林檎の木に桜の花が咲く頃に 上編 (いいいいりりりり)
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林檎の木に桜の花が咲く頃に 上編


この小説はフィクションです。
考察を交えながらお楽しみください。


 プロローグ

 

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ…

 

 病室に、永遠のごとく響くタイピング音。

 

 稼働式ベッドで背もたれを作り寝そべってただ文字を打つ私に、窓から少し温かい風がカーテンをつたって私に話しかける。

 

 私はもうすぐ人工呼吸器をつけなければならなくなるらしい。

 

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ…

 

 私は打ち続ける。

 

 私に残された時間はもう少ない。

 

 もうすぐ人工呼吸器をつけなければならなくなるらしい。

 

 そう、もうじき私の命は尽きてしまうのだ。

 

 心残りとしては、あの桜が満開になるところを見てみたかった。

 

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ…

 

 春がやってくる。

 

 風になびくカーテンの隙間から、中庭の桜の木が顔を出す。

 

 蕾が沢山芽生えているその木が、新しい生命いのちの気配を感じさせる。

 

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ…

 

 これは、私の最期の物語である。

 

 これが私の作品の中で最大ヒットとなったのなら、私は偉人になるかもしれない。

 

 なったら、バカンスにでも行くことにしよう。

 

 きっと楽しいだろう。

 

 え、私はもういないだろうって?

 

 …どうだろうな。

 

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ…

 

 カチ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この物語は、一種の遺言のようなものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第一章 ふたりのこと

 

 

 ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

 アスファルトを打つ雨の音。

 

 アスファルトを打つ直前の雨たちに打たれ、膝を着くひとりの少女。

 

 その少女の腕の中に横たわっている少年。

 

「ゆうき…どうして…。」

 

 少女が泣きながらもがき、苦しむようにそう訴える。

 

「…大丈夫さ、いつになっても君の心にはきっと僕がいる。そう信じてる。」

 

 少年は優しいまなざしで少女を見つめながらそう答える。

 

「やだぁ…やだよぉ…。」

 

 少女の叫びも虚むなしく、少年の命は尽きる。

 

「ううぅ。これ泣けるよなぁ。」

 

 そして、成人男性の唸うなり声が聞こえる。

 

「そうなのか?」

 

 もう10回はみているであろう映画をブルーレイとやらで視聴している男に私は問いかける。

 

「何が社会現象なんだか。」

 

 パソコンとにらめっこしながら私は独り言をボソリとこぼす。

 彼が視聴している映画は、昨年大ヒットし、旋風を巻き起こした話題作ベストセラーで、「この作品で泣かない人はいない!」とコメンテーターやらネット民らが口ぐちに太鼓判を押す作品である。

 

「この映画の良さを分からないなんて、人生損してるぜ?」

 

 呆れたようにそのやつれた目を私に向けながら物言いをする彼は、小説家である私のマネージャーを務めている吉野一樹よしのかずきである。

 気の抜けた声、ほんのり茶色がかった髪色、はっきりとした骨格と眉が特徴的だ。

 そして私の家だというのにテレビの前で胡座あぐらをかき、鼻をほじっているという大きな態度。はて、これはマネージャーというのだろうか。

 

「そんな一本の映画で人生が良くなるもんなら、人生なんて大したことないな。」

 

 絶賛執筆中の私に向かって話しかけてくる度胸のいい彼に対して私は言い放った。あくまで今は仕事中であり、彼に付き合っている暇はない。

 

「あれ?もしかして、もしかしちゃって、嫉妬してらっしゃる?同年代作家として。」

 

 この映画を手掛けたのは私と勤めている出版社が同じで私と歳としが近い一人の小説家だ。その作家のデビューは私より8年ほど遅い。だがしかし、デビュー作にも関わらず、発行部数70万達成、映画化、海外でリメイク版が作られるなど、天才としか言えんばかりの功績を残している。

 

「そういうことじゃない。忙しくて見てらんないんだよ私は。」

 

 彼が私にこんな物言いができる理由は10年ほど前までさかのぼる。彼は大学時代の学部仲間で、唯一友達と呼べる関係であった。私は大学に友達を作るために入ったわけではないので、自分から話しかけに行くことは学生には最小限にしていた。そのため、大学で私に話しかけてくるのは何かと私に絡んでくる彼くらいしかいなかった。彼はやたらと一人でいたがる俺を気にかけてくれていたようで、それからは腐れ縁と言わんばかりの付き合いである。

 そんな彼と私がこのタッグを組んだのは、大学3年生の頃。私に中学からの夢である小説家になれるチャンスが巡ってきたときに、丁度彼が進路を迷っていたので一緒にやってみないかと誘ってみたところ、あまりそういうのに興味がなそうな彼が案外乗り気で同意したのがきっかけだ。

 

「とか言って、さっきから1行も進んでないじゃねーかよ。」

 

 最近、なかなか次のフレーズが思いつかないのが悩みである。3日前からこの調子で、ここまで筆ひつが進まないのは小説家として恥である。

 10年ほど前、私の処女作はなかなかに売れ、好評だった。仕事が山積みで人生の絶頂に立ち、マネージャーの彼と二人でバカンスの予定を立てたほどだ。しかし、注目されていた第2作目はどの年齢層にも受けない作品、いわゆる駄作ださくとなってしまい、好評どころか酷評。これまで私が書いた全7作品のうち、世間一般に受け入れられたのはデビュー作のみとなってしまい、どんな作品を書けばいいのか彷徨さまよって今の有様に至っているのである。

 

「このままじゃバカンスどころか日常生活もままならないしさ、お願いしますよ。サイコパス作家さーん。」

 

 『サイコパス作家』。その異名がついたのは第3作目を出版したころ。

 理由としては、物語の主人公が報われなさすぎるシナリオ、作中で大量殺人が起こる、極め付きにはバットエンドという3つがあげられる。いくつかのマイナーな雑誌や局の取材を受けさせてもらったり、モノ好きの購入者にはウケたようだが、世間一般の意見としては「どういう思考をしていたらあんな凶器的な作品が書けるんだ。」とかなり引かれてしまったようだ。そして誰かがSNSに私の小説の評価をし、大々的に「サイコパス作家、現る。」と投稿、宣伝、拡散され、世間では私の名前を聞けば、「ああ、サイコパス作家のことね。」と理解されるほどになってしまった。ある意味有名になったということではあるが、私の本意ではない。

 

「わかってる。わかってるんだけども。」

 

 彼の生活は私にかかっているといっても過言ではない。彼の矛先が私に向くのは当然のことだった。

 

「まあ息抜きにでもこれ、受けてきたらどーよ。」

 

 彼はテーブルに置いてあった1枚の冊子をいつまで経っても笑わない私に向けて渡してきた。

 その冊子を開いてみると、たくさんの細かい文字がゴシック体で書かれていた。

 

「息抜きではないだろこれは…。」

 

 そこに記載されていたのは健康診断の文字。

 

「ヒロムももう年齢そこそこ行ってんだから、お勧めするわ。まぁもちろん俺のためでもあるんだけどな。」

「あぁ、それもそうだな。」

 

 言い忘れていたが、私の名前は結城広夢ゆうきひろむ。一人暮らしをしていて、祖父母は幼いころに他界、両親には3歳の時に交番の前に捨てられたと聞いている。それからは、当時なかなか子供ができなかったという里親に育てられた。そこそこ裕福な家庭で、愛情を持って育ててくれたので非行に走ったりはしなかった。両親のことについて話を聞いた時は、自我が芽生えた後で少々虚無感に襲われたが、実の両親に対する憎悪はおろか、むしろここまで育ててくれた義理の両親たちに頭が上がらなかった。

 

「お前のおじさんとおばさんも心配してるだろうよ。」

 

 私のこの家庭環境を第三者で知っているのは彼と出版社のごく一部の人物だけである。

 

「確かに前にも心配メールが来てたような。」

 

 義理の両親からはちょくちょく連絡が来る。スマホを手に取り、メール一覧を眺めていると、後ろから「おっとっと」という声が聞こえた。

 

「んじゃ、俺はもう帰るぜー。」

 

 振り返るとそこには薄っぺらいリュックを背負った彼の姿があった。どうやら靴を履くのに苦戦していたらしい。彼はスニーカーの踵かかとを踏んでいる。

 

「もう帰るのか?」

「そんなに居て欲しいのか?」

「そういうわけじゃない。」

 

 彼は時々、というか常にこういう冗談を言う男である。

 

「かわいい娘が待ってるかんな。あいつ俺が帰るといっつもおとーさーん!って言って駆け寄ってくるんだぜ?可愛いだろ。」

「はいはいそうですね。またな。」

 

 私は彼の惚気話?をサラッと流して彼を見送った。

 ばたん、と扉が閉まる音が薄暗い部屋に響く。17時だというのに、もう白い月がモヤに身を潜めながら顔を覗かせている。12月もようやく始まったという頃で、孤独な部屋にはヒーターの温かみのあるゴーという音だけがこもる。

 

「もうこんな時間か。」

 

 彼には、3歳の娘がいる。その娘さんを直接見たことはない。ただ私は実を言うと子供に興味があったりする。何に対しても無邪気で、明るく、素直な生き物、私にもそんな時があったなんてにわかには信じがたいものである。

 カーテンの前に立つと、あるはずのない窓の隙間からスースーと冷気が漏れてくる。カーテンを閉め、ピリつく寒さを肌に感じながらテレビの前のソファに腰をかけた。そしてテーブルに置かれた冊子を手に取り呟く。

 

「明日にでも行ってみるか。」

 

 もちろん息抜きにはならないが、最近時々右胸が痛む時がある。それが気になって執筆に影響が出てしまったらどうしようもない。

 

「あ。あいつまた忘れてったな。」

 

 テーブルの上に彼が忘れて行った映画のディスクが置いてあった。彼はよくこうやって私の家に忘れ物をしては後日に取りに来る。

 私はなぜかわからないが見てみようという気になってセットし、ポチっとボタンを押した。この映画のタイトルは『こんな夜に君は』というものだ。悲恋を描いたものであり、私の作品とは作風が全く違う。

 

「70万部なんて夢だよなぁ。」

 

 私のデビュー作は確かに売れて映画化の話は顔をのぞかせていたものの、結局目標の20万部を年内に超えられず、打ち消しとなってしまった。

 ちなみに10年経った今の累計発行部数は30万部程度である。

 

「やだぁ…やだよぉ…。」

 

 すっかり暗くなってしまった部屋に、雨の打つ音が響く。

 

「うぅ…泣けるなぁ。」

 

 さっきまで毛嫌いしていた作品で私は涙を零してしまった。

 その夜は、私の鼻水をすする音だけが部屋に響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二章 大きな林檎

 

「ヒロムさんは、ステージⅣフォーです。」

 

 翌日、健康診断を受けに都内の病院に出向いた私は、医師から思わぬ宣告を受けた。

 

「…ぇ?」

 

 あまりの唐突さにか細ぼそい声が漏れる。

 

「ほかの場所にも転移していて、持って5か月というところでしょうか。」

「…え。」

 

 健康診断の結果は、最悪中の最悪であった。

 結果は肺癌。進行は著しく、手術の範囲外らしい。

 頭が真っ白になる、という感覚を生まれて初めて感じたような気がした。本当の両親ではない、と義理の両親から告げられたあのときでもこんな感覚は存在しなかったから確かなはずだ。医師からの話に現実味がまだ持てない今でも、自分の顔を鏡で見てみれば絶望の色で満ち溢れているだろうなと心の底から思った。

 

「な、治らないんですか?」

 

 何とか踏ん張り、生気を取り戻した私の顔の一部がようやく動いた。

 

「そうですね、非常に難しいです。確率はゼロに近いと思われます。」

「…そうですか。」

 

 私はようやく現実を受け止めたのか、それとも現実を客観視しているのか分からないがこれといって感情がなかった。

 

「ただ、このような治療法がございましてねー#$%”&$%#%#$&’$%’%$%$…」

 

 先生は人事ひとごとのようにしゃべり始める。そして私も人事ひとごとのように話に耳を傾けた。

 案の定、先生の言葉もまともに耳へ入ってこなかった。馬の耳にも念仏、とはこの感覚なのだろうか、今日は初めての感覚が多いな。と吞気のんきなことまで考えるようになってしまった。

 聞きたくないわけではない、まだ私の身に何が起こったのか理解できないだけである。

 

「ヒロムさんもお気持ちはお察ししますが、こちらも全力でサポートいたしますので、生きる気力だけは失わないようにお願いしますね。」

「…ありがとうございます。」

 

 いつの間にか先生の話が終わっていた。

 なぜか重たい体を何とか持ち上げ、待合所の長椅子に腰を下した。そして、少しばかりいつもの感覚を取り戻し、一気に気分が重くなった私はとうとう涙をこらえた。零れそうな涙を何とか抑えた。俯うつむき、丸くなる私をひとりの少女がみていた。まるで車にはねられて横たわり苦しむ野良猫を見ているかのような目で私を見つめる姿が視界の隅にぼやけて見えた。

 涙を無理やり抑え込んだ私は、少女がどこかへ行ったことを確認し、立ち上がって病院を出た。そしてこれからまず、何をすべきなのかを考えた。

 3分ほど時間を使い、とりあえず彼に連絡することに決めた。

 

「おぉ。どうしたんだよ急に。」

 

 彼はいつも通り、少し気の抜けた声で電話に応答した。

 

「健康診断行ってきたんだ。」

 

 私はいつもの調子で彼に話しかける。

 

「あぁ。結構早く行ったんだな。いつも提出期限ギリギリに原稿送ってくるお前らしくもねーじゃねーか。んで、どうだったんだ?」

 

 彼は今から私の口から発せられる言葉の重さを知る由もなく、特に心配せずに冗談を交えながら返事をした。

 そんな彼に私は声のトーンを半音下げて言葉を発した。

 

「…癌だった。」

 

 ただ率直に、単調にそう伝えた。

 

「………………」

 

 この報告が彼をどんな感情にさせたのかは私には分らないが、彼は黙ってしまった。それが意外だった。

 彼のことなら、「なーに言ってんだよ。冗談はよせよ~。」と、お茶らけてからかうのが最初のお決まり文句だと思ったのだが、彼はよほど信じられないのかはたまたショックなのか、しばらく沈黙を保っていた。

 

「…本当なのか。」

 

 その声にはいつもの彼はおろか、私が見たことないような真剣な眼差しで私に問う彼の姿があった。

 

「うん。」

 

 そんな彼に圧倒されて、私は同じように真剣な眼差しをイメージして彼に返事をする。

 

「そうか。またあとで話聞く。」

 

 私に何も応えさせようとはせずいつもの調子で返事する彼に少し違和感を覚えながらも、私は電話を切り、耳からおろしたスマホの画面に視線を向けた。そこには電話番号一覧が表示されており、彼の番号の下には私の義理の両親の名前も表示されていた。

 しばらくそこで立ちすくんで悩んだ後、やはり報告は後にすることにした。

 一瞬、育ててもらった御恩を忘れてしまったかのような邪念が頭によぎったが、私は猫とは違う生き物なので、すぐに塵となった。

 

 しばらくして家に帰った私は、いたって冷静だった。

 それはカーテンを閉め忘れ、冷凍食品を解凍するのを忘れたまま食べ始めるほどであった。

 ふと我に帰り、これから何をしようと考えた。残された時間は限りなく短い。限られた時間を通院を繰り返して終わるというのはとてもじゃないが、私の本意とはかけ離れたものであると考えた。

 しかし、何をするべきかを自分自身に問うても、何も浮かびあがらないのが現状であった。これまで何を生きがいに生きていたのか、それとも何に私の命や魂をかけてきたのか分らなくなってしまった。こう考えてみると、あんなに熱中していた物書きも、さほど私にとって重要ではないのかもしれないと思うようになってきてしまった。私には何もないと、心のどこかでささやく声が耳にまではっきりと聞こえるような気がした。そんな事を考えていると、空むなしくなり、空むなしさを紛らわすために私の生きがいについて深く考えるのだが、なにも出てこないことに空むなしさや憤いきどおりを感じるようになるという悪循環に陥った。

 

 気づけば、朝になっていた。

 閉め忘れていたカーテンの隙間から、紫外線の束を放つ眩しい球体が私を照らしている。どうやら私は、なんとか眠りにつけたらしい。なんだか目が赤くはれているような気がしたが、恐らく昨日一人で虚むなしく夜泣きしてしまったのだろう。

 余命宣告を受けたとて、さほど日常は変わらないかもと考えることをやめ、昨日の私から脱皮した新しい私は日課であるサイクリングに行こうと着替え始めたその時。

 

「おい。」

「うわぁ!」

 

 私1人しかいないはずの寂しい部屋に、2人目の声がした。

 声のした方向に振り返ると、そこには彼の姿があった。

 

「自分で鍵閉め忘れたくせして、なんだよその不審者を見るような目は~。」

 

 彼は顔に似合わないジト目をこちらに向けたまま、溜息ためいきをつきながら話を続ける。

 

「ディスク忘れたから取りに来るついでに病人の顔を拝みに来てみたら、鍵は掛かってねーし、家主は堂々とイビキかいて寝てるしで、無防備にもほどがあんだろーよ。」

 

 彼はあきれながらも口角を上げ下げし、なんだか楽しそうな表情をしている。これがいつもの彼なのだ。

 

「てかここ寒くね?」

 

 彼は腕を組んで身震いしながら「ヒーターつけていいか?」と私に聞いてくる。

 

「あぁ、お願い。ヒーターのタイマー忘れてた。」

 

 私はいつも起きる少し前の時間にヒーターのタイマーをセットして朝暖かい空気で心地よく過ごすのが日課である。いつもはそれをしないと安心して眠れないのだが、それに気づかないほどに昨日は凹んでたのだろう。

 ふと、昨日の少しおかしな彼の眼差しが脳裏によぎった。いったい彼は何を思っていたのだろうか。この際に聞こうと思ったが、その前に彼が口を開いた。

 

「これ。読んだぞ。」

 

 彼の手の中には、私が昨日キーボードの上に無造作に置いたはずの、一枚の死の宣告状の紙切れがあった。

 沈黙を続ける私に向けて彼は続ける。

 

「あと5カ月か。お前、どうすんだよこれから。」

 

 彼のお・前・という言葉にはもちろん、彼自身のことも入っていることは重々承知していた。

 

「まぁそうだなー、まだ現実味がちょっと湧かない所があるから、決められないかな。」

 

 これは私がいま思っている素直な気持ちそのままだった。

 

「んー、そうだよな…あ。バカンスは!?行きたくねーのか?」

 

 彼は「これしかねーだろ!」と言わんばかりの自信とはじけるような笑顔を浮かべながら言った。

 ここでバカンスという考えが出てくるのは、彼らしいと思ったが。

 

「まぁ、行きたい気持ちもあるし1つの案としてはいいんだけど、金銭面はどうするんだよ。」

「んー…そーだよなぁ。」

 

 これまでできなかった事、やりたかった事をやるというのは確かにいい案だが、これに関しては決して売れているとは言い切れない私にとって、非現実的なものであった。

 的を得た意見で否定された彼は少し落ち込んでいる様子だ。

 

「まぁ5カ月って案外長いもんだし、気長に考えればいいんじゃないか?」

 

 私は安直あんちょくにそう答えた。

 あまりにも急に宣告された私にとって、皮肉にもこれ!というやりたいことはないので、このまま暮らしていけばふと思い付くのではないかと軽く考えていた。

 しかし彼はあまり満足いっていないような素振りだった。

 

「…ヒロム。お前、おじさんたちにはこのこと、いったのか。」

 

 彼は急に先の話とは少し反それた話題を吹きかけてきた。

 

「いや、まだだけど。」

 

 いつかはしないといけないものだとはわかっているが、なんだか伝えたらまた義理の両親に迷惑をかけることになってしまうのは目に見えてるので迷いどころである。

 

「早いうちにそれだけはしておいたほうがいいぞ。お前も5ヶ月って言われてはいるが、いつパタンといなくなるかわかんねぇ。そん時におじさんたちが居合わせらんなかったら一番悲しむんじゃねーかな。」

 

 彼は昨日私が想像していたのと同じ眼差しで、じっと宣告状を見つめていた。

 なぜだかその時、私は彼に先日から思っていた疑問をぶつけることはできなかった。

 

「あ、あぁ。」

 

 いつもとはかけ離れた顔つきの彼に圧倒されてしまったのか、私らしからぬ間抜けな返事をしてしまった。

 

「じゃ、俺は出版社のほうにこれ、提出してくるから~。」

 

 私の家を出るときは、もうすでにいつもの彼だった。

 

 のちのち聞いたが、あの宣告状を提出することによって、これから私は仕事という縄に縛られずに生活できるらしい。

 生憎あいにく、彼は私以外の作家の担当を務めることになってしまったが、彼も合間を縫って私の世話やわがままに付き合ってくれるらしい。「ありがとう」と電話越しで彼に伝えると彼は「仕事上の付き合いだけどな」と冗談を交えていたが、我ながらいい友を見つけたかもしれないと思った。

 

 後日、病院に通うことになった私は都内の病院へ出向いた。

 

「結城広夢ゆうきひろむさーん。」

 

 院内に少し色どりのある声が響いた。

 何かと説明されて抗がん剤治療を療法に選んだ私は、治療部屋に呼ばれた。個人部屋ではなく、背もたれがくの字に動くベッドが幾つか並んだ開けた場所で、クーラーが少し肌寒いと感じるほどにたかれた部屋だった。そこには私と同じような症状を抱えていると思われる人が数人おり、少し緊張というものが緩んだ気がした。

 

「ここにお座り下さい。」

 

 少し年がいっている小太りな看護師に誘導され、椅子に座り、治療が始まった。少し時間がかかるといわれていたので、私は何度も読み返した自分の小説を持ってきていた。その本をペラペラとめくって、適当なページで止める。そこから読み始めるのが自分自身の楽しみだったりする。

 

「それ、知ってます。」

「…え?」

 

 誰も知り合いのいないこの部屋で話しかけられたのが私なのかと一瞬戸惑ったが、当たりを見回してみると隣に座っている少女はずっと私を、いや、私の持っている本の表紙を見つめていた。

 

「結城ひろむさんの『バベルの城』。」

 

 私のペンネームは、名前の部分が平仮名になっている。

 

「知っているのか。」

「うん。あ、はい。」

 

 長く黒い髪を伸ばし、クリっとした特徴的な目をした少女は、敬語を危なっかしく扱いながら返事をした。その少女をどこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せない。

 ふいに素朴な疑問が浮かんだ。私の3作目以降の作品は、3作目のおかげで注目されていたはいたが評価は作を重ねるごとに降下していき、知っている人が少ないのが現状であった。全7作のうち、一番知名度の低いこの5作目を知ってくれているのはかなり私の文を好いてくれているのかと思った。

 

「読んだことがあるの?」

 

 私は久しぶりに子どもと話すことになり、なんだか緊張していた。引きつった笑顔をしているのが自分でもわかった。

 

「ううん。お母さんが持ってた。」

「あ、そうなんだ。」

 

 私の考えは儚く散った。

 それからは無言が続いてしまったので、何か質問はないかと必死に考えて考え抜いて発言した。

 

「君はいくつなの?」

 

 この質問は下心があるわけではない。仮に彼女が私と腕相撲をしたら音を立てずに腕の骨が折れてしまいそうな、その華奢きゃしゃすぎる体つきからは中学生以下だということは想像できるが、到底年齢を推測することができなかったからだ。

 

「中学1年。」

「そうなんだ。」

 

 中学1年生ということは年齢でいうと12・13歳だということだろう。

 私も決して年齢が高いというわけではないが、こんなに若い子が私と同じ様な病やまいと闘っていると思うととても胸が苦しくなった。

 

「本は、好き?」

 

 本当に何も聞くことがなくなった私は、へんてこな話題しか振ることができなかった。

 

「嫌いじゃない。けど…」

「けど?」

 

 何か言いにくそうにしている彼女から次にこぼれる水滴を私は待ち望んだ。私はこの時間がたまらなく好きだ。雫が垂れ落ちるとき、その最中さなかにどんな揺れ方をするのかとか、落ちた後にどんな波紋はもんを繰り広げるのかを想像するのが楽しくてしょうがない。

 

「みんな本ばっかりくれるの。だから好きじゃない。」

 

 しかしこの楽しみは落ちた後にはなくなってしまうことがほとんどである。

 

「そっか。」

 

 彼女の言う「みんな」というのは、きっとクラスメートのことだろう。彼女はこの病院に入院していて、お見舞いに来てくれた時にそのクラスメート達が渡してくれるのが本ばかりなのだろう。

 本を好きじゃないといわれるのは小説家にとって少々心細いものがあるのだか、経緯が経緯なのでしょうがない。

 

「でも、その本はよんでみたい。」

 

 彼女はさっきからずっと私の手に持っている本を見つめている。

 

「ん?どうして。」

 

 彼女の話は矛盾していた。中でも私のような作家の作風はこの年代には読みずらいものであるのにも関わらず、本が好きでない彼女が読みたいとはどういうことなのだろうか。

 

「お母さんが好きだったから。」

 

 だったらお母さんに借りることは出来ないのだろうか。

 彼女の目に曇りを感じ取ったときにはもう既に時遅し。私の口は動いてしまっていた。

 

「お母さんに借りないの?」

 

 この質問は愚問ぐもんだった、と心の底から思い後悔した。少し考えればわかることだったのだが、あまりこの年代の子とは喋り慣れていないため、とっさに出てしまった。

 

「ううん。もう死んじゃった。それでお父さんがその本捨てちゃった。」

 

 こういう時こそ予想が的中してしまう。 。しかし、彼女は特に重い表情を浮かべずに話しかけてきた。お母さんが亡くなったのはずいぶんと前の話なのだろうか。

 私の心配など気にせず、彼女はなぜだかもじもじして何か言いたそうにしている。

 

「ど、どうしたんだ?」

 

 やはり、さっきの話はまずかったのだろうか。

 

「だから…今度病室にその本持ってきてくれたりしてくれないでしょうか。」

 

 またまた私の心配など意にもせず、いつの間にか敬語を忘れていた彼女は再び慣れてなさそうな敬語を使い、私にオネダリをしてきた。

 そして私は自分の本を読みたいと言ってくれたのがうれしかったのかわからないが、すぐに返事をした。

 

「私の名前は結城広夢ゆうきひろむ。この本の作者です。よかったらこの本を差し上げましょう。」

 

 私も普段あまり使わない敬語で彼女に本を渡しながら言った。

 

「おじさん、冗談うまいね〜。」

 

 彼女は真面目な返答をした私に対し満面の笑みを向けクスクスと笑ったが、冗談を言ったと思われていることより、もうおじさんといわれる年齢になったのかという悲しみを、私はひしひしと抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第3章 わだかまり

 

『バベルの城』とは想像通り、旧聖書の『バベルの塔』という物語を現代風にもじったものである。

 あらすじとしては、同じサークルの息の合わない大学生らが、ある一つの目標に向かって努力をするが、結局は元から持つ根本的な感性が合わなくなり、全員ばらばらになって別の道に進むという何とも煮えたぎらない作品となっている。しかし、最後のシーンでパラレルワールドという別の世界線の物語が描かれている。大学生らの衝突の分岐点の前までさかのぼり、また別の終わり方が書かれている。

 私の中では売れるな、と掴みはばっちりだったのだが、世間に受け入れられることはなかった。私の第5作目である。

 

 私が治療の際に出会った彼女は、よく考えれば私が死の宣告を受け、打ちのめされていた時に私を凝視ぎょうししてきた少女であった。

 治療が終わるまで私が結城ゆうきひろむであることを信じない彼女に対し、私は残り数少ない名刺を渡して彼女を納得させたのであった。

 

 私より早く治療を受けていた彼女は先に治療室を出ていたが、私が部屋を出て待合所に向かうと、彼女は長椅子に座っていた。私に気づいたのか、はっとこちらに視線を向け立ち上がり、駆け寄ってきた。

 

「おじさん!この本ってほんとにもらっていいの?」

 

 これでもか、と嬉しそうな笑みを浮かべて彼女は問いかけてきた。

 

「うん、いいよ。」

「やった~!」

 

 静かな院内に子供の歓声が響く。私は少し周りからの視線に心を痛めながら苦笑いを彼女に向けるが、彼女はそんなこと気にすることなどなくずっと大事そうに私の本を抱えている。その光景に思わずこちらも笑みが溢れそうになる。

 

「カナ。知り合いか?」

 

 不意に、私たち以外の声が聞こえた。その声は野太のぶとく、男らしい威厳のある声だ。

 声の主は彼女の後ろに現れた、髭が生えていて四角い黒ぶち眼鏡をかけた図体のでかいおっさんだった。見た感じの年齢は約40歳だと私は推測した。そして「こ、こんにちはー。」と軽く会釈する私を邪魔だ、とどかすかのように彼女は話し始める。

 

「お父さん!この人ねー、これ考えた人なんだってよ!」

 

 カナと呼ばれる彼女は躊躇ためらい無く彼女の父親と思われる人物に私があげた本を見せびらかしながら楽しげに話す。

 彼女の父親は「なんだなんだ~」とはしゃぐ彼女に微笑ほほえみながら、その手に持つ本をしゃがんでよく見た。しかし、表紙を見ようとしたその数秒の間に男の表情はみるみる暗くなっていく。それに気づいたのか、彼女も表情を曇らせて男を心配そうに見つめ「どうしたの?」と首をかしげる。しかし男は彼女の言葉に耳を傾けることはなく、静かに立ち上がり、こちらに視線を移す。

 

「本名は結城ゆうきさん、でよろしいでしょうか。」

「はい。」

 

 その声は誠実で、まっすぐだった。

 無駄に緊張感の漂ただようこの空気感から、早く飛び出したい。そう思ったのもつかの間。いきなり男は私に頭を下げた。

 

「どうか。もうこれ以上、カナに関わらないで下さい。お願いします。」

 

 何が何だか状況の整理がよく付かない私と男の娘はおろおろし、「頭をあげて下さい。」と必死に連呼した。数秒間、男は無言のお辞儀を行い終わった後、まっすぐな眼差しで私を見つめた。

 

「ええと。理由わけを聞いてもよろしいでしょうか。」

 

 耐えきれなくなった私は、率直な疑問をぶつけた。

 男は疑問をぶつけられ、煮えたぎらない表情で後頭部を右手の指でかいたあとに口を開いた。

 

「…亡くなった妻が、この本を好きだったもので。この子に妻のことを知ってもらうのは、もう少しあとにしておきたいんです。」

「…そうですか。わかりました。」

 

 口頭ではそういったが、わかるわけではなかった。

 そもそも母親のことを彼女が知って悪いことがあるのだろうか。それにしても男の言葉の歯切れが悪すぎて、今でっちあげた話かの様な気がした。そして、何といっても母親が例えどんな形で亡くなったといえ、この少女は常に命の危険に晒されているだろうから、伝えられる時に伝えとくべきことであるはずなのに男はなぜ知られたくないのだろうか。

 

「おじさんと会えなくなっちゃうの?」

「あぁ。そういうことだ。この本は結城ゆうきさんに借りたのか?だったら返しなさい。」

 

 男は少女の手から、本を半なかば強引に引っ張って取り上げ、私に「ありがとうございました。」と返そうとしてきた。よほど母親のことを知られたくないらしい。

 

「いいえ。これは差し上げますよ。カナさんに。」

 

 私は手の平でそっと押し戻す動作をした。

 男の陰に隠れる、まるで死んでしまったペットが土に埋まるのをどうしようもできず静かに見つめるような目をして俯うつむく彼女の顔を見てしまったら、とてもじゃないが受け取ることができなかった。

 

「…。」

 

 男は少し本の表紙を見つめながら、じっと自分の心の中で葛藤しているようだった。少しして、「よかったな。カナ。」と本をまた彼女の手の中に返した。彼女は本を手にするとやはり満面の笑みで大事そうに抱えた。

 

「ありがとうございます。これで失礼します。」

 

 男は少女の手を第一関節部分だけ軽く握って病室のあるほうへ向かった。彼女も付いて行ったが、ちらちらとこちらを向いて、振り向きざまに口パクで何かを私に伝えようとした。

 

「…あ…が…も…う?」

 

 彼女が何を言いたかったのか分らなかったが、悪い気はしなかった。

 

 私は帰宅し、今日のあの親子について少し考えた。

 決して親子仲は悪いようにみえないし、むしろ話してみた感じ父親も優しそうだし娘も素直そうだしでうらやましい限りであったが、父親が何か隠し事をしているのではないかと感じる場面がいくらかあった。

 

「しばらく様子を見てみるか。」

 

 私は2人の関係などを探ってみることにした。

 

 それからというもの、ちょくちょく茶色がかった髪の毛の色をした彼が私の家に顔を出すが、大した会話もなしに帰るという日々が続いた。

 

 そして後日、私はまた病院へと足を運んだ。今日は隣にあの少女の姿はなかったが、変わりなく部屋のくの字ベットに寝そべり、治療を受けた。

 私は残りの人生を自分のために使うことにしたので、まずは今自分がしたいことをすることにした。それはあの親子の謎を解くことだ。何ともムズムズするあの感じがやはり気になってしょうがないのだ。

 

「あのー。」

「はい、どうされましたか。」

 

 近くでなにか作業をしている小太りの看護師に私は恐る恐る話しかけた。

 

「カナさんって女の子いますよね。」

「はい。」

「あの子ってここに入院しているんですか?」

「は、はい。美島佳奈みしまかなちゃんのことですね。3年程前からしてますね。それがどうされましたか?」

 

 小太りの看護りは私の質問を不可解に思ったのか眉を細め、返答をする。

 

「い、いや特に。」

「でもかわいいですよねーあの子。私にもあのクリっくりのおっきい目が欲しいですー。」

 

 煮えたぎらない私の返事は気にせずに今度は目の細い彼女のほうから彼女のことについて話し始めた。話を聞くと、佳奈かなと呼ばれる少女はどうやらこの院内でも看護師や入院している老人らに人気の子供らしい。

 

「あの子いつも元気でほんとにあたしにも元気分けて〜って感じです。」

「は、ははー。」

 

 もはや独壇場になったこの会話に適当に愛想笑いをしておく。

 そしてここで私は一歩踏みきる。

 

「あまり聞きにくいんですけど、あの子って癌なんですか?」

 

 看護師のテンションが上がっているので聞きだせるかなと思い、私のほうから少し声のトーンを下げて、口を開いた。

 

「そうですよ。まぁ詳しいことはあまり言えませんがね〜。」

「そうですか。ありがとうございます。」

「いいえー。」

 

 案外あっさり回答してくれた。そして看護師にはもうこれ以上質問しても答えてくれなさそうなので、これからは気の毒だが本人に聞くことにしようと考えた。

 

 私が治療室から出ると、あの少女が車椅子に乗った老人と話していた。笑いながら話す少女に、我が孫のように見つめる老人。なんだかいい光景だと思い、私の口元が緩む。

 そして彼女は前と同じ様に私に駆け寄ってきた。しかし彼女は「おじさん」と言いかけて、俯うつむいてしまった。恐らく、父親と私が約束をしてしまったことを忘れていたのだろう。

 

「大丈夫だよ。話すくらいなら。」

「ほ、ほんと?」

 

 もちろんダメである。しかし今日は父親の姿はないし、私には聞きたいことがあるので半分だまして話を進めた。

 

「もう本は読んでる?」

「うん!もう読み終わったよー。」

「え、もう?」

「うん、なんだかよくわからなかった!」

 

『バベルの城』は約600ページの長作である。600ページをこの年代の子がすらすらと読めるとは思えない。すさまじい集中力があるのだろうか。そしてその原動力は母親のことを知りたいという気持ちなのだろうか。一心不乱に読んだため内容についてはよく理解できなかったらしいが、スピードの速さには驚いた。

 

「そうかそうか。でもそのペースで読むとすぐ終わっちゃうな。今度またお見舞いに行ってもいいか?」

「え、おじさん来てくれるの?」

「うん。」

「やったー!」

 

 お見舞いの予約も取れたし父親が来るかもしれないので、ここらで話を切り上げた。

 私は初めてこんなに素直な子供と話したかもしれない、と思いながら手を振り帰宅をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第4章 答え

 

「美島佳奈みしまかな…」

 

 翌日私は彼女の病室の前に来ていた。表札にその文字が刻まれていた。お見舞いをしたいとあの看護師に伝えたら、快く承諾してくれた。

 がらがらー、と病室の引き戸を開き、エアコンから流れる温風が少し私の体をなびかせた。そしてベッドに座る彼女がいた。彼女はクラスメート以外の人がお見舞いに来てくれたのが嬉しかったらしく、にこにこしながら足をばたつかせて遊んでいる。

 

「ほんとにきてくれた~!」

「あぁ。これでいいのかわかんないけど。はい。」

 

 私は手に提さげていた紙袋から3冊ほど本を渡した。2冊は私の書いた作品であるが、残りの1冊は私がすっかり虜とりこになってしまった、同期のあの作品である。

 彼女はまたもや本を大事そうに抱えて嬉しそうにしている。

 

「これよくテレビでCMしてるやつだー!」

 

 彼女は紙袋から『こんな夜に君は』略して『夜君よるきみ』を取り出し、興奮していた。

 

「やっぱり知ってるのか?」

「うん!映画館には気になってても行けないからちょうど良かった!」

「そうか。」

 

 自分があげたものでこんなにも喜んでくれることが嬉しいなんて、初めての感覚であった。ただ、1番喜んでいるものが他人が書いた作品だということに複雑さを覚える。

 

「…でもなんでお母さんこの本好きだったのかな。」

 

 彼女は不意に、ベッドに付属でついているテーブルに置かれ、読み終わったという本に目をやる。

 

「さぁな。」

 

 事情を知らない私にはこんな返事しかできない。

 それからは世間話で少し盛り上がり、時計の長針が半分ほど進んだ。

 

「お父さんってどんな人なの?」

 

 頃合いだと思い、すっかりこの空気に馴染んだ私は少し踏み入ったことを聞いてみた。

 

「うーん、優しいけどー、たまに怖い。なんかお母さんのことを聞いてもしつこいって言って話してくれない。」

「そうなんだ。ちなみにいつから?」

 

 私は前の失敗を活かし、母親がいつ頃亡くなったのかを間接的に質問した。

 

「えーっと、9年前?」

「…9年前?そっか。ありがとう。」

 

 私は思わぬ返答に少し首を傾げた。

 9年前なはずがない。なんてったってこの小説は4年前に出版されたものなのだ。またまた謎が増えてしまったが、ここではまだ詮索しないことにした。

 

「また来るね。」

「うん!ばあいばい。」

 

 私はそのあとまた少し他愛のない会話を弾ませ、病室を後にすることにした。

 そしていつもはエレベーターを使うのに今日はなぜか階段を使おうという気になり、戸を閉めた後に一階へと下って行った。

 そのとき丁度、下から誰かが登ってくる音がした。いやな予感がした。それでも引き返すわけにもいかず、ただただ祈って降りて行ったがこういう時に限ってやはりその予感は的中してしまった。

 

「こ、こんにちはー。」

「…どうも。」

 

 その男はすれ違いざまに不審な目を向けながら会釈をした。しかし、すれ違ってからほんの少し経ち、急に立ち止まった男のほうから声をかけられた。

 

「あの。」

「は、はい。」

 

 恐る恐る私も立ち止まり、振り向く。

 

「もしかして、カナに会いましたか。」

「…申し訳ありません。」

「…いえ、いいんです。少し話しましょう。」

 

 怒られるのかと思ったが、近くの自動販売機コーナーへと連れてこさせられた。そこにはプラスチックの青くて長いベンチがあり、そこに2人で座り会話が始まった。

 

「あの子からある程度僕の妻について聞きましたか?」

「あ、はい。そうですね…9年ほど前に亡くなったとか。」

「やはりそうですか、他にはなにか。」

 

 私はそのあと、今日彼女と話したことや今までの疑問をまとめて話した。私の話が終わったことを確認し、今度は俯うつむいて浮かない表情をする男のほうから話し始めた。

 

「こうなることは少しわかっていました。」

 

 男の声は相変わらず威厳のあるものだった。

 

「いえ、最初からこうすべきだったのかもしれません。…僕はずっとあの子に嘘をついていました。妻は、いやあの女は、死んでなんかいません。」

「…え?」

 

 男は驚く私に目もくれず、淡々と話し始めた。

 

「彼女は、男癖の悪い女でした。何度も浮気を繰り返し、それを僕が責めると暴言暴力を振るうのです。そのくせ彼女はカナの前では優しく振舞いました。僕はあの女の横暴で訳の分からない態度に耐えきれなくなり、離婚しようと決意しました。彼女と別居し一切の縁を切りました。親権を僕が手に入れ、2人で幸せに暮らせばいいと思いました。それでも僕はまだ未練があったんでしょうか、あの子の中だけでも、優しくて素敵なお母さんであってほしいと願ってしまったのです。カナはまだ物心つかず、記憶が曖昧な時期でありましたから、それを利用してあの女を交通事故で死んでしまったことにすれば何とかだませるんじゃないかって。そして彼女のものをすべて捨てました。しかし、縁を切ってからしばらくしたある日、家のポストにあの女から一冊の本が届いたんです。どうやって私たちの住所を特定したのか知りませんが、その本が結城ゆうきさんの小説でした。小説を開いてみると、「これ以上関わらないと言っておいて悪いけど、この物語を読んで欲しい。それだけです。」と紙が挟まっていました。それから深夜に少しずつ隠れて読んでいたのですが、その本をあの子に見つけられた時は心臓が止まりそうでした。これはなんの本なのか、と小学生になったあの子が尋ねてきて、とっさに出てきてしまったのが

 

『お母さんが好きだった本』

 

 ということだったんです。」

 

 男は表情を一切変えず、ただ目の前のコンクリートを一点に見つめながらしばらく話していた。

 ある程度話し終わった様子の男に何で私に話そうと思ったのかを聞くと、こちらを向き「すみません。あの子があなたの話をとても楽しそうに話していたもので。」と熱くなったことに対して謝罪をした。

 そしてこれまでの謎がこれですべて解けてしまった。この親子のわだかまりは根本的に親がつくってしまったものらしい。

 

「今までこの話はひた隠しにしていました。いつかは言わないといけないと思っていても、これまで僕とあの子が積み上げてきたものが壊れてしまうのではないかと思い、中々言い出せないままでした。」

「なるほど。…でもやっぱり言ったほうがいいんじゃないですか?彼女だってきっとそのことについて疑念があるでしょうし。」

「…それがなんですけど。」

 

 私の意見に対して男は言いずらそうに下唇を噛みながら少し黙った。

 次に垂れる水滴はどんなものなのか。いつもの癖が出てしまう。少しして、男の口が開き垂れる。

 

「もうすぐ、手術なんです。その手術が成功しない限り、あの子はもしかしたら亡くなってしまうかもしれないんです。」

 

 そういうことなのか。事実を伝えた後すぐに彼女が死んでしまったら、ただ状況を飲み込めずに父親に反抗や不信感を寄せたまま別れを迎えることになる。もしそうなったら、それから一生そのわだかまりを心に抱きながら男は生きないといけない。

 私は救いようがないようなこの状況に返事ができずに頭を抱える。

 

「そこで、結城ゆうきさんに力を貸してほしいんです。」

「え、私にですか?」

「はい!」

 

 突然すぎるお願いに当然私は驚いたが、男は目にもくれずこれまでにない大きな声量で私の目を見つめた。

 

「私に何ができるのでしょうか。」

「僕があの子に事実を告げた後にお見舞いに行ってあの子の心情を聞いてやってくれないでしょうか。僕が話した時、カナは絶対僕に無理に気を使ってしまうと思うんです。それに、娘があなた以上に心を開いている人を僕はみたことがありません。どうかお願いします。」

 

 また深々と男は頭を下げる。

 そんな重要で、かつ本当は父親がやるべきはずのことを私はやってもいいのだろうか。私は静かに葛藤した。でもこの親子に残りの人生をかけることを決めてしまった以上、やりきることを誓った。

 

「はい。わかりました。」

 

 私は決心して承諾をした。

 手術は2ヶ月後らしい。それまでに何とか伝えたいと男は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第5章 愛の形

 

 余命宣告をされてから2週間が経った。

 

「はぁーあ。お前も人に頼られるようになったんか。良かったじゃねーか。」

 

 酔って溜息を吐く彼はソファに豪快に座り、おつまみの焼き鳥をかじりながらそう言い放つ。

 私はここまであった話を、仕事終わりに私の家に寄っている彼にすべて話した。無論ここまであった話というのは、あの少女と少女の父親とのわだかまりについてだ。

 

「そうはいっても、そんな父親みたいなこと俺がやってもいいのかな。」

「いーじゃねーか。人のために行動することはそう悪いことじゃねーんだぜ?」

「そうなのかな。」

 

 私は少々納得いかないが、頷くことにした。

 

「それよりよ、お前おじさんたちに連絡したんか?」

 

 前の会話の如ごとく、彼は急に話を逸らした。

 

「あぁ。そういえばしてないな。」

「はぁ…しとけよ。」

 

 彼は呆れたようにそう呟いた。彼は最近ずっとこんな調子だ。たまに彼らしくない一面を見せるも、そのあと何もなかったかのように明るく振舞う。気にすることではないかもしれないが、少しでも気になることは死ぬまでには無くしておきたいと思い、私は思い切って聞いてることにした。

 

「あ、あのさ。」

「ん?なんだ?」

「最近妙に変じゃないか?」

「…俺がか?」

「あぁ。他に誰がいるんだよ。」

 

 私はこれまで抱いていた疑問をぶつけてみたが、意外な返答が返ってきた。

 

「まぁそりゃそうだが、あーぁ、俺は変なのはお前のほうだと思うけどな。」

「え?」

 

 彼は改まったようにソファに浅く座っていた腰をゆっくりと持ち上げ、姿勢を正した。そしてパソコンの前に座る私に向け、しっかりと私の目を見つめた。

 

「まずだな、なんでそんなに吞気のんきなんだ?お前もしかして、これから5ヶ月間しっかり今まで通り人間的な生活ができると思ってんのか?」

 

 私は急に振られた話に一瞬怖気おじけづいてしまったが、その言葉の意味を深く考えた。人間的な生活、というのは私が今まで通り衣食住、その他娯楽を一人で行えるか否かだろう。

 

「できないだろうな。そりゃ。」

 

 私は当たり前のように吐き出した。

 

「じゃあなんでそんなぼーっと生きてんだよ。明日死ぬかもしれねんだぞ?」

「まぁ、そうかもな。」

 

 確かに正論ではあった。

 ただ、これからの時間の使い方は私の勝手であり、彼に文句を言われるような筋合いはないはずであった。私はそもそもぼーっと生きてきた分際であり、いきなり変えろと言われてもそれはそれで困るのだ。

 次に彼がどんな戯言ざれごとを言い出すのかを考えていたが、そんなものは彼の言葉ですぐに消えてしまうことになった。

 

「お前は自分のことしか考えてねーんだ。はぁ…残されるほうの身にもなってみろってんだ。」

 

 私はその一言で、急にすべてを理解した。先まで考えていた私の考えは強したたか愚見ぐけんであることに気づいた。私は自分自身のことを考えるばかりで、私の死後のこと、彼や義理の両親などの私に関わってきた人間の感情などを蔑ないがしろにしていたのではないかと考え始めた。

 

「…ごめん。」

 

 私はそれしか言うことがなかった。自分の愚かさをひしひしと感じることだけしかできなかった。ただただ自分の甘さを噛み締めていた。

 

「いや、わかってくれたならそれでいい。」

 

 彼は私の愚直ぐちょくさを許してくれた。そして少し声のトーンを半音下げ、また話し始めた。

 

「俺さ、おやじを癌で亡くしてんだ。」

「え。」

 

 私は思わぬ話題に声が漏れてしまった。

 初耳だった。いや、今考えれば彼の身内の話なんて大学時代から滅多に聞いたことがなかった。結婚の報告だって彼が私にしてくれるまでその影すらなかった。もしかしたら私は彼のことを知っていた気になっていただけで、そこまで周知していなかったのかもしれない。

 

「これから話すことは嫁にすら言ってないんだけどな。」

 

 そう言って彼は自分の昔話を語り始めた。

 

「おやじはサイテーな人間だったんだよ。普段は寡黙かもくで何も俺たちに関心を寄せないくせに酒に酔うと俺たちに暴力を振るんだ。母さんは俺の事必死で守ってくれた。そんな母さんが俺は大好きで、母さんに迷惑ばっか掛けてるおやじのことほんっとーに心の底から死んで欲しいって思ってた。でも大学に入って少しして、おやじは癌にかかった。丁度ヒロムと話し始めた頃かな。それからは早かったよ。俺、そん時本当に恨んでたから痩せ細ったおやじのとこに一回だけ、母さんに無理やり連れてこられて顔を出しただけで、俺はお見舞いも何もしてやらずに、死んでくおやじをざまぁみろって思ってたんだ。でもおやじは俺に伝言を残してたんだ。母さんにじゃなく俺にだけだぞ?…なんて残したんだと思う?」

 

 彼は一旦高まった感情を抑えるように、息をのんで少し涙ぐみながら話を続ける。

 

「…『こんな親で申し訳なかった。お前はもっといい親から産まれるべきだった。』だってさ。その言葉を聞いた時、俺は本当に後悔したんだ。本当に伝えたい事を俺はおやじに伝えらんなかった。そん時にはもうすべてを俺は許そうと思ったんだ。そして俺も伝えてぇことが本当はあった…

 

『産んでくれて、ありがとう。』

 

 って。そんだけの事を伝えられなかった。あんときのことを今でも時々思い出す。」

 

 彼はぐすんと話の途中で垂れる鼻水をしまい、顎にしわを寄せながら私に話してくれた。私は相談や悩み事を打ち明けられるのは得意ではない、というかそもそもされない。なのに、これに関してはなぜかすぐに心の中でアンサーが出て、口が勝手に開いた。

 

「そうなのか…お前、そんな辛かったのにこれまで一人でよくこらえてたな。」

 

 私が何気なく放ったその言葉で、彼は大量の涙を零してしまった。彼がここまで泣くところを見たのは初めてだった。

 そして拭いきれない涙を頬に垂らしながら彼は続ける。

 

「だからよぉ…お前から余命宣告されたって聞いた時…ほんとぉに…グス…悔しかった。このままさ、また何もできずに俺はお前の死を見届けるだけなのかって…グス…だから俺はお前になにかしてやりてぇんだ。」

 

 驚いた。こんなにも私の死に対して考えてくれている人がいるなんて。他人がここまで私に想いを抱いてくれていることが純粋に嬉しかった。ありきたりなその思いが私に届いて、心にまで染み渡った。気がつけば、私の頬にも水滴がつたっていた。そしてまたもや勝手に口が開いていた。

 

「…お前は、いてくれればいいんだ。大学生の時、お前がいなければ私に友達なんて呼べる者は今でもいなかった。お前がいなければ小説がこんなにスムーズにかけて、発行部数に一喜一憂することなんてできなかった。お前がいない人生なんて考えられない。本当に…ありがとうな。」

 

 私は初めて心から猛烈に溢れ出てくる感謝を人に伝えた気がした。少々恥ずかしいが、悪くはなかった。

 

「…ぷっ!ははっ!」

「なぁに笑ってんだよ。」

「だってヒロムが泣いてる所初めて見たわ!あーおもしれ!」

 

 彼は私の顔を見てゲラゲラ笑っていた。

 

「…お前の泣き顔だって大層酷いもんだけどな。」

 

 本当に酷い顔だった。目元が真っ赤に腫れて、鼻水を拭く度に擦って膨れ上がった鼻もいいアクセントになっている。

 

「言ってくれんじゃねーか!ほれ!必殺脇の下こしょこしょ!」

「ちょっ!やめろってそこむっ、むりっ!…ははっ!」

 

 大学時代から私の弱点は脇の下のこしょこしょだと彼は知っている。なんだか昔に戻ったみたいだった。

 

 そしてその夜はいい大人が2人してバカ笑いして大泣きした。

 でも、決して恥ずかしがることのない、きれいな涙だった。

 

 私は翌日、彼とも相談してとりあえず一度義理の両親のいる実家に帰ることにした。彼は有給を得て免許を取っていない私のために運転をしてくれた。

 

「一緒に車でドライブなんて、ひっさしぶりだなぁ。」

「それもそうだな。」

 

 高速道路をエアコンをガンガン効かせながら車は素早く走る。

 私の実家は埼玉県にあり、決して大きいとは言えないが、駅から近く立地が良い場所に位置する。私は電車で来ようとしたのだが、彼の一緒にドライブをしてみたいという願望により、今に至る。

 2人でただドライブするというのは大学の卒業旅行以来だった。

 

「そうだ。あそこ、寄ろうぜ。」

「あぁいいねー。いこういこう。」

 

 高速道路を抜け、私たちはあ・そ・こ・の駐車場へと車を止めた。

 

「この店まだやってんだな。」

 

 私たちは大学時代帰り際によく寄った店を訪ねていた。その店の外観はとても営業しているとは思えない、錆びた骨組みに傾いている昔ながらの手書きで大きく「遠山ミート」と書かれた看板。10年前とは違い、周りの建物も高く大きくなり、大きさや風貌はそのままであるが、より一層こじんまりとなった気がした。

 

「あら~。よくきたね~。」

「「こんにちは~。」」

 

 店の中から太っちょなおばさんが暖簾のれんをかいくぐってやってきた。遠山さんだ。温かい店内から出てきた遠山さんは背中から少し湯気が出ていた。

 

「今日は食べてくの?」

「そのつもりです。メンチ2つお願いします。」

「はいよ~。サービスしちゃおうかしら。うふふっ。さ、はいってはいってー!」

 

 おばさんを先頭に私たちは後を追って店内に入る。

 この久しぶりに会ったとは思えないおばさんの慣れっこい対応。彼女が昔、近所で「おせっかいばあさん」と呼ばれていただけの事はある。ただ憎めないこの表情や声、嫌いではない。

 そしてここのメンチカツは少々お値が張るが、絶品だ。ほっぺが落ちるどころではない、ほっぺが崩壊するといっても過言ではない旨さだ。あふれる肉汁と衣のカリッとした食感、それを想像しただけでご飯数杯は余裕である。

 

「おばさん!メニュー変わって無いんすか!?」

 

 懐かしの光景がそのまますぎたことに驚きを隠せない彼が、メニュー名を吊る下げた木の板の数々を見ながら思わず口を開く。

 

「そーだねー。うちはもうしまいだよ。伝統を継いでこのメニューを守ってきたけど、これ以外あたしには思いつかないしねぇ。」

 

 メンチカツをケースの中からトングで取って紙袋に丁寧に入れているおばさんは少し寂しそうに話す。死ぬ前にこれてよかったかもしれないな。

 するといきなり横で考え事をしていた彼が口を開いた。

 

「新しいメニュー考えました!」

 

 あまりにも急すぎる提案だが、彼なりのお世話になったおばさんへの感謝の表れなのかもしれない。彼が唐突に発案したものが『ライスメンチ』である。あらびき肉にご飯をくっつけ、そのまま揚げるという小学生発案といっても疑わないようなものだったが、おばさんは「どうせ閉まるんだし、ちょっとやってみようかしら。」と言って案外乗り気であった。

 

「「いただきまーす。」」

「どうぞー。」

「「やっぱうめぇー!」」

「そうさねー!」

 

 大学時代のいつもの光景だった。

 おばさんはサービスで2つぶんメンチカツを持たせてくれた。

 

「またきてね~。」

「「ごちそうさまでした。」」

 

 腹も満たしおばさんに別れを告げた後、目的地へと向かおうと車に乗った。

 

「またきてね、か。」

 

 私は独り言のようにそう呟く。

 

「おいおい急にそんな悲しいこと言うなよ~。」

「それもそうだな。てかそんなことより窓開けないか?」

 

 メンチカツを合計で4つもらったためひとつは店で食べ、サービス分は家で温めて食べることにした。しかしこれが仇となり、車に脂っこいにおいが充満してしまった。

 高速はもう過ぎたため、冷気があまり入らないように少しだけあけて、エアコンを大量に浴びた。

 大学時代、彼に誘われなかったら私はあの店にも巡り合えなかったのだろうか。ふとそんなことを思い浮かべ、ハンドルを握る彼の横顔を眺めながら、少しだけ彼の存在に感謝をした。

 

 そんなこんなで私は実家についてしまった。車を降り、温暖差に身震いをするも玄関まで足を運ぶ。

 私が実家に帰省するのはお盆ぶりである。今年は皮肉にも暇だったもので、事あるごとに帰っていた。

 

「ただいまー。お、ひさしぶり。」

 

 私は玄関の引き戸を開ける。前もって彼と一緒に来ると連絡をしていたため、義理の両親が玄関まで迎えに来ていた。父は笑顔でただ腰に手を当てているだけであるが、母は「おかえり。ヒロムとカズキ君。」と一声かけてくれた。父が後ろの彼に今気づき、「どうぞ。」と一声呟いた。それに応じて彼が「お邪魔します。」と丁寧に靴を揃えて脱ぎ、一緒に居間へ移動した。居間はヒーターの暖かい空気が充満していて心地が良く、安心感が得られた。彼はうちの両親とは仕事の関係上、何度か対面経験があるためそこまで緊張はしていない様子だ。

 居間の床は畳で、足が短く四角いテーブルが並んでいる。座布団が2人分敷かれていて、2人して星座をして座った。

 母はお茶を出し、父が菓子を並べる。それがいつもの光景だ。

 

「なんで急に帰ってきたんだい?」

 

 落ち着いて4人が席に着いた頃に、一番最初の発言をしたのは母だった。

 私は覚悟を決めて2人の顔をまじまじと見つめた。こうやってよく見ると、母の顔には数年前よりしわがくっきりと見え、たくさんそばかすが付いている。父も同様にシワがあるし、前より頭が確実に薄くなっている。なぜこれまで気づかなかったのだろうか。

 

「大事な報告があるんだ。」

 

 私は出来る限り真剣な表情を浮かべた。それが伝わったのか、両親とも姿勢を正した。だが、私はまだ少し2人に伝えることを躊躇ためらっていた。ここまで育ててもらったのにも関わらず、なにも返せずに私の人生が終わってしまうことに2人は失望するのではないかと考えてしまう。

 

「なんだなんだ?結婚するのか?お相手は誰なんだ?」

 

 義理の父親はいつもの調子で場を和ませようとする。

 

「あなた、なんだったとしてもヒロムの口から言わせてあげなさいよ。」

「す、すまんすまん。」

 

 冗談を言う父に、母が愛想を尽かす。この光景が少し懐かしくて微笑んでしまうが、それでもなかなか勇気が出ない。こんなにも優しい2人に何も返せず終わってしまうのは不甲斐ない。

 

「やっぱりなんでもな…」

 

 私が重圧に押しつぶされ、報告を諦めかけた時、不意に横から肩をガシッと掴まれた。彼だった。

 

「ちょいと一服してきます。」

「え…」

 

 彼は煙草を吸わない。しかし、そのまま立ちあがっていかにも煙草を吸おうという気で玄関へ向かおうとする。その彼の裾を掴み、耳を借りて小声で「どういう意味だよ。」と問いかけると彼も小声で「思いをぶつけるのもは悪くない。そうだろ?」と言って外へ出て行ってしまった。

 これだから彼という人間は憎めないのだ。

 

「で、どうしたんだ?」

 

 早く聞きたくてしょうがない父に私は「驚かないでね。」と前に置き、2人に向かってはっきりと言った。

 

「私はもう残り4ヶ月ほどしか生きられません。肺癌で、余命を宣告されました。」

 

 私はついに言ってしまったと少し焦り、止まった呼吸を元に戻すように一旦深呼吸をした。

 私の報告を聞いた2人は黙ってしまった。2人ともどこを見つめるでもなく、「え…」とか「あ…」とか声にならない感情を零すだけであり、しばらくの間時が止まっているようだった。

 

「本当、なのか?」

 

 最初に時を戻したのは父だった。

 

「うん。肺癌で、手術は受けられないほどに進行してるらしい。」

 

 その言葉を聞いて、絶望したかのようにさっきよりも目を泳がす2人。また時が止まってしまった。

 今度は相当長く感じられた。息を飲む音すらはっきり聞こえるようだった。私がなにか言ってあげないと、と思うが何も言葉が出てこない。

 なんとか「大丈夫だから。」と言おうとした時、覆い被さるように私の言葉が押し付けられた。

 

「…ねぇ、覚えてる?ヒロム。」

「な、なにが?」

 

 今度は母が時間を巻き戻し、その急な問いかけに私は慌てて返事をする。

 

「本当の両親じゃないって伝えたとき、ヒロムはこう言ってくれたの。おかあさんはおかあさんで、おとうさんはおとうさんだって。それは間違いないって…それは……誰もかえられない…し、どんなことが起きようとも…かわらないことだって。あの時ほんとぉに…うれしかったなぁ…。」

「…うん。」

 

 覚えてる。私がまだ中学生の頃だ。受験が終わったあとすぐに告げられたその事実を噛み締めながら、素直に思ったことを母に伝えたんだ。そして今でもそう思ってるに決まっている。

 

「なぁにいってんだぁ。そんなのあたりまえじゃんかぁ。…なぁ…ヒ…ロムぅ…。う…ぅ。」

「…うん。」

 

 横で今にも崩れ落ちそうな母を父はしっかり支えながら、ともに崩れ落ちていく。声にならない嗚咽を唸らせ、私の心を刺激する。

 

「世界一のとうさんって…あん時言ってくれたよなぁ…一生かけて…守りたいって…そう誓ったんだ…ぁ。グス…なのに…こんなの…ごめんなぁヒロム…グス」

 

 小学生の運動会の時、保護者リレーで一位になった父に投げかけた言葉。覚えていてくれたのか。

 

「ごめんねぇ…ヒロム…あなたばっかり苦しんで…かあさん何もできなくて…」

 

 そんなことはない。あんたたちだって、何回も流産して、その度神様を恨んで、やっと授かって大事に育てた命が自分よりも早く逝くことになるなんて、災難だろうに。

 

「かあさんがかかってやりたいよぉ…癌でもなんでもどんとかかってこいだよ。ヒロムがこんなに苦しむくらいだったらあたしが身代わりになってやりたいよぉ…グス」

 

 いいんだってかあさん。私はかあさんが身代わりになって死んでしまう方が嫌だよ。

 

「いーや!かあさんを身代わりになんてさせないぞ?とうさんがかあさんを守らなくっちゃどうすんだよ…なぁ?…ヒロム…ぅ。」

「…うん。」

「…とうさんだって、かあさんとヒロムのために死ねるならうえるかむってやつだな!…そんなこと出来たらとうさんどんだけ幸せだろうな…ごめんなぁ…ヒロム。」

 

 いいんだとうさん。そんなに明るく振舞おうとしなくたって。これまで十分とうさんに幸せにしてもらったんだから。

 

「もういいから…もういいんだ。謝んなくていいんだ。だって2人とも…こんなになるまで育ててくれたじゃないか…だからさ…謝ることなんてひとつもないんだよ?…むしろ2人のためにこれまで何も出来なくてごめん。ほんとぉーに…ごめん…グス…でも…でも…産んでくれた人は違っても…グス…私にどんな試練が降りかかろうとも絶対に変わらない…毎日おいしい料理を作ってくれたかあさんも…どんなに苦しい時でも笑わせて元気をくれたとうさんも…2人ともずっとずっと…

 

 愛してる…最高の両親だよ。」

 

 これまで言いたかった事、ずっと忘れないでいて欲しい事、そのすべてを、私がいついなくなっても後悔しないように言い切った。

 2人には分らないかもしれないけど、悲しみもちゃんと3等分できているのだ。身代わりになってくれてたんだ。

 かあさんが、小学校でいじめられて帰ってきた私をそっと抱きしめてくれた時。

 とうさんが、第一志望の高校に落ちた私を何も言わずに焼肉に連れて行ってくれた時。

 

 誰に何を言われようと両親は世界一で、私はこの家族が大好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第6章 決意

 

 家族の絆が深まってから1週間ほど経った。それからは両親も私の暮らす家に交代で泊まりに来るようになった。両親は実家に帰って来てほしいと言っていたが、都内の病院で治療を受けるので止む無く留守番を交代にして2日ごとに泊まることにしたらしい。

 

「行ってきます。とうさん。」

「行ってらっしゃい。気をつけてな。」

「うん。」

 

 こんな会話をしたのは何年振りだろうか。私が一人暮らしを始めてからは当分「行ってきます」なんて言っていなかった。なんだか懐かしい響きがした。

 

 私は毎日のように病院に足を運んでいた。そして例の彼女とはもうかなり打ち解けていた。あの子は私の本を妙に気に入ってくれる。彼女の父親とは連絡先を交換して、あの事を伝える日にちを決めていた。1月20日だ。今は12月の下旬であり、少々時間はある。

 私が治療室に入ると、今日は彼女が座っていた。前と同様、隣の席に座り話し始める。彼女は私の本を持っていて、作中の疑問点や漢字の意味などを私に聞いてくる。それが1つの日課のようなものになっていた。私にはそれがとてつもなく楽しかった。自分の書いたものを必死で理解しようとする彼女の姿に一種の父性ようなものを感じるようになっていた。

 

 私は彼女の病室に特に何もなくても足を運ぶのも多くなった。今も治療が終わった後、彼女の病室で他愛もない会話を交えながら時間を過ごしている。

 

「おじさん、この木、誰が植えたんだと思う?」

「ん?」

 

 彼女が「おじさんこっち!みてみて!」と呼んできて、窓の外を見つめていた。私も彼女の指が指す方向を見てみる。結露がうっすら張っているガラス越しに彼女が差す場所には蕾がいくらか付いている桜の木が一本そびえ立っていた。

 

「カナが植えたんだよ。」

「そうなのか?」

「うん!」

 

 いかにも嘘のような話だが、彼女は自信たっぷりの返事をする。

 

「どうやって植えたんだ?」

 

 彼女が植えたとしても高さ4m以上ありそうなこの桜の木がたった何年かでここまで成長するものなのか。

 

「カナが入院し始めた時に種をまいたんだよ。えっとー、3年前くらい。」

「種から3年でここまで成長するかよ。」

 

 私は呆れたように言い放つ。それでも彼女は嘘をついている様子もなく、ニコニコしている。

 

「あの木ね、ほんとは林檎なんだよ?」

「は?」

 

 ついに彼女はおかしくなってしまってのではないだろうか。どう見ても林檎の木ではない。つくならもっとましな嘘をつくべきなのではないだろうか。

 

「嘘みたいな話なんだけどさ、カナがあそこにおやつに食べた林檎の種を埋めたんだよ。そしたら次の日気づいたら1mくらいになっててね、自分には何か力があるんじゃないかと思ったんだ〜。」

「…はぁ。」

 

 嘘ではないのかもしれないが、きっと業者か何かが発達済みの木の苗を植えるはずだった場所に彼女が林檎のためを埋めてしまったがゆえに、誤解が生じてしまったのだろう。

 だが、彼女はそのありえない光景をいまだに疑問に感じていないらしい。むしろ自分にそのような超能力があるのではないかと考えている。それもそれで一種の才能なのかもしれない。

 

「おじさん、初詣って行ったことある?」

「ん?…あぁ、あるぞ。」

 

 彼女は話題をがらりと変え、私に尋ねる。私は毎年初詣を彼と一緒に行くのが恒例だったが、彼が結婚して以来の相手は両親であった。

 

「私、行ったことないんだぁ。ちっちゃい時から体弱くて、なにかあったあら怖いからいくなってお父さんに言われるの。」

 

 彼女は外の閑散としている風景を眺めながら寂しそうにそう呟く。彼女の焦点がどこにあるのかは分らなかった。

 

「一緒に行くか?」

「え…いいの?」

 

 彼女は私のほうに振り向き、キラキラとした眼差しで私を見つめる。

 

「お父さんに許可を取ったらな。」

「えー。絶対ダメっていうもん。」

「いーや、説得するからさ。」

 

 私は彼女の願いをなるべく叶えてあげたかった。彼女は病から助かる可能性がある。でも100%でない限り、私とあまり状況が変わらないのであった。

 

 そして年が越えた。

 年越しの瞬間は何かあった時のために実家には帰らず、私の家で両親とともに過ごした。

 

 そして1月5日。彼女の父親を何とか説得し、医者からの外出許可もおり、私たちは硬い石の階段を一段一段登っていた。

 最低限彼女の安全が確保できる、人ごみが少なく歩く距離の短い、都の中心部とは離れたマイナーな神社を私たちは訪れた。彼女の父親は仕事の都合上一緒に来られなかったが、もう既に家族と参拝済みである私のマネージャーが同行し運転をしてくれた。

 

「はぁ…はぁ。」

 

 彼女は久しぶりの遠出で凍いてついた空気を吸うのと、たった10段の階段を登るのが苦しそうだった。彼女のペースに合わせて私と彼は歩き、みんなで少し休憩をした。

 人ごみは少ないといっても、休憩中に階段を目の前で登っていく参拝者だけでも6人ほどいた。

 

「方法、わかるか?」

「うん!今日のために調べてきたの!」

「そうかそうか、そいつは頼もしいなぁ。」

 

 賽銭を目前にして話しかける彼に対して、彼女は元気良く返事をする。彼女は相当張り切ってきたらしい。

 最初は彼に対して距離があったように見えたが、車の移動中に打ち解けて、今では傍はたから見れば2人は親子のような距離感になっていた。

 カランカランと3人同時に鐘を鳴らし、手をたたく音が大きく境内けいだいに響いた。

 

「みてみておじさん!大吉〜!」

「お!すごいなぁ。でもこれみて。大大吉だぞ?」

「えー!そんなのあるの!?ずるーい!」

 

 すっかりテンションが上がりおみくじの結果を自慢してくる彼女に、偶然当たった大大吉を大人気なく見せつけて優越感に浸った。

 

「…小吉。」

「お前毎年小吉だよなぁ。」

 

 私と初詣に行くと、必ず彼は小吉なのだ。

 

「まぁ、波がなくていいじゃねーか。」

 

 これがポジティブ思考というものである。

 

「カズキさんはここに縛って行かないとなんでしょ?」

「そーだ。…よいしょと…はいよ、これでよし。」

 

 良い結果のおみくじは持って帰っても良いというルールみたいなものがあるので、私たちはおみくじを持って帰ることにした。

 

「なにお願いしたんだ?」

 

 階段に向かって神社を後にしようと歩き始めた時、私は彼女に質問した。

 

「えーっとね、違う世界線?ぱりれる?ぱられろ?」

「パラレルワールドな。」

「そうそれ!そこではおとうさんとおかあさんとカナで一緒に幸せに暮らせますようにって。」

「…そうか。」

 

 私の本の内容をちゃんと理解していてくれたことに少し感動し、その儚はかない思いを憂うれう彼女の頭に、ポンと軽く手を置いた。

 

「おじさん、なにお願いしたの?」

「…今度は私の番か。」

「あ、それ俺も気になるなぁ。」

 

 私は2人に問い詰められた。無論、私の願いなどとうに決まっている。しかしここでいうのもこっ恥ずかしいものがある。それでも、何度も問い詰めてくる2人に仕方なく口を開こうとしたそのとき、胸にナイフが刺さったかのような鈍痛がした。

 

「あがぁ…っ!」

 

 声にならない叫びをあげ、私はその場で足を折り、倒れる。

 一瞬その場の空気が氷の息吹いぶきに包まれたかのように限りなく凍りつき、数秒遅れて解けたのが、途切れ掛けの意識の彷徨さまよいの中で理解した。

 

「お………しっ………りしろって!!」

「…じさ…!ど……した…!?」

 

 かすかに2人の叫び声が聞こえる中で、そのまま私は意識を失ってしまった。

 

 

 

 

 

 ピ、ピ、ピ、ピ、ピ…

 

 私の知らない音が聞こえる。

 目を開くと天井があった。知っている天井である。

 口についた肌触りの悪いマスクのようなものが私に起こったことを、まだよく回らない頭にでさえ大まかに理解させた。

 瞬きをしていると、横で物陰が動いている様子がちらりと見えた。

 

「…ヒロム?…ねぇあなた!ヒロムの目が覚めたわ!」

「…本当か!?」

 

 周りがなんだか騒がしくなった。足音がずかずかと近づいてくる振動が床とベットをつたってよくわかった。

 

「人工呼吸器は1週間経てば外しても大丈夫です。いざとなったらこの酸素注入器をお使い下さい。今後とも、無理のなさらないようにお願いしますね。」

「…分りました。ありがとうございます。」

 

 首が稼働することを確認し横を向くと、泣きながら頭を下げる母の姿があった。その母の隣には私を見つめる父がいた。

 どうやら私は助かったらしい。

 

「ヒロム、わかるか?とうさんだ。」

 

 わかる、しかし私は声の出し方をド忘れしてしまった。声を出そうとしても中々かすれた呟きしか出ない。私は必死に伝えようとした。最初は母音しか音にならず苦戦していたが、ようやく聞き取れるくらいのものが出た。両親はただただ「よかったぁ…。」と涙をこぼして手を握ってくれた。

 私はこのとき感じ取った。私は本当にもうすぐ死ぬのだな、と。

 そしてこのとき私は自分の手で、自分の人生の最期を小説として書き留めることにしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第7章 バベルの城

 

  カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ…

 

  一人だけの病室に、永遠のごとく響くタイピング音。

 稼働式ベッドでくの字の背もたれを作り、寄りかかってただ文字を打つ私に、窓から少し温かい風がカーテンをつたって私に話しかける。

 あれから一週間ほど経ち、人工呼吸器が外された。1月の中旬だというのに今日は気温が20℃に近かった。

 

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ…

 

 神社で倒れてからの事を私は覚えていないが、聞いた話によると急激に病状が悪化してしまったらしく、彼の呼んでくれた救急車でここへ運ばれて緊急手術が行われたらしい。何とか一命を取り留めたが、状況は芳かんばしくなくなってしまったようだ。

 人工呼吸器をしていなくても呼吸ができるのは奇跡的なことらしい。だがそれでも持って1ヶ月あるかないかだと伝えられた。

 

 人工呼吸器が外れてからというもの、私は執筆に没頭していた。

 コンコン、病室のドアをたたく音がした。「どうぞ。」と声をかけると、ガラガラと引き戸が開き、親子が中に入ってきた。

 

「結城ゆうきさんこんにちは。ほら、あいさつ。」

「…こんにちは。」

 

 美島みしま親子である。私は笑顔で軽く会釈して、2人に椅子を使うように言った。先まで看病をしていてくれていた母は買い物に出かけていた。

 

「すみません急に押しかけて。…まずは謝ります。誠に申し訳なかったです。この子の病状を心配するばかりで、結城さんの事を考えずに送り出してしまいました。」

 

 男は本当に申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「いやいいんです。知らなかったわけですから。」

 

 正確にいえば教えていなかった。私はこの男はおろか、今私の様子をちらちらと伺っている彼女にすら教えていなかったのだ。

 

「ごめんなさい、おじさんがこんな病気にかかっているなんて知らなかったの。カナがおじさんの大切な時間、奪っちゃってた。」

 

 彼女は自分のわがままで私が一緒にいてくれたと思っているのだろう。

 

「だから、大丈夫だって。奪ってなんかいないよ、なんなら勇気をくれたし、おじさん元気になったよ。」

 

 自分で自分の事をおじさんと呼んでいることに違和感がなかったのはさておき、これは正直な思いであった。彼女が私の本を読んで、意味を理解しようとして私に質問してくれたこと、そして私の作品を好きだと言ってくれたこと。小説を書く本当の楽しさを彼女は私に教えてくれたような気がする。

 

「おじさん、やさしいね。それ、小説書いてるの?もしかして。」

「まぁ、最期の悪あがきってやつだな。」

「…おじさんやっぱり死んじゃうの?」

「まぁ近いうちにな。」

「カナ、おじさんのお見舞い沢山来るね!すごい沢山いっぱーいお話聞かせてあげるからね!」

「…ありがとな。」

 

 無邪気で素直な思いやりに私はなんだか涙腺が緩むが、何とか抑え込む。

 少しして彼女は前のめりになって私の前にあるパソコンを覗きこんできた。それに対して私は「だめだめ」と言ってパソコンの画面の中身が見えないように動かす。

 

「完成したら、一番最初に見せてあげるからお楽しみな。」

「ほ、ほんとに!?」

 

 彼女はさぞかし嬉しそうであった。子どもはいたって単純な生き物である。

 特に彼女はここ3年間この病院で過ごしているため、実年齢と精神年齢にかなり誤差がある。普通、この年齢なら敬語や忖度そんたくを覚えたりする年頃なのだが、彼女には全くそれがない。だがそれが私の心が彼女に動かされてしまう要因なのかもしれない。

 

「トイレ行ってくるね、お父さん。」

「あぁ。」

 

 彼女が父親にそう伝え、病室を後にした。それを確認した後、これまで話を挟まないでいた男は声を小さくして、私にひっそりと話しかけてきた。

 

「まだ、カナに話すことに決心がついていないんです。結城ゆうきさんもこういう状態だと知らないまま無理なお願いをしてしまったことは申し訳ないです。ただ、どうしたらいいものかわからなくて…」

 

 男はあの事を伝えることをまだ躊躇ちゅうちょしているらしい。

 

「いえいえ。そうですね、案外そのまま伝えてみるのがいいかもしれないです。ここ一ヶ月くらい私は自分だけでなく、ほかの人間とも向き合ってきました。本当のことを伝えるのってそう悪いものじゃないなと思えました。」

 

 死ぬ前に本当に伝えたかった事を言いあえたとき、本当に分かりあえた気がした。これまでの想いをすべてさらけ出したことによって、心がなんだかすっきりしたのだ。

 

「…そうですか。そうですよね。今、あの子が帰ってきたら、伝えてみてもいいですか。それでもし何かあったら、助けてもらえませんでしょうか。」

 

 何とか男は決意した様子だった。

 

「もちろんですよ。私はあの子に救われたんですから。」

「ありがとうございます。カナとなにかあったんですか。」

 

 そう言われ、何というのが正しいのか分らなくなり少しの間、口を閉じた。そして目の前に佇たたずむパソコンに目をやり、こう答えた。

 

「いつかこの小説を読めばわかります。」

「…はぁ。」

 

 男が私の言葉を理解し難い様子で間抜けた声を出したとき、彼女が帰ってきた。ついにこの時が来たと男は覚悟をきめて彼女のほうへと体を捻ひねる。

 

「お父さん、どうしたの?そんな怖い顔して。」

 

 男は明らかにいつもと違う、私が初対面した時に感じたあの威厳のある表情で向き合っていた。

 

「いいか。唐突で悪いんだけど、今からカナにお母さんのこと伝えたいと思う。」

「…え。いいの?」

 

 彼女は長年ひた隠しに来てきた父親がいきなり告白しようとしたので、不信感を拭ぬぐいきれていないが、顔つきを変え、真剣に耳を傾けようとする。

 

「いいか…」

「うん。」

 

 それからは淡々と時が進んだ。私は2人の会話に耳を傾けながらも、小説を書き続けていた。

 彼女は泣くことはなく、ただ真剣な眼差しで黙々と話を聞いている様子であった。私は彼女が号泣してすぐに助けを求められることも想定していたが、私が考えていたよりも彼女は大人だったようだ。

 

「…ということなんだ。いままで何度も言おうか迷ってた。でも覚悟ができなかった。ごめんな、カナ。」

「…うん。」

 

 彼女は男から真実を伝えられ、ただ返事をしただけであった。

 

「お母さんはカナが思い描いていたお母さんとは全然違うものだし、まだどこかで生きている。」

 

 死んでなどいないことを聞いても彼女は驚きも悲しみもしなかった。ただ、ひとつだけそっと呟いた。

 

「うん、知ってた。」

「え?」

 

 私もその言葉については耳を疑い彼女のことを見てしまったが、最も驚いていたのは父親であった。

 

「なんだかおかしかったもん。お母さんの命日っていうのを聞いても曖昧あいまいだったし、あの優しいお母さんのもの全部捨てちゃうなんて、お父さんがそんなことするわけない。それでもまだ疑ってたくらいだけど、おじさんの本を見て絶対そうだと思った。ねぇおじさん、あの本が初めて世の中に出たのが初版っていうんでしょ?」

「ん?あぁ、そうだ。」

 

 急に話を振られて拙つたない返事になってしまったが、『バベルの塔』の初版は2011年10月10日である。

 

「お母さんの大好きだった本がお母さんが死んだあとに発行されることなんてないもん。」

 

 おかあさんが亡くなったとされていたのは約9年前で、約4年前が初版の私の本はもちろん世の中に出回っていないということに彼女は気づいていたらしい。

 

「そうか。そうだったのか。ごめんな…ごめん。ずっとしょうもないウソと僕のわがままでカナを苦しませてた。おとうさん失格だよな…。」

 

 男はそう言って涙ぐみながら彼女を抱きしめた。

 彼女は無言で泣くこともなく、ただただ父親の背中をさすっていた。

 

「カナ、お父さんトイレ行ってくるから帰ってきたら病室もどろっか。」

「うん。」

 

 それから少し経って落ち着いた様子の男が娘に話しかける。この病室を出て行ったことを確認して私は彼女に話しかけた。

 

「案外冷静なんだな。」

「そうだね。」

 

 私は執筆をいったん止め、彼女のほうへ向いた。彼女の表情はもう既にいつも通りであった。そして私は彼女がその表情ができる理由を次の一言で知ることになる。

 

「…だってさおじさん、違う世界ではお父さんとお母さんは仲直りして、カナと一緒に幸せに暮らしてるんでしょ?」

「…っ!」

 

 私はその言葉に思わず眉を細めた。そしてそれと同時に、私も彼女を救っていたことに気づいた。でもそれは今、逆に彼女を縛り付けてしまっていたのだろう。いい意味でも悪い意味でも、私の書いた言葉は彼女を成長させていた。

 だから、私は彼女をひたすら抱きしめた。

 現実から目を背けるのは時にはいいが、今じゃない。

 悲しい時は泣いてもいいんだ。

 自分の気持ちを押し込むことが正しいんじゃない。

 気持ちをさらけ出したときに受け止めてくれる人がいればそれだけでいい。

 彼が教えてくれたように、私は彼女に伝えた。

 

 彼女が泣きやんだ後、廊下で待っていた彼女の父がやってきて病室へと帰って行った。

 去り際に彼女は「ありがとう」と口パクで言ってくれた。そのあとも廊下から「おとうさんジュース買ってー。」という声が聞こえた。

 何を割いても失うことのない関係、それが親子なのだ。それが例え、血が繋がって無かろうがなんだろうが引きちぎれないものなのだ。

 

「あ。」

 

 病室の窓から桜の木、彼女いわく林檎の木がよく見える。枝の先に蕾がちらちらと顔を出している。桜の蕾というのは前年の夏から蕾を蓄え始めるらしい。

 

「桜見てんのか?」

「うわぁ!」

「いやドア開いてたから。」

 

 2人が閉め忘れたドアから侵入してきた彼は私の視線の先を見つめた。

 

「もうすぐ咲くな。もしかしてヒロムが死んじまう頃じゃねーのか?」

「あぁ、確かにそうかもな。」

 

 桜の季節に死ねるのはなんだか特別感があっていいかもしれない。

 さっきまで男が座っていた場所に腰をかけた彼を見つめていた私はふとあることを思いつく。

 そして桜の木を指差す。

 

「知ってるか?あれ、林檎の木なんだぞ。」

「…は?お前ついに頭おかしくなったのか?あれから林檎が実るってのか?」

 

 私は不気味に笑って「どうかな。」と呟く。彼は「なんだよこえーな。」とボソボソ口にする。

 彼はその後何かひらめいたかのように突然口を開いた。

 

「あ!そういえば神社でお前が倒れる前に言おうとしてた事ってなんだったんだ?」

「あぁ。そういえば聞かれてたような。」

 

 初詣にいって彼女の願い事を聞いたあと、私の願い事を問い詰められ、それを言おうとしていた時に私が倒れてしまったのだ。

 

「もちろん、彼女の手術の成功を願ったんだよ。」

「はは、長年の付き合いの俺の幸せより1・2カ月付き合いの少女の幸せか~。ま、お前らしいぜ。」

 

 彼はふてくされているのか、おちょくっているのか分らないが、下唇を伸ばして椅子に浅く座りながら言う。

 

「お前はもう幸せだろ。」

「…あぁ。そうだな。」

 

 彼は窓から見える桜の木を眺めながら独り言のようにそう言った。

 結婚して娘も出来て、本当に幸せそうで何よりだ。

 

「俺は、ヒロムに会えて幸せだった!」

「ぷっ!…急にどうしたんだよ。」

「本当だぜ?」

 

 彼は大きな声ではっきりと言った割には照れ臭いように鼻を人差し指でこすりながら続ける。

 

「お前が俺をこの業界に誘ってくれた時、本当は違う道に進もうとしてたんだ。」

「え。」

 

 彼を誘ったとき私は彼が進路が何も決まっていないと聞いていた。だから誘ったのだ。

 

「でも、お前が初めて名前で呼んでくれたんだその時。いつも彼が〜、とかお前〜、とか言ってるヒロムがだぜ?」

「えー?そうだったっけ。」

 

 10年も前のことを思い出せるわけもなく私はポカーんと話を聞いた。

 

「あんときカズキって、初めて呼んでくれた。お前は覚えてねーかもしれないけど、俺はいまでも鮮明に覚えてる。嬉しくて嬉しくて、思わずうんって言っちまったんだ。」

「ははっ。昔っから安直なやつだな。」

 

 彼はその焦点を変えることなく、遠い日を眺めるかのようにただ呟く。

 確かに私が彼のことを名前で呼んだことなど、記憶の限りではない。なぜ私は言っていなかったのだろうか。そもそも人の名前をほとんど名前で呼んだことがない。でもまぁ、たまにならいいかもしれない。

 

「今なら私はいくらでも言える。」

「いいよ別にそんなん。」

「でも嬉しかったんだろ?」

「まーそうだけどさぁ。」

 

 彼にいいといわれても、私が言う気になってしまったんだからしょうがない。本当にカズキにはお世話になったのに名前のひとつも言えてなかったなんて、私はなんてバカなんだろうな。

 

「…カズキ。」

 

「うん。」

 

「カズキ。」

 

「うん。」

 

「カズキ。」

 

「…う…ん。」

 

「カズ…キ…。」

 

「あぁ…。」

 

「ありがとう…カズキ。」

 

「…こっちのセリフだぁ…バカやろぅ…。」

 

 ただ名前を呼ぶということだけでここまで感情が揺さぶられたのは初めてだ。

 なんだかこの余生で初めての感覚を沢山覚えられたような気がする。

 私ひとりではこんな体験は出来なかった。みんなのおかげだろう。

 

 ありがとう。

 

 窓から私たちを包み込むように暖かい風が流れてきた。

 もうすぐ春の訪れである。

 

 

 

 

 

 

 エピローグ

 

 春が来た。

 

 今日は暖かい陽気な天気で、気温は20℃を超えている。

 

 3月の中旬。

 

 桜の花の色ががうっすらと視界の隅に見えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで私の最期の物語は終わりである。

 

 乱暴な終わり方をどうか許してほしい。少々書き始めるのが遅かったようだ。

 

 最後に、私はこの物語で一つの嘘を付いている。この遺言を読んでいる君は分かっただろうか。

 

 私はあの時、彼女の手術が成功する事を祈ったのは確かだが、もう少しわがままなお祈りをしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「美島佳奈みしまかな。あなたの手術が成功したら、どうかこの続きの物語を結んでほしい。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は信じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 例えそれが、林檎の木に桜の花が咲くほどの小さな可能性だったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あとがき

 

 私の最期の作品、いかがだったでしょうか。死ぬ間際に思ったことの全てをさらけ出しました。売れるとは思いませんが、あなたの心に少しでも響いてくれたら本望です。

 あなたが伝え忘れたこと、ありませんか?

 たとえば最愛の恋人、離れて暮らす家族、青春をともに過ごした親友たち。

 人はいつ亡くなってしまうか分りません。

 伝えたいこと、言わなきゃわからないこと、今が伝えるチャンスです。

 それがわかってくれたら、この本を書いた甲斐があります。

 

 追記:累計発行部数100万部の大ヒットを達成いたしました!誠に感謝を申し上げます。そして、この度続編が完成いたしました。3年の年月を経ての発行となります。初版は2019年4月3日に予定されています。

 そのため、誠に勝手ながら今回の発行を境に「林檎の木に桜の花が咲く頃に」という作品名を「林檎の木に桜の花が咲く頃に 上編」に変更させていただきました。ご想像の通り、続編のタイトルは「林檎の木に桜の花が咲く頃に 下編」になります。

 あいつもきっと喜んでいることだと思います。

 

 マネージャー 吉野一樹よしのかずき 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「林檎の木に桜の花が咲く頃に 上編」 

 

 著:結城ゆうき ひろむ

 

 初版:2016年4月2日

 

 21版:2019年1月5日

 

 

 

 

 

 




初めての短編小説、いかがだったでしょうか。
かなり自信のある作品になりました。
少し分かりずらいかもしれませんが、この物語は主人公の書き留めた小説の1部としてご覧いただきたいです。
そして、下編の作成も進めております。これからもどうぞよろしくお願いします!

また、なろうでも投稿しているので、お見知り置きを!
なろうでは、ここでは文字数制限のため投稿できない、本来のプロローグ・エピローグが描かれています。
プロローグ
https://ncode.syosetu.com/n3827ge/
上編
https://ncode.syosetu.com/n3461gf/


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