中野五月と俺の大学生活(完結済み) (よきき)
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たわむれ

 大学の授業が終わり、昼休みで賑わいを見せるキャンパス内。

 食堂で学食を食べている者、コンビニで友達の課題をコピーしている者、バンドサークルの路上ライブを聞き入っている者。みんなそれぞれ自分のやりたいこと、やらなければいけない事をたった50分の間で行っている。

 そんな中、俺はと言うと、一人誰も座っていないベンチに座りながらタバコをふかしていた。

 もう何も入っていないウィンストンの箱を片手で握り潰す。すると紙特有のクシャクシャと言う音が聞こえた。

 ______ああ、だるいな。

 俺はそんな風な事を考える。

 もう自分がこの大学に入った本当の意味さえ思い出せない。

 なんでこんなつまらない日常を送っているのだろう。別に望んでいたわけでもないのに。誰のせいとも言う気はないが、どうしようもない日常をただ無駄に消費している自分が腹立たしい。

 今は次の授業にいくためにわざわざ大学内に残ってはいるが、頭の中では帰ってしまおうかなと考えている自分がいた。

 そんな事をすれば後半出席日数が足りなくなって面倒なことになるのが目に見えているのに、それでもその甘い誘惑に勝てそうにない。

 焼き切れた灰を落とすため、咥えていたタバコを一旦外しトントンとリズミカルにベンチに当てる。

 バイトは今日無いし、このまま帰って寝れたらどれだけ幸せだろうか。微睡の中布団に籠る自分を想像し、幸福感に満たされる。

 ああ、母親の胎内ってあんな感じだったんだろうな。

 

「またタバコを吸ってるの、体に悪いよ?」

 

 そんな時、横から俺の幸福感を害す言葉が聞こえた。

 誰だよこんなところにまで来て人の嗜みを否定する奴は。きっとろくでもない奴に決まっている。

 俺はそう思って、目の前に佇む女「中野五月」を軽く睨み付ける。

 

「何?文句あんの?」

「文句ではなく忠告。それにあなたまだ二十歳の誕生日来て無いでしょ」

 

 そんな事を言われるが知った事では無い。大学生みんな未成年飲酒や喫煙は平常運転でやっている。

 そんな事を律儀に守っているやつなんて、目の前の中野五月みたいなお嬢様で、真面目で、世間知らずの女くらいだ。

 現に俺がタバコを吸っていようと、大学の教授は「君タバコ吸うんだね」としか言ってこない。つまり、大学や人間社会には暗黙のルールと言うものがあるわけだ。

 

「こら、無視しないの」

 

 内心で持論を述べていたら、中野五月は痺れを切らしたのか俺の咥えていたタバコをスッと奪い去る。

 こいつ殴ってやろうか。人が楽しんでいるものを勝手にとっちゃいけませんって母親に教わらなかったのかよ。

 

「返せよ。いい加減嫌われてることに気づけ」

 

 俺は敵対心を剥き出しにしながら、中野五月にハンドサインでタバコを返すよう催促する。

 しかし、彼女はそんな事を知らないと言わんばかりに、そのタバコを公共の灰皿へ容赦無く入れてしまった。

 

「なっ!?お前!!」

 

 灰皿の中から気持ちの良い火が消える音がする。こうなっては完全にもうだめだ。改めて吸うことなど叶わない。

 

「お前これ最後の一本だったの知ってんのか!?」

「無視をするあなたがいけないの。それに未成年喫煙は見過ごせないから」

「ふざけんな、弁償しろ」

 

 喫煙者からしたらこれは笑えない冗談だ。俺がリッチ大学生ならいざ知らず、それが貧乏学生ともなれば尚のことである。

 

「知らない。これもあなたのためよ」

「俺のためなら放っておいてくれよ、そう言うのが鬱陶しんだよ」

 

 中野五月と言う女はとにかく鬱陶しい。

 授業で課題を出された日には毎晩の如く課題をやっているのかのラインを送ってきたし(後にブロ削した)、一限目の授業の開始3分前に教室にいないと熱烈な電話コールが鳴り響く。

 お前は俺の母親かとすごく言ってやりたいのだが、中野五月はそれがさも当然のようにお節介を焼いてくる。

 もうこんな落ちぶれた俺なんてさっさと見放して仕舞えば良いのに、それでも彼女は俺に話しかけてくるのだ。

 

「あなたは”教師”になるのでしょう。こんなことしていたらなれませんよ」

 

 彼女が敬語になる時はいつだって彼女の心からの言葉だった。

 教師になる。

 そんなこと知らない。俺はもうとっくにその目標を失っていた。今更そんなものを目指そうなどとは思ってもいない。

 

「ほっとけ」

 

 そんな負け犬のような言葉しか出せなかった。反論の余地がないわけじゃない。彼女に浴びせたい罵声がなくなったわけでもない。

 ただただ白けてしまった。彼女とのやり取りはなんの生産性もないことを再認識してしまった。

 いつも、こんなことの繰り返し。

 俺を見つけては口うるさく注視してきて、俺がそれを突き返す。一種のルーティンとなった日常。

 

「どこにいくの?」

「タバコ買いに行くんだよ」

 

 俺はそれだけ言って、家の近くにある煙草屋へと足を運ばせる



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あこがれ

 本日レポートが出された。お題はどんな教師になりたいのかと言うもの。

 俺は頭の中で適当に考えて、ありふれた、どこにでもありそうな言葉を書き連ねた。

 一体こんな課題になんの価値があるのだと言うのだろうか。これを書いたところでその通りの教師になったものはいるのだろうか。いるのであれば、是非とも今度の講演に連れてきていただきたい。ものの数分で眠る自信が俺にはある。

 

「課題をしてるんだ」

 

 目の前に座る中野五月がそんな事を言う。

 なんでこんなところにいるんだよ、と言いたいがここは大学内にあるカフェテラス。俺を見つけた中野五月は早々に友達と別れ、俺の目の前に座ったというわけだ。

 彼女はトートバックからメガネを取り出すと、俺が取り掛かっている課題を真正面から覗き込んでくる。

 

「ねえ、あなたはどんな教師になりたいの?」

「知るか、別になりたくない」

「私はみんなに頼られる教師になりたいな」

「……話ふっておいて人の話聞いてねーし」

 

 ため息をつきながら、こいつには何を言っても無駄だと悟りレポートに意識を向ける。

 

「教師になったら、勉強以外のことも教えてあげたいだよね」

 

 俺が聞いてると思っているのか、はたまた聞いていないと分かった上で話しているのか彼女は一人でに喋り続けた。

 

「教師の仕事って勉強を教えるだけじゃないと思う。生き方だったり、人との接し方だったり、時には悩み相談なんかも聞いてあげたり。それが本当の意味の教師だと思うの」

 

 妙に俺を刺激する単語ばかり並べる彼女に俺は内心うんざりした。

 彼女の言っていることは全て理想論にすぎない。

 生き方など教えてあげられないし、人との接し方なんて多種多様とある。悩み相談なんて聞くだけ無駄でしかない。生徒一人一人にそんな事をしている教師なんていつか破滅するに決まっている。

 教師とは先駆者だ。

 絶対的に間違えてはいけない。間違えてしまったらそこで生徒の人生は暗い影を落としてしまう。

 そんな重大な責任を一人が背負えるわけがない。

 だから、生徒とは適切な距離を保たなくてはいけないのだ。相手に理想を抱かせず、過度な干渉を図らない。これが一番であり、最適な接し方だと言える。

 理想論はどこまで言っても理想論。理想だから理想と言われるのだ。現実になってしまったらそれは理想でもなんでもない。

 夢とおんなじ原理である。叶わないからこそ夢なのだ。叶ってしまったらそれは夢でもなんでもない、ただの目標である。

 

「ねえ、あなたはどんな教師になりたい?」

 

 そう問うてきた彼女に向かって俺は顔をあげる。

 

「そうだな、強いて言うなら。導かない先生になりたい」

 

 俺は彼女の問いに静かにそう答えた。



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過去①

三話

 

 中野五月と俺は特段仲が良いと言うわけではない。正確に言うと彼女は俺のことどう思っているか知らないが、俺は彼女のことを一方的に嫌悪している。

 お節介焼きと言うのはいつの時代も疎まれるものだ。思春期の母を持つ男子学生のような気分に苛まれてしまうからな。

 彼女はそんな俺の感情を知っているのか、知らないのか分からないが毎日のように話しかけてくる。俺が「もう話しかけんな」と言った回数はきっと両手両足の指では足らない数になっているだろう。

 

 

 

 そんな俺と彼女の付き合いが始まったのは大学一年生の頃だった。

 学部も同じと言うこともあり、最初のアイスブレイクの時間、一緒にグループワークをしたのがきっかけだった。

 初めはどうでも良い内容だったと思う。司会進行役に従いグループワークに則った話をただただ機械的に話していた。まだ彼女は敬語を外すのに慣れていないのか、ぶっきらぼうな口調だったのをいまだに覚えている。そんな姿を見て、最初は真面目な子なのだろうなと思っていた。

 次第に彼女の好きなものや俺の好きなものの話などをするようになった。彼女は料理が好きだと言う。作る方ではなく食べる方で。

 対して俺はスポーツが好きだと言った。もちろん見る方ではなく、やる方だ。

 そろそろアイスブレイクの時間が終わりそうになった頃、彼女は俺を見つめながら徐に質問してきた。

 

 ______あなたはどんな教師になりたいのですか?

 

 俺はその質問の内容を吟味して答えた。

 

 ______困った生徒を導けるような、そんな優しい教師になりたい。

 

 彼女はそれを聞けて満足したのか、はたまた何かしら違うものを感じ取ったのか、静かにうなずいた。

 そんなことをファーストコンタクトの時に話していたせいか、それ以降彼女とは顔を合わせるたびに軽い会釈などをする仲になった。

 

 彼女は客観的に見ても美人だった。スタイルもよくて、数日経てばすぐ同じ学部の男子から言い寄られていた。いや、他学部や先輩からも言い寄られているのを何度か目撃した覚えがある。

 俺はそんな光景を見て、これが大学生かとうんざりしていた。

 別に女を口説くなと言うわけではない。俺だって女の子は好きだし、彼女だって中学・高校と合わせて三人はいたため、恋愛で積極的に行くことがいかに大事かは知っているつもりだ。

 それでも何処か釈然とはしなかった。彼女に言いよる男たちに嫉妬をしていたわけじゃない。

 ただ単純に、中野五月を攻めているその男たちが哀れに見えていたのだ。

 

 ある日、そんな彼女からラインがきた。内容は簡単で課題についての質問だった。

 俺は自分でわかる範囲で丁寧に教えてあげた。どうやら彼女はあまり勉強が得意というわけではないらしい。不器用なのが相まって人一倍努力をしなくてはいけないというのだ。それは単に要領がクソ悪いだけなのではないかと内心思った。

 きっと彼女にそのことを言ったらこっぴどく怒るだろう。

 

 大学に入って一ヶ月経つと、学部の先輩抜きのコンパを開きたいと友達が言ってきた。俺は幹事などは面倒なのでその友達が大体やってくれるなら、補助くらいはしてやっても良いと言った。

 友達はそれが嬉しかったのか、早速他の友達にも声をかけてコンパを開いてしまった。

 人を集めるのには本当に苦労した。なんせ、同じ男子グループの連中だけでやるのは意味がないので、普段話たことのない男子グループをはじめ、女子のグループにも声を掛けたからだ。

 だが一番苦労したのは中野五月を呼ぶことだった。友達間ではもう学部のマドンナと化している中野五月を絶対に連れてくるという共通の目標があった。あの生真面目な中野五月をコンパに呼ぶのは無理ゲーだと俺は思っていたが、どうやら女友達が無理やり引っ張ってきたらしい。男は狂喜乱舞、彼女は意気消沈していた。

 結果、コンパには学部の九割の人が参加してくれた。みんな先輩抜きでどんちゃん騒ぎをしてみたかったらしい。

 お酒は無しという方向になった。当たり前だ、誰も成人していないのだから、お酒が飲めるわけがない。これでも全員教師を目指す端くれだ。そんな馬鹿げたことをやる奴は一人もいなかった。

 コンパは楽しく終わった。俺も話たことのない女子や男子とばかり話していて、新しい交友関係ができた。コンパを開きたいと言った友達には何気に感謝しなくてはいけない。

 コンパがお開きになった時、何人かの男子が中野五月を二次会に誘っていた。女子友達も中野五月にあやかって男子にお呼ばれしよう画策しているのか、あまり乗り気ではない彼女を必死に説得していた。

 俺もまだはしゃぎ足りないから二次会には行きたかったが、生憎次の日には予定があるためそんな連中に別れを告げて帰ろうとした。その時だった。彼女は俺と一緒に帰る必要があるからと言って二次会を断った。友達はそれを見て、仕方ないと呟くと彼女の女友達を連れてカラオケに行ってしまった。

 ______良かったのか、お前なら代金も何も払わずに遊べただろ。

 ______仕方ありません、ああいうのはあまり慣れていないので。

 そんな言葉を交わすと俺たちは帰路につくために歩きはじめた。



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らーめん

四話

 

 アルバイトの帰り道、嫌な女に遭遇してしまった。

 中野五月は趣味である飲食店巡りを行っている途中だったのか、俺を見つけるなりラーメン屋へと引きずり込んだ。

 見たところ内装はお世辞にもあまり綺麗と言える場所ではなく、個人経営なのか一人の中年のおじさんがカウンターで座っていた。

 

「あ、いらっしゃい」

 

 俺たちの来店に気づいたおじさんは、カウンターから立ち上がると水を入れテーブル席へと置く。彼女はそれを見て、感謝の言葉を述べるとその席に座った。

 

「何にしますか?」

 

 何にするかとかふざけているのか。確かに今は晩ご飯にはちょうど良い時間帯ではあるが、問答無用でこんな店に入れられて俺はまだイライラしているのだ。

 しかも、目の前にいるのが嫌いな女なのが、その不機嫌さに拍車をかける。

 俺が女子に手を出さない紳士じゃなかったら、今頃この女は無料整形されている頃だろう。

 

「お前良いかげんに俺にかまうのやめろよ」

「それは無理かな」

 

 俺の言葉にメニュー表をまじまじと見つめながら彼女は言う。

 

「なんでそんなに俺にかまうわけ」

「あなたが自分と向き合えば私も文句はないんだよ」

 

 意味が分からない。

 彼女の自分と向き合えと言う言葉は俺にとって謎でしかなかった。

 俺は自分で言うのもなんだが、己と向き合っている自身がある。ストレスなんて滅多なことでは感じないし、感じたとしても俺はそのストレスとの折り合いをつけるのが楽だ。

 彼女の言うことは何一つとして的をえない、占い師のようなものと感じた。

 

「分からないなら分からないで良いと思うけど、私はあなたのことを放っておけない。そのことを忘れないで」

 

 こんなことを言われた誰だって黙ってしまう。言っていて恥ずかしくないのか、彼女を見つめてみるが表情はピクリとも動いていなかった。

 一年生の頃は表情がコロコロ変わってまだ可愛げがあったはずなのに、今ではすっかり落ち着いた大学生だ。可愛げも何もない。

 俺は諦めたように、彼女の持つメニュー表を眺めた。彼女は俺が見辛いと判断してくれたのか、メニュー表を横向きにおき、どちらからも見やすいよう配慮してくれる。

 

「どれを食べようかな」

 

 そう唸る彼女の呟きを聴きながら、俺もどれにしようかメニュー表を見つめる。

 無難にこの「自慢の塩ラーメン」にでもしようかと思ったが、別にラーメンは嫌いじゃないしどれでも良いやと言う結論にいたり、目の前の彼女に任せることにした。

 

「知らん。俺はこの店初めてだからお前に任せるわ」

「じゃあ、種類別にしても良い?」

「お好きにどうぞ」

 

 彼女はそう言うと、自分の食べたかったのだろう二種類の味のラーメンを注文した。

 俺はそんな風景を眺めながら、不意に灰皿があることに気付きそれを手に取ろうとする。

 しかし、この間彼女にタバコを消されたことを思い出し、その行動をギリギリのところで思いとどめた。えらい、学習してる俺えらい。

 

「……ちなみに聞くけど、お前この店何軒目?」

 

 俺は手持ち無沙汰になってしまったため、ラーメンが届くまでの時間潰しにと彼女に質問する。

 

「えーと、4かな」

 

 脅威である。

 一体それだけのものを食べて栄養はどこに蓄えられているのだろうか。その胸か。食べれば食べるほど胸にいくとかどんな漫画の設定だよ。ありきたりの巨乳設定は冷めるだけだぞ。

 

「あなたとこうしてご飯を食べるのも久しぶりだね」

 

 こいつすごいさらっと嘘つくじゃん。呼吸をするかのように嘘を吐いた人間を見たのは久しぶりだわ。

 

「言うて、一昨日無理やり隣に座ってきたけどな」

「そうだったっけ?忘れちゃったよ」

 

 そんな言葉を漏らしながらキョトンと首を傾げる中野五月。お前は鶏か何かかよ、その記憶力はギネスに入れるんじゃないだろうか。

 

「そういえば、いつも晩ご飯とかどうしてるの?」

「俺?俺は基本的に自炊。面倒な時は抜くことが多いな、時たまコンビニ……」

 

 そんな感じで、彼女との久しぶりの喧嘩のない会話がラーメンを食べ終わるまで続いた。

 

 



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ぱそこん

五話

 

 授業中、ちょろそうと言う理由だけでとった情報処理の時間に俺は頭を抱えていた。

 隣にはたまたま同じ授業をとっている中野五月。学部内では俺とコイツしかこの授業をとっていないので、必然的に席は隣同士だった。

 さて、俺がなぜ頭を抱えているのかと言うと、原因はさっきから話題に上げている彼女が原因だ。

 なんでもパソコンはあまり使ったことがないらしく、タイピングがなめくじの歩行スピードか何かと見間違うレベルである。それだけなら良いのだが、彼女はパワーポイントの使い方がまるでからっきしだったため、スライドを一枚作るのにすごい時間を用していた。

 最初の方は教授が頑張ってアドバイスなどをしていたのだが、途中から面倒を見切れなくなったのか、比較的パソコン(と言うよりオフィス系統)の扱いに慣れている俺が、彼女を教える任に就かされた。

 最後の授業アンケートの時にやつの悪事を書き連ねてやろうと俺は心の中で決める。

 

「だから、そこはBを押して太字にするの。ショートカットキーとかお前が使えるわけねーから、やめろ」

 

 変にキーボードを同時押しする彼女を止めながら、俺は太字にするところを指差してやる。

 一応、本日の課題としては多種多様のショートカットキーを学んでみようとか言う物凄い初歩的なことなのだが、彼女はタイピングが遅いせいでまずそこまでいけていない。

 

「納得いきません!なぜショートカットキーを教えてくれないのですか!」

 

 一年生の時の口調に戻った中野五月が、頬を膨らましながら俺に抗議する。

 

「お前がショートカットキーなんて覚えても使いこなせないからだ」

「なんですか、その理由は!?私もあなたみたいにマウスを使わないで色々と操作してみたいです」

 

 やめておけ、そんなのマウス操作に慣れている人間にとってはものすごく無駄なことでしかない。

 俺はマウスなしの方が慣れている部分もあるから、比較的マウスやトラックパッドは使ったりしないが、それでもマウス操作が便利な時は使っている。

 それに、彼女が俺の領域にくるにはこの授業時間だけでは決して足りないのだ。それなら無駄なことを覚えるより、マウス操作を覚えた方が将来的に彼女の役に立つと思って、俺はショートカットキーを教えていない。

 

「お前が覚えて良いショートカットキーは五つ。”control"+"z"、”control"+"y"、”control"+"c"、”control"+"x"、”control"+"v"。以上だ」

 

 俺が一本一本指を立てながら説明していると、その言葉が気に入らなかったのか彼女は顔を真っ赤にさせる。

 

「断固拒否します!このけち!あなたなんてもう知りません!」

「そうかい、そうかい、それはよかった。俺もお前のなめくじタイピングをみなくて清清する」

「君たち授業はもうちょっと静かに……」

「ええ、そうですか!私のはどうせみててあくびが出るような速度ですよ!悪かったですね」

「自覚してるなら少しは速度を上げろ、ノロマ。LINE友達いないから指が退化してるんじゃねーのか」

 

 俺のその言葉が止めになったのか彼女はそれ以上何も言わずにパソコンに向き合った。

 馬鹿め、なんのヒントもなしにショートカットキーがど素人にわかるものか、やれるものならやってみろ。俺はそう思い本日分の課題を提出してさっさと退席することにしたのだった。

 



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過去②

六話

 

 大学に入学してから一ヶ月が経った。あのコンパ以来中野五月が俺に話しかけてくることが多くなった。理由としては簡単で、どうやら俺は彼女に言い寄らないかららしい。

 彼女のことを魅力的に思わないのかと言われたら、それはもちろん思うと答える。だが、好きになることはなかった。なんとなくだが、彼女に恋をしたところで無理な気がするからだ。

 俺は特段人の感情に機敏と言うわけではない。だからと言って鈍いか聞かれれば、それもまたないと思う。それでも何故だか彼女に対してそう感じてしまう。理由は俺にもわからなかった。

 そんな時、彼女からある話を持ち込まれた。バイトである。どうも知り合いの紹介で塾バイトを募集しているらしく、それを一緒にやらないかと言うことだった。女友達にも声を掛けてみたが、既にその子は違うところでバイトをしているらしく断られたそうだ。そこで、前々からもう一つ俺もバイトを増やしたいとぼやいていたのを思い出して誘ってくれたらしい。

 俺は二つ返事でそれに頷いた。

 これでも教師になりたいと思っている。塾バイトは高校生時代から興味はあったしやってみるのも悪くないと思えた。

 俺と彼女は早速次の日にバイトの面接とテストを受けに行った。

 問題は常識問題と思えるような数英の問題。面接に関してはどの日なら入れるかや、どの教科、年代を教えたいかなどを聞かれた。

 帰り道、マックで晩ご飯を食べて一緒に帰ろうと言われたのでマックに寄った。彼女は試験が終わってからずっと不安そうな顔をしていた。

 俺はそんなにヤバかったのかと思い、なんとなしに尋ねた。

 ______そんなに難しい問題なんてなかったろ?

 彼女はその言葉に力なく笑うと、こう答えた。

 ______私ずっと勉強ができなくて、こう言うの結果出るまで落ち着かないんです

 俺はなるほど、思いながら適当に相槌をうった。

 勉強が得意か不得意かと言われれば俺は教科にもよるが得意な方である。中学の勉強は非効率でも数をよく解けばある程度の学力は示れたし、高校では自分なりの勉強法を確立できたおかげでそこそこの成績だった。

 ただ、物理だけはどうしても理解できない。塾でもそれだけは教えれませんとはっきり答えるほどに嫌いだった。

 ______どうしてそんな余裕そうにしていられるんですか?

 ______まあ、塾バイトは面接が大事だって聞くし、あまり学力では心配していないからかな

 俺がそんな風に答えると、彼女も少しは気が晴れたのか、はたまた注文していたバーガーが届いたからなのか、陰鬱とした空気が少しだけ軽減された。

 俺もそれをみて、自身の注文したバーガーにかぶりついた。

 

 

 

 塾バイトの合否が連絡された。結果としてはどちらも採用。次の週から勤務が開始されるらしい。

 俺は彼女によかったなとお祝いの言葉を述べるために近付いた。彼女も俺がなんのために近付いてきたのか分かったのか、笑顔で俺に答える。彼女は報告したい相手がいるらしく、俺のお祝いの言葉を受け取ると、そのままどこかへと消えていってしまった。

 あの喜びようは今でも忘れられそうにない。

 たかだか塾バイトに受かるくらいではしゃぎすぎだ。



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しまいと

七話

 

 今日の授業は全て終わり、適当に課題をするためカフェでも入ろうかなと思っていたら聞き覚えのある声に呼び止められる。俺は嫌な予感がしながらも、そちらに振り向いてみると、そこには中野五月が三人いた。

 嘘ではない。比喩表現でもなければ、妄言でもない。確かに中野五月が三人いる。

 俺は目を擦ってみるが、それでも現状は変わらない。

 俺は今夢を見ているのだろうか。

 そう思って頬をつねってみるが、痛い。どうやら夢を見ているわけでもないらしい。

 

「あんた誰?」

「五月の知り合い?」

「うん。同じ大学の学友だよ」

 

 三者三様の言葉を上げているが、全員顔は中野五月である。彼女の生写しがそこにいた。

 

「お前とうとう人間やめたのか」

 

 脂肪を無に返すだけならまだしも、これは科学の力ではどうやっても説明できない。ナルトもびっくりの影分身の術である。経験値効率が非常に高まりそうで羨ましい。

 

「なんでそうなるのよ。紹介するね、こっちが私の姉達の二乃と三玖」

「どうもー」

「五月がいつもお世話になってます」

 

 俺は目眩で倒れそうなのをグッと堪えて、その場に佇む。

 なるほど姉妹ときたか。それなら仕方ない、双子ならぬ三つ子と言うやつだな。

 

「それにしても五月好み変わった?あんたもてっきりフー君のこと好きなんだと思ってた」

 

 一体なんの話をしているのかわからないが、フー君とやらは元彼だったりするのだろうか。この情報を聞けば俺の学部の男どもは血涙を流すことだろう。何年かけても突破できていない不落の城を、そのフー君とやらは落としてしまったのだから。

 

「違います!なんでそうなるんですか!?」

 

 彼女はそう言って茹で蛸のように顔を真っ赤に染め上げる。

 この姿を写真にとってあいつらに送りつけたら、言い値で買ってくれたりするのかな。

 

「用がないなら、良いか?俺課題したいから」

 

 俺はそう言って、三つ子から離れるように席を座ろうとしたが、さっきまで彼女をからかっていた二乃が俺の裾を掴む。

 

「どうせだし、君さ一緒にお茶しない?」

 

 そう言う彼女の目は一切笑っていない。怖すぎだろ、人一人は確実に殺している奴の目だ。

 俺は真正面からそんなことを言うわけにもいかないため、適当な理由をでっち上げて断ることにした。

 

「すまんが、遠慮させてくれ。課題は一人で集中してやりたい」

 

 本音は課題なんて適当にやるから、どうでも良い。単位取るために適当にやっているだけなのである程度のレベルで提出できれば良いから、邪魔が入ろうと関係なかったりする。

 

「じゃあ、少しだけで良いからさ。いじらせて」

 

 俺はその言葉に心底迷惑そうな顔をする。

 この二乃とか言う奴何が狙いなんだろうか。わざわざ知り合って初日のやつをふつう、自分たちのいるテーブル席に誘ったりするか?

 もうめんどくさくなった為、女なら誰しもが嫌がることを口にすることにした。

 

「俺、タバコ吸うぞ。それでも良いなら」

「あなた、またタバコを吸って!」

「良いわよ。じゃあ、座って座って」

 

 だが、その言い分に嫌悪を示したのはどうやら中野五月だけだったらしい。俺は諦めたように、二乃が提示する席に座る。ちょうど、中野五月と向かい合わせで、二乃が隣にくる位置だ。

 

「二乃、流石にむり言い過ぎ」

「良いじゃない。三玖だって五月の大学生活少し興味あるでしょ」

 

 先ほどまでずっと黙っていた三玖が徐に口を開けるが、それすらも黙らせてしまう二乃。間違いない、こいつが長女である。パワーバランスが完璧にこの長女に偏ってしまっている。

 なんとかしろよ中野五月、と思い目線で抗議するが、彼女は首を横に振って、どうしようもないとジェスチャーで伝えてくる。

 

「チッ、まじでタバコ吸うからな……」

 

 俺は苛立たしげに愛してやまないウィンストンを取り出し、タバコに火を付ける。

 すると、タバコの先から煙が出てきてあたりに霧散した。

 

「あれ、思ったより良い匂いね。ほんのり甘いわ」

「うん。タバコってこんな匂いなんだ」

 

 俺の吸っているタバコの煙が思っていたのと違ったのか、二乃と三玖は意外そうな顔をする。

 ただ嗅ぎ慣れている中野五月だけは心底迷惑そうな顔をしていた。

 

「あなたって人は……」

「文句あるならお前の姉ちゃんに言いな」

 

 俺はそう挑発するようにタバコをひとすいした後、見せ付けるように天井に向かって大きく輪っかを作りながら煙を吐いた。

 

「「おおーーー」」

「おおーじゃない!これは禁止!禁煙!禁煙草!」

 

 彼女は我慢の限界がきたのか、俺のタバコをこの間のように奪い取ると、それをテーブルに置いてあった灰皿に擦り付けて消す。タバコを消すのだけは上手くなっているこの女に俺は軽く舌打ちをしながら、2本目を取り出そうとした。

 

「あなたって人は……!!」

 

 プルプル震えている彼女に向かって俺はニヤリとほくそ笑む。嫌いな女がこうも慌てふためいているのは見ていて機嫌が良かった。今なら素直に隣の二乃に感謝の言葉をのべたい。

 

「君って五月と仲良いのね」

 

 俺と彼女はその言葉で凍りつく。

 仲がいい?誰と誰が?どのあたりが?どう見たらそうなる?

 いくつもの疑問が出てきては消えてを繰り返す。

 

「何固まってるのよ、もしかして本当は付き合って……」

 

 そこまで言おうとした瞬間、大きな着信音が鳴り響く。それは二乃の携帯からだったらしく、二乃は慌てて電話をとると何事かを話し始めた。

 

「ごめん!私今日バイトのヘルプ入ることになっちゃっった!また、ゆっくり話しましょ」

 

 そう言って、二乃はお金をいくらか置いてそのまま駆け足で出て行ってしまった。

 取り残された俺たちはそのまま静かに解散することにした。

 

 

 



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むりやり

八話

 

 今日はどうやら講義が休講になっていたらしい。昨日の20時にメールが来ていたせいで、俺はそのことに関して全く知らなかった。

 どうやら、俺と同種のバカはいないらしく、誰もいない教室を暇そぅに眺めてみる。

 こんなことなら、追加で1時間は寝られたのに、一体俺は何をやっているのだろう。すごく損した気分だ。

 だが、大学まで来て帰ろうとは全く思わない。家がそこまで近くないのもあるが、学校から帰って、また登校するという愚行をしたくないのだ。

 決して俺が面倒くさがりというわけじゃないと思う。この世の大学生全員が、俺と同じ状況になったらそうすると断言できる。

 

「はあ、何一人で考えてるんだろう俺」

 

 特にすることも、調べたいこともないためスマホを触るのは無し。

 タバコもさっき吸ってきたから、もう一度吸おうとは思わない。

 コンビニにいって何か買ってくるのも怠いので却下。

 結果、俺のすることは何もなく、教室でボーとするだけの時間をただ浪費する。

 

「あれ、こんなところで何してるの?」

 

 俺が口を開けて、天井を眺めていると教室の奥の方から声が聞こえた。

 俺は目線を下げて、その声の主人に笑いかける。

 

「はっ、ここにも馬鹿が一人……」

「いえ、あなたと違って私は授業が休講なの知ってたから。一緒にしないで」

 

 中野五月がそう心底嫌そうな顔をしながら否定するのを見て、本当に休講について知っていただろうことが窺えた。なら、何故一限目が始まるくらいの時間に大学に来ているのか、と不思議がっていると、彼女は何食わぬ顔で説明してくれる。

 

「少し教授に用事があって早めにきただけよ。それ以上でもそれ以下でもないからね」

 

 それをきいて、俺は少し癇に障る言い方をする彼女に向かい、聞こえるよう舌打ちする。

 

「チッ、なんか腹たつなその言い方」

「腹立たせるために行ったしね、当然じゃない?」

「どんだけ情報の時間のこと根に持ってんだよ。メンヘラかお前」

 

 俺の舌打ちに、あっかんべーをしながら皮肉をいう彼女。

 彼女がこれだけ反抗的なのには理由がきちんとあった。それは情報の時間。俺が彼女を見捨てた時のことである。

 あのあと彼女は、自分なりに頑張ってみたのだが、結局講義時間内に終わることができずに、その後の昼休みを丸々返上して課題に取り組んだそうだ。

 それのせいで、彼女にとっての至福のひと時であるランチタイムは終了。お腹を空かせたまま、次の講義を受けたらしい。

 食べ物の恨みは怖いと言うが、今回は違った意味での食べ物の恨みである。

 

「それより暇ならさ、少し付き合ってくれない?」

 

 そう言って、素直に付き合うやつはこの世にいない。

 

「無理」

 

 俺は中野五月の顔を見ることもなく、即座に否定の声を出す。

 

「即答って……。いいじゃない、少しだけ本当に少しだけだからさ」

 

 そう言って彼女は無理やり俺を図書館へと連れ出した。

 俺を連れ出した方法は簡単で、俺が机の上においていたタバコを人質に取りやがったのだ。やはりこいつはいつか殴らなければいけないかもしれない。聞き分けのない動物には暴力によってしつけると言うが、人間にもこれは適用するのだろうか。適用すればいいな、中の五月にだけ。

 そんなことを考えながら俺は図書館の扉を潜る。

 その後、彼女が二日前から探している本を、一緒に探させられる羽目になったのだった。



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過去③

九話

 

 塾のバイトを始めてかなりの時期が過ぎていった。最初は不慣れな教えると言う行為も、何度も繰り返せばそれなりに板につく。今では担当する子もそれなりに増えてきて、教師を目指す俺にとっては充実した毎日を過ごしていた。

 対して、中野五月はと言うと。彼女も彼女なりに頑張っているらしい。元々、勉強はあまり得意ではなかったらしい彼女だが、それゆえ自分と同じタイプの人間を教えるのには秀でていた。それに加え、面倒見の良さと美人さがプラスされる。今では塾の中で1、2を争うほどの人気を--男子中学生や男子高校生からーー博しているらしい。

 俺はそんな彼女を見て、自分も負けていられないなと感じていた。

 

 そんな塾バイトに明け暮れていた日のことである。

 自分が担当している子がやけに暗い顔をしていた。いつもは真面目に笑顔を振りまきながら、俺の解説をきいてくれるいい生徒なのだが、この日は妙に物静かで、心ここにあらずいった様子だった。

 別に、放心気味なことを別に悪く言う気はない。人間いつも平常運転でいなさいとか、いついかなる時も集中を切らさずにいなさいとは言えないからだ。

 それでも、ここまでガラッと雰囲気を変えられると流石にこちらも心配になる。担当している子ということもあって、それなりの親密度が気づけている子だ。俺にできることがあるのならば、力になってやりたいとそう感じた。

 

______何かあったのか?

 

 生徒は俺のその問いに、ハッとしたような顔をすると何でもないと言った表情で首を横にふる。

 いやいや、そんな対応されたらますます心配しちゃうじゃん。絶対何かあるんだろうなっていうことがバレバレで、逆にこっちがどういう返しをしたらいいのか困ってしまう。

 俺は、一応見て見ぬ振りをするべきなのか迷った末、とりあえず今はこちらからは何も言わないでおくことにした。

 

 そんなことがあって、また一週間の月日が経った。

 あの生徒との授業は毎週同じ曜日、同じ時間にある。そのため、一週間が経ったその日も、その生徒との授業があるはずだった。

 だが、時間になってもその子が塾に訪れることはなかった。俺は遅刻なのかなと思って、一応指定されている席について待っていた。が、それでもその子が現れることはなかった。

 俺はバイトの帰り際、塾長に家へ連絡を取るようにお願いする。

 塾長は気にしすぎだと言って笑っていたが、俺はどこかそんな笑い事じゃないことが起きているような気がして、内心ハラハラしていた。

 

 次の一週間。その子は時間通りに塾にやってきた。

 俺はその子に何で先週は来なかったのか、聞いてみた。その子は俺の問いに数迅悩んだあと、また先々週と同じように何でもないと行った表情で「別に」とだけ口にした。

 俺の限界はそこまでだった。

 たかが塾だとしても、目の前にいる子は紛れもない自分の生徒だ。その生徒が何か無理をしているような気がする。何か嫌な事を隠そうと、誤魔化そうとしている。それを放っておくことは俺にはできなかった。

 困った生徒を導いてやるのが教師だとするならば、ここで動かなければ俺は教師などではない。ただの非常な大人に成り下がってしまう。

 それだけは嫌だった。それだけはしたくなかった。

 非常な大人にだけはなりたくなかった。

 俺はその子の肩をガシっと掴み強い言葉で問いかける。

 

______困ったことがあるなら言って欲しい。無理してないか心配でたまらないんだ。

 

 俺のその強い言葉に、その子も決心がついたのかポツリポツリと語り始めた。

 

 

 簡単にいうと、その子はいじめを受けているらしい。

 いじめの経緯としては簡単な話で、どこにでもある、至極ありふれたものだった。

 誰かをターゲットにして、みんなでそいつをいじめる。そのターゲットに飽きたら、またみんなでそいつをいじめる。いじめのループ。そのターゲットがとうとうその子にきてしまっただけのこと。

 しかし、そんなありふれたものだからこそ解決は難しかった。ありふれているということはつまり、そのいじめという外道な行為がこの世に蔓延っているということ。解決されず、放置されていることが多いということの裏返しでもあった。

 でも、それを見捨てる理由にしていいのだろうか?困っている生徒がいるのに、無理だからとか、無駄だからという言葉だけ片付けていいのだろうか?

 答えは否である。

 そんな言葉で片付くのなら誰も苦労しない、そんな理由で見捨てていいのなら教師なんてそもそも不要の長物だ。

 ならば、俺のすることは一つである。必死に頭をフル回転させ、解決策を模索する。どうにかその子を救える方法を見つけるために思考を巡らせる。不可能や無理と言う言葉は今はいらない。欲しいのはもっと違うものなのだから。

 

 俺はその子と話しながらある結論を下した。

 いじめをなくす方法。いじめられなくする方法。それは徹底的な無視である。

 いじめのループは飽きたら終了すると言う特徴がある。ならば、早々に飽きさせるのが無難だと言えた。

 変にターゲットを変えるとか、クラスの担任に言いつけるだとか、そう言った事をするのは逆に相手を刺激する可能性がある。

 だから、徹底的に無視をして、自分をいじめても楽しくないと言うことを、そのいじめっこたちの身に覚えさせると言う作戦だった。

 その解決方法を聞いた生徒は満足して、その日帰って行った。最後には「先生ありがとう」と嬉しい言葉すら言ってくれた。

 久しぶりに見たその生徒の笑顔は、俺にとって忘れられないものとなった。

 

 

 

 

 その日以降、俺がその生徒を見ることなくなった。

 



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のみかい

十話

 

 久しぶりに学部内での飲み会が開かれた。名目としては球技大会の打ち上げというものらしい。

 二十歳を過ぎているものたちは酒を飲み、過ぎていないものたちはノンアルコールのカクテルか、ソフトドリンクを飲んでいた。

 俺は一応昔のよしみということでこの飲み会に連れてこられたが、気分が乗らずに端っこの方でアルコールを飲んでいる。誕生日は先日迎えており、誰も俺がアルコールを飲むことに文句は言わなかった。

 だが、一番誕生日がきて嬉しかったことがある。それは、これでようやくあの口うるさい女に何も言われずに正々堂々飲酒、喫煙を謳歌できるということだ。

 目の前に座っている中野五月に俺は勝ち誇ったような表情でタバコをふかした。

 

「臭い、うざい、きもい」

 

 見事な罵倒の三拍子の後、いつものお決まりとなってしまった、タバコを取り上げそのまま消すといった行為をスムーズに行う中野五月。

 俺は唖然としながら、消されたタバコの吸い殻を眺めていた。

 

「タバコは周りにいる人も体に悪いからやめてよ」

 

 笑顔でそう言い放ってくる彼女に、俺は遠慮のない舌打ちを繰り出す。

 

「お前、本当に可愛くないな。性格ブスすぎるだろ」

 

 その罵倒に流石にカチンときたのか、中野五月は額に青筋を浮かべる。その表情ときたらまさしく般若である。いや、鬼の形相とも言えるかもしれない。今の彼女に金棒を持たせたら、節分の日に豆を投げつけられること間違いなし。

 

「誰が、何ですって?」

 

 完全に我を忘れかけている彼女は、大学一年生の頃の敬語口調に戻っていた。

 それにしても、あまりにもいつもより沸点が低い彼女に疑問を抱いた俺は、彼女の手元をふと見てみる。

 ああ、なるほど……。道理で彼女が怒りやすくなっているはずだ。

 中野五月の手元には、開けられたビールの便が数本置かれていた。誰が飲ましたのやら。きっと、彼女をお持ち帰りしたいと内心画策している馬鹿な男子たちなのだろうが、この面倒臭い女をちっとやそっとで思い通りにできるわけがない。

 

「飲み過ぎだ、絡み酒は鬱陶しいぞ」

「まだ酔ってませんよ。馬鹿にしないでください」

 

 これは俺の持論であるが、まだ酔っていないと本気で言っている奴は大抵の確率で酔っている。本当に酔っていない奴は、もっと簡素に答えるからな。

 

「その言い草がすでに酔っ払いの言動な。ほら、お冷や飲め」

 

 そう言って、俺は自分が飲んでいたお冷を中野五月に差し出した。彼女も、自身の顔の火照りには自覚があるのか、そのお冷を受け取ると、一息のうちに飲み干してしまう。

 どれだけ喉が乾いてるんだよ。十分酒が回っている証拠じゃねーか。

 

「お前、一軒目で帰るのか?」

「ええ、そのつもりです。なので、また送ってください」

 

 中野五月は己で何を言っているのか自覚がないのか、支離滅裂な言葉をつむぎだす。

 

「いや、何でそうなるんだよ。一人で帰るか、この前いた姉妹に頼れ」

「嫌です。姉たちには頼りたくありません。それにあなたには言いたいことがたっくさんありますので」

「何だよ、言いたいことって」

「そりゃー、あなた。いつになったら塾に帰ってきてくれるんですか?とか、いつまで私たちは待てばいいんですか?とかですよ」

 

 中野五月の言葉によって、周りにいた連中も静まり返る。

 ああ、空気が悪い……。折角、誕生日を迎えて初めて酒を飲んだのに、酔いが全て飛んで行った気分だ。

 俺は中野五月に適当な相槌を打ちながら、さっさとこのクソ女を連れ出すことにした。

 

 これ以上、俺の心を踏み荒らすのはやめて欲しい。

 



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じょゆう

十一話

 

 中野一花という女優はどうやら目の前にいる中野五月の姉妹の一人らしい。

 YouTubeを見ていて、炭酸飲料のCMが出てきたときに、彼女が自慢げにそう言ってきた。俺たちの会話を盗み聞いていた彼女の女友達はーー彼女が女友達と座っているのに、前に座っていた俺に話しかけてきただけーーそれを聞くなり黄色い歓声をあげた。

 それだけ有名な女優なのだろうか?

 俺はあまりテレビとか見ないので、そう言った情報はとても疎かったりする。見るのはニュースだったり、天気予報がすべて。それもYouTubeからでしか見ないため、ドラマとかに最近よく出演している女優と言われても、俺にはピンとこなかった。

 

「あなたはもう少し周りに興味を持ったら?」

 

 そんなことを言われても、興味がないものには全く興味がない。人に勧められた本とか、曲とかにあまり関心が湧かないのと同じように、彼女らがどれだけ俺にその魅力を伝えようが、俺には全く響かない。

 

「ねえねえ五月、今度サイン欲しいからさ、何かイベントとかあったら前情報とか頂戴!」

「わかった、また聞いておくね」

 

 中野五月の友達の一人はどうやらその一花という女優にご熱心なようで、イベント情報を事前に手に入れようとしていた。

 すごいな、今時他人頼りにサインもらうとかじゃなくて、自分の力で正式にサインをもらおうとする奴がいるんだな。

 俺は妙に感心しながら、自分のスマホ内で笑顔を振りまく彼女そっくりの顔を眺めた。

 それにしても、本当にそっくりだ。

 ぱっと見では分からないほどに彼女とその姉妹たちは似ている。それこそ、ドッペルゲンガーが現れたと言っても過言ではないほどだ。

 だけど、一年と数ヶ月間近くも嫌々関わっていた俺からしたら、彼女とその姉妹との顔の差異は何となくわかっていた。それを言葉にしろと言われたら、難しいが、感覚的にだろうか?彼女とその姉妹の顔はどこか違うように見える。

 この感覚は俺だけのものなのだろうか。

 ふと、そんなことが気になったため、それとなくそんな事を聞いてみる。

 

「なあ、お前ら姉妹ってよく間違われるの?」

「ええ、間違われることは多いかな。でも、見分けられる人もいるよ」

 

 そう言う彼女の笑顔は珍しくとても綺麗に感じた。

 なるほど、その見分けられる人は彼女にとって、とても大切な人たちなのだろう。

 俺はそんなことを考えながら、別に羨ましいと思うこともなく、中野一花が出ているCMをスキップした。

 

「そろそろ講義始まるからスマホしまったら」

「へいへい、開始音が鳴ったらしまいますよーだ」

 

 俺はそんな軽口を叩きながら、スマホから流れる映像をボーッと眺める。

 頭を空っぽにできると言う意味では、やはり動画配信アプリはいいのかもしれない。こう言った、空き時間にぴったりだ。

 俺はそんなことを考えながら、そのまま恐怖映像20連発を眺め続けた。

 

 

 蛇足だが、後ろから俺の映像を見ていた女子集団は食い入るように、俺のスマホを見入っていたらしい。

 

 



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過去④

十二話

 

 あの生徒が来なくなった。

 俺がアドバイスをしてから塾に訪れなくなった。

 何があったのかは分からない、塾長に聞いてみたら、あの子は来なくなった3日後に引越しをしたらしい。なぜ、唐突に引越しをしたのかは塾長にも分からなかったらしいが、俺には心当たりがあった。

 いじめだ。 

 いじめが原因で引っ越しをしてしまったのだ。

 俺のアドバイスがいじめを加速させてしまったのかもしれない。俺はそう思うと、夜も眠れない気持ちに苛まれた。

 

 

 あの子が引っ越しをしたと聞かされてから数週間が経った頃、新しい子が生徒として入ってきた。新しい生徒は、引越しした子と同じ学校だったらしく、学年も同じだった。

 俺は何かに取り憑かれたようにその新ししく入ってきた生徒に、引っ越した子のことを聞いてみた。

 多分、救われたかったのだろう。俺のアドバイスのせいで引っ越したわけじゃないと、立証したかったのだと思う。

 だが、現実は無慈悲だ。

 その新しく入ってきた子は俺の言葉を聞いて、表情に陰鬱な影を落としながら語り始めた。

 

______あの子は虐められていたんです。最初は笑ってごまかしてたんですが、途中からそのいじめっ子たちを無視するようになって。それでいじめがひどくなっちゃって。多分、それが原因で引っ越したんだと思います。

 

 その言葉は俺にとって死刑宣告も当然の言葉だった。

 俺がその子を放っておけないと、助けてあげたいと、導いてあげたいと思ってやった行為は、逆にその子を傷つけるものとなってしまった。

 その事実がどれだけ俺の胸に刺さったことか。それを聞いてからしばらくの間、何も喋れないでいた。

 今まで苛まれていた感情から解放されるかもしれないと思って聞いたのに、まさかさらに自分の心を蝕んでしまう毒になるなんて考えてもいなかった。

 その後のことはあまり覚えていない。新しく入ってきた生徒にきちんと教えてあげることができていたのかも、授業報告がきちんと作成できていたのかも、俺には分からない。

 ただ、記憶にあるのは自分への罪の言及だった。

 

 

 次のシフトの日。俺は塾長へバイトを辞めると報告していた。もう続けられる気がしなかった。己が目指した先生像のせいで、生徒一人の人生をめちゃくちゃにしてしまったのだ。こんな奴が教師になっていいわけがないとそう思っていた。

 塾長や中野五月はなんで俺が辞めようとしているのか問いただしてきた。

 だけど、そんな理由が言えるはずがなかった。

 俺は聴かれるたびに、乾いた笑みを漏らしながらごまかした。そうやって、最後のシフトの日まで俺が口を破ることはなかった。

 塾のバイトをやめた俺は、必然的に教育関係から逃げるようになっていた。学部内の友達とも疎遠になり、俺は空に篭るようになっていた。それでも、お金を出してくれている親には迷惑をかけられないため、単位だけは必要最低限度とることにしていた。

 俺が大学から逃げなかったのはそれだけの理由である。

 バイトをやめたため、元から行っていたバイトに尽力するようになった。そっちのバイト先からはひどく歓迎されたが、俺の空虚な穴を埋めることは出来なかった。同僚や店長からの歓迎の言葉はどれも耳には入らなかった。

 

 俺はこれからどうすればいいと言うのだろう。



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やくそく

十三話

 

 今日久々に塾長から電話がかかってきた。なんでも俺がバイトをやめてから明日で一年経つらしい。一体何の記念日だと言いたくなった俺だが、塾長のことだからそろそろ戻ってこないかと言う催促だろう。

 だが、俺にはその気が全くなかった。

 俺は教師という道を諦めたものだ。俺が誰かに物を教えるというのはひどく酷いことだと思う。

 それに、塾長が中野五月と協力して、いろいろな策謀を企てていることは知っている。彼女が俺に構ってくるのも、塾長から頼まれているからだし、塾長が俺に構ってくるのも俺への同情による物なのだろう。

 そんなことを知っているからこそ、俺が復帰することはなかった。俺は同情なんてして欲しくない。して欲しいのは放っておくということだけ。俺は自分で諦めて、自分でその道を捨てたのだから、もう見放して欲しいという願望だけしか持ち合わせていないのだ。

 

「はあ、何でわかってくれないかなー」

 

 俺は独り言のようにそう呟くと、一つのショートメッセージが届く。

 宛先を見てみると、彼女からであった。ラインをブロック削除したから、きっと電話番号を使ったSMSで連絡をとってきたのだろう。

 俺は送られてきた内容を見ようか、見ないでおこうか悩む。もし、講義のことでのラインだったら無視すれば俺が困るし、かと言って塾についてのことだったら俺は不快になってしまう。

 メリットとデメリットが何度もせめぎ合いを繰り返した結果、俺は思い切って開けてみるとこにした。

 メッセージに書かれていたのは簡単な文章だった。

 

”明日の12時に駅に集合”

 

 それだけかかれた文章を見て俺は怪訝に思う。

 過去、彼女に遊びに誘われたりした俺だが、その時は決まって用件も伝えてきた。なにぶん、彼女は誰もが認める真面目キャラなため、そう言ったことを書き逃すような女ではないのだ。まるで業務報告や業務連絡を想起させるメッセージをいつも送りつけてきたというのに、今回のこれはどういうことだろうか。

 これは最早命令文でしかない。

 

”急に何?用件も言われないと困るんだけど”

 

 俺は即座に中野五月にSMSを送り返す。

 すると、ものの数秒で彼女から返信がきた。

 

”来れば分かる。だから絶対に来ること。来なかったら迎えに行きます”

 

 何でスマホのタイピング速度だけこんなに速いんだよ。パソコンの時とは桁違いの速さじゃねーか。

 と内心でツッコミを入れながら、俺は呆れながら明日の12時に駅に向かうことにした。

 これで、塾に集合とかだったら無視していたのだが、生憎駅は塾から遠い。そのため、そう言った用件ではないだろうと俺は予想した。

 というより、塾長が待ち合わせ場所にいたら全力で逃げよう。そうしよう。

 

「それにしても、本当に用件って何なんだ」

 

 俺はそんなことを考えながら、その日を過ごした。



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かんこう

 駅についた。少し警戒して12時5分に来るよう調整してみたのだが、流石俺というところだろう。時計を見てみればちょうど長針が5分を指し示していた。

 ついでに、スマホには中野五月から馬鹿みたいな量のメッセージが来ていたりする。

 

「どれどれ、あの女はどこかなー」

 

 俺はそんなメンヘラちっくな彼女のメッセージを無視して、駅を見渡してみる。

 人が多いせいで、彼女を見つけるのが大変かとも思ったが、別にそんなことはなく、彼女が噴水の前で座っているのが見えた。

 周りには誰もいない。中野五月一人だけである。腕時計を眺めながら、時折周りを見渡しているのは俺が来ていないか確認するためであろう。

 俺はそこまでわかると、次に物陰に誰も隠れていないか確認した。

 怪しい人物は誰も見当たらない。詳細にいうと、塾バイトをしていた時の同僚とか学部の連中とか、塾長とかは一切見当たらなかった。

 逆にここまで怪しいところがなさすぎると、警戒心がグッと高まってしまう俺。だが、怪しもうにも怪しむところが見当たらないため、俺は観念して彼女の前に踊りでた。

 

「すまん、遅れた」

「本当。10分も遅刻するのはどうかと思うよ」

 

 彼女は頬をぷくりと膨らましながら、怒っていますという表情をする。久しぶりにその顔を見た俺は、つい笑ってしまった。警戒していた自分がバカらしく感じたことも笑ってしまった原因としてはあるのだろうか。

 だが、直ぐに目の前にいる女は自分の嫌いな奴ということを思い出し、鉄仮面に戻す。

 危ない嫌な女に隙を見せるところだった。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 唐突に立ち上がりそう告げる彼女。

 

「はあ?どこに?」

 

 中野五月は笑顔でこう言った。

 

「どこって”東京”だよ」

 

 

 

###

 

 

 

 彼女の奢りで新幹線に乗りやってきた東京。そこから山手線を使って向かったのは原宿だった。

 久しぶりにみた竹下通りの風景に俺は感慨深い物を感じながら、道中で彼女と買ったチーズドッグを食べる。無駄に高いこの食べ物は、少し前に若者の間で流行っていたらしい。

 

「で、何しに東京に来たんだよ。まじで観光だけしにきたの?」

「んー、少しね」

 

 俺がそう問いかけると彼女は腕時計を眺めながら、煮え切らない返事をする。どうやら、何か時間が来るのを待っているらしい。

 

「まあ、お前の奢りで東京これたから何でもいいけどさ。嫌いな女の誘いも受けてみるもんだな」

「あなた私の事、嫌い嫌い言い過ぎじゃない?なんか、言い聞かせてるようにしか聞こえない」

 

 その言葉に自然と黙ってしまう。言い聞かせていると言われたが、それは実のところ的を得ていて、俺は俺という人格を守るために彼女を嫌っている。彼女のお節介焼きは非常に俺の心をえぐってくるから、彼女への怒りで誤魔化さないと、えぐられた傷を直視してしまいそうで怖いのだ。

 俺は残ったチーズドックを平らげながら、大きくため息を吐いた。

 結局のところ、彼女に俺という人間はずべて見透かされていたわけだ。そのことが、ひどく恥ずかしくなってしまった。

 

「それじゃ、次明治神宮いこっか。中々のパワースポットらしいよ。いい事あるかも」

 

 俺はその言葉に静かに頷くと彼女の跡をついてまわる。

 きっと彼女は俺を慰めるために東京に連れ出してきたのかもしれない。バイトを辞める時、俺は死んだような顔をしていたのだろう。その場に居合わせた彼女は俺の顔を見て酷く暗い表情をしていた。

 それもそうか。大学が始まった時に語り合った「どんな教師になりたいのか」。その時に俺はこう言った。

 ______困った生徒を導けるような、そんな優しい教師になりたい。

 彼女もそれに頷いたことから、きっと同じ志を持っていたのだろう。だが、志を共有した俺はあの生徒の一件以来壊れてしまった。

 彼女はきっと俺を重ねているのかもしれない。あり得たかもしれない自分の未来に、彼女はきっと俺を重ねているのだろう。だから、放っておけなかった。だから、かまわずに入られなっかった。

 それが、中野五月という人間の本性だ。

 

「綺麗なところだね」

 

 生茂る木々を眺めながら微笑む彼女は一体何を見ているのだろうか。

 それは俺が見えなくなってしまった光景な気がして、どこか寂しさと嫉妬を感じずにはいられなかった。もし、彼女と同じものが見えるなら。見させることができるなら、今の俺は何でもするのかもしれない。

 

「ねえ、あなたがバイトをやめた理由って、ある生徒の相談がきっかけだったんだよね」

 

 唐突にそんな話題を降ってきた彼女に怪訝な感情を抱きつつ、俺は答える。

 

「ああ……」

「あなたは導けるような優しい教師を目指していたんだよね」

「ああ……」

 

 そう俺は目指していた。困った生徒を見放さない、そんなヒーローのような存在に。

 

「あなたはあの生徒を導こうとしたんだよね」

「ああ……」

 

 憧れていた、夢に見ていた、だがそんな存在に自分は相応しくなかった。俺にできるのは誰にでもできるような、そんなちっぽけな事だけ。非常な大人にでもきるような、そんな勉強を教えるという、そんなありふれた事だけだった。

 

「あなたは成ろうとしてたんですよね、あなたの夢に」

「ああ……」

 

 そうだ、それでも成れなかった。

 

「あなたは絶望したんですよね」

「ああ……!!」

 

 彼女のいうことは全て正しい。

 俺に人を導く力なんてない、誰かを救う力なんてない、運命を変えてあげられる力なんてないのだ。

 それを思い知った。それを思い知らされた。

 だから、俺は教師になることを辞めた______。

 

「ですが、勝手に絶望するなんて思い上がりも甚だしいです。あなたが何も救えなかった?そんなことはありません」

 

 何を言っている。俺は何も救えていない、何も変えられていない。現にあの子の人生を俺は狂わせた。

 

「あなたに救われた人はちゃんとここにいますよ」

 

 そう言って、奥から出てくる三人の人影が見えた。



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最終話

最終回

 

 

 三人の人影がこちらへ走ってくる。

 一人は黒髪で自分と同い年くらいの男性、もう一人は中野五月と似た顔をした大きなリボンをつけている女性。そして最後の一人は……。

 最後の一人は見間違うわけがない、二人の男女に連れられて出てきたのは、転校したその子だった。

 

「先生!お久しぶりです!」

「なっ……」

 

 言葉を失わずにはいられなかった。もう会うこともないと思っていた子が、目の前にいるのだ。目を見開かずにはいられなかった。

 

「先生、何も言わずに引っ越してごめんなさい。確かにいじめはひどくなったけど、でも先生のせいじゃないんだ!いじめが酷くなったのは、他に虐められていた子を助けたからで……、引っ越ししたのも元から決まっていたことなんだ」

 

 その子は顔を伏せながら、泣くのを必死に我慢して語ってくれる。

 

「でも、挨拶するのが怖くて。先生にアドバイスしてもらったのに、いじめ止めれなくて、それが情けなくて。ごめんなさい、自分のせいで先生が今そんなに悩んでるって知らなくって、ごめんなさい……」

 

 何が一体どうなっているんだ。何で俺はこの子に謝られているんだ。なんでこの子がこんな場所にいるんだ?

 俺が導いてやったのが間違いじゃない?全部自分のせい?

 そんなわけあるか、この子のことをちゃんと考えず、無責任にアドバイスをしたのは俺だ。何のアフターケアもなく、その時の感情だけで行動してしまったのは俺だ。

 俺が悪いに決まっている。俺がしたことは確かに教師としてやってはいけない行動だった。

 

「引っ越しした後のことを調べました。どうやら東京に引っ越していたらしいです。そして、運のいいことに、私の知人がこの子の家庭教師をしていましてね。つい最近、連絡をとることができました。ありがとうございます、上杉くん」

 

 そう言って、彼女は一人の同い年くらいの男性に頭を下げた。

 

「いや、気にするな五月。えーと、あんた。その、俺は五月から伝え聞いた話しか知らないからあんまり言えないけど、単純にあんたのその生徒にかける熱意はすごいと思った。だから、勘違いだけで教師を辞めるなんていうなよ」

「勘違いだけだと……、そんなわけあるか、この子を絶望の淵に落とし込んだことに間違いはないじゃないか!無責任なことを言うな!」

 

 怒鳴らずにはいられなかった。そうでもしなきゃ、頭がおかしくなりそうだった。

 何でみんな俺の罪を許そうとする?

 なんて俺を教師の道へと戻そうとする?

 違うそうじゃないんだ。

 もう無理なんだよ、俺の心は粉々に砕け散っているんだ。今更、そっちには戻れないんだ。

 

「えーと、五月や風太郎。多分そうじゃないと思うんだ。彼が困ってるのってそう言うことじゃないと思う」

 

 中野五月と上杉を黙らせながら、リボンをした女が俺を見ながら呟く。

 

「多分、絶望したんだよ。自分にできることがこれだけしかないのかって。自分がやらかしたことに真摯に向き合って、そして逃げずに戦って、その上で放棄したんだと思う。自分の夢を、理想を、憧れを。何もかも捨てたんだと思う」

 

 その通りだ、彼女の言う通り俺は何もかも捨てた。もう俺には何もない、何も残ってはいないんだ。

 志も、夢も、理想も俺の中にはもうこれっぽちも残っていない。あるのは、ただの後悔と無能な自分への侮蔑。

 だから、だからこんな俺をどうか

 

「_____、放っといていくっ」

 

 パチンと乾いた音が響く。俺の頬にじりじりとさすような痛みが広がった。

 

「だったら、拾えばいいだけの話です。無くしたから?絶望したから?捨てたから?何もかも言い訳です。子供みたいに駄々をこねてふざけないでください!」

 

 俺は恐る恐る、頬を叩いた犯人である彼女の目を見る。

 すると彼女は、酷く辛そうな顔をしながら泣いているではないか。

 

「一回の挫折で何ですか。一回の絶望が何ですか。初めからうまくいく人なんていませんよ。一人で何でもできる人なんているわけないじゃないですか」

 

 彼女はそう言って、俺の頬を優しく包んだ。

 

「いいですか。私は高校時代まで、いえ、今でも勉強が酷く苦手です。教師になりたいと言う願望があっても、それを目指す資格すらありませんでした。そんな時、上杉くんや姉たち、そして恩師と言ったたくさんの人が私を助けてくれたんです。今の私はその人たちのおかげであるんです!」

 

 初めて知った彼女の苦しみ。そして感謝。

 たくさんの人の支えがあって、ここまでこれた自負。

 それはあの時の、そして今の自分には持ち合わせていないもの。助け合うと言う至極当たり前のことだった。

 

「だから、頼ってください。何でも背負い込まないでください。大学に入学した当初、右も左もわからない私はあなたと初めて話すことで、気分が楽になったのを覚えています。酷く緊張していた私をあなたが助けてくれた。それは、あなたの言う導きや救いではないんですか?」

 

 何も言えなかった。

 聞かされたことのなかった、彼女からの素直な俺と言う人間。

 大学時代、誰よりも長く、誰よりも親密に関わってきた彼女だからこそ、その言葉は俺の胸に深く突き刺さる。

 

「戻ってきてください。教師の道に。一緒に頑張りましょう?困ったときはお互い様なんですから」

「先生、自分も救われました。あなたがいなかったらこんな素晴らしい人たちに出会えなかったし、いじめに立ち向かうことすらできなかったと思います。先生のおかげで今があります、先生は決して諦めていい人間ではないんです」

 

 良いのか?罪を犯した俺がそれを許されて。

 良いのか?何もかも捨ててしまった俺が再びその道を目指して。

 良いのか?人を頼り「力になって」と叫んで。

 

「良いのか……?こんな俺が教師になっても?」

「許可なんて要りませんよ。なりたいのならなりましょう?それがあなたの本音なんですから」

 

 その言葉を皮切りに、俺は1年間出すことのできなかった涙を出すことができた。

 取り憑いていた何かがスッと落ちるような感覚。

 今まで囚われていた妄執が、俺の心から離れていくようなそんな感覚。

 

 目の前にいる彼女は涙を流し続ける俺を優しく撫で続けた。

 そんな光景を優しく包み込むように、他の三人は暖かく見守ってくれる。

 

 俺が自身の本音を口にして、分かった事がある。

 俺は罪を許されたかったわけじゃない。確かに、この子にしてしまったことは、ひどく俺を苦しめた。だけど、それを許されたとしても、俺は救われなかっただろう。

 本当に俺を苦しめていたもの。本当に俺が望んでいたものは、もっと簡単なものだったんだ。

 こんな無力な俺が、こんな罪だらけの俺が、誰かに教師をして欲しいと、教師になれば良いと、そう言って欲しかったのだ。

 ひどくひねくれた俺が求めた答えは、たったそれだけのことだった。

 

 

 

 

 

 

「さあ、では聞かせてください。あなたはどんな教師になりたいですか?」

 

 

「ああ、俺は______、困った生徒を導き助けられる、そんな五月みたいな優しい教師になりたい」




全話完走しました、ありがとうございました。
ここからは裏話的なものをただ書き連ねます。


:主人公が「彼女」と表現することについて
実は、というか普通に分かっていられると思うのですけど、主人国が「彼女」というのは中野五月だけなんです。
理由は簡単で、どんな事が起っても、どんな人物を見ても、主人公は五月基準で考えてしまうから。
例えば、誰かにものを教えているとすれば、主人公は「彼女に昔教えていた時、ここが分かりにくそうにしていたな」という風に回想してしまうんです。
それだけ、主人公は五月に強い感情を持っていました。

・主人公にとっての五月
主人公にとっての五月は恋愛感情があるの?ってなるかもしれませんが、これはあえて触れていません。女として普通に魅力的に感じる、で留めているので、それ以降は皆様のご想像にお任せしております。

・主人公が五月を嫌っていた本当の理由
これはボツネタにしてしまいましたが、本当は五月と昔の自分を照らし合わせてしまっていたのが、主人公です。
早くこいつも現実を見て絶望すれば良いのに、みたいな感じで主人公は五月を見ていました。

・最後に主人公が「五月」と呼ぶことについて
主人公は今まで頑なに口で五月を名前で呼びませんでした。「お前」とか「嫌いな女」とか、心の中ではいつも「中野五月」と呼んでいました。
最後に「五月」と名前呼びしたのはきっと主人公の中で何かが変わったからなのでしょうね。


まあ、他にもあるんですけどあまり語りすぎたら面白くないのでこの辺で。
今回の小説は私がオリジナルに書いていたものを、暇つぶしに五等分の花嫁に落とし込んだ結果にすぎません。原作で、中野五月が敬語なしで喋ったことほとんどないから、口調が難しすぎましたね。
ここまで読んでいただいた方ありがとうございました。
短い間でしたが楽しんでいただけましたか?
これにて、主人公と五月の物語はひとまず幕を閉じます。
作者の筆がのれば続編や番外編も出るでしょうが、期待はしないでください。
それでは皆様、またどこかでお会いいたしましょう。
さようなら。


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