屍の立香 (射程がダンチ)
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1話

 太陽が爛々と輝く蒼穹を、何処からか運ばれてきた桜色の花弁が舞う。

 その日、新学期が始まって間もない頃、藤丸立香の姿は街の中心部にあった。

 各々が携帯端末や腕時計に視線を向け、慌ただしく行き交う勤め人の波に小柄な朱髪の人物が紛れ込む。

 忙しない社会人たちに混じった、時間に追われる心配のない瑞々しい若者。

 目立つことはないが、仄かな違和感を残す情景。小さな認識の相違。

 十中八九、社会人と言い切れない背格好の若者が平日の昼間に街中を歩いていようが、万人の日常に影響を及ぼす程ではない。質の悪い軟派を生業とする者か、もしくは非行を取り締まる側が声をかけるのが精々だ。

 べつに、彼女は学業を疎かにする素行の悪い生徒ではない。

 四月は多くの人々が新たな生活を始める季節だ。それは学生にも当て嵌まる。

 藤丸立香が籍を置く高校の入学式は予定通りに執り行われ、緊張を胸にした新入生たちが校舎に足を運び、在校生たちは自宅待機という名の休日を迎えていた。

 べつに、彼女は生真面目で融通の利かない堅物ではない。

 降って湧いた折角の休日を無為に過ごす愚は犯さない。家に引き籠るには惜しい快晴であれば尚更だった。

 幸いにも新学期は始まったばかりで課題は出されず、不幸にも親しい友人は午後から部活で一緒に出掛けることは叶わなかった。

 そうした過程を経て、現在に至る。

 気晴らしを求めて、特に目的地を定めずに足を動かす。

 春物の洋服を物色し、学校で話題になったパフェを出す喫茶店が定休日で肩を落とす。二羽の小鳥が仲睦まじい様子で信号の上に佇む姿を携帯端末で写真に残し、頬を緩めながら友人に送る。

 強いて言えば、規模の大きい散歩だった。近所を軽い運動も兼ねて歩くのと大差のない感覚。視界に映ったものに惹かれ、行動するだけの時間。

 それは無為な休日を過ごしているようにも捉えられる。何をするでもなく、貴重な時間を贅沢に浪費するだけの若者。

 けれども藤丸立香はまだ高校二年生であり、全てはそれに尽きる。

 進学や就職といった進路への不安や希望を抱くには時期尚早。深刻な悩みは課題の提出や定期試験の成績といった程度のもの。

 有限であるはずの刻が果てしなく続くと、楽観的に思い込む特権を許された年頃。

 自覚すら持たない、根拠のない確信はその日、唐突に散った。

 

 

 大型書店の出入り口を潜り抜けて来た藤丸立香は、程なくして視界に映る街並に、正確には頭上を覆う空の色に首を傾げた。

 太陽の輝きが見当たらない。蒼穹が茜色に染まる刻限は過ぎ去ったとばかりに宵闇が広がっていた。

 流行のファッション雑誌を立ち読みしたり、興味の惹かれる書籍がないものか探し回ったりと相応に長居をしたが、夜が訪れるには充分な余裕があったはず。

 落陽の早い雪の降る季節ならば体感よりも長く居座った可能性はある。いまは散り際の桜花が儚くも存在感を残し続ける時期だ。そして立香の記憶が確かなら、太陽はまだ高く登っていた。

 

「えっ、な──」

 

 なんで、どうして、疑問が明確な音声として紡がれることはなかった。

 空模様にばかり意識が向いた弊害、当然のような混乱によって、周囲の状況が常と異なる事実に思考処理が追いつかない。

 情景が変貌する。街並の輪郭が朧気になり、人の気配が消失する。無意識ですらない一瞬、或いは最初からそうであったかのように、立香の知る既存の世界は一切が弾き出された。

 暗夜に色を添える銀燭の月影。

 天より降り注ぐ雪下の大地に芽生えた、異物。

 春の薄い服装では防ぎようのない冷気が素肌を叩き、思わず両腕で肩を撫でさする。

 行動が思考を活性化させた。それは自身の死を危惧した生存本能の発露であったかもしれない。

 

「うぅ、寒いッ」

 

 漸く絞り出した呟き。

 暖かな春が、慣れ親しんだ街並が、比喩のない銀世界へと転じたのだ。大地から芽生え、或いは突き刺さった存在が鈍い煌めきを放つ。

 墓標のようだと立香は思った。実際はもっと異質なものだった。形状の違う様々なそれらには名が標されておらず、しかし、確固たる存在としてこの世界を構成していた。

 

「わたし、何処にいるの……?」

 

 誰に向けたのでもない疑問に応える存在はいない。

 一度でも訪れた過去があれば、数多の刀剣(・・)がひしめく大地など忘れようもなかった。

 異常事態に見舞われて、年頃の少女ならば錯乱して然るべき状況下で、立香は強張った表情ながらも精神の均衡が崩れた様子は見受けられない。

 無理をして気丈に振る舞おうと心掛ける。思考回路の一部が、妙に達観していた。生来の気質によるものかもしれなかった。課題の提出期限や定期試験の実施日が変更しないか、ありもしない希望に胸を馳せる一方で、目に見えるものを受け入れる。思考面では虚構と現実を両立させる部分があった。

 いまも、胸中に巣食う感情の暴発を努力して抑え込んでいた。理性が蒸発することなく懸命に思考回路を働かせる。

 真に不幸なのは、彼女のそうした努力の一切が無駄に終わることだった。

 静謐を吹雪が砕く、刀剣の墓標が目立つ異様な世界。

 他に人の気配が感じられないその場所で、己に危害を加えうる存在にまで思考が及ばない立香を誰が責められよう。

 日常から隔絶された墓所に存在する人間は、確かに藤丸立香ただ一人であったのだ。

 それは墓守の存在を否定する証にはなり得なかった。

 明確な意図によって一人の少女を心情風景に引き込んでいた。

 黒い筋が地面に生じたのを立香は捉えた。それは自身から伸びる影と似たような形で、背後に人の存在を示唆するものだった。

 音もなく唐突に現れた影の持ち主に、本来ならば不審や警戒といった感情を向けるべきである。しかし努力して精神の均衡を保ちながら、緊張状態にある立香が抱いたのは安堵であった。自分の他に誰かがいる、孤独ではないのだと。

 強張った表情が僅かに弛緩して立香は背後を振り向こうとする。

 そして影は僅かに揺れ動き、次いで立香の慎ましやかな胸から一振りの刃が突き出していた。

 鮮血が舞い散る。こみ上げてくる液体を盛大に吐き出す。背中から胸にかけて灼けるような錯覚。酸素を上手く吸えない。全身から力が抜けてゆく。瞼は重いが、皮肉にも激痛が意識を繋ぎ止めていた。

 刃が引き抜かれ、支えを失った肢体は雪の大地へうつ伏せに倒れ込む。赤黒い液体が広がってゆく様は、雪原に一輪の華が咲き誇る様を彷彿とさせる。

 出血と冷気の相乗効果で、もはや立ち上がる余力は残されていない。意識と気力のみで、かろうじて首を動かす。

 足音がした。不思議なことに人の気配とは思えなかった。

 紅い衣を身に纏った男がいた。その右腕に、血濡れの刀剣を一振り携えている。

 月明かりに照らされた顔立ちは、年齢不詳といえば聞こえはいいが、判断のつかない複雑なものだった。疲れ切った老人の色を呈しているが、澱んだ琥珀色の瞳は烈火の意思を覗かせる。

 額に巻いた(くれない)の布から飛び出た朱色の頭髪も、老いによるものか、その他の要因か、一部が白髪へ転じていた。

 妙に見覚えがある。それは何だろうか。記憶を巡らせ、解を見つけて立香は無邪気に喜んだ。

 同じ色なんだ、髪の毛とか目の色が。もし男の子に生まれてたら、多分、この人みたいな顔になったのかな。

 朦朧とした意識では正常な思考を満足に働かせることができない。必要もなかった。遠からず訪れる死を立香は漠然と理解した。全身を迸る激痛からの解放を願った。

 願望が通じたとは思えないが、男は片手に携えた刀剣へ力を込めた。逆手に持ち替える。

 視線はある一箇所に向けられる。心臓を貫いて尚も意識の残った少女に安らぎを与えるために首を絶つ。

 腰を落とし、振り上げられる男の腕。

 あぁ、死にたくないな、わたし。はやく、楽になりたいな。

 生気のない虚ろな瞳からは矛盾した感情を窺い知れない。もはや意味もない。

 藤丸立香の短い人生は幕を閉じる。

 死の間際に垣間見えたのは、藤色の髪をした小柄な少女だった。

 

 

 滑り込んだ盾に刃が阻まれ、耳障りな甲高い音が響き渡る。

 紅い衣の男は俄かに信じられぬ表情を浮かべ、すぐさまそれを打ち消す。無手であったはずの左腕には新たな刀剣が一振り握られていた。

 何処から引き抜いたのか分からぬ得物。

 両腕に構えた二刀が、間断なく突き出される。絶妙に緩急の差をつけて、絶えず癖を把握させない剣技。

 その悉くを、身体を覆い隠すような盾によって防がれる。

 己の動きを見切られている。程なくして達した結論に、固有結界(・・・・)に侵入(・・・)した事実(・・・・)を鑑みれば驚愕の色はなかった。

 呼吸の間隙を突いて繰り出された反撃を難なく捌き、男は闖入者から距離を取る。

 盾の持ち主は追撃の素振りを見せながらも、距離を詰めはしなかった。油断なく構えながら、背後に倒れ伏した藤丸立香へ一瞬だけ視線を送る。

 両者の目的は一目瞭然だった。攻める側と守る側。命を奪う悪と、それを防がんとする善。

 

「なぜ、このような宝具(・・)まで使って、命を奪おうとするのですか」

 

 盾の持ち主は言った。まだ年若い、抑揚の無い少女の声だった。

 漆黒の戦装束から二の腕や太腿の滑らかな素肌が露出するにも関わらず、寒気に震える素振りは一切ない。先だって繰り広げられた剣士との応酬からして、尋常ならざる存在だった。

 全身を覆い隠すには充分な大きさの盾を構え、一方で腰に吊るした鞘から一振りの長剣を引き抜いた。

 暴虐から無垢の民草を守護する、現代では目にすること叶わぬ紛れもない騎士の姿。それが年端もいかぬ少女の姿形である事実が、ひどく奇妙であった。

 剣士と騎士が対峙する構図は現実離れしており、まるで伝承や歴史の場面が抜き取られたようだ。

 沈黙が場を支配したのは一瞬。騎士が疾駆する。前面に押し出した盾に半身を隠し、長剣の一撃を予測させない動作。

 剣士は単純に己の得物で応じた。

 常人離れした異能の超人にとって距離は問題にならない。

 ただ、手数の差が如実に現れたのみ。

 紅い衣の男にとって、得物は即ち刀剣である。

 そして吹雪の舞う暗夜の世界、雪原に突き刺さる無数の墓標も刀剣の類だった。

 地面から抜きはしない。両手には既に二振りの得物を握りしめている。

 

「全てを失って、願いも果たせずに剣は折れた。間違い続けた選択の先に至った誓いは、独善的で矮小な悪そのものだった」

 

 無数の刀剣が虚空から投影される。その全てがある一点へ、剣と盾しか持ち得ぬ騎士へ暴風と化して襲い掛かる。

 一つの命を護るべく勇戦する騎士の姿に何かを重ねて。

 

「悪いが押し通らせてもらうぞ、俺の(からだ)が尽きるその前に」

 

 無数の剣が墓標となった世界で、鮮烈な飛沫が舞った。



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2話

 規則正しい旋律を耳にして、藤丸立香は目を覚ました。

 カーテンの隙間から仄かに差し込んだ陽光が、薄暗い天井を照らす。見覚えのある光景だった。

 繰り返された習慣に基づいて指先は携帯端末へ伸びており、目覚まし機能を沈黙させる。

 欠伸を噛み締めながら上体を起こした立香は思い出したように周囲を見遣った。

 半開きのクローゼットから覗き見える私服、使い込まれた勉強机や、一定の傾向を持った書籍の詰め込まれた本棚が視界に入る。それらは記憶にある自室そのもの。

 次いで己の身体へと視線を向ける。寝間着代わりに用いる中学校時代の指定ジャージ。上着のファスナーを下ろし、僅かな躊躇を見せてからキャミソールの隙間に細指を差し込む。慎ましい双丘。命の脈動が伝わる。肌を押し込む。軽い弾力。肉体の奥深くに指先は沈み込まなかった。

 胸に大穴が空いてるのではないか、恐れを伴った疑念はひとまず払拭され安堵の息を漏らす。

 

「えぇっと、夢にしちゃ生々しくて痛かったんですけど……?」

 

 首を傾げた立香は訝し気に呟いた。

 不可思議な体験、或いは現象を己の作り上げた夢想と断じるには引っ掛かりを覚えた。この身を貫いた刃の感触は思い起こせる。しかし、現実の出来事と認識する痕跡もない。やはり質の悪い夢なのか。

 年頃の少女にしては珍しく、装飾の施されていない地味な色合いの携帯端末を操作する。六桁の認証番号を手慣れた様子で打ち込み、画面に指を這わせる。画像フォルダ、次いで友人に宛てた文面。日時は昨日。

 一連の作業を成し終えると、ますます立香は困惑を深めて唸った。見間違いかもしれない。瞼を揉み、同じ工程を繰り返す。寸分も違わぬ画面の表示。

 外出先で撮影した、仲睦まじい二羽の小鳥の写真。短文を添えて友人にお裾分けしたものだ。

 昨日、間違いなくこの手で操作したもの。やはり、夢ではなく現実なのだろうか。

 無事に自宅まで帰り付き、ましてや着替えを済ませて就寝した記憶を立香は持ち合わせていない。

 更なる疑問が思考の迷路へ誘う。だが、端末に表示された現在時刻から導き出される日常がそれを許さなかった。

 

「って考える暇があるなら準備しなきゃッ!」

 

 藤丸立香、始業式が数日前に執り行われたばかりの高校二年生。朝の余裕は薄氷の上に成り立つ。

 優雅な微睡みを贅沢に味わう特権と遅刻しない登校時間を両立した結果、朝支度は手早く済ます必要があった。何らかの狂いが生じても遅刻しない余裕は確保してあるが、相応の代償を要する。手作り弁当を諦め、貴重な昼休みの一部を購買か食堂で昼食の確保に割かねばならないのだ。

 朝食を執るのは絶対だ。寝坊などの例外を除き、登校日は三食と定めてある。

 女性の支度とは相応に時間のかかるものだ。食事の準備も賄うとなれば一般的な女子高生より更に慌ただしい。

 洗面所で諸々の作業を終えるとジャージ姿のまま台所へ直行する。食事だけならまだしも、料理をする関係で制服に着替えるのは後回しだった。油が跳ねたり、調味料で汚すのは寝間着で充分だ。エプロンをかけ、袖を捲るなど汚れの防止措置を整えても臭いはその限りではない。程度の問題だが、気にかけるのは乙女の性だ。

 

「いただきまーす」

 

 両手を合わせて口を開いた。茶碗に盛られた白米、味噌汁、小皿の上には弁当にも詰めた玉子焼きとタコさんウィンナー。

 食事を口元に運びつつテレビ番組を見遣る。東洋人の奥ゆかしい顔立ちに気品を纏った女性が、流暢な発音だが妙に畏まった口調でインタビューに答えていた。テロップには観光で来日したエーデルフェルトさんとある。

 綺麗な女性(ひと)だと羨んだ。細かな所作や立ち振る舞いが育ちの良さを想起させた。オリエンタル・スマイルではない、しかし日本人の浮かべる子どもっぽい微笑みとも異なる表情に暫し見惚れる。

 食卓の料理が全て消える頃には、インタビューから天気予報へ移行していた。今日の天気は快晴らしいが、全国に視点を広げると樺太(・・)は荒れ模様とのこと。雨は大変そうだなと他人事のように立香は思った。

 

「うん、今日も美味しかった。ごちそうさまでした」

 

 洗い物を片付けた立香は高校の制服に着替えるため自室に戻った。寝間着のジャージを脱ぎ、下着を取り換える途中で手を止めた。鏡の前に映った自分の姿には目立つような外傷が見当たらない。

 

「むう、穴どころか傷跡もない、ってことは本当に夢だったのかな」

 

 背中を向いても刺し傷は元より染み一つ存在しなかった。

 釈然としないまま、白色ブラウスの上にチェック柄のスカートを履く。真っ黒なベストを重ね、指定の青色ネクタイを衿元で締めた。最後に濃紺色のブレザーを羽織る。全体的に寒色で占められた制服との対比によって、立香の朱髪が引き立った。

 指定鞄に教科書やノートといった学用品、その他の必需品が入っているか確認する。新学期が始まって間もないから、提出する課題もなかった。

 玄関に向かう途中で愛用の弁当箱を鞄に仕舞い込む。

 

「それじゃあ、いってきます」

 

 指定のローファーを履いた立香は玄関で声を発した。返事はない。住人は立香だけだ。

 家を出た時刻は普段と同じだった。

 

 

 家から徒歩で十分ほどの場所にバス停がある。住宅地に近く、また行き先の異なるバスが幾つか止まるため、学生だけでなく社会人の姿も見受けられた。

 立香の利用するバスは一時間に二本しか出ない。利用客の殆どを同じ高校の生徒が利用しているからだ。この時間のバスを逃せば遅刻が確定するため、常に乗客は満員に近い。雨の日などは自転車通学の生徒も利用するため、立香は一本早いバスに乗ることもあった。

 携帯端末で時間を潰しているとバスが来た。乗り込むのは立香だけだ。今日から新入生も登校しているはずなのだが、どうやら近所にいないらしい。或いは一本前のバスで通学するのか。

 車内は同じブレザーの制服ばかりだ。見慣れた幾人かの面子が定位置と異なる。皺の無い制服に着せられた新入生たちが散らばっているからだ。

 幸い、立香の定位置は空いていた。前後を新入生に挟まれる格好で窓際の一人席に腰を下ろす。

 バスが出発した。途中、幾つかのバス停で生徒を拾い、高校に到着するまで二〇分ほどかかる。

 流れゆく景色を立香は窓から見つめていた。信号待ちのランドセルを背負った小学生たち。学ランを着た中学生。瞬く間に追い越した、自転車通学の顔見知り。

 それは立香の知る光景で、時折混じる小さな違和感も今日から登校を始めた新入生によるもの。時間の経過とともに見慣れてゆくだろう、つまりは平凡な日常そのもの。

 やはり、夢だったのか。

 瞳を閉じればすぐにでも思い起こせる。雪原に無数の剣が突き刺さった墓場は瞼の裏に焼き付いて離れない。あの世界で、紅い衣の男にこの胸を。

 震えを抑え込むように学生鞄を抱き締めた。刃に貫かれたこの身体にその痕跡は皆無だ。

 死を迎えた、夢じゃない。だが、それをどうやって証明すればいい。こうして学校に向かっている現実が、あの出来事を否定する。

 もう忘れよう。昨日の記憶が途切れているのも、きっと具合が悪かったからだ。うん、そうに違いない。

 悩み続ければ本当に体調を崩しそうで、立香は思考を放棄した。現実逃避に近いものだ。もっとも、夢とも知れぬなにかより逃避するのだが。

 終始、記憶の途切れる寸前に目にした藤色の髪を持つ人物は意識しなかった。

 運転手のアナウンスが聴こえた。終点、つまり高校の最寄りのバス停に止まると告げていた。思ったよりも長く刺殺された夢に想いを馳せたようだ。

 校門までの道には多くの生徒たちがいた。友人らと並んで歩く和気藹々とした在校生と対照的に、周囲を気にした様子で進む一年生らしい姿に微笑みが零れた。立香も入学当初は周囲の誰もが見知らぬ環境で似たようなものだった。

 登下校を共にする相手がいないのは今も変わらないのだが。

 立香の交友関係が薄いということではなく、親しい友人が部活の関係で登下校の時間に差が生じるのだ。

 二年生に進級して日は浅く、新しいクラスの顔触れは把握し切っていない。

 だから、この時間に立香に声をかける者は少ない。

 

「先輩」

 

 そして、一年生の知り合いなど皆無に等しい。

 

「藤丸立香さん、ですよね」

 

 校門をくぐる寸前、生徒たちの喧騒に掻き消されるほどの囁きが、確かに耳朶を叩いた。

 

「昨日のことで、お時間を頂けないでしょうか。昼休み、旧校舎の屋上でお待ちしています」

 

 抑揚の無い声はそれだけで、返事をする間もなく途絶えた。

 周囲を見回す。囁きの主を探そうにも、二年生を先輩と呼べる生徒は大勢いた。顔も名も知らぬ相手だ、確かめる術は声を聞くことのみ。手当たり次第に軟派紛いの行為なぞ出来るはずもない。

 単なる悪戯の可能性や、無視という選択肢は存在しない。いまの立香にとって、昨日という単語は重大な意味を内包する。

 それは、日常が遠のいてゆく片鱗だった。

 

 

 四時間目、午前中に行われる最後の授業。

 朗々と教科書の内容を説明する教師の声が響く。新しいクラスに編入されてまだ日が浅い生徒たちは大人しく手元を動かす。一部の不真面目者は教科書を立て、さっそく居眠りを敢行していた。

 物語の題材になるような面白味のある内容ではないから、ある意味で仕方なかった。トロイア戦争など海外の神話や、現在も熱烈な人気を誇る戦国時代ならば生徒の喰いつきも良かったであろう。世界史や日本史と違い、現代社会という名前の授業は歴史系科目でも常に不人気だった。

 

「で、あるからして、戦後の日本は軍国主義から脱却し、民主主義国家としての道を歩み始めた。だが問題も残っており、憲法九条では侵略的軍事力の保持は一切行わないと定められているが、ベトナム戦争や二度に渡る自衛隊の多国籍軍派遣といった事例が」

 

 頬杖をついて、立香はシャープペンシルを指先で弄んでいた。教師の声は聴き流している。完全に上の空だった。時折、思い出したように黒板の文字をノートへ書き写したが、その所作は遅々としたものだ。

 もとより政治などの小難しい話題に然程の興味を持ち合わせていない。加えて、現在の立香は思考領域の大半を占める悩みが存在する。

 顔色が優れぬようにも見えて、隣席の女子生徒に心配をかけたほどだ。

 そういった時間も、チャイムが鳴ると共に終了を告げた。誰もが待ち望んだ安息の昼休み。しかし、朱髪の少女にとってはそうでもない。

 新しいクラスメイトの幾人かは机を寄せ付けあって、昼食の準備を始めた。

 立香も隣席の女子生徒から誘いを受けたが、先約があると謝罪した。嘘ではない。

 愛用の弁当箱を片手に呼び出された場所、旧校舎の屋上へ重い足取りで向かう。

 食欲も湧かないが、誘いを断った手前、弁当箱を持ち歩かねば不審に思われる。

 旧校舎は小説や漫画で描かれる曰く付きの不吉な建物ではなく、現在も文化部などが使用を続けていた。生徒数の増加に伴って新校舎が建設された経緯があった。

 とはいえ、空き教室も多く、物置部屋代わりに利用されているのが実情だ。文化部の活動もあり、屋上も含めて旧校舎そのものに立ち入りは禁止されていないが、昼休みに訪れる生徒は多くない。

 経年劣化や形式だけの手抜き掃除によるものか、薄汚れひび割れた旧校舎の階段を登る。文化部の生徒が部室で昼食をすると耳にしていたが、世界から隔絶されたような静寂に包まれていた。

 聴こえるのは立香の足音と息遣いのみ。

 施錠されていない扉を開ければ、外界の空気が吹き込んでくる。

 転落防止柵が張られた屋上には、申し訳程度に一つの長椅子が備え付けられていた。

 

「お待ちしていました、先輩」

 

 長椅子に腰掛けた先客は立ち上がり、立香を見詰めながら抑揚のない声で言った。

 日本人離れした彫の深い顔立ちに藤色の髪と瞳を持つ女子生徒だった。立香と同じ濃紺色のブレザーを着ており、そのネクタイは一年生を示す赤だ。

 彼女ら二人のほかに、生徒の姿はない。

 胸の鼓動に妙な圧迫感を抱きながら藤丸立香は言った。

 

「貴女が、わたしを呼んだ子だよね。えぇっと」

「マシュ・キリエライトです」

 

 感情の読み取れない無機質な口調でマシュ・キリエライトは応えた。

 

「知ってるみたいだけど、改めて。わたしは藤丸立香。それで、キリエライトさん」

「マシュ、と呼んでもらって構いません」

「じゃあ、マシュ。話があるって、昨日の」

 

 言い淀み、逡巡してから続ける。

 

「昨日のアレ(・・)がなにか、マシュは知ってるんでしょ?」

 

 確信を込めた問いかけだった。

 意図して避け続けた想像がある。最期に見たものは眼前に迫り来る刃ではなく、何者かの背中だった。

 もし、全てが現実だとすれば。件の人物に命を救われたから、自分はこうしているのではないか。

 そして立香と対面する少女の髪は藤色だった。

 

「えぇ、はい。全てとは言い切れません。私なりの推測も含まれます。それでも、先輩が目にしたものや、いま、その身体がどのような状態であるか、答えは持ち合わせているつもりです」

「やっぱり、夢じゃなかったんだよね。えっ、でも待って」

 

 マシュの妙な物言いに思わず立香は片手を胸に当てる。呼吸に連動して上下するそこには、確かな命の揺らぎがあった。

 

「自分で言うのも変だけどさ。わたし、傷一つない健康優良児だよ」

「えぇ、その通りです。極めて正常な身体でしょう。それが異常でもあるのです」

 

 矛盾した内容を平然と告げられ、得体の知れぬ悪寒が立香の背筋を奔った。

 対面するこの少女は一体何者なのか。今更になって警戒心が湧き起こる。もう遅い。紅い衣の男と同類ならば、理解や想像の及ばない存在であると思われた。

 

「あぁ、心配しなくとも私は藤丸立香の存在に害を齎らす気は毛頭ありません。貴女は先輩で、つまりいま、こうして私の目の前にいるのですから」

 

 だが、マシュの紡いだ言葉は酷く理解に苦しむ内容だった。まるで答えになっていない。文脈が破綻している。

 なによりも、表情の一切に脈動を感じられなかった。淡々と説明を、それも機械的に行ってすらいる。まるで人形だった。

 

「ごめん、もう少し分かりやすく言って欲しいんだけど」

 

 語調を強めて立香は訊いた。

 

「いまのわたしは、無事ってことなの?」

「もちろん藤丸立香(・・・・)は生きてます」

 

 無感情にマシュは断言したが、それを素直に信じる立香ではなかった。

 

「ですが人間の肉体は既に存在していません」

「えッ!? ちょっとそれどういう」

「つまりですね」

 

 本人にその気はないのかもしれないが、もったいぶった口ぶりでマシュは続けた。

 

「先輩は一度、死んでいます」



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