【サンプル】艦これ~蒼海戦線~ Ⅱ、朧月 (瑞穂国)
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序章、大艦巨砲
大艦巨砲


1巻よりも飛ばしてます、2巻です。
2万字ちょっと、公開予定です。


 一九四一年四月八日。呉。

 

 呉海軍工廠の艤装岸壁に、大艦巨砲の権化が係留されていた。

 広大極まる甲板には、多くの資材が置かれている。艤装員の仮小屋も見えた。

 だが、それらはこの艦の本質ではない。

 巨大という言葉では足りない主砲塔。突き出た主砲身は各砲塔につき三本。砲口は覆いで隠されているが、ありとあらゆるものを撃ち砕く威力を秘めていることは、容易に想像できた。

 大艦巨砲主義、すなわち「巨大な艦体に巨大な砲を積む」という、戦艦の設計思想。それを極限まで突き詰めたのが、この艦だ。

 進水から今日で八か月。艦の艤装は最終段階へ移っている。予定では、年内に艤装工事と公試運転を終え、連合艦隊へ引き渡されることになっていた。

 艤装工事が進む巨艦を、彼女は艦橋トップ、防空指揮所から見下ろしていた。左手には愛用の日傘、そして右手には冷えたサイダー。春の陽射しを優雅に遮りながら、彼女は爽快なのどごしを楽しんでいた。

 

「やっぱりここにいた」

 

 そんな彼女へ、呼びかける声があった。同じく防空指揮所へ顔を出したのは、白蛇を思わせる髪をした長身の女性。どこかから拝借してきたという女性士官用の制服に袖を通した女性のことを、彼女は「(あね)様」と呼んでいる。

 

――「貴女のことは、何とお呼びすればいいのでしょう?妹、それとも姉でしょうか」

――「またどうして?」

――「進水日に、一緒に生まれたんですもの。私たちは双子のようなもの、でしょう?」

――「ああ、なるほど。――うん、それなら、姉と呼んでもらおうかな。妹というものには興味があったんだ」

 

 一年前のそんな会話が、女性を「姉様」と呼ぶようになったきっかけだ。

 女性――姉様は、ゆっくり彼女の隣に立った。その手には、彼女と同じサイダーの瓶。

 

「おはようございます、姉様」

「おはよう。いい天気だね」

「日光浴には最高の日ですよ」

 

 彼女の言葉に姉様も頷いて、大きな伸びをした。普段、人目につかないようにと艦内に籠りっきりの姉様には、時たまの日光浴が必要だ。姉様もそのつもりで、人気のない艦橋へ顔を出したのだろう。

 束の間の日向ぼっこを、姉妹は並んで楽しむ。穏やかな春の日――とはいかず、降り注ぐ太陽光線は容赦なしで、しかも眼下からは艤装工事の喧騒が聞こえてきた。

 たまらず、彼女はもう一口、サイダーを口に含んだ。パチパチと弾ける炭酸水が、喉元を流れていく。暑い季節に、この清涼感は欠かせない。

 

「今日は一日何するの?」

 

 同じようにサイダーを口にしながら、姉様が彼女へ尋ねてくる。空になった瓶底を太陽にかざし、透けた光を見つめながら脳内の予定帳をめくった。もっとも、彼女の予定帳に、文字は書かれていないのだが。

 

「今日も何もないですね」

「そっか」

 

 小さく笑って、姉様もサイダーを飲み干した。

 

「戻るよ」

「あら。もうよいのですか」

 

 下へと続く階段に向かう姉様を振り返り、彼女は尋ねる。空の瓶を振り、姉様は当然のように答えた。

 

「出番が来るまでは、ね。できるだけ、人目につきたくないんだ」

「はあ、そうですか」

 

 引き留めることはしない。姉様はいつでも気まぐれだ。顔を見せるのも毎日ではない。そもそも、普段どこにいるのか、彼女ですら知らない。この艦から出てはいないはずだが――

 

「……その出番は、いつやって来るのですか」

「来ないことを願ってる」

 

 投げかけた質問に、姉様は実に軽い調子で答えただけだった。

 防空指揮所には、再び彼女一人が取り残された。飲むサイダーもなく、結局手持無沙汰な彼女は、眼下の艤装工事を見つめる。丁度、一番副砲へ測距儀が取り付けられるところであった。

 

「……また、鳳翔さんのところへでも、お邪魔しましょうか」

 

 結局いつもと変わらない結論に至って、彼女は踵を返した。やはり話し相手がいないのは、つまらない。一番近くにいる話し相手が()()なので、どうしてもすぐ隣に停泊する鳳翔へと、話の相手が移ってしまう。

 その前に、と彼女は呉近郊の地図を思い浮かべる。、近くにまだ、訪れていない和菓子屋があった。そこで何か買って行こうか。鳳翔なら、和菓子に合うおいしいお茶を淹れてくれる。

 海面から四十メートルを超える艦橋をラッタルで甲板へと降り、タラップを伝って岸壁へ渡る。

 ふと、吹く風を感じて、彼女は自らの艦を振り返った。

 大艦巨砲がそこに鎮座している。全長二百六十三メートル、全幅三十九メートル、基準排水量六万四千トン。九門の主砲を天へ振りかざし、山をも砕かん威容を誇る。日本海軍が生んだ、一つの到達点。

 艦の名は「大和」。日本最初の朝廷が生まれた場所であり、ともすれば日本そのものを差す名前が、彼女には与えられていた。



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壱章、邂逅遭遇
邂逅遭遇(1)


本編更新です。

早速、お話が動き始めます。


 

 

 

 四月二〇日。大阪。

 

 連合艦隊司令部が居を構える呉を出立し、舞原誉中佐は夜行列車に乗り込んでいた。行き先は東京である。連合艦隊司令長官・五十嵐茂大将から託されたことも含め、いくつかの要件を済ませるためだ。一週間の日程を予定している。

 線路の継ぎ目に合わせて、規則正しくリズムを刻む三等車。少し硬めの座席に身を預けていた舞原は、ふと、向かいの席に目を向ける。

 

「ふふ、真っ暗で、何も見えませんね」

 

 第一種軍装に身を包んだ御子が、そこには座っている。

 五十嵐に東京出張を依頼された際、ひょっこりと御子が顔を出し、「でしたら私も連れて行ってください」と言い出した。そのまま、あれよあれよという間に、御子は東京行きの身支度を済ませてしまった。仕方なく、五十嵐は御子の東京行きを認め、道中の付き添いを舞原に命じたのだ。

 

――「横須賀へ用事があるのです。呉で忙しいあの子に代わって、届けるべきものがここに」

 

 御子はそう言って、文字の書かれた札のようなものを見せた。その使い道は、舞原にはとんと想像がつかなかったが、ともかく彼女も用件があるのは理解した。東京から横須賀へ足を伸ばすのも、二日あれば足りるだろうという計算だ。

 そんな経緯があって、舞原は御子と行動を共にしている。

 暗闇が広がる車窓を、映り込んだ自身の姿越しに見つめる御子。先ほどから、彼女はずっとこの調子だ。特に何があるわけでもなく、夜に支配された風景が続くだけの車窓を、延々と眺めて微笑む。その意図が、舞原には掴めない。

 

(元より、掴みどころのない方だ)

 

 横顔を窺いながら、自分の眉間に一筋皺が刻まれるのを感じた。白い睫毛も、金色の瞳も、透き通る表情も、彼女はいつだって柔らかだ。微笑みという表情があっても、それ以外の変化はない。感情というものが読み取れない。それが舞原の、御子への印象だった。

 暖簾に腕押し、糠に釘。手応えのないその姿を捉えようというのが、誤りなのかもしれない。

 

「舞原中佐」

 

 呼ばれてハッと我に返る。気づけば、御子は窓から顔を離し、舞原へと視線を向けていた。真昼の太陽を思わせる瞳が、やはり微笑んだ。

 

「お弁当をいただいても?」

「……ええ」

 

 大阪の駅で買った弁当を取り出し、御子へ手渡す。それが楽しみであったというように、御子は早速弁当に箸を入れ、ご飯を頬張った。

 

「豊穣ですね。良いことです」

 

 その言葉に頷いて、舞原もまた弁当を開く。春の旬が並んだ中身を、舞原は一つ一つ平らげていった。

 

 

 

 四月二三日。横須賀。

 

 東京での所用を終えた舞原と御子は、横須賀鎮守府を訪れていた。

 横須賀周辺は、東京とはまた違った賑わいを見せている。祝勝ムード一色だった東京に対して、こちらはより現実的な騒がしさ、と言うべきか。そこにあるのは、軍港特有の、戦闘直後の慌ただしさだ。

 連合艦隊司令部は一時的に呉鎮守府の庁舎に置かれているが、現旗艦である〔尾張〕は、この横須賀で「北太平洋沖海戦」(三月三一日から翌四月一日未明に生起した海戦の日本軍呼称)の傷を癒していた。二か月が予定される工事の音が、すでに船渠に響いている。この他にも、〔鈴谷〕と〔熊野〕など、数隻の艦が急ピッチで修復されていた。

 同時に、戦闘に参加した各艦乗員への休暇も与えられている。横須賀の街へ繰り出す者も多く、どこの店でも水兵の姿が見えた。

 次の戦闘への備えと、束の間の休息。その両方の喧騒が、横須賀を支配する。

〔尾張〕が入渠する乾ドックの前を通り過ぎ、喧騒に背を向けて、舞原と御子を乗せた内火艇は横須賀鎮守府の沖へと向かっていた。目指す艦はすでに目の前だ。錨を降ろし、昼下がりの海に佇むその艦を、舞原は目を眇めて見つめる。

 航空母艦〔蒼龍〕。日本海軍の大・中型空母としては初めて、最初から空母として設計された艦だ。彼女と、準同型艦の〔飛龍〕が日本空母の設計を決定づけたと言っても過言ではなく、まもなく竣工予定の〔翔鶴〕型や、近く起工される大型空母も、〔蒼龍〕と〔飛龍〕の拡大改良型となっている。

 第二航空戦隊――二航戦を構成する中型空母の舷梯へ、内火艇は近づいていく。舷門には、艦長と、艦娘と思しき人影が見えた。

 

「お世話になります」

「うむ、ご苦労」

 

 甲板へ上がり、敬礼した舞原へ、艦長は短く答えた。それに合わせて、隣に控える艦娘も敬礼する。彼女はやや緊張した様子で、舞原と御子の顔を、交互に窺っていた。

 

「早速、案内をお願いします」

「飛行甲板でいいのだな」

「はい」

 

 艦長は頷いて、先頭に立ち、飛行甲板への通路を案内してくれる。舷門のある最上甲板から、ラッタルを使って一段上の飛行甲板へ。空母特有の移動だ。

 数分とせず、舞原たちは飛行甲板へ出た。

〔蒼龍〕の全長は二百二十七・五メートル、飛行甲板の長さは二百十六・九メートル。広大な全通甲板の、中央からやや艦首寄りの右舷に設けられた艦橋脇に立ち、舞原はぐるりと艦上を見回した。真っ新な飛行甲板には艦橋以外に何もなく、前縁から後縁まで見渡すことができる。〔尾張〕で見慣れた、城郭を思わせる艦上構造物群は、そこにはない。のっぺりとした全景は、従来の軍艦の価値観に照らし合わせれば、貧弱な印象すら受けた。

 

(能ある鷹は爪を隠す、と言うべきか)

 

 空母という新艦種に属する〔蒼龍〕の真の実力は、この全通甲板の下に秘められている。

 

「さあ、参りましょう」

 

 そう宣言して、御子はすたすたと歩き始めてしまう。まるでピクニックにでも行くように軽い足取りの彼女。その背には、布袋に包まれた細長いものが背負われていた。

 残された三人は、慌てて御子の後を追う。微風の甲板上に、四人分の足音が響いた。

 御子が最初に向かったのは、飛行甲板の前縁であった。風にふわりと髪をなびかせた御子は、懐から例の札を取り出す。何某かを呟き、彼女は札を甲板へと張り付けた。不思議なことに、札は甲板の一部となったかのように、風に吹かれても飛ぶことはなかった。

 二枚目の札を取り出した御子は、同じような要領で、今度は前縁より二十メートルほど下がった位置に張り付ける。飛行甲板の正中線に引かれた白線の上に、札が置かれた。特に何かが起こることはなく、舞原たちはただじっと、御子の動きを見ていた。

 三枚目の札を、二枚目よりもさらに二十メートルほど下がった位置に張り付けて、ようやく御子は、その微笑を舞原たちへ――正確には蒼龍へと向けた。

 

「蒼龍、これへ」

 

 手招く御子へ、この艦の艦娘は、恐る恐る近づいていく。一方の御子は、微笑を崩すことなく、背中の物を降ろした。布袋の結び目を丁寧に解き、その中身を取り出す。

 現れたのは一本の竹の棒。二メートルはあろうかという棒は、しなやかさと強かさを備えていた。

 弓だ。弓道で用いられるような、和弓。弦が張られていないそれを、御子は蒼龍へ見せる。

 

箭霊(さち)、といいます。箭霊とは神具、霊験あらたかな武具。弦の音、矢の音――それらは調べとなり、門を開く。『撃つ』という過程を模倣し、再現し、貴女の翼へ、爪を授ける。ええ、ですから、うまく使いなさい。想いを込め、願いを秘め、祈りをもって、弦を引きなさい」

 

 詩でも吟じるように、御子はつらつらと語る。その意図がわからず、蒼龍はただただ困惑するばかりだ。宙を彷徨う彼女の手を、御子はそっと捕まえて、弓を――箭霊を託す。

 

「あの……私は、どうしたら、いいですか」

 

 困惑のまま尋ねた蒼龍へ、御子が答える。

 

「使い方は、この艦と、この弓が知っている。貴女は迷わず、躊躇わず、弦を引きなさい」

 

 

 

 全ての要件を済ませ、横須賀鎮守府を後にした舞原と御子は、夕闇迫る横須賀市街を歩いていた。目指すのは一軒の和菓子屋。御子たっての要望あってのことだ。

 横須賀市街で、舞原が案内できるような和菓子屋は一軒だけだった。

 

「ごめんください」

「いらっしゃいませ――あら、舞原さん」

 

 丁寧な文字で「ゆき」と書かれた暖簾をくぐると、すぐに懐かしい声がした。舞原を迎えてくれたのは、着物に割烹着姿の女性。〔吹雪〕が横須賀から呉へ転属になって以来だから、実に十年ぶりになるだろうか。そんな客の顔を覚えてくれていたのは、純粋に嬉しかった。

 雪村はる、といったこの和菓子屋の娘は、十年前と変わらない笑顔を舞原へ向ける。変わっていたのは、彼女と自分の年齢だ。はるは、まだ幼さの残っていたあの頃より、随分と大人びて穏やかな印象を受けた。

 

「随分とお久しぶりです」

「ええ、ご無沙汰しています。――まさか、自分のことを覚えているとは、思わなかった」

「客商売は、記憶力が肝要です。それに――舞原さんのこと、忘れるはずもありません」

 

 照れたように笑ったはるは、すぐに席へと案内してくれる。舞原は店外を振り返り、御子を引き入れる。彼女は物珍し気に、辺りを見回していた。

 店内にいた客が、御子へ目を向けることはなかった。それもそのはずだ。目立って仕方のない白髪を、彼女はどうやってか黒へ染め直している。横須賀市街への道中、「この髪では目立ちますね」と言った途端、彼女の髪は黒へと変わっていた。

 全くもって理屈はわからないが、ともかく今の御子は、制服も相まってただの海軍軍人にしか見えない。わざわざ彼女へ目を向ける人はいなかった。

 ただ一人、はるだけが、目を真ん丸にして驚いている。

 

「あの、そちらの方は――」

 

 はるの目が、舞原と御子の間をせわしなく行き来する。焦点の定まらない目と、お盆を強く抱きしめる腕が、彼女の焦りを物語っていた。

 意を決したように、はるが舞原に尋ねる。

 

「舞原さんの、奥様、ですか……?」

 

 ここ数年で一番の衝撃を、舞原はやっとの思いで堪えた。腹筋を鍛えていたことを、これほど感謝したこともない。

 隣に立つ御子からも、ぱちくりという瞬きの音さえ聞こえてきた気がした。

 やっとのことで呼吸を整え、舞原はかぶりを振る。

 

「いえ、違います。自分は、結婚は、まだ」

「――そ、そうなのですねっ」

 

 ほっとしたような表情に見えたのは、気のせいであろうか。

 事の次第を把握したらしい御子が、ニコニコとしたまま、舞原の方を見ている。その表情から意図的に視線を外す。普段とは別種の微笑であることは、何となく理解できた。

 

「す、すみません、妙なことをお聞きしてしまいました。さあ、お席の方へ、どうぞ」

 

 案内を再開したはるに従って、向かい合わせの席へ座る。置かれたお品書きを開いている間に、はるがお茶を二人分、運んでくれた。

 

「ご注文がお決まりになった頃、お伺いしますね」

 

 はるは笑って、ぱたぱたと厨房の方へ戻っていった。和服で器用に動くその姿が、懐かしい記憶を思い起こさせる。

 

「舞原中佐のご贔屓にしているお店だったのですね」

 

 お品書きを楽しそうに眺めながら、御子はそう言って微笑んだ。十年ほど訪れていなかったとはいえ、否定する要素もなく、舞原は頷く。

 

「ええ。〔吹雪〕の水雷長をしていた頃、よくお世話になっていました」

 

 ふと、「ゆき」との馴れ初めを思い返す。元々、「ゆき」のことを知ったきっかけは、この店にじゃじゃ馬艦娘衆が入り浸っているとの情報を聞きつけたからだ。その後には、吹雪が「お土産」と称して「ゆき」の餡蜜やくずきりを舞原へ渡してくるようになった。気づけば、舞原もすっかり、この店の虜になっていた。

 月に一度程度、吹雪に強引に引っ張られて「ゆき」を訪れるのを、楽しみにしていたのは事実だ。記憶の中、餡蜜をつついたこの店は、いつも客の笑顔で溢れていた。また来たいと、来るたびに思わせてくれた。

 開いたお品書きに、改めて目を通す。十年前から変わらない、懐かしいメニューと、最近加わったのだろう、見たこともないメニュー。それから、季節限定と銘打った、メニューまで。これだけあると、さすがに迷ってしまう。

 

「はるさん」

 

 つい、机を片付けていたはるを、呼び止めてしまう。振り向いた彼女は、パッと明るく笑って、舞原の元へ駆け寄ってきた。二十代も後半だろうが、子犬を思わせるその所作は、どことなく女学生の雰囲気を残している。

 

「どうされましたか?」

「ああ、ええっと、おすすめなどありますか?どれもおいしそうで、迷ってしまって」

 

 舞原の問いかけに、お安い御用です、とはるが胸を張る。彼女は、桜風味の餡蜜というのを勧めてくれた。

 

「では、私はそれにします」

「桜餡蜜ですね、かしこまりました」

 

 舞原の注文を取って、はるはすぐに御子へ視線を移した。すでに注文を決めていたらしい御子は、アイスクリームの乗った餡蜜を頼んでいた。注文を取り終わったはるは、またぱたぱたと厨房へ戻っていく。

 数分ほどで、二人分の餡蜜が運ばれてきた。舞原の桜餡蜜は陶器の器、御子のクリーム餡蜜はガラスの器。風情の違う二つの器に、黒蜜のかかったみつまめと餡子が並んでいる。

 

「どうぞごゆっくり」

 

 笑ったはるに会釈をして、舞原は早速、スプーンを手に取った。十年前のあの味を、舌が憶えているのだろう。とても待ちきれない。

 黒蜜が絡まった餡子をすくう。小豆色の塊は実に滑らかで、スプーンを抵抗なく受け入れた。一口分を口に含む。ほのかな桜の香りが、蜜と餡子の甘さと共に、口一杯に広がった。

 あの時から変わらずにおいしい。いやむしろ、あの時以上ではないだろうか。

 

「甘くておいしい」

 

 御子も微笑のまま餡子と寒天をすくっている。一口含むたびに頷く彼女からは、珍しく「おいしい」という感情が読み取れた気がした。

 半分ほどをあっという間に食べたところへ、再びはるがやって来た。彼女はお茶を注いでくれるとともに、何かを差し出した。前に出されたのは、桜餅。塩漬けの葉が巻かれた一口大の餅が、皿の上にちょこんと乗っている。

 

「はるさん、これは?」

 

 尋ねた舞原に、はるは片目を瞑り、人差し指を唇に当てた。

 

「おまけです。少し時季外れですけど、おいしいですよ」

 

 小声でそう言ったはるの好意を、ありがたく受け取っておく。ふと窺った厨房では、この店の長男がぺこりと頭を下げていた。

 

「こちらもおいしいですね」

 

 向かいでは、すでに御子が桜餅に食いついていた。その微笑に一点の曇りもない。

 結局、餡蜜と桜餅を数分とせず平らげてしまった。汁粉以外の甘味は久しぶりだ。いくら食べても食べ足りない気さえする。

 お茶で舌に残る蜜の甘さを流すのが、名残惜しかった。

 

「舞原さんは、今どちらの艦に乗っていらっしゃるのですか?」

 

 海軍省への土産も一緒に会計している間、はるは遠慮がちに舞原へ尋ねて来た。特に隠す必要もなく、舞原は答える。

 

「連合艦隊の参謀をしております。今日は所用で、横須賀に」

「まあ、そうだったのですか。では、普段は呉に?」

「はい」

 

 さすがは軍港の娘というべきか、連合艦隊司令部が呉にあるとすぐに理解していた。

 

「そうでしたか。……では、以前のように、通ってはいただけませんね」

 

 釣銭と土産の菓子を差し出すはるが、寂しげに笑った。なんだか、無性に放っておけない気持ちになり、舞原は反射的に口を開く。

 

「常連とはいきませんが……これからも、贔屓にさせてください。東京や横須賀へ来た時は、必ず、こちらへ顔を出します」

 

 言ってしまってから、我ながら安請け合いをしたものだと内心で反省する。今は戦時だ。そして、連合艦隊の参謀である自分に、自由な時間など許されていない。はるへの言葉は、口約束でしかないと、考えるまでもなくわかるはずだ。

 

「ありがとうございます。また、お待ちしています」

 

 頬を赤らめて笑うはる。これは約束を違えるわけにはいかないと、舞原は固く決心した。

 受け取った土産を提げて、御子と合流する。はるはというと、わざわざ暖簾から出て、見送ってくれた。丁度店仕舞いの時間だったようだ。

 腕時計の時間を見る。横須賀から東京へ向かう汽車は、まだ残っていた。横須賀鎮守府に部屋を借りてもよかったが、できれば今日の内に東京へ戻りたい。

 

「戻りましょう、御子さん」

 

 だが、呼びかけた御子から、反応はなかった。微笑から微塵も動かなかった表情が、とても硬いものに変わっている。貼り付けたような微笑がわずかに残る目を、彼女はただ一点へ向けていた。目線の先にいるのは、暖簾を仕舞いながらはにかむはる――ではなく、店頭で和菓子を買っている、一人の婦人。

 

「ありがとう」

 

 穏やかな笑みと共に、店主から和菓子を受け取る婦人。流行りの洋服を着た彼女を、御子はやはり、じっと見つめていた。何かを見極めんとするように、金色の瞳は動かない。

 こちらの視線に気づいたのか、婦人は首を傾げながらも、小さく会釈をする。購入したお菓子を大事そうに抱えながら、彼女は舞原たちの横を通り過ぎ、横須賀市街へ紛れようとした。

 その、婦人の手を、御子が掴んで引き留めた。舞原の目にも止まらない速さであった。三十メートルほどを一っ飛びした御子を、舞原は慌てて追いかける。

 

「お待ちになってください」

 

 御子の発した声には、これまでにない迫力――神威(しんい)とでも言うべき圧があった。婦人の方は、それに気圧されたように、後退って困惑の表情を浮かべている。

 

「あの……何か?」

 

 婦人が問いかけても、御子は一向にその手を離さない。むしろ、こちらまでぎりぎりという音が聞こえるほどに、力を強める。感情の読み取れなかった微笑みは消え失せ、殊更に険しい表情を見せていた。

 

「隠しても無駄です。ごまかせません」

 

 いつの間にやら、御子の髪が白髪に戻っている。腰に届く長髪が白蛇のようにうねり、うごめく。目の前の婦人を、目一杯に警戒している。陽も沈もうというのに、御子の体は太陽の輝きを纏いつつあった。

 次の瞬間、御子に手を掴まれた婦人の顔から、表情が消えた。否、正確に言えば、一つだけ表情らしきものが残っている。しかしそれは、例の、何の感情も内在させない微笑みだ。それは表情と呼ぶにはあまりにも平坦すぎる。

 

(なんだ、一体……!)

 

 今更ながら、冷たい汗が背中を伝った。ここまで気づかなかったのが不思議なくらいだ。目の前の婦人からは、御子に負けないくらいの迫力が放たれている。

 

「――とても聡い子。ええ、本当に。顔を見るだけのつもりでしたのに」

 

 婦人の表情に、本物の微笑みが混じる。笑っているのだ。彼女は、あの御子を見て、慈しむように笑っているのだ。その意味がわからず、舞原はただ、固唾を飲んで見守る他ない。

 夕焼けの中で、婦人の髪もまた、白く染まっていった。それからいとも容易く御子の手を解き、踵を返す。

 

「話があるのでしょう。場所を変えましょうか」




この時はこんなに進みが早かったのに、なんで完成品が13万文字の大ボリュームになってるんですか…(震え)


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邂逅遭遇(2)

急展開の続く流れです。


 横須賀の町は、夜に支配された。

 墨汁のような波が打ち付ける岸壁。そこから海を眺め、二人の女性が立っている。その後ろ姿を、舞原は黙って見つめていた。海風に混じる話し声は辛うじて聞き取れるが、これ以上近づいていい雰囲気ではなかった。

 

「見ないうちに、随分と立派になったものです。この国も――貴女も」

 

 感慨深げに呟いたのは、謎の婦人の方であった。まるで全てを見てきたように、婦人は御子を見る。それに対して、御子は真に無表情を貫いていた。

 婦人の言葉に何かを返すことなく、御子は厳しい口調で切り出した。

 

「立ち退きなさい。この国からも、現世からも。それで全て終わりです。死者たる黄泉の国が、生者に関わることはまかりなりません。これは主神としての命令です」

 

 断固たる言葉。「主神」と名乗ったからには、今の御子はただの使いではなく、天照大神そのものと言っていいのだろう。気を張っていなければ、今にも足が後退しそうなほどの迫力が、容赦なく辺りへ振り撒かれる。

 しかし、一方の婦人は、微動だにしない。御子の威圧を、そよ風でも吹いているかのように、何事もなく受け流している。その表情は、一向に変わらない、慈愛の色で溢れていた。

 婦人の正体については、ある程度推し量れる。御子の、これまでに見たことのない、表情の変化、感情の発露。黄泉の国という言葉。そして、あらゆる会議の席で、御子はハワイを占拠した深海棲艦の主を、「彼女」と表現していた。

 すなわち、目の前の婦人こそが、深海棲艦の首魁。ハワイを占拠し、太平洋各地を襲撃し、日本海軍と砲火を交えた敵だ。

 こちらはこちらで、別の意味の汗が噴き出る。

 

「こちらにも、事情というものがあります。いかに娘の頼みでも、こればかりは曲げられません」

「貴女の娘になった覚えはありません」

 

 御子の表情が一段と険しくなる。それに優しく微笑むだけで、婦人は首を振った。

 

「同じことですよ。同じことなのです。私と()()()は、二柱で一柱。最後に産まれた夫婦神。ですから、()()()の子である貴女たち三貴神は、私にとっては等しく、愛しい子らなのですよ」

 

(――まさか)

 

 全身の毛が逆立つのを、舞原は感じた。

 今、目の前で、日本最高神たる天照大神と堂々と向き合っているこの婦人こそが――

 

「何と言われても変わりません。我が父は伊邪那岐(いざなぎ)。貴女という――伊邪那美(いざなみ)という母などいません」

 

 婦人――国造りの神・伊邪那美は、「そうですか」と穏やかに呟くだけで、微笑を崩すことはなかった。

 

「話を戻しましょう。貴女たちには、私に訊きたいことが、山ほどあるはずです」

 

 そう言って、伊邪那美は御子を、それから舞原を見た。金色の瞳が真っ直ぐに舞原を射抜く。ごくり、緊張と共に唾を飲む。

 御子もまた、ちらりと舞原を窺い、改めて口を開いた。

 

「何が目的なのです。なぜ今、改めて黄泉比良坂(よもつひらさか)を開いたのです」

「黄泉の国が――正確には、醜女たちが望んだからです。現世に復讐を。神に報復を。私は、その望み通りに、準備を整え、門を開き、魂を導いたに過ぎません」

 

 淀みなく答える伊邪那美。しかしそれに、御子は「ありえない」と首を振る。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()。死した魂は、貴女の国で、安寧の眠りを得るはずです」

「けれどもそうはならなかった。()()()()()()()()()()()?」

 

 伊邪那美は笑顔のまま、御子を見た。御子の眉が、ピクリと跳ねる。重苦しい沈黙を貫いたまま、御子はじっと、伊邪那美を見つめるだけだ。

 その代わり、なのだろうか。伊邪那美はくるりと舞原を見た。薄い唇から、問いを発する。

 

「神の試練を、ご存じですか?」

 

 慌てて、思考をフル回転させる。頭に浮かんだのは、日本神話とは関係ない、旧約聖書の一節だった。

 

「それは……ノアの方舟伝説のような、ものですか」

 

 舞原の答えに、「ご名答」と言わんばかりの笑みを浮かべる伊邪那美。

 

「神とは、究極的に言えば、自然そのもののことです。自然は、恵みも、災いも、等しく与えるもの。時には試練を与えるのも、神にとっては役割の一つなのです」

 

 そこはご理解くださいね、と前置いて、伊邪那美は話を続ける。

 

「試練の種類も多種多様です。地震、台風、疫病、洪水もそう。さすがに、ノアの方舟伝説は誇張のし過ぎですけれどね。――今回も同じですよ。神は人類に試練を課そうとしている。いえ、()()()()()()()()()()

 

 伊邪那美の言っている意味が、舞原にはわからない。彼女の存在、引いては深海棲艦の存在が、神の与えた試練だとでも言うのだろうか。だがそれでは辻褄が合わない。「すでに一度課している」という伊邪那美の言を信じるならば、今人類に課されているのは二度目の試練だ。だが、有史以来、深海棲艦なる存在が現れた記録はない。それに、伊邪那美が御子へ、すなわち天照大神へ問いかけたということは――

 黙ったままだった御子が、ようやくその口を開く

 

「……私たちが、人類へ新たに課した試練。それは()()()()()()()()()()()()。行き過ぎた科学文明と付き合えるだけの、倫理と自律を身に着けるために」

「それで、先の大戦を起こしたのでしょう?……そして、もう一度、起こそうとした」

 

 淡々と語る、御子と伊邪那美。

 約三十年前、欧州で繰り広げられた、人類史上最も凄惨とされる戦争の記録を、舞原は頭の中で紐解く。戦闘員九百万人、非戦闘員七百万人という、途方もない死者を出した、四年間の欧州大戦。「戦争を終わらせるための戦争」とまで評された大戦を通して、人類は戦争のない世界を一度は目指した。海軍だけに限っても、ワシントン海軍軍縮条約や、それに連なるロンドン海軍軍縮条約が採択されている。

 しかし、今やそれは幻想となってしまった。一九三九年、ドイツのポーランド侵攻を機に、欧州では二度目の大戦が勃発している。直接参戦はしていないものの、米国もイギリスを支援する形で大戦に関わっていた。

 深海棲艦への備えを国是としていなければ、今頃は日本も、この大戦へ関わっていたかもしれない。その時の敵国は、またドイツか、あるいは中国か、それとも――

 関係のない思考を、今は頭から振り払う。

 

「単純な武力では足りなかった。第一次では、自律にまで至らなかった。だからいよいよ、第二次をもって、この試練を完遂する。力に見合う倫理と自律の獲得を、人類に促す。――武力を超えた神の雷をもってすれば、それが可能になる。貴女たちはそう判断した」

 

 確認するように伊邪那美は言う。御子は肯定も否定もしない。彼女はその強い瞳を、ただ静かに、伊邪那美へ向けるばかりだ。

 

「痛みを伴う試練を、否定はしません。痛みは最大の教訓です。けれど、此度の犠牲は大きく、そして深すぎた。――怒り心頭、という様子でしたよ。『そんなことのために、我々は殺されたのか』、と」

 

 微笑を湛えたまま言った伊邪那美に、御子は再び表情を険しくする。

 

「……まさか、教えたのですか」

「ええ。彼らには知る権利があると思いましたので」

 

 理解しがたい、と言わんばかりの表情で、御子は首を振る。溜め息交じりの呟きは、「残酷すぎる」と舞原には聞こえた。

 

「今、黄泉の国は、現世と神への、怨嗟の声で溢れています。それらの怨讐は、黄泉の醜女に吸収され、最早黄泉の守り人でも抑えることはできなかった。恨みは今、黄泉比良坂より溢れ出し、現世を侵そうとしている」

「……では、深海棲艦の目的は、」

 

 舞原の言葉を遮って、伊邪那美は言葉を続ける。

 

「人類への復讐、それを目的とした攻撃。それが、具体的にどの程度を――人類の殲滅までを目的としているかは、定かではありませんが」

 

 そこに興味はないと、伊邪那美の怪しい瞳が告げていた。

 

「生ける者への、際限ない恨み、妬み。けれどそれでは……手当たり次第に破壊するだけでは、全く意味がない。彼らが戦争という試練の犠牲者であるなら、その恨みの晴らし方も戦争の形をしていなければなりません」

 

 待てよ、と舞原は一度思考をまとめる。深海棲艦の目的はわかった。しかし、その恨みに「戦争」という形を与えたのは、伊邪那美だということだろうか。

 日米英を相手とした宣戦布告は、深海棲艦の主を名乗る者から届けられたと聞いている。伊邪那美が「戦争」という形を選んだのなら、矛盾はしない。

 だが、何かが引っかかる。まだ何かを忘れている、そんな気がする。

 

(そういえば――)

 

 舞原は、伊邪那美ではなく、御子へ目を遣った。彼女は災厄の到来を――深海棲艦の襲撃を予言した。しかし、黙って伊邪那美の話を聞く彼女は、深海棲艦の目的については知らなかったようだ。

 今まで深く考えたことがなかったが、なぜ御子は、予言を託され、遣わされたのだろうか。

 彼女はどこまで知っていたのだろうか。

 

「……本当に、残酷なお方です、貴女は」

 

 舞原の疑問に答えるように、御子が口を開く。

 

「魂に安寧をもたらすことなく、貴女はもう一度、彼らを犠牲にしようというのですか。()()()()()()()のために、恨みを利用しようというのですか。――それこそ、まかりならぬことなのです」

「……死人に口はありません。犠牲になるのは、魂ではなく恨み。深海棲艦は、所詮は魂を受け止める器としての、黄泉の醜女の一側面でしかありません。――それに、もう、十分でしょう」

 

 わずかに憐みの混じった声。伊邪那美は微笑みを崩すことなく、憐憫の眼差しだけを向けてくる。

 

「もう、痛みは十分、味わったでしょう。これ以上苦しむなんて――()()()()()()()()()()()()

 

 伊邪那美の微笑みは、今宵で一番、不気味であった。

 

「――時間です。そろそろ戻らなくては」

 

 言うべきことは言ったとばかりに、伊邪那美は唐突に切り出した。宙空を撫ぜた彼女の左手には、いつの間にか半透明の球体のようなものが握られていた。クラゲのように波打つ表面と、黒い水晶のような中身を持つそれを、彼女は軽く宙へ放る。すると、球体は急速に大きくなり、伊邪那美の背丈とほとんど同じくらいの大きさになった。

 隣の御子からは、「黄泉比良坂……」という小さな呟きが聞こえて来た。

 

「天照」

 

 球体の中へと足を踏み入れかけたところで、伊邪那美が御子を振り返った。彼女は御子を、隠そうともせず「天照」と呼んだ。太陽のオーラを纏う御子は、やはり今この時に限り、天照大神そのものだったのであろう。

 伊邪那美が語りかける。

 

「痛みとは生者が背負うもの。もっともです。それが正しい。ですから、貴女がその正しさを曲げないのなら、ハワイを訪ねなさい。私はそこにいる。――私は、あなた方の前進に、全力をもって立ち塞がりましょう」

 

 御子は――天照大神は、それに真っ向から言い返す。

 

「決して、貴女の目論見通りになど、なりません」

「……ええ、今はそれで、よしとしましょう」

 

 それではごきげんよう。などと、場違いな微笑みとお辞儀を残して、伊邪那美は球体へと入っていった。半透明の膜の中で、彼女の姿は稲妻のようなものに包まれ、やがて霧散する。後には、脈動する球体のみが残された。

 その球体も、程なくして収縮を始め、しまいには米粒よりも小さくなって消えてしまった。先程まで伊邪那美のいた場所には、微かな潮騒のみが残される。

 

「……東京へは、戻れますか?」

 

 呆然としたままの舞原へ、御子が尋ねた。それまでの他を圧する迫力は鳴りを潜め、元のように穏やかな微笑みを湛えた女性が、そこにはいる。黄金の煌めきを纏っていた白髪も、いつの間にか黒に戻っていた。

 腕時計を見て、舞原は答える。

 

「最終列車までは、まだ時間があります。戻りましょう」

 

 どちらからともなく踵を返し、心持ち早くなった足取りで駅を目指す。今は早く、この場所を離れたかった。




ついに明かされた、深海棲艦首魁の正体。

敵が黄泉の国であるのなら、ある意味当然かもしれないですね。


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邂逅遭遇(3)

今回は短めです。


 

 

 

 翌四月二四日。東京。

 

 曇天の空を振り仰ぎたい衝動を、島田は寸でのところで堪えた。見上げたところで、見えるのは煙草の煙が染みついた天井だけだ。代わりに、ソファの背もたれへ体重を預け、深く息を吐く。

 目の前の御子は、一通りのことの次第を語り終え、乾いた唇をお茶で湿らせていた。それに倣って、島田も自分の分のお茶へ手を伸ばす。お土産として彼女が持って来てくれた練りきりにも、手を付けず仕舞いだった。

 潤いを取り戻した喉に、練りきりを通す。餡子の優しい甘さが、今はひたすらにありがたかった。

 

「……ハワイは、遠いですね」

 

 ふとした拍子に、御子が呟いた。練りきりを半分ほど残し、彼女は窓から見える景色を――その果てを見つめている。遥か東の地、深海棲艦が拠点にしているとされるハワイ諸島へ、その目は向けられていた。

 御子と、彼女の付き添いをしていた舞原中佐が、昨日深海棲艦の首魁と思われる人物と接触したことは、たった今報告を受けた。その正体が、国産みの神・伊邪那美であることも、御子から聞かされた。

 敵の正体には驚いたが、筋は通る。天照大神含め「三貴神」と呼ばれる三柱の神が生まれるきっかけとなった、伊邪那岐の黄泉下りの逸話はあまりにも有名だ。火の神・火之迦具土神(ヒノカグツチ)を生んだ際に大火傷を負った伊邪那美は、以降黄泉の国に幽閉され、二度と地上へ出ることは叶わなかった。

 御子と同じように外を見遣り、島田は口を開く。

 

「ええ、果てしなく遠いです。距離的にも、その他の地理的にも――日本海軍には荷が重すぎる程、遠い」

 

 悔しいが、そう評する他ない。一度、連合艦隊司令長官という役職を経験しているだけに、この事実は覆しようのないものとして、島田は確信している。

 元より、日本海軍は防衛戦を十八番(おはこ)としている。植民地大国でない日本海軍は、軍艦に長大な航続能力を必要とせず、故に近海での迎撃戦を前提として、そこそこの航続力に強力な武装の軍艦を建造してきた。

 日本海軍にとって、ハワイは遠すぎる戦場なのだ。

 

(先の「北太平洋沖海戦」でさえ、ぎりぎりなのだ)

 

 北米航路打通を目指した先日の作戦でも、この航続距離の短さは指摘されていた。駆逐艦では、タンク一杯に重油を詰め込んでも、往復は難しい。まして、戦闘を行うことなどできない。

 解決策として、高速タンカーを艦隊に随伴させ、洋上で給油を行うという手法が取られた。同じ方法は、ハワイ近海で作戦を行う際も取れるかもしれない。だが、航路の関係上、必要な油の量はさらに増える。今度は巡洋艦や空母、戦艦へも油を入れなければなるまい。

 問題は距離だけではない。ハワイ諸島は、太平洋上の孤島と言っていい。近くに島はなく、日本本土から島伝いに目指していく、ということは不可能だ。

 ハワイ諸島を攻略するとなれば、日本海軍は海上戦力のみで、全く補給のない中、戦いを強いられる。すぐに息切れを起こすことは、火を見るより明らかだ。

 

(第一、敵の戦力もわからん。ハワイ攻略作戦を実施するにしても、下準備には相応の時間がかかるぞ)

 

 ハワイへの道のりは、途方もないほど、果てしなく遠い。

 

「彼女と再び相見えるのは、随分と先のことになりそうです」

 

 視線を室内へ戻した御子は、珍しく伏し目がちに、そう呟いた。

 

「……十数年前のお話です。彼女は突然、何の前触れもなく、高天が原へ使いを寄越しました」

 

――「私は神の試練を認めない。もう十分でしょう。人の手で人の血を流す痛みではなく、黄泉よりの災厄をもって、私は試練を成す。痛みは全て、この私が引き受けましょう」

 

 それが、使いを通して語られた、伊邪那美の言い分であったそうだ。

 正直なところ、島田にはどう判断していいかわからない。島田は軍事の専門家であり、政治にも、また神道にも、とんと疎い。神の考えなど、さっぱりだ。

 今の島田にできるのは、深海棲艦と戦うこと。日本にとっての明確な脅威を、いかに取り除くかが、彼に課された職務だ。

 咳払いを一つ。

 

「ともかく、今はハワイの情報を集めましょう。今後の方針も、作戦立案も、その後です」

 

 島田の提言に、御子はいつも通り笑って、再び湯飲みに口を付けた。




おっさんのやたら多い艦これ…


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邂逅遭遇(4)

危ない、忘れるところだった…

御子と島田が会談している頃、舞原さんも別の場所を訪れています。


 

 

 

 御子と島田の会談と同じ頃――

 

 軍令部に御子を預けた舞原は、都内のとある大学を訪れていた。

 もちろん、授業を受けるためでも、あるいは講義をするためでもない。出身の大学でもないから、講堂を懐かしんだわけでもない。彼がここにいるのも、れっきとした連合艦隊参謀としての役割だ。

 すでに散りかけの桜並木を、緑を見上げながら歩いていく。講義中だからであろうか、学生の姿は見えない。真新しいアスファルトの敷かれた道を、舞原は目当ての建物へと向かった。

 やがて、アスファルトと同じくらい、真新しい建物が見えてくる。塗りたてのペンキの香りがしそうなほど、汚れ一つない白い建物。コンクリート製二階建ての建物の玄関には、「海軍預施設」の札がかかっていた。さらに、水兵が二人、建物へ入るものを見張っている。

 建物の前に立った舞原へ、水兵たちが敬礼する。右手を軍帽のつばに当てて、舞原は答礼した。

 

「立ち入り許可証の提示を願います」

 

 水兵に言われた通り、五十嵐と宇崎のサインが入った許可証を、水兵へ見せる。上から下へ、十秒ほどをかけて許可証を確認した水兵は、再度敬礼して、許可証を返却してくれた。

 

「ご協力ありがとうございます」

「ご苦労」

 

 短く労いの言葉を残し、舞原は開かれた扉の中へと足を踏み入れた。

 リノリウムの廊下は、建物の外観と同じく、汚れ一つない真新しさだ。蛍光灯の光を浴びる床の表面に、舞原の姿が映るほどである。カツカツと小気味のいい靴の音が響く中、舞原は目的の部屋を目指した。

 廊下の奥、「三号研究室」と書かれた部屋の前に立ち、間髪入れずノックする。部屋の中からは、すぐに返事があった。

 扉を開く。建付けがよく、扉はすんなりと開いた。

 一瞬、舞原は部屋を訪れたことを後悔した。

 うず高く積まれた本の数々。報告書が入っていると思われる封筒が開封された時の状態で床に散乱する。壁一面に貼られているのは、何枚も焼き増しされた写真と、走り書きのメモ、ひどいタッチのスケッチ。後から持ち込まれたのであろう製図台(ドラフター)の上には、書きかけの設計図らしきものが幾枚。

 そして、肝心の部屋の主の姿が、本と資料とメモ(万里の長城)に隠れて全く見えない。

 

「少しは片づけたらどうなんだ。今日行くぞって、連絡もしといただろ」

「いやぁ、全くもって、君の言う通りだ。だがね、君が来ると聞いた途端、いつも以上にやる気が出てしまったんだよ」

「そのやる気を、何割か片付けの方へ割いてくれ」

 

 苦言を呈しても、高い壁の向こうから押し殺した笑いが聞こえてくるばかりだ。

 がさがさという音とともに、ようやく、部屋の主が動く気配がした。壁の向こうでのそりと立ち上がる影。現れたのは、痩せ型長身の男だ。部屋の汚さとは対照的に、身だしなみのきちんとした、美男子である。口元に蓄えられた髭と、彫りの深い顔立ちも相まって、英国紳士のような印象を受ける。

 かっちりと固めたオールバックを、申し訳なさそうに掻きながら、男は笑った。

 

「五分くれよ。片付けるから」

「ああ、頼む。足の踏み場もありゃしない」

「もっともだね」

 

 散らばった資料の合間に、わずかに見える床を、男は華麗なステップで踏んでいく。封筒を拾い上げ、本を掴み取り、メモを回収しながら、テキパキと片づけを進める男。その宣言通り、部屋はわずかに五分で、見事に綺麗な執務室になった。本の下より現れたソファを勧められ、舞原は遠慮なく腰掛ける。

 

「紅茶でよかったね」

「ああ、よろしく」

 

 頷いた男は、ポットとカップを手にして、上機嫌で部屋を後にした。

 ソファへ深々と腰掛け、舞原は整理された部屋を見回す。棚に収まっているのは、「造船工学」や「構造力学」、「ターボ動力工学」と書かれた分厚い本。どれも兵学校時代に見た覚えがある。他には、「ジェーン海軍年鑑」を代表とする、古今東西の軍艦や兵器に関する資料。そして、壁に沿ってずらりと並べられた、手製の軍艦模型の数々。

 相変わらずの好事家っぷりに軽く溜め息を吐く。

 この部屋の主――今、鼻歌と共に紅茶を運んで来た男は、名を天野巌という。舞原とは幼少よりの腐れ縁だ。見ての通りの、軍艦マニアである。

 三十半ばにして大学教授まで上り詰めた秀才は、慣れた手つきで紅茶を淹れている。どこかで聞いた鼻歌は、「月月火水木金金」だと今気づいた。

 程なく、暖かい紅茶が、舞原の前へ差し出された。

 

「しかし、君も忙しそうだね」

 

 向かいのソファに腰掛けるなり、天野はそう切り出した。否定する要素もなく、舞原は頷いて、紅茶のカップへ手を伸ばす。右手を差し出すジェスチャーで紅茶を示し、天野は話を続けた。

 

「連合艦隊の参謀とは。やんちゃだった君が、随分出世したものだね」

「天野こそ、その若さで教授だろう。出世なら、君の方がずっと上だ」

「なに、僕の場合は、たまたま席が空いていただけさね。僕自身はこの通りだ」

 

 おどけた口調で、天野はチラリと部屋を見遣った。なるほど、大学教授になっても、彼は子供の頃のままだ。好きなものに囲まれて、目を輝かせる様子は、軍港を見つめる子供の姿と容易に重なった。

 近況報告など軽く雑談を交え、紅茶を半分ほどにしてから、舞原は改めて、今日ここを訪れた用件を切り出した。

 

「それで、本題の方だが。――深海棲艦の研究は、どこまで進んでいるんだ?」

 

 天野の目が、鋭くぎらりと光った。

 天野が部屋を与えられているこの施設こそ、深海棲艦の研究を目的として、海軍主導で設立された機関――通称「草薙機関」の研究所だ。いまだに謎の多い深海棲艦を、様々な方面から暴こうというのが、その大きな目的である。

 前身である研究会の発足は一九三五年。一九四〇年一二月の開戦を契機に、正式な研究機関として、予算と人員が増強された。大学構内のこの施設も、つい先日完成したばかりだと聞いている。

 天野は大きく息を吐き、席を立った。

 

「進んでいるも何も……正直なところ、あらゆることが憶測の域を出ないね。何しろ、深海棲艦のサンプルと呼べるものは、どこにもないわけだ。四号研究の連中など、文句たらたらという様子だね」

 

 深海棲艦の研究は、一号から五号に分けられている。一号は黄泉の醜女に関する研究。二号は深海棲艦の戦略・戦術に関する研究。三号は深海棲艦の艦体・兵装に関する研究。四号は深海棲艦に通常兵器が利かない理由の研究。五号は深海棲艦に占拠されたハワイに関する研究。

 天野の担当は、三号研究室の名前の通り、深海棲艦の艦体や兵装に関する研究だ。すなわちその目的は、深海棲艦の性能を評価することにある。

 

「君の研究はどうなんだ」

「資料が少なすぎたから、憶測で一から設計した」

 

 さらっととんでもないことを言い出した友人に、思わず紅茶を吹き出しそうになった。

 

「一から設計って、深海棲艦をか?」

「もちろんだとも。わかってるだけで十種。いやあ、中々に骨が折れたがね」

 

 涼しい顔で肯定し、天野はドラフターの横に置かれた黒い筒を取る。それが、設計図を仕舞っているものであることは、容易に想像がついた。

 蓋を外し、中身を取り出す天野。丸められた特大サイズのケント紙を広げると、均一な太さの線で描かれた、見事な軍艦の設計図が現れた。

 

「駆逐艦四隻、巡洋艦五隻、戦艦一隻。君たちの撮った写真には、それだけの艦が映っていた。海軍さんがどうかは知らないが、僕はこれに、暫定的にイロハの名前を付けて呼んでるよ。設計図を引いた順にね」

 

 一枚一枚、天野が設計図を広げていく。描かれているのは、側面図と上面図。船の設計図で、最も基本的な図面だ。図名の欄には、丁寧な文字で「仮称イ型駆逐艦」などと書かれている。

 

「これを……あの写真だけで、描いたのか?」

「そうだとも」

 

 どうだと言わんばかりに、天野は胸を張った。

 壁一面に貼られている通り、天野には三号研究の資料として、海軍が二度の海戦で撮影した深海棲艦の写真を渡していた。もっとも、それらは戦闘中に撮られたものであり、深海棲艦の艦型を鮮明にかつ詳細に捉えたものはほとんどない。

 目の前に並べられた設計図は、どれも実物を見て来たかのように、鮮明な深海棲艦の姿を映している。

 

「話を聞くに、どうも深海棲艦というのは、人類の持つ軍艦の運用思想から、そうかけ離れていないようなのでね。となれば、軍艦の設計思想も、人間と似通ったものになるはずだ。そう考えてしまえば、後はそれほど難しい作業でもなかったさ」

 

 そう言って、天野は一枚、「仮称イ型駆逐艦」と書かれた設計図を指差す。

 

「例えばこの駆逐艦は、味方の大型艦を護衛するのが主任務だ。『八丈島沖海戦』で、二水戦を相手取っていたのは、ほとんどがこの駆逐艦だね。雷装が最低限で、代わりに砲火力が高い。主砲の口径は、四インチないし五インチ級というところかな」

 

 想定される性能を、天野はスラスラと並べていく。生粋の軍艦マニアが語る深海棲艦の姿を、舞原は黙って聞いていた。

 設計した十種の深海棲艦、それぞれについてある程度性能の解説をしたのち、天野は再び舞原の正面へ戻ってきた。ソファへ腰を落ち着けた彼は、随分と冷めてしまった紅茶を一口すする。数秒とせず、天野はもう一度、話し始める。

 

「とまあ、ここまでが海軍さんに依頼されていたお話だね。で、ここからは、僕の私見というか、ここまでの総評になるわけだけど」

 

 カップに残った紅茶を飲み干し、十枚が並べられた設計図を順繰りに見てから、天野は舞原の目を見た。ある程度察しがついているんじゃないか、とその目が語っている。

 腕を組み直し、舞原は天野が求めたであろうことを口にする。

 

「性能が低いな。少なくとも、今の海軍のレベルより、十年は遅れている」

「そう、その通りなんだ。特に戦艦の性能が、圧倒的に足りていない。第一次大戦ならいざ知らず、今の太平洋で幅を利かせているのは、一六インチ級の砲を積んだ戦艦だ。一四インチでは明らかに見劣りするね。だから海軍は、二度の海戦とも、数的に互角でも、性能差で勝つことができた。――航空戦力については、最早語るまでもないね」

 

 呼吸を一つ挟み、天野は話を続ける。

 

「僕の中で、その理由は二つ考えられる。深海棲艦を設計した者が、世界の軍艦の動向を把握していなかった。あるいは、数を揃えることを優先して、若干型落ちの軍艦を作った。――僕は前者の理由が強いんじゃないかと思ってる」

「根拠は?」

「さっきも少し話したけど、深海棲艦の艦型は古臭い。型落ちというより、そもそも現代の軍艦の水準まで至っていない、というのが僕の所感だ。空母という艦種がないのも、根拠の一つだね。あの艦種はまだ、登場して日が浅いからね」

 

 そこまで話し終え、紅茶も最後まで飲み切った天野。ティーポットを手に取った彼は、「おかわりを淹れてこよう」とソファを立った。

 扉を開きざま、天野は思い出したように舞原を振り返る。

 

「……一番気になるのは、これだけの深海棲艦を、いつから、いかにして、整備したかだね。かの工廠は、もしかしたらとんでもない能力を有しているかもしれない」

 

 

 

 意見交換と、他愛もない雑談を交えているうちに、紅茶は四杯目になっていた。ぬるくなりだした四杯目を最後まであおり、舞原は時刻を確認する。そろそろ、軍令部へ御子を迎えに行かなければならない。

 

「そろそろ戻らないとかね?」

 

 散々広げたメモをかき集めて束ねながら、天野が尋ねた。

 

「ああ。明後日には司令部に戻るよう、言われている」

「やはり忙しい身だね、君は」

 

 何とも言えない苦笑を、天野は浮かべていた。

 天野がまとめたノートと、設計図の写しを受け取る。ノートを鞄に仕舞い、設計図入りの筒を背負って、舞原は立ち上がった。

 

「久しぶりに、いい息抜きになった。君の顔が見れてよかったよ」

「それは何より。僕も昔馴染みと会えて嬉しかった」

 

 特に意味もなく、お互いに手を伸ばした。握手をし、肩を叩き合う。戦場は違えど、戦友のようなものだ。高揚感と共に、妙な気恥しさもある。

 

「深海棲艦を拿捕したら、いの一番に報せてくれよ」

 

 わざわざ玄関まで送ってくれた天野は、最後にそう言い置いて、手を振った。




深海棲艦の研究をしている機関は、これからもちょくちょく登場することになるかと。


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邂逅遭遇(5)

続きで投稿するのは今回までですね。


 

 

 

 同日。ハワイ。

 

「今日は一段と楽しそうですね」

 

 宮殿前のバルコニーへ顔を出すなり、マサキはそう言って声を掛けて来た。来客用に、昨日手に入れたお茶を淹れていた伊邪那美は、首を傾げて尋ねる。

 

「そうかしら?」

「ええ。とてもよい笑顔をされています」

 

 特に自覚はなかったが、マサキがそう言うのなら、そうなのだろう。

 バルコニーに用意した席の内、一つを示して、マサキに着席を促す。椅子は全部で三つ。三人目の客人も、もうすぐやって来るはずだ。

 そして案の定、広い宮殿の中を、バルコニーへ向けて歩いてくる足音がした。小気味いい踵のリズムを耳にして、伊邪那美は急須を手に取る。丁度蒸らしも終わって、お茶が一番おいしくなった頃合いだ。

 

「……お邪魔いたします」

 

 随分と控えめに宮殿の扉を開き、一人の女性が顔を出す。伊邪那美と同じ、白蛇を思わせる髪を二つにまとめ、床につくほど伸ばしている。小さな稲妻を纏う彼女は、ふわふわと漂う球形の生物を二頭、従えていた。

 

「いらっしゃい」

 

 伊邪那美は笑顔で女性を迎える。あまりこういう場に慣れていないからか、彼女は曖昧に笑って、会釈をするばかりだ。

 一方、そんな彼女に、マサキは遠慮なく話しかけていく。

 

土雷(つちいかづち)様、本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 

 誰に対してもそうであるように、マサキは恭しく礼をする。それに対し、土雷と呼ばれた女性は、露骨に嫌そうな顔をした。深い皺が刻まれた表情には、「お前がよく言う」という感情が明確に現れている。

 

「誰かさんが無理難題を持ち込み続けるせいで、落ち着いてお茶も飲めやしない」

「その点はどうかご容赦いただきたい。何分、戦争を始めたばかりで、やることが多いのですよ」

 

 申し訳なさそうに頭を下げるマサキへ、土雷はふんと鼻を鳴らす。小言を言えて満足したのか、それ以上彼女がマサキを責め立てることはなかった。

 最後の一滴まで茶を絞り切り、伊邪那美はそれぞれの席へ湯飲みを差し出した。ようやく彼女も席に着き、改めて話し始める。

 

「この四か月、実によく、働いてくれました。貴女には感謝してもしきれません。――ええ、ですから今日は、労いです。お茶と……それから、甘い物も」

 

 甘い物、の言葉に、土雷の深紅の瞳が、一瞬光った。甘い物でも差し入れては、というマサキの助言は、どうやら大当たりであったらしい。

 

「も、もったいないお言葉です」

 

 恐悦至極とばかりに首を垂れる土雷へ、伊邪那美は相好を崩す。

 同じく、昨日買ってきたばかりの和菓子を取り出す。準備よくマサキが並べた懐紙の上に、練りきりを並べていった。季節の新作だという、ウグイス色の愛らしいお菓子だ。

 

「これは……なんともよい景色ですね」

 

 驚嘆の溜め息を吐き、マサキは練りきりをあちらこちらから見ていた。一方の土雷はといえば、早く食べたいと言わんばかりに、そわそわとしている。彼女に付き従う球形の生物も、ふわふわと空中で舞っていた。

 

「本当はお抹茶がいいのだろうけれど。今回はこれで許してね」

 

 淹れたての煎茶と、練りきりを二人に勧める。控えめに手を合わせてから、二人が早速、懐紙の上の練りきりへ手を伸ばした。黒文字で半分にされると、練りきりの美しい断面が露わになる。

 柔らかな質感の和菓子を、二人が口へと運ぶ。瞬間、土雷が目元を緩め、頬を押さえた。マサキの方は、再び感嘆の息を漏らす。

 

「おいしい……」

 

 ぽつりと呟く土雷。気に入ってもらえたようで、何よりだ。

 

「――それで、このところの進捗は、どうですか?」

 

 練りきりが無くなり、お茶のおかわりを考え始めたところで、伊邪那美は切り出す。最後の一かけらを名残惜しそうに咀嚼していた土雷が、幾分か覇気を取り戻した様子で答えた。

 

「順調です。一年以内には、第二世代を――『()』から『()』までを就役できます」

 

 予定通りの進捗に、伊邪那美は満足して頷く。無理難題を吹っ掛け続けて来たが、やはり彼女は優秀だ。これで最低限、必要なものが揃う。

 

「『流』は二か月以内に雲海より産まれます。一番遅いのは『()』になるかと」

「さすがの土雷様でも、『乎』には手古摺りましたかな?」

 

 マサキの問いに、土雷は軽く息を吐いた。

 

「必要なものが、第一世代の十柱と全く違う。一年で完成させるだけ、ありがたく思え」

「ええ、それはもう」

 

 マサキは目礼をもって、土雷に敬意を表する。伊邪那美の言葉を土雷へと伝えるのは、いつもマサキの役割だ。彼なりに、彼女の奮闘を称賛していることはわかる。

 やはり強めの鼻息を吐き出し、土雷は話を続ける。

 

「航空機は『乎』よりも早く完成予定です。これを、しばらくは『()』に搭載して運用しようと考えています」

「『奴』に航空機が乗るのですか?」

「二度の海戦で、『奴』の性能不足が露呈しています。この際、戦艦としての役割は完全に『流』へ譲り、『奴』を空母へ改装します」

 

 雲海で建造中だった四隻の『奴』については、すでに改装の準備が整っているとのことだ。北米から引き揚げさせた二隻の『奴』についても、四隻の改造が終わり次第、順次空母へ改造する予定だという。

 面白いことを考え付く建造担当だ。

 

「この他、駆逐艦や巡洋艦にも、必要最低限の改装を急いでいます。早ければ三か月後には、北米艦隊再派遣用の戦力が整うかと」

「そう。ありがとう」

 

 一呼吸を挟んだ土雷へ、二杯目のお茶を差し出す。受け取った彼女は、淹れたての熱い煎茶を少し啜って唇を湿らせ、最後の要件を話し始めた。

 

「例の六隻と……殿下の艦についても、全艦二年以内に完成予定です。三度目の海戦があれば、その戦訓も取り入れる予定ですので、若干工期の遅れはあるかもしれませんが……」

「構いませんよ。あの子はともかく、あの六柱の出番は、いささか先になります。焦らず、貴女の満足のいくように、やりなさい」

「……はい」

 

 土雷は頷いて、再び湯飲みに口づけた。今度こそ、彼女の話は終わりだ。

 数分をかけてお茶を飲み切り、土雷は席を立つ。

 

「それでは、これにて失礼します。お茶も、お菓子も、大変おいしかったです」

「何よりです。つまらなくなれば、いつでも顔を出しなさい。お茶くらいは淹れましょう」

「……ありがとう、ございます」

 

 ぺこりと丁寧に一礼をして、土雷は宮殿の中へ去っていった。彼女が戻る先は、真珠湾を覆う雲海、その中心点。深海棲艦の泊地を司る者として、彼女はその責務を果たすだろう。

 それにしても――

 

「ふふ、土雷まで、あの子を『殿下』と呼ぶのですね」

 

 マサキが思い付きで言い始めた呼称が、着実に浸透しているようだった。

 マサキも立ち去ったところで、三人分の湯飲みを片付け、伊邪那美はバルコニーにてハワイの風を浴びる。太陽は丁度中天に昇ったところだ。容赦のない光が、眼前の景色を――稲妻宿る雲海を照らしている。

 思い出すのは、昨日のことばかりだ。

 あれは、怒っていたのだろうか。人への為しように。神への冒涜に。不要な哀れみに。

 神は試練を与えるだけだ。そこからどうするか、何を成すかは、全て人の領分である。もはや神が神話を紡げる時代ではないのだから。

 故にこそ、人ならざる怨念を用いて、人の試練を成そうという伊邪那美は、災厄以外の何物でもない。

 

「……火を手にした時から、それは向き合うべき、人の業なのです」

 

 そして火を産んだその日から、それは直視すべき、神の宿命なのだ。

 踵を返し、伊邪那美もまた、自らの玉座へと戻る。誰もいなくなったバルコニーに、名残惜し気な潮騒だけが残されていた。




残り一話くらい、戦闘シーンから抜粋してこようかなと考えてます。

とりあえず、ここまでです。


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(おまけ)邪砲再来

サンプルに戦闘シーンが全くないし、艦娘もほとんど出てこなかったのでおまけです。

サンディエゴ沖の戦闘。


 七月二三日。サンディエゴ。

 

 

 

「弾着確認!夾叉です!」

『砲術より艦橋、次より斉射!』

「〔ミネソタ〕左舷至近に敵弾弾着!」

 

 怒号に似た報告と命令の入り乱れる〔アリゾナ〕艦橋に、ハリスは立っていた。

 正午丁度にサンディエゴ軍港を出港した太平洋艦隊の残存艦艇は、一昨日から変わらず港外を遊弋する深海棲艦艦隊へ向け、戦端を開いた。第一戦艦部隊(BD1)所属の〔ミネソタ〕、〔コロラド〕、〔アリゾナ〕が二隻の敵戦艦へ砲弾を投げつけ、〔ブルックリン〕級三隻と駆逐艦が肉薄を試みる。

 全艦艦娘搭乗艦ではないから、当然、攻撃しても効果はない。そのことは、すでに半年をかけた検証で実証済みだ。

 それでもなお、太平洋艦隊は深海棲艦に戦いを挑んでいる。理由は一点をおいて他にない。

 

「敵戦艦の射撃間隔は四十秒!」

「敵巡洋艦に、以前の情報と差異は認められず」

「〔コロラド〕に至近弾!今ので第三射です!」

 

 味方艦隊の情報だけでなく、敵艦隊に関する情報もまた艦橋内に飛び交っている。その全てを、ハリスの横に控える副官がメモしていく。この他、艦橋や通信室のやり取りは全て、録音されている。

 

(身を挺した情報収集……鯨乗り(サブマリナー)らしい、大胆不敵な判断です)

 

 自らもまた〔ミネソタ〕で指揮を執るニミッツの決断を、ハリスは思い返す。

 残存艦艇を用いた強行偵察と情報収集は、ハンセンの提案だった。しかし、当初巡洋艦主体で行われる予定だった作戦に、サンディエゴ在泊艦艇全艦の投入と、自らの乗艦を付け加えたのはニミッツだ。

 

――「こういう時こそ、指揮官先頭がよかろう」

 

〔ミネソタ〕へ将旗を掲げさせた太平洋艦隊司令長官は、そう言って引き留める参謀長を陸へ残し、艦上の人となった。

 現代戦争に指揮官先頭が似合わないことは、ニミッツ自身がよく知っているはずだ。彼は指揮官先頭を体現した東郷提督(アドミラル・トーゴー)を尊崇しているが、その真似をすることはないだろうと常日頃から口にしていた。

 そのニミッツが、自ら将旗を掲げたのは、なぜだったのか。

 

「一番槍はもらうぞ、〔ミネソタ〕」

 

 斉射の準備が完了したことを告げるブザーに、うっそりとした声が混ざる。敵戦艦二番艦を見つめるロバート・リー〔アリゾナ〕艦長が、口角を吊り上げた。BD1の三戦艦は、〔ミネソタ〕が敵戦艦一番艦を、〔コロラド〕と〔アリゾナ〕が二番艦を、それぞれ目標としている。

 ブザーが鳴り止むと同時に、〔アリゾナ〕が咆哮した。左舷一万六千ヤード(およそ一万五千メートル)先へ向けられた一四インチ砲十二門が、その砲口に一斉に炎を躍らせる。水圧機で吸収しきれなかった反動はそのまま艦を襲い、三万六千五百トンの艦体を右舷へと仰け反らせる。傾ぐ艦橋に、ハリスは両の足を踏ん張った。

 BD1の中で、最も艦歴が古いのは〔アリゾナ〕だ。その分、乗員の習熟度も高い。その〔アリゾナ〕が、他の二隻に先駆けて斉射を放ったのだ。

〔アリゾナ〕最初の斉射の余韻が収まらぬ中、〔ミネソタ〕と〔コロラド〕も新たな射弾を放つ。両艦はいまだ観測を目的とした交互撃ち方だ。しかし、その精度も着実に上がっている。夾叉や命中弾が出るのは時間の問題だ。

 一方の敵艦隊も、応戦の砲火を放つ。三連装三基九門が据えられた一六インチ砲のうち、各砲塔一門ずつを振り立てての交互撃ち方だ。すでに両艦とも、〔ミネソタ〕と〔コロラド〕に対して至近弾を得ている。たった三射でこれだけ射撃精度を詰めることができるのなら、敵の射撃指揮装置の性能もそれ相応の物のはずだ。

 二十秒ほどの飛翔を終え、〔アリゾナ〕の第一斉射が敵二番艦へ殺到する。砲弾が落着するとともに、丈高い水柱が幾本も乱立した。白濁のベール、その向こうに命中弾炸裂の物と思しきオレンジ色の閃光が走る。

 

「ただ今の命中弾は二発!」

 

 水柱が晴れる頃、見張り員から報告がある。第一斉射から命中弾二発とは、幸先のいい滑り出しだ。

 

「次弾装填急げ」

 

 リーが各砲塔を叱咤する。〔アリゾナ〕の装填速度は四十秒強。敵戦艦とほとんど遜色のない速度だ。

 だが、〔アリゾナ〕の射撃準備が完了するより早く、先に放たれた敵弾がBD1を襲う。

 先に弾着するのは、敵一番艦から放たれた射弾だ。〔ミネソタ〕を目標とする砲弾は、同艦の左舷、先よりも近い位置に水柱が噴き上がり、水滴が舷側装甲を強かに打つ。

 そして、敵二番艦より〔コロラド〕へ向けて放たれた砲弾は――

 

「〔コロラド〕被弾!」

 

 見張り員が叫ぶ。見れば、〔アリゾナ〕のすぐ前を航行する戦艦の甲板に、火焔と黒煙が見えた。一六インチ砲弾が命中し、炸裂した証左だった。

〔コロラド〕をネームシップとする〔コロラド〕級戦艦は、日本海軍の八八艦隊計画(エイト・エイト・フリート・プラン)に対抗して策定されたダニエルズ・プラン艦の第一弾として建造された。元設計はテネシー級のものを引き継いでおり、一四インチ砲艦として就役する予定であった。それを、日本海軍の〔長門〕型(ナガト・タイプ)に合わせて、一六インチ砲八門へと設計変更したのだ。そのため就役当時から、装甲の不足が指摘されていた。

 重装甲と堅牢な構造で知られる米戦艦が、そう簡単に撃ち負けるとは思えないが、不安は残る。

 

(今少し、耐えてくれよ、〔コロラド〕……!)

 

〔アリゾナ〕に続いて発砲した〔コロラド〕へ、ハリスは祈る他なかった。

 さらに二度の斉射を〔アリゾナ〕が放ち、〔コロラド〕が四発目を被弾した時、〔ミネソタ〕から「一斉転舵」の指示があった。〔コロラド〕が被弾したことで、一旦仕切り直すとの意図だろう。太平洋艦隊残存艦の目的――深海棲艦の情報収集を達成するためには、可能な限り長時間、戦い続けたい。

 

「撃ち方待て。面舵一杯、針路一四〇」

 

 リーが下令する。準備されていた第四斉射の発砲が中止され、艦は右へと艦首を振る。

こちらが直進する前提で放たれていた敵弾は、〔コロラド〕と〔ミネソタ〕の左舷至近に水柱を上げた。〔コロラド〕のさらなる被弾は避けられたのだ。

 BD1の各艦は、針路を百八十度変える。正面に見えていた〔コロラド〕の姿が左舷へと流れ、やがて艦橋の視界から消えた。今度は、〔アリゾナ〕がBD1の先頭艦になる。

 

「敵戦艦一斉回頭!こちらと同航戦を維持する模様」

 

(こちらが戦う限りは、応戦するということか)

 

 西海岸沖での深海棲艦の戦闘は一貫している。こちらが挑めば応戦し、離脱すれば追わない。今日もその原則は変わらない。

 

「目標変わらず、敵戦艦二番艦。射撃諸元の再計算急げ」

 

 敵艦隊の転針が終われば、すぐに砲撃を再開する。その意思を滲ませて、リーが砲術に発破をかける。

 右舷を指向した各砲塔へ、再び射撃諸元が送られる。各砲塔が旋回俯仰し、敵二番艦を捉えた。射撃開始を告げるブザーが艦上に響く。砲術長は、一射目から斉射を選択していた。

 

撃て(ファイア)!」

 

 砲術長の号令で、紅蓮の炎が上がる。艦を襲う衝撃はそれまでと変わらない。砲口から広がった衝撃波が艦橋の窓を震わせ、艦橋要員の耳朶を強かに打つ。

 

「〔コロラド〕、〔ミネソタ〕、砲撃を再開しました!」

「敵戦艦再び発砲!」

 

 後続する二隻の一六インチ砲艦と、相対する敵戦艦二隻が砲撃戦を再開した旨、見張り員から報告が入る。一万六千ヤードの彼方へ飛翔するこちらの砲弾と、一万六千ヤードを飛翔してくるあちらの砲弾。二種類の巨弾は高空で交錯し、轟音を引き摺って海面へ降り注ぐ。

 最初に弾着するのは、〔アリゾナ〕の一四インチ砲弾十二発だ。敵戦艦二番艦へ向けて放たれた砲弾は、派手な水柱を噴き上げてその姿を隠す。すわ、一撃のもとに轟沈したか、という錯覚に陥るが、それが勘違いだとハリスは知っている。

〔アリゾナ〕に続くようにして、〔コロラド〕と〔ミネソタ〕の砲弾も飛翔を終える。こちらは交互撃ち方のままだ。敵戦艦二番艦の周囲に四本、一番艦の周囲には三本、〔アリゾナ〕よりも一回りほど大きな水柱が立ち上る。

 

(命中も夾叉もなさそうだ)

 

 転針後最初の砲撃をハリスが見定める間に、今度は敵弾がBD1へ降り注ぐ。

 頭上へ迫る圧迫感を、ハリスは感じ取った。

 甲高い飛翔音が途切れた時、〔アリゾナ〕の右舷に三本の水柱が現出した。硝煙を多分に含んだ海水は〔アリゾナ〕の背丈を超える高さまで巻き上げられ、飛び散る飛沫が艦上構造物に降り注ぐ。砲身に触れた海水が、ジュッと音を立てて蒸発した。

 弾着のタイミングから考えて、敵戦艦二番艦の砲撃であろう。二番艦の一六インチ砲は、転針に伴って先頭になった〔アリゾナ〕を、新たな目標に定めたのだ。

 一方の一番艦は、変わらず〔ミネソタ〕へ射撃を繰り返している。転針前に四発を被弾した〔コロラド〕が、今度は敵の砲撃を免れている状況だ。

 射撃諸元の修正が完了し、〔アリゾナ〕が転針後二度目の砲撃に踏み切る。振り立てられた十二門の一四インチ砲から、雷鳴を思わせる砲声と黒褐色の砲煙が吐き出された。重量約六百キロの砲弾が十二発、一万六千ヤード彼方へと飛翔していく。

〔アリゾナ〕の咆哮に、〔コロラド〕と〔ミネソタ〕も追随する。〔アリゾナ〕の物より一回り太く長い砲身から、一斉に火球が生じた。右舷側の海面が、衝撃波でクレーターのようにへこむ。

 一方の敵戦艦も、遅れることなく第二射を放つ。

 お互いの砲弾が飛翔を終えるのは、およそ二十秒後のことだ。

 装填位置へ下げられた主砲身に、新たな砲弾が装填されるのを待つ間、ハリスはふと、やや離れた海域に目を移す。

 そこは巡洋艦と駆逐艦の戦場であった。砲の装填速度も、艦の機動性も、戦艦とは比べ物にならないほど速い中小艦艇の戦場は、残念ながら一目でその詳細を確認することは叶わない。辛うじて、猛然と砲炎を吐き出し続ける三隻の軽巡だけ、確認することができた。〔ブルックリン〕級の三姉妹だろう。うち一隻は、ハリスも乗り込んだことのある〔ヘレナ〕だ。

 艦橋で檄を飛ばすコールマン大佐の姿が、見えた気がした。

 同じ海域には、サンディエゴであまり見慣れない艦影も混じっていた。〔ブルックリン〕級によく似た――しかしどことなくほっそりとした印象の、二隻の軽巡。第五次輸送船団護衛艦の〔熊野〕と〔鈴谷〕、二隻の〔最上〕型(モガミ・タイプ)軽巡だ。こちらも、〔ブルックリン〕級ほどではないとはいえ、凄まじい勢いで砲火を放っている。

 二隻の日本軽巡が放つ射弾は、深海棲艦へ有効打を与えている様子だ。パッと見ただけで二隻ほど、炎上し漂流する深海棲艦の駆逐艦が確認できた。

 別の戦場を見つめていたハリスの意識を、飛来した敵弾の轟音が引き戻す。またしても左舷へ生じた水柱。海面下で炸裂した砲弾が、〔アリゾナ〕の艦底を揺さぶった。

 至近弾でこの衝撃だ。直撃弾が生じれば、果たしてどれほどの激震が艦を襲うのか。それを想像するだけで、床へ踏ん張る足に力が入った。

 至近弾落下を気にした風もなく、〔アリゾナ〕は三度目の斉射を放つ。右舷へと噴き出した砲煙は、艦の前進に伴って後方へと流れ、やがて漂う黒雲となる。丁度、八本足の怪生物(デビル・フィッシュ)の吐き出す、墨のような見た目だ。

 視界を奪う黒雲が後方へ流れる頃、敵戦艦二隻も三度目の砲火を放った。一切の乱れなく、艦前部で二つ、艦後部で一つ、火球を生じさせる。

 西海岸の穏やかな波の上を飛翔し、空中で放物線を交差させた砲弾が、それぞれの目標へ降り注ぐ。鋭角の風帽が大気を切り裂き、敵艦の装甲に牙を突き立てんとする。

 

「よしっ」

 

 他艦へ先駆けて飛翔を終えた〔アリゾナ〕の砲弾が、敵戦艦二番艦の周囲に水柱を産み出す。それと同時に、命中弾のそれとわかる真っ赤な火柱が、水柱の間隙に見えた。〔アリゾナ〕はわずかに三度の射撃で、散布界に敵戦艦を捉えたのだ。

 

「いいぞ砲術!」

 

 上々の結果を出した砲術科員たちへ、リーが称賛の言葉をかける。

 しかし、その成果を喜ぶ暇もなく、今度は敵二番艦の射弾が〔アリゾナ〕を襲う。

 彼方から聞こえて来た、砲弾が空気を切り裂く調べが、それまでと違う気がした。

 こちらの精神を圧迫する轟音が途切れた時、体験したことのない衝撃が、艦橋後方から届いた。

 巨大な質量によって、金属が無理矢理引き裂かれる異音。耳をつんざく甲高い音。それらが収まらないうちに、あらゆる音をかき消す爆轟音が艦上に響いた。敵弾が〔アリゾナ〕の装甲を食い千切り、艦内部で炸裂したのだ。

 サンフランシスコの地震もかくやというほどに艦橋が揺れる。さながら、海神の巨大な腕に掴まれ、揺さぶられているかのようだ。投げ出された水兵が何人か、床へ転がった。

 

「被害報告!」

 

 艦橋の(へり)に掴まって難を逃れたリーが、応急修理(ダメコン)チームに尋ねる。煙突基部に命中した敵弾は装甲を貫通して炸裂。詳細は現在確認中とのことだ。

 

「砲撃を続行する。……我慢比べだ、ハリス大佐」

 

 戦闘の続行を命じたリーが、額に一筋汗を伝わせて、こちらを見る。その決意に、ハリスは頷いた。

 新たな斉射を〔アリゾナ〕が放つ。太平洋艦隊の残存艦艇には、もうしばし奮闘してもらわねばなるまい。




…あれ、結局艦娘出てきてなくない?(おい)


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