夏の陽炎、君の囚われ (くまたろうさん)
しおりを挟む

夏の陽炎、君の囚われ

 ずっと、どこか遠くに行きたかった。

 このどこまでも広がる青々とした空の下を、いつまでもただ二人で歩いていたかった。

 「暑いね」と僕が呟くと、隣の君は少しうんざりとした表情で小さく「そだね」とだけ返す。そんな些細なやり取りにどこまでも幸せを感じていたかったんだと思う。

 駄菓子屋で買ったキンキンに冷えたラムネで喉を潤しながら、生ぬるい風を肌で感じて、時折二人で中身のない会話を繰り返す。

 そんな夏に、僕はいつまでも囚われていたかったんだと思う。

 今思えば随分と馬鹿らしい話だとは思うのだけれど、でも、それでも確かにあの夏はあって、そして確かに君は居たんだということだけはこの世界中の誰もが忘れても、僕だけは決して忘れることは無いだろう。

 僕はいつまでも、あの夏の日の陽炎に囚われて続けて生きていく。

 

 

 

 

 

 事の始まりは夏休み中の夏期講習もついに最終日を迎え、明日からはただ高校二年生という青春真っ盛りの夏を送ることが出来る、という解放感に身を包まれた昼下がりのことだった。

 冷房の効きが悪かったせいかぐっしょりと汗で濡れてしまった制服の首元に向け、右手で下敷きを仰ぎながら僕は一人校内の一角にある駐輪場に向けて足を運んでいた。

 周囲には同じく夏期講習帰りの生徒が多く歩いていて、それぞれが思い思いの会話を繰り広げながらガンガンに効いたエアコンが待っているだろう自宅への帰路を急いでいた。

 自宅に帰って冷房の効いた部屋でゆっくりと漫画でも読み漁ろうか、なんて考えながら自転車の鍵を鍵穴に刺し込んだところで、ふと僕の優雅な午後のひと時への妄想は現実へと引き戻されることになるのだった。

 

「ナツ!」

 

 ふと、僕の背中越しに声がかけられた。見ればそこには先ほどの生ぬるい教室でひたすらに同じく数学の課題に取り組んでいた、見慣れたクラスメートの顔があった。

 

「なんだよ、ヒロ」

 

 暑苦しくこちらの肩に腕を回してくるコイツの名前は香田宏之。僕と同じくこの学校の2-Aの生徒で、僕とは小学校の時から付き合いがある古い友人だ。あまり人付き合いの得意ではない僕にも分け隔てなく接してくれて、顔馴染みの少ないこの学校では彼の存在に何度も助けられているのである。

 

「今帰りか?」

「ん、まぁね……」

 

 僕の言葉にヒロは少し考え込むような仕草をするとすぐに近くに止めていた彼の自転車の元へと向かっていった。

 

「待たせたな」

 

 自分の自転車に絡み合うように止められている自転車を押しのける事三十秒ほど。やっと解放された自転車を引きずりながら彼が再び僕の元へと戻ってくる。

 

「んじゃ、行くか」

 

 満面の笑みを浮かべながら彼は僕に向かってそう言いのけた。目的地も状況も一切語らない彼に向け不満げな表情を浮かべる僕だが、その直後すぐにその疑問も解決することになる。

 

「場所取り、今のうちにやっとかないとな。それぐらい付き合ってくれるだろ?」

「……あぁそうか、確か今日だったっけか」

 

 敷島湖花火大会。

 僕の住むこの敷島市は東側を海、西側を山に挟まれている。そしてその山と海との中間地点。街から少し外れた場所に、敷島湖という小さな湖が存在している。日本地図では見ることすらできない小さな湖だが、この街ではシンボルともいえる存在になっており、この街では毎年八月の中旬にその敷島湖の湖岸で花火大会が開催されるのだ。

 そしてその日取りがまさに今日なのだ。

 毎年僕とヒロはその敷島湖から少し離れた山の中腹に場所取りを行う。小さなお堂があるだけの広場となっているその場所からはちょうど湖を見下ろすことが出来、目の高さと同じ高度で打ち上がる花火には僕も毎年目を奪われてきた。

 

「まぁ、知る人ぞ知るスポットって訳だけどさ」

「それでも、あの場所は誰にも教えたくないもんな」

 

 思わず重なった視線についつい笑みが零れてしまう。僕とヒロは即座に自転車をそれぞれの自宅の方へと向けると「じゃあ後で」という言葉と共に校門から別々の方向へと別れていった。

 

 帰宅した僕を待ち構えていたのはガンガンに効いたクーラーの呪いだった。

 玄関の扉を開けた時点ですぐにその魔の手は迫っていて、リビングへと足を踏み入れた時点で既にその呪縛に囚われてしまい、腰を下ろしたソファからすっかり動けなくなっていた。そしてそんな僕にとどめを刺すように現れたのがキッチンから現れた母さんだった。

 

「お帰り夏樹」

 

 そんな言葉と共に目の前に差し出されたのはガラスのコップにぷかぷかと気持ちよさそうに氷を浮かべた麦茶だった。

 

「ただいま」

 

 そう言い終わるや否やというところで僕はその冷えた麦茶を一気に喉に流し込むと一つ大きくため息を付く。

 

「そういえば今日は花火大会でしょ?またヒロ君と約束かい?」

 

 小学校からの付き合いということもあり、母さんはヒロのことをよく知っていた。そして、毎年こうして花火大会の場所取りのために出かけていることも既に母の中では恒例行事として知られている。

 

「んー、そうだね。ヒロから連絡が来たら出るよ」

「そっか。まぁ、あんまり遅くならないうちに帰って来なさいよ。母さんも婦人会で出掛けなきゃいけないから今晩はこれで何か食べて」

 

 キッチンの机の上に置かれた財布から千円札を二枚取り出すと母さんはそれをこちらに手渡してくる。

 

「わかった。ありがとう」

 

 それを受け取ると母さんはそのままキッチンの方へと再び姿を消した。携帯が震えたのは受け取った二千円を通学用の鞄にしまい込み、机の上に残ったガラスコップの氷を口で一度大きくかみ砕いたそんな時だった。

 

『美香から誘われた。今日はダメそうだ。すまん』

 

 携帯に表示されたのはそんな簡素な文面だった。そういえば、二か月ほど前に彼女が出来たなんてことを嬉しそうに話してたっけな。あまり興味がある話ではなかったからすっかり忘れていたけど。

 

「いや、むしろヒロはなんでそのことを忘れてたんだよ……」

 

 初めての彼と向かえる初めての夏休み。そして花火大会と言えばそんな中でも一番のイベントじゃないか。そりゃ彼女さんだってヒロに声をかけるのは当然っちゃ当然だろ。

 それをあいつはいつものように……。

 顔もフルネームも知らぬ彼女さんに同情を浮かべつつ僕はこの後の予定をどうしたものかと頭を悩ませる羽目になるのだった。

 

「家に居ても結局は一緒か……」

 

 毎日晩御飯を作ってくれる母は本日不在。ということは必然的に今日の晩御飯は家では食べられないことになる。父もお生憎と仕事で遅くなるということを朝聞かされていた身としては自宅にいるのもなんだかなぁという気持ちになる。

 ファミレスという選択肢もあるが今日は花火大会の夜だ。ファミレス以外の飲食店も軒並み混みあうことが予想される。ということは結局のところ――

 

「出店で買うのが一番かぁ」

 

 という結論に至るのだ。

 時計を見れば時刻は二時を僅かに回ったところ。少し自室で休んで家を出れば、ちょうど屋台も活気づくころに会場に辿り着けるだろう。しかしお生憎と一人で賑わう花火会場を闊歩するほどの変わった趣味も度胸も持ち合わせていない。滞在時間も二〇分といったところが関の山だろう。

 自室に戻りベッドに寝転がると猛烈な睡魔に襲われた。そういや暫く夏休みということにかまけて夜更かし気味だったな。夏期講習で早く帰れるとはいえ普通に学校で授業を受けることには何も変わらないというのに。

 どうしてか夏休みというのは嫌でも僕等の気分を高揚させるらしい。祭りの始まりを告げる太鼓が鳴り出すまで、少し昼寝をするのもいいかもしれない。

 ふかふかの布団と肌を程よく冷やすエアコンの冷気が心地よく、僕はいつの間にか眠りについているのだった。

 

 

 

 

 

 不思議な夢を見た。

 誰かが僕の名前を呼ぶ夢だ。顔も名前も覚えていないが、確かに誰かが僕を呼び続けていることだけは絶対に覚えている。

 燦燦とした夏の日差しが差し込む場所で、確かに僕は名前を呼び続ける誰かの手を取った。暖かい手だった。真夏の嫌な暑さとは違う、手のひらにゆっくりと伝わる温もりだった。僕は笑った。そして、彼女もそれにつられて笑うのだった。

 ……彼女?いったい誰なんだろう。目深にかぶった帽子の下が少しずつはっきりしてくる。――、――っ!

 

「っ!」

 

 跳ねるように自分の声で飛び起きた。衝撃でゴトリと鈍い音を立てて寝る前に持ち込んだ漫画が一冊無惨に床の上に転がっている。

 僅かに倦怠感を感じる体を無理矢理にベッドから引きずり出して、僕はそれを本棚の一角へとねじ込んだ。それにしても、さっきの夢は誰だったんだろう。

 それに……あれ、僕は一体彼女をなんて呼んだんだっけ?

 夢というのは曖昧なもので起きた瞬間は鮮明に覚えていたりするものだが、だんだんと頭がはっきりとしていくほどにその内容を少しずつ忘れていく。

 少女と夏、帽子っていうのは覚えているんだけれど、なぜ僕が彼女の名前を呼んでいて、帽子の下がどんな顔で、そしてどんな風に彼女を呼んでいたのか。本棚に向かって歩いていく度に一歩を対価にその内容をどこかへと落としていく。

 さて、内容を思い返そうと思った時には既に遅く、どれくらい眠っていたのだろうと時間を確認した瞬間に先ほどの夢の記憶がすっかりと頭から抜け落ちてしまったことに気づくのだった。

 

「……まぁ、考えても仕方がないか」

 

 所詮夢は夢。それが本当に忘れてはいけない内容だったなんてことはあり得ないのだ。

それにしても、時刻は既に六時を僅かに回ったところだった。もうちょっと早く起きようと思っていただけに、混みあっている会場を想像して少し憂鬱になる。あの人混みを一人で歩くのは正直億劫だ。しかし背に腹は代えられない。晩御飯を確保するためには多少の犠牲は所謂コラテラルダメージという奴だ。

 僕は机の上から自転車の鍵をかっさらうように掴むと財布と携帯だけを握り勢いよく二階の自室から玄関へと駆け降りていった。

 

「……まぁ、予想はしていたけどさ」

 

 祭り会場から僅かに離れた公園に自転車を止めると、既に会場まで続く道は多くの人で賑わっていた。

 既に数軒の出店が立ち並んでいるのも見て取れ、何かが焼ける香ばしい匂いが僕の胃袋を刺激している。そこで手直に済ませてしまうのもいいかな、と一瞬思ってしまったがせっかくここまで来たのだ。幸い軍資金も入っている。ちょっと会場まで足を延ばすのもいいだろう。祭り会場の雰囲気がそうさせるのか自然と気分も高揚してしまい、僕は流れるように本会場へと向かう人混みへと自らの体を放り出す。

 かき氷に綿あめ、お面屋さんに焼き鳥、それに定番のたこ焼き。立ち並ぶ様々な出店を脇目に僕はどんどん本会場の方へと流されていく。財布にはたんまりとお小遣いが入っているのだ。気分は回復アイテムをたんまりと買い込んだ後のラストダンジョン前。さあやってやるぞと意気込むばかりである。

 

「うげ……」

 

 そんな出鼻を挫くように、遠くの方で僕は見知った顔を見つけることになる。

 そう言えばすっかりと忘れていたが、本来一緒に行くはずだったヒロもこの会場に居るのだ。遠くの方で、そんなヒロがどこかデレデレとした表情で歩いているのが目に入る。当然隣には見知らぬ女の子がヒロに向かって話しかけており、僕はそれがすぐにメッセージにあった美香という女の子であるということを察する。

 十年来の友人の見たこともない、そして見たくもなかった表情を見せられてしまい急に祭りで高揚した気分が冷たくなっていくのが分かる。

 こういう時は決して良い事なんてないのだ。すぐにこの場を去ってしまうのが正解だ。幸い向こうはこちらに気づいていない。

 僕は近くの屋台でたこ焼きと焼きそば、それにお祭り価格のペットボトル飲料を買い込むとすぐに自転車を止めている公園の方へと踵を返した。

 その道中で気づいたのだがどうやら屋台のおじさんの聞き間違えだったのか、それとも僕の言い間違いか、焼きそばが袋に二つ存在していた。まぁ、財布からは金額ぴったりにお金が消えていたところを見るに僕の言い間違いかつ金額はちゃんと払っているらしい。まぁ、幸い大した量でもないので一人でも食べきれる量だろう。

 

 自転車に跨り自宅への道を戻ろうとハンドルを切った時だった。ふと誰かに呼ばれたような気がして僕は後ろを振り向いた。しかし知り合いらしき顔は周囲には見当たらず、ただ人混みとその向こうの山が見えるのみだった。

 しかし、なぜその時そう思ったのかは分からないが、僕はなぜかこのまま自宅に戻ることがどこか違うような気がしたのだ。

 

 では一体どこに向かえばいいのか。こういう時の心当たりは一か所しか存在しない。僕は大通りを抜け、脇道に入り、そしてそこから続く急斜面の坂道を立ち漕ぎで必死に登りきる。目的地が現れたのは祭りの会場を離れてから二十分ほどが経った頃だった。

 薄っすらと辺りが暗くなりはじめたせいか、その場所はどこかこの世界から隔離されてしまったように見えてしまう。

 中途半端に伸びた草木が辺りに生え散らかしており、そこを踏む歩くと小さなボロボロの木製ベンチが目に入る。いつから手入れされていないのか知らないがそのスペースの脇には小さなお堂が立っている。

 車三台を停めるのに少し手狭なその場所こそが、僕とヒロが本来花火を見るはずだった場所だった。

 まぁ、場所取りなんて言ってもこの場所を知っているのは地元でもそう多くはないはずだし、ましてや観光地であるこの街には他にも花火を見ようと思えばベストな場所なんて幾らでもあるのだ。わざわざこんな場所に足を運ぶ方が物好きだというものだろう。しかし、そんな場所だからこそ僕とヒロは小さい頃からこの場所でよく花火を見ていたのだともいえよう。

 

 当然ながらその場所には誰もおらず、ただ夏の夜風が周囲の木々を揺らす音だけが耳に入る。雑然と生えそろった名前も知らない草を踏みながら先へ進むと一番奥は急な崖になっている。柵なんて何一つなく、この場所をよく知らない人間が足を踏み入れると、この薄暗さじゃただじゃすまないだろうななんてことを思ってしまう。

 幼い頃はよく親に注意されたものだが、いつからかこの場所に近づくことに何も言われることも無くなってしまい、親の手から少しだけでも離れられたのだという自信と、もう二度とあんなに自分の心配をしてもらえないのだろうなという寂しさが同時に襲ってきた。

 

「さてと……」

 

 雨風ですっかりボロボロになってしまったベンチに腰を下ろすと、ちょうどそこからは敷島湖が一望できた。湖岸には祭りのメイン会場が明るく浮かび上がっており、大勢の祭りの参加者たちがゴマ粒よりも小さく見て取れる。

 なんでこんなところにベンチがあるのかという疑問置いといて、とにかく僕はここから見下ろす敷島湖が何となく好きだった。

 時刻は夜の七時半。花火大会は八時からだからまだ僅かに時間がある。その間にせっかくだから夕食を胃に入れてしまおうと僕はベンチの小脇に置いておいた袋の中を漁りだす。

 焼きそばが一つとお茶が一本。この気温のせいか袋に入れっぱなしだったお茶はすっかり温くなってしまっており手に持っただけで何となく口に入れた時の気分を想像してげんなりしてしまう。

 輪ゴムで止められているだけのプラスチック容器を開けて中身とご対面。景気よく割り箸を割っていざ一口目に口を付けよう、まさにその時だった。

 

「随分と美味しそうだね」

 

 その声は、僕のすぐ横から聞こえてきた。

 

「わわわっ!なになになに!?」

 

 手から滑り落ちそうになった焼きそばを何とか受け止めつつ、僕は咄嗟に声の方へと振り向く。

 

「大丈夫……?」

 

 そこにいたのは、一人の少女だった。

 薄暗くてよく分からないが、薄い色のワンピースを身に着けていて、小脇にはこれまた淡い色のキャスケット帽を抱えていた。整った顔にどこか幼さが滲み出ている可愛らしい人だった。

 突然の闖入者に僕が何も言えずにいると、彼女は少し不思議そうな表情でこちらを伺いながら僕の隣のベンチへとちょこんと腰を下ろしたのだった。

 

「どうして何も喋らないの?」

 

 何もリアクションを取れずにいる僕を見て手持ち無沙汰になったのか、手元のキャスケット帽をくるくると回して見せる。

夕方、というよりもうすっかり夜になってしまったこの時間の、ましてやこんな場所で突然現れた人物。思い当たる節が一つしかなかった僕は少し冷静さを取り戻すと、当然のように彼女に向けて唯一浮かんだ言葉を投げつけるのだった。

 

「……幽霊……ですか?」

 

 瞬間、こちらを見つめていた彼女の目が大きくなるのが分かった。驚いたのか、それとも他に思うところがあったのか。

 

「私が幽霊!?まっさかー!」

 

直後、彼女は快活そうな声で笑い声をあげると、じんわりと涙が浮かんだ目を擦りながらこちらへと再び声をかけてきた。

 

「ん~、惜しいっ!」

「お、惜しいっ!?」

 

 大声を上げたのは今度はこちらの方だった。違うよ、ならまだしも惜しいっていったいどういう事なんだ。困惑しか浮かばない僕を見て再び彼女は楽しそうに笑って見せる。

 なんというか、こんな状況だというのに僕は不思議と彼女に対して嫌な感じを覚えなかった。むしろ僕が何となくこの場所に足を運んだのは、こうして彼女に会うためだったんじゃないか、そんな気だってしてくるのだ。

 

「どしたの?」

 

 ふと彼女と目が合った。優し気な目元が印象的な人だった。年齢は僕と同じぐらいか少し年上、大学生には見えないからきっと僕と同じ高校生だろうと推測する。でも、この街の高校はひとつしかない。僕が知らないだけという可能性もあるだろうがこんな人を校内で見かけただろうか。

 そんなことを考えていた時に急に声をかけられたせいか咄嗟に僕はその場を取り繕うような声を上げてしまった。

 

「い、いや、そろそろ花火だなーなんて思って……」

 

 さっき時間を確認したら花火は三十分後だ。少なく見積もってもそれから十分も経っていない。そろそろなんてよくも口にできたものだ。まぁ、彼女が時間を知らないという可能性もあるだろうからその辺はうまく誤魔化すとして。

 

「それよりも、美味しそうなもの持ってるね」

「えっと、これ?」

 

 彼女が目を付けたのは僕の手元の焼きそばだった。そう言えば開けた瞬間に彼女に声をかけられたものだからまだ一口も食べられていない。

 

「よかったら食べる?」

「い、いいの!?」

 

 目がキラキラと、なんていうのは漫画か小説だけの表現だと思っていたけれどあながちその表現は嘘ではないと今は言える。それほどまでに僕の言葉に対して彼女は嬉しそうな顔を浮かべるのだ。その目がキラキラしている以外に何と例えようがあろうか。

 

「で、でも……これはキミの分だし」

「あー、いいよ。もう一個あるから」

 

 僕は小脇のビニール袋から同じものをもう一個取り出して見せる。

 

「ほんと!?じゃあ遠慮なくいただきますっ!」

 

 僕の手から割り箸をひったくるように奪うと大きな口でばくりと一口。

 

「ん~、おいしいっ!」

 

 満足そうに顔を緩める彼女を見られただけで、焼きそばを一つ多めに買ってしまったことを感謝するべきだろう。まぁ、何にありがたがればいいのかは分からないけれど。

 

「あ、ねぇねぇ。袋、もう一つは何が入ってるの?」

 

 食い意地が張っているのかそうじゃないのか、彼女はビニール袋の中のもう一つの容器に目を付けた。

 

「たこ焼きだよ」

「たこ焼きかー。お祭りの定番だね!」

「……悪かったな、ベタで」

「そ、そんなことないよっ!むしろ王道って感じで私的には大満足なのです!」

 

 どうやら彼女、僕のたこ焼きにまで手を出すつもりらしい。

 ここまできたら先ほどまで抱いていた恐怖心や猜疑心なんてものはどうだってよくなってくる。今目の前にいるのはただ食い意地が張っているだけの美少女だ。

 

「……食べる?」

 

 流石にここまで来ておいてこれはダメ、なんていう訳にもいかないだろう。僕はすっかり諦めモードで袋からたこ焼きの入ったプラスチック容器を取り出すとそれを彼女の目の前へと差し出した。

 

「ありがとっ!それじゃあ遠慮なく……」

 

 ソースと青海苔の良い香りが辺りに漂う。彼女は勢いよく爪楊枝で手前の一つを突き刺すとそれを嬉しそうに口元に運んで、そしてピタリと動きを止めた。

 

「……食べないの?」

「いや、こんなに美味しそうなものを目の前にしておいてそれを口にしないのは食べ物に対して失礼だとは思うのだけれど……」

 

 流石、食いしん坊は食べ物に対しても真摯なんだな。

 

「今失礼なこと考えたでしょ」

「……全く。それで?」

「じゃあいい。で、これを買ってきたのはキミな訳でしょ?」

「焼きそばもそうだけどね」

「それはまた別の話。ってことであーんっ」

 

 そう言って食いしん坊であるはずの彼女は爪楊枝に突き刺したたこ焼きをこちらの方へと差し出してきたのだ。

 

「え、えっと……これは?」

「見ての通りなんだけど?ほら、こういうのは最初にお金を出した人が口にしなきゃ」

「い、言ってることは分かるんだけど……。それならほら、自分で食べるからっ!」

 

 美少女にあーんとか、鬼に金棒より最強の組み合わせじゃないか。ってのはどうでもよくてこのシチュエーションは流石に出来すぎやしないかという話でも無くて、なんというか……。

 

「い、いくら払えばよろしいので?」

「そういうお店じゃないよ!」

 

 ぷぅと頬を膨らませた彼女がやけに魅力的に映ったのはきっと夏の魔法のせいなんだと思った。

 

「食べないの……?私も流石にこのままってのは恥ずかしいんだけど……」

 

 ここまでお膳立てしてもらっておいてやっぱりごめんなんてのは男が廃るってもんだろう。まぁ、僕の中の男が栄えていたことなんて今まであったかって言われると微妙だけど。

 

「お……たこ焼きだ」

 

 がぶりと一口、爪楊枝まで飲み込んでしまわないように気を付けながら差し出されたそれを口の中へ誘い込む。

 少し粉っぽい生地と気を付けなければ気づけないほど小さいタコ、そしてこれでもかとかかっている安っぽいソースの味がなぜかとても美味しく感じるのはどうしてだろう。

 

「そりゃそーだよ、たこ焼きだもん」

 

 少し呆れ混じりの声を上げながら彼女も手に持った爪楊枝でたこ焼きを口の中へと放り込んだ。

 そういえば同じ爪楊枝を使ってるな、なんてことに気づいたときには時すでに遅しという奴で、しかし彼女は全くそれを気にする素振りすら見せない。

 どうやら意識しすぎていたのは僕だけだったらしい。それか彼女が気づいていないだけか。とかく、一度起こったことは二度三度同じことだ。僕等はそうしてたった六個のたこ焼きを仲良く半分こしながら少しずつ少しずつ胃の中へと放り込んでいくのだった。

 

「あー美味しかった!」

 

 留めと言わんばかりに僕のお茶をひったくると彼女はそれを思いきり流し込んだ。

 

「飲む?」

 

 なんて言葉と共に半分ほどになってしまったペットボトルをこちらに手渡してくる。ここまでくれば爪楊枝もペットボトルの口も一緒だ。そう思い僕は躊躇いなく中身のお茶を一気に流し込んだ。

 変に意識してしまったせいかお茶の味なんて微塵も分からなかったけど、それはそれでいいのだと思った。

 

「そういえばさ……」

 

 ふと、敷島湖岸の祭り会場へと視線を落としながら彼女がぽつりと口を開いた。

 

「どうしてこんなところにいるの?」

 

 確かに、彼女の疑問は当然だ。

 僕は今日の昼下がりの事を少しずつ彼女に話した。それが毎年の恒例行事なこと、ここが一番花火を見るのにベストスポットなこと、お生憎と今年は友人に彼女が出来て一人だったこと、そして何となくここに来なければいけない気がしたこと。

 

「なんとなく……?」

「う~ん、よく分かんないんだけどさ、誰かが呼んでるような気がして」

「あー、それ私だ」

 

 そう、彼女はあっけらかんと言ってのけた。

 予想だにしなかった答えに咄嗟にその真意を聞き返そうと僕が口を開こうとした直後、大きな音が敷島湖の上空で鳴り響いた。

 

「そうか、花火……」

「綺麗だね」

 

 時刻は恐らく夜の八時を回ったところ。このお祭りのトリである花火大会の開始を告げる大きな花が、夜空に咲いた。

 

「えっと、さっきの言葉の意味なんだけど」

 

 花火の音に負けないように僕は彼女へと先ほどの言葉の意味を問いかけようとする。

 しかし、そんな僕の意図を知ってか知らずか、彼女はただ静かに顔の前に人差し指を立てて見せると湖上空へと視線を向ける。

 花火の光に照らされて浮かび上がる彼女の横顔がやけに幻想的に見えてしまい、僕は恥ずかしさからか思わず花火の方へと目を逸らした。

 形も色も様々な沢山の花火が、この街の夜を明るく照らしていた。

 

「楽しかったよ」

 

 ふと、鳴り響く花火の音に紛れて、その声はやけに鮮明に僕の鼓膜を震わせた。

 

「えっ……?」

 

「今年の夏も、良い夏になるといいね」

 

 今度は花火の音に決して負けないように、彼女の声は花火よりも大きく夜の山に響いた。

 消え入りそうな笑顔を浮かべながら、彼女は一体どんな気持ちでその言葉を吐いたんだろうか。

 

「それじゃあいい夏を、少年っ!」

 

 ひときわ大きな音を立て、敷島の湖の上空に二尺の花が咲き誇った。この花火大会のメインでもあり、そして祭りの終わりを告げる大輪の花。

 崩れ行くその花に一瞬気取られ視線がそちらに奪われてしまう。

 咄嗟に彼女の元へ再び顔を向けたが最後、既にそこには誰もおらず、ただ静寂と暗闇だけが辺りを包み込んでいった。

 

「本当に幽霊だったのか……?」

 

 僕の疑問の声も虚しく、その問いかけに答えてくれるはずだった彼女はもういない。

 その姿はまるで夏が見せた幻のようで、でも確かに焼きそばの容器は空になっていて、僕の不器用さじゃ到底できそうにない綺麗な割り箸が一膳その上には転がっていたのだった。

 

 

 

 

 

 高校二年の夏休みがついに始まった。

 まぁ、二週間前から夏休みではあったのだけれどその間も夏季講習やらなんやらで学校には通っていた訳で、制服にそでを通さない日々が続いてようやく僕はその訪れを実感することになるのだった。

 祭りから4日。

 あれから僕は彼女に再び出会えていない。名前も知らない彼女と過ごした夜を、僕は結局夢か幻だったんだと思い込むことにした。

 ちゃんとごみは纏めて捨てたし、暗がりに気を付けながら自転車で駆け下りた山道もいやというほどはっきりと覚えているけれど、そう思わなければあの夜のことに説明が付かないのだ。

 もしかしたら崖下に落ちてしまったのではと思い、次の日明るくなってからすぐにまたあの場所に行ったけれど見たくもないものを見ることもなく、ただそのスペースにはいつも通りボロボロのベンチと小さなお堂があるだけだった。

 少し気になることと言えば、そのお堂に比較的新しめの花が添えられていたことだった。まぁ、周囲に全く人家が無いという場所でもない為、山の麓に住む誰かが添えたものなんだろう。

 

「おはよう……」

 

 夜更かしの影響を多大に受けた眠気眼を擦りながらリビングへと足を運ぶと、キッチンの方から母さんが顔を覗かせた。

 

「おはよう、今日はアンタどこかに行くの?」

「あー、課題やりに図書館にでも行こうかと」

 

 差し出された麦茶で喉を潤わせつつ、リビングのソファへと腰を下ろす。

 課題というのはどうしてか不思議なもので自室にいるととんと捗らない。漫画にベッド、スマホにゲームととかく誘惑が多いのだ。

 こういう時は自室を飛び出て外でやるに限る。それに、図書館は冷房もばっちりで飲食が可能なコーナーだってある。まさに課題をやるには理想的な場所と言えよう。

 

「そっか、それじゃあ母さんは少し出掛けてくるからよろしく頼むわね」

「へーい」

 

 見れば母さんは完全に余所行きの服を身に着けていた。ばっちりメイクも決めちゃって出陣準備完了と言ったところだ。

 僕も手早く朝食を済ませると適当な服に着替え、今日取り組もうかと思っていた数学の課題を手近な鞄に詰め込んだ。

 図書館に辿り着いたのは午前も十一時を少し回ったところだった。

 空いている机に課題を開いてどれぐらいの時間が経っただろうか。キリの良い所まで問題集を潰した僕はふと何の気なしに近くの本棚へと視線を動かした。

 

「敷島の歴史……ねぇ」

 

 その棚には、この街の民族史や風俗史に関する書籍が多く置かれていた。ふとその中から比較的に分厚い一冊を引き抜くとパラパラとめくってみる。

 中身は本のタイトル通りこの街の歴史に関する事柄が写真や画像付きで書かれているものだった。この街が昔小さな村だったとか、江戸時代にとある大名がやってきて、街道の整備を行ったときにできた宿場町がこの街の発展の始まりだとか知らないことがいっぱいあったのだけれど、その中でもふと僕はあるものに魅かれることになる。

 

「この写真……」

 

 それは、この街のとある場所を写したものだった。

 敷島湖とその向こうの海が一望できる山の中腹、そしてその脇には小さなお堂が一つ。明らかに見覚えのある場所だった。

 

「あの場所だ……」

 

 僅かに違う点があるとすれば、写真が白黒で分かりづらいがお堂が今よりも若干綺麗に見えることだろう。僕はどうしてもその項目が気になってしまい課題もそっちのけで目が文字を追ってしまう。

 

「ナツサカノフヨウヒメ……?」

 

 『那津坂芙蓉姫』

 漁業と山の神である彼女は日本神話や神道に出てくるような有名な神ではない。どちらかというとこの地方、特に敷島の地に古くからある氏神のような存在であるらしい。本当にこの地特有の古い信仰の神らしく彼女を祀るような大きな社は存在せず、ただ今はこの街に点在する幾つかの小さなお堂がその役割を担っているらしい。

 

「ってことは、あのお堂はこのナツサカノフヨウヒメを祀るためのお堂だったのか」

 

 古ぼけた小さなお堂に添えられた一輪の花。その光景を想像して少し物悲しく感じてしまう。このご時世、本当に神様という存在を信じていて、それでいてその神を厚く信仰している人なんて言うのはきっと稀有な人達なんだろう。

 誰かに忘れられていく、そのことがとても寂しく思えてしまい見たこともなんなら直前に知っただけの存在に少し同情の気持ちさえ抱いてしまう。

 

「ん……?」

 

 そしてそんな彼女の記事の一つに、僕はある項目を見つけることになる。

 

「夏を奪った……?」

 

 それは、彼女が犯した小さな罪。

 この日の本という国から一時期彼女は夏を奪い去ってしまったのだという。日本の四季を愛し、そしてその中でも特に夏を愛した彼女は、その夏が民たちを苦しめることに心を痛めたのだとか。暑さにあえぐ民たちを思ってのことだったようだが、それがこの国の一番偉い神の怒りに触れ、彼女にはある呪いがかけられることになったと言い伝えられているらしい。

 まぁこの項目に関しては、というか彼女に関しては日本書紀や古事記などにも一切の記述がなく、あくまでもこの地域のみに伝わる伝承とされている。呪いの正体についてもあまりにも出典が少なくこの本にも記載されていない。

 しかし、夏を奪ったなんていう大それたその言葉がどこまでも僕の心に引っ掛かってしまう。

 

「それじゃあいい夏を、か……」

 

 あの日、あの花火大会の夜、いつの間にか姿を消してしまった彼女は最後に僕にそう呟いた。夏を奪ってしまったナツサカノフヨウヒメと、そのお堂の前で夏を想った彼女。

 それがどうしても重なって見えてしまったのだ。

 そこからの行動は早かった。手早く本を元の場所に戻すと机の上の荷物をカバンへと詰め込む。駐輪場から引きずり出すようにして自転車を取り出し急いで跨れば、全身を流れる滝のような汗も一切気にせず僕は全力で自転車を漕いでいく。目指す場所は当然あの場所だ。舗装も行き届いていないようなアスファルトの細い坂道を登っていくと、すぐにその場所は現れた。

 

「また会っちゃったね」

 

 僕の姿を見つけた彼女は、開口一番にどこか寂しそうにそう呟いた。

 

「……探してたんだ」

「私を?」

 

 自分なんか、そんな自嘲の色を含ませながら彼女は笑う。

 

「なんでかな、どうしても探さなきゃいけない気がしたんだ」

「それは随分とロマンチックだけれど、私としては少し迷惑だったかなーって」

 

 先ほどまで腰を下ろしていたベンチを離れて、彼女は崖際の方へと歩を進めていく。

 

「君は……」

 

 どうしても尋ねたいことがあった。きっと他の誰かが耳にしたら、子どもの妄想だとバカにするだろう。彼女に笑われてしまっても構わない。それでもどうしても僕は確認しておきたかった。

 でも、その言葉が僕の口から放たれることは無かった。

 彼女の細く長い指が、その先を咎めるように僕の口元に当てられたからだ。

 

「その先は、きっと君を不幸にするよ」

 

 それは、イコールそうだと告げていることに彼女は気づいているのだろうか。それともただ僕をその先に踏み込ませないために咄嗟に口を付いた言葉か。

 それでも僕が君に近づきたいと願うのは、僕を咎めるその顔があまりにも寂しそうに見えたからなんだと思う。

 我儘とか恩着せがましいとか、そんなこと思われたって構わない。惹かれてしまった一人の少女に尽くしたいと願うのは、今の僕には生きると等しいことだと思うからだ。

 

「それでも……」

 

 だから僕は、それでもと言い続ける。

 

「君にも、良い夏だったって思って欲しいから」

 

 僕の夏を想ってくれた君の夏を、僕に想わせてくれたっていいじゃないか。

 

「ふふっ……そっか……そうなんだ……っ……ふふっ」

 

 僕の必死な言葉がどこかおかしかったのか、彼女は声を押し殺して笑った。だけど決して僕は見逃さない。僕を咎めた人差し指で拭った目元が僅かに濡れていたことを。

 

「えっとその……大丈夫?」

 

 女の子に涙を流させてしまった、その事実に僕は思わず狼狽えてしまう。そんな僕の心情を知ってか知らずか、彼女はひとつ大きく笑った。

 

「いい夏だった……か」

「うん。出来ればそう、思っていて欲しい」

 

 その言葉に満足そうに彼女は一つ大きく頷くと、僕の手を取りそれを顔の前へと持ち上げる。

 

「じゃあさ、教えて。この街の今の夏がどんな景色なのか。私が愛した夏が、どんな風に変わっていっているのかを」

 

 そこからは早かった。僕は彼女を自転車の後ろに乗っけると勢いよく山道を下って行った。まるでジェットコースターを駆け降りるように、ブレーキは決してかけることなく。後ろ手に僕に抱き着いて楽しそうな声を上げる彼女の声が、青々と広がる夏の空に、何処までも響いていくようだった。

 

「どこまでいくのー!」

「海とかどうかなって!」

「ベタだねー!そういうの好きだよー!」

 

 海岸線を目指して僕はひたすらに自転車を漕いでいく。大通りを抜け、高校の横を通り過ぎ、河口に向け少しずつ川幅が広くなっていく河川に沿って僕等はひたすらに海を目指した。

 時折すれ違う人たちが奇怪な視線を向けてくるが、そんなことはどうだってよかった。

可愛い女の子を後ろに乗せて自転車で海を目指す。単純なことに高校生男子っていうのはこのシチュエーションだけでどこまでも無敵になった気がしてくるのだ。

 誰もが知っている制服を着た公務員さんが見えた時だけは、流石に細道へと進路を変えた。

 青空の下、僕等は自転車を通して一つになった気がした。

 

「青いねー!」

 

 それは空に対しての感想だったのか海に対しての感想だったのか、とかく僕等の夏は少しずつ青に染められていった。

 

「そうだね」

 

 背中から伝わる君の温もりが、夏の気温よりも僕の体を火照らせていく。街中を切って走る度に通り抜けていく風が、その体を冷やしていくようで心地よかった。

 

「あそこに行きたい!」

 

 僕等が辿り着いたのは、街中を抜け海を左手に見ながら十分程更に走った堤防の上だった。海面はどこまでも凪いでおり岸壁に繋がれた幾つかの漁船がフラフラと小さくその身を揺らしていた。

 夏真っ盛りの更には昼下がり。これでもかという気温上昇のピーク時にこんなところを歩いているようなもの好きは誰もおらず、普段は釣り人で賑わっているそこには僕等以外誰も居なかった。

 

「まるで夏を独占してるみたいだ」

 

 波止場の先端に立ち海に向かって大手を振りながら、彼女は楽しそうに笑った。振り向きざまに夏の日差しに照らされたその横顔が、僕には太陽よりも眩しく映った。

 

「そうだね」

 

 夏を独占してるみたい。

 その言葉を彼女はどんな気持ちで呟いたんだろう。その答えを誰も教えてはくれないけれど、その答えを知りたいかというとそうでもないんだろうなとも思ってしまう。

 

「そういえばさ」

 

 僕は彼女の隣まで歩くと、そのまま腰を下ろしながら足を波止場の向こうまで投げだした。僕の気を知ってか知らずか彼女も膝を降りながら僕の隣へと添ってくる。

 幸せな時間だったと思う。

 言葉なんかなくたって、照り付けるような日光と、遠くの方で鳴り響くセミの鳴き声が僕ら二人を繋いでくれるような気がした。「この時間が永遠に続けばいいのに」、ついつい漏れてしまった僕の想いに彼女は小さく「それは厳しいかな」と返してくる。

 不思議と驚きとか落胆は浮かばなかった。

 最初からそれは既に決まっていたことで、それを僕はただなぞっているだけ。そう思えてしまうくらいに今この瞬間は何かの奇跡で成り立っている。

 

「君は、神様なんでしょう?」

 

 だから、そんな奇跡はいつか終わりを告げてしまう。

 それならば、せめてその奇跡が無くなってしまう瞬間の覚悟だけはしておきたかった。

 

「……あちゃー、バレちゃったか」

 

 そう言って彼女は悪戯がバレた子どものように小さく笑って見せたのだった。

 

「初めて会ったとき、幽霊なのかって質問に君は惜しいって答えたよね」

「だからってそれだけで神様って決めつけるのはどーなのよ?現代っ子はもっとリアリストだと思ってたよ」

「リアリストだって夢を見ていたくなる時があるんだよ」

「ふむふむ……。例えば、高校二年生の夏にとびっきりの美少女にあった時、とか?」

 

 瞬間、彼女の綺麗な瞳と目が合った。

 

「っ……。そ、の通りだけど……」

 

 ふふっ、なんて嬉しそうに笑いながら彼女は少し照れ臭そうに顔を背けた。僕がちょっとだけ素直になったのも、きっと夏の魔法のせいなんだと思う。

 

「そだよ、私は神様なの」

 

 消え入りそうな彼女の声が、夏の雑音に混じって僕の鼓膜を震わせる。

 

「だから頂戴。この世界の全部が忘れてしまっても、キミだけは決して忘れない、この夏の思い出を」

 

 

 

 

 

 それから、僕と彼女の短い夏が幕を開けた。

 始業式が始まるまでの三週間、僕等は高校生が出来る最大限の夏を楽しんだ気がする。女の子の買い物は長かったし、隣の市まで海岸線を自転車で漕ぎ続けた時は流石に熱中症でぶっ倒れるかと思った。

 それでも、自転車の荷台僕に抱き着いてくる彼女は、「楽しいねー!」なんて嬉しそうに声を上げるのだ。

 もちろん毎日という訳には行かなかったけれど、僕がお堂に足を運べばそこにはさも当然のように彼女が待っているのだ。

 きっと、この奇跡にはタイムリミットがある。だからこそだろうか、僕はただ彼女と過ごしていく日々を、絶対に忘れないようにしようと心に誓い続けるのだ。

 

「何考えてるの?」

 

 隣の市からの帰り道、道中の駄菓子屋で買ったラムネを軒先のベンチで飲み干しつつ、彼女は少し寂しそうな声で呟いた。

 

「いや、なんでも……」

 

 その日は八月もあと二日で終わりという日の平日だった。水族館に行きたいという彼女の要望の元、僕は自転車を隣の市まで走らせていた。イルカのショーに目を輝かせる彼女に僕も自然と魅入ってしまっていたものだ。

 

「なんでもはないでしょ?」

 

 夕方の早い時間帯には珍しく、普段車通りの多い海岸線の道もこの時ばかりは妙に空いていて、彼女の声だけがやけにクリアに響き渡る。

 

「その、さ……」

 

 ずっと思い続けていたことだった。いつか今年の夏は終わりを告げてしまう。その時に、果たして彼女がその先もずっと居続けてくれるのだろうか。

 それだけがどうしても不安だった。

 

「私の夏は、明日で終わっちゃうんだ」

 

 言葉を紡ぎあぐねている僕に対して、彼女は普段と変わらぬ様相でそう口にする。

 寂しさとか、悔しさとか、そんな色が一切見えないいつもの会話のように。

 

「キミはもう私の正体に気づいているんだよね」

「……君は、ナツサカノフヨウヒメなんだろう?」

 

 そういえば、結局最後まで彼女のことを彼女としか呼び続けなかったな、なんてそんなことを思ってしまう。名前を呼ぶ必要が今までなかったというのもあるけれど、何となく名前を呼んでしまうことで彼女も僕も、大切な何かを無くしてしまうような気がしたからだ。

 

「ふふふ、ご名答!それじゃあ、私が犯した罪の事も知っている訳だ」

「夏を奪ったってこと?」

「そだよ。そして私にはとある呪いがかけられた」

 

 これは図書館の資料だけじゃ知りえなかった出来事。夏を奪った彼女がかけられた呪い。

 

「呪いって一体……」

「知りたい?」

 

 先を促す僕を咎めるように、彼女は僕の肩に頭を預けた。

 

「それは……」

 

 聞いたが最後、僕は何か大切なものを失ってしまう瞬間を覚悟しなければならない。何となくそんな気がした。

 でも、それでもきっと彼女のことをこの先もずっと想い続けることが出来るとするならば、僕はその呪いに立ち向かわなければならないのだろう。

 

「教えて欲しい、君の呪いの正体を。知ればきっと、何があっても僕は君を想い続けることが出来るから」

「……っ」

 

 彼女の綺麗な瞳が僅かに見開いたのが分かった。それは驚きの表情か、それとも僕には知らない彼女が抱いた想い故か。

 

「私の夏って、リセットされちゃうんだ」

「えっ……?」

 

 今度はちゃんと伝わった。彼女の抱く想いは、様々なものに対する寂しさ。声と瞳が、それを物語っていた。

 

「それが、私がかけられた呪いの正体。七月の中旬、私はあのお堂の前に現れる。自分の意思も何も無しにね。そして、八月の最後の夜にこの世界からすっかり消えてしまう。それが私の呪いなんだ」

「じゃあ……来年になったらまた会えるってことじゃないか」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「どういうこと?」

「覚えてないんだ。去年の夏を私はどんな風に過ごしたのかを。そして、姿形も変わってしまう。今年はたまたまこんな姿だったけど、来年はもしかしたらおばあちゃんかも。人の姿をしてることすら珍しかったり」

「そんな……」

 

 そんなの、もう一生会えないと言ってしまっていることに等しいじゃないか。

 

「だから言ったでしょ、私を知ると不幸になるって」

「……そんなことっ」

 

 そんなことないじゃないか、そう大声で吐き捨ててやりたかった。でも、右肩から伝わる温もりがもう二度と感じられなくなる、そう気づくと喉元まで出かかっていた言葉が一気に肺の中に引き戻されるような錯覚を覚える。

 

「……でも……」

 

 それでも確かに事実が一つだけあって、僕等の夏は確かにそこにあった。それだけはどうしても口にしなければならない。

 

「それでも、今年の夏は良い夏だったよ。それは紛れもなく、君が居てくれたからだ」

「そっか……よかった」

「その……君も同じ気持ちだったらよかったんだけど……」

 

 君にもいい夏だったと思って欲しい。それは僕の心からの本心だった。そう思って欲しくてこの三週間を過ごしてきた。例えその結末がどんなに寂しいものだったとしても、過程までそうなってしまうとは絶対に思いたくない。

 

「っ!?」

 

 直後、先ほどまで僕に寄りかかっていたはずの彼女が視界を遮るように体を動かした。少しばかりして伝わってきたのは、柔らかい唇の感触と淡いラムネの味。

 

「これが、私の答えだよ」

 

 暫くしてようやく僕の視界に映ったのは照れ臭そうに頬を染める彼女と、オレンジ色に染め上げられたどこまでも遠く広がり続ける水平線だった。

 

「素敵な夏をありがとう。ナツ君」

 

 直後、ひときわ強い海風が辺りに吹き込んでくる。

 思わず目を閉じた僕が次に辺りを見渡した時、もう既に彼女の姿はどこにもなくただ行きかう車のエンジン音と蝉の声だけが虚しく響き渡っていた。

 

「言いたいことも言えずに居なくなるなんて、神様とはいえズルいじゃないかっ……!」

 

 

 

 

 

 八月の最終日も天気は快晴で、青く澄んだ空がどこまでも頭の上に広がっていた。風も凪いでいて遠くの方に見渡した海も穏やかで時折沖の方で揺れる漁船がゆっくりと時を刻んでいる。

 

「ああいう時って、基本もう会いたくないってことなんだよ?」

 

 少し呆れた表情を浮かべながら、彼女はボロボロの木製ベンチの上に腰掛けながらこちらを見つめている。

 

「一個言い忘れたことがあってさ」

 

 僕の元から彼女が自分の意思で去ったことぐらい、短い時間だったとはいえ共にいろんな時間を過ごした僕ならすぐに分かるってものだ。

 ベンチの近くまで歩を進めると僕は彼女の隣に腰を下ろす。

 

「素敵な夏をくれてありがとう」

 

 きっと緊張して上手く言葉が出ないんじゃないか、なんて家を出る前は思っていた。だけど、その言葉は彼女を目にして、そしてこうして言葉を交わすと何の迷いもなくすんなり口をついてくれた。

 一切飾り気のない心からの本心。それは神様である君にどんな風に伝わったんだろう。

 

「……ふふっ……ふふっ、ははっ」

 

 気恥ずかしさから隣を見れないでいると、横から押し殺すような笑い声が聞こえてくる。

 

「ど、どうしたの!?」

「ご、ごめんっ……、や、ちょっと変なこと考えちゃってさ」

「変なこと……?」

「うん。呪いがかけられてから、きっと私は何回も、何十回も、何万回も夏を繰り返し生きてきたんだと思う。でも、多分そんなことを言われたのは初めてなんだろうなって。それを考えると何というか、おかしくって、あと……」

 

 先ほどまで饒舌だった言葉がぴたりとやんだ。

 

「……嬉しくって。そして、ごめんね」

 

 申し訳なさそうに呟く彼女に向けて、僕はどんな顔をすればいいのだろう。この時ばかりはただどうしようもなくて彼女の手を握ることしかできなかった。

 

「もうちょっと、夏は続くよ」

 

 繋ぎ合った手と手に浮かれてしまわないように、僕は小さく深呼吸をした。

 それから僕等は日が暮れるまでいろんな話をした。一緒に行った場所の話や小さい頃の僕の夏の思い出、彼女が僕と出会うまで、この夏をどんなふうに過ごしてきたのか。名前もない小さな山の中腹のボロボロのベンチがあるだけの場所。だけど、ただ一緒に過ごせるだけで僕にとってはそこが何よりも居心地のいい場所だった。

 

「だから楽しかったんだ、今年の夏も」

 

 気づけばすっかり日も暮れて、辺りは暗闇に包まれだす。

 夏も暮れ。八月とはいえこの時間の山は流石に半袖じゃ肌寒い気候だ。そんな折、ふと先ほどまで感じていた右手の温もりが消え去ったのが分かった。

 

「君と過ごせて幸せだったよ。明るく笑いかけてくれて、時々意地悪で、そんな……っ」

 

 右手の温もりの喪失は、即ち彼女が既に去ってしまっていることを何よりも残酷に告げている。そう言えば、一つ彼女に嘘をついていたんだ。本当は、君に言いたいことは二つあった。一つはひと夏の思い出をくれたことに感謝していること。これはここに来てすぐに彼女に告げることが出来た。

 そしてもう一つが――

 

「僕は、そんな君が大好きだったんだ」

 

 もし神様がいるとするならば、どうか僕のこの想いが彼女に届いてくれないだろうか。

 

 

 

 

 

 夏が来た。

 あれから一年が経って、僕の高校生活最後の夏がやってきた。あれ以来、結局彼女とは再び出会えていない。やっぱり彼女は神様で、夏の呪いでいなくなってしまったんだろう。

 こう言葉にしてみると随分と馬鹿げていることだと思う。僕が三週間かけて何らかの病気にかかって見続けた妄想だったんだと言われるとそうなんじゃないかとも思えてしまう。

 

「おーいナツ!」

 

夏季講習最終日の午後、駐輪場へと向かう僕の背中にヒロが声をかけてきた。受験生である僕等には夏休みなんてものが存在するわけもなく、明日からも出された課題に自習にと大忙しなのである。

 

「ん、どうかした?」

「お前こそどうしたんだよ、花火大会だってのに元気ねぇじゃねぇか」

「いや、そんなことないよ。ただ、また夏が来るなぁって」

「なーに言ってんだよ。今日も最高気温三七度だぜ?お陰様でエアコンの効きも悪くて汗だくだったっつーの。夏はもう真っ盛りだぞ!」

 

 そう言えば、ヒロは結局塾が忙しくなるからという理由で彼女さんに振られていた。ざまあみろとも言ってやりたかったが、あの時の落ち込みようといったら傍から見てて心配になるレベルだったので流石に可哀そうになり止めておいた。

 

「それで……」

「ごめん、花火大会だけど行けそうにないや。どうしても行かなきゃいけない場所があって」

「……そっか、ならしゃーない。適当にクラスの連中に声かけるわ」

「ごめん」

「気にすんな」

 

 その日の夜、僕は去年と同じように焼きそば二つとたこ焼き一個、そして温いお茶を一本抱えて再び夜の山道を自転車で駆け上がった。

 相変わらずその場所には誰もおらず、遠くに見える祭りに賑わいだけがぼんやりと辺りを照らしている。

 ビニール袋から焼きそばを一つ取り出し割り箸を二つに割り、最初の一口目を持ち上げる。全く持って女々しい行為だとは自覚している。去年と同じことをすれば、また彼女に会えると思っているのだから。

 

「随分と美味しそうだね」

 

 その声をどれだけまた聞きたかったか。箸を握る手が自然と震えるのが分かった。

 

「なんか、また会えちゃった」

 

 去年さんざっぱら見せつけられた悪戯っぽい目がこちらを見つめている。

 

「……会いたかった」

「私もだよ」

 

 夏は巡っていく。僕の想い、彼女の呪い、そして世界の様々なものをその背に乗っけて。

 そうして今年も、僕等の夏はやってくる。

 僕等はいつだってそんな夏に、そして何より世界で一番大好きな君に焦がれ、囚われ続けていく。

 




お読みいただきありがとうございました。

宜しければご感想、ご評価等頂ければ画面の前で小躍りしますのでよろしくお願いいたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。