ヤンデレ幼馴染に恋人だと勘違いされる話 (夜桜さくら)
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彼女は苦い紅茶を淹れる

 

 毛布のぬくもり、自分のにおい。

 自分のベッドの中というのは、究極に安心できる場所だ。

 安心できるからねむれる、ねむれているから安心できる。理性によるものか本能によるものかはさておき、まどろみの中というのは心地いい。

 

 ピピピ、という電子音が、聞こえる。

 

 快・不快を認識する間もなく、条件反射的に枕元のスマートフォンに触れてアラームを切る。

 そうしてまた、すやすやと。

 霞む視界の中、猫のように小さく丸まっていた。

 覚醒と睡眠の境界線でゆっくりして……しばらくしてから、目を開ける。

 

「……起きた?」

 

 目覚めを察知したのか、声が降ってくる。

 主張の激しくない小さな声。それに対して、声にならない返答をして、もぞもぞと目を覚ましていく。

 

「……おはよう、葵」

「うん。おはよう、()()()()

 

 やわらかく微笑む(あおい)が、ベッドそばにいた。

 

「起きて。朝だよ」

「……ねむい」

「朝ごはん食べられないよ」

「……うぇあ」

 

 ぼんやりとした意識が、彼女と言葉を交わすことで引き上げられて、徐々に鮮明になっていく。

 ベッドの上で目をこする俺の姿を、私服姿の葵が見ていた。

 半そでのブラウスに、若草色のスカートに身を包む彼女は、とても可憐だった。

 ふわふわとした髪は腰に届きそうなほど長く、小さな顔なのに目はくりくりと大きい。抱きしめれば折れてしまいそうなほど華奢な体躯。

 横になっていると、普段見下ろしている葵を見上げることができるから好きだった。

 

「じゃあ下で待ってるから」

「ん」

 

 葵の後ろ姿を見送ってから、ふわぁ、とあくびを一つ。

 

「……まだ、あんまり慣れないな」

 

 幼馴染の女の子が起こしに来るという漫画の中にしかなさそうなシチュエーションを振り返って、つぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 葵は幼馴染だ。

 生まれた年が同じで、親が仲良く、物心ついたころから一緒にいた。

 いまでは恋人として、朝起こしに来てくれるようになっている。

 

「おはよ」

「おはよう、コウくん」

 

 顔を洗って制服に着替えて、リビングに。

 葵は席に着いて、マグカップでスープを飲んでいた。

 俺の席にはトーストとハムエッグ、野菜ジュースとヨーグルト、それから紅茶。

 紅茶と野菜ジュースが別枠でおいてあるあたり、用意したひとの趣味嗜好がうかがえるなぁ、などと思いつつ、席に着く。

 

「いつもありがとう」

「どういたしまして」

「うん。いただきます」

 

 ちなみに、我が家は単身赴任で父は不在で、母は普通にまだ寝ている。

 朝にばたばたしたくないという俺の意向と、朝のんびり一緒に過ごしたいという葵の意向がかみ合って、俺たちの朝は結構早いほうだった。

 家を出るまで、あと一時間は優にある。

 

「……」

「……」

 

 テレビもついていない静かな空間。食器の音、衣擦れ、咀嚼音。それ以外無音の、食事の時間。

 俺はトーストをかじって、もぐもぐ、と食事を進める。

 葵はそんな俺をじーっと見つめていた。俺は、彼女の聞きたいことを汲み取って口を開く。

 

「美味しいよ」

「ほんと?」

 

 この言葉選びでいいのかはわからなかったが、彼女の顔は喜色に染まった。

 なら、これでよかったのだろう。

 

「コウくん、朝はそんなにってことだったしトーストしか焼いてないから……もうちょっとやろうと思えばやれるんだよ? でも──」

「うん」

「優しいよねぇ。私の負担になることはしてほしくないって」

「……そうかな?」

「そうだよ。あ、ヨーグルトね。既製品なのはそうなんだけど、おいしいって評判の奴買ったの。私も自分で食べてみたんだけど、それ本当においしかったよ」

「へぇ」

 

 言われるがままにヨーグルトを口にすると、確かに「おっ」と言いたくなるものがあった。普段口にするのと違って、口当たりが凄く濃厚で、旨味を感じる。

 

「……美味しいな。でもこれ、高いんじゃないの?」

「ちょっとだけね。でもたまにっていうなら全然出せる範囲って感じ」

「ほーん」

「また買ってこようか」

「んー」

 

 まだ少し眠っている頭を動かして、返答を考える。

 この人に尽くしがちになってしまった幼馴染にそれを言うと、彼女の貯金がガンガン減っていきそうな予感があった。

 

「いや、いいよ。いつも通りで。いつも通りが一番いい」

「そう? ならそうするね」

「うん」

 

 さく、とまたトーストをかじる。

 葵と一緒に朝食を摂るようになったのは()()()()()くらいの話であるから、まだ感覚があんまりよくわかっていない。

 けれど、彼女はいつもスープしか飲んでいなくて、俺の朝食はトーストにハムエッグに……と明らかにコスト差が出ていて、それがどうにも不安を煽る。

 

「…………」

「……えと、私の顔に何かついてる?」

 

 かわいい顔がついてる、と言いかけて、やめた。

 冗談でも言うべきことではない。

 

「……なんでもない」

「そっか。ならいいけど」

 

 実際彼女の顔は整っていて、小さな体躯も相まって本当にお人形さんのようだった。

 きれいよりかわいい系で、言動も少し子供っぽいところがある。

 大きなマグをちみちみと飲んでいる葵の姿は、それだけで愛らしい。

 

 ふー、ふー。……ずず。

 

 猫舌で熱いものが飲めないのに、熱いものが好き。

 そんな彼女は、カップ一杯のスープを飲み干すのにかなりの時間をかける。

 もしかしたら食事の時間をそろえるために、自分のぶんを少なくしているのかもしれない。

 個人的には、もっとたくさん食べてほしいと思うのだが。

 いろんなことを思いながら、トーストを呑み込んでハムエッグを胃の中におさめてヨーグルトを食べて野菜ジュースを最後に流し込む。

 

「ふぅ」

 

 ごちそうさまでした、と手を合わせる。

 マグを両手で抱える葵は、お粗末様でした、と目を細めて微笑む。

 

「食器置いといて。あとで洗っとくから」

「……ありがとう」

 

 食器くらいこっちで洗うのに、と思う。

 

「……」

「……」

 

 葵がスープを飲むように、ちみちみと紅茶を口に含む。

 砂糖もミルクも入っていない紅茶は、すっきりとしていて、最後にほのかな苦味が舌に残る。

 葵はもともと紅茶党で、だから彼女が我が家のキッチンに入るようになってからは自然と紅茶が食卓に並ぶようになった。

 

「最近、結構暑くなってきたよね」

「そうだよなぁ。ちょっと前まで汗なんてかかなかったのに、最近は何もしてなくても汗かくようになってきた」

「夏だね」

「緑はかなり青々としてきたな。雑草とかも茂ってきた」

「へぇ、いいなぁ」

「……どっか、そのうち散歩とか行く?」

「行く。行きたい」

「……自然公園とか、でいい?」

「うん」

「どっかいい感じの場所あったかな……」

「調べとこうか?」

「……あー。じゃあお願い」

「ふふ。デートだね。楽しみだ」

 

 こんな他愛のない約束で、葵は嬉しそうにしていた。

 いいのかなぁ、と思わなくもないが、家にこもってるのも健康に良くないだろうし、悪いことではないだろう。

 

「……ごちそうさまでした」

 

 そうして、朝食を終える。

 食器を片付けて、荷物をもって、まだねむっている母親に「行ってきます」と言って、外に出ようとして──葵にくい、と袖を引っ張られる。

 

「ねぇねぇ、ぎゅーってしよ」

「新婚夫婦か?」

「はい」

「はいじゃないんだよな……」

 

 ちょっとだけ、困ってしまう。

 悩みながらつむじを見下ろして、手をのせて、よしよし、と頭を撫でる。

 葵は嬉しそうにはにかんで、俺も頬をほころばせていた。

 

「じゃあ行ってくる」

「ぎゅーは?」

「だめ」

「えー」

 

 ガチャ、と玄関扉を開けて、外に出る。

 

「じゃあ、またあとで」

「はい。行ってらっしゃい」

 

 はにかんで手を振る葵に手を振る。

 自分で言っておいてなんだが、本当に、こういうことをするから新婚みたいだななんて思ってしまうのだ。

 自己嫌悪で、少し、胸がざわつく。

 そして俺は学校に行って、彼女は学校へは行かず自分の家に戻って。

 しばしの間、別れる。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 学校を終えての放課後、葵と自室でレーシングゲームをしていた。

 これはここ最近の習慣と言ってもいい。

 葵は毎日家にやってくるから、そうなると手作業になるゲームプレイが一番一緒にいて気まずくないというのが主な理由だ。

 

「ねぇねぇコウくん。今朝の話覚えてる? デート」

「うん。何、良い場所あった?」

「うん。ええとね……ちょっと離れてて電車乗らなきゃなんだけど、大きい屋外植物園があって」

「へぇ植物園」

「いや?」

「そんなことないよ。一応俺もちょっと調べてはいたんだけどさ、植物園って発想はなかったから」

「あ、自然公園って話だったもんね。でもあれだよ、植物園っていうか、ほとんど公園みたいな感じだよ」

「じゃあそこに行こうか」

「うん」

 

 俺としてはあまり外出しない葵が、外に出るきっかけになればいいなと思っていただけだった。でも公園じゃなくて植物園なあたり、やっぱり女の子はデートっぽさというものを重視するものなんだろう。

 

「いつ行く?」

「俺はいつでも──……あー、まぁ休日。土日のどっちかがいいな」

「じゃあ次の土曜日かな?」

「雨降らないといいけど」

「天気予報だと、晴れだね」

「そうなの?」

「そうだよ~」

 

 ところで並列処理能力というのは男性より女性のほうが高い傾向にあるという。

 つまり何が言いたいかというと、雑談に気を取られた俺はボロボロに負けました。

 

「ふふん。私の勝ち」

「……むぅ」

 

 プレイ時間だけでいうなら、もともと俺のゲームなので俺のほうが長いのだが、葵は存外ゲームが上手い。

 まぁ勝ち負けというのはどうでもよくて、二人で楽しめればそれでいいのだが実力は拮抗していたほうがゲームは面白いものだ。

 

「次は負けない」

「コウくん負けず嫌いだよねぇ」

「そんなことはない」

「ステージどこにする?」

「色味が明るいところならなんでも」

「さっき暗かったもんねえ」

「明るかったら負けない」

「そんな言い訳はじめて聞いたよ……」

 

 だいたい何のゲームをするにも、葵とNPCとで遊んでいる。

 二人用ならずっと二人で。

 学校にいないときはずっと、二人の時間を過ごしている。

 

「と、その前に飲みもの入れてこようかな。コウくん何がいい? 紅茶? 紅茶でいい? 紅茶淹れてくるね」

「あ、はい」

「ちょっと待っててね」

 

 葵はすたっ、と立ち上がって、居間へと向かった。

 本来お客さんである葵にこういうことをやらせるのは一般論からしてよくないのだろうが、尽くしたがりな葵のことを思うと以下略。

 葵のやりたいようにやらせてあげよう、というのが俺と母と、それから葵の母の三人で話し合った基本方針だった。

 今はうちの母も居間にいるが、葵が冷蔵庫やらポットをさわっていても、特に何も言うことはない。

 

「……お待たせー」

「おー、ありがとう」

「ご所望の品です。お紅茶さまです」

「紅茶好きだね、ほんと」

「えー。だって可愛いもん」

「……紅茶が?」

「うん」

 

 カラン、とマグカップに一片の氷が入った紅茶が二杯。

 室内のローテーブルにおかれたそれを手にとって、口に含む。

 今朝飲んだのと同じ甘さのない、舌に苦味が残るストレートティー。

 

「可愛い……?」

「まぁ……自分で言うのもなんだけど、女の子はそういうところあるから。仕方ないよ」

「あぁ、確かにいろんなのに言ってるような印象がないこともないかな……?」

「でしょ。そういう印象がないこともないこともないこともないよね」

「どっちかわからんくなるな……」

「私も言ってる途中でわかんなくなっちゃった」

 

 葵は微笑みながら、マグを両手で抱えて紅茶を飲む。

 

「……うん。美味しい」

「結構苦いよな、これ」

「……そうだねぇ。苦い」

「……もしかして、砂糖入れてないの?」

「紅茶は少し苦いくらいがいいんだよ」

「……? ふうん」

 

 そんな話をしながら、もう一戦しよ、と。

 再びゲーム画面へと、戻っていく。

 

 

 

 

 

 

 しばらく遊んだあと、葵を家まで送り届けた。

 家までとは言っても、すぐそこなので、大袈裟なことではないが、女の子はお姫様だから男には送り届ける義務がある。

 

「じゃあ、また明日ね」

「うん」

 

 手を軽く振って、別れる。

 玄関扉が閉まるのを見届けて、俺も、すぐ近くの家へと戻っていく。

 空には紅が差し込んでいた。少し前ならもう真っ暗だったのにな、という季節の推移を感じずにはいられない。

 

 はぁ、とため息を一つこぼして、自分の家の玄関をくぐっていく。

 

「ただいまー」

「おかえり、(あゆむ)

 

 相変わらず、複雑な顔をした母が迎えてくれる。

 また葵のこと、それから()()のこと、そして俺のことを考えているんだろう。

 

「葵ちゃん、どう?」

「いつも通りだよ。今日も俺のこと()()()()って言ってた」

「そう……」

 

 (あゆむ)が、俺の名前。

 光輝(こうき)は、死んだ俺の双子の兄の名前。

 

「心配ね……時間が解決すると、最初は思ってたけど……」

 

 葵は、兄、光輝の恋人だった。

 そして死んだ光輝の名で俺を呼ぶのは──

 

「いつか、ちゃんと元通りになればいいんだけどな」

 

 葵が、病んでいるからだ。

 

 



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彼女は病んでいる

 

 光輝は、名前の通り光り輝くような存在だった。

 同じように生まれて、同じように育った、俺の双子の兄。

 だけど、中身は、対象的だった。

 

 光輝はみんなといるのが好きだった。

 ()はひとりでいるのが好きだった。

 光輝は運動が好きだった。

 ()は本やゲームが好きだった。

 光輝は笑顔が綺麗だった。

 ()はいつも俯いていた。

 

 だけど全然違う二人が、唯一同じだったことがあった。

 

 幼馴染()のことが、好きだった。

 

 葵は、女の子らしい女の子だった。

 可愛いものが好きで、粗暴なことは好まず、大人しくて、将来の夢はお嫁さん。

 

 そんな彼女の隣に立ちたいと思ったことがないかと言われれば嘘になる。

 だけど、自分と同じ顔をした、自分の上位互換がすぐそばにいたから。

 俺と光輝なら、葵と一緒にいるのは光輝だろうって、ずっと思ってた。

 

 実際、中学生に入るころにはお付き合いをはじめていて、光輝に色々自慢されたことを覚えている。

 大きくなっても、やっぱり幼い頃に得た形質というのは変化せず、光輝は光輝、俺は俺としてしか存在できなかった。

 

 サッカー部のエース、光輝。

 クラスの地味な奴、歩。

 

 でも光輝も葵も、おどおどとした俺に優しかった。

 たったひとりの弟だろ、と。

 大事な幼馴染だよ、と。

 たまに惨めにもなったが、それなりに幸せだった。

 幸せなひとたちを見るのは嫌いじゃなかった。

 だから光輝と葵が一緒にいることに対して嫉妬はあったが、それ以上に祝福していた。

 

 そしてひと月前、光輝は死んだ。

 道路に飛び出した猫を助けようとして撥ねられた、らしい。

 そしてその現場を葵が見ていた、らしい。

 俺が詳しい状況を聞いたのは後になってからだった。

 病院で、動かない光輝を見て、現実味を失ったことだけはよく覚えている。

 

 そして、次に葵に会ったとき。

 

『コウくん!』

 

 自分じゃない名を呼ばれたことを、俺はきっと一生忘れない。

 

 


 

 

 休日の朝は、アラームをかけない。

 カーテンの隙間から差し込む光で目覚めるのが、気持ちいい。

 まぁ眩しくて起きるという自覚はないため、実際のところ陽光が目覚めに寄与しているかどうかもわからないのだけれど。

 しかし真偽のほどにさしたる意味はない。何故なら本質というものは目に見えず、見えるのはそれを覆う表面だけだからだ。

 

 瞳をあける。

 

 寝起き特有の、霞んだ視界。遠い耳。

 

「……起きた?」

 

 そして、意識が彼女の声によって明瞭になっていく。

 

「…………起きた」

「うん。おはよう、コウくん」

「おはよう……」

 

 葵の姿を視界にいれて思ったのは、かわいいな、ということだった。

 普段そのまま流している髪をハーフアップにしていて、オーバーTシャツにジーンズを着ている。

 化粧のことはよくわからないが、ほんのりと施されているようにも見える。

 ゆったりと微笑む彼女が、普段に増して魅力的だった。

 

「…………いま、何時?」

「えーとね。七時」

「……ふぁ」

「もう少し寝ててもいいよ?」

「いや、いい」

「そっか」

 

 身を起こして、またぼーっとする。

 

「……」

「……」

 

 無言が、苦ではないということはどれだけ幸福なことだろうか。

 何をするでもない時間が貴くて、愛おしく、苦い。

 

「じゃあ、下で待ってるね」

「ん」

 

 葵の後姿を見送って、「かわいいなぁ……」とつぶやく。

 可愛い。綺麗だと思っていても、兄の恋人に面と向かって伝えていいのかもわからない。

 

 

 

 

 

 

「ご飯できてるよ~」

「……ありがとう」

 

 本当にただの良妻だな、となる。

 エプロンをつけてキッチンに立っている姿が、可愛すぎる。

 

「前々から聞いてみたかったんだけど、葵って何時に起きてるんだ?」

「んー……」

 

 葵は困ったように、眉尻を下げる。

 

「今日は四時くらい」

「早いな……」

「でも十二時前には寝てるよ。普通普通」

「四時間かぁ」

 

 眠りにつく時間は、俺も十二時前くらいなので、俺の睡眠時間は七時間。

 なんだかちょっと、情けない。

 

「……別にそこまでしなくていいのに」

「それ言うと思った。でもいいの、私が好きでやってることだから、私が飽きるまではやらせてほしいな。……もちろんコウくんが本当に嫌ならやめるけど」

「いや」

 

 葵は、心を病んだ影響で、俺への依存性がかなり高まっている、らしい。

 らしいというのは、ただの現状から推測したことにすぎないからだ。

 

 彼女は朝が苦手な子だった。

 料理なんてまるでしない子だった。

 

 それでも今こうなっているのは、()を光輝と認識している現状も相まって、執着心などが芽生えているのだろう、と。

 

「……まぁ、飽きたらやめてもいいから」

「ふふ。がんばる」

「……」

「大丈夫だよ」

 

 だけどそんな言動の変化があっても、彼女の優しさはそのままだった。

 人の心をくみとれる精神性。

 大丈夫だよ、と。俺は何も言っていないのに、『でも本当に無理だけはしないでほしい』というこちらの想いを受け取って、返事ができる。

 表情・仕草などといった細かなところを見て、かつ他人に気遣いをできる人間がどれほどいるだろうか。少なくはないかもしれない。が、決して多くはない。

 

 ただ優しいというだけの、稀少価値。

 

 だから彼は彼女のことが好きだった。

 

「まぁとりあえず、食べてね。八時には出たいんだ」

「ん」

「ごめんね。いつも一緒で。もうちょっとメニュー増やせるように頑張るから……」

「作っておいてもらって言うのもなんだけど、葵と一緒で、スープだけとかでも全然いいよ?」

「えー」

 

 トースト、目玉焼きにウィンナー、ヨーグルトに野菜ジュース、それから紅茶。

 

「でもコウくん結構食べるほうじゃない?」

「まぁ……」

 

 年相応だと思う。

 しいていうなら馬鹿食いするのは、スポーツマンであった光輝であって、俺ではない。……光輝ならたぶん、葵が用意した倍は平然と平らげるだろう。

 

「というか葵が小食なんだよ」

「自分で言うのもなんだけど、体格からしてそんな間違ってはないと思う……」

「なるほど?」

 

 葵が小柄なのは間違いのないことで、それを言われるとなんとも言い難いものがある。

 むぅ、とうなっていると複雑そうな目で葵がこちらを見ていて──はたと気付く。

 食事をするのを忘れていた。

 

「あ、ごめん。冷めないうちに食べる」

「うん」

 

 葵の口もとが、小さく弧を描く。

 

「……うん。美味しい」

「よかった」

 

 本当に、前日の夜からずっと思っている。

 距離感を、どうすべきなのか。

 

 恋人だったのは光輝()だったが、俺は俺で、普通に葵の幼馴染として仲良くやってきた。光輝と付き合いはじめてからはちょっと距離をおいていたから……思春期に入ってから今の今まで、こんなに距離が近いことはなかったのだ。

 

 葵に対してどう接していいか、わからない。

 

 

 

 

 

 

 移動手段は徒歩、バス、徒歩。片道約一時間。開園が午前九時であるから、そこに合わせて行こうという話だった。

 俺と葵は、バスの最後列席に並んで座って、迷惑にならない程度の声量で話していた。

 

「えっとねえっとね。園内飲食の持ち込みオーケーなんだって」

「え、食べ物いいの? 珍しいね」

「でしょ。実は……選んだ理由の半分くらいそれなんだぁ……」

「あぁ、それでお弁当……」

「うん」

 

 葵は胸に抱えたトートバッグを、ぽん、と撫でるように叩いて微笑む。

 お弁当作るから、というのは事前に聞いていたが、なんとも照れ臭いものだった。

 

「お弁当作ったのはじめてだから凄く不安だなぁ」

「……」

「あのね、一応ね。……あーうん。お昼のときの楽しみってことにしようかな。コウくんの好きなもの入れたんだよ」

「あ、そうなんだ。それは楽しみだな」

 

 ()()()()の好物。

 ちなみに光輝と俺は、味の好みが結構違う。

 

「中身崩れちゃわないか不安だな……」

「んー。まぁ歩くだけなら大丈夫じゃない?」

「だといいけど……」

「投げたり落としたりしなきゃ大丈夫」

「そっか、そうだよね」

 

 気休めの言葉でも、それで相手が安心するなら投げるべき。

 

「……結構、気温いい感じだよね、今日。適度に涼しいし」

「うんうん。ちゃんと晴れてくれて、私すごく嬉しかった。屋外だとやっぱり、雨だとちょっと……」

「そうだね」

「あ、そうそう。塩飴も用意してきたんだ。ちょっとは汗かくだろうし、大事だよね、塩分」

「用意周到だな……」

「えへん。これでも──」

 

 葵は台詞の途中で笑みを消し、そっと片手で口もとを覆う。

 

「……大丈夫?」

「……うん」

 

 大丈夫なようには見えなかった。

 んぐ、と鳴るのどは嘔吐を我慢しているのだろう。

 顔面蒼白で冷や汗をかいており、表情は険しい。

 

 ただの想像に過ぎないが、「これでもサッカー部のマネージャーだから」と続いたのかもしれない。

 それが記憶を刺激してしまった。思い出したくないこと。目をそらしていること。忘れていること。

 彼女は休学をしているが、その理由がここにある。

 過呼吸になることもあった。吐いたこともあった。

 クラスメイトの悪気のない一言で、一気にどん底まで落ちてしまう精神の不安定さ。それに誰も何も言わないとしても、ふとしたきっかけでトラウマというものは甦るものだ。

 

 まだ光輝が死んでから、ひと月しか経っていない。

 葵が病んでから、ひと月も経っていない。食事もまともに摂れず、ずっと涙を流して、夜も眠れず──そんな状況から、今の安定した状態に入ったのが、だいたい一週間前。

 そう、一週間前までは、吐いたり過呼吸になったりするのはザラにあることだったのだ。

 

 比較的安定した状態とは言うものの、()を光輝だと思い込んでいる──それはいったいどれだけ不安定なものの上に成り立っているのか。

 光輝が死んで情緒不安定になっていて、歩を光輝と思い込んで、でも歩の言動は光輝とは似ても似つかない。

 俺は光輝になりきることなんてできないし、真似しようと思ったってできるわけでもないし、そもそも親にもそれはやめろと言われている。

 

「……よしよし」

 

 少しためらったあと、葵の頭にぽんと手を置いて、撫でる。

 葵は無言で撫でられていた。

 

「…………」

「…………」

 

 葵はそのまま頭をこちらにあずけてきて、目を閉じた。

 

「……ごめんね?」

「いいんだよ。俺が好きでやってることだから」

「……それでも、ごめん。ごめん……今日のこと、ずっと楽しみにしてたのに……私全然だめだな……」

 

 葵が、いまどれだけ不安定なのかなんて俺にはわからない。

 俺は精神科医でも心理学者でもなんでもないし、他人の心に敏感に生きてきたわけでもない。

 だから、どうすれば葵がもとの健全な状態に戻るかなんて、わからない。

 でも──

 

「今日、凄くかわいい」

「…………え?」

「髪とか。普段そのままだから凄い新鮮だなーって今朝から思ってた。ちょっと言いそびれててさ。今日凄くかわいいよ」

「……」

「爪もさ、綺麗だなって思ってた。何か塗ってるの? すっごいつやつやしてる」

「えと。これは磨いただけ。コウくんもやろうと思ったらすぐできるよ」

「え? ほんとに? なんも塗ってないの? すごいな……」

「だって、一応、校則でマニキュアとかだめだし……」

「真面目か? ていうかそれ言うなら化粧してない?」

「あ、うん。でもちょっとだよ」

「ふうん……? よくわかんないけどきれいだよ。かわいい」

「あ、ありがとう……」

 

 少しの間、葵を笑顔にすることくらい俺にもできる。

 

「服も、かわいいよね。よくわかんないけどかわいい」

「あ、でしょっ。ちょっとね、迷ったんだけど、今日結構歩くだろうから動きやすいのと思ってね」

「あぁそれで。いつもスカートだもんね」

「うん。ジーンズとかのがいいかなと思って。靴もスニーカーだし」

「いいね」

 

 頭はあずけたまま、葵は上目遣いに彼と話す。

 いつの間にか葵の目は開かれており、頬は紅潮し、口もとは弧を描いている。

 

「お弁当もありがとう。早起きして準備してくれたんだよな」

「うん。でもあれだよ。だいたい昨日の夜やったから、今朝はそんなに」

「ふうん? いや絶対大変だったろ。弁当作るのはじめてとか言ってなかった?」

「そう……そうなんだよね……味見すっごいした……」

「真面目だな……適当でもいいのに……」

「えぇ~」

「あぁ今の適当っていうのは、葵が作ってくれたってだけで凄く嬉しいってことで……別にどうでもいいとか思ってないよ。そこまでしてくれて、本当に嬉しい」

「大丈夫だよ。わかってる」

「ならいいけど」

 

 ふふ、と彼女は笑う。

 

「コウくんといると……落ち着くな……本当に好き……」

「それなら、よかった」

「……いつもありがとう」

「こっちの台詞だよな、それ。朝起こしてもらって、朝ごはん作ってもらって、弁当作ってもらって」

「ふふ。じゃあお返しに、色々してもらおうかな」

「いいよ」

「やった」

 

 なんとなく、話していて、結論が出た。

 葵と、どう接していけばいいのか、というこうなってからずっと抱えていた悩みに対する結論。

 

 葵が俺を光輝と思ってるとか、そんなことはどうでもいい。

 ただ、彼女が喜んでくれるように、居場所になろう。

 

 葵が笑顔になれるなら、きっとどんなことでも、善いことだ。

 

「楽しみだね、今日」

「そうだね」

 

 物事の本質なんて、考えても仕方がない。

 大事なのは、表立って、何をするか。どう見えるか。

 

 例えそれが偽物の関係でも、それで幸福が形作られるなら、それはきっと────。

 

 



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彼女は眩く、美しく、そしてかわいい

 

 澄み切った夏の空が、青々と広がっていた。

 夏が深まるにつれて増していくであろう明度は、まだ朝だからか、淡く優しい。 

 草木も心なしか瑞々しく見える。

 

「……おー。植物園っていうからどんなものかと思ってたけど、本当に、公園みたいな感じだな」

「そうだね。なんだろ……木が多いからかな?」

「あーたぶんそう」

 

 入園してまず見えたのは、木、だった。

 特別性などない。日本のどこでも見ることができるような、ありふれた並木道。

 入園料は四百円。特段高くはない、が有料というだけで敷居は高くなるものだ。開園したてというのもあるだろうが人気は少なく……静かで、自然の溢れる空間が広がっていた。

 

「凄い好きだ、ここ」

「そう? それならここにしてよかったな」

「うん。ここいいね」

 

 葵は淡く笑んで、たったっ、と踊るように先を行く。

 くるりと振り返って、早く、と。

 

「弁当崩れるとか言ってたの誰だっけ……」

「あ。……あぁ~」

 

 明るい顔を一転させ、葵は不安そうにトートバッグを抱えた。

 それが面白くてふき出してしまう。

 

「笑いごとじゃないよー……」

「いやだって、うん。……ごめんだいぶ面白かった」

「ひどい」

 

 唇を尖らせる葵に追いついて、「どうしようか」と問う。

 

「コウくんは? どうしたい?」

「んー……俺は葵が行きたいところって言いたいところなんだけど……葵が特にないなら選ぶ」

「んー」

「園内マップ見る?」

「うん」

 

 二人並んで歩いて、入口の近くにある大きな園内マップを眺める。

 桜林、薔薇園、はす池、芝生地帯、休憩所……その他もろもろ。

 

「……結構広そうだなぁ」

「そうだねー」

「どこ行く? っていうか近いところから順々に、でいい気がするんだけど、どう?」

「うん。いいと思う」

 

 じゃあ行こうか、と。

 ならされた地面に沿って、並木道をゆっくりと歩いていく。

 背の高い木々の枝葉は道に影を作っていて、木漏れ日による明暗がとてもきれいだった。

 

「…………」

「……」

 

 ただの木に風情を感じる人というのは、一体どれだけいるだろうか。

 きっと間違いなく、多くはないだろう。

 そんな中、彼はありふれた日常のきらめきを尊ぶ、数少ない人種だった。

 もちろんありふれたとは言いつつも、植物園で好きな女の子と歩いているという付加価値はあるのだが、それでも、ただの木漏れ日に足を止めるのは彼の稀少性と言えるだろう。

 

「……」

 

 そしてそんな彼の横顔を、彼女は目を細め、眩しそうに見上げていた。

 葵は身長が低く、彼との身長差はおよそ二十センチ。だから見上げると、自然と空が、太陽の光が、視界に入るのだ。

 

 歩く、歩く、並木道を歩いて……──はた、と気付く。

 歩幅が違う、と。

 繰り返すが、彼と彼女の身長差は二十センチだ。当然足の大きさも異なるし、歩く速さも違う。

 成長期に入って、身長差が大きくなったあとに並んで歩くなんてほとんどなかったから、彼には歩幅の合わせ方がよくわからない。

 

「……荷物持とうか?」

「その質問三回目だよ。いいの、これは私が持つから」

「そっか」

 

 加えて、荷物は葵のほうが多かった。

 二人分のお弁当と、自分の水筒。それだけでかなりの重さになるだろう。

 ちょっとくらい負担を減らしてあげたい、と眉をひそめる。

 

「……まぁしんどくなったら、いつでも言って」

「その台詞も三回目だよ」

 

 こちらを気遣わせまいと、にぱ、と葵はあどけない笑みを浮かべる。

 ……これだから一層不安になるんだ、と彼は嘆息を吐く。

 

「……あ、でも──」

 

 葵は、少し言いづらそうに、口を開く。

 

「手を引いてくれると……嬉しいな、なんて」

「──……」

 

 そういえば、葵と光輝はよく手を繋いで歩いていたっけ、と思い出す。

 そして同時に思い至る。きっと、手を繋ぐことで、歩くペースを合わせていたんだろうな、と。

 

「ええと……」

「いや、うん。わかった。……つなごうか」

「うん!」

 

 葵と手を繋ぐのは、いつぶりだろう。

 小学生のときに何度かは、あった。

 歩幅が変わらなかったころ、身長が同じくらいだったころ。

 

 久しぶりに握った手は──小さくて、すべすべとしていて、柔らかくて、だけど脂肪がないゆえの固さが芯にあった。

 

 なんだか、少し怖い。

 どうして怖いのか、自分ではよくわからない。

 

「ふふ」

 

 けど、葵が嬉しそうにしてくれるならいいか、とも思う。

 

「……歩きづらくない? 大丈夫?」

「大丈夫。コウくんが手を引いてくれるから」

「……そっか」

 

 手をつなげて、歩幅を合わせて、一緒に並木道を歩き始める。

 少し歩くと並木道を抜けて、芝生が見えた。芝生で覆われた、広場。

 

「ここでお昼食べるの、いいかも」

「え。俺はいいけど……芝生に直座りになるのしんどくない? 休憩所とかなかったっけ」

「レジャーシートあるから大丈夫」

「準備いいな?!」

「こういうこともあるかと思って」

「さすが」

「えへん」

 

 次によったのは、紫陽花園。

 大きな特徴的な葉っぱは特徴的だったが、時期が時期なので、花はついておらず蕾だった。

 

「んー。まだ五月だもんね。もう少しで咲くかな?」

「まぁ、また来たらいいだろ。たぶん季節ごとに楽しめるような感じなんだろうなぁ」

「そういえば、マップに桜載ってたね」

「葉桜は葉桜で悪くはないんだけどな」

「じゃあ、あとで行く?」

「余裕があったらね」

 

 手は少ししっとりとしてきて、体温があがってくる。

 開園直後に入ったが、やっていることはほとんどただの散歩で、運動不足なら歩くだけでも疲れるものだ。

 彼も彼女も、そう健脚ではない。

 

「葵、大丈夫? どこかで休む?」

「まだ大丈夫。ありがとう」

「……時間はたくさんあるし、のんびり行こう。どこか休めそうなところがあったら」

「うん」

 

 その次によったのは、薔薇園。

 俺も葵も詳しくはなかったが、五月は薔薇の咲く季節であったらしい。ちょうど綺麗に赤く、黄色く、白く、ピンク色に咲き誇っていた。

 

「わぁ、きれいだね! すごい素敵……」

「そうだね。思ったより、なんか、緑の印象つよいな……」

「普段目にするのって……あんまり普段目にすることもないけど! 切り花が多いもんね」

「それそれ。こうしてみるとだいぶ印象違うなぁって」

「ね、ね。写真とろ」

「ん」

 

 きらめく水面。

 小さな池が、道脇にあった。

 

「マップにあったはす池ってここ?」

「……いや違うんじゃない? はすってもっとこう……水面にある感じの……。これ見た感じすっごい普通の池」

「ちょっと画像検索してみる。……あ、違う感じする。これたぶん普通の池だね」

「ふうん……? まぁいいか、綺麗なもんは綺麗だ」

「そうだね。この池可愛い」

「出たな。女子語」

 

 そうして順に、めぐっていった。

 歩いて、歩いて、歩く。

 花が咲いていないことを残念がって、咲いている花に喜んで。ただの草木を、聞こえてくる鳥のさえずりを、他愛のない風景も含めて、楽しんでいた。

 

 やっぱり少し疲れてきたので、早めのお昼にしよう、という話になった。

 休憩所は歩いている途中に見かけていたが、葵の希望で、どこか別の場所で食べようということになった。

 

「やっぱりピクニックっぽいご飯にしたいなーってちょっと思って」

「あー……うんわかる。遠足のお弁当おいしいよな……」

「そうそう! 疲れるっていうのもあるんだろうけど、やっぱり特別感あるよね」

「疲労感的には、もう結構歩いてるしクリアできそう。あとはそれっぽい場所かな……」

「芝生のところは? ちょっと遠いけど、シート広げたらいい感じだと思う」

「んー。……日差しは? こんな場所に来といて今更だけど、気にしない?」

「日焼け止め塗ってるから、大丈夫だよ」

「んー……うん。まぁ、もうちょっと歩きつつ、場所探してみようか。ここどこでも飲食大丈夫だっけ?」

「うん。そのはずだよ」

「ならちょっと探そうか」

 

 葵は気にしない、と言っているが……まぁ一般論として、女の子は日に焼けることをあまり好まないんじゃないかなぁと思う。

 だったらやっぱり、何がしか屋根のある場所、と思って。

 

「どこがいいかな」

「私はどこでもいいよ」

 

 ぽつぽつと話をしながら、歩みを進める。

 手をつないでしばらくしたので、だいぶん歩き方にも慣れてきた。

 お昼となると、手を離さなきゃならないのが、ちょっと寂しいなぁ……と思っていると、大きな木が視界に入った。

 少し道からそれていて、かつ二人で座っても問題なさそうな平たさと広さ、枝葉で日も遮られていて、休憩場所としてはよさそうに思える。

 あそこにしよう、と提案すると、葵は笑顔でうなずいた。

 

 

 

 

 

 

「ふんふふーん」

「……」

 

 ちょっと、楽しい。

 レジャーシートを広げるというただそれだけなのだが、妙に楽しい。

 ぱぱっと広げて、二人で座って、お昼の時間にする。

 

「なんかちょっと緊張するな……誰か通りがかったらどうしよう」

「あはは。大丈夫だよ~。気にしない気にしない」

「そっか……」

「はい。お弁当」

「……ありがとうございます」

 

 好きな女の子の手作り弁当。

 ありがたくて、嬉しくて、受け取るときに深々と頭を下げてしまう。

 

「がんばって作ったから全部食べてくれると嬉しいな」

「うん……」

 

 食べていい? と視線で聞くと、うん、と首肯で返事がくる。

 お弁当の包みを解いて、中身を取り出して、ふたを開ける。

 

「あ」

「……」

「めっちゃ美味しそう……」

「ほんと?!」

 

 ぱぁぁ、と葵は笑みを深めて、嬉しい、と言う。

 

「えと……いただきます」

「はい。召し上がれ」

 

 葵は自分の手元の包みを解く気すらないようで、じーっとこちらを見つめている。

 がんばったんだもんなぁ、と思いつつ、どれから食べようかなとお弁当を見下ろす。

 

 鶏そぼろと錦糸卵の二色ご飯。から揚げ。卵焼き。ウィンナー。ピーマンの金平。プチトマト。ブロッコリー。

 

 なんていうか、めちゃくちゃ普通においしそうだった。

 

「いただきます……」

 

 思わず二度目のいただきますをして、彼は好物の鶏そぼろをまず口にする。

 甘い味付けの、ご飯が進む味で……文句なしに美味しい。

 けれど既製品のそれとは少し風味が違うような気がして、葵に問いかける。

 

「……これ、まさか手作り?」

「う、うん。全部作った……んだけど、変かな?」

「え、あ、ん? 全部?! え、唐揚げも?!」

「う、うん……」

「すっご……」

 

 料理をしない彼でも、揚げ物をお弁当にいれる面倒臭さは理解できる。

 というか彼の母親が「面倒だから」と常々言っていた。だから正直、唐揚げは冷凍だろうと思っていて……──あぁ、そういえば光輝は唐揚げが好きだったな、と気付いて。

 だからか、と微笑む。

 これは光輝が食べたらドン引きするほど喜んだだろうなぁ、と思うと笑顔になる。

 

「いや……すごいな。さすが葵だ。うん、おいしいよ。すごくおいしい」

「ほんと? よかったぁ……あ、お紅茶もあるからね。飲んでね」

「自分の水筒に入ってるから……自分のは自分ので飲もうよ」

「え、でもほら、足りなくなったりしたら……」

「はいはい」

 

 苦笑して、葵も食べたら? とうながす。

 

「あーでもよかった。味見はしたんだよ? でもやっぱり好みってあるからずーっと不安で。おいしくなかったらどうしようかなってほんと」

「うん」

「から揚げはね、実はちょっと焦がしちゃって……大丈夫そうなのをコウくんのところには入れてるんだけど、もしかしたらちょっと焦げっぽいかも。他はたぶん、大丈夫のはず……卵焼きもあんまり綺麗な色にならなくて、でも味は大丈夫だと思う。あ、トマトは絶対大丈夫だよ。新鮮!」

「そっか」

 

 確かにから揚げを口にすると、少しばかり焦げの風味がする。でもそれが少し嬉しいというか、ちょっとしたスパイスになっている。ちょっと焦げ気味のから揚げが好物になってしまうかもしれない。

 卵焼きも普通においしい。

 

「あ」

「ん?」

「錦糸卵あるなら卵焼きいらなかった……?」

「いや、いいんじゃない? おいしいよ」

「ほんと?」

「うん」

 

 普通においしくて、お腹空いてたのもあって、ぱくぱく食べたほうが葵も気持ちいいかなと思って。

 あっという間に、完食。

 

「……ごちそうさまでした」

「お粗末様でしたっ!」

 

 葵が今朝淹れた紅茶をごくごくと飲んで、ほっと一息。

 

「……いや全部美味しかった。めちゃすごいね。ありがとう」

「ううん全然! よかった~」

「葵も食べな」

「あ、うん!」

 

 えへへ、と言いながらようやく自分の食事に手を付け始めた葵を微笑ましく見て、可愛いな、と思う。

 朝四時に起きたとか言ってたし……揚げ物とかしてたみたいだし……本当にすごく頑張ったんだろうなあ。

 小さな口に食事をゆっくり詰め込んでいく葵を見ながら、微笑む。

 

 木漏れ日を見上げながら、初夏の風を感じながら、葉音を聞きながら穏やかな時間を過ごしていた。

 

 ぽつりぽつり、とどこを頑張ったとか、という葵の話に耳を傾ける。

 やがて葵も食事を終えて、二人でただお茶を飲む時間を飲みつつ、のんびりしはじめた。

 

「……」

 

 うつらうつら、と葵は船をこぎ始めた。

 お腹がふくれたこと、睡眠不足、運動による疲労。

 彼女がうたた寝をする理由は無数にあるが、問題は──

 

「……──ん。んんっ」

 

 頭を左右にぶんぶんと振って、眠気を覚まそうとしている彼女の在り方だろうか。

 安らげる場所でありたい、と思う。

 

 そのために必要なことってなんだろうな、と。

 

 光輝ならどうするだろう……と思って。

 わからないしわかってもたぶん無理だな、と彼は思った。

 だから、彼は彼なりに、ただできることを。自分にできることなんて、そばにいるだけだから、と。

 

「葵」

「ふぇ」

「おいで」

 

 膝を叩いて、おいで、と。

 葵はそんな彼の仕草を見て、疑問符を浮かべる。けれど、とろんとした目のまま、おそるおそると彼に近付いて、ことり、と彼の膝に頭をのせる。

 

 寝心地は、決していいものではないだろう。

 レジャーシートを敷いているとはいえ地面は固く、彼の膝は枕というには高さも固さもいまいちだ。

 

 けれど彼女は、嬉しそうな恥ずかしそうな笑みをふにゃりと浮かべて、彼を見上げる。

 葵の視界には、自然と光が映る。

 葵の花は、太陽を見上げるものだ。だが彼女が見つめる光は、空にあるものだけでは、決してない。

 

 木々の枝葉に遮られた光。

 

 木漏れ日というのは、足を止めてはじめて気付ける美しさを持っている。

 車に乗っていては気付けない。走っていても気づけない。木々で遮られ、減衰した、弱い光。

 強く激しい光の存在には誰だって気が付くが、弱い光は……足を止めてこそ、その本当の美しさに気付くことができる。

 

 葵は、眩しそうに……やわらかく微笑む、彼の顔を見上げていた。

 

「しんどくない?」

「……うん」

「じゃあ、ちょっと、このままでいようか」

「…………うん」

 

 ここちよさに身をゆだねながら、葵は目を閉じた。

 

 



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彼女は病んでいる、ことを説明する

 

 高校の教室、昼休み。

 いつも通りに朝礼を受けて、いつも通りに授業を受けて、いつも通り昼休みになってしまった。

 

「…………はぁ」

「今日ため息多いな。何回目だ?」

「いや……」

 

 はぁ、ともう一度もれそうになったため息を呑み込んで、代わりに愚痴を吐き出す。

 

「仲良くないひとに話しかけないといけないミッションが発生してるんだが……めんどくさくって……」

「マ? くそだるいやつじゃん。誰よ」

「二組の軽井沢とか柿川とか、あのへん」

「……誰? いや待て。……はいはい。小倉の友達かなんかだな?」

「そそ。葵の友達」

「はーん」

 

 小倉葵(おぐらあおい)

 

「聞いていいのかわからないんだけど、どういう奴?」

「デリケートな奴っちゃデリケートな奴だけど、まぁ別に……? 来週頭くらいに葵が復学する予定なんだけど、まぁフォローよろしくねってお願いしとくだけかな」

「マ? 超めでたいじゃん」

「そうそう」

 

 葵と光輝は同じ二組で、俺は三組。

 わからないひとにはわからないのだろうが、隣のクラスに行って、誰かに話しかけるというのはそれなりにハードルの高い行為だ。

 

「めんどくさい」

「まぁなぁ」

「十分休憩はちょっとハードルが高すぎたけど……もう昼休みだし、昼休憩の間になんとかするわ……」

「行くことは確定事項なあたり善人だよなお前」

「だって自分のことじゃないし……」

「そういうところだよ」

 

 うるせぇ、と言いつつお弁当を口に運ぶ。

 はぁ……たこさんウィンナーが美味しい……。

 

 

 

 

 

 

 ひっそりと、教室のドアの陰から覗き見る。

 目当ての人物たちは、教室で机をかこって歓談をしているようだった。

 

「……」

「いや行かねーのかよ」

「うるさい。というかついてこなくていい」

「俺の苗字忘れたのか? 小判鮫だぞ」

「生き様まで小判鮫にならなくてもよくない……?」

「ふん……」

 

 ついてきていた小判鮫とほそぼそと会話をしていた。

 しかしまぁ、身を隠すとは言っても、のぞき込んでいる以上教室の中からは見える。深淵をのぞくとき深淵もこちらをのぞいている理論である。

 

「──何してんの? 誰かに用?」

 

 そんなわけで二組の男子から話しかけられて、小判鮫ともども、二人でびくっと目を泳がせ始める。

 

「…………えっと。あー」

 

 知らないひとに話しかけられると何を言えばわからなくなってどもる陰キャ! 

 彼らとコミュニケーションをとるためには、察する能力が必要不可欠だ! 

 

「……あぁ、軽井沢?」

 

 無言の首肯。

 名も知らぬ二組の男子Aはコミュ障と仲良くなる才能があった。

 

「軽井沢ー。お客さん。真鍋(まなべ)弟」

 

 真鍋弟。

 つまりは俺のことだが、そのワードが出た瞬間クラスの空気がピリついたような気がした。

 ただの被害妄想かもしれない。

 でも真鍋光輝は、クラスの中でも明るい存在だっただろうというのは想像に難くないし、そもそもクラスメイトが亡くなったという事実だけで気を重くするには十分だろうと思う。

 それが理由で、学校を休んだ人間がクラスメイトにもいるという事実は、同じ教室で過ごす彼らにとっても気持ちのいいことではないだろう。

 

「やっほ~。あゆあゆ~」

「……なんか用?」

 

 葵と仲のいい友達は、二人いる。

 軽井沢夏海と、柿川美羽。

 ちょっとぶすっとした顔をしているつり目女子は、軽井沢。口調が強めなので、彼女と話しているとちょっとびびり倒して失禁してしまう。

 のほほんとした口調でやってきたのは、柿川さん。身長百八十を超える超大物であるが、口調が優しく人当りがいいので、めっちゃ話やすいコミュ障の味方である。

 

「どうしたの~?」

「いやえっと……」

「後ろの子は~小判鮫くん~」

 

 なんで僕の名前知ってるんだ……と小判鮫がコミュ障を発揮し、小判のように縮こまる。

 ちょっと前に一回話してたような気もするが、まぁコミュ障特有の〈自分は名前覚えられないのに向こうが覚えてる事実にびびり倒す現象〉である。

 

「えっとですね……──」

「葵のこと?」

 

 会話に応じたのは、軽井沢女子だった。

 コミュ障の敵ではあるが、俺の敵ではないのがミソである。

 会話のリードをしてくれるので、意外と話やすいし、まぁ葵の友達が悪い子なわけがないという先入観に基づき好感度は結構高い。

 

「そう。はい」

「どうかしたの?」

「ちょっと状況がですね。変わったと申しますか……」

「……場所変えましょうか。ついてきて」

「はい」

 

 この通り、デリケートな話題とみると場所も変えてくれるいい子なのである。

 

 

 

 

 

 

「それで?」

 

 場所改まって、空き教室。

 面子は先ほどと同じ、ツンドラ優しい軽井沢女子と、ゆるふわ高身長柿川さん。それから俺と小判鮫である。

 

「葵が来週くらいに復学予定だから……一応伝えておこうと思って、みたいな」

「それほんと? 大丈夫なの?」

「わぁ、嬉しいね~」

「……嬉しいけど! でも……大丈夫なの?」

「んー……」

 

 大丈夫かどうか、と聞かれるとなんとも言えなくて唸ってしまう。

 すると、内情を最もわかっていない傍観者であるなんで来たのかわからない小判鮫が、まぬけ面で疑問を口にする。

 

「なんか、問題あんの? めでたいことじゃね?」

 

 馬鹿め! 

 

「ふっつーに、休んだ最初のころにお見舞い行ったら、お見舞いもだめって言われたのよね。精神が不安定だから会わせられない──って葵のママに。もう大丈夫なの?」

「……微妙だけど、まぁ、マシくらい?」

「あ~、だからフォローしてくれってこと~?」

「そう。それ」

「って言われても具体的にどうしてほしいの? いい感じにってこと?」

「んー……」

 

 めちゃめちゃ言いづらくて、口ごもる。

 けれど口にしないと話が進まないので、頭をぽりぽり掻きながら話しはじめる。

 

「まぁ、ここにいる全員、うちの兄貴が死んでから具体的にどうって話知らないんと思うんだけど」

「……」

「葵が病んだ、ってことだけしか知らないと思うんだよな」

 

 担任の先生にも病んだという事実くらいしか伝わっておらず、本当の内情を知っているのは俺くらいのものだった。

 デリカシーのない連中が冗談半分で聞いてきたりもしたが、彼女らや、光輝の友人たちがそういう連中を黙らせてくれたので助かったことを覚えている。

 彼らは善人だから俺のことも放っておいてくれて、ただ静かに、そっとしてくれた。

 いい奴の周りにはいい奴が集まるんだなぁと、あの日実感したものである。

 

「んで、まぁ、具体的に言うと、俺の名前とか光輝の名前を安易に出すと吐く。それか過呼吸とか」

「……マジで言ってる?」

「最初期はマジでそんなんだった。最近割と安定してるけど、まぁ……スイッチを押したら普通に学校でもあり得るかな……」

「……なんで、名前出すだけでそうなっちゃうの~? あゆあゆの名前がトリガーになるがわからないんだけど~?」

「そこなんだよな……」

 

 一番言いづらいところで、一番めんどくさいところだった。

 

「葵、俺のこと『コウくん』って言うんだよ」

「……マジで言ってる?」

「マジ」

「……アンタ、大丈夫? つらくない? お兄さんが亡くなったばかりでつらいでしょうに……本当に大丈夫?」

「まぁ、ホラー映画見てて自分よりびびってる人がいると冷静になる理論で、まぁ、別に……」

「そんなわけないでしょ」

 

 大丈夫? って聞かれたから大丈夫って答えて否定されるのバグじゃないか? 

 

「……とりあえずそれはいいんだよ。ただ問題なのは……その状態で登校して、クラスで……まぁトリガーになりそうなものなんていくらでもあると思うんだよな。サッカー部のマネージャーしてたって事実だけで吐きそうに前なってたし。なんでもやばそうなんだよ」

「それ登校していい状態じゃなくない?」

「出席日数の問題~? あと、単純に様子見かな~?」

「そうそれ」

 

 理解力の高い聞き手は、話をしていてとても楽だ。

 うちの高校は六十日欠席で留年が確定する。まぁまだセーフラインだが、最近は落ち着いてきているので一回様子見がてら登校してもいいんじゃないかという話になったのだ。

 

「まぁ最近はほんとに安定……うん。まぁ、うん」

「すごくだめそう~」

「ぶっちゃけ安定してたんだけど、最近またぶり返してるっぽいっていうか……不安定期に戻ってきたというか……でもそれでも最初期よりはだいぶマシで、本人も『行く』って言ってるから、みたいな」

「……うん。オッケーわかった」

「まかせて~」

「とりあえずサッカー部には退部届出しておくわ。まぁ文句は言わせないし。あとはクラスの連中へちょっと言い聞かせてとく。これもまぁ……ある程度はなんとかなるでしょ」

「まぁそっちは私がなんとかするよ~。私の得意分野~」

「むぐ。まぁ美羽のほうが向いてるか……お願い」

 

 割と難しいことを頼んだ自覚はある。

 だがそれを当たり前のように「任せて」と言ってくるあたり、本当に人間関係には恵まれていた。

 俺が、というよりは光輝と葵だが。

 

 あれやこれやととんとん拍子に話が進んでいっていて、人間力の差を見せつけられて俺と小判鮫は「ほえ~」となるしかできない。

 

 少しの間ぼけーっと見守っていると、軽井沢と目が合って、キッと睨まれる。

 え、何。

 

(あゆむ)!」

「……?」

「………………繰り返しになるし余計なお世話かもしれないけどアンタもしんどかったら他人を頼っていいんだからね」

「あぁ、うん。ありがとう」

「よしよし~」

「?!」

 

 高身長女子柿川さんに頭をなでりなでりことされ、驚きに脳を停止させることしかできない。

 高低差を利用するのはズル。

 

「とにかく! ……これで言うことは言ったから。フォローよろしく」

「歩、アンタちゃんと泣いた?」

 

 話続けんのかよ。

 

「葵のこともいいけど……ちゃんと泣いて。ちゃんと悲しんで。ちゃんと、前向きなさいよね」

「……余計なお世話かもしれないけど~。あおちゃんだけじゃなくって、あゆあゆのことも心配なんだぜ~」

 

 そうは言っても──

 

「……」

 

 と、口を開きかけて、閉じる。

 

「……わかった。ありがとう」

「……」

「……」

「ま、まぁ教室戻ろうぜ? ほら……そろそろ休み時間終わるし?」

「……そうね」

 

 小判鮫の提案に、軽井沢がうなずく。

 今日はじめて小判鮫がいてよかったと思った。

 じゃあまたあとで、という軽井沢に、あとがあるのか……と恐々としつつ見送って、男二人になる。

 

「……ふー。よし。ようやくリア充がいなくなったな。僕あんまり知らないひとと話すと死んでしまうんだよな。危ないところだった」

「わかる」

「まーかなりしんどい感じだとは思うけど、僕も愚痴くらいは聞いてやるし」

「ほー」

「まぁアドバイスなんて僕にはできないが、壁にくらいはなれるんだぜ」

「ふーん」

「話聞いてる?」

「聞いてない」

「こいつ……!」

 

 どうでもいい話をしているととても心が落ち着く。

 まぁ、軽井沢の申し出はありがたかったが、親しくない相手に愚痴を言うほどこっちはコミュニケーション能力が高くないのだ。

 いいひとなのはわかるが、個人的な話をするかどうかは、まったく違う話である。

 

「ぶっちゃけ、悲しくないわけではないんだよ」

「まぁそりゃそうだよな」

「ただあんまり……まだ実感わいてないっていうのと、それどころじゃないっていうのと……悲しいのが麻痺してるのかなって感じはないこともないのかなって」

「ふーん」

「泣けるもんなら俺も泣いてみたいね」

「なるほどね」

「本当に相槌するだけの壁じゃん」

「アドバイスとか求めてないだろ?」

「うん」

「ところで泣きたいならとっておきのホラーがあってですね。泣きながら小便まき散らすこと間違いない一品ですがいかがですか?」

「普通に嫌だわ」

 

 二人で馬鹿笑いしつつ、そのまま「授業さぼっちゃう?」と話をしつつ、でも怒られるのが嫌だったので教室に戻って授業を受けたりなどした。

 

 



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彼女は甘い紅茶が好きだった

 涙が出ない、というのはそれほどおかしなことなのだろうか。

 家族。家族。家族……。

 遺伝子が同じ、双子の兄弟。

 大切だった。俺のアイスを食ったり俺のゲームのセーブデータ吹っ飛ばしたりなどといったことで喧嘩をした記憶もあるが、大切な家族だった。

 でも泣けない。

 別に、悲しくないわけじゃない。

 静かになった食卓に寂しさを感じたり、もうかけることはない光輝の連絡先を見たり、家に帰ってると無性に寂しくなったことだってある。

 ただ泣けない。

 深夜、俺に隠れて涙を流す母親を見て、猛烈に胸が締め付けられたりもした。さめざめと泣いている葵を見て、ただただ悲しかった。

 けど泣けない。

 

 ……実のところ、俺はそんなに兄の死を悲しんでいないんじゃないかと思って、泣きたくなる。

 

 でもやっぱり、泣けないんだ。

 

 


 

 

 カリカリ、と葵がノートにペンを走らせている。

 俺の部屋で、葵と向き合って勉強会をしていた。なんだかんだ放置していた学業面、復学の前に急ピッチで叩き込んでいるところである。

 

「ぬぐぐ……」

「……休憩する?」

「大丈夫」

 

 ふわふわとした髪は簡素にローサイドで一つにくくられていて、真剣なまなざしはノートに注がれている。

 

「別に、まぁ大事だけど根詰めないようにな。そんなどうしようもなくついていけないってこともそんなにないだろうし」

「でもせっかく夏海ちゃんたちがノートとってくれたし、ちゃんと勉強しないのは悪いよ」

「まぁ」

 

 その通り過ぎるので何とも言えなくなる。

 来週から、葵は学校に復帰するという予定はそのままだった。

 でもまぁ、まだまだ不安は残っている。

 先日軽井沢と柿川に「最近また不安定になってきたらしくて……」と伝えていた、その件である。

 なお、らしいというのは……俺にはよくわからないからだ。

 

『葵。最近また調子悪いみたいで……部屋で泣いてるみたいなのよね。ご飯も全然食べないし……』

 

 葵のお母さんがこんなことを前に言っていたから、あぁそうなんだ、となっているだけ。俺目線では……朝から晩まで、すごく普通に見える。

 勉強してるシーンを見ていても、凄く普通に、真面目に、勉強を進めている。

 朝食はいつも通り質素だが、勉強しながらときどきお茶菓子をパクついているし、食欲がないようにも見えない。常に笑みを浮かべているし、泣いていると言われてもあまり想像ができなかった。

 

「? どうかした?」

 

 そんなことを考えながら葵を見ていると、柔らかな笑みを浮かべた彼女が問いかけてくる。

 俺はなんでもない、と返して自分も復習がてら数学の問題集とにらめっこをする。

 

「…………」

「…………」

 

 学校に通っているからと言って、授業を受けているからと言って、それでテスト満点取れるはずはない。

 テストというのは、差をつくるためにするものだ。

 全員が満点をとるテストに意味はなく、全員が零点をとるテストにも意味はない。

 

「……?」

 

 問題集を見て、そして解答を見て、首をひねる。

 解答を見て経緯のすべてに察しがつくなら、どれだけ楽だろうか。

 たいていどのような物事においてもそうだが、結果を見て、過程を考えるものだ。

 過程というのは理由付けに近い。

 このようなことが起こっているから、おそらくこうである、という推測。

 

「…………七番の問題?」

「ん、あぁ」

 

 葵は、俺の前にあるノートと問題集を見て首をかしげる。

 

「ちょっと見せて」

「ん」

「…………あぁ、うん。……ひとりで大丈夫? 私これわかるけど」

「え?」

「……?」

「え? これ割と最近習ったやつ……」

「そうだね」

 

 そうだねじゃないが。

 まぁ今日いきなり勉強をスタートしたわけじゃなく、数日前にまとめて軽井沢から受け取ったノートを渡したので、予習していてもおかしくはないと思うのだが……。

 

「勉強凄い勢いで進んでない?」

「数学は一番暗記が少ないから。それに、パズルみたいでちょっと面白いし」

「地頭の差を見せつけられてる」

「えー。単純に数学最初にやったからだよ。社会とか英語、国語……化学も暗記だから苦手……」

「あーまぁそう言われると……数学は一番追いつきやすいのか……?」

「そうそう。お休みはしてたけど、別に一年丸々とかっていうわけでもないしね。暗記じゃないなら別に」

「…………いやいや」

 

 葵の本気を見た。

 当たり前のように言っているのが、凄い。

 才能がどうとかっていうのは、努力をしないことへの言い訳ともとれるが……それでも頭の使い方というのは天性のものがあるように思える。

 葵は基本的に、物事の本質を捉えることが上手いのか、勉強の効率がいい。

 

「やるなぁ」

「……ええと。自分で解く?」

「あ、いえ。教えてください、先生」

「ふふ。よろしい」

 

 軽く身を乗り出して、ここがこうで──と。

 指差しつつ、途中式を書き出してもらいつつ、ゆっくり教えてもらう。

 葵先生はかわいい。

 

「……わかる?」

「わからないけどとりあえず考えてみる」

「ふふ、そっか。がんばって」

「うん」

 

 難しいなぁ、と思いながらチョコレート菓子をつまんで、紅茶を飲む。

 おやつ万歳。

 くどいくらいの甘さを、少し苦い紅茶で流し込むのは好きだった。

 

「……そういえばさぁ」

「……?」

「葵って結構甘党だったと思うんだけど、ストレートで飲むようになったのいつからだっけ、紅茶。今日も自分の砂糖入れてない?」

「あぁ、うん。入れてないかな」

 

 葵はくすりと笑みを浮かべる。

 

「少し前に、あつくて苦い紅茶を飲んで、なんとなく、かな……。ほら、私がちょっと…………泣いてたときに、紅茶淹れてくれたでしょ。あのときから」

「……俺の話?」

「そうだよ」

「最近の話だ」

「そうだよ」

 

 ひと月前の、光輝がいなくなって葵が一番やばかった時期。

 なんか元気づけたいと思って、紅茶を水筒に入れてもっていった。

 

「あれ、たぶん。ティーバッグ押しつぶすとか、抽出時間凄く長かったか、何かしてたよね? 普通に淹れるのの二割増しくらい苦かった気がする」

「え、まじ?」

「うん。私が普段甘いのばっかり飲んでたっていうのもあるかもだけど、あんまり苦いから笑っちゃったんだよね」

「え。あのときちょっと笑ってたのそういう……?!」

「うん」

 

 もうなんだか懐かしいなぁ……と葵は目を閉じて、当時のことを振り返っていた。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 空虚、というのはおそらくこういうことを言うのだろう。

 ただ何もかもが無機質に感じられて、何も考えられなくて、ただ涙が流れていく。

 何かがあった気がする。

 何か忘れちゃいけないことがあった気がする。

 何か覚えていてはいけないことがあった気がする。

 

 何も、わからない。

 

「コウくん……」

 

 大好きな幼馴染に会いたい、と思った。

 そうすればきっと、この伽藍洞が埋まるという確信があった。

 でもどうしてだろう。彼の名前を呼ぶと、胸がきゅーっと苦しくなる。

 

 まるで恋をしてるみたいだな、なんて。

 

「ふ、ふふ……」

 

 なんだかおかしくなってしまって、笑みがこぼれる。

 何もしていないと気が狂いそうで、でも何もしたくない。

 

 わけもわからず、涙が出てくる。

 何が悲しいのかもわからないけど、孤独を感じる。何か、大切なものをなくしてしまったかのように。

 

 だけど本当に苦しくて、切なくて、しんどくて。

 

 たすけてほしい、とそう思って──

 

「葵。入るよ」

 

 大好きな彼の声が、聞こえた。

 

「葵……」

「コウくん」

「────」

 

 彼の顔を見る前に、すがるように、抱き着く。

 決して枯れることのない涙がまたとめどなくあふれてきて、彼の服が湿っていく。

 

「……大丈夫。大丈夫だから」

「コウくん……」

「大丈夫」

「コウくんコウくんコウくんコウくんコウくんコウくんコウくんコウくんコウくんコウくんコウくんコウくん……たすけて。苦しいの。……たすけて」

「うん。大丈夫。大丈夫だから……」

 

 優しく、彼の手が頭に触れて、それがたまらなく嬉しくて頭をぐりぐりと彼に押し付ける。

 すすり泣く私の声に合わせて、「大丈夫だよ」と撫でられる。

 それがたまらなく安心できて、彼に触れている瞬間だけ、空虚さが薄れるようだった。

 

「ひとりにしないで」

「うん」

「いなくならないで」

「うん」

「たすけて」

「うん」

「さみしい」

「うん」

「苦しい……」

「うん……大丈夫」

 

 十分、あるいは一時間、もしかしたらほんの数十秒の出来事かもしれない。

 体感時間もよくわからなくて、でもぎゅーっと抱き着いていると、少しずつ安心感がわいてきた。

 あぁ、私はいま一人じゃないんだって。

 

「…………ごめん。ごめんね、コウくん」

「いいよ、別に」

 

 本当なら、顔を見ればわかるはずだった。

 光輝と歩は、顔のつくりは同じだが、表情のつくり方がやっぱり違う。

 声の出し方、歩き方、笑い方。

 双子でも、全然──コウくんとアユくんは、全然違う。

 

 でもわからなかった。

 

 顔を、見ていなかったんだと思う。

 見たくないものから、目をそらす。

 そういう残酷なことを、自覚もなく、していた。

 

「私、なにか変なんだ」

「そう? そうかもね」

「うん。変なの。すごくつらいの。コウくん何か知ってる?」

「……さぁ? 俺にはよくわからないな」

「そう……そっか」

「でも大丈夫だよ。葵は……大丈夫だよ」

「そうかな……涙もね、止まんなくて……ごめんね、汚しちゃった……」

 

 ずび、と鼻をすする葵に、そのへんに置いてあったティッシュを箱ごと渡す。

 まぁ彼の服は、涙だけではなく鼻水もついており、無残なことになっていた。

 

「いいよ別に。……そう、でも、水分補給はしたほうがいいかな。紅茶淹れてきたんだ」

「ほんと?」

「飲む?」

「うん」

 

 彼は持ってきていた荷物から水筒を取り出して、こぽこぽとカップに紅茶を注ぐ。

 きれいな、琥珀色。

 紅茶は、宝石のようにきれいで可愛いから好きだった。

 

「はい」

「……ありがとう」

 

 湯気の出ている液体を、軽く一口。

 苦い、と思った。

 彼女は甘党で、紅茶には絶対と言っていいほど砂糖を入れる。それは彼も知っているはずだったが、きっとうっかり忘れてしまったのだろう。

 

「……ふふ」

 

 あんまり苦くて、笑ってしまった。

 

「ありがとう、コウくん。おいしい」

 

 味は好みではなかったが、おいしいと思ったのは本当だった。

 冷えた心があたたまるような気がした。

 シンプルで、装飾のない、そのままの味。

 

「落ち着くね」

「……それならよかった」

 

 彼女はその日から、苦みを感じるストレートティーを嗜むようになった。

 

 

 

 

 

 

「……最近のことだけど、もうずいぶん懐かしいなぁ」

「言ってくれればよかったのに……」

「いいの。嬉しかったし。そんなこと言うのは水を差すかなって。それに……ストレートで飲んでるだけで、なんかすごい安心するようになったんだよね」

「へー……」

「まぁ……思い出補正っていうのは大きいのかな……? それに甘いお菓子には合うよね。なんで今まで甘いものに甘いものを合わせてたのか自分でもよくわからなくなっちゃった」

「あ、それは思う。ケーキとか食べるときはストレートが一番いい」

「そうそう」

 

 葵は紅茶を一口飲んで、微笑む。

 

「この味が一番好きになっちゃったんだよね」

「ふうん……?」

「…………」

 

 少しの沈黙があった。

 葵はずっと微笑んでいて、でも、その瞳には透明なものがたまっている。

 やがてその透明はあふれて、頬を伝って、落ちていく。

 

「……だ、大丈夫?」

「うん」

 

 涙とは、感情の発露である。

 悲しさ、苦しさ、嬉しさ。

 涙が出る感情は、悲しみだけには限らない。ただあふれたときに、涙になる。

 

「別につらいわけじゃないよ。ただ……」

「ただ?」

「どうすればいいんだろう、とか。なにがしたいんだろう、とかそういう……──ううん、違うかな。ただ……」

 

 話している最中も、彼女はとめどなく涙を流していた。

 ぽつ、ぽつ、と。

 ノートに染みが広がって、それを拭っている。

 

「ただ?」

「ちょっと自分でもまだ整理ができてなくて、だから」

「そっか」

「うん」

 

 彼女の話すことは実際まとまりがなくて、中身がない。

 どう表現していいかわからないのだろう。

 だからこそ、彼はただ大好きな女の子に安心感を与えたくて、言う。

 

「俺でよかったら、どんなことでも力になるから」

 

 俺でよかったら。

 その言葉は、自分に光がないと思っている歩の劣等感を表している言葉。

 自分では不足しているという認識が、あらわれていた。

 

 その意味、理由。

 

 言葉に含まれた気持ちが彼女にもわかって、だから悲しくて苦しくて、嬉しい。

 あふれた感情は、透明なものに変わって、流れていく。

 

 

「ありがとう、アユくん」

 

 

 彼女は、泣きながら微笑みを浮かべていた。

 

 



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彼らは歩み出した

 仏壇の前で、手を合わせる。

 礼服のような簡素な黒ワンピースに身を包んで、葵は光輝に黙祷を捧げていた。

 

 ──アユくん。

 

 葵が、久しぶりに俺の名前を呼んだあの日、葵に見られないようにと表に出せなかった仏壇を表に出した。

 葵は大泣きしながら俺の母親や自分の両親に平謝りしていて、もう大丈夫だと言っていた。

 

「アユくん」

「ん」

「ごめんね。今日一日、付き合ってほしい」

「いいよ」

 

 泣き続けていた葵の目元は少しはれぼったく、痛々しい。

 でも表情に宿っているのは悲壮感ではない。

 未来へ歩くための、笑みだ。

 例え作った笑顔だとしても……それを自分で作ったという事実は、未来へ歩くための意思表示に等しい。

 

「どこでやる?」

「んー。不都合がないところ……コウくんとアユくんの部屋でいいかな?」

「じゃあそこで」

「うん」

 

 葵がやりたがったのは、思い出の振り返り。

 正直、まだ不明瞭なことが多いのだと彼女は言う。

 どこまでが夢でどこからが現実なのか……すべてを呑み込むために、そうしたいそうだ。

 俺もやりたいと思ったので、大賛成した。

 

「葵、ところでさ」

「ん?」

「……いつからそう思ってた?」

「そう、って?」

「いや、俺と光輝の……なんていうのかな」

「あぁ」

 

 葵は歩きながら微笑む。

 

「最初アユくんをコウくんだって思っちゃったのは……たぶん本当に現実逃避。二人、全然似てないのにね」

「いや俺らを似てないって言うの葵くらいだから」

「みんな見る目ないよねぇ……全然違うのに」

「高一のとき入れ替わりっこゲーム光輝の発案でやってたけど……意外と光輝の友達気付かないんだなってほんと演じながらびっくりしてた」

「あーあったね! アユくんがコウくんの友達と一緒にいるから不思議だったんだよね、あのとき」

「葵に名前呼ばれたとき心臓はねたわ」

 

 くすくす、と笑い合いながら階段をのぼって──やっぱりこっちの部屋でしよう、と葵は光輝の部屋を指差す。

 そうしようか、とうなずいて、光輝の部屋の中に入る。部屋の中は、母が定期的に掃除をしているため埃っぽさはないが……それでも、どこか哀愁を感じるのは、主観的な感情要因なのだろうか。

 内装に特別なところは多くないが、俺の部屋と違ってゲーム用のモニターがなく、好きなアーティストのポスターが張って合って、サッカーボールが転がっている。

 

「わー……なつかし」

「ちょっと前までよく来てただろうに」

「気持ち的にね。大事。……懐かしいって思えてることが、驚きだなぁ」

「そっか」

「うん。やっぱり……自分ひとりで整理つけてからとか思ってたけど、全然違うね。アユくんがそばにいてくれるのが……すごく心強い」

「……そっか」

「うん」

 

 手にしていたアルバムを、部屋の中央に広げる。

 思い出といえば、まずここからだろう、と。

 

「わーかわいー」

「赤ん坊のころから見るのか……」

「大事だよ!」

「あ、はい……」

 

 幼稚園生になる前の、三人組。

 葵、光輝、歩。

 親同士の仲が良いこともあって、三人まとめて面倒を見られていた、らしい。

 

「わー……さすがにこのころのことはあんまり覚えてないな」

「え、逆に覚えてることあんの? 俺なんも覚えてない」

「んーとね。幼稚園に入る前、二人とクラス違うかもって言われてぐずったのは覚えてる。……ママに怒られたなぁ」

「あー。結局三人一緒だったっけ」

「うん」

 

 小学生。光輝が公園でサッカーをしている一枚写真。俺と葵がベンチで眺めている写真。

 

「……なんかこのころからもう性格違うなって感じだな。目つき……」

「二人ともかわいいのに」

「……」

「かわいいよ?」

「……」

「ふふ」

 

 中学生。光輝と葵のツーショット。このころから俺は写真に撮られるのを嫌がり始めたので、極端に俺の写真だけ減っている。理由は、劣等感とか色々だろう。

 

「アユくん、このころから疎遠になっちゃって寂しかったな……」

「……」

「また二人で遊ぼうね」

「……うん」

「約束だよ」

 

 そのようにして、順々に思い出をたどっていった。

 こんなことあったね、という話から、こんなのあったか……? という話。

 それから、それらの年代にあった、アルバムには載っていない思い出話。

 

 朝から昼までアルバムを見て、閉じる。

 今日の午後はまだ重大なイベントが残っている。見ようと思えばまだ見ることはできたが、そうもしていられない。

 俺と葵と、二人の母親で同じ食卓を囲んでお昼ごはんを食べて、そこでも光輝の話に自然となった。

 今まで抑圧していた話題。葵がいたから話せなかったこと。悲しみを乗り越えるには、“思い出”にするのが一番である。

 笑って光輝の話をすることができるのが、幸せだった。

 

 そして食後に、二人の母親に見送られて、

 

「行ってらっしゃい、歩」

「行ってらっしゃい、葵」

 

 行ってきます、と二人で家を出る。

 ドアを開けた瞬間感じたのは、光。

 夏の光、太陽の明るさ、まぶしい世界。

 

 二人は、光の中並んで歩き始めた。

 

「……ねぇ、アユくん」

 

 家から少し離れたところで、葵は微笑みながら口を開く。

 正直昨日、今日の予定を聞いていたときは、もっと涙にぬれたものになるとばかり思っていた。

 だけど彼女の表情は、ずっと、笑顔。

 空の光も相まって、まぶしくて、目を細めずにはいられない。

 

「手、つないでいい?」

「……いいけど。どうして?」

「そうしたいから、かな? 理由にはなってないけど……ちょっと、自分でもなんて言えばいいのかはわかんないや。ただアユくんと、こうして、今日は歩きたいかな」

「そっか」

「うん」

 

 もう、恋人ごっこは終わっている。

 葵の恋人は光輝だった。

 だけどそう、今日くらいは、いいだろうと彼も思う。

 

 ぎゅっと、決して離さないように手をつないで歩みを進める。

 

 

 

 

 

 

 ガタンゴトン、ガタンゴトン……。

 手をつないだまま座席に座り、電車の揺れに合わせて体を揺らす。

 電車の揺れに身を任せるのは少し不思議な気持ちになる。自分の足で歩かなくても、当たり前のように前に進んでいく。

 

 自分の名前が“歩”であることもあり、彼はあまり急いた移動が好きではなかった。

 限りなく遅く、のんびりと。それでいいと思っている。

 

 だから、

 

『ただいま運転を見合わせております──』

 

 電車が停滞したときも、ただのんびりと待とうと思った。

 

「停まっちゃったな」

「だね。理由聞こえた?」

「さぁ……? まぁ、そのうち動くだろ」

「そうだね」

 

 世の中の大抵のことは、時間が解決してくれる。

 だから何もしなくても問題というのはいずれ問題でなくなる。

 とはいえ、大事な幼馴染の状態には彼も焦りを禁じえなかったが、それでもやっぱり時間が解決した。

 

 ただそばにいることしかできなかった自分は、葵に何をしてやれただろう。

 何もしてやれなかったなぁ、と思う。

 

「そういえば」

「ん?」

「今思い出したんだけど、軽井沢とかに葵が俺のことコウくんって呼ぶみたいなことは言ったんだよな……」

「あ、そうなんだ」

「なんか解決しちゃったし……面倒なことになる前に訂正しとかないとな……」

「あはは。うん。私からもう大丈夫って連絡しとくね」

「よろしく」

「ていうか私が悪いんだけど、スマホ取り上げられたのはちょっと色々不便だったな……。もうずっと友達と連絡とってないや」

「ですよね」

「インターネットって便利だよね。レシピの検索とかが捗るんだよ」

「あー……うん? お弁当のときとかどうしてた?」

「ママにちょっと……全面的な支援を……」

「なるほど」

 

 二人は止まった電車の中で、寄り添って、笑みを浮かべていた。

 いずれ電車は動き出す。

 いずれ人の心は癒える。

 だが一度止まったものは、ひとりでに動き出すわけでは、決してない。

 

 

 

 

 

 

 目的地は、駅から十五分程度歩いた場所にある。

 少し汗ばんだ手を握り合いながら、彼らは歩いた。

 

 途中、電話で注文をかけていたお花屋さんから花を買って、また歩く。

 葵は手をつないだまま、空いていた手で花を抱えている。

 

 やがて、墓地についた。

 光輝がねむっている場所。

 葵は、気が動転していたからここに来るのははじめてだった。

 

 ──ちゃんとコウくんにお別れがしたいの。

 

 それが先日、葵が歩に言ったこと。

 別れとは、はじまりの前段階。

 きちんとお別れをすることで、ひとは新しくはじめることができる。

 

 お墓は綺麗なものだった。

 汚れたり雑草が多量に生えていることもない。

 掃除をして、水を張って、花を供えて……彼らは慣れない手つきで、けれど丁寧に供養をした。

 

「…………」

 

 葵が手を合わせて、お辞儀をする。

 彼は前に別れをすませたから、葵に先を譲ったのだった。

 

 葵は、何を考えているのだろう。

 お辞儀は長く、ゆっくりとしていた。

 

 その後姿を、彼はただ眺めていた。

 

「──またね、コウくん」

 

 そして微笑みながら葵は振り返り、「アユくん。ありがとう」と。

 

 位置を交代し、歩は、兄へと話しかけるように、お辞儀をする。

 

 ──葵は、もう大丈夫。

 

 まず言いたかったのは、それだった。

 きっと光輝は、葵のことを何より憂いていただろう。自分の死で、恋人がだめになってしまって、悲しまない男ではない。

 

 葵のことを皮切りに、色々なことが頭を巡った。

 

 家が静かだ、とか。母さんがときどき泣いてる、とか。晩御飯のおかずが大量に出てきて余る、とか。そういえば光輝はアイス好きだったな、とか。家でゲームする相手がいないな、とか。

 

 現状のこと、どうでもいいこと。

 半分以上、文句のようなことが頭の中にあった。

 

 ──光輝がいなくて、寂しい。

 

 文句の裏側にはその感情があって、あぁ、それは葬式のときにも以前の墓参りのときにも頭をよぎらなかったこと。

 それはきっと、ようやく思い出として昇華することができたから。

 

 葵のことがあって余裕がなかったというのもあるだろう。だけどそれ以上に、彼にとっても光輝は大事だった。遺伝子を同じくした双子の兄弟。生まれてからずっと一緒だった相手がいなくなって、空虚を感じないはずがない。

 

 だけど葵が笑っていたから。

 

 彼が安堵するには、それだけで十分だった。それがないと、彼は光輝を思い出にすることができなかった。

 

 だから葵は笑っている。

 こぼれそうな涙をおさえて、歩の背中を見つめていた。

 

 自分のせいだということは知っている。歩が停滞していることは、ちゃんと顔を見れば、すぐにわかった。

 決して何もできないけれど、迷惑をかけることしかできなかったけれど、でも私が笑うと彼が安堵するのもわかったから。笑うだけで彼が安心できるなら、私はずっと笑っていよう。そういう風に、これから生きていこうと。

 

「じゃあ、また来るよ」

 

 光できらめく透明を流しながら、歩は兄に別れを告げた。

 

 


 

 

 翌朝。

 夏の明るい光を浴びながら、二人は家を出ていく。

 

「──行ってきますっ!」

「行ってきます」

 

 満面の笑みの葵と、気だるそうな歩。

 もう恋人じゃない彼らの手は、つながれてはいない。

 

 偽りの関係は終わり、本来のあるべき姿に戻った。

 

 だからそう、これからの歩みは、誰にはばかる必要のない本当のもの。

 彼らが何を想って、どう在るかは、彼ら自身が決めること。

 

 やさしいひかりに包まれながら、葵と歩はゆっくりと前に進んでいく────。

 

 



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