【仮題】何とか頑張って生きています (ハンヴィー)
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1

「まーくん。面白そうなクソゲーを見つけたんだ。一緒にやろうよ」

 

 連日のデスマーチが終わり、久しぶりの睡眠を貪っている時のことだった。

 朝っぱらから、なんの断りも無く部屋に上がりこんできた先輩は、掛け布団を引っぺがすなり、爽やかな笑顔でそんな事をのたまった。

 ちなみに、まーくんというのは、俺の名前の頭文字から取って先輩が勝手につけた渾名なんだけど、先輩以外に俺をそんな呼称で呼ぶ奴はいない。

 

「何してるんだい、まーくん。さっさと起きてアカウントを作りなよ」

 

 持ちこんだ自身のノートPCを操作しながら、先輩は咎めるような視線をこちらに送ってきた。

 なぜ、俺が文句を言われなければならないんだ。今朝だって、ようやく帰り着いたのは空が明るくなってからだっていうのに。こっちはまだ、ほんの数時間しか眠っていないんだ。

 だいたい、面白そうなクソゲーってなんだよ。日本語としておかしいだろう。

 

「先輩。お願いですから、今は寝かせてください。午後から……午後からなら、付き合いますから」

 

 せいぜい哀れっぽく懇願してみたところ、先輩は不満げながらも仕方が無いねと鷹揚に頷いてくれた。

 

「じゃあ、私が君のぶんのアカウントとキャラクターを作っておこう。君のノートPCを借りていくよ」

 

 言うや否や、俺のノートPCを抱えると、やって来た時と同様の慌しさで去っていってしまった。

 

「ちゃんと鍵閉めていってくださいよ~」

 

 去っていく先輩の背にそう呼びかけた後、俺は頭から布団を引っかぶった。

 大学のサークルに在籍していた頃からそうだったが、この先輩はとにかく強引で横暴だった。

 外見だけなら、今時珍しい、和服の似合いそうな純和風の髪の長い清楚な美女なんだけど、いかんせん中身が見た目とは全く正反対だ。

 更にタチの悪いことに、実家が資産家で、親からたんまりと小遣いを貰っていて、札束で人の頬を引っぱたく行為に何の疑問も抱かず躊躇もしない性格だった。

 サークルの活動費の殆どが彼女自身のポケットマネーで賄われていたこともあり、どれだけ悪の限りを尽くそうとも、誰も文句をつけることは出来ないでいた。

 何がきっかけだったのかはもう覚えてないが、そんな先輩にパシリとして目を付けられてしまった俺は、陰に日向に彼女に振り回されまくった。

 やがて、被害を被るのがほぼ俺一人になったことと、先輩が財源の潤沢な資金を、活動費として流用できるようになってからは、先輩の暴走を止める者は皆無になってしまった。

 そんな感じで、学生時代から振り回されていたのだが、社会人となった今でも、実はあまり状況が変わっていない。

 通勤の為にと職場の近くに借りたマンションの大家兼管理人が、なんと先輩だったからだ。

 なんでも、このマンションが実家の資産の一つらしく、大学を卒業した先輩は、ろくに職にも就かず、名ばかりの管理人として悠々自適のニート生活を送っていたのだ。

 もっとも、学生時代のよしみで、敷金礼金無料のうえ、賃貸料を半額以下にまけて貰っているのだから、こちらとしてもあまり文句は言えない。

 とはいえ、合鍵で勝手に上がりこんできたり、今日みたいに夜勤明けで寝ているときに強襲してくるのは、正直勘弁して欲しい。

 そんな埒も無い事を考えながら、ようやく訪れた静寂に身を委ね眠りに落ちていった。

 その時の俺は、とにかく一刻でも早く眠りたかったので、PCを他人に勝手に持っていかれたという、事の重大さに気付くのは、目を覚ました後だった。

 

 

 

「起きろ、まーくん! 約束の午後の時間だぞ!」

 

 数時間後。再び来襲した先輩によって、俺の安眠は打ち砕かれた。時計に目をやると、正午12時ちょうどだった。

 確かに午後になったらとは言ったが、何も12時になったとたんに来なくても良いと思う。

こっちは、まだまだ寝足りないというのに。

 

「何か文句があるのかい? 午後には違いないだろう」

 

 先輩はそんな俺を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らした。

 

「さあ、起きて。約束どおり付き合ってもらうよ」

「わ、分りました。分りましたから、引っ張らないでください……」

 

 俺はしぶしぶ身体を起こすと、テーブル越しに先輩と向かい合う形で腰を降ろした。

 

「おいおい、まーくん。仮にも女性が目の前に居るのだよ。顔ぐらい洗ってきたらどうだい?」

 

 こっちの都合も考えず、好き勝手に押し掛けて来たくせに、いまさら何を常識人ぶっているのか。

 そんな文句が喉元まで込み上げてきたが、下手に口答えすると何倍にもなって返って来るので、俺は黙って洗面所に向かった。

 顔を洗い適当に髪を整えて戻ってきた俺を、先輩は妙に生暖かい笑顔で迎えた。

 

「まーくんってば、結構マニアックな趣味をしておいでのようだねえ」

 

 寝起きでボーっとしていた俺は、その言葉でハッとした。

 今更ながら、自分のPCを先輩に強奪されていたことに気が付いたからだ。

 

「か、返してください!」

 

 慌てて、先輩から強奪されたPCを取り戻すが、彼女の表情から、全て手遅れであることが理解できた。

 

「まさか、まーくんが幼女愛好者だったとはね。以外だったよ」

 

 先輩は形の良い頤を上げ、蔑むように嗤った。

 震える手で、恐る恐るノートPCの蓋を開け、俺は声にならない悲鳴を上げた。

 デスクトップ画面には、所狭しと、俺の秘蔵コレクションのお宝画像や、動画のアイコンがずらりと整列していたからだ。

 多重に暗号化して、ハードディスクの奥深くに厳重に保管していたはずなのに、ものの見事にクラックされていた。

 

「迂闊だねえ、まーくん。この手のアレなデータをローカルのハードディスクに保存するなんてさ。きちんとリムーバブルメディアに保存して、物理的に隔離しておかないと」

「……肝に銘じておきます」

 

 呻くようにそう答えるのが精一杯だった。

 

「私のような美女が、常日頃から傍にいるにも関わらず、欲情しないのは、そういうわけだったんだな」

 

 したり顔でうんうんと頷くその仕草が非常に癪に障る。

 

「人の性癖をとやかく言うつもりは無いけどね、まーくん」

 

 さっきまでのニヤニヤ笑いから一転して、今度は若干の哀れみを含んだ複雑そうな表情になっている。

 

「ロリ巫女やロリスク水やロリケモミミぐらいなら、まあ、わかる。でもね、ロリ触手とかロリ獣姦とかロリ輪姦とかロリ妊婦なんてのは、さすがの私でもちょっと引いたよ? 某ボランティア詐欺師もびっくりだ」

「わーわーわー!」

 

 俺は慌てて先輩を遮った。

 

「と、ところで! どういうゲームなんですか? タイトルすら聞いていないんですけど!」

 

 上ずった声で、俺は強引に話を変えた。

 

「ああ、そういえば説明していなかったね」

 

 幸いなことに、先輩はそれ以上の追求はしてこなかった。

 内心で安堵の息を吐きつつ、これでまた一つ逆らえない理由が出来てしまったことに、暗澹たる気分になってしまう。

 

「ゲームのタイトルは『チートオンライン!』って言うんだ。最後の『!』もタイトルだよ」

「はあ、そうなんですか」

「とりあえず、公式サイトを見てごらんよ」

 

 URLを教えてもらい、公式運営サイトにアクセスしてみる。

 『キミのチートで世界を席巻しろ!!!!』『基本プレイ料金永久無料!!!』などという、頭の悪いキャッチコピーが、やたらと露出度の高い萌豚系美少女のイラストと共に、下品な色使いで踊っている。

 

「どうだい? 地雷臭がぷんぷんするだろう?」

 

 地雷だと分っていながら、なぜ敢えて踏みに行こうとするのだろうか。

 先輩の言葉を右から左に聞き流しつつ、ざっとサイトを流し読みしてみたところによると、このゲームのプレーヤーキャラは、何かしらのチート能力を保有しており、そのチートを駆使してゲームの世界で無双するのが目的らしい。

ゲーム画面自体は、サイトに掲載されているスクリーンショットを見る限りでは、オーソドックスな三人称視点に見える。

 別段、真新しいものではない。似たようなゲームは、掃いて捨てるほど転がっているだろう。

 ちなみに、チート能力はキャラを作成した時点でランダムに一つ付与されるらしく、課金することで更に付与するチートを増やせるらしい。

 当然のことながら、課金で付与されるチートはランダム。典型的な課金ガチャだ。

 これも、昨今のネットゲームにありがちな、あからさまな集金システムだ。

 

「よくある、重課金者が超有利なゲームみたいですね」

「そうなるね。資本主義万歳」

 

 まあ、俺は先輩に付き合う程度にしかプレイするつもりは無いし、課金する気は無いから別に構わない。

 

「……そういや先輩、俺のキャラも作ってくれたんですよね」

「うん。デスクトップにクライアントのアイコンがあるから、起動して確認してくれ。はい、これ。君のぶんのアカウントIDとパスワードね」

 

 無断でおかしなソフトをインストールしないで欲しいんだけどなぁ、とか考えながら、クライアントを起動して、IDとパスワードを入力してログインしてみた。

 

「なんすか、これは」

 

 キャラクター選択画面に表示されているキャラの外見を見て、俺は思わず絶句した。

 そこに表示されていたのは、おかっぱというか、ボブカットの黒髪の幼女だった。

 しかも、何故か巫女装束。ご丁寧に、千早まで羽織っている。

 地味に感心したのは、意味も無く袴の丈が短かったりとか、脇が丸出しだったりとかいった、サブカルチャー的なインチキ巫女服ではなく、神社の巫女さんが着ているような、ちゃんとした巫女装束だったことだ。

 まあ、千早は普段から着たりはしないだろうけど。

 

「君の性癖に合わせて、ロリ巫女キャラを作ってあげたのだよ。日本人形みたいで可愛らしいだろう。感謝感激して欲しいな」

 

 恩着せがましく、先輩は言った。

 確かに先輩の言うとおり、俺好みの人形みたいに可愛らしい素晴らしい幼女(ロリータ)ではある。

 いや、はっきり言ってドストライクだ。

若干垂れ目気味で、どことなく世間知らずっぽいぼんやりとした表情がいい。

 瞳のハイライトが殆どなく、所謂レイプ目なのもポイントが高い。

 キャラクターの名前を確認してみたところ、秋月(あきづき) 摩耶(まや)という名前だった。

 

「どうだい。中々の力作だろう? リアルと同じまーくんにしてみたよ」

 

 何のことを言っているのかと思ったが、名前の頭文字が俺の本名と同じだと言いたかったのだろう。

 まあ、別にどうでもいいや。

 俺のキャラ――今風に言うとアバターと呼称するのだろうが、この呼び方はあまり好きじゃない――摩耶のステータスを見てみると、知力や精神と言ったパラメーターが高めの後衛タイプになっていた。

 おそらく、狩りの相方の回復役にでもする気なのだろうな。

 種族は人間となっている。まあ、見ただけで分るけど。

 MMORPGの基本的な項目のほかに、ステータスウインドウの中に保有チートという項目があった。

 これが、キャラ作成時に付与されるというチートなのだろう。

 そこには、『生命感知』『超回復』という2つのチートが記載されている。

 生命感知というのは良く分らないが、超回復というのは、どんなものなのか何となくわかる。

 おそらく、瀕死の重傷などを負っても、瞬時にHPを満タンまで回復するとか、そんな感じのスキルなのだろう。

 

「先輩。俺のキャラ、チートが二つありますよ?」

 

 公式サイトの説明では、キャラ作成時に保有できるチートは1つだけで、2つ目以降は課金が必要だったはずだ。

 わざわざ、俺用のアカウントに課金してまで、チートを増やしてくれたのだろうか。

 

「ああ、それか。まあいずれ分るよ。それより、私のキャラを見てくれ」

 

 はぐらかすように言うと、先輩は自分のノートPCを、俺の見える位置に移動させた。

 画面を覗き込むと、そこに表示されたのは精悍な表情の狼男のようなキャラクターだった。

カラスのような濡れ羽色の黒一色の体毛で、侍のような格好をしており、腰には太刀のような武器を二本佩いている。

 キャラの性別は男で、名前は東郷(とうごう) 三笠《みかさ》。俺のロリ巫女同様、和風な名前だ。

 

「なんか、やたらと見た目が格好いいですね」

「だろう? ケモナーである私が気合を入れて作ったキャラだからな」

 

 鼻息を荒くする先輩を横目に、俺は他の情報にも目を通した。

 ローニンというのが、この狼人間の種族らしい。このゲームオリジナルの種族で、二足歩行する狼のような風貌の種族だ。狼人間だから狼人(ろうにん)ということなんだろうか。わかりやすい。

 先輩のキャラは、俺のキャラとは対照的に、ステータスの初期値は体力や筋力、敏捷力などに比重が置かれた前衛特化タイプだ。

 しかし、何より俺の目を引いたのは、保有チートの数の多さだった。

 俺のキャラの2つに対して、このキャラは、10以上ものチートを保有していた。

 『状態異常無効』『魔法無効』『防御無視攻撃』『回避不可攻撃』やら、見るからに卑怯そうなチートが羅列している。

 

「せっかくだから、数万円程度課金して、チートを増やしてみたんだ。強そうだろう?」

 

 未プレイのネットゲームに、そんな大量の課金をするなんて、正気の沙汰ではない。

 普通、この手のオプション課金は、とりあえずプレイしてみて、必要性を感じたら課金するもんじゃないのだろうか。

 別に、先輩の金なんだから、どうしようと先輩の自由だけど。

 ちなみにこのゲーム、さっき先輩が「気合を入れて作った」と言っていたように、キャラクターの作成について非常に凝ったつくりになっている。

髪型や目のパーツ、体型を選ぶぐらいなら珍しくも無いが、このゲームの場合、選択できるパーツ数が何万種類と膨大な数に及ぶ。

 目のパーツ一つとっても、形はもちろん、睫毛や虹彩、瞳孔の大きさなど、幾つもの組み合わせが存在する。

 服装はもちろん、人体を構成するパーツを膨大な種類から選んで組み合わせることが出来、ほぼ自分だけのオリジナルキャラクターを作ることが可能だ。

 選んだ種族によって、ある程度の制限はあるものの(例えば、エルフなら必ず耳のパーツは尖っているなど)このシステムは中々すごいと思う。

 むしろ、この機能だけに特化して、簡易CG作成ソフトとして売り出したほうが良いんじゃないだろうかと思ったくらいだ。

 もちろん、そこまで拘らない人の為に、システム任せで作成することも可能だ。

 先輩は、この機能を駆使して、俺のロリ巫女と自分の狼男のキャラを作成したようなのだが、あの短時間で、こんなマニアックなキャラクターを2体作成したのだから、そこは素直に大したものだと思う。

 

「では、さっそくプレイしてみようか」

「はいはい」

 

 正直乗り気ではなかったが、先輩には色々と世話になっていたり、弱みを握られたりしているので、おとなしく付き合うことにした。

 どうせ、すぐに飽きるだろうし、それまでの辛抱だと、自分に言い聞かせながら。

 

「安心したまえ。面倒臭がり屋さんの君の為に、wikiで事前に情報は収集済みだ」

「それはそれは有り難いことで」

 

 おざなりに返事をしつつ、俺は先輩の作ってくれたロリ巫女―秋月 摩耶で、ゲームにログインするのだった。



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2

 ログインして最初に俺のキャラが出現したのは、ゲーム内のフィールドと思しき場所だった。

 周囲には緑の草原が広がっており、ところどころにポツポツと樹木が立っている。

 特にチュートリアルのようなものが始まる気配も無い。いきなりゲームに放り出されるみたいだ。

 少しして隣に、同じようにログインしてきた先輩の狼男が出現した。

 最初にログインして現れる場所は同じらしい。

 

「チュートリアルは無し、か。クソゲーの条件のひとつ、『不親切』をきっちり満たしているね。大変結構」

 

 先輩らしい、捻くれた感想だった。

 

「いちおう、ヘルプをいつでも呼び出せるから、それで確認しろってことなんだろうね」

「そうみたいですね……ってあれ?」

 

 先輩と会話しながら、俺は画面の表示で一部気になるところを見つけた。

 画面の下部に会話やシステムからのメッセージが表示されるチャットウインドウがあるのだが、文字を入力するスペースが何処にもなかったからだ。

 

「先輩、このゲーム、チャットはどうやって打つんですかね?」

「チャットウインドウの下に、入力欄があるじゃないか」

 

 先輩がそう言うや否や、先輩のキャラの狼男の発言がチャットウインドウに表示された。

 

「その入力欄が見あたらないんですよ」

「ウインドウの下だよ。すぐ分る箇所じゃないか……どれ、見せてごらん」

 

 先輩は俺の背後に移動して、肩越しにPCの画面を覗き込んできた。

 あくまで容姿だけではあるが、清楚な美人である先輩の顔が間近に迫り、少しどぎまぎした。

 

「おや。確かに入力欄が無いな。私の画面にはあるんだが」

 

 今度は俺が、先輩のPCの画面を覗き込んだ。

 確かに、先輩の画面には、チャットウインドウの下に入力欄があり、そこに先輩の入力した文字が表示されていた。

 先輩がエンターキーを押すと、他のキャラにも見えるように発言が表示された。

 いったい、どういうことなんだ。

 俺のクライアントだけバグっているってことか。

 

「ああ、そうか。分ったぞ」

 

 先輩は得心がいったというように、ポンと手を叩いた。

 

「これは、チートを追加で獲得したことによるペナルティさ」

「へ? ペナルティ……?」

「うん。実はね……」

 

 先輩の説明によると、こうだ。

 キャラクター作成時に付与されるチート以外で、更にチートを追加する場合、課金が必要だが、実は無課金でも追加する方法がひとつだけある。

 それは、自分のキャラが、ゲームを進めていくうえで不利になるようなペナルティを被ることだ。

 どんなペナルティが課せられるのかは、実際にゲームを始めてみなければ分らないらしい。

 

「おそらく、ペナルティはキャラクターが言葉を喋れないというものなんだろうね。つまりゲーム的には、チャットが打てないということなんだろう」

「ことなんだろう、って……」

「まーくんのはまだ良い方さ。攻略wikiを見てみたら、画面が真っ暗だとか、武器や盾が装備できない、全く移動できないっていうペナルティもあったんだ。目が見えないとか、手足が不自由とか、そういうことなんだろうね」

「それは酷い……」

 

 運営はいったい、何を考えてるんだろうか。

 ペナルティを付加するにしても、もっと違うやり方があるだろうに。

 

「ちなみに、私のチートは課金チートなんで、何のペナルティも無しさ」

 

 ドヤ顔でのたまう先輩。どうせだったら、俺のキャラも課金チートにしてくれれば良かったのに。

 

「君のぶんのチートも課金してやっても良かったんだけどね。ハンディキャップを持った美幼女って、なんかそそるだろう?」

「いや、意味わかんないです」

 

 ということは、他のPCとのコミュニケーションはエモーションでやるしかないってことになるのか。

 MMORPGでは珍しいことじゃないが、チャットで会話をする以外にも、多彩なエモーションで相手に意思表示する手段が用意されている。

 態々チャットをするまでも無いときや、戦闘中で忙しいときなんかに使うことが多い。

 俺は適当に「笑う」のエモーションを使ってみた。

 

「……あれ?」

 

 しかし、モニター上の俺のキャラは、全く表情を変えなかった。

 何度か「笑う」のキーを押してみるが、結果は同じだった。

 試しにそれ以外の「怒る」「悲しむ」などを選んでみたが結果は同じだった。

 身体の動きが加わる「ガッツポーズ」なんかの場合でも、顔だけは無表情だった。

 

「あー、多分これもペナルティだねえ。表情が無いとか感情が無いとか、そんな感じじゃないかな」

「ちょっと待ってください。ペナルティって、無課金でチートを追加したときに付くって話じゃありませんでした?」

「うん。実はね。まーくんの無課金追加チートは、『生命感知』と『超回復』の二つなんだ。だから、ペナルティも二つ付いちゃうんだ」

 

 いやいやいや。そうすると、元からあったチートはどうなってるんだ。

 無課金で二つ追加したのなら、元からあったものと合わせて三つのチートが付与されているはずだろう。

 

「ああ、実はね。君のキャラは、元々持っていたチートを削除して、『生命感知』と『超回復』の二つのチートを追加しているんだ。だから、ペナルティも二つってことになるんだ」

「なんで、そんな無駄なことを。ちなみに、元々付いていたチートってなんですか」

「全ての魔法系スキルを習得して、ディレイやクールタイムが一切存在しないという中々のチートスキルだったよ」

 

 なんだよ、それ。とんでもないチートスキルじゃないか!

 なんでそんなぶっ壊れチートを取り消しやがったんだ。

 

「そんなの決まっているだろう。か弱い美幼女に似合わないからさ」

「このゲームのコンセプトを全否定してるじゃねーか!」

「細かいことは良いんだよ。ほら、さっさと狩りに行くぞ」

 

 ……まあ、いいや。

 どうせ、先輩に付き合ってゲームする程度なんだし。

 他のプレーヤーとコミュニケーションを取ることも無いだろうから、チャットやエモーションがまともに機能しないのも些細な問題だ。

 そんなこんなで、その日以来、俺と先輩は『チートオンライン!』というふざけたタイトルのMMORPGをプレイすることと相成った。

 日がな一日暇を持て余している先輩が、日中はwikiなどで情報を集め、夜には仕事を終えて帰宅した俺の部屋に押しかけ、ゲームに引っ張り出すというのが日課になりつつあった。

 付き合いと割り切っている俺は、それ以外でゲームにログインすることは無く、先輩とのペア狩りしかやっていない。

 そもそも、俺のキャラでは、ステータスや能力的にソロ狩りは不可能だ。

 しかも、言葉を喋れないという設定が反映されているせいか、NPCとも会話が出来ないので、ソロではクエストの受注なども一切不可能なのだ。

 先輩との狩りは単調の一言に尽きる。

 湯水のごとく金をつぎ込んだ先輩の狼男・三笠が、敵の真っ只中に突っ込んで無双し、戦闘が終了したら俺の巫女幼女・摩耶が、

チート能力の「超回復」で体力を回復させるという、面白みの全く無い脳筋プレイが殆どだ。

 ちなみにこの「超回復」というチートなんだが、どんな瀕死の状態でも、体力をMAXまで回復させ、更には毒や麻痺などのステータス異常までも治癒させるという優れものだが、自分自身には効果が無い。

 紙装甲の俺は、敵に撫でられただけで死んでしまうので、先輩が敵を殲滅する間、俺は安全な場所で、戦闘が終わるまでひたすら待機することになる。

 その間することが無いので、適当に本を読んでいたり、ゲームクライアントの裏でブラウザを立ち上げて、ネットで動画を鑑賞して時間を潰すというのが殆どだ。

 

「終わったよ、まーくん。回復頼む」

「ああ、はいはい」

 

 俺は読んでいた文庫本を置くと、PCに向き直った。

 ゲーム画面の摩耶を操作して、三笠の受けたダメージをチートスキルで回復させる。

 課金チートでブーストしまくっている三笠は、殆ど無敵に近い。

 受けたダメージと言っても、本当に微々たる物で、はっきり言って俺がいる必要性が全く無い。

 ちなみに、三笠の数あるチート能力の一つに『魔法無効化』というものがある。

 敵からの魔法攻撃はもちろん、味方の回復魔法なども無効化するチートなんだが、俺の『超回復』だけは、何故か問題なく効果が出た。

 チートは魔法という扱いではないからなのか、単なるバグなのかは分らないし、いちいち調べる気にもならない。

 

「それじゃあ、次の狩場に向かおうか。索敵してくれ」

「へーい」

 

 俺は、摩耶のもう一つのチートスキルである『生命感知』を発動させた。

 『生命感知』のスキルは、その名のとおり、周囲の生物を探知する能力だ。

 発動させると、画面の右下にレーダーのようなものが現れ、周囲のPCやNPC、そしてモンスターなどが色別のドットで表示される。

色はそれぞれ、青が自分やパーティメンバー、白が無関係、赤がこちらに敵意を抱いている対象を意味する。

 さらに、状況次第で敵対する可能性がある場合は、黄色のドットで表示される。

 探知範囲の変更や表示対象を絞るフィルター機能もあり、敵の沸きポイントを探したり、逆に強敵を避けて移動したりするのに便利な機能だ。かなり地味だけど。

 

「マップの左隅のあたりに溜まってますね」

「OK。行こうか」

 

 こんな感じで、敵を索敵して殲滅し、体力を回復して、索敵して殲滅……というルーチンワークを延々繰り返すのが、俺達のプレイスタイルになっていた。

 はっきり言って、何の面白みも無いんだけど、どこが気に入ったのか、先輩は飽きもせずにそれを繰り返していた。

 そうやって暫く狩りを続けていると、傍に放り投げてあった先輩の携帯電話が、けたたましい着信音を鳴り響かせた。

 しかも、その着信音が、緊急地震速報の警報音なのだから、悪趣味にもほどがある。

 

「鳴ってますよ、先輩」

「後でいいよ。今狩りの最中だし。それに、相手は誰かわかってる」

 

 先輩は携帯を一顧だにせず、吐き捨てるように言った。

 しかし、緊急地震速報のアラーム音は、いつまで経っても鳴り止む気配は無い。

 この音は地味に心臓に宜しくない。

 

「誰なんですか、その相手って」

 

 いい加減、出るか切るかしてくれないかなと思いつつ、先輩に尋ねた。

 

「ああ、昔のセックスフレンドだよ」

「ぶ」

 

 思わず噴いてしまった俺を見て、先輩はにやりと口の端を吊り上げた。

 昔の、ってことは、今は違うってことなんだろうか。

 

「お互い身体だけの関係だったはずなのに、いつの頃からか、何を勘違いしたのか彼氏ヅラをしてくるようになって来たんで、ウザくなって別れたんだ」

 

 先輩はつまらなそうに鼻を鳴らした。

 そのセフレ曰く、別れた後も「お前は間違っている」「男遊びなんて止めろ」「お前は本当は寂しいだけなんだ。俺ならお前を救える」などと、事あるごとに電話やメールをしてくるのだという。

 ちょっとしたストーカーみたいなものだよ、と先輩は辟易した様子で語った。

 その男は確かに気持ち悪いが、先輩も先輩だと思う。

 

「着信拒否にするか、番号変えるかすれば良いじゃないですか」

「そんな輩のために、何で私が手間を掛けなきゃならないんだ」

 

 至極もっともな提案をしたところ、先輩は憮然とした表情でそう言った。

 

「なら、せめて警察に相談したほうが」

「あいつらは、人が死ななきゃ動かんだろう。無駄だよ」

 

 これまた、まったく取り合ってもらえなかった。

 一時期に比べれば、少しはまともになったと思うんだけどな。

 

「……刺されないように、せいぜい注意してくださいね」

「おや、心配してくれているのかい?」

「そりゃあ、もちろん」

 

 意外そうな表情の先輩に向かって、俺は真面目腐って頷いて見せた。

 

「先輩に死なれたら、誰がこの部屋の料金割り引いてくれるんですか」

 

 安月給の俺にとって、家賃半額の魅力は何物にも代え難いのだ。

 

「ああ、そう。そうね。そんなことだろうと思ったよ」

 

 そんな軽口を叩き合う程度で、俺も先輩も、そのことについてさほど気にも留めていなかった。その時は。

 

 

 事態が取り返しのつかない方向に動いたのは、それから1ヶ月ぐらい経った頃だ。

 いつも通りゲームに付き合い、先輩が帰った後、そろそろ風呂にでも入ろうかと思っていた矢先のことだった。

 

「まーくん! 助けて! 助けてくれ!!」

 

 今までに聞いたことも無い、切羽詰った先輩の声が聞こえた。

 同時に、俺の部屋のドアを激しく叩く音が、室内にまで響いてきた。

 いつもなら、用があるときは勝手に合鍵を使って上がりこんでくるのに、何を取り乱しているんだろう。

 放っておくわけにも行かないので、俺は玄関の扉を開けた。

 

「どうしたんですか」

 

 先輩、と言いかけて、俺は息を呑んだ。

 着ているワンピースの胸元が引き裂かれ、衣服から覗く白い手足には、痛々しい擦過傷が幾つもあった。

 髪も乱れ、頬は殴られでもしたかのように、赤く腫れあがっている。

 

「ま、まーくん、助けて……!」

「と、とにかく入って!」

 

 縋りつく先輩を部屋に招き入れようとしたとき、通路の向こうから目付きの危ない男が姿を現した。

 手に出刃包丁を持った痩せぎすの男は、俺と先輩の姿を認めると、それを振りかざしながらこちらに突進してきた。

 そのあまりにも非日常的な光景に、俺の思考は一瞬フリーズしてしまった。

 

「は、早く、中へ!」

 

 硬直から回復した俺は、何とか先輩を部屋に押し込み、奇声を発しながら出刃包丁を振り下ろすそいつの右手を、なんとか寸でのところで受け止めた。

 ガリガリに痩せ細っているくせに、異様なほど力が強い。

 

「先輩! 鍵閉めて、警察に電話を!」

 

 背中で扉を閉めながら、俺は扉越しに先輩に怒鳴った。

 

「お前か! お前か! お前が彼女を誑かしたのか!」

 

 血走った目で俺を凝視するそいつは、威嚇するようにガチガチと歯を鳴らしながらそんな事を言った。

 

「ぼぼぼ、僕だけが! 彼女を幸せに出来るんだ! なんなんだお前は! 邪魔すんなよう!」

 

 もしかして、こいつがこの前言っていた、先輩の元セフレか……?

 思い余って、家にまで押しかけてきたのか。

 だから、警察に相談しろって言ったのに!

 

「どけえ! どけよう!」

 

 俺の拘束を振り解こうと、男は我武者羅にもがく。病的に痩せ細っているくせに、異様に力が強い。

 もしかして、何かやばいクスリでもやってるんじゃないのか。

 くそっ。

 大体、何で俺が、先輩の痴情のもつれに巻き込まれなきゃならないんだ。

 

「おい! こんな夜中に何を騒いでるんだ……うおっ!?」

 

 騒ぎを見かねて飛び出してきた隣室のおじさんが、取っ組み合う俺達を見て驚愕の声を上げる。

 その一瞬、男の力が弱まった。

 チャンスとばかりに、俺は男を押し返し、包丁を持つ手にしがみついた。

 凶器を奪うことさえ出来れば、諦めて逃げ帰ってくれるかもしれない。

 

「ひ、人殺しです! 助けてください!」

 

 チャンスを作ってくれた隣の住人に向かって呼びかけるが、おじさんは目の前で繰り広げられる光景に完全に思考が停止したのか、ぽかんと口を開け放ったまま動こうとしない。

 威勢よく登場したわりには、何の役にも立ってくれない。

 

「ちきしょおおおおお! はなせえええええええ!」

 

 男が癇癪を起こしたように手足をばたつかせた。

 その拍子に、おそらく偶然なんだろうが、男の足が俺の向こう脛を蹴り飛ばした。

 

「いってえ!」

 

 思わず凶器を持っている手を緩めてしまい、それが俺の運命を決定付けてしまった。

 首筋に痛みを感じたと思った次の瞬間、ぞぶりという異様な感触と、何かがプチプチと千切れるような不快な音が俺の耳を打った。

 首筋を濡らす不快な感触と、襲い来る凄まじい喪失感に、俺はその場にがっくりと膝を突いてしまった。

 何とか顔を上げた俺の目に映ったのは、赤黒く染まった顔を哄笑で歪ませ、凶器を振りかざすセフレ男と、相変わらず呆けたように口を開け放ったいる隣の部屋のおじさんの顔だった。

 人生の最後に目にするものが、キチガイと禿散らかしたおっさんの顔なんて、最悪だ。

 しかも、とばっちりで殺されるなんてあんまりだ。

 自分の身に降りかかった理不尽さを呪いながら、俺の意識は闇に沈んでいった。



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3

「…………っあ!」

 

 私は雷に打たれたかのように身体を強張らせた。

 本当に突然すぎる出来事だった。

 何の前触れもなく、私は思い出してしまった。

 いわゆる、前世の記憶というものを。

 よりによって、なぜ今更思い出してしまったのだろう。

 今の私にとって、もはや一切関係のないことなのに。

 しかも、よりによって、兄様と睦合っている最中になんて最悪だ。

 

「摩耶、今日はどうしたんだ?」

 

 事が済み、兄様の腕に抱かれて火照った身体を鎮めていると、兄様が心配そうに顔を寄せてきた。

 精悍な野生の狼そのものの兄様のお顔は、とても美しく勲しい。

 

『いいえ。なんでもありません』

 

 兄様に心配を掛けたくなかった私は、とっさにそう唇を動かした。

 言葉を話すことができない私だが、兄様をはじめ、周囲の人々には読唇術の心得がある。

 そのおかげで、意思の疎通にはそれほど不自由はしなかった。

 

「俺に嘘を吐くのは感心しないな。正直に言うんだ」

『どうして、そう思うのですか』

 

 即座に看破されたことに少し動揺しつつ、私は唇を動かした。

 

「果てる時の様子がいつもと違っていた」

「―――っ!!」

「いつもなら、ぎゅっとしがみ付いてくるはずなのに、動かずじっとしていたからなぁ」

 

 一瞬にして頭に血が上った私は、両拳で兄様の胸を何度も叩いた。

 兄様は愉快そうに笑いながら、私にされるがままになっている。

 

「それで、本当のところはどうなんだ、摩耶」

 

 私の髪を撫でつけながら、兄様は再度尋ねた。

 琥珀色の目が僅かに細められ、縦長の獣の瞳が私を見つめる。

 優しく諭すようでありながらも、一切の嘘や誤魔化しは許さないと語っていた。

 兄様から一瞬目を逸らし逡巡した後、私は正直に打ち明けることにした。

 

『私、思い出したのです』

「思い出した? いったい、何をだい?」

『前世のことをです、兄様。いえ、先輩』

 

 兄様は、目を見張った。

 

「……いつからだ?」

『たった今、です。フラッシュバックみたいに、唐突に思い出しました』

「……そうか」

 

 それっきり、私達はしばし無言になる。

 

「俺を恨んでいるかい?」

 

 兄様の言葉に、私は軽く首を傾げた。

 恨む? 兄様を? 何故……?

 

「前世のお前は、俺のせいで命を落としたんだ。そのことは、恨んでいないのか?」

 

 ああ。そういうことか。

 死んだ直後から意識が続いていたのなら、もしかしたらそんな感情も生まれたかもしれない。

 けれども、私は私として、この世界に生を受け、この世界の人間として生き、兄様と出会い結ばれた。

 今の私に、前世の記憶なんて関係ない。

 

『兄様を恨むなんて、そんな気持ちは欠片もありません。それに、今は兄様に大事にしてもらっているし……』

「そうか」

 

 兄様はどこかほっとしたように口元を緩めた。

 

『兄様は、あの後、どうなさったのですか?』

 

 私が俺だったあの時、私は兄様――先輩を庇って命を落とすことになった。

 先輩は無事に天寿を全う出来たのだろうか。その後、どのような人生を送ったのだろうか。

 

「俺もあの後、すぐに殺されたよ」

 

 自嘲気味に口の端を釣り上げる兄様。私は息を呑んだ。

 

「あいつ、合鍵を持っていてね。お前を、まーくんを殺した後、押し入ってきたあいつに、凌辱されながらめった刺しにされてしまったのだよ。最後は人の形をしていなかったな。阿婆擦れだったあの時の俺に相応しい、自業自得の末路さ」

 

 事も無げに言ってのける兄様に、私は呆然とするしかなかった

 

「だが、お前を巻き込んでしまったことについては、深く後悔している」

 

 兄様は呻くように言った。

 

「だから、お前を見つけた時に思ったんだ。今度は、何があっても俺が護るのだと」

『兄様……』

「お前は、たった今、前世の記憶を思い出したと言ったね」

『はい』

 

 私は頷いた。

 かつて、前世で先輩に無理矢理付き合わされていたオンラインゲーム。

 あのゲームで私が操作していたキャラクターと同じ容姿、同じ名前だ。

 そして、兄様も。

 何の関連性があるのかは不明だが、少なくとも私達の暮らすこの世界は、ゲームの世界とは全く別物で、共通点はどこにも見出せない。

 

「俺は、一度に全てを思い出したのではなく、徐々に思い出していった。俺達が初めて出会った時のことを覚えているか」

 

 もちろん、忘れるはずがない。

 あの時、兄様と出会わなければ、おそらく今の私は無い。

 

『もちろん、覚えていますわ。昨日のことのように』

 

 この世界での私の出自はかなり特殊で複雑だ。

 私や兄様の生まれ育ったこの津洲(つしま)国は、幕藩体制時代の日本によく似ている。

 帝から政権を委任された藩王の元、各藩主が自領を収める地方分権国家だ。

 そのため、一部の為政者を除いて、統一国家としての概念自体が希薄だ。

 私はその諸藩の一つ、隼人藩の藩主の孫娘として生を受けた。

 藩主であるお爺様は、私の誕生を大層喜んでくれたが、成長するにつれて、私の異常性が浮き彫りになった。

 私は言葉と表情を、母様の胎内に置き忘れて生まれてきたのだ。

 ゲームの中で、チート能力と引き換えに課せられたペナルティと同じなのだが、当時の私には知る由もないことだ。

 藩主の娘が、障害を持って生まれてきたという事実は、お爺様や両親だけでなく、家臣団にも衝撃をもたらした。

 この先男児が生まれなければ、私が婿を取って跡取りを産むことになるが、障害を持って生まれた娘が母親となると、その子供も障害を持っているかもしれない。母親に男児を生むことを期待しようにも、また障害持ちの子供が産まれるかもしれないと。

 父様と結婚する以前は、母様が孤児院上がりの侍女だったことから、血筋が悪いのではないかとまことしやかに唱える声もあった。

 これ幸いとばかりに、有力な家臣団の中から、自分の娘を父様の側室に推す声が上がった。

 次期藩主である父様は、誠実ではあるが優柔不断で押しの弱いところがあり、家老の娘に迫られてうっかり手を出してしまい、子供を孕ませてしまったのだ。

 そして生まれたのは、男児が二人。どちらも、身体的な障害は持っていなかった。

 このことが決定打となり、私たち母娘は、城内でもあからさまに軽んじられることとなり、私に至っては、感情を持たず口も利けぬ人形姫と陰口を叩かれる事もあった。

 表情が無いだけで感情が無いわけでは無いし、言葉が話せないだけで声が出せないわけではないのだが、彼らにとってはどうでも良い事だったのだろう。どのみち、他者との意思の疎通が困難であることにかわりは無い。

 私には全くそんな素振りは見せなかったが、母様も肩身の狭い思いをしていたに違いない。

 母様がどこかの名家から嫁いできたのであれば、私を連れて実家に戻るという選択肢もあったのだろうが、孤児院出身の母様に帰るところは無い。

 幼心に、私のせいで辛い思いをさせていることに忸怩たる思いで一杯だった。

 そんな事情もあってか、城仕えの侍女達に心無い言葉を浴びせられたり、直接的な嫌がらせを受けても、私が我慢しなければ、これ以上、母様に負担をかけるわけにはいかないと必死に耐え忍んでいた。

 言葉が話せないから告げ口される心配もない。さらに、何をされても表情が変わらない私は、日頃のストレスのはけ口としては最適だったのだろう。

 兄様と出会ったのは、まさにそんな陰湿な苛めを受けている最中の事だった。

 



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4

 その日は、初春のまだ肌寒い日だった。

 私は城の中庭にある池の傍にいた。

 別に何か特別な理由があったわけではない。ただ、なんとなくだ。

 僅かに揺らぐ水面には、能面のような生気の無い私の顔が映っている。

 そんな自分の顔が気に入らなくて、足元にあった小石を水面に投げ込んでいた。

 突然背後から加えられた衝撃と共に、私は池の中に突き落とされた。

 城の中庭にあるその池は、大人にとっては大した深さではないが、当時十歳にも満たなかった私にとって、全身ずぶ濡れになるには十分な深さだ。

 パニックになりながら身体を起こした私の目に飛び込んできたのは、私の醜態を指さし大笑いしている城仕えの侍女達だった。

 

「姫様~? 水遊びには少し時期が早いのでは無いですか~?」

「あはははは!」

 

 すっかりずぶ濡れになった私は、哄笑する二人の侍女を呆然と見上げていた。

 表向き、私の御付ということになっている侍女達だった。

 彼女達に池に突き落とされたのだと気づくまで、少し時間がかかった。

 

「むかつくわ。ここまでされても顔色一つ変えやしない」

「ほんとに人形なんじゃないの、こいつ」

 

 そんな冷笑を浴びせられるのはいつもの事だった。同じようなことが何度も続くうちに、疑問や恐怖は希薄になっていき、まるで他人事のように、半ば考えることを止めていた。その頃の私は、表情だけではなく、感情も失くしかけていたのかもしれない。

 その時も、怒りや恐怖を感じるよりも、寒くて冷たいし、早く上がりたいという感情しか湧き上がって来なかった。

 特に、表向き私の御付の侍女ということになっているこの二人からは、日常的に陰湿な嫌がらせを受けていた。

 無視して池から上がろうとしたが、そんな私の態度が気に入らなかったのか、身長だけではなく横幅も広い二人の侍女は、厭らしい笑みを顔に張り付けたまま、池から上がろうとする私を足蹴にする。

 私が再び池に転落し、水飛沫が上がるそのたびに、周囲からは笑いが起こった。

 まだ春先で肌寒い季節だったうえに、全身ずぶ濡れの状態で腰まで水に漬かっていた私の身体は、急激に冷えていった。

 自分の肩を抱いて寒さで震える私を見下ろす彼女らの蔑んだ目は、数年経った今でもはっきりと覚えている。たぶん、死ぬまで忘れることは無いだろう。

 暫くの間そうしていると、不意に潮が引くように嘲笑の波が引いていった。

 何だろうと顔を上げると、廊下の向こうからのそりと姿を現した大柄な人影があった。

 それは、 二本足で立ちあがった狼のような外見と身体能力をもつ種族。狼人だった。

 狼人は、人間とは異なり、産まれてからほんの数年で、人間でいう青年くらいに成長するので、実年齢が分かりにくい。もしかしたら、それほど年長ではないのかもしれない。服装からすると、お爺様の小姓か供回りだろうか。

 衣服に覆われていない部分から覗く、黒曜石のような漆黒の毛並に包まれた美しいしなやかな体躯と、こちらを見つめる琥珀色の瞳に、私は水の冷たさも忘れ、魅入られたように、彼の精悍な顔をぼうっと見つめ返していた。

 突然の闖入者に侍女達は戸惑うように互いに顔を見合わせている。

 狼人の男は、ゆったりとした足取りで彼女らの間を抜け中庭に降り立つと、大股にこちらに歩み寄って来た。

 

「な、なによ、あんた……」

 

 侍女達よりさらに頭一つ分ぐらい高いその姿に、私を池に突き落とした侍女は、顔をひきつらせた。

 次の瞬間、その侍女は、身体を「く」の字に折り曲げるような体勢で、軽やかに宙を舞った。

 綺麗な放物線を描きながら私を飛び越え、池の中ほどへと落下する。形容しがたい悲鳴と、激しい水飛沫が上がった。

 私は呆気に取られて、その所業を仕出かした人物の顔をただ見上げていた。

 

「ひっ! い、いきなり、何を……ぶぐおっ!」

 

 もう一人の侍女が鉄砲玉のように飛んだ。

 達磨のような体を綺麗な「く」の字に折り曲げ、狙いすましたかのように、池の中ほどでようやく立ち上がろうとしていたもう一人の侍女と派手に衝突した。

 再び激しい水音と悲鳴が中庭に響き渡った。

 立て続けに起きる出来事に頭がついていけない私は、一部始終を阿呆のように眺めていることしか出来ないでいた。

 それは私だけではなく、周りで成り行きを見守っていた侍女達も同じだった。

 

「おい。笑わないのか」

 

 狼人は居並ぶ侍女達を見渡し言った。

 

「おい、お前。笑えよ。何故笑わないのか」

 

 そう言いながら彼は、たまたま目が合った侍女の一人にずかずかと歩み寄って行った。ひっと息を呑み、不運なその侍女は身体を竦ませている。

 私はその隙に、ようやく池から這い上がることが出来た。水を吸った着物が、重く冷たく身体に張り付いて気持ち悪い。

 

「なぜ笑わない。お前達はこの娘が池に突き落とされるのを見て笑っていたじゃないか。同じことをしてやったんだぞ。さあ、笑えよ。さっきみたいに。欠伸する黄金絹毛鼠みたいに大口開けてよう」

 

 上背のある狼人に上から()め付けられて、先程まで私を笑いものにしていたその侍女は、気の毒なぐらい震えていた。

 狼人の面差は、まごうことなき野生の狼そのものだ。

 そんな凄みのある顔に間近に迫られれば、大抵の人間はこの侍女と同じような反応になるだろう。

 ちなみに、黄金絹気鼠とは、新しもの好きのお爺様が、外国(とつくに)より取り寄せた、尻尾の短い黄金色の毛皮の鼠だ。頭が裏返りそうな大きな欠伸をする。見た目は、前世ではペットショップでもよく見かけるゴールデンハムスターによく似ている。

 

「なあ、何で笑わないんだ。なあ。教えてくれよ、なあ」

 

 それを知ってか知らずか、狼人の彼は、息が掛かるほどに顔を近づけ、なおも執拗に尋ね続けた。

 

「ああ、そうか」

 

 突然何かに気付いたように声を上げるや否や、再び中庭に降り立った。

 私の傍を通り過ぎると、池から上がろうとしていた侍女二人を池の中に蹴落とした。

 再び悲鳴と激しい水しぶきが飛び散る。

 

「これでどうだ。さあ、笑え。この娘と同じようにしてやったんだぞ。笑え。笑えよ」

 

 当然、誰も笑わない。恐怖に顔を引き攣らせて震えている。

 私は泣き叫ぶ侍女を機械的に池の中に突き落としている狼人の元に歩み寄った。

 彼の手を引くと、侍女を足蹴にするのを止め、私を振り返った。

 縦長の琥珀色の瞳が、とても綺麗だと思った。

 その瞳をじっと見つめていると、今まで感じたことのない不思議な感情が湧き上がってくる。

 

「お前も笑っていいんだぞ」

 

 私はゆっくりと(かぶり)を振った。もういいです、十分です。という意味を込めて。

 

「いったい、何事だ。騒々しい」

 

 低いがよく通る声が廊下の向こうから響いた。

 供の者を引き連れて現れたのは、私のお爺様だった。

 隼人藩現当主であるお爺様は、猛禽のような鋭い眼光で中庭を睥睨した。

 齢七十に達しようとしているお爺様だが、未だに隠居せずに藩主を務めているだけあり、その威圧感は半端ではない。

 視線に射すくめられた侍女達が、怯えるようにその場に畏まるが、狼人の彼は全く意に介さず、泰然としていた。

 

「摩耶! その恰好はいったい何だ!」

 

 濡れ鼠状態の私に視線を止め、お爺様は目を丸くした。次いで眦を釣り上げると、足早にこちらに歩み寄って来た。

 

「ん? 摩耶……? もしかして、お前が摩耶姫か?」

 

 私の顔を覗き込む彼を見上げ、しっかりと頷いた。

 

「なるほど。お前さんが噂の人形姫か。道理で不愛想だと思った」

 

 狼人の言葉に揶揄するような響きは無く、悪意や哀れみは感じられない。ただ自分の思ったことを、そのまま言葉に出しただけという感じだった。

 一応は藩主の孫娘である私に対して、随分とぞんざいな口の利き方だったが、不思議とあまり気にならなかった。

 

「三笠。何があった。説明せい」

「ああ、御屋形様。詳しい話はそこの力士共に聞いてください」

 

 三笠というのが、この方の名前らしい。

 三笠様は顎をしゃくった。

 力士というのは、私を池に突き落とした二人の侍女の事らしい。確かに横幅はかなり広いが、力士呼ばわりはあんまりだと思う。

 

「わしは、お前に説明しろと言ったのだ」

 

 ぞんざいな態度に、お爺様は苛立ったように三笠様を睨みつけた。

 並の者なら震え上がるような鋭い眼光を全く気にも留めず、私に視線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。

 三笠様はおもむろに私の着物の襟に手を掛けた。

 いったい、なにをするのだろうとぽかんとしていると、突然着物を引き裂き始めたのだ。

 侍女達が悲鳴を上げ、お爺様が目を剥いた。

 私もどう反応して良いのかわからず、呆けたようにされるがままになっていた。

 水を吸って重くなった着物だけではなく、その内側の襦袢も引き裂かれ、私は殆ど裸同然のあられもない姿にされてしまった。

 

「み、三笠! 貴様、何をしているのだ!?」

「何って。水を吸った着物をいつまでも着ていたら、風邪をひいちまうでしょう」

 

 詰め寄るお爺様に事も無げに言い放つと、自分の上着を脱いで私に被せた。

 ただ被せるだけでなく、濡れた髪を乾かすようにわしわしと頭を拭いてくれた。

 

「んん……?」

 

 三笠様は、何かに気付いたように、私の身体を凝視した。

 殿方にまじまじと肌を見つめられるという初めての経験に、私は気恥ずかしさを覚えた。

 

「怪我してるじゃないか、姫様」

「なんだと?」

 

 お爺様が眦を釣り上げた。

 

「青痣や擦り傷が結構あるな。昨日今日つけられたものじゃない。治りかけのものもある」

 

 私の手足だけでなく、胸や腹などに無遠慮に手を這わせ、独り言のように呟いた。

 確かに、私の身体は傷だらけだ。

 侍女からは、言葉だけではなく、今回のように直接的な暴力を振るわれることも少なくなかった。

 口が利けないこと、城内に味方が居ないことを良いことに。

 

「これは、火傷の痕じゃないか」

 

 脇腹のあたりに手を這わせた三笠様が、呻くように呟いた。

 そういえば、過去に焼け火箸を押し付けられたこともあった。

 それをやった侍女は、痛みに悶える私を見下ろし、無表情に転げまわって気持ち悪いと足蹴にしていた。

 

「御屋形様。そいつらには、色々と聞くべきことがあるようですな」

「そのようだな。だが、まずは摩耶を着替えさせねばなるまい」

「そうですね。俺が風呂に入れてきましょう」

「たわけが!」

 

 どこまで本気なのかわからない三笠様を一喝し、お爺様は供をしていた年嵩の侍女に、私の湯浴みと着替えを命じた。

 

「ささ、姫様。こちらへ」

 

 侍女は三笠様をキッと睨みつけた後、私を促した。

 肩越しに後ろを振り返ると、私を池に突き落とし、池に突き落とされた二人の侍女が、彼を指さしながら何か喚き散らしているのが見えた。

 これが、兄様と私の出会いだった。



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5

『中々衝撃的な体験でしたわ』

 

 当時の事を思い返し、私は呟いた。

 寒空の下で池に突き落とされたかと思ったら、今度は人前で裸同然に剥かれたのだ。嫁入り前の娘がだ。

 こんな体験は、一生のうちにそう何度もするものでは無いだろう。

 

「そのお前が、今では進んで俺の前で服を脱いでるわけだ」

『兄様っ!』

「いてててて。おいこら。耳を引っ張るんじゃない。悪かった、俺が悪かった!」

 

 飽き足らなかった私は、とりあえず、兄様の体毛をぶちぶちと毟り取ってやった。

 

「いてえ! おい、止めろ! 俺が悪かったって……!!」

 

 私は不満と怒りを表すため、頬を膨らませてみせた。

 いくら表情が無いとはいえ、このぐらいの感情表現は出来る。

 

「怒るな怒るな。金剛が頬袋に餌を貯め込んだ時みたいになっているぞ」

 

 金剛というのは、私が飼っている黄金絹気鼠のオスの名前だ。

 兄様は、鼠の癖に仰々しい名前だと笑っていた。

 

『兄様が思い出したのはその時なのですか? 私だと気づいたから、助けてくれたのですか?』

「いいや。思い出したわけではない」

 

 兄様は被りを振った。

 

「ただ、池の中で震えているお前を見て、この娘は、俺が命に代えても護らなくてはという衝動に駆られたんだ」

 

 そして気が付いた時、私を虐めていた侍女を池に突き落としていたのだという。

 

「おそらく、前兆だったのだろうな。それから、日を追うごとに前世の自分とお前を思い出していった」

 

 

 

 私は再び、あの日の事に思いを馳せた。

 

「姫様。そのお身体は……」

 

 浴場に連れてこられた私は、湯浴みのため一糸まとわぬ姿になっていた。

 ここまで私を連れてきたお爺様付きの侍女は、私の身体の至るところにある痣や傷痕に絶句していた。

 言葉を失くしている侍女を背に、湯浴みを終えた私は、無言で(口が利けないから当然だが)淡々と着替えを終えた。

 

「お辛い思いをされていたのですね……」

 

 辛かったのだろうか。

 いつの頃からか、そういう扱いを受けるのが当然なのだと受け入れ、特に何も感じなくなっていたような気がする。神経が摩耗していたのかもしれない。

 その時の私が唯々心配だったのは、大事になって、母様に迷惑が掛かる事だけだった。

 

「あの三笠とかいう狼人……。とんだ無作法者の破廉恥漢でしたが、これで姫様が救われます。さあ、御屋形様の元へ参りましょう」

 

 義憤に燃えているらしい彼女に促され、お爺様が待つ部屋に連れていかれた。

 

「御屋形様。姫様をお連れしました」

「ご苦労。下がってよい」

 

 私を連れてきた年嵩の侍女は、目礼して音もなくその場を後にした。

 

「摩耶、座りなさい」

 

 私は頷き部屋に入った。

 どこに座ろうか逡巡した末、私は兄様の隣に腰を下ろした。

 

「では、改めて聞く。何があった。なぜ、摩耶がずぶ濡れになっていたのだ」

 

 お爺様は、眼光鋭く下座の私達を見渡した。

 ちらりと隣を伺ってみると、兄様は自分の口から話す気は無いのか、口を噤んだままだった。

 僅かに口角が吊り上がっていて、私には笑っているように見えた。

 

「それと、摩耶の身体にあった無数の傷、あれはなんだ? 知っている事を包み隠さず申せ」

「お、お、恐れながら申し上げます!」

 

 私が口を開こうとした時、私を池に突き落とし、兄様に池に突き落とされた侍女の一人が、平伏したまま声を張り上げた。

 

「じ、実は! 姫様はそこな狼人に、池に突き落とされたのです!」

「そ、その通りです! 私達が姫様を助けようとしたところ、私達まで突き落とされたんです!」

 

 もう一人が追従するように叫び、これ幸いとばかりに、他の侍女達もそうだそうだと声を上げ始めた。

 

「私のこの傷をご覧ください! 姫様を助けようとしたときに、そこな狼人に蹴り落されたのですっ!」

 

 顔にできた青痣を指し示し、彼女は涙目で訴えた。

 瞼を腫らしたその顔は、怪談講に登場する、夫に毒を盛られた女幽霊のようだった。

 

「そうなのか、摩耶」

『違います!』

 

 私は咄嗟にそう唇を動かしていた。

 私一人だけなら別に構わない。今まで通り、私が耐えれば良いだけだ。

 だけど、助けてくれた兄様に濡れ衣を着せるわけにはいかないという気持ちでいっぱいだった。

 

「摩耶は違うと申しておるぞ」

「御屋形様! 姫様は、その卑しい狼男に脅されているのです!」

「そ、そうです! 姫様、無理をなさらなくて良いのですよ!」

 

 背後から聞こえる気色の悪い猫撫で声に背筋に怖気が走った。

 私を嬲る時、決まってそんな声を出していたからだ。

 

「三笠。お前から何か言うことはあるか」

「俺? 俺から言うことは何もありませんよ」

 

 兄様は、そう言って軽く肩を竦めた。

 

「ふ、ふん! 認めたわね!」

「御屋形様! お聞きの通りです! その狼人がすべての元凶なのです!」

 

 自分達の都合の良いように解釈した侍女達が、口々に兄様を非難し始めた。

 

「き、きっと、姫様のお身体の怪我も、その狼人の仕業ですわ!」

「そ、そうよ! きっと、そうに決まってるわ!」

 

 ついには、そんなことまで言い出す始末だ。

 今になって思い返してみれば、彼女らの醜態は、時代劇のお白洲の場で、白を切って喚き散らす下手人のようにも思えた。

 

「もういい。分かった」

 

 お爺様が溜息交じりに軽く手を上げ、喚き散らす侍女達を遮った。

 

「済まなかったな、摩耶」

 

 そう言ってお爺様は、私に頭を下げた。

 

「藩主という立場上、お前やお前の母にあまり気に掛けることが出来ず、このような事態を引き起こしてしまった」

「全くですよ、御屋形様。切腹ものですぜ」

「やかましい。茶化すでない」

 

 おどけるように口をはさむ兄様を、お爺様猛禽のような目で睨みつけた。

 藩主の言葉に軽々しく差出口を挟むのも信じられない事だが、お爺様に強く咎める素振りは見られなかった。

 お爺様と兄様の関係を知らなかったその当時は、気心の知れた友人同士が、軽い憎まれ口を叩きあっているような気安さが不思議でならなかった。

 

「お前達への沙汰は後程で伝える。下がれ」

 

 お爺様は、侍女達に向かって、蠅でも払う様に手を振った。

 

「お、御屋形様……?」

「それはいったい、どういう……」

 

 困惑するような声が私の左右から上がった。

 

「下がれと言っている」

 

 お爺様が、冷たい声で告げる。侍女達がひっと息を呑む音が聞こえた。

 

「当主の孫娘への継続的な暴行、死罪になるだけでは済まんだろうなぁ。本家も取り潰しかなぁ、これは」

 

 くくっと小さく笑い、兄様は追い打ちを掛けるように言う。

 藩主であるお爺様や、私の御付の侍女は、それなりに家格の高い家の子女が殆どだ。その子女が粗相を仕出かしたとなれば、当然彼女らの本家にも罪科が及ぶことになる。お家の取り潰しともなれば、一族郎党路頭に迷うことになる。

 侍女達から悲痛な声が上がった。中には恐れおののき泣き出している者までいた。

 私は彼女らに、日常的に酷い苛めや嫌がらせを受けていたが、死罪というのはあんまりだと思った。しかし、散々嫌がらせを受けてきた身としては、彼女らをとりなすほど、お人良しでも無い。

 だから私は、何もせずにただ見守っていた。

 

「お、お、お許しくださいっ!」

「ど、どうか、どうか、それだけは……!!」

「おい、阿婆擦れ共。頭を下げるのは御屋形様にではなく、姫様に対してだろうが。どこまで知恵が足りないんだ。脳みそがクソにでもなっているのか?」

 

 一斉に平伏する侍女達を酷薄な表情で見降ろし、兄様は容赦のない言葉を浴びせた。

 その声は、先程までのどこか茶化したようなものとは全く異なり、背筋が凍り付くような冷たさを伴っていた。

 

「ひ、姫様! どうか、どうかお許しを……!!」

「どうか、どうか……」

 

 ハッとしたように顔を上げた侍女達は、今度は私に向かって一斉に土下座してきた。

 

「しっかり反省してるんだろうな、醜女共」

「は、はい! それはもう……!」

 

 私を池に突き落とした侍女の一人が顔を上げた。

 先程までの傲岸さは鳴りを潜め、何度も畳に額を擦り付け、媚びへつらうように私達の顔を伺っている。兄様に足蹴にされた時の顔の傷も相俟って、中々不気味だった。

 

「どうするよ、姫様。こいつら、赦してやるか? それとも括って吊るすか?」

 

 物騒なことを尋ねる兄様の声は、楽しそうに弾んでいた。

 括って吊るすか、のところで、侍女達が顔を青くした。

 私は困惑してお爺様のほうを視線を向けた。

 お爺様は、無言でうなずいた。

 私の好きなようにしろ、ということらしい。

 

「おい、売女共。お前達、本当に心の底から反省してるんだろうな?」

 

 兄様は恫喝するように言った。次第に、彼女達に対する呼称が酷いものになっていっている。

 

「も、もちろんです! 心の底から反省しております!」

「なら、例え死罪になっても文句は無いな?」

 

 侍女達はえっという顔になった後、この世の終わりのような絶望の表情に染まる。

 

「反省や謝罪というのは、自分の非を悔いて、どのような沙汰も受け入れるという覚悟を言うんだ。当然だろうが」

 

 兄様は冷たく突き放した。

 

「そういうわけだ、姫様。煮るなり焼くなり好きにすると良い」

 

 私は改めて侍女達に目を向ける。ある者は畳に額を擦り付けて噎び泣き、ある者は露骨に媚びるような笑みを浮かべて私を見つめている。

 日常的に私に嫌がらせを繰り返してきた彼女達のこんな無様な姿を見るのは初めてだった。

 そんな彼女達の姿を見ているうちに、どす黒い感情が腹の底から湧き上がって来るのを感じた。

 それは、久しく忘れていた、怒りと憎悪の感情だ。

 この女達は、散々私を嬲りものにしたくせに、いざそれが露見し、咎められようとしたときのこの変わり身の早さ。虫が良いにも程がある。

 私は懐から、護身用に携帯している匕首を取り出した。鞘から刀身を抜き、その場に投げ捨てる。

 大股で侍女の一人に歩み寄ると、そいつの髪を鷲掴みにして、抜き身の匕首を振りかざした。

 

「ひいいいいっ!」

 

 恐怖に目を見開く彼女に、容赦なく、何度も何度も、匕首を振り下ろした。

 もちろん、彼女だけではなく、他の侍女達にも平等にだ。

 部屋中に女達の悲鳴や哀願の声がこだました。

 ざくざくという音が、実に耳に心地よかったのを覚えている。

 

「素晴らしい! さすがは、御屋形様の孫娘だ。実に良い気性をしている!」

 

 肩で息をする私の背後から、兄様が手を叩きながら囃し立てる声が聞こえた。

 暫くののち、私の目の前には惨憺たる有様が広がっていた。

 部屋の畳の上には、所狭しと大量の黒い毛髪が散らばっている。

 私は侍女達の髪を、匕首でずたずたに切り裂いてやったのだ。

 おかげで彼女らの髪型は、他に類を見ない、かなり独創的なものになっていた。

 地肌のあちこちがが透けて見える髪型なんて、我ながら随分と前衛的だと思う。

 侍女達の中には、呆然とへたり込んでいる者の他、顔を伏せてむせび泣いている者、恐怖のあまり失禁している者もいた。

 一仕事やり終えたという晴れ晴れとした気分で、傍らに放ってあった鞘を拾い上げると、匕首を収める。ぱちんという小気味の良い音が響いた。

 お爺様のほうを振り返る。

 

「これで手打ちということで良いのか、摩耶」

 

 お爺様の問いに私はしっかりと頷いた。

 



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