逆行した進藤ヒカルのTSモノ (アオハルなんて無かった)
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其の一

「……あ、ありません…………」

 

「ふぅ……」

 

 目の前で投了を宣言するおかっぱ頭の青年を前に彼はようやく一息つく。

 長かった名人戦――挑戦手合の七番勝負。三勝三敗で迎えた最終戦。塔矢アキラ名人に挑戦した進藤ヒカル本因坊は勝利を飾ることが出来た。

 

 これで、彼は本因坊と名人の二冠を手にすることとなる……。

 

 

 藤原佐為……奇妙な幽霊に取り憑かれて彼の人生は変わった。

 囲碁の世界に惹き込まれて……気付けばプロ棋士になっていた。

 

 

 神の一手を極めんとする佐為はとんでもない天才で――彼から教わった全てのことはヒカルの財産となっている。

 

 佐為が消えてしまって……落ち込んだりもしたけれど……一手を打つことで彼が蘇る気がしたから……ヒカルはここまでの棋力を身に着けたのだ。

 

 

 

 

 

「進藤くん、タイトル奪取おめでとう」

 

「ありがとうございます」

 

「ちょっと前と比べて、随分と落ち着いたね。やっぱりタイトルホルダーになったからかな」

 

「あはは、私もいつまでも子供だからで許されなくなりましたから。天野さんにも色々と生意気な態度で不快な気持ちにさせてしまったかもしれないですね――」

 

 十八歳で本因坊のタイトルを取ってからというもの――進藤ヒカルは()()()()()態度を心がけることにした。自分のことを【俺】ということを止め……【私】と称して、なるべく丁寧語で話すようにしたのだ。

 

 と、言ってもやってることはそれは居なくなってしまった佐為のモノマネに過ぎないが。

 自分が佐為に成れないのはわかっている。でも、ヒカルは彼のようになりたいのだ。

 物腰が柔らかく――碁に対して誰よりも真摯だった彼のように……。

 

 周りの連中はこぞって変な顔をした。和谷には頭がおかしくなったのか本気で心配されたりした。

 

 今はもう慣れているみたいだが……。

 

 

 

 

「しかし、眠いな……。もうこのまま寝てしまうか」

 

 激戦を終えて――取材やら、祝勝会やらを終えて自宅に帰ってきたヒカルは着替えもせずにそのままベッドに横たわった。

 そして――泥のように眠りこけてしまった――。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「おいおいまだ夢を見てるのかよ……。こりゃどーいうことだ……まったく。ありえねーだろ」

 

 ヒカルは目を覚まして30分ほど鏡とにらめっこしている。

 それも無理はない。なんせ彼には大きな()()()()()()が二つも起こっているのだから――。

 

 どんな変化なのか――簡単に言うと目の前の鏡にはびっくりするほど可愛らしい美少女が映っていた。あるべきモノがなくなっており、あり得ない場所が発育しているのである。

 金髪の混じったツートンカラーの髪だけが名残を残しているといった感じか……。もっともそれもサラサラなロングヘアになっており、彼女の美しさを際立てているが……。

 

「ヒカル、いつまで寝てるの早く朝ごはん食べて支度なさい」

 

 そして、彼……いや彼女を起こした母は幾分と若くはなっていたが態度は若かりし日のヒカルに対する態度と同じだった。

 

 ここから導き出される結論は一つ。進藤ヒカルには所謂【逆行】という現象と【性転換】という現象が同時に起こっている。

 

 

「これが私……? はははっ……、ダメだ頬を抓っても痛いだけだ……」

 

 思いっきり抓った頬の痛みを感じながら母に促されながら朝食を食べるヒカル。

 

 状況に頭が追いつかないながらも、何とか把握しようと周りに気を配ると、どうやら彼女は小学6年生まで時を遡っているみたいだ。

 

 また小学校に通わなくてはならないのか。いや、それ以前に女になってしまったことから精神的に追いつけないのだが……。

 ヒカルの頭にグルグルと色んな思考が駆け巡り――頭痛を起こしていた。

 

「母さん、悪いけど……私……学校休むわ」

 

 そして辿り着いた結論は学校に行かないこと。

 当たり前だ。こんな状況で小学校に平気な顔して通えるほうがどうかしてる。

 

 

 

 

 

 

 数日間……部屋で一人――どうしたもんかと考える。

 両親は心配して何か悩みはあるのかと訊いてくるが、若返った上に性転換していて戸惑っているなんてこと相談しようもない。

 

「考えたところで仕方ないかぁ。受け入れるしかねーんだろうな」

 

 心配しまくっている両親の顔に耐えきれなくなった彼女は若返ったことも女性になったことも受け入れて生活することにした。

 

 この状況を受け入れたヒカルが最初にしたこと――それは……。

 

 

 

「やっぱ、シミはねーか。何となくそんな気はしたんだよな。佐為は居ないんだって」

 

 祖父の家の蔵でヒカルは――佐為はもうこの世に存在しないことを確認する。

 何となく予測はしていた。あの出会いは奇跡なんて軽い言葉じゃ済ませられないくらい貴重なモノだったって。

 

 ――この確認はヒカルにとって二度目の別れであった。一筋の涙が彼女の頬を濡らしたとき――ヒカルは決意した。

 

「だったら、私が佐為になろう。進藤ヒカルの碁じゃなくて……強くて優しかった佐為の碁を打つんだ」

 

 ヒカルは決意する。この新しい世界で自分は藤原佐為として囲碁界の風になると。

 自分自身を殺して……佐為を完璧に模倣しようと――。

 

 名人と本因坊を取った若き天才棋士が本気で一人の人物に成ろうと決めた瞬間であった。

 

 

 

 

 プロ棋士に成ろう。佐為の碁で……。藤原佐為として――。

 彼の棋風も、棋譜も……全部叩き込んでいるし、思考パターンも今の自分なら再現が出来るはず。

 

 この世界に佐為という存在を知らしめるんだ。

 

 

「でも、私がプロになってタイトルを取るだけで……世界は佐為のことをどれだけ知ってくれるだろうか……足りない。結果を残すだけじゃ……」

 

「あー、ヒカルちゃん。こんな所にいた」

 

 ヒカルが自らの進む道を模索していたとき、一緒に彼女の祖父の家に来ていた幼馴染のあかりが声をかけてきた。

 彼女はほったらかしにされたことに対してムッとしているみたいである。

 

「ごめん、あかり。ちょっと考え事してたんだ」

 

 ヒカルはあかりに対して素直に謝罪した。同性として接する彼女は、男だったときよりも若干距離感が近くなった気がする。

 

「……考え事? あー、わかった。()()()()のオーディションのことでしょ。書類審査通ったって言ってたから」

 

「お、オーディション? アイドルって……」

 

 思わぬワードがあかりの口から飛び出したものだから、ヒカルは驚いて彼女の言葉を復唱する。

 

(おいおい、嘘だろ……? 確かに多少顔が良いとは思ったけど……そんなことに挑戦してたってのかよ。だけど、待てよ。アイドルか……、これはチャンスかもしれねぇぞ)

 

 ヒカルはアイドルオーディションについて前向きに考えてみることにした。

 アイドルで名人レベルに強いプロ棋士。これを佐為になりきって達成すれば――もしかしたら世界中に佐為を知ってもらうことが出来るかもしれない。

 

 

「私、アイドルになる。そんでもってプロ棋士にも」

 

「うん! って、ぷろきし……って何?」

 

 

 この日からヒカルは佐為としてアイドルとして生きることを目標に一歩を踏み出した――。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「いいね〜〜、君。そのキャラ、何キャラなの? すごく可愛いけど……」

 

「わ、私は藤原佐為(ふじわらのさい)……平安時代の囲碁の天才棋士です。最近までは訳あって碁盤に封印させられて幽霊になってました」

 

 記憶にある佐為の衣装を出来るだけ似せてそれを身に着け、髪を真っ黒に染めたヒカルは佐為になりきってオーディション会場に現れた。

 

 佐為としてアイドルのオーディションに挑んだのだ。

 

 審査員はヒカルが囲碁が得意だという話に食いつく。そんなことが得意だという女の子が誰一人として居なかったし、コスプレをして現れた子もほとんど皆無だったからだ。

 

「へぇ……。で? サイちゃんはどれくらい囲碁が強いのかな?」

 

「――そうですね。この時代だと……囲碁界のトップを走られているあの方……塔矢行洋名人くらいです」

 

「……塔矢先生の名前を出すのかぁ。そりゃあ凄いなぁ。可愛い顔して面白いこと言うねー。君は」

 

 実はこの審査員――かなりの囲碁通である。まさか小学生の少女が塔矢行洋の名前を出してくるとは思わなかった。このビッグマウスはアイドルの適性があるかもしれないとヒカルのことを気に入ってしまう。

 

 

 

 

 

「合格しちまった……。こりゃあ、後には引けねーな」

 

 進藤ヒカルはアイドルオーディションに合格する。

 そして平安時代から来たアイドル【サイ】としてデビューすることが決まった。

 

 古風な衣装で美しい黒髪を靡かせるどこか大人びたミステリアスな少女は――小学生にも関わらずカルト的な人気を誇るようになる。

 

 声も透明感のある良い声で彼女の出したCDは空前のヒット。平安アイドルブームはたちまち日本を震撼させた。

 

「特技は囲碁です。将来の夢は――囲碁のプロ棋士になって……七大タイトルを全て手に入れることです」

 

「へぇ、サイちゃんは囲碁のプロになりたいんだ。では、そんなサイちゃんの夢を応援しましょう!」

 

 バラエティ番組でMCを相手に、あどけない笑顔で日本中のプロ棋士に挑戦状を叩きつけるヒカル。

 そんな彼女にテレビ局が食いつかないはずがない。

 すぐさま……彼女が囲碁のプロに挑戦するという企画がスタートした――。

 

 もちろんテレビ局の人間もヒカルの言うことなど子供の戯言だと思っている。大人の棋士を相手にちょっと勝負をして――彼女を天才だと褒めてあげるだけでも数字になるとの見込みから始まった企画である。

 

 それは、そうだ。この無邪気に笑う美少女が名人をも喰ってしまう実力があるなんて――思いもしないのだから――。

 

 ここにプロ棋士VS平安アイドル【サイ】が実現し……囲碁界に激震が走ることになる――。

 




次回……アイドルとなったヒカルちゃんの挑戦。


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其の二

「サイちゃん、明日のスケジュールだけど――」

 

 ヒカルがアイドルになって数ヶ月が過ぎた。

 持ち前のビジュアルと大人びた喋り方やどこか性を感じさせない中性的でミステリアスな雰囲気が平安アイドルという新しいジャンルにマッチして――男女問わず大人気となる。

 

 彼女は葉瀬中学に入学して……学校にも多くファンがおり当然人気者となった。

 

 アイドルであるヒカルの囲碁が好きだという発言は葉瀬中の囲碁部に大いに影響を与えた。

 ほとんどが初心者であるが、入部希望者が殺到したのだ。部長の筒井は棚からぼた餅……いや、堂島ロール……、うまい例えが見つからないがとにかく忙しくなる。

 

 ちなみに筒井はヒカルから急に親しげに話しかけられ、心臓が飛び出しそうになるくらい驚いていた。

 それも無理はない。今をときめくスーパーアイドルにいきなり話しかけられて平然としていられる人間がどれだけいるだろうか……。あの加賀ですら緊張してしまったのだから。

 

 

 

 

 話をヒカルに戻そう。彼女は順風満帆のアイドル生活の中で――この状況を生んでしまったことを……思いっきり後悔していた。

 

(流されて色々とやっちまったけど。方向性間違ってねーか。プロ棋士を目指すって既成事実さえ出来たらそれで十分だったんだけど)

 

 ヒカルは思った以上の人気者になったことにドン引きしていた。実は歌ってる自分の映像を見るたびに恥ずかしくなり、布団の中で足をバタバタさせたい衝動に駆られたりしている。

 

 ミステリアスな雰囲気? とんでもない。彼女はプロ棋士になる上で培った精神力で必死に自分を殺して表情に何も出さないようにしているだけである。その表情が世間で大ウケしているのだが……。

 

 彼女の目論見ではちょっとチヤホヤされれば、簡単にプロ棋士と対局が出来るようになり、それが有名になって世間で佐為の碁が注目される。そんな甘い見通しだった。

 

 世間のヒカルのイメージは世紀の美少女アイドル。囲碁が好きだという部分は、備考程度でプロフィールの一部に過ぎない。

 彼女が通っている中学校で囲碁ブームは起きてるが所詮はそこ止まりなのである。なので、彼女に囲碁を打ってほしいなんて正直ほとんど需要がない。

 

 ヒカルのモチベーションはかなり低くなっていた。

 

(テキトーに理由でもつけて、辞めちまおうかなー、アイドル)

 

 このヒカル……多少は大人になっているが、根っこの部分は若い頃とあまり変わっていないのである。

 

 だが、転機がようやく訪れる――。

 

「――で、次のさくらテレビのバラエティ番組では囲碁のプロ棋士と対局をしてもらいます」

 

「ほ、本当ですか? 誰が相手ですか? まさか、タイトルホルダーの方ではないですよね? 夜神さん!」

 

 彼女のマネージャーである女性――夜神粧裕がスケジュールを伝えると普段はクールな印象が強いヒカルがイキイキとした表情となり彼女に迫る。

 

 無理もない彼女は待っていたのだ。ヒカル……、いや()()()()を披露するときを……。

 

「か、可愛い……じゃなかった。えっとね、対局相手は桜野千恵子女流二段って書いてあるわね。多分、サイちゃんが緊張しないように女性の方を手配したんだと思うわ」

 

(桜野さんか〜、まさか伊角さんとあんな風になるとは思わなかったぜ。よく考えたらタイトル保持者なんてみんなオッサンだもんな。そりゃ、この歳の女の子には刺激が強いと考えるか……)

 

 ヒカルは桜野女流二段という人選に納得した。

 相手が誰かということはさほど重要ではない。公の場で佐為の碁を見せることが出来れば。

 

 棋力が一定以上あれば、感じ取れるはずだ。佐為の碁の力強さも魅力も全部……。

 

 

「楽しみです。()()()()私と打ちたくて堪らなくさせてみせます……」

 

「サイちゃん……?」

 

 並々ならぬ気迫を見せるヒカルに、夜神は思わず身震いした。

 本当に12歳の子供なのか――時々彼女が分からなくなる。

 笑顔の奥の瞳から感じられる覇気はまるで歴戦の武将を彷彿させるほどだと思うことがあるからだ。まぁ、彼女は本物の武将に会ったことは一度もないのだが……。

 

 

 

 

 

 かくして、さくらテレビで放送されている――バラエティ番組「地球のヘソまで来てほC」の収録でプロ棋士との対戦の機会を設けてもらったヒカルは、自らがデザインしたあの“佐為”のような衣装に身を包み……碁盤の前に座ることになった。

 

 

 

「うわぁ! 本物のサイちゃんだー! お人形さんみたい〜〜! 可愛い〜〜!! あ、あとでCDにサインもらえませんか?」

 

 何度も体験しているが、顔見知りだった人たちが以前とはまったく違う反応をすることには慣れない。

 

 それでも、ヒカルは出来る限り愛想よく笑顔を振りまいている。

 昔の自分には考えられないことだったが、礼を尽くすということの大事さを彼女は知っているのだ。

 

 これから――我儘を聞いてもらおうとしているのだから……これくらいは当然だ。

 

「あはっ、サインですね? 承知しました。桜野プロ、ご無理を聞いてくださってありがとうございます。互先で戦ってもらえること――感謝致します」

 

 ヒカルが最初に口にしたのは感謝。プロ棋士が何の実績もないアマチュアを相手に互先なんて侮辱以外の何物でもない。

 ナメられていると感じて普通なら拒否する。

 

 碁のプロになるということはそれほど重いことなのだ。

 

 だからヒカルは感謝した。例え、自分の実力のことを軽んじていようと……互先を引き受けてくれた彼女に……。

 

 そんなヒカルの目を見て桜野は感じていた。彼女に秘められた……ただならぬプレッシャーを。

 まるで幾つもの死線を乗り越えてきたような凄味を――まだ年端もいかない少女が……それも今をときめくアイドルが発していたのだ。

 

(な、何……? サイちゃんって囲碁がちょっと好きなアイドルじゃないの? 今、一瞬……ゾクッとしたわ)

 

 向かい合った美少女から、熟練の棋士にも似た気配が発せられている。桜野がそう感じたとき……収録が開始された。

 

 

「新企画! サイちゃん――プロ棋士への道〜〜! 今日はサイちゃんがどのくらいの強さなのか……! 実際にプロ棋士と囲碁をしてもらって、測ってもらおうと思います!! 解説には囲碁の七大タイトル――棋聖を所持しておられます。一柳先生をお呼びしました」

 

「いやー、俺もさ……サイちゃんのCD買ったのよ。いい歌を歌うねぇ。あんなに可愛い孫が囲碁をやりたいなんて言ったらさ、俺ももっと若返ると思うんだけど。そうだ、若返ると言ったらさ――」

 

 囲碁のルールに疎い人間も沢山見ているということで、解説には饒舌でサイのファンを公言しているタイトルホルダー――一柳棋聖がスタンバイしていた。

 もちろん、無駄話は編集ではほとんどカットされている。

 

 

 

 ――そして、ヒカルこと平安アイドル“サイ”が黒を持ち……プロ棋士との互先がスタートする。

 

(一柳棋聖もいる。これなら、佐為の凄さは十分に伝わるはずだ。桜野さん……悪いけど……本気で行くぜ。これが()()()()だ!)

 

 

 ――プロ棋士だった逆行前のヒカルは佐為の名残はあるものの、あくまでも自分のスタイルで打っていた。

 彼の強さは自由で柔軟な発想で相手を蹂躙する爆発力である。実際に彼の強さはムラっ気があり、ノリに乗った彼は天衣無縫の強さを発揮して、当時の囲碁界では最強だと言われていた。

 

 一方、佐為は例えるなら清流。遥かなる高みから全てを見通すかの如く、怒涛の攻めも流れるように受け流すことが出来るのが彼の強みである。

 しかし、受け身を取るだけではない。どんな時もスキを見せれば一刀両断する容赦の無さも兼ね備えている。攻守共に天才的なセンスに裏打ちされた繊細な碁こそ佐為のスタイルであった。

 

 

 

 序盤から、桜野はヒカルの実力が並外れていることに気付いていた。

 彼女は好きなアイドルに指導碁を打てるというノリで仕事を引き受けたが、その認識は直ぐに改めて普段の手合と同様の気迫で本気でヒカルの相手をしている。

 

 そして――中盤に入ると……。

 

(いやいやいやいや、これは異常でしょ。サイちゃん、これはアイドルの趣味のレベルじゃないわよ。指導碁は慣れてるからって軽い気持ちで引き受けたけど……とんでもない天才と対局してるんじゃない……? 師匠は誰なのかしら……?)

 

 桜野はヒカルの顔を覗きながら戦慄していた。序盤から並外れた実力を予想していたがあくまでもそれはアマチュアの領域。しかしヒカルの実力は……予想を遥かに上回り大気圏を突き破っている。

 

 最初はおじいちゃんか何かにちょっと囲碁を教えて貰って得意になっている可愛らしいアイドルの相手をするつもりだったのに――その実力は自分どころか師匠をも超えていると感じるほどだった。

 

 そして、彼女と共に驚いている者がもう一人いる。

 

 それは一柳棋聖だ。彼もまたヒカルの中学生離れした力に驚愕して……解説が疎かになっていた。

 

 碁のプロになる中学生は確かにいる。しかし、彼女の実力は少なく見積もって高段者クラス……いや、下手すれば自分をも喰われかねないレベルだった。

 

(――負けたくない。負けたくないけど、それ以上に……! 打っていて心地よい。自分ももっと強くなれる……ううん、なりたいって思えるような……! そんな慈愛に満ちた碁……!)

 

 桜野はこの少女に負けることが悔しいと感じるよりも……間違いなく天才であろうこの棋士と対局出来ているという悦びが勝っていた。

 

 それだけ佐為の碁は魅惑的で心地よいモノだったのだ。

 

(ここを切断すれば――終わりだ!)

 

 ヒカルの黒が桜野の急所を捉える。彼女の容赦の無い一手は――テレビ局の思惑を遥かに超えた結末を生み出すことになったのだ。

 

「――っ!? ……あ、ありません」

 

 ――それを受けて、桜野は静かに負けを宣言する。

 ヒカルはそれに合わせて小さくお辞儀をした。

 

 

 

「……“ありません”? これは、どういう意味なのです? 一柳先生……」

 

「…………」

 

「あの〜〜? 一柳先生……?」

 

 司会の言葉を受けても一柳は石のように固まって口を開けていた。

 信じられない光景を見たのだから、囲碁のプロなら、そのリアクションは正解であろう。

 

「……勝っちまったんだよ。プロに……アイドルのサイちゃんが……」

 

「はぁ……? それは、桜野プロが手を抜いてくれたからですよね……?」

 

「バーロー、どこの世界に互先で忖度してテレビで負けを晒すプロがいる? あの嬢ちゃん、必ず囲碁界の至宝となる才能があるぜ。俺も打ちてぇと思っちまった」

 

 一柳はそこから如何にヒカルの打ち筋が美しかったのか懇切丁寧に解説する。

 7割くらいが編集でカットされたのは何とも悲しい話だが……。

 

 

 

 ――かくして、彼女の活躍が放送された日……日本中のプロ棋士が彼女との対戦を熱望することとなった。

 

 囲碁界に突如として現れた天才アイドル棋士“サイ”――彼女の伝説が今……産声を上げた。




次回……美少女アイドルがプロ棋士を倒しちゃった……その反応は? 
ちなみにマネージャーの名前は某漫画からまんま取りましたが、大量殺人お兄ちゃんはいませんし、クロスオーバーでもないです。


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其の三

「いやー、凄かったですねぇ。サイちゃん。一柳先生が言うとおり、あの子は囲碁界の至宝になりそうですよね?」

 

 塔矢行洋の研究会――彼の弟子である若手棋士……芦原弘幸は先日テレビで放送されていたヒカルと桜野の対局を話題に出す。

 

「サイ……?」

 

 同じく塔矢行洋の弟子である若手ホープ……緒方精次は芦原の言葉を復唱する。“サイ”という名前の棋士に心当たりがないからだ。

 一柳棋聖がそこまで絶賛するほどの棋士で芦原よりも若手というと、かなり絞られると思うのだが……。

 

「緒方さん、まさか知らないんですか? 平安アイドルのサイちゃんのこと」

 

「いや、それは知っているが。彼女は碁を打てるのか……?」

 

 もちろん緒方とて時の人となっている“サイ”のことは知っている。

 しかし、彼女が碁を打てるという話は知らなかった。

 

「打てるなんてもんじゃないですよ。桜野さんが中押し負けしたんですから。ていうか、僕でも勝てる自信がありません」

 

「バカ、自信を持ってそんなことを言うな。しかし……芸能人がプロに勝ったのか。確か、あの子の年齢は――」

 

「中学一年生だったはずですから、アキラくんと同い年ですよ」

 

「ほう。アキラと同い年の子がプロに勝ったのかね……?」

 

 芦原と緒方の会話を聞いていた名人である塔矢行洋は息子と同い年の子供がプロ棋士を打ち破った話に興味を持った。

 

 息子のアキラのライバルに足る同世代の者は現れないと思っていたが……芦原の口ぶりではその者の実力はそれ以上のように聞こえる。

 

「実は録画しておいたんですよ。先生がご興味をお持ちになれば、一緒に視聴しようと思いまして……」

 

「ふむ……」

 

 芦原は録画したヒカルの手合を見ようと提案した。

 そして、行洋の許しを得ると録画しておいた先日のバラエティ番組をテレビで再生する。

 

 手合の中盤……少女の打ち回しは“華麗”の一言に尽きた。

 まるで序盤からこの展開になることを予知していたかの如く……一手一手が急所を突き相手を殺しにかかる容赦の無さは熟練のプロ棋士のそれと遜色ない。

 

「まさか、このくらいの年齢の子が……ここまでの読みの深さを――」

「ですよね。僕もこの手には気付かなかったなぁ」

 

「……新しい波が来てるのかもしれんな」

 

 行洋も緒方も……予想以上のヒカルの棋力に驚嘆した。

 

 ――トップ棋士だからこそ分かるヒカルのセンス、技量、そして気迫。どれを取っても彼女のそれは最高水準で、棋譜だけを見ればとてもこの前まで小学生だった少女のモノとは思えない。

 

「アキラくんも十分に天才だと思ってましたが……おっと、失礼」

 

「いや、この子はアキラよりも強い。恐るべき才だ。――()()()()()()をしてこれほどの強さなのだから……」

 

「ま、真似事……ですか?」

 

「…………」

 

 塔矢行洋と進藤ヒカル。この二人はお互いに現役同士で真剣勝負をしたことはない。

 新初段シリーズでは佐為が彼の代わりに打った上に互先ではなかったし、行洋はその後……佐為とのネット対局を機にさっさと引退してしまったからだ。

 

(七大タイトルを全てか……。プロの世界を侮っているわけではないようだな。あの目から感じられるのは底知れぬ自信……)

 

 行洋は既にヒカルを子供だとは見ていなかった。

 将来のライバルとして――。戦うべき相手として――彼女を認識していた。

 

 進藤ヒカルが“名人”塔矢行洋のライバルとして見られたのはこれが初めてである――。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

「ヒカルちゃん、珍しいね。今日はお仕事無いんだ」

 

「んー? ああ、企業のPRの仕事が入ってたんだけど、汚職事件が起きちまってな。久しぶりに休みだよ」

 

「先週の日曜日ってどこ行ってたんだっけ?」

 

「警察署で一日署長〜」

 

「ふーん。せっかくの休みの日に、碁の勉強の邪魔してごめんね。久しぶりにヒカルちゃんと家で遊べて嬉しいけど」

 

 ある日曜日……ヒカルの家に久しぶりに遊びに来たあかり。

 あかりは九子置いてヒカルに指導碁を打ってもらってる。もちろん、彼女の力量を考えるとそれ以上の差があるのだが、ヒカルはキチンと碁にしている。かつての佐為が彼女にそうしたように……。

 

「……気にすんなって。それより囲碁部に入ったんだろ? 碁に興味あったんだ」

 

「そ、それは……ヒカルちゃんが好きなことに興味があったから――」

 

 カァァっと頬を赤く染めながらあかりはヒカルが好きなことだから、囲碁を始めたと告白する。

 ヒカルは彼女の言葉を聞いてビクッとしながら彼女の目を見た。

 

(あれ……? なんかすっげーあかりが可愛く見えるんだけど……。こんなに可愛かったっけ? 女になった影響か……?)

 

 ヒカルは今更……あかりが可愛いことに気付いた。

 どう考えても、あかりはずっと可愛いかったのだが……。男だった頃は信じられないことに気付かずにのうのうと生きていたのだ。それだけでも万死に値する……。

 

 個人的に“あかりが可愛かったシーン”ベスト10を発表したいところだが――時間がないので今回は割愛しよう。遺憾ではあるが……。

 

「なんつーか、可愛いんだな。あかりは」

 

「………ふぇっ? ひ、ヒカルちゃん?」

 

「あかりが碁に興味を持ってくれて嬉しい。ありがとな」

 

「う、うん……」

 

 ヒカルが「可愛い」と言葉を出した瞬間……あかりは顔をさらに赤くする。それを見た彼女も碁盤に目をやり顔を真っ赤にした。

  

(やべー、つい言葉に出しちまった。すげー、恥ずかしいじゃん。つーか、私は今……女じゃねーか。これじゃ、変な奴だと思われるかも)

 

 お互いに目を合わせられずに、気まずい沈黙が流れる――。

 

 

 

 

 

 

 その沈黙を破ったのはあかりだ。彼女はヒカルの机の上の紙を見て口を開いた。

 

「うわぁ〜〜! ヒカルちゃんってこんなに字が綺麗だったっけ? すご〜い! 習字の先生みたい」

 

 あかりはヒカルの書いた字を絶賛する。机の上の紙に筆ペンで。その文字は達筆で書道家が書いたような文字であった。

 

「ほら、今度……サイン会をするって言っただろ? だから、字の練習したんだよ。あんな格好して字が下手だったらファンが微妙な顔するだろ?」

 

「ヒカルちゃんって、アイドルの顔してるときって本当にキャラ違うよね。最近は学校でもキャラ崩さないし……。ダンスも歌もすっごく練習してたし……」

 

 あかりはヒカルのアイドルになるにあたっての並々ならぬ努力について言及した。

 

 そう、彼女はとんでもない努力をしている。歌もダンスも未経験。字にいたっては下手と言っても過言じゃなかった。

 

 しかし、彼女は持ち前の集中力を発揮して短期間でそれらをマスターしたのだ。

 

 ――佐為に囲碁を教わって短期間でプロ棋士になるほどの男だった彼女はマルチな才能があった……。

 

 その上、マネージャーである夜神に普段の生活でも彼女のイメージが損なわれないようにキツく言われている。

 

 故にヒカルは学校生活でもニコニコと笑顔を絶やさずに物腰が柔らかなアイドルのイメージそのもので生活していた。

 

 

「――ちょっと後悔してるけど、佐為が有名になるんならこれくらいやるさ。()()()()()()()は素になれるから……お前が居てくれて良かったよ」

 

「ヒカルちゃん……」

 

「うし、もう一局打つか。部で一番くらいにはなれよ」

 

「うん!」

 

 ちょっとだけ距離が縮んだ二人は互いに礼をして碁石を盤面に打ち出す。

 あかりは「あかりの前だけ」というヒカルのセリフが堪らなく嬉しかった――。

 

 パチンと碁石を打ち鳴らすときの彼女の表情が好きだという言葉を内に秘め――彼女は碁石を握った――。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

「やっぱアイドルは凄いなぁ。週刊碁が町から消えたから何処にあるのかって、問い合わせが殺到してますよ」

 

「まさか、あんなに碁が強いアイドルが出てくるなんて思いもよらなかった。それにダメ元でコラボ企画を提案すると飲んでくれるなんて思わなかったよ」

 

「週刊碁に載ってるサイちゃんの作った詰碁を解いた人から抽選でサイン会に入場出来るってやつだろ? びっくりしたよ。ちゃんと問題を考えてくれたから。難易度はそれ程じゃないけど、気付いたら気持いいみたいな問題が多くてさ。ありゃ、彼女の囲碁への愛情は本物だね」

 

 平安アイドル“サイ”のサイン会は日本棋院と週刊碁の編集部のコラボ企画として実現した。

 雑誌の応募用紙にヒカルが考えた詰碁の問題の答えを記入して、正解した人から抽選でサイン会に参加できるというシステムだ。

 

 かなりの売上が見込めると編集部は読んでおり、普段の発行部数の十倍の部数を刷った。

 しかし、彼らの見通しは甘すぎた。週刊碁は発売とほぼ同時に書店から姿を消し……編集部には問い合わせが殺到。

 困った彼らは同じ号をすぐさま増刷するもそれも秒で売り切れてしまった。

 

 

 ――サイン会は大成功。その上、“サイ”が今年のプロ試験を受けるという宣言も飛び出して囲碁界の盛り上がりは最高潮に達する。  

 

 まさにアイドル“サイ”の存在は囲碁界の救世主(メシア)になりつつあった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

「えー、いいなぁ。和谷、サイちゃんのサイン会に当選してたんだ」

 

「へへっ、良いだろ。CDにサインしてもらったんだぜ。院生で今年のプロ試験を受けるって言ったら、“ライバルですね”って笑いかけてくれたんだ。可愛かったなぁ」

 

「だが、桜野さんに勝ったんだろ? かなり強力なライバルだと思うが……」

 

「伊角さんも桜野さんに勝ったことはあるじゃねーか。そりゃアイドルとは思えねーほどの実力だし、読みの深さもすげぇと思ったけど……俺は負けるつもりはねーぞ」

 

 ヒカルが院生時代から親しかった和谷、福井、伊角が“サイ”について話していた。

 プロ試験を受ける院生たちにとって“サイ”の参戦は強大なライバルの出現と同義である。

 彼らはまだかなり見誤っていた。“サイ”の棋力を……。

 

 それは、彼女の二度目のテレビ対局を見るまでの期間であったが……。

 

 

 

 

 

「サイちゃん、今度のさくらテレビの収録……塔矢行洋先生って人と対局だって。知ってる?」

 

「へっ……?」

 

 ヒカルは思いもよらないスピードで名人に挑戦することになり、変な声を出してしまった――。

 

(おいおい、芸能人パワーってすげーな。もう名人かよ。つーか、塔矢の親父さん、よく私と対局するなんて許可したな……)

 

 平安アイドル“サイ”VS名人“塔矢行洋”の手合は日本中の棋士に注目される。

 

 ヒカルは武者震いして、密かに笑みを浮かべた――。

 




次回は早くも頂上決戦です。



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其の四

「塔矢行洋かぁ……。あいつが知ったら羨ましがるんだろうなぁ」

 

 ヒカルは鏡の前で独り言をこぼす。佐為に似せるために真っ黒に染めた髪は――ずっと伸ばし続けており、妖艶な雰囲気を漂わせていた。

 イメージの中の佐為に近づけるにはまだ短いと思っているが……。

 彼女はマネージャーの夜神に髪のケアの方法を聞いて、入念に手入れを行い……さらには化粧など諸々の美容にも余念はない。はっきり言ってヒカルは綺麗になることにハマっていた――。

 

 最近は急速に発育も良くなり中学生離れしたプロポーションも相まって、先月末に発売された写真集は歴史的なヒットを生み出した。

 

 もっとも佐為は男なのでヒカルは今の体型には不満である。しかし、佐為の名を売る目的を考えると悪い手ではないと考えて写真集を出すこともオッケーをだした。

 

 その他にもライブや各種PR活動など――実に多忙な日々を彼女は送っている。

 そんな中で碁の勉強も行っているのだが、如何せん手合が出来る場が少ない。桜野との対局でも勝負勘が鈍っていると感じていた彼女は万全の状態で塔矢行洋と対局をしたいと思っていた。

 

「解説に来てたのが一柳先生で良かったぜ……。ネット碁で相手をしてくれるなんて、ありがてぇ」

 

 自身のギャラのほとんどを親に渡しているヒカルはパソコンを買ってもらい、ネット環境を整えてもらう。

 よって彼女はネット碁を打てるようになった。

 

 前の収録で一柳とメールアドレスを交換して、サインの礼ということで一局ネット碁で対局する約束をしてもらえた。

 

 そして数分後にヒカルは対局する。現代のタイトルホルダーの一人……一柳棋聖と。

 

「saiか……。この名前をもう一回使うことになるなんてな。佐為……、私はお前に成れてるのかな……」

 

 瞬間――ヒカルの目つきが変わる。

 

 あの日の彼に近づく――ではなく成る。

 

 一柳棋聖とのネット対局が始まった――。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

「――これで投了。一柳先生の一目半負けです」

 

「流れるような碁だな。特に持ち時間を使い果たしても読みの深さが衰えないのは脅威だ」

 

「早碁得意なんですかね……? しかし、一柳先生ならさすがに楽勝だと思ってましたが……まさかこれほどだなんて」

 

 たまたま、ネットで一柳とヒカルの対局を見ていた芦原は緒方の前でその対局の棋譜を並べる。

 序盤から中盤にかけてほぼ互角の展開だったがお互いに持ち時間を使い果たしてからは、徐々にヒカルが形勢を固めていった。

 

 最後は細かいヨセが残るが、ヒカルは間違えずに打ち終えて……彼女の一目半勝ちで勝負は終わる。

 

「彼女は今年のプロ試験を受ける。まぁ、まず間違いなく合格するだろうな。下を気にするのはタイトルを獲ってからだと思っていたが……」

 

「あれ? 緒方さん、サイちゃんがプロ試験を受けること知ってたんですね」

 

「ああ、この前のサイン会で言ってたからな」

 

「……えっ? サイン会行ったんですか?」

 

「――それが何か?」

 

「いえ……」

 

 当然のような顔をしてアイドルのサイン会に行ったことを告白する緒方にギョッとした芦原だったが、彼に一睨みされて言葉を飲み込む。

 

「それにしても……塔矢先生も今度テレビで対局しますが……」

 

「名人が負けるはずなかろう。一柳先生にしても、油断しなければ負けなかったさ」

 

 芦原はバラエティ番組で行洋がヒカルと対局するという話題を出して彼を心配するが、緒方は名人である塔矢行洋の勝ちを疑っていない。

 ヒカルの棋力は中学生離れしており、紛れもなく天才だが……今は行洋が上という戦力の分析をしたからだ。

 

 それに塔矢行洋の性格上――。

 

「まぁ、塔矢先生は可愛い女の子だからって手を抜くはずないですもんね。それどころか容赦なく――」

 

「私がどうかしたのかね?」

 

 そう、塔矢行洋は子供だからといって実力者だと認めた相手には全力を出す。そういうタイプの人間だ。

 相手が美少女アイドルであろうと全力で叩き潰そうとするに決まっている。そう、芦原が口にしようとしたとき、行洋本人が現れた。

 

「せ、先生!? い、いえ、明日はサイちゃんと対局すると聞いたものですから……」

 

「本来ならアマチュアと名人が互先などあり得ないのはわかっているよ。だが、年甲斐もなく好奇心を刺激されてね。彼女は不思議な棋士だ……」

 

 行洋はヒカルとの対局について、興味深いから受けて立ったと答えた。

 打ちたいから打つ。これが彼の棋士としての原点なのかもしれない。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「――ちゃん……! サイちゃん……!」

 

「……うぇっ? や、夜神さん……!? どうしました……?」

 

「……もうそろそろ、CMの撮影よ。どうしたのボーッとして」

 

「す、すみません。ちょっと考え事してました」

 

「そ、そう。体調が悪いとか……では、ないのね?」

 

「はい。大丈夫ですよ。ご心配おかけして申し訳ありません」

 

 今日は午前中に某ドーナツチェーン店のCM撮影。午後からはさくらテレビでのバラエティ番組で塔矢行洋名人との対局である。

 

 ヒカルが精彩を欠いていた理由――それは、一柳棋聖とのネット碁での手応えであった。

 

(自分なりに佐為を完全に再現したつもりだったけど……何かが足りねー気がする。一柳先生には勝てたけど、持ち時間も短かったし、相手のミスに助けられた部分も大きい。佐為として塔矢の親父さん打つんなら、もっと――)

 

 タイトル保持者である一柳に勝てたのだから不満になる理由にならないはずが、ヒカルは先日の対局を快く思っていない。

 

 佐為ならもっとやれたはずだという自負が原因だ。

 

 これから戦う相手は日本の囲碁界の頂点に立つ男。生半可な覚悟では挑めない。

 ヒカルの緊張感はピークに達しており、それが表情にも出ていたのだ。

 

 

「じゃあ、サイちゃん。準備して!」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

「はぅっ……、この笑顔……癒やされる。じゃなくて、頑張ってね!」

 

 少しだけ大人びた天使のような微笑みに夜神は頬を赤らめるも、すぐに自制心を働かせ、事務所のトップアイドルを送り出した。

 

 CMの撮影は大成功。チェーン店の売上は爆発的に上昇した。

 これを機に彼女は一躍CMクイーンに躍り出ることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 そして――ついに彼女は相まみえる。名人……塔矢行洋と……!!

 

 

 

 

 

 

「塔矢先生、今日はありがとうございます。出演オファーを受けてくださったと聞いて……何ていうか、凄く驚きました。先生はこういう俗っぽいことはお嫌いだと思いましたので……」

 

 ヒカルは目一杯、愛想良く笑いながら行洋に挨拶する。

 名人の重み……それはかつて彼女がプロ棋士――進藤ヒカルとして塔矢アキラ名人に挑んだとき……痛いほど思い知った。

 

 塔矢行洋という男は本来ならこのようなバラエティ番組に出るような人間ではないのである。

 

 

「――()()()に興味があったまでだ。名人……塔矢行洋としてね」

 

 行洋は短く出演を受けた理由をヒカルに告げた。その眼光は鋭く……塔矢アキラよりも威圧感があり、ヒカルは嬉しく思う。

 

(塔矢の親父さん……本気じゃねーか。そりゃあ、そうだよな。ネット碁でもすげぇ対局したんだ。私みたいなアマが相手でも気を抜いた碁なんて打たないか……)

 

 本気の塔矢行洋と佐為として対戦できる。これほど気分が高揚することがあるだろうか。

 ヒカルは喜びに打ち震え……楽屋に戻り衣装に着替える。彼女自身がデザインした記憶の中の佐為の衣装に出来るだけ近付けたものに……。

 

 扇子を握りしめて彼女は鏡の中の自分を見た。佐為がすぐ側に居る――彼と似た自分を見て彼女はそう感じた。

 

(そうだ。佐為はここに居る。私が碁を打てば……側に来てくれる……)

 

 とびきりの笑顔を鏡の前で作って見せて……ヒカルは名人に挑むためにスタジオへと向かった――。

 

「さぁ! 始まりました! サイちゃん、プロ棋士への道――第二弾! 前回はなんとプロに勝ってしまったサイちゃん。今回は囲碁の名人と対戦してもらいます! 解説は前回と同様、一柳先生に来ていただきました!」

 

「いや、この対局は面白くなるよ。普通は名人にアマチュアが挑むなんて無謀なんだけどさ。なんせ、サイちゃん、ネット碁で俺に勝っちまったからなぁ。塔矢先生に勝つのは難しいだろうけど、タダじゃやられないだろうねぇ」

 

 司会と一柳は如何にヒカルが素人離れしている棋力を持っているのか碁をあまり知らない視聴者のために分かりやすく解説する。

 

 碁に少しでも覚えのある者は既にヒカルが一柳にネット碁で勝利しているという情報のみで驚愕しているのだが……。

 

 

 

「「お願いします……」」

 

 両者頭を下げて、対局が始まる。今回は行洋が黒を持ち先番だ。

 

(やっぱ、塔矢よりも怖え感じがする分……プレッシャーがやべーな。ははっ……、こんなに緊張するのは久しぶりたぜ)

 

 行洋の一手に応えるように――ヒカルは佐為の打筋で丁寧に手を進めていく。

 

 

 

 

「うーん。サイちゃん、緊張してミスをしてしまったねぇ。ここをオサエちゃうと黒に付け込まれてしまう。まぁ、塔矢先生と面と向かって対局するなんざ中学生じゃなくてもビビっちまうからなぁ」

 

(トップ棋士と変わらぬ手応えだったが……、ここに来て悪手? いや……、この手は深く先まで読んでいくと――)

 

 ヒカルの一手から何かを感じ取り、行洋は長考した。

 そして、持ち時間をたっぷり使った彼は一手を打ち出す。

 

「塔矢先生、こりゃあ一体……。いや、待てよ……、この手は――」

 

(やっぱ、ここは読まれたか。だが、そう来ることは分かってたぜ――)

 

(むっ……、やはり狙いはそこか……。しかし――)

 

 序盤から中盤に差し掛かり、ヒカルが仕掛けては行洋が躱す展開。

 形勢は未だに互角。この手合はプロ棋士――それ以上に今年のプロ試験を受ける全若手が注目している。

 

 ブラウン管を通して映る……美少女アイドルが名人に挑む表情は凛々しく――多くの棋士たちを魅了していた――。

 




一柳かませはベタな展開だけど、なんとなく。
次回、アイドルVS名人……決着!


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其の五

 テレビの前でおかっぱ頭の少年は父の対局を見守っていた。彼は塔矢アキラ――名人……塔矢行洋の息子である。

 

 幼少期より囲碁一筋でその類稀なる才能から既にプロ顔負けの実力を持っており、中学二年生になる今年――プロ試験に挑む予定だ。

 

 そんな彼はヒカルと行洋の対局を見て戦慄している。

 芸能人に疎い彼でも『アイドル・サイ』の名前は聞いたことがある。だが、単なるアイドルが名人である自分の父と互先で一歩も引かずに戦っているという事実には度肝を抜かれた。

 

「彼女も僕と同じ中学一年生だと言っていたが――こんなに強い子がいたなんて……」

 

 ヒカルの棋力は問答無用で父や緒方に匹敵する。しかも彼女は自分と同じく今年のプロ試験を受けると豪語していた。

 

 自分と同期になるかもしれない同級生の手合にアキラは釘付けになっている。

 

(――悪手だと思えたオサエが今になって生き始めている。父さんはそれも読んでいたけど、決め手にかけてるみたいだ)

 

 中盤戦に入り、ヒカルの一手が邪魔をして攻めきれない父にアキラは息を呑んだ。

 父が負けるとは考えられないが……そのまさかを起こそうとしているくらいヒカルの白には勢いがある。

 

 握りしめた拳が密かに震えていることに彼は気付いていなかった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

(――塔矢の親父さん……、やっぱ冷静だな。ペースを握って、これだけ仕掛けても躱され続けるとは思わなかったぜ……)

 

 一方、ヒカルは塔矢行洋の確かな実力に舌を巻いていた。序盤での攻防で少しだけ良い形が作れたと思っていたが、ゆっくりと形勢が逆転しようとしていることを感じ取ったからだ。

 

(ここは、多少荒らしてでもペースを掴みたくなるところだけど……。いや、佐為だったらきっと――)

 

 ヒカルは自分の中の佐為に従って中盤戦以降も手を進める。

 もちろん、それは鋭い手であり――解説の一柳もそのセンスを絶賛していた。

 

 しかし、行洋がここに来て勝負に出る。ヒカルの迷いを感じ取るように地を荒らしてきたのだ。

 

 ここで、一気に勝負を決める――先程まで冷静にじわじわと躙り寄るように攻めていた名人が急に人が変わったようにペースアップしたので、ヒカルは面食らってしまう。

 

(――私が迷った場面で容赦なく切り込んできた。つーか、この人……こんな乱暴に荒らして来るようなタイプじゃねーだろ)

 

 ヒカルの知る塔矢行洋はがむしゃらに攻めるようなタイプではなかった。名人らしく受けて立つような威風堂々とした棋風であったと記憶している。

 

(これじゃまるで()()()()じゃねーか。こんなやり方……佐為(わたし)には通用しねーぞ!)

 

 彼女は行洋の怒涛の攻めも静かに受け流そうと手を進める。

 読みの深さには自信があるヒカルは行洋が地を如何に荒らそうとも、対応できる自信があった。

 

 

「驚いたねぇ。名人がこんなやんちゃな攻め方をするとは――。こんな面白い手合……プロ同士の対局でも中々拝めねーぞ」

 

 一柳はまるで若手棋士のような荒っぽい攻め方をする塔矢行洋の碁に驚いていた。

 およそ名人らしくない打筋にどんな意図があるのか……トップ棋士である彼をしても読めない……。

 

 伝わってくるのは――気迫。まるで、進藤ヒカルという棋士に語りかけるような――。

 

 

(――右辺の対応が遅れちまった。一目損したか……。だけど、こっちが緩んでいる。だったら私は――)

 

(さすがに簡単には崩れないな。中学生とは思えないほど老獪で成熟している碁を打つ。だが、私が見たいのは――()()()だ!)

 

 終盤戦に差し掛かり、細かい攻防が繰り広げられている。

 行洋の一手から放たれる威圧感は更に増し――ヒカルも負けじと最善手を模索する。

 

(佐為は絶対に負けない……! あいつの碁で神の一手に近付くんだ――!)

 

 彼女は佐為の力を信じて白い碁石を盤面に打ち込む。

 碁の打ち方……、奥深さ……、厳しさ……、そして何より楽しさを教えてくれた彼に報いるために――。

 

 

 

 

 ――そして、二人の対局はついに最終局面を迎えた。

 

 

 

 

 

 

「……なぁ、伊角さん。俺より年下のアイドルが名人と対等にやり合ってるんだけど……」

 

「……俺はどっちかと言うと名人の攻め方に驚いてるよ。こんなに荒らすようなことやらないだろ? 普通は」

 

「ねぇ、和谷。これって……どっちが良いのかわかる……?」

 

「序盤はサイちゃんが良い形を作ったと思ったけど……。こんだけめちゃめちゃに荒らされちゃあな……」

 

「僕にはどっちが良いのか全然分かんないや。本田さん、分かる?」

 

「……い、いや。ほとんど互角だし……、自信を持ってどっちとは……」

 

 院生たちは集まってヒカルと行洋の対局を見守っていた。

 今年もプロ試験をもちろん受ける予定の彼らにとって必ず関門となるであろうヒカルの棋力を測る数少ない機会。それなら、みんなで研究しようということで、みんなで集まってテレビを見ていたのだ。

 

 一柳棋聖がネット碁で負けてしまったことは和谷から聞いていたので、ある程度強いことは何となく知っていたが……実際にテレビで名人に果敢に挑む彼女の姿を見ると悔しくもあり……嬉しくもあった。

 

 この美しい棋士と将来競い合うことが出来るかもしれない……という期待は彼らに一層のやる気を与えたのである。

 

 “アイドル棋士”サイから生まれる完成度の高い一手は――若手棋士たちに活力を与えていた――。

 

 

 

 

 

「サイちゃん、苦しそうですね。塔矢先生が荒らして来たときには、どうしちゃったのか不安になりましたけど……」

 

「名人には、名人の考えがあったんだろう。実際にあのまま攻めた方が俺は勝率が高いと睨んでいたが……、あえてこうやって攻めてみせたのは、あの少女に何か伝えたいことがあったのか……」

 

 芦原と緒方は自分たちの師匠がアイドルと対局する様子を眺めながら、行洋の意図について会話をしていた。

 

 緒方は荒らさずとも行洋は勝てたと考察し、わざわざこのようなリスクのある打ち回しをした理由はヒカルへのメッセージなのではないかと持論を述べる。

 

「伝えたいことって何ですか?」

 

「俺が知るか……」

 

 だが、行洋の意図するところは結局のところ本人しか分からない。

 彼は決して意味のないことをするようなタイプではないので、何か未来を見据えてのことだろうという推論を……緒方は敢えて口には出さなかった。

 

 

「おそらく、名人の三目半勝ちといったところだろう。予想以上の逸材だったな。あの年齢で名人とこれだけ打てるんだ。近い将来、タイトル争いをすることになるだろうぜ」

 

「うわぁ、次のプロ試験を受ける子たちは災難だなぁ。アキラくんもいるし……、一つの椅子を争わなきゃならなくなるんだ」

 

 緒方が当たり前のようにタイトル争いという言葉を出したので、芦原は今年のプロ試験を受ける若手たちに同情した。

 飛び抜けた実力を持つ中学生が同じ年に二人も受験するのだから……同時期に受ける棋士たちにとっては堪ったもんじゃないと……。

 

 

 テレビの画面の向こう側で涙を流して悔しがる彼女には――年相応の幼さが残っているようにも感じられた――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ちくしょう……! 負けちまった……、出来ること全部やったのに……、塔矢の親父さんの揺さぶりに日和って……、ペースを崩されちまった……! 佐為なら、あんな無様にやられるなんてあり得ねーのに! 何やってんだ……私は)

 

 ヒカルは悔し涙を堪えきれなかった。負けたからではない。佐為の碁がブレてしまったことへの後悔だ。

 

 塔矢行洋が名人らしからぬ荒れた碁を打った――それだけでメッキが剥がされたような気がして堪らなく悔しかったのである。

 

「本来は君が()()()()()()のではないかね?」

 

「えっ――?」

 

 俯きながら涙するヒカルに、行洋は穏やかな口調で言葉をかけた。

 まるで全てを見透かしたような彼の視線を彼女は受け止めることが出来ない。

 

「プロの世界で待っている。今度は是非とも()()()を見せてほしい……」

 

 このとき、ヒカルは行洋の言葉の意味を完全に理解した。

 彼は自分が居なくなった佐為の真似事をしていることも全部知っている。それで、途中からブレてスキを作ってしまったことも……。

 

(はは、やっぱこの人は只者じゃねーや。あの佐為がライバル視するだけはあるぜ。そうだ。私の打ってる碁はまだ偽物だ……)

 

「――だけど、私はこの碁を打ちたい。誰が何と言おうと……佐為の碁を……。今度は本物をお見せします……」

 

 この台詞を口にしたとき……ヒカルは敗北して――初めて行洋の目を見た。

 彼女の目には強い意志が宿っていた。

 

 例え……棋士として、間違った選択だとしても……彼女にとって偶像とも言える佐為に成る目標は捨てきれない。

 

 それは憧れを通り越して崇拝に近い感情なのかもしれない。

 

 

「――そうか。……では、最後にもう一つ。君は碁が好きかね……?」

 

「――ええ。もちろんです。()()()()()()()()()()()()ことが何よりも幸福だと考えています」

 

 視線を逸らさずにヒカルは行洋の問いかけに答える。

 ヒカルは碁が好きだ。愛している。でも自分よりもずっと碁を愛していたあいつは碁石に触れることすら出来なくて――だから自分がそいつの代わりに打ち続ける――。

 

 彼女は今回の敗北で自分の甘さを知り……、それでも自分の向かう方向は変えられないと――心の底からそう悟った――。

 

 

 

 負けたとはいえ、名人を相手にして名勝負を繰り広げたアイドルは全ての囲碁ファンに夢を与える。

 

 彼らは彼女がプロ棋士になる日を今か今かと待ち望んでいた――。

 

 




いきなり名人戦……負けイベントですいません。
次回はプロ試験とか。



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其の六

すいません。色々あって書けませんでした。
長い目で見てあげてください。


「愛するフォーリンドーナツ♪ 明日もそれなりに楽しいよ♪ fu!fu!fu! 落とすつもりなら、微笑みかけなくちゃ♪」

 

 塔矢行洋名人との対局から敬遠されてしまったのか、アイドル“サイ”VSプロ棋士という話は打診を出してもどんなプロにも断られるようになってしまった。

 だから、ヒカルはこうやって名前を売るためだけにアイドル活動をやってる。

 彼女は不満かもしれないが、名人とあれだけ早く対局出来たのだ。アイドルになった価値は十分にあっただろう。

 

 それに彼女はこれから思う存分、プロ棋士との対局は十分に堪能出来るようになる。

 

 そう。来週からプロ試験が始まる。既にヒカルは親からも許可を得て外来としてプロ試験に参加することが決まった。さくらTVのバラエティ番組でも特集される予定である。

 

 ――平安アイドル“サイ”はプロ棋士になれるのか、と。

 

 ヒカルはプロになることをナメてる訳じゃないが、プロ試験自体はあくまでも通過点としており、特に意識はしていない。

 あれから研鑽を積んだ彼女は佐為の碁をより自分のモノへと昇華させた。

 次は塔矢の親父さんを失望させないと自信が持てるほどに。敗戦を引きずって立ち止まるような精神的な弱さは、今の彼女にはない。

 それほど佐為の碁を知らしめるという義務感は彼女の中で強く根付いているからだ。

 

 ――棋士として間違った方向に進んでいることは自覚しつつ、彼女は敗戦を糧にして……また一歩強くなってしまった。

 

「ミュージックターミナル。生放送でお送りしております。いやー、平成に現れし、平安アイドル“サイ”ちゃんの歌声はいつ聞いても……こう、魂を揺さぶられますね〜〜」

 

 今年は紅白歌合戦確定と言われるほど、アイドル“サイ”のCDはバカ売れしていた。

 2曲連続ダブルミリオン達成し、今年の顔となった彼女は既に芸能人として有名になり過ぎた感すらある。囲碁に専念するために引退なんてしたら、暴動起きる程に。

 しかし、ヒカルはまだ気付いていない。思った以上に自分の影響力が世間に出てしまっていること。

 

 

 

「はぁ、今日も疲れたぜ。佐為のために頑張ってんだからな。感謝してくれよ」

 

(別に私はヒカルにそんなことをやってほしいなんて、思ってません。でも、あの歌は良かったですよ。歌ってもらえませんか? 愛するフォーリン……なんでしたっけ?)

 

「ドーナツだろ? お菓子だよ。この前見せたじゃん。それより打つぞ。今日も負かして泣かしてやる!」

 

(ふふっ、本当にヒカルは強くなりました。でも、今日は負けませんよ)

 

 断っておくが、ヒカルには佐為は取り憑いていない。

 これはヒカルがイメージで創り出した仮想の佐為との会話である。

 塔矢名人との対局以降……彼女は家に帰ると碁盤を引っ張り出して普段の進藤ヒカルに戻る。そして、イメージの佐為を呼び出し毎日のように他愛のない会話をすることが日課となった。

 

 そして――

 

「じゃあやるか。ニギルぜ……」

 

 ヒカルはイメージの佐為と対局する。幾度も幾度も……。

 一見、これは「進藤ヒカル」が強くなるための方法のように見える。

 しかし、それは間違いだ。ヒカルの狙いはイメージの佐為を本物に限りなく近付ける為の訓練。

 前世ではタイトルホルダーであり、間違いなく最強の棋士の一角だったヒカルがイメージの佐為と対局を繰り返すことにより、佐為をより自分自身のモノとしようとする無茶な理屈のトレーニングなのだ。

 

 それを可能にするヒカルの集中力は驚嘆である。

 彼女は2つの思考を切り離して行い、第二の人格として完璧に近い形で佐為を再現することに成功した。

 常識を逸脱したヒカルの執念が実を結んだ成果と言っても良いだろう。

 

(最近、ヒカルが熱心に打ってくれるので嬉しいです。以前は他の方と打ちたいとわがままを言いましたが――)

 

「馬鹿! これから沢山打つんだよ。何局でも打たせてやる! 佐為の碁がすげーってところをみんなに知ってもらうんだ」

 

(ありがとう。ヒカル……。でも、私は満足しているのです。あなたのおかげで私は以前よりずっと強くなれました)

 

「でも、まだ神の一手は極めていないだろ? 中途半端に終わらせるなよ……。今度は私が手伝ってやるからさ」

 

 心の中で佐為と会話をしつつ、一人で碁盤の前に座り……鋭い手の応酬を演じるヒカル。

 知らない者が棋譜だけを見れば、一流同士の手合にしか見えないだろう。とても一人の人間が生み出した棋譜だとは想像もつかないと断言できる。

 それだけ、「佐為」と「進藤ヒカル」の一手は個性的であり、別物であり、そしてその両方が最高峰の棋力を持ち合わせていた。

 

 ヒカルはこの無茶な鍛錬で、自らの佐為のレベルを飛躍的に上げたのである。

 

 

 プロ試験に臨む、ヒカルのコンディションは絶好調であった――。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 外来予選と合同予選を全勝で突破したヒカルはプロ試験本戦に足を進める。

 予選でヒカルと対局した者たちは彼女との対局後マスコミに質問攻めに遭いちょっとした社会問題に発展しかけたが、基本的には囲碁のプロ試験というものが大々的に報道されるなどブームにさらに火を付けたという点で業界からの評価は高かった。

 

 塔矢名人との対局を見ている棋士たちであるなら、ヒカルの棋力は周知であり……彼女が本戦に残ったことは当然だと理解した。

 

 惜しむらくは、あのとき以上に棋力を増したことを証明出来るような対戦相手に恵まれなかったことだ。そんな相手はタイトルを所持するようなトップ棋士しか居ないので当然なのだが……ヒカルは少しだけ退屈を感じている。

 

(塔矢もこの頃の棋力じゃ、佐為の相手にはならなかった。佐為の本当の力を見せつけるにはプロになって連勝を続けるしかないか)

 

「はい。無事に本戦に進むことが出来ましたので、ここから初心を忘れずに一つ一つの対局を大事にしていきたいです」

 

 インタビューに笑顔で優等生的な解答をしながらも、ヒカルはどこかプロ試験に集中していない自分を自覚していた。

 

 本気の自分が鍛えた佐為の棋力を出し切れないことをストレスに思っているからだ。

 

 プロになってもトップ棋士との手合までの道のりは遠い。

 最短コースで塔矢行洋との対局を実現させたからこそ、ヒカルは十分すぎる早さで目標に向かっているにも関わらず、それをじれったいと思ってしまっているのである。

 

 

「今年のプロ試験には塔矢名人の息子さんである塔矢アキラくんも参戦しているみたいですが、予選での対局は如何でしたか?」

 

 外来予選、合同予選でヒカルは塔矢アキラと既に二度も対局している。

 彼の棋力は既に低段のプロ以上であり、同世代の中では敵は居ないと断言出来る程だった。

 しかし……さすがにヒカルに全力を出させるには至らず、彼女は彼に完勝する。

 

 ヒカルはアキラが敗戦を悔しがると予想していた。

 だが、その予想は外れた――。

 

『これほどの人が同世代に居るなんて嬉しいよ。本戦ではせめて君に全力を出してもらえるように、僕は自分自身を鍛え直す……!』

 

 呆れるほどに爽やかな表情でアキラは自らを鍛え直すと宣言する。

 寧ろ彼は嬉しかったのだ。自分以外に同世代で真剣に神の一手を極めんとする者がいることが……。

 

(進藤ヒカル……僕の生涯のライバル……。そう認識してもらえるにはまだ力は足りない)

 

 同世代の棋士による二度の敗戦は塔矢アキラの天才性を覚醒させるに至った。

 本戦までの短い期間で、アキラは飛躍的な成長を遂げることとなった。

 

(でも、まぁ。塔矢はあのままで終わるような奴じゃないだろう。本戦でどれくらいの腕になってるかは、ちょっと楽しみだな)

 

「塔矢アキラくんは強かったです。本戦でも彼との対局が一番楽しみですね」

 

 ヒカルは笑顔を崩さずに本心を述べる。

 この何気ない一言は塔矢アキラを奮起させるのに十分だった。

 アキラは彼女を失望させないために死にものぐるいで頑張る。一歩でも理想だと憧れた彼女の一手に追いつくために――。

 

 

 

 そして、さらに月日は流れ……いよいよ本戦が始まった――。

 

 

 

 

 

「あ、ありません」

 

「ありがとうございました……」

 

 ヒカルは初戦を一番に中押し勝ちで終わらせる。

 彼女の思考速度は既に常人の域を超えており、ほとんどノータイムで急所を捉えるような一手を打ち込む。

 彼女と対戦した相手はその繊細で可憐……にも関わらず研ぎ澄まされた刃のような切れ味の鋭い一閃に魅了されていた。

 

(負けたのに、何だ? この心地良さは。これがアイドルの力なのか……。帰りにCD買おう)

 

 そして、敗北した対戦相手は今までアイドルになど興味がまるで無かった者までも、何故か平安アイドル“サイ”のCDを購入して帰宅した……。

 

 サイの信者は着々と囲碁界に増殖中なのである――。

 

 

(あれ? 塔矢のやつ……あんなに険しい表情してるな。私以外は楽勝かと思ってたけど)

 

 ふとヒカルは塔矢アキラの対局を気にした。

 彼の棋力ならばプロ試験など余裕のはず。自分以外に黒星を付けられる者など居ないと思っていた彼女は、アキラが長考中によく見せる表情に気が付き困惑する。

 

(どれどれ……、どんな対局なんだ? えっ? 塔矢が負けてる? どうして……)

 

 目に見えて劣勢なアキラにヒカルは素直に疑問を覚えた。

 そして、その対戦相手の一手にヒカルはさらに息を呑むこととなる。

 

(こ、これは……まさか。そ、そんなはず……)

 

 一手、手が進むごとに感じたのはよく知る棋士の棋風。

 そう、これは本因坊秀作――いや、藤原佐為の碁だ。

 間違いなくオリジナルの佐為の碁が目の前の盤面で繰り広げられていた。

 

(考えられることは一つ。佐為はこの人に取り憑いていて、この人は佐為に打たせてるんだ。なんで、なんでまたこの人なんだよ……)

 

 塔矢アキラの対戦相手に佐為が取り憑いていることを確信したヒカル。

 

 彼の対戦相手……それは――。

 

 真柴充――前世ではヒカルたちよりも一期早くプロ棋士になった男である。

 

 本物の佐為の碁を目前にしたヒカルは……動揺を隠しきれなかった――。

 

 

 

 

 

 




プロ試験のボスバトルは塔矢アキラではなく、佐為の取り憑いている真柴くんです。
本物の佐為に偽物の佐為が挑みます。

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其の七

「なんで真柴さんなんだよ! 理不尽だろ……! なんで私のところに来てくれなかったんだ……!」

 

 この日、ヒカルは荒れた。

 そのショックはかつて佐為と別れたときに匹敵し、逆行して女に生まれ変わったときを凌いだ。

 彼女は佐為に自分の碁打ちとしての人生を全て捧げても良いと思っている。生涯、佐為という親友の影として碁を打ち続けてもいいと願っていた。

 その夢は叶えられるはずだった。自らが藤原佐為となることによって。

 もう少しで佐為の碁は完成するはずだったのである。

 

 ここに来ての()()()佐為の出現はヒカルにとって碁に対する情熱を失わせるに等しかった。

 

「プロになるの辞めちまおうかな……」

 

 本物の佐為がいるのなら自分が藤原佐為を演じる意味はない。

 真柴はきっと佐為に全部打たせるだろう。碁の世界は佐為の碁を知ることとなるだろう。

 ヒカルのやろうとしていたことは何もしなくても達成されるのだ。

 彼女の中に大きな虚無感が生じても無理はないことであった。

 

(本物の私、見つかっちゃいましたね)

 

 イメージの佐為はどこか他人事のように言った。

 

(私は嬉しいです。あなたが私のために碁を打ってくれるなんて。私のために私として生きると言ってくれたことも。ですが私の望みはヒカル……あなたの囲碁人生の礎になることです)

 

 そう言って彼は優しく笑った。

 その笑顔を見て、ヒカルの中で何かが切れた。

 今まで溜め込んできたものが一気に噴出する。

 

「うわああああっ!! うぐっ……」

 

 彼女は号泣した。それはもう子供のようにわんわん泣きじゃくった。

 

「私が一体何をしたって言うんだよぉ!!」

 

 佐為はそんな彼女を黙って見つめている。

 

「私は、私は、お前に居てほしかった! ずっと碁を打ち続けたかった! 居なくなったなら、私がお前になるしかないじゃないか!? それなのにどうして……!」

 

 佐為はそっと手を伸ばした。そして涙で濡れる頬に触れようと手を伸ばす。

 しかし指先は彼女に触れることなくすり抜けた。

 

(……ごめんなさい)

 

 佐為は悲しげな表情を浮かべた。

 彼が望んでいることは分かっている。だがそれを言葉にすることはできなかった。

 

「謝んなよ……。そんなこと言われたら、余計辛くなるじゃんか……」

 

 ヒカルの目から再び大粒の涙が零れた。

 今、彼女には二つの選択肢がある。

 本物の佐為がいる以上、自分はヒカルとして、進藤ヒカルとして自らの碁を打つという選択。

 そしてもう一つは――。

 

「認めない、真柴さんのところにいる佐為なんて私は知らない! 本物の佐為はここにいる! 私の打つ碁が本物の“佐為の碁”だ!」

 

 歪んだ佐為の碁へのこだわり、執着、そして愛憎。

 

 それが彼女の心を狂わせた。

 ヒカルは佐為を見据えると強い口調で言う。

 

「いいか、よく聞け。私は佐為の碁を打ち続ける! 本物の佐為だって、世界中の誰もがそうだと疑わなくなるその日まで!」

 

 佐為はその言葉を聞いて大きく目を開いた。

 

(ヒカル……)

 

 ヒカルの中に新たな決意が生まれた瞬間だった。

 そしてこの日からヒカルは佐為の碁にさらに磨きをかけることになる。

 彼女の心に迷いはなかった。それが彼女が選んだ道……。

 

「私が藤原佐為になってやる」

 

 ヒカルは本物の佐為がいるにも関わらず、自らが藤原佐為となることを決意したのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 そしてプロ試験は続いていく。ヒカルは当然のように圧倒的な棋力を見せつけて全勝をキープしている。

 

「へっへっへ、こりゃあプロ試験は楽勝だな」

 

 そしてもう一人……全勝をキープしているものがいる。

 彼女と同様に完全無欠の棋力を見せつけて、受験者たちを蹴散らす院生。そう、真柴充である。

 

「どうも~、伊角さん。よろしくお願いします」

「あ、ああ」

 

 対局相手の顔色など全く気にせず、真柴は自分のペースで対局を始める。

 彼の実力に圧倒されて、院生トップの実力者である伊角ですら序盤から防戦一方であった。

 

 真柴の碁はまさに神業の一言である。

 まるで神様が盤面全体を見通しているかのごとく棋譜。

 その光景を間近で見ている他の受験生たちは唖然としていた。

 

「真柴さん、一体どうしちまったんだ?」

「伊角さんですら、手玉に取られるなんて」

「あの塔矢アキラを倒したのもどうやら偶然じゃないらしい」

 

 真柴の碁を目の当たりにした者たちは口々にそう呟いた。

 

「あ、ありません」

「あれぇ? もう終わりですか? 残念ですねぇ。伊角さんならもうちょっと粘ってくれると思いましたが」

 

 投了した伊角に対して真柴は平然と言った。

 

(こいつは……本当に何者なんだ?)

 

 真柴の正体を知っているのはヒカルだけである。

 他の受験生は冴えない院生にすぎなかった真柴の棋力が神域に迫っていることをただ、不思議に思うばかりであった。

 

「真柴、失礼だぞ。いくら勝ったからといって――」

「敬語使ってるだけマシですよね? 直に俺はタイトルホルダーになりますし、そしたら伊角さん俺に敬語使ってくださいね」

「……」

 

 傍から聞いていたヒカルは呆れ果てた。

 こんな奴にどうして佐為が憑依したのか理解できない。

 

「さて、じゃあ俺は先に白星の記録つけてきますわ。伊角さんも相手が悪かったということで次頑張ってくださいね」

「くっ……」

 

 こうして真柴は難なく全勝をキープして、ヒカルとの対戦する日を迎えることになった。

 

「進藤さん、明日は真柴さんと対戦だけど勝算はあるのかい?」

「えっ? 塔矢……、じゃなかった、塔矢アキラくん? どうしたの、珍しいね。私に声をかけるなんて」

 

 真柴の対戦を見たあと家に帰ろうとしたヒカルはアキラに話しかけられる。

 アキラは名人の息子として期待されていたが、初日に真柴に惨敗。しかし、その後は全勝をキープしており、真柴とヒカルに次ぐ戦績を残している。

 

「いや、別に深い意味はないよ。君は全勝でずっと首位だし、それに……」

「ん? 何か言いたいことがあるならはっきり言ってよ」

「その……、君の棋風がまた少し変わったように見えて……」

「そっか……。まぁ、あなたにはバレちゃうよね。でも大丈夫だよ。私は負けないから」

 

 ヒカルは自信満々な様子だった。

 その笑顔はどこか大人びて見えて美しく、アキラは思わず見惚れてしまう。

 だがすぐに我に返ると慌てて視線を逸らした。

 

(いけないっ……! 思わず進藤さんの顔を凝視してしまった)

 

 アキラの顔は見る間に赤く染まる。

 だが、ヒカルはそんな彼の気持ちにはまったくといっていいほど気付いていない。

 

 まさか、前世で憎まれ口を叩き合うライバルだった彼が彼女に好意を抱いているなど想像だにしていなかった。

 

「塔矢くん、熱でもあるの? 明日の対局に緊張してるとか?」

 

 ヒカルは心配そうな表情を浮かべながら、アキラの額に手を当てる。

 

(――ッ!?)

 

 その瞬間、アキラの心臓がドクンと高鳴った。

 

(……あ、温かい。父さんと打つときよりも緊張している)

 

 ヒカルの手の感触が心地よい。このまま時が止まってしまえばいいのに……。

 アキラは心の中でそう思った。

 

「うん、やっぱり熱いかも。無理しない方がいいんじゃない?」

「あ、ありがとう。僕は大丈夫だから」

「本当? それならいいけど」

 

 ヒカルは安心したような笑みを見せる。

 彼女の微笑みを見て、アキラの胸は再び大きく鼓動を打った。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 そして翌日、いよいよプロ試験も大詰め。

 この日は真柴対ヒカルの全勝同士の対局である。

 

「アイドルのクセに強いんだって? ちっとは俺を苦戦させてくれると期待しているぜ」

「ふんっ、余裕ぶっていられるのも今のうちだ。私があなたを倒してやる」

 

 二人は対局開始前から火花を散らしていた。

 ヒカルの挑戦的な態度が気に入らないのか、真柴は舌打ちすると乱暴に座る。

 

「チッ、芸能人でちやほやされて調子に乗ってるかもしれねぇが、お前なんかこの場でボコボコにしてやるから覚悟しとけ!」

「ふーん……。言うじゃないか。幽霊に打たせて勝っているくせに口だけは達者なんだな」

「――っ!? な、なんのことだ? 言ってる意味がわかんねぇな……」

 

 ヒカルの言葉を聞いて真柴は明らかに動揺した。

 

(こいつ……、何故それを……?)

 

 真柴は確かに佐為の力を借りて全勝をキープしているが、それは誰にも知られていないはずなのだ。

 なのにどうしてヒカルが知っているのか真柴は混乱した。そんな真柴に対してヒカルは不敵な笑みを浮かべる。

 まるで全てを見透かすかのように――。

 

(お、おい! 佐為てめぇ! 俺の他に誰かに取り憑いたことあるのかよ!?)

(ええ、ですから江戸時代に虎次郎という――)

(そんな昔じゃなくて! 最近の話だ!)

(いいえ、虎次郎の次は(みつる)、あなたのもとに行きましたから)

(そ、そうか。霊感が異様に強くて佐為が見えるとか? まぁどうでもいいか。それより早くあいつをぶちのめしてくれ)

(……わ、わかりました)

 

 佐為にしては珍しく渋々といった様子で返事をする。

 だが真柴にとってはそんなことはどうでもよかった。今は目の前にいる女を倒すことだけを考える。

 佐為が打てば負けることはない。佐為は絶対だ。それに、ヒカルがどんなに幽霊を使って対局していると主張しても証拠などどこにもない。

 

 そう思うと真柴は自信を取り戻していく。

 そして定刻になり、対局が始まった――。

 

(こちらの女性、今までの対戦相手とは実力がまるで違いますね。虎次郎の時代にはこれほどの使い手はいませんでした)

 

 佐為は真剣な眼差しで盤面を見ながらつぶやく。

 

(それでもお前が負けるなんてあり得ねぇだろ! さっさと打てよ!)

(…………)

 

 佐為は黙々と指し進める。その動きには迷いがない。まさに神業だった。

 

 しかし、ヒカルにもまた佐為が宿っている。幾千、いや幾万のイメージによる対局によって完成された佐為が彼の脳内には存在するのだ。

 

 つまりこの対局は、佐為VS佐為。本来ならあり得ぬはずの対局だった。

 互いに一歩も譲らぬ激しい攻防が続く。

 

「…………」

 

(流石は佐為と言いたいところだが、ところどころに甘い部分がある。勉強サボっていたのか知らねぇけど! 佐為はそんなに弱くねぇ!)

 

 ヒカルは内心イラつきながらも懸命に応戦する。

 その一手、一手の読みの深さは並ではない。

 ヒカルは自らの心の中に創り出した佐為の力は彼の記憶の中の全盛期の彼を超えていたのである。

 前世で本因坊を獲得したほどのヒカルとイメージの対局を数え切れぬほど経験した佐為の力は、もはや神の域に達しているといっても過言ではなかった。

 

 一方、真柴に取り憑いた佐為は真柴充という男が怠惰な性格ということもあり、前世のヒカルに取り憑いていたころと比べて勉強不足が目立つ。

 

 その上まだ現世にきて間もなく、幸運にもプロ試験に挑む者たち――比較的にレベルの高い対戦者に恵まれて現代の定石をマスターしていたが、そこ止まりであった。

 

 つまりヒカルのイメージによって生まれた佐為の実力が経験値の差によって、真柴に取り憑いた本物の佐為を上回るという逆転現象が起こってしまったのである。

 

(……なるほど、そういうことでしたか)

(はぁ? なにを納得しているんだ?)

(彼女は私です……、いえ、彼女の中にもまた私がいるのです)

(意味が分からんぞ! もっと分かりやすく説明しろよ!)

(私にもよくわかりませんが、そこにもう一人私がいるんですよ。正確には私になり済まそうとしていると言いましょうか)

 

 真柴は佐為の言っていることが分からずに首を傾げる。

 一方、佐為はそんな会話をしながらも一切の手を止めていない。

 

(もういい! とりあえず俺のために勝ってこい!)

(はい! ……と、言いたいですが、彼女は私よりも強い。まるで未来の私と戦っているような感覚です)

 

 最後の言葉は真柴には聞こえないように彼は呟く。

 そして佐為は心より残念に思う。仮初の自分を装っているヒカルにすら敵わぬことと……ヒカル本人の碁を見ることが叶わぬことに。

 

(ですが、この先どうなるかはわかりませんね)

 

 だが佐為は気づいていた。この勝負は自分の()()だと――。

 

 佐為は勝利を確信していた。

 なぜならヒカルの打つ手が徐々に弱くなっているからである。

 

 彼女は佐為のイメージをするにあたって脳細胞に多大なる負担をかけていた。

 そのため、彼女の思考回路は徐々に鈍くなり、ついにはまともに考えることすらできなくなっていたのだ。

 

 それでも、ヒカルは必死になって喰らいついてくる。

 佐為の前に座っているヒカルもまた佐為なのだ。

 二人は同時に互いの存在を認め、己の存在を賭けて戦う。

 

(あなたが勝つにはあなた自身に戻るしかありませんよ)

(……くっ、私は佐為だ! 見ただろ! 私のほうが強い! より洗練された佐為の碁を打っていた!)

 

 一手打つたびにヒカルの頭の中に佐為の声が響き渡り、自らの中にある佐為の力が弱まるのを感じて焦るヒカル。

 

(それはあなたが作り上げた幻想です。本当の強さは本物にしか宿らない)

(う、うるさい! そんなことない!)

 

 佐為の言葉を聞かずにヒカルは盤面に集中する。

 しかし、次の瞬間――。

 

 パチンッ。

 ヒカルが打った一手に佐為が反応した。

 

(あ、あれ? どうしてこんなところに石を?)

 

 その手はあまりにも強引な一手だった。

 佐為ならば決して打たないような手。……それはまさしくヒカル自身の一手である。

 

(な、なぜ私はこんな手を!? こんなの佐為の碁じゃねぇ!)

 

 その一手に最も動揺したのは他でもない打ったヒカル自身。

 

 佐為が打たぬ手を打ったという……そう佐為の碁を否定するという。矛盾した行動をしたからだ。

 

(ほら、やっぱりあなたはあなたの碁を打ちたいんですよ)

(ち、違う! 今のはちょっと間違っただけ!)

(……ふふ、楽しくなってきました。それで生き延びられる自信があるなら見せてください)

 

 ヒカルは動揺していたが、それと同時に歓喜する気持ちもあった。

 またあの日のように佐為と碁を打っている。その事実に興奮していたのだ。

 

(手が止まらない! ダメなのに! こんなの佐為の碁じゃないのに!)

(そうですか。これが本来のあなたの碁なのですね! 進藤ヒカルの碁……!)

 

 ヒカルは自らの意志とは無関係に手を動かし続ける。

 まるでもう一人の自分が勝手に打っているかのように――。

 

 佐為が打ち、ヒカルが受け、そして返す。

 先程まで清流のような碁を打っていたヒカルだが、今は違う。まるで苛烈な炎が吹き荒れているようだった。

 

(……この勝負、私の負けですね)

 

 佐為は静かに微笑む。

 

(えっ、今なんて言った?)

(……私の敗北です)

 

 その言葉を聞いてヒカルは驚く。

 目の前に座っているのは間違いなく佐為であり、ヒカルが憧れ続けた最強の棋士。

 そんな彼が、進藤ヒカルに……そう自分に負けたと言ったのだ。

 

(そっか、勝ったのか……。私があの佐為に……。……でもなんでだろう、全然嬉しくないや……)

 

 ヒカルは喜びよりも虚しさを感じていた。

 佐為に成ろうとして、佐為として一局に挑んだヒカル。

 だが、結局はそのヒカルが彼女自身のヒカルの碁を打ってしまったが為に佐為を倒してしまったのだ。

 

 それがどれほど残酷なことか彼女以外には理解できないだろう。

 

(充、私負けてしまいました。すみません)

(はぁ? くそっ、複雑すぎて俺には全然わからん! 本当にここから逆転できんのか!?)

 

 真柴は佐為の言葉を聞いても、まだ信じていなかった。

 それほどまでに今までの佐為の碁は完成されていたからである。

 

(まぁいいさ。一敗くらい……佐為が打つ限り俺はプロになっても安泰だ)

 

 しかし真柴も考え直す。たかが一敗、佐為ならばすぐ取り戻すだろうと……。

 だが、彼の予想は大きく外れることになる。

 なぜなら、この対局で佐為は満足して近い将来、成仏してしまうのだから……。

 

「ありません……」

「ありがとうございました」

 

 真柴はヒカルに敗北を宣言して対局は終了した。

 ヒカルはゆっくりと立ち上がり、深々と頭を下げてから部屋を出て行く。

 

「ちくしょう……!」

 

(私、まだ佐為に成れていなかった)

 

 ヒカルは自らの行いを恥じて涙を流す。

 しかし、ヒカルはすぐに気を取り直した。

 なぜなら自分にはまだまだ時間が残されていたから……。

 

「今度はもっと佐為として、佐為らしく……。私の碁はもっと心の奥底に消し去ってやる」

 

 ヒカルは決意を新たにした。

 そして二度と自らの碁は打たないと心に誓う。

 たとえどんな劣勢になろうとも――。




真柴さんのこと知らぬという人はググってね!
プロ棋士編はまたいつか、書けたらいいな!!
あと、念のためですが佐為とヒカルの会話は全部ヒカルの妄想です!


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