りあリズむ (箱女)
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01

 

「うわぁん、なんだよダメだろここがヘンだよ日本人!」

 

 ステージ裏に下りてきて、ぼくは誰にあてたわけでもない魂の叫びをぶっぱなす。なんでもなにも曲のサビのところで客席から一斉にモノ投げられたらそういう反応するだろ普通。いや素材はスポンジみたいなのだったけどさ。オタクどもったらそんなのどこで仕入れたのかと思ったら物販で売ってやんの。やむ。それもサインライトより売れ筋だってんだからもっとやむ。いやいやもっとライト振れよ。そんなの売ってる時点で身内も敵確定じゃん。

 おかしいと思ってはいたんだよね。歴代で見てもそれなりのハイスピードでソロで舞台に立つなんてさ。ぼくがだよ? もちろん出だしの子ばっかりなわけだからそこまでハコは大きいわけじゃないし、せっかくなら顔のいい他の誰かと抱き合わせのほうがオタクどもも盛り上がるんじゃないのかと思ってたらこのオチだもん。こんなのハイクラスやむ案件に決まってんじゃん。……まあ、やむくんやむちゃんとめっちゃ近い距離でぎゃあぎゃあ言い合うのちょっと楽しかったんだけど。逆にね。

 うう、スタッフのひとたちがめっちゃ明るく “お疲れ様でーす!” とか言ってんのもやむ。これ本当に大丈夫だよね? りあむちゃんがソロでステージに上がった記念すべき日だよね? ロッカーから突然変な人が大成功の看板持って出てきたりしないよね? そんなことされたら本気でやむぞ、ぼくは。ガチのザコメンタルなんだからな。

 

 そんなぼくを拾い上げたPサマには何を言っても聞く耳持たずで、とにかく面白そうなことならガンガンさせようとしてくる。炎上ごときが何するものぞ、お前のキャラなら大丈夫だ! とかなんとか言いながら。あのね、ぼくだってしたくて炎上してるわけじゃないの。まだ所属したばっかりのときにSNSのプライベートのアカウントで絡みぎみのリプライつけたらなんか一気に本能寺しちゃって、そしたらどっかからぼくが事務所に所属してるみたいな情報が流れてさらにボヤ騒ぎ起きてデビュー前からそんな印象がついちゃって。つまりぼく悪くない! りあむちゃん問題ナシ! ……ならいいんだけど、そんなわけないんだよなー、きっと。

 ふつうに考えたら敬遠されまくるだろうぼくを、なぜかPサマは見捨てていない。それどころかその救い主サマは炎上系ほにゃららなんていう謎の方向性で行こう、なんて笑っててこんなことになってるワケ。あれ、ぼくの人生けっこう詰んでね?

 

 

 アホほど目立つ髪の色してるから頭部分の変装だけはガチる。つむじの辺りで全部まとめてゴムでしばってその上からニット帽。なんか頭皮に悪そう。あとテキトーに買ったデカいサングラスをかけて事務所を目指すのがりあむちゃんのいつものスタイルです。服はまあ、なんかクローゼットから、こう、ね。あーあ、おうち出てからこっち着くまで何回あくびしたっけ。目覚まし止めたと思ったらPサマからメッセージの鬼通知だぜ? ぼく朝弱いんだってば。

 お財布につっ込んである社員証的なアレをかざしてゲートをくぐるりあむちゃん。厳重っぽいこのセキュリティを突破する瞬間はぼくもこの事務所の一員なんだな、ってしみじみするよ。あれだよね、いつかアイドルみたいにVIPルームとか用意されちゃったりなんかしてね、え、想像力貧困すぎ? 大問題ですってか、やかましいわ。

 

 ドアを開けると新聞を読んでるPサマ。メガネなのにいかつくてデカい感じで、ぼくは背ちっちゃいから横に並ぶと落差がすごい。たぶんパンチしても全然痛くないと思う。天は平気な顔して二物も三物も与えるよね。集中力とかヤバいし。

 

「Pサマ、オ、オハヨウゴザイマス……」

 

「おうおはよう、夢見」

 

 お、一発で気付いてくれた。今日はシカトじゃない! ラッキー! だよね?

 

「ね、PサマPサマ! 今日はぼくなんでこんな時間に呼ばれたの? 朝だよ?」

 

「なんだ、急にテンション上げるんじゃない。それと用事は仕事の話だ」

 

「え、お仕事もらえるの?」

 

「今回はちょっと長期スパンで考えててな、話聞いてみる気はあるか」

 

「そりゃまずは聞かないとでしょ。ぼくにもできるお仕事かもしれないんだし」

 

 へいへいもしかしてけっこう悪くない話なんじゃないのこれ。まさかまさかのりあむちゃん真面目にちょっと人気に火ついちゃった? 事務所も認めちゃった? 長期スパンってことはテレビのレギュラーとかラジオのパーソナリティ? それとも掟破りの全国ツアー、はさすがにないか。でもでもそんな感じのお話だったらヤババのバだよね。おいおいぼくの天下が始まるぜ。Pサマありがとう、こんなぼくを拾ってくれて。これから粉骨砕身で恩返しするよ。頑張るよ。

 

「なあ夢見、お前小説書け」

 

「ん?」

 

「小説」

 

「んん? えーっと、それって歯車とか奔馬とか、そういう?」

 

「なんでお前から出てくるのがそのタイトルなのかはわからんが、そういうのだ」

 

 何言ってんだこのおっさん。あ、いやPサマ。前言撤回だよぼく国語の中でも作文とかいちばん苦手なんだけど。読書感想文とか毎年どう逃げるかを夏休みの最初に考えてたくらいに。無理でしょ、無理寄りの無理。まずどこからそんな発想が、って夢見りあむなら夢小説いけるだろみたいな安直な発想じゃないよね、じゃないと思いたいなあ。

 

「いやいやPサマさすがにそれはキツいっていうか、人呼んで歩く金閣寺ことぼくが適役には思えないんだけど」

 

「それだと放火食らってることになるだろうが。まあもちろんお前に自由に書かせてうまくいくとは思ってないよ」

 

「悲しいけれどりあむちゃんも同意だよ」

 

「だからある人にコーチを頼もうと思ってな」

 

「コーチ?」

 

「そうだ。それでその人に今日会ってもらうつもりでお前を早めに呼んだ」

 

「ぼくが遅刻するかも、って思ったから?」

 

「よくわかってるじゃないか」

 

 これでも三回連続で遅刻せずに到着してるのに。信用ないなあ。でもさすがにコーチを頼んだのに遅刻はマズいのはわかる。ただ、こう、その言い方はずれてるっていうか。

 あれ、ていうかちょっと待って。てことはぼくこれから小説家のヒトとお話するの? それこそ危険度高くない? ある種の公人みたいなものでしょ。昔の小説家って私生活ぶっ壊れてるのに立場あるレベルだったし。うへえ、そう考えると急に気が重くなってきたかも。やだようやだよう、豊富な語彙でぼこぼこにされたらぼくのメンタル大変なことになっちゃうよう。

 

「ね、ねえPサマ、やっぱ無理めだし」

 

「先方にお前の話したら相当に乗り気だったよ。何が何でもだってさ」

 

「ウソやん、つーかPサマの人脈どうなってんのさ」

 

「10時から三階の角の応接室押さえてあるからちょっと前にはそこ入っておけ」

 

「えぇ、ぼくの発言権なしかよ、やむ。しかもあと一時間くらいあるじゃん……」

 

 いつの間にかPサマ新聞モードに戻ってるし。くそう打つ手なしか。なんて貧弱なんだ、ぼくの抵抗力。まあ、まあでも? そんなにノリノリだっていうならりあむちゃんも気分悪くないし? 行くのもやぶさかじゃないっていうか?

 

 

 うぅ、時間まであと三十分はあるのにやってきました応接室。なんでってぼく自他ともに認めるザコメンタルだもの。直前になってこの部屋にいなかったら逃げる可能性マジであるからね。なんかいろいろ恨めしいよう。あー、怖い人だったらヤだな。若くて優しい女の人がいいな。

 そういえば話を聞くとは言ったけど小説のコーチってなんなんだろ。はー、あまりにも謎すぎて世界中のいろんなものがイヤになってきた。もうドアの取っ手すらあんまり好きじゃないんだよね、ぼく。帯電体質なのか季節問わずに静電気でバチッとするし。あ痛ァ! ほらぁ!

 

「あ、お邪魔しまーす」

 

 もー、なんなんだよ、ツいてないなあ。静電気のせいで先にいた人にぼくのしょぼ顔見せちゃったじゃんか。うーん、あと三十分も何して過ごそうかな。ま、スマホで時間潰すのがセオリーだよね。あーあ、新譜の発表とかないかな。

 ……ん? ちょっと待った。先に人がいるのおかしくない? いやだってこの部屋にいていいのってぼくとコーチの人だけなわけでしょ。こんな早くにぼく以外の人のはおかしいような。って待った待った。つまりコーチの人確定だこれ! やっべやっべ、さっきすっごいテキトーに挨拶しちゃったよ! わあん、ごめんなさい!!

 

 お、怒ってないかな。烈火のごとくおキレになってたらどうしよう。

 

 ……って、ウ、ウソだろPサマ、そんなバカな……。か、か、顔が、顔がいい!! だと!!?

 

 

 

 

 



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02

 

 いやほら、ぼくだってさ、謝罪の意と反省の態度を示すためとあらば正座だってするよ? でもさ、このアジアンテイストでエキゾチックな部屋の敷物のないところの床にずっとそうしてると膝から下がだんだん痛くなってくるんだって。ぶっちゃけもう明らかに痺れが来ててすぐ立つのは無理だよ。ってなったからぼくはちょっとの期待を込めて家主殿の顔色をちらりとうかがう。だめそう。やむ。まあ事前に連絡してたとはいえアパートのドアを勢いよく開けていきなり騒ぎ始めたんだから百パーセントぼくが悪いんだけど。

 

「聞いて聞いて聞いて聞いて!! ねえ、今日ね、ぼくね、すごいことがあったんだよ!!!」

 

 わかるよ。ドアを開けるなりこんな感じで叫んで乱入してくるやつがいたら友達だって頭ひっぱたくよふつう。日も落ちてそれなりの時間経ってるってのにね。あの、だからそろそろ無言やめてもらっていいですか。

 

「……で、なんでそんなにテンション上がったんだ? これまで見たことないレベルだぞ」

 

「あの、ちゃんと話しますからもう足崩していいですか……」

 

 そっけない感じで海ちゃんが手で促した。こういう扱いホント救われる。

 

「あのね、お仕事の話だからけっこう秘密度高いと思うんだけど、いいよね?」

 

「りあむはそれ自分から話そうとしてんのに違和感持て」

 

「そこはほら、うみんちゅだから大丈夫かなって」

 

 ぼふん、と衝撃が来てぼくはその勢いのまま後ろに倒れこむ。ひえー。わかるぜうみんちゅ、照れ隠しだよね! 飛来した物体の正体はぼくがあまりにもこの部屋に居座るもんだから海ちゃんが折れてぼく用に買ってくれたクッション。海ちゃんがぼくっぽさを意識してくれたらしく、なんか攻撃的にカラフルでこのエキゾ感あふれる空間にはぜんぜん似合ってない。似合っていないからこそぼく用っていうこのロジックな。おんなじ感じでヒナ先の持ってきたフィギュアがタンスの上に飾ってある。やっぱ似合ってないね。クリアケースに入ったやつで、ヒナ先が情熱を込めて語ってくれたって理由で “これがアツいクン” って呼ばれてる。本名もあったはずなんだけど忘れちゃった。こんな感じでぼくたちは海ちゃんの家を浸食中。そんでもってこんなことしてんのぼくたちだけ。わお、ぼくたちったら特別ぅ。

 

「それでね、あのね、今日ぼく、鷺沢文香ちゃんに会ったんだよ!」

 

「鷺沢文香って、あの?」

 

「うん」

 

「おいおい、それセクションどうこうの話じゃ……」

 

 うん、海ちゃんがびっくりするのもわかるよ。って、うわ、こんなに目開いている海ちゃん初めて見たかも。やっぱり誰から見てもかなり衝撃の出来事なんだなあ。本当にPサマってどんな人脈持ってんだろうね。いやいや社内のPサマたちのつながりはあるんだとは思うけど、それでも文香ちゃんだぜ?

 クッションを抱えて座り直す。いつものおしゃべりスタイル。でっかいぼくの乳はこうすることですごくラクになるのだ、とは他の人にはあまり言えないんだよね。前に海ちゃんに言ったら、そういうの話す相手は選べよ、って超真面目な顔で諭されたし。相手によってしゃべる内容に気をつけなきゃいけないなんてやんじゃうよう。世の中みんなそんな感じで頑張ってんのか? そうならすごいよ世間、そりゃぼく炎上するわけだよ。

 

「でも本当だよ。連絡先おしえてもらったし」

 

「はぁ、そりゃ驚いた。そんでそれがどう仕事の話とつながるんだ?」

 

「あのね、今度から小説の書き方のコーチしてもらうことになったんだ」

 

「は?」

 

「小説のコーチ」

 

 今度は目が点になって、ちょっと間が空いて、風船にちょうどいい穴をあけたみたいに口から空気が漏れてきた。そしたら今度は一気に爆笑だよ。なんだよさっきの間は情報が脳に浸透するまでの時間かよ、目の前で見ててありありと伝わってきたよ! やむぞ!

 体よじって目には涙なんてためちゃって、くそう、たしかにぼくも自分にそんなイメージないなとは思ったけどこんなにかな!? りあむちゃんと小説ってそんなに遠い!? 東京とアコンカグア山ぐらい遠いのかな!?

 

「あっははははははは! りあむが、小説!? ふふ、すご、はっはは!」

 

「なんだよなんだよぅ、そんなか? そんなにか!?」

 

「そんなにだよ! たとえが思いつかないくらい関連ないって!」

 

 くぅ、自分以外から言われると思ったより刺さる……。

 

「だってさ、だってだよ? いっつもスマホ見つめて炎上気にしてるのに、しょ、小説って!」

 

「ちょっと! ぼくのダメなとこ的確にあげたら反論苦しいじゃんか!」

 

「いや、ふっふふ、まあさ、りあむのセンスみたいのが面白いってのはなんとなくわかるんだけどさ」

 

 えっ意外。そのあたりからちっとも向いてないだろ、って言われるものかと思ってた。でも海ちゃんの笑いはぜんぜん収まってなくて、それはちょっとくぅぅって感じかもだけど、ぼく自身まあ納得できちゃうからむっともできないわけで。あれでも待って待って、いやこれさすがにぼくの思い過ごしか?

 まあいいよ、海ちゃんがぼくに小説は書けないと言ったかどうかはこの際置いておこう。大事なのは、この時点でぼくがまだめげてないことなのだ。ふふふ、すぐに倒れてしまうはずのザコメンタルに文香ちゃんというつっかえ棒をジョイントした結果、ぼくはまだ戦えるようになったのだ! とりあえず海ちゃんの笑いがそれなりに収まるまで待たないと。いちおう話聞いてもらわないといけないし。

 

「あのね、文香ちゃんいろんなこと言ってて、まあよくわかんないのもあったんだけどさ、ぼくでもなるほどなーって思ったのがね、暴力の話でね」

 

「……あー、もしかして鷺沢さんってイメージとかなり違ったり?」

 

「いやいや違う違う。あー、えっと、聞くのはいいけど説明するの難しいな。文香ちゃんが言ってたのはね、小説的な暴力のことで、ぶったり蹴ったりするのだけを言うのとは全然違う話なんだよ」

 

「んー、ちょっとわかんないな」

 

「一方的に与えられるもののことを暴力と呼ぶんだ、って」

 

 海ちゃんはいまいちピンと来てないかな。たしかにお裁縫とかお料理とかの本はすごい読んでるけど、小説読んでるような印象はないもんね。ここはりあむちゃんが導いてあげよう! 生徒になったばっかりだけど!

 

「たとえばね、ほら、見た目とかってそうなんだよ。あ、自分の見た目は選べないとかそういうんじゃなくて、一目惚れとかあるでしょ? 外見が人に与える印象っていうの? それって逆らいようがないじゃん。こういうのもひとつの暴力と捉えることができるって話。全部文香ちゃんの受け売りだけど」

 

「あー、そのたとえならわかるかも。応用が利くかは別だけど」

 

 そうだよねー、実際ぼくも他のたとえ思いつかんもの。ていうかさ、文香ちゃんってスゴくない? アタマ良いっていうかさ、こんな言葉がぼくが教科書の文章読むよりもすらすら出てくるんだよ? あらためて個々人のスペックみたいなものを考えさせられたよね。やっぱぼくが推せると思っただけある! あ、調子こいた?

 はじめはなんか地方をめぐるロケ番組を映してたテレビがいまは音楽番組に変わってて、たぶん海ちゃんの本命はこっちだったんだなって予想を立てる。前に海ちゃんが好きだって言ってたバンドが出てたし。ぼくはアイドルソングを別にすると音楽は本当にわからないから、よく海ちゃんとかに教えてもらってる。流行りものを押さえるのもアイドルの仕事っていうのはPサマのお言葉。言われてみればテレビでよく見るものをアイドルとか芸人の人とかが外してるのあんまり見たことないかも、ってなって、そういうふうに捉えると芸能界って鬼のような情報量だよね、しかも毎日更新されるし。はー、なんかやらなきゃいけないこと感が出ちゃうとねー、なんか。やむ。

 

「で、どんなの書くんだ?」

 

「まだ何にも考えてないよ。文香ちゃんと相談しながら考えようって。今度から」

 

「小説ってどんなふうに書くんだろうな、いや書こうと思ったこともないけど」

 

 ぼくもさっぱり、って苦笑いしてその話はやめにした。

 

 

 

 

 



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03

 

 自分でもよく探したもんだと思うほど分厚いカーテンのおかげで、起きても辺りを見渡した程度じゃ朝なのか夜なのかもよくわからないぼくの部屋。買ったときの感情が思い出せないような、趣味に合ってるのかも不安なアイテムが転がってる。意外と便利なものもあったりするけど、比率で言えばどうして捨てられないんだろうってもののほうが多いと思う。

 目を覚ましたら絶対にしなきゃいけないことはスマホの確認。ぼくくらい不規則な生活をしてるとね、夜に寝たはずなのに夕方に起床とかふつうにあるからね。今日は、まあきちんと午前中って呼べるくらいの時間。これなら焦って準備しなくてもレッスンには間に合うから気分は上々だぜ、いえい。日によっては化粧もままならない状態でダッシュすることもあったり、それ以前に電話の向こうに土下座をするとかのパターンもあるよ。慶ちゃんなら叱られてごめんなさい程度で済むけど、聖さんとかが相手でキレられると真面目に怖い。根本部分がクズの自覚があるりあむちゃんだってそりゃ遅刻を避けたくもなるよ。麗さんに関してはちょっと思い出せないかな。はは。

 

 薄めの焦げ目をつけたトーストにバターを塗って歯を立てる。サクッといい音がして、こんなのが店でずらっと並べられて売ってるんだよなって適当なことを考える。水を切ったばっかりのレタスとミニトマトを加えてりあむちゃんの今朝の食事は完成だよ。手抜きとかじゃなくて正直これぐらいしかおなかに入らなくない?

 いつもの準備をして鍵を閉める。気が付けばPサマに引っ張られてから生活スタイルめっちゃ変わったな、ってはためく洗濯物を見て思う。だってぼく洗濯なんてカゴがいっぱいになるまでため込むタイプだったんだぜ。それが今では天気予報見て、今日干しっぱなしで大丈夫じゃんとか考えるようになったんだぞ。これめっちゃ成長してるよね。あのさあのさ、だってさ、タオル使ってていい香りするとさ、すっごい気分いいんだぜ。

 ぼくは電車に乗るときは基本的には座らない。時間帯的にはだいたいどっかの席が空いてはいるんだけど、長い時間乗ってるわけでもないし、それよりは窓の外を見てるほうが楽しいんだよね。たぶんそんな経験が平均以下なんだろうな、ぼくは。それにほら、座るとね、寝ちゃうかもしれないし?

 

 改札にPASMO定期をぶち当てて華麗に突破すると近くでOLっぽい人がスマホを落とした。その人の拾いかたがあまりにもスムーズでちょっと面白くなっちゃう。どんだけ落とし慣れしてんのさ。ははーん、さては画面割れないフィルムとかつけてるな?

 いつもの横断歩道でいつもみたいに捕まった。なんかもうお決まりすぎて何の感情も起きなくなっちゃった。この待つだけの時間が事務所に向かうための必要な時間としてぼくの中でカウントされていて、ここスムーズに行けちゃったら逆に違和感みたいなのが残るかも。はー、りあむちゃんもオトナになったもんだね。

 

 

「ギャンブル性のある企画かと聞かれれば、まあその通りだよ。負けて失うものは時間だけだからその意味じゃ違うかもしれないが」

 

 Pサマはそっけなくそう言って、珍しくパソコンからぼくのほうに目を移した。

 

「お前が売れて初めて小説を出すことに意味が生まれる」

 

 やっぱり。落ち着いて考えたらおかしいもん。知名度で言えばぼくはやっと舞台に立てただけの新人なんだから。ぼくの視線の先の仕掛人はちょっとだけ楽しそうに笑ってる。ほとんどぼくが見たことのない表情で、それがぼくにはなんだかちょっと苛立たしい。ぼくの知らないところでぼくを動かそうとするのはPサマの悪いクセのひとつだ。絶対に。ぼくがいまここにいるのはそのおかげもあるけど、うーむ。割り切ろうにもそう単純にいかないところを見ると、どうやらぼくもまだ人間しているらしい。

 たぶんこのことはPサマも近いうちにぼくに話すつもりだったんだとは思う。これを発奮材料にして頑張れ、みたいなことを言うつもりだったんじゃないかな。この話に関してはその必要もなかったんだけどね。せっかく文香ちゃんにお世話になりながらお仕事できるんだから、なんとかかたちにはしたいぐらいのことは思うよ。ぼくみたいなアイドルに救われて生きてきた人間にはバツグンに効く感じの上手な目標設定。ちょっと考えてみて疑っちゃうのは、この人は深いレベルでぼくを認識してるんじゃないかってこと。もしかしたらぼくがぼく自身を振り返ってみるよりも。

 

「Pサマひどいよう、それじゃぼく頑張る以外の選択肢ないじゃん!」

 

「それは何より。頑張る理由があるなんていうのは実は恵まれたことだからな」

 

 なんだそれ。っていっつも思うんだけどこういう大人っぽい言葉でぐいぐい押し通すのがこの人のやり方で、ただどうやったってPサマと論じたところでぼくが勝てる見込みはないし、それがお互いわかってるからこれ以上話が発展することはない。文香ちゃんとお仕事できることは願ってもないことだからいいんだけど、やっぱりどこかに燻るものはあるんだよね。もちろんPサマが嫌いなわけじゃないし、それどころか感謝してるっていう前提があるんだけど、だからこそなのかな。ぼくはそのへんよくわからない。ずーっと逃げてきたし。

 

 

 廊下は暑くもないし寒くもない。事務所っていうかこのビル内で動いてる人はぼくを含めてみんな気温に気を払ってないみたい。廊下に味気があってもどうだろうってなるけど、素っ気もないといえばそうだよねって納得する廊下。荷物はレッスンルームに併設されてるロッカーに預けるから、床がきれいな板張りのあの部屋へ私服で向かう。歌もダンスも演技力もバラエティ力 (これの鍛え方はいまだに謎だ) も必要だけど、最初にきちんと鍛えないといけないのは体力らしくて、まだその段階でひいひい言ってるぼくにはしょっちゅう愛のムチが飛んでて。わあん、じゃあなんでステージなんて立たせたんだよう。

 専用のエレベーターを使ってレッスンルームがある階に下りる。ぼくたちと一部の人だけが持ってる特別なカードキーがないと動かないやつ。職業柄もあって、むちゃくちゃにかわいい子が多い環境だからそういうセキュリティは万全を期しているんだって。ここに勤めてる人でもこのゾーンは見たことすらない人がほとんどだって聞いた。あれ、アイドルオタクのぼくが入っていいのか。

 必要以上に人がいないからここの廊下は必要以上に静かで、その雰囲気はちょっと怖いくらい。セキュリティは堅牢で造りは頑丈、防音は完璧の建物だもん、余計なものはないのが前提。そこには静謐っていう音がある。

 レッスンルームのドアを開けて外用の靴を脱ぐ。その靴を人差し指と中指に引っ掛けて、今度はロッカールームのドアのほうに足を向ける。最大人数がけっこうエグいから下駄箱なんてないんだってさ。靴間違える心配もなくなるから安心だね。ドアノブをひねってやけに重みのあるドアを肩で押す。あれ、いまちらっと誰か見えたな。もしかして今日は誰かといっしょのトレーニングなのかな。どなた様かな?

 

「おっ、あああ! おっ、おかっ、岡崎泰葉ちゃんだ!!」

 

「え、あっはい」

 

「うお、すっげ、なんだよぼく最近運よすぎないか!? 大丈夫か、死なないか!?」

 

 ……ぁあー、やっちゃった。まーたテンション上げすぎた。こんなん絶対ヒいてるに決まってんじゃん。同じ事務所に所属しといていきなりこんだけ騒ぐ年上の後輩とか泰葉ちゃんからしたら、キ、キツいよね……。か、顔向けできん、やむ……。

 

「夢見りあむさん、ですよね?」

 

 へ?

 

「ななななんで岡崎泰葉ちゃんがぼくなんかの名前知ってるの」

 

「私たちのあいだでは時の人ですよ、異例の早さでステージに上がった子がいるって」

 

「いいいいやいやいやいや! なんか変な物の弾みでそうなっちゃただけで! ぼくなんて全然すごくない! です! よ!」

 

「でも、そういうものもきっと必要なんだって、私は思いますよ」

 

 壊れたおもちゃみたいに頭と手を振ってぼくは否定した。だってそうしないと壊れちゃうものがあるから。そんな内心を知ってか知らずか花がゆっくりほころぶように泰葉ちゃんが笑って、それを見てぼくは浄化されそうになる。尊い……、これこそがアイドルだよ……。

 ってやばいやばい。泰葉ちゃんから見たら突然うっとりし始めた不審者になっちゃう。外からの目がぼくをどう捉えるかに気を配ること。これもPサマから口酸っぱく言われてるから気を付けないと。うう、理屈じゃわかってるけど、人の目を気にするのとはまた違うって意識するの難しくないかな。いやいやそんなことより、泰葉ちゃんにヤバいやつだって思われるのだけは避けないと。

 

「あ、あの、ありがとう、ございます。それとごめんなさい。ぼ、ぼくテンパっちゃって……」

 

 泰葉ちゃんの小さい顔が少しだけ傾いだ。あ、あれ、ぼく何か変なこと言ったか?

 

「初対面ですし、緊張されるのはおかしなことじゃないですよ」

 

 両目を細めて口角が上がって、さっきとは違う感じの、安心させるような優しい顔になるまでの表情の動きが滑らかすぎて、ぼくはそれに見惚れた。たしかにこれはぼくがスクリーンの向こうに見てたものだ。喉の奥がきゅう、と絞られる感覚が不意にやってくる。こうなるとぼくは声が出せなくなる。急にテンション上げたと思ったらわたわたして、しおらしくなったら今度は黙り込んで。なんだこれ、情緒不安定かよ。こんなだからぼくはぼくに呆れるんだ。

 本当だったらトイレかどっかに駆け込んで頭抱えたい気持ちを抑え込んでなんとか取り繕う。取り繕えてるかどうかはもうぼくの知ったところじゃない。ちょっとだけ冷静になってから目にした泰葉ちゃんは、やっぱりとんでもなくかわいかった。まるでパーツのひとつひとつがある一定のイメージのもとに作りこまれた人形みたいに整ってる。こんな子がぼくと同じような生体活動をしてんの? ホントに? いやこれ失礼だとはわかってるんだけど。

 

「あ、あの、ところで、今日はここのレッスンルーム使うんですか?」

 

「今日は2番が清掃で使えないので、代わりに3番でと」

 

「あー、セクション的に珍しいと思ったらそういうコト……」

 

「トレーナーさんもそのまま来ますから今日は合同かもしれませんね」

 

「わ、やった、岡崎泰葉ちゃんとレッスンかも!」

 

「ふふ、そうだといいですね。いっしょに頑張りましょう」

 

 なんだよやっぱり天使かよ。

 

「あ、ひとつだけいいですか?」

 

 こくこく頷く。いきなりこんなこと言われたら緊張で声出ないよ。ああ、やっぱ調子乗っちゃったかな、きちんと釘さされたりしたらどうしよう。やんじゃうよう。

 

「敬語も使わなくていいですし、泰葉って呼んでくださって構いませんよ」

 

 実は敬語も不十分だったけど、そんな感じでぼくは泰葉ちゃんと知り合った。

 

 

 

 

 

 



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04

 

 私は目を閉じて、ゆっくりと深く呼吸する。いつも体を支配するのは倦怠感と熱。滲む汗と強い脈動を連れてくるのはサーキットトレーニングだ。私たちに要求されるのは持久力と回復力。それらを鍛え上げるのはとても地味で面白くない積み重ねで、きっと、外面的な華やかさからは想像以上に離れている。通ぶった人たちが、彼女たちも努力を重ねているんだよ、と言うかもしれない。でもその人たちはステージ上で一時間を過ごすということがどういうことなのかを知らない。私たちに要求されるのは、まずもって持久力と回復力であることの意味をあの人たちは知らない。

 落ち着いてきた息を、さらに意識して遠くに届けるように吐いて吸う。血流の熱さがいつの間にか鳴りを潜めて、そうして初めて私の目を開ける準備が整う。タオルを取って肌を拭う。あらためて意識にあがる空気の温度に段階を踏んで慣れていく。私の感覚でいえば、運動というのは別の世界にアクセスすることだ。意識の何割かを手放す行為。だからこの世界に戻ってくるのにも手順が必要になる。とはいえその手順にミスがあったところで意識を取りこぼすみたいなことがあるわけではないけれど。

 

 顔に押し当てていたタオルを離して気になっていたほうに目をやると、そこではまだ彼女がランニングマシンの上で走っていた。というか私のトレーニング中に泣き言は始まっていたはずなのに、まだそれを続けながら走っている。体力とか根性がすごくあるのかな……、それとも早くからサボろうとしていただけ?

 

「りあむちゃん、気になりますか?」

 

「慶さん。ええ、まあ……」

 

 トレーニングパートナーがにこにこしながら隣に立っている。夢見りあむというアイドルが気になるかと聞かれたらそれは頷くしかない。彼女本人にも言ったように、その存在はすでに異例の存在だから。奇抜な髪色に二通りの意味で目が離せないスタイル、人目を引く要素はたしかにじゅうぶんだけど、それだけじゃこの事務所では戦い切れない。つまり何かが彼女には備わっている。実際に私もほんの少しだけ話をして、それの片鱗のようなものに触れた気がしていた。なんとなく、面白い。

 どう説明すればいいのかわからないから、慶さんの問いにぼんやりと答える。きっと慶さんはこちらがそういう困り方をしていることに気付いている。だって彼女はそれほど鈍くないし、さっきの笑顔に意地悪なものがわずかに差してきている。そのいたずらっぽさがふっと消えて慶さんは助け舟を出すように口を開いた。

 

「まあ、不思議な子ですよね」

 

「噂には聞いてましたけど、実際には今日初めてお会いしました」

 

「同い年にこう言ってしまうのもあれですけど、いろいろと未完成なのでそこが逆に期待させるというか、トレーナーとしてもわくわくするというか」

 

「えっ、りあむさんと同い年なんですか」

 

「19歳なんていちばんふわっとした年代じゃないですかぁ」

 

 自然なため息とセットになって慶さんはつぶやいた。もしかしたら似たような話を何度もしているのかもしれない。何せここはアイドルが毎日絶えることなくやってくる空間だ。大人っぽい女の子もいれば、その逆の子ももちろんいる。

 

「りあむさんって体力に自信があるタイプなんですか?」

 

「ああ、あれはですね、姉が本気でプログラム組んだんです。手の抜けない体力測定をやって、そこから事細かに計算して。なんでもメンタルに問題があるからって彼女のプロデューサーさんから依頼されたそうですよ」

 

「それは、なんというか」

 

「ふふ、私から見ても絶対にやりたくないですよ。それに不定期に視察に来ることにもなっているので、まあサボれませんね」

 

 不定期、ね。視線を斜め上に持っていくと天井があった。当然だ。

 慶さんと話しているあいだも彼女は助けを求める声を上げ続けていて、それはむしろ余計な体力の消費になりそうに思えた。メンタルに問題があるという評価らしいけど、自分から勝手に走るのをやめていないところを見ると、サボれない理由があるとはいえ真面目ではあるんじゃないだろうか。もしもそうなら、それは好感が持てるポイントだと思う。

 とりあえず私はこの偶然を幸運だと捉えることにした。具合のいいことに今日はこのあとに用事があるわけでもない。もしりあむさんの都合が合うなら話を聞いてみたい。なにか面白いことが聞けるような気がする。きっと。慶さんの言い方だとすぐに終わりそうには思えないし、それじゃあ先にシャワー浴びて待ってみようかな。

 

 

 事務所のビルから出て五分ほど歩いたところに私がよくお世話になる喫茶店がある。この仕事を始める前から利用していて、移籍することでむしろ通いやすくなったお店。私のお気に入りはカプチーノで、日によっては甘いものをプラスすることもある。職業柄そんなに好き勝手にできないのが残念だけど。

 目の前の彼女はどうにも落ち着かないようで、メニューを見たり内装に目をやったりと忙しく顔を動かしている。単にこういう雰囲気が苦手なのかもしれないし、あるいは会ったばかりの私と静かな空間でコーヒーを楽しむといった状況に追い付けてないのかもしれない。考えてみればそこで余裕を持って対応できるひとのほうが少ないはずで、そんな当たり前のことに気を回せなかったのは反省点だ。でももうすでに私とりあむさんがテーブルを挟んで向かい合っているのは完成された事実で、まさかなかったことにはできない。だから話を始めてみよう。

 

「あ、あの、ち、違くて、ぼくのそれは研究熱心とかじゃなくて、ただのアイドルオタクで、それも地下アイドルがメインで……」

 

 怖い話を聞いたかのようにぶるぶると首を横に振って彼女は否定した。ピンク色の髪が揺れてインナーカラーのビビッドな水色が強くその存在を主張してくる。対照的に言葉は次第にごにょごにょと濁っていく。そんなにノーを表明したくなるような質問だっただろうかと自分で振り返ってみて、そうでもないだろうと結論する。そしてもう一度、このひとは真面目な性格をしているんだと確認する。適当に話に合わせて、勉強のためにいろんなアイドルを調べたりしているとか言っておけば無難な話題だったのに。

 彼女は目を泳がせながら場を乗り切るための笑顔を顔に貼り付けている。誘ってみたときもそうだし、来る途中で話してもそうだったからもう確信があるのだけど、りあむさんは緊張しいだ。それもかなりの。

 

「あの、りあむさん、そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。わたし年下ですし」

 

「ひえっ、やややっぱぼくのしゃべり方キモいよね、ですよね……」

 

「そういうことじゃなくて、りあむさんと友達になりたいわけですから、私は」

 

「へ? トモダチ?」

 

 私は頷く。

 

「ぼくと、泰葉ちゃんが?」

 

 もう一度。

 

「……えっ、こんな光栄に浴していいの? ぼくだよ?」

 

 あまり日常では聞かないワードチョイスだなあ。それに私はまだ成功しているとはとても言えないから、そこもちょっと違和感だ。

 りあむさんの顔はさっきと違って今度は嬉しさが隠し切れないものになっている。わかりやすいことこの上ないけど、でも嘘をついていないのだとしたらどこに喜ぶところがあるんだろう。まあ、わからないなら聞くしかないか。

 

「別に私、まだそんなに有名じゃないと思いますけど」

 

「そっ、そんなことない! ぼく泰葉ちゃんが役者さんのころからのファンで!」

 

 なるほど、そっちから。とはいえそれでも岡崎泰葉の名前を知ってる人は多くないはず。

 

「……出演してたの映画に限ってたのによく知ってましたね」

 

「ぼくね、高一の夏まで映画観るのが趣味だったんだ」

 

 本当に表情がころころ変わる。さっきは嬉しそうにしてたかと思えば今は懐かしむような儚い笑顔が浮かんでいて、思わず息を呑みそうになる。もちろんこれは私の感じ方だから実際の彼女の心情は違うのかもしれない。けれどまあ、控えめに言って綺麗だというのは共通するんじゃないかと思う。ほとんど特権的なものだ。

 そんな彼女に前からファンだったと言われるのは悪くない気分だった。

 

「その年代にしては割と大人な趣味ですよね」

 

「あー……、そうかも。周りには一人しか同じ趣味の子いなかったよ」

 

「どんな系統の観てたんですか?」

 

「雑食だったよ。とりあえず週末は映画館行って目についたもの観て、って感じ。昔のやつは借りてお家で」

 

「けっこう気合入ってますね」

 

「うん、そうなのかな。受験勉強のときに制限かけたくらいで、あとは没頭してたから」

 

 緊張が解けるとこういう話し方になるんだ。ちょっと意外かもしれない。失礼な話だけど、もっとぶっ飛んだタイプかと思っていた。社内、というより私たちのあいだで流れる噂からはどうやらちょっと外れるらしい。私個人の印象では年齢に比べて多少は幼い感じはするけど、それは個性の範囲に問題なく収まる程度のものでしかない。むしろ彼女のルックスから考えればプラスに働くに違いない。

 懐かしむような目がもう一度メニューに落ちた。ニット帽にメガネと顔の印象を潰すような格好だけど、やはり妙に人目を引くのは消しきれないらしい。メニュー、と頭のなかで繰り返して思い出す。そういえばまだ注文をしていなかった。私はいつものようにカプチーノを、りあむさんはブレンドを頼むことにした。

 

「ところで、どうして映画観るのやめちゃったんですか?」

 

「あ、ちょ、ちょっとあって……。あはは……」

 

 もしかしたらおかわりを注文することになるかもしれない。

 

 

 

 



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05

 

 やばい、怖い。

 何も発言してないのにリプライ通知こんなに来ることある? 見たことない数字ついてんだけど。たしかにぼく前にボヤ騒ぎ起こしたことあるけどここまでじゃなかったよ。それこそケタ違いだよ。何百もつくのははおかしいだろ、ぼくなんて超有名な事務所に所属してるだけの存在と変わらないようなもんだぞ。しかも飛んできてる内容がよくわかんない。面白そうとか、楽しみにしてますとかはまだいいけど、俺も投げるとか言われても困る。ぼくに何投げるつもりだ、キッスか。いやそれもたぶん困るけど。

 なんだよう、ぼくさっき泰葉ちゃんとお友達になって連絡先まで教えてもらったんだぞ、超気分よかったのにこの仕打ちって。やむぞ、これはガチでやむ。原因わかんないのヤバい。どうすればいいのこれ、わあん、またリプ飛んできた。

 

 ちょっと待ってよ追い付かないよなんでぼくのステージが記事になってるのさ。なんかふかふかしたあれ投げるのオッケーっていうのが物珍しいのはわかるけど、ぼくド新人だぞ、持ち上げるの早すぎないか??

 いろんな疑問を解消したくて、ぼくは親切な人が貼ってくれたリンクを追ってみる。反応してる人数から考えれば当然だけど、マジモンの記事が書かれてる。ひえぇ。怖いけど読まないわけにはいかないじゃん。つら。やむ。

 ……へー、ぼくって写真だとこんなふうに見えるんだ。着てる衣装のせいもあるんだろうけど、異物感がすごいなこれ。ていうかちょっと待って、なんかこの構図見覚えある。ぼくがいろんなライブ巡ってたときによく見た景色だ。けどそこにぼくがいるのはやっぱり変な感じがする。ぼくがぼくじゃないみたい。でもステージにいることが馴染まないっていうことが、そこに立っているのがぼくだってことを逆に、それもしっかりと証明してる。間違っていることが正しいんだよ。

 画像のおまけみたいな文章を目で追ってみるとぼくからじゃどうやったって出てこないような書き方をされてて、そこに書かれてる内容をそのまま信じるならヘンテコだけど面白いやつが出てきたのかもって思うものだった。

 

 そうか、Pサマぼくを売ったなこれ。唐突に浮かんだ考えなのに妙な納得感がぼくにはあった。確信って言い換えてもいいくらい。Pサマに拾われてそんなに経ってるわけでもないからやり口を知ってるわけじゃないけど、あの人はこういうことやる。ぼくが売れないと話にならないと言ったからにはPサマだって人気を出すために動くに決まってる。

 

 だからメッセージをひとつ飛ばす。   “Pサマが仕掛けたの?”

 すぐに返事が返ってくる。       “優秀じゃないか”

 ほらね。

 

 

 事務所の広いロビーの座れるところで海ちゃんとふたりでボケーっと座ってる。社員さんたちはだいたいの人が忙しそうにばたばたしてて、ここってやっぱりスゴいとこなんだなってあらためて思う。みんなぱりっとした格好してるなかで、ぼくと海ちゃんはゴリゴリの私服で、それも変装のやつだからめっちゃ浮いてる。たしかに社員さんのために入れてるごはん食べるお店が一般開放されてもいるから私服がぼくたちだけってこともないんだけど、そもそもデカい会社のビルにごはんのために入りたいかっていうと、ほら、ね。だから相対的にぼくたち目立つんだよ。

 一分も経たないのに読み込みかけて更新されてないアイドルの情報ページを見てまた顔上げて。待たされることも多いって聞いてはいたけどやっぱりぼく退屈って苦手だし、海ちゃんもさすがに暇そうにしてた。何せぼくたちここで一時間待ってるからね。さすがに話題も尽きるって。

 いつの間にかぼくの視線は社員さんたちの上半身が見えないくらいの高さに固定されてた。忙しそうにしてる人の顔なんて見てて面白いものでもないし、見られる側もきっとうっとうしいだろうし。いろんな向きに足だけが動いてる様子はなんだか具合の悪い夢みたいに見える。こういう無目的で際限のない光景には意識をだんだんぼんやりさせる効能があるみたい。二秒前に頭に浮かんでたはずのことが何だったのかわからなくなる。そんな中をぼくたちに向かってくる足があった。それもぱりっとした格好じゃないやつ。誰だろ。

 

「んー、やっぱ変装モードだとふたりともわかんないっスね」

 

 ぴたりと足が止まって、その上から聞こえてきたのはとても馴染みのある声。よくぼくといっしょに海ちゃんの家でダラダラする友達だ。視線を上げるとぼさってる髪とやぼったいメガネが目についた。まじまじとぼくたちを見つめる顔をしてる。そりゃまあぼくも海ちゃんもいちばん目立つポイントの髪はすっかり隠しちゃってるもの。

 

「あっれ、ヒナ先なんでここにいんの?」

 

「打ち合わせっス。ちょっと前に話してたコンビのやつの」

 

「あ、覚えてるよ! けっこう毒々しい感じのやつ!」

 

「失礼な。どっちもちょーっとだけ趣味がコアなだけっス」

 

 ぼくがこんなふうにちょっかい出す感じで絡めるの海ちゃんとヒナ先だけなんだよね。二人からしたら何の因果かわからんけど、って言いたくなるくらいだと思う。ぼくが調子こいても全然怒らないの懐深すぎ。比べる対象なら海溝とかそんなレベルだね。

 

「二人もやっぱり打ち合わせっスか?」

 

「そ。ウチもりあむも別件だってのに見事に予定の後ろ倒しが重なっちゃってね」

 

「まあまあ、それはこの界隈の常っスから。どれっくらい待ちなんスか」

 

「一時間! もう退屈! 助けてヒナ先!」

 

 全員テンションの高さ違くて笑っちゃう。海ちゃんの家の感じがロビーの敷き詰められたタイルのあいだから滲んで出てくるみたい。外にいるってことを意識のすみっこに置いておかないと目をつけられる騒ぎ方しちゃいそう。マジでぼく気を許しすぎじゃない?

 ヒナ先もいっしょに座ってのおしゃべりになると回り方がまたちょっと変わってくる。海ちゃんはもともと進行に長けたタイプで、ヒナ先は引き出しがめっちゃ多い。立ち位置的にはぼくはオプションというかプラスアルファみたいなものかな。お、なんかかっこよくね?

 

「比奈さんはもう帰りですか?」

 

「このあとちょっと間を置いたらボイトレっス。相方と」

 

「やべー、ヒナ先が業界人みたい」

 

「りあむちゃんももうお仲間さんなんスけどね」

 

 なぁんだよう、そういうのやめろよう。

 ヒナ先も海ちゃんも生温かい目でぼくを見てる。その視線がくすぐったくてぼくはぶんぶん手を振ってなかったことにしようとする。つーか海ちゃんより年上なんだけどなあ、ぼく。たとえばぼくたちを仮に三姉妹で置いたとして、どうやって動かしてもぼくが一番下になるんだよね。

 ぼくの秘密のお仕事から読書体験まで話が進んだところで、脇に置いといたスマホが一震えした。つまり誰かからメッセージが来たってこと。そんなのぼくだって見なくたって予想つくよ。

 

 

 開いた口が塞がらない、わけでもないけど耳が正常に働いてるかはちょっと不安になったよ。正気? ぼく週に三回もステージに立つの?

 言葉に詰まったぼくをPサマは不思議そうに見てる。決してバカにしてるわけじゃなくて、当たり前のことを当たり前に理解していない人に対して向ける純粋な疑問の目だ。たとえば魚が切り身の姿で泳いでるって思ってる子供に向ける目だ。

 

「夢見りあむは何よりもまず耳目を集める必要がある。これはお前も認識してるな?」

 

 ぼくはうなずく。

 

「さてそのやり方だが、理想的なものは何だと思う?」

 

「テレビじゃないの。ぼくでも無理だってわかるけど」

 

「出そうと思えば不可能じゃないぞ」

 

「は?」

 

「問題点はそこじゃあないってことだ。夢見りあむのための番組でない限り、テレビ局はただ映りの良いお前を要求する。なにせ夢見りあむが発揮されれば普通の番組は崩壊するからな。お前は借りてきた猫のようにおとなしくするしかなくなるわけだ。だがそれじゃあ意味がない。強みが活かせない」

 

 Pサマは超楽しそうに言葉を並べ立てる。それこそ舞台演劇の経験があるんじゃないかってくらいよどみなく流れる言葉はぼくの背すじに冷たいものを走らせる。もしかしてこのままぼくが部屋出てっても一人でべらべらしゃべってんじゃないのこの人。いやもちろん会話してるんだから気付くのには違いないんだけど。

 

「普通じゃない個性、というかいっそ異常であることに価値があるんだ。この業界におけるひとつの現状打開だよ」

 

「ね、ぼくだんだん理解が追い付かなくなってきてるんだけど。あとディスった?」

 

「最終的にその異常さを面白いものと思わせればいい。もっとも適しているのはライブなんだよ」

 

「えーっと、つまり、あの記事ってそのためのってこと? ねえディスった?」

 

 その通り、と言ってPサマはぼくに向けた目を細めた。何かに満足したような表情に見えるけど、それが何なのかはわからない。少なくともこの人はしゃべりたいことを思い切りしゃべったから満足するっていう、ぼくみたいなタイプじゃない。独りよがりが与えてくれるものは自己満足だけだってことをきちんと知ってる人だから、本当に得るものがあったってことなんだと思う。

 ぼくのスーパーハードワークの理由を納得させるのに成功したと思ったのか、Pサマは軽く一息ついた。ちょっと待ってよ。ライブがぼくに合ってるってとこまでは理解したけど、週三回はやりすぎじゃないの。ぼくぶっ壊れちゃうよ。あ、もしかして。

 

「ねね、Pサマ、それってダンスレッスンとか体力トレとかその辺終わりってこと!? そうだよね! だってそんなにステージに立ったら時間なくなっちゃうもんね! 小説も書かなきゃいけないんだし!」

 

 うっわなんだあの目。言葉ももったいないってか。

 

「ででででもでも、実際ヤバいでしょ、死んじゃうよう」

 

「他のアイドルの何倍ものスピードでチャンスもらって経験積めて何がヤバいんだ。それにトレーニングやめたら逆に体力も保たなくなるだろ」

 

「しょ、小説は……?」

 

「まだ書き始められる段階じゃないことぐらいわかってる」

 

 両手の手のひらを上に向けて、やれやれって感じでPサマは横に首を振った。これは詰んだ。やむ。そりゃ勝てんよぼく。だって正論だもの。くっそこれPサマこの辺まで織り込んだ上で企画持ってきたな。こんなの逃げるわけにはいかないじゃん。だってぼくがビビらないように最初からは本題に入らないで雑談みたいな感じで済ませてくれた文香ちゃん悲しませられるか?

 覚悟みたいなのはまだ決まらないけど、もうシーンは動き始めちゃってる。この企画に対してはしょぼ顔だって見せられない。ぼくは、夢見りあむはバッキバキの人気者にならなきゃならない。この感覚は知ってる。うう、家帰ったら吐くかもしれん。この三日だか四日だかの密度おかしいよ、ザコメンタルにはきついって。

 

「今日は鷺沢さんと打ち合わせなんだろ? 頑張れよ」

 

 うん、頑張るよって答えてぼくはソファから立ち上がる。文香ちゃんの話は知らなかった世界の秘密だから当たり前だけどむちゃくちゃ面白い。ぼくは本当にものを知らなかったんだな、って最初の一回で思い知った。面白いことを教えてもらえるんだからぼくだって真面目に教わるよ。メモだって取るよ。そのためのノートだって買ってきたんだ。今日も向かうのは前と同じ角部屋。きっと文香ちゃんはもう待ってるんじゃないかな。

 

 

 

 

 



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06

 

「チェーホフの銃、ですか?」

 

「まあ、平たく言えば作劇の心得みたいなものっスね」

 

 比奈さんは缶コーヒーを片手に、さらっと私のオウム返しの意図を理解して答えてくれる。その系統の趣味を持たなければ一生聞くことのないだろう言葉は、私の耳にはなんだか剣呑に響く。

 

「“物語の中に出てきた銃はそのどこかで発砲されなければならない”。無意味なものを作品の中に出すな、と。字義に従えばこれが大意っス」

 

 私は頷くほかない。言ってることは納得できるものだし、その回答は100%のものに聞こえる。現実では成立し得ない考え方。それこそすべてを創り上げる物語という世界においては大原則として取り扱われていても不思議ではないように私には思える。自分の中でもう一度かみ砕いてみて、やっぱり妥当なことを確認する。自然と外していた視線を戻すと、比奈さんはあらためてこっちを向いてにっこりと口の端を上げた。

 

「シンプルに考えれば簡単な話っス。作家はそんなもの書かなきゃいいし出さなきゃいい。けどちょびっと立ち入って確かめてみると疑問点が出てくるんスよ」

 

 疑問点、と私は繰り返す。

 

「いろいろあるんスけど、個人的には “純粋な無意味性が物語という器の中で達成されるのか” という点がいちばん大きいんスよね」

 

 なんだか難しい言葉まで出てきて私は戸惑ってしまう。さすがに失礼にあたるから後悔だなんて思いはしないけど、すごいものを引っ張り出しちゃったかなくらいには思う。何かを生み出しているという点においてアイドルと共通していると考えて、比奈さんに漫画を描く上で気を付けていることを聞いてみたらここまで来るとは思いもしなかった。もともと知り合いではあったけど、今日の様子からは凝り性というよりは突き詰めるタイプという新しい印象を私は受けている。あるテーマに疑問を持てるということは、そのことについて一定レベルの理解を経てさらに追求する姿勢がないと無理だと私は考えている。その意味で言えば彼女はきっと特殊だ。

 彼女はいつの間にか腕を組んで、自分で納得するようにうなずいている。もしかしたら何度も自問してきたのかもしれない。なんというか、そのうなずきにはそういった重みみたいなものがあるように見える。

 

「あの、純粋な無意味性とはどういうことでしょう?」

 

「本当に、まったく、完全に、あらゆる面においてどの角度から見ても無意味なことっス」

 

「ちょっとイメージが湧かない、ですね」

 

「たぶん普通の反応じゃないんスかね。アタシもたぶん不可能だろうと思ってまスし」

 

 何気なく出てきた言葉はこの話題を規定してしまうもののように聞こえる。そもそもとしてその “純粋な無意味性” が成立しないのなら、この話題こそ。

 

「でもまあ証明は不可能っス。いわゆる悪魔の証明っスね」

 

「それならどうして比奈さんはこのお話を?」

 

「アタシ程度で勘づくようなことにチェーホフが思い至らないわけがない。つまり彼は言外にもっと意味を含ませていると考えるのが自然っス」

 

 言外の意味、と繰り返す。さっきも同じことをした。それはたぶん自分の中にその言葉を定着させるためなんだと思う。辞書的な意味が理解できないわけじゃないから、きっとそういうことなんだろう。わずかな時間を置いて頭のどこかの柵が取り払われたような気がした。

 

「思考過程は省きまスけど、チェーホフは出したものをきちんと利用しろ、と言っているんじゃないかとアタシは解釈してるっス。なぜなら創作において意味のないものは存在し得ないから」

 

 社内のそこらに設置されているディスカッションスペース (単に背の高いカフェテーブルを置いたものだ) が、まるで本当に議論のために使われているような感覚に襲われる。社員の方たちならまだしも、私たちがこのスペースを使うのはまず雑談のためでしかない。アイドルの新しい企画を草案ながら真剣に討議している隣でそのアイドルたちが楽しそうに談笑している光景が、ここではまったくの自然として存在している。むしろそうしていることこそが推奨されているような気さえしてくるくらい。私たちの職業はもちろん真剣に取り組むことが大事ではあるけれど、それ以上に要求されているものがあるからだ。テレビの向こうのコワい顔は役者に任せておけばいい。

 比奈さんは真面目な表情を崩さずに、でも気分が乗っていることを隠そうとはせずにさらに詳しく説明をしてくれる。ときおりコンビニコーヒーを口にする姿が似合うのは、きっと私がこの人を大人だと認識しているからだと思う。自分の好きなものくらい自分で決められなくて何が大人だろう、と役者の世界を抜け出して、そう考えるようになった。今ではもうその手の質問にドールハウスと迷いなく答えられるようになったくらいに。世間は思っていたより寛容だし、無関心なのだ。

 

「それは逆説的に言えば、もし銃が撃たれないのなら撃たれないこと自体に意味を持たせるべきだっていうことなんでしょうか」

 

「んん! やっぱり泰葉ちゃんは理解が早いっスねえ」

 

 ぱちぱちと手を叩くしぐさにわざとらしいものが少しも感じられなくて、なんだか照れくさくなってしまう。なんというか、まっすぐな人間性をしているひとはこういう敵無し感があってまぶしい。多少なりとも仮面をかぶっていてくれれば、そうだとわかるし対応も取れるのに。

 

「漫画を描くのってものすごく大変なんですね、そんなに考えなくちゃいけないなんて」

 

「あー、いやそういうワケじゃないんスよ、なんというか……」

 

「なんというか?」

 

「創作畑の人間ってなにか縋れるものが欲しいんスよ。だからいろいろ理論とか調べちゃって」

 

 たはは、とそれこそ漫画みたいに恥ずかしそうに語る姿に、やっぱりウソは見えなかった。

 

 見知らぬ深い森の探検は収穫もあったし、なにより楽しかった。そしてその楽しい時間は比奈さんの打ち合わせの時間という現実的な事情で終わりを迎えた。私たちは基本的にそういう世界に暮らしている。休みを合わせて計画的にしないと満足に遊ぶことなんてとてもできない。それはつまり恵まれていることの一側面でもあるのだけれど。

 

 

 化粧水とヘアコンディショナーと、あとはブルーベリージャムが切れかけていたことを思い出して電車を降りた足で私は薬局へ向かう。薬局は生活用品に限ればなんでも揃っていて、近所にあるところは大きいせいでもともとの用途を忘れてしまいそうになるほどだ。処方箋を持っていって薬をもらうだけの場所というイメージは、古くさいどころか私の中では間違っていることに分類される。もう薬局は売っているお菓子を見て悩めるような場所なのだ。

 当然ながらお客さんの数は多くて、時間帯によってはレジ待ちに10分近く待たされることもあるくらいで、何日分の買い物だろうと思わされるような人が列の前に並んでいてため息をついたことだってある。それ以来その薬局に行くときにはタイミングを計るようになった。

 

 商品棚の並んでいる順番とレジまでの道のりの関係上、ブルーベリージャムを最後にカゴに入れることになる。ジャムといえばブルーベリーだ。これは私が手に入れた偏見のなかで最高のものだと思っている。サイズのわりにずしりと重いその感触が、私の朝を彩るのだ。もちろん毎朝というわけではないけれど。

 外は季節を少し先送りしたような暖かさで、歩く速度にもよるだろうけど、三十分も歩けば汗がにじみそうなくらいの気持ちいいものだ。きっと花粉さえなければ最高の季節だと思っている人は多いだろう。家に着いたら何をしようか。まずは掃除かな、布団も干そう。一人暮らしをしているとこんな感じで時間が過ぎていく。慣れてしまえばどうということもないどころか、雨で洗濯物が干せない日にはげんなりしてしまう。実家の母と話をしたときにそういう会話で共感してしまったことに気付いて、若さに象徴されるものにひびが入ったような気がしたけど、それは内緒。

 家事に慣れてきてしまうと、余暇も含めて一人の時間が圧倒的に増える。趣味にふけったりテレビをなんとなく見たりする時間も増えたけど、ただぼんやりといろんなことに思いを馳せることが増えた。そうでなければ比奈さんに話を聞こうと思ったりはしないはずだ。そうなる前の私はどう考えても余裕のない人間だったから。きっと今日みたいな帰り道も演じる役をどう詰めるかとか、台本をどう読み取るかなんてことばかりを考えていたに違いない。それはそれでおかしなことではないけれど、私はそうでなくなることを選んだのだ。

 ドアを開けるとあんまり面白みのない部屋が私を出迎えてくれた。だって鍵を閉めているからといって、まさかドールハウスをまるごと出しっぱなしにしていってきますなんてわけには、さすがにね。手を洗ってうがいをして、まずはテレビをつける。これでとりあえずはオーケー。どちらかといえば私は騒がしいほうが気が楽なタイプで、一人で静かな部屋にいると変に緊張してしまう。だから完全なオフにはよく出かけるし、静かでも人がいるような場所がいい。たとえばあのカフェみたいに。

 

 買ってきたものをしまって一息つくと、映画のCMが目についた。ひと目でわかる。邦画らしい陳腐なラブストーリーだ。ナレーションがまったく予想を外さないセリフを残していく。どうせ誰かが死に直面するのだろう。顔の整った男女の若い役者のそれぞれのアップからツーショット、そしてシンプルな背景にタイトルが浮かぶ。私がどうこう言える立場にはないけれど、きっとこうやって潰されていった才能ある役者も多くいるんだろう。これは個人的な考えだけど、本当にいい映画はテレビCMを打たないものだ。そしてそういう映画は、とても個人的なものだ。

 なんだか自己嫌悪に陥った私は、チャンネルを別の局に切り替えた。

 

 

 

 

 



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07

 

「おりゃああああ! 元気かオタクどもぉおおおおお!!」

 

 何度目かのオン・ステージも舞台袖から出てきてキャットウォークの先のまるいステージを目指して駆けていくスタイル。ぼくがしっとり出て行ってもそんなの別に面白くもなんともないよね、知ってる。こんなトコに来るような、ぼくと似たような趣味をした連中が相手なんだ、ちょっとくらい雑に扱ったって誰も文句なんか言いやしないよね、知ってる知ってる。

 足もとは想像以上に感触が悪い。これたぶんセッティング変えやすくするために空洞になってんな、中。あと下から照らすためにつけられたライトのせいでギラギラしてるけど、形としてはなんかファッションショーの舞台に似てる感じ。規模はもうちょっと小さいけどさ。ぼくのセクションのシアターはなんかそういうコンセプトなんだって。ファンとの一体感とかなんかそういうことをPサマは言ってたけど、それがこの造りとどうつながっているのかはわからない。柵はあるけど近いから、声も届けばオタクどもが投げてくるあのやわらかいやつもガンガン当たる。こいつら遠慮とか自重って知ってんの? 知らなそう。

 へぶっ。なんだよう、せめて名前くらい言わせろよう。いつもみたいに名乗って、すこれ! って叫びたかったのにさ。タイミングとコントロールいいなこんにゃろ。あ、そこ! 笑うなよ! そうじゃなくてもっとちやほやしろ! りあむちゃんかわいいって称えてぼくを有頂天にさせるんだよ! 役目でしょ!

 

 二十分にも届かないったってひとりでステージに立ち続けるのはどうしたって大変で。ふたつの曲とトークで場をつなぐことの苦労なんて客席にいたときには考えもしなかったよ。あの頃のぼくは曲のときにはオタ芸打ってコール入れて、こっちに声をかけてくれるときには力いっぱいぎゃあぎゃあ騒いでいればそれでよかった。振り返ってみればぼくが追っかけてたアイドルはみんなぼくたちのことを考えてくれてたんだってわかる。うおやべ、なおさら尊い。尊いのはいいんだけど、ぼくにはそれができん。そんな余裕もないし、こないだからはぽこぽこやわらかいやつぶつけられてるし。そんな状態で満面の笑顔、ってなったらそれは狂ってない?

 だからぼくはオタクどもを大事になんかしてやんない。オタクどももぼくを大事にしない。ちょうどいいでしょ。スラム街みたいな感じか、違うか。面白いのはぼくの曲が始まるとサビに備えてそろってみんながあれを投げるのをやめるところ。変にわきまえてるっていうか、別のノリに変えるっていうか。まあぼくの曲ってどっちもアッパーでノリやすいうえにコールの概念を体得してるぼくが歌うもんだから、それはもうわかりやすいんだ。初めてぼくのステージを見るオタクでも二番に入れば余裕で合わせられるね、ふふん。

 一曲盛り上がったあとにやわらかいあれを投げつけられながらわめき散らしてまた一曲ビシッと決めて。いや決まってんのかはわかんないけど。それ終わったら飛び交うあれの中を追いやられるようにして帰るのさ……、ってあれ、なんかおかしくね? っていうかあれ一袋十個入りで50円で売ってんだよね、100円で二十個も投げられんのかーい。採算取れてんの?

 

「いいか!? 次も来いよ! 一時間経ったら推し変しまーすとか言ったらやむからな!?」

 

 わりとガチのセリフを残して控室に引っ込む。ぼくの出番のあとはまたちょっと時間が空いて別の子たちが出てくる。オタクどもの入れ替わりもあるし、トイレ休憩とか物販とか考えないといけないしね。

 衣装を脱いでそれ用の洗濯機にぶち込んで回す。めっちゃ近い位置にライトがたくさんあるからすっごい暑くて汗だらだら。おっぱいしぼんだと思う。着替え持ってシャワー浴びてほっと一息。いやだって控室って本番前の子たちもいるからなんか緊張しちゃうんだって。

 洗濯が終わったら決まったスペースに干しておくと、あとはスタッフの人が対応してくれる。実際に見たことあるわけじゃないからどうなってんのかは知らんけど。それでぼくのやることは終わり。物販に立ったり握手会やったりはなし。これはセクションじゃなくて事務所全体の方針だってPサマが言ってた。距離が近いのはいいことだけど、本当に触れられるかどうかのところでは一線を引かないと幻想が壊れるんだって。正直ぼくには何のことだかさっぱりだよ。

 

 

 歩きスマホはさ、場所とか状況を選ぶんだよ。とくにぼくみたいにすぐ声に出ちゃうようなタイプはね、うるさいし危ないし不審に見えるから。TPOが何なのかってのは知ってたけど、それをPサマに会ったその日に頭に叩き込まれたなあ。文字通りだぜ? ぽこじゃかぶつんだもん。いくらぼくでも覚えるよ。

 だから外でスマホ見るのは少なくとも電車か近所の住宅街。でも人がいっぱいいるときはダメなんだよね。通報されるとかならまだいいほうで、たとえば海ちゃんとかヒナ先のお仕事の話バラすようなことになっちゃったら冗談じゃ済まないじゃん。ぼくはザコメンタルのクズだけど、そんなのを言い訳にして友達を引きずり落としちゃうのはやっぱ違うと思うんだ。

 と言いつつタイムラインチェック~。今は条件満たしてるもんね、それなら当然見るよ。まだぼくは公式アカウントみたいなのはもらってないけど一回ボヤ騒ぎ起こしてるから、わざわざ新規でアイドル情報収集用アカウント取り直したんだよね。アイドルオタクどもの情報網って何より早いのが特徴でさ。ぼくが厳選したやつらが作るタイムラインはかなりガチ。日本全国どこでどんなことがあったかほとんどリアルタイムでわかる。事前のスケジュールなら調べられるっちゃ調べられるのかもしれないけど情報量が多すぎて無理無理の無。SNS文化の申し子・りあむちゃんだからね、誰かに頼らなきゃやってられないよ、ホント。それにサプライズとか突発で起きる事態もなくはないし。

 

 って、おいおいおいウソだろ、ウソって言ってよ。え、まじ、文香ちゃんがあっちのシアターに参戦したの? あああああああああああ、ちょ、うわ待って、しかもカカオバター歌ったの!? 超レアじゃん! 生で聴いたことないよぼく……。ええ、うそ、時間戻したい。そんで出番ブッチしてあっちのシアター行きたい……。ひえっ、タイムラインが歓喜の声と怨嗟の声で埋まってる。まあでもそりゃそうだよな、だって文香ちゃんって基本的に舞台に立つ予告しないんだもん。たまたま当たればラッキーで、歌ってもらえたら超ラッキー。お気に入りの曲が聴けたら神に感謝ってレベル。舞台袖から顔だけちらっと覗かせてそのまま引っ込んじゃうパターンもあるしね。ぼくもファンとして二回経験してるよ。

 

 文香ちゃん推せ推せのすこすこ侍なんだよぼく。アルバム二枚ともは必携として、うちわに法被にブロマイドと限定タオルも持ってるくらいにはさ。そのぼくがあのカカオバターを聴き逃すってまずいでしょ、アイデンティティがクライシスじゃん。

 いやね、たしかに個人的にご指導いただいてる身ではあるんだけどさ、ぼくはその前にアイドルオタクなわけで。どちらかといえばステージの下がぼくのポジションなんだって。生歌聴いて号泣してるのが本来の姿なの。たしかにPサマに拾われて人生一発逆転わくわくりあむちゃん成り上がり物語開幕したか!? って思いもしたけど、ぼく自身が信じきれてない部分もあるんだよ。そう考えたらぼくの目がぼく以外に目移りしちゃうのって自然じゃね?

 だから文香ちゃんの個人的な連絡先なんていうチートアイテム持ってるぼくが、そういう予定とかは聞いちゃいけないの。それやっちゃうとアイドルオタクでもいられないし、文香ちゃんと今の感じでお話できなくなっちゃうから。そのせいでぼくと文香ちゃんのメッセージのやり取りって超事務的なんだよね。何日何時空いてますか、大丈夫ですよ、って。ぐひー、つまらないやつとかって思われてないかな。

 ああでも、ちくしょう、生歌聴けなかったのは冗談でなく悔しいからおうち帰って文香ちゃんのアルバム聴こ。

 

 

 

 

 



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08

 

 慶さんは私の問いにノーと答えた。彼女は後ろからぐいぐいと私の背中を押している。少しの痛みのなかで呼吸を続ける。ウォーミングアップとしてでもなくクールダウンとしての柔軟体操でもなく、体を柔らかくすることを目的とした柔軟。何か月もかけて少しずつ達成されていくそれは、毎日の成果としてではなく、ふとある日に振り返って効果を実感する類のものだ。初めは指先がつま先に届く程度だったものが、いつの間にか指の関節でつかめるようになっている。股関節とはこんなに開くものだっただろうかと思う日が訪れる。もしかしたら小学生のときの身体の成長に似ているのかもしれない。なんとなく、だけど。

 

「うん、そうですね、自分がステージに立とうと思ったことはやっぱりないです」

 

「変な話ですけど私たちってすくなくとも最初は誰もが習う立場ですし、そうなると技術的に上の慶さんたちが前に出ないのって不思議な気がするっていうか……」

 

 私を後ろから押してくる力がわずかに弱まる。きっと私を納得させるようにきちんと考えてくれているんだと思う。

 

「たぶん誤解させちゃうような言い方になるんですけど、泰葉ちゃんたちって例外的存在なんだと思うんですよね」

 

「例外的存在?」

 

「誰でも人の前に立つのはできると思うんです。でもその場所に立つべき、あるいは立ってほしいと願われるのってとても特別に見えるんですよね、私からすると」

 

 彼女から伝わる力に呼吸を合わせる。上から押しつぶされるのではなく前へと伸びていく感覚。息を吐く。肺から空気をなくして、そうしてやっと空気を取り込む。順番を間違えてはいけない。肺にある空気とは吐くためにある。そのために深く吸い込む。そしてまた息を吐ききる。仮に普段の人間の生活にとってはそうでないのだとしても、この瞬間の優先順位は決まっている。

 私は慶さんの次の言葉を待っている。レッスンルームのすこし離れたところでは、スマホの録画機能でダンスの動きを確認しているアイドルたちがいる。複数人でのダンスは迫力と華があるぶん、きちんと見栄えをさせないと印象がぼやけてしまう。私にとってもそれは努力項目にあたる。

 

「アイドルなんていったらたぶん多くの女の子は憧れたんじゃないですか? お花屋さんとかケーキ屋さんとか、お姫様とかそういうのとおんなじくらいに」

 

 たしかにそんな感じの話は小さいころによく聞いたかも。

 

「でもですね、自分がそれを望まれているわけじゃないってどこかでわかっちゃうんですよ。そしてそのことを自然と受け入れている自分を見つけるんです。その瞬間から夢っていう言葉の色合いが変わるんです」

 

「……私もまだそれほど自信を持っているわけでは」

 

「あー、違うんです違うんです、やっぱりそう聞こえちゃいますよね。言いたいことはそっちじゃなくて、むしろだからこそ人の前に立っていてほしいってことなんです」

 

 私の背中に加わる力は一定で、つまり予想の範囲内の返答だったということだ。たぶん似たような話を何度かしているんじゃないかな。私が疑問に思ったようなことを他の誰も思いつかないなんてことはあり得ないし、慶さんはふとした疑問を投げかけやすいタイプの方だから。

 

「それはたとえば、代わりに、とかそういう意味でしょうか」

 

「あー、そんな感じですかね。かつての自分の夢を乗せてもらうみたいな」

 

「……考えたこともありませんでした」

 

 これは本音も本音。いままでの人生は勝ち取ってこその世界で、私以外の人は敵とはいかないまでも競争相手とかそういった存在だったから。そんな考え方をしてきた自分がよくもまあ慶さんの言葉の意味を推測できたものだと感心さえする。同時に頭が固かったことを痛感もする。言われてみれば納得の考え方だ。別のたとえをするならプロスポーツ選手を応援する心理に近い、のかな。高校球児だった人が何かの条件、それは出身地とかプレイスタイルなんかに類するものだ、に合った選手に入れ込むように。

 なんだか自分の人生経験の狭さが浮き彫りになるようで多少傷つくけれど、人と話をすることの価値がこの事務所に来てからだいぶ上がっている実感がある。誰もが違う道を歩んできて、そして違う考え方や感じ方を手に入れている。だから誰もが私にないものを持っていて、話をするたびに私はそれを学ぶことができる。私はまだまだ未完成ということだ。アイドルどうこうという以前に、人間として。

 息を吐いて、少しの痛みとともに体を伸ばす。

 

 

 予感にはよくある自分自身にとってさえ半信半疑のものと、確信とそれほど変わらないものの二種類がある。今回の場合は後者だ。そして確信に近い予感というものは、私の経験則によると悪い予感に限られる。

 

 曲がり角の向こうから、その予感が滲んだ。都心のオフィス街にあるそれなりに新しいビルの、ガラス張りの外壁の曲がり角。どの社屋も単純な直方体のかたちをしてはいないから、そのガラスから望める景色も単純な街並みということもない。私がいま差し掛かっているそこは日中にはしっかり日の当たる位置にある。隅には観葉植物が置いてあって、それがビル街の景色の印象をかすかに和らげている。私たちの事務所は大きいから、いつどこに誰がいるかなんてわかりようがない。そのせいで鉢合わせという事態が起きやすいのだ。

 距離で考えればするはずのない、というより嗅ぎ取れるはずのない甘い匂いにも似た漠然とした雰囲気。それが届くことで確信めいた予感が100%に変わる。そしてそのことに気付いたときにはもう遅い。不思議なことにそれに包まれると立ち去るという選択肢がなくなってしまう。思い出してみればあの人と初めて出会ったときも同じだった。もちろんそのときは近づいてはいけないなんて思いもしなかったけど。

 うつむきがちな姿勢のせいで、彼女の頭と足がほぼ同時に角からのぞく。塗りたくったような黒々とした髪に病院のように白い肌、鼻の半ばまでを覆う前髪の奥に神のいたずらとしか思えない色をした青い瞳が順に姿を見せる。あごが小さいせいで少し長く見える細い首がゆっくりと現れる。それらが形づくる彼女の印象は、どこか、昏い。

 走って逃げてしまえばよかったのに。けれど私の身体はぴしりと固まる。青い眸子が私を捉えて角を曲がり、まっすぐこちらへ歩いてくる。そして物理的な力を持って絡みついてくるような、

気が

遠くなる

魔性の

香り。

 

「泰葉さん、おはようございます」

 

「……はい、おはようございます」

 

「実はちょうど打ち合わせが終わったところなのですが、もしお時間に余裕があれば、どこか落ち着ける場所でお話などいかがでしょう」

 

 彼女は私の返答を知っている。私が断らないことを知っている。その証拠に、つぼみがほころぶように控えめな笑みがじんわりと彼女の顔に広がっていった。ストールを揺らしながら歩いていくその後ろを、私は何も言えずについていく。いつもなら誰かしらのアイドルが使っている談話室がたまたま空いていた。

 

「最近はどのようにお過ごしですか」

 

「変わりありません。ユニットのみんなとのレッスンもそうですし、個人でも重点的に鍛えるべきところをいくつも抱えてます」

 

 私の言葉が終わる前から文香さんは不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。その表情の意味を私は察することができない。なにか根本的な部分でのずれがありそうな気がするくらいで、そのずれが具体的にどういうものなのかも説明できない。はっきりと口にできることといえば、鷺沢文香という人は、アイドルとしても実体としても()()()()()()()()()()()()()()ということだ。

 

「……文香さんのほうはいかがですか」

 

「私はいつも通りでしょうか。大学の合間に歌のレッスンを受けて、ときおりシアターのほうに顔を出すといった具合です。……あ」

 

 目が細まり、口角が上がる。

 

「ひとつ面白いお願いをされていますね、いま」

 

「面白いお願い?」

 

「泰葉さん相手ですし話してしまってもいいかと個人的には思いますが、とはいえ秘密裏の依頼に違いありませんので伏せることにします」

 

「どうして私相手なら、なんておっしゃるんですか?」

 

 たぶん私は本気の怪訝な表情を浮かべているだろう。いちばん慣れた、表情を作るという行為が今の私にはできない。姿勢までは完璧に制御できているのに。

 

「……あなたが私と違うから、と言えばよいのでしょうか。そうは言っても一部のことではありますから非常に難しいところですが」

 

「いまひとつ要領を得ませんね」

 

「泰葉さんが私のように飽きもせず小説ばかり読み漁っていない、と言い換えても構いません」

 

 質問に対する回答になっていない。真面目に答えるつもりなんてないということだろう。いつの間にか戻してあった彼女の表情からは冗談を言いそうな雰囲気なんてとても読み取れないけれど、現実として返ってきたのは空虚な言葉。つまりは誤魔化そうとしているのだ。ここの会話は私たち二人だけのものなのだから、そうすることに何の意味もありはしないのに。

 彼女は胸元あたりの高さまで両手を上げて、そうしてそれらを逡巡させてから下ろした。まるで何かを説明しようとして諦めたみたいだ。でも私に言わせれば順番が違う。説明ができないのなら初めからその動作をするべきで、なにかを口にしたあとではちぐはぐな行動になってしまう。彼女は下ろした手をただ見つめている。

 

「語ることができないことについては、沈黙するしかない」

 

「……は?」

 

「ウィトゲンシュタインの言葉です。話題を変えましょうか」

 

 こういうところだ。

 

「そうですね、……そう、ああ、マリモを飼い始めたんです、私」

 

「え、あ、はあ、マリモですか」

 

「癒しなどは私にはよくわかりませんが、ふっと書から目を上げた瞬間にかたちを変えないものがあるというのは落ち着くものがありますよ。錨のように私をつなぎ留めてくれます」

 

 私は文香さんから投げかけられた視線を受けて、ただ頷きを返すことしかできなかった。意外も意外なのだ。たしかに言われればピンとくる。というより、個人的な意見としてはそれより似合うペットはいないとさえ思えるくらいだ。マリモをペットと呼ぶかはまた別の問題として。けれど私の中で、それがたとえマリモを部屋に置くといっただけのことであってさえ、彼女と能動的にアクションを起こすということは一致しない。

 ハンドバッグからスマートフォンを出して、先週に撮ったというマリモの写真を見せてくれた。水槽は切り取られた空間のように、いかにも無造作に木製のテーブルに置かれていた。そこには緑色の小さなふんわりした球体が、中の砂利の上に転がっている。見せてもらうまでとくにマリモに対する感情を持ってはいなかったけれど、写真越しとはいえ見てみるとかわいいと素直に思えた。自分の部屋に置きたいとまで思うほどではないけど、わざわざ言うこともないか。

 

「泰葉さんのお部屋にもいかがでしょう。きっと好みに合うと思いますよ」

 

「ええ、まあ、今度考えてみます」

 

 この人、小説以外にも勧められるものがあったんだ。ってこれはいくらなんでも失礼か。あまりにも普段の印象が強すぎて、どうやら私の中でイメージの固定化が起きていたらしい。私たちはそういうものを避けていかなければならないのに。その意味ではやはり彼女も私たちと同じなんだ、と奇妙なところで安堵する。

 

「私は物臭ですし、よく家事の上でもするべきことを忘れてしまうくらいなので、たまに水を換えるだけでいいマリモは相性がよくて」

 

「それ、私の好みに合いそうって言ったあとに言います?」

 

「……あ、そういうつもりでは」

 

 そのあとは実りのない雑談を続けて、文香さんのスマートフォンがメッセージを受け取ったところでお開きとなった。

 

 

 

 

 



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09

 

「すっげ」

 

 四年ぶりに来た映画館はいやに広かった。なんでだろ、高一の時から身長変わってないはずなんだけど。そういうのじゃないってことかな。

 

 あー、そだそだ、この匂いだ。めっちゃ懐かしい。このよくわからんしっとりした空気。丁寧に思い出すようなことでもないよ、そんなんまだまだ髪の毛染めたことすらないころだよ。うわあ、でもそう考えると太古の昔じゃん。ジュラ紀だ、ティラノサウルスがいたんだ。

 フラれたときのこと思い出してもっとダメージ入るかと思ったけど、そんなこともないんだね。意外。いや意外でもないのか、そうだよね、だってここはぼくの居場所だったんだもん。こないだ泰葉ちゃんに出会わなかったらもっと来るの遅くなってたんだろうな。もしかもしかだけど、このタイミングはちょうどよかったのかもしれない。

 雰囲気づくりのためにゴージャスな感じにあつらえられたロビー。おみやげと映画のチラシとポップコーンとコーラが置いてある。ホントはもうちょっといろいろ飲み物とか売ってるけど。そこらじゅうを観たい作品の開場待ちしてる人がうろついてる。なんか知らないけど泣いてる子ども。変に話が盛り上がってる中学生だか高校生。楽しそうにひそひそ話すカップル。情景はあのときと全然変わってない。やむ。

 

 一時期は趣味の欄に “映画を観ること”って書けるくらいに通い詰めたぼくには、ぼくにだって、もちろんそれなりの哲学がある。海外のはまあ別にしてだけど、テレビCM打ってるような映画は基本的に駄作。だってゴリ押しって札つけてるようなもんだからね。ガチってるやつは映画雑誌とかそういう専門的なものにしか広告打たないんだよ。映画ファンはそういうの目ざといんだ、ぼく知ってるぜ。あと監督で判断する人も多いし、出てる役者さんで判断する人もいる。映画俳優ってテレビの連ドラだけでイキってるような連中と比べたら段違いに上手い人多いしね。

 ゴリ押しの映画はさ、役者の感情をこっちまで、客席まで飛ばそうとするの。それでぼくたちを絡めとって泣かせようとしたり驚かせようとしたりすんだよね。でも本物のすごい作品は違うよ。作品の感情はスクリーンの向こうで完結してて、それなのにぼくたちを巻き込んでいくんだ。ぼくはそういうのが本当に好きだった。でも今はそういうのを受け取れる部分も壊れちゃってるよね、きっと。

 

 どんな映画が上映してるかの場内広告を、四年前みたいに眺めてみる。こうやってその場で見て決めたこともけっこうあったな。当たりはどれくらいあったっけ。はっきり覚えてるのはひとつだけ、かな。あはは、物忘れが激しくてヤになっちゃうよ。

 へー、あの監督の新作が出てたんだ。あ、助演のこの人ってあれだ、四年前に観たやつにも出てた人だ。作品の傾向と相性がいいんだろうな。細かく分析する気は起きないけど、この役者さんがいるのといないのとだと全体像の締まり方が違ってきそう。たまにいるんだよね、そういうひと。

 まあ、でも、今日は観るのやめとこうかな。「造花を焼く」だなんてちょっと気にはなるけど。うん、そうしよう。

 

 帰り道に小石を蹴ろうとしたら、まず当たりもしなかったよ。

 

 

 ぼくの頭を掠めるのは文香ちゃんとの二回目のお話のこと。文香ちゃんは、誰にだって人生で一冊の本は書けるって、そう言った。相変わらず話の進め方がむちゃくちゃ上手いから、ぼくはその場ではなるほどそうなのかと納得しちゃった。けど、ぼくの人生なんかを、多少の脚色を加えるにせよ、小説にしていいのか?

 じゃあいっそ人生でも振り返ってみようかと思って、すぐやめた。だってぼくの人生なんてろくろく成功もしてないしょぼしょぼライフだったから。まあ、いま現在は小説にできるかもしれない不思議な生活始まってる感あるけど、だとしてもいったんは落ち着かないとどうしようもないし。たぶん文香ちゃんが言ってた誰でもっていうのは、ある程度の人生経験を積んだ人なら誰でもってことだったんじゃないかな。その経験を積むための時間には個人差があるわけで。もちろんぼくはどう見たって経験が積めないタイプの人間なわけで。

 つまるところPサマが言ってたとおりに、ぼくにはまだ小説を書く準備ができていない。誰でも一度は使えるらしい人生っていうネタを使えないのなら、ぼくは一から小説を生み出さなきゃならないってこと。はー、いったい何から始めりゃいいんだか。ぐへー。主人公を考えればいいの? ストーリーを? もっと別のものがあるの?

 

「……そんなふうに小説読んだことなんて一回もないよう」

 

 サイズ感で言えば人の頭くらいの大きさのため息ついて、ぼくはソファに寄っかかった。()()()()()()()()()()()()()? おいおいおいおい、まるで研究者かそうでなきゃ批評家だぜ、ぼく。

 おうちのリビングの本棚には、といってもぼくのじゃないけど、これでもかってくらい小説が置いてある。パパもママもお姉ちゃんも当たり前に小説読むような人だったからね。だから読む小説には困らなかったし困らないんだけど、でもじゃあ今回の目的でどれ読めばいいかってなるとどうなのこれ。これまでは読んで面白いとかつまらない、好きとか嫌いとかで済んだけど、今回は絶対それじゃダメだってわかってるからなあ。

 とりあえずどれでもいいから手に取らなきゃ始まらない。でもたぶんだけど、嫌いなやつがぼくには大事になるんだと思う。好きなのとか面白いの読んだら意志の弱いぼくはふつうに楽しんじゃうだろうから。だとしたら “歯車” だ。芥川龍之介。ぼくはこいつのこれがいちばん嫌いだ。だから、きちんと、丁寧に読んでやる。だって物語に呑み込まれることなく小説の勉強ができると思うから。そうでないとおかしいはずだから。

 それは本棚から引っ張り出した岩波文庫の緑の一冊で “玄鶴山房” と “とある阿呆の一生” の間に挟まれた、三篇の短編のうちの一篇。タイトルを飾ってもいる。そのどれもが小説としては短くて、書籍そのものとしても薄い。ぼくはこれを読んでガチめの吐き気に苛まれた。やむとかじゃなくて次の日の学校も休んだ。全部で三年のうちに四回読んだ。うち一回は実際に吐いた。最後に読んだのはいつだっけ、三か月とかそれくらい前?

 

 気分が最悪になるのはわかってた。どうしてこいつはここまで必死になれるんだろう。ぼくにはこの作品そのものが言い訳のために書かれたように感じられる。体の内側が、ううん、内臓がかゆくなるような気になる。手の出しようがなくてどこにもやり場のない気持ちが、本当につらいの。

 ぶっちゃけめっちゃキツいけど、でもぼくはこれを読み込んでいけば小説を書くためのヒントが手に入ると思う。ちらっと何かが頭の奥で光ったんだ。ぼくはそいつを絶対に捕まえる。

 見てろよPサマ。一度くらいは度肝を抜いてやるからな。

 

 

 そんな爆弾をカバンに潜ませて外に出るのはなんだか落ち着かないけど、おうちでだけそれを読むなんてそれこそやむから仕方がない。それに細切れに読むなら吐き気も抑えられるし。探してみればちょっとした時間って意外と転がってるもので、ぼくはこれまでそんな時間をどうしてたんだろって考えた瞬間に文明の利器たるスマホ様を思い出す。時間の使い方がちょっとでも変わるっていうなら、まあ、ある種健康的になるのかな? 違うか?

 だいたい鍵のかかってないドアを慣れたように開ける。さすがのぼくでも鍵くらいかけたほうがいいと思うなあ。アイドル以前に女の子だぞ、海ちゃん。

 

「やっほううみんちゅ、今日ごはん何?」

 

「炊き込みご飯とささみ入れたサラダ、あと昨日の残り物あったからそれ」

 

「残り物なに!?」

 

「回鍋肉」

 

「悪くないね! ぼくその時間までうきうきだよ!」

 

「お前まーた予告なしで来て夕飯食べてくつもりか」

 

「わはは、海ちゃんのごはんがおいしいのが悪いのだ!」

 

 靴を脱ぎ終わるまでの会話で夜まで居座ることが確定。これがりあむちゃん式超話術。これねこれね、ぼくも海ちゃんも別に目合わせないで普通に会話してんの。ぼくこういうのすんごい好き。気のない会話っていうか、女の子女の子してない感じの。ぼくそれ系ってクソほど苦手でさ、まぶしいとかそういうんじゃなくてキツいんだよね。対応できないから拗ねてんのかもしれん。

 海ちゃんは何かの本、雑誌か専門学校の教科書かそんな感じのサイズだなあれ、に集中してたのかも。まだ目離してないし。邪魔するのは悪いしゲーム借りよ。

 

「お、うみんちゅランク上がってない?」

 

「んー、ちょっと練習した」

 

「前も言ったけどふつうにゲームやんの意外だよね」

 

「前も言ったけど実家で弟たちの相手してたからな、縁がないワケじゃないよ」

 

 ヒナ先の手によって持ち込まれたゲーム機はぼくたちが集まったときに出番がある。パーティーゲームだったり対戦系だったり日によって種目は違うけどけっこう盛り上がるんだぜ。だらだらテレビ見るだけー、とかの日もあるけどね。

 

「ね、別のにしていい? セーブしてある?」

 

「いいよ」

 

「おー、どしたの、新しいのあるじゃん。買ったんだ?」

 

「それ比奈さん。なんでここで一人用のをダウンロードしてったのかは知らないけど」

 

 ヒナ先もさすがの自由人だね。きっと自分の家にはないソフトだろ、ぼくにはわかるよ。たぶんここでだけ進めるつもりなのと、海ちゃんに興味持たせて話せる相手増やそうって魂胆でしょ。あれだ、私物持ち込むのと変わんない。にしてもその辺ほとんど気にしない海ちゃんの懐の深さどうなってんの。いやぼくもヒナ先も愛されてるのわかってうれしいけどね? ね?

 最近よく遊ぶゲームを選ぶ。アホみたいに難しいアクションのやつ。まともに頑張ってもやられちゃうから死んでは覚えて死んでは覚えての繰り返しでやっとこないだ一面クリアしたんだよね。さすがは魔界。

 

「昔のスーファミのやつ遊べるのいいよね、ぜんぜん知らんから楽しい」

 

「んー、積み重ねがあって今のがあるんじゃないか?」

 

「へ、どゆこと?」

 

 あ、まーた主人公ったらパンツ一丁になってら。いやぼくのせいなんだけどさ。

 

「昔の面白いゲームがあるから今のがあるんだろって話」

 

「ぼくのキライな歴史の話になるやつだそれ!」

 

「はは、なんだよ拒否反応強すぎだろ。昨日なに食べたか覚えてるか?」

 

「過去は振り返らない主義なの! 現在を生きるりあむちゃんの目は前に向かってついてるの!」

 

 ちょ、あ、うわっ、あーまた骨になっちゃった。

 

 

 

 

 

 



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10

 

 ある映画俳優が死んだ。その事実を知ったのは、そう、本当にただの偶然で、私はたまたま彼女と知り合いだった。自殺だったそうだ。私にしたって何かの巡り合わせで知ることができたくらいだから、それは世間を騒がすような大きなニュースではなかった。そんなものになりようがなかった。地上波で放送されるテレビドラマに出ている俳優と比べて、映画を専業とする彼らはそのトップ層であっても世に知られていないことが間々ある。彼女はその界隈においてさえ有名ではなかったし、まだ名前が知れ渡る前の実力派なんてこともなかった。俳優という括りで並べてしまえば彼女はとても凡庸な存在だった。

 そして彼女は何一つとして特別ではなかった。

 そのことを知らせてくれたスマートフォンをテーブルに置いて、私はカフェオレの入ったカップを口に運んだ。それっぽい香りがこれは夢じゃないことを教えてくれる。何か神経毒でも盛られたかのように私の身体には一定以上の力が入らず、頭には鈍い痛みが響いていた。

 

 嘘をついた。

 

 

 すごいタイミングで出会うものだと感心してしまう。私は買った品物が入ったビニール袋を両手に提げていて、大きな用事が済んだ後の街でとりあえず足を動かしながらこれからどうしようかと考えていたところだった。学校に行くわけでもないのに制服を着なきゃならなかったそんな日にすぐさま家に帰りたくなるわけがない。かといって私は一人で遊べる場所がぽんぽん浮かぶようなタイプの人間でもない。とりあえずの買い物を終えてしまったタイミングという意味では渡りに船ではあったけれど、実際のところ自分の気持ちの置き場がわからないのが本音だった。

 

 一日中でも続いていそうなしとしとと降る雨のなかで、りあむさんがぬっと顔を出した。彼女がどこかの建物から出てきたのか角を曲がってきたのかを覚えていないのは私がぼんやりと歩いていたせいだ。りあむさんはビニール傘をさして、耳の後ろ辺りではニット帽の端から派手な色の髪をすこしのぞかせていた。きょとんとしたその表情の上には変装にありがちなスクエア型のメガネをかけていた。以前にあのカフェに誘ってなければ絶対に気付かなかったろうと思う。でももうそんなことはないんじゃないかな。知り合いになるってそういうことだ。

 道端で何秒かのあいだお互いに目を合わせたまま立ち尽くしていた。そしてどちらからともなく歩き出して、二人で駅前に向かった。思い返してみればその流れに何の疑問も抱かなかったことが不思議といえば不思議だ。そのとき私たちはマクドナルドに入るまで一言も会話をしなかったのに。

 私は食欲がなかったから飲み物だけを注文して、りあむさんは新作のバーガーをプラスした。外は雨だから店内はそれなりに混んでいる。そのせいでいつもよりすこし騒がしく、店内のBGMはうまく聞き取れなかった。もちろん私たちの声も自然と大きくなった。

 

「りあむさん、今日はお仕事ですか?」

 

「んーん、体力トレ。クッソやべーやつ」

 

 ああ、前にやってたやつかな。

 

「あ、じゃあ解散します? 休まれたほうがいいような」

 

「いやいや無理無理むっちゃ泰葉ちゃんに癒されるし、しんどすぎて立ちたくない……」

 

 それこそ体力どころか精神的なスタミナまで搾り取られたような顔で疲労をアピールしている。内容を先日に見ていたぶんなんだか気の毒にも思える。とはいえ特別なプログラムがどんな人物に設定されるかということを考えるとうらやましさが先に立たないこともない。

 冷たい飲み物がストローを通して喉を過ぎる。ファストフードに来ない限り使わなくなったストローに妙な感慨を覚えていると、ふっとポテトのクーポンが財布の中に入っていることを思い出した。なんで持っているのかはわからない。おそらくは誰かにもらったのだと思う。私のふらっと立ち寄る店の候補にファストフードは入っていないから。そうなるとこのタイミングで使ってしまうのが良いようにも思えたけど、どうにも何かを、とりわけポテトを食べる気にはなれない。けれどいくらなんでもクーポンが無期限に使えるわけもないだろうし、どうしたものか。

 りあむさんにあげようかとも思ったけど、なんだか押し付けるみたいで保留。それになぜだか彼女がこのクーポン券を欲しがる姿がまったく思い浮かばない。

 

 新作のバーガーに辛い評価を与えると、そんなこと言えるほどぼく偉くないんだけどね、と彼女は照れ笑いをした。私以外に誰も聞いていない悪気のない会話なのだから別にそこで引き下がらなくてもいいのに。なんというか、こういう性格なのだろう。これまでの人生でそれほど多くの人と関わってきたわけじゃないけど、それでも初めて会うタイプの人だなあ。ユニーク……、どうだろう、もっと違った表現があるのかもしれない。

 私のほうを向いて少し経つとまだ雨の続く窓の外に目を向けて、しばらくするとまた私のほうに視線を戻して。そんなのが何回か続く。私たちはこの間めでたく友達になったわけだけど、あらためて言葉にすると妙な感じだ、だからといって話題を途切れさせてはいけないような関係性というわけではない。もちろん会話が盛り上がるときもあるし、目の前にいるのにLINEでよくわからないスタンプを送り合うだけのときもある。それがお互いに許されるということは、まあウマが合うと捉えていいんだと思う。

 

「あれ、そういえば泰葉ちゃん制服だ。初めて見たかも。いいねそれ、似合うね」

 

「え、ありがとうございます」

 

「でもそれどっかで見たことあるやつだな、どこだっけ」

 

 そう言うと背もたれに預けていた体を前に持ってきて頬杖をついて、もう片方の手で丸められた包み紙をいじりながらりあむさんは記憶の中から答えを探し始めた。通っている高校の名前くらい言ったってどうということもないけれど、考えてるところに水を差すほど野暮じゃない。

 

「え待って待って、もしかして泰葉ちゃんの学校ってゴリゴリに偏差値高かったりしない?」

 

 どう答えてもいやらしく響く気がして、私はなんともあいまいに頷いた。はいそうです、なんてはりきって言えるわけもなければ、それほどでもないですよとも言えない。私がどう返したところでりあむさんは嫌な顔をしないと思うけど、だから、これはなんというか、私の問題なのだ。

 窓の外ではさっきより粒の大きくなった雨が地面や窓を叩いていた。色がこそぎ落とされてしまったような風景の中を鮮やかな傘が揺れている。目に入るそれがカラフルなのには納得するところだけど、なるほどよくもまあ雨中の花なんて形容を思いついたものだと思う。意識に上がってきたものを主観的に表現することを芸術というのなら、形容もそれに類するものだろう。過去に教わった事柄が予想もつかないタイミングで蘇る。言葉に実感がともなって理解に及び、それが動かせない体験になる。

 まったく関係のないほうを向いた意識をもとの場所に戻す。そこには目をきらきらさせたりあむさんがいて、私はどう対応したものかと困ってしまう。少なくともこのタイミングでこちらから言い出せることはないのだ。

 

「はー、泰葉ちゃん偉いんだね、勉強もがんばってたんだ」

 

「あんまり仕事を言い訳に使いたくなかったんです」

 

「あ、あんまりかっこいいこと言わないでよ……、それだけでダメージ入るから」

 

「そんなこと言っても実際はそれほど刺さらないんでしょう?」

 

「いやぼく逃げ癖のある人間だからね? もうグサグサよ?」

 

 卑屈さが見え隠れするこの微妙な笑顔を何度見ただろう。この人はもっと胸を張ってもいいと思うのだけれど、それは私がりあむさんをまだよく知らないということなのだろうか。仲良くなったとはいえ知り合って日が浅いのは事実で、そう言われてしまえば有効な反論が思いつけないのはたしかだ。でも、と素直に認めたがらない自分がいる。

 それまでは周囲の雑音に邪魔されてよくわからなかったBGMが、不意に耳に届いた。人ごみの中から知り合いを見つけ出すときみたいにぴたりとわかる。目の前の彼女も視線を上にあげている。きっと私と同じことが気にかかったんだ。

 

「文香ちゃんのだ」

 

「ほんと、嘘みたいにきれいな声」

 

「あ、泰葉ちゃんも文香ちゃんイケるクチ?」

 

「というかうちの事務所で知らない人はいないと思いますよ」

 

 一気にうれしそうに変化した表情がほんの一拍おいてすっと落ち着く。まあそりゃそうだよね、と二度頷いてまたうれしそうな顔が戻ってくる。

 

「泰葉ちゃんはどの曲が好き?」

 

「あー、難しいですね。アルバムの流れも考えると……」

 

「考えると?」

 

「うーん……、“三回目のワールド・エンド” で」

 

「わかるわかるわかるわかる! こう、流れとしっとり文香ちゃんヴォイスがガッチリマッチでわかりみが深いよね……」

 

 りあむさんの言うことには一理あって、どころか彼女の声質はたしか科学的に特別なものであることが証明されているらしいと誰かから聞いた覚えがある。それを文香さんサイドは公表しないことに決めているそうなので、そのことはあくまで事務所内での噂にとどまっている。外から見れば武器になりそうなネタに思えるけれど、それも文香さんの売り出し方を考えればなおさらだ、現状問題ないから考える必要もないということなのだろうか。もしかしたらもっと先々のことを考えているのかもしれない。まあ、私がどうこう考える話じゃないけど。

 それにしても鷺沢文香というひとは奇妙な影響力を持っているものだとつくづく思う。どんな意味がこもっているのか自分でさえわからないため息がでる。

 

「だよねえ、わかるよ。こんなきれいな哀しい曲が最後のひとつ前ってのが、またね」

 

「ちなみにりあむさんはどの曲が?」

 

「ぼくはその次の大トリのほうかな、カカオバター。情は簡単には断ち切れないっていうかさ」

 

 ああ、なるほど。りあむさんならそういう曲のほうが好みかもしれない。調子はわりとポップな感じだけど、よく聴くと意外とすごい歌詞だから。

 

 手に返ってくるはずの感触も音もないことが、いつの間にか氷が溶けていたことを知らせてくれた。容器の中の飲み物は透明な層と色のついた層とに分離しているだろうか。ストローで混ぜるようなこともなかったからたぶんそうなっていると思う。透明なコップだったらいいのに、とあてもなく思う。層の分かれた液体が私はなんとなく好きなのだ。

 きっとオレンジジュースは今日みたいな白黒の世界で鮮やかに映えることだろう。

 

 

 

 

 

 




のんびり投稿していく方針に変更しました


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11

 

「え"っ、ヒナ先も泰葉ちゃんと友達なの」

 

 トドみたいにだるだるした姿勢で、何も気を遣ってないダミダミのダミ声でぼくはアホみたいな文句をつける。尊厳が傷つけられたのでりあむちゃん内閣は遺憾の意を表明しまーす。この場合は誰に表明すればいいんだろ、海ちゃんでいい?

 

「いやいやアタシからしたらりあむちゃんが泰葉ちゃんと知り合いなことにビックリっス」

 

「ぼぼぼぼくだって友達増やすくらい余裕なんですけど? ど?」

 

 やめろい、そこで海ちゃんに視線を飛ばすんじゃないやい。ほーら頷いた。不思議だよね、ってアイコンタクトだけで理解し合うなよ本人が目の前にいるんだぞ。つーかぼくにもわかるんだからいっそ声に出してよう。変に気を遣われてる感じでやみそうじゃんか。

 や、まあでも二人の言いたいこともわかるよ。なにせぼくだもん。ガチで友達できないウーマンだもんな。同じクソデカ事務所に所属してるっていうのはあるけど、デカすぎて逆にセクション制が敷かれちゃってるから接点がむしろできにくくて、それで誰とでも仲良くってわけにはいかないんだよなあ、憧れるけど。あと対人戦カスのぼくだと余計にそうだよね。そう考えると泰葉ちゃんなんてぼくからすれば完全に外側の子だから、二人のリアクションはまあ正当。悔しいけど。

 

「でも実際不思議かなとは思うよ、比奈さんは岡崎さんとセクション同じだからわかるけどさ」

 

「んとね、レッスンルームが同じ日があったの。なんかあっちに事情があったらしくて。それで」

 

「ふーん、でも大したもんだな。そこから仲良くなれたんだし」

 

 はー、海ちゃんってば人褒めるの軽率すぎない?? 好きになりそうなんだけど。

 

「ぼくにそんな度胸あるわけないでしょ。なんか向こうが興味持ってくれてたの」

 

「あー、アタシらんところでもウワサ流れてまスからね、りあむちゃん」

 

「ぼく何も悪いことしてないよね? ちょっとやべー髪の色してるけど」

 

「無茶苦茶デビュー早いのとライブが特殊だからだろうね、あのボール投げるやつ」

 

 そういやこないだあのボール持ってきたら海ちゃん死ぬほどウケてたな。実物見た途端におなか抱えちゃってさ。いま “これがアツいクン” の隣に飾られてる。まさかのちっちゃい座布団付き。聞くところによると毎日ホコリ払ってもらってるんだって。ぼくより大事にされてないかこいつ。

 ていうかやっぱあれホントに話題になっちゃうやつなんだ。たしかに限界アイドルオタクだったぼくですら聞いたことないようなパフォーマンスなんだけどさ。ごろごろ転がるぼく。つか考えてみたらぼく以外の子がどんなスパンでデビューしてるのか知らないんだよな。え、もしかしてPサマってスーパー剛腕だったりする?

 

「ウワサの力えぐくない? あれ、ちょっと待って冷静になったら泰葉ちゃんがぼくに興味持ってくれてるのめっちゃおかしいことに思えてきたんだけど」

 

「……あー、いや、泰葉ちゃんって偏見ないっスから」

 

 どーいう意味じゃい。

 なんでか困惑げな感じでヒナ先が笑ってる。でも言われてみればヒナ先の属性に対応できてるしそんな結論が出るのもおかしくないか。だって鑑賞する側じゃなくて生産する側のオタクだもんなこの人。そんなヒナ先と仲良くやれるってんなら本当に泰葉ちゃんは偏見ないのかもしれん。いやオタクでありながら良いものは外の人にも当たり前に勧めていける精神力の持ち主だからヒナ先も完全に陰の者ってわけじゃないんだけどね。

 ん? あれあれ、待てよ待てよ? ということはつまり、海ちゃんとヒナ先除けばぼくには泰葉ちゃんしか友達できない論理が成立してしまう……? 死ぬのでは……?

 

「とはいえお知り合いの話でいけばやっぱ鷺沢さんがぶっちぎりな感じしまスけどね」

 

「同議に一票」

 

「それはPサマに聞いてってば。ホントだったら文香ちゃんとぼくの関係、っていうかいっそヒナ先もうみんちゅもステージの上と下でしか会えないはずなんだからね?」

 

「ま、出会う機会って意味ならアタシらも同レベルだとは思いまスよ」

 

「どーいうこと?」

 

「鷺沢さんもりあむちゃんといっしょでプロデューサーさんが独立してるんスよね。もっと言えばセクションにも所属してないもんだからさらにレアモノっス」

 

 マジか。えっ、ぼくって単独で担当されてたの。Pサマそんなこと一言も言ってないんだけど。仕事抱えてそうな割に事務所で他のアイドルに妙に出会わないなと思ってたけどそういうことか。え? あっ、もしかしてPサマ偉いとか?? ……ぼくそんな人に首根っこ掴まれてんの?

 ぼくがそんな感じでちょっとのあいだ固まってたら海ちゃんとヒナ先は別の話に移ってて、いやまあさっきの話に付随したやつだからそんなに置いてかれてはないんだけどさ。

 

「あ、そうそう。文香ちゃんつながりでヒナ先にいっこ聞きたいことあるんだけど」

 

「なんスか?」

 

「ぼく小説書くでしょ?」

 

「はい」

 

「どんぐらいで書けるもんなの、小説。一か月くらい?」

 

 あっ、やべえ目した。これすげえやつだ。海ちゃんが内緒って言ってこの目をした画像こっそり見せてくれたのとおんなじ目してる。ぼくと知り合う前に撮ったって言ってたやつ。伝統の夏のお祭りに参加するために命を削ってたっていうときの。え、つまりこれ地雷?

 

「いやいやいやいや! ほら、ヒナ先マンガ描くじゃん!? だから、ね!? 前ほら、マンガ描くのすげー大変って言ってたし、じゃあ小説ならそれよりマシかなって、ね!?」

 

 うわあ、目がもう一段階淀んだ……。こんなん間違いないじゃん、地雷の上でマリオもびっくり大ジャンプじゃん……。もう、すごいなこれ、目がダメだこいつって言ってるよ。あー……、あ! いま! いま言ったねえ! 小声でダメだこいつ、って言ったねえいま!

 そんなか!? ぼくそんなやべえこと言った!??

 

「あのね、あのねりあむちゃん」

 

「なありあむ、これガチっぽいから覚悟しとけよ」

 

「ひえっ、これやむやつ?」

 

「仮に缶詰めだとしても一か月でゼロから小説を完成させられるなら、それは人間じゃないっス」

 

「えっえっえっ」

 

「小説って、まあ、甘く見ておよそ10万字は要るんスよね。本にするってなると」

 

 待って待って文字の数とかってあんの。10万ってなに。数えたことない。創作畑の人間じゃないとガチで出てこない発言引いちゃった気がする。オーラやばいって。ちょっと待ってなんか口から紫色の煙出てない? 幻覚?

 

「あ、あの、それはどういう……」

 

「わかりやすくいきましょう。お休みなしと仮定して十日で3万字以上」

 

「一か月を三つに割って、あ、はい、ソウデスネ」

 

「もちろん自分が妥協できるラインまで仕上げる必要があるんで、見直し書き直しの日程も準備しましょうか。一発で文句なくやれるなら……」

 

 ヒナ先がちらっとぼくを見る。おいちょっとS入ってないかこの人。

 

「いえ無理です」

 

「さてそもそもの話っスけど、ストーリーラインは完成して……?」

 

「あ、いえ、その」

 

 ゲロ出るって、これゲロ出る。別に声張ってないのに変な圧あるよ。何これ、本気も本気の超特大地雷踏み抜いたの? あ、やばい、ちょっと喉すっぱくなってきた。

 

「じゃあその時間も取らないとっスね。そうすると……」

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! もう本当にぼくが悪かったから許して!! 嫌いにならないで!! あといったんトイレ行かせて!!」

 

 

 

 

 洗面台で顔を洗ってタオルでやさしく拭く。ぼくより年下なのに家事の超上級者たる海ちゃんの家のタオルは極上の一品で、世界中がこのやわらかさでできてたらいいなと思いたくなるほどのものなのだ。さては柔軟剤使ったな、と思ってぼくも柔軟剤使ってみたけどここまでのものにはならなかった。なんか秘密でもあんのかこれ。

 ……こうやってぼくが現実逃避してるのはまだ激ギレ状態だろうヒナ先があっちにいるからで、そりゃ逃避先から爆心地に戻りたいかって聞かれたら戻りたくないわけで。お家の構造的に洗面所出たら海ちゃんとヒナ先いるから逃げ場はないんだけどね、はあ、やむ。

 つかヒナ先の言ってることって実際正しいんだよな? するとお話書くのってものすごく時間かかるってことだ。Pサマってどんなスケジュール組むつもりなんだろう。けっこうな長丁場は間違いないとして……、ははあ、なるほどなるほどそういうことか。地固め。うわ、考えてそう。成功のラインも失敗のラインもってことだ。やらしいっていうか、まあお仕事的には優秀なんだろうけど。

 

「実際さ、お話なんて何から考えればいいの?」

 

「んー、乱暴な言い方で申し訳ないんスけど、書きたいもの。これに尽きるっス」

 

「ヒナ先の場合聞きたいんだけど、たとえばでいいからさ」

 

「書きたいキャラがいるとか、書きたいシチュがあるみたいな軽い動機っスかねえ」

 

 打てば響くように答えが返ってくるくらいには身体化されてるんだなって感心する。ぼくっぽく変換するなら曲が聞こえたらすぐオタ芸打てるようなもんなのかな。なんか違う気もする。あー、でも動機の重さの話って品物として外に出すときのメンタリティとそれ以外のときのメンタリティでまた別なのか?

 

「これ伝わるかどうかかなり怪しいんスけど、表現したい内容に沿ったほうがストーリーラインって仕上がりやすいと思うんで、それが重いっていうか絞られたものであればあるほど採れる択って限定されてくると思うんスよね」

 

「うう、わがんねでげす」

 

「アタシ個人としては、りあむちゃんは何を表現したいのかを考えたらいいんじゃないかって」

 

 くっそいい人すぎて泣きそうになる。激ギレさせちゃったと思ったらきちんとアドバイスくれるとか聖人かよ。思わず鼻かんで麦茶を一気飲みしちゃった。ふと見てみたらヒナ先はもうしれっとしてて、本当にマジでまあまあ地雷だったとは思うけど、矛を収めてくれたんだね。人間出来過ぎだろ。ぼくが地雷踏まれたらキレ散らかしたり……、はできないけど泣きわめきながらその場から脱走くらいのことはしそうだし。

 空っぽになったおしゃれなガラスのコップにすっと麦茶が注がれて、ぼくは左目でしかできないウインクを海ちゃんにキメた。

 

「ぶっちゃけふたりのこと書きたいよぼく」

 

「思うのはいいけどそれ絶対意図されてることから外れてるだろ」

 

「まあ要求されてるのってりあむちゃんにしか書けないものっスよねえ」

 

 言いたいことはわかるよ、でもそんなのぱっと出てくるわけない。だってぼくだぜ?

 ぼくが考えてることなんてお見通しみたいで、急かすようなことはどっちも言わなかった。これでぼくのやんなきゃいけない作業がひとつ増えた。表現したいこと探し。なんだそれ。

 

 

 



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12

 

 今日は妙に喉の渇く日だった。そんなのがレッスンが始まると同時に解消されるなんてことはなくて、スポーツドリンクの消費ペースはもちろん早かった。一連の行程が終わるよりもっと前にペットボトルは空になっていた。たしかに我慢できないってほどではなかったけれど、なかなかの強度の運動のあとで喉も渇いているのにわざわざ我慢する意味も必要もない。幸いこの大きな事務所には意外なところにも自販機が設置されている。

 さて、どうしようか。私の指は目線よりも上にいったかと思えば一度引っ込んでゆらゆらと迷子になる。正直に言って、候補のうちにあるのはどれもいいものだ。どれでもいいのではなく。それぞれのいいところが私の中でケンカして、そのことが私の決断を鈍らせているのが現状ということだ。だって周りに誰もいない自販機の前なんていう環境で思い切り悩むことができるのなら、それくらいの贅沢はいいじゃない。

 素直にスポーツドリンクもいい。ここに置いてあるリンゴジュースはさらっとしているからそういうのも悪くない。いっそのことミルクティーで気分を完全に切り替えちゃってもいい。シンプルに水だって捨てがたい。うーん。

 

「ここはピーチソーダなんていかがでしょう? カワイイですよ?」

 

「わっ!」

 

 咄嗟に声のしたほうへ振り向くと、思っていたより近くに見たことのある横顔がそこにあった。いや、見たことがあるどころの騒ぎじゃない。ふつうにテレビを観る生活をしていれば見かけない日のほうが少ない気がするくらいだ。特徴的でありながら浮いたり周囲の邪魔をしない外見は、なんというか、特別製だ。

 

「これは失礼しました。そこまで集中して悩んでいらっしゃるとは思わなかったもので」

 

 これがたとえば他の誰かの発言だったとしたならきっと多少の嫌味が混じっているように感じられたに違いない。けれど彼女だけは例外。そのませた部分を含めてみんなが好意かそれに近い感情を抱くのだ。

 自分自身にもそんな心の動きがあることに感心して、一拍置く。思いもしなかったけれど、言われてみればたしかに声をかけられるまで気付かないほどに集中していたらしい。自販機の前で何を飲むかを選ぶだけのことに? なんともくだらなくてやさぐれた笑いが出そうになる。まあ、いまここでは適切じゃないからそんなことはしないけど。

 

「ええと、輿水幸子さんですよね?」

 

「はい!」

 

「どうしてこんな外れというか目立たない自販機に?」

 

「実はさっきも言ったピーチソーダがここにしかないんですよ、たまに飲みたくなるんですけど」

 

 意外といえば意外。そんなものかなといえばそんなものかな、という感じ。この業界の性質上、名を馳せたり上へ行けば行くほど妙なこだわりを持っていたりなかなか珍しい趣味を持っていたりする人の割合は高くなる。なぜならテレビの向こうから見ての “フツウ” は人々の記憶に残らないからだ。たとえば極端な話、学校の友達と話しているほうが面白いのなら娯楽としてのテレビもネットも必要がなくなったっておかしくない。

 十四歳の平均身長を大きく下回っている彼女が腕組みから片手をあごにあてて自販機をじっと見つめている。ピーチソーダを買うつもりだった彼女は他に何が売られているのかを確認しているのだろう。私が自販機の前で突っ立っていたせいかもしれない。その姿はサマになっているというよりは、彼女の雰囲気がそれをいわゆる “カワイイ” ものに仕立てている。

 

「ちなみに岡崎さんはどれでお悩みになっていたのでしょう?」

 

「あ、その、それほど絞ってさえなく……」

 

 ……ん?

 

「なるほど、岡崎さんがここへいらしてからそれほど経ってなかったわけですね」

 

「あの……、どうして私の名前を?」

 

 自販機から私のほうへ視線を移してきょとんとした表情を浮かべている。どこに疑問をもって尋ねられているのかわからないと思っていることがありありと伝わってくる。いっそ本当に私が筋違いな質問をしているかのような気分さえしてくるのだから大したものだ。

 

「同じ事務所じゃないですか」

 

「え、あ、そうですか」

 

 そういうことじゃないけどつっかかってしまえば面倒なことになりそうな気がした。とりあえず私は自販機を彼女に譲った。何を飲むかを決めていないのは本当だったから。

 ちいさな彼女は缶を傾けながら、こういうこっそりやるワルがたまりませんね、とにこにこしながら得意そうに話した。正直言ってどこがワルなのかわかったものじゃない。まさかジュースを飲むことすら禁じられているわけでもあるまいに。どこか間の抜けたようにさえ思える所作も彼女にかかればチャーミングに変わるんだからため息が出そうになる。天性天賦とはこのことを指すのだろうか。

 結局私はスポーツドリンクを飲むことに決めてお金を入れた。気を抜いていたら驚いてしまうほど冷えた缶はほどなくして汗をかき始めた。彼女はまだ私のそばにいてピーチソーダを楽しむように味わっている。同世代に比べてひときわ体格の小さい彼女は飲むペースも遅いのかもしれない。……まあ、自分も人のことを言えた義理じゃないけれど。

 そこにあったのは私のこれまでの生涯のなかでもかなり奇妙な時間だった。世界のすみっこみたいな場所で、あの輿水幸子とふたりでただアルミ缶を傾けている。きっと人に言ったって信じてもらえない。

 

 お互いに喉を潤しながらあまり記憶に残らない世間話をして十分ちかくが経過した。急いで飲む必要はなかったし、どころかそんなことをすれば失礼にだってなりかねない。それまでの会話でひとつだけ覚えているのは、彼女は炭酸がそれほど得意ではないということだった。だからピーチソーダはたまに飲むのがいいのだと言う。なるほど人の好みは様々だ。よくわからない。

 近くのごみ箱に缶を捨ててカバンを背負い直そうとしたところでもう一度声をかけられた。多くの学生が、いまやもう学生に限らない気もするけど、そうするようにスマホを出して指を滑らせている。そうして彼女はすいと手の中のものを私のほうへ差し出した。

 

「せっかくですし連絡先の交換はいかがでしょう?」

 

 

 一日を挟んでスマホに通知が来ていることに気が付いた。私は一時間に何度もスマホを見るようなタイプではないから、というよりはそういうものに縛られるのが好きではないから即座に反応をすることはそうそうない。例外を挙げるなら家にいて手を伸ばせば届く距離に置いてあるときくらいだろうか。スマホにタッチして確かめてみると連絡があってから優に三時間が経っていた。ついでにバッテリーの残りが50%になっていた。

 仕事の連絡だろうか。りあむさんだろうか。機械的とも言っていいくらいにそんなことを思い浮かべてアプリを起動すると、ついおとといに登録したばかりのあまり見慣れないアイコンにマークがついている。自分のことを卑下するわけじゃないけど、まさか、というのが正直な感想だった。社交辞令でも儀礼的な対応でもなかったということだ。あの輿水幸子が? 同じ事務所に所属していながら “幸子ちゃん” ではなく “輿水幸子” として客体化してしまう存在。間違っても身近なんて言えない。私の位置からすればむしろファンたちよりも彼女を遠くに感じるほどだ。それは畏怖に近い感情。私は彼女の積み重ねた実績のような外面しか知らないけれど、その意味するところはわかるのだ。

 とはいえ彼女からの連絡は動かせない事実なので、とりあえず内容を見てみることにした。そこには彼女が出演する番組の見学へのお誘いがあった。それと可愛いスタンプだ。はて、と私は首をかしげる。まったく理由が思いつかない。百歩ゆずって連絡先の交換はまだわかるにしてもそんなお誘いは義理とかそういったものをはるかに超えている。恥を承知で言ってしまえば、私に興味を持っているとしか思えない。

 

 この種のアプリのいいところは、ある程度まではすぐに返事がなくてもおかしくないと暗黙のうちに誰もが理解しているところだ。つまりこうして頭を冷やすために洗い物をして時間を稼ぐことが許される。……まあ、正直言って断る理由はない、と思う。業界トップの現場を直に見学できることの価値がわからないほど経験が浅いわけじゃないし。というか仮にほかの用事があってもよほどでなければ見学を優先するべきだと思う。はあ、ロジカルシンキングは優柔不断をやっつけるのに本当に役に立つなあ。

 

 文面を確認して返信する。      “ご迷惑でなければ、よろしくお願いします”

 私に対する返事は意外に早かった。  “モチロンです!”

 ……私もスタンプ増やそうかな。

 

 

 意外なほど近くに設定された見学の日は、当然ながらすぐにやってきた。週をまたいでさえいなかったから急いで差し入れを探しに行かなければならなかったほどだ。たぶん私からの差し入れが求められることはないだろうけれど、それがなければ輿水幸子の名前に、ひいては事務所の看板に泥を塗ることになるかもしれない。子役をやっていたころの経験から学んだことがいくつかある。そのうちのひとつが芸能界では面子なるものをまるでご本尊のように扱っているということだ。建前として互いに尊重して、攻撃されれば本当に傷を負わされたかのごとく真剣に怒る。実体なんてありはしないのに。バカみたい。

 それらの荷物を準備して、私は事務所に向かうことにした。まさか私がテレビ局に向かってそのまま通されるわけもなく、私たちは事務所から車で送ってもらうことになっていた。約束の時間の十五分前にエントランスの隅に陣取って待っていると、それほど待たずに彼女が姿を見せた。

 

「すみません、お待たせしてしまいましたね」

 

「いえ、それほどは。それに誘っていただいた私が待つのは筋ですし」

 

「……もしかして岡崎さんのその義理堅い感じは素だったり?」

 

 言うほど義理堅くないですよ、と否定をしたけれど、どうも私に対する違和感はぬぐい切れていないらしい。隠そうともしていない表情を見れば誰だってわかる。そんなにおかしな振る舞いだろうか。実力社会のこの芸能界で輿水幸子という存在は確実に目上にあたるのだから当然のような気がするのだけど。

 まじまじと私の顔を見つめていた視線が下にさがって、今度はその表情がなんとも渋いものに変わった。

 

「それ、まさかご自分で?」

 

「え、はい」

 

「もう完全に大人の、それも真面目に育った真人間の渡世じゃないですか。恋人のご実家に挨拶にでも向かうんですか、まったく……」

 

 彼女は自分の持っている紙袋を指さして、こういうのは事務所で用意してもらえるんですよ、と教えてくれた。なるほど、考えてみればこれ以上の解決策はないかもしれない。受け取る側だって私個人が選んだものより事務所の太鼓判が押してあるほうが安心に決まってる。

 でも彼女は私の差し入れを自然に受け取った。なんというか、ふと気づくとその小さな手に渡っていた感じだった。本当なら番組スタッフに渡すべきところのものなのに。ただどこか満足そうなところを見ると岡崎泰葉チョイスも採用ということなのだろうか。それは認められたような気がしてうれしいけれど、先の話を聞いていると照れくさくもある。なんとも人の喜ばせ方を知っていることだ。テクニカル。

 

 車の後部座席なんて二人が座った程度では、それも私たちのちいさい体格だと余計にスペースが空いている。荷物を座席に置いたって何にも困らないくらい。芸能人を乗せるなら普通は窓をしっかり閉めるんだろうと思うけど、どうしてか彼女は前の窓を開けるよう指示を出した。まあ隣を走る車の中をまじまじと覗く人もそういないか。

 

「さて、ここ最近でなにかつらいことか悲しいことがあったんですね? ああ、そのままで。きっと話したいことではないでしょうし」

 

 車が動き出すとそれを待っていたと言わんばかりにすぐ彼女は口を開いた。目線はまっすぐ前のままの落ち着いた表情をしている。でもそれは同時にお茶の間の人気者なのにも違いなかった。そこに私はうまく言葉にすることができないねじれのようなものを感じたけれど、それはただの思い違いなのだろうか。ついついそれが気になって彼女のほうを見てしまう。近くでまじまじと眺めてみると彼女はつるりとした陶器のような肌をしていた。ここまで来ると現実感がこの場から奪い去られているような気さえしてくる。

 どうしてだろう?

 

「こういう世界にいますからね、人格的な雰囲気と感情的なそれの見分けがつくようになるんです。このあいだお会いしたときはたまたまそういう気分だったのかなとも思ったんですが、今日も変わらないならまあそういうことなんでしょう」

 

 たしかにその通りだ。車内の空間で静かに踊るその言葉に間違いはひとつもない。けれどそれはどう考えたって単純には呑み込めない。たとえば大工を仕事にしている人が一見どこにも問題のない高層マンションに一日や二日住んだからといってその建造物の全体のバランスの異変や基礎地盤について完全に理解できるだろうか。できるわけがない、と私は思う。その道のプロを下に見るなんて意味ではなくて、原理的に不可能であるはずだ。言い方が違うかもしれない。不可能であるべきなのだ。

 ここで私に言えることなんて何もなかった。現場に向かう輿水幸子に個人的に過ぎる話をする? まさか。否定も状況に即してない。開いた前の窓から吹き込んでくる風音を聞いているのが精いっぱいだ。

 

「でも岡崎さん、それは隠しましょう。ボクたちはアイドルです」

 

「え?」

 

「言葉のままですよ。ボクたちにそんな雰囲気は、もっと言えばそんな感情は要りません。そしてあなたにはそれができる。すくなくともボクはそう思っています」

 

 喉から出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。目の前にいる先輩はまだたったの十四歳でしかないのに、どんな過程を踏めばこの思考に至るというのだろう。

 だから、と言葉を区切って私に向けた最上級の笑顔は、私には違った意味をもって届いた。

 

「だから、明るくいきましょう。みんながためらいなく憧れることのできるように」

 

 

 

 

 下世話かもしれないけれど、共演者へのあいさつに同行させてもらってわずかなりとも顔を売ることができた。どこからチャンスが降ってくるかわからない世界だからこれはとても大切なことだ。おそらく大半は私の名前も顔も覚えていないだろうけど。

 それに引き換え彼女のあいさつはすごかった。というか見方によっては輿水幸子についていったから覚えてもらえないと言ってもおかしくないほど、……さすがに失礼か。でもドアノックの第一声からみんなが求めている輿水幸子だった。楽屋を訪ねてあいさつをするのに “お待たせしました、ボクですよ!” なんて言える人間を私は彼女以外に思いつけない。そして誰もがそれを温かく受け入れる。彼女が礼儀正しい人物であることを理解しているからだ。

 印象の力。いや、実際にそうなのだから積み重ねてきたものだ。

 スタジオの照明の下で輿水幸子は光り輝いていた。ほかにも出演者がいるのに彼女だけがくっきりと浮かび上がる。そこにあるすべての視線は彼女のほうを向くためにあった。いつも視界の邪魔をする空中に舞っているはずのチリさえ意識に上ってこなかった。そうかと思えば共演者を立たせるために存在感を抑えているシーンもあった。当たり前だけどそんなものの出し入れが簡単なわけがない。そんなの映画の撮影現場でだって数えるほどしか見たことがない。その技術が高等なのは自分の線を明瞭に残したまま、という点にある。これは実際に、そして意識して見ないとわからない。もちろん私には何をどうすればそんなものが成立するかなんて見当もつかない。

 技術的な話を横に置いての感想なら、彼女は求められているものを完璧に出力していたように私は思う。番組サイドが求めているものもそうだし、視聴者サイドが求めているものについても同じように。彼女が私を現場に誘った理由はまだわからないけれど、それでもそこには想像していた以上の価値があった。私は知らず知らずのうちに手をかたく握っていた。でも途中でそこにいるのが十四歳の少女なのだと思うと、なんだかそれが不思議なことに思えてきた。言葉にすれば、それは細部まで鮮やかにナチュラルな幻想だった。

 

 収録が終わってから家につくまでの過程をあまり覚えていないことに私は自分で納得していた。映画の撮影現場とは違うという意味で興奮していたのもあると思う。でも一番大きいのはやっぱり輿水幸子を直に見られたことだ。ただそれで生まれたのはシンプルな感情じゃない。もちろん憧れもある。その一方で恐怖のようなものもある。完璧というものを目の当たりにしてまっすぐそれに向かっていけるなら、それは一種の天才だと思う。そして私はそうじゃないのだ。

 温かいお茶を淹れて一息をつく。現実なのにどこかふわふわしている。テレビをつけて気を紛らわそうとするとテーブルの上のスマホが短く震えた。この具合だとLINEに通知が来たのかもしれない。ビンゴだ。そこには言い忘れてましたが、と前置きがあった。

 

 どういうことだろう?  “鷺沢文香さんには気を付けてくださいね”

 

 画面から目を引きはがすのにかなり時間がかかり、もう一度飲もうとするころにはお茶はすっかり冷めてしまっていた。

 

 

 

 



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13

 

 好きなものばっかりだし嫌いなものだらけ。世界には対象が多すぎるよ。

 いやね、ぼくも考えたわけさ。書きたいものっていったい何なんだろうって。そしたらまあ好きなものか嫌いなものがヒントになりそうだなってことくらいにはたどり着いてさ、それから指折り数えてみたらこのザマって感じ。え、ここからピックすんの無理でしょ。まさにPサマの言ってたとおり。ぼくはまだ全然書く段階になんか至ってないってコト。うう~、作品完成させてる人たちヤバない? 小説家って頭おかしいでしょ。いや小説家だけに限らないか?

 ちぎったノートを丸めて投げたらきれいにゴミ箱に入ってやんの。そこは外れて、なんもうまくいかん、やむ! ってなるとこでしょ普通。

 おなか減ったからカップ麺食べようかな。でもバレたらレッスンルームで殺されそうだな。

 

 

「以前にお話しした暴力について、なのですが」

 

「あ、ぼく覚えてるよ。一方的に与えられる避けようのないもの、だよね?」

 

「はい、その通りです」

 

 文香ちゃんはぼくのほうを見たままうなずくことなく返す。だから髪はちっとも揺れたりしない。そのはずなのに艶めきでキラリと光ったようにぼくは錯覚した。文香ちゃんと話してるとこんなことがわりとよく起こる。まあぼくのはガチのピンクでインナーが水色だから艶とかまったく関係なくて、そのせいでむちゃくちゃ綺麗な黒髪を特別視しちゃってるのかもしれん。文香ちゃんの天使の輪ならそのうち本当に宙に浮く日も来るかもしれんな、がはは。

 

「では今日はそれをもう少し考えてみましょうか」

 

「え、でもあれってたとえば印象の話でそれ以上進まなくない?」

 

 ぼくの目に映っているのは優しく微笑んでる信じがたいレベルの美人さんで、なんだかよくわからないけどぼくの喉の奥はきゅうっと絞られたような感じがした。それの意味なんてなんでもいいや、って言っちゃいたくなるような現実的で個人的な微笑みだった。男だったら六秒で落ちるね、脳が停止状態から復帰するまでの時間含めて。

 ところでぼくは話題に出た暴力について一人で考えてみたことがあった。すごくないか、超成長してんじゃん、ぼく。だから文香ちゃんに言う前に頭の中でさっとおさらいもできた。誰かに対して一方的に与える印象って、要するに人間であれば全員が直面してる問題なんだよ。送り手としても受け手としてもね。だから世界中に好きと嫌いがあふれて戦争がなくならないんだね、ひゅー、りあむちゃんったら哲学してんねえ! ただ意外とりあむちゃんの憂いもバカにできないんだよね、これ。もちろん意識に上がってこない好きでも嫌いでもないものだってたくさんあるよ。エチオピア国旗とか人工衛星とか強化ガラス保護フィルムとか。ただそれにしたって、って話で、これ以上アタマひねったってどうにもならなそうだからやめたの。

 

「物語を書く、という行為はある意味では加害者になることでもあります」

 

「ん? んん?」

 

「作者はその作品において自由でなければなりません。あらゆる観点において、です」

 

「え、うん、まあお話書く人なんだからそうなんじゃないの?」

 

「はい。嵐も起こせます。人の精神構造を決定することができます。偶然から運命の出会いをさせることもできます。幸福の絶頂で絶望を叩き込むことができます。そしてそのうえで最後に笑ってもらうことも」

 

「うぅ、言葉にして並べられるとなんかキツくないすか」

 

「ですがそれらすべては実行される必要があります。書かれるべきもののために」

 

「あー、加害者ってそういう……、あー」

 

「表現における自由とは悪意さえ否定はしません。奇妙に聞こえるかもしれませんが、あちら側の世界に対して良心の呵責のようなものに苛まれる必要はありません。物語を書くだけならば」

 

 うつむくと同時に髪をかき上げるしぐさがきれい。日本中のオタクどもの幻想が結実したんじゃないかって思っちゃう。でも文香ちゃんはしっかり呼吸をして、皮膚の下には血が流れてる。もう何度もこうやってお話してるからね、感情が動いてることもわかるんだ。……その中身がわからんとしてもね。

 

「え、じゃあ思ったより気楽に書いていいってこと?」

 

 文香ちゃんは横に首を振った。

 

「単に物語を完結させるだけならばそれで構わないのは確かです。目を閉じてしまうか、あるいは仮面をかぶってしまえばいい。そうすればそこに責任は発生しません」

 

「責任?」

 

 ほとんど前髪に隠れて見えないはずの青い瞳が覗いた気がした。いまぼくの気分は東京のど真ん中のでっかいオフィスビルの一室にいるものとは似ても似つかない。それはたとえばとてもとても高い塔の上から、もしくは死ぬほど深い谷の淵で下をのぞき込んでいるような感じ。体内にないはずの架空のパーツがひゅっと縮こまるような冷ややかな気分。あと一歩でぼくはアウト。でもその一歩はきっとマスト。韻を踏んでる場合かよ。

 

「物語の完結と完成のあいだには明確な違いがあり、そこに責任が関わってくるのです。あくまで私の考えでは、ということですが」

 

 このノートの走り書きどもを見て家に帰ったあとのぼくは内容を理解できるのか? これまでにないやべー量の情報が複雑なかたちをとって襲ってくる。完結と完成は同一じゃないの?

 

「いやいやさすがにそれはよくわからないよ文香ちゃん」

 

「りあむさんが要求されているのは何かを伝えるためのものです。心に響くものです」

 

「ってことは、ちょっ、ちょっと待って。え、責任ってことはぼくやっぱ何かすんの?」

 

 今度は縦にうなずく。

 

「先ほどの話ともつながりますが、物語が完成されるためには私たちの生きているこの現実と創作されたあちらの世界とが結び合わされなければなりません」

 

 思考回路はショート寸前だよもう。でもここは粘らないとダメなとこなんだってあまり信頼できないぼくの勘が絶叫してる。だってこうやって話してくれるのは文香ちゃんが必要だって思ってるってことだから。あとぼくが理解できるって期待してくれてるってことだから。

 にしてもどゆこと? そのまま理解したら小説と現実は()()()()()()()()()()()? それこそファンタジーなんじゃない?

 仮にそうだとして、さすがに物理的な話……、なわけないよな。じゃあすくなくとも物理的じゃない領域での話なわけだ。いやいやだとしてもだよ。

 

「ぐ、具体的にはどうすればいいのかなー、ってりあむちゃんは気になってしまったり?」

 

「それはまたにしましょう。あまり一度に詰めすぎるのもよくありませんし」

 

 そう言って文香ちゃんは紙パックにさしたストローからアイスティーを飲んだ。何度見ても似合わないってどうしても思っちゃうのはファン心理として扱っていいのかこれ。いや飲むんだったらティーカップでしょ、ってなる。それもティファニーとかそういうので。ぼくにはないやつ。

 

 

「そりゃ観念的な話だろ? そーゆーのをウチに持ってくんじゃないっての」

 

 新聞のテレビ欄を見ながらの海ちゃんの返しはものすごく安心する。これこそが現実でホームなわけよ。さっきただいま、っつって入ってきたときもあんたの実家じゃないよ、って欲しいツッコミくれたしね。逆にこれもう実家判定でいいでしょ。

 とはいえかまちょ星人のぼくがそれで黙るわけもなし。おそらく海ちゃんもそれは承知の上。攻め手を切らすわけがないんだよな。甘やかされて育ってんねえぼく!!

 

「はぁ~あ、乙女心をわかってないぜうみんちゅ」

 

「テーマ的にウチじゃないだろ、比奈さんがいるときにしな」

 

「違う違う違うよ、いまは共有したいんじゃなくてただ聞いてほしいの」

 

「うっわメンドくさ」

 

「お? なんだ? やむぞ?」

 

 はい最強の殺し文句。これさえあれば海ちゃんはぼくに甘くなるのだ、っておい。手でしっしってするんじゃないやい。あれ、ダメだったかこれ。三週間前には効いてなかったっけ??

 

「あ、そうだりあむ。夕飯の予定は?」

 

「とくに考えてないけど」

 

「今日カレー作ろうかと思ってるんだけど食べてく?」

 

「お、いいねいいね。うみんちゅカレー久しぶりだね」

 

「助かるよ、一人で作るとしばらくカレーになっちゃうからさ」

 

 おうちで作るとそうなっちゃうよね。夢見家もけっこう残ったよ。その気になったら三食連続でカレーとかできたもん。まあママ海外にいるから今はそんなんないけど。

 さすがに荷物くらいぼくも持つんだ。ごはん食べさせてもらえる身でそこまで調子こくわけにもいかんしな。いや事務所っつーか文香ちゃんの授業帰りでホントよかったよ。家から来てたらめちゃめちゃテキトーな部屋着のまんま、たぶんロンTいっちょに見えるやつだったろうし。それでスーパーとか行くとおばちゃんとかにやべー目で見られるんだよね。本当はホットパンツはいてんのにさ。

 横でするすると海ちゃんが着替えてる。この子は自分にどんな服が似合うかをきちんと理解してる。意外とこの能力は貴重なもので、有り体に言っちゃうと憧れみたいなものが阻害してることがよくあるんだよね。にしてもなんだこいつ脚なげーな、これぼくの知ってるスキニーのジーンズとおんなじものか?? ほとんどアイコンになってる長いポニーテールをほどいて下ろして、それでお尻のちょっと上あたりの毛先の手前ぐらいでゴムで留める。アイドル杉坂海しか知らん人間には絶対に見られない秘蔵のお姿です、ぐひひ。実際には専門学校のお友達さんも知ってるらしいのが悔しいよぼくは!!! まあそれくらいには普通に人気あるんだよな海ちゃん。情緒不安定か。

 

 いつもの駅前のスーパーはいつもどおりに盛況だった。ぼくがお買い物についてきて人が少なかったためしがないんだよなここ。広くてそのぶん品ぞろえも豊富だから当然なんだけど。時間によっちゃ制服姿の学生どももいたりする。お菓子が安いってよく知ってんねえ。

 

「なんかリクエストあるかー?」

 

「えっとね、えっとね、シーフードがいいな! エビ!」

 

「却下。それなら本格的なの食べたいし今度インドカレー屋で」

 

「希望のねじ伏せ方がうまくない? コソ練してる?」

 

 こんな感じでいろんな食材の棚のところを回る。ご相伴にあずかるのがぼくとヒナ先ならまあいいか、ってちょっとチャレンジ気味の隠し味とかも買ったりね。今日みたいに二人で買い物に出た日は残りの一人に隠し味クイズ出すんだ。まず当たんないけど。

 

「ね、うみんちゅ、お菓子買ってこ!」

 

「太るのが怖くないならいいよ」

 

「釘のさし方エグくない?」

 

 カートにこっそり乗っけるフリしてみたりね。

 あーくそ生きてんの楽しいなチクショウ。

 

 

 

 

 



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14

 

「何をお聞きになりたいのかわからないんですが」

 

 こう言いたくもなる。

 

 

 ユニット単位でのレッスンが初めて妙にうまくいったこのあいだのことを思い出してみる。もちろんその日は私に不思議な印象を残している。意識づけと言ってしまえばそれだけなのかもしれないけれど、本当にそのたったひとつのことで解決されるのかを確かめることは無駄にはならないはずだと思う。

 周りを見るようにしたのだ。ダンスも歌もコミュニケーションでさえも。まあ、気付かれない程度にだけど。私としてはそれが直接的で大きな原因だと思っている。もしそれ以外に理由があるとすれば何だろうか。単純にユニットとしての練度が上がったのかもしれない。仮にそうだとして、それでもまだなにかもうひとつありそうな気がしてもいる。その理由は、そのレッスン中の感触がどこか違っていたから。ちょっと自分自身が浮かんでいるというか、終わったあとにも軽い感じが残るというか。気持ちが浮ついていたことはないと思うけど、引っかかるものがある。

 つけるだけつけて音を絞ったテレビを視界の端に入れながら物思いにふける。当てのない思考は中心点を定めるのが難しい。だからこういうときはぼんやりと泡のような想念が浮かんでは消えるのをただ眺めていることになる。糸口になりそうなものがちらついたような気がしてそれを手繰ろうとしても、一秒前に何を考えていたのかがつかめなくて自分にうんざりする。

 

 いつの間にか夕方のニュースが流れている。気を抜くにしたってもう少しくらい塩梅があったろうに。洗濯物がたまっているだとか掃除が終わってないことはないとはいえ、もうちょっと時間の使い方を考えるべきだった。余裕のある身分でないのは重々承知しているはずなのに。

 倦厭の感情さえ伴ったため息を吐く。ついでに頭を振ってあらためて思い直す。家にいるあいだにできることなんかそれほど多くはないのだと。せいぜいがスマホに保存してある動画で振付の確認をするとか、柔軟体操をするとかそれくらいのことだ。

 どうしてこうも落ち着かないのか。単純だ。気が逸っているのだ。だって輿水幸子とはそういう事態なのだと叫びたくなる。彼女を見て心のどこかが焦ってしまって、そのことが危険な兆候だと自身を諫めれば今のようなことになる。誤解を恐れず彼女の意味をまとめるなら、中間点の存在を認めないということなんだと思う。

 

 冷蔵庫を開けて中身を確認する。どうやら買い物に出なくても夕食は作れそうだ。正直なところ作り始める時間としては早いけれど、余計なことに頭を悩ませているよりはよっぽどマシだ。こういうやる気が起きない日のためにレトルト食品は用意してあって、これまでにも何度も助けられている。企業努力とは油断ならないもので意外とどころか普通においしいから頼りになる。あとで温めなおして食べてもいいのだから恐れ入る。当たり前だけどレトルト食品はみんなのことを考えて作られているのだからもちろんみんなの味方に決まっている。そこでついそれなりに頑張って身につけた私の料理とは、と言いそうになるけど、さすがに私の悪いクセが過ぎるというものだろう。世の中すべてと自分を比べてたらすぐにすり切れてしまうなんてわかっているはずなのに。

 立ち上がるのにしっかり意識を回さないとならないほどに消耗している自分を見つけてもう一度げんなりする。大丈夫。ちょっと野菜を刻むくらいならしっかりできる。この脳のもやもやを追い払えるならその短い時間でさえ愛おしい。そうだ、これが終わったらお風呂に入ろう。きっとそれですっきりする。一区切りがつく。でもそんなに私の世界は私に甘くはなかった。スマホが電話の着信を知らせていた。

 

 

「なぜそんなに訝しげな顔をされているのでしょうか」

 

「そうは言いますけど、これほど疑問の尽きない事態もなかなかありませんよ」

 

 私の言葉が正しく伝わっているのか聞いてみたくなるくらいに文香さんはピュアに首を傾げている。きっとこれは演技じゃないだろう。思い当たる節がまったくなくて困ってさえいるときの表情だ。小学生が意図せず知るところでもなく誰かを傷つけて、それを理由に怒られているときのものと変わりない。

 

「あなたに呼び出されるとなれば書店か図書館が相場だと思ってましたから」

 

「まあ、イメージとしては間違っていないのでしょうけれど、内向的な傾向のある私とはいえ常にそういったところにしか出かけないというのはいささか極端では」

 

 その極端なところの突端に立っているのがあなたでしょうと言いたくなったけどそれは飲み込んで、とりあえず間違いのない正論だったのでそれについて謝った。怒っても仕方ない物言いだとは思うけど、その感情がまるで読み取れないのは性格によるものかただ表情に出さないだけなのか。

 周囲には家族連れ、カップル、学生グループあるいはおひとり様といった実に多様な人々があふれ、それらの人々が一様に楽しそうに入り口に向かっている。とくに私たちが立っている辺りで足を止める理由はまずなくて、道端とはいえ人の流れを阻害をしているという点では私と文香さんは明らかに邪魔だった。

 

「よく来られるんですか?」

 

「そうですね、来ているほうだと思います。気が向けばという感じですか」

 

 話をしながら視線をちょっとだけ私に向けてまた前に戻した。何度も思ったことではあるけど、この人にも生活があるのだと思うと不思議な感じがした。ゆっくり歩く足元に目をやるとヒールの低いブーツを履いていた。なんというか、文香さんの足元なんてものはほとんどイメージの外にあって、それが実在していることに驚いた。そしてそんなことに驚いた自身がどこまでも常識知らずに思えて凍りつきそうになる。まさか古典的幽霊のように浮いて移動するわけにもいくまい。自分の想像力の貧困さに呆れてしまう。ブーツくらい誰だって持ってるだろうに。

 

 外と比べて光量が一気に落ちて色調が暗色ベースに変わる。空調は効いているはずなのに、気温までもが違和感のある落ち方をしたような錯覚に陥る。圧力に耐えるように計算されているのだろう湾曲したガラスの向こうを様々な魚が泳いでいく。どれも暗闇から浮かび上がった水色に点在しているせいで色に大した違いはないように見える。違うのは大きさとか特徴的なかたちをした個体ぐらいだ。もちろんそれは水族館に入ったはじめの通路の光景だけど、それでも足を止める程度には圧倒されるものがある。慣れていないせいもあるのかもしれない。

 水族館という青い世界に誰もがくぎ付けにされていた。魚の説明を読んでいる人もいればただ単純にその姿を追いかけている人もいた。彼らは私たちとは行ける場所が違っているから、どれだけついていこうとしてもどこかで置いていかれてしまう。街を歩いているときには思いつきさえしないだろうけれど、私はあちらとこちらを分断するガラスに自然と触れていた。ひんやりとした手触りのイメージは私を裏切った。指先にあったのは温度感なんてもののない、ただ分厚いサランラップに触れたような感触だった。もちろんそれは私の中で楽しい気分に分類されはしない。無感動な受容だけがあった。

 底の岩肌にはイソギンチャクやサンゴが思い思いの場所に陣取っていて、まるで自由があるかと誤解してしまいそうになった。でもそれらの存在が画面としての美しさに一役買っていることは間違いのないところで、アクアリウムやらテラリウムやらが流行するのも理解できた。

 様々の方向に視線を飛ばしていると、進む先の上のあたりに非常口を示す電灯が目に入って、どうしてだろう、なぜだか私は急に腹が立った。法律の上で定められたものであって私の気分を害するものではないはずなのに。なんだか気持ちが悪いから落ち着いて自分の心を眺めてみると、そこには野暮という二文字が置いてあった。なるほど私の理性の外の部分もよく考えたものだ。だけどもちろんそれは言いがかりでしかなく、私はその感情を引っ込めた。

 

 

「私は施設としての水族館は好きですが、状況としては強い嫌悪を感じています」

 

 いきなりこう言われれば顔をしかめたくもなる。それも半ばほどまで進んだところにある飲み物や軽食が海の生き物を見ながら楽しめるスペースのテーブルでとなればなおさらだ。それこそ状況に即していない。そこはこれまで進んできた迫るような臨場感からは離れて、開放的な広さがある。自然と小声になるような雰囲気もない。だから周囲も気楽におしゃべりを楽しんでいて、とくに盗み聞きされるような心配はない。ないけれど当の場所で後半部分を言う必要はないんじゃないかと思ってしまう。この人にはこういう、配慮といえばいいのか、そういうものが欠けている節がある。

 

「どういう意味ですか?」

 

「……水族館を娯楽に言い換えれば伝わるかと」

 

 それだけ言うと文香さんはストローに口をつけた。おそらく本当に文脈が通ると思っているのだろう。とりあえず指示通りに置き換えてみたけれど、予想通り疑問は解けなかった。施設としての娯楽と、それを状況と捉えることのあいだに何があるのか。どこかわかりそうな気もする。いいや違う。たぶん定義づけから始めないと会話が成立しない類のことだ。おそらく水族館に関する話も本音だろうけど、大事なのはそれを比喩に使っているところにある。つまりこの場所に似た関係性や、あるいはそれこそ状況が存在するはずだ。とはいえそこまで思い至ったところでどうしようもない。私にはそれが言い当てられないのだ。

 水槽へ移していた視線を目の前へと戻すと、彼女はとりあえずといったふうに近くを泳ぐ魚を眺めていた。直前に言っていたことを疑いたくなるほど関心は薄そうだった。もし本を差し出したらわき目もふらずに食いつくかもしれない。

 

「すみません、私にはちょっと難しくて」

 

「……意外です」

 

「はあ、私が優秀だと思われているならそれは誤解ですよ」

 

「いえ、そういった意味合いではないのですが、……そうですか」

 

 かろうじて感じ取れる程度に声色が曇る。多分に推測を含むけれど、文香さんから見た私の像と私自身が認識している私の像にずれが生じているのだろう。いったい私が水族館を何に重ねていると思っているのだろうか。

 私も文香さんももともと口数が多いタイプではない。そんな二人の性質が連れてきたのは無言の時間だった。魚に見とれていた時間と違ってなんだか気まずい。だいたいが仲良く二人で出かけるといった間柄ではないはずなのに。目の前の原因は黙って思索にふけっているように見える。もうひとつの原因である私は、自由なことだと自分を棚に上げていた。

 

「そういえば不思議なのですが」

 

「どうしたんです?」

 

「泳いでいる途中で死んでしまった魚を私は見たことがありません」

 

 何を言っているのだろうとも思ったけれど、実際の体験として考えてみればたしかに私も見たことはない。寿命を迎えて力を失った魚は浮かぶのだろうか、それとも沈んでいくのだろうか。もしかして閉館時間を過ぎると一斉に死に始める? ……趣味が悪すぎる。

 そういう目で見てみると魚たちがどうしようもなく奇妙な存在に思えてきた。

 

「私も見たことないですね、偶然なんでしょうけど」

 

「偶然ではないとしたらどのような答えが出てくるのでしょう」

 

「……はは、魔法か何かじゃないですか」

 

「なるほど。そうかもしれません」

 

 彼女なりの冗談がわかりにくいのは彼女が表情を変えないからだ。それとイメージの問題。こちらがとくに反応を見せなくても意に介さないものだから判断に困ってしまう。これがりあむさんならリアクションしてよ、と大げさに騒ぐだろう。まあ比べたところで、という話だけど。

 

 

 出口のゲートを抜けた先には広いスペースをとっておみやげが売られていた。ちょっと買うのには引け目を感じるくらいの大きなぬいぐるみから割高に思えるクッキーまで様々だ。たくさん並んだ商品と値札の眺めは、これまで通ってきた非現実的な世界から途端に私を現実へと引き戻した。そのギャップはむしろ変な興味を商品に持たせていた。買い物をするときの不自然にゆっくりな歩き方で品定めをする。いや冷やかしではあるけど、こういう場所ではおかしくはないし。

 おそらくなんらかのかたちで動線を考慮したのだろうおみやげスペースの端っこにちょこんとマリモが置いてあって、それで私はふと思い出した。文香さんが水族館好きだというのはたぶん本当のことだ。だってこういうところにしかマリモなんて売っていないだろうし。

 

「マリモが気になりますか」

 

「いえ、文香さんがおっしゃっていたのを思い出して」

 

「私は自分がこれに似ていればいいと思いますし、泰葉さんも同じであればと思っています」

 

 マリモの入った小瓶をひとつ手に取ってぽつりと文香さんはつぶやいた。私に対して聞かせるつもりがあるかどうかを見極めるのが難しいくらいの声だった。それはなんというか、特殊な範囲の決まり方をしていて、その外縁ぎりぎりに私がいるような感じのものだ。

 

「すみません、意味がちょっと」

 

「では魚に似ていたいと?」

 

「何をお聞きになりたいのかわからないんですが」

 

 こう言いたくもなるというものだ。

 

 

 

 

 



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15

 

 ぼくはいま、ちゃぶ台に頬杖をついている。それでまあなんとなくテレビを見ている。ふわふわした考えをどうにかまとまりのあるものにしようと頑張って、そうして失敗したんだよね。小学校の体験学習でやった和紙を作るやつに似てるかもしれん。ほら、あの冷たい水に手つっこんで木の枠揺らして繊維がどうこうやるやつ。うん。うまくいかないってところまでだよ。はー、やむ。

 テレビは、というか録画なんだけど、芸人よりもむしろ役者のほうが多いコント番組を流してる。手持無沙汰になって、海ちゃんはいったいどんなのを録画してんだろってなんとなく気になって見てみたらこれが目についた。ちなみに家主はお仕事でいないよ。いや本当に仲良いけどさくっと合鍵渡して出てっちゃうのどうなん? つまりぼくはいま、海ちゃん家でひとりなわけ。危ないことさえしなきゃいいよ、だってさ。

 いくら人の目がないったってそんなんで落ち着いて振る舞えるタイプじゃなくてね、ぼく。ほら育ちがいいからさ、やかましいってか、ふひひ。まあ自分の部屋ならやってる寝転がってスマホ、なんてのができないのもそこに理由があるワケだ。

 

 番組はじめのトーク部分が終わってひとつめのコントに入る。テレビ用の役者ってこういう番組だとむちゃくちゃ映えるよな。大仰でけばけばしい演技はなんたってわかりやすいから。もちろんわかりやすいんだから人気も出やすい。ま、面白いしな。別にぼくも嫌いなわけじゃない。それどころか普通に楽しく見られるよ。ぼくが嫌いなのはそういう役者がやってるドラマとかだから。目的が違ってれば見方も変わる。ぼくそういうとこ柔軟なんだぜ。

 ぼくたちの事務所スゲーよな、この番組にもいるんだよね、うちのアイドル。これコント番組とはいえ役者が中心なんだけどな。マジでどの局でも見ない日ないんじゃないか。あと教育テレビくらいか? いやフツーにそこも出演してたわ。

 これ見てると水準高いよなーって思うよ。これまで演技してる姿なんて、少なくともテレビとかでは見せてこなかったはずの大和さんが当たり前のようにちゃんと遜色なくできてる。実際これが始まってから人気がもう一段ハネたらしいし。想像してなかったところのギャップがアツかったんだろうなあ。お決まりの人気コントが生まれたのも大きいのかな、あの筋肉で全部どうにかしようとするやつ。

 海ちゃんがこの番組録画してんの大和さんがいちばんデカい理由だろーな。ぼくたちとは別のラインで仲良いって言ってたし。なんかあの有名な夢の国にふたりで遊びに行くくらいには仲良しさんなんだって。海ちゃん義に厚いってか友達大好きだしね。まあ普通に番組そのものが面白いってのもあるんだろうけど。

 

『そぉーう! この腹筋さえあればなんとでもなるアブドミナルッッ!!』

 

 ぐっとポーズを決めてカメラのズームは本気で腹筋なのマジどうなってんの。仮にもどころかバリバリの現役アイドルやぞ。その腹筋自体もまた綺麗に仕上がってんの草草の草。バッキバキのシックスパックじゃなくて、自然で滑らかな中での盛り上がり方が整ってんの。いやそのスジのファンがつくのも納得だよ。是か非かでいえばスーパー是だね。

 指パッチンしたらBGMがかかって後ろからダンサーどもが出てきてひとしきり踊る。ぼくもまあ人前に出てるっちゃ出てるから多少は理解があるんだけど、正直どんな練度だよって言いたくなるほど一糸乱れぬ統率のとれたダンスなわけ。しかもこれ毎回振付ちがうんだよね。音が鳴りやむとさーっと捌けてって、別に何もありませんでしたけど? みたいな。こう、落差の空気で笑わすというか、一拍置いて、んふっ、ってなっちゃうやつぼく弱いんだよね。

 

 しかしあれだな、こうなってみるとここの居心地がいいのって海ちゃんとヒナ先がいるのがでっかいんだなってのが身に染みて恋しくなるね。

 録画したやつを切ったテレビはCMを流してる。ぼくの意識はもっとテレビから離れる。だってそんなん真面目に見る人いないでしょ。視界の端で色が動いてるけど、それは形にならないし興味も引かない。たまに例外はあるかもしれないけどね。

 その視界の端がぱっと青に変わった。濃い空の青だ。他のCMでもそういう演出はあるけどぼくの目が引っ張られるのはそれひとつだけ。意識しないうちにテレビに視線を奪われて、そこに映っているのは輿水幸子ちゃんの横顔。あのつばの広い、なんだ、キャペリンだっけか、を風に飛ばされないように抑えてる。カメラのフォーカスが空から幸子ちゃんに動いて、あの濃い青を一気に背景に押しやった。別に抜群にまつ毛が長いとか鼻が高いとかそういうわけじゃないのに、むしろ顔のパーツはそれぞれかわいらしいの範疇なのに存在感が異様に大きいのはなんなんだろね。ぼくの口は半開き。テレビがおっきいせいか?

 

『……ふふん♪』

 

 いつもの “フフーン!” じゃないそれは楽しいものが待ち受けているのを確信してるっぽい雰囲気があって、実年齢にそぐわない大人っぽさがある。やべーのはぼくがそれをまだ輿水幸子ちゃんだって認識してるところなんだよね。人の幅が広いのかなあ、なーんか表現が違う気もするなあ。ていうかさ、終わりに会社の名前とちょっとしたコピーが出るとはいえセリフらしいセリフがひとっつもないこの短い映像で旅行関連のCMだと理解させて期待感持たせるのスーパーすぎん?

 アイドルすごい! って思うのはさ、誰に対しても無条件に愛を注いでくれるとこなんだよね。比喩じゃなくてそのおかげでぼくは生きている。それはぼくにはできないこと。だからぼくはアイドルじゃないんだ。実は文香ちゃんもそうなんだけどこれは話が別か。ぼくがアイドルになれないことはやむんだけど、ある意味でいえば大事なことなんだよ、まあ、ぼくにとっては。

 でも幸子ちゃんにだけはどこか違うものを感じる。間違いなく100%のアイドルなんだけど、こう、言語化できない印象が残るんだよね。単純に考えれば幸子ちゃんが特別ってこと。うーん、特別はそうなんだろうけど、なんかなあ、ほら、特別にも種類ってあるじゃん? そこの判断がぼくにはつけられん。

 いやしかし可愛いなこれ。でも不思議だな、泰葉ちゃんとかほかのアイドルと比べて現実感がない気がするっていうか。なんだろ、顔の造りの問題か? でもわけわかんないくらい顔のいい子ってウチそれこそ指折りどころじゃないくらいいるが? じゃあ別の要素だ、つってもなあ。変な偏見でもあるのか、ぼく。そんなつもりないんだけど。

 

 ……もうテレビ消そっかな。そもそもスタートが海ちゃんの録画が気になる、だったし。じゃあまああれ読むか。言わずもがなの歯車。経験って意味じゃいろんな環境でいろんな体験をしたらそれが身になるんだろうし。万が一吐きそうになってもトイレダッシュできるし問題なしだね。

 ここんとこマジで何度も読んで、それこそ通して読まずに部分ごとにピックして読むみたいな芸当までできるようになった。それで奇妙な感覚に気付いて、それが吐き気につながってんだってやっとわかった。心情が追えすぎるんだよこれ。一人称だからってんじゃない。なんか気持ち悪いくらいに心の動きがなんとなくわかるんだ。もしかしたらぼく特有のものなのかもしれん。もしもそれが技術なら、芥川ってむちゃくちゃヤバいのでは?

 幸子ちゃんを見たあとでこの本を読むのには奇妙な感覚があった。それを可能な限りシンプルに言語化するなら、そのふたつは似ているようで正反対のものを持ってる気がするって感じ。たとえば花托と果実みたいなね。あれなんか頭おかしいな? アイドルと小説比べてどうこう言ってんのはバグってないか、ぼく。

 

 全然まったくほんのすこしの前振りもなく、小さい脳みその奥で何かが閃いた。チカッて光って結論がそこに置いてある。それによると、いまこの瞬間がどうやらぼくの小説につながるらしい。前にもこんな感覚あった気がするけど、具体的にどんなかたちをしているのかはまだわからない。ただ予感としてぼくの身に残るのはうっすらとした負の匂い。それは校舎裏のじめっとした土の匂いみたいな、確信に近い降り出す前の雨の匂いみたいな。ぼくはこれを知っている。けれどそれを言い当てられない。どうしてだろう。

 ただ論理的に考えると、ぼくがこの匂いを本当に知っているなら、ぼくの小説を書く準備が進みつつあることになる。ていうか小説ってそんなに内面に関わるものなのか? 待てよ、でも歯車を読んで吐き気がする理由はそれだろ。それに海ちゃんもヒナ先も “ぼくが書くことに意味がある” みたいなこと言ってた。みんながみんなそのことを言ってたの?

 

「おいおいおいおい大概だな、ぼくも。なに人ん家で悟り開きかけてんだよ。いよいよマジモンか?」

 

 独り言は誰にも聞こえないで重たい雲みたいに浮かんでる。頭を振って追い払おうとしたら髪がべちんべちん顔に当たった。なんだか急に気が抜けて、座ってんのも気だるくなった。ああ、もう床でいいや。寝ちゃお。寝すぎても海ちゃんが起こしてくれるでしょ。

 

 夢を見た。でも中身は覚えてない。

 海ちゃんがキッチンでごはん作ってて、なんでか知らないけどぼくの目から涙が流れた。

 

 

 

 

 



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16

 

「さて、お話しましょうか、って言ってもそれほど心配はしてないんですけど」

 

 立場を考えても、あるいはそうでなくても慶さんが声をかけるのも当然だ。今日のダンスレッスンはどう考えても集中を欠いていた。ステップを踏み外すのは一度や二度じゃなかったし、そもそも振付が頭からすこんと抜けてしまっては話にならない。ユニットのメンバーにもこれまでにないほど心配されてしまったくらいだ。叱られるのもやむなし。周囲に視線を配る技術を手に入れたと思ったらこうだ、なるほど世の中は複雑にできている。

 他のアイドルより入念なクールダウンを終えて、私は慶さんの前にいる。レッスンルームのある棟は立ち入りの制限が厳しいにもかかわらずサイズが大きく、面談用の部屋なんかもまず困らないくらいにはある。

 普段通りの、すぐに笑顔に移行しそうな顔つきがあるのに違和感を覚える。状況を考えれば険しいものがそこにはあるはずなのだ。なんだかこちらの気も抜けてしまいそうになる。実際には何を言えるわけでもないのだけれど。

 

「誰にだって調子の悪いときはありますし、それに冷静なままっていうのも難しいですよね」

 

 励ましの言葉がもらえるのも自然なことだと思い至ってそれに少し傷ついた。私はまだ駆け出しでしかない。そしてそれを思った瞬間に自分のプライドの高さに気付いて今度は呆れる。私はまだうまく行かないときに名指しで苦言を呈される段階ですらないのだ。芝居の経験があるだけで、本当の意味でアイドル一年生。この意識を徹底していかないと、いつかどこかでケガをしそうな気がする。心に刻め、ここは別世界だ。

 それとは別に慶さんの言葉を聞いて別の思考も並行して働いていた。まるで私に何かが起きたかのような口ぶりだ。ここ最近で私に何か特別なことがあっただろうか。今ひとつ思い当たらない。輿水幸子というアイドルの化身に出会ったことはたしかにそうかもしれないけれど、これはあくまで個人的なことで彼女に知られているとは思えない。そうなると本当に答えが導けない。

 

「聞きましたよ、年末の2DAYS。ニューヒロイン枠だって」

 

「へ?」

 

 情けなくなるほど間抜けな声を出してしまった。寝耳に水、なんて言葉が脳裏に浮かぶ。

 

「姉が先日の会議で決まったって……、あれ、もしかして私やっちゃいました……?」

 

 私の目が見開きっぱなしになっているのを見て、なにか行き違いが発生していることに慶さんが気付き始めた。年末なんて言葉がでてきたけど、今日はカレンダーに大きく書いてある数字がやっと5から6になろうとしているくらいだ。まさか予定をもう押さえなくてはならないほど私が人気者なんてこともない。そういうのは、おそらく幸子ちゃんのようなクラスになって初めて成立するのだと思う。まあ、役者とは具合がいくらか違うだろうから詳しいことはわからないけど。

 慶さんが固まりかけているのはつまりそういうことだ。私の知らない私のスケジュールをこの場で明らかにしてしまった。いずれ知れるとはいえ、それはまだダメなことだ。それはある種の機密事項であって、実は私たちも誓約書を書かされるくらいには重たい話だ。どんなに仲のいい友達であっても業界の情報は外に出してはいけない。それどころか同じ業界内においてさえ情報が漏洩となればけっこうな騒ぎになる。今回の慶さんは当人である私が相手とはいえおそらくルール違反にあたる。いや別に告げ口したりはしないけど。

 わざとらしいくらいの取り繕う笑顔から力のない声が、あはは、と漏れてくる。慶さんも正式な社員ではないにせよ私たちとは違う立場の方だ、線を引かなければならないことがわかっているのだろう。どんどん視線が斜め下を向いていく。レッスンがうまくいかなかったから私はここにいるはずなのにどうしてこうなったのか。

 

「あー、えーっと、構いませんよ。私がここで留めちゃえば済む話です」

 

「ホンットに助かります……。姉に本気のお説教もらうところでした……」

 

「まあほら、そうとわかればレッスンに気合も入りますし」

 

「そう言ってもらえると救われます。リーダーの泰葉ちゃんの頑張りがあればユニットのみなさんもきっとそれに合わせて頑張ってくれますよね」

 

 最近はなじんできたのか悪ノリすることも増えてきたけれど基本的には真面目でいい子たちだ、そこについては心配はいらないように思う。それよりは出演のことが正式に伝わったときのほうが気にかかる。大きな舞台なんて経験していないのだからかなり驚くだろう。そのあたりのメンタルケアを考えておいたほうがいいかもしれない。

 話すことがなくなって、本当なら居続ける必要のないこの部屋に残っているのは彼女の人徳のせいだろうか。せっかくなのだからもう少しくらい話していたいと思ってしまう。立ち上がろうとするそぶりすら見せずに部屋の観葉植物なんかに目をやる。そういえば観葉植物って匂いはないのかな。いや花が咲いてないなら当然か。

 気が付けば椅子に背を預けていた。

 

「ひとつ気になったんですけど、りあむさんが選ばれてもよかったような」

 

「うーん、私は会議に出てませんから断言はできないんですけど、やっぱりプロデューサーさんの意向だと思いますよ。王道でないことに意味がある、みたいなこと言ってるそうです」

 

「……りあむさんを売り出すならわからなくもないですけど」

 

「とはいえちょっと歪んでると思いますよ、普通なら大チャンスなのに」

 

 明らかにお仕事モードから雑談モードに入った慶さんは思い切り机に頬杖をついている。手のひらが遠慮なく頬の肉を押しつぶして、それを彼女はちっとも気にかけていない。心なしかトーンもレッスンルームで聞くものより一段下がって聞こえる。それは夕方に差し掛かるこの時間にマッチしているようにも思えた。あまり私の記憶にはない、放課後の教室でのひそひそ話みたいだ。

 空気はもう一段落ち着いて、この流れだときっと帰るのも一緒になるだろう。駅までの短い間。下校と呼ぶにはまわりの風景が一般的なものより都会過ぎる、というよりはビル街と言ったほうが適切か、けれどこの際そんなことは気にしない。楽しめるのならちいさなことを気にしちゃいけない。

 

「そうそう、姉からの話ついでですけど、文香ちゃんの話も聞きましたよ、そのとき」

 

「なんか文香さんの話って誰かから聞くの貴重な気がしますね」

 

「いやー、見かけたこともないんで私はちょっと感覚あれですけど」

 

「え、慶さんレッスン受け持たれたことないんですか」

 

「ないですね。というかたぶんストップかけられてます」

 

 意外な人物の名前が出てきたかと思えば展開も意外なものになってきた。たしかにこの棟で文香さんと出会ったことはないけど、それは全然あり得る範囲のことだ。セクションの壁というものはそれくらい厚い。だけど今の言い方を聞くにそういうレベルの話ではなさそうに思える。

 

「ストップ、ですか」

 

「もしかしたら私だけじゃないかもしれませんね、下手したら戒厳令みたいの出てますよ」

 

 物騒に過ぎる。

 

「『あれは難しい。生きる姿勢として自分の感情にあまりに素直すぎる。私に言わせれば甘い毒のようなものだ』って言わせたんです、うちの姉にですよ?」

 

 甘い毒。奇妙な言い回しだ。なにか微妙なものを含んだ表現なんだろうけど、それがわからないのでは私にとっては有用とは言えない。毒という言葉を使うのなら、きっと何かを蝕むのだろう。文香さんの生きる姿勢が影響を及ぼす範囲はどこ? それは私に対して進行している? いつかの幸子ちゃんからのLINE通知がふっと頭をかすめる。

 慶さんが文香さんと接触を持っていないとすれば、そのイメージはおそらくファンの方々と近いはずだ。神出鬼没のシアターだけの歌姫。メディアへの露出は一切ないのに二枚のアルバムダウンロード数を伸ばし続ける怪物。試聴から口コミのループの中で育つ像に神性さえ見ている人もいるだろう。そしてその実態は水族館で見せたようなあの姿。シンプルに言えることは、ファンからの印象と私からの印象は、違う。

 私はあの人をアイドルとして否定している。本人にそうと告げてさえいる。とはいえ会うことにストップをかけられるような人物かと聞かれればそこには疑問が残る。そこから可能性の高そうな答えを導くなら、まだ私に見せていない一面があるということだろうか。それにしても、毒?

 

「なんだかとんでもない話に聞こえますけど」

 

「ですよねぇ、でも真面目な顔で出てきた名前が冗談で使うものではないですから」

 

 そう。それがいけない。真実味が増すというよりも真実になってしまう。だから考えなければならない。その毒が私に何らかの影響を、それが良いものか悪いものかは別にしても、及ぼすのなら対策を講じておく必要があるから。変わることは生きていくうえで避けられないし重要なことが多い。けれどそれが急だとなれば誰だって怖いものだ。だって自分が作り替えられていくなんて。

 慶さんは口を閉じた。私も黙った。ぽんぽん弾ませる話題でもない。別に暗くなるとか空気が悪くなるとかそういうことではなくて、内容について考えながら話す必要があるのだ。

 

「ところで、そんなセリフが出てきたってことは麗さんも毒されかけたってことなんですか?」

 

「気が抜けなくなった、って言ってたんで一度はやられかけたんでしょうね」

 

「もし毒されるとどうなるんでしょうか」

 

「さあ? 言ってたことを総合すると感情に歯止めがきかなくなるのかもしれません」

 

 慶さんから話を聞いているぶんにはその通りだろうという感想だ。でも、それじゃあ私はどうなるのだろう。私は一人であの人と会っている。それも一度や二度じゃない。もしかして、私はもう感情に歯止めをかけられなくなっているのだろうか。

 

 

 目が覚めてカーテンを開けると曇り空が広がっていた。雨はまだ降っていないけど、その予感のはらみ方は時間の問題だとでも言いたげだった。ちょっとでも雲をつつけば途端に振り出しそうなくらいだ。洗濯物は干せそうにない。

 おなかが鳴った。昨日の夜に何も食べなかったから当然だ。食事を抜くのはよくないけれども、そうせざるを得なかった。私のメンタルはそんなに頑丈ではないのだ。

 トーストを焼いてブルーベリージャムを塗る。淹れておいたカフェオレを一口すすってからトーストに歯を立てる。サクッと軽い音が立って誇張されているのかと思うくらいに小麦が香り立つ。冷えたジャムがおいしい。

 

 今日は鏡の前で表情を作る練習をすると昨日の夜から決めていた。時間をかけて、ゆっくりと確認しながら。すこし懐かしくもある。役者を始めて、というよりは劇団に入ってからしばらくはそんな練習をしていたから。過去の積み重ねの影響は大きいもので、身に付けた能力もそうだけど精神のよりどころにもできる。練習始めたてのころはまさかこんな使い方ができるとは思いもしなかった。

 練習を始めて、すぐに愕然とした。あんなに毎日のルーティンワークとしてこなしていたものがこんなにもうまくできなくなっているなんて。ちょっと想像を超えている。なにか歯車が狂っているような気がする。これが文香さんの影響だとでも?

 言い訳になりそうにない適当な思い付きを頭から追い払ってため息をつく。なんとなく感覚から言ってこれを取り戻すには相当の努力が要りそうだ。

 ピーチソーダが飲みたいな、とふと思った。

 

 

 

 



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17

 

「あっはっは、けっこう絞られたっスか?」

 

 心底楽しそうにヒナ先が笑ってる。北海道の雄大な草原が似合いそうなくらい朗らかな顔。いやぼくからするとヒナ先に冷たく当たられたりなんかしたら、しっかりした梁とロープ探さなくちゃいけなくなるからありがたいんだけどね?

 あのサイケな夢みたいな色をしたクッションにおっぱいのっけて腕をまわす。はー、ラク。

 

「ううん、Pサマは怒るどころかファインプレーだっつってた。ここから始まるって」

 

「りあむちゃんのプロデューサーさんは肝据わってまスねえ」

 

「むしろ文句の矛先が上層部にいってたよ。フツーぼくが怒られるはずなんだけどね? だって事務所全体のイメージ関わっちゃう話だし」

 

 ヒナ先の笑いの質がちょっとケラケラ気味に変わる。まあなかなか聞けんでしょこんな話。正直やらかした張本人が言っちゃいけないんだろうけど。

 手を伸ばして麦茶の入ったコップに手を伸ばす。入れたときより氷が溶けたのか、からんとぼくの見てないところで音を立てる。海ちゃんの家に麦茶なんてのもちょっと不思議な気はするけど、普通に考えたら当たり前だよね。趣味がアジアンな感じなだけで日本は山口出身だもんな。あー、冷たくておいしい。五月も終わりになるとどの年でも妙に暑い日がたまにあったりして。知ってるかね、夏なんてのはこっそりフライングで忍び込んでるもんなんだぜ、みたいなこと言ってる小説どっかで読んだな。ホントにその通りならこのまま梅雨なんて無視しちゃえばいいのにね。でもそれだと困る農家の人とかいるのかな、うまくいかないね、まったく。

 

「まあわからなくはないっスけど、個人的にはプロデューサーさんと同じ意見ッスね。りあむちゃんをキャラクターとして見るなら炎上商法って選択肢として全然アリでしょ」

 

「えぇー……、これやむ案件のやつ?」

 

「いやいや、企業のそういうのって取り返せる目算あってのものっスよ」

 

「さすがにそれはポジティブが過ぎると思うよ?」

 

 いくらなんでも客席に向かって中指おっ立てて問題ナシ、ってのはないと思うんだよね。原因はぼくの後先考えない性格のせいだし、そんなの誰も狙ってない。つーか誰もハッピーにならん。だからこそ決定的瞬間が激写されてまたボヤ騒ぎになってるわけで。ぼくが大物じゃなくてよかったよまったく。もしそうだったらたぶんこれくらいじゃ済まないもんね。会見ものだよね。

 

「まあほら、りあむちゃんのライブって加熱しやすいやつっスから。どこかでりあむちゃん自身が “線引かないとこうなるぞ” って見せる必要もあるとは思うんスよね」

 

「正直投げつけられる量むっちゃ増えてたよ、全然痛くないけどハートに何かが溜まる……」

 

 服の中心からちょっと左寄りのところにあるもさもさした部分を触りながら愚痴ってみる。本当に何かが溜まっていってるのかはぼくにはわからない。メスシリンダーみたいに目に見える目盛りがあれば楽なのにね。ぼくにあるのはなんとなくそんな感じがするっていう実に微妙な感覚。

 あ。これもしかしなくてもヒナ先ぼくのこと気遣ってるな?? 優しさパワーはいつもと変わらんけど話のコースがいつもと違う気がする! ぼくのことは形状記憶の綿のサンドバッグくらいに思っておいたほうが精神衛生上いいはずなのに。

 いや待て。これぼくもいけないな。海ちゃん家で海ちゃんがいないときにこんな話しちゃったんじゃそりゃ心配にもなるわ。悪循環入ってる気がするな。何やってもよくないほうに行くやつかもしんない。話題変えたほうがいいか? 不自然か? だよなあ。

 

「うん、でもやっぱ何にせよやらかしたら死にたくならない?」

 

「わからなくもないっスけどね。でも結局は生きていかなきゃなワケでスし。そのために大事なのは “やらかした” って自覚があるってことで」

 

 あったかい微笑みの製造過程はぼくにはわからない。それは明るい感じの、たとえば向日葵みたいな力の強い押しつけがましさはなくて、ふくっとしたイメージの、なんていうの、合弁花? そんな感じの花を連想させる。一つしか齢変わらないのにこんな引き出し持ってるなんてずるい。ぼくの浅さが浮き彫りになるだろ。やむ。

 

「うわぁん! ぼくを包み込まないで! 泣きたくなっちゃう!」

 

「ほれほれ~、どんどんお姉さんに甘えていいんスよ~?」

 

 あ"ー、ヤバい。これヤバい。薄桃色の、ちょっととろっとした湯船に浸かってるみたい。気分が良すぎて、気だるくなって、全然出る気にならなくなっちゃうやつだ。ここは居心地がいいな。ずっとここにいたいな。

 でも、現実的に考えてぼくがここにいる時間はこれから減っていかないといけない。ここにいるとそのまま時間が溶けていくから。小説を書くための時間がなくなるから。それはちょっと辛いけど、でもぼくにとって小説を書くことはその意味を少しずつ変えてきてる。はじめはチャレンジ気味のお仕事で、文香ちゃんが教えてくれるから頑張ろう、くらいのものだったけど、今では一種の夢みたいになってきてる。それは、ぼくの中の何か伝えたいはずのものを探すことで、存在することを想定さえしてなかったものを見つけることだから。もしかしたらぼくが空っぽじゃないことを証明できるかもしれないから、そんなんもう夢じゃん。

 

 なんか落ち着かなくなったから開いた窓のほうに顔を向けてみた。この時期ってとくに花の香りしないよね。ヒナ先はなんかスマホいじってる。ふう、海ちゃんのパエリア楽しみだなあ。

 

 

「あ、やっほう。いま何してたの?」

 

『ちょうどお風呂洗い終わったところですよ』

 

「ナイス泰葉ちゃん。あとでぼくもやろ」

 

 声の調子から一仕事終えた感が伝わってくる。思ったほど時間が経ってないわりには思ったよりしんどさが残るって辺りけっこうお風呂掃除って謎だよね。

 右耳に当ててたスマホを左耳にもっていく。

 

『記事読みましたよ、大丈夫ですか?』

 

「アタマがってこと? 泣いていい?」

 

『事務所の方針からしたら怒られそうだなって思って』

 

「あれ、ぼくの小粋なジョークはスルー?」

 

『自虐は小粋じゃないと思うので』

 

 この鋭さがクセになるよね。馴染んでいくほどに相手のことを考えてオブラートが剥がれていくからちょっとキツめになるけど、ぼくはその根幹が関心にあるって知ってるからノーダメなんだ。クソザコメンタルには珍しい。

 

「うん、まあぼくは平気だったよ。Pサマが怒られたってさ」

 

『プロデューサーさんは何も?』

 

「むしろあれでいいんだって。ぼくに期待してたのはこういうのだって言われたよ」

 

 耳元からため息が聞こえた。おでこに手をやって頭を軽く振るしぐさまで目に浮かぶ。にしてもため息に限っては対面よりも生々しいな。これあれだろ、ASMRってやつだろ。ぼく知ってるぞ。

 

『もしそんなので炎上してたら目指すものまで遠回りになりそうに思えますけど』

 

「泰葉ちゃんはそっち派? ヒナ先は逆にアリって言ってたよ」

 

『比奈さんまで?』

 

「うん。ぼくのキャラ考えたらね、って。まあぼく危なっかしいもんな」

 

 言ってて虚無りそう。たしかに一歩離れて見ればヒヤヒヤもんなのは否めないけど、それって本当に武器になるのか??

 

『それは受け入れていい類の性質かどうか考え直したほうが……』

 

「ダメだよ泰葉ちゃん。今さら治るやつじゃないよ。性格より無理だよ」

 

『うーん、それならもう仕方ないですけど』

 

「そうそう、それにほら、ぼくは泰葉ちゃんの言う “目指すもの” なんてわかんないし」

 

『えっ、本当に目標とかそういうのないんですか』

 

「いやあ、1コだけあるんだけどね。やりたいことというか。そのために人気……、いや違うな、知名度? がある程度は必要な感じでさ」

 

 大事なところには触れないように泰葉ちゃんに話してて、ふっとキーポイントに気が付いた。ぼくが忘れてたやつだ。小説書くことばっか考えててすこんと抜けてたけど、ぼくは人気者にならなきゃいけない。そりゃそうだ、超限定的にしか知られてないアイドルもどきの小説なんてだーれも買ってくれない。考えてみたら広告も打ってもらえないよな。いやそもそも出版までいかないだろそんなん。あれ、あれあれ、そういうのって大事だ。

 

『じゃあ頑張らないとですね。あ、中身は聞きませんよ? 空気読めますから。ふふ』

 

「あ! いい!! それいいよ泰葉ちゃん! そういうの言ってったほうが絶対可愛いよ!!」

 

『こういうのは友達相手のです。なんか距離感違うじゃないですか』

 

「そうかなあ。CMとかでそんなん流れたら一撃でファンめっちゃ増えると思うけど」

 

『CMなんてずっと先の話ですよ、それこそ目標にしたっていいくらいです』

 

「たしかに。うちの事務所でもCM出てんのトップ層ばっかだわ」

 

 実はそこの層が厚いってのは共通認識だけど言わないお約束。だって可愛い女の子とか美人ってイメージ戦略で言えば最強でしょ。前にPサマに教わったけど、テレビに出続けられるってむちゃくちゃすごいことなんだよな。多くの人が飽きないっていうか受け入れてくれるってことだから。ま、アイドルオタクとしてはけっこうダメージを受ける事実ではあるよね。引退とか卒業どころか失踪パターンだって何度も見てきたもの。ううむ。

 

『そういえば』

 

「どったの?」

 

『知り合いの方が言っていた目標がちょっと変わってたなって』

 

「どんなん?」

 

『人の選択肢に入りたい、って言ってました』

 

「……カノジョ持ちの男の人好きになっちゃったとか? そういうのはしょうがないよ」

 

『それなら筋は通るんですけどね。ただ個人的に恋愛に興味のある人には見えなくて』

 

「普通に過ごしてたらそんなもんだって。ぼくだってそんな感じでしょ」

 

『いえ、りあむさんは興味ありそうに見えますよ。前に映画館で振られた話も聞きましたし』

 

「ぐむう」

 

 あー、そういやカフェで。いったいぼくは何を恥ずかしい話を泰葉ちゃんにぶちまけてんだか。海ちゃんもヒナ先も知らんのに。いやあれは話題の展開の仕方がいけなかっただけだと思うけど。

 

「そそそれは偏見だよ! ぼくがそのハナシしちゃったからそう思うだけで!!」

 

『あれ、じゃあ全然興味ないんですか?』

 

「うう、そっ、そんなこともないですけど!? うわーん! なんかボコられた感じする!!」

 

 なんか勢いで電話切っちゃった。はあ、こういうことしてると本当に死にたくなるよね。LINEでごめんね、って送っとこ。初めてじゃなくてわりとよくあるってのが泣ける。やむ。寝よ。

 

 

 

 

 



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18

 

 あまり人の寄らないいつもの自販機に幸子ちゃんがいることが増えた。増えたというより初めてそこで会って以降、彼女の選択肢に入ったというくらいが正確だろう。不思議と幸子ちゃんと話をする機会はほとんど自販機の前に限られた。もちろん電話で親しく話すような間柄ではないことを考えると、撮影を見学させてもらったあの日は本当に特別だったのだ。たまにLINEでのやり取りをするようにはなったけれど、どちらかといえば儀礼的な面の強いものでしかなくて、人にとっての必要なコミュニケーションは、それは幸子ちゃんと仲良しの子の領分だ。おそらく私は、広い意味ではコミュニケーションと呼べるけれども友人間のものとは異なる微妙な領域に置かれているのだと思う。同じような年齢で仕事の話をできる相手はたしかに多くはないだろう。

 そこに置かれることに何かを思わないでもないけれど。

 私が飲んでいるのをきっかけに試してみたら意外と悪くなかったというスポーツドリンクを片手にその少女が立っている。実に実に奇妙な感覚だ。この日本で一番有名な十四歳に私が影響を与える。その現実が誰にも知られることなく、ただ私の目の前でだけかたちをとっている。霧深い森の奥で、一か所だけぽつんと光の当たる野原を見つけたみたいに。

 

「うーん、偏見でしたね。やはり偏見は大事です」

 

「え、偏見はよくないって話の流れでは?」

 

 スポーツドリンクは不当に否定されていたはずなのに。

 

「そんなこともないと思いますよ。誰だって第一印象は独断と偏見なわけですし」

 

「そうですけど、偏見が大事っていうのとつながるんですか?」

 

「ああ、そのこと。偏見はですねえ、修正できるから偏見なんです。もちろん頑固なのはいけません。うーん、あるものにある印象を持っていたとして、たとえばそれに直接触れたり誰かから話を聞いたりして、思ってたよりいいな、っていう風に意見が変わったりすることってあるじゃないですか。逆もですけど。それは文字通り偏っていた見方が修正されただけだってボクは思ってるんです。“こうなんじゃないか” って自分できちっと考えてないと見方を変えることすらできませんからね。その意味で偏見ってむしろ大事だとボクは思うんですよ」

 

 言葉の誤用というか順序に前後がある気はするけれど、その考え方は独特に成立しているように思えた。すくなくとも私には。

 すらすらとこんなセリフが出てくるほどに彼女にこのロジックを叩き込んだのは誰なんだろう。自然に考えれば幸子ちゃんのプロデューサーさんで間違いないはずだ。けれどもしそうだとしたら彼女をあまりにプロとして扱いすぎのように思える。この子は既に感情を捨てろと言えるまでに徹底してしまっている。戻れるのだろうか。

 

「幸子ちゃんのプロデューサーさんも指導に力が入ってるというか、すごいですね」

 

「おや、話に出したつもりはありませんでしたが……」

 

「今の偏見の考え方ってプロデューサーさんから教わったんじゃないんですか?」

 

「まさか。そんなタイプの人じゃありませんよ」

 

 初めて見るような、年齢相応の素直な笑顔が見える。

 “まさか” の言葉の温度が気にかかる。

 

「じゃあ自分ひとりでその考えに?」

 

「ええ、まあ、はい」

 

 なにかが微妙にかみ合っていない。話題の認識はお互いに一致しているけれど、ちいさな歯車がたぶんひとつずれている。私に見えていないそれが私を不安にする。彼女にはそれがただの不思議な言葉に聞こえている。偏見が大事だなんて言い切れる人はそういないことを幸子ちゃんも知っているだろう。小学校や中学校なら偏見はよくないことだと教えるに決まっている。高校では、まあそんな話はもうしない。だからなおさら不安が募る。常識をそのまま常識として理解した上で別の見地に立ち、そうして自分と同じ立場にいないことを彼女は咎めている。一言だって口に出してはいないけれど、確実に彼女は私を咎めている。

 特徴的なたれ目の奥で、脳が高速回転しているように見えた。

 

「……なるほど、前は役者さんでしたね、泰葉さん」

 

「あ、え?」

 

「どちらかといえば順番が違うんですよ。ボクたちって偏見に晒され続ける立場じゃないですか。イメージで語られるわけですから。それを修正できるということを知っておかなきゃダメってことなんです。だから大事、ね? 偏見は修正できるから大事だな、なんてそれだけじゃさすがに考えつきませんよ」

 

 圧倒されて、どれであっても口から出る言葉は情けないものになりそうだった。だから口を開かない。開けない。けれど代わりに何をすればいいのかもわからない。圧倒されたままの表情を残して幸子ちゃんの顔を見続ける。まさに芝居の言葉のとおりだ。客席も何もなく、ただ演じている。

 

「……ま、おっしゃりたいこともわかります。客観なんて本当は存在しませんしね。相手は把握しきれないほどの主観。難しい話です、本当に」

 

 どうして私を買いかぶる人がこれだけいるのだろう。私は何もわかっていないのに。そんな私を差し置いて話は進んでばっかりだ。幸子ちゃんも文香さんも、考えてみれば事務所も同じか。

 少し離れたガラスの向こうに見える外でさえも梅雨の時期に似つかわしい程度の色合いでしかなくて、それが私の気分をもうひとつ落ち込ませる。理解の及ばない空間をそう呼ぶことが許されるなら自販機の前はもはや異世界だ。想像だにしたことのない異形の深海魚が辺りを這うように泳いでいる。知らない圧の中で同じように生きていくことを要求してくる。岡崎泰葉にならそれが可能だとささやきながら。

 どうにかして息を吐いて、吸う。軽々に同調してはいけない議論だ。それこそ彼女の言葉を借りるなら、私への偏見を修正する必要がある。

 

「幸子ちゃんはどうしてこんなお話までしてくれるんですか?」

 

「泰葉さんはボクと似た部分があるような気がしたんですよ、なんとなくなんですが」

 

「……似てる?」

 

「あ、見た目とかタイプとかの話じゃないですよ? なんと言えばいいんでしょうか、やれることというか。えっと、耐えられる酸素濃度というか。伝わるかどうか正直微妙ですが」

 

 短い付き合いと言い切ってしまっていいけれど、彼女について学んだことがある。この子が比喩的に表現する事柄は、そうでなければ伝えることのできない種類のものなのだ。比喩的。ほんの一瞬、頭に痛みが走る。

 これほど私が答えを導けずに頭を悩ませていても、目の前の表情に悪意のようなものは見当たらない。考え込ませるためでも追い込むためでもなく、岡崎泰葉との会話にふさわしいと判断して話題にしているに過ぎない。ただ純粋に。

 けれど、と考える自分もいる。

 けれど、もしこの思考に追いつくことができたなら、私は輿水幸子の領域に足を踏み入れる条件を揃えることになるのではないか。

 いつか憧れた絶対的な個、それを思うさま受け入れさせることができるのではないか、と。

 

「たとえば幸子ちゃんが、アイドルとして気を付けているのはどんなことでしょうか」

 

「簡単ですよ。街中で声をかけられたら輿水幸子が応対するんです」

 

「……えっ」

 

「もちろん変装はします。ボクが素顔でお出かけなんてしたらそれこそ大変、大行列ですからね。でもそれはそれとして見つけてくれた人の目の前にいてあげるべきなんですよ、ボクは。まあ、握手とかそういうのはプロデューサーさんから厳しく言われているのでできませんけど」

 

「それは、なんというか、とても」

 

「はい! 喜んでくれますよ! なんといってもボクがカワイイですからね!」

 

 異世界では私の持っている常識は通用しないらしい。そういう空間に立っていることがわかった瞬間が、これほど怖いものだとは思ってもみなかった。私がどうにか作り上げてきた小さな秩序が世界の隅に追いやられていく。力の差は歴然だ。何度も何度も叩きつけられてきた現実が、私には本当に持ち物がないという動かせない現実が大きな顔をして座っている。そしてそのことを保証しているのは、この絶対的にカワイイ少女だった。

 膝が震える。でも引き下がれない。この世界から何かを持ち帰ると決めたのだ。たとえそれが大きなものではなかったとしても、それが私の持ち物になる。あるのとないのとじゃ、あるのがいいのに決まっている。すると幸子ちゃんが心底から嬉しそうに、まるで歌うように黒い塊を吐いた。

 

「泰葉さんもできますよ! 100%なればいいんです、アイドルに!」

 

 

 メモには冷蔵庫からなくなりかけていた野菜類と生活用品が書かれている。いつもの喫茶店のいつものカフェオレとはマッチしないけれど、出しておかないとならない。帰りにスーパーで買うものを確認しないといけないから。

 そういう建前の役割をメモは成していて、実際にはそんなことに頭は向かっていない。認めたくないと思っているということは、既にその何かにかたちを与えていることを意味している。それが次から次へ押し寄せてくるのを徒労と理解しつつ私は遠ざけようとしている。こんなことがあっていいのだろうか。テーブルに備え付けられている紙ナプキンを意味なく握り潰す。手から離れると同時に、それは不満げに広がろうとする。同じ言葉が頭の中で反響する。彼女はこう言ったのだ。岡崎泰葉は人間でなくなることができる、と。

 こんなことが、あっていいのだろうか。

 私がなんでもいいから持ち帰りたいと願ったものは、はたしてこれだったのだろうか。そうじゃなかったはずだ。それとも瞬間でさえ夢を見ることは許されないから?

 何かに火をつけたいような気分だった。できもしないことだけれど。

 

 

 

 

 



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19

 

「体は引き締まった感じするんだけどさ、でもなんか触った感触はぽよぽよなんだよね。これってトレーニング的には正解なの?」

 

 これはぼくの実直な感想だ。お風呂入っておなか触るとふつうに柔らかい。もう体力トレ始めて二か月になるのに、だ。食べ過ぎってこともない。ぼくの食生活は意外に統制が取れてる自信がある。この辺はママ仕込みの部分で、昼夜逆転したりしても大丈夫なのはきっとこのおかげ。間食については気にしない。そんなの日によってまちまちでしょ。

 

「あんまり青木さんを下に見てやるな、お前の体の印象を崩さないメニュー組んでくれてるんだからな」

 

「つってもぼく地獄見まくってるんだけど」

 

「体力の面で見たらどうだ?」

 

「いやー、それは……。まあ、ライブ一本じゃ息も切れなくなったけど」

 

「それを腹筋の線も出さずにやってるんだからすごいもんだろう。俺には仕組みがわからん」

 

 それよ。リクツ聞いてみよっかな、って思ったこともあるけどあの人たぶんガチガチの理詰めでやってるっぽいから聞くの諦めたんだよね。わからん話でも面白いものってあるけど、それはわからんのレベルがまだ低い場合じゃん。たぶんトレーナーさんの場合は論文とかそういうのじゃん。プロジェクター使ってグラフとデータ見ながら説明するようなさ。Pサマがわからんっていうならその時点でもう専門知識の領域なの。それも結構なね。決まり決まり。

 昨日は雨。明日も予報によると雨らしい。でも七月に入ったって言い訳するみたいに今日だけは晴れ。その代わりにむちゃくちゃ空は高くて夏のオーラ全開。空の色だけでエアコンつけたくなるくらい。インドアウーマンりあむちゃんは夏に弱いのだ。蒸れるからなあ。

 

「ていうかさ、ぼくちょくちょくPサマに呼ばれてるけど、なんで? 寂しくなっちゃった?」

 

「……そうだな、もし仮に俺がとんでもなく仕事のできない人間だったとして」

 

 お?

 

「それでもお前の様子を確認することだけは忘れないだろうな」

 

「お、ちょ、ふっひ、Pサマ、ま、まじ?」

 

「それだけの爆弾ってことだ」

 

 ぼくのでへっとしかけたきちゃないスマイル返せや。突然プロポーズ食らったかと思ったじゃんか。そっちかい、って言いたくなったけどちょっと待ってよ、たしかにぼくはやらかし癖あるかもしれんけど、爆弾っていうには足りなくない? なんか、規模っていうかさ。実際まだステージに立って頑張ってるっていうか、そこ以外に出てないぼくにそんな影響力はないと思うんだよね。

 Pサマの顔はいたって真面目でからかうような雰囲気はない。というよりもぼくこの人にからかわれたことない気もする。ってことはきっとPサマにとってのぼくってマジで爆弾なんだろうな。意味合いはちょっとわからんけど。

 

「えぇ……、ぼくそんなヤバいやつ扱いなの……、やむ……」

 

「そろそろお前もわかってるだろ。この業界は誰でもどこかしらおかしいもんだよ」

 

 誤魔化しの言葉には違いないけど、ウソじゃないから上手に返せない。そんなことないぞ、全然違うぞ、って否定したいけどそのための根拠を持ってるわけでもない。でもこれは建前だ。たぶんぼくはPサマとは違う意味でアイドルのみんなが狂ってるっていうのをわかってる。それは、だって、ぼくだけじゃなくて、感情の使い道として間違っていると思うから。たとえぼくがそれに救われた事実があったとしても。

 夢見てんじゃねえよ、って自分でもツッコミ入れたくなっちゃうね。はあ。

 

 ばさっと音がしたかと思えばPサマが新聞を広げてる。世の中で何が起きたか知るのがそんなに大事かね、大事か。この状態でも会話が余裕でできるってんだからずるいと思う。いくらなんでも相手は選ぶんだろうけど。

 新聞に向かってた顔が思い出したように跳ねてこっちを向いた。本当に何の気もないように、それこそ小学校のバカな男子の給食の時間みたいな感じ、言葉を投げてきた。

 

「そういえば夢見、最近岡崎さんと仲良いらしいじゃないか」

 

「は!? は!?? ぼぼぼぼく別に泰葉ちゃんとイチャついてなんてないですけど!??」

 

「何言ってんだお前、友達になったんだろ?」

 

「え、いやそうだけど……、え、なんでPサマ知ってんの、こわ……」

 

「こんな立場だといろいろ耳に入ってくるもんなんだよ」

 

 うわめんどくさそうな顔してる。でも考えてみたら聞かないといけないこと多いのかな。Pサマ偉いっぽいもんな。知ってるぞぼく。ちょっとでも偉いと厄介な感じの責任が発生するんだよな。褒めてもらうときの、えらい、と使い方違うんだから日本語って難しいよう。なんかいろいろ思い出してやみそう。言葉の使い方の判断のもとになる会話の流れってなんなんだ??

 

「へー。まあ、うん、泰葉ちゃんとは仲良くさせてもらってるよ」

 

「結構。友達は一人だって多いに越したことはない。これはただの人生の助言だけどな」

 

「え、どうしたのPサマ、おっさんになっちゃったの?」

 

「やかましい。そこは事実だから言わんでよろしい」

 

 ほーん。大人になるにつれて友達って減ってっちゃうのかな。なんかすげー実感こもった言い方してるもんな。見た目がおっさんしてるとは思わないけど、まあ、Pサマが友達と楽しく遊んでる姿ってなかなか想像つかないかもね。そういや歯車でも “僕” に友達いなかったわ。

 でもなんだかこの会話は楽しかったかも。Pサマも人間なんだね。大発見だよ、論文ものか??

 

 

 ちらっと横を見る。いまはヒナ先がいる。ヒナ先はテレビのほうを向いてる。テレビはなんかやってる。みなまで言うな、意志弱子のぼくは花の蜜に集まるハチみたいに海ちゃん家に吸い寄せられてしまうのだ。泣きてえ。覚悟はした。したんだよ。でも今日は勝てなかったの。それは靴の裏にくっついたガムみたいに、湯呑の底のほうの茶シブみたいになかなか取れない。だから明日も頑張る。明後日も頑張る。きっと小説書くために毎日ここに来ないようための精神的な闘いが続くんだと思う。ガチでやむかもしれん。

 テレビに映ってるのは道端で酒飲んで騒いでるパリピ。いや家でやれって。外なんて暑いし汚いじゃんかよう。これがニュースになるんだから平和だなって思わんくもないけどさ、これたしかに問題ではあるよな、ある程度。思考回路がわからん。思考過程もわからん。ぼく陰の者だもの。

 

「パリピってなんで頭パリピなん?」

 

「パリピがパリピたるのは生来の気性っス。かのマクベスも「おれの心はサソリでいっぱいだ」って嘆いてまス」

 

「ちょっと何を言ってるのかわからないんだが??」

 

「簡単な言い方をすれば性格の根っこの部分がパリピって意味っス」

 

 本当に簡単に言い換えてくれるからありがたい。へー、なるほどなあ、根っからそうじゃないとパリピじゃないのか。でもなんかそんな性格の根源にかかわる話かと思うと微妙な気もするな。あとサソリってなんの話だ。

 

「難しく言うとどうなるん?」

 

「存在証明の話っス。サソリはここに絡んできまスね」

 

「わかってそうでわかってない単語の説明のためにマクベスからサソリがやってきた……」

 

 読んでないよシェイクスピアなんて。名前だけ名前だけ。悲劇ですよ、って言われてるやつ読むわけないでしょ。ぼくザコメンタルなんだぞ。

 あれ、っていうかヒナ先こんな話さくさくできるのヤバくない?

 

「まあまあ落ち着いて。サソリっていったらりあむちゃんはどんなイメージっスか?」

 

「え、そりゃまあ毒針持っててそれで刺す、みたいな」

 

「でスよね。じゃあ刺さないサソリはサソリと言えるかどうかって聞かれたら?」

 

「サソリって呼べはするでしょ。そういうタイプもいるんじゃないの。知らんけど」

 

「その通りでスね。それなら刺すやつと刺さないやつ、どっちがサソリっぽいっスか?」

 

「刺すやつ」

 

 ヒナ先のメガネが光った。ような気がする。もうニュース番組に映ってたパリピどもはいなくなってて、どっかの企業の不祥事について流してるんだと思う。なんかビルの映像と下っかわに文字出てるからたぶんそう思うってだけ。実際はヒナ先の話にぶっ飛ばされないように必死。こ、こいつ、実力を隠してやがったのか……!

 

「ちこっとズルいかもっスけど、サソリ=刺すやつくらいには変換してオッケーっスか?」

 

「まあ、間違ってはない、と思う」

 

「これにあるエッセンスを加えてさらに言い換えると、サソリは刺さずにはいられない生き物ってことになって、同時に刺すことでサソリはサソリであることを証明することになりまス」

 

「お、おお?」

 

「つまりどんな状況でも刺すのをやめられないのがサソリであり、心にサソリを大量に抱えているマクベスはやってしまうことを宿命づけられているんスよ。サソリと同質だから」

 

「急にマクベスが飛んできた!」

 

 おぎゃあ。ヤバいヤバい。なんかしらの属性持ちの人に共通するアレだこれ。まあまあ論理の飛躍があるのに妙な説得力を持って迫ってくるタイプのアレ。刺すサソリが刺すからサソリである証明になってる?? ただの循環論法じゃないのかこれ!?

 ただ、マクベスがサソリと同質だから結局こいつもやっちまうらしい。こうなると意味がちょっと変わる。サソリの立ち位置がマクベスのキャラ付けの論拠になってるってことだ。ず、ずるい気がする……。

 

「さ、りあむちゃん。最後の結論はどうなりまスか?」

 

「えっ、さ、騒ぐことであいつらはパリピであることを証明してる……?」

 

「同時にそれから逃れられないってことっス。あんまり言っちゃよくないんでしょうけど、ああいうレベルの騒ぎ方ってブレーキかかりまスからね、普通」

 

「もう人種違うってレベルじゃねそれ」

 

「はっはっは」

 

「いやいや笑ってないで否定してあげてよ」

 

 あーこれほとんど誤魔化す気もないやつだ。でもまあ違うって部分だけに注目したらそんなに意味は変わってないのかもね。ぼくとバチバチの体育会系が似ても似つかない感じで。

 からん、と鳴るグラスが耳にも涼しいぜ。暑くなってきたら麦茶は余計に自然とおいしくなるものなのだ。人ん家の飲み物に親しみまくってる件については言っちゃダメ。ヒナ先もそこはぼくと変わらないしね。

 

「つーかさ、ヒナ先これまでこんな話しなかったじゃん。急にどしたの?」

 

「そりゃありあむちゃんは可愛がってナンボの存在でスし」

 

「あれ、いま愛されてるのと同時にバカにされてる??」

 

「いやいやいや。それにほら、聞かれてもないのにこんなん語ってたらヤバいでしょ」

 

「あーオタクの悪いところってことね」

 

「いま自分アイドルでもあるんでちょっとは空気読むテク必要なんスよー、ってあれ」

 

 ヒナ先の動きがぴたっと止まる。止まることで初めてこの人は動いてたんだってわかるような、そういうちょっとした差を認識できるくらいのぴたっとした止まり方。原因は何かの疑問。ぼくも経験あるからわかる。たいてい焦るようなやばいやつじゃなくて、何にもならないようなちいさな疑問。でも疑問の大きさでその停止の仕方に違いは出なくて、なんだか時間が止まったような気になる。これがもし真夏の午後でセミかなんか鳴いてたら映画のワンシーンになりそうだな。

 

「どったの」

 

「りあむちゃんからオタクの面倒ムーブ食らったことないっス」

 

 すてーん。っつって効果音がつきそうな転げ方。わあん。何それヒドいよう。たしかにぼくもオタクだけどさ、ぼくは別の新しい問題が出てくるのかなってちょっとワクワクしてたのに!

 

「え、かつてないほどディスられてない? 方針転換する要素あった?」

 

「いやそういうつもりじゃなくて、ただ意外だなって」

 

「ま、まあ? りあむちゃんにもそういうフンベツってのくらいあるってことかな! どや!」

 

「とりあえず理由のほうは聞かないでおいてあげるっス」

 

「え、あ、助かります……」

 

 

 

 

 



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20

 

 目を覚ますと窓の外には雨が降っていた。昨日の晴れを疑いたくなるくらいの滝のような雨だ。ベランダの雨だれの音の間隔を凄まじい音が埋めている。うんざりしてため息が出てしまう。まだ高校は夏休みじゃないのに。これほど降るなら長靴を考えてもいいかもしれない。幸いなかなかいいデザインのものを先日見つけてはいる。……ただまあ、それでも替えの靴下の用意はしたほうがよさそうかな。

 普段よりもけっこう時間を取って家を出ることにした。この雨だと何が起こるかわからないし、それにただでさえ湿気が鬱陶しい。誰だってそう考えるように、私だってこの時期のひどい雨の朝に混み合う車両に乗りたくはない。それに比べればちょっと遠いだけの端っこの車両に乗るだけで頭に来るような事態を避けることができるのだ。これはライフハック。時間に余裕を持てばそんな選択肢が生まれてくる。

 

 雨音は電車の窓をも貫いている。奇妙な光景に映るのは雨滴が窓にないからだ。風がないのだ。でも雨に包まれている。私には不条理に見える。けれど現実に起きている以上、これは起こり得ることとしか言いようがない。シャワーなんかよりもよほど高密度の水滴が都心の空気を洗い流していく。

 まだ小さなころ、 “雨の中、傘を差さずに踊る人間がいてもいい。自由とは、そういうことだ” という言葉を何かで聞いて、なるほどと納得したことがある。そうして雨の日を待った。できれば小雨ではなくしっかりと降ってほしいと思った記憶がある。小さな私の小さな願いは聞き届けられて、あまり日を待たずにそれなりの雨の日がやってきた。私は合羽も傘も持たずに庭に出て、ただむちゃくちゃに手と足を動かした。それまで体験したことのなかった雨粒は予想を超えて大きく、新鮮な感動を肌に与えた。くすぐったくて、それが止まない。そのときの私にはそれが際限なく面白かった。あまりにも不確かな自由というものの体感の興奮と合わさって、それの終わりは考えられなくなっていた。折悪しくどころか狙って親が出かけているときを選んだせいで、誰からも止められることもなく私の無茶は続いた。

 それがどう終わったのかを憶えてはいないけれど、そのあとで酷い風邪を引いた。熱も四十度を少し超えて、年齢を考えれば死んでいても不思議はなかったとしばらくしてから聞いた。まあ、当たり前だ。小さな子供がずっと雨に打たれていたのならそうなるに決まっている。熱が下がって物事をきちんと考えられるようになったそのとき、私は初めて自分におかしなものを感じた。

 こういうことを思い出すから、私はあまり雨が好きじゃない。

 

 

 私の勝手なイメージが世間のそれと同じものだとは思わないけれど、意外と鷺沢文香という人は事務所に用事があるらしい。用事がなければ事務所に来ない私と鉢合わせすることが多いことがその根拠。自分で言っててため息をつきたくもなるけど、これもまあ、現実だ。

 

「どうされたのですか」

 

「いえ、文香さんと事務所でよくお会いするな、と」

 

 小さくまるく口を開けて、絵に書いたようなきょとんとした顔をしている。彼女の表情パターンはたぶん一般の想像を超えて多いと思う。アイドルとして人前に出るときにそれを極端に見せないというだけで。

 ついで口元を手で隠して、実に奥ゆかしい仕草だ、笑っている。細まる目と軽く揺れる肩でそれとわかる。私からすると面白い要素はなかったけれど、まあ、彼女を理解しようと思っても詮無い話だ。ゆっくりと目が開き、ゆっくりと腕が下りる。なんだかスローモーションの動画を見ているような気がしてくる。やさしく首を傾げて微笑む。

 

「私は泰葉さんを探していますから。事務所に来たときはいつも」

 

「なんでまた。そういうのは私相手じゃないでしょう」

 

「ご存じかとは思いますが、私には、あまり、いえ、友達と呼べる人がいません」

 

 たしかに想像には難くない。そもそも売り出し方の段階で人前に出てこないのだから、アイドルたちも接点を持ちにくいに違いない。おそらくそのままで成果が上がってしまっているから余計に近づけなくなったといったところもあるのだろう。とはいえそれを気にするような人物には思えない。失礼だけど。

 視線を私から外して焦点を遠くに当てて、また視線を私に戻す。こういったことを自然な動作に組み込んでいるから彼女は会話のペースを自分のものとして扱う。これを誰かに話しても、何をバカな、と言われるかもしれないけど、実際に体験しないと理解はできないと思う。そういう簡単には言語化できないものが世界には意外とある。それは自覚的かどうかでさえ問題にしないタイプの事柄なのだ。

 

「……私を除いて、ですか?」

 

「会話が進めやすくて助かります。頭の回転の早さとは本当に貴重な財産ですね」

 

「はあ。私はあなたにアイドルとしてのあなたが嫌いだと言ったんですよ? 初対面で」

 

「だからですよ。それはとても大事な意味を持っています」

 

 よほどの大物か、そうでないなら論理の破綻だ。どちらにせよまともじゃない。頭の奥のほうが鈍く痛んでいる気がする。

 文香さんは冗談を言う。真面目な話もする。それだけ見ればたしかに友人同士の会話で間違いはない。でも私には彼女がそのどちらを選択したかを見抜くことができない。条件が不利すぎる。

 

「私が他人に誇れるものなど書とともに過ごした時間くらいしかありません。ですが、そういった時間に浸かっているとわかってくることがあります。この世のほとんどは偽物の煌きによって構成されているということが。そして本当にいいものを見抜く力を持っている人間は驚くほど少ないということが。プロデューサーさんも、もちろん私も多数派です。誰しもが騙されます。少数派の意見は封殺されます。私は私を偽物だろうと思っていますがそれすら推測でしかありません。ですが泰葉さんはそうではありませんでした、確信をもって私のことを否定してくれた人ですから。私はあなたと出会ったあの日から、あなたと仲良くなれると本気で思っているんです」

 

 苛立たしいのは言葉にしていないものを読ませようとしてくるところだ。水族館のときもそう。あのときは読み取れなかったけれど。そしてさらに私の感情の揺らぎに拍車をかけているのはその内容だ。その不安は私たちならみんなが持っているはずのもの。たとえ脳裏をかすめても見ないように蓋をしているもの。私たちが必死にレッスンを重ね、トレーニングを積む理由。

 

「……私にあるのは目だけ、ですか」

 

「私は先の文脈で言う本物ではありません。泰葉さんも同じです。根本的なものが欠けています」

 

「っ、それは?」

 

「100万人を愛せないことです。私はそれを隠していないだけで」

 

 不特定多数に愛を注げないから、好き勝手に振舞う。シアターの出演予定に名前を出さず、顔を出しても歌わないことだって珍しくない。やりすぎじゃないのか。何がどうなってそれが許されているのかはわからないけど、私はそれを間違っていると思う。的外れなのかもしれないけど、でもそれじゃあファンが報われない。

 

「どうして、そんなことがあなたに」

 

「映画俳優が役に没入することと私たちを念頭に置くことは、同時に成立しないからです」

 

 自分の弱点を隠そうともしない人がよく知っているものだ。あの世界にいたときに何度も何度も違う言い方で教わってきたことを思い出す。スクリーンは境界線であり、一方通行の別世界の覗き窓なのだと。

 

「エンターテインメントでもない限り、役に入っている映画俳優はこちらの世界にコネクトできません。それは言い方を変えれば観客という存在を意識に置けないということです。ほら、誰も愛せません。私と瓜二つです」

 

 流麗に紡ぐ言葉は彼女のイメージをはるか遠くに置き去りにしていた。本当は普段からこれくらい口数が多いのかもしれないけど、それを確かめることはできない。彼女が自分で言ったように友人が一人もいないのなら。

 でも、彼女は何が言いたいのだろう。私を偽物と断じてどうするのだろう。ただ否定したいだけというのも筋が通らない。何せまだ成果らしい成果はひとつもないし、そもそも鷺沢文香の嫉妬する対象が私というのは冗談としても出来が悪い。

 

「それなら映画俳優はみんなが似ていると言ってもいいような気がしますが」

 

「そうかもしれませんが、そこからアイドルになったのは泰葉さんひとりです」

 

 この人は私と喧嘩がしたいのだろうか。正直なところ私は鷺沢文香という人物がまだよくわからないけれど、そういったことを楽しむタイプだとは思えない。もしかしたら想像を超えて破綻した人格を抱えている可能性もあるのかもしれない。でもそれよりはこの話の運び方の末に別の意図を見ようとするほうが建設的だと思う。

 たぶんいま大事なことは映画俳優の世界からアイドルの世界に飛び込んできたのは私だけ、ということだ。それがアイドルとしての致命的な欠点につながっているということだ。あえてそのことに触れているなら、もしかしてその欠点の修正について教えたいのではないだろうか?

 

「まあ、たしかにそうですけど。でもそれならその確認にどんな意味が?」

 

「お誘いしているのです。ファンと向かい合おうとするのを諦めましょうと」

 

「……は?」

 

「同じ目線に立てる、と言い換えたほうがよいでしょうか。彼らのことを愛せないなら無理やりに愛そうとしてはいけません。いっそ愚かなものとして見てはいかがでしょうか。途端に愛らしく見えてきますよ」

 

 破綻していた。そうだ、何を勘違いしていたんだろう。この人がそんなものを知っているわけがない。知っていても教えてくれるわけがない。自身で実行していないんだから。

 

「さっき文香さんは本物なんてほとんどいないとおっしゃっていましたが、今のアイドルはみんなファンを愛せないと?」

 

「……度合い、いえ自己催眠の強度の問題でしょう。その中で泰葉さんが特異だという話です。先ほど私は私に見る目がないと言っているので眉唾物の話になってしまうのが残念ですが」

 

「じゃあ、幸子ちゃんはどう説明するんですか。私にはあの子が偽物だとはとても思えない。あの子ほどファンを見ているアイドルはいないと言い切ってもいいじゃないですか」

 

 私は、いま、たぶん混乱している。どうして幸子ちゃんの話を出したのか、そこからどのように話を運んでいくつもりなのかを自分で理解できていない。けれど、この瞬間に何かが潰されようとしているのだ。そのことについてだけ頭が追い付いて、無意識下の防衛本能のようなものが勝手に働いているのだと思う。

 

「幸子さん、素晴らしい方です。ファン心理というものを本当によく心得ていらっしゃる。彼女に人気が出るのは理由のないことではありません」

 

「…………っ」

 

「世界中が多数派なのですからそこに照準を合わせればいい。論理的で合理的です。おそらくではありますが、幸子さんも私たちと同じなのでしょうね。選択が違ったというだけで」

 

 ぎちぎちと何かが軋むような音が聞こえる。ここはどこだろう。ここは何かがおかしい。そうだ、今の話はただ聞いただけのものに過ぎないのだから聞き流せばいい。信じなければいい。文香さんは違うモノなのだ。信じないとならない理由はどこにもない。変えろ、話を。

 

「……本物は、いないんですか」

 

「そうですね、……夢見りあむさんという方をご存じでしょうか」

 

「え、ええまあ、知っています」

 

「とても、とても面白い方です。ファンへの愛という地平に立っていません。私たちとは根本的な物の見え方が違っているはずです。どのような道を歩まれてきたのか想像もつきません」

 

 それはまるで恋するような恍惚とした表情で、あまりにも場にそぐわないもので、私は吐き気を催した。この人は、本当に破綻している。あらゆる基準が自身に依拠しすぎている。そんなことが現実にあり得るのかを考えてはいけない。そこにあるものを現実と呼ばないのは逃避でしかないのだから。慶さんが対面での接触を禁じられていると言っていた理由はきっとこれだ。私がたまたまめぐり合わせで今日までこの状態の文香さんと話したことがなかっただけで、彼女と二人で話をしていたらおかしくなる人は出るだろう。過去にはいたのかもしれない。

 ふと、この人はりあむさんと知り合いなのだろうかという考えが浮かんだ。発言としてはどちらとも取れるものだけど、名前が挙がるという点を見れば知り合いであっても不自然はない。りあむさんが文香さんのファンであることは知っている。そこで止まるならそれでいい。けれど、もしも個人的な付き合いがあるのだとしたら。

 とりあえずその確認はりあむさんにしたほうがよさそうだ。この人にしてはいけない気がする。

 

 

「あ、もしもしりあむさんですか」

 

「ええと、ちょっとお聞きしたいことがありまして」

 

「あっ、そんな重たい話じゃなくて。単に文香さんとお知り合いなのかな、って」

 

「……あー、そうなんですか。いえ今日たまたま文香さんと話す機会があって、それでりあむさんの名前が出てきたので」

 

「はい。それだけですよ」

 

「あはは、いいですよ。レッスンの愚痴くらい」

 

 どうやらイヤな予感は当たってしまったらしい。さて、でも参ったな。できることがない。

 

 

 

 



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21

 

 ドッジボールで、外野の男子にパスしなかったらバカと言われたことがある。体育の授業。そう言われてぼくの内側には言葉にならないもやもやしたものが生まれた。外に出ていきたいのに出ていくための正当な手順の踏み方がわからない、そんな気持ち。体の内部の圧力だけが上がっていくような、ものすごくすっきりしない感覚。男子に向かって何も言えなかったのは悔しかったなあ。おうちに帰ってもなんだかもやもやしたのがずっと残ってて、それがお風呂入って湯船に浸かった途端にかたちになった。ぼくは周りを見られないダメなやつなんだ、って。

 意識の外でなんとなく漂ってた考えが実は大事なものだったなんてことはよくある話で。ぼくの場合はこのドッジボールがそういうののわかりやすい経験だった。湯船の理由はわかんない。

 

 

 メモを取りまくったノートを見返す。たぶんだけど、教えてもらったことをうまく組み合わせれば技術的には小説を書き上げることはできるんだと思う。まあでもそのために必要なものが足りてない。たとえばどんなのが主人公なのか、物語を通して何を解決するのか。ここをぼくが決めないといけないってのがキツい。お手本がないわけでしょ? ぼくが決めちゃっていいものかってのもあるけど、それできちんと物語が最後まで動くのかみたいな不安がいっぱいある。やむ。

 まずは書いてみてそこから修正の繰り返しかあ。文香ちゃんって意外とぼくの労力とか考えてなかったりする? それともぼくが甘い? そんなの当たり前なのかな、教えて全国の作家サマ。

 テーマと主人公の解決する問題のリンクもまだまだ課題。家で例えたらぼくはまだ基礎工事が終わっていない段階なのだ。これは口酸っぱく言われてる。最初にテーマを決めること。物語を読み終わった人のうち、誰か一人でいいからそれに気づいてもらえるようにすること。だからまあ、作品内でいちいち言わなくていいんだろうね。考えてみればこれまで読んできた小説にはこれがテーマですよ、なんて言ってるやつはなかったかも。さっきの家の例えを引っ張るなら基礎工事の部分が見えてる家なんてないし、あったらヤバいでしょ。ないよね?

 

 ぼくが伝えたいことがテーマになる。海ちゃんにもヒナ先にもおんなじこと言われてきたし、ぼくもそれが正しいと思うから繰り返し繰り返しそれを考えてる。書きたくないことはテーマにならんやろ、はい正解。ごろんと転がる。

 

「りあむがそうやってノート見ながら転がってんの新鮮だね」

 

「いちおうぼくだって勉強の経験くらいあるやい。これ苦肉の策なの!」

 

「で、なんでそんなうんうんうなってるんスか?」

 

「文香ちゃんから教わった内容で一個だけしっくり来ないんだよね」

 

 海ちゃんはテーブルに頬杖ついてこっちをちらっと見た。もともとテレビ見てたからもう目はそっちに戻ってる。結ったポニテは背中に残りっぱなし。ほんと長いよね海ちゃんの髪。ヒナ先はスマホゲーの日課消化中なのかな。なんかすごい雑にタップしてるし。

 エアコンはいらない気温だけど湿度がキツい。肘の内側とかぺたぺたする。お風呂入ったらさっぱりするんだろうけどすぐ元通りになるから気が進まない。風がないのがこんなに厳しいとはね。毎年一度はおんなじこと思ってそうだけど、いちいちそんなこと覚えてられんしな。

 

「ねえヒナ先、前にうみんちゅにも聞いたんだけどさ、現実と小説をつなげるってどういう意味? いやわかったところで、みたいな部分あるんだけどね。でも文香ちゃんがぼくには必要なことだ、って」

 

「えーと、ファンタジーな意味でなくて?」

 

「うん」

 

 悪いっスけど、って言ってヒナ先は首を振った。ま、そりゃそうだよね。むしろ簡単に説明されても困るっていうか。じゃあ、きっと比喩表現だ。でもそれが何を指すのかがわからんからぼくはもう半回転する。ごろり。

 

「逆にりあむちゃんから見てそうなってる本はないんスか?」

 

「ぼくから見て? 考えたことないかも」

 

 とはいえそんな経験あったっけ。本を読み始めたのは高一でフラれてからだからそんな量多くないし。ってかそんなバチバチに読みまくってたわけでもないしね、それほど時間置かずに地下系のドルオタにもなったから。しかしそんな小説なんて言われても。

 

「最近よく読んでるやつは?」

 

「ええ~? あれ読んでて吐き気するだけだよ? そんな影響あるわけ、って、え……?」

 

 待て待て待て待て。小説が、歯車が、現実のぼくに影響を及ぼしてる? つ、つつ、つながってないかこれ……? あっち側の世界と、ぼくの生きてる現実。文香ちゃんはこのことを言ってたんだ。これを書けって言ってたんだ。ファンタジーなんかじゃない!

 あれ、じゃあどうして歯車だけがぼくの現実とつながるんだろう。

 

「え、あれそんな本なの。読むの止したほうがよさそうだけど」

 

「ややややべー、うみんちゅ。やべー、つながってる、現実と小説」

 

「え?」

 

「ぼくの吐き気が証拠。ぼくに影響出てる。でも変なんだ。また一個わからん」

 

「ああ、まあ言われてみればそうか。で、わからんことって?」

 

「なんで歯車なの?」

 

 うっわあ、知らねーって顔してる。そりゃそうだよ。ぼくがいちばんわかんないといけないことだもん。そもそも海ちゃん本読まないんだから余計だよ。内容どころかタイトルも知らない作品がどうしてぼくにぶっ刺さってるのかなんてわかるわけないだろ。いつもよりテンパってるぞぼく。

 ヒナ先を見る。やっぱりピンと来てない。ぼくらの年代で歯車読んだことあるのって何パーセントだ? もしかして小数点以下だったりするか?

 

「そもそもそれってどんなお話なんスか?」

 

「えっと、そうだな、死のイメージに、命のほうね、追いかけられ続けるっていうか」

 

「そりゃ吐き気もするだろ。何も楽しくなさそうじゃないか」

 

「いやでも違うんだよ、うみんちゅ。たしかにぼくこれいちばん嫌いなんだけど、そのぶん何かが刺さるんだよ。逆かも、通ずる部分があるから嫌いになれたっていうかさ」

 

「浅い意味で嫌いってわけじゃないんだな」

 

 そうだ。ぼくは特別に嫌いなんだよ。これまで気にしてなかったけど間違いない。いま口にしてあらためて腑に落ちたっていうか、そういう感じ。ぼくと歯車は何かが共通してる。それもちょっと他の小説とは違うレベルで。たぶんそうじゃないと吐き気の説明がつかない。だってそれは歯車だけなんだ。

 

「うん、そう。浅くないの。でもその理由がわかんなくて」

 

「他の芥川の作品は読んだんスか?」

 

「うん。この本にもあと二つ短編があるし」

 

「あー、芥川龍之介の本なんだ? 国語の授業で聞いて以来だな」

 

「じゃあ本当に特別ってことになりそうっスね。他のと何が違うのやら」

 

 ここを詰めれば鍵が開きそうな気がする。責任を持たないとダメ、って文香ちゃんは言ってた。そうすれば現実と小説がつながるんだって。そのための鍵。

 ってことはきっと芥川龍之介は何かをしたんだ。たぶん意図的につなげるための何かを。物語の完結と完成は違う、んだよな? それをこいつは完成させたんだ。つーかそう考えたらアレだな、ぼく以外にも歯車が刺さってる人はいるはずだし、こいつの他の作品が刺さる人もいるって考えたほうがいいな。

 うぅ、わかんねえ。たぶんだけどこれぼくの最後の問題になるんじゃないか。やみそう。

 ……これってもし芥川がした何かがわかればぼくが書かなきゃならないお話もいっしょにわかるのか? それともその二つは別なのか? いやたしかに初めから比べたら考えることが絞られてはきてるけど、難度おかしいだろこれ。ぼくが勝手にドツボにハマってるんじゃなくて、初めっからこれくらいのことやらせるつもりだったんだとしたらPサマ本当に正気か疑わしいぞ。

 

 

 前より体力ついたとはいってもライブはやったら疲れるんだよ。パフォーマンスに変化いれるようにもなったしな。そもそもが人前に立つんだぞ。ま、こんなふうに考えられるようになったし、ステージの上でのことも思い出せるくらいには余裕でてきたけどね。でもぼくのグッズ持ってる人ちょっと増えたよな。あの絶対に普段からは使えないうちわもえっぐいピンクのタオルも。さすがにサイリウムはぼく専用の色とかまだないけど、持ち帰り用のグッズとか売れてんのかな。今度聞いてみようかな。

 わかるぜ、ぼくじゃなくてもよかったのかもしれないけど、実際何に救われるかなんてわかったもんじゃないもんな。そこに共感できちゃうぼくは、そもそもが謙虚になっちゃいけないんだ。

 

 部屋に戻ってきたら着替える前にテレビのスイッチをつけるクセはいつついたんだろう。何かしら音がないと寂しいからっていう理由はあるんだけど、最優先か? って自分で思うこともある。まあどうせ答え出ないし考えないんだけどね。

 ………なんで教育テレビ?? 昨日ぼく何見てたんだっけ。まあいいや、さっさと着替えよ。

 あれだな、世代を超えてもおかあさんといっしょは変わらないんだな。あのでっかい着ぐるみがコントみたいなのやって、そのあと子供といっしょに歌って踊るんだな。なんというか、組み立てがしっかりしてる。飽きない作りっていうか。……ぼくやべーやつなのかな。19歳だぞ。これまじまじと見てるのアウトっぽくね?

 ちびっこどもがきゃっきゃしながら走り回ってるのはやっぱほほえましい。なんかだんだん頭がぼーっとしてきて、これでいいんだよって気がしてくる。そう、これでいい。ぼくはぼくの未来に自信とか保証とかぜんぜん持てないけど、それでも頑張って生きてくことになるんだと思う。やりたいようにやろうにも、って話だ。

 ふと意識がはっきりのレベルまで戻ってきてため息。おかあさんといっしょ見ながらこの感想はヤバいでしょ。ぼく本当に疲れてたりしないか?? 事務所にカウンセリング受けられるとことかあったっけ?

 

「ふー。おなか空いたな」

 

 なんかこれ以上考えたら混乱しそうだなって思って考えなくても言えること言ったら失敗した。こういうのは口にすると余計にひどくなるんだった。あーあ、冷蔵庫になんかあったかな、さくっと作れるやつだと最高なんだけど。

 冷蔵庫のひんやりした空気が、なぜかそれまでかたちのなかった考えに輪郭をつけた。

 へー、ふーん。

 

 …………って、あ、あれ? も、ももももしかして、ぼく、わかっちゃった? のか??

 

 

 

 

 



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22

 

 走れば、酸素を脳に回す余裕をなくせば何かを考えなくて済む。答えの出ない問題に頭を悩ませるよりも体を動かしたほうが今の私には有用なのだ。だから走る。ダンスの振付やステップの復習は頭も働かせる必要があるから、その隙間から考えたくないものが忍び込んでくることがある。歌の練習は考える余裕をなくせるけど場所の問題があるのが惜しい。年末のステージに出ると聞いてしまってからは余計にその思いは強い。でもそんなに簡単にはいかない。当然ではあるけれど、人気のあるアイドルが収録や練習のためにその部屋を使うから。私たちのユニットが出るというのが公開情報になっていれば事情は違うのかもしれないけど、そうでないのだから実にならない話だ。

 レッスン用の棟にルームランナー専用の部屋があって本当に助かっている。一人になれる。きっとストイックなアイドルが要望を出したか、そうじゃなかったら設計段階で私みたいな人間が出ることを想定した変な人がいたんだろう。………この事務所ってことを考えると意外じゃないと思えるのは私も染まってきているからだろうか。

 

 息が上がって何かがせり上がってくるような危機感の中をそれでも走り続けると、仄白い世界に出たような気分がしてくる。目に映る景色はそれまで見えていたものとまったく変わりはないし、肉体的にまずい状態に陥っているわけでもない。ただ気分が変わるだけ。もちろんこういう感覚を誰かに話したりはしない。どのみち言わないほうがいいのに決まっている。そうすれば変な誤解は生まれない。

 

 

 事務所から帰るときにはいくつかルートがあって、私はよく中庭を通って帰る。実物を見たことがない人は東京都心の会社の中庭なんて狭そうだと思うだろう。だけど実際は散策ができるしカフェテーブルでお茶もできる。ちょっとした規模の公園くらいはあるのだ。日なたで読書をしていたり走り回ったりしているアイドルはよく見るし、聞いた話だとガーデニングをしているアイドルもいるらしい。

 いつものように今日もとくに何も考えずに中庭を通って帰ろうとして、その途中のベンチに人が座っているのに気が付いた。私も休むことがあるベンチだ。とても姿勢がいいとは言えない、だらっとした感じで座って遠くを見ている。何かあったのだろうか。失礼と思う前に目がいって、それが慶さんだとすぐにわかった。自然と足が向いていた。

 

「どうされたんですか?」

 

「ああ、泰葉ちゃん。いやあ、まあその、ヘコんでると言いますか」

 

 ばつが悪いのと照れくさいのが混じったような反応のせいで本当っぽさが増す。さて、話を聞いたほうがいいものか。人によっては放っておいてほしいだろうし、聞いてもらったほうが落ち着くパターンもある。難しいところだけど、慶さんならそっとしてほしいのならそう言うだろう。だから私は隣に座ることを選択した。

 

「どうして、っておそらくお仕事の関係とは思いますけど」

 

「あのー、今日ですね、見学ってことで姉が担当してるレッスンを見に行ったんです」

 

「どなたのレッスンだったんですか?」

 

 何の気もない質問だ。儀礼的どころかそんな意識さえ浮かばないほどのもの。ドアが開いたら通れるようになるでしょう、なんてわざわざ誰も言わないのと同じことだ。

 

「輿水幸子ちゃんですよ」

 

 ただドアの向こうに怪物がいただけのことだ。

 

「本当に凄かった。だって幸子ちゃんなんて私なんかよりずっとギチギチのスケジュールで頑張ってるのに、その合間にしか入れられないレッスンの集中力とは思えませんでした」

 

「でも幸子ちゃんはアイドルですし、言い方はよくないですけど慶さんはあまり気にしなくても」

 

「あ、そこは大丈夫ですよ、私もそこまで勘違いしてません。ショックを受けたのは姉のやり方というか立ち振る舞いというか、………信頼のかたちというか」

 

 だんだんと力がなくなっていくのを見ると最後が想像以上に衝撃的だったんだろう。名前は出ていないけれど、幸子ちゃんのレッスンを担当していたらしい話の流れからして麗さんのことなんだと思う。そうは言っても私と面識のある人じゃない。ハイクラスのアイドルをさらに指導できる数少ない人であり、またハイクラスのアイドルでなければその指導についていくことができないと聞いている。つまりりあむさんが指導ではないにせよ特別メニューを組んでもらっているのはものすごく異例なことだ。

 

「その信頼のかたちというのは?」

 

「えっと、せいぜいが振付の細かい修正とか通しでの動きの確認かなって思ってたんです。ほら、年末のライブの。でもいざ時間になってみると振付師の方まで来てて、曲ごとのバランス考えて振付の変更まで三人で相談しながら進めてたんです。もちろん幸子ちゃんも意見を出しながら」

 

 そんな姿をイメージするのに難しいことは何もない。まあ、やりそうだな、くらいに思う。

 

「修正入れて、軽く踊ってみて、向きを考えたら違うんじゃないかとか別の提案とかがずっと止まらなくて、正直キツいこと言ってるシーンもけっこうあったんですけど、それがおかしくなくて。完璧でした。顔つきはすごく真剣なんですけど、シルエットはすっごくかわいいんです」

 

「100%、ってやつですね」

 

「それです。全力でぶつかればいいものが生まれるっていう確信があっちにはあったんです」

 

 言うのは簡単だけど、のいい例だと思う。能力と人格のどちらにも全幅の信頼を置くのは簡単なことじゃない。恥ずかしい話、私にそんな相手はいない。友達とはまた違う領分なのだ。そういう人物がそばにいることもそうだし、自分がその対象になれるということが、どれだけ。

 トレーナーという立場を思うとき、慶さんが歯嚙みをするのは当然だ。私の想像力では、その信頼のかたちは最後の到達点だ。そんなものが身近にあるなら憧れないはずがない。真面目であればあるほどに。

 

「私、甘いんでしょうかね」

 

「………麗さんと比べてしまうとほとんどの人はそれを否定できません。でも、その甘さが必要になるときが必ずあります。幸子ちゃんにはいらないかもしれません。私もどうだかわかりません。でもミスしたときに次頑張りましょうって慶さんに言ってもらって立ち直るアイドルは絶対にいると思います」

 

 私は人生経験が豊かなわけじゃないから、場面に応じた適切な言葉なんて出てくることのほうが少ない。だから少なくとも嘘は言わないようにしている。私は人間をバカにしていない。こういうときの間に合わせの言葉は意外なほど見抜かれるものだ。正直が一番だと断言はできないけれど、思ってもいないことを今ここで口にするのはきっと間違っている。

 私の言葉がちょっとでもクッションになればいいと思う。

 

「ありがとうございます。ヘコんでる場合じゃないだろう、一足飛びどころか数段飛ばしの憧れだぞってわかってるつもりなんですけどね、でも、いいなあ。うらやましい」

 

 これ以上言えることなんて何もない。似たような気持ちは私にもわかるから。

 それから十分くらいのあいだ、私はただ慶さんの隣にいた。やけに中庭の若い緑色が強調されているような感じがした。これからどんどん色を濃くしていくんだろう。もしかしたらすでに出来上がった色なのかもしれないけれど、おしゃれに刈り込まれた生垣だから事情はよくわからない。

 

 

 自販機前の異世界に足を向けたのは、諦めの混じった確信に近い読みからだ。幸子ちゃんは私と顔を合わせるときのいつもの感じであそこに立っているだろう。さすがに何を飲んでいるかまでは当てられないけど。この敷地内の建物にしては妙に光の少ない、私たち以外の人の姿を見たことのない自販機前。

 はたして彼女はそこにいた。壁に背を預けた立ち姿が様になっている。輿水幸子の場合、様になるという言葉にはカワイイという意味が常に含まれている。常識に照らし合わせて考えれば、そのポーズと性質はあまり両立しそうには思えないけど、自分の目に映るものを否定してはいけない。そうするとまた別の、それももっと根本的なものを否定しなければいけなくなる。

 

「おや、泰葉さん。こんにちは」

 

「こんにちは、幸子ちゃん。今日は事務所に用事ですか?」

 

「いえ、大事なレッスンでした。やはりこういう日がないといけませんね」

 

「どういうことでしょう?」

 

「いくらボクがカワイイと言ったって人間ですからね、きちっと締めるところは締めないと油断がどうしたって出るってことです。パーフェクトに詰めないとファンの方に失礼ですから」

 

 幸子ちゃんにおける標準的な表情からは誇張表現は読み取れない。真剣にそう思っている。そしてそれを実行する。それがどれだけ難しいことか。ただ彼女はそれを難しいことと捉えていない。なぜなら輿水幸子は100%のアイドルだから。そんな感情は捨ててしまったのだ。

 

「さすが、というかいっそ怖いくらいです」

 

「そうでしょうか? 普通だと思いますけど」

 

 くぴり、とペットボトルを傾ける。いつかのピーチソーダだ。

 

「口にはできても、みたいな感じじゃないかと」

 

「そこはボクにはわかりませんね。まあ、タイプが違うということなんでしょう」

 

 機械かと毒づきたくなるほど模範的で、徹底的で、疑いの余地がない。私たちはステージの上の彼女を見てきているし、その姿に完璧な輿水幸子というアイドルをいつだって一致させている。

 そうでなければ “100%、アイドルになればいい” なんて間違っても出てこない。

 

 場所そのものの意味を思い出して私はようやく財布を手に取った。何を買おうかと考えるのさえ面倒に思えて、ミネラルウォーターをさっさと選ぶ。考えてみれば走ったあとにスポーツドリンクを飲んでいたからこの選択は正解だ。糖の取りすぎはいけない。

 相も変わらず幸子ちゃんはちびちびとしかピーチソーダを飲まなかった。どれくらいここにいるのだろう? そのペースだと炭酸が抜けてしまいそうに思えた。

 

「………レッスン。やっぱりレッスンですよねえ」

 

「幸子ちゃん?」

 

「いえ、泰葉さんとお話をしてあらためて振り返ると、基盤がそこにあるんだなって」

 

「………積み重ね」

 

「まさにそれです。望む姿を手に入れるのは大変ですね」

 

 彼女には彼女なりの苦労があるのだと思うと、途端に幸子ちゃんに人間味を感じた。私はいつも失礼なことばかりを思う。誰もが同じくらいに失礼なことばかり考えているなら気が楽になるけれど、まさか他人の頭の中を覗いてみるわけにもいかない。

 私から視線を外して遠くを見つめる目は、絵になるけれどアイドル輿水幸子のものではなかった。それを見せてくれているのは私も同じ仕事をしているからかもしれないし、あるいは友達と思ってくれているからかもしれない。

 

「幸子ちゃんにとって、アイドルって何ですか?」

 

 つい、口をついて出てしまった。

 

「求められることそのものです」

 

「求められること?」

 

「ボクたちはファンの方々がいてくれることで存在しています。デビュー直後の時期を除けばファンのいないアイドルはあり得ません。厳しい話だとは思いますが」

 

 きっぱりと言い切る。この年下の先輩はどれだけ多くのものを見てきたのだろう。

 

「でも、そういう関係であるからこそボクたちはファンを大事にしますし、それを受けてみなさんはボクたちを求めてくれるんです。相互補完の関係と言えるかはちょっと疑問ですけどね」

 

「………相互、補完」

 

「思い切り夢のない言い方をしてしまえば、ファンとボクとで成立する状況です。環境と言い換えてもいい。見方によっては観客参加型の演劇とさえ呼べるかもしれません。この考え方を極端だと言う人を否定はしません。ただボクにとって、アイドルとはそういうものです」

 

 ぞっとするのは、その内容が文香さんの考えと通ずる部分があることだった。血の通わぬ論理。そこにはまだ議論の余地があるように思えるけれど、私の中にそのためのスペースはない。見る行為と見られる行為のシステム化。水族館。

 魚は、いつ死ぬ?

 

「あ、あの、幸子ちゃんがいつも言ってる100%っていうのは」

 

「そうです。どうせなら、っていうと言葉が軽すぎますけど、見てもらうなら完璧なボクでないといけない理由はそこにあるんです。99%じゃダメなんです。たとえファンの方々がそれでいいって言ってもダメです。なぜならボクはアイドルで、輿水幸子という状況だからです」

 

 この先を私はもう聞きたくない。あの人の言っていたとおりだ。幸子ちゃんも文香さんと同じ壊れ方をしている。取った手段が違うだけだ。

 薄暗い辺りを自販機の明かりがわずかに照らしている。ぶううん、と日常では聞こえないはずの作動音がよく聞こえる。異世界の底をグロテスクな深海魚がまた低く低く泳いでいる。

 

「ボクはですね、泰葉さん。お尻のお肉が垂れたら死ぬつもりでいるんです」

 

 

 

 

 



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23

 

「ねえ文香ちゃん、ちょっと聞いてみたかったんだけどさ、文香ちゃんは小説書かないの?」

 

 ちょっと前から文香ちゃんとの時間は雑談のものになってて、ただぼくには楽しいだけの時間に変わった。書く前に教えられる知識は伝えきったって言う文香ちゃんいわく、もう段階的には質問に対して回答をしていくのが効率的になってるらしい。ここから先を一方的に教えちゃうと、書き方によっては的外れどころか悪影響を及ぼす可能性のほうが高いんだってさ。マジかよ、繊細だな小説家。

 さて、ぼくはテーマをどうにか見つけたけれど書き始めてはいないからまだ質問はないわけ。そしてこれは本当に気になってたんだよね。だって知識量ヤバなんだもん。

 

「書けない、が正確でしょうか」

 

「えー、それはウソでしょ。ぼくより絶対に書けるじゃん」

 

 首を振るとさらっさらの髪がホントに音を立てて揺れる。黒のロングのストレート、男の憧れ。ぼく女だけど。いや女の憧れでもある。でも似合うかどうかはガチで人を選ぶし手入れの手間もとんでもない。まあぼくは許されんな。たぶん手入れ大変で泣くし。

 

「……物語を完結させることはできるかもしれませんが、完成させることができません。これでは小説を書く意味がありません」

 

「あー、責任、だっけ?」

 

「それもありますし、何より私には伝えたいことがないのです」

 

「そうなんだ、文香ちゃんアタマ良いからいろんなこと考えてるもんだと思ってた」

 

 ぴたっと止まってただぼくに視線を送ってる。おいおいりあむちゃん照れちゃうぜ。つか現世の女神のきょとん顔をこの至近距離で眺められんのぼくだけじゃね? うわぁい、マジで顔がいい。履歴書に書いていい。なぜ文香ちゃんのプロデューサー氏はこれを使って売り出さないのか。でもそのおかげでぼくだけがこの状況を楽しめるのでありがとうございます。うひひ。

 いいなあ、本当に美人。しかも前に出ない感じの。いったいどんな人生だったんだろう。学校にファンクラブとかあったのかな。クラスの男子どもは授業中にこっそり視線を送りまくったんだろうか。席替えで隣を引いたやつはガッツポーズ取ったりしたんだろうな。女子からは嫉妬されたりしたのかな。それすらなかったのかも。学年一可愛いとかならまだわかるけど、このレベルだもんな。手ぇ届かんもの。

 

「ねえ文香ちゃん、歌と小説って違うの?」

 

「どういうことでしょう?」

 

「ぼくね、文香ちゃんのカカオバター好きなんだけどさ、なんか気持ちがざわつく感じがね。でも考えてみたらそういうのって小説も同じじゃねって思って」

 

「……たとえば例に挙げてくださったカカオバターですが、別れてしまった恋人のよく使っていたカカオバターを自分も使い続けるという寂しい曲です。ですが私にそのような経験はありません。それでも曲がりなりにも歌うことができるのは、詞から読み取れるものを想像力で補うことによります。そしてそれは高く見積もっても70パーセントの再現度でしかありません」

 

「いやまあガチの経験談だったら困るけど」

 

「それはつまり全霊を込められないことを意味します。ここが私にとっての小説との決定的な違いです。自ら作詞作曲を行えるような方であれば話は変わるのでしょうが」

 

「ふうん」

 

 雑談もネタが無限にあるわけじゃないからいつの間にか静かになって。いつもここで話してるから文香ちゃんとぼくは二人でいることにどんどん慣れちゃって、そうなるべきじゃなかったのにぼくらは気楽な関係になって、しゃべらない時間も許されるようになって。ぼくはスマホか小説用ノートを、文香ちゃんはタブレットを相手に終わりの時間を待つことも増えた。タブレットを使う文香ちゃんにはじめは驚いたけど、よく考えたら本が好きなだけで機械オンチなわけじゃなかった。思い込みのイメージはよくないね。

 

「りあむさん」

 

「ん?」

 

「小説、本当に楽しみにしています」

 

 何気ない感じでそんな声が聞こえたから文香ちゃんを見た。白百合みたいな笑顔があった。

 ダメだぞ、惚れるな、夢見りあむ。

 

 先に部屋から出るのが習慣になって、ぼくは頭の中で復習をしながら帰る。歯車を否定するぼくの小説は、楽しいぞって感じのものにはならない。たぶん。テーマのせいで主人公はそういう目にあうだろうし、救われるかっていうとかなり微妙。そんでもってぼくはこれからそういうのを全部作っていくことになる。文香ちゃんが言うところの加害者になるんだ。

 別に今から書こうとか考えてるわけでもないのに手がぬめっとしてる気がする。ぼくはこれから人を造って、その人生を決定する。生きようよ、って言うために。気ぃ重っ。

 

 さっきの文香ちゃんの歌の話がすごいヒントになるような気がしてる。結局のところの力点は、想像力には限界があって、それだと魂みたいなものを込めきれないってところにあるんだと思う。置き換えよう。つらいことがあっても生きようよ、っていうのがぼくの小説だ。つまりそれを体験すれば完成させることができるってことになる。いやそのためにつらい思いしろって最悪も最悪じゃね。でもただのつらいことじゃ弱いんだよな。そんなん珍しくもなんともないし。もっと、こう、死にたくなるような出来事。

 これまでそんなことあったっけ。なんか後ろ向きな人生の転換点。………あ、あったわ。いや、たしかにあれで映画見るのやめたけど。また失恋しろってか。誰とさ。待て待て、そもそも小説のためにそれは人生との釣り合い取れてなさそうなんだけど。え、達成してもやみそう。

 

 はーあ、好きな人、ねえ。実際そんな人けっこういるけど恋愛かってーと違うしなあ。どうしてぼくが小説のためにそんなの考えなきゃならんのだ。文香ちゃんも体験がないから想像でどうにかするって言ってたし。

 ごつん。アタマ痛え、と思ったら目の前に壁。おいおい前も見ないで考え事とかりあむちゃんも変わっちまったなあ。ふと気付く。おるやんけ。好きな人。ぼくが頑張ろうと思ったきっかけの人。汗がどっと出て顔面を流れまくってる。え、やなんだけど。おい気付くなよりあむ、なんで気付いちゃったんだよ。汗のほかに違う液体が顔を流れる。しょっぺえ。やだよ、どうして失恋しなきゃいけないんだよ。ぼくの人生がまた壊れる。蓋しただろ。

 ……違うわ。むしろだから今まで意識しなかったんだ。

 

 

「ねえPサマ、教えて。ぼくは逃げてもいいの?」

 

「止めないとは思う。が、もう少し事情が聞きたい」

 

「じゃあ、ぼくに小さな夢ができたとして、それを実現するためにはすごくつらい思いをしなきゃいけなかったら。そのときぼくはその夢から逃げてもいい?」

 

「いいんじゃないか?」

 

 あっさり言うんかい。

 

「え、マジ?」

 

「別にそれくらい自分で決めていいだろう。ただ俺はお前が何を天秤に乗せてるかを知らないから言えるっていうのはあるけどな」

 

 Pサマはアタマ良いからぼくが何を言おうとしてるのかなんてわかってそうな気もする。ぼくがこんな相談っぽいことするのなんて初めてだもん。Pサマにわからないのはぼくにとってのつらいことだけ。でもそんなことどうでもよくて、大事なのは逃げてもいいって言ってくれたこと。そんなんザコメンタルのぼくに言ったらぐいぐいそっちに引っ張られちゃう。いいじゃん、無理しなくたって。どうせうまくいったら儲けもの、みたいなことPサマも最初に言ってたじゃんか。

 

「でも結論は出てるんだろ? 逃げる、なんて言葉を使ってるくらいだ」

 

 うっ。

 

「んー、まあー、それはー……」

 

 痛いところというよりそこは核心。それは、しっかり最後までやれよって言うぼく。決断かー。たぶんそうだよなあ、考えてみたらPサマに相談に来た時点でだいたいの方向性は決まってたんじゃないか? 本気で逃げるつもりならぼくこんなとこ来ないもの。きっとなんにも言わずに、すっといなくなる。

 なんだかPサマのそれが、どうせそうなる、みたいな捨て鉢な期待に思えてちょっとやり切れない感じが残る。でもこれはぼくの被害妄想っぽいから口に出したりはしない。そんなことよりも言葉にしなきゃいけないことがある。

 本当に驚くっていうか呆れるっていうか、たぶんこの人はずっとぼくを待ち続けてたんだ。忍耐とかそういう話じゃない。ぼくには縁遠すぎて尊敬にすら値する能力。来るか来ないかわからない今日のぼくを待てるか? フツー。

 

「ねえ、ひとつお願いしてもいい?」

 

「言ってみろ」

 

「Pサマ、ぼくを人気者にして」

 

「わかった」

 

 返し方でぼくの読みが当たってたことがわかる。とくに明るい返事ってわけでもないし、重さを持たせたような声色でもない。その四文字にそれ以上の意味はなかったけど、ぼくに強烈に浸透してきた。この人はできる限りのことをする。ぼくは、それに応える。

 

「確認だが夢見、ここから先はよりアイドルだぞ」

 

「ぼくはぼくが救われたアイドルにはなれないよ。愛を振りまくなんてムリムリ」

 

「じゃあ何になるんだ?」

 

「何にもなれないよ、ぼくは夢見りあむちゃん。ザコメンタルの女の子だよ」

 

 不思議そうな顔をしてる。もしかしたらぼくとPサマじゃアイドルの定義が違うのかもね。ぼくはアイドルオタクだからなあ。ぼくが求めてるのは精神的なもので、アイドルって呼ばれていればいいってわけじゃないんだよね。はは、うっぜ。

 すこしだけ考えるそぶりを見せてPサマはうなずいた。納得したのかもしれないし、ぼくの言ってることがよくわからんからそのまま置いておくことに決めたのかもしれない。

 

「一週間くらいかな」

 

「何が?」

 

「それくらい経ったら忙しくなる。準備をしておけ」

 

 この業界の仕組みよくわかってないけどそれはおかしくない??

 

「え、う、うん」

 

「……なあ、前にこの業界の連中はみんなどこかおかしいって話したの覚えてるか?」

 

「覚えてるけど、急にどしたの」

 

 ぼくからすると具合の悪い思い出に分類される。ぼく自身わかってるけどぼくが憧れてた世界を狂ってるって言われていい印象持つわけないでしょ。

 

「でもお前はアイドルにならないと言っている。だからこそ期待してる」

 

「褒め方としても勇気づけとしてもヒドくない? Pサマそのへん下手くそなの?」

 

「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり、なんて言葉を古典から引っ張ってきた作家がいる。意味なんて読んだそのままだが、そいつが言いたかったのは別のことだと俺は思っていてな」

 

 また演説モード入ったかな。これ口挟めなくなるんだよね。しかも内容が不穏。

 

「純粋な狂人とその真似をした狂人のあいだには深い溝があるんだよ。結局、偽物は本物にはなれないんだ。それは努力だとかそういった問題じゃない」

 

「え、ねえ、状況的に応援するところでしょ? ぼくなんでディスられてんの?」

 

「夢見、お前はきっとオリジナルだよ」

 

 にっこり笑顔が最後に届く。ガチで応援してるつもりだ。やむ。

 

 

 

 



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24

 

 事務所のディスカッションスペース、背の高いカフェテーブルが置いてある場所だ、がいくつもあって助かった。もしも難しい顔をした私がそこを占領していたとしたら文句が出ただろう。名前も顔も知らない新人がいい気なものだと言われたかもしれない。実際にそうなるかどうかは別にして、今の私はそう思いたくなるほどに酷い顔をしているはずだ。壁をにらむように背中を思い切り見せるのはちょっと不自然だからできないけれど、できるだけ顔を見せないほうを向く。何食わぬ顔で悩める人はいるのかもしれないけれど、私はそうではないということだ。私が内心をきっちり隠せるのはスクリーンの向こうに限られていたから。

 右の手のひらが右頬を思い切り押しつぶす。歯の並びがあることが感じ取れる。肘にテーブルの固い感触が残る。今はこの立って頬杖をついた姿勢からすこしも動きたくない。ストローがあったら行儀悪く使ってしまいそうだ。

 家にいたらたぶん後悔するようなことをしてたと思うし、たとえば街に出かけても落ち着かないに違いない。だから事務所は最後の選択肢なのだ。そう、言葉としては避難に近い。

 

 どうしたものか。文香さんと幸子ちゃん。無視できる相手とは思えない。けれど選べと言われて選べるものじゃないのが頭の痛いところ。一方はファンをファンとして見るなと言えばもう片方はアイドルの岡崎泰葉のために私人としての岡崎泰葉を捨てろと言う。言葉にしてみるとなおさら酷い。私の見たところ、共通しているのはアイドルになることに意味を見出していない点だ。馬鹿げてる。ため息だって出るというものだ。

 こつ、こつ。知らず頬杖をついていない左手の指がテーブルを叩く。苛立っている。ただそれを認識したところで解決がつかない。だから余計に苛立ちが募る。鼻息が妙に熱いような気がする。

 

「お、どうしたっスか泰葉ちゃん。あんまりご機嫌には見えないっスけど」

 

「比奈さん」

 

 にゅっと音が聞こえる感じの登場に私は驚いた。気だるくテーブルにかけていた体重が一気にふつうに立っている状態の体重のかけ方まで戻される。実際のポーズは別にして。

 そのまま猫みたいにするするテーブルの向こうに回り込んだかと思えば、あの特徴的なふにゃっとした笑顔が私を迎える。私が先にいたはずなのに迎えられるとはこれいかに、という感じもするけどそう思ってしまうのは止めようがない。

 

「ささ、こういうときには話しちゃったほうがラクってね。アタシじゃ頼りないかもっスけど」

 

「え、私そんなに顔に出てましたか?」

 

「ある程度の推測に基づいた勘っス。よほど腹に据えかねる事情があるなら知り合いのいる可能性の高い事務所は避けるでしょうし、ここにはいるけどでも顔は見られたくない、そんな気分なら、ね?」

 

 慕う人が多いのにあらためて納得する。ただ優しいというよりは力のある優しさなのだ。ちょっとだけ強引であってもそれに手を引かれることに心地よさがある。ぎゅっと抱きしめられるのに近い感覚。

 

「参りました。ええとですね、まあ、アイドル論みたいなものを聞く機会がありまして……」

 

 言ってて歯切れの悪さにびっくりする。比奈さんはちっとも急かさずにただ聞いてくれている。頷いたり、それで、みたいなことを言ったりもしない。

 

「それが私に合っている、っておっしゃってるんですけど私にはわからなくて」

 

「注目株でスねえ、泰葉ちゃん」

 

 笑顔の質が変わらなくてがっかりしかけるけど、比奈さんは私が投げられた地獄なんか知らないのだから当然だと踏みとどまる。善意に対して常に正しく返すべきだとまでは言わないけれど、今に限っては礼を失してはいけない。美しいまでの比率の思いやり。そこにこそ私たちは安心するのだから。

 自分をなだめるためにひとつ呼吸をおいて初めて表情に気が回った。やっと眉間のしわを取る。笑うまではいかなくても人と話をするときに適した表情までもっていかないと。

 

「あれ、思ったより重めな話題っスか」

 

「お恥ずかしながら。何が正解かわからなくなってしまって」

 

「……あ、もしかして泰葉ちゃんって人から影響受けやすいタイプだったり?」

 

 短いあいだ顎に手をやって、はじけるように顔が上がる。大正解だ。ちいさな頃からの悪癖で、子役として活動できた一因でもある。元気よく肯定はしたくないけれど、ここで嘘をついては前に進めない。控えめに首を縦に振る。

 

「なるほど。泰葉ちゃん真面目っスもんね」

 

 どう答えていいかわからない。流れとしてはあまり褒められたものではないのだろう。でも私はそれ以外の生き方をほとんど知らない。業界にはスタイルというものがあるし、そういうものは将来を決定づけることが多い。いくつも例を見てきた。極端な例さえ。

 意識しないうちに後頭部に手をやっていたことに気付いてやりきれなさを自覚する。テーブルの上には何も置いていない。そんなところにじっと視線を落としているのだからよっぽどだ。

 

「どんな話を聞いたかわからないっスけど、泰葉ちゃんはもうちょっとテキトーでもいいんじゃないかなって思うっス。価値がありそうなら聞いたそれを試してみて、やってダメなら別のやり方に変えてみるくらいでちょうどいいのかもって」

 

「でも」

 

「アイドル論ってことだから、……まあ、信念みたいなものと仮定しましょうか。たしかに信念を持つのは大事なことかもしれません。でも変な話、泰葉ちゃんがそれを身につけるのはまだ早いっス」

 

 言われてみれば、あの二人のそれは信念と呼んでもおかしくないものだ。

 

「成功も失敗も、もちろん成功が多いほうがいいに決まってまスけど、どっちも経験が足りない。そういうのを積み重ねてちょっとずつ自分の中で形成していくものを信念と呼ぶとアタシは思ってまス。だって積み重ねがなかったら、泰葉ちゃん?」

 

「……根拠がないから、簡単に崩れる」

 

「アタシもそう思いまス。どんなヘンテコな信念でもバックボーンが存在してさえいれば説得力を持つっていうのは、まあ創作の論理でもありまスけど」

 

「私はまだ、何も決めなくていい」

 

 ほとんど機械的に、少なくとも私自身は何らかの思考を経た自覚もなく言葉をこぼしていた。まるで言い聞かせるように。それは言葉にすることであらためて私に浸透していく。

 たしかに私は他人の言葉に影響を受けやすいのかもしれない。そうでなければこんなにすぐに安心したりはしないはずだ。そして私は、やっとテーブルから目を上げて比奈さんの顔を見る。

 

「そりゃもう」

 

 こういった内容を、時には考え込む仕草を挟んだりはしたけれど、やわらかい表情のままで話し通してくれたことに感謝しないとならない。実際に新しい不安を与えることなく私を救い出すことに成功しているのだから。

 頭にかかっていた霧が完全に晴れたとはまだ思わないけれど、深海の匂いはしない。耳鳴りみたいな呼び声も聞こえない。自分の手に決定権があると自信をもって言えるのはいつぶりだろう。まさかアイドルになろうと決めた日以来?

 

「どうして私はこのことに気付けなかったんでしょうか」

 

「真面目で責任感が強すぎたからっスね」

 

 ため息が出る。なんという自意識過剰か。ここが事務所でなかったらテーブルに突っ伏しているところだ。額に手をやることが控えめな感情表現になるとは思ってもみなかった。言われれば思い当たる節なんかいくらでも出てくる。たしかになんだって自分ひとりでやろうとしてきた。

 

「……恥ずかしいです」

 

「まあこれも失敗のひとつってことで。でも覚えておいてほしいっス。泰葉ちゃんのそばにはいつだって誰かがいるっス。まず第一にプロデューサーさんがいまスし、アタシでもいい。なんならりあむちゃんだって。大変なときは頼りましょう。泰葉ちゃんに頼られたとなったらみんな黙ってらんないっス」

 

 額に当てた手が下ろせない。視界が滲んでいる。このまま顔を上げるなんて、とても。

 

 何分そのままでいただろう。比奈さんは私の肩を軽く叩いて行ってしまった。額の手をキープするために腕に力が入りっぱなしで、前腕がガチガチになっている。ほとんど悪い夢から醒めたような気分だ。そこから抜け出すために通った道は私には強烈だった。自分の行動のひとつひとつを撮った写真を一枚ずつ眺めさせられているような心持がした。比奈さんは知らず知らずのうちにその写真館で私の手を引いていたのだ。あるいは私の腕はその影響を受けた結果ガチガチになっているのかもしれない。

 その腕の凝りをほぐすためにあくせくしている私の姿はおそらく奇妙に映っただろう。でもそんなことは今はどうでもいい。とにかくあの悪い夢たちから私は醒めたのだ。

 そうした安心感のせいでできた心の隙間にふわっと疑問が滑り込んできた。

 どうしてあの悪い夢はあれだけ私を魅了したのだろう?

 

 

 

 

 



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「ねー、うみんちゅ」

 

「どうした?」

 

 海ちゃんはファッション誌を真剣に読んでる。自分に似合うかどうかも大事だけど、どんな人にその服が似合うのかを考えるのも面白いんだって前に聞いた。おしゃれしたい、ってよりも服飾に興味があるからなんだろうな。勉強に見えちゃうからぼくからするとうへー、って感じだけど。

 

「お願いがいっこあるんだけど、いい?」

 

「言ってみ」

 

「これから事務所行くんだけど、あー、その、背中押してくんない?」

 

「んー、いいよ」

 

「あれっ、何があるのかとか聞かないの?」

 

「なにか大きなことがあるんだろ。それがわかれば十分だよ」

 

 まあこんなふうにあらためて頼み事なんてしたことないもんな。予想はカンタンにつくよね。……こないだPサマ相手にもそんなこと思った気がするけどまあそれは気にしない方向で。

 いや、でもだからぼくは海ちゃんに頼んでるのかもしれん。ヒナ先相手だとぼくは泣きつく可能性あるからな。それやらかすとたぶん最後に病むだろうし、ガチで。

 いつも思ってることだけど、今日みたいな大事な日に満点の対応をくれたから感謝の意を込めてぼくの口からはこんな言葉が出てきた。

 

「うみんちゅホントいい女だな」

 

「だろ?」

 

 は? かっこよ。

 

「ねね、じゃあ背中押して背中押して」

 

「帰ってくる場所がここにあるんだから安心して行ってきな」

 

「え! 頑張れとかの応援じゃないの!?」

 

「弱音は吐いても諦めるのは見たことないし、そのへんはなんとかなると思ってる。大丈夫さ」

 

 いやぼくわりと逃げること考えたことあったけどね? 体力トレとかホントに死ぬと思ったし。実行に移さなかったのトレーナーさんが怖かったのが原因だよ?

 でも信じてもらえてるってのはいい。たぶんそれは地球でイチバンの燃料だ。ぼくより信じられる人に信じてもらえているなら、ぼくがぼくを信じない理由もない。じゃあきっとぼくはできるのだ。わはは、ありがとう海ちゃん。ヒナ先は帰ってきたときに甘やかすのをお願いします。

 行こう、事務所。泣くなよ、ぼく。

 

 

 あの日から何度この部屋に通ったのか、ぼくにはもうわかんない。おなじみの三階の角の部屋。だってぼくたちの話し合いは定期的なものじゃなかったからね。ぼくの印象ではここにいることを許されているのはたった一人。事前に予約とってるんだから当たり前ではあるんだけど、印象での話だともっとその感じが強い。座る位置も、向きも、空気感でさえ決められたみたいにぴったり一致する。そんなのぼくはここ以外に見たことない。

 ノブに左手をかける。あの日は何の意識もせずに、それどころかぼくが先に入るもんだと思ってドアを開けたけど、今日は違う。文香ちゃんが先にいることはわかってるし、ぼくは覚悟を決めている。ぼくは終わらせるために来たんだ。

 

 怖い。

 

 いつもみたいに文香ちゃんは本を読んでて、ドアを開けた音を聞くとぼくのほうに顔を向けた。思わずごくりと喉が鳴る。数えきれないほど思ったことだけど、文香ちゃんはなにかの完成形だ。なんか、美とかきれいなものとか、そういう単純な言葉では表現できないようななにかの完成形。なんなんだろうな、ぼくのひいき目のせいかもしんない。

 

「やっほう文香ちゃん、今日は雨だね」

 

「ええ、出歩くのが億劫になってしまいます」

 

 実際に使うまでは気づきさえしなかった傘立てにはもう傘が一本入っていた。飾りっ気のない、すごくシンプルなやつ。顔が見えるからって理由で事務所ではビニール傘が禁止されていて、文香ちゃんもそのルールには従ってるらしい。ぼくも傘を入れた。

 文香ちゃんの向かいに座って、ジッパーで閉められるトートバッグを脇に置く。動きがぎこちないのが自分でわかる。もうソファの肘置きに手をぶつけた。普段だったら絶対に意識にない心臓が強く強く脈を打つ。ぼく自身に音が届く。マンガとかでそんな表現をけっこう見るけどマジモンだとは思ってなかった。本当に傍にいる人に聞こえそうなくらい大きな音がしてて、ぼくは今日ここで心臓が爆発して死ぬのかもしれんと思いそうになる。いま健康診断やったら絶対にひっかかる。上の血圧300とか行ってる。

 

「こういう雨の日は、手に取りたくなる本が多くて困ってしまいます」

 

「文香ちゃんの場合それはいつもじゃないの?」

 

「……そうかもしれません」

 

 こうやって直に話すまでは天然っぽいところがあるなんて想像できなかったな。ぼくが客席から見てた文香ちゃんは舞台ではしゃべらずに歌ったらすぐに下がっていっちゃってたから。というかそんなもんじゃないな、まずゲリラでしか出なかったし、一曲歌い通すことのほうが珍しいくらいだった。それでもどっちかっていうと気難しい印象じゃなくて、冷めた感じのカッコイイ系だってぼくは思ってた。アルバムのジャケットもそんなテイストだったし。

 文香ちゃんは視線を上に飛ばしてる。たぶん天気の違いで読みたくなる本を頭の中で並べて数えてるんだと思う。ぼくはそんなの考えたこともないな。そういうふうに比べられるほどたくさん読んでるわけじゃないしね。

 いつからか特別になった顔を遠慮なく眺める。それは普通で考えれば幸せなことなんだろうね。でも、って言葉がぼくには付きまとうようになった。ま、普通じゃないのはずっとか、それは別に面白くもないね。

 もう早いうちに覚悟を決めなきゃいけない。長引けばダメになる。逃げたくなる。言ってしまえば終わりなんだ。ああ、言葉は銃弾だって教わったのも文香ちゃんからだったなあ。放ってしまえば戻ってこない、どこかに痕を残してそれは治らないって。それにならうなら、これからぼくはぼくのハートめがけて銃弾を撃つわけだ。クールだろ? 足ガックガクだぜ。

 

「ね、ねえ、文香ちゃん」

 

「はい」

 

「ちょっと、だ、んん、大事なね、話があるの」

 

「はい」

 

「あの、ぼっ、ぼくね、文香ちゃんがね、そのっ、……好きになっちゃったの。友達じゃなくて」

 

「…………」

 

「きき気持ち悪いよね、そうだよね! ごめ」

 

「夢でも見ているのでしょうか」

 

「へ?」

 

「叶うことなど万に一つもないと思っていました。どれだけ願っても絵空事だと。画餅だと」

 

「いや、ちょ、待っ」

 

「こんなに幸福な気分に満たされることなど想像さえしたことがありません。私のこれまで持っていたすべての基準など取るに足らなかったのですね。事実は小説より奇なりとはよく言ったものです。ですがひとつ訂正を。現実という、より奇妙なものがあるんですよ、バイロン」

 

「な、え、何を、そうじゃないよ、違う、だってぼくは失れ」

 

 文香ちゃんの顔がもう目の前にあった。感触が三つある。両耳を塞ぐように意外なほどの力が加えられていて、ぼくのつやつやとは言えない髪が頬に触れた。いやそんなことはどうでもいいよ。唇に知らない感触がある。これは、なに? 一度その何かが離れて、今度はゆっくりとそれが押し付けられてくるのがわかった。さっきよりずっと強い。強いのに痛みはなくて、それがやわらかいものなんだって気が付く。不思議な匂いがする。耳はうまく聞こえない。なんかの味がするけど、これは何だろう。ねばついてるけど。知らないものの渦の中に巻き込まれてたんだから、ぼくの脳なんて働くわけがない。目の前が何色なのか認識できない。え、目閉じてたのか、ぼく。

 二度目の感触を失くして、ぼくはゆっくり目を開けた。スローモーションみたいにゆっくり文香ちゃんが離れていくのが見えるんだけど、むちゃくちゃ近いからその実感が薄い。文香ちゃんの唇が光った。細い線がまっすぐ伸びて、ぼくの視界の下のほうに消えていた。これは、なに?

 

「違うじゃん! ぼくはここで文香ちゃんに拒絶されて、それで物語が完成するの!」

 

 文香ちゃんの青い目がぼくを見ていた。現実的じゃない青い目。じっと見つめられると簡単には目を離せなくなる。だってそうでしょ、そんなの当たり前だよ。言い訳として成立するレベルのものなんだぞ。

 かすかに唇が震えて、そっちに視線を奪われる。ダメだよ、やめて。嘘なんてついてないんだ。だからぼくに可能性を見せないで。何も言わないで。ぼくはただ嫌われるために来たの。覚悟してきたのはそこまでなんだよ。

 

「りあむさん」

 

 細い、透明な声がゆっくりぼくの鼓膜を狂わせる。

 

 

 ――ぼく、この人が欲しいよ

 

 

 ダメだダメだダメだダメだ。考え直せりあむ。覚悟決めてきたんだろ。背中押してもらったじゃんか。そもそもぼくが文香ちゃんと知り合うなんてことはあり得なかったんだ、幻だったんだよ。そうだろ。だから、あの尊かった空想の日々から今日で覚めるの。もとに戻るんだ、大丈夫だよ。いいから。わかってる。

 呼吸が荒い。まだ脈も強烈だ。わきに汗もかいてる。なんかの拍子に失神しそうだ。でもそれはダメ。ぼくはクソザコだけど、それでもいいんだよって失神する前に誰かに言ってあげなきゃいけない。ぼくは自分の夢の全体像がよくわからない。あれがしたいこれがしたいって具体的なものなんかじゃなくて、ぼくの夢は小説を完成させるとどこかで叶うもののような気がする。もしかしたらはっきりしたかたちではぼくの人生には最後まで関わらないのかもしれない。でも、それでもいいよ。ぼくが、夢見りあむがそんなことできちゃったら、きっと世界がひっくり返るぜ。

 

「ねえ、ぼくの小説楽しみだって言ってくれたじゃん。嫌いだって言ってよ」

 

「いやです。その言葉は嘘ではありませんが、だからといって自分の気持ちを偽るわけにはいきません。私は何よりも求めていた宝物を、それも手に入るとは思っていなかったものを、それ以下の順番のもののために捨てるほど無欲ではないのです」

 

「違うの。わかって。ぼくだって……」

 

「まだ間に合います。すべて私に任せてください。ひとつも不自由させません」

 

「そうじゃなくて、不自由とかじゃなくて」

 

「わかっています。大方のことは関係ありません。あなたは特別ですから」

 

 ああそうか。ぼくはもう加害者になるんだった。

 

「ねえ文香ちゃん、もうたぶんぼくおかしいんだ。聞いて。さっき言ったけどぼくは文香ちゃんが好きだよ。女の子としてね。どうにかなっちゃいそうなくらい。でも自分から言っておいてなんだよって感じだけど、ぼくは文香ちゃんから離れるよ。おかしいね。傷つくってわかってるのにね。ごめんね、ぼく最低だね」

 

 それだけ言っちゃうとすごく体が軽くなった。立ち上がるのにもバッグと傘を取るのにも引っかかるところがなかった。一点を見つめて動かなくなった文香ちゃんを横目にして、ドアノブに手をかけた。ドアは当たり前の音を立てて、当たり前の重さで開いた。手を離すとそのまま閉まった。視界が滲んだ。涙がぼくの頬を伝って顎まで届いた。それがぱたぱた床に落ちていく。胸の奥の辺りに変な力が入って、肩が震えた。どうやってもしゃくりあげるのを止められない。鼻をすすってどうにか一歩、二歩。がちゃんと何かが割れる音が後ろから聞こえた。

 

 

 夏が来た。Pサマの言ったとおり忙しくなった。深夜帯のバラエティとかラジオだけど。

 話の筋道は立った。まあどうせ後でいろいろ変えるんだろうけど。

 

 

 秋が近い。メディアに取り上げてもらう機会が急増した。話題にしやすいんだと思う。

 筆は予想外に進む。文香ちゃんの言っていた、高度な純文学に必要な深い設定とか綿密な構成はぼくにはいらないからラクなんだと思う。

 

 

 秋が深まってきた。ゴールデンタイムにも出始めた。え、こんなにいじられんの? 観てる側だと気付かないけどテレビってけっこう容赦ないのな。Pサマはキャラが認知されてきたからだって言ってた。ぼくがどんどん出来上がっていってるらしい。

 あらためて自分が書いたものを読む。それでも生きていこうよ、ってのを含ませられているかが自分だとわからない。まだ書き終わってないけどそういう手入れをした。

 

 

 冬が始まった。ぼくの印象は好調らしい。マジかよ、すごいなPサマ。もちろんアンチは他の人より多いんだけどね。SNSでまあまあ炎上はしてるし。

 いったん書き終わる。本当に書きたかったことが書けてるのかまだわからない。日を空けて読んで推敲する作業に入った。自分で書いたものをそういう目で読むのはキツい。

 

 

 五冊の献本のうちの一冊を手に取る。これにぼくの血が刷り込まれていると思うと妙な感じがしてくる。でもまあ誰かに言うようなことでもないよね。たぶん芥川だってそうだったんだと思う。読む側からしたってそんなこと知りたくないでしょ。

 ぼくはこれを泰葉ちゃんに渡したいから五冊めをもらうことに決めた。いま泰葉ちゃんむちゃくちゃ忙しいんだろうけど、でも発売する前じゃないと意味がないと思うから。

 

 ま、ダメでもともと。聞いてみようか。   “ねね、近くに空いてる日ない??”

 わお。返事早っ。             “明日の午後三時過ぎでよければ”

 やったやった、ラッキー。         “その時間にあのカフェで待ってるね”

 ……別に包んだりしなくていいよね?

 

 

「あ、泰葉ちゃん。ごめんね、レッスン漬けで大変なときに」

 

「あはは、前にりあむさんが悲鳴上げてたのと似たような状況です。へとへと」

 

「もう人気者の準備しないとね。みんな見たことない泰葉ちゃんを期待してるよ」

 

「素直に応援と受け取っておきます。それで、呼び出しだなんてどうしたんですか?」

 

「あのね、今度ぼく本出すでしょ。できたら泰葉ちゃんに一冊もらってほしいなって」

 

「え、いいんですか」

 

「うん。だって泰葉ちゃん大事な友達だし。はい、これ」

 

「あ、ありがとうございます。でもこれ不思議なタイトルですよね。りあむさんが?」

 

「タイトルも中身もぼく謹製だよ。全部ね」

 

「それじゃあゆっくり読ませてもらいますね」

 

 泰葉ちゃんが表紙のタイトルをじっと見て口を開いた。

 

「『こんにちは、クズだよ』」

 

 

 

 

 




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