三千大千世界を駆ける (アマエ)
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#1 虹の階、腕の檻


タイトル=にじのきざはし、かいなのおり

はじまりの分岐、あるいは運命の夜。




 

美しい娘だ。

 

顔の腫れが引いてきて元の顔貌がはっきりした琴葉を見て、童磨はいつもの笑みの裏で格好を崩した。豊かな黒髪と輝く翡翠の瞳をもつ、大変愛らしい娘。童磨が好むのは肉質が良い女であるため、出産を経て味が衰えたであろう彼女は当てはまらない。けれど、それを差し引いても目を惹く娘であった。

 

「元気になってよかった。改めて、親子ともども歓迎するぜ、琴葉。ここでは怖いことは何もない。皆と同じように、いずれ俺が極楽に導いてあげよう」

 

「ありがとうございます、教祖様」

 

包帯だらけの腕で大事に赤ん坊を抱いて、彼女は深々と頭を下げた。高座から向けられる虹色の瞳にただ恐縮して、ろくに目も合わせずに部屋を後にした彼女は、怯える子犬のようだった。

 

琴葉の声が美しいと知ったのは、それから少しして、彼女が赤ん坊の伊之助をあやしているのを見つけた時。青痣が残る横顔が痛ましく、けれど我が子をゆらゆらとあやしながら歌う姿は美しかった。ゆーびきーりげんまんと繰り返し紡ぐ声に、思わず足を止めて聞き入ってしまうほどに。結局、その時は彼女が気づく前に離れたが、翌日には赤ん坊ごと側に侍るよう命じていた。

 

「教祖様」

 

高いばかりではない、甘く僅かにとろみがある音色で呼ばれると、完璧に制御しているはずの顔の筋肉が緩んで笑顔のような表情になってしまう。この不思議な作用は意外とくせになるもので、気づけば四六時中、親子と過ごすようになっていた。

 

琴葉の信頼を得るのに時間はかからなかった。彼女は純心で、可愛そうなほど頭が足りず、童磨が適当に口にする慰めや労りの言葉をすべて鵜呑みにした。伊之助を抱かせてもらうという最大の信頼の証を得たのは、出会って一月が過ぎた頃だった。

 

上弦の鬼として鬼舞辻無惨に奉仕する傍ら、万世極楽教の教祖として数百人の信者をありもしない極楽へと導く。そんな生活を百年以上繰り返してきた中で、琴葉の存在はひときわ鮮やかな栞のようなものになっていったのだ。

 

「ゆーびきーりげんまん」

 

伊之助をあやしながら彼女が歌う。ふわふわした娘が母親の顔をしているのが一際愛らしくて、つい童磨は気まぐれを起こしてしまった。

 

「琴葉、俺とも約束しようぜ」

 

「教祖様とですか?」

 

「そう。小指と小指を絡めてするやつだ」

 

高座から少し身を乗りだして右手を伸ばせば、童磨の足元でふかふかした敷き布の特等席に座った琴葉は、きょとんとしていた。膝に抱かれた伊之助も、まったく同じ表情で見上げてくるものだから、童磨も表情筋を緩ませてしまう。小指だけ立てて揺らして見せれば、琴葉も華奢な小指をそこに絡めた。

 

「うふふ、わかりました。何を約束しましょうか」

 

琴葉は時折、子供を愛でるような瞳を向けてくる。胸をざわめかせるその眼差しが、童磨は少しだけ苦手だった。

 

「ずっと俺のそばにいておくれ。琴葉は一生、伊之助は大きくなって独り立ちしたいと思うまで、ここで俺と過ごしておくれよ」

 

捕まえた小指を逃さないよう、けれど繊細な骨を砕いてしまわないよう加減して、望みを口にする。美しい母子が寿命を迎えるまで、手元に置いて愛でていたい。ただそれだけの望みだった。

 

にこりと告げた童磨の前で、琴葉の顔がみるみる薄朱に染まっていく。おや、と首を傾げる鬼をよそに、彼女は伊之助の腹にまわしている左腕をきゅっと寄せて俯いた。

 

「琴葉、どうした?」

 

「……ずっとおそばにいてもいいの?」

 

「うん、何十年でもこうして隣にいておくれ。俺は甲斐性がある男だ。苦労はさせないし、めいっぱい可愛がるぜ?」

 

「ふふっ、わかりました。それじゃあ教祖様も一緒に歌ってください」

 

上目遣いの翡翠の目元と両頬が赤い。これまで多くの信者の相談や懺悔を聞いてきた童磨でも、初めて見る表情だ。しかし悪い雰囲気ではないため、善は急げと頷いた。

 

「「ゆーびきーりげんまん」」

 

長くを生きてきて初めて歌った歌は、思いの外上手くできたはずだ。途中から何が面白いのかきゃらきゃら笑い出した伊之助も混ざって、音程も何もないものになってしまったけれど、絡めた小指の柔らかさは忘れえぬ記憶として刻まれていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

見られた、と思った瞬間、体が動いていた。時間にして一秒足らず。伊之助を抱いて戸口に立つ琴葉の首に指を巻きつけ、壊れ物を扱う優しさで頸動脈を押さえた。抵抗を忘れた哀れな娘は、薄紅の唇をぱくぱくと動かしたが、すぐに視線が虚になって膝から崩れた。伊之助はとっくに童磨の左腕に収まっており、意識を失った琴葉も右腕で支えてやる。体中に被った血は彼女に触れる前に身の内に吸収したため、可愛い母子には汚れひとつついていなかった。

 

「ふう、危ない危ない」

 

顔色が悪い琴葉の寝顔を伺いつつ、丁寧に床に横たえる。幸い扉の近くは血しぶきが飛んでおらず、床板は冷たそうだが少しの辛抱だ。隣に下ろされた伊之助は動かない母を不思議そうに見ていたが、童磨が腹をくすぐってあやせば嬉しい時の奇声をあげた。

 

「よしよし、いい子だ、伊之助。ここで少し待ってておくれ」

 

鬼は二人に背を向け、床に散らばった食事に手を伸ばす。夜食に選んだのは美しい女の信者だったが、こうなっては味わう興も削がれるというものだ。ぞんざいに肉を胸元にあてて取り込んでいく。口から食べても直接吸収しても、腹に収まれば同じことなのだ。

 

床や壁の血痕も手のひらをあてて吸い上げれば、みるまに証拠隠滅が完了する。童磨は自らの体や室内に何の痕跡もないことを確認し、一人頷いた。

 

「う?」

 

「おや、伊之助。危ないぞ」

 

いつの間にか足元まで這ってきていた赤ん坊が脚に抱き着いている。伊之助は力が強いのか、童磨がそのまま歩いても猿の子供のようにしがみついていた。状況がわかっていないといえ暢気なものだ。お馬鹿さんだな、と首根っこをつまんで顔の前に掲げてやると、母親似の顔できゃらきゃらと笑った。

 

「こんな夜更けに何をしに来たんだろうね、琴葉は」

 

死んだように横たわる女の脇に膝をつき、乱れた髪を顔から払ってやる。普段ならもう寝巻に着替えている時分だが、琴葉は昼間と同じ着物姿だ。食事のため人払いをしていたものの、この親子はいつでも目通りの許可を出しているため、信者らも止めなかったのだろう。今後はカギをかけておこうと気に留めつつ、とりあえず彼女の体を抱き上げた。伊之助とあわせて一抱えの荷物だが、鬼の膂力をもってすればどうということはない。

 

「とりあえず誤魔化す方向でいこう」

 

いつも自分が座っている高座、もとい香が焚きしめられた厚い絹布の山へと移動して、ふたつの荷物を転がす。すぐさま布の海に潜りだした伊之助を好きに遊ばせ、琴葉のほうは子供が人形にするように収まりが良い位置と恰好に変えていく。少しの試行錯誤の後、白い絹と黒髪に埋もれて横向きに丸くなった姿に満足がいった。

 

「……可愛いね、琴葉」

 

肘をゆるく曲げて無防備に手を投げ出しているのが、なんとも可愛らしい。まるで毛足が綺麗な犬が丸くなっているようで、童磨は彼女の隣に肘をついて頭や頬を撫でていた。

 

「むうー、ばあ!」

 

「赤子はもう寝る時間だぜ。俺も寝たふりするから、お手本を見せておくれ」

 

顔中涎まみれにして胸元に乗りあがってくる伊之助をやんわりと押さえつけ、琴葉を真似て背中をぽんぽんと叩いてみる。綿菓子に触れるぐらいの力加減でいいと教えられたのはいつだったか。ほんの数か月の間に些細な記憶を蓄積しすぎて、体の隅々までこの親子に接する仕様になってきている。

 

もぞもぞしていた伊之助が寝息を立て始め、母子の並んだ寝顔があまりに似ているのに笑ってしまう。ふと、童磨は虹の瞳をすがめたまま己の口元に手をやり、緩んだそこを指先でなぞった。

 

「んー?」

 

形良い唇から逞しい首をたどり、左胸に手のひらをあてる。鬼の心臓の強靭な鼓動はいつもと変わらず、胸の奥でざわめくものの正体はわからない。琴葉はどうだろう、と無遠慮に柔らかい胸元に手をやれば、只人の心臓が優しく脈打っていた。彼女も胸の奥によくわからない熱やくすぐったさを抱いているのだろうか。この胸を切開したらわかるか、と考えた瞬間、酷く不快になってその思考を放り投げた。

 

「さっぱりわからないなあ」

 

人形のような表情で独りごち、人間二人に余った絹布をかけてやる。童磨が宙に手をひらめかせれば、室内の灯りがほとんど冷気にかき消され、辺りは薄暗がりに包まれた。

 

 

 

* * *

 

 

 

傍から聞こえる息遣いが覚醒のそれに変わる頃合いで、童磨はぱちりと目をあけた。教祖の間は窓がないため時間の情報は体内時計かその日の予定を告げにくる信者頼みだ。耳をすませると寺院の所々で信者たちの声が聞こえる。もう朝日が昇りきった時分なのだろう。

 

「うぅ、ん……」

 

昏倒から寝入ったためか、起きがけの琴葉は気だるげな呻きをこぼしている。童磨は悪びれず彼女の手を取り、綺麗な指先をちろりと舐めた。ぴくっと震えた人差し指をまるごと咥えて吸ってみると、薄い肌を通して甘い風味が感じられた。

 

「ふぁ、おはよぉ、いのすけ……」

 

「おはよう、琴葉。伊之助はまだおねむだぜ?」

 

童磨が明るい声を出せば、琴葉は一拍置いて飛び起きた。隣で寝ていた伊之助もその拍子に目を覚まし、琴葉の腹に抱きつく。寝起きでも美しい顔を真っ赤にした琴葉の目が、伊之助から童磨、そして童磨が持ち上げたままの右手へと泳ぐ。そこで衣服の乱れを確かめないのが、彼女らしいと思った。

 

「おはよう」

 

「お、おはようございます、教祖様。あの、手を、はなして」

 

「はいはい。すっかり寝坊してしまったなあ」

 

今起きましたとばかりに長い腕をぐっと上に伸ばして背をそらす。人間のように凝り固まる作りではないが、強めに慣らした関節がばきりと音を立てた。白橡の髪を適当に手ぐしでほぐして立ち上がる。ずっと琴葉の視線が追ってきているのがこそばゆかった。

 

「ところで、昨日の添い寝はよかった。また頼むよ、琴葉」

 

「添い寝?」

 

「夜いきなりやってきたから驚いたけど、川の字で寝るのもいいものだなあ。でも次は先に言っておくれよ。夜に不在にすることもあるからね」

 

赤ん坊を抱いた女が目を白黒させるのに、にこーっと完璧な笑いを浮かべて告げた。嘘はひとつもついていない。彼女の恥ずかしがりようから、昨晩の記憶が飛んでいることを確信していた。

 

「やだ、私ったら覚えてなくて、ごめんなさい!」

 

「いいさ、いいさ。俺は気にしていない」

 

結局、琴葉は伊之助を抱いて出ていくまで恐縮していたが、あの様子なら童磨の食事のことなど欠片も覚えていないだろう。その可哀想な注意力のなさが可愛いのだ。

 

また、胸の奥に異物がつっかえたような気がして、上着の裾をたくしあげて胸元を確かめる。爪を伸ばした右手を手首まで突き入れて中を探ってみたが、背中側までかき分けても血肉と骨と臓腑以外に何もなかった。念入りに触れた心臓も、ただ鼓動を刻むだけだ。

 

「……何なんだ、これ」

 

ぎゅるぎゅると血の一滴まで巻き戻って傷が消えても、違和感がなくならない。もう一度、今度は胸を開いて確かめようとした時、朝の予定を告げにきた信者の声がして、仕方なく朗らかな言葉を返したのだった。

 

 

 

 




【登場人物紹介】

童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛(玩)を知って世界が広がった人間性幼稚園児。琴葉と伊之助の健やかな一生を見守りたい。ボディタッチが大好き。でもやましい気は全くない。最近体の調子がおかしいため、親友に相談したら「頭に蛆でも湧いたか」と睨まれた。解せぬ。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。声が美しく歌が上手い。純真で母性溢れる善性の人。教祖様が人間じゃないことはうすうす気づいている。とても怖い夢を見た気がするが思い出せない。

嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく赤ちゃん。お母さんが大好き。童磨のことも好き。そろそろ6か月児、成長が早く、爆走はいはいを身に着けつつある。



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#3 三千大千世界を駆ける


タイトル= さんぜんだいせんせかいをかける

二つ目の分岐、あるいは退路を捨てた日。

*2話目はR18につき未掲載。pixivで見れますが、読まなくても話の流れに影響ありません。




 

それは、いつもと変わらない穏やかな夜の事だった。

 

嘴平親子の隣で寝たふりをしていた童磨は、ベベンと暗がりに響いた音に即座に身を起こした。眠る二人を起こさないよう気配を潜めて高座から降り、僅かな擬態を解いて宙を見据える。

 

天井近くに浮かんだ障子から現れた人影が猫のように軽やかに着地する。ほかに誰かが現れる気配はなく、童磨は少しだけ四肢の力を緩めた。

 

「こんばんは、猗窩座殿。急な来訪だなあ」

 

「それが貴様が飼っている人間どもか」

 

「しーっ、声を落としてくれ。子供が起きるだろう?」

 

短い梅色の髪に無駄なく鍛えられた美しい肉体をもつ男鬼、百年来の知り合いである相手に、にこやかに話しかける。上弦・弐と刻まれた目がまったく笑っていないのに、相手も冷え冷えした視線を返してくるが、これはこの二人のやり取りでは穏便な方であった。

 

燭台ひとつだけの灯りの下、琴葉も伊之助も規則正しい寝息を立てている。彼らと猗窩座の間に立った童磨がことりと首を傾げれば、わざとらしい仕草に入れ墨だらけの顔が歪んだ。

 

チッと舌打ちした上弦の参は、けれど先ほどより潜めた声音で口を開く。空虚で素直な彼らしい対応だった。

 

「あのお方からのお言葉だ。『いつまで引きこもっているつもりだ。小鳥を飼う暇があるなら働け』」

 

「それは手厳しい! 俺がご期待に応えなかったことはないというのに」

 

「……貴様、ここ数か月ほとんど動いていないくせに、よく言う」

 

「いやいや、俺は信者たちに情報収集してもらっているから、ここぞという時以外は出張らないんだよ。俺自身は探索が不得手だから仕方がない」

 

笑顔で応じる童磨に嘘はない。信者に情報収集させているのも、探知系の能力が一切ないのも本当の事。たとえここ半年寺院から一歩も出ていなくとも、人を喰う頻度が月に数回程度に落ちていようとも、鬼の祖に誓って偽りは口にしていないのだ。

 

「あのお方に伝えておくれ。万世極楽教の信者にいくつかの藤の家を見張らせてる。柱が立ち寄れば俺に報告があるから、順次始末するってね」

 

白橡の美しい髪をくしゃりと撫でつけ、生神とあがめられる容姿に似つかわしい表情を浮かべる。猗窩座はそれに心底嫌そうに柳眉を顰め、無言で踵を返した。

 

「琵琶女」

 

ベベン。今一度琵琶の弦が響き、拳鬼の姿が障子の向こうに掻き消える。

 

ぱたりと空間が閉じ、蝋燭で火がおどる音と美しい母子の穏やかな息遣いだけが残されれば、童磨は安心したふりで息をついた。誰も見ていないというのに、人と接しているうちに身に着いた条件反射のようなものだ。ひとつ瞬きをすれば、虹色の瞳から文字が消え、優しい教祖の姿になる。

 

ゆるりと高座へと近づき、琴葉と伊之助の顔を覗き込む。酷い寝相で掛け布も衣服も剥げた伊之助に口元が緩み、むき出しの白い腹を撫でてから寝姿を整えてやった。琴葉は愛らしい横顔をさらして、息子を包むように手足をまげて眠っている。こちらも子供のような寝相で、はだけた袷からこぼれた左乳房と丸見えの下半身に吐息だけの笑いが漏れた。きちんと布をかけてやってから、豊かな黒髪を梳いていると、桜色の唇がむにゃむにゃと文句を紡ぐ。

 

「んん……どぉまさんのすけべ……」

 

「ええー、琴葉、それは酷いぜ」

 

いわれのない罵倒に小声で返し、童磨も再び横になる。明日以降は、なるべく戦いに出かけなければならない。鬼舞辻無惨がわざわざ上弦をよこして働けと命じてきたのだから、相応の戦果を挙げなければ、次は小鳥を処分せよと命じられるに決まっている。

 

(嫌だなあ)

 

童磨の賢い頭は、すでに己が処罰を免れない状態になっていると理解している。主人の命令は絶対であり、すべての鬼の存在意義は無惨の手足となってその望みを叶えることだ。だというのに、短い間に、たとえ無惨の命であってもしたくないことがいくつもできてしまった。

 

(そうそう招集をかけられることはないと思うけど、あの方を前にしたら、思考を分割して読まれないようにしないと)

 

ふと逃れ者の鬼のことが脳裏をよぎったが、それは考慮に値しないと目をそらす。僅か二年後には自分も同じくくりに入っているとは、露にも思わず、童磨はもう一度、嫌だなあと呟いた。

 

 

 

* * *

 

 

駆ける、駆ける、右ひざ下が切り落とされても、左足で地面を蹴り、跳躍の合間に新たな脚を生やして走り続ける。

 

「と、父ちゃ……ッ」

 

「伊之助、黙って。舌を噛むし、俺も聞いてる余裕がない」

 

童磨の胸元に赤ん坊のように紐で括りつけられてゆられている子供は今にも泣きそうだ。負けん気が強い性格がそのまま表れた吊り眉もすっかり下がり、翡翠の双眸で必死に童磨を見上げている。なおも言い募ろうとする子供の口元を童磨の背中から伸びた白い手が覆い、広い肩越しに瓜二つの女が目を合わせて首を振った。

 

背中におぶさる琴葉に追手の攻撃が当たらないよう、結晶ノ御子を囮に出す。それも三日月状の斬撃の前にすぐに駄目になってしまうが、ないよりはマシだ。かよわい母子が吸い込んでしまうかもしれない粉凍りは使えない。鬼狩りの剣士を殺すために編み出した技の大半は、この状況では無意味と化していた。

 

(森の外はもう朝日が差してる。駄目だ、二人を日向に放り出したところで、俺がいなきゃ夜になるなり殺される。でも離れないと、俺の所在はあの方に筒抜けだ。どうすれば……)

 

今この瞬間も、童磨の体内をめぐる黒い血はざわざわと殺気を放っている。このまま逃げていても、じきに呪殺される。そうなったら、残された人間二人はどうなるか。想像するだけで目の前が赤く点滅するほどの不快感が押し寄せ、苛立ちまかせに放った冷気が後方の木々を凍てつかせた。

 

(嫌だ。嫌だ。琴葉はまだ25、伊之助なんて7つだ。寿命がつきるまで一緒にいるって約束したのに、こんなところでっ)

 

「きゃあっ!!」

 

琴葉の悲鳴が耳をかすめ、とろりと香しい鉄の匂いが空気に舞う。同時に、どん、と右肩を貫通する感覚に一気に血の気が引いた。見下ろせば、無数の目が生えた刃が肩を貫いている。伊之助の鼻先すれすれの切っ先には、人間の血が付着していた。

 

「琴葉っ!?」

 

足を止めることはできない。距離をつめてくる上弦の壱の気配に追い立てられ、童磨は刀が刺さったままさらに走った。森が途切れる境界線から眩い光がこぼれている。陽の光を恐れる鬼の血が反射的に足を止めようとするが、強く拒めば罰のようにどす黒い液体が口から溢れだした。慌てて片手で抑えたそれが伊之助にかからないよう凍らせながら、木々の影の終わりまで駆けていく。

 

「琴葉、伊之助、今から俺がいいというまで目を閉じて息を止めるんだ。絶対だ、何があってもだ!」

 

重傷だろう琴葉がどこまで従えるかわからないが、他に打つ手はないのだ。両手に鉄扇を広げ、あらんかぎりの力で後方に睡蓮菩薩を、己の体の周りには幾重にも氷の膜を張る。菩薩が手をかざすだけで、瞬時に辺りが死んだ森となり、追手さえ巻き込んで凍結した。ぱきぱきと童磨自身の白橡の髪も凍てつき、視界が白一色に閉ざされていく。そして、飛びだした先ーー

 

「あっが、ぎいいイイイッ、まだっ、だめだ、息を吸うなっ、ゲホッ、ゲエッ……」

 

氷結に乱反射する日差しの下、母子を連れた鬼はげえげえと黒い血を吐いては凍らせ、全身を黒こげに炙られながらも逃走を果たしたのだった。

 

 




【登場人物紹介】

童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛(玩)を知って世界が広がった人間性小学生。この度めでたく家族連れの逃れ者になった。ほぼすべての技が粉凍りを使うため、人間を連れての逃亡では完封されて逃げの一手。しかも上弦の弐なので追手はお察し。太陽を遮るものがない原っぱを、氷の膜で陽光を弱めながら、琴葉さんと伊之助を担いで200メートル走り、真っ黒焦げの状態で見つけた民家の納屋に隠れた。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨と7年過ごすうちに体の関係以外はほぼ夫婦になっていった。彼に性欲がないことに気づいている。人間でないことも、今回の逃亡劇で確信した。気色悪い刀に刺されて大怪我をしたが……?

嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく坊主。猗窩座来訪時は5歳、逃亡時は7歳。琴葉は母ちゃん、童磨は父ちゃんと呼んでいる。教団育ちでも野生児の資質を見せており、日中ずっと外で遊んできては、太陽にあたれない病気と思っている童磨に外の様子を教えてあげる優しい子。

猗窩座
特別出演。悪鬼にしては結構いいやつ。でも童磨は嫌い、同じ空間にいるだけで虫唾が走る。

黒死牟
名前どころか影も形もない攻撃だけの出演。大きなハンデありとはいえ童磨を圧倒、もう少しで三人とも始末できたが失敗。無惨様に怒られた。



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#4 往相回向の道連れ



タイトル= そうおうえこうのみちづれ

逃亡の顛末、あるいは鬼殺隊登場。




 

 

硬い声で「目を閉じ、息をするな」と言われてどれぐらい経ったのか。周りは信じられないぐらい寒いというのに、しがみついた父親の体は火がついたように熱く、焦げた肉の臭いと頭上から聞こえる苦しげな声でおかしくなってしまいそうだ。全力疾走で荒々しく揺られ、いよいよ息が続かないという時、ガタガタという騒音がして、世界が傾いだ。

 

「ぐうッ……」

 

ドサリと少しの衝撃とともに地面に転がって、伊之助は父―童磨が倒れたのだと知った。

 

「ガハッ、ゼェ、ゼイ……もぅ、いいぞ、二人とも」

 

しゃがれた声でそう言われ、伊之助は閉ざしていた瞼を開く。目の前の胸元は真っ黒に変色しており、息を肺いっぱい吸い込めば、咽るほどの焦げ臭さを放っていた。伊之助を縛っていた紐は焼け落ちており、途中から抱いてくれていた童磨の右腕は、その囲いから離れようとしただけでぼろぼろと崩れた。

 

「ひっ……父ちゃん、父ちゃんっ」

 

伊之助の大きな翡翠の瞳にみるみる涙が盛り上がり、整いすぎた顔立ちが鼻水を垂らしてぐしゃぐしゃに歪む。そして、黒焦げの童磨の後ろに倒れる血まみれの母を目にした途端、決壊した。

 

「うっ、うぇっ、うわあああああああん!! 母ちゃん、母ちゃん!!」

 

「ゲホッ、元気だなあ、俺にも、わけてほしいぜ」

 

豪奢な髪も彫像めいた美しい顔も焦がした男が、横たわったまま苦笑いを浮かべる。瀕死の虫のような動きで仰向けになった彼は、隣で気を失っている琴葉を見つめ、赤く染まった華奢な右肩にごくりと喉を鳴らした。

 

「琴葉? ん、命に別状はなさそうだ、よかった」

 

琴葉は刀が貫通した肩以外、傷を負っていない。間違いなく重傷ではあるが、大きな血管は外れているようで出血も緩やかだった。健康に生きていくことに支障がなければ、それでいい。童磨自身も、先ほどまで溢れていた黒い血を吐き出しきったのか、苦痛が大分引いていた。あとは末端から順に再生するのを待つだけだ。

 

「伊之助」

 

「ヒック、エグッ、なに?」

 

「助けを呼んできておくれ。この先の町に藤の絵が描かれた家があるから、その家の人にこう言うんだ」

 

優しく命じられた子供は、目が融けそうなほど涙を流しながら、こくんと小さく頷いた。

 

 

 

* * *

 

 

 

朝方に藤の家に飛び込んできた人物は、それはそれは美しかった。輝く黒髪に零れそうな大きな緑の瞳、陶器のような白い肌、それでいてわんぱくそうな体つきの男の子どもだ。上等な布地でできた甚平姿のその子は、ところどころ血の汚れを付着させ、涙と鼻水で花のかんばせを汚していた。

 

「化け物におそわれたんだ! たすけてっ、母ちゃんが死んじゃう!」

 

土間から室内で朝餉をとっている鬼殺隊士らを見るなり、叫んだ言葉。その意味がわからない者は一人もおらず、すぐさま刀を手に立ち上がる。最も年長の丙の隊士が子供に近づき、膝をおって視線を合わせる。

 

「坊主、お母さんのところまで案内してくれ」

 

「よく頑張ってここまで来たな」

 

長身の男性隊士が子供を抱き上げ、丙の隊士のすぐ後ろを走る。最後尾の辛の少女隊士が本部へと鎹鴉を飛ばし、藤の家に滞在していた5人全員が、通りへと駆け出していった。

 

すでに朝日が昇りきっているため、鬼は屋内か影に潜んでいるか、そももういない可能性が高い。それでも油断なく子供が指さす方向へと走り、彼らは町はずれの掘っ立て小屋の前で足を止めた。

 

「この中」

 

「わかった。坊主はここで待ってろ。皆、開けるぞ」

 

「「「「応!」」」」

 

中の様子がわからないため、一人が用心深く戸を切り倒す。外は快晴の青空なので、鬼が飛びだしてくる心配はなかった。

 

「いました、その子の母親に間違いないです!」

 

「こんな綺麗な人に、惨いことを。肩の刺し傷は貫通してるな。この牙の痕……甘噛みのつもりか?」

 

「どこも食いちぎられてないのが不幸中の幸いだな。それに……陽光に焼ける様子もない。かなり出血してるが、肩の傷以外は深くない。止血して隠を待つぞ」

 

むき出しの土の床に血だらけで倒れた女は、首筋が噛み痕だらけで、これで着衣に乱れがあれば人間の男に暴行を受けたとも見えただろう。子供に瓜二つの美貌は青ざめ、豊かな黒髪に埋もれるように横たわっている。

 

「母ちゃん!」

 

鬼がいない確認が取れたため母親の近くに寄ることを許された子供が、地面に座りこんで白い手を握る。そして、ぐすぐすと鼻をすすりながら、狭い室内を見回した。

 

「父ちゃんがいない……」

 

「坊主、お父さんも一緒にいたのか?」

 

丙の隊士が眉を下げ、静かに問う。この場には母親しかおらず、辺りに父親の痕跡は全くない。そういった状況を、鬼殺隊の彼らは嫌でも見慣れていた。

 

「うん。目がいっぱいあるばけものに追いかけられたけど、父ちゃんがまもってくれた。おれ、母ちゃんのために助けを呼んでこいって言われたんだ」

 

「先輩、父親の方はもう」

 

「言うな」

 

子供の父親は、家族を守って犠牲となったのだろう。この場に遺体がないのは、血鬼術で持ち去られたか、体丸ごと喰われてしまったからか。女性の方が傷だらけでも生きていたのは、何か特殊な趣向の鬼だったのかもしれない。一家は朝日が昇るまで逃げたが、鬼が小屋の中までついてきてしまい、どうにか子供だけ外に逃がしたのだ。勇気ある夫婦を想像して、面々の表情が暗くなる。

 

それから半刻も待たずに隠が到着し、美しい母子は保護された。子供は小屋から連れ出されてからしきりに後ろを気にしていたが、藤の家に戻るころには気絶するように眠ってしまった。

 

隊士たちは家主に用意してもらった部屋に親子を寝かせ、彼らの保護を隠に引き継いだ。倒すべき鬼は影も形もなく、足跡を追うことしかできない。それぞれが次の任務へと向かう中、家族を失った親子の幸せを願っていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

琴葉と伊之助が寝かされた八畳の客間から人の気配が遠ざかる。家主の年老いた夫婦は表の方で家事をしており、この奥まった部屋は静まり返っていた。母子を任された隠二名も、しばらく休ませるつもりで離れていた。

 

もぞり、と琴葉の布団の中が蠢き、腰の下あたりがみるみる盛り上がる。そして布団の端から白橡の頭と逞しい上半身がにょきりと生えた。二人しかいないはずの空間に現れた男ー童磨は、室内を一瞥して陽光が入っていないことを確認するなり、一糸まとわぬ姿で布団から這い出た。

 

「うーん、どうやったらあの狭い場所から赤子を産めるのか」

 

疲れた顔を張りつけて独りごち、彫刻のような胸元に手首まで両手を埋める。そうしてしばらく中を探り、引っ張り出した手は着替え一式を掴んでいた。逃亡時に身に着けていたものは布くずになってしまったため、体内で処分済みだ。

 

手早く着替えた鬼は並んで敷かれた布団の枕元にあぐらをかき、眠る二人を見下ろす。刀傷ひとつだけだった琴葉に噛み痕をつけたのは童磨自身だ。鬼に襲われた被害者らしく見せるための演出だが、陽に焼かれて疲弊した状態では拷問に等しく。その後、伊之助が連れてくる鬼狩りの目を掻い潜るため琴葉の胎内に潜りこんだが、美味しそうな匂いと肉感に包まれて、さらなる苦行を味わってしまったのだ。

 

(まったく、腹が減って仕方がないよ)

 

夜になったら何人か喰おうと算段を立てつつ、琴葉の頭をそうっと撫でる。鬼の被害者である母子は、きっと藤の家か産屋敷の息がかかった働き先を紹介されるだろう。寺院からほとんど身一つで逃げることになったため、人間が生きるための住まいも金子も持ち合わせがないのだ。精々鬼狩り共の支援を利用してやることにして、童磨は無意識に嗤った。

 

(もうあの方を感じられない。力も落ちた気がするけど、他の上弦と対峙しないなら問題ないか)

 

鬼舞辻無惨は、童磨が森から飛び出した瞬間、確かに彼を呪殺しようとした。どんな鬼も抗えない死は、しかし童磨自身もろとも太陽に焼かれ、ただの黒い毒となり果てた。あの粗末な小屋に逃げこむまでに、どれだけの血を凍らせて捨てたかわからない。何にせよ、すでに童磨は鬼であっても無惨の端末ではなくなっていた。

 

「あははっ、ははっ、くはははは!」

 

腹の底からせりあがった爽快感が笑いとなってまろびでる。外に聞こえないようすぐに潜めたが、童磨は音もなく肩を震わせ、たまらなくなって眠る女の頬を両手で包んだ。

 

(これで、俺と君と伊之助、三人でどこまでだって行ける。琴葉、琴葉、ずっと傍にいておくれ。君がいないと、また何も感じられなくなってしまうんだ)

 

愛おしげに人の子を見つめる姿は、まるで神仏の絵姿のよう。けれど、あたたかな肌に触れる手は、きっと縋りつく亡者のそれに似ていた。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛(玩)を知って世界が広がった人間性小学生。このたび家族連れの逃れ者ライフが始まった。性欲はないくせに琴葉とある意味合体したやばい奴。胎の中は狭いうえに色々と拷問だったので、今後は胸の谷間に隠れるつもり。なお、鬼殺隊と藤の家を隠れ蓑に利用する気満々である。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。肩を刺されて気を失っている間に、あらゆる無体を働かれた。でも童磨が言わなければ何も気づかない。きっと知らない方が幸せである。目が覚めたら三人とも助かったことを素直に喜ぶ。

嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく坊主。7歳。鬼殺隊士たちと小屋に来たとき静かだったのは、最後に見た童磨は黒焦げで崩れかけだったため、死んでしまったかと呆然としていたから。起きたら琴葉と童磨にくっついてしばらく離れない。



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#5 阿頼耶識から出ずる



タイトル=あらやしきからいずる

それぞれの恋と情と愛について、あるいは原作開始間際。

*童磨が逃れ者になったことで原作キャラの生死に影響が出ています。




 

 

花柱・胡蝶カナエが自らに与えられた屋敷で負傷した隊士らの治療を行うようになって、そろそろ三年になる。最初は妹のしのぶと二人で切り盛りしていたが、すぐに手が足りなくなり、神崎アオイや義妹のカナヲ、鬼の被害をうけて孤児となった子供たちに手伝ってもらうようになった。さらに、同じく鬼の被害者である嘴平琴葉を通いの手伝いとして雇ったのは、一年前のことだった。

 

「カナエ様、おはようございます」

 

「おはようございます、琴葉さん。今日は伊之助君は一緒じゃないの?」

 

「伊之助はお山です」

 

「あらまあ、この間、猪を倒したばかりなのに」

 

「今日は熊を倒して、山の王になるって言ってました」

 

ころころと笑う琴葉はカナエよりも大分年上の一児の母だ。息子の伊之助はもう13歳だが、とてもそんな大きな子がいるようには見えない。何せ、彼女は大変美しいのだ。

 

豊かな長い黒髪に三十路をすぎても皺ひとつない麗しの顔立ちは、蝶屋敷に出入りする大勢の憧れの的だ。零れそうな大きな翡翠の瞳に形良い鼻、薄紅の薄い唇が完璧に配置された白い面(おもて)は、同性のカナエでもうっとり見惚れてしまうほど。まさしく春の妖精のような柔和な美貌の極みであった。

 

「ふふっ、強いのねえ、伊之助君」

 

「はいっ。童磨さんに似て凄く強いんです!」

 

白皙に花のような笑顔を浮かべる彼女は、数年前に夫を鬼に喰われ、自らも大怪我を負った。カナエが入隊する前の出来事だが、勇敢な父母の悲劇と被害者母子の見目麗しさは隊士の間の語り草になっており、彼女もその話は聞いていた。時折話に出てくる童磨とは、死んだ夫の名だ。生き残った母子は鬼殺隊の支援を受けて暮らしており、今は琴葉が蝶屋敷で働き、伊之助が山で獣を狩ってその毛皮や肉を売って生計を立てている。

 

母親そっくりで大層美しい伊之助は、しかし気性はまったく真逆で、言葉も態度も乱暴なところがある。しかし根は優しく、時折母親と一緒に蝶屋敷にやってきては力仕事を手伝ってくれるのだ。生意気な口を利いてはしのぶに懲らしめられている可愛い男の子、というのがカナエがもつ印象だった。

 

いくつか言葉を交わしてから厨に昼食を作りにいく琴葉を見送る。たおやかな背中が見えなくなると、カナエは可憐な眉をよせて俯いた。琴葉のように心が美しい人と話すのは楽しい。けれど、彼女が童磨のことを語る際に浮かべるあどけない表情は、事情を知る者に棘さす針であった。

 

(琴葉さんは、いつも童磨さんが生きているように話すわ。恋する顔をして、幸せそうに)

 

琴葉も伊之助も、今を懸命に生きてはいるが、どちらも夫と父親の亡霊に取りつかれている。あんなにも純真に人を愛せる女性が、いつまでも死人の花嫁であることが、カナエはただ悲しかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

木々の合間に獣の咆哮があがり、気圧された鳥たちが一斉に飛び立つ。

 

緑が深い山頂近くで対峙しているのは、かたや強大な熊、かたや白い上半身を晒した人間の少年だ。後ろ足で立ちあがり牙を剥きだす熊の全長は七尺以上。黒々した毛並みは硬く、その下の巨躯は分厚い脂と筋肉の塊である。対する少年ー嘴平伊之助は、黒いズボンと丈夫な草鞋のみ身に着けた無防備さだ。しなやかな筋肉がついた両腕に構えた二振りの小太刀だけが、異様な存在感を見せていた。

 

「やめとけ。今、降参すりゃあ子分にしてやる」

 

可憐な少女の顔立ちに似合わぬ荒い声で、伊之助が語りかける。お互いに殺気を纏ったうえでの、最後通牒だった。

 

「グルアアアアアア!!」

 

巨大な雄熊は、何年もこの山に君臨してきた猛獣だ。人の味こそ覚えていないが、どんな相手も斃して喰らってきた食物連鎖の頂点である。だからこそ、己より小さな生き物に怯むことなく、敵ではないとばかりに前脚を振り下ろした。

 

鋭い爪が頭上に迫る。肌を舐める殺気をするりと避ければ、大ぶりな攻撃は伊之助をかすめることなく宙を切った。

 

「この世は弱肉強食だ。恨むんじゃねぇぞ!」

 

半歩横にずれて踏み込み、対の刀を熊の太い頸に突きいれる。

 

ザンッーー

 

交差した腕を振り切れば、断末魔とともに熊の頭がごろりと転がった。続いて体も崩れおち、小さな地響きと共にあたりに血臭をばらまいた。

 

伊之助は凪いだ瞳で納刀し、解体用の小刀を片手に巨体へと歩みよる。そして、鳥や獣が山の王の世代交代に恐々とする気配も意に介さず、黙々と毛皮と肉と高価な部位を切り分けていった。

 

(父ちゃんは熊肉嫌いだし、ほとんど売るかおすそ分けだな。毛皮は隊服作ってる奴らに売る。しのぶが欲しがってたのは胆嚢だったか?)

 

白い腕を血まみれにして一通り解体を終えると、もう日暮れだ。伊之助は残った骨や臓物の小山を前に難しい顔をしていたが、肌に感じた気配にぱっと振り返った。

 

「おお、気づかれた。伊之助は勘がいいなあ」

 

ほぼ暗がりの木陰を歩いてきた男が、にこにこと笑顔で言う。白橡の髪は頭頂だけ血色に染まり、優し気な太い眉の下で得も言われぬ虹色の瞳が煌めく。黒い徳利襟に裾が広がった袴姿の彼は、ぎりぎり夕日が当たらない場所で足を止めた。

 

「父ちゃん、まだ陽が出てるのに何してんだ」

 

「山の王のお迎えにあがっただけさ。琴葉が心配してるし」

 

「母ちゃんは?」

 

「山道の入り口で待ってるよ。ところで、その残骸はどうするの?」

 

長い指先が熊の余りを指し、白皙がことりと傾げられる。伊之助の養父にして鬼である男―童磨は、子供が処理に困っていることを見越して、わざと聞いているのだ。これまでに何度も同じことがあったため、伊之助もややむくれながら素直に答える。

 

「野ざらしにはしたくねぇ。父ちゃん、穴掘るの手伝ってくれ」

 

「お安い御用さ。そーれっ」

 

頭上の冷気にまさかと見上げれば、見たこともない太さの氷柱が落下しており、一気に地面に突き刺さった。童磨がぱちんと指を鳴らせば、氷はぱらぱらと粉になって消えていく。そして、瞬時にできた大穴だけが残された。

 

「ふふん、どんなものかな?」

 

「……ありがと」

 

「どういたしまして! さあさ、日が暮れたし琴葉も待ってる。早くすませておくれ」

 

「おう」

 

伊之助は地面にあいた大穴に熊の残骸を落とし、手早く土をかけていく。そして、埋め終わったところで、取り分けておいた部位を持参した袋に詰め、養父の隣に並んだ。随分暗くなった獣道を危なげなく先導する背中に、ふと問いかける。

 

「父ちゃん、今日は飯はいいのか?」

 

「昨日カナエちゃんの任務のどさくさに紛れて三人喰ったからなあ。しばらくは平気だ」

 

「そっか」

 

生きていくために他者を食い物にすることは、あらゆる生命の原則だと伊之助は思っている。美しくもか弱い母と無力な赤子だった自分は、たまたま童磨という強者の翼下で守られたから生きてこられた。その童磨も、鬼狩りから隠れ、鬼舞辻無惨から逃げ、知恵を働かせて生きている。それほどに、家族を守り、己も守るのは難しいのだ。所詮この世は弱肉強食。ならば誰よりも強くなり家族を守ることこそが、伊之助が唯一信仰する真理だった。

 

「父ちゃん」

 

「なんだい? 伊之助」

 

夜の帳の下で顔だけ振りかえった養父は、伊之助が小さかった頃からまるで変わらない。伊之助が母の背を抜き、琴葉が三十路になっても、童磨だけいつまでも青年のままなのだ。

 

『鬼は悲しい生き物よ』

 

両親が並んで笑い合う時、伊之助は胡蝶カナエがふと漏らした言葉を思い出す。圧倒的強者である童磨を悲しませるもの。一つしかない答えに突き動かされ、自分を見つめる童磨に告げた。

 

「俺、鬼殺隊に入る。無惨とかいうクソに父ちゃんが人間に戻れる方法を吐かせてから、手下の鬼ども諸共ぶち殺す」

 

ぽかんとして立ち尽くす養父の脇を通り越し、置いてくぞと声をかければ、後ろが一気にうるさくなる。珍しく本当に顔を青ざめさせた童磨がおかしくて、伊之助は追いすがる制止の言葉に被せてやった。

 

「母ちゃんと一緒に年喰って、二人が爺婆になったら俺が看取ってやるからな! 期待して待ってろ!」

 

 

 

* * *

 

 

 

夜の山から出る前に体を縮めて衣服を着替えたのは条件反射で、琴葉の足元にたどりついて白魚の両手に抱きあげられるまで気絶していたのかもしれない。柔らかい指先で頭を撫でられ、ようやく我に返った童磨は、バクバクと弾けそうな胸に手をあてて息をついた。

 

「どうしたの? 伊之助はご機嫌で走って行っちゃうし、童磨さんもぼんやりして」

 

てのひらに童磨をのせて首をかしげる琴葉。いくつになっても可愛らしい仕草に、轟いていた心臓が少しだけ蕩け、童磨はぐったりと彼女の手に身を委ねた。

 

「伊之助がね」

 

「あの子が?」

 

「俺を人間に戻すって。その方法を探すために鬼殺隊に入るって言ったんだ」

 

「まあ……」

 

零れそうな翡翠の瞳がさらに見開かれ、淡い唇が驚きの形で固まる。蝶屋敷に出入りしている彼女は、鬼殺隊士がどんな職業であるかよく知っている。愛する一人息子がそれを目指すなんて許さないだろう、と反応を待っていた童磨は、琴葉が浮かべた微笑みに裏切られた。

 

「伊之助は優しい子ね。童磨さんのことが大好きな、私たちの自慢の子」

 

「琴葉は嫌じゃないのかい? 鬼狩りなんて、雑魚鬼しか倒せない身の程知らずの集団だ。伊之助が」

 

死んじゃうかも、とは口に出せなかった。けれど琴葉には心の声が聞こえたようで、少しだけ柳眉が下がる。

 

「あの子はこうと決めたら曲げないわ。だからね、童磨さん、家に帰ったら三人でゆびきりげんまんしましょう」

 

琴葉はそう言って、童磨を着物の袷の中に隠した。甘い香りがする胸元にいれられた鬼は、収まりが良い体勢になって、ふわふわの乳房に背中を預ける。琴葉は片目の視力が弱いが、耳は良い。まだ人通りがある街道を歩きながらでも、童磨の小声は届いていた。

 

「何を約束するんだい?」

 

「私と童磨さんがおじいちゃんとおばあちゃんになって、いつかお迎えが来たら、伊之助に看取ってもらうの。素敵な約束でしょう?」

 

着物の中から琴葉の美しい顔は見えない。けれど、童磨の脳裏に浮かんだ柔和な顔立ちに伊之助の不敵な笑みが重なり、二人を抱きしめたくて仕方がなかった。やり場がない胸の熱をもてあまし、目の前の柔らかい肉に抱きつけば、琴葉の体が小さく揺れた。

 

「もう、悪戯は駄目ですっ」

 

布越しにぺしぺしと叩かれても、童磨は滑らかな肌に顔を埋めて笑っていた。胸の奥が熱くて、むずがゆくて、内にだけ留めておくことが甘苦しくて、だれかれ構わず優しくしてやりたい。きっと、これが愛おしいという気持ちなのだ。

 

「愛してるぜ、琴葉! もちろん、伊之助も!」

 

童磨の言葉に返事はなかった。ただ、胸元を叩いていた手がぴたりと止まり、かわりに両のてのひらがやわく押し当てられる。

 

ゆっくりした歩みに揺られての帰路は、童磨の長い時間の中で一等輝くものとなり、琴葉と伊之助と輪になって絡めた小指の暖かさを、彼は愛と呼んだ。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは6年目。日中は9割方、ねんど○いど大に縮んで琴葉の胸元に隠れている。肉体操作と気配の誤魔化しは超一級。ただし、善逸の耳は誤魔化せるが、炭治郎の鼻は無理。呪いの刺激臭がなくとも人食いの血臭はバレる。この度、琴葉に愛を叫んだ。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。美しすぎる三十路。蝶屋敷の近くに家を借り、通いで看護の手伝いをしている。童磨のために人形サイズの着替えを作るのが趣味。胸元に隠れた童磨が悪戯(やましさ皆無)する度に着物越しにぺしぺし叩くが、周りは変った癖だと思っている。愛の告白をされて声もなく泣いてしまった。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。13歳。母親と義父と幸せに暮らしている。食物連鎖と弱肉強食こそ世の理と考えているスーパードライ系ウリ坊。ただし両親にはウェット。初めて一人で仕留めた動物(猪)の頭を記念に被り物に加工した。童磨が戦闘指導をしており大変強い。小太刀二刀流。この度山の王になり、鬼殺隊入隊の意思を固めた。



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#6 諸行無常の夢幻の果て



タイトル=しょぎょうむじょうのむげんのはて

蝶屋敷との関係、あるいはカナエとの遭遇。

*童磨が逃れ者になった影響で因縁の遭遇が二年遅れています。







 

 

胡蝶しのぶにとって、嘴平伊之助という少年は非常に腹立たしく、それでいて気が置けない相手である。三つ年下の彼は出会った時点でしのぶより目線が高く、たった一年でさらに育って母親の背も追い越した。今はまだ中背だが、彼の父親は長身で体格に恵まれていたというから、伊之助もきっと大きくなるのだろう。

 

「おら、それもよこせ」

 

「その言い方どうにかなりません? そんなだから荒くれ者って言われるんです」

 

「別にどう呼ばれても気にしねえ」

 

「はあ……」

 

麗しの白皙と勝気な翡翠の瞳が姫武者を思わせるが、態度と声から伊之助を少女と間違えるものはいない。何より、着込むことを嫌う彼は真冬でも上半身裸か前を開いた羽織姿であるため、鍛えられた胸板が性別をはっきりさせていた。

 

今だって、蝶屋敷の薬保管庫で薬箱を棚に収める姿は、美少女の頭に彫像めいた筋肉質な体、そして黒いズボンという珍妙なものだ。ちぐはくなくせに見惚れるほど美しいのだから、それもまた腹立たしい。しのぶ自身も自らの容姿を利用することがあるため、全く飾らない伊之助に負けた気になるのは癪なのだ。

 

何より、先ほど伊之助から聞いた鬼殺隊入隊の話がしのぶの心をささくれ立たせていた。

 

「伊之助君」

 

「なんだよ」

 

「琴葉さんは、入隊についてなんて言ってるんです?」

 

「母ちゃんは反対しなかったぜ。ただ、死ぬなって言っただけだ」

 

上段の棚に薬をおさめて背伸びをやめた伊之助が向きなおり、しのぶと目を合わせる。初めて会った時から生意気な少年だが、きちんと人の目を見て話を聞くのは琴葉の教育の賜物だろう。あの心が綺麗な女性は、ふわふわしているように見えて立派な母親なのだ。

 

(琴葉さん、どうして駄目だって言わないの。旦那さんを亡くしたのに、伊之助君まで命の危険がある道に進ませて、平気なの?)

 

しのぶ自身、姉と二人で鬼殺の道を選んだ身だ。お互いに死ぬかもしれないと理解して、それでも少しでも鬼による悲劇を減らしたくて、文字通り命を削って日々戦っている。姉のカナエが花柱に就任した今も、死は常に近くにあった。

 

「入隊最終選別の参加者の死亡率、知ってます?」

 

愛らしい声をやや強張らせて問えば、いいやと首が振られる。

 

「私の時は28人が参加して、生き残ったのは6人。そのうち2人は手や足を失くし、入隊はおろか普通の職につくこともできなくなりました」

 

一般的な考え方をもつ人間なら、これを聞いただけで鬼殺隊と距離を置く。鬼を殲滅することだけに人生を捧げる若者たちなど、そう関わり合いたいものではないのだ。親しくなっても、数日後には相手が死んでいることはざらで、柱でさえ入れ替わりが激しいのが現実だった。

 

伊之助はきょとんとした顔でしのぶを見つめていたが、すぐに端正な口元を吊り上げる。

 

「そんなことで俺が怖気づくかよ。鬼と殺し合いすんだ、弱きゃ喰われる。当然じゃねぇか」

 

「な……っ」

 

あまり平然と言われたことに、絶句する。伊之助は時折、獣のような生死感を口にするが、ここまで乱暴な物言いは初めてだ。青ざめたしのぶに何を思ったのか、美しい彼は裸の胸で腕を組み、ふんぞりかえった。

 

「心配すんな、しのぶ! この伊之助様は山の王で父ちゃんの息子だ! 俺は強ぇ! そこいらの有象無象とはわけが違うからな!」

 

ワハハッと豪快な笑い声が狭い部屋を満たす中、しのぶは小さな拳をぎゅうと握った。固いてのひらに爪が食いこんで血が滲む。薄紫の瞳がぎらりと睨みつけ、可憐さしかない矮躯から物騒な気配が立ちのぼれば、伊之助もおやと姿勢を戻した。

 

「表に出なさい」

 

「はあ?」

 

「表に出ろって言ってるのよ、この馬鹿!! 山の獣を倒したぐらいで調子に乗るなっ!」

 

 

 

* * *

 

 

 

夜の森で童磨と向かい合う時、伊之助はいつも死を意識する。

 

母を優しく抱きしめる腕が、赤ん坊の頃から遊んでくれた手が、人間の頭蓋を片手で粉砕できる凶器であること。ゆるりとした話し方と動作が身についた体が、目にも止まらぬ速さで襲いかかってくること。暖かい虹色の瞳が、感情をなくした途端に無機物と成り果てること。

 

鉄扇に打ち据えられる度、童磨と自分が性能からして違う生物であることを思い知らされる。童磨は逃亡時に見せた氷の技はおろか、鉄扇もひとつしか使っていないのに、伊之助はいまだ彼に傷一つつけられないでいた。

 

人間の形をした相手と対峙するのは、童磨を除けば、今回のしのぶが初めてだ。隊服姿で木刀を手にした少女を前に、伊之助は相手の力量を図るべく目を細める。

 

(父ちゃんより弱えが……)

 

しのぶの姿がぶれて、一瞬で目の前に現れる。それだけで理解した。

 

(俺より強え、それに速えっ!!)

 

ガキンッ!

 

小太刀の長さに削った木刀を交差させ、振りおろされた一撃を受け止める。しのぶの全体重をかけてもこれだけの威力はでないだろう。童磨が全集中の呼吸と呼ぶ特別な呼吸法による膂力。受け止められると思っていなかったのか、至近距離のしのぶの白皙に驚愕が浮かんでいる。それににやりと不敵な顔を返し、伊之助も鋭く息を吸い込んだ。

 

「えっ、その呼吸」

 

「まだモノにしてねえがな! おらっ」

 

獣の呼吸・参ノ牙 喰い裂きーー

 

内側から外へと切り払えば、しのぶは蝶のように後方に逃れる。きゅっと眉を寄せた彼女が何を考えているのかはわからない。しかし戦意はお互いにまったく減っていないのだ。木刀を構え直し、次は自分から打ち込んでいく。伊之助の動きは半分我流だ。指導してくれている童磨も、体系化された武術を修めたわけではないため、ともすれば完全に我流である。獣のような低い体勢から足を狙うが、しのぶは危なげなくそれを避けた。お返しとばかりに飛んできた突きを、伊之助もぐにゃりと後ろに反ることで躱す。

 

「どうしました、避けてばかりで鬼は倒せませんよ!」

 

「うおっ、危ねえ! てめえ突き技主体かよ!!」

 

しのぶの速さから繰り出される突きは、木刀といえど当たればただではすまない。肌で害意を感じとることができる伊之助だからこそ一つ、二つと避けたが、純然たる実力差から当たった三撃目でたたらを踏み、四撃目で仰向けに押し倒された。少女の小さな足がドンと伊之助の胸を踏みつけ、木刀の先が喉に突きつけられる。

 

「……参った」

 

「ふんっ、思ったよりもやりましたね」

 

勝ったしのぶの方が悔しげに言い捨てる。伊之助が素直に負けを認めたことが気に入らないのか、それとも我流で呼吸法まで身に付けていたことが想定外だったのか。何にせよ、彼女はぷいと目をそらして伊之助から離れた。

 

「すげえな、しのぶ。お前、蝶じゃなくて雀蜂か」

 

「は? なんですか、喧嘩売ってます?」

 

「違え、褒めてんだ。雀蜂は虫の王者。獰猛ですばしっこくて、熊相手でも毒針で何度もぶっ刺す凄え奴だ」

 

立ち上がってそう言えば、しのぶは睨み顔から一転して目をきょろきょろさせ、ますます伊之助から顔を逸らした。

 

「お、女の子に蜂だなんて気が利きませんね!」

 

「何だよ、強い奴に強いって言って何が気が利かねえんだ」

 

「……もうっ、そういうとこですよ、馬鹿」

 

鬼殺隊士としてすでに歴戦の戦士である少女は、ひとつ溜息をついて、やっと伊之助に視線を戻した。愛らしい顔はうっすら赤く、手合わせの前に見せていた怒りはもうなかった。

 

「独学で呼吸までできてるなら、最終選別に行くのを止めはしません。死なないでくださいね、伊之助君」

 

しのぶは鈴の音のような声でそれだけ言い、さっさと背を向けてしまう。黒い隊服に包まれたあまりに小さなその背に、伊之助もただ「おう」と返した。

 

(しのぶは強え。あんなちっこい体から限界以上の力を出してやがる。でも、父ちゃん相手だと秒で殺られるぞ)

 

童磨は十二鬼月という最も強い鬼の一人だったという。あの義父のように強い鬼を相手取るなら、鬼殺隊の死亡率の高さも当然というもの。むしろすでに全滅していないことが奇跡だ。

 

「強くなる」

 

無意識の言葉に自分で驚いて、もう一度、今度は意識して口に出す。しのぶに倒されても手放さなかった二振りの木刀を握りこみ、何度も、何度も繰り返した

 

「強くなる。俺はもっと強くなる。すぐに父ちゃんよりも強くなってやらあ!」

 

ここに童磨がいたなら、貼りつけた慈愛の微笑みで「それ何十年後の話だい?」と煽っただろうが、ひとり蝶屋敷の庭に立つ伊之助の意気込みに水をさす者はいないのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

もうじき夜が明ける頃、路地裏で食事をしていた童磨は、背後からの殺気にしまったと苦い顔をした。気配に気を配っていたつもりが、久々の稀血にありついたことで注意が散漫になっていたのだ。半分ほど食べた体の残りを胸元に吸収し、仕方なく振り向けば、西に沈みつつある月の下、可憐な剣士が佇んでいた。

 

「やあやあ、はじめまして。いい夜だねえ」

 

「……はじめまして。すぐにさようならを言うことになるけれど」

 

凛とした美しさをもつ鬼狩りの女は、童磨が一方的に見知った顔だ。琴葉と仲良くしてくれる心優しい花柱。胡蝶カナエと今夜出会ってしまったのは、お互いの大変な不幸であった。

 

「うん、もうじき夜が明けるね。このままお別れするというのは、どうだい?」

 

童磨が穏やかに問えば、カナエは厳しい表情で抜刀し、それを答えとする。

 

「俺だって生きるために喰わなきゃいけないんだぜ? 人間は毎日ご飯を食べるだろう? 俺の食事は必要最低限、ずっと少ない頻度さ。食事以外で人を害さないし、そも関わり合わない。それなのに問答無用で斬るのかい?」

 

「人を喰う鬼とは、仲良くできないわ。貴方は数が少なければ許されると思っているようだけど、一人でも殺したら同じです」

 

花弁を錯覚するほど華麗な斬り込みを童磨はゆるりと躱し、続く花の呼吸の技からも距離を取る。柱に相応しくよく鍛えられた剣技だが、これだけの攻防ですでに実力は知れていた。勝てないと感じているはずなのに逃げ出さないあたり、哀れな娘だと思う。伊之助ならどうするだろうか、とふと意識が逸れ、その刹那にカナエの日輪刀が頸に迫っていた。

 

「おっと危ない。ごめんね、考え事してたぜ」

 

「最低限しか人を食べないのは、何か理由があるんでしょう? 貴方はここで解放してあげます。もう人を食べなくてもいいの。鬼として生きなくてもいいのよ」

 

鉄扇と日輪刀がぎちぎちと音を立てる中、カナエが言い募る。彼女の慈しみさえ浮かべた紫眼に映った鬼は、それを聞くなりハッと嘲笑った。意識して浮かべたものではない、腹の底からの衝動に象られた表情だった。

 

「余計なお世話だ。優しいつもりで言ってるんだろうけど、その同情は不快だよ」

 

童磨の足元から冷気が広がり、カナエを巻きこんで空気が凍りついていく。異変を感じて後方に跳ぼうとした彼女は、しかし地面から離れない両足に顔色を変えた。瞬時に凍った膝下はびくとも動かない。凍傷が始まって足先から急激に壊死していく感覚があった。

 

「さっきも言ったとおり、食事以外で人を害さない。見逃してあげるから、精々力不足を嘆くがいいさ。君にはその無力感がお似合いだ」

 

パキン。

 

氷が割れる音とともにカナエの悲鳴が薄暗がりに響く。膝から下を失った彼女が仰向けに倒れるのを無機質に見下ろし、童磨はさっさと踵を返した。そして、投げつけられた刀を振り返りもせずに避け、近づいてくるもう一つの足音の主の視界から姿を消した。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは6年目。伊之助の鬼殺隊入隊に向け、超スパルタ訓練で鬼と人間の性能差を思い知らせ、愛息子の生存率アップに励んでいる。伊之助じゃなかったら心がぽっきりいってるのは気づいてない。カナエさんに粉凍りを使わなかったのは、食事以外で人を害さないと琴葉に約束したため。害=命に関わることと考えているうえに、遊びも様子見もない戦いなら柱一人ぐらい瞬殺するとんでもねえ奴。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨が鬼であることは逃亡後に本人から教えてもらった。人を食べることも聞かされたが、育った情愛はそれを理由に逃げる段階を過ぎてしまっていた。童磨と「食事以外で人を害さないこと」と「破ったら琴葉が自殺すること」の約束を交わしている。童磨にとっての自分の価値を本能で知っている、ある意味恐ろしい人。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。13歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。シビアな生死論を持っているが、自分と大切な人達の命を守るため以外にけして人間を殺さないことを琴葉と約束している。しのぶとは気がおけない間柄。今回剣を交わして好感度アップした。

胡蝶しのぶ
花柱の妹にして継子の中級隊士。おこりんぼな16歳。生意気な伊之助のほっぺたを抓ってばかりいたが、鬼殺隊に入ると言われて心配のあまり怒髪天をついた。本当に心配しているだけの優しい子。手合わせしてみて、独学で呼吸法を身につけるような才能の持ち主の入隊を拒むことはできないと説得を諦めた。

胡蝶カナエ
優しく美しい花柱。しのぶちゃんのお姉さん。この度優しい持論が裏目に出て大怪我を負った。命に別状はないが、両膝下を失い、引退を余儀なくされる。童磨が人を食べているところに遭遇したため、話し合いでの解決はありえず、鬼殺隊の柱が人喰い鬼を見逃すはずがないため起こった悲劇である。



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#7 沙羅双樹の散り際



タイトル=さらそうじゅのちりぎわ

花柱の引退、あるいは不穏な空気。




 

 

花柱・胡蝶カナエの負傷と引退の知らせは、瞬く間に鬼殺隊の末端まで伝えられた。詳細は柱以上にのみ共有されたが、その内容は両ひざ下を失ったうら若い女性への気遣いより困惑と一部からの侮蔑をもたらすものだった。

 

「柱が下弦でさえない鬼に不覚を取っただと?」

 

「まさか鬼に情けでもかけやがったか」

 

「胡蝶の実力は確かだ」

 

臨時の柱合会議に集まった柱三名が本部の庭先で言葉を交わす。胡蝶カナエと同期の柱である宇髄天元とつい数か月前に風柱となった不死川実弥は厳しい表情だ。対して、冨岡義勇は何を考えているのか伺えない顔で淡々と言葉を返した。

 

彼らから少し離れた場所に佇む小柄な少女は、その物言いを耳にしてブルブルと震えている。けして怯えや緊張からではない、怒りの武者震いだ。三人の柱は当然気付いていたが、あえて彼女の存在を無視していた。

 

「お館様のお成りです」

 

屋敷の中から幼い声が告げるなり、庭先の四人は膝をついて頭を下げる。するすると襖が開く音に柔らかい足音が続き、縁側近くまでやってきた男が足を止めた。

 

「お早う皆。今日は急な招集にかかわらず駆けつけてくれて嬉しいよ」

 

「お館様におかれましてもご健勝をお慶び申し上げます。益々のご多幸を心よりお祈り申し上げます」

 

天元の挨拶に、産屋敷一族の長・産屋敷耀哉は病に侵食された美貌を緩めて頷いた。

 

「ありがとう、天元。さて、皆を呼んだのはほかでもないカナエと彼女が遭遇した鬼について話しておくためだ。しのぶ、昨日の今日のことで辛いと思うけれど、彼らに詳しく話してくれるかな」

 

「はい、お館様」

 

深く頭を下げていた少女、胡蝶しのぶがゆっくりと顔をあげる。姉によく似た可憐な顔立ちの娘だが、薄紫の瞳は爛々と輝いており、白皙に紅挿す激情はこの場にあって物怖じしていなかった。

 

「私は胡蝶しのぶ、花柱・胡蝶カナエの継子です。階級は丁。昨晩の花柱の任務に同行しておりました」

 

鈴のような声が務めて淡々と語る。しのぶの視線は耀哉に注がれているようでいて、その実、悠然と遠ざかっていった白橡の長髪と広い背中を幻視していた。

 

「夜な夜な若い女性を攫って喰っていた鬼を探すため二手に分かれ、午前4時過ぎに姉、カナエの鎹鴉が鬼を退治したと伝えてきました。任務完了したと思い合流場所に向かったのですが、姉は現れず、5分も経たないうちに少し離れた路地から悲鳴が聞こえ……」

 

しのぶの平坦な声が一度だけ割れて揺らいだが、そこで止まることはなかった。

 

「私がたどり着いた時には、一面の地面が凍りついており、姉は膝から下を凍らされ砕かれておりました。あれは鬼の血鬼術に間違いありません。鬼の姿は、路地の暗がりに消える後ろ姿しか見えませんでしたが、背格好は覚えております。身の丈六尺かそれ以上、肩幅が広く手足が長い男でした。白みがかった薄茶の髪が腰まで伸びていて、特徴的な跳ね方をするくせ毛。今朝、姉の意識が戻った際に聞いたところ、その鬼は若い男の姿をしており、物腰は親し気。髪の頭頂部のみ血を被ったような赤色で、柔らかく端正な顔立ちに虹色の瞳をしていたとのことです。瞳に文字はなく、十二鬼月ではないだろうと申しておりました。その実力は……柱である姉を容易くあしらい、殺気もない内に術中に貶めるほど。血鬼術、速度、膂力のいずれも下弦の域を超えていたと」

 

一気に語ったしのぶが黙ると、しんと沈黙が落ちる。それぞれ思案する気配の中、耀哉は穏やかな笑みを称えたまま少女を労った。

 

「詳しく話してくれて助かるよ、しのぶ。カナエの容体はどうかな?」

 

「両膝から下を欠損したため、もう戦うことはできませんが、命に別状はありません。傷口まで凍結して出血死の危険性がなかったことが不幸中の幸いでした。今は痛み止めや化膿止めの副作用で眠ってばかりですが、じきに回復に向かうでしょう」

 

「それは、本当に不幸中の幸いだね。カナエには、何も心配せず養生するよう伝えておくれ」

 

「……っ、ご恩情に心より感謝申し上げます」

 

平伏するしのぶの背中は小さい。大柄な柱たちの横に並んでいるため、余計にそう見えていた。耀哉はそんな少女の姿に慈しみをこめた目を細め、優しく告げた。

 

「もう下がっていいよ。看病中に呼び出してしまってごめんね」

 

「いいえ、一秒でも速くあの鬼を討伐できるなら何も惜しみません。微力ながら、私にできることがあれば、何なりとお申しつけください」

 

「ありがとう、しのぶ」

 

最後まで瞳をぎらぎらさせていた少女剣士が一礼して去っていく。まだ未熟ではあるが、その気迫は柱たちが口を挟むことをためらうほどのものだった。非力そうな少女が、いずれは自分たちと肩を並べるかもしれない。そんな期待を抱かせるほどに。

 

「皆、しのぶの話を聞いてどう思ったかな。まずは憶測でもいいので、知恵を寄せ合おうか」

 

ゆったりした口調で耀哉がそう言えば、庭先から冷静な分析がいくつも飛び交い、氷使いの鬼に関する仮説と疑問が象られていく。柱が手も足も出ないほどの鬼が何故十二鬼月ではないのか。胡蝶カナエを殺さなかったのは何故か。その鬼は花柱の担当地域内に縄張りがあるのか、それとも放浪しているのか。

 

新たな強敵への殺意がみなぎる中、産屋敷の当主だけが穏やかな笑みの下で欠けた月へと思いを馳せていたのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

琴葉の手伝いでもしようと昼下がりの蝶屋敷にやってきた伊之助は、屋敷を包む刺々しい空気に柳眉を寄せた。怪我人が日々運び込まれる場所であるため、緊張感や悲壮感が漂うことはままある。しかし、今日のように悲しみに殺気や怒気が入り混じるのは初めてだ。

 

誰も玄関近くにはいなかったので、勝手知ったる屋敷へと踏み込む。伊之助はまだ鬼殺隊士ではないが、母子ともに隊との付き合いは長い。途中で幼い看護婦たちが泣いているのを見つけて近づけば、彼女らは伊之助を認めるなりさらに涙をこぼした。

 

「てめぇら、どうして泣いてやがる。カナエかしのぶが怪我でもしたのか?」

 

「ぐすっ、いのすけさぁん……カナエ様が、カナエ様がぁ」

 

「さ、昨晩の任務で大怪我をされて、ヒック、うぇっ」

 

「もう戦えないって、ううっ」

 

口々に言う子供たちの説明をつなぎあわせれば、なんとなく理解できた。屋敷を取り巻く殺気と怒気はしのぶのものだ。露出した上半身をぴりぴりと刺す害意はカナエを傷つけた鬼に向けられているのだろう。

 

「しのぶはどこだ? 母ちゃんは?」

 

「しのぶ様はカナエ様のところ、この奥の集中治療用のお部屋です。琴葉さんは通常の看護にあたられてます」

 

「わかった。俺は母ちゃんを手伝ってくっから、てめぇらは少し休んでろ」

 

「あのっ」

 

小さな手が伊之助のズボンの布を掴む。翡翠の目を向ければ、小動物のような子供の一人が涙で濡れた顔で見上げてきていた。

 

「しのぶ様のところには行かれないんですか?」

 

「今日は行かねぇ。気が立ってて触られたくねぇ気配がしてるからな」

 

胡蝶しのぶは蝶のように可憐な少女だが、その中身は優しくも雀蜂のような猛々しさをもつ戦士だ。その彼女が全身から威嚇の気を発しているなら、近づかないのがお互いのため。山の獣に対するように冷静に判断して、伊之助は隊士らが寝かされている病室の方へと足を向けた。

 

(カナエは柱で、しのぶより強ぇ。それが大怪我で再起不能だと? 十二鬼月とかいう鬼が出たのか)

 

伊之助の麗しのかんばせがどんどん険しくなり、病室の戸に手をかけたところでピタリと動きが止まる。この先には琴葉と彼女の胸元に隠れた童磨がいる。そう考えた途端、ろくでもない想像と共に、半日ほど前の出来事を思い出したのだ。

 

 

 

* * *

 

 

 

童磨が嘴平親子が就寝する頃に出かけて明け方前に戻ってくるのは、いつものこと。彼は空腹を誤魔化す程度の食事しかしないが、鬼とて生物なので、本来は数日おきの食事が必要だ。どう頑張っても二週間で空腹が臨界点に達するとは本人の言。腹が減ると琴葉が美味しそうに見えて困ると笑って告げられても、伊之助は養父の割れた腹目掛けて突っ込みをいれることしかできなかった。

 

かくして昨晩、十日ぶりの食事に出かけた鬼は明け方より少し前に帰宅した。琴葉は熟睡していて身じろぎもしなかったが、伊之助は小さくなった童磨が壁の穴から入ってくる前から、その気配を肌で感じていた。母と並んで敷いた布団に転がったまま顔だけ向ければ、みるみる元の大きさに戻る姿が目に入る。童磨は体内に収納してあった着替えを器用に着込み、心ここにあらずといった様子で琴葉の布団までやってきて、かけ布団の中にもぐりこんだ。

 

「父ちゃん」

 

声を潜めて呼びかけても、琴葉を抱き込んで収まりが良い体勢になることに夢中なのか、もぞもぞと動く白橡の頭から返答はない。やっと満足いく格好になったのか、細い首筋に鼻先を埋めて、何度も深呼吸する姿に違和感を感じる。

 

「父ちゃん?」

 

「ああ、ただいま、伊之助」

 

「おかえり」

 

窓から少し月明りが入るだけの室内で、虹色の双眸がいやに浮かび上がって見えた。童磨の瞳には、鬼の特徴である爬虫類めいた瞳孔やこめかみの血管の浮き上がりが伺えない。これは伊之助が物心ついたころから変わらず、髪の色や爪の形のように人間に擬態しているわけでもない。彼は、この養父の目が母と己から外れるなり綺麗な石ころと化すことを知っている。それが、今は確かな温度をもって向けられていた。

 

「ちゃんと寝ないと駄目だぜ。人間は十分寝ないと長生きできないからなあ」

 

「……何かあったのかよ」

 

伊之助の問いかけに、童磨はうーんと小さく唸って布団の下でもぞもぞと腕を動かしはじめた。良いにつけ悪しきにつけ、何かしら気持ちが揺さぶられると琴葉に触れるのが童磨の癖だ。絶対的強者であるはずの彼は、感情というものが得意ではない。子供の頃からあった違和感は、寺院から出て外の世界の人々と関わるようになって明確に見えてきていた。

 

女性らしい柔らかな腹を撫でているのか、鬼の優しげな顔がさらにとろりと緩む。それで落ち着いたのか、小声で答えがあった。

 

「鬼殺隊の女の子に嫌なことを言われた」

 

「おう」

 

「可愛くて優しい子だったけど、あの、なんだろう、哀れみかな? それがとても不快だったから返り討ちにしたんだ」

 

「喰ったってことか」

 

「まさか! あんな子を食べるなんて冗談じゃないぜ」

 

ふんすと鼻息荒く言っているのは全て見せかけだ。童磨の中にある不快感は、おそらく表面に見せているような子供らしいものではない。眠る母親を放さない様子に、伊之助は自らの白い腕も童磨の方に伸ばした。

 

「父ちゃん、手握っていいぞ。腹とか胸とかぐるぐるして気持ち悪ぃだろ」

 

「はて、どうしてわかったんだい?」

 

「俺、もう少し寝る。おやすみ」

 

伸ばした手にぎゅっと長い指が絡められるのと同時に目を閉じる。おーいと腕を引っ張る童磨がしばらくうるさかったが、それも琴葉が身じろぐとなくなり、それぞれの息遣いと虫の鳴き声だけが残った。

 

(どこのどいつか知らねぇが、父ちゃんを怒らせて生きてるなら運がいいぜ)

 

まどろむ直前、この時は確かにそう思ったのだ。伊之助が数奇でろくでもない巡りあわせを知るのは、この半日後のこと。蝶屋敷をつつむ憤怒と慟哭に肌を刺された後のことだった。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは6年目。胡蝶カナエに心から哀れまれ、本人も気づかずに怒髪天をついた。嘴平親子と楽しく(幸せに)暮らしているのを可哀想だと下に見られたのが許せなかった模様。こういった衝動に戸惑う度、琴葉をぎゅっぎゅっしたくてたまらなくなる困った120歳児。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。出勤したら蝶屋敷がとんでもない空気に包まれていたので、事情を聞いて、ひとまずこの日の通常業務を引き受けた。包帯を巻くのは上手。ただし難しいことはできないため、ロリっ子看護トリオが復活するまで、痛がる患者に子守唄を歌って誤魔化していた。下手な痛み止めより利いたというのは、隊士Aの証言。なお、眠っている描写がやたらと多いのは、感情や人間味が原作童磨にとって夢幻だったことに繋げてます(ひそひそ)

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。13歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。とんでもないことに勘付いてしまった。なお、琴葉よりも正しく童磨のことを理解しているが、童磨により必要なのは彼女だとも知っている。怒れるしのぶに近づかなかったのは、八つ当たりを相手のために受け入れる性分ではないため。神回避。

胡蝶しのぶ
花柱の妹にして継子の中級隊士。おこりんぼな16歳。最愛の姉が鬼に再起不能にされたため、鬼殺ゲージがMAX点滅してしまった。柱合会議ではどうにか冷静に話せたが、カナエの寝台脇に戻ってくるなり屋敷全体をつつむほどの怒気を発したアヴェンジャー。もし伊之助が顔を見せて下手な慰めを言ったものなら、八つ当たりで爆発したこと間違いない。



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#2.5 不還への岐路に立つ



タイトル=ふげんへのきろにたつ

寺院暮らしの日々、あるいは家族になる前日話。




 

 

昨晩救った女は、髪質が琴葉に似ていた。切れ長の目の狐顔は真逆の部類の美しさだが、豊かな長い黒髪だけは、お気に入りの可愛い娘にそっくりだった。

 

「うんうん、綺麗な良い髪だ」

 

童磨は新しい生首を牡丹柄の壺に活け、床に広がる黒絹に目を細める。しかし数秒もすれば端正な顔は表情を失い、ぞんざいに髪を集めて纏めるなり、その壺を棚の適当な場所に置いた。すでにこの女は現世から解き放たれたのだ。辛い人生は童磨の糧として終わり、その命は燃料として永遠に彼の内にあり続ける。であれば、残った頭部は救済の記録と棚を飾るための装飾でしかなかった。

 

(この部屋も手狭になってきたなあ。もっと棚を入れるには増築しないとだめか)

 

施錠された回廊の先にあるこの部屋は童磨しか立ち入らない。流石に鬼であることも救済を兼ねて人を喰うことも信者らには伏せているため、ここに関しては自力でどうにかするしかないのだ。

 

綺麗に並んだ棚を彩る上弦の伍作の壺と活けられた頭蓋の数々をぐるりと見まわし、童磨は特大のため息を吐き出した。お気に入りの娘こと嘴平琴葉がここにいたなら「幸せが逃げちゃいます」と唇にてのひらを押し当てたことだろう。

 

(手狭といえば、これもそろそろ新しい入れ物が必要か)

 

琴葉の顔が浮かんだことで、懐に入れたものの存在に気を留め、指でつまんで目の前にかざす。つやつやとしたどんぐりを灯りにあて、光を弾く様子に目を眇める。先ほど活けた女の首よりよほど長い間、童磨はちいさな贈り物を指の間で転がして観察していた。

 

「うん、実に端正などんぐりだ。伊之助のお見立ても日々上達してるなあ。感心、感心」

 

優しげな微笑。穏やかな声。柔らかな気配。いずれも童磨が常に纏っているものだが、特定の条件付きで人の目がない時でも労なくできるようになったのは最近のことだった。

 

「これを、こうやって、よーし」

 

丁寧に乾いた冷気を纏わせれば、どんぐりは見目をそのままに凍結し、保存に適した状態となる。この一粒の行先は、童磨が特に気に入った首を置いている棚の真ん中を陣取っている舶来のガラス瓶だ。

 

ころりと新たな木の実を瓶にいれて栓をする。もうじきいっぱいになる容器を見つめる横顔は、宝物を愛でる子供のそれに似ていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

「琴葉、こんなところでどうしたの?」

 

「きゃっ……」

 

夕暮れも過ぎた薄暗がりの寺院の庭で華奢な背中を見つけた童磨は、彼女ー嘴平琴葉の耳元に声をかけた。片目を失明している相手の死角から近づいたのは意識したわけでない。しかし、いきなり背後に立たれた琴葉は小さく悲鳴をあげ、心臓の上に両手をあててうずくまった。

 

「わあ、驚きすぎだぜ!」

 

「童磨さん、しっ、心臓が口からまろびでるかとっ」

 

「それは大変だ。琴葉の心臓にはまだ何十年も働いてもらわないと困る」

 

「そういう話じゃないの、もうっ」

 

全く凄みがない抗議にニコニコと笑顔を浮かべ、改めて問いかける。

 

「それで、何してるんだい?」

 

「伊之助を探しているの。もうお夕飯なのに部屋に戻ってこないから」

 

「ああ、伊之助ならあそこだよ。ほら、蛇が蛙を喰ってる様子に夢中だ」

 

元より琴葉だけでなく伊之助の位置も把握していた童磨が指させば、琴葉はホッとした顔で目を凝らす。彼女の視力ではしゃがんだ子供の輪郭しかわからない距離だ。けれど童磨の目には、伊之助が熱心に見つめる先でアオダイショウが大きな蛙を半分ほど飲みこみ、まだ生きている蛙の足がビクビクと震える様まで見えていた。

 

琴葉が我が子の方へと歩き出すのに童磨も続き、彼女とともに子供の横に屈む。

 

「伊之助、もうお夕飯の時間よ。お部屋にいきましょう」

 

「熱心に見てるなあ。蛇の食事を見るのは初めてかい?」

 

「母ちゃん、どーまさま。こいつらおもしろいんだぜ。さっきまでけんかしてたのに、もうすぐひとつだ。なかなおりしたのか?」

 

大きな翡翠の瞳も整った面(かんばせ)も母親そっくりな幼児が笑う。その様子に、童磨はなるほどなあと同じ笑顔で返してやった。

 

「伊之助、あのね、この蛇は蛙をつかまえて食べているのよ」

 

「こんなうごいてるのをたべてるのか?」

 

「そうなの。蛇はこうやってご飯を丸のみにするのよ。食べられた蛙は死んでしまうけど、蛇が生きていくための力になる。伊之助もご飯を食べると元気いっぱいになるでしょう? それはご飯になったお魚やお野菜の命が伊之助の力になっているからなのよ」

 

「うん、てんぷらたべるとげんきになる。てんぷらのいのちすげえな!」

 

「天麩羅じゃなくて、その材料の茸や山菜の命さ、伊之助」

 

琴葉の精いっぱいの説明を、伊之助は半分も理解できていないだろう。生存のための争いも、蛙は負けたから死ぬことも、そも死という概念さえ、四つの子どもはまだ知らないのだ。俺はわかってたけどなあ、と童磨は只人への哀れみをもって小さな頭を撫でた。

 

「こうやって強い者が弱い者を食べることを弱肉強食っていうんだぜ。虫が葉っぱを食べたり、鳥が虫を食べたり、獣が鳥を食べたり、全ての生き物は食うか食われるかの関係があって、人もけして例外じゃあない。弱いと喰われちゃうからな、伊之助は強い男に育っておくれよ?」

 

「じゃくにく、きょうしょく……かっこいい。おれもいっぱいくったらどーまさまみたいにつよくなる?」

 

「そうだなあ」

 

すでに蛙は足先まで呑まれ、アオダイショウはその食事を終えようとしている。童磨はきらきらした瞳の子供を片腕に抱きあげ、もう片手を琴葉のそれと繋いで寺院のほうへと促した。

 

「みんなの尊い命を現世の苦境から解き放ち、永遠の幸せに導くのが、教祖である俺の使命。伊之助が俺みたいになるのは無理だけど、お前なりに強くなりなさい」

 

「伊之助は、きっと強くて優しい大人になるわ。童磨さんとは違う方法でも、たくさんの人を幸せにできる素敵な大人に」

 

柔和な目元を緩めた琴葉がそう言えば、伊之助も大きな声で「ぜってえなる!」と答える。そのやりとりがおかしくて、顔が勝手に笑みの形になるのを止められない。すっかり暗くなった庭を目が悪い琴葉の足取りにあわせて進みながら、童磨は食べもしない夕飯の献立について相槌をうっていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

「本当に、いいの?」

 

気遣わしげな琴葉にそう訊ねられたのは、先日5歳になった伊之助のために端午の節句を祝った、その夜のことだった。教祖のお気に入りの子供のために山のようなご馳走が用意され、立派なこいのぼりが寺院の庭を彩ったその日、伊之助は大変ご機嫌で、琴葉の手を引いて童磨について回っていた。天麩羅をたらふく平らげた後、童磨にねだって菖蒲の葉が浮かんだ風呂に一緒に入り、ゆびきりげんまんとこいのぼりの歌を混ぜて歌った挙句、彼のことを父と呼びたがった。特に拒否する理由がなかったため止めないでいたら、風呂からあがる頃にはすっかり定着していたのだ。

 

「うん? 呼び方のことかな」

 

自分の腿を枕にして丸まった子供の頭を撫でながら、童磨は首を傾げた。

 

「童磨さんは、伊之助をとても大事にしてくれるけど、この子のお父さんじゃないわ。私たち、貴方から貰ってばかりで何も返せていないのに、これ以上何かをねだったらバチが当たります」

 

琴葉が気にするのも無理はない。童磨は外見上まだ若くて未婚、そのうえ万世極楽教を率いる教祖だ。数百名の信者に神の子と崇められ、琴葉の目から見て大変立派にその務めを果たしている、完全無欠の若者だ。神秘的な色合いの美貌はともすれば近寄り難く、それでいてよく笑い、気さくに信者たちに接する素晴らしい人物。そんな彼が、嫁ぎ先で暴力を受けて逃げてきた女の連れ子、つまり赤の他人に「父ちゃん」と呼ばれることは、あまりにもそぐわないのだ。

 

「俺が二人に此処にいてくれって言ったんじゃないか。琴葉の傍は心地が良い。伊之助は見てるだけで楽しい。本当だぜ?」

 

「それと、お父さんになるのは違う話だわ」

 

「同じことさ。俺の息子になれば、伊之助は何も気兼ねなく此処にいられる。琴葉だって、肩身が狭いのなら俺のお嫁さんに」

 

「童磨さん!」

 

迦陵頻伽のごとく綺麗な声は、初めて聞く厳しい響きをもっていた。呆れるほど善良な女が怒っている。童磨はぱちくりと二度瞬き、母親の大声にも起きない伊之助を片手で撫で続けていた。

 

「わあ、吃驚した。いきなり怒らないでおくれよ」

 

「……ごめんなさい。でも、そういうことは言わないで。私、童磨さんのことが大好きよ。感謝してもしきれない、とっても尊い人だと思っているわ。貴方は高い所から世界を見ていて、私にはわからないことがたくさんあるけれど、貴方が私や伊之助、信者の皆さんを救おうとしてくれているのはわかるの」

 

「うん、ありがとう」

 

とりあえず褒められたので礼を口にした。胸の奥がざわめいて、滑りに沈んだような不快感があったが、それも琴葉の寂しそうな顔の前では後回しだ。童磨が触れたがりの手を伸ばせば、彼女は少し竦んで、けれど頬を撫でる指から逃げはしなかった。

 

「どうしたの、琴葉。なんでも話してごらん」

 

「貴方は遠いわ。大事にしてくれるのに、私は何もしてあげられない。童磨さんがどうしたら喜んでくれるのか、わからないの。貴方のお傍は幸せよ。とても幸せなのに、貴方は遠くてっ」

 

童磨の指を涙が濡らし、ぽろぽろと零れるほどに指から手首まで伝う。泣いてしまった琴葉を胸元に寄せても嗚咽は大きくなるばかりで、彼女から見えないところで表情を落とした童磨は、どうしたものかと宙を見つめた。どうしたら喜ぶかなんて、自分の方が知りたいのだ。抱きしめても遠いと言われては、もう喰らってひとつになるしか距離は縮まないように思えた。

 

(嫌だなあ。琴葉が泣いているのは嫌だ。とっても不快だ)

 

胸板に顔を埋めている琴葉をあやしつつ、眠りこける伊之助と震える背中を交互に見比べた鬼は、何度か表情筋を試し、少し困った慈しみの笑みを浮かべて言った。

 

「じゃあ、こうしよう。俺は今日から伊之助の『父ちゃん』だ。琴葉と伊之助は親子で、俺と伊之助も親子。三人で家族さ。ずっと家族で一緒に暮せば、誰が何を喜ぶかなんてすぐわかるようになるさ」

 

琴葉のべしょべしょに濡れた頬を包んで顔を合わせれば、彼女は目尻を真っ赤に腫らして下唇を噛んでいた。やめなさい、と親指の腹でなぞれば、そこは従順に綻んだけれど、泣き止む様子はなかった。

 

「琴葉、俺の家族になっておくれ」

 

囁くほどの優しい声でそういえば、美しい彼女は言葉もなく何度もうなずき、童磨の頸元にまた顔を埋めたのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

六つ目の鬼から主人の命を告げられた時、童磨は長い生ではじめての岐路に立った。それまで自覚することもなかった、何かを選択するという行為が可視化された道のように目の前に広がったのだ。鬼になった時でさえ成り行きであったのだから、混乱するのは当然の帰結であった。

 

琴葉を喰えという命令に牙を剥くこともできず。伊之助を殺せと言われても体は動かなかった。気づけば上弦の壱を部屋の半分ごと厚い氷壁に閉じ込め、母子の手を引いて逃げ出していた。両親が作ったつまらない宗教も、頭が悪い信者たちの救済も、形良い頭蓋を活けた数百の壺もどうでもよかった。

 

あの美しいどんぐりを詰めたガラス瓶さえ置き去りに、童磨は家族連れの逃れ鬼となったのだ。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛(玩)を知って世界が広がった人間性幼稚園児。そろそろ自分に感情が芽生えそうなことも、それが嘴平親子の影響であることも自覚している。琴葉をお嫁さんにと言いかけたのは、その方が気兼ねなく傍におけるから。残念ながら他意はなかった。伊之助のお父さんになったのも同じ理由から。残念ながらry。しかし二人のことは大変大事に囲っている。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。この時点で恋愛矢印は彼女からしか出ていない。童磨が遠く感じるのは、勘がいい彼女には彼が同じ感情を返していないことが肌でわかっているから。なお、善良な琴葉の目には、童磨は聖人ゆえに異性を意識せず、皆を導く立場ゆえに個人の欲をほとんど口にしないのだと映っている。大いなる解釈違いだと気づく日は近いようで遠い……

嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく美ショタ。どんぐりマスター。童磨のことは5歳の端午の節句まで「どーまさま」呼びしていた。家族で入信している信者たちを見て、父親という存在に大変興味が湧いてしまい、童磨を「父ちゃん」呼びした猛者。訂正されなかったので、そのまま定着した。童磨のことは元から大好き。母親の次に大事な大人の保護者なので、ある意味父親で間違いなかった。弱肉強食は4歳から刷り込まれている。



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#8 厭離穢土はいまだ遠く



タイトル=えんりえどはいまだとおく

無知なる母、あるいは暗躍のはじまり。




 

 

「しのぶさん」

 

病室から出た廊下の先に優美な羽織の後姿をみつけ、琴葉は思わず声をかけた。立ち止まり、けれど振り返ることをためらっている様子の相手に自ら歩み寄れば、観念したのか小柄な体がくるりと向き直る。

 

胡蝶しのぶの可憐な顔は青白く、藤色の瞳の下は疲労から黒ずんでいた。髪も化粧もきっちりいつもどおり身綺麗にしているだけ余計に無理をしているように見えて、琴葉の眉も気づかわしげに下がる。

 

「こんにちは、しのぶさん。カナエ様のご容体はどうですか?」

 

「こんにちは、琴葉さん。姉さんは相変わらずです。そろそろ化膿止めの投薬をやめるので起きている時間が増えるけど、お喋りしたがっても休ませてくださいね」

 

この蝶屋敷の主人である胡蝶カナエは、五日前に両脚に大怪我を負い、全く寝台を離れられないでいる。鬼にひざ下を奪われ、剣士としての生命を絶たれたのだ。いずれは義足や杖を使って自力で動けるようになるかもしれないが、まだ傷が塞がってもいないため、未来の話が躊躇われる状態であった。看護の手伝いとして雇われている琴葉も当然、カナエの惨い傷口を目にしている。しかし重傷者の看護を担当できるほど知識がないため、包帯を運んだりする程度で経過はわかっていなかった。

 

おっとりした物腰と大和撫子の美貌をもつカナエは、はじめて会った時から嘴平親子に親身に接してくれた。あまり物覚えのよくない琴葉に根気よく看護の手際を教えてくれただけでなく、日々の生活についても何かと気遣ってくれた優しい女性だ。彼女が鬼に敗北し、それでも生きて蝶屋敷に帰ってきてからというもの、屋敷内の空気はずっと暗く張り詰めたままだった。

 

「わかりました。私にできることがあれば、何でも言ってくださいね。力仕事なら伊之助にも声をかけるわ」

 

「姉さんにかかりっきりの私やカナヲのかわりに隊士の皆さんの面倒を見てくれるだけで、充分すぎますよ。琴葉さん、本当にありがとうございます。私もそろそろ任務に戻ることになるので、そうなったら姉のことをお願いしますね」

 

しのぶはそう言ってにこりと笑ったが、ふと真顔に戻って琴葉を見上げた。

 

「ところで琴葉さん、伊之助君が鬼殺隊に入るのを反対していないというのは本当ですか?」

 

「ええ、あの子がそうしたいって決めたことですもの。応援しています」

 

しのぶと伊之助は仲が良いため、今年の入隊選別を受ける予定を知っていても不思議ではない。深刻な顔をする相手に頷いて返せば、彼女は苦し気に言葉をつづけた。

 

「伊之助君は強いです。きっと最終選別を生き残るでしょう。でも、隊士として任務につけば、どんな鬼とまみえるかわからない。柱だって明日の保証はないんです。今なら、まだっ」

 

縁起でもないことは口にできない。それでも、カナエの負傷はしのぶの心に深い影を落としていた。

 

「しのぶさん、ありがとう。とても優しいのね」

 

唇を噛んで黙った少女に、琴葉は柔らかな笑みをうかべて言った。

 

「伊之助は鬼の親玉を倒すって言っていたわ。そうと決めたら絶対曲げない子だから、見守ることにしたんです」

 

「……貴方方を襲った六つ目の鬼は、とても強かったのでしょう? 伊之助君の自慢のお父さん、童磨さんだって逃げるしかなかったって、そう聞いています。鬼殺隊に入ったら、そんな鬼と日々戦うことになるんですよ」

 

しのぶと琴葉の会話を話を聞いていたもう一人が、琴葉の胸元でもぞもぞと動く。外からわからないとはいえ、左胸に抱きついて顔を埋めているらしい相手を着物越しに撫でれば、その仕草を見たしのぶは何を思ったのか、小声で謝罪を述べた。

 

「いいのよ、心配してくれているのね。伊之助のことも、私のことも」

 

「差し出がましいお節介だって、わかっているんです。でも私、琴葉さんにまでこんな思いをしてほしくなくて……本当にごめんなさい」

 

「ねぇ、しのぶさん、抱きしめてもいい?」

 

琴葉の美しい声は春の陽のようで、緑の眼差しはどこまでも純粋に澄んでいる。穏やかに見つめられてつい頷けば、しのぶよりも少しだけ大きな、けれど華奢な体に抱き寄せられた。カナエやしのぶとはまるで違う、か弱い女性の腕が背に回り、ぽんぽんと子供にするように触れる。それが、まだ両親が健在だった頃に母に抱きしめられた感覚に重なって、一気に目頭と喉の奥が熱くなった。

 

「貴方はえらいわ。とっても頑張ってる。まだ16歳なのに、お姉さんをよく支えて、悪い鬼を退治して人々を守って、私のことまで気遣ってくれる優しい良い子ね」

 

「こ、琴葉さん……」

 

「でも、ずっと頑張り続けていたら疲れてしまうわ。今だけでも力を抜いて、自分のことを労わってあげましょう? 辛いことは口に出して分け合いっこすると気持ちが軽くなるのよ。私じゃあ頼りないかもしれないけど、しのぶさんのお話を聞かせてくれる?」

 

しのぶのきっちりまとめ上げた髪を白い手が撫でる。ひぐっと情けない音が喉からこぼれても、琴葉は気づかないふりでしのぶを抱きしめていた。

 

「ううっ、怖かったんです、姉さんが殺されてたかもしれないって、相手の気まぐれで生かされただけだって知って、怖かった!」

 

「ええ」

 

「怖くて、それ以上に許せない! お父さんとお母さんを殺した、姉さんを傷つけた鬼が憎いっ!! それなのに、それなのにぃ、あんなにされても姉さんが変わらないから、私っ」

 

矮躯とはいえ呼吸を使う剣士に縋りつかれて痛いはずなのに、琴葉は身じろぎひとつしなかった。ただ静かにしのぶの背を撫で、彼女が吐き出すものを受け止めていた。細い肩に額を押しあてて俯く少女剣士が、琴葉が一瞬だけ浮かべた悲しげな表情を知る由もなかった。

 

「無理よ、姉さん……鬼と仲良くなんてできない。人を喰う化物とどう分かり合うっていうの?」

 

「……しのぶさん」

 

「あっ、琴葉さん、ごめんなさい!」

 

名前を呼ばれて我に返ったしのぶが、ぱっと体を離す。小さな手が触れていた箇所は着物の下で変色しているかもしれない。それほどの力で縋りついていたのだ。感情を制御しなかったことに恥じ入り平謝りするしのぶだったが、琴葉は柔和な笑みでかぶりを振った。

 

「気にしないでいいのよ。少しは気が楽になったかしら?」

 

「……はい、誰にも言えないことだったので、胸のつかえが取れました。ありがとうございます」

 

事実、しのぶの瞳はもう昏く淀んではいなかった。琴葉の母性とその魅力について男性隊士らが盛り上がっているのを聞いた時は、なんて俗っぽいんだろうと白けたが、ああして抱きしめられて思い知った。彼女の善性は、周りまでも染めていく尊いものだ。容姿の美しさも相まって、彼女なら鬼さえ心動かされるのではないかと思ってしまうほどに。

 

「それならよかった。もし疲れてしまったら、またお話ししましょうね」

 

「はい。あの、琴葉さん」

 

手の甲で涙をぬぐい、しのぶは彼女らしい勝気な笑みを浮かべた。そして、小首をかしげる琴葉に言い放った。

 

「やっぱり貴方が悲しむのは嫌なので、伊之助君をうんと強く鍛えることにします! 任務と看護の間の時間、全部特訓に費やしてやりますから、毎日顔を出すよう伝えてください」

 

笑顔のしのぶは知らない。琴葉の胸元に隠れた姉の仇が己への殺気を内に押し込めていることも、生意気な年下の友人が鬼を人に戻すために入隊しようとしていることも、何より春の陽のような女性がその人喰い鬼を愛していることも、この時は知らなかったのだ。

 

 

 

* * *

 

 

 

真昼間に鬼殺隊の施設の中を鬼が歩いているなど、誰も思わない。それが四寸ほどの大きさで気配を消すことに長けた鬼であるなら、気づかれる可能性もないに等しいのだ。

 

昼食前のこの時間は幼い看護婦らが厨にこもり、しのぶも自己鍛錬のため病棟から離れる。琴葉も配膳の用意で忙しく、童磨がひとこと断って着物の袷から這い出ても追ってくることはなかった。

 

「まったく、琴葉に痛い思いをさせるなんて、しのぶちゃんじゃなかったら殺してたよ。我慢したおかげで面白い夢物語を聞けたけれど」

 

童磨は物騒な独り言をこぼしながら集中治療室への廊下を歩いていく。琴葉お手製の紺鼠色の着物と月白の帯を身に着けた姿は、まるでよくできた人形だ。精巧な美しさの中で、どろりとした血色の頭頂だけが禍々しさを放っていた。

 

「さて……鬼と仲良くしたいならお互い歩み寄らないといけないぜ、カナエちゃん」

 

集中治療室の前でぴたりと止まり、一瞬で本来の大きさへと変貌する。瞬きの間に普段の徳利襟と袴姿でその場に立った鬼は、牙を覗かせて朗らかに嗤い、胡蝶カナエがいる部屋の扉を開いたのだった。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは6年目。今日も今日とて柔い胸に挟まれていたが、しのぶの抱きつきでむぎゅっと潰され、そのうえ愛しの琴葉に青痣ができて機嫌が暴落した。別に復讐のためにカナエのお見舞いに来たのではない、筈。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。善性も母性も天元突破しているが、童磨に関してだけは自身の善性に従えないことがあるのが苦しい。しのぶのことは頑張り屋さんで優しい、素敵な女の子だと思っている。なお、カナエの脚が凍っていたとは知らない。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。13歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。今回出番なしだが、琴葉による会話イベント(違)のおかげで強化フラグが立った。

胡蝶しのぶ
花柱の妹にして継子の中級隊士。おこりんぼな16歳。琴葉の母性にノックアウトされてしまった。ばぶばぶ。他の鬼殺隊の面々と同じく、嘴平家の父は鬼に喰われ、琴葉は未亡人だと信じ切っている。誰も嘘はついてないのに思い込みって怖い。この後、伊之助に全集中の常中を叩き込む。

胡蝶カナエ
優しく美しい元・花柱。集中治療室の住人と化しており、やっと化膿止めの投薬が終わった段階。ラストの直後、真昼間に思わぬお見舞いがやってきたことで心臓が口からまろびでそうになる。不憫枠だが不幸枠ではない、筈。



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#9 無明に沈み、囚われた



タイトル=むみょうにしずみ、とらわれた

接触、あるいは人食い鬼の論理。




 

 

「招いていないお客が来たようだね」

 

胡蝶カナエの鎹鴉が文を届けて飛び去った後、妻あまねと二人で内容を確かめようとしていた産屋敷耀哉は、ふと視線を天井へと向けてそう言った。すると、まるで応えるように天板のひとつが動き、鼠ほどの大きさの影が降ってくる。あまねの無表情が僅かに揺らぐも、彼女は動じない夫に倣い、座したままでいた。

 

四寸ほどの侵入者は落下の最中でみるみる大きくなり、ばさりと宙で広がった衣服を満たすように長躯の人型へと変化を遂げる。袴と白い足袋に包まれた足で畳に着地したのは、白橡の長い髪と虹色の瞳をもつ美しい青年だった。優しげな風貌の中で、血を被ったように変色した頭頂が酷く目立っている。

 

「やあやあ、はじめまして、産屋敷の御当主と御内儀。そちらから声を掛けてくれるなんて嬉しいなあ」

 

にこにこと挨拶する口元には鋭い牙。視力を失いつつある夫のため、あまねは「胡蝶しのぶ様から報告があったとおりの姿をした鬼です」と述べる。

 

「はじめまして。柱を殺さなかった元十二鬼月、君はいずれ接触してくると思っていたよ」

 

穏やかな耀哉の言葉に、鬼はおやと太い眉をあげた。しかしそれも一瞬のこと。すぐに無邪気な笑みを深めて夫婦から数歩離れた正面に腰を下ろし、ゆったりとあぐらを掻いた。行儀は悪いが、市井の育ちの者にはない優雅な身のこなしだ。

 

「流石は千年続く名家の御当主、肝が据わってるぜ。それに、とっても頭がいいみたいだ」

 

「いいや、それほどでも。ところで、自己紹介はしてくれるのかい?」

 

ゆっくりした美声でかわされる言葉は、その実、様子見がてらの剣跋だ。この鬼は瞬く間に屋敷内の産屋敷の血統を絶やすことができる。そう確信しながらも、耀哉の中に危機感はなかった。手にした胡蝶カナエからの手紙をゆるりと撫で、鬼の返答を待つ。

 

「これは失礼。俺のことは虹鬼と呼んでおくれ。前はここに上弦の弐と刻まれていたけど、今は鬼舞辻無惨から逃れて暮らすただの鬼さ」

 

おどけた風に自らの目元に触れる相手が口にした憎むべき名に、耀哉は考えを巡らせる。カナエの手紙には目を通せてはいないが、鬼が柱に完勝しておきながら殺さず去ったのは異例の事態だ。鬼からすれば生かしておく利点は一つもない。であれば、今ここで見定めることは必須であった。

 

「そう。私は産屋敷耀哉、こちらは妻のあまねだよ。虹鬼殿は蝶屋敷から烏を追ってきたんだね」

 

「丁度、カナエちゃんと話した後に烏が飛び去るのが見えたんだ。真昼間だからって迂闊すぎて、もしや罠かと思ったぐらいだぜ。なあ、産屋敷殿、もっと念入りに隠れないと悪い鬼に見つかってしまうぞ?」

 

まだ外は明るく、鬼にとって死地ともいえる時間帯だ。物陰から物陰へと移動してきたのだろうが、そうまでして鬼殺隊本部の場所を突きとめ単身乗り込んできた相手は、何をしようとしているのか。生き汚い鬼らしからぬ行動を空恐ろしく思うも、耀哉もあまねも微塵も表には出さずに先を促した。

 

「忠告痛み入るよ。それで、何をしに来たのかな?」

 

「うんうん、本題に入ろう」

 

鬼の美しい瞳がうっそりと眇められ、耀哉の病に侵されたそれと合わさる。

 

「俺は人間に戻りたくてね、その方法を鬼舞辻無惨から聞き出すため、奴を一刻も早く見つけて追い詰めたい。だから利害が一致する君たちと手を組もうと思って、こうしてお邪魔したんだ」

 

「どうして人間に戻りたいんだい?」

 

「えーっ、それも話さないと駄目?」

 

「人喰い鬼の話など本来聞く必要もないけれど、君の事情によっては考えなくもない、ということだよ」

 

明確な弱者である産屋敷耀哉の毅然とした物言いに、虹鬼はあざ笑うことなく、緩く腕を組んで考えるふりをした。やたらと大ぶりで気さくな仕草をする鬼だが、実際のところ僅かな機微も伺うことができない。上弦の弐が無惨を裏切るなんて、よほどのことだと予想する耀哉だったが、その考えは大きく裏切られることとなった。

 

「それじゃあ言うけど、人間の娘を好きになってしまったんだ。色々あって逃れ者になっちゃって、もう鬼でいる理由もないし、人に戻って彼女と楽しく暮らしたいのさ」

 

にこーっと輝くような笑顔で言い放たれた内容に絶句する。何百人も喰ってきた化け物の分際で、と隊士らなら激怒しただろう。耀哉とあまねとて内心は同じだ。きっとそれを見透かしている虹鬼は、わざとらしく首をかしげ、「あれ、カナエちゃんと違う反応だなあ」と口にした。

 

「カナエは思いやりが強い子だから、何を言ったのか想像がつくよ。私も彼女と同じ気持ちだ。君は態度も言い分もとてつもなく自分本意じゃないか。どうして、それで手を組めると思ったのか理解に苦しむ」

 

「うーん、御当主殿は賢い御仁だと思ったけど、違うのかい? 俺と手を組めば、鬼舞辻無惨と上弦の鬼たちの情報を教えてあげるし、上弦の参以下に確実に勝てるよ。君たちはただ、あの方を釣りだすか探し出すかしてくれればいい」

 

鬼は何が不満なのかわからないという顔だ。それさえ貼り付けられたものなのは、徹底した感情制御なのか、そも何も感じていないのか、いずれにせよ厄介な相手だと思うが、結論は決まっている。耀哉は美しく座した格好のまま、それを口にした。

 

「考え方の基準が全く違うのだね。君は人を喰うことに微塵も疑問をもっていない悪鬼。我々が君と手を組むことも、取引をすることもない」

 

「ふーん、随分刺々しいなあ。カナエちゃんといい、君らこそ自分本位だ。鬼だって生きてるんだぜ? 餓死しない分、絶食の苦しみは人の比じゃないってのに、食事するのが許容できないって……無理言わないでおくれよ」

 

唇を尖らせる鬼の右手に、手品のように閉じた扇子が現れる。藍色のそれは小間物に売っていそうな普通の品だが、ゆっくりと扇子を開いて口元を隠す動作に、耀哉はひやりと寒気を覚えた。彼の異能ともいえる勘が、ここで受け答えを間違えればよくないことが起きると告げているのだ。

 

「せっかく来たのに交渉決裂かあ。残念だよ、産屋敷殿」

 

「これ以上話すことはないので、穏便にお引き取り願えるかな、虹鬼殿」

 

含みを持たせることや、意味がない挑発はしない。この鬼は、この場で最も苛立った瞬間でさえ、耀哉とあまねを石ころをみるような目で見ていたのだ。元より二人に関心さえ持っておらず、自分の話だけしにきたに違いない。

 

虹の瞳の鬼はゆっくりと立ち上がり、口元に微笑をたたえた完成された表情で人間二人を見下ろす。そして、手にした扇子をひらりと一振りしてから、ぱちりと閉じた。

 

「ひとつ言っておくけど、俺の可愛い子を探したり、こちらの邪魔をしたりはしないでおくれよ? 君たちはもう俺から隠れられないんだから。それじゃあ、さようなら、産屋敷の御当主と御内儀」

 

そうして、鬼はやってきた時を巻き戻すように天井から去っていった。藤の香が焚かれた室内が一気に肌寒くなったことに、耀哉は僅かに柳眉を寄せる。あの鬼にしてやられたことに気づいたからだ。

 

「あまね、しばらく子供たちをこの部屋に近づけないでほしい。それから、気休めだけれど、対血鬼術の解毒薬を二人分用意しておくれ」

 

「はい」

 

しずしずと従うあまねの顔色は優れない。数百年、敵に知られることがなかった産屋敷一族の住処を暴かれたうえ、あの去り際の不穏な言葉だ。あのような悪鬼が見染めた人間とは、どのような娘なのか。ふと興味が湧いたが、産屋敷耀哉は懸命にもそれを胸の内で握りつぶした。

 

 

 

* * *

 

 

 

童磨が鬼殺隊本部に忍び込む一刻ほど前。蝶屋敷の集中治療室では、殺気立つ寝台の住人とにこやかな見舞い客が対峙していた。

 

「貴方みたいな鬼が人を愛するなんて……認めません、ありえません!!」

 

「酷いことを言うなあ。カナエちゃんが鬼と仲良くしたがってるって聞いたから、実例を教えてあげたんだぜ?」

 

入院着をまとい髪を下ろした無防備な姿でなお、胡蝶カナエは相手が間合いに入ってこようものなら縊り殺してやると言わんばかりの剣幕だった。寝台で枕を背に上半身を起こした彼女の足元には、ふくらみがないシーツがぺたりと広がっている。美しかった脚の膝下を奪った元凶は、彼女の恐ろしい視線に笑顔で返した。

 

「人と鬼だって、歩み寄れば仲良くなれるんだよ。俺と俺の可愛い子も、いくつか約束をしてお互いを尊重しあってる。彼女のために、俺は食事以外で人間を害さない大人しい鬼になったんだ」

 

「人の命をなんだと思ってるの……貴方に喰われた人たちだって、貴方が好きだという子と同じ命なのよ。それに、人を害さないなんて嘘! 私が生き証人です!」

 

「あははっ、カナエちゃんはこんなにも元気じゃないか。もう鬼と戦うこともないし、きっと何十年も長生きするよ。そもそも、君の方が俺を殺そうとしたんだから、被害者は俺でしょう」

 

けらけら笑う童磨にカナエの形相が麗しの乙女らしからぬものとなり、フウウと花の呼吸の深い音が乾いた唇から発せられる。日輪刀もなく、足先を失って瞬発力を出すこともできない状態で、それでも彼女は悪鬼へと手を伸ばした。

 

「おっと」

 

寝台から転げ落ちる勢いで胸元にしがみついたカナエを、まるで支えるように童磨の腕が抱きとめる。彼女はその拘束に抗い、あらん限りの力で鬼の長躯を窓の方へ押しやろうとした。五体満足であれば大岩さえたやすく動かせるのだ。窓から差し込む陽光に晒してやろうと必死だった。

 

挑みかかられた童磨はというと、その場に佇んだまま、踏んでしまった虫でも見るように胸元で力む女を見下ろしていた。カナエの努力は数分続いたが、最後には力尽き、肩で息をしながら鬼の手でもとの場所に戻されることとなった。

 

「……なんで貴方なの? 鬼舞辻無惨を裏切るほど人を愛した鬼が、どうして人喰いの悪鬼なの!?」

 

カナエは泣きはしなかった。ただ、薄紫の瞳を慟哭と怒りに染め、視線だけで鬼を殺せたならと己の無力を呪っていた。

 

招かれざる見舞い客はこのすぐ後に堂々と部屋を出ていき、カナエは昼食を運んできた妹に何もなかったふりで文の用意を依頼することとなる。青空に飛びたつ鴉を見送った元・花柱に落ち度はなかった。

 

庭の木陰からその鳥を見つけた小さな影が、時折炙られながらも影から影へと追いかけるなど、彼女でなくとも夢にも思うはずがなかったのだから。

 

 

 

* * *

 

 

 

最終選別のため藤襲山に集まった少年少女たちは、厳しい顔をして試験の開始を待っていた。十代半ばほどの彼らが鬼殺の道を選んだ理由はそれぞれあれど、鬼によって家族を奪われた者が大半だ。燃え立つ怒り、恨み、復讐の念。少しの恐怖と気が狂いそうな緊張。強い感情を臭いとして知覚化できる少年―竈門炭治郎には、この場は居心地の悪いものだった。

 

顔色が悪かったり武者震いしてたりの若者の群れの中、涼しい顔で佇む者は目立つ。一人は黒髪を側頭部で結い蝶の髪飾りをつけた可愛らしい少女。もう一人は、薄緑の生地に睡蓮の刺繍がはいった羽織を纏った美しい子だ。美形ぞろいの家族で育った炭治郎から見ても一際整った横顔のその子は、観察する眼差しで山を見つめていた。

 

(物凄く綺麗な子だ。あ、二振りも刀を下げてる)

 

じろじろ見るつもりはなかったのに、あまりに目を惹く容姿であるため、つい艶やかな黒髪から黒いズボンに包まれた脚先まで眺めてしまう。視線を綺麗な顔まで戻すと、やや勝気そうな翡翠の瞳とかち合った。こちらを向いたことで、正面から全貌が見え、炭治郎はぽかんと口を半開きにしてしまった。

 

(え、ええーっ!? 男じゃないか、それも凄く鍛えてる!)

 

優美な羽織の下は裸の上半身、しかも鱗滝のもとで二年間修業した炭治郎以上に発達した筋肉をもつ強靭な肉体だ。炭治郎の驚きをどう思ったのか、美少年はふんと鼻で笑って、また山へと視線を戻した。

 

(笑われてしまった。怒った臭いはしないけど、謝らないとな)

 

本当は今すぐにでもと思ったが、山への入口に二人の童女が立ったことで気持ちを切り替える。かくして最終選別が始まり、鬼がはびこる山での七日間が幕を開けた。

 

 

 

* * *

 

 

 

咲き狂う藤の小道を抜ければ、山全体が空腹と殺気の気配に溢れていた。山遊びばかりして育ち、家計の足しにするため獣を狩っていた伊之助からすれば、この山自体は脅威になりえない。少し探しただけで山菜や果実が見つかり、水源となる泉も一つ以上確認できた。そのうえ過ごしやすい季節で向こう数日の天気もよさそうだ。

 

(鬼がどんだけいるか知らねぇが、早いうちに小手調べしとくか)

 

選別は夕刻から開始したため、いつ鬼が襲ってきてもおかしくはない。出立直前まで稽古をつけてくれた胡蝶しのぶから借りた日輪刀二振りを抜きはなち、伊之助は触覚以外の五感を閉ざす。翡翠の瞳を閉じて棒立ちになった姿は自殺行為のようだが、彼は人間離れした気配察知能力を持っている。半径数十メートルに潜む生物の気配を文字通り肌で感じ取ることができるのだ。

 

(あっちに二匹、左に三匹、少し離れた水場のほうに四匹。こいつらは待ち伏せか。人間の気配は、死にかけが二人、逃げてんのが四人。一人こっちに向かってきてんな)

 

ぱち、と長い睫毛に縁どられた瞳が開き、整いすぎた顔立ちが獰猛な笑みに歪む。二匹の鬼を引き連れて駆けてくる人間が最も距離が近い。鬼が目の前の獲物に気を取られているなら、なお好機だ。

 

桃色に色変わり済の日輪刀は愛用の小太刀より長く重量がある。それを摺り上げるなり根元を折って短くするなりしなかったのは、この刀が花の呼吸の一門の形見だからだ。胡蝶カナエとしのぶが修行中に世話になった兄姉弟子たちの遺品。それを貸してくれたしのぶの気持ちを裏切ることはできなかった。出立間際まで別の刀を用立てると言っていた養父には悪いが、伊之助はこの借り物で選別を生き残るのだ。

 

(伊之助様の踏み台となれっ、雑魚鬼どもぉ!!)

 

心の中で雄々しい声をあげ、必死に逃げてくる少年の頭上へと木の幹づたいに駆け上がる。金髪に黄色い羽織の非常に目立つ少年は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしているわりに見事な速度で眼下を通って行った。後を追う鬼二匹も頭上の伊之助に気づかず通り過ぎ、次の瞬間、背後に着地した彼に頚を落とされた。

 

「ふん、温いぜ!」

 

死んだ鬼の血が刀身からもさらさらと消えていく。伊之助は屍が完全に消えるまで周囲を警戒していたが、こちらに近づく気配はなかった。立ち止まってぽかんと大口をあけている金髪少年に目も向けず、次は水場で待ち伏せしている四体を倒すべく踵を返す。

 

「ちょ、ちょ、ちょっと待って! 助けてくれてありがとう! 頼むよ、俺も連れてって、七日間守ってちょうだいよォオおおお!!」

 

「てめぇ、放せ! 引っ張るんじゃねぇ、羽織が破れるだろうが!!」

 

いきなり腰に抱きついてきた金髪少年の髪を掴んで揺さぶるが、相手はぎゃんぎゃん泣きながら鼻水を羽織にこすりつけている。母親が刺繍してくれた睡蓮が汚れたことに、伊之助の白い額に血管が浮かびあがった。

 

ドガッ!!

 

柔らかい関節から繰り出された変則的な蹴りが金髪少年の腹に決まる。それなりに加減したため、相手が血反吐を吐くことはなかったが、かわりに薄茶色の丸っこい瞳が恨めし気に睨んでくるのを、容赦なく睨み返した。

 

「ぎゃんっ!! 酷いっ、痛いじゃないか!! 俺は物凄く弱いんだからな、お前に置いてかれたら即死ぬからな!!! そしたらお前人殺しだぞっ!!」

 

「うるせぇよ、この弱味噌が!! 弱ぇ奴がこんな場所にいりゃ死んで当たり前だ。この世は弱肉強食! てめぇが死んでも、てめぇが弱い以外の何のせいでもねぇ!!」

 

「なんてこと言うんでしょうね、この女顔!! 頼むよおおおお、守ってくれよォおおお!!」

 

「がああああッ、縋りつくんじゃねぇッ!!」

 

藤襲山で大声の応酬をしていれば、当然恰好の餌だ。伊之助と金髪少年ー我妻善逸の記念すべき最初のやり取りは、四方八方から襲い掛かってきた十数匹の鬼によって途切れ、この時の二人はまさか同じようなことがこの先何度も繰り返されるとは思ってもいなかったのだった。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。多少情緒が育っても根は変わっておらず、この度、鬼殺隊に対し先手を打ったが、会話中に嘘はひとつもついていない。藍色の扇子は琴葉からの贈物で、他の諸々と同じく体内に収納している。産屋敷夫妻に吸わせた粉凍り・改は無惨の呪いからヒントを得ており、吸った相手の居場所がわかる優れもの。細かい氷が肺全体にこびりつき、健康に影響ないものの解毒困難で太陽を浴びても消せない。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨が昼から出かけてしまったので胸元が寂しかった。三十路を過ぎても「あの子」「娘」と呼ばれているとは露知らない。笑顔で息子を最終選別に送り出したが、本当はとっても心配している。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。最終選別時15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。歴代の最終選別挑戦者中でも最強レベルまで育成されているが、いまだ養父に傷ひとつつけられない。善逸に汚された羽織は、童磨が選んだ薄緑の布地を琴葉が縫い、睡蓮の刺繍を入れたもの。

胡蝶しのぶ
今回出番なし。伊之助の最終選別の少し前に蟲柱に就任した。おこりんぼな18歳。伊之助を鍛えまくって最終選別に送り出した。貸し出した二振りの日輪刀は花の呼吸一門の兄姉弟子の遺品。

胡蝶カナエ
優しく美しい元・花柱。絶対に仲良くしたくない人喰い悪鬼が人間と恋愛していると知り、どうしてこんな奴が自分の夢を歪とはいえ叶えているのかと、頭がおかしくなりそうなほど憤った。お館様への報告が大変な事態を起こしたが、それを知ることはない。

産屋敷耀哉&あまね
鬼は日中外で活動できないという常識の裏をかかれ、あっさり居場所がばれた。今後、鎹鴉の運用を見直すことになる。人喰い鬼とはじめて直接話をしたが、想像以上に相手がロクでもなく、しかも血鬼術を受けてしまった。無傷で鬼との邂逅を乗り切ったが気分は惨敗。なお、童磨の来訪はしかるべき時まで夫婦だけの秘密とした。

我妻善逸
雷の呼吸を使う金髪少年。原作通りの人物。その耳の良さで七日間伊之助を追い回し、結果ほとんどずっと一緒に過ごすこととなる。伊之助の美貌が腹立たしいが、母親そっくりだと聞くなり「お母さんを紹介して!!」と自ら死亡フラグ(仮)を立てた。

竈門炭治郎
原作主人公。伊之助との再会は七日後になる。ちゃんと長男パワーで手鬼を倒す。



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#10 菩薩の胸に微睡む


タイトル=ぼさつのむねにまどろむ

伊之助の入隊、あるいは悪鬼の目に涙。




 

最終選別も七日目の夕方を迎え、伊之助が不本意な同行者の汚い高音に慣れきった頃、最終夜も生き残るべく辺りの確認をしていた二人は一際多い鬼の気配に作業の手を止めた。耳が良い善逸がヒッと固まり、伊之助も目を閉じて気配を探る。この場からやや離れているものの全力疾走なら数分の距離に、いくつもの疎ましい影がうごめいていた。

 

「こっ、こっ、これ全部鬼!? まだこんなに鬼がいるの!? 嘘おおおおおッ、無理無理無理ぃ、殺されるうううううッ!! ふぐっ、むぐぐっ」

 

「うるせえ、弱味噌! 気づかれるだろうが、騒ぐな」

 

即座にわめきだした善逸の口を容赦なく塞ぎ、ぎろりと睨む。伊之助より一つ年上だというこの少年は、とにかく喧しいのだ。何かつけ良くも悪くもぎゃあぎゃあと反応する。それでいて本人は人並外れた聴覚のせいで少しの音でも拾うのだから、まったくおかしなものだ。伊之助自身もあまり声を抑える方ではないため、二人の言い合いで鬼が寄ってきた回数は二桁を超えていた。

 

「俺たちで対処できないほどじゃねぇ。もしこっちにきやがったら、俺が前に出るから、てめぇも遊撃して頸を落とせ」

 

「むがむがむがっ!!」

 

手のひらの下で抗議する相手を鼻で笑い、軽く蹴り飛ばしてやれば、善逸は涙目で蹲った。

 

「無理だよお、俺が弱いの知ってるだろ!?」

 

「本当に弱けりゃ、とっくに死んでる。俺は一度もてめぇを助けてねぇんだからな」

 

そう言った伊之助に、善逸はにへらと表情を緩ませ、すぐ横によって脇をつついた。当然、すぐさま報復で殴り飛ばされるも、気にせず締まらない顔で笑っていた。

 

「またまたぁ、伊之助が何度も助けてくれたの知ってるよ。なんだかんだ優しい奴だよ、うへへっ」

 

「……おめでたい野郎だぜ」

 

「なんだよお。本当に感謝してるんだからね!」

 

仔狸が懐いたような様子に、伊之助も毒気を抜かれて肩を落とす。そして、木々の先の暗がりに目をやり、ほつけて汚れてしまった薄緑の羽織を翻して抜刀した。隣でヒイッと悲鳴が上がったが、構わず走り出す。

 

「ちょっと待って、待って、伊之助えええええッ!!」

 

「取りこぼしはてめぇで倒せよ、紋逸! 俺は助けねぇからなっ」

 

「善逸ですぅ、ぜ・ん・い・つ!! うわああああ、置いてかないでえええええええ!!」

 

どんどん汚くなる高音を置き去りに先頭の鬼の頸を落とす。藤襲山に閉じ込められた鬼など伊之助の敵ではない。通り過ぎる間に四体を葬り振り返れば、刃の範囲外にいた二匹が善逸に襲いかかるところだった。

 

「ピッ!?」

 

四つん這いで一撃目をよけた金髪頭が奇怪な声とともにパタリと倒れる。その様に伊之助の美少女めいた口元が吊り上がった。初めて見た時は、そのまま見捨てていこうかと思ったが、我妻善逸という剣士は世にも奇天烈な強さを持っているのだ。

 

パリパリと空気が揺れる音に続いて、ドオンとすさまじい踏み込みが轟く。美しい型で鞘に刀をおさめる善逸の後ろで、鬼の頭が二つ、ぽとりと落ちた。もう辺りに鬼はおらず、あとは油断なく夜明けを待つだけだ。

 

「起きろ、紋逸」

 

「あいだっ!」

 

軽い平手で目を覚ました善逸がまた喚きだす。腰に縋りつく重石を適当に叩いて除けながら、伊之助は下山の時を待ち続けていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

小さな家で二度目の二人きりの夜、童磨は台所から続く居間に座り、炊事をする琴葉の背を見つめていた。鬼になってから肉以外の食材の味わいがよくわからなくなってしまったが、琴葉が料理している時の出汁や調味料の香りは、なんとなく良い感じがする。彼女が作り出している香りだと思えば、ずっと嗅いでいたいぐらいだ。

 

「あつっ」

 

「琴葉、大丈夫かい?」

 

囀りのような愛らしい声が痛みを訴えるのを聞くなり、童磨は琴葉の隣に立ち、彼女の手元を覗き込んだ。どうやら鍋の縁に触れてしまったらしく、右手の白い指先が赤くなっている。その手を取って優しくてのひらに包めば、美しい女の面(かんばせ)もうすらと赤らんだ。

 

「火傷しちゃったのか。気をつけないといけないぜ」

 

「ごめんなさい。ぼんやりしていたわ」

 

最大限に加減した冷気で肌を冷やしてやると、琴葉は翡翠の瞳を細めて気持ちいいと囁いた。

 

「鍋を火から外せばいいのかな」

 

「そうなの。一人分だけだから重くはないのだけど、あっ、素手じゃ駄目です!」

 

慌てる琴葉をよそに熱された鍋を掴んで火から下ろせば、彼女は逞しい手首を両手で捕まえ、ぶんぶんと首を振った。鍋を持ったままで危ないというのに、咄嗟だと後先考えない彼女らしい行動だ。童磨が手にした鍋は、どれだけ琴葉が動いたところで揺らぎはしない。両手の表面が焼けたところで、数秒で治る傷なのだ。

 

「こらこら、しっかり見ないといけないぜ。琴葉、俺だからいいけど、これが伊之助だったら大変だ。先に鍋を置かせておくれよ」

 

「あ……ごめんなさいっ」

 

ぱっと手を放して眉を下げる彼女に、気にしていないと笑って鍋を流しの横に置く。一人前の茶碗と匙が用意されていたので、童磨はそのまま鍋の中身の味噌おじやを茶碗へと掬い、食事の膳を手に居間へと琴葉を促した。

 

「さあさ、出来立ての方が美味しいだろう。食べながらお喋りしよう」

 

「はい。あの、童磨さん、手は大丈夫?」

 

「このとおり、鬼だから平気さ。ごめんよ、琴葉、びっくりさせてしまったね」

 

火傷どころかささくれひとつない長い指先をひらりと見せれば、琴葉は体から力を抜いて微笑んだ。年を重ねてもまるで変わらない暖かい美しさに、正面に座した童磨もうっとりと目元を緩ませる。そうして、いただきますと手を合わせた彼女が、小さな口へと匙を運ぶ様子を見守っていた。

 

琴葉が食事をするのを見るのは好きだ。形良い唇から甘い口内へと消えた糧を、綺麗に並んだ歯列が咀嚼する音が良い。己が人間を喰うときとはあまりに異なる愛らしい音に、本当に同じ食事の行為なのかと疑わしくなるほどだ。童磨の虹の双眸に映る琴葉は、まるで小鳥のように少しずつ生きるための力を取り込んでいた。

 

「……ねぇ、童磨さん」

 

「うん、なんだい?」

 

ややあって空の茶碗を置いた琴葉が顔をあげる。応じる童磨と視線を合わせた彼女は、春の陽のような顔をしていた。

 

「ありがとう」

 

「うん? さっきの鍋のことかい?」

 

「いいえ、もっとたくさんのことよ。童磨さんのおかげで私も伊之助も幸せなの。身寄りのない私が、赤ん坊の伊之助を連れて逃げこんだのが貴方のところでよかった。私たちを助けてくれて、大事にしてくれてありがとう」

 

「琴葉……」

 

行燈に照らされた柔らかい美貌に吸い込まれるかと錯覚して、童磨は浮きかけた腰をとどめた。衝動のまま近づいたら膳をなぎ倒してしまうのだ。にこりと笑った琴葉が膳を脇に動かしたことで、今度こそ膝で目前までにじり寄った。

 

かよわい両手を包み込んで握れば、じわりと温もりがざわめく胸まで満たしていく。

 

「伊之助が貴方を人間に戻すって言いだしてから、ずっと考えていたの。私はあまり頭が良くないから、きちんと想像できてるかもわからないけど、私たちがおじいちゃんとおばあちゃんになって、しわしわの笑顔で笑い合っているの。傍には伊之助と伊之助の家族がいて、みんな笑顔で、とても幸せなのよ」

 

「それは、良いね。俺もうまく想像できないけど、おばあちゃんな琴葉は可愛いだろうなあ」

 

「おじいちゃんな童磨さんもとっても素敵よ」

 

豊かな黒髪を揺らして頷いた琴葉が、二人の間にあった距離を埋めて端正な頬に触れる。童磨の目じりを撫でた親指は慈しみに満ちていた。

 

「憶えてる? 伊之助が貴方をお父さんって初めて呼んだ日に、私、泣いてしまったでしょう」

 

「よく憶えてるぜ、君が言ったことも一言一句」

 

「ふふっ、すごいのね。私、あの時は、どうしたら童磨さんが喜んでくれるのかわからなかった。与えてもらうばかりで、何もお返しできないのが申し訳なかったわ」

 

童磨の腕が華奢な背と腰にまわり抱き寄せれば、琴葉もぎゅうと広い背に腕をまわして首元に頭を寄せた。そのまま耳元にささやく声は、歌うように美しかった。

 

「今は、少しだけわかるの。童磨さんが言ったとおりね。家族になって一緒に暮らせば、何を喜ぶのかわかるようになるって」

 

「琴葉は、どうすれば俺が喜ぶと思う?」

 

ただ傍にいてくれればいいと口にしたかった。あの頃は童磨自身も喜びの在りかなど知らなかったけれど、今ならおぼろげな輪郭ぐらいは見えるのだ。夢幻だと思っていたすべてが、さざなみ程度であったとしても、確かにそこにあると感じられる。けれど、先に言ってしまっては琴葉が拗ねる気がして、ただ彼女の背に流れる髪を撫でながら答えを待っていた。

 

「ずっと一緒にいるわ。私も伊之助も、何があっても童磨さんと一緒にいる。童磨さんが私たちを大事にしてくれるように、私たちも貴方を大事にするの。貴方が鬼でも、人に戻っても、私たちは家族でずっと一緒よ」

 

約束よ、と琴葉の吐息が耳に触れる。見下ろした先の愛しい顔がゆらゆらと濡れて歪んでいくのに、ああ、泣いているのかと人ごとのように思った。意図せず泣くなんて、生まれたての赤ん坊の時以来のことで、ぼろぼろと顎を伝っていく涙がこそばゆかった。

 

「綺麗……」

 

泣き顔を見上げる琴葉がそう言えば、ますます涙腺が壊れたように止まらず、彼女の頬にも雫が落ちた。

 

「琴葉、ゆびきりっ、指切りの約束をしておくれ。俺を喜ばせた今の言葉、絶対に違えないで」

 

「ええ」

 

抱きあっていた腕を片方だけ胸元で合わせ、小指を絡める。長い指先と白い指先がしかりと結ばれ、ゆびきりげんまんと歌う甘やかな女の声がしゃくりあげる鬼の声に重なった。

 

 

 

* * *

 

 

 

最終選別を終えた伊之助が我が家に戻ったのは、出立から八日目の昼のことだった。藤襲山までの距離を考えれば早めの帰宅だ。戸の前に立った途端それがガラリと開いたのは、別に驚くことでもない。内と外でお互いに気配を感じていたからだ。彼を驚かせたのは、まるで別のことだった。

 

「うおっ、父ちゃんどうしたんだよ!? 焼けてるぞ、おいっ、下がれって!!」

 

真昼間に戸口にたった養父が見る間に焼け焦げていくのに、伊之助は目を剥いて長身を奥へと押しやり、即座に戸を閉めた。そしてまったく同じ顔で悲鳴をあげた母親と共に、燃える腕や背中を必死ではたき、鎮火した体が再生するのを待った。

 

「おかえり、伊之助。無事に帰ってきてよかった」

 

半分炭になった衣服を着替えた童磨が、仕切り直しといわんばかりに口を開く。それをじっとりと見上げた伊之助だったが、他に聞きたいことがあったため、素直に応じた。

 

「おう、ただいま。母ちゃん、ただいま」

 

「おかえりなさい、伊之助。怪我はしてない? どこも辛くない?」

 

「擦り傷ぐらいで、あんまり疲れてもねぇよ。後でしのぶにも顔見せてくる。ところで、父ちゃん」

 

伊之助が指さすと、童磨は小さく首を傾げた。薄汚れてしまった羽織姿の息子を微笑まし気に見つめる鬼は、戸口で焼け焦げる直前からずっとぼろぼろ涙を流しているのだ。鬼ゆえに目元が腫れることはないが、朗らかに「おかえり」と言ったときも滝のように泣いていたのは異様だった。

 

「なんで泣いてんだ?」

 

直球で訊ねた息子に、童磨と琴葉は顔を合わせ、二人して子供のように破顔した。

 

「嬉し泣きですって。母さん、やっと童磨さんを喜ばせることができたのよ」

 

「いやあ、初めてだから止め方がわからなくて困ってるのさ」

 

仲睦まじく寄り添う両親にほわほわしないでもないが、それにしても童磨の泣き顔が気になってしまう。結局、伊之助が落ち着いて彼らと話すことができたのは、一度蝶屋敷に刀を返しに行ってからのこと。小柄な年上の友人に、無許可で選別に参加していた少女ごと容赦なく抱きしめられてからのことだった。

 

 





【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖、逃れ者生活8年目。愛を知って世界が広がった人間性初心者。この度嬉し泣きするに至ったが、完全制御していた涙腺の扱い方がわからなくなってしまい、五日間泣き続けてしまった。人間だったら干からびて死んでいた。しかもテンションが上がりすぎて日中なのに戸口に立つという暴挙に出た。伊之助が無事に戻るとわかっていたため、感動の再会ではない。なお、鎹鴉のことは知っており、戸を開ける際も気配がないことは確認済。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。息子が心配すぎて火傷したが、その後の童磨との約束で感無量になり、かなり気分が上向きになった。それでもやっぱり心配だったので、伊之助が怪我なく帰ってきて物凄く嬉しい。童磨が泣きっぱなしでも嬉し泣きだとわかっていたので微笑ましく見守っていた。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。新米鬼殺隊士な15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。最終選別ではずっと善逸に付きまとわれていたが、最後の方はあまり嫌でもなかった。強い奴が好きなのは、どこぞの上弦の参に通じるところがある。帰宅したら父親が焼身自殺(違います)を図り、しかも滝の涙を流していたのに仰天したが、両親が仲良しなら結果オーライだった。

胡蝶しのぶ
毒殺上等な蟲柱。おこりんぼな18歳。勝手に選別に行ってしまった妹と友人がそろって最終選別を突破したのが嬉しくて、二人をぎゅむぎゅむ抱擁の刑に処してしまった。カナヲはこの後姉二人による説教が待っている。また、貸し出した刀が二振りとも良い状態で帰ってきたのが誇らしい。

我妻善逸
雷の呼吸を使う金髪少年。原作通りの人物。藤襲山では伊之助を追い回し、三日目あたりから一緒に行動していた押しかけ相棒。最初に気絶した時は見捨てられる危機だったが、覚せい状態を見られたことで強い奴として許容されることとなった。なお、すべての鬼は伊之助が倒してくれたと信じている。音による嘘フィルターが誤作動してるのは、伊之助が本心から照れ隠しで助けてないと言っていると思っているため。

竈門炭治郎
原作主人公。今回出番なし。最終日は玄弥とのいざこざがあり、さっさと帰ってしまった伊之助に謝る機会がなかった。次の機会は鼓屋敷だ!



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#??? 能化に学ぶ子


タイトル=のうけにまなぶこ

番外編。童磨の子守、あるいは未来への布石。

逃亡後、藤の家紋の家での住み込み時代の一幕。




 

藤の家で住み込みで働く琴葉は忙しい。朝早くから厨に入り食事を作り、配膳から少ししたら片付け、その後は昼食を出せるよう用意しつつ、諸々の手伝いをこなす。この家の本業である酒造の仕事には全く関わっていないものの、下手な女中よりも忙しいことは確かだ。

 

通常の女手であれば、ここまで大変ではなかったかもしれないが、春の妖精のごとき美しさと一つ二つ言葉を交わすだけで伝わる心根の良さを持ち、コブ付きとはいえ独身とくれば、若い男が大半を占める鬼殺隊士がこの藤の家を贔屓にするのも当然のことであった。結果、連日隊士の世話に追われている。

 

「琴葉さん、羽織りの修復ありがとうございました!」

 

「どういたしまして。ちょっとお袖を縫っただけですよ?」

 

「いや、凄く上手に仕上がってます。あのっ、今度是非お礼をっ」

 

「おい、抜け駆けすんな! もういくぞ! 琴葉さん、ありがとうございました」

 

「まてまて引っ張るなっ! 琴葉さーん、また来ます!!」

 

「二人とも気をつけて、ご武運をお祈りしてます」

 

鼻の下をのばした青年らを手を振って見送り、次の剣士たちの対応をする琴葉。己の容姿の美しさを全く理解していない彼女でなければ、とんだ天狗になっているであろう人気ぶりである。

 

母親が鬼狩りの剣士らにかかりっきりであるため、息子の伊之助は学校から帰ってくると裏の山に出かける毎日だ。夕飯時まで野山を駆け回って一人で遊んでいる子供に、藤の家の主人らは心配して早く帰って来させるよう言ったが、琴葉はにこにこ笑うだけで、伊之助の好きにさせていた。

 

「母ちゃん、山に行ってくる!」

 

「はい、気をつけるのよ。お夕飯までに帰ってきなさいね」

 

「おうっ」

 

教本が入った布鞄を部屋に放り入れ、汚れてもいい甚平に着替えるなり、伊之助は今日もてぶらで駆け出していく。細っこい子供が母親とすれ違う瞬間、琴葉の胸元から飛びだした小さな影が伊之助の肩へと飛び移り、襟元から服の中へともぐり込んだ。ちゃんと保護者がついているから、琴葉も安心しているのだ。

 

「琴葉さん、また伊之助ちゃん一人で山に行かせたのかい?」

 

家主の翁が眉をさげて声をかけるが、琴葉は「大丈夫です」と明るく返した。白い指先で自らの胸元に触れ、ふわりと笑う姿は息をのむほど美しい。

 

「童磨さんが見守ってるから、心配いらないわ。気にしてくれてありがとうございます、大旦那様」

 

「……旦那さんも遠くから見守ってるだろうけど、子供はそばで面倒を見てやらないといけないよ」

 

「伊之助は私たちの宝物だから、何があっても童磨さんが守るわ。あのひとはとっても強いんです」

 

うふふと幸せそうな琴葉に、翁はそれ以上は何も言わなかった。町一番の美人がいまだ亡き夫が生きているように振るまうのは誰もが知るところだ。これさえなければ裕福な家の後添えに引く手あまただろうに、と的外れなため息をつくのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

「伊之助、今日は何をするんだい?」

 

「父ちゃんと稽古!」

 

「いいけど、毎日飽きないなあ」

 

陽が燦燦とそそぐ小道を、大層美しい子供が襟口に隠れた鬼と言葉をかわしながら進んでいく。肩でざんばらに切った艶やかな黒髪にぱっちりした翡翠の瞳の伊之助は、町で評判の美少年だ。同時に、山を駆けまわっている腕白坊主としても有名であった。

 

実際のところ、伊之助が山に行くのは人目がつかない場所で養父と過ごしたいからだが、町の大人たちは母親が忙しくて構ってもらえない子供が寂しくて一人遊びしていると思っている。勘が良い彼はその哀れみの視線に居心地が悪くなって、余計に山へと足が向いてしまうのだ。それに、学校では片親という境遇と整いすぎた容姿から遠巻きにされているため、子供同士で遊ぶこともなかった。

 

「それじゃあ、太陽があたらない場所を探しておくれ。今日は鬼狩りたちが使う呼吸について教えてあげよう」

 

「父ちゃん、鬼なのに鬼狩りのこと教えられるのか?」

 

「敵を倒すには相手の手の内を知るのが一番なんだよ、伊之助。まあ、流石に呼吸の実践はしたことがないから俺も見様見真似だけど、呼吸を使えば俺との相撲もいい勝負ができるかもしれないぜ?」

 

「本当か?! 呼吸すげーな、俺もできるようになったら、父ちゃんを寄り切ってやる!」

 

「ははっ、威勢がいいなあ」

 

勝負事では大人げない養父ー童磨に何度も泣かされているというのに、伊之助はうきうきと意気込んでいる。ここ数週間は二人で相撲やかけっこをして体力作りをしているのだ。ぎりぎり伊之助が敵わない力加減で負かしてくる童磨に涙目になりつつ、それでも果敢に挑んでは疲れ果てて母のもとに帰っていく。それを毎日繰り返しているのだから、伊之助の負けん気の強さは鬼の折り紙付きだ。

 

山の中腹あたりの木々が濃い場所に行きつき、伊之助が足を止める。童磨は周りに不自然な気配がないことを確かめてから、徳利襟姿の長躯へと体を戻した。

 

「よーし、それじゃあ呼吸について、まずは勉強だ。藤の家に来る鬼狩り連中が、よく水の呼吸とか風の呼吸とか言ってるだろう」

 

「うん」

 

「呼吸っていうのは、簡単に言うと人間が最大限の力を発揮できる小技だ。水とか風とか雷っていうのは、呼吸の種類のことだよ」

 

すらすらと敵の戦闘方法について説明する童磨に、興味津々で聞き入る伊之助。あまり座学が得意ではない息子のために子供向けの説法よろしくかみ砕いて説明するのは、最近身に着けた童磨なりの優しさだった。

 

「……という風に、強く深く呼吸をすることで肺を大きくして酸素を体中に巡らせて、筋肉とか神経とかを最大限に働かせるんだ。あんまりやると体温と心拍数が上がりすぎて体に良くないから、ほどほどにね」

 

「よくわかんねぇよ、父ちゃん」

 

「うーん、これ以上はかみ砕けないなあ。実践でやってみようか。仕組みはわかってるから、お手本を見せてあげる」

 

首をかしげる伊之助の頭を撫でてやり、後ろに下がるよう促す。童磨は片手に鉄扇を構え、開けた場所に3メートル大の氷の小山を作り出した。いきなり現れたそれに子供が目を輝かせるのを他所に、鉄扇を片づけて無手で構え、最も多く遭遇した水の呼吸の剣士たちを真似て深い息を刻んでいく。鬼の肺活量は人間の比ではなく、体に無理をさせる呼吸法の適応は思うより難しい。それでも子供の手前一度で成功させるべく、精密な呼吸を繰り返した。

 

ヒュウウウウーー

 

鬼らしからぬ体温の上昇に額に汗がにじむ。不快な感覚に眉を寄せつつ、童磨は元同僚の見よう見まねの正拳突きを小山めがけて突き出した。

 

轟音を立てて右拳が氷に突き刺さるなり、空気を揺らすほどの衝撃が生まれ、爆風に白橡の髪が舞う。伊之助の驚きの声と尻餅をつく音はまんざらでもなく、童磨は少ししびれる腕をひらりと振って、目の前の成果に目を眇めた。巨大な氷の塊は、跡形もなく割れて地面に散らばっていた。

 

「呼吸を使って攻撃すると、こんな感じだ。普通に殴るより、ざっと三倍ぐらい力が出てる。人間でも刀で大岩を斬るぐらいはできるようになるぜ」

 

細かな氷の欠片が踊る中、伊之助を見やれば、愛らしい子供は地面に座り込んだままぷるぷると震えていた。少女めいた頬を薄紅に染め、くすぐったくなる眼差しで童磨を見ていた。

 

「す、すげぇ……父ちゃん、格好いい!! 俺もそれやりたい!!」

 

「うんうん、拳で砕くのは多分無理だけど、刀で斬れるように教えてあげよう。さあ、立ち上がってこっちにおいで」

 

「ふはっ、俺もどかーんってやる!」

 

はしゃいで飛びついてきた伊之助を抱きとめ、童磨はくすりと嗤った。呼吸を扱う剣士を百年以上殺し続けた身で、可愛がっている子供にその術を教える。鬼狩りたちが知ったら憤死しそうな状況だが、童磨としては息子が喜ぶなら何でもいいのだ。

 

童磨の誤算は、伊之助が呼吸において天性の才能を持っていたこと。彼がそれを思い知るのは、この二年後、十一歳になった息子が母親そっくりの笑顔で『獣の呼吸』なる初見の呼吸を披露してみせた時だった。

 

 





【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは2年目。鬼サイドきっての頭脳派かつ技巧派であり、これまで戦ったすべての鬼殺隊士の戦法や技を記憶している。身体制御にも長けているため、伊之助に見せたように呼吸を使って攻撃することも可能。ただし血鬼術を使った方がよほど楽で強いため、呼吸を戦いに取り入れることはない。なお、猗窩座殿の正拳突きは何十回もやられるうちに完璧に覚えた。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。鬼殺隊に保護された後、傷が治るまでは藤の家で療養し、その後は人手を必要としていた別の藤の家で住み込みの仕事を紹介された。手伝いをしているうちに、鬼殺隊の男性隊士らのマドンナとなった。また、未亡人だという噂も一気に広まった。

嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく系美少年。9歳。童磨同伴の山遊びばかりしており、ちゃくちゃくと弱肉強食系スーパードライな感性を育んでいるうり坊。強さに憧れる子供に呼吸について教えたのは童磨だが、獣の呼吸として確立させたのは伊之助自身の才覚と努力の賜物である。



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#11 冥加のごとき手を掴んだ



タイトル=みょうがのごときてをつかんだ

鼓屋敷編、あるいは人を喰わない鬼。




 

 

チクチクと細い針が傷口を閉じていく。時折、意図するより深く鋒が入りこんで痛みが増すが、不死川実弥にとってその程度の苦痛はないも同然だ。だから反応せず丸い腰掛けに座っていたというのに、針を手にした女の方がビクリと細い肩を揺らして手を止めた。

 

「ごめんなさい、痛かったわね」

 

「いや、痛くないです」

 

「ううん、上手にできなくてごめんなさい」

 

実弥の脇に座っているのは、まるで春の花の化身のような美しい女性だ。豊かな長い黒髪をゆるく結び、淡い色合いの着物のうえに清潔な白い羽織りを身につけている。化粧っけがほとんどなく、慎ましやかな出立ちであるのに、目を奪われる優しい美貌の持ち主だ。この蝶屋敷には元・花柱のカナエと現・蟲柱のしのぶという美人姉妹がいるが、今、実弥の前で項垂れている嘴平琴葉はどちらとも異なる魅力があった。

 

「もう少しで終わるから、辛抱してね」

 

かよわい手が実弥の腕を撫で、上腕の長い切り傷の縫合を再開する。その後も何度か危なっかしい針捌きがあったが、無事に縫い終わって糸を切る横顔はホッとしていた。

 

「ありがとうございます、琴葉さん」

 

「どういたしまして。右腕はしばらく激しく動かさないでね。実弥さんの怪我を縫うの、これで五回目。怪我が多くて心配だわ」

 

「ほとんど故意に受けた傷なんで、心配無用です」

 

「えっ……」

 

琴葉の翡翠の瞳がこぼれ落ちそうに見開かれ、実弥は失言だったと内心舌打ちした。カナエやしのぶには毎回苦言されながら縫われているため、ついその調子で返してしまったのだ。何年も蝶屋敷で働いているとはいえ、琴葉は一般の女性だ。鬼殺隊に保護された、身よりも行くあてもない子連れの未亡人なのだ。実弥は、カナエらが手の施しようがない隊士の世話を彼女にはさせないようにしていることを知っていた。

 

「いや、すみません、忘れてください」

 

「実弥さん」

 

強引に話を打ち切ろうとして、耳に心地よい声に咎められた。傷口をガーゼで覆い、丁寧に包帯を巻いた女が、筋肉がついた腕をやわく撫でながら見つめてくる。大きな傷痕がある実弥の顔面は並みの女子供なら怖がるものだが、彼女は仕方がない子供を愛でる眼差しで微笑んでいた。

 

「貴方はとても勇敢で強くて、たくさんの人たちを助けられる人よ。そんな立派な人を粗末にしたらバチがあたるわ。ちゃんと自分を労って、大事にしてあげてね」

 

にこにこと言う琴葉に反論することは憚られた。何の打算もない、その時思ったことを正直に言う人だと知っているからこそ、優しい手も美しい笑顔も素直に受け取るしかないのだ。実弥は吊り上がった三白眼をうろうろと彷徨わせたが、観念して「はい」とだけ返した。

 

琴葉はよくできましたとばかりに頷き、縫合の道具を片付けはじめた。白く端正な横顔は、とても大きな息子がいるようには見えないが、今のようなやりとりの後は彼女が母親なのだと実感する。ふと噂で聞いたことが気にかかり、実弥は口を開いた。

 

「そういや、伊之助が最終選別を通ったと聞きました。入隊させて良かったんですか?」

 

「ええ、あの子がしたいことは応援するって、童磨さんと決めてるのよ。この間、初めてのお仕事をちゃんとできたって手紙がきたわ」

 

「……そうですか」

 

よく蝶屋敷に出入りしていた伊之助のことは実弥も知っている。琴葉の手伝いをしている姿かしのぶにしごかれている姿しか見たことがないが、母親そっくりの見た目と驚く程男らしい声をもつ少年だ。我流だろうがよく鍛えている体と、蟲柱のしごきに果敢に立ち向かう様子に、なかなか骨がありそうだと思ったのが記憶に新しい。しかし、夫を鬼に喰われた琴葉が愛息子の入隊を許したのは意外であった。

 

「今は同期のお友達と任務にあたってるみたい。近くに来たら家に寄ってねってお返事を書いたから、お友達と一緒に帰ってくるのが楽しみなの」

 

「……怖くねェのか?」

 

思わず素が出てしまいすぐさま謝ったが、琴葉はふんわりと首を傾げ、しのぶさんと同じねと言った。

 

「しのぶさんも私たちをとても心配してくれたのよ。選別の前に止めようとしてくれた。実弥さん、とても優しいのね。心配してくれてありがとう」

 

「俺は、そんな優しくないです。隊士になったなら、何があっても覚悟してただろうとしか言えねェ。ただ、貴方みたいな人が家族を危険に近づけさせたのが、俺には理解できない」

 

「実弥さんはご家族は?」

 

「……一人を残して鬼に殺されました」

 

「ごめんなさい、辛いことを聞いてしまったわ」

 

「鬼殺隊じゃあよくある話です」

 

「そんなの関係ないわ。家族を失うのはとても辛いって、私でもわかる」

 

実弥と向かいあって座る琴葉に憂いの色はない。彼女は夫を亡くした時から現実が見えなくなっているのだと、いつかカナエが言っていたのを思い出した。琴葉も息子の伊之助も、とうにいない夫と父親の影に囚われている。だから失うことを恐れないのだろうかと、そう思えば胸が軋む気がした。

 

「実弥さんはそのご家族を守るために戦っているの?」

 

「あいつが脅かされないよう、一匹でも多く鬼を狩る。そう決めてます」

 

「ふふ、優しい貴方らしい。伊之助も同じよ。家族で幸せに暮らすために鬼の親玉を倒すって言っていたわ」

 

家族のために決めたことは、誰にも止められないでしょう。そう言って、春の陽のような女は胸元に白い手を重ね、咲くように笑った。

 

 

 

* * *

 

 

 

炭治郎が最終選別でみた綺麗な少年と再会したのは、鼓を使う鬼の屋敷の中でのことだった。道すがら合流し一緒に任務にあたった我妻善逸と共に、屋敷の外で怯えていた子供たちをなだめ、彼らの兄を探すべく、炭治郎は単身で屋敷の中へと入った。そして、鼓の音とともに配置がかわる不可思議な屋敷の中で、薄緑の羽織り姿を見つけたのだ。

 

相変わらず大変整った顔立ちの少年は嘴平伊之助と名乗った。姫武者のような見た目に反した雄々しい声と口調が印象的で、二振りの小太刀でやすやすと屋敷内の鬼を切り裂いていた。

 

開口一番、最終選別前にじろじろ見てしまったことを謝罪した炭治郎に、伊之助はすっかり忘れていたとまたも鼻で笑った。その後、鼓の音により分断されてしまったが、炭治郎が怪我を負いながらも屋敷の主である鬼を倒したことで術が解け、全員が屋敷の外で合流することができた。

 

「ああ、よかった」

 

木陰にぽつんと置かれた背負い箱。大人しく待っていてくれた禰豆子の無事を確認し、炭治郎は眉をさげて二人の同期に並んだ。箱を前にした伊之助の臭いが変わったことに気づいたからだ。善逸は街道で会った時から、この中身に気づいているようだった。

 

鬼の犠牲者たちを埋葬する間、炭治郎は二人から嫌悪の臭いがしないことに戸惑いと少しの希望を抱いていた。

 

「おい、でこっぱち。てめぇ、何を連れてやがる」

 

家路に発つ子供たちを見送り、三人と烏一匹だけになるなり、鋭い翡翠の視線が向けられる。柳眉をやや寄せて箱を睨む伊之助だが、臨戦状態というほど警戒はしていない。伊之助の優美な羽織を掴んでガタガタ震えている善逸も、刀に手を伸ばしてはいなかった。

 

「俺の妹なんだ。事情があって、こうして箱に入れてる。あと、俺は竈門炭治郎だ」

 

「そっ、それ鬼だよね? 炭治郎の妹は、お、おおおお、鬼なの?」

 

「紋逸、うるせえ。あと羽織を引っ張るんじゃねぇ」

 

「あでっ、酷いよぉ伊之助!」

 

「伊之助、すぐ殴るのはよくないぞ。それに、彼は善逸だ」

 

怯える善逸の頭を伊之助が殴り、それを炭治郎が注意する。そうして話題がずれたまま、鎹鴉についてくるよう促され、彼らは藤の花の家紋の家へとたどり着いた。時折、伊之助と善逸の視線が背負い箱へと向けられたが、道中で問いただされることはなかった。

 

「二人とも、夜になったら全部説明するから、おばあさんの前では何も言わないでくれ」

 

頼む、と通された部屋で頭を下げれば、二人は隅に置かれた箱をじっと見つめてから頷いた。

 

食事や風呂の世話をしてもらい、さらには老婆が呼んでくれた医者に、炭治郎は肋の骨折、善逸は頭部の怪我、伊之助はいくつかのかすり傷を診てもらった後、ようやっと三人きりで話せる時間がやってくる。炭治郎は、ついに覚悟を決めて箱の扉を開いた。幼児の姿で這い出てきた妹を隣に座らせ、本来の大きさに戻るのを待って紹介する。

 

「妹の禰豆子だ。二年前に俺の家族が鬼に襲われた時、禰豆子だけ鬼の血を入れられて鬼になってしまったんだ。言っておくけど、禰豆子は一度も人を食べていないぞ。ちゃんと俺のこともわかっているし、人を守って鬼と戦ったこともあるんだ」

 

ぱち、と善逸の丸っこい瞳が瞬く。禰豆子の愛らしい顔かたちを凝視すること数秒、彼はでろりと破顔し、膝でにじり寄ってきた。そして禰豆子の前でよくわからない動きで体をくねらせ、ずいと赤い顔を寄せた。

 

「なんだよお、こんな可愛い妹がいるなんて羨ましい奴め! 禰豆子ちゃーん、俺は我妻善逸、お兄さんの親友だよお! 仲良くしようねっ」

 

善逸からは嬉しそうな大仰な臭いしかしていない。本当に禰豆子を可愛いと思って言い寄っているだけなのだ、と炭治郎は面白くないような安心したような気持ちを抱き、もう一人へと赫灼の瞳を向けた。

 

「そいつ、人を喰わねぇで平気なのか?」

 

「ああ。鬼になった瞬間だけ暴れたけど、俺が声をかけて励ましたら泣き出して、それから一度も誰かを襲うようなそぶりは見せてないよ」

 

寝巻き姿であぐらをかいた伊之助はずっと禰豆子から目を離さない。未知の生物を観察するような視線に気づいた彼女が炭治郎の方へ身を引くと、ようやく美しい目元が炭治郎へと移る。伊之助からは、悩むような困ったような淡い臭いがしていた。

 

「無理させてるわけじゃねえんだな?」

 

「それは……禰豆子の口から聞いたわけじゃないから、正直わからない。俺が育手のもとで鍛えてもらっている間、禰豆子は二年間も眠っていたんだ。鬼に詳しい人に診てもらった時、その人は禰豆子は体質が変化したんだと言っていた」

 

「眠るのか。鬼なのに」

 

「うん。疲れると寝てしまう」

 

そう答えると、伊之助は畳を見下ろして考えこみ、小さな声で何やら呟いた。炭治郎には聞こえなかったが、善逸が首を傾げたので、彼には聞こえていたのだろう。

 

「わかった。人を襲わねえなら、俺はどうともしねえ。鴉から本部に報告がいってるだろうしな、お偉方から何も言われてねぇなら、黙認されてるってことだろうよ」

 

「えっ!?」

 

「俺はもう寝る。お前らも怪我してんだから、早く休めよ」

 

「待ってくれ! 伊之助、報告ってどういうことだ? 待って、寝ないでくれ」

 

もう興味がないとばかりに布団の方へ行ってしまう伊之助を、炭治郎が四つん這いで追いかける。善逸は禰豆子の横に座り込んで一方的に話しており、四人だけの室内は混沌としたまま深夜を迎えたのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

ある夜、いつものように琴葉を胸元に抱いて寝たふりをしていた童磨は、己の分身のひとつが戻ってくるのを感じてうすらと瞼をあけた。壁の小さな穴から入ってきた四寸ほどの結晶の御子が布団脇までやってくる。それは白橡と赤が混じった頭部に触れ、ずぶずぶと体の中へ入ってきた。血鬼術で作ったこの分身は、伊之助を見守るための応用の術だが、情報収集や伝達にも役立っているのだ。

 

(うんうん、伊之助は同期の子たちといるのか。金髪の子は最終選別で一緒だった泣き虫君だな。もう一人は、わあ、鬼になった妹を連れてる。この子は人を食べない、ってそんな鬼が本当にいるの? あの方が知ったら絶対捕らえて研究するだろうなあ)

 

伊之助につけている結晶の御子は一体だけではない。可愛い息子は気配に聡いため、御子たちには気取られないよう距離を取らせ、四方から見守らせている。助けに入るのは命にかかわる時だけという条件をつけ、任務にあたる様子を定期報告させているのだ。

 

(竈門禰豆子ちゃんか。特異体質なら、食べれば分析できるかなあ)

 

もし眠るだけで体力を回復できたなら、心優しい琴葉はとても喜ぶだろう。禰豆子に会うことがあれば、腕の一本ぐらいもらおうと算段をつけ、御子が記録した鬼の少女の姿を記憶に焼きつける。

 

そうして、童磨は手に入れた情報から伊之助が任務にはげんでいる様子だけを脳裏に流し、夢を見ているかのように琴葉の背を抱き寄せたのだった。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。伊之助が鬼殺隊に入隊したため、今は琴葉と二人で生活している。息子にはちゃんとセコムをつけている。時々暗躍しつつ、基本的に日中は胸に挟まれている。なお、琴葉が男性隊士と一対一の時、絶妙のタイミングで悪さをしてはぺしぺし叩かれている。どんどん芸達者になっていく血鬼術の天才。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。蝶屋敷のお手伝いは三年目。最近ようやく傷の縫合をさせてもらえるようになり、何度か風柱の傷を縫ってあげた。しかし片目が悪いため、時折針を駄目な深さまで押し込んでしまい、勘の良さから相手が我慢しても痛かったのがわかってしょんぼりする。伊之助から便りが届くたび、喜んで小躍りしてしまう可愛いお母さん。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳の新米隊士。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。任務先の鼓屋敷で善逸、炭治郎と再会し、かまぼこ隊の一員となった。養父のことがあるので、禰豆子が無害すぎてびっくりした。なお、蝶屋敷繋がりでほとんどの柱と面識がある。

竈門炭治郎
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。鼓屋敷の任務で善逸と出会い、伊之助とも再会した。善逸からは優しく強い臭い、伊之助からは厳しく優しい山の臭いがする。箱の中身に気づいても何も聞かなかった善逸と、伊之助が禰豆子を平然と受けいれたことに大変感謝している。まさか本部に把握されているとは思っていなかった世間知らず。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。伊之助とは最終選別時からの友達だと思っている。あながち間違いではない。この度、泣きたいほど優しい音がする炭治郎に出会い、伊之助とも再会できてとても嬉しい。箱の中の鬼にびくびくしていたが、炭治郎を信じて説明を求めるだけに留まった。伊之助が平然と鬼を受けいれたのは意外。禰豆子ちゅわーん(はぁと)

不死川実弥
凶暴な見た目の風柱。色々と過激かつ容赦ないが、不屈で正しい心の持ち主。優しい母親という生き物が最大のトラウマかつ聖域であるため、琴葉がちょっぴり気になるが、分別をもって意識をそらしている。これにより死亡フラグを折ったとは露知らない。歳上の女性には丁寧に話せる真面目な21歳。



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#12 四向四果の半ばにて


タイトル=しこうしかのなかばにて

那田蜘蛛山での死闘、あるいは見守る悪鬼。




 

那田蜘蛛山には十二鬼月がいる。

 

今しがた斬った鬼が遺した言葉に炭治郎はごくりと喉を鳴らした。珠世が言っていた鬼舞辻無惨の血が濃い鬼。それがこの山にいるのなら、禰豆子を人に戻す薬に一歩近づけるかもしれない。そう考えつつ、後ろからやってくる伊之助の気配に背筋を伸ばした。

 

「十二鬼月って言ったか、そいつ」

 

「ああ。鬼舞辻無惨の側近、とても強い鬼のことだ」

 

「知ってるぜ」

 

隣に並び、もぬけの殻の白い着物を睨む横顔は厳しい。けして怯んでいるわけではない臭いだが、伊之助の体から立ち上る危機感がぴりぴりと焦げるように香っていた。

 

「十二鬼月ってのは、上弦と下弦の六匹ずつ、鬼の上位十二匹の総称だ。目印に目ん玉に位が書かれてる」

 

「詳しいんだな」

 

「そうでもねぇ」

 

ざり、と枯葉を踏みしめて歩き始める薄緑の羽織姿に続き、暗がりを進んでいく。あの女鬼が操っていた隊士たちを救うことはできなかった。伊之助が死体となった隊士の手足を斬り飛ばし無力化したのを咎めたのは、果たして正しかったのか。手の施しようがないほど傷ついた、まだ生きている隊士らを前に、どうすればよかったのだろう。結局、操り糸をからめて高い枝にぶらさげたところで、糸が繋がったままだった者たちは首を折られて死んでしまった。

 

「……権八郎。お前、先に下山しろ」

 

「俺は炭治郎だ。どうしてそんなこと言うんだ」

 

刺激臭に水の臭いがまじり、川に近づいてきたところで伊之助が言った言葉に、思わず歩みが緩む。二人とも大した怪我は負っていないのだ。ここで背を向ける理由などないというのに。

 

「てめぇが死んだらねず公がひとりになっちまうだろ」

 

伊之助は振り返らない。抜き身の小太刀を携え、小さな蜘蛛をはらいながらずんずんと進んでいく。酷い臭いの中にあって、優美な睡蓮の羽織と美しい姿が別世界のように浮き上がって見えていた。

 

「ありがとう、伊之助。でも山は下りないよ」

 

「いいのかよ」

 

「ああ、俺は鬼殺の剣士だ。自分でこの道を選んだ。どんな鬼が相手だろうと、逃げたりしないよ」

 

「……ふん」

 

端的な言葉でも十分すぎるほどの気遣いだった。背中に背負う箱の中で、禰豆子も聞いていただろうか。まだ出会ったばかりだが、藤の家紋の家やこの山で共に行動することで、炭治郎はこの綺麗な同期のことを少しわかってきていた。きっと伊之助にとって家族は一等特別だ。だからこそ鬼になった妹を連れていても受け入れてくれたのだ。

 

「またいやがった」

 

木々が途切れた空間は月に照らされており、流れる川の向こうには少女の鬼の姿があった。すでに遭遇した女鬼と子供の姿をした鬼によく似た容姿だ。群れない筈の鬼がひとつの山に何体集まっているのか。少女の鬼が身をひるがえして逃げを打つのに、ぎらついた瞳の伊之助が飛びだしていく。

 

「逃げんじゃねえ、クソ鬼ぃ!」

 

「お父さん!」

 

少女の呼び声に応えて巨体が振ってくる。水しぶきの中から迫る丸太のような腕を避けて後退した伊之助が舌打ちする。現れた鬼は見上げるほど大きく、口が裂けた蜘蛛の顔が不気味だ。少女の鬼は、一目散に森の奥へと消えてしまっていた。

 

「オレの家族にぃ、近づくなアアアッ!!」

 

咆哮とともに打ち付けられた拳が川底をえぐり、その腕めがけて振り下ろした炭治郎の刀は皮膚に僅かに食い込むだけだった。炭治郎の背後からその肩を蹴って飛び上がった伊之助が鬼の頸を狙う。

 

獣の呼吸・弐ノ牙 切り裂きーー

 

交差する小太刀は太い左腕に阻まれ、半分ほど肉を斬った。伊之助の麗しの顔立ちが険しくゆがみ、その体が刀を握ったまま柔らかく後ろに反る。ぐにゃりと弧を描く様に目を剥く炭治郎の前で、伊之助のつま先が刀の峰を押し込み、硬い骨まで切断した。

 

「があアアアッ!!」

 

「伊之助!」

 

「ぎっ、くっそがああ!」

 

左腕を斬るなり、もう片腕のなぎ払いで横腹を打たれた伊之助が吹き飛んでいく。追撃しようとする鬼を炭治郎が遮り、刀が通らないまでも素早い動きで切りつけた。横目で伊之助の安否を確かめれば、薄緑の羽織姿がよろりと立ち上がり、暗がりにも輝く翡翠の双眸が燃えていた。

 

カアアアアァと独特な呼吸音が離れていても聞こえてくる。炭治郎が大振りの一撃を避けるのと同時に、飛び込んできた伊之助の小太刀が鬼の両足を切り裂いた。彼が狙ったのは太い脚ではなく指先だ。巨躯の体重を支えるのに、指が一本もない爪先では不十分。ぐらりと傾いだ上半身の影から少年らが逃れるなり、さらなる大きな影が頭上から襲いかかる。危うく巻き込まれかけた炭治郎の襟を伊之助が引っ張り、二人して間合いから転がった。

 

倒れた鬼を押しつぶしたのは、伊之助が切り倒したであろう何本もの大木だった。

 

「伊之助、大丈夫か!?」

 

「なんてことねぇ。早くこいつの頸を……っ」

 

言いかけた伊之助が細い何かを打ち払う。一気に辺りに広がる、この山に入ってから最も強い血臭に、炭治郎は顔をしかめてその出元を探した。

 

それは、二人と幹の下敷きになった鬼から少し離れた木の影に立っていた。白い出立ちと禍々しくも整った面は先に見たとおりだ。血を被ったような鉄臭さをまとい、とんでもない圧を発しているのは、幼い見た目の子供の鬼だった。

 

「父さん、こんな子供二人になに手こずってるの」

 

抑揚が少ない声音で子供が大鬼に話しかける。すると、父と呼ばれた鬼は怯えた獣の唸り声をあげて丸太の下から這い出した。鬼からは、先ほどまで炭治郎らと対峙していた時とは打って変わった恐怖の臭いがしていた。

 

「てめぇが十二鬼月か」

 

伊之助の問いに、子供の鬼はへえと牙を見せて嘲笑う。小さな両手の間には、あやとりの赤い糸が幾何学的に交差していた。隊士らを操っていた女鬼と同じく、糸を武器としているのだろうか。

 

「そうだよ、もう死ぬ君たちにはあまり関係ないことだけど」

 

父さん、と子供がもう一度声をかけた途端、大鬼の体が裂けた。否、皮一枚を脱ぎ捨てて二回り大きくなったのだ。伊之助が斬り落とした腕も戻っており、怯えの臭いがより濃くなっていた。

 

「父さんは家族を守るのが役割なんだから、しっかりしてよ。母さんも兄さんも補充しなきゃいけないし、全く、嫌な夜だ」

 

「があああアアアッ、オレが、累を守るうううゥ!!」

 

大鬼が片手の握力だけで丸太を持ち上げ、炭治郎めがけて振り下ろす。先ほどまでとは桁違いの速度に羽織りが巻き込まれ、しまったと思うと同時に鋭い一閃が引っ張られた裾を切り離した。砂利にめり込んだ丸太を手放した鬼が、間合いに入った伊之助の左肩を爪で捉え、血飛沫が舞う。その赤にハッとした炭治郎だったが、次の瞬間、大鬼の爪は彼の胸を貫かんと迫っていた。

 

「しま……ッ」

 

「健太郎!!」

 

肉を貫く音が、鈍く響く。赫灼の瞳を見開いた炭治郎の前には、桃色の着物の背中。その細い背の真ん中あたりから鋭い爪先が覗いているのを認めるなり、炭治郎の喉から絶叫が迸った。

 

「うああああっ、禰豆子おおお!!」

 

「まさか、鬼か?」

 

ぽつりと子供の鬼が呟いたのは、誰の耳にも入らなかった。羽織を真っ赤に染めた伊之助が大鬼の手首を斬り、炭治郎は胸を貫通されたままの妹を抱えて距離を取る。

 

「禰豆子、禰豆子っ、兄ちゃんを庇って……ごめんな……」

 

「紋次郎、クソ鬼の手を抜いてやれ! 少し待ちゃ治る!」

 

「あ、ああっ。伊之助、ごめん、俺もすぐ戦うからっ」

 

「気にすんな」

 

炭治郎が禰豆子を横たえて手首を抜き取っている間、伊之助が大鬼と子供の鬼に立ちはだかる。左腕をつたって滴る血に舌打ちし、それでも敵から注意を離さない。戦意を失わない美貌など目に入らないとばかりに、子供の鬼は竈門兄妹に見入っていた。

 

「鬼の妹が、身を挺して兄を庇った。本物の絆だ。欲しい、あれが欲しい」

 

「てめぇ、何言ってやがる」

 

一歩踏み出した子供の鬼に伊之助が刀を向ける。鬼は不愉快げに髪をかきあげ、下弦の伍と刻まれた瞳で父親役の鬼へと命じた。

 

「お前は邪魔だ。父さん、その女みたいなのは離れたところで始末しておいて。僕は後ろの子たちに用がある」

 

「近づくんじゃねえ、クソ餓鬼、がっ」

 

接近を阻もうとする伊之助に大鬼が殴りかかり、長い腕で払い除けるように遠く、遠くへと追いやっていく。その間、炭治郎は苦痛に眉を下げる禰豆子の手を握ってやりながら、はやく治れと祈っていた。十二鬼月を前にしての自殺行為だ。しかし、そばまでやってきた子供の鬼は襲いかかることはせず、ねっとりと優しげな声音で口を開いたのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

(畜生がっ、紋次郎たちが危ねぇ)

 

大鬼の猛攻をどうにかかわしながら、伊之助はどんどん遠ざかる三つの人影に奥歯を噛みしめる。出会ったのが炭治郎だけであれば、弱い者が戦って死んでも仕方がないと切り捨てただろう。しかし、彼が鬼となった禰豆子のために刀を手にしたと知ってしまっては、もう駄目だった。炭治郎は似ているのだ。家族のために必死になる姿が、伊之助が慕う養父と愛する母に、とても似ているのだ。

 

(あのガキは下弦の伍……勝てるか? いや、ふざけんじゃねぇぞ、何考えてんだ俺は! まずはこのデカブツを殺る、次はあのガキを、炭治郎と倒す!!)

 

ばしゃばしゃと川の浅瀬を駆け、大鬼の背後へと転がる。そして、痛む肩を無視して両腕で刀を突き上げ、後ろから太い頸を貫いた。相手の体の硬さから、一撃で頸を落とせないことはわかっていた。まして傷ついた肩では技も十全に繰り出せない。それでも、この鬼を倒して下弦の伍を倒さなければ、全員この場で死ぬことになるのだ。

 

「ぎゃああアアアアアアッ!!」

 

「ぐっう、おらああアアアッ!!」

 

伊之助が力の限り腕を薙ごうとするのに、鬼は巨躯を暴れさせ、背中に張り付いた伊之助を下敷きに勢いよく倒れこんだ。

 

(あ…………)

 

少女めいた顔が悔しげに歪む。小太刀を握ったまま浮遊感に呑まれ、伊之助は走馬灯を見た。母親の柔らかい笑みと、それを向けられて普段より不格好な笑顔を返す養父。暗がりの山道で、自分が人に戻してやると宣言した時の、呆気に取られた虹色の瞳。寺院の庭を三人でゆっくり歩いた夜。ぱらぱらと流れていく思い出の中、六つ目の鬼と対峙した養父が鉄扇を振るう姿を見た。

 

盛大な水音とともに飛沫があがり、大鬼は頸に刺さった小太刀もそのままに獣の笑い声をあげた。二振りの日輪刀にかかっていた、頸を切ろうとする力が失われたからだ。

 

「グフフフ、グギャギャギャ、ギャッ……? ア……ァ」

 

仰向けになったまま笑っていた鬼の音が徐々に弱まり、ぴたりと消える。流水の音さえ、ピシピシと固形がたてる音へと変わっていく。血塗れで武器を失った伊之助は、炭治郎らとは逆側の岸に座りこんだ格好で、大鬼が川ごと凍りつくのを茫然と見ていた。

 

伊之助の横には、いつの間にか四寸ほどの小さな童の氷像が立っていた。袴姿に対の扇を構えた姿は彼が初めて見るものだったが、それによく似たものは知っていた。

 

「父ちゃん?」

 

小さな声をかければ、氷の童はこくりと頷き、大仰な動作で凍った鬼の方を指差し、刀を振る真似をして見せた。

 

「わかった、頸を斬ってくる。炭治郎たちを助けてやれるか?」

 

失血でふらつく足で立ち上がり、小さな相手を見下せば、その問いにはぶんぶんと首が横に振られた。当然といえば当然だ。何年も隠れて暮らしている童磨が、家族以外のために動く理由はない。この氷の童は、童磨が伊之助のためにつけた保険だろう。本来なら姿を表すこともない存在なのだから、下弦の伍が伊之助を殺しかけない限り、助力は望めないのだ。

 

完全に凍りついた大鬼の頸に刺さった小太刀に手をかけ、今度こそ切断する。凍りついたことで脆くなった骨肉が足元に散らばり、死んだ鬼の崩壊がはじまった。童が扇を一振りすれば、血鬼術の氷が粉と消え、止まっていた川の流れも再開する。

 

次は下弦の伍だと視線を向ければ、あちらの戦況は大きく動いていた。伊之助の目に映ったのは、見知った男が子供の鬼の頸を落とす光景だ。左右で異なる柄の羽織りを見間違えるはずもない。後方に倒れている炭治郎と禰豆子はちゃんと生きており、炭治郎が弱々しく顔をあげているのに、ホッと息をついた。

 

改めて見下ろせば、氷の童は伊之助の足元から消えていた。気配を探ってももうわからず、替わりに別のよく知る気配が猛烈な速度で迫ってきていた。苛烈な殺気は実に彼女らしく、その矛先も明確にすぎた。

 

「やめろ、しのぶ!!」

 

叫んだ伊之助の声は、水柱と蟲柱の刃の衝突にかき消される。冨岡義勇に庇われた炭治郎が一瞬、伊之助を認めるも、安堵を浮かべる余裕もなく、彼は禰豆子を抱いて森へと駆けだした。

 

「なんですか、冨岡さん、鬼を庇うなんて立派な隊律違反です。正当にぶちのめしますよ? 伊之助君も、さっきやめろって言いました? そんな大怪我して、しかも鬼に与するような物言い、訳がわかりません!」

 

可憐な見た目とは裏腹に猛烈に怒っている胡蝶しのぶに、伊之助の白い頬がひくりと引き攣れる。炭治郎と禰豆子の無事も気にかかるが、この場から無断で離れたら二度と蝶屋敷の敷居を跨げない予感がしたのだ。結局、鎹烏が竈門兄妹捕縛の指令を伝えにくるまで、伊之助は止血の処置をしがてら、怒れるしのぶと何を考えているかわからない義勇の漫才のような戦いを傍観していたのだった。

 

 





【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。伊之助につけた結晶ノ御子セコム版は全部で5体。隠密性能をあげるために戦闘力を削っているため、5体でようやく本体と同程度の火力が出せる。お父さん鬼程度なら1体で十分だった。リアルタイムで情報共有できないため、伊之助の大怪我を知るのは蝶屋敷にて。なお、伊之助の鎹烏は山に入った時点で御子が墜落させた。一応殺してないからセーフと思っている。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。息子の無事を祈りながら日々お仕事をしていたが、この後、当の息子が蝶屋敷に入院することになり、覚悟していたとはいえショックを受けることとなる。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳の新米隊士。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。炭治郎と禰豆子はそれぞれ単体ならドライに接することができるが、ワンセットだと無理。全集中の常中まで使えるのでお父さん鬼と原作よりも善戦するも、一歩及ばなかった。童磨がセコムをつけていたことに気付いていなかったが、家族の安全第一な養父なら当然かと秒で納得した。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。伊之助のことが少しずつわかってきて、彼が何に対して共感してくれているのか不思議に思っている。累戦はほぼ原作どおりの流れ。ラストのすぐ後にカナヲに顎を割られた。なお、柱合会議の裁判も、ほぼ原作どおり進んだ。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。出番なしだが、ちゃんと一人で兄鬼を倒し、おこりんぼでも治療対象には優しいしのぶに助けられた。

累と愉快な偽家族
全員ほぼ原作通りに死亡。成仏しました。

冨岡義勇と胡蝶しのぶ
しのぶがおこりんぼなままなので、義勇への当たりがややきつめ。でも天然ドジっ子だと思っているのは原作と同じ。しのぶは隊律違反の対応が不要になるなり、伊之助の傷をその場で縫合まで処置した。所要時間5分の超荒い手際だったのはご愛敬。「だって本部に急がないといけなかったから、ちょっと痛かったかもですね。テヘペロです」



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#13 紅蓮を咲かせ、命を愛でる



タイトル=ぐれんをさかせ、いのちをめでる

蝶屋敷にて、あるいは悪鬼のかくれんぼ。




 

 

蜘蛛だらけの山で蝶のような美人の手当てを受け、ぐるぐる巻きにされた善逸が運び込まれたのは、蝶屋敷と呼ばれる立派な屋敷だった。蟲柱の住まいであり元・花柱が仕切る病院でもあるこの屋敷は、善逸にとってこの世の極楽であった。

 

「胡蝶カナエです。よろしくね」

 

「よっ、よろしくお願いしますうううう!」

 

寝台を覗きこんでにっこり笑顔を浮かべる女性は、元・花柱だという。杖をついて診察室に入ってきた彼女が、鬼との戦いで膝から下を失い引退することになったのだと善逸が知るのは、数日後のことだ。この時は、艶やかな黒髪に蝶の飾りをつけた美女に舞い上がるばかりだった。

 

ぐるぐる巻きから解放された善逸の四肢は、腫れあがって短く変貌していた。呼吸で毒のめぐりを遅らせていなければ、とっくに蜘蛛になっていたとは、診察が終わってのカナエの言葉だ。彼女の指示で可愛らしい幼い看護婦たちが寝台脇に点滴を用意し、太い針が肘の血管に刺しこまれた。

 

「今日は点滴だけにしましょう。善逸君、お薬を出すから明日から一日五回しっかり飲んでね」

 

「はいっ。カナエさん、毎日診察してくれるんですか? しょ、触診とかします?」

 

「毎日じゃないけど、三日おきに経過の確認にくるわ。それじゃあ、お大事に」

 

食い気味に声をかける患者をするりとかわし、カナエは両脚義足だと思わせない危なげなさで立ち上がって退室していった。白衣の後ろ姿をうっとり見送った善逸は、足音が遠ざかると、ふうと大きく息を吐き出して天井を見つめた。那田蜘蛛山で善逸は一体の鬼と遭遇し、どうやらそれを討伐したらしい。まるで信じられないが、人の顔がついた蜘蛛に追い回された後から記憶がなく、気がついたら毒で意識が朦朧としていたので、救護班の会話から拾った情報しかわからないのだ。

 

(炭治郎と禰豆子ちゃんと伊之助は無事かなあ)

 

点滴薬のせいか、どんどん眠たくなってくる。目を閉じてゆるく息を繰り返していると、いよいよ瞼を開けたくなくなり、人並外れた聴覚だけが廊下を行きかう気配を捉えていた。

 

(あ、優しい音だ。炭治郎……じゃない、女の人だ。ふわあ、柔らかくてあったかい、綺麗な音だなぁ)

 

善逸がこれまで聴いた中で、最も優しい音の持ち主は炭治郎だ。彼からは泣きたくなるような優しい音がする。伊之助も優しいが、彼の音は美しくも恐ろしい山の自然のようなもので、歴とした獰猛さがあった。対して、今廊下を歩いて近づいてくる人物の音は、春の陽やそよ風に泳ぐ花弁のような、誰も傷つけない柔らかさに満ちていた。優しいのもあるが、何より美しい、心が綺麗な人の音だった。

 

(いいなあ、こんな音をさせる人は、きっと綺麗な人だろうなあ)

 

カラカラと戸が開く音とともに、美しい音がする人が入ってくる。善逸が横たわった寝台までやってきたその人は、眠っていると思ったのか、彼の金色の頭を子供にするように撫で、あたたかく湿った布で薄汚れた顔を拭いてくれた。滑らかな指先に世話を焼かれているうちに善逸は本当に寝入ってしまい、ほぼ全身を念入りに拭われたことなど知ることはなかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

琴葉の胸元に横向きで膝を抱えて納まった鬼は、柔らかい肌をとおして聞こえてくる鼓動に自らのそれを合わせ、ゆるゆるとかよわい人間の脈と呼吸を模していた。伊之助につけた分身と伊之助自身が母にあてた便りから、彼の同期の少年らの特異体質は把握している。今、琴葉が衣服を脱がせて身体中拭いてやっている金髪の少年は、木箱に入った竈門禰豆子と対面する前から、彼女が鬼だと気づいていたらしい。鬼と人間は、生体の違いからまったく異なる音がするはずだ。であれば、琴葉にくっついて彼女の音に自らの音を重ねてしまえば気取られないと踏んだのだ。

 

(ここまで近づいても飛び起きないなら、大丈夫かな。問題は、もう一人の方だ)

 

竈門炭治郎の嗅覚は、おそらく犬並みだ。琴葉の甘い体臭はごく薄く、人喰い鬼にしみついた血の臭いを覆い隠せるものではない。何せ童磨は百年以上、人間の血肉だけを食べてきたのだ。いくら体を洗ったところで、どうにかなるものでもなかった。

 

(彼の妹は鬼だけど、あくまで人を食べないから許容してる節があるし、うーん、どうしたものか)

 

炭治郎がいるときだけ琴葉と伊之助から離れるのは簡単だが、長く続くのなら論外だ。そんな不便を強いられるぐらいなら、竈門兄妹には早々に失踪してもらうことになる。もちろん、行先は童磨の腹の中だ。

 

(産屋敷殿のところに引っ立てられたみたいだから、隊律違反で処刑されるかもしれないけど)

 

望み薄だな、と虹色の目を伏せて考える。産屋敷家は鬼舞辻無惨を憎悪し、人喰い鬼に生きる価値なしとして鬼殺を指揮しているが、同時に童磨には理解できない信念を持っている。その非合理的な方針のもと、鬼狩りらは自らの身を犠牲にして有象無象の人々を守り、柱でさえ人質や足手纏いを即座に見捨てることはしないのだ。これまで童磨が殺して食らった柱の中にも、巻き込まれた町民を庇って死んだものがいた。

 

(鬼狩りは人間が生きていることに重きを置くから、炭治郎君を殺しはしないだろうな。禰豆子ちゃんはどうだろう。俺としては彼女の方こそ生きていて欲しいけれど。まったく、連中は馬鹿だよ。命は皆須らく平等。『生きてる』ことの価値なんて、ひとりひとりの主観でしかないのにね)

 

童磨は命の尊さを知っている。命とは世の理(ことわり)である食物連鎖の歯車であり、つまりこの世で最も大事なものなのだ。童磨の長い生を支えているのだって彼が糧としてきた、あるいは救ってきた数多の人間たちだ。彼らは童磨の一部となり、死の恐怖や辛い現世から解放されただけでなく、今も燃料として役に立ち続けている。教祖でなくなり救いを与える機会が減った今も、糧として得ている命の尊さに変わりはなかった。

 

そして、個々の主観による『生きている』ことの価値は、嘴平母子が何年もかけて童磨に教えてくれたもう一つの世の真理だ。これを知ることがなければ、童磨の世界はいつまでもくだらないことの繰り返しだっただろう。

 

(はあ、仕方ない。今日は隠れて、明日は臭い抜きの液剤にでも一晩浸って、竹炭を抱いてみよう)

 

琴葉は次の仕事のため別の部屋に向かっている。ゆっくりした歩みにあわせて背を預けた乳房が揺れ、童磨も頬を緩ませた。そして、ふと感じた気配に端正な顔に笑みがはっきりと浮かぶ。

 

(伊之助だ。顔を見せにきてくれたのかな)

 

琴葉が戸を開ける音の後、案の定、可愛い息子の声がきこえてくる。しかし着物越しに届いた濃い血の臭いに、童磨は胸の間から這い上がって袷のぎりぎりの縁で聞き耳を立てた。

 

「母ちゃん、ただいま」

 

「伊之助、おかえりなさい! あっ、ああ……怪我をしたの、羽織りがこんな、真っ赤だわ」

 

久しぶりに会った伊之助は診察室でカナエの向かいに座り、裸の上半身の肌がほとんど見えないほど包帯と湿布に覆われていた。手当てしてなお血臭がする左肩の傷は大分深そうだ。母親に瓜二つの美しい顔は小さな擦り傷程度で済んでいたが、明らかに貧血で顔色が悪い。膝のうえに丸めてある薄緑の羽織は赤黒く変色していた。

 

「大丈夫よ、琴葉さん。大きな傷は左肩だけで、しのぶが先に診て縫合済みよ。念のため私も診察したけれど、神経も傷ついてないし、伊之助君なら治りは早いでしょう。栄養価が高いものをたくさん食べさせてゆっくり休ませてください」

 

「は、はい。ありがとうございます、カナエ様」

 

にこやかなカナエに深々と頭をさげる琴葉。丸椅子から立ち上がった伊之助は、小さく震える母親の横に立ち、その背を撫でた。

 

「心配すんな、母ちゃん。かすり傷だ」

 

「うん……しばらくお休みなんでしょう? ね、伊之助」

 

「伊之助君は入院しなくてもいいわよ。おうちが近いから、三日に一度経過を見せに来てね。くれぐれも私が許可するまで鍛錬しないように。琴葉さん、もう少しで患者が一人来るから、寝台の用意をお願いします」

 

「おう」

 

「わかりました」

 

連れ立って廊下に出た嘴平親子に近づく者はなく、山からの生還者の対応にあたる看護婦らは全員病室の方で大忙しだ。琴葉もそちらに向かうところだったが、童磨が胸元から頭を出したため、ガラス窓に背を向けて足を止めた。

 

「父ちゃん、ただいま」

 

童磨は伊之助が差し出した右手に飛び移り、労わりの表情で白皙を見上げた。

 

「伊之助、おかえり。下弦の子は強かったかい?」

 

「俺が戦ったのは子分の方だ。ガキの十二鬼月の方は、気配だけでもやばかったぜ」

 

そう言いながら伊之助が顰めたのは、手下にさえ手こずった悔しさからだ。実戦を経験する前だったなら、実力差も考えず粋がったであろう息子の成長に、鬼は小さく笑った。

 

「それがわかったなら、伊之助もちゃんと強くなってるよ」

 

「あのちっこいの、父ちゃんの血鬼術だろ。助かった、ありがとな」

 

「どういたしまして。伊之助はもう家に戻るかい? それなら俺も連れてっておくれ」

 

「それがいいわ。童磨さん、伊之助をお願いします。伊之助、今日のお夕飯は天ぷらを作るからね。家でゆっくり寝て待ってるのよ」

 

心配がありありと顔に浮かぶ琴葉だが、彼女はまだ一仕事残っている。童磨と息子を交互に見つめ、精いっぱい笑顔で言うのは彼女なりの強がりだ。伊之助も母にだけは乱暴な物言いはしない。今も、大人しく頷いて童磨をズボンのポケットに入れるだけだった。

 

「それじゃあ、お仕事に戻るわね。伊之助、無理はだめだからね」

 

「わかってらあ」

 

「ちゃんと俺が見てるよぉ」

 

かよわな指先で頬を突かれた伊之助がぶっきらぼうに返し、その腰あたりから童磨のくぐもった声が続く。それらを聞いた琴葉はうんと頷き、白い羽織をひるがえして病棟へと向かっていった。

 

春の陽のような気配が遠ざかり、伊之助も玄関の方へと踵を返す。血みどろの羽織りを持つ右手が硬く硬く握られていることを、ポケットの中で揺られる童磨だけが知っていた。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。伊之助が五体満足で対十二鬼月戦から帰ってきてホッとしている。善逸対策は完璧。炭治郎相手にどうしたらいいかを思案中。とりあえず明日は消臭薬漬の後、竹炭を抱いてお胸に挟まる予定である。人を喰わない鬼・禰豆子にロックオン中。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。伊之助の怪我に震えてしまったが、すぐに持ち直して大量の天ぷらを作る算段で頭を埋め尽くした。童磨の暗躍のことは9割9分知らない。蝶屋敷で働いて長いので、男性隊士の体を拭うのもお手の物。時には尿瓶やおむつにも対応するお世話のプロフェショナル。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳の新米隊士。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。入院しない程度の傷なので本当はすぐに鍛錬したいが、カナエに釘を刺され両親にも見張られ、一週間ほど安静にすることになる。童磨の暗躍のことは9割9分知らないが、何かしてるだろうなとは思っている。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。ラストあたりで隠に背負われて蝶屋敷に移動中。琴葉を一目見て伊之助の母親だと察するが、童磨のことは流石に気づかない。元上弦の弐を悩ませる、ある意味大変なつわもの。妹がロックオンされているとは露知らない。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。ボロボロになって蝶屋敷に担ぎ込まれた。毒で朦朧としていたが、重傷者として最初にカナエに診察してもらい、彼女を見るなり気だけ超元気になった。可愛い看護婦トリオに美少女なアオイ、顔で食っていける胡蝶姉妹に加え、超美しい音がする琴葉までいて、この世の天国を味わっている。

胡蝶カナエと蝶屋敷の少女たち
カナエは義足をつけて生活しており、ほぼ杖がいらない程しっかり歩き、短時間走ることすら可能。流石に戦闘はこなせない。自分の日輪刀を刷り上げた短刀を胸元に入れている。柱を引退してから蝶屋敷の専属医師(外科手術は流石に本職を呼ぶ)をしている。なお、童磨の侵入についてはしのぶにも話していない。看護婦トリオは琴葉のことをお母さんみたいだと思って懐いている。アオイとカナヲは原作どおり。



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#??? 阿羅漢が抱くもの

タイトル=あらかんがいだくもの

番外編。触れたがりの悪鬼、あるいは狭まる距離。

一部 寺院にて、眠れる美女
二部 寺院にて、つんのこ
三部 逃走後、隠れ鬼




琴葉の髪は美しい。嫁いだ先で散々な扱いを受け、ろくな手入れをしていなかったろうに、腰より長い黒髪は艶やかでたっぷりあり、毛先までしっとりしている。赤ん坊を胸元に包んで丸くなって眠る彼女の横であぐらをかいた童磨は、白い布に散らばった髪を掴み、さらさらと指の間に滑らせて遊んでいた。

 

暗がりでもよく見える目で、摘みあげた毛先を確かめる。ほとんどない枝毛を見つけては指先ですぱりと切り落とし、黙々と作業しているうちに室外から早起きの信者たちの足音が聞こえ始めた。まさか何時間も経っていたとは思わず、手にした髪の束をもう一度見つめてしまった。

 

一晩中髪をいじくられていた女はというと、くうくうと愛らしい寝息を立てて転がったままだ。そっくりな顔をした赤ん坊も同じような音を立てており、本当に似た者母子である。

 

「不思議だなあ」

 

平坦な声が陽が入らない部屋にひそりと溶ける。虹の瞳で眠る人間たちの白い肌をなぞり、琴葉の細い肩が呼吸に上下する様を舐めてから、伊之助の口から垂れる涎が糸を引くのを追う。どちらかというとだらしない二人の寝姿を、鬼はじっと観察していた。

 

長い腕をそろりと伸ばし、粉雪でできた花を愛でるように優しく琴葉の体を仰向ける。母親の温もりが遠ざかって短い四肢をうろつかせた伊之助は、抱きあげて胡坐のうえで布にうずめてやれば再び涎を垂らして熟睡した。そうして童磨の視界に残ったのは、薄い腹まで寝巻きが肌蹴た女の寝姿だった。

 

「本当に不思議だ。どれだけ見てても飽きない」

 

童磨の美醜の基準は一般的なものだ。五感に働きかける形や色、香りや触感の良し悪しを判断するだけの知識はもっており、むしろ芸術品等の批評でそれらしいことを言うのに苦労したことはない。そんな彼の目から見て、嘴平琴葉は大変な美人だ。骨格、肌質、髪質、声質。どれを取っても生まれ持った遺伝子に恵まれた、完全無欠の美である。さらには日々暴力を振るわれ粗末に扱われたというのに、伊之助のような健康すぎる赤ん坊を産むほど母体としても優秀。世が世ならば、貴人への贈り物として捧げられてもおかしくない女であった。

 

一晩中この体に触れていて飽きないのは、美しいからだろうか。顎に手をあてて考えてみるが、合理的な理由に行きつかず、眉を寄せて思案顔をしてもわからない。琴葉ほど見目が良い女はそうそういないが、童磨が知る鬼の中には同程度かそれ以上の美貌の持ち主らがいるのだ。彼らのことをずっと見ていたいかというと、想像もできなかった。

 

「確かに綺麗だけど、うーん」

 

人に擬態した指先で華奢な鎖骨から体の真ん中をなぞってみる。薄い腹まで行きつくとてのひら全体で滑らかな肌をたどり、臍下で湯巻の紐を解いて下腹まで触れたが、骨盤の形の良さや肌を通して感じた健やかな臓物の蠢きに感慨は湧かず、結局わからないまま寝姿を正してやることになった。

 

童磨が琴葉の体を確かめるのは今夜が初めてではない。毎回、新たな美しい部分を発見するが、そろそろ彼女の心地よさが容姿以外から生まれるものだと結論付けつつあった。

 

「体じゃないなら、心か? 君は何も疑わない綺麗な心を持ってる。それが心地良いのかなあ」

 

手持ち無沙汰になって、膝のうえに寝かせていた伊之助を腕に抱いてゆらゆら上半身ごと揺らしているうちに、いよいよ寺院の中が活気づき、部屋に近づく足音が三人きりの時間の終わりを告げた。

 

「琴葉、朝だよ、おはよう」

 

優しい呼びかけに琴葉の長い睫毛が揺れ、大粒の翡翠の瞳が現れる。半覚醒でも童磨と彼が抱いた伊之助を見るなりふにゃりと笑う様に、童磨も鏡のように頬を緩めた。

 

「おはようございます、童磨さん。おはよう、伊之助」

 

迦陵頻伽にも劣らぬ甘やかな声。子供のように大きな伸びをするしなやかな体。あまり絡まらず流麗にこぼれる黒髪。それらに彼女が眠っていた時にはなかった輝きを見て手を伸ばしかけたが、伊之助を手渡す仕草と勘違いされたことで確かめる機会を失ったのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

「うふふ、伊之助、つんのこ!」

 

「母ちゃんもつんのこ!」

 

しきりに頬をつつきあう母子を前に、童磨は高座の上に座ったまま、このよくわからない生き物たちは何なんだろうと、彼にしては間の抜けたことを考えていた。

 

意味不明な言葉を言いながらお互いの頬をつつく遊びがツボにはまったらしい琴葉と伊之助は、さっきからずっとこの調子だ。正確には、少し経つと他の会話や遊びをするのだが、いつの間にか立ち戻ってじゃれあっているのだ。童磨は早々に理解することを放棄し、ただ美しい二人を見つめていた。

 

(可愛らしい遊びだけど、一体何をどうしたいんだろう)

 

もうじき四歳になる伊之助は、最近すっかり腕白になって、日中ずっと寺院の庭を走り回っている。琴葉が信者に混ざって掃除や洗濯をしていて構ってやれなくても、虫を捕まえたり土いじりをしたりと一人遊びに事欠かない。童磨が陽にあたることができないと教えてからは、庭の隅々まで冒険してきて何があったか教えてくれるような、小さな体にどれだけの燃料を詰め込んでいるのか知りたくなるほど元気な子供であった。

 

(……ほったらかしにされてる気がするぜ)

 

夕方を過ぎれば、琴葉の時間は童磨のものだ。伊之助を連れた彼女が教祖の間にやってきて、就寝までの数時間、楽しくお喋りして過ごす。時に夜の庭に出たりもするが、三人で平穏でいるのが常だ。明るい性格の母子はそれなりに騒がしいけれど、琴葉の声は囀りのような耳心地の良さがあり、子供が多少うるさくしたところで童磨が不愉快になることはなかった。ただ、今夜のようにひとり蚊帳の外で見つめるだけというのは、初めての経験だった。

 

琴葉は我が子を膝に抱いてしきりに頬をつついている。反撃する伊之助の手をにぎり、ちっちゃいねえと笑う表情に、童磨はあれが幸せの顔というやつかと目を細めた。無意識に自らの口元に手をやり、その後ろで彼女の笑みを模してみる。あんな力が抜けた表情を浮かべる機会はあまりないだろうが、琴葉に向けられたら返そうと思ったのだ。

 

(意外と難しい。鏡が欲しいなあ)

 

しばらく口元を上げたり下げたりしているうちに、伊之助が母から離れて駆け寄ってくる。座に乗り上がって胸元に飛び込んできた子供を受けとめるなり、丸く短い指先が童磨の右頬をついた。硬化していない肌に幼い人差し指が沈み、頬の肉が奥歯にあたる。どうしたのかと虹の瞳を瞬かせていると、隣に腰をおろした琴葉の指先が左頬に触れた。

 

「童磨さんも、つんのこ!」

 

「きょーそさま、つんのこ!」

 

「これは、俺もやり返せばいいのかい?」

 

さっぱりわからなくても、可愛い二人が楽しいなら付き合ってやればいい。下がり眉を笑みの形でさらに下げて聞けば、琴葉はにっこり頷いて子供の方へと視線を流した。この遊びは、とりあえず伊之助を楽しませればいいようだ。期待できらきらした顔の子供の頬は、少し引っ張るだけでもげそうなほど柔らかかった。

 

「つんのこだぞ、伊之助」

 

加減を間違えたら指が貫通するのではないかと、あくまでやんわりつついてやる。それがくすぐったいのか、伊之助はきゃらきゃらと笑い出し、童磨の膝に座ってぐらぐら体を揺らしていた。

 

「おっと危ない、転がってしまう……あれ、体が柔らかいんだなあ」

 

頭の重さで後ろに倒れる体を腰で捕まえてやると、伊之助はそのままぐにゃりと台座に頭が着くまで背中をそらせた。鍛えている女でもそうそういないような柔らかさだ。

 

「そうなの、伊之助はとっても体が柔らかいんです。足はぺたんってまっすぐ開くし、肘を背中で組めるのよ」

 

「へえ、ちょっとした才能だね。肉体が優秀なのは良いことだ」

 

凄いなあ、と溢れそうな緑眼を覗きこめば、子供は得意げに笑っていた。体を動かすことが好きな子だから、鍛えれば相応に伸びるかもしれない。そんなことを考える鬼は、自分の顔が先ほどの琴葉と変わらない表情を浮かべていることについぞ気づかなかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

琴葉の肩の傷がだいぶ良くなり、介助がなくても着替えができるようになったある日、藤の家紋の家の者たちが寝静まった頃に童磨は彼女と膝を突きあわせて座っていた。伊之助はすでに布団で大の字になって眠っている。

 

「琴葉、この間話したとおり、俺は鬼だ。鬼舞辻無惨という一番偉い鬼を裏切って逃げたから、すべての鬼に狙われてる。それに、人を食べないと生きていけないから、鬼から人間を守る鬼殺隊からも敵視されてる。どちらにも見つかったら襲われるから、これからは隠れて生きるつもりだ。ここまではわかるかい?」

 

「はい」

 

童磨の前に正座して膝で両手を握りしめている女は、彼女らしからぬ硬い表情だ。柳眉を少し寄せ、じっと童磨を見つめている。宝石のような翡翠の瞳に怯えや疑念はなく、人を喰うのだと伝えた時ように涙ぐむこともなかった。

 

「俺は琴葉と伊之助から離れたくないし、二人のことを絶対に守るよ。そのために、琴葉にお願いがあるんだ」

 

「童磨さんのお役に立てるの?」

 

「もちろん。琴葉にしかできないことさ」

 

「わかったわ。どうすればいい?」

 

白橡の髪を揺らして端正な鬼がにじりよる。膝小僧が触れるほど目前までやってきた童磨は、琴葉の手を握り、水を掬うようにてのひらを上向かせた。そして、彼女の視界から消え去った。ばさりと徳利襟と袴が畳に落ちるが、中身がない。まるで狐に化かされたようだ。

 

「え……」

 

「ここだよ。君のてのひらの上さ」

 

きょろきょろする琴葉が視線を落とすと、てのひらの上で四寸ほどの大きさの童磨が手を振っている。薄茶の亀甲柄の手ぬぐいに包まった姿はまるで人形のようだ。琴葉はおとぎ話に出てくるような小鬼を顔の前まで持ち上げた。

 

「まあ、一寸法師みたい!」

 

「藤の家に来てから、昼間はこの大きさで押し入れに隠れてたんだぜ。これからは琴葉の服の下に隠れさせておくれ。君の気配に紛れてしまえば、誰も俺のことはわからない」

 

胸を張る童磨とじっと見つめあい、琴葉はにっこりと頷いた。六つ目の鬼から逃げる最中、童磨の背にしがみついていることしかできなかったことを思い出す。恐ろしい速度で森の中を駆ける体は息さえ乱していなかったけれど、肩口から見た端正な横顔は表情をなくし、虹の瞳には焦燥が浮かんでいた。いつだって大らかに微笑んでいた童磨が、自分たち親子を抱えて必死に逃げる様に胸が苦しくて仕方がなかったのだ。

 

「嬉しいわ。お昼もずっと一緒にいられるのね」

 

「うん、いつだって琴葉と一緒だ。鬼は夜しか活動しないし、鬼狩りどもは琴葉と伊之助を傷つけない。俺が鬼だということだけ内緒にして、後は普通にしていておくれ。上手く対策して立ち回れば、ずっと三人で楽しく暮らせるさ」

 

女の細い指先が童磨の胸元に触れ、やわい指の腹で撫でれば、彼もその爪先を抱きしめ、猫のように頬を寄せた。そうして慈しむ触れ合いが何物にも替えがたかった。

 

「それで、隠れる場所だけどね」

 

「はい」

 

「胸元が一番見つかりにくいと思うんだ。乳房の間は収まりがいいし、袂や裾と違ってうっかり着物の中を見られることもないだろう?」

 

「……え?」

 

「位置的に体の正面だから守りやすく、鼓動や脈拍、呼吸をいち早く把握できる。有事にはすぐ飛びだせる。それに女の胸元をじっくり見るやつは少ないから気取られにくい。一番理に適ってるのさ」

 

子供にするような説明にやましい影はない。絶句した琴葉に何を思ったのか、童磨はぺらぺらと他の部位の利点と欠点を並べていく。それが体内の話になったところで、茹で上がった顔色の琴葉が手ぬぐいごと小鬼の体を握って着物の袷の内に押し込めたのは、彼女なりのささやかな反抗であった。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。琴葉限定のナチュラルすけべ(違) 性欲が欠落しており、どこを触ってもやましい気持ちはない。伊之助にもよく触るが、琴葉は良い匂いがするうえに肌接触で甘い風味まで感じられるので就寝時を含め一日十時間ぐらい触れている。胸元に隠れるようになってからは二十時間超である。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨に触られるのは大変嬉しい。出会ってしばらくはドキドキして赤くなっていたが、童磨に他意がないことに気づき、徐々に慣れてきて胸元に潜り込まれても平然とするようになった。寝てる間に裸に剥かれたり、気絶している間に合体()したり散々だが、本人は露知らず。羞恥心は人並み。

嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく系美少年。赤ちゃんの時から童磨と母親のスキンシップを見て育ったため、今更二人が目の前で何をしても動じない。つんのこエピソードの後、飽きるまで何日も童磨をつつきまくった猛者。なお、小鬼バージョンの養父を面白がって虫取り網で追い回したのは、流石に琴葉に叱られた。面白がってノリノリで逃げていた童磨も叱られた。



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#14 祇園精舎に潜む



タイトル=ぎおんしょうじゃにひそむ

禰豆子危機一髪、あるいは災難の先送り。




 

 

炭治郎が蝶屋敷に収容されたのは、鬼殺隊本部での殺伐とした裁判を経た遅い昼下がりの事だった。隠の背におぶさり、痛む顎や背中をひたすら我慢してたどり着いたのは、どことなく女性らしい雰囲気の立派な屋敷。門をくぐってすぐの庭先で出会った栗花落カナヲの沈黙に戸惑っていたところ、きびきびした神崎アオイがやってきて受け入れてくれた。

 

病室で善逸と再会し、お互い満身創痍ながら命があったことに喜ぶこと数分。伊之助がいないことに不安になった炭治郎が誰かに聞こうと痛む体を起こしたところで、病室の戸が開き、大変美しいよく見知った顔が現れた。

 

豊かな黒髪も華奢な肩幅も、炭治郎らが知る者とはまったく違うが、目鼻口が完璧に配置された白い顔だけは瓜二つ。寝台から凝視している少年らと目が合うなり、その人物はふんわりと花のような笑顔を浮かべた。

 

「こんにちは。私は嘴平琴葉、ここで看護のお手伝いをしています。善逸君のお薬と炭治郎君のお着替えを持ってきましたよ」

 

年齢を感じさせない容姿と少女のような純真な笑顔から、最初は伊之助の姉かと思ったが、そう聞けば琴葉はふるふると首を振った。

 

「伊之助のお母さんです。あの子と仲良くしてくれてありがとうね」

 

慈愛に満ちた眼差しに、炭治郎は泣きたいような気持ちになった。隣の寝台で善逸が感激に騒ぎ立てるのをよそに言葉に詰まり、あれよあれよと体を拭われて着替えまで手伝われてしまった。掛け布を肩まで被せてくれた際、琴葉からうっすらと血臭が漂ったが、蝶屋敷で怪我人に接していれば当たり前だと納得したのだった。

 

それからというもの、琴葉はアオイと幼い看護婦らと入れ代わり立ち代わりで炭治郎と善逸の世話をしてくれている。入院を免れた伊之助もほぼ毎日顔を出し、母親の手伝いをしている様子がよく見られた。

 

炭治郎が一足先に機能回復訓練にはいる前の晩、夕食を運んできた琴葉が薬を嫌がる善逸をなだめていると、部屋の隅に置いた箱が開き、幼児の大きさの禰豆子がころりと姿を現した。すでに彼女の存在はカナエとしのぶから屋敷の関係者に通達されているため、それ自体は問題ない。しかし、禰豆子が本来の大きさに戻りながら走り、勢いよく琴葉の背に抱き着いたのは、誰も想定していなかった。

 

「きゃっ!?」

 

「「禰豆子(ちゃん)!?」」

 

幸い琴葉は水差しも膳も手にしておらず、前のめりになったところを善逸が抱き留めた。炭治郎が慌てて寝台をおりて妹を引き離そうと手を伸ばしたが、先に白く筋肉質な腕が禰豆子の両脇を掴んで抱き上げる。

 

「気ぃつけろ、ねず公。母ちゃんは俺らよりずっと弱ぇんだぞ」

 

子猫にするように禰豆子を捕まえたのは伊之助だ。薄緑の綺麗な羽織り姿の彼は、もう包帯も取れ、昨日から任務に復帰していた。

 

「むー」

 

「伊之助、助かったよ。琴葉さん、妹が申し訳ありません。禰豆子、いきなり飛びついたら駄目だぞ」

 

捕まったまま両手を琴葉に伸ばしている禰豆子には、きっと彼女が母親に見えている。その証拠に、琴葉が優しい笑顔で近づくと轡の後ろで甘える声を発していた。

 

「この子が禰豆子ちゃん? 可愛いのねえ。こんにちは、嘴平琴葉です」

 

「むうむう!」

 

「伊之助、下ろしてあげて。禰豆子ちゃん、おいでおいで」

 

自由になるなり再び突撃した禰豆子を、今度は琴葉が正面から受けとめ、たたらを踏みつつも抱きしめる。妙に慣れた様子なのは、伊之助も似たような子供だったのかもしれない。炭治郎がちらりと視線をやると、伊之助は注意深く母と少女の戯れを見つめていた。禰豆子が鬼だから、といった警戒心によるものではないが、それは確かに禰豆子の動向を観察するものだった。

 

「あら、駄目よ、禰豆子ちゃん。あんまりお胸に触ったら童磨さんが怒るわ」

 

着物の胸元に頬を寄せてぐりぐりと懐く少女に、琴葉がやんわりと肩に手を当てて離す。聞いたことがない名前に誰かが口を開くより早く、伊之助が「母ちゃん」と割って入った。

 

「そろそろ帰ろうぜ。腹減った」

 

「あら、ごめんね、伊之助」

 

「てめぇらも早く食わねぇと冷めちまうぞ」

 

「そうだった! 配膳ありがとうございます、琴葉さん」

 

「ありがとうございます。いただきまーす!」

 

蝶屋敷の療養食は薄味だが美味しい。幼い看護婦らが毎食頑張って作っているのを知っているため、炭治郎も善逸もありがたくいただこうと手を合わせた。禰豆子はぼんやりと兄の寝台脇から琴葉を見つめている。名残惜しそうな雰囲気に、随分懐いたなあと思いながら、炭治郎は汁物に口をつけた。

 

「それじゃあ、ゆっくり食べてね。お膳はなほちゃんたちが取りに来るわ」

 

「「はい」」

 

「またな、権八郎、紋逸」

 

「炭治郎だ」

 

「善逸だよ! いい加減覚えろよな!」

 

嘴平親子が去ってしまうと、室内には患者二人と禰豆子だけだ。男性隊士のために大盛りに盛られたご飯をいただき、その日は何事もなく終えた。

 

翌日の機能回復訓練初日に、ふと思い出して童磨とは誰かとアオイに尋ねた時、炭治郎は綺麗な母子の過去を少しだけ垣間見ることになったのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

入院からしばらくすると善逸も機能回復訓練がはじまり、日中の病室が空になる日が続いた。室内は静まり返り、少年剣士らが部屋に戻る食事の時間以外は、琴葉が清掃のために立ち寄るぐらいだ。琴葉は毎回、禰豆子に向けて声をかけるが、禰豆子は箱をかりかりと掻いて答えるだけに留まっていた。

 

午後の訓練が始まったばかりの時分、無人の病室の戸が少しだけ開き、音もなく閉じる。ねずみ程の大きさの影が窓からこぼれる日光を避けて禰豆子の箱へと近づき、目の前に到達するなり、それはみるみる大きくなった。その場に現れたのは、毛先が跳ねた白橡の長い髪と虹色の瞳をした美しい男だった。

 

よく陽がはいる室内は、本来なら鬼が絶対に現れない環境だ。しかし、直射を避けた位置取りをすれば、明るさに炙られはしても燃えはしない。この見極めは生死を左右するうえ、日常的に昼間に行動する鬼でなければ知りえないものであった。

 

箱の正面に膝をついて自らの背中で僅かな木漏れ日も遮り、男―童磨は箱の扉に手を掛けた。中からカリカリと抗議の音が聞こえてくるのに、形良い唇が笑みのような形に吊りあがる。禰豆子の気配が剣呑になっていくのもそしらぬふりだ。

 

キィ。

 

「うううう!」

 

「わあ、お転婆さんだ。いきなり蹴るし、人を突き飛ばすし、まったく山猿みたいな娘だなあ」

 

扉が開くなり禰豆子の右足が端正な顔面を狙う。その足首を掴んで止めた童磨はくすくす笑いながら指先に力を込めた。万力以上の握力に一瞬で骨にひびが入り、少女が苦痛に息をのむ。箱のすぐ正面に童磨がいるため、禰豆子は外に出ることもできないのだ。体を十歳程度まで大きくした中途半端な状態で、足を捕えられずり下がった格好から人喰い鬼を睨むことしかできなかった。

 

「こんにちは、竈門禰豆子ちゃん。青空が綺麗な良い日だねえ」

 

「むうむうっ!」

 

「あははー何が言いたいの? 君、頭の中身が幼くなってるみたいだけど、お喋りはできるかい?」

 

禰豆子はもう片足で果敢に蹴りつけるが、爪先が徳利襟の喉元に当たっても、男はしゃがんだ恰好から揺るぎもしない。優し気な顔の中で、虹の瞳が無機質に彼女を見つめていた。

 

「君は人を食べないんだよね?」

 

「……ん」

 

禰豆子は痛みと悔しさで眉を寄せ、仕方なく頷いた。目の前の鬼は、山で兄とともに対峙した少年鬼より遥かに格上だ。殺気も怒気もないというのに、ただ足に触れられているだけで怖気が体中を駆け巡っている。人喰い鬼の気配がするから攻撃したけれど、そも戦いにさえなっていない。ここで自分が暴れて兄や善逸、琴葉や幼い看護婦らが来てしまったらどうなるか。ぼんやりとした思考でも危機感を抱くには十分だった。

 

渋々と戦意を鎮めた禰豆子に、童磨は友好的に見える笑顔で細い足首を解放する。そして、紫色に変色した指痕に大仰な動作で口元に手をやった。

 

「うわあ、物凄く治りが遅い。人を喰わないから栄養が足りてないのかな。血液だけでも飲んだら再生力が上がるかもしれないぜ?」

 

「む……」

 

「えー、血も飲まないのかい? こんな調子じゃ、俺が腕を食べちゃったら暫く生えないなあ」

 

「むーっ!!」

 

少女が両腕を体の後ろに隠してぶんぶんと首を振る。対する童磨はからからと笑い、今は食べないと言った。恐ろしい腕が箱の内へと伸ばされ、冷えたてのひらが栗色の頭を撫でる。首元を人差し指が横切れば、桃色の着物をまとった体が大きく跳ねた。

 

「もっと強くなりな。人を喰わなくても強くあれるって、俺に証明しておくれ。君が上弦の鬼とも渡り合えるようになったら、その時また会いに来るよ」

 

笑っているけれど、笑っていない。不思議な色の髪と瞳をした綺麗な鬼は、禰豆子の鼻先に長い爪先をかざし、ふわりと白い霧を箱いっぱいに広がらせた。あまりの寒さに目を閉じても、鼻孔から入り込む冷気は追い出せない。肺が痛くなって咳き込んでいるうちに、悍ましい気配が遠ざかっていく。わずかな木漏れ日のかけらを遮っていた壁がなくなり、禰豆子のむき出しのひざ下を炙った。

 

「んぐうっ!! うー、むー……」

 

体中を襲う苦痛に呻きながら、幼児の体に縮んで箱の扉を閉める。暗がりに蹲った禰豆子は、痛みが引いても冷たい胸元をぎゅっと掴んで転がるように回復の眠りに落ちていった。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。消臭しまくったうえに竹炭抱っこ状態で炭治郎に挑んだところ、どうにか誤魔化すことができた。とりあえず安心。この度、禰豆子を齧ろうと接触したが、彼女の体質を得たら己の性能が低下すると思い取りやめた。とりあえず粉凍り・改を吸わせ、上弦と戦えるぐらい強くなるのを待つことにした。少しの木漏れ日を遮っていた背中は真っ黒焦げ。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。朝、胸元に隠れた童磨が竹炭を抱っこしていたのにほっこりした。炭治郎対策とは夢にも思っていない。鬼への恐怖心はあまりなく、初対面の禰豆子に抱きつかれても平気だった。伊之助が腕白で力が強い幼児だったので、子供の猪突猛進には慣れている。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳の新米隊士。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。全集中の常中をしているため傷の治りが早く、一足先に任務に戻った。任務がない日は山で鍛錬しているか蝶屋敷に顔を出し、機能回復訓練から逃げる善逸を追いかけ回している。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。善逸より先に機能回復訓練を始めた。原作どおりロリっこ看護婦たちに全集中の常中について教えてもらった。まさか訓練中に禰豆子に魔の手が迫るとは思わず、この夜はべったり甘えてくる妹から怯えの匂いがしてとても心配した。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。伊之助から母親似だとは聞いていたが、その母親が年齢よりずっと若々しく想像より数倍美しくて感激した。しかし友達の母親なので流石に自重する。薬は苦いし機能回復訓練は辛いしで毎日泣いて逃げているが、伊之助が蝶屋敷にいる時は追いかけ回されてさらに号泣する羽目になっている。



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#15 三有を抜けていずこへと


タイトル=さんうをぬけていずこへと

無限列車編、あるいは上弦襲来。

※誤字報告ありがとうございました!


 

「父ちゃん、ヒノカミ神楽って知ってるか?」

 

「聞いたことないなあ」

 

「火の呼吸は?」

 

「炎じゃなくてかい。それも知らないなあ」

 

任務に備えて刀の手入れをする息子の隣で童磨も鉄扇に布を滑らせる。何十年も前に特注で作らせた対の扇は血鬼術を施したものではない。ひとつ五キロ程度の扱いやすさと日本刀顔負けの切れ味、敵の攻撃を通さない厚み。優美な見た目に反して非常に殺傷力が高い、手に馴染んだ武器だ。童磨は明かりを反射するほど磨いた鋼に満足してパチリと扇を閉じ、伊之助の方へと向き直った。

 

「下弦の子と戦ってたとき、一瞬だけ炭治郎君の動きが別人みたいに良くなった。あれがヒノカミ神楽かな」

 

「多分そうだ。手合わせで型を見せてもらったが、水の呼吸よりあいつの体に合ってると思う」

 

「うーん、ヒノカミ、ヒノカミねえ」

 

虹色の瞳を細め、童磨は顎に手を当てる。百年以上に渡る記憶の中にはない情報だが、連想できるものはいくつもあった。想像が正しいのであれば、炭治郎が一瞬だけとはいえ下弦の伍に迫ったことも、彼の血縁者である禰豆子が特殊な鬼であることも、理由がつくのかもしれない。しかし何も証拠はなく、確信も持てない想像の域だ。伊之助に話すには早いと判断して、頭を振った。

 

「ごめんね、わからないや」

 

「そっか」

 

小太刀を鞘に収め、伊之助が立ちあがる。今日は炭治郎と善逸が退院する日だ。伊之助は彼らのことを気に入っているらしく、別行動の指令がなければ共に行動すると両親に伝えていた。

 

「そろそろ出る。父ちゃん、蝶屋敷まで運ぶか?」

 

「いや、今日はいいよ。琴葉には家で待ってるって言ってある。行っておいで、伊之助。油断大敵、命を大事にね」

 

「おう」

 

にかりと明るい笑顔を浮かべた鬼に、伊之助はひとつ頷いて背を向けた。薄緑の羽織姿がせっかちな足取りで遠ざかるのを見送る。童磨は久々に一人きりの家の静けさに同化するようにじっと座したまま、考えを巡らせた。

 

(禰豆子ちゃんは人を食わずに血鬼術に目覚めた。普通ならありえないことだ。反して回復の速度は二、三人喰っただけの鬼と同程度。眠ることで回復する。ここら辺がちぐはぐで、鬼舞辻無惨の支配から逃れたからというだけじゃ説明がつかない。ヒノカミ神楽……これが【日ノ神】だとしたら、竈門家はなにか特殊な家系なのか? 山奥住まいの炭焼きの家系。禰豆子ちゃんが鬼になったということは、一家を襲ったのは鬼舞辻自身。どうして一人だけ鬼にしたんだ。炭治郎君が留守にしていたからか? 帰ってきたところを喰わせるつもりだった?)

 

美しい眼差しが虫のそれのように無機質にきょろりと動く。どこを見つめるでもなく、ただ脳内の情報と情報を照らし合わせ、くるくると辻褄と合理を図っているのだ。青白い爪をした長い指がこつこつと手にしたままの扇の表面を叩いていた。

 

(わからない。日、太陽、月。日の呼吸は、黒死牟殿の月の呼吸に関係があるのか? そうならば彼が鬼となった頃に呼吸法として存在し、時の流れの中で消えてしまったのだろうか。しかし、ただの呼吸の一派だろう。所詮は人間が扱う呼吸法と剣技に過ぎないのに、鬼舞辻が恐れるほどの何かが……)

 

こつこつこつ。金属に爪があたる音だけが室内に響くこと数分、童磨はぴたりと指を止めて大きく息を吐きだした。

 

「あー、情報が足りない。動くのは時期尚早か」

 

伊之助が竈門兄妹と行動をともにするなら、結晶ノ御子に情報収集させればいい。たとえ離れて任務につくとしても、御子を一体つければ、炭治郎のヒノカミ神楽も禰豆子の成長も童麿の目を逃れることはない。こういった時のために禰豆子に粉凍りを吸わせたのだ。

 

「色々と動き出してる気がするし、何なんだろうねえ」

 

この百年以上、鬼と人間の関係は停滞している。上弦の鬼の顔ぶれは変わらず、けれど鬼狩りの数を大きく減らすこともなく、鬼も人も雑魚同士が殺しあうに留まってきた。それは今も変わらないはずなのに、逃れ者となり、鬼殺隊とかかわる琴葉のそばで彼らの動向を探っているうちに、何かが変わるのではないかと漠然とした予感を抱くようになったのだ。

 

近いうちに情勢が動く。その時どう介入するか判断するにも情報が足りない。蝶屋敷と伊之助の任務関連で得られる情報には限りがあるのだ。

 

「ずっと琴葉と伊之助と平穏に暮らしたい。それだけなのに、ままならないものだよ」

 

童磨はもう一度ため息をつき、鉄扇の一閃で宙から数十の小さな御子を生みだす。ぱらぱらと床に着地した身の丈四寸の氷像たちは本体たる鬼の指令を受け、日暮れと共に方方へと散らばっていった。

 

 

 

* * *

 

 

 

横転した列車から炭治郎とともに放り出された伊之助は、空中で炭治郎を抱き込んで地面に衝突した。ごろごろと転がる勢いが弱まるまでひたすら耐え、お互いの頭だけは腕で守る。そうして動ける状態になったところで、痛む背中と肩をおして体を起こした。

 

「大丈夫か、三太郎!!」

 

あまり揺らさないよう肩に触れれば、打撲の痣だらけになった炭治郎がぴくりと目を開ける。

 

「た、炭治郎だ。伊之助は、大丈夫か?」

 

「元気いっぱいだ、心配ねえ! 刺された腹はどうだ、内臓は傷ついてねぇか?」

 

「多分大丈夫……でも、すぐ動けそうにない。他の人を助けてくれ、あの運転手は無事か?」

 

「アイツは鬼に加担してやがった。殺す気でお前を刺したんだぞ。あっちに転がってるが、車体に挟まれて大怪我だ。死ぬまでほっときゃいい」

 

「駄目だよ、伊之助。大怪我なら十分罰を受けてる。助けてやってくれ」

 

黒い隊服でわかりにくいが炭治郎の腹の刺し傷は相当深い。懇願を無視して止血処置をしようと腰をおろしかけた伊之助を赫灼の瞳が射貫いた。

 

「伊之助、頼む。人を死なせちゃ駄目だ」

 

「……あんなクズより、お前の方が大事だ。ねず公も紋逸もきっと同じだぞ」

 

「伊之助」

 

炭治郎の手が薄緑の羽織をつかみ、ぶるぶると震える。少しでも回復しようと深く長く息をしている様がひどく痛々しかった。そんな様子でもう一度「頼む」と首だけで頭を下げられては、もう仕方がなかった。

 

「ふん、行ってやるよ。すぐに戻るから、大人しく寝とけ」

 

「ありがとう」

 

伊之助は荒い足取りで横転した車両へと向かい、片足が挟まれて気を失っている車掌を見つめる。潰れた足は複雑骨折しているに違いなく、助けたところで歩くのにも支障が残るだろう。炭治郎に頼まれなければ視界にも入らなかったであろう卑怯な弱者だ。

 

「炭治郎に感謝しやがれ」

 

そう言い捨てて車両に手をかけ、全集中の呼吸で最大の力を振りしぼる。流石に完全に持ち上げることはできなかったが、少しだけ浮かせたところで片足で車掌の体を後方に蹴りのけた。血の跡を残して地面を滑った男は死んだように動かない。その体をつま先で仰向けに転がし、伊之助は男のベルトを引き抜いて巻くことで止血だけしてやった。

 

男を置いて炭治郎の方に戻ろうとしたところで、全身を襲った怖気に息が詰まる。麗しい顔は一瞬で顔色を失い、猛烈な速度で近づいてくる気配の主をさがす緑眼は瞬きさえ忘れていた。

 

(なんだ、こいつッ父ちゃんと同格か!?)

 

一人立ち尽くして暗がりを探す伊之助の視界の端で、轟音をたてて何者かが空から着地した。砂煙のむこうに倒れたままの炭治郎と、その脇に膝をついている炎柱・煉獄杏寿郎が見える。伊之助からは乱入者の背中しか見えなかったが、その背も一瞬でかき消え、炭治郎に殺気が迫ることさえ気配で追いきれなかった。

 

梅色の短い髪に伊之助以上の軽装。肉食獣のような筋肉質な体には暗色の線が走っている。若い男の姿をしたその鬼は、今しがた炭治郎が頸を落とした下弦の壱なぞ比べ物にならない圧を放っていた。

 

(上弦だ。壱はあの六つ目の鬼、弐が父ちゃんなら、あいつは参か肆)

 

鬼と杏寿郎が何やら会話しているが、ここからでは聞き取れない。しかしすぐに戦闘が始まり、目でほとんど追えない応酬に空気がビリビリと揺れた。体を起こそうとする炭治郎のもとへ走る間も、伊之助の目はぶつかりあう二人から離れることはなかった。

 

「い、伊之助、俺の刀を」

 

「やめとけ。俺たちじゃ入れねぇ。あの二人の間合いに入れば死ぬ、ギョロ目野郎の足手纏いになる」

 

現に伊之助は対の小太刀を抜き放ってはいても、今の位置から一歩も動けずにいた。

 

炎柱と上弦の鬼の攻防は炎と火花が目を焦がすかと錯覚するほどだ。いまだ真剣での訓練で童磨に傷ひとつ付けられない伊之助には、鬼に無数に傷をつけている杏寿郎の剣技が眩しく映った。人と鬼との性能の違いは、童麿が一番最初に伊之助に叩き込んだ現実だ。けれど今、その現実が嫌でたまらなかった。

 

「くそ……ッ」

 

炭治郎が全身を震わせながら立ち上がろうとしている。少年らの目の前では、治らない傷を抱えてなお輝きを失わない炎柱が刀を構えていた。

 

「俺は俺の責務を全うする!! ここにいる者は誰も死なせない!!」

 

よく通る声が夜を裂き、伊之助の耳にも届いた。煉獄杏寿郎の生物としての性能は上弦の鬼に及ばない。この場において強者はあの鬼であり、人間は弱者でしかない。だというのに、あの炎のような男は眩しくて、心から強いと思えたのだ。

 

「紋次郎」

 

「炭治郎だ。どうしたんだ、伊之助。煉獄さんは」

 

「今から俺がすること、誰にも言うな。この場の全員助けてやる。だからぜってぇ誰にも、何も言うんじゃねえぞ」

 

炭治郎の返事を待つことなく、伊之助は押し殺した声を発した。最後の一撃を撃ちあおうとしている強者たちは、こちらのことなど眼中にない。いくつか感じる鎹鴉の気配も、その注意は完全に炎柱と鬼に向いており、耳が良い善逸もずっと遠くに倒れている。呼びかけられるのは、今しかなかった。

 

「父ちゃん、頼む、お願いだ。あの鬼の相手をしてくれ。死なせたくねぇんだ、頼むっ!」

 

ぎゅっと小太刀を握りしめ、少女めいた美貌を強張らせて小声で懇願した伊之助の耳に、仕方がないなあと穏やかな幻聴が届いた。

 

「伊之助、何言ってるんだ……、あ、鬼の臭いが……」

 

血の気を失った炭治郎の吐息が白くなり、辺りが急激に冷え込んでいく。同じように白い息を吐く伊之助が見つめる先で、対峙する二人も異変に気づき、お互いから注意を外さないまま立ち止まっていた。

 

「この冷気、まさか」

 

上弦の鬼がハッと牙を剥いて言いかけたその時。

 

凍える風を引き連れて暗がりから飛び出た四つの影が、その身目掛けて無数の氷柱を降らせたのだった。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。炭治郎と関わるずっと前に逃れ者になり、無惨の血の記憶を見ることがないため、ヒノカミ神楽も日の呼吸もわからない。しかし優秀すぎる頭のせいで、さらなる暗躍フラグを自ら打ち立てた。可愛い息子のお願いなら、身バレのリスクを天秤にかけても夜明けまでの十分程度頑張るのも吝かではない。猗窩座殿ひっさしぶり~!!

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。今回出番なし。炭治郎と善逸が完治してとっても嬉しい。見送りの際は、箱の中の禰豆子にもちゃんと声をかけた。伊之助たちが無限列車で激闘してる同時刻、童磨の腕の中ですやすやしていた。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳の新米隊士。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。ほぼ原作どおりに炭治郎とタッグで魘夢を倒した。夢の世界は、無事人間になって70歳ぐらいの爺ちゃん婆ちゃんになった両親が「あなた」「お前」な関係になって幸せに暮らしている内容だった。童磨も琴葉も外見がとっても年老いていたうえ、名前呼びじゃなかったため、魘夢に覗かれていてもセーフだった。神回避。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。原作どおりに魘夢の頸を切った。車掌に刺されたところまで変わらない。伊之助の突然のよくわからない要求に「?」となったが、鬼舞辻無惨の臭いがしない人喰い鬼(珠世達とは違う)の接近でそれどころではなくなった。煉獄さん!!

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。今回出番なし。原作どおりに禰豆子ちゃんと乗客を守り、人々を守りながら車両から放り出されて気絶した。

煉獄杏寿郎
炎柱。どこ見てるのかわからない超絶格好いい凄腕剣士。原作どおりに活躍し、炭治郎に止血の呼吸を教えた後、猗窩座戦が始まった。熱い勧誘にまったく揺るがない。最後の一撃の構えをとった瞬間、新手の何かがやってきて、無事な左目をかっ開いた。よもよもっ!!

猗窩座
上弦の参。退職まではまだ長い社畜な拳鬼。原作どおりに襲来し、素晴らしい闘気の持ち主こと炎柱を熱く勧誘した。そろそろ止めと思って滅式の構えをとった瞬間、大変いけすかない気配と見知った氷柱攻撃が襲いかかってきた。消えろ、話しかけるな、死ねっ!!



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#16 阿修羅の咆哮、凍れる黎明


タイトル=あしゅらのほうこう、こおれるれいめい

猗窩座戦、あるいは虹鬼の影。




 

炎柱と上弦の参の死闘の最中、いきなり現れて氷柱を降らせた乱入者は四寸ほどの身の丈の童子の氷像だった。小さくとも精巧な造りの氷の童が四体、猗窩座を取り囲んで着地する。避け損ねた氷の槍を全身から生やした猗窩座は心底忌々し気に新手を睨みつけた。

 

「何の真似だ!? 裏切った挙句、鬼狩り共に与したか!!」

 

血が噴き出るのも構わず氷を抜き去り、殺気を漲らせた鬼が唸る。氷の童たちはのっぺらぼうの顔で無機質に相手を見上げ、そろってひらひらと右手を振った。人形劇なら笑いを誘ったであろう愛らしい仕草だが、猗窩座は盛大に青筋を浮かべ、杏寿郎との間に立った氷像に飛びかかった。

 

「俺と杏寿郎の戦いを邪魔するな、ど……」

 

空中で喉を押さえた猗窩座が不自然に転がる。すぐさま立ち上がるも、獣のような瞳を見開いて咳き込み、端正な口元から大量の血液と固形の青白い塊をいくつも吐き出した。

 

「お”うッ、あッ、きっ、ぁま!!」

 

猗窩座との間に距離が開いたため、奥義の構えをといた杏寿郎は足元に一番近い氷像を隙なく見下ろす。その視線に気づいているだろうに、小さな童子は杏寿郎のことなど一瞥もせずに鬼の方へと駆け出していった。

 

「待て! む……、これは」

 

自らも猗窩座に向かおうとした杏寿郎だったが、足に絡まった氷の蔦と前方に立ち込めた冷たさに阻まれることとなった。空気中に良くないものが漂っている。直感に従い足を止めたところで、横から近づく気配があった。

 

「ギョロ目、こっから向こうに行くと凍るぞ。肌がピリピリしやがる」

 

「嘴平少年」

 

青みがかった黒髪に整いすぎた顔立ちの少年が杏寿郎の横に立ち、ほんの少し先を見据える。彼の気配察知が優れているのは列車の鬼との攻防で気づいていたが、目に見えない術まで察知するとはかなりのものだ。

 

満身創痍でなければ血鬼術による冷気など切り払っていただろう。しかし新手が人間に目もくれず上弦の参を相手取っている今、炎柱・煉獄杏寿郎のこの場での優先事項は入れ替わりつつあった。大勢の怪我人を鬼同士の戦いの余波から守り、もうすぐ訪れる夜明けを待つ。そう定めて、赤く汚れた口元からゆっくりと息を吐き出した。

 

「今動けるのは君だけか」

 

「おう。権八郎は動かせねえし、紋逸とねず公もあっちで気絶してる」

 

「では乗客たちの確認を頼む。この惨状では怪我が酷いものもいるだろう。隠の到着を待てないような者がいたら応急処置をしてほしい。俺はここで守りにつき、どちらの鬼も近寄らせはしない」

 

「……無理すんなよ、ギョロ目」

 

「ははっ、心配無用だ! そして俺は煉獄杏寿郎だ!」

 

伊之助が薄緑の羽織をひるがえして車体の端へと走っていく。その背を見送り、杏寿郎は厳しい顔で鬼たちへと視線を戻した。猗窩座と四体の氷像は凄まじい速度で入り乱れながら遠ざかっている。それが故意に引き離しているのだと気づき、さらに眉を寄せた。

 

(カナエ殿が遭遇した『虹鬼』が、何故この場に現れた。鬼舞辻を裏切ったとはいえ奴は人喰い鬼。よもや、我らの危機に駆けつけたというわけではあるまいが……)

 

杏寿郎が困惑するほどに、拳鬼と童らの攻防はあからさまな時間稼ぎであった。凄まじい猛攻を仕掛ける猗窩座の足元を小さな影がうろうろと逃げまわる。純粋な速度は猗窩座が上だというのに、童らは実にいやらしい上手さで回避しつづけている。そのうえ扇の一振りで白い霞を撒き、氷の蓮を咲かせて猗窩座の手足を凍らせているのだ。猗窩座の方もさるもので、桁外れの回復力で凍傷をものともしていないが、その口元からは大量の血反吐と細かな氷の塊を零し続けていた。

 

(臓腑が凍りついているのだな。あの霞を空気中に散布し吸わせることで体内を凍らせているのか)

 

止血と回復の呼吸をしながら杏寿郎は空恐ろしい気持ちを抱いていた。あの氷の童子らの本体は、間違いなく白橡の髪に虹色の瞳をもつ若い男の姿をした鬼だ。氷の血鬼術を操り、瞬時にして人体を凍結させることができる化け物。二年前に当時の花柱・胡蝶カナエに重傷を負わせた悪鬼なのだ。

 

(恐ろしい第三勢力だ。猗窩座が話せる状態であれば、もっと情報を得られたのだが)

 

耳をすませても猗窩座の攻撃の衝撃音とパキパキという氷がたてる音、そして辺りが壊れて砕ける音しか届いてこない。猗窩座の凍った喉から、虹鬼について何も聞こえてくることはなかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

上弦の参・猗窩座にとって、上弦の弐・童磨は心の底どころか細胞一つ一つの根底から気に食わない相手だ。上弦の陸となった童磨との初対面から抱いていた嫌悪は、思い出したくもない入れ替わりの血戦によって位を抜かれてさらに肥大した。爪の先まで凍結させられ完敗した悔しさよりも、あんなヒトガタをした昆虫もどきに弱いと憐れまれることが許せなかったのだ。

 

その童磨が人間の母子を何年も愛玩し、挙げ句にそれらを逃がすため太陽に身を晒したと聞いた時、猗窩座はすぐには信じなかった。

 

(あの方がそう断言されなければ、誰も信じなかっただろう)

 

鬼舞辻無惨は全ての鬼の存在を感知し、対象がどこにいようとも望むままに死を与えることができる。童磨の場合は呪殺よりも先に自ら光の中に飛び出していったが、そこから先は気配が途絶え、完全に消滅したものと思われていた。まさか、かの女鬼と同じ逃れ者となって生き延びていたとは。

 

(アレは危険だ。得体のしれない蟲もどきの首輪が外れたなど、冗談ではないぞ)

 

足元を走りまわる結晶ノ御子らは血鬼術による端末にすぎない。童磨の本体がどこにいるのかの手がかりはなく、幾度もの入れ替わりの血戦である程度この術の性能を理解しているからこそ、猗窩座の表情は優れなかった。盛大に吸いこんだ粉凍りにやられた左右の肺から血液と凍った肺胞を吐き出しながら、足元に羅針を広がらせる。

 

(何故この場に出てきた。鬼殺隊と手を組んだかと思ったが、先程の杏寿郎は驚いていた。何故だ、ここで存在を晒して、こいつに何の得がある)

 

猗窩座のひびわれた双眸が四体の御子のうち一体を追い、微弱な闘気を捉えることで、ついに空式がその身を穿つ。小ささに見合った耐久力しかない御子は粉々に砕け散った。

 

三体に減った氷像が打って変わって攻勢に出る。本体に比べれば大したことはない威力の凍結攻撃を避け、一体、もう一体と砕いていく。最後の一体となった結晶ノ御子が少し距離を離して動きを止め、木々と遠くの山々を背に猗窩座と対峙した。

 

「ゲホッ、じきに貴様自身の息の根を止めに行くぞ。まだあの人間どもと共にあるなら、そいつらも道連れにしてやる!」

 

ようやく再生した呼吸器と喉から低く唸れば、御子ののっぺらぼうの顔が嗤ったように見え、次の瞬間、山間から覗いた朝日が視界を燃やした。

 

 

 

* * *

 

 

 

太陽の一筋に焼かれた悪鬼が絶叫をあげて駆け去っていく。木々の暗がりへと逃れるまでに全身が黒ずみのようになっていたが、速度を落とさず消えていったということは致命傷ではないのだろう。猗窩座の気配が完全に離れた頃には、残っていた小さな氷像も焼け崩れて消えていた。

 

「おい、ギョロ目、怪我人の手当終わったぞ。隠も到着した。てめぇも早く診てもらえ」

 

「煉獄さん、もう立ってなくて大丈夫です! 座るか横になってくださいっ」

 

伊之助と彼に肩を貸してもらっている炭治郎が杏寿郎のもとへとやってきて、明るくなりつつある辺りに隠たちの声と気配が溢れ始める。長い夜が終わったのだと実感が広がり、杏寿郎は握りしめていた刀の柄から左手を離して刃を鞘へと戻した。途端に襲った目眩に立っていられなくなり座り込めば、隣に炭治郎が同じように腰をおろし、眉を下げて顔を覗き込んできた。

 

「すみません、煉獄さん。俺、全然役に立てませんでした」

 

「気にするな、上弦の参は強かった! 柱ならば後輩の盾となるのは当然のことだ。次代の鬼殺隊を背負って立つ芽を摘ませるわけにはいかないからな」

 

片方だけになった目から血を拭いつつ杏寿郎は笑みを浮かべた。竈門炭治郎、我妻善逸、そして嘴平伊之助。いずれも将来性がある少年たちだ。彼らが五体満足で夜を生き抜けたことは、鬼殺隊にとっても喜ばしいことだ。杏寿郎は木箱を背負ってこちらにやってくる善逸を見つけ、炭治郎の肩を優しく叩いた。

 

「竈門少年、俺は君の妹を信じる。鬼殺隊の一員として認める」

 

竈門禰豆子は鬼でありながら、汽車の中で民間人を守って戦っていた。傷ついてもけして怯むことない姿は、彼女の兄によく似ていた。杏寿郎がそう褒めれば、炭治郎は赤みがかった瞳に涙をためて深く頭を下げた。立ったままの伊之助も、無言だが口元を少し緩めていた。

 

杏寿郎は集まった少年らに少しずつ声をかけ、胸を張って生きろと告げた。応急処置だけ施され、蝶屋敷への移動のため隠の背におぶさるまで、頼もしい表情を絶やさずにいた。

 

けれど、自らを背負った隠が走り出した後には、宝石のような隻眼を伏せて考え込む顔が険しくなり、脳裏に乱入してきた氷像と猗窩座の戦闘が浮かぶ。

 

(あのまま戦っていたら俺は死んでいた。虹鬼に助けられたとは不甲斐なし、穴があったら入りたい)

 

虹鬼の能力は未知数だ。今回現れた四体の氷の童子が本体に対しどれほどの力を持っていたのかはわからない。しかし、女性隊士として歴代最強と言われていた胡蝶カナエをたやすく下した鬼の実力は、上弦の参に勝るとも劣らないものだという確信があった。事実、火力も速度も劣る童子らは猗窩座の攻撃を巧みにかわし、統率が取れた立ち回りでもって列車から遠ざけたうえ、朝日の存在をも忘れるほど引きつけていたのだ。恐らくは、登場から朝日が登るまでの一連全てが計算された展開だった。

 

(はじめに猗窩座の喉を潰したのも、我らに情報を与えないため。何という鬼だ……)

 

カナエとの一件以来、影も形もなかった第三勢力がついに鎌首をもたげた。波乱の予兆で胸が重くなるのを感じながら、炎柱は赤に染まった唇を噛んだのだった。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。猗窩座との対戦時間は10分程度。最初の一手から最後の一手まですべて計算ずく、猗窩座を通して無惨に見られていることまで織り込み済み。セコム用の御子はあまり強くないため、ガチンコで戦っていたら数秒で負けていた。猗窩座殿は親友だけど、琴葉と伊之助を殺すと言ったことは許さない。絶対にだ。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。今回出番なし。寝たふりする童磨の隣ですやぁしていた。ある意味、一番の渦中の人物なのに本人は何も知らず、知らされず、知ることもないかもしれない。無知の内に守られ続けることが本当の幸せなのか考える機会さえ与えられていない人。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。炎柱があまりに眩しくて、童磨がつけたセコムを発動してしまった。身バレのリスクを負わせてしまうのはわかっていたが、上手く立ち回ってくれてホッとしている。セコム発動しなくていいように強くなりたい。嘘をつかずに情報を伏せたり、相手の誠実さを逆手に取ったり、覚悟の上で清濁併せ呑んだりと童磨の影響がそれなりに出ている。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。伊之助の亡父と助けにきた氷像の関連性がわからず、この後しばらく伊之助とぎくしゃくしてしまう。しかし彼のことを信じるあまり人喰い鬼と家族だとは思いつきもしない。誠実な性格から、一方的な条件だった「誰にも言わない」さえ律儀に実行する。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。猗窩座が逃げた後に意識を取り戻したため、完全に置いてけぼり。煉獄さんの大怪我と同期二人の様子から、敵がとんでもねぇ鬼だったのは察した。乱入してきた氷像のことも聞いて「ひえええ」となった。炭治郎と伊之助の間のぎくしゃくがとっても気になる。

煉獄杏寿郎
炎柱。死を覚悟していたら人喰い鬼の気配がぷんぷんするミニ氷像たちに助けられた。わけがわからない。それでも冷静に戦況を見極め、鬼の同士討ちを注視しつつ夜明けを待った。右目を失い内臓が傷ついた重傷者。隠によって蝶屋敷に担ぎ込まれた。虹鬼に関しては柱全員に【胡蝶姉妹が報告した情報】が共有されており、この度、炎柱からの報告も追加された。

猗窩座
上弦の参。原作で名前を呼ぶことさえないほど大嫌いな相手(の分身)に再会して何から何まで散々だった。可哀相。元の実力は童磨>超えられない壁>猗窩座だったが、逃れ者になった童磨の出力が下がった今、童磨>>猗窩座まで差が縮まっている。それなのに朝日が出るまで翻弄され、相手が弱体化していることさえ気づけなかった。ショタに猗窩座、猗窩座、猗窩座!!された。





【猗窩座戦の解説、あるいは蛇足】

本文に組み込もうとしたら現状以上につまらなくなったので省いた諸々の情報です。

■結晶ノ御子はAI搭載自走式な分身。ただしリアルタイムで本体に情報フィードバックはできません。童磨のもとに御子が戻ると情報が共有されます。搭載されたAIは本人の思考パターンをベースにしており、高度な自己判断ができます。このため伊之助に助けを求められて、セコムの御子らが本体と同じ判断をした結果、「パパ頑張っちゃうぞ!」となりました。

補足→セコム御子は五体、内戦ったのは四体です。必ずひとつは伊之助のセコムと報告用に残しています。

■四寸ほどの大きさのミニ御子は、原作の結晶ノ御子よりずっと弱いです。一体一体の出力は本体の数分の一。伊之助(や他の対象)を見失わないよう移動速度はそれなり、膂力と耐久は激弱となっています。

■血鬼術によって作られたものは鬼と同じく太陽が天敵。結晶ノ御子も例にもれず、猗窩座戦で四体とも壊れて欠片も残りませんでした。

■原作で無惨と堕姫の会話にあったとおり、柱ともなればひと目で人喰い鬼かどうかはわかります。強さと経験に裏打ちされた勘のようなものかと思います。煉獄さんも、御子の気配だけで使役主が人喰い鬼だと悟ったわけです。氷の術=虹鬼だと関連付けたというのもあります。

■猗窩座殿はちゃんと強いです。単に童磨のあり方と血鬼術との相性が最悪なだけです。ガチンコの中の駆け引きは超一級でも、将棋やチェスのような戦い方は不向き。如何ともし難い教養と地頭の差です。

■猗窩座戦での御子たちの作戦は以下のとおり。なお、四体すべて同じ思考パターンなので、打ち合わせなしでも連携は完璧。

(0)バレる仕様の粉凍りを撒いて煉獄さんを足止め
(1)いらないことを言われる前に粉凍りで喉を潰す
(2)足元をうろちょろしながら嫌がらせの凍傷攻撃を食らわせ、注意を引きつつ煉獄さんから引き剥がす
(3)朝日が近くなるまで撹乱ムーブ
(4)数を減らされ朝日が近くなったら、直前まで注意を引きつける
(5)諸共に太陽バーベキューになる

補足→通常の粉凍りはバレないように氷粒を目視レベル以下まで小さくしています。バレる仕様は血鬼術の存在感を故意に持たせたものです。煉獄さんはこれで気がついて足を止めました。なお、禰豆子に使った粉凍りは琴葉を突き飛ばしたお返しを兼ねてとても痛い仕様、産屋敷夫妻に使ったものは脆弱な体でも耐えうるように痛み皆無で冷たさも抑えたバファ○ン並に優しい仕様でした。ちなみに猗窩座殿に使ったのはバレない仕様+くっそ痛い+凍結力特化Ver。口から両肺までの全てをばきばきに凍らせる、人間なら即死の鬼畜仕様です。

■童磨=通称『虹鬼』に関しては第三勢力かつ討伐対象(人喰い鬼)として柱にのみ情報共有されています。童磨が産屋敷夫妻に言った「邪魔したら殺す(意訳)」を踏まえても、カナエさんの怪我と引退の手前、完全に情報を伏せることはできなかったためです。なお、虹鬼が蝶屋敷に入り込んだことは産屋敷夫妻とカナエさんの間の秘密であり、産屋敷邸まで乗り込まれたことは夫妻の間の秘密です。全てを把握してるのは童磨自身と産屋敷夫妻のみ。



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#17 慈父の影を追う



タイトル=じふのかげをおう

伊之助と炎柱、あるいは時の流れの自覚。




 

 

杏寿郎が二ヶ月間の入院生活と機能回復期間を終え退院することとなった日、蝶屋敷の玄関では幼い看護婦らと未だ入院中の炭治郎が見送りに出ていた。一足先に退院した善逸は任務に出ており、今日は琴葉の休息日であるため伊之助も顔を出していない。全員で見送りたかったと眉を下げる炭治郎に、杏寿郎は生きていればまた会えるさと笑って言った。

 

義眼を嵌めた左眼孔を眼帯で覆った顔は、二十歳という若さも相まって痛々しい。しかし快活な表情は以前と変わらず、隊服に炎柄の羽織を纏った長身は依然として頼もしかった。

 

「煉獄さん、ご武運を!」

 

「「「炎柱様、お達者で!」」」

 

手を降る少年少女らにひらりと手を振りかえし、杏寿郎は彼らしいきびきびとした歩みで蝶屋敷を後にした。猗窩座にやられた傷は深かったが、抉られた眼球以外は完治したため、柱として戦い続けることができる。今から本宅に戻り、家族に退院報告をしてから担当地域へと向かうのだ。

 

午前の爽やかな青空の下、しばらく街道を進んでいくと、見知った薄緑の羽織姿が差路に佇んでいるのが目に入った。

 

「嘴平少年! もしや俺を待っていたのか?」

 

「おう、今日退院って母ちゃんから聞いたからな」

 

伊之助の白皙に蝶屋敷で世話になった美しい女性が重なる。親によく似た顔というのは杏寿郎も人のことをいえないが、嘴平親子は本当に瓜二つだ。しかし仁王立ちして行く手を阻んでいる雄々しい様子は、彼の母親とは似ても似つかなかった。

 

あと数歩の距離で足を止めた杏寿郎をじっと見つめ、美貌の少年はいきなり深く頭を下げた。

 

「ギョロ目……じゃねぇ、煉獄杏寿郎! 俺をあんたの弟子にしてくれ! 俺は強くなりてえ!!」

 

腰から直角に折り曲がった姿勢に、腹からの大声。作法も何もない礼に杏寿郎は隻眼をきょとりと見開いたが、相手が返答待っているのを察して、まず一言顔を上げるよう告げた。

 

大きな翡翠の瞳が鏡のように己を映すのに、思わず小さな笑みを浮かべる。

 

「それは俺の継子になりたいということか」

 

「柱を目指してるわけじゃねぇ。けど、もう何もできないのは嫌だ。どんな鬼にも真っ直ぐ立ち向かう、あんたみたいな強くて眩しい剣士になりてぇんだ!」

 

「ふむ……」

 

杏寿郎がゆるく腕を組んで黙り込めば、伊之助も柳眉を寄せて口を閉ざした。猛禽めいた隻眼と零れそうな緑眼でお互い無遠慮に見つめ合い、しばしの沈黙の後、先にそれを破ったのは杏寿郎の方だった。

 

「いいだろう、嘴平少年! 君を継子として迎える!」

 

「本当か! ありがとな、し、師範? 師範でいいのか?」

 

「うむ! 俺のことは師範と呼びなさい。丁度いい、今から家に寄るからついてきなさい。継子は柱と行動を共にするもの、つまり煉獄家に住み込みだ。今日は家族への紹介だけだが、明日からうちに来れるか?」

 

「おう!」

 

「よろしい、しっかり面倒を見てやろう。君はきっと強くなるぞ!」

 

「よろしく頼むぜ、師範!」

 

ワハハ、ガハハと大きな笑い声をあげる二人に道行く人々がギョッとした目を向けるが、彼らは気にすることなく揚々と連れ立って歩いていく。

 

煉獄家の軒先で「師範の父親? 寝言は寝て言いやがれ、この弱味噌爺!! テメーみたいなのを父親とは言わねぇ!!」と美少年が前炎柱を蹴り倒し、現炎柱に礼節について指導される一幕まで、あと四半刻のことだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

一人息子が何の相談もなく明日から家を出て暮らすと言い出したときの正しい親の反応は、どういうものなのか。さらりと言うことだけ言ってご飯を掻きこむ伊之助を見つめ、童磨はうーんと小さく唸った。

 

「杏寿郎さんのお弟子になるの?」

 

「そうだぜ。鴉のせいで父ちゃんに稽古つけてもらえなくなっちまったから、柱に鍛えてもらうことにした。師範は父ちゃんより弱ぇけど、すげえ眩しいんだ」

 

にこにこしている琴葉は全く反対していないようだ。煉獄杏寿郎の人となりに関しては無限列車の一件の後に結晶ノ御子から情報を得ているが、それとこれとは話が別。しばらく考えた末、鬼は太い眉を下げて寂しい表情を浮かべた。

 

「……伊之助出てっちゃうのかい?」

 

雨の日の捨て犬を意識して目を合わせる童磨。対する伊之助は味噌汁をすすり、焼き魚を適当にほぐす手を止めずに頷いた。

 

「継子の間は師範ちで住み込みだかんな」

 

「俺と琴葉を置いてくの」

 

ぽつりとこぼれた言葉は喉元に用意していたものではなく、童磨は誤作動した口を片手で覆った。鬼には無縁のはずの不整脈のような動悸で顔が赤らんでいく。頬と顎に長い指を食い込ませて黙っていると、琴葉が食事の手を止めてすぐ隣ににじり寄ってきた。

 

「童磨さん、伊之助はそんなことしないわ。少しの間、修行に行くだけよ。ね、そうでしょう?」

 

「おう。柱になるまで師範んとこで世話になって、柱になったらまた父ちゃん母ちゃんと一緒に住む。柱はでっかい屋敷をもらえるんだぜ!」

 

「まあ、凄いのねえ。蝶屋敷みたいに名前をつけるのかしら」

 

「胡蝶だから蝶屋敷だよな。じゃあ俺らの屋敷は嘴屋敷になんのか?」

 

「くちばしやしき、言いにくいけど可愛いねえ、うふふ」

 

美しい母子がほのぼのと話す声が耳を撫で、童磨の胸の中のうるさい鼓動をなだめていく。強張っていた肩と背中の筋肉が緩み、知らず止めていた息を長く緩く吐き出せば、ぱちりと伊之助と目が合った。

 

「父ちゃん、列車の任務の時、助けてくれてありがとな」

 

「どういたしまして。今回は猗窩座殿だったから引き受けたけど、いつだって伊之助の命が最優先だってことは忘れないでおくれよ」

 

「おう」

 

童磨の言葉に伊之助は素直にうなずき、母親に空になった茶碗を差し出した。三杯目のおかわりをもきゅもきゅと咀嚼する姿は、まだ寺院で暮らしていた頃と変わらないようでいて、時の流れを鮮烈に実感させるものだった。子供の成長は早い。この十五年、琴葉と共に子育てしてきて骨身に染みているはずの事実が、すとんと心に落ちてくる。

 

(ああ、この子は俺を置いていく。琴葉も伊之助も、このままだと俺を置いて時の流れに連れて行かれてしまう)

 

隣にある温かな気配を横目で愛でれば、琴葉も美しいままに年齢を重ねているのが見て取れて、恐ろしい未来がいよいよ現実味をおびた。可愛い母子が寿命を迎えるまでそばに置いて愛でていたいと思っていた筈なのに、今はその日が来るのが怖くて仕方がない。伊之助が童磨を人間に戻すと言い出して二年。漠然としていた目標が、急激に色味を帯びてきていた。

 

(これが怖いって感情かあ。黒死牟殿に追いかけられた時の不快感も、今思えば二人を失うのが怖かったんだ。この感情は嫌だな、俺たちの楽しい生活には似合わない。これはいらないや)

 

「伊之助」

 

「ん、何だよ」

 

童磨はぴしりと背を伸ばし、精一杯格好良い父親の顔で笑いかける。養父の中でなにかが変わったことに勘づいたのか、伊之助も箸を下ろして居住まいを正した。琴葉まで綺麗な正座になったのはおかしかったが、童磨は真面目な表情のまま口を開いた。

 

「俺は絶対に人間に戻る。伊之助が鬼殺隊として鬼舞辻を追うのとは別に、俺も自分なりに方法を探るよ。だからひとつだけ約束だ。琴葉も、小指を出して」

 

大きな両手をそれぞれ琴葉と伊之助へと差し出し、小指が絡まるのを待つ。しっかりと繋がった指に虹の瞳が愛おしげに細まった。

 

この夜の約束は三人だけの一生の秘密だ。待ち受ける波乱に立ち向かう覚悟は、とうに楔となって彼らの胸に突き立っていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

無限列車での一件の後、炭治郎は一度だけ伊之助に面と向かって尋ねたことがある。あの血鬼術の氷の童子のことを知っているのか、あれが人喰い鬼の術だとわかっているのか、もしそうなら何故そんな相手と繋がりがあるのか。善逸が単独任務で不在の際、蝶屋敷の裏庭で鴉さえいない時を見計らって問いただした。詰問にならなかったのは、炭治郎だからこその優しさだ。けれど、伊之助は麗しい眉を寄せて無言を貫いた。

 

伊之助が何も言わないのは嘘をつきたくないからだと、炭治郎にはわかっていた。つまり、嘘をつかざるを得ない何かがある。そう察しても、あの夜、結果的に全員の命を助けられた事実は重く、ほかの誰にも言うことが出来ないでいた。

 

長い夜から早四ヶ月が過ぎ、その間に『ひ』の呼吸について聞くため炭治郎が煉獄家を訪問したり、伊之助が炎柱の継子になったり、単独任務をこなすうちに同期それぞれの階級が上がったりと忙しい日々が流れた。善逸と共に蝶屋敷を拠点としている炭治郎が煉獄家に住み込みの伊之助と二人きりになる機会はそう訪れず、結局、二度目の話はできないままぎくしゃくと挨拶を交わすだけのすれ違いが続いていた。

 

「あ、伊之助」

 

「おう、権八郎。任務帰りか?」

 

「炭治郎だ。うん、そうだよ。そっちは琴葉さんに会いにいくのか?」

 

「いや、師範に人探しを頼まれた」

 

蝶屋敷にほど近い通りでばったり顔を合わせた少年二人は、ごく自然に連れ立って歩く。木箱を背負った赫灼の少年と、睡蓮の刺繍が施された羽織の美少年。彼らの間に一瞬だけピリッとした空気が流れたのは街ゆく人々にはわからなかっただろう。彼ら自身、すぐに緊張を解いて当たり障りがない会話を始めていた。

 

少し歩いたところで、前方の屋敷のあたりから若い女性の悲鳴が聞こえ、二人は一気に駆け出した。

 

「放してくださいっ、私っ、この子は」

 

「ヒイイ、助けてえ!」

 

「アオイさんとなほちゃんを放して! 天元さん、行かせませんよ!」

 

「邪魔すんな、琴葉さんよ。これは鬼殺隊の柱の任務だ、部外者は引っ込んでな」

 

「引っ込みません! 二人は嫌がってるわ、無理やり連れていくなんて許さない!」

 

先に正門から飛び込んだ炭治郎が見たのは、暴れるアオイとなほを担いでいる大男と、その背や腰にしがみつくカナヲときよとすみ、そして門を背に両手を広げて仁王立ちする琴葉だった。しのぶとカナエの気配はない。何が起きているのか全く状況がわからなかったが、アオイの酷い顔色と怯えきったなほの様子から、すべきことは決まっていた。

 

「女の子に何してるんだ! 手を放せ!」

 

頭突きを仕掛けた炭治郎だったが、攻撃は空振り、大男は門の上へと移動する。その背後にもう一つ影が飛びかかり、鞘に入ったままの小太刀を振り下ろすも、片手で受け止められることとなった。舌打ちする襲撃者に、男は「伊之助かよ」と面倒そうな顔をした。

 

「何してんだ、派手野郎。母ちゃんに手ぇ出したんなら容赦しねぇぞ」

 

「どこに目がついてんだ、クソガキ! お前の母ちゃんはあそこでピンピンしてるだろうが」

 

ビシと眼下を指差す男に、琴葉も年若い女性陣もきゃんきゃんと「変態」「二人を放して」と声をあげる。炭治郎も眦を釣り上げて睨んでおり、まさに一触即発だ。変態と繰り返された男が怒って音柱・宇髄天元だと名乗れば、炭治郎は間髪入れずに認めないと返す。そんなやり取りを他所に、伊之助は小太刀を下ろし、ここにきた目的を口にした。

 

「師範があんたを探してる。一緒に任務に行くんじゃねぇのか」

 

「おお、そうだ。俺と煉獄だけじゃちょいと足りなくてな、女の隊士が要るから、こいつらを連れて行くんだよ」

 

「なほは隊士じゃねぇ」

 

小脇に抱えられて泣いている看護婦を指差して言うと、天元はあっさりと小さな体を宙に放り出す。それでまた炭治郎らが怒り、琴葉も「奥さんたちに言いつけますよ!」と声を上げた。天元はどこ吹く風といった様子だったが、炭治郎が代わりに行くと立候補し、横からガクガク震える善逸がやってきて少年らに囲まれる形になると、別人のように温度のない目で彼らを見やった。

 

伊之助からすれば他人に向けられる養父の眼差しの方がよほど無温だが、柱からの圧に善逸は竦みあがり、炭治郎もごくりと唾を飲む。

 

「あっそお、じゃあ来てもらおうか。伊之助はもともと煉獄に同行だしな」

 

「どっ、どこに行くんだよ」

 

状況が飲み込めていない善逸の問いに、音柱はにいと口の端を上げて答えた。

 

「日本一色と欲にまみれたド派手な場所。鬼が棲まう遊郭だよ」

 

 





【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。子供の成長を実感はしたが、まったく子離れできる気配はない。伊之助がやりたいことは応援する教育方針なので、炎柱の継子になることは反対しておらず、住み込みなのが嫌なだけの困ったお父さん。この夜の約束は色々と波乱を見据えたものだが、内容については数話後にて。音柱の蝶屋敷襲来では、琴葉の胸元から様子見していた。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。伊之助が煉獄邸で住み込みすることになっても心配はしていない。煉獄さんのお世話をばっちりしたばかりなので、彼の人となりを信用している。家族との約束では、彼女なりに覚悟を示した。音柱の蝶屋敷襲撃時に仁王立ちで立ちはだかったが、相手の目には美猫がふしゃーと毛を逆立てているぐらいにしか見えなかった。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。炭治郎とぎくしゃくするのは嫌だが、言わないと決めていることは殺されても言わない。炎柱の眩しさに漢惚れして弟子入りを願い出たが、別に継子(柱候補)になりたかったわけではない。只々強くなりたい。天元は前科があるため、琴葉が関わると冷たい目で見てしまう。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。伊之助が言えないことが何なのか、嫌な予感がするが最悪の想像はできない性分。彼が煉獄さんの継子になったと知り、少しホッとしている。煉獄さんの側にいれば大丈夫だろうという謎の信頼が生まれている模様。音柱の蝶屋敷襲撃では、原作どおりに「認めない、むん!」と胸を張った。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。無限列車の一件から炭治郎も伊之助も急成長しており、自分も置いていかれないように単独任務も嫌がらず受けるようになった。蝶屋敷を拠点としている炭治郎とたまに顔を出す伊之助と鍛錬するのが、きついけど楽しい。禰豆子ちゃんがいるから、なお楽しい。音柱にビビりまくるが、この後嫁三人について知り、ムキャーと噛みつく。

煉獄家の皆さん
煉獄さんの大怪我と長期入院に揺れたが、柱を継続できるほどに回復したのでひとまず安心。煉獄さんは有望な若手を継子にできてホクホク。しっかり面倒を見てやろう! 槙寿郎さんは息子が連れてきた新しい継子に蹴り飛ばされ罵倒され、別の少年隊士(日の呼吸の使い手)には頭突きされ、色々と散々だった。住み込みになった伊之助から連日、立派な父ちゃんと比べられ、グサグサと心を抉られているうちに、少しずつ反省して息子たちに向き合うようになる。千寿郎君は荒々しい態度の伊之助に気圧されていたが、慣れてしまうと普通に仲良くなった。

宇髄天元
嫁たちと連絡が取れなくなって冷静さを欠いてしまった音柱。蝶屋敷襲来については後日、前花柱と蟲柱からの相応のお返しが待っている。琴葉が蝶屋敷で働き始めてすぐ、あまりに美人なのでからかうつもりで粉をかけたが、瓜二つの息子に警戒されまくって早々に身を引いた。別に本気で四人目の嫁とか思っていたわけではない。なお、死亡フラグを回避したと知ることはない。

蝶屋敷の少女たち
胡蝶姉妹が不在の時に音柱が襲来し、カナヲが勇気を振り絞ったり、アオイが自分の代わりに炭治郎と善逸が危険な任務に行ってしまったと責任を感じたり(伊之助は継子として同行が決まっていたため含まない)、琴葉が珍しく怒ったりと大騒ぎだった。音柱はしばらく出禁。でも入院したなら、きちんとお世話してあげるプロフェッショナルな女性陣である。



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#18 成住壊空を巡りゆく



タイトル=じょうじゅうえくうをめぐりゆく

遊郭編、あるいはとんでもねえ童磨。




 

 

音柱・宇髄天元を追って藤の家紋の家にやってきた少年剣士らは、家人よりも先に獅子のような髪をした男に迎えられた。玄関先の堂々たる立ち姿を見つけて初めに駆け寄ったのは、彼の継子である伊之助だった。

 

「師範!」

 

母親以外に荒い態度で接する伊之助にしては随分と懐いた様子だ。薄緑の羽織をひらめかせて杏寿郎の隣に並び立ち、連れてきたぞと天元を指差す。

 

「伊之助、ご苦労だった。宇髄、出立間際に勝手は困るぞ。予定にない面々を引き連れてどうしたのだ」

 

「悪いな、煉獄。行先に合わせて人員確保したんだよ」

 

きょろりとした隻眼を向ける杏寿郎に、天元が悪びれず答える。それだけであっさりと「そうか」と済ませ、炎柱は見知った少年らに笑顔を浮かべた。

 

「久しいな、竈門少年、我妻少年、そして竈門少女!」

 

「お久しぶりです、煉獄さん!」

 

「こっ、こんにちは!」

 

ただの挨拶らしからぬ勢いに同じように返す炭治郎と、気圧されて舌がつっかえる善逸。二人とも杏寿郎の眼帯に神妙な顔をしたが、あまり見つめることはせず、促されるままに家に上がった。

 

天元が家人にいくつか指示を出し、全員が通された大きな部屋に次々と葛籠が持ち込まれる。手配した本人以外が首を傾げるなか、任務の前準備だと言われて蓋をあけた彼らはさらに困惑した。葛籠の中には、明らかに女物の着物や帯が入っていたからだ。

 

「宇髄、これはどういうことだ」

 

「女の隊員は連れて来れなかったからな、かわりにこいつらに女装させて怪しい店に潜入させる」

 

「はあっ!?」

 

柱たちのやり取りに善逸が目を剥き、話を理解できなかった炭治郎と伊之助が顔を見合わせる。少年たちの反応をよそに天元が着物を物色し始めれば、煉獄も面白いものを見る顔で近くに腰を下ろした。

 

「師範、どうすりゃいいんだ?」

 

「吉原に鬼が潜んでいるという情報を掴んだ。遊郭には男も出入りするが、店の内部まで探るには遊女に扮するのが最適だろう。さすがは宇髄だ、女装は思いつかなかった!」

 

「……すぐバレんじゃねぇか、あれ」

 

「ただ着物を着せても仕草や体つきでわかってしまうだろう。ああすれば奇抜な容姿に目が行くから、見抜かれない……筈だ」

 

着物を着付けられ化粧を施されていく同期らの変貌に伊之助が顔を引きつらせる。それらしい事を言った杏寿郎も、ある意味あまりの出来栄えに言葉尻が下がった。

 

「ぎゃーッ、何これ化物!? おっさん何してくれんの、この化粧何を目指してるの!?」

 

「これで女の子に見える、のか?」

 

鏡を渡されて絶叫する善逸に同意するしかないが、伊之助も緑色の着物片手に近づいてくる天元に警戒するのに忙しく、じりじりと壁際に追いやられて己の師に助けを求めた。

 

「師範、俺やだぞ、あんな福笑いみたいになるの!!」

 

「むむ……宇髄、一人ぐらい普通に女装させてはどうだ。伊之助なら有望株としてどの店にでも潜入できるだろう」

 

「甘いねぇ、煉獄。見てくれが良いのは客を取るために色々仕込まれるんだよ。こいつに遊女の習い事や床での演技ができんのか?」

 

遊郭は女が春をうる店だ。花魁のような高級遊女であれば必ずしも客と床をともにするわけでもないが、男の欲望を満たすために存在していることに変わりはない。だからこそ醜く仕上げて雑用しかできない者として潜入させるのだと、天元は変身済みの少年らを顎で示した。

 

「なるほど! では仕方がないな! 伊之助、宇髄の指示通りにしなさい」

 

「げっ、やめろ、俺は母ちゃん似なんだ、ぐちゃぐちゃにされて堪るかよ!」

 

「そうだな、お前の母ちゃんは稀に見る別嬪だ。俺だってその面を崩すのは不本意だぜ? だが、諦めろ。任務のためだ」

 

大きな手をわきわきとさせる天元に、我関せずと刀の手入れをはじめる杏寿郎。助けがないと悟った伊之助は同期らの背中に逃げ込もうとしたが、善逸に羽交い締めにされて捕まった。

 

「おいっ、放しやがれ、紋逸!」

 

「いやだね、お前も道連れだ! 綺麗な顔しやがって、一人だけ逃げられると思うなよ!」

 

「大丈夫だよ、伊之助。少し動きにくいけど帯も苦しくない。みんなで頑張ろうな」

 

ぎゃいぎゃいと争う伊之助と善逸、そして笑顔でよくわからない励ましを口にする炭治郎。いずれも有望な次世代の剣士だ。柱二人は無意識に目を合わせ、小さく口元を緩ませた。

 

かくして伊之助も大変な変身を遂げ、任務の概要説明で天元に美しいくのいちの嫁が三人もいると知った善逸が発狂するまであと少し。連絡が途切れたと聞いた伊之助が不用意に「殺されたんじゃねぇのか」とこぼして腹に一撃喰らうまで、さらにもう少し。隊服から着替えた美々しい青年二人が、目を疑うほど不細工な少女三人を連れて藤の家紋の家を後にしたのは、一刻後のことだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

眠る琴葉から少し離れて座す童磨の前に、ずらりと小さな御子たちが並んでいる。帝都近辺まで範囲を広げて情報収集させるのは鬼であっても中々に骨が折れるが、今回は労力以上の収穫があった。胸元に取り込んだ一体が持ち帰った視界の記録には、鬼舞辻無惨から数百年も逃げ遂せている『同じ穴の狢』の姿があったのだ。

 

(名前は珠世だったかな。へえ、医者として暮らしてるのか。一週間張りついても人を喰ってないとは驚きだなあ)

 

竈門禰豆子という前例を知ってはいるが、珠世と彼女と共にいる男の鬼は眠る様子もない。時折、赤い液体を飲んでいることから、血液だけで生きているのだと推測できた。短い期間で三体も人を食べない鬼を発見した異常事態に、童磨は顎に手を当てて考えこむ。

 

(近いうちに接触しておこう。同じ逃れ者同士、仲良くしたいしね)

 

ひとり頷き、次の一体をつまみ上げる。これは伊之助につけたお守りの御子だ。定期連絡で戻ってきたものなので、童磨も特に構えずにそれを取り込んだ。そして次の瞬間、盛大に吹き出した。凄まじい反応速度で口元を押さえたものの、衝撃を消すことはできず、背中を丸めて音もなく蹲る。

 

(なんだこれ、伊之助なのか? どうしてこんな化粧しちゃったの、炎柱の指示? いや、音柱の方か)

 

日中の記録は遠目からのものしかないが、鬼の端末である結晶ノ御子は視覚も聴覚も人間の比ではない。どこぞの物陰から見た我が子の姿は琴葉そっくりの美貌の名残もなく、幼児が適当に描いた絵にも劣る塗りたくられ様だ。蝶屋敷で琴葉に迷惑をかけただけでなく可愛い伊之助まで毒牙にかけた音柱に、いずれお礼参りをしようと心に留め置き、道ゆく五人組の小声での会話に耳を傾ける。

 

(行先は……ふうん、遊郭ってあの子たちの根城じゃないか。ついに本格的に鬼殺隊に嗅ぎつけられたわけだ)

 

鼓屋敷の元下弦の陸、那田蜘蛛山の下弦の伍、列車の任務の下弦の壱と上弦の参。こうも立て続けに十二鬼月に遭遇するのは、運が悪いのか鬼殺隊の剣士として引きがいいのか。元上弦の弐(じぶん)のことを棚に上げてそんなことを考えて、童磨は虹の瞳を閉じる。

 

(下弦は恐らく全滅。半年ぐらい前は何体か見かけたけど、いくら入れ替わりが激しいにしたっていなさすぎる。補充されてないと考えるのが妥当だ。後は上弦を削っていけば鬼舞辻の戦力は減らせる。といっても、本人の所在がわからないうえ、今のところ倒す手立てもないしなあ)

 

童磨と嘴平親子が平穏に暮らし続けるためには、童磨が人間に戻る前に鬼舞辻無惨と全ての鬼をを亡き者にしなければならない。そして、かの鬼を殺すには逃げ道を塞いだうえで太陽に晒さなければならず、どうやってそれを成し遂げるかはまだ思案中だ。全ての準備が整う前に無惨と遭遇することだけは避けなければならない。

 

(うーん、どうしたものか)

 

残りの氷像をぞんざいに取り込み、脳の片隅で情報を整理しながら思考を巡らせる。ふいに腕に痛みが走り、目を開ければ朝日の薄明かりが格子の合間から入ってきていた。日の訪れに気づかないほど思考に没頭していたことに苦笑する。

 

窓からの陽光に白橡の髪まで焼かれた鬼は布団脇まで下がり、そこにある綺麗な寝顔の右頬を撫でた。

 

「琴葉、朝だよ。おはよう」

 

蝶屋敷で朝食の調理を行う琴葉の朝は早い。それは育ち盛りの看護婦たちが少しでも長く寝れるようにと彼女から申し出た役割だ。眠らない童磨のおかげで一度も寝過ごしたことはないが、本来よく眠る体質の彼女には合わない仕事であった。

 

今日も声をかけられるまで熟睡していた彼女は、ううんと小さく呻いて体を起こす。そして大きな翡翠の目元をこすり、近くに膝をついている鬼にふにゃりと笑みを向けた。

 

「おはよう、童磨さん」

 

琴葉が起き出して身支度をする間、童磨は華奢な背を見つめていた。豊かな黒髪を緩くまとめる様を愛おしみ、簡単な朝餉をとる彼女の横で可愛らしい咀嚼の音に聞きいる。食事を終え、いざ出勤となったところで、童磨はいつものように温かな胸元に潜りこむことはせず、琴葉の両手をそっと握った。

 

「どうしたの?」

 

「琴葉、何日か留守にしてもいいかい? 朝起きられるかな」

 

「それは早く寝れば大丈夫よ。伊之助に何かあったの?」

 

滅多に単独行動をとらない鬼の申し出に、琴葉が眉をさげて問いかける。童磨はいいやと首を振り、お手本のような穏やかな微笑みを浮かべてみせた。

 

「ちょっと様子を見てくるだけだよ。何も心配はいらない。何かあったとしても、この間約束したとおりさ。琴葉も伊之助も俺が守るよ」

 

「私たちも童磨さんを守るわ。そう約束したでしょう」

 

咲くような笑顔を離れ難く思っても、流れる時間は止まらない。蝶屋敷に向かう琴葉を見送り、童磨も体を小さくして壁の穴から裏手の茂みへと飛び込んだ。行先は帝都・吉原。何十年も前に自らが鬼に変えた兄妹の餌場へと、物陰づたいに駆けていった。

 

 

 

* * *

 

 

 

京極屋の蕨姫花魁は、その美しさと反比例するほど性悪な女だ。誰彼かまわず癇癪を起こすほどではないが、己より身分が低い遊女や禿、下男下女には容赦がない。客に見せる完璧な愛嬌とは打って変わって鬼のような恐ろしさを見せるのだ。楼主も先日謎の死をとげた女将も彼女を持て余し、政府官僚に贔屓にされている吉原一の売れっ子でなければ、闇に葬られてもおかしくないほど嫌われていた。そんな女であったから、日中に彼女の部屋に近づく者はほぼおらず、窓がない静かな一室は屋内の孤島のようなものだった。

 

行燈がひとつ灯されているだけの薄暗がりで、蕨姫花魁こと上弦の陸・堕姫はひとり新しい紅を試していた。夜に生きる鬼は日中できることが限られる。彼女の場合は、遊女として屋内で生活する正当な理由があるため、運ばれる食事を帯を使って処分するだけで人間に擬態することができていた。

 

立派な鏡台の前に座った美しすぎる女。鏡に写るのは、流し目ひとつで並の男を手玉に取ることができる、やや尖った傾国の美貌だ。鬼ならではの透きとおった白肌に完璧な肌理、そして細かな部分まで理想的に整えられた体つき。上客が貢いだ豪奢な着物を身につけた鬼女は、まさしく極上の女であった。

 

「悪くないわね」

 

薄い唇を彩る赤に満足げに呟く。次は新しい簪を試そうと手を伸ばしたところで、背後にわずかに感じた気配に即座に振り返った。

 

「やあ、久しぶり」

 

堕姫から数歩距離をおいて佇む長身は見知ったものだった。白橡の美しいくせ毛に、暗がりに煌めく虹の瞳。優しげな顔立ちに気さくな笑みをのせた男は、何年も前に姿を消した裏切り者だ。

 

「童磨……どの面下げて私の前に現れたのかしら」

 

堕姫にとって、目の前の鬼は無縁の相手ではない。人間だった頃の記憶はなくとも、童磨の手によって兄と二人、鬼になったことは事実として知っている。童磨が逃れ者になる前は、恩人として接していたのだ。胡散臭い男であっても、上の地位にあって優しげに接してくる童磨のことはそう嫌いではなかった。

 

もっとも、男が無惨を裏切った今となっては欠片の好意も残っていない。殺気を漲らせる堕姫を前に、元上弦の弐はからりと笑った。

 

「放っておいても鬼殺隊が始末するだろうけど、念には念をと思ってね。元気そうで良かったよ、堕姫。それじゃあ、さようなら」

 

「何ですって……」

 

無手であったはずの童磨の両手には鉄扇が広げられ、ひらりと一振りすれば閉じ切った室内が凍りつく。堕姫は帯を広げて冷気を切り払い、自らの目をとおして見ているはずの兄と敬愛する鬼の祖へと念を飛ばした。

 

(無惨様、童磨です! 私のところに童磨がっ、お兄ちゃん出てきて、こいつをバラバラにして無惨様に献上しよう!)

 

邪魔になった着物をちぎり捨て戦闘用の薄着になった堕姫は、背中から兄・妓夫太郎が這い出てくる感触と全能感に酔いしれる。以前の童磨は圧倒的に格上だったが、逃れ者となり無惨の血を新たに与えられることがなくなった今、その差は縮んでいるはずだ。そう思い、兄が出てくるまでの一瞬の時間稼ぎに帯の膜に包まろうとした女鬼は、目の前に迫った鉄扇に「え?」と力ない声をこぼした。

 

スパン、と日本刀さながらの音をたてて堕姫の頸が飛ぶ。日輪刀による攻撃でもなければ、兄妹揃って斬られたわけでもない、何ということはない一閃だ。しかし頭を切断されたことで僅かに体の指揮系統が乱れ、童磨がすれ違っていくのを棒立ちで許してしまった。

 

「ヒュウウウ……せいっ!!」

 

堕姫の背後で、聞いたことがある深い呼吸音と、続いて壁が壊れる轟音が建物を揺らした。分厚い壁の向こうは表通りだ。室内が一気に明るくなり、背中から頭を出した兄の叫びと瞬時に焼け始めた己の体に、太陽の光が部屋に入ってきたのだと理解する。壁際に転がった頸はすでに焼け焦げて崩れていた。

 

「あああああ”あ“ッ!!」

 

生えかけの頭部から絶叫し、本能で部屋の奥へと逃げようとした堕姫の体に黒焦げの腕が巻きつき、次の瞬間、彼女は宙を舞っていた。再生した目で捉えた敵は、身体中真っ黒になりながらも分厚い氷を纏い、光を反射させていた。みるみる溶けては作られる氷の向こうから、虹色の瞳が無機質に堕姫を見つめていた。

 

(ぎゃあああああッ、イヤっ、嫌だよう、熱い、熱い、焼けちゃうッ)

 

壁にあいた大穴から外に放り出され、焼かれながらも助かろうと帯を飛ばす。血鬼術でできた帯は陽光に崩れるも、背中から半分体を出した妓夫太郎が死に物狂いで力を回し、通常の数倍の強度をもって向かいの遊郭の開きっぱなしの窓の近くに突き刺さった。このまま帯を伸縮させれば屋内に逃れることができる。その一心で意識を集中させていた堕姫は、降り注ぐ氷柱に気付くことができなかった。

 

「あっ、いやあああああッ、焼けっ、焼けるッ、お兄ちゃん助けてえええええ!!」

 

「くそがあああッ、体が動かねえ!! がああ“あ”アアッ」

 

通りの地面に縫いつけられ、氷柱が消え去っても、もう上弦の陸が立ち上がることはなかった。いきなり焼けながら落下してきた異形に人々が恐怖の声をあげて遠ざかる。近くに柱のような気配も感じたが、それを気にできる状態でもなく、長く生きた命が失われていく中、見上げた壁の穴に人影はなかった。

 

 

 






【登場人物紹介】



童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。結晶ノ御子をばら撒いて情報収集をしていたら珠世様を発見した。その後、伊之助につけていた御子の記録を見て色々と大変だったが、どうにか冷静に吉原の任務について考え、酷い原作ブレイクをやらかした。堕姫と妓夫太郎のことは自分が面倒を見てあげた子達という認識で可愛がっていたつもり。なお、太陽を恐れず行動するマジキチでなければ、こんなにあっさり勝てなかった。猗窩座殿直伝(違います)の正拳突き(水の呼吸ブースト付)の威力は高い。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。連日朝日とともに起きている働き屋さん。蝶屋敷の女の子たちはまだ子供なので、たくさん寝かしてあげたくて朝食当番を申し出た。実は毎日童磨に起こしてもらっている。はじめて童磨が何日も出かけてしまい、ちょっぴり不安だが信じて待っている。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。母親似の自覚はあるが、それイコール自分が大変な美形であるとは思い至っていない。とんでも化粧で琴葉似の顔がくちゃくちゃになるのを見るのが嫌だったが、柱二人(うち一人は師)からは逃げられなかった。荻本屋のやり手に美貌を見抜かれて無事潜入。表通りの騒ぎに窓から覗いたら鬼が燃えていた。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。炭子として、ときと屋に潜入した。物凄い働きぶりで初日から周りに暖かく受け入れられる。なお、ほぼ半数はすぐに男の子だと気づいたが、訳ありだろうと見逃してくれている。禰豆子は与えられた小さな部屋でお留守番。雑用をしていたら表通りが騒がしくなり、異臭がしたため外に出たら、鬼が燃えていた。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。善子として、京極屋に潜入した。蕨姫花魁のことは、まだ噂をちょっと聞いた程度で接触はしていない。自分をタダで店に押しつけた男へのドス黒い情熱をこめて三味線を弾いていたら、上階から凄い破壊音がしたため、大急ぎで現場に向かった。花魁の部屋の前でおろおろする遊女たちを押しのけ襖を開いたが……

煉獄杏寿郎
黎明に散らなかった炎柱。新しい継子を連れて復帰後の初任務に向かった。かまぼこ隊が全員無事潜入したため、自分は今夜あたり客として各店をあたろうかと考えていたところ、表通りでの騒ぎに気づいた。駆けつけたら鬼が燃えており、京極屋の二階の壁に大穴が空いていた。人目を気にしつつ、一足で穴から室内に飛び込んだが……

宇髄天元
お嫁さんたちを助けたい音柱。遊郭に十二鬼月がいるかもしれないと本部に連絡したら、柱二人体制を命じられた。女性かつ頭脳派のしのぶさんを連れて行きたかったが彼女は別任務に出ていた。炭子、善子、猪子を爆誕させた張本人。かまぼこ隊を各店に潜入させた後、独自に調査をすすめていたが、表通りの騒ぎに気づいて急行した。焼けている鬼に注意深く近づき、運良くその目に刻まれた数字を確認できた。

上弦の陸兄妹
原作と変わらない立場と能力と強さをもつ悪鬼。この度こんがり焦げ焦げになった。敗因は童磨を逃れ者と甘く見たこと、相手の強さが血鬼術由来だと見誤ったこと、童磨が「自分が鬼にした子達」という認識で彼らの成長を暫く見守っていたため基本戦法を知られていたこと、何より太陽を味方につけるなんて思いもよらなかったこと。完全に相手の手玉に取られて完敗した。なお、対戦時間は30秒。





【対上弦の陸戦解説】


童磨の戦略は以下の通り。完璧にハメゲーで予定調和の勝利。戦闘時間30秒。

(1)初手で血鬼術を出してみせる
(2)血鬼術と見せかけて、妓夫太郎が出てくる前に堕姫を物理で怯ませる
(3)堕姫の背後の壁を破壊、太陽光を入れる
(4)堕姫の背中から現れる妓夫太郎を焼き、自らは氷バリアで耐えつつ、兄妹を屋外にソイヤッ
(5)死ぬまで冬ざれ氷柱で追撃



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#19 其はさながら阿弥陀の籖



タイトル=そはさながらあみだのくじ

遊郭編終了、あるいは第三勢力。




 

 

花魁の部屋の襖を開くなり、冷たい空気が善逸の頬を打った。冬でもないのに息が白くなるほどの冷気だ。しかし、彼の全身に鳥肌を立たせた元凶はそれではなく、氷と霜が張りついた四方と瓦礫の間、陽が届かない場所に立つ美しい男だった。

 

白橡のところどころ跳ねた長い髪は頭頂部だけ血を被ったように赤い。徳利襟に裾が広い袴姿の長身は、優美な印象に反して大柄であった。筋肉が浮き上がった上半身から続く逞しい首には優しげな白皙がのっている。宗教画のような穏やかで現実味がない容姿の男からは、心が凍えそうな鬼の音がした。

 

鬼は善逸と目が合うと、嘘のような虹の眼差しを緩めて笑った。

 

「やあ、はじめまして。素敵な快晴だねえ」

 

「……あんたみたいなのと会話したくないんですけどぉ!」

 

思わず大声で返せば、鬼は大袈裟に驚いた顔をする。しかし内面から聞こえる音はまるで変化がなかった。この鬼は善逸に何も感じていないのだ。

 

「ここは蕨姫花魁の部屋だ。あんた何してるのさ。その大穴はあんたがやったのか」

 

「あっはっは、こんな大穴を俺があけたって思うのかい? 鬼でもなきゃ無理さ。ところで後ろ、気付いてるかい?」

 

不思議な色の瞳が善逸の後ろを見やる。開け放ったままの襖の先には、楼主をはじめとする店の面々が集まっていた。日輪刀も手元にないこの状態で、これだけの人数は守れない。青くなった善逸に、鬼は笑顔のままで壁際の暗がりが深い方へと寄った。

 

「そんなに怖がらなくても何もしないぜ。もう用は済んだからお暇するよ」

 

「逃しはしないぞ、虹鬼!」

 

壁の大穴から飛び込んできた炎柱にも、鬼は動じずに同じ笑みを浮かべていた。

 

「こんにちは、君は柱かな。俺のことを知ってるんだねえ。穏便にお別れさせてくれないかな」

 

「煉獄さん、こいつやばいよ! じょっ、上弦の鬼じゃないの!?」

 

「いや、彼は鬼舞辻の支配から逃れた鬼で、十二鬼月ではない。しかし人喰い鬼には変わりないぞ」

 

すらりと刀を抜いた杏寿郎は闘気を漲らせ、目の前の鬼を切るつもりなのが明白だ。善逸は少しでも店の面々を遠ざけようと後じさり、ざわめく彼らの口々より大声で下がるよう伝えた。青ざめた楼主を促して廊下に出たところで、静かな鬼の音がすぐ近くで聞こえて足を止める。恐る恐る見下ろせば、善逸の足元には氷でできた人形が立っていた。

 

「ヒイッ!?」

 

「あまり刺激しないでおくれよ。その子は氷の粉を出すのが得意なんだ。びっくりしたら辺りに撒いてしまうかもしれないぜ」

 

「……我妻少年、動くな。虹鬼の血鬼術は目に見えない氷を相手に吸わせて体内を凍結させるものだ」

 

「ありえないでしょ! わかりましたよ、刺激しませんよ、何これちっこいのに恐ろしすぎる!!」

 

杏寿郎が斬りかからないのは当然だ。廊下にいる十名以上が人質であり、日輪刀をもたない善逸では氷の童子を止めることはできない。上弦の参の臓腑と手足を凍らせた術に一般人が耐えられるはずはなく、この場での戦闘は京極屋の人間が皆殺しとなる可能性を孕んでいた。

 

「ごめんねえ、もっとお喋りしたいところだけど今は昼間だし、また今度にしよう」

 

虹鬼と呼ばれた鬼はいつのまにか片手に金属の扇を持っており、ひらりとそれを一扇ぎした。途端に空気が白く変色して広がっていき、険しい顔の杏寿郎が善逸たちの前に立ち刃を振るう。剣圧で押し返された空気が触れた壁や床が凍てついていくのを目の当たりにした遊女らから悲鳴が上がった。

 

「善子、一体どうなっているんだい!?」

 

「旦那さん、危ないから下がって! みんなも離れて、このちっこいの危険だから! って、あれ、消えてる」

 

「逃げられたか」

 

凍れる空気が外気に混ざって消えた後には、もう鬼の姿も氷の童子の姿もなかった。外は快晴で、どうやって消えたかはわからない。表通りで焼けた鬼以外に被害がなかったことは、鬼殺隊としては幸いだ。しかし人喰い鬼にしてやられ逃げられた事実は揺るがない。善逸は楼主が何事かと杏寿郎に詰め寄るのを横目に、天元と同期の少年たちが駆けつける足音を聞いていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

吉原で姿を消した天元の嫁三名は、彼が見つけ出して助けた雛鶴だけでなく、血鬼術の帯の中に捕らえられていたまきをと須磨も無事であった。鬼が死んだことで自由になった彼女らは、地下に作られていた鬼の食糧庫から何名もの美しい男女を先導して脱出し、天元を見つけるなりその巨躯に寄り添った。天元も美しい妻たちの頭を撫で、心から無事を喜んでいた。

 

通りで焼けた鬼の正体が蕨姫花魁ー吉原に潜んでいた上弦の陸だと判明したため潜入捜査は終了し、今は吉原の外れで隠の到着を待つばかりだ。しかし隊士らもくのいち達も、どこか納得行かない様子であった。

 

「じゃあ、俺たちが探してた鬼は他の奴に殺られちまったのか」

 

「そうだよ、俺と煉獄さんが鉢合わせたけど、あいつヤバイよ。にこにこしてるのに音が全然しないの! 感情がないの!」

 

「猗窩座と戦った氷の人形の本体だよ。善逸は気を失ってたから知らなかったんだな」

 

憮然とした顔で腕を組む伊之助に、身振り手振りでいかに鬼が恐ろしかったか語る善逸。難しい顔をした炭治郎が四体の氷の童子と猗窩座が闘っていたと語れば、善逸はヒイと悲鳴をあげて頭を抱えた。

 

「あれ何体も出せるの!? ひとつでもヤバい音してたんですけど! あれが上弦の壱とか弐だって言われても納得だったんですけどおおお!!」

 

「うるせえ、弱味噌! 鬼舞辻んとこの鬼じゃねえから十二鬼月じゃねえんだよ」

 

「痛いっ、理不尽!!」

 

「こら、伊之助、殴ったら駄目だ」

 

わいわいと言葉を交わす少年たちから少し離れた場所で、杏寿郎は上弦の陸の死亡と虹鬼との遭遇について記した紙を鎹烏に預け、飛び去るのを見送った。隣では妻たちの傷の手当てを終えた天元が腕を組んで考え込んでいる。

 

「少年たち」

 

「煉獄さん。あとは待つだけですか?」

 

「そうだな。少し時間がかかりそうなので、話をしようか。虹鬼について、我々が把握している情報を共有しておこう!」

 

杏寿郎が溌剌と彼らしい大声で言う。そして、その一声で彼の周りに寄った少年たちをきょろりとした隻眼で見下ろし、まずは前提情報だなと口を開いた。

 

「虹鬼と初めて接触したのは、当時の花柱・胡蝶カナエだ。二年前のことだったか、蝶屋敷からそう遠くない彼女の担当地域の町で若い女性の連続失踪事件が起きた。結論から言えば、血鬼術も使えない鬼が起こしていた事件なのだが、それに便乗して虹鬼も人を喰っていたんだ。カナエ殿は犯人である鬼を討伐した後、奴の食事の現場に遭遇し、そのまま戦闘となった」

 

「カナエさんが……」

 

「もしかして、カナエさんの足は」

 

蝶屋敷でよく世話になった美しい女性を思い浮かべた炭治郎と善逸が眉を寄せる。胡蝶カナエは蟲柱・胡蝶しのぶの姉であり、蝶屋敷の専属医師だ。彼女の知識と優しい人柄に多くの隊士が救われている。元柱に相応しく剣技と呼吸に関する助言や指導も行なっており、彼女のおかげで鬼との死闘を制することができたという隊士も多いのだ。

 

「そのとおりだ。数回切り結んだ後、虹鬼はカナエ殿の膝下を凍らせて砕いた。そして、彼女を殺さず立ち去った」

 

「なんで殺さなかったんだ」

 

伊之助の問いかけに、杏寿郎は「それがわからんのだ」と焦点が定まらない視線をきょろりとさせる。

 

「当時のカナエ殿の報告では、先に仕掛けたのは彼女の方で、虹鬼は戦闘に消極的。脚を砕かれたのは、奴を怒らせるようなことを言ってしまったからだと聞いた。人喰い鬼らしく人を食料としか見ていないのは確かだが、好んで殺戮を行う類ではないというのが我らの見解だな」

 

「今回の遭遇も上弦の陸以外は怪我人一人いねぇ。アレを討伐できなかったのは残念だが、結果は願ったりだ」

 

「うむ、民間人に怪我がなかったのは何よりだ!」

 

柱二人が言葉をかわす傍で善逸がおずおずと口を開く。

 

「あいつメチャクチャ強い鬼の音がしたんだけど、実際どうなの?」

 

「奴は上弦の上位に相当するだろう!」

 

からりと答えた杏寿郎が腰に佩いた日輪刀をひと撫でする。これまで虹鬼に遭遇した隊士はカナエだけだったが、今日対峙してその強さを肌で感じることができた。あの鬼は、杏寿郎に死を覚悟させた上弦の参よりも格上だ。応用性も殺傷力も高い氷の血鬼術だけでなく、ごく短い時間で上弦の陸を下し、駆けつけた杏寿郎らと切り結ぶことなく鮮やかに撤退した手際が恐ろしいのだ。あれは、相手に本領を発揮させずに倒す戦略家の戦い方だ。

 

「お前ら、もし虹鬼に遭遇しても、人を襲ってなきゃ場所の報告だけして手は出すなよ。アレの討伐には柱があたる。一般隊士じゃ足止めにもならねぇからな」

 

天元の物言いに少年らは少し躊躇い、ややあって「はい」と答えた。別に逃げろと命じられたわけではないのだ。実力が及ばなくともできることはあるはずだ、と炭治郎は拳を握りしめる。それに、先ほどから酷く大人しくしている綺麗な同期から複雑な感情の臭いがすることの方が気になっていた。それは善逸も同じなのか、太い眉をさげて伊之助の横顔を伺っている。

 

「おっ、隠どもが来たな。お前らは解散だ、行っていいぞ」

 

「虹鬼の話は、柱以外には奴と遭遇したものにしか伝えていない。他言無用だ!」

 

「「はい」」

 

「俺は師範と帰る。またな、お前ら」

 

伊之助の表情はいつになく凪いでいた。彼がまとう厳しい山のような臭いに冷たい霧雨のそれが混じり、少しだけ辛さの気配がする。炭治郎が声をかけようとしたところで、美しい友人は杏寿郎の方に向き直ってしまい、薄緑の羽織りの後ろ姿に話しかけることはできなかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

人を喰わない体というのは、便利なようで不便だ。鬼の基礎能力は喰った人間の数に依存する。人間だった頃の戦闘能力が多少反映されるとはいえ、人外の膂力と再生能力はほぼ人食いによって育まれるものだ。器用な者や才能に恵まれた者であれば、少しの血肉を取り込むだけで血鬼術に目覚めることがあるが、それは本当に一握り。人を喰わない鬼は、すなわち弱い鬼なのだ。

 

童磨は要領が良く、才能に恵まれ、そのうえ万世極楽教という餌場を最初から持っていた。信者の中には稀血が数名おり、彼らを優先的に救ったことで、鬼になって数年で下弦に名を連ねることができた。そこからはとんとん拍子に入れ替わりの血戦で上弦の陸を奪い、一足飛びで猗窩座に挑んでこれを下し、数十年で上弦の弐となったのだ。数千の命を糧として得た力は、少量の血液のみで生きながらえている鬼とは比べ物にならない。

 

(珠世殿と愈史郎君がもっと強かったら、俺も同じように体を弄ってもらったんだけど)

 

吉原で堕姫と妓夫太郎を片付け、その足で帝都郊外に潜んでいた珠世のもとに寄った日から、早二ヶ月。今宵も珠世の診療所を訪れた童磨は、彼女がいくつかのガラス容器を並べて中身の説明をするのに真面目に耳を傾けていた。

 

珠世の後ろから睨んでくる愈史郎はさておき、三人の鬼の関係は当初から随分と様変わりしていた。はじめの夜は散々なもので、童磨が診療所の玄関に現れた途端、珠世らは血鬼術を発動させて逃げたのだ。あらかじめ粉凍り・改を撒いていなければ見失っていただろう。

 

(冷静に話ができるまで一週間もかかるとは思ってなかった。琴葉を随分心配させてしまったよ)

 

短い鬼ごっこの末、二人の首根っこを捕まえたのだが、毛を逆立てた猫のような彼女らは警戒心の塊で、童磨が連日訪ねてもまるで聞く耳を持たなかった。鬼舞辻無惨を倒したいことと人間に戻りたいことを根気よく話し、七日目についつい飽きて可愛い母子のことを口にしたところ、能面のようだった珠世がようやく反応したのだ。

 

『その人間の親子を愛しているのですか?』

 

そう尋ねた美しい女鬼は一転して童磨のことを知りたがった。念のため名前や身分を伏せて嘴平親子との出会いから現在までを話せば、敵愾心も懐疑心もなりを潜め、次の日から邪険にされることはなくなった。

 

『貴方は多くの命を犠牲にしてきた悪鬼でしょう。けれど、それは私も同じこと。鬼舞辻を倒すためなら、貴方と手を組んでもいいと思っています』

 

『わあ、嬉しいな! 具体的に、どんな協力になるだろうか』

 

童磨が大仰に喜んで見せると、彼女はその大人しい美貌に殺意を浮かべて言った。

 

『人間に戻る薬を、鬼舞辻に投与します。そして弱ったところを殺す。薬が効くまでには時間がかかります。その間、貴方に奴の足止めをお願いしたいのです』

 

見返りは人間に戻る薬の事前提供。最終目標に大手をかけた童磨はにこりと笑みを深め、その申し入れに快諾したのだった。

 

「このままいけば、来月には薬が完成するでしょう」

 

珠世の説明がそう締めくくられ、いよいよ全ての大詰めが近づいてきたことを実感する。童磨は薬が完成する頃にまた来ると告げ、その場を後にした。

 

(もうじき薬が完成する。あとは、鬼舞辻を誘い出して薬を投与する方法だけど……琵琶の君が邪魔だな。上弦もまだ四人も残っているし、相当準備しないと)

 

くるくると思考を巡らせながら夜道を歩く。来る無惨との戦いの前にたらふく喰って力を溜めておかなければと考え、ふと近づいてくる結晶ノ御子の気配に足を止めた。御子たちは緊急事態でなければ勝手に戻ってくることはない。童磨は人形めいた無表情で己の端末を受け入れた。

 

氷の童子が持ち帰った記録から直近のものを選り出す。それは、ほど近い山中で繰り広げられる戦いの光景であり、童磨の大切な者が他の隊士らとともに上弦の鬼に立ち向かう光景でもあった。

 

「伊之助」

 

鮮明に広がる記録の中で、琴葉そっくりな白い面(おもて)が血に汚れている。二振りの小太刀をしっかりと握った少年の後ろには、右上半身を真っ赤に染めた胡蝶しのぶが苦い顔で立っている。木々の間で鬼を追っているのは竈門炭治郎だ。妹の禰豆子も手分けして攻撃を担っており、けれど二人がかりでも転々と移転する壺の中の鬼を捉えられていない。炭治郎の横薙ぎの一刀から逃れた鬼が大量の毒魚でしのぶを狙い、それを迎撃した伊之助の手足に無数の咬み傷が刻まれた。

 

記録はそこで途切れていた。この結晶ノ御子が勝目なしと判断して報告に駆けたからだ。残りの四体は今頃壺の鬼ー上弦の伍・玉壺を相手取っているのだろう。物量攻撃と空間転移を得意とする鬼相手に御子たちでは分が悪いが、伊之助一人が撤退する時間稼ぎぐらいはできるはずだ。

 

(……あの子は逃げない)

 

先の記録の中で、伊之助はほとんど捨て身で蟲柱の少女を守っていた。大きな翡翠の双眸は揺らがない戦意に輝き、毒魚に噛みつかれても怯まずに切り払っていたのだ。しのぶと炭治郎が撤退しなければ、伊之助も退く事はないだろう。

 

「ああ、もう、どうしようもない子だ!」

 

小さく吐き捨てて走り出す。悪手だと理解していても、そこに躊躇いはなかった。美しい男の姿は瞬く間に通りから消え、後には微かな土煙と冷気だけが残っていた。

 

 

 






【登場人物紹介】



童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。上弦の陸兄妹を倒した後、立ち去ろうとしたところで足が早すぎる善逸に見つかり、お喋りしていたら煉獄さんまでやってきて内心「OH」となったが、あくまでスマートに撤退した。珠世様を味方につけ人間に戻る目処がついてご機嫌。しかし、セコム御子が緊急事態を報告してきてそれどころではなくなった。数キロ先の山目掛けてメロスより必死に走っている。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。直接の出番はなし。童磨の昔語りではヒロインとして大変可愛らしく語られ、珠世様に微笑ましい印象を与えた。童磨が食事に出かけた夜は、一人静かに夕食をとって寝支度をする。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。養父の暗躍が明確な形を取ったため、ついに鬼殺隊の一員として向き合うこととなった。討伐対象だと知って「やっぱりか」と思いつつ、気持ちが沈むのは止められなかった。山で人が消える事件をしのぶさんと炭治郎(と禰豆子)と調査していたら、気色悪い壺の鬼に遭遇、戦闘となった。大怪我をしたしのぶさんを置いて逃げるなんて頭の片隅にも思い浮かばない。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。遊郭の潜入任務の時も伊之助となかなか話せずぎくしゃくしていたが、その後の何度かの合同任務の時はちゃんと連携していた。今回、しのぶさんと伊之助と三人で任務にあたったが、上弦の鬼の登場で厳しい戦いに突入した。禰豆子がいるため毒攻撃はあまり怖くない。しかし原作と異なり痣者になっていないため、実力が対上弦レベルに届いていない。戦っているうちに体温と心拍数が異常値まで上がり、額が痛くなってきた。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。遊郭が轟音とともに揺れたため様子を見に行ったら、世にも恐ろしい音がする虹鬼に遭遇した。原作で堕姫に感じた数倍の恐怖に襲われる。すぐに煉獄さんがやってきて心強かったが、自分の背後に楼主らが集まってしまったため守らないとと必死だった。虹鬼の話が出てから伊之助の音がおかしいのがとても気になるが、任務が別々なので確かめる機会が訪れない。

煉獄杏寿郎
黎明に散らなかった炎柱。まさかの虹鬼と遭遇した。民間人を人質にとられたため、そちらの守りを優先し、鬼を取り逃してしまった。カナエさんの報告情報のみ把握しており、虹鬼に対する認識は人喰い鬼の第三勢力、つまりは討伐対象。なお、伊之助の山での任務には同行していない。

宇髄天元
お嫁さんと再会できた音柱。煉獄さんが虹鬼に遭遇したと知って俺も派手な鬼を見てみたかったと悔しがる。柱として後輩が生き延びて成長できるよう心がけているので、かまぼこ隊に虹鬼は要注意と伝えた。虹鬼の認識は煉獄さんと一緒。いくら忍びでも、調べていないことはわからない。

胡蝶しのぶ
おこりんぼな蟲柱。肉体的ポテンシャルの問題で痣者になれない彼女には、物量攻撃と瞬間移動が得意な玉壺は分が悪かった。オオカマスに右肩を盛大に噛まれ、呼吸で止血に専念している状態。普通の人間なら失血死レベルの怪我でも根性で立ち、最高の一撃を繰り出すタイミングを見計らっていたら、煉獄さんの報告にあった氷の童子が乱入してきた。

玉壺
自らの縄張りの裾の方にある山で鬼狩りたちと遭遇した。そろそろ勝利を確信したところで、結晶ノミニ御子が飛び出てきてギョッとした(魚だけに)



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#??? 天道を継ぐ子


タイトル=てんどうをつぐこ

番外編。炎柱への弟子入り、あるいは悪鬼の息子。




 

煉獄杏寿郎の朝は早い。前日に任務があっても極短い仮眠のみ取って朝日とともに起き出すのが常だ。屋敷の家事を担っている弟の千寿郎も早起きではあるが、朝食の前に鍛錬の時間を取る兄ほどではない。以前は同じぐらい早くに起き出していた二人の父は、今は昼過ぎまで部屋を出てこないことがある。つまり、朝日が地平線を照らしてからしばらくの間、煉獄邸で活動する人間は杏寿郎だけだったのだ。

 

新しい継子を迎えた翌朝、いつものように起床して少しの身支度をした杏寿郎は、庭先から聞こえる風を斬る音にはてと首を傾げた。

 

日輪刀片手に庭に面した廊下までやってくると、朝ぼらけの中、美しい人が二振りの小太刀で宙を斬っていた。中背ながら鍛え上げられた上半身を晒し、しなやかな動きで四肢が躍る。肩までの艶やかな黒髪が鋭い突きに乱れ、白い横顔が見え隠れした。はらりと髪が流れて視界に入った目鼻立ちは、杏寿郎が知る中でも指折りの美貌であった。

 

「伊之助、おはよう! 早いな!」

 

他の家人がまだ寝ているため少し抑えた声をかける。静まり返った空気にはそれでも十分に響き、伊之助はぴたりと動きを止めて杏寿郎の方を見た。やや眦が切れ上がった翡翠の瞳が薄暗がりに輝いていた。

 

「おはよう、師範」

 

「いつもこの時間から鍛錬しているのか?」

 

「おう。母ちゃんも朝が早ぇから丁度いいんだ」

 

伊之助の母・琴葉は蝶屋敷で早朝から夕方まで看護の手伝いをしている。隊士らの朝食を用意する彼女の起床にあわせるのなら、この時間になるのは自然なことであった。

 

庭先に降りた杏寿郎を伊之助の視線が追う。剥き出しの体がうずうずとしているのが見て取れて、まるで飛び掛かる直前の猪のようだ。手始めに技量を図ろうと思っていたので、あえてその誘いに乗り、正眼に構えてやった。

 

「朝餉までまだしばらくある。斬り込んでくるといい、君の実力を把握しておきたい!」

 

「おおっ、早速か! いくぜっ」

 

待っていましたとばかりに伊之助も構えをとる。彼が扱うのは我流の呼吸法と剣術だと聞いているが、なかなかどうして隙がない。無限列車の任務で垣間見た触感の鋭さが活かされているのだろう。面白い子が継子になったと内心笑みを浮かべ、じりと砂利を踏み締める。それが合図となり、伊之助が打ち込んできた。思いの外早く、滅茶苦茶な太刀筋であるがゆえに読み難い一撃だ。

 

「おらあッ!」

 

「技も使って構わんぞ。一通り見てみたい」

 

「ちっ、余裕ぶっこきやがって!」

 

ガキン、ガキンと獣の顎のような攻撃を弾き、いなし、鍔迫り合いへと持ち込めば、膂力の差から伊之助がわずかに後ろに反る。そのまま押し切ろうとした杏寿郎だったが、わずかに感じた危険に素早く飛び退いた。綺麗な弧を描いた体から放たれた蹴りが杏寿郎の顎をぎりぎり外れて空振る。地面に両手をついてくるりと宙返りをした少年は、どうだと言わんばかりに笑っていた。

 

「素晴らしい柔軟性だ! 君は体に恵まれているのだな!」

 

「こんなこともできるぜ!」

 

二人の距離は刀の間合いの外にある。その場から腕を振りかぶった伊之助に、はてと隻眼を細めた炎柱は、しかし次の瞬間その目を見開いて斬撃を打ち払った。まるで異能の鬼を相手にしているような、ありえない攻撃だ。伊之助の腕が物理的に二倍ほどに伸びたのだ。ぷらんと芯をなくしたような右腕は間接が全て外れていた。

 

「……あまり体によくなさそうな技だが、痛くはないのか」

 

「まあ、痛えけど大したことはねえ。もっと精度を上げねえと鬼の頸は切れねえな」

 

筋肉の力で無理やり間接を戻す少年に、期待以上に根性がありそうだと期待が膨らむ。杏寿郎も他の柱に漏れず大変厳しい指導を行うため継子希望者は多くとも長続きするものは少ないのだ。唯一の成功例が恋柱の甘露寺蜜璃なのだから、相当な扱きである。

 

「君の剣技は我流か?」

 

「父ちゃんに教えてもらった。父ちゃんが武器を二つ使ってたから、俺も二刀流にしたんだ」

 

やや自慢げな答えは年相応よりも幼く見えた。伊之助の父親は、何年も前に嘴平一家が鬼に襲われた際、妻子を守って亡くなったのだと噂で聞いたことがあった。杏寿郎が蝶屋敷に収容されていた間にも、琴葉の口から何度か『童磨』という名が上がっていた。

 

「確か童磨殿だったな、君の父上は」

 

「そうだぜ」

 

「鬼殺隊の剣士でもない御仁が二刀流とは珍しい。どの流派の使い手だったのだろうか」

 

「いや、父ちゃんは坊主だ」

 

「なんと、御坊であったか! 悲鳴嶼殿のような御仁が他にもいたとは」

 

「……玉ジャリジャリ親父とは似てねえけどな」

 

「なるほど! 君の動きが系統化されていないのは、お父上も我流の強者だったからなのだな!」

 

杏寿郎がひとり納得していると、伊之助がじっと屋敷のほうを見つめ小太刀を鞘に戻した。その様子に気配を伺えば、厨から千寿郎が調理を行う物音が聞こえてきた。流石の気配察知に感心しつつ、自らも刀を納める。

 

「着替えたら居間にきなさい。千寿郎の作る飯は美味いぞ!」

 

「おう! 腹が減ったぜ!」

 

ぐうと盛大に腹を鳴らして伊之助が離れていく。縁側に上がる前にきちんと埃を払っているあたり、粗暴なのは口調と上辺の態度だけなのだと伺えた。

 

「ふふっ、屋敷がにぎやかになりそうだな!」

 

最初の顔合わせでも盛大な騒ぎを起こした少年だ。勝気ではっきりとした物言いの伊之助は、千寿郎にとって良い刺激になるだろう。ともすれば、父・槙寿郎にも新しい何かをもたらしてくれるかもしれない。

 

獅子のような男はにまりと笑い、自らも屋敷にあがったのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

継子は単独や合同の任務にあたることもあるが、基本的に師である柱と行動を共にする。つまり、柱に回されてくる難易度が高い討伐任務を経験することになるのだ。中には命を落とす者や再起不能になる者、稀に怖気づいて折れてしまう者もいるが、柱の後継として育てられる若者たちには、そういった任務を生き抜く実力と才覚が求められる。

 

「伊之助、そちらにいった分体は任せたぞ!」

 

「おうっ!」

 

大きな羽虫のような鬼の分体が毒の鱗粉を撒いて中空から襲撃する。独特の察知能力で毒をさけた伊之助の刀が鮮やかに交差し、敵の頸を落とした。続いて三体を切り払い、四体目を串刺しにする彼の実力は上級隊士に匹敵するものだ。

 

鬼の本体は杏寿郎の頭上を飛びまわっている人面のカマキリだ。鋭い鎌になった両手からドス黒い液体を滴らせた鬼は、数十の分体とともに山間の村を壊滅させた悪鬼であり、杏寿郎が派遣されるまでに五名の隊士を返り討ちにした難敵だ。すでにほとんどの分体を始末したが、本体を斬ろうとすると高度を上げるため、なかなかに面倒な相手であった。

 

ギチギチギチギチ。

 

人の言葉を捨て去った虫鬼が威嚇音を立てて空へと逃げていく。杏寿郎の燃える眼差しがそれを追い、強靭な足腰がひび割れるほど地面を踏みしめ力を溜めた。

 

「逃さんぞ!」

 

ドンと空気を裂く音とともに杏寿郎の長身が宙に躍る。たてがみめいた髪が夜空に広がり、炎を纏った一閃が鬼の翅に届いた。細長い翅がばらりと落ち、鬼の体も落下する。悪足掻きの鎌での攻撃はかすりもせず、地面に触れるよりも速く、杏寿郎の刀が異形の頸を撥ねていた。

 

はらはらと崩れる鬼の体を油断なく見つめる杏寿郎のとなりに伊之助がやってくる。大人しく周囲に注意を払っているのは良い成長の証だ。猪突猛進気味で自信家な一面がある伊之助だが、炎柱の継子として一月を過ごした今は冷静な戦いができるようになりつつあった。完全に鬼が消え去り、辺りから禍々しい空気が薄れていく。そうして漸く、杏寿郎は刀を納めた。

 

「任務完了だ! 隠に引き継いだら引き上げるとしよう!」

 

「わかった」

 

お互いかすり傷程度しか負っておらず、蝶屋敷の世話になることもない。朝日が登る前に煉獄邸に帰ることができそうだ。隠の到着を待つ間、隣から視線を感じて見下ろせば、大きな翡翠とかち合った。

 

「師範、聞いてもいいか」

 

「うむ、何だろうか!」

 

「虹鬼と戦う時、どうするんだ? あいつ上弦の参より強えんだろ。勝目あるのか?」

 

「面白いことを聞く。そうだな、戦法がわからない鬼舞辻や上弦の壱よりは具体的に考えられるが……まず、彼を相手取るには柱が3、4人必要になるだろう」

 

「そんなにか!」

 

上弦の参とあれだけ切り結んだ炎柱の言葉に、伊之助がきょとんとする。それに苦笑いで返し、杏寿郎は胸元で腕を組んで続けた。

 

「ああ、上弦の鬼は柱複数名でかかる必要があると見ている。例えば、俺が戦った猗窩座だが、彼はまるで本気を出してはいなかったぞ。前半は様子見、技を大方見切った後はこちらの限界を見極め、最後は一撃で殺すつもりでいただろう」

 

「あいつ、師範を鬼にしたがってなかったか」

 

「そうだな。瀕死まで追いやれば、承諾すると思ったのではないか」

 

虹鬼のことだがと話を戻せば、美しい継子も完全に聞き手に回る。

 

「現在判明している彼の戦闘手段は大まかに三つ。直接的に氷と冷気をぶつけてくる物理攻撃、彼本体同様の技を使う氷の童子、そして不可視の氷の粉だ。いずれも驚異だが、対抗できないものではない」

 

伊之助は神妙な顔をしてじっと話を聞いている。つらつらと考えうる攻略法を話しながら、杏寿郎はかの鬼の姿を思い浮かべていた。白橡色の髪に虹の瞳が何より印象的であったが、完全に制御された表情と物腰も同様だ。あれは上の立場で周りに接する者が身につけるものだ。比べることさえ憚られるが、杏寿郎が敬愛する産屋敷耀哉もそういった物腰の持ち主であった。

 

(鬼は群れない。あれは彼が人間だった頃の名残だろう)

 

鬼の過去など微塵も興味がないけれど、時にそれが敵を倒す手がかりとなることもある。しかし、虹鬼ほどの力をもつ鬼は何十年何百年と生きているため、彼が人間だった頃を知るものは鬼舞辻無惨ぐらいだろう。

 

(最低限の食事しかしないとは、よく宣ったものだ。あれほどの血鬼術を得るには、千人喰ってもまだ足りないだろうに)

 

鬼は平気で嘘をつく。これまで杏寿郎が斬ってきた鬼の中には、いざ殺されるとなって命乞いをするものが少なくなかった。彼らは決まって「仕方がなかった」「人を喰いたくて喰ったんじゃない」等と言い訳を口にしたが、どれだけ涙を流して言い募ろうと、それはただ生きたいがための嘘だ。鬼は、獣以下に成り下がった人の成れの果て。そこに真の情も理性も残されてはいない。虹鬼とて、自分に都合が良いように少食だと言い張っているだけなのだろう。

 

「胡蝶の毒で鈍らせたところで頸を落とすのが良いだろう。氷の童子の相手は範囲攻撃が得意な者に任せ、守りに優れた冨岡か駆け引きが上手い不死川が虹鬼本体と対峙、胡蝶は隙あらば毒を打ちこむ役だな」

 

「……結構えげつねえな」

 

「あの鬼には過剰戦力でもないだろう。だが、あくまで理想論だ。実際彼を倒す時にどのような形になるのか、予想もつかん」

 

「そっか」

 

ぽつりとこぼした伊之助の視線は地面を向いており、白皙の表情は窺えなかった。ただ、外見に合わない低い声が別人のように静かだったのが、杏寿郎の意識にこびりついて暫く離れなかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

バリンッと大袈裟な音をたてて酒瓶が割れる。今まで以上に酒精の臭いが部屋を満たし、いっそむせ返るほどだ。千寿郎は鬼の形相の父親と眉を釣りあげた美しい少年をおろおろと見比べ、唇をひき結んで少年の袖を掴んだ。

 

「伊之助さん、やめてください」

 

「万寿郎、てめえ腹が立たねえのか! こんなクソ爺が父親で恥ずかしくねえのか!」

 

「この猪小僧が、言わせておけば!!」

 

「うるっせえ、てめえは口開くんじゃねえ!!」

 

赤ら顔の槙寿郎の剣幕に少年ー炎柱の継子である伊之助はまったく怯まない。それどころか少女めいた顔立ちを牙を向いた獣のようにして、己よりもずっと長身の大人を睨みつけていた。こうして槙寿郎と伊之助がいがみ合うのは、煉獄邸では日常茶飯事だ。家主である杏寿郎がいれば、すぐに間に入って伊之助を下がらせるのだが、生憎今は所用で出かけている。

 

「僕は千寿郎です。あのっ、伊之助さん、父上は立派な方なんです、今は少し疲れておられるだけで」

 

「一日飲んだくれて寝てる野郎が疲れてるわけねえだろ! おい、豚に真珠野郎! てめえが師範と千十郎の父ちゃんなんて認めねえからな!」

 

伊之助は槙寿郎にあたりが強い。二度目の衝突のあと、理由がわからず困惑するばかりの千寿郎に兄が珍しく声を抑えて話してくれたのは、伊之助の父の勇敢な最後だった。鬼に襲われても妻子を守りぬき、自らは体の一部さえ残らなかった男。時折、伊之助の話の端々に語られる彼の父親は、穏やかで優しい素晴らしい人物だった。そんな父親の思い出を抱く伊之助には、一日中酒瓶とともに部屋に引きこもっている槙寿郎が一際情けなく見えるのだろう。

 

「貴様に何がわかる! 杏寿郎もろくでもない継子をとったものだ。ふんっ、どうせ貴様など柱になる前に鬼に殺されるだろう!」

 

「んだと、クソ爺! てめえこそ鬼にビビって引きこもってんだろうが! 尻尾巻いて巣穴に引きこもって、ろくでもねえどころか狩る価値もねえ弱味噌があ!!」

 

唸るように声を荒げる伊之助に対し、ついに槙寿郎が拳を振りかぶる。千寿郎がヒッと息を呑んで小さくなるのと、開けっぱなしの廊下から見慣れた炎柄の羽織姿が入ってくるのは、ほぼ同時だった。

 

「そこまで! 父上、継子が失礼しました。伊之助、君には自己鍛錬を命じたはずだが?」

 

「……師範は甘え。このままにしとくと死ぬまで弱味噌のままだぞ」

 

「それは君が気にすることではない。早く行きなさい」

 

片目を失っても杏寿郎の眼光は変わらぬ力強さだ。じっと見つめられて黙り込んだ伊之助が足早に立ち去り、後にはよく似た親子三人が残される。千寿郎がおずおずと割れた酒瓶の片付けを始めると、槙寿郎は息子たちに背を向けて縁側に座り込んだ。

 

「父上」

 

杏寿郎の呼びかけに応じる声はない。拒絶しか感じられない衰えた背に、隻眼の視線が突き刺さる。

 

「父上、そのままで結構ですので聞いてください。俺はこれまで、いつか昔のような立派な父上に戻ってくださると信じているつもりでいました。けれど、本当は諦めていたのです。振り向いてくださらない父上のことは諦め、千寿郎と二人で強く生きていこうと、心の底ではそう思っておりました」

 

「兄上……」

 

眉を下げる弟の頭をなで、杏寿郎は笑った。千寿郎が呆気にとられるほどの、明るい笑みだった。

 

「しかしそれも今日限りだ! 俺は伊之助が羨ましい。彼のように純粋に父親を慕い、信じ、尊敬したい! ですから父上、もう引きこもりの生活はできないものと思ってください。俺は貴方を諦めない! 手始めに今日から食事は全員でとりましょう! 逃げても追いかけるので、そのおつもりで!」

 

「杏寿郎、何を勝手なことを!」

 

「煉獄家の当主はこの俺だ! 貴方は隠居の身、意見を尊重されたいなら相応の態度を見せていただこう!」

 

いっそ挑戦的な笑顔を父親に向けて杏寿郎が言い放つ。この二十年、従順な息子であり続けた彼の突然の反旗に、槙寿郎の空いた口が塞がらない。ぽかんとしている間に息子たちは部屋を後にしてしまい、後にはくたびれた様子の男一人が残されたのだった。

 

 





【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。今回出番なし。なお、伊之助の思い出()は特に美化されていない。すべて真実、ただし家族フィルターはかかっている。対虹鬼の攻略法をセコム御子を通して知り、「藤の毒かあ」と思案顔になった。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。今回出番なし。息子が一時的に家を出てしまったので、夫婦水入らずで仲良く暮らしている。最近、童磨が紫色の花びらを口にしては変顔するのを、珍味みたいなものかしらと微笑ましく思っている。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。煉獄家に住み込みしている炎柱の継子。煉獄さんに大変憧れており、よく言うことを聴く。しかし槙寿郎てめーはダメだ。しれっと対虹鬼の戦法を探ってみたり、身バレしない程度に父親自慢したり、煉獄家で騒動を起こしたりと気ままに暮らしている。継子ライフは充実している模様。

煉獄杏寿郎
黎明に散らなかった炎柱。これまで何人かの継子がいたが、成功したのは蜜璃ちゃんのみ。他は道半ばで諦め去っていった。根性があって才能もある伊之助に大いに期待している。伊之助との会話の端々で出てくる父親がとても素晴らしくて、羨ましくなると同時に、まだ生きている槙寿郎を諦めてしまうのは間違いだと気づいた。これと決めたらグイグイ押しの一手。

煉獄槙寿郎
うじうじ系煉獄男子。息子が継子を連れてきても特に何も思わなかったが、顔を合わせるなり罵倒されて険悪な仲になった。伊之助と怒鳴り合うのはほぼ毎日。まったく遠慮がなく怯まず、殴りかかってもするする躱す相手にウガーッとなっている。これまで自分に言い返すことがなかった長男の反旗に内心ビビった。今はまだ情けない飲んだくれパパ。

煉獄千寿郎
気弱系煉獄男子。兄が連れてきた美しすぎる継子に初対面時のみドキッとしたが、すぐに父親と怒鳴り合う印象のほうが強くなった。はっきり物を言う伊之助が怖かったけれど、父親と違って手をあげることも罵倒してくることもないため、次第に慣れた。ちゃんと名前を覚えてもらうため都度訂正することを心がけている。



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#20 涅槃への冥き道行き


タイトル=ねはんへのくらきみちゆき

正体の露見、あるいは急転直下。




 

ボタボタと音を立てて赤黒い液体が地面にこぼれていく。隊服の上着はすでに血を吸いきれず、右脚を伝う液体が酷く気持ち悪い。呼吸を使って傷口を閉じあわせていても滲む血液の量は驚異的だ。これは動脈を掠っているかもしれない、と胡蝶しのぶは他人事のように考えていた。

 

小さな体に小さな頭。体躯に見合った可愛らしい顔は蒼白で、常人であればとっくに意識を失い、ともすれば死んでいる状態だ。今、しのぶを奮い立たせているのは不屈の闘志と後輩たちへの責任感、そして何より腹の底で煮えたぎる憎悪だった。

 

(落ち着くのよ。こんなところで感情を爆発させては駄目。己を制御できないのは未熟者。今は上弦の鬼を斃すことを第一に考えなさい)

 

しのぶの紫の瞳が足元を駆けまわる氷の童子を睨めつける。本当は今にも飛びついて砕いてやりたいが、あの憎らしい援軍がなければ今頃この場の全員が鬼の腹の中だ。

 

ふう、と緩く息を吐きだし止血の呼吸を続けながら、目の前の薄緑の羽織姿に話しかける。

 

「伊之助君、まだ動けますね」

 

「当たり前だ。頸を斬るのは任せとけ」

 

対の小太刀を握りしめたまま仁王立ちしている伊之助だってもうずたぼろだ。優美な睡蓮の刺繍がはいった羽織の袖は千切れ、逞しい両腕は真っ赤に染まっている。黒い隊服のズボンでわかりにくいが両脚だって似たようなものだ。それでも、年下の友人は強い眼差しで鬼を追っている。

 

「心強いです。では、私が仕掛けた後に頼みます。炭治郎君なら臭いで察してくれるでしょう」

 

「……しのぶ、全員で生きて帰るぞ。ゆびきりげんまんだ」

 

「こんなところで死ぬつもりはありませんよ」

 

しのぶはやや濁して答え、日輪刀を構える。彼女の本領は鬼殺隊随一の速度を誇る突き技だ。それにより高濃度の藤の毒を鬼に打ち込み、毒殺せしめる蟲柱。たとえ殺せずとも、仲間がいれば弱らせるだけで十分に意味を成す。

 

氷の童子たちは入り乱れる炭治郎と禰豆子を壁もしくは目眩ましとして利用しながら壺の鬼を引きつけているが、瞬間移動を止めるほどの火力も速度も持っておらず、あくまで撹乱しているだけだ。そのあからさまな時間稼ぎは、ともすれば剣士らに逃げろと促しているようにも見えた。しかし鬼の思惑に乗る理由も、十二鬼月を前にして勝機が生まれた今、撤退する理由もなかった。

 

(見極めるのよ、次に壺が現れる場所を予測して打ち込む。生物の思考展開はある程度決まっている。あの鬼も同じこと)

 

音柱のような完璧な予測はできなくとも、しのぶの明晰な頭脳は確かに壺の鬼の動きの法則を捉えていた。じり、と突きの予備動作に左足を前に出し、わからない程度に腰を落とす。氷の童子の一体がついに壺から伸びた手に捕まり砕かれた瞬間、しのぶは風になった。鬼はすぐさま消えてしまったが、彼女はすでに目も向けていなかった。

 

――蟲の呼吸 蜻蛉ノ舞 "複眼六角"

 

炭治郎も禰豆子も瞬間移動に追いつけず少し離れた場所にいる。虹鬼の氷像は巻き込んだところで問題ない。一足で飛び出したしのぶが向かう先に、ことりと陶器が現れ、そこに毒蟲の針が瞬く間に六つの穴を開けた。

 

「ギャッ!! 馬鹿な、何故攻撃が当たった!?」

 

「あなたの動きが馬鹿そのものだからよ。さあ、のたうちまわりなさい!」

 

「この私に突き技など効くものか!」

 

壺から体を出した鬼に振り払われ、抜けた日輪刀ごとしのぶの矮躯が吹き飛ぶ。血を撒き散らして宙を舞った体を禰豆子が抱きとめ、二人してごろりと地面を転がった。

 

「があっ、何だ……毒か? 小癪、小癪ううううッ」

 

「おらああああッ!」

 

――獣の呼吸 弐ノ牙 切り裂き

 

しのぶの攻撃と共に動き出していた伊之助が蹲って吐血する異形に斬りかかる。しかし刃が頸に届くというところで、肥大化した鬼の肘が少年の腹を捉えた。メキリと恐ろしい音がして、血みどろでも美しい体が後ろの木の幹にぶつかって跳ねる。

 

「伊之助ええええええッ!!」

 

これまでにない速度で距離を縮めた炭治郎が鬼の腕を切り落とし、転がるように崩折れた同期を背にかばう。倒れ伏した伊之助はゴボッと滑った咳をするばかりで、まだ武器を手放していないのが奇跡的だった。

 

穴が空いてひび割れた壺から全容を現した鬼は、その醜い巨躯の所々を紫色に染めていた。しのぶの毒は確かに効いているのだ。しかし無情にも、変色した肌はゆっくりと気色悪い鱗の色に変じていった。

 

「そんな……」

 

「ヒョヒョッ、真の姿になればあの程度の毒、なんということはありません」

 

禰豆子に支えられて立ち上がったしのぶの愕然とした呟きに、鬼が嘲笑う。見上げるほどの大きさになったそれが本来の姿であり、最強の状態なのだろう。上弦の伍は足元を凍らせようとした氷の童子二体を一瞬で蹴り砕き、炭治郎の隣に立つ最後の一体を視界に収めた。

 

「それにしても、一体何の真似ですか、童磨。こんな足止めにもならない横槍を入れて、何をしようというのです」

 

人の声ではありえない声音でも、一言一句を聞き間違えることはない。鬼の口から予想だにしない名前が出たことに、しのぶも炭治郎も目を剥いた。そして、その名に最も関係がある伊之助が何も反応しないことに二人して青ざめる。眉を下げた禰豆子が倒れた体に触れても、応じる動きはなかった。

 

「炭治郎君、禰豆子さんに撤退を命じてください。伊之助君を連れて山の麓へ、後方部隊に合流しろと。貴方も」

 

「俺が残ります。しのぶさんも行ってください」

 

誰かが足止めしなければ撤退もままならないのは明白だ。そして、その役目は深手をおったしのぶでは成し得ない。刀を構えてしっかりと立つ炭治郎の額で痣がじわりと黒ずみ、ゴオオッと深い音を放つ独特の呼吸とともに心拍数と体温が上昇していく。

 

鬼気迫る少年の横顔をちらりと見つめ、しのぶも失血から震える手で突きの構えを取る。合理的ではないとわかっていても、後輩を置いて逃げ帰るのは柱の名折れだ。

 

「しのぶさん!」

 

「上司命令を聞けないなんて悪い子ですね。舐めるんじゃないですよ。私達でアレを討伐してやりましょう」

 

「……はいっ。禰豆子、伊之助を連れて山をおりろ! 優しくな、あんまり揺らすな!」

 

「むーむー!」

 

轡の奥から抗議の声が上がるが、いつ上弦の鬼がこちらに向いてもおかしくない今、炭治郎はもう一度鋭く言い放った。

 

「行くんだ、禰豆子! 兄ちゃんとしのぶさんも後から追いつく!」

 

「む……」

 

禰豆子は叱られたときのように項垂れ、しかし失神したまま血反吐を吐く少年の様子に意を決してその体を抱き上げた。本来の年齢の姿では大きさが足りず、ぐんぐんと妙齢の女性まで育ち、しっかりと伊之助を胸元に寄せる。そうして山の麓めがけて駆け出そうとしたところで、暗がりに立つモノに気づいて凍りついた。

 

「どうした、禰豆子、早くっ……」

 

 

ふわりと漂う悍ましい血臭と胸が痛くなるような冷気に炭治郎が鼻を覆う。しのぶもその冷気に表情を険しくさせ、上弦の伍から注意を離すことなく半身を新手の方へと向けた。

 

「おや、本体のお出ましですか。丁度いい、お前を片付ければ私が上弦の弐だ。入れ替わりの血戦のかわりと行きましょう、童磨!」

 

ヒョヒョといびつな笑い声をあげて魚の鬼が相手の名を呼ぶ。もう疑う余地はなかった。虹鬼の名は童磨。奇しくも、嘴平琴葉の夫であり伊之助の父である男と同じ名であった。

 

「相変わらずよく喋るね、玉壺」

 

それは穏やかな美声であるはずなのに、耳を刺す殺気をまとっていた。足音もなく木々の暗がりの合間から長身の男が現れる。白橡の長い髪を揺らし、黒い徳利襟にゆったりした袴をまとった優雅な姿。若々しい白皙は柔らかく整い、ぱっちりした虹色の双眸は本来なら得も言われぬ美しさだろう。けれど、夢のような眼差しは今、無機質に玉壺と呼ばれた鬼に向けられていた。

 

「虹鬼、お前はっ」

 

「君たちは邪魔」

 

身構える炭治郎と視線で殺せるほど睨むしのぶに目もくれず、虹鬼―童磨は玉壺の方へと足をすすめる。斬りかかることができる距離を悪鬼が通り過ぎていったというのに、二人が仕掛けることはなかった。炭治郎は童磨が発するごく薄い臭いに戸惑い、突きを繰り出そうとしたしのぶは体の表面を薄い氷に覆われて初動が遅れたのだ。

 

「妓夫太郎を奇襲で倒したようですが、私はそうは行きませんよ! ヒョッ、その奇天烈な目玉だけ作品に活用してやろう。さあ、愛らしい魚となれ!」

 

「……はあ、こんな馬鹿の壺を大事にしてたなんて」

 

血鬼術で呼び出された巨大な蛸が童磨に絡みつき、動きを封じたところに玉壺自身が殴りかかる。異形の拳が鼻先に迫っても優しげな顔立ちの無表情は動かず、無防備な顔面に攻撃が吸い込まれたように見えた。

 

パリン。

 

軽い破壊音を立てて氷の破片が盛大に散らばる。その様を見つめる童磨の顔には傷一つなく、彼が小さく身じろぐだけで太い蛸の足も同様に割れて崩れた。

 

「ばっ、馬鹿な、何の気配もなかった!」

 

「生憎かくれんぼは負けなしさ」

 

鱗に覆われた鬼の体は頭部以外凍りつき、その両脇から息を吹きかける美女の上半身の氷像を信じられないといった風に凝視していた。体の芯まで凍結しているであろうに、上弦の伍は回復力に物を言わせて再生しようとする。割れた拳が元の血色で生え変わるが、それも童磨が取り出した鉄扇であおぐなり氷と化した。

 

「竈門炭治郎君、これの頸を落としておくれ」

 

「なっ、なんで鬼同士で」

 

「早くしないとお友達が死んでしまうぜ」

 

「くっ……」

 

炭治郎が唇をかみしめて玉壺へと刀を振るう。首元まで凍結していたため、あっさりと刃がとおり、醜い頭部が地面に転がった。童磨は足元にきたそれを蹴り飛ばし、残った体を扇の一閃で粉々に砕いた。上弦の伍の気配がどんどん薄れ消えていく中、恐ろしい形相で黙っていたしのぶが口を開く。

 

「お前……っ、お前が伊之助君の父親か! 琴葉さんと伊之助君を騙していたな! 死んだと見せかけて、何年も隠れてっ、何を企んでいるの!!」

 

「うるさいなあ。怒鳴る暇があるなら、伊之助をさっさと医者に見せておくれよ」

 

自らも失血で倒れそうだというのに、しのぶの剣幕はまさに仇を見るそれだ。童磨は彼女の殺気をわざとらしく肩をすくめて躱し、人形のような顔のまま禰豆子と彼女が抱く伊之助を見やった。

 

「綺麗な琴葉と可愛い伊之助。二人との家族ごっこは楽しかったから、ちょっと見守ってみただけだよ。ほら、伊之助の中の俺は優しい父ちゃんだろ?」

 

童磨はくすくすと嗤って剣士らに背を向けた。比較的傷が少ない炭治郎はともかく、しのぶはもう自力で歩くことができない状態だ。日輪刀を杖のように地面に突き刺し、ただ広い背を睨むことしかできない。童磨の袴の影から氷の童子が三体顔を出したのも、彼らに攻撃をためらわせていた。

 

「早く行って。気が変わったら全員喰ってしまうぜ?」

 

「……必ず殺すから、頸を洗って待っていなさい」

 

「はいはい」

 

「しのぶさん、背負います。童磨、お前は本当は琴葉さんのことも伊之助のことも」

 

「うん、気が変わってしまいそうだ」

 

パチパチと硬質な音を立てて扇を開き、口元を隠した童麿が視線だけを送ってくる。虹の瞳は炭治郎を映してもまるで価値を置いておらず、玉壺に向けていた恐ろしい殺気がなくとも、ひとつ間違えれば殺すと雄弁に語っていた。

 

「炭治郎君、行きますよ。禰豆子さんは……偉い子ですね、もうだいぶ先にいるようです」

 

「わかりました……」

 

後ろ髪を引かれる様子で、しのぶを背負った炭治郎が走り出す。その姿が遠ざかり見えなくなり、鬼の聴覚でも足音が拾えなくなって漸く童磨は詰めていた息を吐き出した。

 

玉壺を一瞬で凍結させるほどの威力の寒烈の白姫を放つには、相応の血液が必要だった。量にして、上弦の弐を冠していた頃の数十倍だ。鬼舞辻無惨の血からなる血鬼術は当然ながらその血を失えば威力が落ちる。逃れ者となる際、大方の血を吐き出した今では、同じ攻撃でも何十倍もの労力を使うのだ。

 

(ああ、バレてしまった。伊之助は大丈夫かなあ。二人とも約束どおり、俺に騙されていたって『嘘をつかずに』答えるだろうけど、やっぱり心配だ)

 

琴葉が待つ家に帰れなくなってしまった。そう思い至って肩を落とす童磨の横顔には、空虚には程遠い覚悟が浮かんでいた。

 

 





【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。ノープランで挑んだ玉壺戦は力押し脳筋プレーで制した。伊之助の状態に全神経を向けていたが、どうにか呼吸も鼓動も助かりそうなレベルでホッとした。今回は体内の血液を半分以上使って寒烈の白姫を出したため、実はヘロヘロ。火力=使った血の量。逃れ者になって霧氷・睡蓮菩薩は出せなくなっている。早く何人か喰わないとやばいが、愛しの琴葉が待つ家に戻れなくなってしまい、ショックから暫く立ちすくんだ。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。今回出番なし。もうじき、あの夜の約束に覚悟を示さなければならない朝がやってくる。今はそんなことは知らずに幸せな夢の中。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。玉壺にエルボーされて下手をすれば死ぬような大怪我を負った。骨が折れ内臓に刺さっている。色々とやばい。拳で殴られなかったのは神回避。殴られてたら可愛い金魚になっていた。禰豆子にお姫様抱っこされて下山中。朦朧とする中、童磨が近くにいた気がした。諸々の覚悟はとっくにできている。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。玉壺相手に走り回っている内、額の痣が濃くなって最後の方は痣者状態だった。伊之助がやられて玉壺の腕を切り落とせたのはそのお陰。でもまだ誰も気づいていない。禰豆子に伊之助を先に連れて行かせ、しのぶさんを背負って下山中。はじめて遭遇した童磨からは、ほとんど感情の臭いがしなかったけれど、琴葉と伊之助のことを話した一瞬だけ春の花のような優しい香りがした。

胡蝶しのぶ
おこりんぼな蟲柱。姉の足を奪ったにっくき鬼と遭遇したが、上弦の伍の討伐を優先した。琴葉のことが大好きで伊之助とは性別を超えた友人であるため、二人が鬼と結託していたとは思わず、童磨が彼らを飼って遊んでいたのだと『誤解』した。童磨の思惑通りとは露にも思っていない。肩からの出血がやばいため、炭治郎の背中で失神しないでいることに必死。

玉壺
上弦の伍。童磨の脳筋プレーに瞬殺されてしまった。戦闘時間は90秒。冷静に距離をとって物量攻撃を仕掛けていればもう少し長生きできたかもしれない。でも伊之助を怪我させた時点でロックオンされていた。



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#21 邯鄲の夢の終わりに

タイトル=かんたんのゆめのおわりに

掌中の玉、あるいは逆鱗。



※原作主要キャラが原作とは異なるタイミングで退場します。このような展開が苦手な方はご注意願います。




後から思えば、それは虫の知らせだった。

 

ぱち、と翡翠の瞳をあけて琴葉が体を起こすと、外はまだ薄暗がりで朝日が登ったばかりの時分だった。童磨がおらずともきちんとした時間に目が覚めたことに嬉しくなり、口元が緩む。見る者がいないことが惜しいほどの美しい微笑みを残したまま布団を片付け、家族に似合うと言われた緑地に淡黄の柄の着物を着付けた彼女は、飾り立てずとも一枚の絵のようだった。

 

最近留守にしがちな童磨の姿はなく、今日も帰ってこないのかと少しさびしく思いながら朝食をとる。そして蝶屋敷に向かうべく玄関の土間に降りたところで、外から扉が叩かれた。

 

「はい、どちら様ですか?」

 

「こんな時間にすみません。不死川実弥です。開けていただけますか」

 

「あら、おはようございます、実弥さん。ちょっとまってね」

 

琴葉は見知った相手に警戒することなく戸を開け、高い位置にある実弥の顔を見上げた。大きな傷が刻まれた強面に表情はなく、つり上がった瞳が静かに彼女を見つめ返す。そこに何の感情も読むことはできなかった。

 

「何かあったの?」

 

「琴葉さん、お館様……産屋敷家当主が貴方と話がしたいと仰せなので、お迎えにあがりました。ご同行願います」

 

実弥が玄関を塞ぐように立っているため、琴葉からは彼の背後は見えない。そこには二人の隠が控えており、彼女が知る由もないが、家の裏手にはさらに三人の中級隊士が潜んでいた。

 

「わかったわ。でも、蝶屋敷でのお仕事は」

 

「心配いりません。胡蝶には連絡してあります」

 

「そう。それじゃあ実弥さん、案内をお願いします」

 

にっこりと笑んだ琴葉に、実弥はあくまで事務的に背後の隠らを示し、そのうち女性の方におぶさるよう指示した。童磨以外の背におぶさるのは少し恥ずかしかったが我慢して覆面姿の背に身を預ける。さらに目隠しをされて少しの緊張感を抱くも、近くに感じる実弥の気配が不安をおさえていた。

 

「故あって行き先は所在を隠しているため、目隠しと耳栓をしてもらいます。移動はすべて隠が担い、途中で何度か別の者に引き継ぎますが、俺も目的地まで同行するのでご安心を」

 

「はい」

 

そのやり取りを最後に両耳に栓を入れられ、隠の走りに合わせて体が揺れる。琴葉にできるのは安定するようしがみつくぐらいで、暫くすると時間の経過もわからなくなってしまった。分厚い目隠しで日の上り具合もわからず、実弥が言ったとおり背負う人間が三回も変わり、いよいよ方向感覚が皆無になったところで隠の足が止まる。

 

地面に足をつけた途端、膝が笑って座り込みそうになった琴葉を実弥が横から支えてくれた。そのまま目隠しと耳栓も外してくれた男は、琴葉とは真逆で平然としていた。

 

「あ、ありがとう」

 

「いえ。歩けないなら抱えていきますよ」

 

「大丈夫、自分で歩きます。もう少しだけ待ってね」

 

琴葉たちの前にあるのは立派な門構えの屋敷だ。緑深い森の奥にあるそこは別世界のようで、実弥の言からして産屋敷一族の住まいなのだろう。琴葉は一般人ではあるが、鬼殺隊に関わる仕事柄、産屋敷耀哉と彼の一族の立場は重々承知していた。

 

「よし、もう大丈夫よ。ごめんなさいね、実弥さん」

 

萎えた足に血が巡ってしっかりと地面を踏みしめられることを確認する。案内を求めて実弥を見やれば、彼は少し困ったように眉を下げていた。

 

「こんなに素直についてきて、よかったんですか?」

 

「ここは鬼殺隊で一番偉い方のお家でしょう? 何を心配することがあるの?」

 

「……琴葉さん、ここで何を聞かれても正直に答えてください。それが貴方と伊之助のためになる」

 

「よくわからないけど、お館様に嘘はつかないわ」

 

いつもどおりの柔らかさで琴葉が答え、実弥が彼女を連れて産屋敷邸の敷居をまたいだのは、ちょうど太陽が真上に届いた時分。鬼の時間には程遠い、遅い朝のことだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

春の陽のような女性。

 

それが嘴平琴葉を前にして、産屋敷耀哉が彼女の気配に抱いた印象だ。視力を失った耀哉には彼女の姿は見えない。しかし自らの特殊なそれとはまた異なる迦陵頻伽のごとき美声と、柔らかく暖かな雰囲気から、大層美しい人物なのだろうと想像できた。

 

病床から上半身を起こし妻のあまねに支えられた耀哉の正面に琴葉が座り、その斜め後ろに風柱・不死川実弥が、耀哉の布団の後ろの壁際には音柱・宇髄天元と炎柱・煉獄杏寿郎が座している。それなりに大きな一間とはいえ、大柄な剣士が三人もいるため物々しさは否めない。このような場所で囲まれて怯えてしまうだろうかという懸念は、穏やかな琴葉の物腰にかき消されていた。

 

「急な呼び出しに応じてくれてありがとう、琴葉さん。私は産屋敷耀哉。こんな格好での面会になってしまってすまないね」

 

「はじめまして、産屋敷様。嘴平琴葉と申します。お会いできて嬉しいわ。お加減がよくないのなら、どうぞ横になってください」

 

「いや、大丈夫だよ。早速だけれど、今日は貴方の家族について聞きたくて来てもらったんだ。少し気になることがあってね、童磨という人物について教えてほしいんだよ」

 

「童磨さんのこと?」

 

ふわりと首をかしげる琴葉は自然体だ。もとよりこの場の誰も彼女が自ら鬼に協力しているなどと考えてはいない。彼女の人となりは、藤の家紋の家で手伝いをしていた頃から大変評判がよく、蝶屋敷で働き始めてからは柱から下級隊士に至るまで数百人が彼女の優しさの世話になっているのだ。このため、今日のこの場は琴葉の尋問ではなく、穏便に情報を聞き取ることを目的としていた。

 

「そう。貴方たちの馴れ初めから詳しく聞かせてくれるかい」

 

「わかりました。長いお話になるけど、いいかしら」

 

「勿論だよ」

 

耀哉の了承を受け、美しい彼女はとろりとした愛らしい声で十五年前の出会いを語り始める。はじめに明かされた伊之助が彼女の連れ子であった事実に、耀哉も柱三名も内心でやはりと思う。鬼と人間の混血は、鬼殺隊が設立されてこの方一度も確認されていないのだ。赤ん坊を連れた琴葉を童磨が自らが教祖をつとめる寺院で受け入れ、そうして七年近くの幸せな歳月をつたなく純真な言葉が紡いでいく。ところどころ時間が前後したりと、けして賢い語り口でなかったが、だからこそ琴葉が描く過去の姿は鮮明だった。

 

「伊之助が七歳になってすぐの夜、鬼が襲ってきたんです」

 

「琴葉さん、少しごめんね。体勢を変えたいんだ」

 

「あ、ごめんなさい! お体が悪いのに私ったら」

 

「いや、お願いしたのはこちらだからね、気にしないで。あまね、この格好でいい。そうだ、琴葉さんにお茶を出して差し上げて」

 

「かしこまりました」

 

「あのっ、お構いなく」

 

「お客様なのにお茶も出さずに失礼した。あまねはお茶を淹れるのが上手なんだよ、是非味わってほしい」

 

聞く者の精神に訴えかける耀哉の声は琴葉の美声さえ霞む影響力がある。無防備にそれを受けた琴葉は従順に湯呑を受けとり、勧められるまま中身を口にする。あまねが淹れた茶には、後ろ暗い尋問で使用される自白剤が微量に含まれていた。

 

「話の腰を折ってしまったね。さあ、続けて」

 

「はい。鬼が襲ってきた……あれは六つ目がある怖い鬼だったわ。お侍みたいな格好で刀を持っていて、そんな鬼が突然部屋の中に現れたから、童磨さんはとても警戒していました」

 

琴葉の言葉尻が弱くなり、何年も前の恐怖を思い出しているのか翡翠の瞳がふせられる。ともすれば嘘をつく前のような仕草だが、それを見極めるために同席させた天元からの合図はなかった。

 

「鬼が斬りかかってきて、童磨さんが私と伊之助を抱き上げてくれて、寺院を出て夜の森をずっと逃げました。あんなに必死な童磨さんは見たことがなかったわ。ずっと走って、逃げて、私は途中で怪我をして気を失ってしまったけれど、森を抜けて鬼を振り切ったの。鬼は太陽が怖くて追ってこなかったんですって」

 

「それは誰から聞いたんだい?」

 

「伊之助です。童磨さんが私達をつれて小さな小屋に逃げ込んで、怪我をした私のために助けを呼ぶようにって、あの子を村の方に行かせたの。私が目を覚ましたのは藤の家でです」

 

「その後、貴方達親子は藤の家紋の家に保護されたんだったね。琴葉さん、その時、童磨はどうしていたのかな?」

 

核心を突く問いかけにも琴葉の気配はゆらぎ一つなく、彼女はにっこりと胸元に両手をあてて答えた。

 

「ずっとここに、私の胸の中で見守ってくれていました。童磨さんと私達は家族だから、ずっと一緒だって約束したの」

 

天元からの合図はない。琴葉からは見えない実弥の様子は気遣わしげだ。杏寿郎も口を引き結んで黙っているが、隻眼の眼に厳しさはなかった。彼らは知っているのだ。この優しい女性にとって現実と理想の境が曖昧で、夫との別離はなかったことなのだと。藤の家で働いていた頃から琴葉がその言動から気が触れていると思われていたのは、耀哉の耳にも入っていた。

 

「……そうか。彼は今もいるのかな」

 

「ええ、いつでも見守ってくれています」

 

続きをお話しなきゃと意気込む琴葉に、耀哉はゆるりと手をあげて制した。

 

「ありがとう、琴葉さん。とても良くわかったよ。もっと聞きかせてほしいけれど、少し疲れてしまった。お招きしておいて申し訳ないね。今日はここまでにして、また後日お願いできるかな」

 

「勿論です。でも、こんなお話でよかったのかしら」

 

何も疑っていない問いかけに、男たちのほうが後ろめたい気持ちになってしまう。改めて礼を述べる耀哉に琴葉は恐縮してぶんぶんと首を振り、深く頭をさげてから実弥の案内で部屋を後にした。

 

廊下に控えた産屋敷家の子女が襖を締め、閉じた空間で柱二人が静かに耀夜の正面へと移動する。

 

「天元、琴葉さんは一つも嘘を言っていないね」

 

「はい、あれは見た通り聞いた通りの人間ですよ。悪い言い方をすればさして賢くもない。俺を騙すほどの演技も嘘も無理でしょう」

 

「本当に悪い言い方だな、宇髄! お館様、琴葉殿は今、家に一人です。蝶屋敷に移すか、いずこかで保護すべきではないでしょうか」

 

天元と杏寿郎の口々の言葉に、耀哉は顎に手をふれてやや考え、小さくかぶりを振った。

 

「いいや、彼女は虹鬼―童磨に繋がる鍵だ。隠してしまうより、そのままにして彼からの接触を待とう。大丈夫、彼女が傷つけられることはないよ」

 

「それでは、嘴平親子への沙汰は如何様に?」

 

「琴葉さんには鴉をつけて見守らせる。杏寿郎、君の継子の伊之助も処分はなしだ。本人の話が聞ける状態になったら、君から事情を確認しておくれ。その時は、彼の同期の炭治郎と善逸を同席させるといい」

 

鬼殺隊の隊士らの能力は事細かに本部に伝達されている。特に各隊士につく鎹鴉からの報告はつつがなく、竈門炭治郎の嗅覚も我妻善逸の聴覚も、その度合までもが耀哉の知るところであった。

 

「承知いたしました」

 

杏寿郎が頭を下げ、天元もそれに倣う。彼らに下がるよう伝え、妻と二人きりになった耀哉は布団に横たわって今ほどの語りを思い起こした。

 

(二年前に童磨が現れた時、彼は体の大きさを変えていた。琴葉さんが言う胸の中というのは、文字通り胸元に隠れていたのかもしれないな。だからあの日、童磨は蝶屋敷に現れ、そこからここにやってきた。琴葉さんは嘘をついていないけど、童磨の正体を知らないはずがない。いくつか口にしてはいけない事柄を指定して、後は自由にさせているのか。あの人柄と周囲の誤解を隠れ蓑にしたやり口……童磨の入れ知恵だろう)

 

この屋敷に鬼がやってきたことは柱たちに伝えていない産屋敷夫妻の秘密だ。所在を知られたとはいえ危害を加えられたわけでなく、そも相手は耀哉らに興味さえ抱いていなかった。下手に知らせて柱たちが一族の警護を強行しないようあえて伏せたのだ。あの時、童磨が語った『可愛い子』というのは琴葉のことで間違いない。

 

(あの鬼の目的は人間に戻ることで、鬼舞辻とは利害が一致しない。今や上弦を二体始末して完全に敵対しているはず。お互い潰しあって消耗してくれるなら願ったりだ)

 

盲た目を巡らせ、鬼舞辻無惨滅殺の一手として鬼同士ぶつけ合うことを考慮する。小さな咳に体が震え、唇を濡らした微量の血をあまねが拭き取る間も、耀哉の思考は怨敵へと向けられていた。必ずや無惨を殺し、全ての悪鬼を滅ぼす。その執念だけが、とっくに余命を使い果たした男を生かしている。

 

(輝利哉に共有しておこう。嘴平親子を押さえておけば童磨は容易に討伐できる。本当に信じがたいけれど、アレは仮初めの家族を大切にしている。そうでなければ逃亡時に陽の下に飛び出すことも、上弦の参や伍との戦闘で助けに入る理由もない)

 

あまねに息子を連れてくるよう伝え、しずしずと離れていく足音に耳をすませる。彼女が遠ざかるなり自分でも聞くに堪えないせせら笑いがまろびでた。あれほどの鬼の弱点が人間の親子だと思うと、病に蝕まれた腹のそこから嗤えてきたのだ。伊之助を安易に動かせない今なら、嘴平親子を盾に取りあの悪鬼を無惨に対する鉄砲玉にさえできるかもしれない。その想像に耀哉は彼らしからぬ暗い音をたてて暫く嗤っていたが、ふいに首筋に触れた冷たさに口を閉ざした。

 

(ああ、鬼を憎むあまり勘が曇っていたようだ。すまない、あまね、子供たち)

 

「……妻と子らは何も知らない。君の家族を害そうとしたのは私だけだよ」

 

それが産屋敷耀哉の最後の言葉となった。あまねが長男を連れて部屋に戻った時、鬼殺隊の棟梁だった男は静かに布団に横たわり、呪いに侵された顔から胸元までを血反吐で染めて息絶えていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

伊之助が蝶屋敷に運び込まれたのは戦闘明けの日の出間際のことだった。道中で応急処置を施され、意識がないまま手術室に直行することになった彼は、外科医の的確な対応により一命をとりとめた。傷ついた内臓も折れた肋骨も大重傷であるものの完治する見込みだ。とはいえ本人の意識は数時間では戻らず、琴葉が不在の間、アオイと幼い看護婦らが入れ代わり立ち代わりで様子を見ていた。

 

同じく重傷のしのぶも蝶屋敷につくなり意識を失い危険な状態であったが、傷の処置と大量の輸血で事なきを得た。彼女もまだ意識が戻らず、責務ゆえ妹についていることができないカナエに替わり、カナヲが寝台脇に陣取ってずっと手を握っている。

 

そのような状況であったから、もう一人の怪我人の炭治郎は後回しとなり、もうじき正午という時分にカナエの手による処置を受けていた。診療室の寝台に横たわる少年から任務の顛末を聞き、元花柱は悲しげに睫毛を伏せる。

 

「そう、童磨さんが虹鬼だったのね」

 

「信じてもらえないかもしれませんが、彼は伊之助を助けに来たんだと思います」

 

眉を下げてそういう少年に、カナエはそうねと力なく頷いた。

 

「炭治郎君、人間と鬼が仲良くすることが私の夢だって話したことがあったでしょう」

 

「はい。素敵な夢だと思います!」

 

「ふふっ、ありがとう。前にね、この夢を捨ててしまおうと思ったことがあったの」

 

「どうしてですか!?」

 

炭治郎にとって、カナエが抱く夢はある意味の希望だ。妹の禰豆子を必ず人間に戻すと誓っているとはいえ、今の彼女が鬼であることは事実で、二人が出会う誰もが最初は禰豆子を警戒する。いつかの裁判はその最たるものであり、炭治郎の心に深く刻まれていた。そんな状況にあって、鬼とわかりあう可能性を捨てないカナエは酷く眩しく映ったのだ。

 

「人間を愛するあまり鬼舞辻を裏切った鬼が、人喰い鬼だったからよ」

 

そう言ったカナエに何かを問いかけることはできなかった。一羽の鎹鴉が診療室の窓をこつき、招き入れられるなり高らかに告げたからだ。

 

「産屋敷耀哉病死! 本日ヲ持ッテ産屋敷家当主ハ産屋敷輝利哉ガ務メル!」

 

それは嘴平琴葉の遅い出勤の少し前、伊之助の意識が戻らない中での激震であった。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。今回直接の出番なし。身バレしてからは拠点を作らず、ばらまいた結晶ノ御子を介して情報収集と珠世との連携を続けている。なにげに根無し草ライフは生まれてはじめて。人間に戻る薬の完成を心待ちにしつつ、行く先々で人を喰って力を蓄えている。琴葉と伊之助が恋しくてエア枕を濡らしている。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。自白剤込みで大変正直に童磨との馴れ初めから逃亡までを語った。あの夜の約束は「けして自ら童磨が鬼であることを言わないこと」の一点のみ。童磨は小指をほどいた後、けして嘘はつかず、ただ信じて黙っていてほしいと彼女を抱きしめた。家族を信じる覚悟は誰にも負けない。産屋敷邸を離れた後、耀哉が病死したと聞いてショックを受けた。蝶屋敷で息子の大怪我を知り、今日は一日側についていていいと言われた途端号泣した。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。今回はずっと意識不明状態。蝶屋敷で手術を受け、諸々の処置のすえ一命をとりとめた。後遺症はない見込みの強運の持ち主。目が覚めたら目を腫らした母親が手を握ってくれていた。父ちゃんは家に帰ってないのか……そっか。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。カナエには蝶屋敷での最初の入院時からとても世話になっている。禰豆子に最初から優しくしてくれる稀有な鬼殺隊関係者として大変親しみを抱いており、彼女の足を奪った虹鬼=童磨=伊之助の父親という構図に頭がパンクしそう。伊之助の挙動について他が知らないことを知っているが、本人と話すまでは他言しないつもりの律儀すぎる石頭。

不死川実弥、煉獄杏寿郎、宇髄天元
耀哉の指示で琴葉からの聞き取りに同席した。全員琴葉と面識があり、不用意に彼女を怯えさせないだろうことからの人選。この内最もバイアスなしに彼女を見ていたのは天元だが、まっさらなベースを意識するあまり「嘘は一つもついていない」等の純然たる事実しか拾うことができなかった。攻撃的かつ端から疑ってかかる伊黒小芭内のような人物の方が真実に迫ることができただろう。なお、煉獄さんは継子に咎があれば自ら殺し、連座で切腹する覚悟があった。

産屋敷耀哉
お館様。産屋敷家97代目当主。虹鬼=童磨の報告を受け、ついに琴葉を特定した。彼女から話を聞き、同席した柱たちとは異なる解釈(事実にほぼ一致)にたどり着いたが、それを誰にも告げることなく死亡した。なお、産屋敷夫妻には常に結晶ノ御子が一体張りついていた。原作において鬼舞辻無惨さえ恐れさせたオロチのごとき憎悪が皮肉にも彼の勘を鈍らせた。享年23歳。





【悪鬼の所業のこそこそ話】

血鬼術・粉凍り改はいつでも普通の粉凍りに変えることができるよ!
肺臓にこびりついた粉によるダメージは、体中を蝕む呪いのそれに激似だよ!
凍った粉は血鬼術を解除すると消え去るよ!

童磨はちゃんと「俺の可愛い子を特定しないでね」「邪魔しないでね」と忠告していたよ!
あまね様も子供たちも全員粉凍り改を摂取済だよ!
いつだって結晶ノミニ御子が一緒だよ!



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#22 地獄の沙汰を待つ者よ



タイトル=じごくのさたをまつものよ

鬼舞辻無惨、あるいは迷惑を被っている鬼達。



第一部 無限列車後のパワハラ会議
第二部 無惨様のたうち回る
第三部 21話の続き




 

 

無限城。あらゆる空間の法則から解き放された、琵琶鬼・鳴女の血鬼術による鬼たちの城。列車の脱線事故が世間を騒がしている時分、そこには鬼の祖・鬼舞辻無惨と七体の配下が集っていた。

 

「童磨が生きていた」

 

艶やかな黒髪を品よく後ろに撫でつけた子供が見た目相応の高い声で吐き捨てる。ハイカラな洋装を身にまとった愛らしい姿だが、血色が悪い人形のような顔に浮かぶのは青筋と憤怒の形相だ。彼こそが鬼舞辻無惨。千年以上を生きる鬼の祖である。

 

「黒死牟、お前は言ったな。アレは朝日の下に飛び出し、消滅したと」

 

「…………」

 

六つ目の剣鬼―黒死牟は跪いて黙っている。彼は確かに童磨を日がさす草原へと追いやったが、その消滅までは目にしていない。無惨への報告の際にも、消滅したとは一言も口にしなかったのだが、上弦の壱は賢明だった。

 

無惨は頭を垂れる部下たちをじろりと見下ろしていたが、ややあって梅色の頭をした若い男の鬼で目を留めた。

 

「猗窩座」

 

「はっ」

 

「お前の前に現れたのは童磨の血鬼術による氷像だったな」

 

「はい」

 

「本体でなければ戦ったところで意味がない。そんなことにも気づかず挑発に乗り、柱どころかあの場の鬼狩りを一人も殺せずおめおめ逃げ帰ってきたのか」

 

「……申し訳ございません」

 

黒死牟と違い、猗窩座には明確な落ち度の自覚があった。鬼同士の戦いは不毛であり、それが分身との戦闘であればなおさらだ。童磨への個人的な嫌悪に突き動かされ、確実に殺せたはずの炎柱を見逃してしまった。頭を下げたままの猗窩座の視界の端に小さな革靴が入り込む。途端、大きく震えた彼の体内をめぐる血が熱湯のように沸き立った。

 

「物事の優先度もわからぬ狗めが。上弦の弐が空席となっても数字を繰り上げなかったのは正解であったな。お前には失望したぞ、猗窩座、猗窩座、猗窩座!!」

 

平伏したまま動かず声もあげない猗窩座の全身にヒビが入り、ミシミシと音を立てる。まるで握りつぶされる寸前の張り子のようだ。長い睫毛に縁取られた双眸から涙のように血液がこぼれ、口からさらに大量の血を吐き出しても、上弦の参は静かに折檻を受け入れていた。

 

「お前達も同罪だ。青い彼岸花を見つけることもできず、産屋敷の所在もわからず、鬼狩り共を根絶やしにすることもできず、あまつさえこの八年間、童磨が生き延びていたことに気づけなかった役立たず共め」

 

無惨の赤い瞳が上弦の鬼たちを順に睨み、血の呪いを介して畏れを植え付けていく。黒死牟はただ六つ目を閉じて耐え、猗窩座はすでに与えられた痛みを黙って噛み締めていたが、他の四名は視線を受けるだけでガタガタと震えた。

 

「ヒイイッ、お許しくださいませ、どうかどうか」

 

ひときわ震えが酷い老人の鬼―上弦の肆・半天狗の声を皮切りに、上弦の伍・玉壺と上弦の陸・妓夫太郎と堕姫が口々に謝罪する。

 

「うるさい、黙れ。私はお前たちに期待しすぎていた。上弦だからという理由で甘やかしすぎた。特に、八年経っても上弦の弐に相応しい実力を備えられない弱者ども! 今後はもっと必死になったほうがいい。いつまでも私が目こぼしすると思うな。青い彼岸花の捜索、産屋敷の居場所の特定、そして童磨の始末。何も難しいことではないはずだ。これ以上、私を失望させるな」

 

無惨はそれだけ言っておもむろに「鳴女」と背後の琵琶鬼を呼び、現れた障子から城の外へと出ていった。人間社会での隠れ蓑である裕福な家に戻っていったのだ。仮初の子供の姿が見えなくなり、恐ろしい気配が完全に消え去って、上弦の鬼たちはそれぞれ平服していた格好から体勢を正した。

 

「こっ、怖かった……怖かったよう、お兄ちゃん!」

 

「そうだなあ、俺もおっかなかった」

 

「ヒイイ、あれほどお怒りになったのは百十三年ぶり、恐ろしい、恐ろしい!」

 

「お怒りのお顔もまた良い……」

 

下位のものたちがざわめくのをよそに猗窩座が立ち上がり無表情にあるき出す。同じく立ち上がった黒死牟の隣で一瞬だけ足を止め、ひび割れた瞳で横目で睨んだ。

 

「アレは俺が必ず殺す。手出し無用だ」

 

「そうか……励むことだ……」

 

そのやり取りを最後に、猗窩座は一気に飛び出し、前方に現れた襖の向こうへと消えた。黒死牟も幻のように消え、一人また一人と上弦の鬼たちが去っていく。ついに無限城には琵琶の鬼のみが残り、うら悲しい音色が薄暗がりに響いていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

堕姫からの念話が届いた時分、無惨は養母が主催するティーパーティーに参加していた。皮膚の病気を患い外で遊べない子供のため、年かさの夫人は何かと娯楽を提供しようとする。勉強熱心を装ってどんな本でも手に入れられるのは良いが、つまらない女たちの世間話につきあわされるのは不快であった。そろそろ体調不良を理由に部屋に戻ろうかというところで、脳内に高い女の声が響いたのだ。

 

(堕姫のもとに童磨が? 今は昼間だぞ、一体何をしにきた)

 

具合が悪いふりで目を閉じた瞼の裏で擬態を解き、堕姫の視界を共有する。そうした途端、間近に童磨の顔があったことに身じろぎしそうになったが、それよりも早く視界が不自然に天井に向き、くるくると360度回った。

 

(頸を切られただと!?)

 

童磨と堕姫の実力差なら一方的に頸を撥ねられてもおかしくはない。しかし次の瞬間、床に転がった頭にとてつもない光が浴びせられ、無惨はたまらず座っていた椅子から転がり落ちた。養母たちが大慌てで駆け寄ってきたが、それどころではなく、自らの体を掻き抱いてもんどり打つ。もう少しで変化さえやめてしまうところで、理性の糸が「焼けているのは自分ではない」と気づかせ事なきを得た。

 

(太陽だと!? 童磨がやったのか、おのれッ、視覚共有が切れた)

 

恐慌状態になっている間に妓夫太郎と堕姫とのつながりは消えてしまい、日に焼かれて死んだのだと理解した。全ては堕姫からの連絡から一分も経たないうちに終わっていた。

 

「俊國、どうしたの?! 発作かしら、急いでお医者様を」

 

「いえ……必要ありません。お母様、少し寝れば治ります。お部屋に戻ってもよろしいでしょうか」

 

「そんな、今の苦しみ様は普通じゃないわ。お医者様に診てもらいましょう!」

 

「いらないと言っている! ……申し訳ありません、気が動転してしまって。あれは発作じゃないのです。昔、太陽にあたってとても熱かったことを思い出しただけです」

 

「まあ……可哀相に、とても怖かったのね。それならゆっくり休むといいわ。お母様がついていてあげましょう」

 

「いいえ、お気遣いありがとうございます。お母様はこのまま皆様と楽しんでください。皆様、お騒がせいたしました」

 

これ以上この場に留まったら、人間たちを皆殺しにして折角の都合がいい隠れ蓑を失ってしまう。無惨は持ち合わせていない忍耐をありったけ発揮して健気な子供を装い、ティールームを後にした。

 

私室に戻り、養母がよこした召使いを適当に門前払いしてから、小さな革張りの椅子に乱暴に腰掛ける。冷たい怒りを燃やしながら考えるのは、今ほどの元上弦の弐と上弦の陸の戦いだ。鬼同士で、ああも一瞬で決着がつくことはない。たとえ共食いしたとしても、喰われた方が絶命するまでに暫くかかるものなのだ。

 

(太陽を利用するなど、鬼殺隊以上のキチガイめ。いや、アレは元々頭がいかれていたか)

 

童磨という鬼は、出会ったその時から気味が悪い相手であった。不思議な色彩をした『神の子』の噂を聞いて鬼にしてみたが、最初の飢餓状態から立ち戻るなり、人であった頃と変わらない様子で教祖としての生活を続けた変わり者だ。思いのほか早く下弦の月に名を連ねた男の頭の中はまるで更地で、それは上弦の弐となってからも変わらなかった。何を考えているのかまるでわからない、無機物のような思考回路。逃れ者でも、珠世のように脆弱なうえに目的がはっきりしていれば脅威にはなりえないが、童磨は別だ。

 

(アレは危険だ)

 

生来の臆病さが警鐘を鳴らす中、無惨は上弦の鬼たちに言葉を飛ばした。

 

(妓夫太郎が童磨に殺された。いつまで奴を野放しにしているのだ、即刻始末しろ! 私の元に奴の頸を持ってきた者を新たな上弦の弐に据える。黒死牟、お前にはさらに血を与えてやろう)

 

それだけ言い放ち、苛立たしさに奥歯を噛みしめる。歯が砕けてもすぐさま生え変わり、口の中に残った欠片を適当に吐き捨てることもできず飲みこんだ。喉元の不快感が虹の瞳の鬼を連想させ、無惨の機嫌をますます降下させたのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

産屋敷家の当主となった輝利哉は、父の葬儀を滞りなく済ませ、すぐさまその責務を引き継いだ。何百人もの剣士らを率いる重圧は志半ばに倒れた耀哉の無念を思えばさしたるものではなく、輝利哉の幼くとも明晰な頭にあるのは、一日も速い鬼舞辻無惨の討伐ただ一つだった。

 

「意識が戻ったばかりのところすまないね、しのぶ」

 

「いいえ、このような姿でお迎えしてしまい申し訳ございません。先代様のこと、心よりお悔やみ申し上げます」

 

「ありがとう。もう葬儀も済んで落ち着いたからね、こちらのことは心配無用だよ。しのぶはしっかり養生して回復に専念しておくれ」

 

母親似の輝利哉の顔に浮かぶ微笑みに先代ほどの柔らかさはない。それは顔立ちのせいでもあり、八歳の当主がその体を埋め尽くす激情を飼い馴らせていない現れでもあった。本来なら、後ろに控えているあまねにまだ守られているべき年齢の子供だ。けれど、輝利哉とあまねは当主と一家人という関係をすでに確立させ、周りに知らしめていた。

 

寝台で上半身だけ起こした格好の胡蝶しのぶは、そんな相手の様子を見取って優しい表情を浮かべていた。上弦の鬼との戦闘で深手を負った彼女の目が覚めたのは、四日たった昨晩のことだ。カナエとカナヲにひとしきり抱きしめられ、アオイに琴葉、そして幼い看護婦らからも盛大に喜ばれた後、産屋敷耀哉の訃報に始まり伊之助の容態や任務のその後について聞かされ、衝撃のあまりあっという間に朝になってしまった。朝食とともに諸々を消化していたところに輝利哉が見舞いに現れたのだ。

 

お陰で琴葉と伊之助のことを考える時間がないのは、果たして良いことなのか。そんな思考を頭の片すみに追いやり、しのぶは目の前の新しい上司の言葉を待っていた。

 

「今日は、しのぶに提案があって来たんだ。重要なことだから早く耳に入れておきたかった」

 

「どのようなご提案でしょうか」

 

輝利哉はその零れそうな黒い瞳でしのぶを見つめ、薄く口角をあげたまま告げた。

 

「上弦の鬼には藤の毒があまり効かなかったと聞いた。より強い毒を開発するため、共同研究をしてはどうかな」

 

「……お相手はどなたですか?」

 

しのぶの問への答えは鬼殺隊の数百年のあり方を揺るがすものであり、竈門禰豆子という始まりの楔が打ち込まれたことで生じた亀裂をさらに大きくする鉄槌でもあった。可憐な顔を強張らせた少女に、輝利哉は答えは後日でいいと述べたが、彼女はふるりと首を振り承諾を口にしたのだった。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。今回は直接の出番なし。無惨様を見事床に転がした本シリーズ最凶の鬼。そろそろ薬ができたかなと珠世のもとに向かったところ、興味深い話を聞かされた。実は何度か伊之助の病室に忍び込んで様子を確認している。なかなか目を覚まさないのでとっても心配。琴葉の方は24時間鎹鴉が張りついていて接触を断念せざるを得なかった。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。今回は出番なし。童磨から全く音沙汰がないが、約束を信じて待っている。伊之助の看病を中心に、これまでどおりに蝶屋敷でお仕事に励んでいる。24時間体制で鴉に見られていることには気づいていない。童磨=虹鬼と知った鬼殺隊と関係者の面々は、彼女を気遣って童磨のことを引き続き虹鬼と呼んでいる。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。今回は出番なし。しのぶさんの2日後に意識が戻った。最初に会話したのは琴葉だが、カナエの診察が終わるなり煉獄さんが炭治郎と善逸を引き連れて見舞いにやってきて「来たか」と同期らにバレない程度に身構えた。

胡蝶しのぶ
おこりんぼな蟲柱。四日間意識がなかったが、ちゃんと回復に向かっている。寝ている間に産屋敷家当主が代替わりしていて衝撃を受けた。童磨と嘴平親子のこともそうだが、藤の毒が玉壺にほとんど効かなかったのも一大事。輝利哉からの提案は、上弦の伍と童磨に完敗していなかったら到底受け入れられるものではなかった。

鬼舞辻無惨
世間では頭無惨やらパワハラ上司やら呼ばれている鬼の祖。童磨の裏切りから八年間、死んだものと思っていたが、猗窩座と結晶ノ御子らの一件で生存が発覚して機嫌が急落した。上弦の弐は前任が強すぎたため、繰り上げずに空席にしていた。なお、童磨が上陸兄妹を始末してからは童磨討伐の報酬とした。堕姫と視界共有していて太陽に焼かれたのは、瞬間的とはいえ縁壱から逃亡した時と同じぐらい怖かった。

上弦の皆さん
よく調教された社畜の面々。退社した童磨を死んだものと思っていたが、奴はしぶとく生きていたうえに末席の陸を瞬殺、討伐にかかった伍を返り討ちにしてしまった。無惨からの念話を受け、早く討伐せねばと色めき立っている。なお、餌に釣られたのは肆と伍のみ。

産屋敷輝利哉
お館様。産屋敷家98代目当主。余命宣言を通り越してガンガン仕事をしていた父親が亡くなり、八歳にして数百人の子持ち()となった。基本の情報はすべて共有されており、お通夜の晩に母から二年前の童磨の来訪についても聞かされた。正直いっぱいいっぱいだが負けない気持ちで立っている健気な男の子。この度、しのぶさんに珠世様との共同研究を提案した。饒舌な鴉による珠世様への申し入れは、この後すぐ。






【こそこそ時系列説明】

ある夜 玉壺との戦い、童磨の身バレ、本部にしのぶさんの鴉からの報告が入る
同日明け方 風柱が琴葉をお迎え
同日朝~お昼 琴葉の聞き取り調査、直後に耀哉が死亡
同日午後 全隊士に耀哉の訃報と新当主着任の報せが届く
翌日 産屋敷家のお通夜
翌々日 産屋敷家のお葬式
四日後夜 しのぶさんが意識を取り戻す
五日後朝 輝利哉が蝶屋敷を来訪
五日後夜 珠世さん家に鴉がやってくる
七日後朝 伊之助の目が覚める



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#23 降魔の刃を振るえ

タイトル=ごうまのやいばをふるえ

鬼の息子、あるいは箱庭の住人。




炭治郎が美しい友人を見舞う機会を得たのは、彼の目が覚めたあくる朝のことだった。蝶屋敷からほど近い町で単独任務についていた炭治郎のもとに炎柱・煉獄杏寿郎の鎹鴉がやってきて、翌朝の伊之助の見舞いに同行するよう要請があったのだ。杏寿郎の力強い文字には何も詳細はなかったが、それが何のための同行であるかわからないほど、炭治郎は子供ではなかった。

 

蝶屋敷の前で同じように呼び出されていた善逸と合流し、杏寿郎の後について病室へと向かう。廊下で琴葉に見つかり、愛らしい笑顔で「お見舞いに来てくれてありがとう」と言われたのが心地が悪かった。

 

「伊之助、具合はどうだ!」

 

「お見舞いに来たよ」

 

「大怪我したって聞いて凄く心配したんだからな!」

 

獅子のような男が溌剌な大声と共に入室し、妹が入った木箱を背負った炭治郎とすでに大泣きしはじめている善逸が続く。部屋に三つある寝台のうち、奥の二つは無人だった。手前の寝台の住人はまくらを背に体を起こしており、昨晩やっと目を覚ましたにしては血色が良い。完璧に配置された目鼻立ちは相変わらずで、大粒の翡翠の瞳が三人を見つめていた。絵になる瞬間は、しかし彼が発した荒く低い声に打ち壊された。

 

「師範、三太郎、紋逸! ねず公も来たのか」

 

「炭治郎だ」

 

「善逸だよ! いい加減覚えろよな!」

 

「師範はそこの丸っこい椅子使えよ。お前らはそっちの寝台でいいだろ」

 

「うむ」

 

足を踏み入れた瞬間こそ伊之助の美少女めいた容貌もあって儚い風情の病室だったが、四人の声が入り交じると一気に活気づいてにぎやかになる。入院着姿の伊之助の両腕は包帯に包まれており、手術で一度切開された胸から腹はさらに手厚く覆われていることが想像に易かった。

 

「で、何か俺に聞きたいことでもあんのか?」

 

伊之助が杏寿郎、善逸そして炭治郎の順で目を合わせ、思わず変な顔をしてしまった炭治郎を小さく鼻で笑った。

 

「そのとおりだ! 今日は見舞いも兼ねて聞き取り調査に来たのだ。早速だが伊之助、君は上弦の伍討伐の顛末を誰かから聞いているか?」

 

どかりと背が低い椅子に腰掛けた杏寿郎の目線はちょうど伊之助と同じ高さだ。隻眼とはいえ強すぎる眼力は、燃える石をはめ込んだように爛々としている。

 

「おう、さっきカナエから聞いた。俺がやられた後に虹鬼が来て、あの気持ち悪ぃ壺野郎を倒したんだろ」

 

「うむ。虹鬼の正体については聞いているか?」

 

「……聞いてねえ」

 

杏寿郎とは逆側のからの寝台に腰掛けた炭治郎と善逸は、そう答える友人の様子を注意深く見守っていた。炭治郎の鼻に偽りの臭いは届いていない。善逸も耳をすませているが、嘘があったとき用の合図は見せていなかった。

 

「虹鬼の名前は童磨だ。外見は白橡の長い髪に虹色の瞳の見目麗しい若い男。長身で逞しく、穏やかな声で話す。君がよく知る者に共通するのではないか?」

 

つらつらと話す炎柱はあくまで事実確認の体を取っていて、責める口調ではない。伊之助もそれはわかっているのか、柳眉を下げて腹の上で両手をゆるく組み合わせた。

 

「俺の父ちゃんだ」

 

「間違いないか」

 

「間違いねえ。そんな綺麗な色した男、他にいねぇだろ」

 

「……彼が鬼だと知っていたのか」

 

杏寿郎がそう発した瞬間、伊之助からぶわりと冬山の香りが広がった。思わず背筋を伸ばした炭治郎同様、善逸もはっと目を見開いてズボンの布を握り込んでいる。それは偽りの臭いではなく、恐ろしいまでに冴えた強い心の匂いだった。

 

「八年前、六つ目の化け物に追われた時、父ちゃんは母ちゃんと俺を抱えて庇って、かわりに腕も足も何度も切られたのにすぐに治った。いつも優しいのに、すげぇ怖い顔して……途中から目を閉じて息をするなって言われてそのとおりにしたけど、森の外に出た途端、父ちゃんの体から焼ける肉の臭いがしたんだ。俺を抱きかかえた腕も、胸元も、何もかも焦げ臭くて、それでも走ってる間中、死にそうな呻き声が聞こえてた」

 

母ちゃんは気絶してたから知らねぇだろうけどと呟いて睫毛を伏せる。伊之助の目は白いシーツではなくどこか遠くを見ており、臭いも冷たい懐かしさを滲ませていた。

 

「鬼は太陽で死ぬってあの時は知らなかったけど、父ちゃんが死んじまうかもって怖かった。だから、助けを呼んでこいって言われてすぐ走った。鬼殺隊の兄ちゃんらを連れて戻った時には、もう父ちゃんは消えちまってたけどな」

 

昔を彷徨っていた緑の視線が杏寿郎へと戻り、勝ち気な顔が挑むように男を見据える。そこに怯えも偽りもなく、ただ恥じ入ることない鋼の強さが宿っていた。

 

「そうだ、父ちゃんが鬼だって今は知ってるぜ」

 

そう言い放つ伊之助の横顔は、これまで炭治郎が目にしたどの瞬間よりも凛々しく美しかった。真正面からの炎柱の視界に己が入っていることに気づいて、炭治郎は彼から見える右手の人差指を一度だけ立てる。横目で確かめれば善逸も同様に指を動かしていた。ホッと胸をなでおろしたのは己だけでなく、隣に座る耳が良すぎる友人も、この場に弟子を斬る覚悟で赴いた男もそうなのだろう。二人から安堵の臭いがすることが、無性に嬉しかった。

 

「そうか! それを聞ければ十分だ!」

 

「いいのかよ、師範。俺、鬼に育てられたんだぞ」

 

「問題ない! 子は親を選べないからな! それに、童磨は君にとって良い父親だったのだろう。彼が人喰い鬼である事実はどうにもならん。しかし、君たち親子の思い出が嘘になるわけではない!」

 

杏寿郎のはっきりした声は下手をすれば廊下にまで聞こえている。しかし誰も止めるものはおらず、立ち上がった彼はその宝石のような瞳で暖かく継子を映して続けた。

 

「伊之助、人喰い鬼は斬らねばならない。それはわかるな」

 

「おう、ちゃんとわかってらあ」

 

「ならばよし! 俺はもう失礼する、任務があるからな! また来るぞ、伊之助! 竈門少年、我妻少年、君たちもご苦労!」

 

「おう、ありがとな」

 

「「お疲れさまです、煉獄さん」」

 

ワハハと明るい笑い声を響かせて去っていく男を見送り、あれは途中でカナエあたりに捕まるなと三人揃って顔を見合わせる。ややあって、伊之助はきまりが悪い様子で炭治郎と善逸を見やり、艶やかな黒髪をがしがし掻いた。

 

「悪かったな、黙ってて」

 

「気にしてないよ! お前の様子が変だったのって、あれだろ、吉原の後に虹鬼の外見を俺が話したからだろ」

 

珍しく下手に出た伊之助に善逸がぶんぶんとかぶりを振る。炭治郎はあれ、とずっと気になっていたことを聞くことにした。

 

「無限列車の時のあれは何だったんだ?」

 

「神頼みみてぇなもんだ。父ちゃんに助けてほしいときに、ああやって声に出しちまうんだよ。いつでも母ちゃんと俺を見守ってるって指切りしたから、呼べば来てくれるって信じてた。はっ、お前らからすりゃイカレてるよな」

 

だから誰にも言うんじゃねぇぞ、と頬を赤らめる伊之助に、やっと胸のつかえが取れた炭治郎は満面の笑みを浮かべて頷いた。

 

この美しく強い友人を待ち受けるのは悲しい別れかもしれない。それでも家族の思い出は誰にも咎められない尊いものだ。今はいない自分の家族を思い浮かべ、赫灼の少年はそっと目を伏せた。

 

 

 

* * *

 

 

 

伊之助は全治三ヶ月を申し渡され、勝手に鍛錬をはじめないようにと一時間おきにお目付け役の琴葉が部屋を覗きにくる毎日を過ごしていた。寝ている以外することがないのが耐えられず、手指の柔軟や関節の慣らしに時間を費やしているうち、二週間もすると両手の甲が腕につくまで反らせることができるようになってしまった。次は足だと裸足の指先をわきわきと動かしていると、急に蝶屋敷の玄関あたりが騒がしくなった。

 

(なんだ、誰か担ぎ込まれてきたのか?)

 

蝶屋敷では何ら珍しいことではないが、いつもとは雰囲気が異なる気がして、獣の呼吸の気配察知の範囲を広げてみる。見知った相手であれば、気配だけで誰かわかるのだ。じっと数秒集中していると、確かによく知る気配が二つと見知ったという程度のものが二つ感じられた。

 

(炭治郎とねず公、それに恋柱と蛇柱か。気配がめちゃくちゃ強ぇ気がするんだが、なんだこりゃあ)

 

後で琴葉に聞くことにして、また足の指に専念する。そうして午前を過ごした伊之助だったが、午後になり、昼食後に三人部屋に二人の新しい患者がやってきたことで、少なくとも暇ではなくなった。

 

「紋次郎、怪我したのか?」

 

「炭治郎だ。伊之助、凄いぞ、上弦の肆を討伐したんだ! 伊黒さんと甘露寺さんがやったんだ! 俺と禰豆子も手伝った!」

 

「……うるさい。少しは黙っていられないのか。それにとどめを刺したのは貴様だろう。何を事実を曲解させている。第一、妹が太陽を克服したことのほうが重要ではないのか」

 

興奮気味の炭治郎がまくし立て、それに口元だけでなく体中包帯を巻かれた蛇柱・伊黒小芭内が奥の寝台からねちねちと文句なのか補足なのか判断し難い口をはさむ。彼の相棒の蛇は、疲れたのかその枕元でとぐろを巻いて眠っていた。

 

「そうだ! 伊之助、禰豆子が太陽の下を歩けるようになったんだよ! まだ鬼のままだけど、話せるようにもなったんだ! 今はカナエさんの診察を受けてる。後でここに来るから、たくさん話してやってくれ!」

 

「竈門炭治郎、うるさい」

 

「すみません!」

 

小芭内の冷たい一言にも炭治郎はにこにこと返し、体中から嬉々とした空気を発している。彼がこよなく愛する唯一残った家族が人間に一歩近づいたのだ。嬉しくないわけがない。

 

「炭治郎」

 

伊之助は思いのほか優しくまろびでた己の声に驚きつつ、赤みがかった眼差しに真っ直ぐと伝えた。

 

「良かったな。ねず公は凄ぇ奴だ。さすがテメーの妹だ」

 

炭治郎は一瞬ぽかんと見つめ返し、眩しいほどに破顔した。

 

「ありがとう!」

 

そレから暫く炭治郎が黙ることはなく、いかに恋柱・甘露寺蜜璃が器用で力強く美しい戦い方をしたか、どれほど小芭内が上弦の肆を追い詰め分裂化のからくりを暴いたか、ほぼ擬音だけの戦闘の再現が語られた。小芭内は最初の方は「うるさい」「黙れ」「甘露寺はもっと華麗に戦っていた」と文句を言っていたが、途中から疲れたのか少年たちに背を向けて黙り込んだ。

 

炭治郎の要領を得ない説明をまとめると、こうだ。

 

しのぶが任務に復帰するまでの間、彼女の担当地域は他の柱が分担して受け持つこととなり、今回の任務では蜜璃と小芭内が呼び出された。柱二人体制の理由は、任務地で童磨の目撃情報があったからだ。近くで別任務を終えたばかりの炭治郎も合流し、三人で痕跡を追っていたところ老人の鬼を発見。それが上弦の肆だったのだ。

 

敵は何体にも分裂し、分身がそれぞれ異なる血鬼術を使う厄介な鬼だった。一体また一体と攻略していくうち、四体いた分身が一体の強い童子の鬼となり、総力戦を繰り広げるうちに炭治郎の額の傷が黒い痣へと変じた。続いて蜜璃の鎖骨に花が浮かび、小芭内の左腕には蛇が宿り、彼らは上弦の肆を十二分に相手取ることができるようになった。

 

朝日の気配が近づいた頃、禰豆子が逃げる小さな影に気づき、奇跡的にそれを捕まえた。暴れる小人こそが悪鬼の本体であり、悪あがきで大鬼の皮をかぶった敵は彼女を振りきってさらに逃げた。陽光が地平線の凹凸を照らし、追いかける禰豆子を焼いたが、怯まず鬼にしがみついた彼女は兄がその巨躯を切り裂くまでけして離さなかった。

 

炭治郎は鬼の体を透視して小鬼の頸を落としたが、陽を浴びた妹は死んだものと思っていた。しかし、泣きながら振り返れば禰豆子はぴんぴんしており、完全に太陽を克服していたのだ。

 

「てぇことは、なんだ、ねず公は根性で耐えたのか?」

 

「そんなわけがあるか、阿呆め。そも禰豆子は人を喰わない鬼だ。更に進化したというのが妥当だろう」

 

背を向けたままの小芭内の言葉に伊之助が「誰が阿呆だ」と声をあげたが、炭治郎は妹の名前を呼んでくれたと素直に喜んでいる。共に上弦を打倒したことで、蛇柱とも少しは歩み寄れたようだ。

 

「詳しくはわからないんだ。でも凄く嬉しい。禰豆子がお兄ちゃんって呼んでくれる。太陽を浴びても平気で笑ってるんだ」

 

赫灼の目を細めて語る友人の横顔を、伊之助は柔らかい眼差しで見つめていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

禰豆子が太陽を克服してから鬼の出没がぱたりと止んだ。それは唐突で不気味な一方的な停戦であったが、鬼殺隊はそれを好機として一斉訓練を断行した。人呼んで『柱稽古』である。

 

「おお、やってる、やってる」

 

元気だねえ、と鉄扇で口元を隠して笑う鬼が一人。葉が深く茂った木々の中、高い枝の上に立った童磨は、はるか遠くの音柱邸の庭先を見物していた。流石にあれだけ剣士が密集しているところに結晶ノ御子を近づけることはできないため、こうして本人が出向いてきたのだ。

 

(伊之助は……もうじき次のところに進みそうだ。偉いぞ、がんばり屋さんだ)

 

虹の目を細めて限界まで視力を絞り、どうにか伊之助の顔を判別できるようにする。すぐに毛細血管が破裂して見えなくなってしまったが、きゅるきゅると眼球を回復させた童磨は再びじっと目を凝らす。繰り返すこと数十回。息子が次の稽古場に向かうまで、ずっと見守っていた。

 

一足先に稽古を始めた炭治郎と善逸のことを流す程度に見ていたため、稽古の順番は把握済だ。しばらく道場内での訓練が続くため、次に伊之助の姿を見られるのは風柱のところだろう。

 

(そろそろこっちも大詰めだ。鬼舞辻をおびき出す餌は三つ。どれを使うかによって出方が変わる)

 

ぱちりと扇を閉じて片付け、次の一手の候補を頭の中で転がしてみる。鬼が活動しなくなったのは童磨にはあまり関係がないことだ。それよりも気になるのは、ここ最近、半数ほどの鬼狩りにつけられた血鬼術による監視。童磨の結晶ノ御子に比べればおそまつとはいえ中級隊士程度では気づけないそれは、童磨が見たことのないものだった。

 

鬼殺隊は鬼舞辻無惨に監視されている。隊士らを追えば、おのずと藤の家、蝶屋敷、各柱の屋敷ぐらいは所在が割れる。いずれは産屋敷一族が住まう本部にさえたどり着くだろう。

 

(だからもっと巧妙に隠れろって忠告したのに)

 

童磨が言葉をかわした先代当主はもういない。定期報告に戻ってきた御子の記録にあった男の最期はひどくあっけないものだった。童磨からすれば、あの一族は最初から無惨に対する生き餌でしかなく、その所在が明かされれば鬼の祖自ら始末しに訪れるだろうと踏んでいた。

 

(禰豆子ちゃんは、ないな)

 

もう一つの生き餌は太陽を克服した鬼―竈門禰豆子だ。彼女は蝶屋敷で匿われており、今のところ近づく監視の目は結晶ノ御子に処分させている。琴葉が出入りする限り、あの屋敷の秘匿は童磨にとって最優先。つまり禰豆子が蝶屋敷にいる限り、彼女を餌とすることはありえなかった。

 

最後の餌について考え始めたところで足元でにゃあと鳴き声がして、視線を落とせばとっくに見慣れた獣が一匹、すました顔で座っていた。

 

「やあ、茶々丸。何か持ってきてくれたのかな」

 

猫相手ににこにこと笑顔でしゃがみ、右手を差し出す。珠世の使い猫は、その手のひらに一掴みほどの大きさの茶色いガラス瓶を持たせ、しっぽを揺らめかしながら鬼を見上げた。

 

「……完成したのか」

 

装わない平坦な声でそう言って、童磨は薄暗がりに瓶をかざした。うっすらと波打つ液体は珠世からの前払いの報酬だ。決戦の足音は、もうすぐそこまで迫っていた。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。鬼殺隊の嘴平親子への監視が強まり、結晶ノ御子が近づけなくなったため、ますます寂しい日々を過ごしている。時折、物凄く遠くから蝶屋敷の庭先で洗濯物を干す琴葉を見つめたり、同じく遠くから伊之助を見守ったりしている。ついに人間に戻る薬を手に入れた!が、鬼舞辻と愉快な鬼達を滅殺しないと服用できない。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。今回出番なし。柱稽古でほとんどの隊士が出払っているので、蝶屋敷も長期入院者ぐらいしかおらず、禰豆子の世話や施設周りのちょっとした雑用に時間を費やしている。伊之助が退院して嬉しいが、少しさびしい。最近やってきた美人な女性と少年とは挨拶だけかわした。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。煉獄さんの継子。あの夜、童磨と約束したのは「八年前の逃避行以降について語らない」「尋問を受けたら、【今は】童麿が鬼だと知っていると答えること」の二点。覚悟はあれど話術も腹芸もまったく才能がないため、相手の誤解を助長する方法を授かった。嘘はひとつもついておらず、師や同期が相手でも優先順位はけして揺るがない。そして人喰い鬼=童磨とは言ってない。長い入院を終え、柱稽古で大変ハッスルしている。

煉獄杏寿郎
黎明に散らなかった炎柱。伊之助の師範。継子の見舞いにやってきてあからさまな事情聴取を行った。結果、可愛がっている子を斬らずにすんで安心して帰っていった。炭治郎と善逸の能力に信頼を置いており、また伊之助のことも信じている。面倒見が良く、自然と周りを勇気づける人柄から、柱稽古では行き詰まった隊士のためのスパルタ式カウンセラーを担っている。

竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。煉獄さんによる伊之助の聴取に嘘発見器として立ち会った。友達を信じていたが、正式に疑いが晴れて嬉しい。その後の任務で、おばみつペアとともに上弦の肆を討伐した。ついに本格的に痣者となり、他の者たちのさきがけとなった。禰豆子が太陽を克服したことに心がはち切れるほど大感激しており、さらに伊之助が心底喜んでくれたことにも泣きそうになった。現在、蛇柱邸でしごかれ中。

我妻善逸
雷の呼吸を使う剣士。原作通りの人物。煉獄さんによる伊之助の聴取に嘘発見器として立ち会った。虹鬼=童磨については炭治郎から予め聞いており、煉獄さんからも説明を受けていた。友達を信じていたが、正式に疑いが晴れて嬉しい。禰豆子ちゃんが太陽を克服しておしゃべりできるようになったことは更に嬉しい。柱稽古から逃げ出したいが、恋柱邸では可能な限り長く居座った。

半天狗
上弦の肆。被害妄想甚だしいお爺さん。童磨を探していたら柱二人と原作主人公兄妹に見つかり、とても頑張ったけど痣発現に貢献するかたちで退場した。なむなむ。

蛇柱&恋柱
通称おばみつ。公式。大変お似合いだが付き合ってはいない。炭治郎と三人で虹鬼の出没情報を追っていたら上弦の肆に遭遇、戦闘となった。蜜璃はもともと竈門兄妹に好意的で、小芭内はマイナスに振り切れていたが、炭治郎が天然を発揮して「お似合いです!」と応援しまくったため、戦闘に入るころにはプラマイゼロまで上昇、戦闘後はツンツンデレへと進化した。二人とも上弦の肆戦で痣者となった。



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#24 賽の河原の畔にて

タイトル=さいのかわらのほとりにて

襲撃、あるいは決戦の幕開け。




少し前から蝶屋敷の新たな住人となった珠世と愈史郎はちょっと変わっている。朝食の用意のため琴葉が出勤し、夕暮れ前に帰宅すべく退勤するまで、一度も顔を合わせないことがほとんどだ。優秀な医師だという珠世と助手の愈史郎は、明るいうちは研究室から出てこないのだ。

 

童磨が家に帰らなくなってもう三ヶ月以上経った。必ずまた家族で暮らすと約束しているから悲しくはないが、ふとした瞬間、誰もいない胸元や一人で布団に横たわることが無性に寂しくなることがあった。禰豆子が蝶屋敷にいた頃は彼女と遊んで気を紛らわせていたが、あの愛らしい鬼の少女は数日前に別の場所に移されてしまったのだ。

 

(童磨さん、今頃どうしているかしら)

 

琴葉は窓ガラスを拭く手をとめて小さくため息をついた。夕暮れまでまだ時間があるというのに外はどんよりした曇り空で、こんな日なら昼から外を歩いているかもしれないと誰もいない外を眺めてみる。寺院にいた頃、雨の日に傘をさして童磨と伊之助と三人で散歩をしたことがあった。あの庭の紫陽花は今どうなっているだろうか、と思い出に浸っていると、ふいに透明な表面に誰かの顔が映り込んだ。

 

「生憎のお天気ですね」

 

鈴を転がしたような澄んだ声をかけられ、少し肩が跳ねる。琴葉が驚いたのを見て、声をかけた美しい女は眉をさげて謝罪を口にした。

 

「ごめんなさい、随分外を見ていたので、気になって声を掛けてしまいました」

 

「いいえ、私こそ大げさだったわ。ごめんなさい、珠世さん」

 

品が良い古風な着物に白衣を羽織った珠世は、年齢不詳の物静かな人物だ。はじめて挨拶以外の言葉をかわす相手に琴葉はにっこり笑顔を浮かべた。

 

「曇りの日に家族と散歩したのを思い出していたの。すっかり手が止まってしまっていたわ、恥ずかしい」

 

琴葉が手にした雑巾はあまり汚れていない。蝶屋敷は彼女と幼い看護婦らが隅々まで日々清掃しているため、埃が積もったり汚れが溜まったりしないのだ。この廊下の窓を拭くのだって、まだ二日ぶりの事であった。

 

うすらと頬を染めて思い出に浸る琴葉に、珠世は口元だけ綻ばせて母親のように微笑みを返す。

 

「ご家族との思い出ですか。確か息子さんは鬼殺隊の隊士でしたね」

 

「ええ、伊之助といいます。昔、童磨さんと一緒にあの子の手をひいて、よくお庭を歩いたわ」

 

「童磨……?」

 

大人しげな声が少し上ずり、藤紫の瞳がこれでもかと見開かれる。そんな相手の変化に気づかないまま、琴葉は歌うように続けた。

 

「童磨さんは伊之助のお父さんで、私の大好きな人なんです」

 

はなびらのように美しい表情は、恋を語る少女のそれだ。外見だけならいくつか年上の琴葉の幼気な様子に、珠世は強張っていた体を緩めて優しく「きっと素敵な方なのですね」と応じた。

 

「あ、珠世様そんなところにいらしたのですか」

 

廊下の奥の曲がり角から愈史郎が姿を見せ、つかつかと近づいてくる。もう休憩は終わりだと琴葉も窓に向き直ろうとして、ガラス越しに黒い何かを認めると同時、珠世によって床へと引き倒された。

 

轟音と共に世界が揺れ、あらゆるものの破片が壁の瓦礫とともに襲いかかる。琴葉の上に珠世が覆いかぶさり、そのまた上から愈史郎が庇ったことで、その場で失われる命はなかった。蝶屋敷の一角が倒壊するなり、凄まじい剣気をまとった小柄な影が屋外へと飛び出していく。この屋敷の主であり、蟲柱の胡蝶しのぶだ。

 

「いけない、しのぶさん!」

 

がらりと瓦礫を押しのけながら血だらけの珠世が声をあげる。聞こえるかわからない忠告であっても、この一月ほどで同志として認めた少女を無駄死にさせたくなかったのだ。

 

「一人で戦っては駄目! 他の柱と力を合わせなければ!」

 

「珠世さん、愈史郎さん! 琴葉さんもそこにいるのね?」

 

叫ぶ珠世の声をたどり、義足を鳴らしながらカナエが駆け寄ってくる。かなり無理をしているのか、白い額には冷や汗が滲んでいたが、元花柱の彼女は瓦礫などものともせず三人に近寄り、すでに怪我が治りつつある鬼二人と彼らの下敷きになって仰向けに倒れている琴葉の無事を確認した。

 

「な、何が起こったの?」

 

「襲撃されたのよ。鬼に屋敷の場所が知られてしまった。琴葉さんは、なほ達と一緒に逃げて。アオイが護衛につくから、裏手から出て町まで走るのよ」

 

「は、はいっ。カナエ様は」

 

「私はしのぶの加勢に戻ります。大丈夫、私たちのことは心配いらないわ」

 

いきなりの出来事に呆然としていた琴葉も助け起こされて我に帰り、カナエに促されて建物の裏手へとよろよろとあるき出す。大穴があいた蝶屋敷の外からは恐ろしい戦闘音が聞こえてきている。機能回復中の隊士や動ける程度の者たちも応戦しているのか、いくつもの声が入り混じっていた。

 

廊下の分かれ道で珠世と愈史郎が足を止め、厳しい表情でカナエを見つめる。

 

「カナエさん、琴葉さんを一刻も早く避難させてください。絶対に彼女を鬼舞辻の目に入れてはいけません」

 

「わかっています。珠世さんはどうするの?」

 

落ち着いた問いかけに、美しい女鬼は凄惨な視線を返す。

 

「研究室から完成品を持ってきます。必ずや、鬼舞辻に我が牙を届かせます。ですから、どうか他の柱を呼んでアレを抑えてください」

 

「任されました。鴉は飛ばしたから、すぐに応援が来るわ。珠世さん、貴方としのぶの研究成果を見るのが楽しみよ」

 

カナエの凛々しい笑みを最後に、彼女らは別れた。琴葉はカナエの後ろ姿を追いながら、時折聞こえてくる断末魔に胸が痛くて堪らなかった。外で戦っているのは、あの可愛らしいしのぶと、まだ本調子ではない入院者たちなのだ。

 

(ああ、ああっ、何もできないなんて、私……)

 

裏の勝手口にたどり着き、三人の看護婦らと顔面蒼白で抜身の日輪刀を手にしているアオイと合流する。すぐさま踵を返したカナエの背中に、琴葉はとっさに声をかけた。それは鬼殺隊の剣士に唯一かけることが許されている見送りの言葉だった。

 

「ご武運をお祈りします!」

 

カナエはすでに走り出しており、少しも振り向かなかった。なほときよとすみが琴葉の腰に抱きついて涙ぐむ。アオイの眦も赤く充血していたが、彼女は強く唇を噛み締めてから大きく息をつき、琴葉たちを外へと促したのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

蝶屋敷襲撃から遡ること少し。

 

やや湿った道なき道を一人の若い男が歩いていた。否、若いのは外見だけで実際は百年以上生きている人喰い鬼だ。空を覆う分厚い雲の下、肌寒い季節であるというのに素肌に袖なしの短い羽織とゆったりした七分丈のズボン姿の男は、裸足で木々の間を進んでいた。

 

短い薄梅色の髪に青白い肌。肉食獣のような鍛えられた細身の体を幾何学的な藍色の線が彩り、異様な様相を作り上げている。長い睫毛に縁どられた目は静かに辺りを映していたが、林を抜けて街道に出るやや手前で険しさを浮かべて影が濃い場所を睨みつけた。

 

無言で立ち止まった男―猗窩座の視線の先で、小柄な影が木の根本の後ろから現れる。それは無限列車で対峙した忌々しい人形四体よりも随分大きな、それでも猗窩座の膝ほどの背丈の氷の童子であった。八年前まで上弦の弐の地位にあった鬼の厄介極まりない血鬼術・結晶ノ御子。のっぺりした無機質な顔が見上げてくるのに、拳鬼は貼り付けた無表情を保っていた。

 

街道までの距離は20メートルもない。行く手を阻む形で現れた御子を無視して猗窩座が数歩進めば、御子は氷の扇をひらめかせ、凍てつく蓮華を辺りに咲かせた。

 

「やはりか」

 

散布された氷の粉をさけて後ろに飛んだ男を、しなやかな氷の蔓が追う。泥濘に着地するなり、裸足の足元から血鬼術の結晶模様が浮かび上がり、正面への乱打が蔦を打ち払った。猗窩座はそのまま左に体をそらし、背後から襲う雪乙女の息吹の直撃を避ける。羅針の気配察知と無機物である氷像らの相性は最悪だが、全く感じ取れないわけではないのだ。

 

右半身が凍結しても、凄まじい再生速度で血肉が氷を弾き飛ばして元通りになる。二体に増えた結晶ノ御子が前後から血鬼術を放ち、氷の嵐が辺り一面を覆い尽くす。猗窩座は上に逃れ、鋭い踵落としで前方の童子を砕いた。所詮、本体ほど速度も膂力もない人形だ。冷静さを失わなければ猗窩座の敵ではない。

 

一体、また一体と増える氷の童子を壊しながら、敵が誘導しようとする方向とは真逆に突き進んでいく。そうしているうちに悍ましい気配の接近に気づき、やっとお出ましかと足を止めた。

 

「次は猗窩座殿かあ。一番の友人だから、最後にしようと思ってたのに」

 

白橡の髪に虹の瞳。木々の合間から優美な姿を表したその鬼は、容姿とにこやかな笑みに反し、全身から立ち上るほどの殺気を纏っていた。童磨は両手に携えた鉄扇を開き、蟲が獲物を図るような視線を猗窩座へと向ける。

 

「ほざけ、死ぬのは貴様の方だ」

 

額からこめかみにかけて青筋を何本もたてて猗窩座が牙を剥く。洗練された構えと足元に広がる羅針。修羅の鬼が発する圧が舞いおちる葉を引き裂き、実態をもった闘気が童磨の薄皮一枚をパリパリと削る。

 

「うん、前よりも少し強くなったかな? 猗窩座殿の必死に努力するところ、嫌いじゃなかったぜ」

 

「黙れ」

 

「いいじゃないか、お喋りしながらでも戦える。そう、俺は猗窩座殿が嫌いじゃなかった。後から来た俺の方が早く出世してしまって、内心穏やかじゃなかっただろうに、ひたむきに鍛錬して……」

 

ビュンと猗窩座の拳が虹の瞳に迫り、頭を吹き飛ばさんとする。童磨は扇の端でそれを弾き、宙に舞った猗窩座の手首から先には目もくれず、続く膝蹴りをするりと避けた。血鬼術を放とうと構えた瞬間、間合いに入った拳鬼が邪魔をする。童磨の技が僅かながら溜めを必要とすることを知り尽くした、猗窩座ならではの戦法だ。徒手空拳とはいえ、上弦の参の拳をまともに受ければ鉄扇といえど破損は免れない。だからこそ童磨も攻撃をいなすことに徹し、少しでも間合いを離そうとしていた。

 

「なのに、誰よりも強さに固執しているくせに、女はけして喰わないんだもんなあ。女を沢山食べた方が早く強くなれる。俺が身を持って証明してあげたのにさあ」

 

猗窩座の流星のような蹴りが童磨の左膝を捉え、骨肉を粉砕する。体勢を崩した相手に容赦なく八連撃を加え、腹部を微塵にしたところで、頭上からの冷気に大きく後ろに逃れた。上半身だけになった童磨が、真っ赤に染まった口元を笑みの形に緩めたまま扇を振るう。

 

――血鬼術・凍て曇

 

――血鬼術・散り蓮華

 

盛大に吹き出た血液から生じた粉凍りが目に見える濃度で猗窩座を包み、それを追うように美しい氷のはなびらがその全身を切り裂かんと迫る。猗窩座は完全に凍った右半身を捨て、ベキリと音を立てて左半身だけで血鬼術の範囲から飛び退いた。

 

お互い不格好に地面に降り立ち、ぎゅるぎゅると巻き戻すように回復しながら再び対峙する。空気中には童磨が撒いた粉凍りが漂い、猗窩座が息をするたびにその喉から肺を凍てつかせている。

 

完全に元通りになった童磨は、ぺろりと舌なめずりして口元をさらに汚し、優しげな哀れみの目で猗窩座を見つめた。

 

「可哀想な猗窩座殿。挑んだところで黒死牟殿にも俺にも勝てない。俺は優しいから、そんな君を放っておけなかったんだ」

 

「黙れ、この蟲もどきがアッ!!」

 

猗窩座が大きく構え、一気に飛び出す。童磨の最高速度よりもなお速い一撃必殺の滅式だ。一秒にも満たない刹那に頭蓋に届いた右拳を、無機質な虹の瞳が接触時まで見据えていた。その視線で背筋に氷よりも冷たい何かを感じ、猗窩座は連撃よりも退避を選んだ。否、選ぼうとした。

 

ドン、と首裏に衝撃が届き、肉と骨を斬る音が耳を撫でる。落とした視線には白銀の刃があり、薄青く色変わりした鉄を鬼の血が彩っていた。

 

「ば、馬鹿な……」

 

「さよなら、猗窩座殿」

 

新しい頭部をはやした童磨がにこやかに言う。その足元には、猗窩座の頸を落とした暗殺者が身の丈に合わない日輪刀を地面にずりながら抱えていた。

 

(羅針で察知できなかっただと!? ありえん、奴の血鬼術は闘気を完全に消すことはない。何故だ、何故……)

 

傷口からずれて落下しそうな頸を両手で抑え、猗窩座は全身を震わせながら考える。目の前の美しい鬼も氷の童子も、確かに羅針で感じ取れているのだ。それなのに背後を取られ、頸を斬られるまで気配がなかった。目鼻耳すべてから血を流して死に抗う拳鬼に、童磨はわざとらしく首をかしげ扇を振るう。

 

「往生際が悪いなあ」

 

結晶ノ御子が日輪刀を持ち上げ、猗窩座へと向かう。その速度は童磨本人とは比べるべくなく、剣術も水の呼吸の技の猿真似だ。しかしあと数歩というところで御子の気配が羅針の感知から外れたことで、頸を繋げるため集中していた猗窩座は小さな体を見失った。

 

「消えっ」

 

「そんなわけないでしょう。木を隠すなら森って、少し考えれば馬鹿でもわかりそうなものだけど。あはは、猗窩座殿はお馬鹿さんだ」

 

童磨の声が遠い。粉凍りが充満する中、気づけば童磨の気配に全方向から囲まれ、目の前の長身の姿さえ羅針から外れていた。空気からも童磨の血の臭いしかしない。どれほどの血液を血鬼術に込めれば、これほどの濃度で気配を振りまくことが出来るのか。改めて見つめた童磨の肌色は、鬼特有の蝋の白をとおりこして土気色だった。

 

僅かな衝撃に体が揺れ、視界がくるくると地面へと近づいていく。頸が落ちた、と自覚するのとほぼ同時、猗窩座の頭部ははらりと崩れた。残された体を見上げ、最後に思う。

 

(終われない、こんな所で……俺はまだ強くなる! 誰よりも強くなる、この蟲野郎よりも、強くっ)

 

その思考を残して梅色の髪さえ崩れ去る。いつしか曇り空は泣き出して、大粒の雨が童磨と頭を失った猗窩座の体を濡らしていた。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。蝶屋敷の周辺を守らせていたノーマル御子から近づく猗窩座殿の報告を受け急行した。基本的に上弦相手は短期決戦一択。今回の戦闘時間は5分、しかしカウントストップはまだかかっていない。猗窩座殿を煽りまくったが今回までは自覚がなかった。今回に限って悪意100%で煽って煽って冷静さを欠かせ、頸チョンパを成功させた。なお、体内の血液残量は6割ほど。日輪刀は昨晩美味しくいただいたモブ隊士から拝借した。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。珠世様とお話していたら蝶屋敷が鬼の襲撃をうけた。珠世様たちのお陰で擦り傷ぐらいしかない。アオイの先導で看護婦たちと避難中。しのぶもカナエもとっても心配。暗くなりつつある道を躓きながら、涙目のなほ達の手を引いて必死に走っている。童磨と伊之助に会いたい。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。煉獄さんの継子。今回出番なし。柱稽古で大きな石を押すところまでクリア済。悲鳴嶼さんの修行場は蝶屋敷から結構近い。そろそろ夕飯と思っていたら、見慣れた鎹鴉が猛スピードで飛んでくるのが見えた。

猗窩座
上弦の参。拳鬼。鳴女の監視の目が蝶屋敷の周りで消える現象が続いたため、無惨様に派遣された。この前の晩に何人かの隊士を拷問して、この周辺に何があるかを聞き出している。結晶ノ御子と遭遇した時点で無惨様に念話を飛ばしたため、蝶屋敷への襲撃が起こった。童磨を殺したいがために一対一の機会を自ら呼び込み、今回の戦闘となった。戦闘中に童磨が前より弱いことに気づいたが、血鬼術を出されると分が悪いのは相変わらず。羅針は人間相手(気配が分かれない)には無敵だが、童磨のような広範囲血鬼術で文字通り煙に巻かれるのは体験したことがなかった。アサシン御子に頸を斬られてしまったが……

蝶屋敷の女子達
屋敷が襲撃され、しのぶはすぐさま迎撃に、カナエはロリ看護婦らを裏口に向かわせ、琴葉を探して廊下を駆けた。珠世と愈史郎のことは鬼なので心配していなかった。しのぶと珠世の共同研究はすでに成果を出した後。入院中の隊士らも怪我をおして日輪刀を手にしのぶに続いた。現在、何人か殺されつつも鬼舞辻無惨に立ち向かっている。胡蝶姉妹は琴葉が鬼舞辻に捕まって童磨の人質になるのを避けるべく、彼女の避難を第一とした。(先代お館様と同じく、琴葉を使えば童磨に鬼殺隊を襲わせることができると考えたため) なお、禰豆子はすでに鱗滝さんのところに移され、人間に戻る薬を投薬済。



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#25 薬叉の白き手

タイトル=やしゃのしろきて

混戦死闘、あるいは交差する殺意。






「うわああああッ」

 

「怯むな! 柱が到着するまでこいつを抑えるんだ!!」

 

「許さないっ、鬼舞辻無惨!!」

 

「ギャッ!」

 

「よくも、よくも俺の友達を……」

 

耳障りな鬼狩りたちが無惨を取り囲み、数を減らしながらも一向に諦めようとしない。時間稼ぎのために戦っている弱者というのは小賢しく、数人惨たらしくバラせば激昂してかかってくるかと思いきや、彼らは適切な距離を取ってちょろちょろと走り回るばかりだ。時折、柱の少女と両脚義足のわりに動きが良い女が切り込んでくるが、彼女らさえ大きな怪我を避けて立ち回っている。

 

全員の眼差しに殺気が溢れ、無惨を必ずや殺すと叫んでいるというのに、彼らは弱いがゆえに自ら止めをさせると端から思っていないのだ。それが馬鹿馬鹿しいと同時に鬱陶しく、無惨はそろそろコバエを全滅させるかと目を細めた。

 

この屋敷に自ら赴いたのは竈門禰豆子を手に入れるためだった。昨晩、猗窩座が隊士数名から聞き出した情報によると、禰豆子はここで匿われていたのだ。しかし今、この近辺に鬼の気配はない。すでにあの少女は別の場所に移されたのだろう。

 

「もう貴様らに用はない」

 

すべてを見下す赤い瞳が隊士らを射抜く。柱の少女―胡蝶しのぶがはっと声をあげようとしたが、それよりも早く黒い茨が宙を裂き、その場の半数の命を刈り取った。

 

「あ、ああっ……」

 

貫かれた体がいくつも地面に投げ出され、血の臭いが充満する。無惨の黒血枳棘は攻撃を受けたものを鬼にする効果があるが、死んでしまっては鬼に変じることもない。ただ一人、しのぶの前で倒れることなく血を流している女―胡蝶カナエだけは大きく体を震わせながら呼吸で鬼の血の巡りを遅らせていた。

 

「姉さん! 嫌よ、嫌、どうして庇ったの!」

 

「落ち着きなさい、蟲柱・胡蝶しのぶ」

 

脇腹に大穴を開けて地面を汚しながら、それでもカナエは立っている。皮肉なことに、義足でなければもう足が萎えて崩折れていただろう。二年も前に柱の位を返上し、短刀に刷り上げた日輪刀しか持たない彼女は、その刃をもって無惨の攻撃から妹を守ってみせたのだ。

 

「私では鬼舞辻に一矢報いることもできないけど、盾になるぐらいはできる。貴方は他のみんなが到着するまで、良い状態で彼を足止めすることだけを考えなさい」

 

雨が振りはじめ、夕暮れから夜の昏さへと空が変じる中、十名にも満たないほとんど怪我人の剣士らの闘志は揺らがない。悲壮な表情で姉の背を見つめていたしのぶも、可憐な唇をかみしめて細長い刀を構え直していた。

 

もう一度茨で薙ぎ払えば、それで事足りるだろう。そう思い、無惨が血鬼術を発動させようとしたその時、軽い衝撃が鳩尾を襲い、何かが体内に潜り込んだ。

 

「何っ!?」

 

誰の気配もなかった胸元に芳しい香りをまとった女が現れる。体中に何やら文様が描かれた紙を貼り付けたその女は無惨が見知った美しい顔をしていた。彼女の周りにはいくつもの小さな球体がばらまかれている。それが肉の種子だと気づくなり、無惨は破裂した血肉から繰り出された血鬼術に女ごと貫かれた。

 

「吸収しましたね、私の拳を。ついに我が牙がお前に届いた! 鬼となり数百年、この時を待っていましたよ!!」

 

珠世のしとやかな美貌が見る影もなく歪み、夜叉の形相で悪鬼を見上げる。無惨の腹に埋まった拳をほどけば握り込んでいた大量の薬物が一気に男の血管に侵食し体中へとめぐり始めた。

 

「この棘の血鬼術は貴方が浅草で鬼にした人のものですよ。そして、私が握っていたのは鬼を人間に戻す薬! どうですか、効いてきましたか?」

 

自らも棘に貫かれているというのに、珠世は眉も唇のはしも吊り上げて嗤っている。彼女の肩を砕かんばかりに掴んだ無惨だったが、胸を貫く棘が二人を縫い付けているため、振りほどくことはできなかった。

 

(そんなものができるはずはない!)

 

千年の間、誰にも作れなかった薬をこんな女が作れるはずがない。よしんば効果を見せたとしても、己が成分を分解するほうが速いはずだ。そう自らに言い聞かせる無惨は、自分でも気づかない焦りを覗かせていた。端正な顔を歪ませて珠世も茨も吸収してしまおうとする。そうして注意が削がれていたところに、鋭い切っ先が正面から右目を貫いた。

 

「……この、コバエめが!」

 

「お前の性能を落とせば、より早く薬が回る。お前たちが嫌いな藤の毒で効果が上がるよう調合してあるのよ!」

 

ふわりと太い棘に降り立ったしのぶが無惨の頸と頭部に何十もの突きを繰り出す。首の動きだけでいくつか避けた無惨だったが、固定された部分は穴だらけとなり、見る間にふさがった傷口は薄く紫に変色していた。藤の毒など彼には効かない。しかし少女が口にした情報が耳にこびりついていた。

 

「貴様らの逆恨みには付きあっておれん。この程度で勝ち誇ったつもりか、気違い女!」

 

珠世の頭を鷲掴み、しのぶの日輪刀をもう片手の甲で弾く。そのまま肉体を損傷してでも茨から抜け出ようとした男は、近づくいくつもの気配に鬼の形相を浮かべた。

 

「悲鳴嶼さん、鬼舞辻無惨です! 早く頸を!!」

 

しのぶのよく通る声が雨のむこうの巨躯へと届く。顔に古傷がある大男が独特な武器を振りかぶり、中距離から無惨目掛けて鉄球を飛ばした。鬼殺隊最強と名高い岩柱・悲鳴嶼行冥による奇襲だ。人の頭より大きな鉄球は見事、無惨の美しい頭部をかち割り、周辺の黒い棘ごと破壊した。

 

仲間の死体が散らばった場にたどり着いた鬼殺隊の面々が沸き立つ。鬼舞辻無惨の頸を落とした、と。けれど、その瞬発的な喜びは、首なしとなった洒落た洋装姿が身動いだことで消え去った。みるみる首の肉が盛り上がり、新しい頭が生えたのだ。

 

「先代様が仰ったとおりか。鬼舞辻無惨は太陽に晒さなければ死なない」

 

巌のような体の行冥は油断なく鉄球を手もとに戻し、彼の後ろに続いていた七名の柱も臨戦状態に入る。彼らのさらに後ろには、竈門炭治郎をはじめ柱稽古で各柱の屋敷に集っていた一般隊士らも続いていた。蝶屋敷の荒れてしまった庭に何十人もの隊士がばらばらと散らばり、柱が戦いやすいように怪我が深い者や屍となった仲間を離れさせる。カナエの元には義妹のカナヲが駆けより、肩を貸して屋敷の壁の方へと避難させていた。

 

「おのれ、気狂いどもが次から次へと……」

 

「終わりです、鬼舞辻無惨。お前はここで死ぬ! 私もろとも、今日ここで!」

 

無惨の胸に手を埋めた珠世が地面に踏ん張り、脆弱とはいえ鬼の膂力で少しでも抑えようとしている。行冥の攻撃にあわせて距離をとっていたしのぶも棘の合間から日輪刀を突き出し、それが柱たちの一斉攻撃の狼煙となった。

 

「手足を落として動きを阻め! なんとしても朝までこの場に留めるのだ!」

 

「応っ!」「承知した!」「わかったわ!」「任せて!」

 

轟と燃える軌跡を描いて煉獄杏寿郎が、蛇の一撃のごとき刃の伊黒小芭内が、二振りの刀に爆音を纏わせた宇髄天元が正面から迫る。左からは霞に紛れた太刀筋の時透無一郎と、同じく変幻自在の弧を描く刃の甘露寺蜜璃、そして二人の読みにくい攻撃に見事に合わせた冨岡義勇。右後ろからは再び鉄球を繰り出した行冥と、暴風を纏ったかのような不死川実弥が斬りかかる。さらには、無惨の頭上から蝶のような少女が脳天を穿つ突きを放っていた。

 

「鬼舞辻無惨!!」

 

額に黒い痣を浮かべた炭治郎も刃を奮う。ヒノカミ神楽の鮮やかな足の運びにしゃらりと耳飾りがゆれ、無惨が一瞬目を見開いた。

 

柱九人と炭治郎の斬撃が今にも無惨に届こうというそのとき。雨音に混じって琵琶の音が響き、地面にいくつもの襖の戸が口を開いて現れた。無惨の口元が馬鹿にしたような笑みに歪む。短い距離の落下が始まるのを待つ彼は、しかし足元が急激に冷えたことで目を剥いた。それは、鬼殺隊の剣士らも同じこと。

 

十名以上が着地してもびくともしない分厚い氷が不自然な襖や障子を覆い、半透明の壁の向こうには上下逆さの無気味な空間が見え隠れしていた。

 

「ああ、間に合った。遅れてごめんね、珠世殿」

 

緊迫した場の空気にそぐわない穏やかな美声。その持ち主は何事もないように蝶屋敷の門をくぐって現れ、金属の扇で優雅に口元を隠して笑った。

 

 

 

* * *

 

 

 

小雨が降る林の中をぐるぐると大きな円を描くように走る。頭部を失った不気味な元同僚が追いかけてくるのを肩越しに確認して、童磨はどうしたものかと思考を巡らせる。温度のない虹色の瞳できょろりと周りの障害物を図り、同じく木々の合間を走っている結晶ノ御子に足止めの術を出させた。

 

猗窩座の頸を落とした後、頭部はすぐさま崩れたが体が一向に消えず、はてと首を傾げたところで首なしの体が襲ってきたのだ。首の傷を盛り上がった肉が覆って塞ぎ、体のほうは当初と変わらない冴えた動きで技を繰り出してくる。面倒なことになったと遠い目をしてしまったのは仕方がなかった。

 

(猗窩座殿が斬首を克服しちゃうなんてなあ)

 

上弦の参を相手取るための戦略は計画どおりに運んだ。逃れ者になる前なら正面きって猗窩座を倒すこともできたが、圧倒的に火力不足の今、朝日をあてにしなければ確実な勝利はない。だからこそ、相手が猗窩座だと知るなり日輪刀を用意し、早い段階で暗殺したのだ。

 

「おっと、危ない」

 

昔から純粋な速度は猗窩座が上だ。追いついた相手の蹴りを避け、御子三体と連携して大木に縫いつける形で凍らせる。猗窩座の膂力ではすぐに自由になってしまうが、その間にまた距離を稼いだ。

 

(監視の血鬼術を潰せば、こうなるかもって思ったけど……猗窩座殿しかいないってことは、蝶屋敷に鬼舞辻と、もしかしたら黒死牟殿がいるのか。カナエちゃん達なら琴葉を最初に逃すだろうけど、無事を確認しないと)

 

一月ほど前から鬼殺隊の協力者となった珠世からの手紙で、竈門禰豆子が蝶屋敷からどこか遠くに移されたことは知っている。となれば、あの屋敷には無惨が求めるものは何もないのだ。早々にその場の人間を殺して立ち去る可能性が高い。もし琴葉が逃げ遅れていたら、と嫌な考えがよぎり、意識が取られた瞬間に背中から腹へと拳が突き抜けた。

 

「がっ……」

 

背後の猗窩座がもう片方の腕で頭部を狙う。咄嗟に間にはいった氷の童子が砕かれながらもその腕を凍結させ、氷と化した拳は童磨の頭蓋に打ち負けて粉々になった。

 

「しつこいよ、猗窩座殿」

 

貫通された胸元の血を媒体に寒烈の白姫を作り出し、猗窩座の下半身を凍らせる。このまま置き去りにしてもいいが、彼はどこまでも追いかけてくるという嫌な確信があった。

 

こうしている間に、少しずつ藍墨の文様がはいった頭部が復元されていく。片目まで再生した猗窩座の睨みに笑顔で返し、童磨は御子から日輪刀を受け取った。復元するなら何度でも斬れば良い。鬼でも有数の回復速度を誇る猗窩座といえど、日輪刀で斬られた頸を戻すには相応の力が必要なはず。体力切れになると鬼は理性を失い、ただ人肉を求めて暴れるだけの生物と成り果てる。そうなれば、猗窩座を町の方向に追いやってしまえばいいのだ。

 

「うわ、手にしてるだけで怖気が走る。嫌な刀だ」

 

日輪刀に触れている右手から、まるで藤の花を口にした時のような不快感が襲う。恐れも含め、あらゆる感情が薄い童磨でなければ、さらに酷い嫌悪感を抱いただろう。いざ斬ろうというところで、猗窩座が先に構えを取る。しまったと思うよりも早く、眩さを錯覚する百連撃が辺りの木々を巻き込んだ。

 

街道までほど近い場所で酷い暴挙だ。町からやや距離があるとはいえ、まだ夜になったばかりの時分だ。高い木々が倒れる騒音で人がやってくる可能性があり、それが一人以上の鬼殺隊士であれば面倒なことこのうえない。童磨も何発か食らって街道のほうに飛ばされたが、くるりと宙返りして着地した。

 

「童磨さん!」

 

「え……?」

 

すぐ近くから想定していない愛らしい声が聞こえて、間抜けな息が漏れる。虹色の目を溢れそうに見開いてバッと顔を向けると、十歩も離れない場所に目覚ましい美貌があった。隣に幼い少女たちと刀を持った女隊士がいるが、まるで目に入ってこない。

 

「琴葉!?」

 

「童磨さん、良かったやっと会えた…… 大変なの、蝶屋敷に鬼が来て、カナエ様たちが戦ってるの!」

 

「うん、うん、わかっているさ。それより、危ないから近づくんじゃないよ」

 

「えっ、はい!」

 

数ヶ月ぶりに言葉をかわして貧血の体に一気に血の気が巡る気がした。童磨は白橡の髪を翻して迎撃の態勢に入り、林から飛び出してきた首なし鬼に日輪刀を突き刺した。右手のみで心臓に柄まで通し、蹴りを繰り出してきた左脚を左手に構えた扇で防ぐ。

 

ガン、ガンと硬質な音を立てて猗窩座の手足と扇がぶつかりあい、超接近戦にもつれこむ。この状態でなければ、猗窩座は女を殺しも喰いもしないため、ここまで引きつける必要はない。しかし頭部を失ってからの彼はどこか様子がおかしいのだ。

 

「そこの隊士の女の子」

 

「わ、私ですか!?」

 

「他にいないでしょ。避難してきたなら、この先の町に行くんだよね。君たちがいると満足に戦えない。早く行ってくれないか」

 

蝶の髪飾りをした少女は、琴葉とともに看護を担当していた非戦闘要員だ。名前もすぐに出てこないほどどうでもいい相手だが、童磨はできるかぎり優しい声音で話しかけた。猗窩座に右肩を吹き飛ばされて刀を失い、琴葉と看護婦らの悲鳴を背にすぐさま腕を生やす。やっと鬼だと確信したらしい少女隊士の視線が刺さるようだ。

 

「ど、童磨さん」

 

「琴葉、約束したでしょう。大丈夫、信じて、必ず守るよ」

 

琴葉に声をかけられると振り返りたくて仕方がなくなる。少し威力が弱まった猗窩座の拳を受けとめ、穏やかに言葉だけ返せば、彼女は家族だけに向ける声音で静かに応じた。

 

「……ゆびきりげんまん。童磨さんを信じます」

 

「ゆびきりげんまん、約束だ。さあ、早く逃げるんだよ」

 

「はい。アオイさん、みんな、行きましょう」

 

少女らが何やら言い返すが、もう童磨の耳には入ってこない。目の前の猗窩座が動かなくなったからだ。何をされてもすぐ対応できるよう結晶ノ御子で取り囲み、琴葉の気配が遠ざかるまで微塵も目を離さないでいると、ふいに首なしの体が膝をつき、誰かに縋るように背を丸める。

 

(様子が変だけど、これは好機かな)

 

童磨が手にしていた借り物の刀は猗窩座の胸に刺さったままだ。あれを抜き取って頸を斬るのは難しいかもしれない。そう考えながらじりじりと距離をつめ、ついに相手の真後ろに立った童磨は、とりあえず細切れにしようと扇を振りかぶる。

 

バサッ。

 

「あれ、猗窩座殿?」

 

跪いたままの猗窩座が宙に腕を伸ばし、さらさらと灰に変わっていく。力尽きたのだとわかっても、童磨はきょとんとした表情を貼りつけ、その体が完全に消え去るまで構えたままでいた。何が起きたのか理解できない。しかし、しぶとかった難敵が片付いたことは確かだった。

 

上弦の参が消え、ごとりとその身に刺さっていた刀が転がる。童磨はそれを拾うことなく、蝶屋敷の方向へと駆け出した。鬼舞辻無惨が現れたのなら、すでに柱をはじめ多くの隊士が集まっているのだろう。そんな場所に昨晩の食事から拝借した刀をもっていくのは悪手だ。

 

(琴葉に会えたのはよかった。不思議だなあ、一気に元気になった気がする。おっとっと……)

 

もつれた足を誤魔化し、周辺に放ってあった御子たちを集めながら走る。厚い雲の向こうはもう夜の帳が降りている。鬼の祖との決戦はもうじきだ。

 

見慣れた蝶屋敷の門をくぐり、目に入ってきた光景に鉄扇を一閃。広範囲の地面を凍りつかせ、虹の瞳の鬼はにっこりと擬音がつきそうな笑顔で共闘者への口上を述べたのだった。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。首なし猗窩座殿に追いかけ回されとっても消耗した。避難中の琴葉に会えたのは完全に棚ぼた。一気にやる気と元気を注入されて人間ならアドレナリンが出た状態になった。血液の残量は5割弱。高位の鬼なので、少しずつ回復はしている。ただし人喰いによる体力補充がないため完全にジリ貧。格好よく登場したんだから頑張れ!

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。避難先に走っていたら、とっても会いたかった相手が林から転がり出てきた。戦闘中だったので駆け寄ったりはしなかったが、ずっと穴が開くほど童磨を見ていた。詳しい計画は何も教えられていないので不安だし、童磨の腕が吹っ飛ぶのを見てヒッとなったが、信じる心で一旦離れた。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。煉獄さんの継子。柱稽古の場にもたらされた報せに応じ、煉獄さんと一緒に駆けつけた。蝶屋敷での戦いの様子を見るなり、まず琴葉の気配がないことを確認、次にしのぶさんの安否、最後に他の女性陣の状態を確認した。とても冷静。童磨が現れたことで、ついに最終戦かと心の帯をぐいぐいに締めた。

猗窩座
上弦の参。拳鬼。頸を落とされてもガッツで戦闘続行したが、童磨と琴葉のやり取りと二人の間の雰囲気に酷い既視感を抱いて動けなくなった。そして彼にとっては世界一可愛い妻(予定)のお迎えでめでたく寿退職と相成った。戦闘時間は40分弱。頸を斬られてからが本番だった。

胡蝶姉妹
しのぶさんはかすり傷程度。カナエさんは脇腹に大穴が空き、無惨の血液攻撃を受けてしまった。幸い鬼化は始まっていない。ただいま呼吸で止血中。しのぶさんは無惨に23発の突きを喰らわせており、ちゃくちゃくと人に戻る薬の効力を促進させる藤毒を体内に注ぎ込んでいる。

珠世&愈史郎
ついに無惨に人に戻る薬を投薬した。珠世様は無惨の腹に片手を突っ込んだ格好で諸共に棘で固定されている。愈史郎はそんな彼女を見て心が引き裂かれつつ、自分の出番のタイミングを図っているところ。柱たちが駆けつけたのもそうだが、童磨の登場でものすごくホッとした。実は、最終決戦についてある程度、事前に打ち合わせをしてある。

鬼舞辻無惨
禰豆子を求めて蝶屋敷を襲ったが、情報が数日遅かったため入れ違いとなった。それなら用無しとさっさと帰れば良いものを、切りかかってくる隊士らが鬱陶しくて相手をしているうちに、珠世様の薬攻撃を受けた。どこの慢心王だ。鬼殺隊の総攻撃を受け、無限城に引き込もうとしたが酷い妨害に遭った。童磨、童磨、童磨ああああ!!

鬼殺隊の皆さん
決戦の地に集合した。鳴女が監視をつけていた隊士らの元に無限城への扉を開いたが、蝶屋敷にいた面々はご招待を回避。黒死牟は自分のもとに来る敵しか相手にしないため、今は下弦程度にドーピングした雑魚鬼たちとモブ隊士らの死闘が繰り広げられている。運悪く獪岳に行き合った隊士らに合掌……



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#26 菩提樹の下に眠れ



タイトル=ぼだいじゅのもとにねむれ

死線、あるいは盤上の激戦。




 

 

童磨の登場で、ざわりと重たい敵意が空気を満たした。その発生源は主に鬼舞辻無惨であったが、人間の剣士の中にも射殺さんばかりにその鬼を睨むものがいた。

 

「虹鬼……童磨!!」

 

小柄な体にまとった羽織が翅のように揺らめく。胡蝶しのぶが即座に襲い掛からなかったのは、ひとえに彼女の日輪刀が無惨の頭に突き刺さっており、すぐさま攻撃に転じられなかったからだ。他の柱は突然の落下と着地で攻撃を止め体制を整える必要があったが、彼女は黒い棘の上に立っていたため、怯まず六発の突きを繰り出していた。

 

「父ちゃん……」

 

無惨から少し離れた場所で攻撃の第二陣に加わろうとしていた少年―嘴平伊之助がぽつりと零す。誰にも聞こえないような呟きであったが、同じ陣で身構えていた金髪の少年と無惨からやや距離を離した音柱は眉を寄せた。件の鬼にも聞こえたようで、太い眉を下げてにこりと息子へと視線をやる。

 

「やあ、伊之助、久しぶり。さっき琴葉にも会ったけど、元気そうにしていて良かったよ」

 

「童磨、貴様何をしにきた!」

 

怒声をあげる鬼の祖に、童磨は人差し指を口元にあてて子供にするように返す。

 

「しーっ、今話してるでしょう。じきに貴方様の相手もして差し上げますよ」

 

途端に無惨の顔中に青筋が浮かんだが、そんなことはどこ吹く風とばかりに虹の瞳がぐるりと辺りを見渡す。視線が合ったほとんどの剣士に殺気を向けられても童磨は平然としていた。

 

「先ほどの口ぶりからして、君はそこな女鬼を助けに来たのか。それとも鬼舞辻の加勢でもしにきたか!」

 

「前者だぜ、炎柱。珠世殿は逃れ者仲間で、鬼舞辻を殺す際の手伝いを頼まれたのさ。君たちと敵対するつもりはないし、是非とも共闘といきたいね」

 

「鬼が言うことなど信じられるか。共闘など冗談ではない。そも、あの女の鬼は何者だ」

 

小芭内だけでなく、蝶屋敷の者たちと炭治郎以外は珠世と面識がないのだ。一見、鬼舞辻を攻撃しているように見えても油断できるはずがない。すでに隊士らは氷の上から離れ、用心深く無惨と童磨に刀を向けている。棘に閉じ込められた無惨と珠世はいまだ氷の上だが、その向こうの異様な襖や障子が動く気配はなかった。

 

「珠世さんはお館様が紹介してくださった対鬼毒の共同研究者です。鬼を人間に戻す毒、いえ、薬を捨身で投薬してくれたんですよ。蟲柱の名にかけて、彼女は味方だと断言できます」

 

地面に降り立ったしのぶの補足で珠世への警戒は薄れた。ならば他の二体の鬼の討伐を、と臨戦状態の剣士らの頭上に黒い鳥が現れ、カアと大きく鳴いた。

 

「伝令! 伝令あり! 紫の瞳の女鬼・珠世並びに少年姿の鬼・愈史郎は産屋敷の協力者である! 童磨とは次の朝日が昇るまで停戦! この三人の鬼に関しては、彼らから攻撃してこない限り敵対することはまかりならない! 鬼舞辻無惨討伐のため共闘せよ! 一切の責任は産屋敷家当主が請け負う!」

 

共闘せよ、と繰り返す鎹烏に柱の何名かは信じられないといった顔をしたが、杏寿郎を皮切りにそれぞれ童磨から視線をずらした。この場の敵は鬼舞辻無惨ただ一人。最後まで童磨を睨んでいたしのぶも、ひとつ深い息をついて目を逸らした。

 

「ああ、よかった。新しい産屋敷殿は話がわかる御仁だ。まだ子供なのに素晴らしいね!」

 

鉄扇の裏でからからと笑う童磨の言葉は、鬼殺隊の内情が筒抜けである証拠だ。昨日手紙を書いたんだ、と目を細める鬼をよそに不穏な空気が薄れることはなかった。そんな雰囲気を切り裂いて無惨の体が徐々に肥大し、肘まで飲み込まれた珠世が苦悶の声をあげる。物理的に取り込むことで黒い棘も珠世も吸収しようというのだ。

 

「おっと、お喋りしてる場合じゃなかった。しのぶちゃん、どういう作戦か教えておくれよ」

 

「……気色悪いので名前呼ばないでください」

 

ぎりぎりと音がするほど刀の柄を握り、しのぶは仇の鬼を視界にいれないようにして吐き捨てる。

 

「朝日が出るまで、鬼舞辻をこの場に留めて倒します。お前もせいぜい肉盾役に励んでください」

 

「うんうん、大まか予想通りだ。俺の役目は盾じゃなくて檻だけれど」

 

童磨の動作はゆるりとしており、歩く足取りもまるで散歩でもしているようだ。しかし彼の足元には十体の氷の童子が鳥の雛のように続いており、冷たい殺意を振りまいていた。

 

「こっちは俺と珠世殿で抑えるから、君たちは今からくる御仁の相手をお願いできるかな」

 

「勝手に決めんじゃねぇぞ、クソ鬼ィ!」

 

鴉の伝令がなければ斬りかかっていたであろう風柱が低く唸る。鬼殺隊の戦力はほぼこの場に集っているのだ。鬼の手など借りなくとも倒してみせる。そう雄弁な視線を受けても童磨は止まらず、結晶ノ御子に無惨であった肉の球体を取り巻かせた。

 

「珠世殿、いいかい?」

 

「ええ。お願いします、童磨さん。愈史郎……後は頼みましたよ」

 

肩まで取り込まれた珠世は、無惨に向けていた夜叉の形相から本来のしとやかな美貌に戻っていた。紫玉と虹の瞳が交差したのを最後に、御子たちが一斉に凍て曇を放つ。円形に配置された御子の攻撃はその範囲を超えず、中央の無惨と珠世を飲み込んでキラキラと空へと伸びた。

 

 

 

* * *

 

 

 

鬼舞辻無惨が凍結したのは衝撃的な光景であったが、それに目を奪われている時間は与えられなかった。

 

それに真っ先に気づいたのは優れた感覚をもつ一般隊士だった。くんと鼻を効かせた炭治郎が後ろに飛び退いた瞬間、彼がいた場所の頭上に襖の戸が現れ、ずっと彼らしからぬ静けさを保っていた善逸がきつく眉を寄せて腰の刀に触れた。音もなく襖が開く前に柱も戦闘態勢に入っていた。そうでなければ、向こう側から放たれた不可視の斬撃に対応できなかっただろう。

 

「新手のおでましかっ」

 

「手数が多い! 気をつけろ、斬撃の周りに細かな追撃がついているぞ!」

 

最も近くにいた天元と杏寿郎が攻撃を捌ききるなり注意の声をあげる。そうしている間に襖の境界を超え彼らの前に降り立ったのは、黒髪を一つに結った侍のような出で立ちの六つ目の鬼であった。続いてもうひとり、一部の隊士には見覚えがある青年も現れたが、一人目の圧の前にその存在は霞んでいた。

 

「上弦の壱か」

 

「もう一匹は通達が来てた元隊士だぜェ。名前は忘れたがなァ!」

 

ぽつりと呟いた義勇に、爛々と眦を吊りあげた実弥が吐き捨てる。

 

「獪岳、そこまで堕ちたか」

 

行冥の声に獪岳と呼ばれた鬼は牙をみせて嗤った。人間であった頃とあまり変わらない姿かたちであるというのに、その歪んだ表情はまさしく悪鬼だ。盲目の行冥もその悪意に眉をしかめる。鬼になった隊士の名前を聞いてもしやと思っていたが、対面して気配を感じてしまえば間違えようがなかった。あの鬼は、かつて寺で共に過ごした子供の一人だ。

 

「お前は……」

 

「獪岳!!」

 

岩柱の静かな言葉を知らず遮ったのは善逸だ。金髪の髪が静電気を帯びたように浮くほどの殺気を纏い、雷の呼吸の少年剣士は獪岳を睨んでいた。善逸をよく知る炭治郎や伊之助が気圧されるほどの剣幕だ。

 

「なんだ、いたのかよカス。てっきり泣きわめいて逃げたと思ってたぜ」

 

「獪岳……邪魔だ……私怨ならば……離れて勝手にするがいい……」

 

「チッ、わかりましたよ」

 

舌打ちしつつも獪岳は逆らわず、上弦・陸と刻まれた目で善逸を見下しつつ彼がいる柱以外の隊士が集まっているほうへと斬撃を放った。黒い稲妻をまとった攻撃は血鬼術により刀身以上に伸びる。それは善逸を狙った攻撃であったが、範囲内にいた他の隊士らにも襲いかかった。中級以上の実力を持つものはかろうじて稲妻を打ち払ったが、上弦の鬼の攻撃になすすべもなく切り裂かれたものもいた。

 

「みんな下がって。こいつだけは俺がやる」

 

善逸が刀に手を添え、腰を落とした居合の動作に入る。そして周りの制止の声を置き去りに、雷鳴が轟いた。

 

 

 

* * *

 

 

 

ドォンと激しい轟音が雨音をかき消し、三日月の斬撃が幾重にも金属音を奏でる中、薄緑の羽織をまとった美しい少年剣士と悲壮な表情の少年の鬼が文字通り人目を避けて無惨の氷像の方へ近寄る。少年の鬼―愈史郎の血鬼術で他のものから見えなくなっている二人は、無惨から数歩離れた場所で結晶ノ御子を従えている童磨の隣に並んだ。

 

「父ちゃん」

 

伊之助が小さく声をかけると、童磨は前を見つめたまま唇だけ緩めた。

 

「伊之助、前に頼んだとおりだ。多分雑魚しかいないけど、気をつけるんだよ」

 

「心配すんな、すぐ戻る」

 

「おい、童磨。珠世様は大丈夫なのか」

 

「鬼は凍ったぐらいじゃ死なないでしょ。朝日が出たら鬼舞辻と心中だけどねえ」

 

「……その前に絶対お助けする」

 

「うん、好きにすればいいよ」

 

目くらましの術がかかった紙越しに睨む愈史郎に軽く返し、童磨は足元の氷へとさりげなく鉄扇を向けた。さらさらと氷の壁が崩れ、人ひとりが通れる程度の穴ができる。それは、いまだ開いたままの無限城への入り口をくぐることができる抜け道であった。

 

「行っておいで」

 

「おう」

 

可愛い子どもとお供の鬼の気配が無限城の中へと消えていく。童磨は視線さえ動かさず、何事もなかったように氷の穴を塞いだ。柱たちも他の鬼狩りたちも新手の上弦二体に手一杯だ。炎柱あたりは継子の姿がないことに気づいているかもしれないが、彼は黒死牟との戦いの最前線に立っており、それどころではないだろう。

 

(ほぼ理想どおりの展開だ。体温が下がれば鬼だって性能が落ちる。凍結してる間に薬の効果が全部出てくれれば……)

 

無惨の周りに配置した結晶ノ御子が絶え間なく術を放っている間は、いかに鬼の祖といえど異物の吸収と薬の分解を満足に進めることはできないだろう。たとえ分解に成功したとしても、珠世がしのぶと共同で開発した薬は恐ろしいものだ。鬼を人間に戻す成分以外は珠世の血鬼術で完全に隠されており、無惨が他の効果に気づくのは成分が肉体を蝕んでからになる。そうなれば詰みだ。

 

じっと醜い肉の氷漬けを見つめるうちに時間がどんどん過ぎていく。夜明けはまだ遠く、あと三時間といったところだろうか。そろそろ伊之助も役割を全うしている頃合いだ。

 

(あ、れ……?)

 

ぐらり。

 

気を抜いたつもりはなかった。ほんの一瞬だけ視界が真っ黒に塗りつぶされ、傾いだ長身が泥濘に膝をつく。童磨の足元で御子が一体ひび割れた。

 

(しまったなあ。携帯食でも用意すればよかった。腹がへって仕方がない)

 

猗窩座との戦いでの消耗がここにきて祟ったのだ。全集中の呼吸を真似て代謝を早め、体内の血液を増やすべく内臓に負荷をかけるが、空っぽで脈打つ心臓の違和感が凄まじい。童磨は地面についてしまった左手から泥を払い、ゆっくりと立ち上がった。幸い、割れた御子は一体だけで閉じ込め作業に支障はなかった。

 

少し離れた場所での死闘は依然続いている。黒死牟といえど柱九人と彼らに混ざって動ける隊士らを相手に圧倒的とはいかず、岩柱の攻撃と水柱の防御を中心に徐々に人間たちが攻勢に出ているようだ。炭治郎のヒノカミ神楽を前にした黒死牟は冷静を掻いているように見える。新参の上弦の陸の方はとっくに決着がついており、死に体で転がった金髪の勝者を何名かの隊士が手当していた。

 

(困った……腹が減ると琴葉が美味しそうに見えるんだ……)

 

ぼんやりと思考が移ろい始めるが、童磨はそれを止めることなく人形のようにそこに立っていた。血を被ったような頭頂部から毛先まで雨を吸った髪が肌に張りつき、優しげな顔立ちに影を落とす。ふう、ふうと深い呼吸を刻む口元から鋭い牙が覗いた。

 

(琴葉……伊之助……)

 

口から溢れた涎を拭った童磨の足元で、氷越しの無限城が揺れる。物理法則を無視したデタラメの空間が崩れていく中、ちょうど頭上に現れた障子に力ない笑みが浮かんだ。障子の向こうから降ってきたのは、目くらましの術が解けた愈史郎と琵琶鬼の頭部を手にした伊之助だ。

 

「やってやったぜ!」

 

「おかえり、伊之助。えらいぞ」

 

自慢気に崩れかけの頸を掲げる伊之助の頭を撫で、童磨は一瞬でもその白い首元に喰らいつきたいと思った己を冷めた脳裏で罵倒した。これまで抱くことがなかった激しい自己嫌悪を持て余し、紛らわすために我が子を抱きしめる。

 

「父ちゃん、辛いのか?」

 

伊之助の問いかけに無言でかぶりを振り、青みがかった髪を何度も撫でた。子供の頃のようにぎゅうと抱き返してくる息子を腕に閉じ込めているうちに、かすかな勝鬨の声が耳に届き、ついにやったかと息をついた。

 

それがいけなかったのだろう。四体の結晶ノ御子が同時に砕けちり、強まった雨脚の中、無惨を覆った氷に亀裂が入る。しまったと思うよりも早く童磨は伊之助を突き放し、バラバラと壊れた氷の破片から飛び出した鋭い切っ先に引き裂かれた。

 

「がっ、あ……」

 

「なんだ童磨、もう死に体ではないか。そんな状態で私を相手取るつもりだったのか」

 

蝶屋敷からの僅かな灯りの下、自由になった無惨が浮かび上がる。右手に珠世の上半身を掴んだ鬼の祖は、色が抜けおちた容貌で体中に獰猛な牙を生やしていた。童磨が見たことがない、化け物じみた姿だ。かろうじて美しいままの顔が気持ち悪いものをみるように童磨を見下していた。

 

「は、ははっ……」

 

「何がおかしい、この気違いめ」

 

「貴方様は、まだ勝てるつもりで、いらっしゃる。ふ、ははっ、なんて頭が可哀想な方だ!」

 

スパンと鋭い音をたてて頭部が半分になるのを感じながら、童磨は嗤っていた。無惨に捕まったままの珠世も同じ愉悦の笑みを浮かべているのを垣間見て、縦に分かたれた喉からごぽごぽと音にならない笑い声を出す。閉じていく世界では、伊之助の呼声と剣士たちが無惨に挑む剣戟の音が響いていた。

 

 






【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。実は昨晩、輝利哉様にお手紙を出していた。内容は先代お館様に申し入れた共闘の再提案、ただし期限は鬼舞辻との最終決戦の間だけ。今回は承諾してもらえてにっこり。最終決戦の運びについては、珠世様たちとも伊之助とも事前打ち合わせをしてあった。いずれも御子を使った文通。体内の血液残量は2割弱。人間ならとっくに死んでる。鬼でもやばい。やばい。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。今回出番なし。避難先の藤の家に到着して、女の子たちと必死に祈っている。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。煉獄さんの継子。童磨とは御子経由の文通で少しだけ最終決戦のすり合わせをしてあった。無限城潜入と鳴女の暗殺を見事果たしてみせた。童磨がだいぶ消耗しているのが心配。無惨の攻撃からかばわれて、目の前でお父さんが真っ二つ→四分割にされた。血がにじむほど対の小太刀を握っている。

珠世&愈史郎
最終決戦の運びについては打ち合わせ済。大方予定どおりに進んでいる。今回ラストでは珠世様は上半身だけになっているが、鬼なので命に別条はない。ただしこの先喰われたら(取り込まれたら)アウト。愈史郎は伊之助と一緒に無限城潜入と鳴女暗殺を果たし、無惨の退路を塞いだ。

鬼舞辻無惨
やばいものを投薬されたと気づいていない。原作と似たような繭状態(もっと小さい)になって人間に戻る成分はどうにか分解した。凍らされていた間もゆるゆると体内操作していたしぶとい御仁。童磨のへろへろ具合を見て渾身のザマァ顔を浮かべたが、そんな相手から頭が可哀相だと言われて大変心外。

鳴女
新米上弦の肆。琵琶鬼。無惨の命令で鬼殺隊を無限城にご招待しようとしたが酷い妨害に遭った。目くらましの術で接近した伊之助に頸を斬られ、愈史郎に操られて逃亡まで許した。根っからの補助役で戦士じゃないから仕方がない。なお、無限城が消える前に生き残っていたモブ隊士らは蝶屋敷周辺に放り出された。

黒死牟
上弦の壱。剣鬼。八年前に童磨と嘴平親子を取り逃がした下手人。最初は無限城で待ち構えていたが誰とも遭遇せず、無惨に呼ばれて蝶屋敷へと出陣した。一番強いのにナレ死した可哀想な鬼。柱全員+炭治郎+カナヲ+玄弥のフルボッコにより、何人か再起不能にしたものの滅殺された。なお、頸が落ちてもカニ怪人になって頑張ったかは語られていない。

獪岳
新米上弦の陸。善逸の兄弟子。原作通りの人物。無限城で待ち構えていたが誰にも遭遇せず、蝶屋敷に出陣した。怒り心頭の弟弟子に頸を斬られてナレ死した。死に際に愈史郎に煽られなかっただけ原作よりマシ?

鬼殺隊の皆さん
しゃしゃり出てきた鬼に場を仕切られて気分が悪いが、文句を言える前に上弦二体が襲来した。原作よりマシな状態で戦い、ちゃんと勝利を収めた。黒死牟を倒したと思ったら無惨が氷から復活していたので、続けてラスボス戦に突入することとなった。



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#27 那由多の果てで待つ君よ

タイトル=なゆたのはてでまつきみよ

千年の夜明け、あるいは戦いの顛末。

※次回本編完結。


鬼舞辻無惨との決戦は熾烈を極めた。

 

いつしか雨は上がり、雲間から夜明け前の星空が覗く頃、地面に転がった童磨は近づく気配に目を向けた。無惨に四分割された体はかろうじて繋げたが、内臓の動きが芳しくない。この調子だと近づく人間を誰かれ構わず襲ってしまいそうだ。

 

「やあ、珠世殿。体は戻ったかい?」

 

「ええ。そちらはお辛そうですね」

 

美しい女鬼が顔を覗き込んでくるのに、苦笑いを貼り付けて返す。上半身だけにされていた珠世だが、すでに五体満足になって童磨の脇に膝をついている。

 

「あっちはどうかな」

 

「無惨は焦っていますよ。先程分裂して逃げようとした時のあの顔、ふふっ、もっと近くで見たかったです」

 

「おお怖い。そろそろ大詰めなら、愈史郎君に頼みたいことがあるんだ」

 

「何だ」

 

珠世の後ろにひっそり立つ少年の鬼は仏頂面だ。いつでも彼女を連れて逃げられるよう、裏の山に続く林の方に陣取っているところが彼らしい。用向きを伝えるなり嫌な顔をした愈史郎だったが、珠世がひとこと名前を呼べば渋々と目くらましの術をかけて離れていった。

 

剣士たちの咆哮は遠く、剣戟の音だけがわんわんと耳に鳴る。時折聞こえる伊之助の荒い声に目を細め、童磨は東の空の仄明かりを確かめた。朝日が出るまでもう十分もないだろう。

 

ひときわ大きな物音に目を向ければ、柱の一人を大口に咥えた無惨が手負いの獣のように暴れていた。異形と化した長い手足で隊士らを吹き飛ばし、突き刺し、引きちぎっている。鬼殺隊の面々もここが正念場だとばかりに喰らいつき、体の一部を欠いた者さえ刀を手に立ち向かっていた。

 

「無駄死にかもしれないのに柱を庇う勇気、仲間の屍を踏み越えて戦い抜く執念。人間があそこまでやれるなんて感動するね、珠世殿」

 

「まあ、こんな時まで取り繕わなくてもいいでしょう、童磨さん」

 

鈴を転がす声は慈愛に満ちた、子供をたしなめるものだった。珠世は倒れた鬼のきょとんとした眼差しに微笑んだ。

 

「あの光景に心動かされていないのはわかります。大丈夫、これから先、人間として生きていく中で理解できるようになりますよ。この世に生まれてきた人たちが当たり前に感じていることを、貴方もきっと感じられるようになります」

 

「珠世殿にはお見通しかあ」

 

「ええ、初めてお会いした時からわかっていましたよ。貴方が本当の感情を見せるのは、ご家族の話をするときだけ」

 

それがなければ手を組むことはなかった。珠世はそれだけ言って鬼と人との激闘に目を戻した。童磨は物言いたげに彼女を見上げたが、その肩越しに目くらましの術を解いた愈史郎を見つけ、優先すべきことに意識を移す。

 

「多すぎて全ては持ってこられなかった。これで足りるか」

 

愈史郎が両腕に抱えていたものを地面に下ろす。不快感をありありと浮かべつつ、それでも律儀に尋ねた彼に、童磨は大仰な笑顔を浮かべた。

 

「うん、ありがとう。君たちは離れておいで。俺と同類だと思われたらよくないからね」

 

「当然だ。珠世様、あちらへ参りましょう」

 

「ええ」

 

二人の鬼が離れてしまえば、残るは泥濘に転がる童磨と愈史郎が集めてきた人間の部位だけだ。もう人肉を喰らうのもこれが最後だろう。百年以上の習慣の終わりだというのに大した感慨もなく、齧りついた誰かの腕の味も代わり映えはしない。飢餓状態の体が欲するまま、一抱えほどの血肉を腹に収めていく。生きた人間を喰らうには程遠くとも、体力の回復には十分だ。

 

じり、と顔の皮膚が焼ける。岩柱の武器で雁字搦めにされた無惨の絶叫を聞くまでもなく、もう朝はそこまで近づいていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

「朝日だ!! 鬼舞辻を陽に晒せ!!」

 

背中を大きく切り裂かれながらも無惨を捕らえた鎖を握りしめ、悲鳴嶼行冥が彼らしからぬ大声をあげる。彼の体には何名もの一般隊士と駆けつけた隠らがしがみつき、共に無惨を逃すまいとしていた。

 

「ああああっ、まだまだぁ!!」

 

「ヒノカミ神楽 輝輝恩光!」

 

「しぶといのよ、この化け物ぉ!」

 

裂けた肩から血しぶきを上げながら杏寿郎が異形の腕を撥ね、鬼の血を受けて左半身が腫れ上がった炭治郎が両脚を斬り落とす。きつく纏めてあった髪が解け、姉とおそろいの羽織を真っ赤に染めたしのぶが無惨の側頭部に突きを放ち、小柄な体から信じられない勢いで悪鬼を押し戻した。

 

「おのれ、おのれッ、人間どもがああああッ!!」

 

無惨が体中の口から咆哮をあげる。朝日が世界を照らすと同時に焼けはじめた体が、鎖の拘束の中で肥大し、最後の悪あがきであろう一撃で背後の行冥らを吹き飛ばす。自由になった無惨は肉塊の巨人と化し、四つん這いで裏の山の方へと逃げを打った。

 

「炭治郎、危ねえっ」

 

鬼に踏み潰されそうな炭治郎を伊之助が体ごと突き飛ばし、二人して転がる。自力で動ける柱はもう半数に満たず、無惨を引き止めていた行冥は先の一撃から立ち上がれていない。無惨の巨躯を押し止められる者はいないのだ。

 

「逃がすなッ、たたみかけろォ!」

 

上半身に噛みつかれて死に体だった風柱が無惨に追いすがり、後ろ足に日輪刀を突き立てるが、前進する動きを緩めることさえできない。引きずられながら血反吐を吐く実弥に続き、隊士らが無惨の四肢にむらがり刀を刺す。そこに短刀や脇差しか持たない隠らさえ加わり、小山となってしがみついた。

 

それでも無惨は止まらなかった。黒い煙を上げながら亀の歩みのように進み、木陰へと手をのばす姿に誰かが絶望の吐息を漏らす。

 

もうすぐ太陽から逃れられると酷い形相をした無惨だったが、ふいに不自然に停止した。地面に引きずられていた剣士らが先へと視線を向ければ、木陰にはすでに先客があった。白橡の髪に文字通り血をかぶり、虹の瞳だけを爛々と輝かせた鬼が鉄扇を広げて待っていたのだ。

 

「逃しませんよ、無惨様」

 

「童磨あああああッ!! 貴様、貴様のせいでっ」

 

激昂した無惨が縦に割れた大口から叫ぶ。鬼の祖と数歩の距離で対峙した童磨は、彼の代名詞ともいえる明るい笑顔をのせて扇で口元を隠した。きらめく金属の端から覗く美しい瞳が確かな冷たい温度をもって無惨を映していた。

 

「貴方様は、俺に小鳥を殺せとお命じになった。あの時はただ嫌だと思うだけでしたが、今は違う」

 

陽光が届かないぎりぎりで佇んだ童磨が片手の扇をひらめかせた。そこから生じた粉凍りが無惨を包み、異形の両脚を抑えていた鬼殺の隊士らは体を凍らされながら退避していく。

 

「やめろ、やめ……」

 

「これは憎悪だ。俺の家族を脅かす者への憎しみだ。きっと俺は、あの夜からずっと貴方様を殺したいと思っていた」

 

黒く焼けこげた巨人が氷の下で崩れ始める。童磨が扇を交差させ生み出した三体の結晶ノ御子が無惨を囲み、四方からの凍て曇がさらに分厚くその身を閉じ込めた。透明度が高い氷がレンズのように光を集め、動けなくなった鬼の体に燃える穴を開けていく。それが千年を生きた鬼の祖の最期だった。

 

ぼろぼろと氷の小山が崩れ、無惨だった凍った肉片が蒸気となって消えていく。満身創痍の剣士らはその様を呆然と見つめていた。やがて、一人が「やった」と呟いたのを皮切りに、口々に勝鬨の声があがりはじめる

 

「鬼舞辻を倒した、倒したんだ!」

 

「うわああああ、終わった、勝ったあああッ」

 

血みどろの剣士らが喜ぶ中、まだ自力で動ける柱と炭治郎が無惨が消えた跡へと足を向ける。ふらふらと近づく彼らを、虹の瞳の鬼は静かに迎えた。

 

「虹鬼、童磨ァ……テメェで最後だ。大人しく斬られろォ」

 

「共闘は夜明けまで。無惨を倒した今、期限は切れている」

 

「無惨を倒せば全ての鬼が消えると思っていましたが、逃れ者の鬼は例外のようですね」

 

しのぶが刀を鞘に収め、キリキリと音をさせて引き抜く。気力だけで立っているような風柱と炎柱から立ち上る殺気を浴び、童磨はにこりと嗤った。

 

「酷いなあ、あの方に止めを刺したのは俺だというのに」

 

「童磨、お前がこれまで殺した人々は返ってこない。取り返しがつかない罪は誰も許してくれない。命で償うしかないんだ」

 

穏やかに話す炭治郎は嫌悪よりも憐憫を浮かべ、童磨に刀を向ける。その姿がいつかの夜の胡蝶カナエに重なった。

 

「確かに俺は人喰い鬼だけど、ここ十年ぐらいは少食で生きてきたんだぜ? 上弦の鬼を半数以上倒したし、こうして君たちの悲願に貢献した。この先喰われるはずだった何万人もの命を救ったんだ。恩赦があってもいいと思うのだけど」

 

「黙りなさい。お前のその考え方は本当に吐き気がする」

 

不意打ちに等しいしのぶの突きが童磨の左目を貫く。それを止めようとした手は遅く、相応に消耗していることが伺えた。木々の合間に逃すわけにはいかないと、実弥と杏寿郎が手足を狙って斬りかかる。童磨もそれを先読みして防いだが、炎柱の影から飛び込んできた炭治郎を避けられず右膝下を奪われた。

 

「本当に、人間はえげつないことをする。藤毒で弱らせて、数の暴力とはっ」

 

「君相手なら、これぐらいしなければ足元を掬われかねん! その強さも賢さも重々に承知しているからな!」

 

「そんなに評価してくれてるなら、仲良くしようと思わないのかい?」

 

「まったく思わないな! 人喰い鬼は須く斬る!」

 

負傷した肩から左腕が千切れそうだというのに杏寿郎の剣は鈍らない。隻眼をかっと見開いての一閃が童磨の胴を捉え、それに合わせた実弥が鉄扇ごと右手首を撥ねた。しのぶに刺された目の周りが紫に変色し、傷口が再生しない鬼の様子は、無惨が死に体と称したとおりだ。片足を失って膝をつき、血塗れた白橡の髪を垂らして苦しんでいる。

 

「ぐっ、うぅ……」

 

「終わりだ、童磨」

 

このまま朝日のもとに引き摺り出してもいい。けれど、炭治郎は友人の父親であるこの鬼を日光で焼こうとは思えなかった。この状況にあっても童磨からは何の感情の臭いもしない。それでも上弦の伍と戦ったあの夜、琴葉と伊之助を想い優しい香りをさせていたのは確かなのだ。

 

炭治郎が刀を振り上げ、水の呼吸の慈悲の技を放とうとしたその時。

 

「待ってくれ!!」

 

血と泥に塗れてもなお美しい少年が小太刀を手に飛び込んできた。

 

 

 

* * *

 

 

 

炭治郎にとって嘴平伊之助は同期であり、友人であり、善逸と並んで最も頼れる仲間である。入隊してからしばらく一緒に任務にあたった仲だ。その人となりも能力も熟知しているといっていい。出会った頃から全集中の常中を身につけていた伊之助は、他の同期と比べて頭二つは抜けた実力者だ。痣者となり、上弦の壱との戦いで透明な世界、さらには無惨との死闘で赫刀に目覚めた炭治郎なら引けは取らないとはいえ、傷の度合いは相手の方が軽傷であった。

 

ガキンッ!!

 

伊之助の小太刀が慈悲の一撃を受けとめ払い退ける。大きな翡翠の瞳が炭治郎だけでなく、その後ろのしのぶと杏寿郎をも捉え、ぎらりと見据えた。

 

「伊之助、人喰い鬼を庇いだてするか」

 

「そうじゃねえ」

 

宝石のような隻眼に射抜かれても怯まず、伊之助はかぶりを振る。

 

「じゃあなんだってんだァ」

 

殺気立つ実弥に無言で返し、薄緑の羽織の背を向けて童磨を見下ろす形になった伊之助の表情は伺えない。しかし炭治郎には何よりも雄弁な冬山の臭いと、息子を前にした鬼が発した柔らかい春の香りが届いていた。

 

「父ちゃんの頸は俺が斬るって決めてんだよ」

 

誰も言葉を発することはできなかった。白い右腕が振り下ろした刃が鬼の頸を落とし、伊之助が刀を納めてその頭を大事に抱えるまで、彼の師である杏寿郎も、友人である炭治郎としのぶも、その一刀のあまりの躊躇いのなさに呑まれていた。

 

「やっぱりこうなっちゃうかあ。伊之助、早く琴葉のところに連れて行っておくれ」

 

「……うん」

 

ぼろぼろの羽織を脱いで養父の頸を包み、誰にも見せないとばかりに抱きしめる姿は儚い。倒れた童磨の体は、日が登りはじめて木陰が日向へと変わるなり炎に包まれた。伊之助は冷たい臭いをさせたまま、振り返ることはなかった。

 

「師範、これでいいよな」

 

「うむ、見事だったぞ、伊之助! 戦いは終わりだ! 琴葉殿のところに行くのなら、それでも構わん!」

 

「おい、煉獄!」

 

勝手なことを言うなと咎める実弥をよそに、杏寿郎は労る瞳で継子を見ていた。

 

「また煉獄邸に帰っておいで。今後の鬼殺隊がどうなるにせよ、君たち母子の力になりたい!」

 

「……ありがとな。それと、炭治郎、しのぶ」

 

ちらりと肩越しに二人と目をあわせ、綺麗な少年は堪えるように笑った。悲しみでも苦しみでもない、名前を付けられない辛さの臭いがする笑顔だった。

 

「またな」

 

「琴葉さんは隣の町の藤の家にいます。伊之助君、後でちゃんと傷の手当に戻ってきてくださいね」

 

「伊之助、待ってるからな」

 

今度こそ応えはなく、伊之助は獣のように音もなく木々の合間を駆けていった。蝶屋敷の庭はもう見る影もなく、しかし悲しみと痛みの中に確かな喜びの空気が満ちていた。今頃、伊之助は泣いているだろうか。体力の限界の中そんなことを考え、炭治郎はその場に倒れ込んだ。

 

 

 

* * *

 

 

 

無惨との戦いにおいて、伊之助は誰よりも冷静に大怪我を避け、死力は尽くしても命をかけることはしなかった。鬼の祖が倒れれば、次は童磨が狙われるとわかっていたからだ。こうして養父を抱えて逃げるために脚を残しておく必要があったのだ。

 

頭部だけになった童磨を抱えてしばらく走り、自らの庭のようによく知る山中で足を止める。この辺りは葉が生い茂り、日中でもまるで陽が差し込まないのだ。

 

「父ちゃん、下ろすぞ」

 

「頼むよ。そろそろ再生が始まっちゃう」

 

血を吸って変色した羽織の包みを地面に置くと、布の膨らみがみるみる大きくなり、色が抜け落ちた彫刻のような体が現れる。裸で座り込んだ男が胸元に手を突っ込んで着替えを探す間、伊之助は柳眉を下げてその様子を見つめていた。

 

「もうあんなの嫌だからな」

 

「うん、ごめんねえ。伊之助なら上手くやってくれると信じてたぜ」

 

「絶対ぇ二度と嫌だからな!!」

 

徳利襟と袴を着込んで普段どおりになった童磨が立ち上がるなり、伊之助はその体にしがみついて叫んだ。我慢していた涙がぼろぼろと溢れ、汚れた頬をべしょべしょに濡らしていく。大きな手が顔を包んで上向かせようとするのに逆らい胸元で涙と鼻水を拭ってやると、童磨の苦笑いが降ってきた。

 

「父ちゃんの頸を斬る真似なんて嫌だったんだからな! 俺が斬ったんじゃなくても嫌だったんだからな!!」

 

「うん、うん。伊之助は泣き虫だなあ」

 

「泣き虫じゃねえ!!」

 

ぐすっとしゃくりあげる息子の背を撫で、童磨は本当に上手くいったと薄く嗤った。無惨が逃げ出す直前、あの木陰に立った時点であらかじめ自分で頸を切り離しておいたのだ。それを薄皮一枚だけ再生してごまかし、十分な余力を残してしのぶの毒と杏寿郎らの攻撃を受けた。傷を受けても再生しなかったのはわざとだ。下手に治して頸まで繋がってしまっては策が成らなかった。

 

最終決戦に向けての連絡で最も揉めたのが、このもしもの時の一芝居だ。たとえ演技であっても童磨の頸を斬ることを伊之助が承諾しなかったのだ。結局、炭治郎らが童磨に襲いかかったことで伊之助も動かざるを得ず、養父の思惑どおりに徳利襟に隠れた切断済の傷口を見事なぞってみせた。

 

「さあ、早く琴葉のところに行こう。山を抜けたら伊之助のポケットに入れておくれよ」

 

「……おう」

 

乱暴に目元を拭った伊之助は真っ赤に腫らした顔で、童磨はその頬を一度つついてやってから走り出した。並走する息子の気配に頬が緩み、この先で待つ琴葉を思えば喜びで体が張り裂けそうだ。

 

蝶屋敷からほど近い町にひとつだけの藤の家紋の家に美しい少年が駆け込み、瓜二つの女性の手を引いて表に飛び出すのは、ほんの数十分後のこと。町からだいぶ離れた街道脇の林の中、陽が入らない暗がりで白橡の髪に虹の瞳の青年が泣きじゃくる女を抱きしめるのは、またその少し後のことだった。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。無惨戦のどさくさに紛れて隊士たちの手足を喰いまくった戦犯。この時代は落ちた手足をつなぎ戻す技術はないので、誰にも迷惑はかけていない() 藤の花を食べた甲斐あって、しのぶさんの毒はあまり効かなかった。完全勝利Sをつかみ取り、内心スキップしながら琴葉のもとへと走った。泣いた伊之助が子供の頃のようで大変可愛いかったが、からかうのはやめておいた。念願かなって琴葉を抱きしめたら口づけされた。物凄く嬉しい。人間に戻る薬はちゃんと持ってる。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。祈っているうちに朝日が出てしまい、無惨戦の行く末が気になって玄関先で報せを待っていたら、傷だらけの息子が飛び込んできた。目が合うなり手を取られ、ポケットの中に入れられた指先を小さな誰かが抱きしめる感触に泣き出してしまった。何かを察した()アオイに二人きりでどうぞと気を使われ、表に出るなり伊之助と一緒に町の外に一直線。童磨に抱きしめられて感極まり、思わず伸び上がって唇を合わせた。着の身着のままで逃亡するのは三度目。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。無惨戦では必死ではあったが命は掛けなかった。優先順位は童磨>超えられない壁>しのぶさん=炭治郎と善逸>煉獄さん>超えられない壁>その他。童磨の「もしもの時の策」に反対したが、その時が来てしまうと一周して冷静になって頸を落とすふりをした。お陰で炭治郎にも見破られなかった。泣いてしまったのは琴葉には内緒。しかし顔色で一発でバレた。また家族三人で過ごせるようになり凄く幸せ。

珠世&愈史郎
二人共生存した。胡蝶姉妹が大怪我をしてアオイたちも避難中のため、無惨戦後の怪我人の山にてきぱきと対応した。太陽にあたれないので、傷が浅い数名に重傷者を屋内に運んでもらって対処。途中から産屋敷が手配した医師らがやってきて、怪我人全員の処置が終わったのは二日後だった。そっと立ち去る機会を失ってしまい、二人は産屋敷と柱の立ち会いのもと人間に戻る薬を服用、医師と助手として生涯を人々のために捧げた。

鬼舞辻無惨
ほぼ万全状態の鬼殺隊と死闘を繰り広げ、その半数以上を殺害したが、最後は童磨の計略にかかって太陽に晒され焼け死んだ。いいとこなし。全ては八年前に半分思いつきで「小鳥を殺せ」と命じたせい。ペットぐらい自由に飼わせておけば鬼側の勝利だったかもしれない。

鬼殺隊の皆さん
鬼舞辻無惨と上弦の鬼二体と十時間以上の死闘を繰り広げ、多大な犠牲を払いながらも見事討ち果たした。人喰い鬼の力を借りた勝利だったのが唯一の不満。半数以上の隊士を失ったが、無惨に連なる鬼は全滅したので、今後、鬼殺隊は緩やかに解体することになる。煉獄さんと炭治郎としのぶさんは待ちぼうけ。アオイから伊之助と琴葉の様子を聞いて、彼らは新しい人生を歩むために遠くに行ったのだろうと結論づける。ある意味合ってる。



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#28 いつか描いた極楽浄土(完結)

タイトル=いつかえがいたごくらくじょうど

幸せな一家、あるいは果たされた約束。




夕方まで林の奥の泉のほとりで過ごし、日が暮れるなり童磨が琴葉を背負い、伊之助とともに山を三つ超えた。行き先は懐かしの寺院だ。朝日を追い越してたどり着いたそこは、八年の年月で荒れ果てていた。

 

「信者の皆さんはどこにいってしまったのかしら」

 

「うーん、百年以上続いた宗教も信仰対象がいないと持たなかったかあ」

 

蜘蛛の巣が張った門をくぐり、荒れ果てた庭をぐるりと見回す。灯りのひとつもないため真っ暗だが、童磨も伊之助も夜目が効くため、二人で琴葉の手を引いて本殿へと足を進めた。内部は埃がつもっているものの略奪等の痕はなかった。

 

信者たちは寺院を片付け整えてから去っていったのだろう。それなりに値が張る壺や掛け軸がそのままになっており、童磨が誰も近づかないよう申し付けてあった奥の間の錠も閉じたままであった。

 

「おお、ちゃんと修繕してある。掃除するから少し待っておくれ」

 

八年前の逃亡時に壁に大穴をあけた上に分厚い氷で埋め尽くした教祖の間は、綺麗に元通りになっていた。積もった埃だけ結晶ノ御子らに払わせて蝋燭を燭台に灯せば、まるで昔に戻ったようだ。生憎、懐かしい寝床はカビが生えてとても使用できる状態ではなかったけれど、三人は床に腰を下ろしてくつろいだ。

 

「父ちゃん、どうするんだ? ここに住むのか?」

 

「いいや、俺が人間に戻るのに数日かかるから、その間だけ滞在するつもりだ。伊之助、日が登ったら麓の村で買い出しを頼むよ。琴葉はここにいておくれ」

 

「私の方がお買い物は上手よ?」

 

「人間に戻る薬を飲むと発熱して昏睡するから、その間の面倒を見てほしいんだよ」

 

「大変なお薬なのね。わかりました、童磨さんのお世話は任せて」

 

「うん。それにね、琴葉」

 

童磨は隣に座る彼女の肩を抱き、引き寄せるより自らの身を寄せた。琴葉の膝のうえで空いた手の指を絡ませた鬼は、虹の瞳を夢見るように細めて言った。

 

「しばらく片時も離れたくない。ずっと君に触れてたい。この数ヶ月とっても寂しかったんだぜ?」

 

すり、と形良い顎を琴葉の肩にのせて項に唇が触れるほど近くで囁く。目の前の白皙が赤らむのに童磨は低く笑い、もう感じることもないであろう肌越しの甘い風味を味わっていた。

 

「私だって、寂しかったわ。ここに誰もいないのは慣れなくて、夜も一人で寝つけなくて」

 

「うん、人間に戻ったらそこに隠れられないのが残念だ」

 

「童磨さんったら!」

 

きゃっきゃっうふふと花を背負ったような二人を前に、伊之助はぞんざいに頭を掻いて目をそらした。母親と養父が共にあるのを見るのは好きだ。しかし、この瞬間は背中がむずむずして、まるで獣の交尾に出くわしたような居心地の悪さだった。童磨が無邪気に琴葉の胸の袷に手を突っ込んでいるのも良くない。鬼殺隊で琴葉以外の女性と関わっていなければ、この光景をおかしいと思うことはなかっただろう。

 

「そういや、このまま逃げちまって大丈夫なのか?」

 

鬼殺隊といえば、と伊之助は気がかりなことを口にする。童磨はちらりと虹の瞳だけ向け、琴葉の肩に顎を乗せたまま答えた。

 

「鬼狩り達のことかな」

 

「おう。師範は家に戻ってこいって言ってたし、しのぶも治療しに来いって言ってたからな。誰か探しにきたら面倒だぞ」

 

「それは心配いらない」

 

童磨の声はいつもどおりの穏やかさで、どうでもいいことを話す時の笑顔が何より雄弁だった。

 

「鬼殺隊は被害甚大で、柱でもない隊士一人に回す余力はないよ。産屋敷殿も暫くは後処理に追われるだろうし、隊の解体作業も大変だろう」

 

「……そっか」

 

「うん、伊之助は何も心配しなくていいよ。そろそろ村に行っておいで。金子はそこの棚の一番下の段に入っていると思うよ」

 

童麿が指差した棚は八年前からこの部屋にあるものだ。まさか現金が残っているとは思えなかったが、一番下の段を引き出した伊之助は思わず「うおっ」と声をあげてしまった。

 

「足りそうかい?」

 

「村一つ買えるぞ、これ」

 

「そんなにあったかなあ。信者がお布施を残していったのかもしれない。ありがたく貰っておこうぜ」

 

にこにこする鬼は棚にぎっしり詰まった一円札より琴葉にすり寄ることにご執心だ。伊之助は何千枚もある紙幣のうち十枚だけ財布に移し、いちゃつく両親を残して部屋を後にした。

 

懐かしい寺院が小さく感じるのは、自分が大きくなったからだ。玄関までやってくると、日の下に変わり果てた庭が広がっていた。幼い伊之助が隅から隅まで冒険した庭は雑草と伸びっぱなしの枝葉に侵食され、小さな池はすっかり埋もれてしまっている。門の方に足を進める途中でつやめくどんぐりを一つ拾い上げ、それを太陽にかざした。

 

「ただいま」

 

凛々しい目元を緩ませた少年の姿は、朝露がにじむ世界でただ美しくあった。

 

 

 

* * *

 

 

 

両親とともに訪れた街は元大藩の城下町らしく入り組んだつくりで、洒落た路地に足をとめた少女は気がつけば一人になっていた。暫く近くの店先や他の路地を覗いて親を探したが、思いつく範囲に見知った顔がないと悟るなり、通りの端にしゃがみこんで静かに泣き出した。道行く人々はその小さな姿がなかなか目に入らず、誰かが少女の前で足を止めるまで少し時間を要した。

 

「どうした、お前迷子か?」

 

男性の荒い声が降ってきたことで少女の体がビクリと震える。怖くて顔を上げることができない少女に、足を止めた相手は膝を折って同じようにしゃがみこみ、もう一度声をかけた。

 

「おい、顔上げろ。泣いててもわかんねぇぞ」

 

声は怖いが口調は優しい。どうやら若い男のようで、落とした視界に入ってきた萌葱色の布地は子供の目にも高級な光沢を放っていた。少女はおずおずと顔を上げ、少し高い位置にある相手と目を合わせた。そして、氷のように固まった。

 

「お前どこかで……まさかな」

 

少女の顔面を見るなり独り言を零した男は、幼い彼女がこれまで会った誰よりもきらきらした薄緑の瞳と青みがかった黒髪の持ち主であった。あまりに美しい容貌が子供心を震わせ、まろい目元からぽろりと涙があふれる。男は何を思ったのか、少女の頭をぐりぐりと撫で、おもむろにその体を片腕に掬いあげて肩に座らせた。

 

「きゃあっ」

 

「おら、しっかり頭に捕まれ。そこからならよく見えるだろ。父ちゃんか母ちゃんがいたら教えろよ」

 

「う、うん。ありがとう、お兄ちゃん」

 

「気にすんな」

 

女性のような顔立ちに反して大変逞しい男は、伊之助と名乗った。少女が名乗り返すと、長い睫毛をぱちりとさせて黙り込み、ややあって困ったように柳眉を寄せた。

 

「お前よっつか?」

 

「そうだよ」

 

「そっか。父ちゃんと母ちゃんは元気か?」

 

「うん! とっても元気!」

 

「それならいい」

 

大変目立つ美青年とその肩に座る子供は人の目を惹き、大通りを半分もいかないうちに前方から女性の声が少女の名を呼んだ。

 

「お母さんだ! お兄ちゃん、お母さんがいたよ!」

 

「おう、よかったな。俺はここまでだ、母ちゃんのとこには一人でいけ」

 

「どうして?」

 

「用事があんだよ、悪ぃな」

 

伊之助はそう言って、先程よりも力強く少女の頭を撫でた。痛くはないが髪の毛がくしゃくしゃになってしまい、紅葉のような手で頭を抑えているうちに綺麗な彼は背を向けて離れてしまっていた。濡羽色の羽織に白い睡蓮の刺繍が咲き乱れ、まるで夢の出来事のようだった。

 

駆け寄ってきた母親の見た目よりずっと強い腕に抱きしめられ、人混みから泣きそうな母へと視線を移す。その後ろから杖をついてやってくる父親も見つけ、少女は思い出したように大声で泣いた。

 

 

 

* * *

 

 

 

大通りから少し離れた川沿いの小路にあるこじんまりとした屋敷に帰るなり、伊之助は羽織をひらめかせて足早に廊下を進んだ。途中で横切った台所に立つ琴葉の後ろ姿に「ただいま」と声をかけ、のんびりした「おかえり」を受け取ってから廊下の奥へと向かう。家長の私室は今日も障子が開け放たれており、伊之助は特に声掛けもせず足を踏み入れた。

 

「おかえり、伊之助」

 

「ただいま、父ちゃん」

 

机に向かって何やら書き物をしていた和装の男がゆっくりと体ごと振り返る。背中までの白橡色の髪を細く黒いリボンで結んだ男は、どかりと畳に腰をおろした息子に虹の瞳を細めた。

 

「どうしたんだい、そんな強張った顔をして」

 

「柱が街に来てる。旅行みてぇだが、外出る時は気をつけてくれ」

 

「へえ、会ったのかい?」

 

「遠目だけどな。あっちは気づいてねぇはずだ。見た限りじゃ武装してなかった」

 

「そりゃそうさ。鬼殺隊は解体されて、柱だってもう何年も実戦から遠ざかってる。きっと伊之助の方が強いよ」

 

にこりと太い眉をさげて笑う養父―童磨は相変わらずだ。鬼として百年以上生きた後で人間に戻った彼は、お布施という名の資産と元信者の政府高官の協力を得て家族三人の戸籍を捏造し、この地方都市に居を構えた。表向きは作家だが、伊之助は童磨が原稿用紙を前にしているのを見たことがない。かわりに週に一度は身なりが良い来客が人生相談に訪れ、一時間ほど話をしてすっきりした顔で帰っていくのだ。童磨は彼らを『友人』と呼んでいるが、先日嘴平邸にやってきた老人は伊之助でも知っている大臣だ。たった五年でどういう交友関係を築いているのか、琴葉も伊之助も知る由もなかった。

 

「もしばったり会ったら普通に挨拶すればいい。何かされたら警察を呼ぶ。しつこいようなら友人達に相談すれば解決さ」

 

笑う童磨の口元に牙はなく、さっきまで万年筆を握っていた手の爪は擬態せずとも短く健康的な色合いだ。海松茶の羽織に藍白の着物といった落ち着いた出で立ちでわざと年重に見せている男は、それがなくとも確かに人として歳を重ねていた。

 

「大丈夫だよ、伊之助。いつもどおりに過ごせばいいんだ」

 

「……わかった」

 

そうして言葉をかわしているうちにトテトテと無防備な足音が近づき、柔和な美貌が部屋を覗き込んだ。

 

「童磨さん、伊之助、おやつにしましょう。高橋様からいただいた干菓子、とっても美味しいのよ」

 

「ありがとう、琴葉。今いくよ」

 

愛しの妻の顔を見るなり童磨は腰を浮かせ、数秒前までの色のない笑顔が嘘のようにぽやぽやと不格好な表情になった。呆れた目を向ける息子を置き去りにさっさと琴葉に寄り添い、居間の方へと行ってしまう。伊之助も二人に続き、そういえばと養父の背に問いかけた。

 

「高橋ってこの間の爺さんか?」

 

「うん、大蔵大臣の高橋殿さ」

 

「上原の爺が文句言ってたぞ。予算がなんたらって」

 

「伊之助のところは最近お金が嵩むから、あちらを立てればこちらが立たずなんだよねえ」

 

伊之助は今年になって童磨の『友人』の紹介で剣術指導の職を得た。勤め先は陸軍の地方学校だ。学歴も血筋も怪しい青年の初めての職としては破格のものだが、不思議と伊之助には性に合っていた。軍属ではなく、あくまで外部からの講師として屈強な男たちを叩きのめす毎日だ。本人は無頓着だが、美しすぎるうえに強すぎる講師として着々と一部で有名になりつつあった。

 

「あ、琴葉、俺はほうじ茶で頼むよ」

 

「俺も同じやつ」

 

「はい、そういうと思って用意しておいたわ」

 

一足先に居間に入った琴葉が慣れた手付きでお茶を用意し、家族三人でちゃぶ台を囲む。色とりどりの花の形をした干菓子をつまんで口に運ぶ童磨は、こうして見るとただの優しい夫であり、穏やかな父親だ。何歳になっても愛らしい少女のような琴葉と並べば誰が見ても似合いの夫婦だ。伊之助はそんな二人を見つめ、遠慮なく音をたてて茶をすすった。

 

「これは美味だなあ。可愛らしくて、甘い風味が少し琴葉に似てる」

 

「ふふっ、私、こんなに美味しいお菓子に似ているの?」

 

「琴葉はもっと美味しいよ」

 

目元を緩ませて微笑む童磨に、春の陽のような琴葉がころころと笑う。伊之助は小さな砂糖菓子をくしゃりと噛み砕き、母親に似ているというその味を茶で流し込んだ。昼間の望まぬ邂逅のことなど、すでにどうでもよくなっていた。

 

翡翠の瞳を閉じれば、川のせせらぎと幸せな両親の声に包まれる。死後に極楽も地獄もないというのは養父に散々聞かされてきたが、きっとこの瞬間こそが極楽浄土だ。人喰い鬼と鬼が愛した女に育てられた青年は、そんなとりとめもないことを考えながら菓子盆に手を伸ばすのだった。

 

 

 

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフの終りを迎え、晴れて人間として家族と過ごしはじめた。戸籍上は琴葉と同い年。ちゃっかり嘴平童磨と妻の琴葉、長男の伊之助という形で捏造済。どこぞの地方の城下町に居を構え、お偉方の人生相談()をして心ばかりのお礼()を受け取っている。なお、表向きは小説家だが、原稿用紙に一文字も書き込んだことがない。ご近所では美しすぎる一家の愛妻家にして子煩悩なお父さんとして親しまれている。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨と伊之助とともに初めての土地で暮らしはじめたが、その人当たりの良さとあふれる善性であっという間に馴染んだ。童磨が人間になって一緒に年を重ねられるようになって大変幸せ。戸籍上でも夫婦となったことで、自己紹介の際に毎回「妻の琴葉です」と強調しちゃう可愛い奥さん。自称小説家の夫のもとに立派な身なりの紳士が人生相談にくるのを、あらまあと微笑ましく思っている。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。無惨討伐時は15歳、その後のエピソードでは20歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。両親と一緒にやってきた新天地でしばらくは家の手伝いとちょっとした力仕事で小遣いを稼ぐ日々だったが、童磨の『友人』の紹介で陸軍学校の外部講師となり、美しすぎて強すぎる剣術教師として生徒らを叩きのめしている。なお普段着は和装で鍛錬時は半裸。職場では脱がない。

よんさいの幼女
鬼殺隊の誰かと誰かの娘。お父さんは無惨戦の後遺症で杖をついている模様。お母さんは力持ちらしい。両親とはぐれた際に声をかけて一緒に親を探してくれたお兄さんに初恋を盗まれた。なお、両親にお兄さんのことを話したら、知り合いのおじちゃんおばちゃんお兄ちゃんお姉ちゃんが入れ替わり立ち替わりで地方都市に旅行するようになったが、それはまた別のお話。




【あとがき】

ついに本編完結しました! ありえないifのルートを共に追ってくださった皆様に感謝申し上げます。童磨、琴葉、伊之助の家族の顛末を楽しんでいただけましたら幸いです。

原作で初めて童磨を見た時には、美人姉妹を殺しやがったとんでもねえサイコパス野郎(ただしイケメンで強くて技が格好いい)と思ったものですが、琴葉とのエピソードを知って妄想が広がりました。自分的萌えルートを一気に駆け抜けた形です。

童磨は家族限定で情緒が芽生え、琴葉は原作の一点のシミもないような心の美しさに一滴だけのどす黒い点が生じ、伊之助は誰オマ状態となりました。いびつな形の疑似家族が愛情を育み、三人だけの小さく恐らくは間違った幸せな世界を完成させた。これはそんなお話です。彼らの幸せは他人の不幸の上にあり、彼らはそれを知っていてもお互いを手放せない。悪鬼・童磨の完全勝利に原作の主要キャラたちは怒髪天になるでしょうが、一個人の妄想による二次創作ですのでご容赦願います。

なお、エピローグに出てきた幼女が誰の娘なのかは決めていません。公式でも非公式でも妄想いただけます。

童琴伊の疑似家族に幸あれ!! ありがとうございました!!



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#おまけ 主人公紹介


本日5/31 二度目の更新です。

次回更新は番外編です。引き続き一日一話を0時に予約投稿します。



以下、本作における童磨のキャラ設定です。連載ラストまでネタバレしてます。





 

名前:童磨(本名不明)

 

 

本作の主人公。元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。原作では昆虫レベルの情緒しかない純正サイコパスだったが、本作においては愛を知って世界が広がった人間性初心者。嘴平母子と寺院で7年過ごし、家族連れの逃れ者ライフを8年満喫した。その後は人間に戻って家族三人で城下町暮らしをしている。琴葉を世界で一番大事にし、伊之助をこのうえなく可愛がっている生粋のファミコン。伊之助の「父ちゃん」にして琴葉と三人で家族。基本的にサイコパス。どうあがいても悪鬼(だった)

 

イメージソング『ゼロ by ばん/ぷおぶち/きん』

 

 

 

《年齢・外見》

 

肉体年齢20歳。原作開始時点で実年齢130歳ぐらい。

 

身長、体重ともに公式情報待ち。長身で体格が良く、外国人モデル又は彫刻めいた恵まれた体つき。猗窩座殿との身長差から、180センチ以上に設定。

 

外見は原作どおり。白橡の跳ねまくった長髪、頭頂部のみ血を被ったような赤に変色している。顔立ちは優しく、太い下がり眉に神秘的な虹色の瞳、大変整った目鼻立ちの美青年。よく動く表情筋、大ぶりなジェスチャー、朗らかで軽い口調のトリプルコンボによって印象操作をしているが、作り物めいた容姿であるため、無表情で黙っていると空恐ろしい印象を与えてしまう。

 

服装は原作に沿った徳利襟の洋服に裾が広い袴、足元はぴったりした布靴。教祖として働く際は布冠を被り、ストラのような装飾を身に着ける。

 

 

 

《食事事情》

 

嘴平親子を囲うまでは二、三日に一人以上のペースで若い女ばかり喰う大食らいのグルメだった。単純計算で百年で一万人以上喰っている。当然信者ばかりではなく、大半は夜出かけた先で捕食していた。しかし琴葉に鬼だとバレた後は最低限の食事しかしなくなり、十日に一人以下の少食となった。ついでに偏食も止めた。

 

本シリーズの解釈では、情緒を育む環境に恵まれず快・不快の別ぐらいしか感じなかったところに、鬼になって食欲が肥大し、少しでも肉体的に「快」と感じられる食事に傾いた。若い女は栄養価が高く柔らかく(童磨的に)美味しいため好んで食べていた。なお、琴葉は肌越しでも砂糖菓子のように甘くて美味しい(≠稀血)風味がするので、空腹になるととても美味しそうに見えて困る。

 

 

 

《戦闘力》

 

血鬼術により氷を操る。敵の呼吸を妨害する粉凍りをベースとした多様な広範囲高火力(凍結)の技を持ち、己と同レベルの血鬼術を放つ自動戦闘人形・結晶の御子を作り出す、まさしく公式チート。童磨本人の戦闘センスと身体能力も上弦の弐に相応しく、知能が異様に高く、再生力も相応であるため、柱数人で立ち向かっても厳しい戦いとなる。おそらく悲鳴嶼行冥とサシでやって互角より強いぐらい。痣者になってようやく身体能力的に渡り合え、透明な世界に目覚めれば結晶の御子を出されても攻勢に出られる。ただし、猗窩座と異なり中距離広範囲の血鬼術を使い気配より目に頼るため、炭治郎が猗窩座を圧倒したようにはならない。

 

無惨の呪いが外れる前は原作どおりの強さ。逃れ者となった際にランクダウンしたが、嘴平親子を守るべく戦い方に遊びも慢心もなくなり、結果として原作開始の頃には総合的に以前と同程度の強さに戻っている。じりじりと相手の手の内を暴く戦法から短期決戦型へとチェンジした。

 

隠れて暮らすための新たなスキル開発にも余念がなく、小型化(ね○どろいどサイズになる)や気配の誤魔化し、粉凍り・改(相手に吸わせて居場所をトラッキングする)等を活用している。四寸ぐらいのミニ結晶の御子を「目」としてばらまくことを覚えた後は、誰の手にも負えない最凶の鬼と化した。紛うことなき血鬼術の天才。

 

 

 

《性格》

 

1話目の中盤までは原作と同じ。嘴平琴葉と出会い、彼女と伊之助を何年もそばに置いて愛でるルートを進んだことにより、ミリレベルで「可愛い」「面白い」「嬉しい」「好き」等の感情を育み始めた。超局地的に情を抱いたともいう。はじめは胸のうちがさざめく程度で自覚もなく、しかし嘴平母子と過ごすうちにどんどん深く複雑な世界の感じ方ができるようになっていった。

 

一言で表すとサイコパス。しかし根本は「自分は可哀想な人々を助けてあげるために生まれてきた」という上から目線かつ献身の権化な考えで流されつつ生きており、相手に合わせるため以外で嘘はつかず、他者に悪意をもって接することもない。煽り口調は生まれつき。ウザ絡みも悪気ゼロ。他者に共感できないから思いやりをもてない。皮肉にも情緒を育んだことで他者に悪意を抱けるようにもなった。

 

幼少期から神の声を聞く教祖として崇められ、その役目に疑問を抱くことなく育った影響は童磨自身が思うより根深く、異常な知能と付随する合理性により、矛盾を伴う感情や他者との共感を要する情緒が極めて育ちにくかったことが災いした。寺院の外の世界を知らずに鬼となり、その後も教祖として狭い世界にとどまり続けたことが彼の成長の停滞させた。

 

琴葉と伊之助を囲い、特に琴葉の善良すぎるあり方の美しさに接し続けたことでミリ単位で人間らしい情緒(プラス方面のみ)を育むことができた。連載3話目以降は心から家族を愛している(自覚してるかは別) しかし人類が琴葉のような者ばかりではない(むしろ彼女みたいなのは超少ない)と知っているため、限定的な成長しか望めなかった。嘴平母子と15年間暮らす間に愛玩→愛着(情)→愛情(家族)と心を成長させ、家族連れの人喰い鬼というとんでもモンスターへと進化した。

 

 

 

 

《スペック》

 

ランク:高い S → E 低い

 

①原作の童磨

容姿:A+ 優しげ可愛い系

情緒:E- 虫レベル

知能:S 

膂力:B

速度:B++

体力:A

回復力:A

血鬼術:S+ 作中最高レベル

 

②本作の童磨(逃れ者ver)

容姿:A+ 

情緒:D- 家族特攻有でC

知能:S 

膂力:B

速度:B++

体力:B- すぐ貧血になる

回復力:A 貧血時はC+

血鬼術:A++ 火力が物凄く落ちて器用さが格段に上がった

 

③嘴平童磨(無惨討伐の5年後)

容姿:A+ 

情緒:D+ 家族特攻有でC+

知能:S 

膂力:C

速度:C

体力:C

財力:A+ 人生相談()一回につき一般市民の月収程度のお礼を受け取っている

装備:落ち着いた色の和装、髪に黒い細リボン、外出時はお洒落な帽子と薄茶の色眼鏡

 

※目安は以下のとおり

容姿:堕姫S+、琴葉S、異形の雑魚鬼E-

情緒:一般市民B-、物凄く賢い善人A、一般的な人喰い鬼D

知能:お館様A+、平均的な市民C+、琴葉D+

膂力:猗窩座殿A+、悲鳴嶼さんA(人間最高峰)、一般女性D

体力:鬼は基本的にB以上、上弦はA、一般市民C-

速度:最終形態無惨様A+、しのぶさんB+、一般男性C-

回復力:猗窩座殿S、雑魚鬼C、柱D、一般市民E-

血鬼術:最終形態無惨様(投薬なし)S+、半天狗A+、累B-、手鬼C-

 

 



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#??? Icestorm over Inferno

タイトル=煉獄に氷雪降れば

番外編。五年越しの邂逅、あるいはそれぞれの未来。




隻眼で片腕が不自由な兄の供としてその街を訪れた煉獄千寿郎は、帝都の喧騒とは異なる空気にすっかり呑まれていた。大藩の城下町として栄えてきた古い町並みは、浅草の人混みや銀座のきらびやかさの対極にある凛とした気位の高さがうかがえた。道行く人々はみな小奇麗で、どこか慇懃な余所余所しさをもっていた。

 

「どうした、千寿郎。宿はこっちだぞ!」

 

「すみません、兄上」

 

ずんずんと先を行っていた兄―杏寿郎が足を止めて声を掛けてくる。快活な彼らしい大声は、屋外にあっても一際よく響き、周りの視線を集めた。大柄にして長身、加えて珍しい髪色に燃える宝石のような隻眼。まさしく快男児といった、一度目にしたら忘れられない風貌だ。道行く人々はくすりと笑い、小声でその精悍な様を語り草にしていた。

 

「美しい街並みだな! 能楽も盛んだそうだ。滞在中に観にいくぞ!」

 

「はい、是非に。父上のお土産はどうしましょうか」

 

「九谷の湯呑はどうだ! 母上がお好きだった」

 

「それは……いいですね」

 

二人の父である槇寿郎も共に旅する予定だったが、数日前に腰を痛めてしまい、息子二人だけの旅行となってしまった。何年も飲んだくれていた男は鬼舞辻無惨討伐の少し前から断酒を決行し、杏寿郎らが幼かった頃のように背筋を伸ばして過ごすようになった。そのきっかけとなった人物を思い浮かべ、千寿郎は横目に兄を見やった。

 

「兄上、伊之助さんは本当にここにいらっしゃるのでしょうか」

 

「間違いない!」

 

輝利哉様が確認された、と答える杏寿郎は嬉しそうだ。五年前に継子の少年の行方が知れなくなった時は難しい顔ばかりしていたが、いつしか葛藤はなくなったらしい。

 

鬼の祖との決戦で杏寿郎は左肩を負傷し、片腕をほとんど上げられなくなった。もう少しで切断しなければならなかったと聞いて槇寿郎も千寿郎も顔を青くしたものだ。幸い利き腕ではなかったため、本人は特に不自由な様子もなく帝室博物館の刀剣担当学芸員として働いている。産屋敷家の口利きで就職が決まるまで、千寿郎は兄が史学に関心があることさえ知らなかった。

 

最初はまるで学芸員らしからぬ杏寿郎であったが、博物館の図書や資料を読み漁って教養を高め、数多の名剣名刀に囲まれて日々生き生きと過ごしている。そんな彼が休暇をもぎ取ってまで地方都市を訪れたのは、ひとえに元鬼殺隊上層部にもたらされた嘴平伊之助発見の報せゆえであった。

 

「伊之助は陸軍学校で剣術講師をしている。何の縁か、陸軍大臣直々の口利きだったそうだぞ」

 

「そこまでわかっているのですか!」

 

「うむ、琴葉殿の方も確認できている。住まいまではわからんが、珍しい名字だからな。聞いて回ればすぐに判明するだろう!」

 

「それはよかった。お変わりないといいですね」

 

「そうだな!」

 

どこを見ているのか分かりづらい片目が爛々と輝いている。杏寿郎が宿にむかってずんずんと進むのを半歩遅れて追いかけながら、千寿郎はずっと胸の中にあったつかえがなくなるのを感じていた。伊之助が煉獄家にいたのはほんの数ヶ月だったが、彼がもたらした変化は甚大だった。いつかお礼を言おうと思っていたのに、千寿郎の言葉は行き場をなくし、もう五年も経ってしまっていた。

 

姫君のような完璧な美貌を思い受かべれば目頭が熱くなり、このままではいけないと袖で拭う。もう兄と背丈が変わらない大人の男だというのに情けない。そう思い、気を紛らわすために視線を泳がせた先で、千寿郎は見事な朱色に目を奪われた。

 

「兄上、先に宿に行っていてくださいますか」

 

「うん? どうした、千寿郎」

 

「あの、ええっと、一人で買いたい物があるのです」

 

「そうか! わかった、先に部屋にあがっているぞ」

 

「はい」

 

大きな背中が遠ざかるなり、細身の青年は通りの脇へと寄り、店先の棚に置かれた朱塗りの椀を手にとった。麗しい赤に金箔の炎が浮かぶ素晴らしい逸品だ。身なりが良い千寿郎に店主が眉を下げて声をかけ、とんとん拍子で支払いを済ませれば、椀を桐の箱に入れて渡してくれた。丁寧に礼を述べて店を後にしようとしたところで、狭い戸口で誰かにぶつかりそうになり、慌てて足を止めた。

 

「失礼いたしました!」

 

「いやいや、気にしていないさ」

 

長身な千寿郎のさらに頭上から穏やかな美声が降ってくる。間近にある胸元は上物の藍色の着物を纏っており、うすらと白檀の香りがした。目に入る範囲の出で立ちは品良くまとまった和装だ。どんな人だろうと視線を上げれば、黒い山高帽のつばの下、薄い硝子越しに虹色が見つめ返していた。

 

「やあ、こんにちは。観光に来たのかい?」

 

にこりと笑った顔は優しげで大変整っていた。落ち着いた物腰に反して肌つやが良く、年齢が判断しにくい。旅先でこうして声を掛けられるのは嬉しいもので、千寿郎もやや幼い顔で笑い返した。

 

「はい。とても素敵な街ですね」

 

「ありがとう。俺も五年ぐらい前に住み始めたんだけど、本当に快適な良いところだよ。ねえ、ご主人?」

 

「先生みたいな方には良く合うでしょうよ。文豪の街ですからねえ」

 

男が店主に話を振れば、店主は機嫌よさげに応じる。どうやらこの男は店の常連のようだった。

 

「小説や詩を書かれるのですか?」

 

「うーん、そうだねえ。有名ではないけど小説家をやってる」

 

「凄いですね!」

 

勉強が好きで文学もたしなむ千寿郎が尊敬の目を向けると、男は眉をさげて柔らかい困り顔になり、少々わざとらしい話題の替え方をした。

 

「自己紹介が遅れたね。俺は嘴平というんだ。これも何かの縁だし、君の宿泊先が近いなら歩きがてら見どころとか案内しようか?」

 

はしびら。珍しい苗字をオウム返しにして、目の前の美しい男を目で測る。容姿からして琴葉と伊之助の血縁者ではないだろう。そうであるなら、考えられる可能性は絞られた。

 

「あの、もし違っていたらすみませんが、嘴平琴葉さんと伊之助さんのご家族ですか?」

 

千寿郎の問いかけに男はぱちりと虹の瞳を瞬かせ、「琴葉は妻で、伊之助は息子だけれど」と答えたのだった。

 

 

※ ※ ※

 

 

大通りを竹刀袋を背負って歩く伊之助の姿は、すでに街では知られた光景だ。上等な和装の、まるで物語から出てきたような美青年であるからして、道行く女性らの視線は熱い。しかし本人は集まる視線に不快感を隠さず、やや眉を寄せて足早に自宅へ向かっていた。

 

(うぜぇ……)

 

街で暮らすことにもう慣れたとはいえ、依然人混みは好きになれない。次の休日は山で過ごそうかと考えたところで、伊之助はピタリと足を止めた。上方から強い視線が突き刺さっている。獣の呼吸で気配を探るまでもなく、この視線の主は想像がついた。懐かしさからの喜色とついに来たかという緊張が同時に生まれる。ゆっくりと相手を仰ぎ見れば、燃える隻眼と目が合った。

 

「伊之助! 久しいな! 見違えたぞ!!」

 

「師範は変わんねぇな。元気そうでよかった」

 

小さな旅館の二階の窓辺から大声を出したのは、伊之助が継子として師事していた元鬼殺隊の炎柱―煉獄杏寿郎その人だ。五年の月日でより精悍な顔立ちになっているものの、獅子のような長めの髪も煌めく隻眼も変わらない。そこにいるだけで炎が燃え盛るような男は、何も含みもない笑顔を浮かべていた。

 

「よければ部屋に上がらないか!」

 

伊之助はその誘いに無言で頷き、成り行きを見ていた番頭に迎えられて客室へと通された。

 

小綺麗に整えられた部屋の入り口に竹刀袋を立て掛け、丸腰で上がり込む。杏寿郎はゆったりと座布団の上であぐらを掻いており、白い長袖シャツに黒いスラックス、その上に臙脂色のベストというモダンな姿だ。雄々しい印象ではあるが、体の線は最終決戦時に比べてずっと細くなっている。眩しいほど強かった師がもう戦えない体であると悟った伊之助は、身構えていた自分が馬鹿らしくなった。

 

「邪魔するぜ」

 

「ああ、座ってくれ。本当に息災そうで何よりだ! 琴葉殿も一緒に暮らしているのか?」

 

「母ちゃんも元気だぞ。師範は旅行か?」

 

「うむ、千寿郎と一緒にな。さきほど街でわかれたが、もう宿に着くはずだ」

 

「そっか」

 

杏寿郎はにこにこと目を細めて伊之助の成長ぶりを観察している。最後に会ったのは、まだ伊之助が少年だった頃だ。あの後、急激に身長が伸び、養父の背丈には届かなかったものの師とは目線がさして変わらないほど大きくなった。

 

用意されていた座布団にどかりと腰をおろし、どうしたものかと思考する。杏寿郎のことは好きだが、元鬼殺隊の者達にあまり関わり合いたくはない。確実に『痛い腹』を抱えている身としては、探られないうちに穏便に切り上げたいのだ。

 

「炭治郎と禰豆子が会いたがっているぞ。善逸もずっと気にしている。胡蝶とカナエ殿、蝶屋敷にいた少女たちもな」

 

竈門少年、少女、我妻少年と呼んでいた三人と元炎柱は親しくしているようだ。そして、蝶屋敷の女性陣の名が上がったことで元柱たちもまだ繋がっていることが伺えた。先月助けた迷子の子供で足がついたのだ。伊之助は端正な唇から小さくため息をつき、がしがしと黒髪を掻いた。

 

「戻らなかったのは悪ぃと思ってる。あん時は家族のことで頭がいっぱいだった。手紙ぐらいだしゃよかったな」

 

「そうだな! 聊か薄情だったと思う! こうして所在がわかったからには、近く君の同期と胡蝶あたりがやってくるだろう!」

 

「あいつら、元気にしてんのか?」

 

「炭治郎は炭焼きとして穏やかに暮らしているぞ。禰豆子は一昨年結婚した。美しい花嫁姿だった! 胡蝶はまだ独り身で、薬剤師として働いている」

 

つらつらと懐かしい面々の近況を話す杏寿郎に聞き入っているうちに、板張りの廊下をいくつかの足音が近づいてきた。ひとつは仲居、もうひとつは煉獄千寿郎のものだろう。そして最後に続くひとつがあまりに聞き慣れたもので、思い至るなり伊之助は腰を浮かしそうになった。美しい青年のその反応に杏寿郎も襖のほうを見やる。

 

「お連れ様がお見えです」

 

中年の女性がひと声かけ、静かに襖を開ける。そうして入ってきたのは、ひょろりとした杏寿郎によく似た和装の青年と、もう一人。その姿を見るなり杏寿郎の気配が変化した。仲居がまだ廊下にいるため大きな動きは見せなかったが、確かに下半身に力をこめ、いつでも応戦できる体勢に入ったのだ。相手もそれに気づいただろうに、優しげな顔に笑顔をのせて帽子片手に会釈した。

 

「兄上、お待たせしてしまいすみません。伊之助さん、お久しぶりです。千寿郎です、覚えてらっしゃいますか?」

 

「おう、久しぶりだな、千寿郎」

 

「ふふっ、お元気そうで何よりです」

 

何もわかっていない千寿郎が大人しい人懐っこさで頭を下げる。伊之助もそれに応じ、ついと翡翠の目を後ろの男に向けた。

 

「兄上、こちらは嘴平さんです。さっき土産物を買った店でお会いして、琴葉さんと結婚されていると聞いたのでお連れしました」

 

「伊之助、これはどういうことだ。童磨の頸は確かに斬ったはずだ!」

 

兄の厳しい表情に、千寿郎も何かがおかしいと気づいて自らが連れてきた男から数歩離れる。仲居が閉めていった襖を背に佇むのは、落ち着いた色合いの和装が似合う、白橡の髪に虹の瞳をもつ見目麗しい男だ。四十近くに見える渋い色みの出で立ちだが、顔や体付きを見ればずっと若いことが伺えた。鋭い隻眼の視線を向けられても、男はそしらぬ顔で薄茶の色眼鏡を外すだけだった。

 

こうなっては穏便に済ませるのは無理だと諦め、伊之助は座ったまま養父―嘴平童磨を見上げる。

 

「父ちゃん、どうすんだよ、これ」

 

じろりと睨んで全て丸投げしてくる息子に、元人喰い鬼は心配無用と言外に応えたのだった。

 

 

※ ※ ※

 

 

「産屋敷殿には四年前に連絡してあったんだよ」

 

部屋の隅の座布団の山からひとつ取り上げて座るなりそう切り出した童磨の話は、聞き手である元炎柱の息苦しくなるような殺気を交えながらも、血の雨を降らせることなく進んだ。琴葉との出会いから逃れ者になるまでの経緯、その後の八年間の生活、鬼を殲滅するための暗躍に至るまで、理路整然と語る様子は説法でもしているようだ。

 

無惨討伐後に家族三人で逃亡したのち、産屋敷輝利哉には生存を伝え、お互いのために秘匿するよう『お願い』したのだと締めくくった男は、まったく悪びれていない。あまりに堂々とした養父の開き直りに、伊之助は肩を落として眉間に手をあてていた。

 

「琴葉も伊之助も嘘はついてないし、君たちの邪魔になるような工作も一切してないぜ。この子が真面目に鬼狩りしてたのは君も知っているでしょう?」

 

「……何年も鬼を匿っていたのは明確な隊律違反だ」

 

「今更だよ、煉獄殿。それに俺を匿ってたのは伊之助じゃないから君たちに裁かれる謂れはない。もう人間に戻って真っ当に生きてるんだから、お互い過去は水に流したいのだけど」

 

「君はっ、何も悪いと思っていないだろう! 上弦の弐ともなれば、数千の人を喰らったはずだ。鬼殺隊士を何人殺した!? この悪鬼め、気まぐれで飼った人間に愛着を覚えたようだが」

 

「兄上」

 

激高して薄皮を傷つけるほどの剣気を立ち昇らせた杏寿郎を、弟の小さくはっきりとした一言が遮る。千寿郎は、何故止めるのだと不服顔の兄を正面から見つけ返し、つと伊之助へと視線を流した。

 

「相手が誰であっても、口にしてはいけないことがあります」

 

「……そうだな、ありがとう、千寿郎。伊之助も申し訳なかった」

 

「気にしてねえよ」

 

「あれ、俺への謝罪は?」

 

「君には謝りたくない!」

 

「ふうん? まあいいさ、君と長話する気はないし。伊之助が世話になったから、事情ぐらい教えてあげようと思っただけだよ」

 

「話さないのは大いに結構。はじめてまともに会話したが、俺は君のことが大嫌いだ」

 

「俺もあんまり好きじゃないかな」

 

元炎柱と元上弦の鬼の間で一方的に火花が散ったが、千寿郎が二人の間のちゃぶ台に湯呑を置いたことで遮られた。杏寿郎によく似た顔立ちだというのに、下がり眉ひとつで子猫が困っているような印象になるものだ。現実逃避に至っている伊之助がそう考えているうちに、大きく息を吐き出したかつての師が怒りを飲み下すように湯呑の中身を呷った。

 

「わあっ、兄上、それ淹れたてです!」

 

「ぐふっ、ごほ、ゴホッ!!」

 

慌てる弟と盛大に茶を吹き出して咽る兄。咄嗟に袖で飛沫をさけた童磨は、やれやれと肩をすくめて立ち上がった。そして咳き込みながら睨む杏寿郎には目もくれず、息子に声をかけた。

 

「伊之助、そろそろ帰ろう。琴葉が天ぷらの用意をしていたよ」

 

「おう」

 

養父に並んだ伊之助がちらりと兄弟をその目に映す。

 

「師範、言い訳はしねえ。今も昔も、俺は家族が一番大事だ。炭治郎たちにもそう言っといてくれ。それでも会いに来る奴は歓迎する。千寿郎、さっきはありがとな」

 

「伊之助さん、またお会いできてよかったです。貴方は父上を良い方向に導いてくださった。心から感謝していると、ずっとお伝えしたかったんです」

 

「俺は何もしてねえよ」

 

少しの穏やかなやり取りが充満していた物騒な空気を和らげ、伊之助が竹刀袋を背負って童磨ともども廊下へと出る。見送りに立った千寿郎の後ろから、咳き込みが落ち着いた杏寿郎の声が追ってきた。

 

「童磨、人間に戻った君を殺しはしない。だが我らが手を下すまでもなく、いつか必ず報いを受けるだろう!」

 

真っ直ぐな糾弾に嗤ったのは誰だったのか。先を行く童磨が後ろ手に伊之助の手を握り、二人は振り返らずに細い階段を降りていった。

 

 

※ ※ ※

 

 

氷の嵐のような元鬼が去った後、千寿郎はちゃぶ台を拭いて湯呑を片付けながら、再び窓際に陣取った兄の背に時折目を向けた。もっと烈火のごとく怒るだろうと思った杏寿郎は静かに外を見つめている。もう嘴平親子の姿はないというのに、猛禽のような隻眼でずっと遠くを眺めていた。

 

「お元気そうでしたね、伊之助さんは」

 

「そうだな」

 

声をかければ杏寿郎は体ごと向き直り、壁に背を預けて片膝をついた。宙をさまよった視線が畳のうえの自らの左手で止まり、甲を返して柔らかくなった掌に指を折る。この手こそが、鬼と戦うことがなくなった長い日々の象徴であった。

 

「不思議と裏切られた気はしないのだ。甘いと思うか?」

 

「いいえ」

 

千寿郎も兄と同じように隣に腰をおろし、立てた膝を抱くようにして座る。

 

「あの方が家族第一なのはわかっていたことですから。次にこの街に来る時は、事前にご連絡して父親抜きの食事でもしましょう」

 

「ははっ、そうだな!」

 

まずは炭治郎たちに手紙を書かねば、と杏寿郎は今も付き合いが深い若者たちを思い浮かべた。きっと彼らは入れ代わり立ち代わりでこの街を訪れることだろう。元蟲柱がやってくる時には、往来で童磨と鉢合わせないことを祈るばかりだ。あれほどの美女が大の男を殴り倒して叩きのめす等、下手をすれば地方紙の見出しを飾ってしまう。

 

杏寿郎の予想がおおかた当たり、蝶のような小柄な女が自称小説家の男に傘を突き立てようとするのを赫灼の兄と妹夫婦が必死で止めるのは、数カ月先の小雨の昼下がりのことだった。

 

 




【登場人物紹介】


童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフの終りを迎え、晴れて人間として家族と過ごしはじめた。自称小説家だが作品はなく、お偉方の人生相談()が本業。毎度の心ばかりのお礼が一般家庭の月収を超えている。その浮世離れした色合いと優しげな美貌からちょっとした街の有名人だが、本人は慎ましやかに生きているつもり。家族と幸せに暮らすことが人生の最重要課題。千寿郎君のことは当然知っていた。煉獄さんのところにも故意に顔を出した。なお、悪鬼時代にしでかしたことは全て優秀な頭脳のどこかに埋まっているが、欠片も反省していない。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。大藩の城下町のおっとりねちっとした風土に意外と馴染んだ。何を遠回しに言われても気づかず善意120%で受け応えするせいで、一年もすると近所の愛され奥様になった。得意料理は伊之助が好きな天ぷらと童磨が好きな肉料理全般。自身は少食だが、夫と息子に山盛りのおかずを用意する毎日である。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美青年。20歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライな猪。しかし両親にはウェット。地方の陸軍学校で剣術講師をしている。美しすぎるうえに強すぎると大変有名。最初に再会したのが煉獄さんだったのは、どこかの13歳の旧家当主と身近な元鬼が誘導したんだろうと踏んでいる。大体合ってる。鬼殺隊の仲間たちに重要なことを黙っていたのは後悔も反省もしていないが、多少なりと好意を持っている相手には弱い性分なので、しのぶさんや炭治郎らとの再会が思いやられる。

煉獄杏寿郎
黎明に散らず見事決戦を生き残った元炎柱。25歳。最初に輝利哉様から伊之助の近況を教えてもらった選ばれし元師匠。最終決戦の後遺症で左腕がまったく上がらないが、本人は気にせず元気に暮らしている。四年前から帝室博物館の学芸員として刀剣コレクションの管理に携わっている。武家の息子としてそれなりの教養はあるものの、はじめはあまりの世間ずれっぷりに同僚らから白い目で見られていた。現在はすっかり馴染んで一目どころか三目ぐらい置かれている職場最年少の兄貴分(概念)である。

煉獄千寿郎
元気弱系煉獄男子。大人しい性格はそのままに随分明るくはっきり物を言うようになった。購入したお椀は東京に戻ってから兄上に贈った。杏寿郎に並ぶほど背が伸びたのが密かな自慢。しかし体格は遠く及ばないため、顔がそっくりでも見間違われることはない。伊之助が炎柱の継子だった頃から、剣の才がない己は他の方面で人の役に立ちたいと強く思っており、今は帝国大学の学生として日々勉学に励んでいる。槇寿郎を諌めてくれた伊之助に恩義を感じている。



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#??? Hanging by a Spider’s Thread

タイトル=誰がための蜘蛛の糸

番外編。本来の世界、あるいは六日地獄。

※本作の童磨が原作の童磨に成り代わる単発番外編。原作どおりに死亡するキャラがいます。




シャボンが弾けるような音がして、辺りが一気に血生臭くなった。布団で寝ていたはずなのに体は立っており、川のせせらぎが濁流へと変わっている。どうしたのだろうと目を開けて見つけた世界は暗く、夜空の下、ざわざわと蠢く木々に包まれていた。

 

あまり馴染みがないこの場所を童磨は知っていた。寺院から少し離れた山間の崖だ。下には流れが早い川があり、目が悪い琴葉や小さな伊之助が近づくのは危ないと気に留めていた覚えがあった。まだ上弦の弐であった頃、彼が可愛い母子を手許に置くだけで満足していた頃の話だ。

 

「う、あ……」

 

鼻腔をくすぐる甘い鉄分の香りは、童磨の一等大事な宝物のものだ。何年も薄い肌をとおしてその風味を味わい、淡く漂う香りを楽しんできたのだから間違いない。

 

とろりと屋外の空気に充満するほどの血臭。それの出所を確かめたくなくて、けれど虹の瞳は完璧な夜目をもって足元へと視線を落とした。見たくない。知りたくない。こんなことがあってはいけない。ガクガクと足が震え、長身を支えることを放棄してその場に膝をつく。同じように激しく震える両手を伸ばして触れた豊かな髪は、生温かな体液で濡れていた。

 

「ああ、あああッ、そんな、琴葉、琴葉っ、目を開けておくれ!」

 

崖の縁にもたれるようにうつ伏せに頽れた女を抱き起こして胸元で確かめる。とっくに失って久しい鬼の聴覚が弱い鼓動をとらえ、人喰いの本能がこれが御馳走であると空腹感を刺激する。琴葉は白い美貌を青ざめさせてうなだれ、首筋から胸元にかけて大きく裂けた傷口から上半身を赤く染めていた。傷口を凍らせて止血するには彼女は弱りすぎている。そうしたところで体が耐えられず死が早まるだけだ。あまりに浅く弱い呼吸はもう途切れそうだった。

 

琴葉が死んでしまう。彼女が両手からこぼれてしまう。百年以上生きてきて、これ以上恐ろしいことはなかった。黒死牟に追われた時も、伊之助が大怪我を負った時も恐怖はあったけれど、こんな脳が現実を拒絶して自壊しそうな激情を童磨は抱いたことがなかった。

 

「琴葉、琴葉、俺を置いて行かないで。死なないで、お願いだよ、君がいないと駄目なんだ。俺も伊之助も、君がいなきゃ」

 

これ以上かよわい体を傷つけないよう優しく抱きしめ、最後のいくつかの息を紡ぐ血塗れた口元を親指の腹で撫でる。「死なないで、俺達を置いて行かないで」と繰り返していると、ぐったりした琴葉が薄目を開けて童磨を写した。死相の中でも美しく輝く翡翠の瞳は、深い怯えと困惑を浮かべていた。

 

「ど、して……なくの?」

 

「君が大事だから、愛してるからだよ。琴葉、一体誰がこんなことを? 俺は君を守れなかったのかい? 伊之助はどこに?」

 

もしかしたら夢かもしれない。一抹の希望を抱いたのは、死にゆく彼女があまりに若いからだ。童磨が初めて彼女と伊之助と出会った頃ぐらいだろうか。肌寒い季節だというのに羽織も纏わず、裸足の足は泥だらけで傷だらけ。何かから逃げてきたのは間違いなかった。そして、彼女が逃げるなら必ず共にあるはずの子供の姿がないことが、さらに童磨の中に恐怖を募らせていた。

 

「いの、すけ……」

 

「うん、伊之助だ。俺たちの宝物の伊之助はどこにいったの? 抱えて逃げたんでしょう? あの子はどこだい?」

 

「きょ、そさま、あのこ……たべない?」

 

焦点がうつろう琴葉の視線を頬を撫でて支えることで合わせてやれば、彼女は怯えた眦から涙を溢れさせた。愛しい眼差しに愛情を見つけられず、童磨はこれは夢で間違いないと己に言い聞かせる。童磨が自覚するずっと前から、琴葉は彼を愛してくれていたのだ。こんな化け物を見るような目を向けるはずがなかった。

 

夢ならば、話を合わせて幻の彼女を安心させてやればいい。すとんと現実から切り離した思考で急激に息がしやすくなった。死に体の琴葉を撫でてやりながら、童磨は精いっぱいの優しい表情をのせて頷いた。

 

「食べないよ。琴葉も伊之助も、年老いて寿命尽きるまでそばに置いて守る。絶対に傷つけないし、誰にも傷つけさせない。約束する、本当だよ、琴葉」

 

童磨の言葉が届いたのかどうか、琴葉は最後の一筋の涙をこぼし、吐息だけで言葉をつむいだ。

 

「かわ、おとしたの……あのこ、まもらなきゃって、わたし……、きょう、そ、さま……いのす、けを、たすけ」

 

春の陽のようだと愛した美貌から命の色が抜ける。抱き起こした体から温もりが消えていく。たとえ薄い膜を隔てた世界であっても、童磨は己の中でともに何かが失われるのを感じていた。端正な顔から仮面が消えさり、虹の瞳が凍りつく。

 

琴葉だった芳しい肉を地面に寝かせ、扇のひとふりで四寸程度の小さな結晶ノ御子を何十も作りだす。いつになく鬼の力が漲っている感覚に、この夢はまだ上弦の弐であった頃なのだと改めて自覚した。この状態であれば、どれだけでも分身を撒くことができるだろう。

 

「伊之助を探して連れ戻せ」

 

平坦な声が命じるなり、氷の童子たちは一斉に崖から飛び降りていった。あの分身らの使い勝手は信頼できるのだ。詰めていた息をゆるゆると吐き出し、眠るような琴葉の右手をとって小指を絡める。そして力ない指を砕いてしまわないよう、けれどしっかりと繋げて誓った。

 

「この夢が覚めるまで、俺が伊之助を守る。ゆびきりげんまん、君の分まできっと守るよ。だから、それまで一緒にいておくれ。ううっ、琴葉、琴葉……っ」

 

この場に第三者がいたなら、人喰い鬼が広い背を丸めて女の屍を貪るように見えただろう。むせび泣きながら冷たい体を取り込んだ童磨は、喉が裂ける慟哭とともに育ちかけの心が入った箱に鍵をかけた。

 

 

※ ※ ※

 

 

伊之助は朝日が登る前に童磨のもとに戻された。溺れることも衰弱することもなく、暖かなおくるみに包まれて眠っている。懐かしい赤ん坊をあぐらの上に寝かせて腹を撫でてやりながら、童磨はこれからどうするかと考えを巡らせていた。

 

(俺にはあの方の監視がついている。伊之助を裕福な信者に預けるのは確定として、鬼を全滅させる手立てをどうするか。あの方を殺したら俺も道連れだけど、それはまあいいかな)

 

戦闘中でもなければ、鬼舞辻無惨は能動的に鬼の思考を覗いたりはしない。かといって油断できるほど上弦の弐の地位は軽くはなく、いつ招集を受けるかわからない。だからこそ、可能な限り早く動かなければならなかった。

 

「伊之助、夢の世界でも幸せになるんだよ。琴葉と俺の宝物、夢から覚めたら抱きしめさせておくれ」

 

教祖の間に近づく足音に顔をあげ、世話役の信者が外から声をかけてくるのに応じる。入室してきたのは二十年来の信者である裕福な夫婦だ。現実での彼らは一人息子に先立たれた苦しみから救われたくて入信した。琴葉が伊之助を抱いているのを羨ましげに見つめていたのを童磨は知っていた。

 

「よく来たね。お前たちに神の言葉を授けよう」

 

「ああっ、教祖様、ありがたや、ありがたや」

 

絹布を敷き詰めた高座にある美しい姿に中年の男女がひれ伏す。童磨は感動の涙を流す二人を慈しみの顔で見下げ、膝に寝かせていた伊之助を胸元に抱き上げた。

 

「伊之助のことは知ってるだろう? この子の母親……琴葉が先に極楽に呼ばれてしまったから、お前たちがこの子を育てなさい。伊之助は神の子じゃないけれど、この子を何不自由なく大人になるまで育てることで、極楽浄土が約束される」

 

「教祖様が仰るとおりにいたします!」

 

「必ずやこの子を立派に育てます!」

 

頭が悪すぎる夫婦だが、これがどうして商売上手で、童磨が知る現実において鬼が滅んだ後には一大企業を立ち上げていた。彼らに任せておけば伊之助は安泰だ。根っからの信者であるから、神の言葉に逆らうことなど微塵も考えないだろう。

 

童磨はゆっくりと立ち上がり、伊之助を渡すべく女の信者に歩み寄った。恐れ多いと顔をあげない女のつむじを見つめ、声をかけようとして言いよどむ。伊之助のもみじの手が己に向けて伸ばされたからだ。零れそうな輝く緑が童磨をきらきらと見つめていた。

 

「伊之助……」

 

「あー、ぶう! むぅう!」

 

「大丈夫だ。ゆびきりげんまん、必ず守るよ」

 

指を絡めるには幼すぎる小指をそっと自らの小指で撫でる。虹の瞳で最後に一目、愛らしい顔立ちを記憶に刻み込み、童磨は心の箱にもうひとつ鍵をかけた。

 

 

※ ※ ※

 

 

童磨が数百の御子をばらまいて探した逃亡者の女鬼のもとを訪れたのは、家族との別れから三日後のことだった。夕暮れを少し過ぎた時分に診療所を取り囲み、氷の鬼気を撒き散らして脅しをかければ、青い顔をした女鬼と少年の鬼が姿を表した。

 

「やあ、こんばんは。良い夜だねえ、珠世殿。俺の名前は童磨。よろしく頼むよ」

 

「その瞳……上弦の弐の鬼、私を殺しに来たのですね」

 

美しい顔を憎々しげに歪ませて珠世が問う。愈史郎が彼女を守ろうと前に立つが、童磨は気にもかけず距離を近づけた。

 

「いやいや、素晴らしい提案をしにきたんだ」

 

にこにこと笑う童磨に気味が悪いものを見る目が向けられる。優しい顔をして悍ましい気配を振りまいている相手に戸惑い、ここが死地ではないのかと黙り込む二人。童磨はそんな彼らに友好的に両手を広げ、断られる筈もない終わりへの誘いを口にした。

 

 

※ ※ ※

 

 

その日、上弦の弐からのある報告を受けた鬼舞辻無惨は、かの鬼を無限城に呼び入れた。その名の通り無限に広がる城内の中央に現れた鬼は、白橡の頭に血の色を被り、相変わらず軽薄な笑顔を浮かべていた。無惨はこの鬼の理解不能な頭の中を覗くことはせず、現れるなり跪いた童磨とその前に転がっている女の氷像を見下ろした。琵琶を抱く鳴女を除けば、この場には無惨と童磨、そしてようやく捕らえた逃れ者しかいない。外は朝日が登ったばかりで、彼ら以外の全ての鬼が暗がりに潜むしかない時分であった。

 

「ふん、頸だけで十分だったものを、わざわざ丸ごと持ってきたのか」

 

「なかなか見目麗しい女でしたので、こうして閉じ込めてみました。お気に召しませんでしたか」

 

いつもの笑顔を浮かべる童磨を無視して氷漬けの珠世をつま先でこつく。悲壮な表情で固まった女鬼は確かに美しかったが、無惨はまるで興味がなく、早々に取り込んで殺してしまおうと決めていた。

 

「さっさと解凍しろ。いらぬ手間をかけるな」

 

「はっ、申し訳ございませんでした」

 

童磨が血鬼術を解けば、珠世は苦しげに咳き込みながら床に這いつくばり、濡れた紫眼で無惨を睨む。自らの白い腕に爪を立てて術を発動させようとする愚かさを余裕を持って許し、鬼の祖は広がった色とりどりの幻を踏み抜いて珠世へと右腕を差し伸べた。

 

「随分長く隠れていたな、珠世。お前の逆恨みもこれで終わりだ」

 

「終わるのはお前の方です、鬼舞辻無惨!」

 

ぎらりと殺気を立ち上らせる珠世に危機感を抱いたのは、千年を生きた生物の勘ゆえか。無惨は咄嗟にその場から飛び退こうとして、しかし床から離れない足に留められた。落とした視線の先には凍りついた己の足先。信じられない思いで跪いたままの童磨を睨めば、温度のない虹の瞳が笑みの形のまま見つめ返していた。

 

「さようなら、無惨様」

 

「童磨、裏切ったか!」

 

無惨が怒号をあげるのとその足元に開いた障子が現れるのは同時だった。明るすぎる青い世界への落下に気を取られ、即座に呪殺すべきだった鬼から気が逸れる。しまったと異形の腕と触手で無限城の中につかまろうとするも、四方から氷の粉がその身に襲いかかり、初動を大きく遅れさせた。

 

障子の縁に立った童磨越しに見えた鳴女の隣に、見知らぬ少年姿の鬼が立っている。その鬼は鳴女の両側頭部に両手の指を突き入れており、彼女の顔には文様が描かれた紙が貼り付けられていた。

 

赤い瞳を見開いた無惨が生存本能から先に鳴女への呪いを発動する。その誤った判断が鬼の祖の命運を分けた。

 

「がっ、ぎゃあああああああッ!!!」

 

琵琶鬼の頭部が破裂して無限城が崩れ始めるが、一足先に数メートル大の氷塊が無惨の腹部に激突し、その体を空中へと押し出した。もう無限城の屋内に戻る術はなく、無惨の全身が午前の快晴の中で焼け始める。投げ出された先が地上であれば、地面に潜り込んで事なきを得ただろうが、ここは数百メートルの上空だ。雲ひとつない晴れ空は無惨を逃すことない死の舞台であった。

 

「アアアアアァ、ぁ……」

 

端正な顔も死に抗って膨れ上がった肉体も、ぼろぼろと焼けて灰と化していく。死にたくない。脳裏でそう呟いたのが鬼舞辻無惨の最後だった。

 

 

※ ※ ※

 

 

ある診療所の奥まった部屋の天井にどこからともなく襖が現れ、それが開くなり三つの人影が吐き出された。愈史郎が死の間際の琵琶鬼を操り、崩れゆく無限城からの脱出口を開いたのだ。

 

「珠世様、大丈夫ですか!?」

 

「ええ、こんなに晴れやかな気持ちになったのは鬼になって初めてです」

 

一人だけ上手く着地した愈史郎が隣で倒れ伏す珠世を助け起こす。二人は怪我一つなく、無惨の呪いを宿さないがゆえにその道連れにはなっていなかった。助手の少年の無事を喜んだ珠世だったが、脇に転がって動かないもう一人にハッと目を向けた。

 

「童磨さん、やはりこうなってしまったのですね」

 

「わかっていたことさ。死ぬって意外と痛くないんだねえ」

 

「最後まで気味が悪いやつだな」

 

「愈史郎!」

 

「すみませんっ」

 

太陽を浴びた無惨の末路をなぞるように、童磨の美しい容姿が黒ずんで灰と化していく。不思議な色合いの髪も長い手足もとっくに崩れ、胸元もなくなりつつあるというのに、虹色の瞳は変わらず無機質であった。その蟲のような目に正直な感想を述べた愈史郎だったが、珠世に一喝されて背筋を伸ばした。

 

さらさらと灰が塵となり消えていく。童磨の体は優しげな顔だけになり、その目はもう珠世らを映していなかった。

 

「ああ、怖い夢だったなあ……琴葉、伊之助……」

 

穏やかな声が虚空へと溶ける。上弦・弐と刻まれた瞳がくすんだ七色の塵となり、鬼の祖を誅殺した恐るべき氷鬼は跡形もなく姿を消した。彼が愛しい女を看取った夜から、六日目の朝の出来事だった。

 

 

※ ※ ※

 

 

「童磨さん!」

 

ゆさゆさと肩を揺さぶる手ととろりと甘い声に意識を掬い上げられ、童磨は急激に覚醒した。布団に張り付いた背面が石のように硬直して指一本うごかせない。ヒュッと鳴った喉が空気を求めて大きく喘ぎ、乾いた唇がぱくぱくと魚のように開閉した。大きく見開いた視界いっぱいに柔和な美貌が映り込んだ途端、金縛りは解け、長い両腕が華奢な体を抱き込んだ。

 

いきなり抱きしめられて逞しい胸に寄せられた琴葉は目を白黒させたが、押し付けられた胸元から聞こえた爆音のような鼓動に柳眉を寄せ、たおやかな手で童磨の頬を包んだ。

 

「ずっとうなされていたわ。悪い夢だったのね」

 

「ああ、うん、地獄っていうのはああいうのを言うんだろうなあ」

 

童磨の震える手が、琴葉の長い髪をたどり頭から背中までを何度も撫でる。同じ掛ふとんの中で愛おしい体温に感じ入っているうちに、恐ろしい非現実の余韻は薄れていった。腕に抱いた琴葉から血臭が漂ってこないことに安堵して可愛いつむじに口づけを落とせば、胸元にころころと笑い声がくぐもった。

 

「琴葉がいなくなってしまって、伊之助を手放さないといけなくて、俺は鬼のまま一人ぼっちになった」

 

「……本当に怖い夢」

 

「夢だってわかってたけど、七日も持たなかったよ。何も感じなくなって、生きていたくなくて、鬼舞辻を道連れに死んだ」

 

そしたら目が覚めた、と囁いた口元を琴葉の指先がなぞり、続いてもぞりと身を伸ばした彼女の薄紅の唇が寄せられた。子供のような口づけが徐々に深く、お互いを確かめるそれに変わる。童磨が体を返して上に覆いかぶさる頃には、琴葉は細い腕で夫の腰を抱いてその身を擦り寄せていた。

 

「貴方と伊之助がいない夢だったら、私もきっとすぐ死んでしまうわ」

 

「琴葉には、そんな夢は見ないでほしいなあ」

 

鼻先を寄せ合ってかわした言葉が鍵となり、開かれた心からいとしいとしと形がない声が溢れる。辿られなかったいつかの未来は、誰も知ることがない幻となって消えたのだった。

 

 




【登場人物紹介】

童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフの終りを迎え、晴れて人間として家族と過ごしている。人の体になって初めての悪夢は、彼が信じていない地獄を体現するものだった。夢の中であっても琴葉の願いと伊之助の未来を何より優先し、無惨討伐を六日で完遂した。無惨様の前では、念の為、思考を分割して読まれないように奥の方に押し込めていた。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。いつものように同じお布団で寝ていたら、夜明け前に童磨がうなされだした。しばらく見守っていたけれど心配になって揺さぶり、やっと目が覚めた彼の憔悴っぷりにこれは全力で慰めなければ!と全力で甘やかした。夢の住人の彼女は、今際の際に童磨であって童磨ではない優しい誰かに出会った。虹の瞳に確かな情を見つけたことで、伊之助を託した。勘の良さは本物。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美青年。20歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライな猪。しかし両親にはウェット。今回出番なし。明け方頃に両親の部屋が騒がしくなったので気配を探ったが、すぐに甘い雰囲気を察して切り上げた。両親が仲良しなのは大変嬉しい。なお、夢の住人の赤ん坊の伊之助は、お金持ち夫婦の養子となって何も知らずに育った……かもしれない。

珠世&愈史郎
夢の住人。ある夜いきなりやってきた上弦の弐と半ば強制的に共闘することになった。珠世様は童磨の作戦を聞いてやる気になり、愈史郎は彼女の熱意に巻き込まれた形。なお、愈史郎の能力は現実世界で共闘するにあたって童磨に完全に共有していた。

鬼舞辻無惨
夢の住人。ある日、童磨から珠世を見つけたとの連絡が入り、優先順位は低くともこの機に始末しておこうと動いたのが運の尽き。えげつないだまし討ちにあって地上数百メートルの晴れの空に放り出された。他の上弦を呼んでいなかったのは油断が過ぎた。

鬼殺隊の皆さん
夢の住人。まったく出番なし。ある日突然鬼が絶滅した!!






【無惨様暗殺RTAの流れ】

①童磨が珠世様の氷漬けと目くらましの術をかけた愈史郎を連れて無限城へ
 なお、日時は快晴の午前中とする

②無惨様の前では思考を分割して読まれないようにする(今回はしなくてもよかった)

③珠世様の解凍を合図に愈史郎が鳴女をハッキング、無惨様を地上数百メートルに放り出す

④童磨の役割は、無惨様がちゃんと落下するよう追い打ちすること

⑤無惨様死亡。連なる鬼も、童磨を含め全滅。

戦闘時間6分3秒




【補足】

童磨は逆行?する前の自分が琴葉に致命傷を負わせたとは思い至りません。彼にとってありえないことすぎて、気が動転している状態では気づくはずもありませんでした。夢の終わりまで気づかなかったのは、きっと幸せなことです。なお、夢だと信じようとした時点で童磨にSAN値は残っていません。

伊之助を手放したのは、彼の未来のため鬼を絶滅させる過程で自分がきっと死ぬから。琴葉を失って生きていたくなくなったのが最大の死亡フラグ。もし育ちかけの心を強くもって生き残る戦略が浮かんでいたら、手元で寿命まで育ててました。

連載本編完結後、この時点の童磨は、琴葉に対し恋情も含むかもしれない家族愛と海より深い依存と鬼らしい執着、伊之助には家族としての依存と親から子への未来を与えたい愛情を抱いています。琴葉と肉体関係があるかどうかはここでは濁してあります。



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#??? And Cock Robin Lived Happily Ever After

タイトル=可愛い小鳥は籠の中

番外編。鬼舞辻無惨の勝利、あるいは小鳥を飼う鬼。

※伊之助が四歳の時点で分岐したifルート。無惨様がペットの飼育を許可したせいで、鬼殺隊が大変なことになっています。




上弦の弐・童磨が二ヶ月に満たない期間に柱三人を殺害した成果は、鬼舞辻無惨の機嫌をこれまでになく上向かせた。そうというのも、柱の一人が飛ばした鴉を氷の童子に追わせ、藤の家紋の家や隠部隊、さらには分身を増やして芋づる式に柱の人数や隊士の階級制度、はてには入隊試験や剣士を育てる育手といった細部の情報まで仕入れただけでなく、入隊試験時に藤襲山に現れた産屋敷家の者を追うことで、あの目障りな一族の在所まで突き止めたからだ。

 

今、無惨の足元には顔が爛れた男とどこか無惨に似た顔立ちの少年少女らの頭部が並べられている。いずれも無念の表情をしているのがおかしかった。後の憂いを残さぬようにと産屋敷の館の周りは童磨の分身に包囲され、襲撃を予知したかのように逃された者たちさえ余さず始末することができたのだ。

 

つまり無惨は、この千年で最も機嫌がいいといえた。完璧に整った顔を綻ばせ、目の前でひざまずく部下へと声をかける。

 

「よくやった、童磨。此度の働きに相応しい褒美を取らせる。この血を望むもよし、稀血の女がよければいくらでも与えてやろう」

 

「ありがたき幸せにございます。無惨様、ひとつお願いがあるのです」

 

従順な鬼が顔を上げる。文字が刻まれた虹の瞳は相変わらずの気味の悪さだが、今の無惨はそれさえ気にならず、彼にしては穏やかに「言ってみろ」と促した。

 

この日を境に鬼殺隊は急激に衰退し、剣士らは姿を消していくことになる。対して鬼は計画的に数を減らし、飛び抜けた異能や才能を持つ少数が世界を股にかけて社会に溶け込んでいく。今はまだ誰も知らない、明けない夜が人の世に帳を下ろそうとしていた。

 

 

※ ※ ※

 

 

ベベン、と琵琶の音が鳴り、所狭しと棚が並んだ部屋の天井近くに襖が現れる。そこから危なげなく降り立ったのは、淡い色の髪の頭頂部だけが血の色に染まった、優しげな若い男だ。外へと続く扉に向かう間に、毒々しい色の頭はつややかな白橡一色に変わり、夢のような色の瞳から上弦・弐の文字が消える。

 

数多の棚には美しい壺と活けられた頭蓋が並ぶが、男―童磨は見向きもせずに部屋を後にした。しっかり施錠して鍵を体内に取り込んだ後は、美しい影のように暗い廊下を歩いていく。

 

まだ夜明けは遠く、寺院は静まり返っている。信者たちは全員寝入っているようだ。

 

僅かな燭台に照らされた廊下を音もなく歩く童磨は、まるで夢幻の住人だ。誰も見ていなくともうっすらと口元が笑みに歪むのは、彼なりに機嫌が良い証拠であった。

 

やがて教祖の間にたどりつき、室内へと足を踏み入れば、花の香りとともに愛らしい人の母子の体臭が鼻腔をくすぐった。少し耳をすませれば規則正しい寝息と、柔らかい肉体の奥で脈打つ心音まで聞こえてくる。眠る二人の健やかな様子に、童磨の笑顔がやや不格好なものになった。

 

絹布の山に横になり舶来の毛布をかぶった二人の人間。豊かな黒髪に埋もれるように眠る美女とその腕に抱かれる幼児こそが、童磨が愛でてやまない嘴平琴葉と伊之助だ。今宵、晴れて無惨から傍におく許可を貰った『お墨付きの小鳥』である。

 

毛布の端から潜り込み、童磨は伊之助を挟んで琴葉の背を抱いた。可愛い彼らは眠りが深く、鬼がやや冷えた体を擦り寄せても身じろぎさえしない。

 

「ただいま、琴葉、伊之助」

 

ぼそりと囁く口元には確かに牙があり、香を焚き染めた衣服の下には血臭がこびりついた肉体がある。食欲旺盛で美食家な童磨は、十二鬼月随一の大食漢であり、特に鬼殺隊と積極的に戦うようになってからは隊士らを含め週に何人も喰らっているのだ。けれどもこの瞬間、琴葉の頬にかかる髪をはらい、爪をひっこめた親指でその眦を撫でる仕草は只人のようであった。

 

「んー、とーちゃ……」

 

伊之助が寝ぼけてむにゃむにゃと涎だらけの唇を震わせる。童磨はそれにくすりと喉を鳴らし、母親そっくりなつむじに顎をつけて懐いた。密着した胸元を子供の手が握ってくるのが可愛くて仕方がない。父と呼ばれるようになったのはつい最近だが、すでに違和感は失せていた。

 

(琴葉も伊之助も俺が看取ろう。体にいい食事を与えて、健康的に過ごさせて、伸びやかに楽しく長生きさせよう)

 

これから何十年だって、二人を愛でよう。片目が見えない琴葉の手を伊之助と二人でひいて夜桜を見るのだ。夏になったら祭りに出かけ、秋には月見をしてみたい。この地は冬が厳しいけれど、しっかり厚着をさせて三人で雪遊びをするのもいい。こっそり氷で花でも作って見せれば、琴葉は喜ぶだろうか。

 

未来を想像するだけで胸の中の温度が上がるようで、童磨は心地よい気分で目を閉じる。明日は琴葉の歌が聞きたい。そんなとりとめのないことを考えながら、今宵も寝たふりをするのだった。

 

 

※ ※ ※

 

 

童磨は不思議な人だ。

 

酷くやせた半裸の男と鱗に覆われた手足と顔立ちがかなり人間離れした人物と談笑する男を見つめ、琴葉はもう何度目になるかわからない思いを抱く。

 

童磨が仕える尊い方と大切な仲間たちとの顔合わせのため、見たこともないような上等な睡蓮柄の着物に袖をとおすよう促され、伊之助も色違いの生地の甚兵衛でお洒落をしたうえで、まるで神隠しのように一瞬で夜桜が舞い散る小高い丘までやってきた。琵琶の音が聞こえた気がしたが、気がついたら場所を移動していたので親子そろって目を回してしまった。やっと落ち着いて辺りを見れば、大変美しい黒衣の貴人と彼が引き連れる異形の方々がそこにいたのだ。

 

「無惨様」

 

恭しくこうべを垂れる童磨に習い、琴葉も子供を抱いたまま深く頭を下げた。伊之助は美しい男を警戒しているのか、翡翠の瞳を零れそうなほど大きくしていた。

 

「よい、楽にせよ」

 

無惨と呼ばれた男の声は、これまで琴葉が耳にしたどの声よりも恐ろしかった。低くまろい素晴らしい美声であるのだが、得体が知れない深い闇のような声であった。

 

「童磨、そこな人間二人の姿をすべてのものに共有した。私の許しなく害そうとするものは呪いが発動する。この褒美で満足か」

 

「はい。深く感謝申し上げます。今後も確かな働きを以て、貴方様のお役に立つことを誓います」

 

「ふん、次は青い彼岸花だ。貴様が提案した外つ国への進出だが、目処が立ったぞ」

 

「それはようございました」

 

二人がかわす言葉の意味はわからない。琴葉は聞き耳を立てるでもなく、伊之助のきょろきょろした目線を追っていた。無惨は童磨と同じで人間と変わらない容姿をしているが、何人かは明らかに妖怪だ。百年も教祖として信徒らを導いてきた童磨とて人間ではないが、彼の仲間たちのように見るからにといった風ではない。

 

「ねえ、あんた」

 

いきなり声をかけられてピクリと驚いてしまうが、琴葉は繕うでもない柔らかい笑みで相手を迎えた。

 

「はじめまして、嘴平琴葉と申します。この子は伊之助です」

 

「……私は堕姫。ふうん、綺麗な顔と声をしているね。息子も瓜二つで悪くないわね」

 

きらびやかな着物を身に着けた目がくらむほど美しい女がじろじろと琴葉の顔を覗き込む。近くで見ると、女の勝気そうな双眸は上弦・陸の文字が浮かび、爬虫類のそれのように縦に線が入っていた。赤い唇からは牙が覗いており、蛇神様かしらと琴葉はうっとりと見つめ返す。堕姫はしばらく視線を合わせていたが、やがて毒気を抜かれたようで眉を下げて細腕を組んだ。偉そうな仕草だが、彼女には嫌味なく似合っていた。

 

「あんた怖くないの? あのお方やあたしやお兄ちゃんはそうでもないけど、あいつとか明らかに人間じゃないでしょう」

 

堕姫がそう言って指差したのは、少し離れた場所で無惨に侍るように佇む若い男だ。輪郭は人間と変わらないが、月明かりに浮かび上がる青白い肌にはくっきりと線が走っており、凛々しい顔は特にしましました印象だ。梅色の髪が月と桜に映えて美しい。ネコ科の猛獣のような男は無表情で琴葉たちをちらりと見つめた。大きな双眸はまるでひび割れた硝子のようだった。

 

「とてもお強そうね。お寺で見た仁王様に似ているわ」

 

「母ちゃん、あいつ強いのか?」

 

母親が和やかに話しはじめてやっと警戒を解いた伊之助が口を開く。しましまの男はもう関心がないらしく、無惨の方を向いて微動だにしない。琴葉がどうだろうと首を傾げていると、目が見えている側から近づく人影があった。

 

「あの者は……我らの序列で参……童磨に次ぐ強さだ……」

 

琴葉の近くまでよってきた男は侍のような出で立ちをしており、何より目が六つもついていた。顔面のほとんどを目が締めているのだが、顔立ちそのものは整っている。中段の双眸には上弦・壱と刻まれており、なんとなく彼が一番で堕姫が六番なのだと理解できた。

 

「私は……黒死牟という」

 

「はじめまして、嘴平琴葉と伊之助です」

 

「……恐ろしく……ないのか……?」

 

「童磨さんが尊ぶ方と大切な仲間だって聞いているから、怖くありません。妖怪って本当にいたのね、堕姫さんは白蛇さんかしら? 黒死牟さんは百目? 百々目鬼? ほかにも目がたくさんある妖怪がいたかしら」

 

「妖怪では……ないぞ……」

 

黒死牟のゆっくりした語りを聞いているうちに堕姫は離れていってしまい、童磨に何やら話しかけて盛り上がっている。彼女が言っていたお兄ちゃんというのは隣に立つ長身の痩せた青年だろう。黒死牟いわく、彼らは全員が無惨に従う鬼という人外なのだそう。つい先日、童磨と桃太郎ごっこをして鬼ヶ島を侵略者から守った伊之助は本物の鬼に目をきらきらさせていた。

 

「あれは……お前達のため……よく働くようになった。捉え所のない男だったが……所帯をもって……責任感が湧いた……といったところか……」

 

六つ目の鬼の言葉がしみじみと聞こえて、琴葉は少しこそばゆくなった。童磨とは夫婦ではない。人とは違う高みにある男はとても優しく、寄る方のない彼女らを大切にしてくれるが、そこに男女の情愛はない。それでも家族に見えるのなら、それはとても嬉しいことだった。

 

「琴葉、黒死牟殿と仲良くなったのかい」

 

「童磨さん。ええ、皆さんが鬼だって教えてもらったの」

 

寄ってきた童磨に聞かれて素直に答えると、彼は笑顔のまま黒死牟を見やった。

 

「酷いじゃないか、黒死牟殿。琴葉と伊之助に怖がられたら、どうすればいいのさ」

 

「お前なら……上手くやるだろう……小鳥は手中で愛でるもの……空を教えなければ……飛び立つこともあるまい」

 

「それはそうだ! ねえ、琴葉、俺から逃げたりしないでおくれよ? 俺は人ではないけれど、君と伊之助が一等大事なんだ。約束したとおり、ずっと傍にいておくれ」

 

虹の瞳が睫毛が触りそうな近さで覗き込んでくる。その美しさに吸い込まれそうになって、琴葉は思わず息子を抱く腕に力を込めた。もう一度名前を呼ばれ、肩を抱かれた時、どこかでカチリと硬質な音がした気がした。

 

(ああ、閉じてしまったわ)

 

一体何が閉じたというのか。琴葉は自分の思考に首をかしげ、次の瞬間にはそれを忘れた。そして怖いような、安心するような童磨の体温を取り込みながら広い胸に頬を寄せた。

 

「ゆびきりげんまん、約束です」

 

「うん。ゆびきりげんまん、約束だ。伊之助も、小指を出して」

 

「父ちゃんの指ふっといな!」

 

「あはは、伊之助の手はちっちゃいねえ」

 

三人で小指で繋がった輪になれば、周りの鬼たちが遠く感じた。赤い瞳をはじめ色とりどりの強い視線が向けられているというのに、まるで氷壁に隔たれたようだ。

 

約束の歌がざあざあと花びらを散らす風に紛れる。鬼の腕に抱かれて無邪気に喜ぶ人の子たちを、月と夜の住人たちだけが見つめていた。

 

 




【登場人物紹介】

童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛玩を知って世界が広がった超局地型人間性初心者。とっても頑張って仕事をしたら鬼滅の刃が始まらなくなった。ご褒美に琴葉と伊之助を傍におく許可と、全鬼に対する二人の安全を得ることができた。これからも無惨様と琴葉と伊之助のために敵をなぎ倒し女の子を食い散らかす(文字通り)所存。琴葉たちが何よりも大事だが、彼らと本当の家族になる日は訪れない。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。何も知ることなく快適な鳥かごに閉じ込められた。今後も肝心なことを知らないまま、伊之助を育て、童磨の心地よい世界の要として大切にされる。鬼の実態を知ることがないため、無惨や上弦の鬼たちのことは日本昔話的な妖怪だと思っている。童磨に恋しているが、きっと報われることはない。

嘴平伊之助
お母さん似なわんぱくうり坊。4~5歳。弱肉強食を刷り込まれ中。もう少し大きくなったら健康を保つための武芸の鍛錬を勧められて才能を発揮しそう。お母さんよりも動物的な勘が鋭いが、赤ちゃんの時から童磨の気配が身近にあるため、鬼=悪という方程式がそも成り立たない。童磨との桃太郎ごっこがお気に入り。鬼をいじめる侵略者・桃太郎とお供(童磨と結晶のアニマルズ)を元気に撃退している。


鬼舞辻無惨と愉快な鬼たち
琴葉と伊之助に妖怪と勘違いされている人喰い悪鬼たち。千年で一番の成果をあげた童磨への褒美として、無惨様は特別にペットを飼う許可を出し、すべての鬼に嘴平親子をけして襲わないよう通達した。逆らったものはもれなく呪いが発動する。上弦の鬼たちは、あの童磨が人間を大事に飼っていると知って信じられないやら興味が湧くやらまったく関心がないやらと様々。上陸兄妹はわりと優しく母子に接する。童磨の大活躍により戦況は鬼に大きく傾き、鬼殺隊が完全に弱体化した後には海外まで手を伸ばすこととなる。昭和初期にこの世のものとは思えない美しい女が香港の社交界に君臨したとか、ナチスの非道な研究所に青白い肌の美男が出入りしたとかしないとか…… なお、無惨様が鬼の運用を見直したせいで雑魚鬼は9割間引きされ、原作に至るまでの各キャラの悲劇は大方回避された。ただし全人類的に見るとまったくめでたくない。

鬼殺隊の皆さん
柱が短期間で何人もいなくなり、さらにお館様とご家族の体だけが見つかったことでほとんどの隊士が悔しさと怒りで発狂した。末端の鬼たちとの戦いは激化するが、徐々に童麿をはじめとした十二鬼月によって剣士の数が減らされ、大正末期には二桁まで落ち込んだ。産屋敷家のバックアップがなくなったことで財政難となり、鬼殺隊は完全にボランティア活動に移行、辛い時代に突入する。



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#??? Kiss the Girl


タイトル=君ありて幸福

番外編。人生を共に歩むこと、あるいは元鬼の求婚。




 

大藩の城下町に到着して二日。現金だけ所持してやってきたこの街で、童磨はさる旧家が所有していた川沿いの別邸を手に入れた。正しくは、教祖から八年ぶりの連絡を受け舞い上がった元信者から献上されたものなのだが、琴葉と伊之助がそれを知る由もない。

 

今日は新しい家具や様々な荷物が届く日だ。童磨はがらんどう状態の屋敷に伊之助を残し、琴葉と二人ではじめての街の散策に出ていた。

 

「伊之助一人で大丈夫かしら」

 

「目録を渡してあるから心配いらないよ。それに、あの子が気を利かせて出かけてこいって言ってくれたんだぜ?」

 

「まあ、そうだったの。それじゃあ、何か美味しいものを買っていってあげたいわ」

 

「いいね、帰り道に見ていこう」

 

薄い雲ごしの日差しの下、琴葉にぴったり寄り添って歩く。腕がこすれるほどの距離で、何度か指先が触れあえば彼女から手をつないでくれた。童磨は細い手指の温度に感じ入りながら目尻を下げた。

 

道行く人々の視線がついてまわるが、まったく気にならない。落ち着いた和装は周りに溶け込んでしかるべきなのだが、目立つ色合いの長身の美男と柔和な美貌の女が連れ立っていれば、すれ違うほぼ全員の目を引くというものだ。

 

琴葉が見えない片側を歩き、さりげなく人の流れから守って歩く。横目に見た彼女は空にある春の陽そのものだ。緑の瞳できょろきょろと町並みを追う様子は少女のようで、童磨にはなおさら愛らしく見えた。

 

「この街が気に入ったかい?」

 

「ええ、とっても! 美味しいお菓子や高いお着物に似ていて綺麗だわ。周りから聞こえる話し声も柔らかくて、みんな優しそう。あとは、おうちの近くの川のせせらぎが好きよ。後で川べりをお散歩しましょう」

 

にこにこと話す琴葉は、きっとこの街に馴染むだろう。明るく素直で善性が人のかたちを取ったような女なのだ。かつて彼女と伊之助に手をあげた男とその母親のような根っから悪質な人間か、あるいは人以外のよくないモノでもなければ、良い関係を築けるに違いない。それを見越して、童磨はいくつかの候補の中からこの地を選んだのだ。

 

「八つ時頃に雨がふるそうだから、その前に行こうか」

 

「良いお天気なのに、雨がふるの?」

 

「お向かいのご隠居が今朝教えてくれたんだよ。降り出す前に帰って届いた荷物を整えて、夜は新品の布団で寝ようね、琴葉」

 

「……一緒に寝ても良い?」

 

「俺はもとよりそのつもりさ」

 

虹の目に茶目っ気をのせれば、琴葉も頬をうすらと染めて笑う。童磨が逃れ者の鬼であった頃、日中は彼女の胸元に潜み、夜はその身を抱きしめて寝たふりをしていた。そんな生活を八年も送った後の数ヶ月の別離は寂しさに耐える日々でもあった。この街への道中でいくつかの宿に泊った際、家族連れということで部屋には三つ布団が敷かれたが、二人はごく自然に同じ布団に潜り込み、伊之助も平然とその隣で寝ていた。

 

とりとめのないことを話しながら大通りを抜けて城の近くまでやってくれば、人混みもはけて静かな桜並木が伸びていた。この先は旧藩主の庭園だが流石にそこまで足を伸ばすことは難しい。そろそろ戻ろうかと言いかけた童磨は、しかし傍の店先で足を止めた。

 

「これ、いいね」

 

童磨が手にしたのは柄に睡蓮が彫り込まれたつげの櫛。琴葉の豊かな黒髪にそれを合わせて虹の目を細めた男は、ひらりと羽織を揺らめかせて店に入っていく。手を引かれたままの琴葉はきょとりとして後に続いた。

 

「店主、これをおくれ。ああ、包まなくていいよ」

 

「ありがとうございます。お綺麗な奥様でございますね。この櫛がよくお似合いになるでしょう」

 

「うんうん、綺麗だろう。自慢の家内なんだ」

 

にこにこと言葉を返しながら値が張る櫛を受け取る童磨の隣で、家内と呼ばれた彼女は薄く頬を染めていた。童磨は店を出るなり一際咲き誇る桜のしたへと琴葉を導き、店主の前で見せていた外向きの表情を一気に崩した。太い眉がへにょりと下がり、己よりもずっと背が低い相手を上目遣いするように目尻も下がる。どうしたのだろうと琴葉が問いかけるより先に、耳障りがよい声が上ずり気味に降ってきた。

 

「琴葉」

 

「はい、童磨さん」

 

童磨の両手が琴葉の両手をとり、ぎゅっと櫛を握らせる。そのまま手を離さず見つめ合い、とても長い間そうしているように感じはじめた頃、童磨が沈黙を破った。

 

「俺のお嫁さんになってくれるかい?」

 

零れそうな琴葉の瞳を覗き込む男は、見たことがないような弱気な顔だ。まだ彼らが寺院にいた頃、琴葉が気兼ねなく暮らせるようにと結婚を提案した優しい鬼が今、息を呑んで彼女の答えを待っている。

 

薄く紅をひいただけの飾らない唇が綻び、花よりも美しく琴葉は笑った。そしてひとこと答えた彼女は逞しい腕に抱かれ、二人の体の間で胸元に押しつけられた櫛を握りしめながら口づけをねだったのだった。

 

 

 

* * *

 

 

慎ましやかだが三人で暮らすには些か大きい屋敷で荷物を運んでいた伊之助は、出かけていた両親が帰ってきた気配に手を止めた。力仕事とも呼べない程度の労働より配送業者の対応で疲れていたので、休憩も兼ねて玄関に出向けば、すでに大人二人は履物を脱いで上がっていた。

 

「おかえり、母ちゃん、父ちゃん」

 

「ただいま、伊之助」

 

「お留守番ありがとうね」

 

童磨は人に戻って血色が良くなり、瞬きやあくびなどの生理現象を行うようになった。しかし今のように頬を染めているのを見るのは初めてで、伊之助は思わず二度見した。何度見ても、養父の端正な顔は血が巡りすぎて赤らんでいる。

 

すぐ後ろに立つ琴葉も少女のようにふわふわした様子で、右手に伊之助が見たことがない櫛を持っている。童磨が買い与えたのだとすぐに思い至ったけれど、両親が夢心地な理由がわからず、一人首を傾げる。

 

「荷物全部届いたぞ。適当に部屋に置いといた」

 

「うん、ありがとう。後はそれぞれ部屋を整えるとして、伊之助」

 

「おう」

 

「琴葉と夫婦になったんだ。今日から嘴平童磨って名乗るから、よろしく頼むよ」

 

童磨はそう言って伊之助の頭をぽんぽんと撫で、ゆびきりげんまんの鼻歌まじりに廊下の先へと行ってしまう。ぽかんと広い背を見つめる息子の背を撫でた琴葉も「おやつに羊羹を買ったからね」とだけ残して後に続き、玄関に取り残された伊之助は白いかんばせに困惑を載せて呟いた。

 

「……これまで夫婦じゃなかったのか?」

 

 





【登場人物紹介】

童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れ逃れ者ライフの終りを迎え、晴れて人間として家族と過ごしはじめた。新天地に到着して初めてのデートで琴葉にプロポーズした。前に一度フラれたのを思い出してへたれたのは内緒。江戸時代の男なので、指輪ならぬ櫛を渡して求婚した。この後、戸籍捏造の根回しをする。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。新天地でお昼のデートができて幸せを噛み締めていたところ、直球プロポーズを受け、即答OKした。明治生まれなので、櫛をもらう意味は知っている。飾り櫛をつけるためにお出かけ時は髪を結うようになる。目下の目標は童磨からキスしてもらうこと。頑張れ奥さん!

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。16歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。お留守番を申し出て引越し業者()の対応を請け負ったよくできた息子。力仕事は大得意。童磨と琴葉は寺院時代からずっと夫婦だと思っていた。



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#??? Knight of the Secret Garden


タイトル=何と引き換えても守り抜くもの

番外編。伊之助の決意、あるいは強くある理由。




 

ドスンと鈍い音をたてて逞しい体が庭に転がるのは信じられない光景だった。

 

今しがた養父を投げ飛ばした両手を呆然と見つめた伊之助は、はっとして仰向けに倒れた童磨の傍に膝をついた。庭の地面は砂利がまじった硬い土だ。庭石だってそこらじゅうにあり、ひとつ間違えれば頭をぶつけていたかもしれない。青くなって優しげな顔を覗き込めば、生理的な涙を浮かべた虹の瞳と目があった。

 

「あいたたた……、まさかこんなに動けないとは思わなかったぜ」

 

「父ちゃん、頭打ってないか? どこも骨折れてねぇか?」

 

転がったままの童磨が参ったなあと前髪を掻きあげる。つい半月前まで理不尽なほど強い鬼であった彼は、人間に戻ってもそれなりに動けるつもりで、軽い気持ちで息子の朝の鍛錬に付き合った。しかし結果はこれだ。伊之助が子供の頃から何度も行ってきた組み手で三秒と持たなかったのは、お互いに相当な衝撃を与えた。

 

「ごめん、これまでと同じ調子でやっちまった」

 

「いいさいいさ、俺も思考にまるで体がついてこないのがわかって丁度良かった」

 

「起き上がれるか?」

 

「うーん、左肩が凄く痛い。受け身が取れなかったからなあ」

 

童磨の答えに伊之助は柳眉をよせ、考え込んだ。見たところ関節が外れているわけではなさそうだが、打ち身ぐらいは負っているだろう。

 

「医者呼んでくる。先に母ちゃんのとこに連れてくから、抱えるぞ」

 

「えっ、うわ、痛い痛いもっとそうっと頼むよ!」

 

長身の童磨は一抱えの荷物だが、伊之助にとっては大したことがない重量だ。横抱きにした途端、真に迫った悲鳴があがったため、不格好だが片腕に乗せるようにして上半身には触れずに運ぶことにする。縁側からあがって廊下を早足で進めば、朝の身支度を終えたらしい琴葉と鉢合わせた。

 

「伊之助、童磨さん、どうしたの!?」

 

息子が夫を子供抱っこしているという異様な光景に、翡翠の双眸が零れそうになっている。

 

「鍛錬してたら父ちゃんに怪我させちまった。ごめん、母ちゃん」

 

「伊之助は悪くないよ、琴葉。俺がまだ人間の体に慣れてないから、あいっ、たっ!」

 

「肩痛めてるから、この後医者呼んでくる」

 

「わかったわ、お願いね、伊之助。童磨さん、お布団を敷くから少しだけ辛抱してね」

 

ぱたぱたと家族三人で夫婦の寝室へと向かう。琴葉が片付けたばかりの布団をまた出すのを待つ間、伊之助は少女めいた美貌を強張らせて黙っていたが、ふいに頭に触れられて視線を上げた。童磨は痛めていない右腕だけ動かして息子の頭を撫でていた。

 

「気にしなくていいよ。鬼になる前はただの教祖で、全然鍛えてなかったから仕方ない」

 

「……もう怪我がすぐに治らねえだろ。父ちゃんが痛いのは嫌だ」

 

「ははっ、伊之助は優しいねえ」

 

話しているうちに琴葉が床の用意を終えたので、彼女の手も借りてなるべく静かに童磨を下ろす。無事な右側を下にして横になった男は、美しい妻が土まみれの髪を整えてくれるのを猫のように目を細めて甘受していた。

 

「行ってくる」

 

「「いってらっしゃい」」

 

一人部屋を後にするなり、小走りに玄関で靴をつっかけて小路へと出る。近所は朝食の用意のいい匂いが漂い、川のせせらぎに様々な生活の音が混ざりはじめていた。

 

ほど近い場所にある診療所に急ぐ間、伊之助は一度だけ目元を拭った。彼が物心ついた時から、童磨は圧倒的強者であり絶対の庇護者であった。元・上弦の弐は伊達ではなく、伊之助が知る限り、童磨より強い生物は片手に数えるよりも少なかったのだ。けれど先程抱き上げた父の体は、全集中の呼吸も行っていないただの逞しい一般人のものだった。嘴平童磨が、琴葉と同じ非戦闘員だと思い知らされたのだ。

 

(父ちゃんも母ちゃんも俺が守る。もっと鍛錬して、誰よりも強くなってやる!)

 

形良い唇をぎゅっと結んでの誓いは、この先何十年も楔となって伊之助を突き動かすものだった。

 

 

* * *

 

 

事の発端は、久しぶりに穿いてみた隊服のズボンが短く感じたことだった。元は足首をしっかり包む長さだったのだが、今やくるぶし丈になって全体的に窮屈に感じる。一年しか身に着けていなかったとはいえ、これまでの人生で最も色濃い日々の思い出の品だ。タンスの肥やしにしておこうと決めたところで、二人分の足音が廊下から聞こえてきた。

 

「伊之助、ちょっといいかしら」

 

「おう」

 

声に答えれば、するすると障子が開かれ白橡の髪の美男と豊かな黒髪の美女が現れる。二人は余所行きの洒落た着物姿で、今から出かけることが見て取れた。

 

「童磨さんと出かけるのだけれど、伊之助も来る?」

 

「呉服屋に厚手の反物を買いに行くんだ。琴葉が家族おそろいの半纏を繕ってくれるからね」

 

にこにこと尋ねる琴葉は紅藤色の羽織に灰黄緑の着物が大変よく似合っている。よく見ると着物の柄は藤の蔓で、それを買い与えたのが童磨だと思うとよく皮肉が効いていた。全体的に落ち着いた色合いに深い藍浅葱の帯と紅玉の帯飾りがなんとも粋だ。結髪であらわになっている白い首筋は酷く華奢で、清楚な美貌であるのに、とても独り歩きさせられない色っぽさがあった。

 

美しい妻の隣でまったくさりげなくなく彼女の手を握っている童磨はというと、青藤色の羽織に鶸茶の着物といった渋い色合いで三十路を装っている。黒い帯で印象をきりりと纏めており、琴葉と並び立つことを前提とした色選びが伺えた。長い白橡の髪にはいつもどおりの黒い細リボン。やや不格好な結び目は琴葉が結んだに違いなかった。

 

「あれ、それは隊服かい?」

 

童磨が目ざとくそう言えば、琴葉もあらまあと短くなったズボンを見つめた。

 

「伊之助大きくなったわねえ。童磨さんに似たのかしら」

 

「そうだったら嬉しいね」

 

そもそも童磨と伊之助に血縁関係はないのだが、嬉しそうな琴葉に水を差すようでは嘴平家の男ではない。虹の目を細めて愛しげに妻に返した元鬼は、丁度いいとばかりに息子を招いた。

 

「いくつか新しい着物を買おうか。確か近くに洋服の店もあったぜ」

 

「そうね、そうしましょう」

 

「……わかった、一緒にいく」

 

ほとんど口を挟めないまま同行が決まった。伊之助は少し遠い目をしながら適当な着物に着替え、睡蓮の刺繍がはいった黒い羽織を纏った。

 

佩刀せずに出かけることにも随分慣れた。鬼殺隊にいた頃は素肌に羽織で下半身だけ隊服のズボンだったが、その格好もご無沙汰だ。町で人に見られながら歩くことだって不本意ながら当たり前になっていた。

 

(どいつもこいつも視線がうぜえ)

 

はじめてこの街に来た時から人々の視線がうるさいと感じていた。寺院にいた頃は教祖のお気に入りの親子として美醜に関係なく扱われていたし、藤の家で世話になっていた時は伊之助がまだ幼かったせいか、ここまで見つめられていなかった。

 

「見て、嘴平さんだわ」

 

「いつも綺麗ねえ。先生と奥様はお似合いで、ご子息の」

 

「伊之助君でしょ。お母様そっくりなお顔に、あの男らしさ。素敵だわ!」

 

「ねえ知ってる? 毎朝……河原で運動……」

 

「逞しくて……凄いの……」

 

ぼそぼそと少女たちの高い声が聞こえてくるが、麗しの彼は目もくれずに足を早めて童磨の隣に並んだ。穏やかな虹色の横目に少し唇を突きだせば、養父はにこりと笑って青みがかった髪を撫でた。

 

「どうしたんだい、伊之助」

 

童磨の逆隣から琴葉も優しく見つめてくる。二人の前で小さな子どもに戻ったような気になって、伊之助は三人だけの世界を幻視した。そうすると周りに誰もいなくなり、肌にひりつく不快感が薄れていく。

 

「なんでもねえ」

 

誰がどんな目で見ていようとも、気に留める必要はない。妻子しか眼中にない童磨ほどではないにせよ、伊之助だって両親を第一に生きてきたのだ。とりあえず、今日は二人が望むまま付き合うことにして、よくわからない反物選びに臨むことにした。

 

 

* * *

 

 

陸軍大臣の前で真剣を振るうことになったのは、明治維新を目の当たりにしたという老人の強い希望によるものだった。昨年の暮れあたりから嘴平邸に顔を見せるようになった彼は、童磨の新しい『友人』であり、伊之助に初めての職を紹介してくれるという。男の口利きがあれば履歴書も面接も不要であったが、一度その目で剣の腕を見たいと請われ、童磨と二人で陸軍学校まで足を運ぶこととなったのだ

 

「すまんな、嘴平君。ご子息の腕を疑うわけではないのだ」

 

「気にしていないさ。お国のために戦う若者を鍛えるのは責任重大。じっくり見て、納得しておくれよ」

 

白髪の紳士に並びたつ童磨はにこにこした顔の下半分を藍色の扇子で隠している。あまり機嫌が良くないことが見て取れて、伊之助は内心ため息をついた。童磨は負の感情をまったく表に出さないが、それを美しい妻に盛大に甘えることで発散させるのだ。

 

(爺がぐうの音も出ねえようにすりゃ、少しは気が晴れるか?)

 

そんな事を考えながら、腰にある小太刀に手をかける。激闘の日々からもう四年が経つが、真剣は毎日庭で振るっている。全集中の呼吸の常中は当然のこと、家の近くの河原での鍛錬も欠かしておらず、むしろ体が成長した分だけ強くなっているだろう。目の前の巻藁の林などでは物足りないぐらいだ。

 

「伊之助君、ここにあるものを斬って見せておくれ。刀が刃こぼれしない程度でいい」

 

「……何でもいいのかよ」

 

「巻藁が難しいなら竹の的も用意できるがね」

 

陸軍卿のそれは馬鹿にした言葉ではなかった。この国で真剣が活躍したのは、五十年近く前のことなのだ。今や剣の達人と呼ばれる者たちだって人を斬ったことがある者はほとんどいない。それを踏まえての彼なりの気遣いだったが、白シャツに黒ズボン姿の相手のこめかみに盛大な血管が浮きあがり、美女めいた顔が獰猛な笑みに歪んだことで失言だと気づくこととなる。

 

「舐めんじゃねえぞ、クソジジイ! 眼ん玉ひん剥いてよく見やがれ!」

 

「なっ……」

 

吠えた伊之助が対の小太刀を抜き放つなり、その姿がぶれて消える。激しい踏み込みであがった土埃に驚いた老人がきょろきょろと見回す中、十メートルほど離れた場所にある巨大な石碑から不自然な音がした。ずるずると擦れて崩れるようなそれに、まさかと衰えた目を凝らす。隣の愉快げな笑い声さえ遠かった。

 

石碑の上半分が斜めにずれ、地面へと倒れていく。凄まじい轟音に近くの建物にいた者たちが何事かと駆け出てくるが、陸軍卿は凍りついたように残骸の前にある淡麗な後ろ姿を凝視していた。

 

「どうかな、俺の息子の腕前は」

 

童磨の穏やかな問いかけに返されたのは絶句の無言であった。納刀した伊之助が目の前まで戻ってきて、翡翠の瞳でじっと老人を見下げながら腕を組む。

 

「は、嘴平君、私は夢を見ているのか?」

 

「あっはっは、陸軍卿ともあろう方が何を言ってるんだい。最初に教えてあげたでしょう。とっても強くて自慢の息子だって」

 

虹の目を細める童磨は変わらず穏やかな物腰だが、その瞳は温度がなく、薄い口元は嗤っていた。まるで化け物を前にした気になって、逃れるために伊之助の方へと声をかける。

 

「……些か信じられんほどの腕前だ。君のような若者が、どうしてそんなに強くなれたのかね」

 

老紳士の苦し紛れの質問に、二十歳にも届かない青年は迷いなく答えた。

 

「家族を守るためだ」

 

この日からひと月後、陸軍学校の選りすぐりの学生らの前にとびっきりの美貌の青年が剣術講師として立つことになる。艶やかな黒髪に輝く翡翠の瞳の青年を見た目で判断しかけた彼らがどうなったのか。それは彼ら自身と、制服のベルトの大量発注と訓練場の床の清掃に対応した職員、そして件の美しすぎる講師だけが知っていた。

 

 





【登場人物紹介】

童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフの終りを迎え、晴れて人間として家族と過ごしている。人間に戻ったことで鬼の膂力や優れた五感が失われ、二十歳の教祖だった頃に立ち戻った。当時も健康のため体をよく動かしていたので逞しさは変わらないが、あくまで一般人レベル。伊之助に一瞬で投げ飛ばされてパチクリしてしまった。なお、左肩は酷い打ち身だけで済んだ。陸軍大臣は元信者繋がりで人生相談に訪れた『友人』の一人。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。息子ほど鬼だった頃の童磨の強さを意識していなかったため、彼が人間に戻った後も戸惑うことはなかった。人間に戻った彼と一緒に寝ていて気づいた面白い寝言や朝に元気になるなんちゃら等、これまでと違う諸々がとても愛おしい。伊之助の講師就任のお祝いに、高級食材の天ぷらを山と作った。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美青年。このお話では16歳~19歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライな猪。しかし両親にはウェット。ある意味、三人だけの小さな世界で育ったため、両親よりもテリトリー意識が強く、じろじろ見られるのも干渉されるのも嫌い。童磨が人間に戻った後、組み手しようとして怪我させてしまったのが無自覚なトラウマとなり、引き続き両親を守るべく剣の鍛錬に打ち込んでいる。毎朝、河原で上半身裸で木刀を振るっており、早起きなお嬢さんたちの目の保養となっている。

陸軍卿
オリキャラにして当時の陸軍大臣。童磨のところに人生相談に行ったら気持ちがすっきりして病みつきになったおじいちゃん。明治維新の頃は少年だった。伊之助に剣術講師の職を紹介したが、興味本位で腕を見せてもらおうとしたら腰を抜かしそうになった。石碑の修復費用はポケットマネーから出した。なお、史実の人物ではありません。



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#??? 常住の夢に幸ありき


タイトル=じょうじゅうのゆめにさちありき

番外編。成長、あるいは愛する息子へ。


※嘴平伊之助誕2020
※設定:藤の家紋の家時代→琴葉が蝶屋敷で働き始めてすぐ




 

ここ数週間、伊之助の喉の調子が悪い。心配して医者に診せようと言った童磨を止めたのは、意外にも息子をこよなく愛する琴葉であった。

 

「男の子の声変わりよ。童磨さんにもあったでしょう?」

 

酒造を営む藤の家紋の家の広い庭で洗濯物を干しながら、琴葉は胸元に潜む鬼にそう話した。着物の袷の中で聞いていた童磨はというと、大仰な安堵で柔らかい膨らみに顔を埋めていた。

 

そんなやり取りから一週間もすると伊之助の声が割れることも少なくなり、これまでの子供らしい高さが随分と失われた。今後も低くなっていくであろう声質は雄々しいほどに荒く、迦陵頻伽のごとき母親の美声には似ていない。朝の食卓でやや乱暴に話す伊之助の声を聞いた時、童磨はふと感じた不快感から眉を寄せた。

 

(んー、何か聞き覚えがあるぞぉ……この声、どこで聞いたんだっけ)

 

彼の優秀すぎる頭脳はあらゆる物事を記録しているが、些細かつ不快なことは記憶の奥底に沈めて触れないようにしている。記憶の表層にあるのはもっぱら琴葉と伊之助との楽しい思い出ばかり。役に立ちそうな情報はそのすぐ下に、その他の事柄は脳の奥底だ。

 

琴葉が仕事をしている間、童磨は特にすることもないので記憶を探ってみることにした。

 

(ええと、確かこの辺り)

 

右こめかみに人差し指をあて、一気に根本までそれをねじ込む。琴葉の胸元を汚さないよう瞬時に傷口を回復させ、指を埋め込みつつ出血を最小限に留めた。長い爪で脳をほじくり返せば、壊れては修復される細胞からつまらない過去の出来事がばらばらと溢れてくる。その中に目当ての声の主を見つけるのに数秒もかからなかった。

 

ほんの11、2年前に数分だけ対面した醜い男。姿の美醜だけでいえば平凡などこにでもいそうな若い男であったが、品性の欠片もない怒鳴り声と歪んだ表情に不快感を抱いたのを覚えていた。男の隣には、よく似た初老の女がいて、彼女も同じように金切り声を上げていた。

 

(……ああ、彼らか。俺としたことがとんだ勘違いだ。全くもって似ていない)

 

妻を返せ、子を返せ、嫁を返せ、孫を返せ。馬鹿の一つ覚えで大声をあげる男と年寄り。寺院まで押しかけてきた彼らから話を聞こうとしたけれど、うるさすぎてすぐに殺してしまった。

 

伊之助は琴葉の息子。春の陽のような彼女に瓜二つの可愛い子だ。そしてあの子供が父と呼ぶのはただ一人なのだから、誰の種であるかなど瑣末事だ。そう結論づけて頭から指を抜き去り、童磨は白い乳房に身をよせて外の様子に耳をすませた。

 

(そろそろ伊之助が山から戻ってくる。いい天気だし、午後は鍛錬かなあ)

 

今日は珍しいほどの晴天だ。真っ直ぐな日差しが時折、着物の袷から一条だけ差し込んで身を焼くけれど、このような天気の良い日は琴葉がご機嫌で鼻歌を歌ってくれる。今日はゆびきりげんまんの音色にのって亀とうさぎが踊る歌だ。それがあまりに可愛らしくて、童磨も穏やかな気持ちで聞き入っていた。

 

「母ちゃん、ただいま!」

 

ぱたぱたと元気な足音が近づき、少し荒い声とともに琴葉に寄り添う気配がある。母親に懐くふりでその胸元に顔を寄せた伊之助が袷の中の小鬼にも声をかけた。

 

「父ちゃん、ただいま」

 

「「おかえり、伊之助」」

 

童磨の返しは琴葉のそれに紛れる程度の小声であったが、伊之助はにかりと笑って自慢気に続ける。朝から勤しんでいた狩りの成果報告だ。

 

「うさぎと山鳩と雉を獲ったぜ。それと、鹿の群れ見つけた! 明日は一頭獲ってくるからな!」

 

「まあ、凄いのねえ。お肉は全部売っちゃった?」

 

「うさぎは残してある。母ちゃん、俺、肉だんご汁が食いてえ」

 

「わかったわ。じゃあ、お夕飯にね」

 

「ふはっ、やったぜ!」

 

類まれな美声の琴葉とやんちゃな男声の伊之助がきゃらきゃらと言葉をかわす。二人のやり取りに耳を傾け、童磨はひだまりの猫のように虹の目を細めた。そうして、この心地よい時間が永遠に続けばいいのにと夢のようなことを考えながら、微睡みの真似事に沈んでいった。

 

 

* * *

 

 

「あれぇ、伊之助もしかして琴葉より大きくなった?」

 

発端は、厨に立つ琴葉と手伝うために並んだ伊之助の背中を見つめていた童磨の何気ない一言であった。居間に胡座をかいて鉄扇の手入れをしていた鬼は、可愛い母子がからくり人形のようにぐりんと振り返ったのに「おお」と目を丸くした。

 

「父ちゃん、ほんとか!?」

 

「伊之助、そこの柱の前に立って。ちゃんと比べたいわ!」

 

包丁を手にしたままの琴葉が、その切っ先で危なげに柱の方を示す。童磨がさり気なく近づいて細い手首をおさえたことで、彼女も気がついて刃物をまな板のうえに置いた。

 

伊之助はというと、美少女めいた顔を輝かせて柱に背を当てている。昨年この家に引っ越してきてすぐ家族三人の身長を刻んだ柱だ。改めて見てみると、黒い頭のてっぺんは当初の切込みより随分上にあった。

 

「俺が図るよ。伊之助、背筋はまっすぐにね」

 

「おう!」

 

童磨が手にした扇で新しい目印を刻み、息子と入れ替わりで柱の前に立った琴葉にも同じことをする。そして三人して一歩下がって柱の傷を見つめれば、確かに伊之助の背丈の傷のほうが小指の幅の半分ほど高い位置に刻まれていた。

 

「まあ! 本当に抜かれちゃったわ。凄いねえ、伊之助」

 

少女のように頬を染めた琴葉が手を叩いてはしゃぐ。その隣でそっくりな顔を紅潮させた伊之助も両手を突きあげて「よっしゃ!」と声を上げている。当然の肉体の成長だというのに二人して飛び上がって喜んでいる。置いてけぼりの童磨は、どんな顔をしたらいいのかわからず一瞬真顔になってしまったが、琴葉に横から抱きつかれて眉を下げた。

 

「童磨さん、覚えてる? 伊之助、あんなにちっちゃいお手々だったのに、こんなに大きく育ったわ」

 

美しい彼女の幸せな顔に、自然と童磨の口元も笑みに緩んだ。

 

「うん、君が抱いていた赤ん坊がもうすぐ十三歳だ。前も言ったけど、人の子の成長は早いね」

 

「すぐに父ちゃんより大きくなるぜ! そしたら絶対ぇ俺のが強い!」

 

「それはちょっとわからないなぁ」

 

胸を張る息子にくすりと笑って返せば、可愛い眦がつり上がって子供らしく拗ねる。童磨はいよいよ声をあげて笑い、片腕で琴葉の肩を抱き、もう片手を伸ばして伊之助の頭をくしゃりと撫でた。翡翠の目を眇めて甘える様子を見て、ようやく琴葉が喜んでいる理由がわかった気がした。

 

 





【登場人物紹介】

童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。伊之助の成長をまざまざと感じ、胸がぽかぽかしていっぱいになる感覚に首を傾げた。情緒は随時成長中。琴葉が藤の家紋の家から蝶屋敷での手伝いに転職したのをきっかけに、家族三人で蝶屋敷から歩いて少しの借家に引っ越しした。伊之助の十三歳のお祝いに対の小太刀を贈った。ちなみに入手経路はちょっぴり後ろ暗い。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。伊之助が十二歳になるまで藤の家紋の家(大店の酒造)で住み込みの手伝いをしていたが、そこのご隠居が亡くなった後に蝶屋敷の手伝いの声がかかり転職した。引越し先の小さな家では童磨と昼夜気兼ねなく暮らせてご機嫌。この度、息子に身長を越され、その成長ぶりに小躍りしてしまった無邪気なお母さん。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。12歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。日々山を駆け回って鳥や獣を狩っている。銃や弓を好まず、もっぱら素手と小刀と罠だけで猪や鹿に立ち向かう天性の狩人。童磨と体を動かす稽古をして育ったので身のこなしはすでに全集中の常中をしていない下級隊士並だったりする。この度、めでたく琴葉の背を超した。小太刀を貰って大はしゃぎして早速、童磨に稽古をねだったやんちゃ坊主。



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#??? A Frozen Path Not Taken

タイトル=凍れども刹那に燃ゆる

番外編。鬼殺隊氷柱・嘴平童磨について、あるいは仮初の世界。



2ページ目 鬼殺隊柱合裁判
3ページ目 柱稽古@万世極楽教寺院




体中が痛い。特に顎が割れるように痛い。

 

炭治郎は不自由な恰好で横たわり覚醒と昏睡を繰り返していた。全身がズキズキと熱をもって脈打っていて、夢うつつではまるで考えがまとまらない。しかし上から降ってきた大声に揺り起こされたことでハッと目を開いた。

 

「いつまで寝てんだ、さっさと起きねぇか!! 柱の前だぞ!!」

 

後ろ手に縛られた体を起こして見上げれば、そこには彼を見下ろす七名の男女。見覚えがあるのは端に立つ小柄な女性だけで、彼女さえ山で一瞬見かけただけだった。にこやかなのは彼女と、中央に立つ長身の若い男のみ。甘い薄茶色の長髪に嘘のような虹色の瞳をもつ男は、いっそ場違いなほど友好的な笑顔を浮かべていた。

 

(違う、あれはただ表情の形を作ってるだけだ。あの人からは何の感情の臭いもしない)

 

炭治郎は鼻が利く。それは他人の感情さえ嗅ぎ分けるほどで、鬼や獣でさえ臭いで何を考えているのか大まかに理解することができた。しかし、あの綺麗な色の男からは何の感情も嗅ぎ取ることができない。周りの者たちは不快感や怒りや猜疑心、悲しみや無関心等、様々な負の感情を漂わせているというのに、一人だけ無臭で穏やかに佇んでいるのだ。

 

「あなたは今から裁判を受けるのですよ、竈門炭治郎君」

 

蝶の翅のような羽織をまとった美しい女性がそう言えば、他の面々がひどく物騒に殺してやろうと言い始めた。その中で木の上に寝そべる蛇のような男と一人離れて黙っている冨岡義勇の存在にも気づき、炭治郎はいよいよ何が起きているのかと混乱を極めた。

 

自分のせいで義勇にまで責が及ぶ。思わず声をあげようとした炭治郎がせき込むと、蝶のような女性と虹の瞳の男が近づいてきた。

 

「水を飲んだ方がいいですね」

 

優し気な声と沸々たぎる怒りの臭いをもつ女性から水をもらい、潤った喉から声を出そうと息を吸い込む。しかし大きな手で首の後ろを押さえられたことで発声の機会を失った。長い指がぐるりと気道を締め細い呼吸しか刻めなくされたのだ。

 

「何をするんですか、氷柱」

 

「相変わらず刺々しいなあ、しのぶちゃん。名前ぐらい呼んでおくれよ」

 

「……嘴平童磨、その隊士から手を離してください」

 

しのぶと呼ばれた女性の怒りの臭いが一層濃くなる。これはもはや憎悪だ。炭治郎の目には薄く微笑む顔しか写っていないのに、彼女が童磨という男を心底嫌っているのは明白であった。

 

「いやあ、息子の友だちがいらないことを言って不利になるのを止めてあげたんだよ。沈黙は金なりってね」

 

にこにこと返した童磨の視線が炭治郎へと向けられ、太い眉が優しげに下がる。こんなにも慈しみに溢れた顔をしているというのに、しのぶの態度も炭治郎への手荒い扱いも、彼には何の意味もないのだろう。

 

(息子の友だち? 息子……嘴平って、嘴平伊之助!? この人が伊之助のお父さんなのかっ)

 

同期であり那田蜘蛛山での任務でも一緒だった美しい少年剣士を思い浮かべ、まったく似ていない同じ名字の男と頭の中で見比べる。目を剥いた炭治郎に何を思ったか、童磨はことりと首を傾げた。数秒だけそうして見つめ合っていたが、脇の方から騒がしい気配がしたことで虹の視線が外された。

 

「困ります、不死川様! どうか箱を手放してくださいませ!」

 

「鬼を連れてた馬鹿隊員はそいつかいィ」

 

じゃり、と強い足音をたてて傷だらけの男が庭に現れる。白髪に獰猛につり上がった瞳と荒々しい気配が印象的だが、炭治郎は男が手にした木箱から目が離せなかった。追いすがる黒子のような者たちが箱を取り返そうとしているが、男は気にせず歩みを進めている。

 

「不死川さん、勝手なことをしないでください」

 

しのぶの硬い声も無視して男は炭治郎から十歩ほど離れた場所で足を止める。そして彼の妹が入った箱を片手で掲げ、刀を抜き放った。

 

「家族だからって匿ってたんだろォが、甘ェんだよ馬鹿がァ!」

 

「おっと、それはやめておくれよ、実弥君」

 

箱を貫こうとした男の腕を、いつの間にかその隣に立つ童磨が掴んでいた。自由になった喉で妹を呼ぶ炭治郎を余所に二人は対峙し、掴み掴まれた腕は血管が浮き上がるほど力んでいる。射殺さんばかりの実弥に童磨は笑ったままで、しかし振りほどこうとする動きにびくともしなかった。

 

「その箱に入っているのは炭治郎君の妹なのだけど、世にも珍しい人を食べない鬼なんだよ。これは確認済の事実だ。日夜、鎹鴉の監視がついてたから間違いない」

 

「何を世迷い言を言っている、嘴平。そんなこと信用できるか」

 

木の上の男が間髪入れずに言い放つ。童磨は困ったなあとまったく困っていない呟きを零し、しのぶの足元に座り込む炭治郎を見やった。

 

「君たちの意見より、産屋敷殿がこの子らに利用価値を見出していることが重要じゃないかな。もういらっしゃるだろうから、まずは話を聞いておくれ」

 

「お館様だ、この礼儀知らずがァ!!」

 

「うるさいなぁ」

 

童磨の口元が綻び、炭治郎からもはっきりと嘲笑いがわかる形となった。空気がぐんと冷たくなった気がして、次の瞬間、赤黒い羽織をまとった長身が木箱を抱えてしのぶの横に戻っていた。忌々しげに空いた手を下ろす実弥にも、童磨の動きが追えなかったのだろう。

 

この後に続いた裁判でそれどころではなくなり、童磨のことは意識から外れてしまったけれど、これが得体が知れない氷柱との出会いであった。

 

 

* * *

 

 

岩柱の元での稽古を終え、いよいよ最後の稽古場に向かう道で見慣れた背中をみつけ、炭治郎は「おーい」と声をあげた。やや先を歩いていた薄緑の羽織姿がぴたりと止まり、振り返ったことで目に入った顔は相変わらずの美しさであった。

 

「紋次郎、次は父ちゃんのとこか?」

 

「炭治郎だ。そうだよ、嘴平さんのところで最後だ」

 

伊之助は他の隊士よりずいぶん早く岩柱が課した課題を熟しており、二日前には屋敷を出ていた。肉体を酷使し続けて少しやつれた炭治郎に比べ、少女めいた顔はつやつやして血色が良い。もしかして氷柱の稽古は座学だろうかと考えながら並んで歩いていくと、小山に続く石段にたどり着いた。

 

「ここ、お寺か?」

 

「おう、父ちゃんが教祖をやってる万世極楽教の本山だ。信者はいい奴らばかりだぜ」

 

「伊之助はお寺育ちなんだな」

 

「ここは父ちゃんが柱になってからの新しい寺だ。ガキの頃住んでた寺は鬼が襲ってきて住めなくなったから、みんなで引っ越してきた」

 

「……そうだったのか」

 

炭治郎は伊之助の過去をよく知らない。蝶屋敷の少女らから伊之助の母親が大変な美人で素晴らしい女性だと聞いたぐらいだ。しのぶの姉と同期であった童磨が何かと蝶屋敷を気にかけて出入りしているため、彼も伊之助も彼女らと親しいことは知っている。その割にしのぶは童磨を嫌っているが、その理由を聞くのははばかられた。

 

石段を登りきると、小綺麗な門構えの寺院があった。開け放たれた門の向こうには庭先で木刀を振るう隊士らと、彼らの間を行き来する一般人らしい者たちの姿。彼らが伊之助が言う信者なのだろう。

 

「伊之助様、おかえりなさいませ」

 

信者のひとりがそう言うなり、他の信者らも丁寧に頭をさげて挨拶をしてくる。伊之助は適当に言葉を返しながら先を進み、炭治郎もきょろきょろしながら後に続いた。本山というだけあって敷地は広く、いくつもの建物が左右に広がっている。正面にある本殿に足を踏み入れれば、さらに多くの信者とまばらな剣士らが行き交っていた。

 

「おかえりなさいませ」

 

「おう、ただいま。父ちゃんと母ちゃんは?」

 

「教祖様は道場にいらっしゃいます。琴葉様は厨かと」

 

「ん、ありがとな」

 

信者の老人と言葉をかわし、引き続き伊之助の先導で寺院の廊下を進んでいく。炭治郎はこういった施設に立ち入ったことがなかったため、何もかもが物珍しく感じていた。見慣れた町の神社仏閣より色鮮やかではあるが、建物も装飾も特別贅沢というわけではない。柱や壁にところどころ咲く睡蓮の彫り物が目を惹き、うすらと香の香りが別世界のように感じさせた。

 

「道場まで案内してやる。父ちゃんの稽古はえげつねえから覚悟しとけ」

 

「ははっ、他の皆さんの稽古もそれぞれ凄かったじゃないか。悲鳴嶼さんのところとか」

 

「……ゴキッて心折ってくるから気ぃつけろよ」

 

いつも荒々しい友人からの生暖かい視線。今更怖気づくことはなくとも、炭治郎はゴクリと唾を飲み込んだ。童磨とは何度か話したことがあったが、戦う姿は想像がつかない。気さくで穏やかな物腰の氷柱は感情の臭いがしない不思議な人物であった。

 

道場へと続く渡り廊下に差し掛かったところで、逆側から渡ってくる濃緑の着物姿に伊之助が足を止める。長い黒髪に整いすぎた白皙、大粒の翡翠の瞳。初対面の女性であったが、炭治郎は一目で彼女が誰なのか理解した。

 

「あら、伊之助、おかえり。そちらはお友達?」

 

伊之助の母―琴葉がとろりとした美しい声をかけてくる。近い距離で見比べるほどよく似た母子だ。琴葉が少女めいた空気を纏っているため、伊之助が一人っ子だと知らなければ姉弟だと思っただろう。

 

「母ちゃん、ただいま。こいつはかまぼこ権八郎だ」

 

「はじめまして、竈門炭治郎といいます。伊之助とは友だちで同期です」

 

「まあ、貴方が炭治郎君なのね。伊之助のお母さんの琴葉です。この子と仲良くしてくれてありがとうね」

 

「俺の方こそ、いつも助けられてます! 伊之助は本当にいい奴なんです」

 

「うふふ、ありがとう」

 

ころころと笑う琴葉は息子よりもずっと華奢でやや背が低く、春の陽のような柔和な印象だ。善良な笑顔そのままの淡い花の香りがその人となりを伺わせる。

 

「もういいだろ。父ちゃんのとこ行くぞ、炭治郎」

 

「ああ、わかったよ」

 

「二人ともお稽古頑張ってね」

 

伊之助の横顔は少し赤くなっていて、少年らを見送る琴葉は微笑ましげに手を降っていた。

 

「お母さん、とても良い人だな」

 

「当たり前だ。俺の母ちゃんだぞ」

 

「うん、伊之助にそっくりで吃驚したよ」

 

渡り廊下の先には一際鮮やかに睡蓮が掘られた二枚扉。その先には蝶屋敷と同じような道場が広がっており、十人ほどの赤まみれの信者たちと朱色が滴る大きな筆を両手にもった童磨が集まっていた。彼らの足元には、魂が抜けたような様子の真っ赤に染まった隊士が四人尻餅をついている。童磨以外は屋根も床も天井も人もすべてが赤一色だ。

 

「こりゃ酷え……」

 

「うわあ……」

 

伊之助と炭治郎が口をあけて戸口に立ち尽くしていると、白橡の髪の男が彼の代名詞ともいえる笑みを浮かべて言った。

 

「よくきたね! 俺との稽古は民間人を護りながらの防衛戦ごっこさ。俺の頸に一撃入れたら合格、隊士が全滅するか民間人役の信者が死亡したら反省会をしてからやり直しだよ」

 

岩柱の稽古にくらべて随分と易しい内容だと思えたのは、この時だけだ。隣に立つ友人が忠告してくれた「心をゴキッと折ってくる」を炭治郎が思い知るのは、ほんの二分後。童磨の筆が己の防御をすりぬけて女性信者を縦一文字になぞり、死亡判定を奪われた後のことだった。

 

 





※ストックの番外編はこれで最後です。今後の更新は不定期です。


【登場人物紹介】

童磨
元十二鬼月・上弦の弐……ではなく、鬼殺隊の氷柱にして万世極楽教の教祖、対鬼キラーマシンな策略家。原作開始6年前に寺院を下弦の鬼が襲撃、これを撃退したことをきっかけに鬼殺隊に入った。氷の呼吸は水の呼吸の派生だが、育手は鱗滝さんではない。柱就任時に新しい寺院を建ててもらい、教祖の仕事にも復帰。教団は藤の家紋の家ではできない鬼の被害者の一時保護や自立支援を担い、支援された者たちが入信して年々信者数が増加している。なお、今代の柱唯一の妻子持ち。見た目が二十歳の頃からほぼ変わっておらず、年齢不詳すぎて鬼と疑われることもしばしばだが、実は現役隊士最年長。無限城の決戦では、しのぶとカナヲと共に上弦の弐となったカナエと死闘を繰り広げ、鬼より鬼な計略により勝利した。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。氷柱の妻にして万世極楽教本山の留守を預かる働き者な奥さん。寺院で鬼の被害者のお世話を行っている。怪我人の看護で協力してくれる蝶屋敷の少女らとは大変仲良し。童磨との出会いや彼の情緒をミリ単位で育んだのは連載本編と同じだが、童磨が人間であること、寺院が下弦の鬼に襲われたことで異なるルートを辿っている。実はお腹に赤ちゃんがいるが、柱稽古の時点ではまだ気づいていない。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。実は12歳の時にカナヲ同様こっそり鬼殺隊に入ろうとしたが、全てお見通しな父親に強烈な釘を刺され、全集中の常中を叩き込まれてから原作どおりに選抜を受けた。無限列車後に氷柱の継子となり、童磨と行動を共にしはじめたことで、鬼より鬼だと言われる養父の一面を知ることとなる。




【補足あるいは蛇足】

この設定の上弦の弐は胡蝶カナエです。童磨と悲鳴嶼行冥が原作開始前に上弦の弐を倒し、その後にカナエが運悪く無惨と遭遇して鬼化、千年に一人レベルの鬼向き体質だったため超スピード出世してしまったという流れ。無限城では酷い因縁の対決となり、人間時の記憶を失ったカナエが、妹のしのぶに義妹のカナヲ、さらに同期の童磨と対峙。これを予見していた童磨が大怪我と引き換えに珠世から預かった人間に戻る薬を打ち込み、その後は妹たちのタグチームとの激闘の末、しのぶに実は人間に戻っていたカナエが心臓を貫かれるところまで考えたところで、流石にえぐすぎるとギブアップしました……

しのぶが童磨を嫌っているのは、カナエが失踪(死亡扱い、実際には鬼にされた)した際に最後に一緒にいたのが、直前に共同任務で下弦の鬼を討伐した童磨だったから。二人で無惨の気配を追った際、手分けしようと提案したのは童磨で、そのせいで一人で何かしらに遭遇したカナエがいなくなってしまったからです。しかも童磨は彼らしく上っ面だけの悲しみを見せたため、完全に裏に入って拗れました…… なお、しのぶは童磨が嫌いでも嘴平母子は大好きなので、二人とは仲良しです。



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#??? 鬼子母神には至れない


タイトル=きしもじんにはいたれない

番外編。狭間の子、あるいは幼い父性と過剰防衛。


※童磨と琴葉の間に実子が生まれた場合のifルート。最終決戦までは大まか本編のとおり。
作中の伊之助の年齢は7歳→9歳→15歳。
要注意:原作生存キャラ死亡、悪鬼による大量虐殺(直接の描写なし)

※誤字報告ありがとうございました!



 

童磨が大切に囲っている女と契りを結んだのは、ある夏の夜の気まぐれであった。色狂いの父と嫉妬に狂った母を見て育った彼からすれば、男女が体を繋げることは面倒ごとでしかなく、人間であった頃から生理的な欲求以上のものを感じたことはなかった。けれど、夕涼みに出た庭先で伊之助の手を引いて歩く琴葉の汗ばんだ項を見つめているうちに、どうしようもなく触れたくなってしまったのだ。

 

その晩、伊之助の眠りが深いころ合いに琴葉だけ揺り起こし、抱かせておくれと甘えたのは至極動物的な衝動だ。お互い声を殺して、いっそ肌から融合してしまうのではないかと思うほど触れ合って、よくわからない睦み事を口吸いで交わしながらひとつになった。

 

それから数日に一度、同じように夜に溶け合い、そんな関係が冬が春に差しかかるまで続いた。

 

「童磨さん、大事なお話があります」

 

ある夜、寝床に入るなり琴葉がそう切り出した。柔和な白皙はいつになく真剣で、童磨も思わず緩んでいた姿勢を正してしまった。その胡座に座り込んで足をばたばたさせていた伊之助も、真似をして背筋を伸ばした。

 

「あのね」

 

琴葉の美しい声が、ぽつりと告げる。寝間着ごしに薄い腹に両手を重ねた彼女は、目に眩しい春の陽のようだった。

 

「赤ちゃんができたの」

 

きっとこの時こそが、童磨の世界が完全に色づいた瞬間だった。伊之助ごと長い腕で抱きしめた琴葉が咲くように笑い、母親と養父の間で子供がきゃらきゃらと声をあげた。

 

上弦の壱の襲来の、ほんの二月前のことだった。

 

 

※ ※ ※

 

 

学校が終わるなり、伊之助は挨拶もそこそこに校舎から駆け出した。毎日のことなので追いかけてくる声も足音もない。教師には藤の家紋の家のご隠居から事情を話してあり、咎められることもなかった。

 

「ただいま、母ちゃん、琴音!」

 

「おかえり、伊之助」

 

「おかーり、にーちゃ!」

 

店先で打ち水をしていた琴葉が柄杓片手ににこりと笑う。彼女の背におんぶされた黒髪の赤ん坊も目を閉じたまま紅葉のような手をぶんぶんと振っていた。

 

伊之助は母親の前まで来るなり腕を広げ、得意げに待ち構える。琴葉も子供の大仰な様子に付き合ってうんうんと頷き、一歳と少しの娘を括っていたおんぶ紐を外して小さな体を息子に手渡した。母子の距離が最も近づいた時、琴葉の胸元から伊之助が伸ばした右腕の袖の中へと何かが入りこんだが、道行く人々が気づくことはなかった。

 

「琴音をお願いね、伊之助。お夕飯までには帰ってくるのよ」

 

「まかせとけ!」

 

母親そっくりの美しい少年が、これまたよく似た赤ん坊を抱いて裏山の方へと歩いていく。駆け足でないのは、妹を大事に抱えているからだ。子供たちが裏の小山に向かったことに気づいた藤の家の翁が店先から顔を出し、琴葉に声をかける。

 

「琴葉さん、あんな小さな子たちだけで山遊びは危険だよ」

 

「童磨さんがついてるから大丈夫ですよ」

 

「……少ししたら迎えに行きなさい。夕飯の準備は手が間に合っているから」

 

「はい」

 

鬼の犠牲者である嘴平親子が心に傷を負い正気を失っているのは、藤の家の家人らもここに立ち寄る鬼殺隊の剣士たちも知るところだ。特に琴葉は妊婦の身で夫を失い、その悲しみから夫が生きていると信じ込んでいる。そうでなければ美しい彼女に言い寄る男が後を絶たなかったであろう。

 

善良なご隠居がそんなことを考えている時分、伊之助と琴音は山の小路を外れて獣道をずんずんと影が深い方へと進んでいた。普通の九歳の少年と赤ん坊なら怖がって足を踏み入れないであろう木々の合間だ。しかし愛らしい兄妹はむしろ楽しげで、伊之助の調子外れのゆびきりげんまんの歌に琴音が素晴らしい音程でハモリを入れている。日向で閉ざされていた幼い瞳が開かれ、長い睫毛の下に虹がきらめいていた。

 

「ゆーびきーりげんまん、約束しましょー、狸がぽんぽこ、ふはっ、琴音はかわいいぞー!」

 

「ぽんぽこ、にーちゃもかーわいーぞー!」

 

きゃっきゃっとメチャクチャな歌詞を口ずさむ子供たちが一際闇が濃い木々の下で動きを止める。すると、伊之助の隣に魔法のように長身の人物が現れ、攫うように二人を一緒くたに抱きあげた。

 

「うんうん、二人ともとっても可愛いぞ! 今日は何して遊ぼうか」

 

伊之助を片腕に座らせて琴音のやわい頬に唇を押し当てる男。白橡の艶やかな髪のてっぺんだけが血の赤に染まった彼こそが伊之助の養父であり、琴音の実父である鬼―童磨だ。大好きな父に抱かれて伊之助は無邪気に笑い声をあげ、琴音もきゃあと甲高く喜んだ。

 

「父ちゃんと相撲!」

 

「とーちゃ、だっこ! たかたかーい!」

 

「わかったよ。それじゃあ、先に伊之助の相手をしよう。琴音は行司をやるかい? はっけよーいのこったって言える?」

 

「はっけ、よー、のおっ」

 

「あはは、ちょっと練習が必要だねえ」

 

太い眉をさげて娘の顔を覗きこむ童磨は傍から見ればただの父親だ。子煩悩で、子供が何をしても可愛くて仕方がないといった顔をしている。しかしその正体は人間しか食べず、強力な異能を持ち、日の光に当たると死に絶える化け物だ。表立って家族と過ごすことができない男は、こうして人の目がない場所でのみ、本来の姿で子どもたちと過ごしていた。

 

身重の琴葉と伊之助を連れて寺院から逃げた後、童磨は二人が藤の家紋の家に保護されるよう誘導し、自らは体を小さくして隠れて家族を見守り続けた。締め切った室内で共に過ごすことはあったけれど、鬼殺隊の施設ともいえる藤の家紋の家ではそう気も抜けず、琴音が産まれてもしばらくは我が子を抱くことさえままならなかった。そんな不便な日々ではあるが、童磨は不快には感じておらず、むしろ琴葉とは彼女の胸元に潜むことで前以上に距離を縮め、限られた時間で精一杯子どもたちと触れ合っていた。

 

「この線から押し出した方が勝ち。俺は琴音を抱いてるから、左手だけ使うね」

 

「おう、今日は勝つ!」

 

童磨が足先で丁度いい円を描けば、地面におろされた伊之助が意気揚々と構える。そんな幼気な様子をまぶしげに見つめ、童磨はさあこいと片腕を開いた。そしてもう片腕に抱いた娘が白橡の髪を掴んで涎まみれの口に入れるのを横目に、仕方ないなあと笑いながら息子の突撃を受け止めたのだった。

 

 

※ ※ ※

 

 

蝶屋敷に現れた鬼舞辻無惨に柱たちが襲いかかった瞬間、彼らは地面一面に現れた開いた障子へと落ち、宿敵共々、無限城へと攫われた。鬼殺隊のほぼ全ての隊士が同時刻同様に吸い込まれたことを知るのは少し先のことだ。でたらめな構造の室内に落とされた彼らは、襲いくる鬼の群れを切り払いながら、見失ってしまった無惨の気配を追っていった。

 

産屋敷からの指示が届かない異界で己の勘を頼りに戦闘と合流を繰り返す。途中、我妻善逸が新たな上弦の陸を、岩柱、風柱、霞柱を含む一隊が上弦の壱を討ち取ったが、その戦果が共有されることはなかった。

 

激戦の場となった無限城の最奥、天井が高い開けた一室では一人の少年鬼が琵琶を抱えた女鬼の頭に両手の指を埋めており、彼らの背後には巨大な肉の蛹となった鬼舞辻無惨が分厚い氷の壁に閉じ込められていた。暗がりに煌めく氷壁の際では十数体の結晶の御子が絶え間なく冷気を生み出している。

 

そんな異様な空間に、からりと戸を開けて鼻歌まじりの男が入ってきた。白橡の髪に虹の瞳をした男鬼―童磨は、少年鬼―愈史郎を目に止めてにこりと笑った。口元を真っ赤にして片手に抜き身の日輪刀を持っていなければ、友好的に見えただろう。

 

「やあ、まだ誰も来てないね。戦況はどんな感じかな」

 

「金髪が上弦の陸を倒した。岩柱と風柱が上弦の壱を倒したが、霞柱が死んだぞ」

 

「雑魚の鬼と鬼狩りは残ってるかい?」

 

「いや……鬼はこいつと鬼舞辻以外全滅、鬼殺隊もお前が指定した者以外は死んだ」

 

淡々と答える愈史郎の瞳は暗い。琵琶鬼―鳴女の異能を乗っ取って無限城の中を自在に把握している彼は、自らが片棒を担いで誘導した一般隊士らの末路をずっと見ていたのだ。

 

童磨はそんな相手の様子を気にするでもなく、口周りの血を肌から吸収して形良い唇を猫のように舐めた。愈史郎の協力があったとはいえ、この数時間で数十体の鬼と数百名の剣士を殺し、少数紛れていた稀血と栄養価が高そうな女隊士を貪り食った様はまさに悪鬼。過剰とも言える食事をした童磨は全身に力が漲り、上弦の弐を冠していた頃に劣らぬ悍ましさをまとっていた。

 

「そろそろ頃合いだねえ。夜明けまであと一時間、外で決着をつけさせよう」

 

「……お前の息子はどうする」

 

「伊之助は寺院に送っておくれ。先回りして書き置きをしておいたから問題ない」

 

「本当にいいのか? あいつに何も言ってないだろう、お前」

 

睨みあげてくる相手に、童磨は首をかしげて子供のような笑みを貼り付ける。優しげな顔立ちの中で、見下ろす虹の瞳は凍てついていた。

 

「伊之助は母親似の優しい子だ。親しい人や友達が死ぬところなんて見せたら可哀想じゃないか」

 

「お前が死なせなければいいだけだろ」

 

「あはは、珠世殿を生かすために俺の手伝いをしてる君が言うの? 愈史郎君だってわかってるでしょう。鬼殺隊は、鬼を作り出すことができる珠世殿も、生まれついて鬼の血を引く琴音も、絶対生かしてはおかないぜ」

 

千年近く鬼と戦ってきた剣士らが鬼の祖亡き後、その名残をこの世から抹消させるべく動くのは火を見るより明らかだ。だからこそ、童磨は産屋敷の幼い当主とその家族全員を決戦直前に殺害し、愛娘の血統を知るものをひとり残らず消すべくこの場に立っている。虹鬼の情報が柱とごく少数の隊士にしか共有されていなかったのは好都合であった。

 

「さあさ、一緒にもうひと頑張りしよう。鳴女ちゃんの頸をそろそろ切ってあげないとね」

 

童磨が軽い足取りで氷壁へと向かう。愈史郎と二人で示し合わせたとおり、先に珠世だけ切り出して遠方に手配した新しい診療所に送るのだ。その後は鳴女の頸を落とし、その最期の力で無惨と鬼殺隊の生き残りは市街地へ、童磨はそこから少し離れた場所へ、そして愈史郎は珠世と同じ場所へと飛ぶ。その先、童磨と珠世らの道が交わることはないのだろう。

 

氷から解放された上半身だけの珠世が青ざめた唇を震わせる。しかし彼女が声を紡ぐより早く、真下に開いたふすまが痛々しい姿を飲み込んだ。すかさず童磨が手にした刀で琵琶鬼の頭が体から分かたれ、愈史郎は死にゆく鬼に最期の術を振るわせた。

 

崩壊する城の中、鬼舞辻無惨と呼吸の剣士らの足元が開き、彼らを最期の地へと誘ったのだった。

 

 

※ ※ ※

 

 

気がついたら懐かしい寺院の庭に降り立っていた。人の手が入らなくなって久しい荒れ果てた景色に、伊之助は一瞬固まり、ややあって柳眉を寄せて宙を睨んだ。

 

(父ちゃんがやりやがったな)

 

無限城での最終決戦の運びについて、伊之助はあまり知らされていなかった。童磨は珠世と愈史郎という鬼の協力者らと計画を立ててしまい、息子には「命を大事に」「大怪我はしないように」など身を案じる言葉しかかけなかったのだ。方向感覚が働かない異界で鬼と戦いながら無惨の気配を追い、途中から胡蝶しのぶと栗花落カナヲと合流して、さらに一刻ほど走っていた気がする。しのぶたちは無事だろうか、と一人佇んでいると、足元に小さな氷の童子が寄ってきた。

 

「父ちゃん、どうした?」

 

結晶の御子は直接童磨と繋がっていないものの、思考の方向性は童磨そのものだ。養父がこの場に残した伝令だろうと考えて摘み上げてみると、案の定、小さな手が折りたたまれた紙片を差し出してきた。

 

「ありがとな」

 

役目は終わったとばかりに結晶の御子が伊之助の首元に座る。その冷たさが戦場からやってきて火照った体には心地よかった。

 

手のひらほどの大きさの紙に手短に記された伝言は、待機の指示と家族との合流の目安の日時だ。想像どおりとはいえ、鬼の祖との最終決戦から省かれたことに怒りが湧いてきて、片足で乱暴に地面を蹴りつけた。今から合流できる見込みはなく、そも蝶屋敷への道もわからない。伊之助の戦いは、終わったのだ。

 

「師範、しのぶ、炭治郎、善逸……ごめん」

 

痛いほど握りしめた両拳から力が抜け、だらりと指先が下がる。美しい少年は視線を落とし、うめき声とともに苦い涙をこぼした。二回の朝日の先で両親と妹を抱きしめるまで、その苦しみを小さな氷の御子だけが見ていた。

 

 




【登場人物紹介】

童磨
元・十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がり、性欲を知ってさらにメガ進化した人間性中級者。連載本編より琴葉への執着がやばいうえに彼女似の子供たちに愛着を持ちすぎている。世界で一番美しいものと己の血肉から新たな命が繋がれた奇跡にある種の悟りを開いた。虚無と家族愛しか存在しない白黒世界の住人にして、娘の安寧のために鬼も鬼殺隊も念入りに滅ぼしたモンペ(真) 最終決戦では日の出の数分前までに結晶の御子軍団で周辺の鳥類を全滅させ、生き残りの剣士らを数の暴力で圧殺し、ジャイアントベビー無惨を凍結させて朝日に晒した。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨から体を求められるという激レアルートにより、千年で唯一の鬼と人の狭間の子を懐妊した。妊娠中に逃避行したり大怪我を負ったり新しい環境に放り込まれたりしても元気な娘を産んだ最上質母体。連載本編同様に鬼殺隊のもとに身を寄せ、童磨を胸元に隠しつつ二児の母として逞しく働いていた。意外と躾はしっかりしている。童磨が甘やかしまくっても子どもたちがまともに育ったのは彼女の功績。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。弱肉強食を世の真理としているスーパードライうり坊。しかし家族にはウェット。年が離れた妹が鬼と人間の狭間の子であり、どちらからも命を狙われる立場であると子供ながらに理解してからは家族を守るべく養父に鍛錬を強請り続けた。自覚があるシスコン兼セコム。最終決戦で作戦からハブかれ深く傷ついたが、結末を知らせなかった童磨の親心のおかげで、まだ癒える程度の傷で済んだ。師や友人らが戦死したことは知っており、毎年の命日に朝日に向かって黙祷している。

嘴平琴音(ことね)
お母さん似な鬼と人の狭間の子。よくいるオリキャラ。最終決戦時は7歳。怪我の治りが早く雑食性(意味深)、血鬼術は使えない。クローンレベルで母親そっくりだが、瞳は虹色で陽光に弱い。このため家族以外からは極端な弱視と勘違いされている。身体能力は恋柱並、勘の良さは母譲り。地頭が良すぎるが、父親とは異なり馬鹿と天才は紙一重を体現するタイプ。ファザコンでブラコン。お母さんのことも大好き。琴葉のマネをして蝶屋敷の三人娘らの手伝いをしていたところ、無惨の襲撃を受けて避難した。



【作中に入らなかった諸々】

(1)産屋敷家はどうなったの?
血が途絶えました。最終決戦の日は曇りで、童磨は朝から粉凍り・改をたどって隠れ家を訪れ、輝利哉ほか屋敷内の全員を確実に殺害しました。

(2)原作で無惨様の餌になったモブ鬼殺隊たちはどうなったの?
2割は雑魚鬼に殺され、残りは童磨に殺されました。数名いた稀血と栄養価が高そうな女性隊士らは餌になりました。

(3)鬼殺隊の主要キャラたちはどうなったの?
黒死牟戦は原作どおり進み、ほかの面々は無惨戦決着直前に不意打ちの数の暴力で圧殺されました。タイミング的には炭治郎が取り込まれる直前に辺り一面粉凍り、からのフルボッコ。戦闘の跡地は生き残った少数の隠が泣きながら片付けました。

(4)無限城で鎹鴉ナビがないのはどうして?
珠世様と愈史郎は産屋敷の声掛けで協力者となったけれど、童磨が先約であり、愈史郎は童磨に色々と吹き込まれていたので、鬼殺隊には己の能力をものすごく過小申告しました。なお、無限城内では目くらましの術を使い、童磨ナビでまっさきに鳴女を襲い、無惨まで誰もたどり着けないよう迷路を組み換え、あとの方では童磨のもとへ一般隊士や雑魚鬼を飛ばすという所業をやってのけました。

(5)炭治郎と善逸は琴音の出自に気づかなかったの?
琴音の肉体は完全に人間と同じ構造なので、鬼のように音が異なるということがなく、人の食事しかせずに育っているため臭いも人のものです。なお、琴音が人間に戻る薬を飲んだら、生まれついた鬼の因子が不全に陥って死にます。

(6)人間性中級者って嘘やろ?
このルートの童磨は鬼子母神レベルの我が子らへの情を早い段階で育んでいるので、家族限定で人間性中級者に昇格してます。しかし鬼子母神の話の教訓である「他者の苦しみを理解(共感)して改心する」ことは生涯ないとんでもねえ奴です。

(7)伊之助が可哀想すぎる。
それな。

(8)琴音が新たな鬼の祖になったりは……
しません。童磨、珠世様、愈史郎(茶々丸)が人間(猫)に戻る薬を服用した後は、琴音だけが鬼の因子をもつ生物ですが、彼女に鬼を増やす力はありません。

(9)結局誰が生き残ったの?
主要キャラでは嘴平一家、珠世様、愈史郎、茶々丸、蝶屋敷の三人娘、神崎アオイと煉獄千寿郎が生存してます。後者5名はそれぞれの屋敷を監視していた結晶の御子が「琴音=虹鬼の実娘だと知らない」ことを確認していたため助かりました。

(10)最後どうやって合流したの?
決戦に幕を引いた後、童磨は小さくなって陽の光を避けながら藤の家紋の家へ向かい、玄関先で琴音と一緒に祈っていた琴葉の着物の裾から潜りこんで合流しました。そのまま三人で姿をくらまし、夕方以降は童磨が二人を抱いて山や森の中を走って明け方には寺院に到着。その後は本編と変わりません。


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#??? 阿耨多羅の箱庭

タイトル=あのくたらのはこにわ

番外編。春の陽のような君、あるいは心というもの。

家族になる前、ミリ単位の成長が実を結び始めた頃の一幕。

※誤字報告ありがとうございました!



 

煌めく黒髪にはなびらがひとつ。

 

ふと目についたそれに伸ばした指先は、日向の境界線を越えた途端に燃え上がった。縁側に座る琴葉がジュウジュウとした音に気づいて目を向けるより先に、童磨は右手を背中に隠す。影に入った手はすぐさま元通りに再生した。

 

「どうしたんだい、琴葉」

 

「お魚を焼くような音がしたのだけど、気のせいだったみたい」

 

琴葉はそう言って、膝に座らせた息子を抱き直した。三歳になった伊之助は急激に大きくなってきている。もうとっくに琴葉が片腕で抱ける重さではなく、最近の抱っこは童磨の役目であった。

 

春の陽にあたる母と子からやや離れた室内に座した男は、日光から感じる熱に怖気を覚えながらも、胸にある心地よさに浸っていた。雲雀のさえずりよりなお美しい琴葉の声が、指切りの音色を奏でている。その内容がさかなさかなと繰り返すものであっても、童磨の耳には何より甘美な刺激であった。

 

可愛らしい歌と時折交じる子供の笑い声。鬼の網膜が焼かれるほどの明るさが、琴葉と伊之助には似合っている。この日向ぼっこの後で彼らを抱きしめれば、太陽の匂いがするのだろう。その時の安らぎを思い浮かべ、優しげな人喰い鬼はうっとりと目を細めていた。

 

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 わんぱくな子供が庭を駆け回る音は、もうすっかり万世極楽教の寺院の日常だ。教祖じきじきに塀の中を一人で出歩くことを許された伊之助は、とても三歳児とは思えない行動力と体力で敷地の隅から隅まで探検し、今や庭師役の信者らよりも庭に詳しい。やれ大きな蝶々だ、つやつやのどんぐりだ、と戦利品を持って帰ってくる毎日であった。

 

そんなある日の夜。教祖の間で三人で過ごす時間になり、息子の手をひいてやってきた琴葉は髪に薄紫の花を飾っていた。

 

「おや、藤の花なんて庭に咲いてたかな」

 

「裏手の塀の向こうから木の枝を伝って垂れていたんですって。ねえ、伊之助」

 

「うん、みたことないはなだけど、きれいだろ」

 

だから母ちゃんにあげたんだ、と伊之助が得意げに笑う。高座で寄り添う二人が纏った花の香りに不快感を覚えた童磨だったが、そんなことはおくびにも出さず、柔らかな笑みを浮かべていた。

 

「どーまさまにもとってきてやったぞ!」

 

そう言って、子供が袂から取り出した藤の房を童磨の目前にかざす。反射的に払い除けそうになった手に気づいたものはいなかった。

 

「……ありがとう、伊之助。寝るときに潰れてしまったらいけないから、花はあっちに活けておこうか」

 

琴葉のも活けておくと長持ちするよ、とさりげなく全ての花を回収する。童磨はにこにこした表情のまま脇の棚にあった一輪差しに水差しの水をそそぎ、器用に藤を活けてみせた。花に触れただけで痛んで変色した肌を高速で回復させることも余念がなかった。

 

「ありがとうございます、童磨さん。よかったねえ、伊之助」

 

「うんっ」

 

何も知らずに笑う女と子供の隣で、童磨もにこりと笑みを深めた。早朝の間に信者に命じて藤を撤去しなければと心に留めながら、琴葉のとりとめのない話に耳を傾ける。そうしている内に花の香りも気にならなくなっていた。

 

「もう藤の季節か。日が強くなってくるから、日向ぼっこもほどほどにね、琴葉」

 

「ふふっ、大丈夫よ。私、日焼けしても赤くならないんです」

 

「そういえば去年の夏にこんがり日焼けしたのに、すぐ色白に戻ってたっけ。伊之助も全然真っ黒にならないし、そういう体質かな」

 

「童磨さんもとても白いから、おそろいね」

 

「俺は日にあたれないだけだから、琴葉たちとは違うと思う」

 

「そうなの? じゃあ、私と伊之助が童磨さんの分までお日様でぽかぽかになって、こうしてくっついたら、童磨さんも日焼けしないかしら」

 

「ふはっ、面白いことを言うね……俺が日焼け、あはははは!」

 

自然にせり上がった衝動に負けた童磨が背を丸めて笑う。きょとりとした琴葉は、気分を害するでもなく「今度試しましょう」と鬼からさらなる笑いを引き出した。二人の間に挟まって寝そべる伊之助は、手持ち無沙汰で白橡の髪で遊んでいたが、笑いすぎて眦を拭っている童磨にふいに問いかけた。

 

「どーまさま、おそとにいけなくてつまんなくないか?」

 

子供の問いかけにぴたりと静かになった鬼が視線を落とす。

 

「夜や天気が悪い日は出かけられるから、外にいけないわけじゃないぜ。この間も留守にしたじゃないか」

 

「だったら、おれ、どーまさまとおそとであそびたい。よるはおでかけできるんだろ。にわのおもしれーとこおしえてやる!」

 

「伊之助、夜はお休みする時間よ」

 

「どーまさまとあそびたい!」

 

上半身を起こした伊之助が童磨の腰に抱きついて駄々をこねる。力いっぱい腕を回してくる子供に、童磨はその黒く小さな頭を撫でてやった。そして、眉をさげて嗜める琴葉にいいさと首を振ってみせた。

 

「それなら明日は三人で月見をしよう。満月じゃないけれど、上弦の月も乙なものだよ」

 

「つきみってなんだ?」

 

「お月見は、みんなでお月さまを見て綺麗だねえって言うのよ。伊之助は細いお月さまを見たことがあったかしら」

 

「わらってるおつきさまはみた! あと、まんまるなの!」

 

「まんまるのお月さまにはうさぎさんがいるのよ、伊之助」

 

「うさぎ……みみがながいやつ?」

 

「そう、ぴょんぴょん飛ぶ可愛いうさぎさんが、月でお餅をついてるの。今度一緒に見ようねえ」

 

似たもの親子の会話が自分を置き去りにどこかに転がっていくのはいつものことだ。童磨は愛でるようにそれに聞き入り、やがて琴葉が指切りげんまんの音色で餅を食べる歌を口ずさみ始めるのに笑いを飲み込んだ。

 

(こういうのを、楽しいっていうのかなあ)

 

じわりと胸のうちが熱をもった気がして、心臓のうえに手のひらをあてる。美しい親子の気配を五感のすべてで感じながらそうしていると、その熱が体中に心地よさを巡らせた。

 

(ああ、思い出した。このぽかぽかした感じ)

 

これは太陽の光に似ている。暖かなふたつの体を長い腕で抱き込んで眠るふりに入る時、童磨はそんなことを考えて、ひっそり嗤った。

 

 




【登場人物紹介】

童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がりつつある人間性幼稚園児。家族連れの逃れ者ライフを送るなどまだ夢にも思っていない。まだ琴葉と伊之助との距離感は愛玩動物とのそれに近いが、日々じわじわと執着が強まっている。鬼の本能のはずの太陽への恐怖や藤への忌避感はかなり薄い。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨と添い寝すること早二年、すっかり遠慮が鳴りを潜め、寝るときに密着しても恥ずかしがらなくなっている。伊之助の成長が嬉しい可愛いお母さん。童磨が太陽にあたれない病気だと思っているので、できるだけ日向ぼっこして太陽の香りと暖かさを彼に届けようとしている。

嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく幼児。まだ獰猛ではない三歳児。母親と童磨が大好きで、そろそろ童磨のことを父親的存在として見始めている。根っからのアウトドア派であり、毎日寺院の庭を探検しては新しい発見をしている。なお、伊之助が見つけた藤は、童磨に命じられた信者が朝早くに処理した。


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#??? Embrace Me, Beautiful Dreamer


タイトル=今度はきっと離さない

番外編。幼子の邂逅、あるいは滅びを呼ぶ恋。

※本作完結後の琴葉が原作童磨の幼少期にデイトリップする単発番外編。




師走も後半に差し掛かり、嘴平家には相談納めとばかりに連日高級車が乗り付けていた。一人大臣を送り出し、待ち構えていた隣県の知事を迎え入れる。にこにこと壮年の紳士を案内した琴葉は、夫の労いを受けてからそっと襖を閉じて踵を返した。

 

(立派な鮭をいただいたわ。明日はお鍋にしようかしら)

 

受け取ったばかりのお歳暮を思って琴葉の頬がふわりと緩む。そうすると柔和な美貌が極まって、見るものがないことが惜しいほどだ。それほどに、椿柄の着物に白橡の帯を締め、濃茶の羽織をまとった彼女は美しかった。

 

(お茶請けは童磨さんが好きな干菓子ね)

 

客人に茶を出すために厨に向かう。冷えた床板にひたひたと音を立てて歩いた先には、彼女に良く似た息子がいた。

 

「あら、伊之助」

 

「母ちゃん、これ棚に入らねえから、切って近所におすそわけでいいか?」

 

「明日はお鍋にするから、半分ぐらいね」

 

「わかった。あと、そこの鰤を子分どもに貰った。春に卒業する奴らから、世話になった礼だとよ」

 

腕ほどもある大きさの鮭を軽々片手で持った伊之助が、もう片手で脇に置かれた同じぐらいの大きさの鰤を指差す。琴葉は、まあとはしゃいだ風に息子に並んだ。

 

「こっちも凄いお魚! 今夜はお刺身にしましょう」

 

「切り分けはまかせとけ」

 

「うん、お願いね」

 

伊之助が手早くたすきをかけて包丁を手に取る。いつも真剣を握っている手が危なげなく肉厚の魚を解体していくのを横目に、琴葉も高級茶葉と煎茶碗を用意する。

 

ガラス窓の向こうは真白の冬景色だ。二人分の茶と色とりどりの菓子を盆にのせて奥の間に向かう途中、何気に見つめた庭先で戯れるセキレイの番に足が止まる。仲良しねえ、と微笑んだ琴葉は一歩を踏み出し、そして。

 

死角になっていた足元の湿り気により、盛大にひっくり返ったのだった。

 

 

 

 

※ ※ ※

 

 

 

 

懐かしい香りがする。

 

息が重たいほどの乳香の香りは、寺院にいた頃に童磨が纏っていたものだ。教祖の間に昼夜焚かれていたそれは美しい彼によく似合っていたけれど、同時に触れがたいような、人間離れした風にも見せていた。しかし、琴葉と伊之助と長く暮らすようになり、肌が敏感な伊之助が香の煙を嫌がるようになると、その香りは徐々に薄れていった。

 

仰向けに横たわっていた格好から体を横に向けて小さく呻く。琴葉がころりと動いた途端、側で誰かが小さく息を呑んだ。

 

それに応えるように細目を開けた彼女は、目の前に屈んでいた相手を見るなり一気に覚醒した。

 

「えっ、ええと、童磨さん?」

 

とろりとした声でそう呼ばれた相手ーー白橡の短いくせっ毛に虹の瞳の子供は、驚く様子もなく完璧な笑顔を浮かべた。

 

「そうだよ、俺の名前は童磨。こんなところに倒れているなんて、どこか体が悪いのかい? ああ、無理をしないでおくれ」

 

「あ、ありがとう。大丈夫よ。あの……童磨さん、どうしてそんなに小さいの?」

 

しゃがんだ子供と体を起こした琴葉の視線が交差する。童磨は小さな頭に布冠をかぶり、飾帯がついた法衣を身に着けていた。琴葉がよく見慣れた、万世極楽教の教祖としての正装だ。しかし、十歳にも満たない幼い姿は初めて目にするものだった。

 

琴葉が思わずこぼした言葉に、小さな童磨はぴくりと眉をあげた。

 

「ははっ、これでも日々成長しているのだけど、大人から見たら小さいよね」

 

笑いながら立ち上がった子供の後ろには、これまた見慣れた高座がある。ここは万世極楽教の寺院の中、思い出深い教祖の間だ。

 

きょろきょろしている女をどう思ったのか、童磨は高座にゆったりと座し、穏やかな様子で首をかしげた。

 

「よければ名前を教えておくれ。君は俺を知っているようだけど、うちの信者じゃあないでしょう」

 

人々の相談を聞くときと同じ、耳に心地よい口調で問われ、素直にうなずく。

 

「私は琴葉。嘴平琴葉です。童磨さんの奥さんで、あっ、童磨さんは子供だから、まだ奥さんじゃないのね。ええっと、難しいわ」

 

琴葉は頭の回転が早いほうではない。優しく気が長い童磨はいつだって彼女の要領を得ない説明を待ってくれるし、似たような思考回路をもつ伊之助はつながらない話の欠片をつなげて察してくれる。しかし初対面の相手と長話をすると、どうしても論理的に会話を続けることができないのだ。

 

「お客様に出すお茶を運んでいたら転んでしまって、庭先に可愛い鳥がいたから、それで、どうしましょう……どうしてここにいるのかも、童磨さんが小さいのかも、わからないわ。頭をぶつけたからかしら」

 

頬に手をあてて眉を下げる彼女に、法衣姿の子供はにこりと笑って言った。

 

「焦らなくてもいいよ。君は俺の奥さんだと思っているんだね。興味深い。そうだ、初対面のときのことを話しておくれ。いつ、どんな風に出会ったのかな」

 

琴葉、と高い子供の声が名前を呼ぶ。その抑揚が夫のものとまったく同じであることに、反射的に肩から力が抜けていった。こんな可愛らしい姿であっても、童磨は童磨だ。初めて出会った頃の、薄氷を隔てたような距離感を寂しく感じたとしても、琴葉にとっての真実は揺るがないのだ。

 

弱った風に座り込んでいた体をしゃんとさせ、幼い童磨と目を合わせる。微笑みをたたえたまま待っている姿は、やはり優しい夫と同じものだった。

 

「私がはじめて童磨さんに会ったのは、雪が降っていた夜。前の夫が伊之助に酷いことをしたから、あの子を抱いて逃げたの。あのままじゃあ、伊之助まで叩かれると思って怖かった。それで山の中を走っていたら童磨さんの寺院にたどり着いたのよ」

 

「それは大変だったね、可哀想に。伊之助というのは琴葉の子供?」

 

「そう、伊之助は私たちの宝物なの。強くて優しくて自慢の息子です」

 

「良い子なんだねえ。うんうん、続けて」

 

「ええと、童磨さんも信者のみなさんもとても優しくて、私と伊之助を助けてくれたわ。童磨さんは一番優しくて、私達をおそばに置いてくれたの。毎晩たくさんお話して、お庭を散歩したり、伊之助と遊んだり。菖蒲のお風呂に入った後に貴方が伊之助のお父さんになってくれて、私達は家族になったんです」

 

とりとめなく話しているうちに思い出が募って表情に現れる。琴葉の花のかんばせが輝かんばかりの幸せを浮かべるのに、相手の虹の瞳が眇められた。

 

「ふうん。君も俺に救われたの?」

 

よく整った子供の笑顔は揺るがない。二人の声以外はしんと静まった室内で、燭台の炎がゆらぐ音が鮮明だった。

 

「はいっ。童磨さんにはたくさん助けてもらったわ。私と伊之助の恩人で大好きな人。だからね、貴方も救われたって、私が貴方の心を助けたって言ってくれたのが、とても嬉しかった」

 

琴葉の白い両手が胸元で重なり、感極まった唇を震わせながら「本当に嬉しかったの」と繰り返す。夫が迦陵頻伽のようだと褒め称えた美声が、柔らかく空気を震わせた。

 

幼い童磨はその様子をじっと見つめていた。上がっていた口角から力が抜け、無表情になっても目の前の女から視線を動かさなかった。しかし濡れた眦を拭った琴葉が気づく前に、再び笑みをかたどっていた。

 

「それはよかった。ねえ、俺は何歳のときに君に出会ったのかな」

 

「確か、120歳ぐらいって言っていたわ」

 

無邪気そうな問いかけに、琴葉もにこにこと応じる。その後の凍りついた沈黙は、子供がさらに話を聞きたがり、彼女を高座へと招いたことで過ぎていった。

 

 

 

 

 

※ ※ ※

 

 

 

 

 

遠くから呼ぶ声が聞こえる。

 

小さな白橡の頭を膝にのせて撫でているうちに、うとうとしてしまったようだ。童磨は子供の姿でも話し上手で聞き上手だった。琴葉がひとつ話せば十を察し、思考のつじつまがわからなくなって言葉に詰まるたびに助け舟まで出してくれる聡明さ。虹の瞳がきらきらと楽しげに光るのが嬉しくて、琴葉も時間を忘れて思い出話に浸っていたのだ。

 

「んん……」

 

「琴葉、目が覚めてよかった。気分はどうだい?」

 

覚醒するにつれ後頭部が痛んで、思わず呻く。布団の上で琴葉が眉を寄せていると、すぐ側から穏やかな声がかけられた。長年聞き慣れた夫の声だ。

 

「童磨さん?」

 

「ああ、起き上がらないで。頭を打っているから安静にしていておくれ」

 

「はい……」

 

乱れた黒髪を顔から払ってくれる大きな手にすり寄れば、布団際に座った童磨は愛おしげに目を細めて琴葉の頬を撫でた。

 

「廊下から騒音がしたから、どうしたかと思ったら、伊之助の大声が聞こえてびっくりしたぜ」

 

「私、転んじゃったのね」

 

「茶碗の破片で怪我をしなくてよかった。大きなたんこぶはできたけど」

 

童磨はずっとつきっきりでいたのか、来客用の上等な羽織にかすれ十字の長着姿だ。客はどうしたのかと問えば、早々に返したとの答え。続く来客の予定もすべて断ったという夫に、琴葉は申し訳ないと囁いたが、君のことが最優先だと返された。

 

「伊之助は?」

 

「お医者を担いで連れてきてくれた後は、客に断りをいれるのに玄関近くに陣取ってくれてるよ」

 

「まあ、お医者様まで呼んでくれたの」

 

「勿論さ。頭の傷を甘く見ちゃあいけないぜ、琴葉」

 

にこにこと琴葉の髪を撫でつづける童磨に、夢の中の子供が重なる。笑顔が似合う端正な顔立ちは同じで、しかしそこにある熱量の差に彼の成長があった。どちらも愛おしい、琴葉の自慢の夫だ。

 

「あのね、童磨さん。素敵な夢を見たの」

 

「へえ、どんな夢か話してくれるかい?」

 

身を乗り出す童磨の肩口からリボンでまとめられた髪が溢れる。ぴんと跳ねたくせっ毛に手を伸ばして指先で遊ばせながら、琴葉は咲くように笑った。鈍い痛みさえ忘れて語った夢うつつの話が、穏やかな相槌とともに、冷えた空気に広がっていった。

 

 

 

 

 

※ ※ ※

 

 

 

 

 

ぱち、と音がしそうな動作で目を開いた子供は、自らの頭が柔らかな女の腿に乗っていないことを自覚するなり体を起こした。法衣の裾に手を滑らせながら室内を見回す。豊かな黒髪と大粒の翡翠の瞳の女はどこにもいなかった。

 

「あーあ、帰ってしまったかあ」

 

平坦な声が教祖の間に響く。童磨は高座に一人で座り、行儀悪く片膝を立ててそこに顎を休めた。

 

就寝前の瞑想の時間に、どさりと倒れる音とともに現れた女は嘴平琴葉と名乗った。昨年自殺した童磨の母と同じぐらいの年頃に見えた彼女は、しかし比べ物にならないほど容姿に優れ、比較することすらおこがましいほど美しい心の持ち主であった。ほんの一言二言交わしただけでわかるほど、童磨からすると不気味ともいえる善性をもつ女だった。

 

(頭がおかしい信者が押しかけてきたのかと思ったけど、すぐに追い出さなくてよかった)

 

童磨がいつも信者らにするように話を促せば、琴葉は自分が童磨の妻であると言い出した。自ら口にしておいて混乱する様は、いい年をした大人だというのに可愛らしくて、毒気を抜かれたものだ。

 

(可愛い人だったなあ)

 

頭が悪くて哀れな女を救ってやろうと話を聞いたはずが、逆に彼女の春の陽のような気配に惹かれて聞き入ってしまった。心が綺麗な人がそばにいると心地よいということを、彼女に教えられたのだ。

 

「二十歳で鬼になれば、夢じゃなかったと証明される。そうしたら、琴葉に会える」

 

琴葉は嘘をつける人間ではなく、あんな壮大な作り話ができるような頭も持ち合わせていなかった。その彼女が、童磨が人喰い鬼になって百年以上生きてから出会うというのなら、それが真実なのだろう。であるならば、不老不死の教祖として万世極楽教に君臨し続け、日常的に『食事』をするお膳立てが必要になる。童磨の頭脳は、すでにいくつかの算段を立てはじめていた。

 

すべては、強い鬼となって琴葉を彼女の子供ごと囲うため。琴葉が語った三人の穏やかな日々を、彼女の寿命が尽きるまで共に過ごすために必要なことであった。

 

「やることが山積みで困ってしまうよ」

 

張りつけた笑みで弧を描いた口元に牙はない。いずれ鬼となる子供は、垣間見た夢幻へとその手を伸ばし、声もなく嗤った。

 

 




【登場人物紹介】

童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフの終りを迎え、晴れて人間として家族と新天地で暮らしている。しかして、今回はそんなことは百年以上先のショタとして琴葉に出会った。両親の喪が開けたばかりの、いずれ上弦の鬼となる約束されしサイコパス教祖。心が美しい人に初恋を奪われ、彼女を万全に囲い込むべく鬼になる日を待っている。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。師走の知事・大臣級来客ラッシュでてんてこまいだが、美味しいいただきものにはしゃいでしまう可愛い奥さん。すべって転んだら目の前に子供な旦那様がいてびっくりした。未来のネタバレをしまくった無自覚犯にして、十年以上かけて強い鬼になる準備をした童磨が原作より凶悪化するルートを開いてしまった戦犯。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美青年。日々陸軍学校の生徒たちを竹刀でぶちのめしている美しすぎる剣術講師。生徒=子分たちからはとても慕われている。廊下で目を回している母親を発見し、大声で養父を召喚してから診療所へとダッシュした。年配の医師を俵担ぎして運んだのをご近所に目撃されている。



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#??? We long to be close to you


タイトル=貴方が生まれた祝福の日に

番外編。一年の節目、あるいは生まれ変わるということ。

本作完結後、人間として暮らす童磨の『誕生日』の一幕。

※ファンブック2のネタバレあり
※童琴伊版深夜の60分一本勝負 お題「はじめての誕生日」より

※誤字報告ありがとうございます!




 

「今日で一年だねえ」

 

縁側に並んで座った童磨がこぼした一言に、琴葉は湯呑の中身をじっと見つめて考え込んだ。まだ温かいほうじ茶からあがった湯気で湿った睫毛をぱちぱちさせるも何も思いつかない。仕方なく窺う視線を向けると、優しい虹色と目があった。

 

「俺が人間に戻ってから一年。あっという間だったと思ってさ」

 

「今日だったの!?」

 

「あはは、どうしたの大きな声を出して」

 

からからと笑う童磨は、まるで大したことがないように朝からいつもどおりだ。朝食の後、帝都の友人らからの手紙に返事を書き、昼食前に川沿いの小路に散歩に出かけた。そして家族そろって昼食を取り、ついさっき、小遣い稼ぎと称して近所のご隠居の家に力仕事の手伝いに出かける伊之助を見送ったばかり。本当に、いつもと変わらないのだ。

 

琴葉はそんな夫に眉を下げ、こうしてはいられないと湯呑を盆に置いて立ち上がった。

 

「お買い物に行ってきます」

 

「おや、こんな時間から買い出しかい? 俺もついていこう」

 

「童磨さんはお留守番をお願いね」

 

「あっ、琴葉」

 

追ってこようとする童磨を両手を前に突き出して留める。いくつになっても少女めいた仕草だが、琴葉がそうすると嘴平家の男衆は逆らえないのだ。案の定、立ち上がりかけた長身は中腰で止まり、おとなしく縁側に座り直した。

 

「今日は一人で行ってくるわ。伊之助が帰ってきたら、お風呂をぴかぴかにお掃除してってお願いしてくれるかしら」

 

「風呂掃除なら俺がしておくよ」

 

「いいの。童磨さんはゆっくりしていてね」

 

琴葉はそれだけ言って踵を返し、ぱたぱたと早足で離れていった。その頭の中はもう後の算段で溢れかえっており、よそ行きの雛芥子柄の羽織をまとって玄関を開けた瞬間、財布を忘れたと気づけたのは幸いだ。

 

時刻は八つ時よりやや早く、まだ日は高い。素晴らしい買い物日よりだ。琴葉は機嫌がよい子供のような足取りで表通りへと足を向けるのだった。

 

 

 

※ ※ ※

 

 

 

天気が良い日にゆっくり過ごそうとしていたら、可愛らしい妻が急に買い物に出かけてしまい、入れ違いで帰ってきた息子は風呂掃除の言伝を伝えるなり、おうよと風呂場に消えてしまった。童磨は端正な顔に弱った表情をのせ、仕方がないかと縁側に横たわった。

 

まぶたを閉じてもなお明るい日差し。チチチと遠く聞こえる小鳥の声と静かなせせらぎの音。時折、近所の生活音が入り込んでくるも、それさえ穏やかな時間の一部だ。こうしているより琴葉や伊之助と過ごす方が好ましいとはいえ、一人が不快なわけではない。童磨は長い息を吐き出して薄目を開け、落ちはじめた太陽を右手で遮った。

 

「すっかり人間だ」

 

百年以上も暗がりの住人をしていたくせに、すでに陽光に心地よささえ感じている。一年などあっと言う間のはずなのに、一日一日がみっしりと優秀な頭脳に刻まれており、今や琴葉らと出会う前に鬼として過ごした日々よりも鮮明だった。

 

鬼舞辻無惨が倒された後、人間に戻る薬を服用した童磨は三日間、生死の境をさまよった。同じ薬を使った竈門禰豆子がどうであったかはわからない。しかし元上弦の弐であった鬼を只人に戻す反動は凄まじく、童磨は高熱と意識の混濁に苦しめられた。今思えば、体の根本から作り変えたのだから、あの苦痛も当然のことだ。琴葉と伊之助をひどく心配させたことだけが、僅かな後悔として残っていた。

 

三日目の夕方、症状が収まった童磨が最初にしたことは、まだ日がさす寺院の庭に出ることだった。太陽に晒されても燃えない体で、両腕に琴葉と伊之助を抱きしめた。あの時の多幸感は一生色褪せないだろう。

 

「父ちゃん、母ちゃん帰ってきたぞ」

 

「……ん、寝てたかな?」

 

「少しだけな」

 

思い出にふけっているうちに微睡んでいたらしい。声をかけられて目を開けた童磨の真上には、しゃがんで覗き込む息子の美貌があった。散らばった白橡の髪を踏まないようにか、頭のてっぺん側から見下ろしている。

 

「なんか夕飯はご馳走だって言ってたぞ。あと、めちゃくちゃ高い酒買ってきてた」

 

「へえ、どうしたんだろう。琴葉は台所かい?」

 

「そうだぜ」

 

童磨が立ち上がって台所に足を向ければ、伊之助もついてくる。二人して戸口から台所を見れば、髪を結いたすき掛けをした後ろ姿が包丁片手に忙しくしているのが目に入った。童磨は邪魔にならないように華奢な背中に歩み寄った。

 

「おかえり、琴葉」

 

「ただいま、童磨さん。お夕飯はお肉にするからね。えっと、すき焼きとビフテキ」

 

「わあ、随分豪勢だねえ。ビフテキは初めて作るんじゃないか?」

 

「前にいった洋食屋さんに美味しい焼き方を聞いてきたわ。とっても良い人で、お願いしたら丁寧に教えてくれたの」

 

「……そう。確か若い二代目さんだったかな」

 

「ええ。それでね、付け合せもおすすめを教えてもらったの。夫のお誕生日のご馳走だって言ったら、ちょっと元気なさそうだったけれど、どうしてかしら」

 

立派な牛肉の切り身に塩コショウを振りかける琴葉は真剣な面差しだ。すき焼きの方は、すでに火をかけるだけになっているようで、野菜のつけ合わせも何品も用意されていた。嘴平家の食卓はかなり豊かな方だが、今日の献立はいつにまして豪華であった。

 

けれどそんなことより、琴葉が口にした一言が気になった。

 

「夫の誕生日って、俺のこと?」

 

思わず聞けば、美しい満面の笑みが向けられた。

 

「ええ。童磨さんが人間に戻って一年のお誕生日だから、ご馳走にするのよ。お店で一番いいお酒を買ってきたから、お風呂にいれましょうね」

 

妻の返答に、それは誕生日ではないとか、酒風呂にするのはもったいないとか、色々な思考がよぎったけれど、そうではないと口を噤んだ。そんな童磨をよそに、伊之助まで「父ちゃん、誕生日なのか?!」と声をあげる。似たもの親子がお祝いだと盛り上がる隣で、童磨はフッと固まっていた体の力を抜いた。

 

「ありがとう、嬉しいなあ」

 

「「(お)誕生日おめでとう」」

 

「童磨さん」

 

「父ちゃん」

 

瓜二つの顔が心底嬉しそうに笑っている。童磨の百年以上の長い生で、神の子として崇められていた中でさえ、こんな溢れんばかりに祝福された覚えはなかった。

 

「ははっ、本当に生まれ直したような気がするぜ」

 

太い眉をへにゃりとさせた不格好な笑みを浮かべた姿は、きっと誰の目にも等身大の人間だった。

 

 




【登場人物紹介】

童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフの終りを迎え、晴れて人間として家族と過ごしている。戸籍上の誕生日は適当に決めたもので、琴葉たちには教えていない。今後、人間に戻った日を毎年祝われることになるハッピーな大黒柱。ちなみに肉料理が好きなのは百年以上の肉食の名残りである。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨の誕生日だと思い込んだらまっしぐら、盛大に祝うために食費に大枚をはたいた。ご馳走と超高級酒風呂でお祝いした後、布団に入ってから贈り物を用意しなかったと気がついたナイスタイミングな奥さん。なお、ビフテキについて教えてくれた高級洋食屋の二代目は、後日、夫と息子を伴った琴葉の来店に涙を飲んだ。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。16歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。ぴかぴかに磨いた風呂場で超高級酒風呂を満喫する童磨の背中を流し、風呂上がりにやや痛い按摩までしてあげた親孝行な息子。今後も毎年、童磨の誕生日に母親と一緒にお祝いして盛り上がる。



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#??? Somewhere over the rainbow 前編

タイトル=誰もいない場所

番外編。凍てついた白昼夢、あるいは結ばれぬ愛。

※本編完結後、二十歳の伊之助が単身原作軸に迷い込む前中後編。
※ファンブック2の情報をもとに、登場人物紹介の産屋敷家当主のくだりを修正。

誤字報告ありがとうございました!




「そういえば、一度だけ琴葉に人を喰ってるところを見られたことがあったんだよ」

 

すぐ失神させてごまかしたけど、と蜜柑を剥く手を止めずに笑う養父の脛を炬燵の中で蹴ってしまったのは不可抗力だ。驚いて足が動いたのが半分。後の半分は、障子を開けっ放しの部屋の外に母の気配が近づくのを感じたから。数秒のうちに無防備な足音が聞こえてきて、童磨が「おや、気づかなかった」と笑うのに呆れてしまったものだ。

 

抜身の小太刀を握りしめ、伊之助はつい先日のやり取りを思い出していた。睨みつける先には、記憶に懐かしい格好をした童磨の姿がある。そして己の後ろには濁流にせり出した崖と、その縁にへたり込む若い女と赤ん坊。青い顔をして荒い息をしている女もその腕に抱かれた子供も、覚えがありすぎた。

 

(なんで父ちゃんが母ちゃんを襲ってんだ!? ありもしなかった事を夢に見てるってのか)

 

伊之助の両親は、元人喰い鬼の童磨と、そうと知らず彼のもとに身を寄せ守られた琴葉だ。何がきっかけで童磨が餌でしかないはずの琴葉を大切にしたのかは知らない。しかし伊之助が物心つく頃には、二人は想いあい、上弦の弐という地位にあった鬼は人間の母子に優しい目を向けていた。

 

今、暗がりから伊之助を見つめている虹の眼差しは、さながら石ころに向けられるそれだ。童磨が家族以外に向ける熱のない瞳。整った顔に浮かぶ笑顔もよくできた物真似でしかなく、いっそ寒々しかった。

 

「琴葉は身寄りがないって言ってたけど、君たちすごく血が近いね。兄妹かな? まさか鬼狩りの身内だったとは驚いたよ」

 

鉄扇片手に童磨が首を傾げる。その動作から微塵も目を離さないまま、伊之助は左手の小太刀を鞘に戻した。崖下の轟々という水音がひどく耳に煩かった。

 

「あ、あのっ、私はいいから、伊之助を連れて逃げて! お願いします、この子を助けて!」

 

琴葉からすれば、まだ顔も見ていない怪しい男のはずなのに、懇願する声は血を吐くような必死さだ。聞いたこともない母の叫びを背中に受け、伊之助は腹を決めた。否、決めざるを得なかった。

 

「ああ、泣かないで、琴葉。君も伊之助もお兄さん?も俺が救ってあげる。俺の中でずっと一緒にいられるんだ。大丈夫、怖くないよ」

 

「嫌、嫌ッ、嘘つき! 伊之助に近寄らないで!」

 

「……酷いなあ。ずっと側にいるって約束したのに、嘘つきは君の方だ」

 

昆虫のような熱のない視線が伊之助越しに母子に注がれる。そこに情などなく、伊之助が愛する二人は、この場において鬼と餌でしかなかった。

 

(父ちゃんじゃねえ。こんな目を母ちゃんに向ける野郎が、父ちゃんであるはずがねぇッ!!)

 

「近寄るんじゃねえ、クソ鬼!」

 

「へえ、顔はそっくりだけど声は似てないね。もうどうでもいいけど」

 

笑顔で鉄扇が振るわれ、氷の花びらが迫ってくる。童磨の血鬼術の一つ、散り蓮華だ。伊之助一人であれば切り払っていた攻撃。しかしこの場で戦闘に入れば、至近距離にいる女と赤ん坊は花びらに伴う粉凍りの餌食となる。伊之助が知り尽くしている童磨の血鬼術は、人を殺すことにおいて破格の性能を誇っているのだ。

 

「しっかり子供を抱いてろよ!!」

 

「きゃあッ!?」

 

童磨の隙をつくなんて無謀なことは試みない。鬼舞辻無惨の下を離れた養父は弱体化したと言っていたが、そうであるならば今、目の前にいる鬼は伊之助が知る童磨よりも強いのだ。生物として別次元の性能を誇る、圧倒的強者。それが上弦の弐という鬼なのだ。

 

(御子を出されたらひとたまりもねえ。ここは逃げるしかっ)

 

琴葉と赤ん坊を左腕で抱きこみ、右半身を盾にして崖から身を投げる。落下距離はそれなりだが、呼吸使いの剣士が死ぬようなものではない。しかし、それは外的要素がなければの話だ。

 

「わあ、思い切りがいい! でも逃さないぜ」

 

「クソがッ!!」

 

--血鬼術・蔓蓮華

 

美しく弧を描いて迫る氷の蔓を切り落とし、蓮花を蹴りのける。空中で片手での迎撃、もう片腕は守るべき者達で塞がっているというのに、伊之助が受けた傷は白い右頬への切り傷ひとつだけであった。

 

(やっぱり父ちゃんじゃねえ。あいつ、完全にこっちを舐めてやがった)

 

急激な落下から着水するまでの数秒の間、翡翠の瞳が崖上の鬼から離れることはなく、母親と自分自身を庇いながら流れに呑まれるその時さえ、臨戦状態を解くことはなかった。

 

「あーあ、見誤っちゃった。あの状態で俺の術を防ぐとは、ややもすると柱かもしれない」

 

三日月の薄あかりの下、崖の際に立った鬼は手にした扇で口元を隠して目を伏せた。眦から溢れた涙が誰のためのものなのか、知る者はいなかった。

 

 

※ ※ ※

 

 

幸か不幸か、水かさがある川の水面から琴葉と赤ん坊の頭を出すことに専念しているうちに浅瀬に流れつくことができた。体に張りつく着物の裾を強引に割って大股で川からあがり、同じく濡れ鼠となっている二人をなるべく砂利が細かな場所で下ろす。小一時間は流されていたのか、もう東の空が白み始めていた。

 

頬の傷以外は筋肉が疲労したぐらいで、二振りの刀も無事だ。上弦の鬼を一人で相手取った結果としては上々だが、その幸運を喜ぶ余裕はない。

 

「はっ、はあっ、畜生っ……どうなってやがる……」

 

伊之助の記憶は、嘴平邸の庭で鍛錬をしていたところで途切れている。陸軍学校での指導を終えて帰宅して、夕食前の軽い運動のつもりで対の小太刀を奮っていたのだ。縁側では童磨が久しぶりに鉄扇の手入れをしていた。もう片手で振るうことができない獲物に打ち粉をはたき、鼻歌まじりに作業をしていたと思う。

 

気を失っている琴葉の隣に腰をおろし、青ざめた美貌を覗きこむ。肌に張りつく髪を払ってやれば、伊之助が知る母親よりずっと若い顔立ちがあらわになった。

 

「母ちゃん、なんで逃げたんだ」

 

鍛錬をしていたはずの伊之助は、気がつけばあの崖の近くに立っていた。紺色の着流しから両袖を抜いた格好で、抜身の刃を手にしていた。状況がわからず凍りついた彼の前に飛び出してきたのが、赤ん坊を抱いた琴葉だったのだ。数秒もおかずにやってきた追手の斬撃を防いだのは条件反射。その後は、混乱の中で体が勝手に動いていた。

 

くしゅん。

 

赤ん坊の小さなくしゃみに肩が跳ねる。ずぶ濡れのままでは女子供の体には毒だろう。伊之助は深呼吸をひとつ刻んできつく瞼を閉ざし、気合をいれてそれを開いた。

 

(火を起こして体を乾かさねえと風邪ひいちまう。まだ朝になったばかりだ。母ちゃんとガキ……俺か、俺が起きたら状況確認して、それから人里を目指す。よっしゃ、完璧な流れだぜ)

 

そうと決まれば即行動。火打ち石などなくとも乾いた枝を集めて河原の石を打ち合わせれば薪の完成だ。ちょっとした祭りの炎ほどに大きく育てた熱源の近くに琴葉と赤ん坊を横たえれば、二人の顔色が目に見えて良くなった。

 

次に琴葉の濡れた髪を絞ってやってから、躊躇いなく腰の帯に手をかける。この場の三人の顔立ちが瓜三つでなければ、誰が見ても良からぬ無体であったが、伊之助は家族の世話を焼いているだけだ。うら若き裸体に目もくれず、脱がせた着物から水気を絞り、よれよれになったそれを適当に地面に挿した大きめの枝にかけて広げる。赤ん坊も同じようにしてから琴葉の腕に抱かせ、最後は自分も裸になって豪快に着物と褌を絞っていた、その時。

 

「う……ぅ、ここは? 貴方は、きゃああああっ!?」

 

目を覚ました琴葉が朝日に照らされた全裸を見るなり悲鳴をあげ、それで起こされた赤ん坊も元気いっぱいに泣き出した。近くの茂みで休んでいた鳥たちが逃げ去るほどの騒ぎだ。

 

悲鳴をあげてすぐに子供を抱き上げて逃げをうった女は、しかしよたよたと三歩ほど歩いて躓いた。鬼から全力疾走で逃げ回り、挙げ句に川に落ちて体が冷え切っているのだから無理もない。伊之助が慌てて二人を抱きとめて火の側に戻してやると、彼女はおずおずと見上げてきた。

 

「あ、ありがとう」

 

「怖がらせちまって悪かった。川に落ちたの覚えてるか? あのままじゃ風邪引いちまうから脱がせただけだぜ。ほら、着物もそこで乾かしてる」

 

伊之助は少し迷い、ややあって言葉を続けた。口元がぎごちなくなってしまったのは仕方がなかった。

 

「俺は伊之助。お前は?」

 

「伊之助さん? この子も伊之助って言うんです! えっと、息子の嘴平伊之助です。私は嘴平琴葉。あの、あの、えっと」

 

「ゆっくりでいいぞ。なんで鬼に襲われてたんだ?」

 

暖を取るために近くに座ると、琴葉は基礎体温が高い伊之助の方に無意識に寄ってきた。彼女の動物的な勘の良さは童磨の折り紙つきだ。伊之助が血肉を同じくする相手だと体の方が気づいているのだろう。多少は恥ずかしいらしく、赤ん坊と立てた両膝で胸元と下半身を隠しているものの、悲鳴をあげたばかりとは思えない気さくさであった。

 

「鬼って、教祖様のことかしら」

 

「そうだ。あいつ、お前らを喰おうとしてたぞ」

 

「……優しい人だと思っていたの。夫が伊之助に手をあげたから、私、逃げ出して、それから教祖様に保護していただいたんです。信者の皆さんもとても優しくて、教祖様は一番優しくて、伊之助のことも私のことも大事にしてくれて、本当に……私、大好きだったの、あの人のお側は安心できたの」

 

ぎゅうと息子を抱いて俯いた女の喉が震える。とろりとした声が割れてしまっても彼女は言葉を紡ぎ、伊之助も揺れる炎に目を向けて黙って聞いていた。

 

「何も怖いことはないって、酷いことをする者はいないって言ったのに、嘘だった。教祖様は鬼で、信者の皆さんを食べてた。全部嘘だったのよ。伊之助のことも、きっといつかは。だから、私、私……ごめんね、伊之助、お母さん間違えてばかりで」

 

泣き出した琴葉の白い肩を抱いてやり、伊之助は彼女からわからないように己の目元を拭った。今の話で理解してしまったのだ。この若い母親と赤ん坊の自分が、鬼と家族になる日はやってこない。ここでの童磨と琴葉の道は永遠に分かたれたのだ。

 

(これは夢じゃねえけど、俺の過去でもねえ。父ちゃんが人喰ってるのを見られて母ちゃんに逃げられた世界だ。クソッ、何やってんだよ……)

 

父ちゃん、と心のなかで呼びそうになって止める。嘴平伊之助の父親は元人喰い鬼の嘴平童磨ただ一人。そして、あの父はたとえ天地がひっくり返っても琴葉を傷つけることはしないのだ。

 

(上弦の弐、童磨)

 

崖の上から見下ろしてくる虹の双眸が脳裏に焼きついている。無感情な視線は、扇による切り傷よりよほど鋭利に伊之助の胸に突き刺さり、ともすれば叫びだしそうな痛みを錯覚させていた。

 

(あいつの縄張りは万世極楽教の寺院とその周りだ。近づかなきゃまず会わねえ。だからまずは母ちゃんと俺を安全なところに連れてく。その後は家に帰る方法を探すが……その前に)

 

薪を睨む瞳がぎらりと煌めき、五年ぶりに鬼殺隊士の横顔が浮かびあがる。青みがかったざんばら髪の合間で可憐な唇が獰猛に引き結ばれていた。

 

(あいつの頸を斬る。他のヤツに殺らせたり鬼舞辻の道連れになんてさせねえ。絶対俺が斬って、崩れるのを看取ってやる)

 

 

※ ※ ※

 

 

母子を連れての移動は、伊之助が琴葉を背負い、己の着物の裾をちぎった即席のおんぶ紐で胸元に赤ん坊を括り付けて走ることで想定以上の捗りをみせた。太陽が真上にのぼる頃には森を抜け、人の気配を探って最寄りの町にたどり着いたのは夕暮れ前のこと。伊之助も琴葉も無一文であったが、幸い藤の家紋を掲げた家を見つけることができた。

 

「邪魔するぜ」

 

「はい、ただいま。もしかして鬼狩り様でございますか?」

 

「そうじゃねえが、鬼殺隊のことは知ってる。こいつらが上弦の鬼に襲われてたのを助けた。ここで保護してもらえねえか」

 

「えっ、少々お待ち下さい!」

 

上弦と聞いて落ち着かなくなった家人がばたばたと奥へと消えていく。すぐに何やら慌ただしい気配がしてきたが、伊之助は気にせず琴葉をおろして赤ん坊を手渡した。二人とも疲れた様子ではあるが、物珍しそうにきょろきょろとしていた。

 

廊下の奥から家人に先導されて一人の男がやってくる。覚えがある気配に目を向ければ、獅子のような茶金の髪と炎を思わせる羽織に一瞬どきりとした。

 

(俺が赤ん坊なら、そりゃそうか)

 

威風堂々といった足取りで伊之助たちの目前までやってきた大柄な男は、爛々とした瞳で彼らを見下ろし口を開いた。

 

「上弦の鬼に襲われたというのは君たちか?」

 

「ああ。俺は伊之助だ。こっちは嘴平琴葉と息子の伊之助。俺と同じ名前なのは気にすんな」

 

「うむ。俺は煉獄槇寿郎、鬼殺隊の炎柱だ。来たばかりのところをすまないが、詳しい話を聞かせてほしい」

 

「こいつらは休ませてやってくれ。話は俺だけでいいだろ」

 

伊之助が家人の方を見てそう言うと、炎のような男は琴葉と彼女が抱く子供の様子に眉を下げ、構わないと答えた。

 

「床の用意をさせよう。伊之助殿は、こちらに」

 

「おうよ」

 

家人に琴葉たちの世話をいいつけて踵を返す槇寿郎。その後に続こうとした伊之助の袖が、くいと引っ張られた。

 

「あの、伊之助さん、私たちだけ休ませてもらうのは」

 

「気にすんな」

 

片手で袖を捕まえて眉をさげている琴葉に、伊之助は彼女に似せるように優しく笑いかけた。どんなに気が張り詰めているときも、母親にこうして笑顔を向けられると安心できたからだ。

 

「お前らは俺の家族みたいなもんだ。だから明日ゆっくり話しようぜ。今日のことは任せとけ」

 

川に落ちたせいで少しごわついてしまっている長い髪を、いつも童磨がしているように柔らかく撫でてみる。琴葉は零れそうな瞳で伊之助を見上げていたが、ややあって年相応の笑顔を返して目を伏せた。

 

「はい。明日、いっぱいお話しましょうね」

 

「ああ、ゆっくり休めよ」

 

「ありがとうございます。おやすみなさい」

 

家人に連れられていく母子の背中が廊下の角で見えなくなる。同時に伊之助がまとう気配も穏やかなものから剣士のそれに切り替わり、すぐ側にいる炎柱もそれを感じ取って緊張を浮かべた。

 

「随分と腕が立つようだな。鬼殺隊のことを知り、上弦の鬼という言葉を使い、廃刀令のこのご時世に刀を二振りも下げている、君は一体何者だ?」

 

槇寿郎の問いかけは当然のものだ。自分がどれほど怪しいか、伊之助自身が一番よくわかっている。それでも姫武者のような青年は、にやりと不敵な顔であえて言い放った。

 

「俺の名は嘴平伊之助。階級は丙。二十年先から迷い込んできた迷子だ」

 

 




【登場人物紹介】

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美青年。弱肉強食を世の真理としているスーパードライ猪。しかし家族にはウェットな20歳。人間に戻った童磨と晴れて彼の妻となった琴葉と三人で地方の城下町で暮らしている。今年から陸軍学校で剣術講師の仕事を始めた。最終決戦から五年がたった今でも毎日鍛錬しており、実力は上がり続けている。肉体的にピークに差し掛かり、いまや師である煉獄杏寿郎の最盛期よりさらに強い。この度、運命の悪戯でひどくリアルな白昼夢?に迷い込んだ。父ちゃんじゃない童磨の頸を斬ると決めた。なお、口にする情報を限定して相手に勘違いさせる手法は父譲り。

童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知る機会を得られなかったサイコパス。原作どおりに逃げた琴葉を追いかけ、崖っぷちで殺そうとしたが、思わぬ横やりが入った。伊之助が琴葉の血縁者だと見抜いたが、まさか彼女が抱く赤ん坊の成長した姿(しかも自分の養い子)とは思わない。まんまと逃げられて大仰に肩を落とした。あの時、泣いた理由は自分でも死ぬまでわからない。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。18歳。童磨が信者を喰っているのを見てしまい、すぐさま息子を抱いて寺院を飛び出した。追ってきた童磨に追い詰められ、伊之助だけでもと川に落とそうとした刹那、第三者にかばわれてタイミングを失った。息子じゃない()伊之助は初対面のはずなのに、何故か一緒にいて安心する。裸で薪を囲んだり、おんぶされたり、色々おかしいのに無条件に好意を抱いてしまう。なお、童磨を「嘘つき」「酷い」と罵りまくったが、鬼や化け物とは一度も呼ばなかった。

煉獄槇寿郎
そろそろ三十路の炎柱。奥さんの体調が心配。伊之助らが保護を求めた藤の家紋の家に宿泊していた。家人から上弦の鬼と遭遇した人間がきたと聞いて飛んできた。この後、童磨直伝のミスリード攻撃を受け、多大に間違った理解をしつつお館様(耀哉9歳)に手紙を飛ばすことになる。



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#??? Somewhere over the rainbow 中編

タイトル=どこへも続かない道

番外編。停滞する白昼夢、あるいは空虚を悲しむ。

※本編完結後、二十歳の伊之助が単身原作軸に迷い込む前中後編。
※白昼夢≠原作軸の中で数年経過しています。

※作者の試みで、ポっと出の人物の視点になっています。

★誤字報告ありがとうございました!




悲鳴嶼行冥は、つい先日下弦の鬼を討伐し、甲の階級から柱に王手をかけた鬼殺隊士である。まだ入隊一年目でありながら、鍛えぬかれた巌のような体躯と、珍しい鎖分銅と手斧という武器が強烈な存在感を出している才能あふれる剣士だが、何より彼を異色たらしめているのは、その白濁とした盲いた瞳であった。

 

幼い頃に病気で視力を失った行冥は、その他の感覚をもって常人以上に空間を把握することができた。しかし今、凍てつく空気が肌を刺すこの場でぶつかり合う殺気を追うには、彼はまだ未熟であった。

 

「あははっ、何度戦っても楽しいねえ! こんなに俺のことわかってるのは君ぐらいだ! 琴葉と似た顔で一緒にいて心地良いし、いつまでもこうしていたいね」

 

「俺は全然楽しくねえっ、からっ、とっととくたばれクソ鬼ぃ!!」

 

「そんなこと言わないでおくれよ、伊之助君」

 

「ガアアアっ、気色悪い呼び方すんじゃねえ!」

 

ガン、ガンと金属がたてる重たい音と交わされる声から二人の位置を読もうとしても、あまりの速さについていけない。

 

上弦の弐・童磨と獣柱・嘴平伊之助。鬼舞辻無惨に最も近い鬼の一体と、鬼殺隊最強と名高い剣士。彼らが切り結ぶ空間はまさしく異次元であり、間合いに入れば「死」しかないのを肌で感じるのだ。行冥が小刻みに震えながら立ち尽くすのをよそに、二人の強者はひらりとお互いから距離をとった。

 

「親しみを込めて呼んでるんだぜ?」

 

「そんな石っころ見るような目ぇして何言ってやがる」

 

「もう、いつでも刺々しいなあ、君は。何がそんなに辛いんだい? 俺に話してごらんよ」

 

鬼の穏やかな問いかけは、こんな状況でなければ慈愛に満ちているように感じただろう。しかし行冥の耳には、童磨の声ががらんどうを抜ける風のように聞こえた。完璧な優しい抑揚の中に、何の情動も感じられないのだ。

 

「……辛いも何も、テメェの空っぽのツラも態度も胸糞悪ィんだよ。殺してやりたくて堪らねえ!」

 

ギリ、と奥歯を噛みしめてから落とされた低い声は、激情を煮詰めたもの。けれど、それが思い出の中の幼子たちの泣き声に似ている気がして、行冥は知らず鎖と斧を握りしめたのだった。

 

 

 

 

※ ※ ※

 

 

 

獣柱と上弦の弐の一騎打ちは、ここ数年繰り返されている特殊作戦だ。童磨は所在がわかっている唯一の十二鬼月だが、彼が教祖として君臨している寺院は一般人の信者たちが住まう大所帯で、鬼殺隊が攻勢にでることが難しい場所であった。下手をすれば教祖を守らんとする信者らとぶつかり、怪我人どころか死者が出かねない。また、それで童磨が居を移してしまうのもよろしくない。そのため、産屋敷の若き当主はこの鬼の討伐を鬼殺隊最強と名高い伊之助に一任していた。

 

伊之助が童磨に挑むのは、決まって他の任務がない上弦の弐の夜だ。彼が寺院の門を叩くたび、あの鬼は理由不明な付き合いの良さで応じ、もう十回以上も決着がつかないまま対峙してきたのだという。昨晩、行冥がその場に同行したのは、産屋敷耀哉じきじきに「上弦の強さを見ておいで」と命じられたからだった。

 

(定期試合と馬鹿にしている隊士らは、あの激闘を知らぬのか。よしんば上弦の弐が手を抜いていたにしても、あの殺気は本物であった)

 

朝日がそそぐ街道を先に行くしなやかな気配から大きな出血の臭いはしない。聞こえてくる足音はドスドスと不機嫌であったが、怪我をした者特有の重心がずれたそれではなかった。行冥は相手の状態を目で確かめることができない。しかし彼は誰よりも怪我や不調に敏感であった。

 

(お互いの手の内を知り尽くした状態で明け方まで戦い、かすり傷しか負っていないというのか)

 

童磨と伊之助の因縁を、行冥は知らない。獣柱の就任と入れ替わりに引退した元岩柱である育手から、最初の上弦の弐討伐作戦で当時の柱が三名死亡したことと、その後の一騎打ちは伊之助が産屋敷に直談判して許可を得たことを聞いていた。

 

「嘴平さん」

 

「おう、どうした玉ジャリジャリ坊主」

 

「……悲鳴嶼行冥です。あの鬼に随分こだわっているようですが、何故でしょうか」

 

早朝の町の物音が近づいている。そろそろ獣柱邸がある町の一角に差し掛かるところで、行冥は気になっていたことを口にした。決闘中の伊之助のただならぬ様子から、どうしても知りたかったのだ。

 

後輩隊士の問いかけに、前を歩く男の足取りは緩まなかった。数歩の沈黙の後、返ってきたのは伊之助にしては静かな声だった。

 

「あいつは俺の母ちゃんを殺そうとしやがった」

 

「お母上が犠牲に?」

 

「ああ、そうじゃねえよ。母ちゃんは元気だ。遠いところで父ちゃんと暮らしてる」

 

「そうですか、それはよかった」

 

語られたのは鬼殺隊ではよくある話だ。けれど伊之助の母親は無事であり、両親ともに存命ならば、彼があの鬼を執拗に狙う理由がわからない。行冥が目の当たりにした伊之助の殺意は、まさしく親の仇に対するような悲しみに満ちたものだったのだ。

 

「あっ、伊之助さん、おかえりなさい」

 

考えこんでいる間に、もう獣柱邸にたどり着いていたらしい。これまで聞いたことがないほど美しいとろりとした女の声が、嬉しそうに伊之助を迎えた。

 

「ただいま、琴葉」

 

「きゃあ! 大変だわ、どうしましょう、血がいっぱい出ているわ! 手当てしなきゃ!」

 

「どれもかすり傷だ、心配ねえ。もう出血してねえし、手当は自分でやる。それより、こいつに朝飯食わせてやってくれ」

 

ぐい、と片手で背を押されて華奢な気配の前に歩み出る。己の巨躯と物々しい武器で怖がらせてしまわないかと案じた行冥だったが、獣柱の妻と思われる女性は慌てた雰囲気から一転して柔らかい声をかけてきた。美しい心根をもっていることが窺える、心地よい存在感の持ち主であった。

 

「ああ、ごめんなさい、動転しちゃったわ。はじめまして、嘴平琴葉といいます。伊之助さんのお友達?」

 

「お初にお目にかかります。鬼殺隊・階級 甲、悲鳴嶼行冥と申します。獣柱様と任務でご一緒させていただきました」

 

「そうだったのね。悲鳴嶼さん、どうぞあがってくださいな。ご飯を用意しますね」

 

「いえ、お構いなく……ああ、行ってしまわれた」

 

パタパタと軽い足音が遠ざかり、隣で伊之助が小さく笑う声がした。

 

「飯食ってけ、遠慮すんな。それと、食い終わったら報告書手伝えよ」

 

「……ありがとうございます。報告書は、隠に書き取りを依頼したいのですが」

 

「俺が書くから必要ねえ。おら、入った入った」

 

ぐいぐいと押されながら門と玄関をくぐり、初めての場所で足を取られないよう気を引き締めながら屋敷にあがる。履物を脱いで廊下を数歩進んだところで、騒々しい足音とともに小柄な気配が駆け寄ってきた。行冥の腰ほどの背もない子供であった。

 

「おやぶん、おかえり!!」

 

「おう、戻ったぜ、チビ助」

 

「こいつだれだ? でっけーな!」

 

伊之助が子供を抱き上げたことで気配が顔面近くまで近づき、聞こえた甲高い声に後ずさりしそうになる。行冥は子供という無垢で残酷な生き物が苦手であった。無意識に顔が強張っていたらしく、子供が「こえー顔してるぞ! こいつ鬼か? やっつけるのか?」と聞き捨てならない勘違いを口にした。

 

「ちげえよ。こいつは悲鳴嶼行冥っていう俺の仲間……子分だ。悲鳴嶼、このチビは琴葉の息子の」

 

「はしびらいのすけ! 五さいだぞ!」

 

かくして獣柱・嘴平伊之助との初の合同任務は、あらゆる面で鮮烈な印象を行冥に残した。氷の悪鬼との因縁も、妻でも息子でもない嘴平親子との関係も、何もかもが不可思議であった。

 

この数ヶ月後に岩柱に就任した行冥は、さらに三度、伊之助の一騎打ちに同行することになる。氷と獣の牙が交差する戦場で、嗤う鬼と猛る剣士が親子のようだと錯覚しようとは、今はまだ夢にも思っていなかった。 

 

 

 

 

※ ※ ※

 

 

 

 

『……辛いも何も、テメェの空っぽのツラも態度も胸糞悪ィんだよ。殺してやりたくて堪らねえ!』

 

琴葉と同じ翡翠の瞳のぎらつきと、荒々しく押し殺された声。冬山のような冷たい殺気が心地よく、あの美しい顔(かんばせ)が酷く辛そうに歪むのが可愛らしい。童磨は、つらつらと昨晩の決闘を思い起こして唇の端を笑みの形につりあげた。

 

片手で閉じた鉄扇がパチリと空気を揺らめかす。夢のような色合いの鬼は高座に胡座をかいたまま、長く息を吐き出した。

 

「不思議な子だなあ。あんなに俺を理解して追い求めてくる人間は、これまでいなかった」

 

童磨が本気でかかれば、たとえ鬼殺隊最強の剣士であっても敵ではない。それなのに伊之助が何年も生きているのは、毎回絶妙に手加減しているからだ。伊之助はとっくにそれを理解しているだろうが、彼は激昂するでもなく、好都合とばかりに腕を磨いて挑んでくる。その諦めの悪さがなんとも面白いのだ。

 

「次も俺を楽しませておくれよ、伊之助君」

 

くすくすと嗤い声が教祖の間に広がり、誰にも聞かれることなく消えていく。豊かな黒髪の美しい娘も、彼女にそっくりな赤ん坊も、もういない。

 

「ああ、そういえば……」

 

長いまつ毛を伏せ、口元に扇をあてて呟く。

 

「琴葉はどうしているだろうか」

 

小さな問いかけに返ってきたのは、強靭な鬼の心臓をさざめかせる僅かな不快感だけだった。

 

 

 

 




【登場人物紹介】

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美青年。弱肉強食を世の真理としているスーパードライ猪。しかし家族にはウェットな20歳(白昼夢では24歳)。人間に戻った童磨と彼の妻となった琴葉と三人で幸せに暮らしているが、運命の悪戯でひどくリアルな白昼夢に迷い込んだ。獣柱3年目にして、童磨≠父ちゃんとの決闘は十なん回目。上弦の弐討伐を耀夜少年から一任されており、誰にも童磨の頸を譲るつもりはない。陸軍学校での経験を活かし、柱として立派に務めている。

童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知る機会を得られなかったサイコパス。原作どおりに逃げた琴葉を追いかけ、殺そうとしたが思わぬ横やりが入って逃げられた。獣柱・伊之助との決闘は最初こそ「馬鹿だなあ」と舐めプ対応していたが、徐々にお楽しみイベント扱いするようになった。本気を出せば伊之助を殺せるのにそうしない愉快犯にして、柱一人や二人では絶対に倒せないチート悪鬼。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。白昼夢の中では23歳。童磨が信者を喰っているのを見てしまい、彼のもとから逃げ出した。迷子の伊之助に助けられ、鬼殺隊士→柱になった彼に息子ともども養われつつ、家事を引き受けている。伊之助のことを家族だと思っているが、周りから獣柱の妹だと思われているのは知らない。息子の伊之助が大きな伊之助を「親分」と呼んで慕うのを微笑ましく見守っている。

悲鳴嶼行冥
未来の岩柱。18歳。甲になったばかりの有望な鬼殺隊の剣士。伊之助のことはよく噂で聞いていたが、会ったのは今回が初めて。一騎打ちのただならぬ様子に???となったが、面倒見が良い親分肌な伊之助を尊敬し、後輩の柱として今後も友好的に接する。目が見えないせいで琴葉を伊之助の妻だと勘違いしてしまった。後で他の隊士に訂正されて、さらに???となる。


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#??? Our Dreams in Floating Bubbles

タイトル=夢のような、シャボンのような

番外編。はじけてきえた、あるいは添い遂げるまでの軌跡。

寺院時代~本編完結後、シャボン玉遊びをする童磨と琴葉。

※童琴伊版深夜の60分一本勝負 お題「シャボン玉」より

★誤字報告ありがとうございました!




 

伊之助が三歳の残暑の頃、夕涼みにあわせてシャボン玉遊びばかりしていた時期があった。

 

虹の光沢をはなつ泡がよく見えるように篝火を用意して、万世極楽教寺院の中庭でサボンを溶かした水に浸した麦わらに息を吹き込んだものだ。童磨は二、三回やってみせたら手を止めて琴葉と伊之助が遊ぶ様子を静かに見ていた。揺らめく灯りがなくとも鬼の夜目には可愛らしい親子のはしゃぎようがよく映えた。

 

夜風にあおられたシャボン玉がぐんぐん空にあがっていくのを伊之助が追う。幼児のたどたどしい足取りを追って転ぶ前に抱き上げるのは童磨の役目だった。

 

「どーまさま、ふわふわがにげるぞ!」

 

「おっと、立ち上がると危ないよ、伊之助。手を伸ばしても届かないから諦めなさい」

 

「あのシャボン玉がお空の星になるのかしら」

 

「その前に弾けて消えてしまうだろうねえ」

 

琴葉の欠けた視界ではそう遠くまで見えないのだろう。童磨が次々と弾けていく泡を見ながら答えても、彼女は美しい横顔で暗い空を見上げていた。

 

あのシャボン玉のひとつでも、琴葉がいうとおり星になっただろうか。夜風にあたりすぎないようにと最後まで見届けずに室内に戻ってしまったから、結局は誰にもわからずじまいだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

琴葉が蝶屋敷で働きはじめた頃、花柱の庇護下で看護婦の真似事をしている三人の幼い女児のことがよく話題にあがった。鬼に家族を殺されて孤児になった子どもたちだ。剣士に向かない性格だと判断されたのか、それとも花柱が幼い子どもを鬼殺の道に入れたくなかったのか、三人とも蝶屋敷に住み込んで医療の勉強をしているらしい。

 

「お勉強ばかりじゃ疲れてしまうでしょう? なにか休憩の時間に楽しめる遊びがないかしら」

 

「あやとりとか鞠つきはどうかな」

 

「それがね、すみちゃんがあやとりが苦手で、なほちゃんは鞠つきが好きじゃないみたいなの」

 

「それなら身体能力が関係しない遊びがいいね。シャボン玉とか」

 

「シャボン玉! それがいいわ、ありがとう、童磨さん!」

 

ぽんと両手を叩いて頷く琴葉。きっと子どもたちに混ざって遊ぶのだろうなと想像して、童磨はゆるく微笑んだ。

 

明日さっそく遊ぶのだという彼女に、石けん水の作り方や丁度いい麦わらの硬さや長さについて説明して、上手い泡の作り方のこつを実践で教える。息を吹くだけの動作を真剣に行うのが可愛らしくて、つい魅入ってしまったのはご愛嬌だ。

 

居間から台所がある土間にむけてシャボン玉を吹く琴葉をしばらく見つめていたが、そろそろ石けん液がなくなるところで、ふと思いついて麦わらを手にとった。

 

「琴葉、よく見ていてごらん」

 

大きな翡翠の瞳がじっと童磨の手元の筒を見つめる。童磨は器用にいくつもシャボン玉を作り出し、重さで落下していくのを取り出した鉄扇でそうっと上に煽った。同時にはなった僅かな冷気が透明な円形に触れた途端、隣に座る琴葉が「あっ」と小さく声をあげた。

 

「綺麗……」

 

ふわふわと落下して土床についたシャボン玉は割れず、うっすら半透明な姿で凍っている。童磨が何度も同じように繰り返した後には、土間は一面大小の真珠で覆われたようになり、幻想的ですらあった。

 

「凄いわ、童磨さん。シャボン玉がころころして可愛くて、あっ、壊れちゃった……」

 

「薄い膜だからすぐ割れてしまうけど、綺麗だよねえ。寺院でシャボン玉遊びをした後にちょっと実験してみたら、思いの外見栄えがよくてさ。いつか見せたいと思っていたんだ」

 

鬼の力だから蝶屋敷の子たちには見せられないけど、と付け加えれば、琴葉は残念そうに眉をさげた。真珠の海にしゃがんだような彼女が眩しくて、童磨は目を眇めてその姿を見つめていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

「懐かしいなあ」

 

「あら、どうしたの? 童磨さん」

 

縁側に夫婦ならんで座ってシャボン玉を作っているうちに、何十年も前のことを思い出した。思わず口に出した童磨に、琴葉がシャボン作りの手をとめて首をかしげた。彼女の華奢な手にあるのは麦わらではなくセルロイド製のパイプだ。いまだ美しい琴葉の豊かな髪はすっかり濃灰色で、最近は童磨の白橡の髪も白銀が混じりつつあった。

 

「伊之助が三歳の時に、はじめて三人でシャボン玉遊びをしたんだよ。八月から九月の終わりまでだったかな。高く飛んだシャボン玉を取りたがる伊之助を肩車してあげたっけ」

 

「そうだったわ。あのシャボン玉……」

 

「「お空の星になったかしら」」

 

二人の声が重なって、きょとんとした琴葉と少年めいた表情をのせた童磨は一瞬見つめ合い、そろって破顔した。笑う琴葉の目尻には重ねた年の証が刻まれている。

 

「琴葉、シャボン玉を凍らせて見せたのは覚えているかい?」

 

「ええ、ええ! あれはとっても綺麗だったわ。触ったらすぐ壊れてしまったけれど、ころころふわふわしていて、泡の海みたいで、私感動したの」

 

「俺も感動したよ」

 

君があまりに可愛らしくて、と内心つけたしてシャボン玉の道具を下ろす。このシャボン玉セットは、復興目覚ましい東京の『友人』が送ってくれたアメリカ製の最新のおもちゃだ。伊之助の下の子どもたちにと贈られたものだが、何セットもあったため、健康のための日向ぼっこを兼ねて遊ぶことにしたのだ。

 

外国との大戦に敗北した日本は混迷しながらも前に進みつづけている。童磨の『友人』の多くは敗戦により地位を失い、中には命を失った者さえいたけれど、新たな政府の指導者となった『友人』らの相談にのる日々は、これまでと同じだ。幸い、嘴平家が住まうこの城下町は戦火を逃れ、陸軍学校務めであった伊之助が罪に問われることもなかった。

 

「もう一度見たいわ、凍ったシャボン玉」

 

「あれは血鬼術で作ったものだ。科学技術で再現できるだろうけど、一般家庭では難しいよ」

 

「そうなの? 童磨さんは凄いのね」

 

「あの頃は強い鬼だったからね」

 

童磨はからからと笑い、後ろの床板に両手をついて空を仰いだ。琴葉は笑顔で「今は素敵な人間ね」と返し、再びパイプ型のおもちゃを口に咥えた。専用に改良されている石けん液は少し息を吹き込むだけで無数のシャボン玉を生み出す。晴れの青色に天の川のように連なる透明の泡が眩しかった。

 

しばらくして石けん液がなくなってしまい、遊びも終わる。童磨は簡単に片付けをして、大人しく待っていた琴葉を縁側から抱き上げた。昨年の暮れに転んで怪我をしてから、彼女の体はめっきり弱くなってしまった。足腰が萎えて杖が手放せないのだ。食もめっきり細くなり、体重も落ちた。

 

「そろそろ子供たちが帰ってくる。居間で待つかい?」

 

「ええ、お願いします。いつもありがとうね、童磨さん」

 

「どういたしまして。俺としては役得さ」

 

家のことは同居している息子夫婦と孫たちが率先してしてくれるので、童磨はおはようからおやすみまで琴葉の世話をしている。それが嬉しくて楽しくて、一緒にいるだけで幸せだと彼女は知っているだろうか。もう遠くないいつか、琴葉が長い眠りにつく時まで、ずっとこうして二人でいたいのだ。

 

シャボンだまとんだ、やねまでとんだ、と小鳥のさえずりのように琴葉が歌う。孫たちが学校で習ってきて、歌は上手いがあまり歌詞を覚えられない祖母に根気よく教えたのだ。かぜかぜふくな、と一緒に口ずさみながら、童磨はシャボン玉にふれるように優しく愛を抱いていた。

 

 




童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性中級者。家族連れの逃れ者ライフの後、人間として家族と過ごすこと30年以上。いまだ青年ばりに健康で元気だが、妻より一日も長生きするつもりがない心中予備軍。脳みそグリグリしなくても琴葉と伊之助関係のことは一言一句すべての挙動を思い出せる。

嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人おばあちゃま。上の孫は成人してるけど、ナイスミドルになった息子と姉弟だと思われがちな春の妖精にして、大戦を経ても心の美しさを微塵も損なわなかった善性の持ち主。体を悪くしてからほぼ出歩けなくなったが、童磨が日々楽しませてくれるし、伊之助一家と仲良く同居中でとっても幸せ。

嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系ナイスミドル。出番なし。現職は県警察の武術顧問で、警察庁のお偉方に昔の子分(生徒)が多い。お嫁さんも子どもたちも童琴夫婦に懐いており、琴葉が体を悪くしてからは家族全員で気を配っている。動物的な勘で別れが近いことに気づいているが、そんな素振りを見せずに親孝行を心がけている。



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