憑依転生失敗話 (天狗道の射干)
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プロローグ

16年前のマイナーゲームが原作の二次とか、一体誰得なのでしょうね。
取り敢えず作者得ではあるので、良く分からないまま見切り発車で初投稿です。

それと再度警告。原作カップリングで固定なのは、ウルとアリスだけですのでご注意を。


――1894年12月、露西亜はサンクト=ペテルブルグ郊外――

 

 

 大修道院の敷地内にある一区画。雪が降り続ける寒空の下、並び立つ墓所を前に一人の少年が佇んでいる。

 キャラメルブラウンの髪を短く切り揃えた幼い少年は瞳を閉じて、土の下に眠る母の冥福を心から祈っていた。

 

 だが同時に思う。少年の心の中は、美しい祈りだけではない。勘当した娘とは言え、故人と化せば墓所を用意する程度の情はあったらしいと。失笑する心の中に淀んでいるのは、母の生家に対する恨み。そして、誰も母を助けてはくれなかったと言う憎しみ。

 

 宮中に出入りする貴族の出であった彼の母は、皇太子に見初められ少年を産んだ。

 だが皇太子は彼女を娶る事はなく、故に落胤たる少年は誰にとっても都合が悪いだけの存在となった。

 

 この時代、王族の婚姻と言うのは国家政略の一つ。国同士でより強く結び付く為にも、皇太子が一貴族であった少年の母を娶る訳にはいかない。その理屈は、幼い少年にも分かる。

 認知されていないとは言え、王族の血を宿す少年が厄介な存在なのは間違いない。醜聞になるならまだマシで、最悪は国を割る引き金だ。母の生家が殺せ捨てろと喚くのも当然の事だろう。

 

 だが理解出来ているからと言って、納得できると言う訳ではない。そうとも、二度目の生を受けたとは言え、其処まで大人には成り切れない。

 実家の命に抗って勘当されて尚少年を愛し育てた母への感謝は深まれど、死の間際となっても助けに来なかった実家と父への恨み憎しみは募るばかり。

 

 何せ、母が死んでまだ一月も経っていない。父である皇太子が即位して、英国女王の孫娘を娶った彼の日。少年の母は失意の中で、己の生涯を終えたのだから。

 

 ああ、今になって理解する。“原作”におけるあの男の行動を。あの男は大切な事を履き違えていたのであろうが、それでも根底にはきっと世界への深い憎悪が溢れていたのだ。今の己と、同じ様に。

 叫び出しそうになる程に荒れ狂う思いを抑える為、少年は首から下げたロケットを強く握り締める。その日暮らしの貧民には不釣り合いなそれは、“原作”の知識を使って手に入れた物。

 

 知っていたのだ。ロシアの地下には王宮にまで続く地下水道が存在していて、其処で死した貴族の首飾りが道の途中に落ちているのだと。

 知っていたのだ。サンクト=ペテルブルクの町中には笑ってしまう程に善人な時計技師が住んでいて、まだ珍しいカメラを保有していると。

 

 ロケットを開ける。写真に映る愛しい姿は、柔らかな笑みを浮かべた母。彼女に誓う。必ずや、貴女の未練を果たしてみせると。

 

(或いは物心付いてより、ずっと待ち続けて来た運命の時がやって来る)

 

 ザクザクと積もった雪を掻き分けて、近付いて来る足音に胸を躍らせる。漸くにその時が来たのだと、これが最初の試練である。

 “原作”において少年は、これより現れる男に拾われる。行き場のない少年はこの足音の主の手によって、バチカンの宿舎へと入れられるのだ。

 

(“原作”と同じ、末路などは御免だ。何も為せなかった“ニコル”と言う男には成りたくない)

 

 表向きは聖堂騎士を育てる為の孤児院は、その実秘密結社の先兵を鍛え上げる為の場所。ロシアに巣食う大悪の、手駒を磨くだけの場所。

 其処で育ったニコラス・コンラドは、秘密結社の幹部へと登り詰める。世界を滅ぼす程の力を持った悪魔と契約を交わして、求めたのは皇帝の座。

 

 その最中でニコルは一人の男に執心し、彼に懸想する乙女に歪んだ執着を抱き、果てに悪魔にその魂を喰われてしまう。

 怪物と化して大罪を犯し災厄を振り撒いた後、全てを失った空虚な男の手によって命を終える。何も為せずに、富士の山で没するのだ。

 

(何も為せないまま、終われはしない。その為に、始まりがこの時だ。此処で一歩を踏み出す事で、私は私の未来を変える)

 

 原作知識を手に入れたのは、少年が3歳の誕生日を迎えた日。最初はそれが一体何を意味するのか、物心付いたばかりの子どもには分からなかった。

 まるで映画を見ているように、流れていくのは見知らぬ誰かの生涯。実体験など欠片も存在しない記録を見続け、それが何かと初見で検討が付く筈もない。

 

 何処かの誰かの生涯は、毎晩目を閉じる度に脳裏に過ぎった。一晩と言う短い時間の中で、見知らぬ他人の生まれてから死ぬまでを映し出した走馬燈。

 そんな誰かが学生の時分に、遊んでいた一つのゲーム。シャドウハーツ2と言う作品。その意味を知った時にはまるで、気が狂うかと思うような衝撃が胸に走った。

 

 この世界が、ゲームだなどとは思わない。余りにリアルな質感は、画面の向こう側とはまるで違っていると分かるから。

 だがそれでも、何もしなければ同じ結果になるだろう。未来の予知に等しい知識であるのだと、知ってしまった少年は変わった。

 

 理解は怯えと戸惑いに、恐怖は悲痛と憤怒を経て、果てに至るは一つの覚悟。此処に至るまでに、3年と言う月日が掛かった。

 齢六つの少年は、己の至る未来を知ったのだ。原作における彼と、今此処に居る彼の違いなどその程度。知識の有無以外にない。だから分かる。同じ道を辿ったならば、必ずや同じ結果に終わると。

 

 唯漫然と流されるまま、バチカンに向かう様では駄目なのだ。より貪欲に、より強欲に、多くを求めて掴み取る。違う道を辿って進み、出来る事を増やしていかねばならない。

 その為の一歩として今、運命は此処から始まろうとしている。近付いて来る雪を掻き分ける足音が止まったのを確認した後、少年は閉じていた碧眼を開いて振り返る。其処に佇む男に向けて、万感の想いで告げるのだった。

 

「お待ちしておりました。グレゴリオ・ラスプーチン猊下」

 

「ほう。待っていた、と。小僧が、面白い事を言う」

 

 少年の目の前に立つのは、青白い肌をした細身の男。司教服に身を包み不敵に嗤う彼こそは、怪僧グレゴリオ・ラスプーチン。

 史実においては帝政ロシアを破滅に導いた元凶の一つにして、“原作”においてもロシアの乗っ取りを企てていた秘密結社の頂点。

 

「私を待っていた、と。おかしな話だ。お前は私が此処に来ると、知っていたとでも言うのか?」

 

「はい」

 

 グレゴリオは愉しげに嗤う。少年の言を確かに理解して、だがその瞳は全く笑っていない。他者を見極める為の瞳は、機械の様に冷たい色だ。

 それが分かって、少年も笑う。予定通りに興味が惹けたと。そして不敵な笑みを浮かべると、手慣れた所作で懐から3枚のカードを取り出した。

 

「示されたカードは三つ。運命の輪。法王。魔術師。どれも正位置。意味合いは、今更語る必要もないでしょう」

 

「ふむ。占い、か」

 

「趣味として少々、嗜んでおりまして」

 

 これもまた、お人好しな時計技師に頼んで譲って貰った物。彼には頭が上がらないと内心で苦笑しながら、3枚のカードを人差し指と親指で器用に動かす。全ての絵柄を見やすい様に、少年は右手に持った。

 

 博識なラスプーチンは当然、見せられた大アルカナの意味合いを知っている。幾つも解釈が分かれる物であるが、聡明な彼には少年が何と言いたいのかも理解出来ていた。

 運命、幸福な出逢いに恵まれる意。法王、師事すべき者と言う意。魔術師、何かを始めると言う意。

 詰まり学ぶべき人物との出逢い、師事を乞う事を予知していたと語っているのだ。この余りに幼い少年は。

 

「何を言い出すかと思えば下らん。そんな事で、分かる物か」

 

 鼻で嗤いながらもラスプーチンは、内心で少年への評価を引き上げる。力量と言う意味では決して、男に届く事はないだろう幼子だ。

 だがしかし、その頭脳の聡明さには感嘆が漏れる。年の若さに不相応な知識の量と、このラスプーチンを前にして語ってみせる豪胆さも有している。

 

 率直に言って、既に気に入り始めていたのだ。上手く扱えれば、これはとても良い手駒と成れる。そして己ならば、上手く扱えるに決まっているとも。

 だからこそ、放つ圧を高めて挑発的な罵倒を浴びせる。この少年の底が知りたかった。何処まで喰らい付いて来れるのか、男は心底から愉しんでいたのである。

 

「さて、それはどうでしょう。唯少なくとも、聡明であられる猊下は既にご存知の筈だ。未来を視通すかの如き、優れた占い師の存在を」

 

(カルラの事か、それともヨウィスか……この小僧、一体何処まで知っている?)

 

 闇の魔王をその身に宿すラスプーチンの威圧は、大の男でも震え泣き喚くであろう程の物。

 加減しているとは言え、それを一身に浴びて尚も涼やかに微笑む少年。その異常さや異質さは、最早言語に絶する程だろう。

 

 ラスプーチンは当然、少年の素性を知っている。ロシア皇帝の子として産まれながら、母と共に貧民に身を落としていた子どもであると。

 そんな子どもが、どうして知ると言うのだろう。百歩譲って有名なラスプーチンの顔を知っていた可能性は確かにあろうが、少年にカルラの存在が分かる筈もない。

 

 表向きは、直接的な繋がりなどないのだ。それでどうして分かると言う。ロシア正教の大司教として宮廷に勤める裏で、動かしている秘密結社の構成員の存在が。

 カルラだけでも在り得ないのに、少年が語る誰かがヨウィスであるなど更に在り得ない。あれは嘗てラスプーチンに敗れ、歴史の裏へと姿を隠した世捨て人に過ぎないのだから。

 

 明言はしていない。事実占いの技術だけで切っ掛けを掴み、言葉巧みにラスプーチンの思考を操っているのかもしれない。

 だがもしも、真実在り得ない知識を持つのだとすれば。少年の危険度と有用性は、計り知れない程の物となるだろう。ラスプーチンは己の中で、複雑な情が湧き立つ事を実感していた。

 

「とは言え、私はまだ未熟。偶然知ったに過ぎません。貴方の事も、彼女の事も」

 

「……それで、貴様は私に何を望む? その様な言葉を態々口にして、何の意図もない訳ではなかろう」

 

 これは期待か。これは恐怖か。いいや後者は在り得ない。仮にもしもそうだとしても、ラスプーチンの誇りが決して認めまい。

 何の力もない少年の、言葉に踊らされて怯えるなどと。世界を手中に収めんと画策するこの男にとって、最も似付かわしくない物であろう。

 

「高みを!」

 

 ならばそうとも、これは前者だ。力強い瞳で願いを叫ぶ少年の言葉に、全身が震えているのは歓喜の一種だ。

 好奇が溢れる。興味が尽きない。既に異常の片鱗を示すこの少年が、何処まで行けるのか気になって仕方がないのである。

 

「私は高みに立ちたい! 絶対的な力を求めている! 母を虐げ、この身を貶めた、全てを乗り越える圧倒的な強さを!」

 

 爛々と輝く瞳で少年は語る。彼は“原作”で知っているのだ。このシャドウハーツと言うゲームの世界に、存在する絶対的な力の数々を。

 破壊神アモン、魔王アスモデウス、堕天使アスタロトと言う三大悪魔の力。七福神や銅鐸と言った大和に眠る神々の力。超神、天凱凰、アウェーカーと言う三冊の禁書が齎す力。

 

 どれもが世界を滅ぼすに足る強大な力であり、その内の一つを宿す者が目の前に居る。魔王アスモデウスに浸食された、グレゴリオ・ラスプーチンと言う名の男が。

 

「貴方ならば、それを私に与える事が出来る! いいや、貴方にしか出来ない事だ!!」

 

 内の一つすら、巡り合うにはどれ程の幸運が必要になる事か。敵としてではなく、師事を仰げる環境など奇跡に等しい。

 そうであるが故に、原作知識を得た少年は決めたのだ。救えなかった母の未練を晴らす為、何時か必ず出逢えるこの男を利用し切ってみせるのだと。

 

 何れアスタロトを宿す器だ。転生した魂すらも取り込んで見せた存在だ。才気は十分。知性も発達していれば、この怪僧を魅了してみせる事も決して不可能な望みじゃない。

 そう信じて、短くはない時を費やした。唯この一時、ほんの一瞬しかない邂逅の為にこれまで積み上げた全てを賭けた。そんな小さな少年の身の丈に合わぬ意志が積み上げた努力は――

 

「ヒッ、ヒヒッ、キヒヒ」

 

 確かに、此処に結実する。心底から愉しそうに笑うラスプーチンと言う姿を取って。

 ()は興味を抱いたのだ。早熟に過ぎる存在が、果てに何処まで至るのか。気になって気になって仕方が無いと。

 

「良いだろう、小僧。皇帝の落胤に過ぎぬと思っていたが、どうやら私の想像以上だったらしい」

 

 好奇と期待に嗤うのは、人としてのラスプーチンであるのか或いは内なる魔王アスモデウスであるのか。

 僅かな恐怖と破滅の香りを感じ取り、それでも嗤ってしまうのは既にそれ程までに成り果ててしまっているからなのか。

 

 どちらにせよ、構わない。今は唯、この愉悦に浸りたい。故にラスプーチンは、少年に背を向け告げるのだった。

 

「付いて来い。私が貴様を、望む高みへ連れて行ってやろう」

 

 歩き出すラスプーチンに一礼して、少年は深い笑みを浮かべる。最初の試練を乗り越えた。賭けに勝利したのだ。

 踊り出したくなる程の歓喜を、まだこれからだと自制する。スタートラインに立っただけに過ぎないのだから、どうしてこれで歓喜に浸れよう。

 

「はい。有り難き光栄」

 

 それでも、口にした言葉は嘘偽りない真実だった。そうして少年は、ラスプーチンの背中を追う。何時かその背を踏み付けて、更なる高みへ至る為。

 

 

 

 これは――ウルムナフ・ボルテ・ヒューガと言う男が、運命と出逢い幸せを見付ける物語ではない。

 これは――シャドウハーツ世界に憑依転生した現代人が、様々なキャラクターを救済する物語でもない。

 

 これは――憑依に失敗した転生者の影響で、知識だけを獲得した事で早熟してしまったニコラス・コンラドと言う名の男。彼が本当の幸福を掴み取ろうと、藻掻き苦しみながらも進み続ける物語なのだ。

 

 

 

 

 




憑依ニコル、スタート年齢は六歳。幼児にしては信じられないくらい冷静ですが、創作の世界では五歳で嵐を呼べるので僕は悪くありません。


~原作キャラ紹介 Part1~
○ニコラス・コンラド(登場作品:シャドウハーツ2)
 原作ではバチカンに所属するエクソシスト。強大な力を持つ修道騎士団の筆頭。原作開始時の年齢は27歳。
 だがその実は悪の組織の幹部であり、主人公のウルに解呪不可能な呪いを与えた存在。

 発売前のPVでは主役のように扱われており、チュートリアルでも操作キャラであった。
 だが蓋を開けてみれば、チュートリアル終了後に速攻で裏切り行為を披露する。なのでPVに出てくるダンジョンで、ニコルは使えない。CVは子安。

 父はロシア皇帝で、母は宮中に出入りしていた有力貴族の娘。庶子であり、認知はされていない。
 母の死後、ラスプーチンに拾われる。その配下として育てられるが、裏で暗躍。皇帝の座を奪おうとしていた。

 作中でその理由が明かされる事はないが、主人公のウルに強い執着を抱いている。父や母や妹よりも、ウルの事ばかり口にする。
 更にヒロインであるカレンに横恋慕していた理由は、彼女が“ウルを愛していたから”という事が設定資料集にて明言されてしまったヤンホモ。

 序盤から中盤に掛けて存在感をアピールするも、Disc1のラストで捕まってから終盤までは割と悲惨。
 父への復讐も、筋の通らぬ横恋慕も、宿敵との決着も、何も為せないままラスボスの手で頭を握り潰されて死亡する。

 悪党で、外道でもある。だが救いようがないかと言えばそうではなく、何とも言い難いキャラクター。
 彼を表現する上で一番的確な言葉は恐らく、原作でカレンが彼を拒絶する際に放った台詞なのだと思われる。

 救いようのない悪党ではなく、許せない外道でもなく、唯何処までも哀れな男。それがニコルと言うキャラクターなのだろう。



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第1話 或いは心の刃を鈍らせる日々

第2話ですがプロローグを引けば第1話なので初投稿です。


――1895年1月、伊太利亜はフィレンツェ近郊――

 

 

 サピエンテス・グラディオ。元は東方正教会に属する修道士ヨウィスが築き上げた人類平等の理念の下に、お互いを尊重し合う考え方を実践していた宗教組織。

 だがヨウィスの弟子であったグレゴリオ・ラスプーチンが組織を牛耳ると同時に、理念を失い暴走を続ける秘密結社へと変貌した。そして今では国家にさえも影響力を持つ程、肥大化した世界規模の組織である。

 

 ロシアの国政やドイツの軍事、バチカンの人事にさえも口を出せるサピエンテス・グラディオ。そのイタリアにある支部の一つに、ニコルは身を寄せていた。

 結社に拾われてから早一月。グレゴリオ・ラスプーチンの教え子と言う立ち位置を獲得した少年の日常は、これまでの物とは激変している。

 

 師であるラスプーチンは帝政ロシアの政務にも手を伸ばしている為に忙しく、ニコルの事を幾ら気に掛けていようと直接教える時間を余り作れない。故に彼は、ニコルを二人の部下に預けた。

 一人は己の懐刀たる修道騎士ビクトル。まだ年若き男だが剣術の腕で並ぶ者はおらず、白魔法の腕も一流と呼ぶに相応しい。どちらの才にも恵まれていたニコルにとって、学ぶべき事の多い人物だ。

 もう一人の師の名は踊り子カルラ。49歳と言う高齢だが、占い師としての腕前は健在。薬学の知識も多く有しており、彼女からもまた学ぶ事は多い。と言うよりも、カルラと接点を持つ事こそニコルの本命だった。

 

 何れサピエンテス・グラディオから逃げ出す彼女から、教えを受けられる機会は少ない。“原作”で彼女の弟子であるベロニカ・ベラが見せたアロマの罠は、搦め手として是非とも学びたい物の一つである。

 またカルラが調合出来るアロマオイルには、同じく弟子のルチアが見せた優秀な支援効果もある。更に逃げ出す前のカルラと親交を結んでおけば、今後の選択肢も増えるであろうと言う目論見もあった。

 

 そうして二人の師を得たニコルは、鍛錬の日々を続けている。普段は日替わりで手の空いている者から、其々が得意とする技術を学び取る。稀にどちらも手が空いていれば、午前と午後に分けてその両方に教えを乞う。

 ニコルが学んでいる知識と技術の総量は、明らかに子どもの身には負担が過ぎている。何時倒れるか、そうでなくとも身に付くまいと。そんな大方の予想に反して、ニコルの意志と執念は実を結んでいる。僅か一月でニコルは、己が能力を格段に飛躍させていた。

 

(ですが、今日は少し詰め込み過ぎてしまいましたね)

 

 イタリア支部の裏手にある訓練場で、大の字になって倒れるニコル。息も絶え絶えに滝の様な汗を流す理由は一重に、過剰な訓練を望んだから。

 剣技の基礎と白魔法を二つ。実際に使用できる様になった時点で、ニコルはビクトルに言ったのだ。これからは実戦形式で、己を鍛え上げて欲しいと。ラスプーチンから加減は要らないと聞いていたビクトルは、まだ早いと思いながらも少年の言を受け容れた。

 

 武器は真剣を使って、寸止めはしない。傷が付いたのなら、白魔法を使って戦闘中に治療する。殺してはいけない事と治せない傷を残してはいけない事以外には、何一つとして縛りはない。

 致死に至る威力でなければ、何でもありの実戦稽古。本気を出していないとは言え、それは最早殺し合いにも等しい物だ。齢6つの少年に、耐えられる様な物ではなかった。それでも、ニコルは喰らい付いてみせた。

 

 今日でまだ三度目。善戦が出来た訳ではない。一方的に斬られて突かれて蹴り飛ばされて、身に付いたのは痛みへの耐性と数え切れない程に使用した回復魔法(キュア)の効率的な使い方。

 加減されているとは言え、回避も防御もまだ間に合わない。剣や白魔法での反撃なんて、夢また夢の領域だ。それでもビクトルに言わせれば上出来に過ぎるのだが、ニコルは全く満足していなかった。

 

(我が事ながら情けない。……午後の調薬までに、動ける様になれば良いのですが)

 

 ビクトルは既に去った。若くして幹部の地位に居る彼だが、サピエンテス・グラディオでも有数の実力者であるが故に仕事も相応に多いのだ。

 要人暗殺を主とする彼だ。後二十年程で第一次世界大戦が勃発する事を思えば、彼の仕事は今後更に増していく事だろう。

 

 学べる時間は、存外短いのかもしれない。そう思うからこそニコルは、心に焦りを抱いてしまう。一刻も早く、ビクトルを超えねばと考えてしまう。

 何せビクトルと言う男はサピエンテス・グラディオではトップの実力者なのだが、原作の主人公に拳の一発で倒されているのだ。一流ではあるが、超一流と言う域には居ないのだろう。

 

 出来れば10代の内に、遅くとも20になる頃には超えねばならない。そうでなければ、望んだ高みには至れない。

 だと言うのに、ビクトルと言う男は遠かった。超一流でなくとも一流ではあったから、まだ幼いニコルでは届かない。

 

 大の字のまま、空を見上げる。見上げた青空はあまりに透き通っていて、悲しい風が心を吹き抜けていく様な気がした。

 

「ニコル~。何処~?」

 

 そんな風に吹かれていると、ふと聞き覚えのある声がした。疲れて鈍った思考を動かし、声の主を推察するとニコルは如何にか声を発した。

 

「……この間延びした声は、ルチアですか。私は此処ですよ」

 

「あ、居た~」

 

 吸い込んだ冷たい空気に、酷使した肺が引き攣って痛む。そんな苦痛を意地で隠しながら、声の主へと顔を向けるニコル。

 建物の裏手にある扉から、顔を覗かせていたのは一人の少女だ。褐色の肌を持つ整った容姿の彼女が、“原作”に登場するキャラクターの一人とニコルは知っている。

 

 シャドウハーツ2に登場した、パーティメンバーの一人。踊り子カルラに育てられた孫娘、ルチアその人であった。

 

「どうして、此処に? 私を探していたようですが……」

 

「う~ん。え~と。はい、タオル」

 

「……質問には答えて貰えないんですね。まぁ、感謝はしますよ」

 

 ゲームで見せたおっとりとした性格は、幼少期には既に形成されていたらしい。その知りたくもなかった事実を知ったニコルは、嘆息混じりに感謝を告げた。

 

 渡してくださいとニコルは視線で語るが、手が動かせないでしょうとルチアは笑顔で返す。嫌な予感をニコルが感じた時には、もう遅い。

 白いタオルを両手に抱えて、無理矢理に汗を拭おうとしてくるルチア。自分で出来ると叫びながらも、身体の痛みで抵抗さえも満足に出来ないニコル。強引な世話焼きに引っかき回され、ニコルは暫しの間のたうち回る羽目になるのであった。

 

「……ぜぇ、はぁ」

 

「立てる~?」

 

「どの口が、言いますか……。正直、まだ、無理そうです」

 

「手伝おうか~?」

 

「結構です。余計に、酷くなる。どうせ少し休めば、直ぐに動ける様になりますよ」

 

 全身を襲う痛みに苦悶しながら、荒い呼吸を整えるニコル。何か世話を焼きたそうにしているルチアの提案は、全力で首を振って拒絶する。

 正直言って、率先して仲良くなろうとも思っていなかった相手だ。別に嫌われても問題ないし、ならば余計なことをしないで欲しいと言うのがニコルの偽らざる本音である。

 

「じゃあ~、お水とか。欲しい?」

 

「……頂けるんでしたら」

 

「うん。任せて~」

 

 ニコルの本音も、ルチアの天然の前には無力であるのか。めげずに言葉を掛けて来るルチアに、ニコルは嘆息してから許容する。

 流石に水の一杯程度で、トラブルに発展する事はないだろう。寧ろ取りに行かせる事で、暫くルチアを追い払う事が出来るのではなかろうか。

 

 そんな甘い見込みでルチアを行かせたニコルは数分後、戻って来たルチアの姿に目を見開いて動揺した。

 一体何故、コップではなく水汲み用の大きな桶を持って来たのか。並々と水の入った桶を、何故そんな危なっかしい持ち方で持って来るのか。そしてどうして、目の前の段差を飛び越えようとしてしまうのか。

 

 大惨事になる。即座に理解して起き上がろうとしたニコルだが、しかし僅かに間に合わなかった。

 

「あ――っ」

 

「ちょ!? あぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

 当たり前の様に段差に引っ掛かり、転び掛けて如何にか姿勢を立て直したルチア。びっくりしてしまったのだろう。彼女の両手は、当然の如く空となっている。

 天然の魔手から解き放たれた弾丸は、そのまま宙を飛翔してニコルの頭部に。素早く起き上がろうとした結果、筋肉痛で悶絶し始めたニコルの顔面を直撃していた。

 

 コーンと軽い音がして、引っ繰り返った桶の中身を頭から被る。どうして其処で気を利かせてしまったのか、汲まれた水は真冬のネヴァ川よりも冷たかった。

 

「えへへ~。やっちゃった~」

 

 地面にお尻を付いて、可愛らしく舌を出す。そんなルチアの目と鼻の先で、ニコルは痛みと寒さに暫し苦しむ。

 怒りはあった。憤りはあった。だが痛みが勝った。そうして耐えている内に、気付けば仕方がないと嘆息が漏れてしまう。

 

 暫く休んで身体が動く様になった時には既に、ルチアに対して怒鳴り付ける様な気力も体力も残ってはなかった。

 疲れた様な呆れた様な視線で、微笑むルチアを見上げる。怒られないと分かっているのかいないのか。何故だかルチアは、倒れるニコルの傍らに座っていた。

 

「……少し、疑問なのですが」

 

「な~に~?」

 

「いえ。何故、貴女は私に構うのかと思いまして」

 

 暫しそうして居た後で、寒空を見上げて問い掛ける。折角なのでと気になったのは、どうして彼女が此処に居るのか。

 初めて会った時には、人見知りをする様にカルラの後ろに隠れていたのに。気付けばこうして、纏わり付いて来る様になっていた。

 

「何時も鍛錬してばかりの私など、見ていて面白くないでしょうに」

 

 不快、と言う訳ではない。だが不思議ではあった。好かれる事などしてはいないし、見ていて面白い様な人間でもないのだから。

 そんなニコルの問い掛けに、ルチアは少し悩む様な素振りを見せる。口元に指を当てて小首を捻って、導き出した結論を花の様な笑顔で語るのだ。

 

「えっとね~。あのね~。ルチアは、お姉ちゃんだから~」

 

「……は?」

 

 一瞬、ニコルは何を言われたのか理解が出来なかった。次には己の正気を疑った。自分は果たして、幻聴を耳にする程に疲れているのかと。だがどれ程にニコルが混乱しようとも、ルチアの胸中は全く変わらない。

 

「だから~、弟が~、寂しそうにしてたら~、お姉ちゃんは~、放っておいちゃいけないの~」

 

 ルチアと言う少女は、元は捨て子だ。幼い頃に両親に捨てられ、泥に塗れながら残飯漁りをしていた所をカルラに拾われた過去を持つ。

 そんな彼女だからこそ、寂しいと言う感情には敏感だった。ニコルが瞳の奥に隠したその感情に、しかしルチアは気付いていたのである。

 

 如何に膨大な知識を持とうとも、ニコルはまだ子どもだ。知識に後押しされて精神は早熟しているが、経験や体験はまだまだ不足している。

 だからこそ、寂しいと思っていたのだ。母の死を。母や自分を捨てた、父や実家を。恨みながらも心の何処かで、認めて欲しいと願ってしまう。そんな子どもであったのだ。

 

「……事もあろうに、弟、ですか」

 

「だって~、ルチアの方が~、ニコルより年上だもん」

 

「……一歳差、なのですがね。精神年齢的にも、ルチアを姉とは思えません」

 

「え~、何で~? ルチアはお姉ちゃんだから~、ニコルは弟じゃないと駄目なの~」

 

「理屈になっていませんね。私の姉を自称するのならば、相応の品格を持って貰わねば困ります」

 

「じしょう? ひんかく? 良く分からないけど~、占いとダンスは~、ルチアの方が上手よね~」

 

「そもそもダンスは、私が学んでいません。それと自慢するならその前に、マリンオイルの調合くらいは一人で出来る様になってください」

 

「えへへ~。ルチアは覚えるの、苦手だから~」

 

「はぁ……そういう所が、ですよ。全く」

 

 だから、だろうか。ルチアの幼稚な心遣いが、何処か嬉しいと思ってしまう。その近さを、嫌いになんてなれやしない。

 どうせ数年もすれば別れる相手だ。場合によっては敵対するし、そうでなくとも決して同じ道を歩けはしない女である。だと言うのに、やはり理屈と感情は違うのだろう。

 

「では、行きましょうか」

 

「あれ~? もう歩けるの~?」

 

「……姉さんのお陰で、少しは楽になりましたから」

 

 どうでも良いなら、少しだけ付き合ってやっても構わない筈だ。そんな風に心の中で言い訳して、ニコルはゆっくりと立ち上がる。

 特に理由もないのだが、何故だか今は顔を見られたくなかった。だからまだ痛む身体に鞭を入れ、気持ち足早に少年は歩き出す。

 

「………………えへへ~」

 

「何笑っているんですか気持ち悪い。さっさと行きますよ。遅れると、カルラ師がお怒りになられますからね」

 

「折角だし~、お婆ちゃんの事も~、お婆ちゃんって呼んだら~」

 

「ありえませんね。了承もなしに。ほら、いいから行きますよ」

 

「連れてって~」

 

「嫌です。私は疲れているんです。師に怒られたいなら、そのままでどうぞ」

 

「ぶ~」

 

 先を進むニコルの背を、ルチアは直ぐに追い掛ける。表情をコロコロと変える彼女と会話を続けながら、進むニコルは気付かない。

 その顔に浮かんだ表情が何時もの作り笑いではなく、自然と浮かんだ笑みに変わっていた事を。まだ幼い少年は、気付けぬ程に未熟であった。

 

 

 

 

 




ショタニコル&ロリルチア。今作はこんな形で、原作とは各キャラの関係性も大きく変わる予定です。


~原作キャラ紹介 Part2~
○ルチア(登場作品:シャドウハーツ2)
 原作「シャドウハーツ2」のパーティメンバーの1人。エスニックな容姿を持つ、おっとりとした美女。原作時の年齢は28歳。
 グラマラスな体形で、踊りを披露するムービーシーンや特殊な衣装などもあった為、作中ではお色気担当でもあった。

 天然で楽天家な性格をしており、甘えるような声音で話す。見た目に反して中々重量があるらしく、戦闘では余り吹き飛ばされない。

 秘密結社の影を追う主人公たちを、秘密結社からの追手と誤解し対立。戦闘後に和解した後、正式に仲間となる。
 個別イベントが少ない所為か、結社を打倒した後も付いて来てくれる理由が今一分かり難いのが難点。あとロレンスとの関係も唐突。

 ゲーム中での性能は、優秀な補助要員と言った使用感。アロマの性能が半ばバランス崩壊だったので、上手く使い熟せば十分に一軍入り出来るキャラ。
 欠点は固有技のタロットが運ゲーなのと、他に優秀なキャラが多い事。ウル、カレン、ヨアヒム、アナスタシア、蔵人。この辺りを超えられるかと言われると、何とも言葉に困る所である。

 因みに天狗道はシャドハ2を3週くらいしているが、タロットは1度しか使わなかった。初参戦で「吊られた男」の逆位置を引いて、全滅した事は忘れない。



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第2話 命知らずな冒険

まだ初投稿日から日付が変わっていないので初投稿です。


――1896年、独逸はバーデン=ヴュルテンベルク州――

 

 

 風に揺れる木の葉の音も数を増やせば、まるで雑踏の騒めきの如く。陽の光も微かにしか差し込まない程、深い深い森の中。

 獣道を歩くのは、三人組の少年少女。先頭を足早に進む金糸の少女は、ふと歩みを止めて振り返る。後続が大きく遅れている事に気付いて、彼女は肩を怒らせた。

 

「全く! ルチア! ニコル! アンタ達、何でそんなに遅れているのよ!」

 

 頭巾の付いた青い外套の下に、簡素な布のドレスを来た金糸の少女。青い瞳できつく睨み付けて来る少女が、どうして将来的にはあのような過激な衣装を着込む事になるのか。

 カルラに弟子入りしてから共に一年程を過ごしたが、どうにも理解が出来ないとニコルは常々思う。姉弟弟子と言う関係を結んだからには、是非とも真面なままで居て貰いたいのだが儚い希望に過ぎないのか。

 

 そんな風にどうでも良い思考へと逃避してしまうのは、今の現状を余り深く考えたくはないからか。

 この森の名を思い浮かべる度に、ニコルは頭痛と腹痛が悪化していく時にも似た嫌な気分を味わう羽目になっている。

 

「ベロニカが早いのよ~。ねぇ、ニコル」

 

「……ルチア姉さんの足が遅いのは事実ですが、ベロニカも歩くのが早過ぎる。余りに無警戒過ぎはしませんか?」

 

「え~、ルチアは遅くないよ~」

 

「はっ、何を言い出すかと思えば! ニコルあんた、この程度の森にビビり過ぎじゃないの! それと何でルチアは姉呼びなのに、私を呼び捨てにすんのよ!? お仕置きされたい!?」

 

 褐色の少女が朗らかに笑って同意を求めるが、それを一息に否定するとニコルは続ける。問い掛けと言う形の警告は、ニコルの想定通りにやはり届かない。

 

「この程度の森、ですか。……何も知らないと言うのは、幸運なのか不幸であるのか」

 

 この程度、と語る言葉に嘆息する。暗くて足場が悪く迷いやすい程度の危険と、ベロニカは認識しているのだろう。全く以って、無知とは度し難いものである。

 

 シュバルツバルトの森。独逸は南西部に広がるこの森は、伊太利亜からは瑞西を挟んで北に存在している。

 普段生活している支部からは、直線距離にしても700Km以上。この時代ではまだ珍しい自動車を使っても、10時間は掛かってしまう程に遠い場所。

 

 一日掛かりとなる大移動が必要なこの森に、子どもだけで彼らがやって来ている理由。その理由の一つは、ニコルの実力向上が多くの者に認められた事に起因する。

 

「ほら、ニコル。さっさと前に来なさいよ! アンタがビクトルに一撃当てたって言うから、私が直々に使ってあげようって考えたのに! 肝心のアンタがビビッてたんじゃ、話にならないじゃないの! ええ、違う!?」

 

「ベロニカ、これでもニコルの事を褒めてるんだよ~。中々使える奴になったから~、これでずっと欲しかったお花を取りに行けるって~」

 

「お黙りっ! 泣かされたいのかい、ルチア!!」

 

「いや~、ベロニカが虐める~」

 

 一年間。死ぬかもしれない程の鍛錬を続けた結果、ニコルの実力は遂にサピエンテス・グラディオの幹部であるビクトルに一矢報いる程に育っていた。

 無論、かなり加減をされた状態での話ではあるが。それでも其処らの兵卒ならば、既に上回っているであろう。伊太利亜支部でも、神童として良く名が上がる程である。

 

 そんな彼の実力に目を付けたのが、同門として寝食を共にしているベロニカだった。彼女は以前にこの森の噂を聞いてから、ずっと此処に来たがっていたのだ。

 だが国境を越えた先にある森だ。生きて帰れる者も少ないとなれば、実力不足を理由に師であるカルラが許可を出そうとしない。生来我慢弱いベロニカにとって、これは屈辱的な苦痛であった。

 

 だからこそ、ニコルを利用したのである。自分とニコルが手を組めば、そうそう遅れをとることはないだろうと。

 事実としてカルラの目の前で、サピエンテス・グラディオの団員を数人纏めて倒すと言う形で実力を示した。そんな二人にカルラは、渋々ながらも許可を出したと言う訳だ。

 

 因みにルチアは、二人で旅行なんてズルいと言って付いて来ただけである。

 

「……はぁ、全く。こちらは生きた心地もしないと言うのに」

 

 緊張感に欠ける二人のやり取りに、ニコルは泣きたい様な気分になった。この森の危険性は、“原作”の知識で嫌と言う程に知っている。

 一言で言えば此処は、原作ゲームにおける隠しダンジョンの一つであるのだ。ラストダンジョン出現時期の隠しステージだけあって、途轍もなく強大な魔物が潜んでいる。

 

 無論、ゲームバランスの都合と言う物もあるだろう。実際に此処に居るであろう怪物達が、中盤のボスであるラスプーチンやアモンなどに勝てるとは到底思えない。

 だがそれでも、多少腕に覚えのある子どもだけで如何にかなるとも思えなかった。それでも同行を良しとしたのは、ベロニカが言って止まる様な性格ではなかった事と、貴重な経験になると思ったからだが。

 

 強大な力を持つであろう怪物たちに、実際に対面して何処まで戦えるのだろうか。抵抗も逃走も許されない程の差があるのか。恐れながらも、僅かな期待も感じている。

 だが森に入り込んで一時間。そんなニコルの期待と恐怖を裏切る様に、彼らが怪物に遭遇する事はなかった。じゃれ合いながらに進む中で、ニコルは何故かと思考を回す。

 

(怪物に遭遇しない。原作との違いは……成程、マリスか)

 

 マリス。それは負の意志。それは人の悪意。想像の中にしか存在しないような怪物達が具現化し、人を襲うのはこの世界にマリスが存在するから。

 原作主人公であるウルムナフは、このマリスを内に溜め込んでしまう特性を有していた。彼が体内に宿した大量のマリスが、悪意の怪物達を引き寄せていたのである。

 

 そして他にも、理由はある。シュバルツバルトの森と言う隠しダンジョンが出現する前に、原作のニコルが行った暴挙もその一つ。

 アポイナの塔と言う、バチカンにある処刑場。罪人達の怒りと悲しみのマリスが溢れる塔の奥に、封じられていた嘆きの棺と言う聖遺物。

 原作ニコルはこの棺を破壊して、アポイナの塔内に封じられていたマリスを世界中に溢れさせたのだ。怪物が出現しやすい世界に、変えてしまったと言っても良い。

 

 結果として、力を持つ異形が溢れる形と成った。ならば逆説、そうなる前のシュバルツバルトにそれ程の危険は存在しないのではなかろうか。

 道理で話を聞いたカルラやラスプーチンが、簡単に許可を出す訳だ。したり顔で持論に頷くニコルの心は、大きな安堵と僅かな失意で満たされていた。

 

 だが、そんな彼の思考は甘いと言えるだろう。ラスプーチンと言う稀代の魔術師に期待されると言う事が、どういう意味なのかニコルはまだ知らなかったのだ。

 

〈お待ちください、お嬢さん方。この森の奥に行かれる心算ですか?〉

 

 森を歩く少年少女らに、突如として語り掛けて来る声。一体何処からだと首を振って探すルチアとベロニカに対し、ニコルは既に声の主に気付いていた。

 いいや、知っていたと言うべきか。木々の隙間から咲いた白い花を見詰めるニコルは、自分が背筋に凍る様な寒気と気持ち悪い脂汗を流している事を実感する。

 

(……最悪だ。ガアプが既に目覚めている)

 

 シュバルツバルトに咲く白い妖花。その正体は、ソロモン七十二柱に語られる悪魔の一つ、ガアプ。

 シャドウハーツ作中においては、唯一体で世界を滅ぼせると語られたアモン・アスモデウス・アスタロトと同じ枠組みに分類されている悪魔。

 

 無論、シャドウハーツ内において特別であったこの三体と同格と言う訳ではないのだろう。だが、それに準ずる力を持つとは見るべきだ。

 最上級の力を有するのがアモン達。それに次ぐのが八体の魔王として、後は階級順に下がっていくのだと仮定してもガアプは統領。世界を滅ぼせる存在より、五段は格が落ちるだけの怪物。

 

 先ず確実に、普通の人間が勝てる様な相手ではない。一流域のビクトルが大隊規模の部隊を率いて、それでも勝てる確率は十に一つもあれば良い方だろう。

 ビクトルにも勝てないニコルが彼より弱いベロニカと足手纏いなルチアを率いて、戦ったとて至る結果は明白だ。この場でガアプが襲い掛かって来れば、彼らは何も出来ずに壊滅しよう。

 

「わあ、お花さんが喋ってる~」

 

「へぇ、じゃあやっぱりこの森で合っていた訳ね。ほら、アンタ達、探すわよ!」

 

 そんな事実を知る由もなく、少女らは気楽な話をしている。全く以って頭が痛いと、ニコルは叫び出したくなった。

 とは言え、叫ぶ訳にはいかない。知っていると、感付かれるのも不味いだろう。ニコルは息を小さく吐くと、呼吸を整え仮面を被る。

 

 まだ詰んだ訳ではない。原作でガアプに出逢った酔っ払いが生きて帰れた様に、気取られなければまだ逃げ切れる道はある。

 

〈お嬢さん方はこの森の奥に進む心算のようですが、どうかお考え直しください。此処は旅人を惑わす魔の森。一度足を踏み入れれば、二度と戻って来れる保証はありません〉

 

(そう出来たら、今直ぐにでも帰りたいんですがね)

 

「はっ、冗談じゃない。私は此処に、虹木蓮の花を探しに来たんだよ? あの小煩いカルラの婆さんから、許可を取るのにどんだけ粘ったと思ってるんだい。何の成果もなしにじゃ帰れないのさ」

 

「お婆ちゃん、危険だからって~、最後まで気を付けるようにって~、言ってたものね~。けど~、困ったら~、ニコルを頼れって~、お姉ちゃん、逆だと思うな~」

 

〈そうですか、分かりました。それでしたらせめて、私の言う事を良く覚えてから行ってください〉

 

「ルチア覚えるの苦手~」

 

「ふん。そういうのは、優等生に任せておけば良いのさ。ねぇ、ニコル」

 

「……全く、貴女達は二人とも、やる気がないだけでしょうに」

 

 年齢不相応に妖艶な笑みを浮かべて、肩にしなだれ掛かって来る青頭巾の少女を片手で押し退ける。

 良く分かってないのにベロニカの真似をしてくるルチアも同じく、少しだけ優しい手付きで押し退けてからニコルは肩を竦める。

 

 憤慨する少女らを後目に、懐から手帳を取り出す。メモを取る素振りをしながら同時に確認するのは、今の手持ちと手札の数だ。

 

〈この森は不思議な力に護られていて、行く先々に咲いている花の話を聞かないと先に進めないようになっています〉

 

「へぇ、素敵ね~。他のお花さん達ともお話出来るんだ~」

 

(そう言えば原作だと白い花はガアプの依り代になっていましたが、他の色の花はどういう理屈で話せていたんでしょうかね?)

 

 手帳と一緒に入っていたのは、メディリーフが三枚とマナリーフが七枚程。旅路の準備として用意した回復手段。

 魔力回復の方に重きを置いたのは、ニコルは既にキュアを覚えているから。初歩とは言え回復の魔法は、医学の常識を超えた効果を発揮する。

 

 酷い傷口でも、塞ぐだけなら一瞬だ。とは言え、古傷は癒せない。更に部位の欠損も戻せない上に、骨折を直そうとすれば変な形で繋がってしまう事もある。所詮は初級の魔法と言った所か。

 それと病気の類も治しようがない。ウィッシュの魔法も覚えていないのだから、毒や麻痺の異常を受ければ実質敗北と言っても過言ではないだろう。

 

〈でも咲いている花たちはみんな気紛れなものですから、中々本当のことは話してくれません〉

 

「面倒だね。千切ったり燃やしたりしてやれば、言う事を聞くんじゃないんかい?」

 

(全く、同感ですね。面倒なのは、ベロニカが癇癪を起さない様に見張る事の方ですが)

 

 アロマの調合は材料が足りない関係で、手持ちはマリンオイルとミスティオイルの二種類だけ。ガアプを相手にするのなら、ないよりはマシと言った程度の代物だろう。

 

〈赤い花は黄色い花と話した後に、青い花は赤い花と話した後に、黄色い花は青い花と話した後に本当の事を教えてくれるでしょう。白い花は常に真実を、黒い花は常に森から追い出すような事しか語りません〉

 

「え~と、え~と、もう良く分からな~い」

 

「元からアンタには期待してないわ。ニコル! ちゃんと覚えておいたでしょうね」

 

「……メモは取ってますよ。二人とも、筆記具ぐらいは持ち歩いた方がよろしいのでは?」

 

「お黙り! そういう細かい作業は、奴隷がやるべき事なのよ!」

 

「え~、ニコルは奴隷じゃなくて~、ルチアの弟だもん!」

 

「はいはい。奴隷でも弟でもお好きにどうぞ」

 

 実質、攻撃に使える手段は腰から下げた片手剣と習得している白魔法のブレスのみ。ガラハッドソードと名前だけは大仰だが、性能的には大したことがない代物だ。

 英雄の用いた聖剣らしいが、恐らくは唯の複製品だろう。幼い少年の手に納まっている時点で、真作でないのは明白。仮に本物だとしても、この性能の低さでは期待するだけ無駄に終わろう。

 

 総じて、今のニコラス・コンラドはまだ弱い。例えマリスが薄く悪魔ガアプが原作より弱いとしても、勝ちの目などは一切ないと断言出来る。

 だがだとしても、何とか出し抜いて生き延びねばならないのだ。この悪趣味な悪魔の思惑通り、永遠に森を彷徨い続ける末路など決して受け入れる事は出来ないから。

 

「それじゃ、行くわよ。アンタ達」

 

「よぅし、絶対に虹木蓮を見付けるぞ!」

 

〈今言った事を、くれぐれもお忘れなきよう。貴女方の無事を、心よりお祈りしております〉

 

(抜かせ、悪魔が……)

 

 膨らみ始めたばかりの胸を張るベロニカに、右手を突き上げて同意するルチア。二人を後目に、ニコルは首飾りを小さく握った。

 心にもない事を騙る悪魔の言葉に、内心で舌打ちをしながら微笑の仮面を張り付ける。必ずや生きて帰ると、幾度も心に誓う。何も為せずに、終わる道など選ぶ訳にはいかないのだから。

 

 

 

 

 




取り敢えず、憑依ニコル君の初戦闘は隠しボスな!
前作から続いて、今回も主人公虐めが大好きな天狗道です。


~原作キャラ紹介 Part3~
○ベロニカ・ベラ(登場作品:シャドウハーツ2)
 秘密結社サピエンテス・グラディオの女魔法戦士。ニコルやレニと同格の幹部として登場し、序盤から中盤を盛り上げる。
 露出のボンテージに身を包んだ金髪の美女。容姿は端麗なのだが、女王様としか言えない服装の所為で目立たない。お色気?担当。

 原作時の年齢は30代と名言されていない年齢不詳の人物。当作ではルチアの4歳年上と設定、原作時には32歳となる予定。
 生粋のサディストだが愛情は深く、想い人に尽くす姿は健気でもある。原作ではその情の所為で、最期までラスプーチンに利用される事となる。

 香を使った催眠暗示は、ロシアの宮廷全域を包み込む程。魔物を使役する能力を持ち、更に戦士としては高い戦闘能力も有している。
 そんな優秀な彼女だが、SG団3幹部の例に漏れず、間抜けさや脇の甘さを有している。サントマルグリット島での拷問イベントは、擁護出来ない戦犯行為であろう。



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第3話 無謀な挑戦

まだ戦闘は始まらない。どうしてまだ生きてるんだろう?(哲学)


「あ、お花だ~」

 

「赤と青ね。ニコル」

 

「はいはい、聞いて来ますよ」

 

「ルチアもお話する~」

 

 微かな木漏れ日に照らされながら、少年達は森を進む。赤い花に近付いて、耳を傾けては青い花へと。

 可憐な花と会話が出来ると言う幻想的な光景に、小さなルチアは疲れも忘れて燥ぎ回っている状況だ。

 

「左の道を進んで、次は真ん中の道に行くようですね」

 

「そう。ならとっとと行くわよ」

 

 聞くべき事を聞き終えても、まだ話を続けるルチアに大人ぶったベロニカは嘆息する。

 気の回るニコルに内容を確認すると、彼女は肩を怒らせながらルチアに近付きその腕を引き立てた。

 

 まだ話をするのと愚図るルチアに怒声を上げて、引き摺り進むベロニカ。そんな二人の姿に肩を竦めた後、ニコルは後を追いながらも軽くフォローを入れる。

 どうせまた直ぐに次の花に遭遇すると、ニコルが口にして直ぐに言葉は現実と変わった。木々の隙間に生まれた獣道を進んで直ぐに、咲いていたのは二輪の花だ。

 

「またお花さんだ~」

 

「白と黒、ですか」

 

「なら白い方だけで良いんだろ、さっさと聞いてきな。ルチア」

 

「は~い」

 

 見付けて直ぐに、ルチア一人を行かせたのはベロニカなりの気遣いだろう。

 存外甘いものだとニコルが苦笑を漏らせば、気付いたベロニカは目を釣り上げて彼を睨んだ。

 

「最初は右で~、次も右で~、最後が左だって~」

 

 ベロニカの視線に肩を竦めていると、話を聞き終えたルチアが楽しそうに手を振っている。

 今度は我儘も言わなそうだと僅かに安堵してから、褐色の少女に先導される形で彼らは更に奥へと進んだ。

 

「あれ、何かあるよ~」

 

「タロットカード、ですか。何か特別な力を感じますが……」

 

 その途中、木々の隙間に落ちている物を見付け出す。ニコルが手に取ったのは、一枚の古びたタロットカード。

 長年風雨に晒されていたのだろうに、絵柄はそれ程に掠れていない。一見して分かる異常さだが、触れた瞬間にそれは更に増す。

 

 指先を通して伝わる力。何か特別な物であるのだと、カード自体が訴えかけて来る。このカードの事を、ニコルは確かに知っていた。

 原作において、ルチアが用いた力の一つ。特別なカードを使用した占術。それに用いられるカードの一つが、間違いなくこれであったのだ。

 

(……これも、シュバルツバルトで、でしたか。存外、忘れている事が多いですね)

 

 ニコルの前世とでも言うべき、原作をプレイしていた人物は中々に重度のゲーマーだった。シャドウハーツシリーズも、1からFまで大体の内容を把握している。

 それでも流石に、細かなドロップアイテムまでは覚えていない。余程重要な物ならば何となく記憶に残っているが、その重要な記憶もこの七年で薄れてしまった。

 

 とは言え、何処ぞの転生者達の様に日記や記録に残す訳にもいかない。誰に見られるとも分からない以上、下手な事は出来ないのだ。

 

 そんなことを考えながらニコルは、幾度かカードに魔力を流し込んでみる。あわよくばと言う期待は、当然の如くに空を切る。

 これは自分の為の物ではない。握る手に感じる反発に、ニコルは残念だと嘯く。実際、それ程に期待していた訳ではない。ギャンブルに頼る心算など、全くと言って良い程になかったからだ。

 

「駄目ですね。私では、使えそうにありません」

 

「はっ、ニコルは理屈っぽいからね。そりゃ、感性が重要な事は無理でしょうよ」

 

「……では、ベロニカなら使えると?」

 

「当たり前だろ。とは言え、使う気もないけどね」

 

 自分では使えないと口にして、ベロニカからはそうだろうと嘲笑される。煽られると苛立つのもまた当然の事で、ニコルは少し不機嫌そうに言葉を返した。

 お前も使えないだろうに。暗にそう語るニコルに不敵な笑みを返して、ベロニカは彼の手からカードを奪い取る。そうして数歩ゆっくりと動くと、褐色の少女にそれを渡した。

 

「こういうのは、ルチア! アンタが持っておきな!」

 

「うん。分かった~」

 

 やはり出来ないのではないか。何処か拗ねた態度でそれを見詰めるニコルの前で、ルチアは嬉しそうにくるくる回る。

 まだ幼い少女にはそのカードの価値など分かっていないが、姉の様に慕う相手から譲られたと言うだけで嬉しくなれるのである。

 

「えへへ~。貰った~。ところで~、これなんて読むの~?」

 

「The Chariot、戦車ですね。勝利や成功の象徴です」

 

「へ~」

 

「全く、学がないわねぇ。それと駄弁ってないで、さっさと進むよ」

 

 憎まれ口を叩きながらも、率先して先に進むのは恥ずかしさを隠す為だろう。大した事もしていないのに、こんなに喜ばれるのは実に恥ずかしいのである。

 口でなくとも態度で白状している様なベロニカの歩みに、ニコルは溜飲を下げる。嬉しそうなルチアに手を引かれて、ベロニカを追う時間は嫌いじゃなかった。

 

 そんな風に手を引かれて進みながら、ニコルは思考を巡らせる。穏やかなやり取りに、心を緩ませているだけで済む状況ではないと知っていたから。

 ガアプに不審を抱かれずに、この森を抜け出す方法。ベロニカやルチアを納得させる必要もあるだろう。抜け出せたとして、また戻って来てしまうのでは意味がない。

 

 途中で敢えて、道を間違えるのはどうだろう。花の法則を一番詳しく理解していると認識されているのはニコルであるから、強く主張すれば直ぐにも入り口まで戻れよう。

 だが恐らく、それが上手く行くのはたった一度だ。二度目以降は警戒されて、三度も続けば信頼を失おう。帰りたいから嘘を吐いたのだろうと、聡いベロニカならば或いは一度で気付くかもしれない。

 

 香や暴力を用いて、二人の意識を奪うのはどうだろう。先ず最初にベロニカを気絶させ、返す刀ですぐさまルチアを襲えば上手く行くと言う自信はある。

 だが最大の問題点は、傍目に異常と分かりやすい行為である事。ガアプがおかしいと気付いて襲い掛かってくれば、ニコルは意識を失くした二人を庇いながら一人で戦わねばならなくなるのだ。

 

 真実を暴露するのも無しだ。この森の支配者がガアプである以上、何処で聞かれているのかが分からない。

 あれが襲い掛かって来た時点で勝ち目はないのだから、虹木蓮を探して迷い込んだ子どもと言う体を崩す訳にはいかなかった。

 

 総じて、詰みだ。この森に来る事を止められなかった時点で、この森に入ってしまった時点でニコラス・コンラドは詰んでいた。だがそれを認めたくはない。

 まだマリスが活性化していないから、ラスプーチンが後押ししたから、様々な理由があったからとは言え行けると判断したのはニコル自身。幼い彼は、それを己の失敗と認めたくなかったのだ。

 

 きっと好機はまだ在る筈だ。逆境ではあるが、打開の術は在る筈だ。或いは気紛れな二人だから、途中で嫌になって帰ろうと言ってくれるのではないか。

 己の実力ではなく、偶然が起こる事を期待している時点で碌な事には成り得ない。そんな簡単な事さえ気付けなくなる程に、ニコルは追い詰められていた。

 

「随分と奥まで来たけど、まだ着かないのかい?」

 

「ルチア、もう足が疲れちゃった~」

 

 そうして何も出来ない内に、遂に其処まで至ってしまう。此処が最後の分かれ道だと、ニコルは確かに覚えていた。

 

〈こんなトコまで迷い込んで来やがって、救いようのねえ馬鹿共だな〉

 

「なんですってぇっ! 花の癖にこの私を罵倒するなんて、良い度胸じゃないの!」

 

〈馬鹿に馬鹿って言って何が悪い! ……まあ、来ちまったもんはしょうがねぇ。おいお前ら、此処を左に曲がれ! そんで二度と、そのツラ見せんな! 分かったな!〉

 

「出てけって言われても~、折角此処まで来たのに~」

 

 柄の悪い口調で、警告を発してくる黒い花。ガアプの支配する森の中で、どうしてこの花だけが人間寄りであったのか理由は知らない。

 唯一つ確かな事は黒い花の言う通り、此処まで来てしまったニコル達が愚かである事。そして、もう一輪の花が人にとっての大敵であると言う事だけ。

 

〈やれやれ、何て品のない。みなさん、彼の言う事はどうかお気になさらず。此処を右に行けば、さらに森の奥へ進めます。まだ先は長いですが、頑張ってください〉

 

「だ、そうよ。なら、決まったわね。さっさと右に進むわよ」

 

「え~、少し休んで行こうよ~」

 

「駄目よ! 今日の夕方には、シュベリンゲンから迎えが来るのよ! フィレンツェに戻ったら、次は何時此処に来られるのか分からないんだから!」

 

 ルチアは疲労からもう帰りたがっている様だが、やはりベロニカはまだ戻る心算はない様子。

 虹木蓮と言う貴重な素材が直ぐ近くにあるのだから、ニコルにも彼女の気持ちは分からなくもない。

 

 さりとて、此処では同意など出来よう筈もない。このまま右に進んでしまえば、もう二度とこの森から出られなくなるのだから。

 

「……少し待ってください」

 

「何だい、ニコル。アンタもルチアの肩を持つ気かい?」

 

「ニコル~、お姉ちゃん、嬉しい~」

 

「残念ながら、違いますよ。このまま奥に進むのはもう止めた方が良いと、そういう提案です」

 

 故にニコルは動き出す。ガアプに不審がられない範囲で、ベロニカとルチアを説得する為に思考を回す。

 一体何処までがセーフで、一体何処からがアウトであるのか。手探りで周囲を探るように、少しずつ少しずつと。

 

「もう十分に奥まで来ました。後は帰り道の途中で、虹木蓮を探せば良いかと。それにこの辺りで引き返さないと、どの道ベロニカが言っている刻限までには戻れませんよ」

 

「ふん、何言ってるんだい。これまで見つからなかったんだから、更に奥に行くしかないだろう」

 

「この奥にあると言う、保証もないかと。寧ろ帰路までの道を、虱潰しに探した方が可能性は高いのでは?」

 

「かもしれないね。でもそれで見つからなかったら骨折りだろう? そんなの、私は嫌だね」

 

「ルチアも~、帰り道を虱潰しは嫌かも~。それなら~、もう少し奥まで~、頑張る~」

 

 最初の提案は、あっさりとベロニカに拒否される。疲れたルチアは、虱潰しと言う言葉が気に入らなかった様子だ。

 鼻を鳴らして先に行くよと告げるベロニカに、ニコルは内心で僅か焦る。この森の奥地は、神殺しの男ですら脱出できない魔境であるから。

 

「……やれやれ。少し、こちらに来てください」

 

 ならば少し、リスクを上げる。二人を手招きして少し離れた場所へと、移動したのはガアプに対するポーズの一種。

 にこやかに、訝し気に、相反する表情で近寄って来る少女らに耳打ちする。内緒話をする距離だが、ニコルにはガアプに聞かれているのだろうと言う確信があった。

 

「あの白い花が、嘘を吐いているとは思いませんか? 真実を語っている保証は、何処にもありませんよ」

 

「今更何を言ってるんだい。今までだって、平気だったろう?」

 

「そうだよ~。白いお花さんは~、嘘吐かないと思うよ~」

 

「今まで平気だったから、今回も大丈夫だとは限らない。ある程度成功させて信頼を築くのは、詐欺や騙しの基本です」

 

 ニコルが語るは、白い花への不信感。妖花の正体には一切気付いていないが、余りにも出来過ぎているから怪しいと。

 明らかにグレーラインの行動だが、口にされる言葉は警戒心の強い人間ならばこう捉える事もあるかと言う範囲に収まっているだろう。

 

「少なくとも私が他者を嵌める心算なら、此処で仕掛けます。程良く信用を積み重ねた状況と、程良く疲弊して思考が回らない相手。正直言ってカモですね」

 

『うわ、性格悪っ』

 

 爽やかな笑顔で不信を語るニコルに、少女達は揃って表情を歪める。常々思ってはいたが、この男は性格が悪過ぎないかと。

 それを仕方ないと思える同類だからこそベロニカとは友好関係が築けていて、それを正そうと思えばこそルチアはお姉さんぶるのであろう。

 

「そういう訳で、私の意見も一考に値するのでは? それに時間がないと言うのなら、それこそもう帰り支度をするべきでしょう」

 

「う~ん。言われてみれば~、そんな気も~、しなくもない~、かも?」

 

 自分が騙すならばこうすると、性格の悪い男が語る。その言葉には一片の理は確かにあり、故に元から流されやすいルチアは直ぐに影響される。

 

「ふん。何だかんだ言って、アンタが帰りたいだけなんじゃないの? 仮に騙されているのだとしても、行って直ぐに戻れば良いだけの話じゃない」

 

 だが、ベロニカを説得するには余りに足りない。鼻を鳴らして背を向ける彼女は、既に右の道へと進む事を決めていた。

 頑固でプライドも高い女だ。一度決めたら、容易く翻す事はないだろう。少なくとも一度は進んでみるまで、説得は不可能だと断言出来た。

 

(……やれやれ、此処まで言っても駄目、ですか)

 

 そしてその一度で、彼らは終わる。ベロニカは甘く見過ぎているのだ。一度間違えば、取返しの付かない状況などとは思っていない。

 無理もないとは思うが、それでも苛立ちを抱いてしまう。他に説得の手段はないかと思い浮かべるが、流石にこれ以上話続けるのも難しかろう。

 

(これ以上は、ガアプが不審に感じてしまう。かと言って、この先に進めばもう戻れない)

 

 詰みだ。詰みだ。もう詰んでいるのだ。そう理解してニコルは、故に腹を括った。開き直った、と言っても良い。

 振り返らずに歩き出したベロニカと、ちらちらとニコルを見ながらもベロニカを追うルチア。二人に向かって、ニコルは叫んだ。

 

「ならば、仕方ありませんね。ルチア姉さん! ベロニカ! 構えなさい!」

 

「え?」

 

「はぁ?」

 

 突然の叫び声に困惑して、足を止める少女達。そんな彼女らに意識を向ける事もなく、ニコルは腰より剣を抜き放つ。

 銀色に輝く聖剣ガラハッドソード。その刃を向ける先には、木々の隙間より生える白い花。討つべき悪魔を睨み付け、ニコルは剣に魔力を込める。

 

「ソレミユス、ソレミユス、ソレミユス! 神なる光を受けなさい!」

 

 ブレス。神聖なる呪を唱えたニコルの祈りに応えるように、白き輝きが溢れ円を描きながら集束していく。

 小さくなる光円の中央に座す、白い妖花へと。目を焼く程に強烈な輝きが周囲を満たすと同時に、妖花は苦悶の声を上げた。

 

〈ぐ――っ、何を!?〉

 

『ニコル!?』

 

「やはり、余り効いてはいませんか」

 

 行き成り何をするのかと、困惑する少女達。やはりそんな彼女らには意識を向けず、妖花だけを睨み付けるニコル。

 悪魔にとっても予想外の一撃は、相性の良さもあって確かな被害を与えている。だが彼の想定通り、直撃した奇襲でさえも多少の被害を与える程度。それだけで、倒せる程に簡単な相手ではなかった。

 

「ですが、その邪悪な気配は隠し切れなくなったようですね」

 

 それでもやはり、ニコルの想定した通りに事態は推移する。被害を受ければ、悪魔はその本性を晒す筈だと。

 何処からともなく、赤き光が集まっていく。白い妖花は周囲の樹木を喰らいながら、肥大化していきその真なる姿を露わとした。

 

〈……やってくれますねぇ。一体何時から、気付いていたのですか?〉

 

「最初から、とでも言っておきましょうか。ええ、本当に“最初”から、ね」

 

 宙に浮かんだ白い花。三人の子どもを纏めて包み込める程に大きな花弁は大地を向いて、緑の葉で覆われた姿は宛ら女性用のスカートか。

 下半身があるならば、当然と言わんばかりにある上半身。其処には互いを繋ぐ腰部がなく、あるのは無数の蔓に覆われた女の胸と腹と首。

 

 必要な部位の欠落と余計な要素の付け足しさえなければ、さぞや美しい女性像をしていたのであろう。

 何処か淫靡ささえ感じさせる異形の姿に、そんな場違いな思考を抱いてしまう。これぞ七十二柱は一角、地獄の大総裁ガアプ。

 

〈全く、本当はみなさんには永遠に森の中を彷徨って頂く心算だったのですが〉

 

「……へぇ。成程、随分と舐めてくれるじゃないの」

 

「お花のお化けだぁ~!」

 

 溢れ出す膨大なマリスと、人を隔絶した気配。事此処に至ってベロニカとルチアも、現状が如何に危険だったのかを理解する。

 理解して尚噛み付こうと言うベロニカの負けん気は、とても稀有な物。少なくとも今のルチアのように、腰を抜かして座り込んでしまう方が一般的と言えるだろう。

 

〈残念ですよ。苦しみながらのたれ死ぬ姿を、是非とも見たかった〉

 

「やはり悪魔は、趣味が悪い。此処で消し去って差し上げましょう」

 

 対決はもう避けられない。ならばせめて、機先を制した方が余程マシと言えるだろう。そう開き直ったニコルですらも、感じる予想以上の力に気圧される。

 周囲のマリスが足りないのだから、原作よりも圧倒的に劣化している筈なのに。大隊規模の戦力がこの場にあったとしても、この悪魔に敵うとは全く思えなかった。

 

 それでも内心の動揺を笑顔の仮面で覆い隠して、ニコラス・コンラドは剣を執る。此処を生き延び、己が望みを果たす為にも。

 

〈人の子風情が、大きく出たものだ〉

 

 ニコルが決意の裏に隠した、確かな恐怖と怯懦の情。それさえも、この悪魔は既に見抜いているのだろう。

 整った女の顔が、唇の端を歪めて笑みを形作る。万人を魅了する様な魔性の笑みに、しかし見惚れているような余裕はない。

 

 これよりは死地である。これまでと違い、命の保証が一切ない。産まれて初めての実戦に、子ども達は挑むのだ。

 

〈光栄に思いなさい。この私自ら、皆さんの命を奪って差し上げましょう!〉

 

 

 

 

 

 




勝ち目? ないよ、そんなの。(ネタバレ)
ヒノキの棒装備の村人レベル3くらいのパーティで、魔王バラモスくらいの敵に勝てると思ってるの?(暴論)


取り敢えず、今回は原作キャラ紹介はありません。
代わりと言っては何ですが、今回から暫く今後の展開アンケートを取りたいと思います。

アンケート内容の詳細については、次話投稿時の前書きで少し触れるかもしれません。


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第4話 当然の結果

展開アンケートについての詳細は、長くなりそうなので後書きにて。
まだ日付が変わっていないので、多分初投稿だと言い張れると思いたいです。


 巨大な妖化の怪異を前にして、硬直は秒にも満たない僅か一瞬。剣の柄を強く握り締め、身体の震えを抑え付けるとニコルは即座に前へと走り出す。

 

「姉さんは一旦下がって、アロマで援護を! ベロニカ、私が前に出ます! 合わせてください!」

 

「わ、分かった~」

 

「は、私に指示してんじゃないのよ!」

 

 同時に少女達へと指示を飛ばす。片や従順で片や反抗的な反応だが、どちらも言われた通りに動く。

 震える足で立ち上がって距離を取り、アロマの調合を始めるルチア。精神を統一し、呪文の詠唱を始めるベロニカ。

 二人を後目で確認しながら、大地を蹴って跳び上がる。余裕の心算か動かぬ妖花に向かって、ニコルは剣を両手に握って叩き付けた。

 

「はぁぁぁぁっ!」

 

 振り下ろした刃から、伝わる震動はまるで巨岩に鉄を打ち付けたかの如く。片手に握っていたのなら、刃を取り落としていたであろう程の物。

 蔓を斬ろうとしたとは思えぬ音を立て、しかし妖花は全く無傷。攻撃を仕掛けたニコルの方が、逆に反動で吹き飛ばされていると言う無様さだ。

 

「お仕置き!」

 

 ヘイルピーク。ニコルが離れた直後を狙って、ベロニカの魔法が猛威を振るう。一瞬で周囲の気温が下がると同時に、大地から次々と突き出すのは氷の刃。

 幾つも幾つも連なる三角錐の氷柱は、まるで小さな山脈連峰。常人ならば血肉を容易く貫かれ、百舌鳥の早贄が如くに死骸を晒す羽目になるだろう。だが、眼前に座すは常人の理解を超えた怪物だ。

 

〈ふむ。こんなものですか?〉

 

 当たらなかった、訳ではない。命中して尚、無傷。不動は慢心が故の物ではなく、己が倒される事はないと言う確固たる事実の証明でしかない。

 嘆きの棺はまだ壊されていないと言うのに、これ程に大差が存在している。唯人では決して届かぬ域にあるものこそ、強大なる地獄の悪魔なのだ。

 

「どうするのよ、ニコル!? コイツ、私の魔法が全く効いてないわよ!?」

 

「……予想はしていましたが、そのようですね。やはりこちらの手札では、勝ち目などないようだ」

 

 己の攻撃が全く通じない。そんな予想だにしていなかった状況に、問い掛けたベロニカへとニコルは地面に着地しながら返す。

 元より勝ち目がないと、ニコルは知っていたのだ。これ程とは思ってもいなかったが、相手の実力が100だろうと1000だろうと届かない事には変わりないから想定通りだ。

 

「はぁ!? アンタ、勝算もないのに喧嘩を売ったの!?」

 

「そうでもしないと、貴女は納得しないでしょうに。けれどこれで、貴女達も状況は理解した筈です。尻尾を撒いて、逃げますよ」

 

 敵前逃亡。ニコルには端から、ガアプと真面に戦う心算はなかった。先ず一当てしたのは、敵に機先を制されるより前に彼我の実力差を仲間達に伝える為。

 皆が認識を共有したなら、後は撤退戦に移行するのみ。ニコルが殿となって、先ずはルチアとベロニカを。後を追う形で、ニコルも順次撤退すると言う想定だった。

 

「……悔しいけど、それしかなさそうだね」

 

「に、逃げるって、何処に~」

 

「黒い花が語った先です! 私が殿を受け持ちますから、急いで下さい!」

 

 妖花から目を逸らさずに、ニコルは少女らに語る。幸いと言うべきか、これまでの道のりで募った疲労はルチアの香で拭われている。

 黒き花が語った出口まで、休まず駆け抜けるくらいは出来るだろう。もしもこのまま、逃げる彼らをガアプが追おうとしなければの話だが。

 

〈ふふふ、勇ましい事を言ったかと思えば、所詮は賢しいだけの人の子ですか。その選択は正しくとも、私が逃がすとお思いなのは実に甘い〉

 

 蔓が蠢き、少年少女らへと向かって伸びて来る。その浸食速度は目にも留まらぬと言う程ではないが、子どもの足などよりは遥かに速い。

 走り出した彼らは直ぐに追い付かれ、このまま捕らわれ喰われてしまおう。ルチアは頭を抱えて姿勢を低くし、ベロニカは鞭を振り回すがどちらも然したる意味がない。

 

「やだやだやだ~!」

 

「ちっ、鞭も通らない! 何て頑丈なんだい、コイツは!?」

 

 唯一打、当たった鞭が先から割れる。ガアプの伸ばした蔓の方が遥かに硬度が上だから、力を逃し切れずに壊れてしまった。

 圧倒的と言うにも生温い大差を感じて、ベロニカは顔を青く染めて悪態を吐く。蔓に先回りされて、逃げ場を失くしたルチアは既に涙目だ。

 

「姉さん! はぁぁぁぁっ!!」

 

 軽業師の様に軽快な動きで襲い掛かる蔓を躱していたニコルは、ルチアの状況を見て焦りながらも白魔法を行使する。

 神の光が輝いて、ガアプの蔓が僅かに揺れる。咄嗟に空いた隙間を指差し行けと叫ぶと、頷くベロニカがルチアを連れて駆け抜けた。

 

 蔓の包囲網からの脱出。命を賭けた一瞬の攻防で得た成果も、唯スタートラインに戻っただけと言うべき物。

 明らかに手加減している相手から、逃げる事さえ満足に出来ないと言う格差。ルチアを抱き抱えて走るベロニカの背を、嫌な汗が流れていく。

 

「剣や鞭よりは、まだ白魔法の方が通るようです。その点は、やはり悪魔と言うべきですかね」

 

 再び伸びて来る蔓を白魔法で弾きながら、ベロニカ達の下へと合流するニコル。

 何時も通りに澄ました表情でマナリーフを口に含んでいる彼が、ベロニカには憎らしくも心強かった。

 

「本当に植物かって、さぁ。けど、一つでも通るものがあるなら!」

 

「削り切る前に、魔力が尽きますね。マナリーフも、残りは6枚しかありませんし」

 

 通じる攻撃があるならば、倒せるのではと意気込むベロニカ。魔力を回復する効果を持つ薬草を飲み干したニコルは、そんな彼女の甘い見積もりを否定する。

 攻撃が通じると言った所で、直撃させても相手の動きを逸らす程度の力しかないのだ。例えるならば熱湯に触った人間が思わず熱いと思って手を引いてしまう様な、その程度の被害しか与えられてはいなかった。

 

「ニコル! 折角やる気になったのに、気分を削ぐんじゃないよ!」

 

「仕方ないでしょう。目を逸らしても、この問題は解決しません」

 

 走りながら、ベロニカが叫ぶ。追撃に来る蔓は躱せなくなる都度、ニコルがブレスで弾いているがそれも限界があるだろう。

 逃げるだけでもこれなのだから、ブレス一つでガアプを倒そうと言うのは論外だ。一体何千何万当てれば、僅かな熱湯で怪物を消し去れよう。

 

「ちっ、ルチア! ナイトオイルは!?」

 

「も、持って来てないよ~」

 

「何だってぇ、使えないわねぇっ!」

 

「あった所で、焼け石に水です! あちらが本気になればお仕舞いだと言うのに、こっちは最低でも数千回は当てないと話にならないんですから!」

 

 叫んだ直後、ニコルは足元を見て表情を変える。微笑の仮面で隠せぬ程に溢れる感情は、命の危機に対する恐怖。駆ける彼が踏み締めた地面に、緑の光が走っている。

 地に重なり輝く二つの円陣と、それを囲むように広がる走る光の軌跡。大きく直進する輝きは途中で直角に曲がり、そのまま円を囲んだ四角形の光線を大地に描き出す。

 

 四の光点から頭上に上がり、一点で収束して四角錐の形へと。至る魔法を、ニコルは原作知識で知っていた。

 巻き込まれる。対象は、子どもら全員。逃げられるのは、精々一人か二人が限度。そう認識した直後、ニコルは少女らを突き飛ばしていた。

 

「――っ! 何をっ!?」

 

「ニコルっ!?」

 

 突き飛ばされた少女らが何故と問うよりも早く、天より緑の光が降り注ぐ。爆風が、大地を覆い尽くした。

 悲鳴を上げて、少女達は吹き飛ばされる。少女らだけではなく、森の木々もまるで嵐に巻き込まれたかの如くに吹き飛んでいく。

 

 禿山同然と化した森の一部。十メートル程の距離を一瞬で消し飛ばしたのは、土属性の最上級魔法ロッククレスト。

 突き飛ばされて直撃を免れた少女らの被害は、余波に吹き飛ばされての擦り傷程度で済んでいる。だが、少女らを助ける為に直撃を受けた少年の姿は見るに無残な物だった。

 

「げ、ふっ」

 

 足は折れ、腕は折れ、胴の一部は骨や臓器が見え隠れする程の重症。肺に骨が刺さったか、口からは喀血が続いている。

 ニコルは霞み遠退く視界の中で、まだ繋がっている腕を動かす。このまま目を閉ざせば死ぬだろう。だが何も為せずには死ねないと、その意地だけで食い縛る。

 

 懐から取り出したメディリーフを、動かぬ口の中へと入れる。逆流する吐血と共に吐き出しそうになるが、それでも吐瀉物を飲み干す様に無理矢理押し込む。

 体力の回復だけでは戻らない傷口には、キュアを何度も掛けて癒していく。もう少し上位の回復魔法を使えれば復帰も早かったのだろうが、これが今のニコルにとっての限界だ。

 

 だが、そんな努力を嘲笑うかの様に緑の輝きが再び大地に灯る。四角錐の陣を描く領域からまだ立ち上がれないニコルが逃れられる筈もなく、出来るのは唯内心で毒吐く事だけだった。

 

(こちらは初期魔法のブレスが切り札なのに、相手は最上級魔法のロッククレストを連発とか、ふざけないで欲しいものですね)

 

 そして、滅びの光が再び大地に降り注ぐ。大森林の中に生じたクレーターは、更に深く巨大になって。

 少年の小さな身体は、塵屑の様に吹き飛ばされる。五体満足であるのが奇跡と思える程に、深く深く傷付きながら。

 

『ニコルっ!!』

 

 再び爆風に飛ばされて、大地に落ちた少女らが叫ぶ。余波だけでも大きく吹き飛ばされて、激しい痛みに襲われながら。

 それでも立ち上がって振り向いて、身を案じるのは余波ですらこんなにも痛いから。二度もその直撃を受けた少年の身を、唯只管に案じていたのだ。

 

 爆風が過ぎ去る。後には更に深くなった森の傷痕の中で、今にも息絶えてしまいそうな子供の姿。いいや本当に、彼はまだ生きているのだろうか。

 生きているとは思えない。もう二度と動けなくてもおかしくはない。それ程の惨状。死体同然の姿を晒したニコラス・コンラドと言う名の少年は――

 

「足を、止めるなっっ!!」

 

 それでも、叫んでみせる。血反吐を幾度も吐き出しながら、もう満足に動かぬ身体に回復魔法を掛けていた。

 諦めない。死にたくない。唯その意志だけで遠退く意識を支え続けて、神への祈りを癒しの力に己の傷を塞ぎ続ける。

 

「私は、死なない! 私は死ねない! こんな所で、何も為せずに!」

 

 叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。まだ死ねないと叫びながら、回復魔法を行使する。魔力が尽きれば、血反吐と共にマナリーフを貪り喰らって叫び続ける。

 身体が中途半端に癒える程、痛覚も戻り叫び出したくなる程の苦痛を感じる羽目になる。けれど身体が痛むのは、生きているからなのだと拳を握った。

 

 死にたくない。まだ何も出来てはいないから。軋む左腕を動かして、握り締めたのは形見の首飾り。映る女性が望んだ願いを、まだニコルは果たせていない。だから、止まれない。終われないのだ。

 

「必ずや、生き延びてみせるっ! だからっ! 貴女達は、先に行きなさいっ!!」

 

「ニコル! けど!?」

 

「っ! 行くわよ! ルチア!!」

 

 蹲って肺に溜まった血を全て吐き出した後、骨の折れた足で立ち上がる。そんなニコルの背中を見詰めて、ベロニカが逡巡したのは一瞬だった。

 全身打撲で痛む身体にアイツよりはマシだと鞭を入れ、歯を食い縛って背を向ける。戸惑うルチアの腕を無理矢理引くと、脇目もふらずに駆け出した。

 

〈健気なものです。命と引き換えに、他者を逃がしますか〉

 

「言った、でしょう。死ぬ気は、ないと」

 

 ゆっくりと近付くガアプ。怪物は今も余裕である。それも当然、まだ全力の一割だって見せてはいないのだろう。

 後悔しているかと問われれば、即答出来たであろう心境だ。こんな怪物が居る場所に、軽々しく来るべきではなかった。

 

 けれどそんな後悔は、生き延びた後ですれば良い。今は唯、少しでも長く生き延びる方法を。まだ死にたくはないのだから。

 

「生き延びて、みせますよ! この程度の、死地など!!」

 

 折れた足で走り出す。既に逃げ出した、ルチアとベロニカを追うように。まだニコルは諦めてなどいない。

 だから全速全力で、駆ける少年の歩みはしかし遅い。一歩毎に激痛が走る状態で、全力疾走など出来る訳がないのだから当然だ。

 

〈成程。ですが、無駄な努力です。貴方は決して、助からない〉

 

 この世界はゲームとは違う。消耗した体力(HP)を回復アイテムで治した所で、傷付いた身体はそう簡単には戻らない。

 鈍って衰えた動きでは、ガアプからは逃げられない。駆け出したニコルが襲い来る蔓に捕まったのも、至極当然の結果であった。

 

 大地を踏んだ足に蔓が巻き付く。そのまま強く引き摺られ、着地に失敗したニコルは顔から地面に落ちる。

 咄嗟に右手をつこうと動かすが、骨が折れた腕では支えにならない。そのまま巻き込む形で倒れて、骨折が更に複雑化するだけ。

 

〈さあ、ゆっくりと嬲り殺してあげましょう〉

 

 痛みに呻く少年の身体を、足を掴んだ蔓で引き釣り上げる。逆さに吊り下げられた少年を見詰めて、ガアプは妖艶に微笑んだ。

 

 そうして、三つに分かれた身体の一つから伸びる蔓を振り回す。先端にニコルの身体を捕えた蔓の鞭を、宛らモーニングスターでも振るうかの如くに。

 周囲の木々へと、幾度も幾度も叩き付ける。その度に上がる苦悶の声と、飛び散る血飛沫に恍惚としながら。ガアプは新たに得た玩具で、気が済むまで遊び続けるのであった。

 

 

 

 

 




○展開アンケートについて
アンケート結果で変わるのは、主に終盤以降の展開となります。
1~3まで選択肢は基本両立不可な項目です。作中で憑依ニコルに好意を向けてくるヒロイン候補達に、憑依ニコルがどのように向き合うのかが投票数次第で変わります。

1なら内の一人だけを受け入れて、他のキャラを遠ざける形。2なら情に流される形で全員と、3なら恋愛には無関心で全員と壁を作ったまま我が道を貫き通す形となります。

これらの3パターンは両立不可なので、一番人気を選びます。純愛ルートの場合のみ、ヒロイン候補が出揃ったら再アンケートです。

4と5は他の要素と両立可能。ただしこれらが一番人気の場合、ヒロインよりウルやアナスタシアが目立ちます。

例えば4の漢祭り+1の純愛で4が上の場合、ヒロインは愛しているけどそれよりウルとの決着をつける方が大事。
ウルウル叫んでヒロインそっちのけで殴り合いを始めるような、コンプレックス拗らせ野郎になります。

5が一番人気の場合、シャドハ2シナリオの主人公はアナスタシアになって、ニコルの打倒が目的となるでしょう。(もしかしてラスボスルート?)

基本的にはどのルートにも入れるように、フラグ立てを行っていく予定です。
なので憑依ニコルが、女性陣から言い寄られるのと、ウルへのコンプレックスを拗らせるのと、アナスタシアと対決する事は確定です。


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第5話 そのアルカナは導く

片や今作にて、兄を追い詰めているガアプ。
片や原作にて、妹に捕まりパシリになったオロバス。

同じ隠しボス。同じ七十二柱。どうしてこんなに差が出来たのか……慢心、環境の違い。
これが原作で最後までシリアス貫けたガアプと、ギャグキャラになった奴の差か……


 ベロニカはルチアを連れて森を駆け抜ける。年若い少女の胸中は、後悔と屈辱に満ち溢れていた。

 この森に来たいと言う我儘に、弟分と妹分を巻き込んだ後悔。強大な魔を前に、逃げるしかない屈辱。己の無力が、痛い程に苦しかった。

 

「駄目! 駄目だよ、ベロニカ! このままじゃ、ニコルが!」

 

「っ! 分かってるのよ、そんな事! けど、だからって、私達が残ってどうなると言うの!」

 

 それでも歯を食い縛って走るのは、一つに守るべき者が居るから。己よりもか弱い褐色の妹分くらいは、逃がしてやらねば気が済まない。

 本音を言えば、ニコルと残って戦いたかった。戦闘と言う形にならない程に差があるとしても、最期まで挑み続けてみたかった。それを選べないのは、殿として残った少年の想いに応えなければならない為。

 

「理解しなさい、ルチア! 私達は、足手纏いにしかなれない! アイツ一人を残して、逃げ延びた方が良いの!」

 

「……けど、ベロニカ。私は、嫌だ。嫌だよぅ」

 

 だから、遂には泣き出してしまったルチアの言葉に心が揺れる。ニコルの為にも逃げなくてはと言う想いから来る、物分かりの悪いルチアへの苛立ちと。一緒に残っていたかったと言う迷いから来る、泣き喚くルチアへの共感に。

 

「だって、お姉ちゃんだもん。私、お姉ちゃんなんだからぁ」

 

「いい加減におし! 今のアンタに、一体何が出来るってんだい!」

 

 激しい怒りの叫びは、その迷いの裏返し。ルチアへ叱り付けながら同時に、己自身にも言い聞かせる為。

 叫び付けたベロニカは、其処で気付いた。視界の片隅で、何かが小さく輝いている。引き摺られて進むルチアの懐で、それは静かに脈動していた。

 

「何だ、これ?」

 

「え、何? 何なの!?」

 

 服の隙間から、一枚のカードが現れる。誰も触れていないと言うのに、ふわりと宙に浮かんだのは戦車のタロット。

 零れ落ちる微かな輝きは、少女の想いと同じく触れれば壊れそうな程に儚い物。そんな光が涙を流す少女の下へと。

 

「は、はは……さっき拾った、タロットカード。本物だった、って訳かい」

 

 幼い少女の想いを写したように、儚く輝く勝利の象徴。その光にベロニカは理解する。

 これは嘗て師に聞いた、本物の奇跡を宿す物。だとすれば、其処には確かな可能性が存在していた。

 

「占術の極み。特殊な力を宿した遺物を用いた占いは、真に奇跡を引き起こす。糞ババアの、受け売りだけどね」

 

「このカードが、奇跡を起こすの?」

 

「かもしれない、って言う話さ。所詮は占い。当たるも八卦で当たらぬも八卦。運が良ければ道が開けるし、運が悪ければ私達に被害を齎す。起こる奇跡は結果が読めない」

 

 たった一度だけ、奇跡を起こせるかもしれない。けれどそれは、どちらに転んでもおかしくはない危険な賭け。

 正位置ならば道は拓けて、逆位置ならば閉ざされる。可能性は完全に、二分の一。失敗すれば、目も当てられない事になるだろう。

 

「ルチア。こいつが求めてんのは、アンタの意志だ。だから、アンタが決めな」

 

 殿と残った少年の想いを守る為に、このまま一目散に逃げるのか。或いは少年の命を守る為、今から戻って五割の賭けを行うのか。

 

 変われるのならば、変わってやりたい。そう思うベロニカだが、彼女に所有権はない。このタロットカードに選ばれたのは、ルチアの心であったから。

 次には少女が、選ばねばならないのだ。進むか退くか。誰か一人を犠牲にする安全策か、皆の命を掛け金とした博打を打つのか。

 

「ルチアは――」

 

 広げた両手の上へと、ゆっくりとやってくる小さなタロット。光輝きながらに回る奇跡の札を、小さなルチアは静かに見詰める。しかし考えているような時間はなかった。

 

 轟音と共に、森の木々が倒れていく。背後から少しずつ、彼の怪物が迫っているのだ。このまま迷い続けていれば、結末は追い付かれての全滅だけだ。

 

 けれど――最初から、考える時間なんて必要なかった。

 

「お姉ちゃんだもん!」

 

 少女の気持ちに応えるように、そのアルカナは強く輝く。戦車のアルカナが求めるのは、勝利に至る為の行動力。戦おうと決めた時点で、そのアルカナは応えてくれる。

 だから覚悟を決めて振り向けば、視界の先には怪物の姿が。吊るされた傷だらけの少年の瞳に、どうしようもなく心が痛んだ。

 

〈おや、もう逃げていたかと思いましたが、存外に聞き分けが良いのですね〉

 

 責めるような少年の瞳と、嘲笑を隠さない怪物の言葉。伸びて来る蔓を前にして、膝を震わせる必要なんてない。例えどれ程に恐ろしい物だとしても、今は恐れずに進めば良いのだ。

 

「やっちまいな、ルチア!」

 

 ルチアの前に立つベロニカが、その小さな身体で迫る蔓を受け止める。当然の如く捕まり吊るされるしかない少女の姿に、殊勝な事だと嗤う怪物は気付いていない。

 そんな僅かな一瞬で、既にルチアは手にしたタロットを掲げている。光輝くそのアルカナに祈りを込めて、天高くへと放り投げた。

 

「お願い、カードさん。私達を、助けて!!」

 

 幼い少女が投げたとは思えぬ程に、カードは高き空の果てまで。天頂にて太陽にも等しい程に輝いて、大地に向かって落ちていく。

 その裁きに当たるのは、己か敵の何れであるか。保証なんて何もないのに、ルチアとベロニカには確信があった。

 大丈夫。きっと大丈夫な筈なのだと――――その想いに、アルカナは応えた。

 

〈が、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!?〉

 

 戦車のアルカナが、勝利へ導く。天上より降り注ぐ光を浴びたガアプは、想定すらしていなかった程に壮絶な痛みを受けて苦悶の叫びを上げていた。

 

「こ、これ、は……」

 

 光が傷付けたのは、ガアプだけ。彼の怪物に囚われていたニコルとベロニカには、一切の傷もない。

 とは言え、ニコルは既に満身創痍だ。吊るされていた高みから落下して、受け身を取る余裕もない。手足も動かないのだから、地に叩き付けられるのが自然であろう。

 

「キャッチ! おも~い!」

 

 だから落ちるニコルが、これ以上に傷付かなかったのはその少女が受け止めてくれたから。

 線が細いながらも引き締まったニコルの身体は、見た目よりもずっと重い。だがそれでもルチアは、よろけはしたが手放さなかった。

 

「どう、して、戻って、来たのです……」

 

 血反吐を吐きながら、ニコルは咎めるような口調で語る。今回は上手くいったから良かったが、命を掛けるのに五割の賭けは危険に過ぎる。

 タロットの事を覚えてはいたが、口に出さなかったのはそんな賭けに付き合わせたくなかったから。だと言うのに、何で戻って来たのだと。

 

「えへへ~。だって~、ルチアはお姉ちゃんだもん」

 

 にへらと嬉しそうに笑うルチアが、返すはとても単純な理屈。彼女の中では揺るぐことない、一つの真理と言うべき事。

 

「お姉ちゃんや、お兄ちゃんはね~。下の子を~、守らないといけないんだよ~」

 

「……全く、貴女は、そんな、理由で」

 

 姉や兄には、弟妹を守る義務があるのだと。だから少女は、一人置いてなんていけないのだと語るのだ。

 そんなルチアの笑顔に、ニコルは何かを感じる。胸の奥に温かく、染み込むような何かを。

 

(救えなかったと、諦め掛けた。助けられたと、安堵した。それらを情けなく思いましたが……そう思う必要なんて、なかったのかもしれませんね)

 

 その温かさを受け入れて、静かに微笑むニコル。少年は気付いていたから、近付いて来るベロニカに告げた。

 

「……すみ、ません。回復を、お願い、でき、ますか」

 

「行き成りそれかい。もっと他に、言うべき事があるんじゃないの?」

 

 予想していた救われた感謝や挺身を無下にされた怒りではなく、傷を治してくれと語るニコルにベロニカは呆れる。

 瀕死の重傷なのだから、もう少しルチアに捕まっていれば良いのだ。そうも思うベロニカも回復魔法を使えるが、治療をする気は全くなかった。

 

 直後の言葉を、耳にするまでは――

 

「まだ、終わって、ません! です、から……早く!」

 

 ニコルの言を理解して、眉を顰めるベロニカ。直後、背後で湧き上がった大量のマリスに彼女の背筋は震え上がった。

 振り向きたくはない。信じたくもなかった。だが茫然とする暇もないのだと、気付いてベロニカはすぐさまヒールの魔法をニコルに使った。

 

〈おのれぇぇぇぇぇ、おのれぇぇぇぇぇぇ!!〉

 

 悪魔が放つ怨嗟の叫びは、決して忘れられない悪夢の類だ。声を耳にするだけでも呪われて、死んでしまうのではないかと思えてくる程。怪物はまだ、健在だった。

 

「どういう事だい! ニコル!」

 

「見たままが事実、ですよ。良いから、逃げますよ!」

 

 ベロニカのヒールは、ニコルのキュアよりも力が弱い。それでも傷を塞げば、口で物を咀嚼出来る程度には回復する。

 薬草の持つ苦みと青臭さに、血の味が混ざった物。吐き気がする程に気持ちの悪いミックスジュースを飲み干して、ニコルは即座に立ち上がる。

 

 タロットに頼らなかった理由の、もう一つがこれだ。彼は原作知識で知っていたのだ。

 戦車のカードに、敵を滅ぼす力はない。あれは味方か敵のHPを強制的に半分にする、割合ダメージを与えるだけの物であったから。

 

〈人間風情がっ! この私にぃっ! よくもぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!〉

 

 怒り狂ったガアプが再び、大地に起き上がる。最早、其処には遊びがない。本物の魔性が示す、膨大に過ぎる悪意と憎悪と敵意と殺意。

 殺されると、誰もがその声を聞いた瞬間に理解した。殺意を受けた瞬間に、首が落ちる幻覚すらも見たのだ。生きて帰れる、筈などない。

 

 だが、それでも生きて帰りたいと願いのならば――――その最期の瞬間まで、足掻き続けるしか道はないのだ。

 

「うえぇぇぇっ!? もうやだぁぁぁぁぁぁ!?」

 

「言ってる場合かいっ! 死ぬ気で逃げるよ! 遅れたら、本当に死んじまうからね!」

 

 叫んでベロニカは、誰よりも先に走り出す。その両手で弟妹達を掴むのは、置いて行く気がもうないから。殿など、もうさせないと決めていた。

 

 そんな少女に手を引かれ、走り始めるニコルとルチア。少年は折れたままの足から響く痛みに、少女は背後から聞こえる怨嗟に、進む速度を落としてしまう。

 強引に手を引いて森を走るベロニカは、何時追い付かれるかと気が気でない。ルチアは兎も角、ニコルは物理的に走れないのだから改善の術はなかった。

 

 今出せる最高速で必死に逃げる子どもらを、怒り心頭の悪魔が追う。ガアプが黙って、森の外へと逃がす筈もない。

 宙を飛翔し、子ども達を追い掛ける妖花の悪魔。子どもの足では逃げ切れない程に、先のガアプは速かった。

 

 ならば必然、傷だらけのニコル達が逃げられる道理もない。直ぐにでも捕まるだろうと、そんな事は火を見るよりも明らかで――だがしかし、何故かそうはならなかった。

 

(これは……ガアプの動きが、鈍っているのか?)

 

 この世界はゲームとは違う。消耗した体力(HP)を回復アイテムで治した所で、傷付いた身体はそう簡単には戻らない。

 ゲームの中ではHPを半分失うだけのダメージも、現実となれば半死半生に等しい傷だ。瀕死の生物が、全力で動ける筈もない。

 

 ましてガアプは強力な悪魔であるが故に、この数百年は傷を付けられた事もなかったのだ。

 詰まりは、痛みに慣れていない。久方振りに感じる激痛が、彼女の行動を阻害していたのである。

 

 故に今、互いの速度は拮抗している。子ども達が休まず必死で逃げ続ける限り、ガアプが伸ばす蔓は後一歩の所で空を切り続けるのだ。

 

〈逃がさない! 逃がすものかぁぁぁぁぁっ!!〉

 

 子ども達は止まらない。木々の隙間にある獣道を、少年少女は立ち止まらずに駆け抜けていく。

 ガアプの怒りは、収まる素振りも見せずに膨れ上がり続けている。背から感じる威圧の高まりは、精神力(SP)を鑢に掛けるように削っていた。

 

「ったく、一体、どんだけしつこいんだい! さっさと諦めれば良いものをっ!」

 

「はぁ、はぁ、ひぃ。何処まで、逃げれば、良いの~!?」

 

「森の、外です! 外に出れば、依り代から離れられない、奴は追って来れません!」

 

 まだ十分も走ってはいないだろう。だが体感的には、一時間にも二時間にも思える逃避行。木々を薙ぎ倒しながら追い掛けるガアプは、当然未だ諦めない。

 流石に皆、息が上がって来ていた。捕まったら最期と言う怪物との追い掛けっこだ。精神的な苦痛も考慮に入れれば、皆がもう何時倒れてもおかしくはないくらいに消耗していた。

 

「やむを得ない、か。……ベロニカ。すみませんが」

 

「言っただろう! 却下だ却下! また足止めなんて、言うんじゃないよ!」

 

「ですが、そうでもしないと。全滅よりは、マシでしょう」

 

 このままでは、森の外まで持たない。そうと理解した時、ニコルは自然とそんな言葉を口にしていた。

 何をしてでも生き延びねばならないと思っているのに、そんな風に提案してしまう。それ程に彼の胸に宿った想いは、強く温かだったのだ。

 

「そんなの駄目~っ!」

 

「ですが」

 

「ですがも何もあるかい! 一体何で私とルチアが戻って来たのか、その無駄に出来の良い頭で考えな。唐変木!」

 

「ニコルは家族だもん! 置いていける訳ないじゃない!!」

 

 けれどそんな自己犠牲を今更に、彼女達が受け入れる筈もない。先に任せていった結果を知れば尚更、今のニコルを置いていくなど論外だった。

 

 迷いなく大切だと語ってくれる少女らに、ニコルは顔を俯かせる。複雑な感情が胸の内を入り乱れる。泣き出したくなる程に、どうしようもなく嬉しくもあった。

 こんな状況だと言うのに、溢れ出しそうになる想い。ぐっと唾を飲み干して、もう一度ニコルは顔を上げる。何時もの仮面で、己の感情を覆い隠して。

 

「……分かりました。もう、足止めとは言いません! 皆で死ぬか、生き延びるか。最後まで付き合いますよ!」

 

「端からそう言えば良いんだよ! 全く、アンタ意外と馬鹿な奴だね!」

 

「ふっ、かもしれませんね」

 

 爽やかな笑みで、笑って語り合う。そんなやり取りを最後に口を噤んで、彼らは必死に走り続けた。

 

 何時、追い付かれるか分からない。何時まで、逃げ続けられるか分からない。

 時に躓きそうになりながら、時には転びそうになりながら、時には痛みに歯を噛み締めて。

 

 少年少女は走り続ける。木漏れ日だけが照らす森の中、強大な怪物から逃れる為に。

 そして漸くに、その光へと辿り着く。目の前に映り込む夕焼けは、木々の向こうに広がる草原を照らしていた。

 

「見えた! 出口だ!!」

 

 叫んだのは、誰であったか。きっと誰もが叫びたい程、嬉しさを感じていたのだろう。もう終わったのだと、その瞬間に僅か思ったのだ。

 

〈逃がさない! 逃がさなぁぁぁぁぁぁぁいぃぃぃっ!!〉

 

 だが、まだ終わっていない。逃がさないと叫ぶガアプが動きを止めて、膨大なマリスを用いてその力を振るう。

 直後、空を一条の光が切り裂く。地上に向かって落ちて来るその光は紛れもなく、巨大な質量を持った隕石だった。

 

 ミティアバースト。隕石を落下させる無属性の魔法。それがシュバルツバルトの森に振るわれて、大地が激しく揺れて動いた。

 その隕石の標的は、ニコル達ではない。森そのものを襲った巨大な衝撃に、ガアプが求めたのは無数の木々の転倒だ。

 

「嘘、だろ……!?」

 

 草原に続く出口の前で、木が何本も倒れて道を塞ぐ。一本や二本ではない大量の倒木は、跳び越える事は愚か乗り越える事さえ難しい障害だ。

 驚愕するベロニカと、黙り込んでしまうルチア。三人の背後に、怒り狂ったガアプが迫る。その伸ばした蔓が、少女達を捕えんとしたその直前。

 

「跳べ、二人とも!!」

 

 ニコルは、叫んだ。跳べ、と。その言葉に頷くよりも早く、少女達は膝を屈めて上に跳ぶ。足を狙った蔓は、秒の差で空を切っていた。

 

 だがガアプは動じない。もう一度振るえば良いだけの事だから。揃って宙に浮かんだ少年少女には、当然の如く逃げ場がないのだ。人の足で跳んだ程度では、倒木の山は越えられない。

 そして何より、人は空中で動けない。跳躍と言う形でガアプの蔓を躱した三人は、もう其処から動けない。ガアプの優位は変わらなかった。

 

「ソレミユス! ソレミユス! ソレミユス!」

 

 故にニコルは、此処にもう一つの手を使う。手を繋いで一緒に飛んだ少女らを引き寄せて、抱え込んで唱えたのは神への祈り。

 僅かに残った魔力を使って、行使するは白魔法。その輝かしい光の力が狙うのは、悪魔ガアプではなく己の背中。

 

「ブレスには、こういう使い方もあるんですよ!!」

 

 白き魔法は、温かな熱と突風にも似た衝撃を伴う。大人ならばよろける程度の勢いでも、小さな子どもならば身体を大きく吹き飛ばす程となる。

 折れた両手で力一杯にルチアとベロニカを抱き留めたニコルは、その衝撃に背を押されて更に高い空へと。森の木々を超える高さに、至れば後はもう一撃。

 

「ソレミウス、ソレミウス、ソレミウスッッ!!」

 

〈おのれぇぇぇぇ! おのれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!〉

 

 打ち上げたボールに、スパイクを叩き付けるように。空中での二撃目で落下の方向を変えたニコル達は、森の外に向かって墜落していく。

 ガアプが怨嗟の声と共に蔓を伸ばすが、しかしもう届かない。夕日の向こうへと飛んだ子らは、そのまま山なりに落ちて地面を転がった。

 

 落下の衝撃に、揃って呻く子ども達。彼らを追い掛けていた蔓は、森の境で完全に停止している。

 世界には、まだマリスが満ちていないから。ある種の異界であるこの森の外では、まだガアプはその力を振るえなかったのだ。

 

〈忘れない、その顔はっ! お前達の存在はっ! 決して、忘れはしません!!〉

 

 此処に、決着は付いた。レメゲトンに記される強大な悪魔の手から、三人の子ども達は確かに逃げ延び生き残って見せたのだ。

 

〈何れ! 何れ! この地に闇が満ちた時! 必ずや、必ずやぁぁぁぁぁっっ!!〉

 

 怒りに狂乱するガアプ。だがその憎悪が果たされるのは、世界にマリスが満ち溢れた後の事になるだろう。

 少なくとも第一次世界大戦規模の殺戮が起こらない限り、この怪物がシュバルツバルトの森から出て来る事は不可能だった。

 

「ふ、無様ですね。お互い、実に見苦しい姿ではないですか」

 

〈小賢しい、小僧めがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!〉

 

 所詮は負け犬の遠吠えに過ぎぬのだと、傷付きながらもニコルは嗤う。立ち上がる力すら残らずとも、勝者は完全に明白だった。

 強大な怪物は、取るに足りない三人の子どもに負けたのだ。圧倒的な弱者に半死半生の傷を負わされ、最後には手が出せない所にまで逃げられた。これを敗北と言わずに何と言う。

 

 怒り狂うガアプの怨嗟も、次第と遠退いていく。境の向こうは異界であるが故、現世とはもう違う場所。接点が薄れてしまえば、声や意志も届かなくなっていく物だ。

 

 

 

 完全にガアプの気配が感じられなくなった所で、三人揃って大地の上に寝転がる。

 大の字になった少年少女達にはもう、立ち上がるような体力も気力も残ってなど居なかった。

 

「ひぃ、ひぃ……疲れたぁ~」

 

「全く、骨折り損だよ。結局、虹木蓮は手に入らないしさ」

 

「ですが、良い経験にはなりましたね」

 

「マジで言ってる? どんだけ努力馬鹿なんだい、アンタ」

 

 シュバルツバルトの森を目指した、目的は結局叶わなかった。虹木蓮は見付からず、強大な怪物に遭遇して逃げ回っただけ。

 文字通り骨折り損だと語るベロニカに、強者との死闘と言う良い経験を得たではないかと微笑むニコル。そんな少年に、ベロニカは倒れたまま馬鹿を見るような目を向けていた。

 

「……それに、聞きましたか? 奴の悔しそうな声。正しく、負け犬の遠吠えを」

 

 馬鹿にされたニコルは、痛む肩を竦めてから冗談めかして語る。悪夢に見そうな程に悍ましいガアプの怨嗟を、負け犬の遠吠えと嗤えるのはこの少年くらいだろう。

 

「私達の、勝ちですよ。あんなにも強い怪物に、私達は勝ったんです」

 

 とは言え力強くこうも言われれば、呆れる前に笑いが来る。圧倒的に弱かった自分達だが、あれ程の怪物に一泡吹かせる事が出来たのだぞと。

 

「は、ははっ! そりゃ良い! 確かに、私達の勝ちだね! コイツはさ!」

 

「えへへ。うん。すっごい事が出来たんだよね~。ルチア達」

 

 ニコルの言葉に、揃って笑う。悪女の様な高笑いと、童女らしい柔らかな笑顔で。

 

 骨を折る結果に終わったけれど、それでも得た物は確かにある。それはきっと、格上相手に一杯食わせた自信と強敵との戦闘経験だけではなくて――――この胸の奥が温かくなる光景も、そうなのだろう。

 

 ニコラス・コンラドは確かな安らぎを感じながら、少女達と笑い合うのであった。

 

 

 

 

 




初戦闘だからって、ちょっと温くし過ぎたかもしれません。
なので次の強敵は、もう少し盛ろうかなと画策している天狗道です。


○当作における魔法などの設定
 基本は漫画版『クーデルカ』の、幻覚の一種であり精神への干渉でしかないと言う設定をベースとして採用。
 ただしそれだけでは『シャドウハーツ』シリーズで説明出来ない点が出て来る為、物理的な影響力も有していると言う設定にしています。

 当作世界線での生き物は、肉体・精神・魂の三要素から成立しています。更にこれらは密接に関係しているので、精神が被害を受ければ釣られて肉体も傷付くと言う訳です。

 弱い魔法などでダメージを受けても死なないのは、精神を削られた結果肉体が傷付くものの致命傷にまでは至らないから。
 逆に回復魔法で実際に傷が癒えるのは、精神を癒した事で釣られて肉体も正常な形に戻ろうとするから。
 キュアやヒールの回復量が低い理由は、精神を治す力が弱いから肉体面での影響も少なくなったり遅れたりする訳です。

 尚、強力な魔法になれば成る程、物理的な干渉力も高まります。憑依ニコルが受けたロッククレストなどがその良い例です。
 精神が傷付き肉体も引き摺られるだけではなく、肉体も傷付き精神が引き摺られる。二重に大ダメージを受けてしまう形ですね。

 魔法は精神世界に対する干渉であり、人の肉体は精神の影響を強く受けてしまう。故に傷の治療(回復)が出来るし、肉体の強化(補助)も行えると言う訳です。
 なので精神を有する人体の治療は出来るけど、精神のない無機物の再生などは原則出来ません。魔法で無機物を破壊する事も難しいです。

 魔法で人間が受ける被害ですが、魔法への抵抗力や本人の精神力の強さや精神防壁などで軽減出来ます。
 反面、物理的な破壊力は魔法では基本防げません。場合によっては魔法を使うより、銃器を使ったり直接殴った方が強い理由が此処にあります。

 実際にニコルがロッククレスト(弱)を受けても生きていられたのは、本命たる精神干渉の方は大部分を防げていたからです。
 それでも物理干渉だけでも、転生トラック×3にジェットストリーム轢き逃げアタックを喰らったくらいの威力はあったんですけどね。常人なら、3回は死ぬ程度の威力とも言えますね。

 なのでこの世界、戦闘中に隕石を落としてもダンジョンは壊れないし、壁を壊せそうな魔法を持っているのに態々謎解きをして進む必要があります。

 因みに原作でアモンが飛行船をフルボッコに出来ていたのは、物理的に並の兵器を軽々超える性能になっていたからとします。ていうかあの時のウル、殴る蹴るしかしてませんし。

 降魔化身術の最大の強みはこの辺り。並の魔法より銃弾の方が強い世界で、生身で戦車や飛行機落とせる身体能力は確実にチート。
 マリスの影響を受けた怪物たちも同じく、元の動物を超える身体能力を持ちます。基本、怪物は人間よりも有利です。

 他にも精神のない無機物は、良くも悪くも魔法を素通りさせてしまうと言う特徴もあります。
 故に攻撃時には純粋な科学兵器は魔法で防げないので強いのですが、有人のロボットなどになると逆に魔法を前に無防備です。

 例えば原作ボスである機動兵器・神無月などは単純に装甲強度が高いので、素手で殴った所で壊せる筈もありません。(物理無効)
 ですが物理的な装甲では魔法が防げないので、装甲を擦り抜けて中の人に直接刺さります。(魔法弱点)

 尚、上記の物理無効化や原作の舞鬼などが有していた魔法無効化は、当作では完全耐性ではありません。
 強力な精神防壁や強固な装甲が理由なので、出力を上げまくれば物理や魔法でも破れます。

 神無月はアモンが頑張れば素手でジャンクに出来ますし、アスタロトの全力クリアクレストとか受ければ舞鬼さんは消し飛びます。

 けど普通に耐性がない弱所を突いた方が早いし、燃費もかなり安くなります。無効化耐性は、突破出来るが割に合わない。そのくらいの性能を想定しています。



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第6話 微睡の対価

上げて、落とす。たーのしー。


 ベッド脇にある小さな机の上に置かれた香炉から、溢れて白い部屋を満たす香りは2種の香油を混ぜて炊いた物

 マリンオイルとムーンオイル。この二種を選んだのは、女の確かな気遣いだろう。優しい香りを嗅いでいると、身体の疲れが抜けて行くのをニコルは感じた。

 

 白い部屋にある、白い大きなベッド。清潔感溢れるこの場所は、サピエンテス・グラディオは伊太利亜支部の救護室。

 

 まるで重度の入院患者の如く、ニコルはそのベッドに拘束されている。一見して非人道的な行為だが、そうされるのも仕方がない事なのだろう。

 ニコルは見た目こそ既に万全のようにも見えるが、その内側は今も酷いと言うのも憚られる程の惨状であるのだから。

 

 骨や臓器が露出した時、無理に回復魔法で癒した事が悪かったらしい。骨は折れて肉に刺さったまま、周囲の血肉が治ってしまった。初級魔法(キュア)の治癒では、それが限界だった。

 その影響で手足の骨はおかしな形で癒着して、つい数時間前まで肉に刺さり続けていた始末。臓腑もズレたまま治した所為で、一部は機能していないと言う有様だった。

 

 そんな状態でも自分で動こうとするのだから、全く以って手に負えない。医者が匙を投げ掛けて、保護者を気取る女が強引に拘束したのも無理はない事であろう。

 

「全く、無茶をして! アンタ、下手したら一生もんの傷が残る所だったんだよ!」

 

 ベッド脇にある椅子に腰掛けた、ふくよかな体形の女が怒鳴る。目の下に深い隈を刻んだ初老の女は、名をカルラと言う。ニコルが回収されてから早三日、彼女は終始変わらず不機嫌であった。

 

 そんなカルラはふとした時に、こうして思い出したかのように小言を口にする。三日三晩寝ずに看病してくれている相手であるから、そして師弟と言う恩義もあるからニコルも余り言い返せない。

 

「……反省はしています。ですから、そろそろ勘弁して頂きたいのですが」

 

 反省しているのは本当だ。心配を掛けたと言うのは、戻って来て直ぐに涙目のカルラに抱き締められた事で実感した。

 一年間寝食を共にしただけで、こんなにも大切になっていたのかと。緩みそうになる涙腺に耐えながら、ニコルはされるがままで居た。

 

 案ずるカルラの手で医務室に運び込まれて、直ぐにニコルの状態に気付ける程に優秀なスタッフが居たのは実に幸運だった。

 後遺症を残さぬ為に、外科的な手術を。再度血肉を開いて臓器や骨を正しい形に戻してから、治療の魔法で傷を塞ぐ。医学と魔術の融合とでも言うべき、最先端の医療を受けられたのだから。

 

 そうして、三日だ。まだ身体が馴染んでいないとは言え、動いても問題がない程度には回復している。

 術前の惨状でも動く事は出来たのだからと、平然とした表情で初日にはベッドを抜け出そうとしていたニコル。しかし当然、保護者であるカルラはそれを許さない。

 手術が終わって直ぐに鍛錬を始めようとする馬鹿者をベッドに縛り付けると、カルラは手ずから寝ずの看護を始めたのだ。終始監視する事で、馬鹿げた無茶が出来ないようにと。

 

「はん。三日四日で勘弁してやるものかい! アンタみたいな馬鹿な子は、此処でしっかり言い聞かせないと何しでかすか分かったもんじゃないからね!」

 

「やれやれ、はぁ。信用がないものだ」

 

 それに文句や意見を言えば、こうして罵声が返って来る。もう五十を過ぎていると言うのに、三徹してこの体力とは元気な物だ。

 ニコルは呆れを超えて感心しながら、同時に諦めと不安を抱く。カルラは倒れた姿の想像すらも出来ない人物だが、それでも唯の人間だから。

 

「分かりました。暫くは休暇と思って、ゆっくりしてますよ。ですから、カルラ師もそろそろ休んでください」

 

「ふん。アンタに体調を心配される程、耄碌した気はないけどね。……まぁ確かに、そろそろ限界かね。少し離れるけど、逃げるんじゃないよ」

 

「逃げませんよ」

 

 彼女の言う通り静かに休んでいるから、彼女にもゆっくりと休んで欲しい。偽りなく語るニコルの言葉を、カルラは鼻を鳴らしながらも受け入れる。

 実際、既に彼女の体力は限界に近かったのだ。ニコルが寝ている間に椅子で仮眠をしていたのだとしても、三日三晩も付き添い続けるのは簡単な事ではない。

 

 ニコルが素直に休むと言うなら、今はそれを受け入れよう。ニコルの手足を縛った紐を解きながら、カルラは一言だけ釘を刺す。

 

「もし逃げたら、次からはルチアとベロニカに下の世話をさせるからね!」

 

「それは勘弁してください!?」

 

 この妙に大人びた少年が、一番嫌がるであろう事。それをさせると語ったカルラに、ニコルは決して抜け出さないと心に誓う。

 他者に下の世話をされると言うだけでも嫌なのに、ルチアやベロニカにされるなど。珍しい玩具の様に、甚振られる未来が目に見えているのだ。

 

 微笑を取り繕えない程に嫌がるニコルの表情に、これなら逃げ出さないかとカルラも頷く。そうして彼女は、医務室の出口に向かった。

 

「ああ、あと、食事は後で作った物を運ばせるから、ちゃんと食べるんだよ」

 

「はい。分かりました」

 

「ああ、それと、さっき切った林檎は早めに食べきりな。腕はもう動くんだろう」

 

「ええ、はい。ちゃんと食べますよ」

 

「ああ、けどもう直ぐ夕飯の時間か。余り食べ過ぎたら困るね。幾つか下げておこうかい?」

 

「……いえ、このくらいなら入ります」

 

「ああ、そうかい。ああ、と。そうだ。後で寝てても出来る様な課題を持ってきてあげるよ。ずっとベッドの上だと暇だろう?」

 

「…………はい。ありがとうございます」

 

「ああ、それと。香炉の中身が切れたら私に良いな。上質なマリンオイルとムーンオイルは、もう沢山調合してあるからね」

 

「………………はい。はい。分かりました」

 

「はい、は一度で十分だよ! ああ、そうだ! 着替えについてだけど、後でルチアに運ばせるから、ちゃんと毎日変えるんだよ!」

 

「……………………はい。勿論です」

 

「ああ、それと、着替えだけじゃなくて、ちゃ~んと身体も綺麗にしなきゃダメだよ。不潔にしてると、感染症の危険があるからね。あんまりに汚かったら、裸に剥いて全身拭ってやるから覚悟しときな」

 

「…………………………もう、勘弁してください」

 

 途中何度も振り返り、小言や心配事ばかり口にするカルラ。都度対応していたニコルも、仕舞いには疲れ果てた様に肩を落とす。

 どうにも何と言うべきか。想われているのは素直に有難くはあるが、親戚の様な保護者様な距離感は嫌いではないが苦手であった。

 

「はぁ」

 

 扉の外へとカルラが出た事を確認して、深い深い息を吐く。どっと疲れた、と思った直後に再び扉が勢い良く開いた。

 

「あ、そうだ。忘れる所だった」

 

「まだあるんですか!?」

 

 どれ程に心配性なのだと、頬を引き攣らせるニコル。彼を暖かい瞳で見詰める初老の女は、相好を崩して一つの言葉を投げ掛けた。

 

「言い忘れてたろ? …………おかえり、ニコル」

 

 衝撃だった。その言葉は、“知識”でしか知らない単語。そう言えば初めて言われたのだと、そんな響きにニコルの心は乱れてしまう。

 僅か茫然と自失して、慌てて仮面を被り直した時にはもう居ない。一言だけ掛けて直ぐに、カルラは立ち去っていたから。その事実に、ニコルは寂寥を感じてしまう。

 

「……全く、不意打ちにも程がある。あの人は」

 

 ニコルは思う。自分は恵まれていると。良き人達に出逢えたと、ルチアやベロニカやカルラの存在を思う。

 元は小利口な理屈で考えた事。多くを学ぶ事はきっと無駄にならないから、折角サピエンテス・グラディオに所属するなら彼女からも学んでおこうと。

 

 カルラの占術や調薬技術は、彼女がサピエンテス・グラディオを脱退する迄の間しか学べないから。そんな己の利益を求めて、結び付いただけの関係。

 だが何時からだろうか。きっとそれは、ルチアが家族になると言い出してから。不器用ながらベロニカやカルラも、ニコルを家族と扱い始めた。

 

 だから、なのか。ニコルはこの関係を好んでいる。三人と笑い合う時間が、とても大切に思えていた。

 掌に握る首飾りを思う。握りながらも、開きはしない。その必要はなかったから、今は目を閉じて安らかな眠りの中へ。

 

 

 

 眠りに就こうとしたその時に、病室の扉が三度叩かれる。そう言えばルチアが着替えを持って来るんだったかと、目を開いたニコルは入室を促した。

 

「空いてますよ」

 

「ふむ。では、入らせて貰おう」

 

 だが、返る音は少女の物ではない重低音。ニコルが気付いて起き上がるより前に、医務室の扉が開かれる。

 その向こう側よりゆっくりと近付いて来るのは、赤と金に彩られた豪奢な僧服に身を包んだ男。サピエンテス・グラディオが長、グレゴリオ・ラスプーチン。

 

「ラスプーチン猊下!?」

 

「そのままで良い。元気そうだな、ニコル。何よりの事だ」

 

 立ち上がろうとしたニコルを片手で制し、鷹揚な所作でカルラが座っていた椅子に腰掛けるラスプーチン。

 足を組んで愉しげな視線を向ける顔色の悪い男に向かって、上体を起こしたニコルは常の微笑を浮かべて問い掛けた。

 

「この度は、どのようなご用件で?」

 

「何、死地を超えたばかりのお前の胸中を、お前の口から聞いてみたくなってな」

 

(私の話がもう既に、ロシアにまで届いていたのか? たった三日で? いや、まさか――)

 

 語られる言葉に、ニコルの脳内に疑惑が生じる。電話や魔術的な通信手段があるとは言え、伊太利亜から露西亜まで連絡が行ってからまだ三日。そんな僅かな期間で、一組織のトップが国を渡って来れる物かと。

 

「ご存知、だったのですか? あのような怪物が、あの森には巣食っていると」

 

「無論。私が知らぬとでも思っていたのか?」

 

 故に生じた疑問を問い掛けてみれば、ラスプーチンは鷹揚な態度を崩さす肯定する。その冷たい瞳に、笑みを浮かべたままニコルの思考が凍り付いた。

 

 知っていた事自体は、然程不思議ではない。グレゴリオ・ラスプーチンはこの世界でも最高峰の魔術師であり、ガアプと同じく七十二柱の悪魔を内に宿す者。

 優れた魔術で強者の存在を知覚していたとしても、同胞同士で共鳴していたのだとしても、そのどちらでも頷ける理屈であるからだ。

 

「……知っていて、行かせたのですか。ルチアと、ベロニカも」

 

「そうだな。興味があったのだよ、ニコル。私はお前が圧倒的な強者と相対した時、どうなるか気になったから許可を出した」

 

 問題は唯一つ。知っていて、行かせたと言う事。ラスプーチンの承認と言う実質的な命令が無ければ、ニコルはあの森には決して近付かなかっただろうから。

 一体どういう意図があって、ニコルをガアプに襲わせたのか。ましてや其処に何故、ルチアとベロニカを巻き込ませたのか。ニコルの思考が冷たくなり、ラスプーチンは更に愉しげに笑みを深める。

 

「死んでしまえば、残念だが貴様はその程度の存在だったと言うだけの事。価値のない者に時間を掛け続ける程、私は愚かではない」

 

 ラスプーチンには、そのどす黒い悪意に満ちた意図を隠すと言う心算がない。隠さず告げてしまった方が、面白いと感じているから。

 それはアスモデウスと言う魔王を内包しているが故に、生まれてしまった自殺願望にも似た衝動。例えそれが何時か己の死に繋がり得るのだとしても、この男は今の快楽だけを優先してしまうのだ。

 

「そしてお前は私の期待通り、見事生きて帰って来た。やはり、お前には価値がある」

 

(玩具としての、ですか)

 

「そうだ。お前は面白い玩具だよ、ニコル」

 

 だがラスプーチンは自滅の衝動があるからと、それだけで致命の隙を晒してくれる様な男ではない。

 例え面白い玩具だと愉しんでいても、それが危険であると悟れば使い方を確かに調べる。その程度には、冴えた男であるから――ニコルの思考さえも、既に読まれていた。

 

(心を読まれた!? 魔術か、不味い!?)

 

「何が不味いのか。今は指摘しないでいてやろう。その方が、面白そうだ」

 

 息が掛かる程の距離で、瞳を覗いてラスプーチンは嗤う。この歪な記憶を持つニコルと言う少年の、其処が限界だと蔑む様に。

 ゲームの情報だけでその全てが知れる程、魔術の世界と言うのは浅くない。人の心や記憶を暴く魔術は当然存在しており、ラスプーチンがこの異質な少年にそれを行わない理由もないのだ。

 

 無論、全てが暴けた訳ではない。当然魔術にも限界があり、知れたのはニコルの思考と直近で起きるであろう原作知識の一部情報。欠片に過ぎない知識であるが、それだけでもラスプーチンには十分過ぎた。

 

「それで、ニコル。先の問いへの、答えを聞こうか」

 

「……死ぬかと、思いましたよ」

 

「ふむ。それで?」

 

「ですが、生き延びた。少しは自信にも、なりました」

 

「……それだけか」

 

「ええ、それだけです」

 

「詰まらん。実に凡庸な言葉だな、ニコル」

 

「得てして世の事柄とは、その様に凡庸な物なのでは? ラスプーチン猊下」

 

「ふん、抜かせ」

 

 これ以上無理に暴こうとすれば、ニコルの心が壊れてしまおう。それは些か勿体無いと、ラスプーチンは魔術の行使を止める。

 

 心を土足で踏み躙られて、疲弊しながらも笑顔の仮面で飄々とした言葉を返すニコル。

 その知識を危険とラスプーチンは知りながらも、こんなにも面白い玩具を処分する心算はまだなかった。

 だから荒い呼吸を隠すニコルに向かって、ラスプーチンは悪意に満ちた言葉だけを投げ掛ける。壊し過ぎない程度に、この玩具で遊ぶ為。

 

「しかし、家族の絆、か。そんなにも母が恋しいか? 今の居場所に、欠けた家族を求めるか? なぁ、ニコル?」

 

「……さて、何の事でしょう」

 

「隠し通せる心算か? まあ、それも良かろう。……だが、お前に家族の情(ソレ)は必要ない。それはお前と言う刃を、鈍らせ腐らせるだけの物と知れ」

 

「一応、心には留めておきましょう」

 

「私はな、お前に目を掛けているのだ。その異界の知識だけではなく、お前自身の存在に」

 

 心を暴かれた時から、言葉と態度は何処か慇懃無礼な形に。開き直ったニコルの姿に、ラスプーチンは嗤う。

 そうして、立ち上がる。裾の長い衣をマントの様に靡かせながら振り返り、ニコルに背を向けると彼は告げた。

 

「故に、今は暫し休め。そして復調したら、ロシアに来い。私自ら、秘術を幾つか教えてやる」

 

「…………はっ」

 

 それは今の居心地の良い場所から、ニコルを遠ざける為の言葉。まだガアプにも届かなかったニコルでは、それ以上の怪物であるラスプーチンには逆らえない。だから言われるがままに従う。一生の別れではないのだからと。

 

 そんなニコルの考えは、しかし余りに甘い物。司教が語るように、温かな情に甘えて鈍っている。

 過去にラスプーチンと対峙していた時のニコルならば、既に気付けていた筈だった。グレゴリオ・ラスプーチンに目を掛けられると言う事が、一体どういう意味を持つのかと言う事に。

 

「ああ、それとだ。先の一件で、ベロニカはもう十分だろうと判断した。あれは既に、任務を与えても熟せるだけの実力を有していると」

 

 扉へ向かうラスプーチンは、まるで世間話を語るかの如くに振り返らず告げる。ベロニカの初任務と聞いて、ニコルの脳裏に嫌な思考が僅か過ぎった。

 

「イタリアが今、エチオピアと争っているのは知っているな? 年末にも陸軍の追撃が予定されていて、派遣される兵力はこのまま通せばエチオピアが成す術なく敗れるであろう程の大戦力だ」

 

 グレゴリオ・ラスプーチンが望むのは、露西亜の革命と簒奪。世界有数の大国を手に、その軍事力で各国を支配しようと言う野望。

 魔王アスモデウスが望むのは、多くの人々の嘆きと苦痛と絶望の叫び。ラスプーチンが世界を獲る為に起こす戦場で、多くの民が死ぬ事こそがその願望。

 

 どちらの意志も一致している。このまま戦争が泥沼化し、多大な流血を流してくれることを。伊太利亜と言う国家の弱体こそを、彼は望んでいたのである。

 

「それでは困る。もう少し、イタリアには疲弊して貰わなければならない。その為に、だ。幾人かの軍事将校には消えて貰う事にした。故にベロニカに、それを命じた」

 

「……何故、それを私に」

 

「気にしていると、思ったからだ。家族ごっこは楽しかったのだろう、ニコル? もう出来ないとなれば、教えてやるのが師の情と言う物」

 

 振り返り、嗤う。ラスプーチンは既に知っていた。直近の物に限るが、原作知識の一部を彼も手に入れていたが故に。

 ニコルは内心で動揺する。ラスプーチンの悪意に、彼は漸く気付いた。気付いたとしても、もうどうしようもないその悪意に。

 

「ベロニカには、カルラを付ける。この意味が分かるな、ニコル? お前の持つ知識の通りに、物事を運んでやるとしよう」

 

「それは――っ!?」

 

 原作において、カルラはルチアを連れてサピエンテス・グラディオから逃げ出している。その切っ掛けは教え子であるベロニカが、上からの指示で起こした惨殺事件。

 最初は知っていて、どうでも良いと放っていた。次第と大切になる中で、どうにかしようと思考を変えた。対処法は浮かばないが、せめて絆が壊れてしまわぬ様にと。

 

「キヒヒ。ベロニカには、出来る限り残忍に殺す様に命じてある。私怨を晴らすかの如き行いで、敵国の手による攻撃だと誤認させる為にとな。カルラには何も話していないが、さて――お前はどのような、壊れ方をすると思う?」

 

 だが、それをこの男は最悪の形で踏み躙った。敢えて殺し方まで指定して命じたと言う事は、徹底的に彼女達の絆を壊し尽くす心算なのだろう。

 あの暖かな時間が失われる。あの優しい居場所がなくなってしまう。カルラはベロニカを怖れ、ベロニカはカルラを恨む。そんな関係に、この男が変えるのだ。

 

「ラスプーチン!」

 

「どうしたニコル? 何を怒る? ああ、そうか。()()()()()()()()()()事か? そうだな、彼の日と同じだ。お前は弱い。お前には何も出来ない。お前はまだ、何も手になど出来ていない! ヒヒ、ヒヒヒ」

 

 湧き上がる怒りに任せてニコルは立ち上がるが、嗤うラスプーチンは揺るがない。彼我には言語に絶する程の、大差が今も存在しているが故。

 アスモデウスの力を少し解き放ち、威圧の意志を織り交ぜ飛ばす。唯それだけでニコルの顔色は真っ白に染まり、呼吸さえもままならなくなってしまう。

 

「今は休めよ、なぁニコル! 何も出来ないお前は、其処にいろ! 下らん情が壊れる瞬間を、指を咥えて眺めていろ! ヒヒ、キヒヒ、ヒーヒッヒッ!」

 

 壊されていく。母を失ってから、手に入れた筈の居場所が。悪魔の玩具に過ぎない少年には、そんな物を持つ資格などはないのだと言わんばかりに。

 気紛れで人の心を踏み躙った怪物は、嗤いながら立ち去って行く。その姿が消えるまで呼吸も出来なかったニコルには、崩壊を食い止める術など一つもなかった。

 

「くそっ! 私はっ!? 分かって、いたのに! どうして!?」

 

 一人残されたニコルは苛立つ様に、小さな拳を己の膝に叩き付ける。多少の痛みしか感じぬ程に、その拳はまだ弱く儚い。

 どうして弱いと知りながら、何もしようとしなかったのか。何もして来なかったのならば当然、その手の中には何も残らないのだ。

 

「……母さん」

 

 癇癪を起した様に幾度も暴れて、疲れ果てると同時に理解する。首飾りを握り締め、蓋を開いて写真を見詰めた。

 映る母の表情は、何時もの様に優しさに満ちていたから。己の空虚さを、より強く実感する。己の弱さが、どうしようもない程に憎かった。

 

「まだ何も、何も手に入れられてなかった」

 

 ガアプに勝ったと、喜んでいた己を嘲る。手にしたと思った全てはしかし、春先に残った雪の様に儚く脆い物だったのだと。

 強者を出し抜けたと言う自信は、的外れな傲慢だった。繋げていたと思った家族の絆は、吹けば飛ぶ様な塵の山に過ぎなかった。そんな事、気付いて然るべきだった。

 

 あのラスプーチンが、得体の知れない子どもに利用されるだけで居る訳がない。そんな簡単な事にも気付けなかったのは、心の刃が鈍っていたから。温かな情に甘えていたから、ニコルの掌には何もない。

 

「この掌は、まだ空っぽだった。空っぽだったんだよ、母さん」

 

 頬を熱い物が伝っていく。それを誰にも見せないように俯いて蹲って、手にした首飾りに縋る様に強く強く拳を握り締める。

 弱かった。どうしようもない程に、今はまだ幼く弱かったのだ。そんなニコルは心の底から、強くなりたいと希う。もう何も失わない、高みに辿り着きたいと。強く、強く願うのだった。

 

 

 

 

 




【悲報】グレゴリオ・ラスプーチン、原作知識を手に入れる【残当】

こんなクッソ怪しい子どもを拾って、手元に記憶を読む手段があればこうもなります。
魔法の知識を深く知らぬ所為とは言え、猊下を舐めていたのが憑依ニコル最大の失態です。


~原作キャラ紹介 Part4~
○グレゴリオ・ラスプーチン(登場作品:シャドウハーツ2)
 秘密結社サピエンテス・グラディオのトップ。ロシアの怪僧と呼ばれた同名の人物がモデルの長い髭と髪型が特徴的な人物。
 人類とは思えない肌の色以外は、写真に残る現実のラスプーチンにそっくりな容姿をしている。

 SH1の黒幕であったアルバート・サイモンとその親友であるヨウィス・エイプラハムの弟子。そしてその2人を同時に打ち破った大魔術師。
 300歳を超えるアルバートを僅か数十年で打倒したのだから、相当の才人でもあったのだろうと目される。皇后から絶対の信頼を勝ち取れるだけの魅力も有する。ラスボスでもおかしくはなかった格の持ち主と言える。

 力と権力を司る魔王であるアスモデウスと契約し、圧倒的な力を持つ。その身に纏ったバリアの強度は、初見の主人公達が傷一つ付けられない程。
 反面、融合した魔王に精神を侵されていたのか。作中では合理的とは言えない愚行を多々見せた。企みを暴かれた後、最後には魔王の傀儡と成ってしまう。

 原作でも登場から暫くは、ラスボスの風格とカリスマを見せていた人物。追い詰められると、少し小物臭くなる。猊下、カリスマは家出したのですか!?
 世界を統べる足掛かりとしてロシアを狙っていたが、魔王に取り込まれた後は全てを見境なしに壊し尽くすだけの怪物と成り果てた。そんな典型的な悪役である。



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第7話 澱む心で決別を

原作主人公は、一体何時に出せるのだろうか……
今のペースのままだと、早くとも30話以降になると思われる。


 朝日が昇り中天を超えて、夕日となって沈んでいく。そんな移り変わる光景を、同じ場所から見るのはこれで何度目か。

 夕焼け色に照らし出されるベッドの上で、ニコルは何も出来ずに居る。ラスプーチンが休んでいろ(動くな)と命じたから、何も出来ずに此処に居る。

 

 見舞いに訪れたルチアから聞いた。カルラとベロニカの様子がおかしいと言う話。

 皆が変になってしまったと泣きじゃくる少女を宥めながら、ニコルはもう終わってしまったのだと実感する。

 

 だとしても、何も出来ない。泣き喚くルチアを軽く抱き締め、その頭を優しく撫でてやる事だけ。出来るのは、唯それだけ。

 グレゴリオ・ラスプーチンが怖いから。その命令に歯向かうだけの、力と勇気がその手にないから。ニコラス・コンラドは、何も出来ずに此処に居る。

 

 夕日を眺めながら、心に浮かんだ想いが強まる。恐怖に震える己の弱さを、打ち砕く為の力が欲しいと。誰にも負けない、力が欲しい。

 飢え乾く程に、それを求めた。その為ならば、どんな事だって許容できると。もう二度と失わない為に必要ならば、愛しい何もかもを踏み躙る。そんな想いを、定めたから――

 

「ニコル! 居るかい、ニコル!」

 

 日が沈んだ後の宵闇に、黒く染まる医務室の中。入り込んで来た初老の女は、声を殺しながらも叫ぶと言う器用な真似をする。

 眠る褐色の少女を抱えた女性。カルラの顔を見て、ニコルは微かに歯噛みする。老いた女の表情は、まるで重病人の様に疲れ切った色をしていた。

 

 それだけで分かる。ラスプーチンがどれ程に、残虐な殺人をベロニカに行わせたのか。惨劇を目の当たりにしたカルラが、一体何を思ったのかが。

 

「此処から逃げるよ! 此処は駄目だ! 此処に居たら、アンタも駄目になっちまう! だから、私達と一緒に行くんだ!」

 

「ベロニカは?」

 

「っ! あの子は、もう駄目だよ。もう、駄目なんだよ」

 

 それが分かっていながら、ニコルはその傷口を切開する。原作との違いが生じているのか否か、それを理解する為に甘さを切り離して心を重く冷たい物へ。

 

 ニコルは見込みの甘さから、ラスプーチン相手に後れを取った。だからもう間違えないと心に誓う。その為に、必要な物を己に課した。

 この今に必要なのは、慕う相手を慈しむ優しさなどではない。己の情を合理性と切り分けて、冷たい思考で誰でも物の様に扱える強かさであるのだ。

 

「人を、死なせた。それも、最悪の方法で……」

 

 そう思考を進めるニコルの前で、疲れ切った表情のカルラは語る。彼女の前で、ベロニカが為した行為を。

 見るも悍ましい殺人方法。人を人とも思わぬ所業は、思い出すだけで吐き気が込み上げて来る程の事。それをベロニカは、カルラの目の前で嗤いながら行った。

 

「それに、それだけじゃない。あの子は望んで、化け物になっちまったんだ」

 

 そして、それだけでもなかった。疲労困憊で結社に戻ったカルラは見たのだ。迎えに来たラスプーチンが招いた儀式上の中心で、黒魔術を受け異形に変貌していくベロニカを。

 

「サピエンテス・グラディオはイカレてる! 色んな国の裏で、戦争の火種を作り続けているだけじゃない! 結社の人間を、ラスプーチンは化け物にするんだ!」

 

(ナイトクイーン、ですかね。この時点から、ベロニカは既に? いや、私が居たから、ですか。私が居たから、ベロニカは……)

 

 原作において、追い詰められたベロニカが見せた異形の姿。ラスプーチンの魔術によって作られた、人間を材料とした怪物。

 この時点で既に、と言う発想は即座に捨てる。この段階でベロニカがナイトクイーンにされたのは、ニコラス・コンラドと言う男に関わったからである。

 

 本来はきっと、結社の中で頭角を現した後の事であった筈だ。人でなくなってしまう迄にはまだ、もう暫くの猶予があった筈だった。それを先行させた理由は恐らく、ニコルに対する牽制だろう。

 ベロニカは救えない。そんな意識をカルラに与えて、その脱走を確実な物とする。例えニコルが彼女達の絆を壊させない様にと奮闘しようが、既に無駄なのだと教える為に。

 

「あの子はもう駄目だ。ラスプーチンの所為で、化け物になっちまった。そう遠くない内に、きっと心の底から完全な怪物に変わっちまう。けど、せめて、アンタとルチアだけは! 私が、必ず! だから!!」

 

 そんなラスプーチンの思惑通り、カルラは掌で踊らされている。そんな女にニコルが付いていけば、彼女達は一体どうなるか。

 知れた事、ラスプーチンがニコルを逃がす筈もないのだ。ならば必ず、共に行けば不幸となる。ニコルと言う存在が、ルチアとカルラを不幸にさせる。

 

 そして、そうでなくとも、ニコルはもう想いを定めてしまったのだ。他には何も要らない。欲しいのは、たった一つであるのだと。だから――

 

「……私は、行けません」

 

「っ! どうしてだい! アンタはまだ間に合う! まだ、真っ当に生きて行けるって言うのに!」

 

 彼女達とは、共に行けない。カルラが如何なる言葉を掛けてくれたとしても、その逃避行には付き合えない。

 欲しいのだ。求めているのだ。砂漠に迷い込んだ旅人が、飢えて乾いた果てにオアシスを幻視するように。ニコラス・コンラドは力が欲しい。

 

「私の心が、望んでいる。もっと、強くと――」

 

「強さ!? 強さだって!? そんな物の為に、アンタっていう子は!?」

 

「……ええ、そんな物の為に私は。そんな程度の物を私は、全てを捨てても望んでしまう。求めてしまうんですよ、カルラ師」

 

 宵闇が包む中、ニコルはベッドから立ち上がる。窓辺に近付く少年の纏った白い貫頭衣を、差し込む月の光が怪しく照らす。

 

「果てに、化け物に成り果てたとしても――」

 

 その言葉には、意志があった。その瞳には、飢えがあった。その心には、覚悟があった。

 他には何もない。何も掴めていないその手に、求める物は唯一つ。それだけを、心の底から求めている。

 

「愛も憎しみも、あらゆる想いを失ってしまうのだとしても――」

 

 果てに怪物と成り果てようとも、果てに己の全てを失おうとも、果てに何も果たせぬ末路に至ろうとも。

 欲しい。欲しい。欲しいのだ。昇り始めた月を掴む様に伸ばしたその掌に、至高の力を掴み取りたい。それだけがきっと、この胸の隙間を埋めてくれるのだと信じている。

 

「私は、力が欲しい。私は誰よりも、強くなりたいのです」

 

「――っ! 馬鹿な子だよ、アンタは!」

 

「ええ、分かっています」

 

「馬鹿な子だよ! 本当に、馬鹿な子だよ!」

 

「ええ、だから行けません。こんな愚かな私は、貴女達と一緒に居てはいけない」

 

 月明りに照らされて、怪しく碧の瞳を輝かせる。ニコラス・コンラドと言う少年を見詰めて、カルラは悔しそうに涙を流した。

 

 初めてラスプーチンから紹介された時、カルラはこの少年の事を気味が悪いと何処か敬遠していた。

 養い子であるルチアよりも年若いのに、大人と話しているのではないかと錯覚してしまう。そんな理性的過ぎる少年を、怖れたと言っても良い。

 

 それが変わったのは、孫娘であるルチアのお陰だ。寂しそうにしていると少年に構っていたルチアが、弟が出来たと喜びながら帰って来た日に関係は変わった。

 賢しい子どもではあるが、よくよく見ればルチアが言うように素直になれないだけの子どもだと。神童と言う色眼鏡を外してしまえば、少し変わっただけの良い子であった。

 

 だからベロニカと同じ様に、寝食を共にする内弟子として扱った。だからルチアと同じ様に、家族の一員として愛し慈しんだ心算である。

 けれどその想いは、通じなかったのだろうか。ニコルはカルラを拒絶するかのように背を向けたまま、月明りへと手を伸ばしている。届かぬ何かを、求めるように。

 

「貴女の教えに感謝を。その技術には泥を塗ってしまうかもしれませんが、せめて己にだけは誇れる生き方を貫こうと思います」

 

 伸ばしていた手を折り曲げて、胸に押し当てながらニコルは振り返る。爽やかな作り笑顔を浮かべて、カルラに語った。

 その言葉の意味を、本当に理解しているのだろうかとカルラは思う。理解して口にしていると言うのなら、それは紛れもなく悲劇だとも。

 

「それと、ルチア姉さんをお願いします。泣き虫な姉ですから、放っておいたら何時までも立ち上がれないでしょう。けれど貴女が居れば、安心できる」

 

 ああ、本当に分かって言っているのだろうか。カルラが薬で眠らせたルチアはきっと、目が覚めたらわんわんと大きな声で泣くだろう。

 姉が居なくなった事に。弟ともう会えないであろう事に。この小さなルチアが耐えられるとは思えない。それはもう酷い程、大きな声で泣き喚く事だろう。

 

 なのに、お前は付いて来てくれないのかと。思わず口をつきそうになった言葉を、噛み締め飲み干しカルラは耐えた。

 口をつく言葉には耐えられたけれど、どうやら瞳から溢れる想いは止められなかったらしい。年を取ると、涙腺が緩んでしまうのだろうか。

 

「さあ、もう行ってください。余り長居してしまうと、他の構成員に見付かってしまいます」

 

「ニコル、アンタは。アンタと言う子は…………本当に、馬鹿な子だよ」

 

 想いを溢れ出させるカルラの姿に、ニコルは少し困った様な表情をしながらも別れを促す。

 行って欲しいと語る少年の決意を、初老の女は変えられなかった。これは唯、それだけの話であった。

 

 眠るルチアを連れて、走り去って行くカルラ。恐らく意図して、医務室の窓が見える道を脱出路として選んだのだろう。

 何度も何度も振り返りながら、幾度も幾度もニコルを見詰めて、何時しか諦めた様に初老の女は去っていく。後には唯、静かな風が吹いていた。

 

「一緒に行かなくて良かったの? お馬鹿なニコル」

 

 ゆらりと影が揺らめいて、金糸の少女が姿を見せる。簡素な布のドレスの上に、頭巾が付いた青い外套を着込んだ少女だ。

 ベロニカ・ベラ。怪物に変わってしまったと言われた少女は、その青い瞳に寂寥の色を浮かべながらニコルを見詰めていた。

 

「貴女こそ、脱走の報告を上げなくて良いのですか? ベロニカ」

 

「……良いのよ。もう外は暗いから、見落としてしまったもの」

 

「そうですね。こんなにも暗くて何も見えないから、もう一緒になんて行けませんか」

 

 何処か大人びた言葉を語るベロニカだが、ニコルに向ける瞳に映る感情は隠せていない。

 

 大人ぶってはいても素直になれないだけで、彼女はまだ13歳の子どもであるのだ。

 敬意を抱いた師に拒絶され、平然としていられる程に強くはない。それをニコルは知っていた。

 

「でも、アンタは此処に、居てくれるんでしょ?」

 

「……ベロニカ、私は」

 

 だからニコルに対して依存するかの様に、縋る視線を向けてくるのも無理はない事。

 カルラとルチアは居なくなってしまったが、ニコラス・コンラドはこれからも一緒に居てくれるのだと。

 

 そんな少女の期待が籠った瞳を受けて、ニコルは僅か言葉に詰まる。けれど言うべき言葉は決まっていたから、彼は彼女も拒絶した。

 

「私は、ロシアに行きます。今よりも強い、私になる為に」

 

 ロシアに来いと、命じられた。グレゴリオ・ラスプーチンの命令に、逆らえるだけの力をニコルはまだ持たない。

 怪物へと変えられて、何れ心の底まで成り果ててしまうであろうベロニカ。彼女を救えるような力を、ニコルはまだ持っていないのだ。

 

「だから貴女とも、これで暫しお別れです。私にはもう、立ち止まっている様な暇はない。率直に申し上げて、貴女との会話は時間の無駄なのですよ」

 

 だから此処でベロニカに寄り添って、傷の舐め合いなどしていても意味がない。誰も何処にも進めずに、終わるだけの無駄な時間だ。

 だから此処で、ニコルはベロニカを遠ざける。今のニコルは、傍に居る誰かを傷付けるしか出来ない男であるから。大切に思えばこそ、近付いて欲しくなかった。

 

「……私と居るのが、時間の無駄ですって」

 

「ええ」

 

「……ニコル。アンタも私を、私を置いて行くんだね。カルラの様に」

 

「はい」

 

 だがそんな少年の都合を、少女が理解している筈もない。口に出してもいない想いを、どうして分かり合えると言う。

 師に捨てられて、置いて行かれた。怪物となったベロニカはそう捉えていて、だから最後に残った唯一無二を求めたと言うのに。

 

 少年の拒絶に涙が零れそうになって、負けん気から怒りを燃え上がらせる。どうしてこんなにも必要なのに、お前は応えてくれぬのだ。

 それは何処か身勝手で、女らしさに溢れた情念。異性を意識し始める年頃なのも相まって、様々な感情が入り混じった激情として噴火する。

 

「最低! 最低よ、アンタ!」

 

「……そうですね。自覚はあります」

 

 爆発した憤怒で叫び、今にも噛み付きそうな程の敵意を示すベロニカ。姉貴分であった女性の怒りを浴びながら、ニコルは張り付けた仮面を剥がさない。

 何もなかったかのように、彼はベロニカの真横を素通りしていく。己を空気にも感じていないと思わせる少年の素振りに、ベロニカの憤怒と憎悪は山の様に積もり泥の様にこびり付く。

 

「それでは、ベロニカ。また会う日まで」

 

「ニコル! 私は許さない! 絶対にアンタを、許さないから!」

 

 それでも、握り締めた拳を振るう事は出来なかった。そんなベロニカは立ち止まらないニコルの背中を見詰めながら、泣き崩れるように地面に座り込んでいた。

 

 ニコルは立ち止まらない。ニコルは振り返りもしない。今はまだ、何もかもが足りないから。いつかきっと、強くなれたら。広がり続ける胸の空洞も、埋まってくれる筈だから。

 

 何時か辿り着く高み。其処に至れる時を信じて、今は前に進み続ける。吹き抜ける風が止む日を夢見て、今は唯――――進むのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1898年、露西亜はサンクト=ペテルブルク――

 

 

 二つの人影が、闘技場の中央にて互いに剣を交差させる。両者が纏うはどちらも同じく、修道騎士が着込む装束だ。

 違いは色の差異と体格差。短髪の成人男性がグレーに白のラインが入った服を纏うのに対し、向かい合う少年が纏うは白地に金の刺繍が入った衣服。

 

 構えも全く同じなら、足運びから剣の振り方に至るまで同一。それも当然、両者は全く同じ流派を扱う師弟であるが為。

 師である男、修道騎士ビクトルは刃を交わしながら感嘆する。滅多に喋る事のない無口な男であるが、彼は無感動と言う訳ではない。

 

 彼でなくとも、誰もが声を失った事だろう。ビクトルの弟子である少年が見せる剣戟は、ビクトルのそれと比較しても全く劣っていないのだから。

 技量は互角。いや体格の差を考えれば、重量の重い斬撃と五分に打ち合えている少年の方が上とまで言えよう。三年にも満たない僅かな時間で、ビクトルの積み上げた十年以上が超えられていた。

 

 それが才だけで為されたならば、ビクトルも嫉妬し憤怒していただろう。だがそうではないことは、師であるビクトル自身が誰よりも知っている。

 無論、才能はあった。天才と言えるだけの才覚は、ビクトルのそれを圧倒していただろう。だが、それだけではなかった。違いを付けたのは、修練の密度だ。

 

 切り結ぶ腕が痺れる程に、重く鋭い斬撃。それを為せるようになるまで、少年は何度も何度も己の身体を自傷した。余りに濃厚過ぎる修練を、身体が潰れるまで熟すのだ。

 剣の素振り一つとっても、掌の皮が擦り剝けて真っ赤に染まるまで。腕の筋肉が断裂して、物理的に動かなくなるまで。剣を振れなくなるまで振り続けると、そんな単純な事を彼は毎日休まず続けた。

 

 身体が壊れる度に、回復魔法で治療する。白魔法や外科手術の良い練習になると爽やかに笑いながら、骨がずれていれば麻酔もなしに己の血肉を切り裂いて繋ぎ直す。

 その姿は、正に狂気的としか形容出来ない。だがそれを目にしたビクトルは、心の底から感動したのだ。己に足りなかったのはこれだと。道を究めるには、時にこうした異常さが必要なのだと。

 

 ビクトルの想像を裏付けるかの様に、この少年は僅かな月日で一流の域にまで至ってみせた。狂気こそが、人を高みに至らせる。そう得心したビクトルだが、同時に彼は常識の範疇を出れない男であった。

 己は其処まで振り切れない。其処まで外れなければ至れないのならば、と諦めてしまう。だからこそ当たり前にそれが出来る少年に対して、ビクトルは師でありながら崇拝にも似た敬意を抱いているのである。

 

 そんな雑念が混じった為か。もう幾度目の物となるか分からない程、鉄と鉄を打ち合う甲高い音が響いた後に。少年と男の立ち合いに、一つの決着がつく。

 半ばから断たれて、刀身を失ったのはビクトルの持つ剣。全ての斬撃が同じ場所を狙っていた事に気付いて、ビクトルには最早感嘆の吐息を漏らす事しか出来なかった。

 

「見事だ、ニコル。早くもビクトルを超えたか」

 

「……師や猊下に、教えを頂いた賜物ですよ」

 

 師弟の対決を観客席から見下ろしていたラスプーチンは、若くして結社最高の修道騎士を下したニコルを褒め称える。

 愉しげに嗤う怪僧を見上げて、ニコルは教科書通りの言葉を返す。剣を鞘に納めると、様になった教会式の礼を見せた。

 

 僅か十歳の少年が、結社でも最強の修道騎士となった。その事実に見守っていた者達も、次から次に賞賛の声を上げてニコルを称える。

 だがそんな言葉など、少年の心には届かない。慢心や満足と言った感情は、今の彼には無縁の物だ。

 

 まだ足りぬ。まだ足りぬ。まだまだ足りぬ。貪欲に力を希求する渇望は、炎の様に燃え上がり続けている。

 

 礼を終えて顔を上げた少年は、爽やかな微笑みと言う仮面を被る。余り深く関わらない者達には、真っ当にしか見えないであろう仕草と態度。

 だがその仮面の下に隠した心は、今も澱み濁っている。正に狂気としか語れぬ純度で、ニコルは更なる力を求めていた。

 

 

 

 

 




ニコル、10歳にして結社最強の修道騎士になるの巻。


~原作キャラ紹介 Part5~
○カルラ(登場作品:シャドウハーツ2)
 イタリアのフィレンツェに居を構える占い師。ルチアの育ての親で、ベロニカの師でもある。原作時の年齢は70歳。
 堀が深い顔立ちだが肥満気味で、一見するとジ○リ作品の魔女キャラみたいな見た目をしている。若い頃は美人だった。

 因みに若かりし頃の姿が見られる彼女の回想シーンだが、シャドウハーツ2において過去の時系列を判り難くしている元凶の一つとも言える。
 結社の勧誘を受けたと語る際の見た目は、どう見ても20後半から行って30後半と言った所。となると原作40年は前の出来事になるのだが、そう考えると無数の矛盾が生じてしまう。

 ラスプーチンの年齢が43歳(これも経歴を考えると色々不自然)なので、カルラが40前に組織に加入していると13歳以下と言う計算に。
 流石に13歳の子どもに前作ラスボスが負けるとは思いたくないので、そうなると自然と前指導者のヨウィスが居た時期に入団した事になる。

 人望の厚いヨウィスが指導者をやっている頃を知るなら、原作で描写された態度を取り続けるのは少し不自然。
 そもそもヨウィスがカルラを組織に勧誘する理由も分からなければ、何故ギョレメの谷に向かわなかったのか疑問となる展開に。

 なので当作ではラスプーチンが台頭した時期か、その少し前くらいからサピエンテス・グラディオに所属したのでヨウィスとの関わりはなかったとします。
 回想シーンの見た目が若い理由? 昔の私はこんなに美人だったんだよって、お婆ちゃんが自分の事を美化して語っただけじゃないですかね。

 尚、原作においてのカルラさんの存在理由は過去回想が五割で、残り五割は無料で何度でも回復してくれる宿屋としての物です。
 ぶっちゃけ過去回想もそんなに役に立ったかと言えば微妙なので、存在理由の九割は宿屋と言っても過言ではないのかもしれません。



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第8話 KOUDELKA

ウルが30話以降まで出番ないのは、その前にゲーム一本分のシナリオを入れるからだったりします。そんな訳で「KOUDELKA」編スタートです。


――1898年10月31日、英吉利はウェールズ――

 

 

 海岸線沿いに広がる草原を、一頭の馬に乗って駆け抜ける。夜風が吹き抜ける闇の中、馬を駆るのは一人の女だ。

 草木も寝静まる中、闇夜に蹄の音を響かせる。使い込まれて色のくすんだ外套に身を包んだ彼女が駆けるのは、彼女を呼ぶ声が今もするから。

 助けを求める亡霊の嘆き。応えてやる義理などはないが、無視してしまう理由も特になかった。

 

 彼女は幼い頃に生まれた村を追放され、時に褒められた物ではない行為に手を染めながら一人で生きてきたのだ。

 呪われた子と産みの親に拒絶された霊媒体質を用いて糊口を凌ぎながら、行く当てもなく放浪の旅を続けている。

 そんな女だ。だからこうして、夜闇の中で馬を駆っている。乞われたから向かうのだと、それ以外に理由もないから。

 

 蹄に返る音が変わる。草に覆われた野原から、土が露出した獣道へと。木々の緑が増えていく中へ、立ち止まる事なく進み続ける。

 景色に見覚えがあると感じてしまうのは、追われた故郷にも何処か似ているからか。感傷的になりそうな思いを押し込め、視線を逸らしたその先で女は人影に気付いた。

 

(子ども?)

 

 小さな影が、森の中を歩いている。白い外套を纏い、フードを目深にまで被っているが故に顔は見えない。けれど背丈を見るに、幼いと言うのは理解出来た。

 馬の歩みを遅らせながら、女は深い息を吐く。別に構う理由もないが、特に急ぐ必要もない。そう胸中で己に弁解する女は結局の所、悪人にも外道にもなり切れてはいないのだ。

 

 擦れている自覚は彼女自身にもある。厭世的な価値観を持っているし、神様なんて信じていない。そんな女ではあるが、目の前で困っている人や苦しんでいる人を放置出来ない。それは気分が悪いのだと。

 

 深夜に森を放浪する子どもらしき人物を捨て置けないのも、彼女にとっては同様の理由だ。

 迷子であるのか、それとも目的があるのか。どちらにしても己の過去を想起させるから、声を掛けずにはいられなかった。

 

「ちょっとアンタ、こんな所でこんな時間に何しているのよ?」

 

「……ん? それは私に言っているのですか、お姉さん?」

 

「アンタ以外に誰が居るのよ。この辺りには、会話の出来る死霊もいないわ」

 

 足を止めた白い外套の人物。声からすると少年だろうと当たりを付けながら、女は馬をゆっくりと歩かせて彼に並ぶ。

 軽い身のこなしで馬から降りると、手綱を右手に握りながら馬の胴に背を預ける。空いた左手で女がフードを脱ぐと、赤みがかったダークブロンドの髪が風に踊った。

 

「あたしはクーデルカ。クーデルカ・イアサント。アンタは?」

 

「……クーデルカ? ……まさか、闇の鍵? これは如何なる偶然だ」

 

 端正な顔立ちをした女が名乗ると、外套の少年は困惑した様にぶつぶつと小さな声で何事かを呟き始める。

 人の顔を見た瞬間に、これは失礼ではないか。クーデルカの機嫌は急激に落ち込み、傍目にも分かりやすい程に苛立ち始めた。

 

「あ、いえ、失礼しました」

 

 少年もクーデルカの苛立ちに気付いたのか、即座に頭を下げると彼女に合わせてフードを脱いだ。

 風に晒されるのは、女と同じく整った容姿とキャラメルブラウン色の髪。碧の瞳で女を見詰めて、法衣の少年は名を名乗る。

 

「ニコラス・コンラドです。ニコルとお呼びください」

 

 10かそこらにしか見えない少年が、大人染みた口調で言葉を紡ぐ。イタリア訛りの混じった英語に、クーデルカは僅か眉を顰めた。

 不自然な所があると言うよりか、不自然な所しかない少年だ。一体どうしてイギリスはウェールズの山奥に、イタリア系とも思えない容姿の少年が居るのかと。

 

「ふぅん。で、ニコル。アンタなんで、こんな所に居るのよ? まぁ、迷子って言うんなら、近くの村まで送ってあげても良いけど」

 

 そんな当然の問い掛けと、同時に告げるは彼女の善意。往復すれば結構な時間が掛かると言うのに、態々送ると言うのだから。

 とは言え彼女に対してそれを指摘した所で、助力しない理由もないからだと嘯くのだろうが。その程度には、クーデルカは捻くれていた。

 

「いえ、御心遣いだけで結構です。少々、探している物がありまして」

 

 クーデルカの不器用な善意を察しながらも、ニコルは苦笑と共に言葉を返す。探している物があるから、戻る訳にはいかないのだと。

 

「探し物、ねぇ。この先には、何にもないらしいわよ? あるのは唯の、古びた修道院が一つだけ」

 

「……修道院、ですか? 修道院跡、ではなく?」

 

「直前に寄った村じゃ、閉鎖したなんて話は聞いてないわよ。尤も、此処から馬の足でも三時間は掛かるくらいに距離があるから、情報が遅いだけって可能性もなくはないけど」

 

 何を探しているのか知らないが、子どもが夜更けに一人歩くと言うのは不用心に過ぎる話だ。ましてや、この先にあると言う修道院は危険な場所である。

 霊媒体質のクーデルカには、今も其処で悲鳴を上げている誰かの祈りが聞こえていたから。そんな所に小さな子どもを行かせるなんて、後味が悪くて仕方がないのだ。

 

 だから暗に行かない方が良いと訴えるクーデルカだが、ニコルはどうにもおかしな所ばかりに意識を向ける。

 

「ふむ。奇妙な形の建物があると言った噂も?」

 

「聞かないわね。何よ、それ?」

 

「……これは、当てが外れましたか。いや、それとも」

 

 修道院が既にない筈だとか、奇妙な形の建物がある筈だとか。ニコルは首を傾げて、呟きながらも思考を回す。

 勝ち気な瞳でそんな少年を見詰めるクーデルカは、内心で一つ結論を付けていた。このガキは、とんでもなく変な奴だと。

 

 そして同時に、僅か思う。霊媒としての直感か。その瞳を見たからか。クーデルカは、もしかしたらと僅かに期待した。

 

「ともかく、アンタが何を探してるのかは知らないし興味もないけど、この先には多分ないわよ」

 

「かもしれませんね。ですが、向かってみる事にはします。情報、ありがとうございます」

 

 クーデルカの言葉は、完全に善意から端を発した物。だが、そんな捻くれた善意も少年には届かない。

 ニコルは一礼するとフードを被って、また修道院へと歩き出す。その背を見詰めて、クーデルカは深く深く嘆息した。

 

「はぁ……」

 

 綺麗な髪を手で掻きながら、女が思うはこの先に起きるであろう事。このままニコルを行かせてしまえば、きっと後味が悪いのだろうなと思ってしまう。

 さりとて引き留める言葉も聞かないとなれば、もう選択肢なんてない。手綱を引いて馬に跨ると、軽く歩かせ少年の隣へ。見上げる瞳を見詰め返して、クーデルカは馬の背を軽く叩きながらに提案した。

 

「乗せてってあげるわ。どうせ目的地は同じなんだし」

 

「ですが」

 

「子どもを置いて先に行くのは、正直気分が悪いのよ。運が良かったと思って、素直に言う事聞いてなさい」

 

 論舌が得意ではないクーデルカでは、ニコルの道を阻めない。ならば一緒に行って、彼の望みを手助けしてやれば良い。死なせたくはないのなら、離さず傍に居させれば良いのだ。

 

 それに、ちょっとした下心もある。もしかしたらこの子は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 理屈ではない、直感だ。敢えて理由を付けるのならば、覗き見た瞳が少しだけ寂しそうに見えたから。鏡で見る己の瞳に、少し似ていると思えたから。

 だからと言って、子どもが危険に晒されるのを望んでいる訳ではない。唯、少しだけ―――――――――なのだ。

 

 そんな風に内心で言い訳しながら、クーデルカはニコルに向かって手を伸ばす。差し出された掌を見詰めて、ニコルが迷ったのはほんの数秒。だが彼が結論を出すよりも、クーデルカの辛抱が尽きる方が早かった。

 掴むべきか、掴まぬべきか。どちらが都合良いのだろうか。迷うニコルの右腕を、クーデルカは掴んで引いて持ち上げる。華奢な見た目には似合わぬ強さで。

 

 左の腕で持ち上げて、浮いた身体を手綱から離した右手で支える。そうして高い高いと赤子をあやす様な姿勢から、腰を回して己の前へと座らせる。

 諦めた様な色を瞳に浮かべて、無抵抗で居るニコル。そんな少年の頭を雑に撫でた後、捕まってなさいとニコルに手綱の一部を握らせて、再び馬を走らせた。

 

 腕で抱き締めた少年の小さな身体に、少しだけ温かさを感じながら。クーデルカは森を駆け抜け、高台の上にある草原へと。

 雲に覆われた空の下、微かに差し込む光が照らす。切り立った断崖の程近く、聳え立つ巨大な修道院。それこそが、彼女達が目指した――

 

「此処が、ネメトン修道院」

 

 闇の扉が開く場所。人の嘆き悲しみに満ちた、全てが終わってしまった土地。やがてネアメートへと至る惨劇の舞台。

 ネメトン修道院。英吉利はウェールズの奥地にあるこの場所で、一つの物語が幕を開く。一人の異分子たる少年を加えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1898年10月1日、露西亜はサンクト=ペテルブルグ――

 

 

 皇族が住まうエルミタージュ宮殿内を、ニコルは一人歩き進んでいた。煌びやかな殿内を子どもが一人歩いていても、呼び止められる事はない。

 それ程にラスプーチンの力が、露西亜国内で強まっていると言う証左であろう。ニコルは複雑な感情を胸に抱えたまま、目的となる部屋を目指す。

 

 獅子宮と呼ばれる宮殿の一区画。その直前にある客間の一つで、ラスプーチンは身を休めている事が多い。今回ニコルが呼び出されたのも、同じ部屋である。

 宮殿を歩く中、皇族と鉢合わせなかった事実に安堵と落胆を覚える。遭遇したとしても、気付かれる事はないのだろうが。そんな愚にも付かない思考を回しながら、少年は扉の前に辿り着く。

 

 ノックを三度、返る言葉を聞いてから扉を片手で開く。瞬間、溢れ出すのは噎せ返る様な性の臭い。ベッドで寝ている裸の女に、ニコルは僅か眉を顰めた。

 それも一瞬、微笑の仮面を被って隠す。一歩進むと後ろ手で扉を閉めて、そのまま二歩三歩。椅子に腰掛け珈琲を嗜むラスプーチンの下へ、教会式の礼と共に跪く。

 

「マスター。お呼びと伺い、参じました」

 

「よく来た、ニコル。お前を呼んだのは他でもない、お前にして欲しい事があるからだ」

 

 ニコルの礼を鷹揚な態度で受け、ラスプーチンは顔を上げる事を許すと直ぐに本題へと入る。

 立ち上がって姿勢を正した彼に視線を向け、カップを傾け香りを楽しみながらに告げるのは他国の重要機密。

 

「数年前、バチカンから三冊の秘術書が盗み出された」

 

 茶飲み話の様に平然と、法王庁の失態を嗤いながらに語る。その発言を理解したニコルは、即座に思考を切り替えた。

 これは何時もの気紛れではなく、とても重要な話であると。バチカンから盗まれた秘術書とは、原作にも出て来て物語を大きく動かした物の一つ。

 

「数百年は法王庁で厳重に封印されていた禁書だ。名を、『エミグレ文書』『バルスの断章』『ルルイエ異本』と言う」

 

 エミグレ文書。古代フォモールの秘術を記した禁書は、時間を回帰させ過去に失った死者さえも蘇生させる。

 不老不死さえ実現する秘術に、嘗て多くの者らが魅入られた。そしてその誰もが失敗し、失った者を取り戻せずに破滅した。

 

 バルスの断章。星の地脈を操る術と、惑星の意志が具現化した星の守護者である古神を呼び出す儀式が記された書。

 原作においては主人公の父を殺した徳壊なる邪仙の手で、この儀式を応用した裏鬼門御霊会なる大禁術が上海の地で行われた。

 

 ルルイエ異本。ネアムと呼ばれるウキを浮上させ、宇宙から外なる超神を召喚する秘術を記した魔導書。

 クトゥルフ神話をモデルにしたであろう超神は、世界の全てを滅ぼし作り直せる程の力を有する怪物だった。

 

「下手人は判明している。アルバート・サイモン枢機卿。嘗て不遜にも我が師ヨウィスと共に私に歯向かい、無様に敗れた後に鼠の如く溝川を逃げ隠れしていた男だ」

 

 内の一冊ですら大災厄を引き起こせる秘術書を、纏めて盗み出した男が居る。名をアルバート・サイモン枢機卿。

 原作シャドウハーツにおいて、ラスボスとして君臨していた魔術師。破壊神アモンを内に宿す、ラスプーチンと同格の存在だ。

 

「奴の企みは明らかだ。秘術書を用いて、私に復讐をせんと望んでいるに違いない」

 

 続編のシャドウハーツ2において語られる彼の意図とは、世界全土を巻き込む大戦の引き金を引こうとしていたラスプーチンの討伐。

 嘗て一度敗れ地を舐めたアルバートは、必ず勝てる力を求めて大事件を引き起こした。それこそがウルムナフを主役とする、シャドウハーツの物語。

 

「対策はある。故に泳がせても良いが、これも良い機会であろう。奴の企み、お前の試験に利用する」

 

 超神の力を以ってラスプーチンを倒し、腐敗し切った世界全土を作り直そうと画策していたアルバート・サイモン。

 彼を再び地に下し、もう二度と逆らえぬ様に『ヤドリギ』と言う聖遺物を用意していたグレゴリオ・ラスプーチン。

 

 世界でも片手の指で数えられる程の魔術師同士が殺し合えば、言語を絶する程の被害が全世界を襲うであろう。

 それ程の存在である事を知識で知るが故に、ニコルはゆっくりと唾を飲む。原作と同じ命が下されるのかと、戦慄と歓喜を僅か覚えながら。

 

「アルバート・サイモンを、私に討て、と?」

 

「……いや、無理だな。私には劣るとは言え、奴もそれなりには優れた魔術師。今のお前では、一太刀入れるが限界だろう」

 

 問い掛けて、返る言葉に安堵し落胆する。アルバート・サイモンとグレゴリオ・ラスプーチンは、完全に同格の魔術師だ。

 詰まりアルバート・サイモンに勝てないと言う事は、グレゴリオ・ラスプーチンにも勝てないと言う事。まだ遠いのかと、分かり切った事実に内心で歯噛みする。

 

 それでも、表面上は爽やかな笑みを浮かべたまま。そんなニコルを見詰めて口角を歪めたラスプーチンは、己の望みを命と言う形で口にした。

 

「ニコル。時間と自由はくれてやる。期限は三年、各国のサピエンテス・グラディオも好きに使って良い」

 

 最初に語られたのは、破格と言える程の好条件。とは言えこの破綻者が、唯で好条件を与えてくれる筈もない。

 ならばあるのだ。それが必要となる程の試練が。そのくらいの助力が無ければ、為せないであろう程の困難が。

 

「どれでも良いぞ。三冊の秘術書の内、一冊を必ず回収しろ。そして、私の下へと持って来い」

 

 唯一冊ですら、世界のバランスを歪め得る秘術書。ラスプーチンと同格の男が今も持つか、或いは世界の何処かで今も悲劇を引き起こしているであろう物。

 それを探して持って来いと、ラスプーチンは望んでいる。彼の目には一体何が見えていると言うのか。分からずとも、ニコルに返せる答えはたった一つしか存在しない。

 

「出来るな、ニコル?」

 

「猊下が、それをお望みならば」

 

 今はまだ、ニコルは悪魔に飼われる玩具に過ぎない。だから従う他になく、しかし同時にこれは好機とも言える。

 三年の自由。それを最大限に活かせば、多くの物が手に入る。サピエンテス・グラディオの組織力。それを正しく活かせば、探せぬ筈はなかったから。

 

「では早速ですが、猊下。一つ御許可を頂きたい」

 

「ほう。何だ、言ってみろ」

 

 命を受けた以上は、一刻も早く立ち去りたい。グレゴリオ・ラスプーチンと顔を合わせると言う行為は、慣れた今でもニコルにとっては負担であった。

 だがしかし、これ程の好機は滅多にない。彼はサピエンテス・グラディオを好きに使えと言ったのだ。ならば広義的に解釈すれば、この望みも許されるであろう。

 

「聖なるヤドリギを、バチカンより持ち出す許可を」

 

「……キ、キヒヒ。そうか、そうだったな。お前は知っているのだったな」

 

 聖なるヤドリギ。それは人の記憶と心を塗り潰し、特異な力すらも封じ込める呪術の媒体。

 一度解き放たれたが最期、神を殺した男ですらも抗えずに死を迎えるしかなかったと言う禁忌の聖遺物。

 

 格上ですら、殺せる武器。そう。アルバート・サイモン枢機卿だけではなく、グレゴリオ・ラスプーチン大司教すらも殺せる武器だ。

 詰まりニコラス・コンラドは、グレゴリオ・ラスプーチンにこう言ったのだ。()()()()()()()()()()()()と。

 

「良いぞ。あれもサピエンテス・グラディオの一部だ。お前の好きに使え」

 

「感謝致します。猊下」

 

 そんなニコルの言葉にも愉しげに、一言で許可を出すラスプーチン。それは油断や傲慢か、或いは破滅の願望か。

 考えも答えは出ないのだから、考える必要はない事だ。そう割り切るとラスプーチンに一礼して、ニコルは身を翻した。

 

(さて、先ずは何から手を付けましょうか)

 

 煌びやかなエルミタージュ宮殿を、肩で風を切って進む。足取りが来た時よりも軽いのは、この先に待つ未来を思えば当然の事。

 同時に思考を回すのは、三冊の内どれを最初に狙うのか。ヤドリギを回収してから向かう以上は、ヨーロッパにある物から狙うべきだろう。

 

(サピエンテス・グラディオに情報収集を任せるのは当然として、そうですね。手に入れやすい物から、狙っていくことにしましょう)

 

 原作知識を思い浮かべる。もう大部分が色褪せて虫食いとなっているが、それでも秘術書についてならば多少は覚えている。

 

 エミグレ文書は原作にて、ジャックと言う男が所持していた。彼に秘術書を渡したのは、アルバート・サイモン本人である。

 それ以前にネメトン修道院で事件を起こしているのだが、ニコルにはシャドウハーツの前日譚であるクーデルカの知識がない。故に当然、そんな事が分かる筈もない。

 

 ルルイエ異本は原作にて、儀式に成功するまでずっとアルバート自身が持ち続けていた筈である。

 今のニコルが彼から奪い取ろうと言うのは、余りにも現実的ではない発想だ。これは後回しとするべきだろう。ならば――

 

(原作では確か、彼が持っていた筈だ。『バルスの断章』古の星神を呼び出す禁書を)

 

 残る一冊、バルスの断章。アルバートの手から徳壊の手に渡り、その後に如何なる経由を辿ったのかある男の下へ。

 その男こそ、歴史に名を残す大魔術師。アルバート・サイモンの師にして、グレゴリオ・ラスプーチンすらも超える叡智の持ち主。

 

「ロジャー・ベーコン」

 

 グレゴリオ・ラスプーチン。アルバート・サイモン。ヨウィス・エイプラハム。

 原作に出て来た優れた魔術師たちも、総合力と言う一点においては彼の足元にも及ばない。

 

 ロジャー・ベーコンとは、それ程の人物だ。700年と言う時を生きた不死身の魔術師程に、学ぶに相応しい者もいまい。

 仮にまだ『バルスの断章』を持っていないのだとしても、彼との友誼は必ずや高みを目指す糧となってくれるであろう。

 

 斯くして、ニコラス・コンラドは秘術書回収の任を帯びる。先ず最初に望むのは、三冊の内が一冊『バルスの断章』。

 目指すは、英吉利のウェールズ。其処に隠棲しているであろう、大魔術師ロジャー・ベーコン。彼の伝説から叡智を得て、更なる高みへ至る為。

 

 

 

 

 




現在の憑依ニコルは、相打ち覚悟でラスプーチンに一撃当てられるくらいの実力です。
そして一撃入れれば、確定で相手を破滅させられるヤドリギを手に入れました。

大分死ぬ可能性が高まって来た所為か、何時殺しに来るのかとオラワクワクして来た状態な猊下。
でもヤドリギの効果が出るのには時間が掛かるので、現状で挑めば憑依ニコルも死ぬのは確定しています。
なので死ぬ気は全くない憑依ニコルには、ワクワクしてる猊下に放置プレイを噛ます予定しかありません。


~原作キャラ紹介 Part6~
○クーデルカ・イアサント(登場作品:KOUDELKA(ゲーム版), クーデルカ(漫画版), シャドウハーツ)
 ゴシックホラーRPG「KOUDELKA」の主人公。外伝漫画とシャドウハーツにも登場する。「KOUDELKA」開始時の年齢は19歳。
 各媒体でそれぞれ性格が違うとは良く言われる。年代が異なっているので、様々な経験をした事で変わったと言われれば納得出来なくもない。

 原作ゲームでの性格は、気が強く皮肉屋で口が悪い。だが助けを求められれば、律儀に手を出し助力するお人好しな一面も。もしかして、ツンデレ?
 赤毛に近い金髪と、青み掛かったグレーの瞳。何処か浮世離れした程に整った容姿を持つ美女。出身はイギリス。公式設定では過去に、ジャック・ザ・リッパーと出逢っているらしい。

 生まれついての膨大な霊力を持っていて、幼い頃から未来視やヒーリングの異能を使えた。その所為で、村を追放される事になる。
 誰からも愛された事がない。そんな痛みを胸に抱えている為か、原作ではシャルロッテと言う名の少女に一方的な共感を抱いていた。

 またシャルロッテやヨシュアへの対応を見るからに、子どもには甘い人物でもある模様。共感や忘却と言った理由があったにせよ、心根が優しい人物なのは明らかだろう。




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第9話 侵入、ネメトンの地で

憑依ニコルは既に原作の彼より強いので、クーデルカ編では余り苦戦しません。なので苦戦しなかった分だけ、エレインを盛ります。(無慈悲)


 石造りの巨大な門を前にして、乗っていた馬に指示を出す。主に忠実な白馬はゆっくりと歩みを止め、賢い子だとクーデルカは微笑みながら頭を撫でた。

 さて降りようかと促す前に、前に座っていた筈のニコルは既に地に降り立っていた。気付けなかった事に半ば驚き、随分と気の早い奴だと半ば呆れる。

 軽く息を吐いてから、クーデルカもニコルに続いて馬から降りた。

 

 二人揃って門前に立ち、軽く叩いて中を伺う。だが重厚な扉から、返る反応は一切ない。直接手を出してもみるが、押しても引いてもびくともしない。

 これは開きそうもない。お手上げと示す様に両手を上げて振り返ったクーデルカに、ニコルは一つ頷いてから問い掛けた。

 

「どうします。此処で内側に居るかもしれない人物の反応を待つか、それとも二手に分かれて侵入経路でも探しますか?」

 

「どっちも論外。此処で待った所で中に人が居る保証はないし、二手に分かれるんじゃアンタを同行させた意味がないわ」

 

 ニコルの提案を一考の余地もなく断ち切って、クーデルカは白馬の手綱を片手に握る。彼女は右手に馬を引きながら、左手をニコルに差し出した。

 

「手を出しなさい。一緒に外壁を歩き回って、入れそうな場所を探すわよ」

 

「……これでも一応、自衛程度は出来るのですが」

 

「はっ、子どもが生意気言うんじゃないの。仮にアンタにそういう力があるのだとしても、子どもである事は変わらないでしょ」

 

 らしくないと自分でも思いながら、こんなにも世話を焼こうとしてしまうのはきっと心の何処かで重ねているから。

 

 理由は知らないが、一人で深夜に森の中を彷徨っていた幼いが大人びた口調の少年。当然そこには特別な事情があって、或いはそれが己と同じなのではないかと。

 女は否が応でも連想してしまう。あの日、タリエシン河の畔にある村から追放された直後の自分を。行く当てもなく、誰も頼れず、世を恨むしかなかった子どもの頃を。

 

「良いから黙って、あたしに手を引かれてなさい。迷子になんて、ならないようにね」

 

 一向に手を握り返そうとしないニコルの手を無理矢理引いて、導くように先へ先へと連れて行く。

 今のクーデルカがニコルに対してしている事は、きっとあの日に彼女自身が誰かにして欲しかった事なのだろう。

 

 少年と馬を引き連れて、クーデルカは外壁を歩き進む。古びた城壁にも似た建物を、時計回りに回り込んでいくように。

 小さな納屋を過ぎた先、其処で彼らは見付け出す。鉄格子が嵌められた窓の程近くに、旅人の装備と思わせる大量の荷が転がっていた。

 

「旅行者の荷物、と言うには物騒な物の量が些か多い。それに長いロープが、どうやら上から伸びているようですね」

 

 ニコルは近付いて、荷には触れずに一瞥だけで検分する。置いていかれた荷物の中には、刃物や銃器と言った物まで混じっている。

 旅行者と言うには物騒で、戦士や傭兵と言うには軽装過ぎる。そんな荷の主は恐らく、既に侵入を果たしているのだろう。屋根まで伸びる長い荒縄が、確かにそれを証明していた。

 

「招かれざる客は、あたし達だけじゃなかったと言う事でしょ。折角だし、誰かさんの使った物を再利用しましょう。ニコル、先と後とどっちが良い?」

 

「先にしますよ。レディを見上げながら登ると言うのは、紳士的とは言えませんからね」

 

 軽口を交わしながら、ニコルは荒縄を両手で握る。腕の力で身体を引いて、足で壁面を蹴り上げ登り始める。

 クーデルカは旅人の荷物を使って白馬の手綱を固定すると、馬の頭を一つ撫でてからニコルと同じく荒縄を両手に掴んだ。

 

「上から見ると実感しますね。随分と大きな建物だ」

 

 そうしてニコルは、然したる苦労もなく修道院の屋根の上まで登り切る。直ぐに腰を落として自重を低くしてから、後を続くクーデルカへと手を差し出した。

 

「ん、ありがとう。そうね、此処までとは想像していなかったわ」

 

 登って来ていたクーデルカの腕を掴んで、引き上げる事で助力する。紳士的なその行動も、今のニコルの見た目では正しく背伸びした子どものそれ。素直に感謝を口にしながら、クーデルカは微笑ましいと口角を緩めた。

 

 二人揃って修道院の屋根の上から、その全貌を見下ろして感嘆の息を漏らす。暫くそうして見下ろした後、クーデルカは屋根の上を見回した。

 傾斜の急な足元を、このまま進むのは危険であろう。それでも屋根に乗った装飾を掴んで進めば、身動きが取れない程ではない。ならば今度は、己が先に向かうとしよう。

 

 尖った飾りを手で掴み、体重を預けながら女は進む。一つ、二つ、三つ。左右の手に別の飾りを掴みながら、蟹の動きを思わせる横歩きで先へ。

 目指すは遠くに見える建物。修道院の中でも最も大きな棟ならば、手掛かりもきっとあるだろうと。だが四つ目に差し掛かった所で、彼女は不測の事態に悲鳴を上げた。

 

「きゃぁっ!?」

 

 飾りに手を掛けて体重を預けた瞬間、根本から圧し折れたのだ。そのまま落下しそうになる女の姿に、ニコルは斜面を蹴り上げ駆けた。

 

「っと、大丈夫ですか」

 

 天窓の突起に右手を掛けて、左手でクーデルカを捕まえる。力強く腕を引き上げると、驚愕する女を片手で横抱きに抱き留める。

 抱き留められたクーデルカの懐から、光輝くペンダントが零れ落ちるがそれもニコルは見逃さない。一瞬右手を手放すと、掬い上げるように掴んでみせた。

 

 左腕にクーデルカ。右手の内には彼女のペンダント。両手が塞がった状態で体勢を崩せば、当然の如く落下するのが自然の道理だ。

 だがそうならぬのは、目を疑うような曲芸を見せたから。靴の踵に魔力を纏わせて、屋根を盛大に叩いて砕く。その砕いた穴で、ニコルは右足を固定したのだ。

 

 右足一つで宙釣りとなった少年は、果たして一体その身体の何処に力を隠していたのか。固定した右足を軸に、上体起こしの要領で身体を起き上がらせる。

 そして右手に掴んだペンダントをクーデルカに手渡すと、空いた片手を使って二人分の体重を易々と持ち上げる。

 そんな理屈は分かるが意味が分からない光景を、ニコルは平然とした表情で作り上げるのだった。

 

「ありがとう。けど、しくったわ。まさか掴んだ場所が、急に壊れるなんて」

 

「どうやら老朽化も激しいようです。管理状態が悪いのか、それとも余程古い建物なのか」

 

 地面を見下ろし、僅か震える女と語る。九死に一生を得たのだから、身体の震えも当然の物であろうと。

 けれどクーデルカは何時までも、震えているような女ではない。感謝を口にしてから意識を切り替えると、天窓の突起に手を掛けた。

 

 両手で握って、クーデルカは己の身を安定させる。それを確認したニコルは、機敏な動きで突起の上へと移動した。

 

「此処の窓なら、蹴破れそう。よいっしょ、と」

 

 クーデルカは二度三度、天窓の枠を蹴り付けて壊す。態勢の関係で内側を覗く事は出来ないが、此処からならば侵入は容易そうであった。

 

「気を付けてくださいね。どんな危険があるか、分からないのですから」

 

「……立場が逆よ、と言いたいけど。アンタは見た目が当てにならないみたいだし、一応、礼は言っておくわ」

 

 心配してくれてありがとう、と言い残すと内側も確認せずにそのまま中へ。不用心なと肩を竦めてから、ニコルも彼女の後に続いた。

 

「よっと。……ふぅん、中はこんな作りになっているのね」

 

 着地したその先は、天井裏にある梁の上。すぐさま後ろから近付いて来るニコルの気配を感じて、クーデルカは再び飛び降りる。

 足を屈めて片手を付いて、着地の衝撃を和らげる。そのまま立ち上がって周囲を見回すクーデルカの瞳に映ったのは、信じられない光景だった。

 

「ぐ、お、ぁ……」

 

 苦悶の声を漏らしている瀕死の男。血に塗れた男性の上に圧し掛かり、血肉を貪る怪物の姿。全身を体毛で覆われた人型の異形は、宛ら民話に伝わる狼男。

 

 予想だにしていなかった凄惨な光景に、思考が硬直するクーデルカ。そんな彼女の真横を疾風の如く、白く小さな人影が駆け抜ける。

 

「ニコル!?」

 

〈Guuuuuuuuuuuuuuuu!!〉

 

 一体何をする気かと、叫んだクーデルカの声に反応して狼男は顔を上げる。向かって来る白い外套を認識して、彼は血肉と臓腑に塗れた口を歪めた。

 剥き出しの牙を鳴らして思うのは、また獲物が一つ増えたと言う喜び。血肉の硬い男と違って、今度はどちらも柔らかそうで美味しそうだと。

 

〈Gaaaaaaaaaaaaaaaaa!!〉

 

 雄叫びと共に、怪物が拳を振るう。鋭い爪が、迫る白を貫いていた。少なくとも、クーデルカの瞳にはそう映った。だが――違う。

 

「ふっ、愚かな」

 

 狼男の腕が貫いていたのは、中身のない外套だけ。白き修道騎士の装束を灯りに照らすニコルは既に、血に塗れた男の直ぐ傍らに。

 接近した直後に脱ぎ捨てた外套を囮に、回り込んでみせたのだろう。信じられない早業を見せた少年は、手にした剣を()()()()()()

 

「ニコル。早くこっちに!」

 

 少年の無事を理解して、安堵したクーデルカは腰に隠していた大振りのナイフを手に取る。

 怪物を相手にする道具としては不足が過ぎるが、それでも無手よりは余程マシであろうと。

 

 震えを隠しながら、少年を誘導する。最悪は自分が囮になろうと、そんな女の善良さにニコルは苦笑を漏らした。

 

「いいえ、心配いりませんよ。クーデルカ」

 

〈Gaaaaaaaaaaaaaaaaa!!〉

 

 雄叫びを上げる狼男と相対しながら、微笑むニコルは全く余裕。飛び掛かって来る怪物に、しかし何もしようとしない。

 焦るクーデルカに対し、微笑むニコルは理解していた。既に手応えはあったから、もう何もする必要はないのだと。

 

「もう終わっています」

 

「え?」

 

 雄叫びを上げた狼男が大地を蹴り上げ、飛び掛かったその直後。怪物は空中で、バラバラの肉片に変わって地に落ちた。

 どす黒い赤が石造りの床を染め上げる。一体何が起きたのか、全く理解出来ないクーデルカ。彼女に顔を向けたまま、ニコルは頬を歪めて嗤う。

 

「獣風情の知性では、己が斬られた事にも気付けなかったようですね。実に、愚かだ」

 

 真実は実に簡単だ。外套を囮に擦れ違った時には既に、ニコルは剣を抜いて狼男の身体を幾度も斬っていたと言うだけの事。

 その剣閃が余りに速過ぎて、余りに鋭過ぎたから。外套に目を奪われたクーデルカも、斬り付けられた狼男自身すらも気付けなかった。

 

 気付けぬ内に死んでいた。だから身体を動かせば、崩れ落ちて自壊する。これは唯それだけの、ニコルにとっては当たり前の結末でしかない。

 

「ニコル、アンタ」

 

「先ずはこの方の手当を優先しましょう。……もう助かるとは、思えませんが」

 

「……そうね。そうしましょうか」

 

 ニコルが浮かべた侮蔑の嘲笑に、これまでの彼しか知らないクーデルカは困惑を深める。だがそれも、彼の言葉を聞くまでの事。

 人助けを優先するべきだと微笑むニコルの表情は今まで通りの物であったから、クーデルカはきっと見間違いか何かだろうと結論付けた。

 

 そうして二人、膝を屈めて倒れた男を確認する。鮮やかな金髪の若者だが、その顔には生気がない。

 当然の事だろう。腸を怪物に貪り喰われていたのだ。臓器の多くが損失していて、ニコルでも手の施しようもないと断言出来る重体だ。

 

 もう死んでいるのではないか。クーデルカがそう呟いた時、男の身体が微かに動いた。

 

「気の早い、天使たち、だ。俺は、まだ、死んじゃ、いない」

 

「たいした違いじゃないわ。どうせもうじき死ぬんでしょ」

 

 一言毎に吐血して、それでも生きていると語る瀕死の男。彼に対するクーデルカの返しは、とても冷たい皮肉混じりの物である。

 元来、クーデルカとはこういう人物だ。斜に構えて捻くれた性格の持ち主で、心根は優しいが万人に対しそれが向けられる訳ではない。

 

 服装や手にした銃器を見るに、この瀕死の男が招かれざる客の先達だろう。どうせ盗人の類であるのだ。ならば所詮は自業自得。

 迷子の子どもや不幸な旅人ならば兎も角、自業自得の相手に向ける優しさなどはない。クーデルカの情は、有限で且つ限定的な物なのだ。

 

「なぁ、天使さん方、よ。今更、天国に、連れていけとは、言わないが、お祈り、くらいは、聞かせてくれ」

 

「……分かりました。ロシア式で宜しければ、私が承りましょう」

 

 だが、ニコルは違う。彼の被った仮面は、善良で敬虔な好青年と言う物だ。その演技を続ける以上、救える者は救わねばならない。

 そして救えぬ者でも、何もしない訳にはいかない。そういう人間を演じているから、心の底では興味がなくとも出来る限りをするのである。

 

 十字を切って、祈りを捧げ始めたニコル。穏やかな笑みを浮かべて、感謝を述べる瀕死の男。そんな二人を見詰めて、クーデルカは舌を鳴らした。

 

「必要ないわ、ニコル。こんな奴に、祈るだなんて勿体無い。……少し、退いてなさい」

 

 クーデルカは口が悪いし冷たいし、どうでも良い他人には興味もない。借りの一つでもあれば兎も角、今の彼女にはこんな男を救う理由なんてない。

 だがそれでも、祈るニコルと微笑む男の姿に何も思わぬ程の人非人と言う訳でもないのだ。目の前で死に行く男を、救う手段があると言うなら尚の事。

 

 疲れるから極力したくはなかったのだが、ニコルがこれ程に強いのならば多少の疲労も許容できる。最悪はこの男に、肉盾となって貰えば良い。

 脳裏で冷たい判断をしながら、クーデルカは倒れた男に手をかざす。女の掌が光輝き、まるでビデオを巻き戻す様に男の身体の傷が塞がり始めた。

 

「ぐ、ぉぉぉ……」

 

「痛いだろうけど、男なら我慢しなさいよ。煩いったらありゃしない」

 

 急速に癒えていく身体。失われた臓腑すらも復元する程の異常に、男は苦悶しのたうち回る。肉体の再生速度が早過ぎるのだ。感じる痛みは、並大抵の物ではないだろう。

 だからと言って、クーデルカが手を止める事もない。死ぬよりはマシだろうと冷たい目で見下したまま、更に力を注いで一息に傷を完治させた。

 

「――っ。ぁ……驚いた、本当に、天使だったのか? 戦の天使に、癒しの天使。まさかこんな所で、こんな奇跡に恵まれるとはな」

 

「おめでたい人ね。この世に天使なんてものが居ると思って? あたしはただの霊媒。ほんの少し、傷を癒す力があるだけ」

 

 治療ではなく最早、再生と呼ぶしかない奇跡。急速に復元した肉体に、男は驚いて己の身体を両手で触れて確認する。

 そんな男の世迷言を鼻で嗤って、クーデルカは立ち上がる。興味がないと背を向ける彼女の行為に、驚いていたのは男だけではない。

 

「それはまた随分と謙遜を。私では、失った臓器の再生まではまだ出来ません。これ程の重傷を癒せる者など、世界中を探してもそう多くは居ませんよ」

 

「ふん。アンタはあたしより、ずっと強いじゃない。全く、そんなに腕が立つなんて聞いてないわよ」

 

 ニコルの言は、嘘偽りない真実だ。白魔法を使える者も少ないが、その極少数でさえもこれ程の治癒は行えない。

 ましてや後遺症や反動、マリスによる怪物化もない治療である。これ程の物は、ニコルの師であるラスプーチンにすら出来ないだろう。

 

 治療と言う点においては、間違いなく世界有数の実力者。そう称えるニコルに対し、クーデルカは目をきつくして言葉を返す。

 戦闘と言う分野において、クーデルカはニコルの足元にも及ばない。そう感じたが故に彼女にとって、彼の言葉は過ぎた謙遜にしか思えなかった。

 

「言った心算なのですがね。自衛くらいならば出来る、と」

 

「自衛どころの話じゃないでしょうに。これじゃまるで、あたしが空回りしてたみたいじゃないの」

 

「ですが、心地良くはありました。貴女は実に良い人だ。クーデルカ」

 

 恐らくは故に、不機嫌になっていたのだろう。そんな女は不意打ち気味に褒められて、何も返さず背を向けた。

 翻る女の頬が僅かに染まっていたのは、きっと見間違いではないのだろう。羞恥か怒りか、ニコルには見当も付かなかったが。

 

「おいおい、二人だけで話を進めるのは止めてくれ。俺はお前達の名前も、まだ知らないんだぞ」

 

 二人のやり取りを見ていた男が、座り込んだまま会話に割って入る。安堵と苛立ちを覚えながら、クーデルカは振り返りもせずに言葉を返した。

 

「名を聞くなら、先ずは自分からが筋じゃないの?」

 

「それもそうだ。俺はエドワード。エドワード・プランケット。見ての通りの流れ者でね、ロンドンで耳にした噂話を頼りに来たのさ」

 

 エドワード。そう名乗った男の目的は、酷く単純で俗的な物であった。彼は舞台に立つ演者の如く、高らかな声で己が此処に来る理由となった噂を語る。

 さる富豪の息子が田舎にある古い修道院を手に入れ、金をつぎ込んで屋敷に作り変えたと。大勢の女を連れ込んでは、毎晩遊び放題。よろしくやっていると言う噂を。

 

「強欲な金持ちに、貧乏人の福音を授けてやろうと思ったのにこの様だ。妙な化け物に殴られて、危うく天国に召され掛けた。君達が来るのが遅ければ、奴の腹の中で賛美歌でも歌っていたね。間違いない」

 

「……足の速い馬なんて、買うんじゃなかったわ」

 

 要は噂を耳に、お零れを与りに来た盗人と言う訳だ。全く以って自業自得なエドワードの理由に、クーデルカは深く嘆息する。

 まるで口から生まれたように言葉が止まらぬ旅人に、助けた事さえ後悔しながら。そんなクーデルカを取り成すように、ニコルは苦笑しながら言葉を紡いだ。

 

「まあまあ、人の命を救えたのです。先ずはその事実を喜びましょう」

 

「お、良い事を言うね。流石は天使の少年だ。君には是非とも、俺の賛美歌を聞かせてやりたい。これでも子どもの頃は――」

 

「黙って。黙れ。黙らないと、置いていくわよ」

 

 だが少年の気遣いは、エドワードの軽口を止める役にも、クーデルカの苛立ちを納める理由にもならない。

 ドスの効いた声と鋭い視線でエドワードを黙らせると、クーデルカは嘆息を一つ混ぜてから彼に向かって告げた。

 

「あたしの名前はクーデルカ。一度だけ言うから、忘れないで。生きて此処から出たかったら、あたし達の傍を離れない事」

 

 苛立ってはいても、助けた以上は最後まで面倒をみようとする。それはとても彼女らしい、捻くれた善良さを感じさせるもの。

 言葉を紡いで直ぐに背を向けてしまうが、きっと彼女一人ならば手を貸すくらいはしていただろう。今はニコルが居るから、必要ないと判断したのだ。

 

「……顔は綺麗なのに、おっかない天使だ」

 

「ですが、良い人ですよ。こうして、貴方の事も救ってみせた」

 

「そりゃ分かるさ。良い女、だって事はな。何せ顔が良い。スタイルも良い。多少の棘は、まあ愛嬌と言えるだろうよ」

 

 短い付き合いではあるが、それを察する程度には知っている。だから立ち上がったニコルは微笑を浮かべて、エドワードに向かって右手を差し出した。

 

「ニコラス・コンラドです。ニコル、とお呼びください。所属はロシア正教会で、怪物退治の修道騎士を生業としています」

 

「ほう、そいつは心強い! 存分に頼らせて貰うよ、ニコル」

 

「……ふむ、変わった方ですね。こんな子どもを、侮るのではなく、怖れるのでもなく、頼りにされるとは」

 

「愛は万人に、信頼は少数に。意識が朦朧とはしていたが、君の腕前は確かに見ている。信頼に値すると、もう既に知っているのさ」

 

 少年の手を素直にとって、ゆっくりと立ち上がるエドワード。足元がふら付いていると言うのに、口が止まらないのは性格故か。

 それとも、長年の夢が叶いそうだからと燥いでいるのか。エドワードの事情など知らないニコルには、苦笑を浮かべる事しか出来なかった。

 

(しかし、プランケット、ですか……確かシャドウハーツに出て来るクーデルカの息子の名が、ハリー・プランケット)

 

 エドワードと握手を交わしながら、苦笑を浮かべるニコルは思考を回す。恐らくこれは前日譚、『KOUDELKA』の物語なのだろう。とは言えニコルの持つ知識の中に、その詳細は存在しない。

 この世界をゲームと言う形で観測していたであろう人物は、どうも『KOUDELKA』をプレイした事がなかったようなのだ。なのでニコルが知っているのは、クーデルカと言う女が主人公である事だけ。

 

 家名の一致から恐らくは、この2人が結ばれる話なのだろうと推測は出来る。だがどうにも、初見での相性は余り良くは見えない。

 それがニコラス・コンラドと言う異物が混ざった影響なのか、それとも反発し合いながら仲を深めていくのか。どちらにせよ、少年には興味がなかった。

 

(まあ別に、どうでも良い話ですかね。ハリー・プランケットと言う存在の有無は、大局的には然したる影響を与えない)

 

 原作通りの展開にならなくては駄目だと、そんな理屈は何処にもない。結果として、ニコルが求める状況へと近付けばそれで良い。

 変わってはならない場面は原作通りに、それ以外の場面ではどうとでも。原作の知識など、指針程度の物に過ぎない。必ずやそうなると、決まっている訳ではないから。

 

 ハリーが生まれないデメリットは、『シャドウハーツ』無印における味方側の戦力低下。低下した戦力で、果たして超神に勝てるかと言う問題点。

 それともう一つ。アルバートに囚われ拷問されたクーデルカが、ハリーを人質にされない事でアルバートに協力しなくなると言う点。ストーリー展開が変わってしまう事だ。

 

 だが前者は極論、星神である天凱凰と融合したウルムナフ・ボルテ・ヒュウガと彼を精神面で支えるアリス・エリオットの2人が居れば如何とでもなる。詰まり()()()()()()()()()()()()()問題ない。

 

 そして後者は、はっきり言ってデメリットとも言えない物だ。クーデルカが協力せねばアルバートは超神を呼び出せず、天凱凰と化したウルに何れは敗れ去るからだ。

 強大な外なる神を観測出来ない事は、ニコルにとってはデメリットだろう。だが惜しいと言う程度でしかなく、無理に拘る事でもない。

 

 結論として、ハリー・プランケットの存在は大局に影響を与えない。そうであるのならば、変に配慮して違和感を持たれる必要もないだろう。

 故に彼ら2人の関係がどうなろうと、正直言ってどうでも良い事なのだ。そうニコルは胸中で結論付けながらも、表面上は笑顔でエドワードと言葉を交わしていた。

 

「遅い。さっさと行くわよ、アンタ達」

 

 先に進んでいたクーデルカだが、楽しげに談笑する二人が一向について来ない事に業を煮やしたのか。

 肩を怒らせながら振り返り、眉を寄せながらに戻って来る。その胸中には本人も気付いていない、微かな嫉妬も混じっている。

 

 己を重ねた人物が、己が嫌うタイプの男と意気投合している。クーデルカにはその事実が、ほんの少しだけ気に食わなかった。

 

「それとニコル、余りそいつと話し過ぎない! そいつの軽薄さがニコルにうつったら、どうしてくれるのよ全く!」

 

「教育ママさんか何かか? 女性は須らく天使であるが、夫婦生活では悪魔であるとはよく言ったものだ」

 

「……全ての喜劇は、結婚によって終わる。でしたか?」

 

「お、話せる口だな。そうさ。愛する女と共に暮らすより、愛する女のために死ぬ方が容易いのだから!」

 

「ニコル!!」

 

 だからクーデルカは保護者のような理由を語って、ニコルの手を掴み引く。女性の細腕は、見た目以上には力強かった。

 無理をすれば解けるが、それでも其処までする必要はない。どうでも良いと感じるから、されるがままに連れられて行くニコルである。

 

 しかし同時に感じていたのは、懐かしいと思える暖かさ。こうして邪気のない誰かと触れ合うのは、思えば三年振りなのか。

 そう言えばと目を丸くしているニコルの姿に、エドワードは楽しげな笑みを深める。彼らの様子は見ていて楽しいから、と言うだけがその笑顔の理由じゃない。

 

「やれやれ、だが逆境は真実への第一歩。運命とは最も相応しい場所に、貴方の魂を運ぶのだってね」

 

 彼は幼い頃から、憧れていた。演劇のような大冒険。生まれる時代を間違えたから、経験出来なかった華々しい物語に。

 厳格な名家に生まれ、幼少の頃から敷かれたレールの上を歩いて来た。そんな男はしかし夢に焦がれて、その全てを捨てたのだ。

 

 そうして身一つで抜け出して、飛び出した家の外。だが残念な事に、其処に彼の望んだ夢や理想はなかった。

 流離う荒野は、何一つ残さずに開拓されていた。切り拓くべき密林なんて、既に別の誰かが切り拓いた後である。

 

「あんなオカルトが実在したんだ。ずっと夢見た大冒険が出来そうじゃないか!」

 

 けれどエドワードは漸くに、望んだ奇跡と巡り合えた。夢にまで見た、不思議な世界。其処に住まうであろう彼らの事が、希望を告げる天使にも見える。

 此処にはきっと、輝かしい宝があるのだと。彼らの進む先には、見た事もない冒険が待っている筈である。全てを捨ててまで求めた夢が、手の届く場所まで来ていたのだ。

 

 だから笑みを浮かべて、少年と女の背中を追う。エドワード・プランケットと言う男は、そんな冒険野郎であった。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在10点
(最初のボスを秒殺・完封勝ち+10点)


憑依ニコルが混ざった結果、クーデルカは修道院に到着するのが十分前後遅れています。原作でもエドワードは死に掛けていたのに、助けが遅れたらこうもなりますよね。

当初、これ到着は食後になるよなと悩んだ天狗道。流石にエドワード登場時死亡は勿体無かったので、少し早めてお食事中の乱入となりました。


~原作キャラ紹介 Part7~
○エドワード・プランケット(登場作品:KOUDELKA(ゲーム版))
 ゴシックホラーRPG「KOUDELKA」のパーティメンバー。他の作品には一切、出て来ない。「KOUDELKA」開始時の年齢は20歳。
 鮮やかなブロンドの髪と青い瞳を持つ青年。ワーウルフに殺され掛けた後、クーデルカに救われ彼女と行動を共にする事になる。

 ロンドンにある名家の生まれで、バイロンやシェイクスピアを諳んじる事が出来るだけの高い教養を持つ。
 だが幼い頃から冒険に憧れており、約束された道を捨てて放浪の旅をしている。知的で飄々とした人柄だが、粗暴な一面もある。

 戦闘メンバーとしての役割は育て方次第だが、初期ステータス的には肉盾向き。
 高いHPと防御力、相反する低さのMP。意図して育てない限り、基本はHPを伸ばしての盾役が無難。魔法が発動するまで、敵と殴り合いをするのがお仕事です。

 シャドウハーツでは、クーデルカとの間に一子を儲けている。だが原作ではそういうシーンが少なく、漫画版では影も形も見えない人物でもある。
 恐らくハリーの存在はファンサービス的な物でもあったのだろうが、シャドウハーツにエドワードが登場しない所為で真面目に考察すると何とも言えない感想を抱けてしまう。

 クーデルカは三年間も、アルバートに囚われ拷問されていた。だと言うのに、エドワードはアメリカ大陸を冒険していた。
 ハリーが路頭に迷って、ストリートチルドレンをやっていた頃。帰って来る所か、全く顔を見せる素振りもない。

 定期的なやり取りをしていたのならば、彼の性格的に出て来ないのはおかしい。(冒険好きな奴なので、美女を助けると言うノリで動かない訳がない)
 そう考えると、最低でも三年は全く音沙汰なしだったと考察出来てしまう。と言うか原作でのハリーの発言を聞く限り、少なくとも物心付いて以降は全く会ってない模様。

 もしかしたら、子どもが産まれていると言う事を知らないのかもしれない。夫婦どころか恋人ですらなく、一夜の関係で出来ちゃったとか。
 ゲーム時の2人の性格を思うと、そういう展開でも余り違和感はない。と言うかそう言う事にでもしないと、エドワードが控えめに言っても屑野郎になってしまう。

 そう考えるとシャドハ1のエンド後って、エドワードがクーデルカに再会すると同時に貴方の子よとか言われる衝撃展開だったのでは……?

 そんな可能性に至り、若干戦慄した天狗道であった。



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第10話 一掃

今回は殆ど、スパイス程度の戦闘回です。


 外に繋がる扉を開ける。松明の光が薄暗く照らす部屋を出て直ぐに、飛び込んで来たのは異形の怪物。

 足がない。腕がない。薄っすらとぼやけた胴体と頭部しかない人型が、扉を出た瞬間に襲い掛かって来たのだ。

 

「な――っ」

 

 咄嗟にクーデルカが構えるが、既に先手は奪われている。襲い来る怨霊は女の動きより早く――そしてそれよりも、神聖なる光が溢れ出す方が更に早い。

 

「ソレミユス。光の中へと、消えなさい」

 

 襲い来た怪異が、瞬きの間もなく光に飲まれる。構えを取った姿で硬直するクーデルカの手を引いて、交代するかの如く前に出たのはニコルである。

 

「まだ居ますね。……どうやら皆さん、余程飢えているようだ」

 

「少し厄介ね。何処に潜んでいるのか分からないじゃ、動くに動き出せないわ。誘き寄せて、少しずつ倒せれば良いんだけど」

 

 今の光は、ニコルが何かをしたのだろう。そう理解したクーデルカは、小さく呟く。

 人を獲物と見て遅い掛かる怪物が周囲に潜む状況は、少々ばかり厄介だと。厄介と言う一言で済むあたり、彼女にも相応の自信と実力があるのだろうが。

 

「仕方がありませんね。少し先行して、周囲を掃除して来ます」

 

「……一人で行く気? 危険よ。せめて私も――」

 

「いえ、不要です。一人の方が、身軽に動けますからね」

 

 こと戦いと言う分野においては、この少年の方が上を行く。故にニコルは微笑みながらも、暗に足手纏いだとクーデルカに対して告げた。

 

 彼は原作知識から、クーデルカが強力な霊力を持つ事を知っている。彼のアルバート・サイモンが触媒として求めた程に、その異能は強大だ。

 だが、戦場と言う場では別。先程までの動きを見る限り、身体能力は平凡の域を出ていない。人並みよりは秀でているが、突出している訳ではないのだ。如何に強力な異能を持とうと、それでは活かし切れないだろう。

 

 同時にニコルは、この修道院に巣食う怪物たちに脅威を抱いていない。彼が判断材料として持つ情報の多くが、取るに足りないと伝えて来るばかりであったから。

 先に遭遇した狼男は、話にならない程に弱かった。そして未来のクーデルカを思うに、他の魔物たちも然程違いはないのだろうと。

 

 何故ならば12年後のクーデルカは、アルバートどころかローザン子爵と言う小物に捕まっている。

 幾らハリーと言う足手纏いが居たとしても、相応以上の実力さえあれば逃げる程度は出来たであろうに。

 

 ローザン子爵がその時点で既に、人間離れした力を有していたと言う可能性もなくはない。それでも高く見積もって、原作ニコルを含むサピエンテス・グラディオの三幹部と同程度の実力だろう。

 そんな相手に、為す術なく捕まる程度。それがネメトン修道院を経験した後のクーデルカの地力である以上、此処にはそれ以下の怪物しかいないのではないかと推測するのは道理である。

 

 無論。この修道院の地下を想定すれば、それ以上もあり得るのだろうが。そう言った規格外の怪物とは、戦わないのだろうと予測する。

 そもそも遭遇しないか、或いは襲われて逃げ惑ったか。その何れかであろう。地下遺跡の怪物を倒せる程なら、衰え鈍ったとしても小物相手に捕まるとは到底思えない。

 

「だけど……」

 

 故に一人でも、如何にかなるのだ。そう判断するニコルに対して、クーデルカはそれでもと言葉を言い募らせる。心配なのだ。少年の事が。

 

 子どもを心配して連れて来たと言うのに、その子だけに戦わせる。例え子どもにそれが為せる実力があるのだとしても、その行動は余りに矛盾していると言えよう。

 だから彼女は、頷きたくはなかった。それが非効率であり、感情論でしかないのだとしても。それでも、クーデルカは頷きたくはなかったのだ。

 

 そんな女の態度に長くなりそうだとニコルは内心で呆れながら、表面上は笑顔を浮かべて後ろ手に扉を閉める。

 さて、何と説得するべきか。思考を回す少年が結論を出す前に、エドワードがクーデルカの肩を叩いて口を開いた。

 

「意見は変えられるために述べられる、とは言うがね。コイツは恐らく、お前さんより強情だぜ。クーデルカ」

 

「アンタは黙ってなさい。大体、恥ずかしくないの? 子ども一人を頼りに、守られているだけなんて」

 

「男の沽券に拘れる程、綺麗な生き方をしてきた訳じゃない。それはアンタもだろ?」

 

 即座にエドワードの手を強く弾いて、クーデルカは冷たい視線を浴びせる。美女にきつく睨まれて、しかしエドワードはまるで堪えた素振りも見せずに軽口を叩いた。

 

 ニコルはそんな二人を静かに観察する。軽薄に笑ってみせるエドワードではあるが、よく見ると疲労を隠せてはいなかった。

 それも当然だろう。如何に肉体の欠損さえ癒せるヒーリングとは言え、積み重なった精神的な疲労までは拭えないのだから。

 

「……それでも、嫌な物は嫌なのよ。そういう拘り、理解できない?」

 

「勿論、出来るさ。けれど俺にも、出来れば共感して欲しい物だね。こちとら三日は彷徨い続けて、挙句怪物に腸を喰われたばかりなんだぜ。男の矜持は、暫く家出中なのさ」

 

 気取ったように笑うエドワードだが、その疲弊は本物だ。冒険を求めて放浪していた彼は、かれこれ三日は飲まず食わずで過ごしている。

 その上でこの修道院を忍び込んで彷徨って、更に怪物に襲われ喰われ掛けた。否、実際に喰われるまでいったのだ。それでどうして、疲れていないと嘯けよう。

 生きたまま腸を喰われると言う体験は、気が触れてもおかしくない程の物。気取った態度で軽口を叩けると言うだけでも、彼の精神力の強さを示しているくらいである。

 

 浮浪者の如くに汚れ切り所々が破れた旅装束に、べったりとこびり付いている己の血液。

 それを気持ち悪く思う男は、もう暫く時間が欲しいと告げる。少なくとも今直ぐに、怪物の群れの中へと連れて行かれるのは御免であった。

 

「自衛も出来ない程に消耗した者を連れて、明らかに危険がある場所に突入すると言うのは論外。さりとてまだ回復し切っていないエドワードを一人、残していくのも危険かと。となればどの道、先ずは誰かが一人で行くしかないのです」

 

「強い力を持った子どもと、弱り切った大の男。どちらを守るべきかと言われたら、子どもを優先するべきだと即答出来る女よ。私は」

 

「ならば私は、一人でも特に問題ないと返しましょう。二択の末に子どもを選ぶ貴女でも、好んで大人を見捨てる訳ではないのでしょう?」

 

「…………確かに、それは後味が悪いわ」

 

「ええ、やはり貴女は、私が思った通りの方だ」

 

 エドワードの状態を理由に、自分が一人で行くべきだと主張するニコル。彼の言を覆すだけの理屈を、クーデルカは持っていない。

 彼女にも分かっているのだ。己よりもニコルの方が、強いと言うその事実は。合理的に考えるのならば、彼を行かせた方が良いのだとも。

 

「それに大丈夫。危なくなれば、直ぐにでも戻ってきますから」

 

「……約束よ。ちゃんと守りなさい」

 

「勿論。では少々、席を外させて頂きます」

 

 だから渋々、クーデルカも頷いた。そんな彼女に微笑んで、ニコルは踵を返して扉を開く。

 何の気負いもなしに、一歩を踏み出したニコル。少年の見詰める視線の先に広がるのは、藁が積み上げられた狭い部屋。

 

 足を踏み出したと同時に、襲い来るは青き異形の人型たち。壁や天井を擦り抜けて、襲い来る数は三。ニコルは腰の剣を引き抜くと、光を纏わせ右手で振るう。

 まるで舞い踊るかの如き剣閃で、あっという間に三つの影を切り捨てる。驚愕に目を見開いたクーデルカ達に振り返ると、微笑んでからニコルは扉を閉めた。

 

 そうして一人、人目を排してから足を進める。部屋の中央に立ったニコルは、仮面の笑みを張り付けたまま懐に手を入れる。

 扉を閉めたのは、これより為す事を見られればまた止められると判断したから。その程度には危険な事を、これより為そうとしていたのだ。

 

「このマリスの量から考えるに、まだ潜んでいるでしょう。その全てを一つ一つ処理するのは面倒ですからね」

 

 少年が懐から取り出したのは、試験管を思わせる硝子の瓶に入った青い液体。カルラの教えを受けて調合したこの秘薬には、怪物を引き寄せると言う効果がある。

 それをニコルは、この場で用いる。コルクの栓を親指で開け、地面に一滴二滴と垂らせば僅か数秒。揮発した香りに誘き出されるように、藁の下から黒き影が溢れ出した。

 

 噴火する火山の如く、溢れ出すのは巨大な油虫。何処にでも居そうな害虫は、唯々悍ましい事にニコルよりも巨大な体躯を有している。

 マリスの影響で巨大化したコックローチ。バグスと呼ばれる怪物の総数は、目算だけでも30を超える。卒倒したくなる程に、悍ましい光景だ。

 

「まだです。まだ居るのでしょう。纏めて来なさい。その悉く、根絶やしにしてさしあげましょう」

 

 床も壁も天井も、バグスが覆い尽くさんとしている部屋。その只中でニコルは余裕の笑みを浮かべて、更に来いともう一つの扉を剣で斬り付ける。

 ニコルが出て来た扉とは、また違う部屋へと繋がる扉。少年の剣で蝶番を壊されて、倒れ込んだその向こう。蠢いているのは、二種の人型をした異形であった。

 

 一つは捻じれ切った人型。首や腰や手や足や、あらゆる関節部が回転しながら苦悶の声を上げ続けている歪な異形。

 もう一つは首のない死体。胴体には無数の硝子片が突き刺さっていて、腐乱臭を漂わせながらに失くした頭部を探している。

 

 それが、全て合わせて20体前後。恐らくはこの建物中に潜んでいた怪物たちが、木に塗られた蜜に集る虫の如くに引き寄せられて集って来ている。

 これ程の数、その全てを相手取るのは無謀だ。適度に倒して、後は逃げ隠れした方が良い。そう考えるのが普通であって、だがニコルは普通じゃない。

 

「ふっ、準備運動としては丁度良い数ですね」

 

 溢れ出したバグスの群れを、華麗な剣舞で斬り付けながら移動する。斬り捨てるのは、己の進む先に居る最小限だけ。

 巨大な油虫はその見た目同様、非常に高い生命力を有しているのだ。一々全てを潰していれば、その数に飲み尽くされて死骸を晒そう。

 

 故に最小限、剣で切り裂き動きを止める。真っ二つにされても生きている害虫を足場代わりに踏み付けて、先にと狙うは蠢く死体の山々だ。

 顔を顰めてしまう程の臭気を放つ死体の群れは、肉体が腐っているが故に動きが遅い。狭い部屋に鮨詰めとなっていれば尚更、ニコルの目には隙だらけにしか見えていない。

 

 腐った臭いが充満している小部屋の中へ、肉塊で埋まった室内を文字通り剣で斬って拓く。

 手足を切り捨てられて崩れた腐肉を踏み台代わりに、頭上を取ったニコルは左手を眼下へ向けた。

 

「消えなさい、ブレス!」

 

 集まっていた腐肉の山が、神の光に包まれる。ニコルの高まった魔法力ならば、この程度の異形など抵抗させずに消し飛ばせる。

 大きな光に包まれた怪物たちは、空に溶けるように消えていく。されど、この一手で20を超える死者の群れを一掃出来たと言う訳じゃない。

 

 ブレスの範囲は、精々が大きな寝台程度。端に居た数体の腐乱死体は今も変わらず残っている。だがそんな事、ニコルは既に承知している。

 左を見て、右を見て、部屋の構造を確認する。続く移動可能な箇所は二つ。その向こうにも怪物は集まって来ているのだろうと、推測は容易であれば。

 

「巻き込みながら、飛びなさいっ!」

 

 扉の一つに近付いて、側で蠢く死体の足を一息に切り捨てる。そのままバランスを崩して倒れる怪物の胴に、ニコルは全力の飛び蹴りを浴びせた。

 ハードヒット。強烈な一撃に吹き飛ばされた死体は扉に激突し、それでも勢いを殺し切れずその向こうへ。集まっていた怪異を巻き込み、渡り廊下の向こうへと。

 

 即座に続いたニコルは、巻き込まれた怪物たちへとブレスを放つ。その結果を確認する事もなく、視線を向ける先には一階へと続く階段。

 登って来る気配を感じて、そちらにもブレスを一発。踵を返すと元の部屋へと突入し、追い掛けて来たバグスの群れと相対する。その数は、先よりも増えていた。

 

 知識によると、一匹見たら百匹は居ると思えと言う言葉もあるらしい。苦笑交じりに動かした視線の先には、屋根裏へと続く木の梯子。

 恐らくは誘引剤に引き寄せられて、三階に居た怪物たちも下へ下へと降りて来たのだろう。溢れ出すバグスの群れは、本当に100匹を超えているかもしれない程だ。

 

「しかしバグスだけでは、私の敵にもなりません」

 

 一匹倒すのに二手掛かり、数は数え切れない程に居る雑兵の群れ。敵にはならぬと嘯きながらも、真面に戦っては体力が持たないとはニコルも理解している。

 ならばそうとも、真面になんて戦わない。左手で懐から取り出すのは、先に使った誘引剤と同じ試験管。だが、先とは色が違う。その液体の色は、青ではなく紫だ。

 

 これはマリスに干渉し影響を与えている先の誘引剤とは異なって、嗅覚と神経がない相手には通じない薬品だ。だからこそ先に、腐乱死体を一掃した。

 残るバグスの群れだが、これらは異常発達しただけの昆虫だから耐えられない。コルクの蓋が閉まっている事を指で確認してから、ニコルは隣の部屋に向かって試験管を投げ入れる。

 

 石造りの床にぶつかり割れた硝子の瓶から溢れ出し、部屋を満たすは紫色の煙。生物の神経を麻痺させて、身動きを封じるスタンパヒューム。

 連続して小さな音を立てながら、次々と地に落ちて痙攣を始める黒き群れ。それは宛ら、蚊取り線香の煙を吸った蚊が力尽きて落下するかの如くである。

 

「愚鈍な虫けらに語っても理解は出来ないでしょうが、相手が悪かったと言う事です」

 

 使い手ならば当然のこと、この煙にも耐性がある。ゆっくりと隣室に入り込んだニコルは、痙攣する虫の腹を踏み付けながら中央へ。

 丁度部屋の真ん中で、片手を掲げて宣言する。魔力を集めて放つのは、全ての敵を一掃する程に強烈な聖なる裁きだ。

 

「受けなさい! クリアクライム!」

 

 光の円が大地に描かれ、次から次に光の柱が空に向かって噴き上がる。宛ら間欠泉の如く、湧き上がるのは触れるもの全てを消し去る光だ。

 輝かしい白き光が消え去った後には、ニコルの他にはもう何も残らない。数え切れない程に居たバグスの群れは、死骸も残せず消え去るのであった。

 

「神の御加護が、在らんことを」

 

 剣にこびり付いた体液を振って落とすと鞘に納め、服に掛かった埃を払う。そうした後に行うのは、窓を開いての換気だ。

 スタンパヒュームは生物ならば有効で、このままでは当然クーデルカやエドワードまで巻き添えを受けてしまうのだから。

 

 それから渡り廊下と下り階段の先も覗く。落ちていった怪物たちに向けて、雑にブレスを当てただけなのだから生き残りが居るかもしれないと。

 軽く見て回り、確認出来た怪物の首を何の躊躇いもなく切り落としていく。最早ニコルが手間取るような、大軍は何処にも残っていなかった。

 

「掃除は終わりました。もう大丈夫ですよ、皆さん」

 

 香の匂いが薄れたのを確認してから、元居た場所へとニコルは戻る。建物の二階と三階には、もう怪物は居ないだろう。

 そう語る彼の言葉に、慌てて顔を出したのはクーデルカ。彼女はニコルの身体に触れながら、怪我はないかと問い掛ける。

 

「大丈夫? 傷はないかしら、ニコル?」

 

「ええ、所詮は数だけの有象無象。私の敵ではありませんでしたから」

 

 まるで母が、我が子にそうとするかのように。クーデルカの態度は少し過剰だ。出逢ってまだ、数時間と経ってはいない関係なのに。

 どうしてこんなにも気に掛けてくれるのか、ニコルには理由が分からない。最初はそういう性格なのだと、思い込んで納得していたがやはりおかしい。

 

 エドワードへの対応と、己への対応に感じる温度差。恐らくは青年に対する対応こそが、彼女本来の性格なのだろうと推測する。

 原作に出て来た母としての姿とは、まるで結び付かない勝ち気な性質。けれど結婚して子を為した後ならば、納得も出来るかと言う程度の変化。

 

 これで原作時間軸と同じ性格をしていたならば、ニコルも素直に納得しただろう。我が子でなくとも、案じてしまう優しい人なのだと。

 だがそうではないのだから、これは余りに過剰に過ぎる。子どもだからと、果たして本当にそれが理由か。そんな答えの出ない懊悩を、しかしニコルは秒で切り捨てた。

 

 どうでも良い。実害はないのだ。どうせ深く関わる心算も理由もない相手。特に踏み込む事もなく、好きにさせておけば良いだろう。

 それに何より、不快じゃなかった。ニコルを通して異なる何かを視ているとは言え、それでも想われる事は不快じゃない。久し振りに触れる温もりは、嫌な物ではなかったのだ。

 

「しかしそれにしても、随分と早く終わったんだな。さっき出てから、まだ10分も経ってないだろ?」

 

「……成程、存外と手間取っていたのか。我ながら、まだ未熟ですね」

 

 クーデルカに続いて、恐る恐る顔を出したのはエドワード。周囲を見回す彼は、目を白黒とさせながらに争いの痕を確認し始める。

 あれ程の轟音が響いていたと言うのに、然したる痕跡が残っていない。困惑するエドワードの言葉に、返るニコルの反応は自虐の混じった物だった。

 

 クーデルカに触れられながら、自責するのはまだ足りぬから。あの程度の怪異を相手に、数分も掛かってしまうのでは遅いのだ。

 まだ磨ける場所はある。まだ強くなれる部分がある。まだ強くならねばいけない理由がある。故にニコルは自身の戦果を、辛く評価するのである。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在30点
(管理人住居に潜む雑魚敵を数分で殲滅。+20点)


○キュアとヒーリングについての設定
 ゲーム版「KOUDELKA」において、主人公のクーデルカは瀕死の重体であったエドワードを瞬時に完治させています。
 続編である「シャドウハーツ」においても、ハリーの使うヒーリングの方がアリスの扱うキュアより回復量が上です。
 どちらも魔法(異能)なので、原理的には変わらないのだと想定。この二つの違いは、当作では出力のみと設定しています。

 精神世界に働き掛けて、人間の肉体を最善の状態へ近付ける。どちらもこの原理で動いていて、干渉力の差で治せる範囲に違いが出る形。
 キュアは骨折や火傷、肉体部位の欠損などは治せません。ヒーリングは死んでさえいなければ、大体の怪我を治せます。

 因みに原作描写的に解毒も出来るようだが、ゲーム中では状態異常回復系の魔法は一切覚えないクーデルカさん。ヒーリングで癒したのだろうか?

 30分で死ぬ猛毒を瞬時に治せるのに、漫画版になると感染系の熱病を治せなくなるクーデルカさん。読んでて正直、「いやお前治せるやろ」としか思えなかった。

 毒や瀕死は治せるのに、何で病気は駄目なのだろう。そんな疑問を抱きつつも、取り敢えず原作設定に準拠させておきます。
 確かに病死しそうな人間をあっさり触れるだけで治せたら、苦悩とか葛藤とか感動とかそういうのないので。当作のクーデルカさんは、病人を治せません。



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第11話 擦れ違い

このパーティは、面倒臭い奴ばかりです。


 恐ろしい怪物達の大半が天に召された後、ニコル達は修道院の散策を開始する。行く当てなどは決まっていないが、一先ず進める所まで進んでみようと。

 

 先頭を進むのは当然ニコルだ。戦力的な意味だけではなく、周辺の理解と言う点でも彼が少し秀でている。戦闘の際に軽く歩き回り、道順を覚えていたからだ。

 次いでクーデルカとエドワードが、特に隊列を気にする事もなく横に広がり付いて行く。奇襲の一つでも仕掛けられたら危険であろうが、その心配も今はない。

 危険の大半が廃された今に、過剰な警戒をする必要はないのだ。全くの無警戒は問題だろうが、軽く言葉を交わすくらいの余裕はあった。

 

「しっかし、どうにも息が詰まる場所だな。此処は」

 

 そんな中でエドワードが、周囲を見回しながら呟いた。松明が照らす薄暗い修道院の中は、どうにもこうにも居心地が悪い。針の筵に座る気分とは、きっとこんな感情なのだろうと。

 

「ええ、そうですね。恐らくは、マリスの濃度が関係しているのでしょうが」

 

「マリス?」

 

 鬱屈としながら呟くエドワードに、ニコルが何時もの微笑みを浮かべて返す。ニコルがエドワードに語るのは、マリスと言う力の存在だ。

 負の想念。善なるウィルと対を成す、悪なる物。この世界における極めて重要な要素の一つにして、世界に怪物が生まれてしまうその所以。

 

「人の悪意や負の想念の総称。分かりやすく言えば、死者や生者の怨念ですよ」

 

 マリスに触れた時、生命は怪物へと変貌する。それは人間とて例外ではなく、その脅威は特に原作の三作目において深く触れられている。

 グレース・ガーランドが起こした悲劇。彼女の口付けによって変貌した醜悪な怪物、マリスエドナやマリスキラー、マリスギルバートなどが象徴的か。

 

 高密度のマリスは、自ら望む者や心弱い者を怪物に変える。のみならず、あらゆる者に影響を与え、人の心をとても不安定な物にしてしまう。

 後者の代表例としては、2のカレンがネメトンで見せた醜態や原作のニコルが起こした愚行によって激化した世界大戦などが分かりやすい物であろう。

 

 それ程にマリスとは、人の心に巣食う悪意とは、とても恐ろしいものなのだ。

 

「確かに此処は、少し霊気が強いように感じるわ」

 

「修道院の中には、死者の魂を鎮魂する為に設立された物もあります。牢獄や刑場などは本来、マリスがとても濃くなりやすい場所。それが溢れ出して、人に危害を加える前にと。そんな古くからある、知恵の一つなのですが……」

 

 瞳を閉じて耳を澄ませれば、誰かの悲鳴が聞こえる気がする。特に霊媒体質であるクーデルカは、当てられやすいのだろう。

 少し顔色を悪くしたクーデルカこそ、この場の影響を最も受けている人物だ。エドワードは良くも悪くも霊的には鈍感で、ニコルはニコルで死者の嘆きを路傍の石にも劣る塵だと断じる精神性を有している。

 

 だから顔を伏せた女の苦しみを、男達が本当の意味で理解する事はないだろう。死者の嘆きに揺さぶられ、クーデルカの心は今も少しずつ削れている。

 この場に居る誰もが少なからず場の影響を受けてはいるが、死者に感情移入してしまうクーデルカはその比じゃない。

 他ならぬ彼女だからこそ、この地に留まり続ければ碌な事にはならないだろう。こんな環境で生活しようものなら、数日と持たずに気を違えてしまう筈である。

 

「どうも修道院が、その役目を果たせていないようです。或いは誰かが、その機構を意図して歪めてしまったのか」

 

 多くの死と悲劇と怨念。そう言った物がマリスとなるなら、世界はとうの昔に暗黒の中に沈んでいた事だろう。

 そうはならずに、今も世界が存続している理由が対抗手段の存在だ。対を為す善なる力であるウィルと、マリスを鎮める為の術。そう言った物があればこそ、今も世界は続いている。

 

 だから本来、修道院があるならば、これ程にマリスが集まる事はない筈なのだ。だと言うのに、現実問題としてこの場所は存在している。ならば其処には、何か異なる理由がある筈だった。

 

「相当な曰く付きの場所だとしても、この量は明らかにおかしいのです。これではまるで、誰かが意図してマリスを集めたかのようだ」

 

 どんな理由なのかはまだ分からない。推察するに足る情報が欠落しているから。

 パズルのピースが一枚二枚しか揃っていない現状では、余程の天才だろうと全体像を見る事などは不可能だろう。

 

 それでもこの地で、背徳の限りが尽くされたのは明らかだった。エドワードはイメージも出来ない途方も無さに言葉を失い、クーデルカは流れ込む嘆きに吐き気を堪えている。

 対してニコルは静かに瞑目し、死者を悼む素振りで思考を切り替えた。これ以上は考えても答えが出ない事だからと、平然とした内面を仮面で隠して先へと進む。

 

 そうして一行は無言のまま、分かれ道へと差し掛かる。扉の向こうにあったのは、渡り廊下へ続く道と一階へと続く階段。

 どちらから行くかとニコルが視線で問えば、返るはどちらでもと言う答え。ならばと特に考えず、ニコルは階段を下り出した。

 

「ねぇ、ニコル。そう言えばアンタ、さっきロシア正教の修道騎士とか名乗ってたわよね?」

 

 長く続く沈黙に嫌気がさしたのか。それとも責め立てる声に心が削れていたからか。クーデルカは少し唐突な流れで、ニコルに向かって問い掛けた。

 

「ええ、そうですよ。主に怪物退治を専門としています」

 

 クーデルカの言葉の真意が掴めず、少年は一先ず普通に返す。応えとしたのは、彼が有する表向きの立場。

 サピエンテス・グラディオに属している事は、そう簡単には語れない。故にこうした時の為にと、カバーストーリーが用意されているのである。

 

 嘘偽りではなく、事実としてニコルはロシア正教会に属している。最年少の修道騎士として、名簿を見れば直ぐに見付かるであろう。

 だが実際に、其処で働いていると言う訳ではない。周囲に裏を悟られない程度には教会にも顔を出しているが、少年はその殆どをサピエンテス・グラディオで過ごして来た。

 

「教会の、聖騎士様ね。その年で、中々やるもんだ」

 

「ええ、この年で。師と環境に恵まれた結果ですね」

 

 そんな事実をおくびにも出さずに、ニコルは飄々と口にする。調べたとしても分からないのだから、問題などないだろうと。

 

 少年の事情を知る由もないエドワードは疑う事もなく、馬鹿みたいに頷いては素直に感心している。

 対してクーデルカは、何処か案じるような表情で黙り込む。そうして暫くしてから、彼女はニコルにもう一つ問い掛けた。

 

「……親は、納得しているの?」

 

「いえ、もう居ませんから」

 

「っ! そう。悪い事を、聞いたわね」

 

 ニコルの返しに、思わずクーデルカは顔を逸らす。見せる顔がなかった。どうしても、()()()()()()()()()()から。

 己の直感は間違っていなかった。ニコルと己は、同じ痛みを抱える者だと。きっと心の底から、分かり合える人だと思えたのだ。

 

 だから、続く言葉はそんな歪んだ歓喜に対する罰だったのか。他者の不幸を喜んでしまった女に対して、ニコルは彼女の知らない想いを口にした。

 

「気にする必要はありませんよ。私は父が知らぬ私生児ですが、母には確かに愛されました」

 

「――っ」

 

 ニコルの言葉を聞いて、クーデルカは一瞬茫然とした。全く以って、その言葉が理解出来なかったから。

 思わず零れそうになった疑問の声を、歯を食い縛る事で如何にか抑え付ける。顔を背けていて良かったと、思うは先とは異なる理由。

 

「私の過去は、誰かに哀れまれるようなものではありません。胸を張って誇るべきものだと、私自身が知っている」

 

 心を揺らす少年の言葉は、流れ続けて止まらない。過去に誇りを抱いているのだと語る少年の顔を、クーデルカは見る事が出来なかった。

 だって女は違うから。今も哀れに思っている。誰よりも己自身が、己の事を可哀想だと哀れんでいる。そんな人生に後悔していて、そんな自分を誰かに誇れる筈もない。

 

 一緒だと思っていたのに、違っていた。彼は自分の知らない事を知っている。彼は愛されていたのだ。そんな事実に、クーデルカは泣きたくなった。

 勘違いしていた事にではない。己と似ていて、だが違う。その違いが羨ましくて、その差異が妬ましくて、溢れる衝動のままに叫び出したくすらなったのだ。

 

 けれど涙は零さない。大人気なく叫ぶのなんて以ての外だ。だって所詮は、勝手な思い込みに過ぎないから。

 思い込みで勘違いして、裏切られたと八つ当たりをする。それは余りに、みっともなくて哀れじゃないか。だから必死に歯を食い縛り、女は如何にか己の癇癪を抑え付ける。

 

「ならばそれで十分。気にする事ではありませんよ」

 

「……そう。強いのね、ニコルは」

 

 絞り出すような声で返せたのは、そんな中身のない言葉だけ。哀れに思われる事ではないのだなどと、それはクーデルカには口を裂けても言えない言葉。

 そんな言葉に、どうしても過去を思い出してしまう。クーデルカは語るべきではないと分かっていて、それでも思わず胸中を吐露していた。

 

「あたしは、あたしも、親がいないの。愛される事も、なかったわ」

 

 父を覚えてはおらず、母には殺され掛けた娘。呪われた娘だと村を追放された年齢は、ニコルと殆ど変わらない。だと言うのに、この差は一体何なのだろう。

 

「ねぇ、ニコル。愛されるって、どんな気持ち?」

 

 震える声を隠せずに、問い掛けるクーデルカ。応えは、直ぐには返らない。ニコルには、何と返せば良いかが分からなかった。

 

 沈黙の中、三人は進む。先頭を進むニコルと続くクーデルカは無言のままで、最後尾のエドワードも己が語るべきではないと無言でいる。

 そうして、階段の終わり。最後の段差を降り切った時になって、ニコルは振り返ると漸くに口を開いた。

 

「……クーデルカ。貴女は、愛されたいのですか?」

 

 ニコルが口に出来たのは、質問への答えになっていない問い掛け。他には何も、思い付かなかったから。

 

「違うわ。唯、愛されなくても、生きていて良いんだって、認められたい」

 

 返る答えは、否定であった。けれどその言葉に秘めた想いは、きっと肯定でもあったのだろう。

 愛されなくても良いから、認められたい。それは最初から愛される事を諦めているから、せめてと願う祈りである。

 

 しかしそんな言葉を、こんな所でこんな子どもに言ってどうするのか。クーデルカは、深い深い息を吐いた。

 

「……ごめん。突然、変な事を言ったわね」

 

「いえ、無理もないかと。此処の空気は、少し心を傷付ける」

 

「そう。そういう事に、しておいて」

 

 そう呟いてクーデルカは、ニコルの真横を通り過ぎる。僅かな涙を瞳に浮かべながら、勘違いしていた女は先へと進んで行った。

 

 女の孤独な背中を見て、ニコルは静かに思う。正直言って今も、クーデルカの事などどうでも良いと感じている。

 深く関わる必要はなく、さりとて無理に遠ざける理由もない。その程度の存在でしかないのだと、ニコルはそう思っている。

 

 なのに何故だろうか。少しだけ、その背中を見ると心が痛んだ。どうでも良いと思っている筈なのに、どうしてなのか。理由は少年にも分からない。

 

「良いのかよ、放っておいてさ」

 

「そうは言いますがね、私に何を言えと言うのです?」

 

 だからエドワードに言われても、ニコルには動く気すらもなかった。何かをしようと望んでも、伝えるべき言葉も浮かばないのだ。未熟な少年には、自分の心も分からぬ故に。

 

「何もありませんよ。彼女が何に嘆いているのかも、私には分からない」

 

 今も少年には、分からない事ばかりである。クーデルカが何故、ニコルにあれ程に構っていたのか。かと思えば唐突に、泣き出しそうになっていたのか。

 

 どうでも良い他人が、勝手に躁鬱を繰り返している。常のニコルならば気味の悪い物を見たと、内心で軽蔑しながらも作り笑顔で親身に対応していただろう。

 だと言うのに今のニコルは、その真逆に動いている。哀れみの情を抱きながら、遠ざけようとしているのだ。その理由すらも分からずに。

 

「けど、お前は何か言いたそうな顔をしているぜ?」

 

「勘違いですよ、エドワード。私には語るべき事などありません」

 

 そんな不器用な少年の微かな感情に気付いて、エドワードは笑いながら肩を叩く。言いたい事があるのなら、素直に口を開けば良いのだと。

 しかしニコルは首を振る。小さな感情を拾い上げる弱さなんて望んでいないから、張り付けた笑顔の仮面は外れない。

 

「貴方の好きな故人も、こう言っていたでしょう。言葉が役に立たないときには、純粋に真摯な沈黙こそがしばしば人を説得すると」

 

 偽りの笑顔。偽りの感情。微笑みながらに告げたのは、今は時間を置くべきだと言う言葉。

 今更に何を言ったとて、クーデルカには届くまい。彼女の抱いた願いを叶える事も、自己嫌悪を拭う事も、どちらもニコルには出来ないのだから。

 

 一面においては、真実とも言える事。そんな言葉を返してから、これで終わりとニコルは足早に歩き出す。残されたエドワードは、肩を竦めながらに呟いた。

 

「そりゃ沈黙の方が、クーデルカにとっては慰めだろうがな。……お前にとっては、そいつは慰めにもならんだろうに」

 

 己の心にも気付けていない少年に、女の涙が拭える筈もない。慰めにはならないと、その点には端から期待すらもしていない。

 そんなエドワードがそれでもと話し掛ける事を勧めたのは、寂しそうにしていたのは女だけではないと思えたから。

 

「心の奥も貫く、君の眼差しの光は。望みで燃え立たせ、恐れで心を沈める」

 

 バイロンの詩を諳んじて、思い浮かべるのは二色の瞳。目を合わせた時に、何となく思ったのだ。色は全く違うのに、何処か似ている様に思えた。

 そして暫く言葉を交わして、エドワードは漸くに少し理解した。容姿ではなく、纏う雰囲気が似ているのだ。きっと内面もまた、似通っているのだろうと。

 

「揃って謎めいた瞳をした、似た者同士の天使達。どちらも見てられない程に、不器用な奴らだ。こんなにも人を惑わすあたり、天使じゃなくて悪魔なのかね」

 

 寂しがり屋なのに、その事実にも気付いていない不器用な二人。そんな彼らの事に頭を悩ませるのは、彼らが恩人だからと言う理由だけではない。

 放っておきたくないと感じるのだ。だから少年の仮面を剥がしてやりたいし、女の笑顔を見てもみたい。そんな己の欲望に、エドワードはとても正直だった。

 

 だからエドワードは、此処に己の目的を定めた。その一つが夢見た冒険を成し遂げる事ならば、もう一つはその過程でこの二人を笑顔にしてやる事である。

 

「さて、どうするか。ま、のんびり考えていくか」

 

 方法はまだ浮かばない。それでも、まだ時間はあるのだ。投げ出す心算は欠片もないのだから、何時かはきっと果たせるだろう。

 そんな風に楽観的に考えて、エドワードは二人の後を追う。楽しげに笑う男の思惑が果たしてどう転ぶのか、今はまだ誰にも分からない事である。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在35点
(本来物語の後半に起きるクーデルカの内心吐露イベントが大幅に前倒しされた。+5点)

躁鬱激しいショタコン闇深系美女クーデルカ。
軽薄だが兄貴分としての役割も担うエドワード。
微笑みの仮面を付けた内心真っ黒ド腐れ外道少年ニコル。

この三人に堅物頑固なジェームズさんを加えた四人が、クーデルカ編でのパーティーメンバーとなる予定です。



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第12話 虚飾の善意

日常回。日常回? 日常回!(強弁)


 パチパチと暖炉で、火の粉が散っている。四人掛けのテーブルを囲むのは、ニコル達一行と一組の老夫妻だ。

 

 エドワードと歓談している年老いた男は、名をオクデン・ハートマン。給仕の為に忙しなく立ち居を繰り返している老女は、その連れ合いのペッシー・ハートマン。

 修道院の一階を探索していた一行の前に現れた老夫婦は、ニコル達を管理人室に案内し歓迎していた。

 

「こんなへんぴな田舎に三人で旅行とは、物好きな事だ」

 

「外は寒かったでしょう? スープくらいしか用意できなくてごめんなさいね」

 

 オクデンは豪快に笑い、ペッシーは柔らかく微笑む。人当たりの良い老夫婦の歓迎に、エドワードも破顔している。

 薄暗い修道院の中に、明るく和やかな空気が流れる。そんな中でペッシーは、お盆に乗せたスープ皿を皆に配っていった。

 

 テーブルに並ぶ料理を見ていたニコルは、その香りに僅か眉を顰める。カルラの教えを受けた彼の嗅覚は、常人よりも優れている。鍛えられたその感覚は、微かな異常を嗅ぎ分けていた。

 

「それとごめんなさいね、坊や。材料が少し足りなくて、同じ物を用意出来なかったの」

 

「……お気になさらないでください。頂けるだけ幸いです」

 

「そう。そうですとも! いやぁ、ありがたい! ごちそうになります!」

 

 クーデルカとエドワードの前に並んだスープとは、色が異なるスープがニコルの前に置かれる。

 深皿に入った赤い液体からは、トマトを煮込んだ匂いがする。少し酸味は強そうだが、それ以外の異臭はない。

 

 視界の端で、オクデンが一瞬表情を変えた。目敏くそれに気付いたニコルは、しかし指摘せずに銀のスプーンを右手に握った。

 

「どうぞ、たくさん召し上がってくださいな」

 

「……おう、それがええ」

 

 笑顔の老婦人に勧められるまま、ニコルとエドワードは食を進める。口に広がる味わいは、一流店のそれではないが何処か優しい。

 エドワードは特に気に入ったのだろう。半ば掻き込むように食べている。対してクーデルカは浮かない表情をしたまま、食事に手を付けずにいた。

 

「あら、どうしたの? ジャガイモのスープは嫌い?」

 

「いえ、そんな事は……でも、今はちょっと。御厚意には、感謝します」

 

「あらまあ、良いのよ。気にしなくて。でも何か出来る事があったら、遠慮なく言ってくださいね。此処に住んでいるのは私達だけだから、お客様が来ると嬉しくって」

 

 ペッシーに問い掛けられたクーデルカは、顔色を変えずにそう返す。食器に手を付けようともしない彼女は何故か、チラチラとニコルの様子ばかり盗み見ていた。

 先程のやり取りが原因で、と言うだけではないのだろう。気不味そうな表情の中には、心配そうな色も隠れていたから。クーデルカも温かな料理に隠れた、匂いに気付いていたのだ。

 

 クーデルカの胸中は、複雑な感情が荒れている。口に出して指摘する訳にもいかない理由と、先程の一件が原因の気まずさが混じればそれも当然の事であろう。

 平然とした態度で、食を進めるニコル。彼が口元にスープを運ぶ度に、クーデルカは視線を右往左往させてしまう。何度も声を掛けそうになって、その度に如何にか耐えると言う繰り返し。

 

 対してニコルが思うのは、この人は何をしているんだろうと言う他人事染みた感想だけ。己の事を心配しているのだろうと言う、発想なんて欠片もない。

 何せニコルの料理には、異臭が一切ないのである。配膳された料理の微かな匂いにも気付けたクーデルカならば、その事実にも気付けていようと考えたのだ。

 

 しかしそんなニコルの感想は、完全なる誤りだ。彼自身の性能を基準とした、ズレた思考に他ならない。

 料理に混ざった僅かな異臭など、気付けない方が普通である。ましてやテーブルを挟んで反対側となれば、微かに過ぎる匂いに気付けたニコルの方がおかしいのだ。

 

 だから何も気付かず食を進めるエドワードが一般的で、気付いて箸を進めないクーデルカが少し外れていて、離れた場所の臭いにも気付くニコルが異常である。

 内実を知れば微笑ましくなるであろう、そんな外れた女と異常な少年の反応。それに気付けもしないエドワードは、オクデンに対して気になっていた事を問い掛けた。

 

「此処には本当に、お二人だけで?」

 

「と言いますと?」

 

「霧が深くて良く分からなかったのですが、この建物は随分と古い教会のようですね。お二人で暮らすには、少々手に余るんじゃありませんか?」

 

「御尤も。当然、気になるでしょうな。実際わしらも、使っている部分はごく一部に過ぎません」

 

 富豪の息子が修道院を購入したと言う噂を聞いたのに、蓋を開けてみれば館に居るのは富豪には見えない老夫婦と得体の知れない怪物だけ。

 一体どういう事なのかと、エドワードでなくとも気にしよう。噂が出鱈目だったのか、或いは彼らの他にも誰かが居るのか。

 

 エドワードの問いに、今は二人だけしかいないと前置きした上で、オクデンは語り始める。

 ニコルやクーデルカも気にはなっていたのか、その意識を語らうオクデンとエドワードへと向けた。

 

「九世紀にアイルランドから来られた彼の聖人ダニエル・スコトゥスが、地に巣食う魔物を鎮める為に聖堂を建てたのがこのネメトン修道院の始まりだと聞いとります」

 

「魔物! 魔物ですか!?」

 

「ええ、それが?」

 

「信じられないかもしれませんが、実は僕ら此処に来る前にその魔物と遭遇したんですよ!」

 

「……そうですか、あれをご覧になったのですか」

 

「と言うと、今までにも?」

 

「わしらは縁あってこの修道院の管理を任されておるのですが、半年ほど前からああいう妙な物を見かけるようになりましてな」

 

「月を追うごとに、数が増えて……」

 

「わしは船乗りの出だもんで、そんなもの怖くありゃせんですが」

 

「心配だわ。もしものことがあったら……」

 

(……魔物を認識している、か。襲われなかったのは、運が良かったのか。或いは何か、別の理由でもあるのか)

 

 エドワード達の会話を耳に入れながら、ニコルは一人思考を回す。分からない事は、まだ数多く存在している。

 それでも原作ゲームの知識と合わせて見れば、事件の輪郭程度ならば微かに分かって来た気がした。

 

(地に巣食う。原作では確か、修道院跡地の地下でアルバートが儀式を行っていた。詰まりは元より、此処はそういう特別な地であったのでしょう)

 

 聖ダニエルが封じたと言う地底の災害。それは恐らく、ネアメートに通じる物であるのだろう。

 天高く浮かび、星の彼方から神を呼び寄せる。彼のウキと縁深いモノである筈だ、とニコルは思う。

 

 原作においてネアメートは浮上するまで、この地に程近い海の底に沈んでいた。そして浮かび上がらせる儀式に使われた祭壇が、このネメトン修道院の地下にある。

 其処で更に地に巣食う魔物を封じたと言う聖人の逸話を聞けば、誰もがその繋がりを想像しよう。この地は外宇宙の神を降ろす為の玉座、ネアメートの影響を強く受けているのだと。

 

 外宇宙の神とも関わり深い土地など、厄ネタ以外の何物でもない。そんな厄介な場所で、何者かが碌でもない事をしてしまった。その結果が、今なのだろう。

 怪物が跋扈する、マリスに満ち溢れた修道院。そうなる切っ掛けが、半年前に起きたのか。それとも積み重なって来た物が、半年前に限界を迎えてしまっただけなのか。

 

 これ以上の事を判断するには、まだ情報が足りない。ハンカチで口元を拭うニコルは、其処で一先ず思考を止める。

 直後、エドワードがニコルに話題を振る。計っていたのかと思う程に絶妙的なタイミングであった為、ニコルは僅か驚かされた。

 

「確かに危ないところでしたよ。銃の弾も使い果たして…………幸い、心強い修道騎士が居ましたから、如何にか助かりましたが」

 

「ほう。修道騎士、ですか」

 

「ええ、こっちのニコルが。背丈は小さいですが、この年で怪物退治の専門家をやってる凄い奴ですよ」

 

「……一言余計ですよ、エドワード」

 

 小さな子どもが修道騎士であると聞いて、ハートマン夫妻が揃って目を丸くする。幼い少年が怪物退治の専門家などと、事前知識もなしに誰が思おう。

 椅子を近付けニコルの肩を叩くエドワードは、二人の驚愕にさもありなんと笑みを浮かべる。その人を食ったような表情に、クーデルカが頭を抱えて嘆息していた。

 

「えぇと、坊や。御年はお幾つ?」

 

「今年で10歳となりました」

 

「10歳!? まさか、そんな若さでとは」

 

 ニコルの実年齢に、驚くのは老夫婦だけではない。エドワードも小さいとは思っていたが、それ程とはと他人事に呟いている。

 逆に他人事とは思えないのがクーデルカだ。彼女が村を追われたのが9歳の頃であったから、違うと分かった後でも己と重ねてしまう。小さな差異が、彼女の心を曇らせていた。

 

「ご馳走になりました。折角ですし、お返しをさせて頂きたいのですが」

 

「まぁ、そんな事。気にしないで良いのに」

 

 そんな周囲を差し置いて、皆の注目を浴びるニコルは話題を変える。口元を拭った白いハンカチを畳んで仕舞うと、代わりに懐から小さな香炉を取り出した。

 

「修道騎士としての修練中に、出逢いに恵まれましてね。エジプトを由来とする、香油についても少しだけ学んでいたのです。よろしければ是非、食事の礼に堪能して頂きたい」

 

「ほう、エジプトか。そいつはまた、希少な体験が出来そうだ。みせてくれよ、ニコル!」

 

「……其処まで言われるのでしたら」

 

 遠慮していた婦人も、ニコルの押しと同調したエドワードの言葉に頷く。それを確認してからニコルは、更に懐から数種類の香油を取り出す。

 先に嗅いだ体臭を思い出しながら、その場で行う即席調合。カルラ仕込みの腕前は、ルチアやベロニカ以上だとお墨付き。失敗する気は、全くなかった。

 

「二段に別れた作りの香炉でして、上に好みの香油を加えた後、下に火を付けた蝋燭を入れて炊き上げる形ですね」

 

 混ぜ合わせた香油を器に注ぎ、借りたマッチで蝋燭に火を灯す。ゆっくりと噴き上がる薄紫色の煙は、まるで星空のように輝いても見えた。

 

「ほう、これは」

 

「不思議ね、随分と心が落ち着いて来るわ」

 

「サンライズオイルをベースにしましたから、心に安らぎを与えてくれる香りになります。少し眠くなってしまうのが、欠点と言えなくはないのですがね」

 

「眠く、ああ、そうだな。眠くなって来たよ」

 

「ええ、この香りを嗅いでいたら、とても気持ち良く眠れそう」

 

「え、そうですか? 確かに心が落ち着く香りですが、眠くなると言う感じはしないような……」

 

 暖炉が灯る小屋の中、低い天井を満たすは小さなプラネタリウム。薄い煙の中で輝く小さな粒子は、夜空の星にも何処か似ていた。

 己は素晴らしい体験をしていると、感動していたエドワードは故に目を丸くする。ゆっくりと船を漕いでいる老夫妻に、どうにも共感出来ないからだ。

 

「……ニコル。貴方、何をしたの?」

 

「おや、気付かれましたか。クーデルカ」

 

 さりげなく椅子から立ち上がり、崩れ落ちるペッシー婦人を受け止め座らせていたニコル。予め彼女が倒れると、分かっていたような所作である。

 そんな少年の行動に、クーデルカが視線を鋭くして語る。何をしたのかと問い掛ける彼女へと振り向いたニコルは、如何にもな悪い笑みを浮かべていた。

 

 そうして、少年は懐からまた別の物を取り出す。小さな穴が空いた袋の中に、沢山入っているのは白と黒の小さな欠片。

 小石サイズの欠片が多量に入った袋を、ニコルはクーデルカ達に投げ渡す。受け止めた二人はそれを見詰めて、これは何だと首を傾げた。

 

「……これは?」

 

「匂い消しです。お二人の体臭と混ざれば影響が出にくいように調合しましたが、あくまで即興ですからね。念には念を入れるべきでしょう」

 

「体臭ってお前、そんなの何処で?」

 

「自覚がないのですか、エドワード? 貴方、大分臭いがきついですよ」

 

「……三日も飲まず食わずだったんだ。多少の臭いは勘弁してくれ。身嗜みに気を使うような余裕なんてなかったさ」

 

「まあ、そうでしょうね。……それと、クーデルカの方は抱き留める機会がありましたから。その時に、体臭をある程度覚えておきました」

 

 言外に香油を使って、老夫妻を前後不覚に陥れたのだと告げるニコル。その手際の良さに、エドワードは呆れる事しか出来ない。

 鼻で嗅いだだけで体臭を覚えると言う特技も異常なら、それに合わせて特定の相手にしか通じない香を作り上げると言う技術も異常に過ぎる。

 

 感嘆を通り越して、もう呆れるしかない調合技術。人間離れしたそれを実際に見せられて、エドワードにはもう言葉もない。

 だがしかし、別の意味で言葉がないのがクーデルカの方だ。男二人が平然とした顔で臭い臭いと連呼する中、顔を羞恥で染めた女は怒りを示した。

 

「ちょっと、体臭体臭言わないでよ!? まるであたしが臭いみたいじゃない!」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴るクーデルカには、多少ではあるが体臭が強いと言う自覚がある。何故ならば、彼女は帰る家を持たない旅人だからだ。

 この時代、宿の数は多くない。携帯用の制汗剤や使い捨ての濡れタオルなども流通していなければ、旅人が身を浄める事の出来るタイミングは非常に少ないのだ。

 

 数少ない宿の中でも、更に希少な風呂付の宿に泊まった時か。公衆浴場の類がある都会に出るか、水場を見付けて身体を洗うか程度。

 安定した収入源もないのだから、高価な香水を持ち歩ける程の財も成せない。となければ当然、体臭は隠し切れなくもなろう。

 

 だが自覚があってとしても、それを指摘されるのは中々に堪える物である。クーデルカも妙齢の女であったから、乙女心と言うのも多少はあるのだ。

 

「……人間も所詮は生き物ですから、臭くても当然なのでは?」

 

「そういう話じゃないの!」

 

 恥ずかしがるクーデルカが、ニコルの頭を軽く叩く。其処には先程までの、微妙な距離感は存在しない。

 擦れ違いを起こした先の一件よりも前の距離感――と比較しても尚、少しだけ近いだろうか。彼ら二人の相性は、決して悪い物ではないのだろう。

 

「いやぁ、女心が分からない奴だな。ニコルは」

 

 だからエドワードは楽しげに、少年と女の何処かズレたやり取りを笑って見守るのであった。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在35点

嗅覚は現実でも鍛える事が出来るらしいので、意図して幼少期より鍛えられた憑依ニコルの嗅覚は犬並の性能をしています。

当作捏造により体臭が酷い扱いされたエドワード。ですが、冷静に考察すると残当な形に。
・原作でも三日は飲食していない≒最低でも三日は同じ衣服で水浴びもしていない。
・狼男との戦いで恐らく滝のような汗を流し、その後の負傷で服には汗と血の臭いがべっとり。
これは臭い(確信)。ジェームズが初見で強盗と見間違えたのも、納得するしかない不衛生さです。

尚、当時の旅環境を思うと比較的濃厚な少女臭がするであろうクーデルカさん。美女ならまあ、需要はあるから……



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第13話 しあわせ

本日二回目の投稿。「幸せ」じゃなくて「しあわせ」なのは意図的です。


 何故に怒られているのかも分からないまま、クーデルカに叩かれているニコル。

 彼は助け船を出さずに笑って見ているエドワードを軽く睨むと、女の手からするりと抜け出して告げた。

 

「何が気に入らないのか分かりませんが、一先ずは先に済ませるべき事を済ませましょう」

 

「私としてはこの機会に、もう少し教育してあげたいのだけど」

 

「今は御勘弁を。余り時間がありませんので。誘眠の香も、効果を発揮するのは十数分が精々です」

 

 何も分かっていない様子を隠さぬニコルの態度に、クーデルカが頭を抱えて語るも少年は素知らぬ顔。

 紫の香が、室内を満たしていられる時間は余り長くない。だから後回しだと語るニコルに、クーデルカは憮然としたまま頷いた。

 

「さて、残る時間は後僅か。ですが今ならば、彼らは何でも話して下さるでしょう。香によって前後不覚と化している現状、隠し事すら出来ません」

 

「催眠で聞き出すって、こんな良い人達にどうしてだよ?」

 

 ニコル達の事を笑って見ていたエドワードは、そう言えばと気になっていた事を問う。

 

 彼の瞳には、ハートマン夫妻は善良な人物に映っていたのだ。だからこそ、こうして騙し討ちのような真似をする意味が分からない。

 聞きたい事があるのなら、素直に聞けば良いではないか。きっと答えてくれるだろう。そんな風に考えていた男は、続くニコルの言葉に驚愕して目を剥いた。

 

「お二人の食事に、毒が入っていましたからね。正直、何故と……私の分には混ざっていなかった事を見るに、単純な悪意に依る物とも思えません」

 

 エドワードは料理に毒が入っていたなど、想像すらもしていなかった。当然だろう。一体どうして笑顔で対応してくれた善良な人が、初対面の相手を殺そうとしているなどと考えようか。

 

「気付いていたのね、ニコル。確かにあれ、毒草が入ってたわ」

 

「ええ、匂いには敏感なので。配膳の途中で気付きました」

 

「な!? どうして言ってくれないんだ!? 俺は食っちまったぞ!?」

 

 だが残念な事に、今この場においては常識人の方が圧倒的に少数派であった。

 苦笑するニコルも嘆息するクーデルカも、どちらも最初から気付いていたのだから。

 

「気付かない方が悪いのよ。後三十分もあれば死ぬかしら? 短い付き合いだったわね、エドワード」

 

「其処は治して差し上げましょうよ。まあ、私も解毒の魔法は使えますから、安心してください。……尤も、香の効果も長くはないので、治療は彼らを尋問した後です。頑張って、我慢してくださいね」

 

「ぜ、絶対だぞ! 後で忘れてたとか、止めてくれよな!? やばい、意識したら腹が痛くなって来た気がする……」

 

 己の生死が掛かった状況に、エドワードは縋るような大声を上げる。直後、お腹を押さえてその場に蹲る。気のせいだろうが、毒物を食べたと知れば誰もがこうなるであろう。

 けれど苦しむエドワードを見下ろす二人は、揃って死生観がシビアである。まだ暫くは死なないだろうし、腹痛は思い込みが原因の半分。ならば問題ないだろうと、苦しむ彼から視線を外す。

 

 実際、時間は余りない。クーデルカと臭いの事で言い争って、無駄にしてしまったから余計にだ。その影響を最大に受けたエドワードには、ニコルも少しだけ悪いと思っている。

 そうとも、頭を叩かれる人の姿を笑って見ていたのだから、精々苦しめなどとはほんの少ししか思っていない。ニコルはそれ程に、狭量な訳ではないのだ。

 

「では、御聞かせ願えますか。ハートマンご夫妻? 貴女方が食事に毒を仕込んだ、その理由を」

 

 そしてオクデン・ハートマンへと問い掛ける。意識を朦朧とさせた老人の瞳を覗く子どもの瞳は、暗き魔術の光に妖しく輝いていた。

 

「船が、沈む……待ってくれ……わしの船が」

 

 香に依る意識の混濁。魔術に依る思考の誘導。過去へと強引に意識を戻された老人は、まるで壊れたラジオのように脈絡のない言葉を呟き始める。

 

「エレイン様さえ、ご無事なら……こんな、ことには」

 

「エレイン?」

 

「慈悲深い方だった……。わしの言葉を信じて下さった……。わしの絵を誉めて……」

 

 船と言う言葉を語ったかと思えば、唐突に女性の名を語る。どうにも意味が分からないと少年が視線を動かせば、隣に居る女も肩を竦めるだけ。

 オクデン・ハートマンはそんな二人の反応すらも理解出来ないまま、狂ったように脈絡のない言葉を語り続ける。誰に聞かせるのではない呟きは、何時しか叫びに変わっていた。

 

「わしのせいではない! いきなりあの石炭船が! 夜の闇だ! なにができる! あっという間に沈んで……わしは……わしは……エレイン様……」

 

「話にならないわね。ねぇ、ニコル。香が利き過ぎてるんじゃない?」

 

「いえ、あの香には人を狂わせるような力はありません。催眠状態と言っても、精々隠し事が出来なくなる程度です。ですから」

 

「……コイツは元からイカレてた、って訳か」

 

 誘眠の香にも、暗示の魔術にも、心を壊すような効果はない。度が過ぎれば精神にも影響を与えようが、その点は当然配慮している。

 ならば最初から、オクデン・ハートマンと言う人物には理屈が通じなかったのだ。真面に見えてその実は、どうしようもない程に壊れていたと言う事だろう。

 

「順を追って、話して頂けますか? ペッシー・ハートマン」

 

 オクデンの言葉が理解出来ない物であるのなら、もう一人の証人に問い掛けるべきであろう。

 今も唾を飛ばして意味もない雑音を零し続けるオクデンに背を向けると、ニコルはペッシーに言葉を掛けた。

 

「夫は、大きな遊覧船の船長でした。でも大きな事故があって、大勢の人が死んだの。この人苦しんでね。酒場に入り浸って。馬鹿でしょう。いくら飲んだって忘れられやしないのに」

 

 彼女は語る。彼らの事情を。どうしようもない不運から全てを失って、とてつもない幸運から大切な者に巡り合えたその半生を。

 

「でもエレイン様に出会って、うちの人はやり直すことができた。あの方の優しさに、救われたの。だからエレイン様に仕える道を、私達は選んだ」

 

 修道院の主であるパトリック・ヘイワース。そしてその妻であった、エレイン・ヘイワース。彼らに夫妻は救われた。

 大型船の船長であったが、事故で沢山の人を死なせてしまった。その自責から酒浸りとなっていたオクデンは、彼らのお陰で立ち直れたのだ。

 

「けれど何故、良い人ほど早く逝ってしまうのかしら。パトリック様とうちの人が不在の時に、館に強盗が押し入って――あの方は……」

 

「エレイン様を奪った! 貴様らのような無法者が! 売女が! 恥知らずが! わしらから、エレイン様を!!」

 

 だがしかし、彼らはやはりどうしようもない程に不運であったのだ。大切な人を、また失ってしまったのだから。

 エレイン・ヘイワースは殺された。彼らの手が届かない所で、浅ましい強盗に殺された。そして、皆が狂ってしまった。

 

「だから、殺して来た、と。……そう、これは貴方達にとっては、復讐だったのね」

 

 これは唯、それだけの話であったのだ。クーデルカは理解する。そして僅かに共感した。彼らの悲しい、その叫びに。そうして女は、目を伏せる。黙祷を捧げるかのように。

 

 だが老夫婦の悲しい過去に、心を砕くのは彼女だけ。クーデルカ程に優しくはない少年は、聞くべき事を聞き終えたと既に無関心。

 ウィッシュと言う状態異常を治療する白魔法を使って、エドワードの身体を癒しながらに進める思考は非情な物だ。

 

(エレインと言う女性の死。それが引き金ですね。女性の死に狂ったオクデンと、恐らくは同じく心を病ませてしまったパトリック。彼らがこの地で、何をしたのか)

 

 異常な程のマリス濃度。壊された修道院の浄化機構。それがこの地で何かを為す為に、パトリックとオクデンが行った事なのだろう。

 今に分かるのはそれだけだ。オクデンが何をしたのかを知る事は、難しいと言わざるを得なかった。

 

(この様子では、ペッシー・ハートマンは知らないのでしょう。オクデンが真面なら、聞き出せたのでしょうが。心が壊れている以上、脳を解体しても真面な情報は抜けないでしょうね)

 

 心が既に壊れているから、催眠や暗示では抜ける情報に限りがある。無理に情報を引き出そうとしても、脳が焼き切れたり精神や魂が砕けてしまうだけの結果に終わるだろう。

 それで情報と引き換えならば、ニコルは迷わず行っていた。だが人を壊して何も得られないと分かっているなら、やるだけ無駄だと悟る程度の分別は有している。オクデンを壊す事は無意味だと、少年は理解しているから行わないのだ。

 

 狂気で記憶が壊れていないペッシー・ハートマンが事情を知っていれば話は別だったのだが、疲れ切った表情を浮かべる女の記憶を軽く覗いてもそれらしい情報は見当たらない。

 恐らくは蚊帳の外に居たのだろう。使えない女だと老女を内心で罵倒するニコルと言う少年には、他者の痛みを分かろうとする優しさなどは欠片もなかった。

 

「おいおい、じゃあ何か! この爺さん達、俺達を八つ当たりで殺す心算だったって訳か!? 冗談じゃない!!」

 

「私達だけ、ではないのでしょうね。一体どれ程に、彼らは罪を重ねて来たのか」

 

 だが、クーデルカの気持ちに共感出来ないのは非情な少年だけではない。実際に殺され掛けたエドワードは、これで中々に粗暴な男だ。

 苦しみながらも話を耳にしていた彼は、治療が終わると同時に立ち上がって憤慨する。散々な目にあった原因が狂人の八つ当たりとくれば、許そうと言う慈悲など湧かない。いや、許せる筈がなかったのだ。

 

「そう、私達は殺し続けた。たくさん、たくさん、殺したわ。けど、もう疲れてしまったの」

 

 微睡む老女は、その言葉に促されたように告白する。疲れ切ったその表情は、けれど何処か安らいでいた。

 こうして全てを語れた事で、漸くに肩の荷が下りたと言わんばかりに。壊れた夫と、壊れる事も出来なかった妻。その悲哀が、其処にはあった。

 

「小さな子どもを連れた、人だもの。きっと何か、理由があったのよ。けどそれを言ってもこの人は、もう止まれなかった」

 

 老女がニコルに毒入りの料理を出せなかったのは、それが理由だ。壊れる事が出来なかったから、子どもまでは殺せなかった。

 夕食の残りを温めたと偽って、クーデルカ達に飲ませたジャガイモのスープ。それとは異なって、本当に夕食の残りだったのがニコルに出したスープである。

 

「……それで、この人達は、どうする?」

 

「決まってる! 今の内に撃ち殺そう! 放っておけば、何時か俺達の方がやられちまう!」

 

 疲れたように微笑み、口を閉ざした老女。今も変わらず、狂ったような叫びを上げ続けている老人。

 ハートマン夫妻をどうするのかと言うクーデルカの問い掛けに、怒りを抑えられないエドワードは苛烈に返す。

 

 彼の理屈も、決して間違っている訳ではない。香の力が切れてしまえば、老人は再び侵入者達に狂気を向けるであろう。

 そしてその狂気を、老女は止められない。ならばそうなる前に殺してしまえと言うのも、決して間違った選択肢ではない。

 

「クソ、弾切れしてるんだった! 何処かに銃弾はないのか!?」

 

 手にした銃の弾丸は、狼男を撃つのに全て使ってしまっていた。引き金を引いた後で気付いたエドワードは、慌てて周囲を探し始める。

 ニコルが言っていた事を、彼も覚えているのだ。この香には時間制限があって、余り長くは持たないと。だからエドワードは急いで、人を殺す武器を探している。

 

(さて、どうした物ですかね。エドワードの懸念も尤もですが……これは例の物を試す、良い機会でもあるのですよね)

 

 エドワードの思考は短絡だが、さりとて止める道理もない。後顧の憂いを断つ為ならば、十分ありだとニコルは思う。

 けれどニコルには、別に打てる手段もある。そしてそれを使いたい理由もあったから、少しだけ悩んでから口を開いた。

 

「エドワード。少し待ってください。態々殺す必要もありませんよ」

 

 銃弾を探して管理人室を引っ繰り返していたエドワードに、ニコルは何時もの笑みで言葉を掛ける。

 疑問符を浮かべて振り返ったエドワードは既に銃弾を見付けて、リボルバーに弾込めしている最中だった。

 

「何だよ、ニコル。殺しはするなってか? だがな、こいつらは俺達を狙って来た。なら殺されたって文句は言えないだろう」

 

「嫌いな物は殺してしまう。それが人間のする事ですか、とね。まあ少し落ち着いてください。頭に血が上り過ぎです。命の価値を説く気もありませんが、殺すのは最後の手段とするべきですよ」

 

「……憎けりゃ殺す。それが人間ってもんじゃないか。って返しておいてあれだけどよ。まあ良いぜ。納得できる結果になれば、な」

 

 振出式の弾装に、六発の銃弾を込める。そうして何時でも撃てるようにした銃を老人に向けながら、エドワードはニコルの提案に条件付きだと笑って返した。

 彼は頭に血が上り易く手が早いだけで、殺しを好んでいる訳ではないのだ。やられる前にやるのだと、それ以上の理由はないから。ニコルが如何にか出来ると言うなら、任せる事に異論はなかった。

 

「クーデルカも、それで構いませんか?」

 

「……ええ、そうね。エドワードの言い分も分かるけど、殺してしまうのは哀れだと思うわ。彼らも、犠牲者達も、どちらもね」

 

 この場で唯一、老夫妻に感情移入している女は目を伏せて頷いた。きっと殺してしまうよりはマシだろうと、そんな甘い考えで。

 

「では、これを使います」

 

 二人の了承を得た後、ニコルは懐に手を入れる。魔術で空間に働き掛け、少しだけ許容量を広くした服の内袋。其処からニコルが取り出したのは、蔦が覆い茂った白き杭。

 薄っすらと緑に輝くその杭を見た瞬間、クーデルカは寒気に震えた。霊媒体質の女には、その恐ろしさが一目で理解出来たのだ。

 

「それは、木の杭? 何か凄い、嫌な感じがするわ」

 

「師より預かった、聖なるヤドリギと言う物です。悪魔退治の切り札で、これに呪われたが最期。記憶と心を失い、魂は完全に漂白されます。ある意味では、死よりも恐ろしい報いとなりましょう」

 

 両手で己の肩を抱いて震えるクーデルカの言葉に、ニコルはあっさりと答えを返す。彼の手にした物こそは、ラスプーチンが保有していた聖なるヤドリギ。

 その恐ろしい力には、如何なる者も抵抗出来ない。星の化身である古神と同化していた神殺しの男でさえも為す術なく、死か忘却の二択を強いられたと言う代物だ。

 

「おいおい、流石にそれは……」

 

「勿論、ヤドリギそのものを使う訳ではありません」

 

 ニコルにはヤドリギを、此処でそのまま使う心算はない。当然だろう。これは遥か格上だろうと、一方的に終わらせてしまう切り札だ。

 こんな所で一般人に使ってしまうのは、余りに惜しい。だからこれより為すのは一つの実験だった。

 

「これを媒介にした魔術で、彼らの記憶を消し去ります。エレイン氏と出逢う以前にまで、彼らの心を巻き戻しましょう」

 

 ラスプーチンの下で魔術や剣技を磨く傍ら、ニコルは一つの試みを行っていた。それは黒魔術や白魔法の解体。特定の儀式で奇跡を起こせる秘術を細かく分解し、必要な要素だけを取り出すと言う研究実験。

 

 白魔法が持つ浄化の力や、それに伴う熱や風の動きだけを抜き出す。黒魔術が持つ暗示の業から、他者の思考に空隙を作り出す要素だけを発現させる。

 そう言った研究の成果として、到達した技術の一つ。媒体となるヤドリギを消費せずに、その心を壊すと言う力だけを使おうと言うのだ。

 

「ヤドリギの呪いは解呪できない。媒体とは言えそれを利用した魔術なら、消した記憶はもう二度とは戻りません」

 

 記憶の完全消滅。ヤドリギの魔術が齎す痛みは、想像を絶する物となろう。否、想像すらも許さぬだろう。

 原因となる記憶を完全に壊されるのだ。如何なる奇跡が起ころうと、もう二度と思い出すと言う事はない。

 

 そして何よりニコルにとって都合が良い事は、この技術を使えば感知の魔術を誤認させられると言う事。一部だけが抜き出された術式にすらも、感知の魔術は掛かってしまうのだ。

 仮にラスプーチンが今もニコルを魔術で監視していたならば、彼は誤解してくれる筈である。ニコルがネメトン修道院で、聖なるヤドリギを消費してしまったのだと。

 

(実際には消費していないヤドリギを、切り札として隠しておける。上手く事が運べばラスプーチンの隙を突け、そうでなくともヤドリギを死蔵させられる。実に都合の良い状況だ)

 

 聖なるヤドリギは本来、ラスプーチンの所有物。あくまでも今は、ニコルが借り出していると言う状況だ。詰まり何時かは、返さねばならない物である。

 だがこうして使用してしまったと言う痕跡を残せば、使ってしまったので返せないと言い逃れをする事が出来るのだ。

 

 無論、そんな真似をすれば当然、ラスプーチンの機嫌を損ねる事になろう。見抜かれようが見抜かれまいが、どちらの場合もニコルのリスクは跳ね上がる。

 だが黙ってヤドリギを返却するよりかはマシで、使っていないのに返さないと駄々を捏ねて力尽くで来られるよりもリスクは少ないと断言出来る。

 

 何せ他でもないラスプーチン自身が、誰よりヤドリギの危険性を理解しているのだ。消費したと言う言葉が嘘だと見抜いても、安易に手出しはして来ないだろう。

 逆に見抜けない程度の相手であれば、それは致命の隙となる。その時は彼の胴体に、ヤドリギを突き刺す形で返却してやれば良い。

 

(どちらにせよ、私にとってはメリットの方が大きい。となれば、彼らには犠牲となって貰う事にしましょう)

 

 故にニコルは、此処で彼ら夫妻の記憶を奪う。愛していた人の事さえ忘れて、苦悩の中で生き続けると言う罰を彼らに与えるのだ。

 

「狂ってしまう程に想った方を忘れ、救われた筈の苦しみに再び悩まされ続ける。多くを奪った彼らの末路としては、まあ相応しいのではないでしょうか」

 

「そうだな。これから先も苦しみ続けると言うのなら、きっと妥当な裁きだろうよ」

 

 己の命か。愛する人の記憶か。この裁きは少しだけ、原作における主人公ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガの末路に似ている。

 ヤドリギの呪いを受けて、大切な記憶を失い続けてしまった男。彼は旅路の果てに、選び取る事を強いられる。忘却の果ての生か、誇りと共に迎える最期かを。

 

「……愛する人を忘れて、救われた筈の痛みに、か」

 

 どちらが果たして幸せなのか。それがシャドウハーツ2におけるテーマであって、だからこそ難しい問題なのだろう。

 だがこの今、狂った男と疲れ切った女には己の幸せを選ぶ権利すらもない。自由を剥奪され、大切な想いを奪われる。それが、弱いと言う事だから。

 

「では、始めます。全能なる主に導かれし、聖なるヤドリギの魂よ。彼らの心を導き給え」

 

 しかし狂った男と疲れ切った女は、こうでもしなければ真面に生きる事さえ出来やしない。それも一つの真実だと言えた。

 殺すか、記憶を奪われるか。他に選択肢などはない。少なくともエレインの記憶がある限り、彼らは凶行を繰り返すであろう。

 

 ならば忘れてしまえば良い。奇跡のような人と知り合えた幸運と、その人を最悪の形で失うと言う不幸。プラスマイナスゼロならば、そんなもの最初からなくても良かっただろうと。

 少なくとも、ニコルはそう思う。全てを失う訳でもないのだから、ウルムナフよりはマシだとも。だから輝く右手に、手心なんて入らない。

 

 ニコルは一切の躊躇いもなく、ヤドリギが放つ緑の光を老夫妻に浴びせる。

 光の弾丸を浴びた老人達は、そのまま眠りに就くように意識を失うのであった。

 

「これで良いでしょう。もう彼らは、放っておいても害がない」

 

 目を覚めた時にはもう、彼らは忘れている事だろう。エレインやパトリックに出逢った事も、彼らに救われたと言う事も、その後に犯し続けた殺戮すらも。

 何もかもを忘れて、嘗ての記憶が蘇ってくる。沢山の人を死なせてしまい、酒に逃げていた日々。苦悩に悩む夫と、それを支える妻と言う嘗ての日々に。

 

「同じ建物に居るって言うのが、少しばかり心配だけどな」

 

「かと言って、転移させる訳にもいきませんからね。この寒さでは、外に放り出すだけでも死にかねない」

 

「転移って、そんなことまで出来るのか。もう何でもありだな」

 

「何でも、ではありませんよ。転移にした所で、貴重な触媒や時間の掛かる儀式が必要です。それにそれだけの準備をしても、飛べる場所は極めて限定的ですからね」

 

 犯した罪に、相応しい罰。これからの日々を、苦しみながら生き続けるであろう老夫婦。その未来に、思う所は三者三様。

 エドワードはざまあみろと得意げであり、ニコルに至っては欠片の興味も抱いていない。だから悲しく想うのは、クーデルカ一人であった。

 

「ねぇ、ニコル。これで、良かったのかしら?」

 

「確かに私達は、一つの想いを奪いました。ですがクーデルカ。ならば貴女は、彼らは死んだ方が良かった、と?」

 

「……分からないわ。分からないの。私は愛を、知らないもの」

 

 クーデルカには分からない。狂ってしまう程に愛した人を、忘れないで死ぬ道か。愛した想いすら捨て去って、悩みながらも生きる道。

 どちらがより良いのかなんて、クーデルカには分からない。誰かを愛した事も、誰かに愛された事も、捨てられた子どもにはなかったから。

 

「愛する想いを抱えたまま死ぬ事と、愛する想いを忘れて生きる事。どちらが本当に、幸せなのか」

 

「幸せは、自分の中にしか存在しない。人によって違うのですよ、何を幸福と思うかとはね」

 

 原作の記憶を持つニコルは、そんな彼女に答えと示す。それはウルムナフと言う男が、その生涯で見出したであろう物。

 ゲームの分岐。プレイヤーの選択肢次第で、彼が選ぶ答えは変わる。自由と安寧。しかしそのどちらも、尊さと言う点では変わらない。

 

 苦難の果てに選び取った結末ならば、どちらであっても正しいのだ。ニコラス・コンラドは、そう思う。だからこそ――

 

「だからこそ、彼らに下された罰は重い。己自身で選ぶ事が許されない。それこそが、命を奪い続けた彼らに相応しい報いでしょう」

 

 選ばせない事。選択肢を奪い去った事。それこそが、ハートマン夫妻に与えられた最も重い罰なのだと。

 告げてニコルは、その背を向けた。これから老夫妻がどうなろうと、もう二度と関わる事はない。だから少年の心に、何も残りはしない。

 

 唯一人、目を閉じた女の心にだけは何かが残った。だからクーデルカは、その罪と罰の重さを思い静かに祈る。願うは己への赦しか、それとも彼らの幸福か。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在45点
(何度も襲ってくる筈だったハートマン夫妻を初遭遇時に無力化+10点)

KOUDELKAをプレイした事がある読者でも、きっと予想していなかったであろうハートマン夫妻の生存。けど生存しただけで、救済された訳ではありません。

実際原作での末路(夫を妻が射殺)と、どっちが幸せなんでしょうね?



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第14話 ハーブ園の悪意

ジオ嵌め


 修道院の一階廊下。管理人室と同じ並びにある調理室。その内側は仄暗い松明の火に照らされて、何処か禍々しく驚しい。

 

 調理に使われるのであろう大振りの包丁や、家畜を〆たのであろう痕跡が残る作業台。何が入っているかも分からない保存庫に、吊るされている謎の肉塊。

 血の臭いに満ちた空気は心を犯す程に濃密なマリスと相まって、長く過ごせば人を狂気の中へと引き摺り込もう。

 

「こいつは良い、保存食だ。頂いて行こうぜ」

 

「呆れた。あれだけ食べたのに、まだ足りないの?」

 

「三日も飲まず食わずだったんだ。毒入りのスープなんかじゃ足りないね」

 

 そんな陰鬱な空気の中、エドワードは明るい声を上げる。調理場の保存庫から彼が取り出したのは、缶に入ったコンビーフとビスケット。

 早速とばかりに摘まんでいる男の姿に、クーデルカは呆れたように息を吐く。そのまま近くに居た少年の手を取ると、過保護な親のように言って聞かせた。

 

「全く、これじゃあ本当に盗人じゃないの。管理人夫婦の懐から、施設の鍵も盗んでいるし。ニコルは真似しちゃ駄目よ、こんな大人」

 

「ええ、気を付けますよ」

 

 管理人室でのやり取りを経て、ニコルとクーデルカの距離感は少しだけ縮まっていた。

 

 クーデルカは割り切ったのだ。僅かな差異に対する嫉妬はあれど、遠ざける事は難しい。気にしまいとしても気にしてしまう。

 ならば一先ずは、難しい事は考えないでおこう。言ってしまえば、そんな棚上げでしかない結論。

 だがそれでも率先してニコルに構おうとしているのは、彼女なりの歩み寄りであったのだろう。

 

 対するニコルの態度は変わらない。所詮はどうでも良い事だから、邪魔にさえならなければそれで良い。

 多少の手間や面倒は、対人関係の付き物だろうと。故に少年は、何時も通りの作り笑いで話を合わせるだけなのだ。

 

「おいおい、揃って人を悪い見本みたいに言わないでくれよ。修道院の鍵だって、探索するなら必須だろうに。っと、奥にも何かあるみたいだな」

 

 二人の言葉に肩を竦めるエドワード。悪口に怒鳴り返さず軽口を返せる程度には大人だが、平然の他人の物が盗める程には悪童なのが彼だ。

 倒れた管理人夫妻をベッドに寝せる際、ついでとばかりに修道院の鍵を拝借していたくらいには手癖も悪い。

 

 だから碌でもない大人だと言う自覚はあるが、さりとて責められるのは好みじゃない。故に話題逸らしも兼ねて、彼は親指で調理場の奥を指差す。

 行ってみようぜと語る彼に、異を唱える声はない。エドワードを筆頭に三人は、扉の向こうへ歩を進める。

 

 扉の向こう側にあった炉の立ち並ぶ部屋を更に過ぎれば、その先にはまるで別世界を思わせる光景が広がっていた。

 

「ほう。こりゃ凄い、ハーブ園か何かか」

 

 暗闇の中に薄っすらと、照らし出されたのはガラス張りの建物。床も壁面も天井も、びっしりと緑に覆われている。

 まめに手入れされていたのならば、さぞや美しい光景となっていたのだろう。枯れ果てた水場の汚れ具合を、エドワードは素直に残念だと思う。

 

「嫌な空気。マリスとやらが、強くなっているみたい。それに、人が倒れているわね」

 

「神父服のおっさん、か。宗教関係って事は、ニコルみたいに強いのかね?」

 

「それはないわよ。もしそうなら、意識を失っている理由がないわ」

 

 景色を見ながら進んでいた彼らが見付けたのは、扉の近くで倒れていたのは壮年の男性。

 一瞬見落としたのは、黒い衣装が見え辛かったからか。そんな男が纏う僧服に、エドワードは軽く揶揄するように零す。

 

 もう慣れた物となった男の軽口に、返す反応もまた慣れた物。エドワードの言葉を冷たく切って捨ててから、クーデルカは男の傍へと近付いた。

 そうして膝を屈めた、触れてみる事で確認する。息はある。そして軽い打撲以外に、大した傷はなさそうだった。

 

 片膝を付いたクーデルカの下へと、近付いていくエドワードとニコル。だが少年だけは、その場では止まらない。その手は既に、腰の刃に掛けられていた。

 

「どうやら、奥に潜んでいるようです。お二人は、前に出ないように」

 

 倒れた男が居るのならば、彼を倒した何かが其処に潜んでいるのだろう。推測だけではなく、既に気配すらもニコルは掴んでいる。

 微かに感じ取ったその大きさに、彼はクーデルカ達へと告げた。此処は己一人で行うと。

 

「……ニコル、私も」

 

「いえ、クーデルカはその方の治療を。外傷がないとは言え、打ちどころが悪ければもしもは十分あり得ます」

 

 協力を申し出たクーデルカに、ニコルは軽い拒絶を返す。己は一人で十分だからと告げて背を向ける少年の姿に、クーデルカは肩を落とす。

 そんな女を慰めるようとエドワードが肩に触れるが、けんもほろろに手を弾かれていた。

 

「エドワードには、二人の護衛を頼みます」

 

「分かった。任せときな」

 

 肩を竦めてから、ニコルの言葉に頷くエドワード。少年を一人で戦わせる事に、青年は異論を持たない。少年には実力があり、己は邪魔にしかならぬと割り切っているが故。

 

 そんなある意味では情けない男に、クーデルカは冷たい一瞥を向けてからヒーリングを行使する。

 素っ気ない態度で治療に専念する女性の姿に、エドワードはもう一度肩を竦めてから二人を庇える位置へと移動した。

 

 そして一人奥へと進むニコルは、右手で腰の刃を軽く引き抜く。ガラハットソードを片手に構えた直後、室内全てが大きく揺れ動いた。

 

「うぉっ!?」

 

 突然の衝撃に、倒れそうになるエドワード。如何にか姿勢を保つ彼は、視界の先にその怪物を捉えていた。

 

 多くの植物が枯れ果てた花壇の中央から、土を喰い破って飛び出した蔓が絡み合って一つの形を成している。

 微かな月の光に照らし出された巨大な異形は、花開く前の蕾にも似た姿をしていた。

 

「花壇から生えた、花の怪物。差し詰め、プランターのモンスターって所かね」

 

 大地を貫き現れた巨体は、ハーブ園を埋め尽くす程に巨大な妖花。花の蕾にも見える頭部に、生え並ぶのは巨大な牙。

 分厚い木の根にも見える無数の触手を伸ばす怪物が、口元より垂らすは涎のような蜜。まるで飢えた獣のようにも見える、植物と動物を掛け合わせたような怪異であった。

 

「……随分と余裕そうじゃない。男の矜持は、まだ家出中なのに」

 

「腹も膨れたからな。それに俺達には、優秀な聖騎士様が付いているんだ。精々、護って貰おうぜ」

 

 溢れ出す悪意と内包したマリスの量は、巨体に見合った相応の物。向き合うだけでも気圧されるであろう存在の出現に、しかし何処か気楽そうに言葉を放つエドワード。

 その余裕の根源は、前に佇む少年が微動だにしていないから。怯えを感じさせない彼が居るなら、大丈夫だろうと言う信頼が故の物である。

 

「呆れた。無駄飯食らいじゃないの、アンタ。……ヤバそうなら逃げる前に、せめてコイツだけは抱えて行きなさいよ」

 

「そりゃ勿論、所でお嬢様はその際には?」

 

「決まっているでしょ? 危険な目に合う聖騎士様を、手助けする為に前に出るのよ」

 

 そんな何処か情けない言葉を、太々しく語るエドワード。彼の胸中は何処までも気楽だ。

 きっと如何にかなるだろうし、如何にもならなければ己の見込みと運が悪かっただけの事だと割り切れる。

 

 対して彼に冷めた目を向けるクーデルカは、其処まで開き直れはしない。ニコルの実力は知っていても、心配してしまうのは別問題だ。

 故にいざとなれば前に出ると、周囲に聞えるように宣言する。そしてそんな言葉に苦笑したのは、近くに居たエドワードだけではなかった。

 

「……やれやれ、勇ましい物言いだ。そうも言われたら、私も無様は晒せませんね」

 

 誰よりも最前列に立ち、向けられる悪意と向き合うニコルは楽しげに微笑む。

 彼が浮かべた笑みは揺らがない。爽やかな微笑みと言う仮面を被った少年は内心で、眼前の敵など取るに足りぬと嗤っていた。

 

「精々、安心して見て頂けるように、終始圧倒してみせましょう。花弁を持つ怪物ならば、散り行くが定めと知りなさい」

 

 強大な妖花は彼の日の悪魔を思い起こさせるが、これはガアプ程に強大な存在ではない。そしてニコルは、彼の日よりも大きく成長している。

 ならば敗北などはない。否、勝負にすらもならないのだと。示す為にも少年は前に行く。ゆっくりとした足の運びで、しかし素早く敵対者の懐へと。

 

 当然、その道を阻むように触手が蠢く。鋭く尖った先端は、人の血肉など容易く貫こう。一つ突き刺されば最後、次から次へと襲う無数の凶器は止まらない。

 例えニコルが魔力で肉体を強化しようが、人である以上は限界と言う物がある。故に当たれば、彼であろうと危険である。ならば単純、一度も当たらなければ良い。

 

「愚鈍な。見えていますよ、その動き」

 

 風を切って迫る触手を、片手の剣で斬って捨てる。ニコルが動かすのは右手だけ。時折手首を捻って、剣の向きを持ち替えながらに迫る触手を弾いて進む。

 

 しかし斬り落とされた木の断面は、瞬く間に塞がり新たな触手へと。伸びる根と同時に今度は、怪物の口より腐臭に満ちた蜜を放たれる。その液体は僅かでも体内に入れば、即座に異常を引き起こすであろう猛毒だ。

 

「当たらないなら、打つ手を変える。単純明快ですが、確かに有効な策の一つでしょう」

 

 流石にニコルも、液体を切り払う事は叶わない。それでも勢い良く放たれただけの腐臭に満ちた蜜など、躱し切るのはとても容易い。

 体勢を崩さず後ろへ数歩。バックステップの要領で躱したニコルは、ついで迫る触手を再び斬り落とす。結果として残るのは、最初の位置からの仕切り直しだ。

 

 未だ戦いは前哨戦。無傷のニコルも、すぐさま傷が塞がる怪物も、どちらも見に徹するかの如くに全力を発揮してはいない。

 故にこれから戦いは苛烈な物に変わる。互いに手札を暴きながら、互いの隙を奪い合う。どちらが勝るか分からぬ激闘が始まるのだと――それは浅い考えだ。

 

「ですが、残念。貴方の底は、もう見えました」

 

 予兆。前兆。行動パターンから、動作が止まる瞬間までも推測する。これまでの表層を見ただけで、少年は既に底を見抜いていた。

 所詮は野生動物程度の知性しか持たない怪物だ。この短い攻防でも、見抜ける程度に浅いのだ。既に観察を終わり。ならば残るは、何処までも単調な詰将棋。

 

「では順当に、詰ませていくと致しましょう」

 

 先ず最初に左手で、懐から取り出した試験管を取り出す。コルクの蓋を親指で開けると傾け、ニコルは頭からその香を被った。

 ナイトオイルをベースにしたブレンドで、香炉を使わなくとも暫くの間は魔力を回復させ続ける。故に今、節約などと考える必要はない。

 

 溢れるばかりの魔力は、好き勝手に使い続けても尽きると言う事がない。そんな状態のニコルは此処に、一つの魔法を行使する。

 白魔法ブレス。光の力で敵を攻撃する魔法は、触手を伸ばす予備動作を取った瞬間のプランターを貫いていた。

 

「貴方のような知性のない怪物は、行動パターンが野生の動物レベルだ。まして花壇から生えている以上、行動範囲には限りがある。行動範囲の制限は、即ち手段の制限と同義です」

 

 攻撃を行おうとした瞬間に、衝撃を受けて身体を大きく揺らされる。そんな怪物の行動は、当然の如く中断される。

 そうして揺らいだその直後、次いで射貫く白い光が体勢を立て直す間すらも与えない。倒れる事すら許さぬとばかりに、次から次へと降り注ぐ輝かしい光が怪物を射抜き続ける。

 

「そして更に愚かな事に、貴方の身体は大き過ぎる。その鈍重な巨体では、あらゆる初動が遅いのですよ。予兆を見てから、こちらの攻撃が挟める程に」

 

 この世界は、ゲームとは違う。戦闘システムなどはなく、お行儀の良いターン制と言う訳でもない。

 そして怪物が口から放つ毒液も、伸縮する蔓による槍衾も、どちらも予兆が大き過ぎた。となれば、敵の機先を制し続ける事は決して難しい事ではない。

 

「手数が少なく、動きが鈍重な怪物。実に読み易い。私にとって貴方とは、単なる的に過ぎません」

 

 子どもが吹き飛ばされる程度の突風。それが動き出そうとした瞬間、顔に当たれば出鼻の一つは挫かれよう。其処に痛みが伴えば、行おうとした動作を続ける事すら出来なくなる物だ。

 

 ならば後はその繰り返し。執拗に、陰湿に、全ての行動を妨害し続ければ即ち得るのは勝利である。

 相手に一切の行動を許さなければ、何十何百と言う攻撃に耐える耐久力を有する怪物でさえも唯の的と変わらない。

 

 ゲームに例えるならば、麻痺やスタンで相手を嵌めるような物。原作ではそんな効果のない魔法でも、此処が現実ならば同じ事が再現できる。

 ありとあらゆる予兆を読み切り、常に先手を取って行動を潰し切る。それが可能であるならば、一手一手は僅かな衝撃を与えるだけで十分だった。

 

 故に、この幕引きも当然の事。数十を超えて百にも迫る程に光が輝いて、プランターは崩れ落ちる。大きく地面を揺らして、何も為せないままに巨体は倒れ地に伏した。

 

「では、さようなら。永遠の安息が、貴方に訪れますように」

 

 末端から溶けるように、光の中へと崩れていく巨大な妖花。無傷で怪物を制したニコルは、剣を納めて身を翻す。

 香に濡れた髪を片手で掻き分け、残る雫を払い落とす。端正な顔立ちをした少年は口元は、悪辣な愉悦に浸り歪んでいた。

 

 

 

 

 




Q.どっちが悪役ですか?
A.耐性を持たない方が悪いとか言い出しそうな外道。


エレイン強化カウンター 現在60点
(二体目のボスを嵌め殺しにすると言う暴挙を行った。+15点)



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第15話 邪なる信仰者

馬鹿野郎! そいつが外道だ!(銭形風)


 見ただけで分かる程に巨大な怪物すらも、一方的に押し潰す。余りにも圧倒的な光景に、見守る者らが度肝を抜かれたのも当然の事。

 特に霊媒体質であるクーデルカには、怪物が内包している力の量が視えていたのだ。あれ程に強大な怪物が、何も出来ずに滅びたと言う衝撃は強い。

 

 敵を仕留めて戻って来る少年が一瞬だけ、人ではない何かのようにも思えてしまう程に。

 

「戦う所を見るのはこれで二度目だが、流石はニコルだ。全く相手を寄せ付けず、完全にワンサイドゲームだったな」

 

「……ええ、そうね。心配はいらないみたい。安心したわ」

 

 だが、女がそんな恐怖を感じたのも一瞬の事。すぐさま頭を振って思考を切り替えると、軽口を語るエドワードに同意する。

 

(何考えてるのよ、あたし。此処でニコルを怖がるようじゃ、アイツらと何も変わらないじゃない)

 

 同時に胸中を満たすは自責の念だ。大いなる力を持つとは言え、少年はまだ子どもである。だと言うのに力だけを見て恐れると言うのは、己を排斥した者らと一体何が違うのかと。

 

(恐れるのではなく、受け容れるのよ。あの子をあたしと同じ目に合わせちゃ駄目。他でもない、あたしだけはそれをしちゃ駄目)

 

 力持つ事で恐れられる立場にあった女だからこそ、力だけを見て判断する者らの醜さや悍ましさが分かる。力を持つからと言うだけで、排斥される辛さが分かった。

 だから同じにはならない。だから同じにはさせない。己の怖れを意志で捻じ伏せ、向き合い続ける覚悟を抱く。

 

(だって、怖がられるのは、とても辛い事だもの)

 

 そしてクーデルカは決めたのだ。己はこの少年の味方で居ようと。

 例えどれ程の事が起きようと、自分だけは味方で居続けようと決めたのだ。

 

「う、うぅ……」

 

「おっ、このおっさんが目覚めそうだぜ」

 

 倒れた男が目を覚ましたのは、そんな折の事である。僧服の男はゆっくりと頭を振りながら起き上がり、傍らに居たクーデルカとエドワードの姿に目を剥いた。

 

「なんだ、私は。ここは……そうだ! あの化け物に! 誰だね、君らは!?」

 

「おい、助けて貰っておいてその言い草はないだろ?」

 

「戦ったのはニコルだけどね。介抱したのはあたし。アンタは何もやってないじゃない」

 

「観戦してたさ! ワインかエールが欲しいところだったがな!」

 

 軽口を交わす男女の姿に、僧侶は目を白黒させる。意識の無かった彼には、前後の状況が掴めない。そして傍に居るのは見知らぬ男女だ。

 気楽さを隠さぬ彼らを見るに、怪物はもういないようである。だが危険がもうないかと言えば、男には断言する事が出来なかった。

 

 それも無理がない事だ。まだ交通機関が発達し切っていないこの時代、旅人と言うのは何日も同じ服を着たままで過ごす。身体を洗うと言う事も贅沢で、滅多出来る事ではない。

 詰まりエドワードはそれなり以上に不衛生な風体をしていて、更に狼男に襲われた事で服装は血塗れなのだ。その第一印象は、最悪と言っても良い部類に入るであろう。

 

(新手の追い剥ぎか、強盗か? 見るからに真っ当な輩ではないな。今はまだ何も盗られてはいないのだろうが、人助けを口実に何かしてくるかもしれん)

 

 そんなエドワードと共に居るのだから、男がクーデルカへと向ける視線も自然と厳しくなる。

 彼女はエドワードとは比べ物にならない程には清潔に気を遣っているが、それでも限界と言う物はある。

 水道の蛇口は何処にでもある訳ではないし、専門家でもない限り制汗剤や消臭剤の類を持ち歩ける訳もない。細目に水浴びをするだけでは、恵まれた暮らしをする者達のようにはあれないのだ。

 

(全く、厄介な事だ。いずれ不潔な盗人どもめ。……主よ、我を守り給え)

 

 前後が分からぬ状況に、傍にいるのは信用も出来そうにない旅人達。マリスが不信を掻き立て、怪物に襲われたと言う事実が更に男を追い詰める。

 心の中で十字を切って祈りを捧げる僧衣の男は、いざ覚悟を決めて口を開こうと――そんな時に近付いて来た少年の姿は、男の目には正しく神の救いに見えた。

 

「倒れられていたようですが、お身体に差支えはありませんか?」

 

「う、む。君は……その服は、宗派は何処かね?」

 

「若輩ながら、ロシア正教会にて修道騎士の席を頂いております」

 

「おお、これが天の助けか。ロシアと言うのが、少し難点ではあるがね」

 

 如何にも旅人然とした服装のクーデルカ達とは違って、ニコルが纏うは十字の教えに従う者だと一目で分かる物である。

 同じ主を信仰する同胞と知り、更に見た目が幼い子どもであると言う事も相まって、男はあからさまに警戒を解いた。

 さらに仄かに香るアロマが、長旅での不潔さを感じさせない。実に評価できる好人物だと鷹揚に頷き、男はゆっくりと立ち上がる。

 

「ふむ。追い剥ぎと行動を共にしている点は不審だが、何か理由もあるのだろう。主の教えを信じる者が居るのなら、私も君達を信用しよう」

 

「何だと! 誰が追い剥ぎだ!?」

 

「黙って、エドワード。……相手が信用するって言うのなら、こちらも喧嘩を売る必要はないわ」

 

 僧服の男が見せる、隠す気のない侮蔑の視線と言葉。それを受けてエドワードが拳を握るが、クーデルカが片手で抑える。

 如何にも堅物そうな壮年の男と、口論する事に利益はない。だからとクーデルカは、自身の苛立ちも抑えて問い掛けた。

 

「あたしはクーデルカ。この子がニコルで、彼はエドワード。どうしてこんなところで倒れていたのか、聞かせてくれる?」

 

「ジェームズ。ジェームズ・オブラハティーだ。ちょっとした探し物があってこの修道院に来たんだが、突然魔物が襲って来てな」

 

「……どこから入ってきたの?」

 

「正門に決まっている」

 

「本当に?」

 

「ああ。管理人夫婦が丁重にもてなしてくれたよ」

 

「毒入りのスープでかよ」

 

「何のことだね?」

 

「彼らはあたしたちを毒で殺そうとしたのよ」

 

「馬鹿馬鹿しい!」

 

 途中でエドワードが軽口を挟んだとは言え、如何にも聞く耳持たずと言う態度。思っていた以上に厄介そうな人物だと、クーデルカは頭を抱える。

 自分達では何を言っても無駄なのだろう。下手に会話を続けても、互いに腹を立てるだけである。そう結論付けると、クーデルカはニコルへと視線を向ける。視線を受けた少年は、一つ頷き前に出た。

 

「事実ですよ、ミスタ。彼ら老夫婦は過去に、強盗に大切な人を殺されていたのです。以来復讐として、不法侵入を試みる者らを、と」

 

「う、む。しかし君は、一体どうしてそれを?」

 

「彼らから直接、聞きました。もう疲れた、とのことで。今は彼らも、お休みになられてます。もう危険はないでしょう。主のお導きで、彼らの心も安らいでおられますので」

 

「……物は言いようって奴だな。確かにヤドリギも神様の力らしいし、現状安眠しているから嘘は吐いてないけどよ」

 

「しっ、黙りなさい。聞こえるでしょ」

 

 ジェームズと言う男は内心で侮蔑した相手の言葉は戯言と切り捨ててしまえる堅物だが、そうでない相手から受けた言葉には真摯に向き合える人物でもある。

 子どもの言う事だからと頭ごなしに否定しない程度には、良識のある男でもあったのだ。故にニコルからハートマン夫妻の事情を説明されて、或いはあり得るかもと結論付ける。

 

「……納得は、出来なくもない話だ。悲しい出来事があれば、彼らのように世話好きで信仰心に篤い善良な者も変わってしまうのだろう」

 

「ええ、余程ショックだったようです。彼らにとって、主人の妻であるエレインと言う女性はそれ程に大切な方だったのでしょう」

 

「…………待ってくれ。今、何と言った!? エレインと、君は言ったのか!?」

 

 だが冷静に思考出来たのも、ニコルがその名を口にするまでの事。エレインと言う女性の名を聞いた瞬間、弾かれたようにジェームズは顔を上げる。

 両手で小さな少年の腕を掴むと、揺さぶりながらに問い質す。その余りに必死な形相に、ニコルは困惑したまま頷き返した。

 

「え、ええ。強盗に襲われて、18年前に」

 

「そんな馬鹿な!? 彼女が亡くなっているだと!! ふざけるな! 冗談にしても、口にしてはならない事もあるのだぞ!!」

 

 老夫妻から聞き出した情報をそのまま告げれば、ジェームズは激昂して言葉を返す。唾が飛ぶ程の勢いで少年の言葉を否定する男に、エドワードは肩を竦めた。

 

「どうするよ、あれ。ニコルが言ってもあの調子じゃ、真面な会話にもなりそうにないぜ?」

 

「……私が少し、口を挟んでみるわ。丁度、聞きたい事も出来たから」

 

 もう手に負えないだろうと語るエドワードに、クーデルカは少し切り込んでみる事にした。

 ニコルを放っておけないと言う理由もあるが、それ以上に彼女には聞きたい事が出来ていた。クーデルカには、エレインの名に聞き覚えがあったから。

 

「忙しそうにしている所、悪いけど。少し聞いても良いかしら?」

 

「何だ、盗人風情が! 私は今、悪質な冗談を口にする不道徳者への説教に忙しいのだ! それとも何かね? 君達のような輩と共に居るから、彼のように敬虔な若者が道を踏み外したのだと懺悔でもする気か!?」

 

「……教育に悪いと言うのは否定しないけど、懺悔なんてする気はないわ。アンタ達みたいに、大工の息子を信仰している訳ではないもの」

 

「君は、何と言う事を。何と罰当たりな事を口にしたのか、分かっているのかね!?」

 

「知らないわ。興味もない。それよりも、エレインが死んでいるのは本当よ。だってあたしが此処に来たのは、彼女の声を聞いたからだもの」

 

 老夫妻から名が出た時に、多少引っ掛かってはいたのだ。だから頭の片隅に残っていて、時間を掛けて漸くにその答えに辿り着く。

 助けを求める声を聞いたから、この場にやって来たクーデルカ。彼女に望みを伝えた死者が、名乗った名こそエレイン・ヘイワースであった。

 

「エレインが、君を呼んだ?」

 

「あたしは霊媒。死んだ人の声が聞けるの。あたしの耳に届いたのよ。既に死んだエレインと名乗る女性から、助けを求める声がね」

 

「霊媒、だと。異端の業だ! 死者を愚弄する気か!?」

 

「……愚弄してるのはどっちよ。彼女は今も、助けを求めているのよ?」

 

 ジェームズは信仰する宗教観もあって、人は死後に五つの場所に向かうと考えている。エレインならば必ずや、祝福された地に向かおうと。

 故に死者とは、既にこの世にいない者。居ない者の声を聞くなどと語るのは、詐欺師の類か度し難い異端者かのどちらかだ。

 

 彼女の死を愚弄する詐欺師であっても、死者の安寧を阻む異端者であっても、どちらであっても許してはならない大罪を行う者だ。

 信じられない事実に動揺していた男は、義憤に駆られて立ち上がる。怒りの籠った視線を向けられたクーデルカは、鼻で嗤って罵倒した。

 

「信じないと叫ぶのも勝手だけど、それで苦しむのは故人じゃないの。アンタが苦しめてる一人なのよ、理解しなさい糞野郎」

 

「――っ!? 私が、エレインを、だと。……そんな、馬鹿な。そんな馬鹿な」

 

 クーデルカの罵倒に、ジェームズは目を見開いて硬直する。彼女の言葉を信じた訳ではないが、さりとて己が苦しめていると言われては立ち止まらずには居られない。

 それ程にジェームズと言う男にとって、エレインと言う女は特別な存在であるが故。端的に言えば、頭が少し冷えたのだ。

 

「ミスタとエレイン氏の関係は知りませんが、其処まで激昂されると言う事は、浅からぬ仲であったのでしょう」

 

 そうして頭が冷えたジェームズに、ニコルが畳み掛けるように言葉を紡ぐ。何の根拠もない物言いだが、言葉自体に意味はない。

 もしかしたらと、考えさせることが目的だ。上手くいけば勝手に誤解して、納得してくれるだろうと言う程度の科白廻し。だがそれが、予想以上に真を突く。

 

「ならば、そんな貴方だからこそ分かる事がある筈です。心当たりは、本当に何もないのですか?」

 

「……心、当たり。まさか――エミグレ文書っ!?」

 

 ジェームズは法王庁より任を受け、禁書を回収する為にこの地にやって来た。その役割が故に、彼は禁書の中身をある程度聞いて知っている。

 記述自体は当然見た事もないが、死者の復活手段が記載された書であるとは知っていたのだ。

 

「そうか、そういう事なのかパトリック!? お前が何故、あの禁書を求めたのか! エレインが死んだと言うのならば、納得が出来る!! だが――嗚呼、何と言う事だ!?」

 

 旧友が書を盗み出したと聞いて、何故と感じていた疑問に答えが出てしまう。もしも本当にエレインが死んでいるのだとすれば、パトリックの蛮行にも説明が付いた。

 信じたくはないが、認めざるを得ない。法王庁からエミグレ文書が盗み出されたと言う事実こそが、エレインの死を何より強く証明していた。

 

「パトリック! エレインを幸せにすると、私に誓ったではないか!? だと言うのに、お前と言う男は! だと言うのにっ!!」

 

 天を仰いで、慟哭する。最早ジェームズには、己を怒りで誤魔化す事すら出来はしなかった。

 余程大切だったのだろう。情けなくも涙を零す男を前にして、しかし感情移入する者はこの場にいない。

 

(エミグレ文書、ですか。これは中々に良い事を聞けました)

 

 ニコルに至っては、内心で悪辣な笑みを浮かべている程だ。予想外ではあったが、実に面白い情報を得られたと。

 微笑むニコルと、苛立っているエドワード。彼らに比べればまだ、無表情なクーデルカの方がジェームズの心境への理解はあった事だろう。

 

「ねぇ、泣いている暇があるなら、エレインについて、聞かせてくれない?」

 

 だが理解があるからと言って、気遣いもあるとは限らない。天を仰いで涙を流す男に対して、容赦なくクーデルカは問い詰める。彼女も相応以上に、怒りを抱いていたのである。

 

「な、何故だ。私に今更、一体何を語れと言う」

 

「エレインは助けを求めていたわ。あたしはその為に来たの。なら、先ずはエレインの事について知らなくちゃ。助けたくても、助けられないでしょ?」

 

「……エレインの、助け。私が、エレインの助けとなれるのか。だが――死者の言葉を、聞くなどと」

 

 今も聞こえて来る嘆き。気分を害する死人の声を止める為、クーデルカは知るべき事を知りたいのだ。

 その為に必要な情報を有しているであろうジェームズに、手を貸せと口にする。そんなクーデルカの言葉を聞いて、ジェームズは愛と信仰の狭間に揺れた。

 

「ミスタ・オフラハティー。彼女の能力は本物ですよ。少なくとも、ロシア正教でも並ぶ者がそうはいない程に強大な力を持っています」

 

「ニコル君。だが、事実だとしても、異端の業だぞ」

 

「だとしても彼女の力は本物です。そしてその人格も、信頼するに値する。ならば彼女の言う通り、エレインと言う女性が今も苦しんでいるのもまた事実なのですよ」

 

 だから悩むジェームズの背を、ニコルは微笑みながら言葉で押す。愛する人が苦しんでいるのだぞと囁く理由は、彼も興味が出て来ていたから。

 エレインを救うと言う行為にではなくて、彼女の魂をこの地に留めているであろう禁断の秘術書に関してではあるが。

 

「大切なのは、宗派の教えではなく主への信仰心。其処さえ揺るがなければ、主もきっとお許し下さいます。嘆く女性を、救う為の異端をね」

 

「……まるで悪魔の囁きだな。世が世なら、異端審問に掛けられても文句は言えない発言だと理解しているのかね」

 

 そんな内心を隠した言葉は、ジェームズが語るように悪魔の囁きそのものだ。

 異端だからと遠ざけて、救える筈の人を救わぬのかと。言われてしまえば、ジェームズは頷かずには居られない。

 

「だが、それで乗せられてしまう私も同じか。良いだろう。君の信仰心を疑う心算はない。あれ程の怪物を倒せる程なのだからな」

 

「おや、お気付きでしたか」

 

「気付かない筈がない。あんなにも淀んでいた空気が、今は主の澄んだ御力に満ち溢れている。異端の業では、こうはいかんよ」

 

 疲れ果てて脱力したように、座り込むジェームズ。彼があっさりと異端の業を受け入れたのは、周囲に神聖なる力が満ちていたからでもあるのだろう。

 奇しくもニコルがプランターを倒す際、ブレスを多用した事が功を奏したのだ。神聖な力で浄められたこの領域は、ジェームズに確かな神の奇跡を感じさせたのだから。

 

 これ程の奇跡を起こせる少年ならば、必ずや素晴らしい信仰心を持つ筈だ。そんな少年が認めていると言うのだから、きっと主もお許しになってくれるだろう。その想いこそが、ジェームズに最後の一歩を踏み越えさせた。

 

「君が信用するなら、私も信じよう。クーデルカ、と言ったね。済まない事を言った」

 

「……いえ、良いのよ。話してくれるのなら、別に」

 

 これまでの非礼を素直に詫びるジェームズ。クーデルカに謝罪する彼の姿は、常の彼を知る者ならば目を剥いたであろう光景だ。

 異端を認めて、謝罪する。其処までの譲歩をジェームズが行った理由は、ニコルとクーデルカを信じたからだけではない。

 ジェームズ・オフラハティーは助けたかったのだ。エレインと言う、嘗て愛した女性の事を。

 

「そうだな、何処から語ろうか。やはりエレインやパトリックと知り合った頃から、語るべきだろうな」

 

 地面に腰を下ろしたまま、ジェームズは顔を上げて回顧する。思い起こすのは、彼が最も幸福であったと感じた時代。

 

「私が彼らと出逢ったのは、イングランドの名門校で過ごした頃の事だ。学び舎で出会ったのだよ、エレインとパトリックにはな」

 

 愛蘭の商家に生まれたジェームズは、本人の努力もあって英蘭の有名な大学へと進学した。

 其処で出会ったのが、パトリック・ヘイワ―スと言う友とエレインと言う憧れの女性であった。

 

「パトリックの奴とは、共に科学を志す良き友であった。だが同時に、エレインをめぐって競い合う好敵手でもあったんだ」

 

 学び舎でジェームズとパトリックは、幾度も切磋琢磨した。時に学術の出来を競い合い、時には同じ女性の心を何方が先に射止めるかと競い合う。

 信頼に値する好敵手が居て、心の底から愛するに足る女性が居る。正にあの時代こそが、ジェームズ・オフラハティーにとっては幸福の絶頂と言えた。

 

「私はエレインを深く愛していた。だが世の中は愛だけで暮らしていけるものではない。家柄も財産も釣り合わない私には、エレインを幸せにする自信がなかった」

 

 しかしそんな時代も終わる。学生で居られるのは、学び舎に通っている間だけだから。卒業してしまえば、モラトリアムはお終いだ。

 パトリックとエレインは、共に裕福な名家の生まれだった。だがジェームズの家は、如何にか大学に通える程度の商家であった。

 

 釣り合わないと、彼は思った。己では、エレインを幸せには出来ないと。

 

「私はパトリックに道を譲り、心の傷を癒す為に司祭となって俗世を捨てた。それからもう、20年は連絡を取っていない。幸せに暮らして欲しいと、願っていたのに!」

 

 生来勤勉な性質であったジェームズは、信仰の道に一身を捧げた事もあって大成した。バチカンで重責を任される程の、司教と言う立ち位置に。

 それでも、エレインを想う情は捨てられなかった。だからこそ、会わずに居たのだ。会ってしまえば、どうなるのか。己ですら、己の事が分からなかったから。

 

 けれど捨て置けない情報を知った。故にその真実を暴く為、そして法王より受けた命を果たす為、ジェームズ・オフラハティーは此処に来たのだ。

 その結果、彼は彼にとっての絶望を突き付けられたと言う訳だ。今もまだ愛している憧れの女性が、既に亡くなっていたのだと言うその絶望を。

 

「パトリックは、法王庁より封じられた書を盗み出した! 名をエミグレ文書! 死者を蘇生させると言う、禁断の秘術が記された物だ!」

 

「盗む!? 法王庁からかよ!?」

 

「……厳重な法王庁と言っても、何処かに油断があるものなのだ。内部の事情に詳しい者か、金をばら撒く事の出来る者か」

 

 名高い法王庁から盗みを働く奴が居たのかと驚くエドワードに、ジェームズは不思議でもあるまいと道理で返す。

 組織と言うのは長く続けば、自ずと腐敗する物なのだ。時に油断も起きるであろうし、金で転ぶ不信心な者も紛れよう。

 

(世には厳重な警備を、真っ向から踏み潰せる例外も居ますがね。アルバート・サイモン枢機卿や、グレゴリオ・ラスプーチン大司教のように)

 

 そんな道理を語るジェームズの言葉に、ニコルは内心で苦笑を漏らす。彼の言葉は全く道理ではあるが、世には道理に合わぬ輩も居る。

 原作知識とラスプーチンの言葉から、下手人がアルバート・サイモンである事をニコルは知っている。彼にとって法王庁の警備など、無人の野原と変わるまい。

 

 それこそ鼻歌混じりに堂々と、大聖堂の正面から入り込み。三冊の本を片手に抱えたまま皆に挨拶回りをして、それから悠々と立ち去っても不思議ではない。

 想像した光景が妙に嵌っていて、ニコルは噴き出しそうになる。あの紳士気取りの怪人ならば本当に、ステッキ片手にごきげんようと、和やかに歩き回っていそうだと。

 

「密かに調査を進めたところ、この修道院を買い取った資産家が、大金を投じてエミグレ文書を盗み出させた事が分かったのだ。そう、私の古い友人がな」

 

 だからこそ、ニコルは続く情報に眉を顰める。パトリック・ヘイワ―スと言う男の名など、ニコルの知る原作知識には出て来ない。

 

 エミグレ文書の盗難は、原作においても重要な出来事だ。忘れる筈も間違える筈もなく、更にラスプーチンがアルバートの関与を明言している。

 バチカンの調査などより余程、ラスプーチンの能力の方が信用できる。となればジェームズが誤情報を掴まされたか、或いは裏で繋がりがあるのかだ。

 

(直接の下手人は、アルバート・サイモン枢機卿の筈ですが。パトリックと言う男。この館の主は、協力者かスポンサーですかね。……或いは唯、利用されただけなのかもしれませんが)

 

 どちらも真と受け取るのならば、そう考えるのが自然だ。パトリックが大金でアルバートを雇い、エミグレ文書を盗み出させた。

 そしてついでとばかりにアルバートは、残る二冊も同時に盗んだ。結果がバチカンから、三冊の魔導書が盗まれると言う現状になったのだろう。

 

 そう判断するニコルの推察は、しかし僅かに外れている。何故ならば彼は、「クーデルカ」と言う物語を知らないからだ。

 真実は更に複雑なのだ。実行犯はアルバートで、資金を出したのはパトリック。そんな彼らを結び合わせた、第三の人物が存在している。

 

 アルバート・サイモン枢機卿の兄弟子である人物が、パトリック・ヘイワ―スを誑かしてエミグレ文書の使用を決意させた。

 彼から助力を頼まれたその黒幕が、アルバートに法王庁からの強奪を依頼。利害の一致で、アルバートが動いたと言う訳である。

 

 だがそんな真実を少年が知る事になるのは、これより数年は先に訪れる未来の話。今はまだ関係のない事で、知った所で重要ではない事だ。

 

「パトリックは、死者の蘇生をしようとしたのね。……けど、少し繋がらないわね。蘇生を試みたと言うのなら、どうして今もエレインは助けを求めているのかしら?」

 

 クーデルカが頭を悩ませる理由は、エミグレ文書に纏わる悲劇を知らないからであろう。

 死者の蘇生は必ず失敗し、周囲に悲劇を巻き起こす。唯一の成功作であるガーランド姉弟も、他者を悲劇に巻き込むと言う点だけは変わらなかった。

 

 その事実をこの場で知るのはニコルだけだが、彼には語る心算がない。語った所で疑われるだけで利益なのはないのだからと、素知らぬ振りでニコルは微笑み提案した。

 

「情報が足りていないのでしょうね。もう少し、足で探してみるべきでしょう。となれば、先ず当たるべきなのは」

 

「鍵なら全部揃っているぜ。パトリックって奴の館から当たってみるか?」

 

「その前に、地図を手に入れるべきでしょうね。管理人室にあれば良いのですが」

 

「君達は……」

 

 そんな少年の内心を知らぬジェームズの瞳には、彼らの姿がある種の希望にも見えた。

 そして悲嘆に暮れる己の中で、しかし燃え上がるような激情が湧き上がるのも理解する。

 

 悍ましい怪物たちが跳梁跋扈する修道院。その只中で愛した女性が助けを求めているのだとすれば、一体どうして膝を抱えて涙に暮れている事が出来るのか。

 

「私も行こう。エレインが助けを求めていると言うのなら、私が行かずになんとする!」

 

 故に同行を申し出る。愛した人の声を聞けると語る女性、クーデルカ。恐ろしい怪物を浄化する事が出来る少年、ニコル。

 彼らと出逢えた事はきっと、大いなる主の思し召しなのだろう。ジェームズ・オフラハティーは、これこそが天命なのだと受け止めていた。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在65点
(ジェームズが最初から完全協力体勢で隠し事なし。+5点)

ニコルはRTAでもやっているのかと言うレベルの飛ばし方ですが、このくらいしないと30話掛けても話が終わらないから仕方ないですよね。

この密度の話が一晩って、嘘やろ原作……


~原作キャラ紹介 Part8~
○ジェームズ・オフラハティー(登場作品:KOUDELKA(ゲーム版))
 ゴシックホラーRPG「KOUDELKA」のパーティメンバー。名前だけなら「シャドウハーツ」にも出て来る。年齢は不明。
 バチカンの法王庁から任を受け、ネメトン修道院にやって来た司教。堅物で思い込みも激しいが、根は善良な壮年男性。

 原作では何時も、エドワードと言い合いをしていた。と言うか全体的に「KOUDELKA」は仲間キャラの仲が悪い。
 エンディングによって、生死が分かれる人物。だがどう見ても死んだ時の方が幸せそうな辺り、実に哀れな男である。

 戦闘メンバーとしての役割は、クーデルカに次いでの魔法タイプ。HPも低くはないので、盾役も出来なくはない。
 鍛え方次第では前衛にも回せるが、高いINTとMPが無駄になるのでお勧め出来ない。そんな感じのキャラクター。

 法王庁の任務については、シャドウハーツシリーズの後付けでモーリス・エリオットが同じ任を受けていたと言う設定になった。
 その際に任務の詳細や、漫画版との設定矛盾も発生していたりする。そもそもジェームズは司教だった筈なのに、神父と表記されていたりもする。

 と言うかジェームズが任務を受けたのは1898年で、モーリスが任務中に殉教したのが1913年。15年程の時間のずれがあるのですがそれは……。
 15年間追い掛け続けていたならモーリスが無能過ぎるし、二回盗まれたのだとすれば今度は法王庁が無能になると言う悲しい現実。

 多分、同じ任務でも受けた時期が違うんでしょうね。ジェームズの死後、何度か追手を出したが悉く失敗。最後当たりにエリオット神父に回って来たとかそんな感じならセーフ。
 後法王庁は一度に三冊盗まれたので、追手に出した連中の選出を間違えたくらいで、まだ致命傷レベルの無能じゃないからセーフ。

 当作では、そんな設定。基本「シャドウハーツ」設定の方が優先ですが、特に理由もない場合は「KOUDELKA」の設定も拾います。
 例えばジェームズはシャドハでは神父ですが、クーデルカでは司教。階級を下げる必要もないので、こちらはクーデルカ設定を優先しています。




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第16話 相性の悪い大人達

地図を探して管理人室へ。馬鹿め! 地図は屋根裏だ!
……何で館内の地図が屋根裏部屋に置いてあったんでしょうね?


 ジェームズが合流し、四人となった一行は再び管理人室に。眠る老夫婦を起こさぬように意識しながら、棚や箪笥を漁る。

 地図を探すためにと言う名目での行動だが、手癖の悪いエドワードはその際に見付けた物を自分の懐へと仕舞い込んでいた。

 

「ドラゴンの置物なんて、何に使うのよ?」

 

「いや、金目の物かもしれないだろ」

 

「……全く、これでは完全に盗人の類ではないか」

 

 エドワードの行動にクーデルカは半眼となって問い掛け、ジェームズは己の選択が過ちではないのかと天を仰いで苦悩する。

 そうこうしながらも手分けして室内を探し回るが、如何にも見付かるのは関係のなさそうな物ばかり。15分程を費やして、出た結論は徒労であった。

 

「どうやら、管理人室には地図がないみたいね」

 

「地図もなしに、どうやって行き来してたってんだよ。コイツら」

 

「単純に道を覚えていたのだろう。その程度の事にすら、頭が回らないのかね。君は」

 

「何だと!」

 

 徒労に終わった探索の疲労やマリスの影響もあるのだろうが、元より性格的な相性が余り良くないのだろう。

 エドワードのぼやきに対して、ジェームズが馬鹿にしたような皮肉を告げる。それを切っ掛けに、両者は睨み合いを始めた。

 

「まあ、落ち着いてください。取り敢えず、まだ行ってない場所に行きましょう」

 

 今にも手を出しそうなエドワードと、そんな彼を見下すジェームズ。ニコルは二人の間に割って入ると、両手で抑えながらに伝える。

 喧嘩などしている場合ではない。建設的な事を考えるべきだ。自分達よりも一回りも二回りも小さな子どもに言われれば、理路整然と出来る程度には彼らも大人であった。

 

「ふむ。ならば中庭に出てから別の棟に向かうか、二階にある渡り廊下を使って移動するかだろうな」

 

「なら渡り廊下から行こうぜ。地図もなしに中庭に出たんじゃ、何処から行けば良いか分からなくなる」

 

「今居る場所から虱潰しにって事。普通は構造的に考えて、本邸へも中庭から入れるんじゃないの?」

 

「普通は、ですね。ですがこの修道院は真面じゃない。それに本邸に我々の求める情報があるかも分からぬ以上、虱潰しはどの道必要だと思いますよ」

 

 互いに感情ではない意見を出し合って、顔を付き合わせて悩み合う。結局どちらに向かおうにも、地図が無ければ推測以外に判断材料が何もない。

 ならば先にニコルが掃除を行った、この管理人住居から調べた方が良い。時間が経てば怪物たちはまた出現してしまうのだから、議論の結果としては妥当な所だ。

 

 言うが早いか、一行は揃って管理人室を後にする。長い階段を再び登って、管理人住居の二階へと。先には後回しとした渡り廊下の向こう側へ、一行は歩みを進めた。

 

「しかし何とも陰鬱な建物だな。聖堂こそあるものの、主の御力が感じられん。ニコル君。君の力で何とかならんかね?」

 

「時間を頂ければ、如何にか出来ます。魔力回復の香を炊きながら、力を行使し続けると言う強引な形になりますので余りお勧めは出来かねますが」

 

 何の骨かも分からない残骸が転がる中を進み続けて、石造りの道を進む。無数に並んだ大きな窓から差し込む明かりが、進む一行を怪しく照らす。

 余りに大量なマリスが齎す、陰鬱にも過ぎる空気。歩きながらも耐え兼ねるように、ジェームズがニコルに問う。先のハーブ園のように、この場を浄めてくれないかと。

 

 けれどニコルが返すのは、出来るがやらない方が良いと言う言葉。出来るならば何故と、共に歩く皆がそう考えるのは当然だった。

 

「何でお勧め出来ないんだ? 結果が同じなら、別に構わないだろ」

 

「場に負荷を掛け過ぎてしまうのですよ。こう言った聖堂は大概、正しい形で使えば恒常的に周囲を浄化するのです。ですがそうした機能すら、無理をすれば壊してしまいかねない」

 

「時間を掛けても、一時的な解決にしかならないって事? 根本的に何とかするか、せめて自動で浄化してくれるようにしないとまたこうなるって訳ね」

 

「成程、そりゃ意味がない。だったらやらなくても良いな」

 

「う、む。正常な形で再利用するには、そもそも奥に行かねばならないか。こんな場所に、足を踏み入れねばならんとはな」

 

 聖ダニエルが怪物を封じる為に作り上げたと言う修道院。ならば当然、其処には怪物を封じる為の術式や儀式の跡が残っている。

 ニコルが力尽くで浄めてしまえば、それさえ壊してしまいかねないのだ。更に言えば、其処までやっても一時凌ぎにしかならないと言う。

 

 それでは時間と労力の無駄となろう。故に好ましくはないと語るニコルの言葉に、クーデルカ達も納得する。

 だが納得したとしても、現状は何も変わらない。陰鬱な空気が拭えないとなれば、敬虔な神父が頭を抱えて嘆くのも無理はない事だろう。

 

「ああ、全て行き、行かねばならぬところ。わが世に生まれ、悩み生きた前の。わがありし虚無に帰りゆくこと、か」

 

 とは言え陰鬱な場で愚痴を聞かされ、周囲の者が心地良く思う筈もない。場の空気も相まって、苛立ったエドワードが諳んじる。

 ジョージ・ゴードン・バイロンの舞台劇を思い出しながら、大仰しい動作と共に暗唱する。その軽薄な笑いには、ジェームズに対する揶揄が込められていた。

 

「バイロンか。私の趣味ではないな。第一品格がない」

 

「あんたが品格をとやかくいうのか」

 

 誰かの笑う感情に、人は存外気付きやすい。エドワードの揶揄に気付いたジェームズは、余りに品性がないと鼻で笑う。

 好みの詩人を否定された事も相まって、対するエドワードの機嫌も急降下していく。吐き捨てるように言葉を口にした後で、エドワードはジェームズを睨み付ける。

 

 人を殺せそうな目付きで睨むエドワードに、対するジェームズも全く退こうとはしない。彼は持論を展開すると、他者への共感を求めた。

 

「詩というのは敬虔で思慮深い信仰や、人間への洞察に貫かれているべきものだ。アレクザンダー・ポウプやジョージ・ハーバードのように。君もそう思うだろう、ニコル君」

 

「私はどちらも嫌いじゃありませんよ。語る分野は違えど、どちらも含蓄ある言葉を遺されてますから」

 

「は、優等生な答えを出しやがって。お前も本当はバイロンの方が良いんだろ? おっさんが挙げた連中のは、片っ苦しくていけない」

 

 巻き込まれた第三者にしてみれば、勘弁してくれとしか言えない状況。如何にか表情を崩さずに、ニコルは玉虫色の答えを返す。

 それが気に入らないのが、エドワードだ。彼が配慮していると気付いたからこそ、肩を組んで素直になれよと巻き込もうとして来る。

 

「馬鹿め、貴様! 自分だけでは飽き足らず、未来ある少年の品性まで落とす気か!? その男から離れたまえ、ニコル君! 寧ろ今直ぐ、カトリックに改宗したまえ! 君は実に見所がある。バチカンに来れば、必ずや一角の人物になれるだろう!」

 

「いえ、私は、その」

 

 そんな真似をすれば当然、ジェームズも良い気分はしない。まして相手が最も評価している少年と、最も侮蔑している青年の組み合わせならば弁舌も激しくなっていく。

 前途ある者を悪の道に巻き込むなとジェームズが語れば、司教と言う人物は皆こうなのかとエドワードが馬鹿にした言葉を返す。間に挟まれたニコルは困ったように、師であるロシアの大司教よりはマシじゃないかなと思うだけ。

 

 当然そんな様では口論は終息する筈もなく、激化していく対立に堪忍袋の緒が切れる。最初に限界を迎えたのは、一人残されていたクーデルカであった。

 

「ああ、もう! うるさいわね! バイロンでもアレクザンダーでもジョージでも、この嫌な霊気を払ってくれるんなら誰でも良いわ! アンタの好きな、大工の息子でもね!」

 

「何と罰当たりな! 先程もそうだが、君は何度許されない言葉を口にすれば気が済むのだ!? 罰当たりな異教の輩め!!」

 

 敬虔な信徒を前に、主を冒涜するような語り口。苛立ちを吐き捨てるように叫んだクーデルカの言葉に、ジェームズはその矛先を変える。

 許されない事を言ったのだと、詰め寄る壮年の男を勝ち気に睨み返す。そんなブロンドの美女は前言を翻す事もなく、逆に踏み込んで口を開いた。

 

「異教も何も、神様なんて信じてないわよ。会ったこともない奴に救いを求めるなんて馬鹿げてるわ。ロンドンじゃ毎日、人が飢えて死んでいるのよ!」

 

「いずれ不潔で不道徳な盗人どもではないか! 神の国は――」

 

「司教。流石にそれは、お言葉が過ぎますよ」

 

 まるで死んで当然と言わんばかりの態度を貫くジェームズに、クーデルカは更に眉根を寄せる。売り言葉に買い言葉。

 激しくなっていく口論の中、遂にニコルは自ら口を挟んだ。それは己が演じる役を貫く為にも、しなくてはならない事であるから。

 

 ニコルと言う少年は、敬虔な信徒ではない。力を与えてくれる存在として信仰こそしているが、白魔法と言う技術を得る為でなければ祈りなどする価値もないと考えている。

 それでも表面上は敬虔な信徒を気取っているのは、模範的な人物で居た方が、多くの利点が得られるからだ。

 可能な限りそう振舞うべきだと考えていて、故に此処で善良な信徒らしい言葉を口にするのである。

 

「主の深き愛は、遍く全ての者に。本来は異教徒と言う区別すら、行うべきではないのです。彼らは神の愛を、知らぬだけなのですから」

 

「それはロシア式の説法かね? だから君はカトリックに来るべきなのだ。そのような誤った考え方を、刷り込まれるようではな」

 

「いっそ宗教なんて止めちゃいなさいよ、ニコル。神頼みを続けているようじゃ、碌な大人になれないわ!」

 

「な、何と罰当たりな!? このような少年をこそ、正しい道に導くのが宗教の役目でもあると言うのに!」

 

「お生憎様! 私は正しい道に導く為に、ニコルにこう言っているのよ!」

 

 されどヒートアップした彼らの口論は、慈愛を真似ただけの中身すらない言葉などでは止まらない。

 口論を続ける二人を見ながら、どうしたものかと息を吐く。そんなニコルを捕まえて、エドワードはニヤリと笑った。

 

「モテモテだな、ニコル」

 

「勘弁してください、エドワード」

 

 クーデルカが割って入った事で、怒りの矛先を失ったのか。振り回されるニコルを見ていて、溜飲が下がったのか。

 ともあれ機嫌を直したエドワードの姿に、ニコルも安堵の息を吐く。流石に彼までまだ騒ぐようであったのならば、ニコルにも自制していられる自信はなかった。

 

「しかし、何つーか。変な感じだよな。さっきまであんなに苛立ってたのに、アイツらのやり取りを見てた所為かね?」

 

「……恐らくは、マリスに当てられたのでしょう。此処はマリスが濃厚ですから、心が不安定になりやすい。思っていても普段は言わないような事でも、思わず口にしてしまう」

 

「へぇ、マリスってのはそういう効果もあるのか。色々奥が深いんだな。で、如何にかならないのか? そろそろ止めないと不味そうだろ」

 

「助力を乞いたいのは、私の方なのですが。……一応マリスが原因なら、心が不安定になっているだけですから。香を炊いて暫く落ち着けば、少しはマシになるでしょう」

 

 平静を取り戻したエドワードと会話を交わしながら、ニコルは懐から試験管を取り出す。試験管の残りはもう、然程多いとは言えない状況だった。

 オイルはこれで中々に、貴重な素材を使っている。この時代では瓶一本分でさえ、かなり高価な品なのだ。此処までの道中での損害を思うと、頭を抱えたくもなって来る。

 

 とは言え、このまま放置しておく訳にもいかないだろう。襲撃でもあれば意識が切り替わるのだろうが、この周囲の敵はもう一掃されている。

 だから仕方がないのだと受け入れて、床に香炉を設置する。エドワードからマッチを1本借りると、ニコルは蝋燭に火を付け心を癒す香を炊き始めた。

 

「ん。この匂いは」

 

「管理人室で嗅いだ匂いと、似てる? けど同じじゃないわね」

 

「サンライズオイルをベースに、シャインオイルを少量混ぜた物です。どちらも結構、貴重な素材を使っているんですよ」

 

 香を炊いて数分もすれば、周囲は香りで満ちている。マリスの影響で乱されていた精神を癒せば、彼らも冷静さを取り戻す事が出来たのだ。

 

「落ち着きましたか、お二人とも」

 

「……ええ、そうね。落ち着いたわ。言い過ぎたって、自覚もある」

 

「うむ。そうだな。私もどうして、あれ程に侮蔑的な言葉を口にしてしまったのか」

 

「マリスの影響です。余り気になさらない方が宜しいかと」

 

 冷静になれば、己の失態を後悔出来る程度には彼らも大人だ。自制を取り戻した両者は、互いに謝罪を交わし合う。

 これで恐れていた同士討ちのような結果にはならないと、少し安堵しながらニコルは続けて彼らに語るのだった。

 

「ですが、この先も更にマリスは濃くなっていきます。これまで以上に、皆さんの心も不安定になってしまうでしょう」

 

 マリスが心を乱すとは言え、その影響下で語ってしまうのは本心の一部だ。だがそんな真実を、この場で語る必要もないだろう。

 侮蔑の言葉が本心だと知られれば、また口論に発展しかねない。故に全てをマリスの所為だと決め付けて、一先ず落ち着かせた方が良い。

 

 その上で、更に忠告を一つ付け加える。本心の一部である以上、また同じ事を口にしてしまう可能性は十二分にあったから。

 これから先は、マリスの影響が強くなるのだと。人に悪意を向けやすくなってしまうから、どうか気を付けて欲しいと言葉に紡いだ。

 

「オイルも無尽蔵にある訳ではありませんから、余り使い過ぎる訳にはいきません。心を強く、持ってください。他者の言動に苛立ちを覚えても、この場所の影響もあると言う事をお忘れなく」

 

「……分かったわ。出来るだけ、我慢を意識する」

 

「そうだな。多少不快に思っても、口を閉ざすべきであろう。子どもが実践出来ているのに、司教がこれでは笑われてしまうだろうからな」

 

 互いに配慮し合う事、ニコルが語った言葉は他者との関わりにおける基本である。このような危険な場では、よりそれが大切になるのだと。

 当たり前の事を言われて、髪を掻きながらもクーデルカは頷く。同じく了承の意を返したジェームズの反応が鈍いのは、己自身を恥じているからであった。

 

「何だ、ちゃんと解決出来たじゃないか」

 

「貴方は全く、何の役に立ちませんでしたがね」

 

「おいおい、言ったばかりじゃないか。不満を覚えても、抑えてくれよな。ニコル」

 

「私は子どもらしいので、文句を言ってもきっと許されるんですよ。エドワード」

 

 騒動の引き金を引きながらも、解決への助力も周囲への謝罪もしていないエドワード。

 軽く笑う彼に冷たい言葉を浴びせると、ニコルはあからさまな程に肩を竦めてから残る二人に目配せした。

 

「そうね。取り敢えず、エドワードが悪いって言う事にしておきましょう」

 

「そうだな。発端はエドワードであるのだから、大体コイツの所為で問題あるまい」

 

 視線を受けた二人は悪乗りするかの如くに、揃ってエドワードを責め立てる。とは言え、全く本気の口調ではない。

 冗談交じりの集中砲火。道化を望まれているのだろうと察して、エドワードは嘆くような口振りで得意の暗唱を披露した。

 

「やれやれ、全く。悲しみが来る時は、単独ではやって来ない! って言うけどさ。理不尽な罵倒も、同じく軍団で押し寄せるみたいだな」

 

「ほう、シェイクスピーアか。何だ、中々に良い教養も有しているではないか。油断ならぬ奴だな」

 

「お互い様だろ。何時かアンタにも、バイロンの良さを教えてやるさ」

 

「ふん。その何時かがあれば、な。期待しないで待ってやるとも」

 

 これもまた、雨降って地が固まると言えるのだろうか。口論の末に少しだけ、三人の意識は変わっていた。

 気に入らない所も多くあるが、この場においては運命共同体のような物。確かな仲間であるのだと、皆が認識を共有するのであった。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在65点

地図なしでの縛りプレイ開始。

それとネメトン修道院の構造は、細部を少しだけ原作ゲームと違う形にしています。
管理人住居から中庭に出入り出来ないって、不便なんて物じゃないと思うので。

門から中庭に入れて、他の建物も中庭から出入り出来る形。洞窟みたいなダンジョンじゃないのだから、実際には生活し易い筈だよなと言うイメージから来る改変です。



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第17話 狂気の片鱗

ニコルはキ〇ガイ。


 浮遊する菱形の物体が二つ。その中央には瞳の如く、二色の宝石が暗く輝いている。瞬きを思わせる光と共に放たれるのは、火と水の力を秘めた魔力弾。

 咄嗟に頭を庇ったエドワードは両手に火傷を負って、高圧水流に吹き飛ばされたジェームズは壁に叩き付けられた。

 

「くそっ! 行き成りにも程があるだろっ!?」

 

 廊下を抜けた先にある狭い部屋。別棟に続く扉を開けた瞬間に現れた怪物たちは、否応なしに彼ら全員を戦場へと巻き込んだ。

 逃げ場がない場所に、入り込んで来たのは雑兵とは言えぬ質の敵。さしものニコルも初手で一つを削るが精々で、同胞の残骸を盾にした残る二つの侵入は防げなかった。

 

「……これは少々、厄介ですかね」

 

 緑の宝石に深々と突き刺していた剣を引き抜き、落下する残骸を踏み付けたニコルは舌打ちする。

 残る二つの菱形は、ニコルから距離を取って遠ざかっている。それでいて、エドワードとジェームズを個々に狙おうとしているのだ。

 

(どちらかが、死にますかね。これは)

 

 一体を犠牲にする事で作り上げた隙に、真逆の方向へと移動している残る二体。ニコルならばどちらも一手で叩けるが、返す刀でもう一体と打ち破るには距離がある。

 恐らくは間に合わない。最後の一つを打つ直前に、こちらも被害を受ける事であろう。焼死か圧死か、結果は二つに一つである。

 

(友誼か実利か、悩むまでもない選択ですが……怪物の浅知恵程度にしてやられると言うのは、余り面白くはない話だ)

 

 浅知恵と罵倒しながらも、その機転の早さは認めている。何せ最初の一体を仕留める際に見たニコルの動きだけで勝てないと割り切り、誰か一人でも仕留めようと思考を切り替えたのだから。

 

 本来、人間より圧倒的に強者である筈の怪物らしくもない思考。怨念に支配されているが為に高度な思考は出来ず、さらに人間を侮る慢心を抱いているのが怪物たちの殆どだからだ。

 勝てない相手からは逃げつつも、弱い者だけを狙い撃つ。そんな弱者の戦術を、あらゆる理由で本来の怪物は行わない。為すとしても、最後の最後だ。

 

 故に初手でこう動くなど、全く以って予想外。なまじ怪物退治に慣れ切ってしまっていたからこそ、ニコルは此処に後れを取った。

 果てに至るであろう結果に、思う所は余りない。他人の死など目の前で起ころうと、ああそうかとも思わぬ程度。だから苛立ちの原因は、唯々己の未熟さ故に。

 

 己は倒されない程に強くとも、誰かを守れる程には至っていない。予想を外した程度で取り零しが出る程に、ニコラス・コンラドは今も弱い。その事実が気に入らない。

 怪物は人間よりも強大だから、常に優位に立ち続けないと勝ち目がない。それは裏に生きる誰もが知る常識だが、そんなことはどうでも良いのだ。

 

 唯、弱い。唯、未熟。その事実が頭に来るが、さりとて長く思考している暇もない。故に舌打ち一つで思考を切り替えた少年は、情報源を守る為に青き宝石を狙って膝を屈めた。

 

「ニコル!」

 

 そうして、飛び出そうとした瞬間。名を呼ばれて、視線を向ける。助けを求める声かと思えば、視界に映るはその真逆。

 高く掲げた右手の先で、燃え盛る炎を球形へと変えているクーデルカ。彼女と瞳を合わせた直後に頷くと、ニコルは踵を軸に身を翻す。そして、駆けた。

 

 狙う獲物は炎の怪異。抗うように繰り出される火の粉の雨も、少年の足を止めるに値しない。その軌跡は雷の如く、左右に細かく動きながらも直線距離と変わらぬ速度。

 止まらないなら結果は当然、振り下ろされた剣が縦に一筋の亀裂を刻む。ゆっくりと落ちる菱形へと向けて、更にと繰り出されたのは横薙ぎの一撃。

 

 十字の傷を刻まれた赤い宝石が、砕け散ると同時に怪物の身体も砕け散る。消滅を確認してから振り返ったその先で、青い宝石は炎に包まれ燃え尽きていった。

 

(流石は闇の鍵。単純な出力では、私など比較にもなりませんね)

 

 魔法の威力と言う点において、クーデルカに比肩する者などそうはいない。身体能力や戦闘経験でこそニコルが勝るが、魔法の出力で競い合えば勝ち目は何処にもないだろう。

 闇の鍵と光の鍵。大魔術師がその手中に収めれば、世界を左右させられる程の存在の一人がクーデルカ・イアサントなのである。

 

 仕方がないと割り切れるから、感じる嫉妬は最小限。寧ろこの場においては、良くぞ動いてくれたと言う安堵が強い。

 とは言え、その心境は荒れている。マリスの影響も相まって、意識せねば表情に出てしまいそうになる程には。

 

「不覚を取りました。この程度の雑兵に遅れを取るとは、我が事ながら情けない」

 

 剣を鞘に納めて、振り返ると最も近いエドワードの下へ。歩み寄って行くニコルの脳裏は、己が未熟への罵声と侮蔑に満ちている。

 突然の奇襲。狭い室内。戦闘経験皆無な味方。そんな悪条件が重なったとは言え、此度の結果は褒められた物ではない。その程度の不利を飲み干せなくて、一体どうして強さの高みに至れると言うのだろうかと。

 

 ニコルにとって周囲の者らは、無理をしてまで助ける必要のある者達ではない。まだどうでも良い、仲間と言う言葉で修飾されただけの同行者たちである。

 とは言え、余裕があれば守り抜こうとは思う。そしてこの程度の雑兵相手に、余裕を失う事などない。そうでなくてはならないと、少年は己に課している。

 だからこそ、守り切れないと思った。どちらかを切り捨てると判断せざるを得なかった。その判断を下すしかなかった事実が、極めて不快であったのだ。

 

「その程度に殺され掛けてるこっちとしちゃ、返す言葉がないんだけどな」

 

 鬱屈とした気持ちを隠しながら微笑むニコルに、焼け爛れた両手を力なく垂らしたエドワードは座り込んだままにぼやき返す。

 完全な不意打ちを受ける形で始まった戦闘は、これまで全く戦って来なかった彼らにとっては負担が大きかった。終わったのだと安堵してしまえば、暫くは立ち上がる気も起らぬ程に。

 

「取り敢えず、先ずは傷を癒しましょう。火傷の治療はキュアだけでは難しいのですが、多少はマシにもなりますから」

 

「ん? ああ、そうか。……いや、大丈夫だ。多分な」

 

 脱力するエドワードに対し、傷を治そうと伝えるニコル。完全に治療できるかは分からないと口にする少年に、待ったと歯止めを掛けたのはエドワード本人であった。

 

「ほら、見てろよ」

 

 何故とニコルが問う前に、エドワードは己の火傷痕に手で触れる。肘まで焼け爛れた左腕に、同じく焼けた右の掌押し当て目を閉じる。そうして数秒、彼の身体が淡く光った。

 

「……それは、クーデルカと同じ」

 

 珍しく感情を隠せずに、目を見開くニコル。その眼前で起きるのは、まるで録画映像の逆回転。

 急速に生えてくる皮膚の痒みに苦悶しながらも、エドワードの傷口は瞬く間に塞がり治っていく。

 

「一体何時から?」

 

「どうも最初に助けられた時から、腹の中に不思議な感じがあってな。今なんとなく、出来ると思った。そしたら出来た、と言う訳さ」

 

「クーデルカのヒーリングで、エドワードも超能力に目覚めたと言うのですか……」

 

 霊媒体質の女に治療された事で、エドワードは異能に目覚めた。彼女やその子であったハリーが使う、超能力と同じ力に。

 同じ事をもう片方の腕にも施しているエドワードから、視線を逸らして俯くニコル。その瞳に浮かんだ色は、最早興味などとは言えない程に度の過ぎた執着心。

 

「ジェームズ。大丈夫かしら?」

 

「ああ、問題ない。少し骨が折れていたが、それも今、治した」

 

 ぎょろりと見開いた目を動かす。見詰めた先に居た神父もやはり、エドワードと同じ力に目覚めている。自然と、少年の口元が歪んだ。

 

 超能力。ハリー・ブランケットの持つそれは、彼の大魔術師アルバート・サイモンですら一度は退かせた程の力である。

 もしかしたら、それが得られるかもしれない。今より強くなれるかもしれない。そんな思考が過ぎった瞬間、自制が難しくなった。

 

「ミスタも、超能力に目覚めていたのですね」

 

「どうやら気絶していた時に、彼女がヒーリングをしてくれたようでね。私も同じ事が出来るようになったのだよ。君のような白魔法でない事が、少し残念ではあるがね」

 

「ちょっと何よ。異端の業だから不満だって言うの?」

 

「……純粋な憧れだよ。敬虔な信徒が用いる主の奇跡を、私は余り扱えないからね」

 

 欲しい。欲しい。欲しいと。執着の中に、狂気が宿る。外れそうになる仮面を必死に抑えながら、ニコルは問い掛ける事を続けた。

 知らねばならない。本当に己も得られるのか。実例が二つもあるとは言え、其処に再現性はあるのだろうか。もしも、手に入れられる可能性があるのだとしたら。

 

「……クーデルカ。こういった事は、他にも?」

 

「稀にあるのよ、相性が良いとね。眠っていた筈の力を、目覚めさせてしまうみたい」

 

「そう、ですか。眠っていた、力が」

 

 ニヤリと壊れたように嗤う。もう限界だった。だからニコルは納めた剣を振り抜いて、驚愕し硬直する彼女らの前で刃を振るう。

 手首を返して、短く握る。掌に喰い込んで血を滴らせる刃を躊躇なく、突き刺したのは己自身。そして腹に突き刺した刃を、そのまま左から右へと動かした。

 

「が――っ、ふ――っ」

 

「ニコル君!?」

 

「何やってるんだよ、お前!?」

 

 信じられない光景に、思考を硬直させるジェームズ。顔に降り注ぐ血液に、エドワードも目を見開いて問う事しか出来ていない。

 一体何がと驚愕する者らの前で、ニコルは壊れたように嗤っている。血相を変えたクーデルカが、慌てて走り寄って来ているから。

 

「何で、何で、こんな事をしたの!?」

 

(何故と? 決まっている。強く成れるかも、しれないからだ)

 

 血に塗れて崩れ落ちるニコルの身体を、抱き留めた女が青褪めた顔で治療する。ヒーリングの光を浴びながら、尚も嗤う少年の心は歪んでいる。

 

 怪物との戦いで手を抜いて、態と傷付くと言う方法もあった。だが次の遭遇が何時になるかも分からなければ、違和感を覚えさせない程度に強い敵が出る保証もない。

 目の前に強く成れるかもしれない方法があるのに、来るかも分からない強敵を期待して待てと言うのか。そんな事、少年には出来なかったのだ。

 

 だから自傷した。腹に剣を深々と突き刺して、胴から二つに割れるような勢いで断ち切ったのだ。全ては唯、強くなりたいと言う願望の為に。

 

(私は高みに到達したい。強くなる為ならば、手段や過程など、どうでも良い)

 

 ニコルは予測していた。何故に此処まで過保護なのかは分からぬが、クーデルカは己の危機を見過ごせないのだろうと。

 だから彼女の前で傷付けば、クーデルカはヒーリングを使ってくれるだろう。そして上手くいけばその時点で、ニコルも超能力を習得できると。

 

 自傷行為と言うにも度が過ぎる奇行を見せた結果として、これまで積み上げた信用や評価を失う事にもなりかねない。最悪は予想に反して、クーデルカが治してくれないかもしれない事。

 そうと分かっていて、それでも我慢が出来なかった。だって手を伸ばせば、闇の鍵とまで言われた力が得られるかもしれないのだ。それでどうして、我慢が効くと言うのだろう。

 

 ニコルは理性的な狂人だ。妖しく輝く緑の瞳は、己が望む為ならば自殺未遂すらも躊躇えない。躊躇わないのではない、躊躇う事が出来ないのだ。

 

「……感謝を、クーデルカ」

 

「ニコル、今は喋らないで」

 

 血に濡れた顔に浮かんでいるのは、仮面ではない正真正銘の笑顔。それが余りに綺麗であるから、却って異常を印象付ける。

 強くなる為ならば、何もかもを捧げてしまえる。それは余りにも過ぎた異常の発露。異形としか思えない精神性。そんな物を見せてしまえば、誰だって恐怖し距離を取るだろう。

 

「貴方のお陰で、私は、少し、進めるかも、しれません」

 

「駄目、喋らないでよ。お願い、だから……」

 

 それはクーデルカも変わらない。恐怖を感じてしまう程に、少年の本性は外れていた。けれどそれが分かったとしても、ヒーリングを行う手は止めない。

 

 少年がこうなってしまった事には、何か理由がある筈なのだ。そう自分に訴えて、己の恐怖を如何にか誤魔化す。

 必ずや味方で居ようと決めたのだろう。そう己に言い聞かせ、必死にヒーリングを続ける女。彼女の瞳からは自然と、大粒の雫が零れ出していた。

 

(ああ、そう言えば……私はどうして、強くなりたいと願ったのでしたっけ?)

 

 血の気が失せた所為で、朦朧とする意識の中。零れる光を目にした少年は、見詰めるクーデルカの表情にふと思う。

 今更ながらに、それを思った。力はあくまで、望みを果たす為の手段でしかなかった筈なのに。一体何時からなのだろう。手段と目的が入れ替わってしまったのは。

 

(まあ、どうでも良い事ですね。力を求める事に、最早理由など必要ない)

 

 霞む視界は暗闇に変わって、音すらも聞こえなくなる無明の中。己を振り返っていた少年は、心の歪みを認めたままに変わらない。

 変われないのだ。何があろうと、少年の心は訴え続ける。力への意志を。どうしても求めてしまうのだ。もっと高みへ、行きたいのだと。

 

 そんな暗闇も、長くは続かない。己の答えを出すと同時に、ニコルは包まれるような温かさを感じた。そして少年の意識は深海のような闇の底から、陽射しのような光の下へと浮上する。

 目を見開けば、ニコルを抱き留めている女の姿。見下ろすクーデルカの涙に滲んだ瞳には、しかし恐怖や嫌悪の色は欠片もなかった。

 

「良かった。本当に……」

 

 心の底から、その感情を吐露するクーデルカ。涙の滲んだ表情に、ニコルは僅か罰の悪さを感じる。しかしそれでも、少年の中身は変わらない。悍ましい程、歪んだままだ。

 

「これで――」

 

 新たな力を手に入れた。大魔術師すら遅れを取る程の、超能力を手に入れられた。

 沸き立つような歓喜と共に、抱き留める女の腕を振り払う。そうして立ち上がった少年は、手に入れたばかりの力を試してみようと意識して――

 

「……これ、は?」

 

 その瞬間に、少年の表情が凍る。身の内より感じる力は、ない。その小さな体躯に宿った能力は、自殺の前と何一つとして変わっていなかった。

 

 ニコルには、超能力の才能はない。元の可能性が零ならば、何をしようと芽は出ない。それに気付いた瞬間に、零れ出したのは失笑だった。

 

「はは、ははは……そうか、そうですか…………はは、ははは」

 

 欲しいと思って逸った結果、積み重ねた全てを失うだけに終わった愚行。今為したのは、言ってしまえばそれだけの事。

 笑うしかなかった。もっと真剣に考えて、もっと潰しが効く方法を選ぶべきだった。だと言うのに目の前に餌を見せられた瞬間、飢えた獣の如き浅ましさを発揮してしまった。その結果が、これである。

 

「ははは、ははははははははは」

 

 心中を満たすのは、己の行いへの後悔だけ。後悔したのは、己の歪みに気付いたから。気付いていて、変われないと認識したから。もしも似たような事態になれば、きっとニコルはまた同じような事をする。

 

 それが無駄に終わるとしても、手段にしか過ぎない物を狂ったように求め続ける。そんな己が愚かと分かって、しかし変わろうとも思えない。それがどうにも、おかしくて仕方なかったのだ。

 

「ニコル」

 

 乾いた声で嗤っていると、振り解いた筈の女が傍に。一頻り自嘲した後で、ニコルは取って付けたような微笑みを浮かべて振り返る。

 仮面を付ける事には慣れている。優等生の振りならば、内心がどれ程に荒れていようと行える。それがもう、意味のない事だとしても。

 

「……ご迷惑をお掛けしました。クーデルカ」

 

 口にしたのは、そんな謝罪が一つだけ。狂態の説明さえもする気がない少年は、今まで通りに返すだけ。

 踏み込む事を許さない。暗に他者を拒絶している。そんな少年と目が合った瞬間に、クーデルカは右手を強く振り抜いていた。

 

 パアンと大きな音を立て、ニコルの頬が叩かれる。口元には作り笑いを浮かべたまま、揺れる瞳で少年は女の顔を見た。

 

「死んでしまうかと、思ったわ」

 

 勝ち気な彼女の頬を伝うは、軌跡を残して落ち行く雫。ポロポロと涙を零しながらも女は、どうしてこんなにも心が揺れているのか分からない。

 出逢ってまだ、そんなに時間が経っていない。少年はまだ、心を開いてくれていない。結局の所、その関係の殆どは女の独り善がりであると言うのに。

 

「死んでしまうかと、思ったのよ……」

 

 だとしても、己の感情は偽れない。失われてしまう事を、クーデルカは悲しいと思った。居なくなってしまうのが、恐ろしいと感じた。だから彼女は、迷える子どもを抱き締める。

 

「もう2度と、こんな事はしないで」

 

「……善処します」

 

 返る言葉は、クーデルカが望んだ物とは全く違う。女の涙の冷たさも、抱き留める腕の温かさも、心を揺るがすだけで傷を塞ぐには程遠い。

 ニコルは変われない。幼い日に走った心の亀裂は、小さな家族の手で一度は塞がれ掛けた。けれど治り切る前に、悪魔の手で瘡蓋を剥がされてしまったから。

 

 ニコルの心は歪んだままだ。それを少年は良しとしている。浅い思考が呼び込んだ、自業自得の結果であるから。この歪みさえも己だと、分かった上で受け入れている。

 だから、変わらない。少年の狂気も、そして女の想いもきっと変わらない。抱き締める熱は、そう思える程には温かかった。

 

「……まさか、彼がな。いや、あの年齢で、あれ程の実力を備えているのだ。それを思えば、歪んでいて当然か」

 

「ロシア正教会って言ってたよな。宗教ってのは、此処まで子どもを歪めるのかよ」

 

「奴らと一緒にしないでくれ。イワン共め。一体何をしてくれたのだ」

 

 そんな二人を見守る男達には、少年が歪んだ事情なんて分からない。想像すらも出来ないだろう。それ程にニコルの事情は、複雑怪奇な物と化している。

 だから彼らは、ある意味で正しくて、ある意味では間違った回答に辿り着く。ロシア正教会こそが、少年を壊した元凶だろうと。

 

 子どもでありながら、圧倒的な実力を有する。そんな戦士を鍛え上げる為に、一体如何なる非道が行われたと言うのか。

 己が想像した光景を思い描いて、悔しそうに拳を握る。許される事ではないと義憤を抱ける彼らはきっと、とても善良な者達なのだろう。

 

「それで、これからどうするよ」

 

「……出来ればもう、ニコル君を戦わせるべきではない。事情は分からぬが、どうにも心が傷付き過ぎている」

 

「だが実際問題、ニコルが居ないのはキツイぜ。ついさっきだってアイツが居なければ、皆揃って炭の山か溺死体にでもなってたろうよ」

 

 そんな彼らにしてみれば、現状はとても歯痒い物だ。戦う為に心を歪められたと言うのなら、そんな子どもは戦場から離すべきである。

 そうは思えど、実際にそれを行えば結果は火を見るより明らかだ。クーデルカもエドワードもジェームズも、生粋の戦士と言う訳ではないのだから。

 

 或いは最初からニコルが居なければ、倒せそうな怪物達を相手に少しずつ成長する事も出来ただろう。逃げ回りながらもその果てに、如何にか出来た筈である。

 だが弱い怪物は既に、ニコルが一掃してしまっている。この先には強力な怪物たちしか残っておらず、戦闘経験を積む事さえも難しいと言う状況だったのだ。

 

 故にニコルを戦わせないで、先に進むと言うのは余りに現実的ではない。彼を戦わせるしかないのだと、嘆息するエドワードとジェームズの認識は一致していた。

 

「取り敢えず機会があれば、アイツの事情も探ってみるかね。おっさんもその時は、手伝ってくれよな」

 

「勿論だ。子どもを導くのは、大人の務めなのだから」

 

 少年が見せた狂態の理由は、一体何に起因するのか。彼らにはまだ、推測する事しか出来ない。

 場合によっては、戦いから遠ざけると逆に不味いかもしれない。故に先ずはそれを知るべきだろうと、エドワード達は結論付けた。

 

「全く、ああしていると普通の姉弟みたいなんだがね」

 

「ああ、実に微笑ましい事だ。クーデルカが、ニコル君の心を癒してくれる事を祈ろう」

 

 エドワードがぼやきながらに、見詰める先にある光景。困った笑みを浮かべるニコルと、彼を優しく抱き締め続けているクーデルカ。

 先の狂態など想像も出来ない穏やかな二人の姿は、きっとそうあるべきだと思える光景だから。男達は、その想いを確かな物とする。

 

「……心の癒しにならずとも、気が楽にはなるだろうよ。アイツら、似た者同士だからな」

 

「そうだな。そう在って欲しいものだ」

 

 心に歪を抱えているのは、ニコルだけではない。クーデルカもそうなのだと、知っているのはエドワードだけである。

 だからジェームズと同じ物を見て、しかしエドワードはもう少しだけ欲を張る。もう少しだけ多くの事を、彼は願い祈るのだ。

 

 ニコルと言う少年の歪みを、クーデルカが癒してくれる事を。そしてクーデルカの抱えた嘆きを、ニコルが埋めてくれる事を。

 エドワード・プランケットは心の底から願う。まだ知り合って間もない彼らはそれでも確かな恩人で、そうでなくとも大切だと思える仲間であったから。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在65点

エドワードが魔法を使えるのは、クーデルカにヒーリングで治療されたからと言うのが原作設定。
ヒーリングされれば誰でも使えるようになるのかは微妙ですが、取り敢えず憑依ニコルには適性がありません。

適性がない理由? ニコルには狂い哭いて欲しかったから……ですかねぇ。



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第18話 祝いと呪いは何処か似ている

主に字が


 渡り廊下を抜けた一行は、新たな棟を散策していた。代り映えのない景色の中、先頭を歩くのはエドワード。最後尾に居るのはジェームズだ。

 大人としての意識を新たにし、張り切っている男達。そんな彼らに囲まれた二人は、親や教師とそれに引率される子どものように、片手を繋いで歩いていた。

 

「あの……そろそろ離して頂けませんか?」

 

 手を引かれて歩くと言うのは、感情的にも合理的にも喜ばしい事ではない。敵襲が起これば対応し辛く、そうでなくとも気恥ずかしい。

 だからニコルは先から何度も離して欲しいと言っているのだが、その度に返るのは異論の余地も挟ませない単純な拒絶である。

 

「駄目よ」

 

 口元は笑っているのに、目が笑っていない。そんな笑顔で返すクーデルカは続けて語る。手を離せば何をするか分からない以上、離す心算はないのだと。

 既に前科がある以上、ニコルとしては何も言えない。説得の言葉も梨の礫であれば、もう諦めるしかないのだろう。

 諦めて嘆息した少年の姿に、クーデルカは笑みを深めてその手を引く。繋いだ手の温かさを感じながら、彼らは進むのであった。

 

「しかし、何と言うことだ。この建物は、死体と白骨で溢れ返っている」

 

 道行く途中でうんざりとした声を漏らしたのは、最後尾を進むジェームズだった。彼が言葉にした通り、此処には死骸の数が多過ぎる。

 まだ探索を始めて一時間と少し。だと言うのに100や200で済まない程の白骨死体が見付かっているのだから、吐き気を催すのも当然だ。

 

 気持ち悪さを隠さぬ司教の言葉に、同意を感じないのはニコルくらいだ。先頭を進んでいたエドワードは当然、クーデルカも次第と顔から笑みを消していく。

 揃って気分を陰鬱とさせながら歩き続けて、辿り着いたのは一つの部屋。エドワードが扉を開いた瞬間、吹き付ける風のように溢れ出したマリスに皆が揃って表情を歪めた。

 

「感じるわ。部屋中が霊気でいっぱい。頭が痛い」

 

「何か、嫌な雰囲気だな。これもマリスって奴なのかよ」

 

 吐き気を催す程に濃厚な悪意の念は、しかし最低な事に此処が元凶なのではない。

 地下から溢れ出したマリスが流れ込み、偶然その一部が此処に溜まってしまったと言うだけなのだろう。例えるならば氾濫した河の水で、河川敷に水溜まりが出来たような物なのだ。

 

「此処に来る前にも思いましたが、このマリス濃度は余りに異常です。恐らくは聖人ダニエルが鎮めたと言う、地に巣食う魔物の瘴気。それが漏れ出しているのだと思われますが」

 

「それにしたって、切っ掛けくらいはあった筈よ。鎮めた封印が解けてしまった、その切っ掛けがね」

 

「パトリックの行いが、その切っ掛けになったと言う事か。死者の蘇生が、この結果を呼んだと言うのならば、天地の理から外れる行為はやはり許されないのか……」

 

 エミグレ文書による死者の蘇生。その儀式の失敗だけで、これ程のマリスが溢れ出しているのはやはり異常だとニコルは思う。

 

 ニコルが知る限り原作において死者の蘇生が行われた場所は、ロンドンの孤児院とロジャーの実験室にガーランド邸の三ヶ所。

 その内対策が万全とされていたであろうロジャーの実験室は別としても、残る二ヶ所のマリス濃度はこれ程ではなかった筈だと。

 

 エミグレ文書だけで、この状況は作れない。ならば地下にあると言う封印された物が、何か関わって来るのだろう。

 そう推測するニコルに対し、クーデルカが補足する。根本の原因はそうだとしても、それだけではないのだろうと。

 

 彼女の瞳には映っていたのだ。多くの恨みを抱いた霊が。溢れるマリスの海に漂う、死者の群れが見えている。

 まだ知らない事が多くある。最も真に迫っているニコルですら、全てを掴めた訳ではない。だがこの地に漂う霊魂たちは、その真実を知っているかもしれない。

 

「これだけ霊気が強ければ、降霊が出来る筈。漂っている霊魂をあたしの中に呼び寄せて、話をさせてみれば何かが分かるかもしれないわ」

 

 だからクーデルカは提案する。降霊術を使用して、死者の言葉を聞く事を。この地で何が起きたのか、それを知る事が真実への一歩なのだと考えて。

 

「余りお勧め出来ませんね。降霊術の類は、術者への負担が大き過ぎます。ましてや、これ程のマリスの中に留まっている死霊となれば、怪物に変じる一歩手前の状況です。話が通じる保証もない」

 

 そんな女の提案に、即座に否と返すはニコル。術の危険性を語る彼の姿に、お前がそれを言うのかと言う皆の視線が一瞬集った。

 言外に責める視線を前に、気不味そうに目を逸らしたニコルは咳払いをして誤魔化す。そんなブーメラン発言とは言え、彼の語る言葉も確かに事実だ。

 降霊術は危険が大きく、それで居てメリットが薄い。確かな情報が集まるとも限らないのだから、時間の無駄に終わる可能性が高かった。

 

「悩ましいな。主に仕える者としては、ニコル君に賛同するべきなのだろう。死者の平穏を妨げるなど、実に罪深い事だ。更に言えば、無意味に終わる可能性も高いとなれば……」

 

「俺はやるべきだと思うね。今の俺達には、情報が足りないんだ。なら兎に角、出来る事から総当たりをしていくべきだろ?」

 

 降霊術の詳細を聞いて、悩ましいと首を傾げるのはジェームズだ。立場的には否定せねばならず、論理的にも無駄が多いとは分かっている。

 けれど心境的には賛同よりなのだろう。この場にジェームズが居る理由は、愛した女性の助けとなる為。故にエレインの為ならばと、心が求めてしまっている。

 

 対してエドワードは、気負う事なく即答する。悩む素振りすら見せない男にとって、人生とはギャンブルだ。多少のリスクは飲み込まなければ、何も得る事など出来ない。

 今は真面な情報すらもないのだ。ならば危険があるのだとしても、先ず知らねば進めない。だからリスクがあるのだとしても、思い付いた事からやってみるべきなのだと。

 

「賛成2の、中立1に反対1。決まりね」

 

「大した成果は、得られないと思うのですが」

 

「拗ねない拗ねない。心配してくれた事、嬉しくは思ってるから」

 

「……別に、心配して言った訳ではありません」

 

 全会一致と言う訳ではないが、過半数は獲得した。故に始めようと語るクーデルカ達に、ニコルだけは僅か不満顔だ。

 それを心配からだろうと受け取って、クーデルカは笑って少年の頭を撫で回す。グルグルと物理的に振り回されたニコルは、困ったように嘆息するのであった。

 

「じゃあ、始まるわよ」

 

 そうして、クーデルカは客間のベッドに腰掛ける。瞳を閉じて、深く呼吸を吐いていく。

 吐息と共に心までも空にして、全身で感じた者らを受け止める。揺蕩う死者を、内へと降ろした。

 

「見える。鎖と、闇と、死が……そして、嗚呼、無数の……まるで、地獄」

 

 閉じた瞳の裏側に、浮かぶは石で出来た牢獄。重い金属音を立てる鎖に、繋がれた沢山の人々。

 彼らは罪人だ。彼女らは罪人だ。真実はどうであれ、罪人であると定められた者達。それが、赤き海に沈んでいく。

 

「幽閉されて、拷問の挙句、何十人も、何百人も、何千人も……」

 

 老若男女すら問わず、多くの者らが幽閉された。ありもしない罪に真実を語れと拷問されて、何も知らないからこそ何一つとして語れない。

 怨嗟を叫びながら解体された老人が居た。泣き叫びながら犯される花嫁衣裳の女が居た。生きたまま燃やされる少女が居た。そして、そして、そして――

 

「殺せ!!」

 

 クーデルカの口から、彼女の物とは異なる重低音が響く。彼女の内に宿った老人が、彼女の身体を動かし叫んでいた。

 

「奴らはわしの指を切り落とした! わしの足を潰した! わしの頭を砕き、臓物を引き摺り出した!!」

 

 老いた男は、罪など何も犯していないのに捕まった。唯裕福であったから、彼の持つ資産を狙った誰かの手によって。

 囚われて、壊された。遊び半分の暴行を受け続け、振るわれる暴力は少しずつ過激に。果てには生きたまま、意識あるままに身体を解体された。

 

「奴らはあたしの全てを奪って、此処に閉じ込めたの! そして、身体を切り刻んだ! 切り刻んだのよ!!」

 

 声が変わる。金切り声で叫ぶ女の声に。彼女にもまた、罪などない。結婚式の最中に、彼女は此処に連れ込まれた。

 彼女の容姿が美しかったから。新郎は目の前で殺され、彼女は男達に回された。果てに生きたまま、身体を足から切り刻まれて絶命した。

 

「嗚呼、目が、耳が! 焼ける。助けて! 助けて!!」

 

 声が変わる。小さな子どもの声に。少女に罪など在る筈ない。些細な物ならば兎も角として、大きな罪など為せる年ではなかった。

 唯、彼女の家に貴重な芸術品が眠っていたから。奪う過程で、彼女の親が殺された。ついでとばかりに彼女も囚われ、特に理由もなく全身に火を付けられた。

 

 それら全てが、この場所で起きた事。数百年前、暗黒時代からずっと。このネメトン修道院は、罪なき罪人達の処刑場だったのだ。

 

「なんて、酷い。ここは牢獄だったんだわ。何百年もの間、密かに。権力に歯向かう者や、内通した者を……閉じ込めて、殺した」

 

 悍ましい悪行。それを為したから、闇の封印が解かれ掛けていたのか。それとも闇が封じられていたから、この地に地獄が出来たのか。

 卵か鶏かの問い掛けの如く、其処には答えがないし答えを出す意味もない。唯此処にそういう地獄が在ったと言う、それだけが事実なのである。

 

「クーデルカ」

 

「駄目だ、近寄るな! 貴様! 呪われろ!!」

 

 荒い息を整えるクーデルカだが、その身は今も亡霊達に奪われている。疲弊し切った彼女に近付いた瞬間、老人の声が生者への恨みを叫ぶのだから。

 

「貴様こそ、黙ってその身体から立ち去れ」

 

 けれど所詮は力なき悪霊。憎悪を叫んだ相手が悪い。ニコルが声と瞳に魔力を込めて一喝すれば、睨まれた霊は力尽くで追い払われる。

 

 無理矢理に依り代から追い出され、消滅する寸前まで光の力を叩き込まれた悪霊たち。彼らは嘆くように怯えるように、逃げ惑って散っていく。

 その姿に胸がすくような思いがして、ニコルは意味も分からず首を傾げる。被害者である悪霊たちを痛め付ける事に、歓喜を抱く理由なんてなかったから。

 

 悪霊を追い出せずに苦しむクーデルカの姿に、思う所があったからではないのだとは思う。だが全く無縁であったかと問われれば、まだ答えを返せそうにはなかった。

 

「……ありがとう。また助けられたわね」

 

「いえ、お気になさらず。少しゆっくりと、お休みください。環境は今、整えますので」

 

 今にも倒れそうな程に、青白い顔で感謝を告げるクーデルカ。その顔を何だか今は余り見ていたくなかったから、ニコルは懐から試験管を一つ取り出す。

 空間を魔術で歪めて、見た目以上に物が入るように変えている修道服の内袋。これはその中で保管していた物の一つ。ニコルでも瓶一つ分しか作れなかった貴重な品だ。

 

「青い、液体? ニコル、そいつは」

 

「メディ系の生命力を活性化させる薬草を煮詰めた物に、生き物の血を一滴混ぜて生み出した液体。それをある特殊な力場に、数週間放置する事で出来る秘薬です」

 

「特殊な、力場かね。随分と神聖な力を感じるが」

 

「ウィルと呼ばれる、マリスとは対を為す力。希望や祈り、願いや歓喜、夢や愛と言った正の感情が集まった物です。今回は、ポクロフスキー大聖堂の至聖所をお借りして作りました」

 

 興味深そうに見て来るエドワードとジェームズに言葉を返しながら、ニコルはコルクの蓋を取る。

 聖なる力を凝縮させた液体は、唯それだけでも周囲のマリスを浄化していく。けれどマリスも、負けずと強まっていく。

 

 ウィルはマリスの対であり、マリスはウィルの対である。詰まりマリスはウィルで浄化できるが、逆もまた然りと言う訳だ。

 少量のウィルでは、マリスを活発化させてしまうだけ。だから一滴二滴では、逆に怪物達を引き寄せる。先にニコルが、誘引剤として利用したように。

 

「これを大量に用いると、対を為す力であるマリスを浄化する事が出来ます。逆に少量だと、マリスを活性化させてしまうので真逆の効果を発揮してしまうのですが」

 

 だからニコルは躊躇わず、瓶を逆さに引っ繰り返した。扉を閉めて外部と区切っている以上、この部屋だけならば浄化し切れると。

 金額にすればこの瓶一本でも、城が一つ二つは容易く建つであろう程の物。それを惜しげもなく使い切った後、ニコルは香炉を取り出し設置した。

 

「後は心を落ち着かせる香を炊けば、暫く身を休めるには相応しい環境となるでしょう」

 

 香炉に注いだサンライズオイルも、これで品切れ。全く一晩で余りに手痛い出費だ。何故ここまでしてしまうのかと困惑しながら、それでもニコルは蝋燭に火を付けた。

 

 マリスを浄化された室内を、癒しの香が満たしていく。安らぎに満ちた清涼な風に、エドワードとジェームズも楽になったと笑みを零した。

 

「随分と空気が変わったな。まるで、高原に居るみたいに清々しい」

 

「ああ、神聖で良い空気だ。ニコル君。他の場所も、同じように浄められないのかね?」

 

「……残念ながら、ウィルは抽出するのが極めて難しいので。私も今ので、全て使い切りました」

 

「都合の良い話はない、って訳か。まあ、分かり切っていた事さ」

 

 男達と会話を交わしながら、クーデルカの容体を確認する。青白い表情は、少しずつだが色を取り戻している。

 このまま少し休むと良いとニコルに言われて、素直に頷いたクーデルカ。彼女はベッドに横になると、その瞳をゆっくり閉じた。

 

「それで、クーデルカが動けるようになるまでどうするかね? 私達も、少し仮眠を取るべきかな?」

 

「いえ、今の内に話を整理しておきましょう。ミスタには、まだ伝わっていない事もありますから」

 

「俺としては取り敢えず、最初にお前さんの目的が知りたいがね、ニコル」

 

 自分達も休むかと、語るジェームズにニコルが否と首を振る。情報を共有しておきたいと言う彼に、エドワードは此処だと小さく笑って口を挟む。

 話の流れ的に、今なら少年の過去に踏み込める。予め話を通されていたジェームズは、成程と一つ頷き話を合わせた。

 

「確かに、そうだな。私は書の回収とエレインの為に。クーデルカはエレインの声を聴いて助ける為に。となれば目的が不明なのは、残る君達二人だけだ」

 

「いざと言う時、目的の不一致は不味いだろ? ならそうなる前に、襟を開いて協力し合えるようにしようぜ?」

 

「……ええ、まあ確かに。ですが、それなら、どちらから話しますか?」

 

「言い出しっぺだからな、俺から行くさ」

 

 予定通りにニコルが乗った。ナイスな展開だと内心で喝采しながら、エドワードが話の舵を取る。

 先ず己からと口にするのは、自分の事情が一番単純だと知るから。そして先に語った方が、話の流れを制御し易いからである。

 

「って言っても、俺の目的はニコルやクーデルカにも言った通り。金になる噂を聞き付けたから、貧乏人としてご相伴に与りたいってね」

 

「何と罰当たりな! それでは盗人と何も…………いや、すまない。こういうのが、不味いのだな。此処では」

 

「いや、まあ良いさ。俺自身、褒められた事じゃないって自覚はあるし。神父さまなら、説教が癖になってるんだろ」

 

 何時も通りのやり取りは、半分は演技で半分は本気だ。何処までいっても、エドワードとジェームズの相性は水と油なのである。

 混ざり合わないし、分かり合えない。だがしかし、仲間として同じ方向を向く事ならば出来なくもない。そんな関係にしか成れぬのだ。

 

 友には成れぬが、仲間には成れる。そんな男に向かって笑うと、エドワードはジェームズへとバトンを渡した。

 

「で、そんな説教臭い神父のアンタは。前にも言ったけな。エミグレ文書とやらを回収しに来たんだろ」

 

「司教だ。間違えないでくれ。……パトリックとエレインに会いに来た、と言うのも理由の一つではあるがね」

 

 既に皆が周知であるが、と前置きをしてから続けるジェームズ。彼の目的は公人としての物だけでなく、私人としての物もある。そしてどちらかと言えば、後者の方が今は強い。

 

「エミグレ文書を回収するのは重要だ。だがそれ以上に、私はパトリックの奴を問い質したい。そしてエレインを救いたいのだよ」

 

 ジェームズが最重要と捉えているのは、古い馴染みとの因縁を清算する事。好敵手であった友の愚行にけりを付け、今も嘆いていると言う愛しい人を救う事。

 そう語り終えたジェームズは、エドワードへと視線を向ける。男の視線に一つ頷き、エドワードはニコルへと言葉を投げた。

 

「クーデルカは、助けを求められたから来たと言う話だ。んで、残るニコルはどういう理由で此処に来たんだ?」

 

(……さて、どう答えましょうか。私の目的は、ジェームズと被ってしまうのですよね)

 

 問われてニコルは、僅かに考え込む。全てを話すと言うのは論外だが、全く話さないと言うのも問題だろう。

 ならば何処まで語るのかと。思考する少年の目的は、大きく分けて二つである。ジェームズと同じく、それは私情と任務に分かれる。

 

 どちらを語るべきかと言えば、考えるまでもなく任務の方は話せない。奪われた書を探すジェームズの前で、こちらに寄越せと言う訳にもいかないだろう。

 盗まれたとは言え三冊の秘術書は、今もバチカン――カトリック教会の所有物。表面上とは言え正教会に属するニコルが奪おうとすれば、最悪は宗教的な対立にも発展しかねない。

 

(最悪、エミグレ文書は渡してしまっても構わない。三冊の内のどれでも良いのだから、エミグレに拘る理由もない。と、なれば――)

 

 エミグレ文書の事を語れば、確実に揉め事の火種になる。そして他にも三冊あるのだから、此処で得られなくても他のどちらかを狙えば良い。

 ならばエミグレ文書について語るは下策。ジェームズが法王庁の所属である以上、残る二冊の盗難についても知るであろうからそちらも言えない。となれば問題なく語れる理由は、残る一つだけである。

 

「私の望みは、自己の研鑽です。この地に居ると言われる、ある人物を探しております」

 

 己の私情。強くなりたいと言う望み。その為に様々な技術や知識が欲しいから、この地に教えを乞いに来た。

 真実の半分を語っていないだけで、一切嘘は吐いていない。そんなニコルの言葉に、エドワードは首を傾げて問い掛ける。

 

「ある人物? そいつは一体」

 

 こんな僻地にある古びた修道院に態々、ニコルが教えを受けたいと語る程の人物が居るのだろうかと。

 確かに居るのだ。世界を洋の東西で色分けしたならば、西洋圏で最高位と断言出来る程に優れた大魔術師が。

 

「ロジャー・ベーコン。数百年と生きた伝説の大魔術師。彼の教えを受け、その叡智の一端を得たいのですよ」

 

 その名をロジャー・ベーコン。単純な戦闘力では弟子であるアルバートや、彼を倒したラスプーチンに劣るであろう。

 だが700年を超えて生き続ける怪物染みた老人は、知識の量と言う一点において他の追随を許さない。魔術師としては、最高位の格を有している。

 

 仮に術師としての格で並ぶ者が居るのだとすれば、東洋の最強格たる九天仙術筆頭真王・西法師だけしかいないであろう。

 それ程に優れた大魔術師が、この英吉利はウェールズに隠遁しているのだ。力を欲するニコルとしては、是が非でも逃せない相手である。

 

「ロジャー・ベーコン? まさかそれは、13世紀に生きた伝説の魔術博士かね? 1210年生まれの老人が、1898年の現代にまで生き延びていると? 一体何の冗談だ!?」

 

「……そうですね。噂話に、過ぎないのかもしれません。此処に居ると言う保証もない。ですが――私は今よりも、強くなりたいのです。その為ならば、真偽の分からぬ噂だろうと調べもしますよ」

 

 ロジャーの名と伝説を知るが故に、信じられないと語るジェームズ。彼に返すニコルの言葉は、嘘偽りのない真実だ。

 原作知識故にこの周囲に居るであろうと知ってはいるが、そんな確信などなくとも探しただろう。

 真偽の分からぬ噂であっても探し求めたであろう程に、ニコルは力や叡智に対する執着が強いのだ。

 

「……もう十分強いだろうに。それ以上を望むのかよ」

 

「足りませんよ。ええ、全く以って足りていません。この程度では、我が母の未練を果たせない」

 

 もう十分だろうと言う呆れすら混じった言葉に、首を振って否定を返す。そして自然と紡いだ言葉に、ニコル自身思い出す。最初に力を求めた理由を。

 

 母の未練を果たし、彼女の願いを叶える為。自分自身が、本当の意味で歩き出す為――――ニコラス・コンラドは、グレゴリオ・ラスプーチンを倒さねばならない。

 

 その為にも、今よりも力が必要だ。目的を確かに再認識したからこそ、力を求める意志は強くなる。

 狂ってしまいかねない程に、或いはもう狂い果てている程に。足りない足りない何もかもが足りていない。

 

「母が願い。私が求めた。高みは未だ、遠いのです。ならばどうして、こんな所で立ち止まれようか」

 

 微笑むニコルが瞳に宿した色を見て、エドワードとジェームズはこれがニコルの歪みかと理解する。

 強くなりたいと言う想い。そして、母の未練と言う言葉。それこそが、ニコルを縛り付けている無形の鎖であったのだと。

 

 知ったからと言って、直ぐに如何こう出来る訳ではない。だが知らねば何も出来ぬのだから、これは一歩前進だ。

 そう男達が思うのは、彼女が聞いている事に気付いていたから。ニコルの位置からでは見えないが、目を開いていた女もその言葉を確かに聞いたのである。

 

「母の未練、か……」

 

 小さく舌の上で呟いた言葉は、誰にも届かず溶けていく。瞳を閉じて少しした後、クーデルカは上体を起こした。

 

「クーデルカ? もう良いのですか。折角ですから、もう少し休んだ方が」

 

「いえ、もう大丈夫よ。これ以上ゆっくりしているような、時間も余りないでしょうし」

 

 ベッドの上に腰掛けて、ダークブラウンの髪を手櫛で梳いているクーデルカ。彼女に向かってさり気なく、ニコルはその手を差し出した。

 自然な形で手を差し伸べた少年は、果たして気付いているのであろうか。その手を握り返して、立ち上がるクーデルカは静かに想う。

 

(ニコル。お母さんは、貴方を愛してくれたのよね?)

 

 思い出すのは、以前に交わした彼とのやり取り。愛されていたから、哀れまれる理由はないと。愛された事のない女は素直に、その言葉を信じていた。信じていたのだ、つい先程までは。

 

(ならどうして、そんな辛そうな瞳でお母さんの事を語るの?)

 

 信じられなくなったのは、母の未練の語る少年の瞳が辛そうに見えたから。故人を悼む、悲しさには到底見えない色をしていたから。

 母の愛と言う想いに、縛られているのだとしたら。それは愛ではなくて、呪いと言うのではないか。そう思ってしまうのは、愛と言う物を知らないからか。

 

 クーデルカには、分からない。彼女にはニコルの想いが、分かりそうで分からない。それがどうにも、歯痒くあった。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在65点

主人公の癖に過去回想とかがなかったニコルの過去が少し判明。
彼の幼少期は公式でも余り明かされていないので、大部分が当作の捏造となっています。

公式設定資料集などから確定している情報は以下の二点。
・父親はロシア皇帝。母親は宮中に出入りしていた貴族の娘。
・母の死後、身寄りがなくなりラスプーチンに引き取られる。

年齢的に考えると父親が皇太子だった頃に生まれているので、どう考えてもロシア的には厄ネタでしかないニコル。
アレクセイが生まれるまで、コイツしか皇帝一家に男子が居なかったと言うのも厄い。
更に宮中に出入り出来る程の有力貴族の孫にあたるのに、身寄りがないと言うのも中々にドロドロしていて想像の余地が広がります。



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第19話 揺らぐ心

外道の目にも涙? あるの? そんなの?


 長い廊下の曲がり角、其処に一人佇む小さな人影。探索を続ける一行は、其処で新たな出逢いを迎える。

 事の善悪を問うのであれば、恐らく後者に分類されるのだろう。これはそんな悲しくて、やるせない結末に終わるであろう出逢いであった。

 

「あれは、人か? 何故、こんなところに」

 

 青い瞳で冷たく見詰めてくる、銀糸の長い髪をした少女。陶器のような肌艶に、白く豪奢なドレスを纏う姿はまるで出来の良い人形のようで。

 何故こんな所に居るのだろうかと、ジェームズは思わず吐露してしまう。この場には似付かわしくない姿は、明らかに何処か異常であった。

 

「言ってる場合か! こんな場所に子どもが一人じゃ危ないだろ。少し、声を掛けてくる!」

 

「しかし、エドワード。彼女(アレ)は――」

 

 だが霊的に鈍感な青年だけは、その違和感に気付けない。ニコルとそうは変わらない年頃の少女が一人で居るなど危険に過ぎると、エドワードは正義感に駆られて歩を踏み出す。

 そんな彼を一瞥だけして、身を翻した少女は奥へと。歩き出した姿に舌打ちして走り出すエドワードは、呼び止める声にも止まらなかった。

 

「おい! 待てよ、おい!」

 

 追い掛けるエドワードと、歩き去る少女。成人の男が駆け足で迫れば、歩幅の差もあって直ぐに追い付く筈であろう。

 だが現実はそんな男の予想に反して、何時まで経っても追い付けない。何時しか全力疾走していたと言うのに、歩いている少女に追い付けない。

 

 明らかにおかしい現象だ。しかし何故か、それにも気付けぬままに追い掛け続けるエドワード。

 気付くと言う思考すら奪われた彼と少女の追いかけっこは、数分程で終わりを迎える。唐突に少女が立ち止まったのだ。

 

 漸く追い付けたエドワードは、立ち止まった少女の肩へと手を伸ばし――突如開いた大きな穴に、足を踏み出し飲まれ掛けた。

 

「うおっ!?」

 

「エドワード!」

 

 つい先程まで普通に道が見えていた筈なのに、気付けば周囲の床が崩落していた。穴の底へと落下し掛けたエドワードを、駆け寄って来たクーデルカとニコルが支える。九死に一生を得た男は下を覗いて、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

 眼下に露わとなった館の一部は、風化が激しく昨日今日に崩れたとは思えぬ状態である。化かされたような気分だが、その感覚こそ的を得ているのだろう。

 

〈死ねば良かったのに。落ちて、死ねば良かったのに〉

 

 エドワードは化かされたのだ。小さく憎悪を零しながら、空に溶けて消えていく白い少女の亡霊に。

 館が壊れていないと言う幻覚を見せられて、助けようとした善意も利用された。その事実に、引き上げられたエドワードは盛大に舌打ちした。

 

「亡霊、か?」

 

「ですね。それも生者を憎んでいる様子です」

 

「詰まりは敵と言う訳だ。少女の形をした怪物とは、厄介な」

 

「っておい! 気付いてたなら、教えてくれよ!」

 

「止める声を無視して走り続けたのは、一体何処の誰ですか?」

 

 苛立った口調で愚痴を呟くエドワードに、爽やかな笑顔のまま冷たく返すニコル。十字架を手に、警戒心を強めるジェームズ。

 三人とは異なって、クーデルカは崩落箇所に視線を向ける。片膝を付いて下を見詰めて、出した結論はこの先にも行けそうだと言うものだ。

 

「この下にも、道は続いているみたいね。梯子か何かがないと、墜ちて死にそうな高さだけど」

 

「他の道はなさそうだな。しかし不便な建物だ。管理人夫妻は、一体どうやって管理していたのだろう」

 

「単に何もしてなかっただけでしょ。ちゃんと管理してたのなら、白骨死体が散乱していると言うのはおかしいわ」

 

 マスターキーを所持していたとは言え、一々不便な作りをした建物だ。どうやって此処で暮らしていたのかと、ぼやくようにジェームズが呟く。

 それに素っ気なく返してクーデルカは、立ち上がって周囲を見回す。使えそうな物は無さそうだと嘆息した彼女の胸中を察したか、立ち直ったエドワードは努めて明るく口にした。

 

「取り敢えず、周囲を探してみるかね。メンテナンス用の梯子くらいは、きっと何処かにあるだろうさ」

 

「……近くにあると良いんだけど」

 

 走り抜けて来た道を、引き返して歩いていく。途中に見えた扉を開けば、溢れ出して来るのは溜まって淀んだマリスの風だ。

 霊気に当てられ、倒れそうになるクーデルカ。ふらつく女を傍に居たニコルが支えると、彼女は寄り掛かるように少年を抱き締め口にした。

 

「また此処も、霊気が濃いわ。気持ち悪くなってくる」

 

「クーデルカは休んでいたまえ。ニコル君は彼女の傍に、君は私達に何かあった時に備えてくれ。私とエドワードで、部屋の中を探す。良いかね、エドワード?」

 

「構わないさ。気分の悪いレディに仕事をさせるのは紳士じゃない。それにニコルも一緒に探して、ヤバい時のフォローが間に合わないってのが最悪だからな」

 

 まだ本調子ではないのだろうクーデルカに、無理をさせて倒れて貰う訳にはいかない。それにニコルの為にも、二人は一緒に居させた方が良い。

 男達はそう判断すると、少年が有無を言う前に捲し立てて動き始める。手分けして室内を探し始めた二人の姿に、ニコルは諦めたように嘆息する事しか出来なかった。

 

「ねぇ、ニコル」

 

「何ですか、クーデルカ?」

 

 向き合う姿勢から、背を預ける形へと。身体を動かせたのは、其処までだった。クーデルカは抱き着いたまま離してくれない。

 先に狂態を見せてしまった事は、つくづく失態だったとニコルは猛省する。

 払った物が痛みと血肉と信用で、得た物が自由を奪う拘束と美女に抱き着かれると言う気恥ずかしさでは全く以って割に合わない。

 

 もしも次があれば、その時はもっと巧くやろう。そう考えているニコルへと、クーデルカが声を掛ける。

 少年の柔らかな髪を撫でながら、女が問い掛けようと思ったのは先の一件。母親の事を辛そうに語る少年に、問い掛けたいのは一つの疑問。本当に少年は、母に愛されていたと言うのだろうかと。

 

「……ごめん。何でもないわ」

 

 けれど、聞けなかった。少しだけ、その結果が恐ろしいから。クーデルカは何でもないと口にして、不思議そうに見上げる少年の頭を撫で続けていた。

 

「此処も駄目か。おい、おっさん! そっちは何かあったか?」

 

「いや、こちらもないな。と言うかエドワード。何故君はそのタンスを調べない? 如何にも何かありそうではないか」

 

 一方で、男達は家探しを続けている。その最中、如何にも怪しいタンスへと手を出さない事に焦れたジェームズが何故と問い掛ける。

 対するエドワードは、嫌そうな顔を隠さない。絶対に出る。そう確信していたからだが、さりとて他に見付からない以上は調べない訳にもいかない。

 

「如何にも何かありそうだから、何だがな。まあ、他に何もなさそうだし……仕方ないか、ええい!」

 

 唾を飲んで覚悟を決めると、エドワードは両手でタンスを開く。その途端、タンスの中に入っていたモノが彼に向かって倒れ込んで来た。

 

「うおっ!? し、死体が落ちてきやがった!?」

 

「ウェディングドレスのミイラ、か? まるで神前の如く、熱烈な抱擁ではないか!?」

 

「言ってる場合か!? って言うか、コイツ動いてやがる!? 抱き付いてくる、力が……ニコル、何とかしてくれ!?」

 

 足のない、花嫁衣裳のミイラ。倒れ込んで来たそれがエドワードの身体に抱き着いて、必死に縋り付いて全く離れない。

 枯れ細った指先で男の背中を掻き毟り、歯の無い口で男の首に食らい付く。歯がない為に甘噛みにもなっていないが、だからこそ喜色悪さに総毛が立った。

 

「そのまま、動かないでいてくださいよ! はぁっ!!」

 

 クーデルカの拘束を擦り抜けたニコルは、大地を蹴ってミイラの抱擁を受けるエドワードの下へ。そのまま動くなと語ると同時に、振り抜かれた銀の剣閃は誰の瞳にも映らない。

 鞘に納めたまま、擦れ違いに居合い切りを行ったのだ。そのまま走り抜けたニコルの後方で、両腕を二の腕から切り捨てられた花嫁のミイラは地に落ちる。

 

 怪物を倒す手段として、抜刀術を選んだ理由は特にない。しいて言えば両刃の西洋剣では扱い難く、習得難易度が高いから。

 まだニコルは未熟であると自認している。今の抜刀でも引き抜いた己の刃で、掌の母指球を浅く切り裂いてしまったのだから尚更だ。

 

 故に戦う価値もない木っ端であれば、練習台になって貰う。どの道不意をついて、人の一人も殺せぬ程度の怪物だ。

 態々狩り取る価値はなく、ならば手間を掛ける分だけ精々己の技量を磨く糧となってくれ。どうせ既に死んでいるのだから、どう扱おうと構うまい。そうした冷たさは、ニコルの偽らざる本心だった。

 

「……この子、もしかして。さっき、あたしの中に入って来た」

 

 死者に冷たい少年とは対照的に、この場で最も強い霊感を持つ女は死者の嘆きに敏感だ。床に転がり落ちた花嫁の残骸を見詰めて、クーデルカは嘆くように呟いた。

 

 手足を失くしたミイラの内で、蠢く霊魂の残滓には覚えがあった。つい先程に視た光景。あの地獄の中に居た誰か。その末路を思い出し、口元を抑えた女は再認する。此処は地獄に似ていると。

 

「惨いわ。結婚式の途中で、幸せになれる筈だったのに」

 

 恨み辛みを叫んだ先の怨霊とは違い、このミイラの中に残る欠片は夢を見ている。教会の鐘の下、愛する人と寄り添う夢を。

 怨念と化した欠片から凄惨なその後を視ていたクーデルカは、涙を零しそうになった。余りに哀れが過ぎるから。どうして幸福の絶頂から、転落せねばならなかったのだろう。

 

「クーデルカ、霊視は余りしない方が良い。どれ程に同情すべき過去があろうと、今は生者に仇なすだけの怪物なのですから」

 

 理由なんてない。理不尽とは、そういう物だ。だから知っても意味がないと、ニコルは告げる。知っても無駄に心を傷付けるだけならば、唯の怪物として終わらせてしまえば良いのだと。

 

「神の御許へ、逝きなさい」

 

 語り少年は容赦なく、嘗ての被害者を消滅させた。道に転がる塵屑を、拾ってゴミ箱に片付けるような気安さで。

 一瞬で浄化された怪物が、後に遺すは古びた花嫁衣裳だけ。所々が破れた白い布を見詰めたまま、クーデルカは崩れ落ちるように座り込んだ

 

 女の想いは、少年とは違う。知っても意味がないのだとしても、覚えておいてあげたかった。何の救いもないなんて、それは悲しいではないか。

 だから吐きそうな顔をしていた女は、何の救いもなく消えてしまった霊魂の名残に顔を俯けた。

 

「せめて、冥福を祈るとしよう。彼女は、これで漸く救われたのだ」

 

「……理屈では、分かっているわ。けど…………いえ、ごめんなさい」

 

「いや、無理もあるまい。我々には見えないものまで、君の目には映っているのだろうからね」

 

 座り込んだクーデルカの肩を、ジェームズが優しく叩く。死者の嘆きを聞けないからこそ彼は、容易く救われたと語れるのだと自覚している。

 本当の意味で、クーデルカの気持ちに共感する事は出来ない。そう自覚するからこその言葉は、少しだけ女の心を楽にした。

 

 そうして少し、気を取り直したクーデルカはその背を追う。まるで今の女の顔を見たくはないから、距離を取ったかのような少年の背中を。

 追い掛けた先で修道服の少年は、エドワードと漫才のように気が抜けるやり取りを交わしていた。

 

「どうでも良いが、これも取ってくれよ!? この腕、張り付いて離れないんだがっ!?」

 

「中々のドンファン振りじゃないですか、エドワード。彼女も一緒に居たいと言っているようですし、そのまま連れて行って差し上げたら如何ですか?」

 

「ふざけんなよ、ニコル!? せめて肌艶が良くて、血の通っているお嬢さんなら考えたけどな!!」

 

 交わす軽口は子どもの如く、まるで仲の良い友人同士のようで。少しは何か、影響を与えているのだろうかと思う。

 先の冷徹な行いも、死者の為に無理をしようとしていた女に対する不器用な気遣いだったのではと。そう思ってしまうのは、流石に都合が良過ぎるだろうか。

 

 だとしても――クーデルカは信じたかった。

 

(三歩進んで、二歩戻るような歩みだとしても。あたし達は、少しずつ近付いている。そうよね、きっと……)

 

 優等生然とした仮面の笑顔ではなくて、軽口を交わし合っている二人の姿に。手を伸ばして繋いだ温もりが、少年の傷付いた心に届いているのだと言う事を。

 少しずつだが、変わっている。そう思うから何時かきっと、心の底から笑い合える日が来る事を信じたかった。

 

「……けどやっぱり、エドワードの奴は教育に悪いわ」

 

「確かに同感だ。とは言え賑やかしとしては、奴もあれで優秀だからな。気晴らしの役には立ったではないか」

 

 ミイラの手を付けたまま、何故か血肉の通った女体の良さを少年に語り出すエドワード。呆れた視線を向けながらも、律儀に付き合っているニコル。

 馬鹿みたいに戯れ合う二人の姿に頭を抱えてクーデルカが嘆息をすれば、ジェームズは笑いながら言葉を返す。この時には既にもう、彼らは仲間になっていたのだろう。

 

「丁度、梯子もあるようだ。これで先に進めるな」

 

「ええ、まだ騒いでいるあの二人を、叱ってからになるけどね」

 

 クーデルカは意識を切り替えると、タンスの中へと視線を向ける。花嫁のミイラが居た場所には、作業用の縄梯子が保管されていた。

 故にもう進めるだろうと、ジェームズと視線を交わすと互いに頷く。重そうな縄梯子を抱えるのが壮年司教の役目なら、今も戯れ合う二人に仕置きするのは女の役目だ。

 

 ニコル達の下へと歩み寄ったクーデルカは、二人に向かって張り手を二回。更にエドワードを毒舌混じりの罵倒で黙らせると、ニコルの両脇に手を入れ赤子のように持ち上げるのだった。

 

「存外、上手くやれそうだな。私達は」

 

 死んだ魚のような目で、抱き抱えられたまま連れられて行くニコル。肩を竦めた後、その姿を指差し笑うエドワード。少年を抱えた事で機嫌を良くしたのか、何処か楽しげに歩くクーデルカ。

 三人の仲間達を見詰めて、ジェームズは穏やかな気持ちで言葉を零す。随分と個性的で変わり者揃いだが、噛み合いは決して悪くはない。このまま上手く、やっていけそうだと。

 

 

 

 そうして再び、一行は先の場所へと戻る。崩れた廊下の先でジェームズから縄梯子を受け取ったエドワードは、慣れた手つきで梯子をその場に設置し始めた。

 

 土の床にフックを深く打ち込んで固定し、何度か手で動かして確認する。多少の揺らぎは、途中で盗み出していた置物などの重量で如何にか誤魔化す。

 最低限、人が利用できる形にはなったであろう。実際に少し降りてみて確認したエドワードは、直ぐに戻ると皆に向かって問い掛けた。

 

「それで、誰から降りる?」

 

「此処は女性から降りるべきではないかね? 紳士的に考えたのならば、の話だが」

 

「いや、待ってくれ。梯子はまだ少し不安定だから、一人ずつしか降りられない。この先にも怪物が居る可能性はあるんだ。危険を確認する為にも、此処は責任を持って俺から先に行くべきじゃないか? クーデルカは、その次で」

 

「……で、その心は?」

 

「チラっと顔を見上げても、不可抗力だよな。って、何言わせやがる」

 

「貴方が勝手に言ったのでしょう」

 

「はぁ。でも、エドワードの発言にも一理あるわ。スケベ野郎を先に行かせるのは、論外だけど」

 

「ふむ。確かに。スケベ野郎の言う通り、どんな危険があるかは分からんな。エドワードは論外だが」

 

「神は我々を人間にするために、何らかの欠点を与える。詰まり俺がスケベなのは、俺の責任ではないのさ」

 

 軽口を混ぜながらも語る内容は、頭を悩ませるに足る問題だ。まだ行ったことのない場所に、誰か一人で行かねばならない。

 この修道院に満ちたマリスを思えば、怪物と遭遇するであろう危険が高い。故に最初の一人は、如何なる危険にも対処できる人物こそが望ましかった。

 

「と言う訳で、順番は――ニコル。あたし。ジェームズ。エドワードって感じで良い?」

 

「そうだな。ニコル君なら、エドワードと違って紳士的だ。女性の嫌がる事はしないだろう」

 

「ニコルなら別に、覗かれても問題ないわ。誰かさんと違って、下心なんてないでしょうし」

 

「……ああ、幸せな年月よ。再び少年に戻ることを、望まぬ者がいるだろうか」

 

「少年に戻れたとしても、エドワードでは下心を隠せそうにありませんけどね」

 

 言葉の刃で滅多刺しにされながらも、飄々とバイロンの詩を諳んじてみせるエドワード。全く堪えていない彼の様子に、皆が苦笑してから進み始める。

 

 荒縄で出来た梯子を暫し揺らして、一人が降り切るまでに10秒から20秒程度。四人合わせて一分少々の時間を掛けて、一行は下の階へと降りる。

 天井の崩れ落ちた客間には案の定と言うべきか、尖った石や無数の人骨が転がっている。最早見慣れてしまった光景に、彼らは鬱屈としながらも一歩を踏み出した。その時であった。

 

「また、部屋か。しかし」

 

「ボロイな。今にも崩れそうな――うぉっ!?」

 

「なっ!? まさか、床が崩れる!?」

 

 踏み出した瞬間に、足元に亀裂が走り広がっていく。これは不味いと思う間もなく、地面が音を立てて崩れ出した。

 

「きゃぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

「クーデルカっ!」

 

 床が抜け、部屋全体が壊れてしまえば逃がれる場所など何処にもない。成す術なく皆が飲まれていく中で、ニコルだけは瓦礫を足場に姿勢を保つ。

 落下時間は一瞬、凡そ1秒程であろうか。コンマ以下の即断で、崩れる欠片を蹴り付けると名前を呼んだ女の下へ。叫ぶ彼女を抱き抱えると、少年は足の動きで落下の衝撃を受け流した。

 

「あ、ありがとう。ニコル」

 

「……どういたしまして」

 

 まるで物語の御姫様の如く、幼い少年に抱き抱えられたクーデルカ。先までとは逆の体勢に羞恥を覚えた女に対し、軽く返したニコルが覚えていたのは己の心に向かう違和感だ。

 女が落下するその一瞬、ニコルは本気で焦っていた。どうでも良い他人だと言うのに、その身が危険と思えた瞬間咄嗟に叫んでいたのである。

 

 意味が分からない。理解が出来ないと言えば、先の一件もそうだろう。女が死霊にも心を砕くとは知っていたのだから、もう少し穏便なやり方を選んだ方が良かっただろうに。

 更に言えばその前も後も、今思えばおかしい事ばかり。拘束されるのが嫌ならば、もっと強く拒絶すればそれで済むだけの話だろうに。

 

(今は捨て置きましょう。分からない物ですからね。人の心、と言う物は……)

 

 出そうになった結論から、少年は目を逸らして思考を切り替える。迷い続ける心を抑え付けて微笑むニコルは、紳士的な仕草でクーデルカをその場に降ろした後に視線を移す。共に落ちた仲間達へと。

 

「い、痛てて。俺達の事も、助けてくれよな。ニコル」

 

「生憎、私の手は二つしかないもので。エドワードが私の立場なら、一体どちらを助けます?」

 

「そりゃ、むさ苦しい野郎より、麗しいレディを助けるよ。納得したぜ、心の底から」

 

 冗談めかして、語る余裕はあるようだ。心の何処かで少し安堵しながら、少年は回復魔法をエドワードとジェームズに掛ける。

 痛みに呻きながらも立ち上がる事が出来た男達は、その場で周囲を見回す。鉄の柵に覆われた光景に、間違いなく此処は独房であると誰もが察した。

 

「此処は、地下牢獄か?」

 

「また死体の山かよ。安直過ぎて、嫌になるぜ」

 

 上を見上げる。降りて来るのに使った縄梯子は、月明りが差し込む吹き曝しの向こうにある。どう足掻こうと、手が届く位置にはない。

 詰まりはもう戻れない。ならば先に進むしかないと言うのに、周囲は石の壁と鉄の柵だけ。進む道すら見当たらない状況に、彼らは揃って深い息を吐くのであった。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在65点

マリス濃度の高い場所≒常時SPダメージを受ける空間という可能性。
ともあれニコルも含めて、仲間達は全員がマリスの影響を強く受けてます。

ウルやヨアヒムやキースと違って、彼らはSPの量が其処まで高くないので常時暴走寸前だったりするとかしないとか。
だからこそ、良くも悪くも互いに影響を与えやすい。そんな環境なので、一晩と言う短さでも関係性は深くなるのでしょう。

原作でも最初の仲の悪さや終盤一気に関係が深まったのは、ネメトン修道院と言う場所の影響が大きかったんじゃないかと推測している天狗道です。



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第20話 この掌は烈火の如く

漸く技クロスのタグが仕事をします。声優ネタなので、Gではなく∀の方です。


 無数の骨が積み重なり、山を成している牢獄内。出口がないかと手分けして探して回るニコル達だが、案の定とでも言うべきか。骨の山を掻き分けてまで隈なく探すも、抜け出せそうな場所は何処にも見当たらない。

 

 捕えた人間を生かして出す気など、最初からなかったのだろう。食事を差し入れするような小窓もなければ、排泄用の設備だってありはしない。

 人の出入りを行う為の扉もないのだ。施錠されている訳ではなく、端から作られてはいない欠陥構造。

 落下こそが恐らくは、正規の投獄手段なのであろう。元々上の階に罪人を落とす為の穴が用意されていて、それが老朽化故に壊れた結果床が抜けてしまったのだ。

 

 そうと察した所で、結果は何も改善しない。行く道も戻る道もないのなら、何れは此処で朽ち果てるだけの事。或いはその前に、不浄な空気に当てられ病に倒れるか。ともあれ、どちらにせよ死は免れない。

 

「どうだ? 壊せそうか?」

 

「素手じゃ無理ね。熊でも連れてくれば別だけど」

 

 古びた鉄格子を前に集まった一行は、募る焦りを堪えながらにその意見を一致させる。即ち、これ以上は時間の無駄だと。

 ならばと考えたのは、横紙破りとも言える手段。逃げ道を探す事が無意味であれば、逃げ道を新たに作る事は出来ないだろうかと。

 

 諦める事が自殺と同義である以上、他に選択の余地もない。故にと問い掛けたエドワードの言葉に、格子を掴んだままのクーデルカが返す。

 石壁の中で固定されている鉄棒は、古びて錆び掛けてはいるが頑丈だ。人の手で壊すのは、極めて難しいと言わざるを得ない状態だった。

 

「ニコル君でも、無理かね?」

 

「熊と一緒にされるとは、人を何だと思っているですか? ……まあ、出来ますけど」

 

「出来るのかよ!?」

 

 そんな人の力では壊せない拘束も、特異な力に頼れば破壊出来ないと言う訳ではない。無理を承知で問い掛けたジェームズに対し、ニコルは進まぬ顔で答えを返した。

 少年の言葉に驚きを隠せぬエドワードに、嘆息と共にニコルは語る。気が進まない理由は単純に、コストやリスクの問題だった。

 

「シャインオイルをベースにした香で、肉体のリミッターを外します。そうすれば、古びた鉄格子を捻じ曲げるくらいは簡単でしょう」

 

 元々白魔法も黒魔術も、どちらも物理的な威力は然程強くはない。魔法の本質とは、精神への干渉だ。人の心の隙に付け入り、精神世界を改竄する事で物質世界を歪める秘術が魔法である。

 言ってしまえば魔法が見せる破壊行為の大半は、一種の幻覚作用でしかない。他者の心を圧し折って心を弱体化させる事で、より強く精神世界へと干渉出来るようにする。要は虚仮威しに過ぎぬのだ。

 

 無論、上位の物となれば物理的な威力も伴ってはこよう。ガアプが落とした隕石で、実際に森の一部を禿山と化した事がその証左。

 ガアプよりも強大なアモンやアスモデウスがその力を振るったならば、天凱凰が降臨した上海のように大都市の一つ程度は炎に飲まれ崩壊しよう。

 

 だがそれも最上級の存在である彼らが、ある程度以上の力を行使した場合の話。今のニコルに同様の事が出来る筈もない。

 人の身で鋼鉄を壊そうとするならば、魔法を使うよりも物理的な手段に頼った方が遥かに簡単なのだ。

 

「ただ、アロマも余り数がある訳ではないので、出来れば最後の手段としておきたいのですが」

 

 打つ手はある。しかし今後を考えれば、それは出来れば控えたい事。唯でさえ此処に来て、大量に香を消費している。これ以上の出費は、痛いなんて物ではない。

 

 更に言えば、肉体のリミッターを外すと言う行為にもリスクが伴う。限界を超えた肉体は、己自身の筋力で自傷してしまいかねない。

 多少の怪我ならば治癒の魔法で如何とでもなるが、その場合もやはり消費の多さが目に付くだろう。

 

 故に下策。そう語るニコルの言葉に、エドワードは悩みながら口を開く。

 最悪の事態は免れそうだと確信したからか、音にした言葉は少し軽い物でもあった。

 

「けど他の手段って、言ってもな。他に何が出来るよ?」

 

「ふむ。エドワード。君は鍵開けとか出来ないのかね? ほら、その……君は無法者じゃないか」

 

「言葉を選んだ努力は認めるけどな。もうちょっと頑張れよ、ジェームズのおっさん。此処がイーストランドなら、アンタの首と胴がお別れしてたぜ」

 

 そうして悩むエドワードへと、再びジェームズが当たって砕けろの精神で言葉を投げる。

 だが見た目で判断したであろう言葉は、配慮しているにしても失礼と感じさせる物言いでもある。呆れたような顔で、エドワードが言葉を返すのも無理はない事だろう。

 

〈無駄なのに……どうせ何もかも〉

 

 軽口を交わす彼らの下へと、頭上から冷たい声が掛けられる。鈴のような声色は、つい先程にも聞いた物。

 ふわりと風に舞う衣が落ちて来るように、空から降りて来たのは白い少女。海のような瞳に冷たい色を宿して、彼女は嘲けるように笑うのだった。

 

「君は、さっきのお嬢ちゃん? 一体何が、無駄だって言うんだ」

 

〈あたしの名前はシャルロッテ。でも、名前なんて何の意味もない。アンタが今生きていることも、もうじき死んじゃうってことも、何の意味もないこと〉

 

 先に感じた怒りを堪えながらに、問い掛けるエドワードへと返る言葉。何もかもが無駄なのだと告げる少女の言葉に、ニコルは小さく失笑する。

 目の前で鉄格子を壊してやれば、彼女はどんな表情をするのだろうかと。無意味なのは既に死した亡霊だけなのだと、少年は内心で嘲笑う。

 

 そんなニコルの隠さぬ侮蔑に、気付いたのかシャルロッテは苛立つ。どうにも気に入らない奴だと罵倒を口にしようとして、クーデルカの問い掛けに阻まれた。

 

「あなたも、此処で死んだのね?」

 

〈……そうよ。あたしも此処で死んだの。何百年も前に〉

 

 出鼻を挫かれた苛立ちも込めて、肯定の意を返す白き衣の少女。怒りと怨嗟に塗れた声の持ち主は、独房の外を知らない。だから彼女は、世界を憎み他者を呪う。

 

〈産まれて直ぐに閉じ込められて、九歳の誕生日に首を斬られたわ! それからずっと、此処に居る。ずっと誰にも、知られずに!〉

 

 シャルロッテの慟哭を耳にして、心を揺らさない人非人などこの場に一人しかいない。

 クーデルカは息を飲み、エドワードは困ったように頭を掻いて、ジェームズは嘆きながらに十字を切る。誰もが少女を哀れんでいて、だがそんな憐憫など彼女の心には届かない。

 

「不憫な」

 

〈哀れむって言うの? あたしを? 下らない。そんなの三日もすれば、跡形もないわよ!〉

 

 だろうなと、納得するのはニコルだけ。少年は心の底から思っている。死者への憐憫程に、無意味な物もそうはないと。

 既に終わった者の過去など掘り返して、一体何の意味があるのか。結果が何も変わらないなら、それは路傍の石と同じく目を向ける価値もない事なのだ。

 

 更に言えば、場合によっては寧ろ害悪となるとも断言出来る。無意味な過去の為に、今を生きる者らが不幸となってしまうのならば。

 そう考えるが故にニコルと言う少年にとって、生者を憎むこのシャルロッテと言う亡霊は、即座に討つべき怪異であった。

 

 其処に慈悲はいらない。其処に躊躇いは必要ない。ゆっくりと気付かれないように、亡霊を剣の間合いに収めようとするニコル。そんな彼は己の心が乱れている事に、全く気付いていなかった。

 

「それは違う。どういう事情があったにせよ、君の母親は君の事を心配していた筈だ!」

 

〈母親ですって。顔も、名前も、何処の誰かも知らないのよ! そんなものに、何の意味があって!? あたしは生まれてから死ぬまで、誰かに愛された事なんてないわ!!〉

 

 殺意を隠して迫る刃にも気付かずに、怒りを叫ぶシャルロッテ。誰にも愛された事がないのだと叫ぶ少女に、クーデルカの心が大きく揺れる。

 どうしても共感してしまうのだ。女も心の奥底で、同じ情を抱いている。愛されなかったから、愛されたいのだと。だからクーデルカは、何も口に出来ずに居る。

 

「……それを断言するのは、まだ早いのではないですか?」

 

 そんな彼女に代わって、口を開いたのは少年だった。死者と対話など無意味だと考えている筈なのに、気付けば口を開いている。その事実に、誰より驚いたのはニコル自身だ。

 自身の言葉に目を丸くして硬直した少年。彼が手にしていた刃は、既にシャルロッテの首を刎ねられる位置にあった。

 

 気付かぬ内に迫られていたシャルロッテは、驚愕しながら大きく距離を取る。もう不意打ちはさせないと警戒しながらニコルを睨む少女の態度に、少年は自嘲するように深く嘆息してから言葉を続けた。

 

「貴女は母を知らぬと言った。ならば貴女は、確認していない訳だ。貴女の母が、貴女を愛していたのか否か」

 

 最大の好機は去った。己の愚かさで潰してしまった。ならば、このまま語りを続けてしまっても良いだろう。半ば開き直るような感情で、ニコルが告げたのは道理である。

 

 母を知らぬと言った。ならば否定された事もなかったのだろう。何せ少女は、何も知らないのだから。

 真実などは分かりはしまい。愛されていたのか、憎まれていたのか。それさえも知らぬのだから、愛されていなかったと言う証明なんて彼女自身にも出来はしないのだ。

 

「だと言うのに、誰かに愛された事はなかった? 何と愚かな無知蒙昧。己の愚かさを誇るように囀る姿は、哀れを通り越して最早滑稽。三流以下の道化芝居など、正直言って見るに耐えぬのですよ」

 

 理不尽な目に合ったから諦めた。真実を知ろうともせず拒絶して、他人を巻き込もうとする怨霊。癇癪を起こして唯拒絶を続けるだけの少女に、ニコルが抱いた情は軽蔑だ。

 せめて事実を知ってから、世を憎み恨めと言う。それさえしなかった少女を見る少年の瞳は、酷く冷たい嫌悪と侮蔑に満ちている。実に醜いその在り様に、救いなどは必要ないのだと。

 

〈うるさい! うるさいうるさいうるさい! 何が愚かよ! 何が滑稽よ! そんなの知らない! そんなの分からない! そんな目で、あたしを見ないでよ!!〉

 

 そんな視線を向けられて、シャルロッテは酷く動揺した。憐憫を向けられる事はあった。憎悪される事もあった。だが軽蔑されたのは、生前以来であったから。

 

「それが滑稽で無様だと言うのです。己の真実に向き合う事なく、周囲を巻き添えにする悪霊に存在価値などない。……ああ、そうだ。余計な修飾など抜きに語れば、私は貴方にこう言いたいのですよ」

 

 瞳に涙さえ浮かべて叫ぶ少女の霊に、冷たく言葉を突き付け続ける少年。ニコルの内面は微笑を浮かべたままの表層とは相反して、膨大な熱と形容し難い感情に荒れている。

 まるで熱したコールタールの様に、心の中にへばり付く感情。それは侮蔑であり軽蔑であり憤怒であり憎悪であり――そしてある種の、同族嫌悪と言うべき感情だった。

 

「死人は黙って死んでいろ。お前の居場所なんて何処にもない」

 

 冷たく語る少年は、その実シャルロッテと同類だ。或いは同類になるやもしれなかった、と言い換えた方が適切だろうか。

 だからその言葉は、シャルロッテの心に届いてしまう。彼女と痛みを分かり合えるのは、この場にたった二人だけしかいないから。

 

 もしかすれば、少女の心を救えたかもしれない二人。その内の一人は何を言えば良いのかも分からず言葉に詰まり、もう片方は救う所か一刻も早く滅ぼしたいと殺意を剥き出しにしている。ならばその結果に至るのも当然だった。

 

〈そんなことを言う奴なんて、死ねば良い! あたしをそんな目で見るアンタも! あたしを哀れむアイツらも! 皆、皆、死ねば良いのよ!!〉

 

 叫ぶと同時にシャルロッテは、現れた時と同じように宙へと消える。己の感情を抑えられなかった結果、彼女を逃したニコルは忌々しいと盛大に舌打ちした。

 

 そうして少女が消えた直後、轟音と共に独房が大きく揺れる。崩れ落ちた壁面から、入れ替わるように現れたのは新たな敵。中身のない亡霊剣士が其処に居た。

 

「なっ!? 何だよ、服と武器だけ浮いてやがる。透明人間の怪物か!?」

 

「あの少女が、マリスで呼んだようですね。こちらにとっても都合が良い。皆さん、壁に穴が開きましたよ」

 

 軍人貴族を思わせる装束と帽子。支えもなしに、空に浮かんでいるレイピア。それらを身に付けた、透明人間が居るようだ。

 見たままを思わず叫んだエドワードに、ニコルは運が良かったと笑って返す。募った苛立ちを晴らす為に、これは丁度良かったと。

 

「此処は、私にお任せください」

 

「ニコル!?」

 

「むっ、彼を一人で戦わせると言うのは」

 

 一声だけ言い残し、剣を片手に敵の下へと。そのまま一息に踏み込んで、貴族の亡霊と剣で打ち合いを始める。

 激しい金属音が鳴る中で、クーデルカとジェームズが戸惑いの声を上げるがもう遅い。既に両者は、近過ぎた。

 

「くそ、動きが早過ぎる。下手に撃てば、誤射し兼ねない」

 

 援護の為にと銃を引き抜いたエドワードだが、激しく立ち回りながら交差を繰り返すニコルと剣士の速度に追随出来ない。

 下手に撃てば、誤射してしまう。そもそも中身がないのに撃っても効くのだろうかと言う迷いもあって、彼は両手に銃を構えたまま棒立ちと成ってしまう。

 

 クーデルカやジェームズも同様だ。彼らが主とする攻撃手段である魔法は、銃弾よりも初速が遅い。銃で狙えぬ速度で動き回られてしまえば、やはり誤射を恐れて手が出せなかった。

 

「人型の怪異。人間以上のその膂力は、確かに脅威ではありますが」

 

 故にニコルが望んだ通りに、戦場は推移する。余計な手出しをさせない為の高機動戦。

 駆け出して、切り付けて、駆け抜ける。幾度も幾度も鋼の音を響かせながら、単騎で挑むは鬱憤晴らしを望むから。

 

「やはり動きが素直に過ぎる! 脳のないその身体は文字通り、大した能もないようですね!」

 

 繰り返す都度に、亡霊の持つレイピアの形が歪んでいく。剣の技量と言う点で、この貴族はニコルに大きく劣っていた。

 故に望めば、このまま剣を叩き折れるだろう。さすれば無防備になった身体を縦に、唐竹割に出来てしまう。

 既に結果は見えている。ならばどうして、そんな弱者を相手に戦うくらいで鬱憤晴らしが出来ようか。

 

「このままでも処理は容易ですが、その程度では鬱憤晴らしにもならない! ならば少し、実験にお付き合い頂くとしましょう!」

 

 強く息を吸い込んで、踏み込むと同時に裂帛の気合を。呼気と同時に剣を振るえば、咄嗟に受け止めた貴族のレイピアを堪え切れずに圧し折れる。

 武器を失い戸惑う亡霊を前に、ニコルは剣を鞘に納めた。自ら無手となると後方へと大きく跳躍し、顔の前で見えない何かを掴むように右手を軽く握り締めた。

 

(原作知識以外の、何処かの誰かが有した記録。創作物の知識の中でも、使えそうな物の再現実験)

 

 これは一つの試みだ。ニコルが知るのは原作の知識だけではなく、前世と言うべき誰かが経験した全ての記録。

 その内にあった創作物の知識。其処にあった技の一つを、この世界の法則を元に再現してみようと言う魔法実験。

 

 術式は既に出来ている。だが実戦で試すのはこれが初めて。敵が居服以外に実体を持たない貴族の亡霊ならばこそ、この技を試すのに相応しい。

 何せこれはニコルが有する魔法の中でも唯一と言うべき、物理的な干渉に特化した特殊な術式。

 もしも肉体のない者にも通じるならば、これは正しく切り札となるべき性能を有していると言う事になる。

 

「白魔法であるブレスは、僅かな衝撃と温かな熱を伴います。その物理現象のみ抽出した上で右手に収束し、纏わせたまま停滞させる。これを限界まで繰り返すと、一体どうなると思いますか?」

 

 再度、語ろう。白魔法も黒魔術も、物理的な威力は然程強くはない。魔法と言うのは元来、心に強く干渉する技術であるが故。

 言ってしまえば魔法が見せる光景とは、一種の幻覚作用である。あくまで物理的な威力は副産物であり、故に魔法とは無機物には通用し難い欠点を有している。

 

 ならばどうすれば、それを補えると思う。単純に出力を上げる事で圧倒するのが王道ならば、ニコルがこれより為すのは邪道と言う物。

 ブレスが伴う突風程度の衝撃と、温かな日差しにも似た微かな熱量。それらは物理的な現象であり、故にそれだけを術式解体で得た知識を使って発現させる。

 

 一度に取り出せる熱量は20~30℃。ならばそれを百と繰り返せば、到達温度は摂氏にして2000℃以上。人体など近付くだけで、骨すら残さず焼き尽くす程の業火となる。

 故に熱量だけを抽出するだけでは不十分。生み出した風を操り空気の断層へと変換させ、制御し続けなければ一瞬後には自滅が待つ。

 

「さあ、刮目して受けなさい」

 

 致命的な欠陥を抱えている不出来な魔法。だがその分、当たれば威力は桁違い。掠るだけでも人体では耐えられず、魔法でも防げない魔術師殺し。

 揺らめく炎は大気すらも歪めて、僅かに残るブレスの光を強く強く輝かせる。光輝くその右手は、朧げな記録と寸分違わぬ姿となった。

 

「この光輝く指先で、終わらせて差し上げましょう!」

 

 右手を上段に構えて、敵に向かって走り出す。頭部に向けて突き出した光の掌は、触れるまでもなく怪物の全身を焼き尽くす。

 折れた剣も、身に付けた帽子も、何もかもが掠れただけで燃え尽きる。同時に叩き付けられたのは、微弱に過ぎる浄化の力。

 

 されど精神が肉体に干渉するように、肉体もまた精神に干渉する物。古びた依り代を一瞬で蒸発させた程の超高温は、怨霊の精神を圧し折るには十分過ぎた。

 故に心折られた悪霊は、微弱な浄化にも耐えられない。触れるまでもなくこの一撃は、魂さえも焼き尽くしてみせたのだ。

 

「成程、シャイニングフィンガーとはこういうものか」

 

 敵は頭部を掴む前に、溶けてしまった。その事だけ僅か心残りに思いながらも、掌に残った熱量と纏う大気を解放する。

 頭上に向けて解き放たれた力は、巨大な光の柱へと。途中にある全てを焼き尽くして、成層圏の彼方へ消え去っていくのであった。

 

(扱い辛いが、十分な成果です。これは他にも、再現してみる価値があるかもしれませんね)

 

 溶断破砕マニピュレータ。再現された能力は、使い勝手が難しい物だ。これ程の火力を求めると、ニコルの持つ魔力のほぼ全てを一撃で消費してしまう。

 更に使える場所も、極めて限定的となるだろう。狭い室内などで考えなしに扱えば、行き場を失くした熱量で自滅する末路しか浮かばなかった。

 

 けれど火力の調整自体は、その性質上難しくない。高速で重ねる術式の数を減らせば、それだけで程良い火力に調整出来る事だろう。

 熱と風だけならば、ブレスの消費魔力の3分の1以下。連続発動による効率化を行えば、更に消費を抑えられる。

 制御の困難さこそ解決できない難点だろうが、コストパフォーマンスと言う点では十二分。

 

 物理的な攻撃手段としては極めて優秀で、実体を持たない相手に対しても十分通じる。ならばこれは、切り札の一つとしても問題ないだろう。

 予想以上の成果を得た事を実感して、ニコルは妖しい笑みを浮かべる。我が世の春が来たと言わんばかりに、少年は歓喜で嗤うのだった。

 

 

 

 

 




Q. 成程、シャイニングフィンガーとはこういうものか。
A. いいえ、それは溶断破砕マニピュレータです。原理的にはどちらかと言うとゴッドフィンガーです。


今回みたいな形で、憑依ニコル君は真面目な場面にクロスネタを平然とぶち込んで来ます。
真面目な顔のままノリと勢いだけでゴリ押してそのまま貫いて振り返らないので、皆様ご了承ください。

尚、既に原作知識すらうろ覚えな憑依ニコル。どうでも良い設定ではありますが、彼の頭の中ではGと∀がごっちゃに混ざってます。
曖昧な部分を想像で保管した結果、憑依ニコルの記憶の中ではドモンではなく御大将がGガンの主人公となっていたり。
シャイニングガンダムに乗った御大将がマスターアジアと一緒に超級覇王電影弾でデビルガンダムを倒すGガン。カオスかな?


エレイン強化カウンター 現在95点
(貴族の亡霊相手に技の実験。ノリと勢いで世界観を破壊した。+30点)


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第21話 似て非なる者達

分割するか迷いましたが、そのままにしています。
クーデルカ編のラストまで、殆ど全話が一万字近くになりそうです。


 落下して壊れたシャンデリアが転がる、修道院地下の広間。階段を上ったその先で、一人の男が倒れている。

 壁に背を預けて座り込んだ男を取り囲むように、クーデルカ達が立っている。三人が浮かべた表情は、とても穏やかとは言えない物だった。

 

「再度確認しますが、途中にあった無数の死体。彼らを殺したのは、本当に貴方ではないのですね」

 

「……ああ、そうだ。……あいつらだ。……管理人夫婦の、仕業だ」

 

 片膝を付いて男の瞳を覗き込むニコルだけは、爽やかな微笑を浮かべている。

 

 そんな少年の言葉に促され、朦朧とした意識のままエイリアスと言う名の男は語る。

 これまでに見た死体。無数の屍。それを生み出した元凶を、紫煙に誘われるがままに。

 

「信じられんな。この光景も、彼の語る内容も、信じたくはない事ばかりだ」

 

「なら信じない、とでも言う気かよ。おっさんよ。言っておくけどな、悪党ってのは案外信心深いんだぜ」

 

「……いや、信じよう。いいや、元より君達の言葉は信じていたとも。唯、善良に見えた夫妻の行いが、想像を超えて遥かに悍ましかった。その事実を、信じたくはなかったのだよ」

 

 斧で後ろから殴り付け、無法者を惨殺する。食事に毒を混ぜて、息が止まるまで苦しめ続ける。悪魔のような行いだったと、夢見心地で語るエイリアス。

 実際に見て来たのだと。己も彼らから逃げているのだと。そう語るエイリアスの言葉は、クーデルカ達の主張と一致している。故にジェームズも、信じずにはいられなかった。

 

 余りに多くの者達が、ハートマン夫妻の手に掛かってきたのだろうと。これまでの探索で見付けた死者は、尋常な数ではなかった。

 その内のどれだけが過去の惨劇で死んだ者達で、残るどれ程が夫妻に殺された者達なのか。分からないが、数はとても多いのだろう。

 

 まだ白骨化していない遺体も、此処に来るまでに山程に見て来たのだから。数百年前の死体が、そんな形で遺っていよう筈もない。

 

「しかし、どうするよ。……こいつは、俺達を殺そうとしたぜ」

 

 どうすると問い掛けながら、銃を構えるエドワード。彼の中では既に、結論が出ているのだろう。エドワードの言う通り、彼らはエイリアスに殺され掛けたのだから。

 

 牢獄の崩れた壁を通り抜けた先にあったのは、金銀財宝が輝く宝物庫であった。そしてその更に先にあったのが、この広間なのである。

 美しくはあれど、恨み辛みに塗れた財宝。それに対して、各々が好き勝手に話しながら歩いていた時だ。突如発砲音が響いて、シャンデリアが落ちて来た。

 

 咄嗟に交わした彼らの下へ、頭上から降り注ぐ鉄の弾丸。ライフル銃で狙撃してくる男を見付けたその瞬間、ニコルが大地を蹴って駆け出した。

 落ちたシャンデリアを踏み台に、真っ直ぐ跳躍して壁の中程の高さまで。引き抜いていた剣を壁に突き刺すと、それを支えに片手で己の身体を持ち上げる。

 そのまま腕の力で更にと跳び上がって、狙撃者が居た二階へと。信じられない動きに驚愕したエイリアスが硬直している間に、殴り飛ばして気絶させたと言う訳だ。

 

 後は簡単。気絶したエイリアスの下に皆が集まり、そのまま彼を拘束した。そしてニコルは剣を回収すると、管理人夫婦にも用いた誘眠の香を炊き、催眠暗示を掛けた。

 そうして聞くべき事を全て聞き終えた後、エドワードはこうして銃を構えている。存外に短絡的で苛烈な男の内心は、危険は排除せねばならないと言う硬い決意に満たされていた。

 

「待て、エドワード。殺人は罪深い事だぞ」

 

 嫌悪感で距離を取っていたのならば、ジェームズは気付かなかっただろう。だが互いに配慮しながらも、積極的に協力しようと行動して来た。

 その結果として、ジェームズはエドワードの事をある程度理解していたのだ。故に銃を構えた彼が、本気であるのだとも理解する。分かったからこそ、司教はその道を阻んだ。

 

「アンタの言う不潔で野蛮な異教徒は、生かした所で俺達を狙うぜ。それならさっさと、処理してしまった方が良い」

 

「私は、だ。エドワード! 君の為にも言っている! そんな輩の為に、君が手を汚す必要があるのかね!」

 

「だったら尚更だ。そう言ってくれるおっさんには悪いが、俺達を狙う奴は放っておけない。君のためを思って、残酷にならないといけないのさ」

 

「何人にも悪を為すことなかれ、だ。どうしてそれが分からない!」

 

 ジェームズはエドワードの事を、馬が合わない奴だと思いながらも仲間であると認めている。それは逆もまた然り。

 エドワードはジェームズの事を、頭が固い偏屈者だと呆れながらも仲間であると認めていたのだ。だからこそ互いに引く気はない。

 

 敬虔な司教は仲間に悪事をさせたくはなくて、流れの冒険者は仲間を危険に晒したくはない。どちらも、相手を思いやった行為である。

 だからこその対立は、二人だけでは解決出来ない。だが此処に居るのは、そんな二人だけではなかった。

 

「いいえ、その必要はないわよ。エドワード。でしょう、ニコル?」

 

「はい。安全を確保出来れば良いだけならば、殺す必要はありませんね」

 

 クーデルカの言葉に、ニコルは頷くとエイリアスの瞳を覗き込む。何処を見ているのかも分からぬ朦朧とした瞳を見詰めながら、少年は彼に言葉を囁いた。

 

「良いですか、聞きなさい。エイリアス」

 

 エイリアスの視点では、ニコルの声は二重にも三重にも聞えているだろう。囁く声音が、心の中へと染み込んでいく。

 妖しく瞳を光らせる少年が為すのは、彼の師より学んだ秘術。己よりも劣る者の心を香りと音で、自由自在に操る黒魔術の一種である。

 

「貴方はこれから、来た道を戻りなさい。此処まで来た通りに進んで、この修道院を出るのです。そして出たら振り返らずに、貴方が知る最寄りの村まで走りなさい。分かりましたね、エイリアス」

 

「……ああ。……分かった」

 

 名を呼ばれると同時に、エイリアスは立ち上がって動き出す。夢遊病者を思わせる危なげな足取りで、階段をゆっくりと下っていく。

 明らかに尋常ではないその様子を見て、唖然とするエドワードとジェームズ。構えた銃の引き金は引かれない。そんな発想すら、驚愕に塗り潰されていた。

 

「おいおい、マジかよ。何処かに行くぜ、アイツ」

 

「暗示を掛けましたから、命じられた通りに動いているのですよ。余程強い衝撃を受けない限りは、解ける事もないでしょう」

 

 操られるエイリアスは、指示された通りに来た道を引き返している。大きな箱によじ登ると、その箱で塞がれていた階段へ。

 歩いて登り、色が違う壁に触れると押し開けた。あんな所が開くのかと何処か的外れな感想を抱きながら、一行はそのまま立ち去るエイリアスを見送るのであった。

 

「けど、あんな所から入って来たのね。あの扉の先って、どうなっているのかしら」

 

「う、む。……あの流れ者の言葉を信じるならば、恐らくは管理人夫妻の住居に出るのだろう」

 

「そう言えばアイツ、逃げて来たって言ってたわね。詰まりあたし達は、遠回りしてたって事?」

 

「急かすことは結局無駄骨になるとも言う。……この回り道にも、意味があったのだと思いたいものだよ」

 

 エイリアスの言葉を信じるならば、彼は管理人夫妻に襲われそのまま此処に逃げ込んだと言う。

 ならば彼が来た道である扉の向こうは、最初に訪れた管理人棟の何処かに続いているのだろう。

 

 予測を語るジェームズに、クーデルカは息を吐く。随分長く歩き回って、まだ大した成果はないのだ。これが無駄足だったとすれば、嘆息の一つもしたくなろう。

 

「んで、どうするよ。アイツと同じ道で戻るか?」

 

「その前に、このまま道なりに進んでみましょう。直ぐに戻ったのでは、それこそ無駄な回り道です」

 

 エドワードが親指でその隠し扉を差しながら、戻るかと問い掛ける。否と答えたのはニコルだけだが、彼の言葉は皆の総意とも言えよう。

 大した成果もなく戻ると言うのは、嫌だったのだ。それはニコルだけではなく、クーデルカやジェームズ、エドワードとて同じである。

 

 故にそりゃそうだよな、と笑って返すエドワード。元より彼にも此処で戻る心算などはなく、端から進む心算で告げた確認だった。

 皆の意見を一致させ、更に一行は奥へ奥へと進んで行く。宝物庫や広間の明かりが届かぬ場所は、窓一つない石造りの地下通路。

 

 暫く進めば、石の床は土を剥き出しとした形に。木製であった扉は、物々しい鉄の扉へと。明かりも更に、頼りない物となっていく。

 誰もが思った。此処はまるで牢獄だと。事実そうなのだろう。物々しい鉄の扉の中を覗けば、其処には人が生活する為に作られたような空間が存在していたのだから。

 

「開かないな。鍵は合っているのに、どういう事だ?」

 

「……霊力の妨害を感じるわ。どうも其処の子達が、何かしているようね」

 

 周囲を確認しながら探索を続けて、辿り着いたのは開かない扉。外付けされた鍵を回しても、鉄の扉は何かに遮られたかの如くに開かない。

 どうした物かと呟くジェームズに、霊視していたクーデルカが答えと返す。そうして彼女は、扉の側に寄り添う二体のミイラを指差した。

 

 ヴィグナとヴァルナ。ネームプレートを付けられた小さなミイラは、きっとこの独房の何処かに囚われていた子どもであったのだろう。

 それを察したジェームズは、悲しげに目を伏せ十字を切る。同じく悲痛な表情を浮かべながらも、膝を屈めたクーデルカはミイラに問いを投げ掛けた。

 

「ねぇ、貴女達。此処を開けてくれないかしら?」

 

〈私達の、人形を返して……〉

 

〈死にたくなければ、逃げなさい……〉

 

 問い掛けに返る応答は、そんな前後の繋がりすらない物。或いはこのミイラ達に、声は届いていないのかもしれない。

 何故ならば、彼女達にはもう耳がないから。霊的な感覚で何かの気配を感じて、反射的に言葉を返しているだけなのではと。

 

「人形、ね。そんなのあったかしら」

 

「確か管理人室に、人形があった気がするが。其処まで戻るのか?」

 

「いえ、その必要はありませんよ」

 

 扉の鍵は物理的な物だけでなく、彼女達の霊がある限りは開かない。人形を渡せば、少女らは成仏するのだろう。だとすれば仕方がないかと語り合うクーデルカとジェームズ。

 そんな二人の前に割って入ると、ニコルは何時も通りの笑みを浮かべて告げる。そして誰かが止めるよりも早く、風を切る音が微かに響いた。

 

「どうせ成仏して頂くのです。態々、面倒な我儘に付き合う理由もないでしょう」

 

 ミイラの首が、胴を離れて地に落ちる。銀閃すらも気付かせなかった斬撃で、ニコルは少女達の首を奪っていた。

 光を纏った斬撃は、その怨念さえも浄化する。扉を封じていた者が居なくなれば、自然と扉も開く物。落ちたミイラの頭を踏み潰してから、ニコルは鉄の扉を開いた。

 

「……エドワード程ではないが、君も君で性急だな」

 

 それら全ての行動を、平然と微笑んだままに行うニコル。そんな彼の姿に、ジェームズは頭を抱える。苦い物を噛み潰したような表情には、隠し切れない程度の不快が見えた。

 

「死者に愛想を振り撒く事程、愚かしい事はないと思いますがね」

 

 例え死人に向けた物であろうと、余りにも非情に映る行為。それを咎めるようなジェームズの言葉に対して、ニコルは冷たく答えと返す。

 死者には何の価値もない。既に終わっている者なのだから、生者とは最早違う者。何をしようと、救える事はないのだと。

 

「死者と生者は相容れません。生者は生きている限り、本当の意味で死者に寄り添う事は出来ないんですよ。ならば希望を与える事こそ、何よりも残酷な行為なのでは?」

 

 例え心を繋いで分かり合えたのだとしても、それも所詮は一時の事。死者はあるだけで歪んでいき、生者は死者と共に在れば死に近付く。

 本当の意味で生者が死者に寄り添おうとするならば、彼彼女もまた死人となる他に道がない。そうなれば結局は、世に害を為す悪霊が増えるだけ。

 

 残酷で救いがない。だからこそ死者は、そも地上に残ってはいけないのだ。故に十字の教えにおいては、死者の霊魂を絶対的な悪と捉える。

 善なる者ならば主の御許に招かれて、エデンの園に暮らしていると。死者の声を無視した行為の方が、悪魔祓いとしては正しいのだ。

 

「………そう、かもしれないわね。けど、あたしは」

 

 故に黙ってしまったジェームズの代わりに、口を開いたのは顔を俯け続けていたクーデルカ。彼女は先から続く少年の死者へ対応に、ずっと思う所があった。

 

 クーデルカと言う女は、口は悪いが根は善良だ。死者の声に頼まれたからと言うだけで、無関係な危険地帯にやって来る程に。

 優し過ぎるし、甘過ぎる。だが理屈が分からぬ程に愚かでもなく、だからニコルが口にした事だとて正しいのだとは分かっている。

 

 死者は既に終わった者達。その想いをどれ程に汲み取り、心に寄り添おうとしても、本当の意味で分かり合う事など出来ない。そんな事は分かっていて、けれど彼女はこうも思ってしまうのだ。

 

「死んだ後くらい、救われて欲しいと願うのよ。ねぇ、これは悪い事?」

 

 生きていた頃が、どうしようもなく苦しかったのならば。死んだ後でくらい、少しは救われて欲しい。

 その想いの半分は優しさで、もう半分は承認欲求。ありがとうと言われた時に、クーデルカは生きていて良いのだと思えるから。

 

 せめて死者の祈りに応えたい。どうか死者の願いを、踏み躙る事はしないで欲しい。何処か縋るように弱々しく、女が口にした呟きに少年は冷たく返した。

 

「悪くはないでしょうね。その優しさは、貴女の美徳だ。……唯、それを私にも押し付ける事は止めて欲しい」

 

 クーデルカの想いを、ニコルは決して否定しない。だが肯定はしないし賛同もしない。協力なんて、以ての外だ。

 先のミイラについても、敢えて付き合う理由がない。態々引き返す無駄をして、結果が同じでは単なる時間の無駄だろう。

 

 もしもこの先に、生きた人間が居たならば。その時間の無駄で、生死を左右するかもしれない。そんな可能性とて、零ではない。

 ならば生者を優先するべきだ。既に終わった者など、棺桶で眠っていれば良いのである。這い摺り出て来たと言うのなら、磨り潰されても文句は言えまい。

 

 ニコルは本気で、そう考えている。そしてそれを、隠す気もない。聖職者としても、死者より生者を優先すると言う名分があるのだ。避けられる面倒事に、敢えて関わろうと思う慈悲など彼にはなかった。

 

「其処までにしとけよ、二人とも。言い争っているような場合じゃないだろ」

 

「……そうだな。既に終わった事は変わらない。先ずはこの中を、調べてみるべきだろう」

 

 傍目には争いにも見えるやり取りに、呆れながらもエドワードが落ち着けと言葉を挟む。

 これ幸いとばかりにジェームズが便乗した事で、ニコルとクーデルカは互いに熱くなっていたのだと自覚した。

 

「失礼、少し言い過ぎました」

 

「……別に、良いわよ。言い争っていた訳じゃないもの」

 

 何故に熱くなっていたのか。別に他人が死霊に深く関わって、破滅しようとニコルには関係のない事であろうに。

 適当に話を合わせて、多少我慢すれば良かったのだ。だと言うのに手を出した上、否定するような言葉を投げた。そうしてしまったのは、一体何故であったのか。

 

「唯、少し……分かって貰いたかっただけ」

 

 少年には分からない。悲しそうな顔をして呟いたクーデルカの言葉に、胸を痛めてしまう理由すらも分からない。

 

 何故だか分からないが不快であった。少年は己が間違っているとは思わない。女の行いは、無駄な手間だとしか思えない。なのに何故だか、不快であった。

 他人などはどうでも良い筈なのに、この女は唯の他人でしかない筈なのに。何故だかクーデルカの悲しそうな顔を見ると、突き放し切れなくなってしまう。

 

 内心で渦巻く不快な情に、ニコルは深く嘆息する。首を左右に振ってから、諦めたようにもう一度。息を吐いた少年は、女に歩み寄る事にした。

 

「その、何と言いますか。……一度で良ければ、貴女の流儀に合わせても良い」

 

「ニコル」

 

 驚いたように顔を上げるクーデルカ。その綺麗な瞳を見詰めながら、ニコルは微笑みの裏で自嘲する。

 全く以って甘い話だ。そうは思うし、無駄で無価値な行為だとも思う。だがこの不快な情を抱えているよりかは、時間を無駄にする方が遥かにマシだと思えた。

 

「一度です。一度だけ。そう何度もは、付き合えません」

 

「……十分よ。ありがとう」

 

 だから一度は合わせよう。次は貴女に合わせよう。そう語り譲歩したニコルに、クーデルカは嬉しそうな笑みを返す。

 少しだけ、ニコルはその笑顔に見惚れた。そんな自分を誤魔化すように咳払いをすると、少年は扉の向こうへと歩き出す。

 

 クスリと笑ってクーデルカは、その手を少年へと伸ばす。振り向いたニコルは面倒そうに、それでもその手を握り返した。

 そんな二人の様子に片や微笑み、片や呆れた様子で仲間達も後に続く。重厚な鉄扉を超えた先を少し進めば、生活臭のある客間。

 

「……最悪な。普通、此処で出ますか。あの女」

 

 立ち入った瞬間、聴こえて来る少女の笑い声。この特別製の独房が、誰の為に用意された物なのかをニコルは悟る。

 何時もの笑みを浮かべようとするが失敗して、頬を引き攣らせた少年。上目遣いに手を繋ぐ相手を見上げてみれば、返るはとても良い笑顔。

 

「ねぇ、ニコル。付き合ってくれるって、言ったわよね?」

 

「……もしかして、視えていたんですか? クーデルカ」

 

 これが約束する前ならば、即座にニコルはあの少女の首を狩り取り、強引にでも浄化していた事であろう。

 どうしようもなく気に入らない。彼の少女に嫌悪と軽蔑を抱く少年は、クーデルカの流儀を無視したくて堪らなかった。

 

「いいえ、そういう訳ではないけど。でもあたしの知る聖騎士さんは、約束を破るような男じゃないと思うわ」

 

「安易に約束なんて、するものじゃないですね。学びましたよ、全く」

 

 だがしかし、流石にそれでは女の顔も曇ってしまう。嫌悪と不快さ。どちらがまだ我慢出来るかと言えば、ギリギリ前者の方がマシ。故に諦めた表情で、ニコルは深く息を吐いた。

 

「おい、ニコルにクーデルカ! のんびり話している場合かよ!?」

 

「くそ、ポルターガイストか! 面妖な真似をしてくれる!!」

 

 少女の怨霊が力を振るい、周囲の机や書棚。椅子や食器などが宙を飛び交い襲い来る。

 正しく典型的なポルターガイストに、エドワードやジェームズが銃や魔法で迎撃するが効果が薄い。

 

 銀の食器は的が小さく、机や書棚は逆に大き過ぎて一度や二度では壊せない。そんな物が高速で飛び回って、体当たりを仕掛けて来るのだ。

 重量がある物や先が尖った物がぶつかれば、当然痛いし苦しく感じる。故にのんびりと話していないで、手を貸してくれと叫ぶのも道理だろう。

 

 そんなエドワードの言葉を受けて、ニコルとクーデルカは目を合わせた後に頷いた。

 

「それじゃあ、ニコル。お願い、先ずはあの子と話が出来るように」

 

「悪戯は其処までと、叱り付けるとしましょうか」

 

 そうして、ニコルはエドワード達の下へと駆け付ける。途中で懐から取り出した香炉に、グラスとマリンのオイルを注いで設置する。

 炊かれた香が、皆の身体に影響を与える。痛みが緩和されているのだ。少年の意図を理解したクーデルカは、合流するなり指示を飛ばした。

 

「守りを固めるわ! エドワード! ジェームズ! 背中を合わせて、守護の力を!」

 

「どういう心算か分からないが、信じてみるぜ。お前らを!」

 

 四人で一丸となり、背中を合わせて魔法を操る。放つ力はVITフォース。対象者の、防御力を底上げする物。

 繰り返し、己達に掛けていく。漂う紫煙の効果も重なって、彼らの肌は鋼鉄のように固く揺るがぬ物へと変わる。

 

 そうなれば当然、食器や棚などでは真面な被害など与えられない。痛みに怯む事もなく、飛んで来る物だけが壊されていく。

 癇癪持ちの悪霊少女は、その光景に苛立ち吠える。一つ二つで効かないならと、全部纏めて投げ付けた。ニコルが望んだ、策に嵌って。

 

「ふっ、愚かな。所詮は我慢の効かない子ども。手札を封じてやれば、こう来るとは分かっていました」

 

 面倒だったのは、少しずつ小出しにされる事。けれど今、癇癪を起こしたシャルロッテは全ての武器を投げ付けた。

 ならば対処は簡単だ。纏めて来るなら、纏めて消し飛ばしてしまえば良い。家具の一つ一つは、取るに足りない物なのだから。

 

「受けなさい! クリアクライム!」

 

 広がる円陣から伸びる無数の光の柱が、迫る家具や食器だけを包み込む。内に染み込む怨念を浄化されれば、それらは力を失い地に落ちる。

 高所から落ちて、壊れていく家具の山。神聖な光を染み込ませたそれに、シャルロッテは触れる事さえ出来ないだろう。故にもう、ポルターガイストは使えない。

 

「出て来なさい、シャルロッテ! その首を切り落とし、さっさと浄化してあげますよ!」

 

 後はもう、己で戦うしかないのだ。悪辣な笑みを浮かべたニコルは剣を手に、刈り取ってやると宣言する。

 そんな少年の頭を、後ろから拳で軽く叩く。振り向いてみれば、にこやかに笑っているクーデルカ。

 

「駄目よ、ニコル。違うでしょう」

 

「……出て来なさい、シャルロッテ。今なら首を切り落とさないし、少しは優しく成仏させてあげますから」

 

 子を叱り付けるような母を思わせる笑顔の圧力に、あっさりと屈したニコルは咳払いをしてから言い直した。

 

 そんな再宣言を行いながら、ニコルは僅かに思考する。出て来なければ、問題なく処理できるのではないかと。

 故に出て来ない事を祈りながら待つのだが、そんな期待は直ぐに裏切られる結果となる。空から少女が、ゆっくりと姿を見せたから。

 

〈……哀れみなんて、もう沢山よ。冗談じゃないわ。冗談じゃない〉

 

 ニコルとクーデルカのやり取りに何かを感じて、現れたシャルロッテは開口一番にそう告げる。

 優しく成仏させると語る。それは紛れもない哀れみだろう。慈悲の心を持っているのは、告げた少年ではないのだろうが。

 

 深い海を思わせる瞳で、シャルロッテはクーデルカを見詰める。己を憐れんでいるのは彼女であろうと、それは先のやり取りで理解していた。

 

「聞いて、シャルロッテ。あたしは、あなたを分かってあげたいの。だってあたしも、同じように……」

 

〈アンタにあたしの気持ちが、分かって堪るもんか!〉

 

 今なら話が出来そうだ。そう勇み足に踏み込んだクーデルカに、シャルロッテは拒絶の怒りを返す。

 事もあろうに、分かりたいのだと。同じなのだとこの女は語るのか。先に見せられたやり取りも相まって、少女の中で怒りが強く燃えている。

 

〈ここから出た事もないのよ! 唯、生まれて、死んだだけ!〉

 

 シャルロッテは、このネメトン修道院で産まれた。そして、このネメトン修道院で亡くなった。

 彼女の人生は、ずっとこの独房の中。誰も居ない。誰も来ない。鋼鉄の扉に阻まれて、一人だけでずっと居たのだ。

 

〈処刑の日に、司祭がやって来て言ったわ! 罪深い子羊を、神の下へ帰すんだって!〉

 

 外を見たのは、処刑の日が最初で最後。そんな何もない人生。9年と言う歳月は、少女にとっては長かった。

 だって、何もなかったから。9年も、何もなかった。それが罪だと、それが罰だと、そうして彼女は殺された。

 

〈教えて! あたしが何をしたの!? 生まれたのがいけなかったの!? わざわざ殺すような命なら、作らなければ良いのよ!!〉

 

 独房の中で産まれて、修道院から出る事なく殺されて、死んだ後もこうして一人。修道院を彷徨い続ける。

 何も得られず、唯他者の足を引いている。巻き添えにしてやろうと、語る無念を一体どうして他人に理解出来ようか。

 

 怨嗟を込めて、睨み付けるシャルロッテ。その瞳を見詰め返して、クーデルカは己を語った。

 

「あたしは……あたしの母親も、あたしを憎んでた」

 

 物心付いた時から、クーデルカには力があった。霊能力と言う特異な力は、彼女を一人孤立させた。

 気持ちが悪いと疎まれた。悍ましいと忌避された。母のその手で、殺され掛けた事すらある。

 

「父親に、優しくされた事もない。あたしも貴女のように、一人で……だからっ!」

 

 果てに村を追い出され、当てもなく彷徨い続けた。寒空の下に一人で、身体の寒さではなく心の寒さに涙した。

 そんな女だからこそ、心の底から愛を求める。寂しいと、同じ想いを抱いた誰かを見捨てたくはないのだと。

 

 告げる女に、顔を伏せるのは二人。心の何処かで、同じ想いを抱いた二人。

 けれどその一人は顔を上げると烈火の怒りを叫びながら、目の前にある事実を指摘した。

 

〈でも今のアンタは、一人じゃない! 其処のそいつみたいに! 傍に誰かが居るじゃない!!〉

 

 分かり合えない。分かり合えて良い筈がない。だってシャルロッテは今も一人で、クーデルカはそうではない。

 先のやり取りを見ていれば、否が応でも分かってしまう。この分かり合いたいと嘯く女は、決して己とは同じではないのだと。

 

〈笑わせないでよ! 一緒じゃないわ!! アンタは生きてて、アンタにはそいつが居る!! あたしはもう死んでて、あたしはまだ一人なのに!!〉

 

 一人じゃないと、その言葉は衝撃だった。言われた二人の、どちらにとっても。それ程に己は、相手の事を思っていたのかと。

 疑問に対する、答えはまだ持たない。けれど少女の瞳には、そう見えた。同じ想いを抱いた少女の瞳には、そう見えていたのだ。

 

〈何が、一人よ。何が、分かるのよ〉

 

「……ごめんなさい、シャルロッテ」

 

 座り込んで、泣きじゃくる少女。悲しげに叫ぶ少女の言葉に、戸惑いながらもクーデルカは謝罪する。

 近付いて、膝を屈めて、覗き込む。涙を流す少女に無神経な事を言ってしまったと、思いながらもその願いは変わらない。

 

「でも、分かって欲しいの。あたしは、本当に……貴女と分かり合いたいの」

 

 分かってあげたい。分かって欲しい。分かり合いたい。其処に何の意味がないのだとしても、価値がないとは思えないから。

 少しで良いから、救いが欲しい。ずっと泣いて過ごして来たなら、最後は笑顔で終われるべきだ。そんなクーデルカの想いを受けて、シャルロッテは顔を上げた。

 

〈呪ってやる〉

 

「え?」

 

 少女の表情は、人を喰らう鬼の如く。見開いた瞳からは赤い涙を溢れ出させながら、鬼女の形相でシャルロッテは怨嗟を叫んだ。

 

〈呪ってやるっっっ!!〉

 

 クーデルカの哀れみが、許せなかった。クーデルカだけが、救われそうなのが許せなかった。一緒ならば、どうしてと。

 その慈悲が、その瞳が、その言葉が、その存在すらも、何もかもが許せないのだとシャルロッテは否定する。

 

「……シャルロッテ」

 

 悲しげな表情で首を振りながら、ゆっくりと後退してしまう。そんなクーデルカの見詰める先で、少女の身体が変わっていく。

 首から下が膨れ上がり、白い衣は引き千切れる。肌は憎しみで黒く染まり、手足は異形に変じていく。果てに至るは、巨体となった人面犬。

 

〈アンタも、そいつも、アンタの仲間達も! 皆、呪ってやる! 呪い殺してやるわ!! 死ねば良いのよ!! 皆、死ねば良いのよ!!〉

 

 美しかった瞳は落ち窪み、見開いた瞼の下に残るは空洞だけ。綺麗な銀糸も抜け落ちて、異貌となった少女は吠える。

 呪うだけでは済まさない。このまま喰らい尽くしてやると叫ぶ少女だった怪物に、クーデルカの想いは伝わらなかった。

 

 和解は最早、不可能だ。いいや、端から不可能だったのだろう。彼女達は似ていても、同じではなかったのだから。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在90点
(謎解きをしない外道戦法で開かない筈の扉を開けた。+5点)

限りなくモブに等しいエイリアスを生存させておきながら、シャルロッテとは交渉決裂と言う誰得展開。
キリスト教観の中で育った外道である憑依ニコルは、生者を救う事はあっても死者は悪霊扱いなので仕方がない事かもしれませんね。


後もう気付いている人は結構いるでしょうが、今作のクーデルカはヒロイン候補です。
家族に向ける親愛か、異性に向ける恋愛か。どちらにしても、既に愛は芽生え始めているのでしょう。

クーデルカ編も長く続く予定だったので、花が欲しかったからヒロイン候補化。
エドワードはまあ何処かで良い人を見付けるでしょうから、最も割を食うのは恐らくハリー。

クーデルカヒロインの純愛ルートやハーレムルートなら登場チャンスはあるけれど、原作同様パーティメンバーになるのは年齢的に考えて先ず不可能でしょうね。(クーデルカさんが青少年保護法違反を犯せば可能かもしれませんが)



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第22話 闇を祓うモノ

其は希望よりも熱く、絶望よりも深いもの by金剛の服を着たやる夫


 シャルロッテが大きく吠えて、尻餅を付いたクーデルカへと飛び掛かる。

 血肉など骨ごと砕いてしまいそうな程に鋭い牙は、しかし空を切っていた。

 

「此処まで、ですね。交渉は決裂ですよ、クーデルカ」

 

 人面犬の牙が届くよりも前に、ニコルは彼女を抱き抱えて跳躍している。クーデルカを両手で横抱きにしたまま、少年は大地や壁を蹴って怪物から距離を取った。

 

「……ニコル。けど」

 

「悪いがこればっかりは、ニコルに同意だ。あのお嬢ちゃんには、もう話しても意味ないだろうよ!」

 

 ニコル達を追うシャルロッテだった怪物を、銃で撃ちながらにエドワードは叫ぶ。クーデルカにも、譲れない想いはあるのだろう。だがしかし、もう既に対話の時間は終わったのだと。

 

「エドワード! だけど、あたしは!」

 

「下がっていたまえ。辛いなら、君は戦わなくて良い」

 

「ジェームズまで!? ……そんな」

 

 尚も食い下がるクーデルカに言葉を掛けて、ジェームズは魔法の火を放つ。降り注ぐ火球はしかし、シャルロッテに当たらない。

 巨大な体躯に反する手足の短小さ。愚鈍そうな見た目に反して、人面犬の動きは早い。彼女は家具の残骸を吹き飛ばしながら、クーデルカだけを追う。

 

 そう。その標的は今も、己に哀れみの情を向けるクーデルカなのだ。血肉を貫けない銃弾も、当たらない炎の弾もどうでも良い。

 あの女を殺したい。あの女が許せない。溢れ出す怨嗟と殺意を隠さずに、シャルロッテは室内を逃げ回るニコルとクーデルカを只管に追い続ける。

 

(ふむ。このままクーデルカを降ろすのは下策ですかね。どうにも彼女には、まだ覚悟が出来ていない)

 

 姫抱きにされた女は今も、シャルロッテに呼び掛け続けている。それが彼女の怒りを煽り続けていると、気付いてそれでも止められない。

 そんな女を一人にすれば、覚悟を決める前に喰われてしまおう。或いは死の間際になれば割り切れるのかもしれないが、そんな賭けはしたくなかった。

 

 ならば、どうすれば良い。簡単だ。クーデルカに向いているシャルロッテの怒りを、ニコルに対して向けさせればそれで良い。

 

「クーデルカ。片手を離しますので、捕まっていて下さい」

 

「え、あ、きゃ――」

 

 抱いた女に一声掛けて、了承を得る前に右手を離す。急に不安定な体勢となった女は、慌ててニコルに抱き着いた。

 首元に両手を回されたまま、ニコルは懐から武器を取り出す。右手に握り締めるのは、異様な形をした鞭だ。

 

「余り使い慣れない物ですが、貴女のような愚鈍な獣を躾けるのならば、こちらの方が妥当でしょう」

 

 金属製の九節鞭をベースに、()()()()のがこの鞭だ。技量の低さを誤魔化す為に、個々の鞭を肥大化させて稼働の範囲を狭めている。

 黒く染まった鋼の鞭は、宛ら竜の尾が如く。稼働範囲を狭めた分だけ鋭さを増した各部位は、皮膚を裂くと同時にその傷口を抉るであろう。

 

 腰の剣ではなく、慣れない鞭を懐から取り出して扱う。その利点の一つが間合いの広さであれば、残る一つは与える痛みの種類である。

 切れ味の鋭い刃よりも、鞭の方が長く痛む。鞭打ちが犯罪者への刑罰となる程に、その打撃は受ける者に耐え難い程の激痛を与える。

 

 其処で更にと、追加する魔法は改変した白魔法。溶断破砕マニピュレータと同じ論理で、鞭の表面に凡そ100℃の高熱を纏わせる。

 是、名付けてヒートロッド。強烈な痛みと共に傷口を焼くと言う悪辣な鞭を、ニコルは己達を追うシャルロッテへと振り下ろす。激痛と共に、少女は叫んだ。

 

〈痛い! 痛い! 痛い! 痛いっ!!〉

 

「おや、そうですか。それは何より。貴女のような低脳では、痛みを伴わねば学習さえも出来ないのでしょう」

 

 少年と怪物は言い合いながら、大地を壁を駆け回る。飛び掛かった怪物の牙が届く前には、常に後退して間合いの外へ。

 着地の瞬間を狙って振り下ろされるヒートロッドに、少女の声で絶叫を上げる。痛い痛いと叫びながらも、シャルロッテはニコルを追った。

 

〈嫌いよ! アンタなんか、大っ嫌い!! 死んじゃえば良いんだっっ!!〉

 

「同感ですよ。私も貴女が嫌いです。もう死んでいると言うのに、浅ましくもしがみ付く。目障りですから、とっとと消えて貰えませんか」

 

 収まらぬ怒りと憎悪に身を任せ、少年を追い続けるシャルロッテ。その襲撃を躱しながら、的確に痛烈な反撃を加えるニコル。

 戦況は一見すると後者が一方的に優位なようにも見えるのだが、その実ニコルにはそれ程の余裕があると言う訳でもなかった。

 

「しかし我ながら、下手な物だ。真っ直ぐには振れますが、それだけ。……姉弟子とは、比べ物になりませんね」

 

 ニコルは剣の扱いこそ達人級だが、鞭に関しては素人に毛が生えた程度だ。そもそも真面に学んだのは、姉弟子に無理矢理押し付けられた僅かな時だけ。

 一年と学ぶ機会はなく、三年は全く触れてなかった。そんな武器を今更に使ったとて、使い熟せる訳もない。自傷せずに振れているだけ、及第点と言えるだろう。

 

「ニコル」

 

「降ろしますよ、クーデルカ。頭に血が上ったアレは、もう貴女を狙わないでしょうから」

 

 姉弟子の事を思い出し、僅か遠い目をする。そんな少年を気遣うようにクーデルカが声を掛けるが、ニコルは彼女に今必要な事だけ語る。

 そうして彼女を解放すると、そのまま前に走り出す。間合いの優位を捨てて踏み込む少年に、振るわれる獣の爪。それを防いだのは、獣の顔に直撃した炎球だった。

 

「成程、良い援護ですよ。ミスタ」

 

「ふむ。お褒めに与り、光栄だ」

 

 大量のマリスを溜め込んだシャルロッテは強く、火球の直撃も大した傷にはなっていない。だがそれでも、目潰しとしての役は果たした。

 眼球のない空洞に、視覚と言う機能が残っていたのかは兎も角。顔を焼かれそうになれば、条件反射として目を閉じる。顔を庇おうとしてしまうのは、人であった頃の名残である。

 

「は、やるじゃねぇか。なら俺も、おっさんには負けてられないな!」

 

 攻撃の機会を失ったシャルロッテに、反撃として打ち込まれるニコルの鞭打。それが届く前にシャルロッテは、大きく後ろに跳んで躱す。

 その瞬間を待っていたエドワードは、エイリアスから奪ったライフル銃を構えて放つ。炎弾よりも早く空を駆ける銃弾は、シャルロッテの爪を弾いた。

 

 物質世界よりも精神世界に寄っている怪物にとって、何の神秘も籠らぬ銃弾の火力など大した脅威とは言えない。だとしても、爪に当たれば砕ける程度の威力ならば有していた。

 故に前足の爪を弾かれた怪物は、上手く着地出来ずに地に崩れる。其処に当然の如く、振るわれるのはヒートロッド。少女の苦悶が、広い独房の中で響いた。

 

「見事な物です。このまま援護は任せても?」

 

「任せな。しかし今回は、下がっていろとは言わないんだな」

 

「慣れない武器で、こちらも手探りなのですよ。助力はあった方が良いと思うくらいにはね」

 

「今更の話ではあるが、剣に持ち替えても良いのではないかね?」

 

「何、あの程度の相手に、剣など必要ありません。そう決めたから、そうするのですよ」

 

「ははっ、負けず嫌いな奴だな。お前さんもよ」

 

 笑いながら交わす言葉は、一分程度の僅かな物。起き上がったシャルロッテが、再び突撃を仕掛けて来る瞬間を合図に散開する。

 別々に室内を駆ける三者の内、シャルロッテが狙うのはやはりニコルだ。この少年だけは喰らってやると言わんばかりに、しつこく追い回す。

 

 時折振り向き様にヒートロッドをぶつけるが、怨敵への怒りが鞭の痛みに勝ったのか、シャルロッテは止まらない。

 シャルロッテが怯まなければ、その爪はニコルに届くのが道理。だからそうならぬのは、的確な援護が彼女の行動を妨害し続けるからである。

 

「へぇ、おっさん。随分とまあ、異端の業に慣れたじゃないか。まるでエアリアルが起こす嵐のようだぜ」

 

「君こそ、銃の撃ち方が様になっているな。まるでウェーバーが戯曲で語る射手のようだ」

 

 シャルロッテが飛び掛かる瞬間に、ジェームズが風を起こして動きを阻む。崩れそうになって如何にか着地する瞬間、足を射抜くのはエドワードの弾丸だ。

 距離を取ってシャルロッテを挟みながらも、軽口を交わし合う二人。そんな二人の前で起き上がろうとしたシャルロッテに、ニコルがヒートロッドを叩き付けた。

 

「何だ。品格がないとか言いながら、オペラを聴きにドイツまで行ったのかよ」

 

「聴いたからこそ言うのだよ。何も知らずに否定するのは、余りに勿体ないだろう。尤も、私にはウォッツやトップレディーの生み出した、賛美歌の方が好ましいと感じたのだがね!」

 

「そうかい、そいつは良かったな! 賛美歌も悪くはないが、俺はオペラの方が聴きたいね! ワーグナーは、まだ聴いた事がないんだよ!」

 

 起き上がったシャルロッテは、忌々しいとばかりに囀る者らを睨み付ける。それでも彼女の標的は、目の前で薄ら笑いを浮かべる怨敵だ。

 派手に動かなければ、男達の妨害などでは崩されまい。不動のままに口を開いて、シャルロッテは魔力と怨嗟を其処に集めた。

 

 そして、少女の口から吐き出されるのは四つの魔弾。憎悪の籠った黒き弾丸は、ニコルを撃たんと次から次に降り注ぐ。

 

「やれやれ、後ろは実に賑やかだ」

 

 けれど悪趣味な薄ら笑いは消えない。怨念の魔弾は炎球とさして変わらぬ速度であるから、ニコルにしてみれば躱すのはとても容易くあった。

 強酸のように床を溶かしていく魔弾。触れれば即死するであろう状況で、笑いながらニコルは駆ける。そして手にした鞭を、シャルロッテに振るうのだ。

 

〈殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!!〉

 

「けれど生者とは、ああいう者を言うのでしょう。陽気で賑やかで、恐怖に打ち勝つ勇気を持つ。……貴女とは、大違いですね。シャルロッテ」

 

 痛みに耐えて怪物は、再び黒き魔弾を放つ。追い掛ければ男達に邪魔されるから、彼女にはこのまま撃ち続けると言う選択肢しか存在しない。

 数百年の憎悪を込めた恐るべき魔弾は、当たれば必ず命を奪おう。だが当たれば落ちると言うのに少年は、当たらなければ意味がないと言わんばかりの素知らぬ顔だ。

 

〈死んで何もなくなっちゃえば、あたしと同じ! そうすれば、あたしが生まれて来た悔しさだって!!〉

 

「死者とは貴女のように、足を引くのですよ。羨ましいと縋り付き、浅ましくも欲しい欲しいと。何も生み出せない塵屑が、実に醜く愚かしい」

 

 左右に跳んで魔弾を躱し、踊るように鞭を振るう。鉄の鞭に叩かれて泣き叫びたい程の痛みを受けながらも、怪物は憎悪の魔弾を撃ち続ける。

 その間にも、エドワードの銃撃とジェームズの魔法は止まらない。火球や銃弾が微弱ながらも、シャルロッテを傷付けていく。塵も積もれば山となるように、彼女の限界は程近かった。

 

〈殺してやる! 殺してやるわ! 皆、殺してやるの!!〉

 

「……馬鹿の1つ覚えが。やはり貴女は、気に入らないな。どうにも、私の心を荒立たせる」

 

 それでも少女は、変わらず憎悪を叫び続ける。怨嗟の声を上げながら、意味のない行為を只管に続ける。

 その光景はまるで、彼女の人生を縮図にしたかのようで。ニコルは漸くに理解した。シャルロッテの、何がこれ程に気に入らないのか。

 

「ああ、そうか。理解しましたよ。何故こんなにも、私は貴女に苛立つのか。これは唯の同族嫌悪だ」

 

 同族嫌悪。クーデルカがシャルロッテに己の過去を重ねた様に、ニコルもシャルロットに重ねていたのだ。

 生まれてから死ぬまで、誰にも愛された事がないのだと。嘯いた果てに何も為せずに、寂しさを口にも出来ず抱えて終わる。

 

 その姿はどうしても、幼い日に見た記憶を。そして狂乱の中にあった母が僅かに正気を取り戻した日の記憶を、彼に思い起こさせるのだ。

 

「貴女は余りに、ニコル()に似ている。何も知らずに居た頃の、在り得たかもしれない私(原作のニコル)に似ているのですよ!」

 

 何時か、父が迎えに来てくれる。貴方は皇帝に成れるのよ。貧しい生活とそれを支える売春で、心を壊した女が何時もニコルに囁き続けたその言葉。

 あの女は、ずっと夢だけを見ていた。だから自分は愛されてはいないのだと、幼いニコルは思っていた。恐らくは、原作のニコルもそうだったのだろう。

 

 ああ、何たる親不孝。子を愛していなければ、どうして身を削ってまで支え続ける事が出来たのか。目を逸らしていただけで、気付ける理由はあったのに。

 ニコルが気付けたのは、原作知識を手にした後。得体の知れない恐怖に震えた彼を、優しく抱き締めてくれた時。奇跡のような一瞬に戻った母の正気が、愛されている事を教えてくれた。

 

「故に見ていて気分が悪い! 腹立たしいのだ、貴女と言う存在が! シャルロッテ! 貴女は何も、知ろうとしなかった頃の私だ!」

 

 九節鞭に魔力を流して、一つの真っ直ぐな棒へと変える。両手で振り上げた鉄棒に、纏わせるのは光の魔法。

 強く、強く、過去を切り捨てる為に強く。込めた想いと力を剣に変えて、振り上げたのは怪物よりも巨大な光剣。

 

「ならば、必要ないのだ! 私にとって、貴様と言う存在は!!」

 

 大きく踏み込み、一気呵成に振り下ろす。真正面から放つのは、光を伴う唐竹割り。

 振り下ろされた輝く刃は、黒き怨念の弾丸を、歪んだ少女の顔面を、その長い胴体までも余さず残さず、全て断ち切ってみせるのだった。

 

 

 

 そして、決着は付いた。光の剣が消えた後に残っていたのは、身体の大半を失い崩れ落ちて倒れた怪物。

 異形となったシャルロッテは、手足の指先から光となって消えていく。落ち窪んだ瞳からは、赤い涙が流れて落ちた。

 

〈痛い……痛いわ……〉

 

「安心しなさい。その痛みすら、もう直ぐ感じなくなりますよ」

 

〈嫌よ……嫌なの……あたし、だって……生まれたのに……死んだだけなの……〉

 

「そうですか。それは残念でしたね。まぁ、世の中は大概、理不尽な物です。そういう事もあるでしょう」

 

 もう動く事も出来ないのだろう。末期を前にした動物のように、横たわって立ち上がれないまま少女の声で嘆く怪物。

 シャルロッテに対して、ニコルが返す言葉は冷たい。声にも視線にも熱は籠らず、路傍の石を見るような感慨で適当な相槌を打つだけだ。

 

 だが、そんな時間も長くはならない。ニコルは左手で引き抜いた剣を、もう動けない怪物へと突き立てようとしていたから。

 

「では、さようなら。……最初から亡霊は、大人しく棺桶で眠っていれば良かったのですよ」

 

 躊躇いはない。情を向ける理由もない。どうでも良い所か、さっさと消えて欲しい存在だ。故に振り下ろす刃に、慈悲などは欠片もなくて――ならばどうして、刃が届かず止まるのか。

 

「……はぁ。また、ですか。クーデルカ」

 

 知れた事、背後から彼を抱き締めて止める女が居たから。彼女を振り解けないから、シャルロッテの最期は僅か遠退く。

 

「お願いよ、ニコル。その子を、殺さないで」

 

 縋り付いて止める女を、ニコルは傷付ける事が出来ない。何故だか、余り傷付けたくはないと思ってしまう。

 右手は鞭で、左手は剣で塞がっている。振り解こうとすれば、傷付けてしまうだろう。だからニコルは、諭すように言葉を掛けた。

 

「アレはもう死んでいます。死人は殺すのではなく、眠らせるのですよ」

 

 シャルロッテに救いはない。此処で助けても、何もないのだ。彼女は既に終わっている。

 死んだ後も蠢く怪物なんて、眠らせてやった方が良い。其処に留まっていても、何も得られはしないのだから。

 

「けど、眠るのなら……夢くらい、みたいじゃない」

 

 けれどクーデルカは思うのだ。もう眠る事しか出来ないのだとしても、せめて夢を見させてあげたいと。

 救われないのかもしれない。そんな事に意味なんてないのかもしれない。けれど嘘みたいに優しい夢は、きっと無価値なんかじゃない。

 

 だからお願いと、女は続ける。彼女の頬を伝った雫が、ニコルの背を濡らす。そうして彼は、諦めたように嘆息した。

 

「はぁ、何故でしょうね。我ながらどうも、貴女にはつくづく甘い」

 

 本当に何故なのだろうと、ニコルは自問自答する。どうにもクーデルカに頼まれると、断り切れない自分が居た。

 彼女が泣いていると、不快なのだ。だからそれよりは、マシだろう。少年は剣と鞭を納めると、抱き締める女の手を優しく解いた。

 

「ニコル、ありがとう」

 

「今回だけです。それにどうせ放っておいても、そいつはもう長くは持ちませんから」

 

 振り返って、好きにしろと伝える。そんなニコルに感謝の言葉を返して、涙目で微笑むクーデルカは足を進めた。

 もう動けない、シャルロッテの下へ。ゆっくりと消えていく可哀想な怪物に、せめて優しい夢を見させてあげる為に。

 

「ねぇ、シャルロッテ」

 

〈……何よ。何なのよ〉

 

 異形の貌も恐れずに、その傍らに膝をついて涙を拭う。血涙に濡れながらも微笑むクーデルカを、怪物は不思議そうに見詰め返した。

 そんなシャルロッテに、今更一体何を言えるのか。僅か悩んで、クーデルカは決心する。それは少女の生が、無価値ではなかったと証明する為の提案。

 

「確かめてみない? 貴女のお母さんや、貴女と縁を持つ人達が、貴女の事をどう思っていたのか」

 

〈……そんな事、出来るの?〉

 

「貴女が手伝ってくれれば、出来るわ」

 

 首から下げたペンダント。己を愛さなかった父親が、しかし一度だけ見てくれた時にくれた贈り物。

 形見とも言えるそれを手に、クーデルカは力を放つ。ペンダントが導くのは、シャルロッテと関り深い物。彼女に対して、温かい想いを向ける物。

 

「ダウジング。貴女の縁を辿るの。貴女と縁深い物。貴女に向けた、温かい想いが籠った物。それが近くにあれば、このペンダントが導いてくれるわ」

 

〈……そんな物、何処にもないわよ〉

 

「けど、あるかもしれない」

 

〈……あったとしても、きっと碌な物じゃないわ〉

 

「けど、そうじゃないかもしれない」

 

 シャルロッテの言う通り、必ずあるとは限らない。いいや寧ろ、存在しない可能性の方が高いだろう。

 何もなかったと分かってしまえば、それは悲劇に終わってしまう。絶望を少女に、突き付けてしまうだけに終わるのだ。

 

 その可能性をクーデルカも、考慮していない訳じゃない。それでも、もしかしたらと願ってしまう。

 

「どうせ消えるだけなら、最期に夢が見たいじゃない。優しい夢を、あたしは見せてあげたいわ」

 

 だって悲しいではないか。もしも本当にあったとして、それさえ届かずに終わってしまうのは。

 だからと伝えるクーデルカに、シャルロッテは暫し黙り込む。ゆっくりと崩れていく怪物が言葉を発したのは、10秒程が経ってから。

 

〈……どうすれば、良いの?〉

 

「シャルロッテ!」

 

〈どうせ、他に何もないんだもん。なら、良いわ。だから、どうすれば良いのか、教えてよ〉

 

 行うにせよ、行わないにせよ。どちらにしろ、このままシャルロッテは消えるだけなのだ。ならば最期くらい、付き合ってみても良い。

 そして嗤って消えてやるのだ。ほら見ろ、私には何もなかったぞと。憎悪を込めて、呪いを残して、この女を嗤いながらに去ってやる。

 

 そう決めて、空っぽの眼窩を歪ませる。そんな少女の悪意にも気付かぬまま、クーデルカは手を伸ばして彼女に触れた。

 

「目を閉じて、あたしの手を意識して、そうして最後に強く想うの。貴女を包む、温かな物。陽射しのような、温もりを」

 

 どうせ無駄だろうなと思いながらも、シャルロッテは言われた通りに瞼を閉じる。温かな温もりを感じるのは簡単だった。

 己には体温がないからだろう。触れ合うクーデルカの掌は、死ぬ直前に一度だけ見た事のある日溜りのように温かかった。

 

 そうして、数秒。もう手足が崩れてなくなった頃に、ペンダントが光輝き浮かび上がった。

 

〈あ……〉

 

「ペンダントが、光った。あるわ! あるのよ、シャルロッテ! 貴女に温かい想いを向ける、縁が確かにこの近くに!」

 

 輝くペンダントが、頭上を指し示す。ネメトン修道院の何処かに、シャルロッテへと向けられた何かがあった。

 その事実にクーデルカは喜んで、シャルロッテは信じられないと目を見開く。だが、信じられないとは叫べない。

 

 ペンダントを介して、行われたクーデルカの霊視。それと繋がっていたシャルロッテにも、確かに視えていたのだから。

 

〈……何よ、それ。そんな、今更〉

 

「まだ間に合う。探しに行きましょう、シャルロッテ!」

 

 霊視に映った執務室。其処に積まれた、大量の手紙。数え切れない程の手紙には、しかし一枚一枚確かな想いが込められていた。

 見ただけで分かる。あれを書いた何処かの誰かは、シャルロッテを心の底から愛していたと。想われていたのだと、分かってしまった。

 

〈いやよ、駄目。怖いわ。凄く、怖いの〉

 

「怖くはないわ! 温かい物でないのなら、ペンダントは反応しない! 此処には貴女を、想う物が確かにあるのよ!」

 

〈いや! 止めて! 怖いの! だって、心が溶けちゃう! 許したら、溶けちゃうもの!〉

 

 悪霊は、誰かを憎めるから悪霊なのだ。誰も憎めない霊魂は、怪物などには成れずに消える物である。

 だから、許してはならない。だと言うのに少女の心は、もう既に許してしまっていたのだ。だから、彼女はもう怪物には成れない。

 

「シャルロッテ……貴女……」

 

 悍ましい姿なんて、何処にもなかった。崩れ落ちて倒れていたのは、白いドレスを纏った可愛らしい少女だけ。

 本来の姿に戻ったシャルロッテは、子どものように泣いていた。緑の輝きに包まれながら、その最期まで泣きじゃくり続けていた。

 

〈アンタなんか、嫌いよ。嫌い。大っ嫌い、なんだから……〉

 

 そうして、宙に溶けて消えてしまった。後にはもう、何も残らない。クーデルカには茫然と、見送る事しか出来なかったのだ。

 

「成仏しましたか。全く、最期まで向き合おうともしないとは。つくづく気に入らない女だ」

 

 シャルロッテは最期まで、手紙の主と向き合わなかった。愛されていたと気付いたのに、それが誰なのか知ろうともしなかった。

 想いだけを受け取って、何も返さず成仏する。そんな少女の在り方が、不快であるとニコルは語る。何処までも己とは、相性の悪い亡霊だったと。

 

「……でも、ニコル。あの子は許せたわ。想われていたと、愛されていたと、その事実だけで許せたのよ」

 

 そんなニコルに、クーデルカは首を振ってから告げる。少女が消えたのは、愛されていた事実だけで満足する事が出来たから。

 クーデルカには、シャルロッテの気持ちが少しだけ分かる。誰も愛してくれないから、自分がこんなにも苦しいから、皆死んでしまえと呪う感情が。

 

「ねぇ、ニコル。あの子は、数百年もの間、ずっと一人で苦しんで来た」

 

 シャルロッテの話をしながらも、クーデルカが思い浮かべるのは己の過去。誰にも愛されずに居た寂しい日々。

 幼くして父を失い、母には殺され掛けて、大人達には村を追われた。誰にも頼れずに一人、何処にも行けずに彷徨う記憶。

 

 定住すら叶わないのだから、真面な職に就ける訳もない。一切れのパンを買う為に、身体を売らねばならない悔しさ。それでも生きていく為に、泥を啜って進み続けた。

 

「けど、その悔しさが全部、許せてしまう。それ程に、愛されていた。それ程に、あの子は愛されていたのよ」

 

 そんなクーデルカにも視えた。シャルロッテと共に視た手紙に、一体どれ程の愛情が込められていたのかを。

 数百年の苦しみや悔しさが、全て溶けてしまう程の愛。それを視たクーデルカは想う。羨ましいと、切に想った。

 

「どんな気持ちなのかしら。あたしも、許せるのかな。これまでの全部、許せるようになるのかしら」

 

 だから、そんな愛が欲しいのだ。その願いを言葉にする事が出来なかったのは、きっと彼女に自覚がないから。

 それでも求めてしまうクーデルカの姿に、ニコルは漸くに理解する。一体どうして己が、この女を捨て置けないのかを。

 

「……同族嫌悪と同病相憐れむ。同じ感覚を抱いても、至る感情が異なるのは、生者と死者の違いですかね」

 

 何処か、少しだけ似ているのだ。クーデルカと言う女は、ニコルと言う少年に。だから彼女の存在は、酷く心を騒めかせる。

 シャルロッテに対する感情と方向性が違うのは、彼女が生きているからだろうか。生きている限り、人は変わっていけるから。

 

 ああ、そうだろう。ニコルはクーデルカに、変わって欲しいと思っている。救われて欲しいと、願っているのだ。

 

「クーデルカ。貴女は愛を知るべきだ。そして求めるべきだ。それこそ貴女の救いであり、貴女は――――救われても良いのだから」

 

 だからニコルは、羨ましいと零すクーデルカへと近付く。座り込んで泣いている彼女の涙を拭うと、その身体を抱き締めた。

 どうか幸せになって欲しいと祈りを込めて、小さな身体でクーデルカの事を抱き締める。少年の胸元に抱かれたまま、女は静かに泣き続けた。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 現在100点
(シャルロッテにメイン武器を使わないと言う舐めプ。鞭で幼女虐待。+10点)

シャルロッテは唯撃破するだけでは微妙だが、展開的に手紙を回収出来る筈もないのでこんな結末に。
ダウジングは漫画版クーデルカに出て来た奴です。同作で見せた霊視と合わせれば、何か出来そうだと思ったのでやらせてみました。


そしてクロス技一つ追加。ヒートロッド+バルジ切り。本来バルジ切りはビームソードの最大出力ですが、ノリと思い付きで合体しています。

何かロボット技ばかりで偏っていますが、CV子安なキャラの技で尚且つこの世界の理屈的に再現できそうなのが余り浮かばないんですよね。

現状、確定しているのはグランゾンのワームスマッシャー(またロボネタ)のみ。
ディオの気化冷凍法か空裂眼刺驚か世界のどれかも使わせたいのですが、この辺は人間止めないと無理そうなのでアスタロト必須。アスタロトと魂の契約交わすと、バッドエンドになる可能性が急上昇するのが厳しいところ。

これ出してみたら、とか良さそうなネタを頂けたら幸いです。



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第23話 エレイン

本作は大胆なショートカットが行われています。

Q.道中の謎解きとかはどうしたの?
A.何事も暴力で解決するのが一番です。


 シャルロッテ特別房を抜けた先に、パトリックの暮らした邸宅はあった。地下の扉を開いて侵入し、一行は本邸の探索を開始する。

 その道中で拾った手記を片手で捲りながら、ニコルは思考を巡らせる。考えるのは、空いた左手を握り締めている女の幸せについて。

 

(さて、一体どうした物ですかね)

 

 クーデルカ・イアサントと言う女に向ける己の感情を、先の一件を経た事で僅かにではあるが理解していた。

 同病相憐れむ。芽生えた情が自己嫌悪に傾かなかったのは、まだ生者である彼女ならば此処から幾らでも変わっていけるから。

 

 あり得る未来の姿を知るからこそ、確証を以って断言出来る。ニコルが此処に来なければ、クーデルカは幸せに成れたのだ。ならばニコルは、その結末を変えてはならない。

 世を憎んで、他者を妬んで、何も為せずにマイナスだけを振り撒く存在。悪霊のような存在に、ニコルの所為で成ってしまう。そんな結果など、断じて認めてはならないのだ。

 

(クーデルカの幸福とは、ハリー・プランケットの存在だ。愛し愛される家族の存在こそが、彼女にとっての救いである。此処は、間違いありません)

 

 幸福の形は人それぞれで、決まった答えなどはない。誰かの幸福なんて本当は本人以外、他の誰にも分からない筈である。

 だが原作知識と言う情報が、ニコルにクーデルカの幸福を教えてくれる。穏やかな母となる彼女を満たしていたのは、彼女の息子と言う存在だ。

 

 原作においてクーデルカは、アルバート・サイモンに囚われる。そして三年の長きにも渡って、ありとあらゆる拷問をその身に受ける。

 だと言うのに、彼女は決して屈しなかった。そんな気高い女はしかし、息子の危機に膝を屈した。己を襲う苦痛ならば耐えられたと言うのに、子を襲う悲劇に母は耐え切れなかったのだ。

 

 それ程に、女は我が子を愛していた。その事実を知るからこそ断言出来る。ハリー・プランケットと言う存在こそが、クーデルカの幸せなのだと。

 

(となると、ハリーが産まれる様にサポートするべきなのでしょうが。如何にも、肝心の父親との関係性が余りよろしくない)

 

 ニコルは視線を動かし、未来で父親となっていた男を見る。ジェームズと雑談を交わしながら歩くエドワードに、そんな素振りなどは見えない。

 そして傍らのクーデルカも同じく。見上げたニコルに微笑みを返す女に、ニコルは恋愛事の匂いを感じられない。少なくとも、エドワードに感情は向いていなかった。

 

 クーデルカが微笑みを向けるのはニコルばかりで、エドワードやジェームズに対しては初対面からさして変わらずの態度で居る。

 エドワードはエドワードで、ニコルやジェームズとは仲が深まっているが、クーデルカとはまだ少し距離があるように見えていた。

 

(恐らく本来の歴史では、生死を共にする危機感の中で関係を深めていったのでしょう。ですが私が居る所為か、それ程の窮地がありませんでしたからね)

 

 少年が恋愛事に疎いから、気が付いていないだけと言う可能性は低いだろう。ならば彼が居る結果、変わった要素が原因だ。

 クーデルカと言う女が、子どもに対して甘かった事。ニコルの実力を前に、怪物達が何ら脅威とはならなかった事。大きな理由は、その二点。

 

 本来、何度も死に掛けるような窮地を共に潜り抜けた事で絆が深まっていったのだ。その過程を失えば、関係性は当然薄くもなるだろう。

 

(まあ、無理に関係を持たせる必要はありません。クーデルカの幸福に必要なのは、ハリーであってエドワードではない)

 

 とは言えニコルは、クーデルカとエドワードの関係の薄さを其処まで問題視してはいなかった。

 何故ならば、ハリーは母子家庭で育っている。それで満たされていたと言うならば、旦那の存在は別に重要な事ではないからだ。

 

 クーデルカの幸福とは、ハリーと言う息子だけなのだ。原作におけるアルバート・サイモンの行動も、それを保証していると言って良い。

 もしもエドワードも大切な存在ならば、アルバートは彼の事も捕えていた筈だろう。あの大魔術師の実力ならば、海を挟んだ新大陸とて手を伸ばせない場所ではない。

 

 仮にニコルがアルバートの立場に居て、クーデルカがエドワードの事を愛していたならば――エドワードとハリーの両方を捕えていたであろう。

 そして片方を、女の眼前で殺害する。もう一人もこうなるぞと脅してやれば、無駄な拷問なんて必要ない。後は最後に、後腐れなく皆殺しにしてお仕舞いだ。

 

 少なくともニコルや、師であるラスプーチンならばそうしただろう。アルバート・サイモンはそうではないと、否定出来る程の論拠はない。

 アルバートの心根は、ニコルやラスプーチンとは違い善性の物。彼の愚行の多くは、破壊神アモンと同化した影響でもある。とは言え彼も(ハリー)を利用したのだから、理由もなく父を見逃す道理はない。

 

(別に他の男の種でも構わない。ハリーは母と子だけで育ったのですから、父親なんて何処の誰でも問題ない)

 

 大切なのは子どもである。ならば極論、父親なんて誰でも良い。彼女が子を孕んで、無事に産めばそれで良いのだ。

 寧ろ母と子だけで家庭が上手く回っていたのだから、下手な父親なんて居ない方が良い。必要ならば、役目を終えた種馬の処分も考慮せねばなるまい。

 

 そういう点でも最善なのが、エドワードだと言う事は変わらない。だが今更に、彼らの間を取り持とうと言うのは無理があろう。

 ニコルには、人の心が分からない。どうすれば壊せるのかは分かっても、どうすれば愛し合えるのかなんて専門外にも程があるから。

 

(クーデルカが自分で、適当な男を捕まえてくれれば助かるのですが……最悪はそれなりに見目の整った人物と、共に閉じ込めて薬でも盛りますか)

 

 くすりと微笑む少年は、そんな風に結論付ける。香の調合は、調薬の一種。その気になれば、意識を混濁させた上で発情させる事も簡単である。

 流石にそれは最後の手だが、必要ならば顔色一つ変えずに為そう。容易くそんな結論を出せる心が狂った下劣畜生は、故に向けられている感情にも気付けなかった。

 

「どうしたの、ニコル? 何か、面白い事でも書いてあったのかしら」

 

「いえ、別にそうではありませんよ。唯、少し悩んでいた事があったのですが、解決の目途が立ったので思わずと言うだけです」

 

「そう。それは良かったわ」

 

 手を繋いで、優しげに見詰めてくる女。ニコルに抱き締められて涙を零したその後から、彼女の想いは少し変わった。

 クーデルカの瞳に宿った情に、愚鈍な少年は気付けない。ニコルは既に、クーデルカを幸せにする事が出来ると言うのに。唯彼が向けられた愛を受け止めて、同じ想いを返せばそれだけで済む話であるのに。そんな簡単な事にすら、少年は気付けていなかった。

 

 そんな少年の感情がどうあれ、邸宅の散策は構わず進む。幾つかの部屋を調べ終えた後に、一行が辿り着いたのは印刷室だ。

 この時代では珍しい、大型の印刷機が置かれた部屋。初めて見たと興奮するエドワードは、感嘆の声を漏らしながら弄り回す。

 

「これは、印刷機か? 凄いな。こんな代物まであるのかよ」

 

「どうにも音が軽い。壁の向こうに、何かありそうだぞ」

 

 対して壁を軽く叩きながらに歩いていたジェームズは、ふと返る音の違いに気付いて足を止める。

 音の反響が僅かに少ない一部は、よく見れば周囲とは少し色が変わっていた。明らかに後付けされた物である。

 

「では、崩しますか。クーデルカ、少し離れてください」

 

「崩すって……こういうのって、何か仕掛けがあるんじゃないかしら?」

 

「かもしれませんが、探すのが面倒です。薄い壁程度なら、殴って壊した方が楽でしょう」

 

 軽く言ってニコルは、クーデルカに視線を向ける。向けられた女は名残惜しいと思いながらも、少年の手を離した。

 そうして自由になった彼は、左の拳を強く握る。呼気を強くして裂帛の気合を入れると、魔力を込めた拳で壁を貫いた。

 

 轟音を立てて、薄い壁が砕けていく。壊れていく壁の、直ぐ向こう。其処に居た者を見て、ジェームズは思わず息を飲んだ。

 

「……まさか、そんな」

 

 それは、美しい金髪の女だ。薄っすらと背後の景色が透けて見えるのは、彼女が既に生きていない事の証明だろう。

 宙に浮かんだその表情は、優しげな微笑みに彩られている。これまでに遭遇した悪霊とは、明らかに毛色の違う存在だった。

 

〈お久しぶりですわ。オフラハティー様〉

 

「エレイン、君なのか?」

 

〈ええ、こんな形で貴方と会う事になるなんて、残念でなりません〉

 

 優しげだけど儚げで、悲しげにも見える複雑な微笑。無数の想いを込めてエレインは、ジェームズに言葉を掛ける。

 対する男は言葉もなく、茫然としている。何かを口に出したいのに、何を言えば良いのかも分からないと言う様相で。

 

〈そして貴女が、私の声に応えてくれた方ですね。ありがとう、私のような者の為に〉

 

 言葉なくジェームズが戸惑っている間に、朧げに揺蕩う女はクーデルカへと視線を向ける。

 目が合うと同時に、深く一礼。感謝の言葉を告げる霊魂に、クーデルカはこそばゆいと顔を背けた。 

 

「……別に。放っておくのは、後味が悪いと思っただけよ」

 

 感謝される程の事はしていないと語るクーデルカの横顔は、しかし何処か嬉しげにも見えた。

 だからそんな不器用な姿に、エレインも優しげな笑みを深める。慈愛に満ちた表情は、亡霊であれど美しかった。

 

「ひゅぅ、美しいレディだ。出来ればまだ温かかった頃に、出逢いたかった物だね」

 

「不謹慎ですよ、エドワード。相手は死人で人妻です。美女なら誰でも良いんですか、貴方は」

 

「この世のどんな歓びも、恋とは比べようもない。美人を素直に褒められないのは、はっきり言って損だぜ。ニコル」

 

 死した女の横顔を見て、口笛を吹くエドワード。その軽薄な態度にニコルが冷たい視線を向けるが、全く堪えた素振りもない。

 何時も通りにバイロンの詩を諳んじて、自己肯定をする始末。二人の掛け合いを見ていたクーデルカは、息を吐いて頭を抱えた。

 

「相変わらず、エドワードは教育に悪いわ」

 

「……全く、君達は変わらないな。お陰で私も、冷静には成れたがね」

 

 エドワードが賑やかして、ニコルが冷たく返し、クーデルカが過保護な呟きと共に頭を抱える。

 今の関係に落ち着いてから、既に幾度と見た光景。亡霊を前にしても変わらぬ三人に、ジェームズは苦笑を漏らす。

 

 けれどお陰で落ち着いたと、ジェームズは表情を変える。瞳に真剣な色を宿して、彼が問うのはこの地で起きた事件について。

 

「エレイン。君に何が起きたのか、訳を話してくれないか?」

 

 この修道院で、一体何が起きたのか。悪霊でもないのに、この世に留まってしまっている女は何を知るのか。

 彼女に強い想いを抱いていればこそ、決して無視する事は出来ない。真剣な瞳で想いを示すジェームズに、エレインも表情を硬くした。

 

〈ええ、そうですね。では、何処から話をしましょうか〉

 

 簡単には語れぬ程に、多くの出来事があった。この女が死んでから、彼女を巡る周囲は全て狂ってしまった。

 良くも悪くも、エレインは皆の中心だった。故に彼女を愛した者達は皆、その死に絶えられなかったのだ。

 

〈私は18年前、家に押し入った強盗に襲われて死にました。仕方のない事でもありました。パトリックもオグデンも、商用で外出していたのですから〉

 

 何か切っ掛けがあった訳ではない。何か深い因縁があった訳でもない。ヘイワ―ス家の屋敷を見た強盗が、偶然其処に目を付けただけ。

 更に運悪く、パトリックとオグデンは仕事で家に居なかった。うら若いエレインと老いたペッシーだけでは、満足な抵抗すらも出来はしなかった。

 

 そして、彼女の命は奪われた。その献身で生き延びたペッシーが涙と共に語った事実を聞いて、パトリックとオグデンは死にたくなる程に後悔した。

 

〈パトリックは、私の死を受け容れる事が出来ませんでした。そうして、何年も掛けて古の秘法を学んだのです。私を生き返らせる為に〉

 

「死者の蘇生、か。エミグレ文書の話を聞いた時にも思ったがね。フランケンシュタインじゃあるまいし、そんなことが出来るのかよ」

 

 果てにパトリックは、魔術の世界に傾倒する。愛しい妻の死を覆すのだと、彼は天地の理に背く事を選んだのだ。全ては唯、愛の為に。

 オグデンもパトリックの行動に賛同し、ペッシーは負い目から止められなかった。そうして彼らは、坂を転がり落ちるように壊れていった。

 

〈ええ、そうですね。そう思うのが普通でしょう。ですが彼は本気だった。そしてそれを実現する為の、鍵を手に入れてしまったのです〉

 

 多額の資産を費やし、何年もの時間を掛けて研究を進めていたパトリック。そんな彼に、ある魔術師が囁いた。

 死者蘇生の秘術が記載された魔術書が、バチカンに封じられている。それを手に入れる事が出来れば、エレインは蘇ると。

 

 手記に残っていた情報。二人の魔術師に助力を得て、エミグレ写本を手に入れたパトリック。その胸中を語るのならば、適任なのは女じゃない。

 

「文書に記されたウェールズの地に辿り着き、聖人ダニエル・スコトゥスの開いた修道院で我が妻エレインの再生に着手する事が出来る」

 

「ニコル?」

 

「この手記に、記されている内容です。パトリックが何をしていたのか、彼女に語らせるよりも適切でしょう」

 

 読み終えた手記を片手に、ニコルはそう語る。敢えて口を挟んだ理由は、エレインが辛そうな表情をしているからではない。

 彼にとって美しい亡霊など、路傍の石程の価値もない者。故に彼女への気遣いなどではなく、可能な限り第三者の視点を省きたかったから。

 

 ニコルは瞳を閉じて諳んじる。言葉にしたのは、パトリック・ヘイワースが何を想い何を為したのか。彼自らが記した、後悔と絶望に満ちた記録である。

 

「調べれば調べる程、この修道院は悍ましい建物であることが分かる。しかしエミグレの書によれば、死者の怨念こそがドルイドの秘宝を復活させる大いなる原動力となるのだ。この場所を更なる怨念で満たさなければならない」

 

「エミグレ文書を、使う為にか。パトリック、聖蹟を穢して、君は……本当に禁忌を、犯してしまったのだな」

 

 ニコルの語りに、ジェームズは天を仰いで十字を切る。そうであろうとは気付いていたが、それでも其処まで堕ちていたのかと。

 古き友の行いに嘆く司教。だが少年が配慮する訳もなく、ニコルは淡々とした口調で語り進める。その口から紡がれるのは、悲劇で終わると既に決まった物語。

 

「聖堂の地下に埋められていた大釜が、秘密の鍵を握っている事が分かった。早急に祭壇を築いて、儀式を行う準備を整えよう」

 

 エミグレ写本を得たパトリックは、即座にネメトン修道院を見付け出してはその土地と建物を購入した。

 この地の悍ましさを理解しながら、彼は此処に居を移す。全てはエレインとまた逢う為に。彼は如何なる行為も許容した。

 

「ドルイドの儀式には、生贄を捧げる事が不可欠だ。大釜を新鮮な血と肉で満たさねばならない。全てはそこからだ」

 

「……生贄。侵入者にしては数が多過ぎる死体は、それを目的とした物だったのね」

 

 エミグレ文書に記された、死者の怨念こそが蘇生には必要だと言う事実。過去に起きた悲劇だけでは、その総量は足りていない。

 血と肉と嘆きが足りないのだ。故にパトリックは、殺した。エレインに逢う為に、オグデンの助けを借りて、多くの命をその手で奪った。

 

「ロンドンより戻る。特別あしらえで仕立てた馬車は、随分と調子が良いようだ。後ろの籠に、女を三人閉じ込めてある。娼婦たちの血と肉を以って、ドルイドの儀式を行おう」

 

「真の恋の道は、茨の道とは言うがね。こいつは全く、此処まで来ると怖気が勝るな」

 

「犠牲者が足りない。ダニエルの強力な聖蹟に押さえ込まれている所為で、三人だけでは足りないのだ。より多くの人間を、この場所で生贄にする必要がある」

 

 エドワードの皮肉にすら、誰も笑えない。ニコルの淡々とした口調ですら怖気が走る。皆が表情を青くして、エレインは悲しげに顔を伏せていた。

 

「今日やっと、新しい犠牲者の一便が着いた。オグデンの提案で、人買いの元締めに巨額の金を掴ませたのは正解だった。随分と手際よく、作業が出来るようになった」

 

「あの老人も、協力者していたのか。……パトリック。君と言う男は、己が身を滅ぼすだけでは飽き足らず」

 

「それだけ、愛していたとも言えるのかしら。悍ましい事ではあるけど、同じくらいに悲しい事ね」

 

「午前中、六人解体。午後、五人。夕食後、一人」

 

 パトリックの狂気は、日を追う毎に増していく。最初は日に三人だった犠牲者達も、一月もすれば二桁を軽く超えてしまう程。

 毎日毎日、男は殺した。愛した女の蘇らせる為に、その数十数百倍と言う数の命を奪う。その様は正しく、狂気と言えよう。

 

「今日という日を、どれ程に待っただろう。いよいよエレインを再生させる為の、儀式を執り行う日が来たのだ」

 

 人買いから娼婦を買い、道具を使って解体する。山となる程に積み上げた屍で、地の底に開いた大釜の中身を満たしていく。

 果てにどれ程の年月を掛けたのか。果てにどれ程の被害を出したのか。遂にその日は訪れる。血と肉と呪詛で、釜が満たされる日が。

 

「大釜は全て娼婦達の血と肉で満たした。今やこの修道院は、恐ろしいまでの霊力で満ち満ちている。たとえ聖人と言えど、これ程に強い怨念の力に抗する事は出来まい。保存しておいたエレインの遺骸を祭壇に運び込んで、祭儀の呪文を施すのだ」

 

 聖ダニエルの封印は壊され、地下より溢れ出すは大量のマリス。大地の悪意と古き惨劇と新しき悲劇が交わって、この地で闇の扉は開かれた。

 こじ開けた男は己の行いを、度し難いと理解していた。どうしようもない愚行であると、死者に詫び続けていた。それでも止まれなかったのは、愛故に。

 

「嗚呼、エレイン。君は今も変わらず美しい」

 

〈パトリック……貴方……〉

 

 手記の中、大量に記された謝罪の言葉と愛の囁き。その内の殆どを語らなかったニコルだが、その一言だけは口にしていた。

 伝えるべきだと、知るべきだと思えたのだ。そうして語られた想いを受けて、エレインは顔を伏せる。これより先の悲劇を、彼女も既に知っていたから。

 

「何と言う事だ。全ての希望は去った。あらゆる希望も、望みも、全ては唯の幻だった」

 

 エミグレの秘術は失敗した。エレインは蘇らなかった。パトリックは、全てを失ったのだ。

 

「エレインの遺骸を包み込むように伸び上がった生命の木は、確かにドルイドの秘宝を顕現するものだった」

 

 それでも確かに、彼は成功し掛けていた。マリスの量と言う点では、問題などはなかった。ニコルはそれを知っている。

 成功作であるガーランドの姉弟との違いは唯一つ。バランスが悪かったのだ。エレインの内側に注がれた、ウィルとマリスに調和が欠けていた。

 

「だがしかし恐るべきことに、再生して花弁の中から現れ出た私の妻は、昔の姿そのままながらに人としての魂を失っていた」

 

 人とは穢れを孕む生命だ。穢れなき肉体は、人のそれではない。故にウィルしかない肉体に、その魂が宿る事は叶わない。

 そして魂のない肉体は、穢れに飲まれやすい。ウィルだけで蘇生を試みれば、至るは悍ましい怪物の誕生と言う訳だ。

 

 さりとてマリスが過ぎれば、その場合も肉体は怪異へと変じてしまう。最も難しいのはその調和であり、パトリックは其処を間違えた。

 穢れはエレインには相応しくないと、ウィルを主とした蘇生を試みた。結果として出来た中身のない肉体は、宙に満ちた大量のマリスによって悍ましい姿に変異してしまったのである。

 

「正にそれは怪物だった。何百人の娼婦たちを犠牲にして、私は一体何を為したのか」

 

 それでもパトリックと言う男は、確かに成功し掛けていた。生まれたエミグレの怪物は、限りなく真に近い存在だった。

 別の地で死んだエレインが、此処に居る事こそその証左。時間回帰の法によって、既に滅びた筈の魂をこの地に呼び戻す事は出来ていたのだ。

 

 だから、本当に惜しくはあった。或いはもう少しパトリックが浅慮であれば、或いはネメトンの地ではない場所で儀式を行っていれば、彼は取り戻せていたのかもしれない。

 

「私に残された道は一つしかない。余りに多くのものを、私は失い過ぎた。共に力を尽くしてくれたオグデンには詫びる言葉もないが、許してくれ。私にはもう、どうする事も出来ないのだ」

 

 だが、事実は一つ。死者は蘇らず、怪物が生まれた。不完全な失敗作であったママンなどとは、比較にならない程の脅威がこの地に誕生した。

 それ程の存在を生み出した男は、しかし責任を取るでもなく諦めた。後一歩だった事にも気付けぬまま、失意の果てに彼は怪物に喰い殺された。

 

「今はただ、静かに、妻とともに眠りたい。愛している、エレイン」

 

 そうして、ニコルは語りを終える。後の事実は、貴女が語るべき事だと。少年はエレインへと視線を向ける。

 俯いていた女は涙を拭い、顔を上げた。そうしてから少年に向かって頷くエレインに、クーデルカは誘い水を差した。

 

「……再生したのは、身体だけだったのね。それも恐ろしい怪物に、成り果てていた」

 

〈はい。呼び起こされた私の魂は、こうして彷徨ったまま。身体と一つになることはありませんでした〉

 

「惨い。何故、こんな惨い事が……」

 

 こんな話を聞かされた後では言い難いだろう。そんな女の気遣いに、力無くも笑みを返してエレインは告げる。

 寂しげな表情をした女の過去に最も心を動かされたのは当然、エレインの事を心の底から愛していた司教である。

 

「私は君の幸せの為に、全てを諦めたと言うのに。畜生っ! 私は何の為に、今までっ!」

 

 涙を流しながら、やり場のない憤りを叫ぶ。固めた拳で膝を叩いて、壊れてしまえと言わんばかりに。

 男泣きするジェームズに、エレインは近付く。もう触れる事は出来ないその手で、それでも自傷を止めようと男の拳を包んだ。

 

〈泣いてくださるのですね、オフラハティー様。ありがとう、その言葉だけで十分です〉

 

 その手に触れる事は出来ずとも、その心にならば触れられる。穏やかな声で語るエレインに、ジェームズの腕は止まっていた。

 

〈私は幸せでした。パトリックと共に過ごして、私は幸せだったのです。ですからどうか、私の死を嘆かないで下さい〉

 

 幸せだったと、彼女は語る。悲しい悲劇に終わったが、それでも不幸なだけではなかったのだと。

 だから嘆く必要はないのだと語るエレインに、返す言葉をジェームズは持たない。けれど溢れ出す涙だけは止まらなかった。

 

「エレイン。貴女は……、それで良かったの?」

 

〈悔しくはあります。憎くもあります。ですが私の死は、神様がお決めになった事。私を生き返らせようとした、あの人の行いは間違いでした〉

 

 言葉を失ったジェームズの代わりに、問い掛けたのはクーデルカ。愛した結果が惨劇と悲劇で、納得しているのかと。

 クーデルカの問い掛けに、返る答えは欠片の迷いさえも存在しない物。終わりは悲劇であったのだとしても、彼女はそれで良いと認めていたのだ。

 

〈だからどうか、お願いします。私の身体を滅ぼしてください〉

 

「良いのか、それで? そんなことをしたら、今此処に居るアンタは」

 

〈滅びるでしょう。ですが、それで良いのです。天の摂理に背くモノなど、この世にあってはならないのですから〉

 

 だからエドワードの言葉にも、全く揺らがずに即答する。既に終わった者が、この世にあってはならないと。

 エレインと言う女は幸福に生きて、不幸に死んだ。唯それだけで十分なのだと、だから消え行く女は頭を下げた。

 

〈どうか皆様、お願いします。私達を、終わらせてください〉

 

 そんな願い事を口にして、エレインはゆっくりと消えていく。誰にも、止める事など出来はしない。

 空に溶けていくように、女が消えた後。泣きじゃくる男の声だけが響く中で、敢えて空気を読まない子どもは笑って言った。

 

「とのことですが。さて、どうします?」

 

「……決まっている。彼女の願いを、今も続く悪夢を終わらせる」

 

 問い掛けに、即答したのは泣いていた男。涙を僧衣の袖で拭うと、覚悟を決めて前を向く。

 

 愛した女は、幸福だった。果てが悲劇に終わっても、その生涯には納得していた。ならば己の過去は、無価値じゃない。

 愛した女は、幸福だったのだ。だから彼女を愛した男が為すべきは、幸福なままに終わらせる事。残ってしまった悪夢を終わらせる事なのだ。

 

()()()。クーデルカ。エドワード。君達は、此処で帰ってくれても良い。この先は、私一人で片を付けるべき事だ」

 

 ジェームズの理由は変わった。法王庁の任務や、己の立場などもうどうでも良い。唯、愛した人に報いる為に。

 だが、この先は茨の道だ。怪物がどれ程に強大なのかが分からない。確実なのは、とてつもなく危険と言う事だけ。

 

 覚悟を決めたジェームズは、故に仲間達に宣言する。これは己の戦いなのだと、己が為さねばならない事なのだと。

 これまで付けていた敬称を外したのも、そんな覚悟の証が一つ。今まで以上に本気で進むと、ジェームズは心に誓ったのだ。

 

「……勘違いしないで、あたしはアンタの為に来た訳じゃない。だから、アンタの都合を聞く道理もないわ」

 

 そうして涙を拭って立ち上がるジェームズに、しかしクーデルカは冷たく言い返す。彼の都合は彼の都合で、彼女の都合は彼女の都合だ。

 危険だし無理をする理由はないから、もう帰れと言う言葉なんて聞けやしない。理由ならば彼女にもあるのだ。彼程に、鬼気迫る物でなくとも。

 

「此処で帰ったら、それこそ寝覚めが悪いじゃない。全て解決するまで、あたしは一人でも進むわよ」

 

 助けてと言う女の願いに、助けると応えて此処に来た。だから助け終わるまで、帰る心算は毛頭ない。

 此処で逃げ去ると言うのは、余りに寝覚めが悪過ぎる。此処まで来たのだから、ならば最後まで進む気なのだ。

 

「まあ、そうだな。此処で素直に帰るのは、平凡過ぎてまっぴらだ。人生は博打さ。賭けたからには、勝つまで続けるか、さもなきゃ死ぬかだ」

 

 そう決めたのは、クーデルカだけではない。理想を求めて、冒険に飢えていたエドワードもまたそうだ。

 これ程の大きな事件、生まれて始めての大冒険。最後まで見届けなければ、余りにも勿体無いと言う物。

 

 命を惜しまず踏み込んで、結果死ぬならそれまでの事。後先などは考えないのが、この男の流儀であった。

 

「クーデルカ。エドワード。君達は……」

 

「おや、終わりましたか? ではこれまで通り、四人で進むとしましょう」

 

 ジェームズ程に重い覚悟を持たずとも、頑固さならば同程度。退く気を見せない二人を前に、ジェームズは言葉に詰まる。

 如何にか何かを言おうとして、その前に言葉を挟まれる。茶番は終わりかと、退屈そうな嘲笑を隠しもしない少年の言葉を。

 

「ニコル。君のような未来ある者こそ、最も付いて来てはならないのだぞ」

 

「ですが、()()()()()。ならば貴方は如何にして、エレインを滅ぼす心算ですか?」

 

 少年の態度に頭を抱えたジェームズが、しかし付いて来てはならないと心配からの言葉を返す。

 そんな男にニコルは仮面のような爽やかさではなく、嘲りを隠さない笑みで問う。少年は空気を読まない論理で以って、男の覚悟を否定した。

 

「エミグレの秘術が完成した以上、その肉体は既に天地の理から外れている。更には生命の木とも繋がっているのだとすれば、真面な方法では滅ぼせませんよ。貴方達だけでは不可能です」

 

「ニコル。貴方、分かるの?」

 

「これでも、黒魔術も嗜んでいるので多少は。とは言え実物を見ないと、如何にか出来るかの判断すら付かないのですが」

 

 パトリックの手記を見て、現状は凡そ予測が出来た。ラスプーチンに学んだ知識は、限りなく正答に近い答えを出している。

 生命の木がある限り、エレインの肉体は滅ぼせない。そして生命の木を壊す方法を推測するにも、魔術の知識は必要不可欠なのだと。

 

「少なくとも、生命の木との繋がりを断たねば話にならないでしょう。無限に再生を続ける死人が、無尽蔵の力を振るうのです。私はおろか大魔術師である我が師でも、正面からでは危ういでしょうね」

 

 エレインの完成度は高い。アウェーカーには届かずとも、ママンなどとは比較にならない力を持つと予測が出来る。

 そんな存在に無尽蔵の力を注がれ続けるのだとすれば、それこそ破壊神アモンや魔王アスモデウスですらも正攻法では遅れを取る。

 

「そんな相手を、ジェームズが一人で如何にか出来ると? ふっ、愚かな」

 

 人の意志だけで、如何にか出来る存在ではない。そんな事も予想できないのかと、年長者を鼻で嗤うニコル。

 

 そんな少年としても、これは好機だ。強大な力を求めるニコルには、それ程の完成度を誇るであろう怪物と相見えないと言う道はない。

 その強大な力や、それを支える術式は何かの参考になるだろう。そうでなくとも、強者との戦闘経験は最良の糧となる。故にニコルにも、退く気などは全くなかった。

 

「……はぁ、もう好きにしたまえ」

 

 論理で語る少年を説得する理屈を持たないのならば、他の二人を止める理由もないだろう。ジェームズは諦めたように、深く嘆息して共に行く事を許容する。

 

 疲れたように、呆れたように、肩を竦めて背を向けるジェームズ。だがその表情は、何処か嬉しそうにも見える。そんな微かな笑みに気付いたから、三人もまた笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 




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クーデルカさんを幸せにすると決めた憑依ニコル。その為に彼が考えた方法とは!

先ず異性と一緒に監禁します→次に薬を盛って、R18させます→後は種馬をひっそりと処分すれば、原作通りの母子家庭が完成です。

真面目に相手を思いやって考えた結果、思い付いた幸せにする方法がこれと言う。
外道と言うのも生温いゲロ以下の悪党が、当作の主人公であります。

そんなどうしようもない奴なので、当作クーデルカさん視点で幸福エンドを目指すRTAだと、「お前がパパになるんだよ!」をゲロショタ相手にするのが一番早いと思います。



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第24話 古の大魔術師

シリアル回。当作のロジャーは、2やFでの仕様です。


 ネメトン修道院に於ける最終目標は定まった。このまま四人で共に進んで、この悲劇に後始末を付ける。終わらせるのだ。今も続く悪夢に終止符を。

 

「それじゃあ先ずは、その生命の木ってのを拝みに行くか」

 

「いえ、その前に幾つか、必要な物を揃えたい」

 

 その為にも早速、生命の木を見に行こう。エドワードがそう提案するが、ニコルが首を左右に振って拒絶する。

 生命の木や大釜を見れば対策も分かると言った少年が、一体どうして出鼻を挫くのか。困惑するエドワードに代わり、問い掛けたのはジェームズだった。

 

「必要な物? 祭壇を見なくても、何が必要なのか分かるのかね?」

 

「手記を見て、の想像ですがね。この地の機能を取り戻せば、或いは生命の木も機能不全に追い込めるかもしれません」

 

 司教の問いに、頷き返す。パトリックの手記を隅から隅まで、暗記する程に読み込んだニコルには既にある程度の目途が立っている。

 この地は嘗て、聖なる力で封じられていた。その封印は壊されたが、それでも聖蹟の一部は残っている。ならばそれを利用しようと。

 

「聖ダニエルの、遺骸か何か。欠片でも良いので、それが一つ」

 

 数百年前、暗黒時代に虐殺があった現場でもあるこの修道院。悍ましい程のマリスに満たされてはいても、その聖蹟は失われていなかった。

 大量に生贄を捧げなければ、儀式を行えなかったとも手記には記されている。それを思えば、聖ダニエル・スコトゥスの力に疑いを挟む余地などない。

 

 100年を超えて遺る程、強大な聖蹟を成立させた聖人だ。肉体の一部であっても、それは強い聖性を帯びていよう。魔術的に用いれば、生命の木を止められる可能性は十分あった。

 

「後は、もう少し儀式の情報が欲しい所ですね。此処の主人が18年前から研究をしていたと言うのなら、エミグレ文書以外の魔術書もあるのではないかと。書斎か図書室でもあれば、見ておきたくはありますね」

 

 ついでとばかりに語るのは、現場を見る前に事前知識を仕入れたいと言う言葉。術者の癖や学んだ知識が知りたいと言うのが理由の半分ならば、もう半分は利己的な物。

 

 パトリック・ヘイワースは、エミグレの秘術を完成に程近い段階にまで仕上げた人物なのだ。確実に魔術師としては優秀であり、故にその研究内容には個人的な興味がある。折角の機会なのだから、幾つか書を拝借しておこうと言う訳だ。

 

「聖人の遺骸って言ってもな。んなもん、何処にあるんだか。墓でも暴けば良いのかよ?」

 

「一先ずは書斎探しが優先だな。その途中で見付からなければ、最悪死者への冒涜も考慮に入れよう。天地の理に背く存在を滅ぼす為なら、きっと主もお許し下さる筈だ」

 

 口外しない利己があったとしても、ニコルが表層に施した名分は尤もだ。故に先ずはその方針で行こうと、一行は意志を統一する。

 印刷室を出る直前、当たり前のように少年へと女が微笑み手を差し出す。もう慣れてしまったその展開に、少年は嘆息しながらも手を握り返すのだった。

 

 

 

 そうしてエドワードの邸宅を後にして、中庭に出た一行。暫く周囲を散策した後に、彼らは書物が溢れる広々とした図書室へと到着する。

 貴重な文献が多く散見される書庫ではあるが、誰もの視線が稀覯本や秘術書などには向いていない。幻と言われた書物ですらも、霞む未知と遭遇したから。

 

「……何かしら、あの変な生き物は?」

 

 何か変な生き物が居る。そう呟いたクーデルカの言葉は、その場に居る皆の意志を表した物。その小さな身体は、果たして何と表現すべきか。

 ローブを着た乾いたミイラに、白い髪と髭が生えている。禿げ上がった頭頂部には、皺が刻まれ眉毛がない。何処となく、宇宙人にも見えなくもない姿である。

 

「動く、ミイラだと……向こうに見える、棺桶から出て来た様子だが」

 

「なあ、あれがエミグレの怪物か? 如何にも天地の理に反してそうな見た目なんだが」

 

 恐らくは図書室の隅にある棺桶から出て来たのだろう、何とも形容し難い変な生き物。彼は扉の音と話し声に気付くと、妙に俊敏な足取りで駆け寄って来た。

 

「うわっ、こっち来た!?」

 

「うわっ、とは何ですか! うわっ、とは! 全く失敬な人達ですね。私の名は――」

 

 瞬間、四人の視界が一変する。今まで見えていた書庫の景色が見えなくなり、代わりに映るは茶色の画面。

 名前を決めてくださいと言う文章が踊る中、クーデルカ達が見た事もない日本語が並ぶ。そしてドヤ顔でポーズを取る変な生き物。

 

(馬鹿な!? こんな一瞬で、何の予兆もなく幻覚を見せる!? それ程の技術を、何故こんな事に!?)

 

 これは極めて高次の魔術だ。目を合わせた瞬間に、予め用意していた幻覚を見せる。しかもあらゆる防御や耐性を貫いて、である。

 当然、ニコルも魔術の知識を有するだけあって、精神防壁には気を使っている。生半可な幻術など通じないと言うのに、容易くこの怪物は超えて来たのだ。

 

 流石は西洋圏で、最高の魔術師だと驚愕しながらも納得する。しかし少年には何故、これ程の高等技術をこんな無駄な事に用いるのか分からなかった。

 

「えっと、何か見た事もない文字なのに、何故か読めるわ。……けど、名前を決めてくださいって言われても」

 

「へんないきもの、で良いんじゃないか。というか、変な生き物だし」

 

 とは言えそんな驚愕は、魔術の知識を有する者だけが抱く事だろう。クーデルカやエドワードには、唐突過ぎる事態への困惑しかない。

 欧州から出た事もない彼らに、読めない筈の言語を魔術で理解させる。それだけでも途轍もない技術を用いている変な生き物は、名前が決まった瞬間に大きな声で叫びを上げた。

 

「――などと言う名前ではなく、ロジャー・ベーコン! 愛と平和を愛する、永遠のスターチルドレン!」

 

『は、はぁ……』

 

 天を右手の人差し指で指し示し、左手は折り曲げ腰に当てる。右足だけを少し曲げ、開いた左足は真っ直ぐ伸ばしてポージング。

 持ち芸を披露出来て満足気な笑みを浮かべる大魔術師に、クーデルカ達が返せるのは困惑混じりの言葉だけ。周囲の空気は完全に、この老人に飲まれていた。

 

「って、ロジャー・ベーコン!? ま、まさか、本当に彼の魔術博士か!? ニコルが言うように、13世紀の伝説が生きていたと言うのか!?」

 

 ロジャーの名乗りに暫く遅れて、ジェームズが声を荒立てる。生きているかもしれないと言う話を聞いてはいたが、本当に存在していたのかと。

 問われたロジャーは器用にポージングを維持したまま、右足を軸に回転するとジェームズに向き直る。落ち窪んだ、妙に円らな瞳が壮年の男を見詰めて言った。

 

「おや、私をご存知なのですか。確かに私が、その魔ァ術博士なロジャー・ベーコンです。最近は魔ァ術だけではなく、科ァ学の発展にも熱を入れているので、科ァ学博士と呼んで頂いても構いませんが」

 

「そんな大魔術師が、どうしてこんな所に居るのよ? あと、その喋り方止めて。妙に鼻につくから」

 

「人間の愚かしさを見尽くしたので、世を儚んでの隠棲と言う奴です。……後、普通の喋り方をしたら、私、影が薄くなりません? もう少し、インパクトとか必要なんじゃないですか?」

 

「ねーよ。寧ろアンタ以上に濃い奴を、俺は見た事がないね」

 

 言葉使いに変なアクセントを織り交ぜ、終始ポージングを維持しながら、発言者に都度向き直ると言う妙な律儀さを見せる変な生き物。

 ロジャー・ベーコンを名乗る大魔術師の言動に、周囲が何とも言えない空気に染まる。そんな中、いち早く我を取り戻して問い質すのはやはりジェームズだった。

 

「だが、そうだ! 貴方が本物のロジャー・ベーコンだと言うのなら、エミグレ文書についても詳しいのではないかね!?」

 

 壮年の司教は、他の者とは覚悟が違う。成り行き任せなクーデルカや、冒険だけを望むエドワードや、軽々しく振るわれた大魔術を全力で解析しているニコルとは違う。

 ジェームズだけは、命に代えてもこの事件を解決せねばならないと心に誓っているのだ。そんな熱が籠った言葉を受けて、ロジャーは僅か沈黙する。数瞬して、彼は頷きを返した。

 

「……エミグレ文書、ですか。確かにあれは遡る事、500年以上は前。当代の法王ホープの命を受け、五年掛かりで私が筆写した物です」

 

 ロジャー・ベーコンには、ジェームズの理由が分からない。記憶や思考を読む気はない。それは失礼な事であるから、必要に迫られたとしても行わない。

 そんな流儀を持つ大魔術師だから、男の必死さの根拠を知らない。それでも必死だと言う事は伝わったから、老人は古くを語るのだった。

 

「初めから法王庁は、仕事を終えれば私を始末する心算だったようで。密かに脱出した私は、エミグレに記されたこの聖地で秘術に挑戦しました」

 

「エミグレの秘術を試した。貴方も誰かを、蘇生させたと言うの?」

 

「……確かにエミグレ文書には死者の蘇生も記載されていましたが、それだけではありません。生命の秘術を記した中には、不死となる秘法も載っていたのですよ」

 

 伝説の大魔術師と謳われた老人は、その心根が善良なのだろう。世を儚んでと口にする割には、大した理由もなく人助けを行う事もある。

 無論視界に入らねば、知らぬ存ぜぬで通すだけ。だが視界に入ったならば、可能な範囲で多少の助力もしてくれる。ロジャー・ベーコンとは、そんな男だ。

 

「私が試したのはそれです。ですが結果として、激しい変化に身体が耐え切れずにこの様です。こんな醜い姿と化して、もう600年は過ぎたでしょうか」

 

 だからこの語りにも意味がある。己が悠久の時を生きる大魔術師本人であると証明し、更にはエミグレに触れようとする者へと警告する為である。

 生命の神秘とは、人が触れてはならない物だと。不老不死の技術は使えば醜く変じてしまうし、死者の蘇生は必ず失敗する。だから使うなと、近付く者にその論拠を告げるのだ。

 

「しかし! 私も唯では転びません! もう二度と誰かが秘術を試さぬように、筆写する際に幾つか改竄を加えました!」

 

 エミグレ写本は、真筆とは中身が異なる物である。フォモールの秘技を知り、ロジャーは恐怖すらも覚えたのだ。

 あれは世界を滅ぼす力だ。ダグサの大釜は、既存世界全てと飲み干して再構成してしまう。その真実を覆い隠す為に、彼は書を書き換えた。

 

「流石に何の効果もないようでは、法王庁も騙せませんから。やろうと思っても、そう簡単には出来ないように。大量の生贄が必要だと、書物の中身を書き換えたのです! 人道に悖る行為は皆、忌避感を抱いて遠ざける物! これで皆安心、今日もぐっすり眠れると言う訳ですね!」

 

 天を指差す姿勢から、両手をグーに握って大きく振り回す態勢へと。コミカルな動作で道化を気取る老人は、しかし700年と言う長き時を生きるだけあって強かな大魔術師でもあった。

 

 本来、死者の蘇生に大量の生贄などは必要ない。またネメトン修道院でなければ、行えないと言う理由もない。そんな無数の不要な改竄を加える事で、エミグレは危険だと多くの者に思わせたのだ。

 

 その行いは、確かに無駄ではなかっただろう。女王の庭園が示すように、過去にエミグレが使われそうになった事は幾度もあった。

 だがその度に秘術が行われなかった理由の一つに、大量に必要とされた生贄の存在があったのは疑う余地もない。国際情勢だけではなく、人の倫理も歯止めとなったのだ。

 

 しかし、この大魔術師は追い詰められた人間の狂気を甘く見た。集団としてならば其処まで踏み切れなくとも、狂って壊れた個人ならば話は違う。

 彼らは倫理感などでは止められない。信じられない程の愚行と分かって、行う者も時にはいるのだ。そんな例外もあると言う事を、ロジャーは見落としていたのである。

 

「……えっと、それって最悪の場合、被害が拡大するだけよね」

 

「実際、やる奴は居たからな。と言うか、その所為で今大変な事になってるし」

 

「え? 誰か、エミグレ使っちゃったの?」

 

 故に今、この地で悲劇は起きてしまった。必要のない犠牲を積み上げた狂人は、果てに作り上げた怪物の手に掛かる。

 そうして今も、怪物は野放しとなっている。そんな寝耳に水な話を聞いて、ロジャー・ベーコンはそのコミカルな動作を止めた。

 

「ええ、まあ」

 

「私がこんなに頑張ったのに……使っちゃったの?」

 

「ああ、そうだよ。アンタ、空回りしてただけみたいだぜ」

 

「使っちゃったんだ。私が、折角、なのに、使っちゃったんだ」

 

 両手をがっくりと地について、悲しそうに俯く変な生き物。ウジウジとしたその態度は、何だか妙に鬱陶しい。

 慰めるべきか罵倒すべきか。三人が悩む中、先の術式を理解して獲得した少年が満足そうに微笑みながら指摘した。

 

「と言うか、気付かなかったのですか? このマリス濃度は、尋常じゃない物だと思うのですが」

 

「起きたのは、ついさっきなので。ちょっと休む心算で、100年くらい寝ちゃうんですよね。……でも、はぁ、使っちゃったんだ」

 

 伝説と言われる大魔術師ロジャー・ベーコン。先に見せた高等技術も軽々と行える程の実力者なのだから、気付いていない方が逆におかしい。

 そう問い掛けるニコルに対して、項垂れたままロジャーは返す。彼はまだ100年の眠りから目覚めたばかりで、周囲の変化を確認していなかったのだ。

 

「そうだ! 貴方の策は意味をなさず、今にエミグレの怪物が蘇ってしまった! だからこそ、彼女の肉体は滅ぼさねばならない!」

 

「ショックですけど、そうですね。けどそれ、とても難しいですよ?」

 

 この地の異変と言う話題が出た事で、また飲まれていたジェームズが正気に戻る。拳を握り必死に叫ぶのは、エレインを放置してはならないと言う道理だ。

 ジェームズの言葉に肯定を返して、しかし止めるような発言を口にしたのは老人が善良な人物であるからか。

 

「天地の理から、外れていると言うのでしょう? ですがそれならば、こちら側に近付ければ良いだけの事。この地の聖蹟を利用すれば、生命の木を断てる。そう、私は推測しているのですが」

 

「おや、お若いのに物知りですね。確かに聖ダニエルの聖蹟を使えば、生命の木に異常を引き起こせるでしょう」

 

 困難だと語るロジャーの言葉に、解決の目途は立っていると返すニコル。少年の予想を保証した老魔術師は、一つ頷くと助言した。

 

「この修道院を建設した際に、聖ダニエルの腕が石像に収められた筈です。その石像も、100年前は宝物庫にありましたね」

 

「おお! これで見えて来た! 生命の木さえ断てば、彼女の魂を救う事が出来る!」

 

「ですが残念! それだけでは足りません! たとえ生命の木を断とうとも、溜め込まれた力は残ります! それを消し去るには多分、火か水が必要です!」

 

 宝物庫には、既に足を運んでいるから直ぐに回収できるだろう。これで準備は整ったと喜ぶジェームズに、ロジャーはしかしと言葉を挟む。

 少年の予想は間違っていないが、聖蹟を使うだけでは足りないのだと。生命の木を止めるだけでは、まだ足りない。力の供給が止まるだけで、既に場に満ちてしまった分は変わらず残り続けてしまうのだから。

 

「火か水?」

 

「うん。火か水」

 

「どっち?」

 

「分かんない」

 

 しかしその助言は、肝心な部分で曖昧な物。問い返すエドワードとロジャーは、どうにも頭の悪い会話をする。結局、どちらが正しいのかは分からないと。

 

「ま、まあ、此処まで分かっただけでも大きな進歩だ。遺骸を回収して、大釜に向かうとしよう」

 

「そうね。でも、ロジャーだっけ? アンタはどうするの?」

 

 ともあれ、進展があったのは事実だ。ジェームズは気を取り直すように頷くと、仲間達に声を掛けた。

 エドワード邸の地下にある大釜に向かおうと、語るジェームズに頷いたクーデルカが視線を移す。

 話題に上がった変な生き物は、少し目を見開いてから口を開く。何処か気不味そうに、その視線を女から外して。

 

「……まだ眠いので、二度寝しようかなって」

 

「アンタの所為で、酷い事になってるのに?」

 

「え? 私の所為、なんですか?」

 

「ま、爺さんが写本なんて書かなけりゃ、そもそも事件は起きてないんだからな。ある意味、諸悪の元凶か」

 

「えー。私の所為なんですかー。酷いなー、全く」

 

 事実として、彼が写本を記さなければ被害は少なく済んだであろう。その点で考えるのならば、ロジャーは確かに元凶だ。

 とは言えそうせざるを得なかったのが、当時の彼の立場である。更には後世の為に、多少とは言え対策も打ったのだから責められるのは心外だ。

 

 口ではそう言いながらも、ロジャーも確かに理解している。本来、エミグレの後始末はロジャーが行うべき事なのだと。その自覚は彼にもあるが、しかし出来ない理由も確かにあった。

 

「と言うか、私が居ても役に立たないと思いますよ?」

 

「伝説の大魔術師なのに?」

 

「うん。伝説の大魔術師だけど」

 

 端的に言って、ロジャーは弱いのだ。彼の肉体は不死身だが、魔術的な戦闘には耐えられない程に劣化している。エミグレの秘術は、彼から戦う力さえも奪っていた。

 

 不老不死の肉体は、その醜い見た目同様に殆ど骨と皮だけ。満足に肉がないのだから、力が上手く入らない。魔術で強化を施しても、それで如何にか成人男性の平均値を下回る程度である。

 

「不死身になった代償か、余り身体が動かないんですよね。魔術は使えますけど、大規模な物は儀式に手間が掛かりますし」

 

 そんな脆弱な肉体では、如何に大魔術が使えようと戦場では役に立つまい。誰よりも優れた叡智を有しているが、暴力に対しては酷く脆弱。そんな極端な大魔術師こそが、ロジャー・ベーコンなのである。

 

「魂の契約とかは、されないのですか? 大魔術師なのに?」

 

「酷い! この子、悪魔に魂を売れとか言ってる!?」

 

 ロジャー・ベーコンはとても弱い。原作でもレニに容易く誘拐されたり、ロズウェルの研究施設に幽閉されている。その事実を知るニコルは、役立たずと言う発言にも納得出来た。

 けれど同時に思うのは、肉体が脆弱ならば悪魔と契約すれば良いのではと言う発想。魂の契約を用いれば、破滅と引き換えに強大な力を得られるだろうに。

 

 更に言えばロジャーは、腐っても伝説の大魔術師だ。ニコルには及びもつかない方法で、契約した悪魔を従える術も有しているかもしれない。そう考えて口にした言葉に、ロジャーは驚愕しながら叫んだ。

 

(意外に使えないですね。この老人)

 

 その姿が演技には思えない所を見るに、この大魔術師にも悪魔を一方的に利用する術はないのだろう。

 もしあれば、殺してでも奪い取っていたのに。何処か落胆した様子で息を吐いたニコルの姿に、ロジャーは戦慄を隠せない。記憶や思考を読まずとも、その邪悪さは認識出来たのだ。

 

「おっほん。売る気はないですけど、あっても売れないんですよね。エミグレの秘術で、魂まで歪んでしまったので。歪んでなくても、売りませんけどね!」

 

 やばい。この子、怖い。内心でそんな恐怖を抱きながらも、ロジャーはコミカルな仕草でその恐怖を覆い隠す。

 そうして何時も以上に派手なポージングを取り、大きな声で告げるロジャー。その姿は、控えめに言っても鬱陶しい物だった。

 

「そんな訳で、私は連れて行っても役に立ちません。かー、残念だなー。もう少し準備に時間があったのなら、私の大活躍を見せられたんだけどなー。いやぁ、私も大活躍したかった!」

 

 邪悪な瞳で微笑むニコルを注視しているロジャーは気付かない。彼が言葉を発する度に、クーデルカ達の瞳が冷たくなっていく事に。故に――

 

「ムカつくから、連れて行きましょう。使い減りのしない盾としては役立つわ」

 

「ええ!?」

 

「そうだな。不死身なんだし、精々肉の壁になって貰おうぜ」

 

「ちょっ!?」

 

「……法王猊下の命とは言え、世に残すべきではない物を残したのだ。その償いくらいは、して貰わねばな」

 

「な、なななっ!? 何て人達だ!?」

 

 ロジャーの右手をエドワードが、左手をジェームズが掴む。そうして宙に浮かんだロジャーに正面から、クーデルカが笑って死刑を宣告する。

 反省の色が見えない元凶は、生きた盾として行使しよう。そう語る彼らに対し、足をばたつかせるロジャーは必死だ。だってそれでは本当に、死ぬよりも苦しい目に合いかねない。

 

「ちょ、助けてください! 生きた盾なんて、絶対痛いじゃないですか!?」

 

 不死身とは言え、痛覚は変わらずあるのだ。傷付けられればその度に、心が死へと近付いていく。

 更に言えばロジャーは不老不死だが、肉体部位の欠損は防げない。寧ろ、血肉が足りない彼の身体はとても脆い。

 

 叩けば折れる、斬れば別れる、多分引っ張れば取れる。そんな脆い身体の不死。生首だけになっても生きてはいられるが、故にこその地獄もある。

 部位を繋ぎ直せば身体は再生するのだが、焼き尽くされてしまえば直ぐには治らない。致命的な欠損は、長く残り続けてしまうのだ。

 

 最悪なのは、生首や眼球だけになった状態でも生き続けてしまう事。肉体の欠損を治せない不老不死など、終わらない生き地獄と同じである。

 故にロジャーは、戦いとなれば直ぐに逃げる。逃げられなければ、無抵抗のままに囚われる。下手に抵抗して、身体を壊されては堪った物ではないのだから。

 

 そんなロジャーにとって、この状況は最悪だ。エミグレの怪物ならば、ロジャーの脆い身体なんて簡単に壊せてしまう。

 バラバラになる程度ならば拾い集めて復活出来るが、炎で燃やされたりすれば目も当てられない。今後数百年、死ねないままに苦しみ続けるのは御免であった。

 

「……助力しましょうか? ロジャー・ベーコン。勿論、対価は頂きますが」

 

「お、おおっ! 捨てる神あれば、ですね! けど、対価って、お高いんでしょう?」

 

 故にそれを回避できると言うのなら、ロジャーがあっさりと飛び付くのは当然の事。彼はキラキラと輝く瞳で、発言者の少年を見詰める。

 かなり怖くて明らかに邪悪な少年だが、さりとて他に頼れる者も此処には居ない。そんな地味に追い詰められたロジャーは、首を傾げて対価を問うた。

 

「何、大した事ではありません。この事件が終わったら、師事させて頂ければと」

 

「え? 師事? 弟子になりたいの? 私の?」

 

「ええ。貴方は間違いなく、西洋で最高峰の魔術師だ。その叡智は、薫陶を受けるに相応しい物でしょう」

 

「西洋で、最高峰、ですか。まぁ、それ程でも、ありますけどね!」

 

 ニコルが返した言葉は、ロジャーにとっての予想外。褒められて調子に乗りながらも、弟子入りを望むと言う声に吊るされたまま唸った。

 

「けどなー。弟子かー。弟子には私、余り良い想い出がないんですよねー」

 

 傍目には、メンインブラックに連れられて行く宇宙人にしか見えないロジャー。両腕を左右から拘束された彼の脳裏に、過ぎるのは過去の弟子達の顔触れだ。

 

 性悪妖精に唆されて、エミグレの秘術に手を伸ばした500年前の弟子であるドゴール。

 正義感が行き過ぎて、果てにロジャーを異端審問に掛けた300年前の弟子であるアルバート。

 

 私、弟子に裏切られてばかりじゃないですか。そんな風にロジャーがガックリとしてしまうのも、まあ無理はない経験と言えよう。

 

「悪用、しません?」

 

「何を以って、悪用とするのか。……唯、己に恥じない使い方をすると誓う事なら出来ますよ」

 

「宗教裁判とか、しません?」

 

「既に弾劾された方を、今更に異端審問する意味が分かりませんね」

 

「うーん。どうしよっかなー」

 

 両手を拘束されて吊るされたまま、ニコルの瞳を見詰めるロジャー。今は見下ろす形となっているが、身長は互いに同程度でしかない。

 そんな未来ある少年だ。今は邪悪を感じさせても、上手く導けば更生させられるかもしれない。だからこそ根は善良であるロジャーとしては、教え導くべきではないかとも思えてくる。

 

 だがしかし、やはり過去の経験が足を引く。これまでの裏切られ続けた経験から、ロジャーは思うのだ。己には、人を導く才能がないのではと。

 十かそこらの年齢で、怖気が走る程の暗黒微笑を湛えるニコル。既に道を踏み外している感しかない少年を、己程度が如何にか出来るのか。そんな悩みも生じていた。

 

「教えても良いけど。けどなー」

 

「……では、仕方がありません。怪物どもの盾となって貰いましょう」

 

 故に曖昧な返答を続けるロジャーの態度に、微笑みながらニコルが告げる。黒い笑みと共に零すは、脅迫としか思えぬ言葉であった。

 

「少し、興味があるんですよね。不死者の意識は、肉片の一粒にも残るのかどうか」

 

「ちょ!? 怖い事言わないでください!?」

 

 その微笑みには、凄味があった。やると言ったらやらかすと、確信出来る程の邪悪さに満ちていた。

 ロジャーとしては、それこそ最悪な事に。ニコルは別に、それでも良いと判断している。寸刻みに解体される過程を見れば、良い勉強になるであろうと。

 

「わ、分かりました。教えます。後で教えますから、ちゃんとこの事件を解決してくださいよ」

 

「ふふ、言質は取りましたよ。出来れば魔術だけではなく、科学についてもご教授くださいね」

 

 そうしてロジャーは、ニコルの脅しに膝を屈した。どの道脅迫されずとも、最後には弟子入りを許可していただろう。それ程にニコルは危うく、そして幼くあったから。

 ロジャーを離すようにニコルが伝えると、エドワードとジェームズは素直に従う。薄っすらと青褪めた大人達は幼い少年が見せた邪悪さに、心の底からドン引きしていた。

 

「……はぁ、大丈夫かなー。大丈夫じゃなくても、大丈夫に育てる。それが師匠としての、義務でしょうけど。私の弟子って、大体ろくでもないんですよねー」

 

 解放されたロジャーはやれやれと、肩を回しながら棺桶に向かう。古びた蓋を開けて、見た目以上に柔らかなクッションの上に腰を下ろす。

 呟きながら考えるのは、果たしてどうやって教え導こうかと言う悩み。全く以って自信はないが、為さねばならない事だろう。棺桶の蓋を片手に、老人は深く嘆息する。

 

「取り敢えず、私は少し二度寝します。次に起きたら、解決してると良いなと願っておくので、どうか終わらせておいて下さいね」

 

 横になって蓋を閉じる直前に、そんな言葉を残してロジャーは眠りに就いた。彼が眠れば、先の騒がしさはまるで夢幻であったように。

 とは言え、このやり取りは紛れもない事実であろう。満足気に微笑む少年の邪悪さを理解したクーデルカは、頭を抱えて深く息を吐くのであった。

 

「……心配ね。私も残ろうかしら。どうせ行く当てもないんだし」

 

「お好きにどうぞ」

 

 ニコルの未来を案じた言葉に、少年も笑みの種類を変える。仮面を外したからこそ分かる表情は、何処か嬉しそうにも見えた。

 だから、エドワードとジェームズも安堵する。クーデルカが居れば、ニコルも真っ当に成れるかもしれないと。なって欲しいと、二人は無言で祈るのだった。

 

 

 

 

 




〇ロジャーとエミグレ文書について
・エミグレ写本の改竄については、漫画版で明らかとなった真筆の設定から。
・生贄が必要ない云々については、シャドハ2のエミグレ実験の描写から。必要なのは相応量のマリスであって、血と肉は別に不要な模様。
・ネメトン修道院である必要がないと言うのは、Fではガーランド邸と言うごく普通の屋敷で死者蘇生に成功しているから。
・ロジャーが戦えない設定は当作独自の物。ロニに無条件で捕まっていたり、王立医学会議の手で生首にされていた理由を考えた結果です。

当作では超神との戦いに不参加だったのも、開発期間の関係ではなく体質的に戦えなかった所為で参加しなかったものとします。


~原作キャラ紹介 Part9~
○ロジャー・ベーコン(登場作品:KOUDELKA(ゲーム版), クーデルカ(漫画版), シャドウハーツ, シャドウハーツ2, シャドウハーツ フロム・ザ・ニューワールド)
 シャドウハーツシリーズで唯一、全作品皆勤と言う偉業を果たしている伝説の大魔術師。年齢は無印シャドハの時点で700歳超え。

 初登場時からネタキャラとして、重苦しい世界観の中で清涼剤としての存在価値を示していたがシリーズが進むごとにネタキャラ度が加速。
 各作品ごとに性格が異なると言う、中々に二次創作者泣かせのキャラクター性を獲得している。

 第一作目のクーデルカでは、ゲーム版漫画版ともに世を儚んだ隠棲の賢者らしい口調と雰囲気を漂わせていた。見た目と扱い以外にネタ要素は少なかったキャラである。
 だがシャドウハーツに入って、奴は弾けた。無印版では語尾を微妙に上げた変な口調でその異常性を主張。CV我修院の名演も伴って、ネタキャラとしての地位を不動の物に。

 続くシャドウハーツ2においては、その妙な口調は撤廃された物のシリアスキラーとしての性能は寧ろ強化される。
 無くしてはならない大切な物を教えてくれた、ヨアヒムや師匠と並んでのシャドハ2三大ネタキャラは伊達ではない。

 シャドウハーツFにおいても、ネタキャラとしての性質は変わらず。ただ寿司屋やNINJAのインパクトが大きく、上海天国と言う矛を奪われながらもチェリーボウイと言う刃で果敢に戦い続けた老魔術師は検討虚しく、ネタキャラとしては二線級に落ちてしまうのであった。

 ロジャー・ベーコンの魅力はネタキャラでありながら、重要なシーンでは隠棲した賢者に相応しい含蓄を見せてくれる点にあると思われる。
 2におけるウルとのやり取りは必見。BADエンドの展開も、出て来るのがロジャーで良かった。そう素直に思わせてくれる人物である。



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第25話 女の過去

KOUDELKA編をRTA染みた速度で進めても、シャドウハーツ無印の話に突入するまで100話以上掛かりそうな事実。


 高く聳える鐘楼が特徴的な大聖堂は、ネメトン修道院の最奥に設立されていた。

 パトリックの手記が正しいのならばこの内側、地下深くに生命の大釜は存在している。

 

 石像の内より回収した聖人の遺骸。ミイラ化した腕の一部を携えて、大聖堂の前に立つ一行。

 彼らの前に立ち塞がるのは、鍵穴すらない巨大な鉄扉。一目で分かる程に頑丈な守りが道を阻んでいた。

 

「おいおい、こいつはまた。随分としっかりとした防犯意識だことで、銃で撃っても開きそうにないぞ」

 

「重要な設備だ。簡単には侵入出来ないだろうと予想はしていたが、まさかこれ程とはな」

 

 生命の釜は聖堂の地下にあり、エレインの肉体が眠る生命の木は鐘塔の上にあると言う。

 後はこの大聖堂を踏破するだけで、この事件は終わるのだ。だと言うのに、踏み出す一歩が難しい。

 

 銃で撃っても、傷一つ付かない扉である。周囲には窓もなく、どうやって立ち入れば良いのかすらも分からない。

 

「ニコル。貴方なら、どうにか出来ない?」

 

「……ふむ。まあ、出来なくもありません」

 

「何時も通り、お得意の魔法で如何にかするのか?」

 

「いえ、黒魔術では無理ですし、白魔法でも効率が悪い。いっそ爆薬で吹き飛ばしましょう。近くに機材も、揃っているようですし」

 

 さて困った時はと何時ものように、話題を振られた少年はあっさりと答えを返す。開けられないと言うのなら、いっそ壊してしまおうと。

 

 物理的な破壊を魔術や魔法で行う事は難しい。不可能ではないが、消耗が激しくなってしまう。魔力を回復する薬品の残りは、既に心許ない数だ。

 踏み込んで終わりではない。これより最大の大一番が待つと言うのだから、魔力は温存するべきだ。故にニコルが提示したのは、爆破解体と言う手段。

 

「そうか、実験室の機材を使うんだな! それなら任せてくれ。調薬は学生時代に学んだんだ。あそこの設備を使えば、ニトログリセリンくらいは用意出来る」

 

「は、そいつは良い。強力な爆薬だ」

 

「この扉なら、フラスコ一杯分もあれば十分だろう。尤も、取り扱いには注意だがね。運ぶ途中で落としたら、我々が天に召されてしまう」

 

 邸宅内の実験室には、一体何に使う予定だったのか、危険な薬品が多く取り揃えられていた。その内の幾つかを用いれば、鉄の扉だろうと壊せるだろう。

 香の調合と薬品の調薬は似ている。その為にニコルは自分で行う心算だったのだが、彼以上にジェームズがやる気となっていた。故に敢えて割り込む必要もないかと、任せてしまう事にする。

 

(ニトログリセリンの直撃には、まだ私も耐えられませんね。物理的な破壊とは、如何にも厄介な物です)

 

 そうして空いた思考で思うのは、今の己の脆弱さ。強力な爆発に至近で巻き込まれれば、人の身体は耐え切れない。

 どれ程に鍛え抜いても、ニコルの身体は人の域を出ていないのだ。殴られれば痛いし、刃物は通る。無防備な所を銃で撃たれれば、あっけなく死ぬだろう。

 

(魔術的に物理被害を防ぐにはやはり、魂の契約を行うしかありませんか。人を止める以外の、解決策が浮かばない)

 

 物理干渉が可能な使い魔を壁にする事で、銃弾程度ならば防げるだろう。だが爆薬以上の火力にそれでは抗しえない。

 戦車の主砲やミサイルと言った質量兵器に魔術で対抗するならば、どうしても魂の契約が必要となる。降魔化身術のように、肉体そのものを人間以上の物に変えるしかない。

 

(とは言え、下手な悪魔と契約を交わしても先が見えている。原作通り、狙うのならばアスタロトだ。である以上、海底遺跡の場所が分かるまでは素直に待つべきでしょうね)

 

 だが、魂の契約には大きな代償が存在している。死後の魂を契約した悪魔に捧げると言う物だけではなく、生前の内から悪魔に心を喰われていくのだ。

 

 降魔化身術の使い手は内なる魔物との同化の際に、心が闇に飲まれ掛けて悶え苦しむ。生まれつき適正がある者でもそうなのだから、疑似再現とも言える魂の契約が齎す負荷はそれ以上である。

 強大な悪魔相手であれ、下等な妖精の類が相手であれ、伴う危険は変わらない。リスクが変わらないのなら、より良いリターンを望むべきだ。

 

 現状で契約するべき悪魔は、堕天使アスタロトの他にはない。契約に必要な道具が眠る海底神殿の大凡の位置は分かっていて、詳細な位置は今も人を使って探らせている。ある程度の実力を付けた後ならば、単独で彼の遺跡を制覇する事も難しくはないだろう。

 ならば今は雌伏の時だと、そんな事は分かっている。分かっていて、それでも逸ってしまうのは心の未熟さ故にであろう。

 

「全く、我が身の未熟が口惜しい」

 

 力への執着。強くなりたいと言う願望。飢えて乾く程に願っているから、余りに自制が効きにくい。

 原作知識由来の確信。アスタロトは獲得出来るであろうと言う保証がなければ、手当たり次第に死霊や悪霊を取り込もうとしていたかもしれない程だ。

 

 だが、それでは後が続かない。魂の契約は例えるならば、ダイナマイトの導火線に火を付けるような物なのだ。

 ラスプーチンを倒さねばならないと言う宿命があれば、彼を打倒する準備を整えた後で行わねばならない儀式。

 

 確証と宿命。二つの要素が故に、ニコルは如何にか自制していられる。それを果たすべき時を思えば、臥薪嘗胆の日々にも耐えられる。

 幸い、ロジャー・ベーコンへの弟子入りも上手くいったのだ。残る三年の自由時間を利用して、片手間に書を探しながら叡智を学んでいけば良い。伏して耐えて学び、己を磨き上げれば良いのである。

 

 少年がそんな思考を回している間にも、時間は静かに流れている。時刻が一つ進んだのだと示す為、大聖堂の鐘楼が鳴った。

 ゴーンゴーンと重く苦しい音を立てる鐘の音。どんよりとした空模様と相まって、空気は重くなっていく。

 

「行くぞ、それで事は済む。鐘が俺を呼んでいる」

 

「聞くなよ、ダンカン。あれはお前を送る鐘だ。天国へか地獄へか、それは知らん」

 

「……全く、ジェームズまで。エドワードみたいなのは、一人居れば十分でしょうに」

 

 重苦しい空気を払うように、にやけ笑いで諳んじるエドワード。律儀に話題を合わせて、笑みを浮かべたジェームズ。

 意気投合した二人の姿に、頭を抱えて嘆息するクーデルカ。どうでも良いと一人違う思考を進めているニコル。そんな個性豊かな仲間達。

 

 もう間もなく、長い夜は終わろうとしている。けれどまだ、夜明けまでには時間があった。語らい合うには、十分過ぎるであろう時間が。

 

 

 

「では、私は作業を始めるから、君達は待っていてくれたまえ」

 

「手伝いますよ、ジェームズ。私もそれなり以上には、調薬の知識がありますから」

 

「ニコル。いや、だが――」

 

「残念だな、ニコル。お前さんはそっちだ」

 

「エドワード?」

 

 パトリックの邸宅に戻って、早速作業を始めようとしたジェームズ。ニコルも手伝おうと声を掛けるが、エドワードに肩を掴まれ止められていた。

 不審そうに眉をひそめて、男を見上げるニコル。そんな少年にエドワードは小さく笑うと、親指で背後の女性を指差す。肩を組んで耳元で囁くのは、全く彼らしい言葉であった。

 

「空気を読めって言う事さ。美しい薔薇を壁の花にしてしまうのは、はっきり言って男の罪だぜ」

 

「……ならば貴方が、相手をするべきでは? そういう事は、得意でしょうに」

 

 クーデルカを一人にさせる気かと、小声で語るエドワード。そんな男にジト目を返して、返す言葉はほんの小さな願望だ。

 

 女には幸せになって欲しい。彼女が幸福になる為には、そうした行為が必要で。相手は誰でも良いが、エドワードならば尚更良い。

 そう考えてみれば、この状況は好機であった。故にと自然に席を外す為、少年はジェームズについて行こうとしたのである。

 

「全く、お前は何で気付けないのかね。お前を取り囲む輝きの内で、彼女の眼の光こそが最高の物だと」

 

 対するエドワードとジェームズは、もう既にこの少年が心に抱える歪みに気付いている。如何なる偶然か、女との相性が噛み合う事も。

 彼らには互いが必要だ。その為にも出来る限り、二人で居させた方が良い。そう考えるからジェームズは口籠り、エドワードはこうして口を挟むのだ。

 

「いいや、違うか。気付いていない訳じゃない。お前は怖がってるんだな、ニコル」

 

「私が、恐れる? 一体何を?」

 

「さてね、お前さんの過去を俺は知らんよ。一体何を恐れているのか、それが分かるのはお前だけだろう」

 

 ニコルと違って原作の知識を持たないエドワードには、少年の意図する所など分かりはしない。

 だから彼は、己の見聞きした事から推察する。少年が後一歩の所で踏み込もうとしないのは、恐怖故にではないのかと。

 

「花の香に迷うものは、花を摘んでその胸に抱くが、お陰で花は枯れてしまう」

 

 エドワードが諳んじるのは、彼が自己投影するバイロンの詩歌。意味は詠んでその通り、求めてしまえば失うと言う一つの真理。

 少年は失う事を怖れている。だから手を出さないのではないかと、それは真実の全てではないが一面においては確かに事実であった。

 

「花を摘むには、資格と覚悟が必要です。私には、そのどちらもないし必要ない。そう考えていた事は、認めますよ」

 

「成程ね。それがお前の本音か、ニコル。それこそ卑怯で、女々しい事だぜ」

 

「女々しいと、その判断は誤りだ。私は別に、彼女を愛している訳ではありません。幸せになるべきだと、そう思うだけなのですから」

 

「詭弁だな。人を愛する方法は、それが失われたらどうなるか想像する事だ。失う事を怖がる時点で、そいつはもう愛なのさ」

 

 ニコルは恐れている。グレゴリオ・ラスプーチンと言う存在を。正確には、また何も出来ずに失うと言う結末を。

 大切に思えば、失くしてしまうかもしれない。そう恐れる時点で、既に大切だと思っているのだ。男は未熟な少年の髪を撫でながら、笑って言った。

 

「なあ、ニコル。お前が過去に何を失ったのか、俺は知らない。けどな、古い人は良く言ったもんさ。過ぎ去った不幸を嘆くのは、直ぐに新しい不幸を招くもとだってよ」

 

 ガシガシと雑に撫でる手に、髪をぐしゃぐしゃにされるニコルは聞かされる。過去に何があったとしても、嘆くべきではないのだと。

 合理的なその言葉を、ニコルは否定する事が出来ない。確かにそうだと、彼自身思うから。もしも本当に己が囚われているというのなら、それ程に無駄な事はない。

 

「なあ、ニコル。お前の光は、今、何処にある?」

 

 子どもの髪を一方的に搔き乱した大人は、片膝をついて視線を合わせる。そうして大人らしく、気取った言葉で少年を導こうとするのであった。

 

「宿題だ。ちゃんと答えを出しとけよ。恋が痛みに、変わる前にな」

 

 言いたい事を好きに言って、エドワードは背を向け去っていく。既に作業を始めたジェームズが、仕事を終えるまで何処かで時間を潰す心算だろう。

 残されたニコルは、憮然とした表情で乱れた髪を直していく。どの道、エドワードでなければならないと言う訳ではない。そう胸中で呟きながら、一つの想いを言葉に漏らした。

 

「勘違いですよ、エドワード。これは恋ではありません」

 

 呟いた言葉は届かない。端から伝える気がないから、空に溶けて消えるだけ。しかし確かに想うのだ。これはきっと、そんな浮ついた感情ではないのだろうと。

 

「……けれど私は、その名を知らなかった。幼い者の胸に棲んだのは、何の情熱だったのか」

 

 だがしかし、ならば何なのかと問われれば、ニコルは上手く言葉に出来そうもなかった。エドワードが好む詩人の言葉を借りて、口にしても思考はまるで纏まらない。

 胸に感じる情は確かに、だが恋ではないと言うのならば何なのだろう。それはニコル自身にも、まだ分からない感情。

 傷の舐め合いをしたいだけなのか。それとも、本当は――――唯、気付こうとしていないだけなのか。

 

「エドワードと、一体何の話をしていたの?」

 

「いえ、大した事ではありませんよ。唯の、大きなお世話です」

 

 残されたニコルの下に、クーデルカが近付き問い掛ける。そんな女に詰まらなそうに言葉を返して、少年は自然と手を差し出す。

 

 思惑が破綻した以上、此処で待っていても仕方がない。ならばと自ら手を差し出したのは、決して誰かに影響されたからではない。

 そう自分に言い聞かせながら、クーデルカの手を掴んだニコル。僅か驚くように目を見開いた女は、小さく微笑むとその手を握り返した。

 

 そうして二人、連れ立って暗い屋敷を歩く。然程離れてはいない邸宅の一室へと立ち入ると、暖炉に火を付け床に座る。

 壁に背を預けた二人は暫く無言で、揺らめく炎を見詰めて過ごす。どの程度の時間が過ぎた後の事か、クーデルカは懐から小さな瓶を取り出した。

 

「お酒、ですか」

 

「ええ、飲みたい気分なのよ。けど、貴方は駄目よ」

 

「別に構いません。飲みたいとは、思った事もありませんから」

 

 探索の途中で、盗み取っていた酒瓶。蓋を開けて、ボトルに直接口を付ける。傾いた瓶の中身は、ゆっくりと減っていく。

 酒を飲み始めたクーデルカの横に座って、ニコルはぼんやりと暖炉の火を見詰める。揺らめく炎を見るだけの暇な時間は、思っていたより嫌ではなかった。

 

「ねえ、ニコル。少し、話を聞いて貰っても良いかしら?」

 

「構いませんが、行き成りですね」

 

「そうね。けど今は、そうしたい気分なの」

 

 酒瓶の中身が半分を切った頃、ふとクーデルカが口を開く。赤ら顔で言葉を紡ぐ女を見上げて、突然だなとニコルは首を傾げた。

 とは言え、聞きたくない理由も特にはない。どうせ暇なのだから、話したいなら話せば良いだろう。見上げた少年に、クーデルカは微笑んだ。

 

「あたしは一人だったわ。ずっと一人で暮らして来た」

 

 そうして紡がれるのは、女の過去。クーデルカ・イアサントと言う女が、何処で産まれて、どのように生きたかと言う命の軌跡。

 

「生まれたのは、タリエシンって言う河の畔にある小さな村。けどその頃の記憶は、正直余り覚えていないの」

 

 女が生まれたのは、今から19年は前。イギリスはウェールズの外れにある、アバージノルウィンの小さな寒村。

 幾つかの古い言い伝えや掟があり、その独特の風習を今も守る信心深い人達が暮らす村。そんな場所で、クーデルカは生を受けたのだ。

 

「一番古い記憶は、父親が死ぬ瞬間。あたしね、知っていたの。場所も、時間も、死に方も全部、あたしが視た通りだった」

 

 古い記憶を、彼女は覚えていない。楽しい事もあったのかも知れないが、ある日を境に思い出す事も出来なくなった。

 だから覚えているのは、その日の記憶。予め知っていたと言うのに、信じてなんて貰えなかった。故に避けられなかった、片親の死。

 

「空から振って来た、馬車に潰されたのよ。おかしいわよね。嗤える程に滑稽な死に方。あたしの眼の前で父は潰れて、救助が来るまでの四日間、あたしは死体と過ごしていた」

 

 振って来る馬車に、潰されて死ぬ。そう言われて、信じる者などそうはいないだろう。事実、クーデルカの周囲の人達は信じなかった。

 だが実際に、彼女の父親は馬車に潰された。川辺で作業していた時に、直ぐ傍にあった橋が崩れたのだ。高所にあった橋を通っていた馬車は、墜落して男の上に。

 

 馬が死んだ。馬車に乗っていた、貴婦人と紳士も死んだ。そして当然、クーデルカの父も死んだ。生き延びたのは、近くで見ていた少女だけ。

 四日間、彼女は死体を見ていた。もしかしたら避けられたかもしれない人の死を、その残骸をずっと一人で見詰め続けた。そうして彼女は、何処かおかしくなったのだろう。

 

「呪われた子ども。持ってはいけない力を持った子ども。父親の死を言い当てたあたしを、母は恐れて憎んだわ。自分の手で、殺そうとする程に」

 

 霊的な力を持つ事を隠さなくなり、そして母に拒絶された。己の首を絞める母の手を、必死になって振り解いては殴り返した。

 己を怖れ憎む者、その全てを拒絶したのだ。ならば当然、少女も世界に拒絶される。果てに至った結末は、至極当然と言うべき物だろう。

 

「如何にか生き延びたと思ったら、今度は長老会の裁定で村を追放されたわ。今のニコルと、変わらない年の頃にね」

 

 村の誰もが、少女を怖れた。村の誰もが、少女を追い立てた。庇い立てる者など居らず、助けてくれる人もまた居ない。

 当時、九歳だったクーデルカは村を追われて路頭に迷った。路銀もない。食料もない。衣服も住居も何もない。それで一体、どうしろと言う。

 

「九歳の子どもが、身寄りもなしにどう生きろって言うのよ。何が宝物よ、冗談じゃない。泣いて物乞いをして、凍えて死ぬのが怖くて身体も売ったわ。そうするしか、なかったもの」

 

 泥に塗れて汚れながら、明日も見えない暮らしが始まる。放浪者としてイギリス中を歩き回って、しかし心が休めた事はない。

 霊媒として稼げるようになるまでは、物乞いや売春などをするしかなかった。誇りや意地なんて真っ先に捨てて、浅ましくも生きたのだ。

 

「……宝物、ですか」

 

「スラトー。あたしたちはね、生まれた時にあだ名を貰うの。それが掟。意味は宝物だって、笑っちゃうわよね」

 

 そんな過去を語る女の言葉に、少しの引っ掛かりをニコルは覚えて問い掛ける。そんな彼の気にしない素振りに、少し微笑んでクーデルカは答えを返した。

 彼女が生まれた村では、生まれた子にあだ名を付けると言う風習があった。生まれた時には、祝福されていたのだ。そんな事実を知って、しかし今に何の意味があると言うのか。

 

「青空の下に生きて、青空の下で死ねたら良かった」

 

 もしも強い霊力を持って、生まれて来る事がなかったのなら。もしも父の死に際して、少し違う行動を選んでいたのなら。

 今とは違った、未来があったのだろうか。幼い日に見上げた青空を想い、クーデルカは小さく零す。青空に生きて、青空に死ぬ。それが村の掟であったから。

 

「シャルロッテを見た時、思ったのよ。彼女の悲鳴を聞いた時に、共感したの。あの子は昔の、あたしと同じ。あたしも思ってた、皆死ねば良いのにって」

 

 物乞いをしていた頃や、身体を売っていた頃には何時も思っていた。どうして自分はこんなにも惨めなのに、どうして他人は笑っているのか。

 どうしようもなく許せなかった。母が、村の長が、周囲の人が、惨めな己自身ですらも。誰も彼もが許せなくて、皆死んでしまえば良いと思っていたのだ。

 

「でも、あの子は愛されていた。あたしとは、違っていたわ。あの子はお母さんが居る、天国に逝けたのよ」

 

「クーデルカ」

 

「あたしはね、ニコル。貴方が言ってくれたような、立派な女なんかじゃないの。誰も助けてなんて、くれなかったから」

 

 救われて良いと、抱き締められて言われた言葉。あの時に思ったのは、とても大きな嬉しさと同じくらいの不一致さ。

 優しい熱に縋りたい気持ちと、そんな感情など身の丈に合わないのではないか。過分に過ぎるのだと叫ぶ違和感。

 

 そうじゃない。私はそうではないのだと、僅かな拒絶が其処にはあった。受け止め切る事が出来なかったのだ。だから女は自虐しながら、此処に己を語っている。

 

「無知で貧しくて薄汚い。食う為に、自分の誇りも捨てるような女。私はそういう女よ。そうなるしか、なかったわ」

 

 不釣り合いだと感じながらも、それでも心が求めてしまう。拒絶するべきだと分かっていながら、受け止めて欲しいとも願ってしまう。

 少年の腕に感じた温かさに、縋り付きたいとすら感じてしまう。だから女は、熱の籠った瞳で口にするのだ。

 

「だから、願ってしまうの。死んでしまいたいとも思うけど、それ以上に生きていたい。生きている意味が欲しい。誰かに必要だって、言われたいのよ」

 

 クーデルカ・イアサントは欲しい。愛して欲しいとまで、贅沢は言わない。唯、生きていても良い理由が欲しい。

 貴方の為に、生きているのだと。胸を張って、歩けるようになりたい。そんな女は小さく自嘲して、酒瓶をまた少し傾けた。

 

「幻滅した? お酒の力を借りないと、こんな事も言えない女」

 

「いえ、別に。そういう事も、時にはあるのだろうなと」

 

「……何よそれ。他人事みたいに」

 

「他人事ですよ。何処まで行っても、他人は他人。己の物には出来ません。唯――」

 

 瓶の中身が3分の1を切った後、クーデルカは小さく問う。何処か甘えるような声音に対し、返るは少し冷たい言葉。

 気の無い返事を返したニコルに対して、憮然とした表情で再び酒瓶を傾けるクーデルカ。そんな女は、続く言葉に一瞬だけ硬直した。

 

「私には、貴女が必要だ。そうですね、これは事実ですよ。クーデルカ」

 

 コロンと、酒瓶が転がり落ちて床を濡らす。腕を掴まれた少年は、そのまま床に押し倒された。

 抗う事は容易いが、されるがままで居るニコル。そんな少年を座った瞳で見詰める女は、息が掛かる程の距離で囁く。

 

「……同情なら、要らないわよ。……そうでないなら、本気にするわ」

 

「……ライクとラブの違いなど、まだ私には分かりませんよ。10歳児に、一体何を求めているんですか」

 

 強い酒気と女の匂いが鼻を擽る。唇が触れ合うような距離感で、肌と肌を重ね合わせる。

 

 これで成人していたならば前屈みにもなったのだろうが、少年はまだ二次性徴を迎えていない。

 だからこれ程に近い距離感でも、平然とした言葉を返せる。そんな幼さを、クーデルカは少しズルいと思った。

 

「ただ、好ましいと感じている。居なくなると思えば、寂しいし悲しい。だから、必要です。それは認めます」

 

「……酷い男ね、ニコルは。今からそれじゃ、碌でもない女泣かせになるわよ」

 

「エドワードのように、ですか?」

 

「茶化さないで。それと、こういう場面で、他人の名前を出すのはマナー違反よ」

 

「失礼。何せ、まだ子どもなので」

 

 打てば響くと言うように、触れ合う距離で言葉を交わす。欲しい言葉を言ってくれるのに、理由を付けて踏み込ませない子ども。

 そんな彼を酷い子だと思いながらも、同時にそのやり取りを楽しく思う。触れ合う距離で戯れ合うのは、もどかしくも好ましい時間だ。

 

「なら、ニコルの話も聞かせて。そうしたら、許すわ」

 

「私の話、ですか? 別に聞いても、面白くもありませんが」

 

「良いから、あたしが聞きたいの。貴方をもっと、知りたいと思うのよ」

 

 だからそんな理由を付けて、触れ合う少年の過去を問う。女の過去を知っても、何も変わらない少年にもう少し近付く為に。

 問われたニコルは少し首を傾げてから、口を開いた。何の面白みもない過去だが、別に隠す事でもない。だから少年は、何も出来なかった己の過去を語るのだった。

 

 

 

 

 




次はラスプーチンに拾われる前の、ニコルの過去回想になります。


〇今後の予定(5/28現時点での想定)
1.KOUDELKA編 回想後にエレインとの決戦で終了予定。
2.上海上陸編 ウルと一緒に傀骸塔でヒャッハー予定。別名「悪ガキ共、徳壊を煽る」
3.クーデルカ編 折角なので漫画版ストーリーもやる予定。開始時期は変わる。
4.SG団幹部編 秘密結社幹部として活動する予定。多分この辺りでルートが決まる。
5.ロシア編 アナスタシアと絡みたい。お兄様とか呼ばせたい。(願望)
6.シャドウハーツ編 ここまで来て漸く、原作スタートである。

各章の合間合間に幕間を少し入れる予定なので、ロシア編終了までで大凡150話前後? ちょっと原作まで長くないですかねぇ……



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第26話 少年の過去

ニコルの過去。九割は捏造です。


 暖炉の火が揺らめく中、二つの影は僅か離れる。壁に背を預け直した少年は、瞳を閉じて過去を振り返る。

 何処から語るべきか。僅か悩んだ問いに出したのは、女と同じで良いだろうと言う結論。己が知った、己の出生から語るとしよう。瞳を開いて、ニコルは小さく息を吐いた。

 

「私は、帝政ロシアの首都、サンクト=ペテルブルグで生を受けました」

 

 ロシアの首都がペトログラードと呼ばれるようになるのは、ドイツとの関係性が悪化した1914年以降の事。

 今はまだ原作と違って、サンクト=ペテルブルグと呼ばれている時代だ。その片隅で、ニコラス・コンラドは生を受けた。

 

「母は宮中に出入りしていた有力貴族の娘で、父は――現・ロシア皇帝、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ」

 

「皇、帝? 王子様だったの、貴方!?」

 

「認知すらされていない庶子ですがね。父は私が産まれた事すら、知らないのかもしれません」

 

 ニコライ皇帝の第一子。正真正銘の王子様。予想だにしていなかった血統に、クーデルカは酒気が醒める程に驚く。

 そんな女に笑って返す言葉は、認知すらされていないと言う言葉。恋仲だった彼の父母は、しかし婚姻には至らなかった。

 

「父は私が産まれる前に、母を捨てました。理由は知りませんが、恐らくは先帝からの命であったのではないかと踏んでいます」

 

 この時代、王族の婚姻とは国家戦略と同義である。自国の有力諸侯の娘より、諸外国の王室と結び付く事をニコライ2世は望まれたのだ。

 

 そしてそうなると、恋仲にある女の存在は邪魔となる。当時20歳。皇太子に過ぎない身分のニコライでは、父母の命に逆らえなかった。

 となれば、破局するのも当然の事。其処で終われば、よくある悲恋の一つであったのだろう。だが運が悪い事に、その時既に女はニコルを孕んでいた。

 

「捨てられた母は実家に戻り、妊娠に気付いたそうです。そして産む事を望んだ母に、しかし実家は断固としてそれを許しませんでした」

 

 愛する人と一緒になれない。ならばせめて、愛した人の子を産みたい。そう考えた女の情に、そうされては困るのが貴族の事情だ。

 政略結婚に使える筈の年頃の娘が、皇太子のお手付きとなったと言うだけでも厄介なのに。その子まで産んでしまえば、王室が大きく荒れてしまう。

 

 一度は納得した皇太子が、また父母に逆らうかもしれない。皇家が裏で進めている婚姻が、上手くいかなくなるかも知れない。

 王位継承者が無作為に増えてしまうのは都合が悪く、下手をすれば国家間の関係にも泥を塗りかねない。そう考えれば、産ませる訳にもいかないと言うのも当然だ。

 

「母の実家は、母に堕胎を命じました。ですが母はそれを拒絶して、ならば出て行けと勘当されたそうです。お前はもう、貴族ではないと」

 

 子を産む前におろせと言われて、女は狂ったように抵抗した。彼女にとってそれは、愛する人との間に残った僅かな絆であったから。

 どうしても納得しない強情な娘に、ならば出て行けと実家は命じた。国を荒らす火種を抱え込むなど出来ない。彼らにとっても、其処は譲れない事であった。

 

 そして同時に、女の想いを甘くも見ていた。一人で生きる力もない娘だ。少し厳しく当たれば、直ぐに泣き付いてくるだろうと。

 けれど彼らの予測は外れた。女は父母や貴族としての誇りより、まだ見ぬ我が子の生を望んだのだ。追い出されて帰らなかった女は一人、貧民街で子を産んだ。

 

「母は、典型的な貴族の娘でした。蝶よ花よと愛でられて、社交界での会話や踊りを得意とする。それ以外には、何の技術も有していませんでした」

 

 子を産んだ女は実家に頼れず、さりとて一人で生きていられる程に強くもなかった。裕福な貴族の娘が貧民街で、真面に子育てなど出来よう筈もない。ニコルが生まれた時には既に、女の人生は詰んでいたのだ。

 

「身に付けていた装飾品を質に入れても、足元を見られて大した額にはなりません。そして手に職もなく、頼れる身寄りもない。となれば、生活費を稼ぐ手段は自然と限られます」

 

「……ニコルのお母さんも、身体を売ったのね」

 

「はい。それしか、ありませんでした」

 

 貴重な品を売り捌いて得た金も、貧民街であばら家を買えば直ぐに底を尽いた。他に稼ぐ術を知らない女には、身売りをするしか道がなかった。

 ニコルの母が抱いたであろう感情が、クーデルカには良く分かった。更に生まれた子どもを育てねばならないとなれば、その境遇は幼い日のクーデルカよりも寒い物であったのだろう。

 

「愛した男とは違う男性に抱かれる日々。稼いだお金は、親子で過ごすには足りない物。食事も満足に取れず、寒さに震える日々が続きました」

 

 死にたくなる気持ちを我慢して、汚らわしい男に抱かれる。そうまでして得た金も、二人で食べるにはまるで足りないはした金。

 明日の見えない閉塞した日々は、女の心を蝕み続けた。苦しくなる事はあっても、楽になる事はない。女の身体が有する価値は、年追う毎に下がってしまう。

 

 己の食事を削って我が子に与えながら、この日々とて何時まで続くのかと考えてしまう。老いてしまえば身を売る事すら出来なくなるから、生きる事すら出来なくなる。

 

「そうして、母は壊れてしまった。私が物心ついた頃にはもう、真面な会話も出来ませんでした」

 

 未来に絶望しかない日々の中で、女の心は擦り減り削れた。現実に耐える事が出来なくなった女は、夢の中に沈んでしまった。

 

「寝ているか。客に媚びているか。壊れたラジオのように、過去や父の事を語っているか。それだけが、幼い頃の私が知る母でした」

 

 ニコルが物心つく前に、ニコルの母は壊れていた。心は壊れたまま、身体は生きる為に必要な行為を繰り返し続ける。

 男に抱かれて金を得て、我が子に食事を与えながらに妄執を囁く。そうした後は糸が切れたように、次の仕事まで眠り続けた。

 

「『何時かお父さんが迎えに来てくれる。貴方は皇帝に成れるのよ』……母は現実に耐えられなくて、そんな夢を見続けていたのです」

 

 現実から目を背けて、在りし日の夢を視る。何時だって彼女の中での時間は止まっていて、女にとっては現実こそが悪い夢でしかなかった。

 だから事あるごとに、ニコルに向かって口にした。彼の血統と、父親の事を。何時だって壊れた女は、愛した人が迎えに来てくれる事を期待していた。

 

「当時の私は、母が嫌いでした。男に媚を売る姿が、醜いと。毎晩聞かされる妄想が、煩いと。こんなにも下らないモノが、我が母とは情けないと。……母の想いにも気付かずに、愚か者だと嗤っていたんです」

 

 そんな女を幼いニコルは、内心で蔑み続けていた。身体を売っても碌に稼げず、極貧を極めた生活は底がないと思える程に落ちていく。

 食事も満足に取れず、毛布も一枚しかない家の中。壊れた母が話し続ける雑音を嫌っても、吹き込む風の寒さに耐える為には触れ合っている他なかった。

 

 幼いニコルにとって、世界とは実に詰まらない物だった。母が家で客を取っている間、貧民街から見上げた宮殿。何時かあそこに行くのだと、気付けば彼はその妄執を抱いていた。

 

「私はこうはならない。母のような、負け犬にはならない。……全く、愚かにも程がある。母がどうしてそうなったのか。世情を少しでも考えられる知性があれば、分かった筈の事でしょうに」

 

 ニコルは思う。原作においての自分は、恐らくはあの時のままに育った己なのだろうと。原作知識と言う切っ掛けが無ければ、きっと同じように成っていた筈だ。

 壊れた母を見続けて、こんな風にはならないと誓う。母の妄執を受け継いで、帝政ロシアの玉座を求める。そうすれば空っぽな自分でも、何かを手に入れられる筈なのだと。

 

 けれどそうはならなかった。少年は今、原作とは違う道に居る。知識を得た事で、ニコルの世界は確かに変わったのだ。

 

「変わったのは、忘れもしません。ある日唐突に、私は毎晩、“悪夢”を見るようになりました」

 

 三歳のある日、ニコルは唐突に“前世の記憶”とでもいうべき記録を夢に見た。

 

 何処かの誰かの一生涯分の記憶はしかし、既に物心ついていた少年にとっては現実感のない記録に過ぎない。

 最初は何が何だか分からず、変な夢を見たなと言う程度。だが次第と理解が及ぶにつれて、ニコルは確かな恐怖を抱いた。

 

「自分が死ぬ夢。何も為せずに殺される夢。言い訳も出来ない程の、負け犬となってしまう夢」

 

 見た事もない誰かが遊んでいた『シャドウハーツ2』と言うゲーム。その物語に出て来る、ニコルと同じ名前の誰か。

 その男が抱えた歪みが、その男が叫ぶ想いが、その男が望んだ物が――ニコルには手に取るように分かった。分かって、しまったのだ。

 

 これは己だ。これは己の未来だ。己は何も為せないまま、無駄に年を重ねて殺される。そう理解した瞬間に、ニコルは絶叫を上げていた。

 

「繰り返される光景を理解した瞬間、私は無様にも涙を流し恐怖に震えました。狂ったように叫び続けて、そのまま糸が切れるように倒れたのです」

 

 生まれて初めて、母親の気持ちに共感出来た。未来がないと言うのは絶望的だ。ああ、これは耐えられないと。

 幸いだったのは、ニコルに狂い続ける事が出来る程の体力がまだなかった事。心が壊れてしまう前に、身体が限界を迎えたのだ。

 

「そうして、目が覚めたら……母が穏やかに、笑っていました」

 

 倒れて意識を取り戻した時、ニコルは優しい温もりに包まれていた。目を開けば、重なったのは慈愛の色を浮かべた瞳。

 母親は膝を枕代わりに、倒れた少年を寝かせていた。一枚しかない毛布を彼に被せて、柔らかく髪を撫でながらに語るのだ。

 

「『怖い夢を見たのね、もう大丈夫よ』と。母の瞳に私が映っていたのは、あの日が初めての事でした。…………そして、私が母を見たのも。あの日が初めてだったのでしょう」

 

 それは奇跡であったのだろう。壊れて狂っていた女は、我が子の嘆きの声を耳にした事で母に戻れた。

 ほんの一瞬、僅か一晩にも満たない奇跡。次の朝を迎える頃にはもう、会話する事すら出来なくなっていた。

 

 まるで夢のような時間であった。だがだとしても、確かに起きた事である。そう信じるニコルの瞳は、確かに母を映していた。

 

「母は、病を患っていました。当然です。真面な食事もない、不衛生な環境で身体を売る。寿命を縮めるには、十分過ぎる生活でしたから」

 

 だから気付けた、母の体調がおかしい事に。そして気が付いたのだ。ゲームの中では、ニコルの母親なんて出て来ないと言う事実に。

 

「それに気付いて、初めて私は恐怖しました。このままでは母が死んでしまうと、其処で初めて実感したのです」

 

 一瞬でも母の愛に触れたから、ニコルはそれを失う事を怖れた。ゲームの通りになるなんて、納得したくもなかった。

 諦める訳にはいかない。母の死は、己の破滅を確定付ける。同義であるとすら言える。ならばこそ、幼いニコルは必死になった。

 

「母が客を取る間、私は自由に動けました。だから必死になって、母を死なせない方法を探しました」

 

 どうすれば母親を生かせるのか。頭を回して考え続けて、毎日毎日サンクト=ペテルブルグを駆け摺り回った。

 母の病は、不衛生が祟った物。病を治すには金が要るが、金さえあればどうとでもなる。だからと最初に探し求めたのは、母の生家である貴族の屋敷。

 

「母の実家を探しました。母が質に出した物に付いていた家紋を、朧げにではありますが覚えていたので。後は足で駆け回って一致する家に駆け込みました」

 

 幸いな事にニコルは、記憶を引き継ぐ前から地頭に優れていた。更に転生者の知識を獲得したのだから、幼くしても大人顔負けだ。

 母の能力的な事を思えば、それ程遠くにはないと予測は出来た。後は曖昧な記憶を頼りに、大きな屋敷を順繰りに回っていくだけの事。

 

 数日もあれば、見付け出す事は簡単だった。母の実家に辿り着いたニコルは覚悟を決めて、その門を確かに叩いたのだ。

 

「そして、泥水を掛けられて追い払われました。お前が居たから、娘を捨てるしかなかったのだと。私を杖で殴り付ける祖父は、私に私の出生について語りました。憎悪を込めて、呪うように」

 

 結果は失敗。母を助けてくれと何度言おうが、お前が居るから無理なのだと暴力を振るわれる。

 このままでは母が死んでしまうと縋ろうと、その前にお前が死ねば良いのだと彼らには取り付く島もない。

 

 それでも殺されなかったのは、孫と言う存在に対する慈悲があったのか。それとも幼い子どもを殺す覚悟がなかっただけか。

 血塗れになって、貧民街へと戻る幼子。あばら家の扉を開けて、瞳に映るは母の浮かべる壊れた笑顔。出生の秘密を知った後では、受けた暴力よりもその笑顔の方が痛かった。

 

「母が、私を愛していた。その事実を、痛みの中で知りました。あの時は血塗れの身体よりも、母へ向けた己の情こそが心に痛く感じたものです」

 

 何時もの様に父の話を聞いた後、母に抱き締められて眠りに落ちる。その温もりに、少年は決意を強くした。

 必ず助ける。母の実家が駄目だとしても、父に頼れば如何にかなるかもしれない。諦める理由なんてなかった。

 

「日に日に窶れていく母を救う為、私は町中を駆け回りました。王宮に出入り出来る商人や技術者に頭を下げて同行を希望したり、王宮に繋がる隠し通路を探し出しては入り込んだり」

 

 原作知識を頼りに、サンクト=ペテルブルグを駆け摺り回った。以前と同じように、以前よりも必死になって。

 

 エドガーと言う時計職人が居る事を覚えていた。王宮御用達の彼に着いて歩けば、皇帝への御目通りも叶うかも知れない。

 そう考えて探してみれば、彼はまだ見習いを卒業したばかり。王宮になど入れないと、困った顔で諭されて終わりだ。

 

 街の地下には、王宮から続く避難経路があると知っていた。だから何度も何度も其処に挑んで、知識を頼りに駆け回る。

 ゾンビ犬に襲われ逃げ惑いながらも、如何にかロケットを手に入れた。これで霊障で塞がれた道も開くと喜べば、棺に返しても反応すらしなかった。

 

 血塗れの子どもは怒りに任せて、一度は怨霊に返したロケットを奪い取る。ふざけるなと何度も叫びながら、地下通路を後にした。

 

「父に逢えれば、救ってくれるのではないかと期待しました。ロシアでも名高い大司教ならば、母を癒してくれるのではと妄想しました。けれど返って来たのは、何時も痛みばかりでした」

 

 ニコライに逢う為に、時には真正面からエルミタージュ宮殿に乗り込もうとした。その際には兵士に捕まって、話を鼻で嗤われた。

 ラスプーチンに逢う為に、周囲の教会へと何度も足を運んだ。けれどその度に大司教はお忙しいのだと諭されて、何も得られず追い返される。

 

 一度や二度では諦めなかった。何度も何度も食い付いた。最初は大人の対応をしていた者達も、果てには乱暴になっていく。

 兵士達には殴られ蹴られ、神父や修道女には汚い物を見る目で侮蔑される日々。気が付けば何時も血塗れで、壊れた母の笑顔を見ていた。

 

「結局、私には何も出来なかった。傷だらけになって家に戻れば、目に映るのは己よりも壊れていく母の姿」

 

 そんな日々が、二年と続いた。もう母は長くないと、ニコルにも分かった。何故なら彼女には、立ち上がる力すらも残ってなかったから。

 間に合わないと理解した。この後でどんな奇跡が起ころうとも、此処まで進行した病は止められないと分かってしまった。ニコルには、何も出来なかったのだ。

 

「あの日のように、泣きました。何も出来なくてごめんなさいと、あの悪夢を見た日のように」

 

 ごめんなさいと涙を流した。貴女を救えなくてごめんなさいと。愛してくれたのに、苦しい想いばかりさせてごめんなさいと。

 見っともなく泣きながら、気付けば知る限りの全てを話していた。聞かれても分からない事実を良い事に、原作の知識を口にした。

 

 自分は知っている。死者の蘇生方法を。何時か必ずエミグレの秘術を成功させて、また貴女に逢えるようにする。その時こそ、きっと幸せにしてみせると。

 だから今は、助けられなくてごめんなさい。一度は死なせるしかなくて、本当にごめんなさいと。泣き叫びながらニコルは、母に全てを明かしていた。

 

「そんな時です。あの日のように、気付けば母が私を抱き締めていました」

 

 それは少年の生涯で、二度目に起きた奇跡。優しく子を抱き締める母に、ニコルの声は届いていた。彼女は確かに、ニコルの言葉を理解していたのだ。

 

「母は笑って、言いました。『私の事は気にせずに、貴方は幸せになりなさい。それが私の幸せなのよ』と」

 

 その上で、彼の言葉を否定した。死後の蘇生を望まなかった。悲しいけれど、これで良いのだと。苦しいけれど、これで良いと。

 未練となるのは、貴方の事だと。己の事など忘れて良いから、どうか幸せになって欲しいと。涙を流すニコルは確かに、母に愛されていたのである。

 

「この写真を撮ったのは、その少し後の事です。母を救う方法を求めていた際に知り合った、エドガーと言う時計職人にカメラを借りて」

 

 悲しげな顔でニコルの話を聞くクーデルカに、ニコルは微笑みながら首から下げたロケットを開いて見せる。

 映り込んでいたのは、狂人とは思えない程に柔らかな笑みを浮かべた女性。ベッドに起き上がった女が、子を抱き締めている姿。

 

「何時もは寝ているか、妄言ばかり口にしている。そんな母が、笑って映ってくれた。もしかしたらこれが最期の贈り物になると、母には分かっていたのかもしれませんね」

 

 開いたロケットを片手で閉じて、大切そうに握り締める。これはたった一つだけニコルに遺された、母の形見であったから。

 

「その日、貧民街も湧いていました。街に唯一つだけあるラジオから、大音量で聞こえる情報。父とアレクサンドラ皇后の婚姻が報道されたその晩に――――母は息を引き取りました」

 

 1894年11月26日、父親が別の女と結婚したその日。晴れ渡る青空の下でニコルは、母を永遠に失った。

 先帝の死から一月と経っていない時期の慶事に世間が湧く中、ニコルは一人で母の死体を抱き締め涙した。

 

「私は冷たくなった母を背負って、祖父の下に赴きました。どうか母を、墓に埋めて欲しいと」

 

 涙を流し終えた後、ニコルは既に決めていた。これより先に、為すべき事を。

 母を連れて行く事はもう出来ない。だから眠らせる為にもせめてと、母の生家に頭を下げた。

 

「葬儀への参列は許さない。墓参りも一度だけ、それ以降は許可しない。その条件を受け容れて、母は眠りに付きました」

 

 殴られ蹴られたその後で、母の墓石は建てられた。必死になって頭を下げた事で、墓参りも一度だけだが許された。

 どの道、一度しか顔を見せられないとは分かっていた。だからその条件を飲み干して、ニコルは母へと別れを告げた。

 

「その後は、正教会の大司教に拾われて、修道騎士として育てられて、今に至ると言う訳です」

 

 そうして別れを告げた後に、彼は出会ったのだ。そう遠くない内に現れるだろうと予想していた、グレゴリオ・ラスプーチンと言う名の悪魔に。

 

「……ニコル。貴方は、憎くはなかったの?」

 

「そうですね、憎かったのだとは思います。けれど今は、正直に言ってどうでも良い。尤も、私も聖人君主ではありませんから。侮蔑や軽蔑は今もしていますがね」

 

 語り終えたニコルに対し、問い掛けるクーデルカ。何を憎んでいるのかと、主語の欠けた言葉に少年は平然と頷いた。

 憎しみはあった。己自身も含めた全てに、強い憎悪を抱いていた。だが、それで何になると言うのか。

 

 全く以って、労力の無駄であろう。そんな時間の浪費を行うくらいであれば、母の願いを叶える為に思考を進めるべきなのだ。だから今のニコルには、憎しみなんて残っていない。

 

「憎んだ所で、母が戻る訳でもない。過去に帰れる訳ではないのです。……戻れたとしても、戻る気などはありませんが」

 

 好意の反対は無関心とは良く言った物で、ニコルは世の殆どを好いていないのだ。嫌う価値も憎む価値もないと見下しているから、どうでも良いと割り切れてしまう。

 或いは嘗てのクーデルカやシャルロッテよりも、今のニコルは周囲の者らに諦観と絶望を抱いているのかもしれない。或いは単純に、そんな感情を向ける余裕がないだけかもしれない。

 

「母は幸せになって欲しいと願ってくれました。だから私は、幸せにならなくてはいけない」

 

 事実は一つ。母の未練は、ニコルが幸せに成れると言う確信を得られなかった事。最期に正気だった時、確かに直接望まれたのだ。

 ならばニコルは、幸福に成らねばならない。誰よりも幸せにならなくては、母の未練が果たせない。それこそが、少年が今を生きる理由。

 

「ですが困った事に、私は如何にも頭が固いようでして。母の未練を果たすより前に、為さねばならない事があるのです」

 

「為さねばならない、事? それは、どんな……」

 

「何、大した事ではありません。本当に、大した事ではないのです」

 

 母を愛していたから、母の未練を果たさねばならない。そう誓う少年が、それでも未練よりも優先してしまう事。

 一体それは何だと言うのか。問い掛けるクーデルカに、ニコルは苦笑しながら語る。客観的にも主観的にも、それは大した事ではなかった。

 

「私は唯、父に問いたい」

 

 知りたい事が、一つある。聞きたい事が、一つある。それを問わねば、己の幸せなど探しようがなかった。

 

「母はその最期まで、父の事を愛していました」

 

 何故ならば、ニコルの母はその最期まで父を愛していた。冷たくなっていく母が、最期に口にしたのは父の名前であったから。

 

「父には母と婚姻出来ない、どうしようもない理由がありました」

 

 父親は、結局迎えに来なかった。助けにすらも来なかった。それでも仕方がないと言えるだけの、理由は確かに存在していた。

 

「だから、仕方がない事だとは思います。ですが、それでも問わずには進めないのです」

 

 仕方がない事だった。どうしようもない事だった。理屈では分かるが、感情は納得してくれない。

 どうしてと、叫びたくもなる。そんな価値があったのかと、怒りたくもなる。だから、それを問わねば何処にも行けない。

 

「貴方は母を愛していたのですか、と」

 

 その最期まで父を愛した母を、他の女と一緒になった父は果たして本当に愛していたのだろうか。

 己の母は唯の道化であったのか。己の愛に殉じた悲劇の女性であったのか。知りたいのだ。知らねばならない。

 

「それを聞いて、どうするの?」

 

「……さて、どうしたいのか。私にも、分かりません」

 

 クーデルカの問い掛けに、返せる答えも今はない。知った後で為す事など、知らねば思い浮かべる事も出来やしないから。

 

「愛してなどいなかった。そう言われたら、刃を向けないで居られる自信はない。けれど愛していたと言われても、そう簡単には信じられない」

 

 父が母を愛していなかったのならば、その瞬間に父はニコルの怨敵となる。帝政ロシアを崩壊させて、その玉座を奪う事こそ彼の幸福になるだろう。

 だが父が母を愛していたのだとしても、その事実をニコルは受け容れる事が出来ないだろう。ならば何故、と。何故助けてくれなかったのだと叫んでしまう。

 

「けれど、だからこそ、死んで貰っては困るのですよ。父には私が問い質すその日まで、玉座に君臨して貰わねばなりません」

 

 ニコルが問い質すその日まで、父にはロシア皇帝で居て貰わねばならない。母を捨ててまで得た椅子を、失う事など許しはしない。

 そうとも、ニコルが問い質すのに相応しいのは、エルミタージュ宮殿にある玉座の間。その前でこそ、真実を明らかとするべきなのだ。

 

(故に、ラスプーチンは邪魔なのだ。私とあの男は、決して相容れる事はない。奴がロシアを、狙う限りは)

 

 其処まで至る為には、無数の障害が存在している。一つがロシア皇帝であるニコライの持つ地位ならば、もう一つがニコルの師であるラスプーチン。

 グレゴリオ・ラスプーチンとの戦いは避けられない。あの男こそ、ニコルの人生における最大の脅威。彼を倒す為にこそ、ニコルは膝をついてその教えを乞うているのだから。

 

「何時か私は、玉座の前で問い掛けます。私の父である、ニコライ2世と言う男に。……そうして初めて、私は私自身の道を歩き出せる。そんな気がするのです」

 

「不器用なのね、ニコルは」

 

「そう、ですね。器用には、生きられないんでしょう。私も、そして貴方も」

 

 語る少年の頬を、女が優しく片手で撫でる。不器用だと言う自覚はあった。もう少し器用であったのならば、もっと楽に生きられる筈であろうに。

 

 それでも、この道を変える心算はない。己で決めた道を進まねば、己で決める幸福なんて得られはしない。

 ニコルはそう思うから――――優しく少年を抱くクーデルカの身体を、抱き返す事はまだ出来ない。

 

 

 

 

 




・ニコルはシャドハ2の時点で27歳なので、誕生は逆算すると1888年前後。
・史実では1890年から約一年間、ニコライ2世は()()()()()で世界旅行に出かけている。
・更に史実では1892年から2年間、ニコライ2世には()()()()()でマチルダと言うバレリーナと愛人関係にあった。

擦り合わせると色々と妄想が捗ります。



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第27話 ネメトンの悪夢

エレインは盛った。


 爆発と共に轟音が響いて、巨大な扉が砕け散る。一体どれだけの量を生成したのか。銃弾を火打石代わりに着火された爆発は、一瞬とは言え大気が震える程だった。

 

 扉だけではなく、壁の一面にまで巨大な穴が開いた大聖堂。その亀裂から中に入って直ぐ目についたのは、大地の底から天へと伸び上がり天蓋すらも貫いている巨大な樹木。

 大樹から伸びる無数の蔓が、広い聖堂の中を隈なく浸食している。剥き出しとなった心臓の如く、伸びた蔓は怪しい脈動を繰り返していた。

 

 そんな薄気味悪い光景の中を進んで行く。蔓に触れないように進んで行けば、行き着いた場所には棺が一つ。引き摺り跡に気付いたニコルは、懐から香炉を取り出す。

 仕掛けを探している時間も惜しいと、為すのはシャインオイルによる肉体強化。エドワードとジェームズも手伝って、三人による力押しで棺は強引に退けられた。

 

 そうして、開いたのは地下への入り口。薄暗い階段を下りた先に広がっていたのは、儀式の祭壇として用いられたのであろう巨大な大釜。そしてその傍らに、眠るように倒れた一つの遺体。

 

「パトリック……」

 

 眼鏡を掛けた遺体は、常識では考え難い程に干乾びている。恐らくは絡み付く蔓に、命を吸われてしまったのだろう。

 愛した女を取り戻したいと願い、結果として怪物を生み出してしまった男。最期にはその怪物に喰われた彼の姿に、ジェームズは哀れみを抱いて十字を切った。

 

「では少し、儀礼場を見てみます。……尤も、これ以上の発見は余りないでしょうが」

 

「ならば私は、その後の準備をするとしよう」

 

 脈打つ蔓が絡み付いた巨大な空洞。大釜と呼ぶにも異質な穴の淵に手で触れ、如何なる魔術が使われたのかを調べ始めるニコル。

 彼が調査をしている間、手隙となる事が分かっていたジェームズ。彼は予め用意していた金属製の箱を、大きな背負い鞄より取り出した。

 

 銀に輝く箱の数は計三つ。内の二つを地に置いて、残る一つを両手に持つ。不思議そうに覗き込むクーデルカとエドワードに説明する事もなく、ジェームズは手にした缶の中身を周囲にばら撒く。辺りを濡らす液体は、独特の臭いを放っていた。

 

「この臭い、灯油? まさか」

 

「手伝えとは言わんよ。これは私の問題だからな」

 

 生命の木を停止させた後に火を求める。実験室からジェームズが態々持ち込んでいたのは、全てを燃やす為に用いる油であった。

 火か水かと言われて、思い付いたのがこれである。海沿いの土地とは言え、此処に水を持ち込むのは難しい。となれば、火を付けた方が簡単だ。

 

「いいや、手を貸すぜ。他にもあるみたいだしよ」

 

 一人でやると語るジェームズに、エドワードが助力を申し出る。どうせ見ているだけで暇なのだからと、内の一つに手を伸ばす。

 

 片手で持とうとした男は、ずしりとした重さに眉を顰める。一斗缶より遥かに少ない英ガロン缶とは言え、一つ辺りの容量は5リットル。

 ジェームズはよく、こんな物を三つも持ち歩いていた物だ。そう素直に感心するエドワードの横で、同じようにクーデルカも缶の一つを手にしていた。

 

「丁度、三つね。もしかしてアンタ、最初からそういう心算だったの?」

 

「さてね。一人でやる心算ではあったが、予想していなかったと言えば嘘にもなるよ。……君達はどうも、口は悪いが人は良い」

 

 両手に銀の缶を抱えながら、皮肉気に笑って問い掛けるクーデルカ。対するジェームズは何処か楽しげに笑って、油を撒くと言う作業を続けている。

 全く素直ではないなと、肩を竦めたのは誰であったか。三つの缶が空となる頃には揃って、油臭い中では休み辛いと笑い合うのであった。

 

「……成程」

 

「お、何か分かったのか?」

 

「ええ。やはりこれが、ダグサの大釜と生命の木で間違いないようです」

 

 油の臭いに耐える時間は、それ程に長引く訳ではなかった。撒き終えてから数分もする頃には、解析を終えた少年が戻って来る。

 

「気を付けてください。儀式を行えば、恐らく直ぐにでも襲い掛かって来ますよ」

 

「そいつはおっかない話だな。こんな馬鹿でかいのとやり合うのかよ」

 

 樹木を見上げて語るニコルに、エドワードは困ったように肩を竦める。家屋よりも巨大な樹木など、相手にするのは大変だと。

 そんな男のぼやき文句を、ジェームズが即座に否定する。何の為に油を巻いたのか。ロジャー・ベーコンは、この現場を既に予想していたのだ。

 

「いや、恐らくはその為の火か水なのだろう。流石は伝説とまで謳われた魔術博士と言うべきか」

 

「そうですね。こと叡智と言う点において、あの老人を超える者などそうはいない。私では足元にも及びませんよ」

 

 生命の木を狂わせている間に、一気に焼いてしまえと言う事だ。そんな対抗策を伝聞だけで導き出すのだ。流石は伝説の存在と言えよう。

 ニコルも魔術と言う分野では、比較にならない程の大差があると理解している。ロジャーに分からない事を、少年が見付け出せる筈もない。

 

「それともう一つ、この先はどうも時間との勝負になりそうです」

 

 とは言えそれは、解析に使った時間が無駄になると言う訳ではない。本当にそうなのか、と言う確認。得た成果は、それだけではなかった。

 この現場を見なければ、分からなかったであろう。生命の木を狂わせて、炎で焼くだけではまだ足りない。

 

「時間回帰の力が、まだ生きています。分かりやすく言えば、術式の核を砕かない限り、生命の木は時間経過で何度でも復元するのです」

 

 エミグレの本質は、時間の操作にある。死者を蘇らせる術とは、死者が生きていた頃に回帰しその魂を呼び寄せる術であるが故。

 儀式を完全に破壊しない限り、生命の木はまた蘇る。無論、復元までには時間が掛かるが、悠長にしていれば間に合うまい。

 

「……術式の核と、復元に掛かる時間はどれ程かね?」

 

「予想ですが儀式を行ってから、効果は凡そ二時間程度。明け方までは、持たないでしょう。それまでに術式の核である、エレインの肉体を滅ぼせなければ私達の敗北です」

 

 約二時間。それに長いと安堵するべきか、或いは短いと嘆くべきなのか。どちらにせよ、夜明けまでには勝負が決まる。

 ニコル達が勝るにせよ、敗れるにせよ。この戦いは、朝日が昇る前に終わるであろう。その事実を聞かされて、しかし今更に尻込む者など此処にはいない。

 

「なら、決まりね。この後の手順は」

 

「ああ、釜にミイラを投げ込んで生命の木を止める。それで大聖堂に火を掛けたら、巻き込まれる前に外に出て外壁をダッシュ」

 

「階段を駆け上って鐘塔の上へ。恐らくは今も其処に居るであろう、エレインの身体を討ち滅ぼす。……この悪夢を、終わらせるのだ」

 

 揃って視線を合わせると、強く頷き意志を一つとする。そうしてジェームズは、鞄の中から布に包まれた聖者の遺骸を取り出した。

 これ以降、大きなバックパックは邪魔となる。修道院で見付けた友人の鞄を油の海に投げ捨てて、ジェームズは手にした聖者の腕を高く掲げた。

 

「聖ダニエル・スコトゥスよ! 我らに魔を退ける力を与えたまえ!」

 

 聖なる祈りを口にして、両手で叩き付けるように遺骸を穴の中へと落とす。乾いた血肉で満ちていた大釜が、神聖なる光を放った。

 

 そして、大地が揺れる。否、揺れているのは大樹であった。悶え苦しむように脈動する蔓が暴れ出し、幹や枝すらも命を求めて無作為に伸びていく。

 巻き付かれれば最期、直ぐ側に倒れる死体の如く、樹木の養分とされてしまうだろう。故に誰かが走れと語り、誰もが一目散に出口を目指す。

 

「汝、塵より生まれたモノよ! 大人しく塵に還るが良い!」

 

 逃げ出す直前、ジェームズは油の海へとカンテラを投げ込む。これは彼の為すべき事で、誰にも譲れぬ行為であったから。

 壊れたカンテラから零れ落ちた火が、油に引火し延焼する。荒れ狂う樹木さえも瞬く間に飲み込んで、大聖堂は火の海に沈んだ。

 

「大聖堂が、燃える。不謹慎な話だけど、少し綺麗ね」

 

「ええ。ですが残念ながら、見惚れているような時間はありません」

 

「そうね。急ぎましょう」

 

 如何にか大聖堂を抜け出た一行。さりとてまだ、感慨に耽る時間などはない。聖堂の直ぐ側にある鐘楼に、儀式の核は存在している。

 外壁にある階段を、休みもせずに駆け上がって行く。ニコルを先頭に、クーデルカ、エドワード、ジェームズと。彼らは一息に、鐘塔の入り口に到着した。

 

 中に入って直ぐ、目に付いたのは巨大な花。蓮蕾を思わせる桃色の花弁は、まるでニコル達の到着を待ち詫びていたかの如くに開き始める。

 一枚二枚と開いた花弁の中央に、座しているのは裸の美女。エレインと嘗て呼ばれた肉体は、目を見開くと同時に開いた口から毒々しい色の吐息を放った。

 

「ちっ! 行き成りですか!!」

 

 濃緑色をした息は、どう見ても安全な物ではない。先陣を切っていたニコルは、即座に魔術で防壁を展開して受け止める。

 輝く白き光の壁で防がれる吐息。溢れる臭気と染み込む水気に顔を顰めるニコルだが、数秒後には違う理由で表情を歪める羽目となった。

 

「毒の息――ではない!? これは、エミグレの時間操作! 不味い、この程度の防壁では持たない!!」

 

 周囲の床や壁が、急速に風化していく。ニコルが展開した魔術防壁が、急速に霧散する。この息は、時計の針を進めているのだ。

 

 僅かにでも掠れば終わり。瞬く間に衰え老化し、白骨化してしまうだろう。これは受けてはならない物だ。防ぐのではなく、躱さねばならなかった。

 そう理解するも、もう遅い。初手から詰ませに来るのかと、戦慄するニコル。焦る少年の肩を、クーデルカが軽く叩いて口にした。

 

「大丈夫。任せて、ニコル」

 

 自信ありげに口を開いて、開いた右手で力を展開する。広がるのは、ニコルのそれよりも巨大な白き光の盾。その力は老化の吐息を、完全に防いでみせた。

 

「……流石。頼りになりますね」

 

「でしょ。単純な霊力での力比べなら、今の私は、誰にも負ける気がしないわ」

 

 如何なる性質の力であれ、異能の類であれば大元となる力は同じ。ならば多少の不利など、出力差で押し潰せる。

 後の世において、闇の鍵と呼ばれる事になる女だ。生まれついての霊能は、単純な出力に限って言えば大魔術師すらも超えている。

 

 故に本来ならば時計の針を進められ、展開したと同時に魔力切れで消え去る筈の盾も強引に維持し続ける事が出来る。

 世界中でも、並ぶ者は五人と居まい。そんな女であるからこそ、常軌を逸した力にすらも抗う事が出来るのだった。

 

「では、守りは貴女に任せます。エドワード、ジェームズ、彼女の傍から離れないように! 援護は頼みましたよ!」

 

 とは言え、其処が女の限界だろう。瞬発的な力は世界最高でも、それを扱うだけの技能と経験が足りていない。

 そして瞬間的には拮抗出来ても、持久戦となれば耐えられまい。それ程に大量の力を、エレインは溜め込んでいる。

 

 故に攻勢に出ねばならない。クーデルカが盾に徹している間に、仕掛けるのはニコルや男達の役目であろう。

 吹き付けて来る息は、掠れば死ぬと言う脅威。死の吐息が溢れる中に、ニコルは躊躇いなく足を踏み出し駆け出した。

 

「時間の加速。触れた者を急速に老化させる吐息は、確かに厄介ではあります」

 

 クーデルカへと吐き掛けていた息を止め、迫る少年の姿を目で追うエレイン。そして口を開いて、滅びの風を吹き付ける。

 人の吐息ですら、時速にすれば10~20キロメートル。怪物の肺活量で放たれる死の風は、車が走る速度よりも遥かに早いもの。

 

 目で見て、躱せる速度じゃない。人の足で必死に走って、それでも逃げられるような速さじゃない。だが、そんな速度が当たらない。

 

「ですが、当たらなければどうという事はない!」

 

 息を吸い込み、吐くと言う予兆がある。目で見て、顔を向けると言う動作がある。ならば予測は実に容易く、予想出来れば躱す事もまた容易い。

 大地を蹴り上げ、壁を足場に、全て躱してエレインの下へと。辿り着いたニコルは剣を引き抜く。抜刀と共に放った斬撃は、女の腕を切り裂いた。

 

 腕を切り裂かれた女は、息を吐き付けながら背後に跳ぶ。切断された片腕は、秒と要らずに復元している。

 再生した四肢を使って、天井に着地したエレイン。その四肢を繋ぐ関節は逆方向に回転していて、なまじ人型であるが故に悍ましい。

 

 そんな異形が見詰める先には、当然の如くに吐息を躱して地に着地していたニコルの姿。片手を地に付けた体勢で、少年は動く時を待つ。

 対するエレインは天井を、四つん這いになって移動する。まるで昆虫のような動作で、呻きながらに迫る裸体の女。そんな異様を相手取る少年に、怯える素振りは欠片もない。

 

「所詮、今の貴女は獣ですよ」

 

 四つ足で加速して、頭上から落ちて来るエレイン。その襲撃を僅か後退する事で躱したニコルに、地に落ちたエレインは再び息を吐き付ける。

 攻撃を躱した直後ならば当たる筈だと、そんな思考を獣の浅知恵だと少年は嗤う。そう来るとは分かっていたのだから、既にもう動き終えていた。

 

「如何に優れた性能を持とうと、中身がそれでは届きはしません!」

 

 後退して直後、更に右へと跳んでいた。そんな少年は身体の直ぐ側を通り抜けていった死の吐息に、口元を歪めて大地を強く蹴り付ける。

 距離は至近。女が慌てて顔を動かすよりも、少年が辿り着く方が早い。擦れ違い様に振るわれた剣は、息を吐き続けるエレインの首を刎ねていた。

 

 無差別な方向に死を撒き散らしながら、飛んで転がる女の首。それから目を離さずに少年は、残った女の身体を全力で蹴り飛ばす。

 一回転して回し蹴り。10歳児とは言え、その体重は30キロはある。その全てを乗せ切った蹴撃ならば、成人女性と同程度の重量では受け切れまい。

 

 転がる首と、吹き飛び壁に激突した身体。人間ならば確実に死んでいるだろう状況で、しかしニコルは全く油断しない。

 こんな程度である筈がない。その少年の判断に間違いはなく、エレインは再び動き出す。首がないまま、胴体だけで。

 

 異形が大地を駆ける速度は、信じられない程に速い。瞬きする間にも頭部を回収していて、傷口を合わせれば直ぐに繋がる。

 だが向きを間違えたのか、身体の向きとは180度逆を向いている頭部。キリキリと音を立てて、首を物理的に回転させながら元の位置へと。

 

 女が再生する姿を、静かに観察するニコル。手を出さなかったのは余裕ではなく、手を出す隙がなかったから。

 エレインの動きは速いのだ。首を拾う際の動きすら、予め動作を予測していなければ認識さえも出来ない程。その初速は、人型で出せるような域にはない。

 

(剣や鞭の間合いには、遠い……ですが、魔法を使うのも現状には不適)

 

 ニコルとてトップアスリート並の速さで動けるが、それでも結局は人間の範疇。速さ比べとなってしまえば、勝てる道理は何処にもない。

 常に相手の動きを予測し、機先を制し続けなければ戦いにすらならないのだ。そんな状況で白魔法などを下手に使えば、光で自分の視界を塞いでしまう。

 

(ですが、その程度は端から分かっていた事。ならば――)

 

 故に基本は守勢に徹するしかない。相手の隙を誘発し、その瞬間を逃さずに責め立てる。そうする事で初めて、人は怪物と戦えるのだ。

 

(底を暴き、順当に詰めていく。為すべき事は、平素と何も変わりません)

 

 そして再び、両者は動く。圧倒的な速度で、縦横無尽に動き回るエレイン。その動きを読み切って、的確に躱し続けるニコル。直撃は死を意味する状況で、少年は平然と接近戦を行い続ける。

 

「ちっ、揃って気持ち悪い動き方しやがって。狙おうにも当たらねぇ」

 

「ニコルの事まで悪く言わないで! あんな速度に付いて行けるのは、あたしも正直どうかって思うけど!」

 

 ニコルとエレインが激戦を繰り広げる中で、残る者が何をしているのかと言えば彼らなりに戦おうとはしていた。

 だが余りにニコル達の距離が近過ぎて、誤射の危険を思えば援護も出来ない。さりとて距離が離れた瞬間に撃とうとしても、エレインの動きが早過ぎて目で追えない。

 

 エドワードの銃ですら、エレインは軽々と躱してしまうのだ。それより遅いジェームズの魔法など、足を止めない限りは掠りもしない。

 そして何時また死の吐息が来るか分からない以上、クーデルカは備え続けなくてはならない為に手を塞がれる。エドワード達も、クーデルカから余り離れられない。

 

「流石に此処では、場所が悪い。壁や天井まで足場にされては、援護するのも難しいぞ」

 

 更に厄介なのは、エレインの見せる重力を無視した動きにある。どんな場所でも足場にしてしまう彼女の行動は、速度と相まって極めて読み辛かった。

 唯の一度も読み違えずに、対応し続けるニコルに脱帽する。同じ事をしろと言われても、クーデルカにもエドワードにもジェームズにも出来る気などしなかった。

 

「ニコル。一旦引きましょう! 上に誘導するの! 出来る!?」

 

 高速戦闘を続けるニコルに、クーデルカが声を掛ける。その思考は単純だ。壁や天井が相手に利すだけならば、ない方が良いだろうと。

 

 エレインには、飛行能力があるようには見えない。ならば移動する空間を減らせば、エドワード達の援護もまぐれで当たるかもしれない。

 少なくとも、ニコル以外の皆が何も出来ていない現状よりはマシな筈だ。そう語るクーデルカの言葉に、ニコルも戦いの中で思考を進める。

 

(塔の最上階への誘導ですか。確かに壁の面積が狭まるだけでも、多少は楽にもなりますかね)

 

 壁や天井を足場に、自在な動きを見せるエレイン。それを厄介だと思っていたのは、後方の三人だけではない。

 寧ろニコルこそが最も、その厄介さを体感していた事であろう。一手でも間違えれば死ぬと言う状況は、心を大きく削っていく物だ。

 

「分かりました。そちらに合流するので、先導を頼みます!」

 

 故に襲撃を躱したニコルは、逆撃ではなく退避を選ぶ。距離が開いた事で死の吐息が向かって来るが、当たる前にクーデルカ達の下へと。

 展開された光の盾が、死風を完全に防ぎ切る。そのまま盾を構えるクーデルカを最後方に、ニコル達は鐘塔内の螺旋階段を駆け上り始めた。

 

 死風も吐息である以上、一方向にしか放てない。距離を離して位置を変えれば、壁や障害物に阻まれる。

 それさえ老朽化させて貫通させる事も出来る筈なのだが、エレインの思考は獣染みて単純だ。故に獲物が逃げたのならば、彼女は反射的に追い掛けるのだ。

 

 吐息を吐くのを止めて、壁に着地し折れ曲がった手足で移動する。駆けるエレインの速度は、人の足など超えている。このままでは、直ぐにも追い付かれるだろう。

 

「エドワード! ジェームズ! 私が先制して動きを止めます! 貴方達は合図に合わせて、攻撃を行って下さい!」

 

 故に足止めが必要となるのだと、ニコルは駆けながらに指示を出す。ほぼ同時に放たれた白魔法が、対面の壁を走るエレインの動きを予測し機先を制する。

 進行方向に着弾した白魔法を見て、動きを一瞬止めるエレイン。直前に出された合図と共に放たれた銃弾と魔法が、硬直した怪物の身体を襲った。

 

「ひゅぅ、凄いな! さっきと違って、面白いように当たるぜ! このまま繰り返せば、これだけで勝てるんじゃないか!」

 

 階段を上りながらに、同じ事を繰り返す。全弾が命中し続ける状況に、これなら勝てるんじゃないかと口笛を鳴らすエドワード。

 

「残念ですが、持久戦では無理でしょうね。時間加速の吐息を防げるのはクーデルカだけなのですから、撃ち合うだけでは勝ち目がありません」

 

 そんな彼にニコルが苦言を返すとほぼ同時に、エレインから死の吐息が返礼と飛んでくる。咄嗟にクーデルカが盾で防ぐが、彼女の息は既に荒い。

 

「そうね。出来ると胸を張りたい所だけど、アレとの持久戦は勘弁して欲しいわ」

 

「無理もあるまい。一体どれ程の命を喰らい、溜め込んだと言うのか。途方もない霊力を感じる怪物だよ!」

 

 瞬間的な出力では勝ろうと、持久力では相手にもならない程の大差がある。距離を開いて撃ち合えば、必ず負けるのはニコル達だ。

 故に足を止める訳にはいかない。機先を制して攻撃し、返る吐息は防ぎ切り、戦闘を成立させていられる内に、少しでも有利な場を目指す。

 

「ちっ、そろそろ弾数がやばいぜ。こんなに当ててるのに、動きが鈍る気配もない!」

 

「不死身とでも、言うのか。まさかもう、生命の木が復元してしまったのでは……」

 

「まだ月は出ているわ! 夜明けまでは時間がある! グチグチ言う前に続けなさいよ!」

 

 何度攻撃を当てても、何度地面に落としても、怯むだけで倒れないエレイン。何時までも追い掛けて来る怪物に、心の余裕が削られていく。

 軽く言い合う事で不安を誤魔化しながら、天蓋の上を目指して走り続ける。追い付かれそうになる度に、振り返ってはエレインを迎撃しながら。

 

「着いた、鐘楼だ! 短い筈の距離が、こんなにも長く感じるとはっ!」

 

「これでまだ、終わりじゃないんだぜ。そろそろ情熱的な女には、絡まれる男の気持ちを分かって貰いたいものだがね!」

 

「絡まれて、うんざりしてるのは男だけでもないわ! しつこい相手が苦手だってのは、男女の共通認識よ!」

 

 そうして転がり込むように、鐘塔の最上階へと到達する。瞬間、前方の床が音を立てて崩れていった。

 轟音と共に開いた穴から、這い出して来るのは女の怪物。壺から出て来る軟体生物のような動きで、彼女は彼らの前に現れる。

 

「では、また遊撃に戻ります! これだけ向こうの足場が減ったのですから、今度は当てて下さいよ!」

 

「は、相変わらず、生意気言いやがる!」

 

「だが事実だ! 此処で当てねば、馬鹿にされても仕方がないぞ!」

 

 エレインが穴から抜け出す最中に、それだけ告げて駆け出すニコル。彼へと向けて、死の息吹が放たれる。

 けれど既に慣れた物。ニコルは容易く躱して、息吹は後方の彼らの下に。クーデルカが光の盾で、それを防いだ。

 

 この狭い空間では、流れ弾こそ最も恐ろしい。そう考えたクーデルカは、展開した盾を維持し続ける。

 何時、何処から攻撃が来ても必ず防げるように。それこそが己の役目で、それさえ果たせば仲間が決めてくれると彼女は信じた。

 託された仲間達の攻撃は、先とは違い当たるように成ってはいる。凡そ10回に一度と言う僅かに過ぎる命中率だが、援護としては期待以上だ。

 

(さて、このまま行ければ良いのですがね)

 

 最前線で囮を続けるニコルの役目は、回避を主体とした盾の役割。同時に援護射撃が命中して隙が生まれれば、その瞬間に火力担当へと切り替わる。

 大技を出すには隙が必要だ。己の身体に残る魔力は後どれ程か、敵は後どれ程に耐えるのか。予想しながら、ニコルは札の切り時を待っていた。だが――

 

「弾切れかよ!? くそっ、魔法は得意じゃないんだが!」

 

 状況は悪化する。先ず最初に、エドワードの持つ銃弾が底を尽きた。探索の時間が最低限であった事が、裏目に出たのだ。

 

 これまでエドワードは、魔法を殆ど使っていない。戦闘経験自体が少なければ、彼の魔力では魔法は使えて数度が限界。

 探索がスムーズに進んだから、回収出来た弾丸も少ない。更にはニコルばかりが戦い過ぎて、仲間達が殆ど成長していなかった。詰まりはそういう事である。

 

 ニコルだけでは、勝ち目は薄い。だと言うのに、他の者らが未熟に過ぎた。これまでの付けが此処に来て、一気に牙を剥いたのだ。

 

(これは、不味いか。切り札の温存などと、考えている余裕はない)

 

 最早、使うしかあるまい。今ある手札の中で、最大の火力を叩き出せる技を。当てるしかあるまい。刺し違えると言う、決死の覚悟をした上で。

 その上で、倒し切る事を期待する。一体どれ程の偶然に期待する事になるのか分からぬが、そうしなければ勝てぬのだ。ならば、やるしかないだろう。

 

「私のこの手が光って唸る! 貴方を倒せと、輝き叫ぶっ!」

 

 言葉にしたのは、唯のゲン担ぎ。呪文的な意味などなくて、この技の使い手が語る時には大抵勝利して来たから。

 

 英雄に憧れる子どものように、そう成りたいと願って叫ぶ。中途半端は意味がないから、残る魔力を全て右手に集めて。

 命を此処に、燃やし尽くす覚悟で挑む。大きく息を吸い込んだエレインを見詰めながら、ニコルは大地を蹴り駆けた。

 

「フレイムマイン!」

 

「リミットショット!」

 

 少年の熱に当てられたのか、男達も叫んで放つ。赤と青の魔法は空を飛翔して、力を放とうとしたエレインの身体に当たった。

 これは単なる偶然か。或いは少年が高めた魔力を警戒したエレインが、取るに足らぬと見逃したが故の必然か。兎角、必殺の準備は整った。

 

「お見事です! やれば出来るじゃないですか! ならば――私も此処で決めてみせるっっ!!」

 

 真っ直ぐに駆けて、右手を伸ばす。光輝く指先が、硬直したエレインの頭部を掴む。そしてそのまま引き摺るように、ニコルは強く拳を握った。

 

「必殺! シャァァァァイニングゥッフィンガァァァァァァァァァァッッ!!」

 

 超高熱の一撃が、女の頭部を消し飛ばす。そして、それだけでは終わらせない。身体が其処に残る限り、再生されるのは目に見えていた。故に――大気を操作し剣と化す。

 

「ソォォォォォォォォォドォォォォォォォォッッッ!!」

 

 振り上げた刃は鐘塔の天蓋を焼き切って、砕け散る瓦礫は雨の如く。振り下ろした光の剣は、確かにエレインの身体を両断した。

 

 

 

 巻き上がる炎に飲み込まれて、一瞬で焼失して灰となる怪物。解き放った熱気を霧散させながら、ニコルは冷たい目で残心を取る。

 勝利したと言う確信は、まだない。黒焦げになった残骸。だが灰と化しているとは言え、形が残っていると言う事自体が異常である。故にまだ、勝利したと言う確信はなかったのだ。

 

「……動かない。やった、のか?」

 

 エドワードが、震える声で呟く。瞬間、ニコルの思考は切り替わる。残心と言う形から、次に備えると言う行動へと。

 そう言う言葉を口にした時点で、大抵倒せていない。お約束と言うのは、馬鹿に出来ない物だ。何せ怪物と言うのは、精神的な存在だから。

 

 倒せていないかもしれない。そう信じてしまえば、怪物は倒せないのだ。そして今の一言で、ニコルは倒せていないと確信してしまった。

 故に逆説、エレインは生き返る。例え死んでいたとしても、ニコルの心を糧に蘇って来るだろう。そんな理不尽を押し通すのが怪物だから。

 

「マジ、かよ……」

 

 灰の中から、白い肌が現れる。黒焦げになった身体を苗床に、エレインがまた産まれて来る。

 悍ましい産声を上げる女を睨み付けながら、ニコルは懐から取り出したマナリーフを全て纏めて口に含んだ。

 

「不死身だと、言うのか」

 

 口の中に苦みと臭みが広がるが、我慢して咀嚼し飲み干す。それでも回復出来たのは、全力の半分にも満たない魔力。

 先の一撃で魔力は、全て使い果たしてしまった。だから今回復した分が正真正銘、最後に残った力と言う訳だ。これ以上は、逆さに振っても何も出ない。

 

「……嫌になりますが、お約束でもありますね。ボスには大抵、第二形態と言う物がある」

 

 勝てるのだろうか。そんな弱気を抑え付ける。肉体と精神。その双方を同時に滅ぼさなければ、怪物は何度でも蘇ろう。故に、弱気こそが最大の敵である。

 そんな風に強がる少年の目の前で、女の姿が変わっていく。背中からは昆虫の足が生え、首は異様な程に伸び、膨れ上がった頭部は異形へと。

 

「一体それは、何のお約束よ!? 冗談じゃないわ、あんな怪物っ!!」

 

 まるで蟷螂。時には番いすらも喰らって、生き続ける存在。エレインと言う怪物の素性を思えば、これ程に相応しい姿も他にあるまい。

 夫の手により蘇生させられ、魂のない肉体はその夫を喰らい生きていたのだ。正にこの異形と化した姿こそが、エミグレの怪物が持つ真の姿なのだと言えよう。

 

 エミグレの怪物が吠えて、修道院に無数の落雷が落ちる。幾つもの棟が崩れ落ちる中、獲物を見下ろす蟷螂女。ネメトンの悪夢は、まだ終わらない。

 

 

 

 

 




エレイン強化カウンター 100点(カンスト)
・カウンターが10点を超えた為、ムービーシーンでの行動速度が基本速度となりました。
・カウンターが25点を超えた為、制限時間が発生しました。二時間を過ぎると生命の木が再起動します。
・カウンターが50点を超えた為、ムービーシーンでのみ使用していた即死ブレスを常時使用してくるようになりました。
・カウンターが75点を超えた為、エレインの完成度が向上します。全ての性能が大幅に強化されました。
・カウンターが100点に到達したので、エミグレの怪物はエレインの肉体のみならずエレインの精神も保有していると言う事になりました。物理精神両面で完全に消滅させない限り、怪物は無限に再生を繰り返します。


盛られた結果、ヤバい事になったエレイン。物理精神両面で滅ぼしたとしても、欠片でも倒せていないと誰かが考えた瞬間に蘇生し完全回復します。頑張れ。



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第28話 夜明け

みてみて~、これがエレインを盛り過ぎた天狗道の顔!

( ゚д゚)
( ゚д゚ )彡


 巨大な怪物と化したエレイン。背より生えた六足は刃の如くに鋭く、その質量も伴って唯振り回されるだけでも十分脅威だ。

 その上、この怪物は巨体である。もし中央にでも陣取られれば、動かずして端から端まで手が届いてしまうであろう。対する者らは、逃げ場を失ってしまうのだ。

 

 それを怪物も分かっているのか。二本の腕を祈るように組んだまま、六つの足でゆっくりと移動を始める。エレインは、塔の中心部へと向かっていた。

 故にニコルには、先と同じ戦法が行えない。走り回って、道を開けてしまうなど論外。如何にかして道を開けずに、その進行を止めねばならないのだ。

 

(面倒な。学習したとでも、語る気ですかっ)

 

 先程までの高速移動とは、まるで結び付かない鈍重な動作。されどそれを慢心と語るには、対する者らの能力値が致命的な程に足りていない。

 

 ゆっくりと迫る怪物の身体に、白き光の魔法が突き刺さる。同時に後方から飛来するのは、エドワードとジェームズによる援護射撃。

 光と炎と水の魔法。三種の力をその身に受けて、しかし今のエレインに有効打は一つもない。睥睨する怪物の進撃は、その程度では止まらない。

 

 進みながらエレインは、大きく胸が膨らむ程に息を吸う。吐き出したのは、死の吐息。全てを薙ぎ払うように、顔を右から左へと。

 身体が肥大化しただけで、その脅威は既に先程までの比ではない。呼気の量が増大した事で広域ブレスと化した死の息は、天蓋の崩れた塔の全てを射程の内に収めている。

 

「ちぃ――っ! やってくれるっ!」

 

 舌打ちしながらもニコルは、咄嗟に後退してクーデルカの下へ。掠れば即死する広域ブレスだ。女の護りの内に転がり込まねば、無事で済む理由などはない。

 最も離れていた少年が間に合ったのならば、端から傍に居た男達も当然間に合う。故にクーデルカは一歩前に出て、皆が下がると同時に盾を展開した。だが――

 

「く――っ」

 

 死の吐息が止まらない。繰り返し吐き出された息は盾に弾かれて、それでもと重ねられる度に溢れ出した死が隙間へと。

 一面だけを防ぐ盾では、隙が多過ぎる。このまま続けられれば、そう遠くない内に内側へと加速の呪詛が流れ込む。そう確信した女は覚悟を決めて、盾の範囲を更に広げた。

 

 全周を覆うように広がる盾は、最早ドーム状の防壁だ。光輝く壁は確かに死の侵入を防ぎ切るが、その分だけクーデルカにより大きな負担を強いていく。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 荒い息を立てながら、床に片膝を付いてしまう。周囲を隈なくと力を放てば、消耗が段違いとなるのは当然の事。

 更にエレインの力自体も増幅している。何時までも続くかの如く、死の吐息が止まらないのだ。このままでは持たないかもしれないと、女の表情が恐怖に歪むのも当然だろう。

 

 だがクーデルカの懸念は、それですら甘いと断言出来る物。死を撒き散らしながらもエレインは、絶えず移動していたのだ。ならば当然、既に彼らは間合いの内側。

 死の息吹が止まる。同時に振るわれたのは、背に負う巨大な昆虫の足。振るわれる巨脚は、物理的な衝撃を伴う物。魔力防壁では、防ぐ事など出来はしない。

 

「きゃぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 硝子のような音を立てて、光の壁は割れて砕けた。力の反動をその身に受けて、激痛に悲鳴を上げるクーデルカ。女の身体は迫る巨脚が伴う風圧だけで、大きく吹き飛ばされている。

 天蓋の崩れた塔で吹き飛ばされれば、当然至る結果は墜落死。宙に放り出されたクーデルカは、そのまま地面に向かって落下を始める。

 

「クーデルカっ!」

 

 それを許す筈もない少年が、空へと自ら身を投げ出す。ブレスの衝撃を加速代わりに、女を捕まえて抱き締めると今度は逆の方向へと。

 魔法による衝撃を利用した疑似的な飛行で、如何にか塔の上へと滑り込む。自傷を繰り返す破目となったニコルは既に、体力魔力共に大きく消耗していた。

 

 少年が抱き留めるクーデルカも同じく、霊能力を使い過ぎた彼女にはもう敵の攻撃を防ぐ力が残っていない。次にもう一度、死の吐息が振り撒かれればそれで終わりだ。

 それが分かるからこそ、ジェームズは走り回りながら魔法の炎を放ち続ける。牽制にしかならずとも、それさえしなければ終わるのだ。

 

(エドワードは、何処に? いえ、考えている余裕はありませんか)

 

 鐘塔の屋上に見える人影は、少年を含めても三人分だけ。まさか落ちたのではとも考えてしまうが、その末路を確認する暇もない。

 ジェームズ一人の牽制では、エレインは小動もしない。ニコルも其処に加わらなければ、吐息による全滅が目に見えていた。

 

「くっ、このっ!!」

 

 塔の中央に居座る怪物へと、絶えず撃ち込まれ続ける炎弾。ジェームズの猛攻を補佐するように、ニコルは敵が息を吸い込もうとした瞬間にだけ鋭い光を放って射貫く。

 傷付けられないとは言え、猛攻は目晦ましにもなっている。故に攻撃の瞬間を潰し続ける事が出来ているが、それとて何時までも続くような物ではない。

 

(時間切れは、恐らくこちらの方が先。ジェームズは飛ばし過ぎている)

 

 怒りで力を振り絞り、全力攻勢を続けるジェームズ。だが彼の保有する魔力の量は、決して多いとは言えない程度。この調子で攻撃を続ければ、数分で魔力切れとなるだろう。

 

(だがこうでもしなければ、時間を稼ぐ事も出来ない。ならば)

 

 だがそれを愚策とも言えない理由は、彼が猛攻撃を仕掛けているからこそニコルの魔法が的確に当たっていると言う事実。

 もしもジェームズが猛攻をしていなければ、ニコルが代わりに同じ事をせねばならなかったであろう。そしてジェームズにニコルの代わりは務まらないのだから、その時点でもう破綻している。

 

(今の内に、何か逆転の一手を)

 

 故に時間稼ぎと僅かだか魔力の温存が出来ている分、現状はまだ良い方なのだ。最悪は免れているのだから、ジェームズの魔力が残っている内に打開の策をと。

 そう考えるニコルはしかし、まだ甘かったと言えるのだろう。エレインは学習する。一息で消し飛ばせないのならば、打つ手を変える事が出来る程度には。

 

〈…………〉

 

 ぎょろりと怪物の目が動く。周囲を一瞥して確認すると、エミグレの怪物は動き出す。両手を胸元で組んだまま、四本の足を大きく広げて。

 瞳を閉じて行うのは、後足を軸とした回転。前足と中足を広げたまま、グルグルと独楽のように回り始める。

 

 一見すると間の抜けた行動も、速度と質量が伴えば恐るべき脅威だ。それは宛ら、嵐か台風の如く。

 攪乱される轟風に、吹き飛ばされれば命はない。巨脚はその内の一つでも、直撃すれば人体なんて挽肉に変えてしまえるのだから。

 

 狭い鐘塔の最上階で、局所的な嵐が起こる。高速で回転を始めたエレインの足は、直撃せずとも人を吹き飛ばすだけの暴風を生み出す。ならば回転する怪物が生み出すのは、文字通りの竜巻だ。

 直撃すれば挽肉へと変えられて、そうでなくとも吹き飛ばされれば墜落死が見えてくる。怪物は唯、回り続けるだけで敵対者の悉くを滅ぼせるのだ。

 

 小規模な嵐に巻き込まれ、逃げ場がなければ何も出来ない。ジェームズは災害から逃れる避難民の如く、柱の残骸を両手で掴んで地に伏している。今も死んでいないのは、単なる幸運でしかない。

 ならばニコルとクーデルカはどうかと言うと、彼らこそが最も被害を受けている。体重の軽い二人では、建物の一部を掴もうが吹き飛ばされてしまうのだ。

 

「クーデルカ!」

 

「っ! ニコル!」

 

 離されそうになる中で、互いの身体を掴んで名を呼び合う。視界も真面に役を果たさぬ中、襲い来る巨大な質量へと魔法を乱射する。

 少しでも位置をずらさねば、足が激突して二人諸共にペースト状へと変えられよう。さりとて吹き飛ばされ過ぎれば、そのまま地上に落下してしまう。それも避けねばならない以上、必要なのは綱渡りの連続だ。

 

 魔法を使って敵の間合いの内側へと突入し、その上で巨脚を躱し続けねば命がない。余りにも追い詰められた状況に、もう少し余裕もあれば皮肉の一つも漏らしただろう。洗濯物の気持ちが分かりそうだと。

 けれどそんな余裕もなければ、打開の策も浮かばない。このまま攪拌され続ければ、何時かは魔力切れから粉末となって終わる未来が視えて来る。

 

 だが現状は、もうどうしようもない。思考を回す余裕もなくて、女を離さぬように捕まえているのが限度。既にニコルだけでは詰んでいる。故に、打開したのはニコルじゃない。

 

「こいつが最後だ。燃えちまえってんだっっ!!」

 

 エレインがこの地に現れる際に、作り上げた中央の穴。その亀裂を介して、投げ入れられたのは即製粗末な火炎瓶。

 下へと逃げていたエドワードが、ウィスキーボトルに火を付け投げ込んだのだ。割れると同時に炎上する液体を目晦ましに、ついでと撃ち込まれたのは、残る最後の魔力を注ぎ込んだ特大火球。

 

 物理と精神。二方面からの攻撃に、痛みを感じたエレインは動きを止める。それが例え一瞬なのだとしても、確かにエレインは動きを止めた。故に、その隙は逃さない。

 

「っ! この好機、逃しませんっ!!」

 

 抱いた女をその場で離して、着地したニコルは大地を駆ける。尻餅を付いたクーデルカを、気遣うような余裕はない。今こそ最後の好機である。

 迫る少年を、最大の脅威と捉えているのか。炎に巻かれながらもエレインは、巨脚を振るって少年を遠ざけようとする。だが、遅い。

 

「貰ったっ!」

 

 故に、それさえも利用する。大地を踏み締め、跳んで巨脚を躱した少年。ニコルが着地したのは、振り下ろされた足の上。

 そのまま巨体の上を駆け上がる。怪物は振り落とそうと身体を激しく動かすが、その程度では少年の進撃は止まらない。そうして、刃が怪物に突き刺さった。

 

〈■■■■■■■■――――っっ!?〉

 

 頭部に深く、柄まで刺さったガラハッドソード。言語化出来ない悲鳴を上げて、悶絶しながらもエレインは口元に光を集める。

 毒々しい色をした、怪しい光は死の息吹。零距離から放たれれば、躱す術などありはしない。ならば、そも放たれる事を防げば良い。

 

 剣を突き刺した少年は、そのままの勢いでエレインの顎を蹴り上げる。人骨ならば砕ける程の蹴撃は、僅かに開いた口元を塞ぎ集めた力を暴発させた。

 

「――っ! これで終わっても良い、だからっ!」

 

「大いなる主よ! 我らを守り、彼女を退け給え!」

 

 エレインが自傷し、身体が大きく揺らいだ瞬間。立ち上がったクーデルカが叫び、死力を振り絞って炎と変える。

 命を燃やし尽くすかの如く限界を超えた女の攻勢に、ジェームズもまた動きを合わせる。この一瞬で、残す全ての魔力を使い果たさんと。

 確実に寿命を削っているであろう。命を薪とした二人の猛攻に、遅れて参じたエドワードも加わった。

 

「意外と探してみるもんだなっ! 弾は碌になかったが、良い武器ならば転がってたぜ!」

 

 彼が両手に構えるのは、ポンプアクション式の散弾銃。今の己はついていると快活に笑って、六発しかない弾丸を連続速射。

 魔法と銃器の一斉砲火。一致団結した総攻撃に、さしものエレインも押し切られる。だがしかし、決め手となるにはまだ足りない。

 

「ならば――叩き斬る!」

 

 一斉射が着弾する直前に、エレインを足場に跳躍して後退していたニコル。その手に握る鞭を伸ばして、光を纏わせ剣へ。

 身の丈の三倍を優に超える大剣を両手に握って、天高く掲げ構え待つ。斉射が終わる瞬間に、振り上げた剣を叩き付けるように振り下ろした。

 

「この刃で、押し通すっっ!!」

 

 斬。振り下ろされた刃によって、身体の中央から真っ二つに断ち切られたエレイン。左右に分かれて倒れる怪物の姿へと、更に振るわれるのは横薙ぎの一閃。

 四分割されて、大地に転がり落ちるエレイン。流石にこれで終わりだろうと、少なくともまだ動けはしまいと、僅か安堵したその瞬間――崩れ落ちるエレインの身体が、肉片のままに動いた。

 

「ぐ、がぁっ!?」

 

 分かたれた怪物が為すのは、不要な守りも必要な再生も行わない捨て身の突進。四つの肉塊から伸びる鋭い触手が、剣を振り抜いた直後の少年を襲う。

 全力攻撃後の硬直から復帰し切れないニコルの身体では、防げて一つが限界だった。咄嗟に最も近くのエレインを切り払い、残る三つの残骸に全身を貫かれる。

 

 唯一度の有効打。それだけで少年の全身からは夥しい程の血が流れ、立ち続ける事も出来なくなって地に膝を付く。最早、この後に訪れるであろう結末は明白だった。

 

「ニコル!!」

 

 周囲を己の血で赤く染める少年は、傍目に見ても瀕死に等しい重症だ。対するエレインと言う怪物は、切断された断面から盛り上がった肉が既に復元を開始している。

 肉塊同士から伸びた触手が繋がり合って、一つとなれば直ぐ様にでも完全回復。数秒もすれば傷一つない姿で、エミグレの怪物は彼らの前に立ち塞がる。

 

 これが人間と怪物の差だ。どれ程に優位を稼いでも、一度でも直撃を受ければその瞬間に互いの立場は入れ替わる。それ程に怪物とは悍ましく、それ程に人とは脆いのだ。

 

(……これだから、人の身体と言うのは、脆くて、嫌になる)

 

 不死。不滅。そうとしか思えない程の生命力。どうすれば滅ぼす事が出来るのか、イメージすらも出来ない脅威。

 勝ち目など見えない。このままでは皆、エレインに喰い殺されてしまうだろう。最大戦力は既に、満足に動く事すら出来ないのだから。

 

「神よ。私が、いけないのか。邪な動機から、信仰を志した。私を、罰しようと言うのか……」

 

 今にも怪物は、ニコルを殺さんと歩み寄る。その進撃を止める手段は、もう何もない。残る三人には、欠片の魔力すらも残っていない。

 思わず膝を付いて、嘆くジェームズ。これは罰だと言うのだろうか。届かぬ愛から目を逸らす為、宗教の道へと逃げた男を批難しているのだろうかと。

 

「違うわ! 人を救わない神様なんて、あたしは絶対信じないっ!」

 

 膝を屈したジェームズと違って、クーデルカはまだ諦めない。魔力の全てを消費してしまったのだとしても、まだ手足は動いている。鼓動はあるのだ。

 ならば、動かなければ後悔する。大切だと想えた者を守る為、女は腰に下げたナイフを引き抜く。小振りの刃は余りに頼りないが、それでも立ち止まる訳にはいかないから。

 

「大義の為に死ぬ者に、失敗はありえない。どうせ人生、何時かは死ぬんだ。なら俺は、生き抜く為に死にたいねっ!」

 

 叫んで駆け出した女に触発される様に、エドワードも拳を握って走り出す。クーデルカと違ってナイフすらもない完全なる丸腰だが、それは立ち止まる理由にならない。

 此処で逃げ帰って死んだように生きるよりも、真っ直ぐ生き抜く為に前に進んで死んだ方が遥かに良いのだ。だからエドワードもまた、怪物の下と戦う為に先へ向かった。

 

 片や愛する人を守る為、片や己の生き様を貫く為、その想いはとても強く、その心は何よりも輝かしい物だろう。だが――――想いだけで覆るならば、世に理不尽などはない。

 

「駄目、です! 下がって――」

 

 ニコルが止めるよりも前に、怪物が視線を移す。振り上げた足の一本を、横薙ぎに振り回す。唯それだけで、彼らの想いは踏み躙られた。

 

「ぐぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

「きゃぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 それはまるでピンボール。小さな玉の如くに吹き飛ばされて、柱の残骸にぶつかり倒れる。地に伏した二人は、床を染めて動きを止めた。

 

 赤い血が流れ出している。骨も折れている事だろう。それも当然、トップアスリート以上に身体を苛め抜いているニコルが、一撃でも受ければ動けなくなる程の威力なのだ。

 エレインの巨脚の一振りは、車との衝突にも勝る威力を持つ。普通の人間ならば、今ので死んでいてもおかしくない。それ程に、怪物と言うのは強大だ。

 

「くっ、クーデルカ……エドワード……」

 

 生きているのか、死んでしまったのか。確認する事すらも、今のニコルには敵わない。未だ立ち上がる事も出来ないから。

 如何にか這い摺る形で上体を起こせば、眼前にはゆっくりと迫る怪物の姿。エレインの本能は徹底して、ニコルを脅威と捉えていた。

 

「エミグレの、怪物。完成してもいないのに、これ程ですか……」

 

 本能で動く獣に、油断や慢心などはない。己を殺し得る牙を持った少年を、確実にその手で仕留める為に蠢いている。

 その背中の向こうで、空がゆっくりと明るみ出す。戦闘を始めてから、随分と時間が経ってしまったらしい。気付けば、残り時間も切れていた。

 

「日が、昇る。もう、生命の木の再生も、始まった……」

 

 現状ですら、この状態だと言うのに。伸びて来た木々が、脈動を再開している。エレインの巨体へと、膨大な力が流れ込み出した事が分かった。

 本当にもう、打つ手がない。残る寿命は、あと数秒か、或いは十数秒はあるのだろうか。だが所詮は誤差だろう。日が昇り切る前に、ニコルは怪物の手で殺される。

 

 エレインが振り上げた巨脚は、もう目の前に。諦めろと告げる事もなく、命を刈り取ろうとしている。

 これで終わりだ。後、数秒もない命。二度目があったのだから、三度目に期待していろと己の弱さが囁いて――

 

「いいや、まだだっ! 私は、敗者には、成らないっ!!」

 

 そんな物など、必要ないと必死に叫ぶ。目前に迫る死を前に、しかし諦めない少年が示すは正真正銘最後の切り札。

 嘗てに己のトラウマを、掘り返す元凶となった悪魔の魔法。次があれば今度こそ抗う為にと、最優先で学んだ力が即ちこれだ。

 

「消し、飛べっ! これが、私の、最後の切り札! クリア、クレストォォォッッ!!」

 

 光の線が四角錐を作り上げ、そして空より裁きを呼び込む。これぞ光属性の最上級魔法クリアクレスト。

 これが最後と、残る全ての魔力を込めて放った力。それは確かに、エレインの全身を包み込む。怪物の身体は、光の中に溶けていく。だが――――獣はその上を行く。

 

「なっ!? 脱皮、だとぉぉぉぉぉぉっ!?」

 

 溶けていったのは、怪物然とした身体だけ。背より生えた足や下半身の腹。膨れ上がった頭部は確かに、光の中に消えていく。

 しかしそれらを切り離し、女の身体は光の中から抜けて来た。まるで蛇の脱皮を思わせる行動で、人型となったエレインがその手を伸ばす。

 

 そして、嫌な音が響いた。肉が裂かれ、骨が砕かれ、女の白魚のような指先が赤に濡れる。その腕は、肩の付け根まで深々と。

 

「……最初から、こうしておけば良かった」

 

 ニコルの眼前で、ジェームズの胸に突き刺さっていた。

 

「ジェームズ。一体、何故……」

 

「が、ふっ……痛い、な」

 

 心臓を貫かれたジェームズは、それでも微笑みながら手を伸ばす。それはしかし、傷付ける為ではなくて――

 

「だが、これで、君を抱き締められる」

 

 抱き締める為に。力を使い果たして動けぬニコルの前で、男は怪物を抱き締めた。包み込むように、愛おしさを込めて。そんな男の行動に、何故だか怪物は抗わなかった。

 

「共に逝こう、エレイン。今度こそは、共に」

 

 ジェームズ・オフラハティーと言う男は、心が弱い男である。何かと理由を付けて、大切な事を諦めてばかり居た奴だ。

 だからまた諦め掛けて、神に祈るばかりで居た。けれどクーデルカやエドワードの姿に、それで良いのかと触発された。彼らの語る言葉を受けて、確かにそうだと共感したのだ。

 

 どうせ何時か死ぬと言うのに、自分を誤魔化し震えるように生きていく。その生涯に、果たして何の意味があるのだろう。

 心の底から愛する人が其処に居るのに、一体どうして助けようとしないで居られるか。己は幾度も、過去に後悔していたではないか。

 

 だから、決めたのだ。今度は共に逝こうと。そんな男の想いに応えるかのように、抱き締められた怪物は動かない。エレインは、動かなかった。

 

「ジェームズ・オフラハティーっ!!」

 

「なぁ、ニコル。君は、間違えるなよ。間違えるのは、私や、あいつだけで、十分だ」

 

 ゆっくりと、ジェームズの身体から光が溢れる。もう魔力は尽きたと言うのに、温かな力が不思議と溢れ出して来る。

 きっと、これこそが神の奇跡と言う物なのだろう。産まれて初めて、自分の力で為した白魔法。その効果は、自己犠牲。

 

「捕らわれるべき者は、捕らわれ。剣で殺されるべき者は、殺され。私は、私のあるべき、姿へ」

 

 命と引き換えに、奇跡を一つ。求めたのは、愛しい人の救済。心だけではなく、魂だけではなく、その身体まで救わんと。

 だから、怪物が逆らう事はなかったのだろう。美女の姿をした怪物は、男の腕に抱かれたまま。二人で一緒に、塔から落ちた。

 

 高き塔から地に落ちて、燃え上がる炎に揃って飲まれ焼かれていく。意識はあるのに、痛みも苦しみもないのは神の奇跡のお陰だろうか。

 

「……そう言えば、昔、誰かに言われた気がする。死は想い出。想い出は、永遠の絆」

 

 一体誰に言われたのだろうか。思い出せないと首を傾げて、どうでも良いかと小さく笑う。

 本当に大切な物には、もう気付く事が出来たから。他の事に意識を向けるなど、今はしたくなかった。

 

「エレイン。私はずっと、君の事を愛していた」

 

 ずっと(ツカ)えていた言葉。伝えられなかったその感情を、漸くに音と紡げた。そんな達成感に微笑むジェームズは、そうして愛する女と共に炎の中に消えるのだった。

 

 

 

 

 

 エレインは救われた。それを示すかの如く、脈動していた蔓が動きを止める。そして急速に、枯れて崩れた。

 

「……生命の木の復元が、止まった。これで終わり、ですか」

 

 悲劇は終わったのだ。怪物の姿も、命を捨てた男の姿も此処にはない。その事実に、物悲しさだけが胸を過ぎる。

 痛む身体を引き摺りながら、彼が落ちた場所へと向かうニコル。覗き込んだ落下地点には、もう火の手すらも残ってなかった。

 

「全く、情けない。私にもっと、力があれば。ジェームズだって」

 

 ニコルは思う。結局、何も出来なかったと。強大な怪物を前に、何も出来ずに敗れ去っただけなのだと。

 彼の日と同じだ。母を救えず、泣いていた彼の日。家族ごっこに癒されて、何も変わってなかったと言われた彼の日と。

 

「貴方の言う通りだ、ラスプーチン。私は今も、何も出来ない、子どものままだ」

 

 強くはなった。賢くもなった。だが結局何も出来ないままと言うなら、その力や知識に果たして何の意味があるのか。

 涙が零れそうになる。けれど泣かない。泣いてしまえば、もう立ち上がれない。そう思えたから、涙だけは零さない。

 

「違うわ、ニコル。貴方の所為じゃない」

 

 そんな少年の身体を、優しい熱が包んでいた。泣きたくても泣けない子どもに、女は慈母にも似た笑みで優しく語る。

 

「きっとジェームズは、こうなる事を望んでいたのよ」

 

 クーデルカも、満身創痍だ。骨は幾つも折れていて、口元は血に濡れている。癒す力も、今は使えない。

 けれどそれでも動けたのは、意識だけはあったから。大切な子どもが、泣きそうになっていると感じたから。

 

 必死に這って近付いて、その身体を後ろから抱き留めた。貴方の所為ではないのだと、伝える言葉には論拠があった。

 

「視て。だってあんなに、笑っているもの」

 

 優しく髪を撫でる女の言葉に、少年は顔を上げる。上天へと向かう光の中に、その姿は確かに視えた。

 

〈帰りましょう、ジェームズ。懐かしい、あの頃へ〉

 

〈ああ、そうだな。帰ろう、エレイン。君と、私と、パトリック。三人で過ごした、あの日々へ〉

 

 あるべき場所へと、戻っていく魂。消えていく二人の表情は、何処までも幸せそうに見えたから。

 きっと、これで良かったのだ。何も出来なかったとしても、この結末で良かったのだ。素直にニコルも、そう思えた。

 

「……光の中に、溶けていく」

 

「これで、終わり。これで、良かったのよ。長い悪夢は、漸く終わったのだから」

 

 その柔らかな光が、完全に視えなくなる時まで。少年と女は互いの熱を感じながら、空の向こうに溶ける光を見送り続けた。

 

 

 

 

 

 斯くして、ネメトン修道院における物語は終わりを迎える。晴れ渡った青空の下にはもう、悲劇の名残が微かに漂うだけ。

 

「あら、晴れたのね。もう少し、靄っていれば良いのに」

 

 修道院の外壁近くに、張られた小さなテント。その入り口から少し覗いて、外を確認した美女は呟く。

 治療を終えて、仮眠から目覚めた。そんな女は下着姿のままに、解いていた髪を束ねる。そうしてから平然と、衣服を取り出し着替え始めた。

 

「門出には、晴天の方が良いでしょう。それと、人前で着替えるのは正直どうかと」

 

「貴方なら別に構わないもの。まだ女に、手を出せるような年じゃないんでしょ?」

 

 そんなクーデルカに捕まって、半ば強引に抱き枕とされていた少年は背を向けたまま嘆息する。

 幾ら二次性徴を迎える前の子ども相手とは言え、年頃の女がするべき事かと呆れて肩を竦めた。

 

「……教育に悪いと常々、エドワードに対して言っていますが、貴女も大概ですよね。クーデルカ」

 

 ニコルの皮肉に、クーデルカは着替える手を止め苦笑する。我ながら大概だと言う自覚はあるが、止める心算も今はない。

 少し目を離せば、何処かに行ってしまいそうな少年だから。失われるのは、とても寂しい。そう思えばこそ、自重も止める。

 

 隙あらば少しずつ、距離を詰めていこうとするクーデルカ。そんな彼女から顔を背けて、ニコルは逃げ出すようにテントを出る。

 そんな風にまだ深くは踏み込ませようとしない少年だけれど、その距離が埋まるのも遠い先の話ではないのだろう。

 逃げ出す少年の表情は、何処か恥ずかしそうでもあったから。クーデルカはくすりと笑って衣装を整える。

 

 旅装束を身に纏い、少年に続く形で外へ。背を伸ばすと存外、温かな陽射しは心地良い。靄っている方が好みだが、偶には晴天と言う天候も悪くはない。そう思えるようになったのは、何かが変わったからであろうか。

 

「何だ、もう慰めは十分か?」

 

「……前言撤回です。エドワードに比べれば、クーデルカの方がまだ悪影響が少ない」

 

 先にテントを出た少年は、無精髭の目立ってきた男に絡まれていた。下世話な笑みを浮かべるエドワードに、ニコルは呆れを零している。

 そんな二人の姿に小さく笑って、クーデルカも彼らの下へと歩み寄る。近付くと同時に口にしたのは、茶目っ気混じりの軽口だ。

 

「でしょ? 寧ろ、比較すらされたくないわ」

 

「おいおい、何だよ。何で行き成り、罵倒されているんだよ」

 

 クーデルカが笑って言えば、エドワードも冗談交じりに笑って返す。其処には確かな、絆がある。共に死線を乗り越えたのだ。友誼の情くらいは芽生えよう。

 だからこそ少しだけ、こうして旅立とうとする姿に思う所はある。けれどそれで良いのだろうと、思うのはこの男に安住などは似合わぬからだ。

 

「しかしコイツ、良い馬だな。貰っても良かったのかい?」

 

「別に構わないわよ。暫くは私も、此処に居座る心算だもの」

 

 エドワードが荷物を括り付けた白い馬は、クーデルカが近隣の街で買った物。だが今は、己にとって無用の長物。ならば友誼を結んだ友の旅立ちに、贈ってやれば良い。

 

「それに、次に馬を買うなら、もう少し足の遅い子を買うわ」

 

「やれやれ、これはまた随分と嫌われた事で」

 

 そうして交わす軽口は、どちらも本気ではない言葉。互いに自覚はあるのだ。悲しんだり寂しがったりするのは柄ではないと。

 だから、クーデルカとエドワードの別れはこれで十分。残る僅かな未練に答えを出す為に、エドワードはもう一人へと話を振る。

 

「なあ、ニコル。宿題の答えは出せたかよ?」

 

 さて、宿題とは何だろう。そう首を傾げるクーデルカの前で、ニコルは僅かに言葉に詰まる。

 何と言えば良いのか、手探りに探しても分からない。珍しく自信のない表情で、ニコルは本音を零していた。

 

「私にはまだ、好意と愛の違いも分かりませんよ。……それでも、少しだけ素直になろうとは思います。それが大事なのだと、貴方達の姿に学びましたから」

 

「及第点。満点はやれないが、ガキにしては上出来だ」

 

 迷ってはいるけれど、隠してはいない真っ直ぐな言葉。それを聞いて、エドワードは破顔する。ニコルの頭を雑な手付きで撫で繰り回すと、彼らに背を向け白馬に乗った。

 

「人間よ、汝、微笑と涙との間の振り子よ!」

 

 そうして数歩、歩みを進めてから振り返る。何時ものように気取った姿で、好んだ詩歌を諳んじる。

 

「こうして出会えたことに感謝する! 数多い恋人の情を集めても、我が胸に燃える友情の火には及ぶまい!!」

 

 偉人の言葉を借りて語る男に、返す言葉は軽口だけで十分だろう。女と少年は顔を合わせた後に小さく笑って、男に向かって別れを告げた。

 

「さようなら、自惚れ屋さん。アンタが恋人に向けるであろう薄っぺらい愛と同じくらいには、友情を感じてやっても良いわ」

 

「さようなら、エドワード。貴方は友人としては魅力的ですが、大人としては今一安心出来ない人物でした。なので人の心配をする前に、自分の人生を見直した方が良いと思いますよ?」

 

「ははっ、揃ってヒデェ言い草だ。……お互い、元気にやろうぜ。じゃあな、ニコル、クーデルカ」

 

 悲しい別れではなく、笑顔に軽口を混ぜて別れる。例えもう二度と、再会する事はないのだとしても別れはこんな形が良い。

 

 白馬の腹を蹴り付けて、勢い良く走り出した馬を駆るエドワード。その背は見る見る内に小さくなって、数分もすれば見えなくなった。

 

「最後まで、騒がしい奴だったわね」

 

「ええ、ですね。最後まで、自分らしさを貫く男でしたよ。彼は」

 

 だから感じる寂しさを誤魔化すように、クーデルカは手を伸ばす。抱かれた少年は抵抗せずに、友が去った道の先を眺め続けた。

 

「おや、もう行ってしまったのですか。もう少し、ゆっくりとしていけば良いのに」

 

「ロジャー。貴方も起きていたの?」

 

「はい。邪悪な気配が薄れたのが、棺の中からでも感じられましたから」

 

 そうして二人で暫く佇んでいると、修道院の中から異様な容貌をした老人が近付いて来る。

 大魔術師ロジャー・ベーコン。彼が出て来たのは、全てが終わったから、約束を果たす為であろう。

 

「ロジャー・ベーコン。これからは、マスターとでもお呼びすれば?」

 

「ロジャーで構いませんよ。代わりに私も、ニコルと呼び捨てにさせて貰いますからね」

 

 腕の中から抜け出して、ロジャーと向き合い一礼するニコル。吹く風の冷たさに熱を恋しく思うクーデルカの前で、ニコルは早速とばかりにロジャーに語り掛けていた。

 

「時間は有限です。宜しければ、教授を願いたいのですが」

 

「成程、確かにそうですね。では師として、弟子に命じます」

 

 ニコルは今も、力を得る事に執着している。否、この修道院の事件を経て、その執着は更に強まったとも言えるだろう。

 

 結末に納得したからと言って、肝心な場面で何も出来なかった事は変わらない。無力感こそが、少年の狂気を突き動かす原動力であるが故。

 一刻も早く、今よりも強くなりたい。口程に目で物を言うニコルに一つ頷いて、ロジャー・ベーコンは師として返した。

 

「先ずは、この地の後片付けを手伝ってください。生き延びている人を近くの村に送り届けて、死者を弔う事から始めるのです!」

 

 人差し指を立てながら、微笑みながら告げるロジャー・ベーコン。そんな老人の言葉にニコルは硬直し、クーデルカは楽しげに笑った。

 

「ふふ、そうね。其処までして、漸く終わるのだもの」

 

「……やれやれ。実際に学び始める事が出来るのは、後どのくらい先の話か」

 

 後始末とは簡単に言うが、行うべき事は少なくない。生存したハートマン夫妻を近くの村に送る事や、沢山の犠牲者達を弔う事。エミグレ文書が残っていないか探す必要もあれば、もうこのような事件が起こらないように封印を強固にする必要もある。

 

 それに何よりも、最初にするべき事は――

 

「ですが、そうですね。ジェームズと、それにエレインの墓くらいは作りましょうか」

 

 別れを告げよう。幸福の中で、あるべき場所へと向かった友に。そうして初めて、折り合いが一つ付けられる。

 そう感じたからニコルは、ロジャーの言葉を受け容れる。強くなる事よりも、少年はそんな事を優先してくれたのだ。

 

「さあ、元気を出して始めますよ! 元気を出せば、何でも出来る!」

 

 それが分かったからこそ、クーデルカも嬉しくなる。ロジャーと同じように、両手を振って歩き出したい程に。

 

「取り敢えず片付けが終われば、次は家の設計です! 出来ればこう、宇宙を感じさせるデザインに作り上げたい物ですね!」

 

 この出会いと別れは、無意味じゃなかった。そう思えたから、きっと少年の物語は良い方向へと向かってくれる。

 

「さ、私達も行きましょう。ニコル」

 

 だから今は、彼らと共に。クーデルカは、ニコルに向かって手を差し伸べる。

 何時ものように微笑む女に、少年は手を握り返して。互いに片手を繋いだまま、ロジャーの背を追い掛けるのであった。

 

 

 

 

 




くぅ疲(ry これにてKOUDELKA編は終了です。
結末をバットエンド寄りにすると言うのは、最初から決めていた事でした。

と言うか原作はジェームズ生存エンドがグッドエンド(笑)過ぎたので、続編に繋がるこちらの方が綺麗に終わる。ついでにニコルの無力感を盛大に煽れるとなれば、こちらを選ばない理由はなかったのです。

結果、ジェームズは助けない癖に、エイリアス(モブ)は普通に生存すると言う謎展開。でもエイリアス、態々殺す理由もないし。ま、良いや。
そして幾ら強化しても、最期はジェームズがメガンテしてくれるからと盛られ続けたエレイン。割とメガンテ行く前に死ぬわ、となったが結局どうにか出来たんでセーフ。

そんなエレインさんですが、仮にこの頭おかしい性能が原作通りだったとしても解決出来た可能性はあります。と言うか強引な屁理屈で、原作エンドを説明出来なくはないです。

・デッドエンドはまあ死ぬだけですから、エレインがどんなに強くても関係なし。
・バッドエンドもジェームズがメガンテすれば良いから、クーデルカ達が防戦出来るくらいの実力を身に付ければ出来なくはない。
・グッドエンドの場合、最低限必要なのは一度肉体を滅ぼす程度の戦力。後は怪物に関する知識を()()()()()()、エレインは倒せます。

この世界の怪物は人の心の影響を強く受けるので、まだ生きているよなと思えばどんな状態からでも復活しますし、これは死んだだろと思えばどんなに力が残っていようと現実に干渉できなくなります。

なので素人揃いである方が、怪物に対しては実は有利。下手に優秀な魔術師だと、こんな程度で殺せる訳がないと確信しちゃうので本当に怪物を滅ぼすまで戦い続けなければならない事に。

この前提の上で原作グッドエンドを語るなら、エレインは滅んでいないが皆に死んだと思われてしまったので身動きすら出来なくなった。詰まり倒したのではなく封印したのだとすれば、このエレインを相手にあの展開を発生させる説明付けが可能となります。

何か切っ掛けがあれば蘇るのでしょうが、そうでなければ滅んでいるのと同じ。そんな幕引き。……けど、そうなると本格的にグッドエンド(笑)になりますね。封印ではエレインが救われないのですから。


ともあれ所詮は二次作家の独自設定における戯言。実際にはエレインは此処まで強くないのでしょうし、グッドエンドもあれはあれで作品の空気には相応しい終わり方ではありました。

唐突な神の奇跡で救われたバッドエンドより、人が必死に食らい付いて如何にか勝ったけど結局何も得る物はなかったと言うグッドエンドの方が人間らしくて天狗道は好きかもしれません。


因みにどうでも良い話ですが、出番がなかったガーゴイルさんについては、入れると流石に長くなり過ぎると感じたのでオールカット。今後も彼? 彼女? には出番ないです。



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第29話 狙うべき標的

月明りの下、ショタが一人でぶつぶつ言ってるだけの繋ぎ回。


――1899年5月3日、英吉利はウェールズ――

 

 

 古びた修道院の程近く、海辺に面した平地に建てられた異様な外観の建物。斜めに傾いた電波塔と宇宙船を混ぜ合わせたかのような外装は、兎角周囲の情景から浮いている。

 

 月明かりの下、ネオン街を思わせる煌びやかな輝きを放つベーコン邸。その屋根裏に作られた小さな部屋で一人、簡素なベッドに腰掛けた少年。

 丸い小窓から差し込む月光をランタンの代わりに、ニコルは手にした分厚い資料を静かに捲る。整った容姿が僅かに歪むのは、望んだ成果を手にする事が出来ないからか。

 

(欧州のマーケットにも、秘術書の情報はありませんか。修道院にないのだから裏の何処かに流れてしまったと踏んだのですが、こうも情報が得られぬとは。……既に誰かが所有している。その可能性が高まりましたね)

 

 キャラメルブラウンの髪を指先で弄りながら、ニコルは静かに思考を進める。ラスプーチンより命じられた秘術書の回収任務は、半年程の時間を掛けても全く進展していなかった。

 

 ネメトン修道院を巡る事件の中で、エミグレ文書は終ぞ見付からなかったのだ。何度か書庫を探してみても、それらしい物すら見当たらない。

 ならばとさり気なくロジャーに問うてみても、エミグレ文書は愚かバルスの断章までも知らないと言う答えが返るだけ。

 

 韜晦している訳ではない。残念な事に、嘘を吐いている素振りもなかったのだ。詰まりエミグレ文書は既に何者かに持ち出されていて、バルスの断章はまだ流れて来てもいない。

 完全に当てが外れた形である。それでも近くにはあるのだろうと、欧州を中心にサピエンテス・グラディオを動かした結果が手元の資料だ。

 

(諜報部も相応には優秀だ。となれば情報を掴めない原因として、想定出来る要素は三つ。そもマーケットに流れていないか、或いは顧客情報を守らんとするマーケット側の思惑か、もしくは――――秘術書を狙う他勢力による妨害行為だ)

 

 噂の尾すらも掴めていないと、何ともその不甲斐ない結果。これが身内の無能が理由と言うのなら、呆れるしかないがそうではない。サピエンテス・グラディオの諜報部は優秀だ。

 何せ、彼らは既に妨害相手の尾を掴んでいる。情報収集に半年もの遅れが出ているのは、その勢力と暗闘を繰り返していたからであるのだ。

 

 横槍を受けながらも、一部とは言え構成員の情報までも抜いている。この時点で諜報部の優秀さに、疑いを挟む余地はない。

 問題点は、その敵対勢力。倫敦をホームグラウンドとした彼らを相手に、欧州での暗闘では分が悪いと言う一点だけだ。

 

王立医学会議(ロイヤルメディカルサイエンスソサエティ)。裏の組織と言うには中途半端な戦力しか有していない彼らが、それでも強気に出て来るのはイギリスと言う国家の後ろ盾があるから)

 

 遡れば17世紀に設立された、国営認可の医学組織。其処から分派した“医療の発展の為ならば、如何なる非道でも行う”と言う秘密結社が王立医学会議である。

 

 倫敦塔の地下に拠点を持つと言うこの組織は、現在でも非公式にだが英吉利の王室と繋がっている。国家権力に護られた、中々に厄介な存在と言えよう。

 だが反面、構成員の質や単純な保有戦力と言う点では取るに足りない。何せ彼らが有しているのは表側の権威ばかりで、魔術や怪異との関わりは薄いのだから。

 

(精神病理学においては名の知れた研究者。黒吐熱への対処療法を発見した若手医師。王室にも影響力を持つ大貴族にして、医学に通じる者なら誰もが名を知る程の権威。……錚々たる顔ぶれではありますが、誰も荒事に慣れた手合いじゃない)

 

 王立医学会議の幹部構成員。諜報部の暗躍によって、その素性と保有する戦力には既に調べが付いている。あくまでも医学会議と言う名称通り、彼らの多くは道を外れた医者に過ぎない。

 その資質は優れていても研究者でしかなく、戦士や軍人のような荒事屋でも魔術師や超能力者のようなオカルトでもないのだ。

 

 個々人を戦力として見るならば、正直に言って歯牙にも掛からない程度。首魁であるレスリーと言う老貴族が持つコネクションこそ面倒ではあるが、それでも面倒と言う域を出ない。

 その気になれば今のニコルでも単身で、組織全てを真っ向から磨り潰せるだろう。個人であれば英吉利軍を動かされる前に、幹部全員の首を獲るのは実に容易い。

 

(だが、だからこそだ。だからこそ、彼らが今も存続している事実が不自然だ。私個人で滅ぼせるような秘密結社が、果たして二世紀近くも存在していられる物か……)

 

 だが先の一件において己の無力さを痛感した少年は、故に警戒心を盛大に上げている。何も為せない未熟な己が、単独で倒せてしまえるような組織が長く存在していられる筈がないのだと。

 

 その懸念は一面では正しく、反面では間違いだ。ニコルは己の能力を正確に把握しているが、その無力感故に他者を過大に評価し過ぎている。

 幼いとは言え魔導の真髄に近付いている少年に、抗える人間がどれ程に居ようか。戦い方次第ではあるが既に、国一つを壊滅させる事が出来るだけの力をニコルはその身に有しているのだ。故にその警戒は、過剰と言う他にない。だが――

 

(居ますね、確実に。こちらの警戒網を出し抜いてみせた、高位の実力を有するであろう魔術師が)

 

 その結論は間違いではない。サピエンテス・グラディオの諜報部でも暴けなかった魔術師が、王立医学会議のメンバーとして在籍している。

 過程が外れていようが結果として、その結論に至ったニコル。彼は静かに思考を進める。得体の知れない魔術師と、事を構えるだけの利があるか。答えは否だ。

 

(使用する魔術の形式どころか、実力さえも図り切れない魔術師。最低でも諜報部を煙に巻けるだけの実力はあり、最悪はラスプーチンやアルバートに準ずる領域。……いえ、最悪はアルバート・サイモン本人と言う可能性もある)

 

 明確な事実は、諜報部が手玉に取られたと言うだけ。それで脅威を高く見積もろうとすれば、何処までも天井知らずに上がっていく。

 英吉利と言う土地も問題だ。アルバート・サイモン枢機卿は英吉利を中心として活動している魔術師なのだから、間違いなく王立医学会議とは関わりがある。最悪の場合、その謎の魔術師本人がアルバート・サイモンと言う可能性もあるのだ。

 

(今、明らかになっている戦力が全てならば、私一人で如何とでも出来る範囲ではある。ですがアルバート・サイモンが相手では、確実に後れを取るでしょう。どんな地雷が紛れているのか分からぬ限り、私が単独で乗り込むと言うのは余りにリスクが大き過ぎる)

 

 組織力では上を行くサピエンテス・グラディオも、本拠地は露西亜にある。構成員の全てが魔術を使える訳ではない以上、遠く離れた欧州での影響力は弱くもなろう。

 対して組織としての質と量で劣ってはいても、王立医学会議は英吉利を中心に欧州全土に強い影響力を有している。この地において両勢力は、完全に拮抗していた。

 

 故に起きるのは、軽い暗闘の域を出ない対立だけ。互いに手を出し難く、牽制を繰り返しているような状況だ。此処でニコルが踏み込めば、形勢は良くも悪くも動くであろう。

 余程の隠し玉がない限り、王立医学会議は潰せる。だが余程の隠し玉があれば、逆にニコルが潰される。そんなリスクを犯した結果、得られるリターンに何があるかと言えば何もない。

 

(仮に王立医学会議を倒せたとして、彼らの情報網を掌握するには時間が掛かる。影響力を引き継げる訳でもないのだから、当然彼らの後ろ盾であるイギリスとの関係は悪化する。……王立医学会議がエミグレ文書を保有しているのならば別ですが、そうでなければ利益は皆無か微々たる物だ)

 

 現状では不透明過ぎて、得られる利益も真面に見えない。妨害相手を潰せば諜報も楽になるかと言えば、情報網の掌握と再編に掛かる時間と英国との関係悪化を思えば損得は相殺。

 仮に彼らが秘術書を保有しているならば、リスクを犯すだけの価値はある。だがそれは余りに都合が良過ぎる願望で、確証が持てる前に動くと言うのは明らかな愚行と言えるのだ。

 

(潰す利益は薄く、争うリスクは大き過ぎる。ならば今踏み込むのは論外だ。もう暫くは暗闘を続け、不透明な部分を埋めてから取り掛かるべき相手でしょうね)

 

 現状で倫敦に深く踏み入るのは、リスクばかりで利が薄い。少なくとも正体不明の魔術師が、どの程度の実力者か知るまでは手を出すべきではない。

 今まで通り遠巻きに、人を使って諜報を続けさせるのが無難であろう。ニコルはそう結論付けると、ならば何処なら手を付けられるか思考を変える。

 

(まだ欧州にあると思われるエミグレ文書を探すのは、邪魔となる王立医学会議を処理してから。確実にアルバートが所有しているであろう、ルルイエ異本にはまだ手を出せない。となると残るは――やはりバルスの断章が妥当ですね)

 

 狙い目となる秘術書は、最初に目を付けた物から変わらない。三冊の中で最も手を伸ばし易いのは、やはりバルスの断章だろう。

 ロジャーの手元にないと言うのならば、現状は裏を流れているか以前の所有者がまだ手にしているかの二択。そして前者は、論ずるに無駄なだけの要素。

 

 以前の所有者が居る上海から、次の所有者が居る英吉利まで範囲が広過ぎるのだ。輸送のルートは無数にあり、他には情報もないのだから絞り込む事さえも難しい。

 少なくとも最後の所有者が、何処に流したのかくらいは知らなければ手に負えない。となればバルスの断章を探す上で、必須であるのはある老人に関わる事。

 

(“九天真王地行仙”徳壊上人。上海の支配者であり、バルスの断章を所有していた人物。堕ちて破門されたとは言え、最高位の大邪仙。そして恐らく、()()()()()()()()だ)

 

 邪仙・徳壊。彼の老人は東洋における最強格で、アルバートやラスプーチンにも比肩する実力者。いいや単純な戦力で言えば、彼ら以上の術師であるとニコルは断言する。

 

 その論拠は、徳壊と戦った一人の男。日向甚八郎と言う、降魔化身術の使い手(ハーモニクサー)が持つ高い精神性に由来する。

 この男は原作において、死後の魂だけと言う状態なのに星の神である天凱凰を抑え付けていた。

 更にはそれだけではなく、意志力だけで神の力を完全に制御してみせると言うのだから途轍もない。

 

 日向甚八郎と言う男は間違いなく、原作において作中最高と断言出来る程の精神力を有している。その男を相打ち同然とは言え、邪仙・徳壊は打ち破っているのである。

 

(心の強さが力となるこの世界で、最高の精神力を持つ男。降魔化身術が全ての魔術師にとっての天敵である以上、相性の悪い仙術だけで最強のハーモニクサーを打ち破った徳壊は明らかに別格だ。世界最強と断言しても、決して間違いではないでしょう)

 

 黒魔術の世界を知れば知る程に、この世は心の強さこそが最も重要なのだと分かる。そんな世界で神をも超える自我を持つ男が、どれ程に強大な力を有していたのかは想像に難くない。

 強靭な意志の持ち主で、物理的な戦力も保有している降魔化身術の使い手(ハーモニクサー)。物理干渉能力の限られる術師にとって、日向甚八郎は天敵とも言える存在だ。

 

 それを純粋な仙人であるが故に、圧倒的に不利であった筈の徳壊は殺害しているのだ。その事実だけでも彼の邪仙が、どれ程に強大な存在であるのかは論ずるまでもない。

 アルバート・サイモンやグレゴリオ・ラスプーチン、加藤政二らでも届かない。戦闘と言う分野においては、間違いなく別格であるのだと言える実力者――――だったのだ。

 

(ですが、それも去年までの話。原作の15年前。1898年に起きた日向甚八郎との戦いで、彼の邪仙は左半身を失う程の手傷を負っている。そして見る影もない程に、嘗ての最強は弱体化した)

 

 全盛期の徳壊は、間違いなく世界最強の人間だ。だが原作において彼は、日向甚八郎との戦いで左半身を失っている。

 以降の彼の実力は、大幅に劣化していると言って良い。何せ術師だ。意識や精神の集中が必要な存在が、疼く傷痕を抱えて真面に術を行使出来る筈もない。

 

 仙術師としての能力低下だけではない。この時代の義手と義足では、如何にオカルトを取り込もうと満足には動かない。更に片目もないのだから、視野の欠落は戦場において致命的な不利となろう。

 戦闘者としては、最早欠陥品に等しい状態。全盛期の半分にも満たないであろう戦力しか有していないのが、今の邪仙・徳壊なのだ。

 

(諜報部の調べた限りにおいて、世界情勢は史実通りに推移している。中国大陸の割譲が行われている以上、彼の地の守護者を自認していた徳壊が既に弱体化しているのは確定ですね)

 

 日清戦争。戊戌の変法。清における事件は、史実の通り。山東半島の南側は独逸に、同じく半島の北側と九龍半島は英吉利に。旅順と大連は露西亜に奪われ、膠州湾は仏蘭西の支配下。

 更には日本も影響力の拡大を狙って日向甚八郎大佐を送り込んだのだから、上海を守る為に命を掛けた邪仙としては怒り心頭と言うのも生温い状況だろう。

 

 徳壊の仙術は弱体化して尚、正面から大国を滅ぼせるであろう程度の力を残していた。それ程の仙人なのだ。もしも全盛期のままならば、西欧諸国の派遣軍は根こそぎ壊滅していた筈である。

 だが事実として、中国は衰退し各国の食い物とされている。それこそ彼の邪仙が傷を負い、全盛期の力を失った明確な証拠と言えるのだ。

 

(今の徳壊は、覚醒したばかりのハーモニクサーに後れを取る程度。となれば不透明な英吉利を探るよりも、リスクは確実に少ないと言えるでしょうね)

 

 傷を負った直後に徳壊は配下を動かし、甚八郎の妻であるアンヌを殺害している。その事実を考えれば、今も多少の暗躍ならば出来るのだろう。

 だがしかし徳壊は、甚八郎の子であるウルムナフを殺せていない。覚醒したばかりの降魔化身術の使い手(ハーモニクサー)すら手に負えない。それが今の徳壊なのだ。

 

(嘗ての最強も、致命傷を負えばその程度。勝利と引き替えに力を失い、守りたかった故郷は欲に塗れた者らの餌食にされる。……やはり其処が、人間の限界なのでしょう)

 

 どれ程に強大となろうとも、人はやはり脆いのだ。人間の身体では重傷を負った瞬間に、積み上げた全てを失う事になってしまう。

 其処に世の無常を感じて、同時に思うは邪仙の愚かさ。人を止めてしまえば半身を失った所で再生する事も出来たであろうに、何故彼は人に拘ったのだろう。

 

(愚かな、もう少しやり方もあったでしょうに。……ああ、成程。原作でアルバートが抱いていた情は、恐らくこの憐憫と同じような物なのでしょうね)

 

 それ程に強大な邪仙であれば、他にも手段は幾らでもあった筈なのに。そう考えてニコルは、アルバート・サイモンが徳壊を見下し続けていた理由に気付く。

 心根は善良で紳士的な性格をしていた男にらしくもないと思ってはいたが、全盛期の徳壊を知るが故だと仮定すれば不思議と納得する事も出来た。

 

 バルスの断章を渡した際に、彼らは確実に知り合っている。その時に全盛期の徳壊を見ていれば、原作での姿など見るに堪えない醜態でしかない。

 嘗ての最強に敬意を抱いていればこそ、その無様を哀れに思うし軽蔑もするだろう。守りたい物があるのなら、もっと手段を選ばなければ良かったのだ。

 

(人の身に拘って、愛する故郷を守れなかった哀れで愚かな大邪仙。弱体化した彼ならば、アルバートに遭遇する危険性がある英吉利よりかはマシでしょう)

 

 大魔術師が哀れむ程に、弱体化した嘗ての最強。一国を相手取るよりも、最上級の魔術師と争うよりも、与しやすい相手であるのは間違いない。故に次の狙いは上海だ。

 

(とは言え、今は傷付いた直後。殺気立っているであろう事を思えば、窮鼠となる可能性も考慮すべきだ。私自身、学ぶべき事もまだ多い。もう暫くは、時間を置くべきでしょうね)

 

 だが如何に弱体化しているとは言え、今はまだ傷付いたばかり。戦いの感覚が鈍っていなければ、瀕死の身体は寧ろ起爆剤と成り兼ねない。

 下手に手を出して、自爆覚悟で全力など出されたら目も当てられない結果となろう。故に今直ぐ、上海へと向かうのは下策だ。

 

 さりとて国際情勢が落ち着くまで、とすれば制限時間を優に過ぎてしまう。来年にはもう一度、中国で盛大な波乱が起こる。史実の事件に巻き込まれぬように、年末までには行動を開始するべきだろう。

 その間に、王立医学会議とアルバートの関係性を掴めれば倫敦に。新たな情報を得られなければ、徳壊の眠る上海へと。ニコルはそう結論付けると、紙の束を枕の傍らに置いて瞳を閉じる。

 

「……こうして微睡む時間も、悪くはない」

 

 ベッドの上に身を投げ出して、小さく呟いたのはそんな言葉。少年の心は幼い頃と同じように、束の間の平穏に凪いでいた。

 

 

 

 

 




当作では全盛期の徳壊が世界最強な設定です。
根拠は作中でも語った通り、日向甚八郎を倒しているから。

漫画版クーデルカから精神力が大事設定が採用された結果、原作シリーズで間違いなく精神力最強な甚八郎さんの能力は凄い事になっています。
更にオカルト物理問わず、ほぼ全ての相手に優位が取れるハーモニクサーと言う能力。軽く情報を上げるだけでも、日向甚八郎さんから迸るこいつヤベェ感は異常。

それに打ち勝ったとか言う時点で、全盛期の徳壊も既に頭おかしい。なのにコイツ、身体の半分を失ってるんですよね。
初期ムービーのウルやアルバートから推測するに、腕が吹き飛んでも顔が潰されても怪物と融合していれば即再生するのがこの世界。なのにコイツ、身体の半分を失っているんですよね。
結論。日向甚八郎と戦った時点で、徳壊の有する再生能力は人間と同程度。確実に怪物や神様の力を借りていなかったと言う事実が判明する。

何コイツ? 破門されていると言う設定なので、純粋な仙人にも成れていないのは確定。仙術が使えるだけの人間でしかない筈なのに、神や悪魔の力も借りないで何で星神よりメンタル強い甚八郎さん殺せんの? 馬鹿なの? 死ぬの? 頭おかしいんじゃないの?

天狗道の脳内を盛大に混乱させた結果、あり得ない程に強くするしかなかった全盛期の徳壊さん。弱体化して尚、アルバートやラスプーチンに準ずる程度には強いです。

原作での徳壊は更に、15年間の隠棲で戦闘の勘とかも鈍りまくっていたと言うのが当作での設定。
尚、現状の徳壊さんは弱体化こそしているけれど、戦闘経験とか戦場での勘などは全く鈍ってないです。しかも発狂するんじゃないかと言うレベルでブチ切れ中。

そんな奴が潜んでいる上海は魔境ですが、イギリスの方はぶっちゃけ大した事ないです。
ドなんとかさんは今のニコルより格下なので、アルバートに気を付ければ王立医学会議は敵じゃない。
詰まり憑依ニコルは安牌を選んだ心算で、致命的な地雷を踏んでいる訳ですね。わー、たーのしー!


尚、アルバートの徳壊への感傷は独自設定ですが、余り間違っていない気がします。
現実に例えるならば、日本で活躍しているプロ野球選手(アルバート)が、世界で活躍しているメジャーリーガー(徳壊)と対談。その一年後くらいに怪我で出場停止になったメジャーリーガーを心配して会いに行ってみれば、当の本人はボケ老人並に衰え切った状態で若い女の子(アリス)に気持ち悪いと言われてグフグフ喜んでいる有様。

……軽蔑で済ませただけ、アルバートは有情な気がしますね。



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第30話 性質の悪いジョーク

99.9%くらいは悪ノリしかないネタ回です。
推奨BGMは、変態共が路上で武器拾う時のアレ。


――1899年5月4日、英吉利はウェールズ――

 

 

 夜の次には朝が来る。朝日が昇れば月明かりが隠れてしまうと言うのは当然で、この幾何学的な建物もまたその常識からは外れていない。

 スペースシャトルか宇宙人の秘密基地か、或いは変形合体する戦闘兵器か。そんな異様な見た目をした建物であったとしても、まだ物理法則は通じているのだ。

 

「では、今日は物質転送装置の実験を行いましょうか」

 

 そんな建物の主である、何だかよく分からない変な生き物。ロジャー・ベーコンはベーコンエッグを突き刺したフォークを掲げると、唐突にそんな言葉を発した。

 食べ物で遊んでいるようにしか見えない天辺禿げに、調理を担当したブロンドの美女は目付きを鋭くする。真似したら駄目よと少年に忠告した後で、彼女は一つ疑問を投げた。

 

「物質転送装置? 何それ」

 

「この家の中央にある、変な形をした何だかよく分からない物の事ですよ」

 

 真似しませんよと返してから、クーデルカの疑問に答えるニコル。極めて曖昧な物言いだが、これで大体伝わる辺りがどうしようもない。

 どうしてこの国にあるのかも分からない卓袱台を囲みながら、クーデルカは家の中心部を指差す。小首を傾げた美女に、ニコルは無言で頷いた。

 

 鉄筋が剥き出しとなった家の中央にあるのは、大きなハートマークの刻まれた謎の機械。其処から伸びる電気コードは、何故だかランニングマシーンに繋がれている。

 これぞ物質転送装置。ロジャー・ベーコンが作り上げた、魔術理論によって動作する機械装置。原作においては主人公であるウル達が、最終決戦の地であるネアメートへと侵入する為に使用した原理不明の機械である。

 

「全く嘆かわしい! 二人揃って、変な物を見る目で見て! どうして貴方達には、あの機能美が分からないんですか!」

 

「機能美とは、一体……」

 

「取り敢えずあれ、掃除する時に凄い邪魔なのよね。捨てちゃ駄目なの?」

 

「捨てちゃ駄目です! そして機能美とは、物質転送装置のような外見をした物の事を言うのです。或いは、この家の外装もまた機能的な美しさと言えますか」

 

 部屋の中央に陣取る巨大な機械は、率直に言って生活の邪魔である。完成したのもつい先日の事ならば、それまでは唯のデッドウェイトと化していた粗大ゴミ。

 捨てては駄目なのかとクーデルカが口にするのも、無理はない事であろう。何せこれは邪魔なだけで、生活の役には一切立たない。寧ろ何をするにも邪魔な分だけマイナスだ。

 

 とは言えロジャー・ベーコンにとっては自信作。空間転移の魔術を機械に代行させると言う試みは、魔術と科学の融合を目指す彼にとっては是が非でも成功させたい事である。

 因みに少年と女には不評なデザインだが、ロジャーにとってはそちらも会心の出来であったりする。故に自信を以って断言する彼の言葉に、久方振りの平穏で色々と緩んでいる少年は流され掛けていた。

 

「……機能美って、変形機構の事を言うんですね」

 

「毒されちゃ駄目よ、ニコル。と言うか、今凄い事言わなかった? 変形するの、これ?」

 

「しますよ。変形」

 

「するんだ。変形」

 

 ネメトン修道院の直ぐ側に、新たに造られた違法建築ロジャー邸。圧し折れた電波塔と宇宙船を足して二で割ったような建築物は、その設計段階で叡智の粋を尽くした大魔術師の無駄な努力が何故か結実しているので変形する。合体は出来ない。

 

「兎に角、今日は物質転送装置の実験です!」

 

 そんな衝撃の事実を耳にして、茫然としているクーデルカ。一先ず思考を放棄して、箸を進めているニコル。

 我関せずな二人の所為で流され掛けた話題を、ロジャーは身振り手振りも含めた強引さで戻す。兎角今日は、転送実験を行うのだと。

 

「ニコルの手を借りて漸くに、動かせる目途が経ったこの装置。ですが動物実験には成功した物の、人間が挑戦した事はまだありません」

 

「動物実験は成功したのね」

 

「……ええ、まあ、あれを成功と言えるのでしたら」

 

 ロジャーの語る説明を聞き流しながらも、クーデルカは少し驚き納得する。流石は伝説とまで謳われた魔術師か、性格は問題しかなくとも能力面では信頼出来ると。

 そんなクーデルカの言葉に、何処か目を逸らしながら呟くニコル。さり気なく零した台詞を聞き逃さなかった女は、眉を顰めて少年へと問い掛けた。

 

「何で口籠るのよ?」

 

「いえ、その。実験に使用した犬には、魔術的な刻印。発信器を取り付けていたのですが……」

 

 問われた少年は口籠りながらも、ロジャーと共に行った実験結果を語る。そこらで捕まえた野犬を使って、行った動物実験の結果を。

 

「この家の入口に飛ばす予定だったのですが、何故か発信器の反応はアジア辺りでしておりまして」

 

「盛大に失敗してるじゃないの!?」

 

 聞いて即座に、罵声を飛ばすクーデルカ。失敗しているではないかと語る彼女に、口籠りながらもニコルは返す。本人も無理があると分かっているのか、目線を大きく逸らしたままで。

 

「……一応、転移自体は成功しているので」

 

「それを成功とは言わないのよ!」

 

「――なので今日! 是非とも人に飛んで貰おう、と言う訳です! 其処、聞いてます!?」

 

「聞いてるわよ! アンタが滅茶苦茶な実験を、成功する見込みもなしにやろうとしてる大馬鹿だって話はね!!」

 

「行き成り酷いっ!?」

 

 長々とした説明を聞き流されていた事に気付いて、ロジャーが怒声を上げるがすぐさま女の罵声に押し負ける。

 余りに冷たい言葉に涙目となった老人は、膝を付いてウジウジと落ち込みながらもクーデルカに言葉を返した。

 

「……何時も思いますけど、クーデルカって結構私への当たりがキツイですよね。もう少し優しくしてくれても、罰は当たらないと思うんですけど」

 

「お生憎様! あたしの優しさは、もう品切れよ。市場は独占されてます、ってね!」

 

 自分の作った傑作への批難を撤回しろと望むのではなく、己への優しさを求める伝説の魔術博士。

 余りにも情けない姿を晒す老人に、美女が返す答えはやはり冷たい。零れる涙を袖で拭って老人は、トコトコと少年の隣へ移動した。

 

「綺麗な女の子を、独占するとか。羨ましいなー。羨ましいなー。このっ、このっ」

 

「……我が師よ。地味に痛いんで、止めて貰えます? あと、元からない威厳の寿命がマッハです」

 

「酷い!?」

 

 肘で少年の脇腹を突いていた老人は、冷たい弟子の視線を前に崩れ落ちる。伝説の大魔術師なのにと呟く老人に、優しさを向けてくれる人は居なかった。

 

「茶番はこのくらいにして、そろそろ実験を始めませんか?」

 

「ニコル? 貴方、乗り気なの? 流石に止めておいた方が」

 

「これは転移魔術用の魔法陣を、最先端の科学技術で再現している物でして。その出来がどれ程に至っているのか。私自身、実に興味深いのですよ」

 

 両手両足を地に付けて崩れた老人を背景に、実験を進めようと語るニコル。思わず正気かと、クーデルカが問い掛けるのも当然だろう。

 直前の動物実験で盛大に失敗していると言うのに、行き成り人体実験をしようなどとは危険に過ぎる。そんな道理は、少年にだって分かっている。

 

(機械的な空間転移。小型化に成功すれば、転送の補助に使えるだけではない。本来は不可能な多重転送や、空間に無数の穴を開け魔法を直接転移させる砲撃。包囲殲滅術式の実用化も狙えるでしょう)

 

 それでも望んでしまうのは、中途半端に未来を描けてしまうから。既にニコルはある程度の知識を身に付けていて、これと同じ物ならば独力で作り出せる。

 ならば後は実験データを集めていけば、小型化や高性能化と言った改良も目指せるだろう。戦闘への応用も既に思い付いていて、分かりやすい強さへの一歩でもあったのだ。

 

「……全く、貴方は。危ないって言っても、聞かないんでしょうね」

 

「ええ、その通り。魔術実験には、常に危険が付き物です。ならば多少の危険ぐらいで、止める心算はありませんとも」

 

 だから、強さを求める少年が危険だからと手を引く訳もない。その性格を良く知るクーデルカは、諦めたように息を吐く。

 少年が力を求めるのは、その無力感が故に。分かっていても、分かっているからこそ、その道を止める事は出来ない。止められないと知っていた。

 

「よくぞ言いました。流石は我が弟子! で、どっちが被験者になります?」

 

「僭越ながら私が。外側からの観察は、昨日の段階で見ていますから。それに何か異常が起きた際、ロジャーがこちらに居た方が対処の手段も多く選べるでしょう」

 

 口を噤んだクーデルカの代わりに、声を高らかに立ち上がったのはロジャー・ベーコン。

 古き大魔術師は気まずくなった空気を払拭する為か、殊更に明るく道化て口を開いた。

 

「成程、確かに。では、移動先を設定しますね。……取り敢えず初回ですし、火星はまだ早いと思うので、月の表面で我慢しましょう」

 

「え?」

 

「え?」

 

 月に行こう。当たり前のように紡がれた、不自然極まりない音叉。思わずと顔を向けたニコルに、不思議そうに小首を傾げるロジャー。そんな二人の姿に落ち込んでいる暇すらないと、クーデルカは頭を抱えて怒鳴り付けるのであった。

 

「先ずは家の入口くらいにしときなさい!!」

 

「ええー。折角なんですし、大気圏突入の感想とか聞きたかったな、って」

 

「……生身で大気圏突入しても生きていられるのは、世界中探してもロジャーだけです。勘弁してください」

 

 怒鳴られながらも、名残惜しそうに返すロジャー。その姿にそう言えば原作でも月に転移していたなと、ニコルは遠い目で思い出す。

 月に転移して、月の石を手にして生身で大気圏突入。ちょっと黒焦げになるだけで帰って来れたのは、ロジャー・ベーコンが不死身の魔術師であったからだろう。

 

 仮にこの転送装置の機能なのだとしても、流石に試す気には成れない。下手をしなくても、落下の衝撃でショック死する。ニコルには、そんな確信しかなかった。

 

「仕方ないですね。じゃあ、設定を我が家の前と入力して…………よし、それじゃ、走りますか」

 

「え、走る?」

 

「自家発電ですので。クーデルカ、走ります?」

 

「嫌よ、そんなの。疲れるじゃない」

 

「ですよねー」

 

 ささっと食事を終えるとロジャーは、機械の前で必要な情報を入力する。そうした後でランニングマシーンに飛び乗って、アナログな発電機を足で回し始めた。

 掛け声と共に走る老人を遠い目で見詰めたまま、食事を終えた少年は感謝を告げてから転送装置のその中へ。少し大分かなり気が進まなくはなってはいたが、怖気よりも執着の方が勝っていた。

 

 そのまま十数分がして、装置の上部に電気が流れる。ランニングと言う人力で発電された電力が、転送装置を動かせる程に集まったのだ。

 ガタガタと今にも壊れそうな音を立てながら、発光する転送装置。不安そうに見詰める女の視線に見送られたまま、少年の身体は光に包まれ消え去った。

 

「ふぅ、疲れました」

 

「消えちゃったわ。……これ、本当に大丈夫なのよね?」

 

 ロジャーが足を止め、電力の供給が止まる。光が収まった後には、少年の姿は何処にもない。

 心配そうに問い掛けるクーデルカに、汗を拭いながらもロジャーは返す。心配はいらないと自信気に――

 

「心配性ですね。さっきから言っている様に、大丈夫ですって――あ」

 

 語った老人は、機械の設定画面を見て硬直した。そんな老人の後ろには既に、笑顔を張り付けた鬼女が居る。

 

「ロジャー? 何が、あ、なのかしら?」

 

「……入力座標、間違えました」

 

 即座に土下座した老人に、振り下ろされる無慈悲な一撃。ロジャー・ベーコンはその日、天に輝く星を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1899年5月4日、洪牙利はビストリッツ――

 

 

 石のように白く硬く、葉の一枚も生えていない枯れた木々。それが無数に立ち並び、陽射しを遮る深い森。

 その上空に放り出された少年は、必死になって魔法を行使する。ブレスの衝撃で落下の速度を如何にか落として、木々の枝を掴んで森の中へと。

 

「くっ、ロジャー・ベーコンめ。上空に飛ばしましたね。大気圏内なら、死なないとは言っていないんですよ」

 

 まるで曲芸のように身体を動かして、如何にか無傷でノーパラシュートダイビングを成功させる。その勢いを転がる事で逃がしたニコルは、泥に塗れながら舌打ちした。

 今少し気を抜いていれば、死にはせずとも重体にはなっていた。その怒りを暫し吐き出すと、身体の調子を確認しながら周囲を見やる。

 

「しかし、此処は何処なのでしょうか? 何やら、見覚えがある森と言いますか。向こうに見える城にも、何故か見覚えがあると言いますか……」

 

 石灰のようにも見える、硬い木の森。その奥には蒼く染まった城が佇み、周囲には人の気配もない。

 何処かで見た事があると考えて、感じたのは少しの違和感。頭の中で背景を太陽から月へと変えてみれば、その景色はピタリと一致した。

 

 此処は蒼き城。洪牙利はビストリッツに聳え立つ、変態吸血鬼共の巣窟である。そうと気付いたニコルは、満面の笑みで口を開いた。

 

「……帰りましょう。例の一族に遭遇する前に」

 

 ギャグキャラは、ロジャーだけで十分だ。お腹一杯所か壊しそうな程に、老人だけで十分濃ゆい。これ以上の濃度は要らない。

 笑顔の仮面を被った少年は、その場で身体を一回転。森の出口は分からないけれど、一先ずあの城から少しでも離れようと逆方向に歩き出す。

 

(とは言え、まあ遭遇する事もないでしょう。例の一族は確か、百年単位で眠りに就いている筈ですから)

 

 駆け足で進みながら、考えるのはそんな事。彼の変態吸血鬼達は、その殆どが数百年単位での眠りに就いている。

 先ず遭遇する事はあり得ない。仮に万が一出くわしたとしても、この時期ならば目覚めているのは比較的真面な次男である。

 

 礼節を以って対応すれば問題はないかと、少し安堵しながら歩を緩める。そんな少年の思考は、しかしフラグであったのか。

 

「う、うーん、だっち」

 

「…………」

 

 何か金色の変なのが居た。下手な呻き声を上げている蝙蝠は、変態一族の中でも最上級の(ツワモノ)だ。少年の顔が、思わず引き攣る。

 けれど少年は諦めない。痛む頭を抑えながらも、その場で身を翻すと逆方向に。金色の蝙蝠は、取り敢えず見なかった事にすると決めた。だが――

 

「う、うーん、ニャ」

 

「…………」

 

 何か桃色のも居た。身を翻して数歩進んだその先で、如何にもな演技をしている蝙蝠。片目を小さく開いてチラチラと、少年の事を見詰めている。

 

「…………」

 

 ニコルは静かに息を吐き、真っ青な空を見上げる。何処までも晴れ渡った綺麗な空が、何故か不思議と恨めしい。高所から落ちた所為だろうか、吐き気と頭痛も酷かった。

 

(これ、どうしよう)

 

 前門のヨアヒム。後門のヒルダ。変態吸血鬼一族のツートップに囲まれた少年は、空を見上げて静かに思う。悲しい事に、誰も答えてくれはしなかった。

 

 

 

 

 




理想:ニコル「どんな危険があろうとも、新たな力を得る切っ掛けとなるならば!」
現実:ニコル「……危険は危険だけど、何か思ってた方向性の危険と違う」



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第31話 吸血鬼の一族

盛大に何も進まない。


 さてここで、ヴァレンティーナ一族について少し語ろう。彼らは数百年の時を生きる、不老の吸血鬼達である。

 

 彼のワラキア公に関係があるのかは不明だが、同じ1400年代に産まれ、同じトランシルヴァニアの土地を生きた存在。

 ロジャー・ベーコンのように不死身の理由が語られる事も無ければ、一体どの様な経緯で生まれ育ったかすらも分からぬ規格外。

 

 悠久の時を不変のままに生き、蝙蝠に化けては他者の血を啜る。陽射しに焼かれる事が無ければ、流水だろうと平然と渡れる。

 フィクションにおける吸血鬼と言う存在の、都合の良い面だけを獲得している者達。デイライトウォーカーと語れば、さぞや大層な存在にも聞えよう。

 だが、何と言うべきか。彼らは揃って、何とも言い難い程に残念な奴らである。

 

 先ず長男のヨアヒム・ヴァレンティーナ。脳味噌まで筋肉に鍛え上げてしまった彼を端的に語るのならば、無駄な正義感に溢れる馬鹿で暑苦しいホモである。

 格好良いからと言う理由だけで、蝙蝠の身体を金色に染め上げる。結果、夜闇に潜む事が出来なくなった吸血鬼。冷凍鮪や潜水艦を武器に振り回す、頭が悪い正義の味方だ。

 

 次に次男のキース・ヴァレンティーナ。一見すれば貴公子然とした美男子で、浅く関わる分には真面で常識的な人物。一族で唯一の良心とも呼ばれる男。

 だが深く関われば、彼も所詮はヴァレンティーナ。幼女と森でお散歩するのが趣味であったり、嬉しい事があると舞い上がって唐突に踊り出したりする変態だ。

 

 最後に末娘のヒルデガルド・ヴァレンティーナ。彼女は可変式の吸血鬼だ。食事を摂ると太りやすいと言う体質らしく、吸血や飲食で体形が激変する。

 美しい少女だが腹黒く、サディストでもあるスリム。聖女のように純朴で慈愛に満ちた性格をしているが、見た目は相撲取りにしか見えないグラマー。

 どうしてスリムの容姿とグラマーの内面を融合させる事が出来なかったのか、悲劇と言うよりかは寧ろ惨劇と言った方が正しい現実を前に嘆いた者も多いだろう。

 

 因みに蒼い城には棺が九つある事から、少なくともヴァレンティーナ一族は彼らの他にも後六人はいる。残る者達も、きっと悪い意味でヴァレンティーナなのであろう。

 

(……もう少し現実逃避していたい気分ですが、何時までもと言う訳にはいかないでしょうね)

 

「うーん、だっち」

 

「うーん、ニャ」

 

 青い空を見上げているニコルに向かって、何故かじりじりと近付いている金色と桃色。このまま思考を続けていれば、彼らの生み出す謎の空間に飲まれてしまう。

 それでは致命的な被害を受ける気がしたニコルは、そうなる前にと仮面を被り直して思考を切り替える。関わる事を避けられないと言うのなら、せめてメリットに変えるべきだと。

 

(何時も通りです。善人を装って関わって、助ける事で恩を売る。利用出来る所だけ利用して、後は何処かで捨てましょう。……流石に二匹の相手は心が死ぬので、関わるならば比較的マシな方だけですがね)

 

 可変式とは言え、外見か中身のどちらかは常に美少女なヒルダ。汗臭いホモ。どちらと関わりたいかと問われれば、普通は前者と答えるだろう。

 更にはヒルダの方が比較的常識的であるから、利用する上でも思考を読み易い。どちらも変態なのは変わらないので、所詮は比較的に過ぎないのだが。

 

 それでも常識外の五十歩向こう側と百歩向こう側を見比べたのなら、誰だってニコルと同じ選択をする筈だ。

 

「もし、其処の蝙蝠さん。そんな所で倒れていては危ないですよ。何かお困りでしたら、私が助けとなりましょう」

 

 柔らかく微笑んで、桃色の蝙蝠に語り掛ける少年。片膝を付いて歯を光らせるニコルにも、己の発言が盛大に間違っているような気はしている。

 一体どうして森を一人で歩いているだけでも不審な子どもが、喋る蝙蝠を平然と受け容れ怯える事もなく助力しようとするのか。傍目に見れば、突っ込み所しかない異質さだ。

 

 それでも無視して素通りする事は出来そうにないのだから、毒を食らわば皿までだ。半ば自棄になりながらも、ニコルは桃色の蝙蝠へと優しく手を差し伸べる。何処が手かは分からなかった。

 

「はっ!? イケメン!!」

 

「…………は?」

 

 そして少年は、盛大に地雷を踏み付ける。獲物を狙うような目をした、夢見がちな恋愛脳(スイーツ)と言う爆弾を盛大に起爆させたのだった。

 

「ニャーハッハッハッ! これぞ正しく運命の出逢いニャ! 王子様ルックなイケメンショタに、助け起こされると言うシチュエーション! これ以上に正統派ヒロインの証があるかニャ! 正しく魔法少女なヒルダちゃんこそが、真ヒロインだった訳ニャ!!」

 

(……百歩譲ってそういうシチュエーションだとしても、口に出した時点で台無しなのでは?)

 

 パタパタと舞い上がり、纏わり付いて来る桃色蝙蝠。彼女に対して思った事を口に出さなかったのは、ニコルのファインプレーと言えたであろう。

 ギャグキャラにツッコミを入れた時点で、その時空からは逃れられなくなる。飲まれてしまう事を避けるのならば、微笑みを浮かべたままにそっと距離を取るしかない。

 

「次回、魔法少女マジカルヒルダちゃん。気になるアイツに永久就職! 雇用条件は、三食おやつに昼寝付き! と言う訳で、献血よろしくニャ!」

 

 死んだ魚のような瞳で、囀る桃色蝙蝠を見詰めるニコル。微笑みの仮面で距離を取ろうとした彼の対策は、決して間違った物ではなかった。

 だが残念な事に、それだけで遠ざけられる程にこの理不尽の権化は温くない。更に言えば、此処に居る理不尽の権化は一匹ではなかったのだ。

 

「待てぃ、腹黒シスター! 幼気な少年を堕落の道に誘う所業! 兄として、いや、汗の輝きを愛する一人の漢として、断じて認められないだっち!」

 

(……触れてないのに、結局関わってきやがった)

 

 瞳からハイライトを失った少年の前で、桃色蝙蝠に喰って掛かるは金色蝙蝠。其処は言い換えない方が良いだろう、と思うニコルだが口にはしない。

 微笑みの仮面で隠した内心は、全力で関わり合いになりたくないと言う真っ当な物。何故か少年を囲んで言い合う二匹に思うのは、何処か別の場所でやってくれないかなと言う感想だけだ。

 

「これから私は忙しくなるから、お馬鹿な方のお兄様は黙っているニャ! ハネムーンの後のマリッジブルーから、擦れ違う二人。そして新婚したての家庭を襲う、邪悪なる変態マッチョマン。暑苦しい汗の輝きを打ち払った時、二人は――」

 

「いいや、させないだっち! 俺には分かるだら! この少年の心にもまた、漢の熱き血潮が流れているのだと! 漢と漢の汗の友情! 同じ正義を愛せるだろう友を、邪悪な道に堕とさせる訳にはいかないだっち! 少年には是非とも俺のパートナーとして、グランパピオン・ホワイトの名を進呈したいだら!」

 

 しかし少年の願いも虚しく、蝙蝠達の口論は終わる素振りを見せてはくれない。寧ろヒートアップしていく彼らのやり取りに、頭痛と吐き気ばかりが増していく。

 今にも湧き上がりそうな殺意を必死に堪えながら、ニコルは腹を括って覚悟を決める。このままでは、何時まで経っても彼らのやり取りは終わりそうになかったから。

 

「……失礼。貴女方は何かに困っていたから、倒れていたのではなかったのですか?」

 

「はっ、そう言えば――」

 

「そうだった、ニャ」

 

 蝙蝠を相手に、何を真面目に問い掛けているんだろう。己の行為や存在理由に疑問を抱きながらも、微笑みを絶やさずに問うニコル。

 問われた事で思い出したのか、金色と桃色の蝙蝠達はへなへなと力なくその場に墜ちて倒れる。崩れ落ちた彼らの腹から、盛大な音量で虫が鳴いた。

 

「お腹、空いただら」

 

「昨日から、何も食べてないニャ」

 

 このビストリッツの森にて、彼らが何をしていたのかと言えば簡単だ。お腹が空いて、倒れそうになっていただけである。

 二匹の欠食児童らは、その空腹を満たす為の獲物を虎視眈々と待っていた。通り掛かった旅人に集ろうと、其処に運悪く少年が墜ちて来た訳だ。

 

「……何故、そのような事に?」

 

 余りにもな理由に、ニコルは頭痛を感じて蟀谷を抑える。一体何をすれば自分達の城の目の前で、行き倒れる事が出来ると言うのか。

 常識や世界観に真っ向から喧嘩を売っている蝙蝠達に、問い掛けてしまったのが運の尽き。彼らは空腹で倒れた筈なのに、妙に元気な声で喧々囂々とした会話を始めてしまう。

 

「お馬鹿なヨアヒムお兄様の所為で、キースお兄様に城を追い出されたニャ」

 

「だらぁっ!? 貴様ヒルダ! この兄を売るだっちか!? 苦楽を共にした、この兄を!?」

 

「家にある家具やら美術品やらを、ヨアヒムお兄様が全部壊したからキースお兄様はカンカンになったニャ! ヒルダちゃんは、その被害を受けただけですー!」

 

「お、お前だって、ノリノリだっただら! 俺がドロップキックやボディプレスをする度に盛り上げて、最後には高そうな壺とか良く分からん絵画とか投げて来たの覚えてるだっち!」

 

「ノーカン! ノーカン! 実際に壊したのはお馬鹿な方のお兄様ですしー、ヒルダちゃんに罪はありませんにゃー!」

 

(無駄に元気じゃないですか……と言うか、キース。随分と苦労していたんですね)

 

 この兄妹を相手にして、主な被害や損害を被っているであろう青年を思い浮かべる。ニコルは少しだけ、一族の良心とも言える彼に同情した。

 ああ、苦労しているなと。変態の相手など代わりたくもないし、次男も変態だから関わりたくもない。けれど少しだけ、本当に少しだけ可哀想だとも思うのだ。

 

「携帯用の食糧で良ければ、少しお分けしましょうか? それとも、先程言っていらしたように、献血に協力した方がよろしいでしょうか?」

 

「なんと! 流石はイケメンにゃ!」

 

「捨てる神あれば、拾う神ありだらな! この出会いは、やはり運命だっち!」

 

 そんなニコルは爽やかな笑顔を浮かべたまま、欠食中の二匹に提案する。懐から取り出したのは、結社の組織力を使って仕入れた保存食。

 缶詰の蓋を切って並べれば、飢えた犬のように即座に飛び掛かる金色蝙蝠。桃色の方は血液が欲しいのか、媚びるように近付いて来たので上着を脱いで肌を晒す。

 

「美味いだら! 美味いだら! これは間違いなく、荒波の打ち寄せる津軽海峡を見事に渡り抜けた最高級本マグロを使っているだらな!」

 

「……いえ、ごく普通のマグロを使った、ごく普通の油漬けですが。アメリカで開発中の缶詰を融通して頂いたので、物珍しさはあるかもしれませんね」

 

「はー、美少年の血はやっぱり違うニャ。ぐへへへへ」

 

「……首筋から血を吸うのは構いませんが、涎で服を濡らさないで頂けませんか。割とこの服、気に入っているのですが」

 

 楽しそうに食事を進める二匹の姿に、早く終わらないかなと遠い目をしたまま過ごすニコル。恩を売ると言う目的は、既に果たせたと言えるだろう。

 安くはない保存食が根こそぎ食い尽くされただとか、貧血寸前まで血を吸われた上に服を汚されたとか、その辺りは必要経費だ。惜しくはないとは言えないが、その価値はあったと考えたい。

 

「ふー、満腹だっち」

 

「お腹一杯になっただけじゃない、そんな幸せも感じるニャ」

 

 コミカルに腹を膨らませ、地面に転がる金と桃。そんな二匹に今直ぐ何かを求めるような、守銭奴染みた思考はニコルにない。と言うかもう帰りたい。

 故に服装を整え直して、保存液まで舐め取られた空き缶を回収すると、少年は立ち上がって口を開く。如何にか微笑みを維持したまま、彼らに告げるは別れの言葉だ。

 

「もう大丈夫そうですね。それでは、私は行きますよ」

 

「待つだっち!」

 

「待つニャ!」

 

(……まだ何かあるんですか、コイツら)

 

 嫌気で溢れ返る内心を表に出さなかったのは、少年の根気強さが賜物だろう。引き攣りそうになる微笑みを、如何にか堪えて足を止める。

 今直ぐにでも足を翻して、全力で駆け抜けたいがそうもいかない。折角恩を売ったと言うのに、それでは血と食料を損しただけに終わってしまうから。

 

 損得利害を考えて、如何にか溢れ出しそうな殺意を堪える。張り付いた微笑みを浮かべたままなニコルの内心は、既に表面張力寸前だ。

 そんな事にも気付かぬまま、二匹の蝙蝠は掛け声と共に宙を舞う。くるりと一回転した後に煙が湧き上がり、晴れた後には二つの人影が其処に立っていた。

 

「此処までの恩を受け、唯行かせてしまっては漢の名折れ。この逞しい筋肉に誓って、礼は返さねばならないだっち!」

 

(……私としては、今直ぐにでも解放して貰えればそれで良いのですが)

 

 二メートルを超える巨体を、隈なく筋肉の鎧で覆った金髪の美男子。金色蝙蝠であったヨアヒム・ヴァレンティーナは、ポージングを繰り返しながらに告げる。

 一々動作する度に大胸筋や広背筋、上腕二頭筋や大臀筋の逞しさを主張してくるこの男。汗臭さを迸らせながら近付いてくるヨアヒムに、ニコルは生ゴミを見るような目を向けた。

 

「真ヒロインの心を奪っておいて、ゲッワイなんて許されないニャ。手を差し伸べたら墓穴まで、一緒に行くのが礼儀ニャよ!」

 

(ゲッワイって何ですか。ゲッワイって……と言うか助けただけで墓穴って、色々と重過ぎませんか)

 

 同じく姿を変えたのは、男の胸元程の背丈もない少女。金髪碧眼のヒルデガルドは、成程美少女を自称するだけあって実に整った容姿をしている。

 胸元や下着が見え隠れする程に、際どいラインのゴシックドレス。その衣装の黒さよりも内面が腹黒い美少女に、ニコルが返す視線は養豚場の家畜を見る目だ。ああ、明日には出荷されるのだろうなと。

 

「さあ、行こうだっち! 我が友ホワイト! 俺と一緒に、漢の汗を流すだら!」

 

「お兄様なんて放っておいて、私と一緒に行くニャ。今なら何と特別に、少し貢いだだけで真ヒロインと素敵な事が! ヒルダちゃん、パリのウォルトって人が作ったオートクチュールとか気になるにゃー」

 

 妙に近い距離感で、スキンシップをしてくる筋肉。さり気ない所か堂々と、貢物を要求してくる腹黒スイーツ。そんな二人から視線を外して、ニコルは青い空を見上げる。

 

 何処までも澄み渡った空を見ていると何故だろうか、心が自由になって来る気がした。だからニコルは顔を下ろして二人を見詰めると、満面の笑みを浮かべて告げる。

 

「……良し、処分しましょう」

 

「だらっ!?」

 

「ニャッ!?」

 

 唐突な処刑宣言に驚愕して硬直する二匹を前に、心の表面張力を決壊させたニコルは澄んだ笑顔を浮かべて思う。

 損得勘定だとか常識だとか、そう言った事を考えていたのが間違いだったのだ。条理の内に留まる思考では、理不尽共には抗えない。

 

 場の空気に飲まれる前に、別ベクトルの空間へと引き摺り込んでやれば良い。ロジャーの時と同じくだ。

 邪悪さを隠さずに、為したい事を為したい様に為す。それこそがギャグキャラ共に対抗する、唯一にして無二の術なのだと。

 

「……ええ、最初からそうするべきだったかもしれませんね。人に化ける蝙蝠が二匹。この世から消滅したとして、誰も困る者など居ないのですから」

 

「だらっ!?」

 

「ニャッ!?」

 

 今為したい事が何か、問われれば答えは一つ。取り敢えずコイツら殺したい。溢れ出す殺意に身を任せ、常識を投げ捨てた外道ショタ。

 その殺意の波動に飲み込まれた吸血鬼達は、震え上がって悲鳴を上げる。ヨアヒムとヒルダの恐怖が森を満たす中、蒼き城の主はきっと親指を立てている事だろう。良いぞ、もっとやれと。

 

 自重を止めたニコルの殺意を前に、抱き合って震えるヨアヒムとヒルダ。そして何故か空に浮かぶのは、良い笑顔で笑うキースの顔。今日もビストリッツは平和である。

 

 

 

 

 




同じ正義を愛せるだろう友 = ホモになる資質。
原作ニコルはどう見てもウルのヤンデレストーカーだから、憑依ニコルもそうなる可能性を有しているのは当然ですよね。


~原作キャラ紹介 Part10~
○ヒルデガルド・ヴァレンティーナ(登場作品:シャドウハーツ2, シャドウハーツ フロム・ザ・ニューワールド)
 吸血鬼一族の末娘。金髪碧眼のゴスロリ美少女と言う皮を被った変態。御年400歳の乙女。
 初登場の際には桃色の蝙蝠と言う姿で隠しボスとして現れ、ヨアヒムに一騎打ちを申し込む。5ターン目に攻撃すると事前申告しておきながら、4ターン目に不意打ちをしてくるので初見殺しに掛かったプレイヤーは恐らくそれなりにはいるであろう。

 シャドウハーツFでは真ヒロインを自称しながらパーティキャラに。スリムの際には魔法キャラとしては最高の性能を発揮し、グラマーの際には強烈な物理攻撃と反則染みた回復技を使える。
 体型は調節出来るので、魔法攻撃要員か物理・回復要員の二択を選択可能。パーティに足りない面を簡単に補う事が出来る。
 兄から受け継いだマスクを被ると更に強くなるので、安定してスタメン入り出来る有能キャラ。ただしストーリー面での絡みは無に等しい。

 上記の通り性能面ではぶっ壊れ級な仲間キャラだが、彼女は性格面でも割とぶっ壊れ級である。
 シャドウハーツ2の魔建ビルディング継承イベント後に話掛けるとショタを性的に狙っているとしか思えない発言を零したり、Fでは味方を犠牲にしてさらりと自分だけは助かろうとしていたり、腹黒で加虐趣味で恋愛脳で残念と言う多重属性を有している。

 スリムとグラマーでまるで人格が違っているが、2でのヨアヒムの台詞に蝙蝠の姿が一番気楽だと言う物があるので、恐らくは蝙蝠の時と同じ性格のスリム形態が素に近いのだと思われる。
 ならばグラマーの性格とは一体何なのか。そしてFでの戦闘後会話を聞く限り、グラマー時のヒルダは度々現実が認識出来なくなっている。
 二重人格。現実が認識出来ない。普通ならば闇が深くなりそうな内容だが、所詮はヴァレンティーナ。黒は黒でも腹黒さとイカ墨の黒さくらいの違いはありそうなので、悲劇的な過去(爆笑)展開にしかならないと思われる。



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第32話 義理人情の共同歩調

憑依ニコルはこれでも、ネメトン修道院の一件でややマイルドになっています。


 ニコルの目的は露西亜を守る事にある。皇帝である父へと問い掛ける為、グレゴリオ・ラスプーチンの打倒ですらも手段に過ぎない。

 そして原作知識とは、その為に必要な情報。他者の過去や危険な人物の存在と言った情報や、起こり得る未来の可能性などを事前に知る事が出来る便利な記憶だ。

 

 だが原作知識を最大限に活かす為、原作の展開を守るべきかと言えば答えは否だ。何せ既にグレゴリオ・ラスプーチンが、一部とは言え原作の知識を得ているのだ。

 原作は必ず崩壊する。同じように進めたとして、肝心な所で足を掬われる事であろう。故にニコルは決めていた。ラスプーチンの早期撃破を。

 

 ラスプーチンもまた原作を知るのだから、ウルムナフとの激突は期待出来ない。どころか知識を持つ利を活かす為、ラスプーチンもまた独自に動くであろう。

 ならば下手な事をされる前に、倒さねばこちらが追い詰められる。可能な限りの早期、戦力が整い勝てると判断した時点でニコルは彼に挑む心算である。

 

 故に、シャドウハーツ2の物語は確実に成立しない。序盤の狂言回しと物語の黒幕。そのどちらか、或いはどちらもが居なくなるのだ。それでどうして、話が進むと言うのだろうか。

 

(シャドウハーツ2以降の事件など、態々引き起こす利点もない。ならば、2以降にしか関わらない彼らの存在もまた不要。此処で処分しても、問題などはないでしょう)

 

 原作で気になるのは、天凱凰と超神の存在程度。どれ程に強大なのかと興味があるから、其処だけは原作通りを目指している。だが其処だけだ。

 

 銅鐸や七福神と言った大和の力。ティラワやラシレーンと言ったネイティブアメリカンの精霊達。アウェーカーやマリスアンブラルと言うエミグレの秘奥。

 それらにも興味がない訳ではないが、原作通りに進めなければ遭遇出来ない訳ではない。寧ろ原作通りの方がリスクが高い分、原作崩壊させてしまった方が良いとも言える。

 

 故にヨアヒムとヒルダが居なくなっても、特に問題はない。少なくとも、ニコルは困らない。少年は微笑みながら、その手を剣の柄へと掛けた。

 

「こ、困るニャ! この可憐な美少女ヒルダちゃんこそ、正統派の真ヒロイン! この損失は人類にとっての損害にゃ! ……そっちのは害獣だから、別に処理しても良いニャ」

 

「だらぁっ!? 貴様ヒルダ! この兄を売るだっちか!? 苦楽を共にした、この兄を!?」

 

 その姿に少年の本気を感じ取った妹は、さも当然のように兄を売る。無駄に大きなその背に隠れて、両手で少年へとヨアヒムを押し付ける。

 共に震え合っていた妹の裏切りに、驚愕して叫ぶ男は抵抗するが意外と少女の押しが強い。ジタバタ暴れる暑苦しい男の背中から、小悪魔のように微笑みヒルダは告げた。

 

「それと仕方がないから、ブランド品は我慢するニャ。今なら何と、三食おやつ付きの生活を保障するだけで全米震撼、ヒルダちゃんとの甘々な同棲生活が送れるニャよ! ……後、お兄様は寧ろ処分して欲しいニャ」

 

「ぎゃわわっ!? こ、この漆黒の意志! 我が妹ながら、何とあざとい!! 駄目だっち! 少年、ヒルダに騙されたら駄目だっち!」

 

「そんな訳でー、是非ともヒルダちゃんを可愛がって欲しいのニャ。正義の美少女ヒロインが、今ならお買い得にゃよ。後、お兄様は早急に処分するべきニャ」

 

「ぎゃわわわわーっ! ヒルダの罠に掛かるな、少年! 寧ろ俺が付いていってやるだら! 共に正義のヒーローとして、キースの怒りが収まるまで漢の汗を流して戦うだっち!」

 

 少年の広げた暗黒空間を、ギャグ時空で上書きしようと足掻く兄妹。そのやり取りを見詰めてから、ニコルは軽く空を見上げる。

 青空に浮かんだ城主の幻影は、良い笑顔でやってくれと言っている。取り敢えず幻覚から目を逸らした少年は、満面の笑みを浮かべて二人に告げた。

 

「ご安心ください。二匹纏めて、処理しますので。焼死、凍死轢死刺殺。死に方くらいは選ばせて差し上げますよ?」

 

「だらぁぁぁっ!?」

 

「ニャーッ!?」

 

 遂に剣を抜いたニコルを前に、涙目になって遠ざかる二人。内の金髪巨漢は突如として、何かに気付いたかの様に顔を上げると言葉を紡いだ。

 

「はっ!? これは、南南西か東北東辺りから、邪悪の気配がする!? それと誰かの助けを求める悲鳴も聞こえる気がするだっち! ううむ、これはやむを得まい。正義のヒーローとして見捨ててはおけないだっち!」

 

「あ、馬鹿なお兄様が逃げようとしてる!? 邪悪な気配を漂わせるイケメンショタから、とても特徴的な助けを求める悲鳴を上げてっ!!」

 

 弾かれるように立ち上がったヨアヒムは、明日に向かって走り出す。逃げるのではない、これは全力で後方へと進撃するのだと。

 走り出さんとした兄に対し、妹が手を伸ばすがしかし届かない。馬力の違いは、筋力の違いだけではない。体内エネルギーにも差があったのだ。

 

「がーはっはっ! こんなこともあろうかと! ヒルダの分の晩御飯もこっそりつまみ食いしていただら! 普段の二倍御飯を食べて、元気は更に二倍! 鮪パワーのお陰で、この身に宿るパワーは更に三倍! これがグラン・パピオンが誇る、1200万加速パワーだっち!!」

 

「ニャー!? 昨日の御飯が抜きだったのは、お兄様の仕業だったニャ!? ゆゆゆ、ゆるせーんっ!!」

 

「がーはっはっ! 甘かったな、妹よ! 甘口カレーより甘い! けどほんのり辛いかも? と言う訳で、残念だらがオサラバ! とうっ!!」

 

 煙を発して、黄金の蝙蝠へと変じるヨアヒム。謎の理論を展開して逃げ出した吸血鬼に対し、ニコルが思う所はない。

 逃げてくれる分には十分だと、故に少年は金色の蝙蝠を見送る。そうした後で微笑みながら、横座りして怒りを叫ぶヒルダに近付いた。

 

「お、おのれ~っ! 頭に筋肉しか入ってないお兄様如きが、この真のヒロインに何たる仕打ちを!」

 

「一匹逃がしましたが、もう一匹はまだ居ますか。ならば、仕方がありませんね」

 

「ニャ!? 何で、剣を仕舞わないニャ!?」

 

「ふっ、その程度の事も分からないのですか? 愚かな」

 

 微笑みながら剣を向けて来る少年に、怯え慄くヒルダ。此処まで脅せば彼女も逃げるだろうと、ニコルは予測する。

 鬱陶しいから処分したい。殺しても何の問題もない。とは言え殺さずに済むのなら、それはそれで別に良いのだ。そんな少年の目論見は、しかしヒルダに壊された。

 

「うぅ、こうしてヒルダちゃんの人生は終わってしまうのか。ああ、何て可哀想な私。美人薄明とは、こういう事なのニャ」

 

 横座りしたまま、弱々しく泣き崩れる少女。口にして居る内容こそ太々しいが、その見た目は手を上げるのが躊躇われる程度には儚げだ。

 状況的にも兄に見捨てられ、剣を突き付けられていると言うのだから嘆くのも当然と言えるだろうか。その姿に少年は、深く息を吐いてから納刀する。

 

 完全に無抵抗となって嘆く婦女子に、不快だからと切り掛かる。それ程までに、今のニコルは道を踏み外している訳ではないのだ。

 

「…………冗談ですよ。そちらから関わって来ないのでしたら、別に命を奪うまでは必要ありません」

 

 鬱陶しいから処分したいのは本当で、殺しても何の問題もないのも本当だ。それでもやはり、手を上げずに済むのならばそれでも良い。

 与えた恩こそ回収出来ないが、別に問題視する程の出費ではない。そう考えて済ませる心算になったのは、先の事件で関わった仲間達の影響か。

 

「嘘にゃ。こいつ本気だったニャ。脳味噌ツルツルなお兄様でもヤバいと理解出来るくらいには本気だったニャ」

 

「……私としては、今から本気になっても一向に構わないのですが」

 

「ニャー! ニャー! お兄様は馬鹿だから、気のせいだったに違いないニャ! 器が広い人は違うニャー。よっ、イケメン! 外道! 邪悪の化身!」

 

「それ、褒めている心算ですか? まあ、別にどうでも良いですけど」

 

 助かると分かった直後に調子良く、太鼓持ちを始めるヒルダを鬱陶しく思いながらも許容する。そんな己の甘さに苦笑して、ニコルは彼女に背を向けた。

 

「さて、さっさと帰りますか」

 

「そうニャね。さっさと帰るニャ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「え? 付いて来るんですか?」

 

「え? 付いて行っちゃ駄目かニャ?」

 

 そしたらなんか付いて来た。驚きを露わとするニコルに、可愛らしく小首を傾げて問い返すヒルダ。

 頭が痛くなって、青空を見上げる。空に浮かんだ城主の顔は、在庫セール品を捌けた業者のように爽やかだった。

 

「……一応、参考までに聞きますが。何故?」

 

「そんなの、乙女の口から言わせようだなんて。ひ・ど・い・ひ・と」

 

「死にたいのですか死にたいのですねそんなにも死にたかったとは気付かなくて申し訳ありませんでした今直ぐ殺しますね」

 

「にゃー! にゃー! ロープ! ロープ! ロープにゃ!」

 

 甘えるように囁くヒルダに、満面の笑みで剣の柄へと手を伸ばすニコル。慌てて少年の動きを阻む少女の姿に、ニコルはヴァレンティーナ一族の取り扱い方を理解する。

 鬱陶しくなったら、取り敢えず脅しておけば良い。それで止まらなければ、手足を寸刻みにしていけば問題ない。そんな真理に至った外道に、戦慄しつつもヒルダは真面な理由を語り始めた。

 

「……割りと本気で、行く当てないニャよ。キースお兄様、久し振りにマジ切れしてるニャ。あの切れ方、大体30日振りくらいニャ」

 

「それ、久し振りでもなんでもないですよね。月一で同じ事をしてるんですか?」

 

「因みにブチ切れてるけど、それ以上に凹んでたニャ。周囲の目を憚らずにマジ泣きしてたのは、確か10年振りくらいだったニャ」

 

「それは本気で、謝りに行った方が良いのでは? と言うか、マジ泣きって貴方達は何をやったんですか」

 

「家具と美術品、全部壊しただけニャ。お城の中が空っぽになったくらいで泣くなんて、キースお兄様は泣き虫ニャ」

 

「割りと本気で、駆除した方が良いんじゃないかと思えてきますね。この害獣」

 

 ヒルダの口から語られる、城主キースを襲った悲劇。馬鹿な兄妹達の手によって、現在蒼い城の中身は空っぽだ。

 書棚は崩れ、絵画は破け、壺は割れて棺も砕けた。枠ごと外れて飛んでいった窓から吹き込む暴風に、キースは真っ白となっている。

 

 そしてそれだけの戦果を挙げた兄妹は、しかし反省の素振りも見せない始末。もし出逢う事があれば、少し優しくしてあげようとニコルは思った。

 

「そんな訳で、今戻ると多分酷い目に合うニャ。なので暫く、具体的には十年か二十年くらい何処かへ行こうと思うんだけど」

 

「行く当てがないから、偶然出会った私に、ですか」

 

「正確には、偶然出会ったイケメンショタにニャ。ぶっちゃけ小さい頃から唾付けとけば、何か良い感じにヒロイン出来るんじゃないかって打算はあるニャ」

 

「……それを口に出した時点で、ヒロインとしては色々と失格ですよね」

 

「駄目かニャ?」

 

「……はぁ」

 

 そんな少年の内心を知ってか知らずか、上目遣いに媚びた声音で問い掛けてくるヒルダ。もし彼女を放置すればどうなるか、ニコルは僅かに思考する。

 恐らくは適当に旅立って、何だかんだでインド出身のプロレスラーに拾われるであろうヨアヒムとは違う。行く当てのない彼女は、暫くすれば蒼き城へと戻るであろう。間違いなく、グラマーの姿で。

 

 道を踏み外したギャングですら、手出し出来ない程に純朴な少女。その状態となったヒルダに対し、あのキースが手を上げられる筈もない。どれ程に怒りを抱いていても、彼女の事を許してしまうであろう。

 となればヒルデガルドの思惑通り、また城は好き放題に荒らされる。そう考えて青空を見上げれば、浮かんだ幻影は必死にクーリングオフを拒んでいる。大きく嘆息した少年は、面倒だと思いながらも仏心を出すのであった。

 

「……私の邪魔にならないのならば、好きにすれば宜しいかと」

 

「勿論ニャ! 寧ろ役に立つニャよ! 色々な意味で!」

 

「もしも邪魔になりそうなら、その時こそ本当に駆除しますのでお忘れなく」

 

 可哀想なキースの為にも、この害獣は暫く引き取ってあげよう。鬱陶しければ、脅せば黙る。邪魔になれば、盾や捨て駒にして切り捨てられる。

 ヨアヒムのように汗臭くもなく、見た目も然程悪くない。となれば特に実害はないと判断して、ニコルはヒルダの同行を許可する。青空の幻影は、歓喜の涙を流していた。

 

「それと、お腹が空いた時には、血を吸っても良いかニャ?」

 

「思った以上に、面の皮が厚いですね。まあ、その程度なら好きになさい」

 

 同行を許可された直後、両手を上げて喜びつつもさり気なく聞いて来るヒルダ。その精神の図太さに、呆れながらもニコルは許容する。

 取扱説明書を作成出来る域に達した今のニコルにとって、ヴァレンティーナ一族は最早理不尽の権化ではない。故に定期的な吸血程度ならば、特に問題ではなかったのだ。

 

「あ、そうだ。そう言えば、忘れてたニャ」

 

「忘れてた? 何をです?」

 

 少年は少女を連れ立って、枯れ木の森を後にする。その道中、ふと気付いたように顔を上げるヒルダ。

 何に気付いたのかとニコルが問い掛けてみれば、彼に振り向いたヒルダは両手を広げて上目遣いに。甘えるような声音で名乗った。

 

「ヒルデガルド・ヴァレンティーナですニャ。貴方のお名前、教えてくれますか?」

 

「……成る程、確かに自己紹介もまだでしたね」

 

 言われて確かに、まだ名前すらも教えていなかったと言う事実に気付く。そんな事にも気付けぬ程に、冷静ではなかったと言う事か。

 己の未熟さに苦笑しながら、ニコルも少女に向き直る。そうして教会式の一礼と共に、この酔狂で風変わりな同行人へと名を告げるのであった。

 

「ニコラス・コンラドです。ニコルとでも、お呼びください」

 

「なら私も、ヒルダって呼ぶ事を許してあげるニャ。今後とも、よろしくニャ」

 

 互いに名乗り合って、握手を交わす。ニコルはこうして、恐らくはその生涯で最も長き時を共に歩くであろう吸血鬼と出逢うのだった。

 

 

 

 

 




シラカワ先生の肩に何時も小鳥が留まっているように、今後の憑依ニコル君の傍には桃色蝙蝠がウロチョロします。

成人後は肩の上が定位置で、ショタの内は頭の上に居ると思われるヒルダちゃん。
憑依ニコルがそんな彼女に抱くイメージは、“態々殺す必要はないけど、別に死んでも惜しくないし、多分死なないよねコイツ”と言った感じ。

別に死んでも惜しくはないから、平気でラスプーチンの前にも連れていかれるだろうヒルダちゃん。多分死なないから、平然と激戦区にも放り込まれるだろうヒルダちゃん。彼女が真ヒロインとなれる未来は、果たして訪れるのであろうか……


~原作キャラ紹介 Part11~
○ヨアヒム・ヴァレンティーナ(登場作品:シャドウハーツ, シャドウハーツ2, シャドウハーツ フロム・ザ・ニューワールド)
 弱きを助け悪しきを挫く。心に正義の炎を灯し、振るうは猛きプロレス技。仮面がないと力が出せないと言う欠点を、愛と正義の心で補い戦い続ける無敵のヒーロー。その名は、グラン・パピオン。

 そんな妄想を抱えて生きる、吸血鬼一族の長男。整った目鼻立ちの美男子で、西洋彫刻における男性像のように引き締まった肉体を持つ。
 生まれついての資質は優れているのだが、頭の悪さと変態性が全てを台無しにしてしまっている男。

 初出はシャドウハーツ。無印においては物語の終盤、蒼き城に隠しボスとして出現する。一騎打ちでキースが勝てば、ヨアヒムから一族の宝剣でありキースの最強武器である魔剣ティルビングが受け取れる。
 尚、その宝剣は1のエンド後から続編の2に至るまでの幕間にて、ヨアヒムがノリと勢いで圧し折った模様。2でヨアヒムが城を追い出された理由も、一族の宝剣を壊したからである。

 シャドウハーツ2では、上記の理由により城を追い出されて行き倒れていた所をルアープルの住人に拾われる。
 己を助けてくれた老婆や子ども達を苦しめる悪党を、主人公たちと協力して撃破。エロエロクイーンとの死闘の果てに、パーティメンバーとして参加する。

 ゲーム中の性能は、肉体系のステータスが高いタンク要員。攻撃力も相応に高いので、壁役と物理火力を担当出来る。
 またヨアヒズム(その日の気分)によって、計四つ変身形態を持つ。デフォルトのヨアヒム。敵から狙われなくなると言う性質の所為で、壁役としては実質デメリットにしかならないインビジブル。馬鹿みたいな火力と引き替えに、体力と防御と特殊技を捨て去った黄金の蝙蝠。そして、正義の味方グラン・パピオン。

 更にグラン・パピオンは、プレイヤーの心に傷を刻むであろうとあるイベントを見ると強化される。
 エロエロクイーンのお仕置きイベントで知ってはいたが、やはりガチホモだったヨアヒム。
 どうしようもなく絵面が汚い漢祭りは、これは酷いと言うしかない結末なので、ホモネタに抵抗がないのなら一見の価値はあるかも。

……ただしカレー共の初見殺しは許さん。ゼペット爺さんなんか育ててねぇよ、装備全部剥いでたわ。しかも一度町に戻ったら、一からやり直しだと思うじゃん普通(マジ切れ)

 そんなこんなでシャドウハーツ2で大活躍したヨアヒムは、続く続編シャドウハーツFでも中盤から姿を現し本編とは全く関係のない所で物語を盛り上げる。

 ヒルダを強化する為に集める必要があった雑誌、週間アーツ。4週で真面目な内容は力尽き、5週目はヨアヒムのグラビア写真集となり、6週目で無事廃刊となった週間アーツ。

 シャドウハーツFでのヨアヒムは、週間アーツを自費出版した際に抱えた借金で首が回らなくなったのでアメリカで寿司屋を始めたらしい。
 割と意味不明な軌道を描いて、人生を満喫している自由人。そんな漢がヨアヒム・ヴァレンティーナなのである。



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第33話 何でもない日常

或いは輝かしい日常。

※諸事情により、日付変更。一部記述修正(2020/10/05)


――1899年12月25日、英吉利はウェールズ――

 

 

 幾何学形の塔内に、作り上げられた浄水設備。魔法と科学が高度に融合した産物は、時代を百年以上は先取りしている代物だ。

 これまた時代錯誤な合成洗剤を泡立てて、食器を洗うクーデルカ。寒村生まれの女はこの技術を見て原理を聞かされた際に、随分と驚かされたのを覚えている。

 

 配管を流れていく排水は、浄水処理をされた後で海に流されると言う。上水として利用しているのは逆に、ポンプで組み上げ科学と魔術で其々浄化された水なのだと。

 蛇口を捻るだけで水が流れて、直接飲んでも腹を壊さない。近年まで下水が飲料水に混ざってしまった結果、コレラに苦しんでいた倫敦の街とは余りにも大違いである。

 

「もう此処に来て半年は経つのに、何度使っても慣れません。本当に凄い技術ですよね」

 

「そうね。けどこれに慣れたら、他の所で生活できなくなりそうだし。寧ろ、慣れない方が丁度良いんじゃないかしら」

 

 流れていく水の透明さに、感嘆の声を上げるふくよかな少女。ヒルダの言葉に、クーデルカは苦笑しながら水を切った皿を手渡す。

 受け取った少女は微笑みを浮かべたまま、手にした布巾で吹き上げテーブルの上に。四人分の食事量ともなれば、洗い物だけでも結構な量となる。

 

 手伝ってくれてありがとうと女が告げれば、逆に家事をしてくれてありがとうとふくよかな少女は返す。

 何もせずに文句ばかり口にする細い方とは異なって、ふくよかな方のヒルダの事をクーデルカはそれなり以上に気に入っていた。

 

「そう、ですよね。こんな便利な生活に慣れたら、駄目人間になってしまいそうです」

 

「その言葉、細い方に聞かせてやりたいわ。本当に貴女達、同一人物なの?」

 

「あ、あはは。……えっと、何時もご迷惑をお掛けして、申し訳ございません」

 

 細身の時と変わらぬ黒のゴシックドレスが、今にもはち切れそうになっている。そんな肥満体質の少女は、苦笑いを浮かべて頭を下げる。

 太った今の彼女にも、細い時の記憶は共有されている。だからどうしてあんな事を言ってしまったのだろうと、こっちのヒルダは何時も後悔してばかりだ。

 

「あー、悪いわね。別に貴女の方を責める心算はなかったのよ。反省するべきなのは、あの細い方だから」

 

「でも、どちらも同じ私ですから。悪い事をしたのだと思ったら、ちゃんと謝らないといけません」

 

 輝く澄んだ瞳で語るふくよかな少女に、クーデルカは少し罰が悪そうな顔をする。その善良さは好ましいが、少しばかり苦手でもあるのだと。

 因みに嫌いじゃないが好きでもない細い方は、寧ろ慣れ親しんだ腹黒さを見せてくれるから対処は簡単だ。雑に扱っても心が全く痛まないと言う意味で。

 

「……ロンドンじゃ今も、汚水を捨てる為に北海まで船が出てるくらい。それを思えば、流石は伝説の大魔術師って事なんでしょうね」

 

 このまま謝罪を返しても、お互いに頭を下げる事の繰り返しになるだけだ。以前の経験からそれを知るクーデルカは、少し強引に話題を戻す。

 

 大国ですら対応に困る排水問題を、あっさりと解決している大魔術師。数百年を生きる伝説と言うのは、伊達ではないのだろう。その叡智は、こんなにも身近な場所にも隠れている。

 

「ロジャーさんは、本当に凄い人ですよね。けど、だからこそ残念です。ロジャーさんが色んな国を手伝えば、きっと沢山の人達が笑顔になれるのに」

 

「人の世に失望した。見切りを付けたって言うのは、本音なんでしょうね。何時もあの調子だから、誤解しそうになるけど」

 

 口にして、クーデルカは居間へと視線を向ける。転送装置を挟んだ向こうに置かれた卓袱台を囲んで、弟子へと講義をしているロジャー。

 老いた魔術師は殊更に明るく振舞うが、その内心ではどれ程に人の世に失望しているのか。だと言うのに、少年を導こうとしてくれている。それを素直に、女はありがたいと思うのだ。

 

「――以上が特定の物質から、任意の原子のみを取り出す際の基本となる魔術理論です。此処までで何か質問などはありますか?」

 

「ロジャー師。質問なのですが、この術式を用いれば原子番号92の同位体を核変換させる事も可能ですよね。以前の講義にて学んだ魔術式を応用すれば、中性子粒子の再現も可能。合わせて行えば、莫大な動力源となると思うのですが」

 

「良い目の付け所です。確かに不安定核の分裂は、瞬間的に膨大な熱量を生み出します。ですが問題点もありまして、分裂し続けるエネルギーは科学的にも魔術的にも制御し切れないのですよ」

 

「……制御しなければ良いのでは? 使い捨ての発破代わりと捉えれば、火力は十分なのだから有効かと。遠隔で発動出来るように調整すれば、敵対者は根こそぎ消し飛びますよ」

 

「なにこの子怖い」

 

「ああ、そうだ。分裂の瞬間に圧力が掛かるように魔術式を仕込めば、発生する想定熱量が大幅に向上しますね。ならば初期に必要となる不安定核の量は最小限で済む。この程度の量ならば、その辺の石や土からでも生み出せるかも……」

 

「なにこの子怖い」

 

「必要となる魔力が想定でも天文学的な数字になってしまう事が問題ですが、転移装置と同様に一部を機械に任せる形で必要条件を埋めていけば――――究極的には、全ての場所で全ての物を材料に核分裂反応を発生させる事が可能となりそうですね!」

 

「なにこの子怖い」

 

 特殊な化学反応を発生させて、汚水を浄化する装置。其処に用いられた化学反応を発生させる魔術式を師が説明すれば、即座に高度な軍事利用を思い付く弟子。

 悪魔的な発想を満面の笑みで語る少年に、ロジャーは戦慄を隠せない。恐怖の余り語彙力を失って壊れたラジオのようになった師をよそに、ニコルは様々な思考と膨大な計算を脳内で進める。

 

 物理現象で精神世界に干渉し、精神干渉で物理現象を引き起こす。ロジャー・ベーコンの叡智は、魔術における常識を覆す程の代物だ。

 無論、物理現象を起こす魔術と言う物は古くより存在していた。だが石をパンに変えると言った奇跡の類は、相応以上に消費が重い物でもあった。

 

 消費は重く、術式自体も高度で扱い難い魔法。それをロジャーは、部分的に機械化すると言う方法で簡易化したのだ。

 魔法と科学が高度に融合した、魔科学とでも呼ぶべき技術。それを知り得た事で、ニコルの選択肢は大きく増えた。強さを求める少年が、この事実に喜ばぬ筈もない。

 

 とは言えロジャーが実際に作り上げたのは、持ち運べないサイズの魔術装置ばかり。戦闘で使おうと考えるのならば、一工夫が必要となってくるであろう。故に必要となるのは、発想の転換と成る筈だ。

 

「ニコルさん。ロジャーさん。お勉強も大切ですけど、そろそろ少し休憩してはどうですか?」

 

 壊れたラジオと化した師を前に、思い付きを実用可能か検討していたニコル。そんな彼らに、洗い場から戻って来たヒルダがお盆を両手に問い掛ける。

 柔らかく微笑むふくよかな少女がその手にしているのは、人数分に切り分けられたキャロットケーキ。ふと時計を見てみれば、アフタヌーンティーには丁度良い時間であった。

 

「ロジャー師。如何なさいますか?」

 

「……ええ、そうですね。少し休みましょう。正直、疲れました」

 

 師事する立場なのだからと問い掛けたニコルに、疲れた顔で頷くロジャー。教えては不味い事を教えてしまったのではと戦慄する老人には、一先ず心を休める為の時間が欲しかったのだ。

 

 机の上に広げられた資料をニコルとロジャーが片付け、ヒルダが甲斐甲斐しくケーキの載った皿と人数分のカップを並べる。次いで戻って来たクーデルカが、ポッドに入った紅茶を注いで回った。

 

 そうして皆が腰を下ろすと、其々に手を伸ばす。フォークでケーキを切り分けて、口へと運ぶ。ほろほろとした食感と共に、口の中に優しい甘みが広がった。

 

「ほう、これは見事な。作られたのは、クーデルカですか?」

 

「違うわ、この子よ」

 

「えへへ。クーデルカさんに教わって、頑張ってみました」

 

 シンプルだが品の良い味わいに、称賛の言葉を伝えるニコル。少年が作り手と思われる女に問い掛けてみれば、しかし返るは否定の言葉。

 調理を担当していたクーデルカではなく、ケーキを作ったのはヒルダだと言う。その話を聞いて思わずニコルは、目を丸くしたまま本音を零していた。

 

「まさか、あのヒルダが料理を覚えるとは」

 

 400年も生きているのだから、多少は調理経験もある筈だろう。更に大抵の料理を作れるクーデルカが共に居れば、ヒルダが調理をしてもおかしくはない。

 そう理屈で考えれば理解も出来るが、如何にも納得し辛いのはスリムのイメージが強いからか。世が世ならば、彼女は全てインスタントな食品で済ませそうな性格だと。

 

「こっちの方は、筋の良い教え子よ。……やっぱり今日も、夕食は高カロリーメニューにしましょう」

 

 そんな本音を零した少年に苦笑しながら、クーデルカは少女の髪を撫でる。実年齢を考えれば逆なのだが、素直な少女がまるで妹分のようにも思えていた。

 

「あ、今日もお肉ですか! 嬉しいです。クーデルカさんの御飯はとても美味しいですから」

 

「……毎日お肉ばかりで、老人は少し胃もたれしてきているのですが」

 

「別に死なないんだから、文句は言わない。不満があるなら、アンタが作れるようになりなさい」

 

 純朴で慈愛に満ちた妹分を気に入っているからこそ、調理を担当するクーデルカはその権限で連日肉料理ばかりを作っている。

 血液が料理に混ざってしまう事も警戒していて、其処には太らせたままを維持しようと言う強い意志が見て取れた。

 

 細い方も嫌いではないが、別に好きな訳ではない。だからとカロリー計算を行う女に、付き合わされる老人は嘆息しながら甘味を咀嚼した。

 

「ああ、そうだ。クーデルカ、それにロジャーとヒルダも、少し良いですか?」

 

「ん、どうしたのよ?」

 

「いえ、皆が集まっているなら、丁度良いかと思いまして」

 

 雑談を交えながら、穏やかに進むアフタヌーンティー。皿のケーキが無くなったタイミングで、フォークを置いたニコルは口にする。

 話をしておくべき事があると、言われて皆が食器を置いて目を向ける。視線が集まった事を確認してから、ニコルは彼らに向かって告げた。

 

「突然の話ではありますが、明日より暫く外します。少し、遠出をしなくてはならないので」

 

「……本当に唐突ね。何時もの外出とは違うの?」

 

「ええ、受けた任務地が任務地ですので。少なく見積もっても、片道三ヶ月以上は掛かりますかね」

 

 クーデルカ達と過ごし始めて、もう間もなくで一年程。その間にも少年は何度か、このロジャー邸を離れている。

 何かと理由を付けて外出していたのは、サピエンテス・グラディオの構成員と連絡を取る為。だからその期間も、精々一日二日だけ。

 

 これまでで最も長かったのは、転送装置の事故で洪牙利に飛んでしまった時である。着の身着のまま飛ばされてしまった所為で、戻るまでに十日も掛かった。

 だがそれでも、十日程の期間で済んだのだ。だと言うのに、今度は片道三ヶ月以上。場合によっては更に長引くというのだから、クーデルカの表情が曇るのも当然だろう。

 

「往復で半年以上となりますと、結構な距離ですね。どちらに向かわれるのですか?」

 

「上海ですよ。大連までは既に祖国が実行支配しているのですが、その周囲で幾つかオカルト絡みの問題が起きていまして」

 

 そんな女の顔色に気付かない振りをしながら、ニコルはロジャーの問いに答える。目的地は以前に決めた時から変わらず、西洋列強の欲望が渦巻く上海の地。

 表向きの理由として、用意したのは正教会の任務。嘘偽りでも捏造でもなく、実際に国からそうした依頼が来ていたのだ。だから都合が良いと、ニコルはそれを受ける事にした。

 

 それが年明けを待たずして、ニコルがこの英吉利の地を旅立とうとする理由の一つだ。

 

「ドイツ、イギリス、フランスに日本。ロシアを除いても四ヵ国が大陸の分割を行っているので、祖国としても他国に弱みは見せたくないと」

 

「危険じゃないんですか? 不安です」

 

「でしょうね。各国の対立だけではなく、裏の世界も近年は大きく動いています。直接の戦闘は必須ではないとは言え、一筋縄ではいかないでしょう」

 

 神妙に語るニコルが急ぐもう一つの理由は、間もなく徳壊が行動を再開すると言う原作知識があるからだ。

 

 1900年と言うのは、原作において重要な出来事が起きる年だ。主人公のウルムナフが母を失い、日向の血が宿す降魔化身術に目覚める年なのである。

 

 惨劇を齎す下手人の名は、“九天真王地行仙”徳壊上人。彼が再起しようとする時分に敢えて合わせようとする理由は、一つに行動を読み易いと言う物があるからであり――――だがきっと、それだけでもないのだろう。

 

「ニコル。私も――」

 

「いえ、クーデルカは此処に居て下さい」

 

 そんな少年の旅立ちに、クーデルカは口を挟もうとする。だが言葉が形となる前に、ニコルが冷たい声音で断じる。その理由の一つは、女を危険な場所へと連れて行きたくなかったから。

 

「これはロシア正教会に依頼された、国家からの依頼です。立場の異なる人間を、連れて行く訳にはいきません」

 

「けど……心配よ」

 

 だってニコルには守れない。少年は弱いから、年の離れた友人を失った。無力感を呼び覚ましたその出来事は、まだ記憶に新しい。

 まして今度は上海だ。其処に潜む邪仙の力は、確実にエレインを上回る。そんな場所にどうして、誰も守れないニコルが大切な人を連れて行けるか。

 

 だから任務を理由にして、少年はクーデルカの同行を拒絶する。そして一つの言葉を紡ぐ。不安そうな顔をした女に向かって、語ったのは本音であった。

 

「大丈夫。ちゃんと戻って来ますよ。また、ここに」

 

「ニコル」

 

 戻って来る。戻って来たいと思えている。貴女が居るこの場所が、今は帰るべき場所なのだと。胸に宿ったその感情は、果たして何と呼べば良いのか。

 少年にはまだ分からない。幸せになって欲しい女性を、大切だと感じている。小さな子どもに分かっているのはそれだけで、けれどそれだけは本当だ。

 

 だから言葉は真摯に響いて、女は異論を口に出来ない。納得は未だ出来ずとも、大切に思われていると分かるから。クーデルカは顔を俯けて、小さく頷くのであった。

 

 

 

 

 

「あのー、私達、空気になってます?」

 

「ロジャーさん。こういう時は、口を開いちゃ駄目ですよ。静かにです。しー」

 

 放置された老人は呆れた様に呟いて、太った少女は顔を真っ赤にして人差し指を口の前に立てている。

 そんな二人を置き去りにしたまま、少年は道を選び取る。選ぶとは、異なる何かを選ばぬ事。この瞬間に決まった未来を、少年はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 




次章から暫く、クーデルカさんはお休みです。なのでもう一つくらいヒロインイベントをさせてから、ニコル達は上海へと出立します。

尚、今回の話でストックが完全に尽きたので、次話かその次あたりで毎日更新はストップするかと思われます。
今後は不定期更新となりますが、それでもお付き合い頂ければ幸いです。



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第34話 約束

ヒロインイベントが二つ……来るぞ、遊馬!


 昼下がりの軽食を終えて、直ぐに始めた旅支度。半年分の旅装となれば、必要最低限の量だとしても相応だ。

 だが少年の身長では、大きな荷物は邪魔となる。さりとて懐に武器以外の物を入れ過ぎては、戦場で望んだ物を取り出せないと言う危険も増える。

 

 詰まりは、必要最低限ですらも持ち歩けないと言う現状。大半は現地調達に頼るしかなく、ならば準備が必要ないかと言えばそれも違う。

 持ち運べる量に限りがあるからこそ、選ぶ内容は慎重に。これは本当に必要か。これは代替が出来るのではないか。一つ一つと悩んでいけば、掛かる時間は長くもなろう。

 

 夕食の時間までには終わらず、結局ニコルが納得出来る形に納まったのは夜も更けてから。気付けば屋根裏部屋に差し込む光は、月の色へと変わっていた。

 

「ニャーニャーニャー」

 

 そうして何とか整えた旅支度。旅装の入った革製のボンサック。取り出し口を口紐で縛っただけの、簡易で丈夫な肩掛け鞄。それと戯れているのは、桃色の体躯をした蝙蝠。

 クーデルカの努力も虚しく、煙を伴う変身だけで残念な性格へと戻ったヒルダ。彼女は口元に食べかすを付けたまま、鼻歌混じりにニコルが苦労して整えた中身を弄っている。

 

「ニャーニャーニャー」

 

 絶対に必要な水筒を取り出して、代わりに盗難防止用の鎖が付いた本を入れる。様々な用途に使えるだろう清潔な布を抜き出して、代わりに修道院にあった曰く付きの宝石と入れ替える。

 身の丈よりも大きな旅装と戯れているヒルダの姿に、ニコルは頭を抱えて嘆息する。一体何をしているのかと、分からないし分かりたくもない。それでも問わない訳にはいかないだろうと。

 

「……で? 貴女は何をやっているのですか?」

 

「ニャ? 何って、旅の支度ニャ。ニコルってば、実用一辺倒で詰まらんニャ」

 

 人が苦労して選別したと言うのに、一体何をしてくれているのか。数時間の努力を無に還された少年が、苛立ちを抑えて問い掛けた言葉。対してヒルダは、自慢気に胸を張って返す。

 全く保存加工していない食品を革袋に詰めるのは、果たして旅の支度と言えるのだろうか。そんな疑問を抱きながらも、それ以上に無視出来ない事もある。故にニコルは、面倒そうな表情を隠さず言葉を紡ぐ。

 

「これじゃ、一緒に行くのに暇ばっかりニャ。もう少し、娯楽を楽しまなきゃ人生損ニャよ」

 

「色々と言いたい事はありますが、付いて来る気なんですか?」

 

「え? 付いて行っちゃ駄目かニャ?」

 

「……クーデルカに説明した内容は、貴女も聞いていたのでしょう」

 

「聞いてたニャ。けどヒルダちゃんは人間ではなく、吸血鬼なので問題ないニャ」

 

 ヒルダは形態が変わっても、その記憶は継続される。当然ニコルがクーデルカに語っていた、付いて来てはいけない理由も確かに分かっている。

 立場の違う人間を、国の仕事に同行させる訳にはいかない。その理屈は分かっていて、しかしヒルダはこう言うのだ。そもそも己は吸血鬼だから、立場の違う人間ではないのだと。

 

 重箱の隅をつついたような発言を受けて、ニコルは呆れたように息を吐く。痛む蟀谷に手を当てて思考するのは、曲解しているこの蝙蝠を如何にして説得するか。

 常人とは琴線が異なる吸血鬼だ。説得するには骨が折れるぞとまで考えて、直後にニコルは思い直す。別に説得する必要はないのではと、至った解は最早単なる開き直り。

 

「……ま、別に構いませんか。ヒルダなら、死んでも惜しくはありませんし」

 

「ニャっ!?」

 

 クーデルカの同行を拒んだのは、彼女の事を守れぬから。傷付いて貰いたくはないと言うのは感情で、大切にしているからこそ遠ざける。

 ロジャーに対して感じているのは、優秀な教師を失いたくはないと言う合理性。恐らくは死なないのだろうと言う信頼もあるが、態々戦地に巻き込もうとも思わない。

 

 対して、ヒルダはどうかと言えば。別にどうでも良いと言う一言で切って終わる。感情的にも合理的にも、死んで困る相手じゃない。寧ろ傍に居れば、いざと言う時の盾くらいにはなるであろうか。

 

「私としても、捨て駒が手元にあれば助かりますからね。上海に巣食うと言われる邪仙は、何でも世界最強クラスの実力者だそうで」

 

「ニャニャッ!?」

 

「いやぁ、自分から進んで犠牲になるとは。最近の囮と言うのは、実に身の丈を弁えている。どうせ死なないでしょうし死んでも惜しくはないので、いざとなったら派手に散ってくださいね」

 

「ニャァァァァァッッ!?」

 

 故に、ニコルは決めたのだ。この蝙蝠は、引き摺ってでも連れて行こうと。人の努力を無にした対価は、その身体で支払って貰うのである。

 邪悪な笑みを浮かべた少年の言葉に、叫び声を上げて床を転がり回る桃色蝙蝠。ニコルは彼女の胴体を片手で掴むと、残る片手で丸い小窓を開けた。

 

「ニャ、ニャ、何で窓を開けるニャ? 夜風は、冷たいニャよ?」

 

「何、大した事ではありませんよ。これから再度準備をしないとならないのですが、その前に邪魔者を排除せねば作業が進みませんからね。……折角、夜行性に生まれたのです。明日の朝まで、月夜の旅路を楽しみなさい」

 

「ニャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!?」

 

 掴んだ桃色をボール代わりに、大きく振り被ってピッチャー投げた。魔力で強化された剛腕に依って、ヒルダは星空の彼方へと飛んでいく。

 彼女が寝ている内に刻んだ魔術的な刻印がある限り、何処へ墜ちようと転移魔法で回収は可能。故に後で拾えば良いやと、少年は窓を閉じて鍵を掛ける。心は実に晴れやかだった。

 

 

 

 そんなネタにしかならないやり取りを終えてから、旅装に放り込まれた余計な物を抜いていく。黒猫の餌やシャルの絵本は兎も角として、石板を入れて彼女は何がしたかったのだろうか。

 逆さに振った鞄の中から出て来る物を部屋の隅へと投げ捨て、代わりに選別した道具を再びボンサックの中へ。詰め替え終わった所で聞こえてきたのは、屋根裏に繋がる梯子を上る音。

 

 ふと振り向けば、部屋に入って来たのは一人の女。湯上りなのか薄手の服装に、ダークブロンドの髪は濡れて解けたままとなっている。

 納得してはいなかったのだから、きっと来るだろうと思っていた。そんなクーデルカの来訪に、ニコルは素直な笑みを浮かべる。さて、何を口にしようかと。

 

「ねぇ、ニコル。少し、話をしても良いかしら?」

 

「勿論ですよ、クーデルカ。貴女を拒む、理由はありません」

 

 僅か悩んだ少年が言葉を紡ぐより前に、クーデルカが先んじる。彼女の問い掛けに肯定の意を返した後、ニコルは立ち上がってベッドへと。

 床以外に座る場所など、此処しかないのだから。腰を掛けた状態で、来訪した女を手招きする。クーデルカも頷いて、ニコルの隣に腰掛けた。

 

「……あのね、ニコル。あれから考えたんだけど、やっぱり私も」

 

「駄目ですよ。クーデルカ。貴女の事は連れて行けない。だって――――私では、貴女を守れない」

 

 少年の理由を考えた上で、それでもと口にしたクーデルカ。彼女の想いを受けてしかし、ニコルには肯定なんて返せない。

 だから表向きの理由で止まらなかった女に、伝えるのは単なる本心。包み隠さぬ感情を曝け出す以外に、説得の方法など浮かばなかったのだ。

 

「あたしを連れて行きたくないのは、あたしに死んで欲しくないから?」

 

「はい、その通りです。クーデルカ。私は貴女に、傷付いて欲しくない。死んで欲しくは、ないのです」

 

 嘘偽りなどは許さないと、目を見詰めて来るクーデルカ。その瞳を見詰め返して、語る少年の言葉に嘘偽りなどありはしない。

 そうとも、素直になろうと決めたのだ。お節介な友人から与えられた宿題に、ニコルは確かにそう返したのだ。ならば大切な相手に対し、嘘偽りなど向けたくない。だから――

 

「私は貴女を好いている。この好意が、親愛なのか恋愛なのかは分かりませんが」

 

 少年は瞳を見詰めたまま、心の内を真摯に語る。今も名前を付けられない熱は、しかし確かに胸の奥を焦がしている。

 だから真っ直ぐに、連れて行けない理由を語る。余りに無力な少年は、遠ざける事でしか大切な人を守れない。だから彼女に告げるのだ。

 

「それでも、貴女を好いている。だから、付いて来て欲しくない。連れて行く訳には、いかないのです」

 

「……本当、酷い男。そんな風に言われたら、付いて行きたくても行けないじゃないの」

 

 クーデルカは納得してはいなかったから、何度でも頼み込もうと此処に来た。大切だと思われる事は嬉しいが、ならば同じ位に大切だと思っている事も分かって欲しいと。

 そう言いに来たのに、気付けば丸め込まれている。好いた相手に真摯な瞳で言葉にされて、それでもと返す事など女には出来なかったから。本当に酷い男だと、少年に触れて呟いた。

 

「心配なのですよ。今の上海は魔境です。表も裏も、そのどちらもが」

 

 手の甲に触れる、クーデルカの指先。其処から感じる熱が大切だと思えば思う程、連れて行ってはならないと言う想いが強くなっていく。

 上海の地は魔境だ。表では大国同士が牽制し合い、裏には邪仙とその一味が潜んでいる。ニコル自身、生きて帰って来れる保証はないのだ。

 

 けれど行かねばならぬのは、少年には自由がないから。悪魔の玩具である彼には、強くならない限り未来がない。だから彼は、進み続けなければならない。

 

「彼の大邪仙と争うかもしれない。国家間の緊張が高まり、予想外の開戦が起こるかもしれない。そんな土地で誰かを守れる程に、私はまだ強くない」

 

 その道に、大切な人を巻き込めない。ニコルは今も弱いから、誰も守れない程に無力であるから、大切に思う人程傍に居て欲しくない。

 そう語る少年には、本当はもう分かっていた。この熱も、何時か手放さなければならない。クーデルカとも、何れは別れなくてはならないと。

 

「強くなりたい。そう望んで、選び取った道。其処に後悔などはありません」

 

 ニコルが大切に想う相手を、ラスプーチンが見逃す筈もない。ましてやクーデルカは、闇の鍵と言われる存在。手を出す価値は、余りに多くあり過ぎる。

 壊されてしまう。ルチアやベロニカ達の時と同じように。それに抗えるだけの力がニコルの内にはまだなくて、だから遠ざけないといけないなんて事は分かっていた。

 

 何せ相手は、人の記憶すら暴く魔術師だ。覚えている事すら許されない。サピエンテス・グラディオに戻る時が来たならば、全てを忘れて去らねばならない。

 触れ合う熱が温かであればある程に、泣きたくなる程に辛く、叫び出したくなる程に苦しい道である。けれどこの道を歩くと決めたのは、ニコラス・コンラド自身であるのだ。だから、後悔などはない。後悔なんて、許されない。

 

「だから、だけど――――貴女には、此処で待っていて欲しい。クーデルカには、此処に居て欲しい。貴女の元に、私は帰って来たい。……そう思うのは、卑怯ですかね?」

 

 だと言うのに、そんな言葉を口にしてしまう。唯でさえ弱いのに、もっと弱くなってしまう。分かっていて、少年にはこの熱を遠ざける事が出来ないでいる。

 温かいから。柔らかいから。愛おしいと、感じるから。だから己に言い訳して、もう少しだけ。仮初の自由が終わるまでには、まだ時間があるから。また此処に、戻って来たいと願うのだ。

 

「ズルい言い方だとは思うわ。心配しているのは、あたしも一緒だもの」

 

 そんなニコルの事情には気付けずとも、その心情にならば到達出来る。だからクーデルカは、伸ばしたその手で少年の肩を抱き締める。

 まるで、心に刻み込むかのように。忘れないでと、伝えるかのように。強く、強く、抱き締める。そうして数分程、抱き締めてから手を離した。

 

 離れていく熱に、名残惜しさを感じる。そんな弱さを恥じる少年の前で、己の首筋へと両手を伸ばすクーデルカ。銀細工を軽く弄って、首から下げていたペンダントを彼女は外した。

 

「一緒に居る事は諦める。けどせめて、これだけは持って行って」

 

「これは?」

 

「御守りよ。きっと貴方を、守ってくれるわ」

 

 そうして、ニコルの手に委ねる。付いて行く事が出来ないのならば、この形見が彼を守ってくれるようにと祈って。

 女の祈りが籠ったペンダントを受け取って、頷いた少年は女と同じように。首から掛けていたロケットを、自ら外して彼女に渡した。

 

「では、私からも……母の形見を、貴女に預けます。必ず戻る。その約束の、証として」

 

 父の形見のペンダントと、母の形見のロケット。二つを互いに入れ替えて、身に付け直すニコルとクーデルカ。

 互いに見合っているかと見比べ合って、触れ合える距離で笑い合う。そんな優しい時間の中で、膨れ上がるのは小さな欲望。

 

「ねぇ、ニコル」

 

 囁くような声音で名を呼んで、踏み出すのはクーデルカ。何時だって距離を縮めようと動くのは、(コナ)れた女の方である。

 名を呼ばれた少年が振り向いた瞬間、女は彼を押し倒す。想定外の行動に抵抗はなく、柔らかなベッドは小さく揺れた。

 

「好き合っているのなら、繋がりたいと思うのは自然な事よね?」

 

 何処か妖しげに微笑んで、瞳を覗くクーデルカ。息が掛かるような距離で、囁く言葉には熱い熱が籠っている。

 返答次第では、今直ぐにも一線を飛び越える心算で。見詰める瞳に返すのは、あの夜の焼き直し。今はまだ、応える事が出来ないから。

 

「……こういうのは、流石に。私はまだ、子どもなのですが」

 

 クーデルカを想うのならば、此処で応えてしまえば良い。父親なんて居なくても、子どもが出来れば彼女はきっと幸福となれるだろう。

 それが分かって、受け止められない理由は己の境遇。母に愛されてはいても、父には見向きもされていなかった。そんな己が、どうして父と同じに成れる。

 

 抱き返すのならば、全てを受け入れる覚悟を持って。だがニコルがラスプーチンに勝てない限り、ニコルと関わり続けた者に訪れる未来は破滅である。

 大切に思えばこそ、どうしてそんな未来を許せるか。だから女の瞳を見詰め返す事が出来なくて、目を逸らした少年が口にしたのは何時も通りの逃げ口上。

 

 幼さを理由に逃げている。そんな子どもの弱さが分かって、クーデルカは小さく笑う。このまま今日は逃がさないと、踏み込む事も出来たであろう。

 そうされれば、迷う少年はきっと流された。女の本気に、逃げるだけでは敵わない。それが分かって、しかしクーデルカは選ばない。望んだ絆は、そんな形ではなかったから。

 

「良いわ、今は見逃してあげる。その代わり、もう一つだけ約束よ」

 

 だからクーデルカは、一歩だけ。此処からもう一歩だけ踏み込む為に、少年の頬に手を当てる。そうして無理矢理、見詰め合う形へと。

 顔の向きを固定して、僅かな距離を更に詰める。月を背に、影が重なった。二人の間で交わされたのは、瞬きする間もなく終わるバードキス。

 

「もう少し大人になったら、この続きをしましょう?」

 

 初めての行為を奪った女は、妖しく微笑みながらに告げる。今はこれで良い。貴方の心に準備が出来るまでは、此処までで良い。

 だからこの先は、次の機会に。その時までに、受け止められる大人になってと。熱の籠った吐息と共に、クーデルカは想いを音にした。

 

「…………私は」

 

 女の想いを受けて、少年は返す言葉に躊躇う。もし叶うのならば、全てを伝えたい気持ちになった。けれど、そんな事は選べない。

 彼女を受け入れられない理由は、語るだけでも危険に繋がる情報だ。グレゴリオ・ラスプーチンは強大で、ニコラス・コンラドは弱いから。

 

「……いえ、そうですね。その時になっても、貴女の想いが変わらなければ」

 

 だから少年は心に決める。強くなろう。今よりも、もっと強くなろう。ラスプーチンを倒して、彼女に応えられるようになろう。

 そうは思えど、それは余りに現実的な話じゃない。残る自由時間は二年しかなく、それだけでラスプーチンよりも強くなれる筈もない。

 

 そんな事は分かっている。分かっていて、為せなければ失うしかない。そんな事、ニコルには分かり切っていたから。

 

(強く成れなければ、私の事など忘れて貰おう。貴女の心が変わったならば、約束は果たされなくて良い)

 

 そう、決めたのだ。記憶を消そうと。もしも強く成れずに終わるのならば、ニコルと言う存在が居た事を彼女に忘れて貰うとしよう。

 大切な人の記憶を書き換える。幸せになって欲しい女性の、想いを身勝手に踏み躙る。それはとても苦しい事だが、彼女が壊されるよりは余程良い。

 

 弱ければ何も得られない。強くなければ失うしかないのだ。それがニコラス・コンラドが、自ら望んで踏み込んだこの道の理。故に少年は心に誓って、女と約束を交わす。

 

「ええ、約束よ」

 

「はい、約束です」

 

 同じ言葉を口にして、しかし想いは遠ざかる。何時か触れ合う事を望んだクーデルカと、何時か別れる事を選んだニコル。

 少年が悪魔の玩具である限り、約束が果たされる事はない。そして悪魔は強いのだ。ならばこの夜の出来事は、きっと忘れてしまう事。

 

 それで良いのだと、ニコルは思う。期限を決めねば何時までも、甘えてしまいたくなる程に温かいから。きっとそれで良いのだと、ニコルは思った。

 

 

 

 

 




次話は影も形も出来ていないので、毎日投稿は本日で終了。

今後の投稿はある程度(上海編終盤まで)のストックが出来てから、逐次修正しながら上げていく予定なので大分先になると思われます。



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第35話 東方

__| ̄|○<マタセタナ

まさか、2年以上掛かるとは……


 

――1900年2月13日、露西亜はモスクワ~カザン間――

 

 

 極寒の地を行く列車に揺られて、東へ向かう少年は微睡の中に。道中の線路を閉ざす氷を溶かす為、大きな力を使ったからか。

 無防備に晒す寝顔はここ最近では珍しくない、安らぎに満ちた色をしている。されど彼が今に見る夢は、安らぎとは異なる情を齎すもの。

 

――あたしを連れて行きたくないのは、あたしに死んで欲しくないから?

 

 彼女と別れたのは、もう2ヶ月近く前のこと。片道3ヶ月と言う目算は外れて、未だ道行は半ば程。上海に着くのは、4月か5月か。

 異なる日取りを口にしたのは、単純に間違えただけなのだろうか? それとも或いは、一刻も早く彼女から離れたかったのか。

 

――彼の大邪仙と争うかもしれない。国家間の緊張が高まり、予想外の開戦が起こるかもしれない。そんな土地で誰かを守れる程に、私はまだ強くない。

 

 その言葉は本音である。嘘偽りなどは欠片もない。ニコルがもっと強ければ、失わなかったものは沢山ある。母や姉や年の離れた友人のように。

 徳壊と戦えば失うだろう。ラスプーチンを相手にすれば守れぬだろう。だが、本当に? 本当にあの時、ニコラス・コンラドが考えていたのはそんなことだったのか?

 

――私は貴女を好いている。この好意が、親愛なのか恋愛なのかは分かりませんが。

 

 その言葉は本心である。だがほんの少しだけ、小さな嘘が混ざっている。本当は既に気付いている、痛みに変わるこの感情を何と言うのか。

 それでも目を逸らしている理由は、本当に力が足りないからなのだろうか。記憶を消してまで遠ざけようとする理由は、本当に唯それだけなのだろうか。

 

――強くなりたい。そう望んで、選び取った道。其処に後悔などはありません。

 

 その言葉は本心である。ならば何故、目の前にある道を選ばないのか。気付いているのだろう。分かっているのだろう。何故に今も見ぬ振りをしている。

 己の中で、己が叫ぶ。そんな叫びに蓋をして、ニコルは今日も微睡んでいる。一体何時まで、目を逸らしていられるだろうか。幼いままで居られる時間はきっと……。

 

――もう少し大人になったら、この続きをしましょう?

 

 そう、長くはないのだろう。だからせめてと願うのだ。もう少しだけで良い、今は優しい夢を見ていたい。

 

 

 

「……ああ、寝ていましたか」

 

 微睡から覚めて、少年は小さく頭を振る。窓の隙間から入り込む風は、息が白くなる程には冷たいもの。

 少し冷えるなと口にした所で、湯気を立てるマグカップが差し出される。感謝と共に受け取って、ニコルは微笑む少女に目を向けた。

 

「失礼、少し気が抜けていたようです」

 

「寝てたって言っても、少しだけですよ。さっきまで大変そうだったんですから、もう少し休んでも良いと思います」

 

 ふくよかな少女――ヒルデガルドが語るように、ニコルが微睡んでいたのは十分にも満たない僅かな時間だ。

 道中の線路を閉ざしていた氷を溶かすため、列車が止まる度に乗り降りを繰り返している少年の疲労を思えば短過ぎる程。

 

 そんなヒルダの気遣いに、ニコルはマグカップに口を付けてから首を振った。

 

「いいえ、この程度の疲労で根を上げるなど、鍛え方が足りてません。未熟と自省するしかありませんよ」

 

 秘密結社サピエンテス・グラティオは、大きな影響力を有している。とは言えあくまで西欧中心、亜細亜方面への影響力は弱いというのが実情だ。

 当然、大規模な設備を必要とする転移術式など東側には存在しない。上海へと向かうには、陸路か海路か空路か、常識内の移動手段を使わねばならないのである。

 

 故にこうして、ニコル達は列車に揺られている。本来シベリア鉄道は、冬季には休みとなる物。それを結社の権限で無理に動かしたのだ。

 冬季に鉄道を動かさぬのは、レールが凍って動かせなくなるから。それを無理にと押し通すなら、常識外の力を以って道を塞ぐ氷を退かさねば話にならない。

 

 少年は出来ると判断して、運転手を始めとする多くのスタッフを巻き込んだ。ならば彼が最初に根を上げるのは、筋が通らぬ話であろう。

 

「所でヒルダ、語学の勉強は進んでいますか?」

 

「あ、あはは。え、えーっと。中国語って、難しいですね」

 

 自身に厳しい少年は、相応の努力を他人にも求めてしまう面を持つ。特に期待していればこそ、要求は重くなっていく。

 

 ヒルダに彼が与えた課題は、彼が数日程掛けて自作したテキスト。上海語を中心に、他の地域でも使える言葉を幾つか載せたもの。

 3ヶ月以上、列車に揺られて移動するのだから、その時間を無駄にするべきではない。故に彼は、覚えるようにとヒルダに渡した訳である。

 

「人の心配をする前に、貴女は先ず自分の心配をするべきです。日常会話程度は出来ないと、上海に着いた後で困りますよ」

 

「うー、分かってはいるんですけど」

 

 当たり前のように中国語を(それも上海語だけでなく北京語や広東語も)話せるニコルに対し、ヒルダの覚えは正直悪い。

 それは太った彼女が要領良く学べるタイプではないというのも理由の一つなら、痩せてる時の彼女にやる気が全くないのも同じくだ。

 

「……まあ、時間はまだあります。口煩く言うのは止めておきましょう」

 

 微笑みを浮かべて語る少年は、気遣うような仮面の裏でヒルダに向ける期待値を下げる。細い方には端から欠片も期待などしていないが、太い方もこういう面では使えないかと。

 元より肉盾となってくれれば良い。その程度の思惑で連れて来たのだから、それ以上を要求するなど身勝手な話。そう勝手に期待して、そう勝手に落胆する。こうした所は、彼の明らかな悪癖だろう。

 

「折角です。気分転換に、窓の外でも覗いてみますか」

 

 そんな濁った内心を覆い隠して、ニコルは列車の窓を開ける。吹き込んで来る雪が混じった風の向こうに、広がっていたのは一面の銀世界であった。

 

「わぁ、何処までも真っ白な景色が続いてます」

 

 幻想的な光景に、手を叩いて燥ぐ少女。緑を失くした木々が入れ替わる以外には代り映えのしない景色だが、しかし美しく物珍しい。

 400年もビストリッツの蒼き城で過ごしていたのだ。外の世界を大して知らないヒルダにとって、流れる雪化粧は称賛するに値する景色である。

 

(恐らくは原作のアリスも、南満州鉄道に乗る前はこの路線を使っていたのでしょうね。そう考えると、多少は感慨もありますか)

 

 そんな少女を横目に見ながら、ニコルが思うは原作知識(そんなこと)。殆ど記録としてしか残っておらずとも、多少のミーハー気分は生じるのだろう。

 彼の前世と言うべき存在は、シャドウハーツと言う作品のファンであったから。だからこそ全く同じ旅程を辿れない現状は、聊か残念にも感じるものである。

 

(まだ満州に鉄道はありませんから、その点が少し片手落ちですね。……まあ、ミーハー気分で聖地巡礼など、私の柄ではありませんか)

 

 シベリア鉄道。9年前に開発が始まったこの路線は、史実であれば16年後に完成する鉄道だ。現状では全線開通には至っていない。

 現在ではカザンまでしか路線は続いていないし、そも満州鉄道の前身である東清鉄道ですら完成は来年の話。同じ旅程など、望めよう筈がない。

 

「そう言えば、ニコルさん。この鉄道さんは、一体何処まで連れて行ってくれるのですか?」

 

「ああ、言い忘れていましたか。一先ずはウラジオストクまで、その後はスンガリに向かいます。ロシア政府の依頼を果たす為、ですね」

 

 苦笑を浮かべていたニコルに、振り返ったヒルダが問い掛ける。目線を合わせた少年は、そう言えば伝えていなかったかと説明を始めた。

 

「現在、祖国は鉄道の建設に力を入れています。その内の一つがこのシベリア鉄道であり、4年前から開発が始まった東清鉄道もまたその一つです」

 

 大規模な鉄道開発計画が始まったのは、ニコルが産まれた2年後の事。水路での移動を行っていた当時は、荷物を運ぶのにも2ヶ月半は必要となると言う不便さであった。

 故に皇帝アレクサンドル3世は大規模な国家事業を決定し、1891年にはニコライ2世に勅諭を与える。ウラジオストクにおける宣揚。後の世で言う、シベリア鉄道定礎式の盛典である。

 

 現皇帝ニコライ2世が、皇太子であった頃から今も続く国家事業。そう語ればこの大事業に、露西亜がどれ程に力を注いでいるかが分かるであろう。

 

「チタから満州里や哈爾濱を経由し、ウラジオストクに合流する予定で建設されている東清鉄道。ですが、如何にも開発が進んでいないそうなのですよ。曰く、スンガリ・ウラに怪異が出たと」

 

 アムール川最大の支流である松花江(スンガリ)に、怪物が現れ鉄道の建設を妨害している。国家事業を阻まれた露西亜としては、軽視出来ない問題と言う訳だ。

 避けて通るには計画の見直しが必要であり、既に巨万の富が動いている事業に変更を加えるのは難しい。ならば排除してしまえと、正教会に依頼が回って来たのである。

 

 元々上海へ行く心算であったニコルにとって、東方まで足を延ばす理由付けとしては、実に都合の良い依頼であった。故に彼は、その依頼を受けたのだった。

 

「なので上海に向かう前に、スンガリで一つ仕事を終えねばなりません」

 

「成程。それでその、ウラジオストクと言う場所から、スンガリと言う所まではどの位の時間が掛かるのですか?」

 

「何、直線距離にすれば大した事はありません。精々、500キロ程度。徹夜で歩き続ければ、一週間も掛からない距離です」

 

「え? そ、そんなに、ですか」

 

 鉄道網が普及していない現状、移動の手段は限られる。物資輸送に用いられる船などの利用も選択肢の一つではあったが、徒歩より時間が掛かる。それに船を借りれば、足手纏いとなりかねない一般人を連れて行かねばならなくなる。

 何処かで馬を借りるか購入して、現地で乗り捨てると言うのも微妙だ。生き物を捨てると言う行為が、ニコルにとっては好ましくはない行いだから。そも、高価な家畜が売られているとも限らない。となれば、徒歩で移動するより他にない訳だ。

 

「勿論、一週間で歩けとは言いませんよ。予定では20日程度掛けて、ゆっくりと移動する心算です」

 

「それでも、20日も掛かるんですよね。私、歩けるかなぁ」

 

 20日で500キロとなれば、単純計算でも毎日25キロは歩かなければならない。一時間で3キロ進んだとしても、毎日八時間近くは歩かなければならない距離だ。

 如何に吸血鬼とは言え、楽な道程ではないだろう。着いて行けるだろうかと不安げに瞳を揺らすヒルダの姿に、ニコルは思考を回せば良いのにと嘆息しながら助言した。

 

「疲れた時は、蝙蝠にでも成れば良いでしょう。小動物が肩や背に乗った所で、大して苦にはなりませんよ」

 

「結構、優しいですよね。ニコルさんって」

 

「……さて、何の事やら。話を続けますよ」

 

 言外に背負ってやると伝える少年に、ヒルダは柔らかな笑みを浮かべる。半年を越える付き合いの中で、彼女も分かって来ているのだ。

 ニコルは自他に厳しい性格で、他者と距離を取りたがる少年である。だが同時に、不器用ながらも優しい一面も確かに有しているのだと。

 

 キラキラと輝く瞳で、真っ直ぐに感謝の意を示すヒルダ。純粋無垢な光に当てられたニコルは、しかし中身は溝川だ。

 必要なら笑って切り捨てるし、盾として使い捨てることも厭わない。そんな内心を微笑みに隠したまま、彼は言葉の続きを紡ぐ。

 

「シベリア鉄道も建設途中。何ヶ所かで工事の為に一時停車を繰り返しますから、スンガリに到着するのは4月の半ば頃になるでしょう」

 

 少年少女を運ぶ鉄道が全線開通を迎えるのは、これより凡そ十六年は未来の話。車両自体の性能も今は低ければ、移動には一月以上掛かるであろう。

 それだけの時間を掛けても、最終目的地である上海までは道の半ばにすら至らない。スンガリに程近い哈爾濱から大連までの距離は、800キロを超えるのだから。

 

「スンガリの怪異を片付けた後は、そのまま南下して大連に。船で黄海を渡って、上海に到着するのは5月中となる予定です」

 

「12月に英吉利を出発したのに、向かうだけで5ヶ月も掛かっちゃうんですね」

 

「まあ、仕方がないことです。諦めて観光を楽しんだ方が、建設的だと言えるでしょうね」

 

 出発前には片道3ヶ月以上と語ったが、実際には片道で半年近い時間が掛かる事となる。それを素直に口にしなかったのは、一体如何なる理由であったか。

 往復一年となれば、彼女を説得出来そうにないと考えたからか。或いは、それとも――と思考がぶれた所で首を振る。今は考えるべきではないと、彼は結論を口にした。

 

「ともあれ、今月中はこのまま鉄道内で過ごす事になります。運動量も少なくなりますから、コンパートメント症候群には気を付けてくださいね」

 

「わ、分かりました。良く分からないですけど、頑張ります」

 

 ヒルダに対しそう忠告してから、ニコルは懐より書を取り出して開く。明らかに懐に入るとは思えない分厚い学術書は、ロジャーが過去に執筆した物。

 旅行用のボンサックの中に入れていた物を、服の裏地に刻んだ魔術刻印から取り出したのだ。これもまた空間魔術の応用。この一年で、ニコルが得た技術。

 

 ボンサックの底にある術式と、服の裏に刻んだ術式がリンクしている。故に懐から鞄の中身を取り出せるし、逆に懐に入れるだけで鞄へと道具を仕舞える。

 勿論、準備した物はこれだけではない。例えば鞄の中に百枚単位であるコイン。使い捨てだが一度だけ転移魔法を発動出来るという、ニコルにとっては傑作の一つ。

 

(鉄道であと一ヶ月。折角の時間なのですから、研究を進めましょうか。少し突き詰めれば、実用に足りる物も幾つかありますからね)

 

 そんなコインを始め、この一年でニコルは幾つかの道具を作り上げている。その全てが実用に足ると言う訳ではないが、有用な物も多少はある。

 そういった物を見直して、突き詰めた上で作り直す。一月と言う時間があれば、それも不可能ではないだろう。雛形ならば、既に出来てはいるのだから。

 

(魔界777ツ能力(ドウグ)泥の指輪(イビルディバーシー)。……現状ではマナリファインの互換品、と言った所でしかありませんが)

 

 学術書を読み解きながら、片手で弄るは髪飾り。縦に3つ並んだ小さな逆三角形は、中途半端な出来に収まってしまっている道具の一つ。

 その効果は砕いて口に含む事で、消費した魔力を回復すると言う物。言ってしまえばマナリファインの互換に過ぎず、マナリーフやマナシードでも十分代用が出来てしまう程度の代物だ。

 

 とは言え、それも現状での話。これは使用者の魔力を溜め込むと言う性質を持つ装飾品なのだから、手を加えれば或いは有用な物に変える事も出来るだろう。

 

(例えば装備するアクセサリーとして、内側の魔力を直接引き出せるように出来れば――――)

 

 マナリファインとの違いは、内側に込められた魔力が自身の物であるのか否かと言う点。それを回復に使うのではなく、魔力タンクとして使用する事が出来るのならば。

 MPを全回復するアイテムの互換品は、MPの最大値を上昇させる装飾品の上級品と化すだろう。陰陽師の耳輪の上位互換だ。理論上は一つ装備するだけで、MPの最大値を二倍以上に引き上げてくれる事だろう。

 

(ゲームとは違うのですから、MPの上限に限りはない。9999だろうと99999だろうと999999だろうと、理論上は構成可能。後は何処まで、理論値に近付けるか。私自身の努力次第、という所ですかね)

 

 そして、これは現実だ。武器や防具は一つまでしか装備出来ないと、そんな理屈はないのである。泥の指輪の数と質を増やしていけば、その分だけ出来る事は増えていく。

 或いは参考とした脳嚙ネウロのように、より小型化した泥の指輪を大量に装備すると言うのもありだろう。知識を増やし技術を磨き、果てに人の身では得られぬ程の魔力を得る。その道筋は、既に見えていたのである。

 

「私はまだ、強くなれる」

 

 書物の文字を追いながら、満足そうに笑みを浮かべる。ニコラス・コンラドは、力の信奉者である。狂信者とさえ、言ってしまえるかもしれない。

 弱かったから、失った。弱かったから、守れなかった。強ければ、失わない。強ければ、守れる。力さえあれば、何だって出来る。心の底から、少年はそう信じている。

 

 少年は学び続ける。誰よりも貪欲に、何処までも真摯に。その情熱は狂気に等しい。故に破綻しているのだ。彼は強くなる為ならば、何もかもを犠牲にしてしまえる。

 今はまだ気付いていない。気付きたくないと目を閉じている。その事実にも、きっと直ぐに気付くであろう。何故ならば少年は、何よりも強さだけを追い求めてしまうから。

 

「進むべき道が見えていると言うのは、とても気分が良い物です」

 

 ニコルが目を逸らす真実に気付くのは、まだ先の未来に起きる話。遠いとは言わないが、直ぐ近い訳でもない。そしてそうなるより前に、少年は出逢う事になるだろう。

 

 其は写し身。鏡合わせに映る背中の如く、或いはコインの裏と表の如く。似ているけれど違う物、同じだけれど似てない物。決して目を逸らす事など許されない、宿命(サダメ)と言うべき存在。

 

 

 

 

 

 運命の男と出会うまで、あとわずか……

 

 

 

 

 




Q.ニコル(異なる日取りを口にしたのは、単純に間違えただけなのだろうか?)
A.作者の間違いです。3ヶ月で着くのはもう少し先の時代の話で、この当時の交通状況を考えると無理でした。
 結局正確な時間は分からなかったので、当時の主機出力などからざっくり想定。なのでまだ、何かミスがあるかもしれません。


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第36話 宿命

所詮ニコル

推奨BGMはFate(加藤との決別時に流れたやつ)です。


 

――1900年4月15日、中国は哈爾濱市近郊――

 

 

 旅路の途中で冬も明け、残寒の厳しさも和らいで来た頃。桃色の小さな蝙蝠を引き連れて、年若い少年は川縁を歩いている。

 雪解け間もない大河を挟んで遠く、向こうの岸に居並ぶのは露西亜様式の建造物群。哈爾濱市に続く松花江の大橋を、渡る心算はしかしない。

 

 橋梁技師の指揮の下、線路の敷設に従事する国籍様々な作業者達。怪異が現れると言う危険な場所で、それでも作業を進めるのは如何なる故か。

 ニコルが橋を渡らぬ理由は、そんな彼らの安全確保を重点した為。大橋を渡り哈爾濱市に入るより前に、松花江に潜む怪物を退治しようと言うのである。

 

「しっかし、あんま綺麗な川じゃないニャ」

 

 橋の掛かる大河に沿って、ゆっくりと歩を進めるニコル。ボンサックを担いだ少年の左肩から、飛び立った桃色の蝙蝠が小さく呟く。

 くるりと宙を舞いながら、川辺に近付き水面を覗く。流れる水は透き通ってなどおらず濁っていて、お世辞にも褒められた水質をしていない。

 

 折角大きな川なのに、これでは余りに勿体無い。一頻り飛び回ってから、水に触れずにニコルの下へと。

 態々荷を負った右肩へと音もなく留まる蝙蝠に苦笑を漏らして、ニコルはボンサックを左肩へと担ぎ直して言葉を返した。

 

「急速な発展の弊害ですね。哈爾濱市はこの数年で、大きく様相を変えたそうです」

 

 小さな肩にヒルダを乗せたまま、少年は川の水を片手で掬う。指の隙間から滴り落ちる水滴が、掌に残すは泥にも見える不純物。

 工業化の弊害。濾過されずに垂れ流された排水が、本来ならば透き通っていた筈の液体に色を付ける。僅かに残った悪臭は、人の罪とも言える物。

 

「4年前の露清密約。露西亜による東清鉄道建設が始まると同時に、哈爾濱市の価値は大きく向上しました。交通の要所となった訳ですからね」

 

 拡大政策を取る帝政露西亜。彼の国が極東に作り上げた、軍事と商業における一大拠点であるウラジオストク。

 極東方面における最大規模の都市へと物資を運び込む際の中間地として、満洲里一帯の土地はとても都合が良かった。

 

 故に日露戦争の後、日本に占領された領土を返還させる代償に、露西亜は満洲への駐在と治外法権を認めさせたのだ。

 そうして露西亜の手によって、哈爾濱の町は大きく作り変えられていく。だが余りにも急激過ぎる発展は、当然代償を伴ってもいた。

 

「多国籍な人種が流入し、自然環境を考慮しない急激な開発が進み、このような形となった。人心すらも顧みない開拓によって、この国は大きく荒れています」

 

 橋を造り、鉄道を敷き、建物を建てる。自然環境には配慮せず、土地の慣行なども軽視して、実利を求めて食い荒らしている列強諸国。

 不平等を押し付けられて、これまでの生活を壊されて、諸国から食い物とされている大陸。扶清滅洋と、怒りの声を上げるのも無理はない事なのだろう。

 

「国が荒れれば、壊れるのは人心や治安だけではありません。世の乱れは、オカルトの世界にさえも大きな影響を与えてしまう」

 

 だが、だからこそと言うべきか。彼らはどちらも、頓着さえしていない。壊された瓦礫に汚される水が、争い流れ出た血に濡れた土が、晒された死骸の腐臭に満ちた風が、如何なる想いを抱くのか。

 

「例えばもしも、古くに神と呼ばれた異形が居たならば。怒り狂うのも当然でしょうね。それだけの事を、人はしてきた」

 

「か、神って……ニコルはそういうのが、暴れているって思うニャか……?」

 

「まあ、大河で災害。それも国家事業を妨害出来る程となれば、生半可な水妖とは思えませんからね。更に言えば、この国の惨状です。神の怒りの一つ二つ、起きても不思議じゃないでしょう」

 

 古くは自然災害を、超存在と見立てて祀った神話伝承。現実ならば唯の信仰に過ぎなくとも、この世界ならば何が居てもおかしくない。七福神や悪魔の存在こそ、その証明。

 

 神と称される程の妖物異形は、古来は多く在ったのだろう。そして祀り崇める事で抑えられていた存在が、この惨状で歪まないと言う道理もない。多くの物が穢されて、祈りも届かなくなれば、神であろうと堕ちるだけ。

 

「中国で水神となれば、想定するべきは龍の類ですかね。下手な小妖よりも巨体である分、与し易いと言えるでしょうか。一定の実力があれば、の話ですが」

 

 そんな嘗て神と呼ばれた信仰対象が、零落した怪物と化して暴れているのか。或いは神と呼ばれるだけの力を持った、唯の怪物が暴れているだけなのか。

 恐らくはそのどちらかであると、ニコルは知りえた情報から推測している。そしてどちらであったとしても、構いはしないと割り切っている。どちらであっても変わらぬから。

 

「……神様殺して平気なの?」

 

「何、所詮は人が付けた定義の違い。神も悪魔も妖怪も、人外と言う一点においては同じ物。人に害を為すならば、適切に処分させて頂くだけです」

 

 堕ちた神など、魔物と何も変わらない。汚れた掌を布で拭って、微笑むニコルはそう断じる。ヒルダが抱くような戸惑いは、この少年の内にはない。

 どうせ異形の怪物など、人の世が発展すれば否定されて消えていくもの。3年後にはこの鉄道も完成するのだ。それ即ち、3年後には神の如き水妖も消えていたということ。

 

 これは最期の足掻きなのだろう。人の発展に擦り潰されて、潰えていく異形たちの叫びであるのだ。だがそれに気付いた所で、一体何が変わると言う。

 ニコルが何もしなくても、結局何も変わらない。嘗て神と称されたモノでも、今の世ではその程度。其処に抱く感情など、意外と弱いんだなと言う感想だけ。

 

「正当な怒り。当然の主張。妥当な行為。だとしても、力が無ければ通らない。奪われるのは、弱いから。弱者に何かを望む事など、決して許されはしないのです」

 

 或いはアポイナの塔からマリスが解放されて、怪異が蔓延る世となれば結果も変わるのだろうか。そんな風にも思うが、態々試す理由もない。

 力が無ければ、何も為せない。弱者には何一つとして、権利などありはしないのだ。それは人であろうが、神であろうが、変わることなき絶対真理。

 

 少なくともニコルは、心の底からそう信じている。力こそが絶対的な指針であるのだと、幼き頃から刻み込まれた経験が彼の心を歪めているのだ。

 弱者には、権利などない。弱き者に許されるのは、嘆き苦しみ後悔しながら死ぬことだけ。それが嫌だと言うのなら、力を求めて変わらねばならない。

 

「何か、それ。悲しいニャ」

 

 彼の肩に留まるヒルダは、その言葉に何とも言えない不快を感じる。それは違うと否定したいが、否定の言葉が浮かばない。そんな胸が詰まるような不快さを。

 だから口に出来たのは、そんな些細な感情論。呟くような言葉に説得力などなかったから、ニコルは何も追及しない。否定も肯定もする価値なしと、黙って流すだけである。

 

 そうして彼らは、それ以上の言葉を交わすこともなく其処に着く。気付けば足が止まっていた理由は、目を見開かんばかりに驚愕したから。

 

「え? な、何ニャ? 何で?」

 

 桃色の蝙蝠は、その光景を前に言葉を纏められずに居た。元より軽い頭で語彙力など不足しているが、戸惑っているのはそうした理由な訳がない。

 巨大な生き物が居る。民家どころか鉄道よりも大きな怪物は、鰐に似た顔と蛇に似た細長い胴を持つ。ニコルが想定した通り、長く生きたであろう龍。

 

「もう死んでるニャ!?」

 

 それが陸に揚げられて、緑の枯れた木に突き刺さって死んでいる。まるで百舌鳥の早贄だ。獣が狩りの成果を誇るかのように、死骸を風に晒している。

 今も死骸が纏うマリスは、ニコルが想定していたよりも大きな量。死して尚もそれ程の力を宿す龍だ。真面に戦ったならば、苦戦は免れなかっただろう。

 

 そんな巨大な怪物がしかし、ニコルの眼中には入っていない。そんな路傍の石よりも遥かに、重要な相手が其処に居たから。

 

「ああ、これは運命か」

 

 龍が晒す死骸の向こう側。川辺で小さな焚火を燃やして、その火に当たっている姿。火で炙っている肉は、巨大な龍から奪ったものか。

 ニコルの視線に気付いて立ち上がり、頭を抱えて苦しみながら、その姿を異形に変えていく。そんな光景を見なくとも、彼が誰であるかなんて分かっていた。

 

「いいや、ここは彼に合わせて、宿命とでも言いましょうか」

 

 ニコラス・コンラドにとって、その男は特別な相手である。決して忘れられない、決して見逃せない、意識せずには居られない人物。

 

 最早掠れて思い出せない前世においては、唯只管に憧れた。画面を介してその活躍に目を輝かせ、その最期に何度も何度も涙した。

 シャドウハーツと言う作品において、最も好きだと断言出来るキャラだった。そんな男の感情はなくとも、そんな男の記録ならば彼にはある。

 

「神殺しの男。くくく、奇縁ですね。こういう形で出会うのが、私達の宿命だったようだ」

 

 原作のニコルにとって、その男は何よりも執着した相手であった。己の手で殺さねばならない。そうでなければ、一歩たりとも進めはしないと。

 嫉妬し、憎悪し、憤怒した。お前が居るから、お前が居なければ、唯それだけを叫んで追い掛け続けた。そんなニコルの、本質は何も変わらない。

 

 この世界において、異界の知識を得た少年は激情を抱いた。彼の本質は、原作の彼と何一つ変わらないから抱いた情は同じもの。

 

 神を殺して世界を救った。その功績に嫉妬した。本当ならばその賞賛は、ニコラス・コンラドこそが得る物だったのに。

 何度戦っても勝てない事実に、その嫉妬は憎悪へ変わった。どうしてニコラス・コンラドは勝てないのだと、その記録を見て歯痒く思った。

 どうしようもない現実に、もう憤怒するしかなかった。幼くして母を失い、唯一人で生きてきたのは同じなのに。どうしてお前は己とそんなに違うのか。

 

 シャドウハーツと言うゲームの知識を前世の記録を見ることで知った時点で、ニコルは既に原作の彼と同じ思いを男に対して抱いていたのだ。

 だから己の無力を知る度に、何かを失い続ける度に、心の何処かで思ってきた。あの男ならばきっと、こんなことにはなっていなかった筈なのだと。

 

 煮詰まり続けたその感情は、最早信仰にも等しい程に。憧憬と嫉妬と好意と憎悪と歓喜と憤怒が入り混じった、燃えるような瞳でニコルは男の姿を睨む。

 

「な、何ニャ、アイツ!? 人、じゃない!? てか顔怖っ!? 肌も肉もない骸骨ニャッ!?」

 

 思わずと零れてしまったニコルの言葉に、弾かれたように顔を向けたヒルダもそれを見る。巨大な龍の死骸に目を奪われていて、気付けなかった小さな影。

 身長は、ニコルとそう変わらない。だが違う。人ではない。捻じれたその手が、馬の蹄にも似た足が、背に負う巨大な翼が、何より血肉も皮もない顔が、それが人ではないと示している。

 

「冥刹皇」

 

「え? ニコル、あれ知ってるかニャ!?」

 

 角の生えた異形。神を喰らう、悍ましい悪魔。其処に佇む怪物の、名を呟いた少年。ニコルは絶えず、彼の事を見詰めていた。

 ヒルダは気付かない。龍の死骸に見向きもせず、悪魔の姿だけを見詰め続けていたニコル。その内にある狂気と執着に、他者が気付ける筈もない。

 

「ふ、ふふふ、くはははは」

 

 自然と、その口元が弧を描く。腹の底から湧き上がる想いが、溢れ出して止まらない。その衝動を抑えずに、僧服の子供は嗤う。

 思わず動揺して振り返るヒルダや、怪訝そうに視線を向ける悪魔に対し、取り繕おうとも思えない。それ程の激情が、その小さな胸に渦巻いていた。

 

「え? え? に、ニコル?」

 

 彼とニコルは、実は似ている。その境遇が、その生い立ちが、とても良く似ている。まるで合わせ鏡のように。

 

 ニコルも彼も、母の手で育てられた。そして二人とも、幼い時分にその愛しい人を亡くしている。

 ニコルも彼も、父の背を目指して歩いた。だが後を継いだ男と違って、ニコルには何も残らなかった。

 

 似ているのに、しかし違う。同じなのに、男には出来てニコルには出来なかった。そうした嫉妬と同族意識が相まって、歪んだ結果があの執着。

 憑依したニコルは、そう考える。己の破滅を回避する為に、何故執着したのかと何度も何度も自問して来た。だからこそ、ニコルは今の自分の状態にも気付いている。

 

「下がっていなさい、ヒルダ。距離を取って、近付いてはいけませんよ。危険ですからね」

 

「ニコル……」

 

 分かっていて、もう抑える気はなかった。だからボンサックを投げ捨てて、その歩を宿命の男の下へと進める。まるで鏡合わせのように、彼も同じ歩調で近付いてくる。

 胸を突き上げる激情は、強く強く強くなっていく。憧憬も嫉妬も好意も憎悪も歓喜も憤怒も、何もかもが溢れ返って収拾なんて付かない程に。この宿命に、彼は嗤った。

 

 無数の激情が混ざり合い、自問自答の中で熟成された。歪み切ったその感情は、言語化すらも難しい代物。それが唯質量だけを増大させて、今この場に爆発しようとしている。

 純粋さとは対極に位置する混じり気しかない激情は、しかしだからこそ他の何に向けるよりも重いもの。そうとも、ニコラス・コンラドにとって、彼こそ一番で特別なのだ。

 

 或いは得られたかもしれない絆を目の前で嗤いながら砕いて、己と言う存在を完膚なきまでに歪めてみせたグレゴリオ・ラスプーチンよりも。

 或いはニコルと母を救えた筈なのに、救おうという素振りすら見せてはくれなかった実父であるニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフよりも。

 

 或いは在りし日にニコルに愛を教えて、幸福になってと抱き締めてくれた。少年が救えず別れねばならなかった母よりも。

 或いはこの今もニコルの事を想ってくれて、約束を交わした彼が戻って来る日を待ち続けているクーデルカ・イアサントよりも。

 

 これまでの全てよりも強く強く、この男の事を想っている。勝ちたいのだと。負けられないのだと。踏み躙って、上に立たねば自分自身を保てないのだと。

 故に出会えば、こうなる以外に道がない。そうと分かっていたからこそ、探そうとはしなかった。だが出会ってしまったならば、それが宿命(サダメ)と言う事だろう。

 

 殺さねばならない。生かしてはおけない。その存在は許せない。踏み躙って勝ち誇らねば、己は己で居られない。ならばこそ、少年はその手に剣を執るのだ。

 

「変身を解け、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガ!」

 

 邪魔な蝙蝠(ヒルダ)を振り払って、満面の笑みでその名を呼ぶ。第一声と放った言葉は、奇しくもドンレミで起きた邂逅のそれと同じ物。

 人間に戻れと口にしたのは、原作に倣うべきだと感じたからか。いいや、或いは唯単純に、その顔を見たかっただけかもしれない。そんな下らない執着心。

 

 そんな言葉を聞いた悪魔は、片手で頭を抱えてから光に包まれる。彼の体から発した光が収まったその後に、立っていたのは先とは全く異なる姿。

 

「……誰だよ、お前」

 

 白い光の中から現れたのは、血のように赤い瞳をした少年。首から下げた勾玉風の装飾と、丈の合わないコートが特徴的か。

 

 ニコルは知っている。羽織るコートの丈が何故、彼に合っていないのか。勾玉風のタリスマンに、一体どんな意味があるのか。彼の事なら、ニコルは全て知っている。

 ウルは知らない。目の前で嗤う少年が、何故に己の名を知るのか。ウルは知らない。態々変身していたのは、素性を隠す為だと言うのに。無意味になった理由も知らない。

 

「ニコル。ニコラス・コンラドだ。会いたかったぞ、ウルッ!」

 

 見知らぬ他人に名を呼ばれ剣を向けられ、警戒心を露わとする少年。唸る獣のように睨み付けるウルムナフの問い掛けに、ニコルは深い笑みを浮かべて答える。

 会いたかったと唐突に言われても、ウルは混乱するだけだ。訳が分からないと戸惑いながら、出来ることは身構えるだけ。そんな少年へと向かって、ニコルは告げる。

 

「先ずは――その力、見せて貰おう!」

 

 同時に大地を蹴り上げて、一拍の後には間合いの内へ。銀閃が空を走り、赤き雨が大地を濡らす。此処に、宿命は交差した。

 

 

 

 

 




転生者が混じっていようが、原作知識を有していようが、所詮ニコルはニコルである。
奴はウルムナフの熱狂的な信者にしてストーカーにして敗北者じゃけぇ。


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第37話 激闘


ニコルは所詮ニコルなので、亜細亜編はウルが主人公。
推奨BGMはAstaroth。ウルが主人公なので、ニコル戦の音楽です。


 

 ウルムナフにとって、それは余りにも唐突な出来事であった。理不尽、と言っても良い。だがそれは今、目の前にある現実だけに限っての話ではない。

 

 理不尽続きだ、と嘆きが僅かに脳裏を過ぎる。しかし目下に迫る脅威を前に、浸っている余裕などはない。

 襲い掛かって来る敵を前にして、彼は一歩後退することを選択した。

 

 一先ず距離を取れば、と言う考えはしかし甘い。既に達人の域に居る敵手の斬撃は、一歩退いた程度で躱せるような物ではなかった。

 

「はぁ、いきなりかよ」

 

 銀閃が閃いて、ウルの右腕が宙を舞う。二の腕から先を切り落とされて、しかしウルは平然とした様子。切り飛ばされた右腕を、左手で掴み取ると今度は3歩。

 それで漸く、続く二撃目はギリギリ躱せた。本当に紙一重。己の頭髪が切り落とされて少し軽くなった光景に、内心冷や汗を搔きながらも平然とした素振りで掴んだ腕の断面を傷口へと押し付ける。

 

 ぐちゅりと肉の蠢く音がして、傷口は一瞬で塞がり繋がる。不快な感触に耐えれば数秒とせずに、その傷口は元通り。

 掌握動作を3回程。腕を回して平然とした素振りを見せれば、大抵の相手は化け物がと罵りながら怯えて退くものである。

 

「疾っ!」

 

 だが、ウルの嘲り顔に対して、ニコルと名乗る少年が躊躇うことはない。化け物であることなど最初から知っていると言わんばかりに、苛烈な斬撃を繰り返す。

 ウルは舌打ちを一つ、迫る刃を大きく跳んで回避する。紙一重では追い付かれる。歩幅3歩でもまだ足りない。優に5歩分の距離を取りながら、銀閃を躱し続けた。

 

「全く、何なんだよ、色々さ。全っ然、意味分かんねぇんだけど」

 

 ウルが攻撃を躱す度に、深まっていく相手の笑み。歪に過ぎるニコルの表情に、不気味さと苛立ちを隠せずに吐き捨てる。

 全く以って理不尽だ。何故ニコルが己の事を知っているのか分からなければ、何故にこうして襲われているのかも分からないのだから。

 

「けど、取り合えず――」

 

 けれどそう、理不尽にはもう慣れた。少し前の己では想像すらも出来なかった現実が、少年の心と世界を大きく歪め変えたのだから。

 

 母を亡くした。父は帰って来なかった。そして少年は、化け物になった。手足が捥げても直ぐに治る、正真正銘の怪物に。

 静かに暮らしていた農村が、滅ぼされたのは2ヶ月前。悲しみが風化するにはまだ短く、それでも慣れてしまうには十分な時。だから、理不尽にはもう慣れた。

 

「――テメェはぶっ飛ばしても良い奴だな」

 

 迫る銀閃を前に、思考の中身を切り替える。戦いは良い。悲しい事も苦しい事も、何も考えなくて済む事だから。

 ウルムナフは拳を握る。構えは知らない。ボクシングのファイトポーズにも似た姿勢は、我流と言うにも程遠い見様見真似の産物だ。

 

「貴様に、それが出来るのならばな」

 

 故にニコルは嗤うのだろう。鍛え方が足りないと、一目見れば分かるのだ。そんな未熟に過ぎる拳打など、警戒するに値しない。

 打って来いと言わんばかりに、ニコルは一端剣を引く。侮蔑の感情。見下す意志を隠さずに、向かえ打たんとするニコルの姿にウルは一歩踏み込んだ。

 

「おらっ!」

 

「はっ」

 

 苛立ちを込めた右の拳で、放つ一撃は空を切る。鼻先を掠めていく拳を前に動揺もせず、ニコルは最小限の動きだけで躱してみせた。

 そうして余裕の笑みを浮かべたまま、しかし反撃は行わない。こんなものかと見定める瞳に、苛立ちを募らせたウルは更に左の拳を振るう。

 

 だが、やはり結果は変わらない。暖簾に腕押しと言わんばかりに、的確に見切られ当たらないのだ。余裕の笑みが崩れない。

 三撃。四撃。五撃。六撃。続けて放つ拳の数が十を超えても、一撃足りとて当たらない。掠り傷にもならない位置を、完全に見切られていた。

 

「クソっ、この野郎」

 

 まるで当て付けだ。ニコルの斬撃を、ウルは結局見切れず大きく躱すしかなかった。その事実を嘲笑うかのように、態と紙一重で躱し続けている。

 

「フュージョン無しでは、こんなものか。……正直、私は失望し始めている」

 

 都合、二十度。躱され続けた拳は最後、ニコルの左手に掴まれた。右の手首を握られ引き摺られ、息が掛かる程の距離で告げられるのはそんな事。

 余裕の笑みに、侮蔑の瞳。其処に混じり始めたのは、彼の語った通りの色合いだ。唐突に仕掛けて来た少年は、身勝手に何かを期待していて、裏切られたと思っている。

 

「こんなものか、ウルムナフ? こんなものなのか、ウルムナフ? この程度ではないだろうっ!」

 

「意味、分かんねぇよ! 変身を解けって言ったのは、お前の方だろうによっ!!」

 

 淀んだ瞳に見詰められながら、睨み返して吐き捨てる。同時に自由な左手を動かし狙う。流石にこの距離ならば外さぬだろうと――そんな楽観視なんて抱いていない。

 殴り付けた左手が、二の腕から先を失っている。目にも留まらぬ速さで切り落とされたのだろうと、見切ったのではないが、予想出来たのは生まれついての才覚故か。

 

 この短時間の攻防で、研ぎ澄まされている。だから慌てる事もなく、次なる一手を直ぐさま打つ。腕が駄目なら足を使う。足でも駄目なら、頭を使えと。

 至近距離での蹴撃は、軽い跳躍で躱されて空を切る。ならばと掴まれた手を折り曲げる事で引き寄せて、その額に向けて頭突きした。その一撃は確かに当たり、互いの額に血が滲む。漸くの有効打にウルは笑う――暇さえなく、投げ飛ばされた。

 

「うっ、このっ!?」

 

 大きく宙を一回転して、地に落ちたのは背中から。一瞬、呼吸が止まって動きが鈍り、敵の姿を見失う。直後にウルが感じたのは、脇腹を抉るような鋭い痛みだ。

 小さな身体が再び宙を舞い、今度はうつ伏せに地面へと。川辺の泥を舐めながら、見上げるウルが蹴り飛ばされたのだと理解したのはその直後。足を振り抜いた姿勢のままで、見下ろす姿が見えたから。

 

「この程度か? この程度か? 否っ! この程度の筈がない! 貴様がウルならば、この程度であって良い筈がない! そうだろう、ウルゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!!」

 

「だから、意味が分かんねぇって、言ってんだろ!!」

 

 額から流れ落ちる血に、一体何を感じているのか。よろめきながらも立ち上がったウルに、ニコルは一体何を期待しているのか。

 ウルには分からない。この現状が、あの惨劇の日が、ずっと続いている理不尽が――何もかもが分からないのだ。だから彼は子供らしく、憤りを叫ぶだけ。

 

「突然襲い掛かって来やがって、馬鹿じゃねぇの!? 挙句に駄目出しとか、ほんと馬鹿じゃねぇの!? 駄目! アンタ、ひねくれ過ぎ! ほんっと、馬鹿じゃねぇの!?」

 

 何でこんな事をしているのか、それさえも分からない少年の言葉。怒りを抱いて当然だ。憤りを感じて当然だ。突然剣を手に襲い掛かられて、罵倒されるなど意味が分からないにも程がある。

 けれど、それだけだった。それだけなのだ。ウルが抱いているのは、怒りや憤りだけである。敵意や悪意もあるだろう。だがそれが殺意や憎悪にまで至っていないのは、その性根が善良であるからか。

 

「語彙は稚拙で、知性も感じられない。碌な教育を受けては来なかったと見える。……哀れだなぁ、子は親を選べない!」

 

 故であろう。ニコルは敢えて、その言葉を口にする。期待に応えてくれぬのは、その温さが理由であろうと。信仰にも似た執着を以って、ニコルは最大の地雷を踏み抜いた。

 

「……テメェ、後悔すんなよ」

 

 ウルの脳裏に浮かんだのは、守りたかった母の姿。守れなかった、母の姿。彼女を馬鹿にした敵を前に、敵意は殺意へ形を変えて膨れ上がる。

 人型の相手に対して使うには、忌避感があった力を使う。少年は己の心の中へ。その心象が描き出した墓地の底に、埋められた化け物としての力を求めて。

 

「ぐ、う、ぉぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!」

 

 少年が殺した化け物は、この墓場に埋められる。埋葬されて尚、憎悪を叫ぶ怪物達。墓穴から引き摺り出したその力と、融合する力こそが降魔化身術。

 同化の瞬間に溢れ出す、憎悪と殺意の嵐に藻掻く。僅かでも気を抜けば闇に溶けて消えてしまいそうな思考と、全身を苛む激痛。息も出来ずに喘ぐような、叫びと共にウルの姿が変わった。

 

 冥刹皇。漆黒の霧に包まれた、翼持つ悪しき夢魔。憎悪思念をその身に宿して、小凶神へと変じたウルは大地を蹴って飛翔する。

 爆発するような勢いに地面が割れて、それさえ気にせず前方へと飛翔した悪鬼はその手を伸ばして振るう。その速さは、先とは比較にならぬであろう。

 

〈ふ――っ〉

 

「は――っ」

 

 されど、動き自体は変わらない。目には留まらぬ速さであれど、動作自体が変わらないなら予測は容易い物なのだ。少なくとも、ニコラス・コンラドにとっては。

 故に怪物の拳打を、白銀の剣が迎え撃つ。真向から切り結べば刀身が持たぬとは分かっているから、狙うは拳を支える腕。ニコルの斬撃は、狙いを寸分たりとて違えない。

 

「流石は音に聞こえし降魔化身術。成程、大した速度だ」

 

〈だったら当たれよ、クソ野郎!〉

 

 くぐもった声で罵声を浴びせるウルの手は、最初の対峙と同じく宙を舞っている。融合しても変わらぬ結果に、彼我の感情は重みを増していく。

 ウルの怒りが、ニコルの失意が、隠せぬ程に拭えぬ程に。見下す価値すらないのかと、無色に変わっていくニコルの瞳。睨み返すウルは、即座に腕を復元させた。

 

「動きが単調なのですよ。それでは獣と変わらない」

 

〈クソがっ!〉

 

 融合した今ならば、拾って繋げる必要さえない。己の心が闇に飲まれない限り、ウルに死は訪れない。故に被弾を恐れずに、ウルは更なる攻勢へと。

 加速を乗せた右の一撃。腕を物理的に伸ばして間合いを広げた左の一撃。羽を使って空に舞い、両足揃えてドロップキック。思い付くままに、様々な手で責める。

 

(何で、こんなに当たらねぇ)

 

 だが、その全てが躱される。先のように紙一重と言う訳ではないが、それでも一撃さえも掠りはしない。責めても責めても、削られるのは己の五体だけである。

 単調だからと防がれるなら、何故に様々な動きをしても躱されるのか。経験が足りないが故に、ウルムナフには分からない。分からないから、彼は愚直に突き進む。

 

(何が足りない。何が足りない。どうすれば、奴をぶっ飛ばせる!)

 

 足りない頭で思考を回しながら、息も吐かせぬ速さで攻め続ける。何時かは敵が疲弊して、一撃当たるのではないかと。そんな期待を否定するのは、彼の抱える本能だ。

 それでは駄目だと、ウルは本能的に察しているのだ。だから足りない頭を回している。最後まで馬鹿にされたまま敗れ去るなど、断じて許容出来る事ではないのだから。

 

(速度だ。速度が足りない。もっと、もっと、もっと早く動ければっ!!)

 

 殴り続ける少年は、結論として其処に至る。ニコルの見切りを崩す術など思い浮かばず、その技量を超える方法なんて分からぬから。

 もっと強く成れば良い。より早く、より強靭に、より高い性能を。見切られても関係ない程に、己が早く動けたならば――きっと勝利は叶うだろう。

 

「……こんな物ですか」

 

 だが、そんな事は起こらない。戦闘中に技能が磨かれ成長する事ならば起こり得るのだろうが、身体能力が急激に向上するなど現実ではあり得ない。

 降魔化身術の再生力を使えば、筋肉の超回復も望めるだろう。それでもニコルが積み上げた経験と言う時間を、覆す程の成長なんて望めない。そう、少年は理解したから。

 

(何だよ、その目は)

 

「詰まらない。下らない。取るに足りない。所詮はこの程度だった、と言う訳ですか」

 

 失望は、此処に極まった。期待が大きかったからこそ、その落差はより激しく。路傍の石でも眺める瞳で、修道服の少年は剣に光を宿す。

 あれは己を殺せる。闇を抱く者への大敵だ。本能的に察したウルは、だがそれ以上に憤る。敵の瞳に。その込められた感情に。余りにも身勝手な、ニコラス・コンラドと言う存在に。

 

(ふざけ、やがってぇ)

 

「どうやら貴方に期待し過ぎた、私が愚かだったようです。……では、お終いにしましょうか」

 

 勝手に期待して、勝手に失望して、挙句の果てに興味すらも勝手に失う。ゴミを拾ってゴミ箱に捨てようと、そんな気軽さで終わらせようとしてくる敵。

 許せない。認めない。せめて己を見ろ、と。溢れ出さんとする程の怒りと憤りを抱えたウルムナフは、しかしこのまま敗れるのだろう。このままでは、勝利の可能性などありはしないから――――ならば、今此処で新たに掴み取れば良い。

 

〈舐めてんじゃ、ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっ!!〉

 

 少年の瞳に映るは、彼の心が描いたグレイブヤード。巨大な門。嗤う四仮面。墓穴を掘る狐面の男。どす黒い雲が空を覆い尽くし、大地には大小様々な墓石が立ち並ぶ。

 そんな世界の中で、一つの墓に光が灯った。溢れ出す輝きは黄色。自由を求める魂が、光と共に墓石より解き放たれる。更なる速さを望んだ少年は此処に、新たな力と姿を手に入れた。

 

「が――っ!? 風、だと……!?」

 

 爆風と共に、飛翔する。音さえも置き去りにしたその速度が、ニコルの予測を確かに超えた。完全に見切っていたからこそ、その速度差に対処出来なかったのだ。

 故に一撃、その質量を真面に受ける。風を纏った体当たり。無防備に受けた一撃は、唯それだけで彼我の状況を一変させる。怪物の攻撃など、人に耐えられる物ではないのだから。

 

 吹き飛ばされて地面に転がり、血反吐を吐きながら起き上がる。骨が幾つ砕けたか、内臓が幾つ潰れたか、己に問うよりも前にニコルは見上げる。空に舞う怪物を。

 

「烈風奇か! 土壇場で、目覚めるとはっ!?」

 

 梟を思わせる相貌に、羽毛に覆われたその身体。両の肩から先に腕はなく、代わりに生えるは身の丈よりも巨大な翼。

 ハルピュイアを思わせる、鳥人間とでも言うべき異形。この土壇場でウルムナフは、進化とさえ表現出来る程の成長を遂げていた。

 

「は、ははっ、はははっ、やってくれる!」

 

 対するニコルは、たった一撃で重体だ。流血で思考と感覚は鈍り、五体は上手く動かない。これは拭いようがない、人の血肉の脆さである。

 人間は化け物と戦う為には、常に優位に立たねばならぬのだ。ほんの一瞬でも油断をすれば、こうして覆えされてしまう。それを不遇と嘆くか、それを理不尽だと怒るか、それが普通だとするならば――

 

「だが、そうでなくてはなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 歓喜しているこの少年は、一体如何なる異常者か。命に関わる程の流血をしながらも、その眼は今まで以上に爛々と。歪んだ笑みは、正しく狂人のそれである。

 故に追い詰めた筈のウルが、逆に飲まれた。理解出来ない存在に、恐怖と嫌悪を強く抱く。されどそれも一瞬だ。すぐさま勝った怒りを胸に、巨大な翼が風を切る。

 

「はは、はははっ! 早い速い迅いがしかしぃっ、動きの単調さは変わっていないなぁぁぁっ! ウルゥゥゥゥゥッッ!」

 

(ちっ、この野郎。速攻で反応してきやがった!)

 

 時の力を操る翼を使って、上空からの超高速突撃。隕石の落下さえも思わせる襲撃に、ニコルはしかしその場で剣を合わせてみせた。

 ニコルはウルの動きを完全に見切っているのだ。ならばどれ程にウルが加速しようとも、タイミングを合わせる事は決して不可能な事ではない。

 

(しかも、クソ痛ぇ。このフュージョンは、いつものより打たれ弱いのか)

 

 突撃の瞬間を察知して、直撃する直前に躱しながら切り付ける。神業と言う他にない対処をあっさりとしてのけるニコルに、戦慄しながらもウルは翼を羽搏かせる。

 反撃で切り付けられた傷は、冥刹皇の時よりも重い。明らかに防御力が落ちている。故に追撃を受ければ一溜りもないと、即座に上空へと退避する事を選択したのだ。

 

 上空を飛び回る烈風奇の動きは早い。逃げに回れば剣は無論、魔法の類も届かない。このフュージョンを維持する限り、ウルは常に機先を制する事が出来るであろう。

 そしてニコルとて、無傷で突撃を防げる訳ではない。纏う突風の余波だけでも、人の身には辛い物。ならばこのままヒットアンドアウェイに徹すれば、結果は実に順当だ。

 

「かはっ! ははは、軽い、軽いなぁっ! ウルゥゥゥゥゥッ!」

 

(んの野郎っ! 殴られながら、殴ってきやがる! 威力も何時ものより低いのかよ!?)

 

 と、成る筈もない。無防備に受ければ重症になる突撃でも、事前に障壁を用意し肉体を強化しておけば被害の軽減は可能である。

 タイミングを完全に合わせれば、受ける被害よりも与える被害の方が大きくなるのだ。なればこそ、仕掛けたウルの方が手痛い傷を負う。

 

(このままじゃ、ジリ貧だ。この鳥じゃ、力が足りねぇ)

 

 如何に頭が足りなくとも、数度も繰り返せば理解する。突撃する度に反撃で、削られていくウルも気付いたのだ。このままでは不味いのだと。

 流血しながら狂ったように笑うニコルは、全く倒れる素振りを見せない。アドレナリンの大量分泌で、神経が麻痺しているのか。楽しげに剣を振り続ける。

 

 或いはこのまま上空を逃げ回っていれば、何時かは倒れてくれるのだろうか。そんな弱気が胸を過ぎるも、即座に怒りを以って否定する。

 この相手がそんな間の抜けた倒れ方をするとは思えないし、何よりそんな形の勝利など欲しくはない。競い合って、勝ちたいのだ。馬鹿にしてきたコイツに分からせたい。故に更にと、ウルは求めた。

 

(もっと強く。もっと、強くだ!)

 

 そして再び、グレイブヤードに光が灯る。これまでに得た全てを、これからに得る全てを、燃やし尽くすかの勢いで少年は先へ先へと進み続ける。

 上空から襲い掛かった凶鳥が、落下の途中で姿を変える。全身を覆う羽毛は燃え上がり、肥大化した筋肉の鎧に包まれる。背より盛り上がった肉塊は、第三第四の腕へと形を変えた。

 

 鬼を思わせる形相。炎を纏う四本腕が、ニコルに向かって振るわれる。烈風奇の速さに合わせて動いていた少年は、急激に遅くなった一撃に反応し切れない。

 高速の一撃を防ぐ為に合わせた剣が、四本の腕とぶつかり合う。拮抗は一瞬で、押し負けたのは鋼の剣。硝子のような音を立て、ガラハッドソードは無残に折れた。

 

「ははっ! また変わるか! 今度は……炎武か!!」

 

 それでも、笑う。武器を失い、衝撃を殺す為に後ろに跳んで、そこまでしても防ぎ切れずに血に塗れる。そんなニコルは、嬉しげに楽しげに笑っている。

 敵がウルムナフだから。他の誰かであったなら、罵倒や憎悪を漏らしていたであろうに。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガだからこそ、これで良いのだと彼は笑った。

 

「良いぞ! 基準値こそ低いが、爆発力は中々だ! それでこそ、それでこそだ! ウルゥゥゥゥゥッ!!」

 

〈意味分かんねぇこと、くっちゃべってよ! 殴られて嬉しそうに笑うとか、お前変態かよ!?〉

 

「ははは、笑いもするとも! 宿敵が強大であればある程、踏み躙り乗り越えた時の歓喜もまた格別なのだから!」

 

 気持ちが悪いと吐き捨てながら、追撃を仕掛ける為にウルは駆け出す。だがそれよりも先に、ニコルは動いた。大地を蹴って更に後退すると、呪言を口遊んで光を放つ。

 次々と降り注ぐ光の魔法が、炎武と化したウルの身体を射抜いていく。攻撃に特化したが故の身体では、光の雨は躱せない。当たれば耐えられない程ではないが、それでも痛みに動きが止まる。

 

「きっと、貴様にも分かるだろうよ! ウルゥゥゥッッ!!」

 

〈分かりたくもねぇよ、糞ニコル!〉

 

 その間に、更に更にと広がる距離。ウルは理解する。このフュージョンでも駄目だと。炎武では近付けない。近付く前に、磨り潰される。

 ならばと下した判断は即座に。心身両面から襲い来る苦痛に耐えながら、ウルの肉体が三度変貌する。溢れる風と共に、烈風奇へと変じた少年は空に踊った。

 

(鳥のフュージョンで近付いて、四本腕に変わって殴る。したらアイツが逃げるから、また鳥に変わって追い掛ける!)

 

 風を切って舞う鳥は、急降下の直後に鬼へと変わる。加速を殺さず接敵し、四つの拳を敵へと振るう。敵に自由を渡さぬ事こそ、勝利に繋がる道だと信じて。

 大地を駆ける若き神官は、凶鳥の初動を完全に読み切って動く。加速度と距離を計り間違えず、的確に躱して迎撃。大きく後退しながら魔法を放ち、確実に敵手の力を削っていく。

 

 積み重ねた被害に、ウルが根を上げるのが早いか。緩急極まる攻勢に、ニコルが対処をしくじるのが早いか。

 流れ続ける流血に、ニコルが意識を失うのが早いか。溢れ出し続ける心の闇に、ウルが喰われて消えるのが早いか。

 

 此処に、状況は拮抗した。細かく揺れ動く天秤は、どちらに揺らいでもおかしくはない程に。ならば彼我の優位を分けるは、勝利を求める想いの強さ。

 

(ちっ、詰め切れねぇ。変身の切り替えが遅ぇんだ。もっと早く変われれば、もっと多く殴れるってのにっ!)

 

 少なくとも、ウルムナフはそう考える。だからもっとと、勝利を求める思いを強く。勝ちたいと言う願いを強く。祈りに応えるかの如く、足りない要素が埋まっていく。

 烈風奇から炎武への変化が、或いはその逆が。よりスムーズに、より素早く、硬直が無くなれば反撃される隙も減る。敵に迎撃を許す事が無くなれば、詰め将棋の果てに勝利を得られる。

 

 気付けば、笑っていた。それは互いに。きっとウルは認めないだろうが、これはある種の救いであったのだろう。

 全力で競い合う事が、本気で勝利を求める事が、他の事など考える余裕なんてない事が、もう簡単には得られない物であったから。

 

「ふ、は……また変身の速度が上がったな! 成程、壁が高ければ高い程、お前は成長するのだな! ウルッ!」

 

 そうとも、互いに笑っていたのだ。他の誰かに迫られれば、恐怖と強迫観念故に荒れ狂っていたであろう。だが相手がウルだからこそ、こうでなくてはとニコルは笑う。

 嫉妬している。だがそれ以上に、憧れている相手であるから。放つ魔法を躱す度に、動きが洗練されていく宿敵との競い合い。其処に歓喜と満足を、覚えない訳がない。

 

〈嗤ってられんのも、今の内だけだっっ!!〉

 

 ウルの速度が更に増す。最早、ニコルの対応でも間に合わぬ程。天秤は此処に傾く。このままならば、ウルムナフが勝利する。ならばそんな幕引きを、ニコルが許す訳もない。

 

「来い! サクノスッッ!!」

 

〈――――っ!?〉

 

 瞬間、走った悪寒に逆らわずに後退する。後一歩で詰められると言う状況で、迷うことなく逃げの一手を選んだのは正解だった。

 

(あれは、ヤベェ……)

 

 文字通り空を割って、何処からか飛来した剣。血塗れのニコルがその手に持つ蒼白の大剣は、邪龍の背骨を研磨し作り上げたとされる伝説の魔剣。

 せわしなく周囲を見回している眼球が、柄尻に埋め込まれている趣味の悪さ。それ以上に感じるのは、触れただけで飲まれると感じる程のマリス量。

 

 ネメトン修道院の地下深く、眠っていた魔剣。その由来を知らずとも、その危険性はウルにも本能だけで理解出来た。

 あれを受ければ、変身している状態でも耐えられない。直撃は致命に至ると悟り、同時にニコルならば確実に直撃させてくると理解する。

 

(くそっ、もう近付けねぇぞ……)

 

 達人級の剣士が、当たれば即死の武器を得た。端的に言えばそれだけの現状において、ニコルの間合いは即ちウルの死地である。

 下手に近付けば、その瞬間に負けて死ぬ。どうしたものかと逡巡し、大きく距離を取ったウル。それこそがニコルの思惑通りなのだと、彼には分かっていなかった。

 

「……ウル。貴方は気化熱と言う現象を知っていますか?」

 

 妙に熱を感じさせない口調で語りながら、ニコルは髪飾りを片手で外す。特徴的な三角形の飾りを血に塗れた口元へと運ぶと、少し遅れてパキリと髪飾りの割れる音が響いた。

 

〈はっ、知らねぇよ〉

 

 口に含んだ飾りを、嚙み砕いて飲み込む。明らかにおかしな行動を行うニコルの問いに、ウルは知るかと鼻で笑いながら警戒する。

 何かをしようとしている。そんなことはウルにも分かる。分かってはいるが、さりとて対処の術がない。異形の剣がある限り、間合いの内には踏み込めない。

 

 出来ることは精々、間合いの外から牽制する程度だろうか。だがそれでニコルを倒せるとは、全く以って思えなかった。

 

「液体は蒸発する際に、周囲の熱量を吸収します。冷蔵設備や空調設備などには、一部にこの原理を利用しています。発熱と送風を制御出来れば、物体を冷却させる事も可能なのですよ」

 

〈……聞いてねぇし〉

 

 だから烈風奇の姿から、炎武の姿へと変わる。何が来るか分からず、下手な対応は首を絞めるだけ。ならば耐えることを選択するべきだ。そんな至極当然の判断は、しかし致命的なミスである。

 

「風を操り大気の層を生み出し、その内側の気圧を操作。同時に気化による熱量移動を行う事で、生み出されるのは疑似的な大型冷凍庫。水場でそれを急速に行えば、さて如何なる形となりますか」

 

(何だ? 周囲が、冷たく?)

 

 炎の体が、凍り付く。否、ウルの身体だけではない。ニコルを中心に溢れ出さんとする大寒波は、見渡す限りを氷の内に閉ざさんとその力を示すのだ。

 

「受けなさい! 氷河時代(アイス・エイジ)!!」

 

 不味いと、認識するよりも早くに凍り付く。誰も彼も、逃れ得る事など叶わない。地平線の果てまでも、対流圏の高さまで、大氷結が覆い尽くす。

 当然、ウルムナフもまた逃れる事は出来なかった。少年の意識は此処で途切れる。届かなかった悔しさと、勝てなかった口惜しさと、ほんの僅かな熱を抱いて。

 

 

 

 

 

「地平線の果てまでも、凍て付かせる大氷結。如何に早く動こうと、逃れる術はありません」

 

 己が血で口元を濡らす少年は、傷を癒しながら小さく呟く。誰に聞かせるでもない言葉に、返す事の出来る者など居はしない。

 激闘を繰り広げていたウルムナフも、離れて見ていたが巻き添えを食らった桃色蝙蝠も、誰も彼もが氷の中に閉ざされ閉じ込められている。

 

「ですがっ! まだでしょう! こんなもので、こんな程度で、貴方が終わる筈がない! 終わって良い理由がない! そうでしょう、ウル!!」

 

 だが、ニコルは信じていた。確信していると言っても良い。これで終わりではないのだと。だって何故なら、相手はウルなのだから。

 原作の主人公。本来のニコラス・コンラドが、終ぞ勝てなかった男。果てには神を殺す程にまで至る、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガ。そんな彼が、この程度で倒れるなどあってはならない。

 

 そう信じられるだけの、才覚は既に見た。今は取るに足りない実力しか持っていない様子だが、戦闘の中で爆発的に成長する資質を有する。ならばどうして、この状況を打破できない理由があるか。

 

「きっと乗り越えてくる筈だ! いいや、必ずや踏破してくるに違いない! 乗り越えられる程に進化して! そんな貴方を超える事で、私は更に強くなる!!」

 

 だからニコルは備えているのだ。見極めなどとはもう言わない。本来使う心算もなかったサクノスまで取り出して、傷を治しながらに思うは敵はどんな対処をしてくるか。

 順当に炎武の炎を高めて、氷を溶かして来るのだろうか。或いはバルバリアやファイデスのような、続編の高位フュージョンを出して来るかもしれない。だとしたら己は、どんな力で迎え撃つべきか。

 

 高速で回る思考は全て、この後も続く戦いについて。向かって来ないのではないか、と言う不安はない。寧ろ己が相手を過少評価してしまうのではないか、と言う不安すら抱いている。だって相手はウルなのだから。

 

「さぁ、来い。来い。来い。来い。来い来い来い来い来い、来いっ! ウルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッッ!!」

 

 さあ、今にも氷が砕けるだろう。さあ、今にも敵がやって来るぞ。大氷結を乗り越えて、更なる力を手にしたウルムナフが己を倒しにやって来る。

 それに勝つのだ。そしてそんな己をも超えたウルムナフを、更に踏み台としてやるのだ。そうして初めて、ニコルは高みに至る。原作の主人公(ウルムナフ)よりも、高みに至れるのだ。

 

 嫉妬と言うには純粋で、憎悪と呼ぶには物悲しく、憧憬と語るには濁っている。そんな執着を抱いて、ニコルは待つ。ウルムナフの、成長を。進化とさえ表現出来る程に、彼が目覚める瞬間を――――

 

「………………何故、来ない」

 

 だが、来ない。いくら待とうと、どれ程に期待しようと、ウルムナフは立ち上がらない。それはそうだろう。彼も人間なのだから、無限の進化など望める筈もない。

 執着し過ぎている。神聖視が過ぎるのだ。だからこうして、その限界を見誤る。そんな単純な事実にすら、誰も指摘してはくれないから気付けない。気付けないから少年は、唯々愚直に待ち続ける。

 

「こんな所で、止まる? この程度も、乗り越えられない? ウル、なのに?」

 

 もう少し待てば動く筈だ。もう少し経てば乗り越えて来る筈だ。きっとニコルが油断するまで、ウルは待っているのだ。そんな誤魔化しも時間と共に、膨れ上がる失意と落胆を覆い隠せなくなっていく。

 中点に座していた太陽が沈むまで、待ち続けた所で現実は何一つとして変わらない。空が暗くなって漸くに、もう無理なのだと理解する。失望は大きい。落胆は深い。一度は歓喜したからこそ、納得なんて出来やしない。

 

「………………」

 

 能面のように無表情となったニコルは、指を弾いて術式を解除する。地平線の果てまでも閉ざしていた氷は、ゆっくりと溶け出して水に変わって流れていく。

 そんな変化を待つ気も失せた少年は、炎を灯した腕を残る氷の中へと突き刺し入れる。澄んだ水晶を思わせる氷柱を砕いて、気絶したウルの首を片手に掴んで引き摺り出した。

 

 引き摺り出した少年を、そのまま地面に向かって放る。雑に扱う理由の半分が苛立ちならば、もう半分は警戒心。掴んでいると殴られるのではないかと、心の何処かでまだ期待していたから。

 だが当然、そんな高望みは叶わない。投げ捨てられたウルは、大地に伏せて動かない。深まる落胆を抱えたまま、無言のニコルはウルの下へと近付いていく。さあ、どうしたものだろうかと。

 

「……母、さん」

 

 その耳に、小さな声が届いた。掠れるような声が、恋しいと嘆くような声が、助けを求めるような声が耳に届いた。それを理解した瞬間、ニコルの身体は無意識の内に動いていた。

 

「が――っ」

 

 うつ伏せに倒れた少年の腹を、右足を使って蹴り上げる。身体が九の字に歪む程の蹴撃は、殺意しか感じられない程に鋭い。唯の人間ならば、これで内臓が破裂していたであろう程。

 

(……気に入らない)

 

 無防備な腹に一撃を受け、喀血しながら目を覚ましたウルムナフ。状況把握も出来ぬままに藻掻く少年を見下しながら、ニコルは静かに苛立ちを募らせる。

 理不尽であるとは分かっている。身勝手にも程がある意見なのだろう。だが、ニコラス・コンラドは想ってしまうのだ。こんな者が、ウルムナフであって良い筈がないと。

 

(弱いウルなど、敗北して母を求める子どもなど、私の知るウルムナフ・ボルテ・ヒュウガじゃない)

 

 元来、ウルムナフと言う男の心は弱い。幼い頃に母を失い、己が身に宿った怪物に喰われる最期を絶えず恐れ続けていた男だ。

 汚い言葉や強気な態度はそれを隠す為の強がりで、本質的には心優しい子供の頃から何も変わっていない。そんな男であるのだと、ニコルは確かに知っている。

 

 だがそんな男は、愛する女と出会って変わるのだ。強がりを捨て、弱さを受け入れ、本当の意味で強くなっていく。その姿に、どうしようもなく憧れた。

 憧れたのは、“ニコルになる前の誰か”だけではない。憎悪に歪んで執着した、“原作のニコル”だけでもない。その記憶を見て知った“此処に居るニコル”が憧れたのだ。

 

 だからこそ、憤怒する。余りに弱く余りに脆く、強がり続ける事さえ出来ていない。その姿に、己の憧れ(ウル)を馬鹿にするなと。

 ウルはこんなに弱くない。負けたからと言って、母に縋る男じゃないのだ。そんな風に己の理想を押し付けて、苛立つ行為を身勝手と言わずになんと言う。

 

(……私は貴方に勝ちたかった。原作のウルムナフを打ち破る事で、何も果たせなかった原作のニコルを乗り越える。それだけが、明確にそうだと断言出来る、私だけの望みであった)

 

 身勝手な理不尽でしかない言い分。己の言に一片たりとも正当性が存在していない事は、ニコル自身が一番良く分かっている。分かっていて望んだのは、それだけが()()()()()()()()であったから。

 

 ラスプーチンを倒したいのは、成し遂げたい目的ではなく必要な手段でしかない。強くなりたいのも同じく、そうならなくては何も得られないのだと知っているから。

 父に真意を問い掛けたいと言うのは、どうだろう。己の希望と言えなくもないが、母の事が無ければ関わろうとすら思えなかったであろう。上手く明言出来ない、複雑な情が絡むのだ。

 

 だからこそ、これだけだと断言出来る。この男との戦いだけが、果ての勝利だけが、何も混じらず純粋に、ニコラス・コンラドが求めていた唯一無二の物だったのだと。

 

(だと言うのに、此処にウルなんて居なかった)

 

「ぐ、ぁ――――っ」

 

 四つん這いで見っとも無く嘔吐いている少年の頭を踏み付け、地面に叩き付けて踏み躙る。表情一つ変えずに見下すニコルとて、此処で決着を付ける心算などはなかった。

 決着を付けるのは、己の過去を清算してから。師を殺し、父に問い、母の無念を晴らす。そうした後で、為したかった己が欲。空虚な己が唯一つ、理由もないのに、己で為したいと思えた事。

 

(こんな出来損ないに勝った所で、私の心は満たされない。勝って当然ではないですか、こんな弱い奴になど)

 

 だが、ウルムナフは弱かった。だからまだ、出逢うべきではなかったのだ。此処で出逢う事が無ければ、将来に向けて見定めようと思う事もなく、こうして落胆する事だって起こり得なかった。

 そうとも、ウルムナフは弱いに決まっているのだ。原作において彼が目覚めるのは、母を失った瞬間。10歳になって初めての冬、それが終わろうとしていた時期の事。ニコルとの年齢差を考慮すれば、早くとも今年の頭に起きた出来事。

 

 精々3ヶ月にも満たないのだ。それまでが甘ったれの泣き虫で、喧嘩の一つも真面にした事がない。そんな子どもが3ヶ月にも満たぬ時間で、強い男になど成れている筈がない。

 だからまだ、出逢うべきではなかった。これでも上出来の部類に入るのだと分かっていても、満たされる筈がなかったから。決着を付けるその時まで、出逢うべきではなかったのだ。

 

(足りないのは、経験でしょうか。私がこうして半殺しにし続ければ、何時かは私の知るウルムナフに成るのでしょうか)

 

 それでもやはり、執着心は掻き消せない。未熟であっても、満たされる程ではなくても、それでも可能性は示されていたから。

 ウルムナフは成長出来る。生き残る事さえ出来たなら、きっと己の知るウルムナフにも成れる。そう信じる事なら、まだ出来たから。

 

 思うのだ。このウルムナフを育ててみようかと。踏み躙られて泥と血反吐に塗れる子どもを、嬲り続けて強くするのはどうだろうかと。

 

(だが、それではその度に見せ付けられる。あの最強でなければならない神殺しの、こんなにも未熟で無様な姿を)

 

 同時に浮かぶのは、その行為に己が理性が耐えられるかと言う問い掛け。即座に出た結論は、否と言う単純ながらも揺るがぬ結論。

 ニコルはウルムナフに憧れているからこそ、彼と同じ名前と顔を持つ子どもが見せる無様な姿に耐えられない。膨れ上がる怒りは直ぐに、抑えられない殺意に変わろう。

 

(ならば――)

 

 ならばそう、彼に敵を用意しよう。己が理想に相応しい、成長の道を用意しよう。そして己以外の相手を乗り越えながら、無様に足掻いて藻掻いて強くなって貰えば良いのだ。

 

「聞きなさい、ウルムナフ」

 

 幸運な事に、ニコルはその材料を知っている。ウルムナフに相応しい敵の存在と、戦うに足る理由を知っている。だからそれを吹き込んで、精々踊って貰うとしよう。

 

「貴方は知りたくはありませんか? 母の死の理由。父の死の真相。一体誰が、貴方からそれを奪ったのか」

 

 踏み付けていた足を動かし、屈み込んで耳元で囁く。妖しい熱の籠った言葉を受けたウルは、刻まれた痛みすらも一瞬忘れて双眸を見開いた。

 

「…………お、まえ」

 

「私は知っていますよ。私はそれを知っている。知りたくはありませんか、ウルムナフ」

 

 半ば茫然自失して、言葉を咀嚼しているウル。そんな彼に向けて作り笑いを浮かべたまま、ニコルは更に思考を進める。真実を伝えるのは、今であるべきか否か。

 結論は否。まだ信憑性が足りない上に、信じて突っ込んだ所でウルムナフが自滅する。不本意ながらも最初の内は、直接手解きするべきだろう。視線の先に、甘美な餌を吊るしながら。

 

「知りたければ、付いて来なさい。私の行くべき道の途中に、貴方の知るべき答えがある」

 

「…………上、等、だ。付いて、行って、やる、よっ! 糞ニコルッッッ!!」

 

 微笑みながら告げられる言葉に、ウルムナフは血を吐きながらも叫びを返す。行く当てなどは元よりなく、そして彼にとってもニコルの言葉は決して無視出来ないものであったから。

 答えを聞いて、頷いてからニコルは手を差し出す。引き上げようとするその手を、しかしウルは握らない。自分で立てると強がって、ふらつきながらも前を見る。その姿に、ニコルは小さく笑みを深めた。

 

 こうして両者は相容れぬまま、それでも同じ道を歩き出す。例え一時の同行でしかなく、何時か必ず破綻する関係であったとしても。今だけは共に、同じ道を歩くのだった。

 

 

 

 

 




前:ニコル「ウルムナフなら出来るぞ」
後:ニコル「ウルムナフなのに、出来ない、だと……!?」


~原作キャラ紹介 Part12~
○ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガ(登場作品:シャドウハーツ, シャドウハーツ2)
 シャドウハーツとシャドウハーツ2の主人公。一作目では名前が判明するまで、柄の悪い主人公呼ばわりだった。実際口が悪く態度も軽く頭は緩いと、だが決める時は決める男である。

 初登場から直ぐヒロインにセクハラ行為を仕掛けたかと思えば気に入らないと怒声を飛ばし、謎の怪電波を受信していたかと思えば悪夢に怯え魘される。何だコイツは、と初見で思ったプレイヤーも多かったのではないか。RPGの主人公としては、異色の部類に入るだろう。
 だがその過去が知れると共にただ強がっていただけだと分かり、ヒロインのアリスとの関わりの中でその強がりを本物の強さに変えていく。その姿は正に、主人公に相応しいものであった。

 性能面でも主人公に相応しく、兎に角体感で分かる程に強い。フュージョンが強力なのもあって、他キャラが足手纏いに思えてくる程である。ガーランド家のアイツとは違う。
 2では1と違って他のパーティキャラも強化されてはいたが、それでもどんな場面でも戦える万能型な上にあらゆる分野で1・2を争う程のスペックだった。“変身”か“執事を呼ぶ”を覚えるまで役立たずな写真係とは違うのだ。

 尚、2ではキャラが変わったとよく言われる。主にガラの悪さが減って、内面の弱さが露呈し易くなっていた点だろうか。他にも違っている部分がちらほらと見えるが、作者は喪失の痛みとヤドリギの影響で幼児退行にも似た現象を起こしていたのだと考えている。

 なので当作のウルは2ベース。幼少期のウルなので、2をベースに1の要素を散りばめた感じ。
 素直な良い子が悲惨な環境で、必死に強がって悪ぶっているという状態。1で吐露していた通り、現在進行形でずっと死にたいと思っている追い詰められた子供でしかない。




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第38話 悪夢

推奨BGMに少し悩む。執筆時は月恋花を流してました。


 

 夢に見ている。もう取返しがつかない現実を、夢に見ているだけなのだと分かっていた。

 

「凄い嵐だねー」

 

「そうね。こんな季節には珍しいわ」

 

 年明け間もない嵐の夜。これから訪れる事など何も分かっていない小さな子供は、優しく微笑む母に話し掛ける。

 

「もうじき春が来て、温かくなったら父さんも帰って来るね!」

 

「ええ。そうしたら、また三人で一緒に居られるわ」

 

 異人の妻を娶った父親は、殆ど家に居なかった。幼い頃から少年は母親と共に、産まれ故郷ではない土地で育った。

 その事に、複雑な感情を抱かなかったと言えば嘘になろう。それでも少年は、父の事が好きだった。母と二人で待つ時も、決して苦痛などではなかった。

 

「もう少しだからね、母さん。寂しくても我慢するんだよ!」

 

「まあっ!」

 

 何時か母が言ったのだ。少年と少年の父と、三人で過ごした時間こそが何より幸福な日々であったと。

 何時か父が言っていた。大切な人を守れるような男に成れと。だから少年は決めたのだ。母が寂しくないように、父が帰るまでは己が守ってみせるのだと。

 

「そうだ! 僕ね。欲しいものがあるんだ!」

 

 そんな少年が我儘を口にしたのは、少しだけ寂しかったからだろうか。それとも羨ましかったのだろうか。

 母と過ごしたあばら屋は見た目以上に温かくはあったけど、二人で過ごすには少しだけ大きいとも感じていたから。

 

「うんとねー、弟か妹っ!」

 

「なんなの、急に!?」

 

「だって、レイファが言ってたよ。お父さんとお母さんが一緒に居ると、赤ちゃんが出来るんだって! あそこは兄弟が七人もいるんだよ。いいなーっ!」

 

「そ、そうねぇ……今度、お父さんに相談してみるわ」

 

 困ったように笑う母の姿に、何も知らない子供は無邪気に喜ぶ。笑顔で思い描くのは、もう二度と届かない理想の光景。父が居て、母が居て、自分が居て、もう一人の誰かが居る。そんな、光景。

 けれどそんな光景は、もう思い描く事さえ出来ないのだ。全ては嵐の夜が明ける前に、終わってしまった事だから。

 

「あ、あれは!?」

 

 最初にその異常に気付いたのは、少年の母親だった。元より聡い女性であったのだ。まるで自分に訪れるであろう未来を、最初から知っていたかのように自然と受け止めていた。

 

 露西亜の産まれと語った母の生涯を、その息子は殆ど知らない。何を見て、何を感じて、何を得たのか。知らないなりにも思い返せば、何処かそんな素振りがあったと。少年が気付くのは、何時だって手遅れになってから。

 

「はーい!」

 

「ウル! 開けては駄目!」

 

 扉が強く叩かれた。嵐の中で、一体誰が訪ねて来たのか。疑問すらも抱かずに、出迎えようとする少年。

 幼いウルムナフの背中に、掛けられたのは必死な叫び。普段見せぬ母の姿に、唖然と振り返るのはしかし少し遅かった。

 

「うわっ!? レイファのお父さん!? それに、マキのおじちゃんも!?」

 

 扉を開いた瞬間に、雪崩れ込んで来たのは男達。見知った大人達は酩酊したような足取りで、少年に向かって手を伸ばす。

 慌てて逃げる事が出来たのは、母の叫びがあったからだろう。捕まる前に距離を取った子どもはどうにか、震える声で彼らに問う。

 

「どうしたの!? みんな、様子が変だよ!?」

 

 異常であった。一瞥して分かる程に、男達は全てがおかしい。酩酊した足取りで、錯乱した瞳で、口元から涎を流しながらに迫って来る。

 

 次々と、扉の向こう側から入り込んで来る村の衆。気付けば母と子は囲まれていた。冷たい隙間風が吹き込む小さな家は、村人だった者達全てに包囲されていたのだ。

 

「あなたたち……人間じゃないわね」

 

 恐れる我が子を守らんと、立ち上がった母の姿は堂に入った物である。若き頃には荒事に携わっていたのだろうと、見る者が見れば直ぐにも分かる立ち姿。

 されど多勢に無勢が過ぎる。されど戦場を離れてから、余りに時間が経ち過ぎていた。だからアンヌと名乗る女の運命は、其処で終わりを迎えたのだろう。

 

〈ひっひっひっ、こりゃぁごちそうだ〉

 

〈ぐへへ、知行仙様のお導きだ。お前ら親子を喰ろうて来いとな〉

 

「ま、まさか!? あの人に!!」

 

 ゆっくりと迫る男達。徒手空拳ながらも彼らに相対し、退けていく女伊達。鈍っているとは思えない程には鋭い拳や蹴りは、しかし然したる効果を示せない。

 拳に打たれる者達は、まるで動く屍だ。痛みを感じず迫る彼らは、殴られようと意にも返さない。大きく蹴り飛ばされようと、手足の骨が砕けても、嗤いながらに這いずり迫る。

 

「こ、怖いよ! みんな、どうしちゃったの!?」

 

 バシン、バシンと叩く音。背後の窓を覗けば、覗き込んで来る無数の瞳と視線が交わる。喉から悲鳴のような音が零れて、逃げる事も出来ずに蹲る。

 そんな子供を守る女は、次第と疲弊を重ねていく。肩で荒く息をしながら、我が子を守り続ける女。救援のない孤軍奮闘は、然程長くは続かなかった。

 

〈ひひっ〉

 

 唯一度の被害も受けずに、己と我が子を守り通した女。されど死人を仕留める手段を持たない彼女は、疲労に崩れると言う当然の結果に辿り着く。

 片足を付いて動けぬ女の前の前で、嗤う男達が変貌した。肌の色が変わり、急激に痩せ細り、髪が全て抜け落ちて、額からは角が生える。その姿は、正に異形。

 

〈とても楽しい気分になったのはええが、どういうわけか喰っても喰っても腹が膨れん〉

 

 飢えて飢えて耐えられないと、餓鬼の群れが涎を垂らす。旨そうだと節くれだった腕を伸ばして、彼らが狙うは崩れ落ちた子供の母親。だから――

 

――ウル。父さんが居ない間は、お前が母さんを守るんだぞ。

 

「く、くるなぁぁぁぁっ!!」

 

 守らないと、いけないと思った。怖くて怖くて仕方がないけど、父親とも約束したのだ。だから少年は動けた。動けて、しまった。

 

「ウル!」

 

 幼い子供の行動で、怪物を退けられる筈もない。少年の拙い動きは結局の所、怪物の前に餌を晒すだけの物。その鈍い行動に、餓鬼の群れは腕を振るう。

 避けられる筈がない。防げる道理なんてない。耐えられる事すら出来やしない。だからその結果も当然。突き飛ばされた少年の、視界は赤く赤く染まった。

 

「ああぁぁぁぁぁっ!!」

 

「母さん!」

 

 少年の血ではなく、彼を庇った母の血に。アンヌの手で突き飛ばされた少年は、優しい母の瞳を見詰める。最期まで、愛されていたのだと分かってしまった。

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

 死の間際まで、注がれていた愛情。もう二度と、取り戻せない温かさ。それを奪った怪物達は、変わらずその手を伸ばして来る。

 余りにも多過ぎる情報と嵐のように爆発する感情に、何もかもが真っ白となる。思考の空隙。一瞬の忘我と時同じく、ウルムナフの中に流れる血は目覚めた。

 

 遅過ぎる覚醒。母の危機ではなく、己の危機だけを覆す力。異形と化した少年が意識を取り戻したのは、周囲の化け物全てが死に絶えた後の事だった。それが、3ヶ月前のこと。

 

 

 

「何で……俺……」

 

――まだ、生きてるんだろうなぁ。

 

 分かっていた。これは唯の夢だから、もう終わった事だから。何時しか周囲の景色も変わっていても、ウルムナフに動揺なんて一つもない。

 父親との約束を守れなくて、母親を見殺しにしてしまって、自分だけが生き延びた。そんな少年は真っ暗な場所で俯いていて、狐面を被った男が見下している。

 

「ほんっと、何で生きてるんだ、お前。あの時、死んでれば良かったのによ」

 

「……親父」

 

 その声を覚えている。その姿を覚えている。少年を否定する男が着ている緑の軍服は、少年の父が所属していた日本軍の物を同じであると。

 父親が責めているのだ。どうして約束を守れなかったと。責められても、仕方がないのだと分かっている。約束を守れなかったのに、今もこうして生きているから。

 

「結局お前は、自分だけが大切なんだよな。だから母さんを守らなかった。自分だけを守ったんだ」

 

「……違う」

 

「いいや、違わねぇよ。今だってそうだ。寂しい悲しいって泣いてんのは、母さんに会えない事が辛いからだろう? 怖いよ助けてーってなぁ、結局自分の事だけだ」

 

「…………違う」

 

 目を逸らして否定する。その言葉に覇気はない。他の誰でもない、ウルムナフ自身がそう思っている。だから言葉に力がないのだ。

 

「お袋に会えないのが怖い。親父に怒られるのが怖い。目覚めた力に、化け物に飲まれそうになるのが怖い」

 

 優しい母と強い父に守られて、過ぎていく安らかな日々。何時までも続くと無条件に信じていて、失うなんて考えてすらいなかった。

 壊れるものだと知らないから、守るだなんて口だけだ。その為に何が必要なのかも考えず、何もしてこなかったから失ったのも当然の事。

 

 弱いのだ。ウルムナフと言う少年は。力が無ければ心も弱い。だから約束すら守れなかった癖に、己ばかりが怖い辛いと泣いている。彼の日からずっと変わらない。

 

「誰も助けてくれないのが辛い。誰も愛してくれないのが辛い。一人で生きていくのが辛くて辛くて堪らない。…………ならよ、とっとと死ねよ。その方が楽になれるぜ?」

 

 両手を付いて蹲る少年の耳元に顔を近付けて、囁き掛ける弧面の言葉は真実だろう。もう死んでしまった方が良い。この先なんて、きっと辛いだけなのだと。だって母が死んでからのこれまでは、辛くて悲しい事ばかりであったから。

 

「俺は……」

 

 母の躯に抱き着いて、泣いて過ごした数日間。お腹を空かして彷徨い出して、辿り着いた村や町では常に拒まれ続けてきた。

 何せ時世が悪いのだ。西洋列強に蚕食されて、余裕などないこの大陸。侵略者の血を引いていると一目で分かる浮浪児など、恨みを晴らす的にしかならない。

 

 恵む物などないと言われるだけならばまだましで、唾を吐き掛けられたり石を投げられる事も多々あった。母の庇護を失って、僅か2ヶ月でそれである。

 

「俺は……」

 

 幸か不幸か、少年には力があった。人の悪意など意に止めないだけの力が、必要な物を強引に奪い取れるだけの力が、怪物に変身すると言う能力が。

 そしてこれは、本当に幸運な事だろう。力で人から奪う事を知るより前に、少年は怪異の存在を知った。怪物を倒せばその報酬に、食べ物を得られると知れたのだから。

 

 戦う事は救いであった。辛い事も怖い事も忘れる事が出来て、食料だって得られるのだ。だから戦っている間だけは心が楽で――――けれど何時まで、こんな事を続けていくのかと。

 

「俺……ほんっと、何で生きてんだろ」

 

 何時しか弧面も消えていて、一人ぼっちな闇の中。呟いた言葉は響き渡る事もなく、吸い込まれるように溶けていく。そうして蹲ったまま、少年の意識もまた闇の中へと。

 

「……夢、か」

 

 其処で、目が覚めた。あの日から幾度も見ている夢から醒めて、ウルムナフは頭上を見上げる。見慣れぬ天井を見上げながら、頭を過ぎるは種々様々な感情思考。

 深く呼吸して思考を切り替えると、寝具を片手で剥いで起き上がる。ベッドを椅子代わりにして思うは、この宿“海亀飯店”を手配した同年代の少年が語った言葉について。

 

「ニコルの言う、真実って奴を知る事が出来たら………」

 

 優しい母は、何故襲われたのか。あんなにも強い父が、本当に死んでしまったのか。彼の背を追うその最中で、全てを知る事が出来たのならば――分かるのだろうか。

 

「………分かるのかな。生きていて良い、理由って」

 

 或いは、死んでも良い理由。救われた命を、捨てても許される理由。見付かるだろうかと呟いて、静かに首を横に振る。歯を食い縛って、切り替える。そうして立ち上がった少年は、陽射しが差し込む窓の下へと。

 

 二階の窓を大きく開いて、吹き抜ける強い風を浴びる。一瞬目を瞑って、確かに開く。そしてウルムナフは、ふと階下を見下ろした。

 

「にゃーはっははっ! 第三の鍵、ゲットにゃーっ!」

 

「ふっ、畑一坪で3.3平方メートル。鍬の一振りで耕せる面積を0.02平方メートルと仮定した場合、必要となる回数は165回。資金300で3回鍬を振れるのですから、16500の金銭で畑全てを掘り返す事が可能となる。均等に鍬を振れるのならば、賞品の制覇は実に容易い」

 

「お、おらのリーフ畑がぁぁぁぁぁっ!?」

 

「……何やってんのよ、アイツら」

 

 穴だらけになった畑の中央で、高らかに笑う美形の少年少女達。戦果を掲げる二人の前で、悲しい叫びを上げる畑の持ち主。そんな光景に目が点となる。

 アイツら一体何をやっているんだと、嘆息してから再びベッドの上へ。背中から飛び込むように寄り掛かり、もう一眠りと目を閉じる。何故だか、今度は悪夢を見なかった。

 

 

 

 

 

――1900年5月19日、中国は大連――

 

 

『船が出せない~っ!?』

 

 潮風香る港町の船着場に、異口同音が響き渡る。予想外の返答に思わずと口を開いたウルムナフは、肩を落として隣を向く。

 太っていたり痩せていたり蝙蝠になっていたり、毎朝姿が変わっている珍妙な旅の道連れ。ヒルデガルドは落ち込むウルとは正反対に、肩を怒らせ船の主に食い掛っていた。

 

「何でニャ!? こんなに晴れてるのに、子供だけじゃ運べないとか言う気かニャ!? 金ならあるニャ。ニコルの懐に!」

 

 最初は物珍しくて驚かされた変身も、一月もあれば慣れる物。毎回、違う相手と関わっているのだと思えば受け止められる。

 とは言え変身に慣れたと言うだけで、その強烈な個性に慣れた訳ではない。特に痩せている方が見せる押しの強さは、正直言って疲れる物だ。かと言って、太っている方も善良過ぎて扱い辛くはあるのだが。

 

「そうじゃねぇよ。金払いが心配なのもあるが、それだけじゃねぇ。今日は風が強ぇんだよ」

 

 それでも単純な分だけ、もう一人の連れに比べればマシだ。ヒルダに指差されているニコルは、底知れない笑みを浮かべているだけ。

 一体、何を考えているのか。どうせ碌でもない事だろうと判断出来る程度には、その腹黒さを知ってはいる。だがウルに分かる事など、その程度でしかない。

 

「……あぁ、高波ですか」

 

「何だ、坊主。分かってるんじゃねぇか。そうだよ、こんな風の中で船なんざ出したら転覆しちまうぜ」

 

 作り笑いの腹黒は船主の理屈に気付いていたのか、海を一瞥してから答える。風が強いと波も高くなり、小さな船では転覆してしまうのだと。

 言われて海を見てみれば、確かに少し波が高い。船着場でこの波の高さでは、沖合では更に危なくなるのだろう。となれば危険と言うのも、分からない話ではなかった。

 

「けどよ、あの船は動いてるぜ」

 

 だが、海を見ていてウルは気付いた。船着場から少し離れた沿岸で、動いている漁船があると。拳と同程度の大きさに見える程度に、遠ざかっていくその船舶。見た限りだと、然程大きな船には見えない。

 あのような小型船舶でも出航出来る程度の波なら、それより大きな船ならば問題ないのではないか。多少無理をすれば出航出来ると言うのなら、その無理を通して貰いたい。ウルは一刻も早く、真実を知りたいのだから。

 

「あぁ? ……ああ、ありゃ、あの死にたがりかよ」

 

「死にたがり?」

 

 ウルの見詰める先を見て、納得したように頷く船主。彼が告げた言葉はしかし、ウルが望んだ物ではなかった。

 死にたがりと言う侮蔑の言葉に、籠った色は憐みだろうか。男の視線は埠頭の先に佇む女性を見詰めた後、少年少女らの下へと戻る。

 

「アイツも娘さんも、可哀想だと思うがな。結局の所他人事さ。少なくとも、俺は関わりたくはないね」

 

 拒絶を明言する男性は、きっとその親子の事情を知っているのだろう。或いは彼だけではなくて、この漁村に住む多くの人々が知っているのか。

 知っていたとしても、少年達に語る義理もなければ道理もない。彼はそうして口を噤み、変わらぬ意志を告げるだけ。曰く、今日は船を出さないと。

 

「ま、波が静かな時に、ちゃんと金を払ってくれれば運んでやるさ。待てねぇってんなら、それこそあの死にたがりにでも声掛けな。……お薦めは出来ねぇけどよ」

 

 言って自身が所有する船の点検に戻る男。状況が変わらねば、説得しようと無駄に終わる。意識が切り替わったのは、そうと理解したからだけではない。

 それ以上に、気になったのだ。命の危険があると言うのに、海に出ていくと言う誰かが。そしてその出航を止める訳でもなく、悲しげに見送る民族衣装を纏った女性が。少しだけ、気に掛かったのだ。

 

「……しっかし、此処で足止めかよ。これなら昨日の内に、船に乗っておくべきだったんじゃねぇの?」

 

「休息は必要だったニャ。夜更かしはお肌に悪い、ヒルダちゃんの肌が荒れるなんて歴史上でも稀に見る程の大損害ニャ」

 

「無駄に自己評価高いよな、お前」

 

 とは言え気になったからと言って、何が出来る訳でもない。複雑な事情に踏み込む理由もなければ、余計な荷物を背負う余裕だってウルにはないのだ。

 だから呼吸一つで振り払うと、さてどうするかと話題を変える。流暢と言うにはまだ少し不慣れに感じる中国語で、ヒルダがウルの言葉に乗った。気になるのはお互い様だが、気にしても仕方がない事だから。

 

「んで、待つしかねぇけど。取り合えず船が出るようになるまで、どうすんのよ?」

 

「此処が大都市なら、ショッピング一択なんだけど……寂れた漁村だしニャ。あ、何か劇団があるみたいニャ」

 

「旅芸人の劇団、ねぇ。正直柄じゃねぇにも程があるからよ、取り合えず俺はパスで」

 

「ヒルダちゃんも、目立つのは好きだけど。他人が目立ってるのを見てもにゃぁ。……いっそ新人美少女。大ヒット間違いなしの凄腕女優として、売り込み掛けて見るかニャ?」

 

 風の変化は読めない。明日や明後日には出航出来るかもしれないし、下手をすれば数日から十数日はこのままかもしれない。

 余計な事を気にする程には時間がない。だが何もしないでいるには、長過ぎる程度の暇である。何とも中途半端な状況と言えよう。

 

 寂れた漁村には娯楽が少なく、目に付くと言えば旅芸人の一座くらいか。時間潰しには丁度良いかもしれないが、そうしようと即断出来る程の事でもない。

 ウルは演劇に全く興味が湧かないし、ヒルダはヒルダで着眼点がずれている。どの道この二人が観客として並んだとて、開始十数分で爆睡するのが関の山でもあっただろう。

 

「では折角です。人助けと行きましょうか」

 

 とは言え、それしかないかとも思っていたから意外だった。女性の姿を見てから黙り込んでいたニコルが急に、そんな胡散臭い事を言い出したのは。

 

『はぁ?』

 

 疑念を隠せないウルとヒルダの思考は、完全に一致していた。こいつ、一体何をする気だと。ある意味、強い信頼があったのだ。

 

「ニコルが、人助け? 腹黒外道で似非紳士なニコルが、人助け?」

 

「何企んでやがる、糞ニコル。ぜってぇ裏がある奴だろ、それ」

 

「おや、信用がない。無論、裏の一つ二つはありますがね。善意ですよ、一応は」

 

 爽やかな笑みを浮かべたまま、綺麗な声音で語る少年。裏があっても一応は善意だと語るニコルに、ウルとヒルダの目は変わらない。

 うっそだぁとでも口にしかねない二人の様子に、一つ苦笑してからニコルは語る。ウルをその気にさせる為の、彼を動かすに足る理屈を。

 

「さて、ウルムナフ。物事には適正性と言う物があります。そうするのが相応しいと言う、形が確かにあるのです」

 

「……テメェが俺に直接、知ってる事を話さねぇ理由がそれだって言うんだろ? この一月で、耳にタコが出来るくらいには聞いたって」

 

 教授の講義を彷彿とさせる口調で語り始めたニコルの言葉に、ウルは辟易とした態度を隠さない。この一月で幾度となく、耳にして来た言葉であるから。

 父母の死の真相を、付いてくれば教える。そう告げたニコルはしかし、ウルに対して何も語りはしなかった。それを言うのは己ではないと、問う度にはぐらかされたのだ。

 

「ええ、その通り。私が真実を伝えても、貴方はそれを素直に信用出来ない。其処には適正性がないから。ならば語るに相応しいのは部外者に過ぎない私ではなく、上海に生きる事件の当事者達であるべきだ。彼らには、貴方と向き合う義務がある」

 

 語るべき者は、己ではない。知るべき事は、旅路の中に。海を越えた先、上海の地にはまだ当事者達が居る。彼らの言葉を聞いてから、己自身でそれが真実かを確かめろ。

 其処にこそ適正性はあるのだと、ニコルは諭すように語った。そして彼が言う通り、誰々が仇だ是々が真相だ等と言われた所で信用出来ない。ウルにもそれは分かったから、一先ずはこうして納得している。

 

「そして義務と責務がなくとも、この地で起きている事件は貴方と無関係な出来事ではありません。……私の推測が正しければ、の話ですがね」

 

「俺と、無関係じゃない?」

 

 だからこそ上海に行って、その真実を確かめたいのだ。そう考えるウルにとって、ニコルの言葉は想定外の物であった。

 大連で起きている何かが、ウルの事情と無関係ではない。それが真実だと言うのなら、今も埠頭に佇む女性を捨て置く事は正しいのかと。

 

「直接的な関係はなくとも、全くの無関係と言う訳でもない。貴方が討つべき貴方の敵が、作り上げた悲劇と被害の一つが此処にあります」

 

 寝耳に水な話を聞いて戸惑うウルに、ニコルは何時ものように微笑んだままに告げる。底意地の悪い、そんな言葉を。

 

「ならば、貴方には適正性があるのでしょう。知らぬと無視する権利もあれば、許せぬと猛る正当性も有している。さて、貴方はどちらがお好みですか? ウルムナフ」

 

「……卑怯な言い方だろ、それ」

 

 恐らく、関係はある。無縁ではない問題。だが当事者ではないのだから、知らぬ存ぜぬと過ぎ去ってしまっても構わない程度の出来事。

 とは言えそれで悲しんで居る人が居て、己には関わっても良い理由がある。そうと聞かされてどうして、目と耳を塞いで通り過ぎる事が出来ようか。

 

 そんなのは自分らしくない。だから関わると決めたウルの姿に、ニコルは小さく笑みを歪める。その笑みは歓喜の微笑か侮蔑の嘲笑か、そのどちらにも何処か似ている色をしていた。

 

「で? それをする事で、ニコルが得る利益は何ニャ?」

 

「弟子の不始末は、師に償って頂きましょうと言う事で。彼女ら親子の代理として、仙人の頂点に支払いの請求でもしてみようかと」

 

「見知らぬ他人の被害を理由に、犯人の身内を強請って自分の利益を得ようとする。うん、ニコルらしくて安心したニャ」

 

 適正性を有している。それはあくまでウルの理由であって、ニコルの理由にはなり得ない。寧ろ正当だろうが利益が無ければ、ニコルは動かないであろう人物だ。

 

 だからと踏み込んだヒルダの言葉に、ニコルはあっさりと理由を明かす。少年は彼が知る記憶を下に、利を得られると判断したのだ。予想に反していなければ、これは十分な得となる。

 

 隠すまでもない事だから、あっさりと語ったニコル。そんな彼の言葉に頷き、なら付き合おうと決めたヒルダ。この二人も中々に、不思議な関係だとウルは思う。

 

 仲は良いのだろう。絆は確かにあるのだろう。だがニコルと言う少年は、必要とあれば恐らく誰であろうと切り捨てられる人物だ。そしてその事実に、ヒルダも気付いている節がある。

 

 事実、松花江での戦いで、ニコルはヒルダを巻き込んだ。あの時のウルがもう少し強ければ、更に強力な攻撃を加えて諸共に消し飛ばしていたであろう。

 

 それでも、ヒルダは変わらずニコルの傍に居る。一体如何なる理由があるのか、ウルにはきっと分かる必要のない事なのだろう。だから変な奴らだと、それで済ませてしまえば良いと結論付けた。

 

「こんにちは、お嬢さん。私、ニコラス・コンラドと申します」

 

「…………」

 

「麗々さん、で宜しいですね。返答は首肯で結構、貴女の事情は存じております故」

 

「…………!?」

 

『うっわ、くっそ怪しい』

 

 そうこう考えている間にも、事態は先へ進んでいく。何時も通りの作り笑顔を浮かべて、ニコルは女性に声を掛けていた。

 驚愕を露わにする白い民族衣装の女性。彼女の名前や事情をどうして知っているのかと、疑問に思う事はない。問うても意味がないからだ。

 

 先にニコルが語った、適正性の話である。実は諜報員が下調べをしていたとか、実はこの事件の黒幕だっただとか、何を言ってもニコルが怪しい事実は変わらないのだ。

 怪しいのだから、信用出来ない。信用出来ないならば、問う事に意味はない。どんな答えも、意味のない雑音となるから。ならば重要なのは、ニコルが知っているという事実だけである。

 

「単刀直入に問いましょう。奪われた貴女の声を、取り戻したくはありませんか?」

 

 そんな風に納得出来るのは、短くとも深い付き合いとなりつつある少年少女くらいな物だ。ニコルだから仕方がないと納得出来た二人と、今日初めて出会ったばかりの麗々は違う。

 名を知られている事に驚愕し、事情を知られている事に困惑する。それでも拒絶出来ない程度に少年の提案は、麗々にとっては魅力的でもあったのだ。

 

「…………出来るのですか?

 

『声太!?』

 

 だから思わず、麗々は口を開いてしまった。音に出した声はその可憐な容姿とは余りに不釣り合いな、野太く異質な重低音。

 失礼な事だと分かっていながら、ウルとヒルダは目を丸くしてしまう。驚いて胸中を吐露する彼らに、羞恥で顔を伏せる女性。ニコルだけが平然と、爽やかな笑みで言葉を返した。

 

「確約は出来ません。ですが、振り下ろせない刃物よりかは可能性が高いかと」

 

「…………

 

 微笑と共に告げる言葉は、麗々が振り下ろせなかった刃よりも鋭くあった。どうしてそれを知るのかと、一日でこんなにも困惑したのは初めての事。

 当惑や疑念よりも強く、恐怖や怯懦が女の心に湧き上がる。実父に対する殺人未遂を指摘され、結局何も出来なかった女が震えない訳がないのだ。だがそれでも、背を向け逃げ去る事も叶わない。

 

「何も怯える必要はありませんよ。何かをする必要もありません。貴女は唯、私に任せると言えば良い。その上で、待てば良いのですよ。全てが解決する時までね」

 

「…………」

 

 何故ならば、少年の提案は余りに魅力的だったから。ニコルの紡ぐ言葉はまるで悪魔の誘惑かのように、甘美に過ぎる音色をしている。

 

「不安ならば、そうですね。私が何をする心算なのか、しっかりと説明しましょうか。必要ならば、貴女が信頼する術師も交えると良い」

 

「…………」

 

 何故ならば、女性にはもう未来がなかったから。刃を振り下ろす事が出来ず、恋い慕う男に真実を告げる度胸もなく、頼った人も匙を投げてしまっている。

 

「さて、もう一度、問いましょう」

 

 妖しく微笑む少年の声には、ある種の色気にも似た何かがあった。何もかもを捨てて縋りついてしまいそうな、そんな何かを女は確かに幻視したのだ。だから彼女は、その誘惑に抗えない。

 

「奪われた貴女の声を、取り戻したくはありませんか?」

 

 返答は、一つしかなかった。言われた通りに首肯して、麗々と言う名の女は縋る。例え蜘蛛の糸に過ぎぬとしても、地獄に残る救いはこれしかなかったのだから。

 

 

 

 

 




アンヌさんの死亡は見過ごして、麗々の救済フラグは立てる。
相変わらず、メイン級は救わないし救えない。そんな当作ニコルである。

因みに2月頃のアンヌ襲撃に間に合っていた場合、彼女の死因と下手人が変わります。
生きてたら、ウルが覚醒してくれないからね。ニコルはつい、やっちゃうんだ。そして哀れな人ね、とアンヌに言われるまでがセットです。




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第39話 麗々

老婆の昔話。雰囲気ありましたよね、あれ。


 

 あれはもう、一年は前の事。海の向こうに雷が落ちたかと思えば、突然の大竜巻が海を荒らした。

 晴れた日じゃった。多くの船が漁に出てた。そして、沈んじまった。麗々の父親の船も、戻ってこない。

 

 この子は嘆いた。何せ父一人、娘一人じゃ。麗々は必至の思いで港に立ち、嵐の中で父の帰りを祈った。

 ところが、いくら待っても父親の船は戻らん。そこで麗々は荒れる海に向かい、こう叫んでしまったのよ。

 

「青龍様、漁の神様、誰でもいい。とと様を助けて。助けてくれたなら、何でも望みの物を捧げましょう!」

 

 その瞬間じゃ。大きな雷がピカリと鳴って、嵐は止んだ。嘘のように、海は静まり返った。そして、その上を滑るように父の船は帰ってきたよ。

 じゃが、神様は残酷じゃ。こんなメゲえ娘っ子から、声を奪ってしまった。いんや、そればかりでね。父親の野太い漁師声と入れ替えちまったんだあ。

 

 父親の方は、鈴ころがしたみでな麗々の声。麗々の方は、おっかねえ漁師の胴馬声。麗々も父親も、口さきがねくなったよ。

 ワシャ、何とか声を戻してやろうと知る限りの術ためしたが、駄目だあ。何をしても、戻せね。ワシに分かるのは、たった一つ。父親を殺すしがね。

 

 神様に祈って、捧げた対価。取り戻すなら、得た物を返すしがね。父親の命を返さなけりゃ、麗々の声を戻す方法はネエだと。

 できねよなあ。できねよなあ。たった一人の家族じゃ。何に代えてもええと祈った、大切な父親の命じゃ。今更返すなんで、できるわげね。

 

 そんな中じゃ。こんな村には珍しぐ、旅芝居の一座が来たさ。まんず間の悪りごとに、一座の小ワラシが麗々と恋に落ちただよ。

 花形の役者に恋しても、麗々は想いを伝えられね。ワラシにどれ程求められても、麗々は答えてやれね。元のメゲーえ声を、取り戻さにゃあ。

 

 ワシャ、自分が情けながった。なさげねよう。毎日毎日、曇っでくこの子の顔。分がってるのに、何もしてやれね。

 

 そんな日々が続いたある晩、麗々はワシとこ来てさ。顔に合わぬ親父声で、こう言うだ。

 

「婆様、あの刃物を貸して頂戴な。魔封じの短剣。婆様がお祭りに使う、あの刃物。私、決めたのよ」

 

 愛くるしい唇からよ、そったがおっかねえ言葉を吐く。おっとろしい目でワシを見てよ、指一本動かせなくなってまったんだあ。

 

「そうよ。だから父さんが痛がったり、苦しんだりしないように、一番よく切れる刃物を頂戴」

 

 ほんと、なさげねよう。ワシャ、何もできなかった。助げてやれね娘の声に、怯えて震えるだけしかできね。

 動けねワシのとごからよ。麗々は魔封じの短剣を持ち出しよった。親父様を殺すため。メゲーエ声を、戻すため。

 

 ところがよ、麗々は直ぐに親父様を殺さなかった。いいや、殺せながったんだあ。

 

 毎夜ふけ。父親の寝所を訪れ、眠る親父様の枕元に立つ。刃物を髭もじゃの喉元へ当てる。が、それを引くことも、振り下ろすこともできね。

 しばらくじぃーっと枕元へ立ち竦み、やがて涙を浮かべて寝所を去る。夜毎その繰り返し。ところがよ。親父様の方も、眠ってなどいねんだ。

 

「娘の声が戻るなら、手前の命を奪われても構わね」

 

 父親は知っておった。とうに覚悟はできてたんだなあ。手前の命で、娘が幸せになれるなら。親父様も、娘を愛しておったのじゃ。それは麗々も同じ。

 枕元に立つ娘。喉元に刃当てられたまんま薄目を開け、寝たふりしてる父。結局振り下ろせず、泣きながら寝所を去る。ワシャ、胸が痛んでならね。

 

 それがずぅっと、続いとるんじゃあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1900年5月19日、中国は大連『海亀飯店』にて――

 

 

「それが、お前さんらが知りたがった、麗々の事情だあ」

 

 海婆と名乗った老婆はそうして、真に迫った語りを終えた。話を聞かされたウルムナフは、斜向かいに佇む女を見る。

 声を捧げた麗々は、深く後悔しているのだろう。顔を俯かせたまま小さく震えて、吹けば消えてしまいそうな程に儚く映る。

 

 だが一体、何に後悔しているのか。声を捧げた事か。父を殺さんとした事か。この今も嘆いている事か。まだ年若い少年には分からない。

 

「もうじぎ、旅芸人の一座は村出る。本当は春先さ出発する予定だったが、急にさみぐなってな。良がったんか悪がったんか」

 

 麗々と想いを交わした青年は、一座と共にもう間もなくこの地を離れる。本来、こんなにも長く一ヶ所に留まっていたのが異例である。

 大都市ならば兎も角、演劇を見る者もそう多くはない小さな寒村だ。演じるだけでは満足に糧を得る事も難しく、となれば場所を移そうとなるのは当然の事。

 

 青年は麗々に、一緒に行こうと手を伸ばした。麗々もその想いに頷いて、だがだからこそ怖くなる。

 今の麗々の声は、漁師の胴馬声を恐ろしく悍ましくした物。共に過ごす中で口を開いてしまえば、百年の恋も冷めるのではないか。

 

 青年を愛すればこそ、麗々は声を取り戻したいという願いを強くしてしまう。父と別れると分かっているからこそ、もう良いのではと感じてしまう。

 だと言うのに、振り上げた刃を下ろせない。力を込めて突き刺せば、その一瞬で終わると言うのに。その一歩を踏み出せなくて、麗々は今も何も出来ずに居る。

 

「先月の事さ。突然海が凍って、船が出せねぐなった。青龍様のお怒りがど、皆怖がってな。旅立つには縁起が悪いと、滞在が長引いだよ」

 

 4月に起きた、季節外れの大寒波。海が凍り付くという異常事態に、村の人々は混乱した。麗々の件もあればこそ、誰もが神の実在を感じていた。

 天罰を恐れる村人たちの言葉を真に受け、また極寒の中を歩くというのも難しいと言う現状も相まって、一座の出立は一月以上も遅れる形となったのだ。

 

 そんな言葉を聞いたウルとヒルダは、大寒波を引き起こした下手人をジト目で見る。松花江から黄海に至るまで影響を及ぼし、中国経済に大打撃を与えたであろうニコルは平然と微笑んだままである。

 

「げんとも旅立づ事は変わらねぇ。そんだがら、父親は氷が解げで直ぐに船出した。旅立ぢの祝いに、大ぎな魚贈るのだど」

 

 状況は破綻する寸前であった。原作の知識を持たないウル達には分からない事であるが、もしもニコルが黄海を凍結させてなければ麗々は既に破滅していた。

 麗々の父は旅立ちの贈り物を用意する為に漁に出て、嵐に飲まれて命を落とす。海中で醜い死体になって、それでも麗々の祈りが故に地を這い摺りながら村に戻って来る。

 

 生きた死体と化した父の姿に、それを齎した己の祈りに、麗々の心は壊れてしまう。果てに彼女は怨霊として、この地の全てを呪う化け物と成るのである。

 それこそが原作の流れ。この世界が本来、辿り着くべき場所。それを知るニコルは思う。間に合ったと言う事は、即ちこれも運命なのだと。微笑みの質が、僅かに変わった。

 

「麗々には何も出来ね。父親を殺す事も、危ねぇがらと止める事も。それはワシも同じ。この親子をワシは救ってくれれねぇ」

 

 そんな小さな変化には、その場の誰も気付かない。海婆にはそんな余裕がなくて、ウルとヒルダと麗々は老婆の強い気持ちを感じた為に。

 

「ワシには、何もできね。けど、お前さんに、この子らを救う事ができるんなら。お願げぇだ。どうか、麗々を。メゲえ娘なんだ。助けてやってくれねか」

 

 海婆。この皺だらけの老婆こそこの村一の術師にして、麗々が頼りに出来る唯一無二の者。そしてその信に、応えてやれなかった人物。

 神に縋った若い娘が幸を奪われ、真綿で首を絞めるかの如くに苦しみ続ける。ゆっくりと腐っていく状況に、海婆は忸怩たる想いを抱いていた。

 

 だから、だろう。己の四半分も生きていない子供に、頭を下げて頼めるのは。大切なのだ。恐怖や怯懦を抱こうとも、娘か孫のように思っている。だからこそ、老婆は知る限りの全てを語った。

 

「……なあ、ニコル。如何にか出来るんだよな。これ、如何にかしねぇと駄目だろ」

 

 熱の籠ったその感情に、ウルは心を震わせる。苦しむ人を見て、救いを求める人に縋られて、感情を揺らさない程にその心は擦れていない。

 少年の隣で大きく頷く、ヒルダも気持ちは同じだろう。悲劇を知った。救う術がある。それでどうして、見捨ててなど居られるものかと。女の過去に憐みを抱かない者など、この場にはたった一人しかいやしない。

 

「ふむ。まあ、想定内の状況ですからね。可能性は十分にあるかと」

 

『本当か!?』

 

 その一人にしても、利害が一致するならば動かない道理がない。麗々の悲劇など路傍の塵と変わらぬ物だが、その石の近くに硬貨が落ちているならついでに拾って捨てるくらいはするだろう。

 ましてやこれは、ウルムナフに関わる運命なのだ。ニコラス・コンラドはそう考えていて、故に興味も憐みも一切感じぬどうでも良い女であろうと救い上げてやろうと考える。その程度には余裕があった。

 

「ええ。……しかし些細な疑問なのですがね、どうして皆さんは気付かれないのか」

 

「気付くって、何がニャ? 婆ちゃん熱演し過ぎだろ、としか感じなかったけどニャ」

 

「それな」

 

「いえ、違います。語りの口調ではなく、話の内容に先ず疑問を抱きなさい。低能ども」

 

 そして誰よりも余裕があるからこそ、ニコルだけが気付いたのだろう。本来ならば違和感を抱いて当然の要因に、気付けぬウルとヒルダは首を傾げる。海婆と麗々も変わらない。そんな周囲の様子に愚鈍に過ぎると嘆息してから、ニコルは己の感じた違和の内容を語り聞かせた。

 

「声を捧げて、父が戻った。その神秘、それを何故神の御業と決め付ける。一体どうして、青龍に祈りが届いたのだと思い込む。そうだとするには、余りに醜悪が過ぎると何故考えない」

 

 父を助けて欲しいと神に縋って、対価として声を捧げてしまった。其処に誰も疑いを持たず、誰もが捧げた相手を神だと認識している事。それが先ずおかしいと、ニコルは一つ口にする。

 神の御加護と語るには、余りに内実が悍ましい。命の対価と言うには相応なのかもしれないが、誰かの悪意を感じずにはいられない程に現状は醜悪だ。それこそ悪魔の仕業だと、断言出来てしまう程。

 

「確かに洋の東西を問わず古来より、利益を得る為に神に対価を捧げる事はありました。ですがそれは、確かな繁栄を得られればこその話。祈り手を破滅させる超常の存在。それは神ではない。悪魔と言うのですよ」

 

「せ、青龍様が、悪魔じゃと!? な、何ど罰当だりな」

 

「人を苦しめるだけの神など、下劣な妖魔と何が違う」

 

 真顔で断じるニコルの言葉は、ある意味らしい物でもあるのだろう。神とは人を守り救うモノ。契約者を破滅させるような存在は、悪魔と呼ぶべきモノである。

 神とは唯一無二のモノ。神と騙るは悪魔であり、悪魔と契約すれば何れ必ず破滅する。そういった思想を教えられてきたニコルにとって、青龍を騙るナニカは崇めるに足りぬモノなのだ。

 

「……まあ実際に、彼女を呪っているのは青龍ではないのですがね。種を明かせば、私は知っているのですよ。その嵐の夜に、一体何が起きたのか」

 

 とは言えそんな宗教思想を、異なる国で語ったとして受け入れられよう筈もない。肩を竦めて微笑みを張り付けた少年は、持論を深く語る事なく引き下げた。

 そして言い聞かせるかの如くに、語るは原作知識を元に組織の構成員を使って調べさせた事実。麗々の祈りを聞き届けた存在が、神ではない証明を行う為にそれを明かした。

 

「あの日、上海にてとある儀式が行われていました。名を、鬼門御霊会」

 

 その言葉は何故だか、ウルムナフの耳に強く残った。理由もないのにきっとそうだと、確信の如く抱いてしまう。

 鬼門御霊会。その出来事が、己の知りたい真実に関わっているのだと。胸に宿った誰かの想いが、その言葉に反応したのだ。

 

「間際にて阻止されたその大禁呪。発動には地脈を守護する四神の存在が邪魔となる。故に、事前に排除されていたそうですよ。唯一柱、西方を守護する白虎を除いて」

 

「馬鹿な。青龍様が、既に滅ぼされでるど」

 

「或いは、封じられているのか、歪められているだけかもしれませんがね。ともあれ今も、青き龍はその役を果たせていない。麗々さんの祈りに、応えられる筈がないのです」

 

 無関係ではないと、ニコルが言った言葉に得心する。確かにその出来事が関係しているのならば、この悲劇とウルムナフは無縁では居られない。

 帰って来ない父親と、守れなかった母親。二人が関わったであろう鬼門御霊会の影響で、悲劇に落とされた麗々。彼女を助ける事は、生き延びた己の役目であるのだと。

 

「詰まり別の何かが、青龍の振りをして麗々さんに呪いを掛けた訳ニャ」

 

「なら、話は簡単だな。その妖魔ってのをぶちのめせば、それで全部解決だ」

 

 麗々の祈りに応えて、彼女の父親を救い彼女の声を奪ったモノ。それが青龍ではない事は確定で、ならば倒してしまえば解決だろうと結論付ける。拳を握ったウルの言葉に、しかしニコルは首を横に振った。

 

「いえ、それは余り現実的な解決策とは言えないでしょう。この広い黄海から、十数日以内で一匹の妖魔を探し出すなど不可能に等しい」

 

「十数日以内って……あ、そっか。旅芸人の一座の件が」

 

「彼女の呪いを消せたとしても、本来得られる筈だった幸福を取り戻せなければ片手落ちでしょう」

 

 時間がないと言うその言葉は、一面においては確かに事実だ。時間制限がある中で、黄海から一匹の妖魔を見つけ出すなど今のニコルには不可能な事。確かに嘘は吐いていない。

 だが、真実を語ってもいない。発見は不可能でも、撃破は実は容易である。海底まで一定間隔で凍らせて、少しずつ粉砕していけば良い。それが出来るだけの能力があって、語らないのは望んだ流れに導きたいから。

 

「なら、どうすんだよ?」

 

「方法は二つ。一つは居場所の分かる妖魔の召喚者を狙う事。そしてもう一つは、呪詛返しです」

 

 ただ妖魔を倒した所で、ニコルには利益が全くないのだ。ウルムナフに関わらせなければ意味がなく、何よりその方法ならば別の利もある。

 

「まで、呪いだどしても、返してしまえば麗々の父親はどうなる?」

 

 だからと語るニコルに対し、海婆が疑念を挟む。麗々が声を捧げたからこそ、父親は戻って来れたのだと。海婆はそう考えていたが故に。

 

「余程高位の存在でも、死者の蘇生などそう簡単には出来ません。恐らくですが、そもそも彼は死んでいないのでしょう」

 

 対してニコルは、あっさりとした答えを返す。死者の蘇生を求めた結果、狂った人々を知るからこそ。そう簡単ではないのだと。

 怨霊として呼び起こす事や、死者を死んだまま操る事は可能である。だが死者の蘇生は容易くないから、結論はそもそも死んでいないのだろうと言う物。

 

 死体や怨霊であれば、ニコルは遠目でも見た時に気付く。そもそも既に死んだ存在が、娘の為にと自発的な行動を見せるとは思えない。

 ならばまだ生きているのだ。青龍の語る妖魔が為したのは、船が戻って来られるように嵐の中に道を用意しただけ。その対価として、麗々に呪詛を掛けたのだろう。

 

「軽く霊視した限り、麗々さんの肉体に異常はありません。声帯は正常のまま、男性の声が出る筈がない状態です。詰まりその程度の呪いしか掛けれていないのですよ、その妖魔とやらは」

 

 肉体に異常がないのなら、その呪いは精神にのみ作用している。音を耳にした対象が、他の音と誤認してしまうような類の呪いであろう。

 その呪詛にした所で、肉体に不可逆の変異を齎す程の物ではない。嵐に道を生み出す事も、ある程度の風と水を操れる存在ならば出来てしまう。総じて、黄海の海魔は中位か低位の魔物である。

 

「お父君の状態も視なければ断言出来ませんが、恐らくは同じく聞こえる音を誤認させているだけ。蘇生は勿論ですが、人体を物理的に作り替えるような術もまた高等な物ですからね。一介の妖魔風情に、出来るような事ではありません。故に呪詛を払ってしまえば、それだけで全てが解決するという訳です」

 

 ならば後は、悪魔祓いの領分だ。呪詛を掛けた存在を排除するか、呪詛そのものを跳ね返す事で解呪と排除を両立させる。それだけの手札を、ニコルは既に持っている。

 

「おおっ! なら、これで全部解決ニャ!」

 

「いえ、問題点はまだあります。当然の事ですが、私はこの地の術を詳しく知りません。そんな状態で呪詛に手を加えれば、正直どうなるか読めません」

 

「駄目じゃん!?」

 

「なので、此処は専門家に依頼しましょう。東洋の権威に、彼女ら父娘の呪いを解いて貰うのです」

 

 だがその事実をおくびにも出さず、平然と自分には出来ないと嘯く。そんなニコルの目論見は、彼が語った通りの物。東洋の権威に、繋ぎを取る事こそが彼の利だ。

 

「優れだ術師。ワシが知る限り、九天真王絶行仙であらせられる朱震様ぐれえなもんだが、今何方におられるがわかんね」

 

「ならやっぱ、召喚者っての狙うしかねえんじゃねぇの。上海で何かやらかしたってんなら、其処に今も居やがんだろ?」

 

 そんな内情を、察した訳ではないのだろう。だが同時に、確かに感じては居たのだろう。上海で鬼門御霊会を行った存在こそが、その妖魔の召喚者であるのだと。だからウルムナフは、術者を狙う事を提案した。

 

「……それはまだ早い。少なくとも念入りに準備しなければ、彼の邪仙は倒せません。時間が余りに足りてない」

 

「上海の邪仙? まさが、それは!?」

 

 ウルの提案にニコルは首を振り、もう少しだけ情報を明かす。まだ早いとその正体を暗に漏らせば、想定通りに老婆が釣れた。

 上海の支配者。中華の大地において神秘に関わる者らにとって、彼の邪仙は余りに高名だ。知らねばモグリと断じられる程に、凶悪無比な大邪仙。

 

 その名を聞けば、海婆は絶対に相対するなと語るであろう。少年達を案じればこその言葉に、ウルムナフも否とは言えない。となれば事態は、ニコルが望んだ形に収束する。

 

「彼の堕九天真王地行仙に挑むは愚策。……ならば彼の師に、弟子の不始末を片付けて頂きましょう」

 

 ニコルが得ようとする利は、彼の至高仙との関係構築。西でロジャー・ベーコンに学んだように、その知識を得ようと考えたのだ。

 その為の理由として、麗々の悲劇は都合が良い。彼女を使えば渡りを付けられ、その上でウルムナフの成長にも役立てられる。ならば動かない理由はない。

 

「上海から西へ800キロ。西園九宮寺を守護せし“九天仙術筆頭真王”西法師。東洋の頂点ならば、麗々さんを救う事も容易いでしょう」

 

 次なる目的地は武漢。郊外に位置する西園九宮寺にて、残る四神の一つである白虎を守護する者。徳壊と朱震と言う高位の術者が師事した最高位の仙人。“九天仙術筆頭真王”西法師。彼と会い更なる高みに至る事こそ、ニコルの望みであったのだ。

 

 

 

 

 




麗々の死亡時期は原作では不明。ただ父親が巻き込まれたという大きな嵐が甚八郎と徳壊の決戦の影響と思われるので、当作ではそれから1年と少し後。原作14年前のこの時期辺りに起きた出来事としています。


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第40話 海上

ウルにとって、辛い場面。


 

――1900年5月20日、黄海洋上――

 

 

 空と海の境界さえも曖昧となる暗闇の中、灯火を浮かべて洋上を進む一隻の船。その船室の中に、少年の姿はあった。

 

「ぐへえ」

 

 小さな船を揺らす大きな波は、ウルムナフの三半規管を狂わせる。予測も付かないタイミングで訪れる揺れは、絶妙なまでにその気分を悪化させる。

 端的に言って、少年は酔っていた。顔を真っ青に染める程の酷い船酔いは、吐けども吐けども収まらない。そうして体力を使い果たしたウルは、小さな桶を手に崩れ落ちていた。

 

「あの、大丈夫、ですか?」

 

 優しい声で心配しながら、桶を抱えるウルムナフの背を擦る金髪の少女。ヒルダの優しさに、ウルは瞳を潤ませる。

 聖母のような度量の深さに思うのは、もう少し痩せていたら危なかったかもしれないと言う思考。流石に体重三桁超過は射程外である。

 

 そんな恩知らずな思考をした為か、船ががたんと大きく揺れた。ウルの胃も大きく揺れて、食堂と喉が焼けるように熱くなった。

 

「一度、外の空気を吸って来ませんか? ここに閉じこもっていても、楽にはならなそうですし」

 

「……うん。そうする」

 

 一頻りの逆流を終えて、ちょっと酸っぱくなった部屋の中。ほんの少しも不快な素振りを見せないヒルダは、そんな風に提案した。

 申し訳なさと感謝を等分に感じたウルは頷いて、桶を手にゆっくりと立ち上がる。足を引き摺り歩き出す姿は、まるで動く屍だった。

 

「危険を感じた際には、こちらの金色の硬貨を地面に投げてください。割れると同時に込められた転送魔法が発動し、貴方の身を大連の村まで転移させます」

 

 ヒルダに背を支えられながら、ゆっくりと階段を上るウル。外に出た途端に聞こえて来たのは、船室で行われている会話であった。

 軽く目を向ければニコルが、この船の持ち主である麗々の父親と話をしている。二枚の硬貨を手渡して、その使い方を説明していた。

 

「それとは逆に銀色の硬貨の方は、貴方を召喚する為の目印です。娘さんにも渡していますが、これは肌身離さずに。西法師殿と話す準備が出来次第、直ぐにお呼びしますので」

 

 武漢まで向かう道程に、麗々と彼女の父親は同行しない。その理由は距離の問題だけでなく、ウルムナフと共に居る事が危険だからでもある。

 覚醒した頃からウルは、マリスと言う力を無意識に集めてしまう体質となった。何もしてなくとも怪物達と遭遇しやすく、襲われやすい性質を有しているのだ。

 

 ウルが居るだけで、次から次に襲撃が起こる。そんな中に己の身も守れない一般人を、同行させる訳にはいかないと言う訳だ。

 

(けど、確か。硬貨渡すのって、上海に着いた後って、言ってなかったか?)

 

 先ず麗々の父親の船で海を越え、上海に到着した後に硬貨を渡してから別れる。大連を出る前の話し合いでは、そういう手筈になっていた。

 だと言うのに洋上で態々、船を操縦している時に渡すのは何故であろうか。何か状況が変わったのかとも思うが、疲弊した頭では上手く思考が纏まらなかった。

 

「うぷ。考え事、してたら、吐き気が」

 

「も、もうちょっと我慢です。せめて桶の中か、縁に捕まって海の中に」

 

 込み上げる物を床にぶちまけそうになるウルを支えて、ヒルダが必死に声を掛ける。頑張れと背を押されながらウルは、船の縁に寄り掛かると海に向かって輝く物を吐き出した。

 

「ぐへえ」

 

 一頻り吐き出してから、顔を上げて潮風の向こう側を見る。遠くを見れば少しは吐き気も収まるだろうかと、そんな思考の先で少年はその異常に気が付いた。

 

「……何だ、あれ?」

 

 境目さえも分からない海の向こうに、大きな光が灯っている。まるで太陽のような輝きは、少しずつこちらに向かって近付いていた。

 近付いて、初めて分かる。大きな訳ではない。一つの大きな物ではなくて、小さな物が数え切れない程に集まっている。それは、とても小さな火であった。

 

「あ、あの! 何か、こっちに来ます!?」

 

「っ! 怪物どもの襲撃か!!」

 

 鬼火。炎を纏った人の頭蓋骨が、空を飛翔しながら迫って来る。数は一瞥では数えられない程度。狙いはウルムナフに間違いない。

 向けられる悪意と敵意は、この数ヶ月で既に馴染みとなった物。故に対処も慣れている。握った拳を前に突き出し、飛来する頭蓋を粉砕する。それを両手の分だけ繰り返し、流れるように回し蹴り。蹴り飛ばされた骸骨は、甲板の上に散らばり消えた。

 

「うぷっ」

 

 撃破数はこれで3。その対価は激しい吐き気。悪化した体調にウルムナフはふら付くが、敵は当然手心などを加えてはくれない。

 次から次へと飛来する、その流れはまるで運河の如く。尽きぬのだ。吐き気を堪えるウルが如何に手足で砕こうと、空から炎は振り続ける。そして向かって来る敵は、鬼火の群れだけではなかった。

 

〈Ohohehahui〉

 

 理解できない鳴き声が、夜の闇に響き渡る。空から迫る鬼火に照らされた海面から、顔を覗かせているのは目も鼻もない白き人面。歪に嗤う白面の、首から下は緑の蛇身。

 海の底から現れる。白娘子と呼ばれるは、白蛇伝の仙女とは似ても似つかぬ人面異形。その数もまた空の炎と同じく、一瞥だけで数える事を諦める程。海面だけでそれならば、果たして見えない底はどれ程なのか。

 

 人の顔を持つ蛇は胴から生えた触手のような腕を器用に使って、船体に張り付き海の底から這い上がる。この船に乗る生者らを、海の底へと沈める為に。

 

「こ、こんなに沢山だなんて。ど、どうしましょう」

 

「どうするって、やるしかねぇだろ」

 

 スクリューに白娘子が挟まったのか、異音を上げて動きを止める船の上。孤立した洋上で、襲撃者たちに囲まれる。少年少女に逃げ場はない。

 首を左右に細かく動かしながら狼狽えるヒルダに、酸味の混じった唾を吐き捨てながらウルは返す。そんな少年にとっても、これ程の悪条件は初体験だ。

 

 敵の総数は、百や千など遥かに超えているだろう。己の体調は最悪で、少し動くだけで倒れそうになる。そして横には実力の程も分からぬ、推定足手纏いの少女。

 フォローしている余裕はない。ならばせめて、最前線で敵を引き付けてやるとしよう。ウルムナフは大きく空気を吸うと、雄叫びを上げて敵陣へと走り出した。

 

「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 拳を振るう。狙いを付ける必要なんてない。標的は空を覆う程に多く、海を埋め尽くしているのだ。適当に振り回しているだけで、当たって砕けて潰れていく。

 足で踏み潰す。耳障りな悲鳴を上げて、潰れていく人面蛇が弾け飛ぶ。赤い光が溢れ出し、ウルムナフの心の中へと。呪ってやるぞと怨嗟の声が、墓場の中に小さく響いた。

 

 せわしなく、小さな船の甲板を走り回る。会敵して、まだ一分と経ってはいない。だが殺した敵の数は、既に20は超えるだろう。だと言うのに、減っている気は全くしない。

 どころか更に増えていく。そして当然、その全てに対処出来る訳もない。踏み潰し損ねた蛇が足に纏わりついて、ふくらはぎへと噛み付いて来る。痛みに足を止めてしまえば、受けるは鬼火の体当たり。

 

「がっ、このっ!」

 

 汚物混じりの胃液を吐いて、やってくれたなと腕を振る。腹にぶつかった鬼火を掴んで、そのまま握り潰しながらボールのように敵へと投擲。他の鬼火に当てて落とす。

 足に食い付く人面蛇はそのままに、更に近付く怪物達を踏み潰しながら船のへりへと。這い上る化け物を足を振って蹴落とすついでに、欄干との間に挟んで潰した。

 

 これで倒した数は、もう30か40か。そして最低でも同数程は、ウルムナフの防衛網を抜けている。少年の身体に噛み付いた怪物など、その内の一部に他ならない。

 怪物達は生者を憎む。この船上には生者が4人。魔を引き寄せるウルムナフ以外にも、襲われる者は居る。心配入らぬと確信出来るのは、内の少年一人だけであろう。

 

 先程まで共に居た少女は果たして、この状況で無事なのか。込み上げる不快な胃液を飲み干して、ウルムナフは視線を少し横にずらした。

 敵から目を離さずに確認する。どうか寝覚めの悪い事にはなっていてくれるなよと。血肉が吹き飛び吐き気を催す光景が、其処には確かに広がっていた。

 

「えっと、その、ごめんなさい!」

 

 ぐちゃりと潰れる音と共に、太った少女が頭を下げる。一体何処から取り出したのか。ヒルダが手にしているのは、身の丈程に大きな銀の鍵。

 それを鈍器と振り回し、迫る脅威を払っているのだ。その結果が死屍累々。赤い血潮と臓腑で周囲を彩りながら、怪物達は怨嗟と共に潰えていた。

 

「はは、あっちは、あっちで、どうにかなりそうだな」

 

 無傷で敵を蹴散らしながら、涙目で謝罪している少女の姿に小さく笑う。この程度の雑兵に手傷を受けている今の己より、よっぽど少女の方が安全だろう。

 後の二人の片方は、心配するだけ損だと断言出来る破綻者だ。気に入らない少年だが、アイツが居るならもう一人の安全もまた確実。ならば今、一番危ないのは己である。

 

「なら、俺のやる事は、変わらねぇ!」

 

 またも喉を上がって来た汚物を飲み干し、口内に広がる悪臭に顔を顰めながらに踏み込む。その足を軸に回し蹴り。吹き飛んでいく、赤き炎を見届けている余裕はない。

 すぐさま視線を次の群れへと。続けざまに放った蹴りで、海に落とした蛇の数は凡そ6。その勢いを殺さぬまま、独楽のように回転して拳を放つ。空を切る音と共に、砕けた頭蓋が海へと散った。

 

 これでも恐らく、経過時間は3分程度。倒した敵の総数は、二人合わせれば百を超えるか。されど一体何が原因なのか、敵の数は今も際限なく増え続けている。

 背筋を冷たい汗が流れた。如何に一撃で倒せる雑兵であろうと、これ程の量が伴えば脅威である。いつ終わるか分からぬ戦いは、肉体以上に精神に負荷を齎していた。

 

(くそ、後何匹だ。後どれくらいで終わる。……考えてる余裕なんてねぇのに、頭にこびり付いて離れねえ)

 

 そんな時間が長く続けば、先に心が潰れるだろう。唯でさえ怪物達が撒き散らす気配は、人の心を削っていくのだ。人の正気など、この状況では長く持たない。

 既にウルもヒルダも、肩で呼吸をしている状態。潰れる敵の怨嗟を前に、感じる疲弊を隠せていない。発狂し暴走してしまう程ではないが、しかしそれも然程遠い未来の話ではないのだろうと。

 

「行きますよ。クリアクライム!」

 

 思った所で、白き光が周囲を照らした。無数に輝く光線が、怪物の群れを焼き払っていく。有無を言わせぬ浄化の力は、血や臓物さえもこの世に残させない。

 その瘴気までも浄化しながら、駆け付けた少年は懐から香炉を取り出し地に置いた。流れるように火を灯し、アロマを周囲に振り撒く。選んだのは、正気度を癒す太陽光の香りである。

 

「ニコルさん!」

 

「……遅ぇよ、ニコル」

 

 気に入らないと感じる相手の名を呼ぶ。数十と言う怪物を一息で消し去ったニコルは、何時もと変わらない薄ら笑いを浮かべたまま。

 常ならば腹が立つその態度も、今この時ばかりは頼もしい。そんな天敵と言うべき少年は、ウルと肩を並べると一つ失笑してから口を開いた。

 

「それは申し訳ない。非戦闘員の救助を優先したばかりに、少しばかり遅れてしまいましたか。……ですが、少々期待外れだ。この程度の時間稼ぎなら、貴方達でも出来るかと思っていたのですが」

 

 ニコルは言葉の通り、麗々の父親を避難させていたのだろう。魔術の魔の字も知らない一般人を、安全地帯へと転移させていたのだから初動の遅れも無理はない。

 ましてやまだ襲撃が始まって数分程。ウルムナフとヒルダならば如何にかなると断じていたから、ニコルは軽蔑を隠さない。幾ら不調だからと言っても、無様に過ぎる姿だろうと。

 

「はっ、抜かしやがる。あいっ変わらず、腹立つ奴だ」

 

 その物言いに腹が立つのは、言われなくとも分かっているから。重い船酔いで満足に動けない事など、戦場と言う場においては何の言い訳にもならない。

 敵は配慮などせず襲って来る。不調程度で負けるのは、それだけ自分が弱いから。情けがないと自省するウルムナフは、口の中を吐瀉物を飲み干すと悪態を吐く。

 

「結構。悪態を吐けるだけの余裕があるなら十分。恐らく戦闘は夜明けまで終わりません。これは貴方の責任ですから、死ぬ気で生き延びなさい。ウルムナフ」

 

「は? どういう意味だよ!?」

 

 唐突に自分の所為だと言われたウルムナフは、混乱しながら問い返す。そんな彼の疑問に答えが返るより前に、第二陣が訪れる。更なる怪物達が、海と空から迫っていた。

 先ずはその対処から。ウルは合流したニコルと、背中を合わせて構えを取る。そう間も置かずに襲い来る怪物の津波を前に、其々が拳と鞭を敵に向かって振り抜いた。

 

「え、えっと、本当に朝まで終わらないんですか?」

 

「ええ、先ず間違いなく。……邪仙殿も予想外の事態なのでしょうが。運の悪い事に、二つの要素がおかしな化学反応を起こしています」

 

 鋭い鞭が浮かぶ頭蓋を切り落とし、拳が炎を叩いて散らす。次から次に、迫る敵を狩る二人の少年。特にニコルの参戦は大きく、鞭を振るう片手間に放たれる光の雨が敵の乗船さえ許さない。

 至近に敵が迫らぬ事で周囲を見る余裕の出来たヒルダが、先の言葉を鸚鵡返しに問い返す。少女の問い掛けに対してニコルは、常の笑みを浮かべたままに言葉を紡いだ。

 

「青龍を封じ穢す為なのでしょう。元よりこの黄海の地脈は、大きく歪められていた。此処は、彼の邪仙が生み出した祭壇だったのですよ」

 

 上海の邪仙はこの地で、一石二鳥の策を行おうとしていた。詰まりは青龍の零落と、使える手駒の補充である。その為に地脈を歪めて、大量のマリスを発生させていた。

 麗々の悲劇は、その副産物でしかない。別に彼女である必要はなく、何処かで誰かが苦しみ嘆いて死ねば良かった。そうして散った魂を核にして、式神を作り上げる予定であっただけなのだから。

 

「事を成した後ならば、方向性が定まり干渉する事はなかった。ですがそうなる前に、ウルムナフは来てしまった。マリスを引き寄せる男が、マリスが尽きぬこの祭壇に紛れ込んだのです」

 

 仙術に詳しくないニコルでは、術の表層が読み取れるだけだが先ず間違いない。この祭壇の目的は、憎悪を抱いて死んだ魂を束縛しマリスを注ぎ込む事。

 その為の仕組みが、想定外の因子と結び付いて予想外の動きを始めた。死者を怪物に変えるまでマリスを生み出し続ける場所に、幾らでもマリスを取り込める少年が入り込んだ。

 

 結果がこの現状だ。死者にしか反応しない筈の仕組みは、ウルムナフの体質故に誤作動。引き寄せられたマリスは幾ら経ってもウルムナフを怪物に変える事はない為に、何時まで経っても放出され続ける訳である。

 

「断言します。地脈が尽きない限り、敵は無尽蔵に現れ襲い掛かって来ます。そして地脈が尽きる事は先ずあり得ない。詰まり私達が倒さねばならない敵の数は、数える事すら無意味な無限量」

 

 この地の地脈が尽きない限り、マリスの発生は止まらない。そしてそれに引き寄せられて、発生する怪物達の襲撃も止まらない。マリスが強過ぎて浄化し切る事も難しいが故に、倒した敵も直ぐに蘇ってしまうであろう。

 全てを一瞬で滅ぼし尽くすなど不可能。地脈の力が尽きるまで、戦い続けると言う事も不可能。知識がない為に祭壇自体を崩す事も難しく、敵を引き寄せているウルムナフを排除すると言う選択肢も論外。打開策は、たった一つしか存在しない。

 

「とは言え、一つ一つの悪霊はまだ弱い。朝になれば、存在を保てなくなり自然と消え去るでしょう。ならば我らがするべきは、この一晩の持久戦」

 

 朝日の訪れを待つ事。強大な力を持つ怪物でも、陽射しの中では力を制限される物。ましてや低級な妖魔の群れならば尚の事、太陽が昇るのと同時に消え失せるであろう。

 そうでなければ、もっと早くに襲撃されていた筈なのだ。日が落ちて来てから怪物が現れた事こそ、ニコルの推測が正しいという証左となる。故に彼は剣を手に、仲間達に叫び示す。

 

「力尽きて殺されれば終わりです。船を沈められても終わりです。死にたくなければ必死になって、朝まで戦い続けなさい。ウルムナフ、ヒルダ!」

 

「くそ、朝まで終わらねぇとかマジかよ。後、何時間あると思ってんだよ。バーカ」

 

 まだ日が落ちて直ぐ。時間にすれば、19時にもなっていない。吐き捨てた言葉が震えているのは、体調不良が理由なだけではないのだろう。

 拳を握って振るうウルムナフは、途方もない困難を前にしているのだと実感する。今の己では数分が限界と言う数を相手に、何時間も戦い続けなければならないのだから。

 

 降魔化身術(フュージョン)も使えない。正気度が足りていない。怪物に変身するという行為は、ウルムナフの精神を酷く消耗させるのだ。

 唯でさえ船酔いで心身共に疲弊した今、下手に変身すれば十数分と持たずに戦闘不能となるだろう。後には唯、喰われるだけの的が残るだけ。だから人の姿をしたまま、戦い続けるしか道がない。

 

 嗚呼、状況は最悪だ。だと言うのに、何故であろうか――負ける気がしない。

 

 先程までは勝てる筈がない。もう持たないと感じていたのに、ニコルが来てから笑ってしまうくらいに気楽になったのだ。

 体調の不良は変わらない。脂汗を滲ませながら、振るう拳は強がりなのだろう。ウルムナフはもう限界で、朝までなんて持つ筈ない。だが、それが何だと言うのか。

 

「神の御許へ行きなさい」

 

 大量の敵に囲まれて、戦い続けなければならないこの状況。苦境の中にあっても飄々と、態度を変えずに敵を蹴散らしていくニコル。

 真昼のような明るさだった空が、僅かに暗くなっていく。天を照らしていた鬼火の数が減っているのだ。敵の増援よりも殲滅速度が上回り始めている。

 

 例え目に見える敵の全てを倒した後でも、朝日が昇るまで敵は増え続けるのであろう。だがそれでも、僅かでも敵の居ない時間を作れるならば差は大きい。

 息も吐かせぬ戦いを朝まで繰り返すのと、呼吸を整える余裕が適度に訪れる戦い。ほんの僅かの休息でも、その有無は大差となって現れる。この戦場は最早、絶望とは程遠い。

 

(ほんと、凄ぇ奴だよ)

 

 たった一人でその流れを作り上げたニコルは、きっと足手纏いさえ居なければ一人でもこの状況を切り抜けられるのだろう。己とは段違いの実力に、ウルは素直に敬意を抱く。

 凄い奴だと尊敬して、その実力の高さに憧れて、涼しい顔に嫉妬して、己の情けなさに歯噛みする。悔しいと、思ったのだ。胸に宿った想いはきっと、ライバル心とでも言うべき物。

 

(ああ、負けたくねぇな)

 

 認めよう。今はまだ届かない。己の数歩どころか、数十歩は先を相手は進んでいる。だが認めた上で、それでも悔しいとは思うのだ。情けないとは思えたのだ。

 勝ちたいと願う。肩を並べたいと思う。足手纏いにはなりたくなかった。そう思えたから少年は、強がりしかない笑みを浮かべる。強く握った拳を振るって、空舞う敵を打ち砕く。

 

「この、雑魚共が。纏めてゴミの日にぽーいだっての!」

 

 最悪の体調で、されど心の勢いだけは絶好調。先に晒した無様だけは、この相手には見られたくないから。少年の動きは一分一秒毎に洗練されていく。

 振り抜く拳の鋭さも、振り回す蹴りの勢いも、先程までの比ではない。今や一切の被弾をせずに、怪物達を駆逐していくウルムナフ。その動きは、過去最高の物だった。

 

 だから、だろうか――

 

「う、ぐっ!? 何だ、これ……」

 

 ウルムナフはこの時、確かに一歩を踏み出したのだ。彼は大きく成長しようとしていた。だが彼が成長すると言う事は、彼の内側にあるモノもまたその影響を受けると言う事。

 心の墓場が騒めいている。門の向こう側から、悍ましい気配を纏った風が流れ出している。ケタケタとケタケタと、四つの仮面が嗤っている。ウルムナフの中から、何かが這い摺り出んとしていた。

 

「ウルさん!? ふ、船酔いが悪化したんですか!?」

 

 胸元を強く押さえ付けながら、膝を付いて苦しみ藻掻くウル。死人のような顔色になって、悶え苦しむその異様にヒルダが声を荒げる。

 遂に限界が来たのかと、戸惑う彼女の推測は正しくない。だとしても、それを否定する余裕がウルにはない。吐き気など生温い苦痛に、呼吸さえも出来ていないから。

 

「これは、まさか? いや、あり得ない。光の鍵さえ、まだ得てはいないのだぞ!?」

 

 一方、ニコルはなまじ知識で知るからこそ信じられないと困惑する。己の推測を己であり得ないと少年が否定するのは、ウルの覚醒に必要な筈の鍵が足りていないから。

 だと言うのに何故と。事此処に至って起きた現象は、完全なる想定外。一切の対応策さえない状況に、ニコルの表情も漸く変わる。硬直した彼は此処に来て始めて、大きな隙を作っていた。

 

 その隙を、怪物達が逃す道理もない。減り始めていた怪異の数は、即座に元の木阿弥に。否、それ以上に増えている。空の七割どころか、視界の十割全てが怪物の群れに。

 

「あああああああああああああああああっ!?」

 

 先ず真っ先に食い付かれたのは、崩れて動けなかったウルムナフ。その牙が血肉に食い込んで、与えられる激痛以上に感じる内からの痛みに悶えていた。

 

「た、助けに行かないと!?」

 

「不可能です! 敵の数が多過ぎる!! それに――」

 

 倒れるウルムナフを助けに行かんと、ヒルダが叫ぶが既に続く道がない。安易に飛び出そうとした彼女を制したニコルの視界は、怪物の群れで埋まっている。

 最早津波だ。海面から巨大な津波を見た時の光景と、この景色は大差がない物だろう。否、それよりも酷い。波の向こうに見える筈の夜空さえ、肉に埋もれて見えぬのだから。

 

 安易に飛び出せば、飲み干されて死に至る。そう確信出来るからこそ、ヒルデガルドを止めたのだと。ニコルの理由は、それだけではなかった。

 

「巻き込まれます!」

 

 ニコルが本気を出せば、この津波も消し去る事は出来たであろう。だがそうしようとしなかったのは、ウルムナフの身に起きた異常を確かめていたから。

 倒れた直後、感じる力は増えていたのだ。ウルムナフの中から、ウルムナフよりも強い力を感じた。それによって証明されてしまったのだ。ニコルがあり得ないと断じた、その事態が起きているのだと。

 

「ニコルさん!」

 

「下がっていなさい! ウルムナフは問題ありません! アレが出てくる!!」

 

 その事情を察しなければ、巻き込まれるから見捨てろと言われたようにも思える言葉。咄嗟に反発したヒルダに対し、その身を庇いながらにニコルは告げる。

 無数の光で暴力的に怨念を浄化させながら、少年が見詰める先は唯一点。背中を流れる冷汗は、ニコルをしてどうにもならぬのではないかと感じる程に強いから。

 

 そう。強い力が溢れ出そうとしている。怪物に貪り喰われる少年。今にも命を落とさんとしている彼の内にある力が、しかし先程までより上がっている。まるで膨らみ続ける風船の如く、膨大なマリスが高まり続けて――

 

「う、あああああああああああああああああああああああっっ!?」

 

 当然の如く、破裂した。取り込み続けた悪意がグレイブヤードの許容量を越え、その奥にある門が今開く。

 

〈へへ、やっと会えたな〉

 

 そして門の向こう側から、ウルムナフにとっての死神が現れる。瘴気に満ちた風を浴び、圧倒的な気配を周囲に振り撒きながら。

 溢れるマリスと共に出現。周囲に群がる低級な怪物達では、その男が纏う暴力的な圧力にすら耐えられない。その風を浴びた瞬間に、津波は弾けた柘榴となり散った。

 

〈随分と酷ぇ顔してんじゃねぇか〉

 

「が――っ!!」

 

 無残に潰れた妖魔達。その死骸を踏み躙りながら、現れた男はその足を振るう。ウルムナフの小さな体が吹き飛ばされて、甲板の上に転がった。

 

〈迎えに来てやったぜ。お前に殺された化け物どもの魂が、あの世で寂しがってるからな〉

 

 甲板を転がり、蹲るウルムナフ。そんな少年を足蹴にして覗き込むのは、狐のお面を被った男。緑の軍服を来た、角刈りの成人男性。その声を、その存在を、誰よりもウルムナフ自身が知っている。

 

「……親、父」

 

 絶対に勝てない死神。弱さと恐怖の象徴。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガの全てを終わらせる処刑人。

 顔を上げることも出来ないまま、目を逸らしたままに理解する。ウルにとっての最悪が、今この場所に居るのだと。

 

 

 

 

 




雑魚無限増殖+狐面出現。基本ウル虐めな配置ですが、ここまでやってようやくニコルも大変になってくるかと思われます。

因みに狐面の登場にニコルが驚いていた理由は、本来原作開始後(アリスと出会った後)でなければ狐面は現実世界に干渉出来ない筈だから。
更に厳密に言うと、光の鍵の影響でウルの内面世界が刺激される=狐面が現世に出張可能になると言うのが原作設定。

なら別の形でウルの内面が刺激されれば、狐面も出て来れるのではないか。という推論から今作では狐面の出番が14年程早くなりました。




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第41話 狐面

推奨BGMはDemon's Gig辺りの汎用ボス戦テーマで。


 

 黄海に浮かぶ船の上、揺れる甲板の上に転がる少年は震えている。夜の寒さと周囲を満たす悪しき怨念。そうしたものに、背筋が冷えるだけではない。

 遂にこの時が来たのだと、震える身体を貫く思いの名は恐怖。何時かこうなると分かっていた。何時か父が殺しに来る。ずっとそう思っていた。

 だってウルは、約束したのに守れなかった。だって父はきっと、ウルのことを嫌っているし恨んでいるし憎んでいる。だから、殺しに来ると分かっていた。

 

 分かっていて、それでも震えることしか出来ていない。

 

「え? あの人、ウルさんの中から? え、え?」

 

「……此処で狐面、ですか。いやはや、これはどうしたものやら」

 

 状況の変化についていけず、戸惑うばかりな少女の声。状況の悪化に嘆息しながら、打開の策を脳内で巡らせている少年の声。

 二人の声が、何処か遠い。それは物理的な距離の問題ではなく、精神的な問題点。周囲に意識を配れる程の余裕が、今のウルの内にはないからだ。

 

 怖い。怖い。恐ろしい。唯その感情だけに支配され、その顔を見上げることすら出来ていない。踏み躙られた状態で、抜け出そうとすら思えていない。正気度の喪失だけが理由ではなく、まだ向き合う覚悟が出来ていなかった。

 

 或いはこれが、もう10年は先のことなら違っただろう。震える心を無理に隠して、強がる程度は出来た筈である。だが、今はまだ、その傷口は生々しいのだ。だからこそ、ウルムナフは狐面が怖くて動けもしない。

 

〈そらよっ!〉

 

「が――っ」

 

 そんな恐るべき怪物が動き出す。踏み躙る足を後ろに引き、そのまま前へと蹴り出す。誰がサッカーボールかは、言うまでもない事だろう。

 デッキを転がるウルの身体は、怪物達の死骸を巻き込みながら後部へと。操舵室の壁にぶつかり鼻血を出して、受け身も取れずにそのまま倒れる。子どもの身体は震えている。痛みを訴えることさえ出来ずに、丸くなって震えていた。

 

〈ははっ、随分跳んだなぁ。中身と同じで、見た目も塵屑みてぇだ〉

 

 嗤い見下す言葉に対し、ウルは何も返せない。だって彼が怖いから。だってこれは正当な罰だから。だってウルはもっと早くに死ぬべきだったから。

 みっともなく涙を零して、怖い怖いと震えたままで、このまま無様に命を終える。それがきっと、ウルにとっては相応しい幕引きなのだと思うから――

 

「ウルさん!」

 

 なのに、どうしてだろう。遠い声が呼んでいる。震える事しか出来ない子ども。そんな子どもを虐げる狐面。良識を持つ者ならば誰もが眉を顰める光景に、ヒルダが叫び声を上げている。

 駆け付けて守ろうと、しかしその思いは通らない。敵は狐面だけではない。彼が現れた瞬間に多くが圧し潰されたと言っても、周囲の雑兵は無限に湧くのだ。だからウルは助からない。

 

「ちぃっ、なんて、無様っっ」

 

 なのに、どうしてだろう。遠い声が蔑んでいる。震える事しか出来ない子どもに、そんなものかと苛立っている。そんな子どもを虐げる狐面を、詰まらぬモノだと軽蔑し切った目で見ている。

 駆け寄ろうとはしていない。忌々しいと吐き捨てて、面倒だと嘆息して、無様が過ぎると呆れている。その判断は正当で、その評価は適正で、なのに一体どうしてだろう。何でこんなにも、ウルは悔しいと思うのだろうか。

 

「っ、ど、どうして……。何で、なんですか! な、何でウルさんを虐めるんですか!?」

 

〈何で? 理由なんざ、単純だ。そいつは生きてちゃ、いけねぇからさ」

 

 無垢で善良な祈りを受けて、狐の面は言葉を返す。面で隠れぬ口元に、浮かんでいるのは悪意に満ちた嘲笑の色。けれどウルの心には、何より響く言葉であった。

 優しいヒルダはきっと、生きていてはいけない理由などはないと語るのだろう。どんな事があったとしても、死んで良い理由にはならないと。しかしウルは、その想いに共感など出来やしない。

 

「そんな!? 生きてちゃいけない、理由なんて!!」

 

(違う。俺に、生きていて良い、資格なんてない)

 

 死ぬべきなのだ。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガと言う人間は。他の誰でもない、ウル自身が心の底からそう思っている。

 守れなかったのだ。母の死の瞬間に力に目覚めて、それでは全く遅いだろうに。一人だけ生き延びたのだ。結局の所最初から、本気で守ろうとしていなかったのではないか。

 

 だから、生きていて良い理由が欲しい。生き延びてしまったからには、何か意味があったのだと。そうでなければ、生きている事実が辛過ぎる。

 あの時死んでしまいたかった。大好きだった母親と一緒に、あの惨劇の夜に終わっていれば良かったのだ。そうすれば、こんなにも生きる事が辛くはなかった。

 

(死んで良い、理由もねぇけど。……それが、父さんなら、俺は)

 

 辛くて苦しくて痛いだけの人生でも、その命は母に守られたものだった。だから、自分が嫌だからと言う理由だけでは、簡単には捨てられない。

 だからウルにとって、この状況は或いは救いだ。己の罪を裁く者。唯一裁いて良い存在。そんな父に殺されると言うのなら、きっとそれは死んでも良い理由になるから。

 

〈ま、そんな理由がなくとも殺すがな。ピーピー泣いてて鬱陶しいんだよ、この餓鬼は〉

 

 だから、なのに、どうしてこんなに悔しいのだろう。漸くに終われる。その正当性は確かにあるのに、どうしてこんなに怖いのだろうか。分からない。分からない。ウルには何も分からなかった。

 

「お父さん、なんですよね? なのにどうして、そんな酷い事が言えるんですか!? なのにどうして、そんな酷い事が出来るんですか!?」

 

 津波と化した怪異の軍勢を前にして、歩を遮られた少女は問い続ける。彼女自身が、他人のことなのに泣き出しそうな程に表情を歪めながら。

 無数の怪異を前に、戦い続けているのはニコルだけ。ウルが動けなくなり、ヒルダもまた動揺から隙を晒してしまっている。そんな状況で少年の表情からは、既に余裕が消えていた。

 

 現状は最悪だ。ウルもヒルダも足手纏い。ニコル一人で、無限に増え続ける怨霊と怪異を相手取るしかない状態。フリーになった狐面が遊んでなければ、今直ぐにでも終わっている。そんな状況なのである。

 

〈お父さん、お父さん、ねぇ。ははっ、馬鹿みてぇ。けど、そうだなぁ――――親なら、ちゃんと殺してやらなきゃ! なぁ、そうだろう! ウルムナフ!!〉

 

 意味深に嗤った後で狐面は身を屈めると、倒れた少年の髪を掴んで引き起こす。そして、甲板に叩き付けた。

 硬質な音と共に、血と歯が飛ぶ。髪を引き摺り顔を上げさせ、その姿に呵々と一笑。再びその頭を甲板へと。

 

「ぐ、が――」

 

「ウルさん!」

 

 繰り返す。繰り返す。何度も何度も繰り返し、甲板に向けて叩き付ける。鼻が潰れて歯が折れて、震える子どもの姿に嗤う。その在り様は、何処までも邪悪で醜悪だ。

 

 心優しい少女は潤ませた瞳から涙さえ流して、その光景に叫びを上げる。彼女を守る小さな騎士は、その自傷行為に嘆息した。真実と言う物は知ってしまえば、その光景を直視していれば、それは余りにも滑稽に映る代物だったから。

 

「全く、付き合いきれない。……そう切って捨てられたのなら、良かったのですがね」

 

 ニコルは九節鞭を振り払い、迫る怪異を一息で一掃。空いた左手に光を集めて、狙うは面で顔を隠した男。道中の怪異を消し飛ばしながら、迫る光は狐面の片手に受け止められる。

 だが、それで十分。彼我の間に道は開いた。秒とすれば塞がる不確かな道であったとしても、ニコルならば進めるから。

 

「はっ!」

 

 呼気と共に踏み込んで、右手の鞭を一振り。熱を宿した鋭い一撃が、少年の髪を掴んだ狐面の右手を切り落とす。

 肘から先を失って、口笛を吹いて楽し気に、笑ってニコルを見返す狐面。そんな彼の手元から、ウルを回収すると即座に後方へと投げ飛ばす。

 

「ヒルダ!」

 

「は、はい!」

 

 名を呼ばれた少女は慌てて、飛んでくる少年を受け止める。その勢いを殺せず共に転がり倒れて、彼我の間を即座に化け物たちが埋めていく。黒い波の中に飲まれて、ニコルと狐面の姿は消えた。

 

「ウルムナフを叩き起こせ! 二人で生き延びるくらいはしてみせろ!」

 

「は、はい! が、頑張ります!」

 

 気遣う余裕も取り繕う事も出来ぬまま、乱暴な口調の言葉だけが届けられる。そんな常とは異なる態度に気圧されながらも、如何にか頷き巨大な鍵を握り直すヒルダ。そんな彼女らの元へ、悍ましき怪異は迫り来る。

 

〈Ohohehahui〉

 

「ダ、ダメです! 嫌です! 来ないで~!」

 

 身の丈程に大きな鍵を乱暴に振り回して、顔のない白蛇を叩き潰していくヒルダ。ぐるりぐるりと体を揺らして振り回す動作は、傍目に分かる程に隙だらけ。その隙間を潜って、多くの蛇や鬼火がウルの体へと。

 

「が――っ!」

 

「ウルさん! だ、ダメですってば~!」

 

 ウルが狙われる理由は単純に、その体質が故である。犬神の血を流す少年は、吸血鬼よりも遥かに旨そうに見えるのだろう。

 殆ど無傷のヒルダが必死になっても、ウルの体に集る怪異の数は減らない。傷が増えて血が流れ、肉が減って痛みに呻く。そんな苦痛はそれでも確かに、ウルにとっては気付けとなった。

 

(はは、みっともねぇ……)

 

 受ける痛みが、泣いている少女が、泣いている己が――何もかもにそう感じる。

 

(けど、けどよ)

 

 父への恐怖は拭えない。己は確かに死ぬべきだ。その考えは変わっていなくて、まだ向き合うことなど出来やしない。けれど、それでも、己には死んで良い理由もないのだから。

 

「テメェら如きに、食われてなんてやれねぇんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 己の中の、闇を呼び覚ます。その内に宿る魔物に身を委ね、その身体を変じていく。既にSPは限界だ。その変身で、更に多くを削がれた。残る値を数値にすれば、一桁には突入していよう。

 内なる怪物に、剥き出しの魂を鷲掴みにされているような感覚がある。今にも食われてしまいそうな、そんな恐怖が存在している。それでもまだ、自分は此処に居ると分かっていたから。

 

〈消えろっ〉

 

 剥き出しの口腔より、黒き闇を吐き散らす。命ある闇は広がり浸食しながら、ウルの体に食らい付いていた異形たちを逆に食らっていく。慌てて逃れようとする怪物達をその両手で潰しながら、ウルは津波の向こうへ意識を向けた。

 

「疾――っ!」

 

〈おっと〉

 

 壁の向こうでは、ニコルと狐面の死闘が続いている。鞭と光剣を切り替えながら戦うニコルに対し、迎え撃つ狐面は徒手空拳。どちらも手の内の多くを隠しながら、戦況は拮抗していた。

 

「はぁぁぁぁっ!」

 

 気迫を伴う踏み込みと同時に、ニコルは光剣を一閃。大振りの一撃は当然の如くに僅かな動作で躱されるが、その勢いのままに回り切ってもう一撃。

 独楽の如くに回転しながらの斬撃に、拳を合わせる狐面。剣の腹を叩いて防いだ男の身体に、振り下ろされるは光を消したヒートロッド。

 

 蛇腹の鞭が齎す不規則な動きは予測し切れず、その胴体に浅くはない裂傷を。怯んだ男に向かって放つは、全体重を乗せた跳び蹴り。

 

「おまけです。神の裁きを受けなさい!」

 

 宙に浮いて海へと落ちる。途中で狐面の身体を射抜くは魔法の輝き。白き光を放った後で、再び鞭を光の大剣へと切り替える。そして息を吐かせる間もなく、縁から海面へと振り下ろした。

 

〈ははっ、やっぱ強ぇな、お前〉

 

 舞い降りる光を前にして、男は不敵な笑みを浮かべる。空中で静止し、虚空で体勢を立て直し、海面へと着地する。そして大地の如く、海を蹴り上げ直上へ。

 迫る光に焼かれる事も気にせずに、半身を失いながらも甲板の上に舞い戻る。大きく欠落した肉体に痛みも感じぬまま、振り下ろされた光を正面から突破して少年の下へと。

 

〈はっ!〉

 

「ちぃっ!」

 

 それら全てが数秒の内に起きた出来事。振り下ろした体勢からの復帰は間に合わず、ニコルは舌打ちしながら距離を取ろうとする。

 逃がす物かと振るわれる狐面の拳。唯では逃げ切れぬ咄嗟に悟って、迎撃の為に振るわれるニコルの光剣。男の首が断たれて宙に舞い、少年の顔に男の拳が叩き込まれた。

 

「……貴様こそ、ウルムナフより遥かに強い」

 

 唯の一撃、それも体重が乗り切ってはいない物。だと言うのに歯が何本も折れて、鼻が潰れて流血する。口内に溜まった血を吐き捨てて、忌々しいと呟く少年に油断はない。

 首を失い、胴体も半分程が消し炭となった男。だが一瞬後には血肉が盛り上がり、失った部位が生えてくる。首から下を秒で完治させた怪物は、転がる頭を拾って首に乗せると嗤って言った。

 

〈一緒にすんなよ、あんな死にたがりの糞餓鬼と〉

 

 頭を置いただけで首と繋がり傷は塞がる。この攻防で分かった事は、ニコラス・コンラドでは狐面を滅ぼせないと言う事実だけ。この狐面は、嘗てのエレインと同等級の怪物だ。

 ウルムナフの心に恐怖がある限り、決して滅びる事がない。狐面はそういう存在である。

 

「……厄介な」

 

 拳と光剣を切り合わせる。単純な身体性能では負けていても、技量を含めた総合面ではニコルが確かに勝っている。頭一つ分の違いだろうか、本来ならば順当に勝てる筈の実力差。

 

〈へへっ、本当に強ぇな〉

 

 だが敵は不死身である事を武器に、一切の防御を切り捨てている。攻撃だけに専念されれば、その程度の実力差など埋まってしまう。このままでは、朝まで持たない。ニコルはそう判断し、手札を一つ使うと決めた。

 

「……行きますよ」

 

 大地を蹴って駆け出すと同時に、懐から取り出した数枚の硬貨を投げる。一体何だと狐面が反応するより前に、光の矢がそれらを射抜いた。

 

「転移術式、多重起動。座標指定、ビストリッツ、モスクワ、哈爾濱。その何れかに飛ぶか、複数の干渉により事象の狭間に落ちるのか。ともあれ、貴方には退場して貰いましょうか」

 

 無作為に発動する複数の転移式。咄嗟の反応も出来ずに光に飲まれていく狐面に対して、ニコルが選んだのは戦闘放棄。倒せないなら、戦わなければ良い。それは何処までも単純な解決策。

 

「さようなら、恐怖が生み出した断罪者。真面にやって敵わないなら、そも戦わなければ良いのです。不死身だと言うのならば、生きたまま此処から消えなさい」

 

 光と共に消えていく姿を見据えながら、ニコルは片手で口元を拭う。鞭を懐に納めるにはまだ早い。倒せぬ敵を離脱させたからと言って、まだ無限量の怨念達が残っているのだから。

 

 想定よりも大きく魔力を消耗してしまった。道具の消費もかなりの痛みだ。苦々しく懐具合を計算しながら、ヒルダの援護に向かおうとするニコル。残心を終えた少年の判断は、しかしまだまだ甘かった。

 

〈残念。これじゃ、無理だぜ?〉

 

「……つくづく、厄介な」

 

 ニヤニヤと笑う声がする。振り向けば其処には、傷一つない狐面の姿。遥か遠くに飛ばされた筈の存在が、当たり前のように其処に居る。その身には、傷の一つもありはしない。

 

 無駄なのだ。戦う事も、逃れる事も、この狐面を前に叶わない。一度現世に現れたが最後、この男は無敵の怪物として在り続ける。出来て精々が時間稼ぎ。何故ならば、ニコルにこの男と戦う資格はない。

 

〈お前じゃ無理だ。俺を殺すどころか、遠ざける事すら出来ねぇよ〉

 

「……成程、此処に居る貴様は影のような物か。ウルムナフが居る限り、其処に貴様は出現する」

 

〈正解。良く分かってるじゃねぇか〉

 

 この場において、その資格を有しているのは唯の一人。ウルだけが、立ち向かって良い資格を持つ。彼以外には、戦う事も許されない。

 それがこの死神だ。そして死神の脅威に対し、今もウルは立ち向かおうとしていない。己は死ぬべきなのだと、彼は思い込んでしまっている。この狐面に殺されるべきなのだと、そう思い込んでしまっているから――狐面は誰にも倒せない。

 

〈そうさ、俺は不死身だ。俺は無敵だ。俺を一時的にでも退けられるのは、無様に泣いてる糞餓鬼だけ。――――だが、そいつにゃ絶対不可能なんだからよぉっ!〉

 

 狐面の姿が変わる。羽搏く黒き翼。獣の如き足に、皮膚のない顔。冥刹皇。闇の力を宿したそれは、降魔化身術と呼ばれる変身能力。

 ウルに出来るのだから、当然この狐面にも出来る事。彼が変身した時点で詰みだ。素の状態でも拮抗していたのだから、それ以上となった今ではニコルすらもう相手にならない。皆、此処で死ぬしかないのだ。

 

〈くそ、俺の、所為かよ……〉

 

 その光景を、そこに伴う音を、迫る怪物達を蹴散らしながらに理解していたウルは毒吐いた。口では否定するように呟きながらも、それが事実だなんて分かり切っている。

 

(ああ、やっぱり、生きてるべきじゃなかった。あの日に、死んでいた方が良かった)

 

 変貌した肉体は、泣くと言う機能を残してはいない。だから流れる血涙は、きっと違う意味のもの。

 それでも少年は思うのだ。全ては己の責任だと。死ぬべきだった人間が、生きてしまったからこんな事になったのだと。

 

 皆を巻き込んだ。ヒルダは確実に助からない。ニコルだけなら生き延びるかもしれないが、己やヒルダを切り捨てるタイミングを誤れば彼もまた危ないだろう。

 死ぬのなら、一人で死んで置くべきだったのだ。生きていて良い理由が欲しいと、死んでも良い理由が欲しいと、縋り付いたのが間違いだったのだ。だからこんな状況に、皆を巻き込んでしまった。だからこそ――

 

(嗚呼、クソ。俺、何やってんだよ! アイツらを巻き込んで、なのに、どうして、震えてんだよっ!?)

 

 そうとも、死ぬなら一人で死ぬべきなのだ。この狐面に、一人だけが殺されるなら納得出来た。だが、ニコルやヒルダを巻き込むのは違うだろう。そう思えるから、歯を食い縛る。

 

 きっと何処かで甘えても居たのだ。ニコルなら、この相手も如何にか出来ると。何だかんだで、自分が頑張らなくても皆助かるのだと。そんな風に心の何処かで甘えていたから、恐怖に震えると言う甘えが出来た。

 

(ニコルでも、親父には勝てない! なら、もう、俺が、死ぬしか、ねぇだろうがよっ!!)

 

 怖い。怖い。怖い。生きているのが怖いし、責められるのが怖いし、前を向くのが怖過ぎる。そうしなければと思っただけで、涙が止まらなくなる程にウルムナフ・ボルテ・ヒュウガはまだ弱い。

 だけど、違うのだ。誰かを巻き込みたくはない。これ以上、誰かを犠牲になんてしたくない。それなら死んだ方がマシだと、心の底から思えていたから――

 

〈うあああああああああああああああああああああああああああっっ!!〉

 

 叫びを上げて、ウルは逃げ出す。見っともなく、無様に過ぎる有様。それでも其処に、意味はある。そうするだけの理由がある。

 狐面はウルの恐怖である。彼が居る限り不死身で無敵で、彼だけを延々と狙って来る。だからウルが居なくなれば、ウルだけを追い掛けてこの場を去る。

 

 立ち向かうなんて出来ない。乗り越えようなんて考えられない。けれどせめて、もう誰も巻き込まないように逃げ出すことだけは出来たのだ。

 

〈ちっ!〉

 

 背中を向けて走り出し、怪物が蔓延る空へと飛び立った冥刹皇。そんな見っともないウルの姿に、弧面は苛立つように舌打ちしてから追い掛け始める。

 逃がしはしないと、その背をニコルは追わずに見送る。追い掛けたとて、意味がない。それに無様な姿は赤点物だが、震えているだけに比べれば、逃げ出せただけマシであるから。

 

「精々死ぬなよ、ウルムナフ。今の貴様に期待する事など、無様な時間稼ぎだけなのだから」

 

 恐怖と拒絶からの逃走に、そんな言葉が掛けられる。余りにも情けなく、泣きたくなる程の屈辱。それさえも超える恐怖の中で、確かにその言葉は胸を突いた。

 見下すような言葉であったが、それでもまだ期待されている。逃げ回って時間を稼ぐことだけは、やってみせろと確かに言われた。だからウルは、歯を食い縛る。

 

 無数の化け物が蔓延る空は、腕を振る隙間も満足にない場所。下手に前へと進もうとすれば、怪物達が壁となって道を阻む。そうなれば最後、狐面に追い付かれて命が終わる。

 だが、ならば何処に逃げれば良い。障害があっても、狐面から逃げられる場所。それは一体何処にある。

 

(何処だ。何処だ。何処に逃げれば良い!? 空は一杯で、水の中は少しマシで――なら、海か!)

 

 僅かな差だが、鬼火よりも白娘子の方が動きが遅いように見えた。ならば空を逃げ回るより、海の中に飛び込んだ方が可能性が高い。誤差の範囲であったとしても、もうそれしか道はないと思えたのだ。

 故にウルは、海の中へと。しかし水の抵抗は予想以上で、進めた距離は想定以下。このままでは追い付かれると言う確信に、ウルは必死で求め続けた。

 

〈もっと早く! もっと早く! 邪魔だ退けぇぇぇぇぇぇぇっ!!〉

 

 嘆きの色を宿した意志が、心の墓場を掘り返す。逃げる為に、新たな姿を。求める意思が己の形を歪めていく。

 そうとも、翼を持つ怪異では駄目だ。遮蔽物の少ない空を飛ぶだけでは、きっと弧面に追い付かれる。だからこの水場と言う状況下で、必要となるのは海を行く力。

 

〈ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!〉

 

 それは青き鱗を持つ者。水を利し、冷えた流れを操る小凶神。七色の霧を纏う七孔を持たない怪物は、海の中を深く深く底へ向かって逃げていく。

 大きな音と共に進水。空を舞う鳥のように海中を進みながら、我武者羅に逃げ続ける龍人。底へ底へと進むウルの割り切った行動は、そうであるが故に他の追随を許さない。……本当に?

 

〈後先考えねぇで逃げに徹するなら、この俺から逃げ切れると? 舐めてるんじゃねぇぞっ! お前だけの力じゃねぇんだよ、こいつはよぉっ!〉

 

 変貌。髑髏の顔を持つ死神から、無貌の魚人へと。狐面の姿も変じた上で、空から海中へと飛び込み少年を追う。姿形は全く同じく。だが、力の差は明確だった。

 

〈弱ぇなぁ! 弱っちぃなぁ、テメェはよぉっ!〉

 

 逃げ続けていたというのに、気付けばその足首を掴まれている。ニヤリと嗤う気配を感じて、目を逸らしたままの子どもは小さく震える。どうにか逃れようとするが、最早何もかもが遅過ぎる。

 

「――っ」

 

〈は、ははぁっ!〉

 

 足を掴まれ引き摺られて、急激な速度で海上へと。まるでジェット噴射のように水を操りながら、弧面が変じた青き竜人は掴んだ獲物を振り回す。

 まるで木槌で餅でも付くかのように、何度も何度も海面に向かって叩き付けては振り回す。水とは思えぬ程の衝撃に傷付きながら、ウルは確かに理解していた。

 

 遊ばれている。玩具のように使われている少年は、しかし何も出来ずに居る。立ち向かおうと望むことすら、出来ない程に弱いから。

 

〈ほんっと、見っともねぇなぁっ! とっとと死んじまえよ、糞餓鬼がぁぁっ!〉

 

「ぐ、がぁぁぁぁぁっ!?」

 

 途中で遊びに飽きたのか、逆さに吊るしたウルをサンドバッグとして使い始める。腹に穴が開く勢いで殴られ続ける少年は、何時しかフュージョンを解いていた。

 

〈テメェが弱ぇから、守れなかった! 母さんも、約束も!〉

 

「ぎぃっ」

 

 本当に穴が開いている。開いた端から再生していくのだが、すぐさま再び拳が臓腑を叩き潰してペースト状へ変えてしまう。

 殴る。殴る殴る殴る。追い立てるような追撃は、決して止まることがない。嬲るような攻撃と同時に向けられるのは、未熟な心を抉る罵声の嵐。

 

〈そんなテメェが、俺から逃げる? 笑わせんなよ、無理に決まってんだろ! 泣き虫野郎が!!〉

 

「ぐぅぅぅっ」

 

 海上で死に瀕しているウルと、彼を追い詰めている弧面の男。一方的に傷付きながら、一方的に追い詰められながら、示される己の弱さに少年の心は泣いていた。逃げることさえ出来なくて、こんな様を晒すのかと。

 

〈死にたいんだろ? 生きてたくねぇんだろ? 手伝ってやるから、さっさと死ねよ。なぁ、ウルムナフ〉

 

 否定は出来ない。ウルムナフは死にたいのだ。だから狐面が現れる。ウルムナフは死んだ方が良いのだ。だから狐面は、彼を殺そうとするのである。

 

 痛め付けて、嬲り続けて、己の罪を直視させて、苦しみの中で絶望させてから殺すのだと。心の闇から、逃れる事は許されない。ウルムナフの末路は既に決まっている。他でもない、彼自身がそう望んでいるから。

 

〈他の誰も巻き込みたくなければ、もう此処で終わって良いだろ? 此処なら、死ねるぜ。お前だけがさ〉

 

 新たな変身を得ようとも、力の差は覆らない。ウルムナフが強くなればなる程に、狐面もその力を増していく。倒せる訳がないのだ。未熟な今の少年に。

 そして戦う理由すら、この死神は奪わんとする。己が死ぬのは良い。他人を巻き込むのは駄目だ。それが理由なら、お前だけを殺してやるからもう諦めろと。

 

(……なら、良いのかな)

 

 言われて、折れた。恐怖はまだ変わらずあって、立ち向かえる強さが己の内にはなかった。ならばどうして、闇から逃れることが出来ようか。

 

(なら、もう良いんじゃねぇか)

 

 不可能だ。そもそも己の闇から、逃げようと思って逃げられる筈もない。心の闇とは、心の内にあるもの。心を捨ててしまわぬ限り、永劫切り離せないものだから。

 

(俺は……)

 

――私は幸せよ。だって貴方と、お父さんが居るもの。

 

「母、さん」

 

 だから、最後に、懐かしい声が聴こえた――――そんな気がした。

 

 あり得ないのに、そんな声が聴こえた気がしたから――――顔に手刀が突き刺さる。異音と共に頭が砕けて、意識が遠退いていく瞬間。死とは意外と痛くはないのだなと、そんな場違いな事をウルは思った。

 

 

 

 

 




ウル虐め。でもウルは散々な目にあった後、最後には幸せになって欲しいと思う。
ニコルは……うん。線香花火みたいに、一瞬でも輝けば良いんじゃないかな……


因みに原作14年前に登場した狐面さんは、相応の見た目をしています。
けれどウルは怖がって顔を確認する事も出来ていないので、そうだと思い込んだ姿を認識している状態です。

ニコル視点では、失笑を免れない光景。自傷行為な三文芝居。何でそう思い込めると疑問視するレベル。
ヒルダは一瞬首を傾げた後、世の中には色んな姿の父親が居るんだなぁ、お父さん小さいなぁ、で納得してます。




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第42話 墓所

狐面に初めて殺される=グレイブヤード行き
展開的には原作通りだが、一体どんな理屈なのだろう?


 

 暗い暗い雲の下、名前さえ刻まれていない石の墓標が立ち並ぶ。周囲は鉄の柵に囲まれて、誰も何処へも行かせはしないと言わんばかりに。

 背筋を冷やすような不吉な風が吹き抜けるのは、内面世界のグレイブヤード。殺されてきた化け物たちが、土の下にて蠢く場所。

 

「……俺、生きてる、のか?」

 

 そんな地獄とも見紛う場所で、ウルは小さく呟いた。潰された筈の顔に触れても、その手は染まらず綺麗なまま。現実感というものが欠落している。

 

「……それとも、死ねた、のかな?」

 

 生きているのか、死んでいるのか、それさえ分からずに空を見上げる。真っ暗に淀んだ雲の下には、無数に蠢く赤の軌跡。蛍火のように美しく、されど目を背けたくなるような色をしている。その凶つ灯の名はマリス。ウルムナフを呪うもの。

 

「はは、なっさけな……」

 

 冷たい土の上で大の字に寝転んだまま、ウルは静かに言葉を漏らす。生きていようが死んでいようが、過程は何も変わらない。自分は何も出来なかったと、その事実が胸を突いていた。

 

「親父の言う通りだよ……俺、何で」

 

 恐怖を前に、震えることしか出来なかった。必死になって逃げ出して、逃げ切ることさえ出来ずに此処に居る。何も出来ずに、殺されたのだ。

 その程度はしてみせろと、その言葉に応えたかったのに。結局最低限の信用ですら裏切って、こうして無様を晒している。

 

「何で、生きてたんだよ。俺……」

 

 狐面はもういない。その恐怖が去った今、胸に残るのは悔しさだけだ。生きていて良い理由は見付からず、生きている事に価値は見出せず、胸を突くのは唯々己が無能に対する後悔だけ。

 

 嗚呼、本当に死んでしまいたい。嗚呼、このまま腐ってしまいたい。そう感じて、そう出来たなら、きっとそれこそが救いであったのだろうに。

 

――ウル。

 

 そう思う度に、愛しい人の声が聴こえる。大好きだった母の言葉が、その行動を縛ってしまう。

 ウルには死んで良い理由がない。母は己を守ってその命を終えたのだから、何もせずに腐っていくことだけは許されない。

 

「……くそ、分かってんだよ」

 

 嫌で嫌で堪らなくて、もう何もかもを投げ出したくて、それでも声が聴こえるから。

 腕が動くなら、起き上がらなくてはいけない。足が動くなら、歩き出さなくてはいけない。死んでいようが、生きていようが、関係ないのだ。動けるならば、動かなくては自分で自分が許せない。

 

――貴方のことを、愛しているわ。

 

「死んで良い、訳がねぇんだ……」

 

 女の愛は最早呪いだ。それでもウルは立ち上がる。それでもウルは歩き出す。それだからこそ、ウルはもう止まれない。狐面という恐怖が去れば、進むことしか選べなくなるのだ。

 

「……ってか、ここ何処よ」

 

 立ち上がったウルは周囲を見回し、率直に過ぎる疑問を零す。つい先程までは黄海の洋上に居たというのに、気付けば見知らぬ墓所に居る。こんな場所にやってきたのは、これが初めてのことだった。

 

「おーい! 誰かいないのー!?」

 

 冷たい土の上、疎らに敷かれた石畳。墓石に挟まれた道を歩きながら、死臭を孕む風を受けて顔をしかめる。

 嫌な気配がする。墓石以外は何もない筈の周囲から、常に感じるのは敵意や憎悪。この世界の全てがウルを憎んでいるのだと言われたら、思わず信じてしまいそうなくらいに空気が悪い。

 

「ぜんっぜん、反応ないんだけど。ったく、何処行きゃ良いんだっての」

 

 感じる悪意に耐えかねて、独り言を呟きながらも先に進む。目指すべき道は分からない。だから目印としたのは、大気に満ちる赤い光。それが出て来る中心点。

 

「嫌な光だよな、これ。どっから漏れてんの? この墓場、絶対設計ミスってるって」

 

 一人呟く毒の混じった言葉は全て、己の弱さを隠す強がりだ。音に出して誤魔化さなければ、震えて進めなくなってしまう。それ程にウルの本質は、弱くて脆くてみっともない。

 

「墓石ばっかで薄っ気味悪いしさぁ。何か生きてるみたいに動いてんのもあるんですけどー、やめてくんないそういうの」

 

 歩きながらに周囲を見回す。何処まで行っても墓石ばかりで、華やかさとは無縁の場所だ。その墓石の中には、まるで生きているかのように鼓動を繰り返している物もある。その生きた墓石の下から突然に、怪物が現れて襲ってくる。そんな光景を想像して、ウルはうへぇと息を吐く。

 

「光ってんのは、火の刻印? 水と風と闇と……地ってのも微妙に光ってね?」

 

 警戒しながら進んでいると、光る墓石に刻まれた刻印が目に留まる。知らない模様だと言うのに、何故か意味が分かってしまう。

 

 火の刻印。其は決して止まらぬ殺戮の衝動。

 水の刻印。其は嘆き悲しみ何も成さぬ悲哀の感情。

 風の刻印。其は己よりも秀でる者を妬み恨む執着の意思。

 地の刻印。其は他を無意味に傷付けんとする暴力への誘惑。

 

 そして最後に、闇の刻印。其は即ち――――

 

「これ、俺が変身できる、化け物の数か?」

 

 何となく、ウルは理解する。此処にある刻印は全て、己が目覚めた降魔の力に関係していると。火水風闇、この4つは既に使えている。地も条件を満たしていれば、使えるだろうという自信はあった。

 輝かないのは光である。他者を憐み、慈しむ心。そんなものが芽生える余裕は、ウルの中には全くないから。

 

「ってことは、此処って俺の心の中かよ!?」

 

 化け物たちがやって来るのは、己の心の内側から。ならば逆説、化け物たちが居るこの場所は、ウルの心の中なのだろう。そう考えると不思議と色んな事に納得出来た。

 

「……ま、それが分かったから、何だって話だけどよ」

 

 この世界がウルを拒絶するのは当然だ。他でもないウル自身が、一番ウルのことが嫌いなのだ。憎んでいるし恨んでいる。だからこんなにもこの場所は、息苦しくて過ごし難い。

 

「それにしても俺の心、殺風景過ぎね? ちょっとー、もっと華やかにしてくれよー」

 

 そんな風に道化た態度で歩きながら、ウルは漸くにその場所を視界に収める。其処にあるのは、心の中にマリスが溢れ出す元凶。何処に繋がっているかも分からない巨大な扉だ。

 

「……げ。化け物どもが、すげぇ居やがる」

 

 完全に開き切った扉の周囲に、蔓延るのは数え切れない程の怪異の群れ。鎌を手にした人型や空に舞う髑髏。様々な見た目のものが存在するが、どれも白くぼやけている。

 それらは悪意体。ウルに殺され、ウルを憎む怪異の遺志。既に命亡きモノたちが、ウルを認識するや否や即座に襲い掛かって来た。

 

「ちっ、うざってぇ」

 

 迫る刃を身を捩ることで回避して、擦れ違いざまに拳を一発。それでは消えぬ敵の姿に舌打ちして、追い掛けると更に二・三発。倒れた相手に馬乗りになって殴り続ければ、十を超えた辺りで漸く一匹仕留められた。

 

「……へへへ、俺、分かっちゃったわ」

 

 そうして立ち上がって見れば、門の隙間は少し狭くなっている。宙に満ちるマリスの色は、ほんの少しだけ薄くなっていた。

 

「要はあれだろ、あの門閉じれば良い訳だ。そうすりゃ、なんかこう、良い感じに何とかなんだろ」

 

 心の中に起きている異常は、あの門が原因である。マリスを浄化すれば門が閉じていくと言うのであれば、門が閉じ切れば何か変化が起こるであろう。

 或いはニコルが語っていた今回の元凶も、この世界が正常な形となれば解決するかもしれない。そうと判断するとウルは、周囲の化け物たちを見る。

 

「……流石に、これ全部は無理じゃね?」

 

 最初に見掛けた、数え切れない程の量。何だかそれから、更に増えている気がする。ウルが化け物を退治する際に生じた音に引かれて、集まって来たということだろうか。ともあれこれら全てを倒すなど、気が遠くなるような話である。

 

「なら、門の方を閉じてみっか」

 

 故に発想の転換だ。浄化されたら門が閉じるなら、直接門を閉じても浄化が進むのではないかと。判断が外れていればその時は、改めて敵を倒せば良いのだ。故に先ずはやってみようと、ウルは門へと駆け出した。

 

〈Oooooooooooooooooooo!〉

 

 悪意体の群れが迫る。門を閉じることを阻むかの如く、立ちはだかる姿にウルは笑う。邪魔をするということは、されては困るということだろう。

 己の判断が決して間違いではないのだと、自信を以って前に行く。悪意など怖くはない。もっと恐ろしいものを前にして、敗れたばかりなのだから。

 

「ぐ、おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 怪物の魂をその身に宿す。選んだのは暴虐の意思。いつの間にか目覚めていた、大地の力をその身に宿して化身する。

 頭の中で、鐘を叩くような頭痛がする。胃や食道が裏返って、そのまま口から出て行こうとしているような吐き気がある。全身を襲う激痛に耐えながら、ウルは姿を変えた。

 

〈ふぅ……〉

 

 苦痛を嘆息と共に吐き出して、姿勢を正すその異形。両腕は直立した状態から、地面まで届く程に長い。毛皮に覆われた身体の上に、乗っかる頭部は人食い虎。猛虎と称されるは、大地の力を宿した小凶鬼。

 

〈じゃ、閉めるぜ〉

 

 この変身を選んだ理由は単純だ。迫る悪意体の鎌や牙が、その外皮に阻まれる。如何にか毛皮を貫けても、直下の筋肉で止められている。そう、猛虎は耐久力が高いのだ。

 降り注ぐ小雨に濡れても、別に傘が必須ではないように。どんなに襲われても然したる被害にならないなら、取るに足りぬと無視出来る。最早ウルを阻むモノなど、この場にはいなかった。

 

 故にその数分後には音を立て、巨大な扉は完全に閉まり切る。蔓延っていた悪意の群れは、それに伴い掻き消えていた。

 

「楽勝。楽勝」

 

 変身を解いた少年は、腕を回して首を捻って、これで終わりかと笑ってみせる。立て続けに無力を実感することばかりだったから、久し振りの快勝に心が少し浮き立って――

 

〈かっかっか、何とも無粋な行為をするガキだ〉

 

 その感慨に、水を挟む声がする。聞こえた方へと目を向ければ、其処には門を囲むように4つの台座が並んでいた。

 今まで如何して気付かなかったのか、台座の上には同じ数の仮面が並ぶ。黄色の鳥。赤色の鬼。緑色の獅子。青色の魚。そのどれもが声にせずとも、ウルのことを嗤っていた。

 

「あ? んだよ、お面が浮いてやがる」

 

〈漸くだ。会えて嬉しいぞ。我らを葬り、永劫の地獄に招き入れてくれた、憎きハーモニクサーの小僧よ〉

 

 鳥を模した仮面が暗く輝いて、嘲笑うように言葉を掛ける。剣の仮面と称するそれは、侮蔑と憎悪の入り混じった視線でウルを見下す。

 その視線に籠った悪意を感じ取ったウルは、先の快勝もあって強気な態度で、幼さの見える悪意を返した。

 

「……へへっ、礼なんてよしてくれよ。俺の方はお前らに会えなくたって、いっこうに寂しくなんか無いんだぜ」

 

〈ほっほっほ、言いよるわ。だが、そうやって強がったところで、心の怯えは隠せぬぞ〉

 

 二本の角が生えた平面的な仮面が象徴するは杖。鬼を模したような姿をした杖の仮面は、ウルの行動を無駄な努力と嗤ってみせた。

 直後、門の前に影が浮かび上がる。その狐面を被った影の姿を見た瞬間にウルの全身は恐怖に震え、4つの仮面はゲラゲラと馬鹿にするかのように大笑した。

 

「うるっせぇ! 叩き割んぞ、お面ども!!」

 

 狐面が其処に居たのは、ほんの秒にも満たぬ時間。消えた後になって強がるウルに、腹があれば抑えて笑い転げていたであろう四仮面。忌々しいと拳を握り締めるウルに、仮面たちは次から次へと悪意を向ける。

 

〈ぐははは、無駄に喚きよるわ小童が。しかし意味などありはせんぞ。此処はうぬの心の中を映した世界。あれはうぬ自身が作り出した心の闇。奴の存在は、うぬが恐怖の証明よ〉

 

〈うふふふ、見えるわ。醜いあなたの結末が。美しい赤き輝きが。あなたが倒した我等の同胞たちが、マリスと呼ばれる悪意と呪いとなって世界を満たす。狐の面が、あなたを呪う。無駄よ無駄無駄。あなたがどれ程に足掻いた所で、破滅は既に確定しているもの〉

 

 怯えを震えを隠そうと、歯を剥き出して威嚇する。だがその行動こそが、他でもない弱さの証明となっていた。

 獅子を模した金貨の仮面は、魚を模した杯の仮面は、各々同時にウルの姿を嗤う。そうして彼らは、此処に真実を告げるのだ。

 

《貴様は死ぬ。あの男が現れたのだ。貴様が身も竦む程に恐れている。あの男が》

 

 開いた門の向こうから、あの狐面は現れた。全てはウルが、怪物達を打ち倒して来たから。彼らに悪意と呪いを与えたから、彼らから悪意と呪いを受けたのだ。

 

《貴様は逃げられぬ。幾度だろうと何処であろうと、あの男は現れる。貴様に死を齎す為に、我らの恨みを晴らすが為に》

 

 これは因果応報。呪えば呪われる。殺せば殺される。これまで死を与えて来た少年の順番が、遂に回って来ただけの事。最早逃れる事は出来ぬのだと、四仮面は嗤い続ける。

 

《無駄に苦しみ、無様に足掻いて、無意味に死ね。貴様は我らに、捧げられし贄なのだから》

 

「うっせぇ、黙れ! 馬鹿お面! バーカバーカ、このバーカ!!」

 

 嗤われていることよりも、その姿が見えただけで、その存在が示唆されただけで、強がることさえ出来なくなる程の恐怖を抱く。そんな自分が情けなくて悔しくて、泣きそうな声でウルは叫ぶ。声を上げる度に嗤われて、拳を握る度に馬鹿にされて、どうしようもなく悔しく感じた。

 

〈かっかっか、威勢良く吠える。だが哀れだな。震える身で叫ぼうと、その惨めさは隠せない〉

 

〈ほっほっほ、そんなにも恐ろしいか。あの男が、この世界が、その地獄が〉

 

〈ぐははは、うぬは弱く醜く愚かしい。そんなうぬでは、逃れられんよ。何時までも何時までも、我等がうぬを責め立てようぞ〉

 

〈うふふふ、貴方は何時まで持つかしら。いいえ長くは持たないでしょうね。だって貴方には、この墓場の土が似合いだもの〉

 

「黙れ! 黙れよ! 口から手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタ言わせてやろうか!!」

 

 強がることすら、相手を選ばなければ行えない。そんな己に感じる惨めさを、この仮面たちは理解していたのだろう。無様無様と少年を嗤って、彼らは悪意に塗れた呪詛を紡ぐ。

 

〈ぐははは、楽しみだのう。うぬが奴に殺されるその時が。うぬが我らに食われるその時が〉

 

〈ほっほっほ、此度の浄化は一時のものに過ぎぬ。お前の行いは、逃避と何ら変わらない〉

 

 そう。これは終わりではない。始まりに過ぎないのだ。長き長きその戦いの、永き永きその地獄の、始まりを告げる鐘。それがこの今に、鳴らされたのだと彼らは語る。

 

〈うふふふ、一体何時まで逃げ続けるの? 一体何処まで、逃げられるのかしらね〉

 

〈かっかっか、忘れるなよ小僧。貴様が現世で殺す度、この地は怨念で満ちていく。この地を清める為に貴様はまた、この地で命を奪わねばならない。繰り返すのだよ、死ぬまで永劫にこの地獄をな〉

 

 ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガがこれから、多くの怪物を殺すだろう。その腕っ節以外に誇れる物を持たない少年は、そうしなければ生きる事さえ儘ならない。

 ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガはこれから、何度も何度も同じ怪物達を殺すだろう。心の中に蓄積される悪意は再殺せねば、やがては少年を呪う死神を現世に出現させるから。

 

 殺して、殺して、殺し続ける。この連鎖からは抜け出せない。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガが生き続ける限り、彼は永劫この繰り返しを続けなければならないのだ。

 

《忘れるな、この地獄からは逃げられない。唯一無二の救済は、死の後にしかないと知れ》

 

「……うっせぇ、バーカ」

 

 それは一体どれ程に、辛く苦しい生き方となるのか。殺し続ける怨嗟を一身に受ける少年は、聞きたくもないと唾を吐く。

 未来の事は考えない。今を考えるだけでも死にたくなるのに、永劫の地獄なんて考えたくもなかったから――そんな無様を、仮面は揃って嗤い見下していた。

 

〈さぁ、行け。小僧。現世に戻るが良い〉

 

《苦しみ藻掻き、果てに死ぬるまで。その全てを、我等に捧げ続けるのだ》

 

 そうして、景色はぼやけていく。此処に始まる、生きる限り終わらない戦い。死んでしまえと嗤う怪物達の声を背に、ウルの意識は現実世界に舞い戻った。

 

 

 

「……寒っ。起きたら海を漂ってましたとか、マジ勘弁してくれよ」

 

 気付けば其処は、夜更けの黄海。冷たい海面に漂う少年は、溺れ死んでなくて良かったと安堵しながら嘆息する。寝起きの気分は、決して良い物ではなかった。

 

「親父は、いなくなってるな。んで、空は真っ黒。怪物共はまだうじゃうじゃいますよ、っと」

 

 濡れた髪を掻き分けながら、体勢を整えて立ち泳ぎ。顔を振って周囲を見回せば、状況は殆ど変わっていない。夜明けまでにはまだ時間があって、怪物達は今も船を襲っていた。

 

「どうしたもんかね。俺が殺すと、また親父が出て来るし……って、近付いてくるなよ。あっち行け、ばっちいって」

 

 時折光が降り注ぐ光景を遠巻きに見ているウルへと、近寄って来るのは白娘子。怪物達はウルに引き寄せられているのだから、それも当然の結果である。

 ゆっくりと海を掻き分けて、近付いて来る蛇の数は刻一刻と増えていく。下手に傷付ける事も出来ないウルは、近付く怪物を掴んでは遠くに向かって投げ飛ばす。

 

 それを十数回程、繰り返す。そうこうしている内に数がどんどんと増えていき、ウルの頬が引き攣り始めた所で――白き光が、周囲の怪物達を一掃した。

 

「うぉっ!? あぶ、危なっ!? ニコルの野郎、殺す気か!?」

 

 蛇を掴んでいた腕ごと、光に持っていかれたウルは叫ぶ。あの野郎無差別かと、無くした腕を生やしながらに空を見上げた少年はその光景に唖然とした。

 

「わー、お空綺麗ー。いや、どうなってんだよ、マジで」

 

 空から降り注ぐ光の量は、正しく雨水の如くである。歴史的な大豪雨と見間違う程に膨大な量の光線が、空と海を白き色へと染め上げている。

 そんな光景が、一瞬ならばウルとて納得しよう。何かがおかしいと感じながらも、あの男の本気ならばと受け入れる事が出来たであろう。だが、そんな生温い物ではなかったのだ。

 

 光の雨は、文字通りの雨である。途切れないのだ。凡その目測でも万を超えるであろう白魔法による絨毯爆撃が、何秒も何分も何十分も続くのである。明らかに現実離れした光景だ。

 

「……取り合えず、船に戻るか。ヒルダは兎も角、ニコルの野郎は俺が間に合わなくても船を動かすだろ。絶対」

 

 敵が増える前に、それ以上の速度で叩き続ける。物量をそれ以上の物量で駆逐している光景に、ウルは考える事を止めて泳ぎ出す。これならばもう、心配する必要などはない。

 寧ろ己が置いて行かれる可能性の方が高いだろう。心優しい太ったヒルダならば兎も角、ニコルや腹黒い方のヒルダならば笑ってウルを置いていく。そんな確信があったのだから。

 

「泳ぐのダリィ。ねぇ、どうしてそんな遠いのよ。もっと俺に優しくしてくれても良いんじゃないの、色々さー」

 

 今も振り続ける光の雨の隙間を縫って、ウルは泳ぎ出す。狐面に嬲られた身体に、四仮面に付けられた心の傷。元より限界だった疲労は、既に最高潮に達している。

 それでいて遠泳を要求され、更に船に戻ったら船酔いが再発するのだから、愚痴の一つ二つは言いたくなろう。

 

 さりとて愚痴を言っても何も変わらない。嘆息した少年は諦めて、ゆっくりと船を目指すのであった。

 

 

 

 

 

「狐面の気配は消えましたか。ウルムナフも、まあそれなりには役に立つようですね」

 

 狐面が現世から消えた事は、船上に居た少年もまた感知していた。元よりあれは、ウルにしか対処できないモノ。逆説、ウルならば対処できるモノである。

 

 その前提で採点を付けるとするならば、今回はギリギリにおまけしても赤点は免れない。が、追試の機会は与えても良いだろう。見っとも無く見苦しく情けなく嘆息してしまいそうになるが、それでも役目は果たしている。

 

「夜明けまで、残す時間も後僅か。大きな山場も乗り越えた事ですし、これでお終いにしましょうか」

 

 その結果に、ニコルは微笑みと共に宣言する。鞭と白魔法の併用によって、津波の如き軍勢を対処していた彼は此処で切り札の一つを切ると決めた。

 そうとも狐面と言う山場も乗り越えた以上、この後も延々と己が雑兵相手に消耗戦を続けるなど無粋が過ぎる。舞台の幕引きを前に、多少の見栄えは必要なのだ。

 

 故にまだ使う気のなかった札を使う。懐より取り出したのは、転移の術式が刻まれた硬貨。それを両手に、30枚以上。宙に投げて、全く同時に起動させる。

 

「転移術式には、複数の形式があります。単純に空間を歪め、距離を縮める物。或いは異なる空間を作り出し、その出入口を繋げる物。術者自身の肉体に作用し、超高速での移動を可能とする物。そして事象の確立を操り、其処に居ないと言う事実を改変する物。私の扱うこれは、空間歪曲による術式を基本に幾つか混ぜた物となっています」

 

 起動した硬貨が、対象を定めずに転移の門を作り出す。転送の場所は世界各国様々で、故に間近で発動した硬貨同士が干渉する。術式が互いに混ざり合い、此処に何処でもない特異点が発生する。

 

 その理屈は、先の狐面に対して用いた追放術式と同様。だが規模は、先の狐面に対して用いた物とは段違い。そうして生じた黒き特異点に両手を伸ばし、微かに触れて干渉する。それはニコルの力を以ってしても、一切の余裕がない精密作業。

 

「他の形式とは異なって、空間歪曲には複数の利点と欠点が存在します。その最たる物は、妨害が行い易い点。複数の座標を指定すれば、簡単に術式が乱れてしまう事でしょう。……ですが、その欠落は長所にも成り得る。乱れた術式は何処でもない場所、剥き出しの特異点へと接続されます。時空そのものを蝕むこの領域は、制御出来れば大いなる力へと変わる。深淵に至る力。その高みの一端を、今此処にお見せしましょう」

 

 このまま暴走させてしまえば、中国大陸程度は滅びるだろう。いいや、この星程度は消し飛ぶ筈だ。この特異点を武器として使えば、間違いなく術者であるニコル自身も巻き込まれて自滅する。安全に用いる事など、人の身で出来る筈もない。

 

 僅かでも手元が狂えば、その瞬間に破滅が待っている。そんな繊細な作業を冷汗混じりに行う僧衣の少年は、特異点に指向性を追加する。そうして無数の門を開いたその後で、両の掌から白き魔法を二条放った。

 

「歪み切った領域内では、唯一条の白魔法が数万を超える輝きにも変じる。さあ、刮目して受けなさい。ワームスマッシャー!!」

 

 ニコルが放った白魔法は、最下級であるブレス。特異点の制御に全力を費やさねばならない今の少年に、使える魔法はそれしかない。だが、雑兵の群れにはそれだけで十分だ。

 

 何せ、特異点は空間が歪んでいる。その内に打ち込まれた白き光もまた、常識と言う枠に収まる事はない。2発。それだけでしかなかった魔法の光が、門を抜ける時には10万を超える数と成っていた。

 

「唯一撃が、65535体の目標を同時に射抜く。歪み切った空間では、このような異常も正常となります」

 

 何処でもない場所に打ち込まれた光は、何処でもない場所と繋がった門から現実世界へと戻って来る。その門と同じ数だけ、その光の数を増やした状態で。

 

 ニコルが一度に開ける門の数は、現状で6万と5535。故に二発のブレスは現在、13万と1070発と言う膨大過ぎる数となって黄海の空を白一色に染め上げていた。

 

「そして面白いのは6万を超える敵を討ちながらも、私自身は一度しか白魔法を使っていないと言う事。分かりますか? ブレス一発分の消耗で、6万回の攻撃が可能と言う事なのですよ」

 

 増え続ける敵に対して、それ以上の物量でその全てを打ち払う。鬼火も白娘子も、唯一撃の光に耐えられない。ならば一度に消滅するのは、13万と言う数の怪物達。

 そしてそれらを滅ぼす為に、必要とした魔力は最下級魔法二発分。こうして特異点を維持し続ける限り、圧倒的な効率で駆逐は続く。その魔力消費の少なさこそ、この技の最大の利点なのである。

 

「夜明けまで、後3時間弱。今の私の魔力でならば、下級の白魔法程度、撃ち続ける事など実に容易い」

 

 無論、欠点は存在する。特異点は制御が難しいだけではなく、放置しておけば自然に消滅してしまう物だから、長時間維持する事さえ困難だ。これだけの道具を消費して発生した特異点は、恐らくは朝までしか持たない程度。だが、構わない。今宵はこれで幕引きなのだから。

 

「さあ、物量で勝負といきましょう。秒間6万を超える速度で行われる殲滅。乗り越えられると言うならば、乗り越えてみせなさい! ワームスマッシャー!!」

 

 第三射が放たれる。光の雨が天を焼き、海に向かって突き刺さる。怪物達が悲鳴を上げて消滅し、ニコルはその光景を見下しながら哄笑する。最早、結果は覆らない。

 第四射、第五射、第六射、きっかり一秒おきに撃ち続けられる光の雨。第十射、第十一射、第十二射、降り注ぐ雨に際限はない。第百射、第百一射、第百二射、ニコルの魔力もこの程度では尽きやしない。

 

「これにて終幕。さて、望み通りの死は得られましたか?」

 

 故に、夜明けと共に戦いは終わる。収束し消えていく特異点の残滓を握り潰して、笑うニコルは己の髪を片手で掻き上げる。こうして黄海洋上にて起きた戦場は、あっさりとした結末を迎えたのであった。

 

 

 

 

 




制御して撃つのがワームスマッシャー。
6万を超える手数と言う点は強力だが、使用中はニコルがほぼ行動不能な状態となる。
特異点の維持だけでも大変なのに、其処に制御が加わるのでかなり繊細な作業。なので下級の魔法くらいしか併用出来ず、バリア持ちを相手にすると火力が足りないのが欠点。

制御しないで撃つとブラックホールクラスター。
地球さんが壊滅的な被害を受けて消滅するので防御も回避も出来ず、ラスプーチンクラスですら巻き込まれると即死する。
ニコルも助からないのが欠点。発動中はワームスマッシャー同様に動けないので、100%術者は死ぬ。現状では自爆用のロマン技でしかない。……ウルと戦って、負けが確定したら使いそう。お前も道連れだぁ、なノリで。




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第43話 上海

希少な非戦闘回。気付けば亜細亜編、戦闘ばかりになってる。


 

――1900年5月21日、上海――

 

 

 陽が昇り始めて暫くした頃、漁船の多くが出払っている港に停泊するのは、嵐に飲まれたかのような傷を残す小さな木造船。

 その甲板に寝転んで、空を眺める赤み掛かった茶髪の少年。すぐ近くの縁に腰掛けて、足を遊ばせている金髪の少女。彼らの視線の先には、暗い赤黄色髪の少年が職人姿の大人達と話をしている。

 

「……しっかし、アイツも結構几帳面な奴だよな。わざわざ修理するなんてよ」

 

 少年少女らがこの地に辿り着く為に用いた船は、無数の怪異に襲われ傷だらけとなっている。人に借りた物なのだから、それでは不味いと言う意見はウルにも分からなくはない。

 とは言え襲撃は不可抗力であり、船主の命は守り抜いたのだから一先ずはそれで十分ではないかと。そんな風にも思ってしまうのは、ゴールテープを前に焦らされている気がするからか。

 

「けど、そうだな。着いたんだよな、上海に」

 

 太陽に向かって手を伸ばし、指の隙間から差し込む陽射しに目を細める。夜明けまで続いた戦闘で身体は確かに疲れ切ってはいるが、しかし眠れそうにない感情が胸にある。

 ニコルは此処で、真実が分かると言った。此処に語るべき立場の者が、居るとウルに言ったのだ。だから此処で、漸くに分かる。父の仇。母の仇。そして、ウルの生きる意味。

 

「俺は……」

 

 指を握って、小さく引く。額に手を当て瞳を閉じて、溢れそうな想いに蓋をする。まだだ。まだなのだ。もう少しだから、もう少しだけ。少年は大きく息を吐く。瞼の裏に映るのは、果たして期待と不安のどちらであろうか。

 

「お待たせしました」

 

 答えが出るより前に、僧服の少年が船上へと戻って来る。彼と話していた大人達は船室へ降りて、船の内部確認と修理手順についての話し合いを始めていた。

 

「もう済んだかニャ」

 

「ええ、この場で決める必要があったのは、修繕費用とその間停泊する場所の相談など簡単な事柄だけですから」

 

 ウルが上体を起こすのと同時、腰を捻って縁から降りるヒルダが問う。夜明け頃までは豊満だったその体型は、上海に着いた頃にはモデルのようにすらりとした物に。

 相も変わらず、この少女の体質は一体どうなっているのか。慣れて驚かなくなった最近でも、時たま疑問に思ってしまう。疑問に思うと言えば他にも幾つか、気にしても仕方がないと流している事は少なくない。

 

「どうでも良いけどさ。船の修理費って、どっから出てんの?」

 

「正教会の経費で落とします。国からの支援金もあるので、そちらからでも構いませんがね」

 

「へー」

 

 内の一つを問うてみれば、返って来るのは差し障りのない話。船の修理費だけでなく、旅路の宿代や食費なども全て其処から出ているのだろう。

 考えてみれば、当然の事だ。ウルはニコルの事情を深くは知らないが、国からの依頼で動いている怪異事象の専門家とは聞いている。となれば依頼者である国や、所属している教会からの支援があるのは妥当な所。

 

 答えを知ればああ成程と、その一言で終わってしまう簡単な事。疑問の答えと言うのは、得てしてそんな物なのかもしれない。だからウルは、心の何処かで知りたくないとも思ってしまうのか。

 不安はきっと其処にある。父母の仇が実に容易く解決してしまう問題ならば、それを己の生きる意味と認められるか。或いは逆に困難が過ぎれば、己では解決できないかもしれない。そんな不安も、確かにあった。

 

「はいはーい! ならヒルダちゃん、経費払いでブランドバッグが欲しいですニャ!」

 

「いや、駄目だろ。それ」

 

「多少なら構いませんよ、私の懐が痛む訳でもないですし」

 

「ひゃっはー!」

 

「おいおい、それ良いのかよ。ってか一応、宗教家だろ。そういうの、どうよ」

 

「清貧は確かに美徳ですが、時には多少の散財も必要でしょう。唯でさえ私の上司は、財貨を溜め込み過ぎているのですから」

 

 本当に知りたい事を先延ばしにしながら、ニコルやヒルダと話を合わせる。心の矛盾を解消できないままに、ウルは船を降りて上海の大地を踏んだ。

 いっちばーんと声を上げて、前を進むヒルダの気楽さが羨ましい。微笑みの仮面を張り付けたまま、続くニコルの不敵さが妬ましい。そんな二人の背を追いながら、上海の町を進む。

 

「しっかし、何か微妙ニャね。折角海を渡ったのに、異文化って気がしないニャ」

 

「南京条約以降、西側諸国の租界と成っている町ですからね。生活様式も西側のそれを基本としている。欧州から来た我々にとっては、寧ろ見慣れた光景と言う訳です」

 

「北側で生活してた俺みてぇなのにしたら、結構物珍しい感じなんだけどな」

 

 初めて訪れた町は、ウルにとっては物珍しい光景だ。コンクリートで舗装された道に、レンガ造りの建物群。高層建築の多い街並みには、中国的な意匠が見えない。

 大陸北部の寒村で育った少年には、どうにも見慣れぬ華園街。細かく左右を見て回る姿はまるで、都会に来たばかりの田舎者。心境としては、それと大差がないだろう。

 

「さて、ヒルダにウルムナフ。これからの予定について、軽く説明しておきましょう」

 

「…………」

 

 ニコルが先頭を歩きながら、振り返らずに話し出す。その内容を耳にして、遂に来たかとウルは静かに唾を飲む。不安と期待を等分に抱いて、彼は次の音を待つ。

 

「先ずこの上海にてウルムナフの用事を片付けた後、一泊してから武漢に向かいます。道中は旧式ですが、フランス製の四輪車を。工部局には事前に話を通してありますから、受け取りは明日の朝で問題ないでしょう」

 

「おお、自動車。初めて乗るニャ」

 

「民間に出回るには、まだ高価な物ですからね。それにあくまで貸与品ですので、傷付けずに返却しなければなりません」

 

 続く言葉は、少し肩透かしと感じる物。今日の詳細を語るのではなく、今後の予定を語るニコル。その内容に、ウルは安堵と不満を等価に抱く。

 それでも気になっていた事ではあるから、歩を進めながらも話に耳を傾ける。上海は目的地ではあるが、同時に通過地点の一つに過ぎないのだから。

 

「武漢に到着後、タイミングを見て麗々さん親子を召喚。彼女達の呪いを解いた後は、転移で帰って貰いましょうか。修繕の済んだ船は工部局に依頼してありますので、直り次第大連に届けて貰える予定です。……此処までで何か質問は?」

 

「ねーよ」

 

「ないニャ」

 

「結構、以降は状況の推移次第です。その場で解散するか、そのまま同行するか。今は未定としておきましょう」

 

 ウルが現在、解決しなければならない問題は2つ。麗々親子の救済と、父母の死とその真相を知る事。前者は武漢で、後者は此処上海にて判明する。

 以降は、その判明した事実次第で変わる。納得すれば其処で終わりで、納得出来なければ其処が始まり。そうと知るからこそ、ニコルも未定と語るのだろう。

 

「それでは今日は、とある場所へ向かうのですが…………まだ聊か、時間が早い」

 

「時間とか、関係あるのかよ?」

 

「ええ、アポイントメントを取れた訳ではないので。常識的な範疇で、相手方の都合が悪い時間は避けるべきかと」

 

 今後を決める、大事な情報。それを語るべき人物の下へと、向かうにはまだ時間が早い。そう語るニコルは瞳を閉じて、数秒程思考してから目を開いて口にした。

 

「……大体、午後の3時か4時頃に向かうのが無難でしょうね。それまでは、暇な時間となりますね」

 

「はいはい! 折角だし、観光したいニャ!」

 

「異文化らしさがねぇから、見所とかねぇとか言ってなかったか?」

 

「それはそれ、これはこれニャ! 思ってたより都会っぽいから、ショッピングとかには良い感じだし」

 

 向かうべき時間は夕方頃、対して現在時刻はまだ午前の九時にもなっていない。大分余裕があるのだから、それまで自由にしても構わない。

 となれば観光を望むのが、ヒルデガルド・ヴァレンティーナと言う女。騒がしいゴスロリ少女の発言に、疲れたような表情でウルは異を唱える。

 

「観光するぐらいなら、宿で寝てたいんだけどな。昨日はあの騒ぎの所為で、寝れてねぇし」

 

「確かに、揃って睡眠不足ではありますね。とは言え、ウルムナフ。貴方、寝れますか?」

 

「……本当、嫌な程に見透かす野郎だ」

 

 口にした異論は、しかしあっさりと断ち切られる。眠たいと感じてはいるし、身体も確かに疲れてはいる。だが、素直に寝れるような心境でもなかった。

 そんなウルの胸中を、見抜いたニコルは笑って語る。どうせ今から宿に直接向かっても、夕方まで寝れずに起きているだけだろうと。否定出来ない事だから、ウルは忌々しいと顔を背けた。

 

「なに、まだ時間はあるのです。ヒルダの買い物に付き合った後で、宿で少し仮眠でも取れば良いでしょう。もう少し疲弊すれば、嫌でも寝れるでしょうから。精々、振り回してあげなさい。ヒルダ」

 

「おっけー。この美少女ヒルダちゃんに任せるニャ。ニコルもウルも、とっとと行くニャよー!」

 

「ちっ、あー、うざってぇ」

 

 笑みを浮かべて見下すニコル。忌々しいと毒吐くウル。二人の少年の間に立って、ヒルダはその両手を伸ばす。10歳前後の少年達と腕を組む、外見年齢14歳程度の少女。

 自分の身長よりも小さな男の子達を引き摺って、ヒルダは楽しげに歩き出す。もう一度舌打ちするウルも、呆れたように嘆息するニコルも、しかしそんな状況を然程嫌がってはいなかった。

 

「おー、これなんか可愛いんじゃない? どう、似合うかニャ?」

 

「あー、はいはい似合う似合う。ってか此処、何の店だよ一体」

 

「雑貨屋、ですかね。ミカちゃんハウスとは、中々に可愛らしい名称だ」

 

「誰よ、ミカちゃんって。てかお前、何見てんの? それ、人形?」

 

「いえ、別に大したことではないのですがね。……身代わりにならない身代わりくんって、一体何の意味があるんでしょうね」

 

「は?」

 

「魔術的な何かがあるかと思えば、何の変哲もない布と綿の集合体。いえ、まあ、市販の流通品に特殊な効果がある訳ないとは分かってはいたのですが、こうして現実に知識との差異を突き付けられるとこう、もにょると言うか何と言うか」

 

「お前、唯の人形に何期待してんの?」

 

「其処の野郎ども! こんな美少女が着飾ってるのに、おざなりな返事だけして話し込むとか何してるニャ!」

 

「美少女(笑)」

 

「見た目だけなら……おっと、失言でしたね」

 

「ふがー! こいつらー! 二次性徴迎えてから、後悔したって遅いニャよ!」

 

 雑貨屋にて、店に売られている帽子や衣服をとっかえひっかえ試していくヒルダ。金髪美少女のファッションショーを前にして、性徴前の少年達は失笑する。

 異性に興味が湧くような年齢ではないのだから、理由がそれだけとは思えないのはヒルデガルドの性格故か。喧々囂々やり合いながら、少年少女は騒がしく店を見て回る。

 

「桑原製軽便拳銃? 何て読むの、これ。ってか、くそ高ぇ」

 

「南部式、ではないのですね。まあ確かに、アレが世に出るのは二年後。時代が違えば、並ぶ商品も変わりますか。……いや、待て。ならどうして、日本帝国の最新銃が今の上海に出回っているんですか!?」

 

「あ、なにこれ最新式なの? つーか何故出回ってるって、距離近いからじゃねーの?」

 

「日清戦争時に、軍属向けに少数生産された銃が、ですよ。戦争終結から4年弱で、租界とは言え敵対していた国の一都市に流れるとは。一体どういったルートを辿っているのやら」

 

「まーた話込んでる野郎ども! 可愛い可愛いヒルダちゃんを見て、歓喜に絶叫するが良い!」

 

「……リベットビスチェ、ですか。存外、似合うじゃないですか」

 

「黒い服の上から黒いのって、センス死んでね」

 

「シャラップ! 大人用のコート着てる奴に、人のセンスをどうこう言う資格はない! 服の裾、いっつも地面擦ってるから!」

 

「あ? 誰の身長が小さいって?」

 

「服に見合っていない、と言う意味では正しいのでは? 大切な物なのは分かりますが、それならそれで着ないで保管しておくとか」

 

「うっせ。鞄なんて持ってねぇんだよ。普段から着てねぇと、無くしたりすっかもしれねぇし」

 

「後で荷物入れの類を買うか、いっそコートを仕立て直すのもありかもしれませんね」

 

「ってか話ずらすニャ! 今はこう、このヒルダちゃんの美少女っぷりを称える時間ニャよ!」

 

「美少女(笑)」

 

「見た目だけなら……この反応も二回目ですかね」

 

「天丼禁止! ほら、見惚れろ! 称えろ! チヤホヤしろ!」

 

「はっ」

 

「ふっ」

 

「鼻で笑いやがった、こいつら!? はっ!? さては、これは、好きな子には意地悪したくなっちゃう男の子の法則! ふっ、私に惚れるなよ」

 

『ないわー』

 

 次に冷やかしに向かうのは、上海武器工房と看板が掛けられた店。金属製の下着を服の上から身に着けたヒルダに対し、少年達の反応は冷たい物だ。

 やはり年齢を考えれば、これも自然な反応だろう。とは言え拳銃の販売ルートやコートの保管方法などを気にしている辺りは、年齢に不釣り合いで不自然な反応ではあるのだろうが。

 

「さて部屋割ですが、いかがしましょうか」

 

「あー、別に三人部屋で良いんじゃね?」

 

「男二人に、美少女一人、何も起こらない訳がなく……キャー、けだもの! 美しさって、罪にゃね」

 

「ねーよ。てかねーよ。ねーけど、んじゃ男女で部屋分けるか?」

 

「密室に、男二人。何も起こらない訳がなく……キャー、けだもの! 男同士って、罪にゃね」

 

「ねーよ! もっとねーよ! 全員別々の部屋にすれば満足かよ!?」

 

「密室に、唯一人。何も起こらない訳がなく――」

 

「一人でも何か起きんの!? え、こわっ!? 何が起きんの!? 怖いんだけど!?」

 

「……どうでも良いから、さっさと決めなさい。決まらないなら、全員気絶させた上で厩にでも放り込みますよ」

 

 町の中心部にある大きなホテルで、チェックインの前にやり取り。適当に済ませようとするウルに、ちょっかいを掛けては引っ掻き回すヒルダ。

 フロントスタッフ相手に一人真面目な対応をしているニコルは、額に青筋を立てながら早く決めろと二人に促す。次に何か茶化すのならば、先ずは殴ろうと心に決めて。

 

 

 

 揃って店を冷やかして、揃って宿で雑魚寝して、そうこうしている内に日は沈む。夕焼け模様に彩られた空の下、三人が佇むのは未成年者お断りの施設前。

 

「此処って、酒場か?」

 

「ええ、目的としている人物は、この酒場の主ですよ」

 

 地下へと続く階段を下りて、準備中の札が掛かった扉を開く。開店準備中であるからか、鍵の掛かっていなかった扉は鈴の音と共に開いた。

 雰囲気を出す為か、程良く薄暗い部屋の中。大きな舞台の中央で、年若い少女が楽器の演奏を行っている。その特徴的な音色を耳に、三人は店内を進んだ。

 

「おぉ、何か不思議な楽器を弾いてるニャ」

 

「二胡ですね。弦楽器でありながらも柱や指板が無い為、音程の移行が自在に行えるらしいですよ」

 

 開店前のリハーサルか何かであろう。入って来た三人の姿に驚いた少女は、楽器をその場に置くとすぐさま裏手へと駆けていく。

 そうして暫し、男性の声と少女の声が聞こえた後。厨房へと続く暖簾の向こう側から、少し背の曲がった白髪の男が顔を出した。

 

「おや、いらっしゃいませ。しかし申し訳ございませんが、まだ開店前ですのでご入場は――」

 

 少年少女の姿も見ずに口を開いて、言葉の途中で彼らの容姿を確認する。先頭を行くニコルから順に、目を丸くしながら見ていく男は途中で硬直した。

 酒場に子どもと言う不釣り合いな状況に、驚いたのは最初だけ。ウルの姿を見て動きを止めた男の胸中に、溢れていたのはそれ以上の驚愕と感動であったから。

 

「日向、さん? いや、まさか」

 

「あ? おっさん、誰だよ」

 

 似ていると、男は一目見て思ったのだ。身の丈に合わない茶色のコートを着込んだ少年は、男の知る恩人と余りに似通った顔立ちをしていた。

 

「彼ですよ。陣宋雲。貴方が知りたい真実を、語る資格を持つ人物です」

 

「……こいつが」

 

「君達は、一体?」

 

 一体何故と困惑し、もしやと可能性を浮かべて驚愕しながら感極まる。荒れ狂う内心を表に出さぬようにと硬直してしまった男が知りたいと望む事柄を、口にしたのはニコルであった。

 

「初めまして、陣宋雲殿。私の名はニコル。そちらの彼女がヒルダで、こちらの彼は名をウルムナフ。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガと言います」

 

「ウルムナフ、ボルテ、……日向っ!? まさか!!」

 

「ええ、ご察しの通り。貴方が知る人物の、息子に当たる少年です」

 

「お、おぉ、何と言う、何と言う事だ」

 

 それは思い浮かんだ可能性の一つ。陣宋雲にとっての恩人の、忘れ形見である事実。涙を流さん程に心が揺れているのは、もう返せない恩義に漸く報いる事が出来るからであろうか。

 

「なぁ、おっさん。アンタ、知ってんのかよ。親父の事」

 

「ああ、良く知っているとも。私はあの人に、命を救われたのだから」

 

 そうとも、陣宋雲は恩がある。彼とその背後に隠れて覗き込んでいる娘の秋華は彼の日、少年の父親である日向甚八郎に救われたのだ。

 返しても返し切れない程の恩があり、その一部さえ返せぬ内に甚八郎は倒れてしまった。もう二度と返せぬ恩義だけが、彼には残っていたのである。だからこそ、彼の心は震えていた。

 

「教えてくれ。アンタ、親父の何を知っている!?」

 

 そして、心を震わせているのは、ウルもまた同じく。或いは宋雲以上に、彼は追い詰められている。失ったのだ。守れなかった。その真実が目の前にあるから、聞かずにはいられなかったのだ。

 

「親父は、此処で何をした!? お袋は、どうして化け物どもに殺された!? 一体、俺はこれから何をすりゃ良いんだよ!!」

 

 きっと分かる筈である。父はこの上海で、一体何をしていたのか。母はどうして、此処より北の地で襲われなければならなかったのか。二人は一体、何を知っていたのか。

 それを知れば、たった一人だけで生き延びた理由もきっと分かる。生きている理由が、生きていても良い理由が、きっと分かる筈だから。ウルはその真実を問う。果てに、如何なる運命が待とうとも。

 

 

 

 

 




1の頃はそうでもなかったけど、2の甚八郎さんとウル似過ぎじゃねと思う。
ウルはハーフな筈なんですが、目や髪の色以外ほぼ同じ、何でそんなに似てるんですかねぇ。

本作内では、基本甚八郎さんのビジュアルは1準拠。角刈りの落ち着いた男性。2の要素は若い頃はウルにそっくりだった、くらいにしておきます。
それでも陣親子が一目で気付くくらいには、似通った部分があるんでしょうね。


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第44話 過去

陣親子と甚八郎の出会い(捏造)


 

――1893年某日、中国某所――

 

 

 燃える家屋を前にして、揺れる人影が三つ。煙に咳き込む幼い少女と、そんな娘を庇うように抱き締める父親。

 両膝を地に付いた男の眼前に立ち、見下している最後の一人。浮かんだ侮蔑と嘲笑に、男が抱くは疑問であった。

 

「何故だ。何故、君が。舞鬼くん」

 

「何故? はっ、愚か極まる質問ですね。陣大人」

 

 陣宋雲。傷付きながらも娘を守ろうとする男の名。彼が経営していた町外れの酒場は、今も囂々と音を立てて燃えている。他でもない、嘗て慈悲を掛けた相手の手によって。

 舞鬼。九龍のスラム街で生まれ育ち、陣に拾われた男の名。陣の経営する酒場の店員として、禄を食んでいた男はしかし裏切った。結果がこれだ。その原因が、陣にはしかし分からない。横暴に扱った覚えはない。どころか寧ろ、家族のような好待遇で迎えていたと言うのに。

 

「あの御方は、間もなく大いなる力を得る。西洋列強や日本と言った国々も、あの御方の力の前には遠く及ばない。この国は、あの御方の下で太平を得るのです」

 

 それは第三者の視点で見れば、どこまでも正しい理屈であろう。食うに困っていたスラムの住人に、仕事を与え厚遇した。真っ当な人間ならば、恩の一つ二つは感じるものだ。

 事実、舞鬼自身も確かに恩義を感じている。だが同時に、彼の歪んだ精神は思ってしまうのだ。見下されている。施しを受けている。対等ではない。そういった淀みが、心の内に積み重なっていた。だから――

 

「いいえ、この国だけではない。この大陸、否、この世界全てがやがてはあの御方の物となる! そんなあの御方に、選ばれたのですよ! この、私が!」

 

 その淀みが弾けた。この世の頂点とも思える程の仙人の存在に、彼が掲げる崇高にして大いなる野望に、そしてそんな老人に必要とされたと言う事実に。

 舞鬼の自尊心が満たされる。舞鬼の不遜心が爆発する。己はあれ程の存在に選ばれたのだから、己はそれ程に凄い存在なのだ。そんな己が、この男に施しを受けている。その事実、何故にどうして納得できるか。

 

「分かりますか? 私は、貴様より、上位に立つ存在なのです。そうとも、これは正当な行為。貴様は私の下で這い蹲っているのが相応しい!」

 

 舞鬼の理由などそれだけだ。彼は小悪党の類である。生来の特異体質故に目を付けられて、手駒にしやすいから利用されているだけの男でしかない。少なくとも、この今は。

 そんな小悪党の行いは、しかし常人に止められるような物でもない。理屈はとても小さくとも、力は相応に大きいのだ。邪仙にとっては片手間に与えた力であろうと、一般人にとっては絶望するに十分な物だから。

 

「くっ、舞鬼くん。君は……」

 

「昔から鬱陶しい男ではありましたが、拾われた恩義程度はありますから。素直に従うならば、娘さん共々扱き使って差し上げますよ。この私の、奴隷としてね」

 

 長年に渡り、溜め込んだ鬱憤。同じだけの歳月を強要する事で、その留飲を下げる事が出来る。そしてこれは慈悲でもある。これから変わる世界で、相応しい地位に立つ己の手元に置いてやるのだから。少なくとも、舞鬼は本気でそう考える。

 

「お父さん!」

 

「し、秋華!!」

 

「くくく、麗しい親子愛。ですが、聊か不快でもある。故に、先ずは――」

 

 彼にとっては、そんなそれは慈悲だからこそ。涙を浮かべて悲痛な表情で、抱き締め合う親子の姿が癇に障る。自分の善意が蔑ろにされているからと、理由はきっとそれだけではない。

 羨んでいるのだ。妬んでいる。それを持ってはいないから、見せ付けられているようで腹立たしい。故に先ずは教授しよう。己にこんな不快な物を見せた者らに対し、これは相応しい罰なのだ。

 

「世の真理。この私が教えてあげましょう」

 

「な、何をするっ! 止めてくれ、舞鬼くん!」

 

 手を伸ばす。抵抗する陣宋雲の腕に居て、震えて目を閉ざす娘に向かって。今後は己の機嫌を損ねる度に、相応の罰があるのだと身体に覚えさせるのだ。

 舞鬼の顔が笑みに歪む。これより与える懲罰と、得られるであろう悦楽に。ああそうとも、これこそ己に相応しい。歪んだ笑みを浮かべた男は、その手に幼い少女を掴んで――

 

〈そこまでだ〉

 

「がっ!?」

 

 瞬間、舞鬼の身体は吹き飛ばされた。まるでトラックか何かに衝突したかのように、宙を舞って壁に叩き付けられた舞鬼は悶絶しながら血反吐を吐く。

 一体何がと、その場の誰もが抱いたであろう疑問。その答えが、陣親子の前で巨大な翼を広げている。一般市民に過ぎない陣にも分かる程、それは異常な存在だった。

 

 黒き人型。その筋肉質な男性的フォルムは、鎧を思わせる甲殻外皮で覆われている。濃密な憎悪の思念を纏わせ、忌まわしき翼を広げた大凶神。その名は、ツェルノボーグ。

 

「悪魔、さん?」

 

「怪物が、守ってくれるのか」

 

 人が想像する悪魔。正にそうだと確信出来る怪物は、しかし陣親子を庇うかの如くに立ち塞がる。その禍々しくも大きな背に、何処か安心感を覚えてる二人。対して咳き込みながら立ち上がった舞鬼が感じるのは、正しく真逆と断じて良い感情。

 

「くっ!? 何だ、貴様はっ!? 何なんだ、貴様はっ!!」

 

 唐突に現れた怪物。向き合うだけで、絶望的な程の力の差を感じさせてくる強烈な気配。絶対に勝てない。抗ってすらならないと、本能が訴え掛けてくる程の存在感。

 これは或いは、己の主にも比肩するのではないか。恐怖の中でそう感じながら、それでも素直に退かない理由も感情だった。複雑な情が、極限の状態でその戦意を微かに維持している。だからと拳を握り締め、舞鬼は怪物に殴り掛かる。

 

「ぐ、げはっ!?」

 

〈……貴様に名乗る、名などない〉

 

 だが、結果は当然。大振りの拳は空を切り、返す刀に打ち込まれた怪物の拳がたった一撃で内臓を幾つも破裂させる。怪物は欠片も本気を出していないのに、強化された筈の舞鬼の肉体が耐えられなかった。

 それもその筈、舞鬼はまだ邪仙に見出されたばかり。その身の強化も、最低限の基礎的な物しか施されていない。魔法が効かないと言う特異体質以外には、見所さえない三下だ。そんな三流に名乗る価値はないのだと、くぐもった声は見下している。

 

「ぐぉ、ぉぉ」

 

〈幼子の前だ。命だけは見逃してやる。とっとと失せろ、三下が〉

 

「お、おのれぇぇぇぇぇぇぇ」

 

 生まれ育ちが故に、絶えず他者から受けて来た侮蔑。その耐え難い境遇から漸く解放され奪う側に回った筈なのに、またこうして膝を付いて見下されている。

 血反吐を吐く男は怨嗟を紡ぐが、その忌まわしい翼には届かない。地獄の深き闇を纏う怪物にしてみれば、所詮男は温いのだ。身体にも心にも、そのどちらにも届かない。

 

 圧倒的な格差。絶対に勝てないと言う確信。侮蔑に対する怒り。歪んで腐った自尊心。拮抗する天秤を最後に傾けたのは、偉大なる主に向ける忠義であった。

 

「……覚えておきなさいっ!」

 

 血を飲み干して、背を向け逃げ出す。無様な姿を容認したのは、この強大な悪魔の存在を主に伝えなくてはならないから。そんな理由で漸くに、己の逃避を肯定できる。

 そうして逃げ出す舞鬼の姿が見えなくなると、巨大な悪魔は座り込んだ親子に対して向き直る。炎に照らされた影が揺らいで、一拍の後には深緑色の軍服を来た短髪の男が其処に居た。

 

「悪魔さんが、人間になった」

 

「怪物から? いや、怪物への変身、なのか……? 貴方は、一体」

 

「……大日本帝国海軍少佐、日向甚八郎」

 

 困惑する親子に対し、甚八郎は誠意を見せんと己の背負う肩書を名乗る。名乗るに足りない三下とは違い、無辜の民には名乗る必要があるだろう。少なくとも今は、他者の協力を求めているのだから。

 

「特務により、数年前からこの大陸の調査をしている。もし良ければ、この土地で何が起きているのか教えて貰えないだろうか?」

 

 それはきっと、運命の邂逅だったのだろう。炎の熱に照らされた街中で、陣親子と日向甚八郎は出逢った。そしてこの日から始まったのだ。彼らの長く険しい戦いは。

 

 

 

 

 

――1900年5月21日、上海――

 

 

「それが貴方の父、日向甚八郎少佐との出会いでした」

 

 昔語りを終えた後、男は乾いた喉を潤わせる。ゆっくりと傾け空にしたグラスが机に置かれて、小さな氷が甲高い音を立てた。

 同じ丸テーブルを囲む子らの内、平然としているのは一人だけ。その唯一ではない少年は、己の知らなかった事実を受け止める為に反芻する。

 

「……日本の少佐。海軍の、軍人だったのか」

 

「お父上は、そう言ったお話をご家族には」

 

「少しだけ。所属とか、さ。知らなかったんだ。いっつも家にいなくて、村の外で何してんのか。親父は一度も、教えてくれなかったよ」

 

 ウルは、何も知らなかった。教える必要がないと思っていたのだろうか、或いは教えたくはなかった理由があったのか。故人の理由は、もう分からない。

 事実は一つ。何も知らなかった少年は、今日この今にほんの少しだけ父を知る。国からの特務で、怪異と戦い続けていた。それがあの日々に、父がいなかったその理由。そしてきっと、帰って来れなくなった訳。

 

「それで、アンタと親父はそれからどうしたんだ?」

 

 その事実は、多分この続きにあるのだろう。周囲が無言で見守る中、ウルムナフは陣宋雲の瞳を見上げる。その真っ直ぐな瞳に頷いて、陣は再び過去を言葉に紡いでいく。

 

「命を救われた恩義を返す為、私は彼の任務に協力する事にしました。基本的には身を休める場を用意したり、移動の足を提供したりと言った程度ですがね」

 

 大日本帝国の特務にて、この地に赴いた日向甚八郎。左官である彼の身分には、しかし不釣り合いな単独での潜入工作。その実態には、深刻な人手不足が関わっている。

 

 日向甚八郎の恩師である川島浪速。3年に渡り中国各地を見聞した彼の人物は、大陸に潜む怪異や術者の存在を知った。そしてその上で、川島は確信したのだ。

 関係悪化し続ける日本と清国。開戦まで秒読みとなった両国間の紛争に、大陸の怪異が参戦すれば勝ち目はないと。その危機感が故の提言は、しかし多くの者の失笑で迎えられた。

 

 オカルトなんて、確たる証拠もなしに信じられる訳がない。結果開戦の兆しは変わらず、戦争が間近にあるのだからと人手はそちらに流れていく。それにそもそも、怪異に対処出来る人材自体が少なくあった。

 川島は己の伝手を如何にか使って、犬神の一族である甚八郎を手元に引き込むが其処で限界。怪異を相手に出来る人材が他にいない以上、バックアップも真面に出来ない。これでは単身で死なせに行くような物だと、川島は懊悩したと言う。

 

 だからこそ切っ掛けは、日向甚八郎自身にある。師の懊悩を晴らしたいと言う恩返しの情に、日本を守らねばと言う意志。それが故に男は自ら、殉職の可能性が高い敵地に向かった。

 そして男の意志を知るからこそ、その妻も彼を支える為に大陸へ。まだ幼かったウルもまた、そうして中国の土を踏む。寒村を転々としながら、妻子は情報収集の役も果たしていたのだ。

 

「危険な場所に踏み込む時は、常に日向少佐が単独で行動していました。舞鬼を始めとした、彼の人物が配下に対しても常に一人。戦い、勝利して来たのです」

 

 影に蠢く者達が、表舞台に出て来ぬように。影は影のまま、その拳で打ち砕いていった。数年程して戦争が始まってからも、大陸派遣軍と合流する事なく単身で。

 戦乱渦巻く大陸が、妖魔が跋扈する魔境とならなかった理由は一重に甚八郎の活躍があればこそ。彼が単身で潜入していなければ、日本軍は人食いや死霊の群れに襲われ壊滅していた事だろう。

 

「戦いは長くに渡りました。勝利を続けた日向少佐でしたが、戦略的な視点では常に後手に回り続けた。敵の首魁は、余りにも強大な術者であったが為に」

 

 軍を守りながら各地を回って、潜んでいる怪異や術者を倒していく。しかしそんな彼でも、首魁の下へ辿り着くには5年と言う歳月を必要とした。それ程に、敵もまた格別の存在であったのだ。

 

「その男こそ、日本・イギリス・フランス・アメリカの4ヶ国の侵攻を押し止めながら、日向少佐の追撃からも逃れ続けてみせた大邪仙。日向少佐をして、倒さねば必ず祖国が滅びるとまで言わせた男」

 

「そいつは――」

 

「堕九天真王地行仙、徳壊上人」

 

 日向甚八郎が5年と掛けて、漸くに辿り着いた首魁の名。陣が告げたその名を、ウルは小さく反芻する。それはまるで、その名を己に刻み込むかのように。

 その様子に気付いたのは、賢しい少年一人だけだろう。幼い奏者も吸血鬼も、向かい合う男の語りに意識を奪われているが故に気付かない。だから当然、ニコルの歪な笑みに気付く者もまた居なかった。

 

「徳壊はある企みを抱いていました。列強諸国全てを消し去る為に、大いなる力を求めた大儀式を行おうとしていたのです。それを私と日向少佐は、彼を追う途中で知りました」

 

 語りは続く。日向甚八郎にとっての大敵、徳壊上人の企みへと。4ヶ国を相手取りながら、大儀式の準備もしていた。その隙が故に、甚八郎達は辿り着けたのだ。

 辿り着いて、そして絶句した。決して許してはならないと、そう迷いなく断じる事が出来る企み。それを通せばたった一手で、何もかもがひっくり返されてしまう程の大禁呪。その名を、鬼門御霊会。

 

「鬼門御霊会。仙術における、最高峰の大儀式。四神を封じ、地霊神を召喚し、地脈を歪め揺らがせる。彼はその大儀式により、日本と言う国そのものを滅ぼそうとしておりました」

 

「日本と言う国、そのもの? それって、どういう意味だよ」

 

「言葉の通りです。島そのものを、海の底に沈めようとしたのです」

 

 地脈に干渉し、星を動かす大儀式。九天真王の最高仙術を以って、終わらぬ大地震の果てに日本と言う国家を沈没させんとした。

 14年後とは違う。星神を呼び出す裏の儀式を用いずとも、中国大陸だけが残れば己の勝利だと徳壊は確信していた。だから彼は、敵対する国家の国土を物理的に消してしまおうと考えたのだ。

 

 その余りにも大それた企みに、ウルは唖然としてしまう。一体どうして、一国が軽々消し飛ぶと言う状況を想定出来るか。驚かぬのは、予め知っていた者ぐらいである。そしてその彼にした所で、続く言葉は想定外。

 

「更に言えば日本の沈没は、あくまでも始まりに過ぎません。彼の邪仙は日本の崩壊を見せ札として他国の牽制に用い、そうして稼いだ時間を使って更に鬼門御霊会を発動する予定でした。大陸に敵対する全ての国家を順繰りに、果てにはこの惑星上の大陸を中華のみとする心算だったのですよ」

 

「ひ、ひぇっ、や、やべぇ奴にゃ」

 

「実際、日向甚八郎が止めねばそうなっていたのでしょうね。……中国と言う地を守る為なら、容易く全てを滅ぼしてしまえる。その常人からズレた精神性こそが、世界最強の一角へと至る為の原動力なのでしょう」

 

 文字通り、世界全てを破滅させようとしていた。唯、己が祖国を守る為に。その事実を前に、表情を引き攣らせるヒルダの精神性は真っ当なのだろう。驚きつつも納得し、果てには感心までしている神父服が異常であるのだ。

 

「その企みを知った日向少佐は、徳壊上人の弟弟子であられる朱震上人と共に敵の居城である傀骸塔に向かいました。そして激闘の果てに、彼らは徳壊上人の企みを打ち砕いたのです」

 

 語りは続く。敵の首魁を突き止め、その本拠地へと迫った甚八郎。されど彼にも、余裕と言う物はなかった。その時には既に、鬼門御霊会は発動する寸前となっていた。

 四神の内、三柱が堕とされていたのだ。残る白虎が徳壊の手に落ちるのも最早、秒読みと言う他にない状況。鬼門御霊会を止める為に甚八郎は、旅路の途中で出会った朱震と共に敵地に乗り込んだ。そして激闘の果てに、遂にその野望を打ち砕いたのである。

 

「ですが、その代償は大きかった。朱震上人は大きな傷を負い、日向少佐は戻らなかった。……そして彼が命と引き換えに倒した徳壊上人は、しかし今も生きている」

 

 されど勝者がどちらであるか。命と引き換えに徳壊の野望を打ち砕き、その身に重症を負わせた甚八郎か。或いは野望を阻まれたものの、確かに生き残り甚八郎を殺してみせた徳壊か。

 結果的には、痛み分けと言うべきだろう。野望を砕かれ重傷を負った徳壊は、今も満足に動けぬ状態が続いている。対して祖国を守った甚八郎は、己の命だけでなく愛した女も守れなかったのだから。

 

「……なら、お袋を殺したのは」

 

「先ず間違いなく、徳壊の手の者だと」

 

 陣の言葉に、ウルは拳を握り締める。顔を俯けて、歯を噛み締めて、思うは一体如何なる情か。気まずそうな表情で、言葉に詰まるは三人。残る一人は敢えて空気を読む事なく、微笑みながらに問い掛けた。

 

「ウルムナフ。憎む理由は、十分ですか?」

 

「……ああ」

 

 胸に渦巻く激情は、きっと憎悪と呼ぶべき物だ。父を殺し、母を殺した怨敵が居る。その存在を知ったのだ。ならばどうして、それを憎まずに居られよう。

 顔を上げて前を見る。気に食わない好敵手は、何時もと変わらぬ表情でウルを真っ直ぐに見詰め返している。だから負けるものかと言わんばかりに、ウルも真っ直ぐ睨み返した。

 

「ウルムナフ。挑む理由は、十分ですか?」

 

「ああ」

 

 胸に渦巻く激情は、しかし憎悪だけではない。これはきっと、怯えであろうか。確かな怯懦の情がこの胸に、蠢いていると感じてしまう。

 だって仕方がないだろう。これより挑むは、術師の頂点。あれ程に強かった己の父が、しかし勝てなかった存在なのだ。どうして未熟なウルムナフに、如何にか出来ると言えようか。

 

「ウルムナフ。生きる理由には、十分ですか?」

 

「ああ!」

 

 けれどそうとも、胸に渦巻く激情がある。これはきっと、歓喜の色だ。倒すべき、敵が居る。恐ろしく強く勝ち目などないのだとしても、倒さなくてはならない敵が居るのだ。

 だから、もう迷う事はない。生きていても良いのかと、戸惑っていられる余裕はない。例え志半ばで果てるのだとしても、戦い挑まねばならない。そうともそれこそがきっと――

 

「親父が倒し切れなかった、お袋の仇を討つ。後を継ぐんだ。それが、俺の――――宿命だっ!」

 

 今、この場所に、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガが居る理由。徳壊と言う名の怨敵を、打ち倒す為に生きて来たのだ。

 打ち倒すまでは、生きても良い。その戦いの中でなら、死んでしまっても良い。そう、納得出来たから。少しだけ、楽になった気もした。

 

「……情けない話です。恩人の細君を守れないばかりか、その子どもが死地に向かうのを見過ごそうとしている。大人として、失格ですな」

 

「そう言う割に、何か嬉しそうニャね」

 

「ええ、日向少佐のお子様なのだと。その血が流れているのだと確かに分かって、嬉しく思ってしまうのですよ。全く以って、情けない話です」

 

 ウルの顔立ちは、父親である甚八郎によく似ている。だから陣宋雲は自虐しながらも、重なる影を何処か嬉しそうに見詰める。或いは老人が、過去を懐かしむように。

 

「叔父様の息子さん、なのよね。うん、確かに似てる」

 

「……何だよ、姉ちゃん。ってか、近くね」

 

「口調は、大分違うね。何か、不良みたい」

 

 その視線の先では、陣の娘である秋華がウルに近付き声を掛けていた。何処か恐る恐るとしながらも、妙に近い距離間に戸惑うウル。

 ウルの姿に、秋華も恩人の影を見る。だが、だからこそと言うべきか。些細な違いが、とても大きな差異に見える。それが如何にも好奇心をそそるのか、顔を近付けながらに問い掛け続けた。 

 

「そりゃそうだろ。一人で旅してりゃ、そりゃ不良にもなるもんだって」

 

「旅、してるの?」

 

「ああ、帰る場所もねぇしな」

 

「あ、ごめん」

 

「別に、気にしてねぇよ」

 

 年上の少女の言葉に、ぶっきらぼうな返しをする。その実は相手を嫌っているのではなく、どう対応したら良いのかが分からなくなっているだけの事。

 3ヶ月前の自分のように、子どもらしい態度は取りたくない。さりとてニコルやヒルダと比べたら、どうにも繊細そうで雑にも扱えない。そんな理由で戸惑うのは、少年がまだ擦れていないからだろう。

 

「あの、もしよければ、お父さんに相談してみようか?」

 

「あ?」

 

「行く当てがないなら、家に来れば良いかなって。日向の叔父様には、私も沢山お世話になったし」

 

「おお、それは良い。ウルムナフ君さえ良ければ、こちらからお願いしたいくらいだとも」

 

「…………あー、その」

 

 そんな風に、対応を決め兼ねているからか。己の内へと踏み込んで来ようとする純粋な好意に、更にウルは困ってしまう。

 生きて良い理由が理由だ。本当は死にたいと、それが変わってないのも問題だ。他人をそこに付き合わせるような気はなくて、さりとて好意からの提案を跳ね除けるのも違うだろうと。

 

「お、照れてるー」

 

「うっせ、茶化すな。可変蝙蝠」

 

「まあ、陣家の養子になるのも良いのではないですか? 利用価値は、そこそこにはあるでしょう」

 

「お前も黙れ、腹黒神父。利用価値とか、そういう話じゃねぇだろ。こういうのはよ」

 

 髪を掻いて顔を背ければ、ヒルダが横から頬を突いて来る。ニヤニヤとしたその笑いに、馬鹿がと返せば次いで口を開くは腹黒神父。

 人間関係の八割以上を利害で判断していそうなニコルの言葉に、うんざりとした表情で言葉を返してから息を吐く。そうしてウルは、妥協するような言葉を陣と秋華に返した。

 

「全部終わって、余裕があったら…………考えとく」

 

「ええ、それで良いですとも」

 

 そんな内心を知れば拒絶にも近いウルの答えに、しかし陣と秋華は温かい笑みを浮かべている。だから柔らかい表情を見ているのが気不味くて、目を逸らせば嘲笑している仲間が二人。

 何とも言い難い苛立ちと共に、ウルは二人に殴り掛かる。椅子からひっくり返ったのは自称・魔法少女だけで、腹黒神父のニヤケ笑いは揺らがない。右手の拳を掴まれた状態から片手で投げられたウルは、宙を舞いながら何時か泣かすと心に決めた。

 

「ああ、そうだ。折角だから食事をご馳走しますよ。それと、宿が決まってないようでしたら――」

 

「――っっ。いや、宿はもう取ってあるし……って、はっ?」

 

 背中から地面に落ちて、起き上がりながらに聞こえた言葉に返答する。一宿を断りながらも一飯に期待して、顔を上げたウルは――その直後に硬直した。

 

「が、ぐはっ」

 

「なっ!? 行き成り血を吐いて、どうしたんだよ、おっさん! 病気か何かか!?」

 

 陣宋雲が、机に顔を埋めて倒れていた。その身体は小さく痙攣を続け、口だけでなく目や耳鼻からも赤い水が流れている。

 明らかに異常な状態だ。何か持病でもあるのかと、慌てて近寄るウル。されど応急手当のやり方さえ知らぬ少年には、原因を突き止める事すら出来ない。

 

「ちょ、秋華ちゃん!? だ、大丈夫かにゃ!? 何か、やっばいくらいの血の量が!?」

 

「姉ちゃんも、かよ!? ヒルダは、無事か。おい、ニコル! どうなってんだ!?」

 

 そうこうしている内にも、事態は更に悪化する。父と同じくその娘も、七孔から血を噴出して倒れたのだ。咄嗟にヒルダがその身を支えるが、震える彼女の意識はない。

 事此処に至って、ウルは理解する。親子が同じ持病を抱えていたのだとしても、全く同時に発症して倒れるのはおかしいと。ならばこれは、何者かの攻撃を受けたのだ。

 

 明らかな異常事態。姿も見えない襲撃者。この状況において、最も頼りになる相手の名をウルは呼ぶ。そうして視線を向けた先で、ウルは再び硬直した。

 

「ニコル? ――っ!? お前まで、かよ! 何だよ、これ!?」

 

 この場で最も強い少年が、血の海に倒れている。既に無力化されたニコルの姿に、ウルは背筋が震えるのを自覚した。

 不味いと。あのニコルでさえ抵抗出来なかった敵が、この場に居ると言う事実。動けぬ三人を庇った状態で、一体何が出来るだろうかと。

 

 その答えを出すより前に、元凶と言うべき下手人が其処に現れる。地上に繋がる扉に取り付けられた鈴が、甲高い音でその襲来を告げていた。

 

「ほう。我が死亡の遊戯に、耐える者が二人も居るとは。……闇に守護された者達、ですか」

 

 沈む夕焼けを背に受けて、地下へと降りて来るは血のように赤い長袍を来た男。短い髪をオールバックで束ねた男は、病的ではない程度に痩せて見える。そしてその瞳は、隠し切れない程の侮蔑と自負の色に満ちていた。

 

「……お前が、これをやったのか?」

 

「ええ、その通り。我が必殺、死亡の遊戯。広域を範囲とした集団呪殺により、彼らは此処に倒れた訳です」

 

 言葉は問い掛けではなく、唯の確認作業である。陣の身体を椅子に横たえ、立ち上がったウルはやって来た男を見る。見下す瞳と、睨み上げる視線が交わった。

 

「油断しましたね、子ども達。この地は徳壊様の庭。あれ程の力を使われたなら、気付き対策を取るは当然の事。今の御方は、窮鼠であろうと念入りに潰すと決めておられる」

 

 この男が此処に居る理由は、ウル達一行の動きを彼の邪仙が既に把握していたから。儀礼の場であった黄海は勿論の事、この大陸は果てまでもが彼の邪仙の庭だ。

 満足には動けぬ状態とは言え、その眼は多くの場所を監視している。そんな中であれ程に大きな力の行使があったのだ。更に其処に、憎き男の面影を持つ子どもが居る。となれば、邪仙が動かぬ道理がない。

 

「最大戦力は、これで無力化。残るは得体の知れない少女と、あの怪物の息子。しかし、油断は出来ません。あの男の子ならば猶更、此処で確実に摘み取りましょう」

 

 とは言えやはり、徳壊自身が動くは最終手段だ。1年と少し前に付けられた傷は、未だ癒えていない。呼吸するだけでも身体に激痛が走る状況で戦いなど、余程の状況でしか行えない。

 故に彼は配下を動かした。己の持つ手駒の中で、最も大きな札を動かした。初手にて奇襲を強要させると言う、念には念の入れようで。結果が即ちこの状況。襲撃者の圧倒的な優位である。

 

「我は堕九天真王地行仙・徳壊上人が直弟子、九龍の舞鬼!」

 

 年若くも恐るべき実力者は沈黙し、敵対するは残る二人。片や得体が知れぬ存在であり、もう片方は憎むべき怨敵の子と言う可能性の塊。

 

 されどどちらも、今はまだ格下。舞鬼の方が、強いのだ。

 

「忌まわしき男の血を引く少年よ。あの御方を倒すと言う、身の丈に合わぬ大言壮語。その蛮勇。如何なる代償を支払う羽目になるのかを、この私が教えてあげましょう!」

 

 拳を握り、構えを取る舞鬼。その姿を前にウルは、一歩を踏み出してから同じく構えを取る。

 功夫が見て取れる男の所作に、対する少年の姿は獣の道理。学ぶ相手もいない我流の獣は、果たして何処まで届くのか。此処に、圧倒的に不利な戦場が幕を開いた。

 

 

 

 

 




店の前で踊る舞鬼「ふっ、はっ、ほっ!」
通りすがりの幼女「ママ、あの人変な体操してるー!」
通りすがりの母親「しっ、見ちゃいけません!」

※死亡の遊戯の発動には、不思議な踊りをする必要があります。



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第45話 舞鬼

舞鬼「俺は舞鬼! 海賊王になる男だ!」

推奨BGMはChina Ogreで。


 

 構えを取った襲撃者を前にして、ウルは大地を強く蹴り付ける。先手必勝と、頭を過ぎる言葉はその四文字。敵手の技量や得体の知れなさなどは、考慮する必要が全くない。

 何せウルは自他共に認める程には、頭の出来がよろしくないのだ。馬鹿の考え休むに似たり。ならば下手な策を考えるよりも、本能に身を任せて動いた方が良いと無意識に断じた。

 

「ふっ、甘いのですよ」

 

 しかし、直情的な獣の道理は読まれ易い。飛び掛かるウルの動きに合わせるように、舞鬼は重心を移動させて技を放つ。

 その動きは正しく絶招。飛び掛かる少年の拳を片手で跳ね上げ、鋭い掌底が開いた隙に胴を射抜く。その一撃は二撃三撃と連打に変わり、真面に受けたウルは喉元より込み上げる赤き熱を撒き散らす。

 

「が――っ!?」

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぉぉぉっ!」

 

 血に濡れて尚、舞鬼の拳は止まらない。血反吐と共に宙から落ちるウルに向かって、一歩の震脚で踏み込み追撃。逆手の掌に吹き飛ばされて、少年の視界は目まぐるしく流れていく。

 複数のテーブルを巻き込みながら、大地に転がるウル。しかし彼も体力ならば人間以上。床面のタイルを己の血反吐で朱に染めながら、瞼に掛かった血を拭って立ち上がる。

 

「こんの、野郎っ!」

 

 急速に再生するその肉体は、まだまだ限界には程遠い。降魔化身術の使い手は、変身せずとも人間離れした肉体強度と再生能力を有している。

 とは言え、このままでは勝てない。獣の道理を抱くが故にこそ、彼の本能は的確な警鐘を鳴らす。舞鬼と言う男の格闘技術は、己の身体能力を上回っていると――ならば、話は簡単だ。

 

「っ、うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁ――――っ!」

 

 人の身では足りないのなら、身に宿りし悪魔の力を使えば良い。今の性能で勝てないならば、今以上の性能で叩き潰す。その発想は、何処までも単純なもの。

 幸いにも今の攻防で、十分な間合いは取れている。これだけの距離があるならば、変身の隙を突かれる事もないだろう。故に少年は、此処に苦しみ藻掻いて変貌を――

 

「――っ! させませんよ! 降魔化身などっ!!」

 

「ぐ――ぁっ!?」

 

 しようとした直後、その顔面に拳が打ち込まれた。闇に飲まれると言う感覚に意識が朦朧としていた瞬間は、致命的な程に無防備であったのだ。

 だがしかし、距離があった筈だろうと。そんな当然の疑問は、問い掛ける意味すらない代物。確かに今目の前にある光景が、問うまでもなく原因を示している。

 

「腕が、伸びやがった!?」

 

 割れた額を抱えて喀血しながら、二歩三歩と下がるウル。千鳥足の少年の前で、即座に収縮する男の腕。その長い前腕は、つい数瞬前まで5メートル程に伸びていたのだ。

 一体如何なる秘術によるものか、舞鬼の両腕は伸縮自在。この場において、間合いの外など何処にもない。少なくともこの程度の店内ならば、端から端まで手が届いてしまう。

 

「侮りませんよ。我らが怨敵の子よ。私は貴方を侮らない」

 

 呼気と共に構えを整えながら、告げる舞鬼の額には一筋の汗が流れている。心胆を寒からしめるその脳裏には、嘗ての恐怖が今も色濃く残っている。

 嘗て己を破った、降魔化身術の使い手。日向甚八郎はその果てに、己の主にさえも手を届かせたのだ。ウルは、そんな男の子どもである。ならばどうして、慢心や過少評価が出来ると言うか。

 

「降魔化身術など使わせるものか。このまま確実に、その息の根を止めて差し上げましょう」

 

 徹底して実力を発揮させない。相手に何もさせないのだ。奇襲で最高戦力を封じた上で、残る戦力を確実に磨り潰す。舞鬼が選ぶは、そんな消極的な戦闘法。

 自身の半分も生きてはいないであろう子どもに対して、そんな戦術を取らねばならない。其処に思う所は当然ある。だが、そんなプライドなどに拘っては居られない程に、日向甚八郎は恐ろしいのだ。

 

「……はっ、何だよ、そんなに、俺が怖いのかよ」

 

「ええ、恐ろしい。恐ろしいとも。貴方があの男の息子なら、多少の逆境など乗り越える。必ずや、そう確信してしまうのだから」

 

 絶招に至る程の中国拳法。縦横無尽に伸縮するその両手。長年に渡り磨き上げて来たであろう技術を使って、為すのは兎に角相手に何もさせないと言う姑息な立ち回り。

 サンドバッグのように一方的に殴られ続けるウルは、血反吐混じりに挑発する。馬鹿にしたような嘲笑は、無意識の内に勝利を求めて。思考を介す事なく行われる野生の戦術。

 

「うっわ、だっさ。ガキ相手に、恥ずかしくねぇの?」

 

「羞恥よりも、恐怖が勝る。我らにとっては、それ程の男なのです。日向甚八郎とは、ね!」

 

 そんな獣の戦闘理論に、返るは迷い一つない即答。羞恥など知るかと返した男は、拳を緩めず的確に少年の身体を壊していく。余りに一方的な展開に、しかし余裕は一切ない。

 

「貴方はあの男の子どもだが、今はまだ取るに足りない。ですがそれでも、あの男の子どもなのです」

 

 今はまだ、己が勝る。だが10年後は? いや、5年後ですら危ういだろう。一方的なこの交差でも分かる程、少年の内に何かを感じる。だから舞鬼は胸中で断じる。

 油断はするなと。或いは一分一秒後に、その5年分を押し切る何かに目覚めるやもしれない。そんな理不尽が起こっても、決しておかしくはない。それが日向の血筋である為に。

 

「ならば取るに足りない内に、このまま縊り殺すまで!」

 

 何一つとして好きにさせず、積み重ねて確殺する。その意志を持って振るわれる拳に、ウルの身体は壊され続ける。気付いた時には再生の速度を上回っている程に、男の破壊は的確だった。

 降魔化身術の使い手と言えど、無限に再生出来る訳ではないのだ。ならば寸刻みに壊し続ければ、そう遠くない内に破綻する。舞鬼は過去の経験と己が主の言葉から、どう壊せば良いのかを知っていたのだ。

 

(くっそ、こいつ、強ぇ)

 

 幾度も地面を転がりながら、ウルは傷だらけの四肢で立つ。猟師に追われる獣のように、逃げ回るその姿。二足で立つ事すら出来ていない現状は、他者から見れば実に無様な物だろう。

 このままでは勝てない。如何にか距離を取って、変身せねば話にならない。だがそれを敵手は許さない。ならばこのまま磨り潰されるより他に道はなく、賢しい者なら先ず諦めるであろう状況だ。

 

(けど、こいつより、徳壊って奴の方が、絶対に強ぇ)

 

 だが、ウルは諦めない。逃げ惑いながらもその瞳は、勝利を求めて爛々とした光を放っている。一瞬の隙を。それさえあれば、戦える程度の強敵だから。

 

(だったら、負けらんねぇだろ! こいつに勝てないようじゃ、親父の跡なんて継げやしない!)

 

 そうともこの男程度に勝てないようでは、母の仇など討てはしない。父の跡など継げやしない。そんなウルでは、生きて良い資格なんて端からないのだ。ならば必死を己に課して、死中の活を見出すのみ。

 

「こんのぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

「なっ!? 貴様!?」

 

 逃げ回っていた少年は、急にその身を翻す。踏み込む足を軸として、強引な反転から無防備に。舞鬼の伸ばした腕に向かって、加速を付けて突撃したのだ。

 ぐちゃりと、肉が潰れる音が響く。ウルは自ら、その拳を頭部に受ける。頭蓋を砕かれ脳髄を潰され掛けたまま、それでもウルは足を止めずに前へと踏み出す。

 

「私の腕に、敢えて――っ!?」

 

 敵の間合いの内側へと、為すのは決死の突撃特攻。散々に嬲られた後に行うからこそ、それは今更にかと言う戸惑いを生む。

 そんな僅かな混乱に乗じて引いた所で、降魔化身術を使えるような隙にはならない。間合いが開けば、冷静に対処されてしまうだろう。

 

 今はその程度の混乱に過ぎないから、もう少し隙を大きくしなければならない。その為に、更に一歩だ。全力で零距離まで踏み込み、起死回生の一打を狙う。

 

「野郎ぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 叫びで痛みを誤魔化して、ウルは拳を握り締める。こんなやり方で隙を作れるのは、きっと一度だけだろう。だからこの一度に、全力の一撃を。

 それは確かに、舞鬼の予想を超えていた。懐に入り込んだウルの拳に、舞鬼は反応さえも出来ていない。ならば届く。だから届く。その一撃は確かに、舞鬼の顔に叩き込まれて――

 

「……ですが、残念」

 

 ぐにゃりと、男の首が曲がった。少年の拳に、返る反発が全くなかった。柳のような受け流し。消力とでもいうべき技法――な訳ではない。これは単なる外道である。

 

「伸縮自在なのは、この両肘の先だけではないのですよ。我が五体は、全てが自在に変容する」

 

 首が伸びたのだ。まるでゴムのように伸縮し、頭部に与えた衝撃の殆どが流された。本来ならば首の骨が折れている筈の角度のまま、嗤う男は平然としている。

 与えた被害は微々たる物。掠り傷にさえ満たない程度のダメージで、それでは望む隙など作れよう筈もない。ならばウルに勝機は訪れない。訪れるのは窮地である。

 

「がぁっ!?」

 

 隙を作り出す為の一撃は、防がれればそれ自体が隙となる。浮いた上体へと叩き込まれる蹴撃。関節を伸縮した足は、凡そ人体ではあり得ない動きすら可能とする。

 まるで軟体動物だ。骨のないタコのように、ぐにゃりと動いてあり得ぬ角度から。伸縮の加速を加えれば、それは全力の一撃にも等しい威力となる。これこそ、九龍の舞鬼が本領だった。

 

「目の付け所は悪くありません。ですが、若過ぎましたね。後もう少し、経験を積んでいたならば或いは、倒れていたのは私の方であったのかもしれない」

 

 勝敗を分けたのは、地力の差。そして経験の差だ。降魔化身術の使い手と戦えるように、己を改造していた舞鬼。多少想定の上を行かれたとして、未熟なウルでは超えられない。

 故にウルは此処に倒れる。大きく飛んで転がり落ちて、地に伏した五体は既に再生が遅れ始めている。再生の為に必要となる、エネルギー自体が尽きようとしていた。

 

「さあ、此処で永久に眠りなさい。我らが怨敵の子よ!」

 

 そんなウルへと向けて、舞鬼は拳を振り上げる。その命を確実に終わらせる為に、頭部に目掛けてその拳を振り下ろす。

 これで終わりだ。そんな安堵にも似た感情を、どちらも全く同時に抱いて――故にその不意打ちを前にして、誰も対処が出来なかった。

 

「クリアァァァッ! クレストォォォォォッ!!」

 

 天空より極光が落ちて、舞鬼の身体を撃ち抜いた。放たれたのは、最上級の白魔法。打ち放ったのは、赤く染まった神父服の少年。

 己が吐瀉した鮮血に塗れたニコルの眼前で、神聖なる光による大爆発が巻き起こる。店内の家具や食器を破壊し尽くした魔力光は、しかしその男にだけは通用しない。

 

「ほう、まだ起き上がれましたか」

 

 驚いた、と目を細めた舞鬼は全く無傷。魔法に対する強力な耐性を有するこの男にとっては、最上級の魔法であろうが意味がない。

 

「……いや、その少女が癒したのか」

 

「はぁ、はぁ、はぁ……ちぃっ」

 

 金髪の少女に支えられて、如何にか立つ法衣の少年。最も危険と判断されたが為に、初手で潰されていた筈のニコルが息を荒げて立っている。

 ヒルダの手には、力を使い果たした一枚の符。幸運の護符と呼ばれるそれが、ニコルを戦場に復帰させたのだろう。だが、ニコルの姿は万全とは程遠い。

 

「ですが、無意味。この私の魔法無効化体質を前にして、そのような術など真冬の陽射しよりも生温い」

 

「ま、魔法無効化!? そんなの、卑怯ニャ!!」

 

 九龍の舞鬼。彼が有する、あらゆる魔法を無効化するという体質。それを知りながらも白魔法を行使したのは、今のニコルには立って歩くことも困難だから。

 真面に動けない状態で、接近戦など論外だ。だからと札の一つを切ったが、しかし全く通らなかった。忌々しいと歯噛みするニコルの姿に、舞鬼は侮蔑の笑みを浮かべていた。

 

「……徳壊の威を借る三下が。魔法無効化などと騙った所で、その実態は高度な魔法耐性に過ぎない。あらゆる魔法を、防げると言う訳ではない。そうでなくば、貴様が徳壊に従い続ける理由もあるまい!」

 

「くくっ、成る程確かに。ええ、徳壊様なら、私の魔法無効化を貫けるでしょう。……ですが、今の貴方に出来ますか? 私の耐性を貫く程の、強大な力を振るうことが!」

 

 徳壊はあくまで術師であって、全ての術師に対して舞鬼が必ず勝てるならば従う道理はない。それは確かに真理であって、徳壊と舞鬼が戦えば舞鬼は必ず負けるのだろう。

 だが、だからこそ初手の呪殺が活きて来る。仮にニコルが徳壊の足元程度には届く程の術師であっても、瀕死の現状では大きな力は使えない。それこそ出来るのならば、先の不意打ちで行っていた筈である。

 

 事実を指摘した舞鬼に対し、舌打ちしか返すことが出来ない。それこそがニコルの心境を、何より明白に示していた。

 

「無様ですねぇ、ラスプーチンの狗。貴方では、私には勝てませんよ。相性が余りに悪過ぎる」

 

 彼我の実力差。術師としての力量で言えば、ニコルは舞鬼よりも上であろう。だが相性が致命的。あらゆる魔法を無効化する舞鬼に対し、ニコルの手札はその殆どが有効打とならない。

 対して舞鬼の呪殺は、闇の祝福を受けぬ者では決して防げぬ代物だ。先天的に光の寵愛を受けているニコルでは、どんな対策を講じても防げぬ物。使われた時点で、敗北が確定してしまう。

 

 その上、現状では片方に一方的な消耗があるのだ。ならば舞鬼にとって、ニコルは恐れるに足りない。故に両者の態度は真逆。

 己を取り繕う余裕もなくして、敵意と憎悪の情を露わとするニコル。余裕の笑みすら浮かべて、慇懃無礼な態度で応じる舞鬼。

 

 見上げる憎悪と見下す傲慢。混じり合う視線の片方が、数瞬後には色を変える。慢心は薄れて狼狽へと、九龍の舞鬼を揺るがすのはニコルではない少年の存在だ。

 

〈はっ、おいおい、今にも死にそうな顔してるじゃねぇかよ、ニコル〉

 

「ちぃっ! 狗め、これが狙いでしたか!?」

 

 皮のない、肉と骨が剥き出しとなった顔を持つ悪魔。冥刹皇と化したウルの姿に、舞鬼は思わず一歩足を引いてしまう。その姿は彼の父が見せた姿に、とても良く似ていたから。

 内心で溢れる恐怖の情を、この少年はあの男ではないと否定しながら、舞鬼は如何にか構えを取る。それでも何処か腰が引けている舞鬼の様子に、瀕死の無様を晒すニコルの姿に、ウルは異形の頬を釣り上げた。

 

「……何を嬉しそうにしている、ウルムナフ」

 

 ウルは笑っていた。楽しげに嬉しげに歪んだ表情に、ニコルはその眦を上げる。彼には既に分かっていたのだ。ニコルは他の誰よりも、ウルのことを見ているから。

 

 先程まで他を圧倒していた舞鬼が、変身しただけで怯え戸惑っている。その事実に、胸がすくような思いを抱いている。それも一つの理由だろう。

 追い詰められた戦いの中で、逆転の一手へと至った。反撃開始だと息巻いているのだと、そんな理由も確かにある。だが、それだけではない。ニコルが決して無視出来ない、理由が確かに一つある。

 

〈いっやぁ、べっつにぃ? 死に掛けて何時もの薄ら寒い演技が出来なくなってるお前が、よりによって俺に頼っただなんて事実に、思うところなんて何にもねぇよ〉

 

 如何に相性が悪いとは言え、如何に重症を負っているとは言え、ニコルがウルを頼りにした。その事実が、ウルにとっては嬉しくあった。だから思わず、楽しくなって言ってしまう。

 如何に相性が悪いとは言え、如何に重症を負っているとは言え、ウルの力を当てにしなくてはならない。その事実だけでも、ニコルにとっては耐え難い屈辱だった。既に彼の内心は、中身が溢れそうな盃のようで。

 

〈取り合えずさ、後は俺に任せて休んでろよ。お前じゃ、アイツに勝てないんだろ?〉

 

「……相性が悪いだけだ。実力では勝っている。不意打ちさえなければ、此処まで追い詰められるものか」

 

〈へー、ふーん。ま、別に良いけどよ。色々言った所で、今は勝てないってのは変わらねぇ訳だ〉

 

「…………」

 

 へらへらと笑うウル。むっつりと黙り込むニコル。少年を支えながらも、視線を右往左往させているヒルダ。そしてウルに対してだけ、最大級の警戒を向けている舞鬼。

 変身した少年に疲労は残っているだろうが、日向の血筋はどのような形で爆発力を見せるか分からない。故にそれを恐れて動けない舞鬼の前で、顔を青くしているヒルダの傍で、ウルはニコルの逆鱗に触れるのだ。

 

〈って事はさ、アイツはお前より強いって訳でよ。んで、アイツを俺が倒したら、俺の方がお前より強いって事になるんじゃね?〉

 

「…………は?」

 

〈だからさ、お前は休んでろって。お前より強い俺が、俺より弱いお前を守って、お前より強いアイツをぶちのめしてやっからさ〉

 

 ウルの心境は、子どもらしい単純な物だ。凄いと認めているけれど、普段の行いが故に腹立つ相手。そんなニコルを煽れる好機を、精々活用してやろうと。

 反発と嫉妬と嬉しさが混じった故の行動に、耐えられるような器をニコルは有していない。他の相手ならば兎も角、ウルにされた場合だけは冷静で居られないのだ。故に、この僧衣の少年は。

 

「ヒルダ。邪魔です、退いてください」

 

「ちょっ!?」

 

 自身を助け支えていた少女の体を突き飛ばし、震える足で立つニコルは懐から竜尾のような鞭を取り出し魔力を使って熱を纏わせる。

 高速での接近戦は現状では不可能と、考えられる理性が残っていたのは辛うじて。動き回らなければいけるだろうと、己の限界を無視して決めつける。

 

 立てない? 歩けない? 戦えない? それがどうした知ったことか。ウルは戦うのだぞ。動かなければ馬鹿にされる。ならばどうして、寝ていることなど出来ようか。

 狂気に等しい執着心で、全ての苦痛を棚上げする。物理的に動けない筈の体を、魔法と精神力で無理矢理動かす。後にどれ程の後遺症が出ようとも、もう知ったことではないのだと。損得利害を想定することさえ出来ていない。

 

「休んでいるべきなのは、お前の方だ! 奴が私よりも強いと言う、その妄言! 今直ぐこの場で正してくれよう!」

 

 済ました笑顔の仮面は何処へやら、剥き出しの感情のままに戦う意志を決めたニコル。武器を手にした神父の傍らに立つウルの心は、少年らしい情に満ちていく。

 

〈へへっ、無理すんなって。守ってやっから、俺に任せな〉

 

「――っ! ウルっ! 貴様っっ!! 貴様はっ、私の下に居るべきだろうにぃっ!!」

 

 ああ、そうだ。この今、この現状がウルには愉しい。戦うのは何時も楽しいが、そうした楽しさとは何処か違う。これはきっと、傍らにいる好敵手(ライバル)の所為だろう。

 何時もは澄ましている奴が、必死の形相を見せているのが愉しい。強さを認めている仲間に、一歩先んじられるかもしれない事実が愉しい。そんな彼と、共に戦える状況も愉しい。そうとも、だからウルは笑って言うのだ。

 

〈はっ、本音が出てるっての。……んじゃ、こうしようぜ。ニコル〉

 

 背中合わせに、敵を見る。愉悦に浸るウルと、憤怒を燃やすニコル。二人の心は真逆の色をしていても、向かう先だけは今は一つ。

 

〈先にアイツを倒した方が、取り合えず上って事でさ!〉

 

 直後、両者が動いた。全く同時に前に向かって。そんな二人の言い合いに、置き去りとされていた舞鬼は怯えを抱きながらも苛立ち混じりに叫んだ。

 

「くっ、小僧共が! この私を一体誰だと――」

 

『煩いっ!』

 

 男の語りを一刀に伏して、踏み込んだ少年は拳を振るう。ウルの行動は先の焼き直しだが、しかし速度と威力が段違い。

 反応すら出来ない程の早さで、舞鬼の顔に拳が刺さる。柔らかな体質で受け流そうにも、威力が重過ぎてその全てを逃がせはしない。

 

 錐揉みに吹き飛ばされる舞鬼を、翼を羽搏かせてウルが追う。空中で追い付いて、身動きの取れない腹に一撃。

 やはり衝撃の半分程は逃げてしまうが、それでも十分過ぎる程の威力が叩き込まれる。だがしかし、舞鬼も唯では転ばない。

 

〈くっ〉

 

「がっ、おのれぇぇぇっ!」

 

 空中で伸ばした体の全てを使って、殴られながらも殴り返す。引き延ばしたゴムのような体は、身に受けた衝撃の半分を相手に返した。

 故に結果は両者相打ち。互いに遠退く二人の内の少年は、着地もせずに空中で態勢を整えると、慌てて空を飛翔する。舞鬼の首を狙うのは、彼一人ではない故に。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁっっ!」

 

 ウルと入れ替わるように踏み込んだニコルが、その手に握った鞭を振るう。熱を纏った鋭い刃が閃いて、舞鬼の右腕を切り落とす。

 舌打ちは同時に、利き腕を奪われた男も、首を取る心算であった少年も、どちらの意図も外れているから。両者の鮮血だけが、床を濡らす。

 

「ちぃっ! あと一歩と言う所で、忌々しい! 獲物風情が、黙って私に狩られていろっ!」

 

 開いた傷を抑えながら、罵倒を叫ぶ最たる理由は間に合わないから。ニコルの追撃が放たれるよりも、空を飛翔するウルの二撃目の方が早い。

 不味いと焦燥する舞鬼へと、迫るは冥刹皇の剛拳。咄嗟に頭部を庇った舞鬼の左腕は、一瞬で潰れてミンチと化す。それでも確かに、男は逃れてみせたのだ。

 

〈くっそ、マジでしぶてぇなぁ! 今ので終わっておけよな、アンタ!〉

 

「小僧、共がっ! この私を、九龍の舞鬼をっ! 獲物扱いしおってぇっ!!」

 

 後退しながらも、ぐちゃりと音を立てて復元する両の腕。舞鬼が体勢を立て直したその直後、再び襲い来るのは鋼鉄の鞭。

 それを今度は寸で躱して、続く悪魔の拳を両手を重ねて受け止める。ミシミシと骨を軋ませる音を響かせる男へ、更にと振るわれる第三撃。

 

「ぐ、ぬぉぉぉぉっっ!?」

 

 右足が切り落とされて、体勢を崩してしまう舞鬼。その脇腹へと、左の拳を悪魔は突き立てる。鮮血と共に体が崩れて、倒れそうになる男。

 そんな様子さえも知ったことかと、少年たちは追撃を重ねる。このままではそう遠くない内に倒される、そう確信した舞鬼は切り札を此処に使った。

 

「ぬ、おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 溢れ出すマリスに、追撃を仕掛けていた少年たちの体が吹き飛ばされる。勢い良く壁に叩き付けられた二人の前で、舞鬼の姿が変貌していく。

 その肉が倍以上に膨れ上がり、皮膚が赤黒く染まっていく。顔から凹凸が失われ、頭部には巨大な二本の角が。その姿は降魔化身術と同じく、正しく怪物のそれであり――

 

「サァァァクノォォォォスゥゥゥッッ!!」

 

 吹き飛ばされたニコルが叫ぶ。呼び出された魔剣が現れたのは、変貌途中の舞鬼の頭上。垂直に落下する剣は変身などさせるものかと言わんばかりに、深々と舞鬼の体に突き刺さる。

 

〈ご、ぉぉぉっ!?〉

 

〈隙だらけだぜ、お前っっ!〉

 

 閻羅王への変貌の途中で、魔剣に喰らわれ掛けて動きを止める舞鬼。その致命の隙を見逃す筈もなく、体勢を立て直したウルが駆ける。

 幼い少年たちの、三倍を優に超える体躯をした怪物へ。振り抜かれた冥刹皇の拳が、突き刺さっていた魔剣を更に奥深くへと。舞鬼は言葉にならない悲鳴を上げながら、踏鞴を踏んで一歩二歩。

 

〈ま、まだだぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!〉

 

〈っ!? んの野郎っ!?〉

 

 雄叫びと共にマリスを放射。その大半をサクノスに喰われながらも、ウルの追撃を防ぐには十分な力を残す。間近で生じた暴風に、冥刹皇は再び吹き飛ばされた。

 そして体制を崩したのは彼だけでなく、無理矢理な形で魔剣を召喚したニコルもまた同様に。強引な形で力を発した舞鬼も含めて、誰もが地に片膝を着いている。

 

〈まだだぁ、まだ、まだぁ! 私は、あの時の私とは違う! 今度こそ、最期まで、徳壊様の為にぃぃぃぃぃぃ!!〉

 

 そんな中で、最初に動き出したのは舞鬼であった。変貌した体に深く突き刺さったサクノスに、今も喰われながら立ち上がる。瞳を白濁とさせながら、それでも今度は最期まで忠義を尽くすのだと。

 

〈うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!〉

 

 そうして放たれた一撃を、僅か遅れて追い付いたウルの拳が迎撃する。拳と掌底がぶつかり合って、被害は互いにほぼ相殺。飛ばされる距離は身の軽さ故にウルの方が大きくとも、少年達は複数人。浮いた体に向かって放つ、追撃はニコルの方が早い。

 

「如何に外皮が魔法を防いでも、体内までは防ぎ切れまい! 受けなさい、クリアァァァクレストォォォッッ!!」

 

 舞鬼の吹き飛ぶ場所を予測して、先回りしていたニコルが叫ぶ。サクノスが作り出した傷口に腕を突き立てて、内部より放つは最上級魔法。魔法の反動で己が右手の血肉が焦げるのも気にせずに、残る全ての魔力を舞鬼の体内へと叩き込む。

 

〈ごぉ――――っ!?〉

 

 舞鬼の持つ魔法耐性を或いは、力尽くでも打ち破れるのではないかと思える程の魔力。それが体内で直接暴れ回れば、さしもの魔法無効化体質も耐えられなかったか。肉の焦げる臭いと共に、その七孔より煙が生じる。

 

 だが、まだ足りぬ。まだ、舞鬼は立っていた。

 

〈か、ほぉ、お、のれぇぇぇぇぇぇっ!!〉

 

「ぐぅぅぅぅっ! まだ、生きるか!?」

 

 巨大な鬼の手が、ニコルの身体を吹き飛ばす。己の半身すら巻き込んで、砕き潰す程の威力に生身の人間が耐えられよう筈もない。

 木の葉のように飛ばされたニコルは、消え入りそうになる意識を必死に繋ぎ止める。そんな彼の視界に映るのは、再生する鬼に迫る黒翼。

 

〈なら、止めは頂くぜ! テメェは下がってな!〉

 

〈ぎ、ぃぃぃぃぃっ!〉

 

 半壊した体を修復していた鬼は、当然ウルの動きを捉えられない。結果至る光景は、先の焼き直し。被害者と加害者を入れ替えただけの、一方的な破壊となる。

 ウルが拳を振るう。舞鬼が壊れながらも再生する。それを確認する前に、ウルが更に拳を振るう。ラッシュラッシュラッシュラッシュ。繰り広げられる連撃は、正に勝利を確信させた。

 

「漁夫の利など、させるかぁぁぁぁぁっ!」

 

〈がぁぁぁぁぁっ!〉

 

 故に吹き飛ばされたニコルも、倒れることなど己に許さない。死に物狂いと言うのも生温い形相で、黒き九節鞭を手に振り回す。

 最早熱を纏うことすら出来なくとも、鋼鉄の鞭は確かな凶器。その連撃は、舞鬼の身体を少しずつ、だが確かに切り刻んでいく。

 

〈おのれ、おのれ、おのれぇぇぇぇぇぇっ!!〉

 

「くぅぅぅぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

〈マジでぇ、しぶてぇぇぇんだよぉぉぉぉぉぉぉっ!!〉

 

 既に誰もが限界だ。この場にいる誰もが、何時倒れてもおかしくないのが現状だった。

 

 ウルの体力は、もう殆ど残っていない。変身に用いる力も尽き掛けて、時折明滅するように人の姿に戻り掛けている。

 

 ニコルの意識は、もう限界を超えている。魔力は底を尽いていて、そよ風一つ起こせぬ状態。動きを止めれば、もうそれが最後となろう。

 

 攻められ続ける舞鬼もまた、限界点に到達している。後一手、何かがあれば潰えるだろう。だが後一手、その一手に耐え続けている。胸に宿した矜持が故に。

 

〈私を、誰だと思っているっ!〉

 

「知らねぇよ! 徳壊の手下だろ、覚える気もねぇっ!」

 

「私の獲物だ! それ以上の価値など、貴様にありはしないっ!」

 

 九龍の舞鬼。徳壊の懐刀にして、切り札の一つ。自他共にそうであると認め、自らにそうでなければと強いている。

 だと言うのに、こんな所で負けられるものか。怨敵の息子と、露西亜の暴君に飼われる狗。どちらも長じれば主の脅威となるが故に、此処で負ける訳にはいかない。

 

 そうとも、既にウルは人の姿に戻っている。既にニコルは鞭を振るうだけの力もなくなっている。どちらも素手で、殴り掛かってきているだけ。ならば、あと少しで、あと少しで勝てるのだと。

 

〈私は、九龍の支配者だぞ! 徳壊様の直弟子でぇ、あの方の懐刀っ! 九龍の舞鬼だぞぉぉぉぉぉっっ!!〉

 

『知るか! 死ねぇぇぇぇぇっ!!』

 

 だが、負けたくないと感じているのは彼だけではない。この場で戦う三人が、其々の理由で同じように思っている。ならば、その熱量に差異はない。

 勝敗を定めるのは、精神面の話ではない。其処に違いがないのなら、差異は即ち別の場所。舞鬼は一人で、少年たちは二人だった。結局、違いはそれだけだ。

 

〈お、のれぇ……徳、壊さま……私は、ここで……〉

 

 どちらか片方ならば、勝敗は違っていたであろう。だがこの二人を同時に敵として、圧倒出来る程の差はなかった。全てを出し尽くしても、届かなかった。

 小さな拳が、舞鬼の内にある命を削り取っていく。再生が間に合わない。肉体が人間の物へと戻っていく。無視出来ない程の傷が、至る結果を確かに示す。

 

 ウルが、ニコルが、勝利する。そして、舞鬼が敗北する。そんな未来を、男は確かに垣間見て――

 

〈ならばっ! せめて、どちらか、一人だけでも――っっ!!〉

 

 最期を前に、舞鬼は叫んだ。このまま彼らに敗れれば、それは主の危機を呼ぶ。そう確信出来たから、守りを捨てて残る全てを攻勢へと。

 吠える男には最早、残る力など欠片もないであろうに。その意志にウルとニコルは一瞬気圧されて――――だからこそ、舞鬼は最後まで失念していたのだ。

 

〈が、ぁ……〉

 

「あ、当たったニャ」

 

 最初から最後まで、男が全く意識していなかった金髪の少女。ヒルダが魔力を使って作り上げたカボチャ型の爆弾が、全力を振り絞っていた舞鬼の後頭部で爆発した。

 既に限界を超えていた舞鬼は、完全に意識の外であった攻撃で沈黙。当たるとは思ってもいなかった少女と梯子を外された少年達が茫然とする中、こうして九龍の舞鬼は敗れ去ったのだった。

 

 

 

 

 

 場に、何とも言えない空気が流れる。こんな終わり方で納得出来るかと、舞鬼が強敵であったからこそ少年達の胸中は不完全燃焼だ。

 

 しかしそんな繊細な男心など、ヴァレンティーナ一族が考慮に入れる筈もない。凍り付いた空気を気にする事もなく、ヒルダは増長をし始めた。

 

「まさか、まぐれ当たりとは。けど、ニコルとウルが勝てなかった相手を、ヒルダちゃんが倒したって事は、ヒルダちゃんが最強でFA?」

 

『…………』

 

「にゃーはっはっ! さっすが、美少女ヒルダちゃん。可憐でプリチーなだけでなく、実力面でも最強だったとは。うぅ、自分の才能が怖いニャ」

 

「……ウル」

 

「ああ、ニコル」

 

 およよよよと、泣き真似をするヒルダ。その可憐な姿を前にして、少年達の心は一つとなった。舞鬼に挑んだ時以上に、二人の心は一つである。

 

「アレを倒した方が、上と言う事で良いですね」

 

「おう。先にぶちのめした方と、完膚なきまでに倒した方、どっちが勝ちだ?」

 

「両方で」

 

「了解」

 

「ちょ、ちょっと野郎ども!? 目が、目がマジになってるにゃ!? い、いくらヒルダちゃんが美少女だからって、二人掛かりなんて――っ!」

 

「首を切り落とす、心臓に杭を打つ、死体を燃やす、光で浄化する。どのような死に方がお望みですか!?」

 

「葬儀くらいはしてやるから、取り合えず死んどけ! クソ吸血鬼っっっ!!」

 

「にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

 崩れ掛けた酒場に、少女の悲鳴が響き渡る。漁夫の利を掻っ攫った吸血鬼の苦難は、陣親子が意識を取り戻すまで続くのであった。

 

 

 

 

 




~原作キャラ紹介 Part13~
○舞鬼(登場作品:シャドウハーツ)
 九龍の舞鬼と言う異名を持つ、邪仙徳壊の懐刀。あらゆる魔法を無効化する術師殺しとでも言うべき体質を持ち、伸縮自在な肉体と死亡の遊戯と言う広域呪殺を武器とする悪漢。

 原作においては中ボスとして登場。回想シーンで朱震を倒すも、甚八郎にフルボッコされる初登場の仕方。本編中で襲い掛かった時には、切り札の呪殺がウルには通じず逃げ帰ると言う無様を晒した。

 あのイベントの影響で、ウルは死亡の遊戯を防げると誤解したプレイヤーは多いだろう。
 作者もその例に漏れず、舞鬼が来てもウルが居るから余裕だろうとか思って即死耐性を誰にも付けていなかったら全滅したと言う記憶がある。

 そんなイベント時とゲーム時で効果が変わる死亡の遊戯だが、今作ではイベントシーンのものを採用。先天属性が闇以外のキャラに、問答無用で100%の確定即死を叩き込んでくる魔法となっている。
 尚、闇属性攻撃なので、先天属性が光のキャラには効果2倍。ニコルは光属性なので、即死耐性をしっかり準備していたが、耐性を貫通して即死を受けていたという設定だったりする。

 本編では強いが情けない中ボス。隠しステージでアルバートに捕まって酷い目に合わされたりする辺り、結構悪い扱いを受けているキャラ。
 拙作では徳壊最強説の採用により、その懐刀である舞鬼も強化されていた。結果がゴムゴムの実の能力者化である。




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第46話 旅路

今回はいつもより短め。繋ぎ回。


 

――1900年5月23日、中国は青浦県――

 

 上海の港を出て、西に4時間程。呉江県へと至る途中の水郷を、2台のガソリン自動車が音を立てて進んでいる。

 

 英国でもまだ馬車が主要な交通機関の一つであるこの時代、整地されていない道を行く車両はお世辞にも乗り心地が良いとは言えない。

 そんな悪酔いしそうな車両の2台目、後部座席に腰掛けたウルは吹き曝しの頭上を見上げる。照り付ける陽射しの下、感じているのは微かな倦怠感。

 

 船にはあれ程弱かった少年だが、地を行く車は平気らしい。とは言え多少は気持ちの悪さもあるのか、或いは同乗者に慣れていないからか。

 自然と口を開くことなく、ウルはぼんやりと頭上を見上げ続けている。流れる時間は、居心地の悪さを感じる程には平穏だった。

 

「しかし、こうしてハンドルを握っていると懐かしく感じますな。まだ一年と数ヶ月、その程度しか経っていないと言うのに」

 

 車の運転をしていた陣が、ふと思い出したように口にする。その声に反応して、秋華とウルは顔を向ける。

 

 舞鬼の襲撃に巻き込んでしまった彼ら親子を、ウル達は旅路に同行させていた。そのままでは、余りに危険過ぎるからだ。

 上海は徳壊の膝下、懐刀を失ったとは言え油断は出来ない。故にあのまま、放置と言う選択肢はなかった。少なくとも、ウルの胸中には。

 

 さりとてウル達が上海に残り続ける事は出来ないし、残った所で徳壊本人が出て来れば状況はとても厳しくなる。彼ら以外に親子を守れるような戦力もなく、ならば武漢の西法師に押し付けてしまえば良いと言い出したのは誰であったか。

 ともあれそんな理由で今、武漢へ向かう道連れは一時的に増えている。敵対不可避となった邪仙との対立に、何らかの進展が起こるまではこのままであろうか。

 

 尚、襲撃者である舞鬼の身柄は、英国領事館へと渡している。あれで彼の邪仙の懐刀だ。様々な理由で欲しがる勢力はそれなりに多い。

 最終的にどの勢力に拾われるのか、それは英国側の判断次第だろう。邪仙が舞鬼を有能な手駒と思っていれば、その目を逸らす囮代わりにもなってくれるとはニコルの言だ。

 

 駄目で元々、上手くいけば都合が良い。そんな策を立てながらも、それはそれとして対価も別に貰っているのがニコルと言う名の腹黒だ。

 邪仙の懐刀と引き換えにして、ニコルは借り受ける予定だった車両を譲り受けたのだ。貸出ではなく、払い下げ品を購入という形で。

 

 陽射し避けもないガソリン駆動の自動三輪。十年前に生産が開始された型落ち品だが、それでもこの大陸では貴重な品だ。

 何せ隣国の日本でさえ、自動車が持ち込まれたのは2年前が史上初。海を挟んだ大陸であっても、普及するにはまだ早過ぎる。

 

 そんな貴重品を得た彼は、内の1台の運転を陣に任せた。この時代では珍しい運転技術を陣が持っていると知ったから、便利に使おうという心算なのだろう。

 

「……一年前って、もしかして親父とか?」

 

「ええ、日向大佐と共に、車で大陸を渡り歩いたのです」

 

 エンジン音を立てる車に揺られながら、陣宋雲は郷愁に耽る。日向甚八郎に窮地を救われた彼は、恩を返さんとその背を追い掛けた。

 大陸を馬車や徒歩で行き来するのは不便だと、彼が日本軍から借り受けた自動車。その操作くらいは任せて欲しいと、そうして陣は運転技術を身に着けたのだ。

 

 最初は酷い物であったろうに、今ではスムーズに動かせるようになった。そんな過去を振り返りながら、前へと進み続ける車。風を浴びる少年は、その言葉に嘗てを想う。

 

「親父も、こんな風に。……俺は今、親父と同じ景色を見てるのかな」

 

 徳壊と甚八郎の戦い。甚八郎を助けた仲間の中に、彼の西法師は居た。陣には彼と直接の面識はないが、武漢の寺院までは行ったことがある。

 そうとも彼の日も同じように、西法師の下へと赴く日向甚八郎を武漢まで送り届けたのだ。一年と数ヶ月の時を経て、今度はその子が同じように仙人の下へ。

 

 何と言う因果であろうか。吹き付ける風の中を進む彼らが感じる想いは、決して軽いものではない。

 

「ウルはさ、これまでどんな景色を見て来たの?」

 

「あ? 何だよ急に」

 

 秋華と言う名の少女もまた同じく。幼い彼女も陣と共に、日向甚八郎の旅路に付き添った。

 危険な場所に踏み込むことこそなかったが、それ以外の場では常に父と共に甚八郎の軌跡を見て来た。

 

 少女にとって、日向甚八郎と言う名の男は正義のヒーローそのものだった。憧れの対象であったのだ。

 

「うーん、何かさ。知りたいなって思ったんだ。……聞かない方が良かった?」

 

「別に良いけど、話す程の内容は大してないと思うぜ」

 

 そんな秋華だ。父親に似た顔立ちの少年に、何も思わぬ筈もない。話の切っ掛けが芽生えたならば、こうして踏み込んで来るのも当然のこと。

 対するウルとしても、秋華に対し何も思っていないと言えば嘘になる。己よりも2つか3つ、少し年上なだけなのに父と共に行動していた。その事実に、嫉妬の一つ程度は覚えている。

 

 だがそれが筋違いな感情だと言うのは分かるし、己にはそんなことを言う権利がないとも感じている。その上で彼女ら親子が見て来た父の姿も気に掛かる。

 ならば後で話を聞く為に、自分の境遇を語るのも悪くはないだろう。隠す程のことはなく、それが少し恥ずかしいが、ウルは故郷を思い出しながら語り始めた。

 

「ガキの頃は、此処よりずっと北に居た。お袋がロシアの出だって話でさ、北国の方が肌に合ったらしい」

 

 ウルが母の出身地を知ったのは何時の話だったか、惚気話の一端だったのを少し覚えている。

 何でも大陸派遣が決まった後、露西亜出身の母を気遣って父が似た気候の土地を探したのだとか。

 

 子ども心に、仲の良い夫婦だと感じていた。だが何故だろうか、時折母は悲しそうな顔をしていた。

 幼い少年は父親が余り帰って来ない所為だと思っていたが、今になって思うと少しだけ違う気がする。

 

 特に故郷の話になると強くなった感情。あれは今のウルが抱いている感情と似た物ではないのかと。

 

「北って言うと、河北や北京? それとももっと行って、黒龍江や吉林かな? もしかして、モンゴルやウイグルの方だったり」

 

「……知らね。地名とか、意識した事もなかったし。多分、その辺のどっかだとは思うけどな」

 

 一つの事実に辿り着き掛けた思考は、少女の質問攻勢によって途切れて消える。口々にされる土地の名を、ウルは一つも知らなかった。

 元より地名など気にしたこともなかった少年だ。母の死後はふらふらと大陸を放浪していたこともあり、何処に住んでいたかなどもう殆ど覚えていない。

 

 何処で育ったかと聞かれれば、華北の何処かとしか答えられない。寧ろ更に幼少の日々を過ごした、日本の葛城の方が印象に残っている程である。

 

「んで、お袋が死んでからはまあ、取り合えず南の方に。家なし着の身着のままだと、流石に寒かったしよ」

 

 或いは、忘れてしまいたかったのかもしれない。母を守れなかったあの場所は、優しい日々より辛い記憶の方が強くなってしまった土地だから。

 母の死後、暫く放心していたウルは逃げるように旅立った。家もない。服もない。食べ物もない。だがそんな理由が無くともきっと、ウルは旅に出ていたことだろう。

 

「最初は何処に行っても、厄介払いされたっけ。泥や石投げられたり、農具持って追い回されたり。……ま、俺も俺で食い物盗んでたから、お互い様って奴だろうけど」

 

「ウル……」

 

「時世、ですね。特に此処から北の山東省辺りですと、扶清滅洋の動きが強い。西洋の軍事力を背景にした教会の横暴な拡大に、従うしかない官僚達への反感を抱いた民衆の蜂起。この情勢で、この国の民ではない容姿とくれば……」

 

 行く当てのない少年は、何処に行っても拒絶された。それは当然、だって誰もが余裕なんてなかった。中国と言う大陸は、西洋列強の食い物とされていたのだから。

 そんな形で多くの人々が飢えている国の中、隣国出身と分かる顔立ちに西洋系の特徴が混じった如何にもな外国人の少年だ。身寄りもないとなれば、悪意の矛先になってしまう。

 

 拒絶され、否定され、でも守れなかったのだからこんな不幸は当然の罰なのだと。そんな環境が、ウルの心を形成した。幸か不幸か、そんな環境でも生きていけるだけの力が彼にはあった。

 

「そんなこんなで色んな所を歩き回っている内に、化け物どもを見つけてよ。ぶちのめしたら、喜ばれたんだわ」

 

 マリスとは人の悪意。そこより生まれる怪物は、世情が不安となれば数を増やす。この大陸の情勢では、それこそ歯止めが効かない程に。

 土着の術士や退魔師などが相手取るのだとしても、脅威の全てを払える訳ではない。そうした異能者は数が少ないのだ。故に怪物を倒せる少年の存在は喜ばれた。

 

「怪物殺せば、飯や金を貰える。怪物どもの中には死骸が残る奴もいるから、煮たり焼いたりすりゃ飯になる。そうと知ってからは、大分楽になったよ」

 

 最初は偶然、怪物を倒した瞬間を見られて感謝されたのが切っ掛け。以降は化け物の首と引き換えに、食事や金を貰って生計を立てることを覚えた。

 戦うのは、楽だった。痛いし苦しいし辛いのだけど、その瞬間だけは生きること以外の全部を忘れることが出来たから。化け物を殺して生きる生活は、とてもとても楽だったのだ。

 

 だが同時に、寂しくもあった。化け物の被害にあった村を救って、化け物を殺す度に村人から恐れの籠った瞳で見られる。アイツの方が化け物じゃないかと、言われたことも一度や二度の話じゃない。

 罰として受け止め、当然として受け入れ、心は鈍化していく。それでも一人で居るのは寂しくて、誰かが居ないのは息苦しくて、きっとだからなのだろう。ウルは今も無自覚のまま、彼らの存在に救われている。

 

「んで南に流れ続けた所で、川の主だか何だかが暴れてるから如何にかしてくれって頼まれて、化け物をぶち殺した後でニコル達に会ったんだよな」

 

 嫌な奴だ。鼻につく態度で嫌味たらしく見下してくる、人間としてどうよと感じるような糞野郎だ。殴り飛ばしたくなったのも、一度や二度の話じゃない。

 よく分からない奴だ。日によって姿が変わっているし、言ってることもやってることもコロコロ変わる。殴り飛ばしたくなったのも、一度や二度の話じゃない。

 

 けれど、寂しくはなかったのだ。腹立たしいし鬱陶しいし気に入らない奴らであるが、一人でいれば自責ばかりしていた筈だから、孤独ではない時間は確かな救いであったのだ。

 

「そっから、アイツの言葉に乗せられてこっちにって流れだ。……ま、お陰で俺のやるべき事が分かったんだ。その点には感謝してやるさ」

 

 ウルが自分で思っている以上に、本当は深く感謝しているのだろう。それを表に出さないのは、無自覚なだけが理由の全てではない。

 この男の子は、素直になれない子どもでもあるのだ。それが傍目にも分かって、だから陣親子は優しく微笑む。少年の辿った道が、苦しいだけじゃなかったから。

 

「ウル、あの子と仲が良いんだね。友達?」

 

「は? ちょ、冗談は良してくれよ。誰があんな腹黒と」

 

 くすりと笑った秋華は、悪戯をするような気持ちで言葉を紡ぐ。敢えてどちらか一人を除いたのは、その方が良く反応してくれそうだったから。

 どちらがと明言しなかった台詞に気付かぬまま、より強く意識している相手のことを口早に語り始めるウル。少年は向き合う少女が良い笑顔をしていることにも気付かない。

 

「性格最悪、性質最低。実力が確かなのは認めるけどよ、毒舌腹黒格好付け野郎なんざと友達だなんて想像しただけでも怖気が走る」

 

 何だかんだで根っこは善良な少年だ。色々と手助けしてくれるヒルダのことは、一応友人として認めている。言葉にしてと追求すれば、渋りながらも肯定の意を示すだろう。

 対してどうしても認められないのがニコルである。多少の感謝も抱いてはいるが、それ以上に酷い目に合わされたのだ。気に入らないと、そう思うのも当然のこと。

 

「ほんっと、アイツ意味分かんねぇよな。何考えてんのか分かんねぇ寒い笑顔張り付けて、その癖クッソ強ぇんだからよ。何だよマジでふざけんなっての」

 

「おや、では彼の事は嫌いだと」

 

「ああ、嫌いだね。大っ嫌いだ。ぶちのめしてぇ」

 

 そんな少年の男心を理解して、笑みを深めながら問い掛ける陣宋雲。その笑みにやはり気付かぬまま、言葉にしたウルは己の想いを再認する。

 嫌いだし気に入らないし、殴り飛ばしたい相手。ニコルに掴み掛っていない理由は、今は勝てないと己の心が敗北感を抱いてしまっているから。

 

「認めるよ、アイツは強い。今は勝てねぇ。……けど、何時かは勝つ」

 

 それを認めた上で、だからと言って心は折れない。今は無理でも、何時までも無理と言う訳ではない。

 だからと口にした言葉が、何処までも強く心に染み渡っていく。そうとも、ウルはニコルに勝ちたいのだ。

 

「ああ、そうさ。勝つんだ。勝ちたい。んでもって、アイツが見下して来た分だけ今度はこっちから――――って、何だよ。その表情は」

 

 握った拳をゆっくり開いて、己の感情を整理する。そうした後で漸くに、ウルは秋華が浮かべている表情に気付いた。

 

「ううん、別に。ただ、やっぱり本当は好きなんだろうなぁって」

 

「……は? 何、アンタ聞いてた? 超絶気色悪い事言わないで欲しいんだけど」

 

「でも、悪口でもそんなに夢中になって話すし。何だかんだ言って認めている感じだし。あと、すっごい笑顔で話してるから」

 

「べ、別に夢中になんてなってねぇし。相手の実力を認めねぇのは、なんか、その、違うだろ。あ、あと、笑顔になんてなってねぇし。ぜってぇ、見間違いだし」

 

「えー、本当かなぁ」

 

「本当だって。マジもマジ。仮に笑顔だとしても、そりゃあれだよあれ。何時かぶちのめして、勝利する瞬間を想像してって言うか…………んだよ、笑うんじゃねぇよ」

 

「うん。じゃあ、そういうことにしておくね」

 

「しておく、じゃなくて。そういうこと、なの! そうなんですー!」

 

 素直になれないウルの弁明に、悪戯な笑みで返す秋華。先にあった居心地の悪さなどは既になく、仲良くなれた様子に陣も笑みを深める。

 

(日向少佐。貴方のお子さんは、確かに不幸な境遇に陥った。背負う宿命は、決して良い物とは言えないでしょう。ですが――)

 

 ハンドルを回しながら、思うは恩人の息子が背負った数奇な運命。母を喪い、迫害されながら放浪し、父の仇との戦いに臨む。そんな運命の子は、されど折れず歪まず進んでいるから。

 

(きっと良い未来が待っている。この表情を見ていると、そう思えてくるのです)

 

 それはきっと、良い未来に繋がっている筈だと。素直にそう、信じられた。

 笑って、怒って、嘆いて、それでも前に進んでいく。その日々が輝かしいものならば、その果てもと信じたかった。

 ニコルに、ヒルダに、秋華。そして願わくば、己もまた。その輝かしい日々の一枚となれば良い。

 そんな風に思いながら、陣はアクセルを踏み込み前方車両を追うのであった。

 

 

 

 

 




現時点での其々の感情

ウル→ニコル
 いつか勝ちたいライバル。友情も、ほんの少しだけ感じてるけど認めたくはない。

ウル→ヒルダ
 たまによく分かんなくなる友人。友達だと認めても良いし、一緒に何かをするのは楽しい。けど、やっぱりよく分からない奴だと思う。

ヒルダ→ウル
 友達。悪友みたいな関係で、一緒に騒ぐのは楽しい。色々弱っちい奴だけど、最後には一人で立ち上がれそうだからこいつは大丈夫そうだなと思ってる。

ヒルダ→ニコル
 唾付けてるイケメンでお気に入り。きっと碌な最期を迎えないんだろうなと思ってる。だから何があっても、その最期までは傍にいようと決めている。

ニコル→ヒルダ
 肉壁。便利。

ニコル→ウル
 ウルかな? ウルかも? うーん、ちょっと微妙(現在ウル認定45%)




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第47話 猫妖

設定捏造キャラ追加


 

――1900年5月28日、武漢――

 

 昇り始めた陽射しに照らされて、鮮やかな黄色に輝く瑠璃瓦。厳かに佇む寺院の中に、人の気配と言う物はない。

 此処は廃墟だ。誰も祈りを捧げなくなった寺院の跡地は、埃が積もり蜘蛛が巣を張るようになってもその威容を保っている。

 

「……此処に、西法師って奴がいるのか」

 

 崩れ掛けた木造の大橋を進みながら、赤き壁を見上げたウルが呟く。漸く此処まで来たのだと、複雑な思いを胸中に浮かべて。

 感慨を抱いているのは、彼だけではない。嘗ての日々を思い出している陣親子も、この地に来た目的の一つを果たさんとしているニコルも共に。

 

「大きいですね~。きゃ、鼠さんだわ!?」

 

 唯一の例外は、この横幅が大きい少女だけだろう。今にも弾けそうな衣服に身を包んだヒルダは、結局のところ部外者なのだろう。

 物陰の穴に逃げ込む小鼠の姿に怯えると言う実に乙女らしい反応に、ウルは呆れながらも考える。せめてもう少し痩せてれば、絵になったであろうにと。

 

「なんかすっげぇテンション下がったんだけど、取り合えず入ろうぜ」

 

「テンションが下がったんですか? まさか、ウルさんも鼠さんが苦手なんですか!? 一緒ですね!!」

 

「いや、ちげぇから。アンタの所為だからな。色々と力抜けるの」

 

 はてなと首を傾げるヒルダに、疲れたと言わんばかりに肩を落とすウル。その様子に陣親子は苦笑を漏らして、我関せずとしていたニコルは一歩進んで身を翻す。

 

「さて、これより先は西園九宮寺。彼の東方最高の神仙が領域ですから、立ち入る前に為すべき事を再確認しておきましょう」

 

『為すべきこと?』

 

 今更ながらに何を言うのか。首を傾げる一同を代表する形で、陣宋雲が当然の疑問を口にする。

 

「……西法師様にお会いして、力をお借りするだけではないのですか?」

 

「ええ、大枠で言えばその認識で間違いありません。此処で詰めるべきなのは、如何なる形の助力を求めるのかと言う事」

 

 西法師に会い、助力を貰う為に来たのだろう。そう問い掛ける陣に、真横で何度も頷くウルとヒルダ。

 そんな二人にの言葉に苦笑を返して、どのような助力を求めるべきか、今の内に意志を統一しておくべきなのだとニコルは語った。

 

「あの、徳壊さんをやっつけてください、ってお願いしたら駄目なんですか?」

 

「出来ませんよ。それが出来るなら、一年前の戦いは日向甚八郎の勝利に終わった筈ですからね」

 

 思い付いたままに口を開いたヒルダに対し、ニコルはそれを一顧だにもせず否定する。少し頬を膨らませた少女に、微笑み告げるは或いは当然の事。

 

 日向甚八郎と徳壊の実力は、恐らく高いレベルで拮抗していた。ならば単純、西法師が其処に助力すれば勝つのは結果は当然甚八郎の勝利となる筈である。

 だが事実として、彼らの戦いは相打ちに近い形となった。敢えて勝者を上げるなら、生き延びた徳壊の方であろうか。その結果が示している。西法師は戦わなかったのだ。

 

「一つに動けない理由があった。二つに西法師よりも徳壊の方が強かった。三つに、仙人と言うものには戒律が多い。さて、どれが理由か。どれも理由なのか」

 

 白虎の絵馬を守る為と言う理由もあったのだろうが、守勢に回る理由や後手に甘んじる理由としては些か弱い。何せ元凶である徳壊自身を潰せるならば、それに越した解決策はないのだから。

 故にニコルは考える。結局の所、単純な話なのだろうと。西法師は東洋で最高の術師ではあるが、最強の術師と言う訳ではない。直接対決すれば必ずや徳壊が勝るからこそ、西法師は最悪に備えたのではないかと。

 

 日向甚八郎が勝てば良し。敗れたとしても、己が四神の一つを抑えていれば最悪には至らない。そんな仙人の達観した読みと備えが故に、甚八郎は勝機を逃したのではないか。

 とは言え、所詮は予想にも至らぬ妄想の類。物証などは手元になく、極論西法師の事情などはどうでも良い。重要なのは、西法師には表舞台に立つ心算がないであろうと言う点。そしてそんな仙人の全面的な助力を、己達も求めてはいないと言う点だ。

 

「何れにせよ、動けたとしても動いて貰う心算はありません。そうでしょう、ウルムナフ」

 

「あ?」

 

「徳壊との戦いは、貴方の宿命の一つだ。それを他者に委ねて、貴方は納得できますか?」

 

「はっ、ねーよ。決まってんだろ」

 

 打てば響くというように、問いを投げれば即座に答えが返って来る。ウルは悩む素振りも見せずに、己の意志を此処に示す。

 

「徳壊は、俺が倒す」

 

「結構、その位はして貰わねば困ります」

 

 拳を握って答えるウルに、満足気に返すニコルは続ける。それでこそと言う感慨と、それだけではと言う想望を胸に燃やして。

 

「とは言え、彼の邪仙は強大。私でも手に負えない実力者に対し、今のウルムナフでは不足が過ぎる」

 

「……ちっ、分かってるよ。んなこと」

 

 続く言葉に、ウルの返しは僅か詰まった。認めたくはないという幼さを抑え付け、認めねばと苛立ちながらに頷き続ける。

 

「親父も勝てなかった奴なんだ。今の俺が、どうこう出来る奴じゃねぇ。分かってんだよ、んなことは。だから――」

 

「そうとも、今は届かない。私も貴方も、彼の邪仙から見れば力なき幼子と何も変わらない。ならば――」

 

『戦えるようになれば良い』

 

 認めよう、今は足りないと。だが認めてはやらぬのだ。何時までも足りない訳ではないと。向かい合った少年達は、同じ笑みに同じ意志を宿して示す。

 強くなろう。戦えるようになろう。最強の仙人と戦える程に。己の宿命を果たせる程に。そして何より、目の前の相手を乗り越え打ち倒せる程に。

 

「私にもまだ、切り札が幾つかあります。現状でも貴方を肉壁として使い潰せば、勝機は恐らく一割程度」

 

「やってやるよ。今で一割って言うなら、俺達が強くなればもっと可能性は上がるんだろ」

 

「ええ、勿論。そして私も実力を付ければ、勝率は更に高くなる。その為にも、西法師殿にはしっかりと協力して貰いましょう」

 

 ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガは、強くなりたい。父母の仇を取るという、生きていても良い理由を果たせるように。この少年を越えるという、抱いた夢を叶える為に。

 ニコラス・コンラドは、強くなりたい。誰よりも強く、誰よりも高みへ。もう何も失わぬ為に。そしてその到達点にこそ、この眼前の少年は居るべきなのだ。それこそが己の宿命だと、心の底から信じているから。

 

「詰まり要はあれだろ、強請に行くんだろ。お前の弟子の所為で被害が出てるんだから、俺らを強くしろってさ」

 

「おや、聞こえが悪い。なに、お互いの為になる話ですよ。彼の御仁は、人の成長を見るのが好きだと聞きますからね」

 

 年齢不相応な笑みは、しかし何処か青臭く。笑い合う二人の心は、きっと同じ方向を見ていたのだ。

 

 

 

 だから、だろうか。少年達の紡いだ音は、新たな出会いを引き寄せた。

 

「はっ、何だい何だい。こんな廃墟で声がすると思って来てみりゃ、何だか面白い話をしてるじゃないかい」

 

「あ? 一体、誰だ…………って、マジで何だよ、アンタ!?」

 

 突然声を掛けられて、冷や水を被ったような気持ちで振り返るウル。誰だと言う警戒心を含んだ誰何は、言葉の途中で驚愕に彩られる形となる。何せ其処には、二足歩行の三毛猫が立っていたからだ。

 

「はん、見て分からないのかい。あたしはマオ。見ての通りの旅人さ」

 

「いや、見て分かんねぇよ」

 

「お、大きな猫さんが、喋ってます。よ、世の中って広いんですね」

 

「……お前だけはそれ、言えねぇからな」

 

 紐に結わえた瓢箪を片手に、ふらふらと近付いて来る巨大な三毛猫。人語を解する謎の生き物に、ウルが驚いたのも僅かな時間。

 口に手を当て驚いているヒルダの姿に、こいつよりはマシかと受け入れる。体重可変型の桃色蝙蝠に比べれば、世の中の大半は驚くに値しないのだ。

 

「マオ、(マオ)。偽名、なの?」

 

「さてね、本名かもしれないし、偽名かもしれないねぇ。長く生きてるとその辺、すっかり忘れちまうもんさ」

 

 マオとは、猫の中国語読みだ。詰まりは喋る猫が、自分は猫だと名乗りを上げている現状。その頓狂な事態に、生粋の中国人である秋華は思わずと疑問を零す。

 対するマオは煙に巻くように答えると、どっこいしょと掛け声を掛けて腰を下ろす。大橋の上に胡坐を掻いて、瓢箪に入った酒を飲む。そんな身勝手な姿に、一同は困惑しか返せない。

 

「しかし、その自称猫さんが、私達に一体どのようなご用件で?」

 

「言ったろ、面白い話が聞こえたってさ」

 

 一行の中で唯一人、他のメンバーとは異なる理由で驚いていたニコルが我を取り戻して問い掛ける。一体どうして、この女が此処に出て来るかと。

 そんな少年の疑問を受けて、傾けていた瓢箪に蓋をしたマオは顔を向ける。口の端から零れた酒を片手で拭い取り、ニィと嗤うと少年達へと言葉を掛けた。

 

「アンタ達、徳の奴を倒すんだってね」

 

「何だよ、化け猫。テメェも徳壊の野郎の仲間か」

 

「は、唯の古い馴染みだよ。馬鹿やった徳の奴も、アイツをあっさり放逐した爺も、どっちも気に入らないって点じゃ同じさね」

 

「……敵でもなく、味方でもないと」

 

「そりゃそうだろう。世の中ってのは、綺麗な二色に分かれるもんじゃない。あたしみたいな灰色の方が大勢さ」

 

 敵かもしれぬと身構えるウルに対しても、何を考えているのかと警戒しているニコルに対しても、変わらぬ態度で返すマオ。底を悟らせぬ飄々とした仕草で、まるで明日の献立を語るような気軽さで、彼女は告げる。それは全くの善意であった。

 

「そんな灰色の立場から言わせて貰うけど――――止めときな、アンタ達じゃ無理さ」

 

「んだと、化け猫」

 

「事実さ、クソガキ。徳は強い。色々迷走している阿呆だけど、力だけは大したもんさ。アイツより強い奴を、あたしは知らないね」

 

 そうとも、これはこの化け物の善意だ。偶々里帰りをした所で、偶然話し声が聞こえた。どうやら若い子らが、自殺行為をするらしい。ならば止めてやらねばならぬだろうと、マオの理由は本当に唯それだけだ。

 

「無駄に命を散らすだけだよ。止めとけ止めとけ」

 

「ならば放っておくと? 彼の邪仙が、如何なる悪徳を成しているかを知りながら」

 

「は、軽いねぇ。軽い言葉だ。アンタ自身、どうでも良いと思っていることを言うんじゃないよ」

 

 原作において、マオは義侠と言うに相応しいキャラクターであった。そう思い返しながらに嘯くニコルに、マオは鼻で嗤って返す。

 この化け猫は、これで中々に人を見る目が肥えている。彼女の瞳に映る少年は、正義感とは無縁の存在。寧ろそれを嗤って利用する邪悪の側に見えていた。

 

 とは言え幼い子どもである。更生の余地があるならば、みすみす死なせて良い道理はない。だからと笑って、彼女は彼女の道理で以って言葉を紡いだ。

 

「徳の奴には、何としてでも為さねばならない願いと信念があった」

 

 マオと言う女は義侠だ。義侠とは善を尊び、弱者救済を良しとする者。だがこの善とは、社会一般の正義とイコールな訳ではない。

 義侠とは、己の善を尊ぶ存在だ。自分で決めた正義に従い、自分で決めた弱者を救い、自分で決めた敵と戦う。その全てを、己が納得するまで貫き通す者。

 

「爺の奴は、神仙らしい神仙でさ。徳を罰して破門にしても、それ以降は一切知らんと世捨て人を気取りやがる」

 

 結局、女にとってその道は見合ってなかったのだ。まだ何も知らない子猫の時分に拾われて、流されるままに進んだ修行の道。

 その果てに得られるのが世捨て人同然の在り方と知り、大志を抱いていた兄弟弟子が破門され、何もかもに幻滅して過去を捨てた。故に残るは、唯の猫。

 

「あたしは愛想が尽きたよ。徳の気持ちも分からないでもないからさ、震の奴みたいに是が非でも止めないととも思えなかったね」

 

 一般社会から見て、徳壊と言う男は害悪だろう。邪仙と言うに相応しい、許すべきではない邪悪である。だがマオは、其処に一片の正義がある事も知っている。だから彼女の中の義侠心は、彼を敵と断じない。

 多くの人から見て、西法師と言う存在は尊ぶべきものであろう。神仙の中の神仙と称するに相応しい偉大さで、しかしマオの目には詰まらない生き方にしか思えなかった。だから彼女は、仙人の道に背を向けた。

 

「仙人なんて持て囃された所で、そんなもんなのさ。どいつもこいつもいい加減でさ」

 

 そうして放浪の旅に出て、気の向くままに人助けを続けて、気付けばこうして戻って来ている。結局いい加減なのは、己自身も同じであろうか。

 

「貴女も含めて、ですかね」

 

「そうさね。あたしも結局、九天真王の系譜ってことだろうよ。だから、そんないい加減な道士崩れからの忠告さ。アンタ達じゃ徳には勝てないから、下らない正義感なんか捨てちまいな」

 

 そんな風に自嘲しているからこそ、ニコルの指摘は痛くも痒くもない。暖簾に腕押し、糠に釘。やる気のないマオの言葉に、ニコルは唯肩を竦める。

 分かっていて直さぬ輩に、付ける薬などはない。変わらず揺るがぬ化け猫に、伝える言葉をニコルは持たない。だからいっそ切り捨てるかと思い始めた所で、ウルが一歩を踏み出した。

 

「出来ねぇよ」

 

「あん?」

 

「出来ねぇって、言ったんだ!」

 

 確かに、ニコルは伝える言葉を持たない。この化け猫のお節介を、跳ね除けるだけの理由をニコルは有していない。

 だが、ウルは違う。彼にはあるのだ。徳壊と言う男との因縁が。正義感などではなく、戦わなければならない理由がある。

 

「正義感なんかじゃねぇ、俺はっ! 俺が徳壊を倒さなくちゃいけないっ!!」

 

「何でだい?」

 

「親父の仇だ! お袋の仇だ! それに、それに――っ!!」

 

「……それに?」

 

 父の仇と、母の仇と、そう語る言葉にマオは目を細める。それは自嘲か後悔か。単純には言えない複雑な感情を瞳に宿して、困ったものだと少年を見詰める。

 さて、後は何を言うのかと。マオが見詰める先で、僅か言葉に詰まるウル。何というべきかと口籠って、思い浮かんだのは先にニコルが使った一つの表現。

 

「――それが、俺の宿命だからだ!!」

 

 宿命。その言葉が、しっくりと来た。ああ、そうとも、これがウルムナフ・ボルテ・ヒュウガの宿命。生まれながらに、決まっていたであろう因縁因果。

 邪仙・徳壊との戦いは、ウルがウルである限り避けようがない宿命だ。だからその道に、下らぬお節介など必要ない。言葉よりも多弁な瞳で、少年はそう示していた。

 

「……因果な話だね。ああ全く、厄介な話だよ」

 

 聞くんじゃなかった。そう呟いて、マオは瓢箪を傾ける。口に含んだ酒精は何故だか、いつもと違い雑味を強く感じてしまう。

 素直に不味いと、そう思えた理由はきっと気持ちの持ち様だ。捨て置いた兄弟弟子と、因縁で結ばれた少年。知ってしまった事実が、酒の味を悪くする。だから、まあ丁度良いのだろう。

 

「アンタ、名前は?」

 

「あ、んだよ、いきなり」

 

「名前くらい、あるんだろ。両親から貰った、立派なもんがさ」

 

「……ウル。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガ」

 

「そうかい」

 

 不味い酒を、飲み続ける趣味もない。どうにも数十年は前から、喉元に魚の骨が引っ掛かったような違和感も残っていたのだ。

 ならばこれは良い機会。この少年に手を貸して、その結末を見届ける。そうすれば口に残った雑味はきっと、旨味に変わってくれるだろう。

 

「んで、もう一度聞くけど。本気なんだね」

 

「当たり前だ」

 

「そう。……なら、少し手伝ってやろうかね」

 

 だからマオは、重たい腰を上げる。泥や埃で汚れた臀部を軽く叩いて、汚れを落とすと笑って同行を申し出た。

 

「手伝う、ですか?」

 

「アンタら、入り口分かんのかい? 爺の作った領域は、普通じゃ入れない場所にあるんだよ」

 

「これから調べる予定でしたね。まあ最悪は地上の建物を吹き飛ばして、位相を揺らしてやれば神域の扉も強引に開けるかと」

 

「……そっちの白いのは、中々に物騒な小僧だね。案内くらいはしてやるから、爺に喧嘩売るのは止めときな」

 

「えっと詰まり、一緒に来るってことか。化け猫」

 

「マオって呼びな、ウル坊。姐さんでも構わないけどね」

 

 着いて来なと一言掛けて、千鳥足で寺院の中へと進むマオ。その姿に其々がらしい反応を示しながらも、結局は止まらぬマオの後を追い掛けるより他にない。

 そうして、一行は西園九宮寺の中を行く。新たな旅の仲間を加えて、亜細亜の奥深くに隠されし神秘の只中へ。この地の幕はもう間もなく。だがその前に、この地で一つの試練がある。二人の少年は此処で、一つの帰路に立つであろう。

 

 

 

 

 




~原作キャラ紹介 Part14~
○マオ(登場作品:シャドウハーツ フロム・ザ・ニューワールド)
 でっぷりと太った雌の三毛猫。人より大きく二足歩行で人語を解すし酒も飲む謎の生き物。
 性根や思考は悪人寄りではあるが気風が良い姉御肌な面もあり、外道というよりは昔ながらの武侠や任侠といった方が相応しい。

 原作では何故かシカゴのマフィアで食客をしていたが、やはり何だかよく分からない理由で主人公パーティに合流した。多分10割ノリと勢いだったと思われる。
 100年以上の時を生きていて、出身地は亜細亜。だがブラジル忍者から師匠扱いされていたり、禁酒法時代のアメリカで酒に溺れていたり、一体どんな人生(猫生?)を生きてきたのか。とことん謎な猫である。

 拙作ではそんな謎な半生にスポットを当てて、多分こうだろうと捏造してみた結果――九天真王の系譜に落ち着いた。

 確定している情報が、亜細亜出身。酔拳の使い手。喋る猫。名前が中国語だけ。
 亜細亜出身で名前が猫の中国語読みなら、まず大陸出身は確定で良いと思う。
 酔拳って、酒に酔った仙人をモデルにした武術だったな→お、仙人で喋る猫いるじゃん! じゃ、同じにして因縁増やしたら面白そう。というのが大体の流れである。

 マオは西法師の一番弟子。徳壊や朱震の姉弟子で、子猫の頃に西法師に拾われた。
 その後は人化の仙術などを中心に技術を身に付けていくが、徳壊の破門を切っ掛けにマオも自ら西法師の下を去る。何もしない自らの師に落胆しながら、それを正そうともしない自らに同じ貉かと自嘲して。
 暫し大陸を離れていたが、弟弟子が派手にやらかしたと聞いて師の様子を見にこの地に戻った。されど師の態度は変わらず、彼女は失望を深くしながら新たな土地へ。新大陸を目指すのだ――――という妄想をフロム脳が脳内で描いていたので、拙作でのマオはなんかそんな感じ。

 なので拙作のマオは小方師みたいに、見る人が見れば人型なのかもしれない。姉御と言いたくなるような、アジアチックな妙齢の美女に見える人もいるのかもしれない。




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第48話 小方

西法師と小方師。ほうの字が違うの、たまに分からなくなる。


 

 酒に酔った千鳥の足で、されど迷うことなく歩みを進める人間サイズの大きな三毛猫。

 マオの案内に従い進む者らの数は、つい先程より増えている。神域に踏み込む前にと、呼び出されたのは麗々とその父親だ。

 

 突然異なる場所に召喚されて、目の前には人語を解する二足歩行の猫。思わず濁声で驚きの声を漏らした年若い女の姿に、マオは多くを悟ったのだろう。

 彼らも西法師の下へ連れて行くと言うニコルの言葉に、ただそうかいとだけ返した化け猫の胸中は分からない。嘆いているのか、悔んでいるのか。何れにせよ、今は取るに足りないことだから。

 

 口数少なく、九宮寺の中を進む。辿り着いたのは本堂にある祭壇、その前に立つ金香炉。そこでマオは、小さく開錠の呪を紡ぐ。

 途端、赤き光と共に香炉は音を立てて動く。土台ごと奥へと移動したその後には、暗い地下へと続くであろう階段が存在していた。

 

「けほ、けほ、ちょっとカビ臭いです」

 

「掃除をしよう、などとは言わないでくださいよ。これから先が本番なのですから」

 

「ええ!? 駄目なんですか!?」

 

「……いや、寧ろ、何でやって良いって言われると思ったよ」

 

 開けた瞬間吹き込む埃の混じった淀んだ風に、咳き込んでから腕捲りをするヒルダ。何処かずれた彼女の行動に先んじて、冷たい声音でニコルが止める。

 止められるとは思ってもみなかったと言う素振りを見せるヒルダの姿に、ウルでさえも呆れるように肩を竦める。更に驚いたヒルダが周囲を見回すが、当然ながら彼女の味方はいなかった。

 

「全く、騒がしいガキ共だね。ほら、騒いでないでとっとと進むよ」

 

 苦笑を浮かべるしかない大人達を後目に、マオはのしのしと歩を進める。擦れ違い様にヒルダの尻を叩いて、叩かれた少女は思わぬ刺激に目を潤ませる。

 流石のヒルダも何か一言反論をしようかと思い至るが、その時には既にマオの姿はもう遠く。他の皆も既に進み始めていたから、少女も慌てて後を追った。

 

 地下へと続く木造の階段。剥き出しの石壁の中を、時折平地を挟みながらも続いていく。その道程は、外観からイメージ出来る距離より長い。

 カビ臭さと共に、ひやりとした湿気が周囲を満たす。滑りやすい足場を僅かに照らすのは、等間隔に置かれた松明。そうして進んだ先にあるは、穴の奥深くへと続く垂直梯子。

 

「何で急に、梯子に変わったのかしら? ずっと階段じゃ、駄目だったの?」

 

「制作陣のミスでしょうかね。上のマップでは階段だったのに、下のマップでは梯子になる。担当同士、意思疎通が取れていなかったのかもしれません」

 

「お前は何の話をしてんだよ、ニコル。てか、見れば見る程にぼろっちい梯子だな」

 

「な、何だか、降りるのが怖いです。途中で壊れたり、しませんよね」

 

「……取り合えず、ヒルダ。お前、一番最後な」

 

「ええ!? 何でですか!?」

 

「いや、他の奴なら平気でも、何かお前だと壊しそうだし。ほら、体重的に」

 

「むぅぅ、そ、そんなに重くないですよ!」

 

 途中で壊れてしまいそうな程に古びた梯子を前に、騒ぎ立てる子ども達。

 純粋な疑問を零す秋華に、何処か遠い目でメタ発言をしているニコル。そして涙目になるヒルダと、彼女を揶揄うウル。

 

 そんな何処か微笑ましいやり取りも、こんな場所でやられるのは困る。そうと言わんばかりに肩を怒らせたマオは、梯子の途中から態々引き返してその手を振るった。

 

「だから、黙って進めって言ってんだろ。ガキんちょ共」

 

「うぉぁっ!?」

 

『きゃーっ!?』

 

「はぁ、……やれやれ」

 

 瞬く間、と言うのが相応しい速さで放たれた四連撃。ウル、ヒルダ、秋華の順番で少年少女らは、尻を叩かれ穴の中へと落とされた。

 唯一人、四発目を回避したニコルは嘆息する。もう一発行くかいと言わんばかりのマオの視線に、肩を竦めてから自ら穴の中へと飛び降りた。

 

 梯子の高さは、それ程ではない。高所から降りた猫のように、ニコルはしなやかに着地する。だが、上手く着地出来たのは彼一人。

 直前の少女がクッション代わりになった秋華は兎も角、ヒルダは体をぶつけて少し痛そうに立ち上がる。因みにウルは、そのヒルダの下敷きだ。

 

 苦悶に喘ぐ少年を、当然のように素通りしていくマオとニコル。後を追って来た陣と麗々に支えられる形で起き上がったウルは、何時かやり返すと心に決めて前に進んだ。

 

「これは、少し変わった場所に出ましたね」

 

 そうして辿り着いたのは、三つの扉が並ぶ小広間。足元は変わらぬ岩肌のままだが、壁や天井には照明や装飾などが見て取れる。

 明らかに人の手が入ったと分かる場所を前に、マオは肉球で己が体毛を掻き分けながらに周囲を見やる。そうして大きく、声を張った。

 

「あー、此処に出るかい。ってことは、居るんだろ。小方っ!」

 

 銅鑼の音にも似た大音量に、思わず耳を抑える後続組。彼らの理解が追い付く前に、ニコルが見詰めていた空間が歪む。そして雷鳴と共に現れたのは、緑の旗袍を着た少年。

 

「ニャゴにゃー!」

 

「…………で?」

 

「で!? でって何!?」

 

 仰々しい演出で現れた少年に、ウルは取り合えず突っ込みを入れてみる。特に深い意味のない天邪鬼の言葉に対し、現れた少年はかなり大袈裟な反応を示す。

 その反応が面白かったのか、風変わりな玩具を見るような目をするウル。その視線の意味を察したのか、コホンと一息置いてから少年は空気を換える為に名乗りを上げた。

 

「オイラはこのお寺の番人、小方師サマ様にゃ! みなさん、どぞよろしく」

 

「で?」

 

「みぎゃー! おまえオイラのこと馬鹿にしてるにゃ! おまえころす!」

 

 しかし、空気は換わらなかった。誰かを虐める側に回ったウルの追求に、根が単純な小方師と名乗る少年は乗せられてしまう。

 空中で地団駄を踏むと言う妙に高度な行動をしている小方師に、ニヤニヤと同じ言葉を繰り返すウル。そんな子ども同士の諍いに、マオは深く嘆息した。

 

「話が進まないから、小方を弄るのはその辺にしときな。ウル坊」

 

 割って入る大きな猫の姿に、ウルは少し詰まらなそうに、小方はほっとした表情を零す。だが彼の予想に反して、この化け猫は小方師の救いとは真逆に位置する存在だった。

 

「んで、久し振りだね。小方。けど、こいつはどういう了見だい?」

 

「姐さん、何れそんなお怒りに!?」

 

 同じ者を師とし、同じ生き物から転じ、同じ道を歩いていた同士。姉弟子の苛立ちに満ちた表情に、小方師は全身を硬直させる。

 本来の姿であれば、体中の体毛が逆立っていただろう。過去の可愛がりを思い出して涙目になる小方師に、マオは怒りの理由を告げた。

 

「決まってんだろ。どうせあの爺のことだ。あたしらが来るって事を先読みして、アンタを使いに出したんだろうよ」

 

 此処に小方師が隠れていた事に、不信感の類はない。此処は西法師の領域だから、踏み込んだ時点で察知されるのは当然の事。

 その時から来るタイミングを予想していたのか、或いはそれ以前から予知していたのか。どちらにせよ、案内が来る事は想定内だ。

 

「けどね、何であたしが来るって分かっていながら此処に繋げた。下丹田の入り口ってことはさ、今更あたしとその客に霊錬を受けろって言うんかい?」

 

 だから苛立っているのは、来ると分かっていた相手を試練の間へと通した事。老師の住まう涅槃宮に、直接案内しなかった事に苛立っているのだ。

 

「にゃにゃにゃっ!? で、でも決まりにゃよ。ちゃんと霊錬を受けないと、涅槃宮には入れちゃ駄目だって決まりにゃ!」

 

「……へぇ、あのちび猫だったアンタが、あたしに講釈をねぇ。随分と偉くなったもんじゃないかい、ええっ小方!」

 

「ぎにゃーっ!? す、凄んれも駄目にゃ。お、脅しても怖いらけれ、ず、ズルを許すなんて出来ないにゃ!」

 

 此処に通されたと言う事は、試練を受けろと西法師が語っているのと同義。霊錬と言う面倒な試練を、マオとその客人に受けろと言うのだ。

 己は既に道を違えた身、そんな試練を受けてやる筋道はない。その上己が志を認めた客人を、更に測ろうと言うのが気にいらない。お前の目利きは信用ならないと、喧嘩を売られたようなものではないか。

 

「マオさん、どうかその辺で」

 

「そ、そうですよ。その男の子が、少し可哀想です」

 

「いえ、それはどうでも良いのですが」

 

「え、ええっ!?」

 

 怯えるばかりの小方師に、苛立ちを募らせるマオ。その姿を不憫に思った訳では当然なく、唯利害の為だけにニコルは割り入る。

 

「霊錬とはその名の通り、己が霊魂を鍛える為の修練なのでしょう? だとするならば、こちらにも受けるメリットはあります。交渉を任せて頂けませんか?」

 

「……ふん、好きにしな。あたしに迷惑だけは掛けるんじゃないよ」

 

 交渉を代わると言うニコルに、悪いようにしなければと告げてマオは腰を下ろす。瓢箪の不味い酒を口に含みながら、思うはらしくなかったかと言う懊悩。

 ウル、麗々。短時間の内に兄弟弟子の犠牲者を見たからか、つい感情的に成り過ぎた。止められた立場にあったと言うのに、今も偉そうにしている輩が己も含めて気にくわないのだ。

 

 全く、試してやると上から目線で居て良い状況ではないだろうに。俗世を離れた仙人となると、そんな事すら分からなくなるのか。

 どっしりと腰を下ろした女は、酔った思考でそんな益体のない事を考える。全く以って自分らしくはないと、酒息と共に自省しながら。

 

「小方師殿。こちらの条件を飲んで頂けるのでしたら、私共も貴方達が課す霊錬を素直に受け入れましょう」

 

「じょ、条件? いや、でも……」

 

「残念ですが、こちらを飲んで頂けないのでしたら仕方がありません。私は出しゃばるのを止めて、後はマオさんに任せると――」

 

「いや、聞くにゃ! 本当はいけないけろ、聞かないと判断出来ないし! 内容次第れは妥協を考えらいこともなかったりしなかったり! らから、姐さんと代わるろは駄目にゃ!」

 

 そんな彼女の視線の先では、交代した交渉役が彼女の存在を脅しとして使いながら、小方師を嵌めようとしている。

 或いはその結果さえも、西法師は予測しているのかもしれない。だがしていなくてもどうでも良いなと、瓢箪を更に傾けた。

 

「こちらの要求としましては、霊錬に挑む者を限定して欲しいと言うものです」

 

「挑む者の限定?」

 

「はい。こちらには戦えない者が四人います。マオさんのようにやる気のない人や、ヒルダのようにやる気があっても任せたくないような者もね」

 

 戦えぬ者を庇いながらでは、試練を達成するのは難しい。一人二人ならば兎も角、陣親子と麗々親子の四人全員を守り抜くのは困難だ。

 戦う気のない者を参加させても、霊を鍛えると言う本懐は果たせない。鍛えたらどうなるか分からない劇物もある事だし、いっそ此処で締め出してしまった方が良い。

 

 そんな風に並べた理由は、結局の所唯の建前。ニコルの目的は、強くなる事。自分とウルだけが、強くなればそれで良いから。

 

「ですから、私とウルムナフ。この二人だけで、霊錬をお受けしたい」

 

「むーっ、むむむっ!? そ、そりは、うーん、けろ、良いのかにゃー?」

 

「勿論、受ける試練の内容を簡単にしろとは言いませんとも。八人居なければ突破出来ないような試練を、私達二人に与えれば良いのです。そうすれば、小方師殿がズルをしたことにはなりませんよ」

 

「ん? んんん? んー?」

 

 己の要求を押し通そうとするニコルは、さり気なく責任を小方師に押し付けている。この腹黒は何かあれば、目の前の少年を売り飛ばす気である。

 そんな人間の汚さに、気付けないのは猫の変化した道士であるからか。いや、単に本人の気質だろう。単純な猫妖怪は、首をぐるりぐるりと傾げている。

 

「おい、ニコル。人を勝手に巻き込んでんじゃねぇよ」

 

「おや、怖いのですか?」

 

「別に、怖くねーし」

 

「なら問題ありませんね」

 

「……ま、確かに丁度良い機会ではあるんだけどよ。何か気に食わねぇ」

 

 混乱する小方師に代わり、口を挟んだウルの意見は一蹴される。実際ウルとしても、成長に繋がるならば否やはないのだが。

 何だか納得いかないと唸る少年に、ニコルはくすりと笑みを浮かべる。微笑みの理由は、思い出し笑いのような物。この場の誰にも、分からぬ事だ。

 

「うーん。うーん。うーん。こりは一体どうすりば?」

 

〈良い。小方〉

 

 小方師の答えが出る前に、皆の頭に老人の声が響き渡る。誰もが目を丸くして、マオだけは苦虫を嚙み潰したような表情をする中、声は確かな答えを示した。

 

〈彼らの要求を全て飲もう。その少年達を、霊錬の場へと導くが良い。……最も辛き、試練の場にのう〉

 

「ニャゴにゃー! 了解しましたにゃ、西法師様!」

 

 最も辛き霊錬。それがどのような物なのか、知識を有するニコルにも分からない。知っているであろうマオは、呆れたように酒杯を煽った。

 そうして、雷光が走る。目を焼くような光が過ぎ去った直後、その場に居たのは三人だけ。小方師の前に立つ二人の少年は、己が身に起きた違和感に気付いた。

 

「あっ!? 俺の道具が消えた!? ポケットの中も、空になってやがる!?」

 

「……魔法も使えなくなりましたね。成程、これが一番厳しい霊錬ですか」

 

「げ、マジ? フュージョンも出来ねぇのかよ!?」

 

 何を禁じられたのか、即座に理解する二人。現状の彼らはあらゆる道具を使用出来ず、またあらゆる魔法や異能の行使を禁じられている。

 ウルは単純にその事実に驚愕し、ニコルは神域とは言え抵抗さえ許さなかった技量に目を剥く。これが東洋の道術かと、西洋の術法とは質が違った。

 

 単純に、強い弱いの話ではない。如何に相手の意を無視するかと言う考えが西の基本なら、東の術法は相手の力すら利用しようとするもの。

 或いは霊錬を受けることを拒絶し続けていれば、あっさりと跳ね除けられたのかもしれない。ニコルは目にした道術に、学術的な興味を募らせる。

 

「お前らはその状態で、下丹田・降宮・泥丸宮の三つの迷宮全部をぶっ通しで通り抜けろにゃ」

 

 とは言え今は、其処を突き詰めている場合ではない。検証と実験、トライアンドエラーを繰り返すのは霊錬を終えた後にするべきだろう。

 そう納得してから、小方師の説明に耳を傾ける。ニコルの知る原作においては、二組に分かれて攻略した三つの迷宮。此処では全てを、二人で行動する事になる。

 

「勿論、一番厳しい霊錬だから、それだけでない。迷宮一つ抜ける度に、縛りが一つ増えるら」

 

 三つの迷宮を休みなく、二人で協力し合って攻略する。最も難しいとされる霊錬が、そんな程度で済む筈もない。

 縛りは増える。枷は進めば進む程に多くなる。禁じられていくのだ。窮地に陥ってこそ、人の魂は磨かれるのだから。

 

「降宮からは逃走禁止! 泥丸宮れは、大量の呪詛れ複数の状態異常が常時掛かるから覚悟しろけ!」

 

 身を休める為の安全地帯はなく、魔法も道具も禁じられている以上は体力を消耗し続ける。闇雲に進めば、容易く詰んでしまうだろう。

 だと言うのに、二つ目の宮からは闇雲に進む事を強要される。そして三つ目の宮では、常時状態異常と言う苦境。最高難易度と、言うだけはある代物だ。

 

「……おい、やばくね。これ」

 

「中々に厳しい内容ですが、丁度良いでしょう。何なら、下丹田から逃走禁止でも構いませんよ」

 

「マジかよ、信じらんねぇ」

 

 流石のウルも、聞くだけで無理だと感じる内容に顔を青褪めさせる。冷汗混じりに同行する相手に同意を求めるが、その相方は気狂い染みた修練馬鹿だ。

 この程度ならば望む所と、寧ろもっと厳しくても構わないと、明らかに過剰な負荷を求める姿にドン引きする。本当に同じ人間かと、正直自信が無くなってきていた。

 

「そりれわ、ちゃーんと見てるから、頑張って来るにゃよ!」

 

 そんなウルが覚悟を決めるより前に、三つの扉の内の一つが開く。躊躇う事なく踏み出す僧衣の少年の姿に、頭を掻いてから腹を括った。

 

「ああ、もう。やってやれば良いんだろう!」

 

 徳壊を倒す為には、無理無茶程度の試練は越えねばならない。それに勝手に進むニコルに、これ以上差を付けられたくはない。

 だから大きな声で自分に気合を入れて、怯懦を感じる前に走り出す。残された者らと仙人達が見送る中、少年達は愚直に進むのだった。

 

 

 

 

 




霊錬開始。けど、大部分はスキップします。
真面目に描写しようとすると、霊錬だけで5、6話くらい食われそうなので。




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第49話 霊錬

血厂「あれ、俺の出番は?」


 

 揺れる蝋燭の火だけが照らす、仄暗い洞窟の中を駆ける。先を行く白き法衣の少年は、無手の両手を真っ赤な色に染めている。

 それは彼の背に続くウルもまた同じく。敵と己の流血で、彼らの両手は既に握る事もままならない有様だった。

 

 道具の禁止。この縛りは使用する道具に限らず、振るう武具すらも封じ込めた。無手での戦闘、それを強要されたのだ。

 身包みまで剥がされなかっただけ良しと見るべきか、だがそれにしても分が悪い。人が生身で相対するには、怪異と言うのは脅威に過ぎる。

 

 怪異。そう、霊錬の場とされるこの洞窟内には怪異が数多く。既に通り抜けた下丹田も、今進んでいる降宮も、どちらも正しく戦場だった。

 拳を振るった数は既に100を超え、屠った異形の総数はどれだけか。生身で戦い続けた対価と言うべき疲労は色濃く、少年の衣服は流れる血と汗でずぶ濡れだ。

 

(くそっ、情けねぇ)

 

 灯りさえも心許ないこの場所で、ウルが思うはそんなこと。禁じられたのは道具だけではなく、異能の類もここではその一切が使用出来ない。

 ウルの降魔化身術も封印されて、生じた損害は変身出来ないことだけではない。人間離れした身体能力や、失った四肢すら再生する程の治癒力も今はないのだ。それもまた、降魔化身術の恩恵故に。

 

(体が重い。腕や足が、こんなに重かったのかよ)

 

 年相応の身体能力、よりかは少しマシであろうか。それでも何時もとは比べ物にならない程に、ウルの体は弱っている。

 腕力も速度も耐久力も、全てが低下してしまえば力圧しでの戦い方など通じなくなる。それしかしてこなかったウルにとっては、過去最大級の窮地であろう。

 

(どんだけ、フュージョンに頼ってたんだ、俺は)

 

 そんな只中で思うのは、純粋な悔しさだ。目の前を進む神父服の少年が、己よりも平然と先を行くから。それがウルには悔しく感じる。

 条件は殆ど変わらない。或いは普段使いの武器すら使えぬニコルの方が、無手に慣れたウルよりも縛りが厳しいと言えるかもしれない。それでも、一歩以上の差が彼我にはある。

 

(けど……負けて、堪るか)

 

 先を進む背中を見る。己と同じ縛りを受けて、己よりも先に行くその背中を。彼が止まらないのなら、己も止まりたくはない。そんな意地で、痛みに耐えて歩き続ける。

 後どれ程に、先は長く険しいだろうか。考えてしまえば苦しくなるだけだから、今は忘れて歯を食い縛る。前を進む背中に追い付くために、ウルは確かに前を見ていた。

 

「ウルムナフ。来ますよ」

 

 そんな少年へ振り向くことすらせず、ニコルは冷たい声音で告げた。泣きたくなる程に傷だらけで、余裕がないのはお互いさま。だというのに、迫る脅威にいち早く彼は気付くのだ。

 

「前方から10。それと僅か遅れて地中からも7。先触れとの接敵までは後20秒程」

 

「ちっ、またかよっ!? 数が多過ぎるだろうがっ!!」

 

 さて、これが何度目の会敵か。流石のニコルも笑みを浮かべる余裕はなく、うんざりと返すウルの声にも疲れの色が濃く見える。

 それでも、二人は構えを取る。この降宮に踏み込んだ時点で、逃走と言う選択肢はなくなった。既に禁じられたその行動を、少年達は選べない。

 

 これが中々に食わせ物。現在の彼らは怪異の存在を認識した瞬間から、全滅させるまで一定距離以上離れることが出来ないのだ。

 背を向けての逃走が出来ないのは当然のこと、駆け抜けて接敵を少なくするということさえ不可能。小細工など出来ず、唯戦い続けなければならない。

 

《aaaaAAAAAAAAAA》

 

《oGyOgegogegggge》

 

《gErrrrrrrrrrrrrrrrrrrrR》

 

 悍ましい声を上げながら、迫る怪異は三種類。高い所から埃が積もるように、ふわりふわりと降りて来るのは髑髏の人魂。

 地上を滑るように移動するのは、全身から異臭を放つあやかし。油塗れの三本足でヌルヌルと迫る怪物は、その整った歯を涎に濡らす。

 そんな二種の異形と共に迫るは、手のない蛙に似た怪異。猛毒の汗で周囲を汚染する怪物には、目玉があるべき場所には代わりに人の顔が二つ生えている。

 

(人魂が4。キモイ歯が2。蛙が4。これが先触れかよ)

 

 嗤い、鳴き、恨み嫉む。悍ましい異形の生物たちを前にして、ウルの心に怯懦はない。思うは残る7匹が、何時何処から来るかと言う問い。

 されど迷いは一瞬、考えるだけ無駄だと割り切りウルは駆ける。難しいことは全て相方へと任せ、己は拳を振るうだけ。それこそ適材適所であろう。

 

「おっらぁっ!」

 

 痛む拳を無理矢理握って、歯を食い縛ったままに真っ直ぐ振るう。先ず最初に狙ったのは、先触れとなる荒御霊。

 最も近くに居た白い頭蓋を叩いて、怯んだ所に踵落とし。大地に落ちた骸を踏み付けて、その足を軸に右へと跳躍。

 

 跳んだ先には、油塗れのあやかしが。鼻を突く異臭に思わず動きが固まるが、知ったことかと拳を振るう。

 だが、浅い。ヌルりとした感触が、拳の衝撃を妨げる。強酸の体液が傷口に染み込み、絶叫にも等しい音が喉を突く。

 

「ぐっ、くそがっ!?」

 

 その悲鳴を罵倒に変えて、焼け爛れた拳を更にと振るう。下から腹を抉るように、放たれたフックがボディを射抜く。

 吐瀉物を撒き散らしながら仰向けに倒れるあやかしは、されど一矢報いてみせる。呻き声と共に人面蛙が放つのは、目を焼く程の雷だ。

 

「っっっっっ!!」

 

 至近距離から雷撃を放たれて、今のウルでは躱せない。直撃を受けた少年の身体から痺れが取れるより前に、残る怪物達が襲い掛かる。

 飛翔する荒御霊が少年の小さな体へと、剥き出しの歯を突き立てる。右の肩と左の脇腹。血肉を抉り取られたウルは体勢を崩して、一歩二歩と僅かよろけた。

 

「な、めんなっ!」

 

 されど、三歩目はない。倒れるものかと食い縛り、踏み締めた足で立ち続ける。血塗れの拳を握り締め、狙うは血肉を貪る頭蓋達――ではない。

 気配がしたのだ、背後から。振り返ると同時に拳を放てば、其処には油塗れの三本足。顔に口しか付いていない怪物は、少年の拳を受け止め平然と嗤った。

 

〈AaaaaaaUuuuuuuu〉

 

 これが怪物。そしてこれが人間だ。降魔化身術と言う反則さえなければ、人は怪物に勝ち得ない。ましてや人の子どもでは、拳一つで勝てる理由なんてない。

 

「く、そが……っ!」

 

 それが道理、だとしても――その道理を覆している奴が直ぐ側にいるのだ。身体を頭蓋に貪られ、焼け爛れた拳を振るい続けるウルの視界に映っている。

 ニコルの足元には既に、二匹の蛙と三本足の屍が。敢えて生かした一匹の蛙が放つ雷を利用して、同士打ちを引き起こす。そうした後に、残した敵に止めを刺して次の相手へ。

 

 既に彼は、地中から迫る第二陣に目を向けている。無言のままにその背中は、先触れの残りを任せたとでも言うかのように。

 

「は――っ!」

 

 ああ、きっと彼は言うのだろう。そのくらい、ウルならば出来る筈だと。ウルならばやってみせろと、ならば言われるまでもない。

 覚悟と共に、限界を超える。道理など知ったことかと雄叫びを上げると、二回三回、二十三十、数えるのが億劫になる程に、ウルは血に塗れた拳を振るった。

 

〈Aaaaaaaaaaaaaaaaaa!?〉

 

 そうして、割れた。相対していたうわばみの頭部が、ウルの拳の骨と同時に割れる。その隙間に指を突き入れ、強引に開いて千切る。

 限界を超えた駆動に身体が悲鳴を上げているが、知ったことかとウルは痛みを無視する。この試練さえ乗り越えれば降魔化身術の力が戻るのだから、後遺症を気にする必要などはない。

 

「テメェらなんざ、纏めてゴミの日にポイだ!」

 

 肩と脇腹に喰らい付いている髑髏を両の手で握る。握り潰す程の握力はなくとも、痛みにさえ耐えれば己の血肉ぐらいは引き千切れる。荒御霊の咬合力は、骨を砕く程に強いのだから。

 敢えて血肉を噛み千切らせて、咀嚼している髑髏達を地に叩き付ける。それでも砕けない程に腕力が落ちてはいるが、ならば体重を掛けて踏み潰してしまえば良い話。

 

「せい、やっ、はぁっ!」

 

 初撃と二撃の踏み付けで髑髏が二つ、三度四度と続ければ残る二つも砕け散る。そして五度目の踏み込みで、被害を受けるは痛みに藻掻いていたうわばみだ。

 その懐に入り込み、蹴り飛ばした先には激しい雷光。ニコルの動きに学ぶ形で、狙ったのは同士討ち。先にひっくり返っていた人面蛙が、見事三本足を焼き殺す。

 

「これで、終わりだ!!」

 

 焼き焦げた死骸を踏み台に、真っ直ぐ飛んで蹴りを放つ。両足揃えた蹴撃は、人面蛙の顔面へと。靴の裏と岩壁に挟まれて、人面蛙はぐりゃりと潰れた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 これにて、先触れは片付いた。ウルは力を使い果たして、肩で大きく息を吐く。両手を地に着いた姿は無防備だが、もう敵は居ないと確信している。

 残る敵は地中の7匹しか居なかったのだ。ならばその程度、ニコルならば既に片付けているだろう。ウルが顔を上げれば、其処には予想に反さぬ姿。

 

「やれやれ、気を抜くのが早くありませんか?」

 

「……んだよ。やっぱ余裕そうじゃねぇか」

 

 血に塗れて、動くのも億劫なウル。対するニコルは発汗や出血こそ酷いが、しっかりと立ち微笑んですら見せている。

 まだ仮面を被る程度の余裕はあるのだと、彼我の実力差が少し嫌になる。だがそんなことは分かっていたことだろうと、ウルは大きく息を吐いた。

 

「あー、しんど」

 

 それで息を整えると、弱音を漏らしながらも立ち上がる。ああ、まだ進める筈だと。動き出そうとした彼を、しかしニコルが静止した。

 

「ウルムナフ、少し休みなさい。先はまだ長いのですから」

 

「あ? こんな場所で休んで平気なのかよ」

 

 疑問を零しながらもすぐさま腰を下ろして、地に座り込んでいるウル。その姿に苦笑を零してから、ニコルは彼に予想を伝える。

 

「数分程度なら問題ありません。霊錬はあくまで鍛錬なのです。こちらのキャパシティを超えるような一手を、西法師殿は打たないでしょう」

 

「ふーん。そーいうもんか」

 

 言外に、今責められれば鍛錬にならないと言う。ニコルにまだ多少の余力がある以上、限界と見なされているのはウルの方だろう。

 何となく感じ取って忌々しいと思いながらも、事実であるために否定できないウルは受け入れる。受け入れた上で、今は身を休めることに専念する。少しでも、体力を取り戻すために。

 

「大凡の推測ですが、残る道行は丁度半分程でしょうね」

 

「残る道程って、何でんな事が分かんだよ」

 

「歩数を常に数えていますから、ある程度の広さは分かります。転移装置が幾つかありましたので、具体的な距離の数字化は難しいですが…………大物を一匹倒し、逃げる事が出来なくなった。あの瞬間に下丹田を越え降宮に辿り着いたと考えれば、一つ目の層に掛かった歩数は463歩。今は其処から312歩進んでますから、もう直ぐ次の大物に出会うと予想は出来ます。宮毎の広さがそう変わらなければ、の話ですがね」

 

「……この状況で自分の歩数まで数えてやがるのかよ。頭おかしいんじゃねぇの」

 

「意外と便利ですよ? 旅路の途中でペース配分を考える際、有効な判断材料となりますからね」

 

 平然とおかしなことを言い放つニコルに、ウルは頬を引き攣らせながら身を横たえる。色々と見習うべき点の多い相手だが、こういう所は全く以って参考にならないと。

 

「話がずれましたね。兎も角、次の大物までの約100歩分。少し休んだら、後は全力で駆け抜けます」

 

 そんな表情を咳払い一つで切り替えると、ニコルは真面目な声音で話を戻す。これがこの降宮における、最後の休息になるのだと。

 後は限界を超えて、駆け抜けるだけ。100歩の距離ならば接敵せずに、大物との遭遇まで行けるだろう。ニコルはそう踏んでいた。

 

「んで、次がでいなんとか、だったっけ? なんだっけ、更にきつくなんだよな」

 

「泥丸宮です。大量の呪詛で、複数の状態異常が常時掛かると言ってましたね」

 

「状態異常って何よ?」

 

「毒、猛毒、麻痺、封印、石化、精神崩壊、パニックと言ったものが存在を確認されてはいますね」

 

「そのどれ受けんのかね? 全部?」

 

「……流石に麻痺や石化と言った、行動不能になるものは除外されると思いますが。それ以外は全部纏めて受けることになるかもしれません」

 

「うへぇ」

 

 寝転びながら、呻き声を上げるウル。複数の状態異常と言うのはニコルにとっても苦行であるのか、彼の表情も晴れやかなものではない。

 そうとも西法師の霊錬、その最難関とはそれ程に甘いものではない。心身ともに限界まで追い詰めて、その上で限界を幾度も乗り越えねばならぬものだから。

 

「ですが、ウルならば、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガならば、そのくらいは乗り越えられる。期待してますよ、ウルムナフ」

 

「……はっ、言ってろ」

 

 発破を掛ける為に、そして身勝手な期待を込めて、ニコルはそう笑い掛ける。返すウルの言葉は、しかし何処か楽しげな笑みと共に。

 霊錬はまだ道半ば。降宮を間もなく抜けて泥丸宮へと至る途中で、二人の少年は小さく笑い合う。そうして立ち上がると、仄暗い道へと駆け出すのであった。

 

 

 

 




白姑「これ、俺の出番も怪しいな」



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第50話 狂気

青古「やった! 出番あった!」


 

 地面より生えた巨大な手、甲からは一回り小さな手が生える。二つの翼を生やし、指先には蛇の如き瞳と口を持つ異形。

 青古と称されるその怪物は、激闘の果てに崩れ落ちた。緩やかに崩壊しながら地に伏したその姿を前に、ウルは大の字になって倒れ込む。

 

「あー、終わったぁ!」

 

 満身創痍だ。全身血塗れの少年は、最早意識があるのが不思議な程に。気合と根性だけで持たせていたのだ。もう身動きさえ真面に出来ない。

 

「……ええ、思ったよりも、苦労しましたね」

 

 法衣の少年も、満身創痍なのは同じく。口調が乱れる程ではないが、余裕もない表情で息を吐く。

 地に腰を下ろしてしまえば、もう立ち上がろうとは思えなくなる程。今はニコルでさえも、そんな有様である。

 

「つーかよ、最後の何だよ。殴ろうとすると、動き止まる奴。何をされたら、ああなるんだよ」

 

 地面に寝転がったまま、ウルは抱いた疑問を口にする。泥丸宮に入って以降、最後の枷は理解し難い現象だった。

 攻撃や移動など、何か行動をしようとすると急に身体が停止する。何かを為そうとすると、一定の確率で失敗するのだ。

 

 何をどうすればそうなるのか、ウルには理屈が全く分からない。対して地面に腰を下ろしたニコルは、多少ではあれ当たりを付けていた。

 

「ジャッジメントリング」

 

「あ?」

 

「恐らくは、ですが。審判の輪(ジャッジメントリング)に干渉されていたのでしょう」

 

 ニコルにしては珍しく、自信なさげに推論を語る。審判の輪と言う言葉自体初めて聞いたウルは、疲れて回らぬ思考を捨てて問い掛ける。

 

「……なにそれ、食えんの?」

 

「食べ物ではありませんよ。人の持つ魂の姿、それを図解と描いたものを審判の輪(ジャッジメントリング)と言うのです」

 

 ウルの言葉に失笑を返して、流れるように解説へと繋げる。ニコルと言う少年は、存外話好きなのだろう。或いは説明好きと言うべきか。

 

審判の輪(ジャッジメントリング)は三つの目、即ち「動機」「行動」「結果」から成ります」

 

 動機は生命の意志を。行動は生命の可能性を。結果は生命の運命を。総じて審判の輪とは、魂を持つ存在の全てを司る。

 そして魂を持つ者達は皆、無意識の内にこの審判の輪を知覚している。だからこそ象徴とする図解が、ネメトン修道院の地下には存在していた。

 

「魂を持つ全ての者は、自らの意志で動き、自らの行動で、自らの結果と言う未来を求める。魂を持つ限り、この共通理念からは逃れられない。この世界における原則です」

 

 この世界において、全ての存在は審判の輪に縛られる。故にそれを狂わされてしまえば、人は正しい行動を行えず、望んだ未来に至れない。

 霊錬において科せられた最後の枷は、詰まりはそういうものである。審判の輪による判定の妨害。原作であるゲームで言えば、リング異常と言う状態だ。

 

審判の輪(ジャッジメントリング)に異常を齎す、リング異常とでも言いましょうか。それを絶えず受け続けていた私達は、あらゆる動機を行動と結果に繋ぐことが出来なかったと言う訳ですね」

 

 ファストリングにアップリングにフェイクリングとブラインドリング。ゲーム的に言えば、霊錬中の彼らには凡そ全てのリング異常が常時付与されていた。

 絶好のタイミングで身体が動かなくなれば、それは致命の隙へと変わる。そんな状況を潜り抜けたのだから、動けない程に疲弊するのも当然だろう。寧ろその程度で済んで、運が良かったと言うべきだ。

 

「へー、ジャッジメントリングねー。リングの精とか居そうじゃね?」

 

「魂なら、居るんじゃないですかね」

 

「……精と魂って、何か違うの?」

 

「さあ、何とも言えませんね。どちらも会った事がありませんので。……ただ」

 

「何だよ?」

 

「リングの魂は、多分職業だと思います」

 

「へー、そうなんだー。仕事終わったら、じゃあ何になるんだろうなー」

 

「さあ、何とも言えませんね。取り合えず、奥さんと娘さんが居そうではありますが」

 

「奥さんと娘さんがいる、仕事人かー。何でだろうな、何か、冴えない中年のおっさんのイメージが浮かんできた」

 

「奇遇ですね。私もです」

 

 きっと疲れ切っているのだろう。途中から脳細胞を全く使わなくなった会話を交わしながら、ウルとニコルは無駄な時間を過ごしていく。そうして、ふと、気付いた。

 

「なあ、ニコル。まだ、霊錬って終わんねーの?」

 

「……いえ、そんな筈は……いや、そういうことか」

 

 大取と言うべき敵を倒した後だと言うのに、何時まで経っても迎えが来ない。先へと続く道が開く様子もなく、ならば霊錬はまだ終わりじゃない。

 

「どうやら、もう一つ、試練が残っているようですよ」

 

「へ?」

 

 困惑するウルの眼前で、立ち上がって身構えるニコル。その姿に慌てて起き上がろうとしたウルは、耐え難い程の眠気を感じて手を滑らせた。

 

「あれ、何だ、眠くなって――」

 

「成程、体と技は見届けたから、残るは心と言う訳ですか」

 

 霊錬は魂を磨く試練とされる。だがその割にこれまで試されてきたのは、肉体面での性能のみ。

 原作でもそうだったからと、納得していた甘さにニコルは苦笑する。此処は現実、ならば心に問い掛ける試練もあって然るべきであり――

 

「気を強く持ちなさい、ウルムナフ。きっと最後は、一番厳しい試練が襲って来ますよ」

 

 きっとそれは何よりも、この少年達にとっては苦しい試練となるであろう。

 

 

 

 

 

 

 ぴちゃりと、水の音がした。目を開いた瞬間に感じる臭気は、錆びた鉄を思わせるもの。それが周囲を満たしていて、真っ赤な色が地を染めていた。

 

「ア、はは、ははは」

 

 声が聞こえる。誰のものだろうかと、疑問に思うが直ぐには答えが出て来ない。だがどうしてだろうかと、思うはよく聞く音だという感想。この声の主を、ニコルは確かに知っている。だから少年は視線を向けて、その目を大きく見開いた。

 

「ア、はは、ははは」

 

 笑っている。嗤っている。哂っている。赤い返り血に塗れた少年が、その血溜まりの中で歓喜と悲嘆の混じった笑みで哄笑している。

 

 その足元には、見知った人の見知らぬ姿。ダークブロンドの髪は常よりも鮮やかな赤に染まって、その顔はまるで人形のように青く冷たくなっている。

 もう手遅れだと、一見して分かる状況。これが夢だと分かっていても、ニコルはその目を逸らせない。これは彼にとっても、耐え難い心の闇だから。

 

(ああ、そうか…………)

 

 ずっと疑問に思っていたのだ。一体どうして、己は彼女を遠ざけようとしていたのか。

 

――あたしを連れて行きたくないのは、あたしに死んで欲しくないから?

 

 彼女と別れたのは、もう半年近く前のこと。片道3ヶ月と言う目算は外れて、未だ道行は終わらない。徳壊との決着を付けた後、戻れるのはさてあとどれだけ先か。

 そんな嘘を口にしたのは、そうとも一刻も早く遠ざけたかったから。一分一秒でも早く、その場を離れなくてはならない。気付きたくはなかったけれど、本当は既に気付いていたのだ。

 

――私は貴女を好いている。この好意が、親愛なのか恋愛なのかは分かりませんが。

 

 その言葉は本心である。だがほんの少しだけ、小さな嘘が混ざっている。本当は既に気付いている、痛みに変わるこの感情を何と言うのか。

 それでも目を逸らしてしまった理由は、力が足りないからではない。今目の前にある悪夢。その結実を、心の底から恐れていたから。けれど恐れていながらに、心の何処かで望んでいるから。

 

「クくく、くハは、はハははははははハハハは」

 

 嗤い声が響く。泣いているような嗤い声が、嗤っているような泣き声が、壊れて狂ったオルゴールのように止まることなく響いている。

 もう嗤うしかないと、響く音は何処までも負の感情に満ちていて、しかし同時に空虚であるようにも感じられた。そんな声で、ニコラス・コンラドが嗤っている。

 

――強くなりたい。そう望んで、選び取った道。其処に後悔などはありません。

 

 魂を持つ全ての者は、自らの意志で動き、自らの行動で、自らの結果と言う未来を求める。強くなりたいと願ったのは己自身だ。どんな事情が其処にあろうと、どんな過去が其処にあろうと、己で望んだという事実は決して揺らがない。

 

 ニコルは強くなりたいのだ。そして強くなる方法は、もうとっくの昔に見付けていた。ならば狂気と呼べる程に肥大化していた彼の渇望が、その道を求めない筈がない。此処まで持ったことですら、ある種の奇跡と言えるのだから。

 

「ははははははははははははははははははははははははは……ははっ」

 

 本当は、とうの昔に気付いていた。一体どうして、遠ざけようとしていたのか。本当は気付いていて、ずっと見ない振りをしていただけだ。

 その場所は、心地良かったから。気付いてしまえば、もう戻ることなど出来ないから。目を逸らして、心を微睡に委ねて、何時かきっと取返しが付かなくなるのだとしても、もう少しだけ一緒に居たいと願っていた。

 

――もう少し大人になったら、この続きをしましょう?

 

 そんな未来は、二度とは来ない。今更に、その事実に気付いた。心の闇を前にして、もう目を逸らすことなど出来はしなかったのだ。

 

「手に入れた。……嗚呼、手に入れた! 私はこれで、私こそがこれで!」

 

 ニコラス・コンラドは、強くなりたいと願っている。何をしてでも、何を捧げてでも、誰よりも強くなりたいと願っていた。

 発端は大切なものをこれ以上失わないために。そんな理由だった筈なのに、何時しか強くなることだけが全てになっていた。

 

 そんな少年が、ある女を遠ざけようとしていた。己の力不足を口実にして、だが本当にそれが理由か? いいや、否。ニコルはそれ程、殊勝な男ではない。

 今は守れないのだとしても、守れるだけの力を付ける。そう断じて己を追い込もうとする少年であり、だからこそ弱さを理由にした拒絶をする筈がなかった。

 

 だと言うのに、少年は女を遠ざけたがった。その真なる理由は此処にある。その本心とは、とても単純なことだったのだ。

 

――酷い男ね、ニコルは。今からそれじゃ、碌でもない女泣かせになるわよ。

 

(ああ、本当に酷い男だ。私は、ニコラス・コンラドは、こんなにも醜い男だったか)

 

 目を閉じれば、その声を確かに思い出せる。大切だと思えていて、ああきっと此処に抱いた情を他人(ヒト)は恋や愛と呼ぶのだろう。

 それでも、そんな人を失ってでも、それでも良いと思えてしまったから。ああ、本当にニコラス・コンラドは救いようがない奴である。

 

「闇の鍵! クーデルカ・イアサント! その命、此処に捧げるっ! その魂、霊の一片までも凌辱し尽くし! 私は、私こそが、遥か高みへと至るっ!!」

 

 クーデルカ・イアサントは、闇の鍵と呼ばれる存在だ。その力は古の巨人や、遥か彼方に存在する外なる神を呼び寄せてみせる程。

 対となる光の鍵は、命を捧げることで愛する男の力となった。ならば同じ力を持つクーデルカがその全てを捧げたならば、それは一体どれ程の力となるか。

 

 ニコラス・コンラドは、強くなりたい。狂気にも等しい程に強く、何をしてでも強くなりたいと願っている。

 そんな少年の手の届く場所に、闇の鍵は存在していた。少し手を伸ばせば手に入る位置に、高みへ至る鍵があったのだ。

 

 その誘惑に、ニコラス・コンラドは耐えられない。耐えようと思える筈もない。

 その理由、その目的、それは他でもないニコル自身が心の底でずっと望んでいたことだったから。

 

「ああ、そうだ! 私が、私が至る! ウルではない! 奴ではない! 頂点にあるべきは、この私なのだ!!」

 

 嗤い声が響く。母が死んで以来の団欒を、感じさせてくれた歪な建物の中に響いている。帰って来ると約束した場所で、惨劇を起こした人物が嗤っている。

 キャラメルブラウンの髪を返り血で赤く染め、碧の瞳を大きく開き、狂ったように嗤い続ける法衣の少年。ニコラス・コンラドこそが、倒れる彼女を■したのだ。

 

 強くなりたい。もう失うのは辛いから。もう取り零すのは嫌だから。誰よりも何よりも何処までも、強く強く強くなりたかった。

 強くなれると分かっていた。気付くのが怖くて、向き合うのが辛くて、自覚してしまえば止まれないから、幼さを理由に目を逸らし続けていた。

 

「そうとも、ウルと私の、何が違う!! いいや、何も違わない! 個としてならば確実に、私の方が勝っている!!」

 

 原作において、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガこそが世界最強であった。ゲームの中であれ程に強かった理由は、彼自身に由来する物が全てじゃない。

 

 犬神の血を引いていること。苦しい幼少期を過ごしたこと。激闘の果てに成長してみせたこと。それだけが理由ならば、原作のニコルは負けていない。

 王室の血を引いているのだ。耐え難い幼少期を乗り越えたのだ。ラスプーチンの教えを受けて、一角の人物となっていた。なのに負けたと言うのなら、理由はきっと他にある。

 

「ならば何故!? ニコラス・コンラドは、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガに勝ち得なかった!? 決まっている! それは奴が! 光の鍵を得ていたからだ!!」

 

 アリス・エリオット。100年に一度の霊力と称される程の才を持って生まれ、その身を多くの魔術師から狙われ続けた存在。

 手にすれば神々さえも降臨させ、世界全てを変革出来る程の力。光の鍵と呼ばれる彼女が身を捧げたからこそ、ウルは最強へと至れたのだ。

 

 原作の知識を知り、この今に生きるウルの姿を見て、ニコルが出した結論こそがそれである。アリスが居なければ、己が負ける理由はないと。

 

「だから! クーデルカ! 嗚呼、クーデルカ! 私を高みに至らせる鍵! アリス・エリオットと対を為す、闇の鍵さえあったのならば! 必ずや、この私こそが勝利する!!」

 

 光の鍵と対を為す、闇の鍵が必要だ。現時点で既に、個としてはウルを超えている。そんな己が闇の鍵を得たならば、もう誰も敵とはならない。

 最強となる。無敵となる。己の願いが、真に果たされる。だからこそ、ニコラス・コンラドは殺したいのだ。闇の鍵を得る為に、クーデルカ・イアサントを死なせたい。

 

「そうだろう、ニコラス・コンラド? これで私は、もう誰にも負けない! これで私は、もう何も取り零さない! グレゴリオ・ラスプーチンも! ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガも! 誰も私から、もう二度と、何も奪えないのだっ!!」

 

 振り向いた少年の顔には、壮絶な笑みが張り付いている。同意を求める言葉に対し、ニコルは否定する言葉を持たない。何せ彼の行動は、ニコルの願望。ニコルが最もしたいことなのだから。

 

「…………はぁ、成程。己の闇と向き合うこと、それが最後の試練ですか」

 

 この光景は、西法師が望んで作り上げた物ではないだろう。そうだとするには趣味が悪過ぎるし、余りに内容が的確過ぎる。

 求められているのは、己の内にある闇に向き合うこと。気付いていながら、目を逸らしていたこと。それに立ち向かうことを、強要されただけなのだ。

 

 とは言え彼の者の思惑がどうであれ、目の前にある幻は変わらない。己が最強となる為にクーデルカを殺害する、それこそニコルが心の底で望んでいたこと。

 だから遠ざけようとした。だから気付こうとしなかった。気付いてしまえば、我慢が出来ない。これはそういう類の衝動で、だからニコルは――――

 

「いや、しかし……実に醜い」

 

「が――っ!?」

 

 己の闇を、切り捨てた。銀に輝く刃を振るって、己と同じ魔性の首を断つ。予想だにしない一撃に、真面な反応さえも返らず、もう一人のニコルの首は地面に落ちて転がった。

 

「何を、貴様……否定すると、言うのか? 他でもない、貴様が、この私をっ!? 貴様自身の願望をっ!!」

 

 だと言うのに、首が叫ぶ。噴水のように血を噴き出す身体は倒れ、生首となって転がるだけだと言うのに指摘する。

 そうとも、これは幻だ。斬ろうが突こうが潰そうが、己の闇は決して消えない。拒絶された怒りを抱き、目を逸らすなと叫ぶだけ。

 

「……いや、確かに、この行いは私の望みだ。私はクーデルカを死なせたい。それを否定はしませんよ」

 

 だから目は逸らせない。元より気付いてしまった以上は、もう目を逸らす心算もない。そんなことには意味がないから、為すべきと感じたことを為すだけだ。

 

「ならば何故!? アルバートの二の舞になると、懸念したか!? いいや、そうはならない! この女は愚かにも、ニコラス・コンラドに想いを寄せているのだから!」

 

「ええ、そうですね。騙してその死後の魂さえも利用し尽くすのは、きっととても容易いのでしょう」

 

 ニコルは叫ぶ。利用は容易いと。それは事実だ。あの女は愚かにも、ニコラス・コンラドを愛している。だから愛を囁けば、きっと簡単に壊せてしまう。

 或いは本音で語っても、彼女は生贄となることを許容してしまうかもしれない。そう感じる程の熱があり、それでも良いと願う欲があり、ああ、けれど――

 

「でも、私はそれを望まない」

 

 それを恐れる、己も居たのだ。

 

「……貴方の言う通りでしたよ、エドワード。失うことを怖がる時点で、私の答えは決まっていた」

 

 愛していたのは、女だけじゃない。想いを寄せていたのは、クーデルカだけではないのだ。だから気付こうとしなかった。だから遠ざけようと考えた。ならば答えなんて、もう既に決まってる。

 

「馬鹿な!? 馬鹿な馬鹿な馬鹿な!? 私が!? ニコラス・コンラドが!? そんなものを、望めると!? これまでの全てよりも、そんなものを!!」

 

「……ええ、そうですね。きっと、無理でしょう」

 

 そうとも、立ち向かえるなら、最初から目を逸らす必要なんてなかった。ラスプーチンが植え付けた衝動は、ニコル自身が自覚してるよりも遥かに重く強い。

 だから守るのだ。他でもない、ニコラス・コンラドと言う男自身から。この愚かな男が居る限り、クーデルカ・イアサントは何時か死ぬ。それを嫌だと、今は思えているから。

 

「この今でさえ、迷いがある。私の醜い欲望は、しかし真実の衝動でもある。私はクーデルカを殺したい。それだけで、強く成れると気付いてしまったから」

 

 ニコルの闇は、ニコル自身が抱いた願い。クーデルカを犠牲にすれば、ニコルは誰よりも強く成れる。そう知って、何時までも我慢出来るような男じゃない。

 

「今はまだ、失う方が恐ろしい。けれど明日は、明後日は、数年後も同じように、想うことが出来るのか…………いいえ、出来ない。私はそういう人間です」

 

 ニコラス・コンラドは、どうしようもない男なのだ。大切な人は守れない。求めた物は得られない。その生涯は他者の哀れみと侮蔑に満ちていて、けど結局は自業自得でしかない。

 原作において、ニコルがカレンに言われた言葉こそが相応しい。何時かこの世界でも向けられるであろう、悲しみの色こそが似付かわしい。一皮剥いた本性は、そんな男でしかいられない。

 

「ならば――っ!」

 

「けれど今は、まだ失う方が怖いのですよ」

 

 一緒に居れば、何時か必ず天秤は入れ替わる。今は大切に想えているけど、何時かは捨ててしまえるだろう。けれど今は、大切なのだ。

 明日にはもう、天秤が拮抗しているかもしれない。明後日には既に、今の判断を悔むかもしれない。数年後には必ず、路傍の石と同じように見てしまう。けれど今は、この瞬間だけは、そうではないのだ。

 

「だから、捨てましょう。クーデルカ・イアサントを守るため」

 

「後悔するぞ、その選択!!」

 

「だから、全て忘れてしまいましょう。ニコラス・コンラドの魔の手から、愛せた人を守るため」

 

「私は変わらん! 何があろうと力を欲して、何時か必ずや闇の鍵を手に入れる!!」

 

「……そうならぬ為に、都合の良い物がある。まさか私自身に、使うことになるとは思いませんでしたがね」

 

 ニコラス・コンラドには守れない。今までもそうだった。どうでもいい他人の命は救えても、本当に大切な人の幸福だけは守れなかった。

 母親も、ルチアも、ベロニカも、カルラも、ジェームズも、ニコルは誰も救えなかった。けれど今なら、クーデルカだけならば、守れるかもしれない奇跡がある。

 

 聖なるヤドリギと、そう呼ばれる奇跡が此処にある。

 

「馬鹿、な……正気、なのか……」

 

「神聖なるヤドリギは、本来は迷える魂を導く為にあるのです。ならばこれは、きっと正しい使い道でしょう」

 

「捨てる、のか!? 友との記憶を……私自身を……母との約束さえもっっ!?」

 

 魔法で記憶を消すだけでは足りない。魂に焼き付いてしまった、力を求める衝動がある限りは駄目だ。何時か必ず、ニコルは闇の鍵に手を伸ばしてしまう。

 だから、魂の全てを初期化する。前世の知識も、重ねてきた記憶も、繋いできた絆も、大切な約束さえも捨て去る。そうして初めて、たった一人を守れるから。

 

 だがそれは、自死と何も変わらない。自らの喉に刃を突き立て、命を終える行為と同じ。どちらも己と言う自我が、一片も残らず消えるのだから。それでも、きっとそれで良い。

 何故ならば、ニコラス・コンラドには誰も守れない。全てを失い捧げなければ、たった一人の女性さえ守れないのだ。だから、そんな男は、もう終わってしまった方が良いだろう。

 

「もう一度、彼女に会えた時。それでも失う方が怖ければ、この身の全てを捨てましょう」

 

 今はまだ早い。彼女の内にある記憶が邪魔だ。それに必ず守れると言う環境を作り上げてからでなければ意味もない。

 きっと時間が掛かるだろう。その時既に己が心の闇に飲まれていたならば、その時は仕方がない生贄に捧げよう。だがもしも間に合えば、死ぬにはきっと良い日となる。

 

「西法師殿に感謝を。此処で向き合えて、私にとってはそれで良かった」

 

「止めろ! 考え直せ!? そんな馬鹿な――っ!!」

 

 ぐちゃりと、煩い頭を踏み潰す。心の闇は無くならずとも、心の迷いは拭えずとも、赤に染まった沈黙は存外悪いものではない。

 ゆっくりと景色が晴れていく。心の闇に向き合って、答えを出したからだろう。霊錬は此処に終わりを迎えた。現実の時が、動き出すのだ。

 

「……しかし、初恋は実らないとは、昔の人は良く言ったものだ」

 

 ほんの僅かに呟いた言葉は、夢に紛れて消えてしまう。痛みに変わってしまった恋に蓋をして、ニコラス・コンラドは心を決めた。共に生きる未来など、最初から存在していなかったのだから。

 

 

 

 

 




ニコルと言う男はね。誰にも理解されず、不自由で、なんというか救われちゃあダメなんだ。独りで、無様で、哀れで……

強くないウルがウル認定NGなように、幸せなニコルとかニコル認定NG。オリ主なら許せるが、ニコルは哀れでないとニコルじゃないので。

仕方がない事情や同情するべき境遇ではあるけど、最後の最後でその道を選んだのは君だから自業自得。哀れな人だね。そんな言葉が相応しい男として、ニコルを描いていきたい。(厄介ファンの心境)


ルート分岐的に、純愛やハーレムルートだとニコルは精神的に自決。記録となった記憶を引き継いだニコルver2が、人の心を取り戻していく感じの話になる予定。

求道者ルートだと? クーデルカを生贄に捧げぇ、最高に高めた俺のフィールで 最強の力を手に入れてやるぜ!! と顔芸始める。




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第51話 明日

推奨BGMは月恋花で。


 

 夕日が沈み行く空の下、小さな村の中を少年が駆け抜けていく。危なげなその足取りに、美しい女は慌てるような声を掛けた。

 

「ウル! だめよ、そんなに慌てて走って行っちゃ! 転んでも母さん知らないわよ!?」

 

「へっへーん、大丈夫さ! はやく夕飯の時間だよって、父さんに知らせてあげなくちゃ! ずっと働いてて、お腹ペコペコな筈だもん!」

 

 大切な息子が、怪我をしたらどうしよう。眉を顰めて声を荒げる母親に対し、振り返ったウルはそう一息に告げてもう一回転。

 僅かにバランスを崩して踏鞴を踏みながらも、転ぶことなく歩を進める。怒ったような困ったような母を置いて、向かう先には鍬を手にした男の姿。

 

 寂れた寒村には不釣り合いな、緑色の軍服を纏った男。不釣り合いな恰好のまま畑仕事に汗を流していた男は、顔を上げるとウルに向かって不器用そうに少しだけ微笑んだ。

 

「どうした、そんなに息を切らして。また走ってきたのか?」

 

「へへへ、母さんが夕飯出来ましたって!」

 

「そうか、父さんも丁度切りの良い所だ」

 

 親しい人にしか分からない程度の表情変化。けれど見逃すことなく、ウルはその感情を読み取り笑みを浮かべる。

 互いに笑みを交わしてから、少年は男に向かって手を伸ばす。男は笑みを少しだけ深めると、小さなその手を握り返した。

 

 そうして二人、帰路へと着く。その前に少しだけ立ち止まって、広がる景色を共に見詰めた。

 

「まだ沢山残ってるねー。本当に夏までに、全部畑に出来るの?」

 

「出来るさ。大陸の冬は、お前が生まれた葛城の冬よりも、遥かに厳しいからな」

 

 疑問の声を上げるウルに向かって、父が返す言葉は答えになってはいないもの。出来ると言う保証はない。それでも行わなければならないこと。

 大陸の冬は冷たくて、春先から準備をせねば多くの命が失われる。そうと彼は知っていたから、保証なんて一つもなくとも、出来ると力強く口にするのだ。

 

「今の内に頑張って、沢山の種を植えるんだ。秋になって収穫したら、それを村の皆で分けろ。お互いに助け合い、力を合わせて頑張れば、どんなに辛い冬でも必ず乗り切れる。……分かったな」

 

「うんっ!」

 

 無骨に語る男の言葉に、ウルは素直に頷いた。その言葉の全てを理解していた訳ではないが、それでも力強く頷いた。

 そんな子どもの姿に、父親はそれで良いとだけ口にする。少年が殆ど分かっていないと気付いて、それでもそれで良いのだと。

 

 そうして歩き出す。優しい母が待つ家に向かって。そんな時間がウルはとても大好きだったから、ほんの少しだけ寂しくなった。

 

「……ねぇ、父さん」

 

 肩を並べて歩きながら、少年は父親に問い掛ける。寂しいと言う感情を、稚拙な演技で隠しながら。

 

「父さんはまた秋になったら、お仕事で遠くに行っちゃうの?」

 

「……」

 

「……どのくらい? すぐに帰って来る?」

 

 ウルの問い掛けに、父は直ぐには答えを返せない。不器用な笑みさえ消えた表情に、浮かんでいたのは困ったような色だった。

 

「父さんが居なくても、僕はちゃんと我慢出来るよ! だって、男だもん!」

 

 それに気付いて、ウルは強がるように言う。いいや、事実強がりだろう。寂しくて寂しくて仕方がないが、自分は大丈夫だと言い聞かせているだけである。

 

「でもね、母さんは違うんだ。母さんは女だから、すごく寂しがるよ。いつも我慢してるけど……よく、分かるんだ……」

 

 そんな子どもが、伝える想いは純粋な物。自分は我慢が出来た。寂しくて寂しくて仕方がないが、父を困らせる方が嫌だから。

 けれど同じくらい、母の寂しげな姿が嫌だった。父を困らせるのは嫌だけど、母を悲しませるのも嫌だから、だからこんな風に言う。

 

 どうしたら良いのかなんて、ウル自身にも分からない。けれど伝えなくてはと、そう小さな子どもは思うのだ。

 

「……そうだな」

 

 複雑な情を向けられた男は、僅か口籠った後に立ち止まる。そうして一つ頷くと、膝を屈めて我が子を優しく抱き締めた。

 

「アンヌやお前には辛い思いをさせて、本当にすまないと思っている」

 

 優しく髪を撫でながら、心からの想いを伝える。触れ合う熱から伝わる深い想いを受けて、何故だかウルは涙が溢れそうになっていた。

 

「ウル。父さんがいない間は、お前が母さんを守るんだぞ」

 

 少しの間だけ抱き締めて、父親は我が子の体を優しく離す。頼んだぞと強い視線を向ける父に向かって、ウルは何度も何度も強く頷き答えを返した。

 

「……冬になる前には、きっと帰って来る」

 

「うん……約束、だよ。早く、帰って来てね」

 

「分かった、約束だ」

 

 そうして、指切りを交わした。父が帰って来るその日まで、必ず母を守ってみせる。ウルは確かに、そう約束したのだ。

 

「なのに――」

 

 だと、言うのに――

 

「え?」

 

「お前はどうして、母さんを守らなかったんだ?」

 

 何時しか、其処には狐の面が。その恐ろしい瞳で見下ろしている。気付けばウルは、少しだけ大きくなっていた。

 

 

 

 夢は覚めない。悪夢に変わる。感じていた温もりは、いつの間にかなくなっていて。いいや違う。最初から、そんなものはなかった。その事実に、今更気付いて背を向けた。

 

「う、うあぁぁぁあああああああああああっっ!?」

 

 叫びながら、ウルは逃げ出す。怖かった。怖かった。怖かったのだ。父に罵倒されるのが、母を守れなかったのが、自分だけが今も生きているこの現実が。

 だから慌てて逃げ出して、その姿は無様で見っともなくて情けない。何度も何度もバランスを崩して、地面に転がっても這い摺りながら逃げ続ける。

 

 痛い。痛い。膝が痛い。転んで擦り剝けたその傷跡に、痛いと叫んでも慰めてくれる人などもういない。あの日のように少年の身を案じてくれる人など、もう何処にも居なかったのだ。

 

「母さんを守らなかったなぁ! 父さんとの約束を破ったなぁっ! 約束したのに、なぁ!」

 

 何時しか景色も変わっていて、前後左右に上下すらも分からぬ闇の中。狐面の声がする。あの死神が嗤っている。抱き締めてくれた父の声音で、ウルのことの罵倒する。

 

「そんなお前が、何処に逃げる! いいや、何処にも行けやしないさ! だってお前は、何も出来なかっただろう!」

 

 どれ程逃げても、どこまで逃げても、声の音は常に同じ。耳元で囁かれているかのようにはっきりと、いつまで経っても纏わりついて聞こえてくる。

 いいや、そもそも進んでいるのか。この方向なんて分からない闇の中、遠ざかることが出来ているのか。それさえ分からないままに、ウルはそれでも逃げ続ける。

 

「あの日、約束したのになぁ! 守るって、お前言ったよなぁっ! なのにお前は、自分の番が来たら、あっさり生き延びたんだよなぁ!」

 

「――っ」

 

 狐面の声がする。死神が呪詛を口にする。転がりながらも床を這って、無様に逃れようとする少年の背を追い掛ける。助けてくれる人などいない。だって他でもない、ウル自身が助けなかった。

 

「もっと早くフュージョンの力に目覚めていたら、お前がもっと頑張っていたら、母さんのこと守れてたんじゃないのか!? お前、全然必死じゃなかっただろっ!!」

 

 狐面の紡ぐ言葉は、ウルがずっと考えていたこと。ウルが降魔化身術に目覚めたのは、母親が死んだその後のこと。もう何もかもが、手遅れになった時だった。

 

 そうとも、死にたくないと思ったのだ。自分の番が来た時に。そうとも、守りたいとは思わなかったのだ。母の窮地のその瞬間には。訳が分からなくて、意味が分からなくて、理解が及ばぬ内に終わってしまった。

 

 恐怖に震えてなければ良かった。怯えず立ち向かっていれば、ウルなら守れた筈だった。だってそうだろう。母が死んだその後に、ウルは下手人たちを全滅させている。

 

「あ、俺……俺……」

 

「なぁ、何で、お前、生きてんだ?」

 

 狐面は、気付けば進む先に居た。必死に逃げ回っていたと言うのに、気付けばその足が闇の向こう側から近付いて来ている。

 それが怖くて、恐ろしくて、顔を見上げることすら出来なくて、ウルは必死に目を逸らす。膝を抱えて蹲り、顔を俯けて視線を外し、怖いものが去って欲しいと願う子どものように。

 

「ほらよ」

 

 そんなウルに向かって、狐面は手にしたそれを投げ付けた。俯く少年に痛みを与えて、地面に転がるその鉄器。それはあの日の思い出の場所、夕日に照らされた丘の上で父が振るっていた鍬だ。

 

「これ、鍬?」

 

「掘れよ。お前の墓を、お前の手で」

 

「俺、の……墓?」

 

「お前は生きてちゃいけないんだからさ、せめて自分の手で終われよ」

 

 カランと眼前に落ちた鍬を、狐面は拾えとウルに告げる。拾って自分の墓を掘れと、命じる言葉にウルは震える。

 震えて、その手を伸ばした。だってウルは、もう死にたかった。生きることは苦しくて、辛くて辛くて、だからずっと思っていたのだ。あの時、母と一緒に死ねたら良かったのにと。

 

「親父……けど、俺……」

 

 それでも、伸ばした手が止まる。死んで良い理由はないから。生きていなくてはならない、理由が出来たから。

 母が命と引き換えに守ってくれたのだ。父母を殺した仇の存在を知ったのだ。己の宿命だと定義して、ならばどうして逃げられようか。

 

「俺は……生きなくちゃ……」

 

 きっとこのまま墓に埋まることが出来たなら、それはとっても楽なことだろう。それはきっと、一番の救いとなるだろう。それでもまだ、己の魂は生きろと命じる。死に逃げるなど、許されはしないのだと。

 

「はっ、んな訳ねぇだろ。お前は早く、死ぬべきだ」

 

 されどその生きなくてはいけない理由を、狐面は否定する。死ねないと言う理屈だけでは、この闇を払うに足りない。ウルはまだ、前を見てもいないから。

 

「出来る訳がねぇだろ。お前に徳壊は倒せねぇ」

 

 その理由の一つは、余りにあっさりと否定される。その言葉は何処までも、ウルの心に満ちていく。だってそうとも、他でもないウル自身が勝てる訳がないと思っている。

 

 世界を相手に、戦ってみせた大邪仙。口を揃えて誰もが強いと言う怪物は、ウルが信じる最強を――日向甚八郎を打倒している。

 懐刀とは言え、手下一人に苦戦している。そんなウルがどうして、徳壊に勝てると信じられるか。例え他の誰かが出来ると言っても、ウル自身がその言葉を本気で信じ込めていない。

 

「分かってんだろ。お前にも。お前のそれは、結局唯の自殺と同じだ」

 

「――っ」

 

 それでも挑むと決めた理由は、受け継いで進むと言う宿命だから。そう語る裏側で、同時にウルは思っているのだ。父が負けた相手にならば、殺されても仕方がない。そんな言い訳が出来るから、これで漸く終われるのだと。

 

「だっさ。みっともねぇ。結局遠回りな自殺ならよ、今此処で死んでも何も変わらねぇだろ」

 

 結局死ぬなら、死因に大した違いはない。死んで良い理由がないのに自殺したいと言うのなら、その背を押してやるのが狐面の慈悲でもあるのだ。

 

「さっさと掘れよ。お前なんかに、生きてて良い資格はねぇ」

 

 死んでしまえと、狐面は告げる。言われた少年は、言い返すことも見上げることも出来ないまま、流されるように鍬を両手に拾い上げた。

 

「……俺」

 

「もう死んじまえ。その方が、ずっと楽だぜ」

 

 そうして、冷たい鍬を握り締める。両手で強く、握り締める。重かった。握った鍬は、唯どうしようもなく重かったのだ。

 だからウルは、きっとこれで良いのだろうと思う。狐面の言うことは正しくて、自分には生きる資格なんてなくて、だからそれで良いのだと。

 

「生きてても、良い事なんか一つもなかったろ? 約束破った罰なんだ。必死になって足掻いた所で、もう何も戻りやしねぇ」

 

 思って、嗚呼しかし、違うと気付いた。鍬の重さは変わらないけど、息苦しさは今も続いているけれど、一つだけ違うとウルは気付いた。

 

「何度、石を投げられた? 何度、泥や罵声を浴びたよ? 結局お前に居て良い場所なんてない。生きていたい理由がねぇんだ。そりゃ何処にも行けねぇよ」

 

 笑う。哂う。嗤う。狐面が腹を抱えて口にする。その音を聞きながら、ウルが感じるのは違和感だ。見下ろす鍬を両手に握ったまま、気付いた違和は一つの嘘。

 だが、嘘の一つに気付けば違和は膨れる。何で気付かなかったのだろうかと、今更ながらに感じる違和感が増えていく。

 

「だからよ、さっさと死ねよ。墓穴に埋まって、父さんや母さんの所へ帰ろうぜ」

 

 父は、こんな言葉使いだっただろうか。父の声は、こんな音をしていただろうか。狐面の言葉は、よく理解すればとても甘いことではないか。

 だって辛いのだ。生きることは。だから死ねと言ってくれる存在は、その実ウルに優しくしている。態々その自罰に付き合って、欲しい言葉を都度都度掛けているのだから。

 

「もう終わろうぜ。これまで生きてて、ずっと辛いだけだった。だったらよ、この先だってずっと辛いままなんだ」

 

 その違和感に気付いた今も、狐面の言葉は怖い。自分の推測が的外れではないのかと、顔を上げることすら出来ずにいる。

 俯いて、目を閉じて、耳を塞いで、そうして来たのが今までで――でもそれではいけないと、漸くに思い始めたのだ。

 

「…………違う、俺は」

 

 だから彼は、両手に握った鍬を投げ捨てる。顔を上げて、目を開く。そうして初めて、小さな少年は恐ろしい狐面と向き合った。

 

「俺は、楽しかったよ」

 

「…………」

 

 其処に居たのは、父ではなかった。己と同じ背丈をした少年が、狐の面を被っている。その面は、縁日の夜に父が買ってくれた物。運命の夜に壊れてしまった、もう今はない宝物。

 

 詰まりはそう言う事なのだ。父の影など何処にもなくて、そこに居たのはウル自身。死を齎す恐怖などではなく、罰を与える事でウルを甘やかしていた彼の闇。

 

「一人じゃなくて、馬鹿な奴らが一緒に居て、楽しかったよ」

 

 そんな闇を確かに見詰めて、ウルは小さく笑って語る。狐面の言葉に感じたその違和を。生きてて辛いことだけだったと、それは嘘だと言えたから。

 

 確かに辛いことばっかりだった。確かに苦しいことばっかりだった。泣いて喚いて膝を抱えて、何で生きているんだろうと自問自答を繰り返す。そんな毎日だった。

 あの日から、ずっとそれだけだった。けれど宿命との出逢いから、その日々はほんの少しだけ変わった。辛いことは変わらない。苦しいことは変わらない。だが、それだけではなかったのだ。

 

「辛いことの方が多い。苦しいことの方が多い。けどよ、それだけじゃないんだ」

 

 ニコラス・コンラドと競い合う。勝ちたいという相手が居て、挑むという感覚は心地が良かった。気付けば生きていたいという、そんな望みが生まれている。

 ヒルデガルド・ヴァレンティーナと馬鹿をする。後になって考えれば、何でそんなことをしたのだろうと。そんな馬鹿な一時が、しかし苦痛を忘れる程には楽しくあった。

 

 一緒に居たいと、素直に思う。そう思える、時間があった。だから、狐面は嘘を言っている。そうとも、良いことはほんの少しだけだがあったのだから。

 

「……はっ、許されると思ってんのかよ。そんなこと」

 

「分かってる。母さんを守れなかった。俺だけが、生き延びた。分かってるんだ」

 

 生きていて良い、理由はある。されど生きていて良い、資格がない。他でもないウル自身が、ウルの生存を許せない。

 だと言うのに楽しい時間を過ごそうなどと、そんなこと考えて良いことではない。狐面のその発言は、ウル自身の本心だ。

 

「辛かった! 苦しかった! 死にたかった! 楽しいこともあったけど、辛いことの方が多くて、生きているのは今も苦痛だ!!」

 

「だったら――」

 

「けどっ!!」

 

 ああ、それでも。それでも、なのだ。

 

「けど、生きたい! まだ、生きていたい!!」

 

 死にたいという感情はある。生きていてはいけないとも思う。それでも、生きていたいと願った。そう、彼は願えた。

 

「友達が出来た! 仲間が出来た! 一緒に居ると、楽しい奴らが!」

 

 楽しい時間を共に分け合い、苦しい時間を共に支え合う。それ程に綺麗な形ではないのだろうが、それでも抱いた情は嘘ではない。

 例え絆が一方的なものであったのだとしても、友だと想い仲間と想う。そう感じた心の形は、決して嘘偽りなどではない。

 

「倒したい奴がいる! 倒さないといけない敵がいる! 親父とお袋を殺した奴を、そのままになんて出来やしない!」

 

 生きていたいと思える理由があって、生きなければならない理由もある。この大陸に居る仇敵を、倒さなくてはならないのだ。

 だからそうとも、蹲っては居られない。怯えたままでは居られない。土を払って立ち上がり、強く前を見詰めて歩き出す。漸く今に、前を見た。

 

「超えたい奴がいる! アイツにだけは負けたくないって、そう思えるダチがいる! 死んで逃げるなんて、したくない!!」

 

 心の内から生じる衝動を叫びながら、ウルは狐面を睨み付ける。そうとも超えたい友が居るのだ。置いて行かれたくはない。

 だからそうとも、蹲っては居たくない。怯えたままでは居たくない。立ち上がりたいと願うから、少年は拳を握って振り抜いたのだ。

 

「だから、俺は――生きる! その邪魔をするって言うなら誰であろうと、ぶん殴ってぶっ飛ばすっ!!」

 

 その一撃は、狐の面を打ち抜いた。対する彼は抵抗の素振り一つ見せることなく、罅割れた面は地に落ち拳を握った少年は目を丸くした。

 

「……抵抗、しねぇのかよ」

 

「は、しねぇんじゃなくて、出来ねぇんだよ」

 

 狐の面を被る死神。彼はウルの心の闇だ。怯え恐れ遠ざければ、より強くなる対存在。ならば逆説、真っ直ぐ見詰めることが出来たなら、彼は何処までも弱くなる。

 

「俺はお前だ。お前の後悔。お前の絶望。お前の死にたいって感情。そういうもんが形になった、お前にとっての死神さ」

 

 何故ならば、彼はウルの死を望む心が作った影に過ぎない。だからウルが生を望めば、あっさり消えてなくなるもの。ウルが自死を望むが故に、彼はウルを殺そうとした。唯それだけの存在でしかない。

 

 或いは十年以上に渡って存在していたのならば、更に闇は深まっていたであろう。拒絶すればする程に、深くなるのが闇だから。

 されどウルは、早くに気付いた。あの惨劇の夜から、まだ1年と経ってはいない。これでは心の闇とは言え、大した力を持てやしないのだ。

 

「俺はお前だ。お前の闇だ。だからよ、お前が心に鬱屈を抱えれば抱える程、俺の力は強くなる。……だが逆に、お前が生きたいと本気で願えば、俺の力って奴は失われていっちまうのよ」

 

 忌々しいと言わんばかりの表情で、しかし晴れ晴れしさを感じさせるような口調で、もう一人のウルは語る。闇を受け入れて進もうとする、漸くに前を見た己に向かって。

 

「この結果が、その証明だ。死にたいって感情に、生きたいって願望が勝った。だからこの俺が、お前なんかに負けるのさ」

 

 此処に、自死の渇望は否定された。闇を受け入れ背負った少年の前に、狐面の死神が再び現れることはないだろう。彼がその想いを、忘れぬ限りは。

 

「忘れんなよ。俺はお前の闇だ。お前が生きている限り、完全には消し去れねぇ」

 

「…………」

 

「拒絶すればする程に、否定すればする程に、闇ってもんは強くなる。また死にたいって思ってみろ、直ぐに殺しに行ってやる」

 

「……はっ、くだらねぇ」

 

 今の想いを忘れ去れば狐面は再び現れる。そうなれば今度は勝てないだろう。彼が現れるということは、ウルが生きる意志を失った瞬間と言うことだから。

 だからこそ狐面は告げるのだ。死にたくなければ、もう己を呼び出すなと。次の己は、更に強く大きくなると。そんな本心からの忠告に、ウルは鼻で笑って答えを返した。

 

「楽勝だっての。何度来たって、ぶちのめして追い返してやる」

 

「はは、期待しないで待ってるよ」

 

 もう呼び出さない、とは言えない。だってウルは、弱いから。けれど絶対に負けないと、それだけは心に誓ってみせる。

 そんな少年の誓いを受けて、死神は楽しげに笑い出す。腹を抱えて、清々しいと。笑いながらに光となって、虚空の中へと溶けていった。

 

 後には唯、罅の入った面だけが残される。それを拾い上げた少年は、何で気付かなかったんだろうなと苦笑交じりに呟いた。

 

「狐の面、か。懐かしいな。日本に居た頃、親父に買って貰ったんだよな」

 

 そうとも、最初から答えは其処にあったのだ。死神は初めからウル以外の誰でもなくて、そんなことにさえ気付けぬ程に余裕がなかった。

 

「……大丈夫だよ、父さん、母さん。僕は男だから、まだ頑張れる」

 

 けれど、今は違う。仮面に付いた泥を払って、懐に収めた少年は前を向く。進む足取りは軽く、光輝く夕日の向こうへ。

 歩みと共に、ゆっくりと景色が晴れていく。心の闇に向き合って、答えを出したからだろう。霊錬は此処に終わりを迎えた。現実の時が、動き出すのだ。

 

「へへっ、なんだか、ワクワクしてきたぜ!」

 

 ニヤリと笑って、口にした言葉が響く。息苦しさは変わらなくても、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガは心を決めた。先に続く未来を今は、信じることが出来たのだから。

 

 

 

 

 




ニコルとウル、どうして差が付いたのか……慢心、環境の違い、主人公力の差……!


前話の西法師「……(宇宙猫の顔)」
今話の西法師「そうそう、こういうので良いんだよ」




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第52話 仙人

西法師に関する独自解釈あり


 

――1900年5月30日、武漢――

 

 寺院廃墟の中庭にて、拳を打ち合う音がする。寸止めすることなく打ち合う2人は、人型の三毛猫と茶髪の少年。

 振るう拳の動かし方は、眼前の化け猫より教え込まれた地身尚拳。取り合えずやってみなとおざなりに、仕込まれた型は実に不格好。まだ2日、掛けた時間を考えれば妥当であろうか。

 

――ありがとう、ございました。

 

 涙を零しながら、震える声で感謝を告げられたのは昨日のこと。霊錬を終えて気を失い、目が覚めた頃には女は声を取り戻していた。

 鳥の音を思わせるような美しい声で、何度も何度も感謝を口にした麗々。彼女たち親子より向けられる想いは、不思議と心を満たしてくれた。

 

 ウルは良いなと思った。こういう綺麗な涙はとても良いと、何となくそんな風に思ったのだ。

 

――まだ解決ではありませんよ。元凶を討たねば、また同じことになる。

 

 ウルより早くに目を覚まし、西法師と話を付けたのであろう少年はそう言った。ニコルのその言葉に、ウルは素直に同意する。

 徳壊と言う元凶がいる限り、あの親子の安全は確保された訳ではない。同じような悲劇だって、あちらこちらで起こることだろう。

 

 倒さねばならない。そんな想いをウルは強くする。そのためにも強く、実力不足も分かったから、この地で暫く己を鍛えるのだと。そう考えていたのだが……

 

――まず暫くは、この地で過ごすと良い。そして7日後、上海にて徳に挑むのだ。

 

 西法師と名乗った老人は、そんな言葉を口にした。まだ力が足りぬと考える少年たちに向けて、たった7日で十分なのだと。

 ウルは当然、それでは足りぬだろうと反発した。しかし老人は言を翻すことはなく、足りなくとも良いのだと鷹揚に告げた。

 

 そして、その後は不干渉だ。自ら何かを教えることもなく、問われたことに曖昧な答えを返すだけだった。

 

(足りなくて良い。足りない方が良いって、どういうことだよ)

 

 やらなければならないことがある。そのための道が見えていたと思っていたのに、ここに来て霧が掛かってしまったかのように。

 拳を振るうウルの心には、迷いと焦りの色がある。何をすれば良いのだろうか、これで正しいのだろうかと。逸る心で、解は出せない。

 

(足りないって、それじゃダメだろ。だって俺は、まだこんな)

 

 西法師は教えてくれない。何をすれば良いか分からない。だから我武者羅に体を動かしていたウルに、見てられないと声を掛けたのが眼前の化け猫。

 武芸の達人でもあるマオが、こうして立ち会ってくれている。拳を交わす実戦形式で、教えられる技術の数々。だが果たして己は成長出来ているのだろうか、ウルには全く自信が湧かない。

 

 今も拳を振るっているのに、真面に当たってもいないのだ。彼我に実力差があるのだとしても、徳壊は彼女よりも強いのだから。

 彼の老師の言に従うならば、残る時間はあと5日。それで本当に勝てるのか。勝たなくてはいけない。負けてしまえば、受けた感謝が呪詛へと変わる。それに――

 

(アイツはもう、進んでいる。俺だけが、足踏みしてる訳には……っ)

 

 ニコルは、ウルより先に進んでいる。マオとの訓練の最初の方に数時間だけ、参加していた彼はあっさりとウルを置き去りにした。

 

 そして今も、ニコルの歩みは止まっていない。西法師が有する書庫へと忍び込み、その蔵書を漁っているのだ。

 老師が助力も拒絶もしないのならばと、ニコルは己の道を進んでいる。それは褒められた行為ではなくとも、確かに次へと繋がる術で。

 

 だから思う。追い付けないのではないか。5日の後に、アイツ一人で解決してしまうのではないか。千路に乱れる心の中には、そんな感情も確かにあって。

 

「が――っ」

 

「組手の最中で考え事とか、100年早いよ。ウル坊」

 

 精彩を欠いたその胴に、苛烈な掌底が叩き込まれる。肉球の柔らかさなど感じさせない一撃に、唾液を吐き出したウルは吹き飛ばされて転がった。

 

「っ、てて。あー、くそ」

 

 そしてそのまま、大の字に寝転がる。すぐさま起き上がるのではなくて、痛みをやり過ごしながらに口にするのは愚痴と弱音だ。

 

「……こんな調子で、如何にかなるのかよ」

 

「そうさねぇ」

 

 そんな年相応の顔を見せる少年の隣に、マオはどすんと腰を下ろす。一先ず休憩と言わんばかりに盃を取り出した化け猫は、ニヤリを笑って断言した。

 

「ってかアンタ、武術の才能ないね! 時間の無駄かもしれないわ!」

 

「おいこら!?」

 

 寧ろ2日前の方が動きが良かったかもしれないと、ケラケラ笑うマオの言葉に慌てて起き上がるウル。

 余りにもと言うべきその発言に、吹き出す以外に何と言えば良いのだろうか。先までとは違う懊悩を抱えた少年に、笑うマオは言葉と言う刃を突き刺していく。

 

「いや、だってねぇ。型を教えりゃ、意識し過ぎて動きが硬くなる。間合いの取り方教えりゃ、アンタ自身の判断とずれが出るのか、ちょくちょく体が硬直するだろ。うん、時間の無駄感がやばいね」

 

「言い方ぁっ! 俺だって傷付くんだぞ、アンタ!」

 

 言葉の鋭さに悲鳴を上げるかの如く、感情を露わとするウル。その姿を散々に笑い尽くしてから、暫く後にマオは続く言葉を口にした。

 

「まあ、武術家としての才能はなくても、戦士としての才能はありそうなのがあれなんだけどねぇ」

 

「……それって、どういうことだよ?」

 

「型を教える前、最初の動きは良かったってことさ」

 

 それはウルの本質。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガという少年の持つ才能と強さ。彼は武人としては三流以下でも、戦士としては超が付く程に一流なのだと。

 

「野生動物特有の強さ、って言えば良いのかね。考えなしに動いているのに、何故だか最適解を選んでいる。そうした本能的な部分では、アンタは紛れもなく天才の部類さ」

 

 マオは思う。何とも歪な才であろうかと。同時に面白いとも感じてしまう。共にいた少年との対比もまた興味深い。

 

 何せもう一人の方とくれば、数時間程この鍛錬に付き合って「大体分かった」と結論付けてしまえる規格外。

 やってみろとマオが言えば、あっさりと見せた技術を9割程度の精度で模倣してみせた糞餓鬼だったのだ。

 

 ニコルが万能に近い才能を狂気的な執念で更に引き上げているのに対し、ウルは自然体でそれに匹敵する戦闘勘を有している。

 これで武芸に対する才は欠片もないと言うのだから、いっそ見ていて楽しくなるような差異であろう。

 

「だから動物的な動きなら仕込めるかとも思ったんだが、型って時点で駄目みたいだね。アンタは頭で考えない方が良い」

 

「……これ、褒められてんの? え、馬鹿にされてね」

 

 憐憫と罪悪感。故に関わることを選んだマオは今、純粋にこの少年の行く先を見てみたいと感じているのだ。それを度し難いとも思うが、己はそんな奴なのだと開き直って女は告げる。

 

「褒めてはいるさ。愚痴ってもいるがね。アンタはニコ坊とは真逆の意味で、教え甲斐のない奴さ。ここまで極端な才能の持ち主に教えるのは、あたしだって生まれて初めて。愚痴の一つくらいは許しな」

 

 マオがウルに教えられることは、きっと多くはないのだろう。多くを教えてしまえば、少年が先天的に有する奇跡的なバランスが崩れてしまう。

 

 ああ、だから7日かと。何もかもを見通していたかのような師の言葉を思い出し、ふんと一つ鼻を鳴らす。そうしてからマオは、ウルが進むべき道を提示する。

 

「一先ず腐らないのは、拳の打ち方とか蹴り方かねぇ。反射の域まで仕込めれば、一気に化けそうではあるか」

 

「……俺はそれで、強くなれるのかよ」

 

「さてね。それはアンタ次第さ。ま、血の小便が出るまでやれば、多少はマシにもなるだろうよ」

 

「は、上等」

 

 そんな女が示した道に、ウルは不適な笑みを浮かべて答えとする。道が分からないからこそ、彼は焦り悩んでいたのだから。

 進むべき道は明らかとなった。届くかどうかは、己の足を進める速度次第。だと言うならば我武者羅に、足を進めるだけで良い。

 

 笑みを浮かべた少年は、早速とばかりに立ち上がる。そんなウルの姿に呆れるように嘆息してから、マオは静かに構えを取った。

 

 

 

 

 

 寺院廃墟の奥、地上とは位相の異なる空間にある修練場。その内にある書庫にて、ニコルは古い字体の書物を読み耽っていた。

 西法師が自筆したであろうそれは、多岐に渡る知識の保管庫。殆どが覚え書き同然で書物としては落第だが、参考文献としては最上級のものである。

 

(しかし、まあ何とも評価し難い人物ですね。西法師と言う方も)

 

 頁を捲りながらにふと考える。西法師と言う人物について。彼は自身が教えることは拒みながらも、こうして書庫に入り込んでいること自体は咎めない。

 麗々達の呪詛をあっさりと解いたように、頼めば確かに助力はくれる。だが徳壊と戦えるように鍛えてくれと口に出した所で、返ってくる反応は梨の礫。穏やかな笑みを浮かべて拒絶するだけだ。

 

(原作では、徳壊を罵倒し、彼と戦う主人公の為に命まで費やしてくれた。だから冷徹な面を有してはいても、本質的には正義漢なのだろうと踏んでいたのですが)

 

 原作ゲームにおいて西法師は、霊錬と言う試練こそ課してくるが、基本的には主人公達に協力的だった。徳壊の行いを愚かと否定し、ウル一行に助力を約束した。

 その直後、徳壊の襲撃によってウル達が倒され死に瀕した時も、己の命と引き換えに彼らを治療するという行動さえとってみせたのだ。善側の人物、と想定するのも当然の流れであろう。

 

(だが、違う。そう、そも日向甚八郎の戦いに助力していない時点で怪しむべきでしたね。或いは安全策を取ったのでは、と判断していましたが。徳壊の力と日向甚八郎の力、その拮抗を見抜けないようでは東洋の頂点とは言えないでしょう)

 

 しかし其処に異なる色を加えてみれば、見える景色は変わってくる。日向甚八郎は、単独で徳壊と引き分けている。ならば単独でなければと、考えるのは当然のこと。

 徳壊の儀式に必要だった絵馬を守るためと、原作ではそう語っていた。だがそれとて、西法師が絶対に為さねばならないことではない。傷を負って戦えない状態となっていた朱震でも、数日逃げ回る程度ならば出来た筈。

 

 そうでなくても、西法師程の実力者ならば気付いていた筈なのだ。先見の明に長けた彼ならば、徳壊と甚八郎の実力が高い位置で拮抗しているだろうと言うその事実に。

 

(そう考えてみれば、原作の描写も不自然なのですよね。シナリオの都合、と言ってしまえばそこまでですが)

 

 徳壊の襲撃に際し、余りにあっさりと結界を破られ、アリスの誘拐を許したというのもおかしな話だ。

 その後に命を費やしてウル達を治療するが、それとてそれだけの余力があったという事実に他ならない。

 

 一つ疑念を抱けば、その行動の多くに疑念が生じ始める。ゲームだからと言ってしまえばそれで終わるし、ニコルも嘗てはそう思っていた。だがもしも、それが違ったのだとすれば。

 

(日向甚八郎は、死なねばならなかった。アリス・エリオットは、攫われた方が都合が良かった。そんな事情があったとすれば)

 

 仮定して考えてみよう。例えば日向甚八郎が死なず、徳壊が倒れていればどうだろう。

 

 先ず、星神である天凱凰は生まれない。鬼門御霊会が起きないからだ。となればネアメートは浮かび上がり、訪れた外なる神の早期討伐が不可能となる。

 日向甚八郎が動くかと言えば否。彼は日本軍の人間で、欧州での戦いに関わる為には解決しなければならないことが多過ぎる。

 

 ウルが戦場に出る可能性もない。或いは父が存命なら、彼も日本軍に所属する可能性すらあるだろう。

 故に結果は、アルバート・サイモンとグレゴリオ・ラスプーチンの全面対決。ユーラシア全土での大災厄の幕開けだ。

 

 次にアリス・エリオットがあの場で攫われなければ、それを想定してみよう。

 やはり天凱凰は生まれなくなり、ウル達は外なる神への対抗手段を失ってしまう。

 結果は甚八郎が生きていた場合とそう大差がないだろう。ウル達がアルバートを倒した後に外なる神の前に敗れ、ラスプーチンの陣営と外なる神の戦いが起きるという訳だ。

 

 故にそう、西法師はその悲劇を敢えて見逃したのだと。そう考えてしまえば、そこには十分過ぎる程の理屈が通ってしまうのだ。

 

(後の世の為に、自分自身の命さえ必要とあれば容易く捨てる。善でも悪でもなく中庸。何者にも執着しないその精神性は、ああ成程確かに仙人らしい)

 

 仙境に隠れ潜み、世捨て人として世を見詰めながらも何もしない。そんな姿こそ、多くの人がイメージする仙人と言うものだろう。

 西法師は、最高位の仙人なのだ。だとすればニコルは己の抱いた妄想とも言える想像が、あながち的外れでもないのだろうと感じていた。

 

(まあ、どうでもいい話ではありますがね)

 

 余程のことが起こらぬ限りは、世に干渉することもないのだろう。だとすれば、そんな者は居ない者と同義だ。どちらも等しく意味がない。

 ならば今するべきなのは、一つでも多くの知識を身に付けること。僅かでも良いから成長して、己の狂気を誤魔化しながら、少しでも早く彼女の下へと向かうこと。

 

 徳壊との決着を付けてから。そう思ってしまうのは、数日ならば誤差と言う判断か、或いは異なる理由であるのか。

 考える必要はないなと結論付けて、ニコルは静かに書物を閉じる。得られた知識を咀嚼するように振り返りながら、さてどの程度活かせるだろうかと。

 

「順調かね?」

 

「……ええ、ここは実に学ぶことが多い」

 

 そんな風に考えていた所で、先程まで思い描いていた人物が、予想外にも言葉を投げ掛けてきたのだ。

 きっと深く関わることはないだろう。そう断じていたが故に一瞬遅れて、されどその程度で済ませたニコルは笑みを作って振り向いた。

 

「結構、結構。研鑽を積むのは実に良いことだ」

 

 かんらと笑う老人と微笑む少年。その間に流れる空気は、何処か冷たく空々しい。隔意があるのだ。苛立ちもある。一方的なものではあるが。

 

 一つの事実として、ニコルは感謝している。このような知識を得る場を得られたことにも、霊錬により己の歪みを自覚出来たことにも。

 だがしかし、それと同じかそれ以上には鬱憤も溜まってしまっている。それは己が弟子の行いにすら我関せずとする仙人らしい態度にであり、己の歪みをあんなにも明確に晒されたことにでもある。

 

 詰まりはそう、ニコラス・コンラドは若いのだ。

 

「それで、何か御用ですかね?」

 

「ふむ。なに、少し助言をしておこうかと思ってな」

 

 そんな何処か棘のある対応に、老人の対処は柳の如く。真実どうでも良いのだろう。嫌われようと憎まれようと、老人にとっては何かが変わる訳ではない。

 泰然自若な老人は、故なくば自ら動くことはないだろう。そう認識していたからこそ、もう関わることはないと断じていて、ならば彼が動くに足りる理由が何かあったのだ。

 

「飢えた子よ。恐れる必要などないのだぞ」

 

「恐れる? 何を。闇を、とでも言いますか?」

 

 西法師の助言と聞いて、ニコルが思い浮かべたのは原作の台詞だ。己の内なる闇に飲み込まれて、怪物と成り果てることを恐れるウルムナフ。彼に告げた言葉こそ、闇を恐れるなと言う言葉。

 

「いいや……光を、じゃよ」

 

 そんな少年の言葉を否定して、老人が告げた言葉はその真逆。ニコラス・コンラドは、輝かしい光を恐れている。

 そう語られて、ニコルの脳裏に過ぎるは一人の女。闇の鍵と語られるその人を、己は光と捉えている。自覚して、何だか笑いたくなった。

 

「成程、認めましょう」

 

「ほほほ、話が早いのう。理解が早いのは、良いことじゃ」

 

「ですが、それが何か?」

 

 恐れていると言われれば、ああ確かにそうだと認めよう。求めることか、受け入れることか、失うことか。どうあれ確かに恐怖している。

 だが、それを自覚した所で変わることなど今更ない。ニコラス・コンラドはもう決めたのだ。ならば果てが断崖絶壁であろうとも、臆さず進み続けるだけ。

 

「もう止まらないのですよ。ならば、何を言おうと今更でしょう」

 

「……哀れなものじゃのう」

 

 その断崖を前にして、失いたくないと自らが飛び降りるのか、進み続けたいと光を叩き落すのか。未来は既に二択である。そう決めたから、それ以外など必要ない。

 境遇が、彼を歪めた。環境が、彼を歪めた。願望が、彼を歪めた。だが最後に選んだのは、ニコラス・コンラド自身である。だからその有様を見て、老仙人はただ哀れだと呟いた。

 

「世には流れと言うものがある。あるものは運命と、或いはあるものは宿命と、呼び名は違えど確かにある。とてもとても大きなものだ」

 

 そうして老人は静かに語る。それは彼の主義主張であるのか、或いは九天真王に伝わる教えであるのか。ニコルには分からないし興味もない。

 

「流れに逆らった所で、多くの悲劇が生まれるだけ。国を守りたいという太志を抱いていた徳の奴めが、今もこうして世を蝕んでおるようにのう」

 

 少年が抱くのは唯の反感だ。まるで何もかもを諦めたかのような言い分は、ニコルにとっては受け入れ難いものである。

 何せ彼は知っているのだ。原作という大きな流れを。それに逆らうなと言うことは、無意味に死ねと言われているのと同意義だ。

 

 ニコルが背負う宿命とは、最悪の呼び水となって無価値に死ぬこと。世界大戦の原因を生み出し、シャドウハーツ2のラスボスが世界に絶望する切っ掛けとなり、ゴミのように殺された。それが原作のニコラス・コンラドだから。

 

「お前さんの決断も、儂が語る言葉の全ても、或いは流れの一つであろう。人は人である限り、この流れには抗えん」

 

 しかし同時に、何処か納得もあった。己の末路を認めて堪るかと足掻いた結果、クーデルカと言う女に余計な悲劇を齎そうとしている。それだけは認めざるを得ない。

 何せ彼女は、ニコルが関わらなければ幸せになれていた。そんな未来が確定していた女であって、彼女を破滅させたのがニコルだと言えば誰にも否定出来はしない。

 

「だからと傍観者を気取るのか。川沿いに寝そべり、釣りでもされている御積りか」

 

 だからそう、これは流れに戻るか否かと言う話でもある。女を喰らって更に悲劇を増やし続けるか、ヤドリギを使ってこの自我を消し去り何もかもをなかったことにしてしまうのか。

 

 抗うなと語るのならば、老人は少年の自死を望んでいるのだろう。それが分かって、そうすると決めていて、しかし内心は穏やかではいられない。故に皮肉気に、ニコルは老師を嘲笑する。

 

「或いは陸地と見紛う程の大木の上で、流されていることにも気付けんだけかもしれんのう」

 

 何も出来ぬからと高見の見物を気取るかと、吐き捨てられた皮肉に返すは自嘲を込めた諧謔。結局流されているのは同じだろうと、笑う老人の姿に少年は舌打ちした。

 

「誰しもが皆、逆らえずに流されていく。我は違うと叫ぶのは、唯の驕りでしかない。所詮、人は人の子よ」

 

 輪の外側から、内側を見下ろしている者が居たとする。しかしその更に外側にも、輪がないなど一体誰が証明出来るか。

 

 大いなる流れの内においては、誰も彼もが小さな異物に他ならない。この仙人にしてみれば、己も他者も路傍の石も、全てが等しく流れるだけのものである。

 

「無理に逆らい川を泳げば、飛沫は必ず悲劇を生む。徳の奴めが、為したように。……お前さんは、それ以前の話であろうがの」

 

 そんな流れに抗って、泳ごうとすれば飛沫は波となって近くを流れるもの達を飲み干すだろう。そうして悲劇は紡がれていく。西法師はそう考える。

 

「光を拒むと言うことは、闇を拒むと言うことでもある。己の全てを拒むなら、流れに逆らい泳げもしまい。溺れることしか出来ぬなら、水底の藻屑が末路じゃろうて」

 

 そしてニコルが抱いた歪みは、徳壊のそれとは違う。邪仙が泳ごうとして周囲を巻き込んでいるのなら、少年は唯溺れているだけでしかない。

 

 ならば果てに待つのは哀れな溺死だ。水を飲んで呼吸も出来ずに、水底の藻屑と化していく。光や闇を恐れる限り、その末路に救いはない。老人の瞳は、その未来を確かに見ていた。

 

「……それが、助言ですか?」

 

「いや、なに。唯の雑談じゃよ」

 

「…………」

 

「ははは、まあ許せ。老人のすることだ」

 

「はぁ。……それで、本題は?」

 

 しかしそれも本題ではない。口にした言葉は事実であれ、心に響かないものでしかない。なればこそ些細な確認を込めた雑談でしかなく、助言はこれより告げる一言。

 

「14年先、いや10年で十分か。それだけあれば、お主らの勝利は揺るがなかったじゃろう。痛みと言う熱が去れば、徳の奴めは愚物に堕ちる。腐って鈍り切った徳壊は、取るに足りん小物となろうよ。じゃが――――」

 

 数日後、少年達が戦うことになる敵。堕九天真王地行仙・徳壊上人。彼の人物は国を救うという太志を抱けど、冷めやすく染まりやすく腐りやすい。

 

 平穏な日々が10年と続けば、その腕は衰え切り、その精神は淀み切る。西法師の瞳に映る未来の彼は、軽蔑すべき愚物に過ぎない。どうしようもない小悪党。

 

 そんな男であれば、ニコルとウルは勝利しよう。運命の流れに愛された少年が、敗北する理など何一つとしてありはしない。だが――それは10年未来の話。

 

「今の徳は、強いぞ」

 

 死闘を乗り越えて1年。元より戦闘面においては世界最高の術師であった徳壊は、あの日の熱で更に一つ上へと昇った。そしてその熱は、傷の痛みは冷めていない。

 

 現世において、今の彼に抗える者などいない。勝てる者、ではない。戦いという形になる者さえ、一人として居ないのだ。

 アルバート・サイモンもグレゴリオ・ラスプーチンもロジャー・ベーコンも西法師自身ですらも、今の徳壊と相対すれば何も為せずに殺される。それ程に、邪仙は極まっている。

 

「死力を尽くすことじゃ。手の内を僅かでも隠そうとすれば、万に一つの勝機も残るまい」

 

「……ええ、肝に命じておきますよ」

 

 可能性はある。だが薄氷を履むが如しだ。大魔術師に準ずる少年が、運命に愛された少年が、死力を賭して奇跡を重ねて――それでも万に一つか億に一つ。だが確かに、道はあるのだ。

 

 7日後、1900年6月6日。その日の夜、無数の奇跡を重ねた先に、果たして辿り着くことが出来るのか。

 老人は口を閉ざして語ることはなく、そして少年は瞳を閉ざして問うことはなく、こうして互いの生涯で最後となる対話は終わったのだった。

 

 

 

 

 




徳壊の全盛期を100とすると、原作のアルバートやラスプーチンで70~80くらい。原作の腐り切った徳壊は50~60くらい、と言うのが当作内の設定。

尚、甚八郎との決戦で覚醒合戦をした結果、直後の徳壊は数値にすると200以上。現在は活動時間に制限付いて体力も著しく低下しているが、180はキープしてる。ラスプーチンの2倍以上の強さ。

ここから怠惰と慢心重ねた結果、10年で60以下に落ちるんだ。ある意味スゲェぜ徳壊さん。


~原作キャラ紹介 Part15~
○西法師(登場作品:シャドウハーツ)
 西園九宮寺に住まう人物。九天真王仙術の筆頭にして、東洋における最高位の術者。年齢不詳の老仙人。
 原作においては殆ど出番がなく、登場して直ぐ退場している人物像が掴み難いキャラ。

 退場の仕方も徳壊に結界を破られ、動揺している間にウル達が倒され、瀕死のウル達に命を分け与えると言う術を使って退場したと言う何とも言えないもの。

 この時点で、天狗道の中では西法師黒幕説と西法師無能説の2つが生まれた。(まあ、多分実際には尺の都合でシーンがカットされたりした弊害だとは思う)

 東洋の権威と言われてる人が無能なのもあれなので、今作では西法師黒幕説を採用。
 甚八郎の死。アリス誘拐。小方師と自身の死。それら全てが世界を正しく回す為に必要なことだから、防げる立場に居ても防ごうとはしなかった。とそんな感じ。

 そもそも九天真王仙術自体、道教だけでなく密教や修験道の要素も入り混じったごった煮な仙術である。
 朱震だけではなく徳壊が日本独自作法である九字護身法を使ってたりする辺り、西法師の時点でごった煮になったのは間違いない。

 恐らく西法師は必要なら躊躇なく様々なものを取り入れる、合理性の権化と言うべき人なのだろう。

 善でも悪でもない中庸であり、必要だと判断したらどんなことでも許容する合理性を持つ人物。
 だが普段はそれを、善意の仮面で隠している人物。それこそが拙作における西法師である。

 なのでグフグフ言ってる徳壊さん(原作)が15年前とは違うのだと言って結界あっさり壊してるけど、どう考えても15年前の方が徳壊さんは強いので、多分西法師が気付かれないように自分から壊したのではないかと天狗道は推測している。






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第53話 傀骸

傀骸塔の名前って、どういう意味や由来なんだろう(小並)


 

――1900年6月6日、上海――

 

 列国の租界と広がる難から逃げ延びた貧困層が集い、華やかさと退廃さの坩堝と化している魔都・上海。

 東洋のヨーロッパとも呼ばれるこの町は、常は不夜の城と化す。日差しの高さに関係なく、行き交う人は多いが故に。

 

 されど今は静寂の中、夜も更けてきたとは言え灯り一つない光景は異様に過ぎる。居並ぶ摩天楼に灯るネオンが、どれもこれも消えているのだ。

 ウルが以前に見た時にはあった筈の、猥雑な空気が欠片もない。一体何故と、問いを投げる必要性はないだろう。見れば分かる。一目で分かる程に、此処はもう地獄であった。

 

〈供物は何処じゃ、腹が減って溜まらんのじゃ〉

 

〈いかんいかんぞ。飯を探すのではなくて、敵を探さねば怒られてしまう。怒られてみんなに食べられるのは嫌だ〉

 

 無人の町を我が物顔で、練り歩くのは妖怪変化。狐狸妖怪の類と思われる毛皮を纏った怪物は、涎を垂らしながらも町の巡回を続けている。

 その背に続くは、無数の異形。同じく獣が変じたものもあれば、もう生きてすらいない蠢く屍人も歩いている。一体彼らが何を探しているのか、これもまた問うまでもないことだろう。

 

〈Oaaaaaaaaaaaaaaaaaa〉

 

〈羨ましいなぁ、羨ましいなぁ。アイツは腹ぁ一杯食ってるのに、おではもう腹が減って仕方がないぞ〉

 

 腐乱した犬が町中で、地に転がる何かを一心不乱に貪っている。直ぐ近くの民家の扉が壊れていて、中に人気を感じないのは無関係ではないだろう。

 バラバラになって転がる手足が、その末路を示している。腸を食らって腹を満たす巨大な犬を見て、かぶその一匹は腹を撫でる。足りないなぁ足りないなぁと、呟く化外は所詮獣。長く耐える事など出来ず、命を忘れて近くの家屋に。そして悲鳴が町に響いた。

 

(徳壊……っ!)

 

 人種の坩堝が所以の魔都が、真実魔性の都となった。その元凶は紛れもなく、この大陸の支配者である大邪仙。

 満足に身動き出来ぬが故に彼は、警戒網の類として小妖達に命を下した。足りぬ質を数で補って、やがて来るであろう敵への備えとしたのだ。

 

 故に今、この都市には死が満ちている。転がる血肉が、積み上がった人骨が、嗤い喰らう畜生達が、背徳の宴を繰り広げる。此処には生の香りがしない。

 まるであの日のようだと、ウルは静かに拳を握る。暗く沈みかえった家屋の中では、一体どれ程の母子が恐怖に震えていようか。彼らはあの日のウルなのだ。それにどうして、何も思わずに居られよう。

 

「迷彩は完璧ではない。分かっていますね、ウルムナフ」

 

「……ああ、分かってるよ。動くなって言うんだろ」

 

 鬱血する程に強く、拳を握り締めるウル。そんな彼の肩を叩いて、ニコルが静かに窘める。彼らが纏う迷彩は、ニコルが言うように完全無欠のものではないから。

 

 無気力な幻灯機(イビルブラインド)。ニコルが手にした三角形の輪を中心に、10メートル程度の範囲にあるモノの存在解像度を下げる魔法道具。

 これを使っている限り、他者は目の前に使用者が居ても気付けない。だがしかし、実際に消えているのではなく認識され難くしているだけな為、気付かれる危険は常にある。

 

 攻撃などして意識が向けばその時点で分かってしまうし、そうでなくとも洞察力に優れた者ならば違和感で気付けてしまう。本来ならば、こうして言葉を交わす事すらリスクであろう。

 

「分かってんだよ、くそが……」

 

 仕掛けるならば、孤立した相手に。周囲に助けを呼ばせない為にも、可能な限り一撃で。そういう条件が整わなければ、静寂の魔都にて震える人々を助けに行く事すらも出来やしない。

 そしてそこまでして助けた所で、結局元凶を如何にかせねば意味がない。ならば可能な限り見付からずに行ける場所まで、進んだ方が合理的な話である。助ける事が出来ないのだから、悲鳴なんて聞き流してしまえば良い。そんな事、分かってはいるのだ。

 

「ならば、拳を解きなさい。流れ落ちた血は、痕跡として残ってしまう。その行為は無駄ですらない害悪です」

 

 震えるその手は既に血が滲んでいて、それさえ今は不利に働く。そうと言われてから歯を食い縛り、それでもゆっくりとだがその拳を解いてみせる。

 これは徳壊と、そして自分達が招いた結果。そうと知るが故にこそ、心は確かに乱れている。だがだからこそ、無駄にしてはならないのだ。ウルは確かに、そう思う。

 

 上海の町並みを越えた先、外れに聳え立つは傀骸の塔。彼の地を拠点とする邪仙こそ、感じた全てをぶつける相手。故にウルは、睨みながら進んでいく。

 それでも背後から聞こえる悲鳴に、感情を抑え切れないのが彼だ。一体どれ程以前から、この地はこの状況だったのか。思う度に心を痛めてしまうのがウルである。

 

 されど迷うは、少年だけ。彼の仲間達は迷いなく、塔に向かって進んでいる。心情的に最もウルと近いのが、徳壊の打倒を急がねばと決意しているマオであろうか。

 ニコルは予想していた程ではなかったと割り切っているし、痩せているヒルダに至っては何も考えてすらいない。そんな彼らに数歩遅れる形で、悲鳴が聞こえる度に立ち止まりながらも、それでもウルは進んでいる。勝たなくてはいけない、理由が増えた。

 

「ちっ、アイツら動こうとしないね。……仕掛けるよ」

 

「ですね。ええ、合わせます」

 

 塔の目の前、牙王門と呼ばれる場所。其処まで如何にか戦闘を避けてきた一行だが、此処から先はそうは行かぬと確信する。

 門へと続く階段に、陣取る2匹の狐狸妖怪。虚ろな瞳をした畜生達は、欲求を極限にまで薄められた特殊な個体。主の指示が無ければ決して動かぬ見張りの番。

 

 個としての性能は大した物ではないが、その役割は警報機の代用だろう。故にこれより先に進むと言うなら、先ず排除をすべきは大前提。

 即座にそう断じたマオが動いて、背後に回って拳を一閃。気付かれないという利点を活かした延髄打ちに、狸の妖怪は泡を吹いて地面に倒れた。

 

 それと全く同時のタイミングで、狐の妖怪が命を失う。大きな耳の穴に突き立てられたニコルの指より、放たれた白魔法の光がその脳内を焼き切ったのだ。七孔から煙を上げながら、狐妖怪は即死した。

 

「こ、殺したのかニャ」

 

「ええ、小細工の為にも。死んでくれた方が都合が良い」

 

 脳だけが焼け焦げた死体をツンツンと突きながら、疑問を零すヒルダに冷たく返す。そうしてニコルは狐の体に魔法陣を刻み付けると、隣に倒れる狸の息の根を止めてから同じ処理をした。

 

「……僵尸かい?」

 

「分かりますか、流石ですね」

 

 その処置に覚えがあったのか、マオがあからさまに顔を顰める。死体を怪物へと変える秘術は、武漢にて学んだもの故に、九天真王の色が強く残っていたのだ。

 

「さて、これで死体が誤情報を送ってくれる。運が良ければ、気付かれずに侵入することも出来るでしょう」

 

 狐狸妖怪は見張りであった。それを排除してしまった以上、見張りが居ないという証拠が残る。これはその証拠を少しでも誤魔化す為の小細工だ。

 死んだ筈の妖怪達はキョンシーとして動き出し、生きているという反応を監視役へと送り続ける。結果として異常は起きていないと、徳壊が誤認すれば儲けものと言う訳である。

 

 動く死体をその場に残して、ウル達は階段を上っていく。先頭を歩いていたニコルは片手を向けて少し待てと呟くと、もう片方の手を門の扉に当てた。そうして数秒、時間をおいてから門がゆっくりと開き出す。

 

「……何も出てこねぇな」

 

「こういう門って、開くとぐわーーって化け物が襲って来るのがお約束なのに。何も出て来ないとか、サボりかニャ?」

 

「門にも少し小細工しただけですよ。本来なら今頃、結構面倒な化け物が呼び出されていたでしょうね」

 

 合鍵もなしに門を開け、警報機能の類も全て麻痺させた。あっさりとそれを成し遂げた少年は、武漢の仙境にて実力を更に磨いていたのだろう。

 嫉妬の情も僅かに湧くが、今はそれ以上に頼もしい。微笑みながら歩を進めるニコルに続いて、ウル達も傀儡塔の中へと大きく足を踏み入れた。

 

「んで、どこから行くんだい?」

 

 入って直ぐの大広間から、別れる道は三通り。右と左には階段が、龍の絵が描かれた柱の裏には更に奥へと続く道。

 右と左の階段は、共に上階へと繋がっている。詰まりは二択。この階を探るか、このまま先へと進んでしまうか。

 

「これもお約束なら、ボスは天辺に居そうだニャ」

 

「……馬鹿と煙は、ってやつかい。今の徳が、そんなに単純かねぇ」

 

「進めんなら、さっさと先に行くべきだろ」

 

 何処か楽し気に言うヒルダに、呆れと不機嫌さを隠さぬ声で反応するマオとウル。数秒目を閉じて考えていたニコルは、開くと同時に判断を下す。

 

「奥に行きましょう。こうした場では、進行を阻む仕掛けがあるのもお約束ですからね。基点を弄れないかどうか、少し調べてみようと思います」

 

「ああ、確かに。妨害装置全部止められんなら、そっちの方が早く進めそうだね」

 

「ええ、それに個人的な用もあります。他にも幾つか、仕掛けを残しておきたいので」

 

「分かった。なら、さっさと進もうぜ」

 

 一時的には遠回りであっても、結果として早くなると言うのならば異論はない。皆が頷くのを確認してから、奥の部屋へと一行は進んだ。

 其処には、大きな機械が一つと小さな本棚が幾つか。暗い室内には雑多に物が放られても居て、押し入れや物置と言った言葉が似付かわしい状態だった。

 

「暫し時間を頂きます。皆さんは周囲を警戒を」

 

 そう言い捨てて返事も待たずに、ニコルは機械を調べ始める。彼が手を当ててから数秒程すると大きな球体が点滅を始め、塔全体の照明が一瞬消えた。

 恐らくは先の宣言通り、仕掛けられた妨害工作を不正な手段で解除していっているのだろう。そうと分かれど助力する能力も持たないウルとしては、果たして何をしていたものかと。

 

「って、そういう訳にもいかねぇか」

 

 扉越しに、迫る足音が無数に聞こえる。怪異がやって来るのだろう。秒に満たぬ異常であっても、流石に照明が落ちれば気付かれると言う訳だ。

 ならば細工に動けぬニコルの代わりに、対応するのが自分達の役目であろう。手首を軽く回して準備運動代わりに、構えを取ったウルはその瞬間を待ち受ける。

 

 ドンと音を立てて、眼前の扉は破られた。

 

〈Uooooooooooooooooooo〉

 

 低い呻き声を漏らす、異形の顔が覗いている。頭髪や眉など毛が一切ないこと以外は、一見唯の人間にも見紛う顔立ち。だが、異様な程に膨れ上がっている。

 そんな首を180度回転させながら、入り込んで来る異形。その体躯は優に2メートルを超えていて、臍の位置には男性器を思わせるような突起が隆起していた。

 

〈Oooooooooooooooooooo〉

 

 怨真羅。そして哀真羅。その異形は2体居て、背を向きながら迫って来る。どうして真っ直ぐ来ないのか、不条理な動作は理解し難いが故に気色が悪い。

 されどこの場に居る者達は、そんな不快さだけで動けなくなるような繊細な神経をしていない。気色が悪いんだよと吐き捨てながら、ウルは拳を握って駆け抜けた。

 

「おらっ!」

 

 先ずは一発。右の拳で牽制し、そのまま時計回りに回り込む。左の拳で狙うのは、如何にも怪しい突起物。それを思いっ切りに打ち抜いて、ぐちゃりと叩き潰した。

 青褪めた表情で、苦悶の呻きを漏らす哀真羅。その動きが止まった隙に、跳び上がって両足蹴りを。雑多な物を巻き込みながら、異形の巨体は床に転がった。

 

「よっ、はっ、ほいっと」

 

 残る怨真羅を相手取るのは、武勇に秀でた猫妖だ。浮かされて、そのまま殴られ続ける。その光景は、まるでお手玉でもしているかのように。

 一方的な攻撃から抜け出せないと言うのなら、異形の消滅は時間の問題。大した苦もなく撃退されて、しかしこの場は敵の本拠地。迫る怪異は、2体程度で済む筈もない。

 

 扉の向こう側には、既に無数の怪異が集っている。町を徘徊していたかぶそ達が数十と、中には一際大きな二足歩行の畜生妖怪。仙狸と呼ばれる怪物が、3体程混じっている。

 

「やれやれ、切りがないねぇ。幾ら雑魚が相手でも、流石に骨が折れそうだ」

 

「何だよ姐さん、年なんじゃねぇの? このくらい、準備運動にもなりゃしねぇって」

 

「はん、生意気な事を言うね。ウル坊」

 

 面倒だなとマオが愚痴れば、ウルが揶揄して不敵に笑う。そんな言葉を交わしている間にも、敵の数は刻一刻と増えていく。

 さて先ずはどいつから仕留めてやろうかと肩を回すウルはふと、自分とマオしか戦っていない事実に気付く。はて、あの蝙蝠はどうしているのかと周囲を見回して。

 

「ひゃっはーっ!? エロ本見っけーっ!!」

 

「少しは手伝え、糞蝙蝠! ってか何やってんだよ、お前!?」

 

 見付けたのは、両手に戦利品を掲げている問題児。際ど過ぎて絶版になった貴重品、伝説の純文学系写真誌上海天国がそこにはあった。

 

「ほほう。これは際どい。これはヤバい」

 

 ペラペラとページを捲り出したヒルダの姿に、ウルですら思わず頭を抱えてしまう。周囲に無数の本が散乱していたり、盗んだ本が何冊か胸元から見えていたり、ツッコミ所ばかりである。

 正直思春期の少年として、ウルも際どい本には興味がある。とは言え此処は戦場で、上海の地には今も苦しんでいる人達が居るのだ。故にと苦言の一つも言いたいが、そうこうしている余裕もなかった。

 

〈GAaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!〉

 

「ちっ、邪魔くせぇ」

 

 至近にまで迫っていた仙狸が、咆哮を上げて襲い来る。舌打ちと共に身を捻って爪を交わし、返す刃代わりの拳を一発。されどその分厚い毛皮と脂肪を前に、小さな拳では威力が足りない。

 大して怯みもせず、鋭い爪を振り下ろす巨大な獣。その鈍重な動きを数歩後退して躱しながら、ウルは再び舌打ちする。次から次へと増えていく敵の数に、これでは撃破速度が追い付かない。そうと気付いたが故である。

 

「なら、フュージョンだ」

 

 此処での最適解は、撃破速度の向上である。そう判断したウルは、その心の内に宿る闇を開放する。常ならば、頭を殴られるような痛みや内臓がひっくり返るかのような吐き気、闇に飲まれるような恐怖が伴う降魔化身。

 しかしどうしてだろうか、苦痛は何一つとしてなかった。包み込むような闇に対して、恐怖ではなく安らぎさえ感じる。目を閉じて、そして開く。そんな瞬きにも等しい時間の後には、その姿は変じている。4本の腕を持つ炎の鬼へと。

 

〈へへ、何が何だか分かんねぇけど。絶好調ってやつだな、これは!〉

 

 炎武の拳が殴り付ける。小さなかぶそ達ではその一撃にすら耐えられず、骨を圧し折り血肉を潰してその拳は貫通する。巨大な仙狸ですらも、一撃受ければ即死はしないが意識を保てない程に消耗して崩れ落ちる。

 ならば、其処に起きるは単なる無双。戦いにすらならない一方的な蹂躙で、怪異は数を減らしていく。傷一つ負わずに敵を蹴散らすウルの姿に、マオは口笛を吹いて賞賛しながらフォローに回る。獣の道理で生じる隙を武の境地が塞ぐなら、付け込める場所など何処にもない。

 

「ソレミウス、ソレミウスソレミウス」

 

 そんな一方的な蹂躙に、更に加わる光の雨。小細工を終えたニコルは微笑みながら、敵を蹴散らすウルとマオに合流する。

 

「こちらは準備完了です。仕込みは上々、細工も十分。セキュリティの類も全て解除出来ましたので、最上階までフリーパスで行けますよ」

 

「……徳の術を、この短時間でかい。ウル坊と言い、ニコ坊と言い、最近のガキはとんでもないね」

 

「なに、彼の邪仙殿は小細工が苦手なのでしょうよ。世界最強の力があれば、小手先の技術など不要なのですから」

 

 敵は一掃され、道は開けた。この場に留まればまた新たな敵手が現れようが、態々留まるような理由も残ってない。人の姿に戻ったウルも、酒杯を傾けるマオも、どちらも既に準備完了だ。

 

「ヒルダ、そちらの手筈は?」

 

「OKだニャ。ニコルの指示通り、何か貴重そうな本は全部パチったニャ」

 

「……あれ、お前の指示かよ」

 

「ふふふ、今宵で多くを失う邪仙殿。その旅路に貴書の類を巻き込むのは、聊か勿体無いでしょう?」

 

「ほんっと、良い性格してるわ。お前」

 

 上海に来るより前に、敵の拠点に貴重そうな書物があれば躊躇なく盗めとヒルダに命じていたニコル。そんな腹黒さを欠片も見せない彼の笑顔に、ウルは思わず半眼となってぼやく。

 揃って平常運転な仲間の姿に、呆れと同時に思うのは自省だ。これより挑む窮地を前に、自分は気負い過ぎていたのかもしれないと。過度な緊張は自身の性能を下げてしまう。ならばいっそ、普段通りの方が余程良い。

 

「さて、それではこれより決戦です。敵の首魁への道は開けた。ならば後に必要なのは、心に覚悟を定めること」

 

 そんなウルに向かって、微笑むニコルはそう語る。これより先は決戦だ。此処に、幼い少年の宿した宿命は、大きな岐路を迎えている。

 

「敵は世界最強の大邪仙。堕九天真王地行仙、徳壊上人」

 

 挑むべき敵は、信じ難い程に強大だ。日ノ本を守る為に神より力を授けられた犬神の系譜。その最高傑作と言うべき日向甚八郎を、生身で倒してみせた至高の術師。

 術師殺しの降魔化身術の使い手を、神に頼らず倒したのだ。相性最悪の相手ですらも滅ぼしてのけたその力量は、全ての魔術師が望み目指すべき到達点へと至っている。そう、当代最強などではない。史上最強の術師であるのだ。

 

「向かう我らはたった4人。戦力差は明白で、勝機は1割――と言うのも言い過ぎでしょう」

 

 立ち向かうは、僅か4人。100年を超えて生きる吸血鬼も猫妖も優れた存在ではあるが、どちらも邪仙と比すれば赤子のような存在だ。

 大魔術師の直弟子たる少年は、まだ己が師にも僅か及んでいない。世界が愛する宿命を背負った少年は、しかし未熟に過ぎる幼さである。

 

 4人全員を足して合わせたとしても、日向甚八郎一人に届かぬ総合力。先に語った1割の勝機など、余りに甘い見積もりだった。

 

「されど、我らの宿命は戦を求めている。ならば、立ち向かうとしましょうか。死を必すれば則ち生くと、死中にこそ活はある」

 

 されど、挑まないという道はない。誰もが己の事情を抱えて、この先の決戦を望んでいる。故にこそ、これは宿命と呼ぶべきなのだ。

 

「行きましょう。最強を倒しに」

 

「おう!」

 

 ニコルの言葉に、ウルは強く頷き返す。そうとも、どれ程に相手が強大であろうとも、今更に退路などはないのだ。だから進むだけで良い。

 ニコルを先頭に扉を駆け抜けた4人は、真っ直ぐに頂上を目指して階段を駆け上がる。道を阻むものなど何もない。今更に迷う者など居はしない。だから進むだけで良い。

 

 2階、3階と抜けてその場所へ。大きな扉を抜けたその先に、広がる巨大な儀式上――――その中央で、椅子に腰掛け待ち構える老人が一人。これより、亜細亜における最後の戦いが幕を開こうとしていた。

 

 

 

 

 




最上階で出待ちする徳壊さん。
    ↓
マオ「……馬鹿と煙は、って〜~~」
    ↓
そっと階段を降り始める徳壊さん。


次回、VS徳壊。亜細亜編ももう直ぐ終わり。

因みにニコルは勝率1割とか言ってますが、真面にやったら10割負けます。
無数の策と全ての手札をぶつけて、とんでもない幸運や奇跡に恵まれて、それでも勝機は億や兆に1つもない戦いとなるでしょう。




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第54話 徳壊

甚八郎は幾ら強くしても良い。説得力がある。
その甚八郎に勝った全盛期徳壊は、もっと強くしても良い。

推奨BGMはthe karmaやlady tearsのようなラストバトルのBGMで。


 上海は傀骸の塔。4つの層に分かれるこの塔の、敷居を3度越えた先。最上階へと続くその場所は、冷たい夜風が吹き込む儀式場。

 

 扉を抜けて直ぐあるは、左右に分かれる半螺旋の階段。其処を越えた先に座す老仙人の姿は、壁が背となりまだ見えない。だと言うのに、はっきりと感じる圧がある。

 

「来おったか、日向の子倅ども」

 

 それは魔力の総量か、はたまた身の内に宿す気迫の違いか。ともあれ確かに分かるのは、別格だと断言出来る程の存在感。

 即座に身を翻して見上げる4人。まだ見えない。まだ瞳に映らない。だからと階段を駆け上り、その姿を最初に捉えたのはウルだった。

 

「あんたが、徳壊」

 

 陰陽の印が刻まれた間の中央に、置かれた巨大な椅子の上。右手で頬杖を付いて鷹揚に、少年達を見下ろす邪仙。

 その容貌は、厳つい顔をした白髪の老人だ。老いて衰えたその身には、左の腕が欠けている。左の足も、粗雑な棒状の義足が付いているだけである。

 

 一見すれば、弱った怪我人。だがこの老人が弱者であると勘違いをする者など、世界の何処にも居ないだろう。

 瞳が違う。不満足な五体を抱えて、瞳に宿る感情の色だけ違うのだ。爛々と輝くその眼光には、弱さも衰えも一切ない。

 

 確かに彼が頂点と、知っていれば不思議と納得出来てしまう。そんな風格を、この老人は有していたのだ。

 

「先ずは褒めよう。よくぞ――」

 

氷河時代(アイス・エイジ)!!」

 

 如何にもな大物が、前口上を口にする。それは明確な隙でもあり、そんな好機を逃すような繊細な精神をニコルは有してなどいない。

 万感の思いにウルやマオが動けぬ内に、既に準備を終えていた魔法。それをニコルは此処に放つ。黄海全域を閉ざす程の大寒波は、何もかもを凍らせていき――

 

「無粋」

 

 老人は、言葉一つで応報する。巨大な氷も膨大な冷気も一瞥だけで封殺されて、後に残るは涼やかな冷気を孕んだ微風だけ。

 最大級の魔法を、一顧だにせず無効化された。その事実に誰かが戸惑うより先に、徳壊は小さく一言呟く。誰の耳にも届かぬ小さな呟きは、しかし多大な効果を発揮した。

 

「ぐぁっ!?」

 

「っっつ!?」

 

「ぎニャっ!?」

 

「こ、こいつは……っ」

 

 ニコル、ウル、ヒルダ、マオ。その順番で崩れ落ちる。標的とされたニコルは呼吸さえも満足に出来なくなって、蹲って脂汗を流すだけ。

 その余波を受けただけのウルやヒルダでさえ、立ち上がる事さえ出来ずに片膝を付く。マオに言葉を発する程度の余裕があったのは、その出自故に慣れていたから。

 

 これは呪いだ。禁じると言う呪詛。蹲るニコルの体を侵すのは、先に霊錬で受けた呪を更に強力で凶悪な形にしたもの。

 行為を禁ずる。攻撃や移動だけでなく、敵意を持つことや呼吸さえも一言の呪言で禁じられた。狙われたのはニコルだけだと言うのに、その余波だけで全員が巻き込まれている。

 

「俄羅斯の狗め。そんなにも儂が恐ろしいか」

 

 今も座して動かずに、悠然と見下している大邪仙。彼がその気になっていたなら、此処で全滅していただろう。唯一言口にしただけで、ニコル達はこの有様なのだから。

 

「グ、フフ。まあ道理よ。お前たちと儂の間には、天地にも等しい程の差があるのじゃからのう」

 

 動けぬ者らに止めを刺す事もせず、嗤って語る徳壊上人。その行いを慢心だと、指摘出来る者は居ないだろう。確かな実力があるのなら、傲慢とは絶対の自信と言えるのだ。

 

(見、誤った……まさか、これ程、とは……)

 

 思考を如何にか整えながら、呪詛を少しずつ解除していく。西園九宮寺にて東洋の術式を学んでいなければ、思考さえも縛られていたであろう程の呪いを。

 そうして呼吸を取り戻したニコルが、先ず思うのはその事実。慢心していたのは己だ。誰もが強いと言ってはいたが、それでもこれ程ではないだろうと何処か過小評価していたのだ。

 

 その原因は、やはり原作知識であろう。シャドウハーツにおける徳壊とは、言ってしまえば三下の小物であったから。過去に為した偉業に対して、本人の実力が釣り合って無さ過ぎた。

 だから強いとは分かっていても、心の何処かで大した事はないと思ってしまっていた。エレインやラスプーチンやアルバートよりは頭一つ二つは上であろうが、天凱凰や外なる超神のような超越の域にはないと。

 

(信じ、られない……人は、人間は……此処まで、至れるのか?)

 

 己の抵抗を全て貫いて、一方的に押し付けられた呪い。それを解除する為にその魔力に触れるだけで感じてしまう。

 余りにも開き過ぎた断絶を知ることは、山の麓で頂上を見上げるような感覚に似ている。それでも確かに、高いと言う事は分かるだろう。

 

 アルバートより強い? ラスプーチンより強い? そんな程度の話ではない。見上げただけで感じる高さだけでも、そんな程度では済まないのだと分かってしまう。

 少なくとも、ニコルが今まで見聞きした魔術師達と怪物達。その全てを足し算しても、この邪仙の足元にすら届かない。或いは外なる超神すらも、今の徳壊ならば倒してしまえるのでは。そんな予感が拭えぬ程に、大邪仙は遥かな高みに居たのだ。

 

「弱き者の無礼を、許してやるのは強者の務めよ。それに今宵は、とても良い日となるのだからな」

 

 徳壊の傷は癒えていない。人である事に拘りを以っていた彼は、今も肉体的には唯人だ。怪物の魂をその身に宿していたのなら、その手足の欠落はなかっただろう。

 そうとも、徳壊はまだ人間だ。アルバートやラスプーチンのように悪魔と契約するのではなく、加藤のように神が遺した力に頼る事もなく、唯人の身で至高の域へと至ってみせた。

 

 或いは唯人であるからこそ、この男は強いのかもしれない。その拘りを捨てて閻羅王と融合したが故に、14年後ではあれ程に腐って落ちぶれていたのかもしれない。

 

 事実がどうあれ、此処にある現実は変わらない。たった一言で少年達を打倒した大邪仙は、唯々只管に強いのだ。この今に揃った4人では、真面にやっては勝利の目など存在しない。

 

「漸く、奴の血が絶える。今も痛むこの傷が、漸く過去の轍と化すわ」

 

 徳壊は笑って、ウルを見下ろす。勝利を確信し、如何なる終わりを与えてやるかと。それを気が早いと言う事も出来やしないだろう。

 事実として、既に勝負は付いている。いいや、最初から勝負にならない程の大差がある。だからこそ徳壊は、慢心したまま遊んでいる。

 

 これが一つ目の奇跡だ。あと少しだけでも少年達の内の誰かが強ければ、あとほんの僅かにでも徳壊が危機感を感じていたら、彼は遊びなどせず全力で潰しに来たであろう。

 だがあと少しだけでも弱ければ、きっと間に合わなかった筈である。あとほんの僅かにでも足りていなければ、遊ばれたままに全滅していた。ならばそう、ほんの僅かに間に合ったのだ。

 

「徳っ!」

 

「ほぅ、懐かしい顔だのぅ」

 

 ニコルの解呪が進み、周囲に撒かれた呪詛が弱った。結果として一番被害の軽かったマオが、徳壊が裁きを下そうと動く一瞬前に動き出せた。

 未だ蜘蛛の糸を上るようなか細さで、しかし先へと繋がれたバトン。陰陽の間を駆けるマオは、近接戦のエキスパート。近付けさえすれば、戦いと言う形になる。

 

「粛」

 

 しかし古い馴染みだからこそ、徳壊もまたそれを知る。拳の届く間合いに入れば面倒だと分かっていれば、先ず近付くと言う行為を許さない。

 発した音が大気を揺らして、衝撃波となってマオの体を吹き飛ばす。見えない空気の一撃は、弾丸のような点ではなく津波のような面の攻撃。躱せる道理などは何処にもなかった。

 

「くっ、アンタはぁ」

 

「怒り心頭、と言った顔だな。諦め逃げた貴様が今更、一体何をしに来たと言う」

 

「ああ、そうさ。逃げたんだよ、あたしはっ! んで、ブチ切れてもいるんだよ、このあたしがっ!」

 

 骨が折れる程の衝撃を受けて、それでも立ち上がったマオは血反吐と共に啖呵を切る。怒気と共に駆け出す理由は、そうせざるには居られないから。

 

「気に入らないよ。アンタに勝てないって理由で、アンタも正しいって理由で、アンタから逃げたこのあたしも! 為すべきことを見失って、零落れ切ってる今のアンタもさぁっ!」

 

 祖国を守りたいという大志を認めた。蚕食されると分かっていて、座してはおれぬと言う義憤を受け入れた。徳壊の行いをマオが見過ごした理由は、きっとそれだけではなかった。

 同門に居た頃から、戦闘における規格外差を知ってはいたのだ。競い合えば負ける。説得しても通じはしない。そんな理由も確かにあって、ならばマオの行いは逃避とさえも言えるだろう。

 

 それでも、女は思っていたのだ。その大志は正しいと、その義憤は尊ぶべきものだと。なのに徳壊は、この上海の地で何をした? 守るべき己の領土で、この邪仙は一体何をしていると言う。

 

「歯ぁ、食い縛りなぁ、徳っっ! 姉弟子としての義務、今更ながらに果たしてやるよっ!」

 

「ふん、愚かよなぁ。何を指して零落れたと言うかは知らんが、実に愚かな畜生よ」

 

 怒りを吠えて、その全身には気力が満ちている。多少どころか致命に迫る傷を受けたとしても、今のマオは立ち止まりはしないだろう。

 だがそれで、実力の差が覆る訳もない。マオが間合いに入る為に数歩以上は必要なのに、徳壊は一つ音を発すれば彼女を吹き飛ばしてしまえるのだから。

 

「所詮は獣。儂の足元にさえ届かんと知りながら、無意味な行為を繰り返す。姉弟子を気取る女の無様は、見ていて実に詰まらんものだ」

 

 幾度も幾度も、大地を転がされるマオ。数歩の距離が、余りに遠い。吹き飛ばされる度に傷を増やしていく女は、いずれは行動不能となるだろう。

 されど、時間稼ぎには十二分。幾度も吹き飛ばされても齧り付いたその一念が、続く少年の復帰を間に合わせる。大地を蹴って飛び出すのは、烈風奇へと変じたウルだ。

 

〈徳壊ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!〉

 

「ほぅ、それが貴様の降魔化身か……間近で見ると、少し違った印象を受けるものだのう」

 

 時を操るその飛翔は、音の津波を乗り越える。音速よりも早いからこそ、その僅かな隙間を縫って徳壊の下へと。

 その鋭い鍵爪を振り下ろさんとするウルを眼前にしながら、尚も余裕を崩さぬ徳壊は椅子に立て掛けていた杖をその手に取った。

 

「ふん」

 

〈ぐぉっ!?〉

 

 そして、小さく一閃。圧倒的な速さで動く烈風奇の顎を的確に打ち抜いて、その行動を停止させる。痛みに呻いて動きを止めたその身へと、鋭い杖より放たれる神速の突きは3度。

 ほぼ同時に放たれた打撃は、術で強化されているだけでは説明が付かぬ程の威力を持つ。そうとも、徳壊は接近戦でも弱くはない。舞鬼に達人級の武芸を仕込んだのは、他でもない彼だから。

 

「思っていたより、弱く脆い。どうやら儂は、奴の血筋を買い被っていたらしい」

 

 一撃二撃で、翼と化した両の腕の関節部が砕かれる。飛ぶことすら出来なくなったその身は、三度目の突きで大きく後方へと吹き飛ばされた。

 マオと同じく壁にぶつかり、血反吐を吐いて変身を解くウル。流れるような動作で椅子に座り直した徳壊は、杖を立て掛けながらに鼻を鳴らす。

 

「貴様も、見えているぞ」

 

「うげっ!?」

 

 ウルに続いて復帰していたヒルダは、徳壊の隙を探す為に隠れ潜もうとしていた。だが何かを為す前に気付かれて、強制的にその身を転移させられる。

 

「あ、あはは。ヒルダちゃんはー、弱っちいから何も出来ないニャよー」

 

「ふん、そんなことは分かっておる。だが、舞鬼はお前を放っておいたが故に足を掬われたが故な。取り合えず、動けないようにはしておこう」

 

「ぎ、ぎニャァァァァァァァァァァっ!?」

 

 徳壊の目の前へと放り出されたヒルダは命乞いにも似た韜晦を始めるが、不愉快そうに鼻を鳴らす徳壊には通じない。

 彼が指を鳴らすと同時に、少女はニコルが浴びたのと同じ呪詛に侵される。呼吸も思考も出来なくなったヒルダの体を、暗い炎が包んで燃やした。

 

 如何に生命力の高い吸血鬼と言えど、これでは長く生きられない。数百年に及ぶ生涯が遂に終わると言う直前に、ニコルが漸く復帰する。

 

「これでも、受けなさいっ!」

 

「ほぅ、器用な物よ。魔力を物理的な力に変換するとはのう」

 

 懐より取り出した鉄鞭を、真っ直ぐな光剣へと変えて薙ぎ払う。傀骸の塔を輪切りに出来る程の巨大な剣は、膨大な熱量を束ねた物だ。

 原則として精神世界からの干渉を主とする術師にとっては、鬼門とも言うべき物理火力。魔術的な防御の類では防げない一撃はしかし。

 

「だが、貴様に出来ることが、儂に出来ぬと思うたか?」

 

 この邪仙を倒すには届かない。同じく物理的な力に変換した魔力を右手に纏わせて、触れて払うだけでニコルの剣は砕けてしまう。

 砕け散るのは、光輝く刀身だけではない。その軸となっている鉄鞭にまで衝撃は及んで、まるで硝子細工のように簡単に壊されてしまったのだ。

 

 だから無手となった少年は、しかし立ち止まりはしない。防がれるなどと言う事は、端から分かっていたのだから――砕かれた光の制御を手放して、閃光弾の代わりとした。

 

〈おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!〉

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

「シャァァァァイニングゥゥゥゥゥッ!」

 

 そしてその光に紛れて、三方向から同時に迫る。怯まぬ為に、猛虎と化したウルが。死力を賭して、罪を拭わんとするマオが。光をその手に宿して、勝利を求めるニコルが。

 

「転」

 

 迫る中で徳壊は、たった一言で状況を覆す。消えた。転移したのだ。一瞬で陰陽図の北端へと、中心を目指していた彼らは咄嗟に反応出来ずに椅子を巻き込み転がり倒れた。

 

「グ、フフ。褒めてやろう。見事、儂を歩かせた」

 

 慢心しきったままに老人は、そのどうしようもない事実を告げる。ああ、そうだとも、これはどうしようもない現実だ。

 徳壊は呼吸をするような容易さで、空間を自由に捻じ曲げる。ならばどれ程必死になろうと、彼の間合いの内側へは辿り着けない。

 

〈くそ、が。反則だろ、それは〉

 

「は、分かっちゃいたが、相変わらず、とんでもない奴さね」

 

 ウルもマオもニコルも誰もが、既に満身創痍の様相。対する徳壊は未だ無傷。傷一つ所か呼吸すらも揺らいでいない。

 これが彼我の戦力差。そもそも戦いと言う形にすらなっていない、絶望的と表現するにも生温い程の違いがある。だからこそ、誰もが動きを止めてしまう。

 

 変身したままのウルも、構えを取り直したマオも、無数の手札を持つ筈のニコルですらも、一歩も踏み出せないでいる。

 何をしても届く前に防がれる。必死に挑んでも無駄に終わる。そんなイメージしか湧かない。故に動き出したのは、この場における絶対強者。

 

「褒美じゃ。少し、やる気を出してやろう」

 

 指を一つ、九字の最後の文字を切る。展開されるは陰陽術を取り込んだ仙術、鬼火乱舞。九つの印を切り、十数体の鬼火を呼び出す召喚術だ。

 それを徳壊は、印の一つで成立させた。八つの印を省略して、齎される結果は八分の一と言う訳ではない。呼び出された鬼火の数は、元の百倍近い1万体。

 

「くっ、ワームスマッシャーっっ!!」

 

 天上から降り注ぐ流星群の如く、空を埋め尽くす鬼火の群れ。それに押し負けない為だけに、ニコルは懐より大量の硬貨を取り出しその切り札を発動する。

 空間を歪めて発動する6万以上の光魔法。1万の鬼火とぶつかり合った結果は相殺。1体の鬼火を消す為に、6の光を必要とした。それが彼我の差異である。されど、相殺出来るならば道は繋がる。

 

「ウル!」

 

〈ああ、見えてるよっっ!!〉

 

 此処に徳壊までの道は拓けた。その隙間を縫って疾走したウルは、異形と化した拳を振るう。しかしその一撃は、見えない壁に阻まれた。

 

「その獣の姿は軟弱だのう。儂の障壁一つ抜けんか」

 

〈く、おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!〉

 

 殴る殴る殴る殴る。必死になって全力で、この好機を逃せば後はないと知るかの如く。余りに固い障壁に、殴る拳を砕かれながら。

 それでも壁は揺るがない。仮に貫けたとしても、徳壊は転移で抜け出せる。余りにも、遠い。どうしようもないと言う感情が、彼らの心を満たしていく。

 

「徳! あたしの命に変えてもアンタは、此処で、止めてみせるよっっ!!」

 

 揺るがぬ徳壊の障壁を、殴る腕が二つ増える。左右を挟んだラッシュは止まらず、されどやはりその障壁は砕けない。

 光の壁に守られたまま、徳壊は再度印を切る。今度は二文字、故に結果は倍数である2万体。対するニコルも、10万を超えるブレスを発動して。

 

「粛」

 

「が――っ!?」

 

 その光と炎が相殺し合う中で、徳壊は一言呟きニコルの体が吹き飛ばされる。襤褸雑巾のように変わる少年の体を突き上げたのは、空間を跳躍した衝撃波であった。

 

「グ、フフ。その齢で儂と撃ち合えるのは中々だがのう。その場から満足に動けぬと言うのでは片手落ちよ」

 

 障壁に守られ、動かない徳壊。対してニコルは、制御に手を取られて動けない。出来ないとしないは違う。一見同じに見えたとしても、其処には明白に過ぎる大差がある。

 故に徳壊は呵々と笑って、手にした杖で大地を打つ。瞬間姿が掻き消えて、勢いを殺せず互いにぶつかり合ったウルとマオが舌打ちする。左右を見回し確認すれば、その姿は最上階へと続く階段の直ぐ前に。

 

「では、もう一度じゃ。前!」

 

 三度の鬼火乱舞。相殺出来たニコルが動き出せない現状、防げる者など何処にも居ない。先の倍所ではないその総数は、丁度10万と言う馬鹿げた数字。

 

 降り注ぐ火の雨は宛ら隕石雨の如く、炎が皆を飲み干していく。このまま一方的に終わるのかと、それを許さぬ仕込みが一つ。その少女の手元にあった。

 

「ヒルダちゃん、復ー活ーっ!」

 

 ニコルが自作して、ヒルダに渡していたその呪具の名は身代わりクン。一度だけ所有者の代わりに、致死のダメージを引き受けてくれるもの。

 あのまま追撃されていれば気付かれていたであろうが、ニコルのお陰で死んだ振りが出来ていたのだ。あとは受けた呪詛を、預かっていた道具で解除すれば完全復帰と言う訳だ。

 

「さぁ皆、光合成の時間だニャぁぁぁぁっ!」

 

 そうして呼び出すは、巨大な向日葵が3輪。何処か気が抜けるその存在は、花弁に囲まれた顔を光らせ怪光線を撃ち放つ。

 草花の放つソーラービームは鬼火の津波と打つかって、しかし一秒の拮抗すらも出来ずに一方的に押し負けていく。術者の違いは、それ程に大きい。 

 

「そんな訳で、ほぃっと!」

 

 ニコルですらも拮抗出来ない時点で、こうなるとは分かっていた。だからヒルダが為すべきは、稼いだ僅かな時間で行う回復行為(アイテム係)

 唯の一撃で血反吐に塗れて気を失っている人物に、慈愛の護符を投げ付ける。僅かな時間で復帰させられるのは一人だけ。ならば彼に、残る全てを賭けようと。

 

「ニコルー! 起きろー!」

 

 恐らく、これが最後のチャンス。意識を取り戻したニコルは、目を開いて直ぐに現状を認識すると即座にヒルダに指示を下した。

 

「ヒルダ、投げなさいっ!」

 

「ラジャーっ!!」

 

 燃え滾る炎が迫る中へと、放り投げろと命じるニコル。まだ意識が戻ったばかりで満足に体が動かない少年を、ヒルダは躊躇なく両手で握って前方へと放り投げた。

 

「サクノォォォスッッ!!」

 

 空中で魔剣を呼び出して、ニコルはその刃を振るう。骨だけとなっても尚も生きている竜の刃は、無数の鬼火すらも喰らい尽くさんと吠えている。

 されど数が多過ぎるが故に、全てを喰らい尽くせる訳もない。食べ残しに全身を焙られるニコルは、そう長くは持たないだろう。だがそれでも、突破力だけならば最上級。

 

「ほぅ、見事な剣よな」

 

 鬼火の津波を切り抜けて、振るう剣は徳壊の障壁さえも食い尽くす。ならばその刃は老人へと届くかと言えば、しかしそれはまた別の話。

 握った杖で、ニコルの腕を打つ。サクノスと打ち合えば流石の徳壊も唯では済まぬから、生身の部分を打ち抜く技量を以ってその一撃を受け流す。唯それだけで、十分だった。

 

「が、ぎ、ぐぅぅぅぅ」

 

「グフフ、身の丈に余る力を振るう代償だのう。弱いとは、哀れなものじゃて」

 

 受け流されて、空を切った魔剣はしかしその威を示す。徳壊ではなく、使い手であるニコルに対して。

 そうとも今も生きる竜は、まるで力を貸す対価だと言わんばかりに、ニコルの身体から血肉と魔力をごっそりと奪ったのだ。

 

「お、のれぇぇぇぇぇぇぇぇっ、道具、風情がぁぁぁぁぁぁ」

 

 握っていた手の肉を喰われながら、呪詛を漏らすニコルは魔剣を再び封じる。本来乗り越えるべき石像の試しを無視して剣だけ奪い取った少年の事を、魔剣は所有者と認めていなかったのだ。

 だからこうして、振るう度に何かを与えなければ担い手に牙を向く。常ならば敵の血肉を与えられるが、格上相手に必ず当てる事など実質不可能。故にニコルは、この魔剣を切り札としてしか使えない。

 

「万策尽きたか? では、終わりとしようか。怨!」

 

 崩れ落ちたニコル。焼かれながらも、如何にか立ち上がろうとしているウルとマオ。一番傷が浅いながらも、完全に打つ手なしとなって怯えるヒルダ。

 そんな彼らに向かって徳壊は、三度禁止の呪詛を放つ。呼吸を封じ、思考を封じ、行動を封じる。これがある限り、徳壊がその気になった瞬間に彼らは敗北する。そうとも未だに誰も、戦いの場にすら立てていない。

 

「な――っ」

 

「ほぅ」

 

 否。

 

「舐めるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 徳壊は見せ過ぎた。都合三度、これだけあればこの天才児は学び切る。実力の差を無数の手札と小細工で埋め切って、即座に皆の呪詛を解除してみせる。

 この瞬間に、ニコルは確かに成長していた。最初期に見せれば、徳壊を即座に本気にさせたであろうその姿。それをこの瞬間まで、引き伸ばしてみせたのが二度目の奇跡か。

 

 だが、しかし――

 

「儂は終わらせると言った筈だぞ」

 

 呪詛を祓い、吠えてみせたニコルの体を無数の腕が掴んでいる。地の底より生えるその腕の名は、亡者地走腕。その手に囚われたのは、ニコル一人ではない。

 ウルも、マオも、ヒルダも、皆が既に捕まっている。呪詛を紡ぐその傍らで、徳壊上人が地獄の亡者を召喚していたのだ。だからこの結果は既に、あの時には決まっていた。

 

「グフフ、儂は術師。敢えて分類するのなら、召喚術の術師じゃぞ。無数に数を揃える事こそ、我が仙術の本領よ」

 

 そうとも、徳壊が得意とするのは怪異を呼び出す召喚術。本人の強さも極まっているが故に誤解されるが、無数の悪霊異形を使役するのがその本分。

 召喚術の強みとは、その手数の多さにある。呼び出した怪物と、使役者が同時に別のことを行える。故にこそ徳壊上人とは、単騎でありながらも無限の軍勢にも等しい存在なのだ。

 

「では、散るが良い。この傀骸の塔を、貴様らの墓標としてやろう」

 

 その本領の一片を明かした。それが少年少女らの限界で、故に此処に結末は迫る。命を奪い取る屍人の呪詛をその身に受けて、此処に倒れた誰もが終わりを迎えんとしていた。

 

 

 

 

 




~原作キャラ紹介 Part16~
○徳壊(登場作品:シャドウハーツ)
 シャドウハーツ序盤の大ボス。前半にあたる上海編の強敵であり、主人公のウルにとっては父の仇でもある人物。
 厳つい顔をした老人で、左半身を嘗て甚八郎に奪われている。その為、左足は木製の義足であり左手は巨大な鍵爪となっている。(当作内ではまだ義足のみ。義手は制作中)

 ゲーム内では変態チックな拷問をヒロイン相手に行ったり、押し入れにエロ本を隠していたり、妙に小物チックな所が散見したりする残念な敵。
 作中の隠し要素として登場する親父が明らかに強そう感を醸し出す分、「え、コイツに負けたの」と思うプレイヤーはきっと多かったと思う。

 悪魔や神と契約した存在は四肢欠損を即座に再生していたりするので、ちゃんと手足無くしてる徳壊が甚八郎戦まで人間だったのは先ず確実。
 多分その後に瀕死の体を治療する為に閻羅王と契約して、その魂より受けた影響でどんどん衰えていったのだと思われる。


 当作内では漫画版クーデルカ設定を採用した結果、ゲーム描写的に甚八郎がヤバい奴になったので釣られて全盛期徳壊もヤバい奴になった。

 純粋な実力で言えば、銅鐸パワーで素戔鳴になった加藤以上で外なる超神以下と言った所。
 でも知性がある分、超神と戦っても大分有利。小細工は徳壊も苦手なので相応に苦戦するだろうけど、最終的には徳壊が勝つ。その位の強さ。紛れもなく世界最強の存在である。




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第55話 継承

そしてこれが、最後の奇跡。

推奨BGM:Tanjou


 気が付けば、あの場所に居た。夕陽の差し込む丘の上、大きな木の根元に広がるのは作り掛けの小さな畑。

 そんな場所で膝を抱えて、ウルは何もせずに居た。生きていて良い、理由はあった。けれどその理由は、果たせなかった。

 

「はは、アイツ、強過ぎだって」

 

 乾いた声で、小さく笑う。父を殺し、母を殺し、沢山の人を不幸にした。彼の邪仙と戦う運命が、その宿命が己にあるのだと思った。

 ああ、確かにそうなのだろう。何時かウルは、徳壊を倒す。だがそれは、今ではなかった。余りにも時期が早過ぎたのだ。だからこうして、負けてしまった。

 

「親父が負けたのも当然だわ。あんなの無理。むーりっ! ふざけんな、馬鹿野郎……」

 

 ゴロンと仰向けに寝転がり、変わらぬ色の空を見上げる。夕陽に染まったその空は、果たして何処に繋がるのだろうか。

 心の内で、ウルは思う。何も良いことはなかったと、もうそんなことは言わない。けど、何も出来なかったなと。そんな風には、思ってしまった。

 

「ごめん、母さん」

 

 何の為に生きていたのだろう。漸くにその答えを見付けたというのに、何も出来ずに負けてしまった。

 あの日、一緒に死んでいれば良かったと。そんな弱音と逃げ出したいという思いを抱えて、此処で命は終わるのだろう。

 

「ごめん、父さん」

 

 心の墓場から外に出れば、そんな終わりが訪れる。漸く終われるという感慨に、まだ終わりたくはないという無念が混じって、心の中はぐちゃぐちゃだ。

 

 生きていて良い目的を、生きていたいと願う理由を、これから先に求める未来を――その全てを失うのだ。そう理解して、瞳が揺れる。何だかどうしようもない程に、泣き叫びたくなった。

 

「俺、勝てなかったよ」

 

 口にしたのは、そんな弱音。そんな弱音だけが風の中へと消えていき、ウルムナフと言う魂もまた同じく溶けて消えていく。そんな、間際に――

 

「もう、諦めたのか?」

 

 懐かしい、声が聞こえた。

 

 そう、これが最後の奇跡。この日この時、日付が変わるその一瞬にだけ訪れる奇跡。

 満月の下にウルの霊力は最大限に高められ、死の窮地によりその精神は極限にまで磨き抜かれ、故に彼の声を聴けるようになる。

 

 もう僅かな残骸しか残っていない。それでも確かに、此処に居た人の声を。

 

「もう、立てないか?」

 

 それは、優しい声だった。慈愛と父性愛に満ちた、懐かしく優しい音。

 

 そうとも、彼は此処に居たのだ。徳壊と言う邪仙に敗れてから、しかしその無念の魂は冥府に行かずに現世にしがみ付いていた。傀骸塔の儀礼場を利用して、一念によって残り続けた。

 だからこそ正史においては、天凱凰と共に居た。この場に残ったその魂を、ウルは星神と共に身の内に取り込んでいた。ならばそう、同じことが今に起こる。

 

 死を前に極限まで高められた霊力が、無念の魂を心の内へと取り込んだ。故にこうしてウルの耳元に、その優しい音は届けられたのだ。

 

「もう、頑張れないのか? ウル」

 

 顔を上げる。其処に居たのは、懐かしい影。悪夢として見ていた狐の面と似通っていて、しかし見間違えることはないと断言出来る人。

 

 涙が、溢れた。目尻から止まることはなく。その雫を拭うことすらせずに、茫然とウルはその人を見詰める。何かを言葉にしようとして、何を言えば良いのか分からなかった。

 

「俺……俺は……」

 

「ウル」

 

 立ち上がって、縋り付くように。その人は小さく微笑むと、抱き締めて不器用に頭を撫でてくれた。その熱に、その懐かしさに、涙は止まらなかった。

 

「すまないな、ウル。お前に多くを、押し付けた」

 

「俺は、違う、母さん、守れなくて、けど、俺、生きて、いたくて……」

 

「ああ、分かっている。大丈夫だ。ウル。理由なんて、必要ない。お前が生きていてくれるだけで、それだけで十分なのだから」

 

「う、あああああああああああああああああああああああっっ!!」

 

 この感情を、何と言えば良いのだろうか。答えを出すことも出来ずにいるウルに、答えなど出さなくても良いとその人は許してくれた。

 だから、だろうか。止まらない涙に、溢れ出す感情に、身を委ねて子供らしく。その抱き締める腕の中でウルは、唯々涙を流し続けるのであった。

 

 

 

 そうして、どれ程にそうしていたのだろうか。抱き締める腕の熱に安堵しながら、縋るように言葉を零す。漏れた音は、結局唯の弱音である。

 

「……俺、勝てなかった」

 

「ああ、そうだな。奴は強い」

 

「負けちゃったよ。勝ちたかった」

 

「仕方ないだろう。思いだけでは、届かないこともある」

 

 戦うと決めた。勝ちたいと思った。必ず倒すと心に誓った。けれど、足元にすら届かなかった。それ程に、討ち果たすべき宿敵は強かった。

 挑んで負けたのだ。勝ちたかったのに勝てなかったのだ。全てを許された今になっても、唯々その事実が悔しくあって――ああ、ならばきっと、火種は心に残っている。

 

「だが、思いがまだ残っているのならば」

 

「……父さん?」

 

 それに、その事実に、男は気付いたのであろう。この対話の中で、いいやもっと前からか。だから問い掛けていたのだ。本当にそれで良いのかと。だから問い掛けるのだ。本当にそれで良いのかと。

 

「まだ、勝ちたいか?」

 

 腕の中の命に感じる、愛おしさとやるせなさ。どうしようもない宿命を押し付けて、死んでしまった男にはもう出来ないこと。

 選べるのは、少年だけだ。諦めていないのも、少年自身だ。男に出来るのは唯一つ、手を貸してあげることだけだから。決めて良いのは、少年なのだ。

 

「まだ、戦えるか?」

 

 敵は強い。男は敗れた。そして少年も、同じく敗れた。惨敗したのか相打ち寸前まで持ち込んだのか、過程は変われど結果は変わらない。

 親子揃って、負けているのだ。このまま倒れ伏したのならば、それで結果は確定する。けれどもう一度、あと一度だけでも立ち上がることが出来たのならば。

 

「また、立ち上がれるか?」

 

 今度は負けないと、そう断ずることは出来ない。出来るのは唯、誓うことだけ。悔しくはある。やるせなくもある。だが、愛おしくもあるのだから。

 

「俺、俺は。……けど、俺一人じゃ」

 

「大丈夫。お前はもう、一人じゃない」

 

 泣き言を漏らすウルの頭を、男は優しく撫でて言う。一人ではない、と。そう。ウルムナフは、もう一人ではないのだ。

 

「仲間がいる。お前には、信頼出来る仲間が居るだろう。それに――」

 

 皮肉屋で腹黒い神父の少年が居て、気紛れで身勝手な吸血鬼の少女が居て、不器用で姉御肌な武侠の猫も居て――そして、それだけではない。

 

「これからは、俺も一緒だ」

 

 これから先は、この男の魂も共に行く。だからウルムナフは、もう一人ではなかったのだ。

 

「共に行こう。ウル」

 

「父さん……」

 

 その大きな指先で、父は子の涙を拭う。もう雫は止まっていた。一人じゃないのなら、恐れることは何もない。そう。もう何も、恐れる必要なんてないのだ。

 

「もう、立てるな」

 

「ああ」

 

 立てるさ。ああ、立てるとも。立ってみせねば嘘だろう。高揚する心と共に、ウルは立ち上がる。

 

「もう、戦えるな」

 

「ああ!」

 

 そして、前を見詰める。沈む夕陽の向こう側、現実の世界へ向かって。もう戦えるのだから、立ち尽くしている時間はない。

 

「なら、勝ちに行くぞ」

 

「ああっ!!」

 

 共に歩く、仲間が居る。背中を押してくれる、大好きな父が居る。だから、もう負ける気なんてしなかった。

 

「行こう!!」

 

 そして、彼は走り出す。背負った己の宿命に、決着を付ける為。

 

 

 

 

 

 真円を描く月の下、大いなる翼が羽搏き産声を上げる。その姿を理解した瞬間、あり得ないと邪仙は驚愕し動揺し絶叫した。

 

「な、馬鹿なっ!?」

 

〈分かるよ。親父の魂が、共にある。そう感じる。だから――〉

 

 その姿は、冥刹皇に似ている。だが細部が大きく違っていて、その身の内に感じる力も大きく異なる。まるで冥刹皇が、黒き鎧を纏ったかのように。そうとも、それは新たな力。

 

 其は憎悪と怨みの黒魂が闇鬼と化した大凶神。地獄の深淵より訪れて、永劫の死を与えるモノ。闇の極致。究極の融合術が一つ、ツェルノボーグ。 

 

「また、貴様がっ! 貴様が儂の前に立ちはだかるかっ!?」

 

〈もう負けない。ああ、必ず勝つ。絶対に〉

 

「日向甚八郎ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 嘗て日向甚八郎がその身に宿していた、圧倒的な力。ウルはそれを、此処に継承してみせたのだ。無論、その全てではない。だが、今のウルに比すれば膨大に過ぎる力の量を。

 

 そして今、ウルの霊力は至大至高にまで高められている。故に――この日、この夜、この時においてのみ、ウルは彼の日の甚八郎の再現だ。

 

 故にそう、此処に至る事こそが徳壊に対する唯一無二の勝機であったのだ。

 

〈終わりだ、徳壊! てめぇの奪ったもん全部、てめぇが傷付けたもん全部、その報いを受けて貰うぜ!〉

 

 大地を蹴って、ツェルノボーグが飛翔する。その速力は、冥刹皇の比ではない。一瞬の内に間合いの内に入られて、拳を振るえば硝子のように障壁が砕かれる。

 

「墳っ!」

 

 されど徳壊もさるもの。即座に冷静さを取り戻すと、拳が直撃する前に空間を渡る。風圧だけで頬に切り傷を負って、忌々しいと表情を引き締めながらに術を紡ぐ。

 

「臨兵闘者皆陣列在――前!」

 

 激墳八岐大蛇。何処からともなく生じた大津波が大地を多い、共に現れた八つ首の竜が吹雪を纏いながらに襲い来る。

 一つの首を躱した所で次から次へと襲う手数に限はなく、纏う吹雪は近付くだけでウルの動きを凍て付かせて鈍らせる。

 

 思わず舌打ちしながら足を止めて、迫る首を殴り飛ばしていくウル。そんな彼は、徳壊の有する最大の強みを見落としていた。

 

「臨兵闘者皆陣列在――前!」

 

 彼の展開する術の多くは、召喚術に類するもの。故に一度発動すれば、徳壊の手を離れても機能する。ならばこそ、こうして畳み掛けることこそ最良手段。

 

 二重に重ねられた凍れる八岐大蛇は、一つでウルの自由を奪い二つでウルの体に傷を刻む。ならば三つで、四つで、五つで果たしてどうなるか。今の邪仙はこの規模の術を、十でも二十でも容易く重ねてくるのである。

 

「「「臨兵闘者皆陣列在――前!」」」

 

 多重詠唱。重なる声で無数に術を同時発動させながら、更に自由に動けるというのが術師の強み。戦闘型の術師としては、完成形にあるのがこの徳壊だ。

 彼が本気を出せば、順当に敗北するしかない。甚八郎もまたそうだった。この状況から命を賭して、如何にか半身を奪い取る。それが彼の限界だったのだ。

 

〈ぐぅぅぅぅぅぅっ〉

 

 同じ力を得てはいても、経験が圧倒的に劣っている。そんなウルでは、残る半分を奪うことも出来ずに敗れるだろう。それが辿るべき結末で、そんなことはもう分かっていて、だから――

 

〈おいこらぁっ! いつまで寝てんだってのぉっ!!〉

 

 彼は仲間を頼るのだ。一人では勝てないと知るからこそ、アイツは強いと信じているからこそ、発破を掛けて未来を託す。宿敵に勝つ為に。ああ、そうだとも、何としてでも、ウルは徳壊に勝ちたい。勝たねばならないのだ。

 

〈さっさと起きて手伝えってんだよ、ニコルッッ!!〉

 

 ニコルは既に死に体、瀕死の様だ。肉体的には人間の域を出ない少年にとって、この領域の戦いは厳し過ぎるものがある。

 

「……はぁ、やれやれ。人使いの荒い奴だ」

 

 それでも、ウルが立てと言っている。奴が立てると信じている。ならば答えてやらねば嘘であろう。ニコラス・コンラドは、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガにだけは負けられないのだから。

 

「ふん。今更、小僧が一人増えた所でなぁっ!」

 

 空間を飛び回りながら、次から次に術を重ねていく徳壊。その姿を捉えることは出来ず、時間が経てば経つ程に状況は不利となっていく。

 そして彼が告げるように、現状で多少戦力が増えた所で焼け石に水だ。既に展開された術の数は十を超えていて、最早徳壊の優位は覆らない状況なのだ。

 

「……ええ、忌々しいが認めましょう。私の手に残る手札は、これ単独では役なし札となる代物だ。ですが、今のウルが居れば価値を持つ――ウルッ! 思いっきり殴れ!!」

 

〈あいよっ!〉

 

 何故と、問い掛けることはしない。ニコルが言った、ならば意味があるのだ。そう信じたウルは、何もない虚空を全力で殴り飛ばす。直後――

 

「ぐぉっ!?」

 

 何故かそこに現れていた徳壊が、ウルの拳を受けていた。この戦闘が始まって、漸くの有効打はクリーンヒット。頬を打たれた邪仙は、驚愕しながら後退する。

 

「ウル!」

 

〈おらぁっ!!〉

 

「ごぉっ!?」

 

 その直後、再び邪仙はウルの目の前に。声を合図に振るわれた拳が、今度は老人の腹を打つ。血反吐を吐いて痛みに歯を食い縛り、困惑する徳壊はニコルを睨み付けた。

 

 何をされているのか、分からないが何か小細工をされている。ならばその動きをもう見逃さないと、鋭い視線が捉えたのは少年の握る小さな鍵。それかと断じた老人は、即座に術を行使する。

 

「おっと、反応が早い。二発、ですか」

 

 怒りと共に振るわれた火球は、しかしニコルに当たらない。放った直後、ニコルは既にその場所に居なかったからだ。一体何故と問うことはない。既に徳壊は当たりを付けていた。

 

「それは、第三の鍵。運命の輪への干渉か、いや、もっと単純に、時間の操作か」

 

「ええ、体感で3秒。私だけが動ける世界を創造する。ザ・ワールド、とでも呼びましょうかね」

 

 第三の鍵。それは運命の輪に干渉して、特定の結果が出るまで時の流れを止めてしまえる秘宝。ニコルはそれを、攻撃以外の行動にも適応出来るように改造したのだ。

 

 それが特殊結界ザ・ワールド。鍵を手にしている間のみ、体感で3秒程度。己だけが行動出来る。そうして時間を止めて、徳壊をウルの拳の前へと移動させていた訳である。

 

「分かってしまえば、対処は容易い」

 

「……まあ、でしょうね。彼我に実力差がある以上、これは小細工の域を出ませんよ」

 

 徳壊の身体が炎を纏う。飛燕熱風刃。本来は己の武具に炎を纏わせる術だが、彼は己の肉体を対象としてその術を発動したのだ。

 闇雲に使うだけでは焼身自殺にしかならないであろう使い方だが、それを完全に制御してみせているのは流石の技量か。ともあれこれで、ニコルの小細工は意味をなくした。

 

 触れることが出来ないどころか、その熱量に近付くことさえ出来やしない。ニコルに扱える魔法では、徳壊の炎を超えられない。これでは時を止めた所で、何も出来ずに3秒間が過ぎるだけである。

 

〈はっ、俺を忘れてんじゃねぇぞ!〉

 

「無論、忘れてなどおらん!」

 

 飛翔し迫るウルに対し、転移し逃れる徳壊。術師らしく距離を取りながら、再び術を設置していく。

 

 先より優位になってはいる。ウルの打撃を二度受けて、徳壊の身体は悲鳴を上げている。まだ人を捨てていないが故に、耐久力は低いのだ。

 そして設置された術式は、時を止めたニコルならば解除出来る。そうして一つ一つと削っていけば、決着の時を大きく遠ざける程度は叶う。

 

 だが、それでも焼石に水である。あれ以降、有効打はまだ入っていない。ニコルの解除とて、3秒で1つが限度。徳壊は3秒もあれば、6つは術を発動できる。

 だから現状はジリ貧だ。恐らくは訪れるであろう徳壊の体力的な限界に期待して、時間を引き延ばすことしか出来ていない。このまま勝てるかと問えば、旗色は悪いとしか思えなかった。

 

「ならば、賭けに出ますか。これだけは本当に、使いたくはなかったんですけどね」

 

 故にニコルは賭けに出る。そうと決めた最後の一押しは、忌々しくも先に受けた西法師の助言だ。全てを出し切らねば勝機はないと、ならばこれも全ての内の一つだろう。

 

 既に事前準備は出来ている。ワームスマッシャーを使った時にばら撒いた、転送装置があるのだから。後はその全てを、全く同時に暴発させる。

 空間座標を指定せずに乱し続けることで、発生するのは特異点。何処でもない場所が世界の内側に発生して、自己崩壊を引き起こすのだ。

 

「発生した特異点は、疑似的ですがマイクロブラックホールにも似た性質を有します。剥き出しの特異点は魔力によって加速されることで、時空間そのものを蝕むのです」

 

 そうして発生した極めて不安定な空間に、己の体内に残るほぼ全ての魔力を注ぎ込むことで暴走を加速させる。

 本来は一瞬で修復される特異点は消し去れない程の傷となり、世界はそれを塞ぐ為に集束していくという特異な現象を発生させるのだ。

 

 そして起きるは、星を飲み干す程の重力崩壊。何もかもを事象の地平へと消し飛ばす禁断呪法。

 

「誇りなさい、邪仙・徳壊。これは私にも制御しきれない。使えば自身も含めて、星の全てを滅ぼし尽くす禁断の一手。貴方ならば防ぎ切ると信じて、此処にこうして放つのですからっ!」

 

「正気か、小僧!?」

 

「正気にて大業はならず! 元より気狂いの類でしょうよ、私たちのような人種はぁっ! ブラックホールクラスター、発射ぁぁぁぁぁっ!!」

 

 頭上に向けて、発生させたブラックホールを撃ち放つという狂気の沙汰。一歩間違えば、否。徳壊が防げねば星が滅んで人類が絶滅するというこの状況。

 それを撃ち放って、遂にニコルは意識を手放す。世界を滅亡させると言う爆弾を無責任に残して、彼はあっさりと脱落した。

 

 表情を引き攣らせながらも、徳壊はその手で九字を切る。しかしそれだけでは足るまいと確信して、更に二重三重に印を重ねる。恐らくはこの大邪仙をして、人生初となる規模の術式行使。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 降魔閻羅陣。九天真王仙術の秘奥たる降魔明王炎を、徳壊自らが調整した物。全てを裁く冥府の王の力を以って、六道の果てへと敵を放逐する秘義。

 その黒き炎を以ってして、生まれた暗黒天体を異界へと遠ざける。六道、詰まりは六つの世界。それだけの隔たりを作り上げてしかし、暗黒天体を防ぎ切れない。

 

「ぐっ、ぬぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」

 

 故に重ねる。六つの外側に六つ、更に外側に六つ。三重に重ねて、漸く被害を抑え切れそうだと感じる程の威。さしもの徳壊も、安堵と共に冷や汗が流れて。

 

〈おらっ!〉

 

「ぬぐぉっ!?」

 

 その隙に殴り掛かってくるウルの姿に、傷付きながら更に頬を引き攣らせる。既に余裕の笑みは失われて久しく、あり得ないという表情ばかりが張り付いている。

 

 だがそれも仕方ない程に、この少年達は型破り過ぎるのだ。甚八郎でさえ止まるであろうこの状況で、一切の躊躇なくアクセルを踏み込んで来る。

 

「日向の子倅!? 儂が仕損じれば、貴様も死ぬのだぞ!?」

 

〈おう。だから、死ぬ気で頑張れ!〉

 

「ご、げほぉっ!?」

 

 ウルは信じていた。徳壊ならば防ぎ切ると信じたニコルのことを、信じたからこうして一切気にせず攻撃を仕掛けて来ている。

 

 徳壊は信じられなかった。一歩間違えれば野望も理想も全てが一瞬で消え去るのだ。頼れるのは己だけの状況で、どうして慢心出来ようか。

 

 故にウルの拳は、面白いように老人の身体に刻まれていく。如何にか徳壊が暗黒天体を封じ切ったその時には、10を優に超える打撃が打ち込まれた後だった。

 

〈……やっぱ、アンタスゲェな。防ぎ切ったじゃねーか〉

 

「お、のれぇぇぇぇぇ。理想も大義も持たぬ、儒子どもがぁぁぁぁ」

 

 それだけ殴られて尚、世界を滅ぼす規模の破壊を防ぎ切った徳壊。それを素直に賞賛しながらも、振るう拳を止めないウルムナフ。

 

 対する徳壊は限界寸前だ。元より半身を失った戦いから一年と少し、その体力は病人同然。その状態で大規模な術を連続行使し、怪物に殴られ続けたのだからさもありなん。最早精神力だけで、立っているような状態である。

 

「儂は徳壊ぞ! この国を守り! 列強を打ち破り! 理想の世界を齎す存在ぞ!」

 

 それが理由。徳壊と言う男は、仙人と言う力を持ちながらも、傍観することに耐えられなかった。

 列強諸国の食い物とされていく祖国の姿に、何れ訪れるであろう結末に、否と告げる為に立ち上がったのがこの男。

 

〈……けどよ。この国の奴ら、泣いてたぜ。沢山、沢山、苦しんでた〉

 

 されどその理想を聞いて、ウルは素直に頷けない。だって国を救うと語るこの男は、その国に生きる人を傷付けているから。

 麗々と言う女は泣いていた。その父親は苦悩していた。陣と言う親子も苦しんでいて、己だってこの国で父と母を失った。全てはこの男が、求めた理想の所為で――

 

「大義の為には、必要な犠牲よ! 無駄にはせん!!」

 

〈そうかよ。やっぱアンタ、スゲェけど気に食わねーよっ!〉

 

 満身創痍ながらも立ち、杖を振るう。粗雑な義足は押せば倒れる程には不安定であろうに、魔法を使う程の余力もないだろうに、それでも倒れない大邪仙。

 この男は強い。この男は凄い。そうと認めて、しかし受け入れることなど出来やしない。奪われた側は、必要だったと言われても、納得なんて出来ないから。

 

 拳を振るう。敵を打ち抜く。血反吐を吐いて、大きくよろめいて、それでも敵は倒れない。望んだ未来を、見るまでは――

 

 だがしかし、彼に否と言う言葉の刃を突き立てるのは、ウルだけじゃない。

 

「ぐぉっ!?」

 

「……漸く、一発だ。馬鹿な弟分を叱ってやるには、少し遅過ぎたがね」

 

 毛皮は焼け焦げ、全身は綺麗な所のない程に傷だらけ。されど立ち上がったマオは大地を這うように襲い掛かり、その女の拳を防ぐだけの余裕が今の老人には残っていなかった。

 

 顎を打たれて、歯が抜け落ちて宙を舞い、男は地面に崩れ落ちる。しかし、それでも、望んだ未来を見るまでは――

 

「ま、まだ、だっ。儂は、まだ――っ」

 

 杖を手に、立ち上がってしまう大邪仙。その姿を見詰める姉弟子の瞳は、哀れみの色に満ちていた。

 

 もっと昔は、こうじゃなかった。別れたばかりの徳壊は、本当に綺麗な理想に燃えていた。誰一人として失わぬと、必要な犠牲だなんて口が裂けても言わなかった。

 

「猫妖風情が、今更に、貴様如きにぃぃぃぃぃ――っ!」

 

 それが今じゃ、この様だ。西法師が予言したように、これから先はもっと劣化してしまうのだろう。だから此処で終わらせてやることが慈悲なのだと、マオはその拳を握り締める。

 

「そらそらそらー! いーまがチャーンス! 行って来るのニャ、カボチャ達ーっ!」

 

 少年が決意を以って、姉弟子が覚悟を抱いて、それぞれに拳を握る中。唯一人重い理由なんて持たない少女は、常の態度で攻撃を仕掛ける。

 彼女に特別な理由などない。勝ち馬に乗れそうだから仕掛けてみたし、そもそも何でこんな強い奴と戦っているのかすらよく分かっていやしない。

 

「小物どもが、この儂を、この儂がぁ!?」

 

 それでもこの場においては、状況を動かすのに十分過ぎる戦力だ。宙に浮かんで触れれば爆発するカボチャの群れが、徳壊の自由を奪っていく。

 

〈終わりだぜ、徳壊――!!〉

 

「っっっ! 貴様らぁぁぁ、この儂を、誰だと思っておるかぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 それでも、邪仙は諦めない。残骸と成り果てて尚、求めた理想があるのだ。例え腐り切った果てであろうと、きっと思い出すことは出来るから。

 

 気迫と共に、立ち上がる。裂帛の意志を此処に示す。理由を持たないヒルダは空気に飲まれて、迷ってしまったマオは出遅れて、力を使い果たしたニコルは動けずに――だから、立ち向かったのは唯の一人。

 

「この徳壊、負けはせぬっ! 終わるのは貴様だ! 日向、甚八郎ぉぉぉぉっっっ!!」

 

 既に徳壊の瞳には、光なんて映ってなかった。だから気配で感じ取る。其処に居るのだ。宿敵が。朦朧とする意識の中で、日向甚八郎の存在を。

 

「……ちげぇよ。俺は親父じゃねぇ」

 

 だから最後の一撃は、何もない虚空を切った。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガはまだ幼くて、日向甚八郎を狙った攻撃では当たらなかった。唯それだけが、この結末へと至る理由。

 

「な――っ!?」

 

「俺はウル! ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガ!!」

 

 変身が解けている。いいや、自ら解いたのだ。今のこの男を倒す最後の一撃は、父から借りた力じゃない。己自身の拳であるべきだと思ったから――

 

「テメェを倒した、男の名前だぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

 打撃を外して泳いだ徳壊の体に、打ち込まれたのは小さな拳。大した威力も技術もない子どもの一矢が、老人の理想を喰い破る。

 

 

 

 この国を守ろうとした邪仙はこうして、この国で育った子どもに敗れたのだった。

 

 

 

 

 




冥刹皇「完全上位互換登場で、もう出番がない件について」
炎武「ぶ、物理特化としてならワンチャン」
猛虎「た、耐久特化なら、負け、負け、負けてないと良いなぁ……」
烈風奇「ツェルノボーグって、俺より早くね」
龍人「海中なら俺の役割まだあるし。いやぁ、皆大変そうだなぁ」
天邪鬼 「…………」←今までもこれからも出番ない奴


~原作キャラ紹介 Part17~
○日向甚八郎(登場作品:登場作品:シャドウハーツ, シャドウハーツ2)
 シャドウハーツとシャドウハーツ2の主人公でウルの父親。大日本海軍の軍人で、最終階級は大佐。1893年時点では少佐。
 任務中に殉死しているので、恐らくは2階級特進で大佐だろうと判断。なので当作内では当時の人から大佐と呼ばれることはないと思われる。

 性格は、生真面目で不器用そうな人。責任感も強ければ、精神力もかなり強い。1の中盤で一度だけ操作出来るのだが、その時のステータスの高さに驚いた人も多いだろう。何で徳壊に負けたんですか?

 1でも2でも、既に故人なので基本的に登場するのは回想のみ。ただしどちらも条件を満たすと隠しボスとして登場する。その際に扱う降魔化身術は、自身の変身であるツェルノボーグではなく最強のフュージョンである天凱凰。何で星神に成れるんですか?

 色々とツッコミ所があるが、最大の疑問点は上海で死亡したのに何故かウルの心の中に居た事だろう。
 狐面が猛威を振るっていた間は出て来なかった事から、それまでは居なかったのではないかと推測。となると親父が心の中に来れた機会は、上海での星神封印の時だけである。

 え、親父、死んでから15年もあの場所に魂だけで居たの? しかもその状態から、星神制御して隠しボスやってんの?
 そんな感想しか抱けない、考えれば考える程、整合性を取れば取る程、意味分かんない強さになっていくチート親父。それが日向甚八郎である。






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第56話 別離

 

 そうして、夜は明ける。激闘によって崩れ掛けた傀骸の塔。上階を失った儀礼場の太極図を、昇り始めた朝日が明るく照らし出す。

 肩で荒い息をしながら、蹈鞴を踏んでそれでも倒れず、ウルは己の手を見詰める。傷だらけのその掌には、しかし確かな勝利の実感が。

 

「終わった、のか……」

 

 そう、終わった。此処に少年の宿命は、一つの幕に辿り着く。父母を奪われ、孤独となって、誰も頼れず理由も分からず、彷徨い歩いた旅路が終わる。

 ウルは倒れた敵を見る。父母を奪い、この国を支配し、世界最強の力を有していた大邪仙。恐るべき敵手の意識は既になく、しかしまだ確かな呼吸を続けていた。

 

「は、はは……」

 

 その瞬間に、感じた想いは何と言うべきだろうか。言語化することが難しい程に、種々様々な色が心の中を満たしていく。

 無数に錯綜するその感情が、最後に至る情は納得。これで良いのだろうかと言う己の疑問に、これが良いのだと己の心が告げていた。

 

 国を守ろうとして、しかし外道に堕ちた大邪仙。その野望は己が守ろうとした国で育った子どもに、否定されて終わる砕け散る。後はめでたしめでたしで、それで終わって良いだろう。

 

「あー、つっかれたぁー。くっそ、強ぇにも程があんだろ。ふっざけんなぁ」

 

 笑顔で毒吐きながら、大の字になって寝そべり空を見上げる。空を明るく照らす太陽は、己のこれからを祝福しているかのようで。

 ああ、これからどうしよう。そんな風にも思うけど、今は唯浸っていたくもあった。だからこそ、その存在は少しだけ邪魔に感じてしまう。

 

「やったー、勝ったー! 絆の勝利だニャー!」

 

「くそ、痛ぇんだよ!? 引っ付くんじゃねぇ、こらー!!」

 

 勝利の喜びを隠さずに、抱き着いて来るヒルダを如何にか遠ざける。触れられれば全身が痛いし、そのテンションに付いていくのは大変だ。だから少しだけ鬱陶しくて、ああけれどそれ以上にも思うから。

 

「……あんがとよ。一緒に居てくれて、助かった」

 

「ほぇ?」

 

 腹筋を使って起き上がり、片手で顔を掴んで遠ざけた。そんな少女に向かって、顔を背けたまま伝える。感謝しているのは、彼女に対してだけじゃない。

 共に居た少年にも、猫の師匠にも、ウルは確かに感謝している。彼らが居なければ、誰か一人でも欠けていたら、きっとこの結果には辿り着かなかっただろうから。

 

(俺は、独りじゃない。だから、勝てたんだ)

 

 そうとも、ウルは多くの者に助けられて此処に来た。きっと一人では、何処かで膝を付いていただろう。そうと分かっていればこそ、感謝の想いはとても大きい。

 けれど思春期前の少年だから、素直に言うのはほんの少しだけ恥ずかしくて。だから顔を背けたウルの姿に、ヒルダはニヤニヤとした笑みを浮かべて言うのだ。

 

「ほっほーう。何時になく素直じゃないの、ウル。はっはーん、さてはツンデレってやつだニャ。もっと素直になって、お姉さんのことを褒め称えても良いのだよー」

 

「……前言撤回。別にお前居なくても何とかなったわ。一番活躍してねーし」

 

「なにをーっ!?」

 

 少し褒めれば直ぐ調子に乗るヒルダの姿に、嘆息を漏らして悪口雑言を返すウル。売り言葉に買い言葉でヒートアップしていく会話を後目に、マオは小さく目を細める。

 元気な子ども達とは違って今にも気絶しそうな程に疲れ切っている女であるが、それでもまだやるべきことがある。そう思うからこそ彼女は、倒れた邪仙の傍らに腰掛けた。

 

 止めを刺す為に、ではない。後の世を考えるのならば、そうするべきなのかもしれないが。そんな迷いを酒杯に注いだ般若湯にて洗い流して、息を吐いた後に彼女は問う。

 

「……なぁ、徳。アンタ、何を守りたかったんだろうねぇ」

 

 国を守ると語った彼は、本当に最初から国だけを守りたかったのか。いいやきっと違うのだろうと、堕ちるより前の邪仙の姿を知る彼女は思う。

 守りたかったのは人なのに、多くを守る為には国が必要だった。だから大の為に小を切り捨てて、気付けば何時しか目的と手段が逆転していた。きっと唯、それだけのことだったのだろう。

 

 唯それだけのことを繰り返して、徳壊は後に退けなくなった。進み続けたその先で、心は鈍化し腐っていった。結果が今の彼なのだろうと、そんな事実に悲しいものだと酒を呷る。

 

「私はさ、思うよ。守るべきものってのはさ、国とか大義とか、そんなでっかいものにするべきじゃない。だってさ、そんなもん。目に見えないじゃないか」

 

 より多くをと求めれば、見えないものを目指してしまう。きっとそれがいけないのだと、マオは今になって思う。見えないものを、見続けるなんて出来ないと。

 そうとも、守るべきなのは、見えるものにするべきだ。こうして目の前で騒いでいる子どもたちの笑顔のように、見る度に胸を温かくしてくれるものにするべきだ。

 

 だってそうだろう。見えるものなら、見ようとせずとも目に入る。そうする度に最初の想いを取り戻すことが出来たのなら、きっとこんなにも堕ち切ってしまうことはなかった筈だから。

 

「……アンタもきっと、やり直せる。その気があるなら、姉貴分として付き合ってやっても良いさね」

 

「…………」

 

 返事はない。意識がないのだから当然で、そもそもこの言葉は届いていないのだろう。だとしても、それで良いのだとも思う。素直に届けてあげるには、彼は罪を犯し過ぎたから。

 もしも奇跡があるとするなら、その時は。その程度で、良いのだろう。その程度でさえもきっと、今の彼には過ぎた救いであるだろうから。結局これは、捨て切れない情の話でしかない。

 

「はっ、らしくないことを言ったね。聞こえてないなら、忘れちまいな」

 

 立ち上がって、尻に付いた埃を払って、マオはまだ喧嘩を続ける少年少女の下へと。喉を潤す酒杯の味は、何時になく透き通っていて、旨いと彼女は小さく笑った。

 

 かくして、戦いは終わる。されどまだ、為すべき始末は残っていよう。徳壊が倒れたことを感じ取り、逃げ出し始めた妖魔達の退治もその一つか。

 これから先、大陸は大きく荒れるであろう。邪道であれ、悪逆であれ、この地を守っていたのは徳壊だ。彼が倒れたことを知れば列強各国は、挙って蠢動を始めるだろう。

 

 この国が待つ未来は、正直暗くて寒いであろう。ウル達が為した理由は私の物で、公の事情などは考えてなどいなかったから。だがだとしても、この今だけは。笑い合って、終わるとしよう。

 

「……まさか。本当に勝てるとは」

 

 意識を取り戻したニコルは、状況を理解すると同時にそう思う。端から負け戦を覚悟していて、事前の仕込みでそれをひっくり返してみせる。そんな想定だったから。

 真っ向からの勝利だなんて、望めやしないと思っていた。徳壊の真の実力を知ってからは、絶対に勝てないとも思ってしまった。だがそれを、彼は打ち破ったのだ。

 

「ウル。やはり、貴方は」

 

 例え多くの人に助けられた結果であっても、例え望外な幸運や奇跡に恵まれた結果であっても、訪れた結果と言う事実は変わらない。

 絶対に勝てないと言う状況で、絶対に諦めないと一念だけで縋り付いて、果てにはその絶対を覆す。それが、ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガの真なる資質。

 

 ウルムナフは、ウルだった。そんな他者からすれば意味不明な感慨を胸に刻み込みながら、ニコルは綺麗な笑みを浮かべる。彼にしては珍しい程に、澄んだ瞳で憧れを眺めた。

 

(ニコラス・コンラドでは、こうはいかない。だからこそ、私は――――)

 

 言葉にすれば歯止めが利かなくなるから胸に留めて、ニコルは改めてその想いを確かにする。憧れるから追いたいと、届かせたいから求めるのだと――けれどそれも、まだ先の話。

 宿命を遂げたウルに対して、今度はニコルの方が劣っている。実力の面ではない、心の在り方と言う点で。迷い続けている己では、この憧れには届かない。ニコルはそう思うから。

 

 より強くなった、ウルへの憧れ。故に更に肥大化した、力を求めようという執着。半比例するように、心の中で軽くなってしまった愛の価値。

 慕情を殺して、光を踏み躙って、それでも決着を優先するのか。憧れを忘れて、光を遠ざけて、それでも愛することは出来たのだと誇りを抱いて終わるのか。選択の時は、近付いている。

 

(さて、と。では一つ、道化芝居を始めましょうか)

 

 微笑みを浮かべたまま、体が痛まないようにゆっくりと上体を起こす。まだ騒いでいる3人組の視界に入って、懐から取り出した懐中時計を確認する。

 丁度良い時間になっている。それを確認した後でニコルは、何かに気付いたようにわざとらしい声を上げる。周囲の視線が向けられた事を確認してから、誤魔化すように笑って言った。

 

「そう言えば、言い忘れていたのですが」

 

「あ? 何だよ、ニコル」

 

 懐に時計を閉まってから、立ち上がって裾の埃を払う。そうしてから転移のコインを取り出すニコルに、ウルやヒルダははてな顔。

 一体何をしているのだろうかと、聞く前に何となく察したのはマオだけ。長い時を生きたこの猫妖には、何だか嫌な予感がしていた。

 

「実は侵入した直後に、ちょっとした仕込みをしていまして。まぁ、爆弾なんですが」

 

「へー、爆弾。え、爆弾?」

 

「ええ、原子番号92番を利用した戦術級の爆弾です。徳壊に勝てるとは思っていなかったので、ある程度消耗させた所で退いてからこの塔ごと消し飛ばそうかと」

 

「うっわー。相変わらず腹黒にゃ、コイツ」

 

 そんな空気の中でニコルが語るのは、決戦前に考えていた勝利への道。先ずは適度な所で負けてから逃げ出して、相手が油断し切った所で物理的に消し飛ばそうと言う外道の策。

 実際、西法師の助言が無ければニコルはそうしていただろう。ウルが継承した力で善戦している状況から、可能な限り徳壊を削って逃げ延びる。後は相手が寝入った頃に、塔と上海を地図から消すのだ。

 

 だが相手は、世界滅亡級の暗黒天体すら防ぎ切った大邪仙。或いはそれでも通じなかったかもしれないと、今のニコルはそう思っている。

 しかし思ってはいても準備していたという事実は変わらないし、今更に解除出来るような物ではないと言うのも揺るがない現実であったりする。

 

「で、因みに原子番号92番って何? 美味しいの? 食えんの?」

 

「食べられませんよ。別名をウランと言うのですが、まあ、爆発すれば、中々素敵な結果となるかと」

 

 笑顔で語るニコルが仕掛けた爆薬の量は、63.5Kg。この量は実に、後の世界大戦において広島に投下された核爆弾と同等である。

 

「あのさ、それ。解除出来るのかい?」

 

「いえ、出来ません。なので私は逃げます。ああ、皆さんも急がれた方がよろしいかと。起爆まで後3分もありませんから」

 

 ではさようならと、良い笑顔で虚空に消えていくニコル。残された三人の顔色は真っ青で、表情も引き攣り切っている。

 細かな理解は出来ずとも、徳壊が防ぎ切れない威力で、ニコルが一目散に逃げ出す程に危険な状況だと言うことだけは分かったのだ。

 

「あ、あんの野郎ぉぉぉぉぉっ!?」

 

「ぎにゃぁぁぁぁっ!? 爆発オチなんて最低ーーっっ!?」

 

「言ってる場合かい!? とっとと逃げるんだよぉぉぉぉぉっっ!!」

 

 大慌てで塔を駆け下りていくウルとヒルダ。マオだけは一瞬足を引かれたように立ち止まってから、しかし首を振って駆け下り始める。

 人一人背負って逃げ延びる程に、余裕なんてないのだ。ならば此処で死ぬなら、それもきっと裁きの一つであろうと。取り合えず後であの腹黒坊主は絞めるとだけ決めて、彼女も少年少女の後に続いた。

 

 そうして丁度、3分が経過した後――大きなキノコ雲が上海の町外れにて発生する。本来あるべき歴史とは異なる形で、人類史初の第三の火が観測されるのだった。

 

 

 

 

 

――1900年6月7日、中国は上海――

 

 邪仙の手によって、妖魔の蔓延る魔都と化していた上海。徳壊の敗北と直後に起きた大爆発により、徘徊していた狐狸妖怪は逃げ出した後。

 生き延びた人々はまるで悪夢でも見ていたかのように、その程度で終わっている。屍人や被害者達の残骸は、事前に送り込まれていた人員の手で処理されていた。

 

 今の上海で最も幅を利かせているのは、ニコルが手配していたサピエンテス・グラディオの手勢であろう。直接情報を得られていた彼らは、最も早くに動けている。

 だが他の勢力が遅れを取ったかと言えばそうではなく、舞鬼と言う懐刀が落ちた時点で大きな動きがあると察していた各国は即座に人員を増やしていた。故に上海は、また異なる形で魔都となる。

 

「死ぬかと思ったにゃ。マジで」

 

「大袈裟ですねぇ。傀骸塔の外に結界も張ってありましたし、少し離れれば被害なんてなかった筈ですが」

 

「んな問題じゃねぇんだよ。分かる? 背中の直ぐ後ろで、キノコ雲が発生した時の恐怖。振り返ったら、でけぇ塔が跡形もなくなってたんだぜ」

 

 そんな上海の地に新たに作られた、サピエンテス・グラディオ亜細亜支部の一室。倒壊しかけた宿屋を買い取り、簡易に整備されただけのその部屋に3人は居た。

 大きなベッドが一つと、ソファが一つ。3人で過ごすには狭い部屋だが、まだ決戦が明けた日の夜。一晩も経っていない現状では、上等に過ぎる寝室と言えるだろう。

 

「しかし、皆さんは繊細ですねぇ。あのマオさんですら、小言が煩かった程ですし」

 

「いや、小言で済ませただけでも、姐さんの器デケェって思うニャ」

 

 決戦が終わり、大爆発から逃げて来たウル一行。先に上海に着いて復興指示を出していたニコルに案内されるまま、辿り着いたのがこの小さな支部。

 部屋に辿り着くやいなやに始まったマオの叱責は、肉球を用いた体罰を挟んで、日が暮れるまで続いた。そしてそれが終わると同時に、彼女はこの地を後にしたのだ。

 

「ほんっと、サッパリしてるわ。小言を言うだけ言ったら、じゃあなってどっか行っちまうんだもんな」

 

「姐さんってば、何処に行く気なのかニャ」

 

「さあ、どうでしょうね。気紛れな御仁ですから、新大陸でも目指しているかもしれませんよ」

 

 徳壊を止める。ウルを見届ける。やるべきことをやったのだから、もう一緒に居る理由もない。そんな風に割り切った女傑は、別れの言葉も真面に言わずに立ち去った。

 きっと多くの想いを胸に抱えて、しかしそれを表に出すようなことはなく。今も酒杯を片手に新たな土地を、渡り歩いているのだろう。多くの出会いと、多くの別れを繰り返しながら。

 

「ともあれ、これで全てがお終いです。私の目的も、ちゃんと果たせましたからね」

 

 そう。出会いがあれば、別れも来る。この地を去るのはマオだけではなく、ニコルやヒルダも同じくだろう。

 彼らにも彼らの事情があって、そしてそれは終わってしまった。だから別れが迫っていると、ウルも確かに感じ取る。

 

「そういや、聞いてなかったっけ? お前ら、何しにこっちに来てたんだよ」

 

「ふっふーん。ヒルダちゃんに興味があると? 聞いて驚け見てビビれ――」

 

「あ、いや、お前はいいや。どうせ唯の賑やかしだろうし」

 

「何を!?」

 

 そんな思いを誤魔化すように、馬鹿を言って喧嘩をする。この時間ももう長くはないのだろうと、だから1分1秒を大切に。

 

「とある貴書を探していたのですよ。徳壊が持つと言う話をとある筋から聞きまして。ヒルダ、首尾はどうですか?」

 

「ニャーハッハッハ! このマジカル美少女ヒルダちゃんに、手抜かりはないニャよ。はい、これ!」

 

 ニコルが問えば、笑ってヒルダは胸元から薄い本を一つ取り出す。何処か艶めかしい仕草をしているが、返る少年の反応は失笑。

 ムッとしながらも素直に渡すヒルダから、ニコルは微笑んで書を受け取る。そう、上海天国と言う既に絶版している稀少な本を――

 

「違うわっ!!」

 

「ぎニャっ!?」

 

 受け取り即座に投げ返す。常の慇懃無礼な態度すらもかなぐり捨てて、魔力で強化されたエロ本はヒルダの額に突き刺さった。

 おおうと頭を抱えて苦しむ美少女に、少年達が憐みの視線を向けることもない。とっとと出せと急かすニコルに、ヒルダは仕方がないなともう一冊の本を取り出す。

 

「うげ、気色悪。んだよ、その本」

 

「懐で温める前から、何か温かったニャ。それ」

 

「まあ、人の生皮を剥いで作った表紙ですから。……おや、これはまだ生きてますね。成程、剥いだ皮膚だけで活かす為に、材料となった人間の魂も書に封じているのですか」

 

『げぇ、気色悪っ!? なに、その本っ!?』

 

 ニコルの手にある異質な本は、教会は法王庁から盗み出された3冊の書の1つ。人を材料として作り出された魔本は、見ているだけで他者を不快にさせる禁断の書。

 名を、バルスの断章。星の地脈を操り、星の守護者と言うべき古神を目覚めさせる秘術についてが記された物。アルバートから徳壊の手に渡ったそれが今、ニコルの下にやって来たのだ。

 

「同じ肌色なら、エロ本の方がよっぽど生産的だとヒルダちゃんは思うニャ。エロだけに」

 

「……なあ、それどんな本なの?」

 

「おや、ウルも魔導書に興味が? 実はこのバルスの断章は――」

 

「いや、そっちじゃなくて、その……」

 

「二次性徴も迎えてないガキんちょ共には、エロ本の良さは分からないかー。しょうがないから、ロジャーのじっちゃんへのお土産にするニャ」

 

「……いや、その、俺は気になるって言うか。先っちょ、先っちょだけ見たい」

 

 エロ本で盛り上がる低脳2名に、嘆かわしいと息を吐いてから魔導書に目を通すニコル。騒がしいそんな時間が過ぎて暫く、ウルは漸くにその言葉を口にした。

 

「なぁ、ニコル。……お前ら、もうロシアに帰るのかよ」

 

「先ずはイギリスですかね。そちらでやるべきことが残ってますので」

 

「ヒルダちゃんも、勿論付いて行くにゃ」

 

「…………そうかよ」

 

 返事を聞いて、本当に終わってしまうのだなと。ウルは少しだけ、本当に少しだけ、寂しくなった。

 もっと一緒に居たいのだと、素直になれれば良かったのだが。強がってしまうのが、ウルムナフと言う少年だ。

 

「ふふーん。だったらウルも付いてくるかにゃ?」

 

「………………あー、それも良いかもしれねぇなぁ」

 

 ヒルダの冗談めかした勧誘に、ウルは本気で悩んでしまう。ウルは既に、宿命を終えた後。ならば彼らと共に、旅立つのも良いのではないかと。

 きっとそれは楽しいだろう。腹黒なライバルと、可変型の友人と、共に過ごす時間は幸せな色をしていると思う。だからそれも良いとは、確かに思うのだけれど。

 

 この国はきっと、これから荒れる。上海に入り込んだ各国の勢力による争いは、きっと大きな被害を齎す。徳壊と言う重しが消えた対価は大きい。ならばウルには、勝者としての義務がある。

 今頃は武漢から、こちらに向かって来ている陣と秋華。大連に戻って、漸くに幸せを得た麗々。そんな彼らも、激動の時代に飲み込まれる。そのままならば消え行く誰かの幸福を、ウルなら守れるかもしれない。

 

「いや、やめとく」

 

 だから、ウルはそう決めた。けれどそうと決めたのは、義務や守護の意思だけが理由じゃない。もう一つ、きっとこれが一番大きな理由であろう。

 

 ニコルと居るのは楽しい。ヒルダと居るのは楽しい。2人の仲間と共に過ごせば、きっと自分は依存してしまう。だってウルには、もう目的がなかったから。

 勝者の義務を果たさずに、守護の決意も投げ出して、楽に逃げれば己はきっと徳壊のように腐っていく。それは嫌だ。それだけは嫌だと、確かに心の底から思えた。

 

「おや、よろしいので?」

 

「ああ、お前らと居るのは楽しいけどよ。それだけじゃ、いけねぇだろ」

 

 ああ、そうだ。どれ程に言い連ねた所で、根本の理由は単純だ。甘えたくはない、負けたくはないのだ。この好敵手とは、ずっと対等で居たい。

 仲間として同じ道を歩くのならば、胸に誇れる何かが必要だ。そして今のウルの中には、まだ形を成している物がない。だから今は、此処で別れることにする。

 

 新たな目的を見つけ出そう。胸を晴れる何かを見つけ出そう。ウルと言う少年は漸くに、最初の一歩を踏み出したばかり。ならばきっと、見つけ出せる筈だから。

 

「俺はこの国で、適当に過ごすさ。陣のおっさんにでも、用心棒の仕事でも貰ったりしながらさ」

 

「そうですか。まぁ、貴方が決めたなら、そうされるのがよろしいかと」

 

「そっかー。ちょっと寂しくなるにゃね」

 

「ま、これが今生の別れって訳でもねーだろ」

 

 だから、今はこれで最後。明日の朝には、それぞれが別の道へと。共に向かう前途の先で、きっと笑顔の再会を迎える為に。

 

「また、会おうぜ。次に会う時は、互いに胸を張ってよ」

 

「……ええ、それも良いでしょう」

 

 そんなウルの言葉に、何時になく儚い笑みを浮かべるニコル。その表情に疑問を抱いて、直後にウルは幻視する。高められたその霊力は、まだ微かに残っていたから。

 

 一瞬、幻視した未来。見たこともない銀髪の女と共に、明日を求めて戦う自分の姿。そしてそんなウルの前に立つのは、皇帝の衣を纏った好敵手。

 何もかもを失って、それでも立ち止まることが出来なくて、だから決着を付ける他に道はない。そんな空の玉座に腰掛ける男と、明日を賭けて戦う夢。

 

 そう、夢だ。唯の白昼夢でしかない。だから一瞬後には、何を見たのかすら忘れてしまう。僅かな眩暈に瞳を閉じて、目を開けばもうお終い。そんな夢など、忘れてしまった。

 

「んじゃ、最後の夜だし、派手に遊んで過ごすにゃ! お前ら、寝れると思うなよ♪」

 

 けれど何となく、思ってしまった。きっと一緒に笑い会えるのは、これが最後なのではないかと。だからこそ、その最後の時を大切に。ずっと胸に刻んでいく。

 

「ふむ。上がりですね」

 

「なぬっ!?」

 

「てか、ニコル強過ぎだろ。イカサマしてるんじゃねぇだろうなっ!?」

 

「まさか。単純な運の差でしょう。因みに参考までにですが、イカサマはバレなければイカサマではないんですよ」

 

「やってんじゃねーかよ、おい!?」

 

 夕食を済ませてから直ぐに、色々な遊びをして同じ時を過ごした。この国では有名ではないゲームを幾つも、ウルにとっては初めての経験ばかりであった。それもまた、大切な記憶。

 

「ほーら、喜べ野郎共ー、上海天国の御開帳ニャ!」

 

「うお、マジでやべぇ。すげぇな、おい」

 

「語彙力、無くしてますよ。後、これをあの徳壊が持っていたかと思うと、何というか、その、複雑な気分になりますね。今の彼は大物でしたから、何と言うか余計に。……ああ、これがアルバートが抱いていた感情か」

 

 傀骸塔から盗んで来た上海天国をベッドの上に広げるヒルダ。恥じらいなど欠片も感じぬ行いに、興味津々なウルは本に夢中となる。ニコルは何処か遠い目をして、新たな悟りを手にしていた。そんな馬鹿げたやり取りも、きっと大切な記憶となる。

 

「流石に眠いニャ」

 

「ってか今何時だよ」

 

「ふむ。まだ3時ですね」

 

「んじゃ、寝るかー」

 

「おい、徹夜で騒ぐんじゃねぇのかよ」

 

「知らんニャー。川の字で寝るニャー。うふ、ヒルダちゃんハーレム♪ 私に惚れると火傷するぜぃ」

 

「ねーわ。俺、ソファ」

 

「ええ、ありえませんね。取り合えず私がベッドを使うので、ヒルダは廊下の床でお願いします」

 

「酷い!? あんまりニャぁぁぁっ!?」

 

 宣言通りにソファで横になるウルに、ベッドを我が物顔で独占するニコル。桃色の蝙蝠に変えられて、廊下に投げ捨てられたヒルダ。

 そんなやり取りを繰り広げながら、夜は静かに過ぎていく。そうして余りにもあっさりと、次の朝が訪れた。だからせめて、笑顔で別れようとするのである。

 

「またね!」

 

「また会いましょう」

 

「ああ、またなっ!!」

 

 揺らぐ瞳に、気付かれることはなかっただろうか。少しだけ不安になりながらも、ウルは去っていく二人の背中を見送る。

 また何時か、笑顔で会えることに期待して――――こうして亜細亜を舞台とした宿命の物語は、一度の閉幕を迎えるのであった。

 

 

 

 

 




ウルの出番は暫くお休み。
亜細亜編も、あと1話で終了です。


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第57話 変節

所詮ニコル


――1900年6月8日、???――

 

 ウルとニコル達が別れた日、時はそこから少しだけ巻き戻る。時間とすれば、数時間程。深夜まで騒ぎ立てていた、ウルとヒルダが眠って目覚めるまでの時。

 

 ソファで眠るウルと、入れてくれと煩かったので部屋の床に転がることを許したヒルダ。

 仲間と認める彼らに対し、これから為すのは裏切りだろう。そうと分かっていたとして、ニコルが止まる道理はない。

 

 心が叫んでいる。魂が求めているのだ。だから既に仕込みは済んでいて、後は結果を確認するだけ。ならばどうして、今更に止まれる理由があるか。

 

 眠る友らの顔を見る。その気になればこの今に、微笑みながらもその首を切り落とせてしまうのがこの僧衣の少年だ。故にウルが見た白昼夢の光景は、このままならば必ずや訪れる未来である。

 

「くくく、ああ、本当に、どうしようもない男だ」

 

 小さく呟いて、懐から硬貨を取り出す。占領したベッドには、自分の身代わりとなる人形が。深く観察されれば気付かれようが、数時間ならば誤魔化せよう。

 深夜まで騒ぎ立てていたのだから、別れの時まではまだ時間がある。故にニコルは硬貨を用いて、上海の地から転移する。移動した先は、彼が用意していたアジトの1つ。

 

 其処には包帯塗れになって、眠る一人の老人が。ニコル達を追い詰めた世界最強の術師、その身柄が今この少年の手元にある。

 そうとも、あの爆弾は目晦ましだ。本当なら解除出来た筈の爆弾を起爆させて、その隙に邪仙をこの場へと連れて来た。その行為、裏切りで無ければ何だと言うのか。

 

「…………貴様か」

 

「ええ、ご機嫌はいかがですか、徳壊上人」

 

 微笑みを浮かべる少年に、横たわる半身不随の老人は鼻を鳴らす。ニコルの気質を、己が境遇を、気に入らないと感じながらも受け入れている。

 徳壊は敗者だ。どれ程に力が残っていようとも、敗北をその心が既に認めている。故に好きにしろとでも言わんばかりの態度に、ニコルは暗い笑みを深めた。

 

「望みは何だ? 知恵か、力か、儂の首か?」

 

「その問いには、肯定と否定。その双方を同時に返しましょう」

 

 仲間達の目を誤魔化して、徳壊の身柄を確保する。それには相応のリスクが伴うが故に、同時に求める対価もある筈だろう。

 動けぬ体ながらも目付きを鋭くする邪仙に対し、危険を感じながらもニコルは告げる。ゆっくりとその右手を差し出して、己が求める対価を此処に。

 

「力と知恵だけではなく、貴方の腕を。その助力を私は求めている」

 

「……はっ、儂に手を貸せと謳うか。小僧」

 

 互いの間に、冷たい殺気が渦巻き始める。徳壊が敗北を認めたのは、ニコラス・コンラドに対してではない。ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガに対してだ。

 故に己の身柄を搔っ攫った手際の良さへの賞賛と、あの状況を切り抜ける為の一助となった恩への感謝。徳壊がニコルに対して抱く情など、その程度の物でしかない。

 

「無論、その程度を謳えずして何としますか」

 

 現状はニコルにとって、圧倒的に有利であると言う訳ではない。二重三重に保険は掛けていても、相手は邪仙徳壊だ。いつ食い破られてもおかしくはない。

 さりとて求めるのが助力である以上、相手の体に細工をすると言う訳にもいかない。だからこれ以上の対策は出来ず、故に仕方がないとニコルは割り切った。

 

「私が望むは、貴方が居た場所。そして、その先。ならばどうして、この程度のリスクを前に怖気付く」

 

 そうとも、元よりブレーキなんて壊れている。ハンドルとアクセルしか操作出来ない欠陥自動車。それがあの日からずっと続く、ニコルの精神状況だ。

 そんな男、死んだ方が良いだろう。他でもない自分自身でそう思いながらも、進み続ける事しか出来ないその歪み。壊れ切った心が求めている場所は、世界最強と言うその極点。

 

「……哀れじゃな、小僧」

 

「ええ、自覚はあります」

 

 その歪みを理解して、徳壊が出した結論こそが正当なる評価であろう。そうと分かっていても、先を目指し続ける事が彼の本質。

 進み続ければ、何時か全てを捧げてしまうその求道。その姿に何を見たのか、徳壊は大きく息を吐く。そうして彼は、疲れたように呟いた。

 

「……儂は貴様に拾われねば、既に死んだ身であろう。じゃが、誇りを捨てた訳ではないぞ」

 

「承知しておりますよ。無条件に指示に従って欲しいとは言いません。3つ程、こちらが求める役を果たしてくれれば良い」

 

「1つは貴様への教授か? ならば残る2つを言え。聞くだけならば聞いてやる」

 

 他者に憐みを向けられる程、上等な生き方をしてきた訳ではない。そんな自覚を持つ徳壊をして、憐れむ以外に何と言えば良いのか分からなくなる空虚な少年。

 ニコルの望みの1つをあっさりと受け入れて、徳壊は残る2つを問う。問い掛けていると言う時点で、天秤は傾いていたのだろう。ニコルは微笑み、懐から1冊の書を取り出した。

 

「先ずはこちらを、お返ししますよ」

 

「……バルスの断章。小僧、貴様。本気で何を企んでおる?」

 

「星神を呼んで欲しいのです。……今ではありませんがね」

 

 渡された魔導書を見て、徳壊は僅か瞠目する。彼の視点に立って見れば、それは余りにも理屈が通らぬ行為であるからだ。

 だが、原作知識を有するニコルの視点で言えば話は変わる。この法衣の少年は、ある程度原作に沿った未来を求めていたのだ。

 

「契約です、邪仙殿。私はこれより、貴方の傷を癒す為の助力に徹する。対価として14年後に、裏鬼門御霊会を執り行って頂きたい」

 

「ふん、14年後だと? 西法師のように、気に入らん物言いをする小僧よ」

 

 ニコルと言う異物がある以上、原作崩壊は避けられない。既に影響は大きく、ウルがこの年齢で最終段階のフュージョンに覚醒している。

 今後ニコルが暗躍に徹したとしても、原作通りとはならないだろう。仮に近い状況を作れたとしても、知識がある為に足を引かれる可能性もある。例えば此度、この邪仙の力を見誤ったように。

 

 それでも構わないと言う価値はある。あくまでも保険だ。今の己が失敗した時の為に、次の己へと残す保険。それこそが、徳壊上人を引き込むこと。

 最悪に最悪が重なった状況で、最後に残るであろう数少ない対抗手段。その1つが老人が降臨させる星神であり、そして老人自身もまたその1つ。この時代に敗北を経験した彼は、原作とは異なり腐ることがなくなるから。

 

「……まあ、良かろう。真意は問わん。して、最後の1つを囀るが良い」

 

「では、お言葉に甘えまして。……ある時になったら、ある人物を助けて欲しい。まあ、些細なお願いですよ」

 

 そうとも、彼の存在は保険だ。今も膨らむ、力への渇望。気付いてから暫くは収まっていたそれは、あの戦いの後で悪化した。

 より具体的に言うならば、ウルが徳壊を打ち破った瞬間だ。あの一瞬で運命を覆してみせた彼の姿に、負けたくないという感情が強くなった。

 

 それこそ、クーデルカなんて殺してしまっても良いんじゃないかと一瞬本気で思ってしまった程に。だから、保険が必要だと感じたのだ。

 いざという時に、ニコラス・コンラドを確実に殺せる存在。鈍らぬ限り、この邪仙は実に相応しい存在だ。戦闘においては紛れもなく、世界最強なのだから。

 

「……この徳壊を拾って、求める対価が知識の教授と星の神。そして、些細な願いか」

 

「支払いが足りていませんかね?」

 

「はっ、要求が足りんわ」

 

 ニコルと言う少年が晒した、心の脆い一部分。望まれた願い故にそれを察した老人は、ふんと鼻を鳴らして不敵に笑った。

 気に入らないが、悪くもない。そう思えたが故に足りぬと、告げたのは嘗ての残照だろう。腐って落ちる前の感情を、徳壊は少しだけ取り戻していた。

 

「では、もう一つ――――ウルムナフ・ボルテ・ヒュウガを、見逃してあげてください」

 

「貴様っ!?」

 

「おや、過剰になり過ぎましたかね?」

 

 そんな老人の好意に、ニコルは悪意の混じった挑発を投げ付ける。邪仙の誇りに敗北と言う土を付けた敵を、見逃せと言う言葉は決して頷けるような物ではない。

 だがニコルとしても、此処は退けない。此度の勝利は、幾重もの偶然と奇跡を重ねた結果。もう一度と望まれて、出せるような結果じゃない。だからこれを許容すれば、ウルの命が危うくなる。

 

 ウルならばきっと、そんな想いも確かにある。だが所詮、徳壊の存在は保険でしかない。憧れの更なる輝きを見る為だけに、其処までのリスクは背負えない。

 故に徳壊が直ぐにでもウルを殺すと言うのなら、今此処でニコルが徳壊の命を奪うであろう。そうするしかなくて、そうはなってくれるなと祈りながら、ニコルは内心を覆い隠して語るのだ。

 

「ふふっ、ずっと見逃せとは言いませんよ。そうですね、14年後の裏鬼門御霊会のタイミング。それが最も望ましい」

 

「……四半世紀も生きとらん小僧が、本当に忌々しい奴を思い出させる」

 

 今にも血管が千切れそうな程の形相をした徳壊を前にしながら、その怒気を柳に風と受け流すニコル。睨み合いは数秒続いて、舌打ちと共に折れたのは弱り切った邪仙であった。

 

「ふん。まあ良い。受け入れてやろう」

 

「おや、よろしいので?」

 

「単純な話よ。まだ奴の齢は10かそこらであったろう。まだ若いが故に先がある。ならばより育った時期に、その首級を上げるまで」

 

 その理由の一つには、己の命にそれだけの価値を感じているから。そしてもう一つには、敗北と言う泥を塗られた己の誇りを取り戻すには、相応しい状況が必要だと考えたからだ。

 

「此度は負けだ。これは傷よ。ならばこそ、だ。より実力を付けた奴を、言い訳も効かん状況で打ちのめす。そこまでせねば、この傷は拭えぬわ!」

 

 あれは敵だ。まだ未熟であれ、徳壊と言う男を打ち破った誇るべき敵だ。故にこそ、その彼が最高の状態となった時に倒すことに価値が生まれる。

 言い訳一つ出来ない程に明白に、決定的な敗北を突き付ける。その為には10と4年、待ってやるのも悪くはない。己も牙を磨き上げ、相応しい実力を維持し続けていよう。

 

「それと、舞鬼は返せ。奴は使える」

 

「ええ、分かりました。働き掛けておきましょう。……期待していますよ、邪仙殿」

 

「ふん、ほざけ。悪辣な小僧めがっ!」

 

 此処に、契約は結ばれた。勢力を大きく削がれた徳壊は、しかし個の力は極まったまま。本来起こるべき劣化はなく、未来においても全盛期を遥かに超えた力を振るい続けるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

――1900年9月6日、英吉利はウェールズ――

 

 そうしてニコルは、懐かしいその場所へと戻る。優しい時間を過ごした場所は、もう第二の故郷と呼べる程。

 出発する時には、半年もあれば戻って来ると語っていた。けれど実際には、一年近い時間が掛かってしまっていた。彼女は今、どんな顔をしているだろうか。

 

(戻ってきた)

 

 怒っているだろうか。心配してくれているのだろうか。ただいまと、そう言葉を掛けたのなら、何と返してくれるのだろうか。

 想像するだけで、胸を締め付けられるような痛みを感じる。出会い頭に首を刎ねてしまわないかと、そんな痛みに苦しみながら迷っている。

 

(戻ってきて、しまった)

 

 もうすぐ、終わる。ラスプーチンに与えられた自由時間は終わりを迎えて、再び狗となるのか未来を求めて対立するのか。

 どちらにせよ、微睡の時間はもう終わる。先に進まねばならない。この感情に、決着を付けなくてはならない。それが、少しだけ怖かった。

 

 そう、認めよう。認めざるを得ない。ニコラス・コンラドは恐れている。失うことを、届かぬことを、どの道に進んだとしてもきっと何も残らぬから。

 せめて、貫くべき想いを。しかしそれは、果たして何であるべきか。淡くて痛い女への恋か、優しく辛い母への愛か、熱く吠える友への情か。ああ、何を選んだとしても、何も残らないのは変わらない。

 

 その果ては空虚だ。一時の満足感を得て全てを失うか、全てを失って狂気に酔うか。どちらにせよ、果てに待つのは何もない。断崖の向こうには、何もないのだ。

 

(私はまだ、想えているのだろうか。あの光景を見て、これだけの時間を経て、それでも私は――)

 

 その事実を前に、足が竦んでいる。進むと決めていたのに、進むしかないと分かっているのに、今更に怖くなってしまう。許されるなら、会いたくはなかった。

 そんな風に思ってしまうのはきっと、ここがネアメートの地であるからだろう。地の底より溢れるマリスが、人の心を乱してしまう。だからこそ壊れていたニコルは、自己の歪みを認識してしまった。

 

 後悔している。ネメトン修道院になんて、来るべきじゃなかった。此処に来なければ、きっと恋など知らずに済んだ。此処に来なければ、きっと傷付けることなどなかった。此処に来なければ、何もないまま断崖の先に落ちていた。

 

 知ることは不幸か。知らぬことは幸いか。分からない。分からない。迷ってしまえば、答えなんて出せないけれど――

 

「逢えば、分かるか」

 

「ニコル? どうかしたかニャ?」

 

「……いえ、何でもありませんよ」

 

 顔を見れば、答えは出よう。まだ愛せていたのなら、懐に入れたヤドリギを己に使う。臓腑をこの聖なる杭で貫けば、ニコルの歪みは消え去ろう。彼の人格全てを巻き添えにして。

 ああ、そうだ。顔を見れば答えは出るのだ。一瞥で別に要らないと思えたならば、手にするべきは鋭い刃だ。ガラハッドソードは砕けたまま、熱した鞭も壊れてしまって、だから生きた竜に食わせよう。

 

 魔剣に貪り喰われる末路は、きっととても痛いだろう。少しだけ、気が引けた。けれどだからこそ、確かな決断となるだろう。楽には殺せない。その事実はきっと重要だ。

 

「クーデルカの料理も、久し振りにゃ。今日は何を作ってるのかニャ?」

 

「ええ、そうですね」

 

「ロジャーは相変わらず、変なものばっかり作ってるかニャ? お土産のエロ本、喜んでくれるかニャ?」

 

「ええ、そうですね」

 

「ニコル、何も聞いてないニャね?」

 

「ええ、そうですね」

 

 だから、だろうか。物思いに耽っていたから、感情を持て余してしまっていたから、ニコルはその扉を開くまで気付けなかったのだ。

 

「…………」

 

「え? 何、これ?」

 

 荒らされた室内、首から上のない死体が転がっている。見覚えのある小さく枯れた体は、一時ニコルが師事した老人のもの。

 壁や床を彩る血痕は、既に乾いて久しくある。致死量には至っていないが、それでも軽くはない傷を負ったのであろうと。老人以外の誰かを想い、ニコルは狂ったように笑い始めた。

 

「ふ、ふふ、ははは、はははははは」

 

「に、ニコル?」

 

 奪われた。奪われた。奪われた。奪われた。恋い慕う女を傷付けられて奪われた。其処に感じるのは、男として真っ当な種類の怒り。

 奪われた。奪われた。奪われた。奪われた。殺すべき獲物を、己の糧となるべき存在を。其処にあったのは、歪み切った求道者の憎悪。

 

 入り乱れる感情は全て、負の性質を有したもの。光など一切残らぬ闇で心を染め上げて、ニコルは狂った笑いを繰り返す。許せるものか、許すものかと、荒れ狂う感情を握り拳と共に振るった。

 

「ぴぃっ!?」

 

 怯える小さな蝙蝠の眼前で、小さな拳に叩かれた壁が砕けて散った。崩れ落ちたその向こう側には、この地を出る時にはなかった筈の建物。

 壁を砕いた反動で血に濡れた、己の手で髪を掻き揚げる。真っ赤に染まった瞳でその先を睨み付けて、ニコラス・コンラドは得心する。彼らは愚かにも、分かりやすい旗を掲げていたのだから。

 

「やってくれたなぁぁぁっっっ!! 王立医学会議(ロイヤルメディカルサイエンスソサエティ)っ!!」

 

 真に愚かなのは、己だとニコルは確かに知っている。狙われていると分かっていて、それでも自分の側にいる方が危険だと遠ざけた。ならばこれは、当然の結末なのだろう。

 

 だが同時に彼らも愚かなのだ。王立医学会議は、ニコルの実力の底を知らない。組織に属する幹部であっても、戦いになるのは一人だけ。それでさえ真面に戦えば、磨り潰される程に戦力差が開いている。

 

 亜細亜での旅路を経て、ニコルは更に成長していた。事前の仕込みこそ必要だが、ラスプーチンを相手にしてもそれなり以上の勝機が見込める程に。最上級の魔術師に、準ずる程の力を既に得ているのだ。

 

 対する王立医学会議が有する最高戦力は、アルバートやラスプーチンの足元にも及ばぬ魔術師が一人だけ。それ以外の者らは幹部構成員でも、オカルトの知識が真面にないと言う状況だ。

 

 戦いと言う形になる訳がない。ニコルが動き出せば、誰にも止められずに壊滅する。そんな状況を知らぬとは言え、彼の逆鱗を踏み抜いたのだ。これを愚かと言わずに何と言おう。

 

「…………行きますよ、ヒルダ」

 

「い、行くって……あの、その、何処に?」

 

「先ずは、あの目障りな旗の立つ場所を。その次は彼らの巣穴でもある、ロンドン塔を焼きましょう。……それでも害虫が絶えぬのならば、この国はもう必要ありません」

 

 此処に、結末は定まった。敵対の意思は既に示されて、最後の良心とでも言うべき女も失った。故にこの歪み切った少年が、立ち止まる道理など世界の何処にも残っていない。

 報復を。例え英国全土を憎悪の火で焼き尽くしたとしても、今のニコルはもう止まらない。空虚で哀れな子どもはこれより、真に悪逆なる存在へと成り果てる。断崖の果てを、堕ちていくのだ。

 

 

 

 その夜、倫敦の町は大火に包まれる。後に世界遺産となる筈の倫敦塔は焼け落ちて、直接の犠牲者は少なくとも、数多くの罪なき人々が巻き込まれる事となる。

 そんな大災害の影に隠れて、誰にも気付かれる事なく過ぎ去っていく悲劇が1つ。ネメトン修道院の跡地にて、無数の惨殺遺体が発見されると言う事件が起きていた。

 

 後に気付かれた時には烏に啄まれ、既に残骸と化していた死体の山。その中には、レスリー卿と呼ばれた英国貴族の姿もあり――王立医学会議の指導者であった彼の骸には、余りにも恐ろしい体験をしたかのような形相が刻まれていたと言う。

 

 

 

 

 




漫画版クーデルカ編では遂に主人公力を完全に失って、FOEと化すニコルであった。

実際、漫画の描写的に今のニコルと戦いになるのはドゴールくらい。
そのドゴールでさえアルバートやラスプーチンより弱そうなので、まあ結果はお察し。フォモールの巨人召喚がワンチャンである。



此処までで書き溜め尽きたので、暫く更新を停止します。
次回更新は、漫画版の最後まで下書きが出来てから。半年くらいで上げられれば良いけど、また年単位掛かってしまうかもしれません。




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