夕暮れの教室 (如月(ロスカラ))
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夕暮れの教室
「あー、もう!」
授業時間をとっくに過ぎ、太陽が鮮やかな朱色を身にまとい、ゆっくりと沈んでいくある日の夕暮れ。
カレンは普段の学園での清楚でお嬢様然とした装いをまったく気にすることもなく、校舎を足早に進んでいた。
目指すのは自分の教室の自分の机。
学園終わりに黒の騎士団の会合があったため、生徒会の仕事も断り、最終時限の授業が終わると同時に学園を出てきたところまではよかったが、急いでいたために、思わず忘れ物をしてしまった。
「まさか、携帯を置き忘れるなんて」
自分の失態を叱責するかのようにため息がこぼれる。
カレンの携帯には、何か他人に見せられないほど恥ずかしい物が入っているわけではない。
恋人との互いの気持ちを確かめ合う愛のメールなんて当然入っていないし、個人情報といっても、生徒会長のミレイを筆頭に生徒会役員のアドレスとその他数人のアドレスが登録してあるだけだ。
黒の騎士団での連絡用には、私用で使う物とは別に、現在カバンにしまってあるもう一台の携帯を使っているため、そちらの心配はない。
しかし、見せられないわけでなくとも、見せてもいいわけではないのだ。
置き忘れた携帯にも、扇や井上ら親しい団員たちと個人的に連絡を取るために彼らのアドレスが登録されている。
ブリタニア人がイレブンと蔑む彼らの連絡先がだ。
それに、ミレイたちのアドレスだって、そう易々知られていいものではない。
携帯はロックを掛けているので、ただの学園の一教師や一生徒にそれを解除してまで中身を覗くなんて芸当が出来るとは、到底思えないが……。
「……はあ」
それでも、そんな万に一つの不安を抱えたままでは、会合に出席しても真剣に話し合いなんて出来そうもない。
カレンはカバンから取り出したもう一つの携帯で会合に遅れる旨を書き込み、ため息混じりにメールの送信ボタンを押す。
そうこうしている間に、気が付くと目当ての教室にたどり着いていた。
さっさと忘れ物を取ってきて会合に向かおうと、カレンは乱暴に扉に手をかけた。
「あっ……」
けれど、そのまま扉を開いて教室の中に入ることはしなかった。
教室にまだ一人、生徒が残っていたからだ。
その生徒は、カレンと同じ生徒会役員で記憶喪失の少年、ライだった。
ただライが教室に残っているというだけなら、カレンは何も気にせずに扉を開いていただろう。
でも、そうではなかった。窓際の席に座って窓の外を眺めるライは、泣いていたのだ。
声を上げることもなく、流れる涙を気にすることもなく泣いていた。
その事実がカレンの体から自由を奪い、カレンは廊下からそんなライの姿を呆然と見ているしかなかった。
窓から外を眺める。
そこに映るのは、部活に精を出す男子生徒たち、まだ帰宅せずに、ベンチに座って友人とおしゃべりしている女子生徒たち、腕を組んで一緒に校門を出て行くカップルの姿。
もう日も暮れかかっている時間だというのに、まだ少なくない数の生徒たちの様々な様子を観察できる。
「……楽しそうだな」
薄く呟きが零れる。
みんなが、笑っているのだ。
ライの目に映る生徒たちは、みんなとても楽しそうに笑っている。
部活をしている男子生徒は記録を更新したと喜び、女子生徒たちは冗談を言い合って顔を綻ばせ、カップルの二人は見つめ合って微笑する。みんながとても楽しそうだ。
ただ一人、ライだけを取り残して。
「僕には……無理だな」
あんな風には笑えない。
無感情なままの表情で吐き出される言葉は、ナイフを自分に突き立てるようにひたすら冷たい事実という棘をライの胸に打ち込んでいく。
「僕は、……一人だ」
この学園に、みんなと同じ一生徒として通っている。
それなのに、どうしてもこの考えが抜けない。
何もかもが不安定なライの中で、これだけが唯一揺らがない。
その考えは、他の生徒の楽しそうな姿を見るたびに、そして、ミレイたちの、生徒会のみんなの笑顔を、ライに対して向けられる笑顔を見るたびに深く深く突き刺さる。
憧れはある。
自分もあんな風に笑い合いたいと。
けれど、彼らに近づこうとすると、心の深層部がそれ以上近づいてはならないと警告を鳴らす。
まるで、そうすることが許されないことのように。
「……」
どうしても思考は暗く沈んでいく。
こんなことを誰かに言われたわけでもないのに。
あるいは未だ思い出せない過去の自分は、そんな許されない人間だったのだろうか?
もしそうなら、あの日決めたように、記憶を取り戻したら、みんなとは別れなくてはいけなくなる。
「僕は……」
ライは何度目かの自分をなじる言葉を口にしようとする。
だが、言葉の続きが紡がれることはなかった。不意に、人の気配を感じた。
さっきまでライ一人しかいなかった教室に、今は別の者がいる。
それは、女生徒だった。
教室の扉の傍でたたずむ女生徒は、じっとライを見つめていた。
ライを見つめる目には悲しみと寂しさが宿っていて、そのまま見つめられていると、何もかも見透かされているような気持ちになる。
「カレン……」
ライが名前を呼ぶと、カレンは夕日に映える赤い髪を揺らして近づいてくる。
ライの席の目の前に来たところで、二人の視線が重なる。
「……」
「……」
交わす言葉もなく、互いに口を開かない二人の間には、沈黙も伴って、重苦しい空気が流れる。
「カレン、何か用か?」
そんな空気に耐えかね、ライはカレンの様子を窺いながら尋ねる。
だが、彼女からの返答はなく、カレンはただじっと、物憂げに瞳を揺らしてライを見つめる。
「カレン」
もう一度、呼びかける。すると、彼女に動きがあった。
腕をライの顔の真横へ持っていく。
伸ばした手のひらが後頭部に触れ、ライの癖のある毛を押さえる。
そして、頭が前に引っ張られ、ライの顔がカレンの胸に収まっていた。
「なっ……!」
唐突に、本当に唐突に起こした彼女の行動にライの理解が追いついていかない。
それでも、至近距離にある女生徒用の制服の上着部分と顔に伝わる女性特有のやわらかい感触が、嫌でも現状を知らせる。
「カレン! 何を……!」
挟まれている顔をカレンの腕から抜けようともがく。
だが、そうすると、カレンが腕に力を込めるので、あまり激しく動くと彼女の胸に顔を押し付けてしまう。
そんなことでライが逡巡していると、そこで、ようやくカレンが口を開く。
「大丈夫よ。ライ」
「何がっ……?」
「大丈夫」
同じ言葉を繰り返して、カレンは頭を抑えていた手でライの髪を撫でる。
その優しい感触に次第に照れが消えていく。
「大丈夫だから、泣かないで」
「えっ……」
言っている意味が分からなくて、思わずたじろぐ。
けど、目じりに溜まっている涙滴と彼女の上着に滲んだ涙の跡で気づく。
ライは無意識の内に泣いていたのだ。
「安心して。みんながいるから。私がいるから」
優しい温もりに包まれていく。
なぜだろう。彼女に触れられていると、とても心が安らぐ。
「あなたを、想っているから」
「ああ……」
知らぬ間に、ライは体から力を抜いて、カレンに身を委ねていた。
そんなライをカレンはぎゅっと抱き寄せる。
そっと目を閉じると、彼女の香りが鼻腔をくすぐる。
暗く雲がかかっていた心が晴れわたっていくように感じる。
「ありがとう、カレン」
「どういたしまして」
そう言って二人は、互いに身を寄せ合う。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
まだ日が完全に沈みきっていないところを見ると、それほど長時間ではないだろう。
それでも、先ほどまで聞こえていた他の生徒たちの声が消えていることから、幾分かの時間は過ぎたのだろう。
「……」
「……」
教室の中が静寂で満たされる。
抱き合っていた二人は今はもう離れて、隣同士の席に座って、無言のまま向かい合っている。
ライは少し気まずそうにカレンを見つめて、カレンはライと目を合わさないように、顔を真っ赤にしながらうつむいている。
「あの……」
どうしたものかと、恐る恐るライが先に口を開く。
すると、言い終わる前に、カレンはガバッと顔を上げた。
「ち、違うの!」
「え……?」
「さっきのは、その……、そういうのじゃなくて。えっと……」
今まで以上に顔を赤くして話すカレンの言葉は、慌てているのか、要領を得ない。
「カレン、落ち着いて」
「で、でも!」
「わかってるよ」
そう言うと、カレンはきょとんとして、ライを見つめる。
そんなカレンの仕種に苦笑しながら、ライは話しかける。
「今したことも、言ったことも、勘違いして欲しくないってことだろう?」
「え、えっと……。う、うん……」
「心配しなくても、そのくらいわかってるさ」
他の誰かに話したりもしないと付け足すライに、カレンは複雑な気持ちを表情に表す。
本当に勘違いなのだろうか? 私はどうなんだろう。
「でも……」
カレンが定まらない想いに思考を廻らせている間に、ライはカレンに告げる。
「僕は嬉しかった」
「へっ……?」
嬉しかった、という思いもよらない言葉を聞いて、カレンは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「君に抱きしめられた時、なぜだか心がとても安らいだんだ。まるで、君の中にある優しさが僕の中へと流れ込んでいくように」
その言葉を聞いている内に、カレンは羞恥心がふつふつと沸いてくるのを感じる。
だが、すらすら述べるライは、自分がどれだけ恥ずかしいことを言っているのかなんてまったく意識せずに続ける。
「カレン、君は、とても温かいな。……ありがとう」
「~~~~っっ!?」
感謝の言葉ともに、ライはカレンを見つめる。
すると、羞恥心が許容量を超えたカレンは、熱でもあるのではないかと思えるほど顔を赤くして、立ち上がった。
「あ、あの! わ、私、用事があるから!」
「そうなのか?」
明らかに挙動不審なカレンの言動だが、ライは意に介した様子もなく、平然と受け答えする。
「ま、またね」
言い終わる寸前ぐらいで、カレンは素早く自分の机の中から携帯を抜き取り、お嬢様の猫かぶりをする余裕もないのか、走って教室を飛び出した。
「ああ……って、慌ただしいな」
そう言って、走り去るカレンの後ろ姿の残滓を思い浮かべながら、笑った。
そう、笑ったのだ。
「はあ……、はあ……」
今までいた教室から離れて、別の階層の廊下まで来たところで、カレンは走るのを止めて、壁に手をついた。
どうしようもなく胸が苦しい。
普段はこれぐらいの運動で乱れるはずのない息が乱れて、体は酸素を欲している。
「私……」
そっと胸に手を置くと、服の上からでもはっきりとわかるほどに、心音が高まっている。
やかましいほどの鼓動がカレンを締め付ける。
「私、どうしてあんなことを……」
考えるよりも先に体が動いて、気が付けばライを抱きしめていた。
さらにその上、まるで告白めいたことまでしてしまった。
「ああ~~、もう!」
思い出したために再び湧き上がってきた恥ずかしさを抑えようよと、カレンは唸る。
けれど、ありがとうと言ってカレンに微笑んだライの顔を、どうしても思い出してしまう。
「どうすればいいのよ……」
ライは少しも気にした風ではなかったけれど、明日、彼と会った時にどんな顔をすればいいのだろう。
ライはカレンの行為をどう思ったのだろう。……私のことをどう思っているのだろう?
「もしかして、私……」
その先の言葉は紡がれることなく、カレンが薄く零した呟きは廊下を流れて消えていく。
そして、窓から入り込んだ風が、火照ったカレンの頬を優しく撫でた。
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