蝶屋敷の薬剤師 (プロッター)
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第1話:赴任

 随分と大きな屋敷だ。

 周りはしっかりとした垣根で囲まれ、門戸もそこそこ立派な造り。玄関まで続く石畳の脇には綺麗な紫陽花が植えられていて、丁寧に手入れされているのが分かる。ひらひらと舞う蝶が時折目に入り、心が和む。

 それもさることながら、母屋も立派だ。昨今街の方で増えている洋風な造りではなく、古風な二階建て。広さも一反はくだらないだろうし、何も知らない人がここを見ればよほどの良家と思うはずだ。

 

「はー・・・すごいな・・・」

 

 そんな屋敷を見上げて、青年は圧倒のあまり感嘆の息を洩らす。

 持っている地図と見比べて、ここが目的の場所で問題ないのを確認すると、青年は門戸をくぐり敷地へ足を踏み入れる。一歩一歩と足を進めていく度に、自分の中で緊張と不安が大きくなるのを感じた。

 玄関の引き戸を開けて、中へ入る。屋敷が広いからか、少しひんやりとした空気が伝わってくる。

 

「ごめんくださーい」

 

 そこで青年は、少し声を大にして人を呼ぶ。

 しかし、誰かが出てくる気配がない。この屋敷の『役割』からして全くの無人ではないはずだから、恐らく忙しいのだろう。試しにもう一度、呼びかけてみるがやはり反応はない。

 とはいえ、勝手に上がるわけにもいかないので、一度外で待とうと踵を返す。

 と、そこでパタパタと小走りの足音が近づいてきた。

 

「何か御用でしょうか?」

 

 姿を見せたのは、黒い髪を青い蝶の髪飾りで二つに結んだ少女。漆黒の詰襟の上から医療用の白衣を着ていて、背丈は青年よりも少し低いが、気の強そうな表情と青い瞳が特徴的だ。

 

「蝶屋敷は、こちらでよろしいでしょうか?」

「そうですが・・・あなたは?」

 

 青年の質問に少女は頷くが、青年のことを調べるように眺める。

 青年の髪は耳にかからない程度の黒髪だが、よく目を凝らすと深藍色が混じっている。目元は少々垂れているようで、優しい目つきをしている。そして、少女と同じ漆黒の詰襟を着て、風に揺られる草が描かれた若葉色の羽織を上に纏っていた。

 そんな風体の青年は、姿勢を正して頭を下げる。

 

「本日より、こちらの『蝶屋敷』で薬剤師としてお世話になります佐薙(さなぎ)暁歩(ぎょうぶ)と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 


 

 鬼。

 西洋の文化が浸透し始めている今や伝承や御伽噺として語られる存在だが、それは今も実在している。

 栄養価の高い人間の肉を主食として喰らい、人間よりも遥かに強靭な肉体と鋭い歯、爪を持っている。心臓や脳を突き刺しても死なず、傷はたちどころに治り、身体を斬っても繋げたり、新しく手足を生やすこともできる。さらに『血鬼術』と言う異能を使う鬼も存在する。

 だが、陽の光を浴びると灰になるため日光の下で活動できず、夜に行動することが多い。比較的人目の少ない時間帯と場所で行動するからこそ、その存在は空想のものとなっているのだ。

 

 鬼殺隊。

 鬼と同様に実在しない空想の産物とされているが、彼らもまた古より確かに存在する。

 数百名の規模を誇る政府非公認の組織で、夜の闇に紛れて人を喰らう鬼を斬り、民衆の生活を陰ながら護っている。

 これに属するものは皆、漆黒の詰襟の隊服を着用しており、これは通気性が良いが燃えにくく、濡れにくい。さらに雑魚鬼の爪や牙では傷一つ入らない特殊な繊維で出来ている。背中に描かれた『滅』の文字は、人々の生活を脅かす鬼を滅する彼らの強い意志を表していた。

 そして、彼らの得物である刀・日輪刀は、鬼の頸を斬ることで日光に当てずとも鬼を殺せる、鬼狩りに欠かせない武器だ。

 鬼殺隊もまた、鬼が活動する夜に戦っているからこそ、人々に存在が広く知られていない。

 

 鬼と、鬼殺隊。

 どちらも、民衆にとっては伝承でしかない存在。

 だが、両者の戦いは遥か昔から今に至るまで、人知れず繰り広げられている。

 


 

 暁歩と名乗った青年が訪れた蝶屋敷は、そんな鬼との死闘を繰り広げる鬼殺隊の隊士を治療するための施設だ。

 けれどここは、元々鬼殺隊のある隊士の私邸であり、その主の意思によって現在の形態になった。さらにこの屋敷には、治療を受ける隊士とは別に、鬼によって家族を喪ってしまった身寄りのない子供たちも暮らしていると言う。

 

「ですのであなたには、薬剤師として薬を調合するだけではなく、隊の方たちの治療にも当たってもらいたいと思っています」

 

 玄関で出会った少女は神崎(かんざき)アオイと名乗り、先導しながら屋敷の説明をしてくれる。歩く速度がきびきびと速いので、暁歩も置いて行かれないようにする。

 蝶屋敷は、第一印象の通りで本当に広い。それでいて塵や埃も見当たらず、やはり医療施設として衛生面には気を遣っているようだ。

 

「ここが病床です。隊士の皆さんは主にここで身体を休め、治療に専念してもらっています」

 

 アオイが最初に見せたのは、寝台が五つ並んでいる部屋。今も隊士が数名ほど治療を受けており、アオイよりもさらに幼い少女が、包帯を巻き直したり検温したりと甲斐甲斐しく働いていた。また、治療中の隊士は専用の衣服を着ており、その洗濯もここでしているとのことだ。

 ちなみに、この病床は二部屋あり、さらに二階には階級が上の隊士用の個室が用意されている。今は二階の部屋で治療中の隊士はいないらしい。

 その病室から少し歩いたところには、診察室があった。現在使用しているのは一部屋だけで、今後暁歩が治療に携わるようになった際は、もう一部屋で診察をしてもらうとのことだ。暁歩も、経験上は人体の構造もある程度分かっていたが、本格的な治療となると経験が無い。足りない知識を蓄えるために勉強はしなければと思う。

 

「薬の調合は、基本的にこの部屋で行ってもらいます」

 

 次に通された部屋は、六畳ほどの広さがある部屋だった。

 窓に向かって机が置かれており、左の壁際には賽の目状の引き出しがいくつもある棚が据えられている。右手側には、様々な資料が収められた本棚と、多くの箱が置かれた棚。そしてお湯を沸かす簡単な道具があり、やや窮屈な印象がある部屋だ。しかしここも、綺麗に掃除がされているような清潔感がある。

 そしてこの部屋には、暁歩も嗅ぎ慣れた香りが漂っていた。

 

「左の棚に薬種が入っています。その他の薬や資料は右の棚にありますが・・・ご自分で見られた方が良いかと思いますので、説明は省きますね」

「分かりました。それで大丈夫です」

 

 やはり、左の棚には薬を作るための生薬が入っているらしい。匂いと、棚の形で暁歩はある程度予想できていた。

 その部屋の次は、一旦母屋を出て、同じ敷地内にある道場のような場所に案内された。壁際には畳が張られ、中央部には板が張られている。

 

「ここは、治療が長く体が鈍った人の機能を回復させるための訓練を行う場所です。今日は訓練を受ける人がいないので、説明はまた訓練を行う際にします」

 

 広々とした室内を眺めるだけにして、訓練場を後にする。

 その後は母屋へ戻り、蝶屋敷の住人が普段生活をする区画を案内される。

 

「後で紹介しますが、この屋敷には鬼によって家族を亡くした子供たちも暮らしています。くれぐれも、喧嘩などはなさいませんように」

「・・・分かりました」

 

 家族を亡くした。

 その言葉を聞いて、胸が痛まずにはいられない。表情はどうしても翳ってしまう。

 暁歩自身も同じような境遇だから、それがどれだけ悲しくて、どんな思いをしたのかも分かるつもりだ。無論、そんな子供たちと進んで諍いを起こすほど気性が荒くもない。

 

「それと、ここで暮らす方は治療中の隊士を除いて女性ですので、その点に関しましてもご注意を」

「はい」

 

 それに関しては、ここを紹介してくれた人から重々に注意されている。粗相をするなと何度も言い聞かせられていたし、その時の真剣な口調と表情ときたら般若のようだった。命が惜しいし、自分から不埒な真似もしないつもりでいるからしっかりと返事はする。

 

「治療の仕方や生活に関しては、都度説明をしますので」

 

 半刻ほどで屋敷を回り、説明が終わると最後に畳張りの客間へ通される。この屋敷の主がもうすぐ戻ってくるので、それまでここで待つようにとのことだった。

 暁歩は許可を貰ってから、荷物を畳に置いて正座する。

 

「・・・日輪刀をお持ちなんですね」

「ええ」

 

 机を挟んで正面に座ったアオイが、暁歩の荷物の中にある刀を見て話しかける。鞘に収まっているが、鬼殺隊員が所持している刀など日輪刀以外考えられない。

 

「鬼と戦っていたことがあるんですか?」

「・・・いえ、隊士として正式に任務で戦ったことは無いです」

「・・・そうでしたか。失礼しました」

 

 事実を告げると、アオイは視線を控えめに逸らす。

 気になっているだろうことは察しが付く。暁歩には正式に隊服と日輪刀が支給され、鬼と戦うための準備が整えられているのだ。にもかかわらず、鬼と戦うのではなく薬剤師としてここへ来たのだから、不思議に思わないはずがない。

 そこには必ず、何かしらの『事情』がある。そしてそれを、アオイは訊こうとはしない。来て早々に触れてはならない部分だと認識しているからだろうが、それは暁歩にとってもありがたかった。

 

「あら?」

 

 すると突然、背後から人の声がした。

 足音も気配も直前まで感じ取れなかったせいで、暁歩は吃驚する。

 

「しのぶ様、お帰りなさいませ」

「ありがとう、アオイ。こちらの方は?」

 

 アオイは見えていたのか、大して動じもせず平然と挨拶をする。

 暁歩がゆっくりと振り返ると、そこにいたのは華奢な女性だった。紺に近い艶やかな黒髪に、大きな蝶の髪飾りを付けている。非常に綺麗な顔立ちで、大きな菫色の瞳が特徴的だ。

 そしてこの女性もまた、暁歩やアオイと同じ詰襟を着ている。その上に、蝶の翅脈のような模様の入った淡い色の羽織を纏っていた。

 その女性の視線が自分に向いているのに気付き、暁歩は頭を下げる。

 

「本日からお世話になります、佐薙暁歩です。よろしくお願いします」

「ああ、あなたが薬剤師の?」

 

 名乗ると、女性がゆったりとした微笑みを暁歩に向ける。

 その微笑みを見ると、暁歩の頭の右側がわずかに痛んだ。

 

「私は胡蝶(こちょう)しのぶと申します。よろしくお願いしますね」

 

 透き通るような声と優しい微笑みに、暁歩は『綺麗な人だ』と率直に思う。

 だが、同時に思い出す。しのぶこそが、鬼殺隊でも最高位である階級『柱』に位置する蟲柱であると。

 

「この度は、自分のような若輩者を受け入れてくださってありがとうございます。お気遣い感謝いたします」

 

 それを認識した瞬間、畳に額を擦りつけるほどに頭を下げる。より丁寧な挨拶をしなければと意識する。

 柱は、幾度となく鬼との戦いで死線を乗り越え、さらに上位の鬼の滅殺までも成した存在。一般の隊士からすればまさに尊敬すべき人物なのだ。

 

「そこまで畏まらなくて大丈夫ですよ。私たちも、薬学に詳しい方が来てありがたいですから」

 

 頭を下げたままの暁歩に、優しくしのぶは話しかけてくれる。

 暁歩はもう一度頭を上げて、しのぶの顔を見る。

 変わらない微笑みがそこにあった。

 

「・・・ありがとうございます」

 

 今一度、暁歩はお礼の言葉を伝える。

 しかしながら、そのしのぶの微笑みを見ていると、何故だか自分の中に妙な不安などの『嫌な予感』が働いた。




こんばんは。
ここまで読んでくださりありがとうございます。

鬼滅の刃を読む中で、
しのぶさん、そして蝶屋敷の話を自然と書きたくなりました。

ゆっくりと進んでいく物語ですが、
最後までお付き合いいただければ幸いですので、
どうぞよろしくお願いいたします。


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第2話:蝶屋敷

お気に入り登録、評価、感想、ありがとうございます。
とても励みになります。


 『胡蝶しのぶ』という人物については、暁歩も知っている。

 鬼殺隊で九人しかいない最も上の階級・柱に就き、その中で唯一鬼の頸を斬れない剣士。

 だが、薬学に非常に精通しており、鬼を殺す毒の開発にも成功した稀有な人材。蝶屋敷のこともあることから、鬼殺隊でも重要な存在だ。

 それでも知っているのはここまで。性格や、鬼殺隊に入った経緯など、内面に関しては暁歩も知らない。強いて言うなら、鬼のせいで家族を喪った子供たちを受け入れるほどに心が広く、優しい性格だろうか。

 鬼殺隊に属しているのは、大半が鬼によって家族を喪い、復讐を遂げるため、あるいは他の人に悲しい思いをさせないために鬼と戦う決意を抱いた者だ。

 とすれば、しのぶもまた、過去に大切な誰かを喪っているのかもしれない。

 だとしても、そこへ簡単に踏み込むことは許されない。それはまさに、人の心に負った傷を抉るような所業だから、絶対にあってはならないことだ。

 

―――――――――

 

 そんな感じで暁歩は、今日一日で学んだことを日誌にまとめている。

 しのぶやアオイとの顔合わせが終わり、時間も流れて夕刻になった今は割り当てられた私室にいる。調剤室と比べると少し狭いが、それでも一人で生活をするには十分だ。

 まだこの屋敷で挨拶ができていない人はいるが、外へ出ていたり隊士の治療で忙しいので、一堂に会する夕食の時でいいとのことだ。それまでは待機となった結果、調剤室で薬種や資料を確認し、ここで日誌を書いている。

 

「・・・ふぅ」

 

 日誌を書き終えて、息を吐く。

 ここでちゃんとやっていけるかはまだ分からない。今日はまだこの屋敷について説明を受けただけで、実際に治療に携わったり調剤をするのは明日からだから、全てはそこからだ。

 けれど、迷う暇はない。その暇で、知識を身に付けていくべきだ。薬学の知識はあっても、医療行為に関してはまだ知らないことがある。それに失敗しては、ここに身を置いてもらえるようにしてくれた他の人に示しがつかない。

 そんな決意が固まったところで、障子戸が軽く叩かれた。

 

『ごめんください』

「どうぞ」

 

 外から聞こえたのは、しのぶやアオイとは違う幼げな少女の声。だが、部屋が見られて困る有様でもないので、すぐに応えた。

 障子戸を開けて姿を見せたのは、三人の少女。三人とも目が小さくて、髪の色も顔立ちも、ともすれば背丈まで同じではないか思うほど似たり寄ったりだ。しかし髪型は三人とも違い、髪につけている蝶の羽の髪飾りや服の帯の色もまた違う。

 三人の少女は、おかっぱの子が寺内(てらうち)きよ、おさげの子が中原(なかはら)すみ、三つ編みの子が高田(たかだ)なほと名乗った。なまじ顔立ちが似ているので覚えるのに苦労しそうだが、同居人の名前は絶対に覚えようと思う。

 

「何か御用でしょうか?」

「もうすぐ夕食ですので、お呼びしようかと」

 

 きよに言われて、外を見ると既に陽は沈み、星もちらほらと見え始めていた。暁歩は頷いて立ち上がる。

 

「すみません、手伝った方が良かったのかもしれませんけれど・・・」

「いえいえ、そこまで気にしなくて大丈夫ですよ」

 

 食卓に一緒に行く途中で謝ると、すみが笑って手を横に振る。きよとなほも同意見らしく、何て良い子たちなんだろうと暁歩は内心で感動する。それでも、次手伝える時は手伝おうと決めた。

 すると、なほが訊ねてくる。

 

「暁歩さんは薬剤師として来たって聞いたんですけど、お薬に詳しいんですか?」

「ええ、まあ。実家が薬屋だったので、父からも教わっていました」

「すごいですね~!」

 

 屈託のない表情で褒めてくるのが暁歩は微笑ましい反面、胸も痛くなる。

 実家が薬屋だったことも、父から薬について教わっていたのも本当だが、その実家の薬屋はもうなくなっているのだ。

 

「暁歩さんを連れてきました~」

 

 食堂の戸を開けると、料理を作っていたアオイに向けてきよが伝える。

 食堂には、意外にもハイカラな食卓(現代で言うテーブル)が据えられていた。その食卓を囲むように椅子が並べられており、その内の一つには暁歩もまだ挨拶をしていない少女が座っている。

 長い黒髪を、しのぶが着けているものと同じ程度の大きさの蝶の髪飾りで、右の側頭部で束ねている。桃色の袴を着ていて、ゆったりとした微笑を浮かべている。しかし、入ってきた暁歩やきよたちにはこれっぽちも興味を示しておらず、ぼうっと食卓の上を眺めているだけだ。

 

「こんばんは」

 

 だが、この屋敷で世話になる以上、挨拶をしなければならないと思い、少女の下へと歩み寄る。話しかけると、一応は暁歩のことを見てくれたが、口を開こうとはしない。

 

「今日からここでお世話になります、佐薙暁歩と言います。どうぞよろしく」

 

 自己紹介をして、頭を下げる。

 

「・・・」

 

 だが、少女はただの一言も発しない。

 顔を上げて視線を合わせても、一切変わらない笑みを浮かべたままで意思疎通が全くできない。

 

「・・・えーっと」

「暁歩さん、ちょっと・・・」

 

 戸惑っていると、後ろからきよたちに手を引かれ、名乗らない少女との距離が開く。

 

「あの方・・・栗花落(つゆり)カナヲ様は、ああいった感じの方なんです」

「?」

「えっと、大人しい方なんです。すごく」

 

 きよとすみに耳打ちされて、暁歩はカナヲを見返す。先ほどと同じく食卓の上を眺めているが、大人しいにせよ挨拶ぐらいは返してほしかった。けれど、人にはそれぞれ事情があるだろうし、下手に固執せず『分かりました』と納得しておく。

 

「あら、美味しそうな香り」

 

 そして、しのぶが食堂に入ってくる。前もってアオイから、この屋敷には六人が住んでいると聞いていたから、これで全員が揃ったわけだ。

 丁度同じ頃合いで料理も完成したらしく、アオイがテキパキと料理を皿に盛り付け始めている。それを見て暁歩、そしてきよたちも手伝おうと皿を受け取って食卓に並べていく。あっという間に料理も揃えられた。

 食事の準備が整うと、全員が席に着く。暁歩以外の六人はそれぞれ席が決まっているようで迷いなく座り、暁歩は空いていた席―――アオイの正面でなほの隣―――に座る。

 

「それでは、いただきます」

『いただきます』

 

 しのぶが手を合わせると、揃って同じように手を合わせ夕食を食べ始める。

 白いご飯に豆腐の味噌汁、野菜の煮物とだし巻き卵と至って普通で家庭的な献立。申し訳なさが強く中々最初の一口に踏み出せなかったが、美味しそうな香りに負けて味噌汁を一口啜る。美味しかった。

 ふと周りを見ると、しのぶはアオイやきよたちと今日起きた出来事を話しながら食事を楽しんでいる。カナヲも自分から積極的に会話に参加しようとはしていないが、しのぶから話しかけられるとそれには応えている。

 初めてこの場にいる暁歩も、皆の仲が良いことは分かった。しのぶが鬼殺隊で希少かつ優れた存在であるにも関わらず、誰にでも分け隔てなく談笑しているその様は、『仲間』とは違う。さながら『家族』のようだ。

 そんな彼女たちの、微笑ましくもあり、同時に暁歩からすれば懐かしくもある様子を見ていると、自然と昔の記憶が蘇ってくる。自分の本当の家族と夕食を共にして、楽しく話をしていた、もう戻ってこない日々の記憶。

 

「・・・暁歩さん?」

 

 隣に座っていたなほが、心配そうに話しかけてくる。その声に、しのぶたちも暁歩の異変に気付いた。

 茶碗を置いて、暁歩は静かに泣いていた。

 その表情は、悲しげでありながらも、どこか嬉しそうに唇が緩んでいて、多くの感情がない交ぜになっているのが分かる表情。

 

「大丈夫、ですか・・・?」

「・・・ちょっと、昔を思い出して。大丈夫です」

 

 訊いてくるなほに、暁歩は笑って涙を指で拭う。心配を掛けさせまいと、笑みを作る。

 けれど、暁歩が何かに触発されて、悲しい過去を思い出してしまったということに、蝶屋敷の人間は気付いていた。彼女たちもまた同様に、辛く苦しいことを経験していたから。

 

「すみません。心配を掛けてしまって」

 

 心配を掛けてしまい、空気を重くしてしまったことを暁歩は謝る。だが、それでも同情の気持ちが向けられているのは読み取れた。

 

「・・・辛かったら、言ってくださいね」

 

 少しの間を置いて、しのぶが優しく話しかけてくれる。

 そうして、夕食の時間が再開する。

 今度は、悲しい思いをしてほしくないからか、なほたちも積極的に暁歩に話しかけてきてくれた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 その翌日、暁歩は朝の六時丁度に目が覚めた。実家で暮らしていた時や、修業をしていた時の生活習慣が身についており、体内時計が自然と整えられている。

 まだ眠っているであろう他の人に迷惑を掛けないように、迅速かつ静かに身支度を済ませ、木刀を持って庭へ出る。自分の鍛錬が迷惑にならなそうな場所は既に見付けていた。

 太陽は山間から顔を覗かせてはいるものの、朝の空気は冷たい。しかし、隊服は断熱性が抜群のためそこまで寒くもなかった。

 南側にある、小さな池が設えてある庭に来ると、まずは柔軟体操をし、体の隅々まで酸素が行き渡るように、長く呼吸をして気持ちを整える。

 

「一一三、一一四、一一五・・・」

 

 そうして今度は、木刀の素振りを始める。

 さらにその後は木の枝に脚を引っかけて逆さ吊りになり、精神を統一させる。

 一連の流れは、精神の安定と身体の機能向上を助長する。暁歩に修業を付けてくれた人が教えてくれたことだ。それは今日まで欠かさなかったし、これからも欠かすつもりは無い。後は走り込みでもできたら良いのだが、まだこの付近の地理に詳しくないため、それはおいおい取り入れていくことにしようと思う。

 

「・・・暁歩さん、朝から修業してるんだね」

「・・・うん。やっぱり鬼殺隊になるために頑張ってたのかな」

「・・・もうすぐ朝ごはんだけど、少し多めにする?」

 

 修業をしている時は脇目も振らないので、少し時間が経ってからきよ、すみ、なほの三人が近くでじっと観察しているのに、暁歩は気付かない。

 そして、それより少し離れたところからもしのぶが様子を見ていたことにも、気付かなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 朝食の後は、いよいよ蝶屋敷が医療施設として動き出す。

 まず、隊士たちの問診から始まる。今はそこまで大きな怪我を負った隊士はおらず、皆比較的軽い症状らしい。

 しかし、実際に隊士の容体を見たことで、暁歩の中の『軽い症状』の定義は崩れ去った。

 

「腕の傷はいかがでしょうか?」

「まだ少し痛みますけど・・・最初よりかはマシに・・・」

 

 きよが診ているその隊士は、両腕と右脚に包帯が巻かれており、特に脚は添え木も一緒に巻かれて固定されている。どうやら折れてしまっているらしく、これを『軽い症状』と言ってのける辺り、隊士の怪我がどれだけひどいか窺える。

 鬼は、人間とは比べ物にならないほど基礎的な力が強い。特殊な毒あるいは血鬼術を使う存在もいるから、深い傷を負うことは珍しくなく、病状も多岐に渡る。だから骨折は、()()()軽いのだ。

 

「お熱もありませんし、体調も良くなってきていますね」

「ええ。後は脚ですけど・・・」

「そちらの方はもう少し時間がかかりますね・・・。痛くなったら、すぐ呼んでください」

 

 検温と問診で実際に症状を確認し、薬と水、そして別に用意した食事を用意する。薬は前もって調合しておいたもので、これはアオイが調合していたと言う。

 その間もすみ、なほ、アオイは別の隊士の下へ向かってきよと同じように治療を行っている。

 暁歩は、きよの後ろに付きながら、覚書に診察の流れをまとめつつ彼女たちを見て思う。

 恐らく、今は手慣れた様子のきよたちも、最初は医療の勝手を知らなかったのかもしれない。それでもここで、傷ついた隊士と向き合う覚悟を決めて怪我を診ている。

 身体面、精神面を問わず、傷を負った人に向き合うのには相応の覚悟が必要だ。身体に刻まれた痛々しい傷は、目にするだけでどれだけの痛みや苦しみを味わったかが伝わり、どれほどの敵を相手にしたのかも見て取れる。心に負った傷も、そこに至るまでの辛い過去や仕打ちを知れば知るほど胸が痛み、悲しい気持ちになってしまう。

 どちらの傷も、生半可な気持ちでは向き合えない。

 その覚悟を決めているきよたちのことを、暁歩は心が強いんだと実感した。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 朝の問診が終われば、それを基にして薬の調合が始まる。これこそが暁歩にとっての本題だ。

 元々屋敷にいるアオイはしのぶから薬に関して指導を受けていたため、鎮痛剤や止血剤等の簡単な薬の調合はできるらしい。なのでまずは、その簡単に分類される薬を暁歩は調合することになった。

 言われた通り、棚から薬種を各種適量分だけ取り出して、乳鉢に入れてすり潰す。手順書も見ながら進めているが、使用している薬種などは暁歩も知っているものであり、薬自体も実家の薬屋で調合を手伝っていたことがあるものだ。だから手間取ることなく粉末状にして、後は煎じるだけになった。

 

「手際がいいですね」

「実家で薬を作る手伝いをしていましたし、自分で勉強もしていたんで・・・どうにか」

 

 感心するようにアオイが呟くが、暁歩からすれば褒められたことでもない。

 薬は粉状のまま服用するもの、今作っているもののように煎じて飲む薬もある。どちらにせよ、薬を作る際は分量を間違えると作用しなくなったりするし、最悪の場合は容体を悪化させかねない。薬は配合を変えれば毒にもなりえる代物なのだから、そこには細心の注意を払う。

 

「調合には問題無さそうですね」

「ありがとうございます」

 

 出来上がった薬を見てアオイが頷くと、暁歩もホッとする。自分がここで果たす役割さえ満足にできなければ、それこそここへ来る意味など無いから、それができて本当に良かったと思う。

 

「後は・・・機能回復訓練で薬湯を使いますので、それの準備もしなければなりませんね」

 

 アオイが別の薬の資料を取り出すと、暁歩もそれを教わろうとする。

 薬は二、三種類程度ではなく、多くの種類があるのだ。教わることは数えきれない。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 機能回復訓練は、長期間の治療で寝たきりになり、鈍ってしまった身体の機能を回復するのを手助けする訓練だ。長期間となると、骨折か、あるいはより複雑な症状で回復が遅い症例によるものがある。

 この日訓練を受ける隊士は一人だけだったが。

 

「うわぁ・・・」

 

 その内容に暁歩も少し鳥肌が立つ。

 まず最初は、きよ、すみ、なほの三人が寝たきりで硬くなった身体を解す。と言っても、ただ身体を揉むのではなく、思い切り身体を曲げたり脚を開いたりしているので、見ているだけでも滅茶苦茶痛い。実際訓練を受けている隊士も『ぐあああああ・・・』と呻いていた。

 

「暁歩さん、薬湯を」

「あ、はい」

 

 そんな光景に胸が痛むが、アオイは冷静に暁歩に指示をする。それを受けて、暁歩も十個近い湯飲みに薬湯を注いでお盆に乗せ、訓練場に置かれている机に乗せる。

 この湯飲みを利用した『反射訓練』は、反射神経を鍛える訓練であり、机の上に置かれた湯飲みを取り合う。ただし、湯飲みを動かす前に相手に手を置かれた場合はその湯飲みが動かせない。さらに、湯飲みを取ったらその中の薬湯を相手にぶっかける。

 

「はじめ!」

 

 アオイと隊士が向かい合って座り、なほが審判役として号令をかけると、すぐさま両者の手が動き出す。

 だが、教官役のアオイの方が一枚上手で、数秒立たないうちに相手の隊士の湯飲みを押さえ、もう片方の手で湯飲みを取り、薬湯をぶっかける。

 

「ぶえっ」

 

 アオイには容赦も遠慮もなかった。

 薬湯を顔面にかけられた隊士に暁歩も同情する。作っている最中に分かったが、あの薬湯は結構匂いがきつい。それを顔面に直接だ。心は折れそうになるだろうし、心底気の毒だった。

 そして最後は『全身訓練』。端的に言えば鬼ごっこである。全力で身体を動かして、通常の戦闘時と同じ程度の動きを取り戻せるようにする。

 前二つの訓練と比べれば幾分かマシに思えるが、身体を曲げさせられて、薬湯をぶっかけられた後となれば心身とも疲れている。指導するアオイもまた動きをわざと遅くしたりなどしないため、まさに真剣勝負となり訓練を受ける隊士も全力を出さなければならなかった。

 そして訓練が終わるころには、げっそりとした様子で隊士が帰っていく。

 

「余裕があるようでしたら、暁歩さんもこの訓練の教官役をやってもらいますので」

 

 薬湯を片付ける暁歩の背中にかけられるアオイの言葉。

 見てるだけで心が罪悪感に押し流されそうだが、当然『嫌だ』と断ることはできず頷く。できるかなぁと不安にはなるが。

 

「・・・丁度今、薬湯が残っていますし、予行練習も兼ねてやってみましょうか」

「え?」

 

 片付けようとした手を止めて、アオイを振り向く。

 今回使わなかった薬湯は、そのまま廃棄してしまうという。薬湯の素は、風呂に入れればそのまま入浴剤にもなる優れモノだが、こうして湯に入れてしまってはその効能も薄い。明日に持ち越しもできないため、もったいないが捨ててしまうらしい。

 ならば、予行練習でも使った方が無駄がない。その理論に、暁歩は納得してしまった。

 

「きよ、審判お願い」

「分かりました」

 

 そしてアオイはきよを呼び、机の傍に立たせる。暁歩もやむなく、アオイと向かい合って正座する。

 

「それでは」

 

 きよが合図を言おうとする。

 暁歩は一度深呼吸をして、気持ちを集中させる。

 

「はじめ!」

 

 暁歩はまず手前の湯飲みを右手で取ろうとするが、阻まれた。

 その隙にアオイは自分の手前の湯飲みを持ち上げようとしたが、そこで暁歩は咄嗟に左手で湯飲みを押さえる。

 その間に右手で別の湯飲みを探し当てて持ち上げようとするが、その直前で防がれる。

 目に力を籠めて、広く見渡せるように、アオイの手の動きをよく見るように、目を見開く。

 だが、十秒経とうとしたところで、アオイに先を越されて薬湯を顔に浴びた。

 

「うぇ・・・」

 

 顔を袖で拭いながら、顔を顰める。自分の作った薬湯を自分で被ることになるとは思わなかったが、案の定臭い。

 なほから手拭いを渡されて、それで念入りに拭くが、匂いまでは落ちそうになかった。

 

「訓練の教官役は、慣れてからの方がいいですね」

「是非そうしていただければ・・・」

 

 こぼれた薬湯を拭きながらのアオイの言葉に、暁歩は大きく頷いた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 一日が終わり、今日経験したことや学んだことを、暁歩は日誌にできる限り詳細に記しておく。

 一日を過ごしてみて、学ぶことは多いと暁歩は思う。薬の調合はともかくとして、治療や機能回復訓練で隊士と向き合うことは大変だと思う。特に、アオイやしのぶの意向でいずれはより正確な診察にも携わることになるだろうし、そうなればもはや薬剤師ではなく医者だ。

 だが、ぐちぐち言っているわけにはいかない。自分はここに厚意で身を置かせてもらっている立場だ。できることは何でもしなければならないし、わがままも言っている場合じゃない。

 日誌を書き終えたところで、ふと思う。

 

(・・・胡蝶様、今日は見なかったな・・・)

 

 今日一日、朝食以外でしのぶの姿を見なかった。

 鬼狩りとして活動する時間は基本的に夜間だけだが、柱となれば日中も多忙なのだろう。あるいは、任務のために長距離移動をしているのかもしれない。

 けれどしのぶは、蝶屋敷では秀でた医者であり、同時に薬の専門家でもある。

 だからこそ、しのぶが不在中に重症の隊士が運び込まれた際に、薬に詳しい方である暁歩も素早く対応できるようにならなければならない。もし、その隊士が毒に侵されていたりしたら、それは間違いなく暁歩が診なければならなくなる。

 アオイはしのぶから指導を受けてはいるが、解毒薬など特殊な知識・技術がいる薬は調合できないと言う。それを補う意味もあって、調剤の経験がある暁歩は薬剤師としてここへ来たのだ。

 自分如きがしのぶの代わりになるか、と問われれば首を素直に縦には振れない。けれど、その代わりとなれるように努力は欠かしたくはない。

 

「・・・頑張らないと」

 

 自分の役割の重大さを、改めて認識する。

 自然と決意が言葉に出て、無意識に拳を握っていた。




≪大正コソコソ噂話≫

蝶屋敷で暮らすにあたり、暁歩はアオイから『無断で女性の部屋に入ったら布団叩きで顔を百回叩く』と注意を受けています。

暁歩「入るつもりは無いですが、俺はそんなに信用できないように見えますか・・・」
アオイ「念のためです」


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第3話:偲ぶ思い

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 蝶屋敷での生活が始まってから、四日が経つ。

 隊士への問診や軽い手当はアオイたちから教わりつつ学び、その合間に薬も調合していく。

 そんな中で、毎日欠かさないのは洗濯だ。

 蝶屋敷で療養する隊士たちの治療用衣服は、全て蝶屋敷側で用意している。さらには使用する布団や手ぬぐいも同じで、それらはこまめに洗濯をしている。衛生面を考えれば、長期間使い回すのが不衛生だからだ。

 そしてその量はかなり多くかさばるため、何人かで協力して洗濯することになる。

 

「ありがとうございます、暁歩さん」

「いえ、これぐらいのこと・・・」

 

 洗濯物を運ぶのを引き受けると、すみがお礼を言ってくれる。後ろにはきよとなほも付いてきている。

 彼女たち三人とは、この数日で打ち解けられた気がした。三人とも人懐っこい性格をしているからか、新参者の暁歩にも親し気に話しかけてくれている。あまり堅かったり敬遠されると委縮するので、暁歩としてもそれはありがたい。それでもまだ、暁歩は彼女たちのことをさん付けで呼んでいるが。

 

「では、暁歩さんは布団をお願いしますね」

「分かりました」

 

 屋敷の南側にある物干し竿まで着くと、四人で分担して洗濯物を干し始める。特に布団は大きいため、背の高い暁歩の方が干しやすい。きよたちは手拭いや衣服などを分担して干す。今日はまだ少ない方で、多い時にはそれこそ蝶屋敷の人間が総出で協力することになるらしい。

 

「今日はお天気も良いですから、すぐ乾くと思いますよ~」

 

 空を見上げながらきよが呟く。雲が多少見えているが、確かに洗濯にはもってこいの日だ。軽く歌を歌いながらきよたちは洗濯物を干し、暁歩もそれを聞きながら笑みをこぼして布団を干す。

 

「あっ・・・!」

 

 だが、そんな中でなほが思わず声を上げる。干そうとしていた手拭いが風に飛ばされてしまったのだ。それはひらひらと宙を舞い、やがて屋敷の東側に落ちていく。

 

「取ってきますよ」

「ごめんなさい・・・」

 

 なほが謝るが、暁歩は首を横に振って落ちたであろう場所まで移動する。

 幸いにも屋敷の外までは飛ばなかった手拭いは、すぐに見つかった。縁側の踏み石の近くに落ちている。

 

「あー・・・洗い直しか・・・」

 

 だが、拾い上げて嘆息する。手拭いには砂利や埃がこびりついてしまっており、しかも洗い立てで水気を含んでいるため、払っても汚れが落ちない。このまま干しても汚いままなので、洗い直しだ。

 

「・・・?」

 

 仕方なく持ち帰ろうとしたところで、縁側の向こうにある部屋が目に入る。

 その部屋は、障子が少しだけ開けられていて、その隙間から漆で艶がついた黒檀の仏壇が見えた。

 

「・・・・・・」

 

 それを見た途端、その場に立ち尽くす。

 全体像が見えなくても、そこに置かれている黒檀を見ると、何か引き寄せられるような謎の雰囲気を感じ取る。

 同時になぜか、それを見ると悲しい気持ちが心の奥底から滲んでくるような感覚がした。

 

「暁歩さーん、見つかりましたか~?」

「見つかりました~!」

 

 そこで、時間がかかっているのを心配したのか、なほが南側から声高らかに呼んできた。

 暁歩は仏壇から意識を離して同じように声を上げて返事をし、足早に三人の下へと戻ることにする。

 しかしその後、暁歩の頭の片隅にはこの時見た仏壇のことが付いて離れなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 昨日は機能回復訓練が行われたが、今日は希望者がいなかったため訓練は無しとなる。結果として時間が少し空き、午後最初の問診の後は各々が待機を兼ねて自由時間となった。きよたちは自室で読書、アオイは備品の数を確認して時間を過ごすという。

 そんな中で暁歩は、一言断りを入れてから、先ほど見た仏壇が置いてある仏間へと向かう。初日にアオイから一通りの部屋を案内されたが、仏間は案内されていなかった。近くにしのぶたちの私室があるからだろうが、方角は把握していたので迷わずに目的の部屋の前に辿り着いた。

 静かに障子を開け、畳張りの部屋に足を踏み入れる。

 この部屋だけ、なぜか他の部屋と比べてやけに静かに感じた。外からは草木が風に揺られる音、鳥のさえずりも聞こえてくるが、それも遠い世界のものに聞こえる。置かれている仏壇が厳粛な雰囲気を醸し出しているから、この部屋の空気そのものが厳かに感じられた。

 それでも暁歩は、静かにゆっくりと仏壇の前に正座し、仏具の鈴を鳴らす。

 

「・・・」

 

 仏壇の前にいると、鈴を鳴らすと、余計なことが頭の中から消える。残るのは、亡くなった人を弔う気持ちだけだ。

 暁歩もまた、その気持ちを胸に抱きながら静かに手を合わせ、目を閉じ静かに手を合わせる。この仏壇が、誰を弔ってのものはかは分からないが、それでも暁歩は祈りを捧げずにはいられなかった。

 

(・・・安らかにお眠りください)

 

 黙祷を捧げ、心の中で告げて目を開く。

 そして、静かに立ち上がってその場を去ろうとすると。

 

「こんにちは」

 

 すぐ背後にしのぶが、微笑みを浮かべて立っていた。

 最初に会った時もそうだが、音もなく後ろに立つと非常に面食らうので心臓に悪い。

 

「・・・すみません。勝手に入ってしまって」

「いえ、謝ることはありませんよ」

 

 アオイには伝えていたが、しのぶの許可は不在で取れなかったので気を悪くさせてしまったかもしれない。思わず謝るが、しのぶは首を横に振って、先ほどの暁歩と同じように正座して鈴を鳴らし、黙祷を捧げる。

 

「この仏壇は、私の家族のものなんです」

 

 黙祷を終えたしのぶが、仏壇を向いたまま告げる。変らない優しい調子のその言葉に、暁歩の胸が苦しくなる。そして同時に、自分の頭の中で『嫌な予感』が働く。

 

「家族が亡くなったのはとても辛いですが、誰かが祈りを捧げてくれると、少し肩の荷が軽くなる気がします」

「・・・」

「悲しんでくれていると、一緒にその悲しみを背負ってくれているように感じるので・・・」

 

 肩の荷が下りる、とは言わない。人が亡くなったことに対する辛さ、悲しみは、完全に拭い去ることなどできない。身内を喪ったとなればなおさらだ。

 仏壇に向いたままのしのぶの言葉を聞いて、暁歩は自分がこの部屋まで来た理由を伝えなければならないと思う。

 

「洗濯の時間にこの仏壇を見てから・・・祈りを捧げずにはいられなかったんです」

 

 しのぶは暁歩のことを見上げ、暁歩は物言わぬ仏壇を見る。

 

「仏壇や墓地を見ると・・・どうしても亡くなった方のことを考えてしまい、胸が詰まるような気持ちになるんです」

「・・・」

「それに、こうして立派な仏壇が置かれているのを見るに、その人はそれだけ遺された方から慕われていて、大切な人だったのだろう・・・と」

 

 自分が今、悲しげな表情でいる自覚はある。それはしのぶにも見られているだろうが、一体どんな気持ちでこの言葉を聞いてくれているのだろう。

 

「先立たれた方のことを思うと、安らかな眠りを祈らずにはいられない。だから、祈りを捧げました」

 

 それでも、自分の偽りなき死者を弔いたいという気持ちは伝えた。拒絶されようとも、綺麗事と言われようとも、この主張だけは曲げたくない。

 

「・・・そうですか」

 

 心なしか、そのしのぶの言葉には少しばかりの安心が混じっている様に聞こえた。

 ゆっくりと、しのぶは立ち上がり暁歩の前に立つ。

 

「少し、お話を聞いてもらってもよろしいですか?」

 

 一も二もなく暁歩が頷くと隣の居間に移動し、机を挟んでしのぶの正面に座る。

 

「私たちとここで暮らす以上、いつか話すつもりではいましたが・・・」

 

 いつもの微笑みは鳴りを潜め、言葉には哀しみを帯びている。

 その表情と語調に、暁歩の胸は締め付けられるようだった。

 

「・・・私の家族は皆、鬼に喰われました」

 

 告げられた残酷な過去に、暁歩の唇は引き締まる。

 家族を鬼に殺されたという話は、これまで何度も聞いたし、自分もその経験はある。だが、しのぶのその言葉には、今までとは違う、どうしようもないほど深い悲しみが含まれているように聞こえた。

 

「両親はまだ、私が幼い頃に・・・姉はそれから数年の時が経ってから。その時のことを忘れることはできません」

 

 その時を思い出すかのように、しのぶはそっと目を閉じる。

 

「両親はとても優しくて、心強くて、周りからも慕われていました。そんな両親の下に生まれて、私は幸せでした」

「・・・」

「けれど、ずっと続くと思っていたその幸せは、鬼によって突然奪われてしまい・・・」

 

 幼い頃、と言うには恐らく歳も十に満たない辺りだろう。まだ年端も行かない、物心ついた時期にそのような残酷な出来事を経験するなんて、ひどく痛ましい。暁歩の表情も暗くなってしまう。

 

「目の前で両親は、私と姉を庇うように鬼に殺されました。その鬼も悲鳴嶼(ひめじま)さん・・・今の岩柱が斃して助けてくれました。けれど・・・」

 

 けれど、に続く言葉をしのぶは出さない。

 自分たちが生き残り、両親は死んだ。その事実は今でも忘れていないし、悲しさと辛さは今も癒えていないのだろう。その事実を言葉にするのに、その悲しみと鬼に対する怒りが躊躇させる。

 

「私と姉は、悲鳴嶼さんの下へ向かい、鬼殺隊に入れてほしいと頼みました。私たちのような悲しい思いをさせないために」

「・・・」

「まだ壊されていない、誰かの幸せを守る為に。そして・・・鬼を助け、仲良くなるために」

「鬼を・・・助ける?」

 

 その理由には、聞き返さざるを得ない。

 自分たちの最愛の両親を殺めたのも同じ鬼であるならば、鬼を憎んだり恨んだりすることはあるだろうが、『助ける』『仲良くなる』とはどういう料簡なのか。

 

「姉は、鬼は元々私達と同じ人間であると知り、人を殺めなければ生きていけず、明るい日の下を歩けなくなった悲しい存在だと言っていました。その鬼を救い、仲良くなりたいと考えていたんです」

「・・・」

「これを最初に聞いた時、悲鳴嶼さんは『正気の沙汰ではない』と言っていましたし、私自身もそう思いました」

 

 鬼殺隊として鬼を滅してきただろう悲鳴嶼の気持ちも、幼い時分に両親を失った当時のしのぶの気持ちも、暁歩には分かる。

 

「それでも私は、唯一の肉親である姉の意思がそれならば、と自分を納得させました。姉は元々優しい人だから、そう考えるのも無理はないと、半ば諦める形でもありましたが」

 

 ただ一人の自分の家族で、しのぶも大好きだった姉のカナエ。その意思を否定すると、それこそしのぶは孤独になってしまうから、納得をするしかなかったのだ。しのぶの本心では鬼をどう思っているのかは分からない。けれど、怒りが籠められているだろうことは想像がつく。

 

「例えその先に暗い未来があるとしても、姉の覚悟と意思は変わりませんでした。最終選別を突破し、鬼殺隊に入隊して、そして柱となっても」

 

 柱であるしのぶの姉もまた同じ柱だったと聞いて、暁歩は驚く。姉妹で柱になったとは、素質は十分にあったのかと。

 けれど、鬼を滅することが本分の鬼殺隊において、鬼を助けたい、鬼と仲良くなりたいなんて思想を掲げて戦うカナエやしのぶは異端視されていただろう。

 

「姉もまた、優しかった。いつもニコニコと微笑んでいて、傷ついていたり困っている人を放ってはおけず、誰かを憎んだりもしない・・・怒ったところなんて見たことが無かった」

 

 しのぶの目には、在りし日のカナエの姿が映っているのだろう。いつも浮かべているような微笑みをしのぶは浮かべて、声音にも懐かしむような色が混じっている。

 だが、暁歩の頭にはチリチリと焼き付くような痛みがある。その笑みが、心からのものではないと訴えかけているような、そんな『予感』が働いている。

 

「貧しくて劣悪な環境から身売りされそうだったカナヲや、鬼によって家族を喪ったアオイ、きよたちを保護したのも、救える人を救いたいと願う姉の気持ちの表れでした」

 

 蝶屋敷で暮らす皆の表情が、暁歩の脳裏に浮かぶ。

 彼女たちも、暗い過去を背負っている。人懐こいきよたちや、テキパキとしているアオイも、その心に暗い影が落ちていると思うと、なお胸が苦しくなる。

 

「そして姉は・・・鬼に手を掛けられて死ぬ間際にも、鬼を憐れんでいました」

 

 しのぶの声が震えている。それでも表情は、無理にでも微笑みを保とうとしている。

 想像を絶するしのぶの過去に、暁歩もたまらず目を閉じる。

 

「最愛の両親を失い、最愛にして唯一の姉も喪って・・・後には私と、カナヲたちだけが残りました」

「・・・」

「そして私には、どうしようもない怒りと悲しみ、そして鬼に対する憎しみだけが残りました」

 

 心の臓を突き刺された気分だ。

 微笑みを浮かべるしのぶを、暁歩は最初心が広く優しい人だとしか思っていなかった。けれどその裏には深く悲しい過去を背負っている。穏やかな微笑みで、常人ならば耐えがたいほどの壮絶な思いを隠していた。そのことに気付けず、ただ『優しい人』としか思わなかった自分が馬鹿に見える。

 

「姉は、今際の時で私に鬼殺隊を辞めるよう訴えかけました。この悲しく辛い鬼との戦いから身を引き、普通の女の子としての幸せを手に入れて、永く生きてほしいと」

「・・・」

「けれど私は、その時初めて姉の意思に背きました。両親に加えて姉まで鬼に殺されたのに、そんな鬼から背を向けるなんて・・・人並みの幸せを掴むなんて、できないと。必ず、私から大切な人を奪った鬼を葬ると、決意したんです」

 

 何も言えない。

 しのぶは、暁歩と同じ程度の歳であるにもかかわらず、背負うものも、胸にある決意の強さも、全然違う。そして自分以上に苦しんでいる事実に暁歩は打ちのめされ、同時に心の中にふつふつと悲しみと怒りが湧き上がってくるのを感じる。

 

「・・・あなたが祈りを捧げてくれたことを、私は嬉しく思っています。優しかった私の家族もきっと・・・同じだと思います」

 

 仏壇の方を見て、しのぶはまた微笑みを浮かべる。

 そして、今一度暁歩に向き直る。

 

「顔も名前も知らない誰かを偲ぶ、あなたの気持ちを」

 

 柔らかい笑みだが、しのぶの過去を知った今ではその笑みも見ていて悲しくなってしまう。辛く悲しい過去と優しい表情に、押し潰されそうになる。

 

「・・・話してくださって、ありがとうございます」

 

 言葉が、喉を通って声に出た。

 あれだけの過去を聞かされて、何事もなく今後しのぶと接するなんて、暁歩にはできそうにない。

 だから、自分の思う言葉をかけたい。

 

「・・・家族を喪うことの辛さは、分かるつもりです」

「・・・?」

「同列に語るのもおこがましいですが、自分の両親も鬼に殺されました。その時の悲しさや辛さは忘れられませんし、この先一生消えることもないと思います」

 

 しのぶと違い、暁歩に兄弟姉妹はいない。

 だが、親は鬼に喰われた。それも自分がいないところで鬼に喰われ、朝になって両親は死んだと知らされた。目の前で殺されるのとはまた違う、悔しさも込められた悲しさがある。

 

「けれど、胡蝶様の背負っているものは、自分なんかとは比べ物にならないと、話を聞いて思いました」

 

 最愛の両親を目の前で喪い、新しい決意を胸に戦う中で唯一の肉親の姉まで喪う。それはとても、苦しいだろう、悲しいだろう、辛いだろうと分かる。いや、その程度の言葉でまとめられないほどだ。

 そんなしのぶに対して暁歩は、自分が何か慰めの言葉をかけたところで何の意味も持たないことは分かっている。そんな言葉など、しのぶはこれまでたくさん聞いてきたはずだ。そして時として、そういう言葉は逆に傷つけてしまう。

 だから今言うべきことは、慰めとは少し違う言葉だ。

 

「でも、悔しさや悲しさを知っているからこそ、支えて力になり、寄り添うことはできます」

 

 しのぶの表情が、瞬きを交えてわずかに変わる。暁歩のその言葉を、意外に思ったようだ。

 

「胡蝶様は鬼殺隊の柱で、この屋敷の主で・・・一人で多くのものを抱えてきたことかと思います。そしてそんな立場だからこそ・・・吐き出せない気持ちや本音があるのかもしれない」

 

 暁歩は、正座する自分の腿の上に置かれた手を、強く握る。

 

「だから、ここに来て日も浅い自分が言うのも何ですが、何か悲しい気持ちや辛い思いがあるようでしたら、自分が聞いて受け止め、支えます」

 

 しのぶから、微笑が消える。

 それは意表を突かれたから思わず、と言った形らしい。失意や落胆とはまた違う。

 

「どうか・・・頼ってください」

 

 目を閉じて、頭を下げる。

 その暁歩の姿勢、そして言葉に、しのぶは昔自分が聞いた言葉を思い出す。

 

 ―――重い荷に苦しんでいる人がいたら半分背負い、悩んでいる人がいれば一緒に考え、悲しんでいる人がいたらその心に寄り添ってあげなさい

 

 しのぶの父の言葉。よく、そう言っていた。姉のカナエもその意思を汲んで、しのぶや多くの人に告げていた。

 その言葉を初めて聞いた時、しのぶは『うん』と頷いた記憶がある。優しい父の言葉だから、そして自分もそうありたいと思ったから、その言葉は今日まで忘れていない。カナエも同じだったからこそ、アオイたちを引き取り、その悲しみに寄り添い本当の家族のように接してきた。

 けれど、しのぶ自身はどうだろう。アオイやカナヲ、きよたちなど誰かの悲しみに寄り添うことはあっても、自分の悲しみに誰かが寄り添ってくれたことはない気がする。いや、誰かがそう思うことはあっただろうが、暁歩のように言葉で表してくれたことは、なかったはずだ。

 

「・・・ありがとう」

 

 だからこそ、その言葉はしのぶの心に響いた。

 過去を語り、自分の中で渦巻き始めた蟠りが、払われていくような感覚。

 

「あなたのその気持ちと言葉・・・とても嬉しく思います。そうした言葉をかけられたり、誰かを頼ることがとんとなくて」

 

 声に悲しみや怒りは帯びていない。けれど語調は優しいままで、暁歩に話しかけてくれる。

 

「・・・そうですね」

「?」

「あなたがよろしければ、少し頼らせてもらおうかなと思います」

 

 その時浮かべた笑みは、暁歩が妙な『予感』を抱いていたものとはまた違う、優しい笑顔。

 その笑みを見た途端に、暁歩の鼓動が高鳴り、顔が熱くなってくる。

 けれど、それがしのぶの素の笑顔なのではないかと暁歩は思った。

 

「・・・少し、違う笑顔ですね。さっきとは」

 

 湧き上がる謎の照れ臭さに背を向けるように伝えると、しのぶは困ったような笑みを浮かべる。

 

「・・・姉は、私の笑ってる顔が大好きだと言ってくれましたから・・・その遺志を無駄にしないように、ずっと笑顔でいようとしていました」

 

 暁歩は、初めて出会った時からしのぶに・・・しのぶの微笑みに感じていた『嫌な予感』の正体に、ようやく気付けた。

 しのぶの微笑みは、本心からのものではなく作ったものだと。

 

「けれどこれからは・・・」

 

 しのぶは自らの胸に手を置き、暁歩のことを見る。

 

「・・・少し、本当の自分を出せそうです」

 

 本当の自分を押し殺したまま過ごすなんて、息が詰まるようだ。しのぶはどれだけ辛くても、姉が好きだと言っていた微笑みを浮かべて自分の気持ちを隠し通していた。だから、少しずつでもしのぶが素の自分でいられるようになるのなら、それはとても喜ばしい。

 少し、暁歩は安心した。

 

「さて、それではそろそろ戻りましょうか」

「あ、はい」

 

 壁に掛けられた時計を見上げて、しのぶが言う。

 話し込んでいて、少し時間が経ってしまっていた。暁歩も断りを入れたとはいえ、そろそろ戻らなければならないだろう。しのぶにも自分のやるべきことはある。

 

「ああ、ところで」

 

 立ち上がり、居間を出ようとしたところで、しのぶが暁歩を振り返る。

 

「ここで暮らしている身ですから、私のことは名前で呼んでくださって構いませんよ?」

「はい?」

「私は、この屋敷にいるカナヲやアオイたちのことを本当の家族のように思っていますから。苗字で呼ぶのは他人行儀な気がしますし」

 

 ふと思い出すのは、ここへ来た初日にきよたちから名前で呼ばれたことだ。人懐っこい性格だから自分のことを名前で呼んでいたのだろうと思ったが、あの時から三人は暁歩のことを新しい家族と思ってくれていたのだ。

 

「だからアオイたちのことも、私のことも、名前でお願いしますね。()()()()?」

 

 笑って、試すようにそう呼ぶしのぶ。

 それで暁歩も、踏ん切りがついた。

 しのぶの顔を見て、できる限りの笑みを浮かべて伝える。

 

「・・・こちらこそ、よろしくお願いします。()()()()()

「はい」

 

 満足したのか、頷いてしのぶは笑う。

 そうして仏間を後にすると、きよが駆け寄ってきた。

 

「あ、暁歩さん!脚の骨を折った方の包帯を巻き直すので、手伝ってもらいたいのですが・・・」

「分かりました」

 

 暁歩は頷いて、きよに続き病床へと向かう。

 しのぶは、そんな暁歩の後ろ姿を見届けてから自分の部屋へと戻っていった。



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第4話:弱虫の決意

評価欄に色が付きました。
評価を付けてくださった方、本当にありがとうございます。


 蝶屋敷に来て一週間が過ぎる。最初こそ委縮して低姿勢だった暁歩だが、ここの勝手にも少しずつ慣れてきている感じがした。

 ここへ来たのは薬剤師としてだが、最初にアオイからも言われた通り、現在は少しずつ怪我人の治療にも携わり始めている。今はまだ蝶屋敷の誰かしらが補助についているが、いずれは一人でやらなければならない。

 

「背中の痛みは如何ですか?」

「大分引いてきたんですけど・・・寝転がることが多くて少し怠く感じます・・・」

「それでしたら、機能回復訓練を受けてはいかがでしょう?鈍った身体の機能を取り戻せますので」

「分かりました・・・」

「それと、鎮痛剤の量は少し減らしましょうか」

 

 きよやアオイたちがそうしていたように、暁歩もまた病状の仔細を丁寧に訊く。薬を調合する時は、実際に患者から症状を聞いた方が、どのように調合すればよいかを自分で考えやすい。

 

「ほとんど問題なさそうですね」

「ありがとうございます」

 

 一通りの問診を終えて、そう評してくれるきよ。不安だったが評価してもらえてうれしく思う。

 

「これなら、独り立ちも近いかもです」

「本当ですか?それは嬉しいですね・・・」

 

 補助なしで大丈夫と言うのはそれだけ技量があるからだが、途端に独り立ちを言われると少し不安にもなった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 薬の調合に関しても、学ぶべきところはまだまだあった。特に毒にまつわる薬に関しては暁歩も知らないことばかりなので、調剤室にある資料を読んで勉強をしている。けれど、読むだけでは分からないし、中には聞いたこともない成分もある。これを記したであろうしのぶにも訊いてみるつもりだ。

 

「帰ってきたら聞かなきゃ・・・」

 

 そのしのぶは、昨日から任務に出ていて屋敷にいない。

 柱は鬼殺隊全体で九人しかおらず、各々担当している地域がある。その地域、または隣接する地域で強力な鬼の出没情報が出てきたら、そこへ急行する。任務が一日で終わるとは限らないので、こうして日を跨いで不在になることも珍しくないようだ。

 アオイたちもいつものことだから、何より強い柱であるからと、必要以上に心配はしていないらしい。だが、暁歩は素直に安心できなかった。

 それはやはり、しのぶの辛い過去を知ったから。それまでは暁歩も、柱とは強いから大丈夫、負けるはずはないと思っていた。けれど、あれだけの壮絶な過去を背負っていると知った今は、盲目的にそう信じられない。

 人の原動力は、体力はもちろん、精神・心にもある。

 悲しみや憎しみ、怒りは時として不退転の決意となり、大事を成すほどの力を生み出す。しかしそれは、諸刃の剣。その感情に耐えられなければ、どこかで心は押し潰されてしまうだろう。

 しのぶは柱になるまでに成長したから、心もちょっとやそっとでは壊れないのかもしれない。けれどこの先、そうならないという可能性もまた存在する。

 

「・・・・・・」

 

 資料をめくる手が止まり、無意識に力が入る。

 暁歩もまた、両親を鬼に殺された怒りと憎しみを胸に、鬼殺の剣士の道を選ぼうとした。そして、その感情に自分で押し潰されて、道を諦めた。

 けれど、しのぶは違う。怒りと憎しみ、そしてまだ壊されていない誰かの幸せを守りたいという姉の遺志を受け継いで、鬼を狩り続けている。その心は暁歩よりもはるかに強靭だろう。だから、自分なんかが『支えたい』『頼ってほしい』なんて言ったのは、間違いなのかもしれない。おこがましいことこの上ないだろう。

 

(・・・それでも、背は向けたくない)

 

 けれどそれは、あの言葉を伝える前から分かっていたことだ。自分のような新参者が力になるなどおこがましいと、承知の上だ。そして、あれほどの過去を聞いて何もしない平行な関係でいられるはずもない。

 だから、支えると言ったのだ。そこに今さら後悔しても、意味はない。

 そして今、暁歩が優先すべきことは、知識を深めてこの蝶屋敷に貢献できるようにし、しのぶの負担を少しでも減らすことだ。うじうじしていては何も起こせない。

 そう考えて、資料を見ながら薬を調合しようとすると。

 

「あ」

 

 目的の薬種が無かった。しかもそれは数種類あり、割と使用する頻度が多いものだった。

 薬種が切れた際にどうするかは、まだ教わっていない。薬種を扱う問屋に買いに行くにしろ、どこかしらに発注するにしろ、やり方を知らないため誰かに聞くほかなかった。

 仕方なく調剤室を出て人を探すと、丁度良くアオイを見かける。

 

「すみません、アオイさん」

「はい?」

「切らしてる薬種がいくつかあるんですけど、補充はどうすれば?」

「ああ、薬種は南の方にある街の問屋で買うんです」

 

 都度買いに行くことになっているらしい。

 よく考えてみれば、鬼殺隊は政府から認められていない組織だから、業者に発注するのも不可能な話だろう。

 それよりも、買いに行くのであればその役目は自分が負うべきだと暁歩はすぐに思った。

 

「でしたら、場所を教えていただければ買いに行きますよ」

「いえ、買いに行くと夕方の問診に遅れてしまいますので、暁歩さんはそちらに集中してください。薬種は私が買いに行きます」

 

 日は傾き始めており、時刻は五時に差し掛かろうとしている。言う通りで問診の時間が近く、街は少し離れているらしかった。

 

「問屋の場所はまた後日教えますので」

「分かりました」

 

 押し留められる形で暁歩が頷くと、アオイは踵を返して行ってしまった。

 暁歩は、未だアオイとはどうも打ち解けられた感じがしていない。元々彼女からは真面目できびきびとしている雰囲気が感じられ、同時にどこか一線を引いているような感じもした。

 

「警戒されてるんだろうなぁ・・・」

 

 暁歩はああいう性格の子が嫌いではないし、むしろ真面目な子には好印象を抱く。それでも警戒されると、暁歩も若干凹むし落ち込みもする。

 ただ、こればかりは時間が経つのを待ちつつ、暁歩の姿勢と態度で警戒するほどでもないことを認めてもらうしかない。家族同然、としのぶが言っていたように、暁歩もまたアオイとは今のような感じではなくもっと打ち解けた感じでいたかった。

 やることは多い、と思いながら暁歩も問診の準備をするためにその場を離れた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 陽が山の向こうへと沈み、辺り一帯が暗くなる。

 暁歩はきよたちと一緒に夕方の問診や包帯の巻き直しなども行い、滞りなくこれを終わらせる。そして病床を後にすると、きよがぽつりと言った。

 

「アオイさん、大丈夫でしょうか・・・」

 

 歩きながらの言葉に、暁歩はきよの方を見る。

 

「心配なことが・・・?」

「もう日が沈んでしまいましたし、鬼が出たらどうしようって・・・」

 

 不安そうにすみが告げると、暁歩の中で不安が頭をもたげる。

 

「それと・・・南の街へ行く途中で、時折人がいなくなるって噂があったんです」

「それが鬼とも言い切れないんですけど・・・」

 

 鬼は基本的に、それぞれの狩場を持っている。そこから動くことは基本的にないが、一般人が鬼と出くわしたらまず間違いなく勝てない。

 アオイも隊服を着ていたから鬼殺隊の一員のはずだ。けれど、彼女が屋敷を出た時に、日輪刀を持って行った覚えがない。もしも丸腰で鬼と遭遇してしまったら、殊更危険だ。

 

「・・・っ」

 

 その時、暁歩の頭の隅でパチッと静電気のように痛みが走る。

 

「自分が見てきます。南に道なりに進めば、街があるんですよね?」

「はい、でも・・・」

「大丈夫です。これでも、鬼殺隊の端くれですから」

 

 心配そうにすみが見上げるが、暁歩は気丈に笑って見せる。

 心は震えあがっていたが、そんなところを見せれば三人には余計心配をさせてしまう。自分の頬を叩いて気合を入れた。

 暁歩は自分の部屋に戻り、日輪刀を取り出す。刀を一度鞘から抜いて、刃毀れや傷がないことを確認する。

 その刀の色は、普通の刀と変わらなかった。

 

◆ ◆

 

 陽もすっかり沈み、真っ暗な道をアオイは屋敷へ小走りに向かっていた。

 

(少し遅くなった・・・)

 

 足りない薬種は問題なく買えたが、帰り際に道に迷っていた老婆がいたので、道案内をした結果遅くなってしまった。

 

「気を付けないと・・・」

 

 空には満月が浮かんでいるが、人工的な明かりはなく、一町先が見えない。

 夜は人喰い鬼が活動する時間であり、しかもこの辺りは時折人がいなくなると噂になっている。ただ、星や月の明かりがあっても見にくいから、人の姿が見えず鬼の仕業と勘違いされる可能性もあった。

 何にせよ、警戒を怠らずにアオイは屋敷へ駆ける。

 その時だった。

 

 ボゴッ。

 

「?」

 

 何かを掘り起こすような、鈍い音が後ろから聞こえた気がする。

 足を止めて振り向くと、足下の地面が少し盛り上がっていた。たった今通りがかったが、最初はこんなものは無かったはずだ。モグラにしては大きすぎる。

 だとすれば。

 

「!」

 

 瞬間的に危機を察知して、アオイは後ろへ飛び退く。

 その直後、地面が急に盛り上がり、地中から何かが姿を現した。

 

「・・・惜しかったか」

 

 月明りに照らされたそれは、大柄な男だった。

 しかし、肌の色は普通の人間よりも黒ずんでいて、四肢が鍛え上げられたように太い。目は血走り、紅く光る瞳孔は盾に長く、極めつけに爪も牙も長い。

 鬼だ。

 

「へぇ、随分と肉付きのいい女だな」

「っ・・・」

 

 ねっとりと品定めするような鬼の目と口調に、アオイの喉が干上がる。

 身体がすくみ上り、腕から力が抜けて、薬種の入った袋が地面に落ちた。

 

「なんだ、ビビッて動けないか?」

 

 聳え立つ鬼を前に、アオイの歯が噛み合わずカチカチと音が鳴る。そんなアオイを見て、鬼の表情は愉悦に染まっていた。

 

(逃げないと・・・叫ばないと・・・)

 

 アオイは日輪刀を持っておらず、丸腰の状態。

 身体能力が高い鬼と戦うために、鬼殺隊は日輪刀を有している。けれど、その刀がなければ、鬼殺の隊士とて普通の人間と変わらない。鬼と戦っても致命傷を与えられないから、勝ち目が無い。

 だから今、戦う術を持たないアオイの最善策は逃げることだった。

 しかし、鬼を前にして、恐怖がアオイを雁字搦めに縛っている様に身体を動かせず、ついにはぺたんと尻を地についてしまう。

 そんなアオイに向けて、鬼がゆっくりと手を伸ばし始めてきて。

 

「伏せろ!」

 

 その時、鋭い言葉がアオイの耳に届く。

 誰が言ったのか、誰に向けたのか、など考える前に体を屈める。

 

―――樹の呼吸・弐ノ型

―――樫幹返(かしみきがえ)

 

 何かが上を通り抜けるような気配。

 そして、肉が裂ける音が聞こえた次の瞬間、鬼の右腕は地面に落ちていた。

 

「え?」

 

 アオイが疑問を呈したところで、誰かに襟首を掴まれて後ろへ引っ張られ、地面に転がる。

 ようやく恐怖の鎖から解放されて身体を起こすと、鬼と対峙する人の姿を見た。

 風に靡く草が描かれた若草色の羽織を着ている。『クゥゥゥ・・・』と独特の呼吸の音が聞こえるが、こんな風貌の人物は、アオイの記憶している限りでは一人しかいない。

 

「暁歩さん・・・?」

「逃げて!」

 

 名前をぽつりと呟くが、それに応えるように暁歩は叫ぶ。

 蝶屋敷とは違う声に驚きつつも、アオイは立ち上がって蝶屋敷に向かい駆け出す。その様子に、鬼は深追いしようとせず舌打ちした。

 

「邪魔してくれやがって・・・」

 

 不快そうな顔で暁歩を見下ろす鬼。先ほど切った右腕は、再生を終えていた。

 

「ん?」

 

 だが、鬼は暁歩の様子を改めて見る。

 刀を構えているのはいいが、その腕はよく見ると震えている。鬼を睨みつけるような目は、恐怖も含んでいるのか揺れていて、緊張からか息も荒い。極めつけに額から汗まで流していた。

 まるで、鬼を恐れているような、そんな状態。

 それを見て、鬼は『へっ』と笑う。

 

「女の子をカッコよく助けたくせして、自分もビビってんのか」

 

 ピクッ、と暁歩の肩が震える。それは癪に障ったのではなく、図星だからだ。

 刹那、鬼の腕が暁歩を叩き潰そうと振り下ろされる。それを暁歩は後ろに跳んで回避するが、土煙が収まると鬼の姿が消えていた。

 

(待て、落ち着け・・・)

 

 緊張と恐怖で乱れていた息を落ち着かせる。刀を握る自分の右手を押さえつけて、震えを止めさせる。

 鬼の姿は消えたが、退くはずがない。

 ならば、次に鬼が姿を見せた時に即座に反応できるように、意識を研ぎ澄まし、呼吸を整える。

 その時、脳の右側を糸で引っ張られるような感覚。

 

「!」

 

 咄嗟に前に転がると、自分が立っていた場所に鬼が地面を突き破って飛び出してきた。突き上げられた右手は手刀を形作っており、あのままでいたら即死だったと認識する。

 この鬼は、どうやら地中を自在に移動でき、地上の状態も確認できるものらしい。異能の一種だ。

 そして暁歩は、体勢を立て直すと呼吸を整えて刀を構える。

 

―――樹の呼吸・壱ノ型

―――大樹倒斬(たいじゅとうざん)

 

 頸を狙って刀を横に薙ぐ。

 しかし狙いは外れて、胸を一文字に斬るだけになってしまった。鬼も、暁歩が狙いを外したと気づいたのか鼻で笑う。

 

「人を庇う割に、大した腕じゃないな」

 

 唇を噛む暁歩。

 鬼の胸に負わせた傷は見る見る治っていく。腕もそうだが、鬼の自然治癒力もまた人間の比ではない。それを暁歩は改めて思い知っている。

 

(・・・冷静になれ、落ち着け・・・)

 

 鬼を前にして、暁歩は恐れている。

 気を付けなければ、体から一気に力が抜け、心は脆く崩れ去ってしまいそうだ。それでも、自分の中のちっぽけな勇気を叩いて膨らませて、どうにかこの場に立っている。

 しかし、立ちはだかる鬼の視線を浴びて、昔の恐ろしい記憶が蘇ってくる。

 暗い山の中、恐怖に慄きながら駆けずり回り、滅多矢鱈に刀を振り回していた時の記憶。

 

「はぁ・・・はぁ・・・」

 

 呼吸が乱れだす。頭では余計なことを考えるなと分かっていても、それができない。

 

「弱虫のくせに人を守ろうとするなんざ、馬鹿な奴だ」

 

 鬼は、鋭い爪で暁歩の顔を突き刺そうとしてきた。しかもその動きは体格の割に速く、寸でのところで暁歩は首を傾けて攻撃をかわす。

 だが、完全には避けきれずに爪が頬を掠める。その部分を中心に顔が熱くなり、どろりとした熱い液体が垂れるのを感じ取る。見なくてもそれが自分の血だと分かった。

 

「オラ、オラ、オラ!」

 

 鬼はなおも殴り、蹴り、突いて暁歩を仕留めようとする。

 しかし、暁歩はジグザグに身を捻り、退いて攻撃をかわす。さらに鬼は土の中へと潜り、背後から奇襲をかけようとしてきたが、これも前転して避ける。

 突き技を見て分かっていたが、この鬼は体格に見合わず動きが俊敏だ。そのせいで反撃する暇もなく、一撃一撃で殺しにかかるのを避けるので精一杯だ。

 やがて痺れを切らしたのか、鬼が舌打ちをしてくる。

 

「弱いくせにすばしっこい奴め・・・次で殺してやる。さっき逃げた女も道連れだ」

 

 暁歩の体力は、まだ有り余っている。

 だが、鬼を前にして感じた恐怖が、殺意の籠った一撃を避け続ける間に増幅し、いよいよ限界に達しようとしていた。息は上がっており、呼吸を整えて技を使うことすらできなさそうだ。

 そんな暁歩を見て、限界が近いと悟ったのか鬼が嗤う。

 

「へっ、じゃあな」

 

 鬼がとどめの一撃を刺そうと腕を構える。

 まさにその時だった。

 

―――蟲の呼吸・蝶ノ舞

 

 鬼の背後に浮かぶ満月。

 その美しい月を背にするように跳ぶ、一人の剣士に暁歩は気づいた。

 

―――(たわむ)

 

 次の瞬間には、その人は暁歩のすぐそばにふわりと降り立ち、暁歩の傷ついた頬に布を押し当てていた。

 そして鬼の背中、肩、腕、胴体から血が噴き出す。

 

「あ・・・っ!?」

 

 鬼もあまりの出来事に一瞬何が起きたのかわからないようだったが、暁歩のそばに立っている人の仕業と理解すると『テメェ・・・』と怒りを露わにした言葉を口にする。

 

「・・・しのぶ、さん?」

 

 月明かりに照らされるその姿を見て、暁歩は呆けたように名を呼ぶ。それにしのぶは、微笑みを浮かべて頷いた。

 しのぶの手には、刀身が削がれた独特な形の日輪刀が握られている。どうやら鬼の体を斬ったというより、その刀で突いたようだ。

 

「次から次へと・・・」

 

 しかし鬼は、しのぶを前にしても強気な態度だ。『柱』という立場を知らないらしい。

 

「さっさと頸を斬ればよかっただろうが、そんな小さな体じゃこんな掠り傷しか無理だろうな」

 

 しのぶを指さして嘲笑う鬼だが、しのぶは何も発さない。

 そして暁歩は気付く。先ほどの暁歩が浴びせた傷はすぐ治ったのに、しのぶが付けた傷は一向に治る気配がない。

 

「こうなったらテメェらまとめて・・・ぇっ!?」

 

 そして鬼がゆっくりと迫ろうとしたところで、変化が起きた。

 しのぶが付けた傷口が、紫色に変色し始める。そして体の至る所に、同じような色の斑点が浮かび上がり、鬼が血反吐を吐いて苦しそうに呻きだす。

 

「・・・確かに私には、鬼の頸を斬るほどの力がありません」

 

 膝から崩れ落ち、苦しみに悶える鬼を前に、しのぶは微笑みを崩さないまま平坦な声で告げる。

 

「けれど、鬼を斃す方法は頸を斬るだけでは無いのですよ?」

 

 体を掻き毟り、喉を抑える鬼を前にしても、平然としている。

 

「たとえば私のように、鬼を殺す毒を使う人もいるのですから」

 

 事切れたように、鬼は動かなくなる。

 頸を斬らずに、毒で鬼を殺した。

 しのぶの実力は噂には聞いていたが、実際にその瞬間を見たのは暁歩も初めてだ。

 

「大丈夫ですか?」

 

 しのぶは、暁歩の方を振り向く。その笑みは、変わらぬ優しい微笑み。

 案ずるような言葉だが、暁歩は少し視線をそらして『はい』と力なく答えるしかない。頬の傷も痛みも、考えられなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 後始末は、『(かくし)』という鬼殺隊の後処理部隊に任せて、しのぶは暁歩と共に蝶屋敷へと戻った。

 真っ先に出迎えたのはアオイで、暁歩の頬に傷があるのを見ると、すぐにアオイが傷の手当てをしてくれた。さらに、事の顛末をアオイから聞いたきよ、すみ、なほの三人も、暁歩のことを心配してくれる。カナヲだけは、相変わらず表情の読めない笑みを浮かべていたが。

 その様子をしのぶは傍から見ていたが、暁歩がアオイのお礼の言葉に対し力なく笑うことしかなかったのには、疑問を抱いた。

 

「・・・こんばんは」

 

 それから少し経って、しのぶは暁歩に声をかける。

 暁歩は、屋敷の南側の縁側に腰掛けて、夜空を見上げていた。傍らには、鞘に納められた日輪刀が置いてある。

 しのぶの挨拶に、暁歩はどこか悲しみが混じる笑みを返した。

 

「月が綺麗ですねぇ」

「・・・そうですね」

 

 しのぶが暁歩の隣に腰掛ける。暁歩の視線は夜空に、月に向いたままだ。

 暁歩は何かを胸の内に抱えている、としのぶにはすぐに気づいた。

 

「落ち込んでいるようですけど、何かありましたか?」

「・・・少し、前のことを思い出していたんです」

 

 分かっていて、しのぶは敢えて問う。親しい間柄の人が、何かに悩んでいるのを見て見過ごすこともできない。

 暁歩も聞かれることが分かっていたのか、視線を逸らさずに答えた。

 

「・・・さっき戦った鬼に、『弱虫』って言われて。本当に心が弱かった以前のことを思い出してしまって」

「鬼の言葉に惑わされては駄目ですよ。鬼はいつでも平気で嘘を重ね、利己的な欲求しか持たず、人間を嘲笑うのですから」

 

 しのぶの言葉に、僅かながらに怒りが籠っているのは今の暁歩でも分かる。

 けれど、今回に限っては、鬼の言葉もあながち嘘ではないと思っていた。

 

「でも、実際俺は弱かったんです」

 

 そこで初めて、しのぶの顔を見る。微笑みはなく、話してほしいとしのぶは無言で求めていた。

 

「まだ話してませんでしたね・・・。俺がここに来るまでのこと・・・」

 

―――――――――

 

 暁歩は、ある町の薬屋の一人息子として育てられた。

 その薬屋は、町の人に信頼されている店で、暁歩が生まれた時には祝いの言葉をかけてもらったらしい。

 裕福とまではいかなかったが、生活は安定していた。お客一人一人に合わせて薬を調合する父の姿を見て育ち、母はそんな父を静かに見守り支えていた。

 暁歩も物心ついた時には、そんな両親を見て薬に興味を持つようになり、店の手伝いをしつつ父の指導で薬の勉強も始めた。歳が十二に至る頃には、簡単な薬の調合までできるようになった。その成長に、親や常連はとても喜んだ。

 けれど、その幸せも長くは続かなかった。

 暁歩が十五歳の頃、風邪をひいて寝込んでいたある日の夜。

 両親は、足の不自由なお得意様の家まで薬を届けに行っていた。けれど、風邪をひいた暁歩は家で留守番をしている間、脳を無理やり引っ張られるような嫌な予感に苛まれていた。

 その嫌な予感は的中し、両親は帰り道で誰かに襲われ殺された。骨や肉が抉られ、見るに堪えない状態だったと最初に発見した人が言っていたのを覚えている。

 朝になって、両親の死を知らされた時、風邪の辛さも忘れて暁歩は泣き叫んだ。葬儀の時も泣き通しだったと、参列していた人は言っていたと思う。

 

『可哀想に・・・』

『辛い話だろうねぇ・・・』

『まったくひでぇ話だよ』

 

 よくお店に来てくれた人は、暁歩を気の毒に思って言葉をかけてくれた。

 それでも、最愛の両親を理不尽に喪った悲しみは、本当に理解できていない。結局は他人なんだ、と暁歩は人との距離を置くようになった。薬屋など、親が死んだその日から閉めている。

 だが、両親が死んで少し経ったある日に家から出ると、一人の男が立っていた。

 顔立ちからして六十歳に届きそうだが、町の老人とは顔なじみの暁歩でもその厳つい顔立ちは見覚えがない。そして、姿勢が薬局に来ていた老人とは全然違いとてもしっかりしている。

 白と水色の袴の上に、雲の模様が入った白い羽織を着たその男は、名を『空見(そらみ)』と名乗って、告げる。

 

「お前の両親を殺めたのは、鬼だ」

 

 表向き、暁歩の両親の死は『猟奇的な殺人事件』と処理されている。

 しかし、いきなり姿を現した空見が『鬼』と言った時、暁歩は『新手の宗教か』と相手にしようとはしなかった。

 

「『人喰い鬼』『鬼狩り様』の話は、聞いたことがないか?」

 

 だが、空見の挙げた二つの言葉には、暁歩も心当たりがあった。

 店を訪れていた老人たちが、御伽噺のように語っていた存在。幼い時分は興味深く聞いていて、成長してからは空想だとしか思わなかったもの。

 けれど、暁歩はそこで、まさか実在するのかと驚く。

 

「お前の親だけではない。今、この国には鬼によって命を奪われる人間が多く存在する」

「・・・」

「人喰い鬼は実在する。そして、鬼狩り様もまた同様にな」

 

 空見からは、年齢の割に強い闘気のような雰囲気を感じた。暁歩をだまくらかそうとしているようには到底見えない。

 立ち去ろうとした暁歩も、空見の目を見る。

 

「ワシは、鬼を滅する組織『鬼殺隊』を志す者に稽古をつける育手(そだて)だ」

 

 素性が明かされたところで、暁歩の前に姿を現した理由がようやく分かった。

 そして同時に、暁歩の中で、『鬼』に対する怒りや憎しみがふつふつと湧き上がってくる。

 

「佐薙暁歩。お前は、自分の親を殺めた鬼が憎いと思うか」

「・・・はい」

 

 頷く。

 優しかった自分の両親を殺した鬼のことが、どうしようもなく憎い。

 

「人の命を選別なく奪う鬼を滅ぼしたいと思うか」

「・・・はい」

 

 躊躇わずに、頷く。

 何の罪もない人々の命を奪い、自分と同じように深く傷つき悲しむ人を増やす鬼を、滅ぼしたい。

 

「・・・荷物をまとめて、ワシに付いて来い」

 

―――――――――

 

「それから俺は、町の人に『少し旅に出る』って言って、町を去りました。空見さん・・・師匠に付いて行って、北東にある山で鬼殺隊に入るための修業を始めたんです」

 

 育手は全国に多数いて、ほとんどが引退した元柱や、階級の高かった元隊員だ。それぞれが、それぞれの場所とやり方で修業をつけ、鬼殺隊を志す者を育てる。空見は、鬼殺隊の中でも柱の次に高い『(きのえ)』階級だったらしい。

 

「俺の親を殺した鬼は別の隊士が倒したと言っていましたが・・・それでも俺は鬼という種が許せません」

「・・・」

「だから、鬼に一矢報いるために。他の誰かに自分と同じ悲しい思いをさせないために、鬼殺隊に入る決意をしました」

 

 しのぶは頷く。

 以前にしのぶの過去を話した時、暁歩は『家族を喪うことの辛さは分かる』と言っていた。その時は詳しい経緯は知らなかったが、暁歩もまた幸せな暮らしを理不尽に壊された人なのだと知って、胸が痛む。

 

「けれど修業は、正直辛かったです。何せ、刀なんて握ったこともないし、体力だって人並み程度でしたから・・・。師匠も容赦なかったし」

 

 苦笑して告げると、しのぶの表情も少し綻ぶ。

 走り込みだったり柔軟だったり、ある時は崖際の木に逆さ吊りにされ、呼吸を使い血の流れを整えるなんて修業もあった。あの時は一瞬死の淵を見た気がする。

 

「けれど、太刀筋は悪くないって褒められて・・・それと、自分の『予感』のことにも気付いてもらえました」

「予感?」

 

 この蝶屋敷に来てからも時折働いた、暁歩の『予感』。

 元々暁歩は、何か先のことを読んだり考えることが得意であり、言うなれば洞察力が優れていた。それが、無意識のうちに先のことを予測する『予感』という形で目覚めたのだ。

 だが、この『予感』というものは厄介な性質だった。嘘や隠し事、敵意、他人の怪我や死などの悪い出来事しか感じ取れず、しかも具体的に何が起きるのかまでは分からない。

 それでも空見は、それを知ると『敵と戦う時にきっと役立つ』と言ってくれた。

 

「師匠の下で二年修業して、全集中の呼吸もどうにか会得して・・・師匠から認められて最終選別に参加しました」

 

 その二年もの間、暁歩を突き動かしていたのは、心の中で滾っている怒りと憎しみ、そして他人を悲しませないという使命感に近い気持ちだった。

 

「けど・・・藤襲山(ふじかさねやま)で、俺は自分の弱さを知ったんです」

 

―――――――――

 

 藤襲山で七日間生き延びる。それが、鬼殺隊に入るための最後の試練。

 この山は、麓から中腹にかけて鬼の嫌う藤の花が年中咲いているため、鬼は外から入れず、出ることもできない。しかし、中腹より先には藤の花が咲いていないため、鬼が棲息している。加えてこの山は普段人が出入りしないため、最終選別に参加する入隊希望者は鬼からすれば久々の食糧。故に鬼も本気で襲い掛かるため、参加する人は数十人いても突破するのは毎年二桁に届かないらしい。

 その話を聞いた時、暁歩は過酷さに息を呑んだ。だが、こんなところで死んでたまるかと自分を奮い立たせる。大切な人を奪い、悲しませる鬼を根絶するために、ここまで来たのだ。何としても生き残ると、心に決めた。

 

「うわああああああああっ!」

 

 そして今、暁歩は息を殺して茂みに隠れ、聞こえてくる悲鳴に思わず涙を浮かべる。

 葉の隙間から様子を窺うと、異形の鬼がいた。鬼は、人の背丈の数倍ほどの大きさで、無数の腕が体に巻き付くように生えている。

 そんな鬼に、暁歩と同じ程度の歳の青年が足を掴まれ宙吊りにされている。そして、そのま抵抗もできず、悲鳴を上げ、絶望の表情で涙を流しながら、鬼が開けた巨大な口に飲み込まれてしまった。

 

「ッ!!!」

 

 肉を引きちぎり、すり潰し、骨を砕く音が聞こえてくる。

 生きながらに喰い殺された人を目の当たりにし、唇を強く噛んで泣き叫びたくなるのを押さえる。ここに来る直前、嫌な『予感』が働いて茂みに隠れていなければ、喰われていたのは自分の方だったかもしれない。

 

「くひひひ・・・威勢のいいガキだったなぁ」

 

 内臓を舐めるような不快極まる愉悦の声を洩らす異形の鬼。

 

「さぁて・・・鱗滝(うろこだき)の弟子のガキは今年も来てるかなぁ?あいつの弟子は絶対殺してやるんだ・・・ひひひ」

 

 咀嚼を終えた異形の鬼は、ぬめるような笑い声をあげながら、その場を離れようとする。

 暁歩は予感に頼るまでもなく、この鬼は危険と判断した。

 そして、このまま静かに距離を取ろうとする。今も距離は少し離れているから、まだ向こうは気づいていないはずだ。

 だが、咄嗟に隠れたせいで周囲の地形を把握しきれていなかった。そのせいで、足を滑らせ急斜面から転がり落ちてしまう。

 

「――――――――――ッ!!」

 

 しかし、叫ばない。声を押し殺す。斜面の下が見えない恐怖があっても、声を上げまいと口元を押さえつける。あの異形の鬼に見つからなければそれでいい。

 やがて、地面に落ちる。受け身を取る訓練をしていたから、大事には至っていない。

 

「いてぇ・・・」

 

 右足の部分が少し腫れていて、じりじりと痛む。少々高いところから落ちた故に、変に捻ってしまったらしい。身体の他の部分に問題はない。日輪刀も無事だ。

 だが、このままじっとしていると、鬼が近づいてくるかもしれない。手当は後にして、まずは移動しようと思い立ち上がる。

 すると。

 

「人間のガキだ!」

「久々の食糧だぜぇ・・・!」

 

 着地の際の音が聞こえたのか、何体もの鬼が近づいてきていた。

 痩せ細った鬼、異様に舌が長い鬼や獣のように唸る鬼など、見ていて嫌悪感を催す鬼が何体もいる。もしかしたら十に届くのではないかと思うほど。

 考えてみれば、暁歩は今まで鬼と対峙したことなど一度もない。両親は暁歩の知らないところで鬼に喰われ、空見の修業中でも話でしか聞いたことがない。

 

「・・・・・・」

 

 足音を立てて死が近づいてきているような感じがした。

 恐ろしくなる。先ほど見た異形の鬼と比べれば体の大きさは大したことがないが、人間を喰らうおぞましい種であることに変わりはない。

 暁歩は、鬼に対する復讐心と怒りを糧にしてここまでやってきた。

 だが、先ほど異形の鬼に生きながら殺された人の悲鳴、肉を潰され骨が砕かれる音が頭の中で蘇る。

 夜の闇に光る鬼共のいくつもの眼が自分に向けられていて、足が竦んで動かなくなる。

 ただ挫いただけの足が、骨折したと思うほどの激痛になる。怪我に気を取られると気弱になってしまうのは分かっていても、心はどうにもならず震えだす。

 今この瞬間、暁歩の中の復讐心は、恐怖で上書きされた。

 

「テメェ、アレは俺が先に見つけたんだぞ!」

「うるせぇ!俺が一番あいつに近い。アレは俺の獲物だ!」

 

 鬼同士で何かいがみ合っているが、その言葉も耳に届かない。

 逃げなければ死ぬと脳が必死に訴えかけているが、身体は氷漬けにされたようにびくともしない。

 獲物を前にする獰猛な鬼の視線が、暁歩の身体に纏わりつくようで、呼吸が乱れる。

 鬼の口から垂れる涎を見て、自分の骨が砕かれ、腸が引き裂かれ、肉が潰れる末路が頭に浮かぶ。

 刀を抜こうと思っても、腕が動かない。

 

「なんだ、抵抗しねぇのか?」

「こんな弱っちい奴なら簡単に喰える!」

 

 ついに、鬼が飛びかかってきた。

 眼前に鬼が迫ってきたところで、全身に電気が走ったように、身体の機能が復活する。

 

「っ」

 

 その直後、修業中よりも遥かに速く刀を抜いて横一文字に薙ぐ。

 刹那、飛びかかろうとしていた鬼共は、胸のあたりで真っ二つになり、失速して地面に落ちる。

 頸を斬ったかどうかの確認もせず、今だけは足の痛みも忘れて、暁歩はその場から逃げ出した。

 

「てめえぇ・・・待ちやがれ・・・!いてぇ・・・」

 

 体を両断された鬼は、恨みがましい声と視線を暁歩に投げかける。雑魚鬼だったのか、身体を斬っても再生が遅いのが幸いだった。

 

「ああ、あああ・・・!」

 

 しかし、そんなことは気にも留めず、暁歩は無我夢中で走り続けた。

 複数の鬼を前にした恐怖が、全集中の呼吸で酸素が身体に行き渡るのと同じように、暁歩の身体に染み渡って消えない。

 初めて本物の鬼を前にして、親を殺されたことに対する怒りよりも、死への恐怖が勝ってしまった。

 その恐怖から逃げるように、足を動かし走り続ける。捻ったところの腫れが悪化しているように感じるが、どうでもよかった。

 具体的な策や方針も考えず、がむしゃらに走り続ける。

 別の鬼に出くわすと、自分が死にたくないという気持ちにしかなれず、刀を振り回して鬼の身体を斬って動きを鈍らせ、ただ逃げた。

 鬼は日中活動できない、という基本的なことも忘れて、昼夜神経を尖らせ続けた。

 草木の揺れるわずかな音にも驚いて、心の休まる暇なんて片時もなかった。

 

「・・・・・・」

 

 そんな調子で、気付けば七日経っていた。

 お神酒徳利のような二人の少女から説明を受けた場所には、暁歩を除けば二人しかいない。その二人も、やけに疲弊している暁歩の姿を見て目を丸くしていた。七日間ろくに休みもせず、ただただ走って逃げていたのだから、それはひどい有様だったのだろう。

 隊服の採寸も、玉鋼選びも、階級を示す術を施された時も、半ば放心状態だった。

 そして藤襲山を下りて、空見の下へと帰ってきた直後、暁歩は極度の疲労と緊張の連続による反動で気を失った。

 

―――――――――

 

「目を覚ましたのは、それから二週間後でした。起きたら師匠と、日輪刀を打ってくれた刀鍛冶の人がいました」

 

 夜空に浮かぶ月は、相変わらず輝いている。それを見上げる暁歩は、懐かしむような笑みを浮かべていた。

 しかし、しのぶにはその笑みが作られたものだと見抜いた。その時抱いた恐怖を隠そうとしていると、ずっと笑顔を作っているしのぶには分かる。

 

「師匠は、俺が最終選別を突破したことを喜んでいましたけど、俺は喜べませんでした」

「それは・・・なぜ?」

「確かに俺は生き延びました。けど、死への恐怖で山を駆けずり回り、我を忘れて無茶苦茶に刀を振りまくって・・・鬼を倒せなかった自分は、本当に鬼殺隊として相応しいのか?鬼殺隊で鬼と戦えるのか?と、自分に自信が持てなくなったんです」

 

 両親が鬼に殺されたと知って、最初は怒りや憎しみを抱き、修業中もそれを忘れなかった。

 けれど、最終選別で恐怖がそれらを上回り、その時の記憶が脳裏にこびりついて離れない。そんな自分が情けなくて、鬼を滅ぼすと思うのは単なる思い上がりではないかと、自分に自信が持てなくなった。

 

「・・・剣士として戦えないと、その場で言ってしまいました」

 

 膝の上で、強く拳を握る。自分の力不足が嘆かわしくて、自分の意志が弱かったのが馬鹿らしくて、不甲斐ない。

 

「どうしてかを師匠に聞かれた時、復讐心ではなく恐怖心が勝ってしまったと、本音を伝えました」

「・・・」

「申し訳ない気持ちと悔しい気持ち、死にたくないという気持ちで頭が一杯でした。鬼に一矢報いるつもりだったのに、鬼を実際前にしたら動けなくなって、本当に自分の心は弱いって思い知らされました」

 

 その時、刀鍛冶の人はひどく落ち込んでいた。ひょっとこのお面で顔は見えなかったが、肩を落としていたのは覚えている。せっかく打った刀の持ち主が、刀を渡す前に鬼殺の道を諦めると言ったのだから、骨折り損もいいところだろう。

 

「死ぬのが怖いと思うのは、恥じることじゃないと師匠は言ってくれました。それは生き物としての『生きたい』と思う本能の裏返しなのだから、と」

「・・・」

「それでも自分には、戦う意欲は湧いてきませんでした」

 

 暁歩の師匠は、無理に『戦え』とは言わなかった。これまでの弟子の中には、暁歩と同じように怖気づいてしまう人や、鬼との戦いで心が疲れ刀を置いてしまう人がいたから、暁歩の気持ちが分かったのだ。

 そして、暁歩が元薬屋の息子で、薬学にも詳しいことを知っていた空見が、鎹鴉を通して鬼殺隊に話をした。結果、暁歩はこの蝶屋敷に『剣士』としてではなく、『薬剤師』として着任した。

 

「だから、鬼が俺のことを『弱い』って言ったのは間違いじゃないんです」

「・・・」

「そんな俺がしのぶさんみたいな強い人に『頼ってください』なんて、ちゃんちゃらおかしいですよね・・・。すみません」

 

 自らを嘲り、頭を下げる暁歩。

 呆れてるだろうなと、心の中で達観する。あんな大口叩いたくせに、自分の正体は単なる弱虫、臆病者だと知ったのだから。次顔を上げたら軽蔑の視線で見られるかもしれない。

 

「暁歩さん」

 

 呼ばれて、暁歩は諦めるように頭を上げる。

 だが、しのぶの表情に軽蔑の色はなく、あの作った微笑とも違う、慈しむような笑みが浮かんでいた。

 

「一つお聞きしたいのですが・・・あなたはなぜ、この屋敷に来ようと決めたのですか?」

 

 暁歩の処遇をどうにかしてほしいと話を鬼殺隊に通したのは、空見だ。

 そして、この蝶屋敷に来ることを決めたのは、暁歩自身の意思。それを決めるに至った理由を、しのぶは確かめたい。

 暁歩は問われると、視線をしのぶから、庭に拵えられた池へと移す。

 

「最終選別で、鬼という種に復讐したいと思う気持ちは恐怖で上書きされてしまいました」

「・・・」

「けど、それでも・・・何か力になりたいと思ったんです。自分が戦えなくても、鬼と戦い続ける誰かを支えたり、鬼によって傷つけられた人を救いたいと願って」

 

 鬼に復讐するという意思は打ち砕かれた。

 けれど、自分が身に着けた鬼や薬に関する経験と知識は残っている。そして、鬼殺隊を志したもう一つの理由である、他の誰かに自分と同じ悲しい思いをさせないという気持ちも残っている。

 これらのことを併せ持っている自分には、他に何かできないかと暁歩は思った。その結果が、今この蝶屋敷で自分の知識を生かし、人々の幸せを護るために戦い続ける隊士を治療し、支えることだ。

 

「やっぱり」

 

 聞き終えると、しのぶが相槌を打つ。だが、その相槌が少し変な気がして、今一度暁歩はしのぶのことを見る。

 

「暁歩さんのお師匠さんからの手紙にも、書いてありましたよ。その暁歩さんの気持ちが」

「え?」

 

 しのぶは、暁歩がここへ来る前に空見から手紙を受け取っていた。

 その手紙には、暁歩の受け入れを決めたことに対する感謝の気持ちと、よろしく頼みたいという気持ちが綴られていた。

 

「『剣士としての腕は乏しいですが、それでも力になりたいと考えて、鬼と戦う人々を支えたいと強く願う男です。薬学に傾倒しており、必ずや皆様のお役に立てると思います。手前勝手な願いとは承知しておりますが、何卒ご容赦を』と」

「・・・」

「暁歩さんの事情は、大まかではありますが、その手紙が来る前に鬼殺隊の本部から伝えられていました。私は素直に受け入れたいと思いましたし、アオイたちも賛成していましたよ」

 

 空見が、鬼殺隊に身の上話や薬学云々についての話は通すだろうと思っていたが、しのぶ宛に手紙を書いていたことまでは知らない。しかもそこに、暁歩が空見に明かした気持ちも書いてくれているとも思わなかった。

 何より、しのぶたちが自分のような者を受け入れることに前向きだったということが驚きだ。自分は軟弱者だとしか思っていなかったから、なおさら。

 

「あなたは自分をただ弱い人と思っているようですが、『何か力になりたい』『鬼と戦う人を支えたい』という芯の通った意志は失わずにここまで来ました。それは間違いなくあなたが自ら動いた結果であり、決してただの心が弱い人にできることではありません」

 

 本当に心が弱い、鬼が言う『弱虫』ならば、鬼殺の剣士の道を諦め、鬼という存在からも遠ざかろうとしただろう。おめおめと自分の家に戻って、一人でひっそりと過ごしていただろう。

 しかし今、暁歩は自分の中にある決意を抱いて、この蝶屋敷にいる。

 

「そしてさっき・・・あなたはアオイを庇って鬼と戦った。それもまた、誰かに悲しい思いをさせたくない、守りたいと思うあなたの強い意思の表れですよ」

 

 しのぶの手が、そっと暁歩の肩に添えられる。

 

「あなたは、弱くなんてありません」

 

 暁歩の表情が、はっとする。

 しのぶの言葉で、自分の心に雲のように纏わりついていた苦悩が晴れてきた。

 そして、その苦悩によって塗りつぶされていた、空見の言葉を思い出す。

 

―――――――――

 

「この刀と隊服は持っておけ」

 

 二週間の眠りから覚め、自分の弱い気持ちを曝け出した日。

 空見は、暁歩に支給されるはずだった日輪刀と隊服を差し出してきた。

 

「けど、これは・・・」

 

 その二つを暁歩は素直に受け取れない。

 これは、鬼と戦う人のために支給された装備だ。戦えなくなった暁歩にとってはただのお荷物であり、役に立たないだろう。

 

「確かに、剣士の道を歩めないお前にとっては無用の長物かもしれん」

 

 空見の厳しい言葉に、暁歩も肩を落とす。自覚していたが、いざ他人から言われると結構傷つく。

 

「しかしこの二つは、お前が曲がりなりにも藤襲山で過酷な日々を生き延びた証。それ以前に、ワシの厳しい修行にも音を上げずについてきた、いわばお前の自信の証だ」

 

 暁歩が空見に弟子入りした時、他にも弟子は何人かいた。だが、空見の修業が厳しかったため、弱音を吐いたり愚痴をこぼしたりし、残った弟子は暁歩だけだった。

 その暁歩を衝き動かしていたのは、今はなくなってしまった深い怒りと憎しみ。

 それが今はなくても、暁歩が空見の修業に最後まで耐え抜いたことに偽りも無駄もない。

 そう言っていることに気づいた時、目元が熱くなってきた。

 

「暁歩」

 

 涙に震えて、体をかがめる暁歩の背に、空見はそっと手をのせる。

 その時空見は、出会ってから修業を通して今日に至るまで一度も笑わなかった空見は、暁歩を優しく見守るように笑みを向けて。

 

「お前は弱くなどない、強い男だ。それを忘れないために、この二つを手放すな」

 

―――――――――

 

 自分の隊服を掴む。傍らに置いてある日輪刀を見る。

 鬼への恐怖で塗りつぶされてしまっていた、ほんのわずかだが大切な空見との会話。それを、しのぶは思い出させてくれた。

 

「・・・刀、抜いてみませんか?」

「え?」

 

 唐突にしのぶが、置いてある日輪刀を指差す。

 

「今の暁歩さん、良い表情をしていますよ?先ほど自信を失くしていた時とは、全然違います」

「でも・・・」

「もしかしたら、色が変わるかもしれませんよ?」

 

 日輪刀は、別名『色変わりの刀』。持ち主の特性や流派によって色が変わるが、剣の腕が未熟だったり、意思が弱かったりすると普通の色のままになる。

 暁歩の刀も、貰ったその日に試しに抜いてみたが色は変わらなかった。先ほどの戦いでしのぶも刀を見ただろうから、色が普通なのを分かっている。

 しかし、かつての師匠の言葉を思い出し、しのぶと話したことで自信を取り戻しつつある今刀を抜くと、どうなるだろうか。

 

「・・・分かりました」

 

 刀を手に持ち、立ち上がる。

 そして、月明かりに照らされる中で、鞘から刀を抜いた。

 その色は、普通の刀と同じ浅葱鼠色。鞘を腰に差して柄を両手で握っても、色は変わらない。

 

 ―――お前は弱くなどない、強い男だ

 

 空見の言葉を思い出し、柄を握る手に力が籠る。

 

 ―――あなたは、弱くなんてありません

 

「・・・っ」

 

 しのぶの言葉が心の中で響き、さらに手に力が籠る。

 その直後、刀身の色が根元から変わり始めた。じわじわと、浸透するように先端にかけて明るい色へと変わっていく。

 

「・・・綺麗な色ですね」

 

 その色は、淡い花萌葱。

 見る人を安心させるような、穏やかな色に染まった刀身を見て、しのぶが感じ入るように声を洩らす。暁歩もまた、初めて色が変わった自分の刀を、少しだけ笑って眺めた。

 

「・・・暁歩さん」

 

 そう思っていたところで、不意に声をかけられた。

 暁歩が刀を鞘に戻しながら、しのぶとも違う声の主を振り返ると、縁側にアオイが立っている。

 

「どうかしましたか?」

「いえ、その・・・」

 

 声をかけると、アオイは何かを言い淀むように視線をわずかに逸らす。普段は真面目にきびきびしている印象が強いから、らしくない。

 ただ自分とアオイの間に最近起きた出来事を考えれば、おのずと何が言いたいのかは把握できた。

 

「・・・さっきのことでしたら、心配しないでください。俺は大丈夫ですし、アオイさんにも怪我がないようで何よりですから」

「いえ、それもあるのですが・・・」

 

 怪我の心配をしてくれているのかと思ったが、どうも違うらしい。

 

「さっきはありがとうございました。駆けつけて、逃がしてくれて・・・」

 

 頭を下げるアオイ。さっきは暁歩が自信を失くしていて暗かったから、また改めてお礼を言いに来たのだろう。

 だが、暁歩は照れたりできない。自分なんかが恐れ多い、と慌てて手を横に振って否定する。

 

「結局しのぶさんが鬼を斬ってくれたので・・・俺だけじゃどうにもなりませんでしたし」

 

 確かにアオイを庇いはしたが、暁歩は鬼と戦う中で段々と恐怖していた。最終的にとどめを刺したのはしのぶだし、お礼を言われるのは少し違うと思う。

 だが、なおもアオイは暁歩に頭を下げる。

 

「でもあの時、暁歩さんが助けに来なかったら・・・今頃私はここにいませんでした。本当に、ありがとうございます」

 

 ひたむきに、感謝の気持ちを伝えられると、暁歩の弁明したい気持ちも抑えられる。

 誰かの命の危機を救うことなど、暁歩にとってはこれが初めてだ。だからこういう時、どう返せばいいのかわからずについしのぶの方を見てしまう。

 だが、しのぶはにっこり笑って頷くだけ。暁歩自身の言葉を返せ、という意味か。

 

「・・・どういたしまして。アオイさんも無事でよかったです」

 

 そう返すと、アオイは顔を上げる。表情こそいつものようにきりっとしていたが、雰囲気は少し柔らかいように見える。そしてアオイは、『それでは、おやすみなさい』と告げてその場を後にした。

 

「・・・良かったですね」

「・・・ええ」

 

 今のアオイからのお礼の言葉も、暁歩の自信につながる。しのぶはそれを見通していた。

 

「それにしても、暁歩さんの刀も色が変わりましたね」

「?」

「どうです?自信もついたことですし、これを機に改めて鬼殺の隊士になるのは」

 

 にこやかに訊いてくるしのぶ。

 だが、暁歩は苦笑して首を横に振った。

 

「・・・俺は、ここに残りますよ。鬼に対する恐怖はまだ残ってますし・・・自分の経験と知識を生かせるここで、傷ついた皆さんを救いたいですから」

「あら、そうですか」

「ただ」

 

 もう一度、暁歩はさやから刀を抜く。淡い朝萌葱の刀身が月明かりに照らされて、輝きを放つ。

 

「今日のようなことがまた起きるかもしれないですから。その時俺が皆を守れるように、ここにいます」

 

 月を背に、暁歩はしのぶに向けて笑いかける。

 その顔には、明確な自信が取り戻せていた。

 

「・・・お願いしますね」

 

 そんな暁歩を見て、しのぶは心が温かくなるのを感じながらも、笑みを返した。




今後とも感想、評価お待ちしております。
次回から、蝶屋敷外の面々もちょくちょく登場させる予定です


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第5話:恋柱・甘露寺蜜璃

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登録してくださった方、本当にありがとうございます。
この場を借りてお礼申し上げます。


 蝶屋敷にやってきてから、もう一か月が過ぎた。

 当初は薬剤師として着任し、問診や包帯の巻き直しなどをコツコツと続けていた暁歩も、これぐらいの時間が過ぎると実際に怪我の治療を学び始める。

 重点的に教わったのが、創傷の縫合。つまり深い切り傷を縫って塞ぐのだが、これが蝶屋敷に運び込まれる隊士の怪我で一番多いからだと言う。

 実際にアオイやしのぶが隣について、暁歩に指導をしながら処置をする。切り傷とは見ていてとても痛ましいもので、暁歩も目を背けたくなるが、それでは処置ができないし、何より命懸けで戦っている隊士にも失礼だ。心を乱さないよう意識して、糸を通す。

 次に多いのは骨折。大体は患部を固定することで事足りるのだが、時と場合によっては切開してでも固定をする必要があるらしい。まだそのような事態になったことはないが、いずれはあるかもしれないというのが、しのぶの談だ。

 ここまで本格的な怪我の治療は、暁歩もやったことがない上に、怪我人の命に関わるので少しも気を抜ける暇がない。薬を調合する時も気は抜かないが、これは直接怪我人に触れているから、ちょっとしたズレが患者の負担につながる。

 

「大丈夫です、落ち着いて・・・」

 

 実際に暁歩が治療に当たる時、しのぶがこうしてすぐ傍で落ち着かせるように言ってくれるので、不思議と不安はなかった。言われた通り落ち着いて、ゆっくりと処置をすれば失敗することは無かった。

 だが、いずれは一人でやらなければ到底役に立てないから、こうした治療に慣れていかなければならないだろう。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 そして今日、治療中だった隊士が完治して任務に復帰することになった。

 

「色々お世話になりました・・・また怪我した時は、お願いしますね」

「頑張ってください!」

 

 蝶屋敷の門戸の前で見送るのは、暁歩とアオイ、きよ、すみ、なほの五人。しのぶも見送りに出ることがあるが、今はたまたま手が離せないらしい。

 そして見送りと同時に、『鬼を斬る』ゲン担ぎで作ったおにぎりの入った風呂敷をきよが手渡す。こうしておにぎりを渡し、見送りに出るのは習慣のようなものとアオイは言う。戦わない、戦えない者として、戦いを生き抜けるよう無事を祈るために。

 

「ご武運をお祈りいたします」

 

 最後にアオイが切り火をして頭を下げると、隊士は出発する。きよ、すみ、なほは手を振って見送り、暁歩もアオイと同様に頭を下げる。

 やがて姿が見えなくなると、病床の後片付けなど各々は次の行動に出る。

 

「そうだ、暁歩さん。鎮痛剤は残っていますか?」

「作り置きしたのがまだあるよ。何か必要だったり?」

「いえ、先ほど発った方に多めに処方していましたので、少し気になったんです」

 

 すみが訊ねると、暁歩は調剤室に作り置いてある薬の量を思い出しながら答える。

 暁歩もきよ、すみ、なほの三人と大分打ち解けた今では、敬語ではなく普通の口調で話している。と言っても、自ら変えようと意識したわけではなく、きよたちが長いこと他人行儀な喋り方の暁歩を見て少し残念そうだったから、根負けに近い。

 しのぶも言っていたが、この蝶屋敷で暮らす皆は家族同然の関係だ。だから、打ち解けられたのに敬語のままだったのが、嫌だったのかもしれない。

 けれど暁歩は、まだアオイやカナヲ、しのぶに対しては敬語を使っている。その辺りの線引きは難しいものだ。アオイは真面目な雰囲気がして、カナヲは距離感が掴めないから。しのぶも同い年ではあるが、どこか砕けた口調で話しかけることに腰が引けた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 一か月もあれば、どんな薬を使う機会が多いかは大まかに把握できる。元々『こういう薬はよく使う』と教えてもらっていたので、今のところは作り置きが無くなることもない。

 幸いにも、今朝快復した隊士が出発したのをもって、現在蝶屋敷で治療を受けている人はいなくなった。誰もここに運び込まれないほど無事ならそれでいいが、鬼との戦いはそんなに生易しくない。またいつ重症者が運び込まれるかは分からないから、それに備えて薬はさらに作り置いておく。

 

「解毒薬か・・・」

 

 傍らに開く覚書に、解毒薬の調合方法がある。

 毒に関しての薬の指導はまだ受けていない。解毒薬を学ぶにあたっては、毒についての知識がなければならないし、それはしのぶがいずれ教えると言っていた。だから、これに関してはもう少し後になるだろう。

 けれど今は、治療中の隊士もいないので少し時間に余裕がある。なのでこの時間に教えてもらえれば幸いと思ったが、しのぶも柱として多忙な身だからどうかは分からない。

 

(大丈夫かな・・・)

 

 柱として、と考えるとついつい不安になってしまう。

 無事を祈っているのはもちろん、内面を知ってからは身を案じることが増えている。強い自分を保っているのは間違いないが、いつかどこかで疲れてしまうのではないかと不安だった。

 それに、しのぶと話をして、暁歩は失っていた自信を取り戻せたのだ。今や暁歩にとってしのぶとは、恩ある人であり、同時に身を案じる大切な人でもある。

 

「・・・悩んでてもしょうがない」

 

 立ち上がって調剤室を出る。手には、解毒薬の覚書を持って。

 しのぶの予定を詳細には把握していない。だから、まずは訊いてみなければ話が始まらないし、もし予定があったり疲れているようならそれを尊重し、教わるのはまたの機会にする。

 

「ごめんくださ~い」

 

 しかしそこで、玄関から誰かの声が聞こえた。

 今きよたちは洗濯中だし、アオイも備品を確認すると言っていたからすぐには出られないだろう。仕方なしに、暁歩が玄関へ向かって客人を迎えることにした。

 

「はい、どちら様です・・・か」

 

 ところが、玄関でその客人を見た途端に、表情が固まった。

 訪れたのは女性で、鬼殺隊の証である黒い詰襟を着ている。

 だが、その詰襟は寸法が合っていないのか、胸の部分だけボタンを留めておらず乳房が見えかけている。下はハイカラなスカートで、腿が露出していた。

 そして何と言っても目を引くのは、女性の髪の色だ。薄い緑と桜色の二色に染まり、服と相まって非常に奇抜に見える。

 

「えっと・・・しのぶちゃん、いますか?」

 

 暁歩が硬直したので吃驚していると思ったのか、珍妙な風貌の女性は暁歩に微笑みながら声をかける。そこで暁歩の意識も平常に戻り、確認する。

 

「いますけど・・・あなたは?」

「甘露寺と言います。甘露寺(かんろじ)蜜璃(みつり)です」

「甘露寺さんですね。少しお待ちを」

 

 踵を返して、まずはしのぶの部屋へ向かう。

 それにしても、鬼殺隊にも女性の隊士が少数とはいえいることを知っていたが、あんな風体の人までいるとは思わなかった。暁歩も度肝を抜かれたものだ。

 ただ、しのぶを名前で『ちゃん』付けで呼ぶということは結構仲が良いのかなと思いながら、しのぶの私室の障子戸を叩く。

 

「暁歩です。甘露寺さんと言う方が、しのぶさんにご用があるようです」

『ああ、はい。すぐ向かいますね』

 

 驚いた様子もなく、しのぶは戸を開けて玄関へ向かう。暁歩もその後ろに続く。

 

「暁歩さんは、甘露寺さんと会うのは初めてですよね?」

「はい。どんなお方なんですか?」

 

 玄関へ向かいながら、暁歩を振り返ってしのぶはにっこりと笑う。

 

「甘露寺さんは私と同じ柱、恋柱ですよ」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 素性が知れたことで、暁歩は安心と同時に大変申し訳ない気持ちになった。

 

「すみません、先ほどは存じ上げなかったもので・・・」

「ううん、気にしないで大丈夫!知らないのも仕方ないし・・・」

 

 暁歩が土下座する勢いで頭を下げると、蜜璃は首と手を横に振る。

 蜜璃を屋敷に上げて、今は客間に場所を移している。机には三つの湯飲みが置いてあり、暁歩はしのぶの隣に座り、蜜璃はしのぶの正面に座っていた。

 一般の隊員が柱と顔を合わせる機会はそこまで多くない。ましてや暁歩も、ずっと蝶屋敷にいるものだから柱の名前さえも知らなかった。唯一知っているのは、しのぶの話で出た岩柱の悲鳴嶼と言う人だけだ。

 

「急に来て驚いちゃったよね?」

「確かに驚きましたけど・・・」

 

 暁歩は急に柱が来たから驚いた、と蜜璃は思っているらしい。確かに暁歩はそれに驚きはしたが、それ以上に蜜璃の外見に驚いた。両者の微妙な食い違いに気付いたしのぶは、少しだけくすっと笑う。

 

「改めまして・・・ここで薬剤師として世話になっている佐薙暁歩です。よろしくお願いします」

「あ、ご丁寧にどうも・・・」

 

 畏まって自己紹介をすると、蜜璃も頭を下げる。

 

「薬剤師ってすごいね~。しのぶちゃんと同い年なのに、お薬とか作れるんだ?」

「ええ、まあ・・・今はそこまで難しい薬は作れないですけど」

 

 蜜璃は元々誰とでも仲良くなれる性格なのか、初対面の暁歩に対しても結構積極的に話しかけてくる。一方暁歩はそこまで慣れていないので、距離感が掴めずに尻込みしている。そんな二人の様子を、しのぶは静かに笑って見守っていた。

 

「ところで甘露寺さんは、しのぶさんに何かご用事が?」

「ううん、ただちょっとお喋りしに来ただけだよ」

「甘露寺さん、よくウチに来られるんですよ。アオイたちとも仲良くしてくれて」

 

 元々二人は、柱の中で同じ女性ということから仲が良いらしい。

 そんな蜜璃が手土産の三食団子を取り出して、しのぶとお喋りに興じる準備に差しかかる。もう自分は用なしだろうと思い、暁歩は湯飲みを持って腰を上げた。

 

「では、自分はこれで。何か入用がございましたらお呼びください」

 

 笑みを浮かべて一礼して、暁歩は客間を出ようとする。

 しかしそこで、何やら蜜璃が感心したように暁歩を見上げているのに気づいた。しかも見上げる視線が妙に熱っぽい。

 

「あの・・・何か?」

「え、ううん・・・えっと・・・」

「ああ、気にしなくて大丈夫ですよ。甘露寺さんはこういうお方ですから」

「・・・?」

 

 達観したようなしのぶの言葉に、恥ずかるように縮こまる蜜璃と、どういうことか分からない暁歩。しのぶの言い方に含みがあるせいで、素直にその場を離れられなくなった。

 

「甘露寺さんは、まあその・・・結構気が多い方と言いますか。それで、色々な方に心惹かれる性質なんですよ」

「はぁ・・・」

 

 聞いたところで疑念が晴れるわけでもなかった。

 気が多い性格という点に関しては特に異論はないが、『なんで自分なんかに?』とは思う。

 

「・・・今の自分のどこに惹かれたんですか?」

「えっと、丁寧なところとか・・・」

 

 暁歩は、自惚れたり有頂天になっているわけではない。純粋な疑問を投げかけると、改めて聞かれることが恥ずかしいのか、蜜璃は視線を逸らして目を伏せがちに答える。

 大真面目に訊く暁歩と、ひどく赤面する蜜璃。この二人の対比が面白おかしいものだから、ついしのぶは吹き出してしまった。

 

「しのぶちゃん笑わないでよ!」

「いえ、すみません・・・。ただ、そうして真面目に訊き返される甘露寺さんも見たことがなくて、つい・・・」

「もー!」

 

 笑われたことも恥ずかしいのか、抗議する蜜璃。

 この緩い空気に中てられて、素直に立ち去ることもできなくなり、致し方なく暁歩は再び腰を下ろす。

 さて、蜜璃は未だ恥ずかしさから立ち直れていないらしいので、少し話題を変えることにした。

 

「甘露寺さんは恋柱、とお聞きしたのですが、恋の呼吸を会得してるのですか?」

 

 柱に属する隊士は、それぞれが極めた呼吸の名を関した柱を名乗っているとしのぶが聞いている。しのぶも蟲の呼吸から『蟲柱』と呼ばれているため、『恋柱』の蜜璃は恋の呼吸を使うと予想していた。

 蜜璃も、ようやく恥ずかしさから脱したのか、顔の紅みも引いて頷く。

 

「うん・・・元は煉獄(れんごく)さんから炎の呼吸を教わっていたんだけど、どこをどう間違ったのか・・・」

 

 呼吸法にはいくつか派生形があり、恋の呼吸は炎の呼吸から派生したものらしい。

 蜜璃はもともと、炎柱の煉獄(れんごく)杏寿郎(きょうじゅろう)が継子として修業をつけていたが、独自の才能を開花させた結果柱にまで上り詰めたとのことだ。

 

「すごいですね・・・継子で、しかもご自分で呼吸法を編み出すなんて」

「ううん、そんな大したことないよ!派生形ができることは珍しくないし、私だって稽古は泣きそうになるほど辛かったし・・・」

 

 謙遜する蜜璃だが、暁歩は同時に同情と尊敬の念を抱く。

 暁歩が空見から全集中の呼吸を教わった時は、とてつもない苦労を重ねた記憶がある。肺を大きくするために死ぬほど鍛えて、それこそ蜜璃の言う通り泣きそうになった。自分で呼吸法を編み出すなんて考えたこともない。

 そして、男の暁歩が音を上げたのに、蜜璃はその修業を成し遂げた上に独自の呼吸法まで開花させたのだ。尊敬せずにはいられない。

 そこまで至るには、よほどの向上心、あるいは強くなるための理由があるのだろう。それを考えると、暁歩も少し心が暗くなる。今はこうして明るく振る舞う蜜璃も、しのぶと同じように大切な誰かを喪ったり、悲惨な過去を経験しているのかもしれない。

 

「でも、もっと強くなって素敵な殿方と出会いたいから・・・」

「はい?」

 

 蜜璃がぼそぼそと呟いたので、暁歩は聞き返す。

 すると蜜璃はにっこりと笑って、ともすれば頬も紅く染めて、照れくさそうに告げた。

 

「私ね、添い遂げる殿方を見つけるために鬼殺隊に入ったの」

 

 その入隊理由に、暁歩は硬直した。

 暁歩はもちろん、しのぶもそうだし、もしかしたら他の人たちも、鬼殺隊に入る人は皆それぞれ悲しい過去を背負っているものと思っていた。だから、それとは正反対に前向きな理由で入隊した蜜璃が新鮮に見える。

 しのぶは前にその話を聞いていたのか、大して驚いた様子はないが、目をしばたかせている。

 

「やっぱり自分より強い人がいいでしょ?女の子なら守ってほしいもの。男の子にはこの気持ち、分かってもらえるかなぁ」

 

 頬に手を当てて、理想の男性に出会えた時のことを想像しているのか、さらに顔を赤く染める蜜璃。分からなくもないが、柱より強い男性などそういないのではなかろうか、と暁歩は思う。

 

「しのぶちゃんはどう思う?」

 

 同意を求めて蜜璃はしのぶに問いかける。

 しのぶは緑茶を一口啜り、唇に指を当てて少し考える。

 女性がどんな男性を好むか、など暁歩には分からない。だから蜜璃の男性の判断基準が一般的とは言い切れないし、しのぶもそういったことは考えたことがないらしい。首を傾げて、困ったように笑う。

 

「どうでしょうかねぇ・・・。でも、蜜璃さんならいつかきっと素敵な方が見つかると思いますよ」

「ほんと?ありがとう~!」

 

 しのぶの言葉に蜜璃の表情が綻ぶ。暁歩としても、同じく蜜璃の幸せを願うほかない。

 

「あ、そうだ暁歩くん」

「はい?」

「暁歩くんはどんな子が好きなの?」

 

 それを聞いてくるか、と暁歩は心の中で頭を押さえる。

 

「すみません、正直考えたこともないです・・・」

「そっか・・・ごめんね。変なこと聞いちゃって」

「いえいえ」

 

 その答えは本音から来るものだ。

 今よりずっと昔、両親が生きていていた頃はぼやっと考えていた気もする。だが、ここ数年は色々なことが起きすぎてしまい、色恋に関して考えたことが全くない。

 蝶屋敷は女所帯だが、やはりそういう風に意識したこともないので、好みの傾向さえも分からない。強いて言うなら、初めてしのぶに会った時『綺麗な人だ』と思ったぐらいだ。

 しかしながら、やはりこれといった答えは出ない。困惑した様子の暁歩に蜜璃は謝るが、謝られることでもなかった。

 

「まあ、お互いにそういう人はいずれ現れるということで」

 

 しのぶが締めくくると、暁歩と蜜璃も頷く。

 そこで話がひと段落したので、暁歩は改めて腰を上げて、客間を後にした。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 後で聞いた話では、暁歩が客間を出た後できよたちとも少しお喋りをし、アオイとも軽く雑談を交わしたらしい。蝶屋敷の皆にとって、蜜璃は優しいお姉さんのような立ち位置みたいだ。

 そして帰り際、暁歩のいる調剤室を蜜璃が訪ねてきた。

 

「ちょっといい?」

 

 薬の資料を読んでいた暁歩が顔を上げると、蜜璃が手招きをしていた。しのぶはそばにいない。

 

「えっとね、こんなことを突然言うのもなんだし、上手く伝えられないんだけど・・・」

 

 顎に手をやって、むむむと唸る蜜璃。何を告げるつもりだろう、と暁歩は待つが、やがて考えがまとまったのか蜜璃は真っすぐに暁歩を見据える。

 

「しのぶちゃんて最初に会った時、すごく可愛い子だって思ったの。けど・・・どこか周りの人と違う感じがしてね」

「それは・・・性格とかの違いもありますし」

「でも、そういうのじゃなくて・・・お腹の中に黒い気持ちを抱えているような感じがしたの」

 

 蜜璃の言い分も分かる。

 雰囲気はその人を見ればある程度分かるが、その内に秘めている感情は読めないことが多い。だが、稀にその内側の感情を直感的に読み取れる人もいる。蜜璃はそういう人なのだろう。

 そして、その『黒い気持ち』にも暁歩は心当たりがある。

 それはここでは言えないが、恐らくはしのぶの経験した辛い過去、そしてそこから生まれた鬼に対する強い憎しみだ。その話を聞いていなければ、蜜璃の言葉を聞いてもさっぱり分からなかっただろうが、今ではすぐに分かる。

 

「それからちょくちょく、ここにお邪魔してお話してるんだけど・・・やっぱりその『黒い気持ち』は感じていたのよ」

「・・・」

「でも、今日のしのぶちゃんはちょっと違ったかなって」

 

 蜜璃が視線を横に向ける。その先には、蜜璃からもらったと思しき何かの冊子に目を通しているしのぶがいる。暁歩も釣られて、しのぶの方を見た。

 

「今日はその『黒い気持ち』をあまり感じなかったし、私と暁歩くんが話してる時、思わずって感じで笑ってたでしょ?あれは何か、素のしのぶちゃんって感じがした」

「本当ですか?」

「確証はないけどね」

 

 素のしのぶ、とは蝶屋敷で暮らす暁歩でも詳しくは分からない。四六時中一緒にいるわけでもないし、感情を隠す微笑みとは違う表情を見せてくれるようになったとはいえ、やはり本当のしのぶの姿とは、分からなかった。

 それでも、自信なさげにはにかむ蜜璃が、出まかせを言っているようには思えない。

 

「鬼殺隊には、心が強い人も、弱い人もいる。しのぶちゃんはきっと強い方かもしれないけど、その『黒い気持ち』もあるし、誰かの支えがあれば心強いと思う」

「・・・」

「だから、できる限りでいいから、しのぶちゃんのことを支えてあげて?」

 

 真っすぐな瞳を向けられて、胸の辺りがむず痒くなる。

 言葉の意味をよく理解してから、暁歩は口を開けた。

 

「それもちろん、できることなら・・・でも、どうして俺に?」

「あ、これはアオイちゃんたちにも言ってることなの。私は任務もあってたまにしか会えないから、蝶屋敷にいるみんなに支えてほしいなって」

 

 えへ、とおどけるように笑う蜜璃。

 誰とでも仲良くなれるだけでなく、誰かのことを気にかけて心配してくれている。そういう人なんだと、暁歩は蜜璃の人柄を理解した。

 

「それにね」

「?」

「しのぶちゃんが少し変わったのは暁歩くんが来てからだし、何かあったのかもと思ってね」

 

 蜜璃の言葉に、暁歩は少しばかり驚く。

 確証はない、あくまで蜜璃の印象の言葉だが、それでももしそうだとしたら、自分が背負うものは大きいと思う。

 

「・・・分かりました」

「分かればよろしい!なんてね」

 

 自信を持って頷くと、蜜璃が肩を気軽に叩いてくる。

 そして、暁歩としのぶに見送られながら、蜜璃は帰っていった。

 

「甘露寺さんと何を話されていたんですか?」

 

 見送って玄関を閉めると、しのぶが訊いてくる。

 蜜璃との話の詳細を明かすのは、少し憚られた。蜜璃がしのぶの内面に薄っすら気付いているとは言いづらいし、それを勝手に話すのも駄目だと思った。

 それでも一つだけ、言っておくことにする。

 

「・・・しのぶさんを支えてほしい、と頼まれました」

「あら」

「甘露寺さんって、とても仲間想いなんですね」

「ええ、その通りなんですよ」

 

 論点だけは、伝えておいた。

 実際支えてほしいとは言われていたし、それは暁歩も自分で決めていたことだ。以前自信を失いかけた時はできるか不安だったが、こうして誰かに頼まれると一層支えなければと決意する。

 しのぶも、そう言われたことが嬉しかったのか、少しだけふわっと微笑んだ。

 その笑みに、暁歩も心が温かくなった気がする。

 

「・・・ところで、そちらの冊子は?」

 

 暁歩は、しのぶの手の中にある小さな本を指差す。蜜璃が来る前は持っていなかったから、きっと彼女から貰い受けたものだろう。

 

「これは甘露寺さんからもらった、料理の作り方ですよ」

 

 蜜璃は料理が得意で、最近はカレーライスやコロッケなど、洋風の料理にも挑戦し始めているらしい。それで、その作り方をよくしのぶにも教えているのだそうだ。

 

「材料が揃えば、今度作ってみようかと」

「楽しみにしていますね」

 

 しのぶが作る料理は何度か食べたことがあるが、どれも美味しかった。加えて、ハイカラな料理は暁歩もまだ食べたことがないので楽しみではある。

 そして、戻ろうとしたところで元々暁歩はしのぶに何をしようとしたのかようやく思い出した。

 

「そうだ、しのぶさん」

「はい?」

「すみません・・・解毒薬と毒について、時間が空いている時にでも教わりたいんですけれど・・・」

「ああ、それでしたら今から教えましょうか」

 

 都合を訊く前にしのぶがうなずいてくれたので、暁歩は安心すると同時に少し心配になる。

 

「大丈夫ですか?しのぶさんにも予定とか・・・」

「問題ないですよ。取り急ぎの用事もありませんから」

 

 任務で疲れたりもしないらしく、暁歩はお言葉に甘えて教えてもらうことにした。

 そうして調剤室へ向かう間に、暁歩は思う。

 

(支える、か・・・)

 

 人を支えるというのは、色々なやり方がある。

 暁歩はしのぶのことを知って、何か吐き出したい気持ちがあれば受け止める、誰かを簡単に頼れない立場にいるからこそ頼ってほしいと伝えた。

 けれど、それだけで支えられているかと問われれば、難しい。蜜璃が言うには、暁歩が来て少し変わったらしいが、それでもまだ自信は持てない。

 支え方は、これから考えていかなければならないと、前を行くしのぶの小さな姿を見ながら思った。




≪おまけ≫

暁歩「それにしても、甘露寺さんの隊服はまた独特でしたね」
しのぶ「・・・あれはとある縫製係の独断で作られたものですよ」
暁歩「独断って・・・一体誰が―――」
しのぶ「言いたくありません」
暁歩「あっはい」


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幕間:蝶屋敷の猫

箸休め程度のお話です。


 暁歩は日中、問診や治療、その他蝶屋敷での家事を除けば基本的に調剤室にいる。そこで薬学に関する勉強をしたり、使用することが多い鎮痛剤や止血剤を作っているのだ。

一つの部屋に籠りきりとなると息が詰まりそうな印象だが、部屋には一応窓があるため換気できるし、薬種の香りを暁歩は気に入っているので苦でもない。

 

「いててて・・・」

 

 しかし、長時間座っていると逆に体を痛めてしまうため、時折部屋から出て気分転換をすることもあった。

 廊下を歩きながら背中を伸ばすと、身体の節々が伸びるような感触。少し心地よい。

 南の縁側に出ると、穏やかな太陽の光が照っていて、身体が温かくなってくる。何もなければ、このまま縁側で団子と緑茶を楽しみたい気分だ。

 するとそこで、草陰で何かが動くような音がする。

 

「?」

 

 視線がそちらへ吸い寄せられる。一見すると変わったところはないが、よく見ると風もないのに草花が揺れている。

 もっと近くで見ようとすると、ぴょこっと顔を出したのは。

 

「・・・猫?」

「みゃー」

 

 拍子抜けするように呟くと、応えるように明るい茶色の猫は暢気に鳴く。無駄に力が入っていた暁歩は、力を抜くように息を吐いて庭へ下り猫に近づく。人慣れしているのか、近寄っても逃げようとしない。

 試しに頭を撫でてやると、ふわっとした感触が伝わると同時に、猫が目を細める。首輪らしきものがないため、おそらくは野良猫だろう。

 撫でていても全く抵抗しないので、試しに猫を抱き上げてみると、腕の中に収まった。

 

「よーしよし」

 

 猫の温もりを感じながら、頭を優しく撫でてやる。甘えるように猫も体を丸めてすり寄ってくるので、暁歩の心も自然と癒された。

 

「暁歩さん?」

 

 後ろからしのぶの声がしたので、猫を抱えたまま振り返って会釈をする。

 すると当然ながら、猫もしのぶの視界に入ってきた。

 

「あら、そちらの猫は?」

 

 猫を目にしても、しのぶは穏やかな笑みを崩さない。

 しかしながら、その時一瞬、暁歩の頭が違和感を訴えかけてきた。

 

「そこの草陰にいたんです。野良猫みたいですが、人懐っこくて可愛いですよ」

「まぁ・・・竹垣に穴でも開いていたのでしょうか・・・?」

「多分・・・」

 

 屋敷の周囲は竹垣で囲まれていて、たとえ猫のような小動物であっても入る隙間はないはずだ。とすれば、腐食か何かで穴が開いてしまった可能性が高い。それは放っておけないのでいずれ直す必要があるが、そんなことはお構いなしに猫は腕の中で甘えるように鳴く。

 

「しのぶさんも撫ででみますか?」

「いえ、私は結構です」

 

 しのぶは暁歩の申し出に、笑みを崩さず拒否した。

 少し強めの言葉で、普段とはまた違う感じがしたから、暁歩は首を傾げる。だが、腕の中の猫はしのぶに向ってまた『みゃあ』と鳴いた。

 

「・・・さて、私はちょっと用事を思い出したので失礼しますね」

「あ、はい・・・」

 

 そしてしのぶは、そそくさとその場を離れて行ってしまった。

 いつになく足早な感じがしたな、と思いながら暁歩は猫を放す。名残惜しそうに見上げて鳴くが、すぐに草陰に戻っていった。しのぶも言っていたが、穴の有無は後で見ておこうと思う。

 暁歩は屋敷に上がろうとして自分の服を見て。

 

「・・・毛だらけだ」

 

 猫の毛が抜けて隊服に纏わりついている。特に猫を抱えていた胸と腕の部分がひどい。

 こんな状態で屋敷に上がっては駄目だと思い、しばらくの間隊服を叩いて毛を落とし、さらに自分の部屋で念入りに払うこととなった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 昼食と、昼の問診が終わり、アオイは新しく補充したガーゼや包帯などの医療用品を専用の物置へと持っていく。ここに運び込まれる隊士は基本的に重症なので、こうした用品もすぐ尽きてしまう。だから、こまめに買っているのだ。

 南向きの縁側を通って物置へ向かうと、草陰で何かが動くような音が聞こえた。

 

「?」

 

 アオイは足を止めて、そちらの方を見る。生き物だろうと察しが付くが、どこから入ってきたのだろう。竹垣に穴でも開いているのだろうか。

 

「みゃー」

 

 そう考えていると、ぴょこっと茶色い猫が草陰から顔を出した。

 

「・・・」

 

 その鳴き声を聞いて、アオイと猫の視線が交差する。

 

◆ ◆

 

「へぇ・・・猫さんがいたんですか?」

「うん、とっても人懐っこい子だった」

 

 一方で暁歩は、きよ、すみ、なほの三人と、食卓で緑茶と煎餅で一息ついていた。そこで雑談の種に、暁歩が先ほど見た猫のことを話すと、きよが興味深げに反応を示した。

 

「野良猫でしょうか?」

「多分。けど、人慣れしてるし、誰かが餌をあげてるのかも」

 

 暁歩が『いただきます』としょうゆ味の煎餅を齧る。程よい歯ごたえで美味しい。

 なほもまた猫が気になるのか、暁歩に訊ねてくる。

 

「どんな猫さんでした?」

「明るい茶色の猫だったよ。毛並みも結構綺麗だった」

「へぇ~」

 

 すみが興味ありげに相槌を打っている。彼女たちは、猫などの動物が好きなのかもしれなかった。

 その反応を見ると、思い出すのはさっきのしのぶのことだ。

 

「・・・そういえば、しのぶさんはあまり興味がなさそうだったかな・・・」

 

 ぽつりと疑問を呈すると、すみが『ええと』と申し訳なさそうに話しかけてきた。

 

「しのぶ様は・・・猫が苦手なんです」

「あ、そうなんだ」

「はい。犬もちょっと・・・という感じで」

 

 意外だ、と暁歩は思う。動物などに苦手意識を持っていなさそうなイメージがあったが、そんな一面があったとは。

 しかしこれで、先ほど抱いた小さな違和感の正体に気づいた。苦手だったから、あの時は強めに拒否したのだろうと。悪いことをしてしまったと思う。

 

「あ、でもアオイさんはそういう動物が気になっているみたいでした」

「アオイさんが?」

「はい。この前街へ出た時も、お店にいたり飼われていたりする犬や猫をちらちらと見ていましたから」

 

 真面目な感じのアオイが逆に動物に興味があるというのも、また面白い。その様子を思い浮かべると、彼女もやはり年頃の女の子らしいなと思った。

 そこで、なほが訊ねてくる

 

「暁歩さんが見た猫さん、まだお庭にいますかね?」

「どうだろう・・・分からないけど、見てみる?」

「はい!」

「それじゃ、行ってみようか」

 

 三人とも猫を見たいらしいので、暁歩は煎餅を口に放り込んで噛み砕き、席を立つ。

 そして四人で南の縁側へ向かう。

 

「ただ、衛生面を考えると野良猫を入れるのはあまりよくないんだけどね」

「ですよね・・・」

「可哀想だけど、竹垣に穴でも開いていたら塞がないと」

 

 ちゃんと家で飼われているならまだしも、野良猫は雑菌や病気を持っているかもしれないので、医療施設に自由に出入りさせるわけにはいかない。それは三人も分かっているようだが、それでも残念そうだ。

 

「しかし、意外だなぁ。アオイさんが動物好きとは」

 

 暗くなってしまった空気を変えようと、暁歩が先ほど上がった話を切り出す。

 

「あ、でも本当に好きかは分かりませんよ?町で見ていたのも、ちょっと気になっていただけかもしれませんし・・・」

「逆に苦手なのかも・・・」

 

 きよとなほの言葉ももっともだ。

 視線を向けていたのは『好き』とまではいかない単なる興味の対象だからかもしれないし、逆に苦手だったからかもしれない。現に、動物が苦手なしのぶの例もある。

 

「まあどちらにせよ、猫がいることは注意喚起も込めて伝えた方がいいか・・・」

 

 そうして話しているうちに、南の縁側が近づいてくる。暁歩はどのあたりで猫を見かけたんだっけと思い出しながら、きよたちはかわいい猫の姿を思い浮かべながら、それぞれ足を進める。

 

「えっと、確かあのあたりに・・・」

 

 そして四人が縁側に着き、暁歩が猫を見かけた草陰を指さそうとすると。

 

 

「はわぁぁぁぁぁぁ・・・」

 

 

 恍惚とした表情で猫を抱きかかえ頬ずりをするアオイの姿がそこにあった。

 

『・・・・・・』

 

 暁歩たち四人は、固まった。

 比較的新参者の暁歩はもちろん、彼女と付き合いの長いきよ、すみ、なほの三人でさえも、あんな表情のアオイは見たことがない。普段の真面目さの欠片もないほど、緩みきって、愛おしそうな表情など。

 そんな様子を見れば、アオイがああいう動物が大好きなのは誰でも理解できた。

 

「・・・あっ」

 

 そしてようやく、アオイが我に返った。

 暁歩たちの視線がアオイに向いているのに気づき、先ほどまでの自分の行動を思い出して、今度は恥ずかしさで顔が赤く染まっていく。

 

「こ、これは違うんです!どこから入ってきたんだろうって近づいたら、この子が物欲しそうな顔で見上げてきて!そしたら急に抱き着いてきて!それで―――」

「みゃぁ」

「はぅ・・・・・・」

 

 必死で弁明しようとするも、未だ胸の中にいる猫が一つ鳴くと、骨抜きにされたような声を洩らすアオイ。

 その様子に、暁歩ときよたち四人は顔を合わせて頷き、

 

『ごゆっくりどうぞ・・・』

 

 その場をそそくさと離れることにした。

 

―――――――――

 

 そして、その日アオイが見せたあどけない表情は、しばらくの間蝶屋敷で話題となり、そのたびにアオイは赤面して黙りこくってしまったとか。




≪おまけ≫

その日の夕食の時間。

「いいですか!?あんな可愛い猫相手にしたら誰でもあんな顔になっちゃいますよ!わかります!?」
「いや、それは・・・」

 顔を真っ赤にしたアオイに問い詰められる暁歩は、残りの人に視線を向ける。
 きよ、すみ、なほは意図的に視線を逸らして救援が望めない。
 カナヲは黙々とご飯を食べている。
 そしてしのぶは、ニコニコと笑みを返すだけだった。

「・・・どうでしょうかね」
「何でですか!」


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第6話:一緒に

感想・評価・お気に入り登録、とても励みになります。
本当にありがとうございます。


 暁歩もようやく解毒薬と毒に関する勉強が本格的に始まり、しのぶ指導の下で解毒薬の調合を始めるようになったのは、蝶屋敷に来てから二か月目のことだ。

 しのぶ曰く、毒を使う鬼は珍しくなく、そのほとんどが即効性を持っていたり、肌に触れるだけで危険を伴う経皮毒、あるいは体組織の構造まで変えてしまう強力な毒らしい。

 そんな時こそ、解毒薬がなくてはならない。

 しのぶの作る解毒薬は、毒を中和して無力化し、毒の回るのを止めるか遅らせる。中には瞬く間に毒を中和・分解して、完全に回復させる優れ物もあるらしいが、それは相応の代償を伴う故に使う機会は選ばなければならないという。よく効く薬ほど反動も大きいという摂理には、さしものしのぶも逆らえないらしい。

 そしてしのぶは、実際に現場で状況に合わせて、鬼の毒に確実に機能する解毒薬をその場で調合できる。その業は、迅速かつ的確な状況判断力と、毒に関する詳しい知識を持っていなければできない。この面が、他の柱と一線を画すところだ。

 

「鬼の使う毒は、基礎的な成分が同じであることが、調べていて分かりました。なので、私が作る解毒薬もまた、基準となる部分はどれも同じなんです」

「なるほど・・・」

 

 しのぶは鬼を殺すための毒を研究する傍らで、同時に鬼が使う毒に関しても研究をしていた。その中で、鬼の使う毒の構造に共通の成分が含まれていることを突き止めたと言う。その気の遠くなりそうな研究の日々を想像すると、本当に驚嘆に値する。

 

「ですが、恐らく暁歩さんは現場に赴く機会もほとんどないでしょうから、屋敷に運び込まれた方に使う解毒薬を作ってくださればそれで充分です」

「分かりました」

「それと、『隠』の方々に持たせている簡易的なものも作れると良いですね」

 

 毒に侵されている隊士が運び込まれることもある。その際は、しのぶが作り置いている解毒薬を投与して毒を無力化し、それから通常の薬で毒素をゆっくりと取り除いていく手筈だった。

 だが、暁歩が状況に応じて解毒薬を調合できるようになれば、より早く解毒できるようになる。ひいては、回復するまでにかかる時間を少しでも短くできるかもしれない。

 そこまで成長するには時間がかかるだろうが、それでも暁歩は頑張りたいと思う。

 

「頑張ります」

「その意気ですよ」

 

 微笑みかけてくれるしのぶ。

 期待に応えるためにも、毒に関する勉強は進めなければならない。もともと薬学には問題なかったが、毒となれば話は別だ。薬の延長線上にあると捉えれば気持ちは楽だが、それでも危険な物質を扱うから細心の注意を払わねばならない。

 それでもなお、熱心に取り組もうと思うのは、しのぶの負担を減らしたいと考えているからだ。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 そうして毒に関する勉強を続けつつ、通常の薬も作っているある日のこと。

 

「・・・無くなってる」

 

 切らしてしまっている薬種があった。頻繁に使うものではないが、解毒薬を作るにあたって欠かせないもので、使う機会が少なくても重要なものだ。

 

(訊くしかないか)

 

 暁歩はまだ、薬種をどこへ買いに行けばいいかを教わっていない。南にある街の問屋で買うのは知っているが、具体的な場所を知らなかった。なので、切れた際は誰かに付き添う形で教えてもらいたかったが、以前アオイが買いに行って以来薬種は切れなかった。

 こうなると、誰かに頼むしかない。そしてできれば、暁歩が買いに行くのに付き添って今後一人でも買いに行けるようにするべきだ。

 そう思ったところで、部屋の戸が叩かれる。

 

「はい」

「こんにちは」

 

 戸を開けて入ってきたのはしのぶ。丁度いいと思ったが、しのぶも何か別の用があるのかもしれない。

 

「何かありましたか?」

「いえ、ただ様子を見に来ただけですよ。最近は暁歩さん、熱心に勉強していますから」

 

 不意打ち気味に笑みを向けられて、照れくさくなる。『ありがとうございます』と口で答えるが、その実鼻の頭が痒い。

 しかし、しのぶがあまり忙しそうではないのを見ると、暁歩は本題を切り出す。

 

「すみません、足りない薬種がいくつかあるんですけど・・・」

「あ、それは買いに行かなければなりませんね」

 

 暁歩が、切れてしまった薬種を伝えると、しのぶは少し考えるような仕草を取ってから暁歩を見る。

 

「暁歩さんは、薬種を買いに行ったことは・・・」

「それが・・・一度もなくて」

「それでしたら良い機会ですし、一緒に買いに行きましょうか」

 

 しのぶの提案は、まさに渡りに船だ。

 現在蝶屋敷で治療中の隊士は、比較的症状が軽く、投薬の治療も必要としていないためアオイたちだけでも十分対処できる。

 

「ちょうど私も、気分転換を兼ねて出掛けるつもりでしたし」

 

 気分転換。

 思えば、しのぶは柱として普通の隊士よりも強力な鬼との戦いに身を投じており、それだけ凄惨な現場も見ていることだろう。だとすれば、それだけ心は知らず知らずのうちに疲弊し、悲しみや怒りは蓄積されていくに違いない。しのぶ自身の口からも、自分の中にそういった感情が溜まっていると聞いた。

 過去に大きな傷を心に負っているからこそ、しのぶの心は不安定だろう。あの日話を聞いた時の、内面でとぐろを巻いている黒い気持ちが滲み出た言葉は忘れていない。その気持ちを必死に微笑みで隠そうとしていたのも、覚えている。

 だからこそ、少しでも気持ちを和らげることは大切だ。

 

「・・・それでしたら、ご一緒させてください」

「はい」

 

 頭を下げると、しのぶは快く頷いた。

 そしてそれぞれ準備を整えてから出発することになり、その前にしのぶは手の空いていたなほに話しかけた。

 

「暁歩さんに薬を買う場所を教えがてら出掛けてきますね。何かありましたら、鎹鴉を飛ばしてください」

「分かりました!」

 

 なほが返事をするとしのぶは頷き、暁歩も『よろしくね』と声をかけて玄関を出る。

 その様子を見送っていると、後ろからアオイが話しかけてきた。

 

「しのぶ様と暁歩さんは、どちらへ?」

「暁歩さんに薬の問屋を教えがてら、少し出掛けるとのことです」

「へぇ・・・」

 

 アオイはしばしの間、ちらっと見えたしのぶと暁歩のことを思い浮かべる。

少し前まで、蝶屋敷には運び込まれてくる隊士以外で男性などいなかった。だから、しのぶが男と二人で歩いているのを、アオイは随分と新鮮に思える。

 

「そういうことね。それじゃあなほ、二階の部屋の換気と掃除をしてもらってもいい?」

「はい!」

 

 だが、自分たちは自分たちでできることをしようと思い、アオイはなほに指示を出す。

 そしてそれぞれが、行動を開始した。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 黙って並んで歩くのも何だったので、街へ行く道すがら、暁歩はしのぶに話しかける。

 

「しのぶさんは、街へよく行くことが?」

「ええ。薬種のお店もそうですが、甘露寺さんから教わった料理を作る際の食材もそこへ」

 

 蝶屋敷に置かれている薬種は、最初はしのぶが直接買いに行っていたが、今はアオイやきよたちを連れて行くことが多いらしい。そして蜜璃から教わった料理の食材は、まだあまり一般に馴染みのない食材を使うことが多いため、食材が揃っている街の店の方で買っているとのことだ。

 

「それ以外にも行くんですか?」

「そうですねぇ・・・時間や予定にもよりますけど、たまに色々と見て回ります」

「それでしたら、今日はそういうところも回ります?気分転換というわけですし」

 

 提案すると、しのぶは頷いた。

 

「・・・では、そうしましょうか」

「はい」

 

 前に聞いていたが、その街は確かに蝶屋敷から少し遠かった。

 だが、そこは辿り着いてすぐに広いと分かるほど賑わいを見せていた。暁歩が昔住んでいたところよりもさらに広く、発展している。

 まず第一に、当初の目的である薬種の問屋へと赴く。そこは、街の中心地より少し離れた場所にひっそりと居を構えていた。

 

「こんにちは」

「いらっしゃいまし」

 

 戸を開けてしのぶが挨拶をすると、随分と痩せた老人が返事をした。しのぶが『店のご主人ですよ』と耳打ちすると、暁歩もしのぶと同じように挨拶をする。

 店の中は、暁歩も慣れ親しんだ薬種の匂いが漂っている。ただ、明かりが少なくて若干薄暗い感じがした。入口から差し込む日の光でかろうじて明るくなっている程度だ。

 

阿膠(あきょう)忍冬(にんどう)皂莢(そうきょう)、それから威霊仙(いれいせん)もお願いします」

「あいよ」

 

 その横でしのぶは、あれこれと欲しい薬種を伝えていき、主人は腰を上げて言われた通りの薬種をそれぞれ袋に小分けに詰めていく。周りを気にしている場合じゃないと、暁歩はしのぶの様子を観察する。と言っても、ここは自分で欲しい薬種を探すのではなく、主人に欲しい薬種を伝えて取ってもらう方式のようだ。

 

「あんたらみたいな若いのが、こんなに薬種なんてどうするつもりなんかね」

 

 代金を払い、薬種を受け取りながら聞いた主人の言葉に、暁歩はぐっと詰まる。

 鬼殺隊の存在は大衆に広く認知されていない。一般人の中で鬼殺隊を知っているのは、命を助けられた『藤の花の家紋』の家や、実際に鬼狩りの現場に偶然居合わせた人ぐらいだ。鬼だなんだと言っても大体信じてもらえず、帯刀も禁止されているので説明のしようがない。当然蝶屋敷のことを話しても無駄だ。

 

「まあ、私たちでも使う機会は多いのですよ」

「ほーん・・・疚しいことには使うんじゃないよ」

 

 適当にしのぶがはぐらかすが、主人は釘を刺してくる。

 疚しいと言われて暁歩はむっとするが、傍から見てもしのぶと暁歩は若い。そんな二人が詳細も言わずに薬種を買うとなれば、怪訝になるものだ。

 しのぶはにこやかに『ありがとうございます』とお礼を言って店を出て、暁歩もそれに続く。

 

「ごめんなさいね。ご主人、ちょっと偏屈なところがあるんですけど、根は良い人ですから」

「俺は・・・気にしてませんよ」

 

 気を悪くしたと思われているようだが、そんなことはない。なまじ自分たちの素性が分からないうえにまだ若いから、疑われるのも仕方ないと思っている。

 しのぶが持っていた薬種の袋を受け取って、風呂敷に包み暁歩が持つ。

 これで第一の目的である薬種は手に入れたから、後は街で自由に時間を過ごすだけでいい。

 

「次は・・・どこへ行きます?」

「とりあえず、街の中心まで行きましょうか」

 

 色々回ろうと提案した身で恥ずかしいが、暁歩はこの街のどこにどんな店があるのか知らない。結局はしのぶに任せることになったが、元は彼女の気分転換が目的だからその方がいいだろう。

 まずは街の中心へ向かうために、一度大通りへ出る。その規模からかやはり人通りも多く、並ぶ商店も活気があった。

 

「結構賑わっていますね」

「ここは大きな街道が交わるところなので、来ると大体こんな感じなんですよ」

 

 並んで街を歩きながら、しのぶと話を進める中で暁歩は気になることがあった。

 普段のしのぶは、何をして過ごしているのだろうと。

 知る限りでは、鬼殺隊の柱として任務を遂行し、薬学や鬼を殺す毒の研究を進めている。また、鍛錬も欠かさない。しかしそれ以外についてはどうだろうか。

 

「しのぶさんって、空いた時間はどう過ごしているんですか?」

「空いた時間、ですか?」

「鬼殺隊の任務とか研究以外・・・例えば、趣味とか」

 

 訊いてみて、しのぶは歩きながら少し視線を上に向け、自分の普段を今一度思い返してみる。が、眉を下げてしのぶは笑った。

 

「あまり、これと言ったものは無いですね・・・」

「そうですか・・・」

 

 しのぶの言葉に、暁歩は変なことを聞いてしまったと申し訳なくなる。

 そこで、人の流れが一時的に切れて、暁歩としのぶの周囲に少し間が開くと。

 

「・・・鬼への恨みや憎しみが、強いものでしたから」

 

 その一言が、胸を痛ませる。

 しのぶを衝き動かす根底の感情は、家族を奪った鬼に対する強い憎悪だ。特に最愛の姉を奪った鬼は今も生きているようで、その仇を討つためにしのぶは今日まで己を磨き上げてきた。それ以外のものには、ほとんど目もくれず。

 この前蜜璃が渡した料理の本は、そんなしのぶにとっては貴重な息抜きなのかもしれない。あの本を受け取った時は、心なしか嬉しそうだったから。

 だが、それだけでは心もとない。

 強い復讐心は時として強い力をつける。それでも、憎しみや怒り、悲しみで己を衝き動かす人を見るのは、暁歩には放っておけず、どうにかしたいと思う。

 

「ああ、でも」

「?」

 

 そこでしのぶが何かを思い出すかのように声にする。

 どうやら、趣味と言えるものがあったようで暁歩も少し安心する。

 

「寝る前に怪談話を読んだりはしますね」

「何で怪談話を・・・しかも寝る前に・・・」

 

 だが、明かされた趣味(?)に暁歩は苦笑する。寝る前の怪談話なんて、思いつく限りでは最悪の取り合わせだ。

 

「俗信や迷信はあまり好まないのですけど、怪談話は好きな方で」

「寝る前に読むのはいいんですか?悪夢でも見そうですけど・・・」

「それは怪談を嫌うからではないでしょうか?私もですが、好きな人はそう言う夢もあまり見ないんですよ」

 

 確かに苦手な人からすれば大して恐れないのだろうが、寝る前は勘弁してほしい。暁歩だったら間違いなく嫌な夢を見る自信があった。

 

「そう言う暁歩さんは、何か本を読んだり?」

「俺はまあ・・・普通の小説とかですね」

 

 別に暁歩は本の虫と言うわけでもない。気晴らしに読む程度でどんな作家が好きなどもない。

 

「では、さっき暁歩さんが私にしたのと同じ質問を」

「?」

「暁歩さんは空いた時間はどう過ごしていますか?」

 

 言った通りで、しのぶに訊いた質問を返された。

 自分の普段の生活を顧みるが、やがて人のことは言えなかったと暁歩は苦笑する。

 

「そうですね・・・自分は鍛錬か薬の勉強ですね・・・」

「ああ、そう言えば朝に暁歩さんが鍛えているところを何度か見かけました」

「見ていたんですか・・・?」

「はい。きよたちも見ていましたよ」

 

 見られて恥ずかしくはないが、いざ改めて『見ていた』と誰かに言われると無性に恥ずかしくなる。きよたちはともかく、柱のしのぶにまで見られたとなれば駄目出しを受けるかもしれない。

 

「鍛錬は、お師匠さんの下で修業していた時と同じことを?」

「はい。決して師匠から教わったことは無駄じゃないですし、少しでも身体を動かさないと鈍ってしまいますから」

 

 蝶屋敷に来てからは、洗濯物を運んだり人に肩を貸す以外では力仕事らしい力仕事もない。二年もの修業で鍛えた身体を無駄にしたくないし、何より身体は鍛えるに越したことはなかった。

 

「それに、有事の際はすぐに動けるようにしておかないと」

 

 以前、アオイを庇って鬼と戦った日のことを思い出す。あの日暁歩は、鬼に対する恐怖で上手く戦えなかったが、自信を取り戻して日輪刀にも色が付いたから、蝶屋敷の皆を守るとしのぶに告げた。

 

「・・・あの日、暁歩さんが一人で鬼と戦おうとした日」

「?」

「蝶屋敷の皆を守る、って暁歩さんが言った時、私はすごく安心したんです」

 

 おもむろにしのぶが話し出す。だが、その視線は少し下に向いていた。

 

「蝶屋敷で暮らす皆のことを、私は本当の家族のように思っています。だから、任務で屋敷を留守にする時は心配でなりません」

「・・・」

「夜は欠かさず、藤の花の香を焚かせていますけどね」

「あ」

 

 しのぶから指摘されて、今さら気づいた。

 鬼が行動するのは基本夜だし、夜間は屋敷でも鬼の嫌がる藤の花の香を焚いている。それで鬼の進入を防いでいるのだから、守るも何もなかった。

 ちぐはぐな自分の発言を取り消したい衝動に駆られるが、それもしのぶが口を開いたことで思い止まる。

 

「それでもやはり、心強いですよ。『家族を守る』と言ってくれる人がいるのは」

 

 暁歩を見てしのぶは微笑む。

 その微笑みと真っすぐな瞳に、暁歩は視線を逸らす。そうした言葉をかけられたり、優し気な目や表情を向けられることに慣れていないから。加えて、しのぶの綺麗な顔立ちを前にすると尚更直視できない。

 

「・・・それは、どうもです」

 

 そう返事をするのが精一杯だ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 街をぶらぶらと散策し、昼食はうどん屋で摂ることになった。しのぶがこの街へ来る時はいつも賑わっており、しのぶが入ったことがないと言っていたので入ってみる。

 気になるその味の方は。

 

「ん、美味い」

「本当、美味しいですね」

 

 繁盛するのも分かるほど美味しかった。麺のコシは程よく、つゆも味が濃すぎない良い塩梅だ。ちなみに暁歩は山かけうどん、しのぶは大根おろしうどんだ。

 

「うどんは屋敷では作れないですからねぇ」

「まあ、手間がかかりますし」

 

 表情を綻ばせながらうどんを啜るしのぶ。確かに、麺から作るのは少し大変なので、こうして外でしか食べる機会もないだろう。

 

「この後はどうしますか?」

「では、甘露寺さんから教わった料理の食材でも買いに行きましょうか」

「良いですね」

 

 折角街まで来たので、教わったハイカラな料理の食材を買うことが決まった。どういう料理ができるのだろう、と暁歩の中で期待が膨らむ。味についての心配はしていない。

 するとそこで、暁歩はあることに気付く。

 

「あ、しのぶさん。ちょっと」

「はい?」

 

 そして暁歩は、ハンカチを取り出してしのぶの頬をそっと拭く。

 突然のその行動に、驚くしのぶ。

 

「すみません、大根おろしが付いていて気になっていたものですから」

 

 軽率な行動を暁歩は謝りながら、ハンカチを畳み懐に仕舞う。指摘すると恥ずかしい思いをさせてしまうかもしれないから、先に行動に出てしまった。

 少しだけキョトンとしていたしのぶだが、ふっと小さく息を吐いて、またいつものような笑みを浮かべる。

 

「ありがとうございますね」

 

 その声に若干の照れが混じっているように聞こえたのは、暁歩の気のせいだろうか。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 うどん屋を出た後は、また散策をする。

 呉服屋や食器店を気ままに見て回るが、しのぶは見て楽しむに留めておき、財布を出して会計にまでは至らない。暁歩も別に入用のものは無かったので、しのぶに合わせている。

 そうして街を歩いていると、目を引く髪の色の人を見かけた。

 

「あれ、甘露寺さんですかね?」

「恐らく」

 

 薄い緑と桃色の髪の人など、暁歩もしのぶも一人しか思い当たらない。

 そしてそんな彼女だが、誰かと一緒に歩いていた。白と黒の縞模様の羽織を着て、肩に届く程度の黒髪の人は、雰囲気からして男に見える。後は、首周りに蛇のような白く細い何かが巻かれていた。

 

「あれは伊黒さんですね」

「お知り合いですか」

 

 しかししのぶは、その縞模様の羽織の人と知り合いらしい。

 そしてその呟きが聞こえたのか、その二人が暁歩たちの方を振り返ってきた。

 

「あ、しのぶちゃん!暁歩くん!」

 

 案の定、女性の方は蜜璃だった。振り向いてしのぶと暁歩の姿を認めると、溌溂とした笑顔で手を振ってくれている。

 その隣にいた男も振り返るが、その瞳は左右で色が違っていた。そして口元が包帯で覆われており、首に巻いていた『蛇のようなもの』は本物の蛇だ。それと何故か暁歩に対して猛烈な殺意を籠めた視線を向けてくる。びりっと、暁歩の中で『嫌な予感』がした。

 

「二人とも揃ってどうしたの?」

「暁歩さんに薬種の店を教えるついでに、少し気分転換を」

 

 蜜璃は普段の調子でしのぶと話をしている。

 必然的に暁歩はその殺意の視線を浴びせる男と向き合うことになったが、鬼殺隊の隊服を着ているため同僚と思い、挨拶はしなければダメだと思った。

 

「初めまして。蝶屋敷の薬剤師、佐薙暁歩です」

「・・・伊黒(いぐろ)小芭内(おばない)()()だ」

 

 名乗ったら、やや憮然とした態度で名乗り返される。

 そして、またしても柱だと知って暁歩の心が凍結する。鬼殺隊最高峰の強さを誇る柱三人と顔を合わせるとは、普通の隊士でも滅多にないことだろう。

 それにしても、蜜璃と小芭内の柱二人で連れ立っているとは、何かの任務だったりするのだろうか。

 

「伊黒さんと甘露寺さんは、今日は?」

「ちょっと二人でお出かけしてるところだよ~」

 

 暁歩が訊ねると、蜜璃がにこにこと笑って答える。すると、なぜか誇らしげに小芭内が鼻で息を吐いてきた。

 

「あら、それはお邪魔だったでしょうか?」

 

 しのぶが少し揶揄うように微笑むと、蜜璃は『そんなことないよ~』と頬を赤らめながら否定するが、隣にいた小芭内は。

 

「邪魔だと思っているなら俺たちは行かせてもらうぞ。暇なお前たちの相手をしている暇など無いからな」

 

 妙に粘着質な感じで話す小芭内。首にゆったりと巻き付いている蛇が、小芭内に同意するようにちろっと舌を出した。

 

「行くぞ、甘露寺」

「あ、はい。それじゃあね~!」

 

 そして小芭内は、蜜璃の手を引いてせかせかと行ってしまった。

 その様子を、少しの間立ち止まって見届けるしのぶと暁歩。

 

「お邪魔だったみたいですね」

「はあ・・・」

「少し距離を開けましょうか」

 

 時間を置いて、また鉢合わせる可能性を少なくしようと、しのぶが近くにあるお茶屋に足を運ぶ。自分たちは特に急いでいるわけでもなかったので、暁歩も後に続いた。

 席に着いて、二人分の団子を頼むと、しのぶは待っている間に蜜璃と小芭内のことを教えてくれる。

 

「あのお二人、一緒にいることが多いんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。甘露寺さんは誰とでも仲良くなれる方ですし、伊黒さんは気難しいところがありますけど、甘露寺さんには心を開いているようで」

「へぇ・・・」

 

 蜜璃に対する印象は、最初に会った時も同じことを暁歩は考えていた。

 そしてしのぶから、柱同士の人間関係を少しだけ教えてもらって、『柱』に興味が湧いてくる。

 

「意外と・・・柱の皆さんも仲良くしていらっしゃるんですね。師匠も『柱はすごい人たちばかりだ』って言ってたので、ちょっと想像できなかったんですけど・・・」

「ええと、あの二人はちょっと例外と言いますか・・・」

 

 柱同士は仲良しこよしと言うほどでもなく、かと言ってピリピリもしていない。強力な鬼を相手にすれば共闘もするし、蜜璃と小芭内のように一緒に出掛ける関係性の人もいる。中には互いに鍛錬をして技を競い合う者もいた。協調性がない人もいるけれど、としのぶはとある水柱のことを思い浮かべる。

 

「でも・・・最初は『威圧感がすごそう』って印象がありまして。しのぶさんや甘露寺さんと話してみると、親しみやすい人もいるんだって分かりました」

 

 お茶を飲みながら、伊黒さんは分からないですけど、と付け足す。

 一方でしのぶは、これまで自分と会った隊士の反応を振り返る。ほとんどの隊員は、柱であるしのぶを前にすると平身低頭を貫き、機嫌を損ねてはならないと必死で取り繕っていた気がする。

 

「威圧感云々は人によりますが、私達も同じ鬼殺隊の一員ですからね。ただ、階級や強さは意図しない溝を作ってしまいがちですが」

「実際会って話してみれば、その印象も変わると思うんですけど・・・」

 

 頼んでいた二人分のみたらし団子がやって来た。それぞれ一本ずつ手に取り、もちもちとした食感と和やかな味を楽しむ。

 

「けれど鬼殺隊は、鬼を倒すことが全てですから」

 

 鬼殺隊は鬼の殲滅がすべてだ。隊内の上下関係の厳しさや、柱の印象だの階級だのはそれと比べれば大した問題ではない。

 しのぶの言い分も分かるが、暁歩はみたらし団子を食べながら考える。自分がどう見られているのかが気になる性質で、誰かがどう思われているのかもまた気になる性格だから、やはりそのまま忘れることができない。

 

「あ、暁歩さん」

「?」

 

 何かに気付いたように、しのぶが話しかける。しのぶを見ると、すぐさまその細い指が暁歩の口元に伸びて少し触れた。

 

「ついてましたよ」

 

 どうやら、団子のたれが付いてしまっていたらしい。うどん屋とは逆の立場で恥ずかしい。

 あまつさえしのぶは、拭き取ったたれをどうするか迷った末に、自分で舐めてしまったのだ。

 

「・・・」

 

 それを見届けてしまった暁歩は、顔が熱くなってきたのを紛らわせるためにお茶を啜る。

 少なくとも暁歩からすれば、しのぶは緊張せずに接することができる優しい人だと思う。隣で静かに団子を楽しむ姿を見ていると、そこまで肩肘張る必要もないんだよな、と。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 お茶屋を出た後は、その蜜璃から教わった料理を作るための食材を買いに行き、無事に確保することができた。だが、やはり馴染みのない食材だからこそ代金もそれなりにかかったが、しのぶは動揺することなくそれを買う。

 鬼殺隊の給金はそれなりに高く、隊士の中には給金目当てで入隊する者もいるという。そして上の階級になればなるほどその額も上がり、柱は何と欲しいだけ、つまり無制限になる。それを聞いた暁歩は、目の玉が飛び出そうになった。

 そんな柱の経済事情に仰天しつつも帰路に就く。だが、その途中で見た小間物屋を目にすると、しのぶの足が止まった。

 

「・・・少し、寄ってもいいですか?」

 

 しのぶが暁歩に訊ねてくる。

 その時暁歩は、しのぶの声に昔を思い出すような色がほんの少しだけ混じっている様に聞こえた。だが、それには触れずに頷いて、しのぶと一緒にその店へ入る。

 並べられているのは簪や髪飾り、飾り紐など装飾品の類で、男の暁歩にはあまり馴染みのないものばかりだ。

 だが、しのぶはその並べられた品々をゆったりと眺めている。どれも欲しくて目移りする、という風ではなく、まるで懐かしいものを見ているかのようだった。

 

「・・・何か気になるものでもありましたか?」

「いえ、ちょっと・・・」

 

 しのぶは多くを語らずに、曖昧な答えを返すだけだ。

 そして、視線が固定されたのは、髪飾りの棚。雪の結晶、雨の雫、花などを模した錫製の髪飾りが並べられていて、繊細かつ綺麗な色使いに暁歩も感心する。その中には、蝶屋敷で皆が着けている髪飾りと似たようなものがあった。

 

「・・・」

 

 しのぶはそこを、食い入るように見つめている。

 けれど、しのぶの瞳は揺れていて、特段何かが欲しいようにも見えず、結局この小間物屋でも何も買わずに終わった。

 そうして店を出るが、妙な沈黙がお互いの間に漂う。陽も傾き始め、人通りも少し増えてきて周りの喧騒もより大きく聞こえてくるから、対照的にこの沈黙が痛く感じる。

 

「・・・不意に、昔を思い出したんです」

 

 その沈黙を破るかのように、しのぶがそう話してくれる。

 暁歩はしのぶを横目に見つつ、話に耳を傾けた。

 

「・・・ずっと昔、両親も生きていた頃、私と姉さんのために髪飾りを買ってくれたんです」

「・・・」

「丁度、さっき寄ったようなお店で。それでつい、その時のことを思い出して、足が向いたんですよね」

 

 しのぶの両親が良い人なのは聞いているし、しのぶがそんな親のことを大好きだったのも分かる。だからこそ、余計その思い出は忘れられないし、不意に思い出してしまうこともある。

 

「・・・家族を殺めた鬼への復讐を胸に鬼殺隊で戦っていますが、ふと昔のことを思い出すと、どうにも悲しい気持ちが溢れ出そうになるんですよ」

「・・・」

「未練がまだまだ深いみたいですね、私は・・・」

 

 しのぶはまた、いつものように笑みを浮かべるが、今はそれが力無いような儚い印象がある。

 悲しい気持ち、と聞いて暁歩は、放っておけないと即座に思った。やはりしのぶも、心の根底は人並みに脆くて、そして家族との思い出を今でも鮮明に思い出せるほどに、家族に対する愛情が深い。だからこそ、過去の記憶を思い出して心をぐらつかせている。

 そう理解した時、暁歩は空いた手でしのぶの手をそっと握った。

 

「・・・」

 

 ためらいがちに握られたその手をしのぶは見て、そして暁歩のことも見る。

 その視線を感じながら、暁歩は口を開く。

 

「家族との思い出を覚えているのは、それだけしのぶさんが、家族が大好きだったということですよ。それは未練とは違う、抱いて当然の感情です」

 

 前を向いて歩きながら、暁歩は続ける。

 

「復讐心は、鬼と戦う純粋な原動力になります。けれど、その復讐心を生み出す心まで折れたら、しのぶさんはそれこそ本当に戦えなくなってしまうでしょう」

「・・・」

「そのしのぶさんの心を支えたいと、俺は思っています。だから・・・」

 

 折れないように、悲しみで押し潰されないように、支えるためにその手を握った。

 

「・・・もし、迷惑だったらごめんなさい」

 

 話しているうちに、自分は何かとんでもないことをしてしまったのではないか、いやしていると自信がなくなってきた暁歩。

 だが、しのぶは気を悪くした様子もなく、まるで縋るようにその手をそっと握り返してきた。

 

「・・・もう少しだけ、こうさせてください」

「・・・分かりました」

 

 しのぶの手は、男の暁歩と比べると小さくて、少しだけ冷たくて、そして何より柔らかい。何気にこうして異性と手を繋いだことなど初めてだったから、そこに意識が向いて仕方がない。

 鼓動が早まってきて、血液が沸騰している様にも錯覚する。さらに顔にまで熱が伝わってきて、暁歩は必死に『落ち着け』と自分に言い聞かせる。

 

「暁歩さん、顔赤くありません?」

「・・・夕日のせいです」

 

 しのぶが顔を覗き込んで訊いてくるが、暁歩は白を切る。

 その苦しい返事に、しのぶは小さく笑って。

 

「では、そう言うことにしておきましょうか」

 

 照れていることはお見通しらしい。

 敵わないな、と暁歩は思いながら二人で蝶屋敷への道を歩く。

 その手はしばらくの間、離すことは無かった。




≪おまけ≫

 しのぶと暁歩から離れた小芭内は、蜜璃の手を引いてせかせかと歩き、定食屋に入って腰を下ろす。蜜璃がゆうに十人分を超すほどの料理を注文すると、頬杖をついて小芭内のことを見る。

「でもすごい偶然だったなぁ。しのぶちゃんと暁歩くんに会うなんて」
「・・・そうか」

 小芭内は腕を組んで考える。
 鬼殺隊の任務以外で、普段どう過ごしているかも分からない隊員と鉢合わせることはあまりない。多忙な柱となればなおさらだ。
 だから先ほど、小芭内はしのぶたちとばったり会ったことには確かに驚いたが、問題はそこではない。

(あの佐薙とかいう男、妙に甘露寺と親しげだったな・・・)

 目測では、暁歩の年齢はしのぶと同程度に見えた。つまり蜜璃よりも年下だから名前で呼ばれていたのだし、蜜璃の社交的な性格もあって仲良くなったのは予想ができる。
 それでもやはり、名前で呼んでもらって、さらに仲良さげなのを見ると釈然としない。

(佐薙暁歩・・・覚えたぞ、お前の面)

 暁歩は知らないところで妙な恨みを買われた。


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第7話:贈る花

 真っ白な雪が降りしきる中、暁歩は頭に笠を被り隊服を着て、円匙を雪に突き刺す。

 

「よっこらせと」

 

 声に出して踏ん張りながら、掬った雪を別の場所へ放り投げる。

 振り返ると、門扉から玄関までの雪はあらかた払われ、敷かれていた石畳が見えるようになっている。脇に植えられた紫陽花にも雪は薄っすら積もっており、風情があった。

 

「わっ、綺麗になってますね~」

 

 玄関の戸を開け様子を見に来たすみが、雪かきが終わったのを見て嬉しそうに言う。傍目に見ても問題ないようで、暁歩は少し安心した。

 

「これぐらいかな」

「はい。これだけ雪が払われていれば大丈夫だと思います」

 

 治療するのが目的のこの屋敷で、辿り着くまでの道が雪で歩きにくかったらどうしようもない。この時期、雪が降り積もる日になると、蝶屋敷の貴重な男手である暁歩は雪かきに追われていた。

 暁歩がここに来る前は、こんな日はアオイやカナヲ、それにすみたちで頑張っていたらしい。雪かきは結構な重労働のため、良い鍛錬になるとのことだ。ちなみに、すみたちは空いた時間に雪だるまを庭で作るのが楽しみだという。

 

「お茶が入ってますよ」

「助かるよ、ありがとう」

 

 すみが手招きをすると、暁歩は肩や笠に積もった雪を払って玄関をくぐる。隊服は遮熱性が抜群だが、手や顔は冷気に中てられて寒かったので、屋敷の中が随分と温かく感じる。

 

「患者の皆さんの容態はどう?」

「今のところは大丈夫みたいです。ただ、寒いのか皆さん布団にくるまってじっとしていますね・・・」

「訓練とかができれば、身体を動かして温かくするのもいいけど・・・」

 

 病室には火鉢が置いてあるので極寒ではない。布団にくるまるのも暖を取るにはいいが、身体を動かした方が鈍らないで済むし、できることならそちらの方がいいと思う。

 そして、たとえ雪が降りしきろうとも鬼殺隊と鬼の戦いは続いている。特に今は体温が奪われやすいので、大怪我を追うと文字通り分秒を争う事態になる。

 

「・・・もうすっかり冬か」

「どうしたんです?」

「いや、ここに来て随分経ったなぁって思ってさ」

 

 暁歩が蝶屋敷に来て、もうすぐ十か月。

 気が付けば、それだけこの蝶屋敷に馴染み、隊員の治療にも慣れていた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 雪の日は、洗濯物を外で干せないため、水洗いから干すのに至るまで全て室内になる。そして部屋干しだと乾くのに少し時間がかかるため、外干しと比べるとそこまで忙しくはならない。なので、最近では問診や雪かき以外の時間は大分融通が利くのだ。

 

「あの、暁歩さん」

「?」

「実はちょっとお伝えしたいことがございまして」

 

 食卓でお茶を飲み温まっていると、きよが椅子を引き何やら真剣な様子で話しかけてきた。暁歩も何か重要な話だと感じ取り、湯飲みを置く。

 

「もうすぐ、しのぶ様の誕生日なんです」

「え、そうなの?」

「はい」

 

 記念日が近いと聞いて、暁歩も驚く。

 誕生日とは年に一度しか来ないもので、普段とは違った気分になる。暁歩も自分の誕生日が来た際は、心が無性に踊るような感じがしたものだ。

 だが、その話を切り出したきよは少し表情が落ち込んでいるように見える。

 

「ですが、しのぶ様はあまり・・・そういった日を祝われることをあまり好まないようで・・・」

「そうなんだ・・・」

「はい。カナエ様がいた時は、お祝いしていたんですが・・・」

 

 今は亡きしのぶの姉・カナエは、屋敷の皆の誕生日はいつも祝ってくれたという。おいしい料理を作ってあげたり、何か一つ欲しい物を買ってあげたりと、まるで親のようだった。その時は、しのぶも祝われた時は嬉しそうだったらしい。

 だが、カナエが亡くなってからは少し変わった。誕生日を祝おうとしたら、笑みを浮かべてはくれた。しかし、どこか語調が落ち気味で、心から嬉しいと思っているようには見えなかったらしい。

 きよがそう話すと、暁歩も少し考える。

 

「・・・それじゃ、普通に過ごすってこと?」

「そうなんですけど・・・私たち、しのぶ様にお世話になっていますから、何かしてあげたいと思うんです」

 

 暁歩もそうだが、この屋敷に身を置かせてもらっている点も含めて、しのぶには世話になっている。それでもしのぶは、この屋敷に住む人を家族と思っているから、もしかしたら『世話になっている』と思ってほしくないのかもしれない。

 だが、きよたちは家族だからと今の状況に甘んじているだけでなく、日ごろの感謝を込めて何かをしてあげたいそうだ。これはきよたちだけでなく、アオイやカナヲも同じつもりらしい。半年以上経っても暁歩はカナヲのことがよく分かっていないが、それでも人に感謝の気持ちを持っているのなら文句はない。

 

「なるほど・・・きよちゃんたちは何を?」

「しのぶ様、普段任務で疲れてると思いますから、肩もみなどでお身体をほぐしてあげようかなって」

 

 きよ、すみ、なほの三人に身体をほぐしてもらっているしのぶの姿を思い浮かべる。ささやかな親孝行のような感じがして、思い浮かべるだけで和む。

 

「アオイさんは、お夕飯にしのぶ様の好きなものを一品出すつもりみたいです」

「なるほど・・・」

 

 一品とさりげない感じがするあたり、アオイらしいと思う。

 カナヲがどうするかについては、きよも把握してはいないらしい。

 となれば、暁歩一人だけが何もしないわけにもいかない。

 

「・・・何をすればいいんだろう」

「それは自分で考えた方がいいと思いますよ・・・」

 

 きよから困った笑みを向けられて、まったくもってその通りだと暁歩は思った。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 しのぶの誕生日の話を聞いて数日後、暁歩は足りない薬種と、屋敷で使う消耗品を買いに街へ来ていた。最初にしのぶに連れられて以来、こうして買い出しを任されることも増えている。

 薬種は難なく手に入り、頼まれた品も買えたので、後は屋敷に帰るだけだ。しかし、暁歩は素直に屋敷に帰ろうとはせず、まだ街に留まっている。その理由は、来るしのぶの誕生日に何かできないかと考えているからだ。

 

(何だろう、何ができるだろう・・・)

 

 しのぶを支えると誓いはしたが、やはり根底には『世話になっている』という意識もある。だからこそ、アオイたちと同様に何か恩返しができればと思った。

 そして何をするかは、きよの言う通り自分で考えるべきである。

 きよたち三人娘は体をほぐし、アオイは好きな料理を作って、カナヲは不明。

 では暁歩はどうするかと問われれば、まだ答えが出てこない。

 そして、あからさまに祝ってはならない、という条件がまた頭を悩ませている。

 

「んー・・・」

 

 小首を傾げ唸りながら道を歩く。降っていた雪も鳴りを潜め、今や地面に薄っすらと積もる程度。雪解けも間近だ。

 それはさておき、そもそも暁歩はこうして誰かの誕生日をどう祝うかと熱心に悩んだこともない。親の誕生日は家事を手伝うぐらいのことをしていたし、師匠の空見に至っては『祝う暇で修業しろ』と言われる始末。

 それでも、暁歩はしのぶに大きな恩義があるからこそ、何かしなければと決めている。後はどうするかを決めるだけだった。

 それが決まらずに心の中で堂々巡りをしつつ街を歩いていると、花屋を見つけた。

 

「・・・花か」

 

 偶然見つけたにしては、悪くないのではと思う。

 花は女性への贈り物としてよく起用されているし、綺麗な色もあって見る人を楽しませたり、あるいは和ませたりもする。流石に何本もの花束を渡すのはあからさまなので、一輪か二輪の花をさりげなく置くのがいいかもしれない。

 そして暁歩の中で、『花を贈ろう』と方針が決定すると、早速花屋へと足を運んだ。

 

「いらっしゃいませ」

 

 人の好さそうな主人のおばちゃんが迎えてくれる。

 店には色々な種類の花が置かれており、中には西洋の花もある。甘い香りが漂っていて、薬種とは違う独特の匂いがする。

 ところが、暁歩は誰かに花を贈ったことなどないため、どれを選べばいいかは分からない。適当に選ぶ、という選択肢はなかった。それは暁歩の中の嫌な予感が発動して全力で止められる。

 

「あの、すみません」

「はいはい、なんでしょ?」

「お世話になった方へ贈る花って・・・どういうのがいいですかね?」

 

 なので、迷わず訊ねることにした。おばちゃんは『あら』と表情をパッと明るくさせる。

 

「ご両親に?」

「あ、いえ・・・親ではなくて。世話になっている方に、日ごろの感謝を込めてと思いまして」

「なるほどねぇ・・・男の人?女の人?」

 

 相手がどんな人かによって贈る花の色や種類も変わるだろう。だからそれを訊かれたと察した暁歩は、『女の人です』と答えた。

 

「あらら、まあ」

 

 途端、妙にニコニコと笑いかけられた。

 何か勘違いしているような気がしないでもなかったが、事情をぼかしつつも説明して花を選んでもらった。何せこういうものに関しては、とんと馴染みがないものだから。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「ただいま戻りました~」

 

 目当てのものを買って屋敷に戻ると、ちょうど通りかかったなほが『おかえりなさい』と出迎えてくれる。そして、暁歩が手に提げている袋を見て、『あ』と興味深げに視線を向けてきた。

 

「お花ですか?」

「うん。しのぶさんの誕生日に、ちょっとね」

「へぇ~、いいと思いますよ」

 

 手を合わせてなほが笑ってくれる。どうやら、悪い選択ではなかったらしい。

 靴を脱いで上がりながら、暁歩はなほに話す。

 

「で、この花は当日にこっそりと部屋に置いてもらいたいんだ。だから、頼んでもいいかな」

 

 暁歩はしのぶの部屋には勝手に入れない。だからこそ誰かに頼むべきだが、なほは少しだけ悩むように『うーん』と言ってから、改めて暁歩を見上げる。

 

「そういうのはやっぱり、暁歩さんが持って行ってあげるべきだと思うんですよね」

「いや、でもね・・・」

 

 なほの言い分も正しい。ささやかなものであれ、祝いの品は直接渡すなり持っていくなりした方がいいのは、暁歩も分かっている。

 

「勝手に入っちゃダメって言われてるし・・・」

「それでしたら大丈夫ですよ。私が話を知っていますから」

 

 なほが事情を知っているから、勝手に入ったことにはならない。

 暁歩の中での抵抗がほんの少し軽くなる。それでもやはり、女性の部屋に入るということに気が引けてしまうが、自分で渡すべきというのもあって頷いた。

 

「・・・それじゃあ、しのぶさんがいないところを見計らって行くから」

「では、その時にまた声を掛けますね」

 

 二人で約束を取り交わしたが、妙になほは嬉しそうだった。内緒で人を喜ばせる計画をするのが、案外面白いのかもしれない。その気持ちは暁歩も分かるような気がした。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 忘れてはならないのだが、暁歩もしのぶも鬼殺隊の一員である。

 そして鬼殺隊の戦っている鬼は、当然ながらしのぶの誕生日など知ったことではなく、今日もまたどこかで闇に紛れて罪のない人々を喰っている。

 

「それでは、行ってきますね」

「お気をつけて・・・」

 

 そんなわけで、しのぶは誕生日の二日前に任務が入ってしまった。

 玄関で見送るのはすみと暁歩。すみは、竹皮にくるんだおにぎりをしのぶに手渡し、暁歩も隣で無事を祈り頭を下げる。

 しのぶは、受け取ったおにぎりを懐に仕舞い、心配には及ばないと言わんばかりにニコリと笑い、玄関を出ると一瞬で姿を消した。

 

「大丈夫でしょうか・・・」

「きっと、大丈夫だと思うけど・・・」

 

 しのぶを案じるように不安げな声を洩らすすみ。

 暁歩はそんな彼女を元気づけるように言うが、暁歩もまたしのぶがどんな戦いをしているのかわからない。

 もっと言えば、鬼との本当の戦いがどういうものかさえ分からない。藤襲山の時も、アオイを助けた時も、正式な任務ではなく場当たり的に戦った感がある。

 

「・・・・・・」

 

 しのぶが普段、どう戦っているのかが分からない。だから、何を見て、どんな場所にいて、どのような鬼と戦ったのかさえ掴めない。しのぶを支えると言ったが、何も分からずに言葉だけで慰めてもどうにもならないのは目に見えている。

 せめて、同じ戦場に立っていれば。

 

「暁歩さん?」

 

 そこで、すみに袖を引っ張られた。考えが止まり、すみを見る。

 

「え、どうかした?」

「いえ、声をかけても応えてなかったので・・・」

「あ、ごめんね。ちょっと考え事をしてたんだ・・・」

 

 笑みを作って問題ない風を装う。

 

「それで、何かあった?」

「えっと、なほちゃんから聞いたんですけど、しのぶ様のお部屋にお花を持っていくんですよね?」

「うん、そうだよ」

「それでしたら、ちょうどしのぶ様は任務に出られましたから、今持って行ってはいかがでしょう?」

 

 元々はしのぶがいない時を見計らって、すみたちに教えてもらう手はずだった。しかし、任務で不在の今ならいつ入っても問題ない。

 だが、暁歩は逡巡してから首を横に振った。

 

「もしかしたら、明日にでも帰ってくるかもしれないし。だから予定通り、明後日の誕生日のいない時間を見計らって置くよ」

「そうですね・・・分かりました!」

 

 早く帰ってくるかもしれない、そのことにすみも表情を明るくする。

 無垢な笑みに暁歩も気持ちが少し楽になってきたところで、二人は問診のために準備に取り掛かった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 だが、暁歩とすみの希望も空しく、しのぶは翌日になっても帰ってこなかった。

 おそらくは任務が長引いているからだろうが、鬼の頸を斬れないとはいえ柱の一人であるしのぶであっても、心配だ。鬼との戦いは死と隣り合わせであり、柱だから死なないという保証もない。もしも今、しのぶが戦っている鬼が強力なものであるとすれば、帰ってきた時には冷たくなっているなんてことも考えられる。

 それを考えると、暁歩はどうしようもなく恐ろしい気持ちになる。藤襲山で死が間近に迫っていると察した時とは比べられないほど、それが怖い。

 恩義があり、自分の自信を取り戻すきっかけを作ってくれて、そして心優しいしのぶが死ぬということが、とてつもなく怖かった。

 その恐怖から目を背けるように、暁歩は調剤室で止血剤を作っている。薬を作る手つきは冷静で、頭でも調剤の手順は分かっているが、同時に『しのぶが心配』という気持ちも途絶えない。

 

「・・・はぁ」

 

 息が詰まる思いで作業をして、一段落すると自分の中のモヤモヤした気持ちを吐き出すように息をつく。

 その時、机の上に置かれている花瓶と花に気づく。

 それは、しのぶの誕生日のために買ったものだ。花瓶は小さめのもので、花も二輪。買った時はまだ花開いていなかったが、今は花弁が開きかけているところだった。

 その花を見て、不安で波立っていた心が少しずつ落ち着いてくる。しのぶのことを考えて買った、自分にとっては初めての贈り物。それにつれて、蝶屋敷のしのぶの姿が脳裏によみがえってきた。

 そして、この花を渡さなければと思い、花瓶を持って立ち上がる。

 

「今、しのぶさんの部屋に入っても大丈夫かな」

 

 食卓にいたすみとなほに訊いてみた。

二人は、暁歩の手にある花瓶を見て、その意図に気づいたのか頷いた。

 

「はい、大丈夫だと思いますよ」

 

 すみが許可を出したことで、暁歩はこの日、初めてしのぶの部屋に入ることになった。何が起きるか分からない、とのことでなほと一緒だが。

 障子戸を開ける前に、何か自分が重大な過ちをしようとしているのではないか、と不安になる。だが、勝手に入るわけでもなく、いかがわしい真似をするのでもない。自分はただ、感謝の気持ちをしのぶに伝えたいのだ、と言い聞かせて戸を開けた。

 部屋は暁歩の部屋より少し広めで、机や本棚、箪笥など一通りの調度品は揃っている。箪笥の上には丸形の水槽が置かれていて、中には金魚が数匹悠々と泳いでいた。それを見て暁歩も、自然と笑みがこぼれる。

 本棚には医学書のような本が何冊も収められており、中には西洋のものらしき書籍もある。机の上には、個人の研究で使っているのか硝子の試験管など実験器具が置かれていた。

 暁歩は、中に入った瞬間に、同じ屋敷のはずなのに妙に違う甘い香りがするのを感じ取った。そして、ここで普段しのぶが生活していると思うとなぜか心がざわついてくる。

 だが、平静を保ち、どこに花瓶を置けばよいか、部屋を見回しながら考える。できれば、あまり目立たないような場所に置きたい。

 

「・・・ここにしようかな」

 

 決めたのは箪笥の上。金魚が泳ぐ丸形水槽のすぐそばだ。ここなら部屋に入った時真っ先に目につく、ということもない。それに、生き物である金魚の水槽のすぐそばなら、逆にずっと気づかれないまま枯れ果てることもないはずだ。

 試しに置いてみて、配置に問題がないことを確認する。なほもそれを見て、同意してから二人はしのぶの部屋を出る。

 

「しのぶさん、無事に帰ってくるといいですね・・・」

 

 食卓へ戻る間に、身を案じるなほの言葉。

 それを聞いた暁歩は、なほの頭にそっと手をのせて。

 

「信じよう、しのぶさんを」

 

 蝶屋敷にいる身でできるのは、しのぶが無事に帰ってくることを祈ることだけだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日、暁歩は当直で夜間も起きていた。

 治療中の隊士に何かあった時や、鎹鴉から来る負傷者の通達に備えるため、最低一人はこうして夜に起きている。ただ、こうした当直を暁歩は半年で何度も経験しているが、眠っている隊士の容態が悪化するようなことは起きていない。鎹鴉からの通達は何度かあるが。

 なので、一定の間隔で病室を訪れたりするぐらいで、後は大体調剤室にいるぐらいだ。

 

「・・・雪か」

 

 調剤室で資料を読みつつ、ふと窓の外を見ると雪が降っていた。夕方頃からはらはらと降り始めたが、今は結構まとまって降っている。雪解けはもう少し先になってしまいそうだ。

 そして雪を見ると、こんな中でしのぶは任務に就いているのかと心配になる。戦っている地域で雪が降っていない可能性もあるが、どうしても悪い方へと考えがちになってしまっていた。

 資料に栞を挟んで、一度調剤室を出る。気分を少し変えたかった。

 明かりはすべて消しているので、調剤室の外は真っ暗だ。おまけに雪で冷気も鋭く、床が冷たい。隊服のおかげでそこまででもないが、寒かった。

 洋灯(ランプ)を手に、気分を変えようと屋敷を回っていると、玄関の方から物音が聞こえた。誰かいる、と思うと床の冷たさも忘れて足早にそこへ向かう。

 やがて辿り着くと、洋灯に一人の姿が照らされた。

 

「・・・おかえりなさい」

「ただいま、ですね」

 

 その姿を見て、暁歩は心底安心した。

 肩や頭に積もった雪を払っていたのは、しのぶだ。任務から帰ってきた彼女は、隊服や羽織に汚れや血などが見受けられないが、少し疲れているのだろう、動きが若干ゆっくりだった。そして、雪が載っていたせいで湿っていた髪を、暁歩は持っていた手拭いでポンポンと軽く叩くように拭く。

 

「お疲れのようですね・・・アオイさんがお湯を張っておいてますよ」

「ありがとうございます」

 

 こうしてしのぶが任務に出る際、アオイは予め風呂のお湯を張っておいてある。任務で疲れたしのぶがすぐに疲れを癒せるようにという、彼女の気遣いだ。特にこうして寒い冬は、その気遣いがとても重宝すると前にしのぶは言っている。

 

「お茶を淹れておきましょうか」

「そうですね・・・お願いしてもいいですか?」

「分かりました」

 

 しのぶが頼むと、暁歩は了承して食卓へと向かう。しのぶは、身体を癒し清めるために、風呂場へと行った。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 半刻ほど経ってから、しのぶは食卓に姿を見せた。風呂上りで髪を下ろしており、ほこほこと湯気が見える。上気した頬が赤くなっていて、温まったのだと分かった。

 そんなしのぶの姿に新鮮さを抱きつつも、暁歩はお茶を淹れた湯飲みを置く。

 

「お疲れのようですね・・・」

「あら、そう見えますか?」

「ええ、まあ」

 

 お茶を飲んで苦笑するしのぶ。普段と比べればだが、少しだけ疲れているように見えた。

 

「・・・大丈夫ですか?お体の方は」

「はい、心配には及びませんよ」

「それは・・・良かった。無事に帰ってきてくれて・・・」

 

 つい、本音がぽろっと洩れてしまう。

 それを聞き逃さなかったしのぶは、自分の感情を隠すいつもの笑みではなく、本心からくる笑みを浮かべる。

 

「・・・心配してくださって、ありがとう」

 

 その笑みを見て、言葉を聞いて、暁歩も心が温まるかのようだ。しかしそれは、安心感から来るだけではなく、もっと別の気持ちが働いている様にも思える。その自分の感情、気のせいとも言い切れない。

 

「・・・けれど、あの程度の鬼に手間取るようでは、まだまだですけどね」

 

 だが、しのぶのその言葉には、なにやら穏やかではない感情が見えた。

 暁歩は自分の妙な気持ちを一度置いておき、しのぶに何があったのか話してほしいと、視線で促す。

 

「今回戦った相手は、十二鬼月ではありませんでしたが、かなりの数の人を喰っている強い鬼でした」

 

 十二鬼月とは、人喰い鬼の中でもとりわけ強力な十二体の鬼のことを差し、上弦六体、下弦六体に分かれている。特に上弦の鬼は強く、ここ百年あまり討伐できていないほどだ。だから、今の柱は下弦の鬼を最低でも一体撃破していることになり、しのぶも同じだ。

 

「けれど・・・私の姉を殺した鬼は、上弦の弐。十二鬼月の中でもより強力な存在です」

 

 カナエの死の間際に駆け付けたしのぶは、その仇敵の姿を見ていない。全てはカナエから齎された情報だけだが、その中で『上弦の弐』と聞いた時は息を呑んだ。

 カナエは、妹の贔屓目を抜いても、花柱としてとても強かった。にもかかわらず、上弦の弐には敵わなかったと聞いて、ひどく動揺したと同時により強い怒りが湧き上がってきた。

 

「だからこそ、あの程度の雑魚鬼相手に後れを取るようでは、仇を討つなんて夢のまた夢でしょう」

 

 お茶を飲んで語る復讐の覚悟に、暁歩は膝の上で拳を握ることしかできない。

 その華奢な身体に大きな復讐心を背負わせるに至ったカナエの死が悲しくて、そしてそこまで復讐心で苦しめさせる『上弦の弐』がどうしようもなく憎い。

 

「・・・それでも、復讐は成し遂げると」

「はい。それは・・・姉が亡くなる時、心に誓ったことです。もう後戻りをすることはできません」

 

 しのぶの顔からは、笑みが消えている。

 悲しい決意を耳にして、暁歩は思わず顔を伏せてしまう。

 だが、自分は支えたいと自分から願ったのだ。そこから逃げるなんてことは許されない。だから顔を上げて、しのぶの顔を見る。

 

「・・・詮無いことを言ってしまいましたね」

「いえ・・・。俺が自分から、しのぶさんと向き合うと決めたことですから・・・」

 

 暁歩が伝えると、しのぶはお茶を飲みきって湯飲みを置く。

 その表情は、普段の微笑みに、少しだけ愁いがにじんでいるように見えた。

 

「・・・さて、私はそろそろ休みますね。明日の朝食は、皆さんより遅めで大丈夫ですから」

 

 そしてしのぶは、食卓の戸を開き、暁歩の方を振り向かずに。

 

「・・・お話を聞いてくださって、ありがとうございました。おやすみなさい」

「・・・おやすみなさい」

 

 そう言って、しのぶは食卓を出ていった。

 食堂の壁に掛けられている時計を見ると、時刻は丑三つ時を過ぎている。とっくにしのぶの誕生日になっていた。

 だが、とても『おめでとう』という気にはなれない。あれだけの覚悟を聞かせられては、そう言った気分にはなれなかった。

 しのぶにとっての仇敵は、想像以上の存在。十二鬼月でも最上位級となれば、戦って無事で済むとは限らない。最悪の場合は、暁歩が恐れる『死』となるだろう。

 けれど、しのぶの復讐心は、本人も言っていたが引き返せないところまで来ている。だから今更、何を言っても止めるつもりは無いだろう。

 尤も、暁歩自身は『復讐を止めてほしい』と言えるほどの男でもないと分かっているのだが。

 

「・・・・・・」

 

 小さく息を吐き、しのぶの使った湯飲みを洗う暁歩。

 今の暁歩にできることは、しのぶの復讐心を引き下げさせるのではない。復讐を決めたしのぶの身体と心を壊させないように、寄り添うことだ。

 復讐を止められない、共に仇敵を討つほどの力がない自分自身を嘆きたくなるが、寄り添うことだけはできるはずだど、暁歩は自分に言い聞かせる。

 

◆ ◆

 

 自室に戻ったしのぶは、畳の上に布団が敷かれているのを見て、蝶屋敷の誰かが準備してくれたのだと思い感謝の気持ちを抱く。先ほどは食卓で暁歩に本音を吐露したが、今は少し、任務で疲れた身体を休ませたい気分だ。

 髪飾りを机に置き、寝間着に着替える。

 

「あら?」

 

 その途中で、あるものに気付いた。

 箪笥の上にある、金魚が泳ぐ丸型水槽。

 その隣には、置いた覚えのない花瓶が置いてあった。

 

(・・・そう言えば、今日は誕生日だった・・・)

 

 壁にかかった七曜表を見て、しのぶは少し感慨深くなる。

 誕生日を最後に祝ってもらったのは、カナエが亡くなったのと同じ四年前のこと。それまではカナエが主導となって、蝶屋敷で暮らす皆の誕生日を祝っていた。無論、カナエの誕生日もそのお返しのように祝った。

 けれど、カナエが亡くなり、しのぶがこの屋敷を受け継いでからは、それもなくなってしまった。しのぶ自身の正直な気持ちは、血のつながった家族が皆死んでしまった今、誕生日という自分が生まれた日を祝われると、いなくなった家族のことを思い出して、少しだけ悲しくなってしまう。

 その気持ちの変化に機微に気付いたのか、アオイやきよたちは目に見えて祝うこともなくなった。ほんの少しの気遣いをしてくれるだけになったが、その気遣いと、自分を想ってくれていることが嬉しい。

 

(これは、誰が贈ってくれたのかしら?)

 

 だが、こうして花瓶まで付けて花を贈られるのは初めてだ。

 花瓶は、白を基調とした陶器で、一輪か二輪ほどの花を挿すためか口は狭い。また、蝶の意匠が施されていて、この屋敷に相応しいのではと思う。

 そんな花瓶に挿してあるのは、四枚の大きな花弁が特徴の雛罌粟(ヒナゲシ)だ。その花の色は赤。

 それを認識した瞬間、しのぶは心から来る笑みを浮かべた。

 

(・・・この花の贈り主は、花言葉を分かっているのでしょうかね?)

 

 しのぶは薬学や医学に精通しているが、生薬から植物にも結構詳しい方だ。

 だから、雛罌粟の花言葉も思い出すことができた。

 赤い雛罌粟の花言葉は『慰め』と『感謝』。雛罌粟全般を指す花言葉は、『いたわり』と『思いやり』。いずれも、贈る人に対して感謝の気持ちを示すものだ。

 そして雛罌粟の花言葉はもう一つある。

 それは『恋の予感』だ。




≪おまけ≫

 陽が昇ってからのこと。

「どこか痛いところはありませんか?」
「大丈夫。ありがとうね」
「いえいえ」

 居間できよ、すみ、なほがしのぶの身体を解しているところを見て、それがまるで親孝行をする娘とその母親のように見えてしまい、暁歩とアオイは妙にほっこりとした気分になった。


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第8話:栗花落カナヲ

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「暁歩さん」

 

 雪も解けて、次第に暖かくなってきたある朝。

 調剤室へ向かおうとする暁歩に、しのぶが声をかけた。『何ですか?』と答えながら振り返ると、しのぶの隣にはカナヲが立っている。その腰には、木刀を提げていた。

 

「裏山でカナヲに稽古をつけてきますので、何かあったらそちらまで来ていただいてもよろしいですか?」

「あ、はい。分かりました」

 

 承諾の返事をすると、しのぶはカナヲを連れて屋敷を出ていく。

 こういったことは珍しくない。カナヲは、しのぶに次いでこの蝶屋敷の古参であり、しのぶが直々に稽古をつけている『継子』でもある。裏の山も蝶屋敷の敷地であり、しのぶ自身の鍛錬でも使うことが多いとのことだ。

 ともかく、しのぶとカナヲが今は屋敷にいないことを留意して、暁歩は調剤室に入る。朝の問診時に持っていく薬を取るためだ。

 

「きよちゃん」

「はい?」

 

 そして問診へ行く途中、見かけたきよに暁歩は声をかけた。

 

「今、しのぶさんとカナヲさんが裏山へ鍛錬に行ってるんだ。できる限り、こっちでできることはやろうと思うから、とりあえず何かあったら俺に言ってね」

「分かりました」

 

 『何かあったら』としのぶは言っていたが、裏山へ行ってしのぶに報告するのは手間がかかる。それに、カナヲに稽古をつけているのは当然鬼殺隊に入るためのものだろうし、それを邪魔するわけにもいかない。

 何よりも、しのぶに負担をかけたくない。暁歩だって蝶屋敷へきて半年以上が経過しているし、大体のことはできるようになっている。重症者の治療まではさすがに一人では難しいが、そこまで至らない場合は自分たちで対処したい。

 鬼狩りの任務と、背負っているものの重さで心が疲れているしのぶに、頼りきりになってはならない。自分たちでできることは、自分たちでやるべきだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 幸いにも、昼近くまでしのぶの力を必要とするような事態にはならず、暁歩たちだけで対応することができた。

 そして昼食の時間になると、なほが声をかけてくる。

 

「しのぶ様とカナヲ様、お昼ご飯はどうするんでしょうか・・・?」

「あ、それは聞いてなかった・・・」

 

 こうして稽古をつける時は大体、昼になると一度戻ってくる。ただ、普段は出発する前に昼食をどうするか聞いていたのに、今日はそれを聞きそびれてしまった。そろそろいい時間だが、帰ってこないのでなほは疑問に思ったのだろう。そして、それを確認するのを怠ってしまったのは暁歩の責任だ。

 

「ちょっと聞いてくるね」

「すみません・・・」

 

 手早く準備して、裏山へと向かう。道順は前に教わったことがあるので、迷うことはない。

 行く途中で二人と出くわすこともなく、暁歩は裏山へとたどり着く。と言っても、そこまで高い山ではなく、登る際に息が上がる程度の標高ではない。

 そうして上っていると、少し開けた場所にたどり着いた。

 そこでは、カナヲが素早い動きで身体を捻り、しのぶと木刀で打ち合っていた。両者の木刀がぶつかり合うたびに小気味良い音が周囲に響き、お互いに身軽さを生かして縦横無尽に動き回っている。そして一瞬で間合いを詰め、木刀がぶつかり合うと再び距離を置く。

 

(すごい・・・)

 

 少し離れたところから見ているが、二人の動きは目を凝らさなければ追いつけないほど速い。注視していると、しのぶの方が積極的に動き回り、カナヲはそれを目で追いつつも、しのぶが不意に仕掛ける攻撃を防ぐ。

 カナヲはまだ、藤襲山の最終選別に参加しておらず、鬼殺隊ではない。

 けれど、その実力は柱であるしのぶの攻撃を躱し、受け切るほどに優れている。自分なんかとは比べ物にならないと、暁歩自身に力不足を嫌でも感じさせるほどだ。

 だが、暁歩は不思議と、自分の弱さを感じても、落ち込んだり心が挫けそうにもならない。

 その戦っているカナヲの姿に、なぜか自然と自分の心が昂り始めるのを感じた。劣等感からくるものかどうかは知らないが、自分もああなりたいと思うように気持ちが動いている。

 

「・・あら、暁歩さん。どうかしましたか?」

 

 心の中でそんな風に高揚感を得ていると、不意にしのぶが声をかけてきた。カナヲも気づいていたのか、暁歩の方を見ている。

 そこでようやく、ここに来た本来の意味を思い出す。

 

「ええと、もうすぐ昼食の時間ですので。どうするのかを確認したいのですが・・・」

「あら、もうそんな時間でしたか」

 

 どうやら、時間を忘れるほどに集中していたらしい。しのぶが懐中時計を取り出して時間を見ると、驚いたように告げた。

 

「それじゃあ、続きは昼食の後でね」

 

 しのぶがそう言うと、カナヲはぺこりと頭を下げた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 蝶屋敷へ来て大分経つが、未だに暁歩はカナヲのことがよく分かっていない。

 普段暁歩は隊士の治療や薬の調合で忙しいが、食事の時は同じ食卓を囲んでいるので顔を合わせる機会も多い。

 だが、暁歩が見る限り、カナヲの表情にはほとんど変化がなく、いつもゆったりとした笑みを浮かべているだけだ。しのぶの浮かべている微笑とは少し違う感じのする笑みは、穏やかそうに見える一方、どこか儚いようにも見える。そして、そんな笑顔を見ていると、暁歩の頭が妙に疼いた。

 加えてカナヲは、ほとんど喋らない。食卓はもちろん、顔を合わせて挨拶をしても、黙って会釈をする程度。暁歩はこの屋敷に来て、カナヲと言葉を交わしたことが一度もなかった。

 けれど今日、しのぶに稽古をつけてもらっているところを見て、その実力はとても高いことが分かった。惚れ惚れするほどのその強さには、いったいどこから来るのか。疑問は尽きない。

 

「カナヲのことが気になりますか?」

「え?」

 

 昼食を終えて廊下を歩いていると、突然背後から声をかけられた。

 驚き振り返ると、しのぶが割と近い距離にいて、急に話しかけられたのとは別の意味で胸の鼓動が早くなる。一歩退いて距離を取るが、しのぶはにこにこと笑ったままだ。

 

「どうして急に、カナヲさんの名前が?」

「まあ、食事中にカナヲのことを見ている気がしましたからね。こう見えて、人の視線は割と気にしている方ですから」

 

 自分の考えていることが分かったのが驚きだ。そして、無意識にカナヲの方を見ていたと悟られたのも、思いがけないことだった。けれど、暁歩は頷いて答える。

 

「・・・そうですね。ここへ来て随分と経ちますが、カナヲさんと話したことがないですし・・・今日の稽古で強いって分かりましたし」

 

 暁歩が苦笑しながら言うと、しのぶも同じように眉を下げて笑う。

 だが、その奥には悲しい気持ちが隠れているように暁歩には見える。

 

「あの子は・・・仕方ないんです。そうなってしまうのも」

「?」

 

 立ち話も何だから、ということで調剤室にしのぶは入る。暁歩もそのあとに続いた。

 

「カナヲは、私と姉が一番最初に引き取った子ですが、家族や大切な人を鬼に殺されたわけではないんです」

 

 鬼と関りがない。それだけで、暁歩の疑問はより強くなる。この蝶屋敷に暮らしている人は、皆鬼によって家族を喪ったと聞いていたから少し意外だ。それに、一番最初に引き取ったというのも気になる。

 

「・・・カナヲは、親によって女衒に売られていたんです」

 

―――――――――

 

 しのぶとカナエが、カナヲに初めて出会ったのは、縄で繋がれ連れて行かれるところだ。

 ひどい有様だった。親から十分な世話もされず虐待を受けていたのか、身体は痩せこけていて、身体は傷と垢だらけ、髪も伸び放題でパサパサ。それどころか、親に名前すら付けてもらえなかったという。

 そんな名前もない少女を―――半ば強引な形だが―――しのぶとカナエは引き取り、この屋敷へ連れてきた。そして、『カナヲ』という名前を付けたのだ。

 しかしながら、カナヲの状態は思った以上に深刻だった。

 度重なる虐待の末に心を閉ざし、自分の意思を持っていない。正確には、自分で何かを考えて決め、行動することができない。何かをするにしても、誰かに命令されなければ始められない。たとえ空腹で、目の前に食事が置いてあっても、食べるように言わなければ食べないほどだ。

 それを知ったカナエは、『表』『裏』と書かれた硬貨を渡し、一人の時はこれを投げて決めればいいと伝えた。

 それでもカナヲには、やはり感情の起伏が生じることはほとんどなかった。カナエが亡くなった時も、カナヲは涙を流さなかったという。

 

―――――――――

 

 その境遇を聞いた途端、暁歩の疑問は晴れ、取って代わって胸がとても痛くなる。

 この世で唯一の親に売られるなど、悲しいにもほどがある。暁歩も、しのぶも、優しい親の下に生まれたからこそ、その辛さは想像を絶するものだと理解できた。理不尽に虐げられたことで意思を持たなくなり、感情の起伏に乏しくなってしまったのも、感情を彩り豊かに表現できる人間に生まれたのだから、悲しいことだ。

 

「親に捨てられたと聞いて、胸が痛まずにはいられなかった・・・。喪いたくなかったのに親を奪われた私たちからすれば、親から捨てられたカナヲがとても気の毒で、救いたいと思わずにはいられませんでした」

 

 しのぶは、心の痛みに苛まれていることだろう。声で分かる。

 今も心に家族の姿を覚えているしのぶからすれば、ほんのわずかな愛情さえも与えられず、名前さえも付けてもらえないことが、どれだけ辛いことか。

 そして暁歩もまた、同じ思いだ。それどころか、心の中でふつふつと怒りまで込み上げてくるのが分かる。

 

「成長するにつれて、カナヲも笑顔を覚えるようになりました。けれどそれは、私や姉、アオイたちの笑みを真似ているだけだと気づくのに、そう時間もかかりませんでした・・・」

 

 心からの笑みを浮かべられず、誰かの笑みを真似ることでしか笑顔になれない。

 楽しい、面白い、嬉しいといった心が温まるような感情を得られず、ただ張り付けるだけの笑顔は空しいだけだ。

 カナヲが浮かべている笑みを思い浮かべて、暁歩は胸が詰まるようだった。あのゆったりとした笑顔を見て頭が妙に疼いたのは、その裏に辛い過去があると『予感』が訴えかけていたからなのか。

 

「けれど驚くことに・・・カナヲは私や姉の鍛錬を見て、見よう見まねで刀さばき、そして呼吸法まで身に付けたのです」

「見よう見まねって・・・すごいことじゃないですか?」

「ええ、本当に」

 

 何かを始めるのには自分の意思が重要だ。そしてその次に、すでにある何かを模倣することで、前に進み出せる。

 カナヲがなぜ、しのぶたちの鍛錬を真似しだしたのかは分からない。だが、真似しただけで鬼殺の剣士としての戦い方を学ぶのは、本当にすごいことなのだ。

 

「そして、柱の基本である全集中・常中まで会得したんです」

「それは、別の呼吸法ですか?」

「全集中の呼吸を四六時中・・・起きている時も、寝ている間も続けることですよ」

 

 聞いただけで、暁歩の顔から血が引いていく。

 暁歩も全集中の呼吸は身に付けている。だが、それを会得するまでの修業は死ぬほど厳しかったし、一時的に使うだけでも体力を要する。自分の呼吸を操作して、身体を無理矢理強化するのだから、反動もそれなりに大きいのだ。

 その全集中の呼吸を常時やっていれば、確かに理論上は肉体が強化されるだろうが、尋常ではない集中力が要るだろう。

 

「それと、全集中・常中の修業の際は瓢箪を吹かせるんですよ」

「瓢箪?」

 

 言ってしのぶは、懐から小さな瓢箪を取り出した。水や調味料を入れるのに重宝されるのだが、これを吹くことが修業とはどういうことだろう。

 

「これを吹いて、内側から破裂させるんですよ」

「・・・破裂?」

「体内に空気を多く取り込み、それを吹いて内側に空気を送り続けて破裂させるんです。これを破裂させられれば、体内により多くの酸素を取り込めた証拠ですから」

「・・・それをやったんですか?カナヲさんが」

「はい」

 

 そこまで至るには結構な時間がかかるらしいが、それ以前に、傍目に見てもあんな儚げなカナヲが瓢箪を破裂させるなんて絵面が思い浮かばない。

 

「・・・だからですか。しのぶさんと張り合えるほどに強いのは・・・」

 

 基礎的な鍛錬は真似しただけで会得し、柱になるための修業さえもしている。まだ鬼殺隊に入っていないのにここまで成長しているとは、暁歩も驚きだった。

 

「・・・そうですね。カナヲは、強いと思います」

 

 だが、言葉はカナヲの強さを喜ばしく思っているようなしのぶも、その語調はやや暗めだ。妹のような、弟子のようなカナヲの成長を、素直に喜んでいないように感じる。

 

「・・・何か気がかりなことが?」

 

 暁歩が訊くと、ゆっくりと頷く。

 

「・・・カナヲがどうして、そこまでするのかは分かりません。あの子には、自分で考える力もないのに」

 

 度重なる理不尽の末に、カナヲは自分で物事を考え決めることができない。では、なぜしのぶやカナエの行動を真似て、鬼殺の剣士としての戦い方を身に付けられたのか。何かを決める際に投げていたはずの硬貨も、その時は投げていなかったらしい。

 

「それはもしかしたら、カナヲさんが意思を抱き始めたのかもしれませんよ」

「そうだとしても・・・私にとっては不安です」

 

 カナヲの強さを評価するのと同時に、不安も覚えている。

 その複雑な心境を、暁歩は目線で話してほしいと促す。

 

「全集中の呼吸はもとより、常中まで会得したとなれば・・・鬼殺隊に入ることを望んでいるのやもしれません」

「・・・それは、しのぶさんからすれば」

「一概に良いこととは言い切れません」

 

 自分から何かを始めたり、何かを望むのは、カナヲの変化の証だ。それは良い変化だとしのぶも思う。

 だが、鬼殺隊に入れば、鬼との苛烈な戦いに身を投じることになる。最悪の場合は、カナエと同じ道を辿ってしまうかもしれない。それを考えると、しのぶはたとえカナヲが変わり始めているとはいえ、素直に背中を押せない。

 

「ではもし・・・カナヲさんが、自分から鬼殺隊に入りたい、と言ったらどうしますか?」

 

 暁歩は、一つの可能性を示す。

 それに対して、しのぶは少しだけ考える。

 

「カナヲが自分の心を持って動き始めるのは、姉の願いでもあったから、拒むわけにもいきません。けれど、鬼殺隊はいつ死ぬかもわからない戦いを強いられます。もしかしたら、カナヲも・・・」

 

 その先を言葉にしない。

 大好きだった姉の意思を取るか、『家族』に死んでほしくない自分の意思を優先するか。その二つの感情の板挟みになっているのは分かる。暁歩がしのぶと同じ立場だったら、同じように悩むはずだ。

 そしてその答えを、今は暁歩にもしのぶにも出せない。

 

「・・・しのぶさん自身は、どうしたいですか?」

 

 カナエの遺志は今だけ考えず、カナヲの行動理念も一旦置いておき、しのぶ自身の率直な気持ちだけを訊ねる。

 一度しのぶは、窓の外を眺める。二羽の番いの鳥が、空を楽しげに飛んでいるのが見えた。

 

「・・・家族を喪う悲しみは、二度と味わいたくありません」

「・・・」

「アオイたちにも、あなたにも。味わってほしくはない」

 

 明確には言わずとも、しのぶの本心は伝わった。どうしたいのかも、暁歩には理解できた。

 

「・・・私には、継子が何人もいました」

「カナヲさんの他に・・・ですか」

「ええ・・・」

 

 他にも継子がいたというのは初耳だ。

 だが、今までその話を聞いたことがなく、しのぶの口からも聞かされず、何より今のしのぶの表情が落ち込んでいることからして、()()()()()()だろう。それ以上を訊くのは、あまりにも酷だ。

 

「だからこそ・・・カナヲには、私たちとは違う、もっと女の子らしく生きてほしい。姉さんが私に言っていたような人生を、歩ませたい」

 

 女の子としての幸せを手に入れること。

 おばあちゃんになるまで永く生きること。

 鬼殺隊に入れば、それとは正反対の人生を歩んでしまうことになるだろう。現にしのぶも、それが実現するかどうか曖昧な位置にいる。

 だからこそしのぶは、カナヲが鬼殺隊に入ることを望んでいない。

 

「・・・カナヲさんのこと、大切に思っているんですね」

「ええ。私にとっては・・・妹のようですから」

 

 しのぶの本心を聞けたこと、そしてカナヲがどういう人なのかを知って、暁歩は安心した。

 まだどんな人かもわからなかったカナヲは、自分たちと同じように辛く悲しい過去を背負っていて、それでも自分なりに成長しようとしている。そしてしのぶからも、大切に思われているのだ。

 

「でも、しのぶさんがどう思われているかは、カナヲさんに言った方がいいですよ」

「・・・そうですね。ただ、まだカナヲが本当に最終選別に参加するかどうかも聞いていないので、あの子が『行く』と言った時に話すつもりですよ」

 

 全てを話して安心したのか、しのぶの表情も幾分か明るくなっているように見えた。

 そうしてしのぶは、立ち上がって調剤室を出ようとするが、そこではたと思い出したように暁歩を振り返る。

 

「まあ、カナヲには少しずつ意思が生まれつつあるのは確かかもしれませんね」

「?」

「この間の私の誕生日に、カナヲは椿油を贈ってくれたんですよ」

 

 椿油は髪の手入れや、肌の保湿などによく用いられる。年頃の女性には重宝される代物だ。

 

「ああして自分から贈り物を買って私に渡すというのは・・・確かに自分の意思の表れなのかもしれませんね」

 

 しのぶの誕生日の時、カナヲは何かをするつもりだと聞いていたが、今実際に何をしたのかを聞いて暁歩も安心したような感じだ。しのぶを祝おうという気持ちがカナヲにあるということだから。

 

「誕生日と言えば、何ですけど」

「?」

「私の部屋に、見覚えのない花瓶と花が置かれていたんですけど、何か心当たりがありませんか?」

 

 だが、続けて問われた質問に、暁歩は口を閉ざす。

 それは確かに暁歩が置いたものだが、それを正直に答えると少し面倒なことになる気がする。なぜなら、しのぶという年頃の女性の部屋に暁歩が本人の許可を取らず入ってしまったことが露見するからだ。

 

「暁歩さん、知っていることがあれば教えてもらえると嬉しいのですけれど?」

 

 だが、こうして訊いてくるということは、暁歩に当たりを付けているのかもしれない。何だか妙にしのぶの笑顔に凄味というか威圧感があるし、優しく問いかけているのが逆に怖い。

 

「・・・すみません、俺が置きました」

 

 そのことから、暁歩は早いうちに白状する。これは叱責の一つや二つが来てもおかしくないだろうと腹を括った。

 

「私は怒っているわけではないのですよ?ただ、どこから私の誕生日を知ったのか、とか、私の部屋に勝手に入ったのかとか、その辺りを聞きたいんです」

 

 怒っていないように見せかけてきっちりと疑問点を明らかにしようとしている。

 暁歩は、申し訳ない気持ちを抱きながら、誕生日はきよから教わったこと、そしてなほ監視の下でしのぶの部屋に入り、ささやかな誕生日祝いの花を置いたことを明かした。

 

「なるほど、あの子たちが・・・」

「気を悪くされたのであれば、きよちゃんたちを責めないでください・・・」

 

 暁歩が頭を下げるが、しのぶはふっと少し笑った。

 

「本当に、怒っているわけではありませんよ。なほが見ていたと分かりましたし、ささやかな形でも祝ってくれることは嬉しいですから」

 

 しのぶは言い聞かせるようにそう告げた。

 暁歩はそれで、罪悪感がほんの少しだけ薄れるが、それでも部屋に入ったことに関しては申し訳ないと再度頭を下げた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 結局、しのぶがカナヲに説得をすることはなかった。

 その理由は、少しも喜ばしくない。

 

「いない?」

「はい。しのぶ様に呼ぶよう言われたんですけど・・・」

 

 カナヲの境遇を聞いた数日後。

朝食を終えて調剤室へ向かおうとした矢先、きよに呼び止められて、カナヲがいなくなったと発覚した。

 暁歩も確かに、朝食の時は食卓にいたのを覚えているし、そこにはしのぶもいたから見間違いではないはずだ。まだそれほど時間も経っていないのに、なぜ急にいなくなったのか。

 

「アオイさんたちは何て?」

「分からないって・・・すみちゃんとなほちゃんも・・・」

 

 暁歩も少し考える。

 カナヲがどんな人なのかはしのぶの話で少しだけ分かったが、誰にも何も知らせずに外出するのは流石にどうかと思う。特に、自分で考える意思がほとんどないカナヲが、自らどこかへ向かう時点で奇妙だ。

 考えながら視線を動かすと、壁にかかった七曜表が目に入る。

 そして今の時期と自分の記憶を鑑みて、嫌な『予感』がした。

 

「・・・しのぶさん、今どこにいる?」

「多分、居間か食卓ではないかと・・・」

 

 きよが答えると、暁歩は『ありがとう』と告げて足早にその場を離れる。

 もちろん、しのぶに話をするためだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「カナヲさんは恐らく・・・藤襲山へ行きました。最終選別へ・・・」

 

 居間で、暁歩はしのぶの正面に座り告げる。

 その瞬間、しのぶの顔から微笑みが消えた。

 普段は自分の心を偽って微笑みを浮かべるしのぶだが、少し事情が違う暁歩相手だとこうして表情を変えることが多い。だが、今回に限っては暁歩相手でなくてもそんな表情になっていただろう。

 

「・・・もう、そんな時期でしたか」

「ええ・・・俺も今さっき、七曜表を見て気付きました」

 

 藤襲山での最終選別は年に一回行われ、それは大体冬の終わり頃だ。暁歩やしのぶも、この時期に受けた記憶がある。

 

「ただ、確証はありません。鍛錬のために裏山へ行っているのかもしれませんし・・・」

「鍛錬に行く際は、私か屋敷の誰かに一言伝えておくように言ってあるんです。けれど、誰も知らないとなると・・・」

 

 暁歩が示した可能性にも、しのぶは首を横に振る。いよいよもって信憑性が高まってくる。

 同時に、お互いの心には、恐怖が蘇ってくる。最終選別の過酷さは互いに経験して身に染みているからこそ、カナヲのことが心配だった。

 

「・・・どうするんですか」

「どうもこうも。こうなってしまっては、どうしようもありません」

 

 しのぶが説得する前に、カナヲは行ってしまった。

 帰ってきたら、それは鬼殺隊への入隊を決めたことになり、辛い道を歩むことになる。帰ってこなければ、それは命を落とすことになる。どちらにせよ、しのぶが望む結末ではない。

 

「・・・私は姉と別々の時期に最終選別に参加しました」

「・・・?」

「姉が最終選別に参加すると言った時、私は心配で仕方がありませんでした」

 

 しのぶとカナエは、それぞれ別々の育手の下で修業を積み、最終選別もしのぶの言った通り別々に受けた。育手を紹介したのは姉妹を助けた悲鳴嶼で、別々にしたのも彼だ。

 悲鳴嶼が姉妹を引き離した理由は、どちらかが庇い、どちらかが庇われることを防ぐためだったのだろう。それではお互いの成長につながらないから、姉妹の仲が良いのを分かったうえで別にさせた。

 そして選別で心配になるのは分かる。どの鬼も本気で飛び掛かってくるし、不意打ちのように異形の鬼も存在する。あんな過酷な環境で七日間も生き延びるなど、軟な人間にはできない。だからこそしのぶは、たった一人の家族になってしまったカナエが無事に生き残れるかが不安だったのだ。

 

「そして今も・・・カナヲが帰ってくるかが心配でなりません」

 

 大切な家族が参加している時に抱く不安を、しのぶはまた感じている。実際に参加して厳しさを分かっているからこそ、その不安は尽きない。暁歩も同様で、心がそわそわしていた。

 

「今は、カナヲさんが無事に帰ってくることを祈るしかありません」

「・・・・・・」

「しのぶさんも言った、カナヲさんの強さを信じるしかないです」

 

 もはや止めることは不可能。時を巻き戻す術もない。

 残されたしのぶたちにできることは、発ったカナヲの無事を祈ることだけ。任務に出ているしのぶを、屋敷で暁歩やなほたちがそうしていたように。

 

「・・・そうですね」

 

 しのぶは笑みを取り戻そうとしてそう言ったが、暁歩の言葉が心にまで届いているかどうかは分からない。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 それから七日間の間、蝶屋敷は妙に浮足立っている感じがした。

 隊士が運び込まれた時はきちんとした対応を取っていたが、それでも心はどこか落ち着かない。無論、原因は最終選別に参加しているカナヲだ。特に、最終選別のなんたるかを知っていて、カナヲと付き合いがそれなりに長いアオイは、やけに動揺していた。

 かくいう暁歩も、最終選別で心と身体に傷を負った身だから、同じようにカナヲのことが心配だ。まともに言葉を交わしたこともないが、蝶屋敷で共に暮らす『家族』であることに変わりはないから。

 

「・・・しのぶ様、大丈夫ですか?」

「・・・ええ、ありがとう」

 

 そして、目に見えて動揺しているのはしのぶだった。

 暁歩だけでなく、アオイやきよたちから見ても気が気でない様子は確かで、心配したきよやすみ、なほがお茶やお菓子をそっと置いていくぐらいだ。しのぶは普段と変わらないような笑みを浮かべてお礼を言ってくれるが、その笑みも心なしか暗い。

 暁歩はともかく、アオイたちもこうなったしのぶを見るのは随分と久しい。最後にしのぶがこのように変わった様子を見せたのは、カナエの葬儀以来だ。つまりそれだけ、しのぶにとっても今のことは心配だということ。何せしのぶが、カナヲのことを『妹のようだ』というぐらいには、愛情を持っているのだから。

 

「・・・・・・」

 

 だが、そんな心配をされていたと知ってか知らずか、カナヲは七日後に何事もなかったかのように玄関に立っていた。

 一番最初に気付いたのはアオイで、『カナヲが帰ってきた!』と声を張り上げて言ったものだから、(怪我人を除いた)屋敷の誰もが一斉に玄関へと詰めかける。

 カナヲの桃色の袴には汚れや返り血が微塵もついておらず、見える範囲に怪我もない。表情には疲れの色が一切なく、その肩には白い鞄を提げている。それは選別を突破した者に支給される隊服が入っているのだと、暁歩やアオイは瞬時に理解した。

 

「・・・カナヲ」

 

 しのぶがカナヲの前に立つ。

 カナヲの表情は変わらない。だが、しのぶの後ろに立つ暁歩やアオイ、きよたちは、七日もの間しのぶがどんな心境でいたのかは、あの見せていた落ち込みぶりで分かっていた。

 

「・・・おかえりなさい」

 

 生きて帰ってくるか不安だっただろうに、無断で最終選別に参加したことを怒っているだろうに、しのぶは優しく静かにカナヲを抱き寄せた。

 抱き締められた当のカナヲは、少しだけ目を細めてしのぶに身体を預ける。

 

「良かったですぅ・・・」

「急にいなくなったから心配しましたぁ・・・」

「不安だったんですよぉ~・・・」

 

 きよ、すみ、なほの三人も、涙を浮かべてカナヲの帰還を喜んでいた。

 

「・・・良かった」

 

 アオイも、安堵の気持ちが表情に少し出てきていて、声も普段のきびきびしたものと比べて幾分か柔らかく、安心しているようだった。

 

「・・・・・・」

 

 暁歩はカナヲが無事に帰ってきたことに、内心ほっとしている。

 けれど、ただ一つだけ胸に引っかかりを覚えていた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「・・・カナヲさん。少し話があるので来てください」

 

 その日の夕食の時間が終わる際に、暁歩はカナヲにそう言った。

 こうして暁歩がカナヲを呼び出すのは、蝶屋敷に来て以来初めてのことだったから、その場にいたカナヲを除く全員が驚いたものだ。そして暁歩自身も、こうした時の自分の行動力に驚いている。

 

「・・・何故、何も言わずに選別に参加したんですか?」

 

 そして、呼び出した理由はこれに尽きる。

 無断で最終選別に参加したことで、蝶屋敷の皆に心配を掛けた。特に、カナヲのことを妹のように思い可愛がっているしのぶにも、あれだけ不安を抱かせたのだ。いくら自分の意思がほとんどなく、選別に参加した行動原理が分からなくても、看過せずにはいられない。もし、悪いことと思っていなかったのであれば、今ここでそれはいけないことだと教える。

 

「・・・・・・」

 

 だが、カナヲは暁歩の問いかけが聞こえているだろうに、何も答えない。暁歩の表情や語調からして、安穏とした話ではないとは認識しているのか、表情は微笑んではいないが。

 ここで暁歩は、カナヲは硬貨を投げるか誰かに指示されなければ何もできないのを思い出す。

 

「・・・選別に参加した理由を、教えてくれますか?」

 

 子供にやさしく言い聞かせるように、丁寧にそう訊ねる。

 するとカナヲは、視線をわずかに右に逸らしながら、口を開いた。

 

「・・・他の皆と違って、何もできないから」

「?」

「・・・家事も、手当ても、できないから」

 

 多分初めて聞いた、ちゃんとしたカナヲの声。

 だが、暁歩はその言葉を聞いて気付いた。この屋敷に来てから暁歩は、一度もカナヲが病室で傷の手当てをしたり、洗濯や炊事などをこなしているところを見たことがない。手伝っている時さえなかった。

 

「・・・何か、皆の力になりたかったから」

 

 しのぶは、カナヲには自分で何かを考える意思がないと言っていた。何をするにしても自分で決められないと、確かにそう言っていたはずだ。

 だが、カナヲの告げた『力になりたかった』という言葉は、紛れもなくカナヲの意思の表れだ。自分の意思がないなんてことは無い。

 心を閉ざしていたカナヲが、しのぶの言った通り変わり始めている。

 無表情と思っていたカナヲの顔に、『皆の力になりたい』という意思が籠められている様に見えてくる。

 

「・・・・・・」

 

 それ以上を追求することが、できなくなった。

 蝶屋敷の皆に心配を掛けたカナヲに対して、暁歩の中で燻ぶっていた憤懣が消え去る。

 

「・・・そうですか」

 

 そして、ようやっと、心の底から安心できた。

 自分の意思を持ち始めたカナヲが無事に帰ってきたこと。そして、蝶屋敷の力になりたいと思っていたこと。

 カナヲが変わり始めていることに安心し、同時に嬉しく思っている。

 

「・・・でも、もう二度と・・・皆を不安にさせてはいけません」

「・・・」

「俺もそうですが、しのぶさんも、アオイさんたちも、心配だったんですからね?」

 

 あやすように告げると、カナヲはこくりと控えめに頷く。

 そして最後に、暁歩はふっと笑った。

 

「・・・無事でよかったです」



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第9話:揺らぎ

多くの評価とお気に入り登録、ありがとうございます。
今回は、ノベライズ版『片羽の蝶』のお話を参考に書かせていただきました。


「失礼します!」

 

 ある日の昼下がり、切迫した様子の男性の声が蝶屋敷に響く。それを聞いて、暁歩とアオイは弾かれるように玄関へと向かう。

 玄関にいたのは、口元を布で隠している黒装束の二人の男性。彼らが持つ担架には、一人の男性の隊士が横たわっている。

 黒装束の男性は、鬼殺隊の戦闘後処理部隊『隠』。負傷者の搬送や死者の埋葬、血を洗い流したり抉れた地面を均すなど、鬼や鬼殺隊の存在を世間から隠す役割がある。

 

「重傷者です・・・!直ちに治療を・・・!」

「分かりました、こちらへ!」

 

 暁歩が彼らを先導し、アオイは手助けのためにきよたちを呼ぶ。病床や治療器具などの受け入れ準備は、先ほど『怪我人が運び込まれる』と鎹鴉から連絡を受けていたので完了している。

 

「容態は?」

「意識不明の重体です。応急手当をして、解毒薬も投与したのですが・・・」

 

 隠から簡単に隊士の様子を確認する。そこで『解毒薬』と聞いて、暁歩はこの隊士が毒に侵されていると理解した。

 そして病室で、隊士を担架から寝台に寝かせ、改めて状態を詳しく確かめる。額にまかれた包帯には血が滲んでおり、腹部にも包帯が巻かれている。さらに左脚が折れているようで、重点的に固定されていた。

 

「解毒薬で、毒の作用は止まっているはずですが・・・ひどい有様でした・・・」

 

 運んできた隠の一人は、この隊士を発見した時の様子を思い出したのか、嘆くような声を洩らす。

 それを聞きながら、暁歩は治療のために隊士の服を脱がそうとする。

 だが、右胸の部分がやけに重く感じられた。ただ身体の力が抜けているからではなく、それとはもっと別の要因から来るような。

 

「これは・・・?」

 

 シャツを脱がせると、同じく状態を確認したアオイが誰に聞くともなくぽつりと呟く。

 重く感じた隊士の右胸辺りは、灰色に変色していた。その部分に暁歩がそっと指先で触れると、まるで石のように冷たい。

 

「石化してる」

 

 慎重に指先で突いてみると、鍛えてあるというだけでは説明できないほど硬い。本物の石のように。

 これは間違いなく、鬼が使った毒の効果だ。毒を打ち込んだ部分を石化して、徐々に身体全体を侵食していき、最終的に殺す。

 

「既に、採血はしてあります」

 

 隠の男が、血液の入った試験管を暁歩に差し出す。毒を受けていると判明している際は解毒薬を作るために一定量の血液を採取するように言ってあるのだ。暁歩は頷きながらそれを受け取った。

 

「私はこの人の怪我を治療します」

「お願いします。俺は解毒薬を作ります・・・きよちゃんたちは、アオイさんを手伝って」

『はい!』

 

 そうして蝶屋敷の面々はそれぞれ行動を始める。

 暁歩も最初のうちは戸惑っていたが、怪我人を受け入れる機会が増える中で、自分がどうすればいいのか分かるようになってきた。今はアオイやしのぶの指示がなくとも、自分で考え行動できるようになっている。

 

「これを分析して・・・」

 

 調剤室で暁歩は、隠が採取した血を分析しつつ、まずは毒を分解する薬の基礎を作る。

 しのぶの研究で、鬼の使う毒は基礎の部分が共通していると分かったので、それを分解する解毒薬を作る。そして、血を分析した結果分かる毒素を分解する成分を配合して解毒薬が出来上がる仕組みだ。

 

「石化・・・資料にあったような・・・」

 

 薬を作る途中で、頭の端で似たような毒の資料があったようなと思い出す。

 するとそこへ、戸を開けて誰かが入ってきた。

 

「暁歩さん、重症者が?」

「はい。石化の毒を受けています。それと創傷多数に左脚の骨折・・・傷は今アオイさんたちが治療中です」

 

 顔を見なくても、声だけでしのぶと分かる。

 暁歩が薬を調合しながら症状を伝えると、しのぶは後ろの棚にしまってある資料を確認して、ある頁を開いて暁歩のそばに置く。

 

「石化の毒は、ここに資料があります」

「ありがとうございます。今、隊士の方の血も同時に分析していますので、これで毒が同じ成分なら・・・」

「では、分析は私の方で進めておきますから、暁歩さんは解毒薬を」

「分かりました」

 

 暁歩としのぶで毒を分析し、解毒薬を作ることも今となっては珍しくない。しのぶが不在の時は暁歩一人で対処するが、しのぶがいる時は力を借りることがままある。この時だけは、怪我をした人の命を救うことを最優先としているので、『手を煩わせるわけにはいかない』『負担をかけさせたくない』とは言わない。しのぶも今は、そんなことを言っている場合ではないと分かっている。

 役割分担は時と場合によって変わるが、その間会話らしい会話もしない。二人が『傷ついた人を救う』と同じことを願っているからだ。

怪我の方はアオイたちが治療しているので、彼女たちを信じて自分たちは毒を取り除くために尽力する。

 こうして重傷者が運び込まれた時は、容態が安定するまで片時も心休まる暇などない。できる限りのことを、全員で全力でやり抜く。

 そんな蝶屋敷の人間の心の根底にあるのは、『命を救う』という強い意思だ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 ようやく落ち着いたのは、夕暮れ時だった。

 完成した解毒薬を投与し、創傷や骨折の手当ても終わって、脈拍や心拍数が安定したのを確認すると、全員が一息つく。

 

「ありがとうございました・・・」

 

 そんな中で、暁歩は改めて、隊士を運んできた隠の二人にお礼を告げる。この二人が迅速に行動できなければ、あの怪我をした隊士も間に合わなかったかもしれない。

 すると、三白眼の男の隠が『いやいや』と手を横に振る。目が特徴的な彼は後藤(ごとう)と言い、ここを訪れる頻度も高いので暁歩も覚えていた。

 

「蝶屋敷の皆さんも手際いいですよね。誰が何をすればいいか自分で分かってるっていうか・・・」

「それはまあ・・・怪我人の治療が自分たちの役割ですし」

 

 隠に所属しているのは、剣術の腕に恵まれなかったり、それぞれ事情を抱えた者が多いと聞く。暁歩も、薬の知識がなければ隠として活動していたのかもしれない。そして、隠の事情を知ってから、暁歩は隠に親近感を抱いている。後藤も飾り気のない性格の持ち主なので、彼とは顔見知りのような間柄だ。アオイやきよたちも後藤とは仲がいい。

 

「後藤さんも、お疲れさまでした」

「いや、俺らも戦ってる隊士と比べればアレだし・・・それじゃ、また」

 

 挨拶を交わすと、後藤はもう一人の隠を連れて帰路に就く。帰路、と言っても彼らは彼らでまた別の任務があるのだ。

 そんな二人の見送りを終えて暁歩が玄関の戸を閉めると、後ろにしのぶが立っていた。

 

「解毒薬の調合にも、慣れてきたみたいですね」

「それは、まあ・・・。けど、しのぶさんと比べればまだまだです」

 

 暁歩には、柱のような戦闘力はないし、現場で即座に毒を分析したうえで調合できるほどの知識や判断力もない。しのぶと比べることすら恐れ多い。

 けれどしのぶは、『いいえ』と微笑む。

 

「人の命を背負うのは、いつになってもなれないものですから・・・。あなたが共に薬を作ってくれていると思うと、少し気持ちが楽になるんです」

 

 しのぶは、自分の持つ特殊な技能と知識ゆえに、命を背負うことが多い。蝶屋敷に住む皆もそれは同じだが、しのぶは鬼とも戦っている。それこそ命が奪われる現場に居合わせることもあるだろうし、誰かの命を守りながら戦うこともあるはずだ。

 『命』に向き合うことが多くても、それを背負うことに慣れない。

 

「だから・・・あなたが命の重さを一緒に背負ってくれていると思うと・・・ほんの少しだけ、心が安らぐような感じがします」

 

 その言葉に、胸を打たれるような感覚に陥る。

 しのぶは、『これからもお願いしますね』と笑ってその場を離れて行った。

 だが、暁歩はその場で、今のしのぶの言葉を噛み締める。

 自分なんかよりも強いはずなのに。親を喪い、最愛の姉を喪い、継子も喪い、凄惨な現場を見続けて辛いはずなのに。その悲しみをずっと一人で背負っていたのに。

 それでも暁歩のことを、そう見てくれている。それは嬉しいに決まっているが、同時にそれだけでは駄目だと強く思う。

 

(実際に見てみないと、駄目なんだ)

 

 しのぶの誕生日の時も思ったが、実際に戦っているところを暁歩は見ていない。

 どれだけ残酷な現実を見て、どれだけ苛烈な戦場に立っているのか分からない。

 それを想像で補うのではなくて、実際に見て知らなければ、本当の意味で支えることなんてできない。だから機会があれば、その戦う場に行きたい。

 ずっと強く、辛いはずのしのぶから信頼されることは確かに嬉しい。だが、その言葉をただ甘んじて聞き入れるだけでなく、しのぶのことも知っていかなければならないと、暁歩は思った。

 

「すんません」

 

 そう思っていると、後ろで玄関の戸が開いた。

 振り向くと、後藤が立っている。

 

「後藤さん、どうしました?」

「いや、さっき伝え忘れたことがあって。皆が治療してる時、甘露寺様が来てたんですよ」

 

 隊士の治療中、隠の二人は玄関で待機していたという。その際に、蜜璃が来たようだ。

 

「けど、俺らが気付いたら『忙しそうなので失礼します』って言って帰っちゃって。何か用事とかありましたかね?」

「いや・・・多分しのぶさんに用事だったのかもしれないので、何とも・・・」

 

 蜜璃が蝶屋敷を訪れるのはよくあることだし、そうでなくてもしのぶに用事があるのかもしれない。判別できないので、暁歩もはっきりと答えることは難しかった。

 すると、後藤は心当たりがあったかのように『ああ』と声を洩らす。

 

「そろそろ柱合会議の時期だし、そのことかも・・・」

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 数百名規模の鬼殺隊で、柱はたった九人しかいない。

 それぞれの柱には担当している区域があり、場合によっては担当区域が近い者が合同で任務に就くこともある。

 しかしながら、柱は多忙な身であるため、基本的に顔を合わせる機会がほとんどない。

 そんな柱が一堂に会するのが、半年に一度行われる柱合会議だ。

 

「今年新しく入った『子供たち』は、期待ができそうだよ」

 

 灯篭のろうそくでぼんやり明るい部屋に、羽毛のように柔らかい男性の声が響く。

 黒い着物の上に白い羽織を着て正座しているのは、鬼殺隊の当主・産屋敷(うぶやしき)輝哉(かがや)。全体的な肌の色は白いが、顔の上半分は爛れたように変色している。瞳も白くなっていて、目が見えないのは分かった。

 

「藤襲山の最終選別で、実に五人も生き残った。優秀な子供たちが集ってくれて、私もとても喜ばしい」

 

 微笑を携えて語る輝哉の前には、九人の柱が正座をしている。灯篭の明かりに照らされる輝哉をじっと見据え、言葉を挟むことなく静かに耳を傾けていた。

 

「けれど反対に、鬼の情報は増え続けている。それだけ、無辜の一般人はもちろん、私の子供たちも命を落としている」

 

 輝哉は遺伝的に身体が弱く、病に侵されているため刀をろくに振れない。ゆえに戦えず、だからこそ鬼殺隊の隊士たちを自分の子供のように大切に見ている。

 

「選別を突破した子供たちのこと、昨今の鬼の動きのこと・・・皆の意見を聞かせてもらえるかな?」

 

 ここで輝哉は、柱たちに意見を求める姿勢になる。

 最初に口を開いたのは、隊服の前を開き、背中に『殺』と書かれた白い羽織を着た、体中に傷痕が刻まれた白い髪の青年。

 

「選別で生き残る奴がどれだけいても、実践で使えなけりゃァ何の役にも立ちはしません。そいつらが実際どうかは分からねェが、早いトコ単独で鬼と戦わせて実力を見た方がいい」

 

 風柱・不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)。好戦的な性格の持ち主で、柱の中でも鬼に対して強い怒りと憎しみを抱いている。

 

「しかし、単純に強いってだけじゃどうにもならん。最近は、力をつけて強くなったらすぐ有頂天になって周りを見下す地味な隊員も目立つ。もっと派手に上を目指せってんだ」

 

 腕を組んでそう告げるのは、音柱・宇髄(うずい)天元(てんげん)。腕の部分を切り落とした隊服を着て、目元に赤い化粧が入っている銀髪の男。忍者の一族出身と異様な経歴の持ち主だが、大胆不敵で派手なものを好む気のいい男だ。

 

「つまり、鬼との戦いで生き残るほどの実力があり、柱を目指せるような上昇志向の強い隊士が要ると!なるほど!」

 

 やけに溌剌とした声で意見を総括したのは、橙色を基調とした長い髪に、隊服の上に炎の模様が入った羽織を着た男。熱血漢と呼ぶにふさわしいその男は炎柱・煉獄(れんごく)杏寿郎(きょうじゅろう)、代々鬼殺隊の隊士を輩出する一族の出だ。

 

「しかし、鬼共は容赦がない。隊士たちが成長するのを待ちはせず、罪のない民衆を平気で喰らう。何と惨たらしいことか、南無阿弥陀仏・・・」

 

 数珠を手でジャリジャリと擦り合わせ重々しく話すのは、六字名号が描かれた羽織を纏う岩柱・悲鳴嶼(ひめじま)行冥(ぎょうめい)。全盲だが、それを補うほどの高い戦闘力を持つ柱で一番の年長者だ。そして、しのぶとカナエの命を救った人でもある。

 

「人の成長や感情を把握し、縛りつけて統率するのは難しいですからね。鬼の討伐と、鬼殺隊の戦力拡充はどちらも大事ですが、個人の裁量に依るのが一番かと」

 

 後ろの方に座るしのぶが、苦笑しながら告げる。組織に属しているとはいえ、個人の感情までも統率するのは言った通り難しいし、隊士たちの成長にもつながらない。結局は、それぞれの思想や感情が成長に最も有効なのだ。

 すると、少し離れた場所に座る蛇柱・伊黒小芭内が『ふん』と鼻で息を吐いた。

 

「鬼を()()()()()()()つけあがる連中など隊士として信用できるものか。驕り高ぶって死ぬぐらいなら、自分から辞めてくれた連中の方がマシだ」

 

 いつもながらネチネチとした言葉を聞いて、しのぶは屋敷にいる暁歩とアオイのことを思い出す。あの二人もまた、それぞれ心に事情を抱えて鬼と戦うことができなくなってしまった隊士だ。小芭内の言う『マシ』な方だろう。

 さて、この場で発言をしていない柱は後三人。

 まず、腰まで伸びる黒い髪と、少しだぼついた隊服を着ている霞柱・時透(ときとう)無一郎(むいちろう)。柱で一番年下だが、入隊してわずか二か月で柱にまで上り詰めた実力者だ。だが、彼は他人にさほど興味を持たない性格のため、後進の意識不足も彼にとっては大して重要ではない。

 次に、長い黒髪を後ろで一つに縛った、隊服の上に二種類の模様の羽織を着た水柱・冨岡(とみおか)義勇(ぎゆう)。常に冷静沈着であり、独自に水の呼吸の型も生み出すほどの力がある。彼は彼で、元々多くを語らない性格のため、この場で意見を言わないこともそう珍しくなかった。

 そして最後に、恋柱・甘露寺蜜璃だ。

 

「・・・甘露寺、どうかしたか」

「・・・へっ?い、いえ、何でもないです・・・」

 

 小芭内が声をかけるが、上ずった声で返事をする蜜璃。何でもないことはないとそれだけで分かったし、蜜璃は小芭内と視線を合わせようともしない。

 蜜璃はその性格から、こうした改まった場でも割と積極的に意見を伝える方だ。そんな彼女が黙りこくっているのは珍しく、蜜璃と親しいしのぶや、彼女の師匠筋にあたる杏寿郎もその異変には気づいた。

 

「蜜璃、何か思うところでもあるのかい?」

「いえ、何でも!お館様のご心配には及びません!」

 

 畳に額を擦り付けるような勢いで土下座し、輝哉の心配を否定する蜜璃。

そして小芭内は、蜜璃の視線が土下座する前から輝哉の方を見ていないことにも気づく。

 

「恥ずかしがらずとも大丈夫だ!些細なことでも意見があるのなら、遠慮なく言ってみるといい!」

 

 杏寿郎が後押しする。だが、この状況でそのはきはきとした声と言葉は、蜜璃にとっては大きな重圧になってしまい、蜜璃は顔を紅くして『大丈夫ですから、本当に・・・』と縮こまるように言った。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 柱合会議から二週間後、ある人物が蝶屋敷を訪ねてきた。

 

「胡蝶はいるか」

 

 たまたま応対したのは暁歩だったが、その人物を見て少し吃驚した。

 口元を包帯で覆い、二色の眼を光らせる小芭内だ。

 

「しのぶさんは・・・今診察中で。手が離せません」

 

 苦笑いを浮かべる暁歩。

 暁歩は小芭内と一度だけ顔を合わせたことがある。だが、ぶっきらぼうな印象と、柱という立場があって、少し苦手意識を持っていた。

 

「なら、しばらく待たせてもらう」

「あ、でしたら客間へ・・・」

 

 草履を脱いで上がろうとしたので、暁歩は慌てて客間へと先導する。いくら苦手と思っていても、しのぶに何かしらの用事があって訪れたのなら距離を置くわけにもいかない。

 

「お茶を淹れましょうか」

「俺は別に茶を楽しむためにここへ来たわけじゃないんだがな」

 

 客間に通し、気遣おうとしたが一蹴された。ねちっこく心にくる言葉を投げるのは初対面の時と変わらないな、と思いながら暁歩はしのぶの下へ向かう。

 しのぶは診察室で、この前運び込まれた石化の毒を受けていた隊士を診ているところだった。診療中に話しかけるわけにはいかないので、机の上にあった白紙の覚書に小芭内が来ていることを記し、手振りでそれをしのぶに伝えると診察室を出た。

 

「しのぶさんには伝えましたので、診察が終わればすぐ来ると思います」

「分かった」

「では、何かありましたら・・・」

 

 そうして暁歩は、最低限の礼儀を尽くしてから、そそくさとその場を離れようとする。

 

「待て」

 

 しかし、客間を出ようとして呼び止められた。無視するわけにもいかないので、襖を開けようとする手を止める。

 

「何か・・・?」

「少し話がある。座れ」

 

 威圧感さえあるような小芭内の言葉に、暁歩はおっかなびっくり机を挟んで反対側に座る。小芭内の首に巻き付く白い蛇が、様子を窺うように暁歩を睨んでいる。

 

「お前にいくつか訊ねたいことがある」

 

 暁歩の背中から、ぶわっと汗が噴き出す感覚。同時に不安が押し寄せてくる。

 なぜ隊士であるはずの暁歩がここにいるのか、と詰問を受けるのかもしれない。何を聞かれるにせよ、注意深く聞き慎重に答えねばと気を引き締める。

 

「・・・親しい人の食事の量が突然減ったらどう思う」

 

 だが、小芭内の問いは予想の遥か斜め上を行くものだった。

 あまりにも予想外すぎて、暁歩は思わず素で『は?』と言ってしまったぐらいだ。

 

「質問が聞こえなかったのか」

「いや、聞こえてました。聞こえてましたけど・・・」

「ならばすぐ考えて答えろ。俺は同じ質問を二度するなど無駄なことをするのが大嫌いだ」

 

 質問には驚いたが、それでも訊かれた以上は真剣に答えなければならないと、暁歩はすぐに頭を働かせて考える。

 親しい人、と聞いて暁歩はしのぶを思い浮かべる。しのぶの食事の量が減ったとしたら、何を考えるか。

 

「そうですね・・・やっぱり心配になります。体調が悪いのかとか、何か嫌なことでもあったのかとか」

「そうだろうな、それでこそ正常なはずだ」

 

 暁歩の考えた答えを聞いて、何か納得したように小さく頷く小芭内。

 『何だろうこの人』と暁歩は疑問を抱いた。

 

「なら、その親しい人が、視線を合わせようとしても逸らしたらどう思う」

 

 またしても脈絡のない、意図の読めない質問。

 けれど暁歩は口を挟まず、黙ってそうなった場合のことを考える。例えば、自分が視線を向けていても、しのぶは視線を逸らしたとしたら。

 

「やはり何か、隠したりしているのではないかと思いますよ。あるいは、自分に対して後ろめたいことがあるとか」

「なるほど、後ろめたいことか。そうか」

 

 暁歩の答えを少し意外と思ったか、小芭内が腕を組んで目を瞑る。

 一方で、暁歩は小芭内の意図が全く掴めない。

 

「では、だ。その親しい人と手紙なり言葉なりでやり取りをして、返事がぞんざいだったり素っ気なかったらどうする」

 

 想像する。普段の調子で話しかけて、しのぶから端的というか事務的な返事しかしてもらえなかったら。

 

「・・・何か気に障るようなことをしたか、不安になりますね」

「・・・気に障ることか、そうか」

「・・・あるいは、何か嫌なことでもあったとしか」

 

 そう答えると、小芭内の表情が一気に暗くなってしまった。最初に感じた不愛想な感じは微塵もしない。

 

「伊黒さん、なんでそんな質問を俺にするんです?」

「・・・気にするな」

「いや気になりますよ」

 

 それでも質問の意味は分からなかったので、一応聞いてみるが小芭内はそっぽを向く。ただ、あれだけの質問をされれば、暁歩でも小芭内の周りで何かあったのかは分かった。

 

「・・・伊黒さん、どなたか気になる方でもいるんですか?」

 

 途端、小芭内の肩がぴくっとわずかに震える。首に巻き付いている蛇が、小芭内のことを見る。どうやら図星らしい。

 

「・・・まあ、仮にそうだとして。どうしてそれを俺に聞いたんですか?」

 

 改めて、暁歩は訊ねる。この時、暁歩は自分の中に小芭内に対する恐怖心や遠慮が薄れていることに、自分で気づいてはいない。

 問われた小芭内は、鼻で息を吐き、二色の眼で暁歩を見る。

 

「以前、お前は胡蝶と親しげだったからな。似たような感じがするお前に聞いてみようと思っただけだ」

「そうですか・・・」

 

 小芭内の言う『以前』とは、最初に街で出会った時のことだろう。そこで暁歩は小芭内とほとんど言葉を交わしていないし、そこまで暁歩としのぶが仲良さげなところを見せたつもりもないが、小芭内にはそう見えたのだろう。

 

「伊黒さん」

 

 そこで、襖を開けてしのぶが姿を見せた。

 

「あまりうちの子をいじめるのは止めてもらえますか?」

「見ただけでいじめているなど決めつけるな。話を聞いていただけだ」

 

 にこやかに注意するしのぶに一歩も引かず、小芭内は立ち上がる。

 

「邪魔したな」

 

 小芭内はそれだけ言って、しのぶの後に続き診察室の方へと向かった。

 後に残された暁歩はその後姿を見て。

 

「・・・何なんだ一体」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「まあ結論から言いますと、最近甘露寺さんの様子が少しおかしいので、相談に来ただけでした」

 

 話を終えた小芭内が帰ると、居間でしのぶは何があったのかを暁歩に話した。柱同士の話をおいそれと話すのもどうかと思ったが、暁歩は蜜璃とも面識があるし、小芭内に絡まれたのもあったので明かしてくれたのだ。

 

「様子がおかしい、とは?」

「甘露寺さんの食事の量が少し減ったり、小芭内さん宛の手紙の返事が素っ気なかったり、鬼殺隊の当主・・・お館様と視線を合わせようとしなかったり、ですね」

「ああ、それで・・・」

 

 全てが腑に落ちた。

 一人で納得していると、しのぶが小首を傾げたので、暁歩が小芭内にどんな質問を受けていたのかを話す。

 

「そうですか・・・伊黒さんが、暁歩さんに・・・ふふっ」

 

 全て話し終えると、しのぶは可笑しくて仕方ないとばかりに口元を押さえて笑いを堪えていた。本心から来る笑みのようで暁歩も安心はしたが、その前になぜしのぶがそうなるのかが疑問だ。

 

「本当、伊黒さんは甘露寺さんのこととなると、ポンコツになっちゃうんですよねぇ・・・」

「・・・あの、もしかして伊黒さんって」

 

 しのぶの口ぶりと、暁歩に対する質問、そして相談した内容を聞いて、流石の暁歩も察しがついた。確認するように訊くと、しのぶは『ええ』と苦笑して答える。

 

「伊黒さんは、甘露寺さんに気があるってことですよ」

「やっぱりですか」

 

 ネタが分かれば、驚きもしなかった。むしろ、第一印象が怖かった小芭内にそんな一面があったとは、と思うと好印象を抱く。

 

「それはそれとして・・・甘露寺さんの不調は心配ですね」

「ええ。私も柱合会議で、少し甘露寺さんの様子がおかしいと思いましたし」

 

 明らかに動揺しているような言動。それと小芭内の言っていたことを踏まえると、何かあるのは分かった。そして、蜜璃は特異体質の持ち主であるため、あまり食事量を減らすのは危険だとしのぶも思っていた。

 

「いきなり伊黒さんが来たのには、驚きましたけどね・・・」

「それだけ甘露寺さんが心配だったんでしょう」

 

 暁歩としのぶは、お互いに向かい合って苦笑する。

 

「でも、少し羨ましいとは思いますね」

「?何がですか?」

「甘露寺さんのように、ああして誰かに一途に想われることは」

 

 しのぶがそう言うと、暁歩は笑みを引っ込める。

 少しだけ、しのぶの心の一端が垣間見えた気がした。

 

「いつもそう思うわけではないんですけど、ああして誰かが想い想われているのを見ると、たまにそう考えることは」

 

 しのぶだってまだ十二分に若いから、色恋の話に興味があっても何らおかしくない。

 けれどしのぶは、家族を喪い、鬼に復讐を為さんと悲しい決意を背負っていることを暁歩は知っている。そんな彼女が、普通の女性のように恋ができることを羨むのを見ると、相反するしのぶの感情に胸が張り裂けそうになった。

 そして暁歩は、そんなしのぶから目が離せなくなる。

 

 ―――お前は胡蝶と親しげだったからな

 

 小芭内の言葉を思い出す。

 蜜璃に気があるらしい小芭内にそう見えたと言われて、その言葉を捨て置けなくなる。

 もしかしたら、自分としのぶは、小芭内からすれば『そういう風に』見えたのだろうか。

 

「暁歩さん?」

 

 声をかけられて、暁歩は我に返る。

 

「どうしました?急に固まって・・・」

「・・・いえ、何でもないです」

 

 キョトンとした様子で問いかけるが、暁歩は笑顔を取り繕う。

 自分は今、何を考えていただろうか。自分としのぶが、小芭内と蜜璃のような関係性に見えていたのではないか、と疑った。

 そう思われることに、何も気にすることなどないはずだ。

 だが、そのことが頭から離れず、それでも暁歩自身は心地よいのはなぜだろう。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 小芭内の訪問から数日後、蝶屋敷を蜜璃が訪れた。

 しかし、玄関に立っていたその姿を見て、暁歩は我が目を疑った。

 

「甘露寺さん・・・大丈夫ですか?」

「え、何が・・・?」

 

 開口一番、身を案じるような言葉が出てしまう。

 何せ前会った時のような元気な様子はなく、悪い意味で痩せてしまったように見えるし、目の下には疲労の色が浮かんでいる。何より、目に見える範囲で変わっているのに、蜜璃自身がそれに気付いていないようだから、事の深刻さに拍車がかかっている。

 

「大分お疲れのようですが・・・」

「ああ、うん・・・大丈夫だよ。心配してくれてありがとうね・・・」

 

 やんわりと不調を指摘するが、蜜璃は心配を掛けさせまいと笑顔を見せる。その笑顔さえも、無理をしている様子が拭えないので、見ていて逆に心に刺さる。

 

「えっと・・・しのぶちゃん、いる?」

「あ、はい。それでは、こちらへ」

 

 暁歩は予め、近い内に蜜璃が来ると言う話をしのぶから聞いている。しのぶが鎹鴉を通して呼び出しており、その理由は小芭内からの相談でもあった蜜璃の不調だ。だから、暁歩も蜜璃が来たことに関しては驚いていない。

 

「甘露寺様がいらっしゃいました」

『どうぞ』

 

 そして暁歩が蜜璃を連れてきたのは、機能回復訓練を行う訓練場だ。

 中に入ると、しのぶが正座をして待っていた。傍らには、訓練用の竹刀が二本置いてある。

 

「暁歩さん。申し訳ありませんが、一旦外してもらえますか?」

「分かりました。では、ご用事の際は調剤室に」

 

 蜜璃に頭を下げて、暁歩は訓練場を出る。

 今は聞かれたくない話、見られたくないやり取りを交わすのだろう。暁歩には覗き見たり盗み聞いたりする趣味もないので、言った通り調剤室へ戻る。余計な詮索をあまりするべきではない。

 だが、訓練場を後にする前に聞いたしのぶの声は、普段よりも少し鋭いようにも聞こえた。前に蜜璃と接した時のような、普段の優しい感じではなく、わずかに怒っているような。

 あの語調にはどんな意味があるのだろう、と思いながら暁歩は調剤室の戸を開けた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 しのぶに呼び出されたのは、それから半刻ほど経った後だ。

 調剤室で鎮痛剤を作っていたところ、しのぶから『お茶を淹れて、お茶菓子をたくさん客間に持ってくるように』と言われた。茶は分かるが、お茶菓子をたくさんとはどういう意味だろう、と思いながら暁歩は指示に従い台所へ向かう。そこでお湯を沸かしながら、戸棚にある饅頭や煎餅を皿に載せていく。

 やがてお茶が入ると、お茶菓子と共にそれを客間へと持っていく。襖を開けると、そこにはなぜか半べそをかいている蜜璃が座っていた。なんでそんな状態になっているのかは分からないが、暁歩はお茶と茶菓子を差しだす。

 

「どうぞ・・・」

「ありがとぉぉぉぉ・・・」

 

 すると蜜璃は、まるで命の恩人でも見るような目で暁歩にお礼を告げて、饅頭だの煎餅だのをパクパクと食べ始める。

 

「甘露寺さん、ここ最近は食事をあまり摂っていなかったらしくて」

「そうだったんですか・・・」

 

 痩せているように見えたのも、今お茶菓子をモリモリ食べているのも、それで合点がいく。

 

「甘露寺さん、さっきの話なんですけどね?」

「ふぇ?」

 

 しのぶが話しかけると、饅頭を飲み込んでから蜜璃がしのぶを見上げる。

 するとしのぶは、耳元に口を寄せて暁歩に聞こえないように話しかけた。

 

「暁歩さんに話してもいいですか?素直な気持ちが聞けると思いますし」

「え、でも・・・」

「大丈夫ですよ。彼はそんなに悪い人ではないですから」

 

 暁歩は二人がひそひそと何かを話しているのが気になったが、やがて蜜璃が頷くと、今度はしのぶが暁歩の方を向いた。

 

「暁歩さん、甘露寺さんが鬼殺隊に入った理由を覚えてますか?」

「ああ、確か・・・添い遂げる殿方を見つけるため、でしたよね」

 

 あまりにも衝撃を受けたので、忘れられない。

 だが、苦笑しながら答えると、お茶を飲んでいた蜜璃が身体を少し振るわせて湯飲みを机に置いた。

 

「それを聞いた時暁歩さんは、どう思いました?」

「どう、と言われても・・・驚いたとしか」

 

 大切な人を鬼によって喪ったり、鬼狩りの家系に生まれたりという理由が多い中で、蜜璃のような入隊理由はかなり独特な方だろう。そう言う意味もあって暁歩は大いに驚いた。

 

「それを妬ましいと思ったことは?」

「とんでもないです」

 

 しかし、驚きこそすれ悪く思ったことはない。

 暁歩も、鬼という種が許せなくて鬼殺の剣士を志したが、結局は挫折した若輩者だ。誰かの入隊理由を責めることなどできない。

 それに暁歩に限らず、人にはそれぞれ事情がある。どんな理由で入隊しようとも、罰せられる規則はない。鬼を狩ることが第一の目的である以上、入隊した経緯は些末な問題だろう。

 

「むしろ、新鮮な気持ちになりました」

「え?」

「鬼殺隊にも、そうした前向きな理由で入隊する人がいるんだって。ちょっと気持ちが楽になりましたよ」

 

 悲しい過去を背負って入隊した人が多い中、蜜璃のような理由で入隊する者は極めて稀だ。だから新鮮な気持ちになれたし、憎らしい、妬ましいと思ったことなど無かった。

 だが、暁歩がそれを伝えた途端、蜜璃がつぅっと一筋の涙を流してしまった。男として、女性を泣かせてしまったことを大いに悔やむ。

 

「あ、すみません、すみません!何か間違ったことを言ってしまいましたか・・・?」

「いいえ、大丈夫ですよ」

 

 だが、しのぶが両者の間に入って宥める。

 どういうことかを視線で問うと、しのぶは蜜璃の背中を優しくさすりながら話し出す。

 

「甘露寺さん・・・前に隠の方が、私の経歴のことを噂していたのをうっかり聞いてしまったみたいで。それで、嬉々として私に自分の入隊理由を話したことをとても悔やんでいたんです」

 

 ふと思い出したのは、以前石化の毒を受けた隊士を受け入れた時。後藤が暁歩に、蜜璃が来ていたがすぐに帰ってしまったと言っており、もしかしたらあの時後藤たちが話していたのだろうか、と考える。

 そして、しのぶの過去は、誰が聞いても『辛く悲しい』と思うことだろう。

 だからこそ蜜璃は、『自分に相応しい殿方を見つけるため』という理由を自分で恥ずかしく思い、罪悪感から気に病んでしまってやつれたのだと言う。

 蜜璃の気持ちは分からないでもないし、むしろそれだけしのぶのことを大切に考えているんだと暁歩は思った。

 

「甘露寺さん。さっきも言いましたが、あなたの明るく楽しそうな振る舞いを見て、私も心が安らぐような気持ちになるんです」

「・・・うん」

「それはアオイやきよたちも同じですし、暁歩さんもああ言ってくれたんですから。もう落ち込んだりしないでくださいね?」

「うん・・・うん・・・」

 

 蜜璃の背中を優しく撫でるしのぶ。

 その姿に暁歩も目を細めていると、後ろから足音が聞こえてきた。

 

「すみませーん・・・」

 

 襖を開けたのはなほだった。蜜璃が泣いている様子を見て少し吃驚したようだが、しのぶの方を向く。

 

「伊黒様がいらしてますが・・・」

「ああ、ありがとう。さ、甘露寺さん。迎えの方が来ましたよ?」

「え・・・?」

 

 しのぶがハンカチを差し出しながら言うと、蜜璃はぽかんとした顔でしのぶを見返す。

 どうやら先ほど、鎹鴉を小芭内に向けて飛ばしたらしく、蜜璃を屋敷まで送るように伝えていたらしい。やるなあ、と暁歩はしのぶを見る。

 そして、しのぶに連れられて蜜璃が玄関まで行くと、そこには確かに小芭内が立っていた。

 

「では、伊黒さん。後はお任せしていいですか?」

「分かった。甘露寺、大丈夫か?」

「はい・・・大丈夫です・・・」

 

 未だ涙ぐんでいるが、蜜璃は一人で歩けないほどでもなかった。

 

「あ、そうだ伊黒さん」

「なんだ?」

 

 そこで小芭内を呼び止めたのは、しのぶや蜜璃からすれば意外な暁歩だ。小芭内自身も呼ばれるとは思わなかったのか、やや怪訝な表情を浮かべている。

 そんな中で暁歩は、少しだけ小芭内を手招きし、蜜璃に見えないように懐から紙片を二枚取り出す。

 

「よろしければ、どうぞ」

 

 その紙片とは、街の定食屋の食事券。以前街へ行った際に福引で引き当てたものだ。これを二枚、今小芭内に渡した理由は、わざわざ問うまでもない。

 

「・・・受け取っておこう」

 

 小芭内がそう答えた時、雰囲気が少し丸くなったような感じがした。

 だが、それ以上は語らずに、小芭内は蜜璃を連れて屋敷を去っていった。

 

「・・・まさか、暁歩さんが伊黒さんに手を貸すとは」

 

 戸を閉めると、実に愉快そうな表情でしのぶが見ていた。先ほど、蜜璃に気付かれないように食事券を渡したのは、しのぶの位置からはばっちり見えていた。しのぶに指摘されて、暁歩も自分で可笑しそうに笑う。

 

「まあ、ちょっと背中を押したいなって」

 

 小芭内は蜜璃のことを真剣に気にかけており、かつ同時に好いていることが分かった。最初はおっかない印象だった彼も、蓋を開ければ一途な青年だ。今はもう、暁歩は小芭内に対して畏れを抱いていない。

 

「・・・」

 

 だがそこで、しのぶは物憂げな表情を浮かべる。雰囲気も、少し愁いを帯びているように感じた。

 

「・・・私にも、ああして誰かを想ったり、誰かに想われたりすることはあったのでしょうかね」

 

 それは、もう自分にはそんなことができないと諦めているようだ。

 その言葉に、暁歩の胸が強く締め付けられる。

 しのぶの過去は無かったことになどできず、自分の原動力は最愛の姉を葬った鬼に対する復讐心。そんな自分に、蜜璃と小芭内のような二人だけの関係は掴めないと、諦めているのだ。

 

「・・・それは今からでも、できますよ」

 

 だが、暁歩はそれを良しとしない。そのままになどしておけない。

 だから力強く、その未来を諦めるのはまだ早いと、しのぶの目を見て訴える。

 

「確かにしのぶさんの過去は拭い去れないほど悲しくて、辛いものです。でも、だからこそ・・・いつかは幸せを掴み取ってほしい。俺はそう願っています」

 

 言葉を止めず、視線をそらさず、暁歩は続ける。

 

「復讐を止めろとは言いません。今のしのぶさんを衝き動かしているのは、鬼に対する強い復讐心ですから・・・。姉さんを喪った気持ちと、復讐したいという気持ちも俺には分かります。それを簡単に諦めろ、とは言えません」

 

 暁歩もしのぶと同じような復讐心を抱いていた。だのに、それは自分の力の弱さを思い知ったことで失われたものだ。

 しかししのぶは、まだ心が折れていない。自分の復讐心を失わず、自分を強く保っている。柱に至るまでに力をつけて、戦い続けている。その復讐心という名の核を抜き取ることは、今のしのぶの生きる核を失うことと同義だ。

 

「でも、その復讐を遂げてからでも、幸せを掴むことは遅くないはずです。だからどうか・・・諦めないでください」

 

 達観しているしのぶを気の毒に思ったのではない。

 純粋に、心から、しのぶが幸せになる未来を願っている。

 しのぶを支えたい気持ちに変わりはない。

 そして、幸せな未来を諦めかけている今もまた、まだ諦めないでほしいと強く願っている。その根底にある自分の感情にはまだ気づけないまま、暁歩はしのぶに言葉をかける。綺麗事であっても、少しでも気持ちを楽にさせたかった。

 その暁歩の言葉を聞いたしのぶは、少しの間意表を突かれたような顔をしていたが、やがて笑みを浮かべた。

 

「・・・そうですか。今からでも、遅くはないのですかね」

「・・・はい」

 

 しのぶの声は、先ほどよりも落ち着いているような感じがする。愁いを帯びた雰囲気もしない。

 

「では、その未来が来ることを願いましょうか」

 

 そうしてしのぶは、いつものように微笑んだ。

 その笑みを見て、暁歩はどうしてだか頭の中で、静電気のようにパチっと何かが弾けた。

 そして、自分の心臓がひと際跳ねて、血液が湧き上がるかのように全身が熱くなる。その理由が分からないまま、しのぶは『そろそろ夕食の準備ですね』と台所へと向かう。

 それでも、暁歩の中の昂りが静まることは無かった。

 




≪おまけ≫

 ある日、蝶屋敷の下に一通の手紙が届いた。

「暁歩さん、伊黒様からお手紙ですよ」
「手紙?伊黒さんから?」

 きよが暁歩に手紙を渡すが、差出人の名前を聞いて暁歩は大層驚いた。
 一体何の用事で、と暁歩はおっかなびっくり手紙を開く。

「・・・なるほど・・・」

 その手紙を読んだ時の暁歩の表情は、楽しそうな笑みだったと後にきよは語っている。


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第10話:芽吹く

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 柱の人間が輝哉の下へ呼び出されるのは、柱合会議の時か、あるいは重要な任務を言い渡される時だ。

 だから、柱合会議から一か月後のある日の真昼、産屋敷邸に呼び出されたしのぶは新たな任務だと分かっていた。

 

「南東の桐蔓山(きりづるやま)で、数十名の民間人が行方不明になっているという情報があってね」

 

 縁側に座る輝哉の言葉を、しのぶは庭に跪きながら聞く。

 輝哉の声は、何故か心が落ち着くように柔らかく、頭の中に入り込みやすい。危険な任務をこれから与えられるはずなのに、心は少しも緊張していない。

 

「調査に向かわせた私の子供たちも、消息を絶っている」

「・・・はい」

 

 自分が戦えないからこそ、輝哉は鬼殺隊の隊員を大切に思っている。病床に就く隊士の見舞いに赴き言葉をかけ、亡くなった隊士の名前と来歴はすべて記憶し、墓参りを欠かさないほどだ。

 だからこそ、微笑を浮かべ淡々と事実を述べている輝哉も、内心では苦しんでいるだろうと思う。例え病に侵されていても、隊士を思う気持ちは変わっていないはずだ。そしてしのぶも、自分の感情を隠して微笑を浮かべることが多いから、それを感じ取れた。

 

「その山には、十二鬼月がいるのかもしれない」

「・・・」

「しのぶ。行ってきてくれるかい?」

 

 十二鬼月と聞いて、しのぶは口を引き締める。

 姉のカナエの命を奪った鬼も、十二鬼月。もしその山にいる鬼が十二鬼月で、それが上弦だとすれば、近づけるかもしれない。

 

「御意」

 

 その推測を込めて、しのぶは頷いた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 空いた時間、蝶屋敷の裏山で刀を振り鍛錬をしている暁歩は、いやに心が落ち着かない。

 先日の蜜璃の不調事件以来、しのぶのことを考える機会が多くなっている。身を案じているのに変わりはないが、それとはもっと別の要因で気に掛けることが増えた。

 刀を振るうたびに、しのぶの姿がちらつく。それにつれて、心の奥底から温まるような心地よい感覚が身体に広がる。

 

「ええい・・・」

 

 巻藁を袈裟斬りにして、乱暴に息を吐く。

 日輪刀に色が付いて以来、こうして刀を振るい鍛錬に励むようになった。それまでは木刀の素振りや走り込み、柔軟などで基礎体力を高めるだけだったが、今は刀術も磨いている。空見から教わった全集中の呼吸技をいくつか試してみたが、問題はなかった。

 毎日コツコツと鍛錬を重ねているからだろうが、そうまでするのは、やはり有事の際に蝶屋敷を守れるようになりたいと思うからだ。夜間は藤の香を焚いているとはいえ、用心に越したことはない。

 それに、しのぶだって『心強い』と言ってくれたのだ。その期待に応えられるよう、自分の力を磨くのは怠りたくない。

 

「・・・・・・」

 

 そこまで考えて、転がっていた藁の束を断ち切る。

 気が付けばどうしてもしのぶのことを考えてしまっていて、自分の思考を自分で把握できていないことに微妙に腹が立つ。

 だが、自分の中にあるこの感情は、朧気ながらもその正体が見えつつある。あともう少しで確信が持てそうな、そんな状態だ。

 けれど暁歩は、その感情を突き詰めようとはせずに、頭を振る。

 

「まったく・・・」

 

 後始末を終えて、暁歩は裏山を下り蝶屋敷へと戻る。

 すると、丁度しのぶが帰ってくるところだった。たったそれだけのことなのに、何故か妙に嬉しくなっている自分がいる。

 

「しのぶさん、お帰りなさい」

「暁歩さん。裏山で鍛錬を?」

「ええ、まあ」

 

 さっきまでしのぶについて考え悶々としていたことは隠し、平静を装う。不審に思っていないことから、ひとまずバレてはいないようで安心した。

 さて、しのぶは先刻、鎹鴉からの指令を受けて鬼殺隊の本部・産屋敷邸に行っていた。となれば、何かしらの指令を受けてきたに違いない。

 

「・・・任務ですか?」

「ええ。桐蔓山へ」

 

 屋敷へ上がりながら、しのぶは任務のことを話してくれた。

 数十名単位で行方不明者がいて、その山には十二鬼月がいるかもしれないと、聞くだけで不安が膨れ上がってくる。

 

「こうして柱が任務に出るのは、大体が階級の低い人たちの被害が増えた時です。これだけの被害が出たとなれば、十二鬼月がいる可能性も高いでしょう」

 

 その言葉は、前にも同じような状況を経験したからこそ言えるのだろう。だとすれば、現場はそれだけ悲惨なもののはずだ。

 

「・・・しのぶさん」

「はい?」

 

 暁歩は前に、決めていた。

 いずれはしのぶが立つ戦場に赴き、彼女が見ている場所を自分も見ようと。でなければ、『支える』と言った自分の言葉も覚悟も軽いままだ。

 

「・・・その任務に、同行してもいいですか」

 

 だから暁歩は、そう告げた。

 予想外の申し出だっただろう、しのぶは虚を突かれたような表情になるが、すぐ困ったような笑みを浮かべた。

 

「それはできません」

 

 そして、そう答える。暁歩もそれは分かっていた。

 

「十二鬼月は普通の鬼と違い、遥かに強いです。暁歩さんも自信を取り戻せたとはいえ、実戦経験は乏しい。そんな危ない場所へ、あなたを連れて行くわけにはいきません」

 

 正論そのものであり、反論する余地は全くと言っていいほどない。

 だが、しのぶを見る暁歩の目は変わらず鋭い。普段は見せないようなその真剣な表情に、しのぶは少し違う空気を読み取って、笑みを消す。

 

「・・・何か理由があるのですか?どうしても行かなければならない、という」

 

 頷いて、暁歩は告げる。

 

「・・・蝶屋敷で治療を続けていると、実際に鬼と戦い続ける皆さんの痛みや苦しみは本当の意味で理解できません。命がけで戦う皆さんと同じ場所に立って戦い、痛みや苦しみ、そして恐怖を知らなければ、皆さんの痛みを理解して支えることはできないと」

 

 治療をする中で、『戦わない連中にどれだけ辛いかわかるもんか』と当たられることがたまにある。そしてそんな時、しのぶを除いた蝶屋敷の面々は何も言えなくなる。その通りで、蝶屋敷の中で実際に鬼と戦い続けているのはしのぶだけなのだから。

 特に、そんな隊士の言葉を重く受け止めているのは、暁歩とアオイだ。二人ともに鬼との戦いに恐怖して、背を向けてしまったのだから。だからこそ、たとえ怖くても、傷ついても、死を間近に感じることがあっても戦い続ける隊士のことを、二人は尊敬している。

 

「そして、しのぶさん」

「?」

「あなたのことも支えると俺は言いました。けど、あなたがどんな場所で戦い、どんなものを見てきているのか。それを知らなければ、本当の意味で支えることはできませんから」

 

 自分の正直な意思を伝える。

 自分のことを引き合いに出されると思っていなかったのか、しのぶは少しだけ間をおいてから口を開く。その表情はやはり、心配しているようなそれだ。

 

「私のことを思ってくれるのはありがたいですが、それであなたが命を落としてしまえば、私はとても悲しみますよ。それに、アオイやきよたちも悲しむでしょう」

「それは俺たちも同じです」

 

 意外な切り返しをしてきたので、しのぶは口を閉じる。

 

「柱とはいえ、あなたが命を落とす可能性もあります。そうなれば俺はもちろん、屋敷の皆が悲しむ。それは誰であっても同じです」

 

 しのぶが任務に出ている間も、屋敷にいるアオイたちはしのぶのことを心配しているのだ。カナヲが無断で最終選別に参加した時に、しのぶが心配していたのと同じように。

 蝶屋敷の誰かが鬼との戦いに出ている時、無事を願い、不安に思っているのは皆同じだ。だからこそ、皆が悲しむからという理由で、自分だけが戦いの場に行けないのは納得がいかない。

 もちろん暁歩は、しのぶが自分に死んでほしくないと願っているのは分かっている。蝶屋敷に来る際も自分で『戦えない』と言ったからこそ、手前勝手と自覚していた。それでも、背を向けたくない。

 

「・・・・・・」

 

 暁歩の目は、光を失っていない。鋭さが衰えていない。

 その視線を受けて、しのぶはふぅと小さく息を吐く。

 

「・・・・・・分かりました」

 

 暁歩は深く、頭を下げた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 名目上、暁歩は状況確認及び負傷者の応急処置のために連れて行くことになった。

 夕方頃に出発する際は、きよ、すみ、なほの三人からめちゃくちゃ心配されたし、普段はてきぱきしているアオイからも『気を付けてください』と伝えられた。カナヲは、単独で任務に就いているためここにはいない。

 暁歩は心配をさせまいと笑みを浮かべて頷き、しのぶと共に蝶屋敷を発つ。

 

「何度も注意しますが、くれぐれも無茶はしないように。十分気を付けてください」

「はい」

 

 目的地へ向かう途中、しのぶは暁歩に重ね重ね伝える。

 暁歩だってむざむざ死にに行くつもりで同行を希望したわけではない。細心の注意を払って戦いに臨む。それにしのぶも、カナエや継子を何人も喪っているからこそ任務で親しい人が死ぬのを見たくないのだろう。なおさら暁歩は、そんなことがあってはならないと自分に言い聞かせる。

 そして桐蔓山にたどり着いた時は夜になり、空には月が浮かんでいた。

 桐蔓山は、そこそこに標高が高い。空気が薄いほどではないが、うっそうとした木々が生い茂り、昼間もあまり日光が当たらなそうな感じがする。

 山には人が通ることを前提としたのか、ほどほどに雑草が刈られた細い道が続いており、暁歩はしのぶの後に続いて山に入る。

 

「・・・静かですね」

 

 聞こえてくるのはわずかな風に草木が揺られる音や、虫や鳥の鳴き声。行方不明者が多数いるなんて思えないほど穏やかだ。

 

「油断は禁物ですよ。これが鬼のやり方なのかもしれませんから」

 

 しのぶが釘をさす。暁歩は『もちろんです』と答えつつ、周囲の警戒を怠らない。

 その途端、暁歩はの頭の右側辺りに鋭い痛みが走る。思わず顔を顰め、頭を押さえる。

 

「大丈夫ですか?」

「ええ・・・まあ・・・」

「『予感』・・・ですね?」

「はい・・・」

 

 事情を知ってるしのぶは、暁歩の『嫌な予感』が働いたことに気づきつつ、心配してくる。それには及ばないと、暁歩は手を横に振った。

 それから調べるために山を登ると、少し開けた場所にたどり着いた。辺りには立派な杉の木がいくつも生えており、さらに霧も出てきたせいで辺りが見づらくなる。

 

「・・・この匂いは・・・」

 

 風に乗って漂う仄かな匂い。それは木や葉っぱなど自然由来のものだけでなく、蝶屋敷でも嗅ぐことの多い匂いも混じっていた。暁歩の頭痛が、より鋭くなる。

 

「・・・血の匂いですね。それに、腐敗臭でしょうか」

 

 しのぶもその匂いに気づいたらしい。辛そうな気持ちが、わずかに声に乗っている。

 霧で見づらくなったうえに悪い匂いがしたことで、二人は歩く速度を少し遅くし、注意深く歩く。すると、道のわきに何かが落ちているのを見つけた。

 

「・・・人の、腕?」

 

 肘から先しかないそれは、何かに引きちぎられたかのようだった。

 それを見て暁歩は、最終選抜の時のこと、異形の鬼に喰われた少年のことを思い出し、身体の芯から恐怖しそうになる。

 だが、すぐ隣にしのぶがいることを確認すると、気持ちが少し楽になった。

 と、その時。

 

「「!」」

 

 右側から何かが迫ってきているのをしのぶと暁歩は感じ取る。

 それに気づいた時には、暁歩はすでに刀を抜き、『クゥゥゥゥゥ・・・』と呼吸を整えていた。

 

―――樹の呼吸・弐ノ型

―――樫幹返し

 

 しのぶの前に出て、迫ってきた『何か』を刀で弾き、その勢いで斬る。

 暁歩が刀を振った時、しのぶに聞こえたのは、その『何か』を斬った音だけだ。刀や暁歩の身体が動くような音もしなかった。それでしのぶも、暁歩の使う『樹の呼吸』は音を立てないものだと気づく。

 

「・・・これは?」

 

 斬り落とされた何かを見て、暁歩は疑問を口にする。

 そこにあったのは、植物の蔓のような細い黄緑色の物体だ。見ようによっては、変色したタコの足にも見える。その切れ端は、やがて灰になるように消えてしまった。

 すると今度は、ガサガサと葉が揺れるような音が頭上から聞こえてきた。

 

「っ・・・!」

 

 二本の蔓が暁歩としのぶ目掛けて襲い掛かってくる。二人は同時に後ろへ飛び退いて避けるが、蔓はしつこく迫ってくる。

 

―――樹の呼吸・漆ノ型

―――年輪回(ねんりんまわ)

 

 そこで暁歩は、身体の正面で円を描くように刀を振る。その時も、刀を振る音は聞こえず、襲い掛かってきた蔓は細切れになってしまった。

 

「呼吸技、ちゃんと使えるんですね」

「まあ、鍛錬は続けていましたから・・・」

 

 細切れになった蔓が塵と化すのを見ながらしのぶは話しかける。

 この時しのぶは、正直言うと少し助かっていた。

 しのぶには、鬼の頸を斬るほどの力がないため、攻撃は突き技に特化している。そのため、先ほどのような蔓の攻撃ではしのぶは避けるか弾くしかないので、普通の刀で戦う暁歩がありがたかった。

 しかしながら、しのぶも柱の一人。他の隊士に頼りきりでは駄目だ。

 

「下です!」

 

 ぼごっ、と大きな音と共に二人の足元から巨大な蔓が出現する。それは先ほどの蔓よりも遥かに太く長い。

 

「はっ!」

 

 その蔓を、しのぶは日輪刀で一突きする。切っ先と根本以外の刀身がない独特の刀は、突き技に特化するしのぶ特有のもの。そして、特別な機能もある。

 

「おお・・・」

 

 刀を突き刺された蔓は、動きを止める。そしてめきめきと軋むような音を立てながら縮んでいき、ついには地面に倒れた。

 

「毒ですか」

「はい。つまり、この蔓も鬼の身体の一部なのかもしれませんね」

 

 以前教えてもらったが、しのぶの刀は鞘の中で毒の調合ができる。さらに、研究の末に生み出した藤の花の毒で、頸を斬らずに鬼を殺せる。最初に初めてその技を見た時は驚いたが、改めて間近で見た暁歩は感心する。

 すると、一連の戦闘で霧が晴れ、周囲の様子が見やすくなる。

 

「・・・っ」

 

 そして、霧の向こうにあったものを見て暁歩は絶句した。

 そこでは、何本もの蔓が幾重にも絡み合い、一本の太い蔓のような様相を呈していた。しかもその巨大な蔓は血にまみれ、合間から人の手や腕、果ては首が出ている。あの蔓ですり潰されて死んでいるのだと、脳が認識した。さらに、蔓の先には何本もの細い蔓が垂れ下がり、その先にも人が吊るされている。男も女も問わず、鬼殺隊員や一般人の姿があった。

 

「・・・生きている人は、いないみたいですね」

 

 状況を冷静に見るしのぶは、普段の微笑みを浮かべていない。

 暁歩は、あまりの凄惨さに思わず口元を押さえる。血と肉が腐る匂いに眩暈がしそうで、頭の中は痛みが蔓延している。

 だが、目を逸らしては駄目だ。これがしのぶが見ている現場なのだから。普段屋敷で優しく振る舞うしのぶは、いつもこんな残酷な現場を見ているのだと、身をもって思い知っている。そんな彼女を暁歩は自分で『支える』と言ったのだから、目を逸らすわけにはいかない。

 

◆ ◆

 

 そこから少し離れた場所で、石の上に腰掛けている『誰か』は、両腕を森の中へと向けて伸ばしていた。

 その『誰か』は、肩に届かない程度の白い髪で、頬に赤い線上の刺青が入っている。紅色の着物の首周りには白い綿のようなものが巻かれている。体系や体つきから、女性であることは窺えた。

 

「二人いる・・・一人は普通の隊員か」

 

 だが、おかしなことに、その肌は不健康にもほどがあるほど白く、眼は血で染まっているように瞳以外が赤い。そして左目の瞳には『下肆』と文字が浮かんでおり、極めつけに額からは二本の角が伸びている。

 

「もう一人は・・・この気配・・・柱?」

 

 鬼の中でもひと際高い実力を持つ十二鬼月の下弦の肆・零余子(むかご)

 それが彼女の、この桐蔓山に潜む鬼の正体だ。

 

(まずい・・・柱まで来るなんて、派手に事を起こしすぎた・・・!)

 

 零余子は、何かにおびえるように歯ぎしりをし、脂汗を垂らす。

 そして手をくいっと捻ると、足元から細い蔓が何本も姿を現し、暗い森の中へと伸びていく。

 

◆ ◆

 

「来ますよ」

 

 しのぶが告げると、暁歩は辛い気持ちを飲み込んで刀を構える。この蔓に巻き込まれて死んでいる人たちの無念を晴らすためにも、負けられない。

 その直後、先ほどとは比べ物にならない速さで蔓が迫ってきた。暁歩は咄嗟に刀を振るうが、蔓はしなやかにそれを避けて暁歩の左腕に巻き付く。

 

(なんだ・・・っ)

 

 その直後、左腕から力が抜けた。

 即座に右手に握っていた刀で蔓を斬ると、バラバラと地面に落ちる。しかし、左腕に思うように力が入らない。

 蔓をすべて避けたしのぶが、様子を窺うように暁歩のそばに立つと、暁歩は起きたことを伝える。

 

「なるほど・・・それが敵の能力かもしれませんね。蔓が巻き付いたところから力を奪う・・・かなり厄介です」

 

 恐らくは、鬼が使う妖しい力・血鬼術の一種。

 蔓は、細くなればなるほど動きが俊敏になり、斬るのが難しくなる。そして隙を突いて身体に巻き付き、弱ったところを締め上げるのだろう。そして最後に、あの巨大な蔓に取り込まれて殺される。

 

「さっき私が毒を打ち込んだ太い蔓・・・毒は効いたようですが、本体に影響はないようですね」

「今も攻撃が続いているとなると、ですか」

 

 しのぶはこれまで、上弦の鬼と遭遇したことはないが、下弦の鬼を相手にしたことはある。その時にしのぶの毒は効果があったし、仮にこの山に潜む鬼が十二鬼月でなくても、毒は通用するはずだ。

 しかし、話している合間も蔓の攻撃は止まらず、暁歩としのぶは蔓を斬ったり避けたりいなしたりするしかない。

 

「せめて本体の場所が分かればいいのですが・・・」

 

 蔓の攻撃は、時に足元から、時に森の奥から迫ってくるので出所が分からない。加えて先ほどよりも本数が増えてきたので、元を辿ることも難しい。それ以前に本体と繋がっていないのであれば、辿るのも無意味だ。

 

「消耗させるのも向こうの作戦でしょうねぇ。こうして無数の蔓を相手にさせて、疲れたところで縛るのでしょうし」

 

 蔓の攻撃をひらひらと舞うように躱しながら、しのぶは焦る様子もなく言う。確かに蔓に巻き付かれれば体力を無理矢理奪われ、長期戦に持ち込み消耗したところも狙える。実に厄介な戦術だ。

 暁歩も刀を振って蔓を斬りつつ、上に跳んだり木を蹴ったりして攻撃を躱す。

 

「暁歩さんも身軽なんですね」

「樹の呼吸はそういう戦い方をするので・・・」

 

 地面に降り立ち、並んだところでしのぶが余裕の調子で話しかける。

 樹の呼吸は、刀を振る際や体を動かす時に音を立てず、軽い身のこなしで戦う。それを叩きこむ空見も容赦がなかったので、いやでも身に付いてしまった。

 

「けれどこれでは、夜が明けてしまうかも・・・」

 

 迫ってくる蔓を切り刻みながら、暁歩は息を吐く。

 あまり呼吸法で技を使いすぎると早々にばててしまうため、今は普通に刀を振るだけにしている。しかしながら、夜が明ければまた鬼は姿を隠してしまうだろうし、もしかしたらこの山から離れてしまうかもしれない。そうなれば振り出しだ。

 

「・・・?」

 

 その時しのぶは、気付いた。

 暁歩が斬った蔓の切れ端が塵芥へと変わり、そして森の中へと向かって流れていくのに。

 

「暁歩さん。何か一つ、技を使って蔓を一気に斬ることはできますか?」

「一度だけなら・・・」

 

 しのぶが何か感づいたのは暁歩も分かったが、いちいち聞く暇もない。何本もの蔓が迫ってきていたのだ。けれどその太さはあまり細くなく、動きもそこまで速くない。暁歩でも見切れた。

 

―――樹の呼吸・漆ノ型

―――年輪回し

 

 円を描くように刀を薙ぎ、蔓はバラバラに斬れてしまう。

 そしてしのぶは、その蔓の破片を注意深く観察し、やがて塵芥と化して森の中へ流れていくのをしっかりと確認した。

 

「あれを追いましょう」

「はい!」

 

 今は風も吹いていない。にもかかわらず、斬られた蔓の屑は同じ方角へと流れて行っていた。何もないとは考えにくく、しのぶと暁歩はそれを追う。

 だが、後ろからは蔓がしつこく迫ってきており、暁歩は後ろから来る蔓を刀で斬ったり弾いたりして防ぐ。さらに進路上に突然蔓が出現することもあり、それらも避けて先へと進む。

 

「いました」

 

 しのぶの声に、暁歩は前方を見る。

 奥に見える石の上に、誰かが腰かけていた。けれどあれが鬼だと、暁歩は直感でそう判断した。

 そして、鬼の方も気づいたようでこちらを見ると。

 

「・・・こんばんは。今日は月が綺麗ですね」

 

 しのぶは大声を出してはいない。普段と同じ声量で話しかけただけだ。

 にもかかわらず、暁歩の耳にするりと入ったその声は、言い知れぬ奇妙な恐怖心を感じさせた。

 

「!」

 

 そしてそれは鬼にも聞こえたらしく、必死の形相で二人に向けて腕を突き出す。

 直後、二人の足元から太い蔓が出現し、鬼との間に立ちはだかる壁のように聳え立つ。

 だが、しのぶは地面を蹴って跳び上がり、さらにその蔓を蹴って鬼の下へと飛びかかった。

 

―――樹の呼吸・壱ノ型

―――大樹倒斬

 

 しのぶが蔓を蹴ったのを見てから、暁歩は刀で蔓を斬り、太い蔓は崩れ落ちる。

 すると鬼・・・零余子は、後ろへ飛び退いてしのぶに斬られるのを躱した。

 

「おや、十二鬼月の方でしたか」

「っ・・・」

 

 しのぶが降り立ち、零余子の目の文字を見ると微笑を浮かべる。対照的に零余子の表情は、苦虫を噛み潰したようだ。

 暁歩もしのぶの横に立ち、零余子の目を注視する。『下肆』と浮かんでいる文字が、十二鬼月の証なのかと理解した。

 

「・・・十二鬼月だったら何よ」

 

 零余子は言葉こそ強気だが、足はじりじりと後ずさっている。隙を見て逃げようとしているのは暁歩にも分かった。

 

「特別扱いするつもりはないですよ?鬼は皆、人を喰っていることに変わりはないですから」

「・・・」

「先ほど見た大きな蔓に巻き込まれている人の数からして、四十人ぐらいでしょうか?でも、十二鬼月になるまでにはそれ以上喰っているでしょうね?確実に百人は越しているでしょうねぇ」

 

 しのぶの言葉を聞きながら、暁歩の刀を握る手に力が入る。

 先ほど見た、蔓に巻き込まれて死んでいた人々。鬼殺隊も、そうでない人々も、大勢死んでいる。罪のない人が、弱い人たちの命を守る隊士が、何百人も死んでいる。自分もさっき喰らった蔓を巻き付けて、無理矢理力を奪って殺している。

 その事実に、猛烈に怒りを覚えた。

 

「ただ・・・お嬢さんが罪を悔い改めるというのであれば、助けてあげましょう」

「「え?」」

 

 しかし、唐突なしのぶの提案には、零余子と揃って暁歩は驚く。

 何を急に言い出すんだと思ったが、以前のしのぶの言葉を思い出した。

 

 ―――まだ壊されていない、誰かの幸せを守る為に。そして・・・鬼を助け、仲良くなるために

 

 しのぶは、姉の遺志を受け継いで鬼と戦っている。その遺志からくる言葉だと、暁歩は理解した。

 けれど何故か、冷や汗が止まらない。

 

「悔い改める・・・?」

「はい。お嬢さんは大勢の人を喰っていますから、何のお咎めもなく助けるわけにはいきません。それでは亡くなった方や遺された方が浮かばれないですから」

 

 悪い子に言い聞かせるように、優しくしのぶは笑って首を横に振っている。

 暁歩は悪寒が収まらない。押さえつけていないと腕まで震えてしまいそうだ。脳の奥が焼けるように嫌な予感が働いていて、しのぶの口調がいつもと変わらないのに違和感しかない。

 

「そうですねぇ・・・」

 

 しのぶは、木々の合間から見える月を見上げる。そして、次に零余子を見た時はにこりと笑って。

 

「お嬢さんが人を喰った分だけお腹を裂いて内臓を引きずり出したり、目玉を穿ったり、手足をもいだりして、私が拷問して罰を与えます」

 

 ぶわっ、と暁歩の全身から冷や汗が噴き出す。

 零余子も恐怖したのか、『ひっ』と喉の奥が引っ付いたような悲鳴を上げた。

 

「怖がらなくても大丈夫ですよ?お嬢さんは鬼なのですから、その程度では死にませんし、後遺症もありませんから。そうして罰を耐え抜いたらお嬢さんは生まれ変わります。そしたら仲良くしましょう」

 

 先ほど蔓が巻き付いた暁歩の左腕は、力が入るようになった。

 刀を両手で握って構えるが、隣に立つしのぶから感じる歪な優しさと怒りの混ざった雰囲気に中てられ、思うように力が入らない。

 

「誰が聞くかそんなバカげたこと!」

 

 案の定、零余子は話を蹴った。

 そして、怒りに任せて太い蔓を伸ばしてしのぶと暁歩を叩き潰そうとする。

 

―――樹の呼吸・弐ノ型

―――樫幹返し

 

 その押し迫る蔓を、恐怖から脱した暁歩は刀を薙いで弾き、斬り落とす。

 

「あら・・・仲良くすることは無理そうですねぇ。残念です」

「いいからさっさと死んで私の栄養素になれ!」

 

 しのぶの言葉も聞かず、零余子は蔓をさらにいくつも伸ばして本気で殺しにかかってきている。太い蔓や細い蔓が絡み合うように迫ってきて、暁歩としのぶは上へと跳んで蔓を避ける。

 

「さて、どうしましょうかねぇ」

「・・・どうすると言われても」

 

 普段と全く変わらない、屋敷で夕飯の相談でもするような調子でしのぶが話しかけてくる。先ほどの零余子に持ち掛けた取引のことが頭から離れないが、暁歩は考える。こうして跳んで逃げている間にも蔓は伸びてきている。無限に跳ぶことはできないから、技を使って斬るしかない。

 

―――樹の呼吸・陸ノ型

―――高杉断下(こうさんだんか)

 

 暁歩は落下の勢いを利用して、刀を地面に向けて振り下ろし、迫り来る蔓を両断する。

 障害を排除して着地すると、しのぶが隣にふわりと降り立つ。

 

「どうして逃げようとするんですか?」

 

 しのぶはなお微笑みを浮かべて零余子に話しかける。零余子はしのぶたちと距離を取ろうとしていた。

 

「あなたは曲がりなりにも十二鬼月なのですし」

 

 零余子が歯ぎしりをする。

 十二鬼月は鬼の中でも上位の個体。先ほどの蔓に巻き込まれ死んでいた隊士の数を見るに、零余子の実力も高い方だろう。

 だが、遠距離攻撃で極力接触しようとせず、いざ見つかると逃走を図ろうとするのは、暁歩も確かに疑問に思う。そういう性格なのかもしれないが。

 

「ああ、そういえば・・・柱の間でも話題になっていました。何度も逃走しようとする下弦の鬼がいるって・・・」

「!」

「あなたのことでしょうかね?」

 

 笑って小首を傾げるしのぶ。傍目に見ても煽っているようにしか見えないが、暁歩は構わず刀を構える。

 

(・・・見る限り、男の方はそこまで大した腕じゃない。けど、女の方は間違いなく柱・・・なら)

 

 零余子は、暁歩としのぶを見比べるように観察し、構えや緊張の度合いから暁歩があまり強くないことを見抜いた。そして、そこからどういう戦術で行くかを決めて、腕を前に伸ばす。

 

「「!」」

 

 しのぶと暁歩の間から蔓が出現し、お互いに左右へ分かれ攻撃を躱す。

 暁歩は零余子から目を離さないようにしようとしたが、出現した蔓から枝分かれするように別の蔓が自分の方へと伸びてくる。

 しかもその蔓は、茨のように棘がびっしりと生えている。すかさず暁歩は刀を薙ぐが、その後ろからさらに幾重にも枝分かれした棘の蔓が迫ってくる。しかも動きがそれなりに速かったせいで即座に反応できず、腕や脚を棘が掠め、傷がいくつも刻まれる。

 

「ぎっ・・・!」

 

 あまりの痛みに叫びたくなるが、耐える。他の隊員たちはこんな痛みや苦しみにまみれて戦い続けているのだ。それに、あの蔓に呑まれて死んだ人たちと比べれば、こんな痛みは何でもない。唇を強く噛んで痛みに耐え、力を振り絞って呼吸を整える。

 

―――樹の呼吸・漆ノ型

―――年輪回し

 

 刀で円を描き、迫ってくる棘の蔓を全て斬り落とす。傷がいくつもついた腕を激しく動かして、腕が千切れそうになるが耐える。

 一方でしのぶは、同様に棘の蔓が差し迫っていても舞うように動いて蔓を避け、零余子へと接近する。それを見て零余子は、地面に手のひらをかざした。

 

―――蟲の呼吸・蜂牙ノ舞

 

 それを見たしのぶは、何か仕掛ける気だと直感で気づき、呼吸を整えて最速の技で仕留めようとする。

 

―――真靡(まなび)

 

 次の瞬間には、零余子の眼前までしのぶが迫っていたが、ほんの一瞬の差で零余子を取り囲むように蔓が地中から伸びてきた。

 

「隠れないでくださいよ」

 

 その蔓へとしのぶは刀を突き刺し毒を注入する。毒を打たれた蔓は軋むような音を立てるが、倒れるには至らない。

 

―――樹の呼吸・壱ノ型

―――大樹倒斬

 

 そこへ、体中に傷を負った暁歩がしのぶの真上から飛びかかり、横に素早く薙ぐ。取り囲むように束ねていた蔓はまとめて斬られ、零余子がいるであろうはずの部分も斬れる。

 

「・・・いない」

 

 だが、蔓の中に零余子の姿はなかった。

 中を覗き込むと、地面に人一人分が入れるような穴が開いている。

 

「・・・地中を辿って逃げたみたいです」

「では、探しましょうか。穴の中に入るのは危険ですし、地上から・・・暁歩さんが動ければですけど」

 

 しのぶは暁歩の様子を改めて確認する。棘の蔓の攻撃を受けたせいで身体中に傷があるが、致命傷ではない。少し体に力を入れると痛みが走る程度で、まだまだ動ける。

 

「まだ、やれます」

「では、行きましょう」

 

 そして、しのぶと共に暗い山の中を進んだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 やがて空が白み始めたところで、暁歩としのぶは最初の開けた場所まで戻ってきた。

 結局、山を一回りして頂上の方も見てみたが、零余子は見つからなかった。それどころか、蔓の攻撃さえもなかった。

 

「もうこの山にはいないのかもしれませんね」

 

 しのぶの言う通りで、恐らくあの穴を通って山を抜け出したのかもしれない。

 そして、蔓に締め上げられて殺された人は、ここ以外にもまだ多数いた。山の中の数か所で、同じように巨大な蔓に挟まれて死んでいる人が大勢いて、その数は数百人に届くかと言ったほどだ。

 

「・・・・・・」

 

 最初の場所まで戻った暁歩は、その人々を飲み込んだ巨大な蔓へと歩み寄る。近づくにつれて血と肉が腐るような匂いに鼻がもげそうになるが、気にしない。

 やがて足を止めると、亡くなった人たちに対して手を合わせて、静かに祈りを捧げる。

 

(安らかに・・・お眠りください)

 

 仇であろう零余子は倒せなかった。だが、死者に対する祈りは欠かせない。

しのぶもまた、暁歩の隣に立ち、同じように手を合わせて目を閉じ祈りを捧げる。

 

「・・・後は『隠』に任せましょう」

「・・・はい」

 

 祈りを終えて後ろを振り向くと、黒装束が特徴の隠の集団がやってきた。おそらく、他の犠牲者の下にも向かっているだろう。

 その隠の中の一人・・・三白眼の後藤は、暁歩を見て驚いた様子だ。

 

「あれ、あんた確か前線に出れないって話じゃ・・・」

「いやぁ、ちょっと事情がありまして」

「っていうか、出血、怪我してるし」

「ああ、俺のことはお気になさらず・・・」

 

 暁歩の創傷は、自分で止血剤を使っており、痛みも引いてきたため問題ない。こんなこともあろうかと、簡単な医療器具を詰めた腰袋を持ってきて正解だった。

 その後は、隠に指示を出し、被害を改めて確認しながら後処理に付き合う。隠の活動を見るのは暁歩も初めてだったので、その手際の良さには舌を巻いた。

 そして全ての処理が終了すると、暁歩としのぶは山を下りて帰路に就く。

 

「帰ったら、念のためアオイたちにも診てもらいましょうね」

「はい・・・」

 

 暁歩は怪我をしているが、自分の力で歩けないほどでもない。だが、行きのように走って移動するのは無理だったので徒歩だ。しのぶも暁歩を気遣ってか歩調を合わせてくれている。

 

「でも、十二鬼月を相手にそのぐらいの怪我で済んだのですから、運がいい方かもしれませんね」

「いや~・・・」

 

 十二鬼月を相手にすると、手足の一本や二本を失うのもざらだと言う。最悪の場合は死んでしまうので、しのぶの言い分も分かるが、そう言うしのぶはあの戦闘で傷一つ負っていない。そこからもしのぶの柱としての実力の高さが見えた。

 そこで思い出すのは、零余子との戦いでしのぶが放った言葉。

 

 ―――お嬢さんが人を喰った分だけお腹を裂いて内臓を引きずり出したり、目玉を穿ったり、手足をもいだりして、私が拷問して罰を与えます

 ―――罰を耐え抜いたらお嬢さんは生まれ変わります。そしたら仲良くしましょう

 

 あの言葉を聞いてから、暁歩の心臓が小刻みに震えるような感じが収まらない。今も隣を歩いている、近くを流れる川と桜を見ながら『桜が見頃ですねぇ』と微笑み呟くしのぶに対して、妙な恐怖心が消えない。

 

「・・・暁歩さん」

「・・・はい?」

 

 そこで、少ししのぶが控えめに声をかけてきた。

 暁歩が応えると、しのぶは川の方を指差して微笑みかけてきた。

 

「少し、休みましょうか」

 

 別に疲れているわけではなかったが、しのぶも心配してくれているのだろうと思い、その厚意に甘えて休憩をとることにした。

 並んで川べりに座り、穏やかな川の流れを見下ろす形になる。頭上には、枝垂桜の花が咲いている。

 

「・・・何か、気になることでもあるんですか?」

 

 腰を下ろしたところで、切り出された。考え事をしているのを見抜かれていたらしい。

 こうなってしまえば、隠し通すことはできないので、素直に明かすしかない。。

 

「・・・鬼との戦いで、『鬼を助ける』って言って、『拷問する』と言っていたのが少し、気になって」

 

 自分の中の恐怖の根源を突き止めるように、しのぶに対して申し訳ないと思いながらも暁歩は口にした。

 しのぶは、川の方を眺めながら言葉を紡ぎ出す。

 

「・・・前に、話したでしょうか。姉は、鬼を助け、仲良くなりたいと願っていたと」

「覚えてます」

 

 覚えているからこそ、さっきは同じようなことをしのぶが言った時、最初は理解しかけた。その時のしのぶの雰囲気に悪寒を感じて、妙な気分だったが。

 

「大好きだった姉の遺志を受け継ぐのが、鬼狩りでもある遺された私の役目だと思っています」

「・・・」

「けれど私はやはり・・・家族を奪った鬼を赦せない」

 

 姉の遺志を無駄にはしたくない。

 だが、自分の家族を殺めた鬼を簡単に赦すこともできない。

 その相反する二つの感情が混ざった結果が、あの時の言葉なのか、と暁歩は理解する。

 

「・・・鬼に傷つけられ、命を奪われた人を見るたびに、私の中に鬼に対する怒りや憎しみが積み重なっていく。私の中で、黒い感情が渦巻いているのが分かる・・・」

 

 自分の胸に手を当てるしのぶ。そう感じていることは暁歩には分かっていたし、以前蜜璃が『しのぶちゃんからは黒い気持ちが見えることがある』と指摘されていたのも同時に思い出す。

 

「傷つけられ、亡くなった方々がどれだけ苦しみ、恐怖し、そして絶望したか・・・。それが私の中に流れ込んでくるのです」

 

 蔓に締め上げられていた人々に祈りを捧げた時、しのぶも人間として当たり前の、悲しみや怒りを抱いていたのだ。暁歩も同じだが、亡くなった人のことを思うと、うら悲しくなってしまう。

 

「・・・暁歩さん」

 

 しのぶが、普段の柔らかい感じではなく、そのままの愁いを帯びた様子で話しかけてくる。

 

「今回・・・私が実際にどんな場所で戦い、どんなものを見てきているのかを知って・・・私を本当の意味で支えたい・・・そう言って同行を求めましたよね?」

 

 微笑みを浮かべずに、しのぶは問いかける。

 自然と暁歩の表情も引き締まったものとなり、頷く。

 

「知ることは、できましたか?」

「・・・はい。どれだけ凄惨な場所で戦い、辛い現実を見ているのか。どれだけの暗い気持ちを感じているのか」

 

 今回同行した戦いだけが、しのぶの戦いではないだろう。

 だが、今回だけでも、立っている戦場、何を思いどう感じているのかは、痛いほど伝わった。それを汲み取ることは、多少なりともできていると思う。

 

「では・・・少しだけ、失礼しますね」

 

 そう言ってしのぶは、隣に座る暁歩に寄り掛かった。

 身体の力を抜いているのか、暁歩の左腕に程よい重みと温もりが伝わってくる。不意の接触に暁歩は心臓が飛び跳ねそうになるほど驚くが、しのぶは少しだけ目を閉じて、ぽつぽつと言葉を洩らす。

 

「・・・中々、こうして誰かを頼ったり、誰かに支えてもらうことがなくて」

「・・・・・・」

「だから・・・私を知ってもらったあなたに、今だけ、ほんの少しの間だけ・・・こうしてほしいです」

 

 自分の中にある黒い感情を制御するには、相応の強い心が必要だ。

 しかし、どれだけ強靭な心を持っていても、どこかでその溜め込んだ感情を吐き出して、それを誰かが受け止めなければ心は歪む。それに、大切な家族を喪い、復讐心で鬼と戦い続け、惨たらしい場を何度も見ていれば、より心は疲弊する。

 そうなってもしのぶには、心中を全て明かせる人が、心から頼れる人がいなかった。柱という立場、蝶屋敷の主、そう言った立場が誰かに頼ることを止めさせていた。

 

「・・・今だけじゃなくて」

 

 だからこそ暁歩は、今ここで誓う。

 

「これから先・・・しのぶさんが辛いと思ったり、支えてほしいと思ったら、俺はいつでも力になります」

 

 しのぶの置かれている『今』を知ったからこそ、自分の中で固まった決意を伝える。今までずっと孤独に戦ってきたしのぶを支えたいと、切に願う。

 

「・・・ありがとう、暁歩さん」

 

 隣に座るしのぶの雰囲気が、穏やかになったのを言葉で感じ取る。

 そして、そのお礼の気持ちを受け取った暁歩は、ようやっと自分の抱いている感情を理解した。自分の心に一輪の花が咲いたような、纏わりついた雲が晴れたような、心地よい気分だ。

 しのぶのことを思うと、支えたい、力になりたいと強く思う。それは自分が、しのぶに対して同情や心配の念を抱いているからだと思っていた。

 だが、ここ最近になって、暁歩はしのぶの言葉や笑み、振る舞いなどの女性的な面を意識するようになって、身を案じているだけではないと分かった。

 そして今日、しのぶのことを知って、自分を頼ってくれていると思うことを嬉しく思い、同時に支え続けたいと切望するようになった。

 それは、暁歩がしのぶのことを、尊敬していたり、身を案じているだけではない。

 

 暁歩は、しのぶに恋をしているのだ。

 




≪設定こぼれ話≫

下弦の肆・零余子は無惨に『柱を前にするといつも逃走を図っている』と指摘されていたので、恐らくは遠距離攻撃で安全圏から攻撃しつつ、見つかったら逃走を繰り返していたのではないかと考えて、今回のような戦術・能力を持たせようと思いました。


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第11話:鬼を連れた剣士たち

多くのお気に入り登録、感想、評価、ありがとうございます。
また、誤字報告をしてくださった方、とても助かりました。心よりお詫び申し上げます。


 暁歩が蝶屋敷に来てから一年以上が経過する。

 当初は薬剤師として着任したが、今では怪我人の治療や診察も含めた医療全般に関わるようになった。だが、鬼殺隊と鬼との戦いは今なお続いているし、その中で重傷を負った隊士が運び込まれることも多い。その度に治療と調剤に追われる日々も、もう日常と化している。

 しかし、ここへ来た当初とは変わったこともある。

 

「師範、行ってまいります」

「ええ。気を付けて・・・」

 

 漆黒の詰襟、それと同色のハイカラな膝丈スカート、その上から白い羽織を着るカナヲが任務に発つ。

 暁歩がここへ来た頃はまだ修業中だったカナヲも、今は鬼殺隊の一員として前線で戦っている。暁歩も見たカナヲの強さはやはり本物のようで、着々と戦果を挙げ続け、今や階級は(つちのと)にまで上がっていた。

 

「カナヲは鬼殺隊の一員として・・・順調に成長しています」

 

 だが、そんなカナヲを見送るしのぶは浮かない顔をする。

 しのぶはカナヲの上官として、同じ任務に出ることがたまにある。その際は、カナヲの姉としてではなく、上官である柱としてカナヲのことをよく見ていた。

 

「けれど、成長して階級も上がれば、より危険な任務に一人で就くことにもなります。それだけ、命の危険も伴う」

「それがしのぶさんは、不安ですか」

「・・・はい」

 

 だが、蝶屋敷にいる時には、しのぶはカナヲのことを妹として見ている。

 姉である立場から見れば、カナヲが危険な任務に就くことを心配せずにはいられない。姉のカナエも、亡くなった継子たちも、鬼との戦いで命を落とした。これ以上家族を喪うことを恐れているのは分かるし、それは自然な気持ちだ。

 

「私はカナヲに『ただ鬼を斬るように』と伝えてあります。強い力を持ち、命令があればカナヲは戦えるから・・・」

 

 カナヲは未だ、自分で何かを決めることができない。硬貨を投げるか、命令を受けることでしか動けなかった。だからしのぶは、カナヲに『とにかく鬼を斬れ』と伝えたことで、鬼殺隊でカナヲが戦えるようにしている。

 カナヲは確かに強い。だから、命令さえあれば強く戦える。その言は間違いではないだろう。

 

「それでもやはり・・・心配です」

 

 しかし、しのぶはカナヲの身を案じている。心に不安定な面のあるカナヲが、この先どうなってしまうのかが気になってやまない。

 暁歩はそんな気持ちを聞いて少し考えてから、しのぶのことを見る。

 

「・・・けれど、鬼殺隊にいる以上は、カナヲさんも戦い続けるでしょう」

 

 カナヲはなぜ、最終選別に無断で参加して鬼殺隊に入ろうとしたのか。その理由を暁歩は本人の口から聞いている。それを考えれば、いまさら止めてもカナヲは鬼殺隊を辞めはしないだろう。

 その『理由』は、しのぶには伝えていない。

 カナヲが自分の意思を持ち始めていること自体はしのぶも喜ばしいだろう。しかし、それを伝えれば同時に苦しむと思ったからだ。カナヲが何か力になりたいと自分で考えた結果、カナエや継子が命を落とした鬼殺の剣士になることを選んだ。その選択をしのぶは知らず、自分から興味を持って始めたことだからとカナヲに稽古をつけて、結果説得する間もなく鬼殺隊に入ってしまったのだから。自分自身の行動を逆に責めかねない。

 

「それでも、しのぶさんが強いと信じ、鬼を斬るよう命じたのであれば、カナヲさんの強さを信じ続けましょう」

「・・・」

「それに、カナヲさんと話をしてみると良いと思います。カナヲさんの不調や異変に少しでも気付けるかもしれませんし、逆にしのぶさんが心配していることが少しでも伝われば、カナヲさんの心にも良い変化が生まれるかもしれませんから」

 

 過去に戻ってやり直す術はない。だからできるのは、カナヲの強さを信じて待ち続けること。そして、不安定な心を持つカナヲを支えられるように、しのぶがカナヲと向き合い続けることだ。

 

「・・・そうですね」

 

 少し気持ちが楽になったのか、しのぶは微笑む。

 桐蔓山での一件以来、しのぶの方からこうして不安や心情を打ち明けられることが増えた。あの時、しのぶの立っている場所を知ったことで、同じとまでは言わずとも、近い立場に立てたから、しのぶの気持ちを汲み取り支えることができていると思う。

 

「・・・ありがとうございます。話に付き合ってくださって」

「いえ・・・これが俺ができる少ない役目の一つですし」

 

 普段のしのぶは、自分の中の綯交ぜになった黒い感情を隠すために微笑を浮かべている。それは決して、本心からのものではない。

 だが、暁歩が接していく内に、しのぶはごく自然な笑みを浮かべる機会が増えた気がした。蝶屋敷の面々もそれには薄々気付いているようで、特にきよやすみ、なほは『最近しのぶ様、少し変わりましたね』と話している。

 そして、そんな笑みを向けられる暁歩は、自らの鼓動が高鳴るのを感じ取っていた。

 

「では、私は少し資料を読み直しますので」

「はい。それでは・・・」

 

 自室へと向かうしのぶ。

 それを見届けた暁歩は、調剤室に戻ると。

 

「・・・はー」

 

 額を押さえ、息を吐く。その口元は緩んでいた。

 蝶屋敷に来た当初とは大きく変わったこと。それは、暁歩がしのぶに対して明確な好意を抱いていることだった。

 自分の心の中に燻る感情に気づいていても、暁歩は普段通りを装って蝶屋敷で暮らし、しのぶとも接している。おそらくこの感情は、今はまだ誰にも気付かれていないはずだ。

 この想いを抱いた以上、いつかはしのぶに告げたいと思ってる。でも、今はできない。

 しのぶが柱として最前線に立っているのは、その心の中に鬼に対する強い怒りや憎しみを抱いているからだ。今の自分が想いを告げたところで迷惑でしかないだろう。

 そして恐れているのは、しのぶの強い意思にわずかでも揺らぎを与えてしまうことだ。悲しい思いを原動力に戦うしのぶが、その揺らぎが原因で傷つき、最悪死んでしまったら、それは一生拭えない後悔となる。

 だから、この想いを伝えるのは、すべてが終わった時。復讐を果たし、鬼との戦いが終わった時だ。それまでは、自分の中のこの気持ちは胸に秘めておく。

 生きているうちにそれが叶うか分からないが、今はそれを信じる。

 それでもこの感情は、容赦なく暁歩の心の中に募っていくのだ。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 ある日の早朝。

 当直で起きていた暁歩が調剤室にいると、コツコツと窓硝子を叩く軽い音が響いた。

 

「?」

 

 そちらを見ると、鎹鴉が窓硝子をくちばしで突いていた。それは任務に出ているしのぶの鴉で、脚には何かの紙が結ばれている。さっさと外せと言わんばかりに鎹鴉が脚を向けると、暁歩はそれを解く。

鎹鴉が飛び去るのを見届けながら紙を開き、暁歩は内容を確認する。

 そこには、那田蜘蛛山という場所で鬼との大規模な戦闘があり、負傷者が多数運び込まれる予定の旨が書かれていた。その山は十二鬼月の一角が根城としており、数十人の隊員が負傷あるいは死亡したとのことだ。中には毒に侵された隊士もいるため、蝶屋敷での治療は不可欠という。

 

「・・・」

 

 大人数を受け入れられるよう準備を、と手紙の最後には書かれていた。

 暁歩は苦い表情を浮かべながらそれを懐に仕舞い、準備に取り掛かる。事務的な文章だけでも、鬼との熾烈な戦いの様子が目に浮かぶし、死者が複数出たと聞くと悲しまざるを得ない。特に、桐蔓山の惨状を見たからこそ、悲痛な思いが強くなる、

 アオイやきよたちはまだ眠っている。起こして手伝ってもらうわけにはいかず、まずは自分だけでできる限りの準備を進める。

 差し当たり、まずは治療器具と寝台の準備だ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 七時頃に、アオイたちは起床した。

 起き抜けに申し訳ない気持ちを抱きながら、暁歩はアオイたちにしのぶからの連絡を伝える。その直後、彼女たちの意識は覚醒し、アオイときよも一緒に受け入れの準備を手伝ってくれる。朝食はなほとすみが協力しておにぎりを作ることになった。

 やがて日が完全に昇ると、怪我人を背負ったり担架に載せた隠が蝶屋敷へと慌しくやってくる。

 

「けが人です!」

「はい、こちらの病室へ!」

「重傷の方はどちらの病床に寝かせれば・・・」

「この空いているところへお願いします!」

 

 この規模になると、蝶屋敷総出で受け入れを始める。きよたちが主体となって怪我人を病室へと案内し、アオイと暁歩で手分けして初期診療を行う。そして手が空いたら、包帯を巻いたりガーゼを貼ったり折れた骨を固定する。

 怪我人の傷の深さは、相当のものだった。身体に深い創傷が刻まれていたり、手や足の骨が皮膚を突き破る複雑骨折、毒の影響か頭髪がほとんど抜け落ちていたりと、いずれも痛ましい。那田蜘蛛山の戦いがどれだけ悲惨だったかを訴えかけてきて、暁歩も心が突き刺されたように痛い。

 だが、それでも怪我人に不安を与えるような表情をしてはならない。治療する立場にある人間は、怪我人に不安を与えてはならないのだ。どれだけ怪我を見て心が痛んでも、鬼が憎くても、それを表情に出してはならない。

 

 そうして治療を進める中で、とりわけひどい怪我を負っている隊士がいた。

 一人は、珍しい黄色の髪の少年。名前は我妻(あがつま)善逸(ぜんいつ)、毒の影響で四肢が縮んでしまっている。また、左腕の痙攣も発生していた。

 もう一人は、猪の頭部の生皮を被った少年。嘴平(はしびら)伊之助(いのすけ)という彼は、首に強い圧力をかけられたからか喉頭と声帯が傷ついており、頚椎も怪しい。

 伊之助については、あまり首を動かさず、また大きな声も出さないようにして安静にすれば一応は大丈夫だ。

 しかし、問題は善逸。しのぶが現場で解毒薬を打ち、毒の進行は止まっているが、縮んだ四肢を元通りの寸法に戻す必要がある。そのための薬を、採取した血液から分析した毒素を基に調合していた。

 

「大分苦い薬になるな・・・」

 

 唸る暁歩。

 調合の段階で猛烈に苦い薬と分かる。喰らった毒が強力で厄介だから仕方ないのだが、治療に時間がかかる上に薬も苦くなる。仕方なくても、暁歩は申し訳ない気持ちになる。

 ただ、しのぶの資料によれば、鬼の毒は日光に当たっていることでも分解できるらしい。鬼が日光に当たると消滅してしまうから、それと同じ理論なのかもしれない。

 と言っても、それだけでは回復速度が遅いので、それを補うために薬がある。なので、善逸には薬を服用しつつ日光に当たって毒素を地道に分解してもらうしかないのだ。

 そんな方針が決まったところで、またしても調剤室の窓がコツコツと叩かれる。窓を開けると、そこにいたのは今朝と同じしのぶの鎹鴉だった。しかし今度は、脚に手紙を付けてはいない。

 

「佐薙暁歩!しのぶヨリ伝令!新タニ一名ノ負傷者アリ!蝶屋敷ニ運ビ込マレル!病床ヲ確保セヨ!」

 

 伝令に、暁歩はまた怪我人が増えるのかと辟易するが、鎹鴉はまだ伝令があるのか飛び去らない。

 

「サラニ、二階ノ特別室ヲ一部屋用意セヨ!北側ノ洋室ヲ用意セヨ!」

 

 その伝令に、暁歩は疑問を抱く。怪我人は一人のはずなのに、通常の病床に加えて特別室まで用意するというのは異例だ。しかも、部屋の場所まで指定されている。

 だが、鎹鴉は用が済んだとばかりに飛び去って行った。暁歩は疑問を脇に置いておき、しのぶからの伝令をアオイたちにも伝えるために部屋を出る。

 

「さらに一人怪我人が運び込まれるようですので、病床を一つ準備してください」

「分かりました」

「それと、二階の北側の洋室も別途準備してほしいとの伝令だったので、手が空いていたらそっちの掃除もしましょう」

「はい!」

 

 すみとなほ、アオイに話を通し、暁歩は調合のため調剤室に戻る。

 やがて薬が完成し、病室にいる善逸たちの下へ向かうと、途中で怪我人を診て回っていたきよにばったり会った。先ほどの伝令をきよにも話して、さらに暁歩は訊ねる。

 

「怪我をした人たちは問題なさそう?」

「はい、皆さん落ち着いています。ただ、我妻さんという方が先ほど目覚めたんですけど・・・」

「?」

 

 何やら心配事があるらしいきよに、暁歩は話してごらんと促すように顔を見る。すると、きよは少し困ったような表情を浮かべる。

 

「起きたら手足が短くなっているのが怖いのか、すごく泣き叫んでしまって。アオイさんがちゃんと薬で治しますって言っても、収まらなくって・・・」

「あー・・・なるほど。不安だ・・・」

「アオイさんもちょっと手を焼いているみたいです・・・」

 

 まだ話もしていないのに、善逸がどんな人か分かった気がする。それと、薬で治すとアオイが言ってくれたが、その薬が調合段階で凄まじく苦いと分かっているので、それを飲ませることが申し訳ない。

 そんな内心の暁歩の心配とは別に、きよの表情が暗くなる。

 

「今回も、また大変な戦いだったみたいですね・・・」

「そうだね・・・俺が行った桐蔓山も相当だったけど、今回も・・・」

 

 桐蔓山の時は、生存者がいなかった。それと比べれば今回は、生きて帰ってくるだけでも幸いかもしれないが、激しい戦いだったことは想像に難くない。

 そして、怪我をした人々の苦しみを思うと、下弦の肆との戦いで暁歩が受けた全身の傷が疼く。今は痛みもなくなり傷口も目立たなくなったが、あの時のことを思い出す度に塞がった傷が開いて血が溢れ出そうになるほど痛む。

 

「暁歩さん?」

「大丈夫。何でもないよ」

 

 きよが心配そうに見上げてくるが、暁歩は笑みを浮かべて首を横に振る。

 さて、本題は善逸の薬だ。しのぶが研究した解毒薬の基礎に加え、血液から採取した毒素を分解する効能がある薬種を調合したこの薬、飲む前から苦いと分かる。

 これを飲ませると、どうなるか。

 

「にっがぁ!かっらぁ!」

 

 案の定だった。

 

「何なのこの薬、超苦いし超辛いんですけど!え、これを飲み続けろって言うの!?地獄過ぎない!?死ぬより辛いんですけど!」

 

 先ほどまで落ち着いていたのに、薬を飲んだ途端堰を切ったように騒ぎ出す善逸。思わず暁歩もきよもたじろぐほどだ。隣の寝台で眠っている伊之助の迷惑にならないか不安だが、彼は眠っているのか何の反応も示さない。生皮を被っているせいで表情が分からないが。

 それはともかくとして、暁歩は善逸に薬のことを話しておく。

 

「我妻さん、あなたの受けた毒はかなり強力なもので、治すのにはそれなりに時間がかかります。それに伴い、強い薬も飲まなければなりません。辛いのは分かりますが・・・」

「時間がかかるって、どれぐらい・・・?」

 

 善逸に問われて、暁歩は今の容態から概算してみる。

 

「・・・最低でも、三か月。薬も一日五回ぐらいでしょうかね・・・」

 

 苦笑して答えると、善逸は黙り込む。

 だが。

 

「五回!?五回飲むの!?一日に!?三か月間飲み続けるのこの薬!?」

 

 当然の不安と不満を涙ながらに訴えかけてくる善逸。暁歩ときよは揃って困った表情になる。

 

「って言うか、薬飲むだけで俺の足と腕治るわけ!?本当!?ねぇ治るわけ!?」

「静かにしてくださぁい!」

 

 ついには泣き叫びだす善逸。それを宥めようと、きよは声を頑張って大にする。

 暁歩も『苦い』と不満を言われるのは覚悟していたが、ここまで騒ぐのは予想外だった。けれど、自分も幼い頃は苦い薬が嫌いだった記憶があるので、一概に馬鹿にできない。

 それにしても、きよの話を聞いて思ったが、彼は情緒不安定らしい。こんな感じの彼に苦い薬を三か月間処方し続けられるだろうか、と不安になる。

 すると、後ろからツカツカと足音が聞こえてきた。

 

「静かにしてください!説明は何度もしましたでしょう!いい加減にしないと縛りますからね!」

 

 横から姿を見せたのはアオイ。真面目な口調はそのままに、重傷者に対しても厳しく叱る。元々キビキビ真面目なアオイがここまで怪我人に厳しくするのも初めて見るが、その様はまるで肝っ玉母ちゃんだ。善逸は善逸で、アオイに叱られたのが怖いのか、ガタガタと震えている。

 

「善逸!善逸!」

 

 さらにそこへ、また別の少年の声が響く。

 暁歩が後ろを振り返ると、隠の後藤が立っていた。暁歩は会釈をするが、どうやら声の主は後藤が背負っていた少年らしい。

 赤みがかった黒髪と、額に痣がある少年。花札のような耳飾りを付けていて、顔には戦闘で負ったと思しき傷がいくつも刻まれている。この少年とは善逸、伊之助も仲が良いらしく、少年の姿を認めると善逸も少し落ち着きを取り戻す。さらに少年は、伊之助に助けに行けなかったことを悔やみ、同時に無事だったことにとても安心したと気持ちを伝えた。

 そんな彼は、伊之助の隣の寝台に寝かせる。その脇には、別の隠が運んできた、彼のものと思しき木箱が置かれた。

 

「お名前を伺っても?」

「はい。階級(みずのと)竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)です―――あたっ・・・」

 

 元気よく名乗ろうとしたところで、炭治郎と名乗った少年は顎を押さえる。さらに咽て咳き込んでしまい、暁歩は炭治郎の背中をさすって落ち着かせる。

 

「顎を痛めてるみたいですね・・・あまり大声を出さないようにしてください」

「はい・・・」

「自分は、この屋敷で治療を担当している佐薙暁歩です。よろしく」

 

 怪我人用の服に着替えさせながら、暁歩は炭治郎の身体を診る。善逸や伊之助と比べればまだ症状は軽いが、身体全体に切創や擦過傷、打撲や肉離れもあった。彼は彼で、十分注意しなければならない容態である。

 

「大分怪我が深刻ですし、当分はここで静養しましょう」

「分かりました・・・」

「きよちゃん。包帯とガーゼをお願い」

「はい」

 

 きよが医療具を取りに行くと、そこで暁歩は気になったことを炭治郎に聞く。

 

「竈門さん。俺たちはしのぶさん・・・この屋敷の主からもう一部屋用意しておくように言われていたのですが、どなたかお連れの方でもいらっしゃいますか?」

 

 しのぶの鎹鴉から伝令を受けてからまだそこまで時間は経っていないが、恐らくは彼が『追加で運び込まれる隊士』だと暁歩は思っている。別に一部屋用意するよう言われたのは彼が同伴者を連れているからだと思ったが、その姿はない。

 それを訊くと、炭治郎は少しだけ視線を逸らした。

 

「ええ、まあ・・・」

「そのお連れの方はどちらにいます?よろしければ自分が案内しますけど・・・」

「いえ、大丈夫です!俺が案内しますので!」

「いや、竈門さんは怪我を・・・」

「本当に大丈夫ですから!」

 

 頑なに遠慮する炭治郎に暁歩は疑問を抱きつつも、診察を続ける。そして、具合が悪くなったりしたらすぐに呼ぶよう炭治郎に念押ししておいた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 運び込まれた怪我人が多いため、夕食を用意するのも一苦労だ。さらに量だけでなく、それぞれの怪我の状態に合わせて用意するので、一律で作ることもできない。

 基本的に隊士に出す料理は全員同じだが、例えば喉にけがを負っている伊之助や、顎を痛めている炭治郎には、あまり固形物の無いように煮物を通常以上に煮込んで柔らかくしたり、お粥を用意する。

 

「苦ッ!!」

 

 食事が普通だった善逸は、食後の薬を飲むと一気に表情が歪む。食事と薬を運んできた暁歩を恨めしそうに見るが、とりあえず曖昧な笑みを浮かべておく。

 

「アリガトウネ・・・」

 

 次に伊之助。きよが持ってきたお粥を、しゃがれた声と共に受け取りもそもそと食べている。生皮の下は意外にも端正な顔立ちだったが、その声が低いし濁っているので怖い。

 

「ありがとう、すごく美味しいよ」

 

 そして炭治郎は、少し柔らかめのご飯でも笑みを返してくれた。それには、食事を運んできたなほとすみ、さらに近くにいたきよと暁歩も心が温かくなる。穏やかな性格の子なんだなと、暁歩は思った。

 ただ、彼の寝台の脇に置いてあった木箱が無くなっているのを見て、少しだけ疑問を抱いたが。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 その翌日。朝の問診や包帯の交換、洗濯など一通りの業務を終えて一息ついたところで、蝶屋敷で暮らす面々は食卓へしのぶに呼び出された。そこにはカナヲもいる。

 

「皆に一つ、伝えておきたいことがあります」

 

 普段浮かべている微笑もない、やけに神妙な表情のしのぶ。昨日は柱合会議で帰りが遅くなり、できなかった話を今したいらしい。

 

「昨日運び込まれた、竈門炭治郎くんはご存じですね?」

 

 しのぶの問いかけに、暁歩たち全員は頷く。

 

「彼は昨日、柱合裁判にかけられたんです」

「柱合裁判・・・?」

「まあ分かりやすく言うと、著しく隊律を破った隊員に対して、柱が裁判を行うんです」

 

 暁歩は、昨日今日と接していた炭治郎のことを思い出す。彼はとても礼儀正しく、食事を運ぶ際や問診をする際も『よろしくお願いします』『ありがとうございます』と挨拶を欠かさない。怪我が辛いだろうに、それを感じさせない真面目な姿に暁歩も好感を抱いている。

 

「・・・竈門さんが、何か?」

 

 そんな彼が隊律違反、と聞いて暁歩は改めて訊ねる。

 しのぶは頷いた。

 

「単刀直入に言うと、彼は鬼を連れていたんですよ」

 

 しのぶが告げたことに、全員が目を見開いた。

 あの心優しそうな少年が、鬼を連れている。

 そこで暁歩は、昨日しのぶからの伝令で別室を用意したことと、炭治郎がその『連れ』を案内させようとしたのを頑なに拒否したのを思い出して、全てに合点がいった。

 この屋敷に、その連れている鬼はいる。

 

「それには何か・・・理由があるんですよね?」

 

 それは紛れもない異常事態だ。にもかかわらず、炭治郎はこうしてここにいて、しのぶも冷静で、隊もバタバタしていない。だとすれば、お咎めなしとなった理由もあるはずだ。

 暁歩が問いかけると、しのぶも頷き、順を追って事情を説明した。

 

―――――――――

 

 鬼は、炭治郎の妹である竈門(かまど)禰豆子(ねずこ)

 鬼になったのは二年ほど前で、その間に人を喰ったことはないと炭治郎は言っていた。

 しかしながら柱は、身内である炭治郎の証言を信じず、鬼の禰豆子と隊律違反を犯した炭治郎を処刑する方針でいた。

 そこで二人を庇ったのは、鬼殺隊当主の産屋敷輝哉。炭治郎と禰豆子の事情を知った上で黙っており、両名の存在を柱にも認めてほしいと願う。

 それでも柱は納得しなかったが、実際に彼らを二年間見てきた、炭治郎の育手であり元柱である鱗滝(うろこだき)左近次(さこんじ)が輝哉に送った書状を、抜粋し読み上げたことで流れは変わった。

 実際に禰豆子が二年以上人を喰っていないと左近次は証言し、この先禰豆子が人を喰った場合は炭治郎、左近次、さらにはその存在を知っていた水柱・冨岡義勇の三人が切腹して詫びると宣言。

 そして輝哉が、炭治郎が鬼を生み出した諸悪の根源である鬼舞辻無惨と接触していることを明かすと、柱も炭治郎に生かしておく価値があると考え始めた。柱でさえ無惨を見たことがないからこそ、炭治郎は貴重だと。

 それでも鬼である禰豆子は認められず、風柱・不死川実弥が自らの血を使って禰豆子が人を喰わないかどうかを試そうとした。が、結果的に禰豆子はそれを振り切り、人を喰わないことが証明されたのだ。

 これにより、炭治郎と禰豆子の処刑は無効となり、炭治郎は今後も鬼殺隊に身を置くことになったという。

 

―――――――――

 

「私も当初は信じられない話でした。けれど、不死川さんが実際に自分の血を使って試したことで信憑性が増し、()()()()()()()()()()()わけです」

 

 妙に引っかかる言い方に、暁歩はしのぶの顔を見る。その顔には微笑みもない凛とした顔だったが、それだけではまだ内面にある感情まで読み取れない。

 

「ですので、柱の皆さんが認めたので、問題はありません。なので皆も、普段通り暮らして大丈夫ですからね」

 

 しのぶは微笑を戻してそう告げる。

 だが、それなら一安心、と簡単にはいかない。

 暁歩をはじめ、この屋敷に暮らすほとんどの人が鬼によって家族を喪っている。普段はそんな素振りを見せずとも、心に傷を負っているかもしれない。いくら鬼殺隊当主から認められたと言っても、そうすぐに受け入れることは難しいだろう。

 そしてそれは、しのぶも同じなのではないか。暁歩はそんな疑念を抱いた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「まあ私も・・・腑に落ちたと言えるほど納得はしていませんね」

 

 時間を改めて暁歩がそれを訊くと、しのぶは表情を曇らせてそう告げた。

 

「那田蜘蛛山で遭遇した鬼も・・・自分が生き残るために平気で嘘を吐き、罪のない人を喰っていました」

 

 蜘蛛の糸を操る少女の鬼を思い出す。繭玉に人を閉じ込めて溶解液で溶かし、栄養として吸収する。確認できる範囲でも十数人の命が喪われていた。しかも、その鬼は自分が殺した人の数を少なく言って、少しでも罪から逃れようと嘘を吐いた。あれこそが、しのぶの最も嫌う鬼の面、自己保身のために嘘を重ねる狡猾さだ。

 

「那田蜘蛛山だけではありません。多くの鬼が、それぞれの場所で罪のない人間を喰って生き永らえています。どんな事情があっても、私は何の罰もなく赦すことはできない」

「・・・」

「けれど、禰豆子さんは今回事情が少し違います。人を喰っていないことも、この先喰わないことも柱の前で証明されていますから」

 

 その上で、禰豆子のために三人の命が賭けられている。

 これだけの材料を揃えられれば、疑う余地などないし、それ以上の追及もできない。だから、『論理的には』納得しているのだ。

 

「でも、しのぶさんは・・・」

 

 だが、しのぶは家族を鬼によって喪い、自分が大切に思う蝶屋敷の皆もまた、鬼によって悲しみを植え付けられた。そして、亡くなった人々の無念の思いも感じ取っているからこそ、鬼という種に対する怒りや憎しみが尽きない。

 だがらこそ、事情が違い、理論的に納得していても、鬼である禰豆子を本心から認められるのか。

 

「大丈夫ですよ」

 

 しのぶは、気丈に笑っている。

 

「禰豆子さんは、私の家族を殺した鬼ではありませんし、禰豆子さんには普通の鬼とは違うところもあります。問答無用で斬ったりはしませんよ」

 

 そしてしのぶは、暁歩の前に立って微笑む。

 それは、本心からくる微笑だ。

 

「だから、暁歩さんも心配しないでくださいね」

「・・・分かりました」

 

 そう言ってしのぶは、任務があるのかその場を去った。

 しのぶがああ言うのであれば、暁歩も必要以上に不安に思ったりすることはないのかもしれない。

 けれど暁歩は、今なお穏やかでない気持ちを抱きながら、調剤室へと戻った。




≪大正コソコソ噂話≫

しのぶの鎹鴉(オス)は、しのぶを取られると思い込み暁歩によくちょっかいをかけてきます。けれどしのぶはそれに気づかず、両者とも仲が良いと思っています。

鎹鴉「カァー!カァー!」
暁歩「痛っ!脛をつつくのは止めてください!痛いですって!」
しのぶ(二人とも仲が良いんですねぇ)


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第12話:神崎アオイ

「むーりー!!」

 

 善逸の声が屋敷に響き渡る。最近の恒例と化したこれに、暁歩をはじめとした蝶屋敷組は、肩を竦めて苦笑した。

 那田蜘蛛山の隊士が運び込まれてから三日。怪我の症状が軽かった隊士は既に別の任務に就いたり、那田蜘蛛山での報告のため柱に呼び出されたりしている。

 だが、重症である炭治郎、善逸、伊之助の三人は未だ療養中だ。

 

「こんな苦いの無理!もう耐えらんないよ!これ一日に五回とか新手の拷問でしょ!味覚が死ぬ!って言うか俺が死ぬぅ!」

「静かにしてください!苦すぎて死ぬはずがないでしょう!」

 

 そして、こうして善逸が薬の苦さに駄々をこねて泣き叫び、アオイが叱りつけるのもお決まりとなっていた。

 

「その薬を飲まないと手足が短いままですよ?それでもいいんですか!」

「やーだー!でも薬が苦いのもヤなの!!」

 

 きよたちは、二人のやり取りを見て『アオイさんもよくやるなぁ』と思う。きよ、すみ、なほの三人は善逸の泣き言にとっくに辟易しているのに、アオイは根気よく善逸に薬を飲むように言いつけている。

 ただ、善逸も出された薬をちびちびとは飲んではいるので、単なる駄々っ子ではない。毎度のごとく泣き叫ぶのは結構疲れるものだが。

 

「善逸、少し静かにしろ・・・。屋敷の皆に迷惑だし、怪我も治らないぞ」

 

 そしてこういう時、決まって炭治郎が善逸を宥めてくれる。鬼を連れていると聞いた時は驚いたが、彼自身はとても礼儀正しい人物で、恐れるところなど全くない。暁歩やアオイたちも、彼に対しては全く嫌な気持ちを抱いていなかった。

 

「・・・・・・」

 

 そして彼らの間に挟まる形で寝ている伊之助。やかましい善逸にも全く反応せず黙り続けているが、あまり大声を出すと回復が遅れてしまうため、我慢しているのかもしれない。やはり猪の生皮を被ったままなので表情は窺えないし、異様な姿なのは否めないが。

 

「炭治郎さん、お薬をどうぞ」

「ありがとう」

 

 なほが煎じ薬を渡すと、炭治郎は笑顔で受け取る。それを炭治郎は一呷りで飲み干すが、それを見た善逸は『羨ましい』とボソッと呟く。どうやら、炭治郎の薬が飲みやすいことに納得がいかないらしい。

 

「こんにちは」

 

 そんな騒がしい病室を暁歩が訪れる。問診の時間だった。

 炭治郎が『こんにちは』と挨拶を返してきて、暁歩は笑みを浮かべて頷く。そして、一番扉に近い善逸の寝台の傍に座った。

 

「こんにちは、善逸くん。手足の具合はいかがですか?」

「少しずつ伸びてきてる感じはするんですけど・・・まだ短いです。あと薬が苦いです」

「なるほど・・・」

 

 善逸の治療服の袖を捲るが、確かにまだ大分短い。毒が残っているからか、皮膚に変色した部分も残っていた。

 

「ただ、運び込まれた時よりは伸びていますね。痙攣などがあったと伺っていますがそちらはどうですか?」

「痙攣はもうしなくなって、今はだいぶ楽になりました。あと薬が苦いです」

 

 痙攣が止んだと聞いて、暁歩はひとまず安心する。次の薬の調合は少し変わりそうだ。

 

「他に何か痛みなどはありますか?」

「寝ている時間が多くて背中がちょっと痛いくらいです。あと薬が苦いです」

「寝転がることでの身体の痛みは、起き上がって活動できるようになったら改善できると思いますね。しのぶさんの許可が下りたら、訓練を受けると良いでしょう」

 

 最後に触診で脈や痛みなどを確認するが、手足の縮み以外で問題は無さそうだ。

 

「ありがとうございます。他に何か気になることはありますか?」

「何度も言うようだけど薬が苦いの!」

 

 最後になって善逸が必死に訴えかけてきた。

 暁歩もそこには触れないでいたが、お気に召されなかったらしい。アオイたちもいつものことなので、溜息を吐いていた。

 暁歩は少し息を吐き、善逸の顔を見る。

 

「いいですか、善逸くん?君の症状は炭治郎くんたちよりも重くて、かつ深刻なんです。体内の毒素はまだ完全には取り除けていません。君も見たでしょう?」

 

 言われて善逸は、先ほど袖を捲った際に見た自分の腕を思い出す。年齢に見合わない長さの腕と、変色している皮膚。自分の身体なのに、ぞっとする。

 

「それを治すには、薬が必要なんです。苦いのはそれだけ強いからなので仕方がありません。『良薬は口に苦し』とも言うでしょう?」

「でも・・・飲むたびに口の中で苦みが余って、普通のご飯も不味く感じちゃうの!苦いにもほどがあるの!」

 

 なお涙目で抗議する善逸。

 だが、暁歩としても良心が痛む。その苦いと叫ぶ薬を調合しているのは暁歩だし、自分で苦いと分かっていても自分が調合した薬を拒絶されると、同時に気の毒に思えてしまう。

 痙攣がなくなったことで薬の調合も少し変わるが、それでもまだ苦いままになるだろう。

 少し考えた末、暁歩はもう一度息を吐いて告げる。

 

「・・・まあ、苦すぎて飲みにくいのであれば、次からは少し調合を変えます」

「へ?」

「極力苦くならないようにして、飲みやすくしますよ」

 

 それは思いがけない提案だったのか、善逸は泣き止む。そして見る見るうちに、表情が明るくなってきた。

 

「必要ありません」

 

 だが、そこへ滑り込む容赦ない言葉。

 ぴしゃりとした声の主はアオイだった。

 

「善逸さんの症状は一番重く、一刻も早く治す必要があります。調合を変えてしまっては、その治る速さも遅くなってしまうでしょう?」

「それは確かにそうですけど・・・」

「でしたら、そのまま飲んでもらう以外ありません」

 

 アオイの言葉は正しい。だからこそ善逸は口を閉ざし、再び涙目になってしまう。

 しかしながら、暁歩も善逸のことを考えると、頷けない。

 

「しかし、苦すぎで飲むのを拒否したり、時間をかけすぎると、それこそ治る時間は遅くなります。そうならないために、少しでも飲みやすくした方が」

「いいえ、不要です。早く治すためには多少苦くても我慢してもらうしかありません。鬼との戦いはまだ続いているのですし、戦えるようにならないと治療する意味もないです」

「薬に対して忌避感を抱かせたままですと、この先の治療にも影響が出かねませんよ」

 

 だんだんと、暁歩とアオイの間に険悪な空気が流れ始めているのは、誰の目にも明らかだった。特に、二人との付き合いがこの場では長い方のきよたち三人娘はオロオロしだす。

 一刻も早い治療を優先するか、怪我人の希望を優先するか。二人の意見が衝突する。

 

「大体、怪我をした方の希望をすべて受け入れてしまうと、身になりません」

「ですが、無理強いして怖がらせたりするのもまた駄目でしょう」

 

 一触即発の空気。両者の間には稲妻が散っているようにも錯覚する。

 

「えっと、俺は苦くない方がいいかなーって・・・」

 

 だが、そこで善逸が場を丸く収めようとして、暁歩の肩を持つ発言をしてしまった。

 それを聞いたアオイは、気に食わないように鼻で息を吐き。

 

「・・・もう知りません」

 

 つかつかと足早に病室を出ていってしまった。

 最後の一言はとても静かで、怒りが伝わって、暁歩の心に鋭く刺さった。

 

「・・・失礼しました」

 

 険悪な空気にしてしまったことを、暁歩は詫びる。その場で休んでいる炭治郎や伊之助、善逸を不安にさせるわけにもいかなかったから、無理に笑顔を作って問診を再開する。

 だが、その場にいた者の表情は暗い。

 特に、自分のせいで和を乱してしまったという自覚があった善逸は、問診を終えて部屋を出ようとした暁歩を呼び止めて、伝えた。

 

「あの、ごめんなさい・・・俺がわがままを言ったせいで・・・」

「いえ、善逸くんは何も悪くないですよ。薬が苦いのは作る段階で分かっていましたし・・・俺もちょっと言いすぎたと思ってますから」

 

 こうして素直に謝るところを見ると、善逸もやっぱり悪い子ではないんだと、暁歩は思う。

 そして病室を出ると、きよたちに『ごめんね』と暁歩は謝り、調剤室へと戻っていった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 暁歩はすぐに、アオイに謝るべきだと自分で気付いた。

 アオイもアオイなりに、善逸のことを考えて薬について注意してくれたのだ。だが、暁歩はそれを否定して自分の意見を言うだけだった。冷静になってみれば、怪我人のことを思っているのはアオイも同じだと言うのに。

 暁歩はこれまで、人と衝突したことなどほとんどない。それでも、相手が怒っていて自分に原因があると分かっているのなら、自分から謝るべきだと幼少期に教わっていたから、自分でどうするべきかはすぐに分かった。

 しかし。

 

「あの、アオイさん・・・」

「・・・・・・」

 

 暁歩が話しかけようとするが、反応を示してくれない。

 

「すみませんが・・・」

「・・・・・・」

 

 後ろから呼びかけても、応じずに歩いて行ってしまう。

 

「ちょっとお時間を・・・」

「・・・・・・」

 

 アオイが話し合いに応じてくれないので、謝ることができない。

 暁歩もまた、自分のせいでこうなってしまったのだから、と自分を責めるしかなくなる。

 きよ、すみ、なほの三人も、事の顛末を知っているし、暁歩が謝ろうとしていることには気づいていた。それでも、アオイも若干ピリピリしている様子なので仲を取り持とうとするのも難しい。

 結果的にその日一日、暁歩とアオイの間にはどうにも剣呑な雰囲気が漂い続け、きよたち三人娘も委縮してしまうことになってしまった。

 

『・・・・・・・・』

 

 そんな雰囲気は夕食の時間になっても消えず、その日の夕食の食卓は重い沈黙に包まれた。カナヲはそんな中でも我関せずと夕食をパクパク食べていたが、しのぶはそうはいかない。屋敷の主として、空気には敏感だった。そして表情から、その剣呑な雰囲気の原因が暁歩とアオイにあることを察する。

 

「暁歩さんとアオイ、何かあったのかしら?」

 

 そしてしのぶは、食後にきよ、すみ、なほの三人を私室に呼び出して、事情を聞くことにした。三人も呼び出された時点で何を聞かれるかは分かっていたし、このままの空気でいるのも嫌だったので、素直に話すことにした。

 

「実は・・・」

 

 三人でかいつまんで事情を説明する。話を聞いている途中、しのぶは頷きながら相槌を打ち、聞き終えると『なるほど・・・』と納得するかのように呟いた。

 

「まあ、お二人とも怪我人のことを考えていますし、どちらも間違っていないからこそ難しい話ですね」

 

 困ったように笑うしのぶ。きよたちも同じで、二人の言い分を分かっているから、どちらが悪いと白黒つけることができないのだ。

 

「それで、暁歩さんの方から謝ろうとしているんでしたよね?」

「はい・・・」

「では、少し頼みごとをしてもいいかしら?」

 

 そしてしのぶは、ニコッと笑って手を合わせ、きよたちに頼みごとを伝えた。

 

◆ ◆

 

 暁歩は調剤室で、薬を作っていた。

 善逸の薬は、痙攣が収まったとのことなのでそれについての調合は変えているが、それ以外はまだ変えていない。飲みやすい薬に関しては、アオイと喧嘩別れして有耶無耶になっているし、だからと言って早々に調合を変えるのも気が引けた。

 

「はぁ・・・」

 

 生薬をすり潰す手を止めて、溜息を吐く。

 結局アオイとの仲直りはできていない。このまま時間が経てば就寝時間になってしまうだろう。明日になったら綺麗さっぱり忘れて仲直り、なんて楽観的には考えられないし、この蟠りを抱えたままでは寝ようとも思えない。

 

(・・・どうしよう)

 

 アオイに謝ろうという気持ちは当然ある。

 だが、相手が応じてくれないために謝ることができない。

 

『暁歩さん・・・よろしいですか?』

 

 するとそこで、部屋の外からきよの声が聞こえた。暁歩が障子戸を開けると、きよ、すみ、なほの三人が心配そうな顔で立っていた。

 

「三人とも、どうしたの?」

「少し、お話がありまして・・・」

「ああ・・・アオイさんとのこと?」

 

 ぼかして伝えたつもりだろうが、今日あったことを考えれば、思い当たる節はそれしかない。その予想は的中したらしく、きよたちは表情を曇らせながら頷いた。

 暁歩も、肩を竦める。

 

「・・・アオイさんには悪いことをしたと思ってるよ。あの人も、あの人なりに考えてくれていたのに、俺ときたらそれを真っ向から否定するだけだったから。そりゃ、俺に対して怒ってるのも仕方ないよねって」

 

 力ない言葉を洩らす暁歩を、きよたちは見る。

 しのぶも言っていたが、暁歩もアオイも根本的には怪我人のことを考えているのだ。その方向性が違うだけで、二人が怪我をしている人を救いたいと願っていることに変わりはない。だからこそ、意見が食い違うと簡単に亀裂が生まれてしまう。

 

「あの、暁歩さん・・・」

「?」

「アオイさんと、もう一度話をしてもらえませんか?」

 

 すみが頼むが、暁歩は少し悲し気な笑みを浮かべる。

 

「そうしたいのは山々だけど、アオイさんには避けられちゃってるし・・・」

「昼やご飯の時はそうでしたけど・・・多分時間を置いた今なら、アオイさんも落ち着いていると思いますから・・・」

 

 壁に掛かった時計を見ると、時刻は九時。最後に声を掛けようとしたのは七時前ぐらいだから少し時間を置いてある。夜も更けた今なら、確かに少しは頭も冷えているかもしれない。

 

「それに、アオイさんも仲直りしたいと思っているかもしれませんし・・・」

「アオイさん、真面目だからずっと仲悪いままだと気に病んでしまうと思いますから・・・」

 

 確かにアオイは真面目な人だと暁歩も思っている。だからこそ、患者のことを考えてああしたことを言ってくるわけだ。暁歩としても、ずっと仲が悪いままではいたたまれないので、仲直りできるのならしたかった。

 

「それと、しのぶ様がですね・・・」

「?」

 

◆ ◆

 

 アオイは、自室で机に向かい日記を書こうとしていた。

 蝶屋敷に引き取られ、隊士の治療に携わるようになってから日記はほぼ毎日書いている。治療のこと、蝶屋敷での出来事、ふと思ったことを、まとめているものだ。

 しかし今日、アオイは未だ何も書けずにいる。机の上に筆と墨汁を置き、日記を開いたまま、一文字も書けていない。筆が進まなかった。

 

「・・・はぁ」

 

 そうなる理由は考えるまでもなく、暁歩との喧嘩だ。

 『薬が苦い』と訴える善逸の薬の調合を変えるか否か。答えが分かりきっているようで分からないこの問題に、価値観をぶつけ合った結果喧嘩別れのような形になってしまった。

 それから暁歩は、何度かアオイに話しかけようとしていた。その時の話をしようとしていて、かつ雰囲気から謝ろうとしていたのは分かっている。

 けれど素直に応えられなかった。それは、どこか自分の中で相手に謝らせることに申し訳なさを抱く、意地のようなものが働いたからでもある。真面目なような捻くれているようで、自嘲気味になる。

 しかしながら、蝶屋敷の空気を悪くしてしまった自覚があるし、その一端に自分があるのも分かる。だが、自分が避け続けていた相手に、夜も更けた今になって謝りに行くのも若干気が引けた。

 自分の感情に振り回されて溜息を吐くと、障子戸がトントンと叩かれる。

 

『暁歩です。夜遅くにすみません』

「・・・何ですか」

『少し、お時間をいただいてもよろしいですか?』

 

 障子戸の向こうから伝わる申し訳なさそうな言葉に、アオイも腰を上げる。

 障子戸を開けると、後ろめたい気持ちを抱いているのが分かる表情の暁歩がいた。今、アオイ自身の顔はどういう風に見えているのだろう。

 流石にここまで来ると、追い返したり無視したりすることはできなかった。ただ、その場で話をするのも何だったので、二人は屋敷の南の縁側へ移動し並んで座る。星空が綺麗だった。

 

「昼間はすみませんでした」

 

 そうして座ってから少しの沈黙を挟み、暁歩が先んじて頭を下げて謝ってくる。

 その謝罪の言葉を伝えられ、態度を示されて、アオイもようやっと自分の中の蟠りが解けたような感じがした。

 

「あの時は、自分の意見を言うことに精一杯でしたけど・・・アオイさんの意見は正しかったんです。それなのに俺は、アオイさんの意見をただ否定するだけで・・・。怒らせてしまって、ごめんなさい」

 

 今日一日、ずっと言えなかったことを全て伝え、そして頭をまた下げる。

 暁歩の言葉を聞いてアオイは、考えることは同じかと内心可笑しくなって口を開いた。

 

「私も少し、頑ななところがありました。それで暁歩さんの気を悪くさせてしまったり、傷つけてしまったのなら、私も悪いです」

「傷ついたなんてことは・・・」

 

 多少心が痛みはしたが、再起不能に陥るほどでもない。暁歩は慰めるのとも違うが、アオイの言葉を否定した。

 

「・・・元々、私には暁歩さんやしのぶ様のように、薬に関する知識はありませんでした」

 

 星空を見上げながら、アオイはおもむろに話し出す。暁歩は同じように夜空を見て、耳を傾けることにした。

 

「私は本来、鬼殺隊に入ることを志願していました。そのための修業もして、最終選別に参加したのですが・・・生き延びても自分に自信が持てず、戦うことを恐れてしまって。結局鬼狩りの任務には就けませんでした」

 

 それを聞いて、暁歩は目を見開き、息を呑んだ。

 ここへきて一年余り、アオイの境遇を初めて聞いたが、鬼殺隊に入る時のことや、それから今に至るまでの経緯は、自分と似ていた。意外な共通点に、暁歩も驚いている。

 

「それでも、この蝶屋敷で何かできることがないかと思い、しのぶ様に薬の調合を教えてもらったんです。それで、鎮痛剤や止血剤、それと機能回復訓練で使う薬湯など簡単な薬は自分で調合できるようになりました」

 

 その話は暁歩も聞いている。自分がここに来る前は、そう言った薬はアオイが作っていたと、しのぶは言っていた。

 

「戦いに出られない・・・腰抜けな私は、責めて傷ついた皆さんが一日でも早く戦場に戻れるよう尽力するべきだと思っていたんです」

「・・・」

「だから、暁歩さんが『時間をかけても』治るようにってつもりで調合を変えようとしたことに、ついカッとなってしまって」

 

 星空から暁歩へと視線を移す。

 そして、頭を下げる。

 

「意地を張って答えないでいましたが・・・私こそすみませんでした」

 

 その言葉を聞き届けると、暁歩は『大丈夫ですよ』と笑って声をかける。

 アオイが顔を上げた。

 

「・・・アオイさんの意見も正しかったんですよ。それを俺が素直に聞き入れられなかっただけで」

 

 アオイが怪我人のことを考えてああいう言葉を言ってくれたことに、暁歩は既に気付いている。冷静になれずに気づけなかった自分が恥ずかしくて、頭の天辺を掻いて、暁歩は苦笑を浮かべた。

 

「アオイさんの過去のことを初めて聞きましたが、自分とほとんど同じで驚きです」

「え?」

「俺も最終選別を生き延びましたが、結局その時のことがトラウマで、戦えなくなった身ですから」

「でも、この前は・・・」

 

 桐蔓山のしのぶの任務に同行したこと。

 夜道で鬼に襲われそうになったアオイを助けたこと。

 それらは暁歩の『戦えなくなった』という言葉とは異なることだ。

 

「一応鍛錬は続けていて、最低限の動きはできましたし、桐蔓山に同行したのも少し事情がありまして・・・」

 

 その事情について詳しくは言わない。今それは重要なことではないからだ。

 

「でも、アオイさんが俺と似た境遇だったのは、驚きですし、安心もしました」

「安心?」

「はい。今までアオイさんは生真面目な人だって思ってたんですけど、共通点があると親しみやすいと思って」

 

 アオイの表情は、驚きに満ちる。自分に対して『親しみやすい』なんて、初めて言われたから。

 

「まあ俺も、今日のことでどうも優柔不断というか、情に流されやすいところがあると分かりました・・・。だから、アオイさんが真面目にテキパキしてくれるのは、ありがたいんです」

 

 自分にできる限りの優しい笑みを、暁歩は浮かべる。

 

「だからこれからも、よろしくお願いします」

 

 改めて、これから先世話になることを伝えて、また首を垂れる。

 しばし沈黙したアオイは、少しだけ笑みを浮かべた。

 

「・・・こちらこそ、どうぞよろしく」

 

 お互いに顔を上げて、少しの間笑みを浮かべ合う。

 やがて、暁歩が『さて』と言いながら立ち上がって。

 

「それでは、しのぶさんのところへ行きましょうか」

「しのぶ様・・・どうしてですか?」

「仲直りしたら、一緒に来るよう言われてるんですよ。屋敷の空気を悪くしたって」

 

 アオイは夕食の時、食卓が若干重苦しい雰囲気になっていたのを思い出して、『あー・・・』と罰が悪そうに声を洩らす。その原因の一端は自分でもあるので、全く反論できない。

 

「・・・そうですね。それでは、一緒に怒られましょうか」

 

 アオイが冗談めかして言うと、暁歩も頷く。

 けれど二人は、しのぶに怒られることを恐れているようではなく、少しばかり清々しい様子だった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 翌日。

 

「いーやー!!」

 

 今日もまた、蝶屋敷に響き渡る善逸の叫び声。もうすっかり慣れてしまったので、蝶屋敷の面々も苦笑する程度でしかない。流石に至近距離で聞くのは嫌なので、同じ病室で看病をしているきよやすみ、なほは耳を塞いでいたが。

 

「結局苦いままだよ~!俺の薬飲みやすいようにするって言ってたのに~!」

「すみませんね・・・」

 

 耳を塞ぎつつ苦笑して頭を下げる暁歩。

 善逸が一旦落ち着いたところで、暁歩は話しかける。

 

「ただ、善逸さんが一日でも早く戦いの場に戻れるようにしなければなりませんから」

 

 それを聞いてきよ、すみ、なほは、ほんの少し引っ掛かりを覚える。昨日は同じようなことを、アオイが言っていたと思ったから。けれど善逸は気にしていないのか、なおも止まらない。

 

「だからって苦いんだよ~!」

「痙攣がなくなったということで薬の調合も変わってるんですけどね・・・症状が改善されれれば薬の量も減りますから」

 

 暁歩が優しく諭しても、善逸はなかなか納得がいかない様子。

 しかしながら、そこへアオイがやって来た。

 

「また文句を言っているんですか?」

「ええ、まあ・・・」

 

 振り返って暁歩が苦笑すると、アオイは短く息を吐き善逸に詰め寄る。

 

「飲みやすいようにしたいのは山々ですが、あなたの怪我は一番ひどくて、治るのに時間がかかるんです!苦いのは仕方がないんです!」

 

 そこでまたしても、きよたちはアオイの言葉を聞いて瞬きをする。同じようなことを、昨日は暁歩が言っていたような気がすると。

 それでようやく、三人は気付くことができた。暁歩とアオイは、ちゃんと仲直りができたんだと。

 

「善逸くん、頑張って飲んでください」

「身体が元通りにならなくても知りませんからね!」

「ひどいよー!二人揃ってひどいよー!!」

 

 暁歩とアオイの言葉に、善逸は涙して抗議する。

 だが、きよたちは少しだけ微笑ましい気持ちになりながら、炭治郎と伊之助の看護を続けた。




≪おまけ≫

 暁歩とアオイは、仲直りを遂げるとしのぶの私室へと赴いた。今度はアオイ同伴で、前回同様無断で入ることにはならず問題ないため、まずは暁歩が障子戸を軽く叩く。

『はい』
「暁歩です・・・」
「アオイです」
『ああ、来てくださったのですね。どうぞ』

 中にいるしのぶの声は、至って普通だ。
 ただ、暁歩とアオイは分かっている。自分たちは屋敷の空気を悪くしたことで、これから怒られるのだと。先ほどは仲直りできたことで多少気持ちが晴れやかになったが、今改めて柱に怒られるというのが少し怖い。
 ただ、声からしてあまり怒っている様子が無いので、大丈夫かなと一抹の希望を宿して障子戸を開けると。

「こんばんは、お二人とも」

 しのぶが仁王立ちしていた。
 それを認識した直後、暁歩とアオイの表情が凍り付く。

「今夜は、寝かせませんよ?」

 笑顔で告げたしのぶの言葉に、二人は決意した。
 二度とこの屋敷で喧嘩するのはやめよう、と。


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第13話:炭治郎と禰豆子

多くのお気に入り登録や感想、とても嬉しく思います。
ありがとうございます。


 那田蜘蛛山の件から五日。

 蝶屋敷も忙しいことに変わりはないが、大勢の隊士が運び込まれた直後ほどの慌ただしさもない。特に重症である炭治郎たちを除いた隊士は、戦線復帰やより精密な治療のために出ており、今この屋敷で療養しているのは炭治郎、善逸、伊之助だけとなった。

 

「うぇ・・・苦いよー・・・」

 

 善逸は、薬を飲むたびに泣き言こそ変わらないが、最初の頃のようにがなり立てることもなくなった。先日の暁歩とアオイの喧嘩が自分に端を発したと自覚しているからか、ぶつぶつ言いつつも飲んでいる。

 

「伊之助くん、喉の具合はいかがですか?」

「・・・大丈夫ダヨ」

 

 伊之助はまだ喉の調子が悪いため、相変わらず声がしゃがれている。運び込まれた時はその異様な外見に一同は戦慄したが、寝台の上では随分と大人しいものだった。ただ、炭治郎や善逸によれば伊之助は元々血気盛んな性格らしく、何が原因なのか落ち込んでいるらしい。

 

「炭治郎くんも、傷は大分治ってきたみたいですね」

「はい。皆さんのおかげでここまで治りました・・・ありがとうございます」

「お礼なんていいですよ。これが俺たちの仕事ですし」

 

 炭治郎は、きちんと感謝の気持ちを伝えてくれる。治療に従事している暁歩やアオイ、きよたちもそれはとても嬉しいことだった。

 

「もう少し体の具合が良くなったら、機能回復訓練に参加すると良いかもしれませんね」

「?それはどんな訓練なんですか?」

「詳しい説明はまた後になると思いますが、治療で寝たきりになって鈍った身体を動かせるようにする訓練ですよ」

 

 問診をしながら、暁歩が機能回復訓練について簡単に説明する。

 炭治郎はともかく、善逸と伊之助はまだまだ起き上がって行動するのに不安があるため、当面の間は寝台の上にいることになるだろう。当然体も鈍るはずなので、判断するのはしのぶだが、恐らく機能回復訓練を受けるのは確定だろう。

 とりあえず暁歩は、問診を終えると炭治郎への薬を置いて、病室を出る。

 

(善逸くんも薬は嫌々だけど飲んでるし、伊之助くんも首は動くようになってきた・・・。炭治郎くんも外傷はほとんど治っている。回復訓練もそろそろかな)

 

 この後は、問診の結果をしのぶに報告する。蝶屋敷の責任者はしのぶであり、現場復帰に関しての判断も彼女がするのだ。まだ暁歩にはそこまで判断できないため、問診を終えたらそれをしのぶに報告するようになっていた。

 その報告する内容を頭の中で考えていると、二階に続く階段が目に入る。

 二階には特別室が設けてあり、そこは階級が上の隊士・・・例えば柱などが身体を休めるのだ。と言っても、柱ほどの隊士がここへ運び込まれることはほとんどないらしいが。

 その特別室のある一部屋に、炭治郎の妹である禰豆子という鬼がいる。

 

「・・・・・・」

 

 階段の上から、何か得体の知れない気配のようなものを感じる。

 炭治郎はこの数日接しているうちに、とても心が優しい少年だということが分かった。それは暁歩だけでなく、鬼の話を聞いて驚いたアオイたちも同じだろう。

 それでも暁歩は、まだ見ぬ鬼の禰豆子に対して恐怖心が今もなお拭えていない。しのぶの話を信用していないわけではないが、それでもやはり思うところはある。

 しかし、鬼がいると言うのに、暁歩自身は緊張していても、傷つけられたり死んでしまうのでは、などの悪い予感が働かない。それはしのぶの言葉を少なからず信用しているからだろうか。

 そんな気持ちを抱きつつ、暁歩はしのぶのいる診察室へと向かう。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 昼食の時間になり、暁歩は問診も兼ねて炭治郎たちの昼食を運びに行く。炭治郎と善逸の昼食は既に普通のものに戻っており、伊之助はまだ喉の調子が悪いため柔らかめのものだ。

 そこで炭治郎が、暁歩に『すみません』と話しかけた。

 

「禰豆子の部屋を、一度掃除したいんですけど・・・」

 

 申し出に、暁歩は少し考える。

 彼らが寝ている病室も、清潔感を保つために一日一回掃除をしている。だが、禰豆子の部屋は運び込まれてから五日間、一度も掃除のために入っていない。部屋で何をしているのかは分からないが、一度ぐらいは掃除だけでなく部屋の換気、布団の交換もしなければならないだろう。

 しかし暁歩は、首を縦に振って賛成とはいかない。

 

「いや、炭治郎くんはまだ完治していませんから・・・。何なら俺がやっておきますよ」

 

 最後の発言は我ながら勇気を振り絞った発言だと思う。けれど、炭治郎の傷はまだ完全には癒えていないため、一人で行動させることに少し不安があった。

 だが、今度は炭治郎が首を横に振る。

 

「でも、禰豆子は俺が連れてきて、部屋まで用意させてもらっていますから」

「いえ、それは別に気にしなくても・・・」

 

 礼儀正しい炭治郎は、どうしても他人様の手を煩わせることを良しとしないらしい。ここに世話になっていて、かつ禰豆子が鬼と考えれば炭治郎が遠慮するのも仕方ないが、暁歩としても病人に掃除をさせるのは嫌だった。

 

「あ、それなら暁歩さんが手伝ってくれますか?」

「え?」

 

 そこで炭治郎が折衷案として挙げたのが、二人で協力することだった。

 確かに炭治郎一人で掃除をさせるよりは幾分かマシだし、炭治郎の『世話になっている人に掃除までさせたくない』と遠慮する気持ちも軽くなる。

 少しだけ暁歩は考えて、やがて頷いた。

 

「しのぶさんの許可が下りればですけどね・・・。俺の方から話してみます」

「お願いします」

「暁歩さ~ん、禰豆子ちゃんの部屋を掃除するなら俺が・・・」

「あなたはまだ手足が元に戻っていないでしょう!」

 

 そこへ話を聞いていた善逸が手伝いを名乗り出たが、アオイに一蹴された。いつになくやる気になってくれることは感心だが、アオイの言う通り手足が元に戻ってないので、炭治郎以上に単独行動をさせることに不安がある。気持ちだけ受け取ることにした。

 そして、しのぶのいる診察室へと向かう。

 

「しのぶさん、ちょっとご相談があるんですが・・・」

「はい、何か?」

 

 そこで暁歩は、炭治郎が禰豆子の部屋を掃除したい点と、まだ一人で活動させるのは心もとない点、そして結果暁歩が手伝う形になった点を伝える。

 聞き終えるとしのぶは、ふむと顎に指をやって考える。

 

「暁歩さんの見立てでは、竈門くんはまだ一人だけで歩き回らせることが不安と?」

「はい。擦過傷や創傷といった外傷は大体治っていますが、肉離れなども炭治郎くんは患ってましたから」

 

 厄介なことに、目に見えない体内の怪我は本人の発言を頼りにするしかない。身体の内部を透視できればいいのにと思う。だからこそ、実際に動いてみて炭治郎の容態を確認する必要があった。

 

「・・・なるほど、分かりました。それでしたら大丈夫です」

「ありがとうございます」

 

 しのぶが頷くと、暁歩は頭を下げる。これも炭治郎の平時の身体の機能がどれだけ戻っているかを確認する機会だからか、許可はすんなりと下りた。

 ただ、そこでしのぶが立ち上がって暁歩にの耳元にそっと口を寄せる。

 

「・・・禰豆子さんも人を喰わないことは証明されていますが、お気をつけて」

 

 しのぶの顔が至近距離にあって、声と吐息を直に感じて思わず顔が熱くなる。だが、告げられた言葉自体は重要なものだったので、頷いて部屋を出た。

 その忠告と、急接近していたことを胸に留めながら炭治郎の下へと向かい、許可が下りたことを伝えると、炭治郎は笑みを浮かべた。

 

「ありがとうございます。それでは、お願いします」

 

 それから暁歩は、炭治郎を先導する形で掃除道具を持ち、二階に上がる。

 やがて禰豆子がいる、北側の洋室の前に立つと、暁歩の中で意識が張り詰められる感覚がした。

 

「・・・・・・」

 

 流れでこうなってしまったが、今から自分は鬼のいる部屋に入る。

 禰豆子がここにいると知って以来、暁歩は二階に上がろうとはしていなかった。何か妙な気配のようなものを感じていたし、例え鬼殺隊から認められていても鬼に疑問を抱いているからだと自分で分かっている。しのぶの『気を付けて』という忠告も忘れていない。

 それを意識した途端、脚が竦み上がった。

 

「暁歩さん・・・?」

 

 しかし、今自分の後ろに立っている炭治郎は、そんな暁歩の心境を知ったらどう思うだろう。

 彼がここまで禰豆子を見捨てずに連れてきたのは、まだ彼が禰豆子を妹として見ていて、何かしらの方法で助けようとしているのかもしれない。そして恐らく、鬼であることは分かっていても、周りから異端視されていることに胸が痛んでいる。

 炭治郎の内心は読めないが、そうだとしたらと思うと暁歩の心も痛い。

 

「・・・すみません、何でもないです」

 

 戸の前で突っ立ったままだったのが不安だったのか、炭治郎が後ろから心配そうに見ていた。安心させるように暁歩は首を横に振り、意を決して戸を開ける。

 中は、薄暗かった。明かりはついておらず、窓掛けも閉じてあるため日の光さえ入らない。さらに換気もほとんどされていなかったせいか、空気が少しむわっとしている。そんな中に、かすかに女性特有の甘い香りが混じっていることに暁歩は気づいた。

 そして、寝台を見ると、そこには一人の少女が眠っている。

 

「・・・・・・」

 

 眠っている少女は、背丈は見る限り炭治郎より少し低い程度で、長い黒髪、綺麗な顔立ちをしている。だが、その口には竹でできた猿轡が噛ませられていて、それは人を襲わないようにするためのものだろう。

 眠っているのか、すぅすぅと定期的で小さな息遣い音が聞こえ、布団のお腹の辺りもわずかに律動している。

 彼女こそが、鬼であるはずの禰豆子だ。

 

「ごめんな、禰豆子・・・少しうるさくしちゃうかもしれないけど、ちょっと部屋を綺麗にしたいんだ」

 

 眠っている禰豆子に、炭治郎は優しく頭を撫でながら話しかける。禰豆子は起きる様子もないが、それでも十分なのか炭治郎は笑みを浮かべた。

 一方で暁歩は、あれだけ自分が恐れていたはずの存在を前にしても、恐怖や忌避の感情が全く湧いてこない。自分だけでない、しのぶやアオイたちから大切な人を奪ったものと同じ『鬼』のはずなのに、憎いだとか許せないだとかそういった気持ちが少しも浮かばなかった。

 

「・・・できる限り、音は立てないようにしましょう。それと、空気を少し入れ替えるために戸も開けて」

「はい」

 

 そんな不思議な気持ちになりながら、暁歩は炭治郎に伝えて掃除を始める。

 禰豆子が特異な鬼であっても日光に当ててはならないことに変わりはないため、窓掛けは開けない。家具を動かしたりするわけではなく、軽く箒で床を掃いたり雑巾で拭く程度だ。そこまで音が出る作業でもない。布団については、眠っているところを態々起こすのも申し訳ないため、また後日改めて行うことにした。

 

「・・・まあ、これであらかた終わりですかね」

「はい、ありがとうございます」

「炭治郎くんは、身体の調子に問題はなさそうですか?」

「そうですね・・・肉離れも治っているみたいです」

 

 一通りの掃除を終えて、炭治郎に話しかける。掃除をしながらも暁歩は、炭治郎の状態にも気を配っていた。だが、見る限りでは痛みを我慢している様子や、びっこを引いている感じもなかったので問題ないと思う。あとは、これをしのぶに報告すればそれで完了だ。

 

「ん?」

 

 そうして部屋を出ようとしたところで、後ろからモゾモゾと布が動く音が聞こえた。さらに暁歩は、視線を向けられている感じもする。

 振り向いてみると、眠っていたはずの禰豆子がのっそりと上体を起こし、暁歩と炭治郎のことを見ていた。

 

「おはよう禰豆子、よく眠れたか?」

「~♪」

 

 同じく気づいた炭治郎が禰豆子に歩み寄り、もう一度頭を優しく撫でる。すると禰豆子は、嬉しそうににっこりと笑っていた。

 

「・・・・・・」

 

 やはり、起きている禰豆子を前にしても、不思議と自分の中には憎悪や悲哀など黒い気持ちが浮かんでこない。炭治郎に頭を撫でられて嬉しそうな禰豆子の姿は、いたいけな普通の少女のようで、言われなければ鬼と分からないようだ。

 

「?」

「ああ、禰豆子。この屋敷で俺たちの薬を作ってくれてる暁歩さんだ」

 

 そこで禰豆子は、暁歩の方を見てキョトンとする。炭治郎が紹介してくれると、暁歩も会釈をした。だが、禰豆子は不思議なものを見る目でぼーっと暁歩を眺めるだけだ。

 

(・・・普通の瞳だ)

 

 鬼の瞳は、基本的に瞳孔が獣のように縦に長い。けれど禰豆子のそれは、普通の人間と同じように円形で、その点を見ても鬼には見えない。

 

「・・・あ、起きたのなら布団を替えましょうか」

「ああ、そうですね。禰豆子も綺麗な布団で眠りたいと思うし」

 

 そこでふと気づいた暁歩の言葉に、炭治郎も頷く。

 すぐに暁歩は一階へ下りて押し入れから新しい布団を取り出し、二階へと戻る。部屋に戻ってくると、炭治郎が元あった布団を寝台から下ろしていて、禰豆子は床にぺたんと座っていた。日光が嫌いなのは本能か、窓から少し離れた場所に座っていたが。

 ただ、いつまでも座らせているわけにもいかないので、『すぐに敷きますね』と暁歩はてきぱきと布団を敷き直す。

 

「ん~・・・」

 

 敷き直したところで、禰豆子は布団にぽすんと寝転がる。新しい布団の匂いが気に入ったのか、のどかな笑みを浮かべる。ほどなくして眠ったのか、また規則的な寝息が聞こえてきた。

 

「禰豆子、最近寝不足だったからな・・・」

 

 炭治郎は、今一度眠っている禰豆子の髪を優しく撫でると、布団をゆっくりと掛けてやる。それを暁歩は見届けた後、炭治郎と共に部屋を出て戸を静かに閉めた。

 

「ありがとうございます、暁歩さん」

「いえ・・・お礼なんて結構ですよ」

 

 布団を抱えて階段を下りていると、炭治郎がお礼を言ってくれる。

 こうして感謝の気持ちを隠さず伝えてくれる炭治郎、そして実際目にして鬼とは思えなかった禰豆子を前にして、暁歩はとてつもない自責の念に駆られた。

 事情や経緯がどうであれ、鬼というだけで禰豆子に対し恐怖心や忌避感を抱いていたが、ほんの少しの時間だけでも自分の目で見て、それも今や消え去った。そして残ったのは、そんな自分が恥ずかしく、炭治郎たちに申し訳ないという気持ちだった。

 

「・・・炭治郎くん」

「はい?」

「何か・・・ごめんなさい」

「え、どうして急に謝るんですか・・・?むしろ俺の方が謝りたいのに・・・」

 

 急に謝られてもそうなるか、と暁歩は苦笑する。一階まで下りて布団を後で洗うことを念頭に置いて洗濯場に持って行ったあと、『少しいいですか?』と暁歩は炭治郎と客間へと向かう。

 

「最初にしのぶさんから言われてたんですよ。炭治郎くんが、鬼を連れているって」

 

 向かい合って腰を下ろし、暁歩が切り出すと炭治郎はばつが悪そうな表情を浮かべる。

 

「俺は両親を鬼に殺されて、復讐心で鬼殺隊に入りました。けど、最終選別でトラウマを植え付けられて・・・縁あってこの屋敷で治療にあたっています」

「・・・」

「だから鬼には・・・正直良い印象を持っていませんでした。禰豆子さんのことも、話を聞いた時は少し怖かったんです」

 

 縁側の向こうから、鳥のさえずりや風で木々がざわめく音が聞こえてくる。そんな自然の音が、二人の間に微妙な沈黙が生まれるのを防いでくれている。

 

「けどさっき、禰豆子さんの姿を見たら・・・まるで普通の女の子のようでした。怖いとか恐ろしいとか、そんな気持ちは少しも湧いてこなかった」

 

 普通の女の子のよう、と聞いて炭治郎の表情が明るくなる。

 炭治郎は、自分の唯一となってしまった家族が鬼になってしまったことを悲しく思っている。だからこそ、鬼ではなく少女のように見てくれている暁歩の言葉は、とても嬉しかった。

 

「だから・・・鬼だからと見もしないで拒絶しようとした自分が恥ずかしくなりました。同時に申し訳なく思ってしまって・・・改めて、すみませんでした」

「そんな、謝ることなんてないですよ!」

 

 頭を下げると、炭治郎は慌てて膝立ちになって頭を上げるように訴えてくる。

 

「禰豆子が普通の女の子みたいって言ってくれたのは俺も嬉しいですし、禰豆子だって嬉しく思うはずです!人にはそれぞれ過去がありますから、鬼をどう思うかもそれぞれですし・・・」

 

 炭治郎の言葉に暁歩は、これまで大変なことがあったんだろうと伺える。

 鬼となってもなお禰豆子を見捨てずここまで連れてきて、それまでの間にたくさんのことがあっただろう。暁歩が話に聞いた柱合裁判でも、柱からは糾弾されたに違いない。それでもなお、炭治郎は他人のことを考えてくれている。

 

「炭治郎くんは、本当に優しい人ですね・・・。禰豆子さんを見捨てず、それでいて他の人にも思いやりを忘れないんですから」

 

 蝶屋敷でのこれまでの素行を含めてそう告げる。すると、炭治郎の表情が引き締まる。何か、並々ならぬ覚悟を背負っているようだと、暁歩も見るだけで分かった。

 

「俺は、禰豆子を絶対に見捨てません。必ず人間に戻してみせると、誓っていますから」

 

 鬼を人間に戻す。

 それは難しいことだと暁歩も直感で分かったが、それでも炭治郎の言葉には芯が通っている。それができると強く信じるほどの何かがあるようだ。

 

「俺の家族は・・・禰豆子以外、鬼舞辻無惨に殺されました」

 

 ある村の山奥で、炭治郎の家族は代々続く炭焼き業を営んでいた。しかし、六人兄妹の長男だった炭治郎が留守にした一夜にして、親と弟妹は無惨に喰い殺され、禰豆子は鬼になってしまった。

 それでも炭治郎は、ただ一人の家族となってしまった禰豆子を見捨てられなかった。偶然にも水柱・冨岡義勇と遭遇して鬼殺隊の存在を知り、鬼になった禰豆子を人間に戻す方法を探るために鬼殺隊に入ったという。それが二年前のことだ。

 それから入隊後の任務で()()()と出会い、禰豆子を人間に戻す薬を作れるよう鬼の血を採取しながら鬼殺隊で戦い続けている。

 

「鬼と戦っている中で・・・鬼は悲しい生き物なんだと知りました」

「?」

 

 鬼を人間に戻す薬、と聞いて暁歩は引っ掛かりを覚えたが、さらに炭治郎の言葉を聞いて疑問を抱く。

 

「・・・鬼は皆、もともと自分たちと同じ人間だったのに、鬼舞辻の手で鬼にされ、人間を喰い、人間と戦うことになってしまった」

 

 鬼は悲しい生き物。

 その言葉を暁歩は、別の人から聞いたことがあった。しのぶの言ではあるが、彼女の姉であるカナエも同じような考えを持っていたという。人間ならば当たり前であるはずの日の光や、朝日の美しさを二度と経験できず、忌み嫌われる存在となったからと。

 

「何の罪もない人まで傷つけられ、何より俺の家族を殺した・・・。この悲しみの連鎖を断ち切るために、俺は鬼舞辻無惨を必ず倒します」

 

 炭治郎が、机の上で強く自分の拳を握りしめている。

 その言葉は、暁歩よりまだ歳が低い少年とは思えないほどの固い信念、強い決意を含んでいるように聞こえた。多くの悲しみを背負っていても、自分を強く保ち、信じるものを曲げない。炭治郎はそういう人なんだと、暁歩は理解した。

 

「・・・頑張ってくださいね」

「と言っても、お館様にはまず十二鬼月を倒そうって言われたんですけどね」

 

 応援するが、炭治郎は苦笑して頭を掻く。

 柱の前で決意を示したら、今は無理だからまずは十二鬼月を倒そうね、と優しく諭されてしまった。あれは炭治郎も恥ずかしかったし、後で聞けば柱は皆笑いを堪えていたらしい。

 

「でも、暁歩さんは禰豆子を怖がっていなかったみたいですね」

「え?」

「俺は鼻が利くんです。だから、禰豆子を見た時や部屋に入る時、暁歩さんからは緊張したり禰豆子に興味を持っていたりしているような匂いはしたんですけど・・・怖がっているようなにおいはしなかったんです」

 

 鼻が利くという理由で人の感情まで読み取れるだろうか、という疑念はひとまず置いておく。暁歩の勘のこともあるので深入りするのは止めておこうと思う。

 それにしても、自分が最初から恐怖していなかったと他人から言われるのは驚きだった。確かに緊張したり、禰豆子を実際に見て興味を持っていたような自覚はあるが、恐怖心は抱いていなかった、と他人から指摘されて気付く。

 

「だからなおさら、いきなり謝られてびっくりしたんですよ」

「・・・そうでしたか」

 

 自分が恐怖していなかったかどうかはともかく、炭治郎も出まかせを言っている風には見えない。とりあえず今は、その言葉を否定せずに聞いておくことにした。

 

「それでは、炭治郎くんがまた戦えるように、俺も全力で応援しますね」

「ありがとうございます!」

 

 確固たる目標を掲げ、強い意思をもってそれを実現しようとする人を見ると、暁歩も自然と背中を押したくなる。彼もまた多くのものを背負っているからこそ、親しみを感じる。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「・・・といった具合でした」

 

 そして暁歩は、診察室でしのぶに首尾を報告する。その報告を途中で止めることなく全て聞き終えてから、しのぶは頷いた。

 

「では、炭治郎くんの身体の方はほぼほぼ完治していると言った感じでしょうか?」

「はい。近くで見ても、痛みを我慢している感じもなかったですし」

「それでしたら、そろそろ機能回復訓練を始めましょうか」

 

 しのぶが方針を決めると、暁歩も頷く。訓練が始まることに関しては、アオイたちにも伝えた方がいいだろう。

 

「禰豆子さんの方はどうでしたか?」

「いえ・・・特に何の問題ありませんでした。ほとんど眠っていましたし、見た感じ普通の女の子のようでした」

 

 自分が感じたことをありのまま伝えると、しのぶは安心したように息を吐いた。炭治郎がいたとはいえ、やはり鬼のいる部屋に足を踏み入れたことが心配だったのかもしれない。

 

「暁歩さんがそう言うのであれば、私も安心ですね」

 

 そう言ってしのぶは笑ってくれた。実際に禰豆子と接した暁歩の言葉を信じて、気持ちが落ち着いたらしい。

 そしてそれは、あと少しのところで納得していなかったしのぶが、ようやく認められたということ。そうなるまでに至った自分の言葉を信じてくれたことが嬉しくて、同時に自分の中で好意が増長するのを感じ、暁歩ははにかむ。

 

「・・・あ、そう言えば」

「?」

「炭治郎くんが、『ある人に鬼を人間に戻す薬を研究してもらってる』って言ってたんですけど・・・」

「鬼を人間に戻す薬・・・?」

 

 炭治郎との話で少し気になったことを伝えると、しのぶも首を傾げた。

 鬼のことを知っているのは、当然ながら鬼殺隊と、藤の花の家紋の家、さらには鬼に襲われかけた人だ。しかしながら、それ以外となると流石に気になる。

 

「しのぶさんは、何かご存じだったりしますか?」

「いえ、それは・・・私も思い当たりませんね」

 

 しのぶでさえも知らない、鬼にまつわる薬を作っている人となると、暁歩も気になる。だが、それに関してはしのぶも多少調べておくとのことになり、この件についての報告は終了になった。

 それから暁歩は調剤室に向かおうとすると、きよ、すみ、なほ、そしてアオイに呼び止められる。

 

「あの、暁歩さん・・・」

「はい?」

「アオイさんから、禰豆子さんの部屋を掃除したって聞いたんですけど・・・」

 

 不安そうにきよが話しかけてくる。後ろに立っているアオイたちも、少し怖がっているような様子がした。

 よく考えてみれば、四人とも禰豆子の姿は見ていないし、話もしのぶから聞いているだけだから、怖がるのも仕方ないことだ。

 

「大丈夫でしたか・・・?」

「うん、少しも怖くなかったよ。禰豆子さんも普通の女の子みたいだったし」

 

 だから、安心させるように暁歩が膝を屈めて視線を合わせそう伝える。

 けれど、まだきよたちの不安は拭い去ることができないらしい。表情がそれを語っていた。

 

「新しい布団を持っていくと、気持ちよさそうに寝ちゃったし」

 

 ついでの情報を伝えると、少しだけ緊張が和らいだ感じがした。自分たちと同じような、親近感が湧く出来事となれば、より安心しやすくなる。

 そこから暁歩は、やはり禰豆子は鬼であっても人間に近いんだなと思った。

 

「禰豆子さんのことは、怖がらなくて大丈夫だよ」

 

 もう一度そう伝えると、今度はきよたちも頷いてくれた。

 言葉だけで全面的に信じてもらえるかどうかは不安だったが、自分は心配には及ばなかったこと、そして禰豆子が害のないことが伝わったので一応は安心だ。

 後は、炭治郎たちの訓練が始まることも、留意してもらおうと思う。




≪おまけ≫

 暁歩が禰豆子の部屋を掃除してから少し経って。

「すぅ・・・すぅ・・・」

(禰豆子さん、よく眠ってるね・・・)
(うん、可愛いね~)
(起こさないようにしなきゃ・・・)

 きよ、すみ、なほの三人は、禰豆子の部屋で寝顔を見て微笑みながら、静かに掃除をすることが増えたという。


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第14話:訓練開始

お気に入り登録が500件に達しました。多くの感想と評価をいただいたことと共に、お礼申し上げます。本当にありがとうございます。


 炭治郎たちが運び込まれて一週間。

 しのぶの判断で、炭治郎と伊之助は機能回復訓練を受けることになった。善逸はまだ身体の状態が万全ではないため、二人よりも少し後に参加する。それでも、炭治郎は訓練と聞いて張り切って挑もうとしており、伊之助も大人しく従って参加してくれた。

 しかし、彼らが訓練に参加する前の前向きな姿勢を見て、暁歩の良心はそれなりに痛んだ。

 

「せーのっ!」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛・・・」

 

 暁歩は気の毒な思いで、きよたちによってうつ伏せの状態から海老ぞりさせられている伊之助を眺める。

 寝たきりで鈍った身体を解すこの訓練。きよ、すみ、なほが主体となって行うのだが、暁歩はこの訓練を行えない。と言うのも、柔軟は無理に力を込めると逆に身体を痛めてしまうため、まだ幼く力が弱い彼女たちの方が適任だからだ。

 けれど、硬くなった体を自分ではない誰かに動かされるのは相当に辛い。例えその力があまり強くなくても。

 

「それでは、はじめ!」

 

 そして炭治郎は、アオイを相手に反射訓練を行っている。机の上に置いてある湯飲みを取り合うこの訓練は、暁歩も経験したことがある。アオイにはわずかな差で負けてしまったがその時浴びた薬湯の匂いは(自分で作ったのもあるが)克明に覚えている。

 

「はっ!」

「ぶぇっ」

 

 そして炭治郎が押さえるよりも早く、アオイが湯飲みを取って中身を炭治郎に容赦なくぶっかける。

 

「全身訓練、開始!」

 

 最後は柔軟・反射訓練で心身ともに疲れてから行う鬼ごっこ。ここで相手になるのはアオイとカナヲで、アオイは身軽だし、カナヲはそれ以上に動きが速い。カナヲは速いというより、相手の動きに反応する速度が常人のそれではなく、どれだけ速く近づいても躱されてしまう。炭治郎と伊之助の二人がかりで追いかけても、カナヲの髪の毛一本に触れないほどだ。

 ちなみに暁歩は、反射訓練と全身訓練に教官側として参加することはできる。ただ、その実力はアオイとカナヲの中間程度なので、炭治郎たちがアオイに勝てばその次に相手になる感じだ。

 

「それでは、今日はここまでにします」

「ありがとうございました・・・」

「マタ明日・・・」

 

 そして夕刻にアオイが締めると、炭治郎と伊之助はげっそりとした様子で病室へと戻っていく。一応自分一人の力で歩ける程度には回復しているようで、そこに関しては安心だ。

 暁歩は反射訓練で使った湯飲みを片付けながら、こぼれた薬湯を拭くアオイに話しかける。

 

「明日からは善逸くんも参加する予定ですけど・・・」

「まあ、恐らく手こずるでしょうね」

 

 達観した様子のアオイに、暁歩も同情する。ただでさえ薬が苦いと言うだけで大泣きする善逸だから、あの訓練の厳しさを見たら逃げ出してしまうかもしれない。何とも厄介な人だと思う。

 

「それでも、また戦えるようにしないといけませんから」

「ええ、それは分かっていますとも」

 

 それでも炭治郎たちは、暁歩やアオイとは違い、例え怖くても前線で戦い続ける立派な剣士だ。善逸も、蝶屋敷での態度こそ目につくが、那田蜘蛛山ではあの厄介な毒を使う鬼を斃し、他の被害者の毒の進行を遅らせたとも聞いている。

 戦い続けるからこそ、暁歩もアオイも、彼らが戦場に万全の状態で戻れるように支えている。

 暁歩とアオイは、顔を合わせて頷いた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 そして訓練が始まると、暁歩もしのぶに仔細を報告することになっている。

 

「以上が、今日の報告です」

「はい、ありがとうございます。明日からは、善逸くんも参加しますのでよろしくお願いしますね」

「どうなることか不安ですが・・・」

 

 先行き不安なのはしのぶも同様で、暁歩の言葉に苦笑する。

 そこで診察室を後にしようとするが、しのぶがその前に『よろしいですか?』と呼び止めてくる。

 

「何ですか?」

「いえ、機能回復訓練について一つ考えていたことがありまして」

 

 暁歩は部屋を出ようとするのをやめて、改めてしのぶの前に座る。

 

「実は、もし希望する方がいたら、暁歩さんに稽古をつけてもらおうかと思っているんです」

「は?」

 

 思いもよらないしのぶの提案に、暁歩も思わず間抜けな声が出てしまう。相手が柱であることも、想い人であることも忘れての言葉だったが、内容が内容なだけに仕方ない。

 

「いえ、難しい話ではありませんよ。今行っている三つの訓練を全て終えたら、本格的な戦闘を想定して、どなたかと手合わせをしてもらおうかと思っているんですよ」

「はあ・・・」

「それで、ある程度鍛錬を積んでいる暁歩さんに、その役を任せようと思っていましてね」

「それは・・・」

 

 しのぶの言っていることは分かるし、的を射ていると思う。

 けれど分からないのは、なぜ自分が選ばれたのかということ。別にその役を任せられるのが嫌なわけではないが、自分が選ばれた理由が分からない。

 

「なぜ俺を・・・?」

「言うなら、強さの関係ですね。暁歩さんの隊士としての力は、機能が戻りつつある竈門くんたちが相手にするには丁度良いと思いまして」

 

 要するに、暁歩の強さは病み上がりの人が相手にするにはもってこいなぐらいで、強すぎず弱すぎず、という意味だろう。

 妙に褒められていない感じがするが、しのぶは言うに及ばず、カナヲもまた強い。アオイは分からないが、しのぶの見立てでは暁歩が一番いいというわけか。

 

「・・・まあ、自分でよければ」

「ありがとうございますね」

 

 ただ、断る気はない。怪我をした炭治郎たちが戦線に復帰するためであれば力を貸したいと思っているし、しのぶからの頼み事でもあるので断ろうとは思わなかった。

 そして、ふわっとした笑みを見ると、やはり頑張らなければと心の中で考えた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 そして翌日。善逸は炭治郎たちに連れられて訓練場へとやって来た。本人曰く、脚は元通りの尺に戻っているとのことだったが、確かに炭治郎や伊之助と背丈だけは同じに見える。腕の長さはまだ短いようで袖を余らせている感じだが。

 そんな善逸は、訓練場に入ってきて暁歩の姿を認めると、質問をしてくる。

 

「あの、暁歩さん。機能回復訓練ってどういうことするんですか?」

「あれ、炭治郎くんたちから聞いていなかったんですか?」

「だって炭治郎たち、部屋に戻るなり布団にくるまって『ゴメン』だの『気にしないで』だのって教えてくれないんだもん!」

 

 それを聞いて炭治郎と伊之助を見ると、炭治郎は決まりが悪そうに視線を逸らし、伊之助は話を聞いていないのか全く反応を示さない。

 

「あの炭治郎がやつれた顔してたんだよ!?あの蜘蛛だらけの山の後でさえあんな顔見せなかったのにさ!絶対なんか厳しい訓練なんだ!地獄みたいな訓練なんだぁぁ!!」

「大丈夫ですよ。機能回復訓練は、鈍った身体の機能を元に戻すための訓練ですから。怪我は絶対しません」

「厳しいのは否定しないんだ!地獄みたいなのも否定しないんだ!」

「いや、それは・・・うん」

「いーやーだー!!」

 

 人によっては厳しいと思うし地獄とも思うだろう、と頭をよぎってしまい答えに詰まると、いよいよもって恐怖が限界に近付いたのか善逸がいつものように泣き叫ぶ。

 

「ちゃんと説明しますから、やる前から泣き言を言わないでください!」

 

 ついにはアオイが手を叩いて注目を集めさせる。暁歩も、逃げ出す勢いで泣く善逸をどうにか宥めて座らせる。炭治郎と伊之助も正座した。

 それから、今日が初日の善逸のためにアオイたちが実演も交えて昨日回復訓練の内容を説明する。その過程で伊之助はまたもきよたちの手によって海老ぞりにされ、炭治郎はカナヲに薬湯を顔面にぶっかけられる。手本を見せるという名目だが、本人たちがものすごく苦労しているのが同情を誘う。

 そして、一通りの説明が終わると。

 

「すみません、ちょっといいですか?」

 

 なにやら神妙な面持ちで挙手する善逸。その雰囲気が普段と少し違うのを感じ取ったのは、暁歩とアオイだ。

 

「?何か分からないことでも?」

「いえ、ちょっと」

 

 アオイが聞き返すが、善逸は多くを語らずにゆっくりと立ち上がる。

 

「来い、二人共」

「え?」

 

 そして、割と低めの声で炭治郎と伊之助を呼ぶ。なんだか善逸の様子がおかしい、とその場にいた誰もが分かった。

 

「行かねーヨ」

 

 だが、伊之助は正座したままで拒絶する。

 すると次の瞬間。

 

「いいから来いって言ってんだろうがァァァ!!」

 

 突然叫んだ。しかも泣き叫ぶのではなく、怒りを孕んだ叫び声。

 これには全員が肩を震わせて驚くが、その驚きが引かないまま善逸は炭治郎と伊之助の首根っこを掴んで『来いコラァ!!クソ共が!!ゴミ共が!!』と怒鳴りながら引きずって訓練場を後にしてしまう。

 

「・・・一体何が」

「さぁ・・・」

 

 暁歩が訊くが、アオイは首を横に振る。怒っている様子だったが、何が彼の琴線に触れたのか分からない。もしや、訓練の厳しさを目の当たりにして、何も言わなかった二人に激怒しているのか。

 だが、少しの間悩んでいると。

 

『正座しろ正座!この馬鹿野郎どもがァ!!』

 

 外から善逸の怒気を孕む声が聞こえた。

 暁歩たちが一斉にそちらを向くと、次の瞬間訓練場の壁に『ズドン』という音と共に振動が伝わる。近くにいたきよたちがビクッと驚いて体を震わせた。

 

「ひゃっ・・・!?」

 

 なほが思わず腰を抜かす。

 流石にただ事ではないと思った暁歩は、『ちょっと様子を見てきます』と訓練場を後にする。

 音がした訓練場の裏手に回ろうとすると、善逸が炭治郎と伊之助を糾弾しているような場面を目にした。やはり訓練のことで怒っているのか、と暁歩が思いながら仲裁に入ろうとすると。

 

「女の子に触れるんだぞ!?体揉んでもらえて!!湯飲みで遊んでる時は手を!!鬼ごっこの時は身体触れるだろうがアア!!」

 

 駆け付けようとした足が、ぴたりと止まった。

 

「女の子一人につきおっぱい二つ!お尻二つ!太もも二つついてんだよ!!すれ違えばいい匂いがするし見てるだけでも楽しいじゃろがい!!」

 

 終いには顔を真っ赤にして跳び上がって『幸せ!!うわあああ幸せ!!』と叫んでいた。人間離れしたその動きに、もう完治したんじゃないかと思わなくもない。

 そんな彼らの一部始終を見届けた暁歩は、気付かれないように静かに訓練場へと戻る。

 どうやら善逸には、炭治郎と伊之助が訓練を受けている様子が、アオイたちと楽しく遊んでいるように見えたらしい。それは勘違い以外の何物でもないが、とりあえず大事ではないのでそれをアオイたちに伝えることにした。

 

「・・・えーっとですね」

「言わないでください」

 

 訓練場に戻り、事の顛末をやんわりと伝えようとしたが、アオイがそれを阻んだ。

 

「全部聞こえてましたから」

 

 明らかに嫌悪感を抱いているような声。きよ、すみ、なほの三人も心底辟易しているような表情だった。表情が変わらないのはカナヲだけだが、最初の善逸の怒鳴り声も聞こえたし、あんな大声で言い争いをしていたら聞こえても仕方ないか、と暁歩は諦める。

 それから少しして、三人は戻ってきた。善逸は一周回って清々しいほど下心に溢れた笑みを浮かべており、伊之助はなぜか勇み足、炭治郎はなぜか申し訳なさそうな表情で。

 

「・・・それでは、始めます」

 

 しかしながら、善逸だって腐っても鬼殺隊士であり怪我人。受ける以上は全力で訓練に協力しなければならない。

 まずは最初に柔軟。伊之助の時と同様にきよたちがうつ伏せの善逸を押さえ、腕を掴んで海老ぞりにさせる。

 

「えへへへ~」

 

 しかし驚いたことに、善逸は終始それに笑顔で耐えた。その後の前屈、手足同時伸ばしにも全く動じず、あれらの柔軟に呻いていた伊之助も認めている様子だ。ただ、暁歩と炭治郎は、善逸の下心が痛みに勝っていると気付いていたが。

 

「それでは、はじめ!」

 

 続く反射訓練、善逸の相手はアオイだ。

 暁歩もそうだったが、通常の隊士であれば数秒程度アオイと湯飲みの取り合いになるところだ。しかし、善逸は開始の合図の直後、湯飲みを持とうとしたアオイの右手を素早く左手で握って押さえ、残る右手で湯飲みを持ち上げる。

 その速い動きには、流石に暁歩も驚く。

 しかし善逸は、薬湯をアオイに掛けてはおらず、湯飲みの口をアオイに向けただけだ。

 

「俺は女の子にお茶をぶっかけたりしないぜ」

 

 そして決め顔で決め台詞。尤も、先の訓練場裏での言葉が丸聞こえだったため、アオイの目は完全に冷め切っており、きよたちも引き気味だ。

 何はともあれ、最後の全身訓練に移る。

 

「開始!」

 

 しかしここでも、善逸の動きの速さが光る。

 なほの開始の合図とともに、善逸の姿が消えた。病み上がりにもかかわらず、それだけ速い動きができるのはすごいことだ。

 

「速い・・・!」

 

 暁歩も思わず言葉にしてしまうし、対峙していたアオイも見失っている。

 その直後、『わっしょい!!』と謎の掛け声と共に善逸の姿がはっきりと目に映るが、その時には既にアオイに抱き着いているところだった。

 だが、それでアオイも堪忍袋の緒が切れたようで、逆に善逸をボコボコに殴ってしまった。ここで暁歩は待ったをかける。

 

「ちょっとアオイさん!何やってるんですか!」

 

 『勝負に勝ち戦いに負けた・・・』などと訳の分からないことを話している善逸の顔の怪我を診ながら、暁歩はアオイに声をかける。当のアオイは、いきなり抱き着かれたことが相当嫌だったらしく、自分の身体を抱くように腕を回している。

 

「だって善逸さんが急に抱き着いてきたから!」

「だからって怪我人を殴って余計怪我を増やしたら駄目です!」

 

 きよたち三人娘が二人の仲介をするようにオロオロとして、善逸は怪我を診てもらいながら、庇ってくれている暁歩に感動の眼差しを向けている。

 ところが。

 

「そりゃ確かにさっきは下品な発言はしましたし、女性にいきなり抱き着くなんて男として見下げ果てたこともしましたけど、だからって殴るのは駄目ですよ!」

「聞いたか炭治郎!コイツ俺のこと庇うふりしてサラッと追い打ちしてきた!」

「落ち着け善逸!それに女の子に急に抱き着くのも駄目だ、今のは善逸が悪い!」

「チキショー!!」

 

 怪我の手当てをされながら叫ぶ善逸。暁歩はそんな状態の善逸にも優しく言葉をかける。

 

「善逸くん。あんなことをされたらほとんどの女性は嫌がります。怪我を増やしたくなかったら、みだりにああしたことはしないように」

 

 しかしながら善逸は、なまじ暁歩の言っていることが正論な上に、先ほどの()()()()忠告に腹を立てていたもので、怒りの矛先が暁歩に向いてしまう。

 

「大体暁歩さんも暁歩さんだよ!俺の薬結局苦いままだったじゃない!調合変えるとかなんとか言ってたくせに!」

「あれはアオイさんと相談した結果ですよ。やはり一刻も早い快復のためには薬の調合は変えるべきでないということになりまして」

「って言うかそうだ!この屋敷で暮らしてるってことは、アオイちゃんやきよちゃん、そんでもって滅茶苦茶美人なしのぶさんと一つ屋根の下で暮らしてるってことだろ!?」

「それが何か・・・?」

「あんな可愛い人たちに囲まれてキャッキャのウフフで楽しく暮らしてるなんてこの卑怯者―――――あ」

 

 善逸の言葉は、途中で止まった。

 暁歩が、ゆらりと立ち上がったのだ。

 ここにいる人間の中で炭治郎と伊之助しか知らないが、善逸は聴覚が非常に優れている。血の流れる音や心音、脈拍の音で、人の思考や感情まで読み取れるほどに。

 だから善逸の耳は、暁歩から激しい怒りの『音』が聞こえてくるのを感じ取った。それで、不満をぶつけるのを止めたのだ。

 そして、鼻が利く炭治郎。彼もまた、暁歩から『怒り』の匂いを感じ取り、口が引き締まる。

 

「・・・そうですか。俺がしのぶさんやアオイさんたちと遊んで暮らしている様に見える、と」

 

 声が平坦だった。とてつもなく。

 善逸は今更ながら、自分が何かとんでもない逆鱗に触れてしまったのではないかと気付き、身体を小刻みに震えさせる。

 

「それは間違いですよ、善逸くん?」

 

 顔を上げた暁歩は笑顔だった。春の訪れを感じさせるような、爽やかな。

 しかし、それを見た善逸の背中に猛烈な悪寒が走る。今なお聞こえてくる暁歩の『音』は激怒のそれなのに、表情が正反対もいいところだったから。これにはアオイやきよたちも恐ろしくなったようで、表情が固まる。炭治郎も、匂いで暁歩が怒っていることに気付き、表情と感情の乖離性を目の当たりにして冷や汗が出てくる。

 

「良いですか善逸くん?この屋敷に暮らす皆さんは、ここで日々傷ついた隊士の皆さんの怪我を治して、また戦えるように尽力しているんです。薬を調合し、怪我を診て治し、こうして戦えるよう訓練を付ける。決して、君が思っているように遊んで暮らしているのではないのですよ?」

 

 笑みを崩さないまま、いっそ寒気すら感じられそうなほど優しい口調で暁歩は善逸に諭す。善逸は最早口答えすることもできず、ただ震えながら暁歩の説教を聞いている。

 

「それと、俺のことはどう言っても構いませんが、しのぶさんやアオイさんたちも辛い過去を持っているんです。だから、みだりに先ほどのようなことをしたり、当てずっぽうで物を言ったりするのは止めましょうね?」

「はい・・・・・・」

「特にアオイさんは、善逸さんのことを考えて診てくれていたんですからね?そんな人に不躾なことを言ったりやったりしてはいけませんよ?」

「分かりました・・・」

「分かればよろしい」

 

 最後に善逸の肩をポンポンと叩き、暁歩は表情を崩さないまま、アオイたちに伝える。

 

「さて、それでは訓練を再開しましょうか」

『はい』

 

 仕切り直すと、カナヲを除いた全員が姿勢を正して返事をする。

 そしてこの時、暁歩と過ごした時間が長いアオイ、きよ、すみ、なほの四人は察した。笑いながら怒りを見せる性質の暁歩は、根底の部分がしのぶと同じだと。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 仕切り直して、伊之助が訓練を受ける番になる。

 昨日まではアオイ相手に手も足も出なかった彼だが、今日が初日の善逸が(下心があっても)成果を挙げたことに触発されたのか、目覚ましい成長を遂げた。

 

「ッシャァ!!」

「うっ・・・」

 

 反射訓練では、アオイ相手に余裕の速さで湯飲みを確保し、躊躇なく薬湯を掛けることに成功。

 さらに全身訓練では本来の動きを取り戻したのか、素早くアオイを捕まえ、さらには足首を掴んで逆さ吊りにするほどにまで体力を取り戻している。

 その様子を見て、暁歩は感心しながら炭治郎に話しかけた。

 

「炭治郎くんも、頑張ってください」

「はい・・・」

 

 だが、炭治郎は少し気まずそうに立ち上がって、反射訓練に挑む。結果は、今日もまたアオイを相手に勝つことができず、薬湯をぶっかけられてしまう。全身訓練でもアオイを捉えることができず、時間切れになってしまった。

 今日の炭治郎の動きは、全体的に少し落ち気味だ。最初のあまり気乗りしない様子もあって、気になった暁歩は訓練後に炭治郎に訊いてみる。

 

「・・・どうかしたんですか?」

「・・・よこしまな気持ちで訓練をするのはいけないと思って」

 

 炭治郎はどこまでも真面目な少年だと、暁歩は思った。ただ、炭治郎はこのままコツコツ訓練を積んでいくとして、飛躍的に動きの精度が上がった善逸と伊之助はどうするか。

 

「暁歩さん、あの二人の相手をしていただいてよろしいですか・・・?」

 

 するとそこへ、手拭いで髪に掛かった薬湯を拭くアオイが話しかけてきた。元々暁歩もそのつもりだったので、頷いて相手になる。

 まずは、善逸相手の反射訓練。

 

「・・・・・・」

 

 善逸はやけに真剣な表情をしており、女の子を相手にする時だけでなく、やる時はやる子なんだと暁歩は思った。ちなみに善逸だが、暁歩に勝てば傍目に見ても可愛いカナヲと勝負できると思っているため、結局下心故の表情だが暁歩はそれに気づかない。

 

「はじめ!」

 

 審判のすみの合図で暁歩と善逸の手が同時に動く。

 アオイとの訓練を見ていた時も思ったが、善逸の動きはやはり速い。暁歩も目を凝らして動きを捉えようとするが、それ以上に善逸の動きは速いのだ。瞬殺とはいかなかったが、数秒の駆け引きののち、暁歩は善逸に薬湯を掛けられてしまう。

 

「動きは問題なさそうですね・・・後は、カナヲさん相手に勝てれば問題はないでしょうか」

 

 手拭いで顔を拭きながら善逸に話しかけるが、『カナヲ』と言った瞬間に目が光った。その意図を理解して、見境なさすぎじゃないだろうかと思う。

 続けて伊之助を相手に反射訓練が始まる。彼は彼で、戦えるのであれば誰でもいいのか、とても張り切った様子だった。

 

「おい暁吉、俺の速さに恐れおののくがいいぜ」

「誰ですか暁吉って」

「お前だお前!暁太郎!」

「暁歩です」

 

 ただ、伊之助は人の名前を覚えるのが苦手らしく、これまで三~四回ほど名前を間違えられている。名前が珍しい方という自覚がある暁歩だが、間違って覚えられるのは悲しい。

 それはともかく、反射訓練での伊之助の動きは、善逸ほどではないがそれでも速い。加えて、猪の生皮を被っているので視線がどこを向いているのか分からず、離れたところの湯飲みを取って掛けてくるので防ぎきれずに敗北した。

 

「ッシャオラァ!!」

 

 しかも勢いよく薬湯を掛けてくるので、すぐに反応しなければ目に薬湯が入ってしまう。実際わずかに目に入って、しばらくの間目を開けるのが難しいほどになってしまった。アオイの気持ちが分かる。

 そして、全身訓練へと移るのだが、善逸は相変わらず暁歩に勝てばカナヲと訓練ができると躍起になり、アオイの時ほどではないがそれでも十分速く動き、暁歩の腕を掴んでこれを突破した。

 

「・・・・・・」

 

 その腕を掴まれた時、アオイから敵意に満ちた視線が善逸に向けられていた。やはり、先ほど抱き着かれたのは、女性であるアオイだったからこそだと気づいたようで、憤慨するのも致し方ない。

 そのあとは、伊之助が相手になる。彼は直線的な動きが目立つ方だが、姿勢を低くして迫ってくるので、こちらも動きが速い。しかも『猪突猛進!』など叫びながら突っ込んでくるので、別の意味で恐怖してしまう。

 そして、追われる側の暁歩だったが、脚を掴まれて前のめりに倒れてしまう。

 

「ハッハァ!!山育ちの俺に敵はいねぇ!!」

 

 そして背中を踏んづけられ、高らかに宣言された。

 一方で暁歩は割と地味に凹んでいた。それぞれの要因で躍起になっていたとはいえ、病み上がりの善逸と伊之助を相手に負けてしまうのは、少々心に響く。もう少し鍛錬しないとダメか、と暁歩は伊之助に足蹴にされながら考えた。

 だが、善逸と伊之助が好調だったのはここまで。

 カナヲは、善逸や伊之助以上に動きが速く、反射訓練で湯飲みを押さえる前に薬湯を掛けられ、全身訓練でも髪の毛一本触れることさえできず、善逸と伊之助は勝てないまま、その日の訓練は終了となってしまった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 そうして三人がカナヲに負け続けて五日。

 善逸と伊之助は訓練場に来なくなってしまった。

 

「・・・お二人は?」

「それが・・・二人とも不貞腐れてしまって」

 

 唯一来た炭治郎が申し訳なさそうに告げると、暁歩とアオイは顔を見合わせて、嘆息する。炭治郎曰く、善逸はもともと自分に自信が持てない性質で、伊之助もまた負け続けることに慣れていないかららしい。だから、カナヲを相手に手も足も出ない現状が続いたせいで、少し自信を失くしてしまったのだろう。

 

「・・・まあ、無理強いはできませんからね」

「全く・・・」

「すみません。明日は連れてきますので・・・」

 

 仕方ない、と暁歩とアオイが嘆息すると、炭治郎が謝る。

 ただ、炭治郎もこの五日で大分身体の機能が回復してきている。

 

「痛くないですか~?」

「うん、大丈夫だよ・・・」

 

 きよたちが背中を押して前屈させたり、海老ぞりにしても、炭治郎は苦しむ様子を見せない。それだけ身体が柔らかくなってきている証拠だ。

 

「はじめ!」

 

 反射訓練で暁歩が相手になるが、炭治郎とはほぼ互角の戦いになっている。一瞬の差で湯飲みを押さえられ、炭治郎が持ち上げようとする湯飲みを寸でのところで押さえつける。そうしたギリギリの攻防が続き、制限時間一杯までお互いに薬湯を掛けることはできなかった。

 

「そこまで!」

「「はぁ・・・」」

 

 審判のアオイが告げると、暁歩と炭治郎は力を抜く。

 無意識に呼吸が少なくなってしまったので、息を整えてから暁歩は炭治郎に話しかけた。

 

「大分身体の調子は戻っているようですね」

「ええ、何とか・・・まだ体力はあまり戻ってない感じですけど・・・」

「カナヲさんは自分よりずっと強いですから、より本格的に動けますよ」

「分かりました」

 

 そして、炭治郎は立ち上がってカナヲの方を見る。

 

「お願いします!」

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 そして炭治郎がカナヲに負け続けて、十日が経つ。

 その間、善逸と伊之助は訓練に参加しておらず、それについて炭治郎は謝罪をしてくるが、アオイは『もう気にしなくていい』と半ば切り捨て気味になっていた。暁歩も苦笑し、炭治郎が謝ることはない、とやんわりと伝える。

 その炭治郎も、今日もまたカナヲに勝つことができないまま、薬湯を拭くこともなく訓練場を後にする。どうやら何かを考えていて、自分の身体のことに気が回っていないらしい。

 

「手拭いを持っていきますね」

「うん、お願い」

 

 そんな炭治郎を見かねて、きよたちは後を追う。あの三人は炭治郎の優しい雰囲気が好きらしく、最近になってよく懐くようになっていた。善逸と伊之助の性格にやや難があるため、消去法的なものなのかもしれないが。

 そして、残った暁歩とアオイで訓練の後片付けをする。

 

「善逸くんと伊之助くん、なかなか来ませんね・・・」

「・・・怪我人に無理強いすることもできませんし」

 

 アオイの言う通りで、訓練は無理強いしてはならないのが鉄則だ。だから、病室まで行って訓練に参加するように言ったり引っ張り出したりできない。全ては受ける人の自主性に任せている。

 

「来てくれるといいんですけど」

 

 暁歩がぽつりとつぶやくが、アオイは机を拭いたまま何も言わない。

 そうして湯飲みやこぼれた薬湯を片付け終えたところで、きよたちが戻ってきた。手拭いを渡すだけにしては少し時間がかかっているような気がする。

 

「炭治郎さんに、全集中・常中のことを教えてきました」

「それって、柱の人やカナヲさんがやっている?」

「はい。それを会得すれば強くなれるって伝えたんです」

 

 きよたちが教えてくれる。全集中・常中は門外不出の技でもなく、隊士一人一人の基礎的な力を底上げするのは、ひいては鬼殺隊の戦力増強にも繋がるから問題ないだろう。

 ただ一つ、気がかりなことがあった。

 

「でも、その修業はすごく厳しいって聞いたけど・・・」

「はい。だから、空いた時間に私たちが見てあげようと思います」

「しのぶ様にも許可はとっていますので」

 

 全集中・常中の修業は、ひたすら肺を鍛えて大きくし、身体の中に多くの酸素を取り入れて、基礎体力を向上させることだ。だが、通常の全集中の呼吸でさえ短時間使うだけでも疲れやすい。それを一昼夜できるようになるためには、とても厳しい道のりだろうと思った。

 しかし、しのぶの許可が下りているのなら大丈夫だと思う。訓練を監督していた暁歩から見ても、炭治郎の身体には問題もなさそうなので、異論はない。

 

「・・・じゃあ、炭治郎くんは機能回復訓練の時間を少し縮めて、他をその修業の時間にしようか」

「はい!」

「アオイさんもそれで大丈夫ですか?」

「ええ、問題ありません」

 

 病人に無理強いはしないが、自分から努力しようとする人のことは全力で応援する。それは蝶屋敷の皆の総意だった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 肺を鍛えるやり方は、走り込みをしたり、重いものを持ち上げること。とにかく身体を動かして肺活量を増やし、肺を大きくする。

 炭治郎もまた、空いている時間は庭で木刀を素振りしたり、庭の木々の合間を縫うように走り抜け、細い竹垣の上を全力で駆ける。さらに、麻紐を借りたかと思えば岩を縛って、木の枝に紐を掛けて持ち上げるという独自の訓練も始めた。

 

「竈門くん、頑張っていますねぇ」

「本当ですね・・・」

 

 そんな炭治郎の様子を、しのぶと暁歩は静かに見守っている。

 特に暁歩は、炭治郎がひたむきに鍛錬をしている様子を見て、感心すると同時に自分ももっと鍛錬しようかなと思い始めている。機能回復訓練で善逸と伊之助に負けたのもあるが、ああして彼が頑張っている姿を見るとどうも自分も何かしなければと思う。毎朝の鍛錬は続けているし、裏山で呼吸法を使った技も試しているが、それ以上にもっと強くならなければと思う。

 

「炭治郎さん、お茶が入りましたので休憩にしましょう」

「わ、ありがとう!助かるよ~」

 

 修業に励む炭治郎に、きよが声を掛ける。炭治郎は笑顔で答えて、お茶とおにぎり、手拭いを縁側で用意していたきよたちの下へと向かう。

 炭治郎と仲良くなったきよたちを見て、しのぶは表情を綻ばせた。

 

「きよたちは、炭治郎くんのことを兄のように慕っているみたいですね」

「あー・・・まあ、多分歳が近いからでしょうね。炭治郎くんも禰豆子さんがいますし」

 

 見た感じ、きよたちと禰豆子の年齢はさほど変わらないようなので、炭治郎からしてみてもきよたちは妹のように懐いてくれていると思っているのだろう。それに、炭治郎は六人兄妹の長男だった。ああして小さい子供の相手をするのは苦ではないだろうし、むしろ炭治郎にとっても良いことかもしれない。

 

「ちなみに、暁歩さんのことはお父さんみたいだときよたちは言ってました」

「それは・・・」

 

 どう反応すればいいのか分からない。まだ二十歳にもなっていないのに、あんな少女たちから父親扱いされても素直に喜べなかった。

 

「なら、差し詰めしのぶさんはお母さんのような感じでしょうかね」

「おや、それは褒めているのでしょうか?」

「まあ褒めているつもりですけどね」

 

 そんな切り返しは予想していなかったのか、意外そうな目で暁歩を見てくるしのぶ。大体皮肉のつもりだったが、暁歩としてはしのぶは蝶屋敷の皆をまとめる存在でもあるので、その評価もあながち間違ってはいないのではないかと思っている。

 

「ただ、きよたちも懐いてくれるのは良いことだと思っていますよ」

「?」

「あの子たちもまた・・・『家族』を喪っていますから」

 

 下がり気味のしのぶの言葉に、唇を噛む暁歩。

 忘れてはいないが、今も炭治郎と楽しそうに話しているきよ、すみ、なほもまた、暁歩やアオイ、そしてしのぶと同じで家族を鬼によって喪っている。それがどれだけ悲しいことか、辛いことかは暁歩も分かっているつもりだ。

 加えて、きよたちは暁歩よりもまだ幼く、『家族との死別』という大きな心の傷を一人できちんと整理するのが難しい年頃だ。そんな彼女たちには、一人でも多くの支えてやれる人が必要だと思っている。それが、蝶屋敷で暮らすしのぶやアオイ、そして暁歩であり、接している炭治郎でもあるのだろう。

 

「・・・例え代わりであっても、家族のように見られる人がいると、心が安らぎますからね」

 

 さらにしのぶが告げると、暁歩は頷く。

 だからこそ、しのぶもまた蝶屋敷で暮らす皆のことを家族のように見ていて、大切に思っている。最初こそ『可哀想だから』『放っておけない』と言ったある種情けの気持ちを抱いていたかもしれないが、一緒に過ごす中でそれも『本当の家族のように思う』気持ちへと変わり、お互いに安心でき、大切に思い合う関係になれた。

 それは、拾われたきよたちも同じはずだ。慕っている、懐いているとはそれだけ心を許しているからであり、暁歩を『父親のよう』と思うのも、やはり本当の家族のように見てくれているからだ。だから、それを考えれば嬉しいことだった。

 

「・・・家族を喪ったことは、きよちゃんたちも忘れられないでしょうけど・・・ああして、今楽しそうにしているのを見ると安心します」

「・・・ええ」

「それだけ皆も・・・前を向いて、立ち直れているってことですから」

 

 過去は消えない。『親を喪った』なんて重大な出来事ならば、なお簡単に目を逸らせないし、吹っ切れない。

 それなら、その過去を上書きできるほどに今を生きる。その手助けをしてやるのが、彼女たちよりも少しだけ年上の暁歩たちにできることだ。それはしのぶも理解している。 

 

「わー、炭治郎さんのおでこ硬い・・・」

「あはは、よく頭突きもしたなぁ」

 

 縁側でおにぎりを食べる炭治郎、その額に無邪気に触るきよたち。和やかに接する姿を見て、暁歩は小さく息を吐く。

 

「さて・・・。後は、善逸くんと伊之助くんも訓練に戻ってくれるといいんですが」

 

 結局、五日目を最後にあの二人は未だ訓練に参加していなかった。それと同時期に戸棚のお菓子が無くなっていたり、裏山が若干荒れてくるようになったが、あえて何も言わない。

 ただ、いつまでもへそを曲げたままでは実戦で命を落としかねないので、ちゃんと身体の機能を元に戻してもらいたいのが暁歩たちの願いでもある。そして願わくば、全集中・常中の訓練も受けるようになれば、とも。

 

「・・・そうですねぇ」

 

 そう相槌を打つしのぶだったが、何か考えでもあるかのような笑みを浮かべていた。




≪大正コソコソ噂話≫

蝶屋敷には住人用と怪我人用の二つの風呂があり、蝶屋敷の女性陣は住人用、暁歩は怪我人用の風呂を一番最後に使って掃除もしています。

しのぶ「どうしてこれを今言うんです?」
暁歩「言っておかないと駄目な気がしました」


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第15話:口上手

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「怒ってますか?」

 

 そう言われて、微笑を忘れてしまった。

 夜、屋敷の屋根の上で全集中・常中の修業をしていた炭治郎くんに声をかけて、ちゃんと呼吸ができているか確かめるだけのつもりだった。全集中の呼吸を続けられるか試すために顔を近づけたら呼吸は止まってしまったけれど、私の心の奥を見抜いたようなその言葉に、私も息が止まりそうになってしまう。

 

「何だかいつも怒っている匂いがして・・・。ずっと笑顔だけど・・・」

「・・・」

「前に暁歩さんが笑いながら怒っていた時と似たような匂いなんですけど、少し違うというか・・・」

 

 なるほど、どうやら彼は嗅覚が優れているらしい。まるで、カナヲの視力と同じようだ。

 そうなれば、隠すことはもうやめよう。

 

「そう・・・そうですね。私はいつも怒っているのかもしれない」

 

 私の中には、鬼によって命を奪われた人、大切な人を喪った人たちの痛みや悲しみ、絶望が募っている。それは、大切な家族を、そして大好きな姉さんさえも鬼に惨殺された時から心の中に燻り始め、今はそれが心の中でとてつもないほど大きくなっている

 だけど私は、笑みを崩さないでいる。私の笑っている顔が大好きだと言っていた姉さんの言葉――だから、私は笑みを浮かべ続けてきた。

 鬼となってしまった禰豆子さんを救おうとしている炭治郎くんの姿は、姉さんの姿を思い起こさせてくれる。姉さんは、鬼を可哀想な生き物と見て、仲良くなろう、救おうとしていたのだから。

 けれど私は、心の底からそうとは思えない。嘘を重ね、自分のことを第一にしか考えず、理性なく人間を喰らう鬼を、私は何もなく赦せない。

 それでも姉さんがそうなることを望んでいたのなら、遺された私はそれを受け継がないといけなかった。

 

「だけど少し・・・疲れまして」

 

 でも、そうして何年も戦い続けていると、息が詰まるような思いをしてしまう。だから、そう言わずにはいられない。

 けれど、禰豆子さんを人間に戻したい、鬼を見捨てないと炭治郎くんが信念を掲げているのを見ると、私は肩の荷が下りるような気がする。彼ならば、姉さんの『鬼と仲良くする』という願いを実現できそうだから、その願いを託すことにした。

 

「自分の代わりに君が頑張ってくれているのを見ると、私は安心する・・・気持ちが楽になる」

「・・・・・・」

 

 炭治郎くんは、悲しげな表情で私の話を聞いてくれた。いきなりこんなことを語られてもどう反応すればいいか分からないだろうに、黙って聞いてくれる。皆の言っていた通り、彼は本当にいい子だ。

 

「・・・全集中の呼吸が切れてますよ」

「・・・あ!」

 

 最後に伝えると、炭治郎くんは慌てたような声を洩らす。それを見て私は、少しだけ微笑を取り戻してその場を離れた。

 

(・・・疲れた、というのも少し違いますか)

 

 炭治郎くんにはああ言ったけれど、私の心は以前と比べると少し軽くなっているような感じがしていた。

 今よりも前に、私のことを支えると言ってくれる人が現れてから。

 自分も家族を喪って、心が深く傷ついて、自分のことで手一杯のはずなのに、私のことを気に掛けてくれている。『頼ってほしい』という言葉に甘えて度々本音を洩らしているけれど、嫌な顔一つしないであの人・・・暁歩さんは話を聞いてくれている。

 自分の中の気持ちを聞いてくれる人がいると、自然と心も楽になっていた。

 

「・・・・・・」

 

 立ち止まって、自分の胸に手を置く。

 心音も、脈も、普段と変わらない。

 だけど、心が温かい。それでいて、心地よい。

 暁歩さんのことを思うと、こうなることが最近増えている。それは決して、自分を支えてくれる人がいて安心しているから、だけではないと思う。

 この穏やかな気持ちの正体は、一体何なのだろう。

 そんなことを考えながら、私は再び足を動かして、任務へと向かった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 とんでもない修行が始まろうとしていた。

 

「よろしいですか?」

「いや、よろしいって言われても・・・」

 

 昼の問診が終わったところでなほが訊ねてきたが、暁歩は素直に頷けない。

 なほのお願いは炭治郎の修業に付きたいとのことだったが、問題はその修業の内容だ。全集中・常中を会得するために、眠っている間も全集中の呼吸を続ける。ただし、寝ている間に全集中の呼吸を止めてしまったら、布団たたきで文字通り叩き起こすというものだった。

 

「怪我をしない程度の強さにしますから」

「それは当たり前だけどさ・・・」

 

 すみの言葉には当然だと暁歩は頷く。それでも、暁歩は唸る。

 寝てる間となれば夜間になる。きよ、すみ、なほの三人とも夜の当直はできるからその面は問題ないが、ある程度回復し、さらに怪我をしない程度とはいえ、怪我人を叩くなどという行為は少し判断しにくい。

 

「炭治郎くんから手伝ってほしいって言われたんだよね?」

「はい」

 

 暁歩が問い返すと、きよが頷く。

 

「アオイさんに相談はしてあるの?」

「はい。アオイさんも修業を手伝うから大丈夫、って言ってました」

「そっか・・・それなら大丈夫かな」

 

 暁歩同様に裁量を任され、怪我を診ているアオイが認めているのであればよいのだろう。暁歩もそれなら問題はないと思い、許可を出すことにした。すると三人はぱっと顔を明るくする。

 

「あ、炭治郎さんは暁歩さんにも手伝ってほしそうでしたよ」

「えぇ・・・」

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 その言葉通りで、暁歩が当直の日になると、布団叩きを持って炭治郎の病床のそばで待機することになった。当直自体は問題ないが、修業とは言え寝ている人を叩くことは気が引ける。

 

「ヒュゥゥゥゥゥ・・・」

 

 暁歩のすぐそばで眠りについている炭治郎の寝息は、通常の寝息とは違う。全集中の呼吸を続けている証拠だ。炭治郎は水の呼吸の使い手だという。呼吸法によって音も違うという話であり、確かに暁歩の全集中の呼吸とは息遣いが違った。

 それにしても、と暁歩は炭治郎を見て思う。強くなるために努力を惜しまず、さらに周りの人に素直に頭を下げて協力を乞うのは、誰でも簡単にできることではない。それをすぐ実践できることは、炭治郎の強みだろう。

 

「・・・ぐー」

 

 なんて思っていたら、寝息が普通のいびきになった。

 直後、暁歩は持っていた布団叩きを炭治郎のお腹の辺りに叩きこむ。

 

「へぐっ!」

 

 空気が漏れるような声と共に炭治郎が目を覚ます。

 やがて意識が覚醒すると、暁歩に向って声をかけた。

 

「不甲斐ない・・・もう一度お願いします!」

「了解です」

 

 そして炭治郎は、再び全集中の呼吸のまま眠りに就く。

 その後も、数刻おきに普通のいびきになってしまい、その度に暁歩が叩き起こすという何とも奇妙な夜が更けていった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 その修業の甲斐あってか、全集中・常中の修業を始めてから数週間後。

 炭治郎は瓢箪を持ち、鼻で長く息を吸ってから瓢箪に息を吹き込み始める。

 

「「「がんばれ!がんばれ!がんばれ!」」」

 

 それをきよ、すみ、なほが見届け、全力で応援する。

 炭治郎は顔を真っ赤にしながらも瓢箪に息を吹き込み続ける。すると、特別硬い瓢箪の外皮に皹が入る。

 そしてついに、瓢箪が内側から破裂した。

 

『やったー!!』

 

 炭治郎たちは手を取り合って喜びを分かち合っている。

 しのぶ曰く、この瓢箪を割れるほどになれば、それだけ体内に取り込める酸素の量が増えているということで、全集中・常中を完全に体得するのももう少しらしい。

 一生懸命に修業している成果を目にして、暁歩も『すごい』と素直な賞賛の言葉を炭治郎へと贈った。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 炭治郎が瓢箪を破裂させたことで、善逸と伊之助もようやく行動を起こし始めた。どうやら、自分たちがへそを曲げている間に炭治郎が急成長を遂げたため、焦りを感じたらしい。

 炭治郎が何をしているのかと聞いてきた二人に、任務から戻ったしのぶは全集中・常中についてのことを話す。

 

「全集中の呼吸を四六時中やり続けることにより、基礎体力が飛躍的に上がります。早速やってみましょう」

 

 ニコッと笑ってしのぶが言う。だが、炭治郎も言われてすぐにはできなかったのだ。聞いたばかりの善逸たちがすぐにできるはずもない。

 

「無理~!できないよ~!!」

「ぜぇ・・・はぁ・・・」

 

 善逸はまたいつものように泣きべそをかき、伊之助は肩で息をしている。

 そうして二人は炭治郎に助言を求めたのだが、ここへ来て彼もまた曲者と判明した。

 

「肺をこう!こうやって大きくするんだ!血が驚いたら筋肉がぼん!ぼん!って言ってくるから留めるんだ!」

「「・・・・・・」」

「後は、死ぬほど鍛える!」

 

 身振り手振りを交えているが、教え方が致命的に下手だった。挙句の果てに根性論なので、善逸と伊之助はやっぱりやめようかなと首を横に振る。

 

「・・・あれでは、ちょっと無理ですね」

「こういう時はひと工夫が大切ですよ」

 

 様子を見に来た暁歩がしのぶに話しかけると、しのぶは笑みを浮かべて立ち上がり、悪戦苦闘する炭治郎たちの下へと歩み寄る。

 

「まぁまぁ。これは基本の技と言うか初歩的な技術なので()()()()()ですけれども、会得するには相当な努力が必要ですよね」

 

 何故か『できて当然』を強調してしのぶが告げる。

 そして、しのぶは伊之助の正面に座って、肩を優しく叩き。

 

「まあ、()()()()()ですけど」

 

 二回言った。朗らかな笑顔で。

 伊之助から『ビキッ』と血管が浮き出る音が聞こえたのは、気のせいではないと思う。

 

「伊之助くんなら簡単と思っていたのですが、できないんですか~?できて当然ですけれど~。仕方ないです、できないなら」

 

 子供に諭すような優しい口調、さらににっこりと優しい笑顔で、煽る。

 

「しょうがない、しょうがない」

 

 とどめに肩をポンポンと叩くと、伊之助は。

 

「ハアァン!?できるっつーの!当然に!!ナメるんじゃねぇよ!!乳もぎ取るぞゴルァ!!」

 

 大奮起。元々血気盛んな伊之助は、見事なまでに挑発に乗せられた。

 だが、しのぶは激昂する伊之助を見て小さく頷くと、今度は善逸の前に座る。そして、善逸の手を包むようにそっと両手で握った。

 

「へ・・・?」

 

 突然の行為に善逸もドギマギするが。

 

「頑張ってください、善逸くん。()()応援していますよ♪」

 

 同じくにっこりと笑顔でしのぶが告げると。

 

「ハイッッッッッ!!!」

 

 大奮起。しのぶのような美人からそう言われたらそうなるか、と暁歩も同情する。

 そんな感じで、炭治郎がどれだけ言っても聞かなかった二人を見事短時間でやる気にさせたしのぶの手練手管に、炭治郎と暁歩は感心すると同時に唖然とする。特に暁歩は、まさかしのぶが煽るようなことまで言うとは思わなくて、新たに垣間見えた一面に内心微妙な気持ちだ。

 

「あ、そうだ暁歩さん」

「はい?」

 

 するとそこで、何かを思い出したように炭治郎が話しかけてくる。

 

「一つお願いがあるんですけど・・・」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 昼食を終えた午後、暁歩と炭治郎は訓練場で木刀を手に対峙していた。そこには、カナヲを除く蝶屋敷の面々、さらに善逸と伊之助もいる。

 

「お願いします」

 

 木刀を構える炭治郎は、怪我人用の衣服ではなく、鬼と戦う際に着る漆黒の隊服を着ていた。

 

「本当にいいんですか?」

「はい。呼吸法も使って構いません。いえ、使ってください」

 

 炭治郎のお願いとは、暁歩と手合わせをしてほしいということ。

 元々訓練の過程で暁歩が模擬戦の相手をするという話はあったので、そこまで驚きはしなかったが、炭治郎の方から頼まれるとは思わなかった。

 そうして、改めてしのぶに話をして許可をもらい、彼女の監督下で模擬戦が決まったのだ。

 

「それでは・・・」

 

 審判を務めるしのぶが口にすると、お互いに木刀を構え、握る手に力を籠める。

 炭治郎と対峙して思うのは、握っているのが日輪刀でなく木刀でも、戦意というものを強く感じ取れる。強敵との戦いを何度も制したのに加え、全集中・常中も会得間近であるからかもしれない。

 そんな炭治郎を相手に、暁歩は怖気づいたりなどせず木刀を握る。

 

「はじめ」

 

 静かに、しのぶが告げる。

 その直後、一瞬で炭治郎と暁歩は前に跳び出し、木刀がぶつかり合う。

 

(速い・・・あと少し遅れてたら確実に一発貰ってた・・・)

 

 目の前で刀を構え押さえこんでいる炭治郎を見て、暁歩は内心で焦る。木刀なので死にはしないだろうが、この力で一発喰らっていれば失神していたかもしれない。

 お互いに力で押し込もうとするが、無理と判断した二人は同時に後ろへ跳ぶ。その途中で、暁歩は呼吸を整えて技を使う準備をした。

 

―――樹の呼吸・肆ノ型

―――落葉一閃(らくよういっせん)

 

 そして、音もなく暁歩は炭治郎の懐まで一気に距離を詰め、木刀を振るう。

 

「ふんっ!」

 

 だが、振るった木刀が当たる直前で、炭治郎は上に跳んで攻撃を躱した。その反応速度に、暁歩も口にはせずとも見事だと思う。

 樹の呼吸は、軽い身のこなしで音を立てずに移動・刀を振って相手を斬る。中でも『落葉一閃』の攻撃速度はとても速いから、これに対応できるのは本当に大したものである。暁歩自身の腕がまだ成長過程にあるからでもあるが。

 

―――水の呼吸・弐ノ型

 

 さらに攻撃を躱した炭治郎は、跳びながら体をねじり、技を構える。全集中・常中を短時間とはいえ会得しているから、呼吸を整える必要もないのだ。

 

―――水車(みずぐるま)

 

 身体を前に回転させながら木刀を振ってくる。暁歩は横に避けて攻撃を躱すが、着地した炭治郎はすぐに体勢を整えて暁歩に肉薄する。咄嗟に木刀を横に構えるが、やはり炭治郎の力は強く、押し返すのがどうにも難しい。そして膠着状態になり、互いに一歩も引かなくなる。

 するとそこで、炭治郎は頭を後ろに引く。何をする気だと思ったが、そこで頭突きを仕掛けてきた。

 

「あぶなっ・・・!」

 

 寸でのところで後ろへ跳び、これを避ける。前に炭治郎の額はとても硬いと聞いていたので、あれを喰らったら脳震盪でも起こしそうだと冷や汗をかく。

 そして、再び距離が開いてお互いに木刀を構え向かい合う。

 

―――樹の呼吸・参ノ型

―――樅葉尖突(しゅようせんとつ)

 

 『落葉一閃』よりも速い突き技。呼吸を整えて、炭治郎との距離を刹那で詰める。

 しかし、それでも炭治郎はわずかな差で横に避け、最速の突き技も躱す。ただ、羽織っていた市松模様の羽織がわずかに切れた。

 それも気にせず暁歩は体の向きを変えて炭治郎の方を見るが、彼はすでに技を構えているところだった。

 

―――水の呼吸・肆ノ型

―――()(しお)

 

 うねる様な曲線を描く太刀筋。ただ木刀を構えても防ぎきれないと判断した暁歩は、真上に跳んで攻撃の範囲外に出る。

 そして炭治郎の後ろに着地し、そこで木刀を振り込もうとするが、炭治郎はすぐに対応して木刀を防ぐ。

 そんな二人の打ち合いを、見ている者たちは固唾を呑んで見守っている。特に、蝶屋敷に来て大分経つが初めて見る暁歩と、自分たちが修業を見ていた炭治郎に、きよ、すみ、なほの三人は驚きと緊張が止まらない。

 

「ッ!」

 

 やがて、炭治郎が腕に力を籠めて押し込もうとしてくる。暁歩は一端距離を置いて仕切り直そうと思い、敢えて後ろに引く。

 だが、炭治郎は前に踏み込んで隙を与えずに一撃を加えようとしてきた。

 

―――樹の呼吸・弐ノ型

―――樫幹返し

 

 その攻撃を弾き、さらにそのまま木刀を炭治郎に向けて振るが、炭治郎は体勢を低くしてこれを避ける。その瞬間、暁歩はこのままだと体の前面ががら空きなために、一撃をもろに喰らうと判断。炭治郎の身体を飛び越えるように前に出て着地する。

 

―――水の呼吸・漆ノ型

―――雫波紋突(しずくはもんづ)

 

 だが、着地した後ろから呼吸音と共に、炭治郎が技を構えた気配に気付く。

 咄嗟に前転することで直撃は避けたが、暁歩の羽織の背中の部分から『ビッ』と切れるような音がする。木刀が掠ったらしい。

 起き上がって再び木刀を構えると、炭治郎は木刀を突き出した体勢から起き上がるところだった。突き技をした後は、すぐに立ち上がって前へ進むのが難しいのだ。

 

―――樹の呼吸・捌ノ型

 

 それを幸いと見た暁歩は、呼吸を整えて前へと駆け出す。

 

―――松絡旋刃(しょうらくせんじん)

 

 体を捻り木刀を構えながら、炭治郎へと突進を仕掛ける。

 音もなく、瞬く間に距離を詰められ、しかも木刀に回転が加わっているため威力も上がっている。しかし炭治郎は、暁歩の動きが直線的であることを見切り、横に避けるも羽織の肩の部分が切れる。

 

―――水の呼吸・壱ノ型

 

 だが、避けたところで刀を構え、着地して暁歩が見せた無防備な背中へ木刀を振り入れようとする。

 

―――樹の呼吸・壱ノ型

 

 そして、着地した暁歩もまた、避けた炭治郎が技を繰り出してくると思っていたから、振り向きざまに木刀を打ち込もうとする。

 

―――水面斬(みなもぎ)

―――大樹倒斬

 

 炭治郎は暁歩の身体に一撃を入れようとし、暁歩は威力を相殺しようとして刀を振る。

 そして、両者の刀がぶつかると、木刀が折れてしまった。

 

「はい、そこまでです」

 

 そして、二人の間にしのぶが降り立つ。

 稽古終了の合図に、暁歩と炭治郎は身体に入っていた力を抜いて立ち上がり、お互いに礼をする。

 

「「ありがとうございました」」

 

 そうしてお礼を終えると、炭治郎にはきよが、暁歩にはなほが手拭いと水を渡してくれる。『ありがとう』と炭治郎と暁歩はお礼を言いながら受け取った。

 

「炭治郎くん、病み上がりとは思えないほど強いですね・・・。何度もやられると思ってしまいました」

「ありがとうございます!けど、俺も途中で全集中の呼吸が少し切れてしまうことが何度もあって・・・。それに暁歩さんの攻撃も、何度か掠ってしまいましたから・・・」

 

 言いながら、炭治郎は自分の羽織を見る。裾や肩辺りに切れ目が入ってしまっている。それを見たアオイは、『縫っておきますね』と羽織を回収した。

 那田蜘蛛山での戦いで、炭治郎や善逸の羽織はところどころが切れてしまったが、それはアオイが直してくれていた。さらに、柱合裁判でのいざこざで傷ついた禰豆子が入っていた木箱も彼女が直しており、中々器用でもある。

 

「樹の呼吸って初めて見ました・・・音や刀を振る音がしないんですね」

「ええ、まあ。ただ、俺もまだ力は未熟な方ですから・・・師匠なんてもっとすごかったですし」

「へぇ~・・・」

 

 そうして、暁歩が炭治郎と稽古を終えて話をしているところに、しのぶがやって来た。

 

「炭治郎くんも、全集中・常中に近づいていますね。暁歩さんとの打ち合いでも、あまり途切れていませんでしたから」

「本当ですか?」

「はい。なので、この調子で頑張りましょう」

「分かりました!」

 

 しのぶが炭治郎を評価すると、炭治郎は頭を下げる。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 夕方になり、暁歩は縁側に座って炭治郎たちが鍛錬している様子を見届けつつ、斬れてしまった自分の羽織を縫い直していた。裁縫自体は、師匠・空見の下で修業をしていた時から服がしょっちゅう裂けたり破れたりし、その度に縫い直していたので慣れたものだ。

 

「もっとグッと!グワーッと行け善逸!」

「おらもっと力入れろこの弱味噌がァ!!」

「俺は一番応援された男おおおおおお!!!」

 

 木の下で、善逸が朝紐で縛られた岩を引っ張り上げようとしている。炭治郎と伊之助も檄を飛ばし、善逸は善逸でしのぶに言われた言葉で自らを奮い立たせている。言葉一つでああも変われるものなのか、と暁歩は笑いながら羽織の切れた部分を縫う。

 

「今日はお疲れさまでした」

 

 そうしていると、突然しのぶが肩をポンと叩きながら優しく話しかけてきた。いきなり声を掛けられた上に足音が聞こえなかったため、吃驚して思わず縫い針を落としそうになる。それでも動揺を隠して、『いえいえ』と軽く頷く。

 

「暁歩さんにとっても良い鍛錬になったのではありませんか?」

「まあ、そうですね・・・。けど、炭治郎くんは本当に強かったですよ」

 

 手合わせの途中、何度も木刀を押し合い拮抗することもあったし、『負ける』『危ない』と危機を察知することも度々あった。それを、『予感』もあってどうにかこうにか避けた末の引き分けなので、全体的に暁歩は自分が押され気味だったと思っている。

 

「彼はすごく頑張ってましたからね。何せ寝てる間でさえ修業してたんですから」

 

 日中は素振りや走り込み、夜は布団叩きを使うあの修業。それらに裏打ちされた強い実力を、今日の手合わせでその身をもって思い知った。

 

「ただ暁歩さんも、実戦経験が少ないからか、やはり動きに若干ムラがありましたね」

「あ・・・やっぱりですか・・・」

 

 しのぶから指摘されて、苦笑する。

 炭治郎と戦っている中でも、速い技を見極められたり、攻撃が外れるところから分かっていた。桐蔓山での戦いの時もそうだったし、やはりどうしても暁歩には力が足りていないところがある。

 

「・・・何というか、俺もまだまだ頑張らないとと思います」

「ほう?」

「この先、戦う機会はあるのかどうかも分かりませんが、鍛錬するに越したことは無いですし。それに・・・」

 

 今一度、修業に励む炭治郎たちを見る。今は三人で並んで竹垣の上を全集中の呼吸を維持したまま疾走しているところだった。

 

「ああして頑張っているのを見ると、自分も何かしなくちゃ、頑張らなきゃって思うようになって」

 

 羽織を縫う手を一度置く。

 ひたむきな彼らを見て触発された。自分ももっと頑張らないと、力をつけなければ、と。

 

「それでは、次は伊之助くんや善逸くんとも手合わせしてはどうでしょう?元々、訓練の一環で手合わせするつもりだったのだし」

「そうですね・・・」

 

 特に血気盛んな伊之助は、しのぶの煽りもあって修業には大分躍起になっている。最初の頃の機能回復訓練のこともあるし、炭治郎の手合わせも見ていたから、自分もと木刀を持ってかかってくるかもしれない。善逸も時間の問題だろう。

 それがお互いにとっての修業になるのは間違いないが、先は厳しそうだと暁歩が苦笑を浮かべる。

 

「頑張ってくださいね」

 

 するとしのぶが、言葉と共に暁歩の空いている手を両手で包むように優しく握ってきた。その上、にこりと本来の笑みを向けられて顔の中心が熱くなるが、一度冷静になる。善逸を焚きつけたのと同じやり方。手を握られて、笑顔を向けられてこそばゆいのは確かだが、裏が見えていると気持ちも幾分か冷静になる。

 

「あなたが私を支えてくれているように、私もあなたのことを見守り支えますから」

 

 だが、続く言葉を聞いて、顔が赤くなるのを止められはしなかった。

 それは初めて聞いた言葉で、向ける笑みは素に近く、真意が掴めないから。

 

「・・・顔、赤いですよ?」

「・・・気のせいです」

 

 指摘にもまともに返せない程度には動揺している。

 その姿に、しのぶはころころと笑った。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の夕食後、善逸がしのぶのいる診察室を訪ねてきた。

 

「えっと・・・禰豆子ちゃんを連れて、少しだけ外へ出てもいいですか?」

 

 思いがけない申し出に、しのぶは少し面食らう。

 詳しく話を聞くと、禰豆子は日中部屋に籠って眠っており、せめて夜だけでも外へ出て気分転換をしてあげたいらしい。丁度、近くには花畑もあるので楽しめるだろうとのことだ。

 

「炭治郎は『大丈夫』って言っていたので、許可を貰えればと・・・」

 

 もじもじと、顔を赤らめながら善逸が切り出す。

 その表情からして、どうやら彼は禰豆子にお熱のようだ。それを悟ったしのぶは、善逸の怪我の具合がほとんど問題ない点と、訓練に復帰して―――自分が焚きつけたのもあるが―――全集中・常中の修業にも踏み出したので、そのご褒美も兼ねて大丈夫かと判断した。

 

「・・・分かりました。でも、あまり長い時間は駄目ですよ?」

「はい、ありがとうございます!」

 

 そして善逸は、実に嬉しそうな足取りで診察室を出て、『ねーずこちゃーん!』と完全に浮かれた様子で行ってしまった。

 それを見届けてから、しのぶは机に向かい鬼や薬に関する資料を読む。柱となっても取り入れるべき知識は数多く存在し、特に医療や薬品に関しては日進月歩だからこそ、絶えず新たに学ぶべきことが増え続ける。

 

(・・・善逸くんも若いですね)

 

 そうして資料を読みながら、先ほどの嬉しそうな善逸の姿を思い出す。小芭内と蜜璃の時も思ったが、好きな異性と出掛けることや一緒の時間を過ごすことは、それだけで尊いものらしい。

 誰かを好きになるのは良いことだ、と思いながらしのぶは資料をめくる。

 だが、一緒の時間を過ごす、という点でしのぶが思い出すのは、暁歩とのことだ。ここ最近では、話す機会も含め一緒にいる時間が長く感じる。それと、気を悪くするような出来事もないから、その時間は心地よいと感じる自分もいるのだ。

 

「・・・・・・」

 

 資料をめくる手が止まってしまったが、しのぶは小さく笑って読むのを再開する。

 今、少しだけ思考がズレてしまっていたような気がした。けれど今は、それよりも目の前にある資料を読むことが重要なはずだ、と自分に言い聞かせて目線を資料の上の文字にだけ向ける。

 ただ、最近は暁歩のことを考えることが少し増えてきたような、としのぶは自分で妙な疑問を抱いていた。




≪おまけ≫

「ところで暁歩さん」
「?」

 ある時、しのぶが暁歩に問いかける。

「先日炭治郎くんとお話したんですけど、なんだか笑いながら怒っていた時があったみたいですね?」
「・・・あー、それは・・・」

 しのぶに言われて思い出すのは、機能回復訓練で善逸が暴走した際のことだ。あの時は久々に怒り、自分の表情は笑顔だったような記憶がある。

「まあ、ちょっとカチンとくるようなことを言われたもので」
「ほう・・・暁歩さんって普段怒らないものですから、逆に気になるんですけれど・・・。どんな感じのことを言われたんですか?」
「それは・・・」

 言おうとして、あの時の善逸の言葉を思い出す。

 ―――この屋敷で暮らしてるってことは、アオイちゃんやきよちゃん、そんでもって()()()()()()なしのぶさんと一つ屋根の下で暮らしてるってことだろ!?
 ―――あんな()()()()()()に囲まれてキャッキャのウフフで楽しく暮らしてるなんてこの卑怯者・・・

 残念ながら暁歩は、このような言葉を婉曲的に表現できるほどの力がない。
 だが、黙っているとしのぶは俄然興味が湧いてきたのか笑顔で詰めてくる。

「どんなことを言われたんです?」

 どうしたものか、と暁歩は少しの間悩む羽目になった。


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第16話:門出

誤字報告をしてくださった方、とても助かります。
評価をしてくださった方も、お気に入り登録をしてくださった方も、ありがとうございます。


 訓練場に木刀を打ち合う音が響く。

 炭治郎と手合わせをしている暁歩は、炭治郎の動きにキレが出てきて、また力も強くなってきているのを感じ取る。

 

(これは、マズイな・・・)

 

 木刀を押し合う力が、最初に手合わせをしていた時よりもさらに強い。気を抜いたらすぐやられてしまうと勘が叫んでいる。

 だが、暁歩もただではやられまいと、呼吸を使って一時的にでも腕に力を込めて木刀を押し戻そうとする。

 そこで炭治郎はいったん後ろへ引き、木刀を構えて前へと踏み出してきた。

 

―――水の呼吸・肆ノ型

―――打ち潮

 

 低くうねる太刀筋に、暁歩は木刀を横に構えて防ごうとするが、全集中・常中を会得した炭治郎の力は格段に上がっている。ただ横に構えただけでは防ぎきれず、木刀が折れてしまった。

 

「そこまでです」

 

 審判役のしのぶが告げると、木刀を折られた暁歩は肩の荷が下りるように息を吐く。

 完全に負けてしまった。

 

「「ありがとうございました!」」

 

 お互いに挨拶をする。

 負けたことに悔いはない。炭治郎がそれだけ強くなったということだし、暁歩も自分の刀の腕が誰にも負けないほどと自負もしていなかったから、仕方ないと処理している。ただ、やはりもう少し鍛錬を重ねる必要があるか、と自分で考えていた。

 炭治郎たちが運び込まれて早三か月。炭治郎だけでなく、善逸と伊之助も全集中・常中を会得しており、基礎体力は飛躍的に向上していた。特に善逸と伊之助は、しのぶにたきつけられたからか僅か九日で会得を成し遂げている。しのぶの教え方が上手かったのもあるが、彼らの向上心は素晴らしいものだと本当に思った。

 

「炭治郎さん、カナヲさんにも勝ちましたからね~」

「ああ・・・そりゃ敵わないか」

 

 手拭いを渡してくれるすみが告げると、暁歩も苦笑した。

 暁歩がたまたま留守にしている間に、機能回復訓練で炭治郎はついに全身訓練・反射訓練でカナヲに勝ったという。その瞬間を見届けられなかったのは残念だが、すみたちは我がことのように喜んだらしい。

 

「おら小歩!次はこの伊之助様が相手だ!」

「暁歩です」

 

 そうしてちょっと休んだ後で、今度は伊之助が木刀を二本持って勝負を仕掛けてくる。案の定、炭治郎と最初に手合わせをした後で、好戦的な伊之助も手合わせを依頼してきた。しのぶも手合わせを訓練の一環としようとしていたし、暁歩も自分の鍛錬になるからと頷いていたが、伊之助の相手は大分苦戦する。

 

「オラオラオラオラオラオラオラ!!!」

 

 何せ二刀流で太刀筋も不規則なので、動きが直線的であっても対処が難しい。暁歩としては隙を作らないように必死で防ぎつつ、隙を見て動きの速い技で対処するしかない。

 素早く木刀を振る伊之助から少し距離を取りつつ呼吸を整えて、技を構える。

 

―――樹の呼吸・参ノ型

―――樅葉尖突

 

 だが、最速の突き技をもってしても、伊之助には躱されてしまう。炭治郎のように直前で回避するのではなくて、それよりも余裕をもって攻撃を避ける。危機回避能力が高いのか、あるいは別の要因があるのかもしれない。

 

―――獣の呼吸・壱ノ牙

―――穿(うが)()

 

 そして、躱されたところで背中を二本の木刀で突かれた。これが滅茶苦茶痛い。

 

「ハッハァ!そんな動きで俺様の相手が務まるか!」

 

 体勢を整えるが、そこへ伊之助が木刀を交差させて突っ込んでくる。それを暁歩は木刀を縦に構えて動きを止めさせ、重ねたところを支点にして宙返りをし、背後に立ったところで木刀を薙ぐ。

 だが、それでも滅多矢鱈な伊之助の太刀筋を相手にすると逆転の一手を出すことができず、大体床に背中をついてしまうことが多い。

 

「それでは、お願いします」

「お、お願いします・・・」

 

 ちなみに善逸は、最初は手合わせを嫌がっていた。けれど暁歩は、そんな善逸を見つつ、傍らで審判として立つしのぶの方を指差す。

 

「善逸くんのことを()()応援してくれているしのぶさんが見ていますよ?」

 

 と告げて、さらにしのぶが片目を瞑ってみせる。

 

「ッシャオラァ!やってやるぞェァ!!」

 

 すると、嬉々として木刀を握り、勇んで構えるのだ。こうも簡単に乗せられる善逸を見ると、その単純さも羨ましいと思わなくもない。

 そんな彼との手合わせだが、全集中・常中の基礎体力向上による木刀の振りだけで、呼吸法による技は使ってこない。何か理由があるのかもしれないが、暁歩はそれならばと自分も技を使わずに相手をする。そのため、比較的暁歩の中で一番相手をするのが楽なのは善逸だった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その後は、最終確認も兼ねてしのぶと暁歩で三人の診察をする。

 結果は、三人とも健康状態が良好。全快と言って問題ない状態だった。

 

「何か、ちょっと寂しいですね。彼らは特に長い間ここで療養していましたし」

 

 診察を終えたところで、暁歩がぽつりと呟く。

 しのぶが完治したと判断すれば、いつでも任務に出れる状態になる。だから、彼らがこの蝶屋敷を出る日も近いのだ。

 暁歩も、炭治郎とは禰豆子のこともあってそれなりに打ち解けられたし、善逸と伊之助も言動に難があったとはいえ修業に励んでいた。三人とも根は良かったし、何度か手合わせをしていたからこそ、接する時間も長かった。

 そして、怪我が快復したとなれば、また鬼との戦いに身を投じることになる。それが少し寂しかった。

 

「けれど彼らは、鬼殺の剣士ですからね。隊に身を置いている以上、戦える限りは鬼狩りの任務に就かなければなりませんし」

 

 それを聞いたしのぶの言葉にも、頷くしかない。彼らは、戦いの場から背を向けた暁歩とは違って、傷ついても怖くても戦い続けなければならない。

 ならば、彼らのことは無事を祈り笑って送り出す以外ないのだ。しんみりするのは少し違う。暁歩も『そうですよね』と自嘲気味に笑った。

 

「暁歩さんもあの子たちと手合わせをして、少し身になったのではありませんか?」

「確かに鍛錬にはなりましたけど、勝てたためしがなくて」

 

 炭治郎たちと手合わせをしてきたが、せいぜいが引き分けで、勝ったことがない。実力不足を痛感するが、今はそれで挫折するほど心が軟でもなかった。

 

「ゆっくりで大丈夫ですよ。私だって、柱になるまで長い日数がかかったんですから」

 

 柱になるための条件はいくつかある。それを実現できるかどうかは個人の実力とわずかな運にもよるのだ。中には刀を握って二か月で柱にまで上り詰めた霞柱がいるが、ある意味では特殊な事例だろう。

 

「ああ、そうだ暁歩さん」

「はい?」

「明日、悲鳴嶼さんの紹介で一人この屋敷へ来る方がいますので、来た際は対応していただいてもよろしいですか?診察は私がしますので」

「あ、はい。分かりました」

 

 しのぶの医療の腕は鬼殺隊随一であり、他の柱からも一目置かれている。岩柱・悲鳴嶼が自分が面倒を見ている隊士の診察を任せるぐらいには、信頼されているのだろう。とにかく、明日その隊士が来るということは念頭に置いておいた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 その翌日、早速炭治郎たちに鎹鴉から指令が届いた。夜行急行『無限列車』にて行方不明者が多発しており、調査にあたれとのことだ。また、現場にはすでに炎柱の煉獄杏寿郎が赴いているため、合流して任務に就くらしい。柱がついているのであれば安心だが、油断は禁物だ。

 

「暁歩さん、今日までお世話になりました」

 

 朝食を終えて最後の問診を行っていると、炭治郎がお礼を言ってくれる。暁歩はその言葉に、笑みを返した。

 

「戦う皆さんを支えるのが、俺たちの役目ですから」

「でも、手合わせをしてくれたのはとても助かりました。実戦に戻る前に、ちゃんと刀を振れるように動きを思い出したかったので・・・」

 

 機能回復訓練で、身体をほぐしたり反射神経を鍛えたり身体の動きを取り戻せただけではまだ足りないと、炭治郎は考えていたのだろう。それ以外で刀を振る機会と言えば、全集中・常中の修業で木刀を素振りする程度でしかなかったのだから。

 ともあれ、彼の怪我が完治し、全集中・常中を会得し、さらに刀の腕も衰えていないようならば何よりだ。

 

「また怪我をしてしまったら、ここのお世話になってしまうかもしれないですけど・・・」

「はは、そうならないのが一番なんですよね」

 

 炭治郎たちとの時間は、友好関係を築けたものだったし、暁歩自身も手合わせで鍛錬になった。それが無くなるのはやはり少々寂しいが、隊士たちにとっては何も怪我をしないことが一番なのだ。

 

「それでは、また機会があったら」

「はい!」

 

 そして、暁歩は病室を後にしてしのぶに問診の結果を報告しに行く。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 炭治郎たちが出発するのは午前中となったが、その前にしのぶが言っていた隊士がやってきた。

 

「・・・蝶屋敷はここでいいのか」

 

 その隊士は、険しい目つきと顔に入った傷、側頭部の剃られた髪が特徴的な大柄な青年だった。隊服の上には紫色の袖なし羽織を纏っている。

 最初に応対をしたのはたまたま手が空いていたすみだったが、そのぶっきらぼうな物言いと外見に、すみはすっかり怯え切っていた。

 

「そうですけど・・・悲鳴嶼さんの紹介でいらしたのでしょうか?」

「ああ、そうだ」

 

 それに代わって暁歩が応対すると、青年は懐から手紙を差し出してくる。内容を確認するのも憚られたし、しのぶが診る予定なので診察室に連れて行くことにした。

 

「かしこまりました。ではこちらへ」

 

 暁歩が青年を連れて行き、すみには炭治郎たちの出立の準備をしてもらうように伝える。

 だが、すみが青年にやや怯えていたのに対し、暁歩は特に恐れを抱いていない、というわけでもない。

 

(胃が痛い・・・)

 

 青年の目つきが悪いのと、大柄な体格による猛烈な威圧感が後ろからひしひしと伝わってきていて、暁歩の胃は悲鳴を上げている。思わずお腹を押さえたい気持ちになってしまうが、客人を前にそんな態度は失礼極まりないので我慢して前を歩く。

 そしてこの青年を見てから、少し暁歩の中で妙な予感が働いていた。痛みを催すほどのものでもないが、どこか違和感があるような気がする。

 そこで廊下の角を曲がると、出立の準備をしている途中らしき炭治郎とすれ違った。炭治郎が脇に避けてくれたので、暁歩は会釈をしてすれ違う。

 

「久しぶり!元気そうでよかった!」

 

 すると、後ろから炭治郎が声をかけてきた。口ぶりからして恐らくは、今連れている青年に向けての言葉だろうが、本人は全く反応を示さない。炭治郎はこの青年を知っているようだが、人違いだろうか。

 とにかく、暁歩はあまり深く考えずにしのぶのいる診察室まで連れてきた。

 

「失礼します、しのぶさん」

「はい」

「悲鳴嶼さんの紹介で来たという方がお見えになりました」

 

 戸を開けて伝えると、しのぶが中へ通すように頷く。暁歩が青年に入るように視線で促すと、青年は大人しく部屋に入った。最初はおっかない印象がしたが、きちんと言うことは聞いてくれる辺り悪い人ではないのだろう。

 ただ、暁歩もまだやることはある。

 任務に出る炭治郎たちのために、簡単な応急処置用の止血剤、包帯、縫合糸と針をまとめた腰袋を用意するのだ。止血剤は塗るだけで大丈夫なものを作り、手早く処置ができる。それ以上に傷が深ければ縫合糸を使って簡易的に縫い合わせるのだ。その手順をまとめた小さな紙も同梱しておく。

 これが、戦い続ける剣士たちの無事を祈る暁歩ができる、せめてもの行いだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 腰袋を三つ用意し終えると、丁度なほが調剤室を訪ねてきた。

 

「暁歩さん、そろそろ炭治郎さんたちが出発するそうです」

「よし、分かった」

 

 用意した腰袋を持って、なほたちと一緒に玄関へと向かう。その際、人の背丈ほどある瓢箪をきよ、すみ、なほの三人が担ぎ、暁歩はおにぎりの詰まった籠を持った。どうやら巨大な瓢箪は、出発の前に今一度修業の成果を試すために使うらしい。

 そして玄関を出て、門戸の前に大きな瓢箪を三つ並べる。それぞれを炭治郎、善逸、伊之助が、一斉に吹いて破裂させようとする。最初よりも遥かに大きいこの瓢箪を破裂させるには、相応の肺活量が必要だ。

 

『がんばれがんばれがんばれー!!』

 

 きよたちの応援を聞きながら、炭治郎たちは一心不乱に空気を瓢箪の中へと送り続ける。全集中・常中を会得しても辛いのか、目の玉が飛び出そうな形相だ。

 しかしそれでも、普通の大きさの瓢箪よりも長い時間をかけて皹が入り、ついに瓢箪は内側から砕け散った。

 

『やったー!!』

 

 きよたちはもろ手を挙げて大喜び。暁歩も拍手を贈る。

 そうして三人におにぎりと、応急処置用の腰袋を渡す。炭治郎はお礼を告げるが、伊之助は早くもおにぎりを食べ始めようとし、善逸に止められている。そんな彼らの様子はこの屋敷でずっと見てきたが、それも今日で終わりだ。そのことがきよたちは寂しいのか、若干涙ぐんでいた。

 

「皆さん、お達者で!」

「皆、俺と別れるのが寂しいんだね!俺だけ残ってもいいよ~!」

 

 そして善逸ももらい泣きなのか任務に行きたくないのか、同じく涙ぐみながらきよたちに話しかける。一方伊之助は『ほわほわ・・・』と呟いているのが聞こえた。

 

「善逸さんは少し女の子に対して気遣いや節度を覚えてくださいね」

「・・・はい」

 

 きよからの辛辣な評価に、善逸も黙り込む。訓練場の裏手での発言や、機能回復訓練でアオイに過度な接触をしたことを未だ忘れていないらしい。小さな子の鋭い発言ってやたら胸に響くんだよな、と暁歩は同情した。

 一方で暁歩も、炭治郎と向かい合う。

 

「いよいよ任務ですね」

「はい、頑張ってきます!」

「期待していますよ。と言っても、そんな事偉そうに言える立場じゃありませんが・・・」

 

 暁歩は炭治郎の肩を軽く叩き、任務への門出と無事を心から祈る。

 そして暁歩たちに見送られながら、炭治郎たちは任務へと出発していった。

 

「・・・それじゃ、戻ろうか」

「はい」

 

 姿が見えなくなるまで見送ると、暁歩の言葉できよたちも屋敷へと戻る。これから先、また新たに隊士が運び込まれることだってあるのだ。いつまでも感傷に浸る余裕はない。

 きよたちを連れて屋敷へ戻ると、丁度しのぶが診ていた大柄な青年が屋敷を出るところだった。

 

「・・・・・・」

 

 青年は軽く会釈をして、門戸をくぐり去っていく。暁歩たちも同様に会釈を返したが、やはり妙な威圧感と、違和感のような予感がした。

 

「炭治郎くんたちは、無事に出発しましたか?」

「ええ。たった今」

 

 先の青年を送り出していたしのぶが聞くと、暁歩が答えてきよたちも頷く。

 それからはまたそれぞれの役割に戻るが、その際に暁歩はカナヲを呼ぶようにしのぶから言われた。

 

「どこにいるかな・・・」

 

 屋敷を歩き回ってカナヲを探す。炭治郎も、訓練に付き合ってくれたカナヲに挨拶をしたと言っていたので、屋敷の中にいるはずだ。

 やがて、南側の縁側にカナヲが座っているのを見つけた。

 

「あ、カナヲさん。しのぶさんがお呼びですよ」

 

 この時、暁歩はびっくりさせようとしたつもりはなく、大声を出したわけでもない。

 にもかかわらず、カナヲは驚いたようにびくっと身体を震わせたかと思うと、庭へとずっこけてしまった。

 

「っ!」

「え、大丈夫ですか!?」

 

 思わず暁歩は駆け寄るが、カナヲ自身も困惑した様子。

 そもそも暁歩は、カナヲのここまで動揺した素振りを見たことがない。ここへ来て一年以上経ち、初めて見せたその姿には驚きを隠せなかった。

 やがて立ち上がったカナヲは、暁歩に言われたことを理解してはいたのか、ふらふらとしのぶの下へと向かった。

 そんなカナヲの珍しい一面を見て驚いたが、暁歩は自分の役目である病室の掃除に掛かる。炭治郎たちの治療用の服の洗濯はきよたちに任せた。彼らが使っていた布団は、アオイが先んじて洗っている。

 それだけを見れば、蝶屋敷のいつもの日常が戻ってきたかのようだった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 それぞれ役割を果たして、昼食の時間になる。

 だが、そこでもまだカナヲの異変は続いていた。

 

「カナヲ様?もしもし?」

 

 椅子に座っているカナヲは、心ここにあらずと言った様子。すみの呼びかけにも答えない。普段からどこか浮世離れしているような雰囲気だったが、今はむしろ何か一つのことを考えているだけのように見える。

 

「カナヲ、何かあったのかしら?」

「いや、俺にもさっぱり・・・」

 

 しのぶが訊いてくるが、暁歩は首を横に振る。先ほど暁歩が声をかけた際に派手に前につんのめったが、その理由はやはり暁歩にも思いつかなかった。

 

「アオイさん、お茶!お茶溢れてます!」

「・・・あ、ごめん・・・」

 

 そこできよが声を上げたのでそちらを見ると、アオイが湯飲みにお茶を注いでいたが、溢れてしまって机にまで零れている。慌ててきよが拭くが、普段てきぱきしているアオイがあんな失敗をするのも珍しい。そして、カナヲの異変も相まって絶対に何かあったと暁歩たちは確信する。

 

「二人とも、どうかしたのかしら?」

 

 しのぶが二人に問いかけるが、カナヲはやはり反応せず、アオイも『何でもないです・・・』と普段の覇気が感じられないような返事をする。誰が聞いても異常があるのは明らかだ。

 

「・・・・・・」

 

 しのぶが暁歩に視線を送る。

 この中では暁歩が一番の新参者だが、しのぶと会話を交わして時間を過ごすうちに、視線で何を望んでいるのかは分かってきたつもりだ。

 そして、しのぶの言いたいことを汲み取った暁歩は頷き返し、昼食の後でそれを行動に移そうと決めた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 歪な雰囲気の昼食の時間が過ぎ、午後になって暁歩はアオイと共に二階の特別室の掃除にあたることとなった。禰豆子は出発直前まで眠っていたので、その部屋の掃除も兼ねてのことだ。

 

「アオイさん、大丈夫ですか?」

 

 暁歩が問いかけるが、アオイは反応しない。

 そう訊いたのも、昼のことがあるが、今もまたからくり人形のように同じところで左右に箒を無機質に動かしているだけだからだ。その動きはもとより、暁歩の言葉にも全く反応しないのが、普段のアオイらしくない。

 ここで少々申し訳ない気持ちを抱きながら、肩を叩く。

 

「しのぶさんも心配していましたよ」

 

 アオイが信頼しているしのぶの名前を出す。これでも反応しなければ手詰まりだったが、実際に肩に触れられたのもあってか、ようやく暁歩の方を見てくれた。

 

「何があったんです?」

 

 改めて質問すると、アオイは箒を掃く手を止めて、肩を落として息を吐く。

 

「・・・さっき、炭治郎さんが挨拶に来てくれたんです。世話になったから、と」

 

 布団が敷かれていない寝台に、アオイは箒を持ったまま腰かける。

 

「でも・・・私は、自分が鬼が恐ろしくて戦えなくなったからこそ、ここで皆さんの世話をしていたので、お礼を言われるまでもないって言ったんです」

 

 アオイの過去は知っている。暁歩と同じように、最終選別を生き延びても鬼との戦いを恐れてしまい、結局戦線に出られなくなってしまったと。

 その経験があるからこそ、アオイはこの蝶屋敷で怪我人の治療に専念し、しのぶに薬の調合の仕方も教えてもらったのだ。そして、ここではその役目を全うしようと真面目に徹していた。彼女からすれば、そんな自分が怪我人の世話をするのは当然のことだから、お礼を言われるまでもないと言ったのだろう。

 

「そうしたら、炭治郎さんが・・・」

 

 ―――俺を手助けしてくれたアオイさんはもう俺の一部だし。アオイさんの想いは、俺が戦場に持っていく

 

 その炭治郎の言葉の優しさを、アオイは覚えている。表情は洗濯物に向いていたから見えなかったけれど、きっと笑っていたのだろう。

 

「・・・何だか、胸のつかえが取れた気分でした。ずっと私が悩んできたことが、炭治郎さんの言葉で取り除かれような」

 

 アオイの表情は穏やかだった。本当に憑き物が取れたような、自分の心に刺さった楔が抜けたような、優しげな表情。

 それを見て暁歩は、安心した。アオイの不調は、悪い理由から来るものではなかったのだ。むしろその逆で、安心できるとても良い理由。ずっと心の中で渦巻いていた苦悩が晴れて、悩んでいたことの反動だった。

 

「それが嬉しくて・・・少しぼーっとしてたんですね」

「ぼーっとって・・・してましたか?」

「お茶を零したり、箒でずっと同じ場所を掃いたりしていたじゃないですか」

 

 自分にとって本当に嬉しい言葉を受け取ると、その嬉しさのあまり他のことに身が入らなくなる。その経験は暁歩も記憶にあるが、アオイのように普段てきぱきとした人がそうなるのを見るのは、少し面白かった。

 

「・・・さ、掃除に戻りますよ」

「はい」

 

 指摘されたのが少し恥ずかしかったのか、すくっと立ち上がり再び箒を動かし始めるアオイ。その動きは先ほどと違ってちゃんとしたものだった。暁歩もそれを見て笑みを浮かべながら、掃除を再開する。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 掃除を終えた後で、何があったのかを報告するように言われていたので、暁歩はしのぶのいる診察室へと向かう。

 

「どうでしたか?」

「まあ、悪いことではありませんでしたよ」

 

 後でアオイも心配をかけたことを謝ると言っていたので、その時に全て話すだろうと思い、一部始終は言わないでおく。ただ、悪いことではなかったことを伝えると、しのぶは安心したようだ。

 

「カナヲさんの方はどうでした?」

「ええ、カナヲの方も・・・大丈夫でしたよ」

 

 そこで暁歩も気になっていたカナヲのことも訊くと、しのぶは何故か嬉しそうに笑いつつも、多くを言おうとはしなかった。

 その笑みは、また普段見せるものとは違う。嬉しいのには間違いないが、『良い報せを聞けた』だけでなく、もっと他の要因があるような気がしてならない。

 そんな風に暁歩が疑問を抱いているのを見て、しのぶもふむと少し考えてから答える。

 

「強いて言うなら、カナヲもようやく()()()なった、という感じですね」

 

 実に楽しそうに、そう告げる。なおさら気になるが、そのしのぶの言葉と表情で悪いことではないのだろうと思い、それ以上は聞かないことにした。

 

「しのぶさん。これは気になったことなんですが・・・」

 

 暁歩は、『失礼します』と言って患者用の椅子に座り、しのぶの方を向く。

 

「今朝ここに来た、あの青年はどういった症状だったんですか?」

「気になりますか?」

「炭治郎くんと面識があるようでしたので」

 

 あの時廊下で声をかけたのは、どうも見間違いとは言いにくい。何せ、あの青年のような体格と人相の人はそういないだろうと思ってしまったから。

 しのぶもわずかに考えてから、『いずれ世話をするかもしれませんし』と口の中でつぶやいてから、彼が持ってきたと思しき手紙を取り出す。

 

「彼は、不死川(しなずがわ)玄弥(げんや)くん。炭治郎くんやカナヲの同期で、風柱の不死川実弥さんの弟さんです」

「へぇ、柱の・・・」

 

 なるほど、炭治郎の同期となれば廊下での彼の言葉も納得がいく。玄弥の方は、何か炭治郎に気に喰わないところでもあるのか無視していたが。

 それと柱の弟というのも驚きである。暁歩の記憶している限り、兄弟揃って鬼殺隊員という例は、今は元であるがしのぶしか知らない。特に兄が柱となれば、もしかしたら玄弥も強くなるかもしれない。

 

「ただ、少々厄介な症状でして」

「え?」

 

 しのぶをもってしても『厄介な症状』と言うのには、暁歩も不安になる。まさか不治の病にでも罹っているのでは、と不安になるが、どうもそういうわけではないらしい。

 

「彼は特異な体質の持ち主なんです」

「特異な体質、ですか」

「はい。暁歩さんの知っている人で言うと、甘露寺さんでしょうか」

 

 以前も、蜜璃は特殊な体質であると暁歩は聞いていた。それはあの奇抜な髪の色ではなく、その筋力。あの細い身体には、常人のおよそ八倍の密度の筋肉が備わっており、とてつもない力持ちだと言う。筋力が高い人は基礎代謝も高くなり、筋力を維持するために相応の栄養も必要とする。以前蝶屋敷を訪れた際にお茶菓子をモリモリ食べていたのもそれが理由か、と暁歩はようやく理解した。

 だが、玄弥の特異体質はそれ以上に異常とも言えるものだった。

 

「彼は、鬼の肉を喰らうことで、一時的に鬼の力を得るんです」

「鬼を・・・喰う?」

 

 耳を疑う言葉だった。

 鬼が人を喰うのは知っているが、人が鬼を喰うなど聞いたことがない。

 だが玄弥は、鬼の肉を喰って一時的でも鬼の力を吸収し、常人よりも遥かに強い力と回復力を獲得するらしい。元々強い咬合力を持っているから、硬い鬼の身体も噛み千切ることができるとのことだ。

 

「正直、『何故そんなことを』と言わざるを得ませんでした。鬼の身体の解明は進めていますが、もし取り返しのつかないことになったらどうするのかと」

 

 元々玄弥は、鬼殺隊に入れはしたものの、呼吸法や刀の腕には恵まれず、追い込まれたところで鬼の肉を喰らって、偶然その体質に気付いたらしい。

 だが、いくら追い詰められたからとはいえ、鬼の肉を喰うなど普通は考えつかないことだ。それを追い詰められたからという理由で実行するのはあまりにも向こう見ずなことだと、しのぶは注意した。異常体質のおかげで助かっているものの、そうでなければどうなったかは見当もつかない。最悪、鬼殺隊から鬼を出してしまうかもしれなかった。

 

「・・・これから、玄弥くんはどうするんですか?」

「診た限りでは健康状態に問題はなく、腑や血液にも異常はありませんでした。しばらくは様子見として、定期的にウチに来るように言ってあります」

 

 詳細な身体の構造と、鬼の能力を吸収する仕組みが解明されるまで、ここに来てもらうしかない。それと、もしも身体の不調に気付いた際にもここへ来るように言ってあるらしい。

 

「しのぶさんは、そう言った症状の人を診たことは・・・」

「ありませんねぇ」

 

 暁歩の問いには即答するしのぶ。特に奇妙な症状の患者をしのぶはしっかりと覚えている。だからこそ、玄弥の症状が初めて見るもので、かつ厄介な体質の持ち主だからこそ衝撃的だったのだ。

 だからこそ、どうすればいいのかはこれから手当たり次第で見つけるしかない。

 

「・・・まあ、鬼殺隊にはいろいろな事情を抱えている方がいますからね。私もですが・・・」

 

 玄弥のことを話し終えたところで、しのぶは嘆息する。

 鬼殺隊に入隊した背景は、人それぞれだ。しのぶのような辛く悲しい理由で入った人がいれば、蜜璃のような前向きな理由で入る人もいる。カナヲのように誰かのためにという理由で入隊する人もいれば、炭治郎のような特殊な背景を持っている人もいる。しのぶの言う通りで、本当に抱えている事情は様々だ。

 

「・・・ここに来れてよかったと思います」

「え?」

 

 ぽつりと呟くと、しのぶは訊き返してきた。

 

「ここへ来なければ、そうして色々な事情の方とは出会えませんでしたし・・・。あの最終選別でヘマをして良かった、とは思いませんが・・・そうでなければこの屋敷で多くの方と出会うこともなかったと思います」

 

 もし自分が、普通の鬼殺隊の一隊士として戦えていたら、ここへ来て他の鬼殺隊員の複雑な過去や事情に触れることは無かっただろう。

 そして、しのぶやカナヲたちのように、想像を絶するほどの悲しい過去を背負う人と出逢い、その重荷を共に背負おうと決意することもなかった。その覚悟を決めた時から、自分の見るものは他とは少し違うものとなり、それは決して無駄にならず暁歩の血肉となっている。

 他の誰かの事情を知らなくても、暁歩自身の人生には何ら影響はなかったのかもしれない。だが、そうした背景を持つ多くの人との出会いは、自分の中の価値観や世界を広げてくれるものだ。むしろ、他人の話を聞くことは、自分にとっても心の成長につながる。

 

「だから・・・しのぶさんたちが俺を受け入れてくれて、本当に良かったと思っています。調剤と治療はもちろんこれからも頑張りますが・・・またいろいろな人の話を聞ければと思いますよ」

「・・・加えて、全集中・常中も身に付けようとしているんですよね?なかなか大変そうです」

 

 しのぶに言われて、暁歩も苦笑する。

 炭治郎たちに触発され、その修業も始めようかと考えているところだ。これも、普通の隊士として彼らに出会わずにいたら、全集中・常中の話を聞くのはずっと後になっていたことだろう。

 ともかく、修業に関しては空いている時間を縫ってやるしかない。暁歩も蝶屋敷での役割がちゃんとあるからこそ、それを疎かにしてはならないのだ。だが、修業と自分の業務の二つを両立させることは、しのぶの言う通り大変だろう。

 

「応援しますね」

「・・・ありがとうございます」

 

 だが、それでもしのぶは自分のことを応援してくれるらしい。

 ならばできることは、その応援と期待に応えることしかない。だから暁歩は、強く頷いた。




≪おまけ≫

きよ・すみ・なほから見た蝶屋敷の面々の印象
・暁歩 :父親
・しのぶ:母親
・アオイ:長女
・カナヲ:次女

・炭治郎:兄
・善逸 :炭治郎の悪友1
・伊之助:炭治郎の悪友2


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第17話:悲しい知らせ

誤字報告をしてくださった方、本当にありがとうございます。
また、評価・お気に入り登録も大変励みになります。ありがとうございます。


 元々暁歩は、朝に鍛錬を続けていたため、修業をすること自体に苦は無い。

 だが、炭治郎たちに触発されてからは、全集中・常中の修業も取り入れ始めていた。彼らがやっていたように、竹垣の上を走ったり、麻紐で岩を持ち上げたり、さらには日常生活で全集中の呼吸を続けられる限り続けている。

 だが、一日のほとんどを修業に費やした炭治郎たちも会得するまでに長い時間がかかったのだ。そこまで長い時間修業の時間を取れない暁歩が、すぐにものにできるはずもない。

 

「ひゅーっ・・・ヒューッ・・・」

 

 しょっちゅう呼吸が乱れ、蹲ってしまう。

 空見の下で修業をしていた時も、肺を大きくするための修業では悲鳴を上げていたが、今はそれ以上だ。全集中の呼吸はあくまで一時的に身体の機能を上げるのであり、それを昼夜兼行となれば、心肺に負担がかかる時間も当然長くなる。うっかりすると、心臓が耳からまろび出そうになるほどだ。

 それに加えて、瞑想も始めている。炭治郎がやっていたこれは、呼吸をすることだけに集中できるので効果的だ。

 

(・・・・・・)

 

 遠くから聞こえる鳥のさえずりや、穏やかな風、昇る太陽の光。それらの自然を身体全体で受け止めると、心が研ぎ澄まされていくような感覚がする。そして呼吸に集中し、吐くよりも吸う時間が長くなるようにし、身体の隅々まで酸素が行き渡るよう意識する。

 そうして瞑想を続けていると、自分が暗闇の中に一人でいるような感覚になり、周りの音などが気にならなくなってくる。

 

 ひた、ひた。

 

 誰かの足音と、振動を感じる。

 朝早くから鍛錬を始めていたが、もしかしたら誰かが呼びに来たのかもしれない。けれど申し訳ない気持ちを抱きながら、瞑想を続ける。声を掛けられない限りは止めないでおこうと決めた。

 そして、他のことに意識を向けないように集中する。

 

 ひた、ひた、すとん。

 

 自分のすぐ傍で足音が止んで、誰かが座ったような感覚。

 しかし目を開けない。何だか妙に甘い感じの優しい香りがしてくるが、気を乱してはならない。全集中の呼吸を止めないように、気を取られないようにする。

 

「ふーっ」

「!?」

 

 だが、耳に息を吹きかけられるのは予想外だ。

 ほんのり冷たく、包み込むようなそれに思わず目を開けてしまい、瞑想が途切れてしまう。全集中の呼吸も止めてしまった。

 

「これぐらいで呼吸を止めては駄目ですよ?」

 

 そして息遣いを感じた方に目をやれば、すぐ傍にしのぶがいた。大きな菫色の瞳、そして綺麗な顔立ちを間近に見て、顔が熱を帯び始め、全集中の呼吸の反動とはまた違う理由で心臓がバクバクと跳ねる。そんなしのぶは、してやったりな笑みを浮かべていた。

 

「・・・集中を乱そうとするとは卑怯な」

「それは心外ですよ?全集中・常中は、どんな時であっても呼吸を乱さないようにするものですから」

 

 緊張を悟らせまいと強がるが、しのぶに説き伏せられる。しかし、いつ何時たりとも全集中の呼吸を続けるのが真髄だから、その言い分も間違っていなかった。暁歩もそれ以上はあれこれ言わず、自分の鍛錬がまだまだだと思うことにした。

 暁歩は頭を下げると、しのぶは改めて暁歩に向き直る。

 

「もうすぐ朝ごはんです」

「すみませんでした・・・」

 

 元々そのために呼びに来たらしい。大分鍛錬に集中していたので、時間の経過も随分早く感じる。態々呼びに来てくれたことにお礼を言って、立ち上がり食卓へ向かう。

 

「しのぶさんは今日、外出でしたっけ?」

「はい、カナヲと一緒に。なので、もし怪我人が運びこまれた際は、アオイたちと協力してお願いしますね」

「分かりました」

 

 しのぶが日中屋敷を留守にすることも珍しくない。その場合は暁歩とアオイに屋敷での裁量はすべて任される。そのしのぶの信頼には応えたいが、同時に何事もなければいいとは思う。鬼殺隊は常に危険と隣り合わせなのでそれは叶うはずもないのだが。

 

「全集中・常中の訓練の方はどうですか?」

「いやぁ・・・それはぼちぼち・・・でも中々上手くいかないですね・・・」

「まあ、最初は誰しもそんな感じですからね。天性の力でもない限りは、すぐに習得するのも難しいですよ」

 

 思い出すのは、しのぶに焚きつけられた善逸と伊之助。あの二人は、炭治郎が一か月弱かかったのに対し、わずか九日で習得した。乗せられたからとはいえその速さは目を見張るものだったし、それを見るとどうしても焦りが生まれてしまう。

 

「それに、暁歩さんは焦る必要はないですよ。この屋敷にいる以上は治療の役割もありますから」

「・・・はい」

 

 治療と修業を両立させるのは難しい。さらに、戦線に出ることもないためそこまで急ぐ必要もない。暁歩もそれは分かっているから、強くなるために急ぐこともないのだ。

 もう少しゆったりとした気持ちで修業した方がいいのかもしれない、と思いながら二人で食卓へと向かう。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日、予想だにしないことが起きた。

 しのぶとカナヲが外出して少し経った後、無限列車の任務に就いていた炭治郎たちが運び込まれてきたのだ。善逸と伊之助の怪我は比較的軽かったが、炭治郎は腹部に刺し傷を負っており、すぐに処置をしなければならない状況にあった。

 だが、那田蜘蛛山の後と比べればまだ三人とも軽い症状だったため、暁歩たち蝶屋敷の人間は真剣かつ必要以上に焦ることなく、治療に勤しむ。

 そしてひと段落したところで、炭治郎たちを運んできた隠から詳しい話を聞いた。

 

「・・・亡くなられた?」

「はい・・・」

 

 炎柱・煉獄杏寿郎が殉職した。

 鬼殺隊で最も階級が高く、相応の実力も持っている柱が死んだということに、暁歩も息を呑む。

 だが、何故そんなことになってしまったのかは後から駆けつけてきた隠には分からず、現場に到着した時には既に杏寿郎は息絶えていたと言うのだ。

 

「詳しい話は、彼らが知っているかと思いますが・・・」

 

 治療を終えて休んでいる炭治郎たちを隠は見る。

 だが、彼らには蝶屋敷を発つ前のような明るい様子が無い。彼らにとっても非常に胸の痛むことだったらしく、そんな彼らに今話を聞くのはあまりにも酷だ。

 

「・・・まあ、落ち着いたら事情を聞こうと思います」

「それが一番ですね・・・」

 

 隠にとっても、柱が死ぬというのはとても衝撃的らしい。

 現場の後始末という役割上、色々なところへと隠は出向くし、隊士とも交流が深い。柱の戦闘の後も当然その後処理もするので、柱の人となりはそこそこ分かっていると、以前後藤も言っていた。

 杏寿郎は、溌溂とした性格をしていて、隠に対しても時に熱く、時に優しく接してくれていたらしい。柱で偉大な人だったからこそ、亡くなったことに対して大きな喪失感を抱いているのだろう。

 

『・・・・・・』

 

 今一度、炭治郎たちの様子を確かめる。

 腹部の傷の処置を行った炭治郎は眠っているが、傷が浅かった善逸と伊之助はやけに静かだ。騒々しい善逸、血気盛んな伊之助がああも落ち込んでいるということは、それだけ彼らにとっても杏寿郎という人は大きな存在だったのだろう。

 そんな彼らをアオイたちも気の毒に思うのか、下手に声を掛けようとはしない。自分たちが戦いの場にいなかったから、どう言葉をかけていいのかも分からないのだ。暁歩もまた同様に、話しかけられない。

 一先ず、炭治郎たちを運んできた隠たちにはお礼を伝えて引き上げてもらうように伝える。それと入れ違いになる形で、しのぶとカナヲが戻ってきた。

 

「炭治郎くんたち、戻ってきましたか?」

「はい。今は治療も終わって、休んでいるところです」

「分かりました」

 

 暁歩は玄関先でしのぶに報告するが、どこかピリピリしているのが分かった。恐らくは鎹鴉を通して訃報を知ったのだろう。カナヲはやはり、感情の読めない笑みを浮かべていたが。

 ただ、しのぶも、同じ柱として親交があったであろう杏寿郎の死に、少なからず憤りや悲しみを感じているのは窺える。鬼が憎いのは誰しも同じだが、しのぶは家族を二度鬼に殺されているからその『濃度』も違う。だから、親しい人を喪うことが辛いし、鬼に対する憎しみがより増幅する。

 

「・・・・・・」

 

 そんなしのぶに対しても、暁歩は言葉を掛けられない。

 支えることを誓いはしたが、今はしのぶも感情の整理をしたいだろう。そこへ無造作に首を突っ込んでしまえば、気を悪くさせてしまうに違いない。

 今は自分の責務を全うしようと思い、暁歩は大人しく調剤室へと戻ることにした。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の夜、当直の暁歩はどうも気持ちが落ち着かなかった。

 薬品の資料を読んだり、薬種の残量を確認したりと、普段と何ら変わらないことをしていても、どこか心が穏やかではない。

 その理由は、自分が身近な人の『死』に動揺しているからだと分かった。

 

「・・・・・・はぁ」

 

 暁歩をはじめ、この蝶屋敷で暮らすしのぶたち、それに炭治郎も家族を喪っている身だ。鬼殺隊という命がけの戦いを繰り広げているのもあって、どうしても『死』は近いものとなっている。

 けれど、それは決して慣れるものではない。命が尽きたと知った時は、喪失感がついて回る。暁歩の両親が死んだ時もそうだった。二度と言葉を交わせない、自分の前に姿を現さない、それを強く実感した時は泣き通しだったし、同時に心に大きな穴が開いた気分にもなった。その『心に穴が開いた気分』が、喪失感というものだと今は分かっている。

 暁歩は、杏寿郎がどんな人物かを知らない。分かることと言えば、柱である以上は実力が高く、時に熱く時には優しくて、その『死』がしのぶや炭治郎たちに影響を与えるほどに慕われている人、ぐらいだ。

 ただ、実際に会って話をしたことがないし、その死の間際にいなかったせいで、詳しいことが分からない。それが歯がゆい。

 

(・・・夜風にでも当たろうかな)

 

 窓を開けて換気はしていたが、今日ばかりは部屋に籠っていると、どうしても暗い気持ちになってしまう。気分を変えようと思い、洋灯を持って部屋を出る。

 そうして屋敷の南側に出ると、誰かがいるのを発見した。

 

「・・・何しているんですか、炭治郎くん」

 

 治療服を着た炭治郎が、木刀の素振りをしていた。

 暁歩が声を掛けると、炭治郎が顔を向ける。まだ傷も治っていないまま無理矢理身体を動かしているから、表情には苦痛の色が混じっている。

 

「まだ傷は治っていないんです。病室に戻ってください」

「いえ、俺は大丈夫です・・・」

「いや、大丈夫じゃないから言ってるんですよ」

 

 戻るように言っても、炭治郎は木刀を離そうとはしない。顔色は良くないし、傷が痛いのが分かるほど息遣いも荒い。少々力づくになるが、暁歩が背中を押して戻ろうと促しても、炭治郎はそこを動こうとはしなかった。

 

「俺は・・・もっと強くならなくちゃいけないんです。煉獄さんの、気持ちを無駄にしないためにも・・・俺は・・・」

 

 杏寿郎との間に、何かがあった。だから炭治郎は、傷ついた自分を奮い立たせて鍛錬をしようとしている。

 それを見て暁歩は、小さく息を吐いて。

 

「落ち着け」

 

 腕を掴み、本来の話し方で告げる。

 普段の暁歩が怪我人に対して使っている敬語は、少しでも安心させるための『作った』口調だ。きよたちに対してはそれよりも砕けた口調で話しているが、それも幼い子供向けに柔らかくしている。暁歩本来の話し方は、それよりもさらに鋭いものだ。

 そして、普段は使わない話し方をすると注意を引き付けやすい。事実、炭治郎は暁歩の方を向いて動きを止めていた。

 

「・・・・・・」

 

 やがて、肩の力が抜けたのが、掴んでいる腕から分かる。持っていた木刀を暁歩が回収しても、抵抗しなかった。

 そうして病室に連れ帰ろうとするが、暁歩が止めに入った今のままでは炭治郎も気持ちが落ち着かないだろう。

 

「・・・少し、待っていてください」

 

 傷が開いていないのを確認すると、暁歩は一度調剤室へと戻る。そして、自分用に置いてあった白湯を湯飲みに移して、炭治郎の下へと持っていく。

 

「・・・白湯です。飲んで、少し落ち着いてください」

 

 縁側に座るよう促すと、炭治郎は湯飲みを受け取ってゆっくりと白湯を飲む。

 その隣に暁歩は腰かけて、語り掛けた。

 

「言ったかと思いますが、俺は蝶屋敷で治療にあたっているため、戦うことはほとんどありません。だから、無限列車で何が起こったのかも、詳しくは知らないです」

「・・・・・・」

「けど、亡くなられた煉獄さんが、炭治郎くんたちに大きな影響を与えていたのは先の様子を見て分かりました」

 

 口調は元に戻し、先ほどとは違い優しく言い聞かせるように話す。

 白湯を飲み終えた炭治郎は、湯飲みを傍らに置く。だが、やはり杏寿郎の死からまだ立ち直れていないのか、視線は庭の土に向いていた。反対に暁歩は、夜空に浮かぶ三日月を眺めながら続ける。

 

「炭治郎くんの傷は浅くありません。運び込まれたその日に起きて無理矢理鍛錬などすると、傷口が開きますよ」

 

 炭治郎は『すみません・・・』と本当に申し訳なさそうに謝る。大分冷静になってきているようだ。

 その謝罪を聞きながら、暁歩はさらに伝える。

 

「傷口が開いて怪我が悪化すれば、最悪刀を振ることはもうできなくなるかもしれません」

「!」

「それを煉獄さんは、望んでいましたか?」

 

 もちろん、この蝶屋敷にいる以上は極力そうさせない。

 だが、時に自分を見失ってがむしゃらになろうとする人には、そうした最悪の場合のことを伝えて宥める方法もある。無暗に不安にさせるようであまり使いたくはないが、その分相手にも事の重大さを伝えやすい。少なくとも、今の炭治郎には有効だったようだ。

 

「亡くなった方の期待に応えたい、思いを無駄にしたくない。それはとても真っ当で、素晴らしいことだと思います」

 

 炭治郎の肩に手を置く。歳相応の少年とは思えないほどがっちりとした身体つきで、相当の鍛錬を積んでいることが窺える。

 

「けれど、亡くなられた方がそれを望むのか、どう思うのか。それを考えて行動することも重要です」

 

 死んだ両親が今の自分を見たらどう思うのか、と暁歩は考えることがたまにある。その度に、最終選別での醜態や鬼殺の剣士の道を正しく歩めなかったことを悔いているが、同時にそれを帳消しにできるようこの蝶屋敷で頑張ろうと決意をしている。

 だが、自分が身体を壊してまで鍛錬をしたり戦い続けることを両親は望まないだろう、と暁歩は思っている。薬屋という人の身体に関する仕事をしていたからこそ、命の大切さを知っていたし、そして優しかった。もしかしたら、命の危険がある鬼殺隊に入ることそのものを望んでいなかったかも知れない。

 しかしながら、もう言葉を交わせないからこそ本心は分からない。だから今は、その亡くなった人がどう思うのかを考えながら、恥ずかしくないように生きるしかないのだ。

 

「・・・煉獄さんは、猗窩座(あかざ)・・・上弦の参と戦っている時、俺のことを『弱くない』って言ってくれたんです」

 

 十二鬼月の上弦。そんな鬼が現れていたことに暁歩は驚いたが、炭治郎の話に耳を傾ける。

 無限列車で人がいなくなっている事件の首謀者は下弦の壱で、これを斃したのは炭治郎だった。

 しかしその後、猗窩座と名乗る上弦の参がそこへ襲来し、怪我をしていた炭治郎に代わって杏寿郎が交戦。相手が好戦的なのもあって杏寿郎と猗窩座の一騎打ちとなったが、炭治郎は腹部に怪我を負ったせいで、ただ戦いを見ていることしかできなかったという。

 その結末は、杏寿郎が鳩尾から背中まで貫く猗窩座の拳を喰らってしまうも、力を振り絞って猗窩座を朝日が昇る時までその場に留めようとした。結局猗窩座は自ら腕を引きちぎって逃走し、炭治郎は最後のあがきと背中に刀を投げ刺すことしかできなかったのだ。

 そして杏寿郎は、炭治郎たちの目の前で息を引き取った。

 

「俺は、煉獄さんが戦っている時、何もできませんでした・・・。怪我をしていたのもそうだし、何より煉獄さんと猗窩座の戦いは入り込む余地もないほど激しくて・・・。俺がもっと強かったら、煉獄さんを助けられたかもしれないのにって・・・」

「それで・・・焦ってしまったと」

「・・・はい」

 

 自分の弱さを素直に受け入れるのは、難しい。弱いと分かっていても、それを認めることには悔しさがどうしても混じってしまうから。

 けれど炭治郎は、たとえ悔しくても自分の弱さを認めていた。自分の目の前で助けられなかったからこそ、それを強く痛感して、どうにかしたいと強い意思を持っている。自分の怪我を顧みないところはいただけないが、杏寿郎の言う通りで炭治郎は決して弱くない、強いと暁歩も思った。

 

「強くなりたいと願うことは悪くありません。ですが今は、自分の怪我を治すことを最優先としてください」

「・・・はい」

「そして、煉獄さんが何を望んでいるのか。それをよく考えることが大切ですよ」

 

 背中を優しく叩く。

 少しだけ炭治郎は目を閉じた後、やがて少しだけ笑みを浮かべて『分かりました』と答える。どうやら、気持ちは少し晴れたようだ。

 それを確信した暁歩は、炭治郎を支えて病室へと向かった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

「炭治郎さんがいませぇん!」

 

 炭治郎たちが運び込まれて四日。朝の問診を終えて、しのぶへ三人の症状を報告した後、調剤室へ戻って鎮痛剤を調合していたところに、困り果てた様子のきよが駆け込んできてそう告げた。

 

「いないって・・・厠とかじゃなくて・・・?」

「二階で休んでいた禰豆子さんもいません~!隊服と羽織もなくなってますぅ!」

 

 きよが半泣きで状況を報告すると、暁歩の表情にも焦りが生まれる。

 以前炭治郎に『今は自分の怪我を治すことが最優先』と言ったのに、何故勝手に屋敷を出てしまったのか。

 

「どこへ行ったか分かる?」

「分からないです・・・鎹鴉の連絡もなかったので、任務ではないと思いますが・・・」

 

 暁歩の見立てでは、炭治郎の怪我も日常生活に支障が出ない程度に回復はしたが、まだ完全回復には至っていない。それはしのぶに伝えてあるし、この屋敷にいる以上はしのぶが完治したと判断しない限り、次の任務には出られない。

 任務ではないのは確かで、どこへ行ったかも分からないのであれば、しのぶにまずは報告するしかない。

 

「しのぶさんに報告はした?」

「それが・・・しのぶ様、最近ピリピリしていまして・・・」

 

 どうやら、神経を張り詰めているらしいしのぶに声を掛けるのが怖くて、最初に暁歩のところへ来たらしい。そんな状態なのは暁歩も若干感じ取ってはいたので、話しかけることに抵抗があったきよの気持ちも分かる。

 しかし、それはそれ、これはこれだ。

 

「とにかく報告はしなくちゃ駄目だ。一緒に行こう」

「はい・・・」

 

 炭治郎がいなくなってしまったことに少なからず罪悪感を抱いており、また今のしのぶに報告することが怖いのか、きよはとても震え慄いている。

 だが、暁歩ときよの二人だけで当てもなく探しに行くのも得策ではなく、しのぶに報告する以外に方法がないため、何にせよ指示が必要だ。だから、きよが怖がらないように、そして自分にも思うところがあるから、暁歩はきよと一緒にしのぶの下へと向かう。

 

「・・・そうですか。炭治郎くんがですか」

 

 診察室にいたしのぶに報告すると、ゆらりとしのぶは立ち上がる。

普段以上にゆったりとした様相に、暁歩もきよの怯える気持ちが分かった気がした。

 そしてしのぶは、『まったく・・・』と呟きながら振り返ると。

 

「・・・どいつもこいつも、ですよ」

 

 額に青筋を浮かべて、拳で素振りをしていた。しかもその表情は笑っている。

 きよもそろそろ半泣きでは済まなそうなので、いつになく険しいしのぶが暁歩も怖かったが助け舟を出す。

 

「あの、しのぶさん・・・」

「はい?」

「実は先日、ですね・・・」

 

 怖かったが、それでも先日の夜に炭治郎と話をしたことを明かす。その時に暁歩が、杏寿郎が何を望んでいるのかをよく考えるべきだ、と伝えたことも話した。

 

「今朝の問診で、炭治郎くんは万全の状態には至っていませんが、日常生活を行う上では問題はありません」

「ほう・・・それで?」

「なのでもしかしたら、煉獄さんつながりの何かのために炭治郎くんは外出したのではないかと・・・」

 

 全ては憶測にすぎないが、炭治郎ほど真面目な人が行動に出る理由としてはそれが一番あり得る。しのぶも顎に手をやって、その可能性もあるのだろうか、と考えている。

 

「あの、すみません・・・」

 

 そこで、戸を開けて話しかけてきたのは、善逸だった。

 三人が視線を向けると、善逸は『えっと・・・』と少し視線を逸らして頬を掻きながら話す。

 

「煉獄さん、自分の弟と父親に伝えてほしいって言葉を遺してたんです。炭治郎がいなくなったのって、多分それで・・・」

 

 つまり炭治郎は、杏寿郎の遺言を伝えに家族に会うために、杏寿郎の生家へと向かった。

 それを踏まえて暁歩は、今一度しのぶに訊ねる。

 

「・・・どうしますか」

「煉獄さんの実家は私にも分かりませんから・・・どうしようもありませんね」

 

 お手上げ、とばかりにしのぶは肩を竦める。

 

「戻ってくるのを待ちましょう。そのまま任務へ行こうとするほど、炭治郎くんも自分の身体が分からないこともないでしょうし」

 

 最終的に待つということになり、その場はそれで落ち着いた。

 きよは、洗濯をしているアオイたちを手伝いに向かい、暁歩もまた調剤室へ戻ろうとする。だが、そこで暁歩は足を止めてしのぶの方を向いた。

 

「・・・しのぶさん、今少し大丈夫ですか?」

 

 確認すると、しのぶは多少の疑問を抱きながらも頷いた。

 二人は場所を移して、東側の縁側へと移動する。まだ日が昇ってから間もないので、縁側には明るい太陽の光が注がれていた。

 

「珍しいですね。暁歩さんからお話とは」

「まあ・・・気になる点もありましたので」

 

 しのぶの言う通りで、暁歩からしのぶを連れ出しで話をしたいと言うのもなかった気がする。だが、今重要なのはそう言うことではない。

 

「しのぶさんも、煉獄さんが亡くなられたことで、少し動揺しているみたいですね」

「動揺・・・ですか?」

「はい」

 

 指摘されて、しのぶは少しキョトンとする。

 

「普段と比べて、少しピリピリしているみたいで。きよちゃんも言ってました」

「・・・そう、見えましたか?」

「はい、あの報せを聞いた日も」

 

 炭治郎たちが運び込まれ、杏寿郎の訃報を聞いた日、しのぶが戻ってきた時はどこか穏やかでないように暁歩は見えた。そして今日、きよが『ピリピリしている』と言っていたのも、先ほどの反応を見て納得がいった。感情の変化は、幼い子供の方が感じ取りやすいものである。

 

「・・・そうですね。動揺、しているんですね。私は」

 

 縁側の外を見て、呟くしのぶ。

 今に至るまで、自分が動揺していることに気付けていなかったらしい。あるいは、自分の変化に気付けていても、それが動揺であると気づけなかったのか。

 

「・・・私も今回は、感情を抑えるのが少し難しかったです。煉獄さんは、とても面倒見の良い方でしたから・・・」

 

 柱としての交流はあった。それに、無限列車の任務に杏寿郎が発つ前も言葉を交わしていたからこそ、それが最後に見た姿となるなんて、と衝撃を受けたものだ。

 

「とても慕われる人柄の方でした。だからこそ、煉獄さんのような方がお亡くなりになるのはとても悲しいものです。そしてやはり、鬼に対する怒りや憎しみもまた増長する・・・」

 

 その結果が、何度も見たしのぶのやや穏やかではない態度だった。その正体をようやく理解して、暁歩の身体から少し力が抜ける。

 

「どれだけ経験してきても、身近な人の死とは慣れないものですよ」

 

 そう言いながらしのぶは、仏間にある仏壇を見る。

 しのぶはすでに、両親、姉、多くの継子の死を間近で経験している。それでもなお、死とは心に強く深く突き刺さるもので、それが誰であっても悲しくなる。

 

「・・・人の死には、慣れない方がいいと思いますけどね」

「・・・・・・」

「慣れてしまったら、命がどれだけ大切かを見失ってしまいそうですから」

 

 暁歩が言うと、しのぶも悲哀を交えた笑みを浮かべる。

 命は失ってしまったら、二度と戻ってくることはない。親しい人でも、愛すべき人でも、命が尽きれば言葉を交わして表情を見せ合うこともなくなる。

 だからこそ、そうなってしまう『死』を恐れ、それに直面すると心が深く痛み傷つく。それに慣れてしまったら、命の重みを忘れてしまう悲しい生き方をしてしまうだろう。

 

「・・・そうですね」

 

 しのぶはそう告げて、仏間へと向かう。

 

「きよには後で謝らなければなりませんね。怖がらせてしまったことを」

「・・・ええ、ぜひそうした方がいいかと」

「そして暁歩さん」

 

 しのぶが振り返り、目を伏せる。暁歩は一瞬行動の意味が分からなかったが、それは謝罪の表れかとすぐに分かった。

 

「以前、アオイと喧嘩した時は怒りましたけど・・・私も人のことを言えた義理ではありませんでしたね」

「いえ・・・今回はまた事情が違いますから・・・」

 

 いくら同じように屋敷の雰囲気を少し乱したとはいえ、流石に個人間の主張の対立と人の死は、同列に語っていいものではないだろう。暁歩が首を横に振ると、しのぶは苦笑した。

 そうして二人で仏壇の前に正座し、しのぶが鈴を鳴らすと、揃って手を合わせて黙祷を捧げる。

 亡くなった人と言葉を交わすことはできないし、自分たちがどう思っているのかも伝わらないだろう。だから、遺された人たちにできるのは、亡くなった人の思いを掬い、安らかに眠れるよう祈ることだ。

 炭治郎は今、杏寿郎の思いを持って生家へと行っている。

 そして暁歩としのぶは、亡くなったしのぶの家族の安らかな眠りを祈る。

 命がけの戦いを強いられる鬼殺隊にいる限り、死は隣り合わせにあるものだ。

 それでも暁歩は、人の死には慣れることなく、命の重さも見失わないでいたいと強く思う。




≪おまけ≫

「やっと、帰れた・・・」

 夜が明けてから、炭治郎は杏寿郎の実家から蝶屋敷に戻ってきた。本当は昨日の日中に帰れたはずだったが、屋敷の前で担当の刀鍛冶・鋼鐡塚(はがねづか)に出くわしてしまい、刀を失くしたため追い回された。結果、今になって戻ったのだ。

「ごめんな、禰豆子・・・すぐ休ませてやるから・・・」

 背中の木箱からカリカリと引っ掻くような音が聞こえると、炭治郎は声をかける。中にいる禰豆子も、長い間箱に詰められて窮屈だろう。
 おまけに、炭治郎の傷も完全には癒えていない。昨日は暁歩に『治ってきているが無理な運動は控えるように』と言われていたが、鋼鐡塚に追い回されてしまったので傷が開きそうである。
 申し訳ない気持ちを抱きながら、蝶屋敷の戸を開けると。

「おかえりなさい、炭治郎くん」

 ニッコリ笑顔のしのぶがいた。
 その瞬間、怒りの匂いを嗅ぎ取った炭治郎の表情が固まる。その匂いは、以前善逸の発言に笑いながら怒っていた暁歩のそれと同じだ。

「まだ治っていないのに勝手に屋敷を出るとはどういう料簡でしょうかねー?」

 笑って訊ねるしのぶの後ろから暁歩が姿を見せ、炭治郎が背負っていた禰豆子のいる木箱を回収する。その途中で、暁歩は炭治郎の肩を叩き、告げた。

「・・・頑張れ」


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第18話:すれ違い

感想・お気に入り登録、ありがとうございます。誤字報告に関しても、心よりお礼申し上げます。


『カナヲが忘れてしまって・・・届けてもらえますか?』

 

 暁歩はしのぶに頼まれて、水の入った瓢箪と手拭いを持って、蝶屋敷の敷地にある裏山を登っていた。 

 今、この裏山で鍛錬をしているカナヲだが、普段持って行っているこの二つを今日は忘れてしまったらしい。今の時期はそれほど暑くもないから、脱水症状に陥ることはないだろう。しかし、鍛錬で疲れている身体にはいずれも必要なものだ。

 それを届けるために、暁歩は裏山でカナヲの姿を探す。やがて、青竹が生い茂る一帯にカナヲの姿を見つけた。

 カナヲは、軽い足取りで地面を蹴り、さらに竹を足掛かりにして上へ上へと跳んでいく。その時、カナヲが踏み台にした竹がしなると、竹の葉がひらひらと舞い落ちてくる。やがて青竹の頂点まで跳んだカナヲは、地面へと下りながら刀を振り、舞い落ちる竹の葉を斬っていく。そして、カナヲが地に足を付けた時には、竹の葉はすべて両断されていた。

 

(すごいな・・・)

 

 そう思わずにはいられない。

 カナヲは視力が優れていると聞いている。先ほど舞っていた竹の葉は百に近かっただろうに、それらすべてを余すことなく両断しているのは、その動体視力の賜物であろう。

 また、しなる竹を蹴って上へ上へと向かうその身軽さは、文字通り見上げたものだ。暁歩も木から木へと飛び移り上を目指す修業はしていたが、竹はしなりやすいため力加減が難しく、難易度がより高い。それを涼しい顔でやってのけるカナヲが、暁歩は本当にすごいと思った。

 

「カナヲさん」

 

 そんな感動もほどほどに、暁歩が声を掛ける。ゆっくりとカナヲは暁歩の方を向いた。

 

「しのぶさんから、お忘れ物だそうです。どうぞ」

 

 そう言って手拭いと瓢箪を渡すと、カナヲはそれを手に取る。

 それで暁歩の用事も済んだので、長居は不要と思い暁歩は踵を返して山を下りようとする。

 

「あの・・・」

「?」

 

 だが、すぐにカナヲに呼び止められて、暁歩は足を止める。

 振り返ってみると、何かを言い淀むのように視線を左右に巡らせて、やがて俯いてしまう。

 

「・・・何でもない」

「そうですか・・・では」

 

 結局カナヲが何を言おうとしたかは分からなかったが、暁歩は下山することにした。

 しかしこれは、蝶屋敷に来たばかりの時と比べれば大きな進歩でもある。話しかけてもにっこり笑うだけで返事をしなかったのに、最近では呼びかけには最低限の言葉だけでも応じ、その上自分から話しかけてきたのだ。

 そんなここ最近での変わり具合を見ると、何かがあったんだろうとは思う。

 思い当たるのは、炭治郎たちが無限列車の任務へ発った日。暁歩がカナヲに話しかけてずっこけた時だ。あれ以来、カナヲに少しずつ変化がみられるような気がした。しのぶはその変化の内容を知っているらしいが、それを深くは訊けない。

 何にせよ、カナヲがこうして言葉を掛けてくれたり表情に変化が生まれたりすることは、喜ばしいことだ。具体的にどんな経緯があったのかは知らないが、それは今すぐ知るべきことではない。焦らずゆっくり知っていこうと、暁歩はカナヲについてはゆったり構えることにした。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の昼食の後、カナヲは食休みをするようしのぶから言われ、庭でシャボン玉を吹いていた。ぷくっと膨らんだ泡沫は、風に乗って空へと舞い上がり、屋根まで飛んでやがて弾ける。

 

「・・・・・・」

 

 儚い印象のあるシャボン玉を、カナヲは静かに微笑みながら見届けて、また息を吹いてシャボン玉を飛ばす。

 暁歩は調剤室へ戻ろうと縁側を歩いていたが、その様子が気になってふと足を止めた。

 シャボン玉は、自分が幼い頃に遊んでいた記憶があるが、最近は全く吹いていない。それでも、シャボン玉がふわふわと空に浮かんでいく様は、なぜだか気になるし、面白く感じる。

 そして少し気になったのが、カナヲの笑みが以前と少し変わったようなところだ。感情が読めないような笑みだったが、今は笑みの中に感情が宿っているように、彩りを感じ取れるような気がした。

 

「カナヲに何か用事が?」

 

 そこで横合いから、しのぶに声を掛けられた。どうもカナヲの方を見ていることを不審に思ったらしい。

 

「いえ、用事というわけではないですが・・・」

「?」

「ただ、少しカナヲさんが気になっていたと言いますか・・・」

 

 暁歩が告げると、ふわっとしのぶの空気が少し変わったような気がした。

 

「以前も気になっていたようですけど、もしかして気があるんですか?」

「そう言うわけじゃないです」

 

 からかうような口ぶりに暁歩は首を振る。ぶっちゃけ暁歩が本当に気がある人は今目の前にいるのだが、そんなことは口が裂けても言えない。

 

「ここ最近、カナヲさんは表情に彩りがついてきたと言いますか、何だかいい方向に変わったと思いまして」

「暁歩さんもそう思いますか?」

 

 しのぶは、暁歩に対して何か親近感を抱くかのような口ぶりを見せる。

 気になったのでしのぶを見ると、シャボン玉を吹くカナヲを愛しむかのように眺めていた。

 

「そうですね・・・確かにあの子は、最近になって随分と変わったと私も思います」

 

 幼少期からカナヲを見てきたしのぶからすれば、確かに大きく変わっていると思う。

 最初は人から指示をされなければ何もできない子だったのに、今や(無断とはいえ)自ら鬼殺隊の道へ進み、さらには表情や言葉にまで大分変化が表れてきている。実に良い兆候だ。

 

「もっと、ちゃんとした家庭に生まれていれば・・・正しく成長できたのかもしれないのですけどね・・・」

 

 カナヲの生い立ちは、聞くだけで胸が痛くなるほどに辛い。

 だが、しのぶの言う通りで、もっとまともな親の下に生まれていれば、心を閉ざしたり、鬼狩りの任について命懸けの戦場に出張ることもなかっただろう。そして今頃は、可愛らしい乙女のまま青春を謳歌していたのかもしれない。

 

「今更そんなことを言っても、どうにもならないんですけどね」

 

 自嘲気味に言うしのぶに申し訳ないが、その通りだと暁歩は思う。誰がどこに生まれるかなんて誰にも決められないし、それを後から悔やんだところでどうしようもない。

 

「だからこそ、しのぶさんはカナヲさんを受け入れたのでは?」

 

 出自はどうしようもないからこそ、その後で苦しんでいるカナヲに、しのぶと今は亡きカナエは手を差し伸べた。

 暁歩が訊ねると、しのぶも頷く。

 

「ええ。あのままでは、カナヲはより辛い人生になってしまうだろうと思いましたから・・・」

 

 あの橋で縛られたカナヲを見かけた時、ただ事じゃないことはすぐわかった。その時真っ先に動いたのはカナエの方で、しのぶは『優しい姉らしい』と思いながら大人しく続いたのだ。

 

「今までが辛かったのなら、この先愛情を注げばいいんです。カナヲさんの辛い過去は消えませんが、だからこれからは、一緒にいて大切にしてあげれば十分ですよ」

 

 幼い時分に家族を喪った、きよたちを支えたいと思うように。同じようにカナヲを見守り、愛情を注ぐのが一番だ。特に、目の前で家族を喪ったしのぶには、その大切さが分かっていた。

 暁歩がそう告げると、しのぶは少しだけ間を開けた後にぽつりと告げる。

 

「・・・そうですね。できる限り、大切にしますよ」

 

 その時、暁歩はしのぶの語調が少しだけ暗いものになったのを敏く感じ取った。だが、その顔を見てもいつもと同じ微笑みで、心の底が窺い知れない。

 そしてその表情を見た瞬間、暁歩の頭の中で、火花が散るような『予感』が働いた。

 

「ところで、カナヲが最近になって変わった理由なんですけどね」

 

 そこでしのぶは、話題を戻すように暁歩の方を向いた。まるで、それまでの話題から逸らすかのように暁歩は感じたが、暁歩はひとまず話を聞く。

 

「以前、その理由は暁歩さんにもお伝えしたかと思うんですけれど?」

「・・・あの、『らしくなった』って話ですか?」

「ええ。それです」

 

 最初にカナヲの様子がおかしいと気づいた日、カナヲに話を聞いたしのぶは首尾をそう伝えた。しかしながら、それだけでは暁歩も何があったのかは分からない。

 

「あの意味、分かりました?」

「・・・ようやく女の子らしくなった、といった感じですか?」

「中らずと雖も遠からず、ですね」

 

 中々もったいぶるようなしのぶの言い方。

 暁歩も頭をひねるが、確かにカナヲはここ最近で変わってきている。それが女の子らしくなったという意味で間違ってはいないだろうが、まだ他の要因があるということ。それが何なのかを頭を働かせて突き詰めるが、どうにも思いつかない。

 

「思い当たりませんか?」

「・・・ええ、まあ」

 

 しのぶに問われるが、やはりこれといった結論が見えてこない。

 曖昧に笑って首を振ると、何故かしのぶは呆れたような息を吐いた。

 

「暁歩さんって、意外と抜けているところがあるんですね」

「え、何で急に俺が悪いようになってるんですか・・・?」

「・・・暁歩さんも、まだまだですね」

 

 急に評価が下がってしまって困惑する暁歩だが、しのぶは相変わらず微笑んでいて全く考えが読めない。

 このままでは自分の評価もいずれ地に落ちてしまうのでは、と焦りを覚えた暁歩はいよいよ知恵熱が出そうになるほど考え抜くが、その様子にしのぶはクスクスと可笑しそうにする。悩んでいる様子を楽しんでいるようだった。

 

「あの、すみません・・・」

 

 そこへ声を掛けてきたのはきよだった。暁歩としのぶが振り向くと、きよは暁歩に話しかけてくる。

 

「ちょっとだけ手伝ってほしいことがあるんですが、いいですか?」

「よし、分かった」

 

 暁歩が頷くと、少しだけきよは急ぐように暁歩の手を引いて病室の方へと向かう。

 その様子を見たしのぶは、少しだけ寂しげな気持ちになる。

 きよから頼られるということは、それだけ暁歩も力や知識を身に付けているということであり、成長しているという意味でもある。

 だが、なぜかその様子を見ていると少しだけ、しのぶは寂しくなってしまう。

 カナヲもそうだが、暁歩が成長した時は嬉しく思ったものなのに、どうしてか暁歩が成長する姿には寂しさを覚えてしまう。

 同時に、先ほどきよに手を引かれていたのを見た時は、なぜか心の中でもやっとした気持ちが少しだけ生まれた。

 

「・・・師範?」

 

 そこで、先ほどまでシャボン玉を吹いていたカナヲが話しかけてきた。

 話しかけられて、しのぶは一旦気持ちを切り替えてカナヲの方を向く。

 

「何、カナヲ?」

「これからまた、裏山で鍛錬をしてきますので・・・」

「ええ、分かったわ」

 

 そうしてカナヲは、日輪刀を持って屋敷を出る。

 それを見送りながらしのぶは、深く長く息を吐いて、自分の中に一瞬過ぎった奇妙な感情を吐き出そうとする。けれどその気持ちは、薄れはしたものの、完全に心の中からは消えはしなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「炭治郎くん、熱が高いって?」

 

 きよに連れられて来たのは、炭治郎たちがいる病室。今は善逸と伊之助は用があって外へ出ているらしく、いるのは炭治郎だけだった。

 ここに来るまでに事の顛末を聞いた暁歩は、寝台の傍に腰掛けてそう訊ねる。

 

「すみませんが、どうかこのことはしのぶさんには・・・」

「いや、でもそれが続いてるってなるとね・・・」

 

 病床の上で炭治郎は頭を下げるが、暁歩は素直に『分かった』と答えられない。

 聞けば、検温していたきよが、炭治郎がここ数日三八度の高熱が続いているというのだ。しかし、当の炭治郎本人は全く不調を感じず、むしろ調子が良いとまで言う。それでもきよは炭治郎が心配で、しのぶに相談しようとしたのだが炭治郎が止めた。

 

「しのぶさんにはこれ以上心配をさせたくなくて・・・」

「なので、暁歩さん・・・炭治郎さんのことを診てもらえませんか」

「・・・分かった」

 

 そうは言っても心配だったきよは、まずは暁歩に診てもらおうと思ったらしい。

 炭治郎も、本当に異常がないことを伝えるためなのか、暁歩の診察には応じてくれた。だが、触診の結果異常はなく、血圧や脈拍にも問題はない。だが、体温はやはり三八度と高く、改めて症状を聞いてみたがやはり異常はないとのことだ。

 

「・・・確かに基礎体温が高いだけですね・・・」

 

 本当に体温以外問題がないことを確認して、一先ず暁歩は安心する。きよと炭治郎もホッとしていた。

 だが、なぜ急に炭治郎の基礎体温が上がったのか、という疑問は残る。

 

「何か特別なことをしたようなことはありますか?」

「いえ、特には・・・でも、一つ」

 

 炭治郎が何か思い当たるように言うと、暁歩ときよは炭治郎の顔を見る。

 

「ヒノカミ神楽って言う、ウチに代々伝わる舞があるんですけど、それで使う呼吸を使い始めたことですね」

「「ヒノカミ神楽・・・?」」

 

 暁歩ときよは知らなかったが、炭治郎が言うには、その呼吸とはどれだけ動いても疲れにくく、また寒くならない呼吸法だと言う。それは鬼殺隊で使う全集中の呼吸と似通っている点があるが、寒くならない呼吸をするだけで基礎体温がそこまで上がるかと疑問はあった。

 

「『ヒノカミ神楽』は分からないですが・・・まあ、こちらでも少し調べてみます」

「分かりました・・・」

 

 ヒノカミ神楽を知らないことに、炭治郎は地味に凹んでいるらしい。それは聞いたこともなかったが、暁歩は逆に申し訳なくなる。

 

「しのぶさんにも伝えないでおきますが、少しでも身体の調子が悪くなったら言ってください」

「はい。ありがとうございます」

 

 炭治郎が頭を下げると、暁歩は軽く手を振って病室を出る。きよも後に続いた。そして病室を出ると、きよに話しかける。

 

「俺はちょっと資料を読み直して、炭治郎くんみたいな症状がないかを確かめるよ」

「お願いしますね・・・」

 

 きよはまだ心配が止まらないのか、不安そうな表情と声をする。きよだけでなく、すみとなほが兄のように懐いている炭治郎の身体に異変とあって、気が落ち着かないようだ。

 

「一番いいのはしのぶさんに相談することなんだけどね・・・あの人の知識は俺以上だし」

「でも、しのぶ様には迷惑を掛けたくないって・・・」

 

 柱であるしのぶに、症状が『体温が高すぎる』というだけの異変を相談して手を煩わせるのも嫌だったのだろう。一先ず暁歩が診て何もないことだけは分かったが、この先炭治郎の体調には気を付けておくようにしなければならない。

 それをきよに伝えて、暁歩は調剤室へと向かった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の夕飯時。

 しのぶが食卓にやってくると、暁歩の姿が無かった。

 

「あら、暁歩さんは?」

「まだ来ていないですね・・・」

 

 なほに訊くが、首を横に振る。大体自分が来る頃には暁歩も食卓にいて、手伝っているはずだ。それがほとんど毎日だったから、逆にいないのを不思議に思う。

 そこでしのぶに話しかけたのは、きよだった。

 

「暁歩さん、資料を読み直してるって言ってました」

「資料?」

「えっと・・・お薬についての」

 

 しのぶに問われて、きよは極力嘘が見えないように誤魔化す。炭治郎からは、しのぶには言わないようにと口止めされているのをすんでのところで思い出した。

 結局暁歩は、食卓に料理が並ぶまで姿を見せなかった。夕食が要らないという話は、作っていたアオイも聞いていなかったらしく、暁歩の分も用意されている。

 

「勉強熱心なのは良いですけど、時間はちゃんと守ってもらわないとですね」

 

 そう言ってしのぶは、暁歩を呼びに行くことにした。アオイたちには先に食べておくように言っておく。

 そして、調剤室に暁歩を呼びに行くしのぶは、胸の奥が少しざわついていた。

 

(心配ですね・・・)

 

 何かに打ち込むのは良いが、寝食を忘れてまで没頭するのは少しいただけない。医療に携わるしのぶだから言えるし、自分もまた任務や研究が続いて徹夜をしてしまうこともあるが、それでも睡眠と食事はちゃんと摂らなければと思っている。それが一番の回復手段だと分かっているからだ。

 だから、暁歩が今も資料を見返すことに集中しているのが、身体を壊してしまわないかと不安だ。

 

「・・・・・・」

 

 足を止めて、陽が落ち暗くなった外を見る。

 暁歩を心配していることに変わりはないが、その心配の度合いが変わっているように自分では思う。

 蝶屋敷で暮らしている人を、しのぶは本当の家族のように思っている。だから、家族同然である暁歩を不安に思うのは当然だが、暁歩に対するその気持ちは、どこか家族に向ける物とは少し違うようにも感じた。

 自分でもどういうことか分からないが、暁歩に対する気持ちの意味というより深さが、変わりつつあった。

 しかし今は、そんな自分の中での心境の変化よりも暁歩を呼びに行くことだ。再び歩き出して、調剤室へと向かう。

 

「暁歩さん?」

 

 部屋の戸を叩く。

 『はい』と返事がしたので、少なくとも意識不明ではないらしい。しのぶが戸を開けると、暁歩は窓際の机で資料を読んでいるところだった。随分と多くの資料を読んでいたらしく、机にはいくつもの書籍が積まれていた。

 

「何ですか?」

「もう夕食の時間ですよ?」

 

 振り向いて暁歩が訊ねたので、しのぶは壁に掛かった時計を指差す。そう言われて暁歩が時計を見ると、時刻は既に夕食の時刻を過ぎているのに気付いた。直後、暁歩は思わず声を上げる。

 

「すみませんでした、すぐ行きます」

「随分、熱心に資料を読んでいたようですね?」

 

 資料をせっせと片付け始める暁歩に話しかけると、暁歩は頷く。

 

「ちょっと自分には分からないことだったもので、西洋の文献まで探してしまいました」

「あら。それは・・・きよも言っていましたが、何かあったのかしら?」

「ええ。ちょっと炭治郎くんが・・・あ」

 

 片付けながらしのぶに訊かれて、暁歩は秘密にしなければならないということを失念し、正直に答えかける。これは炭治郎から口止めされていたのだった。

 

「・・・いえ、何でもないです」

「炭治郎くんがどうしたんですか? ん?」

 

 咄嗟に隠そうとしたが、しのぶは何でもないことにしてくれなかった。

 心なしか、しのぶの言葉に若干の苛立ちというか不満げな感情が乗せられているような気がした。いつも浮かべている微笑みに恐ろしさを感じるようになってしまい、暁歩の背中から汗が噴き出す。

 

「暁歩さん?」

 

 歩み寄ってきて、笑顔でもう一度名前を告げるしのぶ。

 猛烈に嫌な予感がして視線を逸らしてしまう。

 病人の炭治郎、さらに薬剤を調合する暁歩が文献を調べているとなれば、何らかの症状に関するものである可能性は明らかだ。

 それは屋敷の主であるしのぶにとっても他人事ではないし、それを暁歩は隠そうとしている。

 

「何か隠していませんか~?」

 

◆ ◆

 

 暁歩を呼びに行ったしのぶまで戻ってこない。

 残っていたアオイたちは言われた通り夕飯を先に食べているが、二人して帰ってこなくなると不安になってくる。

 

「しのぶ様まで、どうしたんでしょうか・・・」

「もしかして急に任務でもあったのかもしれません・・・」

 

 鬼殺隊に勤めていると、唐突に任務が入ることが多々ある。柱となればなおさらで、緊急招集がかかる場合もしばしば、夕食の最中に指令が来ることもあった。

 だが、急な任務が入るにしろ、しのぶはそう言う時は必ず皆に一言言ってくれる。それもないとなれば誰もが気になった。

 

「・・・少し見てくる」

 

 そんな疑問を抱いたアオイは、立ち上がって食卓を出る。向かうは、しのぶが行ったであろう暁歩がいる調剤室だ。そこへいなければ任務の可能性が高い。

 

「――――?」

「―――、――――――」

 

 二人分の話し声が聞こえてくる。どうやらしのぶも屋敷にいるようだ。

 しかし、どうもあまり平穏ではないような感じの声だ。その声に疑問を抱きつつ、少し用心しながらアオイが廊下の角を曲がると。

 

「本当にすみません・・・」

「私は怒っているわけではないのですよー?ただ理由を説明してほしいだけなんですよねー」

 

 調剤室の前で土下座する暁歩と、その前に仁王立ちするしのぶの姿があった。

 その平穏ならぬ異様な光景に、思わず掛けようとした声を飲み込み、身体を引っ込めて物陰から様子を窺うアオイ。

 

(え、なんでこんなことに・・・しのぶ様と暁歩さんが喧嘩してる・・・!?)

 

 そして困惑。二人は仲が悪そうな様子もなかったのに、突然喧嘩など始めたものだから驚きだ。状況を見る限り、暁歩が何かしのぶにとって落ち度のあることをしてしまったらしいが、いまいち状況が掴めない。

 もっとよく聞いてみようと、アオイは耳を澄ます。

 

「どうして私に言ってくれなかったんですか?」

「それは・・・本人に口止めされて・・・」

「それでもそういう大事なことは私に言ってくださいと言ったはずなんですけどねー?」

 

 話を途中から聞いているので、アオイは断片的に聞こえてくる言葉でしか詳細が掴めない。それでもしのぶが怒っているのだけは分かった。

 

「私は悲しいですよ。暁歩さんがそういう人だったなんて」

「それは・・・すみませんとしか・・・」

 

 悲しい、という言葉にアオイは『ん?』と眉を顰める。

 

「暁歩さんだけの問題ではないですし、そういうことは私に伝えてほしかったです」

「はい、仰る通りで・・・」

「それとも、暁歩さんはそんなに私が信用できないと?」

「いえ、そんなことは・・・」

 

 事の顛末がはっきりと見えないが、アオイは自分なりに考えようとする。

 何らかの過ちを犯したのは暁歩の方だ。それでいて、それはしのぶにとっても大切なことであり、暁歩一人の問題ではないということ。特にしのぶがそれなりに傷つくようなこととなると、アオイは少し首を傾げる。

 そしてアオイから見るに、しのぶと暁歩は蝶屋敷では結構一緒にいるところを見かけている。それはしのぶはもちろん、暁歩も大分医療に詳しくなってきたから、同じ段階にいる者同士、というだけでない男女の仲のようなところもある。

 そんな二人の諍いごととなれば、おのずと答えは見えてきた。

 

(まさか・・・?)

 

 あらぬところで作用するアオイの勘違い。頭の中に『う』から始まる三文字が浮かんできた。

 二人に気付かれないようにその場を離れ、食卓へと戻る。

 

「あ、アオイさん。どうでした?」

 

 食事を続けていたすみが訊ねるが、アオイは息を整えて、神妙な面持ちで告げた。

 

「・・・修羅場よ」

『!?』

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「つまり炭治郎くんの体温が高いことは、二人は知っていて、それで私には言わないようになっていたと?」

「「はい」」

 

 場所を移して、居間のしのぶの前には、暁歩ときよが正座をしていた。口止めが利かなくなってしまい、暁歩は心の中で炭治郎に謝る。

 アオイの発言に驚いた一同は慌ててしのぶと暁歩の下へと行き、状況をいち早く察したきよが止めに入った。その際、アオイはなぜか猛烈に恥ずかしそうに顔を覆っていたが、暁歩としのぶはその真意に気付いていない。

 

「で?」

「私が検温で最初に気付いたんですけど、炭治郎さんはしのぶ様には内緒にしてほしいって言ってたので・・・でも放っておけないと思って暁歩さんに頼んだんです・・・」

「俺もそう言われて診察したんですが、確かに体温が高いだけで、他には問題がありませんでした・・・」

 

 先ほどとは違い、落ち着いて説明をする暁歩ときよ。だが、しのぶは笑みを保ったまま追及してくるので、二人は心の中で委縮している。

 

「患者にどこか問題があるならすぐに言うようにと、そう教えたはずなんですけど?」

「「おっしゃる通りです」」

「いくら本人が良いと言って、身体に問題がなくても、些細な疑問でもあれば私に報告するようにと、言ったはずなんですけどねー?」

「「返す言葉もございません」」

 

 怒られて、頭が上がらない暁歩ときよ。

 最後にしのぶは、短く浅く息を吐く。

 

「・・・まあ、炭治郎くんも自分のせいであなたたちが怒られたと知ったら落ち込むでしょうし、本人には聞かないでおきます」

 

 しのぶの怒っている様子が無くなったが、それでも油断はせず暁歩ときよは顔を上げる。

 するとしのぶは、暁歩に顔を向けた。

 

「炭治郎くんの身体、本当に問題はなかったのですか?」

「はい・・・血圧や心音、脈なども。触診にも異常はなかったです。基礎体温が上がっているということだけで」

「なるほど・・・それで暁歩さんは資料を読んでいたと」

 

 すべてに納得がいった、という様子でしのぶが頷く。

 

「・・・次からは、このようなことが無いようにしてくださいね」

「「分かりました」」

 

 しのぶが締めくくると、暁歩ときよは深く頷く。そこでしのぶは二人を解放し、夕食にすることにした。特にしのぶと暁歩は、まだ料理に手を付けていないので少し空腹を覚えている。

 

(まさか私に秘密とは・・・)

 

 前を行く暁歩ときよを見ながら、しのぶはふと思う。

 炭治郎の件は分かったし、『体温が高い』というだけで柱であるしのぶに心配を掛けるのを避けただろうことも窺える。さらにしのぶも信頼している暁歩が診た結果問題ないとのことだったから、これに関しては既に納得をしていた。

 だが、それでも、暁歩ときよがこのことを自分に秘密にしていた点に少しだけむっとしてしまう。それはしのぶが先ほど言った、怪我人にちょっとした違和感があればすぐに報告するように、と言っていたのもある。それとは別の要因で、しのぶの心には蟠りが生まれていた。

 

(・・・自分の心が分からなくなる日が来るなんて)

 

 その蟠りが生まれる理由が、しのぶ自身で分からない。

 信じていた暁歩に裏切られた、という気持ちはない。暁歩も露見した際は必死で謝っていたし、診察をして何も問題は無いという結果の上だから、根拠のない判断とは違うのでその点に関して文句はない。

 では自分は、一体何に対して蟠りを感じているのだろう。

 分かることと言えば、その蟠りは、今日の昼過ぎにきよに手を引かれている暁歩を見た時と同じような感じがするという点。

 自分が除け者にされているような感じだからか。いや、それとは少し違う気がする。

 ここ最近になって、どうにも自分の中で、抱いたことのない感情が芽生えつつあるように自分では思う。

 

「しのぶさん、どうかしましたか?」

「・・・いえ、何でもないですよ」

 

 表情がまた少し思い詰めたような感じになっていたところを心配し、暁歩が声を掛けてくる。

 さっき感じていた蟠りも、こうして暁歩から声を掛けられると感じなくなる。

 この奇妙な性質を見せる蟠りは、一体何なのだろう。

 しのぶは、自分で自分の気持ちを把握しきれずに、食卓へと足を踏み入れた。




≪おまけ≫

暁歩(しのぶさんに隠し事は危険だし、これからはもうしないがいいね・・・)
きよ(そうですね・・・)
しのぶ「何か言いましたか?」
暁歩「いえ、何でもないです!」
きよ(計画倒れです・・・)


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第19話:交錯する意思

感想・お気に入り登録・評価、とても嬉しく思います。
ありがとうございます。


 無限列車での事件から四か月。炎柱の死から鬼殺隊も大分立ち直り、炭治郎、善逸、伊之助もそれぞれ任務に復帰し、蝶屋敷にはいつもの日常が戻りつつあった。

 だが、そんなある日。音柱・宇髄天元が蝶屋敷を訪問し、炭治郎たち三人を連れて鬼の調査のために吉原遊郭へと出立した。

 

「二人とも、大丈夫ですか?」

「・・・はい」

「怖かったですぅ・・・」

 

 そして暁歩は、食卓でアオイとなほにお茶を淹れてあげていた。二人の表情には怯えや恐怖の情が混じっており、声音もそれを映しているようだった。

 二人がこんな状態になっているのも、先ほど来た天元は、半ば強引にアオイとなほを任務へ連れて行こうとしたのだ。その時暁歩は薬種を買いに行っていたためその場におらず、後できよとすみから事情を聞いた。

 

「まるで人攫いですね・・・無理やり連れて行こうとするなんて」

「本当ですよぉ・・・」

 

 突然やってきて、アオイを肩に担ぎ、なほを脇に抱えて出ていこうとする様は本当に人攫いのようだったと言う。危険な鬼の調査の任務に連れて行かれるなんて、事情を抱えたアオイや、隊員ではないなほも怖い思いをしただろう。結果的に炭治郎たちが代わりを申し出たことで事なきを得たが、そうでなかったらどうなっていただろうか。

 

「・・・カナヲが引き留めてくれなかったら、本当に間に合わなかったかもしれません」

「カナヲさんが?」

「はい・・・手を握って引き留めてくれたんですよ」

 

 アオイとなほの言葉に、暁歩は少し驚く。

 ここ最近で変化を見せていたカナヲが、仮にも柱である天元の意に反しようとするとは驚きだ。これまでは暁歩とのやり取りやその表情に少し変化が見られただけだったが、そこまで大胆な行動に出るとは、やはりその変化は明白だ。

 

「炭治郎さんたちには、後でお礼を言わないといけませんよね・・・危険な任務に代わりに出てくれたんですから・・・」

 

 アオイは、自分が恐怖心から鬼と戦えず、自分に代わって炭治郎たちを危険な戦地へ赴かせてしまったことを深く悔いているらしい。それは、同じような理由で戦場へ出られない暁歩だって思うことだ。

 だからこそ、ここで彼らの無事を祈り、傷ついた身体を治すのは自分たちの使命だと思っている。彼らが戻ってきた時、また怪我をしていたら、自分たちが治療しなければと考えて、この屋敷で責務を全うするのだ。

 

「それにひどいんですよ、音柱様!アオイさんのお尻叩いたんですよ!」

「それは確かにひどい」

 

 なほが怒り心頭といった様子で訴えると、暁歩も全くその通りだと頷く。するとアオイは、少し顔を赤らめて俯いてしまう。

 だが、彼らが帰ってきた時はちゃんと治療できるように準備を整えようと、三人で頷いた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 吉原遊郭への潜入調査は、思った以上に長期間となり、一週間かかっても帰ってこなかった。日を跨ぐたびにアオイは不安が募っているようで、妙にそわそわしている様子がある。

 そして暁歩の中にも心配は渦巻いていた。日数が経てば経つほど、任務は難しく、戦いもまた過酷なものになる。そうなれば大怪我を負って帰ってくる可能性も高くなる。

 また、聞いた話によれば、その吉原に潜んでいる鬼は十二鬼月の可能性が高いという。それを聞いて思い出すのは、那田蜘蛛山や無限列車でのこと、そして暁歩が戦った下弦の肆。もし本当に十二鬼月ならば、無事で帰って来る可能性は限りなく低くなる。暁歩自身も怪我をしたからこそ、戦いの過酷さは分かっていた。

 その不安を抱きつつ過ごすある日の朝。

 

「伝令!伝令!」

 

 庭で全集中・常中の修業をしていた暁歩の下に、一羽の鎹鴉が飛んできた。一度修業を止めると、鎹鴉は暁歩を見上げて伝令を告げる。

 

「吉原遊郭デノ被害甚大!宇髄天元、竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助重症!」

 

 聞いた途端、暁歩は駆け出して、当直を務めていたきよたちの下へと向かう。

 

「炭治郎くんたちが帰って来る。でも重症らしい、すぐに受け入れる準備をしよう!」

『はい!』

 

 何事もなかった蝶屋敷に、一気に緊張が走る。すぐにきよたちと一緒に治療器具や寝具、治療服の準備に取り掛かる。重症と聞いていたので、使う機会があまりない輸血や点滴のための器具も用意し、集中治療を行うために特別室の準備も進める。

 そして陽が昇って少し時間が経ってから、怪我を負った炭治郎たちを隠が運んできた。

 

「これは・・・」

「・・・ひどいですね」

 

 その運び込まれた炭治郎たちの状態に、暁歩たちは思わずと声を洩らした。

 炭治郎、善逸、伊之助は意識がなく、骨折や刺し傷が目立ち、一目見ただけで重体と分かる様だ。蝶屋敷の皆はその容体を見て胸を痛めながらも重症な三人を二階の特別室に運ぶように伝える。

 

「あー、いてぇ・・・めっちゃイライラする!」

「天元様、落ち着いて・・・」

 

 その後で宇髄もやって来たが、左目に傷を負い、左腕が切断されていて傷だらけでも、意識がはっきりとしていてあまり苦しそうにもしていない。隠とは違う女性に支えられているが自力で歩けており、それでも特別室で治療を受けるように促す。

 

「手分けして診ましょう」

『はい!』

 

 しのぶが指揮を執り、蝶屋敷の全員で命をつなぎ留め救おうと奮闘する。

 暁歩は炭治郎、しのぶは伊之助、アオイときよたちが善逸と天元を診ることになった。

 

(少し急がないと、マズい・・・)

 

 暁歩も炭治郎の身体を診ながら、予断を許さない状況であると判断し、隠の人たちにも力を借りる。と言っても、身体を支えたり薬や包帯を持ってきてもらったりするぐらいで、特別な技術は必要としない。

 

「・・・何か、手伝える・・・?」

 

 そんな中で暁歩に問いかけてきたのは、カナヲだった。

 そんな言葉を聞いたのは、暁歩も初めてだった。これまでカナヲは、怪我人を気遣うこともそうだし、病室に入って看病さえしてこなかった。だから、自分からここまでやってきて手伝いを買って出るのが意外過ぎる。

 そして、そのカナヲの表情は不安と恐怖で塗りたくられていた。

 しかし今、そのカナヲの明らかな変貌に驚く余裕はない。

 

「清潔な水と手拭いを持ってきてください」

 

 言うと、カナヲはすぐさま部屋を出て、長い時間を置かず部屋に戻ってくる。

 その後の指示をカナヲは待っているようで、今度は綺麗な水に浸した手拭いをよく絞り、腕や足の傷の周りに着いた血を拭くように伝える。

 やはり普段と違うカナヲの行動に暁歩は内心で感心するが、喫緊の問題は炭治郎の治療をし、命を救うこと。

 運ばれてきた皆は、戦えない暁歩たちに代わって鬼と戦い、こうして傷を負った。もし自分たちが戦場に赴いていたら、同じような怪我をしていただろうし、最悪の場合死んでいたかもしれない。

 だからこそ、何としてでも、彼らの傷を治して命を救わなければならない。

 

(死なせない、絶対・・・)

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 どうにか瀬戸際の状態から抜けたのは、陽もとっぷりと暮れてしまった頃だ。

 

「暁歩さん、炭治郎くんの方は如何ですか?」

「傷の手当は終わって、輸血と点滴もしてあるので一先ずは問題ありませんが・・・油断はできません」

「善逸さんはまだ傷が軽い方でした・・・と言っても、骨折と創傷がひどいですが・・・」

 

 きよたちが握ってくれたおにぎりを囲んで、暁歩、しのぶ、アオイの三人でそれぞれの受け持った隊士の状態を共有する。しのぶによれば、伊之助も胸に大きな刺し傷を負っており、さらに薬も効きにくい体質のため、あれほどの傷を治すのは困難だとしのぶは言う。だが、隠の手も借りて、どうにか一命を取り留めたとのことだ。

 

「宇髄さんは・・・」

「左目と左腕の傷が目立ちましたが・・・驚いたことにピンピンしています。一応ここで静養するように言ってありますが・・・」

 

 アオイが驚愕冷めやらぬと言った様子で報告する。

 比較的軽い傷だった善逸と併せて診た天元は、左目の失明、左腕の切断と一番の重症だったにもかかわらず、アオイの言う通り元気だった。暁歩も様子を見に行ったが、逆に引くほどに元気だったのは覚えている。

 

「それでも、ここ数週間は気が引けません」

「「はい」」

 

 しのぶが笑みを消して告げると、暁歩とアオイは頷く。

 これだけの重症患者が一気に来たのは、暁歩も初めてだ。那田蜘蛛山の時よりもひどいその様に暁歩も顔が曇るが、予断を許さない状況に変わりはない。そして、生きて帰ってきた彼らを死なせるつもりも毛頭なかった。

 命を救う立場にある蝶屋敷の人間は、気を緩めてはならない。

 全員が顔を見合わせて頷いた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 厳戒態勢でいる蝶屋敷だが、その中で最も大きな変化を見せたのはやはりカナヲだ。

 

「・・・・・・」

 

 明かりが消えた炭治郎の病室で、寝台の傍に置いた椅子にカナヲは座っている。そして、目を覚まさない炭治郎のことを案じるように眺めていた。普段のような無機質な瞳とは違い、本当に『心配』という感情が宿っている瞳を向けている。

 

「炭治郎くん、目を覚ましましたか?」

 

 炭治郎の様子を見に来た暁歩が話しかけるが、カナヲは首を横に振る。

 暁歩も最初に治療をして、恐らく一日やそこらで目覚めるような怪我ではないと思っていたから、カナヲの否定の答えも想定内だった。自分の問いかけ自体に返事をしてくれたことは少し驚きだが。

 

「炭治郎くんが心配ですか?」

「・・・・・・うん」

 

 訊くと、カナヲは控えめに頷いた。炭治郎は今もなお、眠りに就いたままだ。

 その返事に、暁歩は小さく笑う。

 

「彼が起きた時、その言葉をかけてあげてください。きっと喜びますから」

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 その翌日の朝。

 

「善逸さんが起きました~!」

 

 すみが嬉しそうに報告したのを聞いて、暁歩たちは急いで二階へと上がる。

 善逸の病室へ入ると、善逸は寝台の上で泣きじゃくっていた。

 

「善逸くん、大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないよ!起きたら何か脚が折れてたし、体中傷だらけだしであと一歩で死ぬところだったよ!」

「それだけ騒げれば大丈夫そうですね・・・」

 

 もはや恒例とばかりに泣き言を言う善逸に、暁歩たちは安堵の表情になる。

 改めて診察をしたところ、脚の骨折に気を付けなければならない点を除けば、他は軽微な創傷でそこまで問題ではない。なので、骨折が治るまでは安静となった。

 

「・・・善逸さん」

「?」

 

 そこで、薬を渡したアオイが善逸に話しかける。

 

「宇髄様に連れて行かれそうになった時・・・助けてくれてありがとうございます」

「・・・へ」

「私の代わりに任務に出て、傷ついて帰ってきて・・・心配でした」

 

 いつになくしおらしいアオイに、その場にいた全員が驚く。特に善逸は、アオイからガミガミ叱られることが多かったから、こんな風に静かに、面と向かってお礼を言われることが初めてだ。

 天元にアオイが連れられそうになった時、最初に止めに入ったのは炭治郎だった。だが、善逸はアオイを解放するよう天元に言っていて、その時は恐怖のあまり身体が思いっきり震えていたが、その言葉がアオイは嬉しくもあったのだ。

 

「・・・お礼なんていいよ。最初に止めに入ったのは炭治郎だし」

 

 善逸は少し恥ずかしかったのか、そう言って視線を逸らす。

 そんな善逸の顔がにやけているのに暁歩は気付いていた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 一週間が経っても、炭治郎と伊之助は目が覚めない。

 未だ緊張が蝶屋敷に漂っており、そんな彼らを決して見捨てずに暁歩たちは治療を続ける。包帯の交換や触診、点滴での薬品投与など一時も気は緩められない。

 そんな折、蝶屋敷をある人物が訪ねて来た。

 

「失礼します」

「はい?」

 

 訪れたのは四人。

 一番前に立っているのは、薄い桜色の着物を着た白い髪の女性。年齢は見る限り暁歩よりも上だが、綺麗な人だった。

 

産屋敷(うぶやしき)あまねと申します。隊士の方々のお見舞いに伺いました」

「どうも・・・ありがとうございます」

 

 恭しく礼をするあまねと名乗った女性に、暁歩もお辞儀をする。

 その後ろには、最終選別の時に見たような、おかっぱ頭で白い髪の着物を着た少女が二人。その二人に手を引かれるように、男性が立っていた。顔の大半に爛れているように変色しており、目は見えていないのか真っ白だ。

 そんな四人からは、どこか不思議な雰囲気がする。ふわふわしているというか、掴みどころがないというか、儚い感じがしてきた。

 そんなことを思っていると、不意に後ろから襟首を掴まれて跪かされる。

 

「!?」

「ご多忙の中お見舞いに来て下さり恐縮です。お館様も、お身体の方は如何でしょうか」

「ありがとう、しのぶ。身体の方は心配しなくて大丈夫だよ」

 

 暁歩を組み伏せたのは、驚いたことにしのぶだった。

 そして、普段のような話し方とはまた違うしのぶの口調で、全てを察した。

 この男性こそが、話には何度も聞いていた鬼殺隊の当主・産屋敷輝哉。お館様と慕われている人で、暁歩も初めて目にした。

 

「吉原での戦い、天元たちは深手を負ったと聞いているけど、彼らの具合はどうかな?」

「宇髄さんは大きく怪我をし、現在も病床におりますが命に別状はありません。我妻善逸くんは目を覚ましましたが、脚の骨折のため静養しています。竈門炭治郎くん、嘴平伊之助くんは未だ目を覚ましておりません」

「そうか・・・では、少し彼らの様子を診てもいいかな?」

「はい」

 

 しのぶは手を放して暁歩を解放し、しのぶは輝哉たちを案内するために二階へと上がる。暁歩もまた、炭治郎たちの包帯を交換するために、同じく二階の彼らの部屋へと向かった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 輝哉は、炭治郎の病室へと赴いた。

 そこで見舞いのために座っていたカナヲは、一度離席して部屋を出る。そして、カナヲが座っていた椅子に輝哉は座り、未だ目を覚まさない炭治郎に慈しむような表情を向ける。暁歩としのぶは、少し離れたところからその様子を窺うことにした。

 

「百数年ぶりに上弦の鬼を斃した・・・この事実に、私はとても打ち震えているよ」

 

 吉原遊郭に潜んでいたのは、十二鬼月の上弦の陸。上弦の中では一番位が下だが、それでもその力はすさまじく、輝哉の言う通りで百余年もの間上弦の鬼は斃せなかった。

 

「これは、長きにわたる鬼殺隊の歴史が大きく動いた証だ。そして、鬼舞辻無惨を斃す大きな足掛かりになると私は信じている」

 

 輝哉が語り掛ける炭治郎は、目を覚まさない。

 以前暁歩は、炭治郎が『鬼舞辻無惨を斃す』と宣言していたのを覚えている。もしかしたら、それが叶う日も近いのではないかと、上弦の陸を斃した事実は信じさせてくれる。

 

「けれど、その代償はとても大きい。戦い抜いた皆はとても深い傷を負った。柱である天元も、柱を退くまでになってしまうほどに・・・。それに、吉原の人たちも、大勢巻き込まれている」

 

 『吉原遊郭、一夜にして倒壊』なんて新聞記事を暁歩は思い出す。僅か一晩の間に、地面に大きな穴が開いたり、人気の花魁が消息を絶ったり、女郎屋が何棟も倒壊したと書いてあったが、それこそ炭治郎たちの戦いの結果だ。隠でも隠蔽しきれなかったことは、鬼云々を抜いてもすぐに知れ渡ってしまう。

 

「炭治郎・・・鬼との戦いの流れを大きく変えた君も、大きな怪我をしてしまった」

 

 輝哉は、双子の姉妹に導かれて、包帯が巻かれた炭治郎の手を、そっと包み込むように優しく握る。

 

「・・・だが、炭治郎は上弦の鬼を斃し、人々の生活を平和へと近づけた。それは変わらない事実だ」

 

 輝哉は、安心感を与えるようなゆったりとした笑みを浮かべる。

 

「ありがとう、炭治郎。今は、ゆっくりとお休み」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「お館様は・・・ああして傷ついた隊士の見舞いにいらっしゃることがあるんです」

 

 輝哉たちが帰った後、暁歩はしのぶから話を聞いていた。

 

「たとえ意識がなくても、お館様は言葉をかけてくださる。亡くなった隊士のことも一人一人忘れずに、覚えて・・・。鬼殺隊の皆さんのことを、本当の子供のように見てくださるんですよ」

 

 しのぶは柱として、輝哉に謁見する機会が多い。だからこそ、しのぶの方が輝哉がどんな人となりをしているのかを理解している。

 

「なので、もし次お会いする際は粗相のないようにしてくださいね」

「・・・分かりました」

 

 輝哉たちが来た時、しのぶが暁歩の襟首を掴んで床に組み伏せたのは、尊敬する輝哉を前にしての態度ではなかったからだ。

 輝哉は、その体質ゆえに戦えないからこそ、その献身的な言葉と姿勢で隊員たちを救っている。それを暁歩は、理解した。

 そしてしのぶも、最初に輝哉と向かい合った時に言葉を掛けてもらったのを思い出す。

 

 ―――しのぶは強い子だね

 

 柱になった時、輝哉に謁見する時間が設けられる。

 しのぶが柱になるための条件を突破したことは知っているだろうが、輝哉のその言葉はただ実力に対するだけの『強い』ではないと、しのぶは気付いていた。

 

 ―――家族を喪っても、君の心は折れることなく、鬼狩りに徹している。曲がることのない信念を宿して、鬼殺の剣士として強くあり続けている。その折れない心こそが、君の強さだ

 

 亡くなった隊士の来歴を記憶している輝哉。しのぶの姉であり、元柱でもあるカナエのことを輝哉は当然覚えている。だから、そのカナエの妹であるしのぶの境遇も、輝哉は理解していた。

 

 ―――しのぶ。今まで、よく頑張ったね

 ―――これからもどうか、その強い心を失くさないように、柱として頑張ってほしい

 

 家族を喪ったことに対する悲しみを胸に秘め、()()自分を支えてくれる人がいなかったから、その心に深く伝わってくる言葉に目頭が熱くなったのを、しのぶは覚えている。

 だからこそ、しのぶは輝哉のことを尊敬しているのだ。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 そして、炭治郎と伊之助が目覚めないまま一か月が過ぎる。

 

「炭治郎・・・まだ目を覚まさないのか・・・」

 

 杖をつく善逸が、寝台に眠る炭治郎を見下ろしながら不安げな声を洩らす。

 善逸が負っていた脚の骨折も、今では大分快方に向かっており、全快まで順調に近づいてきている。

 そんな彼もまた、炭治郎の見舞いに来ることが多かった。彼にとって炭治郎とは、ただの同期というだけでなく、まさに親友のような存在であり、彼が精神的に成長するに至った大きな存在でもあるらしい。彼らの仲の良さは、しのぶも度々『良い同期に恵まれている』と評するほどだ。

 

「・・・まだ起きねぇのか」

 

 そして、元忍で身体も丈夫な天元もまた、炭治郎の様子を診に来ることがあった。化粧を落とし、髪を下ろしているその姿は暁歩から見ても普通に伊達男だと思う。

 

「俺は、色々と判断を間違えた」

 

 炭治郎を見下ろしながら、天元は呟く。

 

「嫁が捕まったからって、焦って行動を急ぎ過ぎた。鬼殺隊だから派手に命を懸けるのは当たり前だと思ったが、それは部下を危険に晒していい理由にはならねぇ」

 

 吉原遊郭で具体的に何が起きたのかを、暁歩は知らない。だが、善逸の表情の暗さ、そして炭治郎と伊之助の怪我を診れば、激しい戦いだったのは想像に難くない。危ない任務だったのは確かなようだ。

 

「だから、炭治郎と伊之助がこんな目に遭っちまったのは俺のせいでもある。仮にも柱が・・・今は元だが、こんなことになって地味に情けねぇ」

 

 天元なりの謝罪の言葉に、暁歩と善逸は何も言わない。

 そして炭治郎もまた、目が覚めずに眠ったままだ。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 炭治郎たちが眠り続ける間にも、他の鬼殺隊士は戦い続けており、負傷者もまた運び込まれる。まだ炭治郎たちが目覚めないことは不安だが、それでも怪我人の治療を優先して、暁歩やアオイたちは屋敷を走り回る。

 

「あー、すみません」

 

 そしてひと段落すると、怪我をした隊士を運んできた隠の後藤が暁歩に話しかけてくる。その手には紙袋があった。

 

「これ、カステラです。炭治郎に差し入れで」

「あ、これはどうも・・・。でも、炭治郎くんはまだ起きなくて・・・」

 

 暁歩がやんわりと気持ちだけ受け取ろうとするが、後藤は少し頬を掻いてから天井を見る。

 

「あいつ鼻が利くって言ってたんで。もしかしたら匂いで起きるかもしれませんし、良ければ置いといてもらえませんか?傷むようなら食べちゃっていいんで」

「・・・分かりました」

 

 炭治郎は、嗅覚が非常に優れている。以前話を聞いていたし、それは感情を読み取れるほどだ。だから後藤の言う通りで、もしかしたら傍に置いてあるカステラの匂いに釣られて目を覚ますかもしれない。

 暁歩は微笑んで食卓から皿を持ちだして、後藤を炭治郎のいる病室へ案内する。

 そこには、任務で屋敷にいない時以外は毎日のように様子を診ているカナヲの姿があった。後藤は『どうもです』と挨拶をして、カステラが載った皿を寝台の傍の机に置く。

 もう一か月以上も目を覚まさない炭治郎を見て、後藤も少し心配そうだった。が、彼は彼でまた別の任務があるため、すぐに屋敷を後にする。

 

「・・・カナヲちゃんってあんな風だったっけ」

「それが、ここ最近で変わったようで」

 

 屋敷を出る前に、後藤は暁歩と少し話をする。後藤もカナヲのことは以前から知っていたが、ああして怪我人を看病することなど見たことがなかったから、余計驚きだった。ただ、暁歩も詳細は知らないので曖昧に答えるしかない。

 

「まあ、あの子ももうちょっと口数増えれば普通の女の子らしいんだけどな・・・顔はいいし」

「それは言えてます」

 

 そんな軽口に暁歩と笑い合って、後藤は屋敷を出た。

 すると、後ろからドタドタと騒がしい足音が近づいてきて、誰だ一体と暁歩が振り返る寸前に。

 

「猪突猛進!!」

「ぐえっ!?」

 

 聞き覚えのある声と共に、背中に伝わる衝撃。思わず前につんのめって石畳に仰向けに倒れ、顔を擦ってしまう。

 

「い、伊之助くん?」

「おうよ!伊之助様のお目覚めだぜェ!」

「ちょっと何やってるんですか!」

 

 起き上がりながら振り返ると、仁王立ちして高笑いをする伊之助がいた。

 一か月以上も起きなかったのに急に目覚めたのか、と暁歩が驚くのをよそにアオイが駆け付ける。

 

「病み上がりなんですからむやみに動かないでください!」

「うるっせぇ!それより紋逸と炭五郎はどうなった!」

「誰ですかその二人は!」

 

 玄関先でやいのやいのと騒ぐ伊之助とアオイ。とりあえず起き上がった暁歩は、まだ完治していないので動きにあまりキレがない伊之助を病室へと連れ戻し、さらに彼の治療に当たったしのぶを呼ぶ。

 

「傷口はあらかた塞がっていますが、それでもすぐに動こうとしてはいけませんよ?」

「・・・オウ」

 

 しのぶが言うと、血気盛んな伊之助も静かになる。どうやら、しのぶの微笑みの裏に『勝手にうろちょろ動き回りやがって』という怒りがあるのに気付いたらしい。

 

「それに、伊之助くんは毒のせいで止血も遅かったうえ、薬が効きにくいんですから。もう少し気を付けてくださいね」

 

 伊之助の身体の構造は、しのぶでも分からないらしい。何せ、薬が効きにくいのもそうだが、胴体に刺し傷を負っていたのに臓器がほとんど傷ついていないと言うのだ。一体何をどうしたらそうなるのかが分からない。

 

「俺は猪に育てられたからな!人間様の常識は通じねェのさ!」

 

 伊之助が声高に宣言するが、その場にいた伊之助以外の全員が苦笑するにとどまる。

 だが、しのぶはすぐに衝撃から立ち直って伊之助の怪我を改めて診る。

 

「でも、包帯を勝手に解いたり糸を抜いたりしたら駄目ですよ?」

「・・・」

「指切りげんまん、約束です」

 

 そんな暁歩の疑問をよそに、しのぶは伊之助と指切りを交わす。まるで小さな子供にするように。だが、伊之助は『バカにすんじゃねぇ!』と怒った様子もなく、大人しかった。

 

「・・・で、新逸と炭吉郎はどうなった?」

「善逸くんなら任務に復帰していますよ。炭治郎くんはまだ目覚めてません」

「・・・そうか」

 

 炭治郎が目覚めていないという事実に、伊之助も落ち込んでいる。少しズレたところがあるこの少年も、仲間を気遣う気持ちだけは失っていないらしい。

 そして、伊之助のような落ち着きのない性格の持ち主が静かになるほど、炭治郎という人がどれだけの存在かを改めて認識させられる。輝哉、カナヲや善逸、天元、後藤など多くの人が彼の様子を案じているのだから、多くの人に影響を与えているのも違いない。

 その姿に重なるのは、暁歩は会ったことがない炎柱・煉獄杏寿郎。その死が多くの人に影響を与えていたのが、今の炭治郎と似ているところがある。

 だからこそ、炭治郎を死なせてはならないと言う決意が、より強固なものへとなった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 伊之助が目覚めてから一週間。

 

「ひゃぁっ!?」

 

 郵便受けを開けたなほが悲鳴を上げた。それを聞いた暁歩が駆け付けると、手紙を持ってなほが小さく震えている。

 

「どうしたの?」

「これ・・・」

 

 なほが見せたのは、『竈門炭治郎へ』と書き殴ってある封筒。それだけで何か恐ろしい感じがしたが、その中にあったという便箋をなほが見せると。

 

『お前にやる刀はない』

『ゆるさないゆるさない呪うゆるせないゆるさないゆるさない』

『憎い憎いにくい憎い』

 

 脅迫状そのものだった。

 

「・・・鋼鐡塚さんからかな」

「はい、多分・・・」

 

 炭治郎の担当刀鍛冶・鋼鐡塚。曲者揃いの刀鍛冶の中でもとりわけ奇妙な男で、刀を折ったり失くしたりした炭治郎を、包丁を振り回しながら追っていたのを覚えている。

 

「・・・これ、どうしようか」

「・・・とりあえず、取っておきましょうか・・・」

 

 炭治郎は、二か月たった今も目覚めない。内容が脅迫状であれ、他人宛の手紙を勝手に捨てるのも気が引けるので、念のために取っておくことになった。

 

「こんちゃーっす」

 

 すると、そこへ後藤がやって来た。手にはカステラが入っていると思しき紙袋がある。どうやら、炭治郎に見舞いの品を持ってきたらしい。

 

「後藤さんもマメですね」

「前線で命張ってるんで尊敬してますし・・・吉原で見つけたのは俺だし」

 

 柱合裁判の場で不躾な行為を働き、巻き添えで怒られそうになったのを根に持っているが、なんだかんだで後藤も炭治郎には縁を抱いているらしい。後藤の考えは暁歩自身も自分に近いなと思っていた。

 そんな後藤のために、前と同じように皿を一枚用意してカステラを載せ、炭治郎の眠る二階の特別室へと向かう。

 だが、その戸は開かれていた。それを見て疑問を抱きながら暁歩と後藤が中に入ると、まず床に割れた花瓶が落ちていて、炭治郎のすぐ傍にはまたカナヲが座っている。

 

(何でもかんでもやりっぱなしにしやがって)

(まあまあ・・・)

 

 視線で後藤が何を言いたげなのか分かった暁歩は、愛想笑いを浮かべて宥めつつも散らばった破片を軽く片付ける。それが終わってから、暁歩は炭治郎の様子を診た。

 

「炭治郎くん、目が覚めましたか?」

「・・・はい・・・さっき・・・」

 

 暁歩がカナヲに訊くと、か細い炭治郎の声が返ってくる。

 その横から後藤が話しかけてきた。

 

「カステラ置いとくんで。暫くしたら下げてください。傷みそうだったら食べちゃっていいんで」

「あ・・・ありがとう・・・・・・ございます・・・・・・」

 

 そこで、暁歩と後藤は傍と気付き、顔を見合わせる。

 

 今、声を発したのは炭治郎ではなかったか?

 

 今一度、二人は炭治郎のことを見る。

 その炭治郎の目は、少し細いが、確かに暁歩と後藤のことを見据えている。

 起きている。

 

「「意識戻ってんじゃねーか!!?」」

 

 わずかに遅れて、暁歩と後藤が声を揃えて叫ぶ。唐突なことにカナヲはびくっと震えた。二人の驚きがどれほどのものかと言えば、暁歩が思わず素の口調でツッコミを入れて、後藤が持っていたカステラを落としてしまうほどだ。

 

「炭治郎くん、いつ目覚めたんですか!?」

「さっき・・・です・・・」

「オメーは本っ当にボーッとしてんな!人を呼べっつーの!!意識戻りましたってよこの馬鹿野郎が!!」

「ご・・・ごめんなさい・・・」

 

 暁歩は慌てて炭治郎の診察に入り、後藤は階級が違うのも忘れてカナヲに怒鳴った後、腹式呼吸でアオイたちを呼びだす。

 その呼びかけにすぐに応じ駆けつけたのはきよ、すみ、なほの三人だ。

 

「よかったですぅ・・・」

「心配でしたぁ・・・」

「お菓子あげますよぉ・・・」

 

 慕っていた炭治郎が長いこと眠っていたものだから、安堵のあまり三人とも泣いて炭治郎の下へ縋りつき、キャラメルやあんぱんを炭治郎に渡す。そんな彼女たちに、炭治郎は『心配かけてごめんね・・・』と弱弱しくも声をかける。

 さらに、ドタドタと騒がしい足音と共に部屋に入ってきたのは。

 

「キャーッ!お化け――――ッ!!」

 

 人間の腕のように出っ張りがある白い塊。

 それを見た瞬間きよが悲鳴を上げたが、その正体は干そうとした布団を頭から被ったアオイだった。

 

「良かった・・・意識が戻って良かった・・・!あたしの代わりに行ってくれたから・・・ウオォォォォィ・・・」

 

 そして驚いたことに、アオイが皆の中で一番派手に泣いている。普段真面目な彼女らしくないほどのボロ泣きに、暁歩たちもどれだけ彼女が心配していたかを知って、安心した。

 

「炭治郎くん、二か月も起きなかったんですよ」

「はい・・・・・・カナヲが、教えてくれて・・・」

 

 暁歩が教えると、炭治郎がカナヲの方を見る。すると、妙に照れ臭そうにカナヲは視線を逸らした。

 それを見て暁歩は、『ん?』と頭に引っかかりを覚えるが、ひとまず診察を続ける。

 そこへ今度は、伊之助がバタバタと駆けこんでくる。

 

「ふははは!ようやく目覚めたか炭八郎!俺はお前よりも七日早く目が覚めたぜ!」

「そうか・・・伊之助は、すごいな・・・」

「おう!もっと褒めてくれていいぞ!」

 

 元々荒っぽい性格なのもあるが、炭治郎が目覚めたことが嬉しいのか、暁歩が診察を終えたところで寝台の炭治郎の上に飛び乗ってくる。そこで、号泣から立ち直ったアオイが伊之助の腕を掴んで怒った。

 

「下りてください!それにしのぶ様からあまり動き回らないでって言われたでしょう!」

「うるせーな!引っ張んじゃねーよこのチビ!」

「何ですって!大して変わらないじゃないのよ!!」

 

 伊之助が反論すると、アオイもさらに怒って反発し喧嘩が勃発。泣いたり怒ったりアオイも大変だとは思うが、本気の喧嘩と言うよりも、仲が良いからこその喧嘩のように見える。

 それでも、やはり怪我人の上に飛び乗るのは駄目なので、暁歩と後藤も伊之助を下ろそうとする。きよとすみ、なほはこの状況にあわあわと混乱し、状況は混沌としかけるが。

 

「炭治郎寝たから静かにして!」

 

 この状況で、声を大にして諫めたのはカナヲだった。

 初めて聞いたその大声に暁歩はもちろん全員が驚いて動きを止めるが、確かに見ると炭治郎はまた眠っている。実に穏やかな寝顔だった。

 

「あーまたコイツ昏睡した!」

「縁起の悪いこと言うんじゃないわよ!」

 

 そんな炭治郎を見て、まさに縁起でもないことを言う伊之助。アオイも全力でツッコむが、流石にもう掴み合いはしなくなった。

 一先ず炭治郎の無事を確認したので、後藤は安心したのか屋敷を出る。落としたカステラは、皿に拾い集めて寝台脇の机に置いておいた。伊之助は、まだ完治していないのでアオイに連れられて病室へと戻され、カナヲは炭治郎に重湯を作るためにきよと一緒に台所へと向かった。

 最後に暁歩は、伊之助が乱入して乱れた炭治郎の布団を直し、すみとなほを連れて病室を出る。

 

(・・・そういうことか)

 

 だが、部屋を出て、暁歩もようやく腑に落ちた気分だ。

 ここ最近でカナヲは随分変わったと思ったが、炭治郎が運び込まれてからそれは顕著だ。暁歩の治療を手伝おうとし、眠っている炭治郎の看病を続け、先ほどは声を張り上げた。

 ここまで来れば、どういうことかも流石に分かる。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「そうですか・・・ついに目が覚めたんですね」

「はい」

 

 その日の夕方に、帰って来たしのぶに暁歩は状況を伝えると、しのぶも安心したように胸をなでおろした。

 

「今はまた眠っていますけれど、しばらくは様子見ですね」

「起きた際、診察はしたんですよね?状態はどうでしたか?」

「これといった問題は・・・一応、後で目覚めたら本人の口から訊いてみます」

 

 暁歩が診察した結果を伝えると、しのぶは満足げに頷く。暁歩の言う通り、起きてからもしばらくの間は様子見となるが、どうにか一安心だ。

 

「・・・で、しのぶさん」

「はい?」

「カナヲさんが変わった理由、前まで分からなかったんですけど・・・・・・ようやく分かりました」

 

 暁歩が苦笑しながら告げると、しのぶは嬉しそうに『ほう』と相槌を打った。

 

「・・・カナヲさん、炭治郎くんに気があるんですか」

「ご明察」

 

 暁歩が告げると、しのぶは人差し指を立てて頷いた。

 ようやく正解を見つけて、暁歩はほっとした。カナヲに変化が生まれてきたのも、全ては炭治郎に対する特別な想いから、と気付き気がかりなことが晴れた気分だ。そして同時に、自分がしのぶに向けている感情と同じと考えれば、親近感が湧いてくる。

 

「らしくなった・・・と言うのは、()()()女の子らしくなった、って感じですね」

「ええ。とても喜ばしい兆候です」

 

 答え合わせのように暁歩が訊くと、しのぶは笑って頷く。やはりしのぶからしても、ああして歳相応の女の子らしい変化は、本当に嬉しいものだった。

 暁歩もようやく全てに納得し、安心して、しのぶの部屋を後にする。

 すると丁度、重湯の入った器を持つカナヲときよを目にした。

 

「炭治郎くんにですか?」

「はい、さっき起きられましたので持っていこうと」

 

 訊ねるときよが答え、重湯を運ぶカナヲは頬が少し紅い。だが、その真意を知った今となっては微笑ましい限りだ。

 さて、炭治郎が起きたとなれば、先ほどは聞けなかった症状を今一度確認しようと思い、暁歩も炭治郎の下へ向かうことにする。二人きりにさせられないのは申し訳ないが、暁歩も問診をしたらすぐに退散することにした。

 それから家事がひと段落したすみとなほも、炭治郎が心配らしく一緒に病室へと向かう。

 

『いてぇ!!』

 

 そこで聞こえた、伊之助の叫び声。瞬間、ただ事ではないと思った暁歩たちは、伊之助の病室へと向かう。

 二階へ上がると、伊之助の病室の戸が開いていたので、そこから様子を窺う。

 

「勝手に動き回ったら駄目ですって!傷が開いていいんですか!」

「分かったから止めろっての、このチビ!いてぇよ!」

「『分かった』って言っておいて何度も動き回ってますよね!?あとチビって言わない!」

「いってぇ!」

 

 するとそこには、説教しながら全力で伊之助の尻を叩くアオイの姿があった。

 あまりにも大人しくしない伊之助に業を煮やしたのだろうか、その姿は聞き分けの無い子供を叱る母親のようだ。

 伊之助もまだ完全に怪我は治っていないが、アオイももちろん伊之助の状態を把握している。だからこそ、まだあまり動き回るのは良くないし、そして尻叩きをして叱っても問題はないと判断してああしているわけだ。それを暁歩はいち早く理解する。

 

「アオイさん・・・」

「見ちゃいけません」

 

 見世物でもないだろうと思い、暁歩はきよとすみ、なほにその場を見ないようにさせる。カナヲは少しだけその様子が気になっていたようだが、すぐに炭治郎の病室へと向かう。とりあえず伊之助は、アオイに任せておけば問題ないだろう。

 

「伊之助・・・何か、あったんですか・・・?」

「いいえ、何も」

 

 そして、炭治郎は伊之助の声が聞こえたのか少し不安そうだったが、暁歩は顔色一つ変えずに炭治郎に告げる。きよたちも少し表情が引きつっていたが、真相は隠しておいた。

 とにかく炭治郎も、今日最初に起きた時と比べて血色は良くなっている。言葉や表情にも辛そうなところがないため、危険な状態からは脱したと判断していいだろう。

 

「それじゃカナヲさん、後はよろしく」

 

 診察を終え、きよたちも炭治郎と言葉を交わし終えると、暁歩はカナヲにそう告げる。それを聞いたカナヲは一瞬驚いたが、すぐに炭治郎の横に座って重湯を食べさせる。

 

「ありがとう、カナヲ」

 

 炭治郎が笑って告げると、カナヲは顔を紅くしつつも重湯を炭治郎に食べさせる。

 

「さ、俺たちは戻ろう」

「はぁい」

 

 その光景に目を細めつつも、カナヲの気持ちが分かったきよたちを連れて暁歩は病室を後にし、炭治郎とカナヲを二人きりにさせる。

 炭治郎が目覚めたことと、カナヲの本心に気付いたこと。喜ばしいことが続いて、今日は嬉しい日だ。暁歩はその嬉しい気持ちを抱きながら、きよたちを引き連れて一階へと下りる。

 

―――――

 

 ちなみに、アオイから全力の尻叩きを喰らった伊之助は、流石に効いたのか数日の間大人しくなった。




≪おまけ≫

 伊之助の身体構造が普通とは違うということで、蝶屋敷の間ではちょっとした議論になっていた。本人曰く内臓の位置をずらしたり関節を自分で外したりできるらしいが、それは誰にでもできることではない。
 きよたちはそんな伊之助の状態が不思議でならず、暁歩としのぶ、アオイもどうしてだろうかと考えたが、その末にしのぶが。

「ああ、そう言えば」

 自室から動物の図鑑を持ってきた。
 広げるとそこには、『ミツアナグマ』という外国の動物が載っていた。獅子に噛まれても平気なほど皮膚が分厚く、さらに毒が効かないため毒蛇も食べてしまうという。

「伊之助くんはこれと同じなんじゃないですかね?」
「へ~!」
「すごーい!」

 しのぶの言葉と見せた図鑑にきよたちは素直に感心する。
 だが、暁歩とアオイは同時にこう思った。

(投げたな・・・)


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幕間:蝶屋敷の食卓

お気に入り登録や評価、ありがとうございます。
箸休め程度のお話その2です


 蝶屋敷の食事は、基本的に交代で作ることになっている。

 献立はその日料理を作る人に全面的に任されており、食材も贅沢をしなければ困ることはない。

 それぞれが作る料理の傾向は、きよ、すみ、なほの三人は煮物系、アオイは色々な料理を作れる。暁歩もたまに台所に立つこともあるが、その際は実家の経験を生かした薬膳を振る舞っている。

 その中でもしのぶは、一番料理を作るのが上手く、かつ料理の種類も豊富だ。さらに、蜜璃からハイカラな料理を教わることが多いから、食卓に見慣れない洋風の料理が並ぶこともある。

 

「わぁ~、これ何ですか?」

「甘露寺さんから教わった、カレーライスという料理です」

 

 その日の夕食で食卓に上がったのは、白いご飯の盛られた皿に、野菜と少しの肉が混じった茶色いトロっとしたものが一緒に載っている不思議な料理。あまり嗅いだことのない、それでいて美味しそうな香りがする。

 そんな見慣れない『カレーライス』に、きよやすみ、なほは興味を示していた。

 

「もしかして、あの本に載っていた料理ですか?」

「ええ。今日はちょっと時間に余裕があったものですから」

 

 蜜璃から料理の本をもらったことを知っていた暁歩は、すぐに納得する。

 やがてアオイとカナヲも席に着き、『いただきます』と手を合わせて、全員が早速そのカレーライスに匙を伸ばす。

 

「美味しいですぅ・・・」

 

 そして一口食べたきよが、表情を綻ばせた。なほとすみも同様に、カレーライスを口に運ぶと未知の味と触感に顔を輝かせている。

 

「ん・・・美味しいです。確かに」

 

 少し辛いような、それでいてしつこくない。そんな初めての味に暁歩も驚きを隠せず、表情が綻ぶ。その正面に座るアオイもまた、新しく美味しいものに出会えたことに嬉しさを覚えているのか、唇が緩んでいた。

 そんな皆の反応を見て、しのぶは安堵の息を洩らす。

 

「よかった・・・せっかく甘露寺さんから教わったので、上手く作れなかったらどうしようと思いましたから・・・」

 

 言ってしのぶも、カレーを一口食べる。よく味わってから、自分でも美味しいと思ったのか満足そうに頷いていた。

 

「甘露寺さんは、料理が趣味なんでしたっけ」

「ええ。男の人は料理ができる女性を好むらしくて、それで自分で挑戦しているのだとか」

 

 聞いてみた質問に、しのぶは笑みを浮かべたまま答える。

 蜜璃の鬼殺隊入隊理由を知っている暁歩としては、その理由に関しては『蜜璃らしい』と思った。

 

「暁歩さんはどうですか?料理ができる女性というのは」

「はい?」

 

 だが、しのぶから投げかけられた問いには思わず間の抜けた声が洩れてしまった。

 恐らくは、しのぶも特に深い意味を込めて訊いたわけではないのだろう。だが、今の暁歩は、その質問にも何か『深い意図』が隠れているのではないかと邪推してしまう。アオイやきよたちも、ちらちらと気にしているような視線を向けてきているので、余計に焦りが生まれる。

 

「・・・まあ、そうですね。料理が上手な人だと、ありがたいと思います」

 

 悩んだ末に、無難な答えを返しておく。

 暁歩にとって意中の人はしのぶであり、その料理の腕は確かなものだ。けれど、あまりにも直球で『そういう女性がいい』と言うと逆に悟られかねないから、そう言えなかった。

 

「・・・・・・」

 

 だが暁歩は、受け答えに真剣になりすぎたために、珍しくカナヲが興味を示していたことにも気づけなかった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 カナヲが鬼殺隊に入った理由の一つに、アオイたちのように家事や治療ができなかったから、というものがある。患者の治療をするのは難しくて、家事もまた同じ。特に家事の中でも料理は、幼いころからずっと挑戦しようとしてみたが、他の皆の手伝いをするのがせいぜいだった。

 さらに、鬼殺隊に入隊して以降、しのぶからは『とにかく鬼を斬るように』と教え込まれたので、家事や治療に対する興味も一層薄れていた。

 だが、ここ最近になってそんなカナヲの意識も改善されつつある。

 そのきっかけは、炭治郎との出会いだった。

 心を開かないでいたカナヲに、『心の声に正直になろう』『心のままに生きよう』と優しく告げた、お日様のように温かいあの少年。

 そんな彼と出会ってから、カナヲの中には温かくて、純粋で、真っすぐな感情が宿っている。

 

 ―――男の人は料理ができる女性を好むらしくて

 ―――そうですね。料理が上手な人だと、ありがたいと思います

 

 ふと、しのぶと暁歩の会話を思い出す。

 先日の夕食の席での二人の会話に、少しだけカナヲは興味を示していた。

 そして、もしも自分の作った料理を炭治郎が褒めてくれたら、何て想像までしてしまう。

 

 ―――すごく美味しいよ、カナヲ

 

 思い浮かべるだけで、カナヲの胸が温かくなる。

 しのぶには、自分の中での変化を伝えていたが、ころころと微笑むだけで詳しくは教えてくれなかった。

 それはさておき、いずれは炭治郎に作るにしたって、カナヲは料理を自分だけで作ったことがない。それでいていきなり作って渡しても失敗するであろうことは分かる。

 なのでまずは、自分で作って味見してみようと思う。

 しのぶが『カレーライス』なる料理を作っていた時、カナヲはそばで作っているところを見ていたし、その動きも覚えている。それを完璧に真似れば大丈夫なはずだ。伊達に優れた視力を持ってはいない。

 そう考えてカナヲは、早速料理に取り掛かる。

 だがこの時、しのぶにちゃんと聞いて教えを乞うという考えにはまだ至れなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 動きを覚えていれば完璧に作れるほど、料理も簡単ではない。

 そんなわけで、料理には失敗した。

 

「・・・・・・」

 

 焦がしはしなかった。だが、その色合いはしのぶが作っていたそれとは大分異なり、具材も溶けかかっている。さらに料理をしている間、うっかり指を切ってしまうことも多々あって、正直鬼と戦うのより難しいと思ってしまったほどだ。

 

「カナヲさん?」

 

 後ろから声を掛けられて、肩が震える。

 振り返ると、暁歩が食卓に入ってきたところだった。

 

「珍しいですね、カナヲさんが台所に立つなんて」

 

 煎じ薬を作る鍋を洗うために来たのだが、珍しいと言うより初めて見る光景に驚いた。何しろこの蝶屋敷に来て以来、カナヲが台所に立っているのは自分の知っている限りでは見なかったから。

 そうしてカナヲの下へと近づくと、その目の前にあった鍋の中身を見て苦笑する。

 

「あー・・・カレー、でしょうか?」

「・・・分かるの?」

「まあ、匂いが似ている感じがしましたから。色はちょっと違いますけど・・・」

 

 だが、カナヲの表情は浮かない様子。もともと感情表現が豊かというわけでもなかったが、雰囲気は若干沈んでいるようだ。

 そこで察する。どうやらカナヲは、カレーを作ろうとして失敗したらしい。しかし、一度これを見た以上はこのまま引き返すのも、暁歩はどこか忍びない。

 

「よければ、これちょっと食べてみてもいいですか?」

「・・・?」

 

 引けないからこそ、暁歩は少しだけ食べてみようと思った。

 カナヲは疑問、または遠慮の気持ちを示すように見てくるが、暁歩は首を横に振る。

 

「もしかしたら色が違うだけで、美味しいかもしれませんし」

 

 そうして戸棚から匙を取り出して、ルゥを一口分掬う。

 だが、そのとたんに暁歩の中で嫌な予感がチリチリと炙るように主張し始めた。しかしここまで来てしまっては、やめることもできない。おまけにカナヲも、暁歩の反応が気になるのかじっと見てきているので逃げるなど許されない。

 意を決して、暁歩は口を開く。

 

「いただきます」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の夕食の時間。

 食卓に一番最後に姿を見せたしのぶは、そこにいる人を見て首を傾げる。

 

「おや、暁歩さんは?」

 

 自分が来る前には必ずいて手伝いをしていたはずの暁歩が、姿を見せていない。その疑問に答えるように、台所に立っていたアオイが振り向く。

 

「それが暁歩さん、胃の調子が悪いみたいで夕食は要らないとのことでした」

「あら・・・医者の不養生でしょうか?」

「心当たりを伺っても『何でもない』の一点張りで・・・。今は調剤室で胃薬を作っているようです」

「大事に至らなければいいですけど・・・」

 

 突然胃を痛めたという暁歩を案じながら、しのぶは自らの席に座る。きよたちも心配そうだった。

 すると、近くの椅子に座っていたカナヲが委縮しているように座っていることに気付いた。

 

「カナヲ、どうかした?」

「・・・なんでもないです」

 

 そうは言うが、いつもと違うカナヲの様子が少し気になったしのぶ。だが、その意識もアオイがそばに置いた味噌汁の良い香りに持っていかれてしまう。

 そんな中で、調剤室で暁歩が鬼のような形相で胃薬を調合しているのを知っているのは、カナヲだけだった。




本編の方も本日夜に投稿予定ですので、お待ちくださいませ・・・。


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第20話:悶々

 鼻で息を吸って、体内に多くの酸素を取り込むよう意識する。

 そして持っていた瓢箪に、ゆっくりと長く息を吐き出す。瓢箪の中を空気で満たすことを意識しながら、息を吹き続ける。途中で息が切れそうになるが、それも気にせずに今はただ、空気を吐き出し続けることだけに集中した。

 すると、瓢箪から皹が入るような音が聞こえてくる。それも気にせず、息を吹き続ける。

 やがて、『バキッ』という音とともに瓢箪が内側から破裂した。

 

「・・・はぁ、はぁ・・・」

 

 通常の呼吸に戻す。自分の中に溜め込んでいた酸素を全て注ぎ込んだような感覚で、身体が酸素を求めて呼吸が荒くなる。

 

「お疲れ様です」

 

 そこへ声を掛けてきたのはしのぶ。手には水の入った竹筒を持っていて、それを差し出すと暁歩は『どうも・・・』とお礼を告げながら受け取った。

 

「ようやく瓢箪も割れましたね」

 

 暁歩が水を飲む傍ら、しのぶが砕け散った瓢箪の破片を拾い集める。

 全集中・常中の修業を始めてからおよそ半年にして、ようやく瓢箪が割れた。日々の治療の合間を縫って修業をしていたため、かなりの時間がかかってしまったが、どうにかここまでこぎつけたのだ。自分の努力が決して無駄ではなかったのを目の当たりにして、込み上げてくるものがある。

 

「でも、こんな時間もかかりましたし・・・まだ小さい瓢箪しか割れていないので」

 

 だが、それでもまだ足りない。時間がかかったのは事実だし、破裂させたのは両手で持てる大きさの瓢箪だ。炭治郎たちが破裂させた、子供の背丈ほどの瓢箪にはまだ手出しできていない。何より、全集中の呼吸を持続させられる時間もまだ四六時中とはいかなかった。

 

「たとえ時間がかかっていても、暁歩さんは順調に成長できていますから。焦る必要はありません」

 

 しのぶに優しく言われるが、それでもまだ暁歩の中から焦りは消えない。それでも同時に、自分に甘くするわけではないが、焦りすぎて無理をするのも禁物であるとは理解している。以前、炭治郎が怪我をしているのも顧みず鍛錬しようとしていたのを止めた手前、自分だけが焦るわけにもいかなかった。

 

「さあ、そろそろ朝ごはんですよ」

「・・・はい」

 

 拾い集めた破片をしのぶから受け取って、しのぶと共に食卓へと向かう。

 今日もまた、蝶屋敷の仕事はあるのだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 炭治郎が目覚めてから一週間。彼は、新しい刀を受け取るために刀鍛冶の里へと出発した。そこは鬼殺隊の要である日輪刀を作っている里であり、場所は秘匿扱い。そこまで行くには隠と鎹鴉が導くのだと言う。

 彼を見送った後は、暁歩たちもいつも通り蝶屋敷の仕事に戻るが、そんな折に一人の女性が蝶屋敷を訪ねて来た。手には、花束や果物など差し入れらしきものが入った袋を持っている。

 

「すみません、天元様のお見舞いに来たのですが・・・」

 

 黒く長い髪を後ろで一つに束ね、青鈍色の着物を着ているその女性は、今もまだ療養中の音柱・宇髄天元が最初に運び込まれた際も見た記憶があった。

 

「あ、はい。それではご案内しますね」

「恐れ入ります・・・」

 

 玄関先の掃除をしていた暁歩は、一度箒を片付けてから案内する。

 天元の妻である須磨(すま)。運び込まれた際も治療を手伝ってくれたし、吉原でも応急処置をしてくれた人だ。詳しい話は知らないが、天元には妻が三人もいて、須磨もその中の一人だと言う。元忍びだからこその奇妙な家族構成なのかもしれないが、そんなことを聞いたら善逸が嫉妬のあまり憤死しそうだ。忍び云々の話についてはにわかには信じがたいが。

 そんな疑念を抱きながら、暁歩は二階の特別室に須磨を通す。

 

「暁歩です。須磨様がお見舞いにいらっしゃいました」

『おう、通してくれ』

 

 了承の声が聞こえると、暁歩は戸を開けて須磨を中に通す。

 あれから二か月以上経った今、天元の容体も大分安定している。切断された腕や失明した左目は戻らないが、それでも後の治療のために天元は蝶屋敷で療養を続けている。

 

「お身体の具合はいかがですか?」

「ああ、もう派手に回復してる。痛いところなんざどこにもねぇよ」

「良かった・・・」

 

 須磨が訊ねると、天元は気丈に元気そうに振舞っている。妻を安心させるためなのかもしれないが、戦いの後普通に意識を保って歩いていたのを見ると、本当に身体は丈夫なのかもしれない。

 それにしても、天元と須磨の穏やかな談笑を見るに、二人とも仲が良いらしい。夫婦の仲が良いことはとても素晴らしいことだが、天元の豪放磊落と言うか、若干荒っぽい印象からは少し想像がつかなかった。

 

「しっかし、いつまでここにいなきゃならねぇんだ?」

「まあ、しのぶさんも宇髄さんの症状には思うところがあるようですし。それと、傍目に見ても大怪我ですからね?」

 

 天元本人はもう問題ないと言っているが、完治したかどうかを判断するのはしのぶである。しのぶの許可が下りない以上は暁歩もそれに従って、天元の治療に当たる。それに暁歩も分かっているが、その怪我は炭治郎や伊之助以上なのだ。

 

「まあ、そうですね・・・。しのぶさんに掛け合って、介助付きで少し外出できないかどうかも考えます」

「おお、是非ともそうしてくれ」

「では、一旦失礼しますね」

 

 暁歩が頭を下げると、天元は軽く手を振る。

 アオイやなほの話では、無理矢理彼女たちを連れて行こうとした点から、暁歩も天元と接する際は少し気を付けようと思っていた。しかし、実際に話してみると、先ほどのように天元からは気のいい兄貴分のような雰囲気がして、存外話しやすかった。

 それはともかく、天元もそろそろ薬の時間なので、まず最初に暁歩は調剤室に戻って天元の分の薬を用意する。それから見舞いとはいえ客人である須磨のためにお茶も用意しようと思って、食卓へ向かった。

 

「しのぶさん」

 

 だが、食卓ではしのぶが机の上で資料を開いて考え事をしているところだった。普段は食卓で資料を読むことなど無かったものだから、つい声を出してしまう。しのぶは暁歩が入って来たことに気付かなかったようで、声を聞くとすぐに顔を上げた。

 

「ああ、暁歩さん・・・」

「随分考え込んでいたみたいですね・・・何か、問題が?」

「いえ、問題と言うほどでもないのですが・・・」

 

 お湯を沸かしている間、暁歩はしのぶの正面に座って話を聞くことにする。

 

「知っているかと思いますが、吉原の戦いで炭治郎くんたちは瀕死の重傷を受けています。特に、炭治郎くんと宇髄さんは猛毒を喰らったと記録がありました」

「猛毒?ですが・・・」

 

 しのぶが資料を見せてくれるが、暁歩は『毒』と聞いて首を傾げる。炭治郎の身体を実際に診た暁歩は、毒の症状を確認しておらず、血中からも毒素は確認できなかった。天元を診ていたはずのアオイからも、毒については一言も聞いていない。

 

「ええ。この屋敷に運び込まれた時点で、あの二人の毒は解毒されていました」

「じゃあどうやって・・・?」

「炭治郎くん曰く、禰豆子さんの血鬼術で体内の毒素を燃やした、らしいんですよ」

 

 しのぶも実際にその場にいて見たわけではない。その場にいた人から聞いた話でしか分からないが、暁歩の疑問も仕方がないとしのぶは思う。何せ、血鬼術で体内の毒素を燃やすとは、聞いたことがないからだ。

 

「血鬼術の研究は進められていますが、何分鬼ごとに能力に違いがありますので難しい分野です。加えて、禰豆子さんの血鬼術もまた初めて見るものですから」

 

 血鬼術の仕組み自体が謎ではあるが、研究を進めれば鬼との戦いをより有利に進められる。それと、毒という決して捨て置けないものに関するものだからこそ、しのぶは気になっている。だからこそ、天元の治療は続いているのだ。

 

「同じく毒を受けていた炭治郎くんにも話は聞いたんですが・・・」

 

 ―――身体がボワ~ッ!って燃えて、それでぎゅんぎゅんって感じでした!

 

「と、言った感じで」

「炭治郎くんはそういう子でしたね・・・」

 

 顔を見合わせて苦笑する暁歩としのぶ。以前、全集中・常中について善逸と伊之助にやり方を教えていた時も、同じような感じだった。

 そこでお湯が沸き、暁歩は席を立って手際よくお茶を淹れる。

 

「丁度今、宇髄さんの奥方様が来てますから、話が聞けるかもしれませんよ?」

「あら、そうですか?それでは・・・そうですね。宇髄さんの身体を診るついでに聞いてみましょうか」

 

 暁歩が言うと、しのぶも資料を閉じて立ち上がる。そして、暁歩は持ってきていた薬とお茶を一緒にお盆に載せて、しのぶと共に天元の病室へと向かう。

 運び込まれた時はバタバタしていたので、天元を支えてきた須磨たち三人の嫁から話は聞けていない。ただ、実際に天元の毒が禰豆子の血鬼術で燃やされたのを目撃していたので、多かれ少なかれ収穫が期待できる。

 

「そう言えば宇髄さん、退屈しているそうでした・・・」

「まあ、治療を続けている間は仕方ないんですけどね」

「回復の度合いで、介助付きで外出してもいいのではとは思うんですけど・・・しのぶさんはどう思いますか?」

「そうですねぇ・・・宇髄さんは柱であるのと、身体が丈夫ですから。確かに、快方に向かっているようですし、それも良いですね」

 

 片目の失明に、片腕の切断など、普通の隊士であれば後一か月は安静にしていなければならない怪我だ。が、天元は一か月足らずで快復したように元気に振舞い、現在も食事は普通になっている。その回復力ときたら、治療していた暁歩やアオイも驚いたものだ。

 そんなことを思いながら、暁歩としのぶは天元の病室の前に立つ。

 

「宇髄さん、須磨さん、お薬とお茶をお持ちしました」

 

 暁歩が片手にお盆を載せ、戸を叩くが返事がない。

 よく耳を澄ませてみると、中からもぞもぞという音が聞こえてくる。

 

「「?」」

 

 しのぶと暁歩は顔を見合わせるが、何が起きているのか分からず肩を竦める。

 

「失礼します・・・」

 

 一先ず戸を開けて部屋に入るが、二人の動きが止まる。

 天元も須磨も、意識不明ではなく、確かに起きていた。しかしながら、天元は須磨を抱き寄せていて、しかも何か須磨の着物が若干はだけているし、束ねていた髪は乱れている。

 端的に言えば、まぐわおうとしているところだった。

 

「「・・・・・・」」

 

 しのぶはもちろん、暁歩をはじめとした蝶屋敷の面々は、病室へ入る際は暗い表情をしないようにしている。それは怪我人を心配させないためであり、今もまた努めて笑顔を作り部屋に入ったところだ。

 しかし今、夫婦のやり取りを目撃して、暁歩としのぶの笑みは固まっている。持っていたお茶と薬を落とさなかったのは、暁歩自身褒められたものだと思う。

 

「こほん」

 

 一つ、しのぶが咳払いをすると、ようやく天元と須磨も平静を取り戻して身体を離す。ただ、天元は大して焦っていない様子だが、須磨が慌てて着物を直し、恥ずかしそうにしているあたり、仕掛けたのは天元の方かと暁歩としのぶは理解した。

 

「ええと。お二人共、何をなさっていたのでしょう?」

「何って、そりゃあナニだが?」

 

 しのぶが普段通りの調子で問うが、天元はしれっと悪びれもせずに答える。須磨は顔を赤らめて俯いてしまい、彼女の方が見ていて気の毒に思えてきた。

 

「ここは逢引の場ではないのですけれどね?ましてや宇髄さんも、回復してきたとはいえ怪我人なのですから」

「なぁに、地味に心配することは無い。人前でするほどでもないしな」

「今思いっきり続けていましたけど?」

 

 悪気が無いような天元に、須磨も『天元様・・・』と恥ずかしそうにやんわりと注意する。須磨からしても恥ずかしいだろう。

 そして、しのぶの方から地味に怒気が伝わってくるような気がするのは、暁歩の気のせいではないと思う。あまりこのままの空気でいるのも辛いので、暁歩は小さく息を吐きながら天元の下へと向かう。

 

「宇髄さん、お薬です。それと須磨さんにもお茶を」

「おお、すまんな」

「あ、ありがとうございます・・・」

 

 完全に立ち直った天元に対し、須磨はやはり恥ずかしいのかお茶を受け取るとグイっと一呷りする。まあ、夫との夫婦の営みを第三者に見られて恥ずかしい気持ちは分かるので、敢えて何も言わない。

 一方で天元は、薬を一気に飲み干したところでしのぶの方を見る。

 

「で、胡蝶までどうした?」

「ああ、そうでした。宇髄さんが見境もないので忘れるところでしたが、吉原での戦いで少し伺いたいことがございまして」

 

 さらりと毒を吐くしのぶだが、その話は暁歩も気になるところだったので、少し後ろに下がり話を聞くことにする。

 

「宇髄さんは上弦の陸との戦いで猛毒に侵されたと聞いたんですが」

「ああ、アレか。もうヤバイ、死ぬって思うほど派手な毒で、俺が元忍で毒に耐性がなかったら、あっという間にあの世行きだっただろうな」

 

 毒を使う鬼は、那田蜘蛛山で善逸が戦った鬼など多くいるが、やはり上弦級となると毒の効力も非常に強いものらしい。柱の中でも特に打たれ強い天元がそこまで言うほどだから、それは予断を許さないほどのものなのだろう。

 そして、やはり天元も鬼殺隊で元柱だから、鬼に関する話をする時は真面目な雰囲気になる。先ほどの情事のことを除けば、本当に良い兄貴分みたいな性格のいい人なのにな、と暁歩は思う。

 

「禰豆子さんの血鬼術で、体内の毒を燃やされて回復したそうですが、その時はどういった感じでしたか?」

「あれはすごかったな。俺の中の血だの肉だの細胞だのが、隅から隅まで派手に燃え上がるような感じだった。毒のせいで意識が朦朧としてたが、おかげで完全覚醒したしな。どういう理屈なのかは俺にもわからんが」

 

 なんだか上手く説明できているような、できていないような。炭治郎ほどではないが、いまいち要領を得ていないような気がする。しのぶも苦笑しており、暁歩は傍らにいる須磨に訊ねることにした。

 

「須磨さんもそこにいたんですよね?見た感じではどうでした?」

「えと・・・見た感じ、と言われても・・・。本当に天元様が燃えていたとしか・・・」

 

 ようやく恥ずかしさから脱した須磨の言葉に、暁歩としのぶは少し考える。

 禰豆子の血鬼術が発動する直前まで、天元は毒で意識が朦朧としている状態で、舌も上手く回らないほどだったらしい。まさに、死の間際の状態だったというのだ。その状態から一気に回復させたとなれば、毒で低下した機能もすぐに回復させたということになる。

 

「あ、毒だけじゃねぇな。俺の傷口も止血された」

「止血・・・焼いたってことですか?」

「おう。傷口を焼いて、止血するってわけだ。しかも、ちっとも痛くなかったんだよな。マジで、派手な力だったぜあれは」

 

 傷口を焼いた、と言う話は伊之助や炭治郎も同じらしい。特に致命傷を負った伊之助は、禰豆子が天元の言った通り傷口を焼いて塞いだことで、一命を取り留めた。それを聞くと、輪をかけてあの血鬼術は応用の幅が広いと思わせられる。

 話を聞いたしのぶは、少し考えてから頷き天元に顔を向ける。

 

「・・・血鬼術の解明が鬼との戦いをより有利に進めると思いましたので、話を聞かせてもらいました。ありがとうございます」

「おう、そういうことならもっと訊いてくれ」

 

 しのぶがお礼を伝えると、天元は快活に笑う。

 続けて、暁歩が天元の身体を診る。やはり、左目と左腕に多少の不安があるが、それ以外の機能に関しては問題がない。

 

「宇髄さんも、機能回復も兼ねて介助付きで外出をしてみましょうか」

「お、いいのか?」

「ええ。流石にこの長い期間寝たきりだと身体が鈍ってしまいますし。暁歩さんから、宇髄さんも外に出たそうにしていた、と聞いていますので」

 

 しのぶに名前を呼ばれて、暁歩も少しだけ笑みを浮かべる。

 だが、しのぶが『それに』と付け加えて。

 

「あまり退屈させると、ウチの他の子も先ほどのような場面に遭遇しかねませんし」

 

 にこりと笑って告げると、須磨が再び俯いてしまう。大分根に持っているなぁ、と暁歩は苦笑した。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 天元たちから話を聞いた後、暁歩としのぶは調剤室に入る。

 暁歩は、天元用の薬が変わるのでその調合をし、しのぶは部屋にある資料を見返していた。

 

「収穫は・・・しのぶさん的にはありましたか?さっきの話で」

「そうですね・・・。血鬼術の点からしても、禰豆子さんは他の鬼とは違うということが分かりました」

 

 乳鉢で薬を混ぜる暁歩の後ろで、しのぶが資料を開きながら話す。暁歩は薬を混ぜる手を止めずにそれを聞いた。

 

「血鬼術には多くあり、物理的な攻撃をしたり、異空間を生み出したりと分類は多岐に渡ります」

 

 暁歩が思い出すのは、最初に遭遇した土の中を自在に移動する鬼や、力を吸い取る蔓を自在に操る下弦の肆だ。藤襲山にいたのはほとんど雑魚鬼か、あの異形の鬼だから、血鬼術とはまた少し違う類だろう。

 

「禰豆子さんの血鬼術自体は、血液を燃やすというそれだけ見れば単純な技です。ですが今回、血が付着した対象の内部にまで作用し、毒のみを燃やすという特異な能力を見せました」

 

 資料を閉じて、棚に仕舞うとまた別の資料を取り出して開く。

 

「桐蔓山の下弦の肆とはまた違って、能力の幅が広いと言うよりも、能力に制限がないんですよね」

 

 下弦の肆は、蔓を使って捕縛と力の吸収、さらには棘を生やして攻撃、防御までこなせる多様性があった。だが、禰豆子の血鬼術はそういう意味での多様性ではない。身体の内外問わず自分の燃やしたいものだけを燃やせるというのは、確かに制限が無いと言える。

 

「まあ・・・やはり、ここまで自在な能力は過去にもありませんでしたね・・・」

「そうですか・・・」

「ですが、こうした能力を持つ鬼が今後現れるかもしれない、ということだけは留意しておきましょう」

 

 資料を閉じる音が背後から聞こえる。語調からして、きっと笑みを浮かべているのだろう。

 そんな言葉を聞きながら、暁歩は『分かりました』と答えつつ、薬種を混ぜる手を止めない。

 しのぶの話を聞いている間も、返事をしている時も、暁歩はしのぶの方を向かずに薬種を混ぜることに集中している。

 

(・・・・・・落ち着けるわけないだろぉぉ・・・)

 

 そんな暁歩の心の中は穏やかではなかった。

 それは、先ほど天元と須磨が秘め事に興じていたのを見てしまったことにある。それを自分だけが目撃していたら、あの場でそそくさと部屋を出て『仲が良くて何よりだ』と処理する程度で済んだだろうが、問題なのはあれをしのぶと一緒になって目にしてしまったことだ。

 

「・・・・・・」

 

 あの時、しのぶには動揺した様子が全くなかった。暁歩も感情を面に出すまいと表情を作っていたが、今は心で叫びまくっている。

 それから意識を外すようにこうして薬を調合することに意識を注いでいるが、この調剤室でしのぶと二人きりという状況がそれを邪魔してくる。あれをしのぶと見たことで、良くない妄想が頭に浮かんでしまい、それを消し去るように薬種を潰す手に力を籠める。

 

「おや、暁歩さん?」

 

 そこで声を掛けられて、気付けばしのぶがすぐ傍にいた。余計なことを意識しないようにしていたのに、しのぶから漂ってくる妙に甘い香りとか、近くにある綺麗な顔立ちなどが暁歩の平常心を砕きにかかってくる。

 

「薬種はそんなに力を入れてすり潰さなくて大丈夫ですよ?」

「あ、すみません・・・」

 

 暁歩が謝るが、しのぶは優しい笑みを向けるままだ。

 

「暁歩さんがそんな失敗をするのも珍しいですが・・・何か考え事でも?」

 

 純粋な親切心から来る質問と表情だろうが、それは今の暁歩にとっては強力な毒だった。

 

「いえ・・・何でもないです」

 

 暁歩は視線を乳鉢に戻して、薬を混ぜる作業に集中する。

 その後は、逃げるように煎じ薬を作るための水を汲みに外へ出た。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の夜、任務の無いしのぶは床に就こうとしていた。

 布団はアオイが干してくれていたもので、太陽の光を浴びたそれはとても温かい。布団に入ると、心地よい温もりに包まれて自然と欠伸も洩れてしまうほどだ。

 明かりを消した天井を見上げ、今日あった出来事をふと思い出す。

 中でも一番印象に残ってしまっているのは、偶然にも遭遇してしまったあの天元と須磨の夫婦の営みだった。天元に妻が三人いて、夫婦仲が良好なのは知っていたが、まさか人目がなければ真昼間から興じるほどとは思わなかった。

 しかし、それ自体は別に夫婦仲が良い証だから、さして問題ない。

 

 より気にしているのは、あの光景を暁歩と共に見てしまったということだ。

 

 ああいうことをするのは、仲の良い男女であれば何ら不思議ではない。

 だが、たまたま見てしまった側からすればたまったものではないし、それがそれなりに親しい異性とであればなおさら気まずくなる。

 そんな、親しい異性である暁歩は、あの時大して動揺した様子もなかった。そしてその後も、特に変わりなく平然とした調子で過ごしている。先ほどの夕食時だって、いつも通りきよたちと談笑していたほどだ。強いて言えば、薬種を潰す力が入りすぎていたのが異変だが、それは動揺と決めつけるには至らないだろう。

 だが、しのぶはそれにどこか引っかかりというか、不満に似た何かを抱いている。

 しのぶでさえ、こうして心が波打つような気分でいるのに、暁歩はそんな様子が全くない。それが何故だか、しのぶは気に食わないのだ。

 

(別に・・・何とも思ってないはずなんですけどね)

 

 その通りで、しのぶと暁歩の間には信頼関係こそあるが、そう言った色恋の関係は存在しない。

 にもかかわらず、こうして意識してしまっている。

 布団の中で何度も寝返りを打つ。眠気が息を潜めてしまい、意識が覚醒してくる。自らの気持ちが落ち着いていない証拠だった。

 そんな悶々とした気持ちを抱えて、答えの出てこないような自分の疑問と向き合いながら、しのぶの夜は更けていく。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 翌朝、暁歩は寝不足だった。

 例の秘め事について考えが離れなくなってしまい、悶々とした気持ちを抱え込んだまま布団に入ってしまい、結局寝付くのが大分遅くなった。おかげで体内時計が狂い、皆よりも早く起きて修業をするはずが、その時間も取れなかったほどだ。

 

「おはようございます・・・」

 

 食卓の戸を開けて挨拶をするが、その声もどこか張りがない。それには全員が気付いたのか、きよやすみ、なほが心配そうにこちらを見て、カナヲもちらっと暁歩を見た。

 

「大丈夫ですか?」

「ちょっと寝不足で・・・大事には至らないです」

 

 当直だったアオイは、毎朝鍛錬をしていた暁歩の姿を今朝は見なかった。そこに疑問を抱いていたのだが、それはどうやら寝坊だったらしい。そこについての疑問は晴れたが、また別の問題がある。

 

「夜更かしは駄目ですよ?何かあった時にすぐ対処できないんですから」

「はい・・・すみません」

 

 アオイの言う通りで、この屋敷の最大の役目は怪我人の受け入れと治療だ。特に暁歩には、薬品の調合というより重要な役割を仰せつかっている。それなのに寝不足でろくに働けない、とはお話にならない。

 暁歩は謝りつつ、顔を叩いて意識を覚醒させる。

 

「おはようございます」

 

 その後ろから、しのぶが姿を見せる。

 振り返ってみるが、やはり昨日と変わりない微笑を浮かべていて、あの時のことを全く気にも留めていないようだ。

 その様子を見ると、一人で悶々と悩んでいる自分を恥ずかしく思い、暁歩はいい加減にちゃんとしようと心を正す。

 

「・・・?」

 

 その時暁歩は、しのぶが口元を手で押さえたのを目にする。その仕草は、あくびをしているようにも見えた。

 

「しのぶ様、寝不足ですか?」

「ええ、ちょっと・・・」

 

 そこで、座っていたなほが訊ねると、しのぶは少し困ったような笑みを返す。心の強いしのぶも寝不足とは、珍しいこともあるなと暁歩は思った。

 

「暁歩さんも寝不足だったんですよ」

「あら、そうなんですか?」

 

 さらにすみが告げると、しのぶは物珍しそうに暁歩の方を見る。

 だが、まさか寝不足の理由を素直に伝えるわけにもいかないので、暁歩は曖昧な笑みを浮かべて席に着くだけにしておく。

 同時に暁歩は、しのぶが寝不足というのも珍しいものだと思った。昨夜は任務もなく、特別忙しかったわけでもない。しのぶほどの人が夜更かしという可能性も低く、少し気になる。もしかしたら、何かしらの考え事でもしていたのかもしれない。

 それが気になって、暁歩はしのぶのことを見ると。

 

「・・・・・・」

(あれ!?)

 

 ついっと、視線を逸らされた。

 今までそんなことなど無かったものだから、余計に暁歩は動揺する。

 

 ―――親しい人が、視線を合わせようとしても逸らしたらどう思う

 ―――何か、隠したりしているのではないかと思いますよ。あるいは、自分に対して後ろめたいことがあるとか

 

 脳裏に、小芭内と交わした会話が蘇ってくる。あの時小芭内は、蜜璃の異変について相談しに来たが、あの時暁歩はしのぶが同じようだったら、と想定して答えていた。

 となれば今は、しのぶも何か暁歩に対して隠し事があるか、後ろめたいことがあると思われる。

 それが分かっていても、視線を逸らされるのは相当キツイ。小芭内の気持ちが今なら分かる気がした。

 

(・・・暁歩さんの顔が見れない)

 

 一方でしのぶも、悪意があって暁歩から視線を逸らしたわけではない。

 昨日の夜に、暁歩とのことについて柄にもなく考えこんでしまった結果、逆にその顔を見ると、その『考え事』を思い出してしまうからだ。

 そしてそれを深く考えようとすると、どうにもしのぶの顔が熱くなってくる。

 

(ごめんなさい、暁歩さん・・・)

 

 同時にしのぶは、何も言わずに視線を逸らしたことを、暁歩は気にするだろうと思っている。だからこそ、自分の理解できない感情に振り回された結果の行動を、申し訳なく思った。

 

(落ち着いて・・・自分の感情を制御できないのは未熟な証・・・)

 

 しのぶは自分にそう言い聞かせながら、席に着く。

 

「では、いただきます」

『いただきます』

 

 そうして挨拶をして、朝食の時間が始まる。

 しかしその間、食卓―――特に暁歩としのぶの間―――には微妙な空気が流れることとなった。




≪おまけ≫

「暁歩さん・・・」
「ん?」

 ある日のこと、お茶を飲んで休憩していた暁歩の下に、きよ、すみ、なほの三人がやって来た。何かを聞きたげなその様子に、もしや怪我人のことで何かあったのかもしれない。
 そう思って訊く姿勢を取ると。

「宇髄さんや善逸さんが言ってたんですけど・・・」
「?」
「『遊郭』ってどんなところなんですか?」

 興味ありげなきよたちの質問。
 炭治郎たちが吉原へ任務に行ったのは知っているが、まだ年端もいかない彼女たちはそれがどんな場所かを知らなかった。

「・・・・・・」

 だが、暁歩は『遊郭』がどういう場所かを『知識として』知っている。
 だからこそ、この無垢な瞳を向けてくる三人にどう説明をするべきか、この場をどう切り抜けるべきかに、ひどく悩むことになってしまった。


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第21話:隠し事

感想・お気に入り登録・評価、ありがとうございます。
とてもうれしく思います。


 刀鍛冶の里が、上弦の伍及び上弦の肆の急襲を受けた。

 これを迎え撃ったのは、たまたま里を訪れていた炭治郎とその同期である不死川玄弥、霞柱・時透無一郎と、里の近くの地域を担当していた恋柱・甘露寺蜜璃だ。ただ、今回もまた激しい戦いだったらしく、炭治郎は意識不明の状態で蝶屋敷に運び込まれた。

 そして、それ以上に蝶屋敷の面々の度肝を抜くものがある。

 

「た、た・・・ただいま」

 

 たどたどしい喋り方をするその人物は、禰豆子だ。最初にここへ来た時に見た竹の猿轡は外していて、それ以前に今は太陽が上がっている真昼だ。にもかかわらず、禰豆子は苦しむ様子もなく普通に立っている。

 

「ちょっと、どういうことですか!?」

「何、どうして・・・ええ!?」

 

 鬼は日光の下で行動できない。それは鬼の共通の特徴であるはずだ。

 しかし、鋭い犬歯や縦に長い瞳孔の眼をした禰豆子は鬼のままだから、驚かないはずはない。暁歩とアオイは取り乱すように声を上げており、しのぶだって表情が驚愕に染まっている。きよたちは驚きが振り切ってキョトンとしていた。

 

「いやー、なんでだろうね?」

 

 そんなしのぶたちの疑問に、担架に載せられていた蜜璃は、あまり深く考えようとはしないで笑っていた。彼女は彼女で重傷で、頭に包帯を巻いたりガーゼを張ったり、手にも包帯を巻いたりと一先ずの応急処置は済んでいるらしい。

 

「・・・・・・」

 

 そして、ぼーっとした様子で担架に載せられている無一郎。彼もまた身体中に刺し傷を負っており、止血は済んでいるらしいがそれでもやはり痛々しい状態だ。

 ただ、炭治郎は胴体に深い切り傷を負い、片足も折れている。玄弥も至る所に刺し傷や切り傷を負っていて、一時も気が緩められない状況だった。

 なので、日光を克服した禰豆子に驚くのもほどほどにして、蝶屋敷の皆は炭治郎たちの治療に取り掛かった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 禰豆子の身体の変異の他にも、不可解な状況になっている。

 刀鍛冶の里で上弦二体が撃破されて以来、鬼の出没情報がなくなったのだ。

 鬼との戦いが無くなること自体は、喜ばしいことだ。それだけ犠牲となる一般人や、戦って傷つく隊士もいなくなるのだから。

 しかし油断はできない。まだ諸悪の根源である鬼舞辻無惨は生きており、禰豆子という日光を克服した特殊な鬼まで現れたから、近い内に総力戦が始まるだろうと言うのが鬼殺隊当主・産屋敷輝哉の見解だ。つまり今は、『嵐の前の静けさ』ともいえる状況だ。

 そこで、鬼との戦いが一時的とはいえ無くなったこの機会に、『柱稽古』と呼ばれる大規模な訓練が行われることになった。それは柱直々に一般隊士に稽古をつけ、鬼殺隊の戦力の底上げを図るものだ。

 しかし、その内容は過酷そのもので、基礎体力の向上から太刀筋の矯正、無限打ち込みに至るまで、鬼殺隊の質を高めるためとはいえとても辛いものらしい。蝶屋敷にいる暁歩やアオイたちも、その過酷さは聞いていた。

 ただし。

 

「私は今回の柱稽古には参加しません」

 

 しのぶは、柱稽古が始まるという話をしたうえで、暁歩にそう告げた。

 

「それは・・・何か理由があるんですよね」

「ええ。そして、暁歩さんにもぜひ手伝ってもらいたいのです」

 

 それから暁歩は、しのぶからその参加しない理由について、そして自分に手伝ってほしいことについての説明を聞いた。

 

「す、すみません・・・治療を・・・」

「あ、はい!すぐに!」

 

 そして、しのぶの頼み事を理解した暁歩は、蝶屋敷に運び込まれてくる怪我人の治療に専念する。暁歩も、しのぶ直々に与えられた役目があるため、柱稽古には『本格的には』参加していなかった。

 そんな中でも蝶屋敷に怪我人が運び込まれているのは、稽古が厳しすぎて、度々重傷者が発生するからだ。しのぶや運び込まれた隊士によれば、風柱・不死川実弥の無限打ち込み稽古が最も辛いらしく、まさに地獄らしい。

 

「・・・・・・」

 

 治療を続けている間、怪我をした隊士から『なんでテメェは訓練出ねぇんだよこの野郎』と恨みがましい視線を向けられるが、それに対して暁歩は心の中で謝りながら治療を続ける。決して楽をしようとサボっているわけではないのだが、自分の役目はしのぶから『他言無用』とされているので、説明できない。

 

「あ、あそ、ぼ!」

「はぁい」

 

 一方できよたちは、怪我人が比較的少なくなったために大分時間に余裕が生まれ、禰豆子の相手をすることが多くなっている。ことろことろや手毬遊びなど、庭で楽しそうに禰豆子と遊んでいた。

 

「禰豆子さんも、ああして日光の下を歩けるようになったのは良かったですね・・・まだどういうわけかは分からないですが、人間に戻りつつあるのでしょうか」

「それは、分からないです」

 

 空いた時間に、縁側からその様子を眺めていた暁歩はそう話す。すると、隣にいたしのぶは首を横に振った。鬼について研究を進めているしのぶでも、禰豆子の異変は分からないらしい。

 

「でも、炭治郎くんは禰豆子さんを人間に戻したいと願っていましたから・・・。少し、彼の目標にも近づけたかと思いますよ」

 

 暁歩は、炭治郎が禰豆子を人間に戻すという決意をしていたことを思い出す。まだ禰豆子は鬼のままだが、彼の願いに一歩近づけたと考えれば喜ばしいことなのだ。

 

「・・・けれど、禰豆子さんにも変化が起きたということは、お館様の言う通り、今後鬼との戦いが激しくなることでしょう」

「・・・・・・」

「本当に、鬼殺隊の歴史が大きく動いているのかもしれません」

 

 しかしながら、しのぶは柱として、全てを楽観的に捉えることはできない。長年斃せなかった上弦の鬼を三体も葬ったのは確かにすごいことだが、同時にこれがまた新たな戦いの火種になっていると考えている。そう思うほどには、しのぶも考えが真面目だ。

 それを聞かされて、暁歩も神妙に頷く。

 遊んでいる禰豆子たちの様子を見ると、微笑ましく思う。

 同時に、やはり禰豆子が鬼殺隊と鬼の戦いの中心となるのを思うと、手放しには喜べない。ただ何事もない今だけは、せめて楽しく、年頃の少女のように過ごしてほしいと、暁歩はただ思った。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 柱稽古が続くある日、暁歩は薬の入った袋を背負って歩いていた。手には、実弥が稽古をしている屋敷の簡単な地図がある。

 これも暁歩が柱稽古に参加しない理由の一つだが、暁歩には各柱の稽古場へ薬を運ぶ役目があった。話に聞いている厳しい柱の訓練では、捻挫や筋肉痛、擦過傷などの怪我が頻発しており、薬も必要とされている。ただ、その程度の怪我で態々蝶屋敷まで治療に来るのも手間なので、柱から頼まれるとこうして薬を届けているのだ。

 今回に限らず、暁歩はこれまでに天元、蜜璃、小芭内の稽古場まで赴いている。天元の訓練は長距離の走り込み(苛烈な指導)、蜜璃は身体の可動域を増やすための柔軟(やや力押し)、小芭内の訓練は太刀筋の矯正(さながら処刑場)と、いずれも厳しそうだった。薬が必要になるのも頷ける。

 

―――――

 

 ちなみに、これまで薬を届けに行った中で、一番面倒だったのは小芭内の時だ。

 

「甘露寺の所へ行ったそうだが、何もなかっただろうな」

「ないですって、伊黒さんの心配するようなことは何も」

「信用しない信用しない。甘露寺ほどの女の家へ行って何もないなんてことはないだろう。しかも貴様は甘露寺と仲が良いようだからなおさら信用できないな」

「俺に質問した意味ありました?」

 

 位置的な面もあり、暁歩は小芭内の屋敷へ行く前に蜜璃の屋敷へ薬を届けている。

 そして、小芭内は蜜璃に密かに(?)想いを寄せており、互いに文通をする仲にある。だから、暁歩が蜜璃の屋敷へ行って薬を届けたのも知っており、元々疑り深い性格もあって、嫉妬の視線を暁歩に向けられたのだ。

 そしてそんな性格だからこそ、暁歩がどう言っても信じようとせず、結局半刻ほど詰問される結果になってしまった。 

 

―――――

 

 それはさておき、今向かっている実弥の屋敷で行われている稽古は、木刀を使った無限打ち込み。蝶屋敷に重傷者を送り出すほど過酷で、運び込まれた隊士も『地獄』と評するほどなので、どういうものかは想像するだけでも少し恐ろしい。

 

「こっちか・・・」

 

 角をいくつか曲がって、かなりしっかりした門戸の屋敷にたどり着く。蝶屋敷よりも少し大きめの印象があった。

 

「ごめんくださ―――」

 

 門戸を叩いて人を呼ぼうとしたところで、突然戸が開き、中から上半身裸の男が吹っ飛んできた。

 

「ぐえっ」

 

 避けきれず、暁歩はもろにぶつかってしまい後ろに倒れこむ。だが、薬を傷つけないようにするために受け身の姿勢は考えていたため、背中の袋は無事だった。

 

「おォ、新しいヤツか・・・って、テメェは確か胡蝶んトコの」

「佐薙です・・・お薬をお届けに参りました」

「あァ、悪ィなァ」

 

 起き上がったところで、木刀を持った実弥が姿を見せる。

 実弥は『稀血』という鬼にとっても馳走と言える特殊な血の持ち主であり、蝶屋敷にも診断で何度か訪れている。そのため、暁歩とも面識があった。

 

「ついでで悪ィが、そいつ中に運んでくれねェか」

「あ、はい」

 

 くいっと首で運ぶよう指示する実弥。暁歩は気を失っている名前も知らない隊士をせっせと担ぎ、屋敷の中へと運び入れる。

 実弥は、定期診断でしのぶの下を訪れている玄弥の兄で、その鋭い顔つきはやはり兄弟だと思うほど似ているし、怖い。特に実弥は、身体中に傷痕があるのもあって、事情を知らなければ堅気の人間とは思えないほどだ。

 そんな実弥の後を、暁歩は隊士を担ぎながら付いていく。その外見とは裏腹に、屋敷は結構綺麗に整えられている印象があるが、一歩一歩と前へ進むたびに、妙な予感が頭の中で主張し始めた。

 

「テメェは訓練には出ねェのか」

「俺は治療要員ですし・・・蝶屋敷で役目もあるので」

「けど隊服は着てるんだよなァ」

「ええ、まあ・・・」

 

 後ろを振り返った実弥が、不敵な笑みを浮かべる。言葉を交わして、その笑みを見て、暁歩はまたしても嫌な予感が強まるのを感じた。

 やがて進んでいくと、広い庭にたどり着いた。だが、そこには何十人もの隊士が死屍累々とばかりに横たわっており、しかもほとんどの隊士の身体や顔に腫れや内出血などが見える。あまりの光景に、暁歩も表情が固まってしまった。

 

「せっかくだし、テメェもやってけェ。胡蝶には伝えといてやるからよォ」

 

 答える間もなく、実弥から木刀をポイっと渡される。担いでいた隊士はそこら辺に放り投げておけと言われたので、ひとまず邪魔にならない塀の傍に横にさせる。

 さて、木刀まで渡されて、暁歩はいよいよ逃げられなくなった。

 ただ、薬を届けてこうなることは、他の柱の下へ薬を届けに行った時も経験した。その際は、『ついでだしやっていけ』みたいなノリで言われて、なし崩し的ではあるものの一時的に参加している(小芭内に至っては命令形だった)。

 だが暁歩は、『役目』があるため長期間屋敷を空けられず、一日で蝶屋敷まで戻っている。そのため移動距離がとてつもなく長く、そんな日の夜は疲労のあまり眠りこけていた。

 

「暁歩さぁん・・・」

 

 そんな中で、黄色い髪が目立つ善逸がよろよろとやってきた。彼もまた他の例に漏れず、体中に傷を負っていて、顔も少し腫れている。ここが蝶屋敷だったらすぐにでも治療したい衝動に駆られた。

 

「善逸くん・・・相当扱かれてるようですね」

「相当どころじゃねぇんだよォ!あのオッサン本気で殺すつもりで来てるんだよォ!気ィ抜いたらマジで死んじゃうから!禰豆子ちゃんの可愛さで死んじゃう方が億万倍マシだからァ!!」

 

 涙ながらに訴えてくる善逸から、どれだけ過酷かを感じる。

 そんな善逸だが、禰豆子が日光を克服し、言語能力も多少復活したのを目の当たりにして、衝撃のあまり超音波に届くほど叫んだほどだ。その騒がしさときたら、禰豆子の近くにいたきよが一時的に耳が聞こえなくなるほどである。善逸が禰豆子に惚れ込んでいるのは蝶屋敷の全員が知っているが、苦笑気味だった。

 

「なぁなぁ禰豆子ちゃんは元気なんだろうなぁ!?禰豆子ちゃんがいるから今まで頑張ってきたんだよぉ!禰豆子ちゃんごはんとかちゃんと食べてる!?夜ちゃんと眠ってる!?俺がいなくて寂しがったりしてない!?」

「いや、流石にそこまでは俺も・・・」

 

 矢継ぎ早に訊かれて戸惑う暁歩。

 しかし、周りの隊士はそんな善逸を憐れなものを見る目で眺めていた。恐らく、実弥の訓練の厳しさに善逸が壊れて彼女がいると思い込んでしまったと思われているらしい。

 

「オラァ!休憩終わりだテメェらァ!次行くぞ次ィ!!」

『ひぃぃ・・・』

 

 そこで実弥が木刀を振り回しながら叫ぶと、疲労困憊の隊士は怯えたような声を洩らしながら起き上がり、傍に置いてあった木刀を構える。暁歩に泣きついていた善逸も、実弥の掛け声を聞いて震えあがるように木刀を握った。暁歩も仕方ないと構える。

 

「かかってこいやァ!!」

『うおおおおおおお!!!』

 

 次の瞬間、隊士たちは一斉に実弥の下へと飛び掛かった。

 暁歩はこれが打ち込み稽古なのは分かっていたが、周りの人の必死さに圧されて置いてけぼりになる。そこへ善逸が説明をしてくれた。

 

「ここでの訓練は、あのオッサンに殺す気で木刀で斬りかかるんです。それで、木刀を掠めたり当てたりすればここでの訓練は終わりです」

「あ、それならこの人数で行けば・・・」

 

 誰か一人は確実に当たるのではないか、と思ったが、善逸は何故か達観したような笑みで首を横に振る。

 

「ウラァ!!」

 

 実弥が掛け声とともに木刀をぶん回す。次の瞬間、飛び掛かろうとしていた隊士は揃って弾き飛ばされ、水飛沫のように地面に落ちる。なるほど、善逸が泣き叫ぶのや、怪我人が多い理由がよく分かった。

 

「ちなみに俺ら、ゲボ吐いて気絶するまで休憩貰えません」

「・・・鬼」

 

 顔が青くなる。他の稽古も見てきた暁歩だが、これは一番きつい。隊士たちが地獄と評した理由を理解した。

 

「オラァ、ぼさっとしてんじゃねェぞォ!!」

 

 そして、突っ立って話をしていた暁歩と善逸を見つけた実弥は、突っ込んでくる。その動きの速さは、まさに光速と言わんばかりのほどで、瞬きの次には実弥が眼前に迫ってきていた。

 

(・・・今日の夕飯は何かな)

 

 木刀で思いっきりぶん殴られて宙を舞った暁歩は、頭から地面に落ちるまで現実逃避をすることにした。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 暁歩は日が落ちるまで、実弥の稽古に参加することとなった。

 だが、あの後も何度も木刀でボコボコにされてしまい、ついぞ木刀を実弥に掠らせることはできなかった。気絶したり吐いたりしなかっただけ、上出来だとは思う。

 

「戻ったらちゃんと治さないと・・・」

 

 参加していた他の隊士同様、暁歩も顔が少し腫れてしまっていた。今は隊服で隠れているが、恐らく身体中に傷や内出血もあるだろうことが痛みで分かる。ここまでになるとは思わなかったので、自分用の薬を持っていなかった。

 

(やっぱり柱の稽古って厳しいんだよな・・・)

 

 夜道を歩きながらぽやっと思う。

 自分でも全集中・常中の修業を続けていて、瓢箪も標準的な大きさのものであれば破裂させることができるようになった。だが、改めて柱直々に付ける稽古を経験して、自分もまだまだだと改めて実感させられる。

 

「!!」

 

 その瞬間、嫌な予感がして後ろを振り返る。何かに見られているような、奇妙な視線を感じ取った。

 だが、振り返ってみても、目線の先にあるのは明かりの消えた道だけで、他には何も見えない。人影や、獣の気配も感じない。

 

(・・・誰かに見られていたような・・・)

 

 しかも、敵意や悪意に満ちた視線。そうでなければ、『嫌な予感』は作用しない。

 だが、本当に何も見えないので、暁歩はまた蝶屋敷へと向かう道を進んでいく。その後もその悪意ある視線は感じなかったので、多分気のせいかと思った。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 蝶屋敷へ戻ると、案の定アオイやきよたちに顔の傷を心配された。だが、実弥の稽古によるものと説明すると『ああ・・・仕方ないですね・・・』と納得されてしまう。運び込まれる怪我人の様を見て伝わってしまい、暁歩もため息を吐く。

 

「だ、だいじょ、ぶ?」

 

 同じく出迎えたのは禰豆子で、同じように心配してくれる。その背丈に似合わず舌足らずで、仕草もどこか子供っぽいところがあるが、暁歩は大丈夫と笑みを作る。少しだけ善逸の気持ちが分かる気がした

 そんな玄関先でのやり取りもほどほどに、暁歩は屋敷に上がってしのぶを探す。帰り際に郵便受けを見たところ、しのぶ宛の手紙があったのだ。

 

「・・・あの」

「?」

 

 そうしてしのぶの姿を探して屋敷の中を歩いていると、カナヲに声を掛けられる。

 

「師範・・・見た?」

「いえ・・・今俺も探してるところです。多分食卓か仏間の方だと思いますので、一緒に探しましょうか」

「・・・うん」

 

 そうしてカナヲを連れてしのぶを探す。

 カナヲもここ最近は口数が増えてきて、長話とはいかずとも暁歩と言葉を交わすことも多くなった。加えて表情も豊かになってきた気がするし、そのきっかけが炭治郎に対する慕情と来たものだから、実に喜ばしい。

 そんなカナヲは、暁歩と違い連日柱稽古に参加しているはずなのに疲れている様子が全くない。全集中・常中を完全にものにしているからだろうが、その姿を見ると少なからず劣等感を抱いてしまう。短期間とはいえ柱稽古に参加してボロボロになった自分の実力不足を、嫌でも実感させられた。

 

「ふ――――・・・ふうううう・・・」

 

 しのぶは仏間にいた。

 しかし、仏壇の前に座ってはいるが、黙祷を捧げていたわけではなく、じっと仏壇を見つめているような様子。加えて、何か気持ちを落ち着かせるように、息を吐いていた。

 

「しのぶさん、よろしいですか?」

「暁歩さん、カナヲ・・・どうしました?」

 

 その背中に遠慮がちに声をかけると、しのぶは振り向いてくれた。その表情は、いつもと変わらない蝶屋敷の皆に向ける微笑みだ。

 だが、そんな振り向いたしのぶを見た瞬間、暁歩は小さな違和感を抱く。しのぶの心の中にある復讐心や怒りを隠すものとは違う、もっと別の何かを隠しているような、そんな笑みに見えた。

 何か重大なことを隠している、そんな予感がした。

 

「お手紙が届いています」

「ああ、どうも」

「それと、カナヲさんが少し御用があるようで」

 

 だが、その抱いた予感はひとまず置いておき、暁歩は手紙を渡して用件を伝える。しのぶは、手紙の内容を流し読みした後でカナヲに目を向ける。

 

「・・・すみませんが、暁歩さんは席を外していただいてもよろしいですか?」

「あ、はい。分かりました」

 

 離席を求めるしのぶに、暁歩は素直に頷いてそこを離れる。

 だが、それでも暁歩の中に不安は募る。カナヲと個人的な話をするために暁歩を外したのは分かるが、どうにも嫌な予感というか、胸騒ぎがしてならない。

 右目の奥が焼けるように痛む。こういう時は、大抵自分にとって嫌なことが起きる前兆だ。それが何なのかは分からなくて、どうにももどかしい気持ちになってしまう。

 腹に石が詰まっているような感覚を抱きながら、暁歩は一先ず自分の怪我を治すために調剤室へと向かった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 その数日後の夜、蝶屋敷に訪問者がやって来た。

 

「夜分に恐れ入ります」

 

 奇妙な二人組だった。一人は、着物を着た妙齢の女性。もう一人は、暁歩と同い年ほどに見える書生のような出で立ちの青年。しかし、青年の方は暁歩を少し不機嫌そうな眼付きで見ていた。

 出迎えた暁歩は、予めこの二人の素性をしのぶから聞いている。

 

珠代(たまよ)さんと、愈史郎(ゆしろう)さんですね?伺っております」

 

 この二人もまた、鬼だ。

 禰豆子と違って陽の光の下には出られないが、鬼舞辻無惨の支配から逃れている特殊な存在。また、人間を喰らわずとも、少量の血を摂取するだけで事足りるようになっているらしい。

 

「こちらへどうぞ」

 

 この二人を招くにあたって、暁歩は何点かしのぶに気を付けるように言われている点がいくつかある。

 その一つが、蝶屋敷の他の人間に悟られないようにすること。

 鬼である禰豆子と仲良くなっているアオイたちだが、珠代と愈史郎はまた少し事情が違う。変に不安を抱かせないために、この二人のことは話さないでおくようにと、しのぶからのお達しがあった。

 なのでアオイたちには、この二人が来ることは伝えていないし、もし客人が来ても応対は暁歩かしのぶに引き継ぐように言ってある。

 

「しのぶさんをお呼びしますので、少しお待ちください」

 

 二人を客間に通すと、私室にいるしのぶを呼んで来ようとその場を離れる。

 珠代は、その暁歩の言葉に素直に頷いてくれたが。

 

「さっさとしろよ。珠代様はお忙しい中態々お前たちのために時間を割いてくださったのだからな」

 

 愈史郎がつっけんどんな物言いをしてきた。小芭内のように粘着質ではなく、こちらは随分と直接的だ。

 

「愈史郎」

「冗談です!」

 

 暁歩はイラっとしかけたが、珠代が低い声で名前を呼ぶと、愈史郎は態度をコロッと変えて撤回した。聞こえないように、暁歩は鼻で息を吐きながら客間を後にする。

 

「・・・しのぶさん。いらっしゃいました」

『分かりました』

 

 しのぶの私室の障子戸を叩き、他の人に万が一気取られないように名前を言わずに伝える。しのぶもそれで察したか、多くを訊ねずに障子戸を開けて姿を見せる。いつもの笑みは、浮かべていなかった。

 それから客間へ向かい、珠代たちと向かいあい顔合わせとなったが、やはりしのぶの表情は優れない。隣に座る暁歩には、しのぶの雰囲気が乱れているというか、少し怒りや憎しみが滲み出ているようにも感じた。

 

(しのぶさん、落ち着いて・・・)

 

 横から暁歩が声を潜めて伝えるが、しのぶの雰囲気はそれでも軟化しない。

 珠代と愈史郎は、輝哉から直々にしのぶに協力するように言われているため、事実上は鬼殺隊に認められている鬼である。それでもしのぶは、禰豆子と違ってこの二人から漂う雰囲気が普通の鬼に近いことから、鬼そのものに対する憎しみや怒りを抑えるのが難しいのだ。

 

「何だ貴様、珠代様に向かってその目つきは」

 

 運悪く、愈史郎がしのぶの敵意に気付いてしまった。そう言われたしのぶは、取り繕うように笑おうと表情筋を動かすが、どうにもうまくいかない。

 

「そんな()()()な顔を向けたところで何にもならないぞ」

 

 だが、続く愈史郎の言葉にカチンときたのは暁歩だった。

 暁歩からすれば、しのぶの顔立ちは自分がこれまで出逢った女性の中で一番綺麗だと思っており、不細工などと思ったことは一瞬たりともない。

 先の言葉は、愈史郎の美感が『珠代以外は全員醜女』と非常に偏ったものだからだが、暁歩はそんな事情など知ったことではなく、自分の好いている女性を侮辱されたことに対して憤る。ただ、流石に露骨に表情に出そうとはせず、恨みの念を飛ばすだけだ。

 

「・・・・・・」

 

 そして、そんなことを言われて平然としていられないのはしのぶも同じだ。

 人の趣味嗜好はそれぞれで、それをとやかく言うつもりは無い。だが、真っ向から自分のことを悪く言われると腹が立つし、しかもそれが鬼となればなおさらだ。収まりかけていた敵意が再び熱を帯び始めた。

 

「・・・ふぅ」

 

 そんな三人の無言の戦いに、珠代は一人静かに息を吐くのだった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 散々な顔合わせとなってしまったが、珠代と愈史郎が蝶屋敷を訪れたのは、しのぶと協力して鬼を人間に戻す薬、そしてより強力な鬼を殺す毒を開発するためだ。

 禰豆子が日光を克服した今、鬼側も目の色を変えて禰豆子を探しているだろう。 日光下を歩けない鬼たちにとって、それさえも克服した禰豆子はまさに喉から手が出るほど欲しい存在だから。

 だが、兼ねてより珠代は鬼を人間に戻す薬を研究しており、協力関係にあった炭治郎からも多くの鬼の血液を採取し提供してもらっていた。炭治郎が以前言っていた『協力者』とは、珠代と愈史郎のことだったのだ。

 そこでしのぶと協力して薬を開発し、禰豆子を人間に戻すことができれば、鬼側の野望も潰える。珠代の存在を認知していた輝哉が鎹鴉を通して連絡を取り、共同開発が実現したのだ。

 また同時に、鬼を殺す毒も、鬼である珠代の知識を借りてしのぶが開発している。

 しのぶが開発していた毒は、十二鬼月の下弦程度には通用していたが、上弦に通用するかは遭遇していないから分からない。だからこそ、来る戦いで上弦と戦った時のために、より強力な毒を作っているのだ。

 その中で暁歩は、そうして薬と毒を開発するしのぶと珠代の手伝いをする。これが、しのぶからの頼まれ事だ。

 暁歩は、蝶屋敷に来た当初と比べれば、遥かに薬や毒に関する知識が深まっている。それはしのぶや珠代には敵わないものだが、調合する技術に関してはしのぶも一目置いている。その点を買い、しのぶは暁歩に協力を求めたのだ。

 

(・・・どうも、それだけじゃない気がするんだよな・・・)

 

 しかし暁歩は、未だ納得できていないところがある。

 確かに鬼を人間に戻す薬を作るのは素晴らしいことだし、それが完成すれば禰豆子は助かり、鬼との戦いも大きく変わる。鬼を殺す毒に関しても、しのぶの力となれるのであれば本望だ。何よりも、しのぶから頼まれたのであれば断らないわけにはいかない。

 だが、どうにもそれだけではない、もっと別の何かが並行して起こっているような感じがする。ずっと自分のすぐ傍で、何か嫌な予感というか、不吉なことが起きる前触れが姿をちらつかせているような気がしてならなかった。

 

「・・・おや、もうこんな時間ですね」

 

 そんな中で、しのぶが時計を見上げて呟く。そこで、暁歩の中での嫌な予感は霧散し、しのぶと同じように時計を見上げる。時刻は日付が変わろうとしているところだった。

 

「暁歩さんは、もう休んでもらって構いませんよ」

 

 そう笑って告げるしのぶの表情には、疲れが見える。

 鬼である珠代と愈史郎が日光に当たれないため、作業はしのぶの私室で、日中は外部からの明かりが届かないように窓掛けを引き、昼夜を問わず行われている。

 だが、あくまで手伝いである暁歩は、夜になったら休むようにしのぶから言われていた。当のしのぶは、昼夜兼行で続けているというのに。

 

「胡蝶さんも休んでください」

 

 だが暁歩が何かを言う前に、珠代の方がしのぶに声を掛けた。

 共同開発が始まってから一週間。最初はしのぶも珠代に対して敵意を持っていたが、珠代自身には人間を襲う気が毛頭なく、そして人間であるしのぶと暁歩に対しても普通に接しているので、二人は珠代とは少し打ち解けてきている。しのぶも、今は珠代に対して微笑み(感情を隠すものだが)を向けられているぐらいだ。ちなみに愈史郎は、未だに打ち解けられる様子がない。

 

「大丈夫ですよ。私は柱で伊達に鍛えてはいませんから」

「ですが、もう何日も十分な睡眠を摂ってはいないでしょう。少しでも休める時に休まなければ、近い内に始まるであろう戦いには万全の状態で臨めませんよ」

 

 珠代の言葉には、確かに一理あると暁歩は内心で思う。

 アオイやカナヲ、きよたちを心配させないように、食事は皆と一緒に摂っているしのぶは、周りから心配されるほどには疲れの色が見えている。傍で作業をする暁歩もそれは分かっていて、十分な睡眠が摂れていないことは明らかだ。

 珠代の言う通りで、これから起きるであろう戦いに寝不足の状態で挑んでは、柱であっても命の危険に晒されかねない。今休めるうちに休んでおかなければならないだろう。

 

「・・・それでもこれは、私にしかできませんから」

 

 だがしのぶはなおも拒む。

 

「珠代様の厚意を無駄にするんじゃないぞ」

 

 さらには愈史郎も―――やはり少し棘があるが―――休むように言ってきた。

 それを受けて暁歩は、しのぶの方を見て口を開く。

 

「しのぶさん、ここはお言葉に甘えて少し休みましょう。見る限り、しのぶさんも大分疲れているようですし」

 

 暁歩が伝えると、しのぶも少しだけ息を吐いて、珠代に向かって『では少し、休みますね』と言って一度部屋を後にする。暁歩もお辞儀をして部屋を出た。

 それから二人で、何の気なしに南側の庭までやって来た。

 

「鬼を人間に戻す薬も、作るのが大変なんですね・・・」

「そうですねぇ・・・。私も知らない材料があったので、少し驚きました」

 

 庭に立って、隣にいるしのぶに暁歩は話しかける。

 そこでまたも、暁歩の中で妙な予感が燻り始める。他意もなく普通に話しかけたはずなのに、なぜこんなことになるのか。

 

「けれど、暁歩さんが手伝ってくれて安心していますよ」

 

 そんなしのぶは、疲れていても笑みを暁歩に向けてくれる。その笑みは、珠代たちを前にして浮かべていた笑みとは違う、暁歩と接する内に見せてくれるようになったものだ。それでも、暁歩の不安な気持ちは止まらない。

 

「暁歩さんも、この屋敷に来た時と比べたら、薬にはとても詳しくなりましたよね。だからこうして、今回暁歩さんにも手伝ってもらっていますし」

「・・・ありがとうございます」

 

 どこか過去を懐かしむかのようなしのぶの言葉に、暁歩の中で不安が膨らんでくる。その口ぶりは、暁歩の成長を喜んでいるようで、普通であれば自分でも嬉しく思う。だけど、今は全く喜べない。

 

「怪我をした方の治療も、もう問題ないですしね。全集中・常中も完全に会得はできていませんが、それでも瓢箪を割るぐらいには身になっています」

「・・・・・・」

「今はもう、暁歩さんもこの屋敷で立派になりました。要と言っていいほどです」

 

 今の暁歩は屋敷にとってとても大切だと、しのぶは言ってくれている。

 それなのに、自分の中でチリチリと焼けるように発している嫌な予感が、それを素直に喜ぶことを妨げている。

 その言葉は、一体何を思って言っているのだろう。

 しのぶは今、どんな気持ちなのだろう。

 

 

「もう私がいなくても、大丈夫ですね」

 

 

 その言葉に、不安が、恐怖が、不吉な予感が、頂点に達した。

 

「・・・暁歩さん?もしもし?」

 

 何も返事をしなくなった暁歩を不審に思ったのか、しのぶが顔を覗き込んでくる。

 だが、暁歩はその呼びかけに応じない。

 

「え・・・っ」

 

 そして暁歩は、自分の中で肥大化する不安と恐怖に耐えかねて、そっとしのぶを抱き寄せた。

 

「・・・暁歩、さん?」

 

 腕の中で、突然の行動に困惑した様子のしのぶ。

 けれど暁歩は、その腕を決して解こうとはしなかった。

 

「言わないでください」

「え?」

 

 ようやく声を発したかと思えば、その言葉に主語はない。

 しのぶが問い返すと、暁歩は一層しのぶを抱き締める力を強くする。

 

「いなくても、なんて悲しいこと・・・言わないでください」

 

 しのぶが、ハッとしたような顔を浮かべる。腕の中にいるので、暁歩にはその表情が見えないが、それでも続ける。

 

「俺にとってしのぶさんは・・・失っていた自信を取り戻させてくれた、そして見守ってくれたとても大切な人です」

「・・・・・・」

「だからこそ、ある日突然いなくなってしまったら、と考えると悲しいですし、そうなってほしくないとも思っています」

 

 暁歩の中にある、しのぶに対する大きな気持ち。

 それを伝えようとして、思い留まった。

 この気持ちを伝えたら、しのぶの強さを揺るがしてしまうと理性が警告をしてしまったから。

 

「それに俺だけじゃなくて、アオイさんやカナヲさん、きよちゃんたちも、しのぶさんがいなくなってしまったら悲しむでしょう」

「・・・・・・」

「しのぶさんは、皆にとっても大切で・・・かけがえのない人なんですから」

 

 そこでようやく、暁歩はしのぶを離した。

 ハッキリと見えた暁歩の表情は、悲しそうに眦が下がっている。これまで見せたこともないような、とても悲しげな表情だった。

 

「・・・すみませんね。悲しませるようなことを言ってしまって」

 

 しのぶは、その表情を見て胸がとても痛んだ。身体を斬られるように心が痛み、謝ってしまう。そんな顔をしてほしくないと、切望してしまう。

 

「少し、気弱になってしまってました」

「・・・?」

「これから・・・大きな戦いが始まる、と思うと」

 

 しのぶもまた、何かを言いかけるような兆候があった。だが、視線を僅かに下に向け、次に暁歩を見る時には何事もないように笑みを浮かべる。 

 

「・・・暁歩さん」

「?」

「これを」

 

 それからしのぶは、懐から小さな瓶を取り出して、それを暁歩に差し出す。中に入っているのは、紫色のとろみのある液体。毒だと、暁歩は直感で理解した。

 

「・・・近い内に起こるであろう戦いに向けての、護身用です」

 

 暁歩は基本蝶屋敷にいるので、戦いに巻き込まれる可能性は低い。だが、戦いとは命の選別なく誰かを巻き込み、時として無関係な人まで巻き込む。それに備えて、しのぶは毒を渡した。

 

「珠代さんと調合して、より強力なものになっています。これを渡しておきますよ」

 

 暁歩はそれを受け取り、手のひらの上に載せてじっと眺める。

 

「私も、暁歩さんにはいなくなってほしくないですから」

 

 先ほどの暁歩と同じ願い。それを考えて、この毒を託す。

 

「・・・ありがとうございます」

 

 暁歩は小瓶を受け取って懐に仕舞う。それを見届けたしのぶは、一度頷いてから星空を見上げる。

 

「・・・さて、それでは少し休みましょうか。せっかく珠代さんが気を利かせてくれたんですから」

 

 そうしてしのぶは、『おやすみなさい』と言って屋敷へと戻る。

 一方で暁歩は、それを見送りながら、懐から毒の小瓶を取り出した。

 自分の中で渦巻いている、得体の知れない嫌な予感。それはしのぶと接している中で大きくなり、とても気のせいと思うことはできない。

 来る大きな戦いで、もし自分が戦うことになったら。

 その相手が強大な存在だとしたら。

 自分にはまだ何か、できるのではないか。

 そう思った暁歩は、申し訳ない気持ちを抱きながら調剤室へと向かった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 私室が調合に使われているため、しのぶが休む部屋は二階の特別室だ。普段自分はここで治療を受けることがないので、ここで寝るのも新鮮な気持ちである。

 その寝台の上で、しのぶは先ほどまでの出来事を思い出す。

 

 ―――いなくても、なんて悲しいこと・・・言わないでください

 

 これから起きることと、自分の背負った覚悟を思い、柄にもなく弱気なことを言ってしまった。

 そして、暁歩が自分を抱き締めてくれた。

 しのぶにとって、男に抱き締められるなんてことは初めてだ。

 けれど、暁歩の腕の中は、とても温かくて、優しい匂いがして、全てを吐露してしまいそうになるような安らぎを与えてくれた。

 

(・・・・・・)

 

 布団の中で自分の胸に手を置く。

 あの時、自分の心臓の鼓動が少し早まったのを、しのぶ自身は感じ取っていた。だが、それが初めての出来事に緊張していたから、とは少し違う気がする。

 しのぶはすぐに首を横に振った。

 

「・・・もう遅いんですよね」

 

 未だしのぶは、自分の中に宿っている新しい感情がどういうものか、分からない。

 だが、仮にこの気持ちが『そう』だったとしても、自分で言った通りで遅かった。

 そして、今の自分の全てを伝えることなんてできない。この気持ちと、カナヲにしか明かしていない事実を言えば、それこそ暁歩は悲しい顔をするだろう。

 本当に罪悪感が強くなる。しかし、引き返せないところにしのぶはいた。

 全ては自分の大きな願いのためであり、悲しい目標に向かうためでもあるのだから。



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第22話:矛盾の走馬灯

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「緊急招集―――ッ!緊急招集―――ッ!」

 

 それは、突然だった。

 

「産屋敷邸襲撃ィ!産屋敷邸襲撃ィィ!!」

 

 静かな夜を劈く鎹鴉の連絡を聞いた直後、しのぶは屋敷を飛び出す。向かうのはもちろん、尊敬してやまない輝哉がいる産屋敷邸だ。

 襲撃したのは恐らく、鬼舞辻無惨。

 輝哉は、数日前に鬼舞辻無惨が仕掛けてくることを予見していた。それは本人曰く『勘』らしいが、これはほとんど外れたことがないらしく、予知とほぼ同義でもあるらしい。だからこうなることを、しのぶだけでなく柱は分かっていただろう。

 日光を克服した禰豆子を狙ってか、それとも鬼殺隊の抹殺を目論んでのことか。狙いは分からないが、今は一刻も早く産屋敷邸へ向かわなければならない。

 鬼を人間に戻す薬は少し前に完成しており、珠代と愈史郎は既に蝶屋敷にはいない。そして禰豆子も、元柱である鱗滝左近次が連れて移動し、人間に戻す薬も既に投与している。あの薬が正常に機能すれば、禰豆子は人間に戻り無惨の野望も水泡に帰すだろう。

 だが、無惨が姿を現したこの機を逃すわけにもいかない。

 

(お館様・・・!)

 

 輝哉は、歴代鬼殺隊当主は、誰一人として自らの傍に柱はおろか一般の隊士さえも護衛につけていない。病に侵され動けない自分に代わり、鬼と戦い続けている隊士を、自分一人のために使役するのを良しとしていなかったから、と。柱でも最年長である悲鳴嶼行冥の申し出さえも、聞き入れてくれなかった。

 そして輝哉の病は深刻化しており、今は起き上がることもままならない。産屋敷家に鬼と戦える力を持つ者もいない。

 まさに丸腰の輝哉は、囮になったのだ。無惨をおびき出すための。

 

(早く・・・早く・・・!)

 

 とにかく今は、一刻も早く産屋敷邸に向かわなければならない。

 自分の身軽さを活かして、しのぶは木の枝から木の枝へと跳び、最短距離を移動する。他の柱も急行しているのか、周囲から気配を感じる。

 

(見えた、お屋敷・・・!お館様・・・!)

 

 しかし、屋敷を目前にしたところで、突然大きな爆発が屋敷で起こった。

 

「―――ッ!!」

 

 夜なのに、辺り一帯が昼のように明るくなり、爆炎と火の粉が舞い上がる。同時に漂う、火薬の匂い。

 誰の目に見ても、屋敷にいた輝哉とその家族が死んだのは明らかだ。目の前で、あと一歩のところで、間に合わなかった。

 だが、足を止める暇はない。輝哉が命を懸けてまで無惨を足止めしたのだ。それをふいにするわけにはいかない。

 怒りと後悔を噛み砕き、脚に力を込めてより高く、より前へと跳ぶ。

 森を抜けて、ついさっきまで屋敷があった爆心地の中心には、異様な光景があった。

 そこには黒い棘がいくつも生えており、その中心では一人の男が無数の棘に身体を串刺しにされて動けなくなっている。さらにその男の前には、腕を突き刺している珠代の姿があった。

 

「無惨だ!鬼舞辻無惨!こいつは頸を斬っても死なない!」

 

 一足早く到着し、既に攻撃を仕掛けていた行冥が叫ぶ。

 この男が鬼舞辻無惨。柱でさえ接触する機会がなかった鬼の根源であり、鬼殺隊が長年斃そうとしてきた存在。

 頸を斬っても死なない場合は、朝まで無惨を日光の当たる場所に拘束しなければならない。そのために技を一気に叩き込んで、まともに行動できなくさせて留まらせ続ける。

 柱が一斉に抜刀し、技を仕掛けようとする。

 

―――蟲の呼吸・蝶ノ舞・・・

 

 しのぶもまた、刀を抜いて毒を打ち込もうとする。自分の毒が無惨に通用するかは分からないが、珠代と協力してより強い毒を作ることはできている。足止めには向いているはずだ。

 だが、無惨の下へ柱が殺到し、地に足を着けようとしたその瞬間。

 

「!?」

 

 突如、地面に障子戸が出現した。

 そこはついさっきまで、焼け爛れた地面のはずだったのに、一瞬にして奇妙な戸が現れる。しかもその奥には、無限に続くような謎の空間が広がっていた。そしてその障子戸は、自分だけでない他の柱、さらには無惨本人の直下にも出現している。

 

「目障りな鬼狩り共!今宵、皆殺しにしてやろう!!」

 

 初めて聞いた、無惨の声。そこには、殺気と怒気を孕んでいた。しかし、謎の空間に落とされてしまい、姿も声も捉えられなくなる。

 障子戸の奥に広がっていたのは、上下左右に襖だの畳だの階段だのが張り巡らされている、城にも屋敷にも見える謎の空間。そして、すぐ近くにいたはずの他の柱の姿も見えなくなり、ここは十中八九敵の血鬼術で生み出されたものとしのぶは瞬時に理解した。

 

(どこかに掴まらないと・・・)

 

 落下しながらも冷静に状況を見るしのぶは、横に抜ける廊下を見つける。そこで空中で身体を捻り向きを変え、壁を蹴ってそこへ目掛けて着地する。こういう時に自分の身軽さは役に立った。

 

「!」

 

 しかし、ほっとしたのも束の間。着地した廊下の脇の襖を破って、口が七つもある異形の鬼が姿を現した。雄叫びとも悲鳴とも取れる奇声を発するそれを、しのぶは冷静に刀で突いて毒を注入する。するとその鬼は、苦しそうな濁った叫び声を上げ、やがて糸が切れたように沈黙する。

 それを確認すると、しのぶはその場を離れる。敵の領域であるこの空間でじっとしているのは危険すぎた。

 だが、一歩踏み出すたびに、自分の中にある黒い感情が次第に大きくなっていくのを感じ取る。それはここが敵の本陣であり、自分の仇敵がいるかもしれない、という予想が強まっているからだろう。

 

(血の匂いがする・・・)

 

 そうして廊下を進んでいると、鼻をつく独特の匂いがしてくる。長い戦いと、蝶屋敷での治療で嗅ぎ慣れてしまったものだ。

 周囲の状況を見る。天井にはなぜか襖があり、左手側には蓮の花が咲く溜池。そして右手には他とは違う重厚な扉があり、血の匂いはそこから漂ってきていた。

 その扉に手を掛けようとすると、自分の心臓の鼓動が早まってくる。この扉の向こうには、確実に『強力な存在』がいると本能が訴えかけていた。

 意を決して、扉を開く。

 部屋の中は広く、天井も二階分ほどの高さがある。下は床と言うよりも木製の橋が張り巡らされており、その下には水が溜まっていた。

 

 だが、すぐ近くの橋の上には、何人もの女性が同じような白い衣服を着て横たわっていた。血に塗れていて、生きているのか死んでいるのかも分からない。

 そしてそのそばで、胡坐をかいて、見なくても人の肉を喰っているのが分かる鬼がいる。

 

 その光景を目にしただけで、しのぶの中で憎悪と憤怒の感情が沸き上がってきた。

 すると、扉の開く音に気付いたのか、鬼が振り向く。

 

「あれぇ?来たの?」

 

 振り向いた鬼は、しのぶの姿を認めると、ぱっと表情を明るくする。口元についていた血を、ペロッと舐めとった。

 

「わあ、女の子だねえ!若くて美味しそうだなあ」

 

 身体中の細胞という細胞が沸騰しているように、身体が熱くなる。

 振り向いた鬼の瞳には、左右に『上弦』『弐』と文字が浮かんでいる。それはこの鬼が、十二鬼月の中でも最上級の強さを誇る上弦の弐であることを示している。

 だが、しのぶにとって重要なのは『最上級の強さ』と言う点ではない。『上弦の弐』と知って、しのぶの中でボコッと心が泡立つ感覚がする。

 

「やあやあ、初めまして。俺の名前は童磨(どうま)

 

 頭にかぶっていた冠のようなものを取って、童磨と名乗った鬼は陽気に挨拶をする。

 上から血を被ったかのように、童磨の髪は頭頂部が赤く、着ている服も同様に赤かった。それを見て、しのぶの目が見開かれる。

 

「た・・・たす、け・・・助けて・・・!」

 

 その時、童磨の傍に横たわっていた女性が、恐怖に満ちた表情でしのぶに手を伸ばし、助けを求めた。

 一瞬でしのぶは移動し、女性を抱えて童磨から距離を置く。『わぁ、速いね~。柱なのかな?』なんて童磨が言っているが無視した。

 

「もう大丈夫ですよ」

 

 しのぶは一度、自分の中に滾る激情を冷やし、笑みを浮かべて女性に話しかける。

 だが、女性の表情は未だ恐怖に染まったままで、苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。そして次の瞬間には、女性の身体は細切れになってしまった。

 

「・・・・・・」

 

 自分の手から崩れ落ちた女性を見て、しのぶの思考が止まる。手についた血を呆然と眺めることしかできない。

 誰とも知れない人の命が、自分の腕の中で喪われてしまった。

 

「あ、大丈夫!そのままそこに置いといて!後でちゃんと喰べるから」

 

 童磨は変わらず、陽気な口調でしのぶに言葉を投げてくる。

 ゆっくりと、しのぶは童磨の方を振り向く。

 童磨の手には一対の鉄扇が握られており、それで先ほどの女性は一瞬で切り刻まれたのだと分かった。同時に、冷やしていた自らの感情に火が灯る。

 

「俺は『万世極楽教』の教祖なんだ。信者の皆と幸せになるのが俺の務め、その子も残さず綺麗に喰べるよ」

 

 しのぶは、今は亡きカナエの今際の時を思い出す。

 カナエはしのぶに、鬼殺隊を辞めるように言った。だが、しのぶはカナエを殺した鬼に復讐しなければ、この未練は消えないと、鬼に背を向けて生きるなんてできないと告げた。

 そしてカナエに、そいつがどんな鬼だったのかを聞いた。カナエが告げた特徴は、今目の前にいる童磨と一致している。

 

「・・・皆の幸せ?何を呆けたことを。この人は嫌がって助けを求めていましたよ」

「だから()()()()()()だろ?」

 

 怒りを抑えて冷静になろうと、しのぶは平板な口調になる。いつも浮かべている微笑なんて、とうに消えていた。

 だが童磨は、変わらない調子で、細切れになった女性を指差す。命が尽きたその首には、恐怖や苦痛の表情が張り付いている。

 

「その子はもう苦しくないし、辛くもないし、怯えることもない。死んで解放されたんだから」

 

 ゆらりと、しのぶは立ち上がり、童磨を見据える。

 

「俺は信者たちの想いを、血を、肉をしっかりと受け止めて救済し、高みへ導いている」

 

 自分の胸に手を当てて、うっとりとした様子で童磨が語る。

 しのぶの脳裏に、ここにはいない蝶屋敷の皆の顔が浮かび上がった。

 暁歩やアオイ、きよたちは、怪我をして運び込まれた隊士の怪我を治し、命を救おうと一生懸命だった。そこにあるのは、傷ついた人を助けたいと思う純粋な気持ちであり、それを原動力にして怪我に寄り添い、快復できるように尽くしている。

 それこそがしのぶにとっての、『救う』姿勢だ。

 

「正気とは思えませんね」

 

 けれど、この童磨の言う『救う』とは、それとはかけ離れている。蝶屋敷の皆と同じく命を救おうとしているしのぶにとっても、度し難い。

 

「貴方、頭大丈夫ですか?本当に吐き気がする・・・」

 

 目元が震え、自分の声にも怒りが滲み出てきているのが自分で分かる。

 けれど、童磨は『え~っ?』と微塵も傷ついていないような声で、キョトンとした表情をする。

 

「初対面なのに随分刺々しいなぁ・・・あっ、そうか」

 

 すると童磨は、何かに気づいたように笑う。

 そして、可哀想なものに向けるような表情を浮かべて、しのぶに話しかける。

 

()()()()()()があったんだね?聞いてあげよう。話してごらん?」

 

 抑えきれなかった。

 

 

「話すことなどあるものか・・・!」

 

 

 怒りを凝固させたような、低く荒い声が喉からついて出る。

 こんな声、出したことがない。

 

「私の姉を殺したのはお前だな・・・」

 

 怒りのあまり血管が浮かび上がり、自ら噛み砕きそうになるほど歯を軋らせる。眉間に皺が寄る。

 こんな顔、したことがない。

 

「この羽織に見覚えはあるか・・・?」

 

 この能天気な鬼に思い出させるように、羽織を掴んで前に出して見せつける。

 こんな態度、とったことがない。

 

「ん?」

 

 言われて童磨は、羽織を見て首を傾げ、記憶を辿るように少しの間沈黙する。やがて思い当たる節があったのか、『ああ!』と軽く手を叩いた。

 

「花の呼吸を使ってた女の子かな?」

 

 花の呼吸は、水の呼吸から派生した、カナエが編み出した呼吸法。それを使っているのは、見よう見まねで呼吸法を真似したカナヲと、当人のカナエしかいない。

 だから、確定した。

 この童磨こそが、しのぶにとって最愛の姉を殺した仇だ。

 

「優しくて可愛い子だったなぁ。朝日が昇って喰いそびれちゃった子だよ、覚えてる。ちゃんと喰べてあげたかっ」

 

 ならばもう、こいつの言葉を最後まで聞く道理も義理もない。

 

「た」

 

―――蟲の呼吸・蜂牙ノ舞

―――真靡き

 

 自分にとって憎くてたまらない仇敵を前にした時、自分はどうなるのだろうとしのぶは考えていた。もちろん、ずっと憎んでいたし、感情が荒ぶるのは予想できたが、自分がどんな気持ちになり、どんな行動をするのかまでは、正直想像できなかった。

 しかし今、心はこの童磨を殺すことしか考えられない。コイツのせいで愛する姉と永遠に別れることになってしまったことが、今になって心を鷲掴みにされるように苦しく、悲しくなる。同時に、猛烈な殺意が心に広がっていく。

 それらの感情が混濁とした渦を巻き、自分の身体を満たしている。今すぐにでも怒号を挙げなければ内側から砕け散りそうになるほどだ。

 その自分の中で確実に蓄積されてきた黒い気持ちを、自らの日輪刀に込めて、童磨に突き刺した。

 

◆ ◆

 

 カナヲは、突然引き込まれた謎の異空間を駆ける。

 柱稽古から帰ってくる途中で、急に足元に謎の障子戸が開いたかと思ったら、こんな奇妙な空間に放り込まれた。天井に襖があったり、壁に廊下のような板が張ってあったり、床にも引き戸があったりと、上下左右の感覚が狂わせられるようだ。

 しかし今は、そんなことは心底どうでもいい。平衡感覚を保って走り続ける。

 

「ッ・・・!」

 

 天井の襖から姿を現した、獣のような頭の鬼の頸(らしき部分)を斬り、先へ進む。

 これまでもまた異形の鬼を何体も斬ってきたが、これだけの数がいるとなればここは間違いなく敵の本拠地と見ていい。もしかしたら、ここ数週間鬼の情報が全く無くなったのは、ここに鬼を潜ませるためだったのかもしれない。

 そして本拠地であれば、まだ残っている十二鬼月もいるはず。

 つまり、カナエの仇である上弦の弐だっているかもしれないのだ。

 

(しのぶ・・・)

 

 カナヲは、柱稽古が始まってからしのぶと二人きりで話をする時間があった。

 話の内容は、カナエを殺した上弦の弐を斃す方法について。しかしながら、その方法はカナヲにとって受け入れがたいものだった。

 

 ―――私は鬼に喰われて死ななければなりません

 

 大前提からして、納得できなかった。

 まず、仇敵である上弦の弐は、若い人間の女性を好んで喰らう底意地の悪い奴だという。

 次に、鬼にとって女性の肉とは、男性の肉よりも栄養価が高いらしい。というのも、女性は子供をお腹の中で育てるために、より多くの力を宿しているからだ。

 それらの要素に加えて、しのぶは柱であり、通常の女性以上の力を持っている。まさに稀有な肉体の持ち主だ。

 そこを狙って、しのぶは自ら喰われて、死ぬと言うのだ。

 しのぶの体内には、現在非常に高純度の藤の花の毒が巡っており、頭の天辺から爪先まで毒で満たされているも同然の状態。しかもこの状態になるまでおよそ一年、藤の花の毒を摂取し続けているという。

 つまり上弦の弐が、毒の塊と化しているしのぶを喰えば、殺せるかどうかは分からないが、確実に弱体化させられる。そこにカナヲが止めを刺すという寸法だ。

 

(しのぶ姉さん・・・)

 

 しかしカナヲは、そのしのぶの考えを理解することはできても、納得ができていない。

 理屈では理解できても、根元の部分にある感情は拒んでいる。

 家族に捨てられたカナヲにとって、しのぶは今日まで自分に愛情を注いでくれた、いわば姉のような存在。

 最初は感情をほとんど失ってしまったカナヲだが、炭治郎と出逢ったことで再び心に色が付いて、自分を出せるようになってきたのだ。それはしのぶも喜んでくれていた。

 だからこそ、自ら進んで死のうとするしのぶのことを止めたかった。何とかして、しのぶが死なないで勝つ方法を考えたかった。

 

 ―――そのような甘い考えは今すぐこの場で捨てなさい

 

 それを口にした時の、しのぶの冷たい言葉が心に蘇る。

 上弦の弐の強さは、カナヲがこれまで戦ってきたそこらの鬼とは比べ物にならないほどなのは分かる。蝶屋敷に運び込まれていた炭治郎だって、これまでに上弦の鬼と二回戦っており、その度に傷つき短くない時間眠り続けていた。それに、上弦の参の強さは柱を殺すほどだ。

 それ以上の存在である上弦の弐を相手に、全員が生きて勝つなんて話は、所詮夢物語なのかもしれない。

 そしてしのぶが、揺るがない覚悟を決めているのであれば、カナヲはそれを無駄にしないように戦うしかない。

 だが、しのぶもわざと喰われる腹積もりなのを悟らせないために、全力で戦うだろう。それに、自分が喰われる覚悟を決めていても、喰われずに勝とうとするはずだ。

 だから少しでもカナヲが早くそこへ辿り着いて、一緒に戦って勝てばいい。

 

(早く・・・早く行かないと・・・!)

 

 異空間を走るカナヲの足に力が籠る。足元の障子戸や左手側の襖から異形の鬼が何体も姿を現すが、迷わず斬り、身体を捻って攻撃を避けて走り続ける。

 自分以外の戦闘の音は聞こえない。いかんせん構造が複雑なうえに広大なだけで、恐らく他の隊士もこの空間に引き込まれてしまっているだろうが、状況が分からなかった。

 それでもカナヲは、耳を澄ませて、目を凝らしてしのぶの姿を探す。途中で現れる鬼も手早く斬って走り続ける。

 やがて前方に、扉が開いている部屋が見えた。その目の前には、蓮の花が浮く溜池のようなものがある。

 あの部屋に何かがある、そう思ってカナヲはより脚を速く動かしてそこへ向かう。

 

「え?」

 

 だが、その部屋の近くであるものを見つけた。

 

◆ ◆

 

 すれ違いざまに、毒を打ち込もうとする。けれど、もうこいつに毒は通用しなかった。

 そして、私の身体に深い傷が刻まれた。

 

「こふっ・・・」

 

 口から血が流れ出る。身体からも血が零れてくる。ここまでの怪我を負ったのは、初めてだ。

 呼吸で止血しようとしても、片方の肺は血鬼術で凍り付き、もう片方の肺も斬られた。立ったままでいられなくて、膝をついてしまう。

 

「ごめんごめん。半端に斬っちゃったね」

 

 後ろから、けらけらと耳障りな童磨の声が聞こえてくるけれど、私にはもう何かを言い返すほどの気力さえ残っていない。

 毒はもう五回打ち込んでいるのに、全部分解された。しかも、打ち込むたびに効き目が弱くなってしまって、()()()毒はもう通じない。

 床についている、自分の小さな手にも血が滴り落ちる。

 私は姉さんのように上背はないし、悲鳴嶼さんのように力もない。鬼の頸を斬れないからこそ、毒を打ち込んで殺すしか鬼を斃す術が無かった。それなのに、あの童磨にはもうその毒も効かない。

 どれだけ童磨が憎くても、私には姉さんや悲鳴嶼さん、煉獄さんたちみたいにちゃんと刀を振って戦う力がない。

 もっと私の背が高くて、もっと力があれば、ちゃんと戦えたかもしれないのに。

 力が弱くて、毒も効かない今の私には、もう何もできない。

 考えても意味がないことばかりが思い浮かんで、今の自分の無力さに涙が出そうになる。

 

『しっかりしなさい。泣くことは許しません』

 

 弱気になっている私の頭上から、声が聞こえた。

 優しくて、それでいて強い意思が籠っているような声。

 姉さんの声だ。

 

『立ちなさい』

 

 鬼殺隊に入ったばかりの頃、挫けそうになった私を奮い立たせる時と同じような話し方。普段姉さんは、ふわふわした喋り方をしていたから、その時の話し方はよく覚えている。それを聞くたびに私は、自分を奮い立たせてきた。

 けど、ごめんなさい、姉さん。

 私の受けた傷が深すぎて、呼吸することさえままならなくて。

 私の作った毒も通用しなくなって。

 私はもう、立つことさえ・・・

 

『関係ありません。立ちなさい。()()・胡蝶しのぶ』

 

 透き通るようで、強い芯が通った言葉。

 私の中で消えかけていた、心の炎がもう一度灯る。

 例え力が弱くても、私は柱だ。まだやれるのに、弱気になって、戦いを捨てるなんてことは、許されない。

 姉さんの言葉に、私の中で消えかかっていた意思が、もう一度くっきりと浮かび上がる。

 ゆっくりと、身体に負担を掛けないように、立ち上がる。

 

「え、立つの?立っちゃうの?」

 

 背後にいる童磨が、心底不思議そうに呟いているが気にするものか。

 

「えー・・・君、ホントに人間?」

 

 どう言われようと、関係ない。

 たとえ今の私が人間でなくても、お前のことは絶対に殺す。

 

「く・・・っ」

 

 けれど、胸の傷は深い。肺は傷つき、呼吸もおぼつかない。呼吸法の技も、後一回程度しか使えないだろう。

 

(・・・頸を狙う)

 

 鬼の急所は頸。そこへ毒を打ち込めば、効くはずだ。今までは、眼だの手だのにしか毒を打ち込めていなかったから、やる価値は十分ある。

 飄々と笑う童磨を見据えて、慎重に呼吸を整える。

 

―――蟲の呼吸・蜈蚣ノ舞

 

 最後の力を振り絞って、脚に力を込めて、床を蹴って前に駆け出す。

 一瞬で、童磨との距離を詰める。

 

「わー、すごいね!怪我してるのにそんなに動けるなんて!」

 

 全く危機感を覚えないような口調でいる童磨。

 撹乱するように動いて、最後に体勢を低くして頸目掛けて刀を突き出す。

 

「え」

 

 いきなり低い位置から狙ってきたことに驚いたのか、童磨が間抜けな声を洩らした。

 その喉に、喰らわせてやる。

 

―――百足蛇腹(ひゃくそくじゃばら)

 

 脚の力を最大限に引き出して、喉に刀を突き刺して、童磨を天井まで突き上げる。見ていなかったけど、木でできた橋を砕くほどの脚力を出せたみたいだ。

 

「ぐぇっ・・・」

 

 天井にめり込む童磨は、空気が洩れるような声を吐く。

 ただ私は、支えるものがないからそのまま下に落ちていく。この高さでこのまま頭から落ちれば、無事では済まないだろう。

 けれど、例え相討ちになってでも、この童磨は殺す。

 そうすれば仇は討てる。この先多くの人が殺されることもないから。

 

 ―――まだ壊されていない誰かの幸せを守るために、戦いましょう

 

 姉さんの言葉が、頭を過ぎる。

 私たちが鬼と戦うのは、その理由があったから。

 鬼を斃せば、何人、何十人という命が救える。それが十二鬼月、それも上弦なら、何百人と命を救うことだってできるだろう。それだけの人の幸せが、壊されないでいいのだ。

 そのためなら、私一人の命なんて軽いものだろう。

 

 ―――俺だけじゃなくて、アオイさんやカナヲさん、きよちゃんたちも、しのぶさんがいなくなってしまったら悲しむでしょう

 ―――しのぶさんは、皆にとっても大切で・・・かけがえのない人なんですから

 

 暁歩さんの言葉が蘇る。

 私がいなくなることを悲しんでくれる人がいてくれる。それだけ私は大切に思われているのだから、それは嬉しい。

 だけど、ごめんなさい。

 私は、こうでもしないと上弦の鬼を斃せないような強さしかないから。

 悲しませるようなことをして、ごめんなさい。

 

「・・・・・・」

 

 ―――怒ってますか?

 

 炭治郎くんに言われたことを思い出す。

 私は怒っているんですよ、炭治郎くん。家族を喪った時から。理性なく人を喰らう鬼と戦って、惨たらしく死んでしまった人たちを目にして、目の前で命を助けられなくて、自分の力の弱さを思い知って。

 姉さんを殺した鬼を前にして、必殺の一撃を喰らわせたのに。

 

 童磨は、笑っていた。

 なんで毒が効かないのよ、コイツ。

 馬鹿野郎。

 

 私が床に落ちる直前で、童磨が氷の触手を伸ばしてきて、それは私の身体に巻き付いた。気持ち悪い。

 そして触手は、私を童磨の下へと運ぶように縮んでいく。童磨は天井にめり込んだまま、まるで私を迎え入れるように腕を広げた。

 

「えらい!頑張ったね!俺は感動したよ!」

 

 あろうことか、私を抱き締めてきた。

 不快だ。気持ちが悪い。吐き気がする。

 姉さんを殺して、私まで殺そうとしている鬼なんかに抱き締められるなんて、虫唾が走る。童磨は何事かを言っているけれど、聞く耳も持てない。

 しかもコイツ、私を殺そうとするために腕に力を込めている。このままいくと私は、身体の骨を折られて死ぬだろう。

 

 やっぱり、私だけじゃ敵わなかった。

 

 頸を斬るほど力がなくて、毒でしか鬼を斃せない私では、この童磨には勝てなかった。

 それを見越して姉さんは、私に鬼殺隊を辞めるように言ったのだろう。

 けれど、私がこのまま死んで、童磨が私を喰えば、それでいい。致死量以上の毒が巡って弱ったところに、カナヲが止めを刺せばいい。

 カナヲなら、やってくれるはずだ。

 だって、私と違って、ちゃんと刀を振って戦うことができて、強いんだから。

 

(・・・気持ち悪い)

 

 でも、それ以前に、こんな奴に抱き締められるなんて、最悪の気分だ。しかも、ひと思いに殺そうとしない。

 本当に、気持ち悪い。

 

 

 だけど、ほんの少し前に、同じようなことがあった気がする。

 その時は、今みたいな不快感しか抱かないものじゃなくて、もっと温かくて、穏やかな気持ちになれたような。

 

 ―――いなくても、なんて悲しいこと・・・言わないでください

 

 そうだ、暁歩さんだ。

 この童磨なんかとは全然違う、もっと優しく抱き締めてくれた。

 そして抱き締められた時、私の胸はとても高鳴った。

 

 ―――今までが辛かったのなら、この先愛情を注げばいいんです

 

 記憶が、経験が脳裏に蘇ってくる。

 ああ、走馬灯だ。

 私はもう、死ぬんだ。

 

 ―――人の死には、慣れない方がいいと思います

 ―――慣れてしまったら、命がどれだけ大切か見失ってしまいそうですから

 

 ・・・。

 

 ―――しのぶさんたちが俺を受け入れてくれて、本当に良かったと思っています

 

 ・・・あれ?

 

 ―――何というか、俺もまだまだ頑張らないとと思います

 

 走馬灯は、死の間際、自分の過去を遡って、死を回避する方法を見つけるためのもののはずなのに。

 

 ―――家族との思い出を覚えているのは、それだけしのぶさんが、家族が大好きだったということですよ

 

 今思い返していることは、暁歩さんと交わした言葉や、思い出のことばかり。

 死を回避する方法なんて、見つからない。

 

 ―――ここに来て日が浅い自分が言うのも何ですが、何か悲しい気持ちや辛い思いがあるようでしたら、自分が受け止め、支えます

 ―――どうか、頼ってください

 

 何でそのことばかり、思い出すんだろう。

 

 ―――しのぶ・・・

 

 姉さんの姿が浮かび上がる。息絶える直前の記憶が、蘇ってきた。

 

 ―――鬼殺隊を、辞めなさい・・・

 

 何で今になって、このことを思い出すのだろう。

 

 ―――普通の()()()()()()を手に入れて・・・

 ―――お婆さんになるまで生きてほしいのよ・・・

 

 

 

 ・・・そういうことか。

 やっと、やっと、分かった。

 

 

 

 ―――俺にとってしのぶさんは・・・失っていた自信を取り戻させてくれた、そして見守ってくれたとても大切な人です

 

 あの時、暁歩さんに抱き留められて、鼓動が高鳴って、安心したのも。

 

 ―――別に・・・何とも思ってないはずなんですけどね

 

 宇髄さんとその奥様のやり取りを暁歩さんと見てしまって、悶々として、自分の気持ちが分からなくなってしまっていたのも。

 

 ―――自分の心が分からなくなる日が来るなんて

 

 きよと仲がよさそうな暁歩さんを見て、引っ掛かりを抱いたのも。

 

 ―――私にもああして、誰かを想ったり、誰かに想われたりすることはあったのでしょうかね

 ―――それは今からでも、できますよ

 

 甘露寺さんと伊黒さんのように、親密な関係にある二人を羨ましく思ったのも。

 

 ―――私を知ってもらったあなたに、今だけ、ほんの少しの間だけ・・・こうしてほしいです

 ―――これから先・・・しのぶさんが辛いと思ったり、支えてほしいと思ったら、俺はいつでも力になります

 

 あの人の傍にいると安心するのも。

 全ては純粋な、一つの気持ちから来るものだった。

 その気持ちの欠片は、たくさんあった。けれど、なかなかそれに気付けなかった。それは、私のような女がこの気持ちを抱くことはないだろうと、ある意味諦めていたからなのかもしれない。

 だけどこうして、暁歩さんとのことを思い出して、姉さんの言葉も思い出して、気付かされた。

 私は心の中で笑ってしまう。

 鬼殺隊を続けていたからこそ、あの人に出逢えたけど、私は永く生きられない。

 鬼殺隊を辞めていれば、私は永く生きていただろうけど、あの人に出逢えない。

 

 どちらを選んでいても、私は『女の子の幸せ』を掴めないのだから。

 

 童磨が力を籠めているのか、私の身体からミシミシと骨が軋む音が聞こえてくる。もう間もなく、私は死んでしまうだろう。

 最期にこの気持ちに気付けて、良かったと思う。

 この気持ちを抱いた時、胸がこんなにも温かくなると知れたから。

 最期にこの気持ちに気付いたのは、残念だと思う。

 だってもう、私はあの人に、この気持ちを伝えられないのだから。

 

「・・・・・・」

 

 今になって、死ぬのが怖くなってしまった。涙が自然と零れ落ちる。

 この気持ちを、伝えられないままでいるなんて。

 

 

 

 暁歩さん。

 私は、あなたのことが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

―――樹の呼吸・伍ノ型

―――柳枝抱擁(りゅうしほうよう)

 

 その時だった。

 私の身体が、別の何かにふわっと包み込まれるような感覚がした。涙で視界がぼやけてよく見えない。

 だけど私は、童磨ではない誰かに抱きかかえられているのが分かる。

 その『誰か』の香りはどこか懐かしさを感じるようで、それでいて優しくて、温かい。さっきまで殺すつもりでいた童磨なんかとは、比べ物にならないほど心地よいものだ。

 

「・・・しのぶさん」

 

 その『誰か』の声は、とても聞き覚えのあるものだった。

 傷ついた私に衝撃を与えないように静かに着地したその人は、私の顔を覗き込んでいるようで。

 

「・・・遅くなって、ごめんなさい」

 

 悲しそうで、それなのに優しい雰囲気のする言葉。

一度目を閉じて、もう一度開いて、やっと私はその人の顔をちゃんと見ることができた。

 

「・・・暁歩、さん・・・?」

 

 今だけは、心からの安心の笑みを浮かべられていると思う。

 だって、今の私が一番愛している人が、助けに来てくれたのだから。



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第23話:救う

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「産屋敷邸襲撃ィ!産屋敷邸襲撃ィィ!」

 

 夜の静けさを貫く鎹鴉の鋭い通達。

 それを聞いた瞬間、調剤室にいた暁歩はハッとして、傍らに置いてあった日輪刀を掴み南側の庭へと出る。

 すると丁度、しのぶが屋敷を文字通り飛び出して、産屋敷邸があるらしき方角へと向かうところだった。

 産屋敷邸は、鬼殺隊の当主・輝哉が生活をしている居宅。そこを襲撃されたとなれば大事だし、同時にそこを襲った相手もまた大物だと分かる。

 

(・・・始まったのか)

 

 これは間違いなく、鬼殺隊と鬼の総力戦の始まりを知らせるものだろう。暁歩もこれまでに、何人もの人からそう聞かされていた。

 もしかしたら、産屋敷邸を襲ったのは、禰豆子を狙っている鬼舞辻無惨かもしれない。鬼の祖の強さがどれほどかは分からないが、自分なんかでは相手にならないことは目に見えている。

 ならば今は、自分のやるべきことをやろう。そう思い、暁歩は調剤室へ戻る。

 机の上には、調べ物をするのに取り出した資料と、試験管などの実験器具、そして紫色のとろみがある液体が入った瓶がある。暁歩はその小瓶と、針と縫合糸、包帯、止血剤などの応急処置用の道具や薬を腰袋に入れて、戦いの準備を整える。

 それからもう一度、庭に出る。夜空には月が浮かんでおり、ここにしのぶがいたら『月がきれいですね』とでも言っていただろう。それぐらいには、今夜の月も綺麗だった。

 その時。

 

「え?」

 

 自分の足の裏にある地面の感覚がなくなった。

 下を見ると、何故かそこには障子戸が開いていて、そのさらに下には無限に続くかのような空間が広がっている。

 

「―――――っ!?」

 

 何かを叫ぶこともできず、重力に逆らえずに落下する。

 落下する中で、暁歩は身体を捻り、壁を蹴って渡り廊下らしき場所へ着地し、どうにか助かった。

 

「何だ、ここ・・・」

 

 周囲を見渡すが、そこは異様な空間だった。果てしないほど広く、階段や渡り廊下、障子戸や襖が上下左右を問わずに点在し、平衡感覚が狂いそうになる。すぐに血鬼術の類であると判断できたが、なぜ自分がこんなところに落とされたのか分からない。

 その直後、背後に気配を感じて即座に抜刀し、振り向きざまに横に斬る。

 

「・・・・・・」

 

 魚のように、妙にしっとりとした形状と質感の鬼が、こちらに向けて牙を向けているところだった。運よく頸らしき部分を斬り落とせたので、謎の鬼は塵芥と化して消えてしまった。

 眼前に不気味な鬼が迫り、自分が死の一歩手前にいたのを今になって再認識し、背中に悪寒が走る。しかし、気配を察知してすぐに対処できたのは、自分でも成長していると思えた。

 

「痛っ・・・!」

 

 だがその時、雷が落ちるような鋭い痛みが、暁歩の脳に走る。

 これは間違いなく、『予感』だ。

 だが、これほど強い痛みを伴う『予感』は初めてだ。つまりは、それだけ暁歩にとって何かとても辛く、悲しいことが起きる前兆。

 ここは間違いなく血鬼術で生み出された場所であり、、産屋敷邸が襲撃されたことも考えると、自分は恐らく総力戦に巻き込まれてしまったと考えられる。

 だとすれば、他の隊士や柱までもこの空間に引き込まれたのだろう。暁歩一人がこんな広大な異空間に引き込まれたとは考えにくい。

 そうなれば、しのぶも同じようにこの空間に落ちたはずだ。

 そして、先ほど働いた『嫌な予感』。もしかしたら・・・

 

「!」

 

 その可能性に気付いた直後、考えるのを止めて一気に駆け出す。

 しかしこの空間は、構造が複雑すぎて誰がどこにいるのかを認識するのが非常に困難だ。こんな場所でしらみつぶしに探すのも時間の無駄だろう。

 そんな中で暁歩は、先ほどから頭の中の予感に伴う痛みが、移動するにつれて強くなっているのを感じた。もしかしたら、この予感の出所に近づくにつれて、この痛みは強くなってきているのかもしれない。

 それを頼りに暁歩は、謎の空間を駆ける。

 

(間に合え・・・間に合え・・・!)

 

 途中でよく分からない鬼が出現するが、恐れも怯えも抱かずにただ刀で斬って、斃したかも確認せず進み続ける。今重要なのはこんな鬼ではない。

 階段を下り、渡り廊下を駆け抜け、時には一つ下の階層へ飛び降りて、自分の中で主張する嫌な予感を頼りに突き進んでいく。

 やがて、扉が開いている一つの部屋を見つけた。その反対側には、蓮の花が浮いた溜池がある。

 その部屋を見た瞬間、右目が引き抜かれるような激痛が走った。

 脇目も振らずに部屋の中へと飛び込む。

 一見すると、戦闘の跡は見られるが誰もいない部屋だ。

 ふと天井を見上げると、しのぶがいた。だが、天井にめり込んでいる鬼らしきものに抱き留められていて、逃げられないのか何の抵抗もしていない。

 それを見た瞬間、声を上げるよりも前に、呼吸を整えて跳躍した。

 

―――樹の呼吸・伍ノ型

―――柳枝抱擁

 

◆ ◆

 

「いやぁ、気付かなかったよ。何せ音もしなかったからさ」

 

 暁歩がしのぶをゆっくりと床に横にさせる後ろから、天井から降りた童磨が感心したように声をかける。

 暁歩の使った『柳枝抱擁』は、軽い身のこなしと繊細な太刀筋によって、狭い範囲の細かい部分を器用に斬る技だ。これで、しのぶを抱き留めていた童磨の腕だけを斬って、しのぶを救出したのだ。

 

「なん、で・・・こ、こが・・・?」

()()を頼りに。あと、あまり喋らないように・・・」

 

 暁歩がここまで辿り着いたのが疑問なのか、しのぶがおぼつかない喋り方で訊ねる。だが、暁歩は手短に答えてしのぶの怪我を診る。

 その時、暁歩たちの後ろにふわっと別の誰かが立ったような気配を感じた。少し振り返ると、カナヲが刀を構えて童磨と対峙している。

 

「・・・カナヲさん。少しでいいので、時間を稼いでもらえますか」

「・・・・・・」

 

 カナヲは応えないが、今は時間が惜しい。その沈黙を了承と受け取った暁歩は、腰に提げていた袋から包帯や止血剤、縫合糸と針を取り出す。

 一目見ただけで、しのぶの怪我はひどいと分かる。特殊な繊維でできている隊服を裂くほどの攻撃を受け、出血も少なくない。肺に異常をきたしているのか、呼吸も不規則でおかしい。

 

「・・・失礼しますね」

 

 断りを入れて暁歩は、しのぶの隊服の前を開く。出血が多く、下に着ていたシャツまで赤く滲んでしまっていて、それを見ると胸が痛くなる。だが、少しでも助かる可能性を上げるために、そのシャツも脱がせる。本当なら白磁のような綺麗な肌だっただろうに、今は傷口から流れた血で赤く染まっていた。

 胸が張り裂けそうな思いになるが、今はしのぶだ。清潔な手ぬぐいで傷周りの血を拭き取り、さらに縫合糸と針で傷口を縫う。ただ、傷の範囲が広いために、手持ちの縫合糸を全て使い切ってしまった。

 

「・・・師範は、あいつに毒を盛るつもりだった」

 

 カナヲが、童磨と対峙しながら暁歩に話しかける。

 だが、そのカナヲの言い方は、しのぶがいつものように毒を打ち込んで戦うのとは少し意味合いが違うと、暁歩には分かる。

 

「・・・・・・」

 

 しのぶのことを見ると、視線を横に逸らす。

 それで暁歩も、察しがついた。きっとしのぶは、自分の命を投げ出そうとしていたのだと。しかも今来たカナヲが知っていたということは、それはずっと前から決めていたことなのだろう。

 それが、暁歩がここ最近でずっと抱いていた妙な引っ掛かり、違和感、『嫌な予感』の正体だ。

 

「けど・・・これで・・・」

 

 カナヲの言いたいことは分かる。

 暁歩がしのぶを助けたことで、その作戦も失敗に終わった。

 しのぶの覚悟を聞き届けて、カナヲ自身も納得できない自分の心を押し込んで納得させ覚悟をした。だからこそ、事情を知らなかったとはいえ、暁歩がお釈迦にしたこと対して複雑な気持ちでいる。

 暁歩だって、自分で命を懸けること、それに従うことの覚悟の重さは分からなくもないし、そんなカナヲの気持ちも今だけは分かる。

 

「・・・俺が戦いの邪魔をしたことは謝ります」

 

 しのぶの怪我を診ながら、暁歩はカナヲに話しかける。

 この場でできる応急処置と言えば、傷口を縫って塞ぎ、止血剤を塗って少しでも血の流れを抑えることぐらいだ。だが、傷が深いせいで、出血を完全に止めることができない。

 

「でも、カナヲさんは・・・しのぶさんが死んでも本当に良かったんですか?」

「・・・・・・」

 

 問われて、カナヲは俯く。

 カナヲにとってのしのぶは、今日まで育ててくれた実の姉のような存在。その姉が覚悟を決めたのなら、自分もそれに応えるべきだと、カナヲは自らに言い聞かせていた。

 だが、そのしのぶが死んでしまったら?

 改めて訊かれると、カナヲは答えに詰まる。

 復讐を果たしたところで、しのぶはもうこの世界からいなくなる。この戦いで生き残り、蝶屋敷に戻り、またアオイたちと一緒に暮らせるようになっても、そこに自分が慕うしのぶはもういない。

 言葉を交わすことはおろか、姿を見ることさえ二度とない。

 それでもカナヲは、本当に良いのか。

 

「・・・・・・」

 

 改めてそれを考えさせられると、怖くなった。

 唇が震え、瞳が揺れる。

 自分の中に押し込んでいた、『生きてほしい』という気持ちが再び浮かび上がってくる。

 

「・・・嫌だ」

 

 自分の震えを押さえるように、自らの腕を掴む。

 

「嫌だ・・・」

「それで、十分です」

 

 明確に自分の意思を示してくれたカナヲに、暁歩は頷き返す。しのぶに死んでほしくないと思うのであれば、暁歩はそれに全力で応えるのみだ。

 急ごしらえとはいえ、できる限りの処置を終わらせる。さらに暁歩は、自分の羽織を脱いでしのぶの身体に掛けた。

 

「・・・しのぶさん」

 

 静かに暁歩は話しかける。しのぶは声を発さず、視線を暁歩に向けるだけだ。

 

「あなたがいなくなったら悲しむ人はいると、俺は言ったはずです・・・アオイさんやきよちゃんたち、そしてカナヲさんも」

「・・・・・・」

「もちろん俺だって、悲しいです。だから、もう二度と・・・自分から犠牲になろうとはしないでください」

 

 肩にそっと手を添えて、暁歩は優しく言い聞かせるように告げる。

 そして、傍に立っているカナヲもまた、しのぶのことを見つめている。先ほどの本音は、しのぶにも聞こえていただろう。

 しのぶは、静かに目を閉じた。

 

「・・・アイツ、の、冷気・・・吸わな、いで」

「・・・はい。しのぶさんも、無理に動かないようにしてください」

 

 能力を少しだけでも教えてもらい、暁歩は立ち上がる。

 

「手当ては終わったかい?」

 

 童磨が鉄扇をひらひらと手の中で動かしながら、問いかけてくる。

 上弦の弐。

 しのぶが好きだった姉・カナエの仇であり、しのぶにあれほどひどい怪我を負わせた張本人。それでもなお嗤っているこの童磨に対し、暁歩の中でふつふつと怒りが込み上げてくる。

 

「無駄だと思うけどねえ。その子の傷、深いもの」

 

 傷を負わせた張本人のくせして、困ったような笑みを浮かべる童磨。

 しのぶの処置をしている間、童磨は攻撃をしなかった。

 それはカナヲが護衛をしていたからでもあるだろうが、同時にしのぶが助からないだろうから、『無駄』だからと思っていたからか。

 

「だから俺が救ってあげようと思ったのにさ。これじゃあの子は、この先苦しみ続けることになっちゃうよ?」

「救う?自分で傷つけておいて?」

 

 ここで感情に任せて突っ込んでも、返り討ちに遭うだけだ。

 暁歩は、今にも暴れ出しそうになっている自分の心を押さえつけて、冷静になれと言い聞かせる。

 

「俺はね、悩みや苦しみを抱えている可哀想な人たちを救っているんだよ。万世極楽教ってところでね」

「ああ・・・たまに帰ってこない信者がいるって噂のあの胡散臭い宗教ですか」

「お、知ってるんだ。いやぁ、俺の宗教も大分有名になっているんだなぁ」

 

 まだ暁歩の両親が存命で、実家の薬屋にいたころ。客の老人たちが噂しているのを覚えているが、まさかその教祖がこいつとは。

 

「苦しんでいる信者の想い、そして血肉を受け継ぎ、魂を救い更なる高みへと導く。それが俺の役目なのさ」

「・・・・・・」

「もちろん信者じゃなくても救おうと思っているよ。その子もね」

 

 横たわるしのぶを鉄扇で指す童磨。

 気取ったように語るこの鬼に、暁歩もカナヲも不快感を募らせているが、暁歩は目元をひくつかせながら言葉を紡ぎ出す。

 

「死ねば救われるってことですか。気色悪い、正気の沙汰じゃないですね」

「あらら・・・初対面なのにひどいなあ。っていうか、あの子と言ってること同じだね」

 

 全く傷ついていないような調子で童磨がしのぶを見る。

 

「その子は可哀想な子なんだ。俺が大勢の人の魂を救っているのを理解できないうえに、復讐なんて無意味なことまでしようとしてたんだから」

 

 可哀想。

 復讐なんて無意味。

 その言葉に、カナヲと暁歩は目を見開いた。

 

「あの子のお姉さんの仇が俺だって知って怒ってたけど、復讐なんて本当に意味のない、憐れなことだよ」

「・・・・・・」

「死んだ人の無念を晴らしたって、何の足しにもならないんだから。死んだ人は蘇らないし、どう思うのかも分からない。人は死んだらそこで終わりなんだから、結局はただの自己満足、空しいだけだよ」

「黙れ!!」

 

 激昂したのはカナヲ。

 カナエが亡くなった後、しのぶは唯一の肉親さえも喪って悲しんでいたことは覚えているし、それ以来復讐心を胸に一人で戦い続けてきたのも知っている。

 感情を表に出せなかった時のことだから、その時カナヲは涙を流せなかった。

 しかし、感情を取り戻してきた今は、その時涙を流せなかったことを悔いている。

 そして、しのぶがどれほどの思いでここまで来たのかを何も知らないこいつが、復讐される側にある童磨が『憐れ』『空しい』と切り捨てることに激しい憤りを感じる。

 

「だから俺は決めたんだ、あの子を喰べて救おうって。俺の血肉となって、深い傷の痛みと、空しい復讐心から解放してあげようってね」

 

 薄ら寒いほどの爽やかな笑みで、しのぶの決意を侮辱する童磨に対し、カナヲの怒りが沸点を越える。

 その怒りに耐えかねて、前に駆け出そうとすると。

 

 

「ふざけるのも大概にしろよ、この糞野郎」

 

 

 背中に悪寒が走り、動きを止めるカナヲ。

 静かに隣を見ると、暁歩がいる。ゆっくりと刀を鞘から抜き、淡い花萌葱の刀身が姿を見せていた。

 そんな彼からは、目に見えないはずの殺気や怒気が纏わりついているかのように見える。その表情は怒りで歪んでいるのではなく、一切の余計な感情を捨てているようで、鋭い目つきで童磨を睨んでいる。

 

「人を喰うことが救うこと?苦しみから解放すること?まったく度し難い、吐き気がする」

 

 小刻みに、日輪刀を握る暁歩の手は震えている。だが、それは決して恐怖から来るものではないと、カナヲは分かった。そして、こんなにどす黒い感情を露わにする暁歩も、カナヲは初めて見る気がする。

 

「人を『救う』のは・・・身体に刻まれた傷を治して、命を繫ぎとめることだ」

 

 暁歩が思い浮かべるのは、蝶屋敷で治療に尽力するアオイやきよ、すみとなほ、そしてしのぶ。彼女たちは、鬼と戦って傷ついた隊士の皆の傷を治し、命を救おうと、それぞれにできることを一生懸命頑張っていた。

 そんな彼女たちの姿勢こそが、『救う』と言うにふさわしい。

 

「そして、心の傷に寄り添って、苦しんでいる人を癒して、重荷を一緒に背負うことだ」

 

 身寄りのないきよたちを引き取って、暁歩の過去の話を聞いて言葉まで掛けてくれたしのぶ。そんなしのぶの身を案じていた蜜璃。鬼になった禰豆子を見捨てず、アオイやカナヲの中の蟠りを解いた炭治郎。傷ついた隊士を見舞い、言葉を掛ける輝哉。

 そして、しのぶの姉であり、今は亡きカナエ。暁歩の隣にいるカナヲを幼少期に窮地から救い出し、さらに憎いであろう鬼さえも救おうとした。結果としてこの童磨に殺され、暁歩も実際に会ったことはないが、それでも暁歩はそんなカナエのことも尊敬していた。

 そんな皆の行動こそ、暁歩にとっては『救う』と言えるべきものだ。

 

「だがお前は、高みへ導くだのなんだのと御大層な理由をつけて救っているつもりだろうが、その実やってることはただの人殺しだ」

 

 苦しみから解放するために殺すなど、幾度となく命を救い、心の傷から救う場を何度も見てきた暁歩からすればあり得ない。

 理由は何であれ、苦しみを背負って万世極楽教の戸を叩いた者も、最初から死ぬつもりで来たわけではないはずだ。誰もが苦しみを自分だけで背負い、それに耐えきれず、その背負うものを軽くするために、あるいは一緒に背負ってくれるものを求めていたはずだ。

 だがこの童磨は、『死こそが苦しみからの救済』と信じてやまない、歪んでいる奴だ。暁歩にとっては対極の存在であり、相容れない。

 だが童磨は、暁歩の言葉を聞いて『やれやれ』と手を広げて首を横に振る。

 

「俺の行いを理解できないなんて・・・君も可哀想な子だなあ」

「・・・・・・」

「何か辛いことでもあったのかな?よければ聞いてあげよう」

 

 そして、憐れなものを見る目で暁歩を見る。

 こいつには何を言っても無駄だと、暁歩は理解した。

 

「・・・俺の辛いことは」

 

 だが、そんな童磨に一つ言っておきたいことがある。

 柄を強く握り、力と怒りを籠めて。

 

「しのぶさんがお前に傷つけられたことだ」

 

 臨戦態勢に入ったのを見て、カナヲも構える。

 そうして二人が構えたのを見た童磨は、同じように鉄扇を広げて構えようとする。

 

―――樹の呼吸・肆ノ型

―――落葉一閃

 

 だが、次の瞬間には暁歩がそこにおらず、気付けば童磨の後方に立っていた。そして、童磨の右肩から脇腹の辺りが浅く切れる。

 暁歩の隣に立っていたカナヲは、動体視力が非常に優れているため、暁歩が一瞬で童磨との距離を詰めて斬ったのは見えていた。だが、その動きの速さは呼吸法によるものもあるだろうが、決して素人のそれではない。

 

「やるねぇ。速いうえに音もしないから、危うく頸を斬られるところだった」

 

 しかし童磨は気にせず、けらけら笑って暁歩を振り返る。傷はすぐに再生していた。

 暁歩はもちろん、頸を斬るつもりだった。だが、童磨は樹の呼吸法の中でも動きが速い『落葉一閃』を見切り、回避した。となれば、童磨の動体視力も非常に優れたものであると窺える。

 

(なら、次の技で・・・)

 

 そして童磨が暁歩に気を取られている間に、カナヲが攻撃を仕掛ける。こちらも頸を斬ろうと狙うが、今度は童磨の左手に持つ鉄扇で防がれる。さらに右手に持った鉄扇を振って逆に斬り返そうとするが、その前にカナヲは後ろへ飛び退いて攻撃を躱す。

 

(反応が早いなあ)

 

 童磨が鉄扇を振ろうとする前に、カナヲは回避行動をとった。何かしらの攻撃を予知できる力を持っているのかもしれない。

 だがその間にも、暁歩は床を蹴って壁に飛び移り、さらには壁を伝って天井まで上がり、童磨の上から斬りにかかる。

 

「わあ、速いし身軽!猿みたいだね!」

 

 感心したように言いながら、童磨は鉄扇を構える。

 

―――樹の呼吸・玖ノ型・・・

―――血鬼術・蓮葉氷(はすはごおり)

 

 呼吸を整え技をぶつけようとした直後、童磨が鉄扇を振るう。次の瞬間には童磨の脇に氷でできた二輪の蓮の花が出現し、花びらから霧のような冷気が発生する。

 それを認識した瞬間、しのぶの忠告を思い出し、左手で口と鼻を押さえ呼吸を止め、刀を振るい攻撃を仕掛ける。童磨には避けられてしまうが、冷気は吸わないで済んだ。

 

(冷たい・・・!)

 

 だが、冷気を完全に振りほどくことはできなかった。纏わりつく冷気で皮膚が固まるような感覚に顔を顰める。

 そして、しのぶがあんな忠告をしたということは、冷気を吸ってしまったのだろう。そうであれば、呼吸が妙な感じだったのも恐らく呼吸器が凍ってしまっていると理由がつくし、尚更時間はかけられないと思う。

 

「っ!」

 

 一方でカナヲは、童磨が跳んで避けたところへ先回りし、呼吸を伴わない刀裁きだけで童磨と対等に渡り合っている。

 カナヲはしのぶが直々に修業を付けており、全集中・常中まで身に付けているから柱に及ぶほどの実力を持っているのだ。

 しかし、実際に柱であるしのぶは童磨には敵わなかった。暁歩はその事実に足がすくみそうになるが、自分はしのぶを助けるためにここへ来たのだ。怯えている暇はないと自分に言い聞かせて、加勢しにかかる。

 

「君、動きがいいね。もしかしたらさっきの子より強いかも」

 

 斬り合いながらも童磨はカナヲの動きを称賛する。

 カナヲは、優れた視力を活かして、童磨の身体の四肢だけでなく関節の初期動作を冷静に見切り、攻撃を仕掛けてくる前にそれを防ぐ戦い方をしている。人並み外れた視力がなければできない芸当だ。

 だが、斬り合いの中で童磨はカナヲの視力が優れていることに気付き、手っ取り早く目を潰そうと扇子で斬りかかる。

 それをカナヲは、上体を後ろに逸らして鉄扇を避けた。少し目元が斬れてしまったが、さして支障は無い。

 

―――樹の呼吸・壱ノ型

―――大樹倒斬

 

 そして、カナヲが上体を逸らしたところを見計らって、暁歩が童磨の背後から頸を斬ろうと呼吸法で刀を振るう。それを察知した童磨は、上体を前に屈めてそれを躱し、暁歩はやむなく童磨の背中を蹴ってそのまま前へ出て、カナヲの横に立つ。

 

「二人ともいいね。それじゃ、俺も少し頑張ろうかな」

 

 鉄扇を開く童磨に、何か仕掛けてくると暁歩とカナヲは身構える。

 そして次の瞬間に童磨が距離を詰めたのは、暁歩の方だった。

 

「!」

 

―――血鬼術・枯園垂(かれそのしづ)

 

 鉄扇を近距離で連続で振るってくるが、暁歩は瞼が裏返りそうになるほど目を見開き、必死で刀を振り鉄扇を防ぐ。見る限りこの鉄扇は殺傷性が高く、当たると怪我は免れないし、冷気を纏った斬撃なので迂闊に呼吸もできない。

 『予感』が働かなければ、最初の攻撃で暁歩の首も飛んでいただろう。

 暁歩は、上弦の弐である童磨に啖呵を切ってはいたが、実戦経験は少ない。全集中・常中も完全にものにはできていないから、戦闘力は決して高くなかった。それは暁歩自身も分かっている。

 

(それでも・・・しのぶさんを死なせるわけにはいかない)

 

 今までは、自分が死ぬことに対する恐怖で戦えなかった。

 しかし暁歩の脳裏には、弱ったしのぶの姿が克明に刻み付けられている。そして、蝶屋敷で優しい笑みを浮かべていた姿を同時に思い出し、胸がひどく痛む。

 そして、そうさせたのは目の前にいる童磨。しのぶに強い復讐心を植え付け苦しめて、自分から死ぬ覚悟を背負わせるまでに至らせた存在。さらに、こうして戦う今も、しのぶは童磨に身体を傷つけられて、命の灯は消えかかっている。

 

(よくも・・・しのぶさんを・・・!)

 

 しのぶのことを好きでいる暁歩からすれば、しのぶを心身共に大きく傷つけ、人の命を弄ぶこの童磨が憎くてたまらない。今すぐにでも頸を斬り落として地獄へ叩き落したい。自分の死など、それと比べれば関係ない。

 血液が沸騰しそうになるほどの強い怒りが、今の暁歩の原動力だ。

 

「っ!」

 

 暁歩は刀を上に振り上げて、鉄扇を弾いた。

 

「おっ」

 

 意外な反撃だったのか、童磨はぽかんと口を開ける。

 だが、すぐに弾かれた鉄扇を振り下ろした。

 

―――血鬼術・()蓮華(れんげ)

 

 すると今度は、数えきれないほどの氷の粒が暁歩へ襲い掛かってくる。

 直後に暁歩は、後ろへ下がって距離を取ろうとする。だが、迫りくる大量の氷の粒を避け切れず、腕や脚の一部に喰らってしまう。痛みが走るが、どうにか上へと跳び上がって避け切ることには成功した。

 そこでカナヲが、横合いから童磨に斬りかかる。それも童磨は冷静に見切り鉄扇で防いだ。

 

―――樹の呼吸・捌ノ型

 

 一方、上へと跳んだ暁歩は、自分の周りに冷気がないことを肌で感じ取り、呼吸を整えて技を構える。

 

―――松絡旋刃

 

 天井を蹴って、身体を捻りながら童磨へと突進する。

 カナヲは先に暁歩の攻撃に気付いてさりげなく距離を取るが、童磨もそれより少し遅れて攻撃に気付く。後ろに飛び退いたために攻撃は交わされてしまい、着地の瞬間に暁歩は氷の粒を喰らった足が痛んだ。

 

「危ない危ない」

 

 対して危機感を抱いていなさそうな童磨の声だが、冷気が払われた今なら仕掛けられる。

 カナヲは暁歩と視線を合わせて頷き、お互い呼吸を整えて刀を構える。

 そして小さく頷くと。

 

―――樹の呼吸・参ノ型

―――樅葉尖突

 

 その直後、暁歩は童磨との距離を一気に詰め、胸の中心に刀を突き刺す。

 

「だから突き技じゃ鬼は斃せないんだってば」

 

 刺されてもなお陽気な童磨。

 だが、暁歩の背後からカナヲが飛び掛かり、低い体勢の暁歩を越えるようにして童磨に斬りかかろうとするのに気付く。すると童磨は、暁歩の腹を蹴り上げて、斬りかかってくるカナヲに暁歩をぶつけて動きを止めさせた。

 

「すみません・・・」

 

 童磨から引きはがされても日輪刀は手放さず、起き上がりながらカナヲに謝る暁歩。カナヲはそれには応えないが、立ち上がって再び童磨を見る。

 

「どんどん行くよー」

 

 だが、童磨との距離は離されてしまい、血鬼術を発動する準備までできてしまっていた。

 

―――血鬼術・寒烈(かんれつ)白姫(しらひめ)

 

 童磨の足元に、氷でできた二輪の蓮の花が咲き、その花弁から女性の顔のような氷の塊が出現する。

 そして、その女性の氷像が息を吹くように冷気を発生させた。広範囲に広がるそれを避けようと、暁歩とカナヲはそれぞれ左右に別れる。

 だが、着地すると足元にいくつもの丸い影が浮かび上がってきた。

 

―――血鬼術・(ふゆ)ざれ氷柱(つらら)

 

 頭上から何かが落下してくると気づき、影を避けるように前後左右へ移動する。

 直後、人の背丈以上の大きさの氷柱が降ってきた。直撃したらまず間違いなく絶命していただろう。そして、どうにか避けても氷柱の数が多く、脇腹や肩を掠めて熱と痛みが伝わってくる。カナヲの様子をちらっと見るが、まだ無事なようだ。

 

「おーい、こっちはいいのかい?」

 

 そこで童磨が声を掛けてきた。何のつもりだと思ってそちらを見たら、しのぶに近づいているところだった。

 その直後、暁歩は痛みも忘れて童磨に向かって突進する。

 それを見ても動じない童磨は、暁歩の額に当たる位置に鉄扇を横に構える。しかし暁歩は、上体を逸らして鉄扇の下を潜るようにし、刀を右に振る。

 

「面白いなぁ。そんな死にかけの子を守るなんて」

 

 童磨はその場におらず既に移動していて、刀は空を切るだけだった。

 そしていつの間にか、暁歩の腕や足に切り傷がついている。それから遅れてくる痛みに意識が揺らぐが、頭を振って痛みに耐える。

 その時ふと、横たわるしのぶと視線が合った。しのぶは、呼吸は細くても一応はできているが、苦しそうな表情を浮かべている。

 そして、案じるような視線を暁歩に向けてくれていた。その視線に暁歩は、気丈に笑って応えて見せる。

 

「そんなに見つめても怪我は治らないし、何にもならないよ」

 

―――花の呼吸・弐ノ型

―――御影梅(みかげうめ)

 

 人の命を踏み躙って煽る童磨に、カナヲが呼吸法を使った技で斬りかかる。暁歩から見れば無数の連撃に見えるそれも、童磨には掠りもしなかった。

 童磨の血鬼術は氷・冷気を扱うと身をもって分かった。しのぶの言葉から、恐らく冷気を吸うと肺が凍り付き呼吸が難しくなるのは分かるし、それは確かに厄介だ。

 けれど、禰豆子の血鬼術のように燃やしたいものを燃やせる、というほどの自由度の高さでもなさそうだ。冷気に気を付ければ問題ないのを考えればまだ戦いやすいと思う。それほどの実力が暁歩にないのが難点だが。

 

「けど二人共、不思議だねぇ。肉感とかからして君たちはあの子と兄妹って感じでもないし、しかも虫の息じゃない。どうしてそんな子のために命を張るのかな?」

 

 小首を傾げて訊いてくる童磨に対して苛立ちは止まらない暁歩とカナヲだが、その視線が合う。

 

「俺たちにとってしのぶさんは・・・大切な人だから」

 

 暁歩とカナヲが、しのぶに向けている感情はそれぞれ若干違う。それでもしのぶを大切に想っていることに変わりはなく、だからこそ守る為に自分の命を迷いなく張れる。

 

「へえ、面白いね!大切な人だから、そんな理由で戦えるなんて。素晴らしい!」

「あなた、そんなこと思ってないんでしょ?」

 

 パチパチと笑って拍手をする童磨に、冷淡な言葉を投げたのはカナヲだった。

 今度は暁歩が、妙な寒気を感じてカナヲの方を見る。いつもとはまた違う、感情が籠っていないというか、感情が読めないその言葉に、言い知れない恐ろしさを感じた。

 

「・・・どういうことかな?」

「嬉しい、楽しい、面白い、悲しい・・・感情が動く時、普通なら血の流れや肌の色も変わるの。けどあなた、口では色々言って表情もコロコロ変わってるのに、それが全然変わってない」

「それは、俺が鬼だからだよ」

「鬼でも血は流れているし、筋肉だってある。回復速度とかを除けば、鬼は基本的に人間と同じ。だから表情の変化も、人間と同じはずなのよ」

 

 感情は、表情に変化をもたらすだけでなく、血液の流れ、体温や肌の色の変化も伴って表れるものだ。そして表情こそ自分で取り繕うことはできるが、流石に体温や血液までは自分で完全に掌握できない。

 視力の良いカナヲは、童磨が本当に表情()()変わっていないのが見えたから、気付いたのだ。

 

「あなた、何も感じないんでしょ?」

 

 童磨の表情が凍る。

 対照的に、カナヲは笑っていた。それも、普段浮かべているゆったりとした笑みではなく、いっそ恐ろしさすら抱くほどの獰猛とでもいうべき笑み。それを横から見た暁歩は、ぞくっと背中が凍り付くような感覚になった。

 

「・・・この世の色々な出来事に心が動かされるのは、色んな感情を持っていて、それを表現できる人間にとって当たり前のことで、同時に素晴らしいことなの」

「・・・・・・」

「それが理解できないなんて、可哀想」

 

 実の親からも暴力を振るわれて、心を閉ざし、感情を失った時期があるカナヲ。そんな彼女の口から、感情を抱くことの素晴らしさを聞かされた暁歩は、物悲しい気持ちになる。

 しかしカナヲも、多くの人と接して感情を取り戻した。自らを拾ってくれたしのぶとカナエ、想いを寄せる炭治郎。そして、彼女と一緒にいてくれる蝶屋敷の皆。

 その中でカナヲは、本来の感情を取り戻し、だからこそ感情を持つことの素晴らしさを理解できた。言うなれば、皆との出逢いが、カナヲの心を救ってくれたのだ。

 

「あなた、何のために生まれてきたの?」

 

 だからこそ、感情を持たない、感情を理解できないこの童磨が、心底憐れだった。

 感情を持つことの素晴らしさを理解できず、ただ鬼となって人を喰らうことしかできない童磨が。

 

―――血鬼術・蓮葉氷

 

 突然、童磨が血鬼術を発動してきた。蓮の花から吹き出る冷気を吸わないよう口と鼻を押さえ、さらに届かない範囲まで避ける。

 

―――血鬼術・蔓蓮華(つるれんげ)

 

 さらにその蓮から無数の氷の触手が伸びてくる。今度は刀を振って蔓を切り刻み、これを退ける。

 

「・・・そんなこと言われたの、初めてだよ」

 

 そこへ、童磨の声が響く。先ほどのようにちゃらちゃらと陽気な感じはせず、感情の起伏を感じさせないような声。そして、表情。

 

「どうしてそんなことを言うのかな?」

 

 全くの無感情。それにもかかわらず、伝わってくる威圧感。空気が震えるようなそれに、カナヲと暁歩も唇が引き締まる。だが、挑発されて琴線に触れるような感情はあったんだなと、二人は内心で少し面白く思った。

 

「どうして?そんなの、あなたのことが大嫌いだからに決まってるでしょ?」

 

 だが、童磨の威圧感に動じた様子も見せず、カナヲは続ける。

 

「私の大切な人を傷つけたあなたを、すぐにでも頸を斬って地獄へ叩き落したいから」

 

 その言葉に、暁歩は日輪刀を強く握る。

 ここまで感情を露にし、童磨を侮辱したのは、今暁歩が怒っている理由と同じ。しのぶを傷つけられたからだ。

 カナヲが同じ気持ちでいると分かると、暁歩も少しだけ『安心』できた。

 カナヲは前へと駆け出して童磨に肉薄する。

 

―――花の呼吸・伍ノ型

―――(あだ)芍薬(しゃくやく)

 

 距離を詰めると素早い連撃を仕掛けるが、童磨は焦る様子もなくそれに鉄扇を振って対応する。

 

「九連撃はやるねえ。それじゃ、俺もやってみようかな」

 

 だが、連撃が途切れたところで童磨が血鬼術を発動させようと鉄扇を構える。

 そこで、カナヲが攻撃を仕掛けている間に背後に回った暁歩が、呼吸を整えて技を構える。

 

―――樹の呼吸・玖ノ型

―――桜樹繚乱(おうじゅりょうらん)

 

 それに童磨が気付いて背後を見るが、そこに暁歩の姿はない。

 そして次の瞬間には、暁歩はカナヲの横に着地しており、童磨の腕や腹部、肩や顔に傷が刻まれて血が噴き出した。

 

(頸を斬り損ねた・・・!)

 

 暁歩は歯ぎしりをしながら立ち上がる。

 『桜樹繚乱』は、身軽さと技の静かさを利用して一瞬で相手に突き技や斬り技を喰らわせ、移動する技だ。しかし、自分自身で動きを把握しきれないと、こうして斬り損ねることになる。やはりここでも、実戦経験の少なさが仇となった。

 

(しのぶ姉さんの『戯れ』に似てる・・・)

 

 一方で、技を見切っていたカナヲは、一瞬で相手に攻撃を幾重にも叩き込む暁歩の技が、しのぶの『蝶ノ舞・戯れ』と似ている点があると、ふと思った。

 そして童磨は、並んで立つ暁歩とカナヲを見て考える。

 

(この二人、お互いの攻撃を上手く陽動にして俺の隙を突こうとしてくるな。男の方は動きにむらっけがあるけど、音のしない攻撃ってのはなかなか厄介だ。それに女の子の方も、柱並みの実力があるか・・・)

 

 考えて童磨は鉄扇を構える。

 

「いいや、これで二人まとめてやっちゃおう」

 

―――血鬼術・()(ぐもり)

 

 童磨の背後に氷の蓮の花が咲き、煙のようなものが花びらから生じる。先ほどの『蓮葉氷』よりも密度が高い。

 同じ冷気だ、と思って暁歩は口と鼻を左手で覆うが。

 

「目を瞑って!」

 

 カナヲが叫ぶと、暁歩はさらに目を閉じ後ろに飛び退く。手や髪の毛に冷気を浴び、冷たさのあまり目を開けそうになるが、必死に堪える。それでも煙のような冷気は広範囲にまで広がっているようで、身体全体が冷気に包まれるかのようだ。

 そしてカナヲが目を瞑るように言った理由は、恐らくここで目を開くと眼球が凍りかねないからだろう。尚更目を開けるわけにはいかない。

 だが、童磨からどんどん離れてしまっているのが分かる。

 そして、暁歩の中で『予感』が働き、考えるよりも前に横へ動くと、何かが空を切って床に落ちるのを感じ取る。先ほどと同じ氷柱のようだ。それが分かっても、未だ自分の周りには冷気が纏わりついていて目を開けず、周囲の状況が掴めない。

 このままでは攻撃も避け切れない、と思っていると。

 

「どおりゃああああああ!!!」

 

 突然、メキメキと天井を突き破るような音と共に誰かの声が上から聞こえてきた。童磨とも違う男の声で、とても威勢がいい。

 

―――獣の呼吸・伍ノ牙

―――(くる)()

 

 その誰かが刀を振ったような動きをすると、直後に暁歩の周りの冷気が消え去った。氷柱も砕いたのか、落ちてくる音もない。

 

「え?」

 

 周りから冷気がなくなったのを感じ取り、ゆっくりと目を開ける。

 少し離れた場所にはカナヲが立っていた。状況が見えなかったが、無事だったらしいのでひとまず安心する。そんな彼女も、闖入者を見てぽかんと口を開けていた。

 そして、暁歩とカナヲの間には、一人の少年が立っていた。その少年は上半身裸で、頭には猪の生皮を被っている。そんな容姿の人は、暁歩の知っている限りでは一人しかいない。

 

「・・・伊之助くん?」

「おうよ!嘴平伊之助様だ!」

 

 突然天井から現れた伊之助は、あっけにとられる暁歩やカナヲを置いて、童磨を指差して『上弦の弐!テメェを斃せば俺は柱だァ!』と意気込んでいる。流石の童磨も、この伊之助の参戦には驚いているらしく、キョトンとしている。

 

「って、そうだ!暁介!」

「暁歩です」

「何で普段戦わねえお前までここにいるんだ?」

「知りませんよ。俺だって気付いたらここにいました」

 

 普段は蝶屋敷にいて戦闘に参加しない暁歩がここにいるのには、伊之助も驚いているらしい。それに関しては暁歩自身も思っていたことだ。

 すると童磨は、『あれ?』と声を上げた。

 

「君、戦闘要員じゃなかったの?でもそっか。そっちの女の子より動きにムラがあると思ったらそういうことか」

 

 自然と煽ってくる童磨に、暁歩も舌打ちをする。

 

「っていうか、無茶してそんな怪我したらしのぶに怒られんぞ!お前も!あいつすっげえ怖いんだからな!」

 

 怪我を負った暁歩とカナヲを見て、伊之助が叫ぶ。伊之助は、病み上がりで勝手に病室を飛び出して動き回った結果しのぶに怒られており、その時の怖さを忘れてはいない。

 だが、しのぶの名前が出た途端に、暁歩とカナヲの表情が翳った。それに伊之助は気付く。

 

「・・・まさか、死んだのか?」

「生きてます。ですが、あいつにやられて・・・やれるだけの応急処置は済ませていますが重体です」

 

 暁歩は伊之助の言葉を即座に否定して、離れたところに横たわるしのぶを見る。

 伊之助も同じようにしのぶを見て、自分が蝶屋敷で治療を受けた時のことを思い出す。しのぶは、優しい言葉を掛けて治療をしてくれた。時々怒る時は怖かったが、その優しい笑みと言葉遣いも覚えている。

 そんな彼女は今、苦しそうに横たわっているのだ。

 

「無駄なことなのにね。そのせいであの子はずっと苦しんでるんだからさ」

「・・・・・・」

「復讐なんて悲しいことから、俺が喰べて救ってあげようとしたのに。ああ可哀想」

「黙れ、この屑!」

 

 性懲りもなく宣う童磨を暁歩は睨み、カナヲは激怒して叫ぶ。

 そして伊之助もまた、暁歩とカナヲが傷だらけになって戦い、優しかったしのぶが弱り、この童磨が人の命を踏み躙っているのを目の当たりにして。

 

「・・・咬み殺してやる、塵が」

 

 敵意と殺意に満ちた声。隣でそれを聞いた暁歩は、剥き出しの感情に口が引き締まる。

 

「・・・しのぶさんを助けるため、なるべく早めにケリをつけたい。それと、あいつの撒き散らす冷気は吸わないように」

「よっしゃ来たァ!!」

 

 手短に状況を伝えると、伊之助は勇んで前に飛び出す。

 

「俺はチンタラ戦うのが嫌いだァ!」

 

―――獣の呼吸・肆ノ牙

―――切細裂(きりこまざ)

 

 刃毀れした刀を前に向かって勢いよく振り、連撃を仕掛ける。

 伊之助の速度は暁歩やカナヲ以上だったが、それも童磨は鉄扇で防ぎつつ、伊之助の首を斬ろうと鉄扇を振るう。だが、伊之助は右脚で童磨の腕を蹴り上げて弾き、攻撃を躱した。

 蝶屋敷で治療をしていた際、伊之助と手合わせをしていた暁歩には分かるが、伊之助は動きが不規則で攻撃が読みにくい。童磨にそれが通じるかは分からなかったが、それは強力な武器にもなる。

 

「伊之助くんを援護しましょう」

「うん」

 

 伊之助の攻撃は、童磨に血鬼術を発動する隙を与えないほどの速さだ。これは暁歩とカナヲが奇襲を仕掛ける機会となっているし、冷気が無いから呼吸法も使える。

 暁歩とカナヲは頷き合い、童磨の両脇から飛び掛かる。

 

―――樹の呼吸・壱ノ型

―――大樹倒斬

 

―――花の呼吸・肆ノ型

―――紅花衣(べにはなごろも)

 

 お互いに童磨の頸を狙うが、童磨は伊之助と鉄扇で斬り合いをしながら、視線を背後に向ける。

 

「大丈夫だって。君たちのことも忘れちゃいないからさ」

 

 空いた手に握っていた鉄扇を軽く振ると、背後に氷の蓮の葉を咲かせる。

 

―――血鬼術・蓮葉氷

 

(またそれか!)

 

 蓮の花から発する冷気に、暁歩とカナヲは呼吸を止めるが、さらに蓮の花の根元から氷の蔦が伸び、暁歩とカナヲを弾き飛ばす。

 暁歩の左腕が冷気を受けてしまい、二の腕から先が凍り付くようになってしまう。

 

「くっ・・・」

 

 池に落ち、少しでも氷を水で浮かそうと腕を動かす。どうにか腕は氷漬けにされず済んだが、起き上がったところで自分の身体の異変に気付く。

 

(肺が痛む・・・)

 

 呼吸しようとしても、肺の一部が固まっているようにうまく動かず呼吸も乱れる。

 微量とはいえ冷気を吸い、肺が凍ってしまっているらしい。氷の蔓に弾き飛ばされたせいで、息を止めるのをほんのわずかな間忘れてしまったからか。

 その痛みは、物理的に胸が締め付けられているかのようだった。同じように肺が凍ってしまったであろうしのぶは、こんな痛みを負っていたのかと同時に理解する。

 

「俺のことも忘れてんじゃねぇ!」

 

 だが、伊之助は童磨が暁歩とカナヲに意識を向けていたところで、伊之助が童磨の腹に蹴りを入れる。童磨は鉄扇でその脚を斬ろうとするが、伊之助はもう片方の足で鉄扇を蹴り上げて弾き、後ろへ下がる。

 

「わー、身体柔らかいんだね!しかもあんな滅茶苦茶な刀の振り方で戦えるんだから、ホントすごい!」

 

 暁歩が池から上がると、全く動じていない童磨が伊之助を褒めている。

 すると、それに応じない伊之助は、間合いの外にいるにも関わらず刀を振りかぶっていた。

 

(何する気だ?)

 

 態勢を立て直すために暁歩は一度童磨と距離を取る。カナヲもまた同じように、暁歩の隣で様子を見ていた。

 

「おーい、そんな外からじゃ刀は届かないぞー?」

 

 童磨も同じような疑問を抱いたようで、丁寧に忠告してくる。それも聞かずに伊之助は刀を振るが、やはり刀は届かないように見えた。

 ところが。

 

「え?」

 

 童磨が驚いたように声を洩らす。

 目の部分に、横に切れ目が入ったのだ。自分の顔に手をやるが、何故間合いの外から刀を振ったのに届いたのか分からないらしい。

 一方で暁歩とカナヲは、伊之助の後ろから何をしていたのかに気付く。

 

―――獣の呼吸・玖ノ牙

―――(しん)・うねり()

 

 刀を握っている伊之助の右腕が大きく歪んでいて、通常の倍程度に伸びていた。どうやら、腕の関節を全て外しているようだ。

 

(腕の関節全部外してる・・・?)

(その後どうするんだ・・・?)

 

 カナヲと暁歩があっけにとられる中で、伊之助は『ふんっ』と軽く力を籠めると、右腕がまるで意思を持っているように蠢き、次の瞬間には関節が元通りに治っていた。

 

「チッ、新技は精度がイマイチだった!チクショウ!」

 

 しかも伊之助自身、全く気にもしないでピンピンしてる。

 

((いやっ・・・え?いやいやいや、ええっ!?))

 

 暁歩とカナヲの困惑の心の声が重なる。伊之助の身体の構造は、しのぶでも理解できていないらしく、人間離れした業に暁歩とカナヲも驚くしかない。だが、伊之助にとっては、関節を自在に外したりできるのは伊之助にとっては造作もないのだろう。

 

「あはは、本当に滅茶苦茶だなあ、君」

 

 顔の傷も治った童磨は、面白そうに見せかけて笑っている。

 それに対して伊之助は、『フンッ』と得意げに鼻息を荒く吐く。

 

「そりゃあそうだろうぜ。この伊之助様は、そんじょそこらの有象無象とは」「わけが違うからな!」

 

 暁歩もカナヲも、伊之助本人でさえも気付かないほどの一瞬で、伊之助の被っていた猪の生皮がなくなってしまった。一瞬遅れて伊之助も気付き、慌てて自分の頭を触る。

 

「んー、かなり年季入ってるね、この猪の皮」

 

 そして童磨は、一瞬で奪った猪の生皮を興味深そうに眺めている。伊之助が怒りを露にするが、気にもしない童磨は伊之助の顔を見て指差す。

 

「あれー、何か見覚えあるぞ?君の顔。どこかで会ったことあったかな」

 

 その瞬間、伊之助は声を張り上げた。

 

「テメェみたいな蛆虫なんざ俺は知らねぇ!汚ねぇ手で俺の毛皮に触るな!!」

「そうカリカリしないでって、俺は記憶力が良いんだ。人間だった頃の記憶もあるし、君と会った記憶もあるよ・・・あ、違うか。君の()()()()かな?」

 

 伊之助は蝶屋敷でも、『自分には親兄弟はいない』『猪に山で育てられた』と言っていて、暁歩やアオイたちも若干引いていたのは覚えている。

 しかし童磨が言うには、伊之助と似た顔立ちの女性―――琴葉(ことは)が万世極楽教の信者だったという。彼女は夫や姑から邪険に扱われいびられており、傷ついていたところを()()()()()を救う万世極楽教が保護したのだと。

 手当てした後の琴葉の顔は、表情こそ若干違えど伊之助とよく似ているという。

 

「これ、君のお母さんでしょ?」

「・・・・・・」

 

 童磨は、琴葉の姿を思い浮かべながら伊之助に問う。その伊之助は、先ほどの怒りも忘れて黙っていた。暁歩もカナヲも、驚きの顔を浮かべ、声も発せなかった。

 最初は童磨も、心の綺麗な琴葉だけは最後まで喰わないでおこうとしたらしい。だが、信者を喰べていることがバレてしまい、琴葉はまだ赤ん坊だった伊之助を連れて逃げ出した。しかし逃げ切れず、琴葉は伊之助を谷に落として救おうとし、代わりに琴葉は童磨に殺されてしまったのだ。

 

「琴葉は本当に頭の回らない子でね。あんな崖から落としたところで助からないのにって思ったよ。まさか、あの時の赤ん坊が生きていて、しかも君だったなんてね」

 

 伊之助は、信じられないような童磨との接点、そして自分にはなかった親のことを知らされているのか、茫然としていた。

 

「琴葉のことは、泣くほど可哀想だったから喰べて救ってあげたよ。帰っても酷い目に遭っていたし、本当に不幸だった・・・生きてる意味なんてあったのかな?」

「いい加減にしろ!下衆が!!」

 

 刀を向けてカナヲが激昂する。本当の母親からも暴力を振るわれていたカナヲからすれば、何の罪もない伊之助の母を殺し侮辱するこの童磨が本当に憎らしかった。

 そして、親を鬼に喰われて深い悲しみを抱いた暁歩も同じだ。喰った挙句に生きてる意味すらないなどと抜かす童磨への怒りが、止まることを知らない。

 

―――樹の呼吸・肆ノ型

―――落葉一閃

 

 肺が少しとはいえ凍っているのも忘れて、呼吸を整えると刹那で童磨と距離を詰める。

 

「一度見ちゃったからなあ、その技」

 

 だが、今度は技を見切られ弾かれてしまい、やむなく童磨の後ろに着地した。

 やはり肺の不調のせいか、最初よりも動きが遅くなってしまっていると暁歩も自覚している。けらけら笑う童磨を見て、暁歩も舌打ちをした。

 

「・・・信じられねぇ奇跡だぜ」

 

 ようやく聞こえた、伊之助の声。だが、その声が震え、頭の血管が浮き出るほどに怒りに満ちている。

 

「こんなところで、俺の親を殺した奴と再会するなんてな!!」

 

 叫んだ直後、伊之助の姿が消える。

 暁歩が瞬きをした直後に、伊之助は童磨の前に姿を現す。両腕で二本の刀を振りかぶるが、がら空きの胸を童磨は鉄扇で斬る。すると、伊之助の胸に交差する傷が入るが、伊之助は気にせず童磨を本気で斬ろうとする。

 

「えっ、まだ動いちゃうの?大丈夫?」

 

 それでも余裕の態度を崩さない童磨だが、その態度は余計伊之助の神経を逆なでした。

 

―――獣の呼吸・参ノ牙

―――()()

 

 矢鱈目鱈に刀を振って童磨と斬り合う伊之助だが、そこへカナヲと暁歩も加勢しにかかる。

 

「おっと」

 

 だが、三方向を固められた童磨は、上に跳んで攻撃を躱す。

 

―――血鬼術・蔓蓮華

 

 氷の花を咲かせて蔓を三人へと伸ばすが、それぞれが刀を振って蔓を切断する。

 

―――血鬼術・蓮葉氷

 

 さらに蓮の花から冷気を出すが、暁歩とカナヲは呼吸を止める。

 

―――獣の呼吸・拾ノ牙

―――円転旋牙(えんてんせんが)

 

 そこで伊之助は二本の刀を回して冷気を弾き飛ばす。それを好機と見たカナヲと暁歩は、冷気が消えた伊之助の背後へと回り、その背中を飛び越えるように童磨に攻撃を仕掛ける。

 

―――花の呼吸・陸ノ型

―――渦桃(うずもも)

 

 カナヲが大きく身体を捻って斬り込もうとする。童磨はその刀を流すように曲線を描きながら鉄扇を振り、攻撃を躱す。さらにもう一つの鉄扇で、カナヲの身体を斬ろうとしてきた。

 

―――樹の呼吸・弐ノ型

―――樫幹返し

 

 そこへ暁歩が前へと出て、刀で鉄扇を弾きつつ腕を斬ろうとする。結果的に腕を斬ることはできなかったが、それでも鉄扇を弾くことには成功し、無防備な前を曝け出させた。

 

―――獣の呼吸・陸ノ牙

―――乱杭噛(らんぐいが)

 

 そしてカナヲと暁歩の間を縫うように、伊之助が二本の日輪刀を交差して構え、童磨の頸を挟み込もうとする。

 

「ん?」

 

 と、その時。何の前触れもなく、童磨がピクッと身体を揺らす。

 そこを狙って伊之助が突進するが、童磨は後ろへ避けるだけだった。距離を取られたが、その間にカナヲと暁歩も体を起こして体勢を立て直す。

 

「え・・・()()()殿()、やられちゃったの?うそー?」

 

 虚空を見上げて呟く童磨だが、そんなことはどうでもよかった。暁歩たちは一斉に童磨へと斬りかかるが、刀が当たる直前で童磨の姿は消えてしまっていた。

 

「ごめんね?猗窩座殿がやられちゃって俺たちも余裕が無いし、君たちの相手はこの子にやらせるよ」

 

 そして童磨は、鉄扇を広げる。

 

―――血鬼術・結晶ノ御子(けっしょうのみこ)

 

 そして童磨が生み出したのは、腰の高さほどの背丈しかない、氷の人形だった。それも三体。

 

「ハッ!何だそのちんちくりんは!」

 

 それを見た伊之助は高笑いをする。

 

―――血鬼術・蓮葉氷

 

 だが、その三体の人形が血鬼術を発動させたのを見て、三人は一斉に人形から距離を取る。

 

―――血鬼術・寒烈の白姫

 

 さらに蓮から女性の顔を象った氷像が出現し、冷気を吐き出してくる。その威力や範囲は、先ほど童磨本体が仕掛けたものと同じだった。

 

「何だこれふざっけんな!」

 

 伊之助は全速力で冷気から逃げている。暁歩もカナヲも人形を相手にしながら冷気を避けているが、歯が立たない。

 

「頑張れ~。その子たちは俺と同じ力が出せるから、三人の相手を存分にしてやれると思うよ」

 

 童磨が手を振ってくるのを見て、暁歩は虫唾が走る。

 だが、童磨は扉に向かい部屋を出ようとしていた。このままでは、童磨は他のところに行ってしまうし、とどめを刺すことができない。

 

(どうする・・・)

 

 冷気を避け、人形と斬り合いながら暁歩は考える。

 寒烈の白姫のせいで部屋全体が冷気に覆われつつある。このままではいずれ無理矢理冷気を吸わされてしまい、肺が凍って死んでしまう。

 この状況を打破する技が、暁歩には一つある。その技は身体に大きな負担を掛けるものであり、修業中に使った際は脚の腱が切れたほどだ。それでも、カナヲや伊之助、そしてしのぶの命が危ない今使うことに躊躇はない。

 

―――樹の呼吸・拾ノ型

 

 床を蹴って跳び上がり、少しでも冷気を吸わないようにする。

 すると童磨もその様子に気付き、暁歩の方を見ていた。

 

―――深緑(しんりょく)樹海(じゅかい)

 

 だが、すぐに暁歩の姿はそこから消え、次の瞬間には、離れたところに横たわるしのぶの傍に立っていた。

 そして、部屋に立ち込めていた冷気や、『寒烈の白姫』の氷像、そして童磨の生み出した人形も全てが消えている。

 

「あれー?」

 

 童磨が呆けたように声を洩らす。

 『深緑の樹海』は、樹の呼吸の奥義とも言える技。脚力を最大限まで引っ張り出し、広範囲を高速かつ無音で斬りながら移動する技だ。音がしないのもあって、一瞬で全ての術が無くなったように錯覚するほどのものだ。

 ただし、無限に移動できるわけでもない。だから暁歩は、しのぶ、カナヲ、伊之助の三人を助けるために、皆の周りにある冷気と氷像を斬ることしかできなかった。

 

「・・・ぜ・・・・・・は・・・ぁ」

 

 そして、呼吸を使いながら冷気の中に突っ込んだことで、冷気を嫌でも吸ってしまっている。普通の呼吸の仕方を忘れそうになるほどで、息をするのが難しい。脚も強引に使ったせいで、腱と靭帯が悲鳴を上げている。切れてはいないが、あと少しでも強引に力を入れれば切れると断言できる。

 

「な、何だ今のは!俺もやってみてぇ!!」

 

 『深緑の樹海』を目の当たりにした伊之助は触発されたのか、刀を振りながら童磨の下へと再び駆け出す。カナヲも厄介な人形と冷気がなくなったことで、再び童磨を相手にする事ができるようになり、刀を振って肉薄する。

 

(まさか、あんな技を使うなんてね・・・)

 

 そんな二人を相手にしながら、童磨は鉄扇を振るいつつ暁歩の様子をちらっと見る。

 

(でも、冷気を大分吸ったみたいだし、放っておいても死にそうだからもういいか)

 

 まともに動けそうにないとみて、暁歩は無視することにした。

 そして相手にしている伊之助も、先ほどの胸の傷の出血が少なくないために、だんだんと動きに衰えが見え始めている。カナヲもまた疲労が増してきているからか、少しずつ動きが見切れるようになってきた。血鬼術を発動する機会も先ほどと比べればそこまで制限されていない。余裕で勝てると思えた。

 

(ちくしょう・・・ちくしょう・・・)

 

 床に手をつき、暁歩は心の中で毒づく。

 肺が凍って呼吸がおぼつかない。脚には断続的に鋭い痛みが走っている。立ち上がることさえも難しい。

 自分が恐怖していた死が、間近にある。

 

「暁歩、さん・・・」

 

 その時、すぐ傍で、か細い声が聞こえた。

 横になっているしのぶの声だ。

 

「・・・大、丈夫・・・です、か?」

 

 力なく、しのぶの右手が暁歩に伸ばされる。自分だって痛いだろうに、苦しいだろうに、辛いだろうに、心配してくれている。

 暁歩は、その右手を優しく握り返して、笑顔を作って見せる。まだその手に温もりが残っているし、脈も通常より弱いが確かにある。まだ生きている。

 その時、しのぶを治療する時に外していた腰袋から、紫の液体が入った瓶が姿を見せているのに気付いた。

 

(まだやれる・・・)

 

 瓶を手に取り、自分の心に言い聞かせる。

 肺は凍っているから、技はもう数発が限界だろう。それに脚の腱も限界に近いから、力を入れて移動するのも難しい。つまり、今は距離が離された童磨に技を喰らわせられるのはあと一度だけだ。

 

「しのぶさん」

「?」

「これ、お借りしますね」

 

 そのために暁歩は、傍らにあったしのぶの日輪刀を拾い上げる。刀身が大きく削られたそれは、突き技に特化した一振り。

 暁歩は脚に負担を掛けないようにゆっくりと立ち上がり、しのぶの最愛の姉であるカナエの仇・童磨を見据える。

 

◆ ◆

 

「よいしょっと」

 

 童磨が腕を振るうと、カナヲの腕にスパッと傷が入る。入れ違うように伊之助が前に出て刀を振るうが、最初の時のような勢いはもうない。片手で対処できる程度だ。

 

「二人ともよく頑張ったねぇ。偉い偉い」

 

 労うような言葉を童磨はかけるが、二人の瞳からは怒りと憎しみの色が消えない。たとえ体力と気力を削がれようとも『仇敵を討つ』という純粋な復讐心が、二人を衝き動かしていた。

 

「けどゴメンね。俺たちにも時間がないんだ」

 

―――血鬼術・結晶ノ御子

 

 再び氷の人形を生み出してカナヲと伊之助の相手をさせる。『またかこの野郎!』と伊之助が叫びながら相手をし、カナヲも歯ぎしりをして刀を振る。

 

「猗窩座殿がやられちゃったからね~」

 

 だが、そんな余裕を持って二人を見ていたせいで、後ろに気付くのが遅れてしまった。

 

―――樹の呼吸

 

 まともに動けないと思った暁歩が、すぐ後ろに迫っていた。

 童磨は鉄扇を構えて血鬼術を発動しようとする。

 

―――(あい)ノ型

 

 その瞬間、そこにいた暁歩の姿がブレる。

 そして風が動いたのを感じ取ると、童磨の後ろに暁歩が着地している。

 

―――蝶戯桜樹(ちょうぎおうじゅ)

 

 次の瞬間、童磨の腕、脚、胴体から血が噴き出し、頸にも切り込みが入っている。

 見れば、暁歩の右手には花萌葱の日輪刀、左手にはしのぶの日輪刀が握られていた。

 

「ボロボロだったのに、よく頑張ったね」

 

 その暁歩を見て、童磨が笑う。

 暁歩の右脚から、『ぷつっ』と何かが切れる感覚。途端右脚に力が入らなくなり、腱が切れてしまったと気づいた。

 

「だからかな。攻撃が粗いし、最初より動きが見やすかったよ」

 

 暁歩の腹部が一文字に切れて、血が流れ出る。口から血を吐き出し、思わず蹲る。素早く移動する直前に、童磨の攻撃が当たったのだ。

 

「あの子もそうだけどさ、深い怪我までしてるのに最後まであがいて」

「・・・・・・」

「本当、無駄なことを分かっていても最後までやり抜くのが人間の素晴らしさだよね!俺は大いに感動した!面白かったよ!」

 

 ゆっくりと振り向くと、童磨は泣いていた。それも嘘泣きだと、泣いて見せているだけだと、暁歩には分かっていたが。

 

「楽しませてくれたお礼に、今ここで君は、俺が殺してあげよう!」

 

 鉄扇を広げる童磨。

 暁歩の脚は腱が切れ、すぐに動けない。腹部が大きく切られ、下手に動くと失血する。肺は凍っていて、すぐに呼吸法の技も使えない。カナヲと伊之助も、氷の人形を相手にして手一杯。

 

(早く、早く・・・!)

 

 心の中で何かを祈る暁歩。

 そして童磨が、広げた鉄扇を暁歩の首に向かって横に構える。

 

 その瞬間、持っていたはずの鉄扇が童磨の手から落ちた。

 

「あれ?」

 

 呆けたように自分の腕を見る童磨。なぜか自分の腕が、痺れているような感覚がする。自分の腕や首など、先ほど暁歩の攻撃を受けた個所が治らない。

 よく見たら、暁歩の握っていた二本の日輪刀には紫色の液体が付着している。

 毒だ、と童磨は直感で悟ると、分解しようと試みる。先ほどのしのぶとの戦いで、()()()()なら分解できると分かっていた。

 

(なんだ、これ?)

 

 だが、分解はできているような感覚はするが、その速度が通常よりも遥かに遅い。先ほどのしのぶの毒のように、上手く分解できない。

 そして分解するにつれて身体が重くなり、視界が歪み始める。

 

(よし・・・)

 

 あの瓶の中身は、確かに基はしのぶからもらった、珠代と協力して作っていた毒だ。

 その毒は、非常に純度の高い藤の花の毒を基礎とし、さらに有害である毒素を配合したものである。

 

 だが暁歩は、その毒に細工をした。

 それは、珠代たちと開発していた『鬼を人間に戻す薬』の一部を配合したこと。

 そして、強力な副作用を持つ()()を複数調合したことだ。

 

 鬼の身体構造は人間とほぼ同じであり、病には罹らず、傷の回復速度が人間よりも遥かに速いのは既にしのぶの研究で分かっている。また、その回復速度の異常な速さは、未だ解明されていない『鬼の力』によって、人間の回復速度を格段に速めていることも判明していた。

 だが、そこで暁歩は珠代たちと共同開発した、『鬼を人間に戻す薬』の効果の一つにある、再生能力を低下させる成分を暁歩は配合したのだ。

 そして、薬種の副作用は毒、病とは性質が異なるものであり、作用が強い薬種ほど副作用も強く、これは完全に押さえつけることがほぼできない。

 そして薬種自体もまた、調合次第で身体に害を与えるようになる。

 だから暁歩は、共同開発した毒を分析し直し、薬に関する資料を読み返した。そして、『毒』『鬼を人間に戻す薬』『強力な副作用を持っている薬種』を、毒素を破壊しないような精密な比率で調合した。

 そして、自分としのぶの日輪刀の二本に毒を塗り、童磨の身体の至る所から毒を注入し、少しでも早く、多く全身に巡らせるようにした。その量は、しのぶが普段日輪刀で打ち込む致死量のおよそ二~三倍ほど。

 結果として、童磨は純粋な『毒』とは違う複雑な作用を持つ『薬』を上手く分解できずに、回復速度・毒の分解速度が通常よりも遅く、上手くいかなくなっている。

 

(しのぶさんと、珠代さんに、感謝しないと・・・)

 

 ここまでのことができるようになったのも、しのぶの下で毒と薬についての指導を受け、鬼を人間に戻す薬の共同開発に携わることができたからだ。さらに、彼女が研究してきた鬼や薬に関する資料もあってこそ、実現できた。そして自分が前もって知っていた、薬種も配合次第で害を及ぼす毒となる、という知識にも助けられた。

 ただ無論、そんなことをすれば毒としての殺傷性は落ちるし、これが初めての試みであるゆえに、ある意味賭けだ。

 だが、暁歩は自分の実力が低いことを自分で知っている。十二鬼月、それも上弦と一対一になれば、まず間違いなく自分が死ぬであろうことも分かっていた。だからもし、これを使う機会があるとすれば、それは他の誰かと戦っている時だけだ。その時に、この自分の作った『劇薬』で動きを止めるなりして、後は自分以外の誰かにとどめを刺してもらう。

 自分だけでは勝てないと分かっていたから、これを使った。

 

「・・・くっ」

 

 暁歩は、左脚に力を籠めてわずかに立ち上がり、振り向きざまに童磨の頸目がけて自分の日輪刀を振る。童磨は左腕に持っていた鉄扇で防ごうとしたが、薬で身体が重く感じてしまい防げず頸に日輪刀を受けてしまう。

 だが、硬い。普通の鬼なら、このひと振りで斬れただろうが、上弦となれば頸の硬さも相当だ。刃がとても遅くしか進まない。

 するとその時、カナヲと伊之助が相手にしていた氷の人形が突如動きを止めて、砕け散った。二人は驚いて童磨の方を見ると、童磨の頸に暁歩が刀を押し込もうとしているところだった。

 

「「!!」」

 

 すぐに、カナヲと伊之助は、加勢すれば行けると察して駆け出す。

 

―――血鬼術・霧氷(むひょう)睡蓮菩薩(すいれんぼさつ)

 

 だがその直前、床が大きく盛り上がり、冷気を帯びた何かが出現する。

 それは、氷でできた巨大な菩薩像だった。

 

(コイツ、まだ・・・)

 

 この土壇場で発動させた童磨の大技に、暁歩も舌打ちする。

 童磨だけが氷でできた蓮の花の上に載り、上へと伸びていく。だが暁歩は、日輪刀も頸から外れてしまい、下へと落下する。

 菩薩の後ろからはいくつもの蓮の花が伸びていて、その中の一輪の上に童磨はいる。

 そして菩薩像は、巨大な手で暁歩を掴んだ。

 

「ちっくしょう!」

 

 同じように伊之助も別の手に掴まれてしまいもがく。

 最後に残ったカナヲだが、菩薩像の胸の部分から現れたもう一つの手がカナヲを叩き潰そうとしてくる。この大きさでは質量も相当なものだろうし、潰されればひとたまりもない。

 そこでカナヲは、一度目を閉じる。

 

―――花の呼吸・(つい)ノ型

―――彼岸(ひがん)朱眼(しゅがん)

 

 そして次に目を開いた時には、眼球が赤く染まっていた。

 その目で見る物は、全てが寫眞を並べているかのように遅く感じる。血液を眼球に送り込み、視力を極限まで高めるその技は、カナヲにとっての隠し玉であり最後の切り札だ。

 

(あれは・・・)

 

 だが、それを見た暁歩は、その技が瞬時に危ない技だと分かった。その尋常じゃない目の色は、もしかしたら失明する代償もあるのかもしれない。

 けれど暁歩は、それが分かっていても思うように動けない。

 この氷の菩薩像は、童磨が万全の状態でないからか、出現した時から解け始めている。だが、暁歩を握る手の力は徐々に強まっており、このままでは解け切る前に握り潰される。

 その一方でカナヲは跳び上がり、迫ってくる氷の蔓や粒を避け、毒が回って回避行動もまともにとれない童磨の頸を刀で薙ごうとする。

 そこでカナヲは、先の暁歩の攻撃で童磨の頸に刻んでいた切れ目が治っていないのを捉えると、そこへ自分の刀を重ねるように振り込む。さらに呼吸を使って腕の力を最大限まで引き出した。童磨も身体を上手く動かせないからか、抵抗しようとしない。

 だが、その頸に刃がかかったところで、菩薩像の顔がカナヲの方を向き、腕と身体を凍らせてくる。

 

(駄目だ・・・)

 

 ここまでか、と手の中で暁歩が諦めかけたところで。

 

「諦めんじゃねぇ!」

 

 もう片方の手に掴まれている伊之助の声が、暁歩の耳に入り込む。

 

「暁歩がここで死んだら、それこそしのぶは死んじまうぞ!」

 

 その言葉を聞いて、閉じかけていた意識を、無理やりにでも暁歩は覚醒させる。

 今は手に掴まれていて宙に浮いているから軸足はいらない。腱が切れていても今だけは問題なかった。

 弱った肺に鞭うって動かして、呼吸を整えて自分の血管一本一本にまで意識を集中し、切れた腹部を止血するよう意識する。

 

「!」

 

 そして、自分の血管を塞いだ感覚を得ると同時に、刀を振る。

 

―――樹の呼吸・捌ノ型

―――松絡旋刃

 

 体を捻り、右手に握った自分の日輪刀で氷の巨大な手を細切れにする。解けかかっていたからか、片手の力だけで斬ることができた。

 

「このデカブツの頸も切れ!」

 

 伊之助が叫ぶ。暁歩は考える前に、限界を迎えつつある肺を動かしてもう一度呼吸を整え、さらに刀を振る。

 

―――樹の呼吸・壱ノ型

―――大樹倒斬・二重(ふたえ)

 

 菩薩像の頸は太く、一振りでは斬れない。だから暁歩は、刀を素早く一往復させて、菩薩像の頸を斬る。

 そして、カナヲに吹き掛けていた冷気が止まる。

 童磨の頸に掛かった刃は、ゆっくりとだが確実に進んでいる。暁歩の打ち込んだ薬が上手く効いたのか、カナヲの身体も凍り付いてまだ斬れていない。

 

「獣の呼吸思い付きの、投げ裂きぃぃ!!」

 

 すると、菩薩像の頸を落としたことで、伊之助からカナヲの位置まで遮蔽物がなくなり、伊之助はそれを利用してカナヲの刀目がけて自分の二本の日輪刀を投げつける。それは見事にカナヲの刀に当たり、刃毀れした部分が引っかかってカナヲの刀を押し込む。

 

「―――ッ!!」

 

 最後にカナヲが駄目押しとばかりに渾身の力を籠めて、刀を振るう。

 すると、ついに童磨の頸が飛んだ。

 

「・・・・・・」

 

 それを見た瞬間、暁歩の中の緊張が緩んだ。

 氷の菩薩像は目に見える速さで解け始め、伊之助も解放される。カナヲの身体を凍らせていた冷気もなくなり、身体を動かせるようになった。そして、頸を斬られた童磨の身体はぼとっと床に落ちる。

 

「ぐっ・・・」

 

 ただ暁歩は、痛みでまともに受け身を取れず、背中から落ちてしまった。しかし、骨は折れていない。右脚はもう動かせないが、左脚と腕はまだ動く。

 そして、肺がろくに動かせなかったにもかかわらず全集中の呼吸で技を使ったせいで、反動がすごい。心臓が肋骨を破って突き出そうだ。

 それでも腕を使って上体を起こし、周囲の状況を見る。

 カナヲは、腕や脚に切り傷をいくつも負っているが、二本の足で立てている。そして、手で目元を押さえていた。やはり先ほどの技は相応の代償もあるらしい。

 伊之助は、塵芥と化して消えつつある童磨の身体を踏んづけて『口ほどにもねぇ奴だぜ!』とすっかり得意げだった。しかし、戦闘の疲労と出血で足元がふらつき、尻餅をついて肩で息をしだす。

 とにかく二人共、無事だった。

 

(斃した・・・上弦・・・仇を・・・)

 

 そして、自分たちが炭治郎たちと同じように、上弦の鬼を斃したという事実に、傷ついた身体が打ち震える。自分の身体はボロボロで、しのぶもまた重傷を負い、カナヲと伊之助も傷ついているが、協力して斃せた。

 そして、しのぶをずっと苦しめていた存在を葬ったことで、暁歩もまた自分の中の蟠りが晴れたような気持ちになる。

 

(えー・・・嘘・・・斬られちゃった・・・)

 

 頸を斬られた童磨は、床に転がりながら呑気に考える。

 カナヲに指摘された通りで、童磨は感情が欠如していた。だから、頸を斬られても自分が死ぬことに対する恐怖心や悲しさなどは感じなかった。

 強いて言えば、自分があんな女の子、無茶苦茶な戦い方の少年、まともに戦えないような青年に斃されるなんて、と考えるくらいだ。

 

「・・・・・・」

 

 そんな童磨の頸に、暁歩は右脚を引きずりながら近づく。

 腹部が切れ、右脚の腱が切れた暁歩を見上げて、童磨が話しかける。

 

「俺に何をしたの?」

「・・・お前に、教える義理はない」

「そんなー、教えておくれよ」

 

 頸も、身体も灰になりかけているのに、童磨は陽気な様を崩さない。

 人は死ぬ間際、悲しんだり、怖くなったり、苦しんだりするだろう。しのぶの目の前で殺された家族や、夜道を鬼に喰い殺された暁歩の親も、誰でも、そうだったはずだ。

 だが、この童磨は死を前にしても、そんな様子が無い。こいつが殺した数えきれない人は、そういう気持ちを抱いていたのに。

 その事実に、虫唾が走った。

 

「とっととくたばれ、糞野郎」

 

 そう言って暁歩は、童磨の頭に自分としのぶの日輪刀を突き刺す。

 すると、童磨の頸は消滅した。

 

「・・・暁歩」

 

 カナヲが歩み寄ってくる。彼女も肩で息をして、左目を押さえているが、どこか肩の荷が下りたような表情だ。

 

「・・・カナヲさん・・・。伊之助くんを連れて・・・ここから離れてください」

 

 そんな彼女を見ながら、暁歩は腹部を押さえて告げる。

 

「俺はもう、ろくに動けません・・・。まだ、動けるのなら・・・他の増援に・・・」

 

 自分を置いていくように伝えた。

 利き脚の腱が切れて、腹部には大きな傷がある。これ以上の戦闘は不可能だし、こんな状態では足手まといになる。

 それに、カナエの仇を討ったからと言って、すべて終わりではない。恐らくまだ他の場所でも十二鬼月かそれ以上の存在と戦っている隊士はいるだろう。戦えるのなら、少しでも犠牲者を減らすためにそちらへ行った方がいい。

 

「・・・分かった」

 

 カナヲは頷き、伊之助を見る。

 伊之助は、床に胡坐をかいて肩を震わせていた。きっと、泣いているのだろう。

 

「暁歩」

「?」

「しのぶ姉さんを・・・お願い」

 

 今初めて、暁歩はカナヲから『頼み事』をされた。

 しのぶのことを思うカナヲの言葉に、暁歩は怪我も気にせず力強く頷く。

 

「・・・分かりました」

 

 暁歩が返すと、カナヲは伊之助に肩を貸し、童磨が奪った猪の生皮も回収して、部屋を後にする。

 

「く・・・ぅ」

 

 右脚の腱が切れて、普段のように歩けない。だが、それでもどうにかして、鞘に納めた自分の日輪刀を杖代わりにしてゆっくりと二本の足で立つ。右脚には力を入れないよう、重心を左側にずらす。

 そして、横たわるしのぶの下へ、少しでも早くと自分自身を急かして足を動かす。

 

(呼吸が元通りできる・・・まだ間に合う・・・!)

 

 童磨を斃したからか、肺の中が凍っているような感覚もなくなった。呼吸をする事が苦ではないが、腹の傷が痛むせいで呼吸をする度に少し痛みが伴う。

 だが、しのぶも同じなら、呼吸ができるようになったなら、少しでも全集中の呼吸で止血をすることができる。まだ助かる確率は上がる。

 

「しのぶ、さん」

 

 辿りつくと、しのぶの傍に膝をつく。

 横たわるしのぶは、暁歩の顔を見て、少しだけ泣きそうな笑みを浮かべている。

 

「・・・勝ちました・・・あいつを、斃しました・・・」

「・・・はい」

「仇を、討てました」

 

 どれだけ自分が痛くても、笑顔を作って伝える。しのぶも少しだけ、笑みを深くした。

 

「後は・・・しのぶさんです」

「・・・暁歩、さん」

「肺は、元に戻ってるはずです・・・。呼吸で、止血できるはずです・・・」

 

 だが、しのぶはそうしようとしない。

 そして、床についていた暁歩の手に、そっと自分の手を載せる。

 

「・・・いいんです、もう」

「え?」

「・・・身体を、斬られて。左の、肺も・・・傷ついて。痛、みで・・・。自分で、呼吸をす・・・るのも、難しい、んです」

 

 勝利したことによる身体の熱が、一気に冷えた。

 しのぶが何を悟ったのかに気付いて、暁歩の意識が再び引き締められる。

 

「・・・だから、もう・・・。私の、ことは―――」

「見捨てません」

 

 暁歩は自分の隊服の上を脱ぎ、腹の部分できつく締める。足しになるか分からないほどの止血だが、やらないよりはずっとマシだ。

 

「ここで死んだら・・・カナヲさんと、伊之助くんの・・・戦いも無駄になります」

「・・・童磨を、斃せ、たから・・・」

「それ以前に、あなたを・・・助けようとしてました」

 

 上弦の弐を打ち破り、鬼側の戦力を大きく削いだ点では無駄ではない。

 だが、カナヲも伊之助も、傷ついたしのぶを見て己を奮い立たせ、絶対に死なせないと心に誓い戦った。ここでしのぶが死ねば、本当にそれが無駄になる。

 

「・・・死なせません。絶対」

 

 疲労と痛みで鈍った思考を動かして、どうすればいいかを考える。

 しのぶは肺が傷つき、呼吸がろくにできない。だが、傷ついた臓器をこの場で治す術はない。傷口を縫って、止血剤も塗っているが、それも万全ではない。呼吸を使って血管に意識を向けて止血すれば、まだ生存する確率も上がる。それ以前に呼吸がまともにできなければ、生命活動そのものができなくなる。

 だが、しのぶは()()()呼吸ができないのだ。

 

「・・・・・・」

 

 一つの手段を考えた。

 それしか、今この場で出来る方法がない。

 

「・・・暁、歩さん?」

「今は、喋らないでください」

 

 手拭いを取り出して、しのぶの口元についている血を拭う。暁歩自身は、シャツの袖口で自分の口元にある血を拭く。

 

「しのぶさん、聞いてください」

「?」

「俺が・・・しのぶさんに空気を送り込みます。なので・・・しのぶさんは、全集中の呼吸で、止血すること・・・酸素を行き渡らせることだけを、考えてください」

 

 それでしのぶも、暁歩が何をするつもりかを理解したらしく、目で了解の意思を伝えた。

 まず暁歩は、しのぶの額にそっと左手を置き、右手の指で顎を上げて気道を確保する。

 次に、左手の指でしのぶの鼻をつまみ、右手の親指で口を開ける。

 

「・・・いきますよ」

 

 そして、口を重ね合わせ、空気をしのぶの体内へと送り込む。胸の辺りが膨らむのを横目に確認して、息を吸う。

 それを繰り返して、しのぶの呼吸を助ける。

 だが、それも長時間連続でできるわけではない。暁歩自身が呼吸する必要もあり、時折口を離して自分の呼吸もする。

 そして、自分が十分に呼吸できたら、しのぶの番だ。

 

(・・・死なせない。死なせない・・・)

 

 人工呼吸をしながら、暁歩は必死に願う。

 目の前でわずかな命の灯を宿しているしのぶに対して、死なないでほしいと強く願う。

 

(俺はまだ・・・あなたに伝えていないことがあるんですから)

 

 途中で、涙があふれてくる。

 自分自身も怪我をしていて、弱気になってしまっているからか、しなくてもいい想像までしてしまう。

 頭を振って嫌な考えを振り払い、ただしのぶを死なせるものかと自分に強く言い聞かせる。

 絶対に救って見せると、空気を送り続ける。

 それは、暁歩が失血で気を失うまで続いた。



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最終話:本当の笑み

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 月が沈み、日はまた昇る。

 それはこの世界で変わることのない自然の摂理で、はるか昔から繰り返され、これから先もずっと続いていくのだろう。

 だが、今日この日だけは、その摂理に特別な意味合いが込められる。

 

 鬼の祖である鬼舞辻無惨は消滅した。

 日の光を浴びて、この世のものとは思えないほどの声を上げて、消え去った。

 

 長きにわたる鬼との戦いが終わった。

 鬼殺隊は戦い抜き、そして耐えてみせたのだ。

 無惨の強さは十二鬼月の上弦など目じゃないほどであり、日の出までの持久戦であっても、多大な被害と犠牲を伴うものだった。通常の隊士はもちろん、柱でさえも命を落とすほどに。

 しかし今は、悲しみに暮れる暇も、勝利を喜ぶ猶予もない。

 この決戦に参加した隊士は大なり小なり怪我を負っている。中には危険な状態にある隊士もいた。

 そうした怪我人は、隠も総出で蝶屋敷へと搬送し、受け入れられる限り受け入れるのだ。

 

「暁歩さんは?」

「それが、どこにもいなくて・・・」

 

 朝になって鎹鴉からの連絡を受けたアオイたちは、受け入れる準備を始めていた。

 しかし、この屋敷では今や重要な存在である暁歩がいない。しのぶは昨日緊急招集がかかって不在なのは知っているし、鬼舞辻無惨との最終決戦があったのも鎹鴉経由で知っている。だが、なぜ戦闘要員ではない暁歩がいないのか分からなかった。

 だが、それでも怪我人が大勢運び込まれるまでの時間は迫っていて、暁歩のことを探す時間がない。やむなく今いる人だけで準備を進めることになった。

 

「こちらの病床はまだ空いています!」

「隠の方、そこの包帯取ってくださいぃ~!」

 

 それから数刻で一斉に怪我人が運び込まれ、これまでにないほど忙しくなる。それでも、運び込まれる隊員たちをテキパキと病床へ寝かせ、一人ひとり初期治療を行う。

 だが、やはり四人では手が回りきらないほど多いので、手が空いた隠にも協力してもらえるように頼み、どうにかやりくりをした。その甲斐あってか、大きな混乱も起きることなく、順調に怪我人の受け入れは進んでいる。

 

「重傷の方、二名お願いします!」

 

 そんな中で、また新たに隊士が運び込まれてきた。

 先に運び込まれた隊士の処置を終えたアオイときよは、駆け足で玄関へとむかう。まだ特別室に空きがあったので、その二人はそこへ運び入れようと頭の中で決める。

 だが、玄関先にいた隠が担架で運んでいた隊士の姿を見て。

 

「・・・え?」

 

 アオイときよは、言葉を失った。

 その二人の隊士は、担架に載せられていて、傷だらけで、生々しい血の跡が残っている。

 だが、信じられないような表情になってしまったのは、怪我を見たからではなくて、その運び込まれた人の顔を見たからだ。

 何故ならその二人は、この蝶屋敷ではかけがえのない存在である、しのぶと暁歩だったから。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 懐かしい光景だった。

 まだ、俺の家族が生きていた時、薬屋を営んでいた時のこと。

 小さな食卓を囲んでいる。今日来たお客さんのことを父さんが話して、母さんがご飯をよそいながらそれを静かに笑って聞いている。俺も手伝いながら、耳を傾けていた。

 それから俺は、薬のことを教えてもらった。どんな効能があるのか、どうやって作るのか、どんな薬種を使うのか。その話を聞いた時の俺は、面白そうな、興味深そうな顔をしていたはずだ。

 だけど。

 瞬きを一つした後は、自分の周りは真っ暗になった。

 優しかった俺の両親は鬼に殺されて、俺一人が残った。

 家族はいなくなって、俺は孤独になった。

 

「ごめんね」

 

 声が聞こえて、顔を上げた。

 真っ暗な場所に、優しい目つきをしている、俺の両親がいた。

 

「一人にしちゃって・・・ごめんね」

 

 母さん、謝ることなんてないのに。

 俺だって、鬼に対する復讐心で一杯だったのに、自分の心が弱くて、結局まともに戦えなくなったんだから。

 それに、母さんも父さんも、何も悪くないよ。

 一人になったのは寂しいけど、だからって二人が謝ることなんてない。

 

「・・・すまなかった、暁歩」

 

 父さん、謝らなくても大丈夫だって。

 

「生きていたら・・・もっとお前に色々なことをしてやれただろうけど・・・」

 

 十分だよ。

 俺のことを大切に育ててくれたし、薬のことも教えてくれた。

 父さんが教えてくれたことは、ちゃんと今も覚えてる。それに、鬼との戦いで、役に立ったよ。

 そりゃあ、もっと一緒にいたかったけど、父さんも母さんも、謝ることなんてないよ。

 

「・・・そうか。ありがとう」

「あなたは・・・そういう優しい子だったものね」

 

 そう言われると、悪い気はしない。

 けど、どうして俺は、死んだはずの父さんと母さんと顔を合わせられるんだろう。

 俺は、死んだのか?

 

「いや、お前はまだ死んでいない」

 

 じゃあ、何で?

 

「あなたを、送り返すためよ」

 

 母さんが微笑む。生きている間は、何度も俺や父さんに向けていた、懐かしい顔。久しぶりに見たけど、だからこそ涙があふれてきそうだ。

 父さんもまた、小さく笑っていた。

 

「お前がこっちへ来るのは、もう少し先だ。それまでは、ずっと待っているよ」

 

 肩に手を置いてくれる。大きくて、温かい手。

 

「子供だったあなたを置いて先に逝くなんて・・・親として、情けないと思う」

「だからこそ、暁歩にはもっと永く生きてほしい」

 

 父さんと母さんの後ろが、ぼんやりと明るくなってくる。

 どうやら、お別れみたいだ。それは分かる。

 

「そして、僕たちが暁歩にしてやれなかった分まで・・・」

「幸せに生きてほしい」

 

 ぐらっと、身体が後ろに倒れるような感覚。

 自然と父さんたちに手を伸ばしたけど、二人は俺の手を掴もうとはしなかった。

 そして俺も、自分が倒れるようなその感覚に、逆らおうとはしなかった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 目を開けたら、そこは懐かしい匂いがして、見覚えのある天井が見えた。

 

「・・・・・・」

 

 先ほどまで、真っ暗な空間にいたような記憶。亡くなった両親と、話をしていた気がする。

 けれど、朧げな意識の中でここが蝶屋敷だと気づくと、暁歩の意識はようやく覚醒した。そして同時に、背中には何か柔らかい感触がして、自分は寝台の上に寝転がっていたのだと思い至る。

 それから、起き上がろうとすると。

 

「痛っ・・・!」

 

 強烈な痛みが身体に走った。

 自分の身体を見てみると、腕や脚、腹部に包帯を巻かれているような感触がする。特に右脚と腹部は念入りに手当てされているようで、右脚には添木の感触もあった。そして、両腕には点滴用と輸血用の管が通されている。

 その時、バタバタという足音が、壁の向こうから聞こえてくる。その音はどんどん大きくなってきて、その直後に部屋の戸が開け放たれ、小さな影が駆け込んできた。

 

「暁歩さん!目が覚めたんですね・・・!」

 

 その正体は、きよだった。涙目になりながら暁歩へと駆け寄り、ついには寝台に泣きつく。

 

「よかったですぅ・・一か月も目が覚めなかったんですよぉ・・・」

「・・・そう、だったのか」

 

 一か月眠り続けるなど、普通なら考えられない。だが、怪我がひどかったからか、それだけ意識が戻るのにも時間がかかったのだろう。よく自分の状態を確かめると、怪我はまだ痛むものの、何だか疲れが取れているような気がする。

 さらに部屋の外から足音が響き、すみとなほ、アオイも心様子を見に来てくれた。心配だったのか、彼女たちの顔には安堵や不安の表情が浮かんでいる。

 

「よかった・・・目が覚めたんですね・・・」

「急にいなくなってて心配しましたぁ・・・」

 

 心の底から安心したように、アオイが涙を滲ませている。さらに、なほとすみもきよと同様に暁歩のことを涙目で見ていた。

 そこで暁歩は、何があったのかをゆっくりと思い出す。

 あの夜に突然変な異空間に落とされて、童磨とかいう上弦の弐と戦ったのだ。できる限りの技を出し尽くし、カナヲと伊之助と協力して、ボロボロになりながらもどうにか頸を取って勝利した。けれど、腕や脚、腹部を斬られ、それに右脚の腱も切れてしまい、失血で気を失ったのだと思う。

 

「しのぶさんは?」

 

 今頃になって、一番重要なことを訊ねる。

 しのぶもまた重傷を負っていたはずだ。暁歩がその場でやれるだけの手当てをして命をつなぎとめようと必死だったが、途中で気を失ったせいでどうなったか分からない。

 

「・・・・・・」

 

 だが、それを聞いた瞬間、空気が重くなった。

 アオイたちの表情が翳って、暁歩と視線を逸らす。

 それを目の当たりにして、暁歩の中の熱が一気に冷めていく。

 

「・・・え?」

 

 嘘だ。

 そんな反応を見ると、嫌でも『助からなかった』という残酷な結末を思い浮かべてしまう。カナヲと伊之助が奮戦して、仇も討って、力を尽くしたのに、それでも駄目だったのかと。

 

「・・・隣に」

 

 なほが小さく告げると、暁歩は首を左に向ける。

 その時、僅かに開かれていた窓から風が吹き込み、窓掛けがふわりと揺れ、隣の寝台が見えた。

 

「・・・しのぶ、さん」

 

 そこで、しのぶは眠っていた。

 暁歩と同じように、両腕に点滴と血管の管が通されていて、腕や顔にもガーゼが貼られている。

 

「・・・生きておられます。ただし、重症です」

 

 生きている。

 ただそれだけで、暁歩は泣き出してしまいそうになる。あの異空間では、瀕死だったのだから。童磨との戦いも、自分の手当ても、決して無駄ではなかったのだと実感する。

 

「隠の方が、発見した時は暁歩さんも傍に倒れていた、と言ってました・・・」

「応急処置の跡がありましたけど、暁歩さんが・・・?」

「・・・はい。止血剤と包帯、縫合糸をあるだけ使って」

 

 アオイの質問に答えながら暁歩は起き上がろうとするが、それをすみが腕に手を添えて制する。

 

「駄目ですよ、暁歩さんも深い怪我をしたんですから・・・」

「運び込まれた時、失血で危ない状態だったんですから・・・」

 

 アオイからも諫められて、暁歩も仕方なく寝台に寝転がる。

 

「でも、どうして暁歩さんまで巻き込まれたんでしょう・・・?」

 

 なほが首を傾げる。

 だが、アオイがここに運び込まれた風柱の不死川実弥に聞いたところによれば、、隊士のすぐ近くを鬼の使い魔がうろついており、それに捕捉された者があの異空間に引きずり込まれたらしい。そう言えば暁歩も、薬を届けに行った帰り道で何か不気味な視線を感じた覚えがある。恐らくは、それがその使い魔の視線だったのだろう。

 そして、この蝶屋敷にいて、同じ隊士であるアオイが巻き込まれなかったのは、夜に外を出歩いていなかったからだ。使い魔も鬼と同様に日光の下で活動ができないから、夜に屋敷にいたアオイは捕捉されなかったのだ。

 

「・・・カナヲさんと伊之助くんは?」

「二人も怪我をしていましたが・・・大丈夫です・・・」

 

 一緒に戦ってくれた二人も無事だ。それをアオイから聞いて、ほっとする。

 ただ、やはり今の暁歩にとって一番の心配事は、隣の寝台で眠り続けているしのぶだ。暁歩は目覚めるまで一か月かかったらしいが、しのぶはまだ一度も目覚めていないらしい。左の鎖骨から腹部にかけて斜めに、肺とあばらが傷つくほどに深く斬られた。暁歩による応急処置がなければ、今頃は別の場所に安置されていたという。

 

「・・・あの、我妻さんが痛みで眠れないと・・・」

「あ、はい。すぐに行きます」

 

 そこで隠の一人が控えめに声を掛けてきた。

 戦いから一か月が過ぎても、蝶屋敷には未だ多くの怪我人が残っている。暁歩たちよりも重症だった隊士もいて、今もまだ隠の力を借りなければ忙しいらしい。そんな人たちの治療をするために、アオイたちは一度病室を出ていった。

 

(しのぶさん・・・)

 

 横になりながら、しのぶの方を見る。

 髪飾りを外して髪が下ろされているが、その姿は随分と久々に見た気がする。最後に見たのは確か誕生日の日の夜で、その時は綺麗と思ったが、こんな形でまた見るとは思わなかった。それに今見ても、弱っているからこそ悲しい気持ちにしかなれない。

 

(・・・頑張ってください・・・死なないでください)

 

 まだ暁歩は、しのぶに自分の気持ちを伝えられていない。このまま永遠の離別など、考えたくもなかった。カナヲと伊之助、蝶屋敷の皆が繋いでくれた命を、簡単に喪ってほしくない。

 どうか、生きて欲しい。

 無意識に、暁歩は布団を強く掴んでいた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 暁歩が目覚めた翌日。

 

「暁歩さん、お客様ですよ」

「・・・?」

 

 病床の上で微睡んでいると、なほが戸を開けて声を掛けてきた。暁歩は頷くと、そのお見舞いに来てくれた人が入ってくる。

 

「・・・師匠」

 

 それは、暁歩に修業をつけていた育手の空見。二年近く会っていなかったが、やはりその厳格な顔つきと、初老に合わないしゃんとした姿勢は変わらなかった。

 『お久しぶりです』と暁歩が寝台の上で頭を下げると、空見は目だけで応え暁歩の傍の椅子に座る。

 

「大分、厳しい戦いだったようだな」

「ええ、まあ・・・」

 

 寝台の上の暁歩の痛ましい姿を見て、空見が評する。暁歩だって死の淵を彷徨っていたのだから、実際のところ厳しいなんてものではなかった。

 それでも、空見は暁歩から目を逸らさない。

 

「ワシには戦えない、と言ったはずだが戦ったのか」

「・・・すみません」

 

 厳つい顔付きなので、どうしても責められているようにしか聞こえない。反射的に謝ってしまう。

 

「何を謝る必要がある」

 

 だが、そんな暁歩に空見は言葉を投げてきた。

 

「あの時弱気になっていたお前が、今回戦って生き残ったのは、それだけお前の心が成長したからだ。そこにお前が謝る必要はない」

 

 空見は、弟子の成長を喜んでくれていたのだ。修業中は厳しいところがあって勘違いされやすいが、こうして褒めるべき点、喜ばしいところはきちんと言ってくれる。だからこそ、その言葉は胸に響くのだ。

 思わず、暁歩の唇も少し緩む。

 

「今回の戦い・・・何が起こったのか、話してくれるか」

 

 空見が訊いてくると、暁歩は頷いてぽつぽつと話す。なぜ自分が戦いに巻き込まれたのか、どんな敵だったのか、どうやって戦い、どうやって勝ったのか。

 

「上弦の鬼と・・・」

「ええ、結果はこの通りですが・・・」

 

 やはり空見は、藤襲山から帰ってきて弱音を吐いた暁歩が、鬼の中でも最上級の強さを誇る十二鬼月の上弦と戦って、大怪我を負ったとはいえ生きていたことに驚きを隠せないらしい。暁歩だって、今もまだ自分が生き残ったなんて、と思わずにはいられない。

 

「・・・俺一人だったら多分、何もできず死んでました。けど、一緒に戦ってくれる人がいましたし、それに・・・」

 

 暁歩は、隣の寝台で眠ったままのしのぶを見る。

 

「・・・どうしても、負けられなかったので」

 

 暁歩にとって一番大切な人であるしのぶを長い間苦しめ、歪んだ思想を抱き人の命を弄ぶ存在である童磨。暁歩と対極の存在であるあの鬼には、負けたくなかった。戦っている間は自分の死なんて二の次になるほどに真剣で、カナヲと伊之助と協力して斃せたことは、本当に嬉しく思う。

 

「そうか・・・」

 

 空見が初めて暁歩に会った時、その顔は悲しみに暮れているような顔をしていた。

 だが、鬼のことを知った時は怒りや憎しみの色が混じったものとなり、藤襲山の最終選別の後は、弱気な顔だったのを空見は覚えている。

 そして今の暁歩は、そのどれとも違う表情だ。大怪我の後で目覚めたのも感じさせないほど、自信に満ちている。

 そんな暁歩の頭に、空見はそっと手を載せた。

 

「・・・本当に、よくやった」

 

 暁歩は、空見の顔を見る。

 温かい表情を浮かべていた。

 

「・・・ワシは、お前を誇りに思う」

 

 その載せられた手と、言葉の温かさに、暁歩も少しだけ涙を滲ませてしまった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 右脚の腱が切れたのが割と深刻で、暁歩が立ち上がるまでには、目覚めてからさらに八日かかった。それでもまだ、杖がなければ満足に歩けないのでもどかしい。

 だが、脚以外の機能には問題がなくなったので、暁歩も他の患者の治療に当たることになる。まだ目を覚まさないしのぶのことが気がかりだが、必ず助かると信じて、他の人の治療も進めなければならない。

 しかし今は、強力な助っ人もいた。

 

「暁歩さん」

 

 声を掛けられて振り返る。アオイやきよたちとも違うその声の主は、禰豆子だった。

 

「どうしました?」

「包帯の予備って、どこに置いてありますか?」

「ああ、それは向こうの棚に・・・取ってきますよ」

「いえ、暁歩さんも怪我がまだ治っていないんですから・・・言ってくだされば私が取ってきます」

 

 あの異空間での戦いが始まる少し前、禰豆子は珠代としのぶが作った鬼を人間に戻す薬を投与され、それが上手く作用した今は人間に戻っている。縦長の瞳孔も、鋭かった歯も今や元通りとなっており、言葉遣いも流暢で、可愛らしい人間の姿をしていた。

 そして禰豆子は、兄の炭治郎譲りとでも言うべきか、とても献身的で優しい性格だった。色々なことが起きて混乱しているだろうに、こうして蝶屋敷での手伝いをしてくれている。正直言って、人手が足りない今は本当に助かっていた。

 

「暁歩さん、無事だったんですね・・・」

「ええ、どうにか・・・」

 

 病室へ診察のために赴くと、寝台に横になっている炭治郎が声を掛けてくれた。彼もまた重症だったらしいが、今は安定しているらしい。表情こそやつれているものの、じきに良くなると暁歩は診ていて分かった。

 

「禰豆子さん・・・元に戻って、良かったですね」

「はい・・・本当に・・・」

 

 近くで甲斐甲斐しく怪我人の治療をする禰豆子の姿を見て、暁歩も炭治郎も安堵の声になる。禰豆子を人間に戻したいと切望していたからこそ、それが叶い、人間に戻った禰豆子がいることに、炭治郎はとても安心している。

 

「・・・珠代さんとしのぶさんのおかげですね・・・」

「はい・・・」

 

 鬼を人間に戻る薬を開発していた二人。だが、珠代は鬼舞辻との戦いで命を落としてしまったという。他の鬼とはどこか違った雰囲気がする彼女だったが、暁歩も一時行動を共にして薬を作ってたから、悲しくもある。そしてしのぶも、今は眠り続けている。

 

「しのぶさん、身体の方は・・・」

「・・・安定はしていますが、気が抜けない状況です」

 

 炭治郎は暁歩よりも前に起きたが、ずっと寝たきりなのでしのぶの容態を掴めていない。改めて調べた今の状態を暁歩が伝えると、表情を曇らせた。

 

「よくなると、いいですね」

「はい」

 

 炭治郎のその言葉には、大きく頷く。それこそが暁歩が今、強く願っていることだ。

 そこへ、水差しに水を溜めたるために外にいたカナヲが戻ってくる。

 カナヲの左目には、包帯が巻かれている。童磨との戦いで使った『彼岸朱眼』は相応の代償を伴うものだったらしく、当初は左目があまり見えていない程だった。それも、新たに調合した薬で少しずつ治している状態だ。

 

「炭治郎・・・大丈夫・・・?」

「うん・・・ありがとう。カナヲ」

 

 彼女も同じく傷を負っているものの、甲斐甲斐しく炭治郎の手当てをしていた。やはりカナヲにとっても想い人である彼が無事なのは嬉しいのだろうと、微笑みがこぼれる。

 

「善逸さん、大丈夫ですか?」

「ああ禰豆子ちゃん・・・可愛すぎてもう死んじゃいそう・・・」

 

 その近くの寝台では、身体の広範囲に怪我を負った善逸の看病を禰豆子がしている。

 元々禰豆子にぞっこんだった善逸は、彼女の姿を見るたびに身もだえている。鬼であった時も超音波を発するほどに狂喜乱舞していたが、ああして普通の少女となった彼女を見ると普通に照れていた。

 そんな禰豆子の前では、暁歩が調合した苦い薬であっても平気で飲んでいるので、アオイが『今度騒がしくなったら禰豆子さんを呼んであげてください』と耳打ちしたのには、暁歩も苦笑した。

 

「・・・お前、何か母ちゃんみたいだな」

「んなっ!?」

 

 そのアオイだが、戦いから目覚めて少し大人しくなった伊之助にいいように言われている。人間の母親のことを思い出し、『母性』というものを理解した伊之助は、いつもテキパキと真面目にし、時には尻叩きをしたアオイに母性的な何かを感じ取ったらしい。それを指摘されたアオイの表情ときたら、見たことがないほど真っ赤だった。

 ただ、こうした光景を見ていると、戦いも終わって、日常が戻りつつあるんだと暁歩も思う。未だ自分の最大の心配事は消えていないが、今の皆が穏やかな時間を過ごせているのは、暁歩にとっても嬉しかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 暁歩が眠っている一か月の間、怪我人の治療で使った薬は、あらかじめ作り置いていた薬で、それ以外のものはアオイが手順書をよく見て少しずつでも作っていたらしい。

 だが、暁歩が目覚めたのであれば、本来の役割を果たそうと調剤室で薬を調合し始める。まだ足回りが不安だったので、きよたちの手伝いも借りながらだ。

 

「擦過傷、創傷・・・肺とあばらも少し傷ついていて、骨にも少し皹・・・厳しいな」

 

 その調合する薬の中には、しのぶに投与する薬もある。

 しのぶの現在の容態はやや安定しているが、それでも気が抜けないことに変わりはない。

 点滴用の薬は、普通の薬とはまた違うやり方で作るのだが、それも言ってしまえば応用でしかない。これまでも、炭治郎や伊之助が運び込まれた際に点滴薬は調合したことがあるので、それ自体に不安なこともなかった。

 

「あとは・・・藤の花の毒、か」

 

 ただ、最大の懸念すべき点は、しのぶの体内に溜まっている藤の花の毒。カナヲ曰く、一年以上かけて摂取してきたその毒は、非常に純度が高く、量もしのぶの全体重と同じ量であるらしい。

 これほどの量を解毒するには、相応の時間、そして解毒薬が必要だ。

 そしてしのぶは、やはり自分から死ぬつもりでいたのか、解毒薬を作っていなかった。だから、解毒するにはしのぶの血液から毒を分析し、一から作らなければならない。

 藤の花の毒は、人体にはほとんど害はないとしのぶは言っていた。そうは言っても、どんな形でも体内に毒が巡っているなど恐ろしいので、何としても解毒するべきだ。

 

(絶対に・・・治さないと・・・)

 

 しのぶの身体を治したいと思わずにはいられない。あの戦いを生き延び、鬼との戦いも、復讐も終わりを迎えた。しのぶの心に強くのしかかっていた負担も無くなったからこそ、生き残ったしのぶにはこの先永く生きてほしい。

 そのためにはやはり、怪我を治さなければならなかった。

 それができる立場に、暁歩はいる。

 それができる技術が、暁歩にある。

 しのぶの命を絶やさないために、暁歩は薬を調合する手を止めはしなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 暁歩は、寝る前には必ずしのぶの様子を見に来ている。暁歩たちが忙しくしている間にも、しのぶが目覚めているかもしれなかったから。

 だが、この日もしのぶが目を覚ますことは無かった。

 日中も、床に就く前も、不安と隣り合わせだ。ある日突然、しのぶの命が途切れてしまうなんてことも考えられたのだから。脈拍も心音も安定しているのが、今の暁歩にとっての微かな希望である。

 

「・・・暁歩」

 

 そこで、後ろから声を掛けられた。

 カナヲは、花が生けられた花瓶を持っている。それを寝台の傍にある机に花瓶を置き、未だ眠っているしのぶの顔を見る。

 

「・・・しのぶ、元気になるよね?」

「なります、必ず」

 

 それを暁歩は疑ったことがない。

 治療する側にある暁歩がそこに自信を持てなくなったら、その時点で終わりだ。何よりしのぶが、このまま目覚めないなんて信じたくない。

 

「・・・しのぶのことは、本当の姉さんのように思ってる」

 

 実の家族に捨てられたカナヲにとっては、今まで育ててくれた本当の家族、姉のような存在であるしのぶ。だからこそ、彼女を傷つけた童磨に激しい憤りを抱き、あれほどまでに怒りを露に言葉をぶつけていた。

 

「・・・だから、本当は死んでほしくなかった」

 

 毒の塊となったしのぶが自ら命を絶ち、童磨に喰わせ大きな弱体化を謀る計画。最初はカナヲも頷けなかったし、止む無く頷いてからもずっと心の中にそれがしこりとして残っていた。

 だから今、しのぶが弱っているとはいえ、まだ生きていることにカナヲは安心しているのだ。

 

「・・・暁歩」

「?」

 

 カナヲの顔を見ると、無事だった右目は潤んでいた。

 

「・・・ありがとう」

 

 初めて、カナヲからお礼の言葉を受け取った。

 暁歩もまた、カナヲのことを見る。

 

「カナヲさんも・・・ありがとうございます」

「?」

「童磨との戦いは、カナヲさんの力がなければ勝つことはできませんでした・・・そうでなければ、きっと俺もしのぶさんも死んでいたでしょうから」

 

 あの場でしのぶの怪我を診て、できる限りの処置をしたのは暁歩だが、カナヲや伊之助の力がなければそれもできなかった。それに、童磨との戦いも、カナヲの高い実力に助けられていたので、今暁歩が生きているのもカナヲのおかげだと思う。だからこそ、暁歩はカナヲに頭を下げて、お礼を伝えた。

 そして暁歩とカナヲは、今なお目覚めないしのぶに視線を下ろす。

 

「・・・しのぶさんが元気になると、信じましょう」

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 暁歩が目覚め、しのぶの目が覚めないまま半月が過ぎる。

 傷が完治した患者や、蝶屋敷で治療を続けるほどではない浅い傷の隊士は、屋敷を出て今後の身の振り方を考え始めている。

 鬼の祖である無惨が消滅したことで、無惨の力が宿ったすべての鬼はいなくなり、鬼殺隊も晴れてお役御免、解隊となる。そうなれば、隊士たちは新しい人生を歩むことになるのだ。真面目に働くか、剣の腕を活かして道場でも開くか、あるいは気ままに旅に出るか。それは個人の自由であり、鬼殺隊にいる間は考えもしなかった、新しい悩みの種である。

 

「炭治郎くんたちはどうしますか?」

「俺は、自分の家に帰ります。実家の炭焼きもありますし、善逸と伊之助も連れて」

 

 まだ怪我が治っていない炭治郎は、病床で暁歩の問いにそう答える。実家にはもう二年以上帰っていないらしく、色々大変だろう。けれど、自分たちを苦しめていた鬼がいなくなったからか、やはり彼もまたどこか清々しい表情である。

 また、善逸と伊之助は、それぞれが事情を抱えていて、自分の生家と言うものがないという。そんな彼らを連れて、炭治郎と禰豆子は帰るとのことだ。その事情については、聞かないでおく。

 

「暁歩さんはどうしますか?」

 

 炭治郎が聞き返すが、その瞬間に暁歩の表情が少し翳る。そこで炭治郎は、暁歩から『不安』や『愁い』など悲しい匂いを感じ取り、軽率なことを聞いてしまったと気づいた。

 

「・・・今はまだ、決められませんよ。まだ怪我をした方はいますし」

「そうでしたね・・・すみません」

「それに・・・しのぶさんもまだ起きませんから」

 

 炭治郎もそうだし、善逸と伊之助の怪我も後を引いていて完治には至らない。完治するまでは、暁歩たちも後のことなど考えるわけにはいかなかった。

 何よりも、しのぶのことがある。

 どんな道を選ぶにしろ、自分たちを引き取ってくれたこの屋敷の主であるしのぶの意向も考えなければならない。

 それ以前に、しのぶは未だ目を覚ましていないのだ。容態は安定しているもののまだ安心はできず、暁歩もまたしのぶが起きて、言葉を交わすことができるまで、不安は尽きない。

 ある日気付いたら、いつの間にかひっそりと息を引き取っていたら、何て不安は何度頭を過ぎったかも覚えていない。

 これは暁歩だけでなく、カナヲやアオイ、きよたちも同じだ。

 早く目を覚ましてほしい。

 そしてまた、言葉を交わしたい。

 蝶屋敷の皆がそう思わない日は、一日たりともなかった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 ある夜、しのぶの眠る病室の外に暁歩は立っていた。

 今は中で、カナヲがしのぶの包帯を巻き直しているところだ。やり方は以前の吉原遊郭の後で巻き方を教えてあるので、信用はしている。

 異空間の戦いの時は、ただしのぶの怪我をどうにかしなければと思い、余計なことを考えないでいた。しかしこの屋敷で、男の暁歩が女のしのぶの包帯―――とくに胸の辺り―――を交換するのは気が引けた。なので、同じ女であるカナヲに代わってもらっているわけである。これまでも、しのぶの包帯はアオイやきよたちが交換していた。

 

「・・・終わった」

「ありがとうございます」

 

 そして戸を開けてカナヲが呼ぶと、暁歩は頷いて病室に入る。

 やはりしのぶは、眠ったままだ。

 

「・・・しのぶさん、まだ起きていませんよね」

「・・・うん」

 

 包帯を巻き直している最中に起きていないかと思ったが、カナヲは首を横に振る。それを訊いたのも、以前炭治郎が目覚めた際にカナヲは特に報告せず、後藤と揃って盛大なツッコミを入れた前例があるからだ。

 ただ、そこで暁歩はふと思い出す。

 

「・・・炭治郎くんが前に、吉原の戦いの後で二か月眠っていたこと、ありましたよね」

「?」

 

 暁歩が話しかけると、カナヲは首を傾げる。どうしてその話を今するんだろう、と言いたげだ。

 

「カナヲさんの気持ち、今なら分かりますよ」

「え?」

「自分にとって大切で、好きな人が眠り続けていると、こんな気持ちになっていたんだろうな、と」

「ふぇっ!?」

 

 暁歩が言うと、途端カナヲは顔を真っ赤にして、実に可愛らしい声を上げる。本当に女の子らしくなって、最初に来た時とはずいぶん変わったなと思う。

 ただ、悪意を持って茶化したつもりではない。同じ状況にあったカナヲの心境を理解して、感慨深くなったのだ。

 今もまだ不安と心配は尽きず、一日でも早く目覚めてくれるのを祈っている。

 

「・・・じゃあ、暁歩も・・・?」

「・・・ええ」

 

 ただし、カナヲは先ほどの暁歩の発言で、暁歩のしのぶに対する気持ちに気付いたらしい。暁歩も隠すことなく、それに頷く。

 だからこそ、尚更しのぶには起きてほしい。返事がどうであれ、自分の中で十分に育っているこの感情を、しのぶに伝えたい。

 また一緒に、言葉を交わしたい。

 微笑んでいる姿を、また見たい。

 そう強く願い、暁歩は横たわるしのぶの手をそっと握る。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

「しのぶ」

 

 誰かが私のことを呼んでいる。

 けれど、私の周りには何も見えない。ただ真っ暗で、声を掛けた人の姿なんて、見えなかった。

 

「こっちよ、しのぶ」

 

 だけどまた、聞こえてくる。優しくて、どこか懐かしい声。

 その声が聞こえた方へ、ゆっくりと歩き出す。歩いているのに、足音がしない。ここは不思議な場所だ。

 それでも、聞こえてくる声に導かれるように歩いていると、ぼうっと明るくなってくる。

 そこには、満開に咲く枝垂桜があって、その下には誰かがいた。

 二つの蝶の髪飾り、艶やかな髪、そして優しい瞳。私と同じ羽織を着ている。

 見間違えるはずのない、私の大好きな、カナエ姉さんだ。

 たまらず、駆け出した。

 

「しのぶ」

「また、会えたわね・・・」

 

 傍には、私がずっと小さい頃に死んでしまった、お父さんとお母さんもいる。

 どうして、喪ってしまったはずの、大好きな家族とまた会えるのかは分からない。

 もしかして私は、助からなかったのかな。

 

「しのぶ・・・」

 

 姉さんが、私を抱き締めてくれた。

 とても温かい、懐かしい香り。全てを包み込んでくれるような、優しい温もり。

 思わず、涙が滲んでしまう。抑え込んでいた自分の気持ちを、全部こぼしてしまいそうになる。

 

「・・・よく、頑張ったね」

 

 ・・・姉さん。

 私・・・仇を討ったよ。

 

「うん・・・」

 

 私には無理だったけど、皆が助けてくれたの。

 

「・・・うん」

 

 ひらひらと舞い落ちた桜の花びらが、私の肩に載る。そこにお父さんとお母さんが、手を重ねるように置いてくれた。

 ようやく、家族全員で一緒になれたんだ。

 これからは、ずっと一緒にいられるのかな。

 

「・・・しのぶは、もうちょっと後になっちゃうかな」

 

 え?

 姉さんは、私の頭をそっと撫でてくれた。幾度となく撫でてくれたその手付きは、やっぱり優しい。

 

「しのぶはまだ、こっちに来る時じゃないわ」

 

 どうして・・・?

 

「しのぶはまだ、生きているからだよ」

 

 お父さんが頷いて、肩を優しく叩いてくれる。

 

()が、しのぶのことを助けようとしている。しのぶに死んでほしくないと願っている人が、たくさんいるんだ」

 

 あれ?

 その言葉、どこかで聞いたような・・・

 

「・・・しのぶ」

 

 お母さん。

 

「あなたにも、まだやり残したことがあるはずよ」

 

 やり残したこと。

 家族がいなくなって、仇を討っても、まだやり残していること。

 そうだ・・・あった。

 

「しのぶ?」

 

 私に言い聞かせるように、姉さんは笑って私の頭を撫でててくれる。

 

「しのぶを一人置いて、私も、お父さんも、お母さんもいなくなって・・・しのぶにはずっと悲しい思いをさせたわ」

 

 うん。

 寂しかった。辛かった。切なかった。悲しかった。何より、私の大好きな家族を奪った鬼が赦せなかった。

 だけど不思議と、私の中にはもう、そうした暗い気持ちはほとんどない。

 それは、仇を討てたから。

 そして、私のことを支えてくれる人がいたから。

 何より、私の中に新しい温かい気持ちが宿ったから。

 

「だからこそ、これから先は・・・幸せに生きなさい」

 

 あれだけ会いたかった姉さんが、父さんが、母さんが、すうっと姿が消えていく。

 けれど、行かないで、消えないでと泣いて縋る気持ちは起きなかった。

 

「強く、幸せに、永く生きて・・・しのぶ」

 

 桜の花びらが舞って、私の家族の姿が見えなくなる。

 だけど、姉さんの言葉は、ちゃんと受け止められた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 目の前の状況が、信じられなかった。

 確かに自分の目で見ているもののはずなのに、自分の意識ははっきりと覚醒しているはずなのに、今見ているものは夢か幻ではないかと疑ってしまうほどだ。

 けれどこれは、紛れもない現実。時は確実に進んでいる。

 

「・・・・・・」

 

 瞳が潤んで、視界が歪み始める。堪え切れない涙が頬を伝うけれど、拭う気も起きない。

 それぐらい、今目の前で起こっていることは、暁歩がずっと待ち望んできたことであり、嬉しいことだった。

 

「・・・暁歩、さん?」

 

 二か月もの間眠っていたしのぶが、目を覚ました。暁歩の顔を見て、確かにその名を呼んでくれた。

 

「・・・目が、覚めたんですね」

「・・・はい」

 

 涙ながらに話しかけると、しのぶは少しだけ笑みを浮かべて、頷いてくれた。

 暁歩は嬉しさのあまり、横になっていたしのぶの手を強く握る。その手をしのぶがゆっくりと握り返すと、いよいよもって感情を抑えることができなくなった。

 

「良かった・・・本当に、良かった・・・!」

 

 流れる涙と共に、心からの素直な気持ちをこぼす。自分がずっと抱いていた不安な気持ちが、言葉と涙であふれ出てくる。

 その姿にしのぶも、永い眠りで微睡んでいた心に温かい火が灯るのを感じる。自らも命の危険に晒されていたのに、自分のことを救おうとしてくれたこと、そして自分が目覚めたことをこうして喜んでくれているのが、たまらなく嬉しいから。

 やがて、カナヲ、アオイ、きよ、すみ、なほの三人もまた駆けつけてきた。そして、しのぶが起きたのを見て、しのぶを慕っている彼女たちもまた涙ながらに喜んだ。寝台へと駆け寄って、しのぶに声を掛ける。

 そして、自分のために泣いてくれている皆のことを、しのぶは優しい表情で眺めていた。

 

 落ち着いたところで、暁歩とアオイが改めてしのぶの容態を確認する。斬られた肺やあばらは、アオイが触診をする限りではほぼほぼ治っているらしい。その他の創傷や擦過傷なども完治し、骨の皹はあと少しだけ時間がかかりそうだ。二か月も眠っていたのは、身体の機能を、傷ついた部位を治す自然治癒力に集中させていたからだろう。

 そして肝心とも言えるしのぶの体内にある毒は、暁歩が調合した解毒薬が上手く作用し、一か月でおよそ四割は解毒されていた。

 

「・・・そうですか、二か月も・・・」

「起きなかったらどうしようと、心配でした・・・」

 

 涙ぐんでアオイが話すと、しのぶは苦笑する。しのぶからしてみれば、あの異空間で意識が落ちてから今日目覚めるまでの記憶がないものだから、昨日の今日のような感覚だ。

 

「怪我をした、皆さんは・・・」

「大体が完治したり、症状が軽くなって、大半の方は屋敷を出てます」

「意識がなかったのは、しのぶさんだけでした・・・」

 

 きよとなほが涙を拭って答える。

 最後まで厳戒態勢で診ていたのは、この屋敷の主人であるしのぶだった。加えて、鬼殺隊の専門医でもあるのだから、少しばかりおかしな話だ。

 

「特に、暁歩さんとカナヲ様が心配していましたよ」

 

 すみが涙目で見ると、暁歩とカナヲは顔を見合わせて少しだけ笑う。

 童磨との戦いで、二人は初めて共闘した。命を賭しての戦いとは、時に絆を育むものでもある。最初にしのぶの応急手当てをした時にカナヲの本心を引っ張り出したことで、二人の距離も少し縮まったのだろう。

 それと、カナヲの表情がやはり目に見えて変わったようにしのぶは感じる。それは童磨との戦いでも顕著だったし、しのぶにとって嬉しいことだ。

 

「・・・心配だった・・・」

 

 横になっているしのぶの手を、カナヲが握る。

 

「・・・しのぶ、ずっと起きなかったから・・・」

 

 カナヲがしのぶの傍へと近づく。

 しのぶは、寝転がりながら、カナヲに向けて手をゆっくりと伸ばす。その手を、カナヲはそっと握り返す。

 

「心配を掛けましたね・・・ごめんなさい」

 

 まだ少し弱弱しいが、しのぶは笑みをカナヲに向ける。

 すると、カナヲはつぅっと一筋の涙を流した。 

 

「・・・本当に、目が覚めて良かったです・・・」

 

 心からの安堵の言葉を、暁歩も涙を滲ませて告げる。

 しのぶにとって、カナヲも暁歩も大切な人に変わりがないから、不安を掛けてしまったことを申し訳なく思う。

 同時に、二人がこうして喜んでくれるの見ると、目が覚めて本当に良かったと、しのぶは思った。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 それから数日、しのぶは静養が続いた。

 暁歩も症状はようやく軽くなってきたが、まだ脚の腱に不安があるので力仕事ができず、病床の片づけはアオイたちが分担して行ってくれた。

 その中で変わったことと言えば、カナヲが積極的にアオイたちと話すようになって、掃除や食事の準備も自ら進んで行い始めたことだ。表情もコロコロ変わって、口数も増えてきて、暁歩がここに最初に来た時とは大違いだった。病床のしのぶも、カナヲが食事を運んでくることが多かったので、その変化を目にし嬉しい気持ちになっている。

 一方、しのぶの怪我も大分治り、点滴と輸血の必要もないと判断すると、少しずつ起き上がって行動の幅を広げることになる。だが、身体の骨に若干の皹も入っていたため、身体を動かすのも慎重でなければならない。

 

「本当に俺でいいんですか?」

「ええ、お願いします」

 

 だからまずは、誰かに支えられながら屋敷の中を移動するのだが、しのぶはその支える誰かに暁歩を指名してきた。しのぶは女性であるから、同じ女性であるアオイやカナヲに頼むものと思っていたので、とても意外だ。

 改めて確認したうえでしのぶが頷くと、暁歩はしのぶの背中に手を添えて、寝台から降りられるように手を握る。

 

「・・・では、行きましょう」

「・・・はい」

 

 お互いに手を握り握られることは、今までも度々あった。

 しかしながら、治療のためと分かっていても、どうしても意識してしまう。それは暁歩だけではなく、しのぶも同じなようで、手を握ったところでなぜか恥ずかしそうにその手を見つめてしまう。

 それはともかくとして、しのぶは暁歩の手を借りながら部屋の外へ出る。

 

「・・・どこか痛いところはありませんか?」

「いえ、大丈夫ですよ」

 

 暁歩は、状態をしのぶに訊ね、歩調を合わせて屋敷を歩く。しのぶも嘘はつかずに、問題がないことを暁歩に伝えて、一緒に歩く。

 

「しのぶちゃん!」

 

 階段を降りたところで、聞き覚えのある女性の声が聞こえた。

 暁歩としのぶがそちらを見ると、右腕を吊った蜜璃がいた。そばには、やはりというか小芭内の姿もある。

 二人もまた、異空間での戦いに巻き込まれ、浅くない怪我を負って蝶屋敷に運び込まれていた。だが、一か月も経たずにある程度回復し、後は静養となったところで二人は屋敷を出たのだ。それは暁歩が目覚める前だったので、二人のことは言伝でしか聞いていない。

 さて、蜜璃はしのぶの姿を認めると、すぐに駆け寄り空いた左腕でしのぶを抱きしめた。

 

「よかったよぉ~・・・重体って聞いたから不安だったんだよ~・・・」

「心配をかけましたね・・・すみません・・・」

 

 しのぶを抱き寄せながら、蜜璃は歓喜の涙を流している。そんな蜜璃にしのぶも、やさしく声をかけて謝った。

 一方で小芭内は、暁歩に声をかける。

 

「お前も無事だったか」

「ええ、どうにか・・・」

 

 口に巻いた包帯や二色の眼、そして首に巻いた蛇は相変わらずの小芭内。暁歩が最後に小芭内と会ったのは柱稽古の時だったので、実に二か月ぶりとなる。しかも、怪我で眠っていた時期を含めて、随分と久しく感じた。

 

「一応は安心した」

「え?」

 

 小芭内が告げると、暁歩は驚いたように声を洩らす。普通ならば何の変哲もない言葉だが、疑り深い性格の小芭内からそう言われるのは暁歩も意外だった。

 

「俺がこの屋敷を出る時もお前は起きていなかったからな。寝覚めが悪かっただけで他意はない」

「はあ・・・」

 

 続くネチネチとした言葉を聞くと、やっぱりいつも通りだと暁歩はある意味安心したが。

 

「しのぶちゃん、怪我とか大丈夫?」

「ええ。もうほとんど治りましたよ」

 

 蜜璃に聞かれて、しのぶは笑みを浮かべて答える。するとそこで、蜜璃は『あれっ?』と首を傾げた。

 

「何だかしのぶちゃん・・・少し雰囲気変わった?」

 

 もともと周りに気を配っており、特にしのぶについては心配しているところもあった蜜璃。病み上がりとはまた違う意味で、しのぶの雰囲気が以前と少し変わっていることに、鋭敏に気付いたのだ。

 

「・・・どうでしょうねぇ」

 

 そう言ってしのぶは、隣に立つ暁歩を見る。だが、暁歩本人はどういう意味かを理解できずに、疑問の表情を浮かべる。

 それとは反対に、蜜璃は『えっ?えっ?もしかして?』と何を想像したのか顔を赤らめていた。

 

「行くぞ甘露寺。二人の無事が分かったのならいいだろう。あまり長居して邪魔するわけにもいかん」

「あ、そうですね」

 

 そこで小芭内は、蜜璃の左手を引いて屋敷を去ろうとする。

 だがその直前。

 

「お前は少しは女心を汲み取る努力をしろ」

 

 小芭内は暁歩の肩を叩いて、助言とも忠告ともとれるようなことをボソッと呟いた。けれど小芭内は、何事もなかったかのように、蜜璃を連れて行ってしまった。その間も、蜜璃はしのぶと暁歩に向かって『ばいばーい!』と元気に声をかけていたが。

 暁歩は、相変わらずあの人はよくわからないな、と思いながらしのぶを見る。

 

「・・・それでは、行きますか」

「はい」

 

 一方でしのぶは、何か意味を込めているような笑みを浮かべてはいたが、暁歩に促されてゆっくりと歩き始める。

 それからしのぶは、暁歩に支えられ通常の病室へと赴き、身体を休めていた伊之助と話をした。

 

「伊之助くん、暁歩さんやカナヲと協力していたみたいですね」

「おうよ!俺様がいなかったら、あのクソ野郎も斃せなかっただろうよ!」

「はい、本当に・・・ありがとうございます」

 

 しのぶに褒められて得意げになる伊之助。

 だが、確かに童磨に止めを刺そうとしたカナヲに力を貸したのは伊之助だから、本当に彼がいなかったら斃せなかったかもしれない。暁歩もそれは理解していたからこそ、お礼を伝えた。

 

「・・・ありがとう、伊之助くん」

「・・・・・・」

 

 しのぶからもお礼を告げられると、伊之助は急に大人しくなる。そして、『ほわほわ・・・』と何故か呟き始めた。

 

「禰豆子さんも、元通りになったようで・・・よかった」

「ありがとうございます・・・こちらでは兄がお世話になったようで・・・」

 

 そして、同じ病室で善逸と話をしていた禰豆子にも、しのぶは声をかける。鬼であったころの記憶は若干曖昧なのかもしれないが、どうやら炭治郎が度々この蝶屋敷に運び込まれていることは知っているらしい。

 一方でしのぶも、禰豆子が鬼であり、また普通の鬼とも違うと知っていたからこそ、心では人間に戻ることを願っていた。だからこうして、本当の人間の少女として普通に過ごせている姿を見て、ホッとしている。

 傍らで暁歩も、しのぶが喜びを抱いている様を見て、目を細めた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

「・・・大分、傷も癒えてきましたね。もう痛いところはありませんか?」

「ええ、大丈夫ですよ」

 

 しのぶの目が覚めてから一週間経った日の夜、診察を終えた暁歩はほっと一息つく。

 しのぶは元々柱で、身体も丈夫な方だった。深く傷ついた身体はほぼ快復し、心配だった骨の皹も今は問題ないほどになっている。食事も普通のものに戻っており、完治も間近だ。

 

「毒の方はもう少しかかりそうですね・・・」

「そうですね・・・。一時は私の身体が毒でできているようなものでしたから。やはり治すのにも、時間がかかります」

 

 身体に溜め込んだ毒は、その量がしのぶの全体重とほぼ同じだったので、やはり解毒には大分時間がかかっている。それでも解毒薬を定期的に投与しているので、徐々に毒は分解されていた。完全に解毒される日も近いだろう。

 暁歩は一息ついて、椅子に座る。

 

「・・・終わり、ですね」

「・・・ええ」

 

 しのぶの治療。

 童磨への復讐。

 鬼との戦い。

 それらが全て終わったことに、暁歩もしのぶも、気持ちが穏やかになる。

 特に鬼との戦いを終えるのには多大な犠牲を伴い、中には暁歩やしのぶと面識のある人まで命を落としてしまっている。その事実に、暁歩もしのぶも悲しい気持ちを抱いているが、それでもこの戦いの後の脱力感や達成感は、拭えない。

 歴史が大きく動いたと言っても過言ではないほどの出来事があったにもかかわらず、外はいつもと変わらず静かで、夜空には満月が浮かんでいる。

 

「月が綺麗ですねぇ」

「そうですね・・・」

 

 その月を見て、しのぶがいつかのような感じで呟く。それを聞くと、また前と同じような時間が戻って来たんだと暁歩は安心する。暁歩も同じように月を見ながら、そう返した。

 

「・・・本当に、良かった」

 

 改めて、言葉にする。

 

「あなたが死んだらどうしようと・・・考えるととても恐ろしかった。自分の死よりもずっと、考えるのが怖かった」

 

 藤襲山の最終選別で、自分の死に恐怖してがむしゃらに走り回っていた時なんか比べ物にならない。目の前でしのぶが衰弱し、死んでしまうのではと思った時の恐怖は、自分の死よりも遥かに強かった。

 

「あの時できる限りのことをして、命をつなぎとめるのに必死でした・・・。だから、こうして元気になって、本当に良かったです」

 

 安堵の笑みが、自然と浮かんでくる。

 そうしてしのぶのことを見て、頭を下げる。

 

「・・・無事でよかった」

 

 頭を下げている中で、しのぶが布団から起き上がるような衣擦れの音が聞こえてきた。

 もう一度顔を上げると、しのぶは布団に腰掛けて暁歩と向かい合うような姿勢を取っている。

 

「私もですよ。暁歩さんがあの戦いで生きていて、本当に良かったです」

 

 もう、憎しみや怒りを隠すようなものではない。ありのままの自分の笑みを、暁歩に向けている。

 

「あの戦いで、私を死なせないと必死だった暁歩さんのことはよく覚えています」

 

 手当てをしてくれたことは忘れてはいない。その時の気迫や手付きは真剣そのものであり、絶対に助けるという強い意志を感じるものだった。自分のことを大切に思っていたからこその行動に、しのぶも微笑む。不快な感情などない。

 

「暁歩さん、あの戦いで私の日輪刀を使ってましたよね?あれはどうしてでしょうか・・・?」

「あれは・・・毒を打ち込む範囲を広げるためでした。それに、しのぶさんにとっても憎い仇を討つためでもあります」

「そうですか・・・」

 

 あの時は説明する間もなく借りてしまったが、理由はその二点。斬る場所を少しでも多くして、毒が回るのを早くするため。そして、しのぶをずっと苦しめていた存在を斃すために、あの日輪刀を使いたかった。

 その言葉、暁歩の意思を聞いて、しのぶは暁歩のことを見る。

 

「覚えていますか?あの戦いで、暁歩さんが言っていたこと」

「?」

「あなたは、『身体に刻まれた傷を治して、心の傷に寄り添い、癒し、重荷を一緒に背負うことが()()こと』と言っていましたよね?」

 

 童磨が、『人を喰って苦しみや痛みから解放することこそが救い』と語った時、激昂した暁歩が告げた自分の考え。それをしのぶは、瀕死の重傷で横たわりながらもしかと聞いていた。心に浮かんだ感情を、自分の信念をそのまま口にした荒削りの暁歩の言葉だったが、それでも十分伝わった。

 

「あの言葉は、私もその通りだと思います。だからこそ、私もあなたに救われているんですよ」

「え?」

「暁歩さんは、家族を喪って、心に悲しみや怒りが渦巻いていた私を支え、それにこうして私の傷を治して命を繋ごうとしてくれた」

 

 自分の胸に手をやるしのぶ。

 暁歩は、自分の膝の上で拳を強く握る。

 

「その結果・・・私はこうして今も生きていて、暁歩さんやカナヲ、アオイたちとまた言葉を交わせています」

 

 そうして、にこりと笑う。

 

「仇を討つために自分で命を投げ出そうとしましたが・・・あなたに救われて、これから先もまた、生きていくことができるようになった・・・。暁歩さんは、私に生きる道を示してくれました」

「・・・・・・」

「本当に、ありがとう」

 

 涙が溢れそうになるのを、歯を食いしばって必死に堪える。

 その言葉の嬉しさは、しのぶが目覚めたことと同等のものだ。

 

「・・・しのぶさん」

 

 そして、今だからこそ伝えたい。

 

「俺は・・・ずっと、あなたに伝えたい言葉がありました」

 

 涙を堪えそうになる顔を、できる限りの笑顔にする。

 

「最初に会った時は、あなたのことを優しい人だと思っていました。ですが、それでも自分の中に抱えきれないほどの辛く悲しい気持ちを背負っているのを見て、支えたいと強く俺は思ったんです」

 

 泣くのを我慢しているせいで滑稽な顔になっているかもしれない。

 けれど、今から伝える気持ちは、泣きながら伝えるべきではないものだ。

 

「だけど次第に、その支えたいって気持ちは・・・心に傷を負っているからだけじゃなくて、あなたに強く惹かれたからでもあったんだと、気付きました」

 

 しのぶは待ってくれている。

 一度、暁歩は息を整えて気持ちを落ち着かせる。

 そうしてから、しのぶの顔をじっと見て、口を開く。

 

 

 

「しのぶさん。俺は、あなたのことが好きです。あなたを愛しています」

 

 

 

 言葉は届いただろう、聞こえただろう。

 暁歩の本心を、しのぶは初めて知ったはずだ。

 

「・・・暁歩さん」

 

 優しい声音に誘われて、引き寄せられるようにしのぶを見る。

 どんな感情から来るものか分からない涙を浮かべて、しのぶは微笑んでいる。思えば、しのぶが涙を流しているのは、初めて見た気がする。

 

「ありがとう・・・そんな気持ちを告げられたのは、初めてだったもので」

 

 暁歩の気持ち、言葉を噛みしめるように目を閉じる。

 けれど、しのぶの胸の高鳴りは収まらず、心の芯は温もりに満ちている。

 

「・・・でも、あなたへの私の答えは決まっていました」

 

 指先で涙を拭い、しのぶもまた暁歩のことを真っすぐに見て、口を開く。

 

 

 

「私も、暁歩さんのことが好きです。あなたを・・・愛しています」

 

 

 

 心が弛緩し、表情が綻ぶ。

 暁歩もまた、静かに俯いて嬉しさを噛みしめる。

 

「・・・ありがとう、しのぶさん」

 

 椅子から立ち上がった暁歩は、ゆっくりとしのぶの下へ歩み寄り、手をそっと握る。

 

「どうかこの先、俺と・・・一緒にいてくれますか?」

「・・・はい。私でよろしければ、喜んで」

 

 未来を約束して、しのぶが手を重ねてくれる。

  女の子としての幸せを手に入れて、永い時を生きること。

 心に深い悲しみと怒り、復讐心を溜め込んでいたしのぶにとっては、いずれも考えられなかったことだ。

 けれど暁歩と出逢い、時と思い出を重ね、身も心も救われたことで、それを考えることができるようになった。

 そして、それに気付かせてくれた暁歩を、自分が初めて恋心を抱いた暁歩を離すなんてことは、しのぶにとっては考えられない。

 自然と、暁歩としのぶの距離が、互いに惹かれ合うように縮んて行く。ここまでくれば、何をしようとしているかなどお互いに理解して、言葉も不要と何も言わない。

 やがて、月明りに照らされながら、二人の唇はほんの少しの間触れ合った。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 死力を尽くした戦いの後は、どうも心が緩みがちになる。

 けれど、それを責める者は今ここにはいなかった。

 

「・・・大分、上手く行っているようですね」

「・・・ええ、そのようで」

 

 暁歩としのぶが陰から見守っているのは、庭で一緒にシャボン玉を吹いているカナヲと炭治郎だ。

 心なしか二人の距離は以前と比べると近い様に感じており、そしてお互いがお互いに向ける表情もまた、友人・知人に向けるそれとは違うようにも見える。

 順調に仲が進展したようで、しのぶと暁歩はまるで我が子の成長を実感するような謎の安心感を抱いている。

 

「ねーずこちゃ~ん、裏の花畑に綺麗な花が咲いてるから一緒に見に行こう?」

「あら、本当ですか。それでしたら、ぜひ!」

 

 完治した善逸も、禰豆子の手を引いて歩きだす。

 怪我人の治療を手伝っていた時も思ったが、本当に禰豆子は優しくて良い子である。善逸が惚れこむ理由も分かる気がした。

 そんな炭治郎や善逸たちと仲の良い伊之助は、今も裏山でさらに鍛錬をしているらしい。今頃はアオイが連れ戻しに行っている頃合いだろう。

 

「皆さん仲がよろしいようで」

「まったくです」

 

 そんな感じで若干浮ついている屋敷の現状をしのぶと暁歩は笑って呟くが、他人のことは言えないのかもしれない、と二人は内心でそう思う。

 

「裏の花畑、後で見に行きませんか?」

「いいですね。正直、ここへ来てからあまり行ってないので気になりますし」

 

 善逸たちに触発されたのか、しのぶが誘ってくる。暁歩も気になったし、何よりもしのぶの誘いを断りたくなかったので、頷いて受け入れた。

 ただし、行くのは善逸たちが戻ってきてからだ。今あの二人が行っている以上、同じ場所に行くのも無粋だから。しのぶもそれは分かっているらしい。

 それから暁歩としのぶは、日当たりの良い南側の縁側に並んで座って、お茶を静かに楽しむ。二人きりで、ゆっくりと静かに過ごすのだが、気まずい空気はない。暁歩もしのぶも、ただ自分の愛している人が隣にいてくれるだけで今は十分なのだ。

 そんな二人が見上げる天気はとても晴れやかで、穏やかに雲が青空を流れている。

 

「・・・不思議ですね」

「?」

 

 湯呑を持って、そんな空を見上げながら暁歩が呟くと、しのぶは視線を向けてくる。

 

「同じ景色のはずなんですけど、どうにも新鮮な気持ちと言うか・・・妙に気持ちが軽やかな感じがして」

「鬼との戦いも終わりましたからね・・・自然と、暁歩さんの心の負担もなくなったからなのでしょう」

 

 しのぶの言葉に、確かにそうかと暁歩も思う。

 まだ鬼との戦いが続いていたころは、無意識に心の中に緊張や不安などの負担があったのだ。それが、戦いが終わったことでこその心も軽くなり、見るものすべてが新鮮な感じがしているのだろう。

 

「・・・まあそれは、私も同じですけどね」

 

 緑茶を啜って、しのぶは微笑む。彼女は彼女で、暁歩以上に心に背負っていたものがあったからこそ、それが払拭された今は、より新鮮な気持ちでいるのだろう。

 暁歩も一口お茶を飲んで、小さく息を吐く。

 

「しのぶさんの身体は、ほとんど大丈夫ですけど・・・少しの間、心も休ませた方がいいでしょう」

「?」

「色々なものを背負って戦ってきたからこそ、傷ついて、緊張していた心を休ませるべきですから」

 

 家族を喪って傷つき、自らの死まで覚悟していたのだ。嫌でも心は張りつめていただろうし、負担も大きかったに違いない。

 暁歩と想いが通じ合ったとはいえ、その面には未だ不安も残っている。だからこそ、身体が治った後は心も癒すべきだ。

 

「・・・そうですね」

 

 そう言いながら、しのぶは傍らに湯呑を置く。

 そしてもう片方の手を、暁歩の手に重ねてくる。一瞬暁歩の身体が震えるが、しのぶも穏やかな笑みを浮かべているので、暁歩も小さく笑うに留めておいた。

 こうすることで、しのぶの心が癒されるのであれば、暁歩は拒んだりなどしない。それに、こうして頼り、接してくれることを暁歩も嬉しく思う。

 

「ところで、暁歩さん」

「?」

 

 そんな中で、しのぶが暁歩に問いかける。

 

「鬼殺隊も解隊となりますが、暁歩さんはこれからどうしますか?」

 

 しのぶとの未来とは少し違うが、暁歩にとっても重要なこと。

 しかしそれは、既に考えている。暁歩はお茶をもう一口飲んでから、傍らに湯呑を置く。

 

「俺は・・・そうですね。医者を目指そうかと」

「ほう」

「ここで学んだことはこの先も生かしたいですし、薬の知識もありますから」

 

 薬屋の息子として学んだこと、そしてこの蝶屋敷で身に付けた医療に関する知識は、この先決して無駄にはならないと思うし、無駄にしたくない。どちらも自分を構成するとても重要なことだから。

 

「それでしたら、ここに一つ良い場所がありますよ?」

 

 そう言ってしのぶは、屋敷を指差す。

 そのしのぶの仕草の意味を、暁歩はすぐに理解することができた。

 

「ここを民間の診療所にしようかと思っていまして」

 

 朗らかに笑ってしのぶが告げる。それが、解隊された後のしのぶの身の振り方だ。

 だが、悪くないと思う。ここは医療に関する器具や設備が一通り揃っているし、しのぶの医者としての知識も申し分ない。それを有効活用しない手はないだろう。

 

「ですので、そうなった暁にはぜひここで」

「もちろんですよ」

 

 しのぶの言葉に、暁歩は迷うことなく強く頷く。

 それを聞いて、しのぶはそっと暁歩に身体を寄せた。

 

「・・・よかった」

 

 しのぶは、小さくつぶやく。

 暁歩からはしのぶの顔が見えなかったが、代わりにその艶やかな髪を静かに撫でた。

 

「俺はずっと、しのぶさんと一緒にいますから」

 

 未来を誓ってから、ずっとそう決めていた。

 これまで悲しい思いを幾度となく抱いてきたしのぶを、もう悲しませない。自分の傍で幸せにすると、強く誓う。

 

「・・・これからも、末永くよろしくお願いします」

 

 その小さな体を、暁歩はそっと抱き締めた。

 

「はい」

 

 暁歩の腕の中で、しのぶは頷く。

 やはり温かくて、心地よい気持ちになれる。

 

「・・・暁歩さん」

「?」

 

 その服を、きゅっと静かに指先で掴む。

 

「これから先・・・思い出を、たくさん作りましょうね」

「・・・はい」

 

 暁歩がしのぶを抱き留める力が、少し強くなる。しのぶもまた、静かに抱擁を受け入れる。

 ここで忘れてはならないのだが、二人は今蝶屋敷にいて、しかもそこは結構人通りの多い南の縁側。段階を踏んだとはいえ、成り行きで抱き合っているが、今の二人はそれを深く考えてはいなかった。

 つまり、今この瞬間は他の誰かにも目撃されやすい。

 

「「「・・・・・・」」」

 

 そんなわけで、きよ、すみ、なほの三人に今の暁歩としのぶの状態が見られてしまった。

 先に気付いたのは、しのぶを抱き留める側にいる暁歩。視線に気づいた時には時すでに遅し、三人とも真っ赤な顔でこちらを見つめていた。

 そこで暁歩は、しのぶの肩をトントンと指で軽く叩き、注意を引き付ける。

 

「・・・あ」

 

 そこでしのぶもようやく気付いて、羞恥からか頬が仄かに赤く染まる。

 

「・・・えと、お幸せに・・・」

 

 総意らしき言葉をきよが告げると、三人は恥ずかしそうにその場を去っていった。

 二人してその後ろ姿を見届けるが、姿が見えなくなったところで、観念したように暁歩は小さく笑う。

 それにつられるように、暁歩の腕の中で可笑しそうに笑顔を浮かべる。

 

 その笑みは、心に負っていた苦しさや悲しさから解放されたような、しのぶにとっては本当の、晴れやかな笑みだった。




これにて『蝶屋敷の薬剤師』は完結でございます。
ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。

少々長くなりますが、あとがきになります。


今回私は、『鬼滅の刃』の作品に触れ、その中で『胡蝶しのぶ』と強くもありどこか儚い人物を知り、彼女の物語を書きたいと思い今回の作品を書き始めました。
もし彼女に、一人でも心中を知ってくれている人がいたら、心から信頼できる人がいたら結末も変わっていたのではないか、とふと思ったのが今回の話を書くことになったきっかけです。

しのぶのことを書く上では、蝶屋敷のことも書く必要があったため、蝶屋敷でどういったことが起こっていたのか、という点も書かせていただきました。
そこでアオイや、きよ・すみ・なほの三人娘、カナヲ、運び込まれてくる炭治郎たちなど、多くのキャラクターも書きました。特に炭治郎は、主人公である暁歩とも結構関りがあったため出番も多く、楽しく書かせていただきました。

鬼滅の刃で、テーマに『恋』、そして柱をヒロインに据えたので、自然と恋柱の蜜璃を登場させました。それと同様に小芭内も登場させ、二人の関係を少しでも進展させる役回りになりました。この二人も書いていてとても楽しかったです。
蜜璃と小芭内も、取り上げた以上は幸せになってほしいと思い、最後の話にも登場させました。

今回の話で、少しでも多くの読まれた方が面白かったと思っていただければ、それ以上に筆者にとって嬉しく、幸せなことはありません。

最後になりますが、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。多くの感想・評価を下さり、とても嬉しく思います。
もしかしたら番外編などを書くことになるかもしれませんが、また別の作品でお会いすることになるかもしれません。
その時がありましたら、応援していただけると大変嬉しいです。

それではまた、どこかでお会いする機会がありましたら。


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番外編:キメツ学園編
前編:毒姫と従者


お久しぶりです。多くの感想、評価をいただき、とても嬉しく思います。
この場を借りてお礼申し上げます。

今回は、後書きでもちらっとお話した番外編を投稿いたします。
番外編は、キメツ学園編2話、後日譚2話構成の予定ですので、
こちらもお付き合いいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。


 中高一貫キメツ学園。

 堂々とした佇まいのこの学園は、規模が大きいマンモス校。教員・生徒共に個性的な面々が多く集うものの、地域の住人からも愛されているごく普通の学園だ。

 

「髪黒く染めて来いって言っただろうが!」

「地毛ですってへぶぅ!!」

 

 体罰が過ぎてPTA総会で毎度議題に上がる生徒指導の教師がいるが、至って普通だ。結果として校内には不品行な生徒がほとんどいないため、何も問題はない。

 

「花壇の花はひまわりとアサガオ、どっちがいい?」

「え?えーっと、そうですね・・・」

「判断が遅い!」

 

 何故かいつも天狗のお面を被っている初老の校務員がいるが、至って普通だ。厳つい見た目とは裏腹に基本優しくて生徒からも好かれているので、何も問題はない。

 

「君は真田幸村だ!幸村になりきれ!」

「うりゃああああ!!」

「ここは上田城だー!徳川軍を迎え撃てー!!」

 

 授業中に生徒に騎馬戦をやらせる歴史教師がいるが、至って普通だ。その授業に対する熱い姿勢から、学園の中で歴史が苦手な生徒もほとんどいないため、何も問題はない。

 他にも『芸術は爆発だ!』と宣い週一で美術室を爆破する美術教師や、お囃子や長唄などの古典音楽しか教えない音楽教師、成績不振者を黒板に磔にしてペットボトルロケットを飛ばす化学教師など、いずれもユニークな顔ぶれだ。

 生徒たちも、入学当初はそんな個性マシマシな教師陣に度肝を抜かれていたが、通い続ければ慣れてしまう。教師陣の奇行も、非日常的なトラブルも、もはや日常の一コマとしか思わなくなる。

 生徒も教師も、全てが自分たちの学園生活を彩るスパイスと思っているからこそ、キメツ学園は今日もそれなりに平和だった。

 

―――――――――

 

 そんなキメツ学園のある日のこと。

 昼休みの到来を告げるチャイムが鳴ると、教壇に立つ教師が教材をまとめ始める。顔に大きな傷痕があり、目つきが鋭く、またシャツの襟も開けている柄が悪そうな青年だ。

 

「よォし、じゃァ今日はここまでなァ。宿題忘れんじゃねェぞォ」

 

 数学教師・不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)がそう言って教室を出ると、3年烏帽子組の生徒たちは一斉に一息つく。実弥は厳つい風体で、口調もやや粗暴。おまけに、数学を馬鹿にした生徒を学校外まで殴り飛ばした事件(通称『スマッシュブラザーズ事件』)を以前引き起こしているので、彼の授業中の生徒たちは無意識に緊張してしまうのだ。

 

「ふー・・・」

 

 そんな生徒たちに混じって、佐薙(さなぎ)暁歩(ぎょうぶ)もまた溜息を吐き、机に突っ伏す。肝の大きさは人並み程度の彼も、実弥の授業はいつも胃が痛くなるものだ。一先ず胃薬を飲んで落ち着かせる。

 

「大分、お疲れみたいだな」

「あぁ、狛治(はくじ)か・・・」

 

 そんな暁歩の肩を後ろから叩いたのは、短い黒髪と恵まれた体格が特徴の男子・素山(そやま)狛治(はくじ)だ。町の道場の跡取り息子で、暁歩とは2年生の時から同じクラスで仲が良い。

 

「そりゃ、不死川先生の授業を受けたら、こうなるのも仕方ないって」

「皆もだけど、何がそんなに疲れるんだ?」

「・・・それを本気で言っているならすごいと思う」

 

 クラスメイトたちの疲れ切った様を見て、狛治が不思議そうに呟く。武道を嗜む狛治からすれば、威圧感がある程度の実弥の授業など屁でもないらしい。その豪胆さを、暁歩は羨ましく思うと同時に呆れもした。

 

「まぁ、飯でも食べて元気出そうぜ」

「そうだなぁ・・・」

 

 狛治に促され、暁歩は鞄から弁当箱を取り出して立ち上がる。狛治もまた連れ立って教室を出ようとするが、その手には弁当箱の類はない。

 

「狛治は昼は・・・いつも通り?」

「ああ」

 

 キメツ学園には中等部・高等部共用の学食があり、そこで昼食を摂る生徒が多い。購買もあるのだが、昼休み開始直後には戦場と化すので今行っても無駄だろう。

 だが、狛治の昼食は学食でも購買でもない。

 

「あの・・・狛治さん」

 

 そして教室を出ると、横合いから声を掛けられる。

 ドアの傍には、1人の女子が佇んでいた。制服の上からピンクのカーディガンを着て、雪の結晶を象った髪留めを綺麗な黒髪に付けている。その手には、弁当箱らしき包みもあった。

 彼女を目にすると、狛治の雰囲気が少し柔らかくなったように暁歩は感じる。

 

恋雪(こゆき)さん・・・俺の方から行くって言ったのに・・・」

「いえ。あまり狛治さんの負担になりたくはないですから、気にしないでください」

 

 狛治の言葉に、1年生の素山(そやま)恋雪(こゆき)は微笑んで答える。

 彼女の苗字は狛治と同じだが、兄妹ではなく、驚くべきことに2人は既婚済みの夫婦だ。元々2人は家が隣同士で、家族ぐるみで付き合いもあった。結婚するのは小さい頃からの約束らしく、互いの両親も公認と言う。

 彼らの関係は法的に問題なく、まだ同棲には至っていない。しかし、学生の身分でここまで進展しているカップルなど、暁歩は他の例を知らなかった。

 

「お弁当、持ってきましたよ」

「ありがとう・・・。それじゃ、屋上で食べましょうか」

「はいっ」

 

 弁当箱を受け取り、笑みをこぼす狛治。普段の狛治はやや血の気が多いが、恋雪を相手にすると丸くなる気がする。恋雪も、そんな狛治の言葉に微笑んでいた。

 仲睦まじいこの2人には、学園の生徒からいつしか『狛治殿』と『姫』というあだ名がつけられている。恋雪に対しては穏やかな狛治と、どこか儚い雰囲気の恋雪にはもってこいではないかと思う。そんな2人を見て、暁歩もつい『ふっ』と笑ってしまった。

 

「何だよ」

「いや。仲良いなぁ、って」

 

 狛治に問われて、暁歩は正直に答えてやる。すると、2人して照れくさそうに頬を紅く染めた。何をしてもお似合いに見えるので、嫉妬の念など微塵も抱かない。暁歩があまり嫉妬しない性格でもあるが。

 

「それならお前だって・・・」

「俺?」

 

 反論するように狛治が暁歩のことを見るが、何のことやらと首を傾げると、後ろから誰かが暁歩の肩を叩いた。

 

「こんにちは、暁歩さん」

 

 声を掛けられ振り向くと、にこにこと微笑む女子が立っていた。

 蝶の髪飾りと、大きな菫色の瞳が特徴の彼女は、胡蝶(こちょう)しのぶ。同じ3年生の蓬組に所属し、暁歩とは親しい仲だ。

 

「しのぶさん、どうしました?」

「よろしければ、お昼ご一緒にどうですか?」

「あぁ、はい。いいですよ」

 

 花柄のナプキンに包まれた弁当箱をしのぶが掲げると、暁歩は頷く。暁歩も1人で食べようと思っていたところなので丁度良い。それに、しのぶの申し出であれば断るつもりもなかった。その答えに、しのぶはニコッと笑う。

 

「それじゃあ、狛治。また後で」

「ああ」

 

 そうして暁歩は、狛治に一言告げてからしのぶと並んでその場を去る。

 そんな良き友人の後姿を見届けながら、狛治は。

 

「・・・頑張れよ」

 

 ぽつりと、呟く。隣にいた恋雪は『何のことだろう』と小首を傾げるが、狛治は笑みを恋雪に向ける。

 

「では、俺たちも行きましょうか」

「はい」

 

 2人が向かう屋上は、あまり人も来ない。静かに過ごしたい2人にとっては、もってこいの場所だ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 この学園の教師にしてこの学園の生徒あり、と言うべきか、キメツ学園は生徒も個性的な面子が集っている。中等部にはフランスパンを丸ごと一本咥えた美人女子、プロ棋士間近の双子男子、あやとり大会優勝者などがいる。高等部には、金髪は地毛なのに体罰を喰らい続ける男子、イノシシに育てられた文字通りの野生児男子や、鋼鉄のバレーボールを常備する女子など、本当に十人十色で話題に事欠かない。

 

「「いただきます」」

 

 そして今、中庭の芝生で暁歩の隣に座り弁当を食べるしのぶも、その『個性的な面子』に数えられる生徒だ。

 しのぶのルックスは全学年で話題になるほど美しく、加えて成績は学年トップをキープ。フェンシング部では大会優勝経験もあるなど、まさしく才色兼備だ。

 その一方で、きな臭い噂もある。本来所属する薬学研究部では無味無臭の怪しい薬を作っているとか、弱みを握られ頭が上がらない教師もいるとか、何人もの男子を手玉に取っているとか、一部の間でまことしやかに囁かれている。

 そうしていつしか、しのぶにつけられた通称は『毒姫』。それが、彼女がこの学園の生徒らしい所以である。

 

「すみませんね、突然誘ったりして」

「いえ。俺も1人で食べようと思っていたところですから」

 

 そのしのぶの隣に座る暁歩。保健委員を務め、しのぶと同じ薬学研究部に所属している。成績はしのぶに及ばずとも、上位を保つほどには頭が良い。さらに実家が薬局だからか、胃薬や頭痛薬など色々な薬を常備している。

 そんな暁歩は、部活動だけでなく、今のように昼食や下校でしのぶと一緒にいる場面が幾度も目撃されていた。その様子は『友達』あるいは『恋人同士』のように周りからは見えている。

 生徒の中には、しのぶが『毒姫』と呼ばれるのに対し、暁歩に羨望と嫉妬の念を表し『従者』または『下僕』と揶揄する人間もいる。だが、当人たちはどこ吹く風だ。

 

「また、美味しそうなお弁当ですね」

「それはどうも。自分で作ったものって、他人からどう見えるのか不安なんですけどね」

 

 昼食を進める中で、暁歩がしのぶの弁当をちらっと見て呟くと、しのぶは笑みを暁歩に向けた。

 お手製と聞いて暁歩は、弁当を彩る卵焼きやレンコンのはさみ揚げなどを丁寧に作っている姿を思い浮かべる。実に微笑ましい。

 

「よろしければ、1つ食べてみますか?」

「いや、それは流石に・・・申し訳ないですよ」

「いえいえ。今日の卵焼きは少し自信作ですから、味の感想を聞かせていただければと思いまして」

 

 静止の声も流し、しのぶは暁歩の弁当箱に卵焼きを1つ載せる。ここまでされては返すわけにもいかず、暁歩は大人しくいただくことにした。

 

「・・・美味しいです」

「ありがとうございますね」

 

 ほのかに甘い卵焼きの感想を素直に伝えると、しのぶは笑みを深めてくれる。

 さて、これだけではただ貰った側である暁歩もどこか申し訳ないので、自分の弁当箱を差し出す。

 

「どれか食べたいのはありますか?」

「あら、いいのかしら?それでしたら、この煮物をいただきますね」

 

 しのぶが箸で取ったのは、野菜の煮物。弁当を作ったのは暁歩の母だが、美味しそうに食べるのを見ると、少し嬉しくなる。

 さて、友達同士で弁当のおかずを交換する程度なら、普通かもしれない。だが、そこにしのぶほどの人が絡むとなると事情は別で、男子からすればまさに値千金。遠巻きに様子を窺っていた男子から、嫉妬と羨望と殺意の混じった視線が暁歩に向けられた。

 しかし、その視線に暁歩は気づきながらも無視する。強面の実弥を前に授業を受けるのに比べれば何ともないし、この程度の視線でいちいち気に病んでは、変人たちが跳梁跋扈するこのキメツ学園でやっていけない。

 

「ところで、なぜ今日は中庭で食べようと?」

 

 校舎の間から見える空を見上げながら、暁歩は問う。普段昼食は弁当でも学食なので、中庭で食べるのは初めてな気もした。

 気になって訊ねると、しのぶは箸を一度弁当箱の上に置く。

 

「・・・あまり、周りに人がいる中では話せないことがありまして」

「?」

 

 先ほどまでとは違い、少しだけ真剣そうな声のトーン。それを聞いて、自然と暁歩も箸を止めた。

 

「先日、私が文化祭の実行委員長に就いたのはご存じでしょうか?」

「はい。適任かと思います」

「ありがとうございます」

 

 中高一貫で開催されるキメツ学園の文化祭。開催期間はまだ先だが、学園の規模が大きいのに加え、行われる催事はどれも人気が高く、毎年多くの客が訪れる。まさにキメツ学園の一大イベントだ。そんな文化祭の実行委員長に抜擢されたのは、とても重要なことと言える。

 そして、しのぶが選ばれたことに暁歩は驚かず、むしろ順当と思っている。彼女がいかに優秀な人かは知っているし、人望もある方だから人の上に立つ役目には最適と思った。

 

「それで今は、他の役員を探しているところなんです」

 

 実行委員長は推薦や生徒の選挙などの要因で選ばれるが、それ以外の役員は委員長自らが見極め任命するのが基本らしい。

 そして、このタイミングでその話を切り出されたことで、暁歩は察した。

 

「・・・つまり、俺に役員を任せたいと」

「話が早くて助かります」

「ちなみに、どの役割を?」

「副委員長。つまり私のサポートです」

 

 笑ってしのぶが告げると、暁歩は口を閉ざす。

 それなりに地位の高い役職で、故に責任も生じやすい。しのぶからの頼みは極力断りたくない暁歩だが、安請け合いするのも難しいところだ。

 

「・・・どうして俺なんですか?他にも優秀そうな人はいると思いますけど」

「私の目で見て、暁歩さんが信頼できると思ったんですよ。あなたの人となりはよく知っているつもりですから」

 

 真っすぐな目を向けられて、暁歩の中にある葛藤も消える。

 しのぶとは高等部1年生からの仲で、暁歩もしのぶがどんな人かはそれなりに分かっているつもりだ。

 それと同様に、しのぶもまた暁歩の人物像をある程度理解し、その上で『信頼しているから』と副委員長を任せたい。

 しのぶの意図を理解し、さらにそこまで言われて、断るなんて冷淡な選択は暁歩にはできなかった。

 

「・・・分かりました。俺でよければ引き受けます」

「ありがとうございます」

 

 了承の返事を返すと、しのぶは頭を下げてくれる。それから顔を上げたところで、暁歩が問いかける。

 

「ほかの役員は、決めているんですか?」

「もう1人の副委員長にはカナヲ、会計にはアオイをと思いまして。書記はおいおい決めようかと」

 

 しのぶが挙げた2人の候補に、暁歩は頷く。

 栗花落(つゆり)カナヲは1つ下の2年生で、可憐な容姿から学園三大美女の1人に数えられている。だが彼女は元々孤児で、しのぶの家族に引き取られた身だ。それでもしのぶとその家族は、カナヲを本当の妹のように可愛がり、カナヲもまたしのぶたちを慕っていた。そんな彼女は冷静沈着で頭もよく、副委員長には申し分ない。

 会計候補の神崎(かんざき)アオイは、暁歩も面識がある女子だ。町の定食屋『あおぞら』の一人娘で、暁歩と同じ保健委員の2年生。きびきびと真面目な性格の子で、委員会内でも信頼が厚い。しのぶも暁歩も『あおぞら』の常連で、アオイの属する華道部は薬学研究部と部室が近いため、その人となりもよく知っていた。そんな彼女の真面目な性格を買い、会計という重要な役目を任せたいのだろう。

 

「では、アオイさんには俺から話を通しておきますよ」

「助かります」

 

 同じ委員会に所属するのもあり、暁歩の方がアオイに会うことが多い。その際に話をしておけば効率がいいし、しのぶの負担も少しでも減るだろう。そう思い提案すると、しのぶはふわりと笑ってお礼を言ってくれた。

 話が落ち着くと、昼食を再開する。主題は実行委員会への誘いだったようで、その後の話は他愛もない雑談となった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「と言うことで、クラスの行事への参加は難しいんですが・・・」

 

 放課後、暁歩は担任の下を訪れて、実行委員の副委員長に任命されたことを伝える。暁歩としては心苦しいが、クラスの出し物と実行委員の仕事の両立は難しいと判断し、それを報告しようと思ったのだ。

 

「そうかそうか。つまりお前はクラスで協力することよりも自分の仕事を優先するというわけか」

「いや、その言い方は・・・」

 

 だが、その担任は実にねちっこい口調で暁歩に言葉を投げてくる。

 化学教師の伊黒(いぐろ)小芭内(おばない)。首にペットの蛇を巻き、女性アレルギーだとかでいつもマスクを着けている。先述の『成績不振者は黒板に磔にし、ペットボトルロケットを飛ばしてくる』教師は彼のことで、どこぞの生徒指導教師と大差ない破天荒ぶりだ。

 

「委員会の足を引っ張らないようにせいぜい精進することだな。俺は期待していないが」

 

 そしてこの教師、こんな感じで粘着質な話し方が特徴的だと生徒の間で話題になっている。仮にも教育者なのだから、もうちょっとその辺りはどうにかしてくれないかと思わなくもない。

 

「・・・ところで、伊黒先生」

「何だ」

 

 そんな彼に対して、本当に雑談程度の調子で、暁歩がまた別の話題を切り出す。

 

「町の定食屋に、時折変な電話がかかって来るって話を聞きましてね」

「・・・・・・」

 

 それを言った途端に小芭内の雰囲気が少し暗くなる。

 

「何でも、『ピンクのグラデーションがかかった三つ編みの女性が来ていないか』としきりに訊いてくるとか」

「・・・・・・」

「その人、食堂にも来るので声が同じだと言ってたんですけど、いつもお茶しか頼まないようで」

 

 作り話ではない。その定食屋『あおぞら』の一人娘であるアオイから前に聞いた話だ。その奇妙な電話には若干迷惑していると言う。

 また、話に挙がった『ピンクのグラデーションの三つ編みの女』については、暁歩も噂で聞いたことがあった。キメツ学園で3年間学園三大美女に選ばれ、現在は近くの美大に通っているらしい。彼女も『あおぞら』の常連だが、大食いのあまり食材を全て食い尽くすことが度々あり、出禁も視野だと言う。

 そんな話をやや愚痴っぽくアオイから聞かされた暁歩は、気の毒に思った。しかもその片方は、自分もよく知る人間故に、何とかしたいとさえ思っている。

 

「伊黒先生、何かご存じだったりしませんか?」

 

 それらの事情を踏まえて、暁歩は笑みを浮かべて小芭内に問いかける。

 一方で小芭内は、暁歩が気付いていると分かっていた。

 

「・・・他言無用にしろ」

 

 沈黙の末、小芭内は声を潜めて暁歩に告げる。

 暁歩は別に、小芭内を貶めたいわけではない。ただ、先の小芭内の発言に多少の不服を抱いていたがための、ほんのささやかな仕返しのつもりだ。なので、小芭内の言葉には頷いておく。

 

「もちろんです。ただ、店に電話を入れるのはやめた方がいいと思いますけどね」

 

 暁歩も声を潜め、アドバイスはさせてもらった。あんな内容の電話を店に掛け続けるのは、ストーカーの二歩手前ぐらいの所業だ。

 小芭内もそんな自覚が薄々あったのか、目を伏せる。首に巻いた蛇が、小芭内の方をじっと見ていた。

 

「・・・委員会の活動に、期待しておく」

「ありがとうございます」

 

 さっきと言っていることが180度変わった。

 小芭内の心境が分からなくもない暁歩は、一先ずお礼だけ言って職員室を後にした。なんだかんだで暁歩も、キメツ学園の生徒らしく強かなところがあるのだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 副委員長になったからと言って、その日から仕事が始まるわけでもない。まだ委員会の役員は揃っておらず、そもそも文化祭もまだ当面先だからだ。

 なので暁歩は、職員室の次は薬学研究部の部室を訪れた。

 

「すみません、遅くなりました」

「大丈夫ですよ」

 

 部室では、既にしのぶが活動を始めていた。机の上に薬種や器具などを用意し、何かの薬を試しに作ろうとしている。

 だが、それに触れるより先に報告することがあったので、暁歩は荷物を下ろしながら話しかけた。

 

「しのぶさん。アオイさんに会計を任せる件なんですけど・・・」

「?」

「来る途中で華道部に寄りまして。話をしたところ、快諾してくれました」

「そうですか・・・よかった。ありがとうございます」

 

 休み時間などでは顔を合わせなかったので、来る途中に部室が近い華道部に立ち寄って確認してみた。すると運よくアオイがいたので話をしたところ、OKしてくれたのだ。なるべく重要な話は早めに決めておきたかったので、しのぶとしてもありがたい。

 

「カナヲさんはテニス部の助っ人に行ってていませんでしたが・・・」

「あら・・・それでは、カナヲには私から話をしておきますね」

「お願いします」

 

 カナヲは本来華道部に所属しているが、運動神経が抜群なので多くの運動部の助っ人に駆り出されることが多い。そのせいで、華道部の活動にあまり参加できないのが悩みの種だと、しのぶから聞いている。

 そんな話をしながら、暁歩は鞄から緑茶のペットボトルを取り出す。来る途中の自動販売機で買ったものだ。そしてそれを、しのぶの傍に置く。

 

「どうぞ」

「・・・ありがとうございます」

 

 暁歩はこうして、しのぶに差し入れをすることが度々ある。差し入れは緑茶やお菓子と様々だが、しのぶの方から特に何かを頼んだわけではない。

 そして、暁歩が何もなくこうして差し入れをする具体的な理由を、しのぶは聞いたことがない。何故だか、それを深く訊ねるのは野暮なような気もしたから。

 

「ところで、何作ってるんですか?」

「ああ、これはストレス用の漢方薬ですよ」

 

 そこで暁歩の視線は、しのぶの前に広げられている資料や薬種、器具に移る。問われたしのぶは、読んでいた資料を見せた。

 薬学研究部の主な活動は、漢方薬をはじめ薬の研究や調合を練習し、レポートを作成することだ。しかし、しのぶと暁歩はお互いに興味関心が強すぎるため、薬の調合はプロレベルに達している。今のように資料を読みながらであれば、ちゃんと作用する薬が作れる腕になっていた。

 

「ストレス・・・何か悩み事でも?」

「いえ、同じクラスの方から頼まれたんですよ。受験勉強に疲れてると言うことで」

「・・・見返りは?」

「購買のサンドイッチで」

 

 しのぶがここで薬を作っているのは周知の事実。薬学研究部の活動内容も知られているから、こうして頼まれることも多い。今日に限らず、過去にも何度かあった話だ。

 

「そう言えば・・・そのクラスメイトから訊かれたんですよ。『惚れ薬って作れないのかな』と」

「惚れ薬・・・」

 

 雑談のように切り出された話題に、首を傾げる暁歩。

 アニメやファンタジーの世界でよくある薬。飲んだ相手に恋愛感情を芽生えさせて、飲ませた相手を惚れさせるとか言うものだ。そんな薬は、暁歩も現実では聞いたことがない。

 

「流石に暁歩さんもご存じないですよね」

「そうですね・・・見たことも聞いたこともないです」

 

 暁歩の答えは分かりきっていたのか、しのぶも苦笑する。

 

「私も知らなかったので断ったのですが、どうやら私なら作れると思っていたみたいで」

「・・・薬研(ウチ)としのぶさんを何だと思っているのやら」

 

 思わず苦笑いしか出ない。とは言え、しのぶの薬の調合レベルを知っている暁歩からすれば、そう頼みたくなる気持ちも分からなくはなかったが。

 

「きっと彼女には振り向かせたい人がいたのかもしれませんね」

「まあ、惚れ薬なんて使いたいぐらいでしょうし」

 

 薬種を潰す手を止めて、そう語るしのぶ。

 そこで、暁歩はしのぶの空気が少し変わったように感じ、視線をそちらへ向ける。しのぶは、寂しそうな笑みを乳鉢に向けていた。

 

「仮に作れたとしても、私は使うことをあまりおススメしないですね」

「それは・・・どうしてですか?」

 

 しのぶの意味ありげな言葉に訊き返す。

 すると、しのぶは視線を暁歩に移して口を開いた。

 

「薬を使って感情を自分に向けさせるなんて、私からすれば空しいだけですから」

 

 いつものような微笑みはなく、愁いが混じる表情。それは何か、しのぶ自身にとっても()()()()()()()ような感じにも見えた。

 

「・・・まあ、分かります」

 

 ただ、しのぶの言葉には同意見だ。自分への好意とは薬なんかで作っても嬉しくはないし、その気持ちは純粋であればあるほど伝わりやすいし嬉しくもなる。

 そんな暁歩の答えを聞いて、しのぶは少しだけ意外そうな表情になった。

 

「分かってもらえますか」

「ええ」

「・・・もしかして、暁歩さんにも今そういう人が?」

 

 すると、いつもの微笑みを取り戻したしのぶが口元に手をやって訊ねてくる。仕草と語調が明らかに揶揄っている風で、暁歩は小さく息を吐く。

 

「・・・今のところは。そう言うしのぶさんは?」

「さて、どうでしょうねぇ」

 

 問い返すと、しのぶも含みのある答えを返す。どちらとも取れない言葉に、暁歩もこれ以上は聞いてもしょうがない、と苦笑した。

 だが、しのぶの調子はまた普段と同じように戻ったらしく、一先ずは安心だ。それを確認した暁歩は、資料を取り出して自分もまた漢方薬の作成を始めることにする。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 部活動を終えた暁歩としのぶは、一緒に下校することになった。

 今日に限らず、2人はほぼ毎日一緒に下校しており、こうして連れ立っているところが誰かに目撃されることもままある。この点が、『毒姫と従者』などと揶揄されるところだ。

 

「近頃は不審者や詐欺師なんかもうろついてるみたいですし。気を付けないといけませんね」

「ご心配どうも。けれど私、自分で言うのも何ですが結構腕が立つ方ですから」

 

 暁歩が心配そうに告げると、しのぶはボクシングよろしくシッシッと笑顔で腕を振る。確かに、フェンシングの大会で優勝するほどにはしのぶも強い。ちょっとやそっとの不審者程度なら返り討ちにするなど造作もないだろう。

 それは暁歩も分かっているが、それでも首を横に振る。

 

「どれだけ強くても、俺はしのぶさんのことが心配ですから・・」

「・・・そうですか」

 

 しのぶがタフなのは事実だが、1人の少女であることにも変わりない。加えて、彼女の心には()()()()()()()と知っているから、余計に心配だった。そんな暁歩の言葉を聞いたしのぶは、納得したのかそれ以上反論しなくなる。

 

「暁歩先輩、しのぶ先輩!」

 

 その時、後ろから声を掛けられた。元気そうな声に振り返ると、そこには2人の生徒がいた。

 

炭治郎(たんじろう)くん、カナヲさん」

「こんばんは」

 

 1年生の竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)と、栗花落カナヲ。カナヲは暁歩と視線が合うと、ぺこりと頭を下げた。

 炭治郎は町のパン屋の長男で、町内会の会合で顔を合わせることが多く暁歩と仲が良い。しのぶも、カナヲと仲が良い炭治郎のことは知っていた。

 ちなみに炭治郎は、校則で装飾品が禁止されているにもかかわらず、耳にピアスをつけている。父の形見だからと言って頑として外さず、風紀委員や鬼の生徒指導に対しても頭を下げて付け続けているので、彼には『礼儀正しく校則を破っている』と問題児なのかどうなのかよく分からない評価が付けられていた。

 

「先輩たちは部活ですか?」

「ええ。炭治郎くんも?」

「いえ。カナヲがテニス部に助っ人に行ってて、一緒に帰りたいって言うので」

 

 炭治郎がしのぶの問いに答えると、傍にいるカナヲの頬がぽっと紅くなる。

 その変化にいち早く気付いたしのぶと暁歩は、思わず唇が緩んでしまいそうになる。カナヲの炭治郎に対する好意は2人とも知っているので、実にいじらしい。尤も、当の炭治郎がそこに気付いている様子がないのでやきもきもするが。

 

「2人とも割と一緒に帰ること多いですよね」

 

 毎日と言うほどでもないが、炭治郎たちが一緒に帰っているのはそれなりに見かける。なので、それとなく暁歩が訊いてみると、カナヲはこくこくと頷く。炭治郎も『そうですねぇ』と洩らした。

 

「2人は・・・もしかして付き合ってるのかしら?」

(あ、訊いちゃった)

 

 暁歩が遠回しに訊こうとしたのに、しのぶは平然とそのまま訊いた。空気を読まないのか、敢えて訊いているのか。多分後者なんだろうなと暁歩は思う。

 そして、そう訊かれたカナヲは明確に頷いたり否定したりはせず、さらに顔が紅くなるだけで返事をしない。

 

「いえいえ、俺とカナヲは友達ですよ」

 

 一方で炭治郎は、若干照れ臭そうにしつつも否定する。曇りなき眼で言ってくるあたり照れ隠しでもなんでもない本心らしく、何て無自覚なんだと、暁歩としのぶは内心で嘆息した。カナヲもこれにはショックらしく、しゅんと表情が落ち込んでいる。

 そんなカナヲが見るに堪えず、しのぶと暁歩はせめて2人きりにさせてやりたくなる。だが、しのぶとカナヲが一緒に暮らしている以上、また二組に別れるのも違和感があるので、仕方なく4人で帰ることになった。

 

「そういえばしのぶ先輩、この前文化祭の実行委員長に選ばれましたよね」

 

 そこで炭治郎が、歩きながら世間話のような調子で切り出す。

 

「頑張ってくださいね」

「ありがとう、炭治郎くん。でも、強力な助っ人もいますから大丈夫ですよ」

 

 そう言ってしのぶが暁歩を見ると、暁歩は頭を掻く。

 

「今日付で・・・副委員長になりました」

「そうだったんですか?」

「はい」

 

 暁歩が明かすと、炭治郎が素直に感心したように声をあげる。カナヲも意外そうな目を暁歩に向けた。暁歩は『どうも』と首肯しながら、今度はしのぶに訊く。

 

「しのぶさん、副委員長の件は今言ってもいいのでは?」

「ああ、そうですね」

 

 しのぶは、暁歩の言葉を受けてカナヲの方を見る。小首を傾げたカナヲだが、そこへしのぶは言葉を投げかける。

 

「カナヲに、もう1人の副委員長を頼んでもいいかしら?」

「え・・・?」

 

 その申し出に、カナヲの綺麗な目が見開かれる。急な話なのはしのぶも分かっているし、責任もそれなりに生じる立場だからこそ躊躇うのも予想できている。

 

「なんで、私に・・・?」

「カナヲは副委員長を任せるのに十分な力量があると私は思うの。それに、色々と学べるものも多いと思うからよ」

 

 孤児として胡蝶家に引き取られるまでは苦労も多かっただろうし、それからも色々と苦難があった。

 だが、炭治郎に仄かな想いを寄せるのも含め、今のカナヲは大分心を開き変わってきたとしのぶは判断している。今回のことも、さらなる成長のきっかけになるかもしれないと思ってのことだ。

 

「もちろん、カナヲがやりたくないのならそう言ってくれていいわよ?」

「・・・ちょっと、考えさせてほしい」

 

 悩んだ末の答えは保留。急に言われて面食らっただろうが、慕っている姉からの頼みを無下にすることもできないのだろう。それも想定の内だったので、しのぶは『焦らないでいいからね』と優しく告げる。炭治郎も、『カナヲならきっと大丈夫だよ』と背中を押すように声をかけた。

 そして、暁歩は炭治郎に話しかける。

 

「炭治郎くんもどうですか?まだ書記の枠が空いているんですけど」

 

 ピアス以外では特に問題はない炭治郎。成績が壊滅的という噂も聞いたことがないし、正義感の強い彼ならば職務を全うできるだろうと思い、暁歩は勧誘する。だが、炭治郎は首を横に振った。

 

「ええと俺は・・・ちょっと文化祭でやることがあるので。すみません」

「ああ、そう言うことでしたら大丈夫ですよ」

 

 何か炭治郎の方で優先すべきことがあるのなら、それを優先してほしい。そういう事情があるのならば、暁歩も無理強いはしない。

 

「あら、みんな?」

 

 そこへまた、別の誰かの声がかけられる。

 その声は、この場にいる4人全員が知っている声で、特にしのぶとカナヲは忘れるはずもない声だ。

 

「胡蝶先生、こんばんは」

「こんばんは!」

「はい、こんばんは~」

 

 先んじて暁歩と炭治郎が挨拶をしたのは、キメツ学園の生物教師・胡蝶(こちょう)カナエ。

 しのぶとカナヲの姉で、彼女もまたキメツ学園のOGだ。綺麗な瞳と長い黒髪、おっとりした声が特徴で、在学中はキメツ学園三大美女にも選ばれていたほど容姿端麗である。彼女の美貌は男女問わずえげつない人気を誇り、強面で知られる実弥でさえも見惚れてしまったとか。

 そんな彼女は、しのぶやカナヲの姉だからとでも言うべきか、成績も非常に優秀だったらしく、こちらも才色兼備。しかも就任当初、キメツ学園に伝わる美術室の妖怪や廊下を這いずる幽霊などを祓ったなどの武勇伝まである。

 

「胡蝶先生は、お買い物ですか?」

「ええ」

 

 暁歩が問うと、カナエは微笑む。彼女は今日は休日だったらしく、服装はオフィスカジュアルとも違うシックな雰囲気の私服で、手には食材が詰まっているエコバッグがあった。

 

「佐薙くんと竈門くんは、2人を送ってくれたのかしら?」

「はい。もう夜も遅いので」

 

 カナエは、暁歩と炭治郎のことはもちろん覚えている。生徒だからと言うだけでなく、それぞれしのぶ、カナヲと一緒にいることが特に多いからだ。そして、それぞれの仲が良好そうなのを確認して目を細める。

 

「送ってくれてありがとう。家はもう近いし、親御さんも心配するから、2人は私に任せてくれていいからね」

「分かりました」

 

 カナエがにこっと、花が咲くような笑みを浮かべる。並大抵の男なら惚れてしまいそうなものだったが、暁歩と炭治郎はそうした感情の揺れもなく頷いた。

 

「それではしのぶさん、また明日」

「じゃあね、カナヲ」

 

 それぞれ軽く手を振ると、しのぶは頷き、カナヲも控えめに手を横に振った。カナエもニコニコと見送り、暁歩と炭治郎は並んで自分たちの家へと向かう。2人の家がある方向は同じなのだ。

 

「暁歩先輩、実行委員ってやったことがあるんですか?」

「いえ、今年が初めてです。昼休みに任せたいと頼まれて、OKしたんですよ」

「随分急な話だったんですね・・・」

 

 帰りがけに話すことは、先ほど話題に上がっていた実行委員の話だ。炭治郎としても、今日急に話が出たものだから、やはり気になるらしい。

 

「でも、急に頼まれて不安じゃありませんでした?」

「まあ正直。けど、断る気は最初からありませんでしたよ」

「え?」

 

 歩きながらの暁歩の言葉に、炭治郎は小首を傾げる。

 暁歩は小さく笑みを浮かべて、電柱に取り付けられた蛍光灯を見上げた。

 

「あの人が力を貸してほしいと思うのであれば、俺は力になりたいと思ってますから」

 

―――――――――

 

 暁歩としのぶの仲は、1年生の時は部活で顔を合わせる知り合い程度だった。

 

「佐薙さんは、どうしてこの部活に入ろうと?」

「実家が薬局なのもありますが・・・少し気になったんです。中等部には珍しかったですし」

「あぁ、なるほど・・・」

 

 初めて言葉を交わしたのも部室で、その時はまだ他人行儀な感じが強かった。けれど、薬学研究部は比較的規模が小さいため、次第に話す機会も増えていったのだ。

 

『ねぇ、誰あの子?』

『すっげー可愛いんだけど・・・』

 

 そして外部入学のしのぶは、1年生の頃から注目の的だった。すごい可愛い子が入学したとかで話題になり、おまけに頭もいいとなれば人気が出ないはずもない。人気のあまり、しのぶに嫉妬する生徒も一部いるほどだ。

 だが、暁歩は取り立てて騒いだり、馴れ馴れしく接したりもしなかった。当初からしのぶがどんな人かはそこそこ知っていたが、注目され始めてから急に態度を変えるのも妙だと思いったからだ。

 だから、いつも通りに部活動で一緒に活動し、活動外でもたまに挨拶をするぐらいでいいと、自分に言い聞かせていた。

 しかし、そんなある日。暁歩が薬学研究部の部室を訪れると。

 

 

 しのぶは窓際の椅子に腰かけ、憂鬱そうに溜息を吐いて外を眺めていた。

 

 

 暁歩は、普段のしのぶの姿を知らない。

 いつも部室で会う時のしのぶは、微笑みを浮かべて、熱心に資料を読んだり漢方薬を試しに調合したりと、意欲的な姿勢を見せていた。

 しかし知っているのはそこまで。だから、もしかしたら、暁歩も初めて見た今のしのぶが、『普段』『ありのまま』の姿かもしれない。

 

「・・・はぁ」

 

 けれどその姿は、辟易しているようにも見えた。

 それは恐らく、周りから持て囃され、時には嫉妬されているからかもしれない。そんな中にいて、きっと心が疲れてしまったのだろう。

 その姿を見て、暁歩の中に『何かしてあげたい』という気持ちが宿った。

 

「・・・こんにちは、胡蝶さん」

「・・・ああ、佐薙さん。どうも」

 

 そんなしのぶに声をかけると、思い出したようにいつもの微笑みを浮かべた。だが、暁歩の脳裏には先ほどのしのぶの雰囲気が克明に刻まれている。

 暁歩は鞄を机に置くと、自動販売機で買ったペットボトルの紅茶を取り出し、それをしのぶに渡した。

 

「これ、よろしかったらどうぞ」

「あら・・・急にどうしたんですか?」

「少々お疲れのように見えましたので・・・。まだ蓋は開けていませんから、ご安心を」

 

 差し出されたペットボトルを、どうするか迷った末にしのぶは受け取る。けれど、すぐにキャップを開けようとはしない。

 

「嬉しいですけど、私紅茶よりも緑茶派なんですよね」

「では、今度は緑茶を差し上げますよ」

 

 しのぶの苦笑を交えた皮肉のような言葉に、暁歩は小さな笑みを浮かべ告げる。

 差し入れがこれっきりのつもりはない。毎日は財布事情的に厳しいが、次に渡す機会があったらそれを留意しておくだけだ。

 だがそう言った直後、しのぶの空気が少し変わったような気がした。

 

「・・・ありがとうございます」

 

 ただ、その表情はいつものような微笑みに戻り、気のせいかと暁歩は考えるのを止める。

 その横で、しのぶは紅茶を一口飲んだ。

 

 

 それ以降、暁歩はしのぶとの接点が部活動以外で増えるようになった。どちらから接してきたのかは記憶が曖昧だが、しのぶから話しかけてくれたと暁歩は思う。

 

()()()()、よければ一緒にお昼どうですか?」

「いいですよ、()()()()()

 

 いつしかお互い名前で呼び合うようになり、昼食や下校が一緒になることが増えた。暁歩にも断る理由が無く、それに応じて一緒にいる時間が長くなったのだ。

 自分との交流が、周りからの目を集めるのと同様に負担にならないか不安だったが、それ以来暁歩はしのぶが憂鬱そうな感じでいるのを見なくなった。

 

―――――――――

 

「暁歩先輩・・・?」

「・・・すみません、ちょっと考え事をしてました」

 

 炭治郎に話しかけられて、一度思考を切り離す暁歩。心配には及ばないと、首を横に振った。

 ともかく、あの時部室でしのぶの違う一面を見た時から、『何かしてあげたい』『力になりたい』と思うようになった。だから、イエスマンというわけではないが、しのぶからのお願いや頼み事は、力になれるのであれば極力頷いている。今回の実行委員会の件も、それに起因するものだ。

 

「1つ気になったんですけど・・・」

「はい?」

「暁歩先輩としのぶ先輩って、付き合ってるんですか?」

 

 炭治郎が投げかけた、素朴な疑問。先ほど、しのぶが炭治郎とカナヲにぶつけた質問だ。大方、暁歩としのぶも連れ立っていることが多いので、炭治郎も少し気になったのだろう。

 そして、それを聞いた暁歩は、少し瞬きをしたものの即座に笑みを返す。

 

「違いますよ。あくまで友人です」

「そうですか・・・すみませんでした」

「いえいえ」

 

 炭治郎が素直に謝ってくるので、暁歩はすぐに手を振って謝罪を受け入れる。

 ただ、あまりこの話題を続けるのも、今この場にいないしのぶに悪いので、少し話題を変えることにした。

 

「ところで炭治郎くんは・・・文化祭で何かやることがあると言ってましたね」

「ああ、はい。実は、俺の友達と一緒に『キメツ☆音祭』に出ようと思ってるんです」

 

 『キメツ☆音祭』は、毎年文化祭で行われている目玉イベント。出場者がそれぞれ得意な楽曲を披露するものだ。優勝賞品が豪華なのと、出場者の人気が高いのもあって学園内外問わず多くの人が訪れる。そこに炭治郎も参加すると言う。

 

「なるほど・・・ちなみに炭治郎くんは何か楽器を?」

「いえ、俺はボーカルです。ちょっと歌には自信がある方なので、頑張ります!」

 

 炭治郎の曇りなき瞳を見て、暁歩もふっと笑う。よもや、そんな炭治郎の歌声のせいで、自分たちが命の危険に晒されるなど、今の暁歩は微塵も思わない。

 

「応援しますね」

「はい!暁歩先輩も、実行委員、頑張ってください!」

「ありがとうございます」

 

 そんな話を炭治郎と交わしながら、『実行委員』と聞いて自分の立場を思い出す。

 初めてのことだが、自分は実質ナンバー2にあたるのだ。自分から引き受けたのだから責任は重大である。あまり悠長に構えることもできない。

 そこで、しのぶの姿が脳裏にちらつき、先ほどの炭治郎の言葉を思い出す。

 

 ―――暁歩先輩としのぶ先輩って、付き合ってるんですか?

 

 この答えは、先ほどの言葉通り、否だ。

 確かに暁歩自身、しのぶと一緒にいる時間は長いと思っている。だが、他人にどう見えようと、自分たちは恋愛関係とは言えない。そういう先入観を抱いてしまうのは、若い学生ならではと言える。

 自らの根幹にあるのは、しのぶを気遣う気持ちだ。周りがしのぶを持ち上げるのに対し、暁歩はせめて自分だけは負担にならないように接しようと思っている。だから、飲み物を差し入れたり、()()()()()()()()()()一緒に下校したり、昼食を摂ったりしている。自分との交流がしのぶにとっての息抜きとなるのなら、暁歩は今を喜んで受け入れると決めていた。

 それでも。

 

(・・・気づかれたらダメなんだよな)

 

 暁歩とて年頃の男子高校生。しのぶのような可憐な女子と長い間接して、微塵も感情が動かないほどの朴念仁でもない。容姿だけではない性格、仕草、言葉などを近くで目にする内に、暁歩もしのぶのことを大分意識してしまっていた。

 だが、それはしのぶに悟られてはならないとも思っている。

 本当にそうなのかは分からないが、暁歩は校内で数少ない、しのぶが心を許している存在である。だからこそ、その暁歩から好意を向けられるのは、しのぶにとっても迷惑でしかないだろう。

 心を許しているであろう暁歩が負担を掛けては、頼りたい存在がいなくなってしまう。

 だから、自分の中に宿る気持ちを押さえつけるように、暁歩は息を吐いた。

 

◆ ◆

 

 ところ変わって、胡蝶家の食卓。

 

「―――で、2人とも。彼氏とはどんな感じなのかしら?」

 

 それまで穏やかだった雰囲気の食卓に投げ込まれた、カナエの爆弾発言。

 カナヲは表情が凍り付き、次第に顔が赤く染まっていく。一方でしのぶは、小さく息を吐いてカナエを見た。

 

「あのね、姉さん。カナヲはともかく、私と暁歩さんはそういう関係じゃないのよ」

「あら、そうなの?何度か彼と一緒に帰ったり、お昼を一緒にしたりすることがあるからそうだと思ったんだけどな~?」

「それだけで彼氏って決めつけないでよ・・・」

 

 姉の言葉に嘆息しながら、しのぶはカナエ謹製肉じゃがを食べる。悔しいことに美味い。

 キメツ学園の教師であるカナエだが、こうした話は流石に校内では話題に出さない。その点は教師と生徒という立場を弁えていた。

 なので、こんな風に妹たちに話しかけるのは、家族水入らずで過ごす時だけ。自分の妹たちが可愛いと信じて疑わないからこそ、色恋の話を持ち出すことが多いのだ。

 

「第一、私とじゃ暁歩さんも迷惑がるだろうし」

「そうかしら?私には結構お似合いに見えるけど・・・?」

 

 しのぶの言葉に、カナエは頬に手を当てて困ったような笑みを浮かべる。その言葉に、しのぶの箸が一瞬止まるが、すぐに食事を再開する。

 

「ところで、『カナヲはともかく』って言ってたけど、カナヲは本当に付き合ってるのかしら?」

 

 そこでカナエが話題を移すと、油断していたのかカナヲが肩を震わせて漬物を飲み込んだ。わたわたと手を動かして否定しようとするので、慌てているのは目に見える。

 

「えっと、炭治郎とはそういうのじゃ・・・」

 

 顔を赤らめて、違うと明言できずにまごつくカナヲ。その様子に、カナエはもちろんしのぶも心が温まる。何というか、小さな動物のような可愛らしさまで抱いてしまう。

 

「お父さんとお母さんもきっと喜ぶわよ~?可愛い娘2人に春が来たなんて、ね」

「絶対言わないでよ」

 

 カナエが味噌汁を啜って笑って告げると、しのぶがくぎを刺す。

 胡蝶家は現在、両親と三姉妹が分かれて暮らしている。家族関係の亀裂から来るものではなく、実家がキメツ学園より少し離れているからで、カナエがキメツ学園に就任したことで近くに一緒に住むことになったのだ。だから、妹たちの浮いた話は親も知らない。

 

「というか、私たちより姉さんがそろそろ身を固めた方がいいんじゃない?」

「私は妹2人の晴れ姿を見るまで結婚しないって決めてるのよ」

 

 皮肉気味にしのぶが返すが、カナエは意にも介さず謎の理論を展開。妹の贔屓目を除いても、カナエは美人だし文武両道、おまけに料理も上手い。引く手あまただろうにそんなことを宣うとは、妹バカも極まれりかとしのぶは内心呆れつつご飯を食べる。

 しかし、妹のことが絡むとカナエから突飛な発言が出てくるのもいつものことだ。完全無欠と思われるカナエにも、このような短所(?)が存在するのである。

 それにはしのぶもカナヲも、最初こそ辟易したものだが、それが何度も繰り返されれば、それは食卓を彩る1つのピースになる。何より、カナエも家族のことが好きだからこそ、こうして話題にするのだ。しのぶとカナヲもそれは分かっているので、最後には2人も笑顔になれる。

 なんだかんだで、こうして家族で過ごす時間が、しのぶもカナヲも好きだった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 しのぶは、自分がどんな人間なのかを理解しているつもりだ。性格はもとより、容姿も周りが囃し立てる程度には良いのだろうと思っている。キメツ学園に入学してから周囲に褒めちぎられ、街へ行けば芸能事務所にスカウトされることもざらにあるので、強く自覚するようになった。

 しかし、そうなれば、容姿目当てで自分に近づかれることも、妬まれることも増えてくる。そこに邪な感情が挟まってくるのは、仕方のないことだろう。

 そして、秀でた容姿を謙遜しては、嫌味と捉えられ余計に周りからの風当たりは悪くなる。

 だからしのぶは、敢えて堂々とし、自分の容姿を利用してこれまで上手く立ち回っていた。最近で言えば、風紀委員を辞めたがっていた()()を元気づけて、風紀委員の人員不足を防ぎ、見返りとしてフェンシング部の体育館の使用頻度を上げてもらったことか。それ以外にも、人当たりが良いように、衝突が起きずかつ自分に害がないように振舞って、言うなれば八方美人に徹しようと心で決めたのだ。

 それでも、自分の容姿について周囲が持て囃し注目を集めていることに、しのぶは心が疲れていたとも言える。それを少しでも軽くするために、自分の美貌を利用した。これを快く思わない人間はいるだろうし、狡猾と評されても反論はできない。容姿とは持って生まれたものだからこそ、やり場のない蟠りが心の中に燻っていたのも事実だ。

 

 ―――少々お疲れのようでしたので

 

 だからこそ、あの時純粋に気遣おうと紅茶を差し入れた暁歩のことが、とても意外だった。同じ部活動に入った時から、下心をもって接するわけではなく、人気を博すことに嫉妬するでもなく、ただしのぶと対等に向き合ってくれている。

 

 ―――嬉しいですけど、私紅茶よりも緑茶派なんですよね

 ―――では、今度は緑茶を差し上げますよ

 

 しのぶの皮肉じみた言葉にも、彼は嫌な顔一つせずにそう返した。そして数日後には、本当に緑茶を持ってきてくれたのだ。特にしのぶから何か言ったりやったりしたわけでもないのに、暁歩は『疲れているようだから』と、気遣ってくれた。

 それ以降、味を占めたつもりはないが、周りとは違う接し方をする暁歩と親交が増えた。肩肘張らない、嫉妬や下心など打算も絡まない、等身大のしのぶを見せられる『友達』のような関係でいることが、しのぶにとってはとても心地よい。

 だからこれまでも、一緒に昼食を摂ったり下校したりと行動を共にすることが多かった。今日の文化祭実行委員会の副委員長に任命したのも、優秀なだけでなく、こうした気持ちが少なからず絡んでいる。

 

「・・・はぁ」

 

 風呂上がりのしのぶは、パジャマに着替えるとベッドに寝転がる。明かりの消えた天井が、いやに鮮明に見えるような気がする。

 

 ―――私には結構お似合いに見えるけど・・・?

 

 食卓でのカナエの言葉が、頭を過る。

 正直な話、しのぶは暁歩のことを異性として意識したことは()()()ない。暁歩とは対等な関係である今が好きで、そこまで考えたことがないから。それに、もしそういう別の感情が芽生えたら、今の関係を失ってしまいそうな気もするから。

 だが、カナエから先のようなことを言われると、どうにも気になってしまう。

 暁歩は二枚目と言うほどでもない、容姿だけは普通の男子だ。けれど、将来は薬剤師を目指しており、頭はしのぶに及ばずとも良い方だ。それを差し引いても、気遣いができる優しい人であり、しのぶ自身が一緒にいて心地良いと思える人。

 

(・・・暁歩さんか)

 

 目を閉じて、実際に付き合ったらどんな感じなんだろうと思い浮かべる。人目も憚らずイチャつきたいとは思わない。だけど、今のように穏やかな関係が続けばいいな、とは思う。

 だが、こうして暁歩のことを意識している間、しのぶ自身の表情が穏やかなものとなっていることに、自分自身では気付いていない。

 そして、それだけ意識しているのは、暁歩が好きだからと気付くのは、もう少し先のことだ。




≪設定≫
・佐薙暁歩
3年烏帽子組。保健委員、薬学研究部に所属。
実家は町の薬局で、色々な薬(合法)を持ち歩いている。しのぶと仲が良さげなところが多々目撃され、他の男子から嫉妬及び殺意を向けられている。ただししのぶと付き合っているわけではなく、それでもしのぶのことを意識はしている。結構強か。

・胡蝶しのぶ
3年蓬組。薬学研究部に加えフェンシング部を掛け持ちしている。
才色兼備で男女からの人気が非常に高いが、きな臭い噂も。暁歩との仲は良好であるかのように周りからは見られ、それぞれに『毒姫』『従者』と通称がつけられた。暁歩と恋愛関係にあるわけではないものの、気持ちが動きつつある。内面は少し弱い。

・胡蝶カナエ
元学園三大美女の一角である生物教師。華道部顧問。
おっとり優しい性格で、男女問わずえげつない人気を誇っている。しのぶとカナヲそれぞれの恋路を静かに見守っており、その相手である暁歩・炭治郎のことは『任せられる良い子』と認識している。外では才色兼備で通っているが家ではとんだ妹バカ。

・竈門炭治郎
1年筍組。礼儀正しく校則違反(ピアス着用)を続ける男子。
実家は町のパン屋で、同じ商店の長男つながりで暁歩と仲が良い。学年を問わず交友関係が広く、時には正義感の強さもあってトラブルに巻き込まれることも。一般科目は平均以上だが、音楽、美術など芸術に関しては教師を泣かせるほどに悪い。鈍感。

・栗花落カナヲ
2年菫組。華道部所属だが運動部の助っ人に駆り出されがち。
学園三大美女の1人で根強い人気があるが、当人は興味を示さない。街で道に迷っていたところを炭治郎に助けられ、以降交友関係に発展し慕情を抱くに至る。しのぶ、カナエとは本当の姉妹のように仲が良い。小動物的な可愛らしさをいじられることも。


本編と比べて暁歩としのぶの関係はあまり堅苦しくない感じにしてみました。また本作独自の解釈もありましたが、お楽しみいただければ幸いです。


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後編:一線のチョコ

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 2月14日。またの名をバレンタインデー。

 その日は1年でも特別な意味を持つ日であり、親しい人や自分が好いている相手にチョコを渡すのが、この国では通説となっている。

 この日が近づくにつれて世間の雰囲気は浮ついたものとなり、それは個性的な面子が集うキメツ学園とて例外ではない。むしろキメツ学園だからこそ、こうしたイベントの日はひと悶着起こりうる。学園が推奨まではしないが、このようなイベントごとに生徒たちは舞い上がり、学園全体も雰囲気がふわふわした感じになるのだ。

 

―――――――――

 

 そんなバレンタインを翌日に控えた日の夕暮れ時。

 胡蝶家の台所には、カナヲがエプロンを着けて立っていた。傍にはしのぶもついている。

 

「こんな、感じ・・・?」

「そうね。後は少し時間を置いて、丁度いい温度にまで下がったら、ちゃんとした型にしましょう」

 

 チョコ作りの序盤にして一番手間のかかる湯煎を終えると、カナヲは一息つく。その背中をしのぶは優しく撫でて労い、自分もまた肩の力を抜いた。

 今日は学園全体で部活動が無い日で、しのぶはカナヲと一緒に帰ってきた。と言うのも、カナヲの方からお願いがあると切り出され、何かと思えば『チョコを作るのを手伝ってほしい』とのことだ。誰に、何のために、などわざわざ問うまでもないだろう。

 

(本当、ここまで変わるものなのね・・・)

 

 今のしのぶの心は、喜びや安心に満ちている。

 胡蝶家に引き取られた当初は感情の起伏に乏しかったカナヲが、こうして女の子らしく一途に恋をし、チョコを作って贈りたいと思うに至ったのだから。目に見える大きな成長に、しのぶの喜びもひとしおだ。

 

「ただいま~」

 

 すると、玄関からカナエの声が聞こえてきた。しのぶとカナヲは、その場で『お帰りなさい』と出迎えの声をかけた。

 

「何かいい香りがするわね~」

「カナヲがチョコを作ってるの」

 

 手洗いを終えてキッチンに顔を見せたカナエの表情は綻んでいる。チョコの香りはキッチンの外にまで広がっているらしい。

 

「チョコって・・・誰か本命でもいるのかしら?」

「・・・・・・」

 

 今更問うまでもないのに、笑ってカナエは訊ねる。するとカナヲはプイとそっぽを向いて、溶かしたチョコをぐるぐると回す。明らかな照れ隠しを、カナエは温かい目で見守る。

 

「しのぶが教えてるの?」

「ええ。作り方は知ってたから・・・」

 

 続いてしのぶに訊く。

 だが、しのぶが答えると、カナエの目が少し光った気がする。実に何か嫌な予感がした。

 

「・・・1つ思ったんだけど?」

「何?」

「なんでしのぶは、チョコの作り方を知ってたのかしら?」

 

 頬に手を当てながら問いかけられ、しのぶの笑みが凍る。カナヲも『そう言えば』と気付いたらしく、視線をチョコからしのぶに移した。

 

「・・・別に、元々料理は得意だし・・・知っていてもおかしくないでしょ?」

「まあそうなんだけどね?何かちょっと腑に落ちない、って言うかな。まさか、もう誰かに向けて作ったわけじゃあるまいし」

 

 カナエは何も責めているわけではなく、むしろ面白がっているのだ。しのぶは料理が得意なのも、手先が器用なのも分かっている。カナヲにチョコの作り方を教えていても、おかしな話ではない。

 しかしこの時期に、自分の可愛い妹で、ましてやいい感じの男子がいるとなれば、カナエとしても面白いことが起こっている予感がしてならなかった。

 だが、しのぶとて伊達に何年もカナエの妹をやってはいない。カナエが何を考えているかはお見通しだし、この状況も予想していたので、対策はしてある。

 

「・・・実は、姉さんとカナヲのためにチョコを作っておいたんだけどね」

「え?」

「今年は手作りに挑戦してみようかなって」

 

 言いながらしのぶは、包装された薄く四角い箱を冷蔵庫から取り出す。

 それを見て、しのぶの言葉を聞いて、カナエはぽかんと口を開けた。カナヲもそのチョコを注視する。

 

「あんまり揶揄うのなら渡すのやめようかしら・・・」

「ああ、待って待ってごめんなさい!からかうつもりじゃなかったの!ちょっと面白そうだからちょっかいかけてみようかなって思っただけなの~!」

「それをからかうっていうんじゃ・・・」

 

 カナエが血相を変えて必死に嘆願するも、カナヲが冷静にツッコむ。

 さて、カナエに一杯食わすことができて満足したしのぶは、『冗談よ』と嘆息してチョコを冷蔵庫に戻す。カナエは『ごめんね~』としのぶの髪を撫で、注目していたカナヲも疑念が晴れたのか、妙に鋭い視線を向けはしなかった。

 

(・・・危なかった)

 

 しかしながら、しのぶには隠し事がある。

 実は手作りのチョコは、もう1つある。それをカナエたちに言わないのは、バレればいじられることが必至と分かっているからだ。

 なぜそうなるのかは、渡す相手を考えれば当然だ。特に、しのぶとその相手の仲を揶揄いつつ見守るカナエは、まず間違いなく茶化す。先ほどの指摘の際の表情で、それは分かっていた。

 だからこそ、()()チョコを作っていたなんて知られれば、ただでは済まないだろう。故に、絶対に知られないために、しのぶはカナエとカナヲのために作ったチョコをカモフラージュとしたのだ。嘘はついていない。

 

(喜んでくれるでしょうか・・・)

 

 カナヲのチョコ作りが再開し、それを手伝いながらしのぶは考える。

 自分でも柄じゃないのは分かっている。こうして手作りのバレンタインチョコを作るのなんて、初めてのことだ。

 しかしながら、しのぶの中にどうしようもないほど大きな気持ちが宿っているのもまた事実。その気持ちを伝えるために、来るバレンタインデーはもってこいとも言えた。

 不安や期待を胸に、しのぶはカナヲの傍に立ってチョコ作りを手伝う。

 その表情は、いつものような微笑みだった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 迎えたバレンタインデー当日。

 特に遅刻もせずキメツ学園の門をくぐった暁歩は、心がどうもむず痒い。周りを見ても、他の生徒・・・特に男子はどこか浮き立っているように思える。

 今日が何の日かを考えれば、自分も周りもそうなるのは頷けた。特に暁歩には、親しい間柄の女子がいる。思い上がっているわけではないが、年頃の男子に期待するなと言うのは難しい。

 しかし、臆面もなく『ください』なんて言えるはずもない。ましてや、暁歩は相手の負担になりたくないとも思っているから、ひたすら待ちの姿勢を貫くのみだ。と言うより『貰えたらいいな』ぐらいに考えておく。

 そんな妥協とも諦めとも取れる決意を胸に、暁歩は校舎に入る。昇降口で上履きに履き替えて、教室へ向かおうとすると、前方に見知った友人の姿を見つけた。

 

「おはよう、狛治」

「暁歩か。おはよう」

 

 狛治の肩を叩き挨拶をしたところで、暁歩は狛治が見慣れない小さな紙袋を持っているのに気付く。

 

「それ何?」

「・・・恋雪さんから」

「あー、なるほど」

 

 恋人を越えた妻帯者がいる狛治は、早くもチョコを貰ったらしい。恋雪の雰囲気からしておそらく手作りだろうが、そうでないにせよ仲睦まじいのに変わりはない。

 

「暁歩はどうなんだ?チョコ、貰えそうなのか?」

「そんなの分からんよ」

 

 絶対貰えるなんて確証は無いし、貰えないと言うのも自分で悲しくなる。結果、どっちつかずの答えを返すしかなかった。

 

「今まで貰ったことはあるのか?」

「義理チョコならいくつか」

 

 暁歩はモテるわけではない。この人生で貰ったチョコはいずれも義理チョコで、片手で数えられる程度だ。本命と思しき手作りのチョコとはとんと縁がなかった。

 

「誰から?」

「しのぶさんと、あと保健委員とか、別のクラスの仲いいやつとか」

「・・・驚いた。まさか、胡蝶さん以外からもチョコを貰ってたなんて」

「お前俺を何だと思ってるんだ・・・」

 

 あまりにも見当違いな気がしてならない評価に暁歩もげんなりする。

 ただ、自分では自覚していないが、暁歩の性格は比較的穏やかな方だ。困ってる人には手助けをするし、丁寧に接しようと心掛けている。そこに恋愛感情を抱かずとも、好感を持っている人はそこそこいるのだ。それもあって、義理チョコを獲得できるほどに信頼関係は築けている。

 

「でも、今年は胡蝶さんからのチョコは期待してもいいんじゃないか?」

「なんで?」

「だってお前、文化祭で副委員長だったろ?」

 

 キメツ学園を挙げての一大イベントである文化祭。しのぶが実行委員長で、暁歩は彼女をサポートする副委員長だったことを、クラスメイトの狛治は知っている。そんな学生の青春イベントで、元々仲が良かった2人は接近したのではないかと、狛治は期待を込めて訊いてみた。

 

「・・・文化祭、文化祭な・・・。うん・・・あれな・・・」

「?」

 

 だが、『文化祭』と聞いた途端、暁歩が遠い目を浮かべた。

 その達観したような反応は一体何だろう、と狛治は眉を顰める。

 

―――――――――

 

 件の文化祭、暁歩を含め実行委員会は、最初こそ活動は順調だったものだ。

 最終的な役員は、委員長がしのぶ、副委員長は暁歩とカナヲ、会計はアオイ。そして書記には、熱血歴史教師・煉獄(れんごく)杏寿郎(きょうじゅろう)の弟である中等部の千寿郎(せんじゅろう)が就任し、この5人を中心に準備活動は進められた。

 文化祭の予算案や、各部署との折衝、行程の管理、外部への依頼などやることは多岐に渡ったが、過去のマニュアルを参考にし、教師陣にアドバイスを求めたりして、大きなトラブルもなく準備は進めることができたのだ。

 

 しかし、大きな障害となったのは、炭治郎が参加すると言った『キメツ☆音祭』・・・というか炭治郎たちだ。

 

 彼は親友である我妻(あがつま)善逸(ぜんいつ)嘴平(はしびら)伊之助(いのすけ)、そして週一で美術室を爆破する派手な美術教師・宇髄(うずい)天元(てんげん)と共に『ハイカラバンカラデモクラシー』なるバンドを結成、音祭に参加を申し込んだ。メンバーはともかく、炭治郎が参加するつもりでいたのは暁歩も知っていたので、さして驚きはしなかった。それに、音祭も基本申請をすれば参加可能なので、それについては問題ない。

 問題だったのは、彼らの演奏だ。

 

「なんでお前に彼女がいて俺にいない♪何が悪かった~~~前世か?なんか罪犯したか~~~♪」

「――――――――――!?」

「ヒヅメで蹴られたって、ブーンと飛んで逃げられたって、全然平気~~頭悪いから~~~♪」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 ヴォーカルの炭治郎は破滅的な音痴、善逸の三味線は怨念が上乗せ、伊之助の太鼓はテンポ完全無視、とどめに天元の爆音ハーモニカ。

 申し込みの際の試奏でその歌を聴いた暁歩は胃の中身が逆流しそうになり、しのぶに至っては途中で顔を押さえたまま気を失った。後にも先にも、しのぶがこんな有様になったのは一度だけである。

 ともかく、彼らの地獄のハーモニーで、聴いた人は頭痛・めまい・吐き気・気絶に襲われてしまう。そんな演奏をする彼らを、観客が大勢集まる『キメツ☆音祭』に参加させるわけにはいかない。もしそうなれば、『キメツ☆音祭』始まって以来の災厄は避けられないからだ。

 かと言って出場を拒否するのは、キメツ学園の『何人にも平等に、生徒の自主性を重んじる』という理念に反し、教師が一枚噛んでいるため簡単にはいかない。

 そして、前年度の出場者の人気ぶりを考えると、外部からの集客も考えて音祭そのものの中止も不可能だった。

 

「「彼らを参加できないようにしましょう」」

 

 しのぶと暁歩は、外的要因で出場を阻止する方針で意見が一致。

 そして、情報を実行委員会で情報を共有し、何とかして彼らの出場を阻止できないものかと色々と画策した。

 

「ちょっとどういうこと!?あたしとお兄ちゃんがトリじゃないって!」

「申し訳ございませんが、急遽順番が変更となりまして」

「ハイカラバンカラデモクラシーと言うグループです。宇髄先生や竈門炭治郎くんたちのバンドでして、彼らのたっての希望でした」

「はあああ?宇髄っつったらあの美女3人も侍らせてるクソ妬ましい野郎じゃねぇかああ・・・あんな奴らに俺たちの舞台が邪魔されるってのかぁぁ?」

「もしよろしければ、彼らと直接話し合いをしてみてはいかがでしょう?丁度音楽室で練習中ですし」

 

 まずは、キメツ学園でも札付きの不良兄妹・謝花(しゃばな)妓夫太郎(ぎゅうたろう)謝花(しゃばな)(うめ)をけしかけた。それも、学生時代ブイブイ言わせていた天元に一方的に叩きのめさせ責任問題に発展させ、芋づる式に炭治郎たちも出場不能にさせるという、しのぶの作戦だ(この作戦を聞いた暁歩以外の役員はドン引きしたが)。

 

「謝花兄妹は、激しい嘔吐と震え、眩暈に襲われたそうです。搬送時は泡を吹いていたと」

「・・・侮ってましたね。炭治郎くんたちの演奏」

「・・・ええ」

 

 ところが謝花兄妹は、音楽室の戸を開けた直後にあの演奏を聴き、取っ組み合いになる前に病院送りになって失敗に終わった。

 

「お忙しいところすみません、煉獄先生」

「構わん!生徒の悩みや相談に乗るのが教師の役目!それで、どうした?」

「実は、かくかくしかじかで」

「なるほど!その不快且つ人体に有害な演奏を止めてくればいいのだな!学園の平和と、人命を守るために!」

(兄上、その言い方はあんまりかと・・・)

 

 続いて、もう少し穏便にやってみようと暁歩が提案したのは、熱血快活歴史教師・煉獄杏寿郎に彼らの説得をしてもらう作戦。杏寿郎の言い分はなまじ正論なので何も反論できないが、大人としてもう少しオブラートに包んでほしいと思わなくもない。

 ともあれ、生徒・教師からの信頼も厚い彼なら大丈夫なはずだと、信じていた。

 

「彼らの情熱を止めることなど、俺にはできん!それでもやれと言うのなら、俺は腹を切る!」

 

 しかし、彼らのメジャーデビューの夢(演奏を知っている人からすれば悪夢)と熱意を一杯のラーメンと共に聞き逆に絆されてしまった杏寿郎は、説得を拒否。またも失敗。

 

「冨岡先生、校則違反者です」

「誰だ」

「竈門炭治郎くん、我妻善逸くん、嘴平伊之助くん、宇髄天元先生です。彼らは、校内において著しく他者に迷惑をかける行為をしてはならない、他者の心身を害してはならない、と言う校則に反しております」

「すぐに行く」

 

 さらに、キメツ学園の誇る最終兵器教師・冨岡(とみおか)義勇(ぎゆう)へのチクりも試みた。泣く子も黙る(と言うかむしろ泣かせる)彼ならば、流石の炭治郎たちも言うことを聞くだろうと思ってのことだった。

 

「・・・あれほど心に沁みる歌詞を、俺は生まれて初めて聞いた」

 

 ところが、義勇は彼らの破滅的なはずの演奏に感銘を受け、一筋の涙を流し寝返ってしまい、失敗に終わってしまう。

 斯くして、『ハイカラバンカラデモクラシー』の出場は止められず、当日を迎えてしまう。

 結果、『キメツ☆音祭』で彼らの演奏が始まると同時、半数の観客は体育館から逃げ出し、もう半分はその場でノックアウト。保健委員と実行委員会役員が総出で被害者の救護に当たった。

 演奏中にバタバタと人が倒れ、体育倉庫を改造した急ごしらえの医務室に病人を運び入れ、その間も炭治郎たちの呪詛じみた演奏が続くあの光景は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図と評すに相応しかった。

 

―――――――――

 

 といった具合で、文化祭実行委員会での活動は、無駄に疲れた。

 狛治が詳細を知らないのは、一緒にいた恋雪が人の多い場所が少し苦手だったため、それに合わせて音祭を観ずに校舎内の出店を見て回っていたからだ。夫婦仲の良さが幸いした。

 とにかく、あんな惨事が起きては、いかに学生の青春を彩る一大イベントであろうとも、縮まる距離も縮まりはしない。

 そして、月日が流れた今になっても、暁歩の心にはあの時の惨劇が脳裏から離れないでいる。

 

「・・・なんか、ごめんな」

「・・・いいよ、別に」

 

 暁歩の表情で何かを察した狛治は、労うように肩をポンと叩く。暁歩は泣きそうな笑みを浮かべながら、首を横に振った。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 昼休み前の授業は生物。カナエの教え方はとても分かりやすく、美貌も併せて男女問わずほとんどのクラスメイトはカナエに釘付けだった。

 クラスの男子の中には、そのカナエから義理であってもチョコがもらえるのではないかとワンチャンスを狙う輩もいた。だが、教師と生徒と言う関係がある以上、カナエもその辺りはしっかりしているようで、チョコを用意している様子はなく、授業もつつがなく終わり昼休みになる(一部男子は落胆していた)。

 

「暁歩さん、お昼一緒にいかがですか?」

「いいですよ」

 

 そして暁歩は、いつものようにしのぶから昼食に誘われた。暁歩は首肯して弁当を持ち、しのぶと一緒に食堂へと向かう。一方でしのぶの手には、いつもの花柄ナプキンに包まれた弁当箱があり、それ以外のものはないらしい。

 やがて食堂に着くが、相も変わらず昼休みは賑わっている。加えて、今日がバレンタインデーと言うこともあり、妙に男女の組み合わせが目立つような気もした。

 

「「いただきます」」

 

 だが、暁歩もしのぶもそれには気づきつつも言及せず、食堂で向かい合って座る。

 

「・・・・・・」

 

 その間に暁歩は、ちらっとしのぶの様子を窺う。彼女は変わらない微笑みを浮かべて、今日も手作りと思しき弁当を食べている。いかに今日が特別な日であっても、特に変わった様子は見られなかった。

 そんないつも通りのしのぶの様子に、暁歩は少しばかり気落ちする。

 あくまで期待に留める程度でいたが、やはりしのぶは暁歩にとって親しい友人であり、同時に秘かな想い人でもある。チョコを貰える様子が無いと分かると、どうにも落胆してしまう。

 

「そうだ、暁歩さん」

「はい?」

 

 唐突に、しのぶに話しかけられる。暁歩は『感づかれたか』と不安になったが、心を静めてしのぶの視線に応える。

 

「今日、薬研の見学希望の子たちの対応をお願いしてもよろしいですか?」

「あぁ、はい。大丈夫ですよ」

 

 元々特異な部活なので、興味本位で見学に来る下級生はそこそこいる。暁歩が入部したのも、ほんの少し物珍しさを抱いたからだ。

 そして今日来る見学希望者は、何度も来ている生徒と事前に知っている。そこまで肩肘張る必要もなかった。

 

「後もう1つなんですけど・・・」

「?」

「部活の後、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」

 

 しのぶのお願い事に、暁歩は『おや?』と思う。

 暁歩はしのぶと一緒に帰ることが多く、その際に『時間が欲しい』と言われたことは一度もない。なので、改まってそう言われることが初めてで、気になった。

 そこで今日が何の日かを思い出して、『まさか』なんて予想が浮かび上がるが、それは即座に否定する。もしかしたら、何か真剣な話かもしれないので、変な期待はしないでおこうと心に言い聞かせ、頷く。

 

「・・・分かりました」

「では・・・よろしくお願いしますね」

 

 そう言ってしのぶは、また柔らかい笑みを浮かべる。

 その時の表情は、暁歩の気のせいかもしれないが、何か緊張や嬉しさが入り混じっているようにも見えた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の放課後、暁歩が薬学研究部の部室を開けると、既にしのぶが待っていた。しかし、机の上には見慣れない紙袋が置いてある。

 

「それ、何ですか?」

「友人や同級生、後輩からチョコをいただきまして」

 

 挨拶をしてから訊ねると、しのぶは紙袋の中をちらっと見せる。クッキーやマシュマロなどが、それぞれ包装された袋に詰まっていた。中には、チョコと思しきものもある。

 

「よろしければ、1ついかがです?」

「いや・・・それはしのぶさん宛のものですし、俺が食べるのも何か申し訳ないですよ。せめてカナヲさんや胡蝶先生と食べては?」

「そうですか・・・」

 

 しのぶの申し出は丁重に断らせてもらった。仕方ないと眉を下げて、しのぶは紙袋を下げる。何であれ、誰かがしのぶに贈ったチョコを、縁もゆかりもない暁歩が食べるのは違うと思った。

 それにしても、と暁歩は思う。

 

「やはりしのぶさんも、人気なんですね」

 

 あれだけのチョコをもらっているのを見て、しのぶがどれだけの人かを改めて思い知らされる。男子だけでない、女子に対しても有効なカリスマ性や人間的な魅力を持っているのだと、友達として妙に嬉しくなる。

 

「人気者というのも、窮屈なものですよ」

「それは・・・分かりますけど」

 

 ただ、周りからあまり褒めそやされるのも気分が悪いだろうし、注目が多すぎると逆に自分が思い通りに動けない。常に周りからの評価や視線を感じ続けるというのは、確かに窮屈だ。

 暁歩が頷くと、しのぶは意外そうな目を向ける。

 

「・・・分かるんですか?」

「俺はそういう経験が無いですが、そんな感じの方を見ていると『苦労が多そうだ』と思うことは」

 

 芸能人のスキャンダルなどでよく思わされるが、今暁歩が話すしのぶだってそうだ。憂鬱そうなしのぶを見て、暁歩の中で何かが変わったあの時から、それを強く思っていた。だからこそ、今日まで暁歩はしのぶの身を案じ、彼女との交友関係が続いているともいえる。

 

「・・・暁歩さん―――」

 

 だが、そこでしのぶが何かを言おうとする前に、部室の戸がノックされた。

 

「どうぞ」

『失礼します~』

 

 暁歩が答えると、3人分の女子の声が戸の向こうから聞こえてきた。

 そして、戸を開けて姿を見せたのは、揃って目が小さく、顔つきの似ている中等部の制服を着た女子たち。おかっぱの子が寺内(てらうち)きよ、三つ編みの子が高田(たかだ)なほ、おさげの子が中原(なかはら)すみだ。

 彼女たちは中等部に薬学研究部を設立したいらしく、ここを参考にしたいと言う。過去にも何度か訪れており、今となっては暁歩もしのぶも彼女たちとは知り合いだ。

 

「こんにちは~!」

「はい、こんにちは」

 

 きよが元気よく挨拶をすると、しのぶが挨拶を返し、暁歩も笑みを浮かべる。決してロリコンではないが、小さな子供のあどけない表情とは、自然と心が和らぐものだ。

 さて、見学者にすることと言えば、簡単な資料の説明や漢方薬の調合を体験、大まかに部活動の説明をするぐらいだ。きよたちは既に何度も訪れているので、今日の予定は指導の下での調合である。

 だが、その前になほが、もじもじとしながら暁歩に紙袋を差し出してくる。

 

「これ・・・よろしかったらどうぞ」

「おや、いいんですか?」

 

 暁歩が確認すると、なほは頷く。

 静かに受け取り、中身を取り出してみる。中にあった小さな袋には、クッキーが詰まっていた。

 

「今日はバレンタインですし、いつもお世話になっていますので、そのお礼にどうぞ!」

「ありがとう・・・いただきますね」

 

 どうやらこれは3人で選んだものらしい。すみの言葉に、きよとなほも頷いた。ありがたかったが、流石にこの場で食べるのも少し行儀が悪いような気もしたので、暁歩は家でゆっくりと楽しもうと思う。

 だがその時、不意に背中に視線を感じた。

 

「・・・・・・」

 

 窺うように振り返ると、しのぶが笑みを浮かべながらこちらを眺めていた。

 だが、その表情にはわずかに寂しさのような気持ちが混じり、純粋な笑顔には見えない。何か、心に蟠りを残すような、そんな顔。

 

「しのぶ先輩にもクッキー持ってきましたよ~」

「あら、ありがとうございますね」

 

 だが、きよが同じくクッキーの詰まった袋を渡すと、その表情もいつもの様子に戻る。

 それでも暁歩の頭からは、先のしのぶの笑みが離れなかった。あの日見た憂鬱そうな表情とはまた違って、それでも克明に刻み付けられるようなものだ。

 

「暁歩先輩?」

「どうかしましたか・・・?」

「・・・いえ、何でもないです」

 

 すると今度は、暁歩がすみとなほに訊かれてしまった。呆けたように考え事をしていたのを悟られてしまったらしい。

 暁歩は、ひとまずはこの見学に来た3人に部の説明や調合の指導をしなければ、と意識を正して笑みを無理やりにでも浮かべる。

 

「それでは、調合を始めていきましょうか」

「「「はい!」」」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 きよたち3人は、部活動の終了15分前ぐらいまで見学をし、それから帰宅となった。調合から器具の片付けまで一通り教えるため、いつもこれぐらいの時間になってしまう。

 指導する側にいる暁歩やしのぶも、この立場には慣れてしまった。自分の得意とする分野であるし、部活動、それも相手は数人程度と小規模なので全く緊張しないで済む。この日もまた、難なく見学対応を終えることができた。

 

「ありがとうございました~!」

「中等部、頑張ってくださいね」

 

 部室を出るきよたちを、暁歩としのぶは笑顔で見送る。彼女たちの目標である、中等部での薬学研究部設立は全面的に応援したい。

 

「・・・暁歩さん」

「はい?」

「ふと、気になったんですけどね?」

 

 そして3人を見送った後、後片付けを始めようとする暁歩にしのぶが声をかけた。

 

「今まで暁歩さんは、バレンタインにチョコをもらったことって、あるんですか?」

 

 今日が何の日かを考え、先ほどなほたちから貰ったからこそ芽生えたであろう、至って普通の疑問。

 そのはずなのに、背中が緊張で固まり、器具を戸棚に戻そうとした手が止まる。

 しのぶの口調は責めるようなものではないし、そういうつもりの質問でもないはずだ。けれど、何故か言い知れぬ不安や恐怖が上乗せされているように聞こえる。暁歩の視線は戸棚に向き、しのぶには背中を見せている今、振り向くことを理性が止める。

 

「・・・ありますけど・・・それが何か・・・?」

 

 けれど質問には、正直に答える。義理チョコしか経験はないが、見栄でもないそれを聞いたしのぶは今、どんな顔をしているのだろう。

 

「深い意味はありませんよ。ただ、珍しいなと思っただけで」

 

 先ほどのきよたちから貰ったクッキー。あれも恐らく義理チョコの類だろう。

 しかし、しのぶは暁歩がそう言ったものに縁遠いと思っているらしい。見下されている感じはしないが、自分がしのぶからどう思われているのかを垣間見た気もする。

 

「・・・狛治にも似たようなことを言われました。俺がしのぶさん以外から貰っているのが、意外だって」

 

 今朝も同じようなことを言われたから、暁歩はまた切なくなる。

 自分としのぶが一緒にいることが多いからそう思うのだろう。だが、まるでしのぶ以外に知り合いがいないような扱いだ。甚だ心外である。

 

「どうにも、俺がしのぶさんといることが多いみたいで、それで早とちりしたようですよ」

 

 苦笑しながら、余った薬種を棚にしまう。

 そんな暁歩の言葉に、しのぶは資料を閉じる。

 

「・・・私と暁歩さんって、周りからどう見られてるんでしょうね」

 

 問われて、言葉に詰まる。

 過不足の無い評価を付けるとすれば、『友達』だろうかと真っ先に思う。一部では『恋人ではないか』『付き合ってないのか』など疑われているが、それは違う。また一方で『毒姫と従者(または下僕)』なんて呼ばれているが、それもイメージがあまり良くない。

 

「友達じゃないですか?」

「・・・そうですよね。それが一番自然ですよね」

 

 だから事実を伝えると、しのぶも安心したように呟いて、資料を棚にしまう。

 そこで暁歩が時計を見ると、もうすぐ下校時刻になろうとしている。しのぶも片付けを終えたところなので、そろそろ引き上げようと思った。

 

「では、そろそろ帰りましょうか」

「あ、その前によろしいですか?」

 

 だが、暁歩が呼びかけると、しのぶは少し手を挙げて待ったをかける。

 そこで暁歩は、しのぶが部活の後で時間が少し欲しいと言っていたのを思い出した。

 

「・・・すみません、何かお話があるんでしたよね」

「はい。とりあえず、座っていただけますか?」

 

 しのぶが着席を促すので、暁歩も大人しくそれに従いしのぶの正面の椅子に着く。

 そこで暁歩は、しのぶの空気がわずかに緊張を含んでいることに敏く気付いた。

 

「どうしたんですか?改まって・・・」

「・・・まあ、私も初めてのことで緊張していると言いますか・・・」

 

 座ってから訊ねると、しのぶはいつになく歯切れの悪い様子を見せる。彼女も何をしようとしているのかは分からないが、気持ちが穏やかではないようだ。

 それでも、すぐに『こほん』と小さく咳払いをすると、自分の表情とまとう空気をいつものように戻す。

 

「今日はまあ、知っての通りバレンタインですよね」

「・・・ええ、そうですね」

 

 改めて切り出された話題に、暁歩の緊張の度合いが増す。先ほどまでその話をしていたのだが、面と向かって話を持ち出されるのはまた違う。

 

「なので・・・暁歩さんのためにチョコを用意してきました」

「あ、本当ですか?ありがとうございます・・・」

 

 だが、そんな緊張を裏切るように、包装された小さな箱をしのぶが取り出す。

 それを見た暁歩は、口では冷静を取り繕うものの、内心では飛び跳ねて喜んでる。当初は過度な期待はしないでいたので、その反動はとても大きい。

 そんな暁歩の前に、しのぶは箱を差し出す。迷わずに暁歩は受け取った。

 

「ありがとうございます・・・とても、嬉しいです」

「できれば今、開けてもらってもよろしいですか?」

「・・・?分かりました」

 

 せっかくのチョコなので、家でゆっくり味わおうとしたが、今食べるよう促され違和感が生じる。ただ、その真意は分からないが、一先ず包み紙を外すことにした。

 包装紙の下には白い箱があり、その蓋を開けると菱形のチョコレートが姿を見せる。歪んだり崩れたりもしていない、とても綺麗な形のそれは、『美味しそう』と言うより『美しい』と形容したくなる。

 

「・・・綺麗なチョコですね」

「ありがとうございます」

「でも、去年までとは少し違うような・・・」

 

 あまりに丁寧なもので面食らったが、今までに貰ったものとは一線を画すものだ。以前は袋に詰められたクッキーや、個別包装のチョコなど市販と思しきものばかりだったから。こうして1つの箱に収まっている1つのチョコと言うのが、新鮮だった。

 

「実は、私が作ったものなんですよ」

「・・・本当ですか?」

「ええ。ぜひ、ご賞味ください」

 

 初めての、しのぶの手作りのチョコという事実に、驚きと喜びが収まらない。

 そんな暁歩の内心など知らずに、しのぶは『さぁさぁ』と手で促してくる。

 感動を胸に、暁歩はチョコを慎重に手に取り一口齧る。瞬間、調和のとれたほろ苦さと甘みが口に広がり、唇が自然と緩んでしまうのを抑えられない。

 

「・・・美味しい。何というか、とても好きな味です」

「それはよかった・・・」

 

 嘘偽りのない感想に、ニコッと可愛らしく笑うしのぶ。

 このままここで全て食べたいところだが、暁歩が視線を上げるとしのぶはまた別の話が自分にあると雰囲気で察する。なので、チョコは一先ず仕舞っておくことにした。

 

「実は、こうして作ったチョコを渡すなんて・・・私にとっては初めてなんです」

 

 それを聞いて、思わず暁歩の視線がしのぶへと吸い寄せられる。

 はにかむような、照れているようなその表情は、初めて見た。

 

「これまでは、それなりに良い市販の品を渡していました。けれど今年は、あなたにだけは、ちゃんと自分で作ったものを渡したいと思ったんです」

「・・・・・・」

「そんなチョコが・・・義理と思いますか?」

 

 しのぶの言葉に、その裏の意味を知ろうとして、暁歩の心臓がドクンと跳ねる。

 

「暁歩さんは、私がこの学校でどういう人か知っていても、気負うこともなく接してくれていますよね?」

「・・・・・・」

「私にとっては、それがとても嬉しいんですよ。私自身のことを外見や他人の評価だけで判断せず、ちゃんと私のことを真摯に見てくれているようで」

 

 しのぶが校内で高い人気を誇っているのは周知の事実。だが、本来のしのぶの姿を知っている人は、どれだけいるか分からない。

 そんな中で暁歩は、しのぶの近くで実際にその姿を見ていたから、周囲の評価を気にしていない。そして今日まで仲良くしているのも、単なる容姿目当てではなく、ただ傍で支えてあげたいと願っていたからだ。

 

「暁歩さんは、たまに私に差し入れを持ってきますよね。あれは、何か理由があったのでしょうか?」

 

 今までは、しのぶが野暮だと思って訊かなかった理由。それを今が訊いたのは、自分の中にある決断を下す前に確かめたかったからだ。問われた暁歩も、今の状況が普通と違うことに気付いていたため、隠さずに話すことにする。

 

「最初は、しのぶさんが少し疲れていたように見えたんです。きっと、周りから注目を集めていることに、心が少し疲れてるんじゃないかって、思いまして・・・」

 

 言うと、しのぶは小さく頷く。まるで納得するかのように。思い出しているのは、最初に紅茶のペットボトルを渡したあの時のことだろう。

 

「・・・俺は、何かしのぶさんの力になれるのなら、力になりたいと思ったんです。それで思いついたのが、ああした差し入れでした。少しでも、疲れが取れれば、癒されればと」

 

 聞き終えると、しのぶの笑みには嬉しさや喜びの色が濃くなった。

 

「その理由を聞けて、安心しました。暁歩さんは、とても優しい人です」

 

 無意識に、暁歩の膝の上で手が握られる。

 対してしのぶは、頬を少しだけ赤らめて、暁歩から視線を外そうとはしない。

 そして、しのぶは口を開いた。

 

 

 

「・・・そんな暁歩さんのことが、私は好きです」

 

 

 

 静かな部室で、その言葉は確かに暁歩の耳に届いた。

 そして、心にしのぶの言葉がストンと落ちた時、暁歩の顔がどんどん熱を帯び始める。多分、自分の顔は赤くなってしまっているのだろう。

 

「・・・・・・」

 

 告白したしのぶは、まるで暁歩の返事を待っているかのように、それ以上のことは何も言おうとしない。ただし、言って少し恥ずかしかったのか、頬がわずかに朱に染まっている。

 ここで何も言わないのは、男としてどうかと思う。心の昂ぶりは静まらないが、自分の率直な気持ちは伝えなければと、自分に言い聞かせた。

 

「・・・俺は、しのぶさんの負担にならないようにしようと思ってました」

「?」

「しのぶさんが、この学園でどんな立ち位置にいるのかは理解しているつもりでしたし、周りから持ち上げられて少し疲れているようにも見えましたから・・・」

 

 暁歩は、ずっとそれを考えていたし、負担にならないようにと自分を律し、しのぶと接していた。だからある意味、自分が『毒姫』であるしのぶの『従者』と言われるのは、正しいのかもしれない。

 

「だからこそ、しのぶさんとは友達の関係でいたいと・・・そう思っていました」

「・・・・・・」

「多分しのぶさんにとって俺は、学園で自分のことを理解している人と思ったから。そんな俺との関係が拗れたら、しのぶさんがどうなるかを考え、恐れたから・・・」

 

 友達、と聞いてしのぶの唇が少しだけ動く。暗に暁歩が、しのぶの告白を蹴っているものと思い込んでしまったらしい。だが、それは間違いだと、暁歩は笑みで伝える。

 

「ですが・・・こうして一緒にいることが多いと、あなたの内面を知る機会も増えますし、そこに俺も惹かれていました」

 

 そう伝えると、しのぶの表情に変化が現れる。驚きや意外、といった具合に。

 暁歩は一度、息を吐いてしのぶの顔を見据える。

 

 

 

「俺もしのぶさんのことが好きです」

 

 

 

 精一杯の気持ちを込めて、暁歩は伝える。

 その瞬間、しのぶの笑みが一段と深くなった。そこからは、『嬉しい』と言う純粋な感情が強く読み取れる。

 

「・・・良かった」

 

 おもむろに、しのぶが口を開く。

 

「私も、少し怖かったんですよ。私が想いを告げたら、今のような暁歩さんとのつながりが途絶えてしまうのではないか、と」

 

 自分が告白してしまえば、しのぶと同じ目線にいた暁歩との関係がなくなってしまうと、恐れていた。その点は、暁歩の懸念していたことと、一致している。

 結果として、そうはならなかった。

 

「けれど・・・私たちは」

「同じ気持ちだった、と」

 

 しのぶの言葉に暁歩が続くと、お互いに小さく笑みを浮かべる。

 そしてしのぶは、机の上で暁歩に向けて手をゆっくりと伸ばす。

 

「・・・私と、付き合ってくれますか?」

 

 その手に、暁歩は重ねるように手を伸ばす。

 

「・・・はい。ぜひとも」

 

 傾いた陽の光が照らす部室で、お互いの手をゆっくりと重ね合わせる。

 今だけは言葉がなくても、心地よい気持ちでいられた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その後は、下校時刻が差し迫っていることに気付き、そそくさと部室を後にした。ほんの少しだけ手を重ねていただけで、それ以上のことは起きていない。

 部室を閉めて、並んで校門へ向かう暁歩としのぶ。腕を組んだり手をつないだりはしない。お互いに普段とさして変わらない立ち位置だが、内面は違う。

 

「暁歩さん。次の日曜、よろしければ一緒に出掛けませんか?」

「いいですよ、もちろん」

 

 そうしてしのぶから切り出された、外出の話。関係が変わった今は、それも『デート』に当たるのだろう。当然の如く、暁歩に断るという選択肢はない。

 それにしてもそれにしても、ついさっき告白し、告白されたと言うのに、関係が変わったことに対する緊張感や照れなどがあまりない。それは、長い間自分たちの中にあったしこりのようなものが取り除かれ、心が落ち着いているからだ。

 

「なんだか、変わりませんね。付き合うことになっても」

「俺はそれでも十分嬉しいですよ。しのぶさんの近くにいられるってことが」

 

 それでも暁歩は、言った通りでしのぶと付き合えるということが嬉しいのだ。

 そして、付き合っている以上、()()()のこともちゃんと考えている。だからこそ今は、こうして2人で付き合えるだけで十分気持ちは満たされていた。

 

「では・・・これからもお願いしますね」

「もちろんです」

 

 しのぶも嬉しいのは同じだったらしく、暁歩の言葉に少しだけはにかむように口元を緩める。

 そして校門を抜けると、冷たい北風が少し吹いた。

 

「・・・寒いですね」

「まぁ、まだ2月ですし・・・」

 

 暖かくなる春の訪れは、まだ少し先だ。今もまだ冷たい空気が纏わりつくようである。

 そこで、何の気なしに横を見た暁歩としのぶの視線がぶつかり合う。そして次に、両者の視線はお互いの空いている手に落ちる。

 

「「・・・・・・」」

 

 今一度、2人の目が合い、しのぶが試すように微笑んで小首を傾げる。何の意図があってかは今更聞くに及ばず、暁歩も笑みを浮かべてその手を繋ごうとする。

 だがそこで。

 

「・・・何か後ろから視線を感じるんですが」

「・・・奇遇ですね。私もです」

 

 小さな違和感を揃って抱き、小声で言葉を話す。

 そして、同時に後ろを振り向くと。

 

「「「あっ」」」

 

 3人分の声。植え込みの陰にいたのは、カナエ、カナヲ、そして炭治郎だった。見知った面々に暁歩は苦笑し、しのぶはため息を吐く。

 

「・・・姉さんまで一緒になって、どうしたの?」

「2人並んでるところが見えたから、面白そうだし眺めてみようかしらって」

 

 しのぶが訊ねると、悪びれもなくカナエがにこやかに答える。既に学校の敷地は出たので、教師であるカナエのことをしのぶは『姉さん』と呼ぶ。まだ敷地内なら先生と呼んでいた。

 一方で、カナエの横にいたカナヲはもじもじとし、炭治郎は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

 

「すみません・・・。俺はやめておこうかと思ったんですけど、先生に『いいからいいから』って・・・」

「まあ・・・別に悪いことでは、うん・・・」

 

 その時の炭治郎の困惑した表情が、暁歩としのぶの脳裏にありありと浮かんでくる。そして、しのぶの姉のカナエ公認となれば、覗き見が悪いことと断言できなくなる。ちなみに暁歩は、しのぶの話でカナエは元々お茶目な性格だと知っていた。

 一方、カナヲがしのぶと暁歩の視線を受けると、申し訳なさそうに炭治郎の後ろに隠れる。それを見た暁歩としのぶは、『あれ?』と思う。怒られるのを恐れているようではなく、それどころか炭治郎との距離が普段より少し近い感じがした。

 

「ところで炭治郎くんは、カナヲからチョコを貰ったのかしら?」

 

 そこでしのぶは、尾行の報復にカナヲの目の前で炭治郎に直球の質問を投げた。なんと酷な、と隣に立つ暁歩は内心でカナヲに同情する。

 すると案の定、カナヲは恥ずかしさのあまり死んでしまいそうになるほど顔を赤らめる。

 

「・・・ええ、はい。貰いました」

 

 だが、炭治郎の反応は少し意外だった。以前のように無自覚な反応を示すのではなく、しっかりとカナヲのことを意識しているかのように、少しはにかみつつ嬉しそうな目をカナヲに向けている。その目は、を愛おしむかのようでもあり、友達に向けるそれとはまた違う。さらにカナヲは、炭治郎のことは恥ずかしがりもせずに見つめ返す。

 

((あ、進展があったな))

 

 暁歩としのぶは、察した。同時に抱く、親近感。

 しかしながら、自分たちに向けられているカナエの視線は未だに興味津々なものだった。

 

「で、2人はどこまで行ったのかしら?」

 

 カナエが訊ねて、暁歩もしのぶも言葉に詰まる。

 カナエは微笑ましそうな目を、カナヲは興味深そうな目を、炭治郎は曇りなき目を向けてくる。3人とも、(根柢の感情は違えど)暁歩としのぶの関係性について興味があるらしい。

 一方で暁歩としのぶも、自分たちのことを誰かに言いふらすことには抵抗がある。お互いが付き合っていることはそれぞれ嬉しいと思っているし、元々信頼関係が築けていたからこそ何も後ろめたいことはない。それでも、たとえ相手が親しい人であっても、おいそれと口にするのは憚られた。

 

「・・・その反応からして、2人も付き合い始めたみたいね」

 

 だが、答えに戸惑っていると、カナエが見通したようにさらりと明かした。瞬間、カナヲと炭治郎は揃って驚いたように口を開け、しのぶの笑みが若干引きつる。

 一方暁歩は、いたたまれない気持ちだ。カナエからしてみれば、自分の可愛い妹を取られたようなものなのだから。兄弟がいない暁歩でも、その寂しさはわずかでも理解できるので、つい頭を下げてしまう。

 

「何か、すみません」

「謝ることはないわ。ダメな男にしのぶが引っかかるよりもずっといいし、それに君はとても信用できる子だから」

 

 私としても安心よ、と続けられて、この場で初めて暁歩の表情に照れが混じる。唇まで緩んでしまうが、言外に『しのぶを任せられる』と言われたのだから、嬉しくないはずもない。

 その横にいるしのぶだが、思いがけない場所で交際が明らかになり、姉にも認められたことが、恥ずかしいやら嬉しいやらだ。

 

「しのぶのこと、お願いね?」

「・・・任せてください」

 

 だが、カナエの言葉に、暁歩は力強く返す。

 その暁歩の態度は、絶対に曲がることはないと信じられるような行動と言葉だ。それを目の当たりにして、しのぶも心が温かくなる。そして、その反応を見たカナエもまた、改めてその意志の強さを再確認したか、小さく頷いた。

 

「炭治郎くんも、カナヲのことをよろしく頼むわね」

「はい!」

 

 同様に炭治郎も、カナヲのことを任せられると快活な返事をする。カナヲもまた、嬉しそうに微笑んだ。

 そんな2人の様子を見つつ、暁歩としのぶは顔を見合わせて、ほんの少し笑った。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 数日後の日曜日。

 暁歩としのぶは、約束通りのデートを果たすために、街を訪れていた。

 

「時間ぴったりですね」

「初めてのデートに遅刻するわけにもいきませんから」

 

 駅前の待ち合わせ場所にしのぶが着くと、そこには既に暁歩が待っていた。

 こうして休日に顔を合わせるのは初めてだし、お互いの私服を見るのは初めてだ。なので、暁歩はついしのぶの新鮮な姿に目を奪われてしまう。

 

「何か?」

「いえ、しのぶさんのイメージ通りだなぁと」

 

 しのぶは、クリーム色のセーターにグリーンのフレアスカートと、柔らかな印象を抱かせる。自分の体格や顔立ち、印象などを把握しているから、それに合う服を選ぶことは容易いのだろう。全く違和感がない。

 

「それは褒めているのでしょうか?」

 

 だが、どちらともとれる暁歩の言葉に、しのぶは少し距離を詰めて問う。

 それでも暁歩は怯まずに、その目を逸らさず真っすぐに答える。

 

「もちろん。とても似合ってますよ」

「・・・ありがとうございます」

 

 すると、しのぶも照れるように笑む。こうした素直な反応も、以前はあまり見られないものだった。

 何というか、私服もそうだが、こうして普段は見られない表情を見られるのも、自分がしのぶにとっての大切な存在となれたからだろう。

 けれど、今をただ楽しむだけではない。しのぶのことを気にかけて、いつでも支えられるようにしなければならない。

 

「・・・それじゃ、行きましょうか」

 

 どんな時でも、しのぶの傍にいて、支えたい。

 そんな気持ちを示すように、暁歩は手を差し出す。

 

「・・・・・・」

 

 しのぶは、暁歩が自分のことをただ支えたいと願い、自分から離れず対等な存在でいてくれたことを、とても嬉しく思っている。そんな彼のことがしのぶは好きだし、その上でこうして付き合えているのだから、なおのこと嬉しい。

 そして、そんな暁歩とずっと一緒にいたいと思えるほどに、しのぶの心は温かく染まっている。

 

「・・・はい」

 

 だから、しのぶはゆっくりとその手を取る。初めて握った暁歩の手は、しのぶの手よりも大きくて、とても温かい。

 そうして2人は、手を繋いで街へと繰り出した。




これにて番外編(キメツ学園編)は完結です。
あくまで番外編なので、前後編に分ける短い2話構成としました。
文化祭のお話は、大部分がノベライズ版の『片羽の蝶』収録の話をなぞる形になってしまうため、その部分はダイジェストで書かせていただきました。
本編とはまた違う形の2人の様子を楽しんでいただければ幸いです。

本編の後日譚ですが、少し時間を置いてからの投稿とさせていただきます。
しばしの間お待ちいただければと思いますので、何卒よろしくお願いいたします。


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後日譚
前編:夢想


ご無沙汰しております。
多くの感想、評価をいただきとても嬉しく思います。ありがとうございます。

完結までもう少々お付き合いいただけると幸いですので、
どうぞよろしくお願いいたします。


 墓参りが晴れやかな気持ちになる天気などないだろうと、暁歩は思う。

 晴れていようが雨だろうが、亡くなった人が眠る墓の前に立てば、どうしたって気持ちは下がってしまう。その相手が、自分にとっても親しい人であればなおさらだ。

 だから恐らく、暁歩の隣を歩くしのぶも、今はうら悲しい気持ちだろうことは窺えた。

 今のしのぶの顔には、普段浮かべる穏やかな笑みがない。心の中で、悲痛な思いが大きくなりつつあるからだ。あるいは、今の状況で笑みは不釣り合いと理解しているからだろう。

 

「・・・さぁ、着きました」

 

 石畳を歩き進める中で、しのぶが足を止める。心なしか、その声にも明るさがあまりない。

 立ち止まり、視線を向けたのは、一基の墓石だ。ここが墓地であることを考えれば、墓石が置いてあるのは何もおかしくない。

 しかしこの墓は、しのぶだけではなく、後ろにいるカナヲやアオイ、きよ、すみ、なほにとっても大切な人のもの。

 しのぶの実姉、胡蝶カナエの墓だ。

 

「では、始めましょう」

『はい』

 

 しのぶが仕切ると、掃除道具が入った桶を暁歩は静かに置く。それから、各々掃除道具を取り出して、墓石や周囲の掃除に取り掛かる。

 それが終われば、しのぶが持っていた生花を供え、アオイが持ってきたお供え物を置き、カナヲが線香に火を灯す。

 

『・・・・・・』

 

 最後にきよたちで墓石に水をかけて清めると、跪いて手を合わせる。

 その中で暁歩は、唯一カナエと実際に会ったことがない。幼い頃に引き取られたカナヲ達と違い、暁歩が屋敷に来た時期が遅いから、それは仕方のないことだ。

 それでも、叶わないと分かっていても、暁歩はカナエに一度でいいから会ってみたかった。柱の一角であるほど強く、しのぶが心から愛した家族で、カナヲやアオイたちを引き取り面倒を見るほどの器量の深さ。どれを取っても、気になるところだ。

 けれど現実は、既にカナエはこの世にはいない。だからそんな願いは、所詮絵空事だ。今の暁歩にできることは、カナエが静かに眠りに就くことを、黙って祈ることしかない。

 

(カナエさん・・・あなたの仇は討ち、鬼との戦いも終わりました)

 

 祈りを捧げ、心の中でカナエに伝える。

 カナエの墓参りは、暁歩もこれが初めてではない。蝶屋敷に来てから一年後に、ここを訪れたことがある。今回の墓参りはその時以来、最終決戦が終わってから初めてのことだ。

 

(あなたが仇討ちを望んでいたかどうかは、今は分かりませんが・・・それでも俺たちは、出来る限りのことをやり遂げました)

 

 偶然とはいえ、戦闘要員ではなかった暁歩も、カナヲや伊之助らと共に上弦の弐・童磨に立ち向かい、死の淵に立たされても勝利をもぎ取った。そして、多大な犠牲の上に、鬼との戦いは終わりを告げた。

 鬼によって家族を喪い、誰かの幸せを願い壊さないために戦っていたカナエも、戦いが終わったことは喜ぶだろうか。

 

(その戦いで、あなたが守ろうとしたしのぶさんも傷つきましたが・・・俺なりにできることをやり尽くしました)

 

 自分も傷ついたが、童磨に負わせられたしのぶの傷はそれ以上だった。しっかりとした治療を施しても、目覚めるまでに二か月かかったのだ。どれだけ深刻な怪我だったかが、そこから窺える。

 それでも、暁歩をはじめ蝶屋敷の皆は、決してしのぶを見捨てようとしなかった。その治療と看病の甲斐あって、しのぶも今は快復している。カナエにとって最後にして最愛の家族で、守ろうとしていたしのぶを、助けることはできたのだ。

 

(・・・そして、俺はこの先、しのぶさんの傍に居続けます)

 

 さらに暁歩は、自分が決めたことを、しのぶを見守っていたカナエに伝える。

 今や、しのぶと血の繋がっている本当の『家族』はもういない。そんな彼女を、もう二度と不安な思いをさせず、幸せに生きられるように支えると暁歩は心に決めている。

 

(どうか、安らかにお眠り下さい)

 

 最後に、カナエの安らかな眠りを祈る。

 そうして目を開くと、同じくしてしのぶたちも祈りを終えて立ち上がる。

 

「それでは・・・戻りましょうか」

 

 しのぶが皆を振り向くと、その顔にはいつもの微笑みが浮かんでいた。それを見て暁歩たちは頷き、アオイが置いたお供え物を回収して、屋敷へと戻ろうとする。

 それでも暁歩だけは、立ち去る前に一度だけカナエの墓を立ち止まって振り返る。

 けれどすぐ、暁歩は足を速めてしのぶたちの後に続いた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 異空間・無限城での最終決戦から三か月が経つ。

 多くの犠牲を出した戦いにより、蝶屋敷にも多くの負傷者が運び込まれた。しかし、重傷だった炭治郎、善逸、伊之助をはじめ、怪我をした隊士は皆完治し屋敷を出ている。今はもう、治療で滞在する隊士はいなかった。

 また、この屋敷の主にして、深い傷を負ったしのぶの怪我も治っている。外傷はもちろん、体内に溜め込んでいた藤の花の毒も、暁歩が調合した解毒薬で分解されていた。

 しかしながら、カナヲの左目は快復していない。最終決戦で使った花の呼吸の奥義『彼岸朱眼』の代償として、左目の視力が大分弱まった。それも、暁歩の調合した薬でどうにか回復させようと試みたものの、完全に元通りとまでは至らずにいる。

 それでもカナヲは、暁歩を責めはしなかった。カナヲにとっての『姉』であるしのぶが生きていて、そのしのぶを助けるために自分でこの力を使ったのだから、責められないとカナヲ本人は言っていた。そして、暁歩があの戦いでしのぶの命を繋いでくれことにも感謝をしていると言う。

 

「二人とも、忘れ物は無いかしら?」

「うん」

「着替えと地図、それに道中の昼食もあります。問題ありません」

 

 そんなある朝、蝶屋敷の門戸の前で出立の準備をするカナヲとアオイに、しのぶは優しく声をかける。その隣には、暁歩やきよたちもいた。

 カナヲとアオイは、これから炭治郎たちの暮らす家へと向かう。彼らが蝶屋敷を出てから少し時間が経って、カナヲが皆に会いたくなったのだ。その旨を炭治郎に手紙で伝えたところ、ぜひ遊びに来てほしいとのことだったので、日取りが決まり今日行くことになった。ただし、カナヲを一人で行かせるのが不安だから、また自分も炭治郎たちの顔を見たくなったからと、アオイも自ら同行を買って出た。

 

「アオイさん。これ、炭治郎くんたちへのお土産ですので、渡してください」

「あ、はい。分かりました」

 

 暁歩が紙袋を差し出す。中にあるのは、街で買ったお菓子だ。

 因みに、この場にいる蝶屋敷の面々は、全員が私服である。今までしのぶたち隊員は漆黒の詰襟、きよたちは白衣だったが、鬼殺隊が解隊され蝶屋敷も医療施設ではなくなった今は、服装も自由となっている。最初にしのぶやアオイの着物姿を見た時は、暁歩も新鮮さを抱いたものだ。

 

「それでは、行って参ります」

「気を付けてね」

「炭治郎くんたちに、よろしくお願いします」

「分かった」

 

 準備が整うと、見送りもほどほどにカナヲとアオイは出発する。彼女たちも元鬼殺隊の一員、余程のことがない限りは心配ないだろうが、それでも気がかりだ。

 二人の背中が見えなくなるまでその場で見送ると、しのぶたちは踵を返して屋敷へと戻る。

 

「それじゃ、なほちゃん。準備ができたら行こうか」

「はぁい」

 

 屋敷へ戻りつつ、暁歩はなほに話しかける。今日は、暁歩となほで裏山に山菜を採りに行く。きよとすみ、そしてしのぶの三人は屋敷で家事を行う予定だ。

 少し前までは、病み上がりのしのぶに負担をかけさせまいと、家事はアオイや暁歩たちで分担していたが、ここ最近ではしのぶ自ら洗濯をしたり台所に立つ機会が増えた。前に一度、その理由をそれとなく訊いたところ、『どうも落ち着く』らしい。周りに気遣われ何もしないより、何かに集中していた方が気楽な気持ちはわかる気もした。

 

「昨日は雨でしたから、足元に気を付けてくださいね」

「分かりました」

 

 案ずるしのぶの言葉に、暁歩は笑みを返す。

 暁歩としのぶの関係も、最初の頃のような堅苦しい間柄ではなく、今となっては親しい関係だ。かと言って、逆に砕けすぎたりもせず、傍から見れば二人の距離感は変わらないようにも見える。

 ただし、きよ、すみ、なほの三人は分かっている。以前に暁歩としのぶが、縁側で寄り添うように抱き合っていたのを目撃したから、二人はきっと男女の関係なのだと。その辺りのあれこれが分かるぐらいには、彼女たちも子供ではない。

 

「それじゃあ、きよちゃんとすみちゃんは掃除をお願いね。休み休みで大丈夫だから」

「分かりました~」

「頑張りますね!」

 

 暁歩は屈んで、きよとすみと視線の高さを合わせて話すと、二人とも頷く。

 しのぶとの関係が変わっても、暁歩はきよたちに対する態度がぞんざいになったりはしない。皆のこれまでの境遇を考えれば、近しい場所にいる自分もしっかりと接さなければならないと思う。それに、この屋敷で長い期間過ごす内に、暁歩も彼女たちには妹のような情を抱いていた。

 

「・・・・・・」

 

 そうしてきよたちと話す暁歩を、しのぶは微笑ましい笑みで眺める。

 その心には、もやっとした気持ちがほんのわずかに生じているのも事実だが。

 

(暁歩さんは優しい方ですから・・・ああして接するのも仕方のないこと・・・。そうですとも)

 

 自分に言い聞かせるしのぶ。

 それが『嫉妬』であることには、流石に気付いている。よくよく自己を分析してみれば、過去にも同じような気持ちを抱いたことが度々あった。もしかしたら自分は、案外嫉妬深いのかもしれない。

 一方で、自分がそうした感情を抱き自分で気付けるのは、心に余裕ができているからだと分かっているし、それに安心している。復讐心に囚われていた時は、自分の中で育っていた暁歩への好意でさえ、死の間際まで気付けなかったほどだ。どころか、そうした感情を抱きはしないと諦めてまでいた。

 だからこそ、心が穏やかになっている今に、安らかな気持ちになっている。

 

「それでは、そこまで時間はかからないとは思いますが、遅くならない内に戻りますよ」

「行ってきます~」

「はい、気を付けてくださいね」

 

 山菜採りの準備が整った暁歩となほが出発するのを、しのぶは笑って見送る。それから自分も、きよたちと一緒に洗濯に取り掛かるのだ。

 

 鬼との戦いが終わり、前と比べて平和になった今は、しのぶも落ち着いて暮らすことができている。

 以前暁歩と話をしたが、自分のこれまで見ていたものが、全て前とは違うように見える。それは、無意識の内に自分にのしかかっていた多くの負担が、軽減されたからだ。

 けれど、自分が愛し、大切に思う人と暮らせるのが、しのぶはとても嬉しかった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 何かが、家の中に入ってきた。

 お父さんが、私と姉さんを部屋の隅へ行かせるように手を払う。姉さんはその考えが分かったのか、小さな私の身体を抱きかかえて、部屋の隅にしゃがんだ。

 私には、何が起きているのか分からない。ただ姉さんの腕の中で、困り果てるしかない。

 けれど私の耳には、乱暴に障子戸が破られる音、誰かの怒っているような声が入り込んでくる。

 

 誰?誰がいるの?

 

 お父さんと、お母さん。そして、誰か別の人の声。

 てっきり、動物か何かが間違って家に入って来たのかと思ったけど、そうじゃないみたい。

 そしてお父さんは、怒った声を上げている。優しくて、頼りになるお父さんのあんな声、聞いたことがない。

 お母さんも、すごく怒っているみたい。前にいたずらをして怒られた時とは、全然違うぐらい怒ってる。

 だけど、その『誰か』は話を聞いていないのか、それとも喋れないのか、返事もしないで唸るような声を上げるだけ。

 そして次の瞬間、叫び声が響いた。

 

「っ!!」

 

 姉さんが私を抱き締める力が強くなる。私を守るように。そして、今私たちのそばで起きていることを、私に見せないように。

 けれど私の耳には、途切れ途切れの叫び声と、何かが千切れて、何かが砕ける音が嫌でも流れ込んでくる。

 それに、鼻を突くような嫌な匂いまでしてきた。

 鉄みたいなそれは、血の匂い。

 そしたら今度は、苦しそうなうめき声が聞こえてくる。

 どうしてか、幼い私でも、その声はお父さんとお母さんのものだって分かった。

 

「お父さん!お母さん!」

 

 たまらず私は、姉さんの腕をどかして、お父さんたちがいた方を見て、呼ぶ。

 部屋の明かりは消えていて、よく見えない。

 だけど、さっきまでお父さんとお母さんがいたはずの場所には、変な()()()()()()()があった。

 そのそばに、『誰か』がいる。

 『誰か』の赤く血走った目が、私の目と合う。

 そして、まるで笑うように、その目が細く歪んだ。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

「・・・っ」

 

 瞬間、しのぶの目が覚める。

 そこは、暗闇でも、血の匂いが漂ってもいない、蝶屋敷の私室だ。

 

(夢・・・)

 

 自分の胸に手をやると、心臓がひどく跳ねているのが分かる。

 起き上がれば、身体を無意識に動かしていたのか、布団が乱れているのが目に入る。それに寝間着も、自分の汗で身体に張り付いているかのようだ。

 

(何で今になって・・・)

 

 大好きだった両親が、自分の目の前で鬼に喰われた夜のこと。

 それをしのぶは、まだ幼い頃は何度も夢に見て思いだしていた。毎夜のように見る悪夢に、泣き叫び、隣で一緒に寝ていたカナエがそれを宥めてくれていた。

 それも時間が経ち、成長するにつれて夢に見ることは少なくなった。

 吹っ切れたわけではない。あの時のことをただ恐れるだけでなく、それを自分の成長の糧とするように、心が成長したからだ。それはしのぶ自身も自覚し、気持ちの整理はできてきたとも思っていた。

 けれど、随分と久方ぶりに、その夢を見てしまった。

 それは一体なぜなのか。

 

(・・・考えても、仕方ないですね)

 

 寝起きから悪夢を見た理由を深く考えては、気持ちも沈む一方だ。寝覚めが悪いとはまさにこのことだろう。早く着替えて気持ちを入れ替えようと思い、汗でやや湿った寝間着を脱ぐ。

 すると、部屋の姿見に自分の姿が映り、鎖骨から脇腹に掛けての傷痕が目につく。それは、無限城での戦いで童磨から受けたものだ。

 

 ―――死なせません。絶対

 

 そして、その傷を治そうとし、命を救おうとした暁歩の言葉を思い出す。瀕死の重傷を負い、意識が混濁とした中でも確かに響いた言葉。

 胸がとくんと小さく波打つ。それは、寝起きの不快感とは正反対で、とても温かく感じる。

 あの時、初めて気付いた暁歩への想いは、今なお絶えることなく自分の中に宿り続けている。そんな彼と、鬼との死闘が終わり、共に穏やかに暮らせる今は、しのぶからすればとても充実していた。

 

(・・・もしかして)

 

 その時、自分があの夢を見た理由に触れそうになる。

 だが、それと同時に障子戸が軽く叩かれた。

 

『しのぶ様~?』

 

 すみの声が聞こえてきた。着替えながら、しのぶは答える。

 

「どうしました?」

『もうすぐ朝ごはんですけど・・・どうかなさいましたか?』

「あぁ、ごめんなさい。少し寝坊してしまいまして」

 

 気が付けば、普段なら既に食卓にいる時刻だった。ただ、起きる時間は言った通り少し遅かったので、『寝坊』と言うのも嘘ではない。すみも、しのぶの言葉に『そうですか・・・』と納得した様子だ。

 身支度を整えて部屋を出ると、朝食の香りが微かに漂ってくる。きっと作っているのは、暁歩やきよたちだろう。

 

「おはようございます」

 

 すみと共に食卓の戸を開けると、案の定暁歩ときよ、なほが朝食の準備をしていた。三人に挨拶をすると、きよとなほが『おはようございます~』と笑みを浮かべて返事をする。

 

「・・・おはようございます」

 

 ところが暁歩の返した挨拶は、一拍遅れてのものだった。まるで、何かに引っかかりを抱いたかのように。

 どうにもそれがしのぶも腑に落ちないが、たまにはそう言うこともある、と言えばそれまででもある程度の違和感でしかない。

 

「どうかしました?」

「いえ、何も・・・」

 

 席にも着かず悩んでいると、逆に暁歩から心配されてしまった。しのぶは何でもない風を装い、席に座る。

 その後の朝食でも、特段暁歩に変わったところは見られなかった。なので結局、気のせいかとしのぶは処理することにした。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 この日は、街へ買い出しに出掛ける日だった。

 蝶屋敷では、買い出しに行く人数は特に決まっていないものの、行く場合はきよ、すみ、なほだけでは行かないようにしている。街までは距離が遠く、道中や出先で何かしらの面倒事に巻き込まれないようにするためだ。

 そして今日、買い出しに出掛けるのは暁歩としのぶの二人だった。

 

「いってらっしゃーい!」

 

 玄関先できよたちに見送られながら、暁歩としのぶは街へと向かう。

 

「随分久しぶりな気がしますね、しのぶさんと二人で行くのって」

「そうですねぇ。前行ったのは、薬種のお店を教えた時でしょうか」

 

 歩きながら言葉を交わすが、こうして二人で行くことになったのは、きよたちから『しのぶ様と暁歩さんが行ってきてください』と言われてのことだ。

 三人の性格からして、面倒くさいとか楽がしたいとか、そんな不純な理由で言い出したのではないだろう。それに、暁歩としのぶも、なぜ彼女たちがそう言ったのか薄々理由は気付いている。

 

「恐らくあの子たちも、私と暁歩さんを二人にさせたかったのでしょうね」

「きよちゃんたちなりの気遣い、ですか」

 

 しのぶの言葉に、暁歩は苦笑する。

 蝶屋敷の中で、暁歩としのぶの関係を知っているのは、きよとすみ、なほの三人だ。カナヲとアオイも薄々気付いているものの、明確にその現場を目撃したのは三人だけである。

 そして暁歩としのぶは、縁側でお互いに抱擁を交わしていたところを見られて以来、ああした過度な接触はしていない。二人とも、時と場所を弁えずにベタベタする性格ではないし、ただお互いが穏やかに暮らせることを今は望んでいるから、それほど苦でもなかった。

 しかしきよたちは、自分たちの目があるから、暁歩たちはあまり仲良くできないのだと勘違いしたらしい。結果、こうして二人きりにする機会を作ったのだろう。

 最初は暁歩たちも、三人にあの広い屋敷で留守番をさせるのは少々心許なくて、断ろうとした。けれど、『任せてください!』と胸を叩いてそう言われ黙殺されたのだ。

 

「色々な意味で、逞しくなりましたね・・・あの子たちも」

「ええ、確かに」

 

 そんな成長ぶりに暁歩が感慨深く呟くと、しのぶも同意する。気遣ってくれるのは嬉しいが、こうしてお膳立てをされるのも気恥ずかしいが。

 そんな恥を傍らに、暁歩としのぶは街に辿り着いた。大きな街道が交わる地点にあるこの街は、相変わらず賑わいを見せている。

 

「ここも、最初に来た時とは違うように見えますね」

 

 雑踏の中で暁歩は小さくこぼす。

 蝶屋敷で見る景色もそうだったが、前と変わらないはずの景色でさえも違うように見えてしまう。しのぶと話した通り、無意識に心に掛けていた負担が取り除かれたからだろう。

 

「皆さんは気付かないでしょうね・・・私たちが、命懸けの戦いをしていたなんて」

「そうですね・・・」

 

 しのぶが少しだけ声を潜めて告げ、暁歩も頷く。

 鬼殺隊と鬼の存在を知っているのは、民間人の中ではごく一部でしかない。それ以外は、鬼も鬼殺隊も全ては御伽噺としか認識しておらず、鬼のせいで人がいなくなることも『人攫い』としか思っていない。

 かと言って、皆が皆、人を喰らう鬼の存在を知っていたら、この街もここまでの賑わいを見せなかったかもしれない。鬼を恐れた人々はあまり出歩かず、静かにひっそりと暮らしていただろう。

 だから今、以前と同じようにこの街が賑わっているのも、鬼殺隊と鬼の戦いが続いていた頃から、何事もなく街の人々が平和に過ごせていることの証でもある。

 

「・・・・・・」

 

 そう思い至ったしのぶは、不意に足を止めた。隣を歩いていた暁歩は、思わず少し追い抜いてしまう形になる。

 

「しのぶさん?」

 

 振り返って暁歩はしのぶを見るが、その目は街を往く人々や商店を見ている。

 けれど何故か、その瞳は目の前に広がる光景ではなく、別のものを映しているかのように見えた。

 

「・・・すみません、少し考え事をしていました」

 

 するとしのぶは、取り繕った笑みを浮かべて首を横に振る。

 そして、先ほどのように歩き出す。暁歩も『そうですか』と掘り下げようとはしなかった。引っ掛かりは残っているが。

 

「さて、きよたちが気を遣ってくれたのはありがたいですが、あの子たちを屋敷に長時間残すのも心配ですからね」

 

 確かにその通りなので、買い物はあまり時間を掛けない方がいい。暁歩もしのぶと並ぶように足を進めた。

 しかし、頭には先のしのぶの遠い表情が残ったまま。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 買い出しから戻ったのは昼過ぎだ。きよたちは、思いのほか暁歩たちが早く帰って来たことに驚いたようだったが、おやつ用に買ったお菓子を見せると表情を綻ばせた。

 それから五人で昼食を摂った後、暁歩は自室で医学の勉強を進める。

 鬼殺隊が解隊され、新たに立てた暁歩の目標は、正式な医者となること。蝶屋敷で積んだ経験と知識を無駄にしたくないからこそ選んだ道だ。さらにしのぶは、将来的にこの屋敷を民間の診療所とするつもりでいて、暁歩もここで働くと決めている。

 一度交わしたその約束は、何としても守りたい。だからこそ、研鑽を惜しまないでいる。

 

『暁歩さん・・・。今、よろしいですか?』

 

 だが、勉強を始めて数刻ほど経つと、障子戸が叩かれると共にきよの声が聞こえてきた。心配の色が混じるその声に、暁歩は一度医学書を読むのを止める。

 

「どうかしたの?」

 

 戸を開けると、きよとすみ、なほの三人が不安そうな顔を浮かべていた。何か喜ばしくないことが起きていると、暁歩の勘が訴えかける。

 

「しのぶ様の、ことなんですけど・・・」

「しのぶさんに何か?」

 

 すみがしのぶの名前を出し、暁歩の勘は的中した。自然と意識が絞られる。

 

「何か、普段と様子が違うと言うか・・・」

 

 彼女たちが言うには、どうもしのぶが何か考え事をして、上の空な状態になっているらしい。

 先ほどきよたちが庭で鞠遊びをしていた時、しのぶは縁側からその様子を静かに眺めていた。しかし彼女は、どこか遠い目を浮かべているように見えたという。その目はきよたちに向けられているが、見ているものはまた違うようだと。それを不思議に思いきよたちが声をかけても、しのぶの反応は少し遅かった。

 

「暁歩さんは・・・何か心当たりとかありますか?」

「・・・同じようなことはあったけど・・・どうしてかは」

 

 買い出しに出掛けた時、街で見せたあの違和感。それと似ていると思うが、すみに問われても理由は思い浮かばなかった。この違和感だけは、勉強をしている間まだ分からず、頭の中に居座ったままだ。

 四人で腕を組み、うーんと唸って考えるが、一向に答えは思い浮かばない。

 

「・・・分かった、俺から訊いてみるよ」

「いいんですか?」

「うん。だから、きよちゃんたちは心配しないで」

 

 暁歩が笑みを浮かべると、きよたちも少し安心したらしい。

 そこで、彼女たちの後ろからしのぶが姿を見せた。

 

「皆揃ってどうしたのかしら?」

「あ、えっと・・・そろそろお茶にしようかと思いまして、暁歩さんを呼びに来たんです」

 

 しのぶに訊ねられて、なほが誤魔化す。まさか、しのぶのことで話をしていたとは、今この場では言えるはずもない。しのぶは特に疑うことなく、小さく頷いた。

 

「そうですね。先ほど街で買ったお菓子もありますし、暁歩さんも根を詰めすぎないようにしないと」

「・・・ええ、そうですね」

 

 しのぶに微笑みを向けられる。

 その笑みは一見、普段とは変わらないようにも見えた。

 しかし、きよたちの話を聞いた今となっては、それも無理しているようにしか暁歩は見えなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の夕食の後、暁歩から『月が綺麗ですし、お月見でもいかがですか?』と誘われた。それをしのぶは、二つ返事で承諾した。

 夜空に燦然と輝く月が、しのぶは嫌いではなかった。太陽と違い、月の光は穏やかに包み込むような優しさを秘めているようだし、暗い夜空にひっそりと浮かぶ様も乙なものだ。

 

「お待たせしました」

 

 南の縁側で月を眺めていると、暁歩がお盆を持ってやって来た。そこには、二つの湯飲みと金平糖が小さく盛られた皿が載っている。

 

「用意してもらって・・・ありがとうございます」

「お気になさらないでください。俺から誘ったんですから」

 

 湯飲みと金平糖の皿を下ろし、暁歩はしのぶの隣に腰掛ける。湯飲みをしのぶが手に取ると、温かい緑茶の香りが漂ってきた。

 

「綺麗な月ですね・・・」

「そうですねぇ」

 

 暁歩が静かに洩らすと、しのぶも同意する。

 お互い既に想いを確かめ合っているが、二人ともこうして静かな時間を過ごすのが好きだった。例えそこに多くの言葉や行動がなくとも、ただ自分にとって最愛の人が隣にいてくれるだけで、心は満たされている。

 

(さて・・・)

 

 しかしこの日、暁歩が月見にしのぶを誘ったのも、半分は本当に月見を楽しむためだが、もう半分の理由はしのぶの異変について訊くためでもある。

 時間と場所を改めて一対一で訊くのは、その異変の理由が少なからずしのぶの凄惨な過去に関係すると、暁歩が判断したからだ。そこから齎されたであろう不調も、そうなる理由も、まだ年端もいかないきよたちに聞かせるのは少々残酷に思えた。なのでまずは自分が聞き、それからかいつまんで事情を彼女たちに教えればいい。

 

「しのぶさん」

「はい?」

 

 お茶を啜ってから湯飲みを傍らに置き、暁歩はしのぶを見る。それだけで、何か真剣な話があると悟ったか、しのぶも同様に湯飲みを置いた。

 

「今朝から少し、気になっていたことがありまして」

「?」

「何か気持ちが乱れているように見えたのですが・・・何かありましたか?」

 

 しのぶの表情から笑みが消えた。

 

「・・・そう、見えましたか」

「はい・・・」

 

 しのぶは、今朝の食卓で感じた、小さな違和感の正体に気づいた。どうやらあの時点で、暁歩はしのぶの心が少しぐらついているのに感づいていたらしい。よく考えてみれば、暁歩はそういう嫌な予感に敏い体質だ。

 それと、暁歩と街へ出向いた時や、きよたちが庭で遊んでいる様子を眺めていた時も、自分が別の『もの』に気を取られている自覚はあった。そこについても気取られていたのだろう。なんとなく、昼間きよたちが暁歩の下に集まっていた理由が掴めた。

 

「では少し・・・話してもいいですか?」

「もちろん」

 

 暁歩は当然のように頷く。そのために訊いたのだから。

 その返事に安心し、しのぶはゆっくりと話し出す。

 

「夢を見たんですよ」

「夢・・・ですか」

「ええ。両親が、目の前で鬼に喰い殺された時の夢を」

 

 その場の空気が重くなるのを感じ取る。図ったように、月に雲がかかり光が弱まる。

 だが、暁歩は決して聞く姿勢を崩さず、続きを話すよう静かに頷いて促す。

 

「その夢は、まだ幼い頃は毎晩のように見て、魘され・・・泣き叫んでいました」

「・・・・・・」

「それぐらい、あの頃の私にとっては辛い思い出でしたから」

 

 無理もないと思う。聞いた話では、しのぶが両親と死別したのは歳が十にも満たない時分。目の前で大好きな家族が喰い殺された、なんて悲しい記憶は、夢に見るほどに心に傷を負わせただろう。

 

「けれど、成長するにつれて、その夢を見ることは少なくなりました。時間が解決した、と言うより・・・鬼殺隊で心が成長したからでしょうね」

 

 鬼狩りをしていく中で、自分と同じように理不尽に家族を喪い悲しみに暮れる人を、しのぶは幾度となく見てきた。その度に、『他人に自分と同じ思いをさせない』と願う気持ちが強くなり、研鑽を重ねて柱にまで至った。

 その過程で、心に鬼に対する怒りや憎しみが蓄積されている内に、過去の辛い記憶に対する感情は『怯え』や『恐怖』ではなくなった。その時の出来事は不退転の覚悟へと変わり、強くなったからこそ夢に見なくなったのだ。

 

「そんな鬼との戦いが終わった今は、とても穏やかに・・・そう、幸せに過ごせています」

 

 しのぶの言葉に、暁歩の頬も緩む。

 だが、話している中でしのぶは確信した。

 なぜ今になって、あの時の夢を見てしまったのかを。

 

「・・・今が幸せだからこそ、あの時の夢を見てしまったのでしょうか」

「え?」

「私は、恐れているんですよ。私にとっての幸せを、突然失ってしまうことを」

 

 しのぶの表情に、明確な翳りが生まれた。

 まだ身も心も幼く、幸せはずっと続くと思っていたあの頃、現実は残酷なものだと思い知らされた。目の前で両親が喰い散らかされ、幸せとはほんの一瞬で簡単に崩れてしまうものと、理解してしまったのだ。

 

「今は、カナヲもアオイも穏やかに過ごせているようですし、きよたちも鬼に怯えることはない。暁歩さんだって、新しい目標を掲げてそれに向かい努力をしている。そして私は、皆が今を平和に過ごせているのを見ていると、幸せだと思えるのです」

「・・・・・・」

「だからこそ、もしもこの幸せがまた、突然失われてしまったら・・・と不安を抱いてしまう。それが結果として、あの夢を見てしまったのかもしれません」

 

 凄惨な過去を経験したからこそ、今感じる幸せに一抹の不安を抱いてしまう。街で何も知らず平和に暮らす人々を見ていた時や、庭できよたちが楽しげに遊ぶ様子を眺めていた時、遠い目になったのはそのせいだ。目の前にある幸せが突然無くなったら、と思ってしまったから。

 しのぶの過去を考えれば、そうなるもの仕方ないのだろう、と暁歩は表情を暗くする。同時に、そこまでの考えに至らなかった自分が情けなく思う。

 

「そして、今の自分が幸せだと実感すると、同時に思うこともあるんです」

 

 そう言ってしのぶは、自分の腹部に手をやる。そこは丁度、童磨から傷を受けた場所だ。

 

「私は・・・この先、普通の人として幸せに生きてもいいのか、と」

 

 続く言葉に、暁歩の表情が驚愕の一色に染まった。しのぶもそれは見えていたし、『何故そう思うのか』と雄弁に表情で語っているのも分かる。

 

「鬼との戦いで喪われた命は、決して少なくありません。無限城の戦いでも、多くの隊員が命を落としました」

 

 暁歩やしのぶは直接対峙しなかったが、無惨の強さは破格と言えるほどで、並大抵の隊士は文字通り瞬殺されてしまったらしい。自分などその場にいても何にもならなかっただろうと、暁歩は思う。

 

「それだけでなく、童磨との戦いでは、カナヲも、伊之助くんも、そして暁歩さんだって・・・一歩間違えば・・・」

 

 その先を言い淀むしのぶ。言葉にする前に、そうなった時のことを考えて、恐ろしくなってしまったのだろう。暁歩だって、あの時ほど自分の死を目前に感じたことはない。

 

「それまでも、多くの隊士や市井の方が命を落としています。私自身でさえ、助けられなかった命もある・・・」

「・・・・・・」

「多くの人が命を落とし、私の命さえも投げ出そうとして・・・死を間近に見続けていた私が、この先人並みの幸せを掴んで生きることはできるのか・・・」

 

 しのぶの視線は、庭の地面に向けられる。

 

「私は、この先幸せに生きてもいいのか・・・そう思わずにはいられません」

 

 しのぶの中には、鬼との戦いで命を落とした人々の絶望や叫びが蓄積されている。桐蔓山の惨状を傍で見て、帰り際にしのぶから心中を聞いた暁歩も、それを実感している。

 さらに、蝶屋敷で傷ついた隊士を何度も見てきたからこそ、しのぶにとって死、ひいては命の危機とは身近なものだった。

 そしてしのぶは、柱として高い実力を誇っていても、そこに至るまでに救えなかった命が、残念なことにある。その悔しさも、自分が力をつけるための糧として飲み下してきたが、その救えなかった人たちの嘆きも同時に積もっていた。

 そんな自分が、果たしてこの先普通の人のように暮らし、願う幸せを手にして生きることはできるのか。

 多くの人々の絶望や悲しみを見、時には助けられなかった自分は、本当に幸せになってもいいのか。

 そうした自分に対する疑念と不安が、表に出てきてしまった。

 

「・・・・・・」

 

 しのぶの視線が地面に向く一方、暁歩の視線は雲がまだらに浮かぶ夜空へと向く。月はまだ隠れている。

 

「少なくとも・・・」

「・・・?」

「今のしのぶさんの周りいる皆さんは、あなたの幸せを願っていると思いますよ」

 

 言葉を慎重に選びながら、話し出す。夜風に吹かれて、緑茶から立つ湯気が流れていく。

 

「しのぶさんが二か月の時間を挟んで起きた時、蝶屋敷の皆は泣いて喜んでました。甘露寺さんや炭治郎くんたちも、とても安心していましたよね」

「・・・ええ」

「それだけ皆さん、しのぶさんが無事でいてくれたことが嬉しくて・・・そして、生きていてほしかったんですよ」

 

 無事を願っていなければ、生死の瀬戸際から脱し、長い時間をかけて回復したことを喜びはしない。すなわち、それだけ周囲の人間にとって、しのぶとは大きな存在でもある。

 それに蝶屋敷の面々にとって、しのぶは家族同然の存在だ。引き取られた経緯には鬼のせいで家族を喪ったという悲しい事実があるが、それでもしのぶがより大切な人であることに変わりはない。そんな人が助かったことに、安堵しないはずはなかった。

 

「俺だって、しのぶさんが起きた時はとても安心して、嬉しかったです。それにずっと前から、しのぶさんには永く生きてほしいと思っています」

「・・・・・・」

「過去に何度も辛い経験をしたからこそ・・・しのぶさんにはこの先、ずっと幸せでいてほしい。そう願わずにはいられません」

 

 最愛の両親を喪い、姉を喪い、最後には自分の命さえも喪いかけた。それに加え、多くの人の死を間近に見てきたからこそ、この先はそれを上書きできるほどに幸せになってほしい。暁歩は、そう切に願っていた。それはずっと変わらない。

 そう思うのは、暁歩だけではないと『自信』がある。それは、同じく泣いて喜んでいたカナヲやアオイたち蝶屋敷の皆だって、やはり幸せを願っていると信じている。彼女たちはしのぶの『家族』であり、それぞれが真っ当な心の持ち主なのだから。

 

「それでも、幸せをある日突然失ってしまうのを恐れるのは、無理もないのかもしれません。あなたの悲痛な過去を思うと、俺も胸が痛みますから・・・」

 

 二度も家族の死を目の当たりにしたしのぶの辛さは、暁歩は本当の意味で理解することは一生かかっても難しいと思っている。暁歩はその場にいたわけではなく、記憶の共有もできない。家族を鬼によって喪ったのは同じだが、状況も全然違うからこそ、しのぶの悲しみを全て理解しきることはできない。それが歯痒かった。

 

「鬼との戦いが終わって、何の前触れもなく理不尽に命を喪う可能性も低くなりましたが、それでもやはり、幸せを失くす可能性も皆無とは言い切れないです」

 

 鬼殺隊は、常に命の危険と隣り合わせの場所だった。手足の一本や二本を失うことは珍しくなく、下手をすれば命だって落としかねない。命の保障が聞いて呆れる。

 だが、今は状況が変わり、よほどのことがない限りは身の安全は守られていた。

 それでもなお、しのぶはまだ心から安心できていない。背負っている過去、心に刻まれた傷を考えれば、突然幸せを喪うのを恐れるのも仕方がなかった。

 だから、『絶対に大丈夫』なんて根拠のないことは言えない。

 

「それでも、俺は・・・しのぶさんにとっての幸せを失わないように、最大限の努力をします」

 

 代わりに暁歩は、隣に座るしのぶとの距離を少しだけ詰める。

 

「この屋敷の皆さんが何事もなく暮らせていることがしのぶさんにとっての幸せなら、俺はこの暮らしを守れるようになります」

「・・・・・・」

「あなたの幸せを守りたい。あなたを二度と、悲しませたくはない」

 

 しのぶが、誰かの幸福を守るために戦うという意思を掲げていたように、暁歩もまたしのぶの幸せを守りたい。これまで何度も悲しい思いをしてきたしのぶに、同じ思いをさせたくはない。それは確固たる決意だ。

 

「それでもこの先、不安になったり、悲しい思いを抱いたりしたら、俺はそれを一緒に背負います。少しでも、しのぶさんの負担を軽くし、穏やかになれるように」

 

 自然と暁歩は、しのぶの空いている手に自分の手を重ねる。

 その言葉にしのぶは、暁歩との今までのことを思い出す。これまでも確かに暁歩は、しのぶが心の重荷を口にした時はそれを聞き、少しでも負担を減らそうとしてくれていた。そして、寄り添って自分を支えてきてくれた。

 それを思うと、先の暁歩の言葉にも重みを感じる。本当にそうあってくれると思わせる、安心感も抱かせてくれるようだ。

 

「不思議と・・・」

 

 くすっと、しのぶは笑みを浮かべて、口を開く。

 

「暁歩さんの言葉を聞くと、父のことを思い出すんですよ」

「しのぶさんの・・・お父さんを?」

「ええ。とても優しくて、逞しい人でした」

 

 寫眞もないので、暁歩はしのぶの父がどんな人なのかは分からない。けれど、これまでしのぶから聞いてきた話の中で、どんな人物像なのかは想像できる気もする。

 

「最初に暁歩さんに、私の生い立ちのことを話した時、私に何と言ってくれたかは覚えていますか?」

 

 暁歩は記憶を掘り起こす。それは確か、蝶屋敷に来て間もない頃、仏壇に黙祷を捧げた日のことだ。

 

 ―――何か悲しい気持ちや辛い思いがあるようでしたら、自分が聞いて受け止め、支えます

 ―――どうか・・・頼ってください

 

「あの時の言葉は、父の言葉を思い起こさせました。『重い荷に苦しんでいる人がいたら半分背負い、悩んでいる人がいれば一緒に考え、悲しんでいる人がいたらその心に寄り添ってあげなさい』、と」

「・・・・・・」

「思えば、あの話をした時から、暁歩さんには何か別の気持ちを抱くようになったのかもしれませんね」

 

 手を重ねられたしのぶは、その暁歩の手を握り返す。

 いつの間にか、月にかかっていた雲は晴れて、再び穏やかな月明かりに照らされていた。

 

「どうしてか、暁歩さんの言葉を聞くと気持ちが落ち着くんですよね」

「・・・そうなんですか」

 

 さらりと嬉しいことを言ってくれる。言葉だけで平然を装うのが精いっぱいだ。そうして照れているのが見通されているのか、笑みを深めて続ける。

 

「ずっと私のことを、考えてくれていたからでしょうか。言葉だけでも私を気遣ってくれているのが分かりますし・・・」

 

 月明かりがあるとはいえ、今は夜だ。間近に見ない限りは顔色もはっきりとは分からないだろう。

 けれど、今の暁歩の顔は照れ臭さと恥ずかしさで真っ赤に染まっているだろうと自覚はしている。咄嗟に脇に置いた緑茶を飲んで逃げても、効果は特になかった。

 

「・・・すみません。分かりきったような口を利いてました」

「咄嗟に謝るのは良くありませんよ?私は責めているのではないですし、むしろ逆。感謝したいほどです」

 

 暁歩の肩に、しのぶはそっと手を添える。

 

「やはり私は、どうしても心が脆いのかもしれません。幼い頃に悪夢を何度も見たことも、鬼との戦いが終わった今になって幸せを失うことを恐れてしまうのも」

「・・・・・・」

「だからこそ、暁歩さんが支えてくれるのは、とても嬉しくて、安心します」

 

 しかし暁歩は、まだしのぶの言葉に首を縦に振ることはできない。

 

「俺だって、そこまで強くはないですよ。藤襲山で鬼が怖くなった弱虫ですし」

「では、お互いに足りないところは支え合っていく、としましょうか」

 

 しのぶが指を立てて、笑みを浮かべて提案する。

 暁歩もしのぶも、心は鋼の如く強いと言うほどでもない。しのぶの方がまだ強いだろうが、心の中にどす黒い気持ちを秘め続け、今はそれに代わって恐怖が宿っている。そんなしのぶを、しのぶの心を暁歩はこの先支えていくつもりだ。

 けれど暁歩もまた、心は完璧と言うわけでもない。やはり藤襲山で多くの鬼を前に恐怖し、一度は戦いから退いた未熟者なのに変わりはないから、絶対の自信も持てない。その事情をしのぶは知っているし、それでもなお暁歩はしのぶの心と身体の傷を癒してくれた。だからこそしのぶも、暁歩のことを支えるつもりでいる。

 

「・・・そうですね」

 

 暁歩は笑みを浮かべて、そう返した。しのぶも満足したのか、緑茶を一口啜って夜空を見上げる。月は変らず、穏やかな光を地上に向けて輝かせていた。

 

「さて」

 

 すると、しのぶは再び暁歩に話しかける。その語調には、先ほどのように悲し気な雰囲気が無かった。

 

「暁歩さんは先刻私に、悲しい思いをしないように一緒に背負い、穏やかになれるよう努めると言ってくれましたよね?」

 

 その中でしのぶは、おもむろに暁歩にそう語りかける。

 金平糖を飲み込んだ暁歩は、どうしたんだろうと思いつつも頷いた。

 

「・・・では、その言葉に甘えて・・・お願いを聞いてもらってもよろしいですか?」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 『お願い事』を聞いた後は、また少しの間月見を楽しんだ。

 

「はぁ・・・」

 

 問題はその後で、風呂から出た暁歩は、しのぶの部屋に自分の布団を敷いていた。それはしのぶからの頼みである、『隣で眠ってほしい』を履行するためだ。

 お互い親密な関係になったとはいえ、同じ部屋で眠ったことは一度もない。なので、唐突な申し出に多少驚きはした。それでも、頼んでくるしのぶの気持ちは、昨夜悪夢を見たことを考えれば分からなくもなかったが。

 だからと言って、二つ返事で快諾するのは流石に理性が待ったをかけた。何せ女性と同じ部屋で眠るのは初めて(怪我で眠っていた時はともかく)だし、その相手がしのぶとなれば、理性が朝まで持つかも微妙なところだ。暁歩だって年頃の男であり、()()()()()()に興味がないわけでもないから。

 しかし結局、渋っても押し通された。『最大限努力する』という自分の発言を掘り返され、結果として自分の発言が仇となったのだ。

 それだけならまだしも。

 

『お互いに()()ですから、何も問題ないのではないでしょうか?』

 

 その『家族』をどういう意味で言ったのかは分からない。けれど、自分のことを家族と思ってくれているのであれば、それを無下にしたくもなかった。家族を喪った悲しみをよく知っているしのぶの言葉ならなおさら。

 

(落ち着け、冷静になるんだ・・・)

 

 されど、それはそれ。いざしのぶの部屋に布団を敷くと、否が応でも自分の心がざわつく。蝶屋敷に来て初めてのしのぶの誕生日や、今はいない珠代や愈史郎と薬を作った時にも部屋に入ったが、今は状況が明らかに違うから感性もまた違う。

 部屋は女性特有のほのかな甘い香りがし、平常心を崩そうとしてくる。初めて部屋に入った時も考えた、普段ここでしのぶが生活しているという事実に意識が持って行かれそうになる。やむを得ず、全集中の呼吸で何とか心の平穏を保つことにした。

 

(・・・これは・・・)

 

 そんな中で、棚の上の円筒形の金魚鉢の横に、花瓶が置かれているのに気付いた。

 蝶の意匠が施された白い陶器は、暁歩が誕生日祝いに買ったものだ。

 挿してあるのは百合の花。流石に月日が流れたので、最初に暁歩が買った雛罌粟ではなかったが、それでもこの花瓶をずっと使ってくれていると知り、嬉しくなる。

 

「何か珍しいものでもありましたか?」

 

 そこで横合いから、急に声を掛けられた。

 びくっと震えそちらを見ると、風呂上がりで寝間着に着替えたしのぶがいた。髪を下ろし、無地の白い浴衣を着た姿は初めて見る。それだけで心臓が痛いくらい跳ねた。

 

「・・・この花瓶、使ってくれてるんですね」

「もちろんですよ。大切な贈り物ですし、意匠も気に入っていますから」

 

 緊張を隠して会話の続行には成功したが、しのぶの答えに思わず唇が緩みそうだ。意匠云々よりも、暁歩から贈られたという事実を先に言ってくれたのがさり気に嬉しい。

 

「あ、布団はここで良かったですか?」

「ええ、大丈夫です」

 

 自分の布団を敷くついでに、しのぶの布団も敷いておいたのだが、一応は問題ないらしい。要望通り、暁歩の布団はしのぶのすぐ隣だ。

 それを改めて見ると、自分が後戻りできない場所まで来ていると嫌でも自覚させられるし、何より自分の心が熱を帯びてきているのを感じる。

 ちらっと、隣にいるしのぶを見る。風呂上がりだからかもしれないが、頬がわずかに紅い。まさかとは思うが、今になって自分の願い事が大分恥ずかしいことにでも気付いてしまったのだろうか。

 

「・・・もう遅い時間ですし、寝ましょうか」

「・・・そうですね」

 

 実を言うと、二人が普段床に就く時間まではまだ少し余裕があった。それでもしのぶの方から『寝よう』と言い出したのは、やはり恥ずかしさが勝ってしまったのかもしれない。

 だが、このまま起きていて話題が広がる自信も暁歩にはなかったため、すぐに寝るという意見には賛成した。それにこれ以上時間が長引くと、色々と引き返せなくなりそうでもある。

 

「・・・・・・」

 

 明かりを消し、布団に入るが眠気など塵ほどもない。どうすれば何事もなく眠りに就けるかを考えたが、考えるだけ無駄な気もする。

 

「・・・随分と、久しいことですよ」

「?」

「同じ部屋で、誰かが一緒に眠るのは」

 

 すると、しのぶがおもむろに話す。彼女も眠れないらしい。

 暁歩は、天井を見上げたまましのぶの話に耳を傾けることにした。

 

「アオイたちを引き取った時は、姉さんや私が一緒に眠っていました。あの子たちも、鬼のせいで家族を喪ったことをとても悲しんでいました。私のように・・・」

 

 今は真面目にてきぱきしているアオイや、健気に手伝いをしてくれるきよたちも、鬼のせいで家族を喪い嘆き悲しんだことは同じだ。だからこそ、その悲しさや不安を和らげるために、誰かが傍にいる必要があった。

 

「そして私も・・・最初は姉さんと一緒に眠っていました。そして、夜が来る度にあの時のことを思い出して・・・」

 

 言葉に詰まるしのぶ。暁歩もその先を促そうとはしない。

 

「けれど今・・・あなたがこうしてそばにいてくれると、恐れることも、不安もありません」

「・・・そうですか」

「ええ」

 

 きっと今、しのぶは笑みを浮かべているのだろう。言葉でそれは伝わってくる。

 

「・・・本当に、いいのでしょうか」

 

 今度は、まるで雨に濡れているかのような不安げな言葉。

 

「私は・・・幸せに生きても」

「当たり前じゃないですか」

 

 暁歩は起き上がり、しのぶのことを見る。明かりが消えてまだ目は利かないが、それでも強い意志を込めて答える。

 

「幸せの尺度は人それぞれですが、幸せに生きたいと望むことは何もおかしくありません。後ろめたい気持ちを抱くことだってないんです」

 

 しのぶは、暁歩のことを見てくれているようだ。反論を挟みはしない。

 

「それにしのぶさんは今まで、数えきれないほどの、普通だったら耐えきれないほどの辛いことを経験している・・・」

 

 幼少から今に至るまで、悲しい出来事が付いて回って来た。もうそんな思いを抱くのは、これっきりであってほしい。

 

「だからこそ、この先は幸せに、強く生きてほしいです」

 

 その言葉に、しのぶは目を見開く。

 暁歩の口からは初めて聞いたはずの言葉だったが、聞き覚えがあった。

 

「・・・幸せに、強く生きてほしい・・・ですか」

「はい。俺はそう願っています」

 

 すると、しのぶもまた起き上がり、暁歩の方を向いた。

 

「・・・あの戦いの後、目覚める前・・・私は夢を見ていたんですよ」

「?」

「家族の夢です。それも、あの夜のことではなく・・・今の私に直接語り掛けるような、そんな夢を」

 

 夢だったはずなのに、克明に覚えている。桜の樹の下で、先に逝ってしまった家族と、少しの間だけ言葉を交わしたこと。

 その中で、しのぶは家族から『強く、幸せに、永く生きて』と願われたのだ。

 

「不思議と私には・・・それが単に都合の良い夢を見ていたとは思えませんでした。本当に、家族が私に話をしてくれたような・・・そんな感覚です」

「・・・俺は信じますよ」

 

 だが、そのしのぶの話に暁歩は強く共感できた。

 なぜならば、暁歩もまた同じように、あの最終決戦の後で目覚める前、鬼に殺された両親の夢を見たのだから。その夢のことは、不思議と今も鮮明に覚えている。そうした同じ経験をしたからこそ、その話にも理解を示せた。

 同じような夢を見ていた、と知って、しのぶは驚きつつも妙なところで共感を抱き頬が緩む。だが暁歩はそれが見えていないのか、言葉を続ける。

 

「でも、それなら・・・家族からそう願われたのなら、尚更しのぶさんは幸せに生き続けるべきです」

 

 その直後、しのぶは暁歩の手を握ってきた。前触れの無いその行動に、思わず自分の手に目を向ける。

 さらにしのぶは、暁歩に身体を寄せてきた。甘い香りが一気に強くなる。

 

「・・・そう、思ってくれますか」

「はい、もちろんです」

 

 眼前に、しのぶの顔がある。目が慣れてきて、その大きく綺麗な菫色の瞳は、潤んでいるようにも見えた。思わず喉が引っ付きそうになるが、しっかりと返事をする。

 

「それなら・・・私も暁歩さんに対する気持ちは同じです。私もあなたには、幸せに、永く、強く生きてほしい」

 

 身体を寄せて、しのぶの空いた手が静かに握られる。

 

「童磨との戦いは暁歩さんも深く傷つき、あと一歩で命を落としてしまうところでした・・・。あの時、ほんの少しでも何かが違えば・・・あなたは死んでいたと思うと、私はとても恐ろしいです」

「俺もですよ。あの時、あと少しでも俺が間に合わなければ・・・しのぶさんは死んでいたのかもしれませんから」

 

 致命傷を負い、意識が朧気だったしのぶにも見えた、暁歩の深い傷。右脚の腱が切れ、腹部に深い傷を負った暁歩も、もう少しで死ぬところだったはずだ。

 そして最初に暁歩が駆け付けた時、一歩でも遅かったら、童磨にあの場で殺されていたかもしれない。

 お互いに最悪の結末を想像すると、悪寒が走る。考えただけで、息が荒くなってしまうほどの、恐怖に苛まれそうだ。

 

「・・・でも、私たちは今も生きている」

 

 しのぶが、さらに身体を預けるように力を抜いて寄りかかる。ともすれば、互いの心音さえも伝わってきそうなほどだ。

 

「それでも、『もしかしたら』と考えてしまうと、不安になってしまいます。今は隣にいたとしても、いつか突然いなくなってしまわないかと心配で・・・」

「・・・・・・」

「だからこそ、この心の不安を少しでも埋めたい」

 

 そして、しのぶは暁歩を見上げた。

 

「・・・暁歩さん。私は()()()()()()()()()()()()()()()

 

 この場で、その言葉がどんな意味を持つのか。それが分からない暁歩でもない。

 だからこそ、身体は強張り、息を呑む。

 

「しのぶさんは・・・それでいいんですか?」

「あなたが今もまだ生きていて、私のそばにいることを、強く、深く感じたい。それが、私にとっての幸せの一つです」

 

 暁歩が幸せに生きることを願う、しのぶにとっての幸せ。それを実現できるように暁歩は傍にいると言ったばかりだ。最大限努力するとも。

 その幸せを強く感じたいからこそ、しのぶは暁歩を求めている。

 しのぶの手が、不安げに、縋るように、暁歩の手を握る。

 

「・・・俺たちはまだ・・・」

「いずれそうなることは、お互いに望んでいたはずです。それとも、あの時の言葉はでまかせだったのでしょうか?」

「そんなことは」

 

 もの悲し気なしのぶの言葉は即座に否定する。

 月夜の病室で、暁歩がした告白と約束は、もちろん本心から来るものだ。それを反故にするつもりなど毛頭なく、必ずその未来を実現させると心に誓っている。

 

「・・・本当に、いいんですか?」

「はい。暁歩さんになら、私は・・・」

 

 再三確認しても、しのぶの意思は変わらないらしい。

 これ以上は、無粋だ。

 

「・・・今までの私にとって夜とは、悲しい印象しか抱けませんでした」

 

 家族を喪ったのも、鬼と戦っていたのも、無限城で命の危機に晒されたのも夜だ。だからこそ、夜には良い思い出があまりない。受けた悲しみが大きいからこそ、その印象は拭えなかった。

 

「けれど今宵は・・・その印象も変わりそうですよ」

 

 ようやく、しのぶは心からの笑みを浮かべた。

 それを見た暁歩も小さく笑い、ゆっくりとしのぶと唇を重ね合わせる。最初とは違って、今は深く。

 それで理性は熱情に溶けて、そのまましのぶの浴衣に手を掛けた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 外から聞こえる鳥の鳴き声で、目が覚めたのはお互いほぼ同時だった。

 起き上がって、自分たちの寝間着が乱れているのに気付くと、いそいそと整える。全てを預け合った仲なので、今更よそよそしくすることもないのだが、そこは雰囲気的な問題だ。

 

「・・・夢は、見られましたか?」

 

 落ち着いたところで、暁歩はしのぶに訊ねる。

 対して、しのぶは苦笑いを浮かべた。

 

「・・・見たような、見なかったような感じです。何せ昨夜は・・・」

 

 どうやら、夢を見たかどうかさえ曖昧らしい。ただ、寝る前のことを考えればそうなってしまうのも無理もないと思った。現に暁歩でさえ、夢の記憶がない。

 

「けれど、昨日のような不快さはありません。あるのは・・・安心感ですよ」

「・・・そうですか」

 

 心の不安は、埋められたらしい。それだけでも、十分だ。暁歩は小さく笑う。

 お互い身体に問題がないことを確認すると、まず暁歩は自分の部屋に布団を戻しに行く。そして、時間的に既にきよたちが朝食の準備を始めている時間なので、暁歩としのぶは別々に食卓へ行くことにした。一緒に行くと、もしかしたら誤解を招きかねない。

 

「おはよう」

 

 私服に着替えて食卓に顔を見せると、きよたちは『おはようございます~』と挨拶をしてくれた。申し訳ない気持ちを抱きながら、配膳を手伝おうとする。

 

「ごめん、少し寝坊しちゃった。手伝うよ」

「いえ、もうすぐ終わりますので。ゆっくりしてて大丈夫ですよ」

 

 だが、すみに笑顔でそう押し留められてしまう。きよとなほも同様に、暁歩に笑みを向けてくるので、仕方なく席に着くことにする。

 その少し後に、しのぶが食卓に入ってくるが、きよたちは普段と同じように挨拶を返して、朝食の準備を進める。そこでしのぶは、普段手伝う暁歩が座ったままなのに若干異変を感じたらしいが、暁歩も『なんでかな』と肩を竦めるだけだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 しかしその日は、小さな違和感がゆっくりと積み重なっていた。

 朝食の後の洗濯や掃除などを、きよとすみ、なほの三人が率先して行い、暁歩としのぶにはゆっくりしてほしいと言って手伝わせようとしない。それは朝だけでなく、昼食の時間まで続いた。

 普段から暁歩としのぶが頑張っているからその労いも込めてと考えられるが、二人ともどうにも疑問を抱かざるを得ない。

 しかし、暁歩にもやるべきことがある。

 

「きよちゃん、すみちゃん、なほちゃん。ちょっといい?」

 

 昼食の後で家事がひと段落した三人を、暁歩は居間へと呼ぶ。

 それは、昨日きよたちが感じていた、しのぶの異変の正体を教えるためだ。つまびらかに話すつもりは無いが、その理由と結果だけは伝えようと思う。

 

「昨日、しのぶさんとね・・・」

 

 ところが、暁歩がそう切り出した直後、三人が一斉に頬を赤らめ、恥ずかしそうな表情になった。そこで暁歩も説明しようとするのを止めて、『どうしたの?』と問いかけた。

 

「ええと、昨日・・・ですよね」

「昨日って、その・・・」

 

 すると、なほとすみがもじもじと何かを言いあぐねている。暁歩も流石に、何かがおかしいと確信し、予感が働く。

 

「・・・まさか、三人とも夜のこと・・・」

「・・・眠っていたら、音とか声が聞こえてきまして・・・」

 

 恐る恐る暁歩が訊ね、きよの答えを聞くと冗談抜きに机に突っ伏した。

 穴があったら入りたい気分だ。思えば、きよたちの部屋はしのぶの部屋の近くだから、多少大きな音がすれば起きてしまうのも仕方がない。

 そして、そんな事態になっていたと今頃知って、心疚しいことこの上ない。以前、天元との営みを暁歩としのぶに見られた須磨の気持ちが、痛いほどに分かる。

 

「おや、四人とも揃ってどうしたのですか?」

 

 そこで、何と都合の悪いことか、しのぶが顔を見せた。

 だが、彼女は元・鬼殺隊の柱で、医学にも精通しているほどには頭が良い。恥じらう様子のきよたちと、それ以上に衝撃を受けているらしき暁歩。そのうえで、昨日の夜にあったことを考えれば、おのずと答えは分かった。

 

「・・・まさか、言ったんですか?」

「聞こえてたらしいです・・・」

 

 笑みを崩さず青筋を浮かべ、暁歩に問いかける。しかし暁歩の告げた事実は、しのぶの羞恥心をさらに煽るようなもので、思わず足の力が抜けそうになる。

 そしてその反応で、きよたちは昨夜のことに確信を持ってしまう。

 

「今日のお夕飯は・・・お赤飯にしましょうか」

「「それはやめて」」

 

 きよの提案には、暁歩もしのぶも全力で拒否した。

 そして暁歩は、こんな恥を晒すために三人を呼んだわけではないことを思い出す。

 

「それはともかく、三人とも昨日、しのぶさんの様子が少し変だったって言ってたでしょ?」

 

 未だ恥ずかしさは引かないが、本題を切り出すときよたちも姿勢を改める。しのぶはその場に立ったままだが、そんな彼女に暁歩は視線を向けながら、口を開く。

 

「・・・昨日しのぶさんに話を聞いたよ。ちょっと昔の怖い夢を見てたんだって」

「そうでしたか・・・」

「でも、もう大丈夫。話して、気持ちが楽になったって」

 

 しのぶも『心配させてごめんね』と謝ると、きよたちは胸をなでおろした。

 

「元気になってよかったです・・・」

 

 安心から涙ぐむきよの言葉には、すみとなほ、そして暁歩も大きく頷いた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 カナヲとアオイは、予定通り出発から一週間後に帰って来た。

 

「ただいま戻りました」

「おかえりなさ~い」

 

 二人を出迎えたのは、玄関周りの掃除をしていたすみだ。

 その声を聞いて、暁歩も玄関へと出てくる。

 

「おかえりなさい。楽しかったですか?」

「はい、皆さんとても元気そうでした」

「そうですか・・・それは良かった」

 

 アオイからの報告に、暁歩の表情も綻ぶ。傍にいたカナヲもまた、嬉しそうに頷いている。想い人の炭治郎に会えたことに、非常に満足しているようだ。そんなカナヲに、暁歩は訊ねる。

 

「炭治郎くんや禰豆子さん、相変わらずでしたか?」

「うん。元気にしてた」

「ただ・・・善逸さんは落ち着きがありませんでしたし、伊之助さんも・・・変わらずでした」

 

 カナヲの返事は、やはり生き生きとしているように聞こえる。

 ただ、辟易したアオイの様子を見るに、彼女は相当振り回されたらしい。特に伊之助は、蝶屋敷にいた頃はしょっちゅうアオイと(微笑ましいと言えば怒るだろうが)喧嘩をしていたので、何が起きたかは想像に難くない。

 ともかく、彼らと親しかった暁歩も、彼らの近況に少し興味が湧いた。今度、炭治郎たちに手紙を送ろうかと思案する。

 

「ところで、しのぶ様は?」

 

 帰還した報告をするつもりだろうアオイが訊ねてくる。

 だが、暁歩は少しだけ頭を掻いて視線を逸らした。

 

「しのぶさんは・・・買い出しで」

「あぁ、そうでしたか」

「なほちゃんと一緒に行っています~」

 

 暁歩が若干ばつが悪そうで、逆にすみが妙ににこにこした様子の答えに小首を傾げるも、アオイは納得してくれたらしい。カナヲもゆったりとした笑みのまま小さく頷いた。

 暁歩の反応が若干ぎこちないのは、あの日の夜のこと、そしてその時のことがきよたちに筒抜けだったことを受けて、恥ずかしさが時間が経っても抜けないからだ。

 そしてすみの反応は、暁歩の様子が面白いのと、二人の間柄が親密になって妙に嬉しいからである。

 それから少しして、しのぶはなほと一緒に帰って来た。

 

「おや、二人とも戻ったんですね」

「はい。つい先ほど」

「炭治郎くんたちとは色々お話しできましたか?」

「うん」

 

 しのぶの問いかけに、カナヲは嬉しそうに頷く。最初こそ何の感情も抱かなかったカナヲだが、今となっては一人の可愛らしい少女に変わったその姿に、温かい気持ちになる。

 

「屋敷では、特に何かありませんでしたか?」

 

 そしてアオイは、しのぶに訊ねる。一週間も屋敷を空けたことなどアオイは無かったので、何も問題がなかったかを知りたかった。

 

「ええ・・・特には、はい。なかったですよ」

 

 だがしのぶの答えは、いつもと違って歯切れが悪い。それにはアオイはもちろんカナヲも不思議に思ったようで、お互い顔を見合わせる。

 しのぶの反応は、具体的に言えば、先ほどの暁歩と同じようなものだ。ついでに言えば、傍にいるなほもまた、すみと同様意味ありげな笑みを浮かべているので、余計気になる。

 実はしのぶもまた、暁歩と同じ理由で心に余裕がなかった。『何か』と問われてしまうと、あの夜のこと以外で特に問題が無かったからこそ、それを優先的に思い出してしまい、都度恥ずかしさに飲み込まれそうになる。

 

「どうしたのかしら、二人とも・・・」

 

 しかし、そんな2人の事情を全く知らないアオイとカナヲは、荷物を片付けた後もあのぎこちない反応が気になっていた。

 そんな彼女たちに向かって、きよ、すみ、なほが廊下の脇から手招きをする。アオイとカナヲは何事かと思いつつもそれに応じ、きよたちからコソコソと話を吹き込まれる。年端もいかないきよたちからの情報は断片的だったが、それでも彼女らよりは年上で『そういうこと』の知識があるアオイは、見る見るうちに顔が赤く染まっっていった。

 

「どうかしましたか?」

 

 そこへ丁度、偶然にも暁歩としのぶが通りかかる。

 だが、アオイは暁歩に向かって。

 

「・・・破廉恥な!」

 

 突然糾弾する。

 しかしながら、きよたちがいるのと、アオイが羞恥の表情を浮かべているのを見て、何が起こっているのか大体見当がついた。

 

(何も言えん・・・)

 

 だからこそ、暁歩も唇を噛むことしかできない。しのぶは額を手で押さえている。

 こうして、蝶屋敷の穏やかな日常は、若干変わりつつも戻ってきたのだ。




≪おまけ≫

カナヲ「えっと、その・・・痛かった?それとも・・・気持ちよかった?」
しのぶ「・・・・・・」


その後暁歩は、純粋だったカナヲが妙なことに興味を持ってしまったとして、アオイからおよそ2時間の説教を受けた。


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後編:覚悟

感想・評価をいただき、とても嬉しく思います。ありがとうございます。
最後までお付き合いいただければ幸いですので、どうぞよろしくお願いいたします。


 ややひんやりとした訓練場で、暁歩としのぶは対峙する。手には木刀が握られ、着ているのは漆黒の詰襟―――鬼殺隊の隊服だ。

 久方ぶりに隊服に袖を通してまですることはただ一つ、手合わせだった。

 

「・・・それでは、始めましょう」

「はい」

 

 しのぶが木刀を構えて切り出すと、暁歩も剣先をしのぶへ向ける。今だけは、相手が最愛の人ではなく、同じ元鬼殺隊の隊士だと自分に言い聞かせる。その心に迷いはなく、その目に怯えや畏怖もない。

 だが、ほんの一瞬で、しのぶは距離を詰めてきた。

 

(速い・・・けど・・・)

 

―――蟲の呼吸・蜂牙ノ舞

―――真靡き

 

 事前に言った通り呼吸法を使い、暁歩の喉元を突こうとしてくる。

 しかし暁歩は、距離を詰めてくる直前で攻撃の予感を得て、しのぶの木刀と垂直に自らの木刀を打ち込み、攻撃を()()()()()()()

 さらに暁歩は、その勢いのままに身体を捻ってしのぶの横に踏み込み、木刀を横に薙ぐ。それをしのぶは身軽に跳んで躱し、再び暁歩と向かいあう形になる。

 今度は、暁歩が呼吸を整えて攻撃を仕掛けた。

 

―――樹の呼吸・参ノ型

―――樅葉尖突

 

 自らの使う技の中でも最速の突き技で、しのぶに肉薄する。

 その動きをしのぶは見切り、横に避けるだけでなく、暁歩の脇腹に木刀を打ち込む。手加減したのか、それとも元々力がない故か、暁歩はさほど痛みを感じはしなかった。だが、攻撃を受けて勢いが落ち、暁歩は一先ず地に足を付けてしのぶの方を向く。

 だが、次の動きはしのぶの方が早かった。

 

―――蟲の呼吸・蜻蛉ノ舞

―――複眼六角(ふくがんろっかく)

 

 気付いたと同時に、木刀で何度も自分の胸の辺りを突かれる感覚に襲われる。前に聞いた話では、この連撃で確実に致死量の毒を鬼に打ち込むらしい。

 それはともかく、しのぶは刀を振るう力はあまりないものの、突きに関しては非常に力が強くまた速いため、攻撃を喰らった暁歩は口から空気が洩れるような声を出してしまう。意識まで手放しそうになるが、それを頭を振ってどうにか()()()()()()、体勢を立て直す。けれど、身体はズキズキと痛んだ。

 

「降参しますか?」

「いえ・・・まだです」

 

 しのぶに問われても、暁歩は首を横に振る。それは決して強がりではない。

 そして暁歩は、脚に力を籠めて一気に前へと駆けだす。

 

―――樹の呼吸・肆ノ型

―――落葉一閃

 

 『樅葉尖突』より速度は劣るが、攻撃範囲はこちらの方が広い。一気に距離を詰めて木刀を振るが、やはりしのぶは軽い身のこなしで上に跳び躱す。

 しかし暁歩は、踏み込んだ左脚を軸にして身体を回し、勢いを殺さずに、着地したしのぶに攻撃を仕掛ける。それは向こうにとっても想定外だったらしく、攻撃を防ぐ動作に若干の焦りが見えた。

 

「っ・・・」

 

 しのぶも木刀で防ぎ、鍔迫り合いが起きる。

 しかし、お互いほぼ同じ拍子に後ろへ下がり、一度距離を取る。

 

―――蟲の呼吸・蝶ノ舞

 

 先に呼吸を整えたのはしのぶ。だが、暁歩もまた木刀を構えつつ呼吸を整える。

 

―――樹の呼吸・玖ノ型

 

 さらに下半身に力を籠め、すぐに動けるように準備する。

 そして、しのぶの姿がほんのわずかに揺れた瞬間、暁歩も同時に前へ踏み出す。

 

―――戯れ

―――桜樹繚乱

 

 次の瞬間には、しのぶのいた場所に暁歩が、暁歩がいた場所にしのぶがそれぞれ立っていた。

 

「つっ・・・」

 

 だが、暁歩は手に痛みを覚え、木刀を手放してしまう。軽い木の音が訓練場に響いた。

 しのぶの『戯れ』は、本来目に見えない速さで相手に肉薄し、身体の至る所に毒を打ち込む技だ。今回は木刀なので毒はないにしろ、ただ身体を強く打たれるだけでも十分痛い。

 

「ここまで、ですね」

 

 振り返りながら、しのぶがそう告げる。

 しのぶは木刀を手放してはいなかったが、木刀を握る右の手を軽く擦っていた。『戯れ』と似た技である暁歩の『桜樹繚乱』が、ほんのわずかに()()()()()()()()()らしい。

 それを見た暁歩は、悲痛な表情を浮かべる。痛い思いをさせてしまったから、だけではない。

 

「・・・やはり、以前ほどの強さは無いですね・・・」

「それは仕方がありません。私の傷は相当に深かったのですから・・・」

 

 暁歩がしのぶと手合わせをするのは、今回が初めてではなかった。元々暁歩もしのぶも、鬼殺の剣士として身に付けた技術は衰えさせないように、鍛錬は続けている。手合わせはその一環だ。

 だが、自他ともにしのぶの強さは全盛期よりも落ちていると認識している。先の手合わせでも、暁歩はしのぶの攻撃を躱し、耐え、さらには攻撃まで掠めてしまった。本来の強さを持つしのぶ相手なら、絶対そうはならなかったと暁歩は思っている。最初の『真靡き』も避けられず、床に背をつけていただろう。

 そうならなかったのは、しのぶ自身の言う通り、無限城で受けた傷が深すぎたからだ。外傷は完治し、藤の花の毒も解毒は終わっている。けれどやはり、胸に受けた傷が肺を傷つけるほどに深すぎたせいで、力が完全には戻らないでいる。

 自らが治療に当たっていたからこそ、暁歩はしのぶの強さを元通りにできないのが悔しい。

 

「気に病まないでください」

 

 そんな暁歩の中の後悔を見透かすように、しのぶが声を掛ける。

 

「私は今、こうして命が繋がっているだけで十分ですから」

「・・・ですが」

 

 そう言われると、何も言い返せない。実際に死の淵に立っていたしのぶの言葉は、どうしても重みが全く違う。

 だが、それとは別の悔しさが、暁歩にはあった。

 

「・・・あなたの幸せを守りたい、なんて言ってもこれでは・・・」

 

 暁歩が自ら告げた決意。蝶屋敷で暮らす皆が穏やかに暮らせることが、しのぶの幸せの一つであり、暁歩はそれを守ると告げた。そのために何ができるかと考えて、最初に思い浮かんだのが、こうして鍛錬を続けて力をつけようということだ。

 しかしながら、全力を出し切れないしのぶ相手にも後れを取るようでは、それも険しい道だろう。

 自分の力量不足を目の当たりにして、唇を噛む暁歩。

 

「今の私の力は、せいぜい前の七割と言ったところでしょうか・・・。それでも暁歩さんは、大きな後れを取ることなく戦えたと私は思いますよ」

「・・・・・・」

「十分、力はついてきています」

 

 しのぶは褒めてくれるが、それでも暁歩は自分の力がまだ足りないと分かっている。暁歩は決して調子に乗る性質ではないから、ただ弱さを自覚するしかない。自分の手の痛みがぶり返してきて、思わず自分の手をさする。

 

「あぁ、ごめんなさい。やっぱり痛かったですよね」

 

 すると、しのぶがその暁歩の痛む右手を包み込むように握ってきた。そして、まるで労わるかのように優しく撫でる。

 

「気負い過ぎることもありませんよ。流石に以前ほどではありませんが、まだ私の腕も落ちてはいませんし」

「・・・・・・」

「あなたに任せきり、頼りきりでもいけないと思っていますから」

 

 暁歩と視線を合わせるしのぶ。

 しのぶだって、暁歩と話をして心が楽になっているのは確かだが、それで全てを支えてもらおうとは思っていない。頼りにすることはあっても、ただ自分だけが甘えるだけであってはならない。しのぶ自身の幸せを守るためには、もちろん自分もそうならないように努める必要があるから。

 

「それでも、俺は頑張りますよ」

「・・・はい」

 

 ただ、そうは言われても暁歩は努力を止める気はなかった。その意志を込めて、暁歩は自らの手をさするしのぶの手に、自分の手を重ねる。

 

「こほん」

 

 そこへ、第三者の咳払いが入り込んでくる。それも、随分とわざとらしいものだ。

 暁歩としのぶが出所を見ると、訓練場の入り口にアオイが立っていた。その表情が訝しげなのは、客観的に見て暁歩としのぶの今の状況が、逢引きしているようにしか見えないからだろう。

 

「お邪魔なら出直しますが?」

「・・・すみません」

 

 不服そうなアオイの言葉に、暁歩は平謝りする。手はとっくに離していた。

 以前のことから、暁歩としのぶが親密な仲にあることはアオイも知っているので、その場では責めずに溜息を吐くに留めた。

 

「・・・皆さんいらっしゃいましたよ」

「あら。それでは行きましょうか」

「はい」

 

 来客の報告を聞き、暁歩は手早く木刀を片付けつつ軽く汗を拭き、しのぶ、アオイと共に訓練場を後にする。アオイによれば、客人は既に客間に通しており、今はカナヲやきよたちが話し相手になってくれているらしい。きよたちも、久しぶりに会う客人なのでとても嬉しがっていたようだ。

 

「こんにちは」

 

 客間に顔を見せると、先に待っていた客人たちが振り向いた。

 

「お久しぶりです。しのぶさん、暁歩さん」

 

 二人を見上げて挨拶をするのは、炭治郎だ。隣に座る禰豆子と善逸もぺこりと頭を下げる。向かい側に座る伊之助は、アオイたちが出した饅頭に夢中で見向きもしない。

 

「意外と早いお着きでしたね」

「伊之助の奴が滅茶苦茶急かしたんですよ。まったく、禰豆子ちゃんもいるってのに・・・」

「まぁまぁ。私も山育ちで軟じゃありませんから」

「ホント?禰豆子ちゃんがいいならそれでいいんだけど、俺はもし禰豆子ちゃんがうっかり怪我でもしちゃったらって思うと心配だったんだよ~!」

 

 ぶつぶつ文句を言う善逸だが、禰豆子が笑って何でもないように振舞うと、コロッと態度が変わってデレデレとしたにやけ顔になる。

 それにしても、以前カナヲとアオイが炭治郎たちの下へ向かった際、到着したのは夕方と聞いていたので、彼らもまた同じぐらいかと思った。しかし、伊之助のおかげで、夕方と言うには早い時間帯の今に到着できたらしい。

 

「アオイ、もっと饅頭もってこい!」

「駄目です、夕飯が入らなくなりますから!」

 

 その伊之助は、炭治郎たちの分の饅頭もすべて平らげ、さらにお替りを要求してきた。しかし、夕食前にあまり多く食べるのもよろしくないので、アオイの言う通りここは我慢してもらうことにした。

 すると伊之助は、強引にせがむことなく、大人しく引いた。この屋敷で治療をしていた頃も、アオイは厳しかったものだから頭が上がらないらしい。

 

「皆さんお変わりないようで」

「暁歩さんたちも元気そうで・・・よかったです」

 

 暁歩が呟くと、炭治郎も嬉しそうにそう返してくれる。彼は彼で、カナヲやきよたちと話をしていたらしい。

 

 今こうして炭治郎たちがいるのは、暁歩が彼らを招待したからだ。

 カナヲとアオイが炭治郎たちの家から戻った後、暁歩もまた炭治郎たちと手紙のやり取りを何度か交わした。その中で炭治郎が、久々に蝶屋敷へ行ってみたいという旨の手紙を送ってきたので、それならばと招待するに至ったのだ。無論、屋敷の主であるしのぶや同じく暮らすカナヲたちにも話をし、賛成を貰った上である。

 彼らが来ると決まって特に喜んだのは、きよ、すみ、なほの三人だ。炭治郎たちが蝶屋敷の世話になっていた頃は、修行の手伝いなどで接点が多く、特に炭治郎のことは兄のように慕っていた。屋敷を訪れた隊士の中でもとりわけ仲が良かった彼らの来訪は、とても嬉しいのだろう。

 そして、面にはそこまで出していないが、暁歩としのぶも同様に炭治郎たちが来たことは嬉しかった。二人にとっても彼らの存在は大きなもので、それぞれの考えや在り方に影響を及ぼした。それを差し引いても、親交が深いのに変わりはなかったので、またこうして元気な姿を見ることができて嬉しい。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 落ち着いたところで、念のために炭治郎と禰豆子の体調を、それぞれ暁歩としのぶが診ることになった。というのも、炭治郎は鬼舞辻無惨と直接戦い、大きな怪我を負っていた。禰豆子も人間に戻ったとはいえ、かつては鬼だったからこそ、身体に不安なところがあるからだ。

 

「炭治郎さんたちの家からウチまで大分あったと思いますが、大丈夫でしたか?」

「はい。これでも鬼殺隊で鍛えてましたから」

 

 診察の傍ら、緊張をほぐす意味もあって暁歩は炭治郎と軽く話をする。伊之助が急かしたとはいえ、炭治郎も元鬼殺隊の一員。長距離を歩いて移動するぐらいはわけもないらしい。

 

「・・・身体は、大丈夫そうですね」

「ありがとうございます」

 

 一通りの診察は終わった。

 失った右目や片腕など、特にひどい部分は暁歩の胸を痛ませたが、そこには言及できない。炭治郎本人が現状を受け入れているので、蒸し返すのも悪い気がした。

 それから診察の器具を片付け終えると、そのまま流れで軽く雑談をすることになった。

 

「暁歩さん、蝶屋敷に残ることになったんですね」

「ええ。しのぶさんがここを民間の診療所にするつもりですので、俺はそこで医者を、と」

「へぇ~。でも、俺は良いと思いますよ!暁歩さんもしのぶさんも、怪我の治療はとても上手でしたし」

 

 手紙で近況は報告していたし、暁歩も蝶屋敷に残っているという話はしていた。それでも、こうして面と向かって話をするのは、再会したからこそできることである。

 

「じゃあ、今も薬は作っているんですか?」

「はい。前ほどではないですけど・・・いつ何が起きるか分かりませんし、技術は落としたくないですから」

 

 人間とは難儀なもので、何の前触れもなく腹痛や頭痛などの病に侵されることが多々ある。それが自然に治まるに越したことはないが、そうならなかった場合に備えて薬は作っていた。それに、調剤は暁歩にとっての特殊技術の一つだからこそ、衰えさせたくはない。

 

「ところで・・・どうして隊服を着てるんですか?」

「あぁ、これは先刻までしのぶさんと手合わせをしていたんですよ」

 

 鬼殺隊が解隊されてもなお、暁歩が隊服を着ているのは不思議に見えたらしい。思えば、カナヲもアオイも隊服ではなく普段の服装だった。

 だが、手合わせしていたと聞いて炭治郎はぽかんとしていた。相手は元柱だし、ましてや鬼殺隊も解隊されたのだから。

 

「手合わせって・・・」

「俺から頼んだんですよ・・・強くなりたいから」

 

 幸せを守れるように、強くありたい。そのために自分の心と身体を鍛えていきたい。そのために自分から志願したことだ。例え、相手が力が落ちているとはいえ元柱であっても、無茶だと分かっていても、それだけは譲れない。

 その暁歩の言葉に、何か重みを感じたのか、炭治郎はそれ以上追究しようとはしなかった。

 

「あ、しのぶさんと言えばなんですけど・・・」

「?」

「暁歩さん、しのぶさんとお付き合いを始めたって本当ですか?」

「は?」

 

 だが、代わりとばかりに持ち出した炭治郎の質問に、暁歩の目が点になる。

 そして同時に、冷静に、これまでの炭治郎との手紙のやり取りを思い出す。言葉で話したことはもちろん、記憶している限りでは、炭治郎との手紙でそのことを書いた覚えはない。本来なら、炭治郎が暁歩としのぶのあれこれを知っているはずはないのだ。

 

「・・・あの、言いましたっけ。そのこと・・・」

「前にカナヲとアオイさんがウチに来た時、カナヲが話してくれたんですよ」

(カナヲさん・・・)

 

 無限城の最終決戦以降、感情豊かになってきたカナヲだが、ホイホイ他人に言っていいことと悪いことの区別は未だできていないらしい。自分たちの関係が気付かれるのは同居している以上仕方ないとはいえ、できればそれはあまり口外しないでほしかった。

 

「・・・まぁ、知っているのであれば隠しはしません。その通りです」

「わぁ、やっぱりそうだったんですかぁ~」

 

 認めざるを得ず肩を竦めると、炭治郎は心底嬉しそうに表情を綻ばせた。無邪気な視線を向けてくるのが、逆に辛い。

 

「でも、何だか納得しました」

「納得?」

「俺がここの世話になっていた頃、しのぶさんと話してる暁歩さんから、何だか優しい匂いがしてたんです。何と言うか、心が温まるというか・・・」

「・・・・・・」

 

 そう言えば炭治郎は、感情の起伏さえも嗅ぎ取れるほど嗅覚が優れていた。それに暁歩も、炭治郎が蝶屋敷の世話になっていた頃と言えば、しのぶと接しているだけで自分の中の慕情が自己主張をしていた頃でもある。それが炭治郎の言う『優しく心の温まるような匂い』の正体だとすれば、恥ずかしいことこの上ない。自分の恋愛感情が知らないうちに他人に知られていたなど、頭を抱えたくなる。

 

「でも、俺はいいと思いますよ。暁歩さんは穏やかな感じですし、しのぶさんの雰囲気とも合ってるんじゃないかなって」

「・・・・・・」

 

 さらに炭治郎が客観的な感想を言ってくれる。それが逆に、暁歩の心に割と深刻な恥を植え付けているとは塵芥ほども気づかず。曇りのない無垢な目で。

 

「・・・ところで、炭治郎くん」

「はい?」

 

 そこで暁歩は、良く言えば照れ隠し、悪く言えば仕返しを炭治郎に仕掛けることにした。もちろん、傷つけるつもりはない。

 

「カナヲさんとはどうなんですか?」

「はい!?」

 

 案の定、炭治郎は動揺した。ご丁寧に顔も真っ赤に染まっている。どうやら、彼と近しい禰豆子や善逸やにもそのことは言及されていないらしく、指摘されたのは初めてのようだ。

 

「どう、って言われても・・・」

「いえ、以前の戦いの後でですけどね。カナヲさんと親し気な炭治郎くんを見たんですよね。何だか前よりも近しいように見えまして、もしや付き合っているのでは?と思ったんですよ」

「・・・・・・」

 

 手紙には書かないでいた二人の印象を明かすと、面白いほどに炭治郎は縮こまる。

 そして、否定しようとしない。案の定、二人の関係については睨んだ通りらしい。唇が思わず緩む。

 

「まぁ、もしそうなら、お互い相手は大切にしましょう」

「・・・はい、もちろんです」

 

 揶揄うのもほどほどに、暁歩は炭治郎にそう告げる。

 炭治郎がどんな人となりをしているかは、屋敷の世話になっていた頃に見てきた暁歩も分かっているつもりだ。だから、想い人のカナヲに悲しい思いはさせないだろうと、ある種信頼を寄せている。それは当然、暁歩がしのぶに同じようなことをしないという決意も同じだ。

 その暁歩の言葉で、恥ずかしさも幾分か引いたのか、炭治郎は暁歩へと目を向ける。

 

「もしかしたら、暁歩さんたちのことを参考にさせてもらうかもしれませんね」

「それは止めてくれ」

 

 思わず素の口調で、炭治郎の言葉を封じる。暁歩としのぶの関係は、互いの過去や心情、さらに進展段階も含めて誰かの参考になるとは言い難い。

 それに炭治郎とカナヲも、誰かを参考にせずとも自然と穏やかで清い交際はできるだろうと思っている。なので、その意思を敬語を伴わない強い意思で告げさせてもらった。炭治郎は『そうですか・・・』とやや残念そうだったが。

 

◆ ◆

 

 時をほぼ同じくして、しのぶも禰豆子の身体を診終えた。鬼であった時は、至る所に傷を負い、時には四肢を斬られることもあったが、今となってはそんな傷痕も全くない。

 

「はい、大丈夫ですよ。特に異常はありません」

「ありがとうございます・・・」

 

 診察を終えると、禰豆子はしのぶに頭を下げる。

 前に炭治郎から聞いた話では、家族が存命だった頃は炭治郎と一緒に家族を支える良くできた妹で、町で評判の美人だったとのことだ。善逸がぞっこんになるのも、同じ女であるしのぶでも分かる気がする。

 だからこそ、そんな禰豆子が鬼になってしまったことが残念だし、こうして今は元の人間に戻れたことが嬉しく思う。

 

「・・・どうかしました?」

「・・・いえ、何でもないですよ」

 

 そんな風に、目の前にいる禰豆子に哀憐の情を抱きぼーっとしているのを見透かされたが、しのぶは笑って首を横に振る。

 

「けれど、安心しました。こうして人に戻って、身体の方も異常がないようで」

「それは兄からも言われました。それと・・・善逸さんからも」

 

 あの二人なら当たり前かな、としのぶは頭の隅で思う。炭治郎は兄として、善逸は想い人として。方向性は違うけれど、きっと禰豆子に対する愛情の深さは二人とも同じなのだろう。

 しかしふと気になったのが、禰豆子が善逸の名を告げる時、微妙に照れが混じったように見えたことだ。

 

「善逸くんのこと、悪く思っていないんでしょう?」

「それは・・・もちろんです。鬼だった頃の記憶は私の中では朧気ですが、それでも不思議と、善逸さんのことはよく覚えていました」

 

 夜には時折自分を連れ出して花畑に連れて行ってくれたり、自分が窮地に陥った時は守ろうとしてくれたり、いつも禰豆子の身を案じてくれていた。時折臆病なところを見せてはいたけれど、結果としてその禰豆子を思っての行動の記憶は、人間に戻ってからも引き継がれた。

 

「それで、私は善逸さんのこと・・・」

 

 その先は、言わずともしのぶには理解できた。それはしのぶ自身、禰豆子と似たような、あるいはその先に立っているような感じだからこそ分かる。自然と微笑ましい気持ちになった。

 しかし同時に思うのは、禰豆子の家族は炭治郎を除けば、皆この世を去っていることだ。そこに関しては、しのぶも思うところがある。自分もまた家族を鬼によって喪っている身であるから、悲しさは分かるつもりだ。

 けれど禰豆子には、炭治郎という実の兄がまだいる。それは、姉さえも喪ったしのぶとは違った。それについては、同情してほしいわけではなく、羨んでもいないから、口にはしない。

 

「・・・本当に、良かったですね。戻ることができて」

「・・・はい」

 

 だから言うべきは、今の禰豆子が幸せそうでいるのを祝う言葉。

 禰豆子は、疑う余地もなくにこっと笑ってくれた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 暁歩としのぶが、それぞれが診察した結果を報告し合い、その後少し時間が経ってから夕食の時間となった。

 蝶屋敷の面々と炭治郎たちが改めて一堂に会すると、食卓はどうしても手狭になってしまう。そのため、夕食は居間で摂ることとなった。

 

『いただきまーす』

 

 食卓の上にはてんぷら、山菜のおひたしや煮物、焼き魚と種類に富んだ料理が並んでいる。炭治郎たちが来るということで、少々奮発したものだ。

 

「炭治郎さんがタラの芽が好きって聞いたので、採ってきました!」

「ありがとう、すごく嬉しいよ~」

 

 きよたちが自分のために好物を採ってきてくれたことに、炭治郎は嬉しそうにお礼を伝える。そんな彼は片腕が使えないため、隣に座るカナヲに手を貸してもらう形で食事を楽しんでいた。

 

「すみません、何かお手伝いできればよかったのですが・・・」

「いえ、禰豆子さんたちはお客ですし、お疲れでしょうから気にしないでください」

 

 ただ、禰豆子は自分たちがもてなされるだけの状況に慣れていないらしい。とはいえ、皆を招待したのは蝶屋敷側なので、暁歩たちも禰豆子たちに手伝いを求めるわけにはいかなかった。根が素直な禰豆子は、暁歩がやんわりと厚意だけ受け取っても未だ納得できないようだが。

 

「まぁまぁ、禰豆子ちゃん。皆は禰豆子ちゃんのこと気遣ってくれたんだし、ここは甘えさせてもらおうよ」

「・・・そうですね」

 

 そこで善逸が肩をそっと撫でながら笑みを浮かべて告げると、禰豆子は笑みを浮かべて暁歩に頭を下げる。そして『この煮物美味しいよ!』と善逸が勧めると、それ以上の楽しそうな笑みを浮かべた。しのぶから聞いていたが、二人の仲も良好らしい。

 

「箸を使ってって言ったでしょう!」

「うるせぇ、こっちの方が食いやすいんだよ!」

 

 その二人の反対側では、素手でもりもり料理を食べる伊之助と、それにお冠なアオイ。自ら進んで伊之助の隣に座ったアオイの意図に、今更ながら暁歩は気づいた。

 しかし、言い合いをするアオイと伊之助からは剣呑な雰囲気は不思議なことに全くなく、ただただ『仲が良い』という印象しか感じない。『喧嘩するほど仲が良い』という言葉がよく似合う。

 それはさておき、ボロボロとこぼしながら食事をするのはさすがに看過できなかったのか、暁歩の隣に座るしのぶが無言で伊之助に笑みを向ける。その笑みから怒気を感じ取ったらしく、伊之助の食べる速度が少し遅くなった。隣の暁歩も怒気を感じ取り、お椀を持つ手が震える。

 

「アオイ、お替り」

「もうですか?」

 

 すると、早々にご飯を食べ終えた伊之助がアオイに茶碗を突き出す。アオイは呆れた様子で茶碗を受け取るが。

 

「しょうがねぇだろ。お前の作る飯がうめぇんだからよ」

「・・・・・・」

 

 同時に伊之助から言われた言葉に、アオイの顔が林檎のように赤く染まる。そして、せっせとお櫃からご飯を茶碗によそい、伊之助に無言で突き返す。どう見ても照れているのは明らかだ。

 しかし当の伊之助は、自分の発言がどれほど重いものかなど気付かず、『うめぇ!』と食事を続けている。対照的にアオイは、先の発言が嬉しいやら恥ずかしいやらで、もそもそと静かに食事を再開した。

 

(罪な子ですねぇ、伊之助くんも)

(絶対無自覚でしょうね・・・)

 

 その一部始終を正面から見ていたしのぶが、そっと暁歩に耳打ちする。ああも無自覚に、女性が意識せざるを得ないような発言をするとは。しかも伊之助自身、その言葉が異性に向けるとどれだけの威力があるのか全く分かっていないのが、伊之助のたらしぶりに拍車をかけていた。

 

(まぁ、あんなアオイさんを見るのは初めてですし、面白くはありますが)

(それは言えてますね)

 

 そこでぽろっと呟いた暁歩の言葉にしのぶは頷きはしたが、アオイにも聞こえていたらしく、鋭い視線を暁歩に向けた。それでも、暁歩は素知らぬ顔で食事を続ける。自分の面の皮も厚くなったものだと思う。ただ、アオイもそれで少し気分が楽になったらしく、小さく息を吐いた。

 

「って言うか伊之助、お前食いすぎ!いくらアオイちゃんのご飯が美味しいからって、皆のこと考えろよ!」

「いいですよ、伊之助さんが多めに食べることは分かってましたので、まだ余裕はありますから」

 

 そこで善逸が伊之助に注意するが、アオイは首を横に振る。

 すると今度は、伊之助がそのアオイの言葉に中てられたのか、『ほわほわ・・・』と虚ろに口走る。

 

「・・・とんでもねぇ二人だよ、まったく」

 

 そんな二人の様子に、呆れたように善逸がボソッと告げる。

 ああして、お互い意識せずに妙な雰囲気になってしまうのは、どうやら今回が初めてではないらしい。それを聞いて、暁歩も苦笑する。一見反りが合わないような二人が見せる仲の良さそうな一幕は、実に愉快なものだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 時間が流れて、夜。

 調剤室で資料を読みふけっていた暁歩は、そろそろ床に就こうかと思い部屋を出ると、廊下の角にしのぶが立っているのに気付いた。それも、何かの様子を窺うかのように、突き当りの先に視線を向けている。

 

「?」

 

 あまり音を立ててはならない感じは伝わって来たので、足音を潜めて静かにしのぶの方へと近づく。するとしのぶは、暁歩の気配を察知したのか振り返り、口元に人差し指を当てて、静かにするようにと無言で伝える。頷きつつ、暁歩も何が起きているのか気になったので、しのぶと同じように彼女が見ていた方を窺う。

 

「へぇ~、夕飯のタラの芽、カナヲも採ってきてくれたんだ」

「うん・・・アオイが採り方を教えてくれた」

 

 見れば、月がよく見える縁側に、炭治郎とカナヲが並んで腰かけて、穏やかに談笑していた。しのぶはその様を気付かれないように、静かに見守っていたらしい。妹のように大切に思っているカナヲの恋の行方を知りたいのは、家族であり、同時にしのぶが年頃の女性だからだろうか。

 真意は分からないが、暁歩もあの二人の行く末は気になったので、しのぶと一緒にその様子を見守ることにする。もちろん、炭治郎たちからは見えない位置を保って。

 

「山菜採りに行ったの、初めてだった。だから、皆に教わりながらだったけど・・・」

「そうだったのか・・・でも、どうして今回は行こうと思ったんだ?」

 

 カナヲは、自分から山菜採りや買い出しに行こうとする性格ではなかった。大抵は屋敷で留守番しているか、しのぶやアオイに言われて同行する。だが今回、カナヲは自分から手伝いに行くと言ったのだ。それは初めてのことであり、暁歩自身も驚いた。

 とはいえ、それがどうしてなのかなど、カナヲを近くで見てきたしのぶはもちろん、暁歩も分かっていた。

 

「せっかく炭治郎が来てくれるから・・・好きなもの食べて欲しいなって」

「・・・そっか」

 

 小さく、照れるようなカナヲの言葉に、炭治郎は嬉しかったのか鼻を少し指で掻く。

 

「ありがとう、カナヲ。すごく嬉しいよ」

 

 まるで太陽のように温かい笑みを、炭治郎はカナヲに向ける。

 するとカナヲは、まるでそんな炭治郎に惹かれるかのように、静かにその肩に寄り掛かる。炭治郎も拒みはせず、ほんの少しだけカナヲに身体を預けた。

 その直後、しのぶと暁歩は一端その場を離れる。同時にしのぶは満足げに目を閉じて頷き、暁歩もグッと拳を握る。後は若い二人だけにしてやろうと、その先を見るのは忍びないと、二人で食卓まで移動する。

 

「元々それらしい感じはしてましたけど、今日のでハッキリしましたね」

「えぇ・・・安心しました」

 

 そこで暁歩が話しかけると、しのぶも感慨深そうに頷く。

 無限城の決戦の後、進展していたと思しき行動を見せていた二人だったが、先ほどの様子を見るにそれは間違いではなかったようだ。特にカナヲは、二人にとっても良い方向に変わったので、とても嬉しく思う。

 

「本当に・・・カナヲも変わりました」

「全くですね」

 

 しのぶとカナエが引き取ってから今日に至るまで、とても長い時間が経った。その間、ずっとカナヲを見てきたしのぶにとっては、先のような一人の普通の少女と見紛うことのない有様は、とても安心できるものだ。彼女と接した期間が屋敷でも短いが、それでも冷や冷やさせられることが多かった暁歩も、その気持ちはよく分かる。

 

「・・・では、後はあの二人に任せて、俺たちは休みましょうか」

「・・・そうですね」

 

 暁歩がそう告げると、しのぶも頷き、お互いにそれぞれの部屋へと向かった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 翌朝の朝食の準備は、禰豆子も手伝ってくれた。客人であっても、宿でもないのに食事を任せきりにしてしまうのは、どうも気が進まなかったらしい。

 かと言って、生真面目なアオイも客人に朝食を任せるわけにもいかなかったため、そこで意見の競合が発生。互いに譲歩した結果、副菜の一部を禰豆子が作り、それ以外はアオイが担当することになった。

 その末に、朝食の食卓には禰豆子の作ったおからと味噌汁が配膳されている。

 

「お口に合えばいいんですけど・・・」

「とっても美味しいですよ~」

「そうですね・・・美味しいです」

 

 蝶屋敷の皆に料理を振舞ったことがない禰豆子は少し自信なさげだったが、おからを食べたすみや暁歩たちの反応に、禰豆子も安心したようだ。

 そんな中で予想通りというべき反応を見せる人が約一名。

 

「大丈夫だって!どこで食べても禰豆子ちゃんの料理は天下一品の美味しさだからさ!」

「そう、でしょうか・・・」

「うんうん、自信もっていいんだよ~」

 

 デレデレと緩み切った笑みを隠そうともしない善逸。彼にしてみれば、禰豆子の作る料理にはずれなど、不味いものなどないらしい。禰豆子もずっと言われているだろうに、照れが表情に混じっている。

 

「いやぁ、ここでも禰豆子ちゃんの手料理が食べられるなんて幸せだよ!極楽かな!?」

「善逸さん・・・それは言い過ぎですって・・・」

「いやいやそんなことないって!俺は禰豆子ちゃんの作るごはんが一番好きだから!」

 

 顔を真っ赤にしてまくしたてる善逸に、一層禰豆子は恥ずかしそうに縮こまる。他の面々は、何か言葉を挟むでもなく、最早苦笑するほかない。

 

「紋逸の野郎、炭治郎んトコでもあんな調子なんだよ。おかげでメシに集中できねぇったらありゃしねぇ」

 

 一方の伊之助は容赦ない評価を下す。食事の度に毎回のようにのろけられては、言う通り集中もできないだろう。事実、暁歩たちは中々味の方に意識を向けられなかった。

 

「・・・つくづく、暁歩さんとしのぶ様がああはならなくてよかったと思いますよ」

 

 伊之助のお替りをよそいながら、静かに呟くアオイ。

 それにきよとすみ、なほは同意するように頷いたが、当の暁歩としのぶは肩を竦め、聞こえないふりをすることにする。

 暁歩もしのぶの料理の美味しさは認めているが、善逸のように周りの目も気にせず褒めちぎったりはしていない。ただ、今回の善逸のことで、釘を刺されたことだけは理解できた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日、炭治郎とカナヲは街へ、善逸と禰豆子は握り飯を持って散歩へ、伊之助は裏山へ行きアオイはその付き添いと、それぞれが思い思いに過ごす日になった。

 なので、屋敷に残ったしのぶたちは、分担して家事をこなしていくことになる。

 しかしその最中、新たな来客がやって来た。

 

「こんにちは~」

 

 その来訪者の声を聞いて暁歩が玄関へ向かうと、久方ぶりに見る二人組がいた。しのぶと同じく、鬼殺隊の元柱・甘露寺蜜璃と伊黒小芭内だ。

 

「おや、お久しぶりです」

「うん、久しぶり~。お邪魔してもいいかな?」

「大丈夫ですよ。丁度しのぶさんもいますし」

 

 小芭内はともかく、蜜璃は元々ここを訪れることが多かったので、連絡もなく訪れること自体は特に驚きもしない。小芭内がいるのも、蜜璃がいるところに彼がいる、とでも言うべきか、一緒に来たところでさして問題もなかった。

 ただ、しのぶはきよたちと一緒に洗濯中だったので、すぐには呼び出せない。なので、蜜璃と小芭内を客間に通した後で、しのぶの下へ向かい話してみることにした。

 

「あら、お洗濯の途中なんですけど・・・どうしましょうか」

「洗濯は私たちでやっておきますよ」

 

 少し困ったような仕草を取るしのぶだったが、きよたちが洗濯を引き受けてくれた。背の低い彼女たちが干しにくい布団など大きなものはないので、後はきよたちに任せても問題無さそうだ。

 しのぶもそれを理解すると、客間へと向かう。暁歩は、蜜璃たちにお茶を用意するために、一度台所へと向かった。

 

「私が回復した時以来でしょうか?」

「そうだねぇ~。でも、しのぶちゃんが元気になったみたいで良かった!」

「ご心配をおかけしてすみませんね・・・もう大丈夫ですよ」

 

 そして、お茶とお茶菓子を運んでくると、既にしのぶと蜜璃で談笑を交わしているところだった。蜜璃の隣に陣取る小芭内は、こくこくと黙って頷きつつ二人の会話に耳を傾けているらしい。

 そこへ暁歩がお茶を置き、しのぶの隣に座ったところで、小芭内が話しかけてきた。

 

「お前の脚はどうなんだ。前来た時は治っていないようだったが」

「もう大丈夫です。普通に歩けますよ」

「そうか」

 

 暁歩の右脚は、腱が切れて歩くのもままならない時期があった。最後に小芭内たちと会った時もまだ、脚は完全に治っていなかったので、そのことを小芭内は指摘したのだろう。

 そんな彼は、暁歩の答えを聞くと『ふん』と鼻で息を吐く。それが果たして納得から来るものか、あるいは安心から来るものかは分からないが、小芭内の性格からしてきっと前者だろう。

 

「で、鬼殺隊が解隊されても、お前はここに残っているのか」

「ええ・・・俺にとっては、ここが家みたいなものですし」

 

 小芭内に問われると、暁歩の笑みがほんのわずかに暗くなる。そして、しのぶはゆっくりと頷いた。

 暁歩の実家の薬屋は両親が死んでから閉めており、さらに将来的なことを考えて、少し前に既に引き払っていた。誰も住まない家を長年放置するわけにはいかず、かと言って町の知り合いに管理を任せきりにするのも忍びなかった。なので実質、ここは暁歩にとって第二の実家とも言える。

 鬼殺隊には蜜璃やしのぶたちもそうだが、複雑かつ悲しい経緯を背負う隊員が多い。家族を鬼によって喪った暁歩もその一人だが、それを知っているのはこの場ではしのぶだけだ。それでも、蜜璃も小芭内も鬼殺隊の事情は知っていたので、それ以上は深く訊かないことにした。

 

「・・・あっ、そうだしのぶちゃん!気になったんだけどね」

「はい?」

 

 そこで、少し空気が沈みかけたのを持ち直そうとして、蜜璃が別の話題を持ち出そうとする。しのぶが蜜璃の方を向くと、その蜜璃の顔が少し赤らんでいるのに気付いた。

 

「暁歩くんとは、あの後何かあったの?」

 

 無邪気さと、恥じらいを兼ね添えているかのような表情。思えば、前に蜜璃たちが来た時も、しのぶの雰囲気が変わったことに敏く気付き、『もしかして』なんて想像をしていた。実際、今の暁歩としのぶの関係は、蜜璃の『もしかして』の関係であるのだが、友人であり昔の同僚であるが故に、素直に口に出すのも憚られる。

 だが、しのぶが言いあぐねていると、小芭内が色違いの目を暁歩に向ける。

 

「なんだ、一月以上進展していないのか?正直お前には失望したぞ」

「前から思ってたんですけど、伊黒さんはどういう立ち位置なんです?」

 

 糾弾される暁歩だが、小芭内がどの立場でものを言っているのか正直未だに掴めない。隣でしのぶと蜜璃が、暁歩と小芭内の小競り合いに笑いを堪えていることなど気付きもしない。

 それはさておき、小芭内の言葉にも暁歩は少しだけむっとする。たとえ相手が鬼殺隊最強の柱だったとしても、事実に反して自分がその辺りに関してかなり下に見られているような物言いだったから。

 

(どうします?)

(まぁ、言っても大丈夫だとは思いますけどね)

 

 そこで暁歩は、無言でしのぶの方を向き、目線で訊ねる。するとしのぶも、目線で返してきた。先ほどは言うべきかを迷っていたしのぶだが、改めて小芭内から挑発気味に問われると、だんまりを決め込むのも負けな気がした。

 

「・・・そうですね。しのぶさんとは・・・お付き合いをさせていただいてます」

 

 気恥ずかしそうに暁歩が告げると、『きゃーっ』と蜜璃は楽しそうに頬に手を当てる。

 すぐ隣に座るしのぶの顔色を少し窺ってみると、蜜璃の純粋な反応を見て微笑ましいのか、それともやはり恥ずかしさは感じたのか、深い笑みを浮かべている。

 

「おめでとうって言っていいのかな・・・でもよかったね!」

「ありがとうございます・・・」

 

 無邪気に笑って祝ってくれる蜜璃に、しのぶは軽く頭を下げる。蜜璃が陰ながらしのぶのことを心配していたのは暁歩も知っていた。しのぶの中にどす黒い感情が渦巻いているのにも気づいていたからこそ、人並みの幸せ(と暁歩が言っていいのかは分からないが)をしのぶが掴めたことが嬉しいようだ。

 その一方、小芭内はまさに意表を突かれたように、目をほんの少し見開いて暁歩を見ていた。

 

「それなりの度胸はあったわけか」

「それ、褒めてるんですか?」

「褒めてはいないが驚きはした。胡蝶とそういう仲になる輩などいないものと思ったからな」

 

 小芭内は以前、暁歩としのぶがそれなりに仲が良さそうとは思っていたが、男女の仲とまでは考えていなかった。それは、鬼殺隊最強である柱は、強さはもちろん、背負う覚悟や誇りなども含め、一隊員とは住む世界が違うからだ。

 恋愛関係というものは相手の心の奥深くまで知る必要がある。故に、普通の隊員が柱の内面を全て受け止めきれるとは、小芭内も思っていない。以前の柱稽古の最中、休憩時間に男の隊士たちが脳内彼女を作っているなんて話をちらっと耳にし、しのぶや蜜璃を相手に設定していると聞いた時は、なんと愚かなものかと思った。

 だから、特殊な事情があって蝶屋敷の薬剤師を務めているのは知っていても、結局は柱ほどの強靭な身体や心を持たない(と思っている)暁歩が、こうしてしのぶとそういう関係になったことが驚きだった。

 

「暁歩くん、ちょっといい?」

「?分かりました」

 

 するとそこで、今度は蜜璃が暁歩に話があるらしく、客間から連れ出そうとした。それに暁歩は頷いたが、小芭内からは殺意混じりの視線を向けられ、しのぶからは普段と変わらないように見えて不機嫌そうな笑みを向けられた。自分はあまり信用されていないのかな、と少し自信が持てなくなる。

 

「暁歩くん、しのぶちゃんと付き合うようになったんだ?」

「ええ・・・まぁ・・・」

 

 そして、客間から離れた廊下で、蜜璃が暁歩に話しかける。いざ改めて問われると、答えるのは少しばかりの恥ずかしさが混じるものだ。相手が純情な蜜璃だからこそでもある。

 だが、次に暁歩に言葉を掛けた時は、蜜璃の表情が真剣味を帯びたものとなっていた。

 

「じゃあ・・・しのぶちゃんの黒い気持ちと向き合うって決めたんだ」

 

 暁歩の知っている限りでは、蜜璃はしのぶの過去に何があったかを大まかに、又聞きでしか知らないはずだ。それでも、しのぶの中に復讐心や深い悲しみなどが淀んでいることには気づいていた。そしてそのことは、暁歩に以前話している。

 

「・・・それは、元から覚悟していたことです」

「そうなんだ・・・」

「俺にできることは限られてますし、大それたこともできないとも思いますが・・・」

 

 どうあがいても、どれだけ努力を重ねても、元々自分は心身ともに弱いという事実は変わらない。そして、そのしのぶの感情と向き合っていくと決めても、それを完全に解消させることは、難しいだろうとも思っている。

 

「それでも、できる限りのことをして、向き合うことだけは止めたくないと思いますよ」

 

 だが、それは最初から決めていたことだ。しのぶの悲しい過去を聞いた時から、ずっと考えていたことだ。あの話を聞いた以上は、目を背けることは自分で許せない。その気持ちに寄り添っていくのだと、自分で決めている。初めて会った時からより親密な関係となった今は、それも強固な意志となっている。

 

「・・・そっか。後悔とかもないんだ」

「覚悟の上ですよ」

 

 最終確認のように蜜璃に問われても、答えは変わらない。

 すると蜜璃は、ニコッと笑って満足げに頷いた。

 

「しのぶちゃんのこと、お願いね。って、私が言うのもなんだかおかしいけど・・・」

 

 おどけるように笑みを浮かべる蜜璃に、暁歩も小さく笑い、二人で客間へと戻る。

 その後は戻るや否や小芭内から『甘露寺と何もなかっただろうな』『本当だろうな。本当に何もなかったんだろうな』と詰問、もとい尋問を受ける結果になったが、洗濯を終えたきよたちが合流したことで、あとは和やかな時間が過ぎることになった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「へぇ~、甘露寺さんたちが来たんですか」

 

 その日の夕食の席で、話題は午前に訪れた蜜璃と小芭内のことになった。しのぶが持ち出したその話題に反応を示した炭治郎は、蜜璃や小芭内とも面識があった。気難しい性格の小芭内とは、打ち解けた様子ではなかったらしいが。

 

「お元気そうでしたか?」

「ええ。帰る時は残念そうでしたが」

 

 蜜璃たちは、午前の内にお暇した。長居するのは悪いとのことで引き留めはしなかったが、蜜璃は炭治郎たちによろしく伝えてほしいと言っていたと同時に、残念そうにもしていた。炭治郎たちが帰って来たのは夕方頃なので、どうしても顔を見せる事はできなかったのだ。

 

「甘露寺さんかぁ・・・柱稽古で会ったことがあるけど、なんだか楽しそうな()の人だったな~。後可愛かったし」

 

 そこで善逸は、かつての地獄のような柱稽古の中で、癒しとも言えた彼女のことを思い出す。蜜璃の課した稽古自体は楽ではなかったが、休憩時間に紅茶やパンケーキを振舞うなど、他の面々と比べれば優しかった。教える役が綺麗な女性だったので、尚更。

 すると、その善逸の隣に座る禰豆子が若干むくれる。善逸のことを憎からず想っている彼女にとっては、善逸が他の女性のことを褒めたのが気に喰わないらしく、いわゆる嫉妬だろう。その様子を静かに見ていた暁歩も、今のは善逸の失言だなと、冷静に評価した。

 

「あいつの稽古なんて屁でもなかったぜ!」

 

 一方で伊之助は、蜜璃の稽古を思い出したのか、『ふふん』と鼻息を吐いて得意げだ。

 そこで、童磨との戦いで伊之助は、腕の関節を全て外して本来の間合いの外側にも斬撃を届かせるという、文字通り離れ業を見せていたのを暁歩とカナヲは思い出す。彼からすれば、柔軟を主体とする蜜璃の稽古は本当に大したことはなかったのかもしれない。

 

「伊黒さんも元気でしたか?」

「ええ、まあ・・・相変わらずでした」

 

 続く炭治郎の質問に、暁歩も苦笑気味に答える。すると、隣に座っていたしのぶが、ふふっと少しだけ笑った。暁歩の言い方が若干ツボにはまったらしい。

 

「なんでか俺・・・伊黒さんからの風当たりが結構強かったんですよ・・・」

「あー、それは・・・」

 

 その理由には思い当たる節がある。

 柱稽古で暁歩が小芭内の下へ薬を運んだ時、軽い雑談程度で聞いた話だ。蜜璃と文通をしている小芭内が、稽古を受けている炭治郎が蜜璃と親しくしているらしいと手紙で読んだという。まず間違いなく、それが原因だろう。

 ただ、これは炭治郎には何の非もない(と思う)し、素直に言うと小芭内の株が下がりかねないので、黙っておくことにした。

 

「まぁ、あの人も結構気難しいところがありますから」

「その気難しい伊黒さんと、割と友好的な暁歩さんも大したものとは思いますよ」

「友好的・・・あれでですか?」

「ええ。珍しいです」

 

 暁歩が炭治郎にそう告げると、隣のしのぶが差し挟む。同じ柱で、小芭内との交流はそれなりにあったしのぶからしてみても、彼の性格的に仲良くできる者は―――蜜璃はともかく―――ほとんどいないと思っていた。

 なので、そのしのぶから見て、ああして話ができる暁歩のような人間は実に珍しかった。その小芭内と接した当人さえ友好的と思っていないのは仕方ない。

 

「何でそう・・・友好的だったんでしょうね」

「さぁ、どうでしょうね」

 

 だが、どうしてそう友好的だったのかは、暁歩には分からない。

 それもしのぶは、お互いに親密な女性がいるという共通点からかもしれないと思っている。そう思うと、類は友を呼ぶという言葉も案外当てはまりそうだ。

 

「でも、皆元気そうでよかった・・・」

 

 しかし、近況を暁歩たちから聞くと、炭治郎は心底ほっとしたような表情を浮かべた。

 その言葉には、表面上からは感じ取れない思慮も含まれているように暁歩は思う。いや、暁歩だけでない他の面々もそれを感じ取ったらしい。伊之助でさえ、食を止めた。

 鬼殺隊の戦いで、特に最終決戦では多くの隊士が命を落としている。この場にいる者のほとんども、大怪我を負った。それが今、こうして快復して以前のような生活を送ることができている。自分もまた重傷だったから、炭治郎の安堵の気持ちも大きいのだ。

 その言葉に最初に反応したのは、カナヲだ。しかし、何か言葉を掛けるわけでもなく、炭治郎の空いた手に、自分の手をゆっくりと重ねたのだ。

 

「・・・・・・」

 

 炭治郎は、その不意のカナヲの行動に驚いたようだが、すぐに笑みを浮かべる。カナヲもまた、普段の感情の読めない笑みとは違う、喜びの笑みを浮かべた。

 

「オイオイオイ炭治郎、なーに飯の時間にいい雰囲気になってんだよ?」

「いや朝の善逸くんも大概でしたよ」

「へ?」

 

 そこで善逸が妬ましそうに炭治郎に告げるが、今朝の禰豆子にデレデレだった善逸も大概だと思ったので、暁歩が冷静にツッコむ。すると、禰豆子が思わず吹き出してしまい、場の雰囲気が弛緩した。炭治郎とカナヲは、今頃恥ずかしくなったのか手を離して食事に集中する。

 そうして、また賑やかな食事の時間が再開された。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 食事を終えて片づけの後、暁歩としのぶは屋敷の裏手にある花畑に足を運んでいた。ここは普段から手入れをしている場所ではなく、自然に多くの花が自生している。善逸が度々禰豆子と一緒に出向くのも分かるほど、綺麗に花が咲く場所だ。

 そんな花畑を、静かに歩く二人。普段から屋敷では必要以上に引っ付くことはないが、それでも二人だけの時間が欲しいとは思わなくもない。そんな時の過ごし方は、縁側で月を眺めたり、腰を下ろして静かにお茶を楽しんだりと様々だ。こうして二人で夜の散歩に出かけるのも、初めてではない。

 

「綺麗に咲いていますねぇ」

「そうですね・・・昼間にも見てみましたけど、この時期は確かに綺麗に咲きますね」

 

 明るい時間に見る花も確かに綺麗だが、今のような暗い時間帯で見る花も乙なものだ。星や月の光の下に咲く花は、昼の花とは違い落ち着いた印象を抱かせる。自然と、見ている暁歩たちの心も落ち着くようだ。

 

「甘露寺さんたちもきっと、気に入ったことでしょう」

 

 蜜璃と小芭内の帰り際、きよたちがこの花畑を見てきてはどうかと、蜜璃に話していたのを思い出す。それを聞いた蜜璃は嬉しそうだったし、花が好きとも言っていたので、きっとこの花畑を見て気に入ったに違いない。小芭内も恐らくは、そんな風に花を楽しむ蜜璃を見て内心は心地よかっただろう。

 

「入れ違いで炭治郎くんたちが帰ってきたのは少し惜しかったですが」

「そうですね・・・ただ、伊黒さんはあまり炭治郎くんのことが好きじゃなさそうでしたから、その点は幸いかもしれませんが」

 

 そうして話している内に、しのぶの歩調が遅くなってくる。

 やがて、花畑のほぼ中心でしのぶは足を止めた。そして、おもむろに屈んで、足元に咲く秋桜(コスモス)の花を愛おしむかのように指でそっと撫でる。

 そこで暁歩の脳裏に、焙るような痛みが浮かび始める。その痛みの正体が『嫌な予感』だと気づくのに、そこまで時間は要さなかった。

 

「・・・少し、よろしいですか?」

 

 そしてしのぶは、秋桜に視線を向けたまま、そう声に出す。

 これから口にするだろう話は、決して良い話ではないことは暁歩にも分かる。かと言って拒絶するつもりもないので、『何でしょうか』と物腰柔らかく答えながら、しのぶの横に暁歩は立つ。

 返事をしてくれたこと、そして隣に暁歩がいることで安心したのか、しのぶは口を開く。

 

「昨日、炭治郎くんの身体を診たと思うのですが・・・何か異常などはありませんでしたか?」

「異常・・・ですか?いえ、傷ついた箇所以外は特に・・・」

 

 いきなり炭治郎のことを持ち出されて面食らうが、正直に答える。ここで嘘を吐いてしまえば、以前のようにしのぶから笑顔で説教を喰らいかねない。それ以前に、そもそも本当に異常がなかったものだから、そう答えるほかなかった。

 

「・・・やはり、何事もないようだったんですね」

「・・・それが何か、問題でも・・・?」

 

 しかし、しのぶの言葉はもったいぶるようでいて、何の問題もないと言っても少しも嬉しそうではない。

 綺麗な花畑の真ん中にいるはずなのに、空気が重くなるような感覚を覚える。

するとしのぶは、『少々残酷な話ですが・・・』と前置きをして、続ける。

 

「炭治郎くんの額あたりに、痣があるのは知っていますよね」

「ああ・・・確か、最初は火鉢をぶつけたって聞きましたけど・・・違うんですか?」

「ええ。あの痣は、ただの痣ではありません」

 

 しのぶが言うには、鬼殺隊のごく一部の人間は、炭治郎と同じように『痣』が発現したと言う。それは今の鬼殺隊の世代に限った話ではなく、過去にも何度も、何人も、同じように痣が出ることがあったらしい。

 その痣が発現すると、体温が急激に上がるのと同時に、身体能力が全集中・常中を会得した時とは比べ物にならないほど向上するのだ。そこで暁歩は、以前炭治郎の体温だけが高くなるという異変を思い出した。

 

「その暁歩さんが診ていた症状も、痣によるものです」

「・・・・・・」

「痣は、鬼殺の剣士の力を引き出すものだったんですよ」

 

 暁歩は、痣の話は今回が初耳だった。なので、齎される情報はしのぶの口から説明されることがすべてだ。

 それでいて、今までの話だけを聞けば、『痣』とは力を引き出す素晴らしいものという印象が強いが、それならなぜこの話をするしのぶの語調は暗いのか。

 

「・・・しかしこの痣を発現させた方は・・・」

「?」

()()()()()()()()・・・二十五歳を迎える前に亡くなります」

「は?」

 

 そして告げられた、あまりにも唐突で、残酷な事実に暁歩の口がぽかんと開く。

 確かに痣を発現させた者は、自分の力を最大限引き出すことができるようになるが、所詮それは寿命の前借でしかないというのだ。痣が発現すれば、男も女も関係なく、二十五歳を迎える前に死ぬ。それは病の類ではない、言ってしまえば『摂理』だ。故にどんな治療をしても止められず、薬だって何の効果もない。

 これまでに痣を発現させた人間は十人にも満たないが、大半は無限城での最終決戦で亡くなり、残酷なのはそのほとんどが暁歩も面識のある人だ。中には炭治郎や、蜜璃までいる。

 

「・・・・・・」

「・・・きっと、そういう表情をすると思いましたから、今まで言ってきませんでした」

 

 しのぶの表情も言葉も、悲痛そのもの。痣の話を聞いた時から、その宿命を憂いていたのは想像に難くない。

 そしてしのぶがそう言うということは、暁歩の顔も同じように悲しみに染まっているのだろう。自分の親しい人が近いうちに必ず死んでしまうと知って、平静を保っていられるほど図太くもなかった。

 そして新たに、暁歩の中に不安が生まれる。

 今自分の目の前にいるしのぶもまた、痣が発現したのではないか?

 

「幸か不幸か・・・私には痣は現れませんでした」

 

 悲しげな笑みでしのぶが告げる。

 痣を発現させるのは簡単ではないが、しのぶだって柱になるまでに、そして柱になっても鍛錬は欠かさなかったつもりだ。それでもやはり、どう頑張ってもその努力の証である痣が発現しなかったのは、しのぶを複雑な気持ちにさせるものだろう。

 そして、しのぶが痣者ではないという事実に、早くに死ぬことはない事実に安堵している暁歩がいる。自分勝手とも取れる思考に、自己嫌悪に陥りそうだ。

 

「・・・そして、炭治郎くんに痣が発現したとなれば」

「・・・カナヲさんや禰豆子さんたちも、当然悲しむでしょうね」

 

 今は皆が眠っているであろう屋敷の方を向いてしのぶが告げると、暁歩もその意図に気付く。

 カナヲにとって炭治郎は初めての想い人であり、禰豆子にとっては唯一の肉親。善逸と伊之助にとっても唯一無二の親友だ。皆の仲が良いことは今回の来訪に限らず、鬼殺隊が解体される前の蝶屋敷での生活で分かっていた。

 そして、暁歩やしのぶとしても、悲しまないはずもない。暁歩は炭治郎との交流を経て、自分から全集中・常中の修行に励むようになり、それだけでなく友人のような関係にまで発展した。しのぶも、炭治郎に亡き姉の『鬼と仲良くなる』という思いを託そうとするほどには、炭治郎のことを理解もしていた。だからこそ、その炭治郎が必ず若くして死ぬことが、それが分かっていてもどうにもできないことが歯がゆくて、そして何より辛い。

 

「・・・どうして今、それを俺に教えたんですか?」

「・・・耐えきれなかった、というのが本音ですね」

 

 立ち上がるしのぶだが、それでも視線は暁歩に向けようとしない。

 

「今日、甘露寺さんがここへ来て、私や暁歩さん、きよたちと楽しそうに話しているのを見て・・・炭治郎くんたちが来て、皆と仲が良さそうな姿を見て」

「・・・・・・」

「・・・その先にある悲しい最期を思うと」

 

 しのぶが恐れているのは、今の幸せを突然喪ってしまうこと。

 だが、今が幸せだとしても近いうちに必ずその幸せが喪われると分かっているのは、心を押し潰すような不安な気持ちにさせられる。それに耐えきれない。

 

「それと、痣のことを最初に知った頃は、まだ正直・・・全てを教えると暁歩さんも耐えられないだろうと思いました」

 

 柱稽古が始まる前の緊急柱合会議。そこでしのぶは、他の柱と同じく産屋敷あまねから痣についてのことを聞いた。その時の暁歩はと言えば、まだ負傷した隊士の治療と薬の調合に専念し、心身ともまだそこまで成長はしていなかったとしのぶは思っていたのだ。

 

「けれど今、暁歩さんは強くなったと考え・・・教えようと思ったのです」

 

 しのぶの目から見れば、暁歩が本当に変わったと思うのは、童磨との戦い。しのぶの死を直前で防ぎ、命を繋ぎとめ、カナヲや伊之助と共に童磨を斃した。あの時明確に、暁歩は変わったと感じ取ったのだ。

 

「痣を発現した人は、誰もがその覚悟を背負っている。炭治郎くんも例外ではありません」

「・・・・・・」

「かつての暁歩さんがそれを聞けば、きっと・・・心が曲がってしまうかもしれませんでしたから」

 

 暁歩は、病を和らげる薬を調合する技術がある。そして、蝶屋敷で生活する中で、怪我を治す技術も身に付いた。

 だが、それらをもってしても絶対に救えない命がある。しかも、自分の身近な場所に。

 それを、かつての自分が知ったらどうなっていたか。おそらくしのぶの言う通りで、決して良い結果を生みはしなかっただろう。

 

「・・・確かに、前までの俺だったら・・・心が折れていたかもしれません」

「・・・・・・」

「だけど今は、痣が出た皆さんの未来が決まっているのであれば、その時まではできる限りのことをして、力を貸そうと思います」

 

 どうあがいても死ぬ未来が決まっているのであれば、当人たちが覚悟を決めているのであれば、もはや多くを言わない。覚悟を背負った人ではない、その事情を聞いただけの人が落ち込むのは滑稽だ。

 ただし心に決めるのは、その最期の時を迎えるまで生きられるように、影ながらでも見守り、支えること。それしかできないのはもどかしいが、それが最大限できることだとすれば、それは必ず遂げてみせる。

 

「・・・そうですか」

 

 その言葉と覚悟に、一瞬だけしのぶの雰囲気が和らいだように感じた。

 

「・・・本当、強くなりましたね。暁歩さんも」

「強くなった・・・というか、ものの見方が変わっただけかもしれませんけど」

「それも簡単にはできないことですよ。自分の中の考え方とは、自分のことのはずなのに思うように変えるのが難しいですから」

 

 それを実体験のように語るしのぶ。

 かつてはしのぶも、自分の両親を殺した『鬼』との和解を目指したカナエについていこうとした。しのぶだって鬼が憎いと思っていただろうに、その姉の意志に従おうとしたのも簡単とは言えなかった。そうした過去があるから、しのぶの言葉にも芯が通っている。

 

「そして私は・・・そんな心が強くなった暁歩さんを頼ってしまうことが多いと、自分でも思います」

「・・・・・・」

「いけませんよね、それでは」

 

 悲しい思いを口にせず、心に溜め込んでおくことは、一見簡単なようで難しい。それには強い心が必要だった。しのぶも自分はそういう心を持っていると自負していたからこそ、暁歩に出会ってから打ち解けるまで、ずっとそうしていた。

 けれど今は、暁歩に身も心も許しているからこそ、その悲しい思いを簡単に吐露できてしまう。それは普通に考えれば特に問題はないはずだが、頼れる人ができるとすぐにこうして口にし、頼りきりになってしまう。

 手合わせの時も思ったが、ただそれだけでは駄目だというのに、そうしてしまう。

 

「しのぶさんは、今までずっと一人で多くを抱え込んできたんですから・・・もうこれ以上、無理にそういう気持ちを我慢することはありませんよ」

「・・・・・・」

「それに俺は、しのぶさんがただただ暗い気持ちを自分の中に抑え込んで苦しんでいるのを見るのは、一番辛いですから」

 

 しのぶの手を、暁歩は静かに、優しく握る。

 

「そして、初めてあなたの話を聞いた時から、俺はあなたのことを支えたいと思っていました。それは今も変わりません。だから、こうして頼られることを俺は全く不快とは思っていませんよ」

 

 しのぶの大きな菫色の瞳は、暁歩の顔を見据えている。

 

「もちろん、あなたがそうした不安や悩みを抱えているのなら、俺はそれと向き合い、一緒に背負う覚悟だってしています。それこそ・・・死ぬまで」

 

 しのぶの小さな手は、確実に暁歩の手を握り返している。

 

「この先、俺はあなたのそばに居続けます。幸せを守り、あなたの心の重荷を一緒に背負い、心を癒すために」

 

 しのぶの頬は、暗くても朱に染まっているのが分かる。

 そんな彼女から、暁歩は決して目を離そうとはしない。

 

「だから・・・しのぶさん」

 

 自分の中で固めていた決意。口にするのは難しいことではないはずだが、いざ言おうとすると心臓が大きく跳ねる。

 しかししのぶは、まるで暁歩が何を言おうとしているかを分かっているかように、そして待っているかのように、何も言わずに笑みを浮かべたままでいる。

 それで踏ん切りがついた暁歩は、ほんの少しの間口と目を閉じてから、自分の中の緊張を抑え込んで言葉にする。

 

 

 

「俺と・・・夫婦になってくれませんか」

 

 

 

 それは、この先の生涯をかけて、しのぶを支える暁歩の覚悟の言葉。

 また、しのぶを愛している暁歩の願いでもある。こうして真っすぐな言葉を投げかけたことは、初めてだ。

 

「・・・私で、本当にいいんですか?」

「はい。俺には、あなたと共にいる未来しか、考えられません」

 

 しのぶも、そう問い返したのは嫌だったからではない。暁歩とそうなることを望み、考えていたから、お互いの意志が同じであることを確かめたかった。

 そして暁歩の返事を聞いて、しのぶもまた自らの中にある心からの願いを、口にする。

 

「暁歩さん」

「はい」

 

 瞳から涙が溢れ出たのは、どちらだっただろうか。

 

 

 

「・・・私をずっと、傍に置いてください」

「・・・はい」

「私の傍に・・・ずっといていください」

「・・・はい」

 

 

 

 その手を握り合ったまま、誓い合う。

 そしてお互い握る手に力がゆっくりと籠っていき、やがて惹かれ合うように抱擁を交わす。自分の最愛の人が傍に居ることを確かめるように、愛情を示し合うように。

 暁歩もしのぶも、度合いが違っても、お互いに理不尽に幸せを喪った者同士だ。だから、漠然と幸せが続くとは思えないし、今感じている幸せさえも喪ってしまうのではないかと、恐れを抱いてもいる。

 けれど、お互いに今ある幸せを決して喪わないように、自分ができることを最大限にやり遂げる。力をつけ、知識をつけ、幸せが続くようにしていく。

 それは分かっていても、今だけはこうして、愛情を確かめ合いたい。

 夜空に浮かぶ綺麗な月だけが、そんな二人のことを見守るように輝いていた。




これにて、『蝶屋敷の薬剤師』は本当に完結でございます。
長期に渡る連載となりましたが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

筆者は単行本派ということもあり、本誌で最終話まで読んだ方からは、話の展開や生存するキャラについて『少し違う』というご意見もいただきましたが、
こちらの作品はあくまで『あったかもしれない可能性のお話』と捉えていただければ幸いでございます。

筆者が初めて手掛けた鬼滅の刃の二次創作ですが、『胡蝶しのぶという人物にほんの少しでも救いを』という思いから書き始めた本作が、こうして多くの方の目に留まったこと、多くの方から評価や感想をいただいたこと、とても嬉しく思います。

重ね重ねとなりますが、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。評価をしてくださった方も、感想を書いてくださった方もまた、感謝の念に堪えません。本作での経験を糧に、今後も執筆に励む所存でございます。

それではまた、どこかの場でお会いする時がございましたら、
その時はまた応援していただけると幸いです。


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家族の日記念
終章:家族


こんばんは。
鬼滅の刃最終巻まで読了し、本日は家族の日と言うことで、思い浮かんだお話を投稿させていただきました。
最後までお付き合いいただければと思います。


 街道の交差点にあたる町は、今日も今日とて賑わっている。多彩な小間物屋や八百屋、食事処などには多くの客が出入りし、威勢のいい店主の声や、親し気に値引きをする客などで活気に満ちていた。

 帝都では西洋の文化を取り入れつつあり、場所によっては自動車なる便利な移動手段も流通しつつあるらしい。だが、少なくともこの町はまだ、その類のものはない。強いて言えば、元々は茶屋だった店がハイカラな飲食物を扱う喫茶店に変わったぐらいだ。

 そんな町には、賑やかな雰囲気とは一線を画す静かな佇まいの店もある。それは取り扱う商品や店主の雰囲気など理由は様々だが、そうした店は騒いではならないと理性が訴えてくるのだ。

 暁歩が立ち寄った和菓子屋もまた、その静かな佇まいの店に含まれる。元々底抜けに明るいわけでもない性格だが、こうした店では『なお静かにしなければ』と意識が引き締まるのだ。

 

「和三盆カステラ、二十箱だ」

 

 そんな静かな店に入る、とんでもない注文。

 店員の笑みが、面食らったような引きつったものに変わる。カステラはそれなりに高価なもので、これまでの客も一度に買うのは二~三箱がせいぜいだろうから、その前例が打ち砕かれたわけだ。

 しかし、注文をした当の小芭内は、何もおかしなことは言っていないという風に堂々とした態度だ。さらに、首に巻き付く鏑丸が舌をチロチロと出しつつ店員を睥睨すると、店員たちはせかせかと用意しだす。

 

「どうぞ…」

 

 ぎこちない笑みで、店員がニ十箱のカステラを用意する。小芭内は頷くと、しっかりとその分の代金を渡す。現実離れした注文に、店員たちは代金を受け取ってもなお驚きが引かないようだ。

 

「あ、自分は二箱お願いします」

 

 そこで暁歩が付け足すように注文すると、今度は特に緊迫感もなく店員がカステラを用意してくれた。小芭内の二十箱という注文の衝撃が過ぎたか、地に足のついた数量に安心したのかもしれない。

 

「それ、全部甘露寺さん宛にですか?」

「愚問だな。他に誰に贈るとでも?」

 

 代金を払い、店を出たところで訊いてみる。だが、量云々は兎も角、小芭内が自分以外の誰かのために買うとなれば、もはや一択だ。小芭内の答えでそれを確信したので、暁歩は『ですよね』といっそ安心感すら抱いて笑った。

 

「お前は、蝶屋敷の連中にか」

「ええ。もし余るようなら、来客用にでも取っておきます」

 

 蝶屋敷で暮らしているのは暁歩を除けば六人。二箱も買えば数に不足はないだろう。

 こうして並んで歩く暁歩と小芭内だが、別に予め約束を取り付けていたのではない。買い出しに来ていた暁歩が、偶然にもこの町で小芭内を見かけ、そして現在に至っている。小芭内は気晴らしの散歩とのことだ。

 

「時に佐薙」

「はい?」

「お前、胡蝶と祝言を挙げる予定と甘露寺から聞いたが?」

「ええ、そのつもりです」

 

 歩く中で小芭内が訊ねるが、暁歩は逡巡もなく答える。

 暁歩と小芭内は、鬼殺隊所属の頃から交流があり、解隊後もそこそこにやり取りはしている。しかしながら、未だにこうした内輪の話を気軽に話すほどに打ち解けてはいない。だから、しのぶや蜜璃たちとのやり取りも話してはいなかった。

 それでもこうして訊ねたのは、蜜璃から聞いたことで多少なりとも興味が湧いたからだろう。

 

 

―――――――――

 

 

 蝶屋敷ぐるみで付き合いのあった蜜璃は、今も度々暁歩たちの下を訪れることが多い。同じ柱であったしのぶは元より、きよとすみ、なほやアオイも可愛がってもらっているし、最近では感情豊かになったカナヲとも仲良くなっている。暁歩も個人的な交流に加え、しのぶという共通の守りたい親しい人がいるから、関係は希薄とは言えない。

 そんな彼女に、暁歩はしのぶと祝言を挙げることを先日伝えていた。無論、その場にはしのぶもいて、承諾も得た上で。

 

「えっ、嘘っ?ホントに?」

 

 それを伝えた時の蜜璃は、土産に持ってきた好物の桜餅を落としてしまうほどに驚き、驚愕と安堵の二つの感情が入り混じった表情を浮かべていた。

 だが、状況を飲み込むと、目尻に涙を浮かべてしのぶを抱き締め、喜びを露にする。

 

「よかった、よかったねぇ…」

「甘露寺さん…」

「自分のことじゃないのに…何だかすごく嬉しい。あはは、可笑しいかな…?」

「いいえ…甘露寺さんが喜んでくださると、私も嬉しいですから」

 

 元々、自らが理想とする男性と出会うことを強く願っていた蜜璃は、他人の幸福にも素直に喜びを見せる女性だ。感情表現が豊富なのもあり、自分以外の誰かにも感情移入しやすい。だからこそ、女性としての幸福を掴み取ったしのぶに対し、こうして喜びを露わにできるのだろう。

 

「あれ、告白はどっちからしたの?」

「…俺です」

 

 素朴な蜜璃の質問に対し、暁歩は躊躇いつつも答える。自分のしたことに後悔はないし、それが間違っているとは思わない。それでも、自分が想いを伝えたのを改めて第三者に伝えるのは、何とも気恥ずかしい。

 だが、暁歩の答えに蜜璃は『きゃー』と口元を手で覆ってはしゃいでいるし、しのぶはしのぶで暁歩に愉しそうな笑みを向けている。自分の劣勢は明らかだ。

 

「でも、そっかぁ…しのぶちゃんが祝言かぁ…」

 

 しのぶを解放すると、感慨深そうに蜜璃が呟く。

 しんみりしているようだが、その気持ちは暁歩も分かる気がした。何せ、蜜璃はかなり前からしのぶが心の奥底にどす黒い感情を押し込んでいるのを見抜き、その心がいつか押し潰されてしまわないかと案じていたほどだ。

 そのしのぶが心に背負っていた重荷から解放され、幸福に一歩近づくことは、蜜璃からしてみればとても嬉しいことだろう。蜜璃にとっての心配事も払拭されたのだから、その喜びは殊更強いはずだ。

 

「暁歩君も頑張ってね」

「もちろんです」

 

 蜜璃から微笑みかけられると、暁歩も力強く頷く。

 暁歩もまた、蜜璃からしのぶの支えになるよう言われていた。その言葉があろうとなかろうと、暁歩はしのぶの過去を聞いた時からそうするように自分の心に決めている。その上で、自らしのぶを好いて想いを通わせ合ったのだ。この先暁歩も、多くの意味で頑張らなければならないのは分かっている。

 でなければ、残りの人生を共に歩むなど、半端な覚悟ではしのぶに伝えない。

 

 

―――――――――

 

 

「そうか。まぁ、精進することだな」

「そうします」

 

 小芭内は真偽を確かめられて満足したらしい。暁歩はその言葉に、頷き返す。

 そこで暁歩は、話の流れで一つ訊いてみた。

 

「伊黒さんはどうなんですか?その…甘露寺さんとは」

 

 小芭内が蜜璃に気があるのは、既に暁歩も知っている。最終決戦以降も一緒にいるのは何度か見ているので、関係が進展していてもおかしくはない。元柱を相手に大胆な質問だろうが、流れ的にこれぐらいは訊いてもいいだろう。

 

「…お前に教える義理はない、と言いたいところだが…お前たちのことを聞いた以上それは邪険すぎるか」

 

 小芭内も、暁歩の話を聞いた手前、無下には断れないと判断したらしい。前にしのぶや蜜璃から聞いた話では、小芭内も言い方が厳しいだけで、実のところ協調性はあるとのことだ。根は意外と真面目なのかもしれない。

 

「鬼殺隊の時から、特に変わりはない」

「変わらない?」

「時々町へ行って店を見て回ったり、甘露寺が美味しそうに食事をしているのを眺めたり、あるいは文通をしたりしている。それ以上のことはない」

 

 小芭内の説明に対して暁歩は心の中で首を傾げる。

 聞いた限りでは、鬼殺隊の時から進展していない状態だ。鬼殺隊の解隊からまだ一年は経っていないが、それでも月日はそれなりに流れている。それでもなお関係に変化がないとは、意外にも小芭内は奥手なのだろうか。

 

「お前と胡蝶のようになるのを期待しているようなら先に言っておく。今の俺にそのつもりはない」

「え…」

「そんな資格は…甘露寺の傍にいる資格は、今の俺にはない」

 

 歩調こそ変わらないが、その口ぶりはいつになく悲しみを帯びている。首に巻き付く鏑丸は、彼の意思を全て理解しているかのように目を伏せた。

 そんな空気の変わった小芭内を見て、暁歩の中に嫌な予感が走る。

 小芭内の言葉は、これまでのねちっこい言動とはまた別の意味で重みがある。それは単に自分に自信がないだけではなく、それ以上にもっと大きな事情が背後にあると察することができるほどだ。

 しのぶやカナヲ、天元もそうだったが、鬼殺隊には鬼に親しい人を殺されただけでなく、複雑な事情を抱えて入隊した者も多い。もしかすると、小芭内も話さないだけで何かしらの紆余曲折を経験したのかもしれない。それも、乗り越えようとして乗り越えられるものではなく、本人からすれば罪のような深いトラウマだ。

 

「…そうですか。分かりました」

 

 そこまでの考えに達し、暁歩はそれ以上触れるのを止めて、当たり障りのない返事だけしておく。それを聞いて、小芭内の纏う空気がほんの少しばかり緩んだのを感じた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

「…伊黒さんがそんなお話を」

 

 屋敷へ戻った後、暁歩はしのぶと居間で今日あったことの話をしていた。傍らにはしのぶが淹れてくれた緑茶と、暁歩が買ってきたカステラが置かれている。

 しのぶは、暁歩の話を聞くと苦笑いを浮かべた。

 

「確かに、伊黒さんはご自身のことをあまり多く語らない方でした」

「俺も何度か話をしてますが…そうですね。生い立ちとかは話しません」

「後話すことと言えば…甘露寺さんのことがほとんどですし」

「それは…確かにそうでしたけど」

 

 冗談じみた言葉だが、過去に暁歩は蜜璃に関する相談を受けた例がある。それ以外でも、小芭内と話をする際は必ず蜜璃の名が出てくるものだから、しのぶのそれも一概に否定はできない。

 小芭内の過去は気になるところだが、同時にその意中の相手である蜜璃についても気になった。

 

「甘露寺さんは、どうするんでしょうか…」

「さて。伊黒さんは兎も角、甘露寺さんは伊黒さんのことを憎からず思っているようですし」

 

 最初の頃は、小芭内は蜜璃に対し片思いを抱いているだけかと思ったが、蜜璃としても小芭内に対してはそれなりの感情を向けているのが最近では窺える。正直なところ、蜜璃もまた小芭内に淡い想いを抱いていると、暁歩としのぶは踏んでいた。

 だが、そうだとすれば小芭内の意思を考えると色々収まりが悪い。

 それだけでなく、蜜璃も小芭内も寿命を縮める『痣』を発現した者同士だ。残された時間は二人とも数年と、あまり長くない。寿命が縮むのは避けられないにしろ、それなら最期の時までは悔いなく過ごしてほしい。

 

「けれど、私たちがどうこうできる話ではありません。ここはお二人に任せるとしましょう」

「やっぱり、それしかないですよね」

 

 結局のところ、しのぶの言う通りに第三者でしかない自分たちは静観するしかないのだ。元鬼殺隊の誼と言えど、口出しできる限度というものはある。

 

「ところで」

 

 すると、しのぶはお茶を一口飲んで仕切りなおす。浮かべているのは普段と同じ微笑みだが、心なしか真剣みを帯びているようにも見える。

 

「祝言を挙げること、伊黒さんにも伝えたんですね」

「はい。聞かれたのもありますが、伊黒さんになら伝えても良いかと」

 

 この話を他にしたのは、蜜璃だけでなく、蝶屋敷で一緒に暮らすカナヲやアオイ、きよたちだ。彼らにとっても関わりの深い炭治郎や禰豆子たちにはまだ話しておらず、手紙などで伝えようかと思っている。

 今そのことに言及されたのは、しのぶの与り知らない場所で話してしまったのが不味かったのかと思ったが、どうも違うらしい。

 

「まさか…少し前まではこうなるとは思ってもいませんでしたから…。その時が近づきつつあるのだな、と感慨深く思うんです」

 

 そう告げるしのぶの表情に翳りは見られない。しかし恐らく、今のしのぶの心の大部分を占めているのは不安や緊張だろう。

 無理もないと、暁歩は思う。元々しのぶは、自分の身体に毒を溜め込み、命を擲ってでも仇敵を討とうと覚悟を決めていた。生きること、幸せを掴むことを半ば諦めていたからこそ、その先でどうあるべきか悩み、暁歩にも相談するほどに揺れていた。

 そして、何度目かの人生の転換点が今近づきつつある。それを、他人に話が伝わるという形で実感しているからこそ緊張感が増すのだ。それも、この先の人生は自分一人だけのものではないから、より気が揉めるのだろう。

 

「それは正直、俺も思っています。この先のことに緊張しているし、不安もないとは言えません」

 

 暁歩は、机の上に置かれたカステラに視線を落として告げる。しのぶがこちらを見ているのを感じ取った。

 暁歩だって、これから先がどうなるかなど、全ては見通せない。だが、初めてのことだらけで、上手くいかないこともあるのは目に見えている。そこに暁歩は不安と緊張感を抱かずにはいられない。

 そして、しのぶが最も恐れている、幸せが唐突に失われる可能性さえ無きにしも非ず。そうならないために、暁歩は勉学なり刀術なりの精進を重ねている。しかして、その成果も目に見えているかはまだ微妙なところだ。不安にさせない、幸せを守ると宣言しても、それを確信させる材料は足りない。

 だが、それは自らの想いを曝け出し、互いに結ばれることを誓い合った時から覚悟していたことだ。

 

「しかし自分は、不安であると同時に、楽しみでもあるんですよ」

「楽しみ…ですか?」

「ええ。これから先、あなたと歩む人生がどうなるんだろうと」

 

 言いながら、思わず笑みを堪えられなくなる。

 不安はある。これから先、やらねばならないことは山ほどある。しかしそれ以上に、その先のことを考えると心が温かくなる。期待とも少し違う、どうなるのだろうという興味に近い高揚感だ。

 

「そして、それはきっと幸せなんだろうと、思わずにはいられないんです」

 

 その不安でもあり楽しみでもある未来は、幸せになると自信はあった。

 自分たちの気持ちを知ってから今に至るまで、二人で過ごす時間はとても穏やかで心が満たされるものだった。その中で、時として過去のことに心を痛めることもあったが、その時はお互いにその心に寄り添い、幸せが絶えぬよう支えていた。

だからこそ、これから先に二人で積み重ねていく時間もまた穏やかで、幸せなのだろう。それだけは自信が持てる。

 

「けれど、しのぶさんが恐れていることも、俺自身が言ったことも、忘れてはいません」

「……」

「そのために俺は、今はまだ自分なりに努力を続けている最中ですが、自分の言葉を口先だけのものには決してさせません。だから、少しでも信じてもらえませんか」

 

 幸せを失うことを恐れているからこそ、その幸せを守る。

 過去に深く心を傷つけられたからこそ、その傷を一生を懸けて癒す。

 今までに多くのものを背負い生きてきたからこそ、その抱えた重荷を共に背負う。

 今はまだその約束を、結果ではなく過程で示すことしかできない。それでも、その約束は何一つとして破りたくないし、破ってはならないと自負している。どれか一つでも欠けてしまっては、立ち行かなくなるから。

 その意思を言葉に乗せて、正面からしのぶに告げる。視線は決して、しのぶから離しはしない。逸らせばその言葉も軽いものと思われるから。

 

「…暁歩さんて」

 

 わずかな時を挟み、しのぶは反応を見せてくれた。注意深く見なければ分からないほどに、頬が朱に染まっている。

 

「結構、そう言うことを臆面もなく言えますよね」

 

 指摘にも近いその言葉に、暁歩は自らの言葉を顧みる。確かに今思えば、自分の台詞は多少、いや結構気障たらしかった気もする。

 

「…ダメでしたか」

「いいえ。暁歩さんの言葉はきっと、自分の中にある感情…特に誰かの力になりたいという気持ちを全て伝えたいと思ってのことなのでしょう。それを全て言語化できるのはあなたの長所です」

 

 半分謝りつつ訊くが、しのぶは責めているつもりではないらしい。

 

「それに、その言葉で私の心も軽くなっているのも事実ですし。こそばゆくは思いますけど」

 

 暁歩としては、少しでもしのぶの心の負担を軽減しようと努めているに過ぎない。狙って気障な台詞を宣おうとか、逆に言いくるめてしまおうとか、そんなつもりはない。ただ、それを長所と捉えてもらったのは意外だった。

 しのぶの言葉に暁歩は頭を下げつつも、ふと思ったことを告げる。

 

「…こそばゆくなるしのぶさんと言うのも、新鮮ですね」

「私としても、初めての感覚や経験がたくさんあって、新鮮な気持ちでいっぱいですよ。暁歩さんと暮らすようになってから」

 

 暁歩が茶を一口啜り、しのぶはカステラを一口食べる。

 食べ終えたしのぶが、暁歩に向けて微笑みかける。自分の負担を押し殺すのではない、自然なものだ。

 

「…あまり私を悲しませないでくださいね?」

「当然です」

 

 言葉にして、直接伝えた以上、それを反故にしてはならない。何よりも、しのぶを悲しませないのは、暁歩にとっては義務にも近い。だから力強く、頷いた。

 暁歩の返事に対し、しのぶが笑みを深めたところで。

 

「…あのぅ」

 

 控えめに、部屋の外から声をかけてきたのはきよだった。そばにはなほとすみもいる。

 三人とも、やけに表情が穏やかと言うか、微笑ましいものを見るような感じだ。それは三人の元の顔立ちだけでなく、まさに暁歩としのぶのやり取りを耳にしていたからなのだろう。それに気づき、暁歩の中で恥ずかしさが湧きあがる。

 

「…どうかしたの?」

「実はお洗濯ものが枝に引っ掛かってしまって…」

「分かった、手伝うよ」

 

 きよが説明をすると、暁歩は食べかけのカステラを口に放り込み、腰を上げる。三人に連れられて庭へ向かうが、しのぶも後ろからついて来てくれた。

 洗濯物を干すのは、決まって陽当たりの良い南側の庭だ。その近くにある木の枝には、確かに一枚の手拭いが引っ掛かっている。どこか遠くへ飛ばされなかっただけまだマシだが、その枝はそれなりに高い。きよたちはもとより、暁歩でも背伸びをしても届かない。

 

「梯子を持ってこようか」

「いえ、暁歩さんが肩車してくれれば届くと思います!」

 

 現実的な案を示すが、きよは肩車を提案してきた。改めて高さを確認すると、確かに暁歩がきよを肩車すれば届きそうだ。梯子を取ってくるのは若干の手間なので、効率的な面を考えてもそうした方がいいだろう。

 

「じゃあ、そうしようか」

「お願いします~」

 

 言いながら暁歩がしゃがむと、きよが首の辺りに跨る。落ちないようにきよの足首を掴んで、暁歩はゆっくりと立ち上がる。それなりに肩と首に負担はかかるが、鬼殺隊の時から鍛えている身としてはそれほど苦でもない。

 だがその時、そばにいるすみとなほから、どういうわけか羨望の視線を向けられた。そして背後からは、突き刺さるような視線を感じ取り頭の中で嫌な予感がはじける。目を向けるまでもなく、その視線はしのぶのものだと分かった。

 だが、一先ずそれは置いておき、まずは枝に引っ掛かっている手拭いを取ってもらうことにした。

 

「取れました~」

 

 頭上からの報告を聞くと、暁歩はきよを下ろそうとする。だが、きよは降りる気配がない。

 

「どうしたの?」

「暁歩さんに肩車してもらうと、視線が高くなるなぁって」

 

 なるほど、肩車を提案したのは、この高い視線を経験したかったかららしい。

 蝶屋敷で一番背が高いのは暁歩だ。元柱の天元ほどの上背はないにしろ、それでも平均よりやや高めの身長を誇っている。逆に、きよたちは背が低いからこそ、その視線の高さに憧れるのだろう。

 

「それに…何だか懐かしい感じもして」

 

 続くきよの言葉に、暁歩もはたと考えが止まる。

 その懐かしさは、恐らくは生前のきよの親との思い出から来るものだろう。以前しのぶは、きよたちが暁歩のことを父親のように見ていると言っていた。そんな存在の暁歩に肩車をしてもらったことで、かつての本当の親との思い出、感覚が蘇ってきたのかもしれない。

 そこに気付くと、このまま無下に下ろすわけにもいかなくなり、少しの間だけ肩車を続ける。

 

「暁歩さん、私もやってみたいです~!」

「私も~」

「はいはい」

 

 続けてすみとなほもせがんできたので、暁歩は一旦きよを下ろす。続けてすみ、なほをそれぞれ肩車し、庭を一周して回ってみせる。すみは『高くて気持ちいいです~』とはしゃぎ、『不思議な感じですね~』となほは新鮮さを感じたりと、反応には差があるものの概ね好評だった。

 

「疲れないものなんですねぇ」

「これでも一応鍛えていますから」

 

 そうして肩車をしている間は、しのぶも暁歩の隣を歩いていた。

 先ほどからしのぶの視線が向けられるたびに、暁歩の中に嫌な予感が走っている。その理由は、自分たちの関係を鑑みれば嫉妬だと分かった。無論、暁歩はきよたちに対し邪な感情など抱いていないので、しのぶの心配も不要なのだが口にするのは野暮だろう。

 

「暁歩さんは、肩車とかをしてもらったことはあるんですか?」

 

 頭上のなほが訊ねてくる。暁歩は、なほを落とさないように気を付けながら昔を思い出してみる。

 まだ暁歩の親が生きていた頃のことは、とても懐かしい記憶だ。同時に、親の死も忘れ難い辛い思い出だが、今はそちらに気を取られず楽しかったことを思い出してみる。

 

「んー…俺はなかったかな。背負ってもらうことが多かったと思う」

「そうなんですか…でも、暁歩さんが誰かに背負ってもらうのって、何だか想像できないかも…」

「まぁ、今の俺を見たらそうかもね。けど、俺にもきよちゃんたちみたいな歳の頃があったんだよ」

 

 そばを歩くすみは、悩むように首を傾げる。暁歩がここに来た時は、今と背丈はそこまで変わりはしなかったものの、確かに暁歩には今よりもずっと幼い時期があった。きよたちからすれば、暁歩の姿かたちは今のものしか知らないから、逆に想像がつかないのだろう。

 

「まぁ、三人とももう少し大人になったらこの感じが分かるようになると思うよ」

「その台詞は何だか年寄り臭くありませんか?」

 

 暁歩の言葉にしのぶが指摘すると、きよたちはくすくすと笑う。特に笑っているのは、きよだった。

 

「…そんなに可笑しい?しのぶさんのツッコミ」

「いえ。ただ、今の私たちが何だか家族みたいな感じがして」

 

 純粋なきよの言葉に、暁歩もしのぶも足を止める。上にいるなほや、そばにいるすみもまた過去を懐かしむような表情を浮かべていた。

 きよたちにだって、本当に血の繋がっている家族はいたのだ。その家族は、鬼によって喪われ、二度と帰ってくることはない。どれだけ蝶屋敷で長いこと一緒に暮らし、家族同然の絆を育んでも、本当の家族の存在と記憶は消えない。それはきよたちだけでなく、暁歩もしのぶも同じだ。

 新しくできた家族は尊いものだが、本来の家族もまた同じくらい尊い。今日のことで本来の家族のことを思い出しても、それについて多くは言わない。懐かしさに触れることは悪ではないし、今よりも昔の家族を思うことも血の繋がりを考えれば当たり前のことだ。

 

「…もしもまた、こうして肩車とかしてほしくなったら、いつでも言ってよ。これぐらいお安い御用だから」

 

 暁歩は、頭上のなほや傍らにいるすみ、きよに伝える。

 家族との死別は辛い。きよたちや以前のしのぶのように、幼い時分にそれを経験したのなら、その悲しみや苦しみは殊更強いだろう。それを乗り越えるためには、その悲しみを上書きできるほどに今を懸命に、幸せに生きるほかない。それができるように、暁歩は少しでも力添えをする。

 

「…今は時間に大分余裕がありますし、私のことも頼ってくれて大丈夫ですよ。それに、暁歩さんからすれば私は()()()()みたいですし」

 

 隣を歩くしのぶが笑って伝える。『暁歩からすれば』と言うのは、以前しのぶから『暁歩がきよたちから父親のように思われていると聞いた時、暁歩が返した言葉だ。今でも、その言葉はあながち間違ってはいないと暁歩自身は思っている。

 そのしのぶも、鬼殺隊がまだ発足していた頃は柱として多忙な生活を送っており、屋敷のことはほぼアオイや暁歩などに任せきりだった。全てが終わった今は、蝶屋敷全体の意向もあってゆっくりしていることが多く、しのぶとしても頼ってほしいのだろう。

 そのしのぶの言葉に、きよたちは頷き表情を綻ばせた。

 

「…何をなさっているんですか?」

 

 すると、別の声が前方から聞こえた。

 視線を上げると、そこにはアオイとカナヲがいた。入用で出掛けていた二人だが、帰ってきて庭から聞こえた声を頼りにここへ来たらしい。

 アオイに問われて、暁歩は今の状況を確かめる。そう言えば、なほを肩車したままだった。

 

「アオイさんおかえりなさい!」

「ええ、ただいま。で…」

 

 きよたちが笑顔で出迎える一方、アオイは暁歩に対し未だに疑わしげな視線を向けたままだ。そのなほに向けてカナヲは軽く手を振り、なほも同じように手を振り返す。カナヲは、今の暁歩に対し特に疑問を抱いていないようだ。

 さてアオイだが、蝶屋敷で長いこと暮らす中で暁歩と打ち解けてきたものの、いまだにある程度の一線を越えさせないところがある。特に、以前暁歩がしのぶと夜にまぐわったのを言伝に聞いて―――しかもきよたちから―――以来、距離が開いたと言うよりも警戒心が強まった。

 

「きよちゃんたちに頼まれたんです。肩車してほしいって」

「はぁ…またどうして」

「暁歩さん、背が高いですし楽しそうだなぁって」

 

 傍に立つきよが補足し、なほとすみも頷く。

 きよたちが過去のことを思い出したことに関してはどう説明しようかと悩むが、その答えを出すよりも早くしのぶが先に前に歩み出た。

 

「洗濯物が木の枝に引っ掛かったので、それを取ったついでですよ。それで、アオイたちも用事は済ませられた?」

「あ、はい。どうにか終わりました」

「ならよかった」

 

 手早くしのぶが事情を説明し、加えてアオイたちのことも聞いて話題を逸らす。実にありがたかった。その間に、暁歩はなほを地面に下ろす。

 

「他の洗濯物は取り込んだんだよね?だったら、おやつにしようか。買ってきたカステラもあるし」

「「「わーい!」」」

 

 暁歩が提案すると、きよたちは手を挙げて無邪気に喜ぶ。その反応を見ると、暁歩も自腹を切って買ってきた甲斐があると言うものだ。

 とてとてと母屋に戻るきよたちを見送りつつ、暁歩はアオイとカナヲにも目を向けた。

 

「二人もどうですか?」

「…ええ、いただきます」

「うん」

 

 暁歩が言うと、アオイは仕方ないと、カナヲは嬉々として頷いて、きよたちの後に続いていった。最後に暁歩としのぶが向かうが、その途中でしのぶが屈むように手で示してくる。

 

「食べ物で場を治めるのは、女性としてはどうかと思いますけどね」

「そんなつもりはなかったんですが…」

 

 耳打ちされると、暁歩は軽く頭を下げる。お菓子で釣ったつもりはないのだが、見方によってはそう捉えられてしまうらしい。今後は気を付けることにしよう。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日は、何だか妙に寝苦しかった。

 部屋は暑くない。体調だって寝る前は特に問題なかった。だのに、布団に入り込んでも眠気は中々湧いてこないし、体勢を変えてみても同じだ。

 そして頭の中では、自分の中で最も辛く悲しい記憶が主張を繰り返している。

 

「んぅ…」

 

 それでも目をぎゅっと閉じ、少しでも眠りやすくしようと試みた。

 そうしていると、自分の意識が、身体全体が綿のような柔らかさに包まれながら、沈んでいくような感覚になる。

 すると、閉じた瞼の裏側に一つの光景が弾ける。

 赤い血が飛び散った畳だ。

 

「っ!はぁ…」

 

 そこできよは、目を覚ました。その後は見てはならないと本能が訴えかけ、意識が強引に覚醒したのだ。

 胸に手を置く。張り裂けそうなほど心臓が脈動している。背中にはじんわりと汗が滲んでいるのが分かった。

 

(…どうしよう)

 

 こうなった原因はさておき、半端な眠りと覚醒を繰り返してしまったせいで、眠気は薄れている。さらに視界が少しずつ広まり、明かりのない自分の部屋の全体像も見えるようになってきた。

 今の状態で寝直しても気分は悪いままだ。少し、何か他のことをして気持ちを切り替えた方がいいかもしれない。そう思ったきよは、障子戸を開けて空気を入れ替えつつ、少し屋敷を歩くことにした。

 だが、廊下に出ると同時に、すみとなほの部屋の戸も開いた。

 

「「「あっ」」」

 

 三人の声が重なる。こんな夜中に三人揃って部屋から出ることなどなかったから、驚くのも無理はない。

 しかし、今いるのは他の皆も眠っている私室の近く。普段の声量で起こすわけにもいかないので、一先ず居間へ移動することにした。

 

「何だか変な夢を見ちゃって…」

「きよちゃんも?実は私も…」

「二人もなんだ…同じだね」

 

 三人は、それぞれどうしてこんな時間に目が覚めてしまったのかを話す。しかし不思議なことに、理由は『嫌な夢を見た』で三人とも同じだった。自分たちの背格好や顔立ちが似ているのは自覚していたが、何も見るそんなところまで同じでなくてもいいのに。

 

「こんなこと、今までなかったよね?」

 

 なほが聞くと、きよとすみは頷く。その通りで、揃って同じような夢を見ることなど今までなかった。初めてのことに、きよたちはその夢を見たことによる不快感よりも、今は驚きの方が上回っている。

 

「でも、その夢って…」

 

 すみが何かを切り出そうとするも、すぐに言葉に詰まる。それでも何が言いたいかは、きよとなほにも分かった。

 見た夢は、鬼によって自分たちの家族を喪った夜のことだ。死別して間もない頃、この蝶屋敷に拾われたばかりの頃は、嫌というほど見て魘された悪夢。ここしばらくは見ていなかったその夢を、久方ぶりに見てしまった。

 

「どうして…」

 

 きよが言いかけたところで、異変が起きた。

 廊下の奥から、床の軋む音が聞こえたのだ。

 

「「「っ!」」」

 

 思わず、三人は身体を震わせ身を寄せ合う。

 普通に考えれば、音の正体は同じ蝶屋敷に住む人間以外あり得ない。だが、今は丑三つ時も間近な深夜で、普通なら誰も起きていない。おまけにあんな夢を見たばかりなせいで、警戒心と恐怖心が未だ胸の中で燻っている。

 足音は確実に迫ってきている。足が竦んで動かなくなり、三人で手を重ね合わせて少しでも安心感を得ようとする。

 やがて廊下の奥に、ぼんやりと明かりが灯ったのが分かった。

 その足音が近づく毎に、明かりが大きくなってくる毎に、心臓が跳ねる。

 

「…どうしたの?三人とも、こんな時間に」

 

 そして姿を見せたのは、ろうそくの灯る燭台を持つ暁歩だった。

 見知った人の姿が明らかになると、きよたちは安堵からたまらず暁歩に向かって駆け出し、勢いのままに抱き着く。驚いた様子の暁歩だが、それでも緊張から解放されたことで涙腺が緩み、啜り泣きながら暁歩の服を握る力を強くする。

 

「?」

 

 そんな三人の様子に、暁歩は小首を傾げた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 きよたちが落ち着くまで待ってから、暁歩は夜風の涼しい縁側に三人を誘う。傍らには、井戸から汲んだ水を入れた茶碗が人数分置いてある。

 

「…なるほどね。悪い夢を」

「はい…」

 

 ぽつりぽつりと紡がれる話を聞き、暁歩は頷く。

 今夜に限ってそんな夢を見た理由は、大方予想できる。昼に暁歩が三人を肩車した時、きよたちは『懐かしい』と言っていた。さらには、自分としのぶ、そして三人での団欒を『家族のよう』とも。

 それがきっかけで、それぞれの生前の家族とのことを思い出し、そして家族を、幸せを奪われた夜の夢を見た。三人揃って同じ夜にその夢を見るというのは、にわかには信じがたいが。

 

「暁歩さんは、こんな遅くにどうしたんですか?」

「あぁ、俺は…習慣みたいなものかな。鬼殺隊の時からの」

 

 すみの質問に、苦笑いを浮かべ答える。

 ここが鬼殺隊の医療施設として機能していた頃は、交代で夜の当番をしていた。それはアオイやきよたちも経験していたので分かるのか、納得したように頷く。

 

「それに、しのぶさんとの約束もあるしね」

「しのぶ様と?」

 

 暁歩の言葉に興味を示すなほ。

 そこで暁歩は、しのぶと交わした話を今ここでするべきか僅かに悩む。だが、今の三人は以前のしのぶとほぼ同じような状態で、自分と三人の関係も軽んじるものではないし、話しても問題はないと判断した。もし後で不都合が生じるようであれば、素直に謝るほかない。

 

「前に、しのぶさんが『怖い夢』を見たって話をしたの、覚えてる?」

「ああ…はい。そう、でしたね…」

 

 前置きとして告げると、きよたちは曖昧に頷いたと思ったら、なぜか赤面して俯く。

 どうしてかと一瞬思ったが、その話をした日は、暁歩としのぶが肌を重ねていたのを三人に聞かれていたと知った日でもあった。その事実に、ようやく消化できていた羞恥心が再燃するが、それは後回しだ。

 

「…で、そのしのぶさんが見た夢は、自分の親が鬼に喰われた夜のことだったって」

「……」

「その夢は昔に何度も見ていたものだけど、しばらくは見ていなかったんだ。けど、鬼との戦いが終わって、今を幸せに思うからこそ見てしまったんだって」

 

 あの時、しのぶの話を聞いたのも同じ場所だった。今日はあの日と違って月は出ていないが、その分星は綺麗に見える。そんな夜空を見上げながら、暁歩は続けた。

 

「しのぶさんにとっては、鬼がいなくなった今、ここで皆と一緒に暮らすことが幸せなんだ。だからこそ、過去に幸せを目の前で失くしたことを夢に見て、今の幸せを喪うことを恐れている」

 

 きよたちの表情が曇る。

 しのぶは、きよたちの前ではいつもニコニコと優しく微笑んでいることが多い。それだけでなく、姉のカナエがまだ存命だった頃は少し尖っていたらしい。そして、カナエを喪ってから今に至るまでも、きよたちは見ていただろう。

 だが、三人の反応を見るに、しのぶが家族を喪って悲嘆に暮れていたのは知っていても、今幸せを失うのを恐れていることまでは気付かなかったようだ。しのぶだってきよたちに心配をさせまいと、あの笑みを保って振る舞っていたのだから、気付かないのも仕方がないだろう。

 

「きよちゃん、昨日言ってたよね。今の自分たちが、家族みたいだって」

「はい…」

「そして多分、すみちゃんとなほちゃんも同じ気持ちだったのかな?」

 

 暁歩が訊くと、すみとなほは頷く。

 それで暁歩は、予想が確信に変わった。

 

「今の自分たちが家族みたいだと思うからこそ、三人にとって本当の家族を喪った時のことを夢に見たんだよ」

 

 きよたちが顔を上げる。

 暁歩は一度立ち上がり、きよたちの前で屈んで視線の高さを合わせた。

 

「三人とも家族を亡くしていて、その辛さや悲しさは俺にも分かるよ。それが全部理解できるとは言わないけど、俺も家族を鬼によって喪っているからね」

「……」

「だからこそ、同じ痛みを感じたきよちゃんたちの力になりたい。もしも皆が不安な気持ちに駆られているのなら、みんなが安心できるようにやれることをやりたい」

 

 それに、と暁歩は続ける。

 

「今まで言う機会がなかったけど、俺はきよちゃんたちのことを妹、自分の子供…とにかく、本当の家族みたいに思ってるんだ」

「え?」

「この屋敷でそれなりに長い時間過ごしてね。皆のことをそう思うようになったんだよ」

 

 今までは内心でそう思うことがあったが、実際に口にしたことはなかった。それを言うのは少し後ろめたかったし、差し出がましいとも思ったから。

 しかし今のきよたちに必要なのは、自分たちを確かに支えてくれる人の存在と、そこからくる安らぎだ。暁歩だって支えたいと思う気持ちに偽りはないし、また三人のことを家族のように思っているからこそ、その気持ちを今伝えるべきだと思った。

 

「だからきよちゃん、すみちゃん、なほちゃん」

 

 三人にそれぞれ視線を巡らせて、笑って見せる。しのぶには劣るだろうが、安心させる笑みを作ろうと試みる。

 

「もしも何か、怖い思いをしたり、不安になったりしたらいつでも言ってほしい。その時は、俺に対して迷惑だとか遠慮だとか、そういうことは考えないで」

 

 ふわっと、夜風が吹く。

 

「三人とも今まで頑張ってきたんだ。どれだけ悲しくて、辛いことを経験しても、鬼殺隊を支えてくれたんだから。これからはもっと、周りを頼ってもいいんだよ」

 

 厳密に言えば、三人は鬼殺隊の正式な隊員ではなかった。それでも、医療施設の蝶屋敷で傷ついた隊員たちの治療を手伝い、機能回復訓練にも積極的に協力し、確かに鬼と戦う人たちを支えていた。普通なら、鬼によって幸せを奪われた幼い子供に、間接的でも鬼と関り続けるなど荷が重すぎる。

 そんな彼女たちは、暁歩から見れば立派に鬼殺隊の一員だった。目を背けても仕方がないような鬼との戦いに向き合い続け、真摯に治療と回復に寄り添うその姿は、歳と見た目にそぐわずとても頼もしい。

 だからこそ、鬼との戦いから解放された今は、普通の女の子としてもっと周りを頼って良い。これ以上の恐怖や不安を飲み下さずに、素直に吐き出しても構わないのだ。

 暁歩の気持ちが伝わったのか、きよたちの表情に明るさが戻ってくる。

 

「…はいっ」

 

 やがて、すみが笑って頷くと、暁歩は三人の頭を優しく順番に撫でた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 暁歩に話を聞いてもらったことで、きよたちの不安はある程度解消された。

 けれど、また部屋に戻って一人で眠るのには少々心許ない。そのことを、先ほどの言葉に甘えて暁歩に伝えたところ、『三人で同じ部屋で眠ろう』と提案をしてくれた。

 

「これで大丈夫かな」

 

 暁歩は居間に置かれていた座卓を壁際に立て、布団を敷く場所を確保してくれた。そこへきよ、すみ、なほが自分の部屋から布団を持ち寄り、縦に三人分を並べて敷く。もちろん、他の部屋で眠っている人たちは起こさないように、静かにゆっくりと持ってきた。

 

「暁歩さんはどうしますか?」

「俺はここで見守ってるよ。それじゃ眠れないって言うのなら移動するけど…」

「でしたら…ここにいてほしいかなって」

 

 なほが言う。きよとすみも同意見で、文句は言わなかった。暁歩は頷き、畳に腰を下ろす。

 すると、すみが布団の中でくすくすと笑いだした。声が漏れないように、口元まで布団を被っているが、それでもその声と仕草にきよとなほ、暁歩が視線をそちらに向ける。

 

「どうしたの?」

「いえ、何だか楽しいなって」

 

 暁歩が訊ねると、すみは嬉々として答える。それに関しては、きよとなほも同じ気持ちだ。

 三人で一緒の部屋で寝ることは、過去にも何度かあった。しかし、それはまだ家族を喪って間もない時期で、あの時はただ寂しさや悲しさを埋めるため、安心感を得るために三人で眠りについた。

 加えて、蝶屋敷に拾われたばかりの頃は、しのぶやアオイ、そしてカナエが一緒に寝てくれていた。その三人はきよたちが何を言わずともそうしてくれたが、それは自分たちのことを安心させるために傍にいてくれたのだと、今ははっきり分かる。

 しかし今日は、安心感を得るだけでなく、こうして三人で寝ることが久しいから、それに対する新鮮さ、楽しさが強い。以前の時とは違い、そこに暗い気持ちはない。そばで暁歩が見てくれているのも、要因の一つだろう。

 

「でも、もうそろそろ寝ないとね。明日もあるんだし」

「はぁい」

 

 暁歩に促されて、きよたちは改めて眠りに就こうとする。

 『明日もある』という言葉が強く頭に響いていた。

 鬼殺隊は、常に生死の瀬戸際で鬼と戦うのを強いられていた以上、明日もまだ生きているという保証はなく、自らにとって大切な人がずっと笑って生きているなんてことも信じられない過酷な環境だった。きよたちは鬼殺隊でなかったが、身近な存在故にそうした厳しい環境であることを知っていたし、三人も家族や関わり深いカナエの死を経験している。嫌というほど理解していた。

 だからこそ、『明日も』という言葉には、不安定な印象が多分にあった。

 しかし、鬼との戦いは終わった。もう理不尽な理由で命が奪われることはそうそうなくなり、自分たちの生活が脅かされる心配もほとんどない。

 今は以前よりも、『明日』に希望を持ち、楽しみにしてもいいのだ。

 

「…~♪」

 

 不意に、何かが聞こえてきた。

 注意深く耳を傾けると、それは暁歩の歌う子守唄だと分かった。決して眠りを妨げない声量と、心地良い布団の温もりに、睡魔が訪れ瞼が重たくなってくる。だが、もう寝苦しさや悪寒からくる汗はない。

 

(子守唄なんて歌ってもらうの、久しぶりかな…)

 

 そう思いながら、きよの思考は徐々にゆっくりになっていく。

 やがて意識が完全に落ちる直前、今は亡き自分の両親が傍にいてくれているような、そんな懐かしい感じがした。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 遠くから、鳥のさえずりと、木々のざわめきが聞こえてくる。

 

「ん…」

 

 そこで暁歩は、ゆっくりと目を開けた。

 壁に背を預けたまま意識が覚醒しだす。視界が開けてくると、空が明るくなってきているのが分かった。

 そして、すぐそばには三人分の布団が並んでいる。そこで横になっているきよ、すみ、なほはまだ三人とも目を覚ましておらず、実に穏やかな寝顔を見せていた。その様子からして、どうやら悪夢に魘されているわけではなさそうだ。

 暁歩は安心すると、一旦立ち上がって身体を伸ばす。きちんと横にならずに眠ったせいで、変に身体が凝っていた。

 しかしそこで、ぱたぱたと一人分の足音が近づいてくる。

 

「え?」

 

 その正体は、アオイだった。自分の部屋ではなく居間で三人並んで眠っているのに加え、傍には暁歩もいるのが不可解でならないのだろう。

 しかし、アオイが声を発する前に、暁歩が人差し指を立てて静かにするよう暗に伝える。きよたちがまだ寝ているから、とアオイも察したのか一先ずは何も言わなかった。

 

「実は昨日の夜、きよちゃんたちは悪い夢を見て起きちゃったんです。それで話し合って、あの部屋で三人一緒に寝ようって話になったんですよ」

「で、暁歩さんがいたのは?」

「いてほしい、って頼まれたんです。でも、三人のことは責めないであげてください」

 

 場所を台所に移し、事の顛末を簡単に説明する。最初は疑わしげだったアオイだが、暁歩の説明を聞くとすぐに頷いてくれた。

 

「分かりました。そういう事であれば、多くは言いません」

「ありがたいです」

「では、朝食の準備を始めますので手伝っていただけますか?」

「はい」

 

 アオイもまた、家族を喪って悲しんだのはきよたちと同じ。恐らく、夜中に魘され起きてしまった経験もあるからか、その気持ちも分かるのだろう。

 きよたちのことを妹あるいは娘のように思っていると言った暁歩だが、アオイは姉のような立ち位置だ。年齢こそ暁歩より下だが、てきぱきと行動できる点や、蝶屋敷で治療をしていた時間の長さを考えればとても頼もしい。

 気持ちを切り替えて、暁歩はアオイの手伝いに当たる。暁歩も言われる前にそうしようと思っていたし、きよたちも半端な時間に起きていたので、これ以上早く起こすのは気が引けた。

 

「そうだ、アオイさん」

「はい?」

 

 準備の最中、暁歩は米を研ぎながら、手際よく大根を切るアオイに話しかける。アオイは手元の包丁と大根から視線を逸らさないが、その方が安全なので暁歩も気にしない。

 

「時々でいいので…きよちゃんたちと一緒に寝てあげてくれませんか」

 

 言うと、アオイは手を止めて暁歩を見た。少し話の切り出し方が唐突だったか、と暁歩は自省する。

 

「…どういうことですか?」

「三人とも、その見た悪い夢って言うのが…家族を喪った夜のことだったみたいで」

 

 その言葉に、アオイも視線が下がる。その夢を見ることの辛さや苦しさは、アオイも重々理解しているらしい。

 

「以前は誰かと一緒に眠りに就くことで、不安を和らげることができたみたいなんです。けれど、全てが終わった今でもその昔の夢を見てしまうのだそうで…。だから、三人のことも考えてそうした方がいいかと」

 

 米を研ぐ手を止めてアオイに話す。

 蝶屋敷できよたちの世話をし、さらには三人と共に機能回復訓練と治療を隊士に施していた。経験と知識もあって、彼女も三人から頼りにされていた面がある。

 

「…そういうことなら」

「助かります」

「ただ…」

 

 受け入れてくれたアオイに、暁歩は頭を下げる。

 だが、再び大根を切り始めたアオイはボソッと続けた。

 

「暁歩さんって、子供ができたら過保護になりそうですね」

「え?」

 

 何か聞き捨てならない言葉だったが、アオイはそれ以上とやかく言う気はないつもりのようで、朝食の準備をせっせと続ける。暁歩も、一旦疑問は棚上げして準備を再開することにした。

 

「おはようございます」

「おはよう…」

 

 それからしばらく経ち、準備も最終段階になったところでしのぶとカナヲが食卓に顔を出した。特にカナヲは、まだ眠気が抜けきっていないのか眼をこすっている。一方のしのぶは、普段と変わらない微笑みを携えており、同じ寝起きとは思えない。

 暁歩とアオイは、『おはようございます』と挨拶を返すが、暁歩は違和感も覚えていた。

 

「しのぶさん、今日は早起きですね」

「ええ、夜中に目が覚めてしまって。どうにも浅い眠りだったんです」

 

 しのぶは低血圧の気があり、朝起きるのは蝶屋敷でも一番遅い。だが、今日に限ってはカナヲと同じぐらいの時間だ。困ったように笑うしのぶは、暁歩に対して視線を向ける。

 

「目が醒める直前、部屋の外から足音が聞こえたのですが、何かご存じですか?」

「ああ、それは…」

 

 訊かれて暁歩が答えようとしたが、それよりも早くにきよたちが食卓に滑り込んできた。

 

「おはようございます!」

「ごめんなさい!」

「寝坊しちゃいました!」

 

 そして開口一番、謝ってくる。今来たばかりのしのぶとカナヲは、その突然のことに驚いた様子だったが、事情を聞いたアオイは起こりはしないし、暁歩も屈んで視線の高さを合わせた。

 

「大丈夫、準備はこっちで済ませてあるよ。あれから眠れた?」

「はい。でも、変な時間に起きちゃったから…」

「分かった。ちゃんと眠れたのならそれで十分だから、気にしないで」

 

 きよが申し訳なさそうに言うが、暁歩は首を横に振る。睡眠を摂ること自体悪いことではないし、昨日は夜中に起きてしまったのだ。この年頃であれば、寝坊してしまうのも仕方あるまい。

 暁歩の言葉に、三人は再度『ごめんなさい』と告げ、配膳の準備を始める。それを見届けつつ、暁歩はしのぶに耳打ちした。

 

「後で話します」

「…分かりました」

 

 しのぶも、人前で話せる内容ではないと理解したようで、追究はしなかった。

 そしてようやく眠気から脱したカナヲが配膳を手伝い始めたところで、暁歩としのぶも準備を手伝い、朝食の準備を粛々と始めた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の午前、暁歩はしのぶと共に縁側で静かな時間を過ごしていた。お互い、自分たちの先のことを考えてやるべきことは多くあるが、それでもこうして二人の時間は必ず一日に一回は作っている。そして、その時は決まって傍らにお茶と少しの茶菓子も添えられていた。

 

「―――と、言うことなんです」

「そうですか…きよたちが」

 

 この日最初に話すのは、もちろん今朝話せなかったきよたちの寝坊の理由だ。

 話を聞き終えると、その表情に辛い気持ちが滲み出たのが分かる。

 

「吹っ切れた、筈がないんですよね。思えば」

「ええ。特に、あれぐらいの子は…」

「私もそうでしたから」

 

 ある種の達観ともとれるしのぶの言葉に、暁歩は口を閉ざす。

 しのぶの両親が殺されたのは、今のきよたちよりもずっと幼い頃だ。人格を形成し始める時期に辛い経験をし、それは心に深い傷を残し、悪夢を何度も見せてきた。同じ苦悶を経験したからこそ、かつての経験に苛まれるのがどれほど胸が痛むものかは想像に難くないのだろう。

 

「それで、暁歩さんは何て?」

「…三人は、家族を亡くしてからも、鬼殺隊を支えて鬼との戦いに力を貸してくれていました。普通のあのぐらいの子には、到底できないことです。鬼に対して恐怖しているだろうに、それでも鬼と人間の戦いに関わり続けて…」

 

 きよたちだって、蝶屋敷で治療を手伝っていたからこそ、見るに堪えない傷を負った隊士をこれまで多く見てきたはずだ。それでもなお、恐怖を乗り越えて治療を続けるのは、本当に誰にでもできることではない。

 

「今まで辛くても耐えてきたんだから、この先はもう我慢したりしなくていいんだって、周りをもっと頼っていいんだって。そう伝えました」

 

 暁歩はそこまで言って、お茶を一口飲む。暁歩の言葉に、しのぶは僅かに笑ってくれた。

 

「きっと三人も、今が幸せなんだと思います。だからしのぶさんと同じように、幸せを突然奪われたその時のことを夢に見たんでしょう」

「ええ、恐らくは…。それと、昨日の暁歩さんとのこともあるでしょう」

 

 しのぶの言葉に頷き返す。暁歩自身も予想はしていたが、昨日の肩車ややり取りで懐かしさを抱いたのも、その夢を見るきっかけの一つとなってしまったのだろう。ただし、どんな時にどんな夢を見るかなど、いくら暁歩としのぶが医療に秀でていても分からない。推測でしかないが、理由はその辺りが妥当と思えた。

 

「それですが、しのぶさん」

「?」

 

 改めて暁歩は、しのぶに向き合う。

 

「昨夜三人に話したのですが、俺はあの子たちのことを実の妹…娘のように思っているんです。この歳で娘なんて、おかしな話ですが」

 

 おどけて見せると、しのぶもくすっと笑う。

 

「それでこれは、俺からの提案…というより願いです。あの子たちのことは、自立できるまで面倒を見たい。俺と、あなたで」

 

 アオイもカナヲも、それぞれが自分の未来を考え始めている(アオイに関しては微妙だが)。暁歩としのぶは添い遂げるつもりだし、そうなればきよたちは残ってしまう。しかし彼女たち三人は、とてもではないが自立できる歳ではなく、今日のような悪夢にまた苛まれるかもしれない。だからこそ、年長者の暁歩やしのぶが傍で見守るべきだと思う。

 

「それに関しては、私も前々から考えていました」

 

 しのぶが答える。

 

「むしろそうすべきだと私自身考えています。それは姉さんの遺志でもありますから」

 

 既にこの世を去った花柱のカナエ。暁歩はどんな人物かを詳しく知らないが、しのぶたちが慕い敬愛するほどの優しい人だったのだろう。家族を喪い悲しんでいる、幼い子供たちの過去も未来も案ずるぐらいに。

 

「それに私としても、あの子たちのことは可愛く思っていますしね」

 

 しのぶが母屋を振り返る。部屋の中では、きよやすみ、なほが忙しなく掃除を進めていた。暁歩が昨夜見た、怯えているような様子はもう見られない。

 

「それと、暁歩さんの性格を考えれば、あの子たちのこともちゃんと考えるだろうと思っていました。だから、あなたの願いは私の願いでもあるんです」

「なら…」

「ええ。私たちで、始めようではありませんか」

 

 考えることは同じだったようで、暁歩も胸を撫で下ろす。ただ冷静に考えれば、しのぶだってあの三人のことを考えていない筈もないのだ。

 するとしのぶは、普段とも違う蠱惑的な笑みを向けてきた。

 

「もしかしたら、あの子たちが()となるやもしれませんし」

 

 言いながらしのぶは、自らの下腹部をさする。その顔と仕草に、心疾しさを暁歩は僅かに覚えてしまう。

 

「…()()、ですよね」

「はい。ですがいずれは…」

 

 身体を重ねたのは一度きりで、それから時間も経っている。それでもなお、身籠った兆候はない。子孫を残すことに関してもお互いに望んでいるため、それには回数を重ねる他ないだろう。

 だが、その最初の一回は音を聞かれるという恥を経験したので、今後は場所や時間に注しなければならない。

 

「期待していますよ?」

「それは、しのぶさんにも言えることでは?」

 

 お互いに言い合って、笑い合う。

 そこで暁歩は、一つ気になっていたことを口にしてみた。

 

「そういえば、アオイさん曰く、俺は子供ができたら過保護になるみたいです」

「あー…それはそんな気もしますね」

 

 するとしのぶは、同意に近い反応を示す。

 

「きよたちはもちろん、私に対しても気を配っていますし、それ自体は良いのですが、人の気持ちに真正面から向き合おうとするところもありますから」

 

 暁歩自身でも、誰かのことを気にかけて、思考の大半を占めているのは他人のことのような気がしている。自分のことをほぼ全く考えないわけではないが、まずは誰かの不安や悩みに応えることを念頭に置いているからだ。

 ただ、あまり誰かのことばかり…一人に対して集中しすぎると、心配性な面と併せてアオイの言う通り過保護になるのかもしれない。それについては、暁歩自身が自分を御する必要がある。

 

「ただ、暁歩さん」

 

 その時、暁歩の肩にしのぶの手が優しく添えられる。

 

「あなたは私やきよたちに、『一人で抱え込まなくていい』と言ってくれましたよね?あの言葉は、暁歩さんに対しても言えることですよ?」

「……」

「何せ私たちは、『家族』ですから」

 

 それに近いものではなく、本物の『家族』。家族を亡くした者同士、助け合うという意味合いではなく、本当の家族。そうなれば、どちらか一方が他方に対して気を遣うだけでなく、また自らも周りを頼り不安を打ち明けてもいいのだ。そこについて、遠慮をしてはならない。

 

「…本当に、頼っても?」

「ええ、もちろん。特に、私とあなたの子供については」

 

 自分たちと血の繋がる肉親だからこそ、暁歩一人で全てを抱え込まないでほしい。しのぶがそう願っているのが分からない暁歩ではなかった。

 頷いて、暁歩は口を開いた。

 

「ありがとう、しのぶさん」

 

 感謝の気持ちを、言葉で伝える。

 するとしのぶは、笑ってくれた。

 

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 

 屋敷を穏やかな涼風が吹き抜ける。今日は天気もいいし、こういう日は窓を開け放って空気を入れ替えるにはもってこいだ。医療施設の空気はどうにも籠りがちになるから、定期的に換気するのが大切になる。

 

「…落ち着きましたか?」

「ええ、ようやく」

 

 背に暁歩の声がかかる。その声量が抑え気味なのは、しのぶの腕の中で眠る赤子を気遣ってのことだろう。しのぶも、すやすやと眠る我が子を起こさないよう、小さめの声で答える。先ほどまでは元気な泣き声が屋敷中に響いていたが、今は水を打ったように静かだ。

 

「半日、ありがとうございます」

「いいえ。私は療養扱いですし、あなたも診察があったんですから」

 

 律義に謝る暁歩だが、しのぶは悪い気など少しもない。同じ診療所とは言え、お互い医師として生計を立てつつ育児をするとなれば、どちらかに負担が掛かるのも仕方がない。それに、しのぶは出産もあったとして、暁歩はしのぶに対して自分よりも負担がないように計ってくれた。正式に夫婦となり、子供を授かってからは家族想いである面が強くなった気がする。

 

「…不思議ですね」

「?」

 

 腕の中で眠る娘の頬を、暁歩が静かに優しく指で撫でる。

 

「ずっと昔は、自分も同じ赤ん坊だったのに。自分の子供を見ると親近感とも懐かしさとも違う、言葉にできないような感慨深さがあります」

 

 その時、娘がほんの少し笑ったように見えた。しのぶも口を開く。

 

「まぁ…私としては、今日まで生きて、これだけの幸せを享受できること自体が不思議なんですけどね」

 

 自嘲気味にしのぶが言うと、暁歩も悲し気な笑みを浮かべた。

 ここまで永く生きるなど、鬼殺隊の柱だった頃は考えもしなかった。自分の命を捨ててでも仇敵を討つことを第一とし、天寿を全うしようとも、女としての幸せを得ようともしなかった。

 しかし今は、どうだろう。鬼との戦いが終わった今もなお健在で、自分の傍には最愛の伴侶がいて、その間には新しい命が生まれた。かつては想像もしなかった未来が今ここにある。

 

「けれど、私がかつて決意した覚悟の上に今がある。だからこそ、今のこの幸せは何物にも代えがたい」

 

 その今は、他人からすれば無謀とも悲惨ともとれる過去や覚悟の末に、成り立っている。何かが違えば実現することはなかったであろう今に、しのぶ自身は大きな安心感を抱いていた。それと同時に、幸せを強く実感している。

 しのぶは、暁歩を見上げた。

 

「この幸せは、あなたと出会わなければ掴むことはできなかった…。あなたには、感謝してもしきれません」

「感謝なんて。俺は、あなたとこうして過ごせるだけで十分ですから」

 

 暁歩もまた、しのぶを見て微笑む。

 お互いの間には、今なお『感謝』と『信頼』、そして『愛情』が強く根付いている。お互いに向けるその気持ちが同じだからこそ、自分たちの関係は続き、そしてこの先も絶えることはない。予想もつかないことが多い人生だが、それだけは確信していた。

 

「あっ、こちらでしたか」

 

 自分たちに、また別の声が掛けられた。

 振り返った先にいたのは、なほだ。特徴の三つ編みは以前と変わらないが、背格好は昔と比べると大分成長している。幼かった彼女たちも、今は頼れるお姉さんと言ったところか。

 そんななほだが、普段ここでお手伝いの看護婦として働く際の白衣ではなく、綺麗な着物を着ている。おまけに少しばかりの化粧も施されており、明らかに外行きの格好だ。

 

「もうそろそろ、準備ができますよ」

「うん、分かった。それでは行きましょうか」

「はい」

 

 なほに促され、しのぶは暁歩と一階へ降りる。しのぶが抱えていた娘は、暁歩が代わりに抱えてくれた。

 居間へ降りると、同様に外行きの支度を整えているきよとすみ、さらにはアオイとカナヲもいた。

 

「アオイさん、カナヲさん。ありがとうございます」

「いいえ、これぐらいのこと」

 

 暁歩が礼を言うと、アオイは謙遜でもなく本当に大したことはしていないという風に返す。きっちりとしている性格は、以前と変わらないと暁歩も安心する。一方のカナヲは、おめかしをしたきよやすみと楽しそうにお喋りをしている。

 

「二人とも、アオイさんに化粧と着付けをしてもらったの?」

「あぁ、きよは私が…」

「私はカナヲ様にやってもらいました!」

 

 アオイが答えると、すみが嬉しそうに答える。反対に、そのすみの準備を手伝ったカナヲはモジモジと恥ずかしそうだ。

 そのカナヲだが、着物のアオイと違って鬼殺隊の隊服と似たような襯衣とスカートを着ている。鬼殺隊に入る前の袴も似合っていたが、こういった服の方が好きなのだろうか。

 

「でも、少し意外かしら。カナヲがお化粧とかも得意だなんて」

「禰豆子に教わったの。とっても上手だったから…」

 

 しのぶが聞くと、カナヲはにこやかに答える。成程、禰豆子の指導の結果であれば、納得もいく。すると今度は、カナヲがきよたちに目を向けた。

 

「今日は、誰がお見合いなの?」

「私です!」

 

 手を挙げたのはなほだ。

 こうしておめかしをするのも、今日はなほがお見合いに出向くためだった。それなのに、きよとすみまで化粧をしているのは、相手先から()()で顔合わせがしたい、との希望があったためだ。それからしのぶと暁歩、そしてなほたちで一度相談した結果、今回は見合いというよりもまずは顔合わせという形とし、要望に応えた。

 

「相手はどんな方なんですか?」

「ウチの患者さんのご子息です。何度か軽くお話はしていますが、良い人かと」

 

 アオイからしても、妹のような存在だったなほの相手はやはり気になるらしい。だが、暁歩が言った通り予め人となりをある程度知っているので、こうして顔合わせの場を設けたのだ。向こうから『交際を』と言われた時は面食らったが。

 

「大丈夫。もしもあちらの方がナメてかかってきたらこうしますから」

 

 言ってしのぶは、いつぞやのように拳をシッシッと振って殴るような動作を取る。割と本気でやりかねないと思っているのか、アオイたちも笑顔がひきつった。

 

「いやいや、それは流石に。痕跡がバレるとマズいので、お茶などに薬を盛った方が良いでしょう」

「なるほど…それもそうですね」

 

 暁歩が宥めると見せかけて有用な手段を披露する。しのぶも半分面白がり、半分感心したが、なほたちが割と本気で怯えだしたので『冗談は兎も角』と切り出して、閑話休題と相成った。

 

「私たちも半端な人に大事な家族を任せたりはしませんよ」

「俺たちで十分話した結果です。アオイさんやカナヲさんの心配には及びませんよ」

「…分かりました」

 

 元来家族思いなしのぶと、心配性(過保護とも言うか)の暁歩の言葉に、アオイもカナヲも頷く。蝶屋敷として暮らしていた時に、二人の性格や経緯を知っているからこそ、納得が行ったのだ。

 

「それにしても、ね」

 

 すると、アオイが急に鼻をすすりだし、目元を擦る。よく見ると、涙ぐんでいた。

 

「三人にも、ついに春が来たなんて、ね…ウオォォオォイ…」

「アオイさん、まだそうと決まったわけじゃなくて…」

 

 ついには泣き出したアオイを、きよたちは必死にあやそうとする。きよたち三人が、それぞれ新たな一歩を踏み出している事実に感動する気持ちは、しのぶも分からなくはない。だが、以前二か月も意識不明だった炭治郎が目覚めた時だけでなく、アオイ自身やカナヲ、さらに禰豆子が祝言を挙げる時も泣いていたので、案外彼女は涙もろいのだ。

 その時、暁歩の抱える赤子が『うぅ…』と声を洩らした。少し騒がしくしてしまったと、その場にいる誰もが理解したようで、一斉に静かになる。やがて、再び安らかな寝息を立て始めると、空気が緩んだ。

 

「ええっと、炭治郎さんと伊之助さんは?」

「伊之助さんはまた裏山へ…」

「炭治郎は伊之助に連れられて」

 

 話題を変えようと訊ねてみると、アオイは諦めたように答え、カナヲはしれっと答える。先ほど挨拶はしたのだが、伊之助は裏山を大層気に入っているようだったので、仕方があるまい。とはいえ、アオイは『まったくあの人は…』と言いつつも口は笑っているので、痘痕も靨という奴だろう。

 

「まだ聞けなかったんですが、善逸くんと禰豆子さんは?」

「禰豆子さんのお産が近いので、善逸さんはその付き添いで今日は来れないと。ですが、お手紙は預かってきています」

 

 暁歩が聞くと、アオイが封筒を一つ差し出しながら答える。字の書き方からして、書いたのは善逸だろう。まだ蝶屋敷の世話になっていた頃は、下品な発言をして女性陣の顰蹙を買っていたが、彼も根は真面目なのだ。

 そこで、しのぶは時計を見上げる。そろそろ、出発するのによい頃合いだ。

 

「では、そろそろ行きましょうか」

「はぁい」

「夜までには戻ります。それまで台所や居間は自由に使って大丈夫ですので」

「ありがとう」

 

 暁歩もカナヲたちに伝えておく。二人とも今はそれぞれが自立しているが、元はと言えばこの屋敷で暮らしていたのだ。診療所として色々配置を変えたところはあるが、台所などはそのままなので、使ってもらっても何の問題もない。

 

「ああ、それと伊之助くんは診察室付近には近づかせないように」

「それはもう、重々と」

 

 最後にしのぶが付け加えると、アオイは深々と頭を下げた。もしそうなったらどれだけ恐ろしいことが起きるか、アオイも想像がつくのだろう。

 

◆ ◆

 

 草履に履き替えて、最後尾の暁歩は玄関の戸を閉める。

 

「……」

 

 ふと、玄関先に植えられているアジサイのが目に入った。季節を過ぎて花は枯れてしまっているが、緑の葉は鮮やかな色を保っている。この屋敷に来てから何度も季節は巡っているが、いつでもアジサイは鮮やかに花開いていた。

 最初にこの屋敷に来た時もそうだ。綺麗に咲くアジサイと、ひらひら舞う蝶が出迎えてくれた。あの時は、まさかこんな未来に達するとも、鬼殺隊であれだけ多くの人と関りを持つとも思わなかった。その関りがあった人の中には、様々な理由でこの世を去った人もいるが、それでもその人たちとの交流は今なお暁歩の中に残っている。

 

「……」

 

 腹のあたりに手を置く。そこにある傷痕は、思いもよらなかった強敵との戦いで負ったもの。あの戦いから生還したのは、まさに奇跡と言っていい。それでも時折、あの時の痛みが脳裏に蘇ることがある。

 

「暁歩さん?」

 

 かけられた声に、目を向ける。玄関前で足を止めているのが不自然だったか、しのぶやきよたちがこちらを見ていた。

 

「どうかしました?」

「…いえ。ただ、ここへ来て随分経ったなぁと」

 

 心配そうなしのぶの質問に、笑って答える。

 まだ自分に自信が持てず、臆病者と思っていた頃は、今しのぶと夫婦になるなどとは頭を掠りもしなかった。しかし、夢見心地を何度も味わいながらも、これは現実だと自分に言い聞かせている。最終決戦から命からがら生還し、想いを通わせ合ったのだ。もうこれ以上、現実を疑うべきではない。

 ただし、今のように長い時の流れを痛感することは何度もある。ふとした瞬間、あの時はああだったとか、この時はどうだったとか、つい考えてしまう。

 

「…あぅ」

 

 その時、腕の中の娘が不意に口から空気を洩らす。

 見ると、額に蝶が一頭留まっていた。しかし、暁歩が特に何かをする前に、すぐに額から離れると、近くを舞っていたもう一頭と共にひらひらと舞い、やがてアジサイの葉に揃って留まる。

 

「ただ、この先もっと長い時間、ここにいるんですけどね」

「…そうですね」

 

 蝶の行く末を見届けながら答えると、しのぶも笑う。

 これまでを顧みると、どうしてもかつて接していた人たちとの思い出は蘇る。鬼殺隊とは、それだけ生き死にが身近なものだったから。

 だからこそ、この命が尽きるまでは、できる限り懸命に生きると決めている。自分の家族の命と幸せを守ると。

 

「では、行きましょうか」

「ええ」

「「「は~い」」」

 

 玄関先で待っていたきよとすみ、なほの三人にも声を掛けて、目的の場所へと歩き出す。

 中天に昇る太陽は、家族六人を優しく照らしてくれていた。




これにて、完結でございます。
最後までご覧いただきありがとうございます。

ここで少々、あとがきを。

原作最終話にて、鬼のいなくなった現代で登場人物たちの子孫や生まれ変わりが普通に過ごしているのを見て、筆者個人はとても感慨深くなりました。生死を懸けた戦いの末に、こうした平和な一時があるのだと思うと、心がとても穏やかになりました。
また、ある柱二人の結末に関して胸がひどく痛むと同時、最終話でのその後を見た際は非常に心躍りました。

中でも個人的に注目したのが、蝶屋敷の三人娘きよ・すみ・なほにも子孫がいる点でした。『鬼滅の刃』と言う生死が強く描かれた作品で、戦いに関わりつつも幼く描かれた三人も、戦いの後で晴れて女性としての幸せを掴み祝言を挙げることができたという事実が、とても嬉しく思えました。
今回のお話は、そんな三人にスポットを当てたものです。本作でもほんの少し注目することはございましたが、今回のように主役級に据えたのは初めてでした。

伊黒さんと甘露寺さんに関しては、最終決戦の結末を知るまでは『二人もくっつけばいいな』と思っていましたが、伊黒さんの心情を鑑みるとこの作品内でも結婚するのは少し違うと個人的に判断し、敢えてこのような形とさせていただきました。それでもきっと、来世ではああして幸せに暮らしているかと思います。

あくまで、独自の結末を迎えたこの作品だけのお話ではありますが、楽しんでいただけたようであれば幸いでございます。

最後になりますが、評価をしてくださった方、感想を書いてくださった方、本当にありがとうございます。
これほどまでの反応と評価をいただけたことを、とても嬉しく思います。

それではまた、別の作品でお会いすることがございましたら。


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