満つる雲は明けたる空の夢を見るか (銀龍草)
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満つる雲は明けたる空の夢を見るか

 巳剣叢雲、それが私の名前だ。

 自分はこの名前があまり好きでは()()()()。だってそうだろう。字面だけ見たらほぼ全ての人間が男の名前だと勘違いするからだ。

 物心ついた時から浮いた名前だという自覚はあった。まわりの女の子はもっと可愛い名前をしていたからだ。

 母から彼の名前を聞いた時、私に負けず劣らずの変わった名前だと思った。えんまだなんて。私の脳裏に浮かんだのは地獄の閻魔大王様で、幼い私にとってそれはとても恐ろしい存在の代名詞だった。

 だから彼に初めて名前を教えるときはものすごく緊張した。それは変な名前だとからかわれたり、馬鹿にされるんじゃないかと思ったからだ。私のことを助けてくれたとは言え、相手はあの閻魔大王様だ。どんなことを言われるかわかったものじゃない。

 背伸びをしてインターホンを鳴らし、彼が出てきたとき私は胸をなでおろす気持ちだった。想像していた閻魔大王様のような怖い顔はしていない、普通の男の子だった。

 しかし安心するのはまだ早い。可愛くない自分の名前を伝えなければいけないからだ。

「み、巳剣叢雲っていいます……あの、えんまくん、ですよね。お礼が言いたくて……」

 そういうと彼は大きな目を一層大きく開き、私のことを頭のてっぺんから足のつま先までじーっと眺めてきた。

 緊張する。やっぱり変な名前だと思われたかな。

「……誰?」

 言われて気づく。当然だ。事故があってからお母さんと彼の親御さんにはお礼とお詫びをしにいったが、その時彼は病室で眠っていたから顔も見ていないしお話もしていない。

「あ、えっと私、車に轢かれそうになって、そのとき助けてもらって……」

 そういうと彼は何か思い出すように難しい顔をしてしばらくうーんと唸ってから

「ああ! あのときの!」

 と言った。

「それで、どうしたの?」

 事も無げに彼はそう言ってきた。

「えっと、私、助けてもらったから、その、お礼が言いたくて」

「あー、そっか、うん、ありがと。それより遊ぼうぜ」

 とても面食らってしまった。相手はあの閻魔大王様だ。なのに遊ぼうだなんて。

 私はびっくりして思わず「う、うん」と気の抜けた返事をしてしまっていた。

「じゃあ行こうぜ、叢雲」

 彼――明樽縁満は当たり前のように私の名前を呼んだ。

 これが、彼と私が知り合った初めての日。

 

 

 

 彼は変わった雰囲気を纏った人だった。人を大きくカテゴリとして二つに分けるとき陽キャ、陰キャなんて分けることがあるけど、彼はどちらにも当てはまらない、そんな気がした。

 中学生のころ、聞いてみたことがある。

「あのとき、どうして私を助けてくれたの?」

 そうすると彼は難しい顔をして唸った後

「うーん、理由なんてないだろ。危なかったから。人を助けるときって理由がいるのか? わからん。叢雲は賢いから何か色々考えてるのかもしれないけど」

「情けは人の為ならず、って言うじゃない。縁満にはそういうのないの?」

「あ、なんだっけそれ。聞いたことはある」

 付け加えるのを忘れていた。彼は阿呆だった。

「はあ……。人を助けたら巡り巡って最後には自分に返ってくるって意味。何かこう、見返りを狙って行動するとかってないの? あなた、運動部の助っ人に行ったりしてるじゃない。あれは後で何かお礼とかもらってるの?」

「いや、特に。たまにお菓子とかもらうけど」

「じゃあなんで助っ人なんて行ってるの?」

「え、だって困ってるから。それだけだけど」

「自分の時間が潰れるだけじゃない。もったいないとか思わない?」

「いや、別に?」

 彼はこういう人間だった。ただ目の前の人が苦しんでいるから、困っているから、大変だから。それだけで動ける人間だった。

 相手の思惑や考えていることが分かれば、自分は動きやすくなる。相手の心理状態を把握することは安全に人生を歩んでいくうえでとても大事なことだ。片親で困窮した暮らしをしていた私にとってそれは人生哲学といって差し支えのないものだった。ゆえに彼の言動に私は首を捻るばかりだった。

 そしてその時の私は、彼は何も考えていないからそんな行動が出来るのだと思った。世間一般でいうところの馬鹿だから、そんな埒外な行動が出来るのだ。

 実際彼は勉強の成績もあまりよろしくなかった(高校受験の時は本当に手を焼いたし、泣き言をいう彼を見たのもあれが初めてだったように思う)。だから私は彼を軽く見下していたところがあった。

 

 私は彼を見くびっていた。

 

 後に成長した私は気づいた。ああ! 自分の方が馬鹿だった! 彼は違う、違う、違う違う。彼はあまりにも明るく、あまりにも正直で、そしてあまりにも穢れていない。それだけだった。

 本当に、それだけだったのだ。

 人の善性の体現、そう表現するのが相応しいくらいに彼は底抜けに明るく、痛いほどまっすぐだった。

 そのことに気づいてからしばらくして、私は自分の中に特別な感情が芽生えていることを自覚した。それは口にしてしまえばとても陳腐なもので、彼がどんな人間なのか理解した今の私からすれば至極当然だろうという感情だった。

 しかし私はその言葉を口にすることは無かった。理由は単純で、ただただ――恥ずかしかったのだ。

 

 

 

 私は彼と逃げていた。どうやら見知らぬ相手は私のことを追ってきているらしい。私が追われる理由なんて思い当たる節は一つしかない。このペンダントのことだろう。

 暗い闇の中、大きな立体駐車場の中を逃げ回っていた時、私は不運にも散乱した瓦礫に躓いて転んでしまった。相手はもうそこまで迫っている。

「叢雲! 立てるか!」

 彼にしては珍しく緊迫した声で聞いてくる。

 私の脚は、もうボロボロだった。

「……私のことは置いていって。あいつらが狙ってるのは私よ。私が投降すればあいつらだって縁満のことは見逃してくれるはず――」

「馬鹿言うな! お前を置いてけるか!」

 そう言って彼は私の腕を引っ張り立ち上がらせた。

「……ごめん、そうよね。行きましょう」

 悲鳴を上げる脚を鞭打ち、必死に走った。しかし明らかに走る速度は落ちている。これでは追い付かれるのは火を見るよりも明らかだった。

 少しして、彼が不意に立ち止まり、何もない後ろを振り返り言った。

「叢雲、先行っててくれ」

「えっ、なん――」

「トイレ」

「はぁ!?」

「漏れそうなんだよ。あとで追いつくからさ、先に行っててくれ」

 彼が嘘をついているのはわかった。その声が今まで聞いたことのないくらい真剣で真面目な声だったからだ。

 そして、何をしようとしているのかもなんとなく想像がついた。もう少しで追い付かれるのだ。その相手を足止めしようとしているのだと。

 そんなこと、させるわけにはいかない。相手は人知を超えた力を使ってくるのだ。そんなことをしたら――。

「行ってくれ。早く」

 有無を言わせない声だった。彼を怖いと思ったのはこれが最初で最後だろう。

「……絶対、追いつきなさいよ。絶対よ。待ってるから」

「当たり前だ。さっさと済ませて行くから」

 さっきと打って変わって彼はにこっと歯を見せて笑った。

 そんな顔を見ると何も言えなくなってしまった。

 私は彼に背を向け走り出した。ズキズキと痛む脚を叱咤し、瓦礫の中を走り抜ける。もう動きたくないと脚は叫んでいる。でも立ち止まるなんて、あの顔を見たら出来るわけなかった。

 彼から遠くなればなるほど、もう会えないんじゃないか思う。彼がどこかここじゃない別の、もっと遠くへ行ってしまう気がする。

「……っ」

 私は彼に守ってもらってばかりだ。無力な自分に腹が立つ。

「縁満……! 縁満……!」

 名前を呼ぶと、勝手に涙がこぼれた。

 そして気付く。

 そうだ、私はまだ。

 

 私はまだ彼にこの気持ちを伝えていないのだ。

 

 背後から稲妻が落ちるような轟音があたり一面に響き渡った。

 私は闇の中を走り続ける。

 振り向かず、遠く、遠くへ。

 私は信じている。

 必ずまた会えるのだと。

 そして次に会ったとき、あの馬鹿に言ってやるのだ。

 

 縁満、私はあなたを――

 



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