ある休日の昼下がり。前々から見たかった映画をスクリーンで見終えた俺は、期待通りのクオリティだったそれに満足して上機嫌で帰路を歩んでいた。その機嫌の良さがそうさせたのか、あるいは何かしら第六感の類が働いたのか、俺は普段ならあまり通らない道をあえて選び、鼻歌交じりにその道を進んでいく。
充実感と共に頭上を見上げれば見えるのは青い空。ところどころに浮かんだ雲の映える晴天だ。吹いてくる涼しい風が心地よく、大きな道路沿いから外れているわりにきっちり舗装され開けていて、ほどよく静かで落ち着いた雰囲気のこの道筋は、今日のような日にはまさしくうってつけの散歩ルートだと言えるだろう。
……と、その道中で視線の先に、何やら小さな男の子が道のど真ん中で、白昼堂々と駄々をこねているらしい光景が見受けられた。母親らしき人がいかにも困った素振りで子どもに何か話しかけている。男の子はやだやだ帰りたくないとぐずっているようだ。
「絶対連れて帰るもん! ちゃんと飼うから!」
「あのね、そういう動物は勝手に連れて帰っちゃダメなの……。わかって……? ね?」
なんだなんだ、懐いた野良猫でも連れ帰ろうとしているのか? なんとなく興味を引かれて男の子の方をよく見る。その子は何かに覆い被さるようにしていたけれど、猫を確保しているというには少々大袈裟すぎる姿勢のような……。
近付くにつれて、段々と彼が「連れて帰る」と言い張っている物が見えてきた。男の子の右サイドからは羽のようなフワフワが、そして反対に左サイドの方からはクチバシのような固く細長い物が見えて……。
……いや、鶴じゃね!? よく見るとそのデカい鳥は鶴なんじゃねーの!?
ある程度接近して判明したのは、少年が覆い被さるように抱え捕獲していた動物は鶴だということだった。全体的に白いカラーリングの大きな鳥で、おしりの方の羽は黒くて、頭の上は赤い模様になっている。鶴だろこれ。
えっ、えっ……? 鶴ってこんな、野良猫みたいなノリでいるものなの? そういう鳥だっけ鶴って? しかもここあれだよ、言うて東京だよ? 東京の、コインパーキングの料金がすぐエグい価格になるような地域だよ? 田舎の畑に何かでけぇ鳥がいるなぁっていうのとはまた別なのに、えっ、しかも鶴? マジ……?
「やだー! 絶対連れて帰るー!」
「もう! 鶴なんてウチでは飼えません!」
そりゃお母さんの言うことの方が百割正しいだろ、という論争が、なぜかこの平和な休日、この場で起こっていた。心なしか鶴も「いや勘弁してくださいよ……」みたいな顔をしているような気がする。
「ほら、鶴さんも自然に帰りたいよーって言ってるよ? ワー、人間ニ飼ワレタクナンカナイヨー、タスケテー」
……え? もしかして腹話術のつもり? と第三者視点からも疑いの眼差しを向けたくなってしまうほどお粗末な芸でもって、子ども騙しの術を試みたこと以外は賢明な母親が子どもを説得しようとする。が、鶴を抱えた彼女の実の息子でさえ「この人は何をやっているの……?」という困惑の表情を浮かべていた。
そこで俺は運命を感じてしまう。数秒前まではあんなに穏やかな気分だった自分が、今こんな衝撃のシーンに出会ってしまったことはきっと必然だったのだと、今の母親の芸を見て確信してしまった。というのも、俺の唯一の特技が、まさに腹話術以外の何物でもないのだ。
重ね重ね運命を示すかのように、傍に手頃なベンチが置いてあったので、俺はそこに座りここぞとばかりに己の力を解放する。ウケるのは最初に見せる一度だけという、秘められし不遇の特技を今こそ……!
「イヤ、アノ、離シテモラッテもイイデスカ……?」
狙った通り、女性を連想させるようなハイトーンの裏声が出た。動物らしさ(人外らしさ)を表現しようと思ったらカタコトになったけれど、それは男の子のお母さんが選んだ芸風を後追いしたということにしよう。
さて、効果は絶大だ。聞きなれない上に出どころの知れない声が突然響いたことで、男の子はおろかお母さんまであからさまに驚きの表情を浮かべ、あたりをきょろきょろと見回し始める。俺はスマホを眺めているフリをした。
「あ、鶴デス、今喋ってマス」
ある種眠りの小五郎のような技を見せる俺の存在に、母親の方はいち早く気が付いたようだった。しかし男の子の方はやはり所詮は子どもだ、近くに座った俺よりも鶴の方をしきりに見つめている。二度見どころか五度見くらいしている。
「コッチニモコノ後予定トカアルノデ、本当ニ離シテ貰っテイイデスカ……?」
「ほ、ほら、鶴さんもこう言ってるし」
乗っかってきたお母さんはまだしも、人間たちの意図することを野生の勘で察知でもしたのだろうか、なんと鶴は「そうだそうだ」とでも言うように二度頭を上げ下げして頷いて見せた。
男の子が「そうなの……?」と鶴に回していた腕を離すと、鶴はまたしても頷く。これが神による運命の力なのか、それとも鶴は長生きをする生き物だとよく聞くから、長い時を経たことで化け猫的な力を手に入れた存在が目の前の鶴なのか。何が何やらよく分からないけれども、ともかく全てが上手くいった。
「わかったよ。……元気でね」
やけに鶴に固執していた少年が数歩引くと、鶴はバサバサと勢いよく羽を広げてどこかに飛んで行く。遠ざかる声の演出に気合いを入れて、
「アリガトウ! 君モ元気デネ!」
と別れの挨拶を入れておいた。空を見上げ手を振る少年はきっと、今日の経験をスピリチュアルな物として記憶するだろう。
役目を終えた俺はおもむろに立ち上がり、スマホをポケットにしまって、元通り自宅を目指し歩き始める。颯爽と立ち去るのだ。なぁに、名乗るほどの者じゃないさ……。
その日の夕方、家のインターホンが鳴った。
「どちら様ですか」
「あの時助けていただいた鶴です」
「は?」
扉一枚隔てた向こうから聞こえてきたのは、通りがよく澄んだ女性の声だった。
俺の脳裏には咄嗟に「不審者」の文字が過ぎる。鶴というキーワードを使うからには昼間にあった一連の出来事を見ていた人物だろう。しかしあの時見た母親らしき女性の声とは違い、またあの場に他の人物は誰もいなかった。……ように見えた。だからもしかすると今扉の向こうにいる相手は、隠密行動に精通したストーカーなのかもしれない。
……いやしかし、腹話術に一家言あること以外平凡かそれ以下である俺のような男をストーキングする女性がいることと、鶴が本当に女性の姿となって恩返しに来ることとを比べて、よりあり得ない話はどちらなのだろか? 事実は小説よりも奇なりという言葉をこの場合どちら側に適用すればいい……?
扉の覗き穴から外を見てみると、それはもう絶世の美女がそこに立っていたのだけれど、逆にその美しさが怖い。時代が時代なら人の一人や二人殺めてしまっても美貌故に許されてしまいそうなほどの美女だった。
「……いや、普通に信じ難いんですけど」
「では、今ここで鶴の姿になれば信じていただけますか……?」
「えっ」
「ちょうど今は誰も見ていませんし、ここで変身するなら今しかないですよ」
俺はマンション住まいなので、確かに隣人の目を気にかけなくてはならないところだけれど、彼女の言う通り今は幸運にも人の目がない。そしてまた俺自身にも、本当に鶴に変身するというなら見てみたい気持ちが正直あった。
……けれど、あれ? 鶴の恩返しって、そういう話だっけ? むしろ鶴になってる時の姿を見たら全てが終わってしまうんじゃなかったっけ?
「え、変身出来るんですか」
「はい、いきますよ」
「えっ」
心の準備をする暇もなく、ぶわっと白い羽がそこら中に舞い上がり、散らばった。紙吹雪のようにそれが舞い落ちる中で、覗き穴から見えた先の視界には、本当に一羽の鶴がいた。
俺はおそるおそる玄関を開けてしまう。何かのトリックを用いた罠だったらどうしようなんて考えたけれど、俺と鶴の関連性を知った上で、その日のうちにそんな手品を考える人間の存在なんて、鶴の恩返しの実在よりもさらに疑わしい。
鳥らしく折れそうなほど細長い足でトトトトと早歩きをして、その鶴はそそくさと家の中に入ってきた。そして再び羽を巻き散らかしながら、今度は美女の姿に戻る。……戻る? 戻るなのかこの場合? 鶴の方がデフォルト……?
「改めまして、今日は本当にありがとうございました。助けていただいた鶴です。恩返しに来ました」
「あぁ、はぁ。……えっ? あれですか、機織りとかしてくれるんですか……? ウチ機織り機ないですけど」
「いえいえ、そこはもちろん時代に合わせますよ」
さも昔の鶴は実際に機織りで恩返しをしていたかのような言い草をされた。
「ただ、その前にホウキやチリトリはありますか?」
「え?」
「羽を片付けないと……」
「あー」
不便な変身だなぁ。そう思いつつホウキとチリトリを持ってきて、
「あ、いえいえ、わたしが片付けますから!」
「いや俺がやりますよ」
「そんな恩返しをしに来たのに、わたしがやります!」
「いやいいですって」
「いやわたしが」
「いや俺が」
というくだらないやり取りを交わして、結局二人で散乱した白い羽を片付けた。なぜ頑なに俺が俺がと主張したのかというと、それは女性と喋ったことくらいは普通にあるけれども、生まれて二十数年今に至るまでお付き合いをしたことは一度たりともないという俺には、美女の働く様子を高みの見物とばかりに傍観するだけの度胸が備わっていなかったからである。
「さて、それでは恩返しの本題に入らせていただきますね」
「あ、はい」
すごくフランクで趣も何もない。が、恩返しも時代に合わせているという言葉を受けて考えるなら、目的をいち早く明かすこともその一貫なのかもしれない。何せ現代において鶴の恩返しは、一歩間違えれば不審者として通報される危ない橋渡りになってしまうのだから。
「……あー、えっと、その前にお名前をお聞きしてもいいですか? わたしのことは鶴とお呼びください」
「え? ああ、田中です」
「では田中さん、これから飲みに行きませんか? わたしの奢りです!」
「……なるほど?」
現代風恩返し術、今日は奢りだ宣言。
なるほど、と心の中でもう一度繰り返す。これはものすごく時代に適応していることだ。まるで友人のちょっとした危機(バイトのシフト変わってみたいなやつ)を救ったようなノリである。
「鶴ってお金持ってるんですか……?」
「ふふふ」
どこからともなく財布を取り出した鶴は、扇のように広げた諭吉を見せつけてきた。……まあ、昔話の方でもじいさんばあさんに巨万の富を与えたり与えなかったりしていたし、そういうものなのかもしれない。
「え、これは……いいんですか? わーいやったーって喜んじゃって」
「もちろんです! パァーっとやりましょう!」
「……よし! そうさせてもらおう! 行こう!」
「いえーい!」
俺は考えることをやめた。なんかもう、人の金で飲める上に美女が同席と考えたら、何も考えなくていいかなって。変身シーンを見てしまったことでいくらか思考が麻痺しているような感覚を我ながら感じたけれど、気のせいだということにしよう。
適当な近所の店を選んで鶴と入った。それで適当に食べたい物と飲みたい物を頼んで、遠慮なくかっ食らう。
ただ飲み食いするだけでは面白くない上、こんな美女と飲める機会はもう二度と来るまい。そんな幸運を噛み締める気持ちと焦りとを同時に味わいながら、しかし俺は何もこの場に適していそうな話題をおもいつけなかった。
だってそれはそうだろう、いったいどこの人類が鳥類との話題なんか用意してあるんだ……? 話題……話題……何があるんだろう……と悩んだ末に、だから俺は、
「普段は何してるんですか?」
とつまらない質問を苦し紛れに投げかけることになる。
「ぼーっとしてます」
と答えられた。だから飛んで逃げるよりも先に、子どもなんかに抱きつかれたりしていたのだろうか……。鶴ってなんかそこそこ貴重な生き物だったりしなかったっけ? 子どもに負けるくらいぼーっとしてていいのか……?
酒が進み酔いが回ってくるうち、俺よりもむしろ鶴の方が明らかに顔を赤くして、そして饒舌になっていった。
饒舌な鶴さんいわく、人間の姿に化けられる鶴……というか鳥類は世の中に結構たくさんいて、中には惚れ込んだ人間と結婚して添い遂げる人(鳥)もいるのだとか。俺はそれを「え、寿命は……?」と思いながら聞いていたけれど、鳥本人に寿命差の話をしては残酷かと躊躇い質問を投げかけることは出来なかった。
二時間ほど飲んだだろうか。正直言って人の金で食う飯と飲む酒の美味いことはこの上なく、かなりご機嫌になってしまっていたのだけれど、鶴の方に至ってはもはや半グロッキー状態となっていたから、俺の酔った脳みそはどこか片隅の方で、一歩引いたような意識も残している。鳥ってこういう時どこへ連れ帰ればいいんだろう……とか考えていた。
そろそろ出ようかと言うと、鶴が財布を俺に渡してくる。まあ確かに、べろべろに酔っぱらった美女が平凡男を連れつつ自分で会計する光景は、傍から見てかなり奇怪に映るかもしれないけれども。
とにかく適当に会計を済ませて、俺たちはひとまず店を出る。酒の力は偉大だということなのか、初見でびびってしまうレベルの美女と飲んでも途中から普通に楽しめたし、そしてその美女に奢ってもらってしまったことも「あざまーす」といった程度の意識でいられた。……いやこれ酒の力が偉大というより、むしろ酒の罪が重いって話だな……?
「あの、鶴の恩返しって最後鶴は飛んで行っちゃいますけど、今そんなべろべろで飛べます……?」
「無理です〜……」
「ど、どうしよ」
「だーいじょーぶですよー? ホテル行きましょうねーホテル。お金はあるから〜、お金ならあるよぉ!」
「は……? いや何言ってるんすか」
「何って、恩返しですけど……?」
「いやそんなエロ同人みたいな恩返しはダメでしょ」
酔った頭であっても、それはダメだろうと本能が叫んでいる。美人を抱きたいという男としての本能を押さえつけるほどに、俺の臆病さは大きく育ってしまっていたらしい。
が、そんなある意味では情けない男の発言を聞いて、鶴は今日一番に目を見開き、驚きを表情で伝えられる限り全力で表す。
「え……? ダメ、なんですか……?」
「あ、いや、あのですね。嫌とかそういうことではなくて、常識というか倫理というか、そういうあれ的に考えてですね」
「いや、常識って、えっ……? えーと……? 男女が二人きりでお酒を飲むことって、そのあとエッチするって意味じゃないんですか……?」
「いやそれは違うわ絶対っ!」
まさかの鳥類からやばすぎる認知の歪みを垣間見た。現代社会で許してはならない人間の悪性の一つが、なぜ東京でぼーっとしていた鶴から発せられてしまうのか。
「えっ、えぇっ、そうなんですか。動物界ではそういうものだとされているんですけど」
「マジで……? 動物たちから見た人間の印象死んでるじゃん。なんで? 環境破壊とかするから……?」
「さぁ……?」
至極不思議そうな顔をする鶴さん。ぜひ恩返しが終わって鳥の姿に戻り自然に帰ったあとは、可能な限り多くの動物に今日の気付きを話して人間のイメージを正しておいてほしい。
「あ、でもでも、田中さんは嫌ではないんですよね? そういうことするの」
「え? いやそれはあれじゃないですか、言葉の綾というか、イエスかノーで答えること自体おかしいっていうか」
「嫌じゃないならしましょうよ、これも恩返しです。ていうかフラフラしちゃってわたしどうせ帰れませんし……。 へい、タクシー!」
「えっ? は?」
神がかったタイミングですぐに目の前にタクシーが止まる。酔った脳には荷が重すぎる思考は処理が追いつかないままで、俺は引きずり込まれるようにしてタクシーの座席へ乗り込み、あっさりとその扉は閉じられてしまった。
「運転手さん、近くのラブホまでお願いしまーす」
「えっ?」
運転手も困惑していた。そりゃそうだろう、彼らも人間だ。
しかしそこは百戦錬磨のタクシー運転手、困惑しつつも近場のそれっぽい場所まで俺たちを運んでくれた。あっという間にやって来てしまった。下手すれば一生縁がないと思っていた独特の雰囲気の建物に、腹話術をしただけの童貞が美女に連れられてやって来てしまった。
「いや、ちょっと、酔いすぎでしょう鶴さん」
「はーいレッツゴー」
わけのわからぬうちに受付を抜けて部屋まで通ってしまう。
へぇーラブホってこんな感じなんだー、意外と普通の部屋だなーという気持ちと、いやいやいやこんなことしてる場合かそんなこと考えてる場合か、という思考が同時に湧き上がってきて、俺の中でどちらが主導権を握るのかを争い、接戦の綱引きのように行ったり来たり頭の中を駆け巡っている。
そしてそこからの記憶は、嘘みたいに忙しない様相となっている。「この鶴を絶対に連れて帰るんだ!」と豪語していた少年にはとても聞かせられない出来事が、激流のような勢いで連続した。
なんか気付いたら童貞を卒業していた。
鶴を助けたら童貞を卒業出来た件についてw みたいなタイトルのラノベがあったら誰も買わないだろうな。同じようなスレタイがあっても伸びないだろうな。
呆然としたままの俺は、美女の姿をした鶴が隣で眠るベッドの上、天井を見上げたまま硬直してそんなことを考えていた。
正直なところ途中からは「もう引き返せないし楽しんじゃえ」みたいな気持ちが半分くらいあって、誇張ではなく楽園か天国にいるような心地良さがひたすら溢れていたことを記憶している。このような贅沢が出来る日は、きっともう二度とないことだろう。エロいことを考える度に今日のことを思い出すに違いない。
そう思ってしまうと名残惜しくなって、まるでアイスの蓋を舐めるような卑しさが、隣で眠る女性へ向かっていってしまう。だって今なら胸を揉んでも咎められないし、キスをしてしまっても咎められないし……。
が、俺はついぞそれを実行することが出来なかった。臆病者、意気地無し、お前に女なんかもったいない、一生オナホでシコってろという、全国の男性の集合思念体みたいな声が聞こえてくるような気がしてしまうけれど、それでも何も出来なかった。
女性の寝込みを襲わないという正しい行いをしているはずなのに、どうして俺はこんな気持ちにならなければならないのだろう。すでに間違ったことをしてしまった人間にとって正しさは毒になってしまうのか? 人間の心は何か間違っている。健康に悪い物ほど美味く感じることと同じ類のバグがある。
しかし結局のところ、いいじゃんいいじゃんと誘われれば身を任せてしまうのに、誘ってくれた女性が一転して寝息を立て始めてしまえば途端にこれなのだから、やはりバッシングされるに値する物が俺の中にはあるのかもしれない。……なんだこの罪悪感は、童貞卒業の代償はこんなに重い物なのか。
世界一恵まれた、幸運の極みに見舞われたはずなのに、それを素直に喜べない不甲斐なさを夢の中でまで噛み締めながら、俺たちは一晩を越したのだった。
……そして翌朝、身支度をしながら鶴が言う。
「そういえば、一度わたしのような変身を見た人は、以降同じように変身できる鳥類の声が聞き取れるようになるので、また困っている子がいたら助けてあげてくださいね」
「えっ、そんな未来のこんにゃくみたいな……?」
「はい、鳥の姿での鳴き声が翻訳されますよ。けれど人に化けられる鳥類はみんな、きちんと恩返しをするいい子であるはずなので、翻訳こんにゃくを兼ねた桃太郎印のきびだんごみたいな話ですね」
服のボタンを留める鶴を見ながら、そういえば変身する時に服ごと出たり消えたりするけどどういう仕組みなんだろう……なんて呑気なことが考えられたあたり、それが童貞を捨てた者の余裕というやつなのかもしれない。その余裕を誇る気にはなれないけれど。
むしろ余裕なんて言葉はその程度の部分にしか無くて、俺が聞き取れる声で鳴く鳥はみんな、ちょっと助ければ恩返しをしてくれるのだと聞くと……その……昨日の夜のことを、否応なしに思い出してしまう。
その心のなんと醜いことだろう。恩返しを当てにした人助けならぬ鳥助けなんて、偽善と呼ぶことすらおこがましい。これが童貞を失った男の末路なのか。清い心を失い、魔法使いになる資格も失った、ただスケベなだけのクズ野郎……。
ホテル代を支払う時、一度夜明け跨いだことで冷静になってから考えてみれば、この奢ってもらうという構図も普通にクズのそれだなと思ってしまった。だってそうだろう、そもそも恩返しって何なんだよ、俺は腹話術をしただけだぞ。
「それでは田中さん、恩返しはこれにてということで、鶴は失礼させていただきます。どうかお元気で!」
本来は襖の向こうにあって隠されるべき「変身」を、最初に見てしまったからだろうか、それともこのドライさが現代風ということなのだろうか。人気のない場所で鳥の姿に戻った彼女は、そのまま元気に彼方へ飛び去っていってしまった。
人間と結婚する鶴もいるみたいな話を聞かなければ、今自分の中にあるような気持ちも生まれなかっただろうに……。またしてもそういった罪悪感に苛まれながら、濃い体験の終わりを嫌になるほど感じつつ俺もまた家路につく。
が、その道中、これまた予想外な物を目撃した。なんだか不思議な運命の力で、また別の鳥類が困っていたりしないかなーなんて、正直そんなことを考えつつ歩いていたのだけれど、だからこそそれは予想外の光景だった。
「お姉さん一人? いま暇? オレとカラオケ行かない? 奢るからさー」
「ちょ、やめてください……」
普通に普通の人間同士のナンパが起こっていた。しかもステレオタイプすぎる悪人スタイルのナンパが。
鶴を抱きしめる子どもに比べれば全然あり得そうな光景だったけれど、今の俺にはむしろそれが新鮮に映ってしまう。うわぁこんなことって本当にあるのだなぁと。
とはいえ、ここは東京だ、日本有数の都会だ。確率的にナンパくらいそこかしこで起こっていて、それが俺の目の前で行われてしまったことが今日初めてだったというだけだろう。当然ながらそれは腹話術ではどうにも出来ないし、仮に殴り合いになると俺は、あの怖そうなチャラいお兄さんに秒で負ける自信がある。気の毒とは思うけれども、今の俺に出来ることは何もない……。
「いいじゃんいいじゃん。お姉さん美人だからオレ一目惚れしちゃったんだよ。なぁ、ちょっとだけでいいから」
「嫌ですっ、やめて……!」
乱暴に腕を引かれたことで、ナンパ被害者の女性が抱えていた、どこぞで買ってきたのであろうポップコーンが少し地面に散らばってしまう。すると鳩が数羽降り立ちそれをついばんだ。鳩の口にはポップコーン一粒が大きすぎるらしく、何度も首を振って細かくちぎっている。
俺は、それでようやくハッと気が付いた。数々のサインの存在に気が付いたのだ。これもまたあの鶴の時と同じ、俺へ与えられた運命なのだと。
あの女性がなぜか都合よく、鳥のエサになりそうな物を持っていて、しかもそれがポップコーンで、なおかつ実際にそれを食べに来た鳥もいた。その鳥こそが、鶴いわく鳥の声を聞けるようになったらしい俺への、「これは運命である」というメッセージなのだ。そのポップコーンというアイテムだって、映画館からの帰り道だったあの時のことを思い出せというメッセージに違いない。
ここで女性をナンパから救っても、鶴のように恩返しなんかしてくれることはないだろう。そんな風に妙なことをするのは鳥類だけだ。けれどだからこそ、俺はここで彼女を助けなければならない。そうしなければ俺は本当のクズになってしまう。俺にしか聞こえない声で助けてと叫ぶ鳥じゃない、誰にも聞こえない声で「助けて」と叫んでいる彼女を今ここで救うのだ。
これは神様が俺にくれた最初で最後のチャンス。童貞と一緒に人として正しい心まで捨ててしまいかねなかった俺が、その正しさに踏みとどまるための最後のチャンスなんだ。
「ちょっとお兄さん」
「あ?」
「嫌がってるじゃないですか。やめましょうよ」
「なんだオメェ」
ドスの効いた声を聞いた瞬間、あっ、やっちまったと、俺の勇気が手のひらを返した。
マジでどうしようこれ、このまま俺がボコられて、ポップコーンのお姉さんは連れて行かれて、誰も幸せにならないじゃないか。一時の勢いでなんてことをしてしまったんだ。運命なんてものを信じて取り返しのつかないことをしてしまった。痛い思いをするだけで何も救われない。
が、そこでまたしても運命の力なのか、俺に天よりの閃きが舞い降りる。あるいは、藁をも掴む気持ちが一周まわった。
俺はお姉さんの抱える山盛りのポップコーンに手を突っ込んで雑に掴み取り、ナンパ男に向かってそれを投げつける……! 何度も何度も、「うわあああ来るなあああ」と言わんばかりに投げつけまくる。
「う、うおっ、なんだこれっ」
すると周囲に潜伏していたらしい鳩が無数に集まってきて、まるでナンパ男その物に群がるようにその場を飛び回った。数が数なので「暴れ回った」と言えそうなほど荒々しく、とにかく鳩の羽ばたく音が強烈に連打される。ちょっとした地獄絵図がそこにはあった。
「今だ!」
こんな子どもの考えた作戦みたいな物が、まさか本当に上手くいくとは思わなかったけれど、一瞬のチャンスを逃すわけにはいかず俺は咄嗟に女性の手を握って、どこか男の追いかけて来ないであろう場所を求めて走って逃げた。無我夢中で走った。助けるべき女性の手は引いているものの、内心は完全に自分の命惜しさの全力ダッシュだった。
そしてなんとか逃げ切り、いっそ死を彷彿とさせるほど深刻に息を切らしながら、なんとか生き延びた俺はその場にへたり込む。女性の方は俺なんかよりスタミナがあるのか、多少荒い息遣いになりながらもまだ体力的には余裕がある様子だった。
「あ、あの、ありがとうございます。助かりました本当に」
「い……いえ……すいません……。ポップコーンばらまいちゃって……」
「いいんですそんなのはどうでも! 本当にありがとうございました。……よかったらこれをどうぞ」
ゲームのイベントかな? と連想させられるようなテンポで、女性は水の入ったペットボトルを俺に手渡してから、何度もお辞儀をしつつお礼を言って去っていった。
その水を一口飲んで、少しその場で息を整える。……どうだろう神様、これで俺も少しは、マシな男になれたかな。非童貞にふさわしい男になれたかな……。
そんな想いと共に頭上を見上げてみれば、そこには昨日に続いて今日もまた、清々しく鮮やかな晴天が広がっていた。
その日の夕方、日も陰って来たのでベランダに出していた洗濯物を取り込んでいると、一羽の鳩が手すりの部分に止まった。なんとなくその鳩と目が合う。
「クルックゥ、クルッポー(あの時助けていただいた女です、恩返しに来ました)」
「いや変身が逆ぅ!」
ー 完 ー
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