続けた。

 

「“何もなかった”って顔で帰ってきたら、私は何もできないでしょう。私は気付かないまま、あなたに“何かあった?”って訊くこともできないかもしれない。

 でも、ふふ、今のこの髪なら、流石に見逃さないわ」

 

 梅雨ちゃんが微笑むように目を伏せる。長い睫毛に水滴が灯って、きらりと輝いた。

 

「“頑張ったのね”って、あなたを労ることができる」

 

 梅雨ちゃんの穏やかな声が、甘やかに響く。

 髪を梳かす。それは頭を撫でる仕草に似ていて。

 

「……梅雨ちゃん、は、」

「なあに?」

「わ、わたしを、甘やかしすぎだよ」

「あら。まだまだ序の口なのだけれど」

「え……う、うそだあ」

「ほんとう」

 

 ここが風呂場でよかった、とこっそり思った。

 声が震えてたって、目元が赤くたって、じんわり濡れていたって、きっと湯気のせいにしてしまえるから。

 

 

 

 

 

 

「あっ、いつものだ」

「ノーマル空中だ」

「さ、さっきのはもう忘れていいよ……」

 

 梅雨ちゃんのお蔭で何とか“いつもの空中”に戻れたわたしは、みんなと一緒にリビングで食卓を囲んでいた。ハイツアライアンスには朝晩とランチラッシュによる食事が届く。今日の晩御飯は酢豚と中華スープ。柔らかい豚肉や人参を口に含むと、きゅーっと広がる甘酢の味が絶妙で最高だった。夏バテにもぴったりだなあ、なんて舌鼓を打っていると、不意に上鳴くんがわたしを見た。にぱっと笑顔が輝く。

 

「てかさァ、新学期始まったばっかなのに居残り訓練とか空中スゲーね。しかもあのかっちゃんと!」

「あのって何だコラ」

「そうだよね! 僕もすごく気になってたんだかっちゃんと空中さんて“個性”も戦闘スタイルもそんなに似通ってないのに何でかなってアッッッそうか2人とも宙を飛べる!それで空中戦の手合わせをしてたのかなうわあ僕も見たかった【翼】での飛行能力は空中さんのが上回りそうだけどかっちゃんの【爆破】は攻撃と移動を同時にしてしまえるから」

「うるせェ黙れクソナードが!!!」

「通常運転やなあ……」

 

 ほやほや呟くお茶子ちゃんの言う通り、ブツブツ持論を捲し立てる緑谷くんも、それにぶちキレる爆豪くんも、「食事中にクソは駄目だぜ!!」「そうよかっちゃんお里が知れるわ」「行儀よくしなね」「黙れ」なんていうやり取りも通常運転で、何だか嬉しくなってしまう。頬張っていた酢豚を飲み込み、笑う。

 

「緑谷くんの言った通り、空中戦の練習をしてたんだ。わたしは飛べるけど、戦う時の身のこなしや駆け引きはまだまだだし、爆豪くんに教わろうと思って」

 

 そう答えたわたしにいち早く反応したのは切島くんだった。切島くんはグッと力強く左手を握り締める。

 

「そうだな! 爆豪はすげェ! 戦闘センスの鬼だしな!」

「いやそれはわかっけどよ、なかなか思い切ったなァ空中」

「思い切る?」

「そりゃ爆豪かっちゃんとタイマンとか勇気要るっしょ」

「そーやよ! 愛依(あい)ちゃん怖なかったん?」

 

 いつもながら熱血な切島くんとは対照的に、砂藤くんや瀬呂くん、お茶子ちゃんは心配そうにわたしを見ている。特にお茶子ちゃんは体育祭で直に爆豪くんと戦ったことがあるから、余計に思うところがあるんだろう。

 

「えっと、そうだね……全く怖くないって言ったら嘘になるけど」

 

 確かに、情け容赦なく間近で爆破された時にはどうなることかと思ったけど、そうした緊張や恐怖よりも、感謝の気持ちがずっと大きい。

 

「でも、確かに一歩は向上できたよ」

 

 そう笑うわたしに対し、爆豪くんは視線すら向けない。でもこれでいいんだろうなって、そう思えることが嬉しい。

 

「その向上心は素晴らしいぞ空中くん!!! 俺も見習うとしよう!!」

「あ、ありがとう飯田くん」

「そうだな……常に上を見つめ飛翔する。称賛すべき魂の輝きだ」

「たましい、」

 

 大きな声の飯田くんも、難しい言い方の常闇くんも、揃ってわたしに向ける眼差しは優しい。

 

「今度は俺とも、空中戦の手合わせを願えるか、空中」

「! うん……! こちらこそよろしくお願いします、常闇くん」

 

 また一緒に頑張れるんだ、と思うと、おのずと声が上擦ってしまう。そんなあからさまな態度が気恥ずかしくてコップの水を口に運んだ。ひんやりとした感触が喉を通っていく内に、上鳴くんが「あーあ」と声を溢した。

 

「いいなぁ空飛べるって。機動力ダンチだもんなー」

「そうですわね。救助でも戦闘においても非常に役立ちそうです」

「……ヤオモモはさ、そういうの“個性”で創れないの?」

(わたくし)が?」

 

 耳郎さんの疑問に、八百万さんはぱちくりとその目を瞬かせた。瞳の黒曜石が静かに伏せられ、思考に沈む。

 

「……難しい、ですわね」

「えーどうして? 林間合宿の時にさ、バイク創ってくれてたじゃん。その応用で空飛ぶバイク! とか!」

 

 身振り手振りであの魔獣の森での出来事を話す透ちゃんに、八百万さんはひとつ微笑んでから訳を話し出す。

 

「私の“個性”【創造】は、私の脂質をさまざまな分子に変換し、組み立てるプロセスを必要とします。対象を創るにはそれがどんな分子構造をしているのか知らなければならないのです」

「いや何回聞いてもスゲー“個性”だよな」

「スゲーしスゲー難しそう。ヤオモモだからあんなにポンポン物創れるんだろうな」

 

 確かに、とピーマンを咀嚼しながら話に耳を傾ける。八百万さんはA組の中でも随一の才媛で、“個性”の関係もあってありとあらゆる学問を修めていると聞く。だからこその【創造】のバリエーションを誇るのだろうと思った。

 それと同時に思い至る。ごくんとピーマンを飲み込む。

 彼女の“個性”には、あまりに多くの可能性があると。

 

「空を飛ぶための材料や理屈がわかれば、創れるってことだよね?」

「ええ、まあ」

 

 そうですが、と頷く八百万さんに確信する。八百万さんは人を乗せて空を飛ばすための材質や理屈を知らないだけなのだと。彼女の頭脳と知識を以てすれば、きっともっと、どんな物だって創れる。

 

「常闇くん、」

「ああ、空中……俺も同じことを考えていた」

 

 常闇くんと視線を交わして、頷き合う。きっと彼の脳裏にもあの夏の出来事がよぎっているだろう。

 日本から遠く離れた科学の島にて出会った、あの強烈なインパクトのある()のことが。

 

「八百万さん、I・アイランドの研究者とお話できる機会があったら、……興味ある?」

 

 

 

 

 

 

『それで俺に連絡か。いい御身分だな』

「う、や、やっぱりお忙しいですかね……?」

『言わなきゃわからんか?』

「ご、ごめんなさい……!」

 

 晩御飯を終えて自室に帰ってきたわたしは、“あの強烈なインパクトのある()”──最上(もがみ)博士に連絡を取っていた。スマホから流れる低い声に、思わずベッドの上で頭を下げる。

 やっぱり失礼だったかな、という後悔と、それでもお話したかったという気持ちがぶつかり合っている。

 

「あの、A組の……雄英でのクラスメイトと話してたんです。最上博士が発明した飛行用モービル、飛行性能と光学迷彩を搭載していましたよね」

『ああ、僕の発明品な』

「あのセントラルタワーの事件後に博士主催のパビリオンを拝見しましたが、本当にどのサポートアイテムもすごく便利で……! 博士の技術や知識と提携できればもっとわたしたちのヒーロー活動に幅が出ると思いまして……!」

 

 例えば、空飛ぶバイクを颯爽と創り出して乗り回す八百万さん。格好よくて素敵だ……というだけではなく、彼女が【創造】することで味方全体の機動力が格段にアップする。八百万さんが得意とするオペレーションにも選択肢が増えるだろう。

 透ちゃんは【透明人間】故の攻撃手段の無さを気にしていた。けれど光学迷彩の技術を用いれば、同じく透明にした武器を扱って不可視の攻撃ができるようになる。それは攻撃の軌道を相手に読ませない、唯一無二の強力な手段と成り得るはずだ。

 他にも、他にも──とあれこれ喋り倒すわたしを『待て待て落ち着け』と制した最上博士は、深い溜め息をついた。それは呆れも多分に含んでいるけれど、それ以上に“意外”の感情が色濃かった。

 

『空中お前、そんなテンション高く喋れたんだな』

「……浮かれているのかも、しれないです」

 

 指摘されて初めて、わたしは自分が笑っていたことに気付いた。ふやけた口角に指先で触れる。 

 

「A組のみんなと、あれはどうこれはどうって、いっぱい話して……すごく楽しかった。みんな、すごく優しい人たちなんです。わたしのことをたくさん心配してくれて、励ましてくれて……傍にいて、くれるんです」

 

 ほんのりと熱を持つ頬に気付いた。

 その事実が、心の内に冷や水を注ぐ。

 

「……すごくすごく、嬉しくて、……胸が、熱くなるくらいに、……」

 

 幼い日のことを、わたしはまだ鮮明に覚えている。ただ嬉しくて、楽しくて、お父さんとお母さんのことがだいすきでだいすきで仕方なくて。その気持ちで胸がいっぱいだった。とてもとても、熱かった。

 

「だから時々、すごく苦しくて、怖くなるんです」

 

 その熱が、だいすきな人たちの“個性”(未来)を奪ってしまった。その事実は何があっても、消えない。

 

「最上博士、……はかせ、」

 

 爆豪くんは、“個性”でどうなりたいかが大切だと言った。わたしもそうありたいと思った。願った──この“個性”を抱えて、みんなと生きていきたいと。

 

「わたしの“個性”は、眠ったままでいられますか。

 この先も、みんなと一緒にいられますか」

 

 でもその願いが、“個性”が、みんなの未来を壊してしまうのなら、それだけは避けなくてはいけなかった。

 

「大好き、なんです。みんな大好きで、大切な友だち」

 

 みんなが大好きだから、一緒にいたい。

 みんなが大好きだから、“個性”を奪ってしまうかもしれない。

 みんなが大好きだから、傍にいられなくなるかもしれない。

 

 みんなが、大好きだから、

 

「みんなの“個性”を、未来を、可能性を、 

 ──奪うだけのわたしに、なりたくない……」

 

 生まれ持った“個性”は、自分自身じゃない。必ずしも人格とリンクするわけではないと、爆豪くんに後押しされる形で理解した。それはわたしに安堵をもたらしたけれど、同時に新たな不安の芽を芽吹かせた。

 “こうありたい”という自分の願いと、

 “こう生まれ落ちた”という“個性”のかたちとが、

 あまりに食い違って反発しあった時、わたしはちゃんと、なりたい自分として生きられるのだろうかと。

 

 目の奥が熱を孕む。それはじわりと潤んで、目の前を霞ませた。透明な血がぽたりぽたりと頬を伝う。何だかそれがすごく情けなく感じて──わたしに泣く暇も権利も無いというのに──必死に嗚咽を噛み殺した。

 

 そんな時だった。

 

 

『うじうじするな、オタオタするな、──心配するな!!』

 

 

 電話口から響いたその声に、驚いて目を見開く。ぱっと開いた睫毛を伝って、幾つかの雫が飛び散った。

 

『またひとりでぐちぐちうじうじ……湿っぽい奴だな』

「えっ、え……す、すみませ、」

『謝る必要は無いからよく聞けよ、空中』

「は、い……?」

 

 ごほん、と改まった咳払いと共に、彼は声の調子を改めた。凛と強く、冷静ながら熱意を孕んだ、そんな声。

 

 

『僕は以前にも言ったはずだ。

 ……“個性”でどうしようもなくなった奴らの、新たな道を科学の力で開くのが、我々発明者の仕事だと』

 

 

 だから心配するな、と付け加えられた声が、びっくりするくらいに優しくて。わたしは嗚咽を殺しきれずに涙を溢した。みっともなく、ひぐひぐと声をひきつらせている。

 それに対して博士は小さく息をついた。それは、溜め息にしては酷く優しく、あたたかで。またわたしの涙腺を刺激してくる。

 

「っ、う、ぇ゛、はかぜぇ……」

『まったく酷い声だ。空中お前、プロの言うことが信じられないと?』

「ち、ちが……ちがいます……」

 

 そうじゃない。わたしが今涙を止められないのは、信じられない不安が理由じゃない。

 

「……信じられないくらい、今が幸せ、なんです」

 

 本来なら、わたしがこんなに幸せなんて有り得なかった。ホークスに救けられて、公安に保護され、梅雨ちゃんたちに出会って。こんなにあたたかな気持ちになるなんて思いもしなかった。

 それだけわたしの【依存】が犯した過ちは、酷いものなのだから。

 

(“取り返しがつかなくなること”は、ひどく悲しくて、苦しくて、恐ろしいことだから)

 

 【自己再生】で治る身体の傷とは違う。わたしが両親の“個性”を奪ったことは、彼らの可能性を断ち、もうどの未来へも辿り着けなくすることと同義だった。

 だからわたしは“取り返しがつかなくなること”が怖い。絶対に避けるべき、何より恐ろしいことだと思っている。

 

 

 だから、

 だから、そう。

 どうしてもその言葉を、上手く飲み下せなかったんだ。

 

 

 

「知ってるかい空中さん!!

 A組のほぼ全員が、今回の神野の一件で除籍処分になりそうだったって話を!!!」

 

「──え?」

 

 

 

78.少女、言葉を交わす。

 

 


 

 Next Conan's HINT : M O N O M A

 

 始めに断っておきますが作者は物間くんが大好きです。ちょっとアレな言動は確かにアレですが物間くん本人が嫌いになることはありません。ちょっと(ちょっと?)腐りながらも頑張る彼が大好きです。少しネタばらしするとこの【雄英新生活編】の最大のMVPは物間くんなので、次回の展開はあたたかく見守っていただけると幸いです。

 

 というか更新遅くなってしまって本当に本当にすみませんでした……!ヒロアカ熱は冷めやらぬ状況ですがなんかSSの書き方がわからん過ぎて時間がかかってしまいました……心折れそうになった時は皆様のあたたかい感想や評価等々に助けられました。本当にありがとうございます!

 次回以降の物間くんとオリ主の衝突やら何やらは今後の展開に大切な部分ですので、楽しんで書きたいと思います。また次回以降も読んでいただければ幸いです。



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79.少女、落涙。

 

「聞いたかい空中(そらなか)さん!!!

 A組のほぼ全員が除籍処分されるところだった話を!!」

 

 彼が、どのような経緯でこれをわたしに話すに至ったのか。それを語るには少し時間を遡らなければいけない。

 

 

 

 

 爆豪くんと組み手をしたあの日から、放課後の体育館は賑やかになった。常闇くんや緑谷くん、切島くんをはじめとしたA組のみんなが、一緒に組み手をしようと訪れるようになったのだ。

 

「空中、今度は俺といいか」

「うん……! よろしくお願いします、常闇くん」

「ソラ! ソラ、オレモ! 忘レンジャネーゾ!」

「! ふふ、そうだった。ごめんね黒影(ダークシャドウ)、よろしくね」

「アイヨ!」

 

 空中戦では常闇くんが相手してくれることが多くなった。空中での移動速度や攻撃の手数はわたしが一歩リードしているものの、攻撃力や防御力は圧倒的に常闇くんと黒影(ダークシャドウ)が上回る。空中での攻防、そのための身のこなし、間合い──戦闘スタイルの違う常闇くんから、学ばせてもらうことは山ほどある。

 

「飯田くん、シュートスタイルの確認をしたいんだ。もしよかったら一手お願いしていいかな?」

「もちろんだとも! こちらこそ頼む緑谷くん!!」

 

 パンチャーの印象が強かった緑谷くんは、最近蹴り技主体に移行したらしい。“個性”【エンジン】による脚力を武器にする飯田くんに、フォームや立ち回りなどを教授してもらう場面をよく見かける。こんな風に、それぞれがそれぞれの先生として、互いに切磋琢磨し合って──

 

「ッでてめェらここに集まってくんだよ散 っ て 死 ね !!」

「色んな体育館を占拠しちゃ他の人らに悪いだろ? それに一緒に修行できんならそっちのが強くなれそうだしな!」

「──チッ……オイ切島、てめェ爆破させろや……」

「おう! 頼むぜ!!」

 

 ……時折凶悪な舌打ちが聞こえるけれど、まあそれはそれとして。こうしてA組のみんなが集まって、さまざまな“個性”と戦闘スタイルがぶつかり合って切磋琢磨し合う中で、ひとつの話題が上がった。

 

「……必殺技?」

「そ。空中はさ、なんか考えてる?」

 

 体育館の端で水分補給をしていた際、同じくスポドリを口にしていた耳郎さんが首を傾げる。その動きに合わせて耳たぶのイヤホンジャックがゆらりと揺れた。

 耳郎さんの【イヤホンジャック】は聴力を増幅させて索敵に役立てるだけでなく、自身の心音を増幅させて放つことで音波攻撃を可能にする。耳郎さんはその音波攻撃に磨きを掛け、イヤホンジャックをサポートアイテムのグローブに接続することにより、更に強力な“ハートビート・ファズ”という必殺技を手に入れたのだという。

 

「必殺技かぁ……」

「あれ、その顔はない感じ?」

「子どもの時にひとつやふたつ考えたろ?」

「実用性度外視の超夢見がちなやつ」

「うーん……」

 

 “個性”【依存】によって後天的に生えたわたしの【翼】。はじめは身体を作り替えたことによる負荷との戦いで、兎に角【翼】を身体に馴染ませることが急務だった。少しずつ枚数を増やしながら、複数の羽根を並行操作する。攻撃に、移動に、防御に、諜報に──そうした基本的な動作を磨くことで精いっぱいだったから、必殺技を作ろうなんて発想すらなかった。

 そんな公安時代を思い出しながら、曖昧に笑う。

 

「わたしは、そうだね、あまり考えてなかっ、」

「確かに空中さんの【翼】は自由自在で応用が効くからね!」

 

 曖昧に笑おうとした、その表情のまま硬直してしまう。ずずいと進み出た緑谷くんは眩しい笑顔で目をキラキラさせていた。

 

「空中さんの【翼】1枚1枚の羽根を自在に動かせるその性質は前にも話した気がするけどホークスの【剛翼】に似てるよねホークスの【剛翼】もそうだけどただ羽根そのものを操作することに留まらなくて固く鋭くするみたいな形状変化できることも大きいよ大量の羽根を精密に同時操作するのは難しそうだけどその変化も合わせて使いこなせば攻撃も移動も防御も拘束もできる!本当に何でもできる“個性”だブツブツブツブツ……」

「え、と、」

「今日も今日とて絶好調やねえデクくん」

「クソナードうぜェの間違いだろーが」

「え? ……あっごめん空中さん! ついベラベラと……!」

「う、ううん」

 

 大丈夫だよ、と笑えば緑谷くんもほっとしたように笑った。少し呼吸を整えて、ぽりぽりと頬を掻きながら、口許を和らげる。

 

「柔軟で、自由度が高い、何でもできる力だからこそ──これぞ!って定めた型があると、何をすべきかがわかりやすくなると思ったんだ」

 

 何をすべきか。わたしのこの【翼】で何ができるか。

 必殺技を作るということは、力に名前をつけてかたちどることなのだと。今まで無かった発想や視点を前に、わたしは口許に指を添えて考え込む。

 

「何を、すべきか……」

「ああ。技は必ずしも攻撃技である必要はないとエクトプラズム先生が仰有っていた。俺の“レシプロバースト”もまた必殺技として数えていいんだそうだ」

「シンリンカムイが使う“ウルシ鎖牢”もだな」

「まァ要するに、自分の中に【これさえやれば有利・勝てる】って型をつくろうってこったな」

 

 飯田くんの移動技や、シンリンカムイの捕縛技みたいに。自分が窮地に陥った時、誰かのピンチを救うため動かなきゃいけない時。

 “これ”があったら大丈夫っていう、命綱。

 

「ちょっと前に必殺技を作る授業があってさ、ホラ見て! あたしの“アシッドベール”!」

「わあ……!」

 

 ぴょこん、と立ち上がって踊るように腕を振った芦戸さんから、酸の滝がゆっくりと流れ落ちる。それはさながら、盾のようで。

 

「これは……防御技だよね?」

「そう、酸の粘度と溶解度をMAXにして壁を貼るんだー! 何が来てもドロッドロだよ!」

「かっけェけどよくよく考えたら怖いなこの技」

 

 峰田くんの呟きを聞きながら、わたしも意識を集中させた。誰かを守るための技を、盾を、わたしも編みたいと思ったから。

 硬度を高めた羽根を、円形状に展開させて──!

 

「こ、……こんな感じ?」

「いーじゃんいーじゃん!」

 

 作り上げた羽根の盾を見て、芦戸さんの声が華やぐ。それを皮切りにみんなもそれぞれに声を上げた。ある人はにぱっと笑顔で、ある人は渋面を作って、またある人は至極真面目な顔で。

 

「せっかくだし攻撃技も作ろうぜ! 格好いいやつ!」

「上鳴あんたね、自分の攻撃技以外も考えたら?」

「ヴっ、いやまあそれはそうなんだけどさー」

「羽根の盾……攻撃を受け止める部分は硬く、その周囲を柔らかく変形させることができれば、衝撃を逃しやすい構造になるのでは?」

愛依(あい)ちゃんの攻撃技やったらあの羽根の弾丸! あれ綺麗で強いしで必殺技にしたらぴったりやと思うんよ」

 

 上鳴くんと耳郎さんの軽快なやり取りに笑って、八百万さんの流石の解析力になるほどと頷いて、お茶子ちゃんの満面の笑みに頬が熱くなって。

 みんなの声と笑顔に、囲まれて──わたしは、ふやける口許を誤魔化すように、へらりと笑った。

 

(あったかい、なあ)

 

 まるで嘘みたいに、光に溢れてる。

 

 

 

 

 そんなことが3日続いて、ある日のこと。いつものように午前の通常授業を終えて、学食でみんなとご飯を食べて。午後からのヒーロー基礎学の時間を迎えたわたしは、ヒーロースーツに着替えてグラウンドにいた。

 ただし今日はA組のみんなとではなく、B組のみんなとだ。

 

「お、空中!」

「拳藤さん」

 

 少し早めに集まっていたらしいB組のみんなの中から、拳藤さんがこちらに手を振ってくれた。近接戦闘を得意とする彼女にぴったりな、青緑のチャイナ風のヒーロースーツ。その広がった裾が軽やかに揺れる。

 そちらに小走りで駆け寄ると、拳藤さんはいつもの爽やかなそれから、微かに笑みの色を変えた。目を伏せる。オレンジブロンドの長い睫毛が、静かに影を落とした。

 

「……大変だったね、大丈夫?」

「……うん、わたしは大丈夫だよ」

 

 少しだけ低められた声に、にこりと笑って返す。すると拳藤さんもそっか、と柔らかく笑ってくれた。いつものように接してくれることが、ほっと心を軽くしてくれる。

 

「ありがとう。でもわたしより、拳藤さんや、B組のみんなこそ……、」

 

 周囲を見渡して、わたしは瞬きひとつ。先ほどB組の“みんな”と言ったけれど、それは誤りだった。あの特徴的で可愛い赤い帽子が、フレアスカートを纏った彼女の姿が見当たらない。

 

「ああ、小森なら今日風邪引いて休みだよ」

「取蔭さん、……そうなんだ。大丈夫かな」

 

 わたしの視線に気付いたのか、取蔭さんがわたしの肩をぽんと叩きながらそう答えた。彼女が緩く首をかしげると、波打つ彼女の黒髪が艶めく。

 

「ちょっとした夏風邪らしいけど……ねェ、心配だねぇ黒色」

「なっ、そっ……、…………に……」

「? 黒色くん?」

 

 何故かにんまりと笑った取蔭さんに、何故か不自然に声を詰まらせる黒色くん。不思議に思って問い掛けても、黒色くんは視線を移ろわせて逸らしてしまう。

 

「黒色はきのこにお熱だからな~」

「ねっ……ち、が…………」

「お熱?」

「お熱は好きってこと……待ってヤバいこれ死語なのかな」

「おネツ……ah, Kinoko caught a cold……I hope her get well! エート……おだいじん?」

「御大尽って何だっけ!?」

「金持ち」

「遊郭で豪遊する客」

「この前のアニメ鑑賞会の影響じゃんね」

「ん」

「混ざっちゃったか~~」

 

 吹出くんは「アチャー!」と文字を変化させながら頭を抱えて、その向こうで骨抜くんが「Pony, “Odaizin” means rich. When you say "take care" in Japanese, "Odaizini".」と角取さんに話している。そんなわいわいと賑やかな中、わたしは小さく息を溢した。

 

「……好き、かあ」

「どうかされましたか、空中さん」

「塩崎さん、……いや、その、……」

 

 たおやかに微笑む塩崎さんを前に、あの夏の日の夜が脳裏に甦った。林間合宿2日目の夜。A組とB組の女子で集まって、恋の話をした時のこと。……いや結局途中から「男になった拳藤さんと付き合いたい」とか「男子の中で1日入れ替わるなら誰を選ぶ」とか「黒影(ダークシャドウ)は可愛い」とかそういう話題で盛り上がっていたけれど。

 

「本当に、何でもないんだけど……ちょっと思い出しちゃって」

 

 それでもほんの少しだけ、恋の話を、愛の話をしたのだ。

 その時のやりきれない気持ちまで甦ってくるようで、わたしは誤魔化すように笑みを作った。大丈夫。何でもない。何でもないって顔で、笑え。

 遠くの星明かりを見上げるような、そんな気持ちはしまっておくの。

 

「オイお前たち!! 随分と元気そうだ、扱き甲斐があるようで大変結構!!!」

 

 と、その時。グラウンド全域に響き渡りそうな大声が轟く。これも何だか久しぶりだなあと感じながら振り返ると、予想通り、ブラドキング先生が筋骨隆々な腕を組んで立っていた。

 B組の面々とわたしを見渡し、彼は宣言する。──今日のヒーロー基礎学では、一対一の戦闘訓練を行うと。

 

「“個性”の使用は自由。相手を拘束、もしくは行動不能にするのが勝利条件となる。しかし戦闘訓練といえどお前たちはヒーローを志し、仮免許を取得した者! 市街地や相手……(ヴィラン)への被害は必要最小限に留めること! いいな!!」

「「「はい!」」」

 

 声を揃えて頷いたB組のみんなにヨシ、と頷き、次いでブラド先生はわたしを見た。

 

「今日は【治癒個性教育プログラム】の関係で、空中が組手を終えたお前たちの怪我を治癒する。他、質問あるか」

「よろしいですかな」

「何だ宍田」

「今日は小森氏が欠席ですぞ。19人という半端な人数ですが、組み合わせはどうなさるのでしょう?」

「フム……」

 

 顎に手を当てて唸るブラド先生。その様子を見て幾つかの手が上がる。

 

「ハイ!!!! 俺!!!! 俺が2回戦う!!!!」

「うるせェぞ鉄哲……俺が切り刻んでやるってンだよォ!」

「あっ挙手制な感じ? じゃあ俺も」

 

 順番に鉄哲くんが、鎌切くんが、回原くんが手を上げる。彼らの目はきらきら燃えていて、それだけ戦闘訓練に意欲的なんだとわかる。わかる、けれど、……わたしは意を決して声を振り絞った。

 

「あ、の!」

 

 二十対の瞳が、一気にこちらを向く。その勢いに気圧されないようにと、努めて声を張った。

 

「その、すみません。……わたしも組手、混ざりたいです」

「空中?」

「ブラドキング先生、みんなの治癒は勿論行います。けれど……もしよければ、わたしも戦闘訓練を受けたい。今よりずっと、ちゃんと、動けるようになりたいんです」

 

 ブラドキング先生はこう言い募るわたしに、さまざまなことを思い出したのだろう。鋭い目の奥が揺れたのを、確かに見つけた。彼は熱血漢であり、人情家のようだから。

 けれど悲嘆に暮れることなく、同情に揺らぐことなく、ブラド先生は眉目を引き締めて声を轟かせた。

 

「わかった。その意気やよし!! とくとぶつかってみるといい!!」

「あ……! ありがとうございます!」

 

 ブラド先生の許可を得て、わたしはB組の戦闘訓練に混ぜてもらうことになった。一対一で10分の制限時間内で戦い、他の待機組はその戦いをモニター越しに観戦するというもの。その後講評、準備を挟んでまた次の組……といったサイクルで行うという。

 誰と戦うことになるのかは、くじで決めることになった。いつか使った気がするブラックボックスの中に手を差し込んで、ボールを掴み取る。それに書かれたアルファベットはJだった。

 

「やあ、空中さん」

「! 物間く……」

 

 そんな時、背後から現れた物間くんの手に握られていたのはJの文字が大きく書かれたボール。つまり、

 

「物間くんと、だね。よろしく」

「こちらこそよろしく。あァそうそう! 空中さん、」

「?」

 

 何だろう、と首を傾げたわたしに、物間くんは口角を吊り上げる。

 

「訓練前のコピーは、まさか卑怯とは言うまいね?」

「? うん、もちろん。言わないよ」

 

 物間くんの“個性”【コピー】が真価を発揮するのは、さまざまな“個性”を複数コピーして使い分けるところにある。せっかくの戦闘訓練なのだから、全力の物間くんと戦いたい。

 わたしはただ、そう思っていた。

 

「……、有り難いことだね」

 

 そう思って、何も考えず頷いたけれど。

 物間くんはくしゃりと歪めた笑顔で、そう言った。

 

「……? 物間く、」

「さァ始めるぞ第一試合!! 皆準備に着け!!」

 

 その表情の意味を問おうとしたけれど、それより早く“試合開始”の号令が響き渡って。踵を返して翻る彼の燕尾服の裾を、ただ見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 そうして、今日の授業の最終戦。運動場γ──工場地帯を模した訓練場の一角で、わたしと物間くんは向かい合っていた。ここは大小さまざまな無数の配管が上に下にと敷き詰められているため、開けた場所が少なく、足場や視界の悪さに定評がある。

 

(狭所で戦うのは避けたい。距離も、付かず離れず詰められないようにしないと。だから……)

 

 わたしが考えを纏めている時、フ、と小さな笑声が聞こえた。顔を上げる。燦々と降り注ぐ陽光はここには届かず、配管に遮られた薄暗い影の中で、物間くんが目をすがめているのが見えた。

 

「索敵、攻撃、防御に移動、救助まで! 相変わらずなんとまァ、何でもできるいい“個性”だね」

 

 “いい個性”──物間くんはきっと、深い意味で言っているわけじゃない。だからわたしも、さらりとかわして、当たり障りなく返すべきだった。

 

「……、そんなこと、ないよ」

「──へえ?」

 

 それなのに、声を詰まらせてしまう。

 物間くんもまた、何か含んだ声色で小さく呟いて。

 

 そして──ブラド先生の合図ともに、同時に動いた。物間くんがその場を跳び退って物陰に隠れようとしたのと同時に、腕を下から上へ鋭く振り上げる。

 

「“雲雀(アルエット)”!」

 

 【揚げ雲雀】という言葉がある。それは雲雀が地上から天に向かって垂直に飛び上がり囀ずる様を表した言葉だ。その軌道を模して、硬化させた羽根を物間くんのヒーロースーツに引っ掛け、空高く運んでいく。

 福岡でホークスもよく使っていた、飛行能力の有無を以て相手の動きを封じる技。並の(ヴィラン)ならこれで終わるけれど──物間くんはわたしを見下ろし、鼻で笑う。

 

「これで終わったとでも!?」

「まさか!」

 

 そう、あの物間くんだ。こんな程度は想定内だろう。彼はきっとわたしと戦うに当たって、飛行能力の差を埋める“個性”をコピーしてきているはず!

 そう予想して身構えたわたしは、物間くんの頭部からにょきりと二対の角が生えてくるのに気づいた。折れ曲がりながら天を向いたそれには見覚えがある──角取さんの【角砲(ホーンホウ)】だ。彼は射ち出したそれに乗って宙を滑るように移動し、配管の裏に姿を消そうとする。追撃しようとしたわたしに、新たに2本の角が差し向けられた。

 

「っ、く……!」

「へーぇ、これも防ぐかァ」

 

 角砲(ホーンホウ)は見た目の細さに反してパワフルで、展開した翼の盾をも突き抜けんとする勢いだ。羽根の硬度を高めて、いなして弾いたわたしに、声が降ってくる。

 

「空中さん、今君はこう考えているんじゃないかな?

 “物間くんは、翼の飛行能力や遠距離攻撃に対して、同じく遠距離攻撃で対抗しようとしている”──って」

 

 角砲(ホーンホウ)に追われ、追う間に、わたしはより配管が複雑に入り組んだ地点に入り込んでいた。薄暗い中で声が反響して、出所が掴めない。ならば、とわたしは羽根を四方に飛ばした。ヘッドフォンに手を当てて、さまざまに伝わる羽根の振動に耳を澄ませる。

 

「だから今、君は僕と距離を詰めようとやって来た。その羽根で僕の居場所を探ろうとしている。

 でもそれは浅はかな真似かもしれない。何故って?」

 

 一際大きく響いたその地点に目を向ける。日が差さない、真っ暗な路地裏のような場所。その片隅から声がする。羽根が震える。捉えた振動が、けれど何故か──するり(・・・)と溶けるように移動して、わたしの真上に移動した。

 まさか。確信に至るより先に、それ(・・)は降ってくる。

 

「だって僕は一言も、“遠距離攻撃に徹する”なんて言ってないじゃないか!!」

 

「──! “甲羅(リュッケンシルト)”!!」

 

 手元にある羽根を総動員させて、自分の身体をくるんで硬化させる。亀の“甲羅”を模した、今のわたしにできる最大限の防御技。けれどそれが、ボゴン!!!、と衝突に悲鳴を上げて散っていく。浮力が弱まり、地面に向けて落ちながら反撃の羽根を向かわせるけれど、今の彼の肌はそれをいとも容易くはね除ける。

 

「効かないなァ、パワーが足りてないのかな?」

 

 首元を掴まれ、抑え込まれる。その手は元の色ではない、鈍色の光沢を放っていた。

 

「……っ、鉄哲くんの」

「そう、【スティール】。君には天敵かと思ってね」

 

 残った羽根で背中を浮かせて落下の衝撃を緩和することはできたものの、それが精いっぱいだった。鋼鉄と化した身体はちゃちな攻撃じゃびくともしない。仰向けに倒れたわたしの首元を押さえ、見下ろす物間くんは笑っていた。

 角取さんの【角砲(ホーンホウ)】で影の多い裏路地に追い込み、黒色くんの【黒】で影に溶け込み合間を詰めて、鉄哲くんの【スティール】で落下の衝撃・重量を武器にわたしを押さえ込む。……これを物間くんは、始めから狙っていたんだ。そうしてまんまとわたしは窮地に陥っている。

 

(……っでも……!)

 

 まだ試合は終わってない。このまま本当に行動不能にさせられる前に、何とか隙を作って、もう一度空に……!

 

「──とでも考えてるんだろA組!!」

 

 視界の端で集結させていた羽根が、彼の裏拳を受けて霧散する。その拳がわたしの顔に迫るのを見て、慌てて羽根をかき集めて防いだ。

 

「やっと間合いを詰めることができたんだ、みすみす逃すわけないだろ?」

 

 2発、3発と降ってくる拳に対して、わたしは防戦一方。このままじゃダメージを負って使える羽根がどんどん減っていく。治癒で羽根を再生させようとすれば、今より大きな隙が生じる。

 このままじゃいけない。ジリ貧だ。

 だからもっともっと、──速く!!

 

「“突風(ブラスク・リーゼ)”!!」

 

 全てを置き去りにして吹き抜ける風のように。そんなイメージの元編み出されたこの技は、数多の羽根を相手に向かって掃射する。身体中に浴びせられた羽根の弾丸に、物間くんは少しだけ顔を庇った。

 

「ッハ! この程度……!」

「そうだね、今のあなたには効かない」

 

 ダメージが入らないのは織り込み済み。これは撹乱。一瞬でいい、虚を突き目を眩ませて時を稼ぐ。

 この一瞬が勝負だ。研ぎ澄ませ。鋭く、硬く、速く──

 

 

 

 

『空中ってさ、たくさんの羽根を使うと頭痛くなんだろ?』

『うん、そう……まだまだ訓練不足で……』

 

 いつかの時が脳裏に甦る。あれは体育館での自主練中、休憩を取っていた時のことだ。上鳴くんにそう言われて、わたしはずきずき痛む頭を押さえながらへらりと笑う。

 こんな有り様じゃ目標(ホークス)は遠いなあ、なんて、そんなことを思って俯いた時。

 

『フーン、じゃああれよ、いっそのこと減らしたら?』

『……へっ?』

 

 思いがけない言葉に顔を上げると、そこに目をきらきらさせた上鳴くんがいた。彼はばちんとウインクして笑う。

 

『たくさん動かそーって考えると大変そうだしさ、少しに絞って動かすんだよ! そうアレ、イッキョクシューチューってやつ!』

『ごめん空中、多分こいつ最近覚えた言葉を使いたいだけだから』

『幼児か』

『幼児じゃねーし!!』

 

 耳郎さんや障子くんのツッコミに憤慨する上鳴くんに、思わず笑ってしまって。そんなわたしの隣から、くすくすと控えめな笑声が重なった。

 

『ふふ、でもそうね。視点を変えてみるのはいいことだと思うわ』

『梅雨ちゃん』

『一緒に考えて、練習して、……そうして一緒に、強くなりましょう』

 

 梅雨ちゃんは柔らかに笑う。その顔は、声はまるで、“ひとりじゃないわ”って、わたしに言ってくれてるみたいで。

 

『……っうん!』

 

 わたしはただ、嬉しくて。ぺかぺか笑って頷いた。

 

 

 

 

 そうして新たに創り上げたこの技は、ある意味ホークスの真逆を行く。数多の羽根を精密に捌き、あらゆることを成し遂げる彼とは違い、これは一極集中(イッキョクシューチュー)の技。

 数多の羽根に意識を割くのではなく、1枚の羽根に限定して操作する。硬度を、速度を、限界まで高めて──放つ!

 

「──“一陣の風(ラファル)”!!」

 

 銃を模した指から放たれたその弾丸は、真っ直ぐ空を裂いて物間くんの額にぶち当たる。さしもの鋼鉄の肌も、至近距離での射撃を受けて僅かに傾ぐ。その僅かな隙さえあれば十分──わたしは残った羽根に指令を出して物間くんの身体を宙吊りにした。

 そうして目を見開く。物間くんの肌が鋼の色から元のそれへと変化していっているのが見てとれた。……そう、そうだ。物間くんのコピーの制限時間は5分間。その時が来たんだとわたしは彼を地上へ下ろした。

 

「……拘束、させてもらうね」

 

 両手を後ろ手で羽根でくるみ、硬化させて縛る。後はブラド先生のコールを待つだけだと、張り詰めていた息をほどいた。

 

「……随分と余裕ぶってくれたじゃないか」

「え?」

 

 その時。物間くんは俯いた顔をゆらりと上げてわたしを見た。……“見る”なんて、そんな生易しい言葉では表現できないほどに、鋭く暗い、眼差しで。

 

「僕のコピーの制限時間、どうせ知ってたんだろう。ならなんでそこを突かなかった? 一対一、タイマンの組み手、……5分経てば僕は【無個性】と変わらなくなる。そうなれば、君が降すのはさぞ楽だっただろうに」

「物間く、」

「ああそれとも!? そんな作戦を立てずともキミなら僕を一捻りできるって!? 確かにその“個性”なら、ひとりで何でもかんでもやってしまえるからねえ!」

 

 確かに物間くんの“個性”のデメリットを考えれば、初めの5分を逃げに徹すれば確実に勝てただろう。でもそうじゃなくて、嘗めてたとかでもなくて──わたしがもっと強くなるために全力の物間くんと戦いたかっただけ。けれどわたしが何かを言う隙を与えず、物間くんは続ける。

 

「自分が“主人公”だとでも思っているのかな」

 

 まるで氷のような声色だった。冷たくて熱くて、痛い。

 その奇妙な温度に縫い止められたように、舌が上手く、動いてくれない。

 

「っちが、」

「その気がないというのなら、なんなんだい? ……ああ! “悲劇のヒロイン”のつもりかな!?」

 

 氷柱が鼓膜に突き刺さったような、そんな錯覚を覚えた。じんとするほど冷たくて、ぐらぐらするほど熱くて、呼吸が浅くなる。ひゅ、と喉奥で歪な音が鳴った。

 

 

 

『君はこんなにも“ヒロイン”だ』

 

 揺れる視界があの日を映し出す。あの夏の夜。瓦礫と化した神野の街。たくさんの人が戦った。たくさんの人が、──傷ついた。

 

『君を救うために、たくさんの人が動いた。

 君を救うために、たくさんの人が──ほら、』

 

 乱れ散らばった金糸の髪。胸部から腹部にかけて大きく切り裂かれた傷跡。流れ出た血の赤黒さ。

 

『──死んでしまったね、可哀想に』

 

 AFO(オールフォーワン)の愉悦に染まった声とともに、その光景はいつだって甦る。倒れ伏したベストジーニストが、ぼろぼろになりながら戦い疲れたオールマイトが、瓦礫から投げ出された白い腕が、泣き声すら出せなくなった赤ちゃんが。目蓋の裏に、今も、いつでも──

 

 

 

「……っ、」

 

 手の震えをどうにかしなくちゃと、胸元を握り締めた。落ち着け、落ち着け、と自分を宥めるので精いっぱいで、物間くんの手から羽根が外れたことにも気付かない。彼は自由になった肩を竦めて、わたしに向かって一歩踏み出した。

 

「悲劇のヒロイン、物語には欠かせないポジションだよねぇ? 羨ましいよ。B組にはいないからね」

「わたしは、わたしはそんなんじゃない!!」

 

 込み上げる激情を吐き出すと、足元に落ちた影に目が行った。ちっぽけな、頼りなさげに揺れる影。頭に昇った熱がひんやりと落ちていく。静かに冷えきった胸の奥から声がした。

 

 “わたしに、この人を、怒る資格があるの?”

 “あるとでも、思ってる?”

 

 

 

「……そんなんじゃ、ない、けど、」

 

 声の震えは収まった。けれど何故か、喉に蟠る感覚があって。辿々しく言葉を紡ぐ。

 

「……でもある意味、物間くんの言う通りなのかもしれない」

「……は?」

「悲劇のヒロインって、嫌だよね。みんなにたくさん、たくさん迷惑を掛けて、困らせる」

 

「ごめんなさい。本当に、……ごめんなさい」

 

 目を瞑って、深く頭を下げる。

 だからわたしは、物間くんがどんな表情をしていたのかわからなかった。彼の表情を、その瞳の揺らぎを、何も知ろうとしていなかったから、

 

「──君はどこまで僕ら(・・)を馬鹿にすれば気が済むんだ?」

 

 そんな声が聞こえて、驚いてしまった。

 

「……え……」

「その口振り、まるで林間合宿や神野が全部自分のせいみたいじゃないか? ……君がもっと上手く動いていればあれは起こらなかったって? 林間合宿に来た(ヴィラン)も全部やっつけて、誘拐なんて起こらなくて、親玉も神野を破壊しなかった。そう言いたいのかい」

 

 のろのろと首を持ち上げる。そこでようやく、わたしと物間くんの青い目がかち合った。彼の前髪から覗く切れ長の目に、呆けたわたしの顔が映り込む。それが起爆剤となったのか。

 

「自惚れるのも大概にしてほしいものだね!!」

 

 いつも涼やかな彼の青い目が、燃え上がる。そこに溢れている感情が怒りだということは、わたしにもわかった。

 

「君ひとりにそんな力も影響力も、有るわけないだろう!! 驚いたよ、君はビックリするぐらい自意識過剰なようだ」

「……ち、力とか影響力とか、そういう話をしてるんじゃ」

「同じことだろ? ……ねえ空中さん」

 

 物間くんは荒立っていた語調を鎮めて続ける。

 林間合宿には、神野には、さまざまな人が関わっていたのだと。わたしひとりじゃなく、A組だけじゃなく。B組や相澤先生にブラド先生、プッシーキャッツ、……他にも数えきれないくらい、たくさんのプロヒーローたち。

 

「彼らみんながそれぞれ動いたが故の、この結果さ。君がどう思って動いたところで、どれほどの影響があったっていうのかな」

 

 思い上がるなよ、と。酷く歪んだ顔で、彼は言う。

 

「……君程度が背負える責任なんて、どれぐらいの重さだっていうんだ」

 

 彼の右手がわたしの肩を掴む。その手が震えている。ぶるぶると、力と思いを込めて震えている。じんわりと感じる痛みが、そのまま彼の心を表しているようで。

 わたしは、……暫くの沈黙の中で、考えを巡らせて。

 

「……ごめんなさい、……でも、物間くん、」

 

 物間くんの言うことにも一理ある。それは、わかる。

 それでもわたしは、わたしの“責任”を手放すことはできなかった。

 ターニングポイントとなった林間合宿での出来事は、何度も何度も反芻した。あの日から、ずっと。どうすればよかったのか。どうすれば神野は崩壊しなかったのか。ずっとずっと、何度も。

 その度に、思った。

 わたしがホークスぐらい速ければ。公安で訓練を受けていたわたしがもっと優秀で、強くて、(ヴィラン)に遅れを取らなければ。そうすれば──

 

「……わたしがちゃんと逃げ切っていれば、あんなことにはきっと、ならなかったんだよ」

「……へェ、そう。あれもこれも自分が自分がって背負ってしまえる。御立派なことだ」

 

 物間くんは苛立たしげにわたしの肩を放し、その勢いのまま大袈裟に肩を竦めた。一度伏せられた目が、ぎらりと燃えてわたしを見据える。

 

「じゃあこれも君のせいってわけかな」

 

 そうして彼は歪に口角を持ち上げて、叫ぶ。

 

 

「聞いたかい空中(そらなか)さん!!!

 A組のほぼ全員が除籍処分されるところだった話を!!」

 

「──え」

 

 

 それを聞いた瞬間、まるで時が止まったようだった。ぐるぐる巡らせていた思考が止まって、耳の奥でざあっと血の気が引く音がした。は、と。中途半端に開いた口から掠れた息が漏れた。

 

「……どうして、そんな、除籍なんて……」

「知らないのかい? A組の一部が君と爆豪くんを救けに神野に行ったそうじゃないか」

 

 ──知らない。そんなの、知らない。

 A組のみんな、誰も、何も、言わなかった。

 

「A組の間でも揉めたそうだけど、結局止められずに飛び出す奴が出たんだからA組の程度が知れるね」

「……」

「僕らはまだ学生の身。真面目に研鑽を積むべき時だっていうのにノコノコプロの現場に突っ込んでいく。無鉄砲かつ浅はかな真似だ」

「……、」

 

「だからイレイザーヘッド先生は、“見込みなし”って……」

 

 物間くんの言葉が途切れる。ふつりと途切れて、訪れた沈黙の中で、微かに息を飲む気配がした。

 

「……君はなんで、今、その顔を……」

 

 ……顔。

 今わたし、どんな顔をしているんだろう?

 

 答えられずに、問い返すこともできずに黙り込むわたしに、物間くんが手を伸ばす。それをぼうっと見つめていたその時。

 

 

 

「物間ァ!!!!!」

「ぅぐ……ッ!!??」

 

 目の前で赤い何か(・・・・)が降ってきた。驚いて瞬きひとつ。クリアになっていく視界の中で、拳を力強く握るブラドキング先生と、頭を押さえて踞る物間くんが見えた。……鉄拳制裁とか、そういうやつだろうか。

 

「まったくお前は! 毎度毎度A組に突っ掛かって……! いやお前の気持ちもわからんでもないがしかしだな……!」

「えっと、その、ブラド先生!」

 

 何だかお説教が始まりそうな気配がして止めに入ると、ちょうどいいタイミングで授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。それに安堵の息をつきながら、わたしは続ける。

 

「チャイムも鳴りましたし、その……戻りませんか? 他のB組のみんなも、あまり待たせては悪いですし」

「ウム……しかしだな、きちんと謝罪を、」

「いりません」

 

 ブラド先生の表情が強張る。……ああ、言葉を遮ってしまったなと反省しながら、わたしは笑みを整えた。

 眉を下げて、口角を品よく持ち上げて、にこやかに。

 何でもないのだから、そうやって笑え。

 

「必要ないですから、大丈夫です。それではわたしは先に」

「……空中さん!」

 

 距離を取って歩き出そうとしたわたしの手を、大きな、とても大きな手が包み込む。拳藤さんの“個性”【大拳】を発動させた物間くんの手を、わたしは、……反射的に振り払っていた。

 目を見開いた彼の表情に、ああまた失敗したなと反省を心に刻んで、わたしは微笑む。

 

「……ごめん物間くん。わたし、先に行くね」

 

 

 

 

 組み手の様子は所々に設置されていたカメラによってスクリーンに映し出されていたものの、他の組と同じく音声は入っていなかったらしい。「物間と何かあったのか」と眉をしかめる拳藤さんに「大丈夫だよ」と笑って返して、わたしは更衣室を出た。

 ヒーロースーツを返却しにA組教室に訪れると、そこはしぃんと静まり返っていて、残照が無人の教室を茜色に染め上げていた。棚にケースを返却して、一息つく。ふと思い至って携帯端末を覗くと、幾つかのメッセージが届いていた。

 

《今日も同じ体育館でいいか》

《B組との訓練お疲れ様》

《おつー! 体育館で先に集まってるねー!》

《逃げんなよクソ羽根女》

 

 そんな言葉の羅列を、画面越しに指でなぞる。いつもなら笑って体育館に急ぐのに、何故だか足が動かなかった。夕焼けの中に俯いて、長く伸びる影をぼんやり見つめる。

 

(……行かない、と……)

 

 きっとみんな、また温かくわたしを迎えてくれる。一緒に組み手して、必殺技について話して、考えて、一緒に強くなろうとしてくれる。

 わたしが、……わたし、が、

 みんなの夢を奪うところだった(・・・・・・・・・・・・・・)ことに、触れもせずに。

 

「……っ、」

 

 込み上げてきた何かを押さえ込もうと、口許を押さえた。これは泥だ。心の、泥だ。わたしのぐちゃぐちゃで汚い感情が煮凝りになって、ぼとぼと溢れてくる。

 

「……駄目だ、駄目。……ちゃんと笑え。笑え……!」

 

 除籍処分未遂について物間くんが知っていたのだから、当然A組のみんなも知っているはずだ。けれどそれをわたしに言わず、あんなに明るく笑っていたというのなら、もう飲み下した後なんだ。後悔も苦しさも乗り越えてみんなは笑っているのに、それを今からわたしが蒸し返してどうする。

 

 だからわたしは笑わなくちゃ。

 ちゃんと、ちゃんと、……何でもないように、

 

 そう心の中で唱えて、わたしは真っ暗になった携帯端末の画面を覗き込んだ。きっとそこには、いつものように、何でもないように笑ってる、そんなわたしの顔が映ってるはずだった。

 

 はずだった、のに。

 

「……あ、れ……」

 

 ──“なんでもないような顔”って、どんなだっけ。

 

 

 

 

 

 そこからは、あまり覚えていないけれど。

 教室を飛び出したわたしは非常階段から降り、そのまま羽根をはためかせて雄英高校の端へ向かって飛んだ。端へ、端へ。広大な森林地帯の、その端へ。

 ……誰もいない、場所へ。

 

「……ッはあ、は……っ」

 

 羽根が疲労でがくがくと震えている。荒い息を吐き出して、わたしは木の幹に背中を預けて座り込んだ。膝小僧に額をつけて俯く。膝がやたら冷たく感じるのは、額に熱が籠っているからだろうか。ぼんやりする頭でそんなことを考えながら溜め息を吐いた。

 

「……あー、あ……」

 

 “逃げんなよ”って、爆豪くんに言われてたのになあ。また怒られるかもしれないなあ。でも“今日はちょっと行けなくなった。ごめんね”ってメッセージは残しておいたし、わたしひとりいないぐらいきっと大丈夫。

 大丈夫、と。それだけ呟いて、わたしは思考を止めた。

 今はきっともう、ぐちゃぐちゃで。まともなことを考えられない。

 

(……少しだけ。今、少しだけで、いいから……)

 

 このままひとり、こうして、ぼんやりしていよう。ぐらぐら茹だる頭と心を冷まして、落ち着かせよう。

 そうすればきっと、夜にはきちんと笑っていられる。

 みんなと一緒に、笑って過ごしていられるから。

 

 だから、熱い目をきつく瞑った。その時だった。

 

 

「やあ!!!!」

 

 

 はじめは元気な幻聴かと思ったの。だって誰も、こんなところに来るはずがないって思ってたから。

 

「……あれ? 何だろうねこれ、スベり倒しちゃった感じかな!!?」

「……!?」

 

 けれどその幻聴は続けてわたしに話し掛けてきた。何故か、──本当に何故か、地面の中から顔を覗かせて(・・・・・・・・・・・・)

 

「……え、な、ん……?」

「アハハびっくりするよね!? だよね!! ビックリすると思ってやってるんだけどね!!」

「なっ……だ、え……?」

「オーイ通が……あれー? 女の子だ!」

 

 何なのか。誰なのか。何一つ疑問は解消しないまま混乱は続く。ふわりと木陰から現れた女性──恐らく先輩だ──は、わたしを見てパッと目を光らせたかと思うと、ずいっと顔を近付けてきた。綺麗で端正なその顔が、緩やかに首を傾げる。

 

「ねぇねぇなんで? なんでこんなとこにいるの? かくれんぼ?」

「……あ、えっ、と、」

「? 不思議! どうして泣いているの?」

「……え、」

 

 そこでようやく、わたしは目の端に滲む熱の正体に気付いた。指先に触れる濡れた感触に、さあっと血の気が引く。

 泣いていい理由なんて、わたしには無いのに。

 誰にも見られてはいけないのに。

 

「ご、ごめんなさ……お邪魔して。すぐに、離れるので、」

「? なんで?」

「な、なんで、って……」

 

 わたしは慌てて立ち上がってその場を離れようとしたけれど、何故か女性はわたしの腕をしっかり掴んでいた。彼女は首を傾げる。さらりと流れる長髪も、真っ直ぐこちらを見つめる大きな目も、透き通るような水色をしていた。

 

「ねえ、どうして? なんで? 不思議なの!」

 

 真っ透明な目が、真っ直ぐにこちらを見つめる。

 

 

「どうしてあなた、何も悪くないのに謝るの?」 

 

 

 真っ直ぐな言葉が矢のように、突き刺さる。そんな錯覚を覚えた。心がぐわんと揺れる。その衝撃が頭を、目の奥をひどく揺るがした。

 

「……っ、」

 

 泣いていい理由なんて、わたしには無いのに。

 透明な血が、心の泥が、ぼろぼろと溢れてくる。

 

「わっ、わた……し、」

「うん?」

「ちが、わたしが、悪くて、……わたし、わたしが、」

「んー?」

 

「は、波動さん、やめた方が……」

 

 潤んで霞んだ視界の端で、もう1人の声がした。それは小さく、自信なさげに掠れているけれど、どこか思いの籠った男の人の声。

 

「誰だって、ひとりになりたい時もあるだろう……む、無理に、前を向く必要なんて……」

「確かに環の言うことにも一理あるよね!!」

 

 ニュッ、と地面から生えてきた(・・・・・)その人は、けどね!と朗らかに笑ってわたしの前に膝をついた。そしてそのまま、手に持っていた体操服の上着をわたしの肩に被せる。

 

「やっぱり俺は、泣いてる女の子を放っておきたくはないかな!」

 

 にっこり笑うその笑顔は、真昼の太陽みたいに眩しくて。わたしは思わず呆けてしまう。あんまり驚いていたものだから、いつの間にか、頬に流れる涙は止まっていた。

 

 

79.少女、落涙。

 

 


 

▽今回出てきたオリ主の必殺技の紹介

▼【雲雀(アルエット)

・硬化させた羽根を上空に向かって急上昇させる。対象の服を引っ掛けて上空に持っていくのもアリ。

・『揚げ雲雀』と呼ばれる雲雀が天に向かって垂直に飛び上がる性質から。アルエットはフランス語で『雲雀』。

 

▼【突風(ブラスク・リーゼ)

・羽根を多数動かし突風の如く対象に向かわせ攻撃する。攻撃用。攻撃に意識を割くので自身の守りはやや疎かになる。

・ブラスク、リーゼはフランス語で『突風』。

 

▼【一陣の風(ラファル)

・羽根を一枚だけに絞って意識的に操作し、スピードや威力、飛距離を上乗せする。長距離狙撃用。

・ラファルはフランス語で『突風・一陣の風』。

 

▼【甲羅(リュッケンシルト)

・最大限に硬化させた最大枚数の羽根で自身をくるんで身を守る。より強固な防御用。

・リュッケンシルトはドイツ語で『甲羅』。

・この名称は将国のアルタイルからお借りしてます。漫画内の陣形内容も大盾を多数構えた防御陣形。

 

 他の必殺技については活動報告の方に上げています。

 

 

▽懺悔

 めっっっちゃくちゃ更新遅くなってすみませんでした……(小声)かつてないほど時間が空いたかと思うのですが、お待ちいただけた方、すみませんありがとうございました!!ただただ長編の書き方を忘れただけでヒロアカ熱が冷めたわけではありませんので、これからもマイペースに書き続けていこうと思います。

 今回は物間くんを如何に一方的な悪者にしないか、でも彼らしいイヤミが書けるかの匙加減で永遠に唸っていました。本当にめちゃくちゃ難しかったんですが、また今後の物間くんターンで彼の格好いいところはめいっぱい書こうと思ってるのでお許しください。

 

 ※今回書きづまっている際に物間くんの台詞を考えてアイディアをくださった某ちゃん様、オリ主の必殺技を考える際に素敵語彙を教えてくださった某鳥様、本当に助かりました。ありがとうございました!!

 

 次回はトップ3や色んな人と会話させてオリ主を前向きにさせていこうと思っています。また次回も読んでくだされば嬉しいです。



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80.少女、雨降って、

 

「あ、の。上着、ありがとうございました。お返しします」

「どういたしまして! もう大丈夫かい?」

「はい、わたしより先輩が……上着無かったら寒いかと」

「ああなるほど! でも俺は“個性”柄いつも服が落ちがち(・・・・)なもんだから、すっかり慣れちゃったんだよね!」

「お、落ちがち(・・・・)……?」

 

 涙と呼吸が落ち着いて、わたしは肩に掛けてもらった体操服の上着を先輩に返した。彼は気にした風もなく快活に笑ってくれたけれど、その言葉の意味まではわからない。服が落ちる(・・・・・)ってどういう“個性”なんだろうと脳裏に疑問符が浮かぶ。

 

「でもあれだよ通形なるべく着といた方がいいよー服! 知ってる? あのねあのね、服落ちるの一歩間違えばセクハラなの」

「セク……ッ波動さん待ってくれそれはあまりに無慈悲だ……!」

「? なんで天喰くんが白目剥いてるの? 不思議! 夏の終わりのセミみたいに震えてるの」

「死にかけのセミ……言い得て妙だ……俺なんか太陽に焼き焦がされて地面を這いつくばるだけ……心が無理だ……土に帰りたい……!」

「おまえが土に帰ったら他のセミもビックリだと思うんだよね!」

 

「……ええと……」

 

 けれど疑問は疑問のまま、わたしは目の前で繰り広げられる会話を見守っていた。見守るしかない、というのが正しいのかもしれない。口を挟む隙が見当たらないほどにテンポの良い会話とたまに容赦のない物言いは、きっと彼らがそれほどに仲が良い証拠だろう。

 “あのね”“不思議!”と無邪気に笑う綺麗な女性の先輩に、鋭い眼差しに反してどこか自信なさげに声を震わせている黒髪の先輩に、先程わたしに上着を掛けてくれた、くりっとした丸い目の先輩。彼は立ち尽くすわたしに気づくと、たはーっと頬を掻きながら快活に笑う。

 

「いやごめんね空中(そらなか)さん! 服が落ちるのわりとよくあることだからうっかりしてたよね。嫌な思いさせてたらごめんね」

「えっ、いや大丈夫です。全然気にしてな……、」

 

 謝らなくて大丈夫だと続けようとした言葉が、途切れる。

 

「……わたしの名前、ご存知なんですね」

 

 その言葉とともに笑みを整えた。穏やかで落ち着いた、柔らかい表情を、固く固く塗り固める。

 

「うん! 知ってるの私、空中さんセントラル病院で話してるのテレビで見てたの。だから知ってたんだよー」

「そうだね、俺たちばかり君のことを知ってるのはフェアじゃないよね!」

 

 “可哀想に”“大変だったね”、……そんな憐れみや奇異の混じった目で見られるかと思ったのに、彼らは先程までの笑顔を崩さない。「自己紹介してもいいかい?」と尋ねられて、わたしはその勢いに呑まれて頷いた。

 

「俺は通形ミリオ! ヒーロー科3年B組なんだ。よろしくね!」

「ね、ね、あのね、私ねじれ。波動ねじれっていうの。通形と同じでA組なんだよー」

「……俺は、……3年A組、天喰環」

「……先輩方、ありがとうございます。わたしも改めて……ヒーロー科1年A組、空中愛依(あい)です」

 

 にこにこと綺麗な笑顔の波動先輩。俯きがちだけど最後はわたしと目を合わせてくれた天喰先輩。そして明るい声で手を差し出してくれた通形先輩の手を握り返す。彼はにこりと笑ってから、笑みの色を静かに変えた。

 

「あのね空中さん。さっき環が“ひとりでいたい時もある”って言ってたよね。そういう気分の時もきっとあるだろうし、それで君の気持ちが落ち着くなら俺たちは黙って立ち去るよ」

 

 ざあ、と風が吹き抜けて、森の木々を揺らす。その葉の隙間から覗く橙色の木漏れ日が、まるで星のようにきらきら溢れて降り注ぐ。穏やかに、柔らかに。今の通形先輩の声はそれに似ていた。

 

「でもね、少しだけでも話してすっきりするなら、俺は君の話を聞きたいんだよね」

 

 そんな風にわたしに語りかける通形先輩も、彼の話にうんうん頷く波動先輩も、小さく微かに頷いた天喰先輩も。当たり前のようにそう(・・)するものだから、困惑は収まらない。

 

「そんな。……会ったばかりの先輩方に、ご迷惑をおかけするのは……」

「傘を持っていない人が雨に濡れていたら、君はどうする?」

「え……、傘を傾けてあげたい、です」

「それと同じさ!」

 

 「会ったばかりとか、そういうのは関係なくてさ」そう彼は笑って続ける。そんな通形先輩に促されて、わたしはその場に座り込んだ。先輩もまたわたしの前に膝をつき、視線を合わせる。

 

「雨に濡れた人には傘を。寒くて震えている子にはマントを。それぞれ分けてあげるのと同じように、俺は君の気持ちを軽くしたいんだ」

 

 こてん、と首を傾げると同時に、彼の金髪が夕日を受けてきらりと光る。

 

「何があって、泣いていたんだい?」

「……わ、わたし、……」

 

 優しい眼差しに射竦められて、わたしは胸元を握り締める。この優しい声に従ってもいいのだろうか、甘えてもいいのだろうかと、内側から声がする。わたしにそんな資格は無い。駄目だ、断らないと──そう口を開こうとしたわたしに、気付いていたのだろうか。

 

「……大丈夫だ。空中さん」

「、天喰先輩?」

「ミリオはいつだって太陽のようなヤツだから……きっと君の心も明るく照らしてくれる」

 

 だから、大丈夫だと。

 その言葉だけは今までになく流暢に紡がれた。天喰先輩は真っ直ぐ通形先輩を見て微笑んでいる。そこに芯の通った友情と敬愛、信頼を感じたのはわたしの見間違いなどではないだろう。鋭い彼の目元が、あたたかな感情を以て柔らかくなる。

 

(……救われた人の眼差し、みたい)

 

 その眼差しには、確かに覚えがあったから。

 わたしは躊躇う気持ちを何とか押し殺して、ゆっくりと口を開いた。

 

「……わたしは、……怖かったんです」

「何がだい?」

「この前の神野の件で、A組のみんなが除籍処分になるかもしれなかったって話を聞いて、……わたしのせいでみんながヒーローになる道を絶たれてしまうところだったんだって、怖くなって、しまって」

 

 訥々と溢すわたしの話を聞いてくれていた波動先輩が、ふとその柳眉をしかめる。首を傾げて唸って、ううんと唇を開く。

 

「んー? うん、うん、……ごめんね不思議なの、訊いてもいい?」

「は、い」

「空中さんは、まだ起きてないことを怖がってるの?」

「……、」

 

 そう真正面から問われて、ひとつ、気づいたことがある。

 わたしは何をこんなに怖がっているのか──それはきっと、わたしは、いつかの過去をなぞるのが怖いのだ。

 

 

『おまえのせいで、お父さんはヒーローを辞めなきゃいけなくなった!!』

 

 いつかの時。頭上から叩きつけられる怨嗟の雨に、わたしは何も言えなかった。“違う”と反論することも身を庇うことも烏滸がましい。だって本当にその通り(・・・・)なのだから、ただ打たれて、寒さに震え泣いていた。

 

『おまえが“個性”を使わなきゃ、』

『おまえがいなきゃ、』

『おまえが生まれて来なければ、』

 

 ──わたしさえいなければ、きっと何もかも、上手くいっていたんだと。

 

 

「それ、は、……」

 

 あの日のベランダの寒風が、ここに吹き込むわけがないのに。わたしの舌はまるで凍りついたみたいに固まってしまった。先輩方が聞いてくださっているのだから、ちゃんと話さなきゃいけないのに。焦って喋ろうとするたび、言葉になりきらない呼吸がひゅ、と掠れた音になっていく。

 

「大丈夫だよ」

 

 その時。握り締めすぎて震えるわたしの手を通形先輩が掴んだ。まるで太陽みたいな笑顔と手のひらの温度に、いつかの冷気が散らされていく。凍りついた舌の根が溶けていく。

 は、と張り詰めていた呼吸をほどくと、“ゆっくりでいいよ”と先輩が頷く。それに励まされるようにして、わたしは舌を動かした。

 

「……わたしたち1年A組は入学初日、“個性”による体力テストを受けました。相澤先生は“最下位は除籍にする”って言っていて……。

 その時わたしは、こんな風に怖いと思っていなかった。他の人を蹴落としているのと、同じなのに……」

 

 脳裏に過るのは緑谷くんの姿。何かを必死に考えるような顔をして、ずっと“個性”を使わずに──あるいは使えずに──いた彼が、他のクラスメイトの記録と自分の記録を見比べて顔を真っ青にしていく。そんな彼を見ていられず、わたしは俯いた。

 わたしにはどうしようもない、どうすることもできない。

 ……そんなことを思って緑谷くんの道を諦めたんだ。自分にはどうすることもできない──自分のせいではないから(・・・・・・・・・・・)って。

 

「結局わたしは、自分のせいで、誰かの道が絶たれるのが怖いんです」

 

 かつて家族だった人たちにしてしまったことを、繰り返さないように。奪うだけの自分にならないように頑張ってきた。わたしを救ってくれたホークスみたいに、わたしもまた誰かを救けられるようにって。与えられるようにって。

 自分のなりたい姿ばかり、追いかけていた。

 

「どこまでも、自分勝手で……」

 

 だからわたしは、わたしが機転で始まったことは、わたしの手の届く範囲は、どんな未来も傷ついてほしくないんです。わたしが頑張れば何とかなるのなら、自分が傷ついたってそっちの方がいい。だってわたしは“個性”で治るもの。取り返しがつかなくなることはない。

 後悔。憧れ。保身。恐怖。そんな感情が綯交ぜになって泥となる。それがあまりに心の端を重くするから、わたしは頭を振りながら吐き出した。喉が焼けるように痛むのは、罪悪感故か。

 

「……取り返しがつかなくなる、かあ」

 

 そんな風に心の泥を吐露して、荒い息をつくわたしの前に、波動先輩がしゃがみこんだ。綺麗な水色の髪が地面に着くことも厭わないで、うーんと首を傾げている。

 

「ね、ね、不思議なの。あなたはそう思わない?」

 

 そうして彼女はにこりと笑った。

 無邪気な好奇心を宿して、ペイルブルーの瞳が輝く。

 

「なんで除籍されたのに、2年A組のみんなはまだ雄英にいるのか、空中さんは知ってる?」

 

「──え、」

 

 

 

 

 

 

 答えられず固まったわたしを引っ張っ……連れて、波動さんが訪れたのは2年A組の教室だった。スライドドアを開くと、夕焼けに染まった教室がわたしたちの前に広がる。

 

「あっ、不和ちゃーん!」

「ねじれ先輩、どーも。そしてこんにちは。連絡もらったけど、空中さんやね?」

 

 その中にひとり、女性の先輩が立っていた。柔らかそうな淡い桃色のボブヘアーを耳に掛け、そこに白い綿型のピアスが揺れている。

 

「私は不和真綿。2年A組ヒーロー科」

「よろしく、お願いします……空中愛依です」

 

 彼女は垂れ目がちの目を緩めて笑って、“よろしくね”と握手を交わす。そこから波動先輩たちとアイコンタクトを交わしたかと思うと、不和先輩はわたしに空いている席を勧めてくれた。恐縮しながら腰かけているうちに、波動先輩たちは教室を出ていく。ふたりきりになった教室に、しんと沈黙が垂れ込めて。

 

「今年の1年A組も、除籍されそうになったと?」

 

 そんな不和先輩の言葉を皮切りに、わたしは訥々と事情を話した。入学初日の“個性”把握テスト、神野事件のこと……うんうんと静かに相槌を打っていた先輩は、ふと懐かしそうに目を細めた。

 

「ふふ、なるほど。イレ先がやりそうなことやね」

「イレ先?」

「イレイザー先生の略。うちのクラスの中では“イカレイザーヘッド”って言うやつもおるよ」

「えっ、な、なんで……」

「だって私らん時、みーんな除籍されたっちゃん!」

 

 “お蔭で2─A全員経歴傷入りばい”……なんて、笑って話すようなことではないはずなのに、不和先輩は懐かしそうに、可笑しそうに笑っている。そこに自暴自棄の気配はない。

 

「“マジでやりおった”とか、“除籍された瞬間まだ覚えてるうなされる”とか、そうやってみんなぶつくさ言うけど……だからってイレ先を嫌いになったりはできんっちゃん」

 

 ふわりと笑うその顔は穏やかだ。除籍という傷を痛みのままにしないで、過去に──過去より優しい“思い出”にしているのだと、わかった。わかったからこそ、疑問が溢れる。

 

「……どうしてですか?」

「何が?」

「除籍されて、ヒーロー科にいられなくなって、ヒーローになれなくなるかもって、……夢や未来や可能性が、絶たれるかもしれなかったのに」

「空中さんにとって、除籍はそうばいね。てか普通はそうか。字面が物騒すぎるっちゃんね……」

 

 不和先輩ははは、と苦笑して、目を伏せる。その目にいつかの記憶が巡ったのか、少しの間噛み締めるような沈黙が続いた。夕闇が帳を降ろすように色を濃くしていく。

 

「……でもねえ、空中さん」

 

 そんな暮明の中にあっても、彼女の目はきらりと優しく、星のように輝いていた。

 

「相澤先生が私らを除籍したのは、救助や(ヴィラン)退治を優先しすぎて、自分の身を守ることを疎かにしたときやけん」

「……!」

 

 はっと息を呑むわたしに不和先輩は微笑む。いつの間にか彼女の苦笑は色を変え、切ないような、“しょうがないな”と言いたげな、そんな眼差しでわたしを見据えていた。

 

「あんまイレ先は口に出さんばってん、一回だけ言いよったばい。“死んだらそこで終わり”だって。死んだら、何もできん。そこから先の未来で誰かを救けることも、ヒーローになることやってできんって」

 

 何かに語りかけるような優しい口調に、気付かされる。不和先輩はわたしを、そしてわたしを通して、相澤先生を見つめている。

 

「きっと相澤先生にとっての“取り返しのつかないこと”って、死んでしまうことなんよ」

 

 除籍という重い罰を下すことで、生徒に厳しく当たって、恨まれたとしても。それで生徒の命が守られるのならと相澤先生は選んできた。

 “そんな不器用な人なんよ”と、切なげに、“しょうがないな”と言いたげに先輩は目を細める。それは泣きそうなようで、微笑んでいるようにも見えた。

 

「……もしかしたら、大事な人を亡くしたことがあるんかもしれんね」

「、相澤先生が?」

「ただの勘よ、あん人絶対生徒にそげんこと言わんけん。吹聴はせんでね」

 

 唇に人差し指を当てて、静かに笑う。そんな先輩にこくこく頷き、わたしは俯き、これまでの話を胸中で反芻した。

 

「ありがとうございます、不和先輩。……少しだけ、わかったことがあります」

 

 不和先輩が、相澤先生が。わたしに何を伝えたいのか。

 

「……人の未来が本当に絶たれるのは、死ぬ時、なんですね」

 

 不和先輩はわたしに何も言わないけれど、にっこり笑うその顔が答えなのだと思う。確信を得てわたしは小さく息をついた。相澤先生が大切にしていたこと、想い、……気付かないまま、わたしはひとりで怖がって、逃げ出してしまったのだ。

 その後悔に眉を寄せているわたしに気づいて、不和先輩はふわりと笑った。宥めるように、肩を竦めるように。

 

「でもあれやね。やっぱ言葉が足りんのよねぇイレ先は」

「い、いえ今回の話は、わたしが先走って勘違いしてしまっただけで……」

 

 慌てるわたしの肩にぽんと手を置いて、不和先輩は口を開く。じっと、黒目がちの大きな目が、わたしを見つめている。

 

「やけん、一回腹割って話してみなよ」 

「腹を割る……?」

「きみがどう思ってるのか。何が怖いと思ってるのか」

 

 そして1─Aのみんなが、相澤先生が、何を思って動いたのか。どうして黙っていたのか。

 

「きっとA組のみんなも、意地悪したくてきみに除籍のことを黙ってたわけやなか。それはわかる?」

「──はい」

「ん、いいこやね」

「わ、っ?」

 

 ぽすぽすと頭を撫でられて視線を落とすわたしは気付かない。わたしの髪を撫でる右手とは反対の手で、ひらりとドアの方に手を振ったことに。

 

「さてさて、これ以上お迎えを待たせることはできんか」

「お迎え……?」

 

 そんな言葉に顔を上げた時だった。がらりとドアが開き、その人(・・・)が教室に足を踏み入れる。

 

「──空中、」

「! 相澤先生! ……え? どうしてここに、」

「……おまえケータイ見ろ」

「ケータイ……? ……!」

 

 不和先輩に断って端末の電源を入れると、ホーム画面に数多の着信とメッセージがあったことを知らせる通知が並ぶ。《どうしたの愛依ちゃん》《体調でも悪い?どこにいるの?》……A組のみんなからの、そんな言葉が並んでいて、わたしは思わず“どうして”と呟いた。

 どうしてこんなに、心配させてしまったのだろう。わたしの呟きに対して相澤先生がため息を返す理由もわからなくて、身体を縮こまらせて立ち尽くすしかできない。どうしよう、と視線を移ろわせたわたしが見たのは、相澤先生の後頭部に軽いチョップを叩き込む不和先輩の姿だった。

 

「イレ先! どーせさっき廊下から話聞いとったと?」

 

 後頭部を押さえて振り返る相澤先生に、むーっとした半眼を投げ掛けたかと思えば、ふっと笑ってみせる。くるくる変わる先輩の表情。だけれどどの瞳も、あたたかい敬愛が込められているのがわかった。

 

「腹割って話すんも、大切やと思うっちゃん。ね?」

「……わかったよ。肝に銘じとく」

「……あのさ。ついでに、耳貸して?」

「なんだ、……」

 

 2人がそんな会話をしている時だ。バタバタと急いた足音が近付いてきて、そのまま教室の中に飛び込んできた。焦燥に見開かれた目がわたしを捉え、その口が開く。

 

「……愛依ちゃん!」

「!? 梅雨ちゃん、お茶子ちゃん……?」

「……っ」

 

 走っていたからか、少し乱れた髪がふわりと揺れて。次の瞬間わたしは梅雨ちゃんの腕の中にいた。【蛙】の“個性”だからかいつもは少しひんやりしている梅雨ちゃんの身体は、今は熱が籠っている気がして。けれどその一方で、かたかたと震えていた。困惑のまま抱き返すわたしの背を、お茶子ちゃんの手が撫でる。

 

「あっ、よかったぁ、会えたね!」

 

 ひょこっ、と廊下から顔を覗かせたのは波動先輩だった。彼女は抱き合うわたしたちを見て、柔らかく目を細める。

 

「あのねあのね、寮に知らせたらすごくすごく心配して居場所を訊いてきたのこの子たち。だから連れてきたほうがいいのかなって思ったの」

 

 それから。何かを懐かしむように、滲むように微笑む。

 

「友達が自分を想ってくれるって、すごーく嬉しいの。私、知ってるんだから」

 

 そんな言葉ととびきりの微笑みを残して、波動先輩は通形先輩や天喰先輩と一緒にその場を去った。足音が聞こえなくなった頃、わたしは黙り込んだままの二人に向き直る。

 

「あ、の、その、2人とも……」

「……話したいことは、お互いにあるわね」

 

 ぽつりと呟いて梅雨ちゃんは顔を上げた。いつもの冷静で落ち着いた表情と声色。けれどその声の端が僅かに揺れているのが、わかった。

 

「でも今は、まず、一緒に寮に帰りましょう」

 

 

 

 

 

 

 そうしてわたしは梅雨ちゃん、お茶子ちゃん、相澤先生と共に寮に戻って、今一階の共有スペースであるリビングにいる。A組のみんながそれぞれ椅子やソファーに腰掛けていて、それぞれ何か言いたげな、同時に言えずにもどかしげな表情をして押し黙っている。

 どうしてこんな状況なのか──寮への帰り道にお茶子ちゃんたちから聞いた話によると、“今日は体育館に行けなくなった、ごめんね”と返信したわたしと連絡が取れなくなったことを不審に思ったところに、物間くんと拳藤さんが来たらしい。そうして今日の授業で起きたこと……物間くんとの会話を知ったのだという。除籍の件を知ったわたしが、誰にも知らせずひとりでどこに行ったのか──みんなは心配して、探してくれていたのだと。

 

「……ごめん。空中さん」

 

 心配と迷惑をかけた。だからわたしが第一に謝らなければいけないのに、口火を切ったのは緑谷くんだった。彼は真っ直ぐわたしを見つめてそう言ったかと思えば、深く深く頭を下げる。

 

「神野の一件について、みんなは“行くな”ってちゃんと止めてくれていたんだ。それを振り切って決行して……僕は結局、君を悲しませてしまった」

「そんなん言うなら俺だ!! 俺が緑谷に行こうっつったから……!!」

 

 切島くんが、轟くんが、飯田くんが、八百万さんが、それぞれの言葉で“自分が行くと決めたんだ”と、“すまない”“ごめん”と告げてくる。彼らが真剣に、真っ直ぐにわたしを思ってそう言ってくれるのが痛いほどわかった。真っ直ぐな言葉は矢のように、わたしの心に突き刺さる。

 

「違う。……違うんだよ、みんなが謝る必要ない」

 

 そんな優しい言葉を掛けてもらう資格は、わたしに無い。

 それにみんな、きっとここに至るまでにさまざまな葛藤があっただろう。他のA組のみんなは“止めた”と言っていたのだから、想いのぶつかり合いもあったはず。ぶつかって、互いに心を痛めて、後悔して、そうして乗り越えた傷だったはずなのに。

 

「みんなが乗り越えたことを、こうして蒸し返して、ごめんなさい」

 

 わたしの言葉に対して、何か言おうとしたみんなを視線で制して、わたしは深く頭を下げた。それは謝罪のためであったけれど、同時にわたしの保身でもあった。

 申し訳なくて、怖くて、……顔が上げられない。

 

「……わたし、みんなに合わす顔がないって思ってたの。だから体育館に行けなかった」

「そんなことッ、……」

 

 どこか怒ったような透ちゃんの声が、不自然に途切れる。

 

「……どうして、そう思ったの?」

 

 続いて聞こえてきたのは、梅雨ちゃんの静かな声だった。痛いほどの沈黙にぽつりと落ちて、波紋を生む雫のような声だった。柔らかで、穏やかで、……そうあろうとしてくれているんだとわかる声に、わたしはゆっくりと首をもたげる。視線が合ったその先で、彼女はひとつ、頷いた。

 

「……みんなが除籍になるところだったって、聞いて、」

 

 それに促されるように、わたしは口を開いた。鉛のような喉を押し開いて、震える舌を拙くも動かしていく。

 

「神野に救けに来させてしまったから、ヒーロー科から除籍になって、ヒーローになる道を絶たれてしまうところだったんじゃないかって、

 そう思うと、怖かった。……わたしのせいでみんなの夢や未来が絶たれることが、何より怖かったから」

 

「……なんでだよ、おかしいだろ」

「ちょっ……峰田、」

「神野のやつは、アレだろ。おまえが、……おまえが一番、おまえのために怖がっていい事件だったろ!」

 

 峰田くんを見ると、彼は怒りながらも目の端に涙を浮かべていた。“おまえのために怖がっていい”と、自分のために心を使っていいんだと、そんな義憤が燃えている。みんなの顔を見渡してみると、そんな眼差しを投げ掛けてくれている人がいることに気づいた。

 改めて、気付かされた。

 わたしはこんなにも、優しい人たちに囲まれて生きている。

 

(……でも、……)

 

 ──3歳のわたしだって、優しい人と一緒に生きていた。

 優しさにくるまれて、愛情を注がれて、ぬくぬくと。

 

 その末にわたしがやったことは、何だったのか。今も覚えている。決して忘れない。わたしは確かにあの人達に愛されていたのだと、その記憶は“個性”によって刻まれている。

 彼らの“個性”。過去の頑張り。明るい未来。そして想い──それら全てを根こそぎ奪って、わたしは今ここにいる。

 

(……このことを黙ったまま、優しさを甘受して、生きていくの?)

 

 自問がわんわんと頭の中で木霊する。こんなわたしなんかのために心を砕いて、心配して、怒って、泣いてくれるみんなと、何食わぬ顔をして隣に並んで生きていく。そんなわたしの姿を思い描いて酷い気持ちになった。ずるくて、浅ましくて、滑稽。どうしようもない劣等感を下手くそな笑みに隠して、そうしてヒーローになるつもりなのか。

 わたしがなりたいヒーローは、そんな姿だった?

 

「……わた、しは……」

 

 “大丈夫だよ”と、わたしが思いを吐露することを許してくれる人がいた。“腹割って話してみなよ”と、頭を撫でてくれた人がいた。そして今、わたしの前には、優しい人たちが待ってくれている。

 

 ……優しいなあ、眩しい、なあ、

 今は彼らの背中を追うばかりだけれど、いつかわたしも、みんなみたいになりたい。

 そんな憧憬が目蓋の奥を熱くさせる。奥歯を噛んで堪えて、ひそかに呼吸を整えた。胸元を握り締めて、決意を形に。

 

 大好きで、大切な人たち。

 当たり前のように誰かに手を差し伸べるヒーロー。

 ──彼らにたとえ、呆れられても。失望されても。

 話すべき時が来たのだと、わたしは唾を飲み込んだ。喉がカラカラだ。震える指先を隠したくて握り込む。食い込む爪の鈍い痛みが、ちょうどよかった。

 

 

「──昔、わたしは、大切な人の未来を奪ったことがある」

 

 

 “個性”の詳細は、【翼】からホークスに繋がる可能性がある以上話せない。それでも少しでも、過去について話すべきだと思った。自分の汚い部分を隠したまま、優しいみんなの傍にいるべきではないと、そう思ったから。

 

「ヒーローとして生きていきたいって、みんなのために頑張って働きたいって人たちの願いを、わたしは踏みにじって、奪って、取り返しのつかない間違いを犯した」

「空中……?」

「わたしのせいで彼らは、積み重ねてきた過去の頑張りを台無しにされて、未来の夢を潰されて、人生をぐちゃぐちゃにされた」

 

「……もう、繰り返したくなかった。同じことが起きないようにって、頑張ってきた、けれ ど、」

 

 いびつになった息を無理やり吸って、吐いて。わたしはみんなの顔を見渡した。困惑と驚きに歪んでいる、……当たり前だ。いきなりこんな話を聞かされて、戸惑うに決まってる。ごめんねと心の中で呟いて口角を持ち上げた。

 

「……そんな昔と、今回のことを、わたしは重ねたんだ」

 

 こんなに情けなくてみっともない笑顔、他にあるのかな。

 そんなことを他人事のように考えて、わたしは続けた。

 

「……“わたしのせい”でみんなの頑張りが、可能性が、未来が壊されてしまうのが怖かった。……だったらいっそ、救けに来なくてよかったって思ってしまったの。神野に、来てほしくなかった。わたしなら何度でもやり直せる。治癒で、元通りになる。なにも失わない。それでよかったのにって、」

「愛依ちゃ、」

「わたしは……ずっと、ずっと、自分のことばかり……っ」

 

 話せば話すほど、痛くて。口から溢れる泥に呑まれて足元から溶けていきそうな、そんな気がしていた。

 ぐらぐらと揺れる意識。感覚。震えはきっと、恐怖。

 

 

「──愛依ちゃん」

 

 ──その全てを掬い上げるように、抱き締められた。

 

 

「……つゆ、ちゃ……」

 

 緑がかった長い黒髪が、抱き着いた弾みでさらりと波打ち、揺れる。それを視界の端に捉えて、わたしはひゅッと息を飲んだ。心の中に色んな感情が雪崩れ込んで、上手く処理できない。

 

「……梅雨ちゃ、ん……駄目だよ、離して」

「嫌よ」

「梅雨ちゃん、」

 

 は、は、と浅い呼吸を飲み込んで、吐いて。頭を振って。わたしは梅雨ちゃんの身体を離そうと彼女の両肩に手を置いたけれど、びくともしない。

 

「……あのね、わたしは。さっき言ったとおり、ある人の人生をぐちゃぐちゃにした。そんな風に梅雨ちゃんに心配してもらう資格、ないんだよ」

「知らないわ。そんなこと、知らない」

 

 “私は思ったことははっきり言っちゃうの。”

 いつか聞いた台詞。いつもの落ち着いた声色。

 

「いつかのあなたは、確かに間違えてしまったのかもしれない。あなたが言うのなら、それは拭えない過去なのかもしれない」

 

 けれどその言の葉に滴るような、雨垂れの気配がして。

 

「それでもあなたは、そうした過去から立ち上がって、誰かを救おうと頑張ってる。心を砕いて、涙を流しながら、ずっとずっと、頑張って……」

 

 そこで梅雨ちゃんは、わたしの肩口に埋めていた顔を上げた。微笑みの形になった唇が、ゆっくりと開かれる。

 

 

「そんな愛依ちゃんが、わたしは大好きよ。大切で大好きな、お友達なの」

 

 

 大きくて丸い、夜の湖のような梅雨ちゃんの目が、ゆっくりと細められる。そこから溢れてしまったみたいに、大粒の涙が彼女の頬を伝った。ぽろり、ぽろり。紫陽花に落ちる雨粒みたいに、きらきらまあるく、光って、……

 

「……っぅ゛、う、ぅう……ッ」

 

 それがあんまり、綺麗だったから。わたしはひぐ、と不格好な嗚咽を漏らした。みっともない、情けない。それなのに梅雨ちゃんは、わたしを抱き寄せて離さない。

 

「……そ、そんな風に、思ってもらう資格、ないのに……」

「あなたがそう思っても、私はそう思わないわ。知ったこっちゃないのよ」

「し、知ったこっちゃない、って……」

 

 けんもほろろに言い放つ梅雨ちゃんの語調は揺らがない。それに戸惑いと、それ以外の感情を覚えて、わたしは彼女の肩口に顔を埋めた。

 

「……わたし、本当に、酷いやつなんだよ」

「あら、どこがかしら」

「だ、ってわたし、みんなに“救けに来なくてよかったのに”って、酷いことを思った。みんなはたくさん考えて悩んで、来てくれたのに、……」

 

 物間くんから神野の一件を聞いた時、わたしの胸に去来したのは過去をなぞる恐怖だった。みんなの未来を奪ってしまうところだったと怖くなって、……けれど同時に、別のことも思ってしまった。

 

「……救けに来てくれて嬉しいって、思ってしまったの」

「! 空中さん……」

「ごめん、本当に……おかしいよね、みんなの未来、奪うところだったのに」

 

 仮免試験の時と同じ。梅雨ちゃんを泣かせてしまったくせに、その涙を綺麗だと、嬉しいと感じてしまった。あの時の気持ちが心の奥底で輝いて、わたしはもっともっと、自分が嫌になった。

 

「怖くて、嬉しくて、……気持ちがずっと、ぐちゃぐちゃで。だからわたし、自分で自分がわからないほど、酷い、やつで……」

 

 だから見捨ててくれていいのに、と思う気持ちとは裏腹に、わたしは、梅雨ちゃんの大きな手がわたしの髪を撫でるのを、心地いいと感じている。

 

「……だったらやっぱり、あなたは酷くなんかないわ」

 

 その言葉を、嬉しいと感じてしまっている。

 その事実を受け止めざるを得なくて、わたしはとうとう目を開けていられず泣き出した。目も羽根もまともに機能していないけれど、わたしと梅雨ちゃんの周りにみんなが駆け寄って、肩を叩いたり、背中を擦ったり、頭を撫でたり、抱き締めたりしてくれていることがわかって。わたしは子どもに戻ったみたいに、ただわんわんと泣いていた。

 

 

 

 

 

 

「空中さん、よければハンカチ、どうぞ」

「うう……ご、ごめんなさい八百万さん……」

「こら、謝るのはナシだよ空中」

「そうそう、こういう時はなんて言うの?」

「え、と……ありがとう、八百万さん」

「! ええ、どういたしまして……!」

 

 暫くして泣き止んで、顔を上げると、女子のみんなして赤くなった鼻をすんすん鳴らしているものだから、誰とはなしに顔を見合わせて笑い合う。少し疲れた、けれど気の抜けた笑みに、梅雨ちゃんも頬を緩めるけれど、それから眉を下げた。

 

「でも私も、愛依ちゃんに謝らなくちゃいけないわね」

「え……?」

「神野のことを言ったら、あなたが気に病むと思ったの。あなたを傷つけるかもしれないと思ったら、怖くて、言えなかった」

「……! ううん、梅雨ちゃんたちは何も悪くない。……わたしを気遣ってくれたんだって、わかってる」

 

 頭を下げかけた梅雨ちゃんを制して、ありがとうと言葉を重ねる。そうしてわたしは、その言葉を言うべきもう一人に視線を合わせた。

 

「相澤先生も、ですよね。不和先輩から聞きました」

 

 わたしが話して、挙句の果てにわんわん泣いている間、じっと見守ってくれていた相澤先生。きっと色々忙しいだろうに、教室まで探しに来てくれて、今も一緒にいてくれている。

 

「掛け替えのない命を守るために、わたしたちに守らせるために、なんですよね。それなのに……ごめんなさい、勝手に勘違いして、取り乱して、わたし……」

「謝るな」

 

 ぴしゃりと断ち切るような声色は、今まで何度も聞いてきた。初日の台詞が【“個性”把握テストで最下位の者は除籍】だったものだから、厳しい方だという印象だった。

 

「──俺は、俺の生徒に、命を粗末にするような真似は許さない」

 

 けれどきっと、それだけの人ではなくて。

 

「……だがそれで、おまえを追い詰めたことまで許されるとは思ってない」

 

 冷淡そうな声色の底に確かなあたたかさがあることを、わたしは、……わたしたちはもう知っている。

 

「すまなかった、空中」

「いえ、いいえ……! だって、先生は……、」

 

 わたしの言葉を手を振って制して、相澤先生はわたしを見た。鋭い彼の目が、優しい温度を宿して見つめている。心配、労り。そうした感情を込めて、眼差しが柔らかに注がれる。

 きっと不和先輩は、こういう相澤先生を知っていたから。だからわたしに教えてくれたんだ。擦れ違って不理解のままでは、あまりに悲しいからと、向き合うことを勧めてくれた。

 “腹を割って、話せ”と──

 

(……わたしはきっと、ずっと、気付けずにいた)

 

 わたしは自分を守ることばかり必死すぎて、こういう人の想いに気付けずにいたのかもしれない。

 気付かないまま、誰かを傷つけていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「……だから僕と話に来たって?」

「うん」

「いやいや……お人好しにも程があるんじゃないかなァ?」

「お人好しとは、違うよ。わたしが後悔したくないだけ」

 

 A組のみんなと解散して部屋に戻ってからも、わたしの中には凝りがあって。心配して連絡してくれた拳藤さんに無理を言って、この場を設定してもらった。

 グラウンド・γ。今日の授業で物間くんと戦ったこの場所で、また彼と2人向き合っている。配管の隙間を吹き抜ける夜の風が、わたしと彼の髪を揺らした。

 

「本当にお人好しなら、こんな時間に呼び出したりしないよ。どこまでもわたしのためだから、気にしないで」

「……いけしゃあしゃあとまァ……」

 

 いつもの彼らしくない、どこか歯切れの悪い様子に目を瞬かせながらも、わたしは小さく深呼吸をした。呼吸を整えて、気持ちを整えて。ちゃんと話せるように。

 

「……わたしは物間くんの“個性”の強みである、さまざまな“個性”をコピーして使い分けて戦うあなたと戦いたかった。もっともっと、わたし自身が後悔しないよう、強くなるために」

 

 その気持ちに嘘はない。悪気もない。

 でもそれはあくまでわたし視点の話だ。物間くんからしたら、わたしの行動は全く違うように映っていたのかもしれない。

 

「でもそれが、あなたの気持ちを傷つけてしまっていたのなら、……ごめんなさい」

 

 そうした違いを、気付かなかったからといって、放っておくことはしたくない。

 だからわたしは姿勢を正して深く頭を下げた。ここにはわたしと物間くんしかいないから、とても静かだ。吹き抜ける風の音の他には、彼が小さく息を飲む音しか聞こえない。

 

「……僕も、……ああくそ、なんで君から言うんだよ……!」

「……?」

 

 彼は躊躇うような沈黙の後、何かを言いかけて、それから右手で自身の髪をかき混ぜた。ぐしゃりと乱れた金糸と同じく、物間くんの表情も歪んでいる。眉間に皺を寄せて、口許を引き結んで。……でもそれが怒りだけの感情ではないことは、なんとなくわかった。

 

「……君がA組の奴らと話したみたいに、僕も拳藤たちと話したんだ。色々とね」

 

 俯きがちの彼の青い目が、揺らぐ。その時の会話を思い出しているのか。感情を呼び起こしているのか。彼はひとつ息をついてから顔を上げてわたしを見た。ひた、と真っ直ぐ見据えて、

 

「……悪かった。君に対して嫌なことを言った、……大人げなかったよ」

「……こんな時ですらトゲが抜けないなあ……」

 

 謝罪だけに終わらない彼は、もうここまでくると“らしい”と思えてしまう。それに何より、彼の眼差しや声色に嘘はなかったから。だからわたしはふっと軽くなった心のままに頬を綻ばせた。くすくす笑うわたしをジト目で見つめる物間くん。そんな奇妙な時間が少しの間続いた。

 

「……、」

「物間くん?」

 

 けれどそれもつかの間、物間くんはその眉目を引き締めてわたしに向き直った。その、わたしを皮肉るでも煽るでもない、今までにない雰囲気に、どうかしたのかと身構える。

 

「……僕も君に聞きたいことがあるんだ」

 

 そうして彼は口を開いた。ひどく神妙な声音でわたしに断りを入れて、わたしの腕を掴む。

 

「今日の夕方、僕はこうして、君の手を掴んで引き留めようとした」

「? うん、そうだね、拳藤さんの“個性”を使っ、……」

 

 ──言葉は形にならず、いびつな呼吸となって夜気に溶けた。は、と吐き出した震えた息は、瞬く間に風に浚われる。

 

「おかしいと、気付いたかな?」

 

 瞠目し、立ち尽くすことしかできないわたしを、依然として静かな青の目が見据えている。

 

「僕は君と対峙した時、鉄徹の【スティール】、角取の【角砲(ホーンホウ)】、黒色の【黒】。この3つを既にコピーしていたんだ。そして戦闘を経て時間切れが訪れた」

 

「そうして僕は君と話すに至ったけれど、その間、拳藤はもちろん他の誰にも僕は触れていない。──君以外は」

 

 

 “どうして君に触れることで、拳藤の“個性”が使えたのか。”

 物間くんの疑問は当然のものだ。当然のものではあるけれど──わたしにとっては最後通告に等しかった。

 

 

「聞かせてくれないか、空中さん。──君の“個性”の話を」

 

 

 

80.少女、雨降って、

 

 


 

 更新遅くなって申し訳ありません……(n度目)こんなに時間を開けたにも関わらず、ここまで読んでくださった方々には感謝しかありません。お気に入り登録や評価等々いつも励みになっております。ありがとうございます……。

 

 今回は作者のやりたい放題回でしたね!ハイ……不和先輩はまだ漫画で全然描写がないキャラなんですが、何となく相澤先生の理解者ポジションにいてほしいなと感じていて、今回絶対出そうと心に決めていました。過去のあれこれから【除籍=ヒーローとしての未来を断つ】と思い込んで怖がってしまったオリ主に、そうではないと誤解を解くポジションは、かつて相澤先生の元で育った彼女であってほしかったのです。博多弁は翻訳機能を使って何とか書きましたがおかしなところがあるかもしれません。すみません。でも博多弁女子可愛くてにこにこしながら書きました。もっと原作でも不和先輩出てくれ……。

 

 そうした先輩方の助けを得て少しだけ自分の過去を伝えることができ、梅雨ちゃんの寛容もあって一歩だけ前に進むことができたオリ主ですが、また次回も乗り越えるべき壁(?)が待っています。オリ主について重要なターニングポイントになるつもりです。オリ主とぶつかって、擦れ違って、また向き合って、“個性”の真実に気付くというこのポジションは、どうしても物間くんであってほしかった。というわけで彼のターンはまだちょっとだけ続くんじゃ。よければ次回もお付き合いくだされば幸いです。

 

 

 この度苗字ちゃんさんに弊オリ主愛依のイラストを描いていただきました……!めちゃくちゃ可愛くて素敵で見るたびに元気が出て創作意欲が湧きました!頂いたイラストは表紙または活動報告に掲載させていただきました。重ね重ねありがとうございました……!



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81.少女、地固まる。

 

 “個性”【コピー】。物間くんが所有するそれは、相手に触れることで対象の“個性”をコピーし、使うことができる。けれどそれには幾つかの制約が掛かっているのだと、以前わたしは聞いた。

 

『僕の【コピー】は“個性”の性質をコピーするだけ。何かしらを蓄積したものをエネルギーに変えるような“個性”だった場合、その蓄積まではコピーできないようになってる。

 君の【治癒】は自分の中のエネルギーを使って発動するんだろう? 僕の中にそのエネルギーが無かったから、【治癒】は発動できなかった。……こういう、僕に発動できない“個性”を“スカ”って呼んでるだけ』

 

 1学期に行ったB組の戦闘訓練に追随した際、彼はわたしの“個性”を“スカ”と称した。わたしの【治癒】は蓄積したエネルギーを使っているのだろうと、だから僕には使えないのだろうと、そんな推測とともに。

 彼は軽く肩を竦めながら、諦めたように目を伏せた。

 

『……そう、なんだ』

 

 その時わたしは、彼の表情を真っ直ぐに見ることはできなかった。唾をのみ込み張り付いた喉を無理やり動かして、平静を装って笑ったけれど、握り締めた手の内は冷えた汗で湿っていた。──怖かったのだ。

 

(物間くんは今、わたしの“個性”をコピーできている(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 平静を装い、気取られないように、何でもないように笑って。その場はそれで済んだからわたしはただ安堵した。初めての学校生活に浮かれて、USJを始めとした(ヴィラン)連合の襲撃に意識を割かれ、そうして油断してしまっていた。

 

 物間くんに触れられてはいけない。

 彼にわたしの“個性”をコピーさせてはいけない。

 彼に、【依存】を使わせてはいけない。

 

 だって、だって。そうで、なければ──

 

 

「……っ拳藤さんの“個性”は無事!?」

 

 

 ほとんど叫ぶように問い掛けると、物間くんは一度驚いたようにその青い目を見開いた。けれどすぐ静かに、見定めるようにわたしを見つめ返す。

 

「拳藤の“個性”は健在だよ。……これで君の言う“無事”は確認できたかな」

「……っ」

「は、オイ、ちょっと……!」

 

 健在。“無事”。その言葉にほっと息をつくと共に身体が傾いだ。ふらつく足を何とか踏み締めて、“大丈夫”と返す。

 

「……とてもそうは見えないけどね」

 

 切れ長の目は半眼に細められている。そこには呆れと──自惚れでなければ──心配の色が滲んでいた。わたしは今、どんな顔をしているんだろう。物間くんの目を見つめ返せばわかるだろうけれど、今はそれが、酷く難しく感じた。

 

「……ぁ、あの、物間くん、……」

 

 視線を向ける先がわからない。紡ぐべき言葉が見つからない。どうすればいいのか見当もつかない。カラカラになった喉は中途半端な呼吸を繰り返す。心臓の音は大きく鳴り響き、耳の奥でぐわんぐわんと木霊していた。

 どうすればいい。何を言えばいい?

 どう取り繕えばホークスに、公安に迷惑は掛からない?

 あの人の秘密を守らなきゃ、守るため に、

 何を、何 を 、どう したら、わ たし は ──

 

 

「──一応言っておくんだけどさァ!?」

「っ、!?」

 

 まるで夜を切り裂くように響いた大声に、驚いて顔を上げる。視界が持ち上がる。視線が絡む。は、と震える息を吐き出すわたしに対し、物間くんはフンと鼻を鳴らした。

 

「何だよその顔」

「え、え、と……」

「僕が君の“個性”の秘密を暴いて、それをネタに揺さぶろうって? 悦に入るって、そう思ってるんだ?」

「! ちが、」

「違うなら、……怯えないでくれよ」

 

 彼は目を細めていた。“面白くなさそうに”、……ではない。ちゃんとぶつかり合って向き直った、今ならわかる。

 

「……君を追い詰めようと思って、訊いたワケじゃないしさ」

 

 その彼の言葉に嘘はないこと。

 わたしを傷付けようと思ってるわけではないこと。

 そのことを上手く伝えられない、不器用さも。

 ──ちゃんと今なら、わかるから。

 

「……ごめんなさい、過敏に反応、してた」

 

 だからわたしも、そう返すことができた。深く息を吸って、吐いて、昂った気持ちを落ち着けていく。それと同じにぐちゃぐちゃに絡まった思考の糸をほどいていった。落ち着いて、落ち着いて──向き合わなければいけないことを、見つめ直して。

 

『君を追い詰めようと思って、訊いたワケじゃないしさ』

 

 そう言った物間くんは目を伏せていた。わたしへの申し訳なさ、だけではない。夜のせいではなく、どこか暗く沈んだ青い目は、ここではないどこかを見ているようだった。

 どこかを、いつかの時を思い出している。

 ……そんな物間くんを“苦しそう”だと感じたのは、きっとわたしの勘違いじゃない。

 

(物間くんも、何かを抱えている)

 

 それどうにかしようと、彼はわたしに話を持ちかけたのかもしれない。もちろん違うのかもしれないけれど、でもそれだってわからない。

 ちゃんと、腹を割って。話さなければ、わからない。

 

「……物間くんはどういう思いで、わたしに“個性”のことを訊いたの?」

 

 そう訪ねたわたしに、物間くんははっと目を見開いた。意外そうに丸くなったそれが、暫くの沈黙を経て弧を描く。

 

「へェ、踏み込んでくるんだ」

「う、うん」

「あんなに動揺してたってのに」

 

 馬鹿だね、と呟くように言って、

 

「僕は訊かなかったフリも、知らないフリもできるんだよ」

 

 彼は笑みの色を変える。それはいつもの誰かを煽るようなそれよりずっと、穏やかに凪いでいた。

 

「まァ、君からしたら僕なんて信用できないかもしれないけ……」

「そんなことない」

「、……あァそう」

 

 間髪入れずにそう返せば、物間くんはへらりと笑った顔を崩し、どこかばつが悪そうに眉間に皺を寄せた。がしがしと自身の金髪をかき混ぜて、細く長く息を吐く。

 そうして彼は、静かにわたしを見据えた。

 

「……君に触れて、拳藤の“個性”が使えた。そのことから考えると──どういう理屈かはわからないけれど──君の本来の“個性”は、他人の“個性”を扱うタイプってワケだ」

 

 わたしを見つめたその目で、自分の右手を見下ろす。緩く握って、開いて。

 

「……僕の“個性”と似てるんじゃないかって、思ったんだよ」

 

 物間くんの“個性”は【コピー】。相手に触れることで対象の“個性”をコピーし、使うことができる。……確かに、誰かの“個性”を使うという一点においては、わたしと彼は似ていると言ってもいいのだろう。けれど、──けれど、

 

「……似てないよ」

空中(そらなか)さん?」

「だって物間くんの【コピー】は、誰かの“個性”を奪ったりしないでしょう?」

 

 ひゅう、と吹き抜けた夜の風が、冷ややかにわたしの横顔に突き刺さる。

 

「わたしの“個性”は、【治癒】でも【翼】でもない。それらは全て、わたしが本来の“個性”で奪ったものなんだよ」

 

 強張る頬を無理やり吊り上げて作った笑みは、きっとぎこちなく、みっともない。

 

「わたしは、わたしの“個性”は【依存】──わたしと心を通わせた相手の“個性”を奪って、自分のものにする。一度奪った“個性”は、……二度と元には戻らない」

 

 だから物間くんも、何とも言えない表情をしているのだろう。眉間に皺を寄せて、目を細めて。

 

「……物間くんは今日、わたしの【依存】をコピーして発動させたんだよ。発動者の物間くんが心を通わせた相手の……拳藤さんの【大拳】を使った。

 ……でも、よかった。【依存】の性質より【コピー】の性質が上回ったんだね」

「……空中さん?」

「5分経てば解除されるあなたの【コピー】。だから【依存】も、時間経過で奪った誰かの“個性”も元に戻る」

 

 だから、拳藤さんの【大拳】も失われずにすんだ。

 そのことが何より嬉しかったから。泣きたいくらい安堵したから、わたしはぎゅっと目を瞑って胸元を握り締めた。

 

「よかった、……よかった、本当に……」

 

 彼女の“個性”は無事だった。何も失われなかった。

 それはひとえに、物間くんだったから──だからわたしは顔を上げて微笑んだ。

 

「あなたの“個性”は、誰かの“個性”を奪わない。

 ……可能性を、過去の頑張りを、明るい未来を奪わない」

 

 安堵と、感謝と、尊敬と、羨望と、……きっとそれだけではない感情を込めて、笑う。

 

「──羨ましいよ。素敵な、“個性”だね」

 

 そう口にしたのは本心からで、全くの嘘ではなかった。

 ……けれど物間くんは何故か、思い切り片眉を跳ね上げた。口許を苦々しげにひん曲げるその顔は、晴れやかとは言いがたい。

 

「……その言葉、君じゃなければ皮肉と受け取っていたよ」

「え……?」

 

 えっと、と言葉をまごつかせるわたしに、物間くんは肩を竦める。それから伏せがちの目で笑ってみせた。

 

「昔から言われたよ。【その“個性”じゃスーパーヒーローにはなれないね】って」

「!? な、なんで?」

「さァね。大方あいつらは、僕を僻んでたんだろ」

 

 物間くんは語る。自分は昔から他人より少し頭が回って、立ち回るのも上手かったと。それで周囲から褒めそやされ、持て囃され、……それと同じぐらい逆のこと(・・・・)もあったのだと。

 

「あいつらが言うには、【一人では何も出来ない。そんなヒーローがいてたまるか】ってさ」

 

 真っ向から悔しげに、負け惜しみみたいに叫ぶ同級生もいた。そんな子どもたちを叱りつつも、“残念だけど”って訳知り顔で微笑む教師もいたのだそうだ。

 

「彼らは決まってこう言ったよ、『ヒーローが全てじゃないわ』『サイドキックとして支えるのも大事な仕事だよ』……笑えるよねぇ!? こういう“個性”ってだけで、僕の未来は他人に憐れまれ、指図されなきゃいけないらしい」

 

 ハッと吐き捨てるように笑って、物間くんはわたしを見た。どこか刺々しい笑みのまま、瞳だけは静かに、苦しげになる。

 

「だから僕はずっと、君のことが気に食わなかった」

「……そう、なんだ」

「ああ。だって君は【翼】に【治癒】……機動力と汎用性、何より救助に役立つ唯一無二の力を持ちながら、“たいしたことない”って謙遜する余裕まであるんだからね」

「あ……」

 

 脳裏に甦るのは入学当初の記憶だ。B組初めての戦闘訓練。鉄哲くんたちの怪我を治癒したわたしに、物間くんは礼を言って、わたしは、

 

『そんな、たいしたことじゃ……』

『たいしたことない、ねぇ』

 

 そんな言葉を交わした。その時すうっと細められた物間くんの目も、痛いくらいきつく握られた手も、覚えている。

 

(……そうか。物間くんはあの時から、ずっとそんな気持ちで……)

 

 やっと見えてきた彼の心情に、わたしは小さく息を飲んだ。改めて見つめ直した彼の表情は、初めて見るものだった。

 

「でもその謙遜は、余裕でも何でもなかったんだね」

 

 眉を下げたその顔に、どんな感情が込められているのだろう。それは共感であり、労りであり、何かに対する苛立ちでもあり、やりきれなさでもあった。光だけでもなく、暗いだけでもない感情が、彼の青い目に揺らいでいる。

 

「その自信のなさも、すぐ自分のせいにしたがるのも、そういう“個性”を持って生まれたことに端を発するのかな」

「……そう、なのかな。……ごめんなさい」

「ハァ?」

 

 “ごめんなさい”。たったその一言でその場の空気が一変した。急に不機嫌そうに目を細めた物間くんに、目を白黒させるわたし。戸惑うわたしが一歩退くと、彼は距離を詰めるように一歩踏み出した。

 

「ねえ空中さん、君は何に対して謝ってるんだい」

「……こんな“個性”を持ってるくせに、みんなに隠して、のうのうとヒーローを目指してる、こと」

「申し訳ないって思うの?」

「……、うん」

「じゃあやめたら?」

 

「……え、」

 

 ごつん、と羽根ごと背中が配管にぶつかる。軽すぎる衝撃に痛みなどない。ただ喉が、カラカラに乾いていた。

 

「申し訳なさで心が辛いなら、いっそやめてしまったら? 君が道半ばでヒーローを諦めたら、……まァとやかく言うやつはいるだろうけど、それでも君の意志を曲げてまでどうこうする人はいないはずだよ」

 

 ──それはきっと違う。公安は、わたしが治癒を扱える、使い勝手のいいヒーローになることを望んでいる。こんな厄介な“個性”と境遇の子どもをわざわざ育てたのはそのためだ。わたしが別の道に進むことを彼らは許可しないだろう。

 

 ……頭の中の冷静な部分がそう結論を弾き出した。けれど同時に、心が燃えるように熱く、ひとつの言葉(・・・・・・)を叫んでいる。

 

「……嫌だ」

 

 ぽろりと溢れたその言葉に、わたしはきつく唇を噛む。

 嫌だ(・・)なんて、まるで幼い子どもの駄々みたいだ。ぎこちなくてみっともない。我が儘言うなとか、現実を弁えろなんて言われても仕方ない。

 

「嫌だ。わたしは、……ヒーローになることを、諦めない」

 

 それでも、──それでも。

 言葉が、想いが、次から次へと溢れてやまない。

 

「……どうして? 罪悪感だの申し訳なさだのを抱えてヒーローになったって、誰も幸せにはなれないんじゃないかな」

「そうかも、しれない。……わたしの始まりは罪悪感だった。奪ってしまった責任を取らないとって、もう二度と奪わない、誰かに何かを与えられる人間にならないとって、そう思っていた」

 

 言いながら気づく。“思っていた(・・)”──既に過去にした想いを振り返れば、これまで歩いてきた道程が脳裏に思い浮かぶ。辛い訓練も寂しい思い出も、やりきれない気持ちに眠れなくなる夜だって、きっと確かにあったけれど。

 

 

『──愛依(あい)、』

 

 

 ……ああ、と、涙を堪えて微笑んだ。

 目蓋の裏にはいつだって、あなたが一番に浮かぶ。

 

 

「わたしは、もう、罪悪感だけでヒーローを目指してない」

 

 熱い目蓋を下ろして、ゆっくりと息をつく。脳裏に今も鮮やかに蘇る記憶は、確かな痛みを孕むけれど、もうそれだけではない。

 奪ってしまった両親の“個性”。壊れてしまった家族。モノクロのベランダ。寒くて寂しくて苦しくて悲しくて──そんな雪の日をホークスが越えさせてくれた。ひとりきりで閉じ籠るわたしに、何度も優しい声を届けてくれた。自分で擲ったわたしの命に手を差し伸べて、救い上げてくれたのだ。

 

「“ありがとう”って、言ってもらえたの。“生きていてほしい”って、……“一緒に生きよう”って、わたしの未来を明るく照らしてくれた」

 

 それがどんなに嬉しかったか、きっと誰にもわからない。どんなに嬉しかったか、安堵したか。真っ暗だった心に光が射したあの瞬間を思い出せば、どんなに勇気が溢れてくるか──きっとホークスにだってわからない。

 

「その人みたいになりたくて、その人の力になりたくて、……だからわたしはどんなに狡いって、図々しいって言われても、この力でヒーローになってみせる」

 

 わたしは優秀ではないし、勇敢でもない。臆病で卑怯で弱い──ヒーローとは程遠い人間だと自覚している。だからこうしてすぐにうじうじと俯いて立ち止まってしまうけれど、それでもその度に過去を振り返れば、答えはそこにある。

 

 わたしの原点(オリジン)で、いつもホークスが笑っている。

 

 

「罪悪感は、きっと二度と忘れられない。捨てられない。

 ……それでも前に進むことは、できるはずだから」

 

 

 言い切って、は、と小さく吐き出した息が夜風に浚われる。配管を縫って吹き抜ける風に背中を押された気がして、わたしは顔を上げた。そうして、……目を瞬かせる。

 

「……はじめからそう言えばいいんだよ」

 

 だって物間くんが、今まで見たことないくらい、穏やかに笑っていたから。それは酷く、……嬉しそうに、見えて。

 

「物間く、」

「だいたいねぇ!? うじうじ悩む君の態度もどうかと思うんだよ僕は」

「えっ、い、いきなりのダメ出し……!?」

「何だい? 不満がある?」

 

 けれどその柔らかい笑顔も束の間、彼は瞬く間に表情を変える。わたしを叱りつけるようなそれから、フッと可笑しげに眉を上げて。

 

「向かう先が見えてるなら、僕なんかの言葉に俯くなよ」

 

 そうしてわたしに語りかける声色もまた、さっきまでとは全く違っていて。呆然とするわたしを、真っ直ぐに青い目は見据える。

 

「胸を張れよ、空中さん。もっと自信もって堂々としたらいいんだ」

「……いきなりは難しい、かな」

「なんでだい? 君はその“個性”を持ちながら、ここまでやって来たじゃないか」

 

 彼は緩く首を傾げた。さらりと細い金髪が流れて、月の光を受けて輝く。

 

「君は自分の“個性”を“奪うだけのもの”って称した。なるほど確かに、そのままじゃ(ヴィラン)にうってつけの“個性”かもね。

 ──でも君はそこで終わらなかった」

 

 両腕を広げながら、彼は言葉を続ける。それはさながらストーリーテラーのよう。すらすらと紡がれる声は涼やかだ。

 

「諦めなかった。努力し続けた。ヒーローであろうとした。

 だからこそ今、この雄英にいるんだろ?」

 

 けれどその底に、彼が灯し続けてきた、確かな熱を感じる。

 

「はじめにどんな“個性”を持っていたって、結局のところ人の歩む先を決めるのは、その人の意志に依る」

 

 物間くんは口の端を吊り上げて笑っている。その目は期待だとか歓喜だとか、そうした感情を宿してきらりと光っていた。

 

「君の【依存】っていう“個性”は、その証になるんじゃないのかな」

 

 ──そう、まるで光のようだった。

 その金色の髪も、碧眼も。わたしに向けられた言葉も。

 

「……わたしの“個性”が、証に?」

「もしくは、(しるべ)に」

 

 いつの間にか夜空は、大きな月に照らされて紺色に染まっていた。ひとつひとつ、それぞれの光を放つ星々を背に、彼は頷く。

 

「この超常社会は“個性”社会──“個性”至上主義社会ともいえる。ヒーローっぽい“個性”は讃えられ、そうでない“個性”は見下される。

 そんな中で、どうだ? 誰より(ヴィラン)っぽい“個性”を持つ君が、誰より正しくヒーローになって活躍する。……アッハッハ! どうだい、痛快じゃあないか!」

 

 悪どく高らかに笑ってみせた物間くんは、次いでその金糸を掻き上げた。ちょっと格好つけたようだけれど、その刹那、さらりと流れる髪の隙間から、彼の目元が垣間見えた。

 それはいつかの過去を優しく見つめ直すような、そんな眼差し。

 

「少なくとも僕は、ただ高みから手を差し伸べられるよりよっぽど心に響いたね」

「高み……?」

「“何でも持ってる奴”から、そうだな、例えば──【君はヒーローになれる】って言われたところで、【そりゃあなただったらそう思えるだろうさ】って思うだけだろう?」

「それはちょっとひねくれすぎてるんじゃ……」

「ひねくれてる奴らは、このご時世いくらでもいるさ」

 

 彼はわたしに向けて手を差し伸べた。そうしてゆっくりと、噛み締めるように口を開く。

 

 

「そんなひねくれてる奴らに、君だから声が届く。君だから手を伸ばせる。君だから救いになれる。──君だから持てる説得力だ」

 

 

 ──“わたしだから”。

 彼の言葉を反芻して、暫く。ぽとんと落ちてきたそれは心に波紋を散らした。ゆらゆら波打って、揺れて、……溢れる。

 

「ハ……ハァ!? なんでこのタイミングで泣くんだよ!?」

「ち、ちが、……泣いてない……」

「いやそんなわけないだろ」

「これは、う、ん、そう……目から鱗というか……」

「君ってワケわからないことも言うんだね」

 

 物間くんはため息をつきながら、わたしにハンカチを差し出した。それをお礼を言って受け取りながら、わたしはほろほろと笑う。

 

「びっくり、したんだよ。こんな“個性”だって知られたら、責められると思ってた。軽蔑されても仕方ないって、覚悟してたから。

 ……それなのに物間くん、“痛快だ”なんて、……“説得力”だなんて、言うんだもの」

 

 ほろほろ、笑う。ほろほろ、溢れ落ちて輪郭を伝った涙がハンカチに吸い込まれていく。きっと今のわたしは頬どころか鼻まで真っ赤でぐちゃぐちゃだ。だからか物間くんは、ふっと、仕方ないなと言いたげに笑って、わたしの手からハンカチを取ってわたしの目元に押し当てた。

 

「わぶ、……物間くん?」

「言っただろ。僕と君の“個性”は似てるんだ」

 

 ごしごし、やや乱暴にわたしの涙を拭き取って、彼は告げる。

 

「僕も、君も。清濁併せ呑んで、主役を喰って、最後の最後に舞台の中央で笑ってやるのさ!!」

 

 “胸を張れ”。“堂々と笑ってみせろ”。

 ……ああそうか、それを物間くんはわたしに伝えたかったのかと、ようやく全てが腑に落ちて、わたしは眉を下げて笑った。この人は本当に回りくどくて、わかりづらいけれど、……根っから嫌な人ではないんだなと。

 

「……ふふ。じゃあ物間くん、もっと言葉を柔らかくしないとね」

「いや話聞いてた?? 清濁併せ呑むんだよ。真っ当に戦ってちゃ勝てな……」

「そのためとはいえ、わざとあなたが偽悪的に振る舞うの、やっぱり勿体無いよ」

 

 そっと物間くんの手を両手でとる。その手が少し汗ばんで熱いことも、もう過度に恐れる必要がないことも、今この夜、わかったから。教わったから。

 

「だってわたし、今、物間くんの言葉で救われたんだよ」

 

 息を飲む音は本当に微かだったけれど、わたしの羽根は拾い上げた。その後言葉にならない言葉が彼の口の中でもごもご転がっているのだって、聞こえる。伝わる。

 

「……。……、」

「あれ、……もしかして物間くん、照れてる?」

「……君は案外イイ性格してるね」

「ふふ、」

 

 くすくす笑って、目を伏せた。肩を並べてどちらともなく歩き出す。寮への帰り道に響く2人分の足音に交えて、そっと言葉を紡いだ。

 

「……ありがとうね、物間くん」

「……ハッ、人のこと気にする前に、その泣きべそをどうにかしたらいいんじゃないのかなァ?」

「やっぱり一言多いんだよなぁ」

 

 月が清かに輝いている。それは奇しくも、わたしの心を表すかのようだった。

 

 

 

 

 

 

「おやァ?」

「あ、」

「あら」

 

 そうして一夜明けて、午前中の授業を終えた食堂。どこで食べようかとトレーを持ちながら視線を巡らせていたわたしは、物間くんと目が合った。視線が絡んだ先で、彼はかっと目を開けて口角を吊り上げる。

 

「なんだいなんだい空中さんお困りのようだね。席を先んじて取っておかなかったのかい、随分うかつじゃないか!」

「よかった物間くん、この向かい空いてるかな? 座ってもいい?」

「しょうがないなァ!」

「テンション高いね……」

 

 きいん、と羽根を使わずとも鼓膜に直接響く元気な声に、わたしは隣の梅雨ちゃんに向かって眉を下げる。

 

「梅雨ちゃんごめんね、食べるのここでもいい?」

「“ここでも”ってなんだいその言い草は!」

「もう本当にそのままの意味だよ」

 

「……ふふ、」

「梅雨ちゃん?」

 

 再び梅雨ちゃんに視線を戻せば、彼女はにっこりと微笑んでいた。きゅっと笑みのかたちに結ばれた唇が、柔らかにほころぶ。

 

「よかったって思ったのよ。何だか前よりずっと、仲がいいみたいで」

「フム、【雨降って地固まる】というやつだな!」

 

 仲良きことは美しきかなだな!、そう言って快活に笑う飯田くんも、そうだなとクールに頷く轟くんも、そうだといいなぁと苦笑する緑谷くんとお茶子ちゃんも揃って席に着く。わたしも梅雨ちゃんと席に着くと、はす向かいから泡瀬くんがひっそりと声を投げ掛けてきた。

 

「いや空中マジで大丈夫か。雨降りすぎて土砂とか崩れてない?」

「地固まるどころじゃなかったら言えよな」

「流されちゃヤバいぞ特に物間の場合は」

「早めの処置が必要だからな」

「君らは僕のこと何だと思ってるのかなァ!?」

 

「こら、あんまり騒がしくしない!」

 

 泡瀬くんから始まり、回原くん、円場くん、鱗くんと続いた言葉にツッコミを入れる物間くんに、軽くチョップする拳藤さん。A組もB組も一緒になってワイワイしてるのを見るのは林間合宿ぶりだなあ、なんて。そんなことを思い出していたその時。

 

「随分と賑やかだねぇ!!」

「えっ」

「「「ギャーーー!!??」」」

 

 何の前触れもなく机の真ん中に人の顔が浮かび上がって、その場は驚愕に満たされた。叫び声を上げる人、立ち上がりざま椅子を蹴倒す人、びっくりしすぎて息を飲む人……色んな人のリアクションの真ん中で笑う彼の、そのくりっとした丸い目を知っていたから、わたしは呼吸を整えて向き直った。

 

「とっ、通形先輩……こんにちは……」

「こんにちは! いやァいいリアクションが返ってきて漲っちゃうよね!」

「いきなり顔がにゅって出てきたらびっくりしちゃうわ」

「アハハごめんね! まァびっくりすると思ってやってるんだけどね!」

「この人なんなんだ……」

 

 通形先輩はまたハハハ!と笑って、それからわたしの方を見た。つぶらな目が、柔らかく弧を描く。

 

「元気、出たかい?」

「……はい!」

「そりゃよかった!」

 

 元気とユーモアが無い社会に、明るい未来はやって来ない!

 そう豪語した先輩は、またみんなの方を向いて賑やかに話し出した。虚を突かれたみんなの視線も先輩に吸い寄せられているから、

 

「……ね、物間くん」

 

 この隙に、と思って、わたしは向かいに座る物間くんに呼び掛けた。彼の視線がこちらに向いたのを確認して、わたしはハンカチを差し出す。

 

「昨日のハンカチ返すね。改めて、ありがとう」

「……わざわざアイロンまでして律儀だね」

「お礼だもの。このくらい当然だよ」

 

 フン、と鼻で笑うのはもう彼の癖なんだろう。素直に笑えばいいのになあと思う一方で、彼らしいなとも思えてしまうから、わたしもくすくす笑っていた。

 

「フゥン、なるほどね!」

「わっ!?」

「っ、なんなのかなァこの人!?」

 

 と、その時。またもや通形先輩のお顔がわたしと物間くんのすぐ傍に現れる。にゅっと覗いた彼は、物間くんに向かってウンウンと頷いた。

 

「いや物間くん、俺はてっきり君のこと雄英の負の面か何かだと思ってたんだけど、ちょっと違うみたいだね」

「ふ、負の面……」

「ハハハほんとに何言ってるんだろうねェこの人ォ!!」

 

 物間くんの反応からして初対面のはずなのに、先輩は随分グイグイ攻めるなあと苦笑するわたしに、ちょっとやけくそ気味に笑う物間くん。だいぶカオスな状況なのだけれど、その状況を生み出した張本人はどこか満足げだ。

 満足げに笑って、頷いて、口を開く。

 

「……やっぱりね。俺は、君たちはそんなに弱くはないと思ってたんだよね」

「? 先輩……?」

 

 彼がぽつりと呟いたそれは、食堂の喧騒にほとんど呑まれていて、わたしの羽根でようやく拾えたぐらいの微かな声だった。小さく、けれど揺らぎのない、芯のある声。

 そうして彼は再びそのつぶらな瞳で、わたしたちをしっかと見据えた。

 

 

「ねぇ空中さん、物間くんも──インターンって知ってるかい?」

 

 

 通形先輩の口にしたその言葉が、これからの大きな転機になることを、わたしたちはまだ知らない。

 

 

81.少女、地固まる。

 

 


 

 

 更新速度毎度死んでいますどうも(白目)何だか最近は1ヶ月更新がデフォルトになりつつありますね……筆の進まなさに心折れそうになるたび皆様の閲覧、感想、評価等々に力を頂いています。本当にn度目ですが毎回大感謝しております。

 

 今回は物間くんのターンがめいっぱい書けて個人的に満足です!彼は言動がアレ過ぎて対人関係で未熟なところはあるのですが、根っこまで悪人ではないと思うんですよね。自分はそう思うので物間くんが好きです。だからこのssではオリ主の“個性”の真相に初めて気づき、オリ主の意志に肯定し、可能性を広げるというキーパーソンになってもらいました。彼が示した【オリ主だからこその説得力】はこれから大切に扱っていきたいテーマです。

 オリジナル展開が続く【雄英新生活編】ですが、あと2、3話ぐらいでとどめたいと思っております。またお付き合いいただければ幸いです。



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82.少女、インターンに向けて。

 

「ねぇ空中(そらなか)さん、物間くんも──インターンって知ってるかい?」

 

 インターン。それは一般的に職業体験制度としてのインターンシップを指す。特定の職の経験を積むために企業や組織で労働に従事する期間──けれどこの流れで告げられた“インターン”とはもっと特別な意味を持つのだろう。だってミリオ先輩の目は、強い意志を以て煌めいている。

 

「……インターン、というのは」

校外活動(ヒーローインターン)。平たく言えば校外でのヒーロー活動。君たちは1学期に職場体験に行ったね?」

「はい」

「ヒーローインターンってのは、それの本格版なんだよね!」

 

 ミリオ先輩は笑顔のまま続ける。曰く、ヒーローという仕事をお客として“体験”する職場体験とは異なり、仮免を取得したことによりより本格的・長期的にヒーロー活動をするのだそうで。

 

「現場でしか得られない経験は、絶対に、君たちの糧になる」

 

 確信めいた強い声で、そう言い切る。はじめは訝しげに眉を潜めていた物間くんもいつの間にか、青い目を開いて真摯に聞き入っている。

 わたしだって、そうだ。目の前に示された強くなるための道に、手を伸ばさずにはいられない。先輩にもっと詳しいことを訊こうと口を開いた──そのときだった。

 

「、ミリオ、それは……!」

 

 通形先輩の腕を掴んだのは天喰先輩だった。彼は焦ったように眉を寄せ、声を揺らしている。けれどそんな彼とは裏腹に、通形先輩は落ち着き払って頷いた。

 

「うん、黙ってろって話だったよね」

「“黙ってろ”って、いうのは……」

「……へえ、ヒーローインターンのこと、僕ら1年には口外するなってことですか」

「それは……、」

 

 天喰先輩は気まずそうに視線を移ろわせて俯いた。否定は、しない。彼ははっきりと口にしなかったけれど、その沈黙は何より雄弁だ。

 

「……わたしのせい、ですね」

 

 USJ、林間合宿、そして神野に、果ては仮免試験。それらの騒動を経て雄英に向けられた目は未だ厳しい。そんな状況で渦中の1年生を送り出すことはできなかったのだろう。

 ……先生方に心労を掛け、1年生の成長の機会を奪ってしまった。そのことを思えば、俯きたくなってしまうけれど。

 

「それは違うよ。空中さん」

 

 その声に顔を上げれば、つぶらな瞳がわたしを真っ直ぐ見つめていた。口許の笑顔は引き結ばれ、ただ真摯な眼差しがわたしに注がれる。

 

「誰かのせいってワケじゃない。君たちを守るためだよ」

 

 両肩に置かれた手は、温かかった。そうして彼はぱちんとウインク。ただ庇護する優しさだけでなく、明るい茶目っ気と、揺るぎない確信を織り混ぜた眼差し。

 

「でも君は、どうやらそこで大人しくしてるってタイプじゃなさそうだって、俺は思ったんだよね」

 

「、……はい」

 

 “その通りです”、と続けたわたしに、通形先輩はまるで太陽のように笑った。

 

 

 

 

 

「駄目だ。許可できん」

「……、」

 

 通形先輩たちと別れて向かった職員室で待ち受けていたのは、相澤先生のきっぱりとした言葉だった。……すんなり上手くいくとはハナから思っていない。呼吸を整えて、向き直る。

 

「わたしたちの身の安全を、慮ってくださっていることはわかります。わたしは林間合宿や神野に引き続き、仮免試験でも(ヴィラン)と接触している。ご迷惑やご心配をお掛けしたことは理解しています。それでも、」

「迷惑じゃない」

 

 つらつら続く言葉を遮り、先生はわたしを見据える。

 

「迷惑じゃない。そこだけは履き違えるな」

 

 長い黒髪から覗く目は、声は、静かだ。けれどそこに揺るぎない意志を感じて、思わずわたしは胸元を握り締めた。気圧されたのだ。

 

「そもそもインターンは正規のカリキュラムとは違い、生徒の自主性によるものだ。無理に受けずとも支障はない」

「……自主性によるのであれば、わたしも、」

「雄英が何度も襲撃されて、(ヴィラン)連合がなおも逃げおおせている今、街中で行動するのはリスクがでかすぎる」

 

 “おまえならわかるだろう”、なんて先生は言わない。けれどわたしの脳裏には仮免試験の一件が浮かんでいた。公安や数多のヒーローが集う試験場に潜り込んでみせたあの人──トガヒミコは潜伏・奇襲に特化している。

 ……彼女と相対して、その奇襲を受けたわたしが、“問題ない”なんて言うことはできない。先生の言うリスクをはね除けて、説得しなければならないのに。

 

「それは、……確かに、そうかもしれませんが……」

 

 焦りがわたしの舌をまごつかせる。対する相澤先生はつと目をすがめて、それから口を開いた。

 

「塚内警部にグラントリノを中心に組まれた(ヴィラン)連合捜索チームだが、近々プッシーキャッツが加わり調査に当たる予定になっている」

「プッシーキャッツも、ですか?」

「ラグドールの“個性”【サーチ】は、一度補足したものの弱点や居場所を見透せる。その情報をマンダレイの【テレパス】で伝達、ピクシーボブの【土流】による地形変化で追い込み、虎が組み付き捕える」

 

 捕物にも優れた“個性”でありチームだと、相澤先生は続ける。一切の淀みなく紡がれる言葉は、まるで流れる水のようだった。わたしの意固地をほどいて、押し流さんとするような。

 

「実際のヒーローの現場で積める経験は、確かに貴重だ。おまえたちを更に成長させてくれるだろう。……だが今すぐじゃなくていい」

 

 先生の目が、据わっている。欠片の揺らぎもなく。

 

「彼らが(ヴィラン)連合を捕縛してからでも、遅くはない」

 

 ──わたしに、“今は諦めろ”と、諭している。

 

「……相澤、先生、」

 

 

 

 ──どうする。どうしたら、

 もし(ヴィラン)連合にまたわたしが襲われたら、また、雄英が責められる。たくさんの迷惑を掛けることになる。それは絶対に許されない。

 だから、その間は守ってもらうの?

 たくさんの人たちに、先生に、ヒーローたちに、

 

 ……ホークスに?

 

 

 

「……相澤先生のお考えはよくわかりました」

 

 閉じていた目蓋をゆっくりと開けて、相澤先生を見つめ返す。視線が、ぶつかる。その眼差しは強いけれど、決してわたしを責めているわけではないことはわかった。

 わかっている。相澤先生はわたしを心配してくださっている。守ろうとして、くださっているのだと。

 

「すみません。……けれどわたしは、理解はできても納得はできない」

「空中、」

「わたしは」

 

「……わたしは、守られるばかりのヒーローになりたくありません」

 

 逸る呼吸を努めて整えて、わたしは口を開いた。脳裏にはあの夏の日々が浮かんでいる。

 

「夏休みに行ったI・アイランドで、わたしはある(ヴィラン)に遭遇しました。彼はわたしの治癒を悪用すべく、拉致しようとした。……“わたしの治癒を有効活用する”だとか、言って、」

 

 “従順に翼を畳んで檻に入れば、優しく囲ってやる。”

 “おまえはただ、目の前に連れてこられる人間を治癒していればいい。数多の苦痛を癒すヒーローになればいい。”

 “他には何も、考えなくていい。”

 

 わたしはそれを、反吐が出ると一蹴した。けれど出来たことと言えばそれだけだ。金属の鞭に捕らえられて、ただ不格好に身を捩らせていただけ。

 そうしてホークスに救けられるまで、何もできなかった。

 

(ヴィラン)連合だけじゃ、ないはずです。わたしはきっとこの先、治癒を目当てにする人たちと相対していかなければならない。その度にただ守られるのではなくて、ちゃんと自分の力で、自分の身と意志を守れるようになりたいんです」

「守られることが不満か? 自分の不得手を他者と補い合う、そういうヒーローの在り方もある」

「……、確かに、そうです。けれど、」

 

 先生の言うことは尤もだ。けれどここで頷くわけにはいかないから、努めて声を張って、わたしは言い募る。

 

「後方にはリカバリーガールがいてくださる。だからこそわたしは、また違うかたちのヒーローとして在りたいと思っています」

 

 脳裏に浮かぶのは夏の日。あの神野の暗い夜。あの瓦礫と化した街で、わたしはどうあったら、より多くの人を救けることができたのか。

 

「この治癒と【翼】を以て、もっと速く、誰の元へも駆けつけられるヒーローになりたい。もっともっと、早く、……みんなの傷を癒すことのできるヒーローに、なりたいんです」

 

 救けを求める人は、危機の最中で待っている。

 たとえ交通機関の全てが絶たれても、危険な戦闘に道を塞がれたとしても、わたしが【翼】を以て空を行けば。(ヴィラン)よりも速く、命の火が潰えるよりも早く──この手で触れることができたなら。

 それが出来ていたのなら、きっとこの手は、もっと多くの命を救えていた。

 

「仮免の時も、【前に進みたい】とわたしは言いました。

 今も変わらず、同じ気持ちです」

 

 緩く開いた手を見つめ、決意とともに握る。そうして視線を先生に戻した。この手を伸ばす決意と、冷えきった血液の感触を、わたしは忘れられない。……忘れない。忘れては、いけないから。

 

「できることは全て、やっていきたい。わたしの出来得る全てで強くなっていきたいんです。

 だから、どうか。──どうか、」

 

 相澤先生の眼差しは、依然として静かだ。からからに乾いた喉をぐっと引き締めて、深く深く頭を下げる。

 

「お願いします、相澤先生。……インターンを許可してください」

 

 そうして沙汰を待つ間、しんと沈黙が垂れ込めた。職員室にいる他の先生方も固唾を飲んでいるようだ。窺うような沈黙の中──微かな布ずれの音を羽根が拾い上げた。相澤先生が、小さく息を吐く。

 

「……空中、おまえの思いや熱意はわかった」

 

 “だが──”

 先生はそう続けたかったのだろう、そんな気配がして、わたしは焦りとともに胸元を握り締めた。ここで折れてはいけない。先生の優しさを、思いを、説得しなければいけない。これで足りないならもっと言葉と行動を尽くさなければと、わたしは慌てて顔を上げる。

 

「少しお待ちいただけますか? イレイザーヘッド」

 

 そんなときだった。涼やかな声が後方から割って入って、わたしは驚きに振り返る。そんなわたしの肩に手を置いて、()は小声で囁いた。

 

「……真っ向からなんて、馬鹿なのかな?」

 

 小首を傾げた拍子に、その金髪がさらりと流れる。

 

「……物間くん……?」

「感情論だけで先生を捩じ伏せようだなんて、随分と浅はかだね」

 

 物間くんは青い目をすがめる。そうして口の端を持ち上げて、呆れたように肩を竦めた。

 

「先生方が僕らを守ろうとする気持ちに、真っ向から勝てると思ってるんだ?」

「……それは、」

 

 口ごもるわたしに“ほんと馬鹿だね”と薄く笑って、彼は続ける。

 

「君は交渉というものを知らないらしい」

 

 そうして彼はわたしを追い越し、相澤先生の前に進み出た。すらりと背筋を伸ばし、両腕を広げる。それはまるでステージに立つ演者のように、彼はすらすらと語り出した。

 

「ねえイレイザーヘッド。要は僕たち学生に、(ヴィラン)連合による危険が及ばなければいいんですよね」

「ああ」

「であれば。(ヴィラン)連合が接触を躊躇うような……尚且つインターン受け入れの実績が多い事務所に依頼すれば、その点はクリアできるのではないでしょうか」

 

「……!」

「……確かにな」

 

 物間くんの提案に相澤先生は頷く。ゆらりと黒髪が揺れて、その隙間から覗く目が物間くんを射た。

 

「だがそうまでして、インターンに今行く必要があるのかどうかは疑問が残る」

「なるほど? 確かにわざわざ事務所に負担を掛けるでなく、雄英でコツコツ真摯に学ぶことは僕らの糧になる。むしろそっちの方が何のトラブルもなく真面目に強くなっていける。素晴らしいことですよね」

「!? っちょ……、」

 

 彼はどっちの味方をしてくれるつもりなのか。このまま相澤先生に同意するつもりなのかと慌てるわたしを見もせずに、彼は手で制した。彼の涼やかな視線は、依然として相澤先生に向かっている。

 

「ですがイレイザーヘッド。残念ながら彼女はそれで満足しないらしい。もっともっと、と、貪欲にすべての経験を糧にして、“更に向こうへ”強くなろうとしている」

 

 物間くんはわたしを、見もしない。

 それでも彼の背中に、言葉に、手の震えが収まっていくのがわかった。

 

「僕には正直、理解できないですよ。トラブルばかり起こして不相応な目立ち方をする者がやたらと持ち上げられるのは理解できない。……できなかった」

 

 物間くんはやれやれと言わんばかりに首を振って、それからゆっくりと顔を上げた。その表情は、わたしのいる位置からはわからないけれど、

 

「……そういえばイレイザーヘッド先生。あなたは、体育祭の騎馬戦での実況で仰有っていましたよね」

 

 彼の声ががらりと色を変える。低く、刺すような、氷柱のような声色。その雰囲気にこくりと唾を飲みながら、わたしはいつかの時を想起した。

 

 

 雄英体育祭。その第二種目として行われた騎馬戦。それぞれの選手がチームで騎馬を組み、“個性”を駆使して鉢巻を奪い合ったあの時。B組の男の子たちと騎馬を組んでいた物間くんは、第一種目ではあえて(・・・)“個性”を温存して中下位に甘んじ、騎馬戦で意表を突くことで一気に上位に躍り出た。爆豪くんの鉢巻を奪って薄く笑っていた彼の顔を、傍で見ていたわたしも覚えている。

 

『単純なんだよ──A組』

 

 けれどそこで、爆豪くんは諦めなかった。残り僅かな時間の中、【爆破】を駆使して飛んで、挑みかかり、奪われた鉢巻を奪い返していた。これで予選突破は確実──守りに入って堅実にいってもいいところを、けれど爆豪くんは吼えた。

 

『まだだ!!!』

『完膚なきまでの1位なんだよ取るのは!!』

 

 そうして彼は、自分のチームである切島くんや芦戸さん、瀬呂くんを鼓舞し、更に物間くんに挑みかかった。そのままでも予選は突破できるのに、逆に反撃に遭って鉢巻を奪われる可能性だってあるのに、だ。

 

『……常にトップを狙う者と、そうでない者(・・・・・・)の差』

 

 ただ、ただ。勝利をひたむきに見据えて戦う。

 そんな爆豪くんたちを見て、相澤先生はぼそりと呟いた。

 

『その執念を、考慮していなかったことだな』

 

 

 

アレ(・・)は、僕のこと、ですね?」

 

 物間くんは、笑ったようだった。そんな声をしていた。

 

「なるほどなるほど! 確かにあの爆豪くんと僕は違う。イレイザー先生、あなたの仰有る通りですよ」

 

 手を打ち鳴らして笑う。その声音は明るくはっきりしていたけれど、その心情まで明るいとは言い難いだろう。

 だってすぐにその芝居がかった笑みは鳴りを潜め、痛いほどの沈黙が流れた。凪いで、どこかひりついてさえいる空気を、物間くんの声が震わす。

 

「……けれど僕だって、上を目指してないとは言ってない」

 

 淡々とした声の底に、隠しきれない熱がある。

 きっとこれはわたしの勘違いではないだろう。そう確信するだけの感情の一端に触れた気がして、わたしは震える指先を握り込んだ。そんな有り様のわたしとは裏腹に、物間くんは堂々としている。しゃんと背筋を伸ばし、真っ直ぐ先生に向き合って。

 

「あなたがそうまで“貪欲になれ”と仰有るのなら、僕らが喰らう糧を用意していただけると嬉しいですね」

 

 そうして物間くんが口にした言葉を、相澤先生は目を閉じて受け止めた。しばらくの黙考の後、ゆっくり目蓋を押し上げる。

 

「……強いヒーローに、なるため、か」

「……、先生?」

 

 伏せがちの黒い目が、ゆらりと揺らめく。それは思案の海に沈んでいるようにも、どこか遠い、いつかの時を見つめているようにも思えた。遠い、いつかの、誰か(・・)を──

 けれどそれもしばらくして、先生の視線はわたしたちに戻った。彼はひとつ微かな溜め息をついて、自身の黒髪をがしがしとかき混ぜる。

 

「……インターン受け入れの実績が多い事務所に依頼する。その方向で職員会議に議題を挙げる」

「! ありがとうございます……!」

「礼は要らん。まだ承認されるかどうかも決まっていない」

「いいえ、だからこそ(・・・・・)、ありがとうございますと言っておくんです」

「……喰えない奴だな」

「褒め言葉ですねェ!」

 

 くわッと笑う物間くんと頭を下げるわたしに、「はよ行け」と相澤先生は手を振った。半眼になったその目は、どこか疲れたように見えて。

 

「……相澤先生、あの、す……」

「謝るな」

 

 わたしの我儘で、心労を掛けてしまったのだ。そのことについて謝ろうとするわたしを見抜いたのか、先んじて先生は口を開いた。口を結ぶわたしを見て、彼は目を細める。

 

「空中、……おまえが謝る必要もないんだ」

 

 先生の声が、あまりに柔らかく響いたから、わたしは返すべき言葉を見つけられなかった。沈黙して立ち尽くすわたしの腕を、同じく黙したままの物間くんが引く。

 そうして職員室を辞した彼はわたしの腕を離して歩き出したから、わたしはその背中に呼び掛けた。

 

「……あの、物間くん、ありがとう」

 

 昼休みの終わり。遠くの教室や中庭からは賑やかな声が聞こえてくるけれど、この廊下は人通りが少なく静まり返っていた。小走りで駆け寄る足音さえ、わたしの小さな声さえ、やけに大きく響く。

 

「わたし1人では、きっと相澤先生を説得できなかったから。……本当にありが、」

「ちょっと自惚れが過ぎるんじゃないのかなァ!?」

「えっ」

 

 だから、物間くんのその声は余計に大きく響き渡った。びっくりして声を裏返すわたしを見て、彼は不服そうに鼻を鳴らす。

 

「君のために言ったんじゃないからね。勝手に履き違えないでくれる?」

「え、と……」

 

 混乱する思考を紐解いて、彼の言葉の意味を辿る。相澤先生を説得してくれたのは、わたしのためじゃない。インターンに行けるように交渉してくれたのは、わたしのためではなくて……、

 

「……じゃあ物間くんも、インターンに行くつもりなの?」

 

 彼は何も答えずに肩を竦めた。けれどそれが“肯定”を示していることはわかる気がして、わたしはどうしてと問いかけた。どうして。物間くんなら、こんなリスクもあるような真似は嫌がるだろうに。

 そう問いかけたわたしに、物間くんは眉間に皺を寄せた。面倒そうな、面白くなさそうなその表情のまま、彼は言う。

 

「夏休みのあの一件で、こんなにも社会が荒れている今、渦中にある雄英生が街中でインターン生として活動する。そのリスクがわからない君じゃないだろ?」

「……うん」

 

 頷くと、彼はふっと眦を緩めた。

 “しょうがないやつ”、と言いたげに。

 

「それでも君は“行く”って言うんだ。全く本当に、理解しがたい」

 

 まるで眩しいものを見つめたみたいに目を細めて、彼はふいっと視線を逸らした。その背中をしばらく見つめてから、わたしは追い掛ける。隣に並んで歩き始めた。

 

「だいたいね、ハイリスク過ぎるんだよ」

「うん」

「雄英でも十分な学びがある。それの何が不満?」

「不満じゃないよ。でももっと、色んな経験を積みたい」

「貪欲すぎて呆れるぜ」

「ふふ、うん」

「……何をにこにこしてるんだか」

「だって、物間くんもなんでしょう?」

 

 隣で歩く彼を見上げて、わたしは嬉しくなって笑う。

 

「わたしとあなたで、行き先は一緒じゃないかもしれない。経験できることだってきっと違う。けれど、そういうことじゃなくって、」

 

 何が物間くんの考えを変えたのかはわからない。

 それでも少しずつ何かが変わろうとしている。ゆっくりと、少しずつ、彼も前に進もうとしている。

 それがどうしようもなく、心強くて嬉しかったのだ。

 

「一緒に頑張って、強くなろうね」

 

 だから頬をゆるゆるさせるわたしに、物間くんはまたも眉間に皺を寄せた。面倒そうに、面白くなさげに、くしゃりと口許を歪ませる。

 

「……ハーーーーーーァ、」

「深い溜め息」

「誰かさんの考えなしっぷりに頭が痛くなってるのさ」

「ひどいなあ」

 

 “べつに君のためじゃない”と彼は言うし、実際そうなのだと思う。けれど頑張っている人の存在は、確かにわたしの力になるから。

 

「やっぱり言っておきたいな、……本当にありがとうね」

「君のためじゃないって言ったろ」

「うん、わかってる」

「……何その顔」

 

 ふすふす笑うわたしに、ハァ、と溜め息を吐く物間くん。そんなちぐはぐで穏やかな昼下がりに、微かな音が割り入った。その振動を辿った物間くんが、わたしを見る。

 

「君のスマホ鳴ってるけど」

「ほんとだ、ちょっとごめん……」

 

 断りを入れてスマホを取り出すと、その画面に表示されていたのは見知った、けれど意外な人の名前だった。驚きに息を飲んで、一拍置いてその電話を取る。

 

「……、もしもし」

《突然連絡してすまない。今少し話せるか》

「はい、大丈夫です……最上(もがみ)博士」

 

 最上(かい)博士。世界中の科学研究者たちが集う巨大人工移動都市I・アイランドで出会った“個性”研究者。彼は“個性”の鎮静化を専門とし、対(ヴィラン)用のサポートアイテムを数々開発していて、つい先日わたしもヘッドフォンを作ってもらったばかり。

 普段はI・アイランドで研究に明け暮れている多忙な人だ。そんな博士が、何の用事で電話を掛けてきたのか。 

 

《明日は土曜日で、雄英も午後から授業はない。それに間違いないな?》

「え? は、はい、そうですが」

《ならいい》

「“ならいい”……? ええと、それは、」

 

《あっ、最上博士! お電話中ですか?》

 

 何の用事か。何らかの異常事態が起きたのか。身構えていたわたしに対し、博士は至ってマイペースに疑問を解決してしまったようだ。戸惑うわたしを他所に、電話の向こうで話は進んでいく。

 

《ちょうどいい。詳しいことはおまえから話しておけ》

《えっ? 構いませんけど博士は?》

《用事》

 

「あ、あの……?」

《あっ、ごめんなさい! 愛依さん、久しぶりね!》

「! メリッサさん……!」

 

 お久しぶりです、と返せば、電話越しに嬉しそうな声がころころ転がった。メリッサ・シールドさん。世界的な“個性”科学者の一人・デヴィット・シールド博士の一人娘。彼女もまた夏休みに起きたI・アイランドの事件で知り合った一人だ。……お父さんが事件の責任を取り警察に出頭してから、最上博士の研究室に入ったと聞いていたけれど……うん、声を聞く限りは元気そうだ。ほっと安堵の息をつく。

 

《あ、そうそう。さっき最上博士が言ってた“詳しいこと”っていうのはね……》

 

 彼女はふふ、と笑う。はじめはないしょ話をするように密やかだった声が、次第に抑えきれない喜びに合わせて明るく弾んだ。

 

《明日、私と最上博士でそちらのアカデミー……雄英高校に行くことになったの!》

 

「……え?」

 

 

 

 

 

 そんなことがあった翌日。午前中の授業を終えたわたしたちは寮の談話室にいた。ある人はそわそわと、ある人はわくわくと来訪者を待ちわびていた、そんな時。

 

「! デクくん! みんな!」

「メリッサさん!」

「わぁ、お久しぶりです!」

「お元気そうで何よりですわ」

「「メリッサさん相変わらずお綺麗で!」」

「こいつらうっさ……」

「オイてめェら離せやゴラ……!!」

「おうこういう時はにこやかでいた方がいいと思うぜ!」

「爆豪には無理なんじゃねぇか?」

「ンだ半分野郎が喧嘩売ってンのか!!」

「どうどう! どーうどう! んもう! 静粛にしたまえ!」 

 

 あの事件で深く関わった緑谷くんをはじめ、お茶子ちゃんや耳郎さん、八百万さん、飯田くんに轟くん、峰田くん……そっぽを向いた爆豪くんは上鳴くんと切島くんによって両サイドから腕を掴まれているけれど、それでもみんな再会を喜んで笑顔がほころんでいる。……いやまぁ若干1名の表情や態度はアレだけれど、メリッサさんも嬉しそうだ。

 彼らを遠巻きに見守っていたその時、羽根がひとつの足音を拾い上げた。真っ直ぐこちらに向かってくるその人に、常闇くんと並んで向き直る。

 

「空中、常闇」

「最上博士! お久しぶりです」

「息災そうで何より」

「まぁな。じゃあ早速本題に入るが……」

 

 彼は手に持っていたアタッシュケースを床に置き、そのバックルを外した。中に入っていたのは4本の細長い機械……例えるならカメラを固定する三脚が一番近いだろうか。けれど三本の脚部にはそれぞれを繋ぐように円形の機構がついていて、博士が何か操作すると仄かに光り、ふわりと宙に浮き上がった。何だ何だと見守っていたみんなの目がワアッと輝く。

 

「飛んだァ!」

「スゲー飛んだ! プロペラとかないけど飛んだ!」

「飛行モービルの応用だ」

「ファン⚫ルだコレ!」

「は? 漏斗? 何を言っている?」

「多分博士の言う漏斗(funnel)じゃないので怒らないで……」

 

 わたしがこそっと言えば、博士は納得しきらない顔でひとまずは頷いてくれた。そしてまた手元のデバイスを操作、すると──浮き上がった四本の機械から光が放たれ、結ばれ、光壁をなし──その内部にいた常闇くんの周囲がふっと暗くなった。まるで光の全てが、闇に呑まれて消えたみたいに。

 

「オーッ! ココ暗クテイーナ! フミカゲ!」

「なんと……なんと深い闇の帳! 博士、これは……!」

「お前が夏に注文していた品だ。原理としては熱帯雨林に生息するアゲハチョウの一種トリバネチョウの鱗粉を参考にしている。彼の鱗粉は重なることで六角形のハニカム構造をしたミクロサイズの模様を作り出し太陽光はそのハニカム構造によって屈折して黒い色素まで伝えられ吸収されるちなみに液体……水の屈折率は1.3なのに対しトリバネチョウの鱗粉の屈折率は1.6と更に高く色素が光を最大限に吸収できる最適な設計をしているんだがそのハニカム構造を機械から照射される光のパターンで再現することに成功したそこに既存の終幕を再利用し」

 

「ええとつまり?」

「太陽光を遮断することで光壁内部を暗闇にする」

 

 すげェ、と半ば呆然と零れた誰かの呟きにただ同意した。こくこくと頷きながらわたしは、常闇くんにデバイスの操作方法を教えているらしい博士に目を留める。

 博士は何でもないように原理を説明してくれたけれど、太陽光を吸収する光壁を作る、だなんて彼のI・アイランドの誇る研究者といえど容易ではないことだろう。それでもこちらのニーズに合わせて約束を果たしてくれた、……そのことが常闇くんも嬉しいんだろう、彼はいつもは落ち着いた目をキラキラさせて、そのデバイスを掲げてみせる。

 

月読(ツクヨミ)が夜を喚ぶが如く……! このサポートアイテムは夜喚び(よるよび)と名付けよう」

「相変わらず常闇の厨二センス尖ってんね~」

「中二……? お前たち高校1年生じゃなかったか?」

「いやそういうのじゃなくって概念とかそういうのですよ」

 

「なァ空中、博士って意外と天然系?」

「かもしれない……」

 

 笑う芦戸さんに「は?概念?」と眉を寄せている最上博士は至極真面目にわかってないみたいだ。瀬呂くんの言う“天然系”というやつなのかもしれないなあとか、そういう物事には疎い方なのかなあとか、そんなことを思って苦笑を浮かべていたその時。

 

「オイ空中」

「はいっ!? っえ、……え!?」

 

 わたしに向かって唐突に投げられたアタッシュケースを慌てて受け取り、視線で促されるままに開ける。そこに入っていたのは、

 

「ゴーグル……?」

 

 わたしがヒーロースーツを着る際、いつも着けているのと同じデザインのゴーグルだった。それがどうして、と戸惑いながらも言われるままに着けてみたわたしに、最上博士は続ける。

 

「蟀谷辺りのボタンを押してみろ」

「ボタン……? ……っわ!」

 

 視界がぎゅん!と飛んでいったような感覚。気づいた時にはわたしの右目は遠くのキッチンにある冷蔵庫、そこに貼られたマグネットの模様を間近で見つめていた。まるでライフルスコープのように、遠くの物を見通して。

 

「この前の電話の際、羽根で狙撃をする技を編み出したと言ってたろ。それに合わせてスコープモードも搭載してみた。ボタン横のダイヤルで倍率が操作できる」

「あ……ありがとうございます!」

 

 多忙な人なのに、あんな電話での会話を覚えてくれていたのだ。驚きと喜びに声を上擦らせるわたしだけれど、最上博士は至ってクールだ。「よし」と真顔で頷いたと思えば──踵を返す。

 

「じゃあ僕は行く」

「え、もうですか?」

「お茶を淹れます。如何ですか」

「折角だが遠慮しよう。僕が何故、クッッッソ面倒臭い手続きをしてまでI・アイランドを出てこの雄英まで来たかわかるか?」

「え?」

「イ レ イ ザ ー へ ッ ド に 会 う た め だ !!!」

「えっ」

 

 彼は意気込むようにネクタイをきつく締めた。……そういえば今日彼は以前会った時のラフな格好と白衣ではなく、きちっとスーツを着込んでいたけれど、そういう理由だったのか。彼が相澤先生のフォロワーだということを知っていたわたしと常闇くんでさえ呆気に取られているのだから、初見のみんなもこのテンションの上がりように目を点にしている。

 

「というわけで面会の時刻に遅れては敵わんからな。僕は行く。後はメリッサ、好きにしろ」

「はーい。行ってらっしゃい」

 

 けれど唐突な博士の行動は慣れっこなのか、メリッサさんは朗らかに笑って手を振った。そのまま足早に寮を出ていった博士の後ろ姿を見送ってからわたしたちに向き直る。そこには笑みが浮かんでいた。

 

「博士はあまり多くを語る人じゃないんだけどね、I・アイランドでのこと、みんなにすごく感謝してるの。……ふふ、もちろん私も!」

「メリッサさん……」

 

 緑谷くんの脳裏にはデヴィット・シールド博士のことが浮かんでいるのだろう、何か言いたげにしていたけれど、それをメリッサさんは明るい目で制した。ゆっくりと瞬きすると、金色の長い睫毛がきらりと光る。そうして彼女はにっこり、あたたかく微笑んだ。

 

「改めてお礼がしたくて、でも私たちに出来ることは限られていて……だから今日は雄英に来たの。みんなのサポートアイテムの開発に、少しでもアドバイスできたらと思ってるわ」

「い、いいんですか」

「心配されるよりも、“ありがとう”の言葉が聞きたいな」

「! っありがとうございます!」

「ええ!」

 

 少しおどけたようにウインクして、満足そうに眼鏡の奥の目を光らせて、メリッサさんは緑谷くんたちと笑い合う。みんなも嬉しさと期待にワアッと歓声を上げて──

 

 

「何ですか何ですかベイビーの時間ですか!?」

「わあ!?」

 

 ──曰く、「緑谷くん(クライアント)サポートアイテム(ベイビー)の調整に来ました!!」ということで寮に飛び込んできた発目さんを交えて、みんなでサポートアイテムのアドバイス大会を行う運びとなったのだ。

 

 

 

 

 

「とにもかくにも葉隠さんは、スーツね。裸じゃダメよ、危ないわ」

「はい……」

「いやそりゃそう」

「至極真っ当な意見」

「オイオイオイそれじゃロマンがフッ」

「峰 田 ち ゃ ん ?」

「ほんと懲りないな峰田くん……」

 

 パァンッと唸った梅雨ちゃんの舌ビンタに転がっていく峰田くんに苦笑してから、わたしはワイワイと賑やかな談話室を見渡した。あの後「なんか騒がしいようだねェ!?」と飛び込ん……寮にやって来た物間くんやB組のみんなも一緒になって、それぞれあれがいいこれがいいと意見を交わし合っている。

 

「ううん……そりゃ私もスーツ着た方が安全だって思うんですけど、【透明化】の“個性”を活かすにはどうしたらいいのかなって」

「それなら葉隠さんの細胞……毛髪なんかいいわね。そこから作られた特別な繊維を使って作るといいわ。“個性”に呼応してスーツも透明になるはずよ。提携しているサポート会社に相談してみて」

「おお……!」

「ケロ……じゃあ私もそうすべきかしら」

「梅雨ちゃんの【保護色】の精度、上がりそうやね!」

 

「青山も相談しといたらー?」

「ノン! 僕のヒーロースーツやサポートベルトは優秀だからね! 手を加えなくてもFantastiqueだから⭐」

「でもお腹痛くなっちゃうでしょ?」

「まあ……“個性”が強すぎて身体に負担が掛かってるのかしら? そのベルトで軽減してるなら……後は出力や飛距離を節約する方向に調整してもいいかもしれないわね」

「ありがとうマドモアゼル⭐」

 

「う~ん……【キノコ】の胞子をもっと遠くまで飛ばせれば、もっともーっと世界をキノコまみれにできるノコ?」

「今以上にブッパしていくつもりか小森……」

「ならもっと銃砲をでッッかくしましょう!! バズーカみたいに!!」

「この“!”が常時2つ付いてるみたいなテンションすげーな」

「えー? いかつくなっちゃうのはきのこのイメージに合わないかもだしなぁ」

「大丈夫です!! でっかいベイビーも可愛いですよ!!」

「この人話ちゃんと聞いてるんか?」

 

「でけェ……キノコだってェ!?」

「最低」

「ん」

「そろそろマジでやめといた方がいいぜ峰田」

「せめてTPOな? B組女子にドン引きされてっぞ」

「日和ってんじゃねェぞ!? 何のためにここにいんだよ!」

「いやサポートアイテム相談のためだって」

「フフフ!! その小さな紫の人! その髪いいですねいいですね!! ひとたびくっつけば1日は取れないんですって!? 捕縛用ベイビーに活用できるやもしれません!!」

「オイオイオイオイラの玉でベイビー作るとかそれセクハッギャアアアアアア!!?」

「ヒェ……捥いでる捥いでるべりべりいってる」

「素材剥ぎ取られてるみてーだ」

「因果応報」

「ん」

 

 ……まあ一部大惨事が起きてるみたいだけど特に問題はないだろうなと判断して、わたしは苦笑を溢した。今床に倒れた峰田くんだって、さっきもっと【もぎもぎ】の飛距離を伸ばすにはどうすればいいかメリッサさんや緑谷くんと相談できていたし。うん、ヨシ!

 他にもお茶子ちゃんは、宇宙飛行士が緊急時の移動に使用する小型推進装置を持ったら空中での行動に幅が出るんじゃないのか、とか。爆豪くんはニトログリセリンの汗を貯めれば貯めるほど【爆破】が強化されるのだから、籠手に限らず汗を貯め置ける機構を着けたらいいのでは、とか。色んな話し合いが活発にされているのを見やって、知らず知らずのうちにわたしの口許には笑みが浮かんでいた。

 

「何だか嬉しそうじゃん、空中」

「! 拳藤さん」

 

 そんな時、談話室端のソファーに腰掛けていたわたしの元に拳藤さんがやって来た。彼女はにこりと「隣いい?」と笑ったので、わたしはもちろんと頷く。隣り合って座った彼女に、改めて視線を合わせた。

 

「うん、何だか楽しいというか……嬉しくて」

「嬉しい?」

「こういう……みんなで強くなるために話し合って考えを出し合うの、なんかいいなって思って」

「だよなァ!! こういうのってなんかいいよな!!」

「わっ」

 

 ばすん!という音と同時に身体が少し浮く。何かと思って見てみれば、拳藤さんとは反対側の隣に鉄哲くんが腰掛けていた。彼は大きな声でニカッと笑う。

 

「ありがとな、空中!」

「……? わたしは何もしてないよ」

「まぁあんたはそう言うんだろうけどさ」

 

 苦笑する気配がして、わたしは鉄哲くんから拳藤さんへ視線を戻す。

 

「……空中の頑張りが、伝播していったんだよ」

 

 振り返ったその先で、拳藤さんが笑っていた。エメラルドみたいな緑の目を、柔らかに細めて。

 

「拳藤さん……?」

「物間とさ、相澤先生を説得したんだって?」

「う、ん。そう、インターンの件で。物間くんに助けてもらったんだ」

「その助けるってのも結構びっくりしたんだよ。ほらあいつ、堅実に確実にやりたがるっていうか、リスキーなことは避けたがるし、この時期でのインターンは行きたくなさそうだったから」

「確かにそんなこと言ってたな……」

「目に浮かぶよ」

 

 同意するように頷いて、けどね、と拳藤さんは続ける。

 

「でもそんな物間が昨日言ってたんだ。“僕はインターンに行くつもりだ”って」

 

 彼女が言うには、昨日物間くんは夜、寮の談話室にB組のみんなを集めて話をしたそうだ。1年生に口封じされていたインターンのこと。相澤先生を説得して行ける可能性が出てきたこと。少なくとも空中愛依(あい)は行くつもりだということ──

 

「“いや別に? A組の奴がどうしようと僕の知ったこっちゃないんだけどね? でも彼女が経験して僕が経験してないことが増えるっていうのも癪にさわるからさァ!!”……とかなんとかぐちゃぐちゃ言ってたけどよォ、

 それってつまり、空中に影響受けて物間も“頑張ろう”って思ったってことだろ?」

 

 相変わらずひねくれた、素直じゃない言い分だ。……それでも物間くんが前に進もう、頑張ろうと思ってくれたんだということが改めてわかって、わたしは震えそうだった言葉を飲み込んだ。代わりにそうなのかな、と呟けば、そうだろ!!と鉄哲くんの声が返ってくる。

 

「物間の奴、“まァ僕は行くけど君らは無理しなくていいよ!”とか何とか抜かしてくれやがったからな! 俺も負けちゃらんねェ!!」

「また鉄哲はすーぐ熱くなる」

 

 “個性”【スティール】で鉄化した両手を打ち鳴らすと、ゴギン!!と硬い轟音が響き渡る。その様を半眼で見やって、けれどすぐ拳藤さんは表情を変えた。ふっと笑って、わたしに向かってウインクひとつ。

 

「でもインターン、私も頑張るよ。負けないくらいにね!」

「! わ、わたしも……!」

「オウ!! その意気だぜ拳藤!! 空中!!」

 

 ソファーで隣り合って、握り拳をぶつけ合っていたわたしたちが賑やかだったからか、とととと小森さんが駆け寄ってきた。その後ろには取蔭さんも笑っている。

 

「へぇ~! じゃあ空中はまたホークスのとこに行くノコ?」

「へっ」

 

 小森さんが小首を傾げると、そのミディアムボブがさらりと揺れる。その拍子に覗いた彼女の目があまりにきらきらしていたから、わたしは何だかびっくりして声を詰まらせた。

 

「どう、だろう? 職場体験が終わった時は“インターンにもまたおいで”って言ってもらえたけど……」

「いいなぁ! 羨ましいノコっ。

 ねぇねぇ空中、ホークスの写真とか貰えたりする?」

「写真? ええと、写真は……」

 

 矢継ぎ早に尋ねてくる小森さんに答えながら、小森さん何だか楽しそうだな、なんてわたしはぼんやり思っていた。小森さんもこの会が楽しくて嬉しいのかな、なんて、ただそんなことを考えていたから。

 

 

「相変わらずきのこ、ホークスのこと好きだねぇ」

 

 

 だから。

 取蔭さんがふと溢した声に、わたしは呆然と呟いた。

 

 

「……す、き?」

 

 

 すき。……好き。その意味はわたしだって当然知っている。聞いたことだってある。使ったことだって、当たり前のように。

 それなのにどうして、こんなにもわたしは硬直してしまっているのだろう。思考も口も止まって、返すべき言葉を紡げずにいる。

 

「え……、と……、」

 

 纏まらない思考が、蟠って喉に詰まるような。

 そんな息苦しさが、拭えずにいる。

 

 

「いや空中、そんなマジ顔で聞く話じゃないって! きのこがホークスのファンってだけだってば。黒色も安心しなよね」

「ぇっ、いゃ、べっ、俺は別に……」

「? 黒色なァに? 聞こえないけど」

「ぃっ、や、何も……」

 

 取蔭さんがケラケラ笑って、黒色くんがぴゃっと肩を跳ねさせて、小森さんが詰め寄っていくのを遠目に見守りながら、やっとわたしは詰めていた呼吸をほどいた。ゆったりと吐き出した息は、安堵が色濃く滲み出ていて。

 

「……?」

「……空中、大丈夫?」

「どうしたァ? 腹でも痛くなったんか?」

「いやこの流れでなんでそうなる……」

 

 両サイドから拳藤さんが、鉄哲くんがわたしの顔を覗き込んでくる。2人ともそれぞれの言葉と表情で、けれどどちらも心配してくれているんだということが伝わって、わたしは笑った。

 

「大丈夫だよ、ありがとう」

 

 ──“何でもないよ”、と、そう言って笑ったのだ。

 

 

82.少女、インターンに向けて。

 

 


 

 明けましておめでとうございます。弊ssを読んでくださる皆様におかれましてはいつも大変お世話になっております。今年もよろしくお願いいたします。(更新遅くなりまして本当にすみません)(白目)今年はもうちょっとだけでも更新スピード上げたいですね……

 

 今回は比較的B組の面々と会話できて嬉しかったです。特に物間くんに相澤先生への直談判に協力してもらう流れは以前から考えていたことなので書けてホクホクしています。弊オリ主は神野で身体的被害を受けていますので、相澤先生もちょっとやそっとのことでインターンへのゴーサインは出さないだろうなと思いまして。この辺の心情も次々回に予定している大人視点回で書きたいです。

 

 これまでわりと原作沿いで進んできた弊ssですが、少しずつ原作バイバイの時間が近づいてきました。ラグドール健在のプッシーキャッツや、インターンに向かうA組及びB組の子たちなど、小さな変化が連なって大きな変化に繋がっていけたらなあなんて思ってます。またよろしければ次回も読んでくださるととっても嬉しいです!ありがとうございました!



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83.少女、とある日曜の午前にて。

 

 

 ──()が昼なのか夜なのかもわからない。ただじっとりと重い暗闇が、横たわるわたしの上にのし掛かっている。

 

(……夏の、はずなのに、)

 

 燦々と輝く陽光がもはや懐かしい。肌を焼いたあの暑さはどこへやら、今は噴き出す冷や汗にまみれて寒いぐらいだ。なのに身体は消えない熱を訴えている。塞がらない傷跡が、流れる血が、痛みが、生命のアラートを声高に叫んでいる。

 堪えなきゃ、耐えなきゃ、といつもの癖で胸元を握り締めようとして、その指先が空を切った。当たり前だ。だってもうそこには何もない(・・・・)のだから。

 

(……ッ)

 

 削がれた指なのか、断たれた腱なのか、引きちぎられた羽根なのか。……もうどこがどう、痛いのか、なんて、

 

『君はとても、我慢強いね』

 

 伸ばされた手に身動ぐことすらできないで、わたしはぼうっと見つめた。悪魔の嗤う口許が見える。この声に従って、縋ってしまえば、この苦痛を終えられる。そうすれば楽になれるとはわかっていた。

 けれどもうその道は捨てた。天秤の皿から擲ったのだ。

 今がいつなのか、昼なのか夜なのか、暑いのか寒いのか、どこがどう痛いのかなんて、何もかもわからないわたしが、唯一心に据える“大切”。

 

(……ホークス、)

 

 わたしの、原点(オリジン)

 

(ホークス、ホークス、……啓悟くん)

 

 その名前を心に唱えるだけで、“大丈夫”になれる。どんなに痛くても、苦しくても、辛くても、……もう何もかも擲って終わってしまい苦痛でさえ、“どうでもいい”と耐えられる。

 どうでも、いいの。わたしなんて、

 だから“大丈夫”、“大丈夫”、だいじょうぶ──

 

 

 

 

「──!」

 

 はっと目を開けると、無意識に詰めていた呼吸もほどけた。からからになった喉からは、と掠れた息が漏れる。

 

「……夢……」

 

 ベッドの上に上体を起こせば、背中を冷えた汗が流れた。軽く身震いして顔を上げる。まだ少しぼんやりとする視界を瞬きでクリアにして、わたしは自室を見渡した。

 雄英高校の全寮化に合わせて、元々住んでいたアパートは解約した。そこで使っていた家具を数点──それこそ元々寮にベッドや勉強机、クローゼットや棚は備え付けられていたから──本棚やテレビ、パソコン、カーテンを持ち込んだだけの部屋。リカバリーガールに借りたり紹介されて購入したりした医学書や参考書の他には、大した私物は置いていない。そんな自室と、そこにちゃんとわたしがいるということを自覚して、ベッドサイドテーブルに置いてある時計を見た。……うん、ちゃんとわたしは、日常の中にいる。

 

「……よし、」

 

 “大丈夫”。“大丈夫”。

 まだ少しざわめく心臓を深呼吸で宥めすかして、わたしはベッドから起き上がった。冷や汗で気持ち悪いけれど、どうせなら朝の日課を済ませてからまとめてシャワーを浴びてしまおう。そう決めて体操服に着替えたわたしは部屋を出た。隣室の梅雨ちゃんを起こしてしまわないように、そっと足音を忍ばせてエレベーターに乗り込む。

 

 談話室を抜けて外に出れば、まだひんやりとした朝の空気がわたしを出迎えた。昇り始めた朝日にぐうっとひと伸び。体操をした後、わたしはランニングを始めた。

 寮生活になった経緯もあって、学外に出るには申請が必要になる。けれどこの広大な雄英高校の敷地内であれば自由にしていいとの言葉から、わたしは毎朝こうしてランニングを続けていた。ヒーローは身体が資本。特にわたしは【自己再生】のエネルギー量を高めるためにも体力づくりは欠かせない。それにこうやってただ走る間は頭で別のことを考えられる。今の自分の弱いところを、どうすれば改善できるのか。必殺技、体裁き、今日これからわたしがやるべきこと、昨日やった医学の勉強の復習──などなど、色んなことを頭に浮かべて走っていた時だった。羽根が横道から近づいてくる足音を拾う。その足音がわたしの隣に並んで、彼の緑色の目が驚いたように丸く、それから柔らかに笑う。

 

「緑谷くん、おはよう」

「あっうん、おはよう空中(そらなか)さん……!」

 

 少し弾んだ息と流れる汗を見るに、緑谷くんはどうやらわたしより先に走り出していたらしい。それに感心の息をつきつつわたしは首を傾げた。

 

「早いね……、ランニング、日課なの?」

「うん、ちょっとでも体力つけなきゃだし」

 

 緑谷くんはいつものように優しく笑う。

 

「今のままじゃ、ダメなんだ」

 

 いつものように(・・・・・・・)と、そう思ったけれど、ほんの僅かに引っ掛かりを覚えた。くしゃりと笑うその笑顔も声も優しいけれど。確かに優しい、彼のものだけれど、

 

「……もっと、強くならないと」

 

 その眼差しだけ、どこか凄みを帯びて見えた、なんて。……きっとわたしの気のせいだ。だって緑谷くんはもういつもの(・・・・)ように優しく、どこか照れ臭そうに微笑んでいる。

 

「そう、なんだ。……お互い頑張ろうね」

「っうん! あ、僕こっちのルートに行くつもりだから……」

「うん」

 

 “またね”と手を振り合って、その背中を見送った。小さくなっていく。遠ざかっていく。立ち止まるわたしから遠く離れ、見えなくなっていく。それは彼が走っているから当たり前のはずなのに、何故だか心の端がざわめいた。

 

「……どうして?」

 

 どうしてわたしは、“わたしも同じ気持ちだよ”と、言えなかったのだろう。どうして緑谷くんのことを、あんな──

 

 

 

「空中?」

 

 空から降ってきた声に、はっと我に返る。顔を上げるとそこに、黒影(ダークシャドウ)に抱えられて空を飛ぶ常闇くんの姿があった。

 

「と、こやみくん。おはよう、どうかした?」

「? いや、お前こそ」

「コンナトコデ何ボーットシテンダァ?」

「ぼーっと……えと、うん、ちょっと休憩」

 

 誤魔化すようにへらりと笑うわたしに、常闇くんと黒影(ダークシャドウ)は揃って首を傾げる。何だかそれが兄弟みたいで可愛くて、思わずふふと笑みを溢すわたしに、また2人はこてんと逆方向に首を傾げた。

 

「ならいいが、体調が悪いわけではないのだな?」

「うん、もちろん……! 元気だよ」

「ホーン? ジャアヨウ、キョーソーシヨーゼキョーソー!」

「きょーそー?」

 

 きょーそー、きょうそう、競争、……頭の中でその単語に変換し終えた頃、「こら」と黒影(ダークシャドウ)を宥めていた常闇くんと目が合った。ぱちりと互いに瞬きひとつ。そうして、

 

「ね、黒影(ダークシャドウ)。競争って速く飛べるかどうかってこと?」

「、空中?」

「ソーダゼ! オレラとソラ、ドッチガ速ェーカ勝負ダ!!」

「ふふ、……だって、常闇くん」

 

 そうして彼に向かって笑みを深めた。それを見た常闇くんははじめ戸惑うように沈黙していたけれど、……すぐにフッとクールに微笑んでみせた。その赤い目が強い意思に洗われ輝く。

 

「フン……成る程。我らは共に空翔る同胞(はらから)……」

「同胞」

「いいだろう、共にその翼を高めんとするならば、俺に断る道理など皆無」

「皆無かぁ」

 

 常闇くんの言葉遣いはたまに独特だけど、それでも彼の言いたいことはよく伝わる。“一緒に頑張ろう”って、思ってくれている。

 それが嬉しくてわたしも笑って、強く地を蹴って羽根をはためかせた。空中に飛び上がり、常闇くんと黒影(ダークシャドウ)の横に並ぶ。

 

「どこをゴールにする?」

「そうだな……寮までにするか。もう朝食の刻まで僅かだ」

「オレラガ勝ッタラオカズ1個寄越セヨナ!」

「ええ……それは負けられないなぁ」

 

 寮の食事は学食同様、クックヒーロー・ランチラッシュが監修している。朝と晩に寮に届けられる朝食と夕食は、和食か、洋食か、はたまた別のメニューか。大体3種類のメニューから好きなものを選べるようになっている。それはどれも本当に絶品で、頬っぺたが落ちそうで……っと、思考が飛んでしまった。

 とにかくだ。食事のためにも強くなるためにも、一緒に頑張ってくれる常闇くんのためにも、簡単には負けられない。

 

「じゃあ3つカウントしたらスタートでいい?」

「了解した」

「オー!」

「うん、じゃあ3、2、1──!」

 

 0、を唱えた瞬間にぐんと大きく羽根を羽ばたかせた。びゅうびゅうと吹き付ける風に目をすがめれば、その傍らを常闇くんと黒影(ダークシャドウ)が追い越していく。振り向き様にわたしを見る彼らと、目が合った。

 

「どうした空中、お前の力はその程度か?」

「っ、そんなこと、ないよ!」

 

 雨覆で背中を押して推進力を出す、羽根の傾きを調整して風を最大限に受け止めて──これまで学んできた飛び方をなぞれば、より速い風の中に包まれた。あっという間に地上の景色が後方に流れていく中、追いつき、追い抜かれ、また追い越し。それが時に嬉しくて時に悔しくて、どうあっても心が浮き立つのは抑えられないから。

 

(……また、こうやって、)

 

 常闇くんと黒影(ダークシャドウ)と一緒に、あの人を追いかけられたらな、なんて、そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 そうして寮に帰り着き、シャワーを浴びて朝ごはんを食べたわたしは、再び寮の外に出ていた。もう随分と太陽は高く昇り、燦々と陽射しをわたしたちに注いでいる。

 

「とおりゃあああ!!」

「よ……っと!」

 

 そんな真夏の光の中に、可愛い、けれど気合いの入った掛け声が響く。声の主である透ちゃんが身体を大きく傾け、捻り、放った上段回し蹴りを受け止めて、尾白くんはうんと頷いた。

 

「そうそうそんな感じ。姿勢に慣れてきたのかな、安定して蹴りが出せるようになったね、葉隠さん」

「えへへ! そうかなぁ」

「そうだよ! だってそんなに身体を傾けてるのに、軸がぶれてなかったもの……!」

「えー? むふふ、照れちゃうなあ」

 

 尾白くんとわたしが力説すれば、葉隠ちゃんはにっこり、そんな声で笑ってぴょんぴょん跳び跳ねた。軽やかに伸びやかにジャンプする彼女は元から身体が柔らかったこともあり、尾白くんから教わった武術を順調に自分の物にしている。

 

 カポエイラ。その起源は諸説あるけれど、一説にはある奴隷たちが看守にばれないようダンスのふりをして修練した格闘技だといわれている。手枷をされていた奴隷が、その拘束を解かれないまま編み出した武術なので、足技を中心に発展していったのだと。

 

『透ちゃんは【透明人間】だから、スニーキングに秀でてる』

『うん、まあそれは、』

『それだけじゃない。相手に視認されないってのは、戦闘にも活かすことができるよ』

『へっ?』

 

 つい先月のことなのに、何だかもう随分前のことのように感じるけれど──あの林間合宿の始めに駆け抜けた魔獣の森。ピクシーボブの創り出す土魔獣に対し“戦闘では私は何もできない”と落ち込んでいた透ちゃん。そんな彼女に“それは違うよ”と伝えたくて、わたしと尾白くんは言ったのだ。

 

『確かに! 葉隠さんって身体も柔らかいし、バランスもあるし、足技なんかいいんじゃないかな。ホラ体育祭のチアの時、すごい体勢で飛び跳ねてたし』

 

 そうして寮生活が始まってから、合間を縫って透ちゃんは尾白くんに先生になってもらい、こうして足技中心の武術──カポエイラを特訓していたそうだ。彼らの組み手を今日初めて見学させてもらったわたしだけど、尾白くんの武術のチョイスは的確だなあと感嘆の息をついた。

 透ちゃんの“個性”は【透明人間】。攻撃の挙動を相手に視認させないということは、相手のガードを掻い潜って攻撃を当てたり捕縛したりするのに役立つ。そこにカポエイラという、躍りを軸にしたアクロバティックな動きが合わされば、余計に相手は透ちゃんの動きを読むことができなくなるだろう。

 透ちゃんは今サポート会社に相談して、彼女の毛髪から作ったコスチュームを開発してもらっているらしい。“個性”に呼応して【透明化】するコスチュームを身に纏えば、透ちゃんが以前言っていた『新生インビジブルガール爆誕』の日もそう遠くないはず。……そう考えているとふいに透ちゃんが隣に肩を並べ、こつんと優しくぶつかりながらわたしにスマホの画面を見せた。

 

「ねえねえ愛依(あい)ちゃんこの動画見て! カポエイラに“フォーリャ”って蹴り技があるんだって」

「わっ、すごい動き……! 空中で1回転しながら四方八方に蹴り繰り出してる」

「ね! こんなんできたら格好いいよねぇ! ……あっでもそうだ、愛依ちゃんできるんじゃない?」

「へっ」

 

 ……透ちゃんが何だか目と表情をきらきらさせてこちらを見ている気がして、わたしは上手く言葉を継げずに固まる。そんなわたしたちを見てか尾白くんが笑った。柔らかい声で尋ねてくる。

 

「空中さんは羽根の遠距離攻撃を主軸にしてる印象があるけど、格闘技はあまり視野に入れてなかった?」

「えっと……そうだね、一応授業で習うぐらいの護身術は身に付けてるつもりだよ」

 

 雄英の授業で、というより公安での訓練で、一通りの体裁きは身に付けるようにとの指示はあった。羽根を射出して攻撃する他、風切羽を剣のようにして戦うというホークスの前例もあったから、わたしもそうした訓練を受けたことはある、けれど。

 

「でも上手く体重が乗らなくて、だったら遠距離に絞って戦闘スタイルを定めた方がいいかなって……」

 

 わたしの訓練結果を見た指導係さんが、そう判断を下した瞬間を覚えている。自分はホークスほど優秀じゃないから仕方ないかという諦めの気持ちと、自分への不甲斐なさも、悔しさも、じわりと心の端に染み着いている。でもそんなことを言うわけにもいかないから、わたしはへらりと笑ってみせた。尾白くんはというと、そんなわたしに不思議そうに目を瞬かせて、それからはっと声を明るくした。

 

「そうだ空中さん、重さが足りないのなら、重力を使うとかは?」

「、重力……?」

 

 首を傾げるわたしに、そう、と尾白くんは声を重ねる。

 

「俺もこの尻尾があるから、やっぱ攻撃とか防御とか移動とかにも尻尾を頼っちゃうんだ。それでこの前エクトプラズム先生に『尾があるならこう動くだろう』という動きだって、読まれやすいって言われちゃったんだよね」

 

 はは、と頬をかく尾白くんは、けれどそこで諦めることはなかった。それから“尾に頼ることを止める”のではなく、より“尾を生かした武術”に焦点を当てて戦闘スタイルを磨き直したのだと。

 

「俺の“個性”が【尻尾(コレ)】であることに変わりはない。だったら俺の強みも【尻尾】だ。【尻尾】があるからこそ不安定な場所でも活動できたり、手数を増やせたりするように……空中さんには空中さんの、【翼】がある強みがあるはずだって俺は思うよ」

「羽根がある、強み……」

 

 真摯に説かれた言葉を受け止め、思案に沈む。わたし自身の力が足りないならば、重力を──飛行能力があるからこその力を加える。そうすればまた新たな道が開けていく気がして、わたしはぱっと顔を上げた。目と目が合ったその先で、尾白くんが肯定するように笑って頷く。そしてやり取りを見守っていた透ちゃんもまた明るく声を弾ませた。

 

「いいねいいねぇそれ! ねえ愛依ちゃんっ、私と一緒にキック技開発しよー!」

「、……ふふ、キック技かぁ、格好いいかも」

「でしょ! 愛依ちゃんは風とか鳥に関係する名前を必殺技につけてるでしょ? だから……そうだな……キックが得意な鳥……あっっっ“ヘビクイワシキック”とかどう!?」

「……えと、うん! そうだね“ヘビクイワシキック”……強そう……!」

「言いたいことあるなら言った方がいいよ空中さん……」

 

 そんな風にあれはどうだこれはどうかと話し合いながら、尾白くんに立ち回り方を教えてもらいながら、3人で暫く近接戦闘の特訓をしていた。動きを習っては組み手をして実際に確認して、改善点を指摘し合っては実践を繰り返す。九月の始め。まだ残暑もきつい陽射しの中、動けば動くほど蟀谷に汗が伝い、じわじわと上がる気温が体力を消耗させていく。

 

「はーっ……疲れたあ」

「水分補給……っていっても、手持ちのは全部飲みきっちゃったね」

「そうだね、それなら……」

 

 じゃあ自販機にでも買いに行こうか、という尾白くんの提案に諸手を上げて賛成し、わたしたちは休憩も兼ねて自販機を目指した。雄英高校の敷地は膨大であり、その各所に自販機が設置されている。現在地から一番近いのはこの林を突っ切った方が早そうだとあたりをつけ、歩道を外れ歩いていった。さわさわと揺れる木々の葉がさざ波のように歌い、涼しげな木漏れ日を注いでいる。照りつける暑さが和らいだからか、どこか上機嫌にスキップする透ちゃんに微笑んでいた時だった。

 

「……?」

 

 透ちゃんのその向こう、目指していた自販機の隣に、見覚えのある姿があった。逆立った紫髪の毛先はほぼ自販機と同じくらいで、上背のある男子生徒だ。その半眼になった鋭い目つきとやや濃い隈は、間違いない──

 

「……あっ」

「んん? どうしたの愛依ちゃ、んっ?」

「葉隠さんまでどうし、……!?」

 

 わたしの反応に不思議がった透ちゃんと、その透ちゃんに首を傾げた尾白くんも、揃って()に視線が釘付けになる。

 

「……心操くん!」

 

 そんな()、心操人使くんはといえば……何とも言えない表情をしてわたしたちを見つめ返した。クールなポーカーフェイスは体育祭でも今までも見かけたものだけれど、きゅっと結ばれた口許はどこか気まずそうな雰囲気を帯びている。その反応は気にかかったけれど、呼び掛けた以上挨拶はしたい。わたしは彼の前に進み出た。

 

「こんにちは、心操くん」

「どーも」

「体育祭の人だ! こんなとこで何してたの?」

「……べつに、特に何もないけど」

 

 透ちゃんの問いにそう素っ気なく返すけれど、日曜日の真っ昼間、こんな校舎からも校門からも寮からも遠い林の中でひとりでいるのは“何もない”では通らないだろう。しかもわたしたちと同じく体操服姿で、汗だくで、……それに何より、彼が片手で隠すように持つ“それ”が目を引いた。

 

「……ひょっとして、捕縛布の練習をしてたのか?」

 

 心操くんが“それ”──捕縛布を持つ手に微かに力が籠る。それが何より雄弁で、わたしは納得とともに頷いた。

 

「なるほど、確かに相手の動きを止めたり動揺を誘ったりする捕縛布は心操くんの“個性”とも相性がいいね……!」

「……まだ、ただの付け焼き刃だよ」

「いや付け焼き刃とかじゃないでしょ、その指の痕」

 

 尾白くんの指差す先を辿って見ると、心操くんの指には幾つかの痕があった。固く、重量のある捕縛布を操ろうとして擦れた傷痕に、彼の努力の跡を知る。

 

(……心操くんは、)

 

 あの体育祭の後、どういった話があったかまではわからない。それでも彼はわたしたちの知らないところで、着実に修練を重ねていたのだ。

 わたしはひとつ断って、心操くんの手を取る。いつかの時とは違う、固く厚くなった手のひらに、労るように治癒の力を込める。

 

「そっか、……いっぱい頑張ってたんだね、心操くん」

「……そっちこそ、」

「うん?」

 

 塞がっていく傷痕を見つめながら、どこかぼんやりと心操くんは呟いた。ぼんやりと、……眩しいものを遠くから見上げるような、そんな声で。

 

「……ヒーロー科でも……いや、ヒーロー科だからか。特訓なんて当たり前にしてるんだな」

 

 ──凄いなァ、と。そこでようやく心操くんは笑った。笑ったとはいっても本当に微かに口の端を持ち上げて、目を細めるだけ。それでもその仕草に万感の思いが込められてる気がして、わたしは肯定も否定もできずに口をつぐんだ。

 黙り込むためではなくて。そのまま踵を返そうとする心操くんに、もっと言うべきことがあると思ったからだ。

 

「っあ、あの! ちょっと、いいかな?」

「……何、いきなり」

「ご、めんなさい……でもその、心操くんは捕縛布の扱い方を、わたしたちは近接戦闘のやり方を課題にしてるなら、一緒に特訓するのはどうかなって」

「……は?」

 

 わたしの唐突な提案に対し、反応は三者三様だった。信じられないように、或いは胡乱げに目を細める心操くんに対し、透ちゃんは拳を握って空に突き上げる。

 

「あ、それいいかも! やろやろやったろ!」

「いやなんで。俺と組み手したところでそっちに、……ヒーロー科にメリットないでしょ」

「いや、……あるよ」

 

 そして尾白くんは、静かに頷いた。その真っ直ぐな目に、わたしはいつかの時を思い出す。

 

 

 

『俺、辞退します』

 

 今年の雄英体育祭。決勝戦トーナメントの組み合わせを決める直前、尾白くんはそう宣言した。プロに見出だされるかもしれない、大切な将来がかかった場面で辞退する──その重さをわかった上で、彼は決断したのだ。

 

『みんなが力を出し合い争ってきた座なんだ。こんな……こんなわけわかんないままそこに並ぶなんて、俺にはできない』

 

 グッと握った拳を見つめながらそう言った尾白くんに、迷いはなかった。“わけわかんないまま”──心操くんの【洗脳】で意識を失い操られていただけの自分は、決勝には上がれない、上がらないと。

 ……そう宣言する尾白くんに、心操くんはどんな思いでいたのか。

 

 

 

「……何」

 

 そして今、どんな思いでいるのか。

 心操くんは尾白くんを見つめ返す。その表情はいつもの仏頂面のようで、常よりずっと強張っているようにも感じた。

 わたしは彼と長い時間を過ごしたわけでもないし、多くの言葉を交わしたわけでもない。彼のことを理解しているなんて大それたこと、口が裂けたって言えない。……それでも心操くんの紫の瞳に、どうしようもない感情が滲んでいるのではないかと思ってしまう。

 

(どうか、……わかってくれたらいいな)

 

 尾白くんは心操くんを責めていない。今だって勿論、あの体育祭の時だって。

 ──尾白くんが辞退するのは本人の言う通り、彼の気持ちの問題であって、“個性”を使って勝利を目指した心操くんを責めてるわけじゃない。彼が“嫌だ”と言っているのは、“何もできなかった自分”に対してであって、“何もさせてくれなかった心操くん”ではない。

 

 それをきっと、わたしだけじゃない。……尾白くんもわかってほしかったんだ。

 

「……俺はすごく、“普通”って言われることが多くてさ。多分そこまで、言葉とか行動とかが、人の予想を超えることがないんだと思う」

「……? 何言って……」

 

 へら、と眉を下げて笑う尾白くんに、てっきり責められると思っていたのだろう。虚を突かれて心操くんは瞳を揺らした。そんな彼の視線を捉えて、尾白くんは続ける。

 

「だからほら、上手く言えないんだけど……心操の“個性”はいい意味で予想外だったんだよ」

「皮肉か何か?」

「いい意味って言ったじゃん! いや、そうじゃなくて……、」

 

 どう言えば伝わるのかな、と眉をひそめて考え込むのは、心操くんにちゃんと伝わってほしいから。そうして彼は眉間の皺をほどいて、ふっと笑った。

 

「そういう“予想外”な心操と一緒に訓練することで、俺にも得られるものがたくさんあるって思ったんだ。

 だからこれは、そう……俺のために、心操にお願いしてるんだよ」

 

 駄目かな、と。そう言って差し出した手と、笑顔の尾白くんを見比べる心操くんの横顔は、今まで見たことのないものだった。

 

「……、」

 

 伏せがちなその目は大きく見開かれ、丸みを帯びている。そうしていると、何だか、いつもは大人びて見える彼が年相応に見えて、思わずふふ、と笑みが溢れた。同じことを思ったのか、わたしの隣にいる透ちゃんもこつんと肩をぶつけて吐息で笑う。

 そんなわたしたちの“微笑ましい”と言わんばかりの視線に気づいたのか、はっとした心操くんは次いでその目をむーっと半眼にした。……ああもう、拗ねているんだってことも、手に取るようにわかってしまう。

 

「……尾白ってどうしようもないお人好しでしょ」

「ええ!? なんでそうなる……!?」

「ふふーん! 違うよ心操くん! 尾白くんはねえ、普通に優しいだけなんだよ!」

「葉隠さんのそれも褒めてないよね!?」

 

「……むしろすごい褒め言葉だと思うけどなあ」

 

 一歩離れたところから、わちゃわちゃ話す3人を見守る。そうして羽根をはためかせれば、ほら、ぽつりと呟く心操くんの声を拾い上げる。

 

「……ヒーロー科って奴は、どいつもこいつも」

 

 それがあたたかい響きを纏ってることだって、よく、わかった。よかった、嬉しいなって、そんな気持ちで頬が緩むのを抑えられないでいた、そんな時。

 

「ねーねー愛依ちゃん! 2対2で組み手してみない?」

「あ、いいね。じゃあ……、?」

 

 そんな時。ふと視界の外れに人影を見つけてわたしは息を飲んだ。1人は上下黒のコスチュームに首元には捕縛布……相澤先生だろう。そしてその傍らに微かに見えたのは、草臥れた、スーツ姿の……、

 

「……あの、人は、」

 

 ──目良さん?

 その名前はすんでのところで飲み込んで、わたしは目を見張る。けれど目良さんらしき人はそのまま遠くの木陰に姿を消した。後はただ、いつものようにポケットに手を突っ込んだ相澤先生がこちらに歩いて向かってくるだけ。

 

「……なんだお前たち、一緒にいたのか」

「……、イレイザー」

「あっ相澤先生だ! あのですね、」

「、すみません、相澤先生」

 

 ……思いがけず透ちゃんの言葉を遮る形になってしまった。謝罪と断りを入れて、改めてわたしは相澤先生に向き直る。

 

「今さっき、どなたかとご一緒でしたか?」

「……いや? 俺ひとりだが」

「……そう、ですか。……すみません、見間違えでした」

 

 本当なのか、そうでないのか。どちらにしろ先生はわたしに伝えることはなさそうだ。……何故、目良さんが雄英にいたのか──思考に浮かんだ生成り色を拭い去って、目の前の会話を見守ることにする。

 相澤先生は明るい声で「一緒に組み手しようって考えてたんです!」と報告する透ちゃんと頷く尾白くん、そしてどこかそわそわと居心地悪そうに視線を逸らす心操くんを見渡して、フッと口角を吊り上げる。

 

「いい試みじゃないか。近接戦闘に優れた尾白、【透明人間】で位置をほぼ視認できない葉隠、そして空を飛び回り逃げられる空中。この3人を捕らえることができたら捕縛技術の向上に繋がる」

 

 先生が話し終えるか終えないか、そのタイミングでひゅッと空気が裂かれる音。真っ直ぐわたしに向けて飛んできた捕縛布を急上昇して避け、追ってくるそれを羽根で弾き返す。

 

「こんな風にな」

「いっ、いきなりはびっくりします……!」

「実践に“待った”は存在しない」

 

 いやそうですけど、なんて言う暇もなく再度飛んでくる捕縛布を避けている間に、尾白くんも透ちゃんもそれぞれ構えを取った。一拍遅れた心操くんもまた捕縛布を手にしたのを見てとって、相澤先生は口を開く。

 

「──“できることは全て、やっていきたい”」

 

 そうだったな、と小さな声でそう言って、相澤先生は目を細める。それからわたしを見据えて、ほんの微かに瞳を揺らした。

 

「……? 先生?」

「……そうだな、お前たちの出来得る全てで強くなってみせろ」

 

 そうして先生は笑った。どこか、何か飲み込んだような──けれどあたたかな光を、その目に乗せて。

 

PLUS(プルス) URTLA(ウルトラ)。……乗り越えてこい、ひよっこ共」

 

 

 

 

 

 そして正午。真上に昇った太陽から逃れるべく、わたしたちは昼食を摂りに屋内へ戻った。本来日曜日は寮で昼食が用意されるのだけれど、今日は所用があって。わたしは寮へ戻る尾白くんと透ちゃん、相澤先生と心操くんと別れて校舎に入った。平日とは違いしんと静まり返った廊下は、茹だる暑ささえ遠く感じる。相澤先生のしご、……特別授業を経てふらつく足を何とか動かし、仮眠室へと向かった。

 コンコンコン、とノックすると、中から穏やかな声が返ってくる。

 

「空中です。失礼します」

「ああ、よく来たね」

 

 お入り、とわたしに促してくれたのはリカバリーガールだった。そして部屋の中央に座っていた人物もまた、にこやかに笑って顔を上げる。

 

「やあ空中少女、来てくれてありがとうね」

「、いいえ、わたしの方こそお時間を頂きありがとうございます」

 

 ローテーブルにはサンドイッチが広げられている。ふわふわのタマゴサンドに、瑞々しいレタスやトマトの彩りが綺麗だ。可愛らしいランチボックスに詰め込まれたそれらは、目の前で紅茶を入れる男性──オールマイト先生が作ってくださったのだそうで。

 

「すみませんオールマイト先生、お昼ごはんまでご馳走になってしまって……」

「いやいや! 今回の話は私の都合なんだから気にしないで。それより張り切って作りすぎてしまってね、たくさん食べてくれると助かるんだよ」

「……ふふ、ありがとうございます。どれもすごく美味しそう……!」

 

 痩せきって落ち窪んだ眼窩の奥で、ぱちんとウインクがひとつ。それが茶目っ気溢れるというか、可愛いというか。壮年の男性にこんなことを言うのはおかしいのだろうけれど、それでも思わず笑みが溢れる。こんな仕草ひとつで、わたしの心を軽くしてくれる。

 

(……、でも、)

 

 そうして始まったわたしとオールマイト、リカバリーガールの昼食会。オールマイト特製のサンドイッチに舌鼓を打ちつつ、何でもないような世間話に花を咲かせて。時にリカバリーガールの小言が飛んでオールマイトが汗を浮かべることはあるけれど、それでもとても、和やかな時間だ。

 

 ──だからこそ、わかることがある。

 

 これまでトップヒーローとして活躍してきたオールマイトが摂るには、あまりにも少ない食事量。一口の小ささ。何回も、何回も、ゆっくりと咀嚼するスピード。慎重に嚥下する喉の動き。

 

(胃を摘出された方の、食べ方だ)

 

 そしてそれを流れるように、ごく自然と、当たり前のように行うオールマイトの姿に、嫌が応にも気づかされる。

 この人はずっと前からこうだった。胃がないという状態に慣れきってしまうほど、この生活を、何年も続けてきたのだ。

 

「……? どうかしたかい、空中少女」

「っいえ、……タマゴサンドが、美味しいなって」

「本当かい? 嬉しいなあ、よかったらもっと食べて」

「はい」

 

 ──“気づけなくてごめんなさい”は、もう言わない。

 不甲斐ない過去にばかり目を向けてはいけない。そうして優しいこの英雄に、“気にしないで”って悲しく微笑ませるのはもう嫌だ。だからわたしは俯かない。顔を上げて、前を見る。

 今日わたしがこの場に来たのは、未来の話をするためなのだから。

 

 

 

 

「これが、オールマイトのカルテだよ」

 

 目を通しながらお聞き、とのリカバリーガールの指示に応え、受け取ったカルテに視線を落とす。彼の手術記録、検査記録、看護記録──そこに記された傷痕に息を飲みそうになって、慌てて平静を装った。

 

「オールマイトは6年前、AFO(オールフォーワン)と戦い、激闘の末に重傷を負った。度重なる手術で一命は取り留めたが、その際に胃袋は全摘し、呼吸器官は半壊している」

 

 リカバリーガールは、努めて淡々とその事実を口にしたから。だからわたしも努めて心を落ち着け、その事実を受け止めた。

 

「再建方法はルーワイ法……空中、知っているね?」

「はい。食道と小腸を吻合させるものです」

 

 彼の心臓を、狙ったのだろうか。左胸部のすぐ下を大きく抉り取った凄惨な傷痕は、オールマイトから多くのものを奪った。健康な身体、それまでの生活、ヒーローとしての活動時間──そんな状態を、けれど彼は公表しなかった。リカバリーガールが言うには“公表しないでくれ”と頼んだのだそうだ。

 

 “平和の象徴”は、悪に屈してはいけないと。

 

「……空中」

「、はい。リカバリーガール」

 

 そうして傷ついた身体をおして戦い続けてきたオールマイトに。そんな彼を【治癒】で支えながらも、……きっと今のように苦しげに眉を寄せて、ままならない気持ちを抱え続けてきたリカバリーガールに。

 

「あんたなら治せるかもしれないと、言ったね?」

 

「──はい」

 

 ──わたしは、わたしが成すべきことを。

 

「神野の事件が起きて、しばらく入院していたセントラル病院で……【自己再生】の“個性”について調べていただきました」

 

 セントラル病院で過ごした数日間の間、わたしは“個性”回復訓練も兼ねて他入院患者の治癒を行っていた。病院側は公安の要請を受けて、その治癒の様子、患者の身体の変化等を記録していたらしい。そしてつい先日、【空中愛依】宛にセントラルからの報告が届いたのだ。

 

「セントラルからの報告によれば、【自己再生】を発動することで、わたしはヒトの……イモリをも超える再生力を行使できるのだそうです」

 

 この地球に住まう生物の中で、特に再生能力に優れているもののひとつがイモリだ。イモリは心臓や脳、目、手足を切り取られても再生する。それは切断など何らかの刺激を受けた細胞が、成熟しきっていない細胞に変化するから。これを脱分化というのだけれど──これが神野を経た今、わたしの【自己再生】で起こっている。

 

「本来胎児でもない人間の細胞は脱分化せず、傷の再生にも限度があります。けれどこの“個性”はその限度を超える。発動によって細胞の脱分化を起こし、その細胞があらゆる組織や臓器へ変化できるまでの細胞操作を、ほぼ自動的かつ緻密に、速やかに行うことができるとのことでした」

 

 その細胞操作の精密性と回復までの速度、そしてわたしを含むどの患者にも後遺症が残らなかったことを見て、セントラル病院はこう結論付けた。

 空中愛依の“個性”によって、自分及び他者の欠損した内臓や組織に至るまでの治癒が可能である──と。

 

「ですから、……オールマイト先生」

 

 これまでわたしは、ヒトが自然治癒できる範囲を超えた傷や病を治癒できなかった。だからステイン事件の時、飯田くんのお兄さんの脊髄を治せなかった。それだけじゃない、わたしは気遣わせた、……彼に優しく、微笑ませてしまった。

 

 もうあんなことを繰り返したくない。

 もっとみんなを救える自分になりたい。

 “救けて”と伸ばされた手に“待った”を掛けたのだから、わたしはもっと、早く前に進まなくては。

 

 オールマイトのルーワイ法で吻合した食道と小腸を手術で切り離し、そこに【自己再生】と【譲渡】を用いて食道と小腸を繋ぐように細胞を操作し、胃を再生させる。……理論上は可能であると、セントラル病院からも認められた。

 

「──……、」

 

 日本最高峰の医療機関から太鼓判を押されたのだ。大丈夫。心配ない。“だから安心してほしい”と、わたしが言わなければならないのに。

 

「……ありがとう、空中少女」

 

 沈黙を破ったのは、囁くように優しげな、けれど強い声だった。緊張か、逡巡か。いつの間にか冷えきっていたわたしの手を、大きな手が包み込む。

 

「……君は聡い子だ。そしてそれだけじゃあない、医療について常に努力し、学んでいる。きっと私を治癒する方法を探る中でたくさんのことを考え、……不安になることもあったろう」

「……オールマイト、」

「すまないね。君に心労を掛けてしまった」

 

 わたしの手を取りながら、オールマイトは頭を下げた。いつも兎の耳のように跳ねていた特徴的なもみあげが、重力に従って垂れ下がる。

 そのつむじを見つめて、わたしはゆるゆると首を横に振った。震える舌が、情けない声音を紡ぎ出す。

 

「……ず、るい、です。オールマイト、先生」

「どうしてだい?」

「そうやってあなたは、わたしから謝る言葉を、とっていく……」

 

 この前もそうだった。あまりにも優しく、当たり前のように、わたしの心の重石を浚っていく。それが嬉しくて、有難い。けれど決してそれだけではなくて。やりきれない思いの行き場を探して彼の手を握り返した。

 

「わたしは、あなたを治したい」

「うん」

「本当に、……ほんとうに、そう思っているんです」

「うん、」

「でも、なのにわたしは、あなたを実験台みたいに……」

「それは違うよ、空中少女」

 

 嗜めるように名前を呼ばれるけれど、“実験台みたいに”というのは事実だ。いくらセントラル病院から後押ししてもらったとはいえ、わたしが欠損した他人の内臓を再生することは初めてで。生命活動に大きく作用する臓器に何かあればと思うと──もしもこの優しい人に何かあればと思うと──怖くて怖くて堪らない。

 

「……実はね、君の治癒の提案は、私にとって渡りに船だったんだよ」

「え……?」

 

 唇を噛んだその時だ。頭上からそっと降ってきた言葉に目を見開くと、そんなわたしを瞳に映して、オールマイトは柔らかに微笑む。

 

「最近とある人にね、“これからも生きてほしい”と、願われたんだ」

 

 ……“生きてほしい”なんて、オールマイト程の人なら当然のように願われているだろうに。それでも何故か、それが特別であるかのように彼は口にする。

 

「だから少しでも、できることは全てやって、命の火を絶やさずに──足掻くと決めたよ」

 

 彼の瞳の奥で、追憶の光が滲む。それはひどくあたたかで、けれど真摯な決意の色をしていた。

 そうして彼はわたしを見据える。“だから”、と微笑む。

 

「空中少女。私を、救けてくれるかい」

「……っもちろん、です。そんなの、当たり前です……!」

 

 “平和の象徴”。存在そのものが犯罪の抑止力とされるほどに、圧倒的なヒーローで在り続けてきた人。傷ついた身体を引き摺って、それでもみんなを守るために立ち続けてきた人。明るい未来を築くために、痛みや苦しみを笑顔の裏に隠し続けてきた人。

 そんな人が例えば、好きなものを好きなだけ食べるとか、吐血することなく大声で笑うとか、そんな些細な生活を諦めなきゃいけないなんてあり得ない。……いや、

 

(有り得ては、いけない)

 

 そんなことが起こらないようにこの力を正しく使うのだと、決めている。

 だから声を上擦らせながらも“当たり前”と宣言したわたしに、オールマイトはびっくりしたように肩を跳ねさせた後、「そうかあ」と眉を下げて笑った。

 

 

83.少女、とある日曜の午前にて。

 

 


 

 本当はこの日曜日の話で書きたいことはもっとあったのですが長くなりすぎたので午前と午後で分けます……ぐだぐだ書いちゃうのはそうなんですがA組の子たちといっぱい色んな話をさせたいという気持ちが抑えられませんでした。

 今回は①緑谷くんの“救けたい”という気持ちの強靭さ、②常闇くんと黒影と追いかけっこ、③葉隠ちゃんカポエイラ、④尾白くんと心操くん、⑤何かを言えない相澤先生、⑥オールマイトの怪我についてそれぞれ書かせていただきました。またこうしたやり取りも後々のフラグにしていけたらいいななんて思ってます。願望です。更新頑張ります(白目)

 

 あとこの場を借りて2点紹介させてください。

 まず1つ目、◯べさんより弊オリ主やホークス、目良さんの支援イラストを2枚描いていただきました……!本当に素敵なイラストをありがとうございました!表紙や活動報告に許可を得て掲載させていただきましたので、皆様もぜひご覧ください。

 2つ目ですが、これも◯べさんより頂いたネタを元に弊オリ主とホークスの幼少期番外編を上げました!(2023/1/25)またお読みくだされば嬉しいです。



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84.少女、とある日曜の午後にて。

 

 みんみんじわじわと蝉の鳴き声が窓を隔てた向こう側から聞こえてくる。きっと外は変わらず暑いだろうなと、小さく息を吐きながらわたしは廊下を歩いていた。今日は日曜日。授業はないからか電灯はついていない。少しだけ薄暗い長い廊下に、こつこつと足音が響く。

 オールマイト、リカバリーガールと今後の計画を立て、部屋を後にして。次は体育館だと足を向けたその時だった。

 

「──オイ、」

 

 夏の午後の眩しい日差し。じゅわじゅわ歌う蝉の声。……そうした明るさ賑やかさとは裏腹に、その声は低く地を這うようだった。

 

「……爆豪くん?」

 

 静かに、赤い赤い灼眼が、睨み上げるようにこちらを見据えている。“どうしたの”と問い掛けたわたしに沈黙を返し、彼は足を踏み出した。一歩、一歩。距離が詰まる。目の前に立った彼は、わたしを見下ろし、口を開いた。

 

「オールマイトと、何話してた」

 

 ひゅ、と息を呑む音が、彼に聞こえていなければいい。そう祈りながら、わたしは平静を装った。

 

「何をって……お昼をご一緒してただけだよ」

「リカバリーガールと一緒にか?」

「そうだよ。お二人は元から仲がいいもの」

「それだけか」

 

 ──違ェだろ、と睨め付けてくる目は、端からわたしに問い掛けてなどいなかった。自分の中に確信を得ようと、わたしの言葉を引き出そうとしている。

 

「オールマイトの身体はどうなんだ」

「……、そんなプライベートなこと、ぺらぺら話すわけがないよね」

「じゃあそういう話があったってのは確かなんか」

「、爆豪くん」

「視線、揺らいでンなァ?」

 

 ハ、と馬鹿にしてきそうな場面なのに、その表情はひとつも動かない。微動だに、しない。彼は笑わず、ただ静かに燃える灼眼でわたしを見据えている。ひりつくような熱と緊張感に、眉を寄せた。

 

「……何をそんなに、知りたいの」

 

 彼は──わたしの言葉の向こうに、オールマイトを見据えている。

 

「あなたにとってオールマイトは、何なの?」

 

 彼は、爆豪くんは答えなかった。その代わりほんの少し目をすがめる。それが何故だか、……痛みを堪えているように、わたしの目には映ったのだ。

 

「……てめェ、仮免試験の時に言ってたろ。I・アイランドの事件でデヴィット・シールドが話してたって」

 

 ──オールマイトの身体が悲鳴を上げている。

 ──オールマイトの“個性”因子が衰えている。

 

『……お前たちは知らないだろうが、彼の“個性”は消えかかっている。だが私の装置があれば、彼の“個性”を元に戻せる……いや、それ以上の力を彼に与えることができる。

 No.1ヒーローが、平和の象徴が、再び光を取り戻すことができるんだ!!』

 

 まさかそんなはずないと。そんなことがあってたまるかと。目を背けていたデヴィット博士の叫び。……そうだ、彼は言っていた。わたしたちに、訴えていた。

 ──オールマイトの“個性”が消えかかっている、と。

 

「“個性”は身体能力のひとつ。筋肉と同じで使えば使うほど強くなる。……そこらのモブ共ならともかく、オールマイトはヒーロー活動で“個性”を使ってたはずだ。それなのに“個性”が衰える、だ?」

 

 爆豪くんはいやに静かに語り出した。普段の彼とは雰囲気のまるきり違う声色。淡々と話す彼の、その雰囲気に圧倒されて、……上手く言葉が、出てこない。

 

「明らか不自然だろーが。普通じゃねェ」

「……普通ではない何かの力が、働いている?」

 

 わたしの言葉を聞いて、爆豪くんは僅かに顎を引いて俯いた。それは頷く仕草に似ていたけれど、違うかもしれない。

 暗がりに沈む赤色の目は、こことは違うどこか──いつかの、誰かを見ていた。

 

 

「……オールマイトが静岡県に来てからしばらくして、デクは“個性”を発現させた。

 

 オールマイトに似た、【超パワー】の“個性”だ」

 

 

 ──その瞬間、氷をひとすじ飲み込んだような、そんな感覚に襲われた。じゅわじゅわ鳴いていたはずの蝉の歌は遠く、ひやりとした汗が滲む。

 

「……それ、は」

「……てめェなら、わかんだろ」

 

 もしかして、と浮かんだ考えはとてつもないもので、わたしはゆるゆると首を横に振った。まさか、信じられない、そんなこと──そうして目を逸らすことを、爆豪くんは許さない。ドン、とわたしの隣の壁を蹴りつけて、わたしの視線を縫い付ける。

 

「神野の事件は散々報道された。(ヴィラン)のボスヤロー……AFO(オールフォーワン)は、人の“個性”を自由に奪ったり与えたりできるってな」

「……爆豪くんはその報道を信じてるの?」

「普段はマスコミなんざ盲信しねェが、脳無とかいうカス共の“個性”複数持ちから考えて信憑性は高ぇ。それにテメーも話を聞いたろ、神野で……オールマイトとボスヤローは面識があった」

 

 “個性”の移動は現実に可能である。

 オールマイトとAFO(オールフォーワン)の関係。

 デヴィット博士が訴えていたオールマイトの“個性”の衰え──そして、

 

「……オールマイトと会って、無個性のデクが変わって、何もなかったハズのあいつが【超パワー】の“個性”を発現して、……入れ替わるようにオールマイトは“個性()”を失った」

 

 ──緑谷くんの“個性”の発現。

 

「なァ、空中。……オールマイトと、何話してた」

 

 再び問い掛けられて、わたしは声を失った。爆豪くんが並び立てた幾つもの話が、点と点を結んでひとつのかたちとなっていく。そのかたちの、途方もない大きさに、……わたしは息を飲むしかできなかったのだ。

 

「……、わたしは何も、知らないよ」

「それで誤魔化せるとでも思ってンのか」

「何を言われても、変わらない。わたしは何も知らなかった、……気づけなかった」

 

 ふ、と笑って、俯いていた顔を上げる。

 

「……一番真相に近づいているのは、きっと爆豪くんだよ」

 

 そんなわたしの真意を見定めるように目を細めていたけれど、暫くして爆豪くんは小さく鼻を鳴らして踵を返した。ポケットに手を突っ込んで、背中を丸めて。その後ろ姿が廊下の向こうに消えていくのを、わたしは胸元を握り締めながら見送った。

 

「……、」

 

 AFO(オールフォーワン)による“個性”の強奪と譲渡は可能だ。それは公安委員会会長からも聞いているし、……何よりわたしの“個性”も条件を満たせば人の“個性”を奪う。“個性”の移動は事実可能であると、わかっては、いたけれど。

 

「……緑谷くん」

 

 AFO(オールフォーワン)。オールマイト。“個性”。……そこに繋がるのが緑谷くんなんて、わたしは思いもしなかった。けれど爆豪くんの言葉を聞いて、納得している自分がいる。

 

『どうしてこんな……、……“個性”が体に、合ってない?』

 

 あれは、雄英に入学して初めての戦闘訓練を受けた放課後。訓練中に大怪我を負った緑谷くんを保健室に運び、リカバリーガールと治癒していた時のこと。彼の骨は砕け、血管は千切れ、……その力の掛かり方はどう見ても内側(・・)からだった。

 

『あんたの見立て通り、緑谷の体に“個性”が馴染んでいないんだろうさ。緑谷は去年突発的に“個性”が発現したと聞いているからね』

『去年……? それは、レアケースですね』

 

 あの時は、そう会話したけれど。

 元々彼の身体に眠っていた“個性”が発現したのではなく、去年──オールマイトが静岡近辺に活動拠点を移したその時に、“個性”を譲渡されたとしたら。それがオールマイトという、トップヒーローの“個性”だったとしたら。あの凄まじい【超パワー】にも、制御が効かずに身体を酷使してしまったことにも、説明がつく。

 

『リカバリーガール?』

『……本当に、難儀な子だね』

 

 そしてあの時、リカバリーガールが浮かべていた苦慮の表情にも、繋がっていく。

 彼女はオールマイトととも親しい。彼に向けて気安く飛ぶお叱りは、気心の知れた仲だという証拠。……思い返してみるとそれだけじゃない。体育祭の昼休み、スタジアムの臨時保健室にて待機していたところに、訪ねてきた男性がいた。

 

『リカバリーガール! 少々よろしいです、か……?』

『…………、……え……?』

 

 忙しなくドアを開けて入ってきたその人(・・・)は、わたしを見て大きく目を見開いた。痩せこけ、落ち窪んだ眼窩の奥で、碧眼が煌めいていた。

 

『……あの、すみません、リカバリーガールは2年か3年ステージの方へ詰めているんです。この1年ステージはわたしが補助員として担当していて……』

『あ、ああ! そう、そうだったね! いやはや失礼した!』

『いえ、そんな。……あの、もしリカバリーガールに御用でしたら連絡しましょうか?』

『いやそれには及ばないよ! ごめん! 失礼したね!』

 

 そうして慌ただしく部屋を後にしたあの人(・・・)──オールマイトは、筋骨隆々の逞しいNo.1としての姿とは掛け離れていた。痩せこけた長身、肉の削げ落ちた頬、力を失ったように垂れ下がる二対の前髪……だからわたしは気づかなかった。気づけなかった。

 でも彼はその姿でリカバリーガールに会いに来た。つまりリカバリーガールは、オールマイトとのその姿を、真実を知っていたということだ。

 

 オールマイト。緑谷くん。リカバリーガール。……“個性”の移動。

 デヴィット博士が「消失してしまう」と恐れていた平和の象徴の“個性”は、今──

 

 

『今のままじゃ、ダメなんだ』

 

 今朝の笑顔を思い出す。いつものように(・・・・・・・)と、そう思ったけれど、ほんの僅かに引っ掛かりを覚えた。くしゃりと笑うその笑顔も声も優しいけれど。確かに優しい、緑谷くんのものだけれど、

 

『……もっと、強くならないと』

 

 その眼差しだけ、どこか凄みを帯びて見えた。

 “もっと強くなりたいの、わたしもなんだ。同じ気持ちだね、頑張ろうね”。そんな言葉さえ掛けられなかった。

 

 彼はわたしなんかより、とても、とても、重いものを背負っている。

 その覚悟の大きさに、痛ましさに、──怖じ気づいてしまったのだ、わたしは。

 

 

 

 

 

 

「愛依ちゃん、……愛依ちゃん?」

「!」

 

 とんとん肩を叩かれて、はっと我に返る。体育館の入り口。石造りの階段に腰かけていたわたしは隣の梅雨ちゃんに笑いかけた。考えることは多いけれど、……それでも今、みんなの前で暗い顔をしたいわけじゃないから。

 

「ごめんなさい、ぼうっとしてたみたい」

「やっぱり、疲れてるんじゃないかしら」

「そうそう! だって朝からずっと訓練し通しやろ?」

「え? いや、……」

 

 これぐらい何ともない、と言いかけて飲み込んだ。公安のビルにいた頃はほぼ四六時中訓練と勉強を受け続けていたから、……むしろ暇な時間ができると何したらいいかわからなくなる。

 

「ホントにね☆ 何をそんなに焦っているんだか☆」

「焦ってるとかではないんだけど……そうだね」

 

 もうちょっと休憩しようかな、と誤魔化すように笑って、お茶子ちゃんから手渡されたペットボトルに口を付ける。ひんやりとした水が喉を通っていくたび、身体に籠っていた熱が優しく冷まされていく気がした。

 昼御飯の後に爆豪くんと別れてから体育館にやって来たわたしは、約束していたみんなと必殺技の開発・練習に取り組んでいた。タオルで汗を拭いふーっと息を吐くお茶子ちゃん。少し乱れた髪を櫛で梳かす梅雨ちゃん。コンパクトミラーで自分の髪をセットし直している青山くん。そして、

 

「! ……えっ?」

 

 くんっ、と羽根を引っ張られる感覚にそちらを振り向けば、くりくりとした黒い目と目が合う。その子(・・・)は桜の花びらのような嘴で、つんつんとわたしの羽根をつついていた。

 

「ああ、こら、ダメだよ……!」

「くるるっ」

「そ、そんなこと言ってもダメだってば……!」

「だ、大丈夫、気にしてないよ……口田くんの鳩だよね」

 

 そして、口田くん。【生き物ボイス】という生き物と意志疎通できる彼は、さまざまな場面で動物たちに力を貸してもらえるように、何匹か許可を得て寮に動物を連れてきている。わたしの羽根を嘴でつついていたこの子もその中の一羽らしい。

 真っ白で丸っこくて、綺麗な鳩だ。口田くんのお叱りやわたしたちの視線は気にした風もなく、マイペースに羽繕いをして、わたしの羽根の中にもぐっていった。

 

「わっ?」

「同じ色だから仲間やと思っとるんかなぁ」

「可愛いわ。人懐っこいのね」

「う、うん……この子は特に、抱っこされるのが、好きなんだって」

「そうなの?」

 

 口田くんに断って羽根越しにそっと撫でると、その子はひょこっと羽根のカーテンから顔を覗かせた。それからひょこひょこ歩いてわたしの膝の上に乗る。戸惑うわたしの腕にもたれ掛かり、くるる、と目を閉じた。

 

「わ、あ……!」

「かっかっ可愛~!!」

「本当に抱っこが好きなのね。リラックスしてるみたいだわ」

「つ、梅雨ちゃんお茶子ちゃん、ふかふか、ふかふかしてる……!」

「あら……ふふ、ほんとね。目がきらきらしてるわ」

 

 可愛いわ、と何故かわたしを見ながらそう言った梅雨ちゃんに頷いて、腕の中の鳩を撫でる。ふわっと、もふっと、つるつるふかふかすべすべとした肌触り。首元をかりかり擽ると「くるるるるっ」と心なしか嬉しそうに鳴いてくれた。その声に耳を傾け、口田くんははにかむ。

 

「ふふ……“なかなかやるじゃない”、だって」

「気位が高そうなコメントだね☆」

「可愛い顔に似合わず……いや逆に合ってるんかな?」

「お嬢さんなのね」

「え、えと……お気に召しましたか?」

「くーるる」

「! ふふ、よかった……!」

 

 今は口田くんの通訳がなくとも、“ええ”と応えてくれたように聞こえて、わたしは安心して笑った。腕の中に収まる温もりと鳴くたびに伝わる振動に、頬がとろとろ蕩けてしまう。嬉しい、という気持ちが背中にまで伝わって、羽根が自ずとぱたぱたはためく。それを見た口田くんはゆっくりと目を瞬かせて、微笑んだ。

 

「空中さんの羽根は……毛先が、鷹のように広がるんだね」

「え……」

「! あ、その、ごっ、ごめんねいきなり」

「う、ううん違うの。嫌とかじゃなくて、驚いただけで……」

 

 わたしの【翼】は生まれつき備わっていたものじゃない。ホークスから、【依存】で奪ったもの。……その羽根に彼の名残が残っていることが、浅ましくも嬉しくて。

 

「……あまり羽根のことは意識してなかったけど、そっか……鳥によって羽根の形状や飛び方は違うものね」

 

 心を落ち着けて、笑みを整えて。そうしてわたしが言えば、口田くんはほっとしたように眦を和らげた。 

 

「うん。例えば梟なんかは、風切羽根にぎざぎざした……櫛みたいな切れ込みが入ってるんだ。セレーションっていうんだけど……そこから羽ばたく時、空気が抜けていくから……振動による音が出づらくなるんだ」

「へえ……!」

 

 口田くんの解説に頷いていると、隣からふぅんと相槌を打つ声。そちらを振り返れば、三角座りしながら頬杖をついてこちらを見る、青山くんのきらきらした目と目が合った。

 

「空中さんってさ、羽根を固くして弾丸にしたりぶん殴ったりしてノン淑女☆してるけど、羽根の形を変えることはできるのかい?」

「羽根の形、を?」

 

 “ノン淑女”と言われたことはとりあえず置いておいて……その発想はなかったなと息をつく。考えてみればホークスの【剛翼】は羽根を自在に操る。それは飛行や射出にとどまらず、形状変化にも及ぶと聞いたことがあった。今までは硬度を上げることで攻撃力を底上げしていたけれど、羽根の形状を変化させることによって、別の鳥の特性を生かした動きもできるようになるかもしれない……!

 

「うん、やってみるね……! ……切れ込み、風切羽根に切れ込み……」

「えっ唱えとる……いつもはどうやって羽根を固くしとるん?」

「え? ええと……“固くなれ”ってぐっと念じてる感じで……」

「結構精神論なのね」

「理論もクソもないね☆」

「ぐ、ぐうの音も出ない……」

 

 だ、だってホークスも『形状変化?なんか“そうなれ~!”って強く思えばいけるよ』って言ってたし……いやでも今思えば教え方てきとうだな……あの人は努力を怠らない天才肌だから、こんな基礎中の基礎は深く考える間もなくやってのけてしまったのかも……って、駄目だ、思考が逸れてしまった。

 深呼吸して、思考をクリアに。

 ただひとつ、羽根に集中して──

 

「! で、できた?」

「うん……! 梟の翼に近くなってるよ……!」

 

 羽根の変化に目を開けると、嬉しそうな口田くんの笑顔が見えた。動物に精通している口田くんの言うことなら確かだろうと、体育館に入り天井近くまで飛び上がってみる。するとすぐにわかった、いつもより羽根をすり抜けていく空気、摩擦の薄れ、……音の、静けさ。

 

「本当に、羽ばたきの音が減ってる……!」

「ほんまに! さっきの切れ込みで、こんなに違うんやねぇ」

 

 にぱっと笑ってくれたお茶子ちゃんの元に降り立つのにも、ほとんど音を感じさせなかった。その様子は、まるで……

 

「まるで梟☆ そう……“(シュエット)”といったところかな☆」

「ふふ、うん!」

 

 青山くんはキラめく笑顔でそう言って、わたしも笑顔で頷いた。またひとつ、できることが増えていく。それがどうしたって嬉しかった。

 わたしたちのやり取りを見て、お茶子ちゃんも明るい瞳で頷き、よし!と両拳を握る。

 

「私も必殺技考えな! 機動力はこの前のサポートアイテムでだいぶ向上したし、次は決定力かなぁ」

「決定力……あ、」

「どうかしたの、愛依ちゃん」

「うん。午前中、尾白くんにアドバイスをもらってね……」

 

 脳裏に彼の優しい笑顔を思い浮かべながら、わたしは話す。尾白くんは言ってくれた──攻撃の挙動に乗せる重さが足りないのなら、【翼】という“個性”を駆使して、重力を味方につければいいのではと。

 

「わたしは【翼】、お茶子ちゃんは【無重力】……どっちの“個性”も上手く使えば、尾白くんの言う重力を味方につけれるんじゃないかな」

「確かに! それでいくと……口田くんの鳩さんもいい感じなんやない!?」

「えっぼ、僕!?」

「そうね。口田ちゃんがお願いして、鳩に動いてもらって……」

 

 そうして3人があれこれ相談し始めるのに微笑んで、ふと気づいた。青山くんは会話に混ざらず、一歩引いたところから彼らのやり取りを見守っている。どうしたんだろう、と疑問に思う気持ちと、ちょうどいい、と思う気持ちとで、わたしは彼に近づいた。

 

「青山くん、ありがとう」

「何だい? 藪から棒に☆」

「そう聞こえるかもしれないけれど……前から思っていたんだよ」

 

 青山優雅くん。何だか独自の美意識やペースを持っている人で、明るく笑ってるところはよく見るけれど、進んで誰かと関わる印象はなかった。

 だから、意外だったのだ。夏休みが終わって寮生活が始まって、わたしが体育館を借りて訓練をするようになった時、一緒に付き合ってくれる人たちの中に彼がいたことが。

 

「わたしの特訓にたくさん付き合ってくれてるでしょう? 必殺技のアイディアをくれたり、名前を考えてくれたり……」

 

 フランス語に詳しい彼は、わたしの“突風(ブラスク・リーゼ)”や“一陣の風(ラファル)”、“雲雀(アルエット)”、そして他の技だって開発を手伝ってくれた。とても意外で、……嬉しかった。

 

「だからやっぱり、ありがとうね」

 

 だからただ、感謝の気持ちを伝えたくて。

 ──それだけ、だったのに。

 

 

 

「……青山くん?」

 

 青山くんは微笑みのまま、固まった。まるで時が止まったかのように微動だにしない。呼吸さえ詰めているようで、……その緊張感がわたしにまで伝播する。

 

「……なんだ、そんなこと」

 

 こくりとわたしが喉を鳴らす頃、青山くんはやっとその口を開いた。ゆっくりと口角を持ち上げて、微笑む。

 

「……わたしにとってはそんなことじゃ、ないよ」

「そう。……僕にとっては違うけれど」

 

 その表情が、声が、目が。……何故だろうか。

 どうしようもなく、泣きそうに見えた。

 

「自己満足にすら、なりはしないのさ。こんなこと」

「……青山、くん?」

 

 羽根でようやく拾えるぐらいの、小さな小さな呟きだった。それは楽しそうに弾むお茶子ちゃんたちの声に掻き消され、じわりと熱を孕む夏の風に浚われる。

 こんなに明るい日差しの差す昼の体育館に、友だちと過ごす時間に、それでもそこだけが暗がりのようだった。輝きに満ちているはずの金髪も、碧眼も、……彼自身が暗がりに沈んでいる、ようで。

 

「あお……」

「なーに沈んじゃってるのさ☆ 空中さん」

「えっ」

「へばっちゃったのかい? もう一度休んできたら?☆」

「だっ……大丈夫、だよ」

「そう? じゃあお先☆」

 

 どうしたの、と問い掛けようとしたわたしを遮るように、青山くんはパチンとウインクをひとつ。いつもの調子で(・・・・・・・)軽快に笑って、お茶子ちゃんたちが話す輪の中に入っていった。……けれどそんな様子を見て、“ああ何事もなかったんだ”と思えるほど、わたしは楽観的ではない。

 

(彼は……わたしの心配を、してくれている?)

 

 もしくは──神野で色々あったわたしに対し、負い目を抱いているのだろうか。林間合宿で爆豪くんとわたしが(ヴィラン)連合に拐われた際、A組のみんなはそれぞれに思いを抱いていたようだ。

 (ヴィラン)に対して何もできなかったという後悔。恐れ。悔しさ。……青山くんも、そのひとつを抱えているんだろうか。もっと聞けば、教えてくれるんだろうか。……少なくとも今は、踏み込ませてくれなかった。

 

(わからない。今は、……そう、何も)

 

 心によぎる暗い予想を振り切って、わたしは、祈るように胸元を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 あれからみんなで必殺技をあれこれ考案したり、実際にやってみて改良をしたり、練習したり、……そうしている内に日も随分傾いてきた。汗を拭いながら空を仰いだ梅雨ちゃんが「そろそろ帰りましょうか」と言うのに頷き、寮へと戻ったわたしたち。

 入り口を抜けると、ふわりと漂う香りに足を止めた。互いに顔を見合わせて瞬きひとつ。小麦粉と砂糖の、ふんわりと甘い匂い……これは、

 

「皆さんお帰りなさい! ちょうどよいタイミングでしたわね」

「あら百ちゃん、何だか嬉しそう」

 

 その時、リビングの方から歩いてきた八百万さんがわたしたちを出迎えてくれた。こてんと首を傾げる梅雨ちゃんに対し、“ええ!”と笑う。

 

「砂藤さんが午後のおやつに、シフォンケーキを焼いてくださいましたの!」

「砂藤くんが?」

「そうそう!」

「そうなんだよー!」

「わわっ?」

 

 八百万さんの後ろからぴょこっと顔を覗かせた芦戸さんと透ちゃんは、弾けるような笑顔でわたしの手を引いた。引っ張られるまま着いていくわたしに、2人は声を弾ませる。

 

「砂藤くんってさ、“個性”訓練のついでにお菓子作りをよくしてるみたいなんだよね。シフォンケーキも絶品でさ、あんまァくてふんわふんわなの!」

「あんまぁくて、ふんわふんわ……」

「空中も食べよ! 頬っぺた落っこちるから!」

「! ……うん!」

 

 この口ぶりだと、寮に入ってすぐの頃にみんなは砂藤くんのシフォンケーキを食べたことがあるんだろう。でもそれで終わらないで、“空中にも”って、思ってくれたんだ。それがわかるから、どうしたって頬が緩んでしまう。

 

「皆さん、カップは行き渡りましたか?」

 

 みんなでリビングに集まって、ソファーや椅子に腰掛けて。八百万さんが淹れてくれた紅茶のいい香りに包まれながらシフォンケーキにフォークを刺した。ふわっ、と柔らかな感触に目を丸くしながら、口にいれる。

 

「! ~~~っ!」

「あらまあ、目がきらきらしてるわ」

「いやでもわかる。めっちゃ美味いよな砂藤のシフォンケーキ」

「むぐ、うん、うん……!」

「おォ……満面の笑み」

「だって本当に甘くてふんわふんわだから……!」

 

 ふわっと雲のように口の中で蕩けたかと思えば、素朴で優しい甘味が広がる。口当たりも軽くて程よい甘さでくどくなく、幾らでも食べられそう!

 そう力説すれば砂藤くんは照れたように頭を掻いて、それでも「やっぱ嬉しいもんだなぁ」と笑ってくれた。それにわたしも笑みを返して、もう一度フォークを口に運ぶ。そんな時だった。

 

「障子ていっつも複製腕から食ってっけど、口からは食わねーの?」

 

 そういえば、と前置きした上鳴くんがそう疑問を投げ掛ける。何でもないような、ごく普通の世間話。けれど障子くんはそれに対し、少しだけ沈黙した。

 

「……いや、食べられる」

「ああそれ、俺も気になってたんだ。複製腕から食べると……栄養はいってるだろうけど、味覚もちゃんと感じるのか?」

「味覚は然程。まだそこまで精度を上げて複製できないんだ」

「えっじゃあ口から食べた方がいいじゃん!」

 

 “砂藤のケーキの味を味わえねぇのはもったいねーって!”と眉を下げて声を上げる上鳴くんに、ふ、と、障子くんは微かに微笑んだ気がした。

 眩しそうに、──遠くのものを見つめるように。

 

「……そう、だな」

「? 障子く……、」

 

 そうして、障子くんの大きな手が彼のマスクに掛かり、それをずらした。初めて見た彼の素顔、そこにあるものに──わたしもみんなも、小さく息を飲んだ。

 

「なん、なんだよその傷!? なァ空中、治して……っ」

 

 上鳴くんの悲鳴のような声を背に受けながら、わたしは障子くんに向き直っていた。彼に断り、彼の頬に手を添え、傷口を診る。

 大きな口の端から、無理やり引き伸ばされたように続く瘡蓋。塞がっているにも関わらず傷痕が残っているのは、真皮深層にまで傷が及んでしまったから。……それだけ、深い傷を負ったことを意味する。

 口の端から、首を一周して、もう反対の口の端まで──まるで首を、斬り落とそうと、するような──

 

「……これは、古い傷、だね」

「あァ、子どもの頃の傷だ。もう痛まないから問題は、」

「いやいやふざけんな、大有りだろォ!?」

「痛くねーからって問題じゃねーだろが!!」

 

 涙を滲ませながら叫ぶ峰田くんと上鳴くん。2人に同意するように口を結び、じっと、真剣な眼差しで見つめるみんな。彼らの様子を見渡して、障子くんは微かに目を見張った。

 

「……こんな時に話すべきことでもないと思うが……、」

 

 いつも冷静な彼には珍しい、躊躇うような声の揺れ。移ろう視線がふと、わたしの視線とぶつかる。

 彼の鋭い目に、思案の色が浮かぶ。

 ……それから柔らかに、光が灯る。

 

「……いや、そうだな。この際話してしまおうか」

 

 無理に聞かなくてもいいからな、とわたしたちに念を押すその声は、穏やかだった。その声のまま、障子くんは、彼の過去について語り出す。

 

「両親にこの腕はなかった。……酷い村だったよ。人に触れようものなら総出で“血祓い”だ」

「……血祓い」

 

 歴史の授業で学んだことがある。かつて“個性”が世に溢れ、誰も手綱を取れなくなった超常黎明期。ヒトはヒトの規格を無くし、さまざまな“個性”と身体をもって生まれるようになった。そうして、動物や植物、鉱石──ありとあらゆる存在の力を身に宿した人たちを、【異形】と呼ぶようになったとされている。

 【異形】。その呼称に込められた意味、歴史……わたしたちは学舎で、公安で、知識として教わり知っている。

 ……知っているだけ(・・・・・・・)だったんだ。

 

「村のある子どもに、俺が故あって触れたんだ。……そのことを知った村の大人たちが、この傷をつけた」

「なっ……んで!? 触っただけだろ!?」

「……血祓いとは、異形型“個性”を徹底して排斥する思想のもと行われた、と歴史書には書かれていた」

「……そうね。異形型“個性”の身に流れる血を、流させて、祓う……」

 

 “個性”は、遺伝する。

 つまり“個性”とは血に起因する。

 そうした考えが飛躍した結果、異形型“個性”は血のせいだと、暴行により血を流させ、穢れを祓おうと──そんな風潮が広まってしまったのだ。

 飯田くんに続いて言葉を継いだ梅雨ちゃんは、その大きな目を憂いに伏せる。その背をそっと撫でながら障子くんに視線を戻すと、彼はゆっくり、静かに頷いた。

 

「常闇や口田ら都会生まれには教科書の中の話かもしれんが、子どもにこんな傷を負わせる地域がまだ残ってるんだ」

「……ゆるせん。そんな奴ら根絶やそ……!」

「それもいいが。……やはり“差異”というものはある」

 

 わたしは、唾を飲み込んだ。驚きを悟られないよう、静かに。

 今障子くんは、怒りに震えた芦戸さんの“根絶やそう”という言葉に同意した。淡々と、揺るぎなく、深く──頷いた。

 

(……怒って、いるんだ)

 

 ……落ち着いているように振る舞う障子くんだけれど、その心の底にはずっと、怒りが燃えているのだとわかった。どうして、何故、と問い掛ける疑問。理不尽な差別。悔しさも悲しみも、全てが蟠り、深い“傷”として刻まれている。

 

「……、オイラ……“タコ”って言った気ィする……!」

 

 誰もが沈黙していたその時だ。ハッと目を見開いた峰田くんがそう口にして、障子くんに駆け寄る。“個性把握テストで……!”と涙を流す峰田くんを、大きな腕が支えた。

 

「ごめんなァでも気味悪ィとかそんなん考えてねーよ!!」

「いや、峰田。この腕から蛸を連想するのは当然だ」

 

 峰田くんを宥めつつ、障子くんは自分のマグカップに視線を投げ掛ける。ステンレス製のタンブラーには、デフォルメされたタコの絵が描かれていた。

 

「ヒーロー名【テンタコ(・・)ル】だし、それに俺だって“(ヴィラン)っぽいヒーローランキング”とか下世話なもの見たりしてるし、触れないで変に気を遣ってほしくない」

 

 わたしはただ、黙って聞き入っていた。怒りを秘めているはずの障子くんは、傷を抱えているはずの障子くんは、声を荒げることも沈ませることもなかった。

 

「けれどこの“傷痕”と、“異形”は意味を強制する。だからマスクをしている。俺は、」

 

 静かに、淡々と、穏やかに、

 ──それでもたくさんの思いを込めて、彼は言う。

 

「俺は、“復讐者”と思われたくない」

 

 理不尽な迫害を受ければ、怒りが沸き上がるだろう。何故、と世を呪いたくもなるだろう。そうした感情の切っ先を研いで、誰かに向けてもおかしくないだろうに。

 

(それでも障子くんは、その道を選ばなかった)

 

 障子くんはただそれを、静かな言の葉に変えた。

 その静けさはきっと“強さ”に他ならない。そうでなければ何とすればいいのか。少なくとも、悲しい言葉で例えることは、したくなかった。

 

「……強いのだな」

「嫌なことは山ほどあったし忘れることはない。──でも、」

 

 常闇くんに応えるように、障子くんは話してくれた。かつて住んでいた村のこと。地方の山奥に位置するその村の近くには傾斜の厳しい川が流れていたこと。前日の大雨で増水した川で、溺れる小さな女の子を見つけたこと──

 

「嫌な思い出を数えるより、……たった、一つでも」

 

 その時障子くんは、手を伸ばした。流れに呑まれそうな石に右手で掴まりながら、左手をめいっぱいに。一度は急流に阻まれ、繋がることなく離れていった小さな手──けれど別の複製腕に腕を継ぎ足し生やすことによってその距離を詰めた。

 【複製腕】だったからこそ。

 障子くんの、その腕だったからこそ。

 女の子を、救い上げることができた。

 

「この姿でよかった思い出に、縋りたいんだ」

 

 救い上げた女の子は酷く震えていたのだという。急流に呑まれた寒さに、溺れ死にそうだった恐怖に、ぼろぼろ泣いて、……障子くんの複製腕に縋りつき、“ありがとう”と言ったのだと、障子くんは続ける。

 いつの間にかその頬には笑みが浮かんでいた。マスク越しではない、初めて見る素顔の笑顔。鋭い目を僅かに緩めて、傷痕の残る口角を持ち上げる。淡い微笑は、けれど確かにあたたかかった。

 

「……“たった一つ”とかやめて……マジでぇ!!」

 

 そんな障子くんの笑顔に、ぶわっとみんなの目に涙が浮かぶ。彼の思いがもどかしいとか、切ないとか、……あまりに強くて眩しいとか。うまく言葉にできない気持ちが溢れて、涙が堰を切ってしまった。切島くんと芦戸さん、上鳴くんが先陣を切って障子くんの腕の中──ではなく──複製腕の下へ滑り込む。

 

「これからいっぱいつくろおよお!! もおお!!」

「ぼくらとさあ!! いい思い出をさあ!」

「ぬくいの知ってるの」

 

 3人だけじゃない。目の端に涙を滲ませた口田くん、峰田くん、梅雨ちゃんももう片方の腕の下に入り込んだ。6人の姿がすっぽり隠れるぐらい、障子くんの腕は広くて大きい。……そしてきっと、とってもぬくくて、優しいんだ。

 

「……うん」

 

 ……だって、そうだ。みんなを包み込むように腕を広げる障子くんの眼差しは、どこまでも穏やかだ。

 彼はゆっくり、噛み締めるように頷いて、それから口を開く。

 

「俺は……100年以上続く柵を、一世代でフラットにできるとは思わない」

 

 込み上げるこの思いを、なんて言葉にすればいいのか。だって障子くんの発言は、自分は“差別のない世界を見ることはない”と割り切っているということだ。

 どれだけ辛い思いをして、理不尽な過去を乗り越えて、ヒーローになるべく途方もない研鑽を重ねて、ヒーローになって。どれだけたくさんの人を救っても。差別の根絶に向けて動いても。

 

(……障子くん自身は、差別のない世界に生きられない)

 

 彼が割り切ってしまったことは、きっと事実だ。超常黎明期から今日までの歴史が語るように、人の心による差別と偏見、因習は、すぐに払拭できるわけじゃない。

 

 それでも──“だからこそ(・・・・・)”と、障子くんは語り続ける。

 

「だからこそ、先人たちがそうしてきたように、俺も紡いでいきたいんだ」

 

 数多の異形型“個性”を持つヒーローたちが、その“個性”でもって人を救ってきた。

 根津校長先生みたいに、“個性”による差別をよしとしない人たちが、“個性”によらない、揺るぎない人権を主張してきた。

 公安委員会など政府が、みんながそれぞれの“個性”を受け入れて共に生きていけるようにと、“個性”教育プログラムを広めてきた。

 

 人の心による差別は、簡単には無くならない。

 それでも誰かが、諦めずに活動し続けていたから。今の社会と未来がある。

 

「世界一格好いいヒーローになって、“次”に、いい思い出を」

 

 “次”に。

 次の世代に、託して、残す。

 “次”を、未来を生きるみんなが、みんなで笑って暮らせるようにと、願いと祈りを込めながら。

 

「……諦めないんだね、障子くん」

 

 それがどんなに、途方もない道のりか。きっと障子くんはわかっている。

 それでも決して、歩みを止めようとしないのだ。

 

「わたしはそれが、すごいと思う。……強いよ、障子くん。本当に……」

 

 眩しさに目を細めるように、わたしは微笑んだ。何だか胸がいっぱいになってしまって、うまく言葉になりきらない。

 それでも障子くんは少しだけその目を見張って、それからふっと微笑んだ。

 

「……今回この話を打ち明けられたのは、おまえの影響もあるんだ。空中」

「、わたし?」

「気を悪くしないでほしいんだが、……先日みんなの前で自分のことを話しただろう」

「……うん」

 

 神野事件に端を発するA組除籍未遂。それに過去を重ねて怖がって逃げたわたしを、けれどみんなは見捨てず話を聞いてくれた。

 わたしが、大切な人の過去の頑張りと明るい未来をぐちゃぐちゃに壊したのだと吐露しても、……“友達よ”と言ってくれた。抱き締めて、くれた。

 

「……俺もみんなに、知っておいてほしいと……そう思ったんだ」

「うん、……うん」

 

 A組のみんなは、強くて優しい。わたしが心を救ってもらったように、障子くんの心にもきっと、あたたかな光が差したんだ。

 すごいなあ、と思うと同じに、憧れた。わたしもみんなみたいになれればと、胸元を握り締める。

 

「……わたしでよければ、いくらでも、何度だって、話を聞くからね」

「ああ」

「本当だよ。いつだって、どんなことだって」

「ああ、……わかっている」

 

 “ありがとう”、と浮かべてくれたその笑顔は優しかった。……けれど、……だからこそその頬に歪む傷痕に、つきんと痛みが胸に走る。表情を意図的に固めて、わたしは彼を真っ直ぐに見つめ直した。

 憐れみなどではなくて、……やりきれない過去も感情も全て抱えて未来に向かう障子くんの強さを尊敬するからこそ、彼の選択肢を増やせたらと思ったから。

 

「……障子くん。たぶん、わたしは、……あなたのその傷も治すことができる」

「!」

「どう、する? ……障子くんは、どうしたい?」

 

 そう問い掛けると、障子くんははっと見開いた目を伏せて、黙考に沈んだ。その瞳に、複雑な色が揺らいでいる。

 

「空中、まだ、……考えていてもいいか」

 

 重い沈黙を破って、障子くんは低く、絞り出すような声で言った。

 

「この傷を残したいわけでは、ないが。……この傷があったからこそ、決意できたこともあるんだ」

「……うん」

「……すまないな、せっかく申し出てくれたのに」

「ううん……! 謝ることなんてないよ。わたしは、あなたの意思を尊重したい」

 

 ずっとこの傷と、そこに宿る思いと過去とを抱えて生きていたんだ。それを急に手放せるほど、障子くんの歩んできた道のりは平坦じゃなかったはず。

 

「……本当に、いつになってもいいからね」

 

 答えが出すのがいつになっても、それがどんな答えになっても。わたしは障子くんの思いを大切にしたい。

 そう声を重ねれば、彼は深く、ゆったりと。……優しい眼差しで頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 そうして障子くんの話が終わり、みんなで少しだけ涙目になりながらもお茶会を再開した。再び口に放り込んだシフォンケーキは甘くて、ふわっとしていて、優しくて。

 

『美味しいよぉおおお』

『優しいママの味だよぉおおお』

『誰がママだよ』

 

 そんなやり取りをして、可笑しくなって笑い合って。笑みを溢すその輪の中心に障子くんがいるのが嬉しくて、わたしもくすくす笑っていた。

 みんなで話して。お風呂に入って。夕御飯も食べて。後片付けをして。そうして“美味しかったね”って笑いながら女子寮に向かう、その途中のことだった。

 

 緑色の癖っ毛が揺れている。男子寮に戻るのだろう緑谷くんの後ろ姿と、彼の隣をずんずん歩いてすれ違う爆豪くんの姿が見えた。すれ違いざま、爆豪くんの口が微かに動く。

 

「……、爆豪くん?」

「ア゛?」

「が、柄悪いな……何かあったのかなって、気になっただけだよ」

「なんもねーわ」

 

 緑谷くんから離れてこちら側に近づいてきた爆豪くんは、いつも通りの通常運転──と見せかけて、そうではないような気がした。だっていつもならもっと鋭い眼光をこちらに飛ばしてくるし、舌打ちのひとつだってしてくる。

 今はどこか粛々と、丁寧に、心を固めて決意をしているような。そんな静けさを感じてしまったのだ。

 

(……それに、今の声)

 

 ほんの小さな呟きは、この羽根を以てしても全ては拾い上げられなかった。それでも聞こえたことがある。

 

『てめェの────話だ』

 

 それを聞いた瞬間、緑谷くんの肩はびくりと揺れて、それから微動だにしなかった。

 そんな2人のいつも通りとは言えない様子が、昼間の爆豪くんとの会話を思い出させる。オールマイトの失われた“個性”、行き着く場所、リカバリーガールの憂い、緑谷くんの決意の重さ、……その断片を並べて繋いで語った、爆豪くんの低い声。

 

「……、」

 

 彼らが何をしようとしているのか。何を知っているのか。思って、いるのか。

 気にならないと言ったら嘘になる。心配なんてひとつもないなんて言えない。けれどそれ以上に、“ここ(・・)に踏み込んではいけない”。そんな確信が胸を満たして、わたしは何もできなかった。

 

「ねー空中ぁ、何ぼーっとしてんの?」

「! 芦戸さん」

 

 ぽんっ、と肩を優しく叩かれて、振り向きざまに見えた彼女の笑顔に、わたしも頬をほころばせた。“何でもないよ”と気を取り直すと、芦戸さんはふうんと相づちを打って、それからまたぱっと声を輝かせる。

 

「じゃあさ、今から耳郎の部屋行かない?」

「耳郎さんの?」

「そー! 楽器弾いてもらおうよ。耳が幸せになるんだよー!」

「だから、そんなすごいことじゃないってば、」

 

 芦戸さんと透ちゃんが言うには、ロックが好きな耳郎さんの部屋はギターにドラム、シンセサイザーなどの楽器で溢れているんだとか。耳郎さんは恥ずかしそうにイヤホンジャックを手にしてるけど、きっと彼女の奏でる音は素敵なんだろうなとわかる。聴いてみたいな、と心が浮き立つのと同じに、背中の羽根がぱたりと上を向く。……けれどその羽先はすぐに力を失い元の位置に戻った。しゅんと、萎れるように。

 

「えと、ごめん、明日提出しなきゃいけないレポートが残ってて、今からやらないといけないんだ」

「えっ!? そんなレポートあったっけ!?」

「ううん違うよ、リカバリーガールからの課題」

「あー……ン~そっかあ、それなら仕方ないね」

「……ごめんね」

「いや謝ることないじゃん! 愛依ちゃん頑張ってんだしさ。偉いよ!」

「わ……っ」

 

 透ちゃんの透明な指先がわたしの髪をかき混ぜるように撫でる。それがくすぐったくて、優しくて、嬉しくて、わたしも肩を震わせて笑ってしまった。そんなわたしの頬につん、とひとつの感触。イヤホンジャク、その線を辿ると、微笑む耳郎さんと目が合った。

 

「またいつでも来て、空中」

「! うんっ」

 

 そうしてエレベーターを降りていくみんなに手を振って、わたしは5階へ向かう。ごうん、と動いた駆動音の他には何も聞こえない、ひとりきりの小さな部屋。けれど先程の会話が耳の奥でまだ木霊しているようで、頬が緩んで仕方なかった。

 

 

 ──そんな時だった。耳朶を飾るスタッドピアスが音もなく震える。“公安からの秘匿通話”、……小さく息を飲んで動揺を殺して、ピアスに触れた。

 

「はい、……」

 

 耳元で流れる、氷のように透き通った声。

 

「……え」

 

 わたしが思わず溢したのは感情の断片だった。それを窘められて、わたしは謝罪を口にする。そうして僅かに乱れる息とともに飲み込んだ。冷や汗でぬかるむ手の内を何とかしたくて、縋るように胸元を掴む。

 

「……承知しました」

 

 飲み込んで、飲み込んで、

 そうして心の揺れを殺した。

 

 

 

 

 

 自室のデスクの上には、リカバリーガールから借りた医学教本と授業でとったノート、参考書や症例集が所狭しと広がっている。リカバリーガールからの課題は【とある状況下での患者をどう診断し、どう対処するか】をまとめてくるというもの。周辺の状況や患者の状態から考えられる病名、病原、そこから導き出される適切な治療法──自分はどう動くべきか。

 

(……自分は、どう動くべきか……)

 

 ふと頭をよぎったノイズに、いけないと首を横に振る。こんなのじゃいけない、集中しなくちゃとわかってはいるのに、握り締めたシャープペンシルは上手く動いてくれない。ふーっと息を吐いて、天井を仰ぐ。その時、こんこん、とノックの音が耳に飛び込んできた。

 

「……? はい」

「愛依ちゃん、私よ。入ってもいいかしら」

「! ……、」

 

 一瞬、躊躇した。迷った。

 ……けれどやっぱり心は、頷いてしまう。

 

「……うん、どうぞ」

 

 椅子から立ち上がりざま羽根をひとつ飛ばして、部屋のドアノブを捻る。扉が開いた瞬間、ふわりと甘い匂いがわたしの鼻腔をくすぐった。シフォンケーキとはまた違う、優しくて、甘い匂い……

 

「! ホットミルクだ」

「前も一緒に飲んだわね、覚えてる?」

「……忘れないよ」

 

 梅雨ちゃんが手にしたお盆には、2人分のマグカップと蜂蜜のボトルが置かれていた。前、……林間合宿を賭けた期末試験のため勉強していた時のこと。ベッドをこっそり抜け出して勉強しているわたしに、あの時も梅雨ちゃんは気づいてくれた。

 

「また夜更かししてるんじゃないかしらと思って来てみたけれど、予想が当たってしまったわね」

「ご、ごめんなさい……もしかしてうるさかった?」

「いいえちっとも」

「よかった……」

「私としてはよくないのよ、愛依ちゃん」

「え、ええ……?」

 

 あの時も、今だってそうだ。梅雨ちゃんのまあるい目が穏やかにわたしを叱る。

 

「静かに、黙り込んで、ひとりで無茶しちゃうんだから」

「ご、ごめんね……」

「謝るよりも、今は私に甘やかされてちょうだいね」

「……、う ん」

 

 いつか覚えた喜びと、今込み上げてくる嬉しさとが、胸の中いっぱいに広がる。それがあんまり痛かったから、誤魔化すようにホットミルクに口をつけた。カップから立ち上る湯気に、目頭の熱を溶かしていく。

 

「……おいしい」

「よかった。蜂蜜もう少し足す?」

「も、もういっぱい入れたよ……!?」

「だってとびきり甘やかさなくちゃ駄目だもの」

「えええ、……もう、大丈夫だってば」

 

 大丈夫、“大丈夫”だよと、ふやける頬をそのままに笑えば、梅雨ちゃんもけろりと喉を鳴らして笑う。……その笑顔を目に焼き付けておこうと、わたしは目を細めた。

 

「前も、今も……あったかいね」

 

 梅雨ちゃんが部屋のドアをノックしてくれた時、わたしは一瞬、躊躇した。このドアを開けて、梅雨ちゃんの笑顔と声に出会ってしまえば、わたしはもっと、辛くなる気がして。迷ってしまった。

 

 

《今度のインターン、職場体験と同じくホークスの元へ行ってもらうわ》

 

 温まる身体とは別のところで、冷ややかな氷の声が反響している。エレベーターの中で聞いた会長の声が、指示が、今もわたしの心を揺らしている。

 

 

《そしてそこで、あなたに公安からの任務を課します。

 

 その状況次第では、そのまま──雄英を離れることも視野に入れておきなさい》

 

 

(……わたしは何を、勘違いしていたんだろう)

 

 また一緒に訓練しようねって、何気なく交わした約束も。障子くんの返答を“いつになってもいい”と言ったことも。耳郎さんの部屋にまた行けるんだって、今度は楽器の演奏を聴かせてもらいたいなって、そんな未来を思い浮かべて笑っていたことも。

 

 ──いつもの(・・・・)当たり前(・・・・)なんかじゃ、なかったのに。

 

「……梅雨ちゃん」

「なあに、愛依ちゃん」

 

 名前を呼ぶことも。

 呼んだら優しく、名前を呼び返してくれることも。

 “友達なのよ”って、抱き締めてくれたことも──全部奇跡みたいなことなんだって、改めてわかった。いつかはわたしの手から離れていく、きらきらしい星のような記憶。

 

 だからそう、せめて今だけはって、わたしはノックの音に応えたのだ。

 

「……ありがとうね、梅雨ちゃん」

「あら。ふふ、どういたしまして」

 

 “ごめんね”も“さよなら”も言えなかったから、代わりに万感の思いを込めて“ありがとう”と口にした。小さく笑う梅雨ちゃんの声が甘やかな夜に溶けていく。

 いつかこの時を思い出して泣いてしまったとしても、ずっとずっと覚えていたい。覚えていられますようにと、窓から覗く夜の星に願いを掛けた。

 

 

84.少女、とある日曜の午後にて。

 

 


 

 更新遅くなりました!!!!書きながら「たった一日の日曜日に色々起こりすぎでは?」と思ったのですがインターン編に行く前に色々立てておきたいフラグが多すぎました。そのため今回はいつも以上に詰め込み場面転回が多くて読みづらかったかと思いますが、ここまで目を通していただけて幸いです。本当に皆さまありがとうございます。閲覧、ブクマ、感想等々にいつも元気を頂いております。

 次回はオールマイトや最上博士、相澤先生、目良さん等々大人組の視点回を書く予定です。彼らが何を思ってどう動いていたのか、うまいこと書けたらいいな(願望)また読んでいただけたら嬉しいです!ありがとうございました!



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85.偏屈博士、展望する。

 

 最近、思い出すことがある。今から十数年前、技術提携している日本ヒーロー公安委員会からの連絡が始まりだった。

 

最上(もがみ)博士、あなたに依頼します』

 

 丁度、代替わりの頃だったか。会長職に就いたばかりの女傑は、氷のように淡々と、冷静に電話口でそう話した。

 

『とある少女の“個性”について、調べていただきたいのです』

 

 曰く──とあるヒーローの子どもを縁あって保護したのだが、その子どもが所有する“個性”が特殊らしいという。その“個性”の発動条件がわからず、いつ、誰の“個性”を奪ってしまうかわからないため、他人との接触を絶ち部屋に籠っている、と。

 

『……それはそれは。随分な案件のようですが、わざわざI・アイランドにいる私を引っ張り出す必要はあるのでしょうかね。日本にも名のある医者や“個性”カウンセラーはいるでしょうに』

『彼女の“個性”の特性を鑑みるに、その実態が公に知られることは避けるべきという結論に達しました。故に、あなたにお話を持ち掛けています』

『秘密裏に、……なるほど、その少女とやらを貴女方の手駒にするつもりか』

『受けてはいただけないと?』

 

 こちらの言葉に揺らぐ気配もなく、即座に切り返してくる。……彼女の要求をこのまま突っぱねることもできた。そうすれば僕はこの面倒そうな電話を切り、自分の研究に戻れたはずだった。

 けれど、……けれど。

 こういう時は決まって、頭の隅でいつかの声がする。

 

 ──たとえ俺の“個性”がしょうもなくても、

 ──カミさんに“あんたなんてどうせ頭数”って言われても、

 ──そのおかげでこの街の人がちょっとでも安心して暮らせるなら、それは充分意義のあること!

 

(……叔父さん)

 

 いつかの声が、今も笑い掛けてくる。……叔父さん本人はもう、写真の中でしか笑えないのに。

 

『……最上博士』

『そう急くな、……失礼、わかっていますよ』

 

 “個性”【指差し】。探している場所や物、方角などを正確に指し示す。“個性”は遺伝する──彼の甥として生まれた僕も、類似した“個性”を持つに至った。

 いつかの声と、僕の“個性”とが、声高に叫ぶのだ。

 【その子どもを見捨ててはならない(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

『……依頼は受ける。だがI・アイランドを出国するに当たって、やるべき手続きがあるのはご存じですよね』

『ええ、もちろん。貴方のご協力に感謝します』

 

 そんな通話を終えて、舌打ちを溢し、盛大に溜め息を吐き出し、がしがしと髪をかき混ぜる。それで上手く誘導された苛立ちが帳消しになるわけがなく、……【自分のやるべきこと(・・・・・・・・・)】もまた、頭から消えることはない。

 そうして僕は重い腰を上げ、手続きに向かった。世界有数の“個性”研究の粋を集めて束ねた学術研究都市I・アイランド。そこに属する科学者とその家族は情報漏えいを防ぐためおいそれと出国を許されない。幾重にも重なる出国手続きは2週間にも及び──

 

『…………』

 

 そうして公安委員会所属のビルを訪れた僕が監視カメラ越しに見たのは、部屋の隅で膝を抱えて縮こまる、ひとりの女児の姿だった。まだ3、4歳ほどだろうと見えるほど幼く、しかしその頬は痩け、手足は折れそうなほど細い。俯くその顔は暗く、瞳の青は沈んでいた。

 

『……彼女は3歳の誕生日、“個性”が発現し、意図せず両親の“個性”を奪い我が物としました。そのことを疎んだ両親から虐待を受けていたところを、……我々が保護しました』

 

 目良と名乗ったその男は、眠たげな目を細め、微かに喉を詰まらせながらそう説明した。少女は目が覚めてからも誰かの“個性”を奪うことを酷く怯え、与えられた部屋でひとりきり、閉じ籠ることを選んだのだと。

 行くべき道を見失い、足を止めてしまった──

 

《……こんにちは》

「……!」

 

 少女による“個性”の強奪が、何を以て行われるのか。視覚、聴覚、発言内容、名前……どれが“個性”の発動条件に引っ掛かるのかを探るため、さまざまな状況を設定して調査を行った。

 始まりは、マイク越しによる問答だった。変声機によって女のものに変えた声を、少女のいる部屋のスピーカーを通して送り込む。それを聞いた少女はびくりと身体をすくませて、毛布で身体を包み込みながらそろりと声のする方を向いていた。

 

 

 ……酷く、怯えた目だった。

 その怯えが、自分を害する何者かに対する威嚇だったなら、幾分かこの気分はマシだったろう。威嚇とは即ち、自分の身を守るため……生きるために行う行為だからだ。

 

(……この少女は、生きたいと思っているのだろうか)

 

 死への恐怖だけで、生きてはいないか。

 それすらも無くなったら、この少女は──

 

 

 

『……あの、』

 

 そんなことを危惧しながら、公安委員会のビルに駐屯し“個性”調査を続けていた日々の最中。東京には珍しい、吹雪の日だったように思う。日中から続いていた雪は夜になっても降り止まず、暗い窓の向こうからガラスに叩きつけられていた。

 その音に紛れるような、小さな声がした。それに足を止めた僕の腕を、何か(・・)が引いた。くんっ、と引っ張られるままに、何故かひとりでに(・・・・・)開いた扉の中へ……倉庫と化した空き部屋へ連れ込まれる。瞬きを繰り返す僕の目の前で、ふわりと何かが、赤い羽根が舞った。

 

『……いきなりすみません。話を、したくて』

 

 静かな声をした少年だった。藤黄色の柔らかな髪と、同じ色の鋭い目と、鮮烈な赤い翼を持った少年。彼は僕を見つめて『最上博士ですよね』と表情を変えず口にし、続ける。

 

『あの子の“個性”調査は、どんな調子ですか』

『……何故それを知りたがる?』

 

 こんな深夜の公安委員会のビル中枢に出入りする子どもなど、本来ならいないはず。恐らくはこの少年もまた公安に“飼われて”いるのだろう。しかしその目に服従の色はなく、ただ前を見据える強さと賢さが閃いていた。

 少年の赤い翼は、さぞや大事に大事に公安に育てられているのだろう。万が一にも“個性”を奪われてはならないと、少女から遠ざけられているだろう。だから僕をこうして、他の公安委員に知られぬように連れてきた。

 ……その目を見ればわかる。面白半分などではないと。けれどどうしても、言葉として形にしたかった。

 

『何のために、お前はあの少女を気に掛ける』

 

 少年はその問いに、僅かに顎を引いた。それは頷いたようにも、……覚悟を固め、前を見据えているようにも見えた。

 

『……あの子に、笑ってほしい』

 

 静かな声が、静かな部屋にひとつ灯る。それは埃だらけの暗い部屋を、目映く照らすような響きだった。

 

『今はずっと、怖くて悲しいばっかで、きっとあの子は笑えてない。……俺があの子を連れ出したのは、こんなためじゃなか。

 

 あの子を──明るく、照らしてあげたい』

 

『……そうか、』

 

 そうだな、と頷いて、僕は少年の頭を撫でた。ふわりとした感触に、驚いたような少年の丸い目と視線に居心地が悪くなる。……柄じゃないとわかってはいたが、どうしても、そんな気分だったのだ。

 

『幾度か“個性”調査を行ったが、マイクによる会話はもちろん、肉声による会話も発動条件ではないことがわかった。

 ……お前さえよければ、扉越しにはなるだろうが……声を掛けてやってやれ』

『……! ……っはい』

 

 仄かに紅潮した頬は、“自分にもできることがある”と知れた嬉しさからか。頷いた目には光があった。それがあんまり眩しかったから、僕は目を細めていた。

 

 こんな風にあの少女を気に掛ける少年がいるならば、きっと未来は明るい。僕にできるのは、彼女が生きやすくなるように、彼女の“個性”を調べあげることだろう。

 この時僕は、そんな風に思っていた。

 そんな風に──悠長なことを、思っていた。

 

 

 

『博士、最上博士大変です、あの子が……!!』

 

 目良の常ならん様子に駆けつけた僕が見たのは、医療スタッフに囲まれたベッドの上で苦しげに息をつく、あの少女の姿だった。横向きに眠る彼女の背には、これまでになかった白い翼。……肌を食い破って出てきたのか、背には引き裂かれたような酷い傷跡が走っていた。

 

『……何故、……』

 

 何故、と呟いたが、答えなどとうに出ていた。

 唐突に少女の背から生えてきた翼。彼女の親戚筋のどこを洗ってもそんな“個性”を持つものはいなかった。考えられるのはただひとつ、少女の、“個性”の強奪。

 

『……先程、少年から話を聞きました。

 “自分は機を見て少女に会いに行っていた”と。彼らは扉越しに何度か話して、共に飲み物を飲んで、笑い合っていたそうです』

 

 そうして今日、少女に会いに行った少年は、少女に向かって『ありがとう』と笑いかけた。それに少女が、涙混じりに微笑む気配がして、それからだったそうだ。

 扉越しに少女の絶叫が響いた。それに驚いた少年が追いかけた先で、少女はビルの窓から身を投げ出し──自ら命を絶とうとしたのだ。

 

『……少女がこんなことを言っていたそうです。

 “わたしがだいすきになっちゃったから、みんなの“個性”をとっちゃった”、と』

 

 立ち尽くすしかできない僕に、目良はその目を伏せながら話す。少女が、少年の翼を得るに至った経緯。少女の“個性”の発動条件。それは、

 

『……心……?』

 

 そんな不確かで、人間には制御しようもないものが発動条件だというのか。人が人を好きになるという──恐らく少女にとっては抑えようがない感情が──誰かの“個性”を奪い、自他ともに人生を狂わせるというのか。

 

『……あの子はこれから、どうなるのでしょうか』

 

 目良は、疲れた目に憂慮を湛えて、ベッドに横たわる少女を見つめた。

 

『“個性”を奪いたくはないと、誰かとの接触をこれまで以上に絶つようになるでしょう。それではどこにも行けず、何もできない……それどころか、……』

『“こんな自分はいらない”と、また命を擲つかもしれんな』

『! 博士、』

『逸るなよ、目良。可能性の話だ。……僕だってそうあれとは思っちゃいない』

 

 少女は誰かを害そうとなんて、これっぽっちも思っちゃいなかった。ただ生きて、慈しんでくれた両親や寄り添ってくれた少年を“だいすき”になっただけだった。

 そんな当たり前の気持ちを抱いただけで、

 そんな“個性”を持って生まれたせいで、

 ひとりの少女が“死ななくては”と身を投げる?

 

『──させるものか』

 

 まだ10歳そこらの少年が、懸命に少女の心に寄り添い、命を繋いだのだ。その糸を大人の力不足で千切ってはならない。“頑張ったけど何もできませんでした”なんて、情けなくて言えるものか。

 ぎり、と奥歯を決意と共に噛み締める。この痛みを傷として、ずっと覚えていたかった。

 

 

 

 

 それから、少女が治療に専念する傍ら、僕は彼女の“個性”について再度調べ始めた。それまでは発動条件に絞った調査だったが、“個性”の許容量に始まり、“個性”の強奪による影響(・・)……少女の抱える“個性”を明らかにしなければ、またこの悲劇を繰り返すのみだと思ったからだ。

 

 そうしてまず判明させたのは許容量。少女が対象と心を通わせるのが“個性”強奪の条件だが、条件を満たせば限りなく“個性”を奪えるのか?──答えはノー。

 この超常社会において忘れがちではあるが、“個性”とは元来ヒトが持つはずのない特殊能力だ。炎の“個性”なら炎耐性、高速移動に関係する“個性”ならスピードに耐え得る身体──といったように、ある程度は成長に伴い生まれ持った“個性”に身体が適応していくものだが、強すぎる“個性”は他者のみならず保持者をも蝕む。

 そんな、ヒトの身には余る“個性”という力が、後天的に複数宿る──初めて見た少女は酷く痩せ細っていたが、それは両親からの虐待だけが理由ではなかった。取り込んだ“個性”因子が身体の内側から圧迫し、軽度の多臓器不全を起こしていたのだ。そして今、少年の【翼】を取り込んだ“個性”因子は少女の身体を大きく創り替えている。骨格を歪ませ、肌を破らせ、新たに羽毛を生成し──それは、如何程の負担を少女の身体に強いているのか。

 どれ程の痛みに、耐えているのか。

 

『最上博士、……あの子は、大丈夫でしょうか』

 

 大人びた眼差しに不安の色を湛えて、少年は小さな声でそう問い掛けるものだから。……僕はそれに、虚勢を張った。

 

『おい、うじうじ俯くな。いつもの大人を見下ろすような生意気な顔はどうした?』

『……でも、』

『心配するな。僕を誰だと思っている?』

 

 口角を吊り上げて、ヒーローでもないのに笑ってみせて。

 

『“個性”でどうしようもなくなった奴らの、新たな道を科学の力で開くのが、我々発明者の仕事だ』

 

 少年の瞳に映る僕は、我ながら下ッ手くそな笑みを顔に貼りつけていた。こんな真似、とてもじゃないが柄じゃない。今すぐ頭を壁か何かに打ち付けて記憶を消してしまいたいが、……だが僕は努めて笑った。

 先程よりほんの僅かに、少年の目に光が射した。

 その輝きを消さないために、……虚勢を虚勢のままにしてはおけないと、強く誓った。

 ──【あの子どもを見捨ててはならない(・・・・・・・・・・・・・・・)】と、内側から声がしたから。

 

(……少女の身体が成長するにつれ、“個性”を我が物とする許容量も増えるだろう。だが……)

 

 新たに得た“個性”はまた、少女の身体を蝕むだろう。

 骨格を歪め、肉を裂き、臓器を痛め付け──果ては、その命さえも(・・・・)──

 

 

 

《……今から君の“個性”を、眠らせる》

 

 

 “個性”の鎮静化を以て、少女の許容量をこれ以上増やさないようにする。これを公安委員会に提案した際、一部の人間は反対した。『戦力にするにはもっと“個性”を奪い取らせた方がいい』などと宣う輩は、なるほど、きっと身寄りのない少女の命など吹けば飛ぶようなものだとお考えだったのだろう。

 しかし僕が噛みつくより先に、ある声が響いた。

 

『──わかりました』

 

 “鉄の女”。あるいは“氷の女”。冷徹ともされる正鵠無比な判断力と実行力から公安の会長職にまで上り詰めた女傑を、そう揶揄する声もある。

 

『貴方の判断に委ねます。最上博士』

 

 けれどこの時。凛とした鶴の一声によって場を収めたのは間違いなく彼女だった。それが打算によるものだったのか、情によるものだったのかはわからない。けれどその声があったからこそ、僕は少女の“個性”因子を鎮静化させる手術に漕ぎ着けることが出来たのだ。

 

 

《この手術を受ければ、君はもう、誰かの“個性”を奪うことはなくなる》

『……! ほん、とうに?』

《本当に、だ》

『……っ』

 

 【翼】を得たダメージから大分持ち直し、ベッドに上体を起こせるほどに回復した少女に、僕はスピーカー越しにそう伝えた。もう“個性”を奪うことはない──そう聞いた瞬間、少女の青い目は溢れ落ちんばかりに見開かれた。そしてその瞳の空が、たちまち雨を帯びる。

 

『よ、か……っ、よかった、……』

 

 もうだれも、きずつかなくてすむ。

 辿々しい口振りでそう溢した少女は、ただひたすらに安堵しているようだった。ほろほろと頬を伝い落ちる涙は、自分ではない誰かを想って流されたものだと気付いた。

 

《……君は、怒らないのか?》

『? おこ、る……?』

《君は、……君は、怒っていいんだ。それだけの仕打ちを、受けただろう》

 

 ただ生まれ持った“個性”が発現とともに発動しただけ。

 ただ子が、自らを産み育ててくれた両親を慕っただけ。

 それだけのことで彼女は酷く嫌われ、責められ、いたぶられて。……身も心も酷く、傷ついただろうに。

 

『ううん、……ちがい、ます』

 

 なのに少女は、誰かへの恨み言を口にしない。

 

『おとうさんも、おかあさん、も……とってもやさしい、ひとなんです』

 

 泣きそうなくせに、悲しいくせに、同じくらい幸せそうな顔で笑う。

 

『……わたしがいたから、わたしが、“こせい”をとっちゃったから。……だから、わたしが、わるいんです』

 

 絶望の向こうに光を見出だす“聖女”。或いは慈悲深き“天使”──そんなわけがない。まだたった4、5歳の少女がそんな境地に辿り着くわけがない。

 僕は、人の機微に聡い方じゃないが、それでもこの少女がどこか不自然だということに気付いた。その不自然……違和感(・・・)を払拭できればと、震える喉を開く。

 

《……君は、》

 

 僕がしたのは、酷い、酷い問い掛けだ。

 こんな馬鹿げた問いを投げる僕を、眉をひそめて怒ってくれたらと、そう願っていたんだ。

 

 

《……君は、今も、……お父さんとお母さんのこと、すきなのか?》

 

『……はい』

 

 

 ──ああ、と、僕は声を失い嘆いた。

 その空の瞳が曇ってくれたらよかったのに。

 その幼い声が揺らいでくれたらよかったのに。

 両親の仕打ちに対し、“どうして”と疑問を持ってくれていたら。“ふざけるな”と怒りを覚えていてくれたら。それがほんの少しでもいいから、自分を守るために感情を使ってくれればいいと、思っていたのに。

 

『……わたし、は、ずっと、だいすきです』

 

 なのに少女は、その幼い顔をふわりとさせて、笑う。そこには少しの怒りも、疑問さえ見つからない。ただただ悲しみと、変わりない愛情があった。

 不自然。違和感。──異質(・・)

 幼いはずの少女の、およそ幼いとは言いがたい微笑みに、僕の脳裏にはとある仮説が浮かぶ。浮かんで、しまった。

 

 

 

愛依(あい)……? あいつのせいで俺は、ヒーローを辞めなきゃいけなくなった』

 

 公安で行った“個性”調査。その一貫である問答で少女について話した男は、元ヒーローだったという。【自己再生】を活かし、身を呈して民衆を守る。少し格好つかないがいつも一生懸命で、それ故に地域住民に愛されたヒーロー。お人好しで朗らかで、愛妻家であり、……子煩悩だったと。

 

『あいつのせいで、これまで積み上げてきたものが全部全部全部無に帰した。……なァ、あなたに、この気持ちがわかるか?』

 

 少女の青い目は、父譲りなのだろう。

 ……同じ色のはずの瞳は、暗く暗く疲れ果て、澱んでいた。

 

『……いなくなって、せいせいするよ』

 

 

 

 

 

『……あの子を、公安に……』

 

 ぼうっとした赤い目は、疲れきっていた。濃い隈が刻まれた肌は、生気を失ったように青白い。“個性”【譲渡】。自らのものを他者に分け与えるというその“個性”を以て、結婚前は医療スタッフとして働いていた女性。

 

『……そう。そちらで、裁いてくださるのですね』

『……裁く?』

『だって、そうでしょう』

 

 職場や友人から聞き出した話では、いつも真面目で、しっかり者で、……夫や子どもを深く深く、愛していたのだという。

 

『あの子は夫の人生を滅茶苦茶にした、悪い子です。……あんなに、人のために命を張って、頑張ってきた人が、……どうしてその頑張りを、壊されなければならないのですか』

 

 “個性”の反動で色素が抜け落ちた肌は、どこまでも白い。膝の上で握られたその手は、ぶるぶると震えていた。

 

『……どうしても、どうしてもどうしてもどうしても、あの子のことが許せずにいるんです。笑ってほしくない、苦しんで、後悔してほしい、ずっと、ずっと……。

 ……こんな気持ちばかりじゃ、なかったはずなのに』

 

 きつく握り締められた手に、ぽつりとひとすじ、雨が降った。

 

『あの子をまっすぐ、愛していた。……その気持ちだって、あったはずなのに……』

 

 

 

 

 心を通わせることによる、“個性”の強奪。

 “個性”因子の人から人への移動。

 朗らかな目から光が消えるほどの、性格の変貌。

 “愛していたはずなのに”と泣き崩れる声。

 ……そんな両親の気持ちの移ろいとは裏腹に、少女は笑った。今でも両親が変わらず“だいすきだ”と、笑ったのだ。

 

(……もし、だ。もしも……)

 

 

 もしも、“個性”の強奪と同時に、

 ──対象と通わせた心まで(・・・)奪っているとしたら(・・・・・・・・・)──

 

 

『……? はか、せ?』

《!》

『ど、どうしたん、ですか……?』

《……いや、……何でもない》

 

 これは仮説だ。ただの、仮説。

 両親の【娘を愛する気持ち】。その気持ちを“個性”とともに奪った少女の中には、【両親からの愛情】が絶えず息づいている。そのため彼女はどんなことがあっても、どんな言葉を投げられても、どんな仕打ちを受けても、両親からの愛情を忘れられない。

 【自分は確かに愛されていた】……そんな記憶が、実感が、抜け落ちることはない。だからあの虐待の日々も、“あんなに愛してくれた両親がこんなにも怒っているのは、わたしが悪いのだ”と、自己嫌悪と罪悪感に繋がっていく。

 

《……何でも、ないんだ》

 

 人の心は不確かなものだ。真に立証などできない。だから仮説は仮説のまま、……僕はこの先永遠に、彼女に告げることはないだろう。

 

 少女が、両親から奪ったかもしれない心のこと。

 そして、

 

 

『……俺のせいであの子は、公安(ここ)にいるしかなくなった』

 

『だから俺が、──俺が、守ってやらんと』

 

 

 ……少年から奪った(・・・・・・・)かもしれない、心のこと。

 

 

 

 

 

「……最上博士? どうなさったんです」

「……いえ。失礼、何でもありません」

 

 は、と掠れた息を飲み、遠い回想から我に返る。広大な雄英高校の敷地を進み、校舎に入り、最上階へ。長い廊下の向こうには応接室があった。ダークウッドのローテーブルを挟んで、黒革のソファーがふたつ。その奥側にちょこんと座っていたのは白くてデカくて服を着たネズ、……根津校長だった。

 

「やあ! よく来てくれたのさ!」

 

 彼はぴんと髭を立て、にこやかに笑う。それからどうぞ、と席を勧められたが、その前に深く頭を下げた。

 

「本日はお忙しい中、お時間を頂き感謝致します」

「いやいや、こちらこそだよ最上博士! I・アイランドの高名な博士にお越しいただけるなんてね、思いがけない幸運というやつなのさ!」

「恐縮です」

 

 頭を上げて勧められたソファーに腰掛けると、僕をここまで先導してきたイレイザーヘッドもまた向かい側のソファーに座った。ぎし、と微かにスプリングが鳴る。根津校長の小さな身体はその振動で僅かに揺れたが、……そのつぶらな黒い目は、揺らぎなく僕を見据えていた。

 

「しかし博士。貴方は“I・アイランドの事件に対する謝礼”のために我が校に訪れた、と言っていたね」

「はい」

「貴方の持ち得る知識はきっと我が校の生徒たちにも良い刺激を与えてくれるだろう! それは実に有り難いことなのさ! 

 ──けれどそこに留まらず、“イレイザーヘッドとの面会”も望んだのはどうしてなんだい?」

 

 根津校長は初めて“個性”が発現した動物(ネズミ)として、また“個性”人権教育に尽力した“偉人”として著名だ。“個性”【ハイスペック】。人間以上の頭脳を所有する彼は、こちらを見透かすような目をして小さな指を組む。僕はそれに居ずまいを正し、根津校長と──その隣に座してこちらに鋭い眼差しを投げ掛ける、イレイザーヘッドに視線を合わせた。

 

 ヒーロー名:イレイザーヘッド。本名は相澤消太。かつて雄英生のひとりとしてこの学園で学び研鑽を積んだ彼は、卒業後アングラヒーローとしての活躍を経て母校の教員に就任した、ということぐらい至極当然当たり前に彼のフォロワーなら知っている。メディア露出を嫌うのは彼の元来の性格故か、“個性”の表出を避けるためか──僕に向けられる警戒心を見るにきっとどちらもなのだろう。

 それに今は、訪ねる時期もまずかった。日本どころか世界をも震撼させた神野事件が起きたばかりで、雄英としては外部との接触を絶ちたいに決まっている。

 

(……だが、しかし、)

 

 それでも今でなければならなかった。疑われ、警戒を向けられたとしても、より早く動かなければ──動きたいと、思ったからだ。

 

「僕、……私はこの“個性”至上社会に、疑問を抱いています」

 

 ヒーロー向きのいい“個性”だね。

 その“個性”じゃヒーローにはなれないよ。

 どの企業からも引く手数多の勝ち組“個性”だ!

 なんかパッとしない“個性”だなぁ……。

 

 “個性”によってあらゆる常識や生活が崩壊し、新たに創り変えられたこの社会において、“個性”は絶対的なものだった。生まれついたその“個性”によって、人生のほとんどが決められてしまうほどに。

 ヒーロー向きの正しく強い“個性”は崇められ、(ヴィラン)向きの“個性”だと勝手に恐れられ、憎まれて。何もない“無個性”は侮られ軽んじられた。時には“個性”のせいで、なりたい自分になれない者だっていた。

 ただそうした“個性”を、持って生まれただけなのに。

 

 

 

『はかせ、……わたしの“こせい”のなまえ、きまり、ました』

《、名前だと?》

『はい、……きろくするときに、なまえがあったほうがって、ほかの人が言ってたから……』

 

 “だから、しらべてみたんです”と。

 細い少女の腕には似つかわしくない分厚い聖書と辞書を抱えて、いつかのあいつは笑った。幼い顔に、いびつな笑顔を貼り付けて。

 

『……わたしの“こせい”は、【いぞん】だと、おもいます』

《【依存】? ……しかしそれは、》

『だってわたしの“こせい(これ)”は、あいとか、……やさしいきもちじゃ、ないから』

 

 その表情はまるで、押し潰されたようだと思った。聖書の厳かな言葉の連なりに、辞典から引いたのだろう言葉の意味の重みに、……これまで生きてきた時間と、これから共に生きていくだろう自分の“個性”を思って、少女は苦しげに息をついた。

 

『だいすきな人のたいせつなものを、とって、きずつけちゃうから、』

 

 ──だから【いぞん】です。

 【いぞん】でしか、ないんです。

 

《…………》

 

 そう言いきる少女に、僕は掛ける言葉を見つけられなかった。人より少しばかり回るだけの頭では、彼女を真に救えはしなかった。

 

 生まれ持った“個性”によって、どうあっても人は縛られる。

 そう思っていた。そう、諦めていた。

 僕にできることなどほんの僅かで、世界を変えられるわけがない。苦しげに笑う少女ひとりさえ、救えはしないのだからと。

 

 

 

「疑問と諦念を──抱いて、いました」

 

 それでもあの少女は、笑っていた。あの閉じ籠もっていた部屋を出て、公安での訓練を続けて、……会長の何の気まぐれかは知らんが、彼女は空中(そらなか)愛依として雄英高校に入学した。サポートアイテムの相談にと、ホークスに連れられてI・アイランドにやって来た空中を見て、僕は驚いたんだ。

 陽の当たる場所で光を弾く白い翼。物珍しそうに辺りを見渡す青い目は輝いていた。ホークスとなったかつての少年と、同級生である常闇の後に続いて自分を『雄英高校1年A組の空中愛依です』と称した。

 

 

 

『博士がわたしの“個性”の許容量を見極めて、念のためとして深く眠らせてくれたから、……だからわたし、こうして誰かと会って話すこともできますし、雄英に通うことだってできてます! 本当に、感謝しているんです。……でも、』

 

 “個性”のメディカルチェックを受けながら、空中となった少女は嬉しそうに頬をほころばせた。誰かと会えて、話せて、学校に通えて嬉しいと。

 けれどそれもつかの間、その瞳の空に影が射す。

 

『でも、もしこの数年の間で、気づかないうちに“個性”が強くなっていたら……』

 

 きっともう学校に通うことはできないと、それは覚悟しているのだと声を震わせた。気丈に振る舞わねばと、下手くそに笑っていた。その声音と瞳の翳りを、僕はしかと記憶している。

 

 

 

《最上博士、……はかせ、》

 

 記憶している。神野を経て寮に入った空中が寄越した、電話越しのその声を。

 

《わたしの“個性”は、眠ったままでいられますか。

 この先も、みんなと一緒にいられますか》

 

 A組のみんながだいすきなのだと、空中の声は微笑んでいた。みんながだいすきだから、一緒にいたい。──みんながだいすきだから、“個性”を奪ってしまうかもしれない。みんながだいすきだから、傍にいられなくなるかもしれないと、その声は泣いていた。

 

《みんなの“個性”を、未来を、可能性を、

 ──奪うだけのわたしに、なりたくない……》

 

 “やっと出来た友だちと、ただ一緒に過ごしたい”。そんな些細な願いすら“個性”のせいで叶わない。

 ……そんなことがあってたまるかと、僕は一瞬感じた不甲斐なさと憐憫を吹き飛ばすべく、吼えた。

 

『うじうじするな、オタオタするな、──心配するな!!』

 

 

 そうだ、僕は科学者。発明者。

 “個性”でどうしようもなくなった奴らの新たな道を、【科学の力】で開くのだ。それができる。僕ならできる。……“頑張ったけど何もできませんでした”なんて、口が裂けても言えるものか!

 

 

「これまで社会は、この力を“個性”だと、皆が許容するべきものだとしてきた。その思想は間違っていない。……だが、」

 

 意識を現在に、視線を目の前のイレイザーヘッドたちに戻す。猫背を無理やり正して、深く息を吸って声を整えた。

 僕が研究し続けてきた“個性”の鎮静化。それは(ヴィラン)による“個性”犯罪を減らすべく始めたものだった。……もう二度と、とあるヒーローが爆破され、ただの肉塊になって家族の元へ帰るようなことが起きないようにと、後悔とともに始めた研究。

 ──もう二度と(ヴィラン)の好きにはさせない。(ヴィラン)の凶行を野放しにしてたまるかと、そんな復讐心にも似た妄執が胸に燃えていた。我武者羅にキーボードを叩き研究に明け暮れる僕の顔は、とても見れたものではなかったはずだ。

 ……ああ、だが、けれど。

 

『……信じられないくらい、今が幸せ、なんです』

 

 重苦しい過去から始まった研究が、ひとりの少女の笑顔に繋がった。

 勿論それは空中自身の、その周囲の人々の努力の結実に他ならない。けれど僕の研究が、“個性”の鎮静化が、その一助になれたのなら、

 

(……空中が、証明してくれた)

 

 きっとこれからの未来にだって、意味はある。

 

「……“個性”と真に共に生きるには、選択肢が必要なのだと、気付いたのです」

「選択肢?」

「ええ。“個性”をわが力として受け止めて生きていくのもいいだろう。だが、……“個性”のために当たり前の人生を歩めない者には、その“個性”を抑えるという道もあると、僕は伝えたい」

 

 “個性”によってヒトの規格は大きく変動した。その姿も、能力も、体質も、生き方も、画一的になるわけがないほど。

 そんな多種多様な超常社会なのだから、“個性”との向き合い方だって多種多様でなくてはならない。無理に許容するでも排斥するでもない、その選択をひとりひとりに委ねるために。

 

 

「──真に“個性”に依らない社会を創るために」

 

 

 そのために、僕は雄英高校に来たのだ。イレイザーヘッドとの面会を希望したのはそのためだ。

 瞬きの間に世界をフラットにしてしまえる。

 そんな彼の眼差しを、世界中に届けるために。

 

「イレイザーヘッド。……貴方の“個性”因子を、私に一部、預けていただきたい」

 

 

85.偏屈博士、展望する。

 

 


 

 予定していた大人組の視点回、終わりませんでした()なんだか博士から見える・知っている情報を開示しようと思ったら文字数がかさんでしまいました。次回は相澤先生と某大人の視点を書きます。次こそ終わらせて雄英新生活編を終わらせるんだ……

 更新が遅いのがデフォルトになってしまい大変申し訳ないのですが、皆様の閲覧やお気に入り登録、評価や感想に力を頂いています。何とか書き進められているのは皆様のお陰です。本当にありがとうございます。また次回も読んでいただければ嬉しいです!

 

 ※同時に番外編『日溜まりに浸かる』も上げました。よろしければご覧ください。



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86.大人たち、水面下にて。

 

 “個性”に依らない社会。

 

 そんなものが本当に実現可能であると、頭から信じきることはできなかった。だが目の前の男は、最上博士は至極真面目にそう宣言し、深く深く頭を下げた。そこに嘘や虚勢の気配は感じられない。

 

(……“個性”に、自分の人生を左右されない……)

 

 それが真に、可能であるならば。

 俺は脳裏に浮かんだ白い翼に、目を伏せた。

 

 

 

 空中(そらなか)愛依(あい)。“個性”は【治癒】と【翼】。

 稀少な【治癒】“個性”を持つということで、早い段階からリカバリーガールが目を付けていた受験生。リカバリーガールが奨励する【治癒個性教育プログラム】に参加できるか否か判断するべく、教職員間で会議が行われていた。

 

『……“個性”使用による虚弱体質?』

 

 空中が在籍する中学校から送られてきた資料には、空中の基本情報とともに彼女が持つ“個性”の詳細──発動条件やデメリットが記載されていた。そこに目を通した面々の表情が俄に曇る。

 

『自身の治癒のエネルギーを他者に譲渡、ね。つまりリカバリーガールの【治癒】とは違ェってこったな』

『そうね、自分自身のエネルギーを使わなきゃならない……誰かを治癒する度に自分のエネルギーを削らなきゃいけないのだもの』

『“個性”の制御が上手くいかず常時微弱に発動してしまっていたことから、虚弱体質で小中学校にはほとんど登校できなかった……と、ここには書かれていますね』

『……その体質で、【治癒】ヒーローとして本当に活動できるんでしょうか』

 

 甚だ疑問だ、と呟いた俺に、反論する声は返らない。

 実際に、多くの被災者を前にして輝くのはリカバリーガールの【治癒】だろう。エネルギーの出所が術者ひとりではなく複数なのだから、エネルギーの枯渇により“個性”が使用できなくなる恐れも少ない。

 

『そうさね、イレイザーヘッドの言うことには一理ある』

 

 しかし、当のリカバリーガールは首を横に振った。

 

『けれどね、それはつまり……私に治せない患者を、この子は治せる可能性があるということさ』

 

 【治癒】に必要なエネルギーが患者依存でないのならば、体力を失った重傷患者の治癒も夢ではない。そう語るリカバリーガールの目は思案に沈んでいた。治癒保持者としての期待と、治癒保持者としての憂慮を、天秤の両皿に載せるような。

 

『……フム、みんなの心配は尤もだね。ならばこうしようじゃないか!』

『根津校長、』

『空中さんにも他の受験生と同じく、ヒーロー科の演習試験を受けてもらおう。そこで彼女のヒーロー適性及び、“個性”を使用する様子を見て判断するのさ!』

 

 彼女が、ヒーローとして動くに値する能力を備えているのか。ヒーローとして難局に立ち向かう志を持っているか。

 

『…………。』

 

 結果として、空中愛依は合格した。【翼】を用いた機動力。羽根を器用に操りロボットの継ぎ目を攻撃する速さ、精密性。

 

《……っそこの女の子、こっち!》

 

 ──巨大な0ポイントロボを前に、誰かを救うべく飛び込み、ポイントとは関係ないと知っていながらも、怪我した受験者を治癒するヒーロー適性。

 

『……充分なんじゃねーの?』

『……そうだな』

 

 充分。……そう、充分だった。

 “個性”のデメリットのせいで学校に通えなかったハンデなど感じさせず、空中は真面目に学業に取り組んだ。成績もトップ程とは言えんが優秀で、リカバリーガールからの特別授業にも食らいついていると聞く。ヒーロー基礎学においても、【翼】を用いた立ち回りは入学当初とみれば充分なものだった。

 

 

 

『オールマイトの授業はもう受けた?」

『No.1ヒーローが教壇に立ってるってどんな感じ?』

『え、と、』

『先生としてのオールマイト、どう思う?』

『あの、すみませんわたし、そろそろ行かなくちゃ、』

『ちょっとだけ! 一言でいいからコメントください!』

 

 ……おどおどとした言動は目立つが、それも対人経験に乏しい故と考えれば納得がいった。“オールマイト雄英高校の教員に就任!!”という報に沸き立つ記者たちを上手くあしらえずにいる空中に、溜め息をひとつ。

 

『空中、……遅刻するぞ。早く来い』

『はっ、はい!』

 

 あからさまに安堵した空色の目が、きらりと光る。そのまま俺の傍に駆け寄ってくる空中の顔色を横目に窺ったが、調子が悪いわけではなさそうだ。

 

(……骨折程度の【治癒】ならば、問題はないということか)

 

 それでもこいつが、自身のエネルギーを削って他者を癒していることには変わりない。それを、見てやらなきゃ、いけない。

 

 

 

『……っ、……』

 

 ぜい、と掠れた息をつくその頬は青白い。苦しげに眉を寄せる空中を、俺はただ、見下ろすことしかできないでいた。

 

『リカバリーガール、空中さんは……』

『13号。空中のこれは、あたしの【治癒】でどうにかなるものじゃないよ』

 

 努めて淡々とそう口にして、リカバリーガールは緩く首を横に振った。細めた目に、如何ともしがたい表情が浮かぶ。

 

『……自分の身体を健康に、正常に保つためのエネルギーが源なのだから、使いすぎれば発動者である空中が体調を崩す。仕組みとしては、シンプルさね』

 

 冷静に物事を推し量る言葉とは裏腹に、その声に苦渋が滲んでいた。それは俺も、13号もわかっているから、ただ黙るしかなかった。

 USJでのヒーロー基礎学。初めての救助訓練ということで俺と13号、オールマイトの三人体制で臨む筈だった。……そこに(ヴィラン)の襲撃がなければ。

 

『先生ーーー!!!』

 

 一部を除き、生徒のほとんどは初めて(ヴィラン)に相対しただろう。まして自分に殺意を向けてくる(ヴィラン)なら尚更だ。困惑と怯えに揺れる目。13号が倒れた時の悲鳴。……それでも皆、自分のできることを以て(ヴィラン)に立ち向かった。

 空中もまた、常闇と口田と共に襲い来る(ヴィラン)を退け、傷を負った俺たちを“個性”でもって救助した。そうして、今に至る。

 

『……先輩、僕は、人を救うために“個性”を正しく使ってほしいと、A組のみんなに話しました』

 

 ぽつりと、夕暮れの保健室に13号の呟きが落ちる。

 

『“人を救うために“個性”を使ってくれて、ありがとう”……僕は空中さんに、そう言ったんです』

『13号』

『その言葉が間違っていたとは、今も思いません。空中さんは、彼女の行動は、正しい。……それでも、』

 

 ぽつぽつと紡がれていた言葉尻が、小さくなる。横目に見下ろした土星の目が、ゆらり揺らいだ。

 

『それでも……彼女に、自分の身を削ってほしくないとも、思ってしまう』

 

 “酷い我が儘ですね”、と小さく零れた声は、掠れていた。やりきれなさが滲んだ苦笑に、俺は何も言えずに頷くしかできなかった。……俺も13号と、同じ思いを抱えていたから。

 

 

 

 空中の熱が引いたのは、USJ襲撃から数時間後のことだった。(ヴィラン)襲撃もあったこんな日の、こんな夜も深い時間に、一人で帰らせるわけにはいかない。それで空中を送ろうと街中に車を走らせたが、助手席に座った空中は恐縮しっぱなしだった。

 

『あの、本当にすみません……』

『謝るな』

『はい……』

 

 落ち着きなく視線を移ろわせ、申し訳なさげに肩を落とす。……空中がそんな風になる必要はないのに、こんな時にまで遠慮しきって縮こまっている。思わず溜め息をつきそうだったのを飲み込んだ。これ以上こいつを、恐縮させたいわけじゃない。

 

『……謝るのはこちらの方なんだがな』

 

 声をできる限り和らげてそう言えば、空中が顔を上げる気配がした。左頬に視線を感じて、俺は続ける。

 

『俺らの負傷を治癒したせいで、エネルギー不足になったんだろ』

『……でも、それはわたしがそうすべきだって、そうしたいって選んだからです。先生の“せい”って、そんなことは全然なくて……』

 

 空中はゆっくりと、けれど迷いなく言葉を返す。

 “選択には責任が伴う”と、まだ幼いはずのその青い目に、やけに大人びた光を灯して。

 

『責任があるとするなら、それは、わたし自身に他ならない』

 

 穏やかな口調。揺るぎない眼差し。意志。……そうして空中は俺に“気にしないで”と柔らかに告げる。

 “自分のことは気にしないで”と、ただ静かに。

 

『……生意気言うな、空中』

『な、生意気って、』

『おまえは生徒だし、俺は担任。……守られるべきなんだよ、おまえは。そういう立場にある』

 

 それがどうにも、やりきれなくて、俺は今度は繕わずに声を低くする。不機嫌さを隠さない俺に空中は声を詰まらせた。

 

『……守られる、立場……』

 

 それにただ、頷いてくれたら。

 “そうですね”と納得してくれたらいいものの、空中は与えられた言葉を上手く飲み下せず、舌の上で転がした。何かを考え込むように白い睫毛が伏せられる。それを盗み見ながら、俺はハンドルを少しだけ強く握った。

 

 ──自己犠牲と命を捨てることは、同義じゃない。

 ──死んじまったら、全部終わりなんだから。

 

 

 

 

(……それをもっと上手く伝えられていたら、何か変えられていたのか)

 

 結局はこのザマか、と吐き捨てたくも、喉元まで留められたボタンと、折り目正しく締められたネクタイがそれを許さない。そして、

 

『おい、イレイザー』

『なんだブラド』

『……短気を、起こすなよ』

 

 じっと、ありとあらゆる感情を押し込めた仏頂面でブラドが言うものだから、俺も口を閉ざす他なかった。やたらと熱血漢で感情的になりがちなこの男が、しかし今は努めて冷静であろうとしている。

 

 ──(ヴィラン)連合による林間合宿襲撃は、27名もの被害者を出した。(ヴィラン)と交戦し負傷した者、撒かれた毒ガスにより昏倒した者、……

 

(ヴィラン)に、拉致された者)

 

 ぐ、と力が籠りそうだった手を何とかほどき、ジャケットを羽織る。

 

『……わかってる』

 

 わかっている。今優先すべきは被害に遭った生徒たち並びに保護者への責任説明。俺個人の感情など二の次だ。冷静に努めを果たさねばならない。

 わかっている。……わかっていた。

 

 

 

『体育祭で空中さんが見せた“個性”は【治癒】。大変稀少かつ貴重な“個性”です。……(ヴィラン)に狙われることはわかりきっていたのでは?』

 

 謝罪会見にて、記者の一人が苦々しく言い放った。先ほど俺に爆豪に関する揺さぶりを掛けたが、思うような発言が獲れなかったことへの腹いせか。“生徒を守れないばかりか開き直る教師”への義憤か。彼はきつくきつく、眉間に皺を寄せていた。

 

『もし彼女が、(ヴィラン)に利用されることになったら、』

 

 “その時はどうするつもりなのか”。

 “そういう想定をした上で動いていたのか”。

 恐らくそういった詰問が続いたんだろうが、そうはならなかった。緊張感でしんと静まり返った記者会見場。そこに僅かなノイズが走り、空気を揺らしたその時。

 

《──どうなるのだろうね、空中くん。君は、君がどう思うかは関係なく、(ヴィラン)になるのかもしれないね》

 

 会場の音響設備から流れてきたのは男の声だった。上品そうに聞こえるバリトンは、そのくせ歪な笑みを滲ませていた。──誰かを踏みにじり、嗤う声。

 

《……随分、饒舌、なんですね》

《おや、そうかな》

《まるで、楽しくて仕方ない、みたい》

 

 男の話に対する、ひとつの声。それはざわめく会場の中にあってやけに大きく響いた。さほど大きくもない。怒鳴っているわけでもない。……疲労か苦痛か、掠れてか細い声が、それでも強い意志を以て響き渡る。

 

《あなた方(ヴィラン)の思惑通りに、ヒーローを責める民衆を眺めるのは、そんなに楽しいですか?》

 

『……空中!』

 

 椅子を蹴倒して立ち上がり呼び掛けるも、こちらの声は向こうに届いていないようだった。空中はたったひとりで、巨悪(AFO)と対峙する。

 

《おかしい、ですよね。だってわたしがあなたの元にいるのは、(ヴィラン)のせいなのに。ヒーローのせいでは、ないのに》

《君を救えないのは、ヒーローの責任だろう?》

《もし仮に、ヒーローに責任を追求できる誰かがいるとしたら、わたしの件に関しては、わたしだけです》

 

《……他の誰にも、とやかく言われたく、ありません》

 

 視界の端で、先程の記者が口を閉ざすのがわかった。ここにいる誰もが黙り込む中、空中の声は続く。

 

《ヒーローは、守ってくれてる。もう、十分過ぎるほどに》

 

 声は続く。それは今、あいつの前にいるAFO(オールフォーワン)に向けたものではないんだろう。

 

《それで足りないというのなら、わたしの努力と献身が、足りないということ》

 

 今回の事件で厳しい風に晒された雄英のため。

 ……いや、きっとそれ以上に、

 

《もうこれ以上、ヒーローに、……背負わせないでほしい》

 

 遠くにいる誰か(・・)のため。

 そのために空中は、苦しげに息をつく。振り絞る声は、掠れて震えていた。

 

《……相澤、先生……爆豪くんはここにはいません》

『……!』

《わたしがここに来て数日経ちますが、一度も見ていません。他の(ヴィラン)連合の姿も、……きっとこことは別の場所にいる。お願いです、彼の救出を、優先してください》

 

 俺の名前を呼び掛けたということは、向こうはこの声が記者会見場に届いていることを知っている。

 “救けて”と、言えたはずだ。

 それなのに、

 

《わたしは、……わたしは、もう、喋りません》

『──ッ、空中!!』

 

 それなのに空中は、爆豪のことばかり気にして、話して、それきり口をつぐんだ。何かを飲み込むような吐息を残して、声が途絶える。

 

《お喋りをやめてしまうのかい? それはちょっとつれないじゃあないか》

 

 その代わりにスピーカーから流れたのは悪辣な笑い声。“はは、”と嗤う男の声だけが、騒然とした記者会見場に響き渡る。

 

《君は何をしたら、悲鳴を上げてくれるのかな。

 その意志を、心を、どうやったら壊せるんだろう?》

 

 知らず知らずのうちに握られていた拳に、力がこもる。

 

《だって君は、もう、たくさん失ったろう? 痛みに堪えるために床を掻いていた爪も、握り締める指すら。

 ……ああそうだ、翼だけは、嫌がっていたね。むしりとる僕に、『やめて』って言い掛けていただろう。またあの声を聞きたいけれど、どうしたものかな。もう全部、無くなってしまったし》

 

 強く握られた手のひらに爪が食い込み、骨が軋む音がした。だがこんな痛みなど些事。

 

《次は何を失えば、君は泣いてくれる?》

 

 こんな痛みよりもっと大きく、深い痛みを、ずっと、ずっと──空中は、

 

 

 

『──我々も手をこまねいているワケではありません。現在警察と共に調査を進めております。我が校の生徒は必ず取り戻します』

 

 騒然とした場を収めるべく、根津校長が冷静に告げて頭を下げた。続いて顔を上げたブラドが、立ち尽くしたままの俺の腕を掴む。

 

『行くぞ、イレイザー』

『ブラド、……だが、』

『ここでこうしていても、何もならんだろう……!!』

 

 ブラドの声に、目に、憤怒の炎が燃えている。しかしそれを必死の形相で押さえ込もうとするブラドに、俺は、それ以上何も言えなかった。

 

『……、……お前の、言う通りだ』

 

 わかっている。今優先すべきは被害に遭った生徒たち並びに保護者への責任説明。俺個人の感情など二の次だ。冷静に努めを果たさねばならない。

 わかっている。

 わかって、いる。

 ……わかっている、けれど、

 

 

 

《あなたは、わたしの何も、奪うことはできません》

 

《……そうかい》

 

 会見場を辞した後の、静まり返った廊下に、その声が落ちた。何もかもを覚悟しきった、……覚悟させてしまった(・・・・・・・)、静かな声。

 

《じゃあ改めて、今度は、その綺麗な碧眼を削ごうか》

『……ッ』

 

 ギリ、と歯を食い縛る。空中(あいつ)が耐えているのに俺が感情のままぶちまけるのは可笑しいだろうと、奥歯を噛み締めた。鈍い痛み。血の味が口内に広がる。──吐き気がずっと、収まらずにいた。

 

 

 

 

 神野事件。神野の悪夢。

 一つの街と、幾つもの生活と、何人もの人々の命が一夜にして崩れ落ちた。爆豪の救出、逃げおおせた(ヴィラン)連合、現れたAFO(オールフォーワン)、対峙したオールマイト、……多くの出来事を経てやっと迎えた朝日の中、俺はセントラル病院に駆け込んだ。

 

『……ッ』

 

 空中、とこぼれた呼び掛けに、返る声はない。通された真白の病室、その奥に置かれたベッドに横たわる空中は固く目を閉じたままだった。シーツの上には白い髪と翼が力なく散らばる。枝のように細い腕は点滴に繋がれていた。“この回復状況ならもうじき人工呼吸器は外せるだろう”──そんな声が遠く聞こえた。

 

『……彼女がAFO(オールフォーワン)の要求を突っぱねてくれていなければ、神野の被害はこれだけでは済まなかっただろう』

 

 病室に集った人々の中、塚内さんが目を伏せた。病床に伏す空中を見下ろし、声が暗く、低くなる。

 

『もしもAFO(オールフォーワン)を治癒し、奴が全快に至るような事態に陥ったら、相対したオールマイトは、今頃……』

『だから、拷問に耐え切ったこの現状が正解だと?』

『……イレイザー』

『……すみません。わかっては、います』

 

 空中は、正しいことをした。

 出来得る限りの、最良の選択をした。

 

 苦しげに顔を歪めつつも、否定をしない塚内さん。糾弾しかけた俺を嗜めたグラントリノ。悔しげに奥歯を噛み締めるオールマイト。……この場にいる誰もが空中を案じながら、同時に、大局を見ている。

 ──空中がAFO(オールフォーワン)を治癒してしまった場合、街は、人々は、ヒーローは、どうなってしまっていたのか──

 

『こいつは、ヒーローとして正しいことをした。……だが、俺は──』

 

 血の気の失せた白い顔。固く閉ざされた目蓋。開かない青空の瞳。……今の空中の姿が、いつかのあいつ(・・・)の姿に重なった。

 いつかのあいつ(・・・)もそうだった。園児たちと保育士を庇おうと、自分の身も顧みず雲を飛ばして、そうして──瓦礫の雨に呑まれていった。

 

(……白雲、)

 

 ──自己犠牲と命を捨てることは、同義じゃない。

 ──死んじまったら、全部終わりなんだから。

 

 

 

 

『今日の行動を是としてしまえば、こいつは、空中は繰り返すでしょう。きっと何度でも、他人のために命を投げ出す』

 

 だから俺は、言い続ける。“素晴らしい自己犠牲心だ”と宣う声に、横槍を入れ続ける。

 ヒーロー仮免取得試験。その二次試験中に起きたトガヒミコ乱入事件──士傑生に扮したトガヒミコがHUCの一員を刺し、彼を救おうとした空中をも刺し、逃亡した。その際に行動した空中を公安はえらく高く評価し、“(ヴィラン)の襲撃にも人質の無事を第一に、冷静に対処した”──そんな身勝手な賞賛を送ったのだ。

 

 賞賛とはつまり、推奨。“次回もこの行動を期待している”と告げること。

 そんな言葉を無責任に投げ掛けた公安に、受け止めようとする空中に、俺は語調を強めた。

 

『ヒーローとして他人のために立派に死ねば、100点満点っていうのもおかしいでしょう』

 

 空中は俺の言葉に、はっと目を見開いた。何事かを言おうとして、言えなくて、そのまま飲み込んだ息ごと噛み締めるように口をつぐむ。そうして俯いていたから、きっと空中は気づかない。

 

『そうですね』

 

 目良善見と名乗った公安職員は、さらりと頷いてみせた。その声色も態度も平静そのもので、何をいけしゃあしゃあとと、俺が片眉を跳ね上げたその時。

 

『……、』

 

 目良は、そのぼんやりとした目を一瞬だけきつく細める。それは苦しさやもどかしさを堪えるようにも、溢れる笑みを堪えるようにも見えた。相反するふたつの感情、……いや、よりもっと複雑な感情を綯交ぜにしたようなその眼差しが、印象的だった。

 

 目良善見。公安職員の一人。さんざん“ヒラでこき使われているんです”といった雰囲気を醸し出しているが、少なくとも仮免取得試験の一会場を取り仕切れるぐらいには地位のある男。飄々と、しかし淡々と的確に、事態の収拾に際し指示を飛ばしていたところを俺も見ていた。

 ……そんな男が空中に対して垣間見せた感情の揺らぎが、どうにも気にかかる。

 

(難儀な状況にある空中への同情か? ……それとも、また別の……?)

 

 ──こいつの真意は、どこにある?

 

 

 

 

「どうかしましたか、イレイザーヘッド」

「……、いえ。すみませんが目良さん、今は高校での職務中なので」

「おっと。失礼しました、相澤先生」

 

 軽く頭を下げた目良は、以前見せたぼんやりとした表情を崩さない。そのまま冷茶を口に運び、舌を湿らせ、硝子の茶器をローテーブルに置く。静まり返った応接室の空気を、硬質な音が微かに揺らした。

 

「改めて、公安委員会所属の目良善見と申します。この度はお忙しい中お時間を作ってくださり感謝致します」

「いいや、お礼を言われるまでもないのさ!」

 

 この応接室はつい先日、最上博士を招いた。根津校長はその時と同じように明るく受け答えしているが──そのつぶらな黒い目で、より注意深く目良の言動を窺っている。

 

「多忙は君たち公安こそさ! ……そんな君がわざわざこの雄英高校に出向いたということは、よっぽどの理由があるんじゃないかい?」

「ええ、まあ。……ではお言葉に甘えて、早速本題に入らせていただきましょうか」

 

 一見にこやかな校長の視線と、眠たげな目良の視線が交錯する。目良はそれを瞬きで遮り、鞄から書類を数名取り出した。ローテーブルに広げられたそれには、一人の女生徒の顔写真が載っている──

 

 

「空中愛依さん──彼女の身柄を、公安で預かりたいのです」

 

 

 驚きは、然程無かった。“そう来るだろう”という予感があったからだ。……予感が的中した爽快感も何もあったものじゃないが。

 自ずと眉間に皺が寄る。そんな俺を小さな手で制して、根津校長は首を傾げた。その仕草だけはやたら可愛らしいが、先ほどよりずっと、纏う雰囲気は冷ややかだ。

 

「それは、何故だい?」

「あなた方が御察しの通り、彼女の【治癒】の“個性”ですよ」

 

 そんな校長の圧にも構わず、目良は至って平淡な様子で言葉を継ぐ。

 

「セントラルから報告は届いています。欠損した指、翼、眼球……失われたものまで元通りに回復させるほどの凄まじい治癒能力。

 非常に有益だ。ヒーローにとっても、……(ヴィラン)にとっても」

 

 ……目良の言うことはわかる。“個性”を悪用する(ヴィラン)との戦いによって治安を維持するヒーローとって、【治癒】は必要不可欠なものだ。そしてそれは同時に、(ヴィラン)にとっても同様のことを意味する。

 ヒーローからも、(ヴィラン)からも、それ以外の大衆からも──空中は救いを求めて手を伸ばされるのだろう。

 

「彼女はこの先、否が応でもその力を狙われる。それは避けようのない事実です」

「……だから公安で、国で囲おうと?」

「それが彼女の安全に繋がります」

「檻に入れて管理することの、何が“安全”だと言うんです」

 

 ──フ、と、張り詰めた空気が僅かに揺れた。それが男の唇から零れた微笑だとわかり、俺は目をすがめる。

 

「何を笑って、」

「では雄英は、どのようになさるおつもりで?」

 

 そこではじめて、目良の無表情が崩れた。ほんの僅かに目が見開かれ、口の端が歪む。

 

「雄英体育祭では、大々的に彼女の【治癒】を報道していましたね。そして今回の神野を経て、大衆の目は彼女に注がれている。……神野で重傷を負った人々やその家族は、特にね」

 

 目良の冷静な声の奥に、棘が覗いた。それははじめ俺たち雄英に向けられたものだと感じたが、……どうにも様子がおかしい。こちらを糾弾するにしては、纏う雰囲気が酷く静かだ。

 

「【治癒】を求めて殺到する人々の願い。……その手綱を、あなた方はどうやって取るのでしょう」

 

 こちらを見つめる目が、きつく細められている。それがいつかと同じに、苦しさやもどかしさを堪えているようにも、微笑みを堪えるようにも見えた。

 俺がその真意を探る間に、目良はいつも通りの無表情に戻ってしまった。さて、と一言置いて、ゆるりと顔を上げて校長を見る。

 

「……というワケで、こちらの要望は以上です。現状、彼女の保護についての話は急いでいませんが、心に留め置いてくださると有難いです」

「なるほど。ではそのようにしておこう」

「校長……!」

「ただし、」

 

 校長の長い髭が、丸い耳が、ぴんと立つ。

 

「空中くんは、我が校の生徒。合格通知を出した以上は、雄英(私たち)が守る生徒さ」

 

 柔らかく、優しげな口調の中に、揺るぎのなさがある。それを感じ取ったのか、目良の眠たげな目が微かに揺れて、伏せられた。

 

「そのことは、公安(君たち)にも心に留め置いてほしいのさ」

「ええ、……そうですね、」

 

 “私もそう願います”と、小さくそう呟いて、目良は深く頭を下げて応接室を辞した。その場に残ることにしたらしい校長とアイコンタクトを交わし、俺は立ち上がり目良の後を追う。

 

「おや、……見送りは不要ですよ」

「そういうわけにもいかんでしょう」

「はァ、まぁ……ではそのように」

 

 “大変ですねぇ”、とぼやくように言う目良に、“そちらこそ”と返す。ぼうっとしているように見える目良だが、そのくせ俺の意図に気づいているんだろう。目良を空中に接触させまいとする、俺の意図に。

 

「……そんなつもりは、ありませんよ」

 

 だからか、そんなことを呟く。その寝ぼけ眼はぼんやりしていて、相変わらず真意は読み取れない。隣り合って歩きながら、その横顔を盗み見る。

 

「……どうだか。あなた方公安の目的を知った今、空中に接触しようとするのは十分考えられることです」

「彼女は情に厚そうというか、弱そうですものねぇ。面と向かって“救けてくれ”と訴えられては、絆されてしまうかもしれない」

「…………」

「あなたも難儀な立場ですね、相澤先生」

「あなたに言われたくはないですね」

 

 廊下を進み校舎を出ると、みんみんと喧しく騒ぎ立てる蝉の声が出迎えた。八月も終わりだというが、まだ残暑厳しい午前の陽射しに、思わず目を細める。広大な敷地面積を誇る雄英高校の出口まではまだ遠い。なるべく陽射しを避けるべきかと、林道に続く道を選んで歩き出した。

 蝉の歌に、緑輝く木々のさざめき。それに紛れるように訓練しているのだろう生徒たちの明るい声が聞こえてきた。

 

「……、」

 

 木漏れ日の、向こうで。その姿があった。

 紫色の逆立った髪の男子生徒が、戸惑うような、照れたような表情で立っている。彼に向き合う尾の生えた男子生徒は、慌てたように汗をかいており、その隣でぴょんぴょん跳び跳ねている女子生徒は、透明な顔で笑っている。そして彼らを見つめて、嬉しそうに微笑む白い羽根の、女子生徒──

 

「……目良さん」

「ええ、……わかっていますよ」

 

 彼らを、……彼らと共にいる空中を見つめて、目良は眩しそうに目を細めた。それからふっと、疲れたように笑みをこぼす。

 

「会うわけにはいきません。……水を差したいわけでは、ないのだから」

 

 その言葉に、嘘はなかったのだろう。目良はそのままこちらに背を向けて歩き去った。その背広が小さくなっていくのを見送って、俺は踵を返す。わいわいがやがやとはしゃいでいる面々に向かった。

 

「……なんだお前たち、一緒にいたのか」

「……、イレイザー」

「あっ相澤先生だ! あのですね、」

「、すみません、相澤先生」

 

 ばつが悪そうにする心操とは裏腹に、嬉しそうに声を跳ねさせる葉隠を、けれど空中は遮った。“ごめんね”と断りを入れつつも、俺に向き合う。

 

「今さっき、どなたかとご一緒でしたか?」

「……いや? 俺ひとりだが」

「……そう、ですか。……すみません、見間違えでした」

 

 俺の返答に頷きながらも、心からの納得は得ていない。そんな表情で空中は俯いた。それは公安委員会を警戒しているからか、公安委員会からの接触を待ち望んでいたか、……どちらにせよ今は判断できかねる。

 だから俺は何も追及せず、「一緒に組み手しようって考えてたんです!」と笑う葉隠ら言葉に頷いた。“いい試みじゃないか”と口角を吊り上げて、捕縛布を空中へ差し向ける。

 

「こんな風にな」

「いっ、いきなりはびっくりします……!」

「実践に“待った”は存在しない」

 

 空に浮かんで捕縛布から逃れた空中は、不服そうにしながらもそれははじめだけで、身構えた心操や尾白、葉隠を見て眦を決した。ばさりと翼をはためかせ、攻撃や防御用の羽根を数枚辺りに漂わせる。

 

「──“できることは全て、やっていきたい”。……そうだったな」

 

 不意に、そう直談判しに来た時のことが脳裏に浮かんだ。あの日。どこから聞き付けたのかインターンの制度を知って、それに参加したいと空中は必死に訴えた。

 

 

 

『この治癒と【翼】を以て、もっと速く、誰の元へも駆けつけられるヒーローになりたい。もっともっと、早く、……みんなの傷を癒すことのできるヒーローに、なりたいんです』

 

 あの神野で手酷く傷つけられ、同時に傷つけられた人々を目にした空中は、俺に向かってそう宣言した。

 

『仮免の時も、【前に進みたい】とわたしは言いました。

 今も変わらず、同じ気持ちです』

 

 ──自分のせいでA組の友達が除籍処分になりかけた。そのことを気に病み、涙を流したのと同じ瞳で、真っ直ぐに前を見つめた。

 

『できることは全て、やっていきたい。わたしの出来得る全てで強くなっていきたいんです。

 だから、どうか。──どうか、』

 

 自分の負った傷など二の次で、誰かの為に心を痛め、誰かの為に強くなろうとする。そんな空中の姿はヒーローとしてこの上なく“正しい”のだろうと頭では理解したが、心は納得しなかった。

 

(……こいつは、危うい)

 

 自分の身や心を顧みず、誰かを救けるために飛び立って。そうしてそのまま、空の中に消えていく。

 そんな予感が、ずっと俺の内側に蟠っていた。

 このままインターンに行かせたら、もう戻って来なくなるような、そんな──

 

(だから俺は、あいつらにインターンに行かせるつもりはなかった)

 

 まだ時期尚早だと、インターンの報せを伏せて。

 生徒の“もっと強くなりたい”という意志に待ったを掛けて。

 そうして事が済むまで雄英で守るべきだと、そう判断した。そうするべきだと、思っていたが。

 

 

『檻に入れて管理することの、何が“安全”だと言うんです』

 

 

 ──嗚呼、と声にならない息をつく。俺が目良に放ったのは、そのまま自分に充てた言葉だった。

 

 

 

「……? 先生?」

 

 空中が不思議そうに目を瞬かせた。俺を真っ直ぐに見上げている。……“こっちの気も知らないで”と溜め息を吐きたくなるほど真っ直ぐなその目は、いつか見た空と同じ色をしていた。

 

 檻に入れて庇護すれば、確かにその身を守れるだろう。

 だがそれは雄英の教師である俺がすべきことじゃない。

 “救えるヒーローになるため”と、努力を惜しまない生徒にすべきことじゃない。

 

「……そうだな、お前たちの出来得る全てで強くなってみせろ」

 

 俺がするべきは、生徒が学ぶ場を保障すること。強くなるための糧を用意すること。乗り越えるための壁を打ち立てること。生徒が勉学と訓練に励み、さまざまな経験を積む、その過程を守ること──

 

 まだ考えるべきことはある。(ヴィラン)連合のこと、公安のこと、自分の身を顧みず無茶ばかりする問題児どものこと──気に掛かることは山積みだが、そんな俺の心配事なんかいざ知らず、ひよっこどもは空へと向かい駆けていくのだろう。

 それを思えば、何故だか口の端に笑みが滲む。

 目の前の景色に光が差す気がした。

 

PLUS(プルス) URTLA(ウルトラ)。……乗り越えてこい、ひよっこ共」

 

 

 

 

 

 

 高層ビル郡のひとつ。その最上階フロアーに歩を進めるその人物は、仕立ての良いハイブランドスーツに身を包んでいた。縫い目まで美しく施された革靴が、緋絨毯を踏み締めていく。

 それは酷く上背の男だった。鋭く尖った鼻。尖った耳。やや後退の目立つ額が眩しく輝いている。彼が廊下奥の重厚な扉前に辿り着くと、控えていた給仕役が恭しく彼の荷物を預かった。それに“ありがとう”と微笑む男の顔は、やけに穏やかだった。

 

「やあ、キュリオス」

「ようこそリ・デストロ。お待ちしていました」

 

 そうして通された貴賓室には、一人の女性が待ち構えていた。透き通るような青い肌に、黒い強膜の中心には蠱惑的な緑の瞳が輝いている。彼女は艶やかに微笑み、リ・デストロに椅子を勧めた。

 

「呼び立てた上に遅れてしまって申し訳ない」

「構いませんよ、ご多忙なのは存じてますもの。……何でも会社の方で、ヒーロー事業に参入するとか」

「相変わらず耳が早い」

「優秀な耳も目もたくさんあるもの」

 

 その微笑も眼差しも誇らしげに、キュリオスは唇を開く。

 

「私を含めた数多の戦士たちは、あなたの想う未来のため、命を尽くす覚悟を決めているわ」

「解放にその身を捧げると?」

「勿論」

 

 そこに嘘の気配は微塵もない。絶望を感じているわけでも、無気力になっているわけでもない。“自分の心身すべてを捧げる”──そんな破滅的な使命感と陶酔が、キュリオスの声と瞳を輝かせる。

 

「あなたの御所望の通り、手は打っておきました」

 

 キュリオスが手元のデバイスを操作すると、壁面いっぱいに彼女が集めたデータが映し出された。“個性”サポートアイテム会社の重役、その秘書、とある街のヒーロー、“個性”人権運動の主導者、……さまざまな要人の名前が並ぶ中、キュリオスの細い指先がひとつの名前に触れる。

 映し出された白い髪と白い肌、白い翼が、照明の落とされた部屋を僅かに照らした。

 

「空中愛依。“個性”は【翼】、そして【治癒】──彼女をこちら(・・・)に引き入れようと、我らが指導者が願うのならば」

 

 キュリオスの歌うような口ぶりに、リ・デストロはひとつ優しく頷いた。細く鋭い目が、やけに柔らかに弧を描く。

 

「空中くんは必ず、今後の社会の在り方に絶望する」

 

 無垢な青い目は、人の浅ましさを見るだろう。多様性を謳いながら少数を排斥する社会の矛盾を知るだろう。

 ヒーローという職業。誰もが憧れる輝き。

 ──その裏側に潜む影に、触れることだろう。

 

「そうして彼女が傷つき、疲れた時に、我らが翼を休める止まり木になれれば──私はただ、そう思うんだよ」

 

 リ・デストロは微笑む。どこまでも穏やかに慈悲深く、ひとりの少女の挫折と絶望を願って。

 

 

86.大人たち、水面下にて。

 

 

 

「あァそうだ、キュリオス。先程君は“手は打っておいた”と言っていたね?」

「ええ、リ・デストロ」

 

 運ばれてきた前菜をナイフとフォークで切り分けながら、リ・デストロはキュリオスに水を向ける。

 

「戦士たちの配備は勿論、打ち合わせも済ませているわ。……あと、予備の準備も」

「予備? 随分と慎重だね」

「それは勿論。万に一つもあなたの言葉を遂行できなくなってはいけませんから」

 

 まるでウインクのひとつでもしそうなぐらい、軽やかにキュリオスは続ける。

 

「駒が増えたの。元ヒーロー志望の現(ヴィラン)

「おや、それはまた」

 

 “空中くんへの良い刺激となりそうだ”。

 そう言って目を細めるリ・デストロに、“そうでしょう”とキュリオスは嬉しそうに頷く。

 

「彼らは自分の犯罪行為を動画サイトに投稿しているの。やっていることは大義とは言いがたいけれど──そのちっぽけな自己顕示欲を満たすのは簡単だったわ」

 

 同じ志を持つ“同士”として迎えられずとも、こちらの思惑通り動いてくれればそれでいい。

 

「リ・デストロ。あなたのお言葉を聞いて私は目が覚めたんです。“記録や伝聞だけでは人の心は動かない”って」

「だから彼らを、空中くんに直接ぶつけると?」

「ええ!」

 

 キュリオスは上機嫌に、けれど手元は上品にカトラリーを動かした。美しく彩られたテリーヌを切り分けて口に運び、静かに咀嚼し、飲み込む。

 

「あんな稚拙な動画なんかより、もっとずっと人の心を揺らすわ」

 

 作られた料理を口にして楽しむこと。

 人の人生を切り分けて晒し、利用すること。

 どちらもキュリオスにとっては同じことで。だから彼女は美しく、酷薄に笑ってみせたのだった。

 

 


 

 お久しぶりです(白目)どう書いたらいいものか悩みながらのたうち回りながら書いたので稚拙なところもあるかもですがふわっとご覧いただければ幸いです。

 今回は①裏で相澤先生がどんな風に思っていたのか、②目良さんとの接触、③異能解放軍が動き出す様子などを書きたいと予め考えていたので、書けて楽しかったです(作文)。

 また次章のインターン編では今回ほのめかした人々の行動や思いを書いていきたいと思います。ほぼオリジナル展開で「原作沿いとは???」という感じになると思いますがまた読んでいただければ嬉しいです。ありがとうございました!

 

 



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【依存】から始まるヴィランアカデミア
始まりの朝


▽注意書
・【依存】から始まるヒーローアカデミアのif敵√
・オリ主愛依がAFOの元で育てられておねむり君に出会う話
・ヒーロー側にもヴィラン側にも大した救いはありません
 


 

 

 もっとはやく、こうしなきゃいけなかった。

 

 ぶち、ぐちりと背中の肉を突き破り這い出てくる翼。その痛みを背負いながら少女はぼろぼろと涙を流した。この公安で保護されてから数ヶ月。ようやっと丸みを帯びてきた頬に伝い、落ちる。

 

 はじめは両親だった。少し頼りないようでいて、ヒーローとしてその身を呈して民衆を守るような気概を持ち合わせていた父。そんな父をしょうがないなと見つめて、優しく一途に支えていた母。

 そんな2人の間に生まれ、慈しまれ愛され育った少女は、3歳の誕生日に“個性”が発現した。

 

 “個性”【依存】──心を通わせた者の“個性”を奪い、我が物とする。誰かに憧れる【恋】ではなく、誰かに与えられる【愛】でもない。

 想いにすり寄り、寄生し、奪い尽くす【依存】。その執着心を表したように、一度奪った“個性”はどうあっても元に戻すことはできなかった。

 

 何をしても。どんなにどんなに、願っても。

 

「……っ、ぅ、うう゛、ううぅ゛……っ」

 

 身体を急速に作り変える。それは骨を歪ませ肉を裂く行為に他ならなかった。焼けるような痛みは終わりが見えない。けれどそうした身体の痛みよりずっと、心が“痛い”と叫んでいる。

 

「ごめ、っ、ごめんな、さい、ひっ、ぐ、ぅ、……ごめん、な、さい……」

 

 あのモノクロのベランダに、ひとりきりで籠った部屋に、優しい声とともに訪れてくれた赤い羽根の男の子。彼のあたたかな手のひらに、太陽みたいに眩しい羽根に、少女は命と心を救われた。

 だから、“ありがとう”と、そう伝えたかっただけなのに。高まった心の熱は抑えられず、少女はその時を迎えた。まるで蛹が羽化するように背中から突き出たその羽根は、少女の“個性”が発動してしまったことを意味していた。

 あの少年の“個性”を、可能性を、未来を──ぐちゃぐちゃに奪って、押し潰してしまったのだと、少女は思ったのだ。

 

 痛む身体を引き摺り、外へ通じる唯一の窓を目指して歩く少女。

 少女の異変にドア越しに気づき、急ぎ羽根を操作して固く封じられた鍵を開けようと必死になる少年。

 血塗れの羽根を不器用に羽ばたかせ、壁に激突しながらも真っ直ぐ窓を目指して、その枠に手を掛けた少女。

 僅かに手こずるものの何とか解錠に至ったドアを開け放ち、部屋の中に駆け込む少年。

 

 もうすぐ4歳になる幼い少女は、“自分がいなくなれば”と思った。自分がいなくなれば、みんなの奪った“個性”も元に戻るのだと信じて、命を投げ出す空を目指した。

 びゅうびゅうと粉雪が舞う黒い空。あの日と同じ色彩を忘れた空を見下ろして、小さく吐息と涙を溢す。

 

「おねがい、します……かみさま……」

 

 わたしはひとりきりでいいから。

 わたしの全部を失くしていいから。

 ──命だって、いらないから、

 

「わたしが、いなくなったら……わたしがとっちゃった“こせい”、みんなに、かえしてください……」

 

 そんな祈りを口にして、彼女は身を投げ出した。暗い空は大口を開けて、まるで少女を飲み込まんとするようだ。白い髪が、白い肌が、白い羽根が、夜の中に呑まれていく。

 

「──ッ愛依(あい)!!」

 

 まだ11歳になったばかりの少年は、ヒーローを志していた。いつか自分が未来を明るく照らしてもらったように、自分もまた誰かを救い、守り、明るい未来を示してやりたかったのだ。だから彼は必死に少女を追い掛け、落ちていく彼女に手を伸ばした。

 早く、速く、誰よりも、速く──そう在ろうと赤い翼を強く打ち鳴らした、けれど。

 

「……ッ!?」

 

 少年は、目を見開く。夜の空より暗い“闇”が、少女の落下する先に広がった。それは少女の小さな身体を受け止め、絡め取り──呑んでいく。

 

「……待て、やめろ、やめろ! 返せ!!」

 

 少女の足が、胴が、闇に呑まれて消えていく。とうとう首元まで迫った時、偶然か、少年の喉を枯らさんばかりの絶叫に気がついたのか。

 少女はぼんやりと目を開けて、少年を見上げた。陽の光に輝く空の色をした目。いつか、いつか。それと同じ空の下に連れ出して、一緒に笑えたらと、そんな淡い思いが少年の脳裏によぎる。

 

「愛依────」

 

 少女はかさついた唇を、小さく動かしたように見えた。それが最後だった。

 

 少年の眼前で、手が届く、その数センチ先で、少女はとうとう闇に呑まれてその姿を消した。闇はまるで溶けるように掻き消えて、突き出した少年の手は空を掴む。

 

「ぁ、……」

 

 空を掴む。空っぽの手のひらを見下ろして、少年はいびつな呼吸を繰り返した。

 

「……あぁ、あ、……ッ」

 

 ──少年の翼は、手は、届かなかったのだ。

 

「──────ッ!!!!」

 

 言葉にならない慟哭が、冬の空に木霊する。けれどその声が届く場所に、もう少女はいない。

 

 そして二度と、帰ることはなかった。

 

 

───

 

 

 少女が目を覚ますと、知らない天井が視界いっぱいに広がった。霞む視界を瞬きで凝らして、少女はのろのろと上体を起こす。びき、と背中に走った痛みに咳き込んでいた時だった。

 

「無理をしてはいけないよ」

 

 落ち着いたバリトンが、ゆったりと響く。それは少女の身を案じるような声色だったけれど、彼女は驚きと恐怖に身体を跳ねさせ、ベッドから転がり落ちた。「おや、」と意外そうな声の主から逃れるべく、ベッドの隅に身体を滑らせ、小さくなって膝を抱く。

 

「どうしたんだい、そんな風にしては塞がった傷が開──」

「だめ、だめなの、きちゃだめ……!」

「おや、何故だい?」

「わたしは、あなたの“こせい”をとっちゃうの!!」

 

 シーツを引き寄せて頭から被り、あまりに稚拙な壁を作りながら絶叫する少女に、男は──AFO(オールフォーワン)は口許に手を当て思案した。大した“個性”を使わずとも、少女が怯えきっていることは明らかだった。しかしその怯えの理由はどうやら自分を守るためではなく、見知らぬ男(自分)を案じてのことのようだ。そこまで見てとり、AFO(オールフォーワン)は微笑んだ。

 

「大丈夫。落ち着いて、君は、僕の“個性”を取ることはないよ」

「どう、どうし、て……」

「君の“個性”は、君が【だいすき】で、君のことが【だいすき】な人の“個性”を取っちゃうからだよ」

 

 まるで絵本を読み聞かせるような、そんな柔らかくあたたかな声色は続く。

 

「君が望むなら、僕は君を【だいすき】にならない。そうすれば安心だろう?」

 

 それは永久に埋めきらない隔たりを生むような、人によっては絶交とも取れる発言。けれど今の少女にとっては天啓に等しかった。暗い雲の隙間を縫って光が差したように、少女の瞳の空が安堵に和らぐ。

 ちぐはぐな情感。縋るような歓喜。それは間違いなく歪みといえるのだろう。AFO(オールフォーワン)は聖人君子のように微笑みながら口角を吊り上げた。

 

「怖かったね。辛かったね。“個性”のせいで傷つけたくもない人を傷つけて、君自身も傷ついてしまったんだね」

「……っ」

「でももう大丈夫。僕は君のために、絶対に揺らがない。君に何も奪わせたりはしないよ」

「っ、ほん、と、に……っ?」

「約束する。僕が、君の居場所になろう」

 

 震える肩を宥めるように叩き、白い髪をゆっくりと撫でる。酷く無垢で純粋な歪みの種を手中に収め、舌舐りをするような気持ちで彼は嗤う。

 

「もう大丈夫──僕がいる」

 

 

 

 

 それから少女は、AFO(オールフォーワン)が所有する児童養護施設で暮らすことになった。しかし他の子と同じように、とはいかない。「またほかのひとの“こせい”をとってしまったら、」という恐怖が拭えない少女は、自らに与えられた小さな部屋に閉じ籠るようになった。

 

「まったく、子どもというのは動かしづらくて敵わんのお」

「おやおや、僕の友人はご立腹のようだ」

 

 そんな少女の経過観察をしながら、目を細めたのは殻木球大。AFO(オールフォーワン)の腹心にして友人である通称ドクター。彼は腹立たしげに息をつき、少女のカルテを軽く叩いた。

 

AFO(オールフォーワン)。君はあの小娘にこの施設にいる子と関わらせて、“個性”と歪みを集めさせようと思っておるのじゃろう? ……ワシは、君の思いや考え、歩みを阻むものは嫌いなんじゃよ」

 

 不機嫌な表情や声色を隠そうともしない友人に、AFO(オールフォーワン)は機嫌よく喉を鳴らす。

 

「そう急く必要はないよドクター」

「ふむ、随分と寛大なのじゃな?」

「まぁね」

 

 彼はおどけたように大袈裟に、肩を竦めてみせた。

 

「だってあんな(・・・)“個性”を持ってるんだぜ? まともに生きていけるはずがないじゃないか」

 

 柔らかな口調の端に、嘲りと愉悦が滲む。

 

「どうせそのうち、綻びが出る」

 

 それを待てばいいのさ、とAFO(オールフォーワン)は静かに微笑んだ。現人神がそう言うのなら、とドクターも溜飲を下げる。そうしてほほ、と笑声を溢した。

 

「ワインの醸造を待つようにか?」

「そうそう! 踏みにじって搾って、何年も何年も寝かせて、研ぎ澄ませるんだ」

 

 【依存】という“個性”。そこに宿る執着と慟哭。【愛】だなんて不確かなものよりずっとスパイスが効いていいじゃないかと、そう嘯いて悪魔は嗤う。

 

「やりようは、幾らでもあるしね」

 

 

 

 

 そんな話をして暫く、AFO(オールフォーワン)は草木も眠る丑三つ時に少女の元を訪れた。突然のノックの音に驚き、怯え、そして来訪者が誰か悟った時の安堵。縋るように見上げる青い瞳。そうした少女の感情の推移に微笑み、彼は小さな背丈に合わせるように膝を折った。

 

「こんな夜更けにごめんね」

「ううん……、っいえ、だい、じょうぶです」

「いつもの喋り方で構わないよ?」

「いいえ、あの、……サンサンせんせいが、きちんとおはなししなさいって……おーるふぉーわんせんせいは、わたしのおんじんだから、って」

 

 辿々しくも懸命に話す少女の様子を見るに、施設の“教育”はあらかた浸透しているようだとAFO(オールフォーワン)はほくそ笑む。

 

「そうか、僕はそうかしこまらなくてもいいのだけれど……教わったことをきちんと頑張ってるのはえらいね」

「……っ」

 

 戯れのように白い髪を撫でると、強張っていた頬がほのかに緩む。人を近付けてはいけない、近付いてはいけないと気を張っている一方で、彼女の【依存】は人を求める。

 

(そうして君は、誰かの“個性”を奪ったのにね)

 

 どうやら少女は、どうあっても人が好きなようだと。愚かしくもやさしい性根にAFO(オールフォーワン)は目を細めた。

 

「今日は君に、知らせを持ってきたんだ。君の、“個性”の話だよ」

 

 ひゅ、と掠れた息遣いが夜の闇に溶ける。AFO(オールフォーワン)はかつて少女を拐ってきた時、「君の“個性”について調べてあげる。君が奪った“個性”の戻し方を探してみるよ」と語りかけ、少女の自殺を禁止した。そうして今日まで少女は、それを希望に日々を生きていた。自分の奪ったものは元に戻せると、みんな自分の未来を掴み直せると──そんな輝かしい未来を夢想して少女の青の目が煌めくのを、AFO(オールフォーワン)は見下ろした。大袈裟なまでに眉を下げて、悲しげに──

 

「……残念ながら、君が奪った“個性”を元に戻す方法は、見つからなかったよ」

 

 重い声でそう告げる。それはどこからどう見ても“懸命に解決を探ったけれど見つからなかった悲しげな人”で、弱冠4歳の少女がその嘘を見抜くことなどできなかった。

 少女の目が見開かれる。半開きになった口は浅い呼吸を繰り返す。元々穢れなく白い肌は蒼白で、かたかたと震える。それはまさしく、抱き続けた希望を砕かれた人の顔をしていた。

 

「……じゃあ、じゃあわたし、やっぱり……!」

「待って」

 

 半狂乱になって自分の身体を抱き締める。その爪先がぎちぎちと肌に食い込んでいくのを手を取ってやめさせながら、AFO(オールフォーワン)は優しく語りかけた。

 

「駄目だよ。僕は君に、死んでほしくない」

「ゃ、うそ、どっ、どうして……っ」

 

 少女は激しく頭を振る。その拍子に溢れた涙が、暗闇の中に僅かに光った。

 

「わたし、いきてちゃ、だめです……!!」

 

 AFO(オールフォーワン)はその慟哭を聞きながら、そうっと少女の身体を抱き締めた。優しく、強く。腕の中の少女が逃れられないように、しっかりと。

 

「そんなことはないよ。……けれどそうだな、君が生きていく理由が欲しいというのなら……」

 

 この体勢では、少女は男の顔を見られない。だから彼女は、永遠に気づくことはできない。

 

「ねえ、僕のお願いを聞いてくれるかい?」

 

 悪魔がどんな風に嗤うのか、気づけない。

 

 

 

───

 

 

 

 夜の帳が降りる中では、数多の子どもたちが暮らすこの施設も静まり返っている。長く続く廊下の先。段々と闇が濃くなっていく様は、まるで何か大きな怪物が大口を開けて待ち受けているかのようで、少女は小さく息を飲んだ。

 その時だ。少女の頬が眩しく照らされる。驚きに瞬きをした青い目は、自分に差し出されるカンテラを捉えた。懐中電灯が一般的なこのご時世にはあまり見ないアンティーク品だ。鳥籠のような装飾の施されたガラス瓶の中に、小さな火がゆらり揺らめいている。

 

「これは……?」

「深い夜を歩くには、灯りが必要だからね」

 

 少女はAFO(オールフォーワン)に連れられて、静かな夜の道を歩く。彼が背を押すままに入った部屋には、二段ベッドがひとつ。その上段と下段にそれぞれひとりずつ少年が眠っていた。思わず後ずさる少女の背を押し止め、大丈夫と男は囁く。

 

「彼らは深く眠ってる。君を見つけることはないよ」

 

 だから“個性”を取ることはない、大丈夫。そう声を重ねることでようやく身体の緊張をほどいた少女は、恐る恐ると少年たちの寝顔を覗き込む。そうしてはっと息を飲んだ。

 

「……けが、してる?」

「そう。……この傷はね、ヒーローである父親から受けたものなんだそうだ」

「──え……?」

 

 少女の心臓が嫌な音を立てる。それを無意識に宥めようとしてか、胸元を強く握りしめた。

 

「そん、な……どうして、」

「彼の“個性”が、父親の望む“個性”ではなかったらしい。それでぶたれて、蹴られて……可哀想な話だね」

「…………」

 

 少女は沈黙した。沈黙せざるをえなかった。目の前の少年の経緯と自分の過去を重ね合わせ、その胸の痛みを堪えるのに精いっぱいで、他に何もできなかったのだ。

 

「この家はね、彼らのような──君のような、ヒーローによって傷つけられた子どもたちを守るために建てたんだ」

 

 白い少女は幼く無垢だ。まだ何の疑いも持たず、嘘を知らない。だからAFO(オールフォーワン)は畳み掛けた。

 

「っわ、わたしは、ちが……わたしが、おとうさんとおかあさんを、きずつけたんです……」

「どうやって?」

「……っえ、」

「君はただ、お父さんとお母さんを【だいすき】だと思っただけだろう? それの何がいけないんだい?」

「え……、でも、でも、」

「当たり前のように、【だいすき】だと思って……それがたまたま“個性”を奪うことに繋がった。それは果たして、君のせいなのかな」

 

 僕にはそう思えないと。そんな、砂糖をまぶした麻薬のような声は続く。

 

「君のせいじゃない。君が悪いわけない。

 それなのに君がこんなにも傷ついたのは、お父さんとお母さんのせいなんじゃないのかな」

「──ちがう!!」

 

 頭上から注がれる甘い蜜をはね除けるような、そんな鋭い声を放った。けれどそれは自分でも意外だったのか、我に返った少女は顔を蒼白にして狼狽えた。

 

「あっ……ご、ごめん、なさ……、っ」

 

 ──すてないで、ください……。

 

 小さく付け加えられた声に、そこに滲む涙の気配に、男は内心ほくそ笑む。溺れた人間に浮き輪を投げ込めばそこに必死になって縋るのと同じだ。居場所を失った少女に拠り所を与えてやれば、そこに爪を立てでも縋ろうとする。

 

「謝る必要はないよ。僕の方こそごめんね」

「いえ、いいえ……わたしのほうこそ、ごめんなさい……っ」

「僕を許してくれるんだね。君は本当に、やさしい子だね」

 

 髪を撫でれば、ほっとしたように溢れた涙がひとすじ、頬を伝って床に落ちた。それを指先で拭ってやり、男は更に笑みを深める。

 

「そんなやさしい君に、お願いがあるんだ。

 ──彼らの傷を、君の“個性”で治してあげてほしい」

 

 

 

 

 そんな頼み事から少女の生活は一変した。皆が寝静まった深夜に起き出し、カンテラを手に子どもたちの部屋を回った。痛ましい傷跡に手を当て、治し。魘される子を見つけては頬に伝う涙を拭い、宥めるように頭を撫でてやった。

 

『ヒーローに救われなかった子どもたちを、君が救ってあげてほしい』

 

 AFO(オールフォーワン)の思惑を含んだお願いは、少女の生きる理由になった。大切な人の未来を奪って壊してばかりだった自分が、誰かの痛みを治癒して苦しみから救う。そんな自分になれれば、少しは生きることを許されるかもしれないと、そんな悲しいことを思ったのだ。

 だから少女は毎晩毎夜、救われなかった子どもたちの痛みに触れ、苦しみを拭った。さながらランプの貴婦人のように。

 

「治癒を繰り返し行わせることで、その精度を上げよう、というねらいかの?」

「ああ。治癒は何かと便利だからね。それに……」

 

 監視カメラから小さな少年に寄り添う少女の姿を見下ろしながら、AFO(オールフォーワン)は口角を吊り上げる。

 

「こんなに“悲しい過去”を持つ子どもたちを目の当たりにして、傍に居続けて、あの子はどう思うのだろうね?」

 

 裏側でそんな会話が交わされていることなんて露知らず、少女は懸命に子どもたちの傷に触れ、苦しみを拭い続けた。毎晩毎夜、繰り返す。心身の痛ましい傷跡を前に、我が事のように心を痛めながら、そんな生活を繰り返し続けた。

 

 4歳の少女は春を、夏を、秋を、冬を過ごして。そうして5歳になった。大人たち以外には誰にも接触せず部屋に籠り、ひとり夜の帳をカンテラで照らしながら練り歩く。“自分が救わねばならない”とする使命感と、“どうしてこの子たちをヒーローは救ってくれなかったんだろう”と疑問に思う心を積み重ねながら、彼女は歩いた。

 

 そうして、その青い目によく似た空の色を忘れかけた日々の最中──少女は出会ったのだ。

 

 

 

「……この人は、だれですか……?」

 

 ある夜。久しぶりに会ったAFO(オールフォーワン)に連れられて訪れた部屋の中で、少女はひとりの少年と出会った。正確は“出会った”より“見た”と言った方が正しい。何故ならその少年は、固く目を閉じてベッドに寝かせられていたからだ。

 

「名前は僕も知らないんだ。見つけた時には酷い火傷を負っていてね……それ以来目覚めていないから」

 

 さも痛ましそうに声を落とすAFO(オールフォーワン)は続ける。少年はとあるヒーローの息子で、父親の望む“個性”に生まれなかった。それでも父親に見てもらおうと、期待に応えようと“個性”訓練に励み続けて──そうして自身の炎に焼かれてしまったのだと。

 

「施設の子どもたちは、彼を“おねむり君”と呼んでいたよ」

「おねむり君……」

「ずっと、眠ったままだからね。僕たちも手を尽くしたけれど、これが限界だった」

 

 AFO(オールフォーワン)はおねむり君の頬を撫でる。その肌は上部と下部で分かれており、いびつに引き伸ばされた肌と肌が無理やり縫合されていた。そうしなければならないほどに、肌が損傷したということだ。

 

(……こんなに、ひどいけがを……)

 

 こんなに酷い怪我を、少女は今まで見たことがなかった。その深さと痛ましさに怯む気持ちもあるが、それよりも強い衝動が少女の手を伸ばさせた。

 

(……どうして、)

 

 どうして十数年しか生きていない少年が、こんな怪我を負わなければならなかったのか。何があったのか。この少年は、どんな思いだったのか。

 ──ヒーローに救われなかった子どもたちは、誰に救われればいいの?

 

「……ああ、やはり君は、やさしい子だね」

 

 AFO(オールフォーワン)の目が柔らかく弧を描く。その眼差しが見守る中、少女は少年の継ぎ接ぎの肌に触れ、【自己再生】のエネルギーを流し込んだ。発動者の健康状態を基点とし、その状態に至るまでの障害──病気や怪我を緻密な細胞操作で治す。そのはずだった。

 

「……っ!?」

「おっと、……大丈夫かい?」

「……うそ、な、なんで……」

 

 治癒の最中、がくっと少女の身体から力が抜け、膝から床に崩れ落ちる。それを抱き留めたAFO(オールフォーワン)はふむ、と小さく思案を呟いた。

 

「恐らく、あまりにおねむり君の傷が深すぎるから、君の【自己再生】のエネルギーが足りなくなったんだろうね」

「そんな……! わ、わたしもっとやれます、がんばります、だからもう一回……っ」

「駄目だよ、落ち着いて」

 

 身を捩る少女を留めて、AFO(オールフォーワン)はおねむり君の容態を確認する。ほぼ以前のままではあるが、少女が繋いでいた左手だけ、継ぎ接ぎではない元の肌に戻っていた。その事実を少女に告げ、肩に手を置きながら語りかける。

 

「君の治癒は少しずつではあるけれど、ちゃんと効いている。これから暫くの間、ゆっくり少しずつ、かけてあげなさい」

 

 ──ヒーローに救われなかったこの子を、君が救ってあげるんだよ。

 

「……はい」

「うん、いい返事だ」

 

 あたたかな言葉を注がれて、認めるように頭を撫でられて、少女の迷いはより一層削ぎ落とされていく。元より選択肢など、少女に与えられているわけもなく。彼女はその日から夜の巡回に加え、“おねむり君”の治癒を続けた。他の子どもたちの目に触れないよう、そうっと部屋に訪れては手を繋ぐ。彼の存在を繋ぎ止めんとするように、優しく、強く、握り締めた。

 壊死した組織を再生させた経験が無かったからか、治癒は遅々として進まなかったが、少女は1日も欠かさず彼の元へ通い続けた。ようやっと継ぎ接ぎの肌が全て元通りになっても彼は“おねむり君”のままで、外皮だけでなく内臓へも深刻なダメージが残っていることをAFO(オールフォーワン)から教わると、少女はそうした知識も身に付けなければならないとがむしゃらに学んだ。日中は部屋に籠って与えられる教材をひたすらに解き、唱え、覚え、夜は霞む眼を擦りながら治癒して回る。

 そんな生活が1年、2年、と続いて。陽光に晒されない肌は蒼白になり、慢性的な寝不足は濃い隈を作った。疲れか、使命感か、罪悪感か。表情は翳りを帯びたが──瞳の青だけは昔のままだった。彼女が忘れた、青空と同じ色だった。

 

「……こんばんわ、おねむり君」

 

 今日はいい天気だったみたいだよ。夏が終わって少し寒くなったね。過ごしやすくていいね──患者に取り留めもないことを話し掛けるのは大事らしいと学んだから、少女も倣うように口にした。柔らかに言葉を、エネルギーを注いで、ふうと息をつく。

 

「……わたしと同じ、白いかみ……」

 

 手触りは自分より固くてちくちくしているけれど、と微笑みながら、少女はそうっと少年の髪を撫でてみた。

 どんな目の色をしているのだろう、と。そんなことを夢想した。いつか目を開けてくれたらなと、柔らかい祈りを捧げた。

 

「いつか、あなたに──……」

 

 言葉の続きは飲み込んで、少女は顔を上げて周囲を見渡した。ベッド傍の壁には折り紙で作った花や千羽鶴が飾られている。【おねむりくんはやくよくなってね】という幼い文字で書かれた手紙も、眠っている少年を見守っている。

 

「……だいじょうぶ。あなたのことを、みんなが心ぱいしてるよ。あなたが目ざめるのを、みんながまってるから、……」

 

 そうっと手を繋いで、語りかけて。何度も何度も繰り返して、静かに日々を繋いで。

 そうしてその日(・・・)はやって来た。

 

 

───

 

 

 いつものように少女はおねむり君の部屋を訪れ、いつものように話し掛け、いつものように手を繋ぎ治癒をする。秋が深まり夜風もしんと冷えきった、そんな夜のことだった。

 

「……、」

「……っ!」

 

 ぴく、と指先に僅かな力が籠り、固く閉じられた目蓋が微かに震える。凍りついたように止まっていた少年の時が動き始めたのを、少女は悟った。

 

(にげなきゃ、)

 

 わたしはこの場にいてはいけない。

 わたしはこの人の目に映ってはいけない。

 会わないよう、離れなければ、

 

 そう、わかっていたはずなのに。少女は浅い呼吸を繰り返すばかりで、その足は縫い留められたかのように動かせずにいた。見開かれた青い目が、少年の目覚めに吸い寄せられる。

 

「……あ、ぁあ、わ、たし……」

 

 ──彼の目の色を知りたかった。

 そんな少女のささやかな願いは本当だったけれど、それだけではなかった。本当は、本当は、……本当は──

 

「……わたし……、」

 

 少年が小さく身動ぎ、眉間に皺を寄せる。そうしてその重い目蓋が抉じ開けられていくのを、涙とともに見守った。

 

 ──わたしはずっと、あなたの目に映りたかった。

 

「……ここ、は……?」

 

 初めて聞いた少年の声は掠れていたけれど、それでもきちんと意思を以て紡がれた。彼の意識が身体に、今この時に戻ってきたのだと、歓喜が少女の心をかき混ぜて、いつかの日に置き去りにした願いを浮き彫りにする。

 

『いつか、あなたに──……』

 

 ただの一言でいい。

 ──“おはよう”と、笑いたかった。

 

 

「……おはよう、……おはよう、おねむり君……」

 

 

 少女の青空を閉じ込めた瞳と、少年の夏の日の海のような瞳が錯綜する。この出会いは決して祝福されるものではない。互いが互いにもたらしたものは、幸福ではなかったのかもしれない。

 それでもこの瞬間が、2人の記憶に深く刻まれたことは確かだった。

 真っ暗闇に閉じ込められた部屋の中で、“おはよう”と瞳を交わす。これは2人にとっては確かに、始まりの朝だったのだ。

 

 

 

if√ 01.始まりの朝

 

 

────

 

 

 ただただ作者が書いてみたかっただけです(懺悔)。

 ヒーロー及びヴィランたちのまともな救済は望めません。どう頑張ってもメリーバッドエンドの予定です。

 またのんびりと更新していきたいと思っています。



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名無しの迷子たち

▽注意書

・これは弊hrakss【依存】から始まるヒーローアカデミアのif√です。

・公安ビルから飛び降りたオリ主愛依がホークスに救われる前に黒霧に浚われAFOの元で育って“おねむり君”と出会う話。

・ほぼ三人称視点。

・倫理観に乏しい描写や残酷な表現、原作生存キャラの死亡があるかもしれません。

・どう頑張ってもメリーバッドエンドです。

 

───

 

 酷い火傷を負っていた。皮膚はもちろん内臓まで深刻な怪我を刻み、疲れ果てたその目蓋は固く閉じられていた。ひきつった肌。ツンツンと跳ねた髪。白い睫毛はまるで凍りついたように動かなくて──

 そんな“おねむり君”をずっと、それこそ何年も見続けていたから、少女は目の前の光景がやけに眩しく感じられた。だって彼が、目覚めた。その目の色が美しい青をしていることを、今この瞬間初めて知ることができたのだ。

 

「……よかった。よかった、本当に……」

 

 安堵でふやけた頬が笑みのかたちになる。張り詰め続けていた心がほどけていく。まるで全てがうまくいったと、全てが救われた(・・・・・・・)のだと、そんな風に少女は思った。

 ──そんな風に、勘違いした。

 

「……ねえ、」

「えっ……」

 

 力強く手首を掴まれて、少女はその青い目を見張った。折れそうに細い手首に赤い痕が刻まれる。けれど今はそんなことどうでもいいぐらい、彼女はおねむり君から視線が外せなかった。

 ぶるぶると震える手。その先を辿ると、愕然と瞳孔を開く彼の顔が見えた。

 

「ここは、どこ。……俺は、どうして、何が、」

 

 ──何が、起きたんだ?

 少年は、少女より随分年上であるようなのに、ひどく脆い声色でそう言った。

 

 

 

 

 

 ここはどこなのか。何が起きたんだ。

 矢継ぎ早に尋ねられて答えに窮した少女は、とにかくと与えられたカンテラを手に職員の部屋を目指した。深い夜の底を泳ぐように、冷えきった廊下を進む。

 

「……2年半も、眠っていた?」

「は、い」

「……なんで、……俺は、俺はあの日、瀬古杜岳で、燃えて……」

「……、」

 

 虚ろに俯きながら呟く少年に掛ける言葉を、少女は知らなかった。けれど自分ではなくても、いつも自分を教え導いてくれた先生たちならば、きっとおねむり君の望む答えを返せる。幼い少女はそう信じていた。──信じていた。

 

「ダメなのさン」

「え……?」

「どうして!?」

 

 サンサン晴明という男性職員は、深夜だというのに疲れた顔ひとつ見せずに2人をにこやかに出迎えた。そうしてそのにこやかな(・・・・・)笑顔のまま、「家に帰りたい」と訴えるおねむり君に“ダメだ”と言い放つ。

 

「君はこれからここでみんなと暮らすのさン! ここで新しい家族になるのさン、きっとすぐに気に入るさン!」

 

 少女にとっては、それは優しい言葉のように思えた。他の道なんて必要ないよと、ここを家にしていいんだよと、行き着く場所を失った子どもたちにとってはまさしく太陽のような言葉。

 けれど、少女の表情は晴れない。

 隣に佇む彼の目がずっと暗いからだ。光が降り注げば降り注ぐほど、濃く地に落ちる影のように。

 

「は……そんな待ってよ。帰らなきゃ!」

「お父さんは、」

「仕事が入って来られなくなっただけかもしれない」

 

 いびつな呼吸と共に、掠れた声がざらざらと溢れる。彼は震える唇を持ち上げて、笑った。

 

「きっと……! 心配してる……!! ひどいことをしたし……言ったし……お母さんたちに謝って、」

 

 そんなおねむり君の顔を見上げながら、少女は胸元を握り締めた。細める目に憧憬が滲む。

 

「──お父さんにまた、見てもらわなきゃ」

 

 ──ああ、おねむり君は、

 まだ(・・)帰る家と、“ただいま”と言える家族がいるんだ。

 胸にぽっかり空いたような心地を、なんと名付けるべきだろうか。喜びがないではないし、安堵がないわけではない。それでも何より大きいのは寂しさだろう。劣等感や嫉妬心もあったかもしれない。その全てをひっくるめて、少女は固唾と共に飲み込んだ。

 

「……わ……わたし、は、この2年と少し、1日もかかさず治癒をかけつづけてきました」

 

 ぐるん、とサンサン晴明とおねむり君の視線がこちらを向く。片や変わらぬ笑みを、片や焦燥に千切れそうな眼差しを一心に受け、少女は緊張にぬかるむ両手を握り締めた。

 

「もう、だいぶ、体はもとどおりになったはず、です。だからおねむり君は、もとのおうちに帰ったって──」

 

《──残念だが、》

 

 懸命に言葉を紡ぎ、たどたどしくも訴えようとした少女を遮って、その声は室内に響き渡った。

 

《それはもう……叶わないだろう》

「……オールフォーワン、先生……?」

 

 さも残念そうな、沈鬱な響きに、少女は“どうして”と小さく呟いた。それに答えるかのように、暗いモニター越しに声は続く。

 

《焼け落ちた身体の修復は、彼女の【治癒】を以てしても困難を極めた。それだけ君の【蒼炎】は強力で、君の身体を焼き尽くす。

 たとえどれほど時間を掛けて治しても、【蒼炎】をひとたび使えば、一瞬で各器官は損傷……痛覚なども鈍化する》

 

 ──君は、その身体では、ヒーローにはなれない。

 ──失敗だ。

 

 その言葉が夜のしじまに落ちた。小さく息を飲む音は引きつれていた。少年は青い目を見開いたまま顔を覆い、背を丸めて俯く。少女はそんな彼に、ただ背に手を添えて撫でることしかできないでいた。

 

「……お、おねむり、君……」

 

 少女は何も知らなかった。何もわからなかった。

 彼が望む言葉も。何を言えばよかったのかも。何も。

 

《辛いね、可哀想に……。

 ──でも、僕なら君の“個性”の弱点を克服できるかもしれない!》

 

 何もわからず、何も話せず、黙り込んでいた。

 そんな少女の手のひらに、じわりと()が伝わる。

 

「!? おねむ……、」

 

《どうだい?

 僕たちと家族(・・)になって、教育を受けてみないか?》

 

 何を言えば、よかったのか。

 異変に気づいた時にはもう遅かったのか。それとも、

 

「……うるさい……」

《ん?》

 

 自分が正解(・・)を口にできていれば、何か変わっていたのか。

 少女はずっと、この瞬間を忘れることができなかった。

 

 

「──俺は、他の人間から教えを乞う気はない」

 

 

 その途端、目の前の少年の身体が蒼く光った(・・・・・)。思わず閉じた目蓋越しに、息苦しいほどの熱が広がる。

 

「ッ、おねむり君!?」

 

 少女が慌てて目を開くと、そこは蒼い火の海だった。は、と漏れる呼吸さえ奪い、炎は全てを嘗め尽くす。立て掛けていた写真立ても、数多のファイルも、窓を覆っていたカーテンも、瞬く間に瓦礫と化した。

 この一瞬で、一体何が起きたのか。あまりのことに呆然と見開かれた目に、部屋を飛び出して行くおねむり君の背中が映る。

 

「おねむり君!! 待っ……!」

 

 危ないよ、待って、お願い、どこへ行くの、

 そんな言葉は届かなかった。万が一届いたとしても、少女の拙い言葉では少年の疾走を止められはしなかっただろう。彼は燃える床板にも構わず裸足で駆け抜けた。どんなに身体が傷付こうと、無心で。……だってそれよりずっと、心の方が痛いのだから。

 

「……ッどう、しよう、どうした、ら、 わ、わたし、」

 

 少女の蟀谷に伝う汗が、吹き荒れる熱風によって散らされる。浅い呼吸で喉が焼ける。穏やかで、静かで、寂しかった少女の夜は、ほんの一瞬で炎に呑まれた。走り去るおねむり君、呆気なく熔けて崩れる家、迫りくる蒼く輝く炎──いつの間にか当たり前になっていた少女の日常が、呆気なく死んでいく。

 

《ねぇ、君》

 

 どうしよう、どうしたらいい、どうすれば、

 パニックになりつつある少女の鼓膜を、ひとつの声が揺るがす。

 

《また彼ら(・・)を、救けてくれるかい?》

 

 かひゅ、と、少女の細い喉が小さく鳴く。身体は未だ戸惑い硬直していたが、その脳はひとつの思考に満たされた。こんな時でさえ甘やかなバリトンボイスが、少女の心を突き動かすのだ。

 

 

 ──救けて、くれるかい?

 

 

「……ッ」

 

 少女は踞るサンサン晴明の肩を支え、治癒のエネルギーを注ぎ込みながらその身体を立たせた。そうして更に部屋の外へ向かって駆け出す。細い手足を炎が嘗めるように焦がすが、火傷の痛みに顔をしかめながらも少女は止まらない。【自己再生】で無理やり治した足で廊下に出る。

 火災報知器が作動したのだろう、けたたましい非常ベルの音が鳴り響く。廊下はそれに跳び起きた子どもたちで溢れていた。ある少年は脇目も振らず逃げ出し、ある少女は炎の壁の前に立ち竦み──慌て取り乱す子どもたちを見、白の少女は眦を決した。廊下に飾られていた花瓶を倒し、その水で僅かに炎が弱まった時を突いて少女の腕を引く。

 

「え、……だ、だれ、」

「いいから早くにげて……!」

 

 そのまま火の手が弱い方へ押しやり、少女は更に部屋に踏み入る。そこには幼い女児がぽかん、と、何が起きたか理解しきれない顔で立ち尽くしていた。

 

「だ、いじょうぶ? ここはあぶないからいっしょに、……!」

 

 膝を屈め、手を差し出したその時だった。隣の部屋から伝ってきた炎が本棚に燃え移る。上段の棚が崩れ、女児の頭上に雪崩れ込んでくるのが見えて──少女は咄嗟にその身体を抱き締めた。女児を腕の中に庇い、丸めた背中で炙られた瓦礫を受け止めようと、そう覚悟していたが。

 

「……え、」

 

 覚悟していた衝撃も痛みもやって来ず、少女は瞬きを繰り返す。そうしてその青い目が頭上を振り仰ぎ、大きく見開かれた。

 

「……羽根……が、」

 

 自身の背中に生えた白い羽根が数枚宙を飛び、本棚の残骸を受け止めていた。ビリビリと震える羽根は、落下の軌道をずらし、そのまま燃え移った炎によって灰と化す。ざらり、と床に落ち、熱風に拐われていく。その様を見つめて少女は息を飲んだ。

 

「……っ」

 

 ──あの人の羽根だ。あの人の羽根が、救けてくれた。

 

 いつかの雪の夜を思い出し、少女は込み上げてくる涙を奥歯を噛み締めることで堪えた。彼の、自分を抱えてくれた腕のあたたかさを、与えてくれた言葉の優しさを、思い出してはいけないのだ。

 

「……ごめんなさい、ごめんな、さい、ごめんなさい……」

 

 だって少女は、自分の命や心を救ってくれた恩人であるあの少年の、強くて優しい赤い翼を奪ってしまった。少女はそう思い込んでいて──事実を知る術はない。

 だから少女は、いつかの思い出の優しさに浸りたくなった自分を恥じた。縋りたくなった手を引っ込めて、強く握り締めた。柔い手のひらに爪が食い込む。この程度の痛みで自分の狡さが許されるわけがないとわかってはいても、止められなかった。

 

「今だけ。……今だけあなたの力を、使わせて……」

 

 奪った“個性”を我が物顔で使うなんて、と少女は自分で自分を苛めた。AFO(オールフォーワン)先生に頼まれた【自己再生】や【譲渡】ならまだしも、特に言及されていない【翼】を使うなんて、なんて狡い奴だと自己嫌悪で顔が歪む。

 それでも“みんなを救ける”ためには、この両手足だけでは足りない。それは少女にもわかっていた。だから彼女は祈るように目を閉じて背中の【翼】に意識を集中させる。飛び立つ羽根が立ち竦む女児を、逃げ遅れて立ち止まっている足音を捉えて、外へと運んでいく。

 それを何度か繰り返しながら、自身も廊下に出て逃げ遅れがいないか確認していき、暫く。炎にまかれる家の中に誰の気配も感じ取れなくなった頃、少女は窓から身を踊らせた。窓辺に植えられた木にしがみつこうとして、手を滑らせて落下するも、植え込みに飛び込むことで何とか脱出に成功した。火傷や落下の痛みに声にならない声で呻きながらも、【自己再生】で治していく。

 

「~~ッ、げほ、っ、ごほ、……っ」

 

 咳き込みながら身体を起こした少女は、ゆらりと疲労した顔を上げて燃え盛る施設を見やった。……もう施設内に人はいない。取り残された人はおらず、全員が外へ避難できた。AFO(オールフォーワン)先生の言いつけ通り“救けることができた”のだ。

 少女は安堵にほころぶ口許を、けれどきつく結んだ。浅い呼吸で、脳裏に浮かぶ彼を呼ぶ。

 

「──おねむり、君……」

 

 職員によって宥められている子どもたちの中に、あの白い髪はどこにも見当たらない。……きっとここを出て彼の言う“家”に帰ったのだろうと予想できたが、まだ心には不安の雲が垂れ込めていた。

 火傷はしなかっただろうか。怪我をして困ってはいないだろうか。病み上がりの身体を酷使して、倒れてはいないだろうか。

 あの“個性”でヒーローは難しいと先生は言っていた。──家に帰ったところで、ヒーローである彼の父は、あたたかく彼を迎え入れてくれるだろうか?

 

「……、……わたし、は……」

 

 どうしよう、どうしたらいい、どうすれば、

 不安と焦燥に迷う彼女は逡巡の中に立ち尽くしていた。自分で自分を肯定できない少女の足場は非常に脆い。どうすればいいのか、何を選べばいいのかわからない。取るに足らない自分など、間違った選択をすればたちまち奈落の底に落ちていきそうな心地だった。──いつかビルから飛び降りた時のように、落ちて、落ちて、落ちて。そうして終わってしまうような恐怖が、小さな少女の心にこびりついている。

 だから。

 

 

 ──救けて、くれるかい?

 

 

「……はい」

 

 だから少女は、そう答えた。そうしてゆらりと立ち上がる。青い目で燃え盛る家とざわめく子どもたちや職員たちを少しだけ見つめた。目蓋の裏に、かつての日常を焼き付けてから、目を閉じる。そうして誰にもバレないように、息を潜めてその場を後にした。

 

(おねむり君を、救けなきゃ)

 

 託された使命を果たさなければと、少女の胸はその思いで満たされた。決意は疲れ果てたはずの少女の足に力を込める。ふらつく足を気力で黙らせて、彼女は夜の街へ駆けていく。

 

 

 

 

 

「……よかったのか? AFO(オールフォーワン)よ」

「まぁね。少しお転婆すぎるのは考えものだけれど」

 

 ドクターの問いに肩を竦めながら、AFO(オールフォーワン)は笑う。その目は密かに設置されたカメラ越しに、施設を走り去る白の少女を見つめていた。笑う、──嗤う。喉を低く鳴らして、可笑しげに。

 

「しかし可愛いものじゃあないか! あんなに必死になってまで、僕の言いつけを守ろうとしているんだぜ?」

「ほほ、君にかかればまるで健気な子犬といったところか」

「そうだね。……だから、少しの放し飼いはよしとしよう」

 

 AFO(オールフォーワン)は何事かをスマホに打ち込み、送信する。友達(・・)頼み事(・・・)をするためだ。白い子犬が行き倒れない程度に手助けしてやってほしいと。警察やヒーローの目から庇ってやってほしいと。たまにでいいから見てあげて(・・・・・)ほしいと──。

 

「どうせまた、僕の元に帰ってきてくれるからね」

 

 頬杖をつき、ほくそ笑む。その目は三日月のようにゆるりと、暗い光を帯びて弧を描いた。

 

 

 

 

 

「っあの、白いかみの、男の子、見ませんでしたか……!」

「え……?」

「え、と、……わたしのお兄ちゃんなんです、お父さんとけんかして、家をとび出しちゃって、さがしてて……っ」

「ああそうか、それなら……」

 

 何も持たずに──元より持っているものなど何も無かったが──飛び出した少女に残された手掛かりは、ふたつ。ひとつはおねむり君の容姿。そしてもうひとつは、彼が目覚めた時に言っていた地名。

 

(せことたけって、言ってた……!)

 

 深夜の住宅街では人通りは少ない。だから少女は息を切らして走りながら、出会う僅かな人から人へと尋ねて回った。何故か偶然(・・・・・)“せことたけ”──瀬古杜岳を知る親切な男性に地図を貰った少女は、お礼を言ってより速く駆け出した。速く、早く、救けなきゃと、そればかりを思って。

 

「ねえ……でもあなた、その格好はどうしたの」

 

 そうして幾つも走り、歩き、度重なる歩みに裸足をぼろぼろにしながら。それでも瀬古杜岳を目指して進み続けた少女であったが、時に道を尋ねた通行人に眉を下げられることもあった。五十路に差し掛かろうほどのその婦人は、少女の怪我や汚れの目立つ服装を見過ごせなかったのだろう、気遣わしげに声を和らげる。

 

「ちょっと待ってね、今ヒーローを……」

「っ……!」

「あ、え!?」

「待って、どうしたの!?」

 

 “ヒーロー”。少女はその単語に息を飲み、弾かれるようにその場を逃げ出した。華奢な背中に掛かる狼狽の声。……きっと婦人たちはただ真っ当に幼い少女を心配してくれているのだろう。それは少女にもわかったけれど、足を止めることはできなかった。

 

 ヒーローに救われず、家族がいなくなった男の子がいた。

 ヒーローの親に罵倒され、救われなかった女の子がいた。

 しんと静まり返った夜の中、何かから逃れるべく手足を縮め、身体を丸めて眠る子どもたち。その目元には涙の痕が幾つもあった。4年もの間少女はそれを何度も拭い、けれど同時に拭えぬ疑問を心に刻んできたのだ。

 

 ──ヒーローはどうして、あの子たちを救ってくれないのだろう。

 ──ヒーローに救われなかった子どもたちは、誰に救われればいいの?

 

「……っ、わ、たし、が……っ」

 

 “ヒーローはきっと、救ってくれないから。”

 少女のこの思いは一方的かつ傲慢な決めつけである。今この時も、もしもヒーローが彼女を無理矢理にでも救おうと手を差しのべたのなら、きっと違う未来が開けていたのだろう。違う世界に、歩んでいけたのだろう。

 

 けれどもう、その“もしも”はない。

 

「……っ、……ぁ……!」

 

 “自分が理由もなく生きてていいんだ”という、人によっては当たり前の肯定を、少女はこの4年間で入念に磨り潰されてきた。“彼らを救う”という使命感は少女の脆い心を支えたが、それは同時に“それ以外の道”を絶っていた。

 

 

 もしも、ヒーローに出会えていたら。

 もしも、ヒーローでなくとも、誰かが少女の足を止めていたら。

 もしも、あの夜、赤い翼が届いていたら──。

 

 けれどもう、そんな“もしも”は掻き消えて。

 そうして白の少女と少年は、再び出会った。

 

 

「……見つ、けた……」

 

 静岡県某所に聳え立つ瀬古杜岳は、2年と少し前に大規模な山火事に見舞われたのだという。当時はあまりに強い炎の勢いに草が、幹が、枝が、葉が、呑まれるように燃えてしまったのだと報道されていた──いつか新聞で読んだ記事を思い返しながら、少女は白い息を吐いた。小川を遡るように歩く足元には丈の短い草が覆っている。新たな緑が芽生えているが、……しかしまだ塞がり切らない傷痕のように、所々焼け焦げた木が立ち並んでいて。

 

「……おねむり、君」

 

 少女が特に火の傷痕が深い場所を辿って行くと、そこに彼がいた。黒く煤けた木の根本に、足と手を投げ出して座っていた“おねむり君”。彼は虚ろな青い目で、ぼうっと自身の爪先を見つめている。その足裏の皮膚はずたずたに傷つき、赤く腫れていた。

 

「……あの、……」

 

 少女は再度呼び掛けて、彼の目の前に膝をついた。おずおずと伸ばされた小さな手は、しかし少年の足に届くことなく叩かれる。

 

「……何だよ、おまえ。触るな」

「っ……で、も、ケガが……いたそう、だよ」

 

 冷えきった眼差しと声に射られて、少女は声を震わせた。泣きそうな目でくしゃりと顔を歪ませる。

 何故なら少女にはわかった。わかってしまった。

 ……少年の手が、眼差しより声よりもっと、氷のように冷えきっていることに。

 

「おねがい、だから……なおさせて……」

 

 緊張と悲しみと、あと何か。さまざまな感情を綯交ぜにしながら、少女はもう一度手を伸ばした。震える指先が少年の爪先に触れる。傷痕に触れる──塞ぐように、労るように。そうして青い目を閉じ、少女は心の中で呪文を唱えた。

 

 ──いたいのいたいの、とんでいけ。

 

「……、」

 

 ふわり、あたたかなエネルギーが注がれて、少年の細胞が歓喜する。瞬く間に傷痕が塞がっていく様を感じ取り、おねむり君は僅かに目をすがめた。治癒を終え、顔を上げた少女を見据える。

 

「……おまえ、何なわけ」

「なにっ、て……?」

「何のために俺に着いてきたの」

 

 つっけんどんな口調で問われて、少女はゆっくりと瞬きをした。それは、その、と口ごもる彼女に、少年は無言で圧を掛ける。そんな苛立ちの気配に急かされるようにして、少女は答えた。

 

「……おねむり君が、いたいかなって、」

「あそ。じゃあもう帰れば。痛いのはおまえのお蔭で治ったからさ」

「えっ、……で、でも、」

「何。……あァお礼がほしかった? ごめんごめん、」

 

 そうして彼はわらった。へら、と片頬を吊り上げて。

 

「ありがとね、助かったよ」

 

 

 “ありがとね、”

 その言葉を耳にした途端、少女の脳裏にいつかの夜が甦った。保護されたビルの片隅。閉じ籠ったひとりぼっちの部屋。固く閉ざした扉越しに、いつも少女の元に来てくれた赤い翼の男の子。

 

『本当に、大丈夫だよ。……ありがとね』

 

 少女は今も、覚えている。

 

『……そうして心配してくれて、俺は、嬉しいから』

 

 少年の言葉を、声の響きを、その温度を、

 胸の奥底から溢れるぐらいの、歓喜の()を。

 

(……、ああ、そっか……)

 

 少女は今も、覚えているから。

 2人の少年がそれぞれに口にした“ありがとね”の違いも、はっきりとわかった。そこに込められた感情も温度も、何もかも違うこと。……何もかも、違うのだと。

 

(この人、は、)

 

 

「……おねむり君は、あなたのおうちに帰れたの?」

「……いや。もう(・・)帰らない」

「……、わたしといっしょに、しせつに、」

「行くわけないだろ。そもそもあそこは俺の家じゃない」

「……これから、どうするの」

「さァ。……とりあえず生きて、もっと炎を強くする」

「強く……?」

 

 少年の端的すぎる説明では、少女は彼の身に何が起きたかわからない。わからないでも、しかし、その感情の一端に触れることはできた。

 

「お父さんに、もう一度……俺を、見てもらうんだ」

 

 “お父さん”と呼ぶその声に、虚空を──()を睨み据えるその目にだけ、青い炎が燃えている。少年のこれまでの思い出、そこから生まれた感情の揺らぎやうねり。それら全てを根こそぎかき集めて薪としたような炎は、息を飲むほどに熱く、同時に冷たい。

 燃え盛るような執着と、冷えきった無関心。

 彼の中にはもう、きっと、“お父さん”しか残っていないのだと、少女は言葉なく理解した。熱くても冷たくても火傷してしまうように、真に彼の心に触れることはできない。明確な隔たりを突きつけられて、少女は胸元を握り締めた。

 

 心に、触れられない。明確な隔たり。

 だってそれは、少女にとって──

 

 

「……わたしも、いっしょに行く」

 

「……は?」

 

 

 予想外の言葉が飛んできて、流石のおねむり君も顔を上げた。“夢見がちの馬鹿な女が英雄気取りのつもりか”と、皮肉のひとつでも飛ばしてやろうと開いた口が、中途半端に固まる。

 

「……馬鹿か? そんなことしたって何にもならない」

「でもおねむり君、炎を使えば使うほどいたい、でしょう? わたしならそれを、なおせるよ」

「恩を売るつもり?」

「おん……?」

「……、……“ありがとう”って、言ってもらいたいわけ?」

 

「……ちがう」

 

 “ありがとう”の言葉に少しだけ目を伏せながらも、少女はまた真っ直ぐにおねむり君を見つめ返した。その青い目に年相応な、幼く甘やかな光はない。

 

「わたしはあなたを、たすけたい」

 

 暗い夜にひとりきりで燃える星のような、輝き。

 

「それがわたしの、生きていていい、いみだから。……それに、」

 

 噛み締めるようにそう口にした少女は、言葉を区切ってふと微笑んだ。嬉しそうな、けれど同じくらい寂しそうな、掠れた笑顔。

 

「どれだけいっしょにいても、きっとあなたは、わたしをすきにならないから」

「……は、?」

 

 心に、触れられない。明確な隔たり。

 だってそれは、少女にとって、この上ない救いだった。

 “彼らを救う”という自分の存在意義と、関われば関わるほど【依存】で彼らの“個性”(未来)を奪う危険性を秤に掛けて、揺らぎ迷ってきた少女にとって、おねむり君の存在はそれだけ大きかったのだ。

 

「……気持ち悪。理解できないんだけど」

「……、うん」

「おまえに何のリターン……いいことなんてないだろ」

「うん、それで、いいの」

 

 擦りきれた心は、それでもまだ生きている。優しい言葉に頬を和らげるし、投げつけられた罵倒に痛みを覚える。しかしそれこそが、少女の唇に笑みを咲かせた。

 

「それが、ほっとするの」

 

 

 

 意味がわからない。理解できない。気味が悪い。

 おねむり君にとって少女はそうとしか形容できなかった。何の利点も無いのに、暴言を吐かれているのに、それでも下手くそに笑って着いて来る。歩幅を合わせようともしない少年に追い付こうと小走りで瀬古杜岳を下り、転んではまたすぐ立ち上がる。泣き喚かれても迷惑だが、瞳が潤む素振りも見せない少女もまた不気味だった。

 

(普通、泣くもんじゃねぇのか)

 

 痛みがあれば怯むものだ。失望されれば顔を歪ませるものだ。感情が昂れば、涙が出るものだろうに。

 少年の知る普通(・・)が一般家庭的なそれとは違うことを差し引いても──幾ら突き放しても懲りずに着いてくる少女はやはり不気味だった。少年が一般人の目を掻い潜り【蒼炎】の訓練をすれば心配そうに見守ったり、火傷をしたら駆け寄って治癒を使ったり、ふと姿を見せないと思ったらどこからか見つけてきたのか、比較的食べられそうな残飯やパンの耳を差し出してきたり。初めは鬱陶しそうに手を払っていた少年だったが、次第に拒否する気も起きなくなった。

 相も変わらず、何故こんなことをするのかわからない少女は理解しがたい。けれど邪魔はしないのならと、彼は少女を“どうでもいい”のカテゴリに入れた。どうでもいい。いてもいなくても変わらない、路傍の石。時に鬱陶しくはあるけれど、蹴飛ばすほどには幅を取らない。だからただ傍にいただけ。

 そうした、“傍にいただけ”の時間を積み重ねて暫く。雪の日を越え、春を見送り、迎えた夏のある夜のことだった。

 

 

 

 

 

「ほらよ」

「……、え」

 

 ぽいっと投げられた菓子パンは、軽い物音を立てて少女の手に渡った。驚きに少女の青い目が見開かれるのを横目で見やって、少年は包装を解く。ほんの、気まぐれだ。たまたま臨時収入(・・・・)が入ったから自分のついでに買っただけ。少年にとってはそんな軽い気持ちだったのだが、少女が浮かべる表情は重苦しかった。

 

「……このお金、どこで、」

「は? どうだっていいだろ」

 

 痩せこけた頬を固くする少女に、少年は苛立ちに目を細める。“個性”の訓練をしていた自分に絡んできたチンピラを正当防衛でのして、ほんの慰謝料を貰っただけ。責められる謂れはないと冷たく言い放つのに対し、少女は何かを言い掛けて、止めて。暫く黙考に目を伏せたと思えば、決意とともに顔を上げた。

 

「……わたし、お金、かせいでくる」

「どうやって」

「だれかのケガを、なおすの」

 

 満足に食べていない身体は細く、手足も枯れ木のよう。それでも少女は背筋を伸ばして歩いていく。ぎゅっと胸元を握り締めた手は微かに震えていた。

 

「おいしゃさんだって、お金をもらってちりょうしてるもの。だからきっと、お金はらってもらえる、はず」

 

 そんなことを宣って、少女は少年の手に菓子パンを握らせた。封は空いていない。それを何とも言えない眼差しで見下ろして、

 

「……ごめんなさい、ありがとう」

「……うるせぇな。好きにすれば?」

 

 小さな声が、うん、と応えて。

 そうして少女は裏路地を進んだ。少年に豪語したは良いものの、どこに行くべきかはわからない。それでも正規の病院に行けるような人たちに治癒を持ち掛けたところで、上手くいくとは思えなかった。正規の手続きで治療が受けられる人は、自分のような怪しい娘に頼まない。

 ならば、と。少女はより深い暗がりに足を向けた。正しくあれる人に自分は必要ない。もっともっと、暗いところにいる人ならばと、人通りの絶えた裏路地に歩みを進める。そうして少女は、とある喧騒を耳にした。

 

「なァ兄さん、人として借りたモンは返さなくちゃ駄目だよなァ」

「すみません! すみま、ぜッ……」

「礼儀ってのは形で示してほしいんだわ」

「てめェの土下座が幾らになるっつーんだよ、なァ?」

「ごォ、げェェ……ッ」

「はは、何言ってんのかわかんねーすよ。ね? もうちょっと頑張って話してくださいってば」

 

 殴打の音。嗤う声。悲鳴。嘔吐したものがアスファルトにぶちまかれ、肉が、ずりずりと引き摺られるような鈍い音。白い羽根がビリビリと震えて、その惨状を少女に届ける。

 

「がひゅッ、ひゅーっ、ひッ、……」

「あらら? 呼吸やべーかも?」

「こんな目に遭う前に、もうちょっとでもまともに働いてりゃあな」

 

 何故、こんなことが起きているのか。閉ざされた環境で生きてきた8歳の少女には何もわからない。ただすぐ傍に凄まじい暴力があり、そんな状況にも関わらず嗤う人たちがいる。どうしてこんなことができるのか。どうして嗤っているのか。未知の恐怖は少女の身を竦ませて、呼吸を浅くし、視界をぼうっと白ませる──

 

「オイオイ兄さん頑張ってくれや、死んじまったら困るんだって!」

 

 ──真っ白になった頭で、少女は声のする方へ駆けた。恐らく酷い怪我をして、蹲っているだろう人の元へ、飛び込んだ。

 

「あ、あの……!」

「あァ?」

 

 突如やって来た乱入者に──それがまだ年端もいかない少女だったこともあり──3人の男たちは胡乱げな目を向けた。内1人が立ち上がり、倒れ伏した男を視界から遮るように、少女の前に立つ。

 

「……こんな夜更けにこんな場所でどうした? ガキは早く帰、」

「っあの! ……わたしがその人のケガ、なおします」

「あ? 何言って……」

「しんだらこまるって、聞こえまし、た。わたしならなおせます、……そしたらわたし、に……お金を、もらえませんか」

 

 早くなおさなきゃ、しんじゃう、わたしなら、お金、わたしは、

 そんな思考が断片的に駆け巡るだけで、ちっとも纏まりきらない。それでも少女は辿々しくも懸命に訴えた。その人が死んだら困るのなら、わたしが治すから、そしたらお金をください──唐突かつ頓珍漢な少女の言に、1人は目をすがめて、1人は首をかしげる。そうして残る1人はアスファルトにうつ伏せになる男の髪から手を放し、少女の前に片膝をついた。

 

「お嬢ちゃん、お金に困ってるの?」

「は、はい。お金、なくて……」

「そうかそうか。お金あげたら癒してくれるんだ?」

「いやし、……はい、できます」

 

 確か治癒のことを癒しともいうんだっけ、と、そんな的はずれの回想を思い浮かべていたから、少女は気づかない。いやににこやかに少女に相対したその男の目に滲む、暗い光に。

 

「そうかぁ、じゃあ頼んじゃおうかな」

「! はいっ」

「素直ないい子だね」

 

 男は、ぱあっと表情を輝かせた少女の頭を撫でた。うん、うん、と優しげに頷き、髪を梳いて──

 

「じゃあこっちへおいで」

「……っえ、」

 

 ──それと同じ手で白い髪を鷲掴み、アスファルトに引き摺り倒す。栄養不足の髪がぶちぶちと悲鳴を上げ、引っ張られるままに打ち付けた左頬が擦りむけて赤くなった。突然の衝撃に泣くこともできない少女をいとも簡単に仰向けにさせ、その細い身体に馬乗りになった男が嗤う。

 

「!? あ、の、あの人は、ッ」

 

 べちっ、と鈍い音が路地裏に響く。頬を叩かれて硬直する少女に、男は笑みを深めた。

 

「あのゴミがなんだって?」

「っ、ひ……!?」

 

 着古した服が木の葉のように破られ、夏のじわりとした夜気に少女の肌が晒される。骨の浮いた白い肌を見下ろし、男は手を伸ばした。

 

「じゃあ早速癒してもらおうかね」

「や、いやっ!? なに……!?」

「あれ、わかってない感じ?」

「いやそりゃそうっしょこんな小さい子。てかそういう趣味なんすかこの人? 前々からサドだなーとは思ってたけど」

「……幼児が泣きわめくのが一番クるんだとよ」

「うーわ、えげつな」

 

 呆れたように目を逸らす男。引きながらも喉を鳴らして嗤う若い男。そして少女に手を伸ばした男は暴れる細い両手を地に縫い付け、その首筋に噛みついた。犬歯が柔肌に食い込み、ぶちりと破り、血を滲ませる。

 

「ゃ、あ……!? い、たいっ、なに……っ!?」

「怖がらんでもいいよー。楽しいことだからさ」

「いや一方的に楽しいだけっしょそれ」

 

 少女の首元から顔を離さない男の言葉に、若い男は苦笑する。しかし彼はその場から離れず少女の傍にしゃがみこんだ。パニックで暴れる少女の髪を宥めるように撫で、にっこり笑いかける。

 

「頑張れー、これ頑張ったらお金もらえるからねー」

「いや、もういや、はなして……っ」

「あそうだお金握らせてあげましょ。気分アガるっしょ」

「おまえもえげつないんだよ」

 

 少女の手に無理やり万札を数枚握らせて、その様に男2人はゲラゲラ嗤う。少女が助けを求めて忙しなく視線を動かしても、うつ伏せに倒れたままの男は動かないし、呆れたように目を逸らした男はこちらに背を向けて紫煙を燻らせていた。その他には誰も、いない。

 呆然と目を見開く少女だったがそれも束の間、乱暴に身体をひっくり返されてうつ伏せにされる。こんな闇夜にも鮮明な白い羽根が、小さく震えた。

 

「綺麗な羽根だなァ」

「い゛……ッ!?」

 

 羽根の流れに沿って梳かしていたその手が、左翼の根本を握って思い切り引き抜く。ぶちち、と鈍い音を掻き消すように少女の悲鳴が響いたが、それも“うるさい”と側頭部を殴られることで途切れた。は、と見開かれる少女の目に、その脳裏に、いつかの記憶がよぎる。

 

『近所迷惑でしょう。大きな声で泣かないで』

 

 申し訳なくて、辛くて、悲しくて、どうしようもないほど心寒くて。けれど“おまえは悪い子だから”と泣き声を上げることも許されなかった日々。かつて母だった人からの言いつけに、少女の舌の根が凍る。酷く寒くて、身体が震える。青い目からほたりと、ただ静かに涙が滴った。

 

「あーあ、痛そ。可哀想だねェ」

「……あんま傷付けない方が値段つくだろ」

「いーんだよ。“片羽根を捥がれた天使”とか、好きそうな奴は幾らでもいる」

 

 “おまえは悪いことしたんだから当然だよね”

 “おまえが悪い子だから、躾をしているだけ”

 

 “お母さん、何か間違ったこと言ってる?”──そう尋ねられて、かつて少女は答えた。“間違ってない”と。

 

(……わたしが、わるい子、だから……)

 

 だから、こんな風に痛いことをされても仕方ないのだろうか。痛くて悲しくて、苦しくて、それをゲラゲラ見下ろされて嗤われて。それを静かに、受け入れなくてはならない?

 

「お、いい顔」

 

 背中の羽根が血でぐじゅりと濡れた頃、肩を蹴られて再び仰向けにされた少女は、疲れきって声もなく泣いていた。ぼうっとした青い目からは幾重にも涙の筋が残り、半開きになった口からはひゅ、とか細い息の音が聞こえる。今度はその呼吸を乱してやろうと、片頬を吊り上げた男は少女の首に両手を掛けた。ゆっくり、じわじわと、気道を押し潰していく。

 

「もっと泣いて、いいからなァ」

「ひぐ、ゥ、」

 

 酸素が薄れ、命の火が弱まっていく。本能的な恐怖と“黙って受け入れなくてはならない”とする強迫観念に板挟みにされた少女は、ただ僅かに指に力を込めるに留まった。くしゃりと、握らされた紙幣が薄っぺらく泣く。

 

 ──ここで、終わるのかな。

 終わってしまった方が、いいのかな。

 

 少女がそんな思いを霞む意識の中に浮かべた、その時。

 

 

 

「──ほんとクソ共は、どこまでもクソだな」

 

 

 刹那、暗い視界が鮮烈な()に染められる。少女が目を丸くする中、馬乗りになっていた男が横薙ぎの()に吹き飛ばされた。アスファルトを達磨のように転がった彼は、完全燃焼の蒼い炎(・・・)に呑まれる。

 

「ぅぐぁあああッ!!?」

「ひぎ、ぎゃああ!!」

「あーあーうるせェな。ちょっと炙られただけで泣き喚くなよ」

 

 ぺたり、と裸足の音がして、少女はゆらりと身体を起こす。かひゅ、げほっ、といびつな呼吸を繰り返すのを聞きながら、おねむり君は足を進めた。火達磨になって転がる男たちを踏みつけ、首を傾げる。

 

「しっかりしろよ、大人だろ?」

 

 ごうッ、と立ち上る火柱の中に、身を捩らせる黒い影が浮き上がる。救いを求めるように伸ばされた手。その手の影がじゅうと熔けていくのが見えて、少女は息も整わぬまま走った。覚束ない足取りで転びながらもまた走り、何とかおねむり君の足にすがりつき、ぶんぶんと首を横に振る。

 

「……おまえさ、本当に何なわけ」

 

 そんな少女を見下ろして、深くついた溜め息が空気を揺らす。人が焼け焦げる臭いが漂う中、少年はつと目を細めた。不理解、侮蔑、……あと何か。そうした感情が色濃く滲む。

 

「おまえ、今さっき、こいつらに全部全部取られるとこだったんだぞ? 人としての尊厳とか人権とか、奪われ尽くしてモノとして売られるとこだったんだけど」

「……っわか、わかって、る、」

「わかってないだろ」

 

 少年が“個性”を収めると、ごどんと男たちの身体がアスファルトに落ちた。その肌は重度の熱傷に侵され痛々しく水脹れが浮き上がっており、場所によってはより深く、炭のように黒く変色している。Ⅱ度、あるいはⅢ度と見られる火傷は、早く処置しなければ身体に深刻な後遺症を残すだろう。少女は自身の冷静な部分でそう診断し、同時に浅く息を吐いた。

 ……嫌だった。怖かった。痛かった。悲鳴を上げてもうるさいと殴られて、もっと痛みを与えようと伸ばしてくる大きな手が目蓋の裏に焼き付いている。じくじくと身体を苛む痛みとは別に、心まで軋んでいるような。

 

「おまえ、こいつらに生きててほしいわけ?」

 

 少女は、頷けなかった。けれど首を横に振ることもできなかった。

 嵐の海のようにうねる心の波に呑まれ、言葉も、呼吸すら奪われて。ただ黙り込む少女はあることに気づいた。重い目蓋を閉じ、抉じ開ける。ぱちりと瞬いた青い目に、ふるりと涙が揺らいだ。

 

「……っ」

 

 ただ、気づいた。【蒼炎】を繰り出した少年の手足から立ち上る煙に。その焦げ臭い臭いに、……べろりと剥けた皮の向こうに覗く、生々しい赤色に。

 だから少女は、手を伸ばした。震える幼い指先が少年に触れる。それは何故か、酷く熱くて冷たくて。少女は痛みを堪えるように唇を結んで【自己再生】のエネルギーを注ぎ込んだ。

 

「……ハ、ほんっとおまえ、気持ち悪」

 

 自身の皮膚が再生され、瞬く間に塞がっていくのを見下ろして、少年は吐き捨てるように言った。それに少女は目を伏せる。……悪口に痛む心もあるだろうに、ただ当然のように──或いは安堵したように──受け入れる少女はやはり彼にとって“気持ち悪い”ものだったが、同時に“どうでもいい”ものだったから。

 

「まァいいや。殺さないでやるよ、どうでもいいしな」

 

 何故かささくれだった心を殺して、少年は少女の緩んだ手を振り払う。そして、半ば炭と化した男の1人に近づき、その傍にしゃがみこんだ。

 

「なァおっさん、金持ってる?」

「ひッ、ぃ゛……!?」

「ちゃーんと治療費払ってくれんなら、こいつが火傷治してくれるんだって」

 

 少年が一瞥すると、少女ははっとその意を汲んで【自己再生】を発動させた。むしられた羽根が、裂かれた背中が、ぶたれた頬が元通りに再生されていくのを見て、男たちが驚愕に呻く。まさか本当にこんな少女が稀少な治癒の“個性”を持っているとは思わなかったのだろう。彼らは瞠目し、それから痛みから逃れるべく焼け熔けた指を必死に動かし始めた。這いずりながら、先ほど少女に握らせた紙幣をかき集め、少年の足元に差し出す。

 

「……ハァ、あのさァ、わかってる?」

 

 その僅かばかりの万札をつまみ上げ、少年は嘲笑った。もはや虫の息である男たちの額にぺちぺちと紙幣を打ち付け、わざとらしく声を作る。

 

「命は掛け替えないものだよなァ? それを救うってんだから、それ相応の誠意を見せるべきだって俺は思うんだよ」

「は、ひ゛……ッ」

「違うか?」

「ちがッ、いま゛せん!!」

 

 男は震える手で懐を探り、そこから財布を取り出し差し出した。へェ、と小さく呟いた少年が中身を改め、頷く。

 

「まァこんなもんか。治していいぞ」

「……う、ん」

 

 少女は促されるまま、土下座する男たちの頭部に触れた。膨大すぎる熱に炙られ、身体の芯まで焼かれた肌が、次第に元の色を取り戻す。じゅくじゅく膿んだ水脹れまでもが平べったくなる頃、少女はおねむり君によってその腕を掴まれた。黙って腕を引かれるまま、その場を後にする。少女が後ろ髪を引かれて振り返ると、そこには気を失った男たちが3人、ぐったりと路地の奥に横たわっていた。

 

「こんなもんでいいだろ。下手に全快させて後をつけられても面倒だ」

「……う、ん」

 

 ほんの少し、納得しきれない声色を滲ませつつも、少女は頷いた。残してきた男たちはこれからどうなるのか、初めに暴行を受けていた男性はちゃんと逃げられたのか。気にならないと言えば嘘になるが、少年の言葉に反論することもできない。苦しげに眉を寄せる少女を知ってか知らずか、少年はふと思いついたように話題を変えた。

 

「怪我人を治す……確かにこれ、金になりそうだな」

「……お金に、なる?」

「あァ。役に立つよ、おまえ」

 

 ハ、と放った笑みが心からの笑みではなかったにしろ、少女は僅かにその表情を緩めた。暗く落ち込んだ青の目に淡く光が灯ったが、しかしそれも束の間。

 

「けどこんなやり方じゃいつかまた痛い目に遭う。ちゃんと名を出して、然るべきとこに話を通して、依頼を募るようにしなきゃな」

「……名まえ……」

 

 ぼうっと、遠い何かを思い出したように呟き、少女は足を止めた。“さっさと歩けよ”と文句のひとつでも言おうと振り返ったが、少年は口をつぐむ。

 少女の伽藍堂の目が、自分ではない別の誰かを見ている。

 それに何故か酷く腹が立ち、少年は少女の腕を掴んだままの手に力を込めた。無意識に熱を放っていたのか、じわりと滲むような痛みに少女はやっと顔を上げる。そうして彼は口を開いた。

 

「荼毘」

「……?」

「いつまでも“おねむり君”じゃうざってェからな。今後は荼毘で通すことにした」

 

 荼毘。遺体を火葬にして弔うこと。その意味を、その名を名乗るに至った少年の経緯を、想いの全てを、少女は知るよしもない。

 

「おまえの名前は?」

 

 そうして少女の名前も、少年は知るよしもない。

 

「……わたし、名まえ、ない」

「あ? ンなわけないだろ」

「わたしは名まえ、ないほうがいいって……」

 

 名前とは記号。その人がその人であると認識するために呼ぶもの。少女が持つ“個性”の発動条件を探るため、かつて保護された公安ではさまざまな“個性”調査が行われていた。少女に自分自身の名前を名乗らせない、他の誰の名前も知らせない、というのもその一環だ。“個性”発動のトリガーが名前による認識が必要かどうか探るため、少女は名前から遠ざけられたのだ。それからもう、何年も、彼女は自分の名前を耳にしていない。

 

『……ッ愛依(あい)!!』

 

 いつかそんな風に、あの人に呼ばれたような気もしたけれど、きっと空耳だったのだ。少女は朧気な願望を振り払い、そっと息をついた。

 

「わたしの、“こせい”はね。……【いぞん】っていうんだって、オールフォーワン先生に教わったの」

 

 自分と心を通わせた相手の“個性”を奪い、我が物とする。自分の【自己再生】も【譲渡】も【翼】も、全てだいすきな人たちから奪ってしまったものなのだと、そう少女は訥々と口にした。悔恨と罪悪感が彼女の声を暗くする。

 

「わたし、空っぽだから、……名まえもないほうが、いいの」

 

 ほの暗く呟いて、口許に諦めたような笑みを乗せる。そんな少女を見下ろして荼毘はふーんと目を細めた。

 荼毘は少女の名前を知らない。名前を押し隠すに至った経緯も、その時の慟哭も、想いの全てを、彼は知るよしもない。特に関心もないから知らなくてもよかった。

 “どうでもいい”から、言ったのだ。

 

「別に、おまえに名前があったっていいだろ」

 

「……え」

 

 驚いて呆ける青い目が、大きく見開かれる。その目に自分が映っているのが、何故か酷く愉快だなァと、荼毘は口角を吊り上げた。

 

「……で、でも、」

「要は【依存】が発動しなけりゃいいんだろ? 安心しろよ」

 

 少女の細い肩を掴んで、俯きそうになる視線を無理やり上げさせた。空を閉じ込めた瞳と、夏の日の海のような瞳が交錯する。2つの青が、違う想いを燃やして、ぶつかる。

 

 

「俺はおまえのことなんか、“どうでもいい”としか思えないから」

 

 

 そうして荼毘となった少年が告げると、少女の瞳は瞬いた。失望と、悲嘆と、それと同じくらいの歓喜と安堵に輝いた。その光があまりに滑稽に見えたから、だから荼毘はその言葉を口にする。

 

「……(くう)

 

「……くう?」

「おまえの名前。次からそれを名乗れよ。名前がないのもないで面倒だ」

「……空、わたし、空……?」

 

 まるで与えられた飴玉を舌先で転がすように、少女は何度もその単語を口にした。確かめるように、何度も、何度も。……その様を見やって荼毘は少女の肩から手を離した。突き放すように、言葉を重ねる。

 

「自分のこと“空っぽだ”って言うんだから、お似合いだろ」

「……、うん」

 

 突きつけられた言葉の切っ先を静かに受け入れて、少女は、空は微笑んだ。年相応の幼さや甘やかさはどこにもない。諦めに凪いだ、静かな湖面のような笑みだった。

 

「うん……、……あの、荼毘」

「何」

「……ありが、とう」

 

 荼毘はそれに、返す言葉を持たない。だから黙って暗い夜の底を歩いた。空となった少女もまた、一緒になって着いていく。行く先もわからず、ただ、此処ではない何処かへと。

 

 そうして辿り着く未来がどうなるのかなんて、まだ、何も知らずに。

 

 

if√ 02.名無しの迷子たち

 

 


 

 おねむり君→荼毘への口調の変化がわからず頭抱えていました。でも書きたいところをいっぱい書けて個人的には満足です。ただもうちょっと凄惨な描写ができたらよかったんですがメンタル的にも技術的にもクソザコ作者にはこれが精いっぱいでした。ご容赦ください……。

 めちゃくちゃ個人的な解釈では荼毘はオリ主に対して塩&塩&形容しがたい何かみたいな感情を抱いてるのでそれが今後も表現できたらと思っています。また読んでいただければ嬉しいです!



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黄昏時にて

▽注意書

・これは弊hrakss【依存】から始まるヒーローアカデミアのif√です。

・公安ビルから飛び降りたオリ主愛依がホークスに救われる前に黒霧に浚われAFOの元で育って“おねむり君”と出会う話。

・ほぼ三人称視点。

・倫理観に乏しい描写や残酷な表現、原作生存キャラの死亡があります。

・どう頑張ってもメリーバッドエンドです。

 

 

───

 

 

 春めいてきた陽の下とは裏腹に、地下へと延びる階段は無機質かつ薄暗い。先導する男と殿を務める男に挟まれ歩く少女だが、その踏み出す足に恐れはない。こつん、と控えめな足音。清楚に揺れるエプロンドレス。静かに淡々と階段を下りきった彼女は、先導の男が開けた扉の先を、凪いだ青の目で見つめた。

 

「あァようこそ。待ってたよ」

 

 打ちっぱなしのコンクリートの壁際には、黒一色のロッカー風スチールラックが所狭しと敷き詰められていた。その部屋の奥には四つのベッドが並び、ベッドサイドには生体情報モニタや脳波スペクトル分析装置、パルスオキシメータに人工呼吸器など、手術室もかくやといった設備が備えられている。そしてその手前には草臥れたパイプ椅子がひとつ。そこに腰掛けた男がニヤリと笑えば、欠けた右前歯が覗いた。

 

「今日は三人だ。振り込みはいつもの口座に。確認してくれ」

「……はい、確かに。ではまず症状を確認させてもらいます」

 

 少女は手持ちの端末に目を通して頷くと、部屋の奥に足を踏み出した。四つ並んだ簡素なベッド。そのうちの三つに人が寝かせられている。ベッドサイドに歩み寄るとぶわりと血の匂いが強くなったが、彼女は顔色ひとつ変えず彼らを見下ろした。

 ──三人とも銃創を負っている。内一人は右側頭部を撃たれていて意識レベルは深昏睡。両目とも対光反射は消失しているが自発呼吸は保たれている。射入口は確認できるが反対側に射出口はなく、弾丸が頭骨に埋没していると見られた。

 そこまで見てとりながら少女は他二人にも視線を巡らせた後、小さく息を吐いた。じっとりとした地下室の空気を、僅かに揺らす。

 

「何か要り用か?」

「いえ、ここの器具と麻酔で処置できます。ただこの人は、頭部に埋没した弾丸の破片を摘出するために開頭し、除去手術をしなければなりません」

「頼む」

「はい」

 

 少女は壁際のスチールラックから迷うことなく麻酔用の器具を取り出し設置にかかる。人工呼吸器を患者に装着させると、男は痛みにか微かに呻いた。眉間に寄った皺を認め、少女は眦を決する。人の頭部を切り開くためのメスを手に、音を殺して深呼吸した。

 

(大丈夫、──治せる)

 

 頭部の切開は未だ慣れないが、少女は弱音と震えを飲み込む。今日もまた、自分のやるべきことを為すために。

 

「……治癒を始めます」

「ああ。今日も頼んだぜ、(くう)

 

 男──義爛は口角を持ち上げ、空となった少女は無表情で頷く。

 少女がこうして義爛に治癒の仕事を斡旋してもらうに至ったのは、今から5年程前の話だ。

 

 

 

 

 燈矢という名の少年が荼毘になって、少女に空と名付けた夏のある夜。2人はそれから路地を放浪し、裏社会のいざこざに遭遇しては怪我人を治癒して報酬を得ていた。

 きちんと話を通して報酬を渡す相手には然るべき【治癒】を。取引を無視してこちらに危害を加えようとする相手には【蒼炎】を。

 

『焼け死ぬのは嫌だよなァ? だからほんの少し、痛い目を見てもらうだけだ』

 

 そう言って嗤う荼毘に、空は何を思ったのか。ただ荼毘の言う通り、ほんの少し炙れば(・・・・・・・・)相手は素直になってくれたから、少女は彼らの火傷も含めて治癒を施し、多少色のついた報酬を受け取る荼毘を静かに見守っていた。

 そんな日々を積み重ねて暫く。【白い翼の少女と蒼い炎の青年】が裏の世界で話題になりつつあった頃のこと。

 

 

『やァ、いい夜だな』

 

 月など見えない暗い路地裏で、それでも男はそう言って口角を持ち上げた。ラウンド型サングラス越しの目が、暗闇に目を凝らすかのように弧を描く。

 

『お前らだな? 空って名前で、裏の奴らの怪我や病気を治して回っているって……、っ!?』

 

 男の言葉は不意に途切れた。暗がりを蹴飛ばすように放られた蒼炎が男の革靴の先を掠める。それはほんの瞬きの間だったが、この場を制するだけの熱を男に感じさせた。飲む息すら茹だるようで──人の肉がいとも簡単に焼ける臭いが漂う。じわりと蟀谷を伝う汗は、酷く熱くも冷たくもあった。

 

『……ハー……オイオイそう警戒しないでくれよ』

『生憎だけど、名乗りもしねェ奴は信用ならないんだよな』

『ああそれは、失礼した』

 

 男は荼毘の不遜な行動と物言いに気を悪くすることもなく、すんなりと居ずまいを正してみせた。それが空には意外で、彼女は黙したまま僅かに目を見張る。普通の相手なら驚くか悲鳴を上げるか、逆上して更に襲い掛かってくることだろうに、男は笑みすら浮かべてその場に立っていた。そしてついさっき、命を奪うほどの蒼炎を浴びせられたコンクリートを踏み、荼毘と空に歩み寄る。

 

『俺は義爛。所謂ブローカーだ』

『……ぶろーかー?』

 

 空の呟きに、義爛は僅かに目を細めた。“こんなことも知らないのか”という呆れと、“こんなことも知らない奴がこんな世界で生きてるのか”という、何とも言い難い思いがそうさせていた。

 

『ブローカーってのは取引の仲介を請け負っている者のことだ。……そうだな、もう少し噛み砕いて言うなら、』

 

 けれどそれも束の間、義爛は湿っぽさを拭い去り、油断なくシニカルな笑みを浮かべた。

 

『俺は、危なっかしいお前たちの後ろ楯になれる』

 

 

 

 

 それから義爛は空たちの仕事を仲介することとなった。それまでは客と直接やり取りしていた空たちだったが、まず義爛はそれをやめさせた。【治癒】の“個性”を狙う者たちからの接触を防ぐべく客を厳選し、義爛が空たちに代わって交渉する。そうして取引が成立した後の段取りも彼が請け負った。他の者に居場所を気取られない場所・そこまでの移動手段・治癒のために必要な器具の用意──彼が整えた環境によって、空はこれまでとは比べ物にならないほど安全かつスムーズに仕事ができるようになった。

 

 そうして今、彼女はまたひとり、死の淵からすくいあげる。

 

 空は患者の頭部に埋没した弾丸の破片を摘出するべく、麻酔で深く眠った男の頭部にメスを差し込んだ。皮膚を切開し、筋肉あるいは腱膜を剥離させ、露出した頭蓋骨を専用のドリルとカッターで切っていく。そうして骨窓から覗く硬膜とくも膜を顕微鏡を用いて開き、破片を探して除去する──そうした一連の作業を始めて暫く、全ての破片を摘出し終えた空は微かに息をついた。それから患者の頭部に手を当てる。本来ならばこれから閉頭手術を行わなければならないのだが、今回は必要ない。空の“個性”ならば、必要ない。

 

「……っ」

 

 どのように頭を切り開いたか、その手順を巻き戻す様を思い浮かべながら患部に意識を集中させる。くも膜、硬膜、頭蓋骨、腱膜、筋肉、皮膚──そして最後に頭皮や髪が元通りになったのを確認して、空は再び息をついた。細く長く、息を吐く。極度の緊張から解放された少女は、血にまみれた手を拭い、額に滲む汗を拭う。それから比較的軽傷だった残り二人の治癒にも取り掛かった。黙々と、淡々と、けれど丁寧に──懸命に。

 

「……、」

 

 そんな空の後ろ姿を眺めやり、義爛は僅かに目をすがめた。しかしそれもつかの間、空が振り返り義爛と目を合わせた時には、彼はいつもの笑みを浮かべていた。

 

「……今日の患者さんはこれで全員、ですね」

「あァそうだ、お疲れさん。車はもう寄越してある」

「わかりまし、……」

 

 空の目が驚きに丸くなる。地下室を後にしようとした彼女の隣に、義爛が並んだからだ。

 

「俺も途中までご一緒させてもらうぜ。別件があるんでな」

「は、い」

 

 “いつもの”とは違う展開に声を詰まらせながらも、空は首肯した。こつん、かつん、と2つの違う足音が狭い通路に木霊する。そうして地上に出た2人は待ち受けていた車に乗り込んだ。

 もうすっかり夜の帳は下りていて、春の霞がかった夜空をネオンの灯りが照らしている。ぼんやり灯る無数の光を何とはなしに眺める、空の表情は静かだった。街の喧騒や人々の営みを、悲喜交々を、窓越しに見つめる──まるで別の世界の出来事かのように。

 

「……なァ空、聞いていいか?」

 

 そんなひとりきりの静寂を、義爛が破った。空は伽藍堂の目を揺らして義爛を見上げる。白い髪や頬が、ネオンに照らされて鈍い光を弾いた。

 

「、何を……ですか?」

「そう構えンなよ。俺は本心からおまえに感謝してるんだぜ」

「……お金を、稼ぐから?」

「ハ、まァそりゃァ、否定できねぇわな」

 

 義爛は肩を竦めて喉を鳴らす。くつくつと低く笑う彼は、真っ透明な瞳で首を傾げる空に視線を合わせた。

 

「……【治癒】の“個性”なんざ、裏社会に限らず引く手数多だろうに」

 

 彼は目を、細める。微笑みではなかった。

 

「何だってこんな、裏で隠れ生きることを選んだんだ」

 

 ──もっと違う生き方だってあっただろ。

 言外にそう問われて、空は無言で息を飲んだ。だって少女にとっては意外だったのだ。

 

「……いいえ、」

 

 【依存】という“個性”を生まれ持ち、両親の“個性”(未来)を奪い取った。

 ……こんな自分に、他の未来があるなんて、願ったことすらなかったから。

 

「わたしには、この道しか、ありませんでした」

 

「……オーケー、」

 

 青色の目が弧を描く。滲むように、噛み締めるように微笑む空に、義爛は目を伏せて頷いた。“なるほどな”と呟いた声が北風のように宙に溶ける。北風のようにひんやりしていて、掠れて、乾いた声だった。

 義爛はそんな沈黙を埋めるべく、懐の煙草に手を伸ばした。とっ、と一本取り出そうとして、……やめる。行き場を無くした指先を誤魔化すように、後頭部に手をやった。

 

「……煙草、わたし、気にしません」

「あ?」

「副流煙の影響も、“個性”で消せます」

「うるせぇな。ガキが要らん気を回すんじゃねぇ」

 

 義爛がふいと視線を逸らした理由を、空は知らない。けれど問い返すほどに近い間柄でもなかったから、彼女はただ黙って彼に倣った。窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺める。

 夜景と同じに、ただ静かに、時間は流れていった。

 

 

 

───

 

 

 

 街中にある、何の変哲もないビルの一角。そこが空に用意された今日のセーフハウスだった。細い螺旋階段を上がり、渡された鍵で部屋を開ける。

 

「……、」

 

 三和土に乱雑に脱ぎ捨てられた黒い靴。遠くから聞こえてくるシャワーの音。わかりやすい帰宅の痕を辿るように少女は部屋の奥へ進んだ。シャワールームから絶えず水音は響いているが、洗面所で服を脱いだ形跡は無い。それを確認して空は僅かに眉をひそめ、そっとシャワールームの戸を開けた。

 

「荼毘、あなたまた……、」

 

 続こうとした言葉は途切れ、音量を増したシャワーの音に呑まれた。踏み出した足先が冷水で濡れる。

 空が歩み寄ったバスタブに四肢を投げ出すようにして、荼毘は眠っていた。シャワーから降り注ぐのは冷水であり、服ごとずぶ濡れになっているにも関わらず、彼の表情はむしろ安らいでいるように見えた。

 

(……【蒼炎】を、使ったんだ)

 

 それで身体を冷やすために、冷水を浴びていた。荼毘のこの行動は初めてではないが、空は気遣わしげに、または苦しげに眉を寄せる。膝丈のエプロンドレスが濡れるのも構わず、彼女は膝をついて荼毘の額に触れた。

 

 この5年間で、荼毘は少年から青年へと成長した。まろい頬は固く、手も節榑立ち、男のそれへと変わっている。しかし彼の変化はそれだけではないと空は視線を巡らせた。

 荼毘は『自分の身元を割らせるわけにはいかない』と白い髪を黒く染めた。そして空が仕事をしている間、ふらりとどこかへ行ってはこうして炎の名残を残して帰ってくる。その度に負う酷い火傷を空は治癒していたが、ある日荼毘は言った。

 

 

 

『空、──もう治すな』

『……え』

 

 突き放すような声に、びくりと肩を震わせる。そんな空に荼毘は淡々と続けた。“皮膚やそこに通る神経が健在だと、“個性”の限界を超えられない”と。

 

『もっと炎の温度を上げなきゃいけねェ、……いや、上げられるんだ。俺なら』

『……これ以上、に?』

 

 その時荼毘は、Ⅲ度以上の火傷を負っていた。表皮や真皮にとどまらず、皮下組織にまで損傷が及び、肌は青黒く変色している。神経がやられているため痛覚は感じないだろうが、血管や他細胞まで焼け切れて、諸々の臓器が停止してしまえば、彼は──

 

『……このまま続ければ、あなたは、死んでしまうよ』

『構やしねェよ』

 

 ハ、と笑う。嗤う。

 にんまりと上げた口角も、ケロイドに覆われ痛々しく歪んでいた。

 

『なァ空、人っていつ死ぬと思う?』

『……今は、そんな話をしてるんじゃ、』

『いいから答えろよ』

『……、……勝手な、ひと』

 

 いつも無表情な空が、僅かながらでも表情を歪めている。それが何故だか酷く愉快で、荼毘はくつくつと喉の奥で笑った。そんな彼をじとりと見据え、少女は固く結んだ口許を開く。

 

『……死亡には、3つの判断基準がある』

 

 呼吸の停止。脈拍の停止。瞳孔の拡大。これらを確認して医師は死亡判断を行う。散々読み耽った医学書からの知識をすらすらと口にする空だったが、荼毘はつまらそうに目を半眼にさせた。

 

『そういうんじゃねェんだよな。相変わらず頭の固い奴』

『……、じゃあ……あなたの思う“死”って、何?』

 

 憮然とする空に荼毘は、わらった。

 いつか(・・・)を懐かしむように、目を細めて。

 

『誰もかもに、忘れられた時だ』

 

 誰もかもに、自分の存在を過去にされた時。人は死ぬ。

 その言の葉が凍りついて胸に突き刺さるような、そんな心地で空は荼毘を見ていた。彼は傷ついた素振りもなくうっすらと微笑んでいるが──心の底ではどうなのだろうと思いを馳せた。

 いつかの時、荼毘は、……荼毘となったかつての少年は、何を思っていたのだろうと。

 

『そういう意味で死なないために、生きてんだよ』

 

 その為ならば、如何に自身の身体が焼けて傷ついても良いのだという。そんな荼毘の言葉を頭から飲み下すことはできなかったが、それでも空にもわかることがあった。ひとつだけ、わかった。

 

(……きっとこのひとはもう、止まらない)

 

 どうあっても目的の為に、前に前にと突き進み続けるのだろう。どれだけ傷ついても、傷つけても──何もかもを呑む、炎の海のように。

 

『……ならひとつだけ、約束させてほしい』

 

 それでも空は、炎が燃え尽きていく様をただ見ているだけではいられなかった。震える拳を握り締めて、迷いや躊躇いを殺す。

 

『要は、あなたは……痛覚に邪魔されずに“個性”を使いたいんでしょう? だったら表皮や真皮、その付近の神経はそのままにしておくけれど、他の……例えば内臓とか、そうしたものは治癒させて』

『ハァ? 必要な、』

『お父さんに、見てもらいたいんでしょう? ……そのためにわたしを、利用したらいい』

 

 本来痛みとは生命活動を阻害するためにあるのではない。むしろ痛みによって身体の異常を報せる、生命を守る警告なのだ。

 

 ──それを、あなたが捨てるというのなら。

 ──命なんて前に進むための薪だと、思ってしまっているのなら。

 

『わたしが、あなたの痛みになる』

 

 ──警告を発して、生命を繋ぎ止める。

 そんな決意を空が言葉にすれば、荼毘は微かにその目を見開いた。夏の日の海に似た青色が、ほんの僅かに揺らめく。

 

『……ほんと、気味悪ィ奴だよな、おまえは』

 

 それから彼は、つと目をすがめた。ともすれば苛立っているような、そんな声色で吐き捨てる。

 

『んなことしたって、おまえに何のリターンも無ぇだろ』

『うん、……それで、いいの』

 

 鋭い眼差しと言葉に射られて、少女のやわい心にしくりと痛みが走る。それでも、……いや、だからこそ(・・・・・)空は微笑むのだ。

 荼毘と空。2人の間に横たわる隔絶が悲しくて、嬉しくて。辛く感じるのと同じくらいに安堵した。

 

 ──まだこのひとと、一緒にいられる。

 

『それでわたしも、生きていけるの』

 

 

 

 

 そうして笑ったあの日から、荼毘の肌は所々ケロイドに覆われたままだ。元の色を保つ肌との間に繋ぐように開けたピアスが、水滴を弾いて鈍く光っている。

 

(……痛く、ないのかな)

 

 もう、痛覚を正常に伝える神経は焼き切れている。そうとはわかっていても空は吸い寄せられるように手を伸ばした。伏せられた彼の目元。焼けて喪われた涙腺の辺りに、触れようとして──

 

「……っわ!?」

 

 不意に、伸ばした手首を掴まれて、引き寄せられる。バランスを崩して前のめりになった空の青い目と、ゆるゆると開かれた荼毘の碧い目が間近で交錯した。

 

「だっ……荼毘、」

「なァにしてんだ、空」

「そ、それはこっちの台詞……」

 

 驚きに見開かれた目に、シャワーの細い雨が降り注ぐ。それに目を細め、左手で拭う空の顔が、次第に驚きから不満へ塗り替えられていく。

 

「……服ごと濡れちゃった」

「そう睨むなよ。涼しくなったろ」

「……、……あなたは涼しくなったの?」

「まあな」

 

 不満そうに口を尖らせた空に、何故だか面白そうに荼毘は笑む。その表情に小さな苛立ちは感じつつも空はそっと安堵した。微かに息を吐く。荼毘の冷めたいつもの表情に、苦痛の色は無い。

 

「……そう」

 

 空は頷いて、掴まれたままの右手は放って、自身の左手を伸ばした。黒く染められた彼の髪に触れて、頭部の怪我はないことを確認。そうしてそのまま彼の頬を包んだ。

 ざらざらの肌は、いつから浴びていたのかわからないシャワーのせいですっかり冷えきっていた。けれどその奥に隠しきれない熱がある。彼の身を焼き、目を眩ませ、心を焦がした炎。彼が決して消さない──消せない炎が、燃えている。

 

「……、オイ」

「“内臓だけ治す”……わかってるよ」

「……ならいい」

 

 いつものやり取りを交わして、空は荼毘の内側に治癒を施していく。着実に死んでいく表側を通り越して、再生のエネルギーを注ぎ込む。

 ……それがいつも、やりきれなくて。

 けれどこの“いつもの”やり取りを破れば、それすらも無くなってしまうのがわかっていたから、空は何も言えず口を結んだ。ただ黙って、生命を繋ぐ。

 そんな空を見下ろしながら、荼毘は彼女の右手を離した。少女の白い肌を伝う水滴を拭おうとして、やめる。触れる代わりに、呆れたように目を細めた。

 

「相変わらずお優しいことで」

「……、怒るのも疲れたの」

「そりゃ大変だな」

 

 ハ、と喉の奥で震えた声が、降り注ぐ水音に紛れて聞こえた。空はそれにただ小さく息をついた。溜め息とするには、幾分かあたたかいそれを。

 

「……はい、終わり。わたしは行くから、冷水じゃなくてちゃんとお湯被って、お風呂入ってね」

 

 返事の代わりにひらりと手を振ったのを見届けて、空はバスルームを出た。脱衣場で濡れたエプロンドレス──義爛に「箔がつくように」と与えられたものだ──を脱ぐ。薄暗い路地裏の世界にあって、清潔かつ清楚。どこか神聖めいてさえいるスカートの下には、ガーターホルスターが隠されている。

 

『どんだけ用意周到にしてても、いざって時は来るもんさ』

 

 だから護身用に、と義爛が空に渡したそれは、手のひらに収まるほどの小型拳銃。隠匿性を高めるために小型化されたそれは、威力・装弾数ともに低い。積極的な交戦向きではなく、あくまで非常時の自衛用とするものだ。

 

「……、」

 

 それでも、拳銃を手にする空の顔は晴れない。軽いはずの拳銃は、少女の手の中でずっしりと重みを増したかに思えた。青い目が暗く翳って伏せられる。ホルスターごと拳銃を外したその時、ようやく幾分か瞳の色が和らいだ。

 

「……うん、よし」

 

 ふ、と息をついて、頬を叩いて。そうして気を取り直した空はバスタオルで簡単に髪や身体を拭い、簡素なパーカーとズボンに履き替えてダイニングに戻った。ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら冷蔵庫を開け、中身を見ながら献立について考え始める。

 

 【治癒】の“個性”を狙う奴らに、気取られぬように。義爛は仕事のスケジューリングに応じて荼毘と空に幾つものセーフハウスを日替わりで与えた。大抵2LDKの部屋にはその日の食事に困らない程度の食材やインスタント食品が用意されていたが、空は努めて料理するようになった。放っておくと破滅的な食生活を送る荼毘を見て自ずとそうなったのだ。

 

「……“どうでもいい”って、思ってるんだろうな」

 

 荼毘はきっと、長く生きる気はない。もっと炎を強く眩しく燃やして、その光と熱が“お父さん”に届けばいいと──それだけ叶えば後はどうでもいいと考えているような、そんな確信が空にはあった。

 彼女はそれでも、と。野菜を手に取り皮を剥いていく。人参を乱切りにして鍋に水とコンソメと一緒に投入して火に掛けた。そして手を止めずじゃがいや玉ねぎもざく切りにして共に煮て。野菜に充分火が通ったらソーセージを追加して、そうすればポトフの出来上がりだ。

 

「あとは…………うん、鮭がある」

 

 ムニエルにでもしようかな、と呟きながら、その口許には苦笑が滲む。数年前に魚料理を作ったとき、荼毘は『魚嫌いだからパス』といって口をつけようともしなかったのだ。当時の驚きや戸惑いはまだ鮮明に覚えている空だが、それから暫くしてひょんなことから大喧嘩した際、朝も昼も夕もなく食卓に魚料理を並べ続けたこともよくよく覚えている。空の無言の怒りと、荼毘の無視がぶつかり続けて──そうしていつかの日、荼毘が苦虫を噛み潰したような顔で魚料理を口に運んだのが可笑しくて、嬉しくて。

 

(……それでなんだか、喧嘩したこともどうでもよくなったんだっけ)

 

 そんなこともあったなあ、と吐息のように笑みを溢したその時、バスルームから物音がした。ぺたぺたとこちらに近付いてくる足音に彼女が顔を上げると、うんざりしたような半眼と目があった。

 

「……今日魚かよ」

「……ふふ、」

「あ? 何」

「予想してた通りの反応だなあ、って」

 

 白い頬が、ほんのり染まる。少女が浮かべた笑みは淡く、今にも潰えそうなものだったが、それでも確かに荼毘に向けられていた。荼毘はそれを認め僅かに目をすがめる。彼の凄むような表情が、ばつが悪くなったときにも浮かべるものだと空が知ったのはいつだったか。思い出すには少し遠い。

 それだけの時間を、過ごしてきた。

 

「もう少ししたらできるから、髪ちゃんと乾かして」

「あーハイハイ」

「わっ、……ドライヤーっていう文明の利器知ってる?」

「こっちのが早いんだよ」

 

 瞬間的に蒼炎を使って髪を乾かすという荒業も、初めてではない。だから空は小さく溜め息をついただけでそれ以上の追及はやめた。手元のフライパンに視線を戻す。

 じゅわ、じじじ、とバターを纏った鮭に焼き色がついていく。香ばしい匂いがキッチンを漂い、ふんわり空間を埋めていった。

 

 

 ひとは、食べなければ生きていけない。

 生きていくために、今日も彼らは食べる。野菜を、魚を、それ以外のものもたくさん、数えきれないくらい口に運んできた。

 

 命を繋ぎ、日々を繋ぎ、

 そして──荼毘と空は、その日を迎える。

 

 

 

───

 

 

 

 ──“ヒーロー殺し”。

 それは17人を殺害し、23人を再起不能に追いやった(ヴィラン)・ステインの通称。ヒーローや警察の必死の捜査にも関わらず犯行を重ねていた彼だったが、先日起きた保州での騒動を経て、とうとう捕まったとの報道が社会を騒がせた。

 

《偽者が蔓延るこの社会も》

《徒に“力”を振り撒く犯罪者も、粛清対象だ》

 

《──全ては》

《正しき社会のために》

 

 一般人が提供したのだろうその動画は、瞬く間に多くのメディアに取り上げられ、多くの民衆の目に留まった。ヒーローが凶悪(ヴィラン)を捕らえたという輝かしい意味合い──ではなく、

 

《贋物……》

 

 数多の打撲傷と火傷で、誰がどう見ても満身創痍なはずのステインは、その目を強く見開いていた。歯を剥き、痛みからか涎を垂らしながらも、その形相に揺らぎはない。現れたエンデヴァーを鋭い眼光で射る。

 

《正さねば……》

《誰かが、血に染まらねば……!》

 

 静かなその語調が、次第に大きくなっていく。埋み火が再び熱を帯びたかのように、煌々と、強く。

 

《“英雄(ヒーロー)”を取り戻さねば!!》

 

 (ヴィラン)の襲撃により炎に巻かれた保州の街で、数多のヒーローと対峙しながらも、彼は怯まず歩みを進めた。

 一歩。ただ一歩アスファルトに左足を踏み出しただけ。ただそれだけで不可視の怪物が両手を上げて襲い掛かってくるような、そんな圧が画面越しにも伝わってくる。

 

《来い。来てみろ、贋物ども》

 

 直接相対しているヒーローは尚更だったのだろう。ひとりは浅い呼吸を繰り返し、ひとりは身動ぎもできず、ひとりは尻餅までついてしまった。

 誰もがまともに動けない中、相手に立ち向かっていたのはただひとり。

 

《俺を殺していいのは、“本物の英雄(オールマイト)”だけだ!!》

 

「……ハッ」

 

 くく、と低く喉が鳴る音が響いて、そこでようやく空の意識がパソコンの画面から戻ってきた。はっとして視線を戻すと、荼毘はソファーに肘をつき腰掛けて、肩を震わせている。

 

「……どうしたの」

「いや、なァ、こんな痛快なことがあるか?」

「痛快?」

「見ろよ、あのNo.2でさえたじろいでやがる」

 

 “なっさけねェの”とうっそり目を細めて、荼毘は口角を上げた。ヒーロー殺しの気迫に押されて一歩退いたエンデヴァー。その姿を、強張る表情を、指先でなぞる。

 

「この動画が消されてもアップされ続けてんのは、それだけ“見たい”誰かがいるってことだ。

 影響された、……火をつけられた誰かが、何人も」

 

 ──ダン、と、拳がディスプレイに叩き付けられた。その握られた手の内に一瞬だけ【蒼炎】が灯る。それは薄暗い黄昏時の部屋を、俯いた荼毘の顔を僅かに照らした。

 

「一人の人間の、たった一つの執念で、世界は変えられる」

 

 彼はわらっていた。目を剥き、口の端を吊り上げ、歪めて。

 

「……だ、び」

「あァ、だけど俺は……こうも思うよ、ステイン」

 

 歓喜の感情に笑い、いつかの誰かを思い嗤っていた。

 

「──この世界に本物の英雄なんていやしねえ」

 

 “表でどんだけ正義面しようと、裏では何してるかわかったもんじゃねえからな”。……そんなことを歌うように口にして、荼毘はソファーの背凭れに身体を預けた。灯りを落とした天井を仰ぎ、目を瞑っている。

 手を伸ばせば触れられる距離だった。空がその手を少しでも伸ばせば、荼毘の額に触れられたことだろう。そっと、触れて。“どうしたの”と訊ねる──いつもならばできたことが、その時は酷く難しかった。

 

「……荼毘、……」

 

 酷く遠く、隔てられていた。

 

 

 

───

 

 

 

「空。……あんたに会いたいと言っている奴がいる」

 

 とある夏の日、日暮の鳴く夕方のことだった。仕事終わりの空にそう切り出した義爛が彼女を連れて向かったのは、関東某県に位置する神野市。

 

「……いつもの場所ではないんですね」

「あァ、今日はもっと上客(・・)だからな」

 

 オフィス街にあるビルの前、路上の片隅に停まった車から空が降りようとすると、義爛が手で制した。

 

「少し、煙草を吸っていいか」

「え、……はい、どうぞ」

 

 義爛が懐から箱を取り出し、とっ、と指先で煙草を挟む。ピストル型のライターで火を灯すと、独特な匂いが車内に広がった。紫煙を燻らせながら、彼は目を伏せる。

 

「……そうだ、上客。とてもじゃねェがあちらの要求を簡単に突っぱねるわけにはいかねェ」

 

 だがなァ、と呟くように言った声が、夕暮れの闇に溶けていく。

 

「空。俺ァ前も言ったように、お前に感謝してる。これでも割りと買ってるんだ」

「それは……、そう、なんですか」

「ああ、だから……お前が望むなら、このまま帰ってもいいんだ」

 

 空にとってその言葉は意外だった。義爛の意図がわからず彼を見つめる、その青い目が揺れる。その反応に義爛は口許だけで笑った。すい、と視線を窓の外に向ける。

 

「あのビルの、階段上ったとこ、見えるか?」

「……っえ、は、はい」

「あそこに件の客がいる」

 

 ──あのドアを開ければ、お前はもう戻れない。

 

「ちゃちなピストルさえ重荷に感じるようなお前には、オススメできねェ話だ」

 

 義爛の言葉は断定だった。しん、と静寂が訪れる。

 義爛は空が辿るだろうこれから(・・・・)を思い、紫煙を肺いっぱいに吸い込んだ。どこか苦い味がしたから、そのままほろ苦い笑みを浮かべる。

 

「……それでも。その人はあのドアの向こうで、わたしを待っているんです、よね」

 

 けれど空は違った。戸惑いに揺らいでいた目はもう、静かに静かに凪いでいる。

 

「ならわたしは、行きます」

「脳死で飛び込むのは虫でもできる。お前は、まだ、行き先を選べるんだ」

「……いいえ。それは違います、義爛さん」

 

 【依存】という“個性”を生まれ持ち、両親の“個性”(未来)を奪い取った。

 ……こんな自分に他の未来があるなんて、思ったことも、願ったことすらなかったけれど。

 

 

『ねぇ、君』

 

 あの運命の夜。ごうごうと青い炎が吼え立てる中。画面越しの声が、確かに少女の鼓膜を震わせた。

 

『また彼ら(・・)を、救けてくれるかい?』

 

 ──ヒーローに救われなかった子どもたちを、君が救ってあげてほしい。

 そうして空っぽの心に、生きていていい理由を注いでくれたのだ。ヒーローに救われない人を救うのだと、それだけが道標となり、彼女の心と命を繋いできた。だから。

 

 

「わたしには、はじめからずっと、この道しかありません」

 

「……オーケー、」

 

 

 青色の目が弧を描く。滲むように、噛み締めるように微笑む空に、義爛は目を伏せて頷いた。“なるほどな”と呟いた声が北風のように宙に溶ける。いつかと同じに、北風のようにひんやりしていて、掠れて、乾いた声だった。

 

 

 

───

 

 

 

 空はひとつ義爛に頭を下げて、車を降りた。傾斜のきつい螺旋階段を上り、スチール製のドアの前に立つ。

 ドアノブを握る手は、微かに震えていたけれど。それをドアノブの冷たさのせいにして、空はドアを押し開いた。

 

「ようこそ、お待ちしていました」

 

 そうして空の視界に広がったのは古びたフローリング。煉瓦の壁。薄ぼんやりとした橙色のランプ。鈍い光を弾く酒瓶が、カウンター裏の棚にずらっと並んでいる。客足が遠退き寂れたバーといった様子だがそこに客はいなかった。バーカウンターにひとり、……身体が暗く揺らぐ靄のような人物が立っている。

 彼は空に向かって恭しく一礼し、金色の目を微笑むように歪ませた。

 

「私は黒霧と申します。早速ですが、あなたをとある方の元へお連れします」

「……? 黒霧さんでは、ないのですか?」

「ええ。あなたを待っているのは……あなたもよく知る方ですよ」

「え……」

 

 それって、と問い返すより先に、黒霧から広がった黒い靄が少女を包んだ。まず視界が閉ざされ、次に聴覚、触覚──全ての感覚が途絶え、暗闇の中に放り出される。それは数瞬の間か、それとも数秒か、数分か。時間の感覚も曖昧になる頃、空の視界が開けた。

 

 そこは十畳ほどの異様な部屋だった。部屋の四方は打ちっぱなしのコンクリートに囲まれており、窓はない。冷ややかな威圧感に息を飲む空の顔を、コンピュータの電子的な光が照らした。

 

「やあ、……待ちかねていたよ」

 

 コンピュータのディスプレイ、ありとあらゆる機器の光を背にしたその男は、ゆらりと顔を上げて腕を広げた。均整のとれた立派な体躯に高級そうなスーツを纒っている。その豊かに響くバリトンボイスに、──は、と空は目を見開いた。

 

AFO(オールフォーワン)、先生……!?」

 

 忘れもしない声だった。それはあの暗い夜、児童養護施設で自分を保護してくれた恩人(・・)のものだったのだから。だから空ははじめ驚きと歓喜に声を上げたが、それがひきつるのに時間はかからなかった。

 

「……ッせ、先生、それは……」

「ああ、すまない。驚かせてしまったね……」

 

 AFO(オールフォーワン)は右手で顔を覆った。その顔に本来あるべき目も鼻も存在しない。焼け爛れたように潰れた傷跡を、彼はさも痛ましげにして声をひそめた。

 

「情けないことなんだけど、とある(てき)との戦いで後れを取ってしまってね……」

「そんな……こんな、深い傷を……」

 

 空はただ、恩人(・・)の凄惨な傷跡に悲しみを覚え声を詰まらせる。それで精いっぱいだったから、AFO(オールフォーワン)が【(ヴィラン)】と口にしなかった意味など気付くはずもない。

 そうして空は背伸びをして、上背の男の頬に手を伸ばす。一刻も早く治そうと、治癒を施そうとして──

 

「ああ、待って」

 

 しかしそれに待ったを掛けたのはAFO(オールフォーワン)本人だった。空はその行動の意図を理解できず、青い目を困惑に見開く。

 

「!? 先生……? どうしてですか、わたしならきっと、あなたの目も鼻も、全て元通りに治せます……!」

 

 空は胸元を握り締め必死に訴える。あの施設を出てから数年、自分は何人もの人を治癒してきたと。どんなに深い傷も病も治せるようになったのだと。

 そうして培った力で、AFO(あなた)の傷を癒し、未来を開きたいのだと。

 

「どうかわたしに、あなたを救けさせてください……!」

 

 そうして懇願する声が、あんまり懸命に輝いていたものだから、AFO(オールフォーワン)は微かに目の辺りを歪ませた。

 

「……そうか。君は本当に、誰かを救けたいと思い、行動できる子なんだね」

 

 まるで真昼の空のような青だった。両親に踏みにじられ、他者と隔てられ、何年も薄暗い所に身を置いてなお失われない光。

 それがどうにも、煩わしくて。巨悪はその脳裏にひとつの計画(・・)を思い描いた。

 

「先生……?」

「君の気持ちはとても嬉しいよ。僕としても、是非とも君に治してほしい」

「なら……!」

 

 言い募る空に、AFO(オールフォーワン)は口許の笑みを深めた。さも聖人のように穏やかに、優しく優しく微笑んだ。

 

「けどそれは今じゃない。君には然るべき時に……僕の言うタイミング(・・・・・・・・・)で治してほしいんだ」

「……? それは……」

 

 一体どういうことなのか。空の頭上に浮かぶ疑問を宥めんと、AFO(オールフォーワン)は彼女の白髪を撫でた。“これまでよく頑張ったね”、“やさしくて偉いね”と、労りと称賛のふりをすれば、簡単に少女の言葉など封殺できる。嬉しそうに、擽ったそうに目を閉じる空に、彼は微笑むように声を和らげた。

 

「それでももし、もっと僕のために力を貸してくれるというのなら……君にひとつ、頼み事をしたいんだ」

「! 頼み事……?」

 

 ぱっ、と青い目を期待と歓喜に輝かせる空は、まるで本当の犬のようだった。主人の言葉にぴんと耳を立て、ふるふると尻尾を振っている。“存外可愛らしいものだなァ”と、言葉なく悪魔は嗤った。

 

「君は(ヴィラン)連合を知っているかい?」

 

 夏の空が暮れ泥む。日暮の歌がゆっくりと潰えて、夜の帳が静かに降りゆく。陽の光はやがて、遠く遠くへ落ちるのだろう。

 

 

「そこに死柄木弔という僕の教え子がいてね。……君に彼を、救けてほしいんだ」

 

 

 “誰そ彼”と、誰かが問い掛ける時まで、あと。

 

 

if√ 03.黄昏時にて

 

 


 

 予定なら神野編終了まで行く予定だったのですがわりとキリが良いところまで来たので上げさせていただきました。個人的には付かず離れずな義爛や荼毘とのやり取りや、愉悦&悪巧みなafoおじが書けてたのしかったです。if敵√ということで、本編ではできないようなヴィラン側との会話や触れ合いや葛藤や決断を今後も書いていきたいと思っているので、また読んでいただければ幸いです。今回も読んでくださってありがとうございました!

 



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ハッピーバースデー

▽注意書

・これは弊hrakss【依存】から始まるヒーローアカデミアのif√です。

・公安ビルから飛び降りたオリ主愛依がホークスに救われる前に黒霧に浚われAFOの元で育って“おねむり君”と出会う話。

・ほぼ三人称視点。

・倫理観に乏しい描写や残酷な表現、原作生存キャラの死亡があるかもしれません。

・今回ぬるいですが嘔吐表現あります。

・どう頑張ってもメリーバッドエンドです。

 

 

───

 

 

『君は(ヴィラン)連合を知っているかい?』

 

 数年ぶりに再会した少女の恩人(・・)は、潰れた目元を微笑みのように歪ませた。

 

『そこに死柄木弔という僕の教え子がいてね。……君に彼を、救けてほしいんだ』

 

 (くう)はそれに、一も二もなく頷いた。両親の“個性”を奪い、人生を踏み躙った空っぽの自分に存在意義を与えてくれた恩人。

 彼が傷ついているのだから。

 彼が救けを求めているのだから。

 

『……わかりました、AFO(オールフォーワン)先生』

 

 少女に断る理由など、何も無かった。こくりと頷き、意気込むように服の胸元を握り締める。そうしてAFO(オールフォーワン)をじっと見上げる眼差しが、あまりに従順な犬を思わせた。その様は愛らしくも滑稽で、男は喉を低く鳴らして笑う。

 AFO(オールフォーワン)は『ありがとう。頼んだよ』と空の肩を叩き、背中を軽く押し出した。そうして少女の身体は再び闇に包まれて──視覚と聴覚と触覚が暗く閉ざされ、時間の間隔さえ朧気になる頃、空はまたあのバーに立っていた。慣れない感覚にひとつ息を飲んだ空は、次いで目を瞬かせる。カウンターチェアに、先ほどまでいなかった人物がいたからだ。

 

「……やァ、お帰り」

 

 ハイスツールに腰掛けたその男はゆらりと顔を上げたが、その顔は()に覆い隠されている。()──まるで男を真正面から押さえつけているようなその()は男のものではない。節くれだってごつごつした──切り取られて何らかの防腐処理を施されてそこにある──その手は誰のものなのか。

 空は微かに息を飲んだが、慌てて頭を深く下げた。ぎゅうと、胸元を握り締める。

 

「は……はじめまし、て。わたしは空といいます、……あなたが、」

 

 ──死柄木弔さんですか。

 そう問い掛けて恐る恐ると空が顔を上げた先で、男は笑ったようだった。目元は件の手で覆われて見えないが、口の端が笑みのように持ち上げられている。

 

「やっぱ挨拶は大事だよなァ」

「え……?」

「いや悪い悪い。こっちの話」

 

 男は軽く手を振って立ち上がる。するりと音もなく、まるで野良猫のように空の目の前に立った。

 

「そう、俺が死柄木弔。……あの部屋から帰ってきたってことは、よろしくでいいんだよな」

 

 “あの部屋から帰ってきた”。その言葉の意味を空は深く考えられなかった。少女の中にはAFO(オールフォーワン)への疑心、ひいては死柄木への疑心など微塵もなかったから。

 それより空の視線は死柄木の首元に吸い寄せられていた。掻き毟られた肌には、痛々しい傷跡が刻まれている。

 

「……痛み、ます、か?」

「あ?」

「あの、その……首……」

「……あー、」

 

 死柄木の視線が宙に浮く。覆われた赤い目が、何かを思うように細められる。それからふと可笑しそうに笑って、ひび割れた唇を歪めた。

 

「なに、この傷、おまえが治してくれるって?」

「はい」

 

 間髪入れず頷いた空に目を眇めて、死柄木は手を差し出した。空はその指先を両手で取り、静かに深呼吸をひとつ。そして“個性”を発動させた。

 自分の中に生み出した【自己再生】の力を、触れた指先を通して死柄木の身体へ【譲渡】する。急速に力を得て動き出した細胞が、彼自身がつけた溝を埋めていく。苛立ちと憎悪の痕を、消していく。

 

「……へーぇ?」

 

 空が目を開けて手を離した時、死柄木の肌には傷ひとつ残っていなかった。今まで記憶にない、滑らかな首筋を手のひらで撫でつつ、彼はわらう。

 

「じゃァ改めて……ようこそ、(ヴィラン)連合へ」

 

 歓迎するよ、と囁くように言った声が、夜のしじまに溶けていく。それはまるで“何か”が、どこまでも深く暗い場所に落ちていくような──そんな朧気な感覚を覚えたが、空はその真意に気づくことはなかった。

 その微かな違和感を追求することもなく。

 ただただ、望まれるまま受け入れて、少女はまたひとつ夜に足を踏み出した。

 

 

───

 

 

 それから空の日常は少しだけ変化した。セーフハウスと仕事場を転々とする日々の最中、黒霧のワープゲートに招かれ、神野のバーへ赴くことが増えたのだ。

 

「……こんばんは、黒霧さん」

「ええ、いらっしゃい」

 

 ワープゲートから降り立った空に、夕暮れを思わせる橙の照明が降り注ぐ。赤茶けた煉瓦状の壁も相俟って、あたたかいような寂しいような、薄暗い中の光のような、そんな雰囲気を纏ういつものバー。そのカウンターでグラスを磨いていた黒霧が、微笑みのように黄金の目を歪ませた。

 

「お仕事お疲れ様です。夕食は召し上がりましたか?」

「? いいえ、まだ、です」

「でしたらナポリタンは如何でしょう? 少しだけお待ち頂ければ、すぐにお出しできます」

「え……あ、の、でも、」

「我々は貴女が得た報酬の一部を頂いているわけですから、このくらいはさせてください」

「それは、互いに了承した契約なので……」

 

 空と(ヴィラン)連合が協力関係を結ぶに当たって、AFO(オールフォーワン)は幾つかのお願い(・・・)をした。

 一つ、義爛から受け継ぐ形でAFO(オールフォーワン)が空の仕事の斡旋やサポートを担う。その代わり得た報酬の一部を連合へ資金援助すること。

 二つ、有事の際は互いの“個性”を以て協力し合うこと。

 恩人であるAFO(オールフォーワン)の願いとあらば、空に断る理由は無かった。当たり前に受け入れるべき話であり、こうして黒霧に気遣われるのも慣れなかった。だから彼女は戸惑うように視線を揺らすも、黒霧の無言の圧に負けてその首を縦に振る。

 

「…………えっと、では、お願いします」

「ええ。それではこちらへどうぞ」

 

 黒霧が指し示した椅子に腰掛け、空は調理に取り掛かる黒霧をぼんやりと見つめた。ピーマンなどの下拵えは済んでいたらしく、大鍋でパスタを煮る傍らで手慣れたようにフライパンを振っている。今ここにいるのはキッチンに立つ黒霧と、ハイスツールで足をぶらつかせている空だけ。

 

(今日は、荼毘は帰ってこないのかな……)

 

 この(ヴィラン)連合に加入してからというもの、荼毘と顔を合わせる機会は減った。元々ふらりとセーフハウスを出て、ふらりと帰ってくる野良猫のような生活を送っていた彼だが、今はどこで何をしているのか。ほんの少しの心配と、あとなにか。それが空の青い瞳を微かに曇らせる。

 

「お待たせ致しました。召し上がれ」

「……、ありがとう、ございます」

 

 声を掛けられて空が我に返ると、目の前から香ばしいケチャップの香りが漂った。フォークでパスタを巻き取り口にすると、よく炒められたトマトの旨みと玉ねぎの甘みが口の中に いっぱいに広がる。輪切りされたソーセージからは肉汁が溢れる中、ピーマンの程良い苦みがいいアクセントになっていた。

 

(おいしい……)

 

 ぱち、と瞬きした後、空は目を細めた。

 何故かふと頭によぎったのだ。荼毘がこれを食べたら、何て言うだろうかと。苦手なものばかりで、食に興味なんてほとんど示さなかった彼だが、これならたくさん食べるだろうかと。今は何か、ちゃんと食べているだろうかと──そんなことを考えた自分に驚き、呆れ、苦笑を溢したその時だった。

 

「あーっ! くーちゃんです」

 

 ガチャン、と無骨なドアが開くと同時に、明るい声が飛び込んできた。空ははっと顔を上げ、駆け寄ってきた彼女を見つめる。

 

「、トガさん……」

「むう……また“トガさん”。その呼び方カァイくないのです」

「え、あ……ごめんなさい」

 

 ぴょこん、と空の隣の椅子に腰掛けたトガは不満そうに頬を膨らませるのも束の間、にんまり口角を持ち上げて笑った。カウンターに頬杖をつきながら、空の顔を覗き込む。

 

「ふふふ、」

「? 何、ですか」

「お口真っ赤で、カァイイねぇ」

「え、……」

 

 トガはそっと手を伸ばして、その指先で空の唇に触れた。まるで紅を引くみたいに、ケチャップの名残を指でなぞる。ほんのり色づいた空の唇に頬を赤らめ、笑みを深めた。

 

「でももーっと赤かったら、きっともーっと、カァイイ」

 

 にたり、と笑った口元から八重歯と赤い舌が覗く。思い返せば、出会った時からずっと、トガヒミコという少女はこういう笑い方をしていた。

 

『あなた、くーちゃんっていうんですね!』

 

 亜麻色の髪をぴょこぴょこ跳ねたお団子にまとめ、金色の目は蜂蜜を溶かし込んだように鈍く、甘く、とろりと光る。

 そうしてにんまり口角を持ち上げて、笑う──それは確かに可愛らしいのに、同時に“捕食”を思わせて──空は何とも言えず固まっていた。されるがまま、目の前で笑うトガヒミコを見つめ、言葉を探して唇を震わせていたが。

 

「おっ!? 美味そうだなそれ! ──いやマッズいだろ!」

 

 またも賑やかに飛び込んできた声に、その場の雰囲気が霧散した。相反するようなことをガヤガヤ騒ぎながら現れたフルフェイスマスクの男──トゥワイスは、どかりと椅子に座り込む。

 

「おう黒霧、俺の分もそれくれ! ──誰が食うかよクソヤロウ!」

「追加でひとつで宜しいですね。トガヒミコ、貴女は?」

「いただきまーす」

 

 ふっと視線を逸らしたトガヒミコに、空は密かに安堵の息をついた。ほんの僅かなやり取りに、思ったより緊張していたらしい。じとりと手のひらを濡らした汗をエプロンドレスの裾で拭った。

 

「お腹空きましたねェ、くーちゃん」

「……、そう、ですね」

 

 さっきまでの異様な雰囲気はどこへやら、トガヒミコは少女らしく無邪気な顔でにこにこ笑っている。それに毒気を抜かれて、空はカラカラになった喉にナポリタンを押し込んでみた。トマト、ソーセージ、玉ねぎの旨み、程よいピーマンの苦み、……空の舌は案外普通(・・)に機能して、美味しさとともに租借する。

 そうこうしているうちに黒霧が追加のオーダーを2つ運んできて、バーカウンターはより賑やかになった。少女2人と男が1人、並んでナポリタンを口に運ぶ。どこかちぐはぐで奇妙な組み合わせだが、思いのほか穏やかな時間が流れて。

 

「そういやよォ空ちゃん、義爛はどうしてる?」

「義爛さん……、トゥワイスさんも、彼とお知り合いなんですか?」

「お知り合いも何も、俺を連合に紹介してくれたのが義爛だからよ! ──知らねェあんな奴!」

「私も義爛さんに声かけられましたねー」

 

 矢継ぎ早に真反対のことを言うトゥワイスの物言いに、出会った当初こそ戸惑った空だったが、今となってはだいぶ慣れたものだ。なるほど、と2人の話に相槌を打ちながら、ふとあることを思う。

 

「不思議ですねぇ」

「え?」

「私たちみんな、バラバラだったのに、今おんなじ場所でゴハン食べてるんですもん」

 

 空は、ゆっくりと目を瞬かせた。驚きを宥めるように、感じたものを噛み締めるように、ゆっくりと口を開く。

 

「……、わたしも」

「? なァに?」

「……わたしも今、同じこと、思ってました」

 

 空もまた、トガと同じに、思っていたのだ。

 生まれも生い立ちもきっとバラバラで、ちぐはぐで。それなのに今は同じ向きに座って、隣に並んで、同じものを食べている。

 それが不思議で、くすぐったくて、胸の中がざわつくようで、熱をもつようで──空は胸元を握り締めた。それは自分の感情をひとりで受け入れようとする、いつもの彼女の癖だったが、……その手をトガヒミコの両手が掴んだ。

 

「ねェねェくーちゃん!」

「っは、はいっ?」

「それって、ねェ、おんなじ気持ちってこと?」

 

 トガヒミコの大きく見開かれた目の中に、空の驚いたような顔が映り込む。それはトガヒミコの問い掛けにこくこくと頷いて肯定を示した。

 

「ふふ、ふふふ!」

 

 にんまり笑う金色の目の中に、空の姿がある。それはさながら、琥珀に閉じ込められた虫のよう。とろりと蕩けるように甘く、重い執着に、囚われる小さなもの。

 

「トガさ……ちゃ、ん?」

「おんなじに成れるの、うれしーです」

 

 空は少しだけ息を飲む。“おんなじが嬉しい”なんて、少女にとっては遠すぎる感情だった。幼い頃に置き去りにしなければならない、感情だったから。

 

「……、そう、ですか」

 

 ただぽつりと呟いて。ただひとつ頷いて。それがせいいっぱいだった。

 

 

───

 

 

 また別の夜。空は仕事までの仮眠を取ろうとアジトの奥を目指していた。その道中、通り掛かった部屋の中から話し声が聞こえて、思わず息を飲む。

 

「なァマグ姉、聞いていいか?」

「何よスピナー、改まって。彼氏なら募集するほど困ってないわよ」

「はっ!? いや違、違うそんな俺は浮ついたことなど……!」

「ただのジョークにマジになんないでよ。やぁねぇ」

 

 スピナーと呼ばれる少年と、マグネと呼ばれる女性。片やボソボソと縮こまったような声で、片やいつもの鷹揚とした声で交わされる会話に、空はそのまま何食わぬ顔で通り過ぎようとしたが。

 

「最近入ってきた空っているだろ。……なんでアイツ、連合にいるんだ?」

 

 ひゅっ、と息を飲む。どくどくうるさい心臓の音が聞こえてしまわないかと、空は胸元を押さえて、息を殺して、その場に立ち竦むしかできなかった。

 

「……“なんで”って何よ。気になるなら本人に聞きなさいな」

「ぐ……いや、それは……」

「面と向かって訊けないことなら、訊かない方が身のためよ」

 

 野太く低い声が、艶やかな響きをもって紡がれる。ふう、と、小さな溜息が夜のしじまを僅かに揺らした。

 

「アンタだって、胸張って言える動機、あんの?」

 

 ──(ヴィラン)連合に所属する動機。理由。……それを問われたスピナーは瞳を揺らして、それから視線を逸らして俯いた。

 

「……だってアイツは、俺と違うだろ」

 

 歯軋りするその口から、苦しげな声が漏れ出づる。

 

「弱小“個性”でもない。異形型で、外歩いただけでキモがられるわけでもない。

 【治癒】っていう、誰からも望まれる“個性”で。【翼】っていう、異形型のくせにビジュアルもいい……人から好かれる“個性”で」

 

 ──アイツなら、殺虫剤を撒かれることもなかっただろ。

 

「スピナー、あんた」

「アイツなら……! この社会から外れる(・・・)ことなんかなく、生きられるハズだろ!?」

 

 違う、と叫び出しそうになって、空は震える唇を両手で押さえた。は、は、と整わない呼吸を必死に殺す。

 

(ちがう、……ちがうっ、わたしは……)

 

 ──社会に望まれて、家族に好かれるような、そんな“個性”じゃない。

 

「なのになんで、そんなヤツがわざわざ、こんなところに……」

 

 スピナーの声から一歩後ずさった空の肩に、手が置かれる。驚いて振り返った少女が見たのはコンプレスだった。いつもの仮面を外したマスク姿。そこから覗く目と口が、ふ、と笑っている。

 

「……さァねぇ」

 

 突如現れたコンプレスに戸惑う間にも、声は続く。

 

「スピナー、アンタの事情、察することはできるけど知ることはできないわ。“アナタの気持ちはわかる”……なーんて、外野に安易に言われたくはないでしょ?」

 

 部屋の中のマグネの表情は空からは見えないが、どこか、やり切れなさそうに微笑んでいるような、そんな声をしていた。

 

「アタシたちがアンタの全部を知らないみたいに、アタシたちはあの子の全部を知らない」

 

 妙な温度も揺らぎもなく淡々と言い切ったマグネは、ともすれば突き放すようで、人によっては冷たい印象を与えるのかもしれない。

 けれど空にとっては違った。先程まで苦しいほどざわめいていた心臓も、呼吸も、今は静かに凪いでいたから。

 

「だからスピナー、あの子はあの子で、色々あったのかもしれないわ」

「色々、って……」

「殺虫剤撒かれるみたいに、誰かから嫌われて、追われて、弾き出されて、ここに辿り着いたのかもしれない」

「……そんなのわからないだろ」

「ええそうよ! アンタの言う通り所詮は“かもしれない”。確証なんてどこにもないわ」

 

 まるで煙に巻くように声の調子を変えたマグネは、それからとりとめのない話をし出した。世の無情の話、何もかも嫌になった時にキくスイーツの話、優しい友人の話、……その脈絡なく飛ぶように移り変わる話に戸惑い、時にツッコミながらも耳を傾けるスピナーの様子に「律儀だねえ」と笑い、コンプレスは空に視線をやった。彼はそっと目配せをし、少女の肩を押す。部屋の前を通り過ぎて暗い廊下を歩きながら、彼はふと笑った。

 

「“そうであれ”なんて、思っちゃいないさ」

 

 マグネも、俺もね。

 コンプレスは空にウインクを投げつつそんなことを言った。悲しい過去や社会から外れる理由があってもなくても、どちらでもいいのだと。

 

「俺たちは互いに脛に疵持つ者同士、過去は詮索しない主義でね」

「詮索、しない……」

「あァそうさ。過去を知ったところでそれを変えられるわけでも、傷を癒せるわけでもない──それを望んで、連合にいるわけじゃないしな」

 

 さらりと笑うコンプレスを見上げて、空はひとつ安堵しつつも、また別の疑問が心の中で鎌首をもたげた。ゆっくり、唇を震わせる。

 

「……あなたは何を望んで、連合に?」

「俺かい?」

 

 問い掛けられたのが意外だったのか、コンプレスは目を見開く。それから小さく苦笑して仮面を着けた。少しくぐもった声が、ワントーン低くなる。

 

「今、ここに在る社会を壊す」

 

 空が瞠目して息を飲むのと同じに、コンプレスは両手を広げて肩を竦めた。

 

「──なんてな。少しカッコつけすぎたか、年甲斐もなく恥ずかしいねぇ」

 

 彼はそのまま舞台上の役者のように一礼し、後ろ手に手を振ってその場を後にした。その流れがあんまり自然で素早いものだから、空はコンプレスが自分を送り届けるために一緒に来てくれたことにも、それにお礼を言い損ねたことにも気づくのが遅れた。あっと気づいた時には、薄暗い廊下でひとり、彼女は佇んで。

 

「……“何を望んで、連合に”」

 

 そうして先程投げた質問を反芻していた。呟いて、飲み込む。まるで棘を飲み込んだみたいに、じくりと喉の奥が痛んだ。

 

「じゃあ、わたしは、……」

 

 言葉は続かず、掠れた吐息だけ、暗がりの中に溶けていく。

 

 

───

 

 

 じわじわと茹だるような暑さの夕方だった。仕事を終えた空はまた黒霧に連れられて神野を訪れていた。“また”と言えるほどに繰り返された訪問は、最早日常といっても過言ではない。そんなことを思いながら、渡されたレモネードに口をつけていた。そんな時だった。

 

 ──彼女の視界を、鮮烈な赤い色が染め上げる。

 

「……!」

 

 グラスを取り落としそうになって慌てて掴み直し、やっとのことでカウンターに置く。その手は細かに震えていた。いつも静かな少女の変貌に、黒霧は金色の目を瞬かせる。

 

「どうされました?」

「あのっ、あの、この人……!」

「? ……ああ、」

 

 黒霧は少女の視線を辿り、備え付けられたテレビを見た。そこに映し出された男──ヒーローに目をすがめる。

 

「ホークスですね」

「……ホー、クス?」

「ご存じありませんか? ビルボードチャートNo.3、ウイングヒーロー・ホークス」

 

 黒霧曰く、男の名はホークス。“個性”【剛翼】。硬くしなやかな羽根を自在に操り、その精密性や俊敏性を以てまだ二十代前半ながら日本のNo.3に君臨するヒーロー。これまで情報と断絶されていた空は知らなかったが、このヒーロー飽和社会においてもその知名度と人気、実力は飛び抜けているらしい。黒霧のそうした説明を聞きながら、空は幼い日のことを思い出していた。

 両親の“個性”を奪ってしまった自分。暗い空と白い雪、灰色の冷たいコンクリート。重苦しいモノクロのベランダ。寒くて冷たくて暗くて、……そんな中に差した、ひとすじの光。

 

(あのひとだ)

 

 藤黄色のぴょこぴょこと柔らかそうな髪。同じ色をした目。何より鮮烈な赤い翼。もう10年以上前の出来事で、当時少年だった彼は今や成人男性となっているが、空の中には確信があった。

 テレビの中で如才なく笑みを浮かべてみせる彼が。トップヒーローとして数多の人を救け続けている彼が。

 

(──あの時わたしを、救けてくれた……)

 

 そう確信すると同時に、空の口から安堵の息が漏れた。震える指先で胸元を掴み、目を閉じる。

 

(……よかった)

 

 よかった。よかった、……

 わたし、奪ってなかったんだ。

 

 最後に会ったのは閉じ籠ったあの部屋の、扉越し。【依存】が発動して背中に白い翼を生やしてしまったあの時、少女は絶望した。自分はあのベランダから救け出してくれた彼の“個性”を奪い、優しい彼の可能性や未来を奪ったのだと。

 けれど今、あの時の少年の背には赤い翼が広がっている。その翼を以て、ヒーローとして、みんなに望まれて生きている。

 

「……よかった……」

 

 それがあまりに嬉しくて、安堵にほころぶ口から思いが溢れた。空はゆっくりと顔を上げる。先ほどのは幻でも何でもなく、少女の視界には依然として赤い翼が輝いている。その色彩が移ったのだろうか、空の青白い頬にさえ赤みが差した。

 

「──何が、“よかった”だ?」

 

 少女の頬に浮かんだ淡い笑み。けれどそれも、背後から急に肩を掴まれたことで掻き消えた。テレビから視線を引き剥がすように引き寄せられ、驚いて目を剥く空の眼前で。

 

「……死柄木、さん?」

「なァ空、教えてくれよ。何がどうして“よかった”んだ?」

 

 彼はひび割れたように笑った。笑ったまま、空の肩に指を掛けていく──1本、2本、3本と、ゆっくり増えていく指。空が瞠目して見上げると、死柄木は依然として笑みを浮かべていた。その声も唇に浮かぶ微笑も、肩に置かれた手だって穏やかだ。それなのに少しずつ、暗い底に落ちていくような。そんな感覚に囚われて空は声を失う。

 彼の顔全体を覆う何者かの“手”。その指から覗く赤い目は、夜に浸ったように暗かった。

 

「アイツは、ヒーロー。俺たちの敵だ」

 

 空ははっと目を見開いた。死柄木の首筋には、また、血が滲むほどの引っ掻き傷が刻まれている。行き場のない感情を持て余したような傷痕は、まだ新しい──初めて出会った空が治癒した時より後に付けられたのは明らかだった。

 治癒などできていなかったのだ。

 治すことなどできなかったのだ(・・・・・・・・・・・・・・)

 治った上から引き裂いて、瘡蓋をぐちゃぐちゃに歪めて、それが当たり前のように積み重なった。その傷痕は死柄木の心そのものなのだろうと、空は訳もなく確信した。

 無かったことになどならない。

 彼の憎しみは、ずっとずっと、無くならない。

 

(…………ああ、そう、なんだ)

 

 彼の傷痕の奥底まで(蹲る小さな誰かに)、少女の手は届かない。

 

 

 

「リーダー」

 

 死柄木の小指が空の肩に触れる──その直前で荼毘が死柄木を呼んだ。その声はいつもの彼の、淡々としたもの。嗜める響きなど微塵もない。

 それでも静かな呼び掛けに、その場の空気が凍りつくように固まった。しんと、広がる静寂。その中でゆらりと死柄木は鎌首をもたげる。

 

「……何だ、荼毘」

「コイツは、壊すにはまだ早ェ」

 

 死柄木の赤い目と、荼毘の碧い目が交錯する。暫くの間見つめ合って、それから死柄木はふと目を細めた。微笑みのように。

 

「…………そうだな」

 

 彼は空の肩から手を離すと同時に、その場を歩き去った。空とすれ違いざま、呆然とする少女の頭をぽんと3本指で撫で、そのまま奥へ続く扉の向こうへ消えていく。

 死柄木の足音が小さくなって、聞こえなくなって。ようやく少女は詰めていた呼吸を解いた。脱力した身体で深くスツールに座り込む。

 

「……だ、び」

「ンだよ」

「……ありが、とう」

 

 そんな意図はなかったとしても、きっと自分の行動は、死柄木の心を引っ掻いたのだ。

 荼毘が声を掛けてくれなかったら、或いは──少女はその思いを言葉にしたが、荼毘はハッ、と一笑に付した。

 

「呑気に礼なんか言ってる場合か?」

 

 荼毘の碧い瞳が嗤う。彼は歩みを進めて空との距離を埋めた。間近から少女を見下ろしながら、唇を歪める。

 

「自覚しろよ、空。おまえはもう、連合(ここ)に来ちまったんだよ」

 

 彼は何も“個性”を使っていない。彼の炎は少女の身を焼いてはいない。

 それでも、何故か。何故かどうしようもなく喉が渇いて、空はいびつな息を吐いた。

 

 茹だるような暑さの夏だった。夕日が沈み、夜が訪れる。じわじわと纏わりつくような熱気が呼吸を奪っていくかのようで、ひどく息苦しかった。

 からん、と音が鳴って、空はぼんやりとそちらに視線をやる。飲みかけのレモネード。最後の氷が溶け切ってしまったのだろう。グラスに浮かんだ水滴が、まるで涙のように流れて光った。

 

 

───

 

 

 その日(・・・)は突然やって来た。……いや、空が気づかなかっただけで、そこに至るまでに動いていた者たちはいたのだ。

 蠢く影はあったのだ。

 ……少女が気づこうとしていなかっただけで。

 

「…………だ、誰、ですか……?」

 

 空がいつものように神野のバーに訪れると、そこには“いつも”とは言い難い光景が広がっていた。黒霧、死柄木弔、トガヒミコ、トゥワイス、マグネ、コンプレス、スピナー、そして荼毘──いつも自由気ままにフラフラとしているメンバーが一堂に会していることもそうだったが、何より、店の奥の壁際に、拘束具に繋がれた少年がいたのだ。

 

「アァ゛?」

 

 ギッ、と睨まれて、少女は声を飲む。少年のトゲトゲ跳ねた金髪は、そのまま彼の気概を示すかのようだった。警戒と反骨心を宿した赤い目が、油断なく空を、その場に集う面々を睨み上げている。

 

「アラヤダ怖ぁい、ねぇ空、睨まれるのやぁねぇ」

「マグネ、さん」

 

 硬直する空とは裏腹に、マグネは至っていつも通りだった。のらりくらり軽い調子で笑って、空の肩を慰めるように叩く。

 分厚く大きな優しい手。それと同じ手を、マグネは繋がれた少年に向けた。

 

「自分の立場ってモン、わかってないのかしら?」

 

 飄々とした声が、温度を失くす。少年が身構えたのと、空が息を飲んだのと、“待った”が掛かったのは同時だった。

 

「やめろマグネ、手を出すな」

 

 死柄木はスツールに腰掛けたまま、唇を持ち上げて笑う。

 

「彼は……爆豪勝己くんは、今宵の大切なゲストだ」

 

 そうして死柄木の視線はテレビに向かう。そこでは雄英高校による謝罪会見の様子が映されていた。深く頭を下げる大きな白鼠、黒髪の男性、大柄な男性──名札によると雄英高校の校長と教員なのだという──彼らが集った記者たちの質問に淡々と答えている。その問答を見聞きして、ようやく空にもこれまでの流れが掴めてきた。

 国内でもトップの実績を誇るヒーロー養成校・雄英高校。彼らが実施した林間合宿を(ヴィラン)連合が襲撃したこと。そこでヒーロー科の1年生26名が重軽傷を負い、1名が拉致されたこと。

 

(その1名が、彼。名前は──)

 

 爆豪勝己。今年の雄英体育祭1年生の部での優勝者。彼が攫われたことについて、メディアはこぞって雄英に責任を追及している。(ヴィラン)の襲撃に対し、どのような姿勢を取っていたのか。対策を講じてきたのか。それは不十分ではなかったのか──と。

 

「不思議なもんだよなぁ……何故奴ら(ヒーロー)が責められてる!?」

 

 死柄木は両手を掲げ、まるでステージに立つ演説者のように続ける。

 

「奴らは少ーし対応がズレてただけだ! 守るのが仕事だから? 誰にだってミスの一つや二つある! それなのに“おまえらは完璧でいろ”って!?

 現代ヒーローってのは堅っ苦しいなァ、爆豪くんよ!」

 

「守るという行為に対して対価が発生した時点でヒーローはヒーローでなくなった。これがステインのご教示!!」

 

 死柄木が、スピナーが、それぞれの言葉で現代ヒーローの歪さを語る。空はそれに何も口を挟めず、拳を固くしながら聞いていた。

 

「人の命を金や自己顕示に変換する異様。それをルールでギチギチと守る社会。敗北者を励ますどころか責め立てる国民……」

 

 何故なら空には、何も判断できなかったから。“個性”によって大切な人のさまざまなものを奪い続け、空っぽになった少女には、判断し得るだけの素地が無かった。これまで誰かに望まれるままに、それに追い縋るように生きてきただけだったから。

 

 「俺たちの戦いは“問い”。ヒーローとは、正義とは何か。この社会が本当に正しいのか一人一人に考えてもらう! 俺たちは勝つつもりだ。

 ──君も、勝つのは好きだろ」

 

 だから空は、死柄木がそう笑って爆豪に言うのを、固唾を飲んで見守っていた。

 ヒーローを志す少年は、この問いに何と答えを出すのか。死柄木に同調して頷くのか、それとも──空がそっと視線を投げ掛けた先で、爆豪は依然として固く口を結んでいた。

 

「荼毘。拘束外せ」

「は? 暴れるぞこいつ」

「いいんだよ。対等に扱わなきゃな、スカウトだもの。──それに、この状況で暴れて勝てるかどうか。わからないような男じゃないだろ? 雄英生」

 

 言外に“暴れるなよ”と釘を刺しつつも、死柄木の声は心なしか上機嫌に笑っていた。この状況はひっくり返しっこないと、確信しているような余裕。

 そこからちょっとした問答の末にトゥワイスが拘束具を外しにかかったが、その最中、コンプレスが爆豪に歩み寄った。

 

「強引な手段だったのは謝るよ……けどな、我々は悪事と呼ばれる行為にいそしむただの暴徒じゃねぇのを、わかってくれ。君を攫ったのは偶々じゃねぇ」

 

 彼が語るところによると、爆豪は雄英体育祭の表彰式で、受け入れ難い結果に反発し踠き足掻いていたのだという。目を剥き、歯を剥き、叫ぼうにも口を塞がれ、納得できない賞賛から身を捩り暴れていたのだと。

 

「ここにいる者事情は違えど、人に、ルールに、ヒーローに縛られ……苦しんだ。

 君ならそれを──……」

 

 コンプレスの言葉は最後まで続かなかった。ゴトン、と最後の拘束具が外されて床に転がる音も、死柄木が爆豪の前に進み出た足音も、何もかも──耳を劈くような爆発音に呑み込まれる。

 

「死柄木……!」

「黙って聞いてりゃダラッダラよォ……! 馬鹿は要約出来ねーから話が長ぇ! 要は“嫌がらせしてえから仲間になってください”だろ!?」

 

 爆豪は真正面から死柄木に【爆破】を喰らわせる。彼は低い体勢からゆらりと立ち上がった。

 

「──無駄だよ」

 

 瞳の炎が、爛々と燃えている。

 

「俺は、オールマイト(・・・・・・)が、勝つ姿に憧れた。

 誰が何言ってこようが、そこァもう(・・)曲がらねえ!!」

 

 空は両手で口を押さえた。驚きと、それ以外の何かが胸に迫って、平静を装うことができなかったのだ。

 

(……ああ、この人は、)

 

 ゆっくり、青い目を瞬かせる。それでも眼前の少年はひどく眩しかった。平和の象徴と謳われたNo.1ヒーローオールマイト。彼が掲げ続けた法の灯火に照らされたかのように、爆豪は揺らぐことない意志をその内に燃やしている。

 それがあまりに眩しくて、空は目を細めた。

 涙を堪える仕草に似ていた。

 

《……体育祭でのソレ(・・)らは、彼の“理想の強さ”に起因しています》

 

 つけっぱなしにしていたテレビから流れた声が、空の鼓膜に突き刺さる。画面には雄英高校教師──相澤が深く頭を下げつつも、鋭い目で前を見据えている姿があった。

 

《誰よりも“トップヒーロー”を追い求め……もがいてる。あれを見て“隙”と捉えたのなら、(ヴィラン)は浅はかであると私は考えております》

 

「ハッ──言ってくれるな、雄英も先生も……」

 

 仕方ねぇな、と言いたげな口ぶりのわりに、爆豪の口角は嬉しそうに持ち上がっている。

 

(……信頼、されてるんだ)

 

 (ヴィラン)連合が“付け入る隙”とした粗暴さや葛藤の裏にある、爆豪の光に向かう意志。それにきちんと気づいて、わかってくれる。信じてくれる。

 それは正しく“しあわせなこと”なんじゃないかと──そこまで考えたところで空は我に返った。思考の海から意識を引き剥がし、ばっと顔を上げる。

 

「! 死柄木さん……!」

 

 先ほど死柄木は、爆豪の【爆破】を胸元に受けたばかりだ。見たところ外傷は然程無さそうだが診るに越したことはない。空は慌てて駆け寄り、彼の腕にそっと手を当て、治癒のエネルギーを送り込む。

 しかし死柄木はぼうっとした眼差しで、ある一点を見つめていた。

 

「…………お父さん(・・・・)

「……え」

 

 死柄木の呟きに、空は彼の視線を辿る。【爆破】によって吹き飛ばされた、死柄木の顔を覆っていた手。それがバーの床に力無く転がっている。

 彼はその手を見つめて、確かにお父さん(・・・・)と、そう言ったのだ。

 

「空」

「……! す、みません」

 

 呆然としていた意識を集中させ、治癒を完遂する。死柄木は焼け焦げた胸元を払って煤を落としている、……至って平静に見えた。

 

「……あの、……大丈夫、ですか」

「ああ……何ともない。心配するな」

 

 初めて仰ぎ見た死柄木の素顔。その目は血走り、ただのひと睨みで爆豪の動きのみならず、その場の空気を牽制する。

 一触即発だった(ヴィラン)連合の面々と爆豪──しんと静まり返ったバーの中、ただひとり死柄木が歩みを進めた。

 

「手を出すなよ……おまえら」

 

 床に落ちていた手。歩み寄り、拾い上げた死柄木は、その大きな手のひらをじっと見下ろした。

 

「こいつは……大切なコマだ」

 

 自分の顔を押さえつけるように、その手を被る。指の隙間から覗く唇が、小さく震えた。

 

「できれば、少し耳を傾けてほしかったな……君とは分かり合えると思ってた……」

「ねぇわ」

「……仕方がない。ヒーローたちも調査を進めると言っていた……悠長に説得していられない」

 

 ザザ、と夜のしじまを揺らすスノーノイズ。

 そのモノクロの嵐の向こうに、少女は見た。

 

 

「先生──力を貸せ」

 

《……良い……判断だよ、死柄木弔》

 

 

 朧気なシルエットからは、その表情はわからない。それでもゆったりと口角を持ち上げて微笑んでいるような──そんな穏やかなバリトンに、空は確信を深める。

 

AFO(オールフォーワン)、先生)

 

 普段表立って(ヴィラン)連合に関わらない彼もが、この局面においてこちらを見ている。

 

「先生ぇ……? てめェがボスじゃねぇのかよ……! 白けんな」

「黒霧、コンプレス。また眠らせてしまっておけ。ここまで人の話聞かねーとは……逆に感心するぜ」

「聞いて欲しけりゃ土下座して死ね!」

 

 それはつまり、この局面が、非常に重い意味を持ついうこと──手の震えを収めようと拳を握る空だけでなく、連合の面々も、相対する爆豪もまた、ひりつくような緊迫感に身構えていた。その時だ。

 

 ノック、ノック、扉を叩く音が、2回。

 

「どーもォ、ピザーラ神野店です──」

 

 間延びした声。困惑に硬直する思考。一拍の静寂──その全てをぶち壊すかのような轟音が轟いた。煉瓦状の壁が粉々になるほどの衝撃。粉塵舞う向こう側に、人影が幾つか。

 

「何だぁ!?」

「黒霧! ゲート……」

 

「先制必縛──ウルシ鎖牢!!」

 

 いち早く状況を察した死柄木が指示を飛ばすも、それより早く伸びてきた無数の太枝が(ヴィラン)連合の胴に絡みついた。ギチギチと締め上げ、拘束する。

 

「木ィ!? んなもん……」

「──逸んなよ」

 

 太くしなやかなウルシの太枝は、単なる力技では破れはしない。ならばと“個性”を使おうとした荼毘の言葉は、途中で途切れた。

 空の目には捉えきれなかった風の弾丸(・・・・)──それは人だった。小柄な体躯の老人がヒーローマントを翻しながら、荼毘の後頭部に蹴りを喰らわしたのだ。

 

「大人しくしといた方が……身の為だぜ」

「荼毘!!」

 

 空が崩れ落ちた荼毘を呼ぶも、反応は返らない。完全に意識を飛ばしたらしい彼が、力の入らない四肢を締め上げられていくのを、ただ空は見ていることしかできないでいた。

 

「さすが若手実力派だシンリンカムイ!!」

 

 空には、何もできなかった。何が起きているのか理解すら乏しかった。

 

「そして目にも止まらぬ古豪グラントリノ!!」

 

 けれど声は聞こえる。かの人(・・・)の到来を告げる声が、輝かしく轟く。

 

 

「もう逃げられんぞ(ヴィラン)連合……何故って!?

 

 我々が、来た!!」

 

 

 オールマイト。No.1ヒーロー。

 その光()は、鮮明に、まばゆく、輝いている。あんまり眩しい光は、きっと地平まで照らすのだろう。

 守られる人々にとっては未来を照らしてくれる光だ。行く末を照らしてくれる、揺るぎない光。

 

(……ああ、眩し、すぎる)

 

 でも同時に、夜の世界で生きるものたちにとっては、その光は強すぎるのだろうと空は思った。何故なら今オールマイトに対峙する(ヴィラン)連合は一様に顔を歪めている。眩しそうに、煩わしそうに、苦しそうに。“救い”とは一番遠い表情をしている。

 空もまた、目を細めていた。あまりにも眩しいものを映した青い目が、酷く痛みを訴えたのだ。

 

「……お嬢ちゃん、アンタはどっちだ」

 

 苦しげに目を細め、口を閉ざす。そんな空に視線をやり、老人──グラントリノが問い掛けた。

 

「荼毘って呼んだってこたァ、(ヴィラン)連合の一味でいいんだな?」

「……、はい、そうです」

「……リストにアンタの顔も名前も無かった。林間合宿襲撃にも参加してなかった、……アンタは何の為に、(ヴィラン)連合なんかにいる」

 

 ──何の為に、

 空はひゅ、といびつな息を飲んだ。返す言葉を探して、喉を震わせる。

 

「わたし、……わた、し……」

 

 わたしは何の為に、ここにいるのか。

 スピナーの疑問や荼毘の忠告を聞きながらも、しっかり形にできなかった問いの答え。

 何の為に、(ヴィラン)連合にいるのか。

 何の為に、誰の為に、

 

 ──空っぽの少女はその答えを持たない。

 伽藍堂の中に響くのは、いつかのあの声。

 

 

『ヒーローに救われなかった子どもたちを、君が救ってあげてほしい』

 

 

「……わたしは。救けなきゃ、いけないんです」

「誰を」

「ヒーローが救えなかった、人たちを」

 

 震える声は、何かに縋りつくかのようだった。事実少女は、たったひとつ、道標となるあの声に縋りついてこの場に立っている。

 

「わたしは、そのために、ここにいます」

 

 空が辿々しくも懸命に紡いだ言葉に、オールマイトは眉間に皺を寄せ、グラントリノはつと目をすがめる。そして、

 

「……そうだよなァ、空」

 

 暗くわらったのは、死柄木だった。彼は唯一自由になる首をもたげて、ゆらりと辺りを見渡した。

 

「ヒーローは救えなかった奴らに見向きもしない。全部全部救えてますって顔して、俺たちのことは“なかったこと”にするんだ」

 

 死柄木の赤い目が、いつかの時を映して揺れる。

 

「失せろ……消えろ。おまえたちは、いらない」

 

 ひとりきり歩いて、歩き疲れて、座り込んだ路地裏。──手を差し伸べてくれたのは、ただひとりだった。

 

「おまえたちが!! 嫌いだ!!」

 

 激情の全てを吐き出したような咆哮。死柄木が喉を掻き鳴らしたと同時に、何も無い空間から黒いタールのような液体が溢れ出す。そしてぎょろりと覗いた眼球と剥き出しの脳味噌──無数の脳無が現れた。

 

「これ、は……!」

 

 驚いた空の口からも、黒い液体が溢れる。酷い臭い、味、視界も黒く染まっていく。更には聴覚と触覚、時間の感覚すら曖昧になり、自分がどこにいるのかさえわからなくなった頃──ふいに視界が開けた。

 

「ッげほ、けほ、……っ」

 

 空が酷く咳き込みながら目を開けると、ぼやけた視界の中に倒れ伏した荼毘の姿を見つけた。

 

「……! だ、び……」

 

 はっとして駆け寄りざま治癒を開始する。倒れた荼毘の身体に触れて、そして少女は気づいた。

 ──更地だ。元はたくさんの建物が並んでいた市街地が、大きな嵐が吹き荒れたかのように薙ぎ倒され、いびつな真っ平らになっている。その中央に、立っていたのは、

 

「また失敗したね、弔」

 

 マスク越しの声はくぐもっているが、空にはわかる。間違えっこない。均整のとれた体躯を品の良いスーツに包み、泰然と佇む彼──AFO(オールフォーワン)は、死柄木に微笑むように語り掛けた。

 

「でも決してめげてはいけないよ。またやり直せばいい。こうして仲間も取り戻した。

 この子もね……君が“大切なコマ”だと考え判断したからだ」

 

 黒い液体が転移してきた(ヴィラン)連合の面々、そして爆豪に向けたAFO(オールフォーワン)の視線が、最後にひたり、死柄木に辿り着く。

 

「いくらでもやり直せ。そのために(先生)がいるんだよ」

 

 大きな手が、差し述べられる。

 

 

「全ては、君の為にある」

 

 

 言霊めいた男の声が、周囲から音を奪う。身動ぎもできないような静寂の中、吹き曝しになった街に夜の風が吹き渡る。

 風が吹く。

 風に似た、音がする。

 ──隕石のような力のかたまり(・・・・・・)が、遠く空から飛来した。

 

「全て返してもらうぞ、AFO(オールフォーワン)!!」

「また僕を殺すか、オールマイト!」

 

 空を飛ぶようにやって来たオールマイトと、迎え撃つAFO(オールフォーワン)ががっぷり組み合い、互いを弾き飛ばす。一合一合が重く、その衝撃が足元のコンクリートを割った。瓦礫とともに嵐のような風が吹き荒れる。

 未だ意識の戻らない荼毘の腕を掴んで庇いながら、空は荒れ狂う砂塵に目を凝らした。何事かを話しながら向き合う両者。駆け出すオールマイトに向かい、AFO(オールフォーワン)は軽く左腕を掲げた。その腕が瞬時に肥大し──オールマイトの身体を吹き飛ばす。

 

「【空気を押し出す】+【筋骨発条化】・【瞬発力】×4・【膂力増強】×3──この組み合わせは楽しいな……増強系をもう少し足すか……」

 

 まるで実験するかのように楽しげな声色だが、これは現実。あのオールマイトがただの一振りで吹き飛ばされたことも、その衝撃で幾つものビルが風穴を開けられ崩れ落ちていくことも、

 

(……あ、ぁ、あ……)

 

 そこにいたはずの数多の人々の命が、この一瞬で喪われてしまったことも。紛うことなく現実なのだ。

 空は目を見開き、無意識のうちに荼毘のコートの端を掴む。じとりと冷たい汗をかく手のひらが、震えて震えて、止まらない。

 

「オールマイトォ!!!」

「心配しなくてもあの程度じゃ死なないよ。だから」

 

 叫ぶ爆豪とは裏腹に穏やかに話しながら、AFO(オールフォーワン)はその指先から黒鋲を伸ばして黒霧に突き刺した。

 

「ここは逃げろ弔。その子を連れて」

 

 【“個性”強制発動】──対象の人物が意識を失ってもなお、その“個性”を発動できる。その“個性”を以て黒霧の【ワープ】を発動させたAFO(オールフォーワン)は再度死柄木に「行け」と促した。

 

「先生は……、!」

 

 死柄木の震える声は続かない。崩れ落ちた街の瓦礫の向こうから、およそ人のものとは思えない凄まじい跳躍の音。一拍置いてAFO(オールフォーワン)の前に着地したオールマイトは、巨悪目掛けて拳を握る。

 

「逃がさん!!」

「常に考えろ弔。君はまだまだ成長出来るんだ」

 

 突進するオールマイトを受け止めながら、AFO(オールフォーワン)は仮面の奥で口角を吊り上げた。

 死柄木が仲間やコマと逃げる手筈は整った。

 この場に報道ヘリも集まって来ている。

 

 ──今だ。

 今が一番、いいタイミング(・・・・・・・・・・・・)

 

「おいで、空」

「えっ……」

 

 荼毘をコンプレスの【圧縮】内に匿い、爆豪を捕獲せんと向かうコンプレスたちを見送った空。彼女の胴が黒鋲に絡め取られ、宙に浮いた。引き寄せられた少女はわけのわからないまま、男の腕の中にしまわれる。

 

AFO(オールフォーワン)ッ!?」

「おっと。酷いじゃないかオールマイト、レディに対して乱暴はよせよ」

 

 再び迫るオールマイトの拳、その勢いが揺らいでブレる。驚愕と焦燥に見開かれた碧眼には、AFO(オールフォーワン)に抱えられた、真白い少女の姿が映っていた。

 

「君もそう思うだろう? 空」

「せん、せい……?」

「さぁ空、今だよ。今こそ君の“個性”を使うべき時だ」

AFO(オールフォーワン)!? 何を言って……!」

「君しかできないことさ」

 

 呆然とする少女の頭を優しく優しく撫でながら、悪魔はわらう。

 

「僕の傷を、治してほしい」

 

「──駄目だ!!」

 

 穏やかに言うAFO(オールフォーワン)とは対照的に、オールマイトは雷のように声を上げた。血を吐くように、青褪める少女に訴える。

 

「駄目だお嬢さん、奴を治してはいけない!!」

「聞いたかい空、トップヒーローの有難い言葉を!」

 

 血相を変えたオールマイトを横目に見ながら、AFO(オールフォーワン)は殊更声に熱を込めてみせる。

 

「自分の意に沿わない奴は、その傷を癒すことも許さない。

 そうして“要らないモノ”を排斥するのが、この国のNo.1ヒーローなんだそうだ」

 

 空はその言葉を聞きながら、はくりと唇を震わせた。彼が語る“要らないモノ”。それはきっと自分のことでもあるのだと、そう思ったからだ。

 

「貴様……! また屁理屈を!!」

「屁理屈? まさか! 僕は大真面目さ。真面目に、真摯に、ヴィラン(僕ら)の理屈で生きている」

 

 ヒーローと(ヴィラン)。2人の間に挟まれながら、空は混乱の極みにあった。見渡せば荒地となった街の残骸。幾つもの生活と命が踏み潰された跡が青い目に焼き付く。

 そんな現実の光景を目の当たりにしながらも、脳裏にはいつかの声が木霊していた。

 

 

 

『わたし、いきてちゃ、だめです……!!』

 

 “個性”【依存】の発現によって両親の“個性”を、過去の頑張りを、夢見る未来を奪ってしまった自分。罰を受けて当然な自分を、それでもと、手を差し伸べてくれた赤い翼の少年──そんな彼の優しい“個性”すら、奪ってしまった自分。

 

『そんなことはないよ。……けれどそうだな、君が生きていく理由が欲しいというのなら……』

 

 そんな自分でも、生きてていいと言ってくれた。抱き締めてくれた。

 

『ヒーローに救われなかった子どもたちを、君が救ってあげてほしい』

 

 

 

「社会にそぐわない(ヴィラン)を、ヒーローは救けちゃくれない」

 

 空の意識が過去から現在へ戻ってくる。震える少女の目の前で剛腕が振るわれ、言葉とともに激闘する。吹き荒ぶ衝撃波が白髪を乱した。

 

「だからヴィラン(僕ら)は、ヴィラン(僕ら)を救わなきゃあね」

 

 苦渋の表情を浮かべながら吹っ飛ばされていくオールマイトから視線を腕の中に移し、AFO(オールフォーワン)は自身のマスクを外した。顕になった潰れた目元を歪めて、微笑む。

 

 

「ねえ空、──僕を救けてくれるかい?」

 

 

 空っぽな少女の心に、生きていていい理由が流れ込む。それはたくさんのものを奪い、あたたかな何もかもを失った少女が、たったひとつ縋れる言葉。

 

「……はい。AFO(オールフォーワン)、先生」

 

 壊されていく建物の悲鳴に紛れて、誰かが“やめろ”と叫んだけれど、それは空の心には響かなかった。

 

 そうして空は、光に手を伸ばすかのように指先を持ち上げた。潰されてひきつれた瘡蓋の肌に触れて、祈るように目を閉じる。祈る。

 

 ──いたいのいたいの、とんでいけ。

 

「……ああ、ああ、ようやくだ……」

 

 【自己再生】のエネルギーを譲渡し終えた空は、肩で息をしながら顔を上げた。その視界に男の姿が映る。

 白い短髪。鼻筋の通った端正な顔立ち。不思議な色合いをした白い瞳が、彼方を見やって弧を描く。

 

「君が絶望する顔を、この目で見られた!!」

「オールッ……!!」

 

 再び駆け付けたオールマイトの腕を取り、“個性”で増強した剛腕を以て地に叩きつける。砕かれたコンクリートの中央から見上げるヒーローと、月を背に見下ろす(ヴィラン)の視線が交錯した。片や苦鳴を噛み殺し、片や愉悦に口角を吊り上げて。そんな一拍の静寂を破ってAFO(オールフォーワン)は夜空から真っ直ぐに降下。追撃を叩き込む。

 

「“個性”【赤外線】でもある程度わかりはするけれど、やはり直に見るのは違うね」

「ぐ、ゥ……ッ」

「おいおいオールマイト、笑顔はどうした? 何だいその顰めっ面は!」

 

 潰された目や鼻、それに付随する呼吸器官に至る全てが治癒されたAFO(オールフォーワン)、そのパワーもスピードも治癒以前とは比べ物にならなかった。一振りによってビルをも砕く拳が、何度も何度もオールマイトを襲う。オールマイトもまた屈するまいと歯を噛み締めながら拳を打ちつけた。肌を割き、口から血を吐き、幾重にも傷付きながら、巨悪に真っ向から立ち向かう。

 

「ひ、……!」

 

 そんな攻防の真っ只中に晒されて、空は目を閉じた。深い傷を治癒し終えた身体は疲労でろくに動かせず、AFO(オールフォーワン)の腕の中で縮こまる他ない。その蒼白な頬が飛ばされた瓦礫によって切れ、赤い赤い血が舞うのを見て、オールマイトはハッと目を見開いた。それからAFO(オールフォーワン)を睨み据える。

 

「もう、もういいだろう! 彼女を離せ!!」

「……君ってやつは、こんな時まで」

 

 義憤に吼える仇敵を見下ろし、AFO(オールフォーワン)は嗤う。

 あまりに滑稽だった。抗するだけの力を持たないくせに万人を守ろうとする。目の前にいる小娘は、言われるまま敵を治癒し、今まさに自分を死地に追いやった者だというのに。

 

「あァ、本当に、ヒーローってのは大変だね。流石に同情を禁じ得ないよ」

 

 嗤う。嗤う。さも悲しげに眉を顰め、肩を竦めながら、AFO(オールフォーワン)は抱えた少女の身体を空高く投げ飛ばした。

 え、と少女の口から零れた声は、怒りも悲しみもなく真っさらな色をしている。理解が追いつかず、驚愕すらできないでいる子ども──そんな彼女を救わんとオールマイトは跳躍した。

 

「ヒーローは多いよなあ、守るものが」

 

 もしも。

 もしも少女の翼が空を飛べたなら、彼女はオールマイトの手を借りずこの場を離脱できたかもしれない。

 もしもオールマイトが非情だったなら、あからさまに餌として飛ばされた少女になど見向きもせず、AFO(オールフォーワン)に隙を見せなかったかもしれない。

 もしも少女がAFO(オールフォーワン)を治癒しなかったなら、こんなにもオールマイトは追い詰められなかったのかもしれない。

 もしも少女がAFO(オールフォーワン)を治癒しなかったなら、今も必死に空駆けるグラントリノは、間に合ったのかもしれない。

 

 もしも少女が、AFO(オールフォーワン)の如何なる言葉にも手段にも屈せず、彼を治癒しなかったなら、違う未来もあったのかもしれない。

 

 けれどそんなもしも(・・・)は、もうどこにも存在しない。

 

 

「だからこうして、殺されるんだ」

 

 

 AFO(オールフォーワン)が伸ばした鋲が、束となって空中のオールマイトを穿つ。かつて抉られた左腹部を、拳振るう右腕を、命を動かす心臓を穿ち、捻り、引き裂く。

 

「グ、ハ……ッ」

「……え?」

 

 けれどオールマイトは残された左腕を伸ばした。その腕で目を見開く少女を庇うように掻き抱き、地に向けて落下していく。もう着地する力すら残されていないのだ。ぐしゃりと骨を軋ませながらコンクリートに叩きつけられ、その衝撃で空は彼の腕の中から転がった。細い身体は痛みと疲労のせいで、まるで油を差していない錆びついたブリキの人形のよう。這いつくばった状態で何とか首だけ動かして、離れたところに倒れるヒーローを見た。

 

「どう、して、……どうして、」

 

 ──わたしなんかを、庇ったの?

 

「……どうして……?」

 

 ヒーローは、社会から弾き出された者たちを救わない。

 それが空がこれまで生きてきた15年間で築き上げた常識だった。この超常社会に適合できず、傷つけられた子どもたちを何人も見てきた。その涙を拭い、傷を癒すたびに、心に降り積もった諦念。

 

 “ヒーローはきっと、救けてはくれない。”

 

「……無事、かい? お嬢、さん……」

「あ……、」

 

 けれどオールマイトは、笑っていた。いつものメディアで見せる筋骨隆々とした身体はどこへやら、傷つき痩せ衰えた体躯でもって、柔らかに笑ってみせたのだ。落ち窪んだ眼窩の中、今なお輝きを失わない碧眼が、少女を見つめる。

 

「こわ、かったね。怖い思いを、させたね……」

「ぁ、や……」

「……君はきっと、優しい子なんだ。……大丈夫、」

 

 大丈夫だよ、と。肉の削げ落ちた痩けた頬でニカリと微笑み、オールマイトは立ち上がった。穿たれた身体からぼとぼとと血や臓物が零れ落ちる。その激痛は想像を絶するほどだろうに、彼は傷つき衰えた身体に気力を漲らせ、大地を強く踏み締めた。

 

AFO(オールフォーワン)を倒して、君を自由にする」

 

 そうしてグッと縮めた体勢から、弾丸のように飛び出した。彼はAFO(オールフォーワン)に肉薄し、その拳を振るう。

 

「おおおおおおお!!」

 

 左手のみのマッスルフォーム。歪な姿はオールマイトの限界を物語っていたが、それでも尚彼は突き進む。もう死んでもおかしくないはずのヒーローの拳圧を受け止め、AFO(オールフォーワン)は目を眇めた。

 

「骸骨風情が随分と頑張るじゃないか」

「このままおめおめと死んでいられないんでね!!」

「無理をするなよ、その傷だぜ?」

 

 揶揄するように言いながらも、AFO(オールフォーワン)の脳裏には6年前のあの日がよぎっていた。“腸を撒き散らし迫ってくる”。そんな壮絶な光景がまたも眼前で繰り返されていることが、巨悪の心を不可解で満たした。

 何故そこまで。

 何の為に。

 

「先程手を合わせてようやく確信を得たよ、オールマイト。──もう君の中にワン・フォー・オールは無い」

 

 今オールマイトが使っているのはその大いなる力の余韻に過ぎない。譲渡した後の残り火は使うたびに弱まっていく。

 

「燃え滓が足掻いて、何になる?」

 

 もはや吹かずとも消えゆくだけの弱々しい光。

 そんなものを携えて何を為そうというのかと(ヴィラン)は問う。何が出来るのかと。何の為にそこまで足掻くのか、と。

 

「……そうだな」

 

 答えるヒーローの胸中は暗く、酷い吹雪が吹き荒れていた。極寒と暗闇に閉ざされた世界に、ただひとつ、あたたかな火が灯る。

 

 

 

『限界だーって感じたら思い出せ』

 

 はじめは小さく、弱々しく揺れるしかなかったその火は、いつかの言葉を焚べられてその勢いを増した。

 

『何の為に拳を握るのか』

 

 ──何の為に。

 

原点(オリジン)ってやつさ! そいつがおまえを、限界の少し先まで連れてってくれる!』

 

 言葉と想いを焚べられた炎は煌々と輝き、懐かしい面影を映し出す。彼女は笑顔だった。強かに笑っていた。それが力になるのだと、教えてくれたのだ。

 

 

 

「……今の私に何が出来るって? そりゃァね」

 

 震える唇を持ち上げて、オールマイトは笑う。

 

「“平和の象徴”を全うするぐらいか、な!!」

 

 返答とともにAFO(オールフォーワン)の横っ面を殴り抜く。その腕は軋み、無数の内出血によりどす黒く色を変え、裂傷による血が夜空に舞った。

 

「俊典ィ!!」

 

 神野から駆けつけてきたのだろう、グラントリノが常の飄々とした態度をかなぐり捨てて叫ぶ。目を剥いた必死の形相。きっとそれだけ心配かけちゃったんだなァと、オールマイトは心中で謝罪した。

 ──すみません、グラントリノ。

 ──きっともう、これ以上、一緒には、

 

 

「オールマイトォ!!!!」

 

 

 ふと顔を上げる。夜空に掛かる氷の橋。その上を疾走した少年たちが、爆風により飛び上がった爆豪とともに戦場を離脱していくのが見えた。

 この悍ましい戦場を横断する真っ直ぐな軌跡。

 “個性”を用いて、誰かを救わんと動いた彼ら。

 それが流れ星のように煌めいた。少なくもオールマイトの目には、そう映ったのだ。

 

(──ああ、) 

 

 きっと今も泣いてるんだろうなァと、泣き虫な子どもを思い、オールマイトは目を細めて微笑んだ。

 

「……ごめんな、少年」

 

 眩しそうに、悔しそうに、誇らしそうに、微笑んだ。

 

「一緒に生きて、育てて、叱ってやらなきゃならんのになァ」

 

 “私はここまでみたいだ。”

 そんな弱音は何とか吐き出さず飲み込んだが、もう無いはずの胃がじくりと痛んだ。腹部に限らず、身体中が“もう無理だ”、“もう動いてはいけない”と警鐘を叫び続けている。

 

「けれど、……けれど、せめて。……次をゆく君が、未来に向かって、進んでいけるよう」

 

 それでも。

 それでもオールマイトは、平和の象徴は、笑って立ち上がる。立ち向かう。

 

「少しでも道を、照らしてみるよ」

 

 さらば。

 

 ──さらば。全てよ。

 

「……おおおおおおお!!!!」

 

 渾身。

 想いの全てを。積み重ねてきた研鑽の全てを。受け継いできた力の全てを。残された左腕に込めて、放つ。

 

 

「UNITED STATES OF SMAASH!!!!」

 

 

 その拳がAFO(オールフォーワン)を捉えて、地に打ちつける。その衝撃波は遥か空高くまで吹き上がり、オールマイトたちを除く全てのものを吹き飛ばした。報道ヘリも、グラントリノも、地面に転がっていた空も、全て。

 

「……っ」

 

 瓦礫に強かに頭を打ちつけ、視界に暗い靄が掛かる。それでも伸ばした少女の指先は、一体誰に向かっていたのか。空本人すらわからないまま──夜より暗い闇に、その意識の全てが呑まれた。

 

 

 

───

 

 

 

 は、と開いた空の目に映ったのは、知らない天井だった。常日頃彼女が訪れていたセーフハウスでも、神野のバーでもない小さな部屋だ。床にはゴミが散乱し、壁には新聞のスクラップやメモ書きが所狭しと貼り付けられている。

 

「……、ここ、は」

「お? 空ちゃん起きたか? ──寝てろよ!」

「くーちゃんお目覚めです?」

「トゥワイス、さん。トガさん……」

 

 視界を埋めた2人の顔を見、空は瞬きひとつ。それから寝かせられていたソファーの上にゆっくりと上体を起こした。薄暗い室内にはトゥワイス、トガヒミコ、マグネ、スピナー、コンプレスに、荼毘の姿。そして、

 

「空、よくやった!!」

 

 駆け寄ってきた死柄木が空の両肩を三本指で掴む。間近になった顔にはいつもの手は着けられていない。顕になったその赤い目が、爛々と燃えていた。

 

「おまえの“個性”のおかげで、オールマイトはおっ死んだ!!」

「…………え、」

「ハハ、ホラ見ろよ。あの死に顔!」

 

 そうして視線で促された先。パソコンのディスプレイにはとあるサイトに投稿された動画が流れていた。

 崩壊した神野の街。拘束され連行されるAFO(オールフォーワン)。今なお救助に動く数多のヒーロー、警察たち。そして、

 

「……ひゅ、ッ、ひ、……ッ」

 

 まるで勝利のスタンディングか何かのように、左腕を天高く突き上げるオールマイト。彼はその場に立ち続けていた。AFO(オールフォーワン)がノックアウトされたその場で、直立不動で立っていた。

 ──風穴を開けられた身体から夥しい血を流し、見開かれた碧眼の瞳孔は散大している──もう彼が動くことはないのだと、画面越しにもわかった。わかってしまった。

 

「ぉ、ぐぇ……ッ」

「わ、わ、くーちゃん?」

「あらまァ」

 

 びちゃ、ぐちゃり。腹のものを吐き戻した少女は両手で自身の口を塞ぎながら、その場に蹲った。そこから零れ落ちる吐瀉物や涙が、少女の手のひらとエプロンドレスを汚していく。

 

 だいじょぶですか、口濯げるものとタオルか何か持ってきて、とか、空を気遣うような声が少女の頭上で飛び交う。そうした言葉の中に、殺人を忌避するようなものは見当たらない。

 殺人という罪を咎めない。

 少女を責める者はここにいない。

 その違和感が凄まじかった。背中を摩るトガの手のひらの温みさえ、何か違うもののように感じられたのだ。

 

「……なァ、空」

 

 そんな時、少女は穏やかに名前を呼ばれた。吐き出した吐瀉物の上に平気で足を踏み出し、その靴を汚した死柄木は、しゃがみ込んで空と視線を合わせる。

 

「自分だけ綺麗なところにいられると、思ったか?」

「…………ぁ……、」

「人の傷を治してるだけの自分は、手を汚してないって?」

 

 そうして彼は、うっそり、微笑む。

 

「そんなわけあるかよ」

 

 まるで歌うかのように、軽快に声は続いた。

 

「おまえが癒した人間は、今日も元気に悪事を働いてる。おまえが癒したその手で、別の人間の命を奪ってる。おまえが動けるようにしたその足で、誰かの人生を踏み潰してる」

「……わたし、が」

「そう。おまえがいたから、そうなったんだ」

 

 死柄木の赤い目が弧を描く。奇しくもそれは、三日月のように鮮烈に、暗い部屋の中で輝いた。

 

「なァ、空、ずぅっと前から、おまえは(ヴィラン)だったんだよ」

 

 死柄木にとって空はこれまで、酷く中途半端な存在だった。表の社会で生きていけないくせに、倫理観や善性を未練たらしく持ち続けていた少女。“誰かを治す”という大義名分でもって、間接的に誰かを殺し続けてきたくせに。あまつさえ懐かしそうに、嬉しそうに、ヒーローを見つめて“よかった”などと宣う。

 その滑稽なメッキを剥がしてやりたかったのだと、歓喜を込めて死柄木は声を熱くさせた。

 

「でも今日、やぁっと自覚しただろ? そして社会もおまえをこうして大々的に報じてる──オールマイトを殺した、大悪党だって」

 

 空は何も言えなかった。歪で掠れた呼吸を繰り返すのみだ。だからつけっぱなしのディスプレイから流れるメディアの声がよく響く。

 ──オールマイトを喪ったのは世界の喪失だ。

 ──何故彼が死ななければいけなかったのだ。

 ──その原因になったのは(ヴィラン)連合、あの強大なマスク(ヴィラン)

 

 ──そして何より、

 ──マスク(ヴィラン)を治癒して手助けした、あの少女。

 

「……あ、ぁ、あ……」

 

 白髪を掻き乱し、頭を抱えて蹲る。そんな少女の姿に死柄木は目を細めて微笑んだ。

 “(ヴィラン)になりきれない子を(ヴィラン)にするには、大衆の声が一番だ。”

 かつて教えてくれた先生の声に頷いて、彼は少女の肩を叩く。気にするなと慰めるように、よくやってくれたと労うように、ようこそと歓迎するように──この上ない歓喜を込めて!

 

 

「ハッピーバースデー、空。今日からおまえは名実ともに、最悪で最高の(ヴィラン)だ!!」

 

 

 

───

 

 

 

 夜の帳が下りきってからも、そのビルは慌ただしく稼働していた。ヒーロー公安委員会。ヒーローを統括し治安維持に務める組織。その長である女傑もまた例外ではない。災害時の交通規制、救助に当たるヒーローの選出、要請、係る費用の捻出や計算、伴う申請書の作成──次々に積み上がる仕事を処理していた時だった。

 公安所属のビル。その最上階に位置する委員長室の扉を慌ただしく叩き、駆け込んできた一人の青年。彼と対峙し、公安会長はつと目を細めた。

 

「……あら。案外速かったのね」

「皮肉ですか? 遅すぎるくらいでしょ」

 

 青年、ホークスは額に汗をかき肩で息をしていた。担当地域である博多からこの東京まで飛んできたばかりと見える。

 

「そう、遅すぎる──遅すぎたせいで、あの子はこんなことになってしまった」

 

 彼が言う“あの子”が誰なのか。公安会長は当然知っていたし、彼がその件について直訴しに来るであろうことも予測していた。だから淡々と、迎え撃つことができる。

 

「だから何なのかしら。まさか、今更あの子の罪状や指名手配を取り下げろとは言わないわよね」

 

 ぐっ、と険しくなった眉間の皺を見やり、会長は小さく息をついた。それは溜め息のようでそうではなく、彼への憐憫も含んでいた。

 

(……馬鹿な子)

 

 飄々とスマートに、世の何もかもを俯瞰したように振る舞うホークスは、その実誰よりも理想を追い求めるヒーローだ。自分がそうであったように、誰かの未来を明るく照らそうとする。そのために自分に犠牲や責任を強いることも辞さない。

 だからホークスは、いつか取りこぼした小さな少女のことを、忘れることなく覚えていた。“攫われたのは仕方ないことだった”、“小さな貴方にはどうしようもないことだった”と周囲が幾ら宥めても、彼は断固として首を縦に振らずに。

 

『【治癒】は、稀少な“個性”……まだあの子は、きっとどこかで生きている』

 

 そう信じた彼は、公安から指示された任務やヒーローとしての業務の合間に【治癒能力を持つ白髪の子ども】について独自に調査していた。いつかどこかでまた会えて、暗い場所から救い出して、そうして光の中に連れ出すことができると──信じて、信じて、信じ続けて。

 その結果に起きたのが神野事件であり、オールマイト殺害だった。

 

「……確かにあの子の治癒がAFO(オールフォーワン)を援護した。それがオールマイト殺害を幇助したのは事実です」

 

 ぎり、と食いしばった歯の奥から、絞り出すような声でホークスは言う。

 

「けどそれは、あの子の置かれた環境がそうさせたんです。あの子は本来、誰かを傷つけることをよしとない。……“個性”を奪うのが怖くて、ひとりきりで閉じこもって、それでも誰かの役に立ちたいって、必死に思ってた」

 

 ホークスの訴えを聞きながら、会長もまたいつかの時を思い出していた。当時のホークス少年が連れてきた痩せ細った少女は、傷つけることも傷つけられることも怖くて、ただ怯え震えていた。小さな小さな、悲しく寂しいこどもだった。

 

「あの子は、きっと──攫われてさえいなければ、誰かを殺すなんてこと、なかったんだ」

 

 そうかもしれない、と言葉なく彼女は思った。

 あの時、あの夜。ほんの少し何かが変わっていれば、あの少女はこちら側に立って、光に向かって生きていたかもしれない。

 オールマイトを殺すことなく、むしろその“個性”を以て、彼を救うことができたのかもしれない。

 

(……けれどそれは、もう、)

 

 ──実現しない、もしもの話だ。

 

「だからっ、」

「“彼女に非は無い”と、今回殺されたのがエンデヴァーだったら、貴方は同じことが言えた?」

 

 ホークスは絶句した。辛うじて掠れた息が喉から漏れたが、それは言葉になりきらない。反論する術を探そうとしているのだろうが、聡明な彼だからこそ、見つからないのだろう。会長はそれを見てとって、金糸の睫毛を伏せた。

 

「わかっているでしょう、ホークス。人は簡単に感情を切り離せはしない」

 

 長年にわたって人々を救い続けたグレイトフル・ヒーローは、数多の人々に愛された。その一挙一動に熱狂し、その偉業を讃え、厚い信頼を置いたのだ。

 それが如何に、世界に浸透していたか。

 

「平和の象徴が齎していたのは、犯罪率5%だけじゃないわ。

 “あの人がいれば大丈夫”という、平和に浸かれることへの安心感。そして、“あの人みたいになりたい”という、平和へ向かう意志」

 

 現在のヒーロー飽和社会も、オールマイトという不動のNo.1がいたからだ。彼の光に照らされ、彼の光に憧れた者たちが、後に続こうとした。そうするだけの影響力が彼にはあったのだ。

 

「精神的にも、柱たりえた人物だった」

「……今回の殺害によって、それが揺らぐと?」

「ええ。貴方も、幾らでも予想できるでしょう」

 

 例えば、オールマイトに憧れたヒーロー志望の少年少女が、声を枯らして泣き叫ぶ。“どうして彼が殺されなければならなかったのか”。彼を襲った理不尽と無念を思い、問い続け、涙すら枯れきったその充血した眼は、一体どこに向かうのか。

 平和へ向かう意志が、怨嗟によって歪みはしないか。

 

「早急に手を打たねばならない──わかるわね?」

 

 会長の氷の眼差しに射られて、ホークスは拳を固くした。彼は聡明だったから、頭の冷静な部分でわかっていた。理解などとうにしていた。

 ただ心だけは納得せずに、少女の名を呼び続ける。

 

(──愛依……、)

 

 ぎちり、とグローブ越しに無理やり握り締めた手が悲鳴を上げる。けれどそんな痛みより、心を暗く染める後悔の方が、ずっとずっと痛かった。

 

 

───

 

 

「ッげほ、……ぐ、ェ、っ……」

 

 空は苦しげに喘鳴を漏らしながら、覚束ない足取りで走り続けていた。死柄木やトガヒミコの手を振り払い、先程の部屋から飛び出して、一体どこへ向かっているのか。

 どこへ、行きたいのか。それすらわからないまま、空は廊下を進み階段を登り続けた。ただ、ただ、ここではないどこかへと。

 

「は、ぁ……っ」

 

 そうして体当たりするようにして押し開けた扉の向こうは、屋上だった。日付も変わり、草木も眠る丑三つ時。とっぷり暮れた夜の街に、ぽつりぽつりと仄かな灯りが灯されていた。

 

「……ッ」

 

 この灯りが灯る全てに、誰かが生きている。

 全ての生きている人たちが、わたしを責めている。許さない、許さない、許さない、……

 

 ──“どうしてオールマイトが、死ななくちゃいけなかったんだ!!”

 

「ぁ、あ、あァ……っ」

 

 青い目に映る全てが、脳裏に響く声の全てが、少女の罪を叫んでやまない。空はふらつきながら手すりに縋りついた。ひやりと冷えたそれに額を当て、下を覗き込む。

 街中にある小さなこのビルは、全6階建てほどと見える。その屋上から見下ろす地面は程々に遠く、これなら充分(・・)な気がした。

 

(ここから、……落ちれば)

 

 そうすれば、何もかも、終わりにできるかもしれない──そう思って手すりを掴む手に力を込めた。その時だ。

 

「翼があるくせに、おまえは落ちて死のうとするんだな」

 

 背後から聞こえてきた声に、びくりと肩を竦ませる。それからか細く息を吸って、吐いて。空は振り返り、そこに立つ荼毘に向き直る。

 

「……空なんて、飛べないもの」

 

 ふ、と唇に乗せたそれは、笑みにしてはあまりに悲しい。

 

「わたしにとって(そら)は、いつだって、死ぬための場所だよ」

「飛び込めば一瞬で終われるからか」

「うん」

 

「終わらせたいか?」

 

「──う ん、」

 

 空は淡々と頷いた、つもりだった。その筈なのに声が喉の奥に蟠って、上手く紡げない。

 

「……わたしは今まで、“ヒーローに救われなかった子どもたちを救ってほしい”って、先生の願いを叶えるために生きてきた。そうすれば、こんなわたしでも、生きてていいんだって思えたから」

「……俺の火傷を治したのもか」

 

 空はこくりと、項垂れるように頷く。俯いているから彼女は気付けない。荼毘がその返答に、苛立つように目を眇めたことに。

 

「でも、……でも、オールマイトはわたしを救った。

 どうして? わたしは、いらない、子どもで。ヒーローは救わないはず、なのに」

 

 空っぽだった少女が唯一縋れた言葉を、オールマイトの拳が打ち砕いた。オールマイトが少女を庇った腕はあたたかく、向けた笑顔も声も優しかった。

 

AFO(オールフォーワン)を倒して、君を自由にする』

 

 あの言葉に偽りはなく、かのヒーローは、真に少女を救おうとした──だからこそ空は絶望したのだ。

 

「……あの人だったら、きっと、わたしなんかよりずっと、たくさんの子どもたちを救える。

 それなのにわたし、わたしは、……あの人を、殺しちゃった」

 

 自分の生きていていい理由を、自分自身の手で、潰してしまった。

 それがあまりに、馬鹿らしくて。空は自嘲の思いで笑みを作った。

 

「世界中のみんなが、わたしを責めてる。“わたしのせいで”って、怒ってる。当たり前だ、……わたしのせいで、オールマイトは、死んだから」

 

 自分を死に追いやった一因である小娘すら、オールマイトは気に掛け、その命を賭して守った。正しくヒーロー。大きく正しい優しさとあたたかさに溢れた彼は、多くの人々に愛されていた。望まれていた。

 

(わたしとは、……違って)

 

 空はぎゅうと、胸元を握り締める。

 

「世界中の、誰もが、わたしが生きてることを望まない。そんな中で、わたしは、……生きていけない」

 

 握り締め過ぎたその手は蒼白で、ぶるぶると震えていた。

 

「怖くて、怖くて、たまらない。……だったらもう、みんなが望むまま、死んでしまいたい……」

 

 視界がぼやける。このまま見えなくなればいいのになんて思いながら目を細めると、その頬を涙が伝った。嗚咽を噛み殺そうとしてできなくて、肩を震わせる。ぐしゃぐしゃになってなお笑おうとする表情は歪で、滑稽だった。

 

「……随分といい御身分だなァ」

 

 だが、荼毘は笑えなかった。中途半端で不気味で歪な小娘が、存在理由の喪失と呵責の念に耐えきれず自ら命を断つ──そんなこと彼にとってはどうでもいいはずで、そのまま鼻で笑って見ていればよかったのだ。

 

「絶望して、死んで、綺麗に罪を償ってハイ終わり?」

「、……だ、び?」

「そんな楽に終わらせてたまるかよ」

 

 それなのに彼は、そうしなかった。

 ずかずかと大股で歩み寄り、空の胸倉を掴み上げ、無理やり顔を上げさせる。彼の行動の意味が理解できない空は、呆然と荼毘を見上げた。

 

「……どうして、」

「どうして? ……、」

 

 どうして、空を死なせまいとするのか。

 改めて問われて、荼毘は答えに窮した。ざらついた舌の根を転がして、彼は目を伏せる。

 

「……なんでだろうなァ」

 

 不可解そうに荼毘を見つめる空の睫毛に、涙の粒が乗っている。ぱちり、瞬きの度にそれが僅かに光って、散っていく。

 その弱くてちっぽけな、僅かばかりの輝きを、このままずっと眺めていたい。そんなことを訳もなく思ったのだ。

 

「……荼毘?」

「……あァ、そうか。わかった──ムカつくんだ」

 

 荼毘は口角を吊り上げた。酷薄に、わらってみせる。

 

「勝手に俺に付き纏って、勝手に“救ける”だの言っておいて、自分の都合が悪くなりゃトンズラ──そんな奴、ムカつくに決まってんだろ?」

「な……わ、わたし、は」

「反論できるだけの元気はあんのな」

 

 揶揄するように喉を鳴らし、荼毘はひたりと、空を見据える。

 

「なァ、空」

 

 いつだったか気まぐれに付けた名前を呼んで、うっそりと笑みを深めて。

 

「可哀相になァ、おまえは誰かの傷を治してただけなのに、いつの間にかヒーローどもに、この社会に、(ヴィラン)にされちまった」

「……、」

「誰もおまえを愛さない。必要としない。救けちゃくれない」

 

 そうして荼毘は甘やかな声で、現実を突きつける。一声ごとに空の青い目が暗く揺らいでいくのを見てとり、心の奥底で歓喜した。

 

(あァ……、そうだ)

 

 ──おまえは俺の言葉だけに傷ついて、

 

「……けど俺は、おまえを必要としてやるよ」

 

 ──俺の言葉だけに、救われればいい。

 

「おまえは俺のために生きて、俺のために死ね」

「……あなたの、ため?」

「そうだ。俺が、俺の夢を果たすために。そのためだけに生きろよ」

 

 空はその言葉を、信じられないような気持ちで聞いていた。自分は自分で存在意義を潰してしまった愚か者で、誰からも愛され望まれる人を殺した大罪人だ。

 それなのに、

 ……それなのに、

 

 

「俺は、それを望んでる」

 

 

 は、と目を見開いた拍子に、青い目から涙が零れ落ちた。僅かばかりの輝きが、ぱっと散って、夜に溶ける。

 それを見た荼毘の目が、微笑みのように細められた。そして彼の手は空に伸び、血が滲んだ彼女の頬に触れ、拭う。それは全く優しくはなく、むしろ痛いぐらいだったけれど、空にとってはそれぐらいがちょうどよかった。

 

 じんじんと鈍く疼く痛みは、決して優しくはないけれど。すぐ傍にいてくれることを、教えてくれる。

 

(……ああ、)

 

 ──わたしはまだ、生きてていい。

 ──この人の傍なら。

 

 空は荼毘に倣って笑おうとした。けれど口を開けた途端、それはぐにゃりとひん曲がる。込み上げてくる嗚咽と想いが止められず、彼女は声を上げて泣き出した。わんわんと、ぼろぼろと、大粒の涙をこぼして。

 

 産声みたいに泣き叫んだ。

 

 

if√ 04.ハッピーバースデー

 

 


 

 【依存】の本編を書く際、「オリ主の存在によって物語がこうなればいいな」と思いながら書いているのですが、if√については「オリ主が敵側にいたらこうなってしまうだろうな」と思いながら書いています。そのため今回のオールマイトの件については作者の完全に趣味ではないというか、本当に断腸の思いというか……辛くて書きたくないけど書きたいという不思議な気持ちでした。

 

 今回のタイトルは【ハッピーバースデー】だったわけですが、この場面を介してAFO(オールフォーワン)の言いなりだった空が自分の意思で動き出します。それがどんな結果を生むのか、また死穢八斎會編を通して書いていけたらと思います。これもまた今回みたいにそんなにハッピー!な話ではないのですが、またお付き合いいただければ幸いです。

 

(2024/1/21)

 今回はこのif√4話の他に番外編に【しあわせを頬張る】をアップしています。こっちはちゃんと幸せな本編軸幼少期オリ主とホークスと目良さんと会長のほのぼのお正月短編です。もしよろしければお読みください。



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インターン編
87.少女、踏み出す。


 

 ワイシャツの替えを数枚、寝る時用のTシャツとショートパンツ、下着にタオル、歯ブラシなどのトラベルキット──クローゼットや棚から取り出したそれらを鞄に詰めていく。留め具の革細工がレトロでかわいい、林檎のような赤色のキャリーケース。それは夏休みに入る直前、来たる林間合宿に備えて目良さんが買ってくれたものだった。

 

「……なんだか、不思議」

 

 あの買い物は一ヶ月半前のことだというのに、ずいぶん昔のことのようにも、つい先日のことのようにも感じる。

 あの夏の日。まばゆいディスプレイの中で一際目を引いた赤いキャリーケース。“派手で、綺麗で、わたしには似合わない”と視線を逸らしたわたしの背を、目良さんはとんと促すように叩いてくれた。

 

『、目良さん?』

『こういう買い物はね、一目惚れしたものを買うのが一番なんです』

 

 多分ね、なんて言ってふっと浮かべた笑顔も。そんなやり取りをしたことも。キャリーケースを手にした時のそわそわした気持ちと、胸に溢れた嬉しさも。まだ色褪せることなく思い出せる。

 懐かしいなあ、と目を細めそうになって、いけない、と気を取り直した。両手で頬を軽く叩いて、深呼吸をひとつ。

 

「……うん、よし」

 

 今は、あたたかな思い出に浸る時じゃない。

 ちゃんと前に進まなきゃ──進もうと、決めたんだ。

 

 その気持ちを新たに支度を終えたわたしは、キャリーケースを手に部屋を出た。エレベーターに乗り込み、1階へ。扉が開いた途端に、ざわざわと賑やかな声が飛び込んできた。

 

「ケンカして」

「謹慎〜〜〜!?」

 

「……え?」

 

 “ケンカ”、“謹慎”……朝から聞くには穏やかじゃない単語に、わたしは足早に声の方へと向かった。いつもならみんなの楽しげな声が弾む食堂には今、驚きや疑問、呆れのざわめきが広がっている。

 

「馬鹿じゃん!!」

「ナンセンス!」

「馬鹿かよ」

「骨頂──」

 

「ぐぬぬ……」

 

 みんなの視線の先にいたのは爆豪くんと緑谷くんだった。爆豪くんはギリギリと歯軋りをしながら、緑谷くんは渋面を浮かべながら、どちらも掃除機を掛けている。……その顔や腕には幾つもの湿布や絆創膏、包帯が巻かれていた。

 

「謹慎って、いったい何が……?」

「何でも昨日の夜中、2人で寮抜け出して喧嘩したんだってよ」

「え、」

「しかも“個性”使ってバトったってよ!」

「いやどんだけ血気盛んなん?」

 

 砂藤くんが説明してくれた経緯に、峰田くんが青褪めた顔で付け足し、瀬呂くんが苦笑しながら肩をすくめる。彼らの話を聞いて改めて爆豪くんたちを見れば、あんなにも怪我だらけなのにも納得がいった。

 ……それにしても、“喧嘩”か。

 

「えええ、それ仲直りしたの?」

「仲直り……っていうのでも……うーん……言語化がムズい……」

「よく謹慎で済んだものだ!!」

 

 お茶子ちゃんや飯田くんと話す緑谷くんは、何とも言えない顔で眉を下げている。きっと彼の言う通り、上手く言葉になりきらないんだろう。

 思い出すのは、雄英入学当初の戦闘訓練。対峙する爆豪くんと緑谷くん。訓練の域を超えるほどの攻撃。ぶつかり合い。焦燥に焼け切れそうな顔をする爆豪くんと、それを真っ向から受け止めようとする緑谷くん。

 ただの“幼馴染み”というにはあまりにも、2人の間に行き交う眼差しは苛烈だった。

 

(……それに、)

 

 わたしの心に引っ掛かるのは、それだけじゃない。

 

 

『……オールマイトが静岡県に来てからしばらくして、デクは“個性”を発現させた。

 

 オールマイトに似た、【超パワー】の“個性”だ』

 

 

 暗がりに沈む赤色の目を思い出す。その声は低く、静かで。わたしにオールマイトについて問い掛けながらも、そのくせ確信を得ているような声だった。

 “個性”が衰えたと言われるオールマイト。彼と入れ替わるように【超パワー】の“個性”を発現させた緑谷くん。きっと誰よりこの2人を見続けていた爆豪くんだから気づいた。気づいて、思い悩んで、そして──わたしは踏み込めなかった場所に、彼は踏み込んだのだろう。

 

「……あの、爆豪くん、もしかして、」

「うるせェ」

 

 1人で掃除機を掛け続ける彼に問いかけるも、返答は短く切って捨てられた。視線を寄越しもしない。けれどその声の響きに感じるのは、拒絶とか怒りとか、そんなのじゃなくて。

 

「……話すことなんざ何もねー」

 

 話せることは何もない──言い換えればそれは、否定することもないということ。

 

「……そっか、」

 

 きっと彼は、確信を得たのだろう。傷だらけで不貞腐れた横顔は、けれどどこか憑き物が落ちたように穏やかに見えたから。だからわたしもそれ以上踏み込まずに、頷いて笑った。

 

「じゃあ掃除、よろしくね。頑張ってぴかぴかにしてね」

「んっとにうるせェなてめェはよ、──」

 

 ようやく顔を上げた爆豪くんのこめかみに青筋が走る。けれどそれも束の間、彼はわたしの姿を──荷物を見て、訝しげに眉を顰めた。

 

「……ンだその荷物。どっか行くんか」

「ああ、うん。3日間ほど校外に」

「ムム!? 空中(そらなか)くん今から授業だが!?」

「だ、大丈夫だよ飯田くん。学校側から公休の許可も出てるし」

「公休!? えーどったの急に」

「何をしに行くの? 愛依ちゃん」

 

 首を傾げた梅雨ちゃんの緑がかった黒髪がさらりと揺れる。それに頷き返して、わたしは笑って、手にしたキャリーケースを握り締めた。

 

「うん、──ちょっとリカバリーガールの、お手伝いに」

 

 

 

 “リカバリーガールのお手伝い”、というのは間違いではないけれど、丸ごと正しくはない。より正確に言うならばわたしは“リカバリーガールと共にオールマイトの治癒に当たる”ため、雄英を出てここセントラル病院に来ていた。セントラル病院は日本トップレベルの医療機関。わたしも神野後にお世話になったけれど、勤める医療スタッフの方々の腕も、医療器具を始めとする環境も申し分ない。

 ここでなら、より安全に、確実に──オールマイトの失われた臓器を、再生できる。

 

「空中」

「! はい、リカバリーガール」

 

 深い青の術衣に袖を通し、同じく術衣を身に纏うリカバリーガールに向き直る。彼女はマスクから覗く目を、静かに細めた。

 

「施術の手順は頭に入ってるね? 復唱してみな」

「はい、オールマ……患者に全身麻酔を施した後、医師の方々に開腹手術を行っていただきます。そして現在ルーワイ法で繋いでいる食道と空腸を切り離し──その空白部分に本来あった胃をわたしの“個性”で再生します」

 

 そしてその後は呼吸器官も同様に。

 先日リカバリーガールたちと共に検討した術式は、セントラルにも確認してもらっている。本来ヒトが持つ細胞では胃の再生は不可能だ。けれどその不可能を、わたしの【自己再生】と【譲渡】で超えていく。これまでのわたしの治癒を分析・検討してきた医師会でも“再生可能”と判断された。万が一のことがあればすぐに対応できるよう、歴戦の医療スタッフに最高の環境、そしてリカバリーガールもいてくれる。

 だから後は、実践するのみ──そう意気込むわたしの肩を、ぽん、とリカバリーガールが叩いた。その小さな手は柔らかく、ひどくあたたかくて、……それだけ自分の身体が強張っていることに気付かされた。

 

「空中。緊張するのは、何もおかしいことじゃゃないよ」

「……リカバリーガール、」

「人の身体に、命に、人生に関わることなんだ。身構えるのも当たり前さね」

 

 むしろその気持ちを忘れてはいけないんだよ。

 そう、リカバリーガールが諭すように口にする。わたしなんかより何十年も長く、広く、深く、人々の生き死にに触れ続けてきた人が、穏やかに目を伏せる。

 

「“患者に何かあったら”……その恐怖があるからこそ、私たちはこう思えるのさ。──“患者を救けるため、全力を尽くしたい”と」

 

 彼女は続けて説く。

 命を預かる者としての責任、使命感、……それは自分を揺らがせないための重石にも、自分を丸ごと押し潰さんとする重圧にも成り得るのだと。

 

「良くも悪くも、重いだろう?」

「……はい」

「怖いかい?」

「…………、は い」

「いいんだよ、それが自然さね。……だがね空中、これだけは覚えておいで」

 

 【治癒】の“個性”を持つヒーロー、だけじゃない。

 現場で(ヴィラン)や災害から人々を守るヒーロー。怪我人を救急車で搬送する消防士や救急救命士。手術を執り行う医師に看護士。生きようと戦う患者。それを支える患者の家族。患者のリハビリに従事する理学療法士に作業療法士──

 

「他にも数えきれないくらい、沢山の人々が命に関わっている。あんたも知っているだろう?」

「は、はい」

「……こんな“個性”を持っているとね、“自分がひとりで何とかしなきゃ”って、傲慢にも思ってしまうことがある」

 

 だからこそ、忘れてはいけないよ、と。リカバリーガールは切に言葉を継ぐ。

 

「重圧を共に背負おうとする人が、必ずいる。

 だから空中、あんたはひとりじゃない。ひとりには、絶対にならない」

「……ひとりには、ならない……」

「そう。私たち(・・・)が、あんたひとりに背負わせない」

 

 手術室の扉が開く。先に手術に取り掛かっていた看護士さんが、患者の全身麻酔が完了したと、わたしたちの出番だと告げる。

 わたしはそれに頷いて、リカバリーガールを見た。厳しくもあたたかい、優しい眼差しに、背中を押してもらえた気がした。

 

「──リカバリーガール、よろしく、お願いします」

 

 自分ひとりで命を背負うのではなく。

 みんなと一緒に戦うのだと。

 

 教えてもらったことを胸に足を踏み出す。手術室はひやりとした冷気と緊張感で満ちていた。無影灯が照らす部屋の中央には、手術台に寝かされた患者──オールマイトがいる。そしてその周囲に立つ医療スタッフは、誰もが真剣な眼差しをしていた。

 

(……皆さんが、オールマイトを救いたいと考え、思って、この場に臨んでいる)

 

 長年この国のトップヒーローとして立ち続けたオールマイトは、その力と笑顔と志を以て【平和の象徴】と謳われた。その影響力は日本に留まらず広く海外にも及び、数多の人々の道を照し、救った。

 ──そんな彼が救われないなんて、あってはならない。

 それはわたしだけじゃない、……ここにいるみんなが、そう思っているんだ。

 

私たち(・・・)が、あんたひとりに背負わせない』

 

 脳裏に響くリカバリーガールの言葉に、拳を握り締める。目の前では澱みなく開胸手術が行われ、縦割りされた胸骨を開胸器で開くのが見えた。

 カルテで見た凄惨な傷痕が──それでも必死に英雄の命を救おうとした人々による手術痕が、見えた。

 

「空中」

「、はい」

 

 足を、踏み出す。まだ少し震えてはいるけれど、それでもいいのだと先ほど言ってもらえた。

 緊張するのも恐怖するのも、おかしくない。

 それをひとりで背負うことはないと──その言葉が、わたしの歩みを進めてくれる。震える手を、それでも伸ばそうと思える。

 傷口に、命に、触れられる。

 

「“個性”を、使用します」

 

 細く長い呼吸をひとつ。それからわたしは指先に意識を集中させた。切断された食道、その断面部分の細胞を脱分化させ──本来あった形をなぞるように再生させていく。左手も空調の辺りに触れて、食道・胃・腸が繋がるように、少しずつ、少しずつ。

 

「……は、ッ……」

 

 新たに生まれては形を変えていく細胞が、空白を埋めて、やがて繋がる。疲労と安堵に溢した息と、わたしの背後で小さくさざめいたざわめきが共に手術室の空気を揺らした。

 

「空中、一度お下がり」

「……っ、リカバリーガール」

「よくやったね。胃の再生はできた。これから引き続き呼吸器官の治癒に移るが、いけるかい?」

 

 手術台から距離を取ったわたしと入れ替わりに、医療スタッフさんたちが次の行程を進めている。その頼もしい後ろ姿を見て、背中を支えてくれるリカバリーガールの手のあたたかさを感じて。

 

「……はい!」

 

 わたしは震える声で、それでも強く、頷いた。

 

 

 

───

 

 

 

「……あれ……」

 

 ふ、と意識が浮上した時には、わたしは見知らぬ部屋の中で寝かせられていた。清潔かつ簡素な調度品や、丁寧にベッドメイクされたシーツ、……セントラルの仮眠室だろうかと当たりをつけたところで、脳裏にこれまでの記憶が甦ってくる。

 ……そうだ、わたしはさっきまでセントラル病院の手術室で、オールマイトの失われた臓器の再生を──!

 

「……!」

 

 わたしはがばりとベッドから跳ね起き、部屋の隅に置かれていた靴を履いて部屋を飛び出した。廊下を進み、ナースステーションに呼び掛ける。

 

「あ、あの、すみません、オールマイトの病室はどちらですか……!?」

「え? あっ、空中さん!」

「まだ休養していなくては……! “個性”を使った反動なのでしょう?」

「いえ、わたしはもう平気なので……それより彼の容態は……!」

 

 彼の細胞を元に再生させた臓器だから問題ないだろうとは聞いているけれど、万が一拒否反応が起きてしまったら──その考えがわたしの声を焦らせる。そんなわたしを見て戸惑う看護師さんたちが、どうしたものかと互いに視線を通わせる、その時だった。

 

「ちょいと落ち着きな、嬢ちゃんよ」

 

 背後から聞こえてきた声に振り返れば、こちらを見上げる鋭い目と目が合った。白と黄色を基調としたヒーロースーツに身を包む、そのお爺さんには見覚えがある。

 

「グラントリノ、さん……」

「おう、久しぶりだな。で……あいつを心配してくれるのは有難いが、看護師さんたちを困らせちゃあいけねぇ」

「あ……すみません、取り乱しました……」

 

 そうしてわたしが頭を下げると、ふ、と微かに笑う声がした。再び振り返れば、先ほどよりうんと柔らかく、グラントリノさんの目が弧を描く。

 

「俊典の病室なら俺が知ってる。一緒に行くか」

「は、はい! お願いします」

 

 頷いたわたしに頷き返し、グラントリノさんは「こっちだ」と踵を返す。鮮やかな黄色のマントが揺れるのを追いかけながら、わたしは彼に問い掛けた。

 

「あの、オールマイトの病室をご存知だということは、お見舞いに行かれたんですか?」

「ああ、まだグースカ寝こけてやがったがな」

「! じゃあ……!」

「拒否反応もなく、無事に手術は成功した。そう聞いてる」

「……! よかっ、た……」

 

 “無事に手術は成功”、……その言葉に安堵の息を漏らした。自ずと頬がふやけて、緩むのを止められない。

 

「……ありがとよ」

 

 そんなだらしない顔をしているわたしに、それでもグラントリノさんは笑わず、ただ呟くように言った。静かに落ちた声が、無人の廊下に響く。

 

「……グラントリノさん?」

「あいつが幾つもの臓器を持って行かれちまった時、俺ァ何もできなかった」

 

 ──弱り、痩せ、衰える身体を引き摺ってなお、平和の象徴として戦い続けようとするあいつを、引き留めることさえ、何も。

 

「空中、……おまえさんが治してくれて、ようやくあいつの身体は癒えた。それが……ああ、思いのほか、ほっとしてなァ」

 

 見下ろした横顔は、微笑んでいた。それはあたたかく、安堵にほころび、……けれどどこか、苦しそうに見えた。

 わたしはグラントリノさんのことを何も知らない。彼とオールマイトがどういう関係なのかも知らない。けれど、先ほど彼が零した“何もできなかった”に、深い時間と重ねた悔恨を感じて。

 

「……あの、少しだけいいですか」

「何だ?」

「わたし、今回のことでリカバリーガールに教わったんです。“命を背負うのはひとりではない”って」

 

 その悔恨を、少しでもほどけたら。

 わたしはそう思い、小さく微笑んだ。

 

「わたしが治癒に臨んだ時、たくさんの人たちが一緒に戦ってくれました。

 それと同じに、オールマイトが戦い続けた傍らに、あなたがいてくれたのだと思います」

 

 グラントリノさんの目が少しだけ丸く、大きくなって。それからくしゃりと細められた。

 

「……生意気言いやがって」

「あっ、ご、ごめんなさい……?」

「謝るこたァねェ。……なんだ、堂々としてんのかビクビクしてんのか、どっちかわからん嬢ちゃんだな」

 

 おかしそうに呵呵と笑うグラントリノさんに、わたしもつられて笑った。廊下を進む足音と共に、軽やかに声は風に溶けていく。

 

 

 

───

 

 

 

 グラントリノさんと共にオールマイトを見舞った初日、彼はまだ病室のベッドで深く眠っていた。けれどその顔色は良く、再生した臓器の調子も良好なのだとわかって、改めて安堵したのも記憶に新しい。

 とはいえ初めて他人の臓器を“個性”で再生したのだ。容態が急変するかもわからないし、まだ経過観察は必要との判断で、わたしは数日セントラル病院に滞在することになった。オールマイトの容態を看るのと並行して、今回の手術についてのレポートを書いたり、リカバリーガールとセントラル病院の許可を得て患者さんを治癒したり、オペの見学をさせていただいたり、雄英高校の課題や予習をしたり。

 そんな風に過ごした、3日目のことだった。

 

「オールマイト先生、こんにちは。お加減はいかがですか?」

「ああ空中少女! いらっしゃい」

 

 “だいぶいいよ”、と答えてくれた言葉通り、オールマイトの容態はここ数日で着実に快方に向かっている。それに“よかった”と微笑んで、ベッドサイドに椅子を引き寄せ、腰掛けた。

 

「消化器官の調子も良いって、看護士さんに伺いました。もうお粥も卒業ですね」

「それは嬉しいね……! そろそろ焼き立てのパンが恋しくなって、夢に見そうなところだったんだ」

 

 この調子で回復したなら、再生した胃も呼吸器官も問題なく動く。そしたらもう、身体への負担を考えることなく、彼は好きなものが食べられるはずだ。

 そのことが嬉しくて、わたしの声が自ずと弾む。

 

「ふふ、はい! ぜひ、いっぱい食べてくださいね」

 

 少し涼しくなってきた9月の風が、病室の白いカーテンをはためかせる。その風はわたしの羽根を、オールマイトの金髪を揺らした。

 

「……空中少女、」

 

 その金髪の隙間から、落ち窪んだ眼窩から、透き通った碧眼が覗く。その目は真っ直ぐわたしを捉えて、それから深く頭を下げた。

 

「!? オールっ、」

「本当に、本当に、ありがとう。空中少女」

「いえ、わたしは……」

 

 慌てて言い募ろうとするわたしを視線で制して、オールマイトはゆったりと口を開いた。

 

「失われた臓器を再生するほどの治癒は、これまでの例にない。その領域に踏み込むことは、恐れもあったことだろう」

 

 ゆったりと、ゆっくりと紡がれる言葉。それは優しい雨粒のようにひとつひとつ心の湖面に落ちて、波紋を散らす。

 

「私は、君の勇気に敬意を表する。そして同時に、心からの感謝と──約束を」

「……約束?」

「……空中少女、君はこれから、数多の人々の願いに直面することだろう。それは君を後押しすることもあるだろうが、決して、それだけに終わらない」

 

 ──いつか誰かの願いが、君を、押し潰してしまうかもしれない。

 

「オールマイト、先生……」

「……その時に私は、必ず君の力になると誓おう。君の願いが、歩きたい道が、誰かによって捻じ曲げられることのないように。私の持ち得る全てを尽くそう」

「、でも」

 

 それでは、オールマイトに負担が掛かってしまう。ここまで命を燃やして戦い続けてきた彼を治したのは、決して無理をさせたいからじゃない。

 

「オールマイト、あなたはもう、充分すぎるほどに戦ってきました。みんなを救って、守ってきました。あなたの姿に憧れて、数多のヒーローが生まれました。だから──」

 

 だから、もう、

 そう続けようとしたわたしに、オールマイトは口許に人差し指を立てた。“Shhh……”と、茶目っ気を帯びた青い目が笑う。

 

「空中少女、……少しだけ、ナイショ話をしよう」

 

 にやりと口角を上げて笑ってみせたオールマイトは、次いで穏やかに目を細める。

 

「君の治癒は傷や病を癒すが、それだけじゃあない。癒しと共に、活力をも与えるものだ」

「活力? 体力のことですか?」

「そうだけど、それだけに留まらない。雄英の期末試験と、I・アイランドで事件と、神野と、今回。これまで4度君は私に治癒を施してきた。

 その度に、私は君に力を貰っていたんだよ。──まるで、聖火に火継をするように(・・・・・・・・・・・)

「火継……? それは、どういう……」

 

 オールマイトの言葉は抽象的で、わたしにはよくわからない。彼も詳しく伝える気はないようで、ただ微笑みに続く言葉を隠した。

 けれどその笑顔は、瞳の輝きは、どこまでも強い。

 

「……フカフカのベッドで安眠を取るのは、もう少し先ってハナシさ」

 

 決して強い口調でも、台詞でもない。むしろジョークじみた柔らかい言葉だ。……それなのにどうしてこうも、気圧されてしまうのか。わたしは息を飲んで、オールマイトを見つめ返した。

 

 痩せこけた頬。身体。落ち窪んだ眼窩。

 ──瞳の奥にはまだ、炎が燃えている。

 

 

 

「……いい加減、休んでくれたっていいんだけどなぁ」

 

 苦笑じみた声が入り口から聞こえて、わたしは我に返って後ろを振り返った。そこにはトントン、とドアをノックしながら立つ、塚内刑事の姿が。

 

「何を言うんだい塚内くん! 私はまだまだ現役だぜ!?」

「ちょっと前まで血を吐いてた奴に言われると説得力が違うね」

 

 軽快に会話を交わす様子から察するに、彼らはヒーローと警察の垣根を超えた友人なのだろう。そう判断してわたしは慌てて席を立った。

 

「すみません、長居してしまい……わたしはそろそろ失礼しますね」

「ああ、すまない空中さん、少しいいかい?」

「、はい?」

 

 呼び止められて塚内さんを見上げると、彼は丸い目を柔らかく微笑ませていた。

 

「……彼は偉大なヒーローだけど、大切な友人でもあるんだ。……救けてくれて、ありがとう」

 

 ……きっとこれまで重ねてきた日々や思い出、心配や安堵や喜びの気持ちが、綯い交ぜになって込み上げているのだろう。そんな瞳と声をしていたから、わたしは何と言ったらいいかわからず、深く深く頭を下げた。そんなわたしの頭上に、ふ、と優しい微笑の声が降ってくる。

 

「よければ外にいる彼女ら(・・・)にも会ってやってくれないか」

彼女ら(・・・)、ですか?」

「ああ。みんな君のことを心配していたし、感謝していたから」

「? はい」

 

 塚内さんとオールマイトに再び頭を下げて、病室を後にする。彼女ら(・・・)とは誰のことだろう──と、考えを巡らせるよりその声は早く響いた。

 

「猫の手手助けやって来る!」

「どこからともなくやって来る……」

「キュートにキャットにスティンガー!」

 

 その声は病院の中だからか、以前よりずっと小さかった。けれど聞き間違うことなんてない。個性溢れる3人の声も、口上も、確かに聞いたことがある!

 

「「「ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ!」」」

 

「ラグドール、虎、ピクシーボブ……!」

 

 びし!といつものポーズを決めてみせた彼らに駆け寄ると、3人はそれぞれの笑顔を浮かべて出迎えてくれた。虎の大きな手がわたしの肩を叩き、ピクシーボブが頭を撫でて、……

 

「、……ラグドール」

「……ごめんね、空中さん」

 

 ラグドールが、そっとわたしの手を両手で握り、額に押し当てた。快活な彼女らしくない静かな声の底に、苦しげな響き。わたしは夏の日を思い出す。

 林間合宿の肝試し中に起こった(ヴィラン)連合による襲撃。ペアだったわたしと障子くん、そこに居合わせたラグドールは共に脳無と戦った。それから荼毘の襲撃に遭って、そして──視界の端にコンプレスの姿を見つけたわたしは、咄嗟にラグドールを突き飛ばした。それが結果的に、彼女を庇うことに繋がって……

 

「私はあなたのおかげで無事だった。けど──」

「……大丈夫です。ラグドール」

 

 ちゃんと、今、わたしは生きてここにいる。

 無事に戻ってきて、また歩き出している。

 そのことを改めて言葉にすると、ラグドールは小さく息を飲んだ後、顔を上げてくしゃりと笑った。下がった眉には不甲斐なさも込められていたのかもしれない。けれど彼女はそれ以上俯かず、さまざまな感情を飲み込んで笑ってくれた。

 

「……そういうことなら、さっそく快気祝いだにゃん!」

「えっ? ええと、でも、」

「そんなに固くならないでいいわよ。ちょっとしたものだもの」

「遠慮はご無用ー!」

「わっ! ……ふふ、はい」

 

 遠慮しようとしたわたしにピクシーボブが笑い、廊下の先の自販機を指差す。続けてにぱっと笑ったラグドールが跳ねるような足取りでわたしの背を押した。目を瞬かせるわたしに、虎がふっと微笑む。

 

「空中、何がいい? 奢らせてくれ」

「え、と……ありがとうございます。じゃあ、コンポタで」

「コンポタ? 熱いやつしかないわよ?」

「はい。でも好きなので」

 

 別の飲み物が嫌いってわけじゃないけれど、どうしても自販機といえばコンポタが結び付いてしまう。わたしが昔を思い出して笑えば、ピクシーボブはふうんと相槌を打った後、“まぁ夏のコンポタもオツなものよね”と笑った。

 そうしてわたしは虎から買ってもらったコンポタを受け取り、プッシーキャッツたちと共に自販機近くのソファーへ腰を下ろす。虎は豆乳、ピクシーボブはレモンティー、ラグドールはカフェオレ、……とそれぞれに視線を巡らせて、わたしはひとつ息をつく。

 

「そういえば、マンダレイはご一緒じゃないんですね」

 

 プルタブを開けて、コンポタをちびちび飲みながらわたしは問い掛けた。四位一体といっても過言じゃないプッシーキャッツの一角が欠けているのはやはり気になる。わたしが首を傾げると、同じ向きに首を傾げながらラグドールが答えた。

 

「マンダレイはね、しばらく洸汰と一緒に雄英に滞在するんだにゃん」

「今頃向こうに着いてるはずよ」

「え、……」

 

 “どうして”と疑問が浮かぶと同時に、思い当たることもあって。わたしは小さく息を飲んで呼吸と思考を整えた。

 

「……先日相澤先生に聞きました。プッシーキャッツも(ヴィラン)連合捜索チームに加わるって。マンダレイの雄英滞在は、そのことで……?」

「ああ」

 

 そうだ、と虎が頷く。虎曰く神野事件の頃から既に塚内さんから打診があったそうで、相談と検討を重ねた結果、明日から正式にプッシーキャッツとグラントリノたちがチームアップして捜索を始めるのだという。

 

「あちきの“個性”【サーチ】は、一度見た人の弱点や居場所がわかる。一度でも連合の姿を捉えたなら、いくら【ワープ】で逃げようったって丸裸にしてやるにゃん!」

「捜査にヘリを使わせてもらえるらしいからね。ラグドールの“個性”は捜索にうってつけってわけ」

「しかし相手は(ヴィラン)連合……生半な相手ではない。洸汰を同行させるのは危険極まりないが、かといって、独りで置いていくこともしたくなかったのでな」

「……だから、マンダレイが一緒にいることになったんですね」

 

 両親のことがあって、ヒーローや超常社会そのものを毛嫌いしていた洸汰くんと、ヒーローであるマンダレイ。林間合宿で何があったかは知らないけれど、どこかぎこちなかった2人も向き合えるようになったのかもしれない。

 そのことが嬉しくてわたしは頬をほころばせた。……それと同じくらい、思うことがあって。

 

「ありがとうございます、プッシーキャッツ。……どうか、お気をつけて」

「まっかせてにゃん!」

 

 睫毛を伏せて、目を細める。それはきっと微笑みに似ていたから、ラグドールも笑って胸を叩いた。

 

「ま、そういうワケだから。あんたたちは安心して高校生を謳歌しときなさい」

 

 ──“高校生を謳歌”できるかは、わからないけれど。

 それでもそれを口にはできなかったし、何よりピクシーボブたちの優しさが嬉しかった。だからわたしも“はい”って応えて、明るく笑って頷いた。

 

 

 

───

 

 

 

 神野事件──平和の象徴(オールマイト)の終焉。

 あの日、わたしたちはひとつの大きな終わりを迎えたのだと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。

 

 緑谷くんとオールマイト。2人を繋ぐ大きな謎に踏み込んだ爆豪くん。

 数多の追跡をくらませ、まだ逃げおおせている(ヴィラン)連合。

 連合を追う塚内さんやグラントリノ、プッシーキャッツ。

 オールマイトもまた、まだ眠らないと瞳を燃やした。

 

 それぞれの人が、陣営が、それぞれの思いを胸に行動を始めている。動き出している。

 

 

 

 

《今からあなたに、インターン中に課す任務について伝えます》

 

 動き出す──それは、公安も同じ。

 

《これは公安からの秘匿命令になるわ。人払いは済んでいる?》

「っはい」

《ならば以後、返事はしなくてもいいわ。あなたに望むのは了承のみ。質問も不要よ》

 

 セントラルに滞在する最後の夜。宛てがわれた部屋の中には既に探知用の羽根を舞わせていた。羽根は震えてない、わたし以外誰もいない、誰も近付いてこない──そのことを確認しながらピアスから流れる声に耳を傾けた。

 

AFO(オールフォーワン)がタルタロスに収容され、オールマイトが引退……神野の一件は裏と表、どちらの秩序にも罅を入れた。

 この混乱の中、各地で数多の(ヴィラン)が活性化している》

 

 固唾を飲むわたしに、公安会長の声は続く。

 神野からたった1、2週間。その僅かな間で違法スーツ・アイテムの闇市場が需要の増加と共に活性化していると。

 そうしたサポートアイテムを得て、計画を立て、徒党を組み、集団で社会に仇なす(ヴィラン)が増えてきているのだと。

 

《今や(ヴィラン)連合は、そうした(ヴィラン)たちの旗印。一刻も早く対処しなければならない》

 

 彼女の瞳のアイスブルーを思わせる、氷のような声だった。凛として冷ややか、淡々と冷厳。

 その声が、氷柱のようにわたしの鼓膜に突き刺さる。

 

《だからあなたに命じます。

 ホークスの元でインターンを行いながら、(ヴィラン)連合を誘き寄せる役を担いなさい》

 

 “はい”と応えることは望まれていなかったから、わたしは沈黙し続けた。けれど気持ちは既に決まっている。

 わたしは神野事件に続いて仮免試験でも(ヴィラン)連合に遭遇しているから、そんなわたしが雄英を出て活動することで、みたびの接触を狙うということなのだろう。警察やヒーローの追跡の甲斐なく逃亡を続けている(ヴィラン)連合。彼らを誘導することができたなら──そこで捕縛まで叶わなくとも──捜査は大きく前進するはず。

 

(今のわたしはもう、ピアス(発信器)を着けているから)

 

 そういうことも含めて、ひたすら合理的だった。そうすればいい、そうするべきだと理解も納得もしている。

 ……わかっているのに、どうして。

 

(どうしてこんなに、喉が渇く)

 

 羽根は震えない。わたし以外誰もいない。安心するべきこの場所が、何故か、暗く重いものに満ちているような錯覚を覚えた。

 

《……あなたが今思っていることを、当ててあげましょう》

 

 押し潰されて、胸が苦しくて。カラカラになった喉で浅く息をしていたその時、そんなわたしを見透かすように、会長が言う。

 

《──“このことを、ホークスは知っているんですか”》

 

「……!」

 

 息を飲む。それはきっと下手な言葉より雄弁だったのだろう。会長のつく溜め息には、わたしへの呆れや叱責が色濃く滲んでいる。

 

《相変わらずね。“感情に絆されてはいけない”と、何度言い聞かせればいいのかしらね》

「……すみません」

《謝罪は結構。……いえ、この際話してしまいましょう》

 

 羽根は震えない。わたし以外誰もいない。

 だというのに背中の翼が、ぶわりと毛羽立つ。

 

《今回の件についてだけど、ホークスも知っているわ。こちらで既に話は通してある》

「……そう、なんですね」

《意外かしら》

「い、え。そういうわけでは、」

《彼ならあなたにそんなことをさせないとでも思った?》

 

 ひゅ、と喉の奥でいびつな音が鳴る。わたしは返すべき言葉を見つけられないで、ただ胸元を握りしめた。

 

《……彼の真意が聞きたいなら聞いてみなさい。

 もっとも、今のあなた(・・・・・)に話すべきことは何もないと思うけれど》

 

 会長のその言葉を最後に、ピアスからブツッと通信が切れる音がした。それがやけに、夜のしじまを揺るがす。

 

「…………、」

 

 掠れた吐息が、薄く開いた口から漏れる。平静を取り戻したくて何度も深呼吸を繰り返すけれど、上手く息が吸えた気がしなかった。どうしようもなく、息苦しい。

 

 ぼうっとした頭で、わたしはスマホを取り出していた。指先で連絡帳を開けば、そこに【ホークス】の名前が載っている。

 この名前に触れれば、電話が繋がる。

 

「……っ」

 

 トップヒーローとして常日頃忙しくしているホークスに、わたしから電話を掛けたことはほとんどない。迷惑を掛けるのは嫌だったし、優しい彼に無理をさせるのも嫌だったから。

 現時刻は22時。こんな夜遅くに、こんな急に、彼の時間を貰うなんて。

 

 

「……啓悟、くん……」

 

 でも、それでも。たった一言でいい。“啓悟くん”って呼んだら、“そんな声してどうしたの”ってしょうがないなあと言いたげに笑って。

 

『愛依』

 

 そうしていつものように名前を呼んでくれさえすれば、どんなことだって頑張れる気がしたの。

 

 

 ぎゅっとスマホを額に押し当てて、目を瞑る。幾つもの葛藤に動けずにいたけれど、結局、わたしは震える指先で彼の名前に触れた。

 わたしの弱さが、そうさせた。

 じわじわと忍び寄る後悔や緊張、……ほのかな期待に、こくりと唾を飲みながらコール音が開けるのを待った。ホークスの声を待った、けれど。

 

 

 

《──おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません》

 

 端的な機械音と途切れたコール音に、わたしはゆっくりとスマホを下ろした。は、と吐息が溢れる。それは安堵でもあり落胆でもあった。

 真っ暗になったスマホの画面を見下ろすわたしの脳裏に、氷の声が静かに響く。

 

『……彼の真意が聞きたいなら聞いてみなさい。

 もっとも、今のあなた(・・・・・)に話すべきことは何もないと思うけれど』

 

 ああ、と声もなく呟く。まるで冬みたいだなあとぼんやり思った。凍えそうに寒くて、震えて、そのくせかじかむ指先は火傷したように熱い。

 ようやく秋を迎えようとする9月の夜が、何故かこんなにも寒い。

 

「啓悟くん、」

 

 この声に返る声を、待ち望んでいたけれど。

 その夜も、朝が来ても。それから数日経っても、ずっと。彼からの電話が届くことはなかった。

 

 

 

87.少女、踏み出す。

 

 

 


 

 ようやっとインターン編突入です。しぬほど時間掛かってしまった……

 今回はそれほど話は動いていないのですが、オールマイトの治癒と決意、動き出す塚内刑事とグラントリノとプッシーキャッツ、そして公安という感じで書きました。ここに本筋の(ヴィラン)連合、オーバーホールたちに加えて本作では異能解放軍も関わってくるので、そこでオリ主が誰と出会いどう考えどう動くのかを書いていきたいと思っています。頑張りますのでまたお付き合いいただければ幸いです。ここまで読んでいただきありがとうございました!!



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