白雲朧の妹がヒーローになるまで。 (セバスチャン)
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1期:白雲杳として編
No.1 白雲杳:オリジン


≪登場人物紹介≫
●白雲 杳(しらくも よう)
本作の主人公。白雲朧の妹。


 ――私は、お兄ちゃんが大好きだった。

 

 明るくて優しくて面白くて格好良い、自慢のお兄ちゃん。お父さんもお母さんも、近所のおじさんもおばさんも皆、お兄ちゃんが大好きだった。

 

 私がまだとても小さかった頃、悪夢にうなされた事があった。真っ黒なモヤモヤがずっと追いかけてくる夢。夢から覚めても、ベッドの下からあのモヤモヤが這い出して来そうでとても怖かった。お気に入りのヌイグルミを掴んで廊下に飛び出して、泣きながら隣の部屋のドアをノックした。

 

「どうした?(よう)

 

 すぐにドアは開いて、お兄ちゃんの優しい声がした。暖かい手が、私の頭を撫でてくれた。たったそれだけで、恐怖が浸透して冷たくかじかんだ心がポッと温まり、とても安心したのを覚えている。私が拙い言葉で事の次第を話すと、「じゃあ、気が紛れるまで()()()()をしよーぜ」とお兄ちゃんは悪戯っぽく笑った。

 

 かくして私はお兄ちゃんに抱っこされて窓の縁を乗り越え、文字通り”夜間飛行”を楽しんだ。――窓を開けた時に吹き込んだ、冷たくて清らかな風。お兄ちゃんが創ってくれたマシュマロみたいに柔らかい雲。手を伸ばせば届きそうな程に近づいた月と星。真っ黒いビロードみたいに広がる空。隣にどっかり座ったお兄ちゃんの屈託ない笑い声。

 

 ――私はあの光景を、生涯忘れることはないと思う。

 

 

 

 

 

 

 それからどれ位の月日が経ったのかは分からない。

 

 ――ある日を境に()()()()()()()()()()()()

 

 お兄ちゃんが帰って来なくなってから、お父さんとお母さんはずっと泣いていた。私はお兄ちゃんに会えなくて、寂しくて悲しくてたまらなくなって、地団太を踏みながら叫んだ。

 

「お兄ちゃんはどこに行ったの?」

「遠いところへ行ったの」お母さんはしゃくり上げながら応えた。

「どうして?もう帰ってこないの?」

 

 ”仕方がないんだ”とお父さんは両手で頭を抱え、くぐもった声で呟いた。――何が”仕方がない”ことなの?私はお兄ちゃんに逢いたかった。いつもみたいに玄関のドアを勢い良く開けて、「ただいまー!」って家じゅうに響き渡るような大声を張り上げて欲しかった。

 

 お兄ちゃんを探して、私は家の近所を歩き回った。近所のおじさんやおばさんにお兄ちゃんの居場所を尋ねたけれど、皆悲しい顔をして言葉を濁した。友達の野良猫だって、ニャアと鳴くだけで何も教えてくれない。

 

 

 

 

 

 

 町じゅうを探しても、お兄ちゃんはいない。――もしかしたらお兄ちゃんは家に戻っていたりして。私は最後の希望をかけて、お兄ちゃんの部屋に行ってみた。

 

 ――部屋には、誰もいなかった。その代わりに、ベッドの上にお兄ちゃんが使っていたゴーグルがポツンと置いてある。両側に嵌まったレンズは割れ、フレームもボロボロに痛んでいる。私はゆっくりとそれを取って、被ってみた。サイズが合ってなくて、両手で押さえないとずり落ちてしまう。でもそれは、()()()()()()がした。

 

 ふとドアの近くに人の気配を感じて、振り返った。ひび割れたガラス越しに映る――歪な世界に、お母さんが立っていた。ビー玉みたいに丸く見開いた目で私を見つめて、口元を両手で押さえている。

 

「――(おぼろ)

 

 お母さんは私じゃなくて、()()()()()()()()を呼んだ。そして膝から崩れ落ちて、泣きじゃくり始めた。

 

 ――その時、私は幼心に何となく理解した。

 

 ”お兄ちゃんはもう戻って来ない”ってこと。

 

 そして”お兄ちゃんが消えた穴は、永遠に埋まらない”ってことも。

 

 その穴は体の芯まで凍えるような冷たい風が、奥の方から吹き出していた。そして近くにいるだけで、どうしようもなく悲しくて辛くて、たまらない気持ちになった。

 

 でも私がさっきみたいな”お兄ちゃんの真似”をすると、その風の冷たさが――そして悲しい気持ちが――ほんの少しだけ和らぐ気がした。お父さんもお母さんもクスクス笑ってくれた。少しずつ、家の中が明るくなってくるような気がした。――まるで、お兄ちゃんがいた時みたいに。

 

 その代わりに私の中で()()が少しずつ色を失って、腐っていってしまうような気がした。時に()()は鼻がもげそうに不快な匂いを放ち、私を苛立たせた。

 

 ――でも、そんなの”些細なこと”だ。

 

 お兄ちゃんは私達の太陽だった。この家からお兄ちゃんを引っこ抜いて出来た”あの穴”と正面切って向き合うより、ずっとずっとマシなはずだ。

 

 

 

 

 

 

 そして、さらにそれから数年の月日が流れた。

 

 私は高校受験を控える年になっていた。志望校はただ一つ、雄英高等学校のヒーロー科だ。――そこは、かつてお兄ちゃんが通った学び舎だった。

 

 玄関で靴を履きながら、ドアに嵌まった飾り窓を鏡代わりにして身だしなみを手早くチェックする。雲みたいにふわふわした髪の毛を撫でつけ、制服に皺が寄っていないか確かめていると、お母さんがやって来た。

 

「杳、頑張ってね」

「うん。ありがとう!」

 

 その時、お母さんが何かを言い掛けるように口を開いて――閉じた。何か言いたい事があるのかな。私は靴の踵をトントンする振りをして、その場でしばらく待ってみた。でも結局、お母さんは少し悲しそうに微笑んで「行ってらっしゃい」と言っただけだった。

 

 少し拍子抜けして肩を竦めながら、私はドアを開けて外の世界へ飛び出した。眩い太陽光に思わず目を細め、首に下げたゴーグルをサングラス代わりに掛けてみる。新品に取り換えたレンズは透明に見えるけれど、光源を直視して目を傷めないような特殊加工が施されている。

 

 これから私はお兄ちゃんみたいに立派なヒーローになって、世界をより良くしていくんだ。そんな期待に胸を高鳴らせていると言うのに、高級なガラス越しに映る世界は、何だか安っぽいジオラマみたいに見えた。

 

 ――”亡き兄の猿真似をした、哀れな妹”。もし事情を知る人が私の姿を見たら、そう言って笑うだろう。でもこの時の私には、この方法しか思いつかなかったんだ。滑稽で構わない。紛い物と言われたっていい。これが、私の原点(オリジン)だ。



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No.2 入学試験

※3/23追記:文章の一部を修正いたしました。一部のキャラクターが悪役だと思われるような振る舞いをするシーンがあります。苦手な方はご注意ください。


 事の始まりは中国の軽慶市で『発光する赤児』が生まれたというニュースだった。

 以来、世界各地で超常現象が報告され、世界総人口の約八割が超常能力“個性”を持つに至った超人社会。いつしか“個性”を悪用する者は(ヴィラン)、“個性”を発揮して取り締まる者はヒーローと呼ばれるようになった。

 

 国立雄英高等学校ヒーロー科は、プロのヒーローの資格取得を目的とする養成校だ。

 ”オールマイト”を始めとした名だたるヒーロー達を輩出し、”偉大なヒーローには雄英卒業が絶対条件”と謳われる程、ヒーローになるための登竜門として広く認知されている。

 

 新しい年が明けてしばらく経った頃、日本中の高校と時を同じくして、雄英高校ヒーロー科も優秀な候補生を獲得するため一般入試を開始した。

 青空の下にそびえ立つ、最新鋭の技術が集約された巨大な校舎。大勢の受験生たちがその入口に吸い込まれていく。

 

 ――紺色のセーラー服を着込んだ白雲杳(しらくもよう)も、その一人だった。

 

 

 

 

 

 

 大勢の人込みをやり過ごして何とか指定された席に着くと、杳はゴーグルを額の上に押し上げて天井を仰いだ。それから興味深そうな眼差しで、周囲を見渡してみる。

 

 そこは”講義室”と一言で片づけるにはおこがましいほどに巨大な部屋だった。

 奥には壮大なスケールのスクリーンと教壇があり、それをU字型に幾重にも囲むような形で何千という席が設けられている。杳はちょうど真ん中ら辺の位置にいるらしい。

 

 周囲の人々は皆ピリピリして気が張り詰め、静まり返っている。

 それもそのはず、雄英高校ヒーロー科は全国同科中で最も人気で最も難しく、その倍率は例年三百倍を超える。合格するのは一握り中の一握り。杳達の背中に圧し掛かったプレッシャーは半端な重みではなかった。

 

「今日は俺のライヴにようこそ!Everybody say ”HEY”!!」

 

 突然慣れ親しんだ明るい声が室内にこだまして、杳は弾かれたように顔を上げた。

 先程まで無人だった教壇に有名なプロヒーローが立っている。――ボイスヒーロー”プレゼント・マイク”だ。マイクのきさくな挨拶にすっかり緊張を解された杳は、何も考えずに片手を挙げ「Hey!」と応えた。

 

 しかし、どうやら応えたのは()()()だったらしい。

 周囲の冷たい視線が一斉に突き刺さる。俄かに一人の男子生徒が立ち上がり、眼鏡を神経質にクイッと上げながら杳を睨んだ。

 

「空色のふわふわ髪の君!ここはお遊びの場じゃない!」

「ごめん!ついテンション上がっちゃって!」

 

 杳は後頭部をかきながら苦笑いする。

 彼女は小さな頃からマイクのファンだった。毎週金曜日の夜に放送されるラジオ番組は必ず聴いているし、彼の公式グッズも持っている。

 ヒーロー業が人気商売も兼ねている昨今、ほとんどの国民は”推しヒーロー”を持っていた。図らずも彼女と同じ思いを抱いていたマイクファン達がコソコソ賛同し始めて、張り詰めた会場内の空気は少し和やかになった。

 

 しかし彼はそれを許さない。憤懣やる方ないと言わんばかりの態度で、ヘラヘラ笑う杳を勢い良く指差した。

 

「何がファンだ!物見遊山のつもりなら即刻ここから立ち去りたまえ。……先生もお困りの様子だぞ!」

「……え?」

 

 杳が急いで前方を仰ぎ見ると、マイクは遠目でも分かる程に大きく目を見開いて()()()()()()()こちらを凝視していた。

 

 ……え、私KYだった?マイク怒ってる?公式ファンクラブBANされる?杳がダラダラと冷や汗を流しながら固まっていると、やがて彼は我に返った。

 芝居がかった動作で大きく咳払いをしてから、こちらを見つめてウインクしてみせる。杳のハートは勢い良く撃ち抜かれた。なぜか斜め前の席にいる緑髪の男子も同じように悶絶している。

 

「受験番号7001番くん、俺はノリの良いヤツ大好きだぜ!これからも応援ヨロシクな!」

「ひゃ、ひゃいっ!」杳の声は裏返った。

「それから受験番号7011番くんも、ナイスなアドバイスサンキュー!」

「……はい。差し出がましい真似をして失礼致しました」

 

 男子生徒改め7011番くんは何か言いたげな顔つきでチラリと杳を見た後、大人しく席に着いた。なんとかそれをやり過ごした後、杳は隣席から回って来たプリントに視線を走らせる。

 

 やがて受験生全員に資料が行き渡った事を確認すると、マイクはこれから開始する”実技試験”の概要をサクッとプレゼンしてくれた。

 曰く、演習場に散りばめられた三種の仮想敵を倒し、それぞれ難易度毎に設定された(ポイント)を稼ぐ事。但しタイムリミット直前に現れる四種目の敵は、倒す事ができない上に獲得できるPもない。遭遇したらすぐに逃げる事。

 

「ドッスンは戦わずに回避……」

「なあ、アンタ」

 

 杳が配布されたプリントを真剣に音読していると、不意に左隣から肩を突かれた。

 思わず間の抜けた声を返しながら顔を向けると、一人の男子生徒が静かにこちらを見つめていた。紫色の髪を無造作に立て、目付きの悪い双眸には大きな隈ができている。彼は感情の読めない表情を保ったまま、言葉を続けた。

 

「どんな個性を持ってるんだ?」

 

 良くも悪くも、杳は正直な性格だった。箝口令を敷かれない限りは、訊かれた事は嘘偽りなく応えるタイプだ。

 杳は掌の上に小さな雲を浮かばせてみせ、うるさくしてまた7011番くんの怒りを買わないように、囁き声で説明した。

 

「私の個性は”(クラウド)”。文字通り、雲を出せるんだ。

 フワフワしてるから攻撃には向かないけど、盾みたいに張って防御したりとか……あと上に乗って移動もできるよ」

「ふうん。防御に、移動手段ね」男子生徒は掠れた低い声で、ポツリと呟いた。

「随分と()()()()()()()()()なんだな」

 

 ――何だか引っかかるような物言いだった。でも一応褒められてはいるんだから、お礼の言葉を返しておくべきだろうか。杳は小さな雲を掌内に握り込んで消しながら、ゆっくりと応えた。

 

「そりゃどーも?」

 

 しかし、男子生徒からの返答はなかった。配布されたプリントを眺めている。

 杳は小さく肩を竦めた。それからマイクの指示に従って演習場へ向かう為、彼と一緒に席を立った。

 

 

 

 

 

 演習場は、一つの街を丸ごと模倣したものだった。

 無人の街といっても差し支えないほど広大なフィールドに足を下ろした杳はゴーグルをしっかりと着け、背中に吊るしたホルスターから鉄パイプを抜き出し、ゆっくりと周囲を見渡した。

 

 辺り一帯は優れた身体能力を如何なく発揮しそうな雰囲気のライバル達でいっぱいだ。そして悲しい事に自分は()()()()()()

 でも雲に乗って空は飛べるし、あまり重量のない標的なら雲で持ち上げてから落とす”フリーフォール攻撃”ができる。とりあえずは上空から索敵し、一体でも多くの仮想敵を見つけ出すんだ。その後は気合いで何とかする!

 

 ついにスタートの号令が掛かった。大勢のライバル達が頭上を跳び越え、建物の影から姿を現し始めたロボットに突撃していく。

 ――自分も行かなければ。杳が雲を創り出して今にも飛び乗ろうとしたその時、後ろから肩をポンと叩かれる。

 

「なあ」どこかで聴いた声だ。

「ん?」

 

 声に返答した次の瞬間、杳の体はピクリとも動かなくなった。そして意識がまどろみ、たちまちあやふやになって、何もかも分からなくなった。

 

 

 

 

 

 

 どのくらい時間が経ったのだろう。心の奥底に沈んでいた意識が徐々に浮上していき、やがて杳はパチリと目を開けた。

 

 ――まず最初に目に入ったのは、透き通るように青く染まった空だった。

 さっきまで演習場の入り口に立っていたはずなのに、いつの間にか杳の体はどことも知れぬ瓦礫の上に横たわっていた。体を起こすと、すぐ目の前に行動不能状態となった仮想敵が一体転がっている。

 

「心操、俺を()()したな!」

 

 いきなり大きな怒鳴り声が飛び込んできて、杳は慌てて前方を見た。

 屈強な体躯をした少年が、倒壊しかけた建物の壁に紫髪の少年の両肩を掴んで乱暴に押し付けている。前者に面識はないが、後者は見覚えがあった。――隣の席にいた男子だ。

 

 ひび割れた建物の隙間からは、瓦礫や小石の飛び散る音と共に――ロボットや受験生達が忙しなく駆け回る喧騒が漏れ聞こえてくる。

 

 早い者勝ちとも言えるこの試験は、個々の優秀さ・戦闘能力が早期に浮き彫りになる。実戦向きの個性や実力を有する者は、開始数秒足らずで多くのロボットを破壊し、そうでない者がどれだけ足掻いてもどうにもならないほどの大差をつける。

 

 ――ひとりでは不可能でも、複数なら。心操は()()に焦点を当て、個性をかけて即席のチームを結成した。そして協力し合う事で、より多くのロボットを制圧する事に成功していた。だが、その事実を少年や杳が知る由もない。

 

 次の瞬間、ビーッビーッという耳障りな警報音を鳴らしながら、銀色に光るドローンが建物の間を縫うようにして飛んできて、三人の目の前で急停止した。

 

『警告!3124番!』ドローンが叫んだ。少年の肩がびくりと震える。

『他人ヘノ攻撃ハるーる違反!コレ以上攻撃ヲ加エルナラ強制退場トスル!』

「ちょっと待てよ!こいつは俺達を洗脳してたんだぞ!」少年は憤り、心操を指差した。

「こいつの方がルール違反だろ!」

『5421番ノ行動ハるーる違反デハナイ』

 

 ドローンの無情な宣告を受け、少年は茫然となり、目を見開いた。しかし続けてドローンが放った言葉で、二人の立場は逆転する事となる。

 

『ダタシ仮想敵ヲ()()倒シタ者ニノミPハ与ラレル。

 現時点ノ所持P確認中……3124番ハ現在50P、5421番ト7001番ハ共ニ0()P()

「?!」

「えっ?!」

 

 心操と杳は思わず絶句した。

 ――二人の少年の会話を通して、現在に至るまでの経緯は何となく理解した。

 しかし曲がりなりにもスリーマンセルで仮想敵を倒してきたのだから、Pは山分けになるんじゃないか?そう思っていた杳の予想は、完全に裏切られてしまったのである。

 

 さらに追い打ちを掛けるように、付近に建つ電柱に設置された大型スピーカーが『残り時間はあと五分~』だと告げる。少年は胸のすく思いで心操を睨み、それから気まずそうに杳を見やった。

 

「フン、ざまあないな!」少年はそう言い捨ててから、杳に近づいた。

「君も急いだ方がいい。頑張れよ」

 

 少年は励ましの意を込めて杳の肩を叩き、演習場の中心部へ向かって駆け出して行った。ドローンもふわりと急上昇し、どこかへ去って行く。

 ――後には、壁を背にして座り込んだ心操と杳だけが残った。

 

「……行けよ。0Pなんだろ?」心操は俯いたまま、擦り切れた声でそう言った。

「やっぱり……()()()()と思ってた」

『残り時間はあと四分~』

 

 現時点の所持ポイントはゼロ、おまけに残された時間はほとんどない。杳は今まさに絶体絶命のピンチを迎えていた。

 ……()()()()()()()()()()()()人生の岐路で選択を迫られた時、杳は”兄の記憶”をコンパスにして乗り越えてきた。お兄ちゃんならこんな状況でも絶対に諦めない。それから……杳は夢破れ、力なく座り込む少年を見下ろした……()()()()()()()。私たちが今からやるべき事はたった一つだ。

 

「立って。一緒に敵を探して倒そう!」杳は心操に手を差し伸べた。

「まだ四分もある。()()()()()()()できるかも」

 

 対する心操は差し出された手を思わず振り払い、信じられないものを見るような目で杳を見上げた。杳の澄んだ双眸と、心操のくすんだ双眸が交錯する。

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 心操人使は孤独な少年だった。”洗脳”という特殊な個性を持っているだけで、人々は彼から遠ざかっていった。

 

 (心操君の個性、”洗脳”?すごい、初めて聴いたー)

 (羨ましい。悪ィ事し放題じゃんか)

 (足つかないしね)

 (私ら洗脳したりしないでよ?)

 

 上っ面の良い声で、周囲の人々は笑う。万人に好かれるような笑顔、立ち振る舞いや言葉遣い。人々に避けられず、円滑にコミュニケーションを取るためなら、心操はどんな知識や技術も吸収し、それらを発揮できるようにと努力した。

 

 しかし全ては徒労に終わった。どんなに良いスタートを切っても、個性の内容を告げたとたん誰もが皆、彼の下から立ち去り、代わりに嫌な感情の籠もった視線を送り付けてくる。

 ――誰も()()()()を見ようとしなかった。

 

 「ハハ、皆そう言うよ」

 

 誰も本当の味方がいない冷たい世界で、彼は一人空虚に笑った。

 ……そりゃ俺も他人が持ってたらまず悪用を思い付く。犯罪者、”敵”向きだねって言われるのは慣れっこ。世の中そういうモンだって分かってる。でも……

 

 本当は、誰かに分かってほしかった。信じてほしかった。

 生まれ持ったこの個性と自分自身、そして小さな頃から憧れ続けた”ヒーローになる夢”を否定しないでほしかった。

 けれど期待を裏切られ過ぎて、いつの間にか諦めてしまっていた。

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

「アンタ、頭湧いてんのか?」心操の声は引き攣っていた。

「俺はアンタを利用したんだぞ」

「それはもういいよ。それより今、できることをやらなきゃ」

 

 杳は半ば無理矢理心操の手を掴んで立ち上がらせると、元気づけるように明るく笑ってガッツポーズを取った。

 

「大丈夫。一緒にヒーローになろうぜ!」

 

 ”なんて安っぽい笑顔に、歯の浮くような台詞だ”と世間は笑うだろう。

 だが、心操はそう思わなかった。()()こそが、物心ついた頃からずっと心の奥底で求めていたものだった。積年の諦観がこびり付いて錆び切っていた彼の歯車は、志を同じくする者の言葉を受けて少しずつ動き始める。

 

 

 

 

 

 

 突如として、凄まじい轟音がとどろいた。

 大地震が起きているかのように、地面がグラグラと揺れる。杳はすぐさま雲を創り出して心操を乗せ、頭上から降り注ぐ瓦礫の間を縫うようにして中空に飛び出した。

 

 そして目撃したものは……”四種目の仮想敵”、超巨大なロボット型ギミックだった。

 

 特撮映画でよく見かける”怪獣”そのものだ。

 出現するや否や大暴れモードで街を破壊しつつこちらへ進んでくるギミックの様子に目を凝らした心操は、突然息を飲んで叫んだ。

 

「アイツの所へ飛べ、早く!」

「なんで?四種目は絶対に逃げろってマイクが……」

()()()()()()()()()()

 

 二人を乗せた雲は猛スピードでギミックの足元に向かって突っ込んだ。

 心操の指差す先を見ると、今まさに巨大なギミックの足が、瓦礫に埋もれてもがいている女生徒に向かって振り下ろされようとしていた。

 

 ”瓦礫をどかして少女を雲に載せ、脱出する時間はない”――その状況を本能的に理解すると同時に、杳は雲を消して心操を少女の近くに下ろした。それからギミックの足下に潜り込み、両手をかざして力を込める。

 両掌の先から大量の雲を放出しつつ、杳は想像力をフル回転させた。……これから創るのは、ギミックの足裏をしっかり受け止めて皆を守れるような”巨大障壁”!

 

 

「――M B C S(めっちゃビッグなクラウドシールド)!!」

 

 イメージを具体化させるべく、杳は夢中で叫んだ。かくして主の命に従い、膨大な量の雲は一気に収束して直径十数メートルもある円型シールド状に凝固し、大きなギミックの足裏をガッシリ受け止める。

 

「お、重い……!」

 

 しかし圧倒的な重量&質量を持つ高性能ギミックと即興で創ったMBCSとでは、如何せん()()()があり過ぎた。ギギギと不快な金属音を響かせながら、ギミックの足が徐々に雲を押し潰していく。

 ――まずい、思ったより持たない!杳は圧縮されゆく雲の補充を試みながらも後方を振り返った。

 

 一方の心操は、女生徒の上に降りかかっている瓦礫を取り除き終わっていた。

 しかし彼が女生徒を担ぎ上げようとした瞬間、彼女の体が突然スライム状に融けた。……ギミックに踏み潰されかけてパニック状態に陥った彼女は、一時的に個性を暴走させてしまったのだ。

 女生徒が液状化した事で救助はより困難になった。……このまま押し問答していても埒が明かない。心操はスライムを突いて叫んだ。

 

「おい、アンタ!」

「何よっ……!」女生徒はくぐもった声でそう言ったと同時に、ピタリと動きを止めた。

「”そのまま安全な場所まで這っていけ”」

 

 心操の洗脳を受けた女生徒は、粘液状の体を器用に動かしてその場を這い去っていった。そのコンマ数秒後に心操は杳の乗った雲に飛び乗り、ギミックの踏みつけ攻撃を辛くも逃れた。

 ……何とかやり遂げた。無事に安全な場所まで到達した女生徒の姿を上空から見下ろして、二人は安堵の溜息を零した。同時に試験終了のアナウンスが場内に響き渡る。

 

 

 

 

 

 

「……あちゃー」

 

 さっきまでの威勢はどこへやら、真っ白に燃え尽きた杳は投げやりな口調で呟いた。

 強制終了させられたのだろう中途半端な体勢でピタリと静止したギミックを眺めながら、杳達は雄英の誇る最強の看護教諭”リカバリーガール”の治療を受けていた。

 

「アンタさ」心操がリカバリーガールから貰ったハリボーグミを口に投げ入れながら呟いた。

()()()受けてないのか?」

「……滑り止めに受けてるけど」

 

 杳がグミを含んだ口でモゴモゴ応えると、心操は相当罪悪感が募っていたのか、明らかに安堵した様子で「俺も」と呟いた。

 それは別に珍しい事じゃなかった。驚異的な倍率を誇る雄英高校ヒーロー科を受験する者は、保険として”活躍次第でヒーロー科に転入できる可能性のある”普通科も併せて受けるのがほとんどだ。二人も多分に漏れずそうだった。

 

 それからしばらくの間、ただ二人は黙ってグミを噛んでいた。”二人揃って所持Pはゼロ”という最悪の展開を迎えていると言うのに不思議と嫌な気分がしない。どこか吹っ切れたような……やり切ったような……清々しい気持ちだった。

 ふと心操がこちらを見て、静かに口を開いた。

 

「アンタの事、利用して悪かった」

「別に気にしてない」杳はあっけらかんと言い放った。

「あと私の名前、白雲杳ね」

 

 心操は少し驚いたように目を見張ってから、ぎこちない口調で応えた。

 

「心操人使。……個性は”洗脳”」

 

 杳はふと心操と初めて出会った時の事を思い出した。……ので、非常に底意地の悪い笑みを浮かべてやり返す。

 

「随分とヒーロー向きの個性なんだな」

「……そりゃどーも?」心操も負けていなかった。

「さあさああんたたち、そろそろお帰りの時間だよ」

 

 やがて付近の生徒達の治療を終えたリカバリーガールが戻って来て、急き立てるように二人を立ち上がらせた。杳達は後ろ髪を引かれる想いで、彼女の先導に従って出口に向かい歩き出す。

 

「……私は諦めないぞ」徐々に元の調子を取り戻してきた杳がポツリと呟いた。

「普通科から伸し上がってやる!やってやるぞヒトシ!」

「まあ、あまり()()()でないよ。お若いの」

 

 リカバリーガールは陽だまりのように優しい声音でそう言うと、振り返っておっとりと笑った。

 

「あんたたちは()()()()()()()()()()()()()()。その頑張りはきっと悪いようにはならないよ。……大丈夫、あたしを信じなさい」

 

 リカバリーガールの言葉はこの試験の本質を突いていた。

 ――杳達の行った救助行動にメリットは一切ない。だがメリットがない時にこそ、ヒーロー志望者の()()が問われる。二人はヒーローになる上で最も大切な”自己犠牲の精神”を発揮し、真の試練を突破した。

 雄英の指導者達が見ていたのは稼いだポイント数だけではなかったという事実を、二人は後日届いた合格通知と共に知る事となる。



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No.3 登校初日

 固く膨らんだ桜の蕾が彼方此方でふわりと芽吹き、春の訪れを告げた。

 ――入学式シーズンの到来だ。真新しい制服に身を包んだ若者達が、興奮した面持ちでキョロキョロ辺りを見回しながら各々の学び舎へ向かっていく。

 

 そしてそれは雄英高校も同じ。

 

 さて暦は四月一日、始業時刻より三十分程前。雄英高校ヒーロー科一年A組の教室では、ほとんどの生徒達が席に着いていた。

 皆、事前に指定された席に座り、油断なく周囲に視線を巡らせている。あの驚異の倍率を見事勝ち抜いた金の卵達はこれから始まる高校生活に夢を躍らせ、同時に浮足立っていた。

 

 次の瞬間、廊下に繋がるドアが勢い良く開け放たれ、肩を揺らしながら一人の生徒がズカズカ入って来た。

 薄い金髪に赤目の三白眼が特徴的な男子生徒だ。彼は教室内の全員にガンを飛ばしながら席に座り、机に片足を乗せて踏ん反り返った。

 

「ちょっと君!」

 

 するとドア付近の席から一人の生徒が息を飲んで立ち上がり、金髪少年の下へ歩み寄った。

 如何にも真面目そうな風貌の男子生徒だ。彼は神経質そうな手付きで眼鏡をクイッと上げると、眉根を寄せてこう言った。

 

「机に足を掛けるな!雄英の先輩方や机の製作者方に申し訳ないと思わないのか?!」

「思わねーよ!」金髪少年は萎縮するどころかもう片方の足まで机に乗せ、せせら笑った。

「テメーどこ中だよ端役が!」

「なっ……」

 

 あまりの粗暴さに真面目少年は思わず絶句した。その数秒後、ドアがまた……今度は控えめに……開く音がして、自信のなさそうな顔をした男子生徒がおずおずと入って来る。

 しかも彼はどうやら金髪少年と知り合いであるらしく、二人がのっぴきならない状況にある事を察するや否や、果敢にもそれを諫めようとした。

 

「ちょっ……かっちゃん、喧嘩はやめ……た方が……」

「話しかけンなクソデク!」

 

 けれどもそんな()()の試みは怒れる()()()()()の猛反撃により、あえなく爆散した。

 ……僕の話なんて聞く訳ないよね。デクがそう思って肩を落とした瞬間、今度は中央辺りの席から()()()()が聞こえて来る。それを耳聡く聞きつけたかっちゃんは、すかさずターゲットをそちらに変更し睨み付けた。

 

「オォイてめー()()笑ってんだ?」

「アンタだよ」

 

 爆発的にメンチを切られているにも関わらず、”笑い声の犯人”である心操人使は眉一つ動かさずに平然と言い返した。目に濃い隈があり、気怠げでどことなく影のある彼の姿はどう贔屓目に見ても穏やかな感じではない。

 

 ――教室内をピーンと張り詰めた空気が支配する。入学日早々バトルが始まる予感だ。二人の展開を、生徒達は固唾を飲んで見守っていた。

 

「癇癪持ちのガキよりひどいぜ、アンタ」先に仕掛けたのは心操だった。

「感情が制御できない病気にでも罹ってんのか?」

「んだとコラ――」

「――いや初日から喧嘩すんなっ!!」

 

 次の瞬間、かっちゃんの言葉に被さるようにして……パシーンという小気味良い音と「YEAH!」という陽気な音声が炸裂し、心操が勢い良く机に突っ伏した。彼の後頭部には黄色いプラスチック製のメガホンがめり込んでいる。

 その持ち主はついさっき教室に着いたばかりの白雲杳だった。ウキウキした気持ちでドアを開けて入るなり、友人の凶行を目撃した彼女は慌てて仲裁に入ったのだ。

 思わぬ第三者の介入により、場を引っ掻き回されたかっちゃんは気分を害して杳に噛み付いた。

 

「邪魔すンじゃねェよクソモブ女!」

「まーまーそんな怒らないで!マイクvoiceでも聴いて落ち着きなされ!」

 

 杳はヘラヘラ笑ってかっちゃんの勢いを受け流しつつ、復活した心操が再戦しないようにと彼の頭にグッと圧し掛かった。

 そしてメガホンのグリップ部分にあるスイッチを得意げにカチッと押す。するとプロヒーロー”プレゼント・マイク”の陽気な「YEAH!」という電子音声が室内に響き渡った。

 

「落ち着けるかクソボケがァ!」

「あ、それって去年八月末に開催されたプレゼント・マイクのMowTube限定チャリティWebLive有料版視聴限定特典で配布されてたグッズだよね?」

「しゃしゃってくンなクソナード!」

「ピンポーン!もしかして”マイリスナー”(※マイクファンの事)?」

 

 残念な事にマイクの音声はかっちゃんの苛立ちを助長させただけだったが、今度は杳の持つメガホンに興味を示したデクがやって来た事で、まだ辛うじてしがみ付いていた”場の緊張感”は完全に消え去った。

 その事に安堵した真面目少年は、ふと実技試験会場でのとある出来事を思い出した。――あの殺伐とした試験会場でただ一人元気良く返事をした”空色のふわふわ髪”と目の前にいる女生徒の姿がパシッとリンクする。

 

「君はあの時の7001番か!」

「……あ!」そこで杳もピンと来た。

「7011番くんだよね?……っていうか」

 

 一旦言葉を区切ると、自分のペースを乱され過ぎてうんざりした表情の心操と自分とを交互に指差しながら、杳は明るく言った。

 

「こいつは心操人使で、私は白雲杳!よろしくね」

 

 

 

 

 

 

 その頃、教室から少し離れた場所で、密かにその光景を見守っている者がいた。

 

(……相澤消太か。俺白雲!よろしくな)

 

 かつての親友の言葉がふと耳元で蘇る。まるで昨日の事のように鮮明な音質で。

 ――あいつは面倒見が良くて弱い者を放っておけない奴だった。

 

 今、彼のほんの数メートル先にいる白雲杳という人物は、かつて彼が”白雲”と呼んだ親友に瓜二つだった。ただ一つの相違点である()()を除けば、外見だけでなく性格や話し方、雰囲気に至るまで、まるで鏡に映したようにそっくりだ。

 

 二月程前に行われた実技試験においても彼女は自身を利用した心操を見捨てずに助け、手を取り共に戦った。そして現在もまたお調子者の振りをして彼に気を配っている。

 

 クラスメイト達に囲まれた白雲と心操が、かつての自分達の姿と重なり、見ているだけで心が潰されそうに苦しくなって彼は思わず目を閉じた。

 

 しかしそんな彼の想いを嘲笑うかのように、瞼の裏にある記憶のワンシーンが投影される。

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 ――学生時代、腐るほどに足を運んだ学舎の屋上。いつも三人で昼飯をかき込みながら青い夢を語っていた。

 

 (妹がいるんだ)

 

 そう言いながら携帯を開き見せてくれた写真には、想定していたよりずっと幼い子供が映っていた。

 

 (ちっちゃ!隠し子じゃねェだろな!)

 (違う、妹!俺に似てかわいいだろー)

 

 山田が良く通る声でからかうと、あいつは笑って否定した。愛おしそうに目を細めながら写真を見つめる。

 

 (妹に逢わせてくれよ)

 

 しかし山田がいくら頼んでも、あいつは首を縦に振らなかった。

 

 (ダメなんだ、あいつは()()……)

 

 ……そうだ。彼はゆっくりと目を開けた。

 

 彼女があいつに似ているはずがない。写真で見た髪や目の色、あいつから聴いた性格や話し方、実技試験で観た個性の使い方、何もかもが今目の前にいる白雲杳と異なっている。山田は考え過ぎだと笑い飛ばしたが、俺にはとてもじゃないがそうは思えない。

 

 ……あれは似ているんじゃない。わざと()()()()()んだ。

 

 

 

 

 

 

 「お友達ごっこしたいなら他所へ行け」

 

 不意に低い声がドア付近から飛んできて、杳達の視線はそちらへ一点集中した。――ドアの外に使い古した寝袋に包まった男性が寝転がっており、にこりともせずにこちらをじっと見据えている。

 

 「…………」

 

 男性の顎には無精ひげがぞろりと生えていて、手入れの行き届いていない髪はボサボサだった。しかし髪の隙間から覗く両眼は冷たく精悍な輝きを帯びている。

 ……まともな人ではなさそうだが、不審者でもなさそうだ。一体何なんだこの人、と言わんばかりに生徒達が注ぐ警戒の眼差しを物ともせず、彼はゆっくりと立ち上がって寝袋を脱ぎ捨てた。

 

 「ハイ、静かになるまで八秒かかりました。時間は有限、君達は合理性に欠くね」

 

 男性はそう言うと、教室内に佇む生徒達の面々をざっと見回した。凍った湖のように静かな双眸がかっちゃんから心操に移り、さらにその上に覆い被さった杳を射止める。――数秒後、わずかに目を細めて視線を逸らしながら、彼は言葉を続けた。

 

 「……担任の相澤消太だ。よろしくね」

 

 まさかの担任発言に杳達はざわつき、相澤と名乗った男性を思わず凝視した。雄英高校の教師は皆プロヒーローだと聞き及んでいるが、こんなくたびれた人は見た事がない。

 杳が必死に頭を捻っていると相澤は寝袋から人数分の体操着を取り出し、ちょうど自分の近くにいたデクに手渡しながら驚くべき言葉を言い放った。

 

 「全員、今からこれを着てグラウンドへ出ろ。”個性把握テスト”を行う」

 「……個性把握テストォ?!」

 

 相澤の爆弾発言にさっきまでのほのぼのした空気は一転し、クラスメイト達の間の抜けたユニゾンが教室内に虚しく響き渡った。




史上最高に分かりやすいタイトルができて満足や(*´ω`)また抽象的なタイトルにしてまうところやった…。
あと約3000文字という驚異の短さ…。マンガをSSに変換するのむずい。分かりにくかったら修正しますのでご一報ください(;_;)


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No.4 体力テスト

 ――数分後、体操服に着替えた杳達は急ぎ足でグラウンドへ集まった。

 

「入学式は?ガイダンスは?」

「ヒーローになるならそんな悠長な時間ないよ」

 

 相澤はズボンのポケットからメカニックな意匠を施されたソフトボールを取り出しつつ、途方に暮れた様子の麗日へにべもなく言い放つ。

 

「雄英は”自由な校風”が売りでね。そしてそれは()()()()()

 

 杳達が入学式の代わりにと彼に命じられたのは、中学の時から定期的に実施されている”個性禁止の体力テスト”だった。

 ソフトボール投げ、立ち幅跳び、五十メートル走、持久走、握力、反復横飛び、上体起こし、長座体前屈の八種から成るそのテストを、従来とは違い、()()()使()()()()行うように告げられる。

 

「白雲」

「……はいっ!」

 

 不意に名前を呼ばれ、杳は慌てて顔を上げた。相澤は手招きして近くへ来るように誘導すると、杳の手にボールを握らせる。

 

「個性を使ってやってみろ。円から出なきゃ何してもいい。……思いっ切りな」

 

 怒り心頭の爆豪に「何一丁前に手本やっとんだKY女!死ね!」と激励されながら、杳は白線で出来た円の中に立った。

 ……”お兄ちゃんの個性”を使って思いっきり、ボールを遠くへ飛ばすには。

 少し思案した後、杳はボールを上へ放り投げ、両手の中に雲の塊を生成した。それで戻って来たボールを包み込んで力の余りぶん投げる。雲の浮力でボールは羽毛のように軽くなり、遥か遠くへ飛んで行った。

 

 ――その時、杳のボールを投げる指先がおぼろげに霞んでいるのを相澤は見逃さなかった。

 

「まず自分の最大限を知る。それがヒーローの素地を形成する合理的手段」

 

 しかしそんな様子は露ほども見せず、自己記録を大幅に更新した杳に飛距離数値を提示しながら、相澤は皆に語りかけた。

 ”個性を自由に使いたい”――個性規制社会となった現代において、この願いは誰しもが持っているものだ。それを叶えられるようになった今、興奮したクラスメイト達は口々に叫んだ。

 

「なんだこれ!すげー面白そう!」

「個性思いっきり使えるんだ!さすがヒーロー科!」

 

 しかし、それを見咎めた相澤は冷たい声で言い放つ。

 

「”面白そう”か。ヒーローになるための三年間、そんな腹積もりで過ごすつもりでいるのかい?

 よし、トータル成績最下位の者は見込みなしと判断し、()()()()としよう」

 

 ――”除籍処分”?その余りにも恐ろしい言葉に、ほとんど全てのクラスメイト達は一様に愕然とした。初日にして与えられた大試練だとワイワイ騒ぐ杳達を尻目に、心操は険しい表情で額に伝う汗を拭った。

 

 ……除籍は恐らく俺達に本気を出させるための()だ。心操はそう推理する。

 心操は幸か不幸か、相澤が実際に行った過去の夥しい除籍歴を知らなかった。

 本当の目的は()()()()()()。だが俺は……体力テスト向きの個性じゃない。従来の手順と同様、素の身体能力だけで立ち向かわなければならないという事になる。

 

 必死に考えを巡らせる彼は、傍らに立つ友人が心配そうに注いでいる視線に気付かない。

 

「初日で除籍処分なんて!理不尽すぎます!」麗日がまたも抗議の声を上げる。

「理不尽ね。だがそういう理不尽を覆していくのがヒーローだ。

 雄英はこれから三年間、君達に苦難を与え続ける。”Plus Ultra(更に向こうへ)”さ。全力で乗り越えて来い」

 

 相澤は挑戦的な笑みを浮かべて生徒達を一瞥した。

 ……確かにそうだ。心操は掌を強く握り締めながらそう思った。自然災害、大事故、身勝手な敵達、この世界は理不尽に塗れている。そんなピンチから人々を救うために俺はヒーローを志したはずだ。せっかくチャンスを掴んだんだ。こんなところでくたばってたまるか。

 

 

 

 

 

 

 しかし、現実は残酷だった。

 杳を含めたクラスメイトの多くは自らの身体能力を補う個性を持っていた。彼らは種目に合わせて銘々の個性を最大限に活用し、優れた記録を次々と叩き出した。

 とりわけ目立つ活躍をしたのは、五十メートル走で一番の走りを見せた飯田、ボール投げで掌を爆発させて凄まじい飛距離を生み出した爆豪と、指一本を代償にその数値を上回った緑谷、そして全ての種目において他とは一線を画していた轟と八百万の五名だった。

 

 一方の心操は全ての種目で最下位近辺を彷徨い続け、目立った活躍は一つもない。

 

「オイオイどうしたよ口だけ野郎?絶好調なのは頭から上だけってかァ?!」

 

 テスト中も全員の結果を抜かりなくチェックしていたらしい爆豪は、最後の種目が終わるや否や、鬼の首を獲ったような形相で肩を揺らしながら心操の下へ詰め寄っていく。

 すかさず杳が二人の間に割って入った。

 

「ちょっとかっちゃん!また先生に()()()にされるよ!」

「かっちゃん()ーなKY女!」

「……その通りだ」

 

 不意に心操が口を開き、二人は揃って彼を見上げた。

 

()()()()

「ハッ、分かりゃ良ーンだよクソ雑魚――」

「んじゃパパッと結果発表するぞ」

 

 我が意を得たりとばかりに笑った爆豪はそのコンマ数秒後、相澤の捕縛布にまたもや包まれて地面に転がった。一仕事終えた相澤は手元の端末を操作し、各種目の点数を合算した順位を一括開示しながら何気ない口調でこう言ったのだった。

 

「あと除籍は()な。君らの最大限を引き出す合理的虚偽」

「……ハアァア?!?!」

 

 またしても杳達の間抜けなユニゾンが響き渡る。続いて一気に脱力する彼らを気にする事無く、心操は空中に表示された自らの順位を食い入るように見つめた。

 やはり除籍は嘘だった。――しかし、()()()

 一見したところ、自分と同じように身体能力に関与しないタイプの個性を持つ者もいた。なのにも関わらず、この様だ。爆豪の言う通り、俺は……。

 

「おいおい、暗いぞヒトシ!」

 

 その時、ポンと軽く肩を叩かれて心操は視線を下げた。明るい笑顔を浮かべた杳が少し背伸びをして立っている。

 

「そんな考え込まないで、明るく行こうぜ!

 今から鍛えて武闘派になればいいじゃん!その気になれば何だってできるよ」

 

 心操は思わず呆気に取られて小さな友人を見つめた。

 ――今までの人生で困難な状況に陥った時、足を引っ張ったり、ここぞとばかりに疑う人はいても、こんな風に手放しで励ましてくれる人はいなかった。

 立ち止まった自分の背中を追い風のように吹き上げて、一緒に歩んでくれる。これが”友達”か。

 他のクラスメイト達と連れ立って教室へ向かいながら、心操はいつものように気怠い口調で杳に応えた。

 

「何だってできる、ね。アンタ本当にテキトーだな」

「マジだって!お兄ちゃんが言って――」

「白雲……ちょっと来い」

 

 不意に背後から名前を呼ばれて、杳はくるりと振り返った。グラウンドを粗方片付け終えた相澤がこちらをじっと見つめている。

 ……一体何だろう。まさか自分も初日にして怪我をした緑谷と同様に、何かやらかしたんだろうか。思わず背中に冷たい汗を伝わるのを感じながら、杳は急いで相澤の下へ向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 杳が相澤の下へ辿り着くと、彼は軽く息を吐いてから静かに口を開いた。

 

「……君の個性の使い方は()()()()()()

 

 その言葉を聞いた瞬間、杳の心臓がズキンと痛んだ。……”間違っている”というのは一体どういう意味だ?ろくに物も言えずに混乱している杳に向けて、相澤はさらなる爆弾を放った。

 

「君の個性は”雲を創り出して操る能力”ではなく”()()()()()()()()能力”のはずだ。

 全身を別物質に変換させる個性は強力だがその分、扱うのが難しい。常日頃から正しい使い方を心がけていなければ、いざという時に制御が効かなくなり自滅するぞ」

 

 杳の心臓の内側を、冷たく虚ろな風がそっと撫でていった。

 ――兄を喪った瞬間に生まれたあの穴から吹き上げて来た風だ。思い出すな。杳はギュッと唇を噛み締めて自分にそう言い聞かせた。演技を続けろ。精一杯の虚勢を張り、杳は笑って答える。

 

「それが、個性の調整がうまくできなくて。変な癖がついちゃいました」

「嘘だな」

 

 しかし相澤は騙されなかった。しっかりと杳の目を見て、低い声で言葉を続ける。

 

「白雲。……亡くなった者の真似をしたところで、そいつが還って来るわけじゃない」

 

 その言葉はまるで彼自身に言い聞かせているようでもあった。

 ……亡くなった者、お兄ちゃんの事だ。杳は思わず我を忘れて相澤を見上げた。どうして彼が兄を知っているんだ?

 

 また冷たい風が吹いて、杳はぶるりと身を震わせた。思い出したくもないあの光景が、混乱した彼女の脳裏にフラッシュバックする。――灯りの消えた暗い家、悲しみに押しつぶされた両親の姿、静まり返った兄の部屋、壊れたゴーグル、家の中に巣食う冷たいあの穴。

 

「俺は君の兄を知っている……彼の個性もな。

 現実から目を逸らし、自分自身を捻じ曲げてまで兄の姿を演じ続けるのは合理的じゃない」

「放って置いて下さい」

 

 気が付くと、杳の口から冷たい拒絶の言葉が飛び出ていた。しかし相澤は退く様子も見せず、ただ茫然と立ち竦むばかりの彼女の肩を優しく掴む。

 

「そうもいかない。君は俺の生徒で、俺は君の担任だ」

 

 静かだが、有無を言わせぬ力強い口調で相澤は続けた。

 

()()()の個性で成り立つほど、雄英(ここ)は甘くない。それでも君が頑なに兄の幻影にしがみ付くというなら、俺は然るべき処置を考えなければならん」

 

 ――”然るべき処置”。入学初日に最下位は除籍処分にするという物騒な嘘を吐いた相澤だ、それはとても良い意味には思えなかった。

 

 相澤と別れた後、杳は少しふらついた足取りで教室へ向かっていた。首に下げたゴーグルを縋るように掴むとガラス面が日光に反射して、虚ろな表情の自分を映し出す。

 

 

 

 

 

 

 ゴーグルを被ってガラス越しに見る世界は不思議とリアリティがなくて、夢を見ているみたいだった。

 お兄ちゃんを喪ってから、この世界は私にとって現実じゃなくて”大きな舞台”になった。

 私はあの穴を思い出さないでいるために、舞台の上で演じ続けた。

 お父さんもお母さんもそっくりだって喜んでくれたし、近所の人達だって褒めてくれた。友達も沢山できた。

 

 ……でも、相澤先生は違った。

 あの人は私が演じる”お兄ちゃん”じゃなくて、()()()を見ていた。

 

 突然、かすかに硬い音がして杳は思わず手元を見つめた。

 知らない間に力を入れ過ぎてしまったのか、ゴーグルのガラスに一筋だけ、小さなひびが入っていた。

 

 

 

 

 

 

 初日の仕事を終えた相澤は職員室へ戻り、自分の席に腰を下ろした。机の引き出しから遅い昼食代わりのゼリー飲料を取り出して、一気に吸い込む。

 目を閉じると、先程の教え子の顔が思い浮かんで居たたまれなくなり、彼は思わず空になった容器を握りつぶした。

 

「ヘイ!相澤!どうだった白雲Jrは?」

 

 突然、陽気な明るい音声が左隣から飛んできて、相澤の鼓膜に突き刺さる。彼の同僚であり英語の担任も兼ねているプロヒーロー”プレゼント・マイク”だ。

 マイクは淹れ立てのコーヒーを差し出しながら相澤の反応を待ったが、彼のただでさえ不愛想な表情が余計にひどくなるだけだった。

 なんだか嫌な予感がしたマイクは、恐る恐る訊いてみる。

 

「Hey Buddy……まさかしょっぱなから飛ばしたんじゃないだろな?」

「……少し喋り過ぎた」

 

 相澤が憮然とした表情で応えると、マイクは芝居がかった動作で天井を仰いだ。

 

「Oh My God!散々注意しただろが!可愛い白雲Jrに嫌われちまったらどーすんだよー」

「別に嫌われようがどうでもいい」

 

 相澤はつっけんどんにそう言い放ってコーヒーを一口飲んだ後、考え直すように間を置いてから口を開いた。

 

「俺は……前を向いて進んでほしいだけだ」

「まあ確かに”露骨なコスプレ”だわな。生で見てしみじみ感じたわ」

 

 マイクは眉根を寄せながら目を閉じ、回想する。

 確かにかつて白雲が見せてくれた妹の写真と現在の姿は著しく異なっていた。

 ――しかし人間誰しも成長すれば容姿は変わる。それに二人は兄妹だ、多少似通っても何ら可笑しくはないのでは?そう楽観的に考えていたマイクは、学校でいざ本人を目の前にした途端、その考えを改めざるを得なかったのである。

 

「てかよー、親御さんは何も言わなかったのか?」

「いや……むしろ()()()()()()()だろ」

「……救われねェな」

 

 マイクは大きな溜息を零しながら椅子に背中を預けた。

 二人が何気なく前方を見ると、出入口付近に設けられた小さなカフェスペースで、生活指導担当のハウンドドッグ先生がグルグル唸りながら犬用の皿にアイスコーヒーを淹れている。

 人々の雑談に混じって聴こえる氷とコーヒーが混ざり合う水音が、二人の意識をあの時へと引き戻していく。

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 土砂降りの雨の中、救助隊員が運び出していく血塗れのストレッチャー。

 

(どうしてですか!)

 

 運び込まれた先の病院で、白雲の両親は現場にいたヒーロー達にしがみ付いた。

 

(これだけ沢山のヒーローがいながら、何故あの子を助ける事ができなかったんですか!)

 

 白雲の葬式も、雨が降っていた。

 まるで思いも寄らない友の死を悼んで、空が泣いているようだった。

 

(お願いです。もう家に来ないで)

 

 喪服に身を包んだ両親はやつれ切った顔で、しわがれた声を絞り出した。式場に妹の姿はない。

 

(こんなことを言って本当にごめんなさい。あなた達は何も悪くないのに。

 でもあなた達を見ると、考えてしまう。

 ……どうしてあなた達が生きていて、あの子が死ななければならなかったのと)

 

 それ以来、二人が白雲家に足を運ぶ事はなかった。

 命日を迎える度に焼香に向かおうかと考えた。しかしあの時の両親の嘆きようを思い出すと、結局何もできなかった。

 だが一時足りとも、友を忘れた事などない。彼の生き写しである妹の姿を見る度に、在りし日の輝かしい思い出が二人の胸を切なく焦がしていく。

 

 

 

 

 

 

 ハウンドドッグが口輪を外して美味しそうにコーヒーを飲む様子を見守りながら、相澤はポツリと呟いた。

 

「あの子は白雲の忘れ形見だ。

 ……どんな形であれ、親御さんはここに行く事を許してくれた。教師として俺はそれに応えたい」

 

 ふと実技試験で観た映像が思い起こされる。

 ――彼女は心操を救い、巨大ギミックから女生徒を助けた。例えそれが白雲朧を真似た行為だとしても、躊躇なく行動に移せたのはきっと彼女の本質が彼と同じなのだろう。

 

「あの子はきっと良いヒーローになれる」

「オーライ!じゃあお前は安心してビシバシ鍛えろ!俺は()()()()()な」

「甘やかすってお前な……」

「人類はお前みたいなドMばっかじゃないの!それに彼女はマイリスナー(俺のファン)だしな」

 

 マイクはアメリカナイズな笑顔と共にちゃっかり美味しいところを横取りしつつ、席を立った。次の英語の授業が行われる教室へ向かったのだろう。

 いつも陽気でゴキゲンなその背中を見て、相澤はほんの少しだけ口角を上げて笑った。




やべえ…アンブリッジにムカつき過ぎて不死鳥編が進まない…。


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No.5 戦闘訓練

 入学式代わりの体力テストを終えた翌日から、いよいよ本格的な学校生活が始まった。

 ヒーロー科の時間割は他の科とは一味違う。午前は必修科目等のいわゆる”普通の授業”が行われるが、午後からは”ヒーローになるための特別授業”が待っている。

 記念すべき午後最初の科目は「ヒーロー基礎学」だ。ヒーローの素地を作るために様々な訓練を行う科目。教える先生は――

 

「わーたーしーが!普通にドアから来た!」

「オールマイトだー!」

 

 ――”平和の象徴”と謳われるNo.1ヒーロー”オールマイト”だ。

 その絶対的なパワーと親しみ深いキャラクターによって長年トップの座に君臨し続けており、存在そのものが敵犯罪の抑止力とされている。

 スーツを押し上げるようにして主張するスーパーマッスルボディを教室内へ滑り込ませながら、彼はきさくに微笑んで挨拶をした。

 杳達はたまらず歓声を上げる。小さな頃からテレビの前で見ていた憧れオブ憧れの存在が、今目の前にいるのだ。

 

「信じられない!オールマイトに教えてもらえるなんて……」

銀時代(シルバーエイジ)のコスチュームだ。画風違い過ぎて鳥肌が……」

 

 杳が惚けたようにオールマイトを見ている一方で、隣席の緑谷は感極まった様子でブツブツ呟いていた。生徒達の興奮冷めやらぬ中、オールマイトは教壇に着くや否や、バックラットスプレッドポージングを決めて均整の取れた背筋を見せつける。

 

「これから私が教えるのは「ヒーロー基礎学」!ヒーローの素地を作るため様々な訓練を行う科目だ!単位数も最も多いぞ!

 ……早速だが今日はコレ!”戦闘訓練”!」

 

 そう言って振り向いたオールマイトの手には”BATTLE”と書かれたカードが握られていた。

 続いてもう片方の手をパチンを鳴らすと、教室の側壁が動いて棚が数列迫り出してきた。中には番号の振られたジェラルミンケースがずらりと並んでいる。

 

「そしてそいつに伴ってこちら……”戦闘服(コスチューム)”!」

 

 雄英には”被服控除”というヒーロー科独自のシステムが存在する。入学前に個性届と身体情報を提出すると、学校専属のヒーローサポート会社が専属の”戦闘服(コスチューム)”を作成してくれるのだ。さらに要望も添付する事で便利で最新鋭な機能やデザイン、サポートアイテム等も手に入る。

 

 オールマイトの指示に従い、杳達は期待に目を輝かせながらコスチュームに着替えてグラウンド・βへ向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 グラウンド・βは以前に実技試験を行った演習場の事だった。無人の街に降り立った生徒達は卸したてのコスチュームを興味深げに触ってみたり、サポートアイテムの具合を確かめたりしている。

 ……コスチュームを着ると皆、随分と様変わりするな。杳は興味深げに周囲を見回しながらそう思った。

 

 やがてクラスメイト達の中に見知った紫髪の男子生徒を見つけて、杳は近くへ駆けて行った。

 心操はシンプルな黒のジャンプスーツを着込んでいた。首元には機械仕掛けのマスク、手足の関節部分には金属製の装甲が嵌まっており、腰には同じ素材のベルトを巻いている。彼は何やら熱心な様子でマスクに付属した複数のダイヤルを弄っていた。

 

「なんかサイバーパンクって感じでカッコいいね!それ、サポートアイテム?」

「……ああ」

 

 心操は一区切りついたのか、マスクから手を離して杳を見下ろした。

 

「俺の個性は()()()()()()()意味がない。マイクや拡声器を通すと電気信号に変換されるらしく効果がなくなる。

 だからコレを考えた。……もう一つの声帯、変声可変機構マスク”ペルソナコード”。こいつは幾多のプレートを変形・共鳴させる事で俺の声色を変えて直接外部に放出する……」

「……」

 

 夢中になって説明していた心操は、やがて話の難解さに付いていけず目がテン状態になっている杳に気付いてゴホンと咳払いした。

 

「つまり人の声を真似するって事。……”こんな風にね”」

「うわっ!私の声だ!すごい!」

 

 心操がマスクを付けてから話した声は自分とそっくりだった。

 個性の可能性を広げるためにこんな凄いサポートアイテムを考えていたなんて、ヒトシは努力家だな。杳がいたく感じ入り、賞賛の眼差しを友人に向けたその時――

 

「オイオイふざけんなよ白雲!」

 

 ――怒りに打ち震えたクラスメイトの声が背中に突き刺さり、慌てて振り向いた。

 そこにはブドウみたいな髪型が特徴的な男子生徒、峰田が立っていた。憤怒の形相でこちらを睨み付けており、彼のマントは怒りのオーラに当てられて風もないのにはためいている。

 ……え?なんでそんなに怒ってるの?杳は峰田の圧にたじたじとなりながら尋ねた。

 

「え?峰田くん。ん?ごめん。……なんかした?」

「なんかした?じゃねええ!!なんだその男みてェなコスチュームは!ちったァ他の女子を見習え!」

 

 杳は慌てて周囲を見渡した。なるほど確かに女子達は皆、個性をより生かすためか体の要所を露出していたり、ボディラインがはっきり分かるタイトなデザインのコスチュームを着用していた。

 男子達に至ってもすっきりしたデザインや露出の多いコスチュームが多い中……サイズが大きめの作務衣の上にジャケットを羽織った杳は何となくもっさりして見える。

 ……とりあえず怒れる峰田神を鎮めなければ。杳は上着に手を掛けながらおずおずと口を開いた。

 

「なんかごめんね。上着でも脱ごっか?」

「ああ脱げ今すぐ!ついでに作務衣の前もはだけてシラクモッ――」

 

 次の瞬間、杳の右前方からピンク色のロープが飛来して峰田の頬を思いっきりビンタした。空中を切り揉み回転しながら飛んで行く峯田を女子全員が冷たい目で睨み付ける。

 思わず呆気に取られた杳がしゅるしゅると引っ込んでいくロープの先を辿ると、そこには深緑の長髪を結った小柄な女性徒が立っていた。

 ロープのように見えたのは彼女の長い舌らしい。……確か蛙の特性を持つ女の子、蛙吹さんだ。杳ははたと思い出した。蛙吹はケロと鳴いてから優しい目でこちらを見る。

 

「白雲ちゃん、気にしないで。あなたのコスチュームはとても素敵よ」

「ありがとう蛙吹さん」

「梅雨ちゃんと呼んで」

「梅雨ちゃん」

 

 蛙吹のコスチュームは彼女の体格や雰囲気にマッチし、良く似合っていた。他の皆もそうだ。

 息も絶え絶えになった峰田が上鳴に介抱されている様子をぼんやり眺めていると、不意に耳元で二つの声がこだました。

 ”なんだその男みてェなコスチュームは!” ”あなたのコスチュームはとても素敵よ”

 男みたいなデザインなのは当然だ。杳のコスチュームは兄の模造品(レプリカ)なのだから。でも兄を演じる自分にとってはこれ以外考えられなかったし、一番素敵なデザインだとも思っていた。

 でも()()……今は何?杳は軽く頭を振って雑念を消すと、ゴーグルをしっかり目に付けた。

 

 

 

 

 

 

「今日は屋内での対人戦闘訓練を行う!」

 

 生徒達を市街地の中心部にある五階建てのビルへ誘うと、オールマイトはカンペ用のメモを片手にぐるりと彼らを見回した。

 

「敵退治は主に屋外で見られるが、統計で言えば屋内の方が凶悪敵出現率は多いんだ。真に賢しい敵は屋内に潜む。

 君らにはこれから”敵組”と”ヒーロー組”に分かれて2vs2の屋内戦を行ってもらう!」

 

 オールマイト´sカンペメモによる状況設定はこうだ。――敵がアジトに核兵器を隠しており、ヒーローはそれを処理しようとしている。制限時間内に敵に捕獲テープを貼るか、核兵器にタッチすればヒーロー組の勝利。制限時間まで核兵器を守るか、ヒーローに捕獲テープを貼れば敵組の勝利となる。

 

 そんなアメリカンな状況設定であるにも関わらず、メンバーはくじ引きという日本ゆかりの方法で決めるらしい。まずは二人一組のチームメンバーを決定するため、杳達は一人ずつ彼の準備したボックスに手を突っ込んでくじ代わりのボールを引き出していった。

 

「……Kチームは白雲少女と心操少年、以上だ!」

「また一緒じゃん!がんばろーぜ!」

 

 どうやらまたもタッグを組む事になったらしい。気心の知れた友人と一緒なら安心だ。杳は友人の傍で元気良くガッツポーズを決めてみせた。

 それを冷たく無視する心操の様子を見て、上鳴が素っ頓狂な声で言い放つ。

 

「てかずっと一緒だな、”凸凹コンビ”」

「凸凹コンビ?」

 

 ……なんだそれ?思わず二人揃って訊き返すと、上鳴は得意げな表情で彼らを交互に指差しつつ言った。

 

「だってお前ら凸凹じゃん。男と女だろ、アングラと馬鹿元気、それにノッポとチビだし。でもずっと一緒にいるから凸凹コンビ。……どうよ?」

「いや、どうよって言われても……」

 

 そんなに凸凹、つまり対照的なのかなぁと杳は困り果てて、頭をかいた。

 ――実は本人達こそ自覚はしていないが、まだ始まって数日足らずの1-Aクラスにおいて、必要に迫られた時しか口を開かないアングラ感満載の心操と、誰彼構わず話しかけてケラケラ笑っている杳は結構目を引く存在だった。

 しかも一見して正反対な立ち位置にいるはずの彼らは、今日までずっと行動を共にしている。つまり余計に目立つ。

 言い得て妙な上鳴の言葉に同意したのか、クスクスと何人かが笑い声を漏らした。その様子を見咎めて、八百万が冷たく言い放つ。

 

「全く授業中に下らない事を……」

「ほら八百万(はっぴゃくまん)さんも怒ってるじゃん!」

八百万(やおよろず)ですわ!」

「皆、お待たせ!続いて最初の対戦チームはこちらだ!」

 

 やがてオールマイトお手製の対戦チームくじ引きボックスが完成し、彼は音速を超える早さで手を上げて生徒達の注目を集めた。

 皆が固唾を飲んで見守る中、”HERO”と書かれたボックスからオールマイトが引き当てたのは切島&瀬呂のJチーム、そして”VILLAN”ボックスから出したのは杳達Kチームだ。

 瀬呂はテープカッターを模したヘルメットの内側から、軽やかなウインクを飛ばしてみせる。

 

「うわ早速かよ。よろしくな凸凹コンビ」

「凸凹()ーな!」

 

 敵チームは先にビルへ入って迎撃のための準備をするようにと指示が出て、杳達はクラスメイト達の声援に押されるようにして出入口へ駆けて行った。

 核兵器を模したハリボテはビルの最上階にあった。ひとまず直接触れる事ができないように雲の膜を張りながら、杳は心操に問い掛ける。

 

「さてどうする?私の雲は攻撃向きじゃないんだよね。鉄パイプもあるけど、友達に向けるのはちょっとやだな」

 

 一方、心操はマスクのダイヤルを弄りながら、静かに思考を巡らせていた。

 ――対戦相手は硬質化の個性で全身武装できる切島と、両腕からテープを射出する個性を持つ瀬呂。厄介なのはやはり、個性で雲の膜を切り裂く可能性のある切島だろう。まずはあいつを無力化する必要がある。

 

「……白雲。()()()()()()()()()がある」

 

 杳は驚いて心操を見上げた。彼はマスクをしっかりと着け直しながら、言葉を続ける。

 

「俺があいつらの声質を掴むまでの時間、稼げるか?」

 

 

 

 

 

 

 五分後、切島と瀬呂はクラスメイト達の声援を背中に受けながら、ビル内へと侵入した。内部はがらんと静まり返り、人の気配は全く感じられない。四階に至るまで、彼らを脅かすような罠の類もなかった。

 

「やっぱ最上階か!敵っぽいぜ!」

「まー()()()()だろな。たぶん」

 

 瀬呂は五階のフロアへ続く階段を昇りながら、切島に応えた。

 ――白雲はふわふわした雲を出す個性の持ち主だ。先日話す機会があった時、この個性は攻撃よりも防御、救助向きの能力なのだと彼女自身が評していた。

 そんな彼女がついでに教えてくれた”心操の個性”は確かに強力だが、要は()()()()()()()()()()()の話だ。声質を覚えてしまえば恐るるに足らず。初見殺しと言えば聞こえは良いが、一度知られてしまったら終わりの個性だ。

 恐らくは白雲がメインの戦力となり、核兵器の付近で迎撃するはず。

 

 果たして瀬呂の読み通り、最上階の大部屋には核兵器を模したハリボテと杳が待ち構えていた。

 核兵器は薄い雲でコーティングされており、杳は中空に浮かべた雲上に胡坐をかいている。心操の姿は見当たらない。

 杳は二人の姿を認めたとたん、雲で創ったマントを翻しながら芝居がかった口調で笑い出した。

 

「ハーッハッハッハ!我がアジトへようこそ、間抜けなヒーロー共!我こそは悪の化身、クラウド卿なり!」

 

 ――数秒の間、三人の間に微妙な空気が流れた。

 瀬呂達は狐につままれたような顔で杳の奇行を見ていたが、やがて理解した。……こいつは敵役になりきってるだけなのだと。優しい切島はそんな彼女に合わせてあげようと、凛々しい表情を湛えて言い放つ。

 

「白く……クラウド卿め!お前が隠し持っているその兵器、没収させてもらうぞ!」

「おーっとお!切島く……ヒーロー!そーんな乱暴な事をしちゃってもいいのかな?」

 

 何だか引っかかるような物言いに、切島は振り上げた拳を止めた。その拳は彼の個性で硬質化されており、窓から差し込む日光に反射してキラッと光る。

 

「賢明な判断だ。だってこれは”核兵器”なのだから!

 もし君の攻撃が雲を通過してコレを傷つけ、暴発でもしたら……()()()()()()一体どうなってしまうだろうね?」

「ぐっ……卑怯だぞクラウド卿!」

 

 切島は思わず杳を睨みながら、拳をゆっくりと下ろした。

 ……うまいこと考えるね。一方の瀬呂はそう思った。オールマイトがこの状況設定における完璧な勝利を求めている場合、考えなしに雲を切り裂いて核兵器を傷つけてしまえば、乱暴な行為と判断されて評価が下がるかもしれない。

 つまり敵・白雲を無力化して雲を解除させてから、核兵器を回収する。これが、この状況下に置かれたヒーローの最も正しい行動だ。瀬呂は一歩踏み込んで、不敵に笑った。

 

「考えたなクラウド卿」

「フッフッフ、我には優秀なブレーンがいるのでね」

 

 恐らくブレーンとは心操の事だろう。得意げにマントをバサバサ翻す杳を尻目に、二人は周囲に視線を巡らせて心操を探した。だが、姿は見当たらない。核兵器の影に隠れているのだろうか。

 ……まあ、戦力外の心操はひとまず後回しだ。まずは白雲を素早く一本釣りして無力化させる。瀬呂は切島にその旨を手早く伝えてから、腕を構えてじりじりと前方へ迫っていった。

 

「……で、そのブレーンはどこにいんの?」

「シンソー軍師が気になるかね?それはそうだろう。彼は……お前達の元相棒(サイドキック)なのだからな!」

「お前……!」

 

 何その設定。と思いつつ、猿芝居を続ける杳に瀬呂が照準を定めた、その時――

 

 ――すぐ後ろで「”俺達の相棒を返せ!”」という()()()()が聴こえた。

 

「……ッ!」

 

 瀬呂は思わず身震いし、反射的に振り返った。

 ……違う、あれは俺の声じゃない。よく思い返してみれば磁気テープを再生した時のように雑音混じりだったし、自分の声より少しだけ低かった。けれどイントネーションや癖は全く同じだ。無意識の内に発言したのかと一瞬勘違いしてしまう程に精密だった。

 

 人は非常事態に陥った時、周囲の景色がスローモーションのように見えると言う。今の瀬呂も同じだった。

 いつの間にか自分の背後に潜んでいた心操が、ニセモノの声に応答して動きを止めた切島の腕へ捕獲テープを巻き付けていく。

 心操の口には機械仕掛けのマスクが装着されている。それを見た瞬間、瀬呂は先程の声の正体を理解した。

 ……こいつ、()()()()()()()()()のか!

 

「クソッ……切島!」

 

 瀬呂はチームメイトを助けるため、心操へ向けてテープを射出した。しかし二人の間を塞ぐようにして飛んできた雲の塊に当たり、テープはポヨンと弾き返される。

 

 ……しまった、白雲の存在を忘れていた!瀬呂は慌てて振り向いたが、遅かった。

 ほんの一メートル程先に、捕獲テープを両手でピンと張った杳が迫っていた。杳の渾身のカウンターを喰らい、瀬呂は思わず体勢を崩して先程の雲の塊に倒れ込む。雲はマシュマロのように柔らかく沈んで、しっかりと瀬呂の体を封じ込めた。

 雲からはみ出した右手首に捕獲テープを巻き付けていく杳を見ながら、瀬呂は思った。……この雲、めっちゃ寝心地良いじゃん、と。

 

 

 

 

 

 

 めでたく初陣を飾った杳達はオールマイトと共にモニター室へ向かった。杳達の戦いを音声付きの映像で観戦していたクラスメイト達は、自らの個性を生かす素晴らしい作戦を立てたシンソー軍師をやんやともてはやす。

 

「てか、そのマスクどーなってんの?」

 

 瀬呂がヘルメットを取り、心操の持つマスクを興味深げに覗き込んだ。心操は少し頑なな表情で、彼に良く見えるようにマスクを外しながら説明を始める。

 ……一つ、嫌な事を思い出した。心操は唇を噛み締める。どんな理由があったって洗脳されるのは誰も好きじゃない。自分がそうされたと知ると皆、嫌そうな顔をして去って行く。実技試験の時が良い例だ。

 少し前まではそんな事、気にもしなかった。けれど最近はある友人のせいで心の免疫が弱まってしまったように思う。

 

「……悪かったな」

「何が?気にする必要なくね?」

 

 しかしそんな心操の想いを知ってか知らずか、瀬呂はあっけらかんと言い放った。心操は虚を突かれて立ち竦む。切島も親しげに肩を掴みながら言葉を続けた。

 

()()()()()戦闘訓練だろ?凄かったぜ、お前の個性!男らしくはないけどな!」

「その通りだ!心操少年!」

 

 すかさずオールマイトが光の速さで片手を挙げ、皆の注目を集めた。

 

「今戦のベストは心操くんだな!君は自分の声を敵に知られていても尚、個性を発揮できるようにと試行錯誤し、新しい方法を見つけ出した。そして完璧な勝利を掴んだ。

 まさに”Plus Ultra(さらに向こうへ)”。己の限界を突破し、さらに高みへ昇ろうとする素晴らしい精神だ!」

 

 この時、心操は初めて、自分の個性と努力を他者に認められた。

 真のヒーローを目指す雄英の中では、彼の個性は数ある中の一つとして扱われた。誰も必要以上に恐れたり、嫌がったりしない。知っても皆、離れて行こうとしない。

 まっとうに努力した彼は、まっとうに評価された。たったそれだけの事を、今までどれだけ切望しただろう。

 束の間、言葉を失くして俯いた心操を優しい眼差しで見守った後、オールマイトは不意に杳の方へと体の向きを変え、両腕をバッと広げた。……何だかとても嫌な予感がして、杳は思いっきり目を逸らす。

 

「白雲少女、君も”Plus Ultra”さ、相澤先生から聴いているように……」

「あわわわわー!」

「君の本当の個性は攻守共に優れ、それに範囲も……」

「あわわわわー!」

「クッ、ちっちゃい子供か君は!」

 

 ――やはり一筋縄ではいかんな。オールマイトは両耳を塞いでちょこまかと逃げ回る杳を追いかけながら、眉を少し潜めた。相澤には”手を出さないように”と釘を刺されていたものの、根っからのヒーロー気質である彼は救いを求める者を放置する事など出来ない。

 やはり彼女の個性の使い方は惜しい。それに早く手を打たなければ、いざという時に彼女自身が個性を制御できずに危険な目に遭ってしまう。

 

「コラちゃんと聞きなさい!」

 

 数秒後、オールマイトにがっちりホールドされた杳はそれでも必死に訊くまいと踏ん張った。その滑稽過ぎる様子を見て、ほぼ全員のクラスメイト達は思った。

 ……いや、こんなアホの子に大層な個性があるわけない。絶対嘘だろ、と。

 

 だが、そうは思わない者もいた。心操もその一人だ。彼はふと先日の記憶を思い出す。白雲は相澤先生から解放されて教室に帰ってきた時、とても悲しい表情をしていた。何かあったのか、訊くのを思わず躊躇ってしまうほどに。

 ”本当の個性”を使わない、いや使えない――()()()()()があるのか?

 

 深く思考を巡らせていた心操は、不意に鋭い視線と冷気を感じて振り返った。――モニター室の壁に寄りかかった轟焦凍が静謐な眼差しで杳をじっと見つめていた。




やっと轟を出せた。
メインどころとほぼ関わりのない凸凹コンビ。


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No.6 雄英バリア破壊

 戦闘訓練を終えた翌日、いつものように雄英高校へ向かっていた杳は頑丈な造りの校門周辺に人だかりができているのを見て、思わず歩みを止めた。

 

「なんだあれ……!」

 

 ――カメラやマイクを持った人々ばかり、恐らくマスコミ関係だろう。彼らは校門をくぐろうとする生徒達を捕まえてはマイクを突きつけて何事かを問い質している。近づいていく内に、その内容は明らかになっていった。

 

「オールマイトの授業はどんな感じです?」

「”平和の象徴”が教壇に立っているということで感想などを聴かせて!」

 

 なるほど、全てオールマイト絡みの質問か。杳はすんなり納得して頷いた。

 ――”平和の象徴”オールマイトが雄英の教師に就任したという事実は、杳達だけでなく全国民の度肝を抜く一大ニュースとなっていた。

 恐らくは教師としてのオールマイトの姿を知りたいのだろう。正直行きたくはないが、行かなければ登校できない。覚悟を決めて先へ進もうとした時、後方からマスコミの一群が現れて杳をあっという間に追い抜かす。

 

「エンデヴァーの息子だ!早く走れ!他に独占させるな!」

 

 何事かと思い前方を見ると、雄英高校の制服を着た少年が一人、人々に取り囲まれていた。その特徴的な髪色で思い出した。……確か轟くんだ。昨日の戦闘訓練ではビル一棟を丸ごと凍結させ、皆の度肝を抜いていた。

 

「……おっと、”(クラウド)”!」

 

 その時、無我夢中で撮影機器を担いで駆けて行くマスコミの一人が、道中に佇んでいた青年を突き飛ばした。杳は迷わず雲をひと塊飛ばし、よろけた青年を優しく押し返して元の体勢へ戻してやる。

 

 幸いな事にマスコミ達は轟の取材に夢中でこちらに気付いていない。

 ……よし、いいぞ。杳はしめたとばかりに指を鳴らした。公然の個性使用を隠匿したついでに、一気に駆け抜ける!杳は去りゆく轟を追いかけるようにして加速し、人々の間を縫うようにして一目散に走り抜け……ようとして結局捕まった。マスコミの機動力を舐めてはならない。

 

 

 

 

 そんな間抜けな杳の様子を、一人の青年が人込みに紛れてじっと眺めていた。

 

 その青年は狂おしいほどの焦燥感に苛まれながら生きている。

 四六時中ずっと憎くて苛々して、誰でも良いから傷つけて殺したかった。しかしその感情はどれだけ自分を傷つけても他者を殺しても治まらず、呪いのように増大していくばかりだった。

 

 だが、先程誰かに突き飛ばされてそいつを殺しかけた時、()()が自分を救けた。それは白くふわふわした雲のかたまりで、陽だまりのように優しい香りがした。

 

 次の瞬間、青年の脳裏に見た事のない光景がフラッシュバックした。柔らかい芝、洗い立ての白いシャツ、お日様の匂いがする布団、明るい笑い声……。

 不安になった青年は縋るようにポケットの中の手を握りしめる。すると気持ちが楽になった。

 

 引っ張られるようにどこかへ飛んでいく雲は自分から遠のくほどに色と形を失くし、最終的に目視できないほどの細かい粒子となって一人の子供の体へ吸い込まれるようにして消えていく。

 

 ――あの空色のふわふわした髪の子供。先生に見せてもらった写真と同じ。青年はひび割れた唇を歪めて、嘲笑った。

 

 

 

 

 杳が隣席の緑谷とマイク談義を熱心に交わしていると、当然のように寝袋を小脇に抱えた相澤先生がドアをがらりと開いた。

 

「昨日の戦闘訓練お疲れ。Vと成績見させてもらった」

 

 相澤は教卓に書類を置きながら、爆豪を一瞥する。

 爆豪は先日の訓練で最も目立っていた者の一人だ。彼は対戦相手の緑谷をとにかく目の敵にしており、オールマイトが思わず制止しようとするほどの大立ち回りを演じてみせた。

 しかし彼は結局、緑谷の策に溺れて負けてしまった。天より高いプライドを有する彼はその事で落ち込み、放課後に有志で行った反省会に参加する事なく帰宅した。

 

「爆豪、お前もうガキみてえな真似するな。才能あるんだから」

「……分かってる」

 

 爆豪はぶっきらぼうに応答する。その様子を見た杳は何だかとても嫌な予感がして身震いした。

 ……まさか、これから相澤先生による()()()()()()が始まるのか?

 ならば次に当たるのは自分かもしれない。なぜならまた”兄の個性”を使い、おまけにオールマイトにも反抗して意見を聴こうとしなかったのだから。

 ブルブルと震える杳を知ってか知らずか、相澤は今度は緑谷へと視線を向ける。

 

「で、緑谷はまた腕ブッ壊して一件落着か」

 

 突然名前を呼ばれた緑谷はびくりと肩を震わせて顔を俯かせた。

 ……分かるよ、怖いよね!相澤先生!杳は緑谷に心の底から同情した。

 緑谷は身体能力を著しく強化する個性を有しているようだが、強すぎる個性の反動なのか、使いこなすのが難しいのか、発動する度に体の一部を犠牲にしてしまっていた。

 

「個性の制御……いつまでも”できないから仕方ない”じゃ通させねえぞ」

 

 俄かに相澤の首に巻かれた捕縛布が風もないのにはためいて、背後に蜃気楼のように揺らめく怒りのオーラが立ち昇る。あまりの迫力に縮こまる緑谷を横目で見ながら、杳は机の下で両手を組んで神に祈りを捧げていた。

 ……神様。どうか私に来ませんように、私に来ませんように!

 

「俺は同じ事言うのが嫌いだ。それさえクリアできればやれる事は多い。焦れよ緑谷」

「……はいっ!」

 

 緑谷が気合の入った返事をすると、先程まで相澤から迸っていた憤怒の感情がパチンと消えた。

 ……助かった。脱力しかけた杳は、ヒッと息を飲んだ。相澤がこちらをじっと見つめている。

 

「すすすすす、すみませんでしたぁー!!」

「……まだ何も言ってない」

 

 ついに審判の時が来たのを察してビビりまくる杳の姿を見て、相澤は思わず溜息を吐いた。戦闘訓練前よりも、明らかに警戒度が増している。

 

 相澤の脳裏に早朝目を通した映像のワンシーンがよぎった。幼子のように耳を塞いで、オールマイトからちょこまかと逃げ惑う白雲の姿。

 ……俺に対する態度が()()しているのは恐らくそのせいだ。全く余計な事をしてくれた。恨みますよ、オールマイト。

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

(手を出さないで欲しいと言ったはずです。お節介が過ぎますよ)

(ごめんね!でもそんなに心配しなくとも大丈夫だよ、相澤くん)

 

 偶然すれ違ったオールマイトを引き留めて、相澤は先日の白雲への”要らぬお節介”に物申した。だが、オールマイトは落ち窪んだ瞼の下に優しい眼差しを秘めてこう言った。

 

(あの子は強い。折れてもくじけず、前を向いて進んでいける力を持っている)

 

 ……せっかく人が慎重に事に当たろうとしているのに。余計な親切心で引っ掻き回した上、適当な事を言わないで下さい。

 咄嗟にそう言い返そうとしたが、結局言葉は出て来なかった。なんだか憎めないキャラクターの彼がくれたその言葉はどんな名言よりも真実味を持って、自分の心の奥にすとんと落ちたから。

 

 あの人は白雲だけでなく俺も救おうとしている。さすがは雲上の人、No.1ヒーローは数枚上手だ。……だが、現実主義の自分とはやはり合わないなとも思う。

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 一方の杳は机上に三つ指を付きながら涙目で相澤を見上げ、お叱りを待った。

 その様子を見た相澤はしばし言葉を失う。白雲朧本人ではないと分かってはいるが、同じ顔でそんな風にされるとこちらも強く出られない。

 ……不合理の極みだな、俺は。

 

「思い当たる節があるなら善処しろ」

 

 相澤は二度目の溜め息を零し、軽く注意するだけに留まった。そして突然の釈放に茫然とする杳を尻目に、今日のHR本題へ移ったのだった。

 

 

 

 

 お昼時、ほとんどの雄英生達は広々とした大食堂に集い、クックヒーロー”ランチラッシュ”の提供する一流の昼食に舌鼓を打つ。杳達も多分に漏れず、それぞれ選んだ料理の載ったプレートを持ちながら空いている席を探してうろついていた。

 ヒーロー科だけでなく、経営科やサポート科の生徒達も一堂に会するため、どこの席も埋まっていてガヤガヤと賑やかだ。

 

「いやー、今日の英語も盛り上がったぁー!」

「……アンタだけな」

 

 心操は”ご自由にどうぞ”と看板が下げられている小テーブルから漬物を小皿によそいつつ、冷静に言葉を返した。

 

 杳はマイクが行う英語の授業中だけ、飛んだり跳ねたりのハイテンションモードに突入する。マイクもそんな彼女がお気に入りらしく、ほとんどの問題を答えさせる。

 そんな彼女が”肉の盾”となっているおかげで自分が当てられないのは良いが、マイクの音声も相まって本当にやかましいのが難点だ。決してうたた寝ができる環境ではない。

 

 数分後、何とか中央ら辺に空いた席を見つけて、二人は腰を落ち着けた。と同時に、杳が素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。

 

「あ。お箸忘れた!」

「……ん」

「サンキュ!……てか、飯田くん残念だったね。私一票入れたのになー」

 

 気の利く心操は、友人が薬味を小皿に盛るのに必死で箸を取り忘れていた事をしっかり把握していた。礼を言って受け取った杳は、再び席に着くと次の話題に取り掛かる。

 

 相澤が切り出した”HR本題”とはクラス委員長と副委員長の決定だった。リーダーシップを重んじるヒーロー科にとって委員長職は人気の役柄だ。ほとんどの生徒達が自らに投票したが、杳は殊更に委員長への意欲を見せた飯田に感心し、彼に一票を投じたのだった。

 しかし彼の総票数はたったの一票。あんなに委員長になりたがっていたのに、彼は他の人に投票したらしい。結局、緑谷の三票、八百万の二票に届かず、惜しくも他の皆と同様、委員長への道は閉ざされた。

 心操は焼き魚の身をほぐしつつ、ニヒルな笑みを浮かべる。

 

「アンタもつくづくお人好しだな。普通自分に投票するだろ」

「はっはーんそんなこと言って。ヒトシも一緒じゃんか。誰かに投票したから0票なんでしょ?」

 

 杳は薬味をそば猪口に入れてかき混ぜながら、向かいに座る友人を見た。

 そしてはたと気付いた。自分は投票したはずなのに()()だった。つまり誰かが自分に投じたのだ。もしかして、と友人を見る。

 

「もしや私に入れてくれたのヒトシ?なんちゃって」

 

 心操は不意を突かれて、思わずすすっていた味噌汁に噎せた。……こいつは普段とぼけているのに、妙なところで勘が鋭い。その動揺を肯定と捉えた杳は感極まって呟いた。

 

「ヒトシきゅん……」

「やめろキモい」

 

 痛烈に言い放った心操は味噌汁を一気にかき込むと、きゅうりの浅漬けを口に入れた。小気味よい音を立てて咀嚼しながら、彼は友人の顔色をチラリと伺う。

 ……()がチャンスかもしれない。

 ”一体なぜ、白雲は本当の個性を使わないのか”。穏やかな表情で食事を摂っている今の彼女からならば、その真相が訊き出せるかもしれない。心操が意を決して口を開いたその時――

 

「ここ、いいか」

 

 ――低く静かな声がして、心操の隣席にプレートがかたんと置かれた。プレートには大盛りのそばと薬味、そば猪口が載っている。

 二人が揃って見上げると、赤と白に分かれた不思議な髪色をした男子生徒がにこりともせずにこちらを見下ろしていた。クラスメイトの轟焦凍だ。

 

「いいよ!どーぞどーぞ!」

「……悪ぃ」

 

 杳が愛想良く笑いながらすすめると、彼は小さく礼を言い、椅子を引いて腰かけた。出鼻をくじかれた心操は仕方なく箸を手に取り、食事を再開する。

 杳もそばをすすろうとするが、ふと強い視線を感じて前方に視線を戻した。轟が何か言いたげな顔でこちらを注視している。

 

 ……何か言いたい事があるのだろうか。とにもかくにも轟の顔をこんなに間近で見るのは初めてだった。非常に均整の取れた顔立ちをしていて、彼の両目は色違い(オッドアイ)のようだ。

 そしてその目は杳を()()()()()()にさせた。……なぜだか懐かしくて悲しくてやるせなくて、イライラするような気持ちに。

 

「ざるそば一緒だね!」

「……ああ」

 

 杳は一旦目を逸らして明るく話しかけたが、話はそれ以上発展する事なく終わる。

 ……杳はくじけそうになった。しかし食堂が混雑しているとは言え、誰とも群れずに一匹狼を貫いている轟が相席するのは珍しい。それほどまでに話したい事があるのだろう。まずは小さな事でも良いから会話のトリガーを創り続け、場を暖めなければ。

 

 (エンデヴァーの息子だ!)

 

 その時、ふと今朝マスコミの叫んでいた言葉が耳元にこだました。……そうだ、彼はオールマイトに次ぐ実力を持つフレイムヒーロー”エンデヴァー”のご子息だ。話しかけるネタにはもってこい、と思って杳は口を開く。

 

「轟くんって、エンデヴァーの息子さんなんだね!エンデヴァーさんって家ではどんな感じなの?」

 

 その瞬間、轟の眼光が鋭くなった。凍てつくような眼差しにさらされて杳は思った。……ヤベ、早速地雷踏んだと。

 やがて轟はふいと視線を逸らし、そば猪口に薬味を入れながら口を開いた。

 

「……悪ぃ。知らねえ」

「そっ、そうなんだ……」

 

 杳は思わず引き攣り笑いを浮かべた。轟のその態度は”思春期ならではの反抗期”という言葉で片付けるには重すぎる。――杳が()()()()を垣間見た瞬間だった。

 しばらくの間、三人は黙々とそれぞれの料理を口に運んでいた。やがて轟がそばを一口すすり終わった後、唐突に口火を切った。

 

「白雲。本当の個性を使わないのは何でだ?」

 

 その瞬間、そばをすすっていた杳の手がピタリと止まった。

 ……こいつ、俺がどうやって訊き出そうかと考えている事をドストレートに!心操は轟の暴挙に思わず食事の手を止め、固唾を飲んで成り行きを見守った。

 

 一方の杳は訝しげに轟を見つめた。彼の目は縋るような、ひたむきな色をしている。

 

 ……そうだ、思い出した。杳は箸をぎゅっと握り締めた。

 毎朝、鏡の前でお兄ちゃんに変装する直前に見る()()()()()()()だ。

 澄んだ水色とは全然違う、くすんだ灰色の目。それを見るたびに、どうしようもない現実を突きつけられたように感じてイライラした。

 

 

 

 

 轟はただの興味本位や冷やかしで尋ねたのではなかった。

 彼もまた杳と同様、先の見えない悪路を進む者だった。ぬかるみに足を取られて転びそうになった時、少し先を行く同志の背中が見えた。

 ――ほんの少しだけでいい。救いがほしくて、答えがほしくて、彼は手を伸ばしただけだった。

 

「本当の個性を使わないのは、私が兄の個性を真似てるからだよ」

 

 やがて杳は口を開いた。

 心操は思わず息をのんだ。いつもの馬鹿元気とはまるで違う、静かで穏やかな声だった。

 

「兄はこの学校の生徒で、私と同じヒーロー科だった。でも二年生の時、インターン先で町の人を守ろうとして瓦礫に巻き込まれて死んじゃった。

 私が兄の真似をし出したのは、その時からだね」

 

 ……自分とは()()だ、と轟は思った。

 亡き兄のために個性を歪ませた白雲とは違い、自分は憎い父のために個性を封じた。己の夢のために虐待に近い修行を自分に押し付け、母親も苦しめておかしくした父が許せなかった。そんな父の面影と個性を宿す自分も。

 

 憎しみのために動いた自分と、守るために動いた彼女は全く違う人種のはずだ。それなのに何故、彼女は俺と()()()をしているのだろう。

 

「相澤先生にもオールマイトにも言われたよ。”兄の模倣はやめて本当の個性を使いなさい”って。

 でも……それは無理な話だよ。もう自分の個性の使い方も忘れちゃったし、本当の自分がどうだったかも覚えてない。

 誰が何と言ったって、私はこのままでい続ける。そうでないと私でいられないから」

 

 そう言い切った白雲の双眸は頑なで、悲壮な決意に燃えていた。

 

 ――母に煮え湯を浴びせられたあの日から、轟の”ヒーローになりたい”という純粋な夢は憎悪の炎にくべられて消え去った。

 いつしか彼は母親の氷の力のみでNo.1ヒーローになり、父親を完全否定する事に固執するようになった。

 

 だが本当は……そんな行動は間違っているとも思っていた。でもこれ以外にどうする事もできなかった。頭では理解していても感情が許さない。

 

 父は勿論の事、姉や兄も自分を案じて正しい道へ導くための言葉をかけていく。

 けれど彼が望んでいたのは正論ではなかった。今の自分を認めてほしかった。不器用で情けなくてそれでも進んでいくしかできない愚かな自分を、あの時の母と同じように認めてほしかった。

 

(焦凍は頑張ってるわ。とても良く頑張ってる)

 

 まだ母が心の均衡を保っていた頃、父の虐待に近い訓練を受けてボロボロになって帰って来た自分を、彼女はいつも優しく受け止めて頭を撫でながら褒めてくれた。

 ――あの時母がくれた優しい眼差しと、今白雲がこちらに向けている空色の目が静かに重なる。

 

「お互いに色々あって苦労するよね。でも、轟くんは()()()()()()()()()

 

 その言葉は轟だけでなく今の杳が最も望んでいるものでもあった。()()()()を否定する事なく受け入れて、励ましてくれる言葉。

 動機は違えども同じ道を進む二人の同志は、たとえ間違いだと思える行動でもきっと何らかの意味があるのだと、悪路の果てには希望があるのだと信じたかった。

 

 だがそんな細くかすかな一縷の望みは、一つの悪意によっていとも容易く捻じ伏せられてしまうのだという事を、その時の杳達はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 突如として食堂内に大音量のサイレンが鳴り響いた。まるで恐ろしい劇の幕開けを告げるようなおどろおどろしい音色に、生徒達はたまらず浮き足立つ。

 ――セキュリティゲートが何者かによって破壊され、堰き止められていたマスコミ達が校内へ雪崩れ込んでいく。未曽有の事態にパニック状態を引き起こした生徒達を飯田が宥めている間に警察が到着し、マスコミは撤退した。

 

 散りゆく人々を遠巻きに眺めていた青年は、やがて踵を返してどこかへ去っていく。




なんか書いてて分かりづらかった。分かりにくい箇所がありましたら修正しますのでご一報ください!
次はUSJ編か、展開早いな…!


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No.7 USJ襲撃①

 ”雄英バリア”破壊事件から一日が経過したが、犯人は依然として不明のままだった。

 しかし世の中はそう悪い事ばかり続くわけじゃない。()()()()()()もある。

 突然の警報にパニック状態となった人々を宥めた飯田が、緑谷の推薦でめでたく委員長となったのだ。皆、彼の活躍を知っていたので異議を唱える者はいなかった。

 

 その日の午後の「ヒーロー基礎学」は”RESCUE”、人命救助訓練だった。

 ただし先日の事件を考慮してか、教師陣は自分ともう一人のヒーロー、そしてオールマイトの三人体制で見る事になったと相澤が告げる。

 

「やった!私の得意分野来た!」

「レスキューか。今回も大変そうだな」

「ねー」

 

 杳が意気揚々と叫ぶ一方で、上鳴と芦戸は少しばかり不安そうな目線を交わし合う。

 ヒーローの卵にとって救助訓練は敵を撃退するための戦闘訓練と同じく重要なものだ。相澤の叱責が飛ぶまでの間、教室内はしばらく騒めいて皆思い思いの意見を交わし合った。

 

 

 

 

 数十分後、担任の指示に従ってコスチュームに着替えた一同は、専用のバスに乗って演習場へ移動する事となった。

 ちなみに席順は委員長の飯田が張り切って決めたものの、大半の席が向かい合うタイプだったため、あまり意味を成さなかった。

 

 心操と杳は後方の二人掛けの席に並んで座る事になった。窓ガラスに反射した友人の横顔を、心操は縋るように見つめている。

 

 ――()()()()()が頭の隅っこにチューインガムのようにへばり付いて離れない。

 

 彼女は今も()()()()()()しているのだろうか?

 そもそも役者でもない一般人がずっと他人を演じ続ける事などできるのか。

 今までの記憶を思い返してみても、役者が演技中に時折見せるような不自然さや無機質な感じは全く見受けられなかった。

 

「……ぶふっ、”クソを下水で煮込んだような性格”って!さすが上鳴くん!」

「うぇいうぇい~!」

「テメェらマジでぶっ殺す!!」

「爆豪くん、君本当に口悪いな!」

 

 そんな心操少年の苦悩をよそに、杳は上鳴の卓越したネーミングセンスが完全にツボに入り、ケラケラ笑い転げていた。

 褒められた上鳴は嬉しそうにダブルピースし、ブチ切れた爆豪はシートベルトを解除して席から立ち上がろうとする。そしてそんな彼らを制するのは、委員長に就任したばかりの飯田だった。

 

 そんな賑やかな様子を見て、これ以上深入りするなと心が叫ぶ。

 この幸福を壊したくないのならパンドラの箱を開けてはいけない。

 

 もし杳の行動や言動がまるごと()()だとしたら。

 今、椅子の影に隠れて上鳴とこっそりピースサインを出し合っているのも、あの時実技試験で掛けてくれた言葉も……()()()だという事になる。

 

「ヒトシ。手ぇ出して」

 

 心操は片膝を軽く叩かれてふと我に返った。

 屈託のない笑みを浮かべた杳がプロヒーロー”プレゼント・マイク”のヘッドが付いたペッツを差し出している。仰向けにした自分の掌にタブレット菓子を転がしていく友人を見下ろしながら、彼は乾いた声を絞り出した。

 

「今授業中……」

「おい、ピクニック気分か?」

「……ヒッ!」

 

 杳はいつのまにか急接近していた相澤に言葉の鉄拳を喰らい、捕縛布によってペッツも没収された。しょげ返る友人を見守りながら、心操は自分の探求心を封じ込める。

 

 ――心操にとって、気の置けない友人である杳の存在はとても大きかった。

 明るくて感情豊かで意外と面倒見が良くて、物事を悪い方向に捉えて考え込む癖のある自分を引っ張ってくれる彼女の事が好きだった。

 だから、失うのがただ怖かった。

 

 

 

 

 演習場では今回の指南役となるスペースヒーロー”13号”が待っていた。

 敵殲滅よりも人命救助に重きを置く13号は自らの個性を生かし、あらゆる災害現場において目覚ましい活躍を遂げている。水難事故、土砂災害、火事等、様々な災害を想定したこの演習場”嘘の災害や事故ルーム(USJ)”も彼が設計したものだ。

 

 杳達は興味深げに周囲を見回した。

 13号の説明によると、大きな噴水のあるセントラル広場を取り囲むようにして、六つの災害エリアが設計されているという事だった。

 一つ目は破壊された建物や瓦礫だらけの”倒壊ゾーン”、二つ目は土砂に建物が埋まっている”土砂ゾーン”、三つ目は大小の山が橋で繋がれた”山岳ゾーン”、四つ目は燃え盛る建物に囲まれた”火災ゾーン”、五つ目は大きな池にウォータースライダー付の建物が隣接している”水難ゾーン”、最後は丈夫なドームにすっぽりと覆われている”暴風・大雨ゾーン”だ。

 

 演習場をざっと観察し終えた後、杳はオールマイトの姿を探した。しかし三人目の指南役となる彼の姿はまだない。

 

「オールマイト来てないね。忙しいのかな」

「……そうだね」

 

 杳が緑谷に訊くと、彼は深刻な表情でこくりと頷いた。

 やがて13号が手を上げて皆の注目を集め、お小言という名目のスピーチを始める。

 

「超人社会は個性の使用を資格制にして厳しくする事で一見成り立っているように見えます。

 しかし一歩間違えれば人を殺せるような”いきすぎた個性”を持っている事を忘れないでください。君達の力は人を傷つけるためではなく、救けるためにあるのだと心得て帰って下さいな」

 

 13号の言葉にはしっかりと実績を積み上げたプロヒーローならではの重みがあり、浮ついた生徒達の心を引き締めるのに役立った。拍手喝采してやんやと誉めそやす子供達を冷静に見守りながら、相澤は次の指示を出そうと口を開く。

 

 

 

 

 ――その時、後方から()()()()()を感じて、相澤は反射的に振り返った。

 

 セントラル広場にある噴水付近の空間に黒い靄が滲み出て、中から一人の青年が顔を覗かせる。蝋のように白い手の隙間から、邪悪な赤い目が相澤をじろりと見上げて嗤った。

 

「全員ひとかたまりになって動くな!13号、生徒を守れ!」

 

 突然そう叫びながら捕縛布を構える相澤を見て、杳達は何事かと騒めいた。

 

 相澤の視線の先を辿ると、セントラル広場全体を覆うようにして大規模な黒い靄が発生しており、そこから大勢の人間が現れていた。

 一様にあくどい笑みを浮かべた彼らは、こちらに向かって攻撃的な個性を脅すように発現してみせたり、武器をちらつかせたりしており、どう見ても友好的な雰囲気には思えない。

 

 二人のプロヒーローがすぐさま臨戦態勢に入った一方で、生徒達はまだこの危機的状況を理解できずにいた。まさか白昼堂々、それもヒーローの巣窟に本物の敵が乗り込んで来たなんて夢にも思わない。

 切島は黒い靄とその付近に集う人々を興味深げに眺めていた。

 

「何だありゃ?入試の時みたいにもう始まってんぞみたいなパターン?」

「動くな!あれは……(ヴィラン)だ!」

 

 すると相澤の鋭い声に反応したのか、ふわりと黒い靄が蠢いた。靄の上部には糸のように細い金色の双眸が備えられている。

 最後の敵を排出し終えたそれは主導者らしき青年の傍に立ち、穏やかな低い声で話し始めた。

 

「13号にイレイザーヘッドですか。

 先日頂いた教師側のカリキュラムでは、オールマイトがここにいるはずなのですが……」

「どこだよ……せっかくこんなに大衆引き連れてきたのにさ。

 オールマイト、”平和の象徴”がいないなんて……」

 

 青年はそこで言葉を区切り、ふとこちらを見た。

 たったそれだけで全身が粟立つほどの殺気を感じて、杳達は震え上がる。

 

「子供を殺せば来るのかな?」

 

 奇しくも命を救うための訓練時間に現れた敵は、()()()()()()()を持っていた。

 それは杳が被っていた”白雲朧”と言う名の仮面をいとも容易く剥ぎ取り、無遠慮に中を覗き込んでせせら笑う。

 

 ……呼吸ができない。意識が霞む。体の感覚が麻痺してバランスが保てない。余りの恐怖に挫けそうになり、杳の両足ががくがくと震え始める。

 

 ――()()()

 その時、自我を保とうとする脳の奥底が叫んだ。

 ――演技を止めるな!お兄ちゃんなら震えない!恐れない!勇敢に立ち向かう!皆を救ける!最後まで演じ続けろ!

 

 ……そうだ、お兄ちゃんなら恐怖に屈しない!

 我に返った杳は目を閉じて下半身にグッと力を込め、足の震えを止めた。ぼやけていた意識が見る間に収束し、明確になっていく。

 私は臆病者で泣き虫の杳じゃない……”白雲朧”だ。

 そう自分に言い聞かせながらゴーグルを被り、ガラスにひびが入ったせいで少し歪んでしまった視界の中から敵をしっかりと見据える。

 

 杳が恐怖を克服して戦闘体勢に入った頃、胆の据わった一部の生徒達はこの非常事態を打開する方法を懸命に模索し始めていた。

 

「先生、侵入者用センサーは?」

「もちろんありますが……」

 

 八百万が13号に尋ねるが、彼は口惜しそうに俯いて言葉を濁す。

 その様子を視野に入れながら、心操は思考をざっと巡らせた。

 ――センサーが今現在無反応なのは、敵の手によって妨害されているからだろう。

 しかも敵はセンサーのみならず、USJが校舎と離れた隔離空間にあり、そこに少人数が入るという時間割を把握した上で、大人数を送り込んで攻撃を仕掛けてきた。

 ……()()()()()()を確実に成し遂げるために。

 

「……連中は一体何を企んでる?」

 

 一方の相澤はゴーグルを装着し、セントラル広場へ向かいながら13号へ話しかけた。

 

「13号避難開始!センサーの対策も頭にある敵だ。電波系の個性が妨害している可能性もある」

 

 相澤は続けて上鳴に”個性を用いて外部に連絡を試してみるように”と指示すると、捕縛布を両手に絡めて戦闘態勢に入った。その様子を見た緑谷は慌てて追いすがる。

 

「先生は一人で戦うんですか?

 イレイザーヘッドの戦闘スタイルは”敵の個性を消してからの捕縛”だ!あの数を一人で正面から受けきるのは……」

 

 しかし相澤は立ち止まらず、振り返りもしなかった。その代わりに人を安心させるような優しく力強い声音でこう言った。

 

「一芸だけじゃヒーローは務まらん。……13号、頼んだぞ!」

 

 次の瞬間、相澤はしなやかな体躯を屈め、一跳びに跳躍した。

 

 ゲートとセントラル広場を繋ぐ階段上には射撃系の個性を持つ敵達がひしめいている。

 相澤は空中で体勢を変えながらも彼らを睨んで無効化し、着地予定地点で待ち構えている二人の敵を素早く拘束してお互いの頭部をカチ合わせた。

 続いてナイフを振りかぶった敵を躱して顎に掌底をぶち込み、背後から迫る敵に振り向きざま足払いを掛ける。

 

 ――何十人という敵を相手に、相澤はまさに万夫不当、一騎当千の活躍を見せていた。

 ゴーグルを通す事で敵に自分の目線を悟られずに個性を消し、連携を乱しつつ敵を次々と捕縛していく。

 

 

 

 

 一方、13号は生徒達を引き連れてゲートへ向かっていた。

 

「避難します!早くこちらへ!」

「させませんよ」

 

 しかし突如としてゲート付近の中空に黒い靄が滲み出し、じわじわと広がって進路を阻む。それは恭しく一礼をしているかのように蠢いて、紳士的な口調で語り掛けた。

 

「初めまして、我々は敵連合。

 僭越ながらこの度ヒーローの巣窟・雄英高校に入らせていただいたのは、”平和の象徴”オールマイトに息絶えて頂きたいと思っての事でして」

「う、うーん?……せんえつ?」

 

 慇懃な言葉に内包された敵の真意を理解する事ができず、杳は思わず首を傾げた。その様子を見咎めた峰田は彼女の尻をパシーンと叩く。

 

「アホかお前はァ!オールマイトに”死ね”っつってんだよコイツは!」

「……え、えぇ?!言葉遣いがお上品過ぎて分からなかった!おのれ(ヴィラン)め!」

「…………」

 

 しかし黒い靄は杳の言葉に一切の反応を示さず、ただ金色の目で食い入るように彼女を見つめるだけだった。

 もしかして怒らせてしまったのかと胆を冷やしたが、彼の眼差しに怒気や殺意は微塵も含まれていない。とにもかくにも、あまりの視線の強さに杳は居心地の悪さを感じてモゾモゾした。

 

 やがて黒い靄は再び口を開いた。物静かで紳士的な物腰のせいか、凶悪な敵だというのに不思議と怖い気持ちはしない。

 

「お嬢さん。本来ならばここにオールマイトがいらっしゃるはず。何か予定の変更があったのでしょうか?」

「いやー、私にもさっぱりで……」

「だから会話すんなって!」

 

 峰田はまたしても怒り狂い、どさくさに紛れて今度は尻を強く揉もうとしたが、後ろから様子を見ていた蛙吹に舌パンチを喰らわされて気絶した。夢半ばで倒れゆく峰田を、杳はとっさに抱き留める。

 

「そうですか。では彼が来るまで()()()()を……」

 

 次の瞬間、後方から爆豪と切島が跳び出して来て、黒い靄に渾身の一撃を喰らわせた。鋭い斬撃に靄が切り裂かれ、爆風に煽られて大きく揺らめく。

 

「その前に俺達にやられることは考えてなかったか?!」

「危ない危ない……そう生徒といえど優秀な卵……」

「二人ともダメだ!離れなさい!」

「……そう。散らして、嬲り殺さなければ」

 

 異変を感じた13号が前線に立つ爆豪達を諫めたが、もう遅かった。やおら黒い靄が再び蠢き出し、突然ヴェールのように広がって杳達全員を包囲する。

 

 

 

 

「……ッ!峰田くん!」

 

 杳は暗闇の中で叫んだ。もう視界は黒い靄に奪われて何も見えない。ただ両腕の中に峰田がいる事だけは分かる。しかし守るように抱き締めようとした途端にその存在は消え去り、杳の腕は空を掴んだ。

 

 続いて、真っ暗闇だった世界に光が差した。

 見る間に靄が晴れてゆき、杳は急に光量が増した事による眩しさに辟易しながらも、周囲の状況を素早く確認しようとして――

  

 ――まず最初に感じたのは()()()だった。手足は何も掴む場所がなく、空中に投げ出されている。次の瞬間、真上から叩きつけるような水の粒が大量に降りかかり、吹き荒ぶ風が落下していく体を好き勝手に弄んだ。

 

「”(クラウド)”!」

 

 杳はすぐさま体の下に雲を生成して、墜落死を辛くも逃れた。雲上に座り直しながら、改めて周囲を確認する。

 

 ――辺り一帯は頑丈な造りの巨大ドームに覆われていた。

 丸みを帯びた天井には無数のスプリンクラーが設置されていて、そこから雨を模した大量の水が噴出されていた。周囲の壁にはパネル型の送風機がびっしりと嵌め込まれ、あらゆる強さの風を内部に吹き込んでいく。

 

 ついさっきまで自分はゲート付近にいたはずだ。杳は冷静に思案する。

 恐らくあの黒い靄は別の場所に()()()()()()()()を持っているのだろう。途中で峰田の感触が消えたのは、彼もまた別のエリアに転移させられたからだ。

 

 ……生徒達を散らして嬲り殺すのが目的だとあの黒い靄は言っていた。杳は暴風に苦戦しながらも出口を探して彷徨いながら、唇を噛み締めた。

 自分が言えた義理ではないが、クラスには峰田を始め”戦闘に不向きな個性”を持つ者もいる。特に心操の身が案じられた。言葉を交わす間もなく集団で襲い掛かられたら、彼は一方的にやられてしまう。

 

 今の私がすべき事は、一刻も早くこの”暴風・大雨ゾーン”を出て皆を探しに行く事だ。杳は雲の巡航スピードをますます早めた。



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No.8 USJ襲撃②

 出入口は意外と早く見つかった。激しく降り続く雨を透かして、ドームの下部に点滅する”EXIT”の文字がぼんやりと確認できる。そのまま雲のスピードを加速させた時――

 

「……わっ!」

 

 ――いきなり何かが雲を突き破って、自分の腰にギュルンと巻き付いた。

 慌てて視線を下げると、それは赤くて吸盤がぞろりと付いた()()()()だった。タコの足はそのまま強い力で下へと引っ張り、杳を雲から引きずり下ろす。

 

 再び落下しながらも、杳はタコの足の先を辿った。

 ドームの下は市街地を模した造りになっている。わずか十メートル程下にある大きなビルの屋上に一人の男が立っていた。タコのように丸っこくて大きな口をしたその敵が、自分を捕えた犯人だった。そして彼の周りには、武器を持ったゴロツキ達が数人ひしめいている。

 ……このまま相手のフィールドに連れて行かれてはダメだ!

 

「”MGGCB(めっちゃギュギュってしたクラウドベルト)”!」

 

 杳はすぐさま自分の腰の周りに密度の濃い雲を創り出した。タコの足と腰の間に雲を挟ませる事でわずかな隙間を作り、空中で体を回転させ、滑らかに拘束を擦り抜ける。

 さらに着地する寸前、接地部分の雲を肥大化させる。杳の体は落下の衝撃を受ける事なくボールのように弾んで、敵達と対角線上の位置に着地した。

 直ちに体勢を立て直し、背中から鉄パイプを引き抜いて身構える。すると敵達は警戒するどころか笑いを含んだ野次を飛ばして来た。

 

「やるなぁお嬢ちゃん!」

「ありがとうございます!」

 

 杳は素直に応えながらも状況を確認した。

 ――数メートル先に敵が五人。不規則な扇状に並んでじりじりとこちらに近づいている。激しい雨風のせいで相手方の個性を詳しく観察する事こそできないが、多少の雨風にはびくともしない頑強な体つきの者ばかりだ。

 すると一番前に立っていたタコの男を乱暴に押し退け、屈強な体躯の男が大振りのナイフを片手ににじり寄って来た。

 

「すぐにヤんのは楽しくねえ!ちょっと遊ぼうぜ」

「おい殺すなよ!死柄木さんが……」

「分かってる!」

 

 杳が迎撃するために一歩踏み込んだ時、突如として後方から黒い影が伸び上がり、ナイフ男をなぎ倒した。男は屋上のフェンスに背中から激突し、動かなくなる。

 程なくして黒いマントを羽織った男子生徒が、杳を跳び越えてふわりと前方に降り立った。

 ――黒影使い(ダークシャドウマスター)の常闇くんだ。

 

「大丈夫か?白雲」

「ダイジョーブ?」

「常闇()()()!」

()()()とは……」

「おいおい邪魔するんじゃないよ鳥人間!」

 

 せっかくのお楽しみを邪魔されたタコ男は、殺気立った様子で両手の触手をムチのようにしならせ、攻撃する。黒影は片手でそれらをまとめて掴み上げ、ぐっと引っ張り込んだ。そして体勢を崩して前のめりになったタコ男に急接近し、殴り飛ばす。

 

 しかしその騒ぎに紛れて、新たな敵が釘バットを振り上げ、常闇の懐に迫ろうとしていた。

 

「”(クラウド)”!」

 

 杳はとっさに常闇の周囲に雲を展開させて、敵の進行を阻害した。急に現れた障壁にスピードを落とした敵の背後を取り、みぞおちに鉄パイプの一撃を喰らわせる。

 

「……ッ!」

 

 しかしパイプ越しに杳の手に伝わったのは、柔らかな肉ではなく()()()()を思いきり打った感触だった。あまりの衝撃に両腕がジーンと痺れ、杳の(まなじり)に生理的な涙が浮かぶ。

 ――パイプと接している敵の腹部は、良く見ると鉄のように硬質化していた。敵は子供相手に不覚を取ったのが余程悔しかったのか怒りを爆発させ、パイプを掴んでいる杳の手を力任せに捻り上げる。

 

「こんのクソガキィ!」

「……!(危ない!)」

 

 来たる攻撃に備えて杳が身を固くしたその時、敵は突然何者かに背後から手刀を喰らい、昏倒した。どうやら一度に硬質化できる体の部位は限られていたらしい。

 手刀の主は杳を優しく助け起こし、捩じられて赤くなった手を心配そうにさすってくれた。

 ――動物使い(ビーストテイマー)の口田くんだ。

 

「口田くん!ありがとう!」

「……!(気にしないで!)」

「一先ず付近の敵は一掃したか」

「シタカー!」

 

 そこへ全ての敵を沈黙させた常闇が合流する。

 三人は雲に乗り、出口に向かって飛びながら情報共有をした。やはり二人も杳と同じように黒い靄に包まれたと思ったらここへ飛ばされていたらしい。そしてここには自分達を狙うゴロツキが大勢いると、常闇は周囲を油断なく警戒しながら呟いた。

 

「あの黒い靄は恐らく()()()()()()だ。敵共をUSJ(ここ)へ送り込んだのと同じ手口で、俺達を各エリアへ散らした。大方戦力を分散させ、数で攻め落とす算段なのだろう」

「他に誰もいなかった?ここは私達三人だけ?」

 

 口田がこくこくと頷いたので、杳はホッと安心した。

 常闇は黒影に周囲をくまなく警戒させつつ、口田と共に仲間がいないかと探しながら出口へ向かっていた時、偶然襲われていた杳を見つけたらしい。

 ――”自分以外にここへワープさせられている者がいる”という考えには至っていなかった。二人が来なければ無事ではいられなかっただろう。杳は改めて助っ人達にお礼の言葉を告げた。

 

「この奇襲は一見馬鹿げたテロ行為に思えるがその実、綿密な計画上に基づいたものだ。連中もあのオールマイトに対して、何ら策を講じていない訳ではあるまい」

「……?」

「……!(つまりオールマイトが危ないってこと!)」

 

 ――オールマイトが来ていないのはある意味、幸運だったのかもしれないと杳は思った。

 黒い靄は”平和の象徴の殺害”が目的だと杳達に宣言した。そのために彼らは雄英バリアを破壊し、USJという隔離された屋内施設に少人数のクラスが入る時間割を狙い、人海戦術を用いて大掛かりな奇襲を仕掛けたのだ。

 警報センサーも作動していない今、ここはまさに()()()()の状態だった。ますます他の皆が心配になってきた杳は、間近に迫る”EXIT”の標識を見つけて心を逸らせる。

 

「早くなんとかして、皆の所へ戻ろう!」

「……そうしたいところだが」

 

 しかし常闇は前方を見るなり、杳の肩に手を置いてスピードを緩めるようにと指示した。

 ――出入口を塞ぐようにして、数十人の敵が臨戦態勢で待ち構えていた。覚悟を決めた杳は雲を消して二人と共に地上へ降り立ち、鉄パイプを構える。

 

「奴らもそう簡単に行かせるつもりはないようだ」

「……!(二人共伏せて!)」

 

 いざ決戦となったその時、口田が二人を抱き込んで地面に突っ伏した。

 

 次の瞬間、後方から()()()()()()が吹き抜けて、辺り一帯を容赦なく蹂躙した。

 とりわけ真正面からその風を受け止めた敵達の被害は甚大で、巻き込まれて天井近くまで高く舞い上がってしまう者や、お互いにぶつかり合って自滅してしまう者などが続出した。

 やがて三分の一の数の敵を道連れにした風は、急速にその勢いを緩めていった。常闇はゆっくりと立ち上がりながら口田に尋ねる。

 

「口田、風が読めるのか?」

「……!(うん!)」

「また()()()を予期する事はできるか?」

「……!(もちろん!)」

「よし、奴らを手早く一網打尽にできる策が完成した。二人共、耳を貸せ」

 

 三人はやおら顔を突き合わせてコソコソ噺をした後、それぞれ戦闘体勢を取りつつ前に進み出た。そこで常闇はふと右隣に並び立つ杳を伺い見る。

 

「……白雲。怖くはないのか?」

「え?全っ然!」

 

 底抜けに明るいその返答に、常闇は()()()()()()を覚えた。

 ――”多勢に無勢”と言えるこの状況、戦闘能力に秀でた者ならさておき、通常ならば多少なりとも()()()()が生じるはずだ。現に左隣に立つ口田は抑え切れない緊張感をその表情に滲ませており、構える手足も細かく震えている。

 だが、彼女にはそんな感情は微塵も見当たらない。まるでここには怖いものなど何もないのだ、と言わんばかりに快活な笑みを浮かべている。

 

 ……勇敢なのか、命知らずなのか。それはまだ判断しかねるが、彼女が無茶をして危険な目に遭わないように、主戦力たる自分がしっかり守らなければ。そう思った常闇はふと杳の足元を見て、息を飲んだ。

 ――()()()()()()()()。だが彼女はそれに気付いていない。いや、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 精神と身体の均衡が全く取れていないその様子を目の当たりにして、常闇はますます戦意を強めた。彼はヒーローだった。俺が前にいる限り、白雲にも口田にも一切手は出させない。

 

「やっぱりガキだな!正面突破ってか!」

 

 元気良く雄叫びを上げる黒影をまとわせ、迷わず先陣を切った常闇に追従するように二人は”魚鱗の陣”を構えた。そんな彼らに対し敵達は扇状に広がる事で”鶴翼の陣”を取り、それぞれの武器や個性を発現しながら待ち受ける。

 やがて遠距離系の個性を持つ敵達がエネルギー弾や石つぶてを撃ってきた。杳は雲の障壁を前方に創り出し、それらを受け止める。

 

 一方、雲を踏み台にして高く跳躍した常闇は黒影を放った。威勢の良い返事をした黒影は肥大化させた両腕を振るい、付近にいた数人の敵をなぎ飛ばす。黒影はそのまま敵陣に突入し、派手に暴れ回って全員の注意を惹きつけていく。

 

 ――その時、前線で黒影が取りこぼした敵と格闘していた口田が叫んだ。

 

()()()!」

 

 刹那、同じく前線で戦っていた杳は後方へステップバックし、両手を突き出した。

 ――今から創造するのはとても大きな雲。とても沢山の雲。ありったけの雲。それを射出式の捕獲網のように一瞬で出し切って絡め取る!

 

「”CCNMM(クラウドキャプチャーネットメガマックス)”!」

 

 次の瞬間、杳の両掌から凄まじい勢いで大量の雲が噴出され、そして網状に変化して辺り一帯を覆い尽くす。

 巨大な捕獲網と化した雲は敵達の中にふわふわと漂うが、当たっても柔らかく跳ね返るだけで拘束力は微塵もなく、やがて風に従ってそよそよと凪ぎ始めた。敵達は拍子抜けしてマシュマロのような雲を突っつく。

 

「目くらましか?」

「……を、”GGTA(ギュギュッと圧縮)”!」

 

 ――()()()()()もてば良い。結集して敵達を絡め取りギュギュッと固まれ!

 杳は気合を入れて両手をパチンと合わせた。主の命に従い、方々に広がっていた雲の網は敵達を残さず絡め取りながら、瞬時に収束していく。油断していた敵達は予期せぬ事態に焦り、必死にもがきながら喚き立てた。

 

「な、なんだこりゃ?!」

「こんなモフモフ、すぐに切り裂いて……」

「……いや、()()()()。黒影!」

「アイヨッ!」

 

 黒影は大きな両手を地面に叩きつけ、十数メートルほど跳躍した。中空を舞う彼らを援護するように、杳の繰り出した雲がまとわりつく。

 ――コンマ数秒後、また()()()()が吹き荒れた。

 敵のたっぷり詰まった雲ダルマは風に煽られて、出入口に向かって飛んでいく。追い縋るように急接近した常闇は、強力な追い風の力を味方に付けて必殺技を撃ち出した。

 

「”宵闇よりし穿つ爪”!」

 

 攻撃の直前に巨大な雲が創り出す影に入り込んだ事で、黒影はますます力を強めた。暗黒のエネルギーを取り込んだ体は巨大化し、吹き荒れる暴風と共に雲の塊へ渾身のカウンターを喰らわせる。

 身動きの取れない敵達はその凄まじいパワーを受け止め切れずに()()()()()()()()()()()()

 雲がクッションとなったおかげで大怪我こそしなかったものの、敵達は一様に軽い脳震盪を起こして失神してしまった。

 かくして三人はやっと”暴風・大雨ゾーン”から脱出する事ができ、周囲に散らばる瓦礫や敵を避けながら、雨風のない平和な世界に感謝した。

 

「ぶぇきしっ!」

「……?(大丈夫?)」

 

 ずっと雨ざらし状態で豪風に吹かれていた杳は、不意に鼻がムズムズしてくしゃみした。そんな彼女を口田が心配そうに見る。

 

 しかし二人の歩みは、突然常闇が突き出した腕によって阻まれた。

 訝しく思った杳は常闇の顔をひょいと覗き込んで、息を飲んだ。彼の表情は恐怖の感情に染まっており、その目線は()()()()()()()へ向けられている。

 

 ――見事な連携プレーで敵を退けた杳達は、自分達の力が通用したと思っていた。この勢いで皆も救けられる。それに全員が一致団結すれば、この危機的状況をも乗り越えられると信じていた。

 

 けれど今、セントラル広場で起きている()()()()()はそんな彼らの戦意と希望を挫いて、完膚なきまでに踏みつぶした。

 

 さっきまで万夫不当の戦い振りを見せていた相澤が、脳らしき器官が剥き出しになっている大男にうつ伏せに押さえつけられている。

 大男は相澤の片腕を掴むと、小枝を折るようにへし折った。相澤が苦痛にうめいて体を捩じるが、大男はもう片方の腕も同じように掴んで粉砕する。

 続いて頭を掴んで容赦なく地面に叩きつけた。――クレーターが出来る程の威力だった。ゴッという鈍い音がここにも聴こえてきて、おびただしい量の血が飛び散る。その余りに陰惨な光景に口田はたまらず震え上がり、ヒッと小さな悲鳴を上げた。

 

 

 

 

 ――”人生の転機”はいつだって突然に訪れる。

 杳にとっては()()()()()()がそうだった。突如として起きた、どうにもならない出来事。杳は変化を受け入れる事ができず、”兄の模倣”という間違った道を選んだ。

 

 そして今、杳に()()()()()()が訪れた。

 

 ……殺される。相澤先生が死んでしまう。

 本当は分かっていた。彼はいつも厳しくて、嫌な事に無理矢理向き合わせようとする苦手な先生だが、それは全て自分のためを想っての事なのだと。杳が変化を受け入れたくないがために、意固地になっていただけだった。

 

 心の内側を、あの冷たい穴から生まれた風が吹き上げる。穴が相澤先生を飲み込んで、奈落の底へと消えていく。――兄と同じように。

 

 ()()()()()()()()()()

 兄の模倣も、”本当の個性は封印する”というルールも、自分が死ぬかもしれないという事も。

 ――ただ今この瞬間、()()()()()()()動いた。

 

 

 

 

 杳の体が不意に()()()()を帯び始める。 

 十三年間、窮屈な思いをさせられていた個性因子は突然舞い降りた脳の指令に歓喜した。細胞の一つ一つと手を取り、血流に飛び乗り、蛹が羽化するように神々しく艶やかにその姿を顕現する。 

 

 一方、恐怖に呑まれていた常闇はふと我に返った。

 ……()()。突然真冬が到来したかのように大気の気温が下がっている。やがて視界の端に雪の結晶がちらつき始め、その方向へ目線をやった常闇は総毛立った。

 

 凍り付くような冷気は杳の体表から放出されていた。

 にわかに彼女の体の輪郭が淡く透け、そこから鈍色の雲が噴き出して周囲に滞留する。蠢く雲の隙間から眩い閃光が幾筋も走り、急激に熱された空気はゴロゴロと地を這うような音を立て始めた。雲の冷気と雷の熱気で大気が対流し、生温い風が二人の頬を撫でていく。

 

 ――それは()()()()()()そのものだった。

 

 その光景を見た常闇は、数日前に行われた戦闘訓練での出来事を思い出す。白雲はオールマイトから”本当の個性を使え”と言われていた。――今までの個性とは全く様子が異なる。ならばこれが彼女の”本来の個性”。

 

(……封印されし(カルマ)を解放したというのか!)

 

 鈍色に輝く雲を透かし、杳がしゃがみ込んで両手を地面に付くのが見えた。野生の獣のように身を低くかがめ、駆け出すような体勢を取る。

 

 次の瞬間、眩い閃光がほとばしり、世界は束の間真っ白になった。

 二人は思わず目を塞いで地面に伏せたが、強く閉じた瞼の上からでも眩しさを感じられるほどだった。続いて鼓膜を突き破るような爆音と共に、イオン化された突風が吹き付ける。

 もろに光の攻撃を喰らった黒影は「ヒドイヨー!」とマントの影でメソメソ泣き始めた。

 

 

 

 

 ()()と化した杳は不規則な軌道を描いて、脳無だけを精密に狙撃した。

 脳無は相澤から手を離し、驚異的な反射能力でそれを受け止めようとしたが、音速を超える事により発生する衝撃波を受け止めきれず、十数メートルほど吹っ飛んだ。数億Vに達する雷のエネルギーは凄まじい高熱でもって脳無の体を内側から焼き尽し、骨の髄まで炭化させる。

 

 突然の事に身動きの取れない死柄木と黒霧の目前で、黒焦げになった脳無の足がたたらを踏み、やがて仰向けにゆっくりと倒れていく。

 

 ――杳は、今度は()()()()()()()




常闇くんに”封印されし業(カルマ)”って言ってほしかったがために書きました。


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No.9 USJ襲撃③

※7/9追記:峰田のシーンを通常版から劇場版へ変更しました。


 霹靂(へきれき)を携えて脳無を倒した雷雲は徐々に収束していき、やがて人の形を取り戻す。

 しかしその直後、全身の血を一気に引き抜かれたような脱力感が襲いかかり、杳はたまらず脳無の体上に突っ伏した。

 

 ()()()()()()()だった。

 十数年の間、まともに使っていなかった個性をいきなり最大限の力で行使したため、体が著しく疲弊してしまったのだ。乾燥してひびだらけの脳無の体は、今の杳にとってどんな高級ベッドよりも心地良く感じられ、極上の眠りへと誘ってくれるもののように感じられた。

 ……ダメだ、もう少し頑張れ。まだ気絶するな!

 今にも閉じようとする瞼をこじ開け、襲い来る睡魔を捻じ伏せ、杳は自分を叱咤する。相澤先生の傍には敵が二人いた。もう一度雲化して先生を連れて逃げなければ。

 そう思いながら息を吸おうとして――

 

「はっ……?」

 

 ――()()()()()()。反射的に胸の辺りを掴もうとするも両手は虚しく空を搔くばかり。慌てて視線を下ろすと、肺の部分だけが鈍色の雲に変わっている。

 正常な操作方法を忘れた杳の下す命令は脳を通して()()()()へと変換され、全身に行き渡っていた。個性は次第に統率を失ってゆき、やがて彼女の体は生身の部分と雲化している部分が奇妙に入り混じった状態となってしまっていた。

 

 爆豪のように臨機応変に個性を使いこなす感覚(センス)も、轟のように相反する力を精密に操作する才能(タレント)も、緑谷のように限られた時間で努力を重ねて大いなる力を受け入れる度胸(プルック)も、杳は何一つ持ち合わせていなかった。

 

 かつて相澤が掛けてくれた言葉が脳裏をよぎるも、もう全てが遅かった。自分の本来の個性を操る方法など兄の死と共に葬り去り、とうの昔に忘れてしまっていた。ガラス面に無数のひびが入ったゴーグルがもがき苦しむ杳の頭からするりと外れて、転がっていく。

 

 

 

 

 ゴーグルは死柄木の靴にぶつかって止まった。ゆっくりと身を屈めて拾い上げた死柄木は、死人の手に隠された赤い目を凝らし杳の様子を注意深く観察している。

 やがてその傍らに黒霧がふわりと舞い降りた。

 

「どうやら()()()はないようですね。まるで個性が初めて発現したばかりの()()だ」

「……じゃあさっきのは”初心者の幸運(ビギナーズラック)”って奴か」

 

 死柄木は掠れた声を漏らした。力を込めてゴーグルを握りつぶすと、骨のように白く細い指の隙間から塵がさらさらと零れ落ちていく。

 それを見つめながら、死柄木はしばらく何事かを思案する素振りを見せた。数秒後、手を振って塵の残滓を払い落としながら、彼は気軽な調子で脳無に命じる。

 

「まぁいいや。脳無、そいつ殺せ。……死体でも使えるんだろ?」

「……死柄木弔。”生かしたまま連れて来い”という命令です」

 

 黒霧は慇懃な口調で釘を刺したが、死柄木は悪びれもせずに黒霧を指差すだけだった。

 

「生かすつもりだったけど気が変わった。生徒逃がしてゲームオーバーにしちまったお前への(ペナルティ)だよこれは」

「……理解しかねますね。何故、白雲杳を殺害する事が私への罰になるのです?」

 

 二人がそれぞれの思惑を胸に見つめ合う一方で、杳は今まさに生命の危機に瀕していた。

 主の命令を受けた脳無が、瞬時に自分の体を掴んで立ち上がったのだ。

 ほんの数十秒にも満たない間に彼は電撃のダメージから完全復活していた。黒こげになった表皮がボロボロと剥がれ落ち、中から新しい皮膚が現れる。瞼のない目がこちらをギョロリと見やる。

 

 ――殺される。そう感じた杳が我武者羅にもがいていると、不意に腰を掴む脳無の手に力が入り、体の中で何が大きく硬いものが折れる()()()がした。

 口の中から大量の血が溢れ出て、自分と脳無の体を汚していく。痛みはないが、体が燃えるように熱い。耳鳴りはどんどん強くなり、やがて何も聴こえなくなった。全身の力が抜けて意識が急速に遠ざかっていく。死を予期した彼女の脳はフルスピードで回転し、今ここにある危機から逃れるために次々と過去の記憶を映し出していく。

 

 

 

 

 一方その頃、相澤は脳無に頭部を思いきり叩きつけられた事で深刻な脳震盪を起こし、数分の間、意識を失っていた。

 

 夢うつつの世界を彷徨う中で彼の精神は過去の記憶へ吸い寄せられ、気が付くと十三年前に親友を失った瓦礫の前に立っていた。

 激しく降り続く雨が、立ち竦む相澤と山田の体温を奪っていく。もう親友の亡骸はとっくに別の場所へ運ばれてしまったというのに、その命を飲み込んだ瓦礫の山からまだ二人は離れられずにいた。

 ――その時、山田が片手に下げた瓢箪型のスピーカーから()()()()()が聴こえた。

 

「……ショータ!」

 

 相澤は思わずびくりと肩を震わせて山田を見るが、彼は打ちひしがれた表情を瓦礫に向けたまま、動かない。まるで聴こえていない様子だった。

 ……また幻聴か?相澤は枯れたはずの涙腺がまた疼くのを感じながら、訝しんだ。だが例え幻だとしても、今はただ親友の声が聴きたかった。

 足下が泥に塗れるのも構わずにしゃがみ込み、山田の手からスピーカーを奪い取って耳に押し当てる。すると今度は、親友のいつにないほど逼迫した声が、まるですぐ傍にいるかのように鮮明な音質で響き渡った。

 

「がんばれショータ!()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 次の瞬間、相澤の意識は覚醒した。

 しかし攻撃の際に肺もやられたのか、息を吸い込んでも喉の奥で酸素がゼイゼイと苦しげに空回りするだけで、ろくに呼吸ができない。続いて激しい耳鳴りと回転性の眩暈が襲い掛かり、相澤は再び気を失いそうになった。

 ……さっきのは意識が酩酊した事による一時的な幻覚か。相澤は今にも消えそうに霞む意識の中、冷静に思考する。確か自分は”脳無”なる怪物にやられていたはずだ。

 だが今現在、押さえつけられている感覚はない。

 まさか()()()()()()()行ったのでは。嫌な予感がして相澤は辛うじて動かせる片目をぐるりと廻し、周囲を確認した。

 

 そして彼が見たのは、復活した脳無に掴まれてぐったりとした生徒の姿だった。異形の指の隙間から()()()()()()()()()()が一房、覗いている。

 

「……!」

 

 しかし相澤が咄嗟に立ち上がろうとするより早く、脳無は杳を()()()()()()()()

 あまりの衝撃に大きなクレーターが発生し、衝撃波と無数の瓦礫に混じっておびただしい量の血飛沫が雨のように辺りに降り注ぐ。死柄木はその様子を見物しながら何気ない口調で呟いた。

 

「生徒が教師守って死んだら世話ねぇよな」

 

 その言葉は相澤の心をズタズタに引き裂いた。そして”あの時の記憶”を無理矢理掘り起こして目の前に突きつける。

 

 ――瓦礫に呑まれていく白雲を自分は見ていた。なのに何も出来なかった。守れなかった。

 細切れになった記憶のコラージュが脳裏に深く突き刺さる。壊れたスピーカーから聴こえた幻聴。血に濡れたストレッチャー。式場で泣き濡れる白雲の両親。耐えられない喪失感と悲しみ、そして無力な自分への怒り。

 ……また繰り返したのか。同じ事を俺は二度も。相澤はただひたすらに愚かな自分を呪い、ひび割れた唇を強く噛み締める。

 

「白雲……」

 

 相澤の口から悲痛な呻き声が零れ落ちた。その光景を愉快そうに見守る死柄木は、黒霧の靄がほんの少しだけ揺らめいた事に気付かなかった。

 

 やがて濛々とした土煙が晴れ、クレーターが見えてくる。”あの中に潰された白雲の遺体がある”と自分の脳は冷酷に宣告する。

 ……白雲は俺を守って死んだ。どうしてそんな不合理な事を!あまりに凄惨な現実に耐えられず、相澤の自我は狂いそうになった。しかしたとえ事実は変わらなかったとしても、直接この目で見るまでは受け入れる事などできない。

 

 

 

 

 だが、()()()()()()()()()()()()()

 あれほど噴出されていた血も一滴も見当たらない。脳無が不思議そうに首を傾げながら、何もないクレーターを覗き込んでいる。

 

「彼女はまだ生きていますよ」

 

 まるで慰めるような声に、相澤と死柄木の両名は振り返った。――黒霧だった。

 彼は手を掲げて、死柄木に中空を見るようにと指示する。興味を惹かれた死柄木は目を凝らし、やがて感嘆の声を漏らした。

 

 ――雪の結晶混じりの霧が上空にふわふわと滞留している。

 霧はまるで意志を持っているかのように蠢いている。竜巻のように渦を巻いたり、冷気を伴って一陣の風のように吹き抜けては元の場所に戻っていくその様子を冷静に観察しながら、黒霧は説明を続けた。

 

「咄嗟に体の構造を霧状に変化させ攻撃を回避したのは良いが、今度は戻り方が分からなくなったようですね。……白雲杳。私の声が聴こえますか。意識をこちらへ集中させなさい」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 小さい時、私は個性が制御できなくて、よく()()()()

 ばらけてしまうと、ここの世界とは違う場所に閉じ込められる。

 誰もいなくて何もない、真っ暗でモヤモヤした空間。そこにずっと漂い続ける。

 手も足も耳もないから何も触れないし聴こえない。口もないから話せない。

 でも、意識と感覚だけはある。

 自分がどんどん消えていく、もっともっと小さくなっていく感覚だけが心を支配する。

 ……言葉に言い表せないくらい、とても怖かった。

 

(杳ー!)

 

 でもそんな時、いつもどこかから優しい声が聴こえてきた。……大好きなお兄ちゃんの声。

 小さな水の粒にばらけて霧になってしまった私をお兄ちゃんは絶対に見捨てなかった。

 どこまでも根気強く追いかけて、助けてくれた。

 

(大丈夫だぞー!兄ちゃんはここだ!ほら、いつもみたいにギュギュッてなってこっちに来い!)

 

 お兄ちゃんの声は、仏さまが地獄に下ろした”蜘蛛の糸”だった。

 真っ暗な世界で、それはキラキラ光っている。

 いつも私はそれにすがり付いて、集中する。

 ばらけた体を一粒一粒掻き集めて、糸のてっぺんを、声の在り処をたどる。

 糸は手繰るごとに太くなり、輝きを増す。声もはっきり聴こえて来る。

 やがて暗闇に光が差して、世界が明るくなっていく。

 

 ……そしてゆっくり目を開けたら、いつも目の前にお兄ちゃんの笑顔が待ってるんだ。

 

 

 

 

 やがて黒霧の足元に、雪の結晶を引き連れて一陣の風が吹き込んだ。

 それはみるみる内に結集して鈍色の雲塊に変わったかと思うとパチンと弾けて、中から一糸まとわぬ姿の杳が現れた。気を失ってピクリとも動かない彼女の髪は、明るい空色からくすんだ灰色へ変化している。その姿を見下ろしながら、死柄木はどこか試すような物言いで黒霧に呟いた。

 

「……随分詳しいんだな?」

「ええ。私は霧で彼女は雲、同系統の個性ですから大方の検討は付きます」

 

 またしても二人はしばらくの間、無言で見つめ合った。やがて死柄木の方が先にふいと視線を逸らし、肩を竦めながら面白くなさそうに鼻を鳴らす。

 

「はいはいテストクリア。……なんだよ、()()()()()が見られると思ったのに」

「……面白いものとは?」

「別に。まぁ、サブクエストはクリアってとこか。こいつを……」

 

 しかし死柄木が無遠慮に杳の手を掴み上げようとしたその時、その身体が()()()()()()()()()()

 

 人は危機的状況に遭遇した時、異常なパワーを発揮する事がある。――今の相澤がそうだった。

 粉砕骨折しているはずの両腕を駆使して捕縛布を操り、瞬時に杳の体を絡め取ると、緑谷達のいる”水難ゾーン”へバックステップして退避する。

 肺に溜まっていた大量の血を吐き出すと、相澤は杳の体を蛙吹に手渡した。死柄木はその様子を見て軽く口笛を鳴らす。

 

「本当にかっこいいなぁ、イレイザーヘッド。その怪我でまだ動けるのか」

「蛙吹、白雲を頼む。あの靄がここにいる内にゲートまで避難しろ。応援が来るまで俺が食い止める」

 

 蛙吹は水中にそっと差し入れられた杳を抱き寄せながら、相澤の背中を見つめた。いつも冷静沈着な彼女の目が、この時ばかりは不安そうに揺れている。

 彼女は相澤が脳無にどんな仕打ちを受けたのか知っている。背中を向けているため表情までは分からないが、コスチュームは血でぐっしょりと濡れており、服越しからでも歪に折れ曲がった腕の形が確認できた。

 ――相澤は今、”生徒を守る”という信念だけで持ち応えていた。

 

「ケロ。でも先生、これ以上動いたら……」

 

 次の瞬間、黒霧の体の一部がふわりと波打って新たなワープゲートが生成された。死柄木が赤い目を狂気に輝かせながらゲートの中に手を突っ込む。

 思わず身構える相澤の視界の端で()()()()()()。蛙吹から数十センチほど離れた空間に黒い靄が滲み出るや否や、中から蝋のように白い手が突き出して彼女の顔を覆い尽くそうと襲い掛かる。黒霧が冷徹な声で言い放った。

 

「どこに逃れようと私の前では意味を成さない。イレイザーヘッド」

 

 相澤はとっさに空中へ身を翻し、死柄木の手首を掴み上げ、蛙吹の顔が壊されるのを防いだ。

 しかしその僅かな間に黒い靄は二つに分かれ、新たに生まれたもう一つのワープゲートから脳無の野太い腕が飛び出し、杳の腕を掴んで強く引っ張り込んだ。

 ……()()()()()()か!相澤が追いすがろうとしたその時――

 

「――”SMASSH(スマーッシュ)”!」

 

 ――いつのまにか水中を飛び出していた緑谷が、エメラルドグリーンに輝くエネルギーをまとった右腕で、脳無本体に強烈な一撃を喰らわせていた。緑谷と脳無との接点に彗星の衝突を彷彿とさせるような凄まじい衝撃派が発生し、放射線状に強い突風が辺りを吹き抜けて、砂埃がもうもうと巻き上がる。

 ほんの一瞬、凍り付いたように脳無の動きが止まった。すかさず相澤は杳の体を靄の中から引き摺り出し、脳無の手を蹴り上げて拘束を解く。

 

「うおわあああ!」

 

 中途半端に開いた脳無の手に、峰田が高速でもぎった実をポイポイ投げ入れる。コンマ数秒後、再起動した脳無は杳の代わりに大量のもぎもぎを握り込んだ事で、主の命に従い自己破壊するまでの間、拳を開けなくなった。蛙吹は舌で杳の体をしっかり巻き取り、峰田のマントをむんずと掴んですぐさま水中へ避難する。

 

 

 

 

「ぐっ……」

 

 硬い肉を撃つ感触が感じられたと同時に右手に激痛が走り、緑谷は思わず顔をギュッとしかめた。薄れていく砂埃の中から、五指全てが折れて皮膚から小骨が突き出し、ボロボロに傷ついた右手が現れる。

 ……もう右は使えない。しかし緑谷は挫けず、今度は左手をグッと握った。あと左手と両足、()()()()。まだ戦える。

 緑谷は愚直なまでに”ヒーロー”だった。……先生は命懸けで僕達を守り、白雲さんは先生を守った。今度は僕が皆を守るんだ。震える足に力を入れてしっかりと立つ。

 

「……なっ!」

 

 しかし砂埃が完全に消え去った後、緑谷が見たものは……()()()()()()()()()脳無の体だった。

 ――腕を一本犠牲にした全力の”SMASH”が効いていない。

 愕然とする緑谷の腕を脳無が掴もうとした刹那、相澤の捕縛布が緑谷の片足を捉えて強く引っ張った。数メートルほど後方を跳んだ緑谷は空中で崩した体勢を整えながら着地し、守るようにして相澤がその前に立つ。死柄木は友人に話しかけるように気軽な声を出した。

 

「スマッシュか。かっこいいなぁ。君、オールマイトのフォロワーかい?じゃあ君を殺したら……」

 

 次の瞬間、USJと外を繋ぐ巨大な自動ドアが勢い良く蹴り破られた。

 盛んに迸る蒸気の中で、オールマイトがネクタイを荒々しく引きちぎりながら敵の一群を睨み付ける。そのあまりの気迫に押された敵達の手足は勝手に震え始め、半数の者はそのまま腰を抜かして尻餅をついた。

 相澤はその姿を見た途端に、糸が切れた操り人形のようにその場に倒れ伏した。緑谷が慌てて駆け寄り、気を失った彼を抱き起こす。

 一方の死柄木はオールマイトを見るなり、だらりと両手を落とした。彼の赤い双眸がちらりと動き、誰もいなくなった”水難ゾーン”の湖面を未練がましく映し出す。

 

「――もう大丈夫。私が来た!」

「あー……コンティニューだ……」

 

 

 

 

 時を同じくして、ゲートに比較的近い湖の岸辺に蛙吹がひょいと顔を出した。

 手早く周囲の安全確認をした後、峰田を陸地に放り投げ、続いて舌で包んだ杳の体を優しく引き上げる。蛙吹は杳の体をよく観察するなり、小さく息を詰めた。

 

「ケロ……ひどい怪我だわ」

 

 腰の周りに巨大な手の形の青痣が出来ていて、しかも内出血している。

 ……一刻も早く病院に連れて行かなければ。オールマイトが救けに来てくれた今ならば、脱出も容易いはず。蛙吹がそう結論付けている間に、峰田は一切の無駄をそぎ落とした滑らかな動きで杳を背負い、力強くウインク&サムズアップしてみせた。

 

「任せろ、俺がゲートまで連れて行く!」

「……峰田ちゃん。鼻血が垂れてるわ」

 

 蛙吹が()()()()選手交代していると、前方から見知った声がいくつか飛んできた。

 

「ちょっと蛙……梅雨ちゃん!大丈夫?峰田倒れてるけど」

「……!そのお方は、もしや白雲さんですの?!」

「耳郎ちゃんに八百万ちゃんに、心操ちゃんね。……背負われてるのは上鳴ちゃんかしら?」

 

 血相を変えて駆けつけたのは、”山岳ゾーン”に飛ばされた一行である耳郎、八百万、心操、上鳴の四人だった。ちなみに上鳴は全てのパワーを使い果たして()()()()()となり、心操に背負われている。

 

「……ッ!白雲」

「ストップよ、心操ちゃん。この子何も着ていないの」

 

 心操はぐったりとした杳の顔を見るなり駆け寄ろうとしたが、片手を挙げた蛙吹に冷静な調子で押し留められる。

 すぐさま八百万が清潔な素材の衣服を創り出し、女子三人がかりでそれを着せた後、蛙吹は山岳ゾーン一行に今までの経緯をざっと説明した。

 心操は殿を歩きながら、八百万が背負う杳の後ろ髪を静かに見つめていた。

 

 明るい空色だった髪は、今はくすんだ灰色へ変わっている。本当の個性を使った副作用なのかどうかは分からない。けれど兎に角、今は彼女の身が心配でたまらなかった。そして同時に彼女をそんな惨い目に遭わせた敵が憎かった。

 ……どうしてそんな無茶を。だがきっと彼女は大丈夫だ。何の後遺症も副作用も残らない。

 強い不安にざわつく精神を落ち着かせて索敵に集中しながら、彼は自分自身に言い聞かせる。一刻も早く病院へ連れて行って、またあの()()()()を聴きたい。

 

 しかし少年の願いは二度と叶う事はなかった。一度変質してしまったものは戻らない。”パンドラの箱”を開ける権利は自分だけでなく()()にもあったのだと言う事を、その時の心操はまだ知らなかった。



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No.10 USJ襲撃後

 杳は夢を見ていた。トタンとメッキで創られた安物の舞台に立ち、空色の髪が燦然と輝くヒーローを演じ続ける夢を。

 しかし突然、頭に()()()ぶつけられ、彼女は思わず動きを止める。恐る恐る触ると、指先に卵の殻と共にどろりとした液体が絡み付いた。

 

「Boo-Boo!」

 

 投げかけられたブーイングの声に視線を向けると、何事かとどよめく観衆の中に一人の青年がいた。王様のようにどっかりと座った彼は、死人の手に隠された目を赤く光らせて嘲笑う。

 

 青年はポケットから取り出した二つ目の卵を空中に軽く放り投げ、キャッチすると同時に投げつけた。卵は空中で割れて、中から脳が剥き出しになった異形の大男が生まれ出る。大男は振り上げた拳で舞台を粉々に粉砕した。舞台を煌々と照らしていたランプも壊され、周囲は暗闇に包まれる。

 

 ふと冷たい風が下方から吹き上げ、杳の頬を撫でていった。ゾッとした彼女は視線を下ろし、息を詰める。――()()()()()()が大口を開けて待ち構えていた。粉々になった舞台の破片や人々が皆、穴へ吸い込まれていく。

 ……いやだ、怖い、助けて!杳は我武者羅にもがきながら、何かに掴もうとするように手を伸ばした。

 

 その時、その手をしっかり掴んだ者がいた。

 空色の髪をゴーグル付きの飛行帽でまとめた青年が、自分を見つめている。

 

「お兄ちゃん!」

 

 しかし、彼は泣きそうなくらいに優しい笑みを浮かべて、首を横に振った。

 次の瞬間、兄の姿は霞んで消え去り、中から一糸まとわぬ()()()姿()が現れた。にわかに腰の周りに青い痣が滲み始め、彼女は苦しそうに顔を歪めて大量の血を吐き出した。

 それでも彼女は繋いだ手を離さず、こちらを睨み付ける。その目から一筋の涙が零れ落ちて、杳の頬に滴った。

 

 

 

 

 気が付くと、杳は清潔なベッドに横たわっていた。かすかに違和感を感じて頬を触ると、涙の乾いた痕があった。ゆっくりと体を起こして周囲を確認する。

 必要最低限のものしかない、白を基調とした簡素な部屋。消毒剤の匂い。薄い引き戸を通して聴こえて来るストレッチャーの移動音や人々の話し声。ここは病院のようだった。

 ……どうしてこんなところにいるんだろう。まだ覚醒し立てで記憶が朧げなまま、彼女は縋るようにゴーグルを探した。しかし、どこにもない。サイドテーブルには自分の鞄が置かれていた。それの中を探るが、ない。心臓がギシリと軋んで冷たくなっていく。

 

「目が覚めたかい」

 

 不意に引き戸が開いて、リカバリーガールがひょっこりと顔を出した。

 リカバリーガールは杳の反応を観察しながら、今までの経緯をざっと説明してくれた。曰く、オールマイトが一部の生徒と共に奮闘してくれたおかげで、敵は逃げ延びてしまったものの、生徒達はほとんど無傷で助かったと。相澤先生も重傷を負ったが後遺症はないとの事だった。

 

 ――”(ヴィラン)”。その単語を聴いたとたん、脳裏に数時間前の光景が鮮やかにフラッシュバックした。死人の手に囲まれた青年、黒い靄のような男。異形の巨人が自分に与えた、熱い痛みと嫌な音。

 杳は思わずぶるりと身を震わせたが、すぐに持ち直す。お兄ちゃんならそんな事で怯えたりしない。”運良く生き延びられて良かった”と快活に笑うはずだ。

 

「……うぅっ」

 

 しかし()()()()()()()明るく発声しようとした瞬間、強烈な吐き気が込み上げ、杳は口に両手を押し当ててうずくまった。

 ――()()()()()。続いてリカバリーガールが差し出した金属製のうがい受けを受け取り、それに映った自分の姿を見て愕然とする。くすんだ灰色の髪に同じ色の目。いつのまにか髪の染料が抜けて、カラーコンタクトも取れていた。

 

「ひっ……!」

 

 杳は思わず顔を逸らした。体中から汗が吹き出し、体温が急上昇していく。何も考えられなかった。鞄の中を搔き回し、携帯用のリタッチメントを取り出して乱暴に押し付けるが、空色になった髪は瞬時に色褪せて元へ戻っていく。予備のコンタクトレンズでも同じ現象が起きた。

 

()()()()()()()()()()

 

 リカバリーガールが静かにそう言いながら、杳の汗ばんだ手を取り、窘めるようにゆっくりと首を横に振った。

 

「無理はやめな。もうこれ以上、自分を否定するんじゃないよ」

「わ、()()()()()()()です。何も否定なんて……してない」

「あんたは白雲朧じゃない。その妹、白雲杳だ。全くの別人だよ」

 

 不意に心臓の内側をあの冷たい風がふわりと撫でてゆき、杳は思わず戦慄した。

 ……まただ。あの冷たい穴が見える。兄を飲み込んで消し去った、恐ろしい闇だ。

 リカバリーガールの言葉は今の杳にとって”毒”に等しかった。一口飲むごとに体を腐らせ、死に至らせる猛毒。これ以上聴いてはいけないと杳の理性が叫ぶ。

 

「違うんです。は、早く元に戻らなきゃ……」

「元に戻るんじゃなく、前を向いて生きる事を考えな」

「前を向いたら認めなきゃいけなくなる!」

 

 杳の叫び声が、しんとした病室内に響き渡った。目が融けるように熱くなったと思ったとたんに視界が歪んで、大粒の涙が零れ落ちる。

 ……私が無理するのなんかどうだって良いんだ!お兄ちゃんを喪う事に比べたら。震える手でリタッチメントを握り締めながら、杳は感情を叩きつけた。

 

「私が真似を止めたら……この世界からお兄ちゃんがいなくなってしまう!」

 

 リカバリーガールは輝きを失った灰色の瞳を真正面から受け止め、眉根を下げた。

 ――彼女は熟練の医療ヒーローだ。今まで数えきれない程の事件現場へ赴き、大切な存在を喪った人々を大勢見て来た。多くの場合、悲しみは時と共に風化していくもの。人は()()()生き物だ。心の片隅に置き場所を作り、少しずつ時間を掛けて置き去る事で傷を癒していく。

 だが、いつまでも忘れられずに心の傷を癒せない者も、少なからず存在する。

 ……この子もそうだね。想定していた以上に重症だ。リカバリーガールは労りを込めた眼差しを杳へ送り、震える背中をゆっくりと撫でた。兄が死んだ時から彼女の心の時は止まった。そしてその心を置き去りにして体だけが成長を遂げようとしている。

 

 その時、軽いノックの音が聴こえて二人は顔を上げた。病室のドアに寄りかかるようにしてマイクが立っている。彼の陽気過ぎる笑顔に当てられて、先程までの殺伐とした空気は瞬時に霧散していった。リカバリーガールは杳の背中を撫でながらマイクに尋ねた。

 

「あんた、会議はもう済んだのかい?」

I'm out(ちょいと早抜け)。白雲が回復したって聞いたもんで」

 

 マイクは軽快な足取りでベッドの脇までやって来てしゃがみ込むと、杳の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

 

「HEYマイリスナー!生きてるかー?」

「……」

 

 杳の目から返事の代わりにポツリと涙が零れ落ち、シーツに滴った。マイクはそれを見て少し悲しそうに微笑むと、サイドテーブルに置いてある杳の鞄を掴んで勢い良く立ち上がった。

 

「よっしゃ家まで送るぜ!俺のラグジュアリィカーでな!」

「変な事するんじゃないよ」

「しませんよ!信用ねェな俺!」

 

 リカバリーガールはマイクにしっかりと釘を刺しつつ、杳を立ち上がらせて帰宅の準備をさせた。杳がぺこりと頭を下げ、マイクに続いて引き戸に手を掛けたその時、リカバリーガールにその手をそっと掴まれる。振り返ると、彼女が真剣な表情でこちらを見据えていた。

 

「白雲、良く覚えておきな。あんたがここぞという時に使ったのは()()()()()。あんたの命を救ったのも()()()()()。真似事の個性じゃないよ。

 あんたの体はとっくに前へ進む準備ができてる。後は、あんた自身がそれを受け入れるだけさね」

 

 

 

 

「さあどーぞお姫様!」

 

 マイクの仰々しいエスコートに導かれて、杳は海外製のクラシックカーに乗り込んだ。古めかしいデザインだが、手入れが良く行き届いている。

 バックミラーにはハンドメイドのドリームキャッチャーと共に一枚のポラロイド写真が吊り下げられていた。長い年月の間、日光に晒されて色褪せてしまっているそれに目を凝らし、杳は小さく息を飲んだ。

 

 ――雄英の制服を着た()が二人の生徒の両肩に腕を回して、真ん中でにっかりと笑っている。

 向かって左側には黒髪を長く伸ばしたどこか内気な雰囲気の少年、そして右側には金髪を逆立てサングラス越しでも充分わかる程のスマイルを浮かべた少年がいた。二人共、不思議とどこかで見た覚えのあるような気がする。

 

「……ここでQuestion!」

 

 急に大きな声がしたので、杳は跳び上がって驚いた。悪戯っぽい笑みを浮かべたマイクがファーストフード店の紙袋を片手に運転席に乗り込もうとしている。マイクは鼻歌を歌いながら運転席のドアを閉めると、写真に映る金髪の少年を指差しながら杳に尋ねた。

 

「この右側の超絶イケメンは誰でしょーか?」

「……マイク先生です、か?」

「That's right!じゃ左側のグルグル巻きが似合いそーな陰気クセー奴は?」

「……あ、相澤先生?」

「Constellation!全問正解だ!プレゼント・フォー・ユー!」

 

 マイクは芝居がかった動作でサムズアップしてみせると、紙袋の中からドリンクの入ったカップを取り出して杳に手渡した。ひんやりと冷たいそれは仄かにイチゴの匂いがする。ストローを差してやりながらマイクは優しく掠れた声で言った。

 

「お前の兄貴は親友だったんだよ。……”俺達は三人で一つ”ってな」

 

 思わずマイクを見上げた杳の耳に、ポツポツという雨音が染み込んでいく。フロントガラス越しに見上げると、どんよりと曇った空から大粒の雨が降り始めていた。見る間に雨は勢いを増し、周囲は水蒸気で煙り始める。

 ワイパーが雨をかき分けていく様子を眺めながら、杳はマイクから三人の思い出話を沢山聴いた。――三人はとても仲が良かった事。特に相澤と兄の絆は固かった事。お揃いのゴーグルを付けていた事。将来は三人でヒーロー事務所を立ち上げるつもりだった事。

 

 ”俺は君の兄を知っている。彼の個性もな”

 かつて相澤が掛けてくれた言葉が、杳の耳にこだました。……だからあんなに一生懸命、声を掛けてくれたんだ。カップを両手で握り締めて俯く杳をチラリと見ながら、マイクはウインカーを出して右折する。

 

「言っておくが、俺達は白雲の真似してたから救けたいんじゃなくて()()()()()()()んだよ。オーライ?」

 

 赤信号で止まっている間、マイクはハンドルから手を離して杳の頭をポンポンと撫でた。

 

「死んだ人間はどうやったって還らねェ。俺達ができんのは思い出抱えて、前向いて進む事だけだ。……さあ、着いたぜお姫様」

 

 杳は鞄の中に入れていた折り畳み傘を開くと外に出て、送ってくれたマイクに一礼した。それから彼の車が他の車の群れに呑まれて消えてしまうまで、ずっと眺めていた。

 ――小さな折り畳み傘の外を激しい雨の弾丸が通り過ぎていく。まるでこの世界に一人ぽっちで取り残されたような気がした。雨音がうるさ過ぎるせいで思考がぼんやりして、一向に定まらない。

 ふと喉の渇きを感じて、杳はカップの中身を一口すすった。イチゴ味のシェークだ。()()()()()絶対に選ばなかった、懐かしい味がする。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 ショッピングモール内にあるファーストフード店の看板の横を、杳を抱っこした朧が通りすがる。杳は小さな声を上げて朧を制し、物欲しそうな顔で一つの商品を指差した。彼はそれを見て明るい声を上げる。

 

(お!ストロベリーシェークか。杳は本当にイチゴが好きだなー)

(ちょっと朧!買い食いはダメよ。これから晩御飯なんだから)

 

 後ろで様子を見ていた母は呆れたような口調で言い放つが、その数秒後、”車の鍵を失くした”と慌てふためきながらやって来た父のフォローに回る事となった。朧はしめたとばかりに笑い、さっと店のカウンターに駆け込む。

 

(ストロベリーシェーク一つ)

 

 そうして受け取ったカップを杳に渡し、母の死角にさっと入り込みながら、朧は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

(よーし兄ちゃんと半分こだ。思いっきり吸い込め!)

 

 杳は目を輝かせてストローに口を付ける。――初めて飲むストロベリーシェークはとても甘酸っぱくて冷たくて美味しかった。優しい空色の瞳がその様子を見守っている。

 

 

 

 

「うぅ……」

 

 やがて杳の瞳からまたも涙がいく筋も零れ落ち、泥混じりの雨の中に混ざっていった。

 ……思い出した。()()本当に臆病で弱虫で、ワガママで、すぐ泣くし、自分の個性も満足に扱えない。世界で一番、自分の事が好きじゃなかった。

 お兄ちゃんがいないと私は何もできない。だからお兄ちゃんの真似をして、記憶の残り火に縋って、なんとか今日まで生きて来られたのに。

 

 ――夢の舞台は兄の幻影と共に永遠に消え去った。目覚めると、何も持っていない()()()()()()だけが残っていた。冷たく厳しい現実の世界で、皆は強く生きている。”君もそうあれ”と先達は言う。

 

 にわかに鞄の中が振動し始め、杳の肩が小さく跳ねた。……電話だ。緩慢な動作で鞄のチャックを開け、スマートフォンを取り出す。画面を見ると”心操人使”と表示されていた。

 

 

 

 

 一方その頃、心操は病院付近のバス停で、錆びついたベンチに腰掛けながら次の便を待っていた。

 

 ――あれからオールマイト達の活躍によって敵は去り、心操達は警察から事情聴取を受けた。その後、学校へ戻ると代理の先生から”明日は臨時休校にする”という通達があり、生徒達はそのまま早退する運びとなった。

 心操は去ろうとする先生に追いすがり、杳の搬送先を訊き出して見舞いに向かったが、タイミングの悪い事にもう彼女はマイクに連れられて帰宅した後だった。しかしそれを聴いて彼はひとまずホッとした。入院しなければならないほどの重症ではなかったからだ。

 

 それから心操は少しの間、逡巡した。彼女の自宅の住所は以前聞いて知っているが、さすがに家まで行くのは憚られる。どうせ明後日には会えるし、今日明日はしっかりと安静にしてもらわなければならないだろう。

 だが、たった数秒だけでもいい。声だけでも聴きたかった。彼は躊躇いながらもスマートフォンを取り出し、友人の連絡先をタップする。

 しばらくの間、無機質な呼び出し音が続いた。やがて諦めようとスマートフォンを耳から離しかけた時、プツリと呼び出し音が途絶える。

 

 しかし、降り続く雨の音がするだけで()()()()()()()。以前に一度電話をした時は「もしもし!」と鼓膜が破れそうなほど大きな声で応答してくれたのに。痺れを切らした心操は軽く咳払いをしてから口を開いた。

 

「……白雲?心操だけど」

「うん」

 

 すると雨の音に混じってかすかに虚ろな声がした。――まるで()()()()()()()()だった。何か悪い事があったのか。数時間前に見たくすんだ灰色の髪が脳裏をよぎり、心臓が冷たく凍り付いていく。

 

「大丈夫か。元気ないな」

「……」

 

 再び、沈黙が流れた。心操は不安のあまり居ても立っても居られなくなって、思わず声を荒げた。

 

「なぁ、何かあったのか?」

「……お兄ちゃんの真似ができなくなっちゃった。だからもう()()()()()()()()()

 

 そう言うと、杳は弱々しく声を震わせて泣き始めた。心操は、食堂で友人が見せた()()()()()をふと思い出した。今にも汗で滑り落ちそうなスマートフォンを握り直し、元気づけるように明るい声で応える。

 

「何馬鹿な事言ってんだよ。()()()()()で……」

「全部、()()だったから」

「……は?」

 

 その瞬間、世界を動かす時計の針がピタリと止まった。

 意識の奥底に沈め込んだはずのパンドラの箱が、ゆらゆらと浮かび上がって来る。その中にはありとあらゆる災いが詰まっていた。心操の脳裏にかつての忌まわしい記憶の数々がフラッシュバックする。自分を恐れて離れていく人々、上辺だけの人間関係、友人だと思っていた人々の裏切り――。

 

「ヒーローになるために雄英に入ったのも全部、真似しただけだったから」

「……じゃあ何だよ」

 

 虚ろな杳の言葉が差し込んで回され、箱に掛けられた錠前はガチャリと外れた。そして心操は、パンドラの箱を開いてしまった。

 

「あの時掛けてくれた言葉も……嘘だったのか?」

 

 ……頼む、()()()()言ってくれ!心操はスマートフォンを潰れるほど強く握り締めながら、ただ願った。しかし、現実は非情だった。杳は激しくすすり上げながら言葉を続ける。

 

「だって……()()心操くんに声を掛けられるわけ、ないよ。個性……怖いもん」

 

 その瞬間、心操の心はかつてないほどに深く抉られた。あまりの事に呼吸が止まる。それでも彼は歯を食い縛り、自分が受けた心の傷を言葉に変えて投げつけた。

 

「……ッ、悪かったな。こんな個性で」

 

 次の瞬間、乱暴に通話を切ると、心操は自らの髪を強くかき乱しながら俯いた。

 食堂で聴いたあの話を鑑みるに()()()()()()()()()ではなかった。だがそれでも彼は杳に対して、幻想に近い期待を抱いていた。

 ――兄の模倣を止めても、自分を好いていてくれる事を。変わらず友達でいてくれる事を。自分の個性を恐れて離れていく他の大勢の人々とは違うのだと信じたかった。

 

 だが希望は叶う事無く、バラバラに砕け散った。

 喉の奥から熱い何かが込み上げて来る。悲しくて寂しくて、たまらなかった。束の間の楽しい時間は終わりを告げた。

 

 心操は込み上げる涙を止めようとした。他の人々と関係が破綻してしまった時と同じように、感情に蓋をしようとした。泣いたところで事態は好転しないし、誰も同情してくれる人はいないという事は骨身に沁みているはずだった。

 しかし、できなかった。たった数日間の杳との日々はそれほどまでに彼の心に大きな傷跡を残していた。次の便が来るまでの間、彼はベンチにうずくまり、失意に暮れて泣き続けた。

 

 

 

 

 ”臨時休校”となった翌日、杳は両親とも会わずに一日中部屋に閉じこもり、ずっと兄の真似を試みたが、結果は芳しくなかった。兄のように明るい声を出そうとしたり、笑おうとするだけで激しくえずき、模倣の個性を出そうと考えただけで頭が割れるように痛くなる。

 寝る間も惜しんで今の自分に出来る全てをやり尽し、そしてそれらが全て無駄に終わった時、杳の感情は消え去った。ベッドで仰向けになって天井をぼんやりと眺める彼女の心には、兄を喪った空白だけが存在している。

 

 (あんたの体はとっくに前へ進む準備ができてる。後は、あんた自身がそれを受け入れるだけさね)

 (俺達ができんのは思い出抱えて、前向いて進む事だけだ)

 

 ”前へ進め”と先達は言うが、杳は()()()()()()が分からなかった。

 長い事、他人の仮面を被り続けたせいで、今はもう自分が何を望んでいたのかという事すら忘れてしまった。本当の自分がどんな風に笑うのか、何が好きなのかという事も、ほとんど覚えていない。

 

 ――ヒーローを目指し、雄英ヒーロー科に進んだ事すら、()()()()だった。

 

 ふと先日の心操のやり取りを思い出し、杳はベッドからむっくりと体を起こした。枯れたはずの涙腺が疼いてまた涙が溢れ出す。空っぽだった心に汚泥が降り積もっていく。

 ……でもこれで良いんだ。ヒトシは()()()()()()()()()()が好きだった。それが出来なくなった今、個性が怖くて声を掛けられていなかったはずの()()()()なんて好いてくれるはずがない。

 

 やがてカーテンの外が明るくなり小鳥のさえずる声がして、杳はベッドから離れた。そしてクローゼットを開けて制服を取り出し、袖を通す。

 ……あれ。その時、杳はふと疑問に思った。

 兄の真似ができないなら学校に行く意味なんてないのに。どうして私は制服に袖を通しているんだろう。しかし彼女の意志を無視するように体は勝手に動き、部屋を出て玄関のドアを開けて、雄英高校へ向かって歩き出した。

 

 心操が開けたパンドラの箱に()()()()()が一つある。それは杳の真っ白な心の底に小さな炎を生み出して、未来へ向かって静かに揺れていた。




心操くんのヒーローネームがやっと決まった…。
次回は心操&相澤回。体育祭の障害物競争まで行けたらいいな…。


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No.11 体育祭まで

 死柄木達がヒーローの追撃を辛くも逃れ、アジトへ帰還してから約一時間後。通信を終えた老人は苦虫を噛み潰したような表情で、溜息を吐いた。

 

「全く散々だ。脳無は奪われる、クラウディちゃんは取り逃がす……」

 

 部屋に照明の類はない。おびただしい数の電子媒体から漏れ出る光だけがリノリウムの床に反射し、彼の輪郭をぼんやりと照らしていた。老人が手元の端末を操作すると、壁に嵌め込まれた大型ディスプレイに映像が投影される。公道を走る一台のクラシックカーに焦点を当てたものだ。

 

「ほれ見ろ、護送されとるぞ。あんたの倅が中途半端に手を出したせいでな」

「まだ成長過程なんだ。長い目で見てあげてほしいな」

 

 電子媒体にはいくつものチューブや点滴管が接続され、その先は部屋の奥に向かって伸びていた。電子媒体が放つ燐光やリノリウムの反射光すら届かないその場所から、くぐもってはいるが優しく穏やかな声が響く。老人は革張りの椅子に背を預け、足元にうずくまった不気味な生き物をゆっくりと抱き上げた。

 

()()()()()()にも、一刻も早く必要だったんじゃがな」

「分かっているよ。……仮説を立証できたなら、あの子は僕達の救世主(ハイエンド)になれる」

 

 どこかの監視カメラを傍受しているのか非常に荒い画質の世界で、ハザードランプを付けた車から一人の少女が降りていく。激しい雨が降り続く中、少女は運転席で手を振るヒーローに小さく頭を下げた。

 

 

 

 

 俯いていた頭をゆっくりと元の位置に戻しながら、杳は大きく深呼吸をした。

 彼女は地下鉄のホームに設置されたベンチに座り込んでいる。通学中、自動ドアのガラス窓に映った自分の姿を直視して一時的なパニック状態に陥り、すぐさま途中下車して休憩を取っていたのだった。都心に近い事もあり、ホーム内は大勢の人々でひしめいていた。皆、迷いのない足取りで列を成しては、次々とやって来る車両の中へ吸い込まれていく。

 

 ――”このまま帰ってしまおうか”と何度も考えた。

 

 けれど、真っ白に凍り付いた心の底に()()があって、それがエンジンのように熱く燃えて杳の両足を前へ動かし続けていた。心がくじけそうになる度、それは火の粉を散らしながら何度も叫ぶ。”学校に行くんだ、帰ってはならない”と。

 杳は腕時計をチラリと見るなり、眉尻を下げた。……もうこれ以上グズグズしている時間はない。学校に行きたいけど、自分の顔を見たくないし見られたくもない。一体どうすればいいんだろう。

 

「!」

 

 その時、杳は足元にかすかな違和感を感じ、見下ろして小さく息を飲んだ。――どこからかファーストフード店の紙袋が風に吹かれて飛来し、ローファーにへばり付いている。オールマイトとコラボしているのか、両手に大勢の救助者を抱えて瓦礫の中から立ち上がる彼の姿が、表面に大きく印刷されていた。杳は意を決してそれを取り上げる。

 

 

 

 

 始業時間十分前。1-Aクラスのドアを開けて入って来た女子生徒を見るなり、クラスメイト達は絶句した。

 ――彼女は()()()()()()()()いた。

 そして一言も喋らずにそろそろと歩き、”白雲杳”の席に腰を下ろした。()()()()()とはあまりにもかけ離れているその様子に、暫らくの間、クラスメイト達はリアクションだけでなく声を掛けるタイミングすら見失い、ピクリとも動く事ができなかった。

 

 そしてそれは一番後ろの席にいる轟も同じだった。

 一昨日のUSJ襲撃事件後、緑谷達から聞いた話では、彼女は”本来の個性”を発揮して相澤先生を守り、あの脳無相手に大健闘したらしい。いつもの彼女なら自らの活躍を自慢しまくるはずだ。

 だが今は、別人のようになってしまっている。まるで本当の力を得ると同時に何かを失ったように。

 ……”何かを失う”。轟はふと思い当たる節があり、ゆっくりと顔を上げた。まさか本来の個性を使った事で”兄の模倣”ができなくなったのか?

 

「心操君、白雲君は一体どうしたんだ?紙袋を被るなど……」

「知らねェよ」

 

 飯田は両手を手持無沙汰に動かしながら、心操に真相を問いかける。しかし返って来たのは、冷たい拒絶の言葉だけだった。続いて心操は乱暴に席を立ち、ドアを開けてどこかへ去って行く。――いつも仲良しこよしだった”凸凹コンビ”の様子が明らかに可笑しい。皆、何かとんでもない出来事があったのだと察し、ますます動けなくなった。

 けれどそんな中、轟はためらう事なく席を立って杳の机まで行くと、しゃがみ込んで彼女を見上げた。紙袋には二つの穴が開いており、その中から銀鼠色に輝く目が彼を見つめている。

 

「大丈夫か?」

 

 轟はできるだけ優しい声を作って話しかけるが、返事はない。すると爆豪がとびきり大きな舌打ちをしながら席を立ち、杳の方へズカズカとやって来た。

 

「おいKY女。朝っぱらから気色悪ぃもん見せンなや。横でガサガサうっせーんだよ!」

「ちょっ、爆豪!」

 

 嫌な予感がした切島と轟が手を伸ばすが、それよりも早く爆豪は杳の被った紙袋を掴んで引き抜いた。轟は真正面で杳の姿を見るなり、言葉を失って立ち竦んだ。

 ――そこには、()()()()()()()姿()があった。

 弱々しく泣きじゃくりながら、右手で左手を強く殴り、傷つけている。長い時間冷気に晒されて赤くなった顔に、悲しみに濁った色違いの目(オッドアイ)が浮かんでいた。左半身は深刻な凍傷を起こし、膨れて青みがかっている。それでも彼は歯を食い縛り、体の芯まで震え上がりながら、さらに多くの氷を生み出そうと頑張っていた。思わず轟は手を伸ばし、夢中で叫んだ。

 

「……()()()()()()!」

 

 しかし轟が瞬きをした瞬間、かつての自分は雪の結晶と共に消え去り、変わり果てた少女の姿が現れた。

 ふわふわした髪は澄んだ空色からくすんだ灰色に変わっていた。いつも勝気に上がっていたはずの眉は、困ったように垂れている。両目の下には濃い隈と涙の痕が滲んでいた。唯一残っている面影は、ほんの少し上がった目尻だけ。ぼんやりと輝く灰色の双眸が爆豪を映し、新たな涙を創り出す。爆豪の持っている紙袋を掴んだまま、切島は素っ頓狂な声を出した。

 

「え?おま……誰?白雲?」

「おい何してる。HR始まってんぞ」

「先生復帰早っ!」

 

 いつの間にか教卓に相澤が着いており、厳格な眼差しで生徒達を見下ろしていた。皆、注目の的をすぐさま相澤へ変更して、そそくさと居住まいを正す。――先日の戦闘で相澤は重傷を負ったと聞いたが、さすがプロヒーロー、わずか一日で授業ができるまでに回復したらしい。

 相澤は包帯だらけの体を器用に動かして紙袋を取り返すと、杳の頭にそっと被せた。その時、ガサガサと紙が擦れる音に紛れて、くぐもった優しい声がした。

 

「……救けてくれてありがとな」

 

 杳は紙袋の両端をギュッと握って下ろしながら、相澤をおずおずと見上げた。宝石が光を反射してきらめくように、包帯越しに垣間見える黒い双眸が優しい輝きを帯びたような気がした。

 

 一方の轟は自分の席に力なく座り込んで、左手を見つめていた。さっき自分が目の当たりにしたものと叫んだ言葉が、理解出来なかった。心臓が今にも口から飛び出しそうなほどに激しく脈打っている。

 ……俺は、昔の自分に()()言った?”もういいんだ”なんて、何故そんな馬鹿げた事を。俺はこの力を使わずに強くなると、自分自身に誓ったはずなのに。

 

(いいのよ、お前は……)

 

 その時、耳の内側に懐かしい女性の声がそっとこだました。

 この言葉は自分にとって、非常に大きな意味を持っていたものだったと思う。けれど父親への憎悪に囚われていく中で、いつしかその先を忘れてしまっていた。今までどうしても思い出せなかったその続きが、悪路を行き詰まった同志とかつての自分の姿を無意識に重ねた事で紐解かれ、ゆっくりと耳に染み込んでいく。

 

(……血に囚われる事なんてない。()()()()()()になっていいんだよ)

 

 少年の左目から一筋の涙が伝って、手の甲にポツリと滴った。左手が緩やかに熱を上げ、揺らめく蜃気楼を創り出す。

 

 

 

 

 午前の授業はつつがなく終了し、昼休憩の時間が到来した。

 クラスメイト達は皆、そわそわと落ち着かない様子で、ピクリとも動かない杳を見つめる。”頼みの綱”の心操はチャイムが鳴ると同時に席を立ち、どこかへ行ってしまった。今まで彼らは一緒に食堂へ赴いてランチを摂っていたはずだった。

 ヒーローを志すクラスメイト達は皆、弱っている者を放って置けないタイプだった。()()ランチに誘うのが杳にとって負担が少ないか、彼らが考えを巡らせているその時、轟がおもむろに席を立った。そして真っ直ぐに杳の机へ歩いてゆき、その手を掴む。

 

「白雲。飯行くぞ」

 

 轟はそう言うと杳を立ち上がらせ、ドアを開けて廊下へ出た。一斉に食堂へ向かう大勢の生徒達に混ざり、二人は歩みを進める。ふと轟が振り返り、口を開いた。

 

「できなくなったのか」

「……うん」

「そうか」

 

 しかし轟はそれ以上、何も訊かなかった。やがて彼は廊下の途中で進路を変え、人のまばらな中庭まで連れて来ると、整備の行き届いた芝生の上に杳を座らせる。

 

「あそこで食う気分じゃねェだろ。何か買ってくる」

 

 ……どうしてそんなに親切にしてくれるんだろう。杳は芝生の上で膝を抱え込みながら、疑問に思った。”兄の真似”をできない自分に優しくしても、意味がないのに。

 やがて二人分のざるそばセットを持った轟が帰って来て、傍に座った。杳は小さくお礼の言葉を言い、二人はそばをすすり始めた。

 

「……前に俺の親父の事、知りたがってたよな。教えてやる」

 

 不意に轟が口を開いた。別に進んで言う事ではないが、父との確執について他人に話すのはこれが初めてだった。杳は箸の手を止めて、轟を見る。彼は虚空を見つめながら、吐き出すように言葉を連ねた。

 

「親父は万年No.2のヒーローだ。上昇志向の強い奴で、ヒーローとして破竹の勢いで名を馳せたが……それだけに生ける伝説オールマイトが目障りで仕方なかったらしい。

 自分ではオールマイトを超えられねぇと理解した親父は、次の策に出た。……”個性婚”っていう糞みてェな方法を使ってな」

 

 杳は言い知れぬ不安に胸がざわざわとして、生唾を飲み込んだ。

 個性婚とは超常社会になってから、第二~第三世代間で問題になった行動だ。自身の個性をより強化して継がせるために配偶者を選び、結婚を強いる。倫理観の欠落した前時代的発想だと「倫理学」の授業を担当するミッドナイト先生は酷評していた。轟は自分の左手を強く握り締め、滔々と話し続ける。

 

「親父は母の親族を丸め込み、母の個性を手に入れた。自分の子供をオールマイトを超える存在に育てる事で、欲求を満たそうってこった。

 あいつにとって家族は自分の道具みてェなもんだ。記憶の中の母はいつも泣いている。……”お前の左側が醜い”と母は俺に煮え湯を浴びせた」

「……ッ!」

 

 杳は思わず総毛立った。……”煮え湯を浴びせた”だって?確かに彼の左半分は火傷痕のように赤く変色している。その傷にそんな悍ましい過去があったなんて知らなかった。

 誰よりも恵まれた環境にいるはずの彼は、自分の欲しいものを何一つ有していなかった。色違いの目は憎悪の炎に燃え、歪に輝く。

 

「俺は親父が許せなかった。……あいつの面影と個性を持った自分も。クソ親父の力は使わずに一番になって、奴を完全否定してやるんだと息巻いてた」

 

 怒りに濁った双眸の奥に、曲がりくねった泥だらけの悪路が映し出された。その果てで力尽き、泣いている少女と共に。

 道の先は一面の泥の壁で塞がれ、”行き止まり”の標識がいくつも突き刺さっている。少女の体は傷だらけだった。そんなにも頑張ったのに、この道の先は行き止まりだった。うずくまる彼女の肩に、氷の力のみを使うと決めた昔の自分がそっと手を置いた。

 

 その時、眩い光が真横から差し、二人は目を細めながら顔を向けた。

 ――泥の壁の横には、光輝く()()()()があった。何物にも囚われず、自分自身として生きる道。悪路を進む中、蛾が光を求めるように何度もそこに吸い寄せられては、そんな事などできないと諦めて来た。だけど、今がその時だ。

 

「……でも、それはもう、()()()

 

 にわかに轟は左手を見つめて、力を込めた。みるみるうちに周囲に熱と煙が立ち込め、やがて炎が左腕を聖火(トーチ)のように包み込む。父を彷彿とさせる炎を間近に感じ、あまりの嫌悪感に鳥肌が立って動悸が激しくなっていく。

 しかし彼はどこか吹っ切れたような表情で、揺らめくそれを見つめていた。杳は轟の真意が分からなかった。彼にとっては辛い事であるはずなのに、何故父の個性を解放しようと思ったのだろう。

 

「どうして?」

「”しがらみに囚われる事はない。なりたい自分になっていい”……母さんが言ってくれた言葉だ。今朝、それを思い出した」

 

 ”なりたい自分”――そもそも自分が何者かすら分かっていない杳にとって、その言葉は()()()()()。それに兄の真似を止めた自分を、誰が許してくれると言うのだろう。自信なさげに俯く杳の目の前で、轟は炎をまとった左手を少し振ってみせた。

 

「お前はこれを見て俺の事、嫌いになったか?」

「……え?」

 

 杳は思わずきょとんとして、轟を見つめた。”これ”というのは()()()()の事だろう。それを解放したから轟を嫌いになる?そんな馬鹿げた事があるわけない。彼女は慌てて首を横に振り、掠れた声でしっかりと応えた。

 

「そんなことで嫌いになるわけないよ」

「俺も一緒だ。お前が兄の真似を止めたからって、嫌いにならない。……たぶん()()()()もな」

 

 杳はその言葉を飲み込むのに多くの時間を必要とした。

 ――今まで、兄の真似をした自分にしか価値がないのだと思っていた。だけど彼はそれが出来なくなっても、価値があるのだと言ってくれた。杳の心の底で燃える炎がさらに大きくなり、冷たい心臓が少しだけ暖かくなってくる。

 やがて料理の載ったプレートを持ってこちらへ近づいてくる常闇と口田を見つけると、轟は左手の炎を消し、口元をほんの少し綻ばせた。

 

 

 

 

 中庭で杳がクラスメイト達と共に食事を摂っている様子を密かに見守りながら、心操は一人、木の下に座り込んでカロリーメイトを齧っていた。放射線状に広がった枝には新緑がしっかりと芽吹き、吹き抜ける春風に揺られてささやかなメロディを奏でていく。

 

「あいつが心配か?お前もつくづく不器用な奴だな」

 

 急に低い声が頭上から振って来て、心操はびくりと肩を強張らせながら顔を上げた。いつの間にかミイラマンと化した相澤が前方に立っており、こちらを見下ろしている。

 ……”あいつが心配”?一昨日、電話越しに投げつけられた杳の言葉が蘇り、心操は唇を噛み締めた。冗談じゃない。俺はそんなつもりでここにいるんじゃない、はずだ。

 

「別に。心配じゃありません」

「自分の感情に嘘を吐くな。心に矛盾を抱え続けると、いざという時に適切な行動が取れなくなる」

「……ご指導どうも」

 

 ……抹消の個性は、心理的な要因にも有効なのだろうか。心操は憮然とした表情でそう思いながら、いつもの癖で首元を抑える。

 相澤は隣に座ると、包帯の隙間からエネルギー飲料入りの缶を取り出してプルリングを引き抜いた。しばらくの間、相澤が炭酸飲料を嚥下していく音と木々の騒めく音だけが響いた。

 どうやらこの担任は自分が本音を語らない限り、ここをどかないつもりだと悟った心操は、髪を乱暴にかき乱した後、観念して口を開いた。

 

「現実を認められないだけです、俺は。

 ”今までの友情は演技だった”と言われました。なのに……あいつが嫌いになれない」

「そんなもんだろ。()()()()()()

 

 相澤はにべもなく言い放つと、空き缶を数メートル先にあるリサイクルボックスに放った。缶は狙い違わず、小さな穴の中へ入り込む。相澤が何気なく校舎を見上げると、三階の窓際でマイクがプロヒーロー・ミッドナイトと何やら楽しそうに話し込んでいた。

 

「友情ってのは不合理の極みだ。芽吹いちまったら最後、気が遠くなるような時間、愛想が尽きて喧嘩して、また仲直りして……っつーのを繰り返す。

 全くうんざりするが、ふと隣に立つそいつを見て、心から感謝したりもする。……こいつが一緒にいてくれて良かったってな」

 

 二人の間を暖かい春風が吹き抜けていく。その瞬間、心操の脳裏に杳との記憶がふわりと蘇った。楽しくて賑やかな思い出ばかりだ。それにたとえ演技だったとしても、あの時、心操は彼女に救われた。

 心操は特殊な個性を持つが故に、誰かと喧嘩するほどの仲になるまでに関係を熟成させた事がなかった。けれどもし相澤の言うように――長い年月が経ち、今までの思い出を振り返って、”一緒にいてくれて良かった”と心から思える相手を選べるとしたら。きっと()()()()()。彼は強くそう思った。やがて相澤は腕時計をチラリと見て立ち上がり、ズボンと包帯に付いた草を払い落とす。

 

「……ま、今のお前らに必要なのは()()()()()()()()だな。精々頑張って、ミッドナイトを喜ばせてやれ」

 

 相澤は振り返る事なく手を振り、去って行った。それを見送った後、心操は自分の掌を見下ろして思考する。ぶつかり合うというのは、言い方を変えれば”喧嘩する”という事だ。今まで誰かとそんな事をしてしまうほど仲を深めた事なんてなかったし、自分がますます嫌われるリスクを冒してまでしがみ付こうと思わなかった。だけど、()()()()

 ……あいつの友情をここで終わらせたくない。心操は意を決して、中庭でクラスメイト達に囲まれる友人の姿を見た。彼の心臓に飛び火した炎は、やがて小さく燃え始める。




ヴィジランテ読んでいるのですが、ポップちゃんが心配過ぎてしんどい…。
でも原作で何かあっても、杳インターンで鳴羽田出す予定だからその時に補完します(;_;)幸せなポップ&コーイチさんを願って…。


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No.12 体育祭①

 それぞれの想いを心の内に秘めたまま時は過ぎてゆき、二週間後。

 ――”雄英体育祭”がやって来た。

 かつてはオリンピックが”スポーツの祭典”と呼ばれ全国が熱狂したが、超常社会の発展と共に規模は縮小し、形骸化していった。今の日本に於いてそれに代わるのが、この体育祭だ。

 

 ヒーロー科の生徒達は資格取得後にプロヒーローに相棒(サイドキック)入りし、やがて独立するというのが定石(セオリー)だ。優れたトップヒーローに見込まれれば、その時点で輝かしい将来が拓ける。

 全国からスカウト目的でトップヒーローが集まってくるこの体育祭は、そんなヒーロー科の生徒達にとって()()()()()()()。その事を重々承知している雄英側は、敵の再襲撃に備えて、警備を例年の五倍に増やす事で危機管理体制は盤石だと示し、一部の批判的な世論を跳ね返した。

 

 

 

 

 さて、”雄英体育祭”はサポート科・経営科・普通科・ヒーロー科がごった煮になって、学年ごとに各種競技の予選を行い、勝ち抜いた生徒が本戦で競う。いわゆる学年別総当たり戦だ。

 通常ならばラストチャンスに懸ける熱と経験値から成る戦略で最も注目されるのは三年生ステージだが、今回に限っては一年生ステージに大きな関心が寄せられていた。

 ――特に敵の襲撃を退けたA()()()()に。

 

 

 

 

 体育祭用に建設された巨大なスタジアムには、何万人もの観客やマスメディア関係者が詰めかけていた。スタジアム周辺にはおびただしい数の露店が立ち並び、浮かれた観客達が目当ての店先に立っては財布の紐を緩ませる。商人達はこぞってかき入れ時を迎えていた。

 

「……”雄英体育祭”!ヒーローの卵達が我こそはとシノギを削る、年に一度の大バトル!」

 

 雄英の教師に就任して以来、毎年ずっと体育祭の実況を続けて来たマイクは、今日も最高にご機嫌なヴォイスで観客達をさらに盛り上げていく。

 

「どうせテメーらアレだろこいつらだろ?……敵の襲撃を受けたのにも拘わらず、鋼の精神で乗り越えた奇跡の新星!ヒーロー科A組だろぉ?!」

 

 マイクの声に応えるようにして、スタジアム中に割れんばかりの歓声が轟いた。大柄な口田の影に隠れるようにして入場した杳は、紙袋の端をギュッと握りながら俯く。

 ……逃げ出したい。私なんかがいて良い場所じゃない。地鳴りのような大歓声とクラスメイト達の全身から放たれる覇気が、杳の足を一歩二歩と後退させる。

 

 やがて一年主審の18禁ヒーロー・”ミッドナイト”が鞭を振りながら、選手宣誓の指示を飛ばした。一年代表として呼ばれた爆豪は、選手宣誓どころか日本中を敵に回すレベルの()()()()をブチかまし、Aクラス含む一年生全員の顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。

 

 身動きの取れない杳を一人残して、事態はどんどん進んでいく。まるでジェットコースターに乗ったら最後、泣こうが喚こうが一周するまで決して降りられないように。体育祭に”緊急停止”のボタンはない。

 ミッドナイトが指を鳴らすと、壇上に大きなホログラムスクリーンが投影された。真っ白に輝く画面の前に立ち、彼女は張り切って鞭を一振るいする。

 

「さーてそれじゃあ、いわゆる予選に行きましょう!毎年ここで多くの者が涙を飲むわ。

 運命の第一種目はコレ!……”障害物競争”!」

 

 津波のような歓声が落ち着いてから、ミッドナイトは競技の説明をざっと行った。曰く、計11クラスの総当たりレース。コースはこのスタジアムの外周約4km。コースさえ守れば、相手を妨害しても何をしても構わないとの事だ。

 

 やがてスタート地点となる機械仕掛けのゲートが、ゆっくりと開き始めた。

 ――ゲート上にある信号が赤から青に変われば、いよいよレースが始まる。皆は我先にと詰めかけ、狭苦しいゲートの中でおしくらまんじゅう状態になりながら、その時を今か今かと待ちわびた。

 杳は人々に押し流された結果、スタート地点からそう遠くない場所に運良く立つ事ができた。紙袋を裂いて創ったギザギザの視界から前方を見ると、爆豪が火花を散らして轟を睨んでいる。

 

 

 

 

 ほどなくしてスタートの号令が飛ばされ、青信号がピカッと点る。それと同時に、杳の皮膚はこちらに忍び寄って来る冷気を感知した。

 実地訓練で培われた杳の反射神経が、とっさに体を高く跳躍させて、轟が後続妨害のために放った氷のトラップを回避する。周囲の人々が凍った両足をどうする事もできずに立ち竦んでいる中、なんとか着地した杳は、いつの間にか急接近していた轟に()()()()()()()

 

「とっ……」

「喋んな。舌噛むぞ」

 

 杳は言われるがままに口を閉じ、轟と一緒に全速力で走り始めた。そんな二人を、爆豪が鬼の形相で追随する。さらにその後ろを、トラップを回避した1-Aクラスの面々が追いかけた。

 

 スタート地点から数十メートル程先には、超巨大なロボット型ギミック軍が臨戦態勢で待ち構えていた。いち早くそれらを視認した轟は、右手を前方に突き出して凄まじい冷気を放出する。

 そして氷漬けになったギミックの足の隙間を縫うようにして、一気に駆け抜けた。わざと不安定な体勢で凍らされたギミック達はすぐさまバランスを崩して倒れ、後続する者達はそれに巻き込まれて、一時的に進路を断たれる事となった。

 

「1-A轟!攻略と妨害と護衛(エスコート)を一度に!すげぇな!アレだなもうなんか……ずりぃな!」

()()()()()()()()は掛けた。後は自分で頑張れ」

 

 轟はそう言うと杳の肩をポンと叩いて、ゴールに向かって一直線に駆けて行った。そのコンマ数秒後、巨大なオブジェと化したギミック達を爆風で飛び越えた爆豪が、前方で立ち竦んでいる杳の背中を乱暴に押す。

 

「邪魔なンだよKY女!()()()()()()()!」

 

 その瞬間、杳の心臓が炎で炙られたように熱くなり、脳内に金色の火花がバチバチと散った。そして、体が勝手に走り出した。

 やがてエンジンを噴かした飯田、他のクラスメイト達も杳に追いつき、次々と走り抜いていく。

 (スタートダッシュは掛けた)

 友人の言葉が、杳の頭の中で何度もリフレインする。恐怖も緊張も、今は何も感じない。心の底で轟々と燃え盛る炎は、火花を散らしながら、”前を向いて走れ”と叫び続けた。

 

 

 

 

 レースの第一関門”ロボット・インフェルノ”を轟の(たす)けで突破した杳の前に、新たなる試練”ザ・フォール”が立ち塞がる。広大なフィールド内には無数の岩が突き立っており、それぞれの間を細いロープが繋いでいた。ロープの下は、先が見えないほどに暗い。

 

 ……”兄の個性”が使えれば。杳は一縷の望みを懸けて手に力を込めるが、ただ吐き気が込み上げるだけで、指先は霞みもしなかった。風に吹かれてゆらゆら揺れるロープが、吸い込まれそうなほどに深い谷底が、忘れたはずの恐怖心を煽っていく。

 

 杳は唇を噛み締めて、グッと堪えた。そして上着の袖部分を引きちぎり、両手に巻き付ける。続いて、上着を脱いで腹周りに結んだ。ロープを渡過するに当たり、摩擦の抵抗を出来る限りなくすためだ。ロープの上に仰向けになり、先を手繰りながら進み始める。

 

 次の瞬間、ロープの先にある岩上に、凄まじい轟音と爆風を炸裂させながら、一人の女生徒が着地した。スチームパンクを彷彿とさせる機械(メカ)を装備した彼女は、さっきの衝撃で杳が落ちてしまった事に気付かず、煙を上げ始めたブーツ型のサポートアイテムの修繕に取り掛かる。

 

「ベイビー、改善の余地アリ!」

「!」

 

 杳はとっさに手を伸ばすが、ロープにあと数センチ届かない。その時、谷底に潜む暗闇の中で()()()()が光った。

 ――黒影(ダークシャドウ)だ。黒影は両腕を広げて杳をキャッチし、手近にあった岩の上に放り投げる。

 

「……すまんな。黒影がじゃれついたようだ」

「スマーン!」

 

 常闇はそう言って孤独な笑みを浮かべると、岩上に黒影を叩きつけ、跳び去って行った。

 (お前が兄の真似を止めたからって、嫌いにならない。……たぶん他の奴らもな)

 どうしてその言葉が脳裏をよぎったのか、杳は分からなかった。ただ前に進むため、彼女はまたロープを渡り始める。

 

 

☆ 

 

 

 なんとか岩とロープの試練をくぐり抜けた杳は、やがて最終関門へ辿り付き、足を止めた。

 ――それはフィールド一面に広がる()()()だった。地雷の位置は良く見れば分かる仕様になっており、目と脚を酷使すればノーヒットで通り抜けられる。ちなみに地雷に殺傷力はないが、マイク曰く”音と見た目は派手だから失禁必須”との事だった。

 

 ゴール地点付近では轟と緑谷、そして爆豪が、激しい三つ巴の戦いを繰り広げていた。緑谷がまとめて叩きつけた地雷は、辺り一帯に凄まじい爆風を生み出した。何十メートルも後方にいる杳が、思わず吹き飛びそうになった程だった。

 思わず足が竦んだその時、ハウリングを起こして観客の顰蹙を買いながらも、切羽詰まった声がスタジアム中に響き渡る。

 

「頼む白雲ぉ!ギリギリになってもいい!這いつくばってでも生き残れ!」

「おいお前、私情を……」

 

 マイクの声が、立ち止まった杳の背中をぐいと押す。そして、彼女は再び走り出した。

 ……あの人(マイク)の声はいつも太陽みたいに、私を照らしてくれた。

 お日様みたいな笑顔、友達の作り方、元気な声を出す方法。暗くて大人しい私がお兄ちゃんの真似をするためにはどうしたら良いか、ラジオやテレビで教えてくれた。そしてお兄ちゃんの真似に疲れてしまった時、また頑張る力を与えてくれた。

 

 走りながら地雷の痕跡を見つけるのは存外難しく、音と光の攻撃が何度も杳に降りかかる。

 しかし爆風に吹き飛ばされながらも、彼女は足を止めなかった。煤と砂だらけになりながらも懸命に走り続け、杳はなんとかレースの上位30位までに食い込む事ができた。

 

 

 

 

 第一種目の集計が終わるや否や、休む間もなく第二種目が発表される。

 今度は”騎馬戦”だ。参加者は2~4人のチームを自由に組んで騎馬を創る。基本は通常の騎馬戦のルールと同じだが、違うのは先程の結果に従い、P(ポイント)が振り当てられる事。与えられるPは下から5Pずつで、1位に与えられるPはなんと1000万。上位の者ほど狙われる、()()()()()()だ。

 

 先程のレースの一位は緑谷だった。

 当然、皆の注目とターゲットスコープは1000万Pを有する彼に集中した。杳がもじもじとしている間に、皆は緑谷をマークしながら、あっという間にチームを組んでいく。

 個性を使えない今の自分は()()()に等しい。そんな状態でチームを組んでも、足を引っ張るだけだ。諦めかけたその時、彼女の頭上に大きな影が差した。

 

「白雲ちゃん。私達と一緒に組まないかしら?」

 

 杳が急いで見上げると、障子が大柄な体を少し屈めてこちらを見つめていた。彼の複製腕は背中で繋ぎ合ってテント状になっており、その隙間から蛙吹と峰田が顔を覗かせている。

 

「メンバーが一人足りなくてな。少し窮屈だろうが、まだ空きはある」

「でも、私……今、個性を使えないの。……役に、立てないよ」

「大丈夫だ白雲ぉ!俺も役に立たないし立つつもりもねぇ!」

「……峰田ちゃん?」

 

 力強くサムズアップ&ウインクした峰田は次の瞬間、蛙吹から容赦なき舌ビンタを喰らい、華麗なトリプルアクセルを決めた。

 ……どうして皆、こんなに優しくしてくれるんだろう。杳は喉に熱いものが込み上げて来て、視界が滲んでいくのを一生懸命に堪えた。

 やがてミッドナイトがタイムアップの声を上げ、障子は複製腕を伸ばして杳を招き入れる。暖かいテントの中で、杳は鼻をすすりながら呟いた。

 

「ありがとう」

「白雲ちゃん……」

「密室に女子と三人きり、密室に女子と三人きり……」

「いや俺もいるが」

 

 皆それぞれの位置につき、騎手はハチマキをギュッと締めると同時に、気もグッと引き締める。程なくして、マイクが勢い良くスタートの号令を放った。

 

「よォーし組み終わったな?……さァ上げてけ鬨の声!血で血を洗う雄英の合戦が今、狼煙を上げる!

 ……行くぜ残虐バトルロイヤル、START!」

 

 次の瞬間、皆がそれぞれの個性を如何なく発揮し、緑谷チームに向かって突撃した。早速突っ込んで来た2チームを緑谷チームが相手取っている間に、”漁夫の利”を得んがため、障子チームも急接近する。

 

「喰らえ!」

 

 峰田が頭のもぎもぎをもいで、緑谷を縁の下で支えている麗日達の足元に投げつける。トラップに引っかかったタイミングで、蛙吹がすかさず舌を伸ばして緑谷のハチマキを掠め取ろうと試みた。

 しかし辛くも避けられる。しゅる、と舌をしまった蛙吹は目を細めながら障子に話しかけた。

 

「もう一度行くわ。障子ちゃん、距離を詰め……」

 

 次の瞬間、麗日がブーツ型のサポートアイテムをわざと爆発させた。そして足にくっ付いたもぎもぎを強引に引き剥がし、数メートル離れた中空へと避難する。

 

「……逃げられたか」

 

 障子が悔しそうに呟いたその時、峰田が巻いているハチマキの周りに()()()見えて、杳は目を凝らした。

 ――細い茨の(つる)がテントの隙間から入り込んで、ハチマキに絡み付いて抜き去ろうとしている。しかし、峰田達は前方に集中していて気付いていない。

 

 テントから脱出しようとするハチマキを、杳は寸でのところで掴み取った。しばらく杳と蔓の揉み合いになったが、やがて蔓はハチマキごと杳をテントの外へ引き摺り出す。

 

「おーっとォ!いきなりどーした?白雲、テントから緊急脱出!」

 

 中空を舞う杳はハチマキにしがみ付きながら、緑色に光る蛇の主を辿った。――犯人は、1-Bの”ツル使い”塩崎茨だ。

 塩崎は苦悶の表情を湛えながら両手を祈るように組み、新緑の香りがたなびく髪を巧みに操って、杳の手からハチマキを奪い取ろうと試みた。

 

「やはり神は、卑しい私を罰するために試練を与えたのですね。迷える子羊よ、その手を離しなさい」

 

 その時、突如として上空から大量のもぎもぎが降り注いだ。警戒した塩崎は蔓を駆使してもぎもぎを掴み、使い物にならなくなった蔓を切り離す。

 すると今度は、ボタボタと落ちていく蔓ともぎもぎの群れに隠れるようにして、充分な助走を付けた障子が飛び出してきた。複製腕を無数に増やして強化した体で、彼は塩崎が与する鉄哲チームに渾身のカウンターを喰らわせる。

 

 思いも寄らぬ攻撃に鉄哲チームが体勢を崩した時、蔓の拘束は緩んだ。すかさず蛙吹は杳の体に舌を巻き付かせて、テント内に収納する。障子がバックステップを踏んで距離を取る寸前、彼女は再び舌を伸ばして鉄哲チームのハチマキを掠め取った。

 

「頂いておくわ。ごめんなさいね」

「障子チーム、怒涛のチームプレーで白雲&ハチマキ奪取!」

 

 目覚ましい活躍を見せた障子チームを讃えて、歓声がどっと沸き起こる。峰田は早速二本目のハチマキを締めながら、意気揚々と叫んだ。

 

「よっしゃあ!次こそ緑谷行くぞ!ナイスだ白雲!」

「凄いわ、白雲ちゃん。粘り勝ちね」

 

 ――それは、初めて()()()()()に向けられた”感謝の言葉”だった。

 助けてくれたお礼を言おうと口を開いた瞬間、杳は奇妙な気配を感じて身震いした。それは()()()()だった。天候操作系の個性を持つ杳は無意識の内に、静電気を帯びてイオン化された空気の匂いを感知していた。

 慌ててテントの隙間から外を覗くと、轟チームに与した上鳴の全身が金色の光を帯び始めている。

 

 (私達と一緒に組まないかしら?)

 (まだ空きはある)

 (ナイスだ白雲!)

 

 ……()()()()()()()。その決意の下、余計な感情は一切消え去った。虚空に伸ばした両腕の輪郭が淡く透け、中から鈍色の雲が噴き出して障子の周囲を覆い尽くす。

 それとほぼ同時に、上鳴が放つ13万Vの電流がフィールド内を縦横無尽に駆け巡った。

 

「……?」

 

 しかし、身構えた障子の体は()()()()()()()()。彼はその事態を不審に思う間もなく、背後から迫り来る心操チームの奇襲をすぐさま察知し、新たに増やした複製腕を駆使して迎え撃った。

 

「白雲ちゃん」

 

 峰田がテントの隙間から”もぎもぎスナイパー”として応戦している一方で、蛙吹は杳の体から目が離せないでいた。

 ――杳の両肩から先は、鈍色の雲に変化していた。上鳴の放った雷を吸収した事で稲光を盛んに走らせ始めたその雲は、徐々に収束して人の形へ戻っていく。全身の力が抜けて倒れゆく杳の体を、蛙吹は慌てて支えた。

 

 

 

 

 ほとんどのチームが痺れて身動きの取れない中、轟は八百万の創造した伝導棒を利用してフィールド内に冷気を放ち、地面を凍らせた。障子と心操チームは冷気を避けて遠くへ跳び、大きく間合いを取る。轟チームは氷漬けになったチームに接近し、騎手達からハチマキを奪取した。

 

 轟は獲物を狙う目で障子チームと心操チームを交互に見た後、スタジアム内に設置された時計を見る。

 ――終了時間まであと1分。貴重な時間を割いてまで、離れた場所にいる彼らと戦うのは得策ではない。それよりも、と轟は緑谷チームを見据えた。

 

「時間がねぇ。……()()に行く」

「爆豪チーム2本奪取で3位に!この終盤で順位が変わりゆく!若気の至りだぁ!」

 

 一方の爆豪チームは物間チームに怒涛の猛反撃を仕掛け、嵐のような大歓声をスタジアム中に巻き起こした。その隙を突き、轟チームは飯田の新技”トルクバースト”で緑谷チームに肉薄して、1000万のハチマキを奪い取る。観客達はますます興奮して足を踏み鳴らし、広大なスタジアムはフィールドごとグラグラ揺れた。

 

 

 

 

 あれから爆豪に全てのハチマキを奪い取られた物間チームは果敢に巻き返しを図るも叶わず、騎馬戦を制して決勝に進出したのは緑谷、轟、爆豪、障子、心操の5チームとなった。

 昼休憩を挟んで一時間後、いよいよ最終種目が始まる。進出5チーム総勢20名から成るトーナメント方式。――1vs1のガチバトルだ。

 

 

 

 

 惜しくも本戦に進めなかった者達にも、まだ活躍のチャンスは残されている。決勝の前には、全員参加のレクリエーション種目が、たっぷりと詰め込まれていた。

 

 峰田の策略に嵌まり、チアガールの真似事をせざるを得なくなった1-Aの女子達の中に、紙袋を被った少女が混じっていた。ぎこちない動きでポンポンを振るその様子を、マイクは食後のコーヒーを嗜みつつ、優しい眼差しで見守る。

 

「いやー白雲Jrの活躍は目覚ましいこって!決勝進出だぜ?!」

「……お前、私情挟み過ぎ」

「お前は冷た過ぎ!担任だろぉ?お、対戦表UPされ……」

 

 露骨に鬱陶しがる相澤の肩に手を乗せながら、マイクは上機嫌で電子端末を覗き込むなり、()()()()。訝しむ相澤はマイクの横から対戦表を見て、沈黙する。マイクは”第一回戦”の対戦カードを指差し、苦笑いした。

 

「HEY Buddy……大丈夫かぁ?()()()()

 

 決勝となる1vs1のガチバトル、記念すべき第一回戦の対戦カードは――”心操vs白雲”だった。




轟くんは仲良い人の距離感バグりそうだなと思って書きました。
次回で1期目、終了です。2期目は鳴羽田へ職場体験編。


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No.13 体育祭②

 最終種目となるトーナメント形式の決勝戦まで、あと5分を残すところとなった。

 レクリエーションも終わり、体操服に戻った杳は入場用ゲートに佇んだまま、じっと外を眺めていた。セメントスがホースから噴き出すセメントを巧みに操作して、立派な戦闘フィールドを建築していく。

 

 ……もうすぐ決勝が始まる。そして、その相手は()()だ。

 ”兄の真似”が出来なくなった事で自暴自棄になり、酷い言葉を吐いてしまってから、彼とは口を利いていなかった。

 あの時は、自分の事しか見えていなかった。

 だけど今なら、彼をどれほど傷つけてしまったか、理解できる。

 心操と同様に、杳も人と喧嘩した事なんてなかった。だから、仲直りの仕方が分からなかった。最初に傷つけたのは自分のくせに、謝って拒絶されるのが怖かった。自分から突き放したのに、突き放されるのが恐ろしかった。

 

 そうして謝るタイミングを逃し続け、()()()()

 二人の仲は、もう二度と戻らないだろう。他ならぬ自分がチャンスを腐らせ、潰してしまった。きっと彼は、自分を激しく罵るだろう。いや、冷たく無視するかもしれない。

 杳は彼と正面切って向き合うのが、とても怖かった。

 

「オーディエンス共ォ!待ちに待った最終種目がついに始まるぜぇ!……1vs1のガチンコ勝負!」

 

 唐突に始まったマイクのご機嫌ヴォイスに観衆は大いに沸き立ち、フィールドの四隅から吹き上がる炎の柱は、ますます高らかに燃え盛った。

 

 どんなに凄腕のヒーローも、そして敵さえも、時間の流れは止められない。

 あまりの緊張と恐怖に心臓がきつく締め付けられ、強い吐き気と眩暈がする。うな垂れていた顔を上げ、壁から背中を引き剥がして進もうとする杳の肩を、後ろから()()()そっと掴んだ。

 

「……白雲」

 

 ――轟だった。第五回戦で緑谷と戦う予定となっている彼は、半分ほど減ったプロテイン飲料入りのシェイカーを握ったまま、紙袋越しに見える灰色の双眸を覗き込んで、静かにこう言った。

 

()()()()()()()()()

 

 その声は、外の大音響を通過して、杳の耳にしっかりと届いた。言葉は鼓膜から脳に到達し、足の震えを止める。

 ――どんなに頑張っても、人は自分自身から逃げる事はできない。自分の犯した過ちや罪と、真正面から向き合わなければならない時もある。杳は覚悟を決めてゲートを通り抜けた。

 

「下らん友達ごっこをしている場合か?……焦凍」

 

 次の瞬間、背後から皮膚のチリつくような熱と共に、忌々しい声が容赦なく飛んできた。轟はゾッとするような冷たい表情を滲ませながら、静かに振り向く。

 ――父親であり、No.2のトップヒーローでもあるエンデヴァーが、業火のように燃え盛る炎を纏い、こちらを睨んでいた。

 

 

 

 

 杳と心操がそれぞれゲートをくぐり抜け、フィールド内に入ると、観客はますます興奮して大歓声を上げた。スタジアムの上部に設置された巨大なスクリーンに、紙袋を被った杳の写真とぶっきらぼうな表情の心操の写真が、相対するように表示される。

 

「一回戦!どんな時も絶対に脱げないその紙袋は皆大好きヒロドナルド製!ヒーロー科・白雲杳!……(バーサス)!騎馬戦で他組と共闘!しぶとく生き残った戦略家!ヒーロー科・心操人使!」

 

 杳は血が滲むくらいに強く唇を噛み締め、紙袋の内側から、心操をそっと見上げる。対する彼はいつも通りの無表情で、こちらをじっと睨んでいた。

 両者が無言で対峙している間、マイクは決戦のルールをざっと説明した。――相手を場外に落とすか行動不能にする、または”まいった”と言わせた方が勝者となる。但し命に関わるような大怪我はご法度。怪しい動きがあれば、場外で待機しているセメントス先生のSTOPが入るとの事。

 

 スタートの号令をかけると、マイクは一旦言葉を切った。観衆も勝負の行く末を見守ろうと、沈黙する。静まり返ったスタジアム内に、マスメディアがカメラのシャッターを切る音だけが響いた。やがて心操が口を開き、戦いの火蓋を切る。

 

「なぁ。アンタ、ヒーローになりたいか?」

 

 その言葉を飲み下すのに、杳は多くの時間を必要とした。しかし、心操は待たなかった。大股でこちらに歩み寄りながら、腹に響くような低い声で容赦なく追撃する。

 

「俺はなりたい。だから、やる気がないんなら()()()()()()

 

 突き放すような物言いと眼差しが、鋭いナイフのように杳の心臓へ突き刺さる。

 頭から冷水を浴びせられたように、体が凍り付いていく。傷ついた心臓から、自己嫌悪の色に染まった黒い血が流れ出していく。背中を冷たい汗が伝い落ちる。

 怯えきって縮こまる杳の胸倉を掴み上げ、心操は吐き捨てるように言い放った。

 

「だんまりかよ?……ふざけんなッ!!」

 

 明らかに雲行きが怪しくなってきた二人の様子を見て、観衆は不安そうな顔を見合わせ、ざわつき始めた。セメントスはセメント製の椅子から腰を少し浮かせ、ミッドナイトは薄絹のようなスーツに手を掛けた状態で、成り行きを見守っている。

 

「皆、ヒーロー目指して本気でここに立ってんだ!やる気ないんなら出てけよ!」

 

 心操はそう叫ぶと、杳の腕を掴んで、場外へ引っ張り出そうとした。

 ……()()()()()()()()。杳は成す術なく引き摺られながら、そう思った。

 ヒーローを目指して雄英に入ったのは、自分の夢じゃない。()()()だ。沢山の優しい人達が助けてくれたおかげで、運良くここまで来たけれど、元々自分がここに立つ資格はなかったんだ。

 

 マイクは依然として一言も喋らず、観客もその場の雰囲気に呑まれて、完全に固まっている。やがて後方に回った心操が、彼女の背中を突き飛ばした。

 しかし、よろけた杳の爪先が白線の内側に触れたとたん、全く意図せずして、喉の奥から()()()()()が弾丸のように飛び出してきた。

 

()()()!!」

 

 その瞬間、後ろから()()が肩をしっかりと掴んだ。しかし杳はそれを気にする余裕がない。さっき口にしたばかりの自分の言葉に、大きなショックを受けていた。

 ……どうして”いやだ”って言ったんだ?私は”ヒーローになりたい”なんて大それた事、思った事ないのに。

 両肩に載せられた誰かの手は、燃えるように熱かった。やがて心操の静かな声が、すぐ後ろから響いた。まるで杳の心に直接問いかけるように。

 

「なんで嫌なんだ?もう”兄の真似”は止めたんだろ?ヒーローになる気ないんだろ?

 ……ここに入ったのも全部、演技だったんだろ?」

 

 初めて触れた友人の肩は、驚くほどに細くて華奢だった。”兄の真似”をしていた時の彼女は男勝りな性格で、一緒にいれば何だってできそうな気がした。

 ……でも本当はこんなに小さく、弱々しかったのか。

 心操の目の前で、幾多の戦いをくぐり抜け、焼け焦げて穴だらけになった紙袋が、風に吹かれてカサカサと揺れる。まるでそれは、ボロボロになった彼女自身に見えた。

 

「……なぁ、白雲。そんなもん被ってまでここまで来たのが、()()じゃないのか」

 

 漂白された杳の意識の中に、その言葉がポツリと落ちて、波紋を呼ぶ。

 兄の模倣が成熟していくのに対し、杳の自我は薄まっていく一方だった。しかしその儚い自我は今、友人の助けを借りて、急速に具現化されようとしている。

 

 心操は杳の両肩を引いて場内へ戻すと、正面から向き合った。

 ――逢えなくなってから、今までどれほど彼女に救けられていたのかを、改めて理解した。気味悪がられたって良い。嫌われたって構わない。本当の気持ちを伝えたかった。

 それが少しでも、眠っている彼女の自我を目覚めさせる一助になる事を願って。

 

「あの時、()()()は俺を救ってくれた」

(立って!一緒に敵を探して倒そう!)

 

 実技試験で絶望に打ちのめされていた心操に、杳は救いの手を差し伸べた。その手を取った瞬間、彼の夢を紡ぐ糸車は、明るい音を立てて動き出した。

 

「悪い方向に考えて二の足踏んでばかりだった。そんな俺を、いつも引っ張ってくれた。……おまえのおかげで、俺の世界は変わったよ」

(そんな考え込まないで、明るく行こうぜ!その気になれば何だってできるよ)

 

 体力テストで力及ばず、落ち込んでいた心操を、杳は明るく励ました。

 それだけじゃない。一つ思い出すと、次から次へと別の記憶が付いて来る。――登校初日に爆豪と喧嘩しかけたのを止めてくれた。自分の特殊な個性を知ってクラスメイト達が警戒しないように、それとなく気遣ってくれた。食堂で友人と食べるご飯はこんなにも美味しいのだという事が分かった。戦闘訓練でオールマイトに賞賛された事を、まるで自分の事のように喜んでくれた。

 

 やがて泉のように湧き上がる記憶の数々は、心操の胸に収まり切らずに溢れて、涙と一緒に流れ出た。しかし彼はそんな事を気にもせず、杳の肩を掴んで小さく揺さぶる。 

 

「たとえそれが全部、演技だったとしても……そこにおまえの感情は微塵もなかったのか?レースの時、騎馬戦の時……おまえは何も感じなかったのか?」

「……ひっ……く」

 

 その言葉は、疲れ切って摩耗した杳の心臓を大きく揺さぶった。目が融けるように熱くなったと感じたとたん、大粒の涙がボタボタと零れ落ちていく。

 一部の観客は貰い泣きし、ハンカチで目頭を押さえていた。ミッドナイトも泣いていた。

 

 白雲朧として生きていく中で、知らずに芽生えていた”本当の自分の夢”。

 それが一体何なのか、ずっと分からなかった。

 だけど、その謎はもうすぐ解ける。目の前にいる優しい友人のおかげで。心操は涙を拭う事なく、熱い感情が突き動かすままに、言葉を連ねた。

 

「どれが嘘で、どれが本当か分からないなら……全部、出し切れ。俺が受け止めてやる。カバーしてやる」

 

 ――あの時、おまえがくれた言葉を。()()()()()

 

「大丈夫だ、白雲。一緒にヒーローになろうぜ」

「……おいおいお前らァ……アオハルかよぉぉぉ!!」

 

 マイクの感極まった音声がスタジアム中に響き渡る。観客達は二人の青臭い友情に胸を打たれ、かつての甘酸っぱい学生時代を思い起こして、黄色い声援を上げた。

 

 

 

 

 いつも心の奥底で、杳は兄の亡骸を抱きかかえて、冷たい穴の底に座り込んでいた。

 時々、外の世界から大きな手が伸びて来て、自分をここから救い出そうとする。しかしその度に、杳は兄の亡骸をぬいぐるみのように抱き締め、穴の中を這いずって逃げ回った。

 

 だって外の世界に、()()()()()と知っているから。何度も何度も繰り返し見続けたせいで、ひび割れて変色してしまったレンズ越しの世界でも、こっちの方がマシだった。

 ――兄のいない外の世界で、生きていく勇気がなかった。

 

(泣くなよ、杳。お前の個性はすげーんだから!)

 

 次の瞬間、杳はセピア色に焼けた世界で、朧と一緒にふわふわの雲に乗っていた。――兄の真似をする内に忘れてしまった、遠い昔の記憶だ。

 いつものように()()()()しまった自分を、兄が追いかけて捕まえてくれたところだった。

 

(お前なら人を救けるのも悪いヤツをやっつけるのも、なんだってできるぞ!)

(……私も、お兄ちゃんみたいなヒーローに……なれるかなぁ?)

 

 杳は自信なさげに俯きながら、呟いた。すると朧は快活に笑って、彼女の頭をかき混ぜる。

 

(きっとなれるさ。だから、()()()()()()()()()()

 

 そう言って、朧は杳の頭からゴーグルを取り外した。――ひび割れのない、カラフルな世界で、朧がにっかりと笑う。

 

 

 

 

 気が付くと、杳は頭に被っていた紙袋を外し、両手に持っていた。涙で顔をぐしゃぐしゃにした心操が、息を呑んでこちらを見つめている。

 

 マイクの実況はますます熱を帯びた。リアルタイムで進行する青春群像劇に、観客達も大いに沸き立ち、マスメディアはこぞって写真を撮りまくる。一方の1-Aメンバーは皆、固唾を飲んで、成り行きを見守っていた。

 

 ……ここから先の人生、確かにお兄ちゃんはいない。

 でも、こんなに弱くてみじめな私を見限らないで、優しく寄り添ってくれる友達がいる。一緒に未来へ歩いてくれる友達がいる。

 杳は紙袋を握りつぶし、涙を乱暴に拭いながら、目の前の友人にぎこちなく微笑んだ。

 

()()()()()

 

 次の瞬間、やっと”本当の自分”を受け入れた杳の体の輪郭が淡く透けて、中から鈍色の雲がモクモクと噴き出した。長年に渡る拘束からやっと解き放たれた”本来の個性”が歓喜し、蛹から蝶が孵化するように、主の体を突き破って巨大な羽根を伸ばしていく。

 

 あっという間にスタジアム中に広がった積乱雲の中には、猛々しい稲光が走っていた。

 大粒の雨や雹、雪の結晶が、雲から次々と零れ出て、観客席に降り注ぐ。観客達はのんきな歓声を上げて、スマートフォンで記念撮影を始めた。

 

 ――明らかに個性の調整ができていない。

 一方の主審のミッドナイトとセメントスはそう判断し、それぞれの個性を発現しながら、雲の真下に駆け寄っていく。その時、心操が力を込めて杳の名前を呼んだ。

 

「白雲!……個性を解除して人の姿に戻れ!」

 

 その声は分厚い雲を通過して、杳の耳に届いた。彼女が応答した瞬間、その体は命令に従って元の姿へ戻っていく。そしてふわりとフィールド上に降り立ち、そのままゆっくりと倒れ込んだ。慌てて駆け寄った心操は、彼女がただ疲労困憊して眠っているだけだと分かり、安堵する。

 ミッドナイトは鞭の先を心操へ向け、マイクに頷いた。

 

「心操、個性・洗脳で暴走しかけた白雲を鎮静化(カームダウン)!白雲・戦闘不能により、心操・二回戦進出!

 もーお前カッコ良過ぎるっつーかなんつーか……ダメだ何も言えねぇ!以上!」

「いや何か言えよ」

「雲の子も凄かったけど、一番ヤバイのはあの()()()()だな。……”洗脳”だっけ?」

「あの個性、対敵に関しちゃかなり有用だと思う。心操人使くんな、メモしとこ」

 

 二人の健闘を讃えて、観客達がやんやと大喝采を上げる中、ヒーロー達は特に目覚ましい活躍を見せた心操に強い興味を示した。彼が轟や爆豪に次ぐ数のドラフト指名を受けて度肝を抜かれるのは、もうしばらく先の事となる。

 

 

 

 

 あれから数十分後、無事に意識を取り戻し、リカバリーガールから解放された杳は出張保健所のドアを開けて、廊下に出た。

 そして、恐らくその場でずっと待ってくれていたらしい心操と目が合った。気怠そうに立ち上がると、彼はスマートフォンをズボンのポケットに滑り込ませる。

 

 ――杳は彼に、言いたいことが沢山あった。でも結局、口に出せたのはほんの少しだけだった。

 

「心操くん。あの時、ひどいこと、いっぱい言ってごめん。それから、救けてくれてありがとう」

「しつけぇな。もういいよそれは。早く席戻るぞ」

 

 心操はうんざりした表情で首に手をやりながら、杳の隣を歩く。二人の間を沈黙のヴェールが包み込むが、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 やがて1-A専用の観客席に繋がる入口に辿り着いた時、心操は少し緊張した面持ちで口を開いた。

 

「なぁ、前みたいに()()()って呼べよ。友達に下の名前で呼ばれるの、おまえが初めてだったんだ。……すげぇ嬉しかった。だから、俺も杳って呼んでいいか?」

 

 そう言って心操が見せた、年相応の純粋な笑顔は、杳にとって生涯忘れられない記憶の一つになった。

 

 

 

 

 決勝戦は順調に進んでゆき、第五回戦。

 広大な戦闘フィールド上で、轟と緑谷はそれぞれ臨戦態勢を取っていた。

 

 轟の右半身が意図せずに放出している冷気で、周囲は今にも凍り付きそうだった。しかし彼の心は、憎悪の感情で激しく燃え盛っている。

 ――観客席にどっかりと座る父から漏れ出る炎が、視界の端にチラつく。

 たったそれだけで、彼の平常心は大いに揺るがされた。怒りのあまり、戦略をまともに練る事すらできない。

 

 やがて吐き出す息が、白く凍り始めた。それは図らずも、彼の脳裏に今までの辛い記憶を思い起こさせた。そして赤くなった耳に、数時間前に父親が放った”あの言葉”を甦らせる。

 

(……焦凍。兄さんらとは違う。おまえは最高傑作なんだぞ)

「頑張れショート!」

 

 その時、父親の声に被さるようにして()()()()が鼓膜に突き刺さり、轟は思わず肩を震わせた。彼が急いで振り返ると、杳が1-Aの観客席から大きく身を乗り出し、八百万謹製のメガホンを口に当て、こちらに向かって懸命に叫んでいる。

 

「頑張れショート!負けるなショート!」

「……ッ、おいエンデヴァーに睨まれてんぞ!」

「ひっ……」

 

 すぐさま心操としゃがみ込んで隠れた杳は、緑谷に向き直った轟がかすかに微笑んでいる事に気付かなかった。冷たく白い息はいつの間にか消えていた。彼は緑谷を見据えながら、轟々と燃え盛る炎を左手に纏わせる。

 

 

 

 

 雄英体育祭は例年通り、大盛況のうちに幕を閉じた。

 一年生ステージの優勝者は轟で、惜しくも及ばず準優勝となった爆豪は、しばらく子供達の悪夢に登場しそうなほどに悪鬼じみた形相で大暴れした。

 

 後学のために二・三年のステージもしっかりと観戦し、生徒総出の後片付けを終えた後、杳と心操、それから轟の三人は、初めて共に帰路へ着いた。

 

 

 

 

 三人のうち、一番早く家に辿り着いた杳は、玄関のドアノブに手を掛けたまではいいが、そこから先に進む事ができないでいた。

 

 ”兄の真似”ができなくなってから約二週間、気まずさと申し訳なさのあまり、両親とはほとんど会話ができていなかった。

 ……お父さんとお母さんが、兄の真似をしていたから私を愛してくれていたとしたら、どうしよう。ドアノブを持つ手が、わなわなと震える。杳として生きる事を拒絶されたら、どうしよう。

 

「洗脳してやろーか」

 

 一方の心操は野良猫と猫じゃらし草で遊びながら、のんきに言った。同じく猫と戯れていた轟は、草を捨てて立ち上がり、ドアノブを注意深く覗き込む。

 

「ドア壊れてんのか?どいてろ。見てやる」

「いや。そ、そういうことじゃない」

「天然かよ一位……」

 

 このままでは轟の個性により、玄関のドアが燃え尽きるか凍結してしまう。焦った杳は覚悟を決めて、ドアを開けた。

 ……と同時に、三和土(たたき)で待ち構えていた父と母に、全力で抱き締められた。恐らく玄関先で長い事、三人で騒いでいたために気配を察したのだろう。母は涙でくぐもった声で、何度も杳に囁いた。

 

「おかえり、杳!おかえり……!」

 

 ドア越しに泣き濡れる親子の声を聴き取った二人は、目配せしてそっと立ち上がり、野良猫にお別れを告げた。そして、それぞれの家路に着いた。




これにて1期完結です。
次回から鳴羽田市へ職場体験の予定です。スピンオフ作品「ヴィジランテ-僕のヒーローアカデミアILLEGALS-」要素を多分に含みますので、できるだけ詳しめに書く予定です。


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2期:職場体験編
No.14 コードネーム


お読みになる方へ:
職場体験編は、スピンオフ作品「ヴィジランテ-僕のヒーローアカデミアILLEGALS-」を舞台にしております。ヴィジランテ原作から4年後という設定です。

補足:ヴィジランテとは…治安を守るために許可を受けていないにも関わらず、個性を使って犯罪者に制裁を与える者や、人助けをする者。非合法(イリーガル)ヒーロー。

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●灰廻 航一(はいまわり こういち)
鳴羽田を活動拠点とするプロヒーロー。ヒーローネームは「ザ・クロウラー」。23歳。元・ヴィジランテ。
●灰廻 和歩(はいまわり かずほ)※原作では羽根山和歩。
ザ・クロウラーの助手。旧姓:羽根山(はねやま)。20歳。


 雄英体育祭から二日後。数日ぶりの満員電車に揺られながら、杳はイヤフォンを両耳に突っ込んで、スマートフォンに録音したマイクのラジオ番組を聴いていた。

 先週の金曜日に放送されたものだが、彼の番組は何回聴いても飽きない。

 

『んじゃ次の曲はマイリスナー”ポップ&ロック”からのリクエストで……』

「お嬢ちゃん。……ヒーロー科の白雲ちゃん!」

「は、はいっ」

 

 その時、軽快な曲調のJPOPに紛れて、誰かに()()()()()を呼ばれたような気がして、彼女は反射的に返事をした。それから慌ててイヤフォンを外し、キョロキョロと周囲を見回す。

 すると吊革に捕まったサラリーマンが「こっちこっち」と言いながら手を振り、笑いかけた。

 

()()()()だろ?体育祭良かったよー。ザ・青春!って感じでさ」

「え……」

 

 ……なんでその事を知っているんだ?杳は訝しく思いながら男性を見つめ返すが、その数秒後、羞恥のあまり顔を真っ赤に染め上げる事となる。

 

 ”雄英体育祭”はかつてのオリンピックと同じだ。その全ては余すところなくテレビやラジオ、スマホアプリ等のメディア媒体を介して、全国民に届けられる。とりわけ杳と心操の戦いは”分かりやすい青春ドラマ”として、メディアが取り上げやすい格好のネタの一つになっていた。

 

 にわかに周囲はざわつき始め、スマートフォンで写真を撮ったり、人垣の隙間から顔を出して露骨に覗き込んだり、親しげに話しかけたりする者で賑わっていく。

 

「ダメだ、思い出しただけでまた涙が……」

「もー心操くん最高だったよ。将来は彼の相棒(サイドキック)になるの?」

「可愛い顔してるねー。テレビだと良く見えなかったから」

「私も個性隠すのにバケツ被ってた時があってねー」

「あわわ……」

 

 兄を模していた頃ならともかく、今の杳は大勢の人々から向けられる好奇の視線に耐えられなかった。たじたじになり、電車が目的の駅に停車すると同時にホームへ飛び出す。そしてその様子を見た人々が漏らす、笑い声や声援を背中に浴びながら、一目散に学校へ向かうのであった。

 

 

 

 

「おはよー白雲さん!」

「は、葉隠さん。おはよう」

 

 1-Aクラスに辿り着いてドアを開けると、明るい女子の声と一緒に、杳の肩に()()()()()が回された。杳は人型に膨らんだ女子制服が一式、傍に浮かんでいるのを見つけ、小さな声で挨拶を返す。――”透明化”の個性を持つ、クラスメイトの葉隠透だ。

 教室の中心には芦戸がいて、ピンクの髪を靡かせながら快活に笑っていた。

 

「私めっちゃ声掛けられたよ、来る途中!」

「俺も!」

「小学生に”テープアクションして”ってせがまれてさー。断ったら号泣よ」

「ドンマイよ、瀬呂ちゃん」

 

 ”雄英体育祭”という舞台でたった半日踊っただけで、杳達は”一般の学生”から”誰もが知る有名人”へ大躍進を遂げていた。しかもシンデレラと違ってこの魔法は解けない。

 特別扱いされるのは、誰だって気分が良いものだ。興奮冷めやらぬクラスメイト達が、尚もあれこれと話し合っていると、突然ドアが開いて相澤が入って来た。

 その瞬間、生徒達は光の速さで各自の席に着き、お口のチャックをぴっちり閉める。

 

 相澤は体に巻いていた大量の包帯が取れて、完全復帰した様子だった。杳はホッと安堵して肩を撫で下ろす。彼は教卓の下に愛用の寝袋をしまうと、生徒達に向き直った。

 

「おはよう。今日の”ヒーロー情報学”は()()()()()()だぞ」

 

 ”ヒーロー情報学”はその名の通り、ヒーローに関する法律などの情報を体系的に分類・整理し、同時にヒーローに関する新たな情報理論を構築するための学問だ。授業内容は小難しく論理的なものばかりで、時折出される小テストはいつも大半の生徒達の頭を悩ませていた。

 あからさまに警戒する切島と上鳴を視界の端に収めながら、相澤は言葉を続ける。

 

「”コードネーム”、ヒーロー名の考案だ」

「胸ふくらむヤツきたあああ!!」

 

 思いも寄らぬ好展開に、ほとんどの生徒は興奮して席から立ち上がり、諸手を挙げて大喜びした。相澤は一睨みしてそれを萎縮させた後、教卓に置いた書類の束を掲げてみせる。

 

「というのも、体育祭前に話した”プロからのドラフト指名”に関係してくるからだ。指名が本格化するのは二・三年から。つまり今回来た指名は将来性に対する”興味”に近い。卒業までにその興味が削がれたら、一方的にキャンセルなんてことは良くある」

「つまり、頂いた指名がそのまま自身へのハードルになるという事ですね!」

「そ。……で、その指名の集計結果がこうだ」

 

 飯田の言葉に応えた相澤は手元の端末を操作して、背後にある電子黒板に1-Aの指名件数を表示させる。クラスメイト達から様々な感情のこもった声が漏れる中、杳は上から順に名前と件数を確認していった。

 トップはもちろん轟で4123件、次が爆豪の3556件、その次がなんと――()()()2678件。

 急いで振り返るが、心操はこちらに気付く余裕もなく、喜びと驚きが綯交ぜになった複雑な表情で、黒板を見つめるばかりだった。ふと耳郎が杳の背中を突いて、きさくに笑いかける。

 

「相方ほどじゃないけどアンタも指名入ってんじゃん。いいなー”アオハルコンビ”」

「え?」

 

 慌てて黒板に向き直ると、八百万108件の下に”白雲101件”と表示されている。

 恐らく心操との戦いで注目を集めたのだろうが、ほとんどめぼしい活躍を見せず、最終的には個性を暴発させてしまった自分に、指名が来るとは微塵も思っていなかった。しかも1件どころか、101件もオファーが来るなんて。

 杳が声もなく驚いていると、相澤はこれを踏まえて実際に職場体験へ行ってもらうと締めくくった。指名が来ていない者は学校が指定した40件のヒーロー事務所から、指名の来た者は個別に渡すリストから選択するようにとの事。

 

 それに当たってヒーローネームを決めるため、やって来たのはミッドナイト先生だった。艶やかな黒髪をなびかせ、眠り香を封じ込めた魅惑のナイスバディを惜しげもなく晒しながら、ミッドナイトは相澤と入れ替わるようにして教卓に着く。

 

「適当に付けちゃダメよ!この時の名が世間に認知されて、そのままプロ名になってる人が多いからね!」

「まァそういうことだ。その辺のセンスはミッドナイトに任せる。……俺は分からん」

 

 黒板の端っこまで後退した相澤は寝袋のチャックを開けて、中に潜り込みながら言葉を続ける。

 

「将来自分がどうなるのか、名を付けることでイメージが固まりそこに近づいてく。それが”名は体を表す”ってことだ」

 

 ミッドナイトが考案のために与えた時間は、約15分。配布されたホワイトボードとマジックペンを机に転がし、生徒達は真剣な表情で考え込む。

 

 杳は大きく深呼吸をした後、ホワイトボードに”ラウドクラウド”と書いた。それは兄のヒーローネームだった。兄の模倣をしていた時は、これ以外に選択肢がなかった。

 だが、()()()()

 ラウドクラウドは、直訳すると「うるさい雲」になる。……とりあえず、私はうるさくないと思う。杳は”ラウド”の部分をペンで消した。ボードには”クラウド”だけが残っている。なんとなくこれを消したくないと思った彼女は、その単語をマルで囲んでみる事にした。

 

 やがて15分経ち、生徒達は一人一人教卓に立って、考案したヒーローネームを発表していくという事になった。万人に愛されるお手本のような名前を考案した蛙吹が、惜しみない拍手に送られながら席に戻ると、今度は心操が気怠そうに立ち上がった。掲げられた名前を見てミッドナイトは満足そうに頷く。

 

「”ゴーストコール”、直訳すると”幽霊の呼び声”ね」

「さすがアングラ系!ダーティーヒーロー!」

「ンで()()が良くて()()がNGなんだよ!()()()()()()だろーが!」

「いやそういう意味じゃない」

 

 ダーティーヒーローは上鳴が飛ばした野次を冷たく無視して、席に着いた。

 一方、”爆殺王”というヒーローにあるまじき異名を付け、即却下された爆豪はミッドナイトに噛みついた。しかし結果は思わしくなく、盛大に舌打ちしながら椅子の上でふんぞり返る。

 

 ”幽霊の呼び声(ゴーストコール)”……在るはずのない声がお前を呼ぶ。それに返事をしたら最後、憑りつかれるぞ。なるほど”ペルソナコード”を用いた彼の声を暗示しているのかと、杳は推測する。まさに名は体を表すという言葉の通り、彼の個性の特徴がよく分かる良いヒーローネームだ。

 

 次に教卓に立ったのは、轟だった。彼はホワイトボードの片隅になんと自分の名前を書いている。ミッドナイトは戸惑い、彼に問い掛けた。

 

「”ショート”。自分の名前だけど良いの?」

「ああ」

 

 轟はちらりと杳を見て、教卓からホワイトボードを引き抜いた。他のクラスメイト達も次々と発表を終えてゆき、残すところは再考の爆豪と飯田、緑谷と杳の四名のみとなった。

 

 ……結局、答えは出なかった。

 杳は散々迷った挙句、教卓に向かった。おずおずと提示したホワイトボードは、ラウドにバツが付けられ、クラウドを丸で囲っただけの未完成な状態だ。ミッドナイトは夕焼けを前にした時のように、優しく切ない眼差しでボードを見つめている。

 

「”ラウドクラウド”は兄のヒーローネームです。それを継ぐつもりでした。でも今はそれでいいのか、分からなくなってしまいました。もう少し時間がほしいです」

「保留って事ね。良いんじゃない?」

「……次のインターンまでには決めとけよ」

 

 次の瞬間、足元で仮眠を取っていたはずの相澤がいきなり口を出してきたので、不意を突かれた杳はびっくりして跳び上がった。そして教卓に思いっきり両膝を打ち付けて、しばらくの間、悶絶する事になってしまった。

 

 

 

 

 それから午前の授業は滞りなく終了してゆき、皆の大好きなランチタイムがやって来た。

 杳と心操、轟の三人は共に大食堂へ向かい、それぞれ選んだ料理の載ったプレートをテーブルに置いて、席に着く。ちょうど後ろの席にいる尾白と葉隠が職場体験先の話をしていたので、杳達の話題も自然とそうなった。

 聞くところによると、心操と轟は二日間の提出期限を待たずして、すでに事務所を決めているらしい。まず最初に轟が行く予定にしている事務所名を聴いて、杳は思わずスプーンを取り落としそうになった。

 

「エンデヴァーってお父さんだよね?大丈夫なの?」

「……昨日、()()()()()()()()()()

「え?」

 

 杳は完全に固まった。彼の母は一時的に心神喪失していたとはいえ、息子を傷つけたかどで、エンデヴァーに強制入院させられたのだと聞いている。そしてそれ以降、母をまた苦しませないために会っていないとも。

 だが、杳の不安そうな眼差しを、轟はただ穏やかに受け止めた。彼の顔はかつてないほどに穏やかで優しい光を帯びている。

 

「母さんは、俺を赦してくれた。俺が何にも囚われずに突き進む事が、救いであり幸せなんだと言ってくれた」

 

 ……良かった。本当に良かった。

 杳は安堵するあまりに全身の力が抜けて、まるでクラゲのように椅子の背にしなだれかかった。一方の轟もつゆに漬かり過ぎたそばを一気にすする事で、込み上げて来たものを誤魔化しながら言葉を続ける。

 

「だけどそのためには、俺だけ吹っ切れて終わりじゃダメだ。清算しなきゃならないモノがまだ残ってる」

「で、エンデヴァーね」

「ああ。まだ赦したわけじゃない。……でも、どんだけクズだろうがあいつはNo.2だ。その理由を俺は確かめたい」

「ショートならきっと出来るよ」

 

 やっとのことで一歩を踏み出せた自分が、ふと道の先を辿ると、かつて同じ場所にいたはずの友人はもう見えなくなっていた。

 ……ショートは本当に凄い。人としても学友としても尊敬できる、自慢の友人だ。

 杳が激励の言葉を贈ると、轟は優しく微笑んで、今度はこちらに白羽の矢を向ける。

 

「お前らはどうなんだ?」

「俺は()()()

「説得中?」

 

 友人の言葉の意味が分からず、杳はらっきょうをスプーンで転がしつつ、オウム返しした。

 ……オファーを受けた事務所に入るのに説得は不要だ。ヒトシは何を言っているんだろう。

 心操は竜田揚げを一つ丸ごと口に入れて咀嚼しながら、杳をじろりと見やる。

 

「上手く行ったら教えてやるよ。今言うと話がややこしくなる。……それよりもお前だよお前。どうせ決まってねェんだろ?」

「うっ……」

 

 杳はぎくりとして、肩を強張らせた。――()()()()だったからだ。

 今やランチのメニューすら迷ってまともに決められず、心操が提案した”数え歌”や”じゃんけん”という苦肉の策を取るほかなくなった彼女に、事務所を決められるはずがない。

 観念した杳はポケットから自分のリストを取り出すと、テーブルに広げた。そして一件ずつ指で押さえながら、数え歌をそらんじ始めた。

 

「ど・れ・に・し・よ・う・か・な……」

「101件だろ。それで行くと回りきれねぇ。別の歌にしろ」

「……もうしんどいわお前ら」

 

 目の前で際限なく繰り広げられるツッコミ不在のボケ漫才を見ていられなくなり、心操は思わず頭を抱えて天井を振り仰いだ。

 ほどなくして杳の背後から誰かの手が伸びて来て、リストをまとめて掻っ攫っていく。

 

「どれ、俺が見てやろう」

 

 ――常闇だ。彼は口田と共に同じテーブルに着きながら、リストにざっと目を通した。

 やがて最後のページまで見終わった彼は、何やら不敵な笑みを浮かべて、皆の見える位置にリストを置いた。そして一つの事務所を指し示す。

 

「迷う必要などない。()()()()がお前を見初めた。俺と共に来れば良い」

「ぶふぅッ?!」

「うわっきったねぇなお前!てか、ちゃんとリスト見とけよ」

 

 常闇の放った衝撃的なヒーロー名に、杳は思わず飲んでいた苺ジュースを盛大に吹き出した。正面でまともに攻撃を喰らった心操は憤慨しながら、おしぼりで顔を拭く。

 

 ――ウイングヒーロー”ホークス”は、No.3の実力を持つトップヒーローだ。

 18歳でデビューしてその年の下半期にはヒーロービルボードチャートJPトップ10入りを果たした。10代でトップ10に食い込んだ唯一のヒーローとして知られ、世間からは”速すぎる男”と呼ばれている。

 しかし今の杳にとって、彼の存在は()()()()

 一方、轟はリストにエンデヴァーの名前がない事を知り、露骨に顔をしかめている。

 

「ほ、ほ、ほーくす……い、いきなり、No.3とかむ、むり……」

 

 杳は血の気の引いた顔でそう呟き、震える両手でリストを常闇の方へ押しやろうとするが、彼は頑として退く様子を見せない。

 

「無理でも行くべきだ、白雲。これは千載一遇のチャンス。ホークスが()()()お前を選んでくれるとは限らないんだぞ」

「追い込んでいくスタイル感心しないわ。常闇ちゃん」

 

 ふと後ろから穏やかな声が跳んできて、杳は振り向いた。いつの間にか、デザートのソーダゼリーをプレートに載せた蛙吹が立っていて、小首を傾げながら常闇を見つめている。

 不承不承といった感じで口を閉じた常闇の代わりに、今度は蛙吹の隣にいた八百万が口火を切った。健啖家な彼女のプレートには、種々様々なデザート類が満載されている。

 

「では、()()()()で決めると言うのはどうでしょう?白雲さんの意向にも沿いますし、ホークスを含めた全ての事務所が、平等な権利を得る事が出来ますわ」

「ナイスアイディアね。さすが副委員長」

「あ、ありがとう八百万さん……」

「そんな!副委員長として当然の事をしたまでです!」

 

 八百万の鶴の一声で、今後の方向性は一気に定まった。

 皆に褒められて明らかに気分を良くした八百万は、空いた席に座ると右腕をまくり上げる。そして”白雲さん職場体験先くじBOX”と銘打たれたプラスチック製の箱を創り出した。箱の上部に空いた穴に掌を当てて、各事務所名入りのボールを創り、中に注ぎ込んでいく。

 そうこうしている内に、なにか面白そうな事態が巻き起こっていると勘付いた1-Aの生徒達が数名、野次馬根性まるだしでやって来た。

 

「完成ですわ。さあどうぞ」

「本当にありがとう。……行きます」

「運命の瞬間だな」

 

 1-Aのクラスメイト達が固唾を飲んで見守る中、杳はくじ引きBOXの中にゆっくりと手を突っ込んで、しばらくかき回した後、一つのボールを掴み取った。

 ボールの表面には「()()()()()()()事務所」と印字されている。

 

 ――”ザ・クロウラー”。聞いた事のないヒーロー名だった。

 皆の頭の上に大きなクエスチョンマークが浮かぶ。自他ともに認める”ヒーローオタク”である緑谷は、なんとも間の悪い事に、この場にはいなかった。

 数秒後、杳の持つボールを見下ろしながら、クラスメイト達の口は揃って同じ言葉を紡ぎ出す。

 

「……誰?」

 

 

 

 

「ぶえっきし!」

 

 時を同じくして、古いビルの屋上にしゃがみ込んだ青年が、急に身震いして大きなくしゃみをした。

 ――彼の名は灰廻航一(はいまわりこういち)。一年前に独立したばかりのプロヒーロー”ザ・クロウラー”だ。

 

 そして彼の担当地区は、雄英高校から遠く離れた場所に拓かれたこの下町・ 鳴羽田(なるはた)。古いビルや廃墟が多い割に街灯が少なく、また道も中途半端に入り組んでいるため、治安はすこぶる悪い。

 

 航一がポケットからティッシュを出して鼻を噛んでいると、片耳に装着したインカムから、少し鼻にかかったような高い声がポーンと跳んできた。

 

「ちょっと風邪?ホント気を付けてよね。……あんた一人の体じゃないんだから」

「はーい」

「返事は伸ばさない!」

 

 航一はのんびりした声で助手の叱責を受け流し、切れかけた街灯が頼りなく周囲を照らす、寂れた町を見下ろした。

 きっとあと数秒もしたら、新たな敵が現れるだろう。それか以前に説得した人たちが、ささいな事がきっかけとなってまた暴れるかだ。でもそのどれもここでは別段珍しい事じゃない。日常の中の一シーン。――ここは()()()()()だった。

 

 ふと数時間前に見舞いに行ったばかりの恩人の姿が思い起こされて、航一は思わず手を固く握り締めた。

 

「……インゲニウムさん。残念だったね」

 

 まるで彼の心を読み取ったかのようなタイミングで、インカムから静かな声が響く。彼女もきっと同じ事を考えていたのだろう。

 

 航一と旧知の間柄であり、プロ化するに当たって尽力してくれた恩人でもある、ヒーロー”インゲニウム”は、数日前に保須市で”ヒーロー殺し”(ヴィラン)ステインに襲撃され、下半身麻痺の重傷を負った。彼は再起不能となり、志半ばでヒーローを引退する運びとなった。

 数時間前にベッドで見た彼の表情が、今でも瞼の裏に焼き付いて離れない。

 

 ――だが、プロヒーローとなった今の自分に出来るのは、この町の平和を守る事だけだ。

 にわかに町の喧騒が大きくなってきた。航一は軽く頭を振って気を取り直すと、屋上の縁部分に両手を掛け、前傾姿勢を取る。

 

「カズホ。明日また病院に行くよ。……時間空けられそう?」

「確認してみる」

 

 次の瞬間、航一の四肢と地面の接地部分に、スカイブルーに輝くエネルギーリングが展開された。同時に彼の体が数ミリほど空中に浮き上がり、そのままアイスリンクを滑走するように、ビルの壁を這い降りていく。

 そうして音もなく地上に降り立ったその時、インカムから慌てふためいたカズホの声が跳び込んで来た。

 

「こ、コーイチ!雄英から指名受け入れ要請が来た!」

「えっ?」

 

 ――ヒーロー達には後進を指導する義務が課せられている。ヒーローの卵を事務所で預かり、現地で指導する職場体験はその最たるものの一つだ。

 ”ヒーロー飽和社会”とも言える現代、ほとんど全ての事務所は職場体験に積極的な姿勢を見せていた。受け入れた事務所には、国から少なくない額の補助金が支給されるからだ。うまく行けば相棒(サイドキック)候補もお金も手に入り、まさに一石二鳥。

 

 インカムの声の主で、彼の助手でもある和歩(かずほ)も多分に漏れず、雄英を始めとする各校の”ヒーローの卵”達を調べては、ダメ元で申請書を出してきた。

 だがプロ化して一年足らず、眼前の人(たす)け優先で、目立った活躍をしてメディアに露出する事もない航一に、目を留める子供達などいない。今まで一度も返事が来た事はなかった。

 

 しかしその苦労は今、報われようとしていた。しかも国内で一番有名な雄英高校からだ。

 これで少しはクロウラーの知名度も上がるかもしれない。そして毎月赤字続きだった家計にも前向きな変化が訪れるかもしれない。和歩は安堵で涙ぐみながら、メールを読み進めていく。

 

「ほら体育祭で観たでしょ。白雲杳ちゃん。……()()()!」

 

 和歩がメールに添付されたファイルを解凍すると、灰色の髪と目をした気弱そうな女子生徒が、ぎこちなく微笑んでいる写真がパッと表示された。




2期を書くに当たり、下記のアンケートにご協力いただけたら幸いです(*´ω`)


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No.15 1日目

※前書き:
前回はアンケートにご協力頂き、本当に本当にありがとうございました( ;∀;)
職場体験編は「クロウラーを知らない杳の視点」でストーリー進行し、なるべく補足シーンを入れながら頑張る予定にいたします。
もし分かりにくい所がございましたら、修正致しますのでご一報頂けますと幸いです。


 職場体験当日。杳達は相澤の引率の下、雄英高校の最寄り駅に集まっていた。

 杳はハーフズボンのポケットから”雄英高校前-鳴羽田駅”と打ち出されたチケットを取り出して、じっと見つめる。

 数日前に緑谷と交わした会話が、ふと脳裏をよぎった。

 

 

 

 

(”ザ・クロウラー”は一年前に免許を取得して、地元の鳴羽田に配属されたヒーローなんだ)

 

 あれから教室に戻って来た杳は、一直線に緑谷の席へ向かった。そしてクロウラーについて尋ねると、彼は淀みのない口調でそう応えてくれた。やはり”ヒーローオタク”の名は伊達ではない。

 しかしその後、緑谷は顎に手を当てて、しばらく考え込む素振りを見せた。それから、真剣な眼差しでこちらを見る。

 

(白雲さんって、本当にクロウラーのこと知らないんだよね?)

(うん。ご、ごめん……)

(いや全然怒ってないよ?!こっちこそごめんね!)

 

 ――ヒーローをこよなく愛する緑谷にとっては、重要な職場体験先をくじ引きで決めた挙句、知らないヒーローの下へ行くなんて、微塵も考えられない事だろう。

 萎縮した杳が思わず謝ると、緑谷は慌てふためいた様子で首を横に振り、否定する。そして”本当に怒ってないから”と念を押した上で、彼は言葉を続けた。

 

(でもこれ以上は、僕の口からは言えない。本当に知らないならそのままで。……僕なんかよりも、クロウラー本人から聞いた方がいいと思うんだ)

 

 杳はその言葉に気圧されて、結局現在に至るまで、ネットで検索する事も出来なかった。まさにぶっつけ本番だ。

 ……”ザ・クロウラー”、一体どんなヒーローなんだろう。エンデヴァーや相澤先生みたいに、厳格過ぎる人じゃなければ良いのだが。

 密かに不安を募らせていると、轟がスマートフォンを胸ポケットから取り出しつつ、やって来る。そしていつも以上の無表情でポツリと呟いた。

 

()()()()()かもしれねェ」

「そのためのグループREINじゃん。電話してきてもいいよ」

 

 ――”REIN(レイン)”とは若者の間で流行しているコミュニケーションアプリだ。チャット形式のメールや電話が、無料でできる。

 杳、心操、轟の三人はお互いの職場体験の進捗状況や感想の交換をしようと、彼らだけのチャットルームを作成していた。

 

「んな暇あるかよ」

 

 楽観的な杳の返事をぴしゃりと跳ね返したのは、心操だ。彼は1-Aのクラスメイト達の中でただ一人、コスチュームを収めたスーツケースを持っていない。

 

 ――それもそのはず、彼の職場体験先は()()だった。

 

 ”ヒーローとしての在るべき姿”をイレイザーヘッドだと決めた心操は、2千件以上もの指名を蹴って、担任を粘り強く説得した。説き伏せられた相澤は上司に相談を持ち掛け、然る後に特例として認められたのである。

 ちなみに心操は、杳がその事を知ったら”マイクに職場体験を頼む”とごね、話がこじれそうだから黙っていたらしい。

 しかし、そんな心配はご無用だった。杳は確かにマイクが大好きだが、熱心なファンには()()()()()()というものがある。あまり長い時間一緒にいたら、ドキドキし過ぎて心臓がもたない。

 

 

 

 

「くれぐれも失礼のないように。じゃあ行け」

 

 やがて相澤の簡素な指示が下り、杳達は改札口を抜けて、それぞれのホームへ向かって歩き出した。振り返って、相澤から少し離れた場所で佇む心操に手を振ると、彼は担任とそっくりの仏頂面で、手を振り返してくれた。

 

 鳴羽田駅行きの電車が来るホームは、あまり人がいなかった。ホームと線路の間には、自動開閉式のホームドアが設置されている。その前で直立不動の姿勢を取っている一人の男子生徒を見つけ、杳は小さな声を上げた。

 ――クラス委員長の飯田だ。彼もこちらに気付き、俊敏な動作で片手を挙げながら、声を掛ける。

 

「白雲君!同じ電車かい?途中まで一緒に行こうじゃないか」

「うん。私、鳴羽田駅で降りるんだ」

「鳴羽田か。終点だな。俺は三つ目の駅で降りる。……と、来たな」

 

 やがて陽気な音色のチャイムを引き連れて、人々を満載した快速電車がホームに滑り込んで来た。いわゆる満員電車というやつだ。二人は大きなリュックとスーツケースが人々の邪魔にならないように気を遣いながら、なんとか電車の中に乗り込んで、一息吐いた。

 すし詰め状態となっている中で、飯田と会話をするのは(はばか)られた。手持ち無沙汰になった杳は、なんとなく自動ドアの上に貼られた停車駅表を見上げる。

 

 ――飯田が降りると言った三つ目の駅は、()()()だ。数日前、彼の兄が敵に襲撃された町。

 

 飯田の兄であるプロヒーロー”インゲニウム”は、数日前にヒーロー殺し(ヴィラン)・”ステイン”の襲撃に遭い、重傷を負って、止む無くヒーロー業を引退する事態となった。

 ステインは過去17名ものヒーローを殺し、23名ものヒーローを再起不能に陥れた最凶敵だ。彼はオールマイト以外をヒーローと認めず、偽物だと斬り捨てる。今も尚、彼の所在は不明のままだ。

 

 ”復讐なんてダメだ”と、口で言うのは簡単だ。

 ――でも、もし自分が()()()()だったら。兄を殺した犯人が瓦礫ではなく()だったとしたら、杳だって同じ行動を取るだろう。ヒーローだって人間だ。頭で理解していても心が納得できない事は、この悲しい世界にごまんとある。

 

 ……ただの友人の一人である自分が、何を言えるんだろう。自分ごときの慰めや励ましが、彼の心に何をもたらす事ができるんだろう。杳が考えあぐねている内に、電車は保須駅に停車した。

 結局、別れを告げるために飯田がこちらを見た時、杳が言えたのは、当たり障りのない言葉だけだった。

 

「飯田くん。……無理しないでね」

「ああ」

 

 飯田は至っていつも通りの真面目な口調で、応えてくれた。それから何かを思い出したように軽く息を飲んで、杳の肩をポンと叩く。

 

「そうだ。昨日、クロウラーに会ったよ。兄の友人らしくてな。とても良い人だった。……頑張ってな!」

 

 呆気に取られる杳を置き去りにして、飯田は大勢の人々に押し出されるようにして電車を降りた。そしてメロディと共に閉まったドアの向こうで、人々を安心させるような笑みを浮かべ、ガッツポーズを取ってみせる。

 

 ――大切な兄を傷つけられ、何よりも辛いはずなのに、彼はこちらを気遣ってくれた。

 かつてオールマイトがテレビで言及していたように、”辛い時こそ笑い、人を安心させる者こそがヒーロー”だとするなら、飯田はまさしくヒーローだ。

 狂った敵であるステインの言葉を真に受ける必要はないだろうが、ヒーローはオールマイトだけじゃない。

 ……どうか、ステインがまた保須に現れませんように。杳はそう願いながら、吊り革を強く握り締めた。

 

 

 

 

 鳴羽田駅は、寂れたこじんまりとした駅だった。降りる人もあまりいない。

 チケットを通して改札口を出ると、大人しそうな雰囲気の女性が、こちらに向かって手を振っているのが見えた。片方の目に眼帯をしていて、ボリュームのあるピンク色の髪を一つくくりにしている。

 杳がおずおずと近づいていくと、女性ははにかんで笑いながら、頭を下げた。

 

「雄英の白雲杳ちゃんだよね?”ザ・クロウラー”の助手の灰廻和歩です。よろしくね」

「白雲杳です。これから一週間、お世話になります。よろしくお願いします!」

 

 自己紹介を終えた後、二人は年季の入った軽四に乗り込んで、町外れにあるという事務所へ向かって走り出した。和歩はまるで定期的に確認していないと杳が消えてしまうかのように、バックミラー越しに何度もこちらを確認している。

 

 杳は好奇心に満ちた眼差しで、車窓から街の様子を眺めた。

 鳴羽田は沢山の建物をコップに注ぎ入れてシェイクしてから、ばら撒いたように雑多な街並みだった。大通りを行き交う人々の約半分は、柄の悪そうな雰囲気を漂わせている。

 

 やがて赤信号に捕まって、車は一時停止した。

 その時、目の前の道端で、海外からの観光客と思しき人が地図を広げているのが見えた。その脇にはウサギ耳のついたフードをかぶる、黒いスーツ姿の青年が立っている。

 青年は眠たそうな目で地図を覗き込み、しばらく顎に手を当てて考え込んだ後、どこかを指差しながら大袈裟なジェスチャーを交えて説明を始めた。

 

「あれがうちの人ね。”ザ・クロウラー”!全然しまらない感じだけど」

「……えっ」

 

 杳の視線の先を認め、和歩が照れ臭そうに笑った。 

 ……あの人が”ザ・クロウラー”。杳は息を飲んで、目の前のヒーローを凝視する。

 テレビや雑誌などのメディア関係は、オールマイトを始め、華々しい活躍をするヒーローばかりにスポットライトを当てる。そんな人々ばかりを見て来た杳は、道案内をするような()()()()()()()を目の当たりにするのは初めてだった。

 

 

 

 

 数十分後、二人は事務所に辿り着いた。広大な空き地の奥に建築されたガレージが、事務所兼自宅だと言う。和歩はカバンから鍵を取り出してドアを開けた。そしてまた恥ずかしそうに微笑みながら、玄関先に置いたスリッパを一足出してくれる。

 

「どうぞ。汚いし狭いけど、ゆっくりしてね」

「ありがとうございます」

 

 お礼を言うと、杳は中に踏み込んで、そろそろと周囲を見回した。ヒーローの事務所にお邪魔するのは、初めてだ。

 中はこじんまりとした造りの事務所になっている。玄関のすぐ横はパーテーションで仕切られ、応接スペースとなっていた。部屋の奥には、事務机とパソコンが据え置かれている。

 窓がない方の壁には大きなコルクボードが吊るされていて、沢山の写真が貼られていた。ボードの上部には、きんちゃく袋が吊り下げられている。ボードの下には飾り棚があり、”ザ・クロウラー”のヒーロー免許取得証明書が、額に入れられて飾られていた。近づいてみると、取得日は()()になっている。緑谷の言う通りだ。

 

「ヨウちゃん。部屋に案内するね」

「は、はい!」

 

 和歩に呼ばれて、杳は我に返った。振り返ると、和歩が事務机の横にあるドアを開けて、小さく手招きしている。

 ドアの先は、生活スペースになっていた。キッチンにダイニング兼リビングルーム、トイレと風呂場。廊下の突き当たりには部屋が二つある。杳に与えられた部屋は右の方だった。

 六畳一間ほどのスペースで、中には折り畳みベッドとテーブル、カラーボックスが一つ。どれも新品らしくピカピカだ。

 ……気遣わせてしまって申し訳ない。後でしっかりとお礼を言わなければ。カバンからお守り代わりのマイク人形を取り出しつつ、杳が決意を固めていると、どこからかカレーの良い匂いが漂ってきた。

 

「ただいまー」

 

 やがて生活スペースに繋がるドアが開く音がして、のんびりとした青年の声が響いた。スリッパを履いて廊下を歩く音が、キッチンへ消えていく。

 

「お、やっぱりカレー!良い匂いがすると思ったんだよねー」

「これはあんたじゃなくて()()()()()()ためだからね」

 

 ……()()()()()だ。杳は作業を一旦中断し、ドアを開けて廊下に出た。それと同時に先程の黒いスーツを着た青年が、廊下にひょっこりと顔を出す。そして善意の塊のような笑みを浮かべながら、自らを指差しつつ、照れ臭そうに頭を下げた。

 

「君がヨウちゃん?”ザ・クロウラー”です。本名は灰廻航一。よろしくね」

「雄英一年・ヒーロー科の白雲杳です。よろしくお願いします!」

 

 それから二人は和歩の指示に従って、ダイニングルームで早めの夕食を摂る事になった。テーブルには和歩が腕によりを掛けたご馳走が、所狭しと並んでいる。カレーライスに色とりどりのサラダ、唐揚げに、デザートは手作りのプリンだ。

 カレーライスに舌鼓を打ちながら、航一はきさくに笑いかけた。

 

「そう言えば、担任はイレイザーさんなんだってね。懐かしいなー」

「先生をご存じなんですか?」

「あの人の地元なんだよ、ここ。教職に就かれるまで、ホントにお世話になってね」

 

 ……相澤先生のホームは鳴羽田(ここ)だったんだ。その衝撃的な事実を、杳は唐揚げと一緒に飲み込んだ。世間は狭い。それにしても、クロウラーは随分と顔が広いらしい。インゲニウムだけでなく相澤先生まで知り合いだとは。

 すると今度は和歩がポテトサラダを飲み込んでから、意を決した表情で口火を切った。

 

「ところで、どうしてうちを選んでくれたの?」

「うっ……」

「そんなこと訊かなくていーのに」

「気になるでしょ!」

 

 杳は手元のプリンを見つめたまま、ピシリと固まった。航一は二杯目のカレーをよそいながら、軽い口調で(たしな)めるが、和歩は頑として引かない。

 その期待に満ちた目を前にして、その場しのぎの嘘を吐く事など、考えられなかった。一つ嘘を吐くと、その嘘を取り繕うために次々と嘘を吐く事になる。そして積み重ねた嘘は、やがて取り返しのつかない事態を招く。

 

 ついに杳は観念して、ありのままを話す事にした。――兄の真似をしていた事から、職場体験先をくじ引きで決めた事まで、全て。二人は揃って真剣な表情で聴いてくれていたが、くじ引き事件に至った時は()()()()()()を見せた。和歩は額に手を当てて意気消沈、それに対して航一は爆笑だ。

 

「くじ引きって……いや良いんだけどね……」

「本当にすみません……」

「アハハ。でもこれも縁だよ、きっと」

 

 航一は生理的に滲んだ涙を拭きながら、食べ終えた皿を流し台へ持って行く。そして杳と一緒に食器を洗いながら、彼は人を安心させるような笑みを浮かべた。

 

「俺も出来る限りのことはしてあげたいし。……洗い物終わったら、ちょっと外に出ようか」

 

 

 

 

 数十分後、三人はガレージの外に出た。空き地の中央ら辺までやって来ると、和歩は立ち止まった。そして小脇に抱えていた三脚を組み立てて、カメラを設置し始める。

 

 一方の航一は、杳と一緒に持ってきた、大きな段ボール箱を開封していた。箱の表面にはデトネラット社のロゴが入っている。

 

 ――箱の中身は、巨大なパラバルーンだった。良くあるカラフルなものとは違い、それは透明なビニールで出来ており、裾部分は大きな金属製のリングに接続されていた。航一が手元のスイッチを押すとリングの内側から空気が噴き出し、みるみるうちにバルーンが膨らんでドーム状になる。

 

「まずはこの中で”雲化”に慣れる!」

「こ、この中で……」

 

 杳はごくりと生唾を飲み込んで、空き地いっぱいに広がって揺らめく、巨大なドームを見つめた。

 思い出すのは昔、個性が暴発して()()()、何度も黒くモヤモヤとした世界で苦しんだ事。そして体育祭で個性を制御できずに暴走しかけた事。今は、兄も心操もいない。

 ……もし暴発してしまったら。そんな不安な気持ちを汲み取ったのか、航一は足下に置いた書類の束を持ち上げて、軽く振ってみせる。

 

「資料を見たんだけど。君は体そのものが雲になっているんじゃなくて、()()()()()()()()()()個性だ。だから暴走してもいずれは力尽きて、雲化が解ける。体育祭の時をイメージしてもらえると、分かりやすいかな。

 たぶんお兄さんが小さい頃の君を追いかけていたのは、力尽きた時、空から落ちたりして怪我をしないためだったんだと思う」

 

 航一はそう言うと、戸惑う杳の傍に屈みこんで、陽だまりのように暖かい笑みを見せながらサムズアップした。

 

「大丈夫!暴走しても俺がフォローするから。怖くないよ」

「コーイチのフォローはともかく、デトネラット社製の特注品だからそうそうのことじゃ破れないよ。安心してね」

 

 二人の暖かい言葉は、杳の心に活力を注ぎ込んだ。彼らの誠意に応えるべく杳はリングを持ち上げて、恐る恐るバルーンの中に潜り込む。

 透明な膜越しに、航一がしっかりと頷いた。和歩もサムズアップしてみせる。杳は真剣な表情で頷くと、大きく深呼吸をしてから、体にグッと力を入れた。

 

「……行きます」

 

 次の瞬間、杳の体がふわりと浮き上がった。体の輪郭が淡く透けて、中から鈍色の雲が溢れ出し、ドーム中を瞬く間に埋め尽くす。

 ――一度力を入れてしまうと、歯止めが効かなかった。ブレーキの壊れた車と一緒だ。氷の粒にばらけた体はさらに小さくなり、気まぐれにぶつかり合う水分子になって、広々とした空間に滞留していく。

 蒼白い稲妻が雲の塊を不気味に光らせ、雨粒や雪の結晶が舞い散り、ドームの裏面にぶつかっては零れ落ちていく。ますます雲は肥大化し、ドームは破裂寸前の風船のように膨れ上がった。

 

「コーイチ!」

 

 和歩の鋭い声が跳ぶ。それと同時に、航一の両足と地面との接地部分にスカイブルーのエネルギーリングが生成された。

 ――彼の個性は”斥力”、接地した部分に()()()()()を与える事ができる。元は三点以上の接地を発動条件とし、地面の上を滑るように移動する”滑走”という個性だったが、数年の修行の末、一つ上の能力に進化(シフト)した。

 航一は地面を蹴り上げて数十メートル程跳躍すると、バルーンに着地した。そしてバルーンの表面を滑走しながら力を流し込み、雲を中へと押し戻していく。

 

 

 

 

 一方の杳は、あの暗くモヤモヤとした世界に一人、漂っていた。

 際限なく細分化を続ける杳の体は、やがて時間の概念から外れた”量子の世界”へ到達していた。かつて彼女を救い出してくれた者は、もういない。

 ……苦しい。怖い。誰か救けて。杳が苦しみに喘いでいるその時、どこからか、かすかな声が跳んできた。

 

「ヨウちゃん!頑張って!」

 

 和歩の声だ。その瞬間、杳はハッと我に返った。

 ……そうだ。お兄ちゃんのいない世界で頑張るって、決めたじゃないか。”一緒にヒーローになろう”と言ってくれたヒトシのためにも。そして何より、こんな私に手を差し伸べてくれている、コーイチさんとカズホさんのためにも。こんなところで挫けてちゃダメだ。

 杳は生まれて初めて、目の前の世界を拒絶せずに()()()()()()()()()。目を凝らし、耳を澄ませ、四肢の感覚に神経を研ぎ澄ませる。

 

 ――すると、()()()()()()が見えて来た。

 

 まず、淡く透けた自分の体の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がってきた。続いて、右の頬に冷気を感じて、そっと触れてみる。

 指先に付いたのは、水色に光るボールだった。次の瞬間、それは意志を持っているかのように、どこかへ飛び去って行く。

 

 気が付くと、おびただしい数の水色ボールが、辺り一帯を自由自在に飛び回っていた。

 ――それは雲化する過程で創り出された、()()()の群れだった。

 水分子だけではない。この世界ではあらゆる事象が同時に起こり、共存している。

 紫色に輝く螺旋型の窒素分子、細かな塵の輪郭、和歩がこちらを呼ぶ声の波紋、空き地に咲くタンポポの花の匂いの分子、無数の水分子がぶつかり合う事によって稲妻が生み出される瞬間……。

 

 バルーンの中に組み込まれた炭素繊維と合金は互いに重なり合って、美しいハニカム構造を成していた。思わず手を伸ばして触れようとしたその時、航一の手から発せられるスカイブルーのエネルギーが、バチンと弾けた。

 目の前に浮かぶエネルギー粒子の一粒一粒に、力の方向を反転させる”矢印マーク”が浮かんでいる。

 

 ――黒くモヤモヤした世界は、何もないのではない。沢山のものが集結し、そう見えるだけだった。沢山のものが立てる音が互いの音を打ち消し合って、静謐に聴こえるだけだった。

 

 もっと見たい。もっと聴きたい。しかし杳の思いとは裏腹に、その世界は遠ざかっていく。

 ()()()()()()のだ。みるみるうちに水分子は集結して雲になり、それらは自分の体内に吸収されていく。目に映るものは透明なビニール膜と外の景色だけになり、硬い地面に自分の体がゆっくりと横たわった。

 

「大丈夫?ちょっと休憩しようか」

 

 いつの間にか航一がバルーンの中に入り込み、杳にタオルを差し出していた。

 礼を言ってそれを受け取る杳の体は、かつてないほどにぐったりと疲れ切っていた。しかしその心は澄み切って、晴れ晴れとしている。

 ――やっと長年の恐怖を克服したのだ。かつて二度と見たくないと畏怖した世界は、感動で打ち震えるような奇跡に満ちていた。バルーンの中には、かすかに虹が掛かっている。

 杳はタオルで汗を拭き取りながら、明るい声で応えた。

 

「ありがとうございます。少し休んだら……もう一度、やってみたいです!」

 

 

 

 

 ――その頃、地下の奥底に秘められた研究所では。磨き上げられたリノリウム製の廊下を、二人の男がゆっくりとした歩調で進んでいた。廊下の両脇には、電子ロックの掛かったドアが等間隔に並んでいる。

 

「何故今更、No.6を再始動させる必要があるんじゃ」

 

 ドクターは不満を漏らしながら、廊下の中程にあるドアの前で立ち止まった。それから壁の上部に埋め込まれた電子媒体に顔を近づけ、網膜をスキャンさせる。

 ドアの奥には広大な空間が広がっており、無数のチューブに繋がれたガラス管がずらりと並んでいた。凍った培養液で満たされた内部には、人と思しきシルエットがぼんやりと視認できる。

 ガラス管の上部にはナンバリングが成されていた。”No.6”と記された管の前で、二人は立ち止まる。

 

「もしや息子に渡すのか?……試作品(こいつら)は使えんぞ。記録のために保管しとるだけだ。解凍しても数日ともたん」

「ははは。安心してくれ、ドクター。こんな()()()()()をあげるつもりはないよ」

 

 仕立ての良いスーツを着込んだ男は、上品な仕草で口角を上げて笑った。――男の鼻から上は、拭い取られたかのように無くなっていた。彼の存在しないはずの目は、管の中で眠る一人の男を捕捉している。男は体中が焼け焦げ、四肢の先は炭化していた。

 ドクターは据え置かれた端末を操作しながら、言葉を続ける。

 

「全く、こいつとNo.8には手こずらされた。まぁ”人形に自我を持たせちゃならん”という我々の教訓にはなってくれた訳だが」

「そうだね。そのおかげで、脳無や黒霧(ハイエンド)ができた」

 

 男は気軽な調子で応える。ドクターが最後にエンターキーを押すと、No.6の冷凍睡眠(コールドスリープ)状態が解除された。ガラス一面に張った霜が急速に融けていく。

 

「忠告しておくがな、先生。こいつの行動は決まっとる。馬鹿の一つ覚えのように鳴羽田で暴れ回るだけだぞ」

「それが良いのさ。鳴羽田には()()()がいる」

 

 無機質なブザー音が周囲に鳴り響くと、管のガラス壁が瞬時に融けて消え去った。液状に戻った培養液が一気に噴き出し、中から無数のチューブに繋ぎ留められた黒焦げの男が(まろ)び出る。

 不気味な相貌の男はその傍にしゃがみ込むと、蕩けるように優しい声音で囁いた。

 

「さあ、No.6。……君に()()()()()()()をあげよう。4年間の遅れを取り戻そうじゃないか」




念のため、クロスオーバータグを付けることにいたしました。
ニッチなこのSSをお読みいただき、皆様、本当に本当にありがとうございます!


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No.16 2日目

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●田古部 烏賊次郎(たこべ いかじろう)
東鳴羽田の猫カフェ”Hopper's Cafe”のスタッフ。元・敵。
●鎌池 桐仁(かまじ きりひと)
”Hopper's Cafe”のオーナー。元・敵。
●堀田兄弟(ほったきょうだい)
リサイクルショップ”ほっぱ~ず”の経営者。”Hopper's Cafe”の常連。元・敵。


 俺は、何者でもなかった。

 ”試験体6号(ナンバーシックス)”、そう呼ばれていた。

 でもこれは、ただの番号だ。名前じゃない。

 だけどある日、先生に()()()の映像を見せられてから、俺の人生は変わった。

 

 ――超速ヒーロー、”オクロック”。

 

 これから何かに、何者かに成れるとしたら、俺が名乗る名前はそれしかない。

 俺はあの人の大ファンになった。

 あの人の事なら何でも知ってるし、あの人になれるなら何でもする。

 

 だからあの人の終わりを見た時は、体が震えた。

 次は俺だ。俺の番が来たって。

 

 先生にあの人の個性をもらった。

 あの人を(たお)し、オクロックを超えたオクロック、オンリーワンの存在になった。

 ……はずだった。

 

 ()()()が邪魔をした。

 俺を、俺の名を(けが)した。

 

 君を捕まえた奴らは元気だよと、先生が笑う。

 ……俺のやる事は決まってる。

 

 

 

 

 あれから杳は、細分化の果てに”量子の世界”へ到達し、力尽きて人型に戻るという一連の流れを繰り返した。そのおかげで、彼女は極小(ミクロ)の世界でたゆたう恐怖を完全に克服できた。

 しかしマイナスの感情がなくなっただけで、力を制御できていないという事実は依然として変わらない。個性を発動させるスイッチを恐れずに押す事ができるようになっただけだ。

 

 次の日の朝、杳は航一達と共にダイニングルームで早めの朝食を摂っていた。昨日の晩、寝る前にマッサージをしっかりしたはずなのに、朝起きると体中の関節が軋むような悲鳴を上げていた。杳は眉をしかめつつ、トーストをかじる。

 窓の外からは、昨日猛特訓をした空き地が見渡せた。航一は萎んだバルーンを眺めながら、ソーセージとレタスを一緒に口に入れて咀嚼する。

 

「もうバルーンがほとんど要らなくなった。すごいな君は。飲み込みが早いんだねぇ」

「当たり前でしょ。天下の雄英生なんだから」

「いえそんな……コーイチさんとカズホさんのおかげです。本当にありがとうございます」

 

 和歩はレモンの輪切りを浮かべたヨーグルトを口に運びながら、あっさりと言い放った。杳はひたすらに恐縮しながら、大きく頭を下げる。

 ――()()()()()()()だからだ。航一は、杳がバルーンを破裂させないように個性で制御してくれた。和歩は肉眼とビデオを用いて全体を見通し、適切なフィードバックをしてくれた。二人の協力と励ましがあってこそ、ここまで来れたのだ。

 二人は感謝される事にあまり慣れていないのか、杳の言葉にまごつき、照れていた。やがて持ち直した航一はトーストの欠片を口に放り込むと、食器を重ねて立ち上がる。

 

「じゃ、()()()()に行ってみようか」

 

 

 

 

 後片付けを終えてから、三人は再び空き地に集結した。バルーンの傍には三脚と電源を落としたカメラがある。和歩がカメラのバッテリーを入れ替えている間、航一は杳と一緒に準備運動をしつつ、尋ねた。

 

「お兄さんの個性って、どんなのだった?」

「えっと……ふわふわした雲を、好きな場所に出現させる個性です。イメージした形に創り変えて、操作する事もできます」

 

 杳が応えると、航一は屈伸しようとしていた両足の動きを一旦止め、顎に手を当ててしばらく考え込んでから、こちらを見た。

 

「なるほど。今の君の個性とだいぶ違うね。それを真似てたの?」

「はい。でも”完全なコピー”とは程遠いです。良くて”真似っ子(コピーキャット)”ってとこで。……性質を似せた雲を、掌から放出してただけですから」

「いやそれでも充分すごいと思う。君は想像力が豊かなんだねー」

 

 航一は感心したように頷くと、ポケットから水の入ったペットボトルを取り出した。それを目の前で振ってみせる。朝日に反射して、中の水がキラキラと煌めいた。

 

「じゃあ、ちょっと想像してみてほしい。これが今の君。で、これが君の個性の容量」

 

 ”今の君”でペットボトル全体を、”君の個性の容量”でペットボトルに入った水を、航一は指差した。次に彼は、キャップを外してペットボトルを逆さまにする。すると自然の摂理に従って水は一滴残らず、零れ落ちていった。空っぽになったペットボトルを指差し、彼は言葉を続ける。

 

「今の君は個性を使うと()()()()。全部の力を出し切っちゃうんだよ」

「……はい」

 

 杳は今までの記憶を思い返しながら、頷いた。航一はその反応を見て、今度は足元に置いたカバンから新しいペットボトルを取り出した。そして固く締められたキャップを指し示す。

 

「だから、雲を体の内側に留める訓練をしよう。雲化した時が、水の入ったペットボトルが逆さまになった状態だと想像してみて。()()()()()()()()()、雲は流れ出さず、君の体内に留まってくれるよね」

「キャップ……」

「そうそう。どんなタイプの個性でも、制御のために必要なのはイメージだ。君はそれに長けてる。きっと上手く行くよ」

 

 気楽な口調でそう言うと、航一はスイッチを入れてバルーンを再び膨らませた。杳はその中に潜り込むと、目を閉じて大きく深呼吸する。

 ……私は水の入ったペットボトル。頭の中で想像を膨らませながら、ゆっくりと個性を解放する。私自身にキャップを嵌める。キャップのイメージ。

 

 数秒後、体の輪郭が淡く透けて、中から鈍色の雲が噴き出していく。ふわりと体が浮き上がる。杳は歯を食い縛り、体の内から溢れ出ていく雲を掻き集めようと足掻いた。キャップを嵌めるんだ。お兄ちゃんの時と同じ。頭の中にイメージを描いて。キャップを想像して――

 

 ――ああ、()()()

 

 気が付くと、杳はまたあの世界にいた。バルーンの外殻を構成する、数珠のように連なったエチレン分子がゆらゆらと蠢いている。やがて杳の体力は尽き果て、元の世界にゆっくりと引き戻された。

 イメージを頭に浮かべる余裕なんてない。急勾配の高所を滑走しているジェットコースターを止めようとするのに近かった。

 

 ……本当にできるのだろうか。不安に思っていると、バルーンの縁を持ち上げて航一がやって来た。そしてプロテインの入ったシェイカーを手渡し、杳の背中を優しく撫でる。

 

「大丈夫大丈夫♪リラックスリラックス♪」

「もー緊張感ないんだから……」

「えーごめーん」

 

 航一が与えてくれた笑顔と優しさは、不安で凍えそうな杳の心を、焚き火のようにじんわりと暖めてくれた。和歩が呆れた声で言い放ち、航一がヘラヘラ笑いながら反応している間に、杳は込み上げて来た涙を乱暴に拭き取って気合を入れる。

 ……何度失敗したっていい。決して諦めるな。少しでも前に進むんだ。二人の善意に応えるために。

 杳はプロテインドリンクを風呂上りの牛乳のように勢い良く飲み干すと、トレーニングを再開した。

 

 

 

 

 航一が早朝のパトロールに行っている間、杳は何度もトライ&エラーを繰り返した。その度に、噴き出す雲の量は少しずつ減っていく。航一の指摘した通り、本来の個性を別物に偽装してしまうほどのイメージ力を有していた杳にとって、本来の個性の制御のコツを掴むのはそう難しい事ではなかった。

 

 そして七回目の挑戦の時、奇跡は起きた。ふわりと浮かんだ杳の体内に、噴き出しかけた雲が吸い込まれていく。

 ――杳は恐る恐る目を開けて、大きく息を飲んだ。

 ()()()()()()()。あの世界じゃない。パトロールから帰還していた航一は「おー!」と間の抜けた声を上げながら、拍手した。和歩がポンと跳び上がって叫ぶ。

 

「すごい!成功したよ!」

「はい……ッ?!」

 

 しかし、喜んでいる余裕はなかった。少し集中力を欠いただけで、体内に押し込めていた雲が噴き出そうとする。杳はまるでキャップの蓋を閉めるように、自分の口を両手で塞いで、何度か深呼吸を繰り返した。それから、自分の体をしげしげと眺める。

 

 なんとも()()()()()だった。目を凝らすと、自分の体は淡い燐光を放っていた。胴体部分はうっすらと透けており、中には灰色の雲が滞留している。バルーンの内側を指で押せるから、実体化はできているらしい。しかし体重はほぼないに等しく、羽毛のように軽かった。かなり疲弊しているが、以前のように動けない程ではない。

 航一はバルーンの向こうから、のんびりとした声で呼びかける。

 

「どう?その状態で動けそう?」

「なんとか。休憩しながらで、良ければ」

「それでいーよ。一緒にパトロール行こっか」

 

 その後、杳は航一の指示に従って、個性を発現させて雲を体の内側に留めてから、その雲を完全に消失させる、という流れを何度か繰り返した。生まれたての小鹿が親に教わらずとも自然に歩き出すように、スタートからストップまでの手順を体が一旦覚えてしまうと、もうまごつく事はなくなった。

 その場をざっと片付けてから、三人は事務所へ戻った。和歩は事務机の引き出しを開けると、インカムを取り出して杳に手渡す。

 

「GPS付きだから追跡できるの。パトロール時以外は傍受しないから、休憩中も電源は入れっぱなしにしといてね」

「ありがとうございます」

「あとこれ。ちょっとダサいけど」

 

 続けて、和歩が苦笑しながら渡したのは、さっきのバルーンと同じ素材でできた防護服だった。内部には柔らかい材質の透明ワイヤーが通されており、世間一般で”EMU(船外活動ユニット)”と呼ばれている宇宙服、ヒーローコスチュームで例えると”13号”が着用しているものを、そのまま透明化したようなデザインをしている。

 

「たぶんもう大丈夫だと思うけど。これ着てたらもし暴走しても、そうそう破ける事はないと思うから」

「うっ……」

 

 二人の存在は杳にとって、善意の暴風雨(ストーム)そのものだった。涙のダムはとうとう耐え切れずに決壊し、杳は鼻水と涙を一緒にすすりながら防護服を抱き締める。思いも寄らない事態に慌てた二人は、急いで彼女の傍に駆け寄った。

 

「ちょっ、ヨウちゃん?!なんで泣いてるの?!」

「こんなに、親切にしてくださるなんて……ッ、ぐすっ……ありがとう、ございます!」

「えー、そんなの職場体験なら当然じゃん」

「そうそう。たぶんうちんとこが一番ショボいと思うし」

 

 眉尻を下げながら笑う合う二人を見て、そんな訳がないと杳は強く思った。たった一日半でゼロの状態からここまで急成長させてくれたのは、間違いなく二人のおかげだ。

 ……クロウラーのところに来て、本当に良かった。杳はくじ引きの神様に心から感謝した。

 一旦自室へ引っ込んだ杳は、防護服の下に雄英生のジャージとハーフズボンを着込み、インカムの位置を微調整しながら廊下に出た。その様子を見て、航一は首を傾げる。

 

「あれ?コスチュームは?」

「ちょっと今、考え中で。ジャージは丈夫なので、決まるまでこれでいいと許可をもらいました」

「そっか。ヒーローネームも保留中だったよね。でもジャージかぁ……」

 

 航一は顎に手を当てて考え込んだ後、「あ!」と明るい声を上げてからこちらを見た。

 

「そうだ!俺のパーカー貸してあげるよ!」

「うわ、()()

 

 和歩は心底うんざりした表情でそう言うと、いそいそと自室へ引っ込んでいく航一の後姿を見送った。

 ……”俺のパーカー”って何だろう。クロウラーに関したデザインが施してあるんだろうか。杳がぼんやり思考していると、ほどなくして航一がウサギ耳のフードが付いた青と黄色のパーカーを広げてやって来た。背面には大きく”鳴羽田”と書いてある。どうやらご当地品らしい。

 

「ジャーン!俺のコレクション最新号、()()()()()()なりきりパーカー鳴羽田ver.!」

「お、オールマイトなんですか?クロウラーじゃなくて」

 

 杳が戸惑って尋ねると、和歩は恥ずかしそうに身を縮こまらせつつ、喜色満面の航一をおずおずと指差した。

 

「この人、”オールマイトフリーク”なの。どういう訳だか、オールマイトのパーカーを着ると強くなれるって頑なに信じてるのよ」

 

 ……オールマイトの大ファンなプロヒーローって、何だか庶民的で斬新だ。杳はしばらくの間、呆気に取られて航一を眺めた。

 なるほど確かに良く見ると、彼のフードとなりきりパーカーのフードに付いたウサギの耳は、同じデザインだ。あれはオールマイトの髪型をイメージしたものだったらしい。

 オールマイトフリークと言えば、クラスメイトの緑谷の顔がふと脳裏をよぎった。彼も相当のファンだ。お礼を言ってパーカーを受け取りながら、杳は口を開いた。

 

「クラスメイトもオールマイトの大ファンなんです」

「えーマジで?話合うかもー」

「合わさんでよろしい!」

 

 嬉しそうにはしゃいでいる航一に、和歩がぴしゃりと言い返す。杳はその間に手早く防護服とジャージを脱いで、パーカーに着替えた。サイズが大きめなので、裾を何度か折り曲げる。下はハーフズボンのままだが、クロウラーと同じというだけでなんだか気の引き締まる思いがした。航一は惚れ惚れとした目でパーカーを着た杳を見つめる。

 

「いやーカッコいいよ!ホントにオールマイトみた……」

「はいはいさっさと出動する!」

 

 痺れを切らした和歩に背中を押される形で、二人は事務所のドアを開けた。防護服を通過して、柔らかい風が吹き込んでくる。遠くの方で車のクラクションが鳴り、近くの工場から流れて来る煙の匂いが鼻を突く。蜃気楼の向こうに、古ぼけた町並みがぼんやりと視認できる。

 ……いよいよ、パトロールが始まるんだ。冷たく澄んだ空気を、杳は胸いっぱいに吸い込んだ。

 

「行ってらっしゃい!気を付けてね」

「はいはーい」

「はい!行ってきま……」

 

 航一と共に元気良く返事しながら、杳は何気なく振り向いた。そしてドアが閉まる直前に、和歩が浮かべた表情を目の当たりにして、()()()()()()

 ――まるで夕焼けを見ているように目を細め、今にも消えてしまいそうなくらいに儚く哀しい表情で、和歩はこちらを見つめていた。誰にも受け入れられず、たった一人で命尽きるまで冷たい夜空を飛び続けた()()()のように、どこにも行き場のない悲しい感情を湛えた目が、オールマイトのパーカーをなぞって消えていく。

 

 

 

 

 そうして、航一と杳のパトロールが始まった。”ザ・クロウラー(這い回る者)”という名の通り、四つん這いになって地面を滑走する航一は、とても速かった。

 瞬きをしている間に、彼の姿は薄暗い路地裏に溶け込んで、ふっと消える。見失ってキョロキョロしているとインカムから和歩の指示が入り、少し先で待機中の航一に合流する、という流れを杳は何度も繰り返した。

 

 ……今はパトロールをするよりも、航一に付いていく方が肝要だ。そう判断した杳は数時間の内に、試行錯誤を繰り返した。

 連続して雲化できる時間は5分ほど。それは小分けにする事も可能だ。どちらにしても雲化している時は集中しなければならないため、神経を使うが、体は羽毛のように軽くなる。杳は最終的に、普段は個性を解除して、有事の際や航一に追従する時のみ発動して機動力を上げる、というスタイルを無意識に編み出した。

 

「あ!雄英生の子だ!え、今度はビニール袋かぶってる!カワイー!」

()()()()に弟子入りしたの?」

「見る目ないねー」

 

 杳が航一と共にコンビニの駐車場近辺で掃除をしていると、オフィススーツを着こなした女性三人組が通り掛かり、黄色い歓声を上げた。彼女達はカメラモードに切り替えたスマートフォンをこちらに向けて、写真を撮る。

 ……”苦労マン”ってなんだ?杳はホウキを掃く手を一旦止め、尊敬するヒーローの名前を正すために口を開いた。

 

「苦労マンじゃないですよ。”ザ・クロウラー”です」

「いいのいいの、苦労マンで」

「頑張ってね!SNSに上げとくから。ハッシュタグ何にしよっかな……」

「そりゃ#雄英生 #紙袋の子 #今度はビニール袋の子 でしょ」

 

 好き勝手な事を言いながら去っていくキャリアウーマン達を見送った後、杳は掃除を再開した。結局、苦労マンが何なのか分からず仕舞いだ。

 

 ――よく分からないのは、航一もそうだった。

 鳴羽田は口より先に手が出るタイプの住人が大勢いて、しょっちゅうどこかしらで喧嘩したり、暴れたりしている。航一はその度に仲裁に入るものの、警察に通報したり、相手を制圧する事はせず、()()()()だけでその場を終わらせた。住人達も、航一にしつこく説得されると戦う気を削がれるらしく、皆冷めた顔をして去って行く。

 

 航一の尊敬するオールマイトなら、説得なんてしない。現れた敵を即制圧し、警察へ連行するのが彼のセオリーだ。敵に反省を促したり更生するためのサポートをしたりするのは、ヒーローではなく警察の役回りだ。杳の疑問はそのまま言葉になった。

 

「どうして敵を制圧しないんですか?現場注意だけなんて。あの人達はまた同じ事をするかもしれません」

「警察呼ぶと、前科がついちゃうからねー」

 

 航一は道端に置かれたリサイクルボックスの中を覗き込みながら、のんびりとした声で応えた。内部は指定されたアルミ缶だけでなく、スチール缶やビン、普通のゴミなどが混在している。彼は慣れた調子でポケットからビニール袋を数枚取り出すと、杳に持たせた。そしてそれらの袋に、リサイクルボックスのゴミを分け入れていく。

 

制圧(それ)はなるべくしたくないかな。あの人達も話せば分かってくれるタイプだし」

「チョト、クロウラー!ミチオシエテヨ!」

「はいはーい」

 

 ……そんな悠長な。杳が心の中でそう呟いたとたん、向かいのインドカレー店のドアがバタンと開いた。ターバンを巻いたアジア系の青年が、地図を片手にやって来る。

 航一は人の良さそうな笑みを浮かべ、彼の下へ駆け寄った。青年と一緒に地図を覗き込んでいる航一の姿を見つめながら、杳はなんともいえない複雑な気持ちになった。

 

 パトロール中、航一が行ったヒーローらしい仕事と言えば、敵への現場注意くらいだった。後はゴミ拾いや掃除、道案内などの()()()()()

 

 ゴミ拾いや掃除などの小さな善行の積み重ねが、ヒーローをヒーローたらしめるのだと、オールマイトはメディアを通して人々に何度も訴えかける。だが、それはしょせん綺麗事なのだと、世の人々は知っていた。実際に見るプロヒーローの活躍は、もっと過激で、もっと華々しいものだからだ。

 

 そうこうしている内に道案内を終えた航一は、今度は数十メートル先にぶちまけられたゴミを見つけた。落としたアイスクリームを誰かが踏んづけたのだろう、砕けたコーンと融けたアイスが混ざってグチャグチャになっている。彼はゴム手袋を嵌めながら、素早く這い寄った。

 

「あ、まただ。この時間帯多いんだよねー」

「……クロウラーさん」

「ん?あ、ありがと」

 

 杳はティッシュでゴミを集めながら、おずおずと口を開いた。

 

「こう言った事は、敷地の所有者に一任した方がよいのではないでしょうか?……プロヒーローのクロウラーさんが、やる事はないと思います。道案内はお巡りさんに任せればいいし、ゴミは放っておいても業者の人が後でしてくれますよ」

「んー。でもこれも()()()だからねぇ」

 

 ――杳は絶句した。そんな事を言っていたら、ヒーローの仕事の際限がなくなる。”人のためになる”と考えるだけで、どんな些細でつまらない作業でも、ヒーローがするべき仕事に振り分けられてしまう。その量はあまりに膨大で、多種多様だ。

 

「こんな事が”人救け”と言うなら……ヒーローの仕事はきりがなくなります」

「うん。だから忙しいんだよねー」

 

 航一はゴミ袋の口を縛りながら、何気なくそう言った。

 その言葉は鋭利なナイフに変わり、杳の心臓に突き立った。

 

 自分の安っぽいヒーロー像を見透かされたようで、杳は恥ずかしくてたまらなくなった。

 ……航一さんは、人を救うために何ができるかという事をずっと考えていて、思い付いたらすぐ行動に移せる人なんだ。見返りなんて求めずに。この人にとって、ゴミ処理と敵退治は同じ”人救け”というカテゴリなんだ。なんて気高く、綺麗な心の持ち主なんだろう。自分とは雲泥の差だ。

 またも杳が鼻水を啜り始めたのを聴きつけ、和歩はインカムの中で慌てふためいた。

 

「ヨウちゃん大丈夫?……ちょっとコーイチ、花の乙女にゴミ処理ばっかさせ過ぎ!」

「えっ?!ごめん……」

「ち、違うんです。自分が、恥ずかしくて」

 

 杳は防護服のフードを脱いで、ティッシュで鼻を噛みながら言葉を続けた。

 

「ヒーローとは何なのか、人救けって何なのかっていうのを、何も分かっていなかった。自分が浅はかで、情けないです」

「おーおー。新人いびって楽しいか、苦労マンよー」

「……!」

 

 不意に頭上から、知らない男性の声が振って来た。杳は反射的に顔を上げ、びくりと肩を撥ねさせる。

 ――しゃがんだ自分達に覆い被さるようにして、全長数メートルはあるだろう巨大なカマキリと、タコを彷彿とさせる触手を生やした異形の男が立っていた。その凶悪な見た目に反して、彼らは揃いのタキシードを着用している。

 さらにタコの人は吸盤付きの手に買い物袋をぶら下げていて、その中からネギや大根の葉っぱが飛び出していた。カマキリの人はニット帽を被っており、その上には首輪をした三毛猫が寛いでいる。猫は大きく伸びをすると、いきなりこちらに向かってダイブした。杳は慌てて抱き留める。

 

「わっ……とと!」

「わぁ♪おすしⅡ世、君の事気に入ったみたいだネ♪」

「おすしⅡ世って言うんですか、この子。可愛いなー」

 

 ゴロゴロと喉を鳴らして腕の中で寛ぐ猫を眺めながら、杳はタコの人と一緒に、ほのぼのとした感じで笑い合った。航一は立ち上がると二人に向けて、人懐っこい口調で話しかける。

 

「どうもー。店の買い出しですか?精が出ますねぇ」

「今日は大入りでよー。食材が足らなくなってなー」

「JK向けの猫カフェなのに、お客がオジサンばっかりってウケルよネ♪」

 

 三人の中に流れる空気は、和やかで親しげだ。どうやら航一とこの二人は知り合いであるらしい。杳が猫を抱っこしながら様子を伺っていると、航一がこちらを指し示した。

 

「あ、紹介しますね。こちら雄英高校一年ヒーロー科の白雲杳さん。俺のとこに職場体験に来てくれてるんです」

「白雲杳です。よろしくお願いします!」

「知ってるー!紙袋の子だよネ♪……ボクは田古部烏賊次郎(たこべいかじろう)、よろしく♪」

鎌池桐仁(かまじきりひと)だ。東の方で”Hopper's Cafe(ホッパーズカフェ)”やってるぜー」

「Hopper's Cafe?」

 

 二人の話の内容から推察するに、先程言っていた”JK向けの猫カフェ”の事だろうか。

 ……JKではないが、猫好きのヒトシが喜びそうだ。杳はそう思いながら、田古部のすべすべした手を握った後、鎌池の鋭い刃がきらめく前足に、おっかなびっくり触れて握手した。良く見ると二人の体には、あちこちに()()()()()()がある。やがて田古部が航一に向かって、明るく話しかけた。

 

「そうだ。もうお昼時でしょ?うちにランチ食べにおいでよ♪」

「たまには奥さんに楽させてやれよなー」

「えーと……」

 

 航一はしばらく逡巡した後、和歩の反応を待った。本来であれば、昼休憩中は一旦事務所に戻り、彼女の作った昼食を食べる予定だったのだ。そうこうする内に和歩の許可が下り、二人は彼らの先導に従って、カフェへ赴く事になった。

 

 

 

 

 ”Hopper's Cafe(ホッパーズカフェ)”は東鳴羽田の中心部にあった。

 ドアベル付きの入り口の前には、写真を沢山貼りつけたウェルカムボードが立てかけてある。大通り向きの壁は一面のガラス張りになっており、店内は自然な光が差し込んでとても明るかった。内装は北欧っぽいナチュラルな雰囲気で、パイン材のテーブルと椅子、そしてモカとオフホワイトの布張りソファーが、たくさん並べられている。

 店の中央部分にはキャットタワーが三棟ほどあり、そこで様々な種類の猫たちが寛いでいた。

 

 そんないかにも女性受けしそうな店構えであるにも関わらず、実際に席を埋めているお客は皆、ガラの悪そうな男性ばかりだった。彼らは厳つい顔を綻ばせて猫と戯れたり、その場の雰囲気にそぐわないラーメンや餃子を食したりしている。

 

 ――”JK向けの猫カフェ”と謳っているが、実際にJKが来店したのは()()()()()らしい。

 二人はテーブルに載り切らないほどの料理を平らげながら、田古部達に囲まれて、色々と事情聴取を受けていた。皆の一番の疑問点は、”なぜマイナーヒーローであるクロウラーを職場体験先に決めたのか”という事だったが、杳がくじ引きで決めたのを知った瞬間、ガラスの壁が震えるほどの音量で大笑いした。

 

 近隣にあるリサイクルショップ”ほっぱ~ず”を経営しており、このカフェの立案者でもある堀田兄弟にも、剥き出しになった両腕に火傷の跡がある。兄の方が目尻に浮かんだ涙を拭いながら、杳に笑いかけた。

 

「お前もくじ運悪いなー。苦労マンを引くなんてよ」

「苦労マンって何ですか?」

 

 ……まただ。”苦労マン”とは一体、何なのだろう。クロウラーのニックネームみたいなものなのだろうか。杳が素直に尋ねると、弟の方が食べ終わった食器を重ねながら、口を開いた。

 

「こいつの()()()()()()時代のあだ名。元は親切マンだっけか」

「……ヴィジランテ?クロウラーさんが?」

 

 杳は驚くあまりにオムライスを食べていたスプーンを取り落とし、向かい側に座る航一をじっと見つめた。

 

 ――”ヴィジランテ”とは、治安を守るために許可を受けていないにも関わらず、個性を使って犯罪者に制裁を与える者や、人救けをする者の事だ。ヒーローが公職と定められるまでは、人を救うために個性を使う者は皆、ヴィジランテと呼ばれていた。

 

 しかしヒーローが公認制となった現代、許可を持たない者が公共の場で個性を使用した場合、それは違法行為となる。ヴィジランテは過去の遺物となった。個性の黎明期はあれほど重用されていたのに、今は犯罪者、つまり(ヴィラン)と同じカテゴリになっている。

 杳の反応に狼狽した弟は、気まずそうに体を縮こまらせている航一を睨んだ。

 

「お前、まだ言ってなかったのかよ」

「いやー、なんかこう言うタイミングが……」

「懐かしいな。オッサンとポップと三人でよぉ」

 

 ”オッサンとポップと三人”。杳はその言葉を心の中で反芻した。この町を守るために、航一達はチームを組んで自警をしていたんだ。最初の方こそ驚いたものの、杳の航一を尊敬する心が揺らぐ事はなかった。

 そもそもヒーローの原点はヴィジランテだ。ヴィジランテの功績を認められて、ヒーローになった例は過去にない訳ではない。すると今度は田古部が自らを指差しながら、こう言い放った。

 

「じゃあボクたちが元・(ヴィラン)だって事も知らないんだネ」

「……え?」

「まー、もう7年以上も昔の事だけどな。あん時は若かったよ」

「オッサンにボコボコにされたよなー」

 

 見た目こそ強面揃いだが、この気の良い人たちが元・敵?そして航一は元・ヴィジランテ。

 その余りに衝撃的な情報を脳が処理しきれず、杳はついにスプーンを握り締めたまま、その場でピシリと固まってしまった。

 

 ――学校の教科書には、ヒーローと敵は、光と影と同じく完全に分かたれて、理解もできず、相容れぬ存在だと書いてある。航一のように、敵に説得から入るヒーローはまずいない。そもそも敵に、ヒーローの話を聴く気がないからだ。

 敵達は自己保身に走り、好き勝手な事を言って、人々の安寧を踏み潰す。だから杳達は誰よりも早く確実に敵を制圧できるよう、戦闘技術を磨くのだ。

 

 けれど今、彼女が立っているのは、教科書に載っていない、イレギュラーでアンダーグラウンドな世界だった。そこで生きる航一は笑いながらこう言った。

 

「俺もそうだけど、たぶん皆、良い事と悪い事の間で、迷いながら生きてるんだよね。些細なきっかけがあったり、誰かに巻き込まれたり、そういう生き方しかできなくて、仕方なく敵になったって人もいる。

 ……でも道を間違ったからって、それで全部が終わりじゃない。諦めなきゃ、人生はなんとかなるもんだよ」

「急に何カッコつけてんだキモいな」

「苦労マンのくせに」

「キモダサパーカー野郎」

「皆良い人だしね」

「いや、ボロクソに言われてますけど……」

 

 なんだかんだで皆に慕われている航一を見ながら、杳は思った。

 ……ここは()()()()()()()()()なんだ、と。

 

 オールマイトはいつもテレビ画面の向こうから飛んできて、敵をスマッシュでやっつけ、フレームアウトする。観衆はその鮮やかなお手並みに心酔し、惜しみない拍手を送る。

 だけど、一緒にフレームアウトした敵のことは()()()()()()()

 その敵がどんな想いで犯罪を犯すに至ったのか、捕まった後はどうやって更生していくのか――

 たとえ人々にそういった方面の関心が生まれたとしても、新たな敵に大切な存在を奪われた人々の慟哭や、傷つけられた人々が上げる断末魔が、それを掻き消していく。

 杳だって、”倫理学”の授業で教科書を読みながら学ぶ程度で、こんな風に間近で体験した事なんてなかった。

 

 

 

 

 Hopper's Cafeで杳が得たものは、あまりに重く複雑だった。雲化して羽毛のように軽いはずの体が、ずっしりと重たく感じるほどに。

 カフェの外で防護服を着込んでいると、電子マネーで決済を終えたばかりの航一がドアベルを鳴らしながら、外に出て来た。そしてハンドサインで”インカムを切るように”と指示する。杳がインカムを切ると、航一はさっきまでとは打って変わって静かな声でこう言った。

 

「ヨウちゃん。ヴィジランテの事、カズホには言わないでほしいんだ」

「……え?」

「約束してくれるかな」

 

 いつもの気弱そうな笑顔は鳴りを潜め、彼は真剣な表情でこちらを見ていた。気圧された杳が思わず頷くと、航一はインカムの電源を入れながら、元の温和な顔立ちに戻る。

 

「ありがとう。……ごめん、カズホ。ちょっと接続不良で」

 

 ……()()()()。杳はそう思った。今朝、和歩がドアの閉まる直前に見せた、あの悲哀に満ちた表情。悲しい二人の眼差しは、杳の心を優しく押し戻して、これ以上近づく事ができないようにと高い壁を築き上げた。

 

 二人に一体何があったのだろう。考え事をしながら足を踏み出したとたん、杳は店の外に出されたウェルカムボードに足を引っかけた。危うく転びかけるも、何とか体勢を立て直す。そして定位置からずれてしまったボードを直そうと屈みこんだ時、一枚の写真が地面に落ちているのを見つけ、ひょいと拾い上げた。

 

 ――オールマイトなりきりパーカーを羽織った航一が左側に映っていて、その傍らには黒いバンダナを頭に巻き付けた、屈強な体躯の中年男性が立っていた。

 航一の顔は今よりも、もっとのんびりしている。これは彼の若い頃の写真、という事は”ヴィジランテ”時代だ。杳はますます眉根を寄せて、写真を覗き込んだ。

 

 バンダナの男性の隣、つまり右隣の部分は、誰かの手で強引に破り取られていた。目を凝らすと、男性の肩と破られて毛羽立った写真の縁のわずかな隙間に、()()()()()()が垣間見える。

 

(懐かしいな。オッサンと()()()()三人でよぉ)

(ヴィジランテの事、カズホには言わないでほしいんだ)

「いたっ」

 

 次の瞬間、写真の縁で指を切り、杳は顔をしかめた。白い指先にプツリと赤い玉が生まれ出て、涙のように零れ落ちていく。

 

 

 

 

 節くれだった指先から零れ落ちた血を、心操はアルコール綿で拭い取り、しっかりと包帯を巻きつけた。

 ――彼の職場体験先は、もちろん雄英学校だった。相澤は”まず捕縛布に触れる前に”と、彼にうんざりする量の筋力トレーニング、ロードワーク、基礎訓練を押し付けた。

 そんなわけでこの二日間、心操は広々とした体育館に引きこもって、ひたすらストイックに訓練をこなし続けた。一言たりとも文句や弱音を吐かず、体力の続く限り、懸命に動き続ける彼の背中に向けて、相澤は冷静な口調でこう言った。

 

「言った通りにしろ。俺は無駄な事はさせない主義だ」

 

 天井から垂れ下がるロープの登攀訓練で、午前中のトレーニングは終了した。血豆だらけになった両手の処置をしてから、心操はカロリーメイトをプロテインシェイクで流し込む。先日、相澤との戦闘訓練で切った口の端にシェイクが沁みて、彼は顔をしかめた。

 数メートル先には、相澤入りの黄色い寝袋が転がっている。一時間の昼休憩時、彼はいつも寝袋に潜り込んで仮眠を取っていた。

 

 心操はカバンからスマートフォンを取り出して、REINアプリを起動した。――彼は親しい人に限り、情が深く、また寂しがりだった。昨日と変わらず、グループトークは更新されていない。気弱そうな友人の顔がポッと思い浮かび、彼は担任が寝ていると知っていながら、思わず口火を切ってしまった。

 

「先生は、クロウラーって知ってますか」

「……知ってるよ」

 

 相澤は起きていた。良く見ると、口に空っぽになったゼリー飲料の容器を咥えている。

 

「元々あいつの担当地区は俺の地元だったからな。よく()()を掛けられた」

「……迷惑?」

「あいつはヴィジランテ上がりのヒーローだ」

 

 ……”ヴィジランテ”?心操は鼻白んだ。良く言えば”ヒーローの原点”、悪く言えばヒーローの資格をもたずにその真似事をする”犯罪者予備軍”だ。しかしそんな彼の反応をよそに、相澤は落ち着いた様子で言葉を紡ぐ。

 

「心配するな。そこは通報数こそ日本有数の町だが、あいつがヒーローに昇格してから犯罪件数は()()()()の状態を維持してる」

 

 つまり治安は悪いが、事件が起きる前にクロウラーが解決していると言う事だ。それほどの実力があるなら、友人の身も安全だろう。相澤の言わんとする事を理解し、心操は安堵して二本目のカロリーメイトをかじった。

 

 一週間の絆で結ばれた師弟は、お互いに無口なタイプのため、必要以上の会話をするという考えがなかった。また長らくの沈黙が続いた後、相澤は再び口を開く。

 

「お前、猫好きか?」

「……好きですけど」

 

 すると相澤は寝袋ごとゆっくりと身を起こし、挑戦的な笑みを浮かべてこう言った。

 

「今週中に捕縛布を触れるようになったら、地元の猫カフェに連れてってやる。……そこはコーヒーが旨いんだ」




今編はなるべくサクサク終わらせます。
分からない箇所があれば、修正しますので仰ってください( ;∀;)
次回は皆の好きなおてての人が登場!黒霧も出るよ!


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No.17 3日目

※追記:死柄木の履いているスニーカーブランド”イカロス”はオリジナルです。

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●キャプテン・セレブリティ(名前のみ)
アメリカのメジャー級ヒーロー。諸事情により母国で活動できなくなり、数年前、鳴羽田に出稼ぎに来ていた。


 次の日。何か大きなものが落ちるような音が事務所の方から炸裂し、朝の支度をしていた杳は、慌てて自室のドアを開けた。押し殺した女性の悲鳴が聴こえる。――()()()()だ。杳は弾丸のような勢いで廊下に飛び出し、事務所へ繋がるドアをバタンと開け放つ。

 

「あいたたた……」

「カズホさん!大丈夫ですか?」

 

 中央の壁に吊るされた大きなコルクボードが外れて、床に落ちている。その傍には和歩がお腹を押さえて、しゃがみ込んでいた。杳の存在に気付くと、彼女は眉をしかめながらも笑ってみせる。

 

「びっくりさせてごめんね。ボードを拭こうと思ったら、倒しちゃった」

「ケガはないですか?あとは私がやります」

「うん、大丈夫。ありがとね」

 

 ひとまず和歩を応接スペースにあるソファに座らせると、杳はボードの前に戻った。雑巾で拭くのは、修復したボードを元の位置に戻す前で良いだろう。落下の衝撃で外れてしまった写真や画鋲をゆっくりと拾い集めていく。 

 

 様々な記憶のワンシーンが、四角いフレームの中で輝いている。――鳴羽田の住民と思しき人々の写真、Hopper's Cafeのスタッフ達の写真や、関西で有名なBMIヒーロー”ファットガム”の写真、数年前に来日してちょっとしたブームになったアメリカンヒーロー”キャプテン・セレブリティ”のミニポスター、知的なオーラが漂う美女の写真……などなど。その多くは長い年月に晒されて、縁が少し古びていた。

 

 航一がプロヒーローになったのは一年前。きっとこれらの写真は”ヴィジランテ時代”に撮られたものだろう。杳はそう思った。その中には、なりきりパーカーを着た航一と、黒いバンダナを巻いた壮年の男性が映った写真もたくさん含まれている。

 

 しかしそれらは全て、一部分が欠けていた。まるで二人の傍にいた誰かの姿だけを切り取っているように。その切断面に目を凝らすと、()()()()()()らしきものがうっすらと確認できる。

 

 ……たぶん、()()()はカズホさんだ。何か理由があって、カズホさんはヴィジランテを止めた。そして写真に映る自分の姿を切り取ってまで、その過去を否定している。

 でもそれを訊く事はしない。コーイチさんと約束したから。私にできるのは、残りの日を全力で頑張る事だけだ。

 

 拭き終わったボードを持ち上げた時、杳の足に何か硬いものが当たった。ボードに吊り下げられていた、きんちゃく袋だ。持ち上げてみると、ずっしりと重たい。

 

「懐かしいな。それ、()()()()()なの」

 

 和歩の明るい声がして、杳は振り向いた。和歩は手を伸ばして袋を取り上げ、その中身を杳の手に出す。――金属製のナックルダスターだ。随分と使い込んだのだろう、表面は傷だらけで、少し擦り減っている。

 恐らく黒いバンダナを巻いた壮年の男性の持ち物だったのだろう。でもこれは、踏み込んではいけない領域だ。どうして良いか分からず、立ち竦む杳の頭を優しく撫でながら、和歩は穏やかな表情でこう言った。

 

「気を遣わなくていーから。Hopper's Cafeで、ヴィジランテの事訊いたんでしょ?」

「は、はい……」

「あ。盗み聞きはしてないからね。なんとなくそう思っただけ!」

 

 観念して頷いた杳に、和歩はにっこりと笑いかけた。日が昇り、窓の外を美しいオレンジ色に染め上げていく。

 

「もう随分昔の事になるんだけど。コーイチとおじさんと私の三人で、ここでヴィジランテやってたの。おじさんはしばらくしたら、どこかに消えちゃったんだけどね」

「お。師匠のだ。懐かしいなー」

 

 気が付くと、コスチュームに身を包んだ航一が、和歩の横に立っていた。早朝のパトロールから帰って来たばかりらしい。続いて彼は気遣わしそうな目で、和歩を覗き込む。すると彼女は明るく笑って、航一の肩をポンと叩いた。

 

「私の事なら心配しないで。そろそろ、()()()()()()()だし」

「……そっか」

 

 航一はホッとしたような微笑みを浮かべ、杳の手からナックルダスターを受け取って袋に戻した。和歩は欠伸をしながらキッチンへ向かい、味噌汁に入れる小口ねぎを刻み始める。杳も駆けて行って、さいの目状に豆腐を切るのを手伝った。

 

 

 

 

 それから三人はダイニングテーブルに着いて朝食を摂り、杳のトレーニングをするために空き地へ集まった。バルーンを膨らませながら、航一は準備運動をしている杳にこう言った。

 

「今日は()()()。というより、君の個性の真骨頂を発揮するって感じかな。……雲化して、雷や雨、雪を放出してみよう」

 

 ……ついに来た。杳はごくりと生唾を飲み込んだ。彼女の個性は雲に変化し、天候を操作する事だ。正しく使いこなせれば、敵の制圧や災害時の救助など、様々な面で役に立つ。

 ふと杳の脳裏に、脳無に雷撃を放った直後、個性の制御ができなくなって苦しんだ記憶がよぎった。そして体育祭で個性を暴発させてしまった記憶も。

 

 しかし、航一と和歩が傍にいてくれる限り、なんら怖気づく事はない。杳は首を横に振って、嫌な記憶を振り払う。”Plus Ultra(さらに向こうへ)”の精神で、この壁も必ず乗り越えてみせる。

 バルーンの中に入り、ゆっくりと呼吸を整える。すると航一がバルーンの外殻にひたりと両手を当てながら、のんびりとした口調で指示を出した。

 

「じゃあ、()()()()()をイメージしてみて。たぶん今の君なら、もうその選択ができると思う。あ、バルーン壊すくらいの気持ちでやっていいよ。俺が押さえてるから」

 

 そう言うと、航一は目を閉じて大きく深呼吸した。次の瞬間、彼の両手にスカイブルーに輝くエネルギーリングが生成される。そこを起点に斥力が放出され、バルーンの外殻全体をスカイブルーのエネルギー粒子で覆い、淡く発光し始めた。

 よほど集中しているのか、航一は眉をギュッと寄せたまま、喋らない。代わりに和歩が大きく手を振りながら、叫んだ。

 

「いいよ、ヨウちゃん!」

 

 杳は大きく息を吸って、吐いて、そして個性を解放した。

 ――雷のイメージ。体の輪郭が淡く透けて、中から鈍色の雲が噴き出して、周囲に滞留する。やがてそれは彼女の体に収束した。曇り硝子のように透けた体内で不気味に蠢きながら、雲は猛々しい稲光を走らせ、地を這うような低音を轟かせ始める。

 

 次の瞬間、()()()()()が起こった。

 

 暴力的なほどに真っ白い光がバルーンを包み込み、くぐもった爆発音と振動、そして巻き起こった土煙が、空き地全体を蹂躙していく。航一が斥力をバルーン全体に行き渡らせて強度を底上げしていなければ、凄まじい閃光と爆発音がご近所一帯に轟いて、住民達が大パニックに陥るところだった。あまりの迫力に和歩は腰が抜けたのか、三脚の傍にぺたんと尻餅をつく。

 

 土煙が収まった頃、バルーンの中で仰向けに横たわっている杳の姿が現れた。

 ――全身の血を一気に引き抜かれたような虚脱感に苛まれ、指一本動かす事ができない。強烈な眠気が、脳髄を痺れさせる。十数年振りに本来の個性を解禁した時、そして体育祭で個性を暴発させた後と()()()()だ。今にも落ちようとする瞼と戦いながら、杳は近寄って来た航一に囁いた。

 

「……なんだか、振り出しに戻ったみたいです」

「いやいやそんなことないよ。君の個性、ホントに凄いね。力負けするかと思った」

 

 航一はあっけらかんとした様子で笑った。

 それから三人は一旦事務所に戻り、数十分の休憩を挟んで、再び空き地に戻った。杳はまだ疲労の残る体を動かし、念入りに準備運動をする。航一は真剣な表情で、和歩と共に、さっきの映像をビデオカメラで見直していた。やがて彼は何かを思い付いたようにポンと掌を打つと、こんな事を言った。

 

「ヨウちゃん。思いっきり息を吸ってみて」

「はい」

 

 杳は言われた通り、大きく息を吸い込んだ。その様子をつぶさに観察しながら、航一は言葉を続ける。

 

「で、一気に吐き切って!」

 

 杳は肺の中の空気が完全になくなるまで、吐き切った。やり過ぎて一時的な酸欠状態に陥ってしまい、慌てて肺に酸素を取り入れる。杳の呼吸が整うのを待ってから、航一は噛んで含めるような口調でこう言った。

 

「君の個性は”全力の一呼吸(それ)”と同じなんだよ。一回で吐き切ってる。全部の力を使い果たすんだ。……でも、ちょっと見ててほしいんだけど」

 

 航一はそこで一旦言葉を区切ると、自分の掌を口に近づけて、息を短く吐いて止め、また吐くという事を繰り返した。そしてもう一方の手で、息を吐いた数をカウントする。やがて五指全てが掌の内側に折り込まれた時、彼は顔を上げて杳を見た。

 

「今、俺は一回分の呼吸を()()()()()()。一回で出し切らず、小分けにする。つまり出力を調整できれば、君はもっと長く戦える。それから……」

 

 航一は今度はポケットからきんちゃく袋を取り出し、それに向かって息を吐いた。重い金属片が入っている袋は、びくともしない。続いて唇をすぼめ、短く鋭い吐息をフッと吹きかける。それを受けた袋は、今度はゆらりと揺れ動いた。

 

()()()も大事だね。出力面積が小さいほど、個性の威力や精度は上がる。”面じゃなく点で放出する”ってイメージ」

「面じゃなく点……」

「そうそう。オススメはやっぱり掌とか足裏かな。イメージが湧きやすい王道の部位だし」

 

 かくいう航一もその一人だ。だが、元からその傾向があった彼に対し、杳は全身から個性を放出するタイプだ。――出力先を強く意識させる必要がある。敵を前にしたオールマイトが拳を握り締め、ここからお前を倒す力を発揮するのだという気概を込めて、”スマッシュ”と叫ぶように。

 

 そこでふと、航一は片手にぶら下げている、きんちゃく袋を見下ろした。

 ――きっともう、()()は帰ってこない。いつかまたふらりと帰って来るだろうと飾っていたこのナックルダスターは、長い年月に晒されて、思い出が封じられた写真と同じ存在になった。

 

 たぶんこれを俺は使わないだろうと、航一は思う。ならば、彼女に託そう。俺と違って、もっと自由で広々とした場所で羽ばたける彼女に。あの無茶苦茶だけど、夢の始まりを共に歩んでくれた師匠の想いを託して。まぁ、あの戦い方は絶対に教えられないけど。

 航一は心の中で苦笑いしつつ、袋から銀色に輝く武器を取り出した。

 

「ヨウちゃん。これ、使ってみたら?」

 

 

 

 

 応用トレーニングは、午前中いっぱいで幕引きとなった。想定以上に、天候を操作する技が杳の体力を食ったからだ。彼女は事務所で昼食を摂った後、療養のためにと数時間の自由を与えられた。

 

()()()()()は禁止だからね!きっと疲れが出たんだよ。カフェでまったりお茶でもしてきなよ)

(そうだ、イメージに合う靴でも選んで来たら?めちゃ派手なスニーカーとかさ。……あ、そう言えばオールマイトの)

(それはもうよろしい!)

 

 痴話げんかを始めた二人をなんとか宥めると、杳は私服に着替えて外に出た。何の目的もなく時間を潰すというのは、久しぶりだった。

 スマートフォンを取り出し、REINアプリを起動する。未だに白紙状態の心操と轟とのグループトーク画面に、先日Hopper's Cafeで撮影した猫の写真を何枚か載せてみた。

 しかし数分待ってみたものの、二人からの反応はない。――REINを見る暇もないという事だ。だが、それは当然かもしれない。二人の職場体験先は相澤先生とエンデヴァーなのだから。

 

 その時、ハーフズボンのポケット内で、ずっしりとしたナックルダスターがぶつかり合って、硬い金属音を立てた。

 ……そうだ、と杳は足を止めた。出力先としてイメージしやすい感じのスニーカーでも見に行こう。動きやすくて、なるべく派手なヤツ。彼女は地図アプリをタップして、この町近辺の靴屋を調べ始めた。

 

 検索の結果、地図は数百メートル先にある小さな商店街にピンを差した。ピンを押し込んで詳細を見てみると、靴屋のほかにカフェスタンドなど、色々と時間を潰せそうなお店が並んでいる。

 ……よし、ここにしよう。そう思ってスマートフォンから顔を上げて歩き出そうとした時、前方から歩いて来た一人の男と肩が軽くぶつかった。しまった、スマホに夢中で周りを見ていなかった。杳は去りゆく男の背中に向けて、謝罪の言葉を投げかける。

 

「す、すみません!」

「いーえ、お気になさらず♪」

 

 テンガロンハットを小粋に被った男は、ちらりと杳を振り返り、人好きのする笑みを浮かべてみせた。行き交う人波の中に、すらりとした体躯を紛らせた直後、彼は取ってつけたような笑顔を拭い去る。目深にかぶり直した帽子の下で、顔を斜めに横切る古傷が浮かび上がった。

 

 

 

 

 近隣に”マルカネ”というデパートがあるせいか、平日の14時という中途半端な時間のせいか、商店街の客はまばらだった。靴屋は商店街の中程にあった。杳はスニーカーのコーナーをじっくりと見て回ったが、なかなかピンと来るものがない。

 

 ――杳は”自分の意志で何かを選ぶ”という事が、とことん苦手だった。言ってしまえば、優柔不断の権化だ。

 今までは兄が選ぶものを選んでいたから、少しも迷わなかった。だが、もう兄はいない。芽生えたばかりの自我は、物事の選択をするほどまでには成長できていなかった。

 

「また来てねー。白雲ちゃん」

「ありがとうございました」

 

 気の良い店主に見送られて、杳は店を出た。好意でもらったスニーカーのパンフレットをリュックにしまって、腕時計を見る。――自由時間はあと2時間ほどだ。どこかでお茶でもしようか。

 Hopper's Cafeまでは少し時間がかかりすぎるし、ここで休憩しよう。確かカフェスタンドがあったはず。タイミングの良い事に、向かいの壁には商店街の案内板が貼られていた。杳は板の端っこにくっ付けられたチューインガムを剥がし取りながら、目当ての店を探す。

 

 次の瞬間、後ろから()()()軽く覆い被さられて、杳はびくりと肩を強張らせた。

 ――全く気配も足音もしなかった。自分が案内板とガム剥がしに夢中になっていたからだろうか?急いで見上げると、使い古したダークグレーのパーカーを羽織った痩身の青年が、こちらに寄りかかるようにして立っている。

 

「なぁ、雄英の人だよな?体育祭で暴走してた……確か、今は()()()()()()()だっけ?」

「は、はい……」

 

 青年の背丈は、杳の頭二つ分ほど高かった。その顔は長く伸ばした白髪とフードに隠れて、見る事ができない。きさくな笑い声を上げて、彼は杳の肩に腕を回す。杳はまごつきながらも、されるがままになっていた。自分に関心を持ってくれる人を、無下に扱ってはならない。

 

 ――ヒーローは”人気商売”だ。大成するヒーローは皆、学生時代から多くの人々に慕われ、密かにファンクラブも結成されていたと聞く。インターン中にも、杳に対してこんな風に話しかけたり、おやつをくれたり、写真を撮ったりする人はたくさんいた。やはり雄英の体育祭効果は凄いのだ。

 

「俺はおまえのファンでさぁ」

 

 青年は何気ない風を装って、杳の首筋に四本指をひたりと当てた。そして、ゆっくりとこちらを覗き込む。くすんだ白髪の奥にある顔は、荒涼とした大地のように荒れ果てていた。ひび割れた唇が、緩やかに弧の形を描いていく。

 

「ちょっと話でもしないか?白雲杳」

 

 

 

 

 時の流れを一時間ほど戻し、神野区にて。死柄木弔は気まぐれにアジトのバーを抜け出し、路地裏近辺を彷徨っていた。

 

 死柄木は呪いのように増大する負の感情に苛まれながら、日々を生きている。大抵誰でも気に入らないのに、息をする度に、もっと嫌いな人間ばかりが増えていく。

 目下、彼の頭を悩ませているのは、目障りな同業者(ステイン)と、先生が宿敵と暫定した緑谷出久、そして黒霧の()・血縁者らしい白雲杳の三者だった。

 

 特に腹が立つのは、白雲杳の方だった。先生は事ある毎に彼女を気にかけ、まるで自分と同等に扱っているようにも思える。彼女に興味を持ったのは、脳無を倒したあの一瞬だけだ。

 それ以外は、()()()()()()()。個性を捻じ曲げ、死んだ兄の真似をする滑稽な姿。全てを失ったのに紙袋をかぶってまでしがみ付く、惨めな姿。自分の個性もろくに扱えていないような、出来損ない。どうしてあんな奴が先生のお眼鏡に叶っているのか、死柄木には微塵も理解できなかった。

 

(真っ当な敵がいなくちゃ、あの子のためにならないからね)

 

 仕舞いにはあんな(クズ)のために、先生はわざわざお(あつら)え向きの舞台を整えてやると言う。

 ――正直言って、気に入らなかった。先生の生徒は自分だけだ。だからこそ、死柄木はUSJ襲撃の時に杳を殺そうとした。脳や心臓をグチャグチャに潰されて、感情のない脳無に造り変えられた彼女を見たら、少しは溜飲が下がり、受け入れられるような気がしたから。

 

(随分とあいつを気にかけているんだな)

(気にかける、か。確かにそうだね。だけど君に対するものとは、意味合いが違うかな)

 

 先生は上品な仕草で笑い、蕩けるような甘い声でこう言った。

 

(あの子は()()()()()だ。人は家畜を美味しく食べるために、良い餌や環境を与えて育てるだろう?僕も同じ事をしているだけさ)

 

 ――いずれ(ほふ)られる運命の、哀れな子豚。そう考えると、心の内に宿った”嫉妬の炎”は治まった。それから、ほんの少し()()()()()()。子供が養豚場へ赴いて、そこで育てられている豚を気まぐれに愛でるように。

 

 雄英高校・ヒーロー科のプライベートは、あってないようなものだ。スマートフォンを起動してSNSアプリをタップすれば、彼らの居所はすぐに割れる。国中の人々が他人のプライベートを勝手に切り取り、配慮もなく、好き勝手に貼り付けているからだ。

 それによれば彼女は今、鳴羽田の商店街にいるらしい。通り掛かったゴロツキを戯れに殺して塵に変えてから、彼はその方角へ足を向けた。

 

 

 

 

 そして、今に至る。

 死柄木は間の抜けた子供の顔を見下ろし、唯一浮かせた中指を戯れに動かしながら、静かに反応を待った。――さあ、どうする。驚くか。恐怖に泣き喚くか、パニックになるか。それとも、ヒーローらしく果敢に抗おうとするか。

 

 一方の杳は、青年の顔になんとなく既視感を覚えて、小さく首を傾げた。どこかで会ったような気がするが、気のせいだろうか。そう思った。

 

 ――()()()()()()()

 

 実際にUSJで死柄木を見たのは遠目に数秒ほど、そして雷雲と化している時はほぼ一瞬、視界の端を掠めただけだ。さらにその当時、彼は”死人の手を上半身の各所に散りばめる”という、ただならぬ様相を呈していた。一般人を装っている現在とは、まさしく雲泥の差だ。

 

 つまり、()()()()()()()()、杳はこの青年がかつてUSJ襲撃を首謀し、脳無に自分の殺害を示唆した敵・死柄木弔だと気付いていなかった。

 

 今まで”紙袋の子だ”アオハルコンビだ”だと好意的に弄られる事はあったが、”ファン”とまで言ってくれたのはこの青年が初めてだった。ファンサービスにも節度があるが、今は自由時間だし、お茶をしながら世間話をする事くらいは構わないだろう。杳は楽観的に考えて、首を縦に振った。

 

「いいですよ」

「は?」

 

 ……今、こいつは何て言った?予想だにしなかった展開に、死柄木は束の間、言葉を失って立ち竦んだ。

 

 

 

 

 カフェスタンドは、商店街から少し外れた場所にひっそりと建っていた。向かい側には小さな公園があり、古びた遊具とベンチがいくつか設置されている。

 青年はさりげなく視線を巡らせて周囲を警戒しながら、公園のベンチに腰を下ろした。そして”アイスコーヒー”とだけ呟く。杳はミルクとシロップも入り用か訊いてから、カフェスタンドに向かった。

 

「アイスコーヒーを一つ。それから……」

 

 杳はメニューを見るなり、ピシリと固まった。……何を飲むのか、考えていなかった。メニューには何十という種類のドリンクが、写真付きで掲載されている。やがて後ろにお客がちらほらと並び始めた。のんびり数え歌を歌っている時間はない。こうなれば最後の手段だ。

 

「やっぱりアイスコーヒー()()()

 

 杳は青年と同じものを頼んだ。”自我を鍛える事ができない”と友人(ヒトシ)には不評だが、ゆっくり選んでいる時間がなかったり、じゃんけんする人がいない場合は、仕方がない。スマートフォンの電子マネーアプリを起動していると、店員が愛想の良い声で話しかけてきた。

 

「ご一緒にドーナツセットはいかがでしょう?」

「あ、はい」

 

 言われるがままにドーナツセットを追加し、杳はテイクアウト用のペーパーボックスを抱えて、青年の下へ帰って来た。プラスチックの蓋を開けて、ミルクとシロップを入れてかき混ぜ、青年の手に握らせる。反対の手には、紙ナプキンに包んだドーナツを持たせた。

 

「……お前、馬鹿?」

 

 青年は人を食ったような態度で、そう訊いた。カップとドーナツを持つ両方の手は、中指だけが少し浮いている。何が()鹿()なのか分からず、杳は頭を捻った。そして、はたと気付いた。

 ……きっと彼は、純粋に話がしたかっただけなのだろう。それなのに自分は、余計な気を利かせて”お茶をしよう”と持ち掛け、公園まで引っ張って来てしまった。それで気分を害しているのに違いない。

 

「すみません。お茶するの、嫌でしたか?」

「いや、随分警戒心がねぇんだなと思ってさ。俺が民間人の振りした敵だったらどうするわけ?」

 

 ……こいつは”知らない振り”をしているんじゃない。本当に気付いていないんだ。その衝撃的な事実を目の当たりにした死柄木は、打って出る事にした。

 

 最近、巷を賑わせている()()()の姿が思い浮かび、彼は不快そうに唇を歪める。ステインなら一目で分かるが、俺は分からないって事か。つくづくこの屑は、人を苛立たせるのに長けている。

 にわかに赤い目が、危険な輝きを孕んだ。遅かれ早かれ、この餓鬼は死ぬ。もしくは死ぬより悲惨な目に遭う。ならばその前に、少しくらい壊したって構わないだろう。

 

 一方の杳は、その言葉の意図が掴めず、ドーナツにかじりついたまま、ピクリとも動けないでいた。

 ……”自分が敵だったら”なんて、どうしてそんな捻くれた事を言うのだろう。一度(ひとたび)、敵の烙印を押されてしまったら、人生のリスタートはとても困難になる。その事は航一やHopper's Cafeのスタッフ達に聴いて、良く知っていた。たとえ冗談でも、そんな事を言うものではない。

 

 ドーナツを膝に置いて、おずおずと青年の顔を見上げた杳は、やがて大きく息を飲んだ。

 間近で見ると、額から頬にかけて、老人のような深い皺が刻まれている。唇の回りは乾き切っており、右目と左の口元には深い裂傷が刻まれていた。おまけに首筋には、搔き壊しの生傷が無数に走っている。――深刻なアレルギー症状だ。見ていて、痛々しくなるほどの。

 兄の真似ができなくなってから、時々全身に蕁麻疹(じんましん)が出て苦しんでいた事を思い出し、杳は唇を噛み締めた。こんな辛い状況では、マイナスな事しか考えられないだろう。

 

 ふと思い立って、杳はカバンの中を探り始めた。まだ封を切っていない予備の塗り薬が、一つあったはずだ。ほどなくして彼女の手は、小さなクリームジャーを掴み出した。

 パッケージには”リカバリーガール監修・リカスキン-ステロイド無配合-”と銘打たれている。彼女はそれを、そっと差し出した。

 

「これ、良かったらどうぞ。私も蕁麻疹で苦しんだ事があって。リカバリーガール監修だから良く効きますよ」

「……」

 

 青年はただ黙して語らず、右手にカップ、左手にドーナツを持ち上げ、受け取る気がない事を言外にアピールした。それを”受け取れない”と解釈した杳は、彼のフードのポケットにクリームジャーを突っ込んだ。

 

「いらなかったら、捨ててください」

「……意味が分からん。破綻者かおまえは」

「す、すみません」

 

 ポケットの中で、”お父さん”の手とクリームジャーが軽くぶつかり合う。その間抜けな音を聞いて、完全に毒気を抜かれてしまった死柄木は、乱暴な動作で足を組んだ。

 ……一体、何なんだこいつは。こんなお節介な人間、今までに出会った事がない。

 

 死柄木は人生をゲームの一種のように捉えていた。全ての物事は、彼の考えたゲームシナリオに従って進んでいく。

 しかし今、取るに足らない”モブキャラ”どころか、ゲーム画面の端っこで、周囲の風景と同化している”家畜のマーク”の一点にしか過ぎない存在が、そのシナリオを狂わせていた。

 ゲームを何度リセットしても、そのマークは単独で、思いも寄らない行動を起こしてくる。どのルートにも誘導できない。そしてゲームオーバーの音楽が鳴り響いて、彼の思考は暗転する。

 

 そんな青年の気持ちも露知らず、杳は彼の足元に着眼していた。――暗い色合いのシンプルな服に、真っ赤なスニーカーがよく映えている。スニーカーのサイドには、白い翼のマークが刺繍されていた。単純に興味を惹かれて、尋ねてみる。

 

「その靴、カッコいいですね。何ていうブランドなんですか?」

「……”イカロス”」

 

 今や死柄木は、完全に杳のペースに呑まれていた。そして何故、自分が()()()()()とし、今に至るまでこの子供を殺さないでいるのか、理解できなかった。

 

 ドーナツの甘い香りに紛れて、優しい陽だまりの匂いがふわりと鼻を突く。

 ――お日様にしっかりと当てて乾燥させた、布団の香りだ。雄英バリアを攻撃した時、自分を救けるためにこの子供が出した雲と、同じ匂いがする。USJ襲撃の際は、濃厚な血臭で鼻が利かなくなっていたのだろう。

 

 こうして隣に座っていると、良く分かる。こいつの体臭、()()()()()()。嗅いでいると調子が狂う。苛つく匂いなのに、不思議とクセになる。そして懐かしい感じがする。()()()()()、これを嗅いだ事がある――

 

 次の瞬間、視界に映る全てが、大きな音を立てて、()()()()()

 

 無数に走ったひびの隙間から、おびただしい量の血が噴き出して、世界の全部を真っ赤に染め上げていく。割り砕かれた空間の一つ一つに、知らない光景がぼんやりと浮かび上がった。

 柔らかい芝、洗い立ての白いシャツ、お日様の匂いがする布団、犬の鳴き声、駆け回る小さな女の子、知らない女の人の写真――。

 

(――転k――また――ひどく――ねぇ――)

 

 誰かが優しい声でそう言いながら、自分の顔に軟膏を塗りつけていく。しかしその顔は無惨にひび割れて、分からない。

 

 歪んだ教育を施された結果、今も尚、無限に増殖し続ける死柄木の()()()()()は、幼少期の思い出を心の奥深くに追いやり、休眠(スリープ)状態にさせていた。

 けれどそれは今、一人の子供の放つ香りが引き金(トリガー)となって再起動され、彼の前にその痛ましい姿を現そうとしていた。死柄木はかつてない程の強い不安に襲われて、ポケットの中の”お父さん”を握り締めようとする。

 

 しかしそれに触れるよりも早く、眼前の血塗られた幻覚が、唐突に消え去った。嵐のように荒れ狂っていた感情が、急速に凪いでいく。耳が痛くなる程の沈黙が、辺り一帯を包み込んだ。

 

 ――()()()、自分の背中を優しく撫でている。小さなその手から熱が放出され、赤外線のようにじんわりと広がって、自分の体を温めていく。

 

「大丈夫ですか?」

「……!」

 

 やがて自我を取り戻した死柄木が、小さな子供の手を払いのけると、全ては元の状態に戻った。その手が触れている時だけ、今まで自分を苛んでいた()()()()()が凪いだ。ただそれだけだった。

 

 死柄木は含んだワインをじっくりと味わうように、先程の現象を吟味した。

 ……()()は何だったのだろうか。分からない。一時的に、何かを失ったのか。それとも、何かを得たのか。あの赤外線のような温もりに、何とも言えない感情の静けさに、意味と名前はあるのか。

 

 追いつめられた人々を真に救うのは、”ヒーローの力強い手”だけではない。

 通りがかった人が何気なく差し出した手、友人がくれた温かい缶コーヒー、母がふと抱き締めてくれた温もり、深夜ラジオで偶然流れた応援メッセージ……。

 人々はそんな”ささやかな善意”を受け、絶望の底から再び立ち上がる事ができる。

 

 その最たる者である航一の存在は、たった三日足らずの間に、杳の生き方を大きく変えていた。 

 

 杳が死柄木に手渡した”小さな善意”は、乾き切った砂漠に一滴の水を落とすのと同じ事だった。

 それは全く意味のない事かもしれないし、遠い未来に向けた確実な一歩かもしれなかった。――滴り落ちる地下水が、途方もない歳月をかけて大きな石筍(せきじゅん)を創り出すように。

 

 先生は教義に反するものを教えない。死柄木は結局、それが何なのか分からなかった。だが、この子供が自分にとって、ただ屠られるのを待つだけの家畜でない事は分かった。

 

 

 

 

 死柄木はドーナツの欠片を口に押し込み、アイスコーヒーで流し込んだ。ペーパーボックスに空の容器を突っ込んで、ベンチからゆっくりと腰を上げる。

 

 そうして歩き出した青年を見兼ねて、杳も慌てて立ち上がった。もう日はとっぷり暮れている。ここは治安の悪い事で有名な鳴羽田だ。見るからに痩身で貧弱そうな彼が、良からぬ輩に捕まって路地裏に連れ込まれていく様子が、嫌でも目に浮かぶ。

 

「お兄さん!家まで送りますよ」

「いいよ」

 

 青年は片手をひらひらと振り、よりによって、一番人気のなさそうな薄汚れた路地裏に入り込もうとしていた。――近道だろうか。さっきパニック症状を引き起こしていたし、余計に危険な目に遭わせるわけにはいかない。杳は負けじと追いすがりながら、言い募る。

 

「そんなこと言わずに。この町は危ないんです。もっと明るい道から……」

 

 次の瞬間、杳の視界は、()()()()()()()()()

 

 冷たく荒れた手が、自分の顔面をひたりと覆っている。それは、まさに()()()()()()だった。

 ――空気が粘つくように重くなり、まともに呼吸ができない。褪せた白髪に隠れた赤い双眸が、ぎらりと輝いて、指の隙間からこちらを鋭く射抜いた。

 

()()()()()()()、ヒーロー」

 

 そうして、杳は思い出した。蝋のように白い指の隙間から覗く、赤い瞳。死者の手に囲まれた男。脳無という異形の男に命じて、自分を殺そうとした敵。(ヴィラン)連合の親玉。

 死柄木の全身から放たれる殺気は、杳を強く押さえつけ、指一本動かす余裕すら与えない。

 

「し、死柄木、弔……」

「ハハ。やっと気付いたかよ。ばぁか」

 

 死柄木は腐りかけた果実のように甘ったるい声で笑った。それと同時に、彼の背後に蠢く路地裏の闇が、一層濃くなった。――いや違う、()()()だ。靄は彼の体を包み込んで、闇の中へ融けていく。最後に残った四本指が、消えゆく寸前に、杳の頭をそっと撫でた。

 

()()()()()。白雲杳」

 

 

 

 

 あれから杳はすぐさまインカムを起動し、和歩と通信した。カフェスタンド近辺は一時的に閉鎖され、町内の警察とクロウラーが緊急捜査に当たるも見つからず、杳はその日の内に警察署へ連れられて、事情聴取を受ける事になった。

 

 雄英襲撃事件から、警察はすでに敵連合に対し、特別捜査本部を設置して捜査に当たっているらしい。その捜査に加わっている塚内警部に、死柄木弔の人相や会話内容などを伝えた。

 だが会話内容と言ったって、ほとんど何も話していない。ただ一緒にベンチに座り、コーヒーを飲んでドーナツを食べただけだ。あとは具合が悪そうだったので、背中をさすった。確実に知っている事と言えば、死柄木弔の人相と履いているスニーカーのブランドくらいだ。

 

「本当に無事で良かったよ」

「すみません。気付いていれば……」

 

 塚内の優しい言葉に、ずくんと良心が痛む。――自分が情けなくてたまらなかった。会敵していたはずなのに、どうして気付かなかったんだろう。

 杳は表情を曇らせて、消え入るような声で呟いた。しかし塚内は首を横に振ってそれを否定し、書き取ったノートを見つめ直しながら、冷静な口調で応える。

 

「もし遭遇した時点で死柄木弔だと気づいていれば、奴は人質を取って君を脅したかもしれない。犠牲者ゼロは君のおかげだ。釈然とはしないだろうけど」

「はい……」

「だが、雄英襲撃と今回の件で()()2()()、狙われた。今後、奴はまた接触を図るかもしれない。……君は死柄木弔と接してみて、どう感じた?」

 

 塚内はノートをテーブル上に戻し、確かめるような目でこちらを見据えた。杳は膝の上で両手を握り締め、思考を巡らせる。

 

 USJで会敵した時は、ただ恐ろしかった。路地裏で彼の正体に気付いた時も、同じだ。

 ――けれど、一緒にベンチに座っていた時だけは、()()

 少し繊細で気難しいだけの、”普通の青年”だった。コーヒーも飲むし、ドーナツも食べる。大勢の悪党を率いて学校を襲撃し、自分や相澤を殺しかけた人物だとは思えなかった。

 撫でた背中は痛々しいほどに痩せていて、浮き出た骨の感覚が分かるくらいだった。

 

「かわいそうな人だって、思いました」

 

 その言葉を聞いた瞬間、塚内は何かを思い出しているかのように眉を寄せて、軽く目を閉じた。やがてゆっくりと瞼を上げ、彼は穏やかな口調で話し始める。

 

「今から言うのは、あくまで()()()()()()だ。押し付けるつもりはない。一つの意見として、参考にしてほしい」

 

 杳は居住まいを正し、話を聴く事に専念する。塚内は一呼吸置いた後、言葉を続けた。

 

「クロウラーは敵味方問わず、救いの手を差し伸べる人だ。彼のようになりたいと思うのは、僕にも充分理解できる。だが()()()()()()()ができるのは、限られたごく一部の人間だけだ。

 この世には”救いようのない悪”も存在する。僕達と同じ人の姿をしていても、その心臓はどす黒く腐っている。奴らは一見親しげに見えるが、その実は獲物の品定めをしているだけだ」

 

 塚内は、杳の身を心から案じていた。

 警察として相当のキャリアを積んで来た彼は、その中で、数えきれないほどのヒーローや市民達が、敵の甘言に惑わされて、奈落の底へ堕ちて行ったのを見て来たのだろう。彼の思慮深い眼差しが、杳の着ているパーカーを通過して、ゆっくりとテーブル上に戻っていく。

 

「かつて君のように()()()()()が悪に付け入られて、道を踏み外した事がある。奴らと関わってはいけない。巻き込まれて全て失った者を、僕は腐るほど見て来た。

 君はヒーローになるんだろう?なら、敵に同情するのでなく、律する立場にならなければ」

 

 塚内の言葉は鉛のように重く、背中に圧し掛かった。ロビーで和歩の迎えを待っている間、杳はポケットから取り出したナックルダスターを眺めながら、さっきの言葉の意味を静かに考えた。

 ――確かに自分は、クロウラーのようにはなれないだろう。心の在り方が違う。しかし……

 

(些細なきっかけがあったり、誰かに巻き込まれたり、そういう生き方しかできなくて、仕方なく敵になったって人もいる)

(この世には”救いようのない悪”も存在する。僕達と同じ人の姿をしていても、奴らの心臓はどす黒く腐っている)

 

 航一と塚内、相反する意味を持つ”二つの言葉”が、心の中でリフレインする。

 ……きっと今、私が見ている世界は、塚内さんや航一さんからしたら、ちゃちな玩具みたいな世界なんだろう。きっとその外には、もっと(おぞ)ましくて痛ましい出来事が、数えきれない程にあるんだ。そこには、”救いようのない悪”もいる。だからオールマイトはその拳を振るい、敵をスマッシュで吹き飛ばす。

 

 ……()()()。あの痩せた背中の感触を思い出し、杳はうなだれて溜息を零した。あんな痛ましい人が、”救いようのない悪”と言えるのか?

 

 そう言い切れない、半端な自分が嫌だった。何も考えずに敵だと決めつける、思い切りのない自分も。クロウラーのように善性を保ち続けられない、未熟な自分も。

 兄の真似をして漠然とヒーローを目指していたあの頃が懐かしく思えて、杳はナックルダスターを縋るように握り締めた。




ショッピングモールの時、すぐに弔くんの正体に気付いた緑谷くんは本当に凄いと思います。観察眼すごいもんな、彼。いや私がアホなだけかもしれない…。


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No.18 4日目

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●疾風怒濤の三兄弟(しっぷうどとうのさんきょうだい)
現代に生き残る野生。要するに変態。元・敵、現在は敵更生プログラム対象者。
●塚内 真(つかうち まこと)
塚内警部の妹。キャプテン・セレブリティの元・マネージャー。現在は国際弁護士。


 警察署まで迎えに来た航一達は、杳の身をとても案じてくれた。そしてインターンが終わるまでは、人気のない場所に行かない事を約束させた。

 

 敵連合の首領・死柄木弔が出没したというニュースは、夜空に月が輝いている間、鳴羽田の町を賑わせた。しかしその間にも流星群のように雑多な事件が相次ぎ、朝日が昇る頃には、死柄木弔の名前は人々の記憶から薄れて消えて行った。良くも悪くも、鳴羽田はそういう町だった。

 

 四日目のインターンの昼前、黒いスーツに身を包んだ三人組の敵が住宅街を走っているという通報を受け、航一達は現場へ急行した。

 前方を走っている三人の敵の胴体部分にはそれぞれ1・2・3の番号が振られている。三人はぴったりと一列に並び、スケートリンクを滑るように地面を走っていた。その姿を確認すると、航一はインカムに向かい、冷静な口調で話しかける。

 

「カズホ、役割療法(ロールプレイセラピー)開始。Bエリアに()()()()しといて」

「了解。時間通りだね。エリアも守ってるし。偉い偉い」

「……?」

 

 一体、何の話をしているんだろう。杳は疑問に思いながら、道中にあった屋外消火栓を蹴って、数メートル空いた航一との距離を詰めた。すると彼はポケットから洗剤類の入った使い切りタイプのパックを取り出して、こちらに差し出した。

 

「ヨウちゃん。()()頼める?」

 

 ……洗濯とは?杳は思わず首を傾げた。そうこうしている内に、三人組は人々が大勢行き交う繁華街へ突入した。

 

「フハハハ!我ら疾風怒濤三兄弟!さぁ往くぞ弟達よ!……まず、俺がめくり!」」

 

 三人は一糸乱れぬ声で名乗りを挙げると、まずは長男が民衆の真ん中で華麗に空中旋回した。小規模な竜巻が発生し、老若男女問わず、人々のズボンやスカートの裾がふわりと舞い上がる。

 

「俺が抜き取り!」

 

 続いて、次男の両手が目にも留まらぬ速さで動いた。するとめくられた事で露わになった人々の下着が、三兄弟の頭上に瞬間移動する。

 

「俺が履く!」

 

 最後に三男が空中に躍り出た。中空に浮かぶ下着の山に突っ込んで、全身に纏う。そして彼らは、まるで世界を救った英雄のような顔をして、その場に立ち止まった。

 そして三兄弟は、殺気立つ被害者達に包囲された。誰一人として、下着を盗られて萎縮したり怖がったりする者はいない。鳴羽田の住民はたくましいのだ。

 

「ギャー!」

「いい加減にしろ!」

「死ね変態!」

「わー皆さん落ち着いて!」

 

 追いついた航一が三兄弟と一緒にタコ殴りにされながらも、民衆を宥めている間、杳は三男から下着の塊を獲り返す事に成功した。そして十分な助走を付け、大きく体を屈めて跳躍する。途中でビルの屋上の縁部分を蹴り上げ、さらに高く跳んだ。

 

 上空は強い風が吹いているが、持っている下着やスーツが重しとなる事で、何とか飛ばされずに浮遊できた。スモッグに煙るくすんだ町を見下ろしつつ、杳はポケットから洗剤と柔軟剤の入ったパックを取り出して、封を切った。そして目を瞑って息を大きく吸い、吐く。

 

点火(イグニッション)……使用燃料:30%」

 

 本来の個性を制御するトレーニングの最中、杳がイメージしたのは”自動車”だった。ナックルダスターを嵌めた両手とスニーカーを履いた両足は、四本車輪(タイヤ)。個性の容量は燃料(ガソリン)

 消費する容量を意識しながら息を吐く事で点化(イグニッション)、つまり発動させる。出力先の()()()を定め、天候になぞらえたギアを頭の中で切り替える。そして自分が創り出したいものを言語化し、心と体に強く意識させる。

 

2WD(ツーワード)……R(レイン)モード……”高速洗濯(ソニックウォッシュ)”!」

 

 ――思い浮かべるのは、”ドラム式洗濯機”のイメージ。にわかに体の輪郭が淡く透け、中に鈍色の雲が滞留する。吐いた息が半ばで色づき、雪の結晶と水滴が舞い散る雲へ変化する。

 

 次の瞬間、両手の先が雲と化し、そこから大量の水が放出された。水は生きた蛇のように身をくねらせて下着に喰らいつき、洗剤と柔軟剤と混ざり合って、高速回転し始める。

 汚染された水は両手から吸収され、体内のフィルターで濾過(ろか)されて、洗濯機のように繰り返し使用される。すすぎが終わると、下着に付着した水分と共に、雲は残らず杳の体内に吸い込まれていった。

 

 良い匂いのする下着を抱え込むと、杳は雲化を解いて自由落下で降りていく。地上が近づくにつれて徐々に雲化を再開し、やがて杳の体はふわりと地面に降り立った。その頃には、航一が三兄弟を軽く拘束し、住民達の怒りを解くのに成功していた。

 

「お待たせしましたー。皆さんどうぞ」

「ちょっとオッサンの下着と一緒に洗わないでよ!」

「なんで洗うんだ!そのままが良かったのに!」

「ここシワになってる!やり直し!」

「す、すみません……」

 

 鳴羽田の住人は敵だけでなく、ヒーローにも手厳かった。たじたじになった杳は、要望に応じた洗濯を複数回に分けて実行し、住民達が着替えるための簡易パーテーションを大量の雪で作成した結果、()()()になってしまった。

 燃料補給方法は、睡眠や食物エネルギーの摂取などだ。ポケットから特大のスニッキーズを取り出してかぶり付いていると、警察との連絡を終えたばかりの航一が、すまなさそうな顔でやって来た。

 

「ヨウちゃん。ごめんね」

「いえいえ。……あの、”役割療法”って何ですか?」

(時間通りだね。エリアも守ってるし。偉い偉い)

 

 先程の和歩の言葉も気にかかる。住民達も、通常ならば敵に対してもっと怒ったり恐れたりしていい筈なのに、洗濯した下着を履くと、何事もなくその場を去って行った。さらに航一は警察に連絡したものの、結果報告だけで逮捕要請まではしていないようだった。

 

 航一は片手に持っていたスマホを操作して、とある画面をこちらに見せてくれた。

 

「”役割療法”っていうのは心理療法の一つで、抑圧された自分を表に出してストレスを発散させる事で、心の闇を祓う治療方法だよ。

 ここは”敵更生プログラム”を()()()()取り組んでるんだ。まだ始まって半年も経ってないけどね。これが専用アプリ」

 

 ”敵更生プログラム”とは、犯罪を犯した敵が社会復帰できるように支援するシステムの事だ。

 だが、それは警察や刑務所が各個人に合った内容を実行するもので、町全体がプログラムになっているなんて聞いた事がない。

 杳が興味津々でスマホ画面を覗き込むと、そこには鳴羽田の街路図(マップ)が表示されていた。内部にいくつか赤く塗られたゾーンがあり、今杳達の立っている場所がピカピカと点滅している。

 

「赤色になってるのが、”役割療法”の対象エリアね。点滅は”治療中”って意味」

 

 やがて点滅が止まり、画面の上部から通知バーが降りて来た。”Bエリア、治療完了。ご協力ありがとうございました。ご助力頂いた住人の皆様には、明日指定の口座に補助金が振り込まれます。更生対象者の詳細はこちら”と書かれている。

 

「更生対象者になるには、()()()()()を満たさないとダメなんだ。鳴羽田に戸籍がある事、懲役中は模範囚だった事、軽微犯罪者である事、そして何より彼ら自身に更生する意志がある事」

 

 和歩が説明するにはこうだった。――更生対象者は犯罪の度合いによってプログラム内容や期間を決められる。カウンセリングや自助グループ、ワークショップへの参加、住民が協力者となっての役割療法、ボランティア活動など。

 

 たとえその人に更生する意志があったとしても、すぐに治す事は難しい。性癖や心の病気、過去のトラウマが影響を及ぼしている場合があるからだ。前を向いて進もうとしている彼らが道を踏み外さないように見守るのが、航一の役目だ。住民も可能な限り協力し、それを支えてくれている。

 

「きちんとルールを守ってプログラムを履行すれば、更生対象者の社会的信用も上がる。療法を使って自分の欲望と向き合ってもらう事で、制御する方法が身に着く。

 プログラムを修了すると、就職訓練と面接が待ってる。更生完了者を受け入れてくれる一般企業が、この町に数社くらいあるからね」

 

 航一が通知バーをタップすると、アプリの画面が切り替わった。モザイクがしっかり掛けられた三兄弟の写真が掲載されており、その下に出現する地域と期間、出所してから現在に至るまでの行動歴、プログラムが終了するまでの日数が記載されている。

 杳が画面を注視していると、インカムから和歩の声が跳んできた。

 

「ヨウちゃんは”ヴィランセカンドチャンス”って言葉、知ってる?」

「えっと、出所した敵が社会に復帰する事ですよね?特にアメリカが力を入れているっていう」

「そう。うちはアメリカのカルフォルニア州と姉妹都市でね」

 

 個性社会となった現代においても、日本では一度過ちを起こしてしまうと人生をやり直す事が難しい。敵と認定された者は、社会から異端視されてしまう。

 

 しかしアメリカは、そんな人々にも次の(セカンド)チャンスを与え、受け入れてきた。

 アメリカでは元・敵がプロヒーローになったり、強力な個性を持つ敵が一時的に政府の要請を受けてヒーローに協力するのは珍しい事ではない。それほどに敵の数が多く、悪事の規模も大きいという事情もあるのだが。

 

 カルフォルニアと聞き、杳はピンと来た。ボードに貼ってあった写真の一つ、アメリカのトップヒーロー”キャプテン・セレブリティ”の地元(ホーム)だ。

 

C.C.(キャプテン・セレブリティ)とも姉妹ヒーローって感じかな。敵更生プログラムの導入は、彼の元・マネージャーさんのアイディア……というより、彼女が手筈を整えてくれたんだよ」

 

 航一は照れ臭そうにそう言うと、アプリのメニューバーを開いて”最高責任者”という項目をタップした。画面いっぱいに、艶やかな黒髪をなびかせた美しい女性が浮かび上がる。

 

 ――塚内真(つかうちまこと)。NYマーベラス中央大学卒。7年前、お騒がせアメリカンヒーロー”キャプテン・セレブリティ”のプロデュースを手掛け、「トップヒーロー再生の立役者」と称された。

 現在はC.C.コーポレーションのゼネラルマネージャー業を退き、ヒーロー訴訟や敵専門の国際弁護士として活動中。卒業論文を書籍化した”自警主義×商業主義-ヒーロー社会の因数分解-”は4年以上経った今も尚、国際的なベストセラーとなっている。

 

 こんなに凄い人が鳴羽田に関わっているなんて。杳が舌を巻いていると、航一は恥ずかしそうに頭を搔いた。

 

「俺は頼りないというか、今までずっと色んな人に救けられてばっかりでさ。このプログラムもマコトさんのお膳立てだしね。

 彼女やインゲニウムさん……何より、この町の人達に本当にお世話になってきた。だから、せめてこの町の人達が安心して生活できるように、つまづいても前に進めるように、少しでも恩返しをしていきたいって思ってる」

 

 杳は航一をじっと見つめた。頼りないと言うが、そうは思えない。この碓氷の上を歩くように繊細な心配りが必要とされる”敵更生プログラム”を今日に至るまで問題なく施行でき、住人達のクレームや目立った事件もないのは、彼がヒーローとして頑張っているおかげなのだ。

 

 

 

 

 その日は、和歩が昼頃からかかりつけの病院を受診するため、夕方頃まで不在との事だった。

 杳はマルカネで少し買い物をした後、ランチを摂りにHopper's Cafeへ向かった。航一は携帯食をその場で摂り、そのままパトロールを続行するらしい。一緒に行こうとする杳に、航一は笑って首を横に振った。

 

(いやいや。お昼ご飯はちゃんと取らないと。いきなりプロと同じ行動したら死んじゃうよ)

 

 開店から約一時間半だが、客はそこそこに入っていた。ドアベルを鳴らしながら扉を開けると、田古部が六本腕全てに料理の皿を載せ、忙しそうに各テーブルへ運んでいる最中だった。キャットタワーで寛いでいたおすしⅡ世がこちらに気付き、喉を鳴らしながら足元にすり寄って来る。

 

「いらっしゃいヨウちゃん♪」

「こんにちはー。おすしもこんニャちわー」

「よお。今日はここで昼飯か?」

 

 おすしⅡ世と遊んでいると、隣のテーブルからきさくな声がした。――堀田兄弟だ。二人もリサイクルショップの仕事が一区切りついたため、ランチを摂りにここへ来たらしい。兄の方が杳の足元を見下ろして、軽く口笛を吹いた。

 

「おー”イカロス”か。イイの買ったなぁ」

「はい。さっきマルカネで」

「にしても派手な色にしたなー」

 

 杳は複雑な気持ちで、買ったばかりのスニーカーをおすしごと軽く持ち上げてみせた。おすしはご機嫌な声で鳴き、スニーカーの紐にじゃれつく。

 ――”イカロス”の真っ赤なスニーカー。死柄木弔が履いていたのと同じか、似たデザインのものだ。ある意味で忘れられない、そして意識せざるを得ないスニーカーだった。紐を猫じゃらしの代わりにして遊びながら、杳は静かに呟いた。

 

「忘れられないっていうか、自分に対する戒めっていうか……」

「なんだそりゃ。まー早よ座れよ」

 

 兄は首を傾げつつ、ガラスの壁に面したテーブルの方角を顎でしゃくる。そのまま何気なく外を見た彼は目を丸くし、口をあんぐり開けて、固まった。まるで未知の生命体に遭遇したかのような反応に驚いて、杳と弟も揃って外へ視線を向ける。そして二人共、呼吸が止まった。

 

 ――分厚いガラス壁の向こうに、No.3ヒーロー”ホークス”が浮かんでいた。

 

 ばさり、と大きな羽音を立てて、彼は地面に舞い降り、真紅色に輝く両翼を折り畳む。猛禽類を彷彿とさせる鋭い目でこちらを射抜くと、彼は飄々とした笑みを浮かべ、手を振った。

 

「お。やっぱここにいた。どうもー」

「ほ、ほ、ホークスだー!!」

 

 大興奮した杳達の歓声が、店中に響き渡る。外を通りすがっていた人々も黄色い声を上げ、ホークスと写真を撮ったり、話しかけたりしていた。

 しばらくの間、快く対応していたホークスは、やがて感じ良くその場を切り上げて、ドアベルを軽快に鳴らしながら店内に入った。それから迷いのない足取りで、杳のテーブルに座る。

 

「欲しいと思ったらどーにも我慢できない性分でね。獲り返しに来ちゃった」

「あ……」

 

 その言葉で、杳は思い出した。わざとではないにしろ、ホークスのスカウトを蹴った事を。さっきまでの高揚した気分は鳴りを潜め、罪悪感が氷の塊のようにずっしりと胃に圧し掛かる。申し訳なさそうな顔をした杳を見るなり、ホークスは盛大に吹き出した。

 

「なーんて嘘!仕事帰りに寄っただけ。……今から13時まで休憩でしょ?クロウラーさんには許可取ってるから、一緒にランチしない?」

 

 こうして二人は共に食事を摂ることとなった。

 さすがはNo.3というべきか、ホークスは有名人特有の、体の内側から輝くようなオーラを放っていた。ガラス壁から差し込む日光が、真紅の両翼を宝石のように煌めかせる。壁の外はちょっとした人だかりが出来ていた。皆、歓声を上げて写真を撮ったり、SNSを更新したり、手を振ったりしている。ホークスはそれらの全てに律儀に対応しつつ、杳に話しかけた。

 

「杳は何すんの?オススメとかある?」

「え、えっと……」

「オススメは日替わりランチでーす♪」

「ありがとうございまーす。じゃあそれにしよ。杳も同じのにする?」

 

 注文を取りに来た多古部が助け舟を出すと、ホークスは感じの良い笑顔を浮かべ、素直に従った。一方の杳は有名人を前にして、緊張の真っただ中にあった。何が何だか分からないままに、首を縦に振る。

 

「日替わりランチ二つと、ドリンクは……はいはい苺オレね。それ二つで」

 

 ホークスは”ドリンク”と言った時、杳が無意識にメニュー表へ向けた視線の先を辿り、同じものを注文した。キッチンへ向かう多古部と入れ替わるようにして、今度は堀田兄弟がやって来た。彼らはホークスにサインとポラロイド写真を強請り、首尾よくそれらを手に入れると、子供のように跳び上がって喜んだ。

 

「これでホークスファンの聖地巡りの仲間入りだ!女子がたんまり来るぞ!やったなおすしいぃぃ!」

「JK!JK!JK!」

「ははは。面白い人達だなー」

 

 やがて多古部が注文した料理を盆に載せ、やって来た。杳はオムライスを何とか口に運ぶ事に成功したが、緊張しすぎて味が全然分からなかった。ちらりとホークスを見ると、彼はにっこりと笑いかけ、手を軽く振ってみせた。

 

 ――No.3の求心力はただものではなかった。

 杳のハートはバキュンと撃ち抜かれる。ダメだ、マイクが。杳は心臓を抑えながら自分に言い聞かせた。私にはマイクという心に決めたヒーローがいるんだ。

 

 その時、ホークスの視線がゆっくりとテーブルの下に移動した。白い翼のマークが刺繍された真っ赤なスニーカーを見下ろし、彼は険しい表情を浮かべる。

 だが、すぐに元の飄々とした顔つきに戻り、テーブルに身を乗り出すと、杳に向かって話しかけた。

 

「踏影から聞いたんだけどさ。職場体験先くじ引きで決めたんだって?君、面白いなー」

「す、すみません……」

 

 痛い所を突かれた杳はスープを吹き出しそうになり、小さく縮こまりながら謝った。ホークスは気安く笑いつつ、エビフライを突き刺したフォークを横に振ってみせる。

 

「いや、その事は別に気にしてない。ただ今後、君の友人……轟くんのお父さんに気を付けた方がいいかもしれないね」

「……エンデヴァーさんのことですか?」

 

 杳はきょとんとしてホークスを見つめた。――何故、クロウラーに師事する事がエンデヴァーとの関係を損ねる事に繋がるのだろう。ホークスはオムライスの最後の一口を噛み締めながら、言葉を続ける。

 

「この業界じゃ有名かな。エンデヴァーさんがクロウラーさんと”チームアップNG”って話」

「どうしてですか?あんなに良い人なのに」

 

 あの人の良さを前面に押し出した航一が誰かから避けられるなんて、想像できない。たとえその相手がエンデヴァーだとしてもだ。納得がいかず、杳の食事の手は完全に止まってしまった。ホークスは少し考え込むように目を伏せた後、ゆっくりと口を開く。

 

4()()()に発生した(ヴィラン)事件で、揉めてね」

「4年前?」

「そ。ちょっと複雑な事件でね。その時に……まぁ意見の違いというか、()()()()()()()()()()()()ってのがお互いに違って、それでかなり揉めたんだよ」

 

 ――ヒーローが守るのは敵の脅威に晒された()()()ではないのか?他に守るものがあるのだろうか。言葉の意図が分からず、杳は首を捻って考え込んだ。ホークスはデザートの焼きプリンを突きながら、言葉を続ける。

 

「で、元々はこの地区の(ヴィラン)災害特別指定ヒーローがエンデヴァーさんだったんだけど、それ以来()になったわけ。いずれ分かる事だし、君もスマホかなんかで調べてみたら?ここら辺で当時、かなりのニュースになったから」

「そうなんですか……」

 

 そこで杳はふと思い出した。――多古部達の体にうっすらと残る、火傷の痕を。エンデヴァーは業火使いだ。彼らは4年前の事件の被害者なのだろうか。

 いつのまにかランチを完食していたホークスは、今度は苺オレを美味そうにすすっている。

 

「君、轟くんと仲良かったよね?一応、その()()()()だけはしといて。いずれ軟化していくだろうとは思うけど。……クロウラーさんは良い人だよ。俺もチームアップした事あるんだけど、すごい助けられてね」

「はい。とてもお世話になってます」

 

 杳は全身全霊をかけて、そう応えた。航一のおかげで、彼女は数えきれないほどのものを得て、成長できたのだ。揚げたてのエビフライにはタルタルソースが掛けられていた。細かく刻まれたピクルスが入っていて、食感がとても良い。

 ホークスはふと手を挙げて、多古部を呼んだ。そしてメニューを指差しながら、追加注文をする。

 

「すみません、テイクアウトってできます?あ、じゃあこのランチセットを三つで。……あとアップルパイも。林檎好きな子がいて」

 

 やがて注文した品々が届くと、ホークスは音もなく立ち上がった。そして杳に向かって拳を突き出し、明るい口調でこう言った。

 

「杳。じゃんけんしよっか」

「え?あ……」

「じゃんけんぽん!」

 

 その場の勢いに呑まれ、杳は少し遅れ気味にパーを出した。一方のホークスはチョキ。じゃんけん勝負は彼の勝ちだ。チョキをそのままピースサインにして、彼はあどけない笑みを浮かべる。

 

「俺の勝ち。()()()()()は踏影と一緒においで。おいしい水炊きのお店に……」

 

 次の瞬間、ホークスの赤い羽根が音もなく飛来し、杳の右頬を掠めた。

 かすかな風圧で、灰色の髪がふわりと揺れる。鋭い猛禽類を思わせる双眸が、杳のすぐ横を射抜いていた。

 

 コンマ数秒後、ブブと何かが羽ばたく振動音が、杳の真横で聴こえた。ホークスの手元に吸い寄せられていく赤い羽根には、苦しそうにもがく()()()()が突き刺さっていた。

 

「蜂?」

 

 ……外から迷い込んだのだろうか。杳は何気なく目を凝らし、大きく息を飲んだ。

 その蜂のお尻の部分は、アンプルの付いた()()()になっていた。呆気に取られる彼女の眼前で、アンプルに充填された透明な液体がちゃぷりと揺れる。

 ホークスは杳に向け、臨戦態勢を取るように指示した。そして蜂を羽根でできた籠に閉じ込め、店の出口へ向かう。

 

 不意に、店全体が小さく振動し始めた。時間が経つにつれ、揺れはどんどん大きくなる。まるで()()()こちらにやって来るように。

 

「皆さん、ここから動かないで!」

 

 店内の人々にそう忠告し、ホークスが杳を伴って外に出たのと同時に、商店街のある方角からくぐもった爆発音が炸裂した。杳は慌てて、前方に目を凝らす。

 

 ――数十メートル先が、幻想的な()()()に包まれていた。

 

 ブブブという蜂の駆動音も混じっている。無数に乱舞する小さな黒い影と、爆発による排煙、見覚えのあるスカイブルーの粒子の中に、黒いスーツを纏ったヒーローがいた。――航一だ。

 

 十分な助走を付けてから雲化し、数十メートルの距離を一気に詰めた時、事態の詳細が分かった。先程のアンプル付き蜂が無数に跳び回り、航一目掛けて()()()()をしかけている。どうやらアンプルに詰まっているのは火薬らしい。

 

 蜂の中には、周囲の住人達や建物を巻き込もうとするものもいた。

 航一はなるべく人々の少ない場所へ蜂の群れを誘導するため、後ろ向きに滑りながら、両掌からマシンガンのようにエネルギー弾を発射して、自爆する蜂を丸ごと包み込んで相殺している。――驚異的な集中力と射撃能力だった。

 

「助太刀しますよ、クロウラーさん!」

 

 次の瞬間、杳の背後から、無数の赤い羽根が流星群のように降り注いでいった。

 羽根は一枚一枚が生きているように動き、航一がフォローし切れなかった蜂を捉え、逃げ遅れた住民達の首根っこを摘まんで、安全な場所へ運んでいく。

 

 ――本気になったプロの仕事は、たった数秒で終わった。

 

 戦闘体勢を解いた杳は、濛々(もうもう)とした煙とエネルギー粒子の残滓、燃え尽きていく羽根に紛れて、見慣れない()()()()が立っているのを見た。帽子を目深に被っており、顔は良く見えない。唯一見える口元だけが、弧を描いた。唇がゆっくりと動いて、ある言葉を創り出す。

 

Avenge(正義の復讐)

 

 次の瞬間、その姿は文字通り、()()()()()

 そしてさっきまで男がいたはずの空間に、小さな金属板が出現して地面に転がり落ちる。杳は駆け寄って、指紋が付かないようにハンカチを被せ、拾い上げた。

 

 ――時計のようなマークの上部に”O'clock(オクロック)”と書かれている。どうやらそれはヒーローのシンボルマークのようだった。そしてその下には、同じ字体で”Avenge”と綴られている。

 

「ヨウちゃん!大丈夫?」

 

 慌てて駆け寄ってきた航一は、杳の持っている金属板を見るなり、表情を硬くした。何かを思い出しているかのように、唇を噛み締めている。

 ……()()()と同じだ。”ヴィジランテのことをカズホには言わないで”と言った時と、同じ表情をしている。二回りほど小さくなった両翼を羽ばたかせ、ホークスが静かに口を開いた。

 

「4年前の悪夢、再来すね。……警察に行きましょう」

 

 

 

 

 航一とホークスが事情聴取を受けている間、杳は和歩と一緒にロビーで待機する事となった。

 

 しかし、その和歩の様子が明らかに可笑しい。

 焦点の合わない片目は虚空を見つめ、親指の爪を噛む唇が細かく震えている。見兼ねた杳は彼女の背中をさすりながら、声をかけた。

 

「カズホさん!大丈夫ですか?」

 

 すると我に返ったのか、和歩の瞳に光が戻ってきた。青ざめた顔でぎこちなく微笑みながら、彼女は小さな声で応える。

 

「ごめんね。ちょっとぼうっとしてた」

 

 4年前の事件と和歩は大きく関係しているのだと、この時、杳は確信した。しかしこんな状況で訊ける筈もないし、ましてや今、スマホで調べる事ができるほどに無神経でもない。

 ……違う話題でもして気を逸らそう。杳はカバンからスマートフォンを取り出しながら、やけに明るい口調でこう言った。

 

「そうだ。今日ホークスさんとランチしたんですよ。カッコ良かったなあ。今までマイク一筋だったんだけど、この数日でクロウラーさんにホークスさん、二人のヒーローのファンになっちゃいました」

「そっか」

「あ、人形ありますかね?ネットで調べてみよっと。私、マイク人形お守りにしてて。できたら二人の人形もほしいなあ」

「……ふふ。コーイチの人形なんてないよ。マイナーヒーローだもん」

 

 やっと笑ってくれた。杳は心から安堵した。ネットショッピングのアプリを開いて調べてみると、クロウラーのグッズは1件のみ。鳴羽田とコラボした”くろうらーまん”なる饅頭のお土産だけだった。

 

 一方、ホークス関連のグッズは何でもあった。ざっと見ただけで、数万件はある。ホークスデザインの特別装飾車から始まり、小さなものなら押しピンまで。さすがはNo.3ヒーロー。その圧倒的な格差を目の当たりにして、和歩は小さく吹き出した。

 

「あはは!コーイチっぽい」

「面白いから友達にREIN送ろ」

「あ、轟くんと心操くんだっけ?写真見たいな」

 

 和歩の様子にさりげなく心を配りつつ、杳は親友達のグループトーク画面をタップした。心の奥から沸々と湧き上がって来る、黒く冷たい不安の感情に気付かない振りをして。

 

 

 

 

 その頃、轟家では。父と幾度となくぶつかり合いながらも、焦凍は日々確実に成長を遂げていた。夕餉と湯浴みを終えた彼は、居間にある大きなソファに体を沈め、休息を取っている。

 

 不意にズボンのポケットが軽く振動し、彼はスマートフォンを取り出した。ほどなくして、ロック画面にREINの通知バーが表示される。

 

 《杳:浮気しました》

 《杳:写真を添付しました》

 

 ……どういうことだ?言葉の意味が分からず、焦凍はロックを解除して通知バーをタップした。

 すると一枚のスクリーンショットが、画面にパッと表示された。――ネットショッピングで、ホークスの人形と”くろうらーまん”なるお菓子がカートに入れられている。数秒後、心操から新しいメッセージが来た。

 

 《HS:クロウラーは分かるけど、なんでホークス?》

 《HS:ってマイク先生が隣で言ってる》

 

 まもなく杳から返信が来た。相当慌てているのか、文字化けしているのかと見まごうほどに、文章が乱れている。

 

 《杳:え、fえ?どyuk,と》

 《杳:マイksenせi、tiがうnでs。 ホー,kusさnがkyo,来t、ちyoうどvirr,のしゅうg,ekga》

 《HS:落ち着け、嘘だから。マジで(こえ)ーから止めろ》

 

 焦凍はたまらず吹き出した。そして彼にしてはとても珍しく、年相応の明るい笑い声を上げた。システムキッチンで朝ご飯の仕込みをしていた姉の冬美が、エプロンで濡れた手を拭きながら、嬉しそうに近寄って来る。

 

「どうしたの?お友達?」

「ああ」

 

 すかさず杳が送りつけた”Damn it!”と叫ぶマイクのスタンプを見て、姉弟は仲良く笑い合った。

 ――焦凍は、白雲と心操という友人達に出会ってから、こんな風に子供らしい顔を見せたり、よく笑うようになった。とても良い友達なのだろう。REINでグループを作るなんて、今までの彼には考えられなかった事だ。

 ()()()()()()()()。キッチンの方からかぼちゃの煮つけの良い香りが漂って来て、冬美はポンと手を叩いた。

 

「ねぇ、職場体験終わったら期末試験でしょ?週末うちでお泊り勉強会したら?ご馳走たくさん作るよ。その子達、何か好きなものあるの?」

「いちごと猫」

「ん?いや、ご飯系で……」

「ただいまー」

 

 また弟の天然モードが入った。冬美が頭を抱えていると、弟の夏雄ががらりと玄関の扉を開け、帰って来た。そして居間で楽しそうに何事かを話している二人の様子を見るなり、興味深げに近寄って来る。

 

「おかえりー」

「何。なんか面白い話?」

「焦凍のお友達をね、うちに招待しよっかなって」

「いーじゃん。俺も会ってみたいし。今、どのヒーローんとこ行ってるんだっけ?」

「杳はクロウラーで……」

「クロウラーだと?!」

 

 次の瞬間、燃え上がる怒りの熱波が襲来し、広々とした居間をあっという間に埋め尽くした。

 

 ――廊下と居間を繋ぐドアの前に、一家の大黒柱たるエンデヴァーが仁王立ちしていた。

 

 その姿を見るなり、焦凍と夏雄のテンションは氷点下になるまで急落した。夏雄は鷹揚な動作で立ち上がり、縁側の方へ向かいながら、これみよがしに言い放つ。

 

「俺、杳ちゃんとはすごく気が合いそうだわ。会うの楽しみにしてる」

「ちょっと夏雄……」

 

 冬美の諫める声も振り切って、夏雄はその場を去って行った。焦凍は冷え切った眼差しで、父を睨みつける。冬美が二人の顔を交互に見て、どちらを先にフォローしたら良いかと考えあぐねていると、エンデヴァーが唐突に口火を切った。

 

「あの体育祭の時の生意気なメガホン娘だろう。よりによってクロウラーなどに教えを乞うとは。あの小娘に家の敷居は跨がせんぞ」

「あいつを侮辱するな!」

「ちょっと焦凍!喧嘩はダメ!」

 

 焦凍はついカッとなって、父に突っかかった。冬美が慌てて二人の間に押し入り、弟を諫める。――姉の悲しい表情が、彼の激情を冷ました。焦凍は口惜しそうに唇を噛み締めると、乱暴な足取りで居間を飛び出した。冬美がその後を追いかける。

 

「お父さんを責めないであげて。昔、()()()()()()()で、クロウラーと色々あったの」

「……鳴羽田の敵事件?」

 

 焦凍の歩みが止まった。冬美は当時の記憶を思い返しているのか、弱々しく頭を振り、言葉を続けた。

 

「うん。少女敵ポップ☆ステップ改めロック事件。お父さんが敵を制圧しようとしたんだけど、当時ヴィジランテだったクロウラーが仲間の人達とそれを()()したの。もしクロウラーが妨害しなければ、犠牲は出なかった。でもその代わりにポップ☆ステップは……死んでたかもしれない。クロウラーは逮捕されたんだけど、鳴羽田の人がデモを起こしてね……」

 

 気の弱い友人の顔が思い浮かぶ。焦凍は自室のドアを閉めると、すぐにパソコンを起動してネット検索した。それによると、その事件は4年前に起きたものらしい。

 ……そう言えば、父が重度のオーバーヒートを起こして短期入院した事があった。あれも確かその頃だったはず。入院といっても翌日の朝には復帰していたが、完璧主義である父にとっては珍しい事で、記憶の片隅に今も尚、ぼんやりと残っていた。

 

 ネットニュースに添付された数枚の写真には、ピンク色の髪をツインテールにした少女が映っている。携帯用のマイクを片手に信号機の上で歌っていたり、突然現れた敵の頭上を跳んで、住民達の避難誘導をしている姿が映っている。

 

 そして最後には、無数の爆弾蜂を操って市街地を無差別爆撃している、()としての姿が収められていた。彼女は一見すると楽しそうな表情をしているが、皮膚は黒く変色し、瞳は濁っている。明らかに心神喪失している状態だった。

 

 ――少女敵・ポップ☆ステップ事件。地下アイドル、そして”鳴羽田のヴィジランテ”としても活躍していた”ポップ☆ステップ”が、爆発の性質を持つ蜂の群れを操り、市街地を襲撃した。この事件で死者は出ていないが、負傷者が十数名。建物の損害も多々。この事態を重く受け止めた警察は敵災害特別指定ヒーローであるエンデヴァーを緊急招集――

 

 焦凍が次のページをクリックすると、今度はオールマイトのなりきりパーカーを羽織った一人の青年の姿が大映しになった。写真の下にMowTube動画も添付されており、再生すると、青年が少女の名前を懸命に叫びながら、業火に包まれた町を疾走するワンシーンが切り取られていた。

 

 ――鳴羽田のヴィジランテ”クロウラー”、公務執行妨害。クロウラーが町中を駆け回り、エンデヴァーの公務を妨害。彼の仲間も避難勧告を無視、独断で行動。この事件でヒーロー五名死亡、民間人は数十人重軽傷、建物も損害多々。クロウラー、エンデヴァー共に重症を負い、病院へ緊急搬送――

 

 焦凍は神妙な顔つきで、考え込んだ。……ヴィジランテ仲間である少女を救おうとしたのは分かるが、そもそも彼女は何故、()になった?そんな彼の疑問に対する答えは、次の記事に用意されていた。

 

 ――ポップ☆ステップは()()()()()()。真の黒幕、元ヒーロー・オクロックⅡ逮捕。クロウラーに誘導される形で、オクロックⅡはエンデヴァーに捕縛された。警察による尋問の結果、彼が所持するヒーロー免許は、数年前に行方不明となったヒーロー”オクロック”の免許を改造した違法免許である事が判明――

 

 ――オクロックⅡの()()()()()()とは。民間人を装いポップ☆ステップを懐柔、拉致監禁の上、暴行および洗脳していた事を自白。クロウラーに私怨を抱いており、彼に全ての罪を擦り付けて敵として補殺し、名を上げようとしていた事が判明。また殺害された五名のヒーロー、および一連のトリガー事件とも供述の内容が一致、犯人と断定。重度の火傷を負っており、現在は警察病院にて入院中――

 

 ……そういう事か。焦凍は合点がいったと同時に、敵の汚らわしい欲望に反吐が出そうになった。いたいけな少女を毒牙に掛け、ヒーローを大勢殺し、あまつさえその罪を一人の青年に擦り付けようとしたのだ。

 

(もしクロウラーが妨害しなければ、犠牲は出なかった。でもその代わりにポップ☆ステップは……死んでたかもしれない)

 

 先程の姉の言葉が脳裏をよぎる。恐らく父は、爆弾蜂の群れを操るポップ☆ステップを、組織化された武装集団に準ずる脅威と考え、広範囲の殲滅攻撃を以て対処しようとしたのだろう。本気になれば、父は一分も掛けずに蜂の群れもろとも敵を駆逐できた。

 

 しかしクロウラー達が乱入した事でその攻撃は幾度も中断され、同時にオクロックⅡが()()()()()()も与えてしまった。彼のせいではないにしろ、五人のヒーローが暗殺される事はなかったかもしれない。けれどそれは同時に、ポップ☆ステップの焼死を意味する。焦凍は複雑な心境で、事件の全貌を辿り続けた。

 

 ――ポップ☆ステップは病院へ搬送。重体で意識混濁。クロウラーおよび仲間達は、公務執行妨害で現行犯逮捕――

 ――オクロックⅡ、搬送先の病院で自殺。「計画が台無しだ」などと意味不明な供述を繰り返していた。衝動的な要因か?――

 ――クロウラー達の解放を求め、鳴羽田の住民達がデモ開始――

 ――「誰が為のヒーロー?」デモ団体、声高に叫ぶ。敵に洗脳された民間人、ポップ☆ステップの命はどうなってもいいのか――

 ――アメリカで活躍中の国際弁護士・塚内真がクロウラーを担当。「償いならヒーローになるべきでは?」アメリカなど他の先進国では元・敵がヒーローになる実例も多々あり――

 ――クロウラー、勝訴。監視担当者はインゲニウムと公安が発表。事務所にて訓練開始――

 

 最後に”クロウラー、ヒーロー免許取得”というニュースを見て、焦凍はパソコンの電源を切った。

 読んだ者の心に暗い影を落とす、複雑で陰惨な事件だった。だが同時に、ヒーローとしての在り方を、改めて考えさせられる事件でもあった。

 ……友人はこの事を知っているのだろうか。暗くなった画面に、父とよく似た顔がぼんやりと映し出される。




書いてて難しい…。分かりにくい所がありましたら修正致しますので、ご一報頂けますとありがたいです( ;∀;)


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No.19 5日目

※注意:SSの後半、暴力表現があります。苦手な方はご注意ください。

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●ナックルダスター
元・超速ヒーロー”オクロック”、そして元・ヴィジランテ。航一の師匠。
●釘崎 爪牙(くぎざき そうが)
ソーガさん。航一達の知人。4年前の事件で、和歩の命を救った。
●No.6(なんばーしっくす)
通称ロック。超速ヒーロー”オクロック”に憧れ、二代目オクロックを名乗る。敵。


 ……コーイチ。

 小さい頃、川で溺れそうになってた時、あなたは私を救けてくれた。

 それからずっと、あなたの事が気になってた。

 だから見つけた時は、()()だと思った。

 

 でも、そうじゃなかった。

 ……私は、あなたの人生を狂わせる()()だ。

 

 私のせいで、あなたはヒーロー科を受験できなかった。

 私を救けるために、あなたは犯罪者になってしまった。

 罪を償うために、ヒーローにさせてしまった。

 本当に好きな人とも、一緒になれなかった。

 

 だけど謝ろうとする度に、あなたは”気にしないで”と笑う。私はそれに甘えてしまう。

 ……ごめんなさい。コーイチ。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 

 

 

 5日目の早朝、鳴羽田町の警察署にて、ヒーローと警察合同の緊急会議が行われた。招集されたプロヒーローはクロウラー、イレイザーヘッド、ミッドナイト、ホークスの四名だった。

 他の三名が冷静な表情でいるのに対し、航一は落ち着かない様子だった。そわそわとしながら、何度も出口の方を見ている。見兼ねた相澤が口火を切った。

 

「クロウラー。心配なのは分かるが、今のお前はプロだ。自覚持て」

「……はい」

 

 プロヒーローである航一が何よりも優先しなければならないのは、”市民の安全”だ。非公認の(イリーガル)ヒーローだったあの頃とは、もう状況が違う。

 航一は昂ぶった感情を治めるために深呼吸をし、相澤に向かって頷いた。ミッドナイトは包み込むように優しい笑みを浮かべ、新米ヒーローを覗き込んだ。

 

「心配しないで。奥さんには護衛を大勢付けてる。私達(プロヒーロー)はこの町を守る事に専念しないと」

()()に大分人手を持ってかれてますからね。こっちは少数精鋭で頑張りましょー」

「もう。ホークス」

 

 ミッドナイトが諫めるが、ホークスは悪びれない態度で足を組み、椅子に背を預けた。

 

 現在、保須市は特別警戒態勢を敷かれている。独自の倫理観・思想に基づき、各地でプロヒーローを襲撃してきた凶悪犯”ステイン”の再来を予期しての事だ。

 まとまった人数のヒーローを標的とする彼は、保須で()()()()()()犠牲者を出していない。その事態を重く受け止めた警察は、大勢のヒーローを導入し、交代制のパトロールをさせる事で警戒に当たっていた。

 

 やがてドアが開き、書類を抱えた塚内警部が入って来た。

 

「どうも皆さん。今回はお忙しい中、お集まりいただき恐れ入ります」

 

 塚内は軽く一礼すると、ポケットから小型の電子端末を取り出して操作した。会議室の中央にホログラムスクリーンが投影される。

 数秒後、青みがかった画面の中に、一人の青年の姿が映し出された。精悍な顔を横切るように古傷が浮かんでいる。航一は険しい表情で、画面を見つめた。

 

「では、早速本題に。今回の想定(ヴィラン)は、この人物。4年前の事件後に死亡したとされる身元不明者。元・プロヒーロー”オクロック”の模倣犯、通称”ロック”です」

「どうしてそいつだって言えるんです?」

 

 ホークスが冷静に尋ねると、スクリーンの画像が切り替わった。時計のようなマークの上部に”O'clock(オクロック)”と書かれている。そしてその下には、同じ字体で”Avenge”と綴られている。

 

「先日発生した”爆弾蜂襲撃事件”、その現場に落ちていたものです。そしてそこに居合わせた雄英生・白雲杳が、敵らしき人物の容姿を目撃している。聴取の結果、ロックの特徴と一致しました」

「彼は死んだはずでは?」

「”脳無”という可能性があります。数ヶ月前の”雄英襲撃事件”を覚えていますか?」

 

 ミッドナイトの最もな質問に、塚内は臆する事無く応え、手元の端末を操作した。

 頑丈な拘束具でグルグル巻きにされた異形の大男が、スクリーンに投影される。数ヶ月前にUSJを襲撃した敵の一人だ。

 

 そしてその横にもう一枚スクリーンが浮かび、二名分の採血の臨床結果が表示された。塚内は赤色のレーザーポインターを使い、冷静な口調で説明する。

 

「左は脳無、右はロックの血液の鑑識結果です。両者共に多種・高濃度の化学物質を含み、血液型・DNA共に判定不能。

 ただ、ロックの臨床結果は4年前のものですから、多少の変化はあるかもしれませんが」

「つまり()()()()()()だと?」

「……の可能性が極めて高いという事です。手元の資料をご覧ください」

 

 塚内の言葉を受け、航一達は手元の資料に目を落とした。そこには鳴羽田を舞台にした一連の事件の詳細が綴られていた。

 

 ――数年前、鳴羽田で”突発性ヴィラン”が大量発生する事件が起こった。突発性ヴィランとは、個性因子誘発物質を含む、国内未認可の弱個性改善薬”トリガー”を摂取する事で、個性を暴走させ、ヴィラン化した者の総称だ。

 

 しかし彼らは皆、()()()だ。元は一般人で、トリガーは「知らない人にもらった」と言う。このため、本物のヴィランとの区別が難しく、ヒーローや警察の対応が遅れ、事件の解決は難化した。

 やがて”敵製造工場(ヴィラン・ファクトリー)”という謎の組織が絡んでいる事を突き止めた警察は、従来のものより依存性が低く効果も薄い”携行型トリガー”が新たに流通し始めている事を知る。

 

 数ヶ月後、突発性ヴィランは減り、違法な改変を施された”改造人間”が台頭し始めるようになった。

 そこで、塚内は一つの仮説を立てた。――ファクトリーの主な目的はトリガーを使って一般人を暴走させる事ではなく、”改造”の方にあるのではないかと。

 

 弱めのトリガーで個性暴走を多発させ、適した人間がいれば適宜さらって改造し、鳴羽田で解き放ってテストする。いわば鳴羽田が、敵製造工場の実験場と化しているのではないかと。

 

「調査の結果、トリガーを配っていた人物とロックの特徴が一致しました。

 しかし彼はあくまで組織の一端を担っていたに過ぎない。我々は結局、その尻尾を掴む事ができなかった。つまり、()()はまだ生きている」

「……で、脳無の登場って訳っすね」

「はい。検体をさらに詳しく調べてみると、”死体を元にして造られている”という事が判明しました。自我の有無という点では異なりますが、脳無も複数の個性を持ち、ロックも”オクロック”と同じ個性を有していた。

 ……個性を奪い、また与える能力を持つ敵が関与している。もし黒幕が私の予想通りだとするなら、これは単なる復讐劇ではない。灰廻さんのためにも、迅速に捕獲しなければ」

「この件、オールマイトには?」

 

 相澤が資料から目を離して、塚内に問い掛ける。塚内は頷くと、奥の方で一つだけ空いた席を指差した。

 

「彼にも要請を掛けているのですが、恐らく今は別の事件に急行しているかと。事務所の方にはうちの者が別途、向かっています」

「……皆さん。すみません」

 

 航一が不意に立ち上がり、頭を下げた。その場にいる全員が唖然となり、彼へと視線を注ぐ。

 ――航一の心は無力感と罪悪感でいっぱいだった。ロックの狙いは師匠の弟子である自分だ。そのために和歩が危険にさらされ、多くのヒーローが殺された。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(お前など、ヒーローとは認めんぞ!!)

 

 あの人から放たれる、皮膚を焼き焦がすような怒りの熱波。殴られた拳の痛みと熱さ。頬に押し付けられた砂利の感触を、今でも克明に思い出せる。

 

(平凡な会社員だったんです。免許を持ってるだけの、()()()()()()()()でした。”たまには子供にカッコいいところを”って、張り切ってて。

 どうして、こんな事に。ああ、止めていれば……)

 

 式場で泣き濡れる遺族たち。憔悴し切った女性の声。何度も足を運んだ、五つの墓石。鼻腔に入るだけで胸が苦しくなるような、線香の匂い。

 

 平和はいつも、()()()()()によって成り立っている。

 けれど、自分一人の犠牲で賄えるほど、この世界は簡単じゃない。

 後悔しない日などなかった。喪ったものは還らない。けれど償うためには、前に進むしかなかった。

 

 ……もし、あの悲劇がまた起こったら。航一が唇を噛み締めていると、相澤が呆れたような口調で呟いた。

 

「お前、アホか。悪いのは()()()の方だろが。余計な気を遣わなくていいんだよ」

「大丈夫っすよ、クロウラーさん。俺ら、しぶとい系のヒーローなんで」

「ちょっと一緒にしないでくれる?さ、パトロールの担当区を決めましょう」

 

 ベテランヒーロー達の優しい言葉が胸に突き刺さり、航一は静かに目を閉じた。瞼の裏に、にっこりと笑う和歩の姿が浮かび上がる。

 覚悟を決めた航一は、塚内から配られた地図を受け取ってテーブルに広げ、サインペンのキャップを引き抜いた。

 

 

 

 

 職場体験終了まで残り2日を切ったところだが、杳は午前中は事務所に待機し、数名の警察や相棒(サイドキック)達と共に和歩を警備する事となった。午後からはパトロールだ。

 

 今回の件で、イレイザーヘッドとホークスも招集されているらしい。

 常闇は”本拠地の九州で、引き続きインターンに励む”とREINで教えてくれた。一方の心操はフリーランスである相澤に従い、助太刀にやって来た。

 事務所の玄関先で塚内と和歩が会話しているのを横目に、彼は杳のところへやって来ると、労いの言葉を掛けてくれた。

 

「よお。大変な事になったな」

「うん。……てかボロボロだね。大丈夫?」

 

 心操は体じゅう傷だらけだった。至る所に包帯を巻いたり、ガーゼを当てている。彼は杳の言葉を鼻であしらうと、防護服の裾を摘まんでみせた。

 

「おまえこそ、何この宇宙服」

「ふふ。よくぞ訊いてくれました。これはコーイチさん達が発注してくれた、私の個性……」

「白雲くん」

「は、はいっ!」

 

 唐突に話しかけられて、杳はびっくりして跳び上がった。塚内は中折れハットを目深に被り直しながら、彼女の肩にそっと手を置く。

 

「和歩さんを頼んだよ」

「はい」

 

 杳は真っ直ぐな眼差しで塚内を見上げて、しっかりと頷いた。

 先日、警察署のロビーで見かけた、和歩の様子が思い起こされる。航一と同様、彼女にも数えきれないほど沢山のものを貰い、成長させてもらった。

 ”ヒーローの卵”としてだけではなく、”一人の人間”として、彼女を守りたいと強く思う。杳の表情を見ると、塚内は安心したように口元を綻ばせた。

 

「良い返事だ。では三茶、後は頼んだ」

「はっ」

 

 猫の獣人である三茶にその場の指揮を任せると、塚内は心操と共に市街地へ向かった。

 玄関を離れて所定の位置に着く人々を見送った後、和歩と杳の静かな時間が始まった。和歩は終始そわそわとして落ち着きがなく、何度もスマートフォンを見たり、事務所のパソコンで航一達の動向を確認したりしていた。

 

 それから昼前まで、何事もない状態が続いた。少し穏やかな表情になった和歩は、杳と一緒に皆の分の軽食を作って配ったり、家事をしたりして過ごした。

 

 ――そろそろパトロールの時間がやってきた。昼食におむすびと具沢山の味噌汁を摂った後、杳が念入りにストレッチをしていると、和歩が洗濯カゴを抱えてやって来た。

 

「ヨウちゃん。洗濯物干すの、手伝ってくれる?」

「はい」

 

 杳は快く返事して、和歩と一緒にベランダに出た。ちょうどその前を警邏していた三茶が、鮭入りのおむすびを食べる手を止めて、ぺこりと礼をする。

 それに応えると、杳は洗濯物を一つ一つ取り出して、物干し竿に吊り下げていった。その様子を微笑ましく見守っていた和歩はバスタオルを抜き出し、軽くはたいて(しわ)を取る。

 

 ――その時、和歩の耳元を掠めるように、小さな蜜蜂が飛んだ。それがトラウマの引き金(トリガー)だった。

 

 反射的に耳を抑えて、振り向く。

 干したシーツの影に、見覚えのある青年のシルエットが薄っすらと浮かんで、消えた。

 ……()()()()。胸に手を当てて、そう言い聞かせる。

 しかしそれを拒むかのように、体温は急上昇し、心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。

 

「あ……ッ」

「カズホさん?!」

 

 突然ギュウッと首が締まり、和歩は息ができなくなって、その場に崩れ落ちた。苦しみから逃れようと掻き毟る首には、マイクのケーブルがグルグルと巻かれている。

 だが、慌てて駆け寄った杳の目には、それが見えない。ケーブルは、和歩のトラウマが見せる()()だからだ。

 

「どうしました?!」

「すみません!救急車お願いします!」

 

 ()()()()()()。薄れゆく意識の中で、和歩は敵に身を(やつ)した自分が奏でた、悲しい歌声を聴いた。そして彼女は思い出す。心が壊れるのを守るために、奥底に沈めていた記憶を。

 

(ああ、動かないでくれ。手元が狂ってしまう)

 

 暗闇の中で見える、大きな手。ゴム手袋を嵌めたその手が、自分に近づいてくる。熱い。右目が、痛い。止めて。気持ち悪い()()が、頭の中で蠢いている。

 

(ポップちゃん。俺が、君の夢を後押ししてあげる)

 

 綺麗な夜景を見下ろして、誰かが私と一緒に笑っている。

 ……私の夢って、なんだっけ?

 皆の前で、歌って踊ること?蜂の飛ぶ音。気持ち悪い。爆発させること?違う。こんな歌を謳いたいんじゃない。好き。あの人に、一生忘れられない傷を残すこと?ガラスの壁。あいつの笑い声。楽しい。爆発音。

 ……()()()()()()()

 

 トラウマに冒された和歩は、深刻な過呼吸状態に陥っていた。杳はうずくまる和歩の体を引き起こし、前屈みに座らせる。

 

 ――過呼吸に発展してしまった時は、”胸式呼吸”をしている場合がほとんどだ。

 息を吐き切らずにすぐに吸ってしまうので、十分に息を吸えていないという呼吸困難感を感じやすくなってしまう。”腹式呼吸”を意識してお腹で息を吸うようにすれば、息がしっかりと吐けるので、症状は治まる。当人が自分の意志でできない状態にある時は、前屈みに座らせるか、うつぶせで寝かせるのが良い。

 

 やがて杳の腕の中で、和歩の呼吸は少しずつ落ち着きを見せ始めた。

 だが、他に大きな病気が隠されていたり、余病が併発しては大変だ。三茶が呼んでくれた救急車が空き地に到着すると、杳は救急隊員達や三茶と共に車に乗り込んだ。

 

 サイレンを鳴らしながら事務所を出て行く救急車両を、遠くから()()()()が見ていた。褪せた茶髪を逆立てた男は鋭い目を細めると、バイクのエンジンを噴かせて、どこかへ走り去っていく。

 

 

 

 

 付近の総合病院に搬送された和歩は、適切な処置をされた事で症状が落ち着き、疲れたのかベッドでぐっすりと眠り込んでいた。

 三茶は上司に連絡するため、病室を出た。杳も待合室へ赴き、スマートフォンで事の次第を航一に報告する。町の喧騒に混じる彼の声には、妻を案ずる気持ちが色濃く滲んでいた。

 

「そうか。ありがとう、ヨウちゃん。何とかして迎えに行くよ」

「はい」

「あと、預り金はしなくていいよ。友人に保険証を届けてもらうから。えっと、ソーガさんと言う人で……」

「灰廻さんのお付き添いの方ー」

 

 大きな声で呼ばれ、杳は慌てて立ち上がった。待合室の入り口に妙齢の看護師が立っている。

 ……そう言えば、話の途中だった。杳はスマートフォンに耳を当てるが、通話は切れていた。

 恐らく航一の方も、急な呼び出しがあったのだろう。看護師に付いて病室に戻ると、老齢の医師が和歩の触診を行っていた。やがて医師は顔を上げると、咳払いをしてからこちらを見る。

 

「うん。まぁパニック障害の発作ですな。他に気になる症状もない。この点滴が終わったら、帰ってよろしい」

「ありがとうございます」

 

 医師は点滴のバッグに注射針を差し、鎮静剤を注入しながら、何気ない口調で言葉を続けた。

 

「本当は安定剤を出したいが、()()されとる事ですし、サプリメントの方が良いでしょう。後でパンフレットをお渡ししますので……」

「え?」

 

 和歩が()()()()()()?その衝撃的な事実を聞いた杳の思考は、完全にショートした。

 職場体験中、二人からそんな事は一言も聴いていなかった。杳は注意深く和歩の腹部を見るが、特に膨らんでいる感じもない。戸惑う杳の様子を見兼ねた医師は、訝しげに眉を潜めた。

 

「失礼ですが、灰廻さんは……」

「ああ、知ってます。()()()が知らされてないだけで」

 

 知らない男性の声がして、杳は出入口の方に視線を向けた。

 ――褪せた茶髪を逆立てた青年が立っている。彼は鋭い目でこちらを見やり、小さいプラスチックカードを振ってみせた。

 

 その瞬間、杳は無意識の内に取っていた警戒態勢を解いた。ヴィンテージ系の衣服に身を包んだこの青年が、航一の友人である”ソーガさん”なのだろう。

 

 

 

 

 青年は医師に保険証を渡して軽く話を終えると、連絡を終えて戻って来た三茶と入れ替わるようにして、杳を伴い、中庭に出た。

 白磁製の噴水の周りには、古びたベンチがいくつか置かれている。ソーガはその一つに腰を下ろすと、こちらをじろりと睨んで、舌打ちした。

 

「アドリブ効かねェのか、お前は。あーいう時は”知ってます”ってフリすんだよ。じゃねーとジジイに迷惑かかんだろ」

「すみません。じゃあ、ソーガさんはご存じだったんですね?」

 

 杳はしゅんとなって、謝った。それにしても、和歩の妊娠を自分だけ知らされていなかったなんて。なんだか仲間外れにされたようで、寂しくなる。

 しかしベンチの上でうな垂れる杳を見て、青年は咳払いをした後、こう言った。

 

「いや、知らなかった。……たぶん()()()もな」

「え?」

 

 杳は絶句した。――航一も知らないというのか?杳の見る限り、二人は仲睦まじい夫婦だ。通常ならば、妊娠は喜ばしい事のはず。なのに、それを隠すなんて。和歩は一体、どういうつもりなんだろう。

 ソーガはポケットから小型のタブレットを取り出すと、画面を操作して、こちらに突き出した。

 

「迷ってるんだろ。俺らには()()4年でも、あいつにとっちゃ()()4年だ」

 

 そこには、4年前に鳴羽田で発生した、ある事件の詳細がまとめられていた。

 ――”少女敵ポップ☆ステップ事件、改めロック事件”。

 やはり杳の推察通り、和歩は航一ともう一人の男性と共に、この町でヴィジランテ活動を行っていた。和歩は”ポップ☆ステップ”という路上アイドルの肩書も持っており、度々町中でゲリラライブを開催していた。Mowtubeの動画もいくつか添付されており、観衆が見守る中、宙を跳んで歌うポップの姿が収められている。

 

 しかし、その名をある一人の(ヴィラン)が汚した。路上に咲く一輪の花を手折り、踏みにじるように。

 

(この世には”救いようのない悪”も存在する。僕達と同じ人の姿をしていても、奴らの心臓はどす黒く腐っている)

 

 かつての塚内の言葉が脳裏をよぎり、杳は拳を固く握りしめた。親しい人が貶められた事実を知って尚、犯人に同情できるほど、彼女の精神はできていない。

 爆弾蜂の群れを操って町の人々を襲いながら、楽しそうに歌うポップの様子を見ていられず、杳は眉根を寄せ、目を閉じた。

 

「どうして、ロックはこんなことを?」

「……まぁ、敢えて言うなら()()だ」

 

 ”Avenge(正義の復讐)”と書かれた小さな金属版を思い出し、杳は思わずため息を零した。

 ……どこが正義の復讐なんだ?悍ましい悪事としか思えない。ソーガは横からタブレットを覗き込むと、シルバーリングを嵌めた指先で画面を操作した。

 

 すると、一人の男性の姿が表示された。黒いバンダナを頭に巻いた、屈強な体格を持つ壮年の男。航一と和歩と並んで、写真に映っていた人物だ。

 

「このオッサンが、元・”オクロック”だ。()()()に個性と一人娘を奪われた。それからずっと娘の行方を探して、鳴羽田(ここ)に行き着いたらしい」

 

 彼は”ナックルダスター”と名乗り、航一を巻き込んでヴィジランテ活動をしながら、密かに娘の所在を探していた。そして、彼女が”敵製造工場”の調整役(プランナー)として暗躍している事を突き止める。

 娘は、和歩と同じ()()()を体内に宿していた。女王蜂は宿主の意志を掌握すると共に、体内に潜ませた大量の働き蜂を自在に指揮する。その駆除には、かなりの高技術とリスクが伴う。

 

 だが、彼はそれを()()()()()。と同時に、新たな調整役が胎動を始めた。

 ――それが、”ロック”だった。

 かつて奪われた自分の個性を持ち、同じ存在(オクロック)になりたいと焦がれる、謎の男。ロックは彼の事を”師匠”と呼び、彼が唯一弟子と認めた航一に、異常な嫉妬心を抱いた。

 

 そこまで話すと、ソーガは電子タバコの電源を入れ、ゆっくりと吹かした。水蒸気の煙がふわりと揺れて、消えていく。まるで焦らされているように感じられ、杳は思わず身を乗り出して、尋ねた。

 

「ナックルダスターはどうなったんですか?娘さんは?」

「俺が知ってるのは()()()()だ。娘は、俺が面倒見てる。頼まれたからな。……けど、オッサンの行方は分からねェ」

 

 ナックルダスターが行方を晦ませてから3年後、つまり今から4年前。()()()()が起こった。

 

 事件当日、ソーガは航一と連携し、和歩に宿された女王蜂の駆除を試みた。

 エンデヴァーによる猛火の中、航一はヴィジランテとして人々を傷つける事無く、蜂の群れを個性で撃ち落とし、敵となった和歩に肉薄する。

 

 しかし、もう少しで助け出せるという時、ヒーローに扮したロックが、和歩を狙撃。弾丸に含まれていた薬剤が女王蜂を刺激し、彼女の命は急速に蝕まれていく。

 航一は和歩をソーガに託し、彼が駆除作業をしている間、自ら囮となってロックを惹きつけた。そして大怪我を負いながらも、エンデヴァーの前に、真犯人を連れ出す事に成功した。

 

 この事件で、ヒーロー側に多くの犠牲が出た。航一達を踏み台にして華々しくヒーローデビューするため、ロックが計画の邪魔をする人々を一掃したからだ。

 

 航一とソーガ、その仲間達は公務執行妨害で現行犯逮捕された。しかし、そこで国際弁護士・塚内真が待ったをかけた。町の人々の切実な訴えも、それに拍車を掛けた。

 

 その結果、和歩は名誉を回復。ソーガ達は無罪放免。航一もヴィジランテとしての日々の功績が認められ、罪を償うという名目でプロヒーロー化の道を辿った。ロックは入院先の病院で自殺し、この事件は完全なるピリオドを打たれた。

 

 全てを聞き終わった後、杳は複雑な表情で、タバコのリキッドを入れ替えるソーガの横顔を見つめた。

 ――この結末をハッピーエンドと言い切る事はできない。皆、あまりに多くのものを失い過ぎた。リキッドが染み込むのを待ちながら、ソーガは静かに言葉を続ける。

 

「俺は(クズ)だ。だが屑なりに、守りたいもんがある。一度壊れたものを、俺達はなんとか繋ぎ直した。それが正しいか、間違ってるかは分からねェ。寄せ集めのガラクタを指差して、”直ってる”と言い張ってるだけなのかもしれん。

 ……だが何にしても、もう()()()はない」

 

 スカイブルーの粒子と赤い羽根の残滓に紛れた、一人の青年を思い出し、杳はごくりと生唾を飲み込んだ。4年の時を経て、ロックは再び、航一達を毒牙に掛けようとしている。

 しかし、気になる事が一つある。()()()()()()()だ。

 

「でも、ロックは死んだんじゃ……」

()()。お前もUSJで見たんだろ」

 

 その言葉を聞いて、杳は思わず総毛立った。数ヶ月経った今でも、克明に思い出せる。脳を剥き出しにした、異形の大男。自分をじろりと見上げた、瞼のない眼球。

 

「あいつは、死体を元にして造られた”人造人間”だ。脳みそから心臓まで滅茶苦茶にして、複数の個性に耐えられるようにするんだと」

「なんで、そんなことを……」

「んなこと知るかよ。だが、ガセじゃねェ事は確かだ。知り合いの中売人(ブローカー)から、大枚叩いて買った情報だからな。さすがに()()()までは教えちゃくれなかったが……ロックを生き返らせたのも、十中八九、そいつだろ」

 

 脳無の製造方法は、非常に悍ましいものだった。死者は弔うものだ。それを無惨に切り開き、好き勝手に改造するなんて。一体、どんな大義名分があれば、そんな蛮行ができるんだろう。

 杳が深刻な表情で黙り込んでいると、ソーガがタブレットを取り上げながら、真剣な眼差しでこちらを覗き込んだ。彼の体には至る所に、薄い火傷の痕がある。

 

「俺はもうできねえ。手を出すと、今まであいつが築き上げてきたもんが全部無駄になる。

 ……頼んだぞ。ヒーロー」

「はい」

 

 杳はただ真っ直ぐにソーガを見つめ、しっかりと頷いた。ソーガ、そして航一達が命懸けで繋いできたものを、ここで潰される訳にはいかない。

 その表情を見ると、ソーガは口元を少し緩めた。そして鷹揚な動作で立ち上がり、中庭の出入口へ向かう。振り返る事なく手を振りながら、彼は静かにこう言った。

 

「カズホの事、慰めてやれ。発破かけんのは得意だが、そいつは無理だ」

 

 

 

 

 赤く焼けた太陽がゆっくりとビルの谷間に落ちる頃、点滴パックは空っぽになった。診察を受けた和歩は、無事に帰宅できる事となった。

 三茶が少し離れた位置にある駐車場へ車を取りに行っている間、杳は和歩と一緒に中庭のベンチに座り、何をするでもなく、彼からの連絡をぼんやりと待っていた。

 噴水が奏でる水音を聴いていると、ふと和歩が口を開いた。

 

「……小さい頃に、川で溺れかけてね。コーイチに助けてもらったの」

「え?」

 

 杳は驚いて、和歩を見つめた。二人の間にそんな繋がりがあったなんて。それにしても、”川で溺れた人を助ける”なんて、いかにも航一らしい行動だ。

 しかし、和歩の表情は暗く沈んだままだった。夕焼けの残滓が、彼女の双眸から零れ落ちる涙に反射して、儚く煌めき、消えていく。

 

「そのせいで、コーイチは雄英受験に行けなかった。ヒーロー目指してたの」

 

 冬空の下、迷う事なく川の中に飛び込んだ航一は、和歩を助け出した。そして寒さに震えながらも、自分のお守り用のオールマイトパーカーを和歩に被せ、走り去っていった。

 しかし、その事で時間を大幅に食った航一は、雄英高校のヒーロー科を受験できなくなった。彼はヒーローを諦め、密かにヴィジランテとして善行に励むようになった。

 

 一方の和歩は、あの時に助けてもらったお礼を言いたくて、航一の行方をずっと探していた。

 アイドルになり、広く人々に知られるようになれば、航一の方から見つけてもらえるかもしれない。そう思った彼女は、密かにアイドル活動を始めた。

 

 そして数年後、航一を見つけた。相変わらず、自分を顧みずに善行を続ける彼は、不良に絡まれた和歩を救い出してくれた。

 ――実際に救ったのは、その場に乱入し、不良に鉄拳制裁を喰らわしたナックルダスターだが。

 

 そうして三人は、ヴィジランテ活動を始めた。ナックルダスターが去り、大学卒業を間近に控えた航一は、大学と一緒にヴィジランテ活動も()()するつもりだった。

 数年間、クロウラーとして町の平和を守った事で、”ヒーローになりたい”という小さい頃からの夢も叶ったと、彼は朗らかに笑う。後はきちんと仕事に就き、両親を安心させてあげたいのだと。

 

 しかし、その未来は、一人の敵の手によって握りつぶされた。

 

「私は弱くて、その癖、意地っ張りで……自分の事ばっかり。私のせいで、あの人の人生は……」

 

 それ以上言葉を続ける事ができなくなり、和歩は激しくしゃくり上げながら、ベンチにうずくまった。杳は彼女の体を優しく抱き締め、震える背中を撫でさする。

 

 航一は和歩を守るために、犯罪者となった。

 殺されたヒーロー達に対する償いをするために、プロヒーローになった。

 

 後遺症で片目がなくなり、違法な薬剤を大量投与されてボロボロになった和歩の体を見た時、航一は迷う事なくプロポーズした。お前のせいで巻き込まれたと殴りかかる和歩の父に、泣き濡れる母に、幾日も頭を下げ続け、結婚の許しをもらった。

 

 本当に好意を持っていた塚内真という女性と、一緒になる未来を捨てて。

 

 それでも航一は、和歩に向けて、いつも幸せそうに微笑んでみせる。

 その笑顔を見る度に、和歩の首がキリキリと締まっていく。彼女にしか見えないマイクのコードがそっと絡まり、そしてあの歌が、どこからともなく聞こえてくる。

 

「時が経てば、心の傷は癒えるって先生が言ってた。だけど、私の犯した罪は消えない。

 少しでも考えるのを止めると、どんどん首が苦しくなる。耳の中の歌声は大きくなっていくのに、苦しくて、声が出なくて……」

「カズホさん」

 

 杳は見ていられなくなり、和歩の体を強く抱き締めた。和歩は何も悪くない。ただ悪者に騙され、無理矢理敵にされただけだ。

 

(俺らには()()4年でも、あいつにとっちゃ()()4年だ)

 

 ソーガの言葉が脳裏をよぎり、杳は唇を強く噛み締めた。実際に爆弾蜂の群れを指揮し、町を襲ったのは()()()()なのだ。――怖かっただろう。やるせなかっただろう。悲しかっただろう。その心の傷は、簡単に癒えるものではない。

 和歩は幼子のように杳にしがみ付きながら、感情のままに言葉をまくし立てた。

 

「わ、私が。人の親になんて、なれるはずがない!」

「そーだよね。ポップちゃん♪」

 

 ――それは、杳の言葉ではなかった。()()()()()()()()だ。

 

 次の瞬間、杳が感じたのは、燃えるような熱さだった。息ができない。肺の辺りがバーナーで炙られたように熱く、ひりついている。

 無意識に視線を下げた杳は、大きく咳き込んだ。空気の代わりに、ごぽりと血の塊が零れ出る。

 

 皮膚から、鋭く硬質化した爪のようなものが飛び出している。それは後ろから突き刺され、貫通していた。乱暴に引き抜かれると、杳の体はバランスを保てなくなり、ベンチから崩れ落ちる。

 

 激しい耳鳴りがする。視界が歪んで、急速に暗くなっていく。

 切れかけの蛍光灯のように明滅する世界で、三茶や護衛の相棒が芝生に埋もれるようにして、倒れているのが見えた。

 

 不意に視界の一部が真っ暗になり、人肌の温もりを感じた。和歩が骨の髄まで震え上がりながらも、自分を守るように覆い被さっている。

 

 和歩の腕の間から、血塗れの爪を治めた男が笑っているのが見えた。そして彼は、和歩の腕を掴み上げた。彼女はバランスを崩して転びかけるも、反射的にお腹の子を守ろうとして、その場にうずくまる。

 

「や、めろ……!」

 

 杳はなけなしの力を振り絞って集中し、指先だけ雲化させ、一筋の電撃を放った。それは男の片頬に命中し、薄らとした傷跡を残す。

 その瞬間、男の取ってつけたような笑顔が拭い去られた。彼は片足を振り上げると、容赦なく杳の頭に振り下ろす。

 

 ぐしゃり、と何かが潰れたような音が聴こえて、杳は何も分からなくなった。




ヴィジランテ原作をざっと説明。こうして書いてみると、鳴羽田ほんとに治安悪いですね……。
もし分かりにくい箇所などございましたら、修正いたしますので仰ってください(*´ω`)


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No.20 6日目①

※ご注意:全体的にホラー描写、残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 気が付くと、杳は映画館の中にいた。どうしてこんなところにいるんだろう。身じろぎすると、布張りの椅子から古びたポップコーンの匂いが漂った。薄暗い室内はそこそこに人が入っている。

 

 蜂蜜の甘い香りが、鼻腔をくすぐった。右隣からだ。そこにはウインドブレーカーを着た女子高生が座っていた。年の頃も髪の長さも、自分と同じくらい。ぱっちりとした目を退屈そうに細めて、スマートフォンを弄っている。少女は空いた手でプラスチックカップを持ち、ストローに口を付けた。カップの中身はきらめく黄金色で、カップの表面には愛らしいミツバチのイラストが描かれている。

 

「ハニーソーダの方が良かったか?」

 

 突然、大好きな声が頭上から振って来て、杳の思考は一時停止した。――明るい笑みを浮かべた()が、目の前に立っている。どっかりと隣の席に座った彼は、両手に持ったペーパーボックスからピンク色の液体の入ったドリンクを取り出すと、こちらに手渡した。苺の良い匂いがする。氷の沢山入ったカップは凍るほど冷たいのに、杳の心は今にも融けそうなほど、暖かくなった。泣きそうな顔をしてカップを握り締める妹の姿を見兼ねて、兄は心配そうに声を掛ける。

 

「兄ちゃんのと交換するか?」

「……ううん。これがいい」

 

 杳は宝物のようにカップを握り締めながら、首を横に振った。そして理解した。()()()()()()()、と。兄と自分は同じくらいの年の瀬で、雄英高校の制服を着ていた。もし兄が今も生きていたとしたら、高校時代など疾うに過ぎて、良い大人になっているはずだ。だがそんな矛盾など、些細な事だった。たとえ夢の中でも、大好きな人にまた会えた。それだけで杳は充分だった。

 

「お兄ちゃんが選んでくれたから。これがいいの」

「変なやつ」

 

 夢はシャボン玉のように美しく、壊れやすいものだ。今は目が覚めるまで、この幸せを享受したかった。杳がそう言うと、朧は照れ臭そうに笑って、彼女の短い髪を乱暴に搔き混ぜる。

 

 やがてブザーが鳴り、劇場内はゆっくりと暗闇に包まれた。いよいよ映画が上映されるのだ。正面のスクリーンが青白く発光し、煌びやかに装飾されたタイトルが表示される。――”オクロックⅡ-悲しみのデビュー戦-”。超速ヒーロー”オクロックⅡ”が、青年(ヴィラン)を退治するという、オーソドックスなヒーロー映画だ。

 

 師匠である元・ヒーロー”オクロック”から技術と個性を受け継いだ彼は、不吉な噂を聞きつけ、鳴羽田という町へやって来る。そこにはヴィジランテを称する敵の青年がいた。彼は同じ仲間である少女をかどかわし、爆弾蜂を統率する女王蜂を植え付けた。操り人形となった少女は仮初めの(ヴィラン)となり、町を襲う。

 

 オクロックⅡが少女敵を救けようとした時、彼女は自爆する。目の前で事切れた少女の遺体を抱いて、彼は失意の涙を流し、(くずお)れる。その様子を見て高笑いする青年敵に、オクロックⅡが飛び掛かる。加速の個性で圧倒し、青年敵を倒したオクロックⅡ。彼は正義感に燃える瞳で未来を見据え、輝かしい勝利のポーズを決めるのだった。

 

 オクロックⅡを讃えるテーマソングが流れる中、杳はドリンクのストローに口を付けて吸い込み、反射的に()()()()()。――生温い、()()()がする。袖口で舌を拭うと、服の繊維にどす黒い色が付着した。杳の心臓は不規則なリズムで鼓動を打ち始める。おかしい。ついさっきまでカップは冷たく、苺の良い香りがしていたはずなのに。

 

「……ひっ!」

 

 縋るように左隣を見上げた瞬間、杳は恐怖のあまり、総毛立った。虚ろな表情をした兄が紙バケツに手を突っ込んで、ポップコーンを口に運んでいる。――それはポップコーンではなかった。細かくちぎられた、異臭のする赤黒い()()だ。スクリーンの光源に照らされた、彼の手と口元はどす黒く変色している。

 

 思わず兄の手を払いのけようとするも、身動きが取れない。慌てて視線を下ろすと、体じゅうに錆び付いた有刺鉄線がきつく巻き付けられていた。足の裏からひたひたと冷たい恐怖の感情が這い寄り、毒のように全身へ染み渡っていく。

 

 ()()()()だと、杳は自分に必死で言い聞かせた。これは幸せな夢のはず。だから、違う。こんなはずじゃ――

 

「ギャアアァアア……!!」

 

 突然、断末魔の叫び声が劇場内に轟いて、杳は思わず跳び上がった。スクリーンの中で、オクロックⅡが苦しみに悶えながら、赤々とした業火に焼き尽くされていく。眼球が融け、皮膚が焼け(ただ)れ、その体は轟々と燃え盛る火炎の中に飲み込まれていった。

 

 火炎はますますその勢いを増し、やがてスクリーンそのものが煙を上げ始めた。焼け落ちたスクリーンの穴から、火山が目覚めるように、おびただしい量の火炎が噴き出した。劇場内は一瞬にして、炎の海に包まれる。

 

 明るく照らされた劇場内に座っている観客は、皆、()()()姿()をしていた。その中には脳を剥き出しにした、あの異形の大男もいる。だが皆、死んだようにピクリとも動かない。飢えた獣のような火炎がその体に喰らいついても、抵抗する素振りすら見せようとしなかった。

 

 焔が爆ぜる音に紛れて、蜂の駆動音が聴こえた。杳が反射的に右を向くと、隣席の女子高生が力なく頭を垂れていた。前髪に隠された目の奥から、血塗れの蜂が這い出て来て、狂ったように空中でハチの字を描き始める。

 

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

 

 ……これは幸せな夢じゃない。その仮面を被った()()だ。杳は骨の髄まで震え上がりながら、そう思った。兄を連れて、早く逃げなければ。杳は手足が傷つくのも構わず、我武者羅に暴れ回りながら、兄の名を夢中で呼んだ。

 

 しかし、朧は決死の呼びかけに応じない。空色の目は虚ろに濁り、完全に意志を失くしていた。どす黒い血で汚れた唇がわずかに開くと、中から黒い靄が滲み出て来た。それは意志を持っているかのように蠢き、周囲に滞留していく。

 

 息をするだけで肺が焼けそうなくらい、周りは熱いのに、杳の体は極寒の地に放り込まれたかのように、ガタガタと震えていた。恐怖と絶望の感情に絡め取られて、身動きが取れない杳の肩を、背後から()()()そっと掴んだ。蕩けるほどに優しく穏やかな声が、耳元で囁く。

 

「さあ、次は()()()だ」

 

 

 

 

 そして、杳の意識は現実世界に帰還した。まず最初に感じたのは、強烈な熱さと痛みだった。反射的に咳き込むと、木枯らしのように奇妙な呼吸音が口から零れ出る。息を吸ったり吐いたりする度に、耐え難い苦痛が襲いかかる。何が起きているのか分からない。だが、それを考える余裕もなかった。杳はただ本能的に、今感じている苦しみを少しでも和らげるため、浅く不規則な呼吸を繰り返した。

 

「ヨウちゃん!」

 

 どこかから、和歩の声が聴こえる。杳はのろのろと頭を上げ、重たい瞼をこじ開けた。――数メートル先に、和歩が横たわっている。彼女は両手と両足に頑丈な拘束具を付けられていた。だが、目に見える範囲の外傷はなさそうだ。安堵した杳は自分の状態を確認するため、ゆっくりと視線を下げた。

 

「……!」

 

 そして、杳はパニック状態を引き起こした。――自分の体じゅうに、茨の蔓のような有刺鉄線がきつく巻き付けられていた。棘の部分が皮膚に食い込んで、血が流れている。一番酷いのは、()だった。肺に当たる部分を、有刺鉄線が()()している。

 

 諸悪の根源を知ると、苦痛はより酷くなった。雲化をしようとしても、激痛のあまり、集中する事ができない。おぼろげに覚えていた夢の内容など、もうとっくに吹き飛んでいた。いっそ気を失いたいと、強く願う。だが痛みに危機感を覚えている体は、意識を失う事をそう簡単に許してくれなかった。

 

 肺を刺激しないように、浅く弱く呼吸を繰り返す杳の目の前に、一人の青年がしゃがみ込んだ。精悍な顔を横切る一筋の古傷が、窓の外のネオンに反射して鈍く輝いた。

 

()()()っす。そーそー、ゆっくり息して。そしたら死なないっすから」

 

 ”今は”と声に出さずに続けると、青年は軽薄な笑みを浮かべた。……この人が()()()。数年前、和歩を傷つけ、航一を陥れようとした敵。そして今、彼は地獄の淵から蘇り、自分達を再びその毒牙に掛けようとしている。和歩が恐怖にわななく声で、ロックに叫んだ。

 

「この子は関係ないでしょ!離して!」

「いやいや彼女も大事なキャストっすよ。……あいつの弟子だ」

 

 その時、どこか遠くの方で、くぐもった爆発音が炸裂した。窓の外に下りた宵闇のヴェールを、オレンジ色の光がそっと持ち上げる。どこかで爆発が起こっているようだ。音と光の合間に聴こえる、人々の喧騒やパトカーのサイレン音は思ったよりも遠い。

 

 杳は現状を把握するために、眼球を動かして周囲をそろそろと見回した。ひび割れた窓ガラスや壁、埃だらけの床。窓越しに見える、向かいのビルは電気が通っておらず、長らく人の手が入れられた形跡もない。どうやらここは、廃ビルの一室のようだった。

 

 

 

 

 時の流れを五分ほど巻き戻し、鳴羽田の繁華街では。”爆弾蜂の群れがやって来た”と警察より通達があり、航一は現場に急行した。

 

 パニックになって逃げ惑う人々をミッドナイトが”眠り香”の個性で鎮静化し、落ち着いたところを警察が安全な場所へ誘導する。そして最前線では相澤が捕縛布を自在に操り、一体の脳無と戦っていた。”脳無”という言葉の通り、それは脳の部分が剥き出しになっており、体全体を思いっきり横に引き伸ばしたような肥満体型だった。

 

 脳無は捕縛布に下半身を拘束された事で仰向けに転びながら、耳元まで裂けた口をがっぱりと開いた。すると、中から大量の爆弾蜂が飛び出してきた。蜂の群れは放射線状に広がると、相澤に襲い掛かる。

 

「新種の脳無だ!」

 

 相澤が”抹消”の個性を使って睨み付けると、爆弾蜂は統率を失い、好き勝手な方向に飛び始めた。すかさず航一のエネルギー弾が飛来し、蜂を一匹残らず撃ち落とす。一方の脳無は両腕で捕縛布を掴むと、ぐっと力を入れた。頑丈なはずの捕縛布がみちみちと繊維を断たれ、引き裂かれていく。

 

 その時、上空から新たな捕縛布が飛来し、脳無の上半身に巻き付いた。苛立った脳無がその場で地団太を踏むと、中規模な地震が起こり、付近の建物のガラスが割れた。心操はそれに巻き込まれる直前に布の先端を断ち切り、相澤の後方に着地する。

 

「心操、お前は後方支援。はぐれ爆弾蜂の駆除に当たれ」

「はい」

「本体には抹消が効かん。直接制圧する」

「了解っす」

 

 次の瞬間、夜空から真紅の大剣を構えたホークスが飛来し、脳無の腹部を一閃した。研ぎ澄まされた赤い刃は、腹部でコロニーを築いていた蜂の群れに突き刺さり、誘爆させる。ホークスがその場から飛び去ると同時に、相澤は捕縛布で大きな鳥籠を編み出して、脳無を閉じ込めた。航一の”斥力”を込めたエネルギー弾が、それを補強する。脳無は内側から爆発したが、その被害はほとんど出なかった。

 

 黒焦げになった脳無は倒れ伏したまま、動かなくなった。だが、それは一時的なものだった。黒く焦げた皮膚がポロポロと剥がれ落ち、中から新しい皮膚が現れる。数秒後、脳無はむっくりと立ち上がった。相澤がゴーグルを被り直し、低く唸る。

 

「自分の毒では死なんか」

「いや、効いてるみたいです。蜂の統率が前よりもできていない」

 

 航一は攻撃に備えて低く身を屈めながら、そう指摘した。確かに彼の言う通り、脳無の口から溢れ出す蜂の中には、群れからはぐれて、ふらふらと自分勝手に飛び回るものがいた。

 

 その時、航一のインカムが無機質な電子音を鳴らした。――電話だ。和歩の病院からだろうか。逸る気持ちを抑えて、航一が通話のボタンを押すと、どこかで聴いた事のある若い男性の声が聴こえた。

 

「久しぶりっすね。コーイチくん」

「……ロック」

 

 その声を聴いた瞬間、航一の目の前が業火に包まれた。その中には、一人の青年が佇んでいる。彼は理想の存在になるために、自分以外の全てを犠牲にしようとした。相澤はそっと航一の肩を叩き、”そのまま会話を続けろ”と手振りで指示する。

 

 十数メートル先の戦場では、風の動きを読み取ったミッドナイトが、強烈なフェロモンを放って蜂の統率を阻害していた。動きが鈍くなった蜂の群れを、ホークスと心操が残らず捕殺する。ロックは冷たく陰湿な声で、静かにこう言った。

 

「あんたはヒーローじゃない。今から俺が、それを証明してやるよ」

「どういう……」

「コーイチ!」

 

 和歩の涙混じりの声が鼓膜に突き刺さり、航一の思考は停止した。今、自分の立っている地面がひび割れ、そのまま奈落の底に落ちていくような、絶望的な気持ちに囚われる。――和歩が、ロックに捕まっている。

 

「ヒーローは()()()()()()()だ。俺にはそれができる。だけど偽物のあんたにゃ、無理って話。……今から町の人々か、身内の命か、選ぶんだ。どちらかは必ず死ぬ。

 おっと、下手すりゃ両方死ぬかもな。それで世間は知る。あんたがヒーローなんかじゃなく、ただの無力な人間だってことを」

 

 ロックの手によって通信が切られると、今度はポケットのスマートフォンが震え出した。取り出して画面のロックを解除すると、知らないアドレスから和歩の居場所を示す地図が送付されている。

 

(今から町の人々か、身内の命か、選ぶんだ。どちらかは必ず死ぬ)

 

 町の人々を、脳無の手から守るのか。和歩の命を、ロックの手から守るのか。航一だけでは、離れた場所で同時に脅かされる命を救い切る事はできない。

 その時、視界の端に、ふわりと赤い羽根が舞った。ホークスが(ふくろう)のように音もなく舞い降りて、航一に笑いかける。

 

「ここは任せて、先に行ってください。すぐに追いかけます」

「すみません」

 

 幸いな事に、航一は独りではなかった。相澤は捕縛布を両手に絡めながら、こくりと頷く。航一は体を低く屈め、両手足を地面にひたりと付けた。スカイブルーのエネルギーリングが生成される。次の瞬間、彼は戦闘機のように急加速し、ロックの待ち構える廃ビルへ向けて疾走した。

 

 

 

 

 そして再び、廃ビルにて。杳が意識を取り戻してから、数分が経とうとしていた。そのわずかな間に、危機感を覚えた杳の体は、ここから逃げ出すための準備を始めていた。彼女の脳は脈打つ痛みのリズムを掴み、集中できる瞬間(タイミング)を弾き出す事に成功した。

 

 もう夜もとっくに更けているはずなのに、窓の外は火炎や煙、パトカーのサイレン、人々の怒号や悲鳴が無作為に飛び交い、これまでにないくらいに騒がしかった。並び立つビルの隙間から火柱が上がるのを見て、窓際に立ったロックは明るい歓声を上げる。

 

「お!頑張ってるな、俺の後輩♪」

 

 ロックは航一の到着を待つつもりのようだった。その間、こちらに新たな危害を加えるつもりはないらしい。……ロックが自分達に背を向けて外の景色を眺めている、今がチャンスだ。雲化して、和歩を連れて逃げなければ。杳はタイミングを見計らい、目をギュッと閉じて集中しようとした。

 

 しかし、”雲化しろ”という命令は脳から個性因子へ到達する間際、強制的にキャンセルされた。金色に淡く発光した()()()()が、自分の首を絞めている。杳の意識はまたしても、切れかけた蛍光灯のようにチカチカと明滅し始めた。

 

 瞬きなどしていないはずだった。それなのに、満面の笑みを浮かべたロックが()()()()()()。窓からここまでは、数メートル以上の距離がある。まるで瞬間移動をしたかのように、彼は突然ここに現れた。

 

 杳だって、天下のヒーロー科・雄英生の端くれだ。動体視力や反射神経は常人よりずっと優れている。それなのに何も見えなかった。残像すら。……一体、何が起こった?今にも消えそうな意識の中で、和歩が金切声で何かを叫んでいるのが聴こえた。ロックは軽薄な笑い声を上げ、手の力を強めていく。

 

「エキストラ失格っすね。シナリオ通りにできない子は死んで――」

 

 次の瞬間、見覚えのあるスカイブルーの光が炸裂し、辺り一帯を埋め尽くした。気が付くと、杳は()()()抱きかかえられていた。薄暗く濁った視界に航一が映ったのを認識すると、辛うじて踏みとどまっていた杳の意識はプツンと途切れた。航一はロックを見据えたまま、囚われている和歩の傍まで滑走する。和歩は激しくしゃくり上げながら、航一に訴えかけた。

 

「コーイチ!ヨウちゃんが!」

「うん」

 

 ……なんてひどい事を。航一は杳の容態を見るなり、指先に斥力のエネルギーを集中させた。そして杳の肺を貫通している部分を除いた有刺鉄線を全て切り離す。だが、これはあくまで応急処置だ。すぐに病院へ連れて行かなければ、彼女の命が危うい。航一は今の状況がまるで何でもない事であるかのように、和歩に優しく笑いかける。それから落ち着いた口調で、こう言った。

 

「ポップ。まだ跳べる?ヨウちゃんを連れて……」

 

 次の瞬間、航一がとっさに展開したスカイブルーのエネルギーシールドと、ロックが放出する金色のエネルギー粒子が拮抗し、周囲はエメラルドグリーン一色に光り輝いた。

 

 攻撃を殺し切れず、よろめいた航一の口から大量の血が吐き出される。硬質化したロックの片腕が、シールドごと、彼の脇腹を深く貫いていた。航一がシールドの強度を増すと、ロックはその場から弾き出され、二歩ほど後退した。腹部を抑える航一の様子を愉快そうに見守りながら、ロックは舌なめずりをする。

 

「あーあ、コーイチくん!”ヒーロー失格”っすね」

「町の人はホークスさん達が守ってくれる。……俺は、今から君を捕縛する」

「は?それは俺の役目なんすよ」

 

 人工甘味料をたっぷり(まぶ)した笑みを拭い去ると、ロックは本来の冷たく自分勝手な表情に戻り、苦々しく吐き捨てた。航一は彼と対峙しながらも、和歩の拘束具を後ろ手で掴み、斥力のエネルギーを流し込んだ。だが、拘束具は頑丈でなかなか壊れない。ロックはわざとらしく肩を竦め、ここが演劇の舞台であるかのように、その場でくるりとターンしてみせた。

 

「ともあれ、やっと役者が揃った。これで俺の物語は再起動(リブート)できる」

()()()?」

「そうっす。仕切り直しって事で、シナリオを再編しました」

 

 ロックは航一の言葉にしっかりと頷いた。まるで彼の再演を待ち望む観衆が目の前にいるかのように、芝居がかった動作で周囲を歩き回りながら、滔々と語り出す。

 

「”オクロックⅡ”に罪をかぶせ、偽物のヒーローになったクロウラー。鳴羽田は彼の支配下に置かれ、敵の温床となっていた。職場体験にやって来たヒーロー科の雄英生も、彼の姦計で道を踏み外す。そしてヴィラン連合・死柄木弔と密通し、爆弾蜂内包型の脳無を入手。クロウラーと共に大規模な爆破テロを図る!……そこで、真のヒーローたる俺”オクロックⅡ”の登場ってわけ!」

 

 航一にはロックの言っている事が、みじんも理解できなかった。――ヒーローになりたいなら専用の施設に通えばいい。社会人になってからでも、免許を取得する事はできるのだ。ロックはかなりの実力者だ。スタートが遅くても、充分に活躍できるだろう。何故、ヒーローになるために関係ない人々を巻き込む?彼のしている事は、今も昔も(ヴィラン)と変わらない。純粋な疑問はそのまま言葉となって、航一の口から零れ落ちる。

 

「なんで、そんなことを……」

()()()()()?」

 

 その言葉は図らずも、ロックの逆鱗に触れた。彼の全身から鋭い殺気が放たれ、周囲の空気が粘ついて、ずっしりと重くなる。激しい怒りで血走った目が、航一をはったと睨み付けた。零れ落ちる涙を拭いもせず、ロックは感情のままに捲し立てた。

 

「俺は体も中身もツギハギのハリボテみたいなもので、何が本当の自分かも分からない。だからずっと……この命を引き換えてでも、何者かになりたいって願ってた。その思いを……あんたは”そんなこと”とけなしたんだ」

 

 今をさかのぼる事、4年前――。ロックが何年も掛けて仕込んで来た”英雄の物語”は、敵役の少年の活躍によって台無しになった。少年は、ロックが口封じのために狙撃した少女敵を救い出し、仲間の元に運んで蘇生させた。そしてヒーローになるはずだった自分を、業火の番人の足元に引き摺り出し、敵の烙印を押させた。そして少年はうまうまとヒーローの座についた。

 

 重度の火傷から息を吹き返したロックが見たものは、まさしく()()だった。何度、声を枯らして真実を訴えても、周囲の人々は誰も聴き入れようとしない。大切な”オクロックⅡ”の名は汚泥に塗れ、無残に踏みにじられた。絶望のどん底に突き落とされた彼は、失意のまま、自ら命を絶った。

 

「これではっきりしたっすよ。……あんたはヒーローじゃない。人の夢を踏みにじる()だ」

 

 ロックと航一、いやロック以外の人物の見ている世界は、明らかに異なっていた。一般的な視点で見れば、ロックは自分の罪を航一に被せ、偽物のヒーローになろうとした(ヴィラン)に過ぎない。

 しかしロックにとっては自分の見えるもの、感じる事全てが、()()()()()()なのだ。正義感に燃える眼差しで宿敵を睨み付け、彼は言葉を続ける。

 

「何もかもが作り物の、空っぽの俺の中で、この()()だけは本物だ。おまえの目の前で、ポップと弟子とこの町を殺し、最後におまえが俺の足元に無様に這いつくばって死ぬ時、ようやく俺の存在が始まるんだ。”オクロックⅡ”の物語が。そして俺は、本当の俺になる」

 

 次の瞬間、辺り一帯を再び、エメラルドグリーンの閃光が包み込んだ。二人の戦闘が始まったのだ。航一がスーツに斥力のエネルギーを流していなければ、初手で殺されていたところだった。

 

 ――ロックの個性は”加速(オーバークロック)”、つまり脳機能の賦活(ふかつ)だ。主観的には、認識と思考の加速による体感時間の遅延。加速した彼には、周囲の状況がスローモーション、もしくは止まって見える。いくら航一が反射神経に優れていると言っても、その速さに追いつくのは不可能だった。

 

 だが、ロックの個性にも()()がある。激しすぎる活動に、脳が息切れを起こすのだ。航一は全身に漲らせた斥力の密度を増し、ロックが決定打を打てない状態にした上で、頭部への攻撃を集中的に繰り返した。彼を止めるには、打撃による脳震盪も有効だ。それが当たらなくともいずれ脳が息切れを起こすと、プロファイルを見た塚内や師匠の教えを受けたソーガが教示してくれた。

 

 それから一分経ち、二分経ち、三分が経った。ロックの勢いはいまだ衰えない。反対に、航一の方が疲弊し始めていた。

 

 ……おかしい。通常ならば、もうとっくに息切れを起こしているはずだ。航一は一歩引いて左手にエネルギーを充填しつつ、乱れた呼吸を整えた。ほんの僅かな時間、彼の頭部を覆っていたエネルギー膜が薄くなる。 

 

 次の瞬間、航一の視界は、ぼんやりとした暗闇に包まれた。ロックの右手が、自分の顔を鷲掴みにしている。我に返った航一が斥力のエネルギーを再展開させるが、それを対抗するようにロックの手は二回りほど肥大化し、生まれたばかりのエネルギー膜を力づくで粉砕した。

 

「コーイチくん。これは()()()()なんすよ。つまり俺は、あの時よりもパワーアップしてるってこと。じゃないと視聴者が飽きちゃうでしょ?」

「ぐっ……!」

 

 ……まずい!航一は反射的にロックの右手を掴むが、その手をロックの左手が捩じり上げた。歪に膨れ上がったロックの両手は、高熱を発し始める。周囲に火薬の匂いが立ち込めると共に、航一の口から押し殺した悲鳴が零れ落ちた。ロックの手が、彼の皮膚を焼いているのだ。狂気の笑みを浮かべて、ロックは叫んだ。

 

「元・オクロックは耐えられなかったっすけど、コーイチくんはどうかな?」

 

 突如として、ロックの両手が()()()()。凄まじい衝撃波を伴った爆風が周囲に吹き荒れ、和歩は反射的に杳の体に覆い被さる。スカイブルーに輝くエネルギーシールドが全身に火傷を負った航一を包み込むが、すかさず両腕を高速再生させたロックが二度目の爆撃を仕掛けた。

 

「コーイチ!」

 

 和歩が悲痛な声で、何度も叫んだその名は、永久に繰り返される爆発音に掻き消されていった。濛々(もうもう)と立ち込めた煙を透かして見える、スカイブルーのエネルギー光が、徐々に薄れて弱まっていく。

 

 刹那、立ち込める煙に紛れて、スカイブルーのエネルギー粒子が数弾、こちらに向かって飛んできた。それは狙い違わず、和歩の拘束具に命中し、接続部分を砕き壊す。そして最後に飛来した一弾が、背後の壁下に備え付けられていた――”避難式救助袋”の入ったハッチの蓋を開けた。

 

 その瞬間、和歩は()()()()()を汲み取った。――足に嵌められた拘束具はとても重く、”跳躍”の個性で跳ぶ事はできない。だが、シューターを下ろし、杳と一緒に逃げる事はできる。

 

 ()()()()()()()。弱々しく呼吸を繰り返す杳の姿を見下ろし、和歩の悲壮な覚悟は決まった。歯を食い縛り、涙を飲んで、和歩は重い拘束具ごと杳の体を引き摺り、避難袋の下へ這い寄って行く。




ロックの行動の意味がずっと分からなかったんですけど、ヴィジランテの最新話読んで、やっと理解できました。本当にヒーローになりたかったんやね(;'∀')
分かりにくい箇所などありましたら修正致しますので、ご一報いただけますと幸いです!


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No.21 6日目②

ご注意:全体的に残酷な描写、人の気分を害する内容の発言が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳はぼんやりと意識を取り戻した。まず目に入ったのは、自分をそっと抱き締めている和歩の横顔だった。そしてその肩越しに、ナイロン製の白い布が目に入る。見上げると、筒状になった布は上の方までずっと続いていた。奇妙な既視感を感じた杳は記憶のアルバムをめくり、目当てのページを探り当てた。――そう、中学の避難訓練で行った”避難シューター”だ。

 

 上の方からは、くぐもった爆発音が響いている。滑らかな衣擦れの音と共に、自分達は重力に従って、降下していった。杳は視線を巡らせ、自分の状況を把握する。体じゅうに巻き付いていた有刺鉄線は、肺を貫通している部分以外、全て取り除かれていた。

 

 再び雲化しようと集中するが、これ以上生命力を使うのは危険だと判断した脳が、それを強制的に阻んだ。燃えるような体の痛みと激しい頭痛、眩暈と吐き気が一度に襲い掛かり、杳は耐え切れず、血と唾液の混じった胃液を吐いた。和歩は慌ててその背中を撫で摩り、小さな体を抱えてシューターを這い出すと、市街地へ向けて歩き始める。

 

「ヨウちゃん、苦しいけどもうちょっと我慢してね。……大丈夫だから。すぐに病院に」

「コ、イチ……さん、は」

 

 杳は浅く弱い息継ぎの間に、航一の安否を尋ねた。おぼろげな意識の中で、彼が自分を助け出してくれたのを覚えている。和歩は何かを耐え忍ぶように唇を強く噛み締め、さっき脱出したばかりの廃ビルの上層部を見上げた。最上階らしきフロアの窓からは大量の煙が噴き出ている。刹那、窓全体が眩い閃光に包まれて、小さな爆発音が鳴り響いた。まだあそこで航一とロックが戦っているのだ。だが、今の杳には何もできない。和歩は縋るような声で、こう言った。

 

「コーイチは大丈夫。きっと」

「俺が殺したっす♪」

 

 次の瞬間、金色のエネルギー粒子の残滓を散らしながら、ロックが目の前に現れた。前方に、真っ黒に焼け焦げた()()を無造作に投げ出す。――ボロボロになったウサギ耳のフードで、それが()()だと分かった。辛うじて息をしているらしく腹部は上下しているが、その動きが止まるのは時間の問題だった。杳の背筋を戦慄が駆け抜ける。正気を失いかけた和歩の口から、か細い悲鳴が零れ出し、硝煙で薄汚れた宵闇のヴェールを切り裂いていく。

 

(大丈夫大丈夫♪リラックスリラックス♪)

(せめてこの町の人達が安心して生活できるように、つまづいても前に進めるように、少しでも恩返しをしていきたいって思ってる)

 

 杳の脳裏に、航一と共に過ごした数日間の記憶が、色鮮やかによみがえった。航一ほど勇敢かつ聡明、強く優しく、そして誇り高い存在に、杳は出会った事がない。毎日、その背中を追いかけ、道案内やゴミ拾い、喧嘩の仲裁に携わっていく中で、杳は()()()()()を学んだ。

 

 ――ヒーローにとって本当に大事なのは、強い個性や社会的人気などではなく、どんな時でも善性を保ち、人々に救いの手を差し伸べる”心の在り方”なのだと。だが、その真の英雄の命の灯は、今まさに消えようとしていた。あまりにも身勝手な敵の欲望に踏みにじられて。

 

「あんまり叫ぶとお腹の赤ちゃんに良くないよ。……ま、後で殺すから意味ないっすけど」

 

 ロックは労りの表情を創り出すと、人を食ったような声音でそう言った。和歩の呼吸が激しく乱れて、両足はがくがくと震え始める。杳は周囲を素早く見回した。壊れかけの街灯が照らす、この路地裏はとても暗く見通しが悪い。耳を澄ませても、辺りに人の気配は感じられない。つまり、()()()()()()

 

 にっこりと笑って、ロックがこちらを見つめた。その笑顔は空中で透明な刃に変わり、杳の首筋にひたりと当てられる。濃厚な死の気配が背後から忍び寄り、彼女に覆い被さった。全身から冷や汗が大量に噴き出し、地面に音を立てて落ちていく。――ここで、私達は殺されるんだ。コーイチさんと同じように。

 

 命の危機に晒された時、日本のほとんどの人々は無意識の内に()()()()()()の姿を思い浮かべる。それほどに”平和の象徴”は、不可能を可能に、絶望を希望へ塗り替えてきた。しかしその一方で、オールマイトが全員を救えるわけじゃない事も皆、何となく分かっていた。

 

 オールマイトは確かに無敵だが、神様じゃない。救われた人は()()()()()()だけ。あぶれた方は、突然現れた災難や敵に襲い掛かられて、どうする事もできないまま、全てを奪われていく。兄が瓦礫の中に埋もれて死んだのと同じように。

 

 ――ここにオールマイトは来ない。大声を出したところで、誰にも気づかれないだろう。今の杳には、もう戦う力が残されていなかった。素手でロックに勝てるはずもない。怖い、死にたくない。逃げたいのに、両足が恐怖に竦んで動かない。その時、()()()()が耳の中にこだました。

 

(……頼んだぞ。ヒーロー)

 

 そして杳は、ソーガと交わした約束を思い出した。――違う。()()()()()()()()()()()()。杳の心の奥底で燃える炎が勢いを増し、恐怖の感情を吹き飛ばした。命を賭して自分達を救おうとしてくれた航一と和歩を、助ける事ができないなら、今ここで立ち上がる事ができないなら、私はきっと死んでも後悔する。

 

 

 

 

 次の瞬間、ロックと和歩の間に()()()()()()が閃いた。くぐもった雷鳴と共に、一陣の風が吹き抜ける。反射的に目を閉じ、航一を庇うように覆い被さった和歩が見たものは、四肢を雲化させた杳が、ロックに掴み掛っている状景だった。杳の胴体部分はスノードームのように淡く透け、中には禍々しい雷雲が滞留している。彼女は振り向くと、こちらに向かって気丈に微笑んだ。

 

「だいじょうぶ……です」

(……大丈夫)

 

 その言葉を聞いたとたん、4年前の記憶のワンシーンが、和歩の脳裏をよぎった。仮初めの敵となった自分がロックに狙撃され、空中を落下していく最中、航一が抱き留めて、優しく囁いてくれた言葉と同じ。限界まで張り詰めていた意識が、ぷつんと途切れる。和歩は航一の体に折り重なるようにして倒れ伏し、気を失った。

 

 ――二人共、一刻の猶予もない。早く病院へ連れて行かなければ。そう思った刹那、金色のエネルギー粒子を纏ったロックの右腕が襲い掛かる。雷と同化した事で、運動や知覚神経の伝達速度を飛躍的に上昇させた杳は、大きくバックステップを踏んでそれを回避した。

 

 しかし次の瞬間、彼女の呼吸は乱れ、強制的に雲化が解除される。地面に四つん這いになり、胃液混じりの血を吐き出した。猶予がないのは、彼女も同じだった。野獣のように地面に伏せ、果敢に睨み上げる杳の姿を見下ろし、ロックは満足気に笑う。

 

「うわー、血だらけで凶悪顔!まさに(ヴィラン)っすね!」

 

 杳は返事をしなかった。自分の命を引き換えにしても倒さなければならない敵を眼前にした時、彼女の精神はかつてないほどに研ぎ澄まされた。――ロックを短期間で戦闘不能にし、二人を病院へ搬送しなければならない。もはや痛覚は消えていた。失血し過ぎて、手足の感覚もない。自分がちゃんと呼吸できているかどうかも、分からなかった。

 

 それでも、やるしかない。ほんの一瞬だけでいい、雷雲になるんだ。雷の速度は音速を超える。現実時間ではたった1秒足らずでも、体感時間はもっと長くなる。”体感速度の加速”という同じ条件なら、こちらの方が早い。杳は流線型のスポーツカーのように身を低く伏せ、イメージを具現化するために小さく呟いた。

 

「……”雷獣(ライジュウ)”」

 

 激しい電流を迸らせた灰色の雲が、杳の口から排出されていく。異変に気付いたロックが加速した瞬間、霹靂と化した杳も大地を蹴り上げ、迎え撃った。一筋の稲妻と化した杳には、ロックの攻撃の全てがゆっくりと見える。やはり目論見通り、体感速度はこちらの方が優れているようだった。ロックの拳の軌道を手の甲で逸らし、懐に潜り込む。それから両足を大きく屈めて跳び、渾身の力で掌底を繰り出した。だが、ロックはその手を()()()()()()()

 

「?!」

「”私の方が早い!”って思った?残念でした♪」

 

 ロックは杳の速度に対抗するべく、()()()()()していた。この日のために再改造を施された彼の体は、もはや息切れも加速の限界も存在しない。その体が短い消費期限(タイムリミット)を迎えるまで、彼は無限に加速し続ける事ができた。ロックは片手を回して杳を抱き寄せると、友人に対するような気軽さで話しかける。

 

「そう言えば……”ヨウちゃん”だっけ?君の個性の運用データが欲しいって、お偉いさんに言われてさ。モルモット同士、臨床実験がんばろっか」

 

 杳が決死の雷撃を放つ前に、ロックは両腕を肥大化させ、少女の体を爆破した。――冷気が集まって創り出される雲は、熱と風にめっぽう弱い。その両方を備える”爆破”は、まさしく杳の()()だった。即席の電磁シールドを体表に巡らせて、なんとか攻撃をしのいだ彼女を、二度目、三度目の爆撃が容赦なく襲う。四度目の爆破を流し切れず、杳は力尽きた。黒焦げになった体は、糸が切れた操り人形のように地面に投げ出される。

 

 その時、彼女の手に嵌まった()()が街灯に反射して、きらりと光った。ロックは興味を惹かれて覗き込み、大きく息を飲んだ。――彼女の手には、くすんだ金属製のナックルダスターが装着されていた。ロックが夢見るほどに焦がれた、師匠・オクロックの形見だ。なんでこいつがこれを持っている?

 

「おいおいおい。それはおまえが付けていいもんじゃねぇんだよ。カスが」

 

 さっきまでの人を食ったような態度は一変し、ロックの顔は冷たい怒りの感情に塗り潰される。硝煙とスモッグで汚れた路地裏に、執拗な爆炎が何度も発生した。杳の脳は大量の脳内麻薬を分泌し、いよいよ間近に迫った死の恐怖と苦痛の感情を急速に和らげていく。それは図らずも、彼女の意識をほんの少しだけ呼び覚ました。

 

 力なく地面に倒れ伏した杳は、付近に横たわる航一の呼吸が止まっているのを見た。そして和歩の両足の付け根から、一筋の血が流れ出しているのも。ロックは杳の体に馬乗りになると、小さな顎を掴んでこちらに向けた。虚ろな灰色の双眸が、激しい憤怒と嫉妬の炎に燃え上がるロックの表情を映し出す。

 

「おまえは兄の真似をやり通せなかった。同じ真似でも俺は”完璧な模倣(スーパーコピー)”、おまえは”ただの真似っ子(コピーキャット)”。見ただけで分かる。全部、中途半端な人の真似だ。おまえに中身なんてない。空っぽの雲と一緒だ。……死ねよ、クソ雑魚が」

 

 ロックは感情のままに捲し立てると、硬質化させた右手を杳の左胸に突き刺した。雷に撃たれたように彼女の体は大きく跳ね、反射的にロックの腕を掴む。しかしそんな妨害をものともせず、彼は柔らかく脈打つ小さな心臓を()()()()()()

 

 そして次の瞬間、ロックの右手は、杳の体内に施錠(ロック)された。いくら加速して引き抜こうと力を込めても、密度の高いセメントの塊に突っ込んだように、一ミリも動かす事ができない。やがて彼は気付いた。――杳の全身が、生体と見紛うほど精密なレベルで雲化されている事に。彼女はロックを見上げると、かすれた声で啖呵を切った。

 

「おまえが死ねよ、クソ野郎」

 

 

 

 

 消えゆく命の中、杳は玉砕する覚悟を決めた。――目の前の敵が憎かった。こんなに人を憎んだのは、初めてだった。激情は時に、人をあらゆる感情から解放する。ロックへの強烈な憎悪と怒りが、雲化の個性を新たなステージへ進化させた。”ヒーローが私怨のために個性を使ってはならない”、”殺人を犯してはならない”――雄英で学んだことは、杳の頭の中から消えていた。

 

 迎撃態勢に入ったロックがすかさず両腕を肥大化させ、爆破する。それと同時に、杳は自分の体を()()()した。燃焼して激しく振動し、やがて動かなくなっていく無数の分子の群れを擦り抜け、量子の塊と化した杳はロックの体内へ侵入する。皮膚の組織の隙間を掻い潜り、血流の流れに乗って、神経が織り成す複雑な森を掻き分け、さらにその奥へと――

 

 そして杳は、時の流れに関与しない”量子の世界”へ到達した。この世界に存在する、ありとあらゆる事象や出来事が複雑に折り重なり、互いにせめぎ合って、周囲は黒く靄がかっている。今までの彼女ならば、この世界を自由に泳ぎ回る事などできなかった。しかし今は、ロックに対する強い殺意がそれを可能にしていた。

 

 杳が手を伸ばして力を込めると、ロックが今までに行ってきた悪事の記憶が、周囲に映し出された。和歩を言葉巧みに誘導して廃墟に閉じ込め、身も心もボロボロに汚していく光景を見て、杳は腸が煮えくり返り、血が滲むほどに強く唇を噛み締める。

 

 ――どうせこいつは生かしたところで、同じ事を繰り返す。自分が敵と認定され、死刑になったって構わない。相打ちになってもいい。今ここでこいつを殺さなきゃ、カズホさんもコーイチさんも二人の子供も、ずっとこいつの影に怯えて苦しみ続ける事になる。

 

 その時、ふと前方に()()()()()()が現れた。和歩が自分に与えてくれたものだ。それは見る間に色づき、スペースヒーロー”13号”の姿へ変わった。13号は両手を大きく広げて通せんぼをすると、杳に向かって諭すように話しかける。

 

(僕達は皆、一歩間違えれば容易に人を殺せる力を持っています。だが、その力は人を傷つけるためにあるのではない。()()()()()()に……)

「当然の報いだ!」

 

 杳は感情を荒げて叫ぶと、13号を押し退けて、さらに先へ進んだ。ロックを殺すのは”正しい事”だ、彼女は何度も自分に言い聞かせた。そしてそれは今の私にしかできない、と。

 

 ――丸腰の人間が銃を拾った時、今まで脅威から逃げるしかなかったその人は、”引き金を引くか、引かないか”という新たな選択肢を与えられる。そしてそれは歪んだ優越感を生み出し、まるで自分が世界の頂点に立ったかのような錯覚を生み出す。強い個性に目覚めた者も同じだ。杳は力に溺れ、それによって身を滅ぼそうとしていた。

 

 やがて杳は、ロックの体内の最深部に到達した。再生を促す個性因子の一つ一つを、雷撃で焼き切ってやる。杳は殺意と覚悟を込めて、ナックルダスターを握り直した。そして恐ろしい稲妻を纏わせた拳を振り上げた時、ふと目の前に()()()()()()がポンと現れた。ぬいぐるみを人型にしたような、白くて丸い生き物だ。体の至る所に”6”とナンバリングされている。――これは一体、なんだろう?戸惑った杳の指先がその生き物に触れたとたん、彼女の視界は暗転した。

 

 

 

 

 小さくて薄暗い部屋の床に、奇妙な出で立ちの生物が一体、ぺたりと座り込んでいた。ぬいぐるみを人型にしたような、白くて丸い生き物だ。体の至る所に”6”とナンバリングされている。無垢な輝きを宿した二つの目はビー玉のように丸く、ずっと何かを考えているように首を傾げていた。部屋には窓がなかった。ベッドや机など、生活するのに必要な家具の類もない。あるのは天井に設置されたスピーカーとカメラ、それから排泄用の穴だけだ。

 

(No.6、出ろ)

 

 不意にスピーカーがノイズを発し、男性の冷たい声が響いた。――”No.6”というのは、この生き物の名前らしい。No.6はむくりと起き上がり、自動的に開いたドアをくぐり抜けて、外の廊下を通過し、向かいの部屋へ入っていく。そこは一見すると手術室のように思えた。No.6は別段嫌がる素振りも見せず、手術台に横たわる。すると台の下から独りでに金属製の拘束具が伸びて来て、彼の四肢をとり籠めた。

 

 やがて白衣を羽織った男がやって来て、手術台の前に立った。男の顔はモザイクが掛けられたように不鮮明でよく分からない。しかしその立ち振る舞いや体付きから、相当の高齢である事だけは推察できた。男は作業台からメスを取り、麻酔も掛けずにNo.6の体を切り裂き始めた。

 

「やめろ!」

 

 杳は思わず男を突き飛ばそうとしたが、その手は幽霊のように、彼の体内を空しく擦り抜けていくばかりだった。――そうか。これはNo.6、つまり()()()()()()なんだ。ようやく現状を理解した彼女は、自分の無力さを痛感しながら立ち竦んだ。

 

 血の強烈な匂いと、No.6の痛々しい叫び声が、彼女の心に宿った怒りと憎悪の感情を冷ましていく。どうする事も出来ない彼女の目の前で、酸鼻を極めたその手術は続けられた。スプラッタ映画の一場面を思い出させる、悪夢のような光景だった。

 

 臓器をいくつか取り出して保管用のガラス瓶に入れると、白衣の男はその場を去った。切り開いた腹部を縫合する事もなく、食事や水分の補給もせず、止血や輸血もしないままで。

 

 どこか遠くの方で、大きな断末魔が響き渡った。また別の被害者が痛めつけられているのだろう。やがて血に染まったゴム手袋をポケットに突っ込みながら、白衣の男が帰って来た。彼はNo.6を見るなり、不満そうに溜息を吐く。

 

(再生せんな。やはり適合率が低い)

(自己再生系の個性は貴重だからね。これ以上、それに投資するのは勿体ないな)

(はー……継ぎ直しか。全く手間を掛けさせおって)

 

 手術室の天井に設置されたスピーカーから、落ち着いた男性の声が聴こえた。優しい声音とは裏腹に、その内容は残酷だった。白衣の男はぶつぶつと文句を言いながらも、ガラス瓶から臓器を取り出して、またもや麻酔なしで縫合し始める。No.6の呼吸は激しく乱れ始めた。汗が音を立てて台の上に滴り落ち、全身が小刻みに痙攣している。彼は乾いた唇を舐め、掠れた声で尋ねた。

 

(あ、ど、……ド、クター。……俺は、役に、立って……ますか?)

(いんや。おまえは役立たずじゃ)

 

 ドクターと呼ばれた男は冷徹にそう言い放ち、そのまま縫合を続ける。No.6の口は空気を求めてだらしなく開きっ放しになり、唇の端から唾液が垂れていった。綺麗なガラス玉のような瞳に、薄い水の膜が張る。

 

(俺は、何の、た、ために……生まれ、たん……ですか?)

(意味などないよ。ただのモルモットじゃ)

 

 冷たいリノリウムの床に横たわり、No.6はぼんやりと考えた。――ここに自分が生きている事の意味を。麻酔もなく、体を弄り回される毎日。そして使い物にならなくなれば、他の仲間達のように焼却処分される。この苦痛に満ちた空虚な日々が何のためにあるのかと言う事を、彼はただ純粋に知りたかった。

 

 しかし、そんな無意味な生活は、ある日を境に一変する。No.6は、超速ヒーロー”オクロック”に出会ったのだ。部屋の中に大きなスクリーン機材が持ち込まれ、そこで彼はオクロックの映像を観た。頭の天辺から爪先までを一筋の電流が駆け抜けたように、彼の体は大きく震えた。地獄のような世界に、煌びやかな音楽と彩りが満ちていく。部屋の暗がりからスーツを着た手が伸びて来て、No.6の肩を優しく掴んだ。

 

(これが君の目指すべき姿だ)

 

 それは()()に等しかった。ブラウン管越しに見るオクロックは、体の内側から光り輝くようなオーラを放っていた。思わず(ひざまず)き、祈るように両手を組んだNo.6の双眸から、大粒の涙が零れ落ちる。ああ、彼こそが俺の生きる意味。この人になる事が、俺の存在証明だ。

 

 ――ただ、その人になりたかった。彼になるためなら()()()()する。その”何だって”の中には、人として間違っている行為がどっさりと含まれていた。しかしNo.6は、どんな行動が正しいか、そして間違っているかという事を知らなかった。自分の選んだ行動で傷ついた人がどれほどに苦しんだのか、そして殺した人が死の間際にどんな想いを抱いたのか、遺された遺族がどんな気持ちで日々を過ごしているのか。彼は何も知らなかった。

 

 良い事も悪い事も知らされずに育った生き物には、心があった。心には願いがあった。”何者かになりたい”という願いが。そして彼はそれを叶えるため、本能のままに突き進んだ。

 

(些細なきっかけがあったり、誰かに巻き込まれたり、そういう生き方しかできなくて、仕方なく敵になったって人もいる)

 

 コーイチの言葉が脳裏をよぎり、杳は力なく拳を下ろした。スクリーンの前に座り込むNo.6の姿が、熱い涙で滲んでぼやけていく。――()()()()()()()()()。杳は激しくしゃくり上げた。そうする事しかできないように、誰かに生き方を強いられただけなんだ。やがて目元を乱暴に拭うと、杳はナックルダスターを握り直した。殺すためではなく、救うために。

 

 

 

 

 加速したロックは、時が止まった世界の中で()()、佇んでいた。そう、一人だ。ついさっきまで自分が馬乗りになり、心臓を潰したはずの少女の姿はどこにもない。突然、目の前で掻き消えてしまった。

 

 その時、何の前触れもなくロックの全身が()()()()。それと同時に体の内側から金色の稲妻が迸り、歯の根が震えるほどの激しい雷鳴が鳴り響く。数瞬後、まるで彼の体から――蛹から羽化する蝶のように――稲妻の残滓を散らして、杳が抜け出した。ロックが倒れると共に、彼女も仰向けに倒れ伏す。

 

 ロックは血走った目で、少女を睨みつけた。信じられない。あの一瞬で自分の体に同化し、強烈な電撃を喰らわせたというのか。しかも、ただの電撃じゃない。細胞を構成する分子の一つ一つに触れて、完璧に麻痺させるほどの精密な攻撃だ。再生機能もダウンさせられており、彼は成す術なく地面に転がり続ける事しかできなかった。俺が、こんな奴に。師匠でも、コーイチでもなく、人の真似すら途中で投げ出すような、()()()()()()にしてやられたというのか。

 

「こんの、クソガキ!」

 

 殺してやる。このガキは苦しめて殺す。俺の計画を邪魔した報いを受けさせる。鉛のように重い体を引き摺って、なんとか杳の下へ辿り付こうとしたその時、突如としてロックの脳内に組み込まれた”自壊プログラム”が起動した。

 

「がっ……」

 

 不可視の力が心臓を圧迫する。血液の循環が止まり、呼吸ができなくなる。ロックの意志とは関係なく、彼の脳は命を絶つための指令を全身へ送り届けた。麻痺された一つ一つの細胞が手を取り合い、静かに壊死していく。水面に落とした一滴の雫がやがて大きな波紋を呼ぶように、死の伝播が広がっていく。目を見開き、苦痛にのたうち回りながら、ロックは必死にもがいた。

 

 しかし、それはロック一人の力では、もうどうにもならない事だった。死を悟った脳が大量のドーパミンを分泌し、彼の苦痛と恐怖を鎮めていく。

 

 ああ、死ぬんだ。タイムリミットが来た。やがて彼は抵抗する事を止め、薄れゆく意識の中でぼんやりと悔いた。――あと、もう少しだったのに。結局、俺は何者にもなれなかった。消えていく。自分が誰かも分からないまま。たった一人で。

 

 その時、ふと()()が聴こえた。誰かが泣く声だ。陽だまりのように暖かくて、優しい(トーン)。ロックは赤子が母を求めて彷徨うように、キョロキョロと頭を動かして、声の出所を探った。

 

 ――杳がこちらに手を伸ばし、泣いている。曇り空のような瞳には、深い慈しみと憐憫の感情が映し出されていた。それは、今までロックが与えられた事のない種類の感情だった。労りに満ちたその眼差しは、今にも死神の鎌に刈り取られようとするロックの魂を優しく包み込む。彼は縋るように手を伸ばし、杳の手に重ねようとした。

 

「ちょっと待て待て。ふざけんじゃねぇよ雑魚が」

 

 しかしその刹那、赤いスニーカーがロックの手を踏みにじった。――()()()()だ。彼は嘲りに満ちた声でそう言い放つと、ロックの体の上に馬乗りになり、杳を見ている顔を掴んで、自分の方へ向けた。

 

「おまえが見るのはそっちじゃなくて、()()()だろ」

 

 ロックの視界を、悍ましい狂気と絶望に満ちた真紅の双眸が埋め尽くす。悲鳴を上げようとした喉は塵に変わり、もがこうとした手が消えていく。束の間の優しい夢は跡形もなく消え去り、ロックは恐ろしい現実に引き摺り戻されて、苦しみながら息絶えた。死柄木が手を離すと、半ばまで塵と化したロックの体が風に吹かれ、表面の塵がさらさらと崩れ去っていった。

 

 やがて路地裏の奥から、パトカーのサイレンと赤い光がきらめき、数人の切羽詰まった叫び声が聴こえて来た。死柄木は鷹揚な動作で立ち上がると、中途半端に手を伸ばしたまま、気を失っている杳の近くへ歩み寄った。ふとその足元で立ち止まった彼は、自分のスニーカーと彼女のスニーカーとを興味深そうに見比べる。

 

「時間です、死柄木弔」

 

 鬱蒼とした暗闇に潜んでいた黒霧は、金色の双眸で油断なく周囲を見張りながら、慇懃な口調でそう告げた。死柄木はひび割れた口元を少し緩ませ、杳の傍にしゃがみ込む。そして少女の手を取ると、ロックの塵を指先で拭い、()()を描いた。

 

 

 

 

 死柄木を飲み込んだ黒い靄が、闇に融けて消え去った頃、ホークスが真紅の両翼を羽ばたかせ、現場に到着した。

 

 今から一分程前、大暴れしていた脳無が、電池切れを起こしたかのように突然、動かなくなった。相澤とミッドナイトは捕縛と警戒に回り、機動力のあるホークスが航一達を捜索しに向かう事となったのだ。状況を素早く把握した彼は、羽根を飛ばして航一達に救命処置を施すと同時に、羽毛のベッドで彼らの体を優しく持ち上げた。そして、医療救護班の下へ速やかに運んで行く。

 

 全員の救命処置を施し、二人分のベッドを創った時点で、ホークスの羽根はほとんど失くなってしまった。杳の体をそっと抱き上げ、彼は満月の下を飛翔する。青白い月光が煌々と差し込んで、空中に力なく投げ出された少女の掌を照らし出す。そこに描かれたものを見て、彼は呆れたように吹き出した。

 

「マーキングですか。おー(こわ)

 

 ホークスは深い溜息を零すと、あどけない少女の寝顔をじっと見つめた。ゴーグル越しに垣間見えるその眼差しは、憐憫の感情に揺れている。

 

「あんたも()()()()に好かれたねぇ。……ごめんな。しばらくは放してやれそうにない」




評価付ける時にコメントできないような設定になってる事に気付き、戻しました。本当にすみませんでした(;_;)


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No.22 7日目

 ……ポップ。

 4年前まで、俺は君のことを何も知らなかった。

 

 いつの間にかふらっと現れて、いつも一緒にいて、

 この先もずっとそんな感じだと思ってたけど。

 

 だけど、ふらっと現れた人は……それこそ師匠みたいに……

 ふらっといなくなってしまうこともあるわけで。

 ”明日も一緒”なんて保証はどこにもない。

 

 だから、君を見失った時、ちゃんと訊いてみなくちゃって思ったんだ。

 

 君が誰で、普段は何をしていて、どこにいけば会えるのか。

 好きなもの、嫌いなもの、将来の夢、尊敬する人。

 家族や友達のこと。

 

 それから……

 俺は君の何なのか。君は俺の何なのか。

 

 ねえ、ポップ。

 今なら、全部分かるよ。

 

 

 

 

 シャリシャリという涼やかな音で、杳は意識を取り戻した。ゆっくりと瞼を開けると、目の前に心操が座っていた。プラスチックナイフを使い、林檎の皮を剥いている。甘酸っぱくて爽やかな香りが、目覚めたばかりの嗅覚を刺激した。

 

 杳はパチパチと瞬きをして、周囲を見渡した。白い清潔な布団にテレビ付きの床頭台、淡い色合いで統一された壁と天井。――ここは病院のようだった。

 

 鉛のように重い体を引きずって、杳はベッドから身を起こそうとした。しかし、途中でくらりと眩暈がして、中途半端に持ち上がった頭部が枕に叩きつけられる。その寸前、心操が持っているものをサイドテーブルに放りだし、彼女の頭を抱え込んだ。間近に見る友人の目は、普段よりもずっと隈が濃く、うっすらと涙の痕が滲んでいた。

 

「無理すんな。リカバリーガールが来てくれたんだ。大丈夫か?痛い所は?」

 

 ”リカバリーガール”。そのヒーロー名を聞いたとたん、数時間前の激闘の記憶が、頭の中にどっと流れ込んで来た。写真のように鮮やかにくっきりと明滅し始めた記憶のストーリーを、杳は必死に辿っていく。そうだ。私はカズホさんと一緒にロックに攫われて、コーイチさんが倒されて、カズホさんを守るために戦って、それから……。

 

 それからどうなったんだ?記憶のページは途中で空白になっている。冷たい不安の感情を宿した泡が足下から昇って来て、頭の中で膨らんでいく。たまらず杳は心操に縋りつき、掠れた声で尋ねた。

 

「コーイチさんとカズホさんは?ロックはどうなったの?」

「二人は無事だ。後遺症もない。赤ちゃんも無事」

 

 杳が一番知りたがっていた事を、心操は簡潔に応えてくれた。頭の中を覆っていた不安の泡はパチンと弾け、途方もない安心感が全身を包み込んだ。

 

 心操は電動ベッドのリモコンを取ると傾度を上げ、杳を上向きに寝かせた。それから首元に手をやり、目を伏せて沈黙する。まるでこの先を言っていいのか逡巡しているように。やがて彼はサイドテーブルに手を伸ばし、林檎の入ったガラスの器を取ると、こちらに手渡した。

 

「ロックは……塚内さんから聞いた方がいい。呼んでくるから、これ食って待ってろ」

「わぁ」

 

 杳は小さな子供のように目をキラキラ輝かせた。一口サイズにカットされた林檎は、何とも器用な事にウサギならぬ、()()()にトリミングされていた。

 

 病室の引き戸を開けて出て行こうとする友人の後姿を、杳は静かに見つめた。恐らく自分がここに運ばれてから、ずっと傍にいてくれたのだろう。陽だまりのように優しい感情が、心の中に満ちていく。彼女は照れ臭そうに微笑んで、口を開いた。

 

「ヒトシ。ありがとう」

 

 心操は特に反応を見せず、ドアを閉めた。……聴こえなかったのだろうか。後で、もう一度お礼を言わないと。杳はそう思いつつ、林檎でできた猫を一匹摘まんで口に入れた。その時、自分の掌に()()が描かれている事に気付き、杳は林檎を咀嚼しながら掌を上向ける。

 

「……()()?」

 

 それは、茶色い泥のようなもので描かれた”花丸マーク”だった。渦巻き状に描いた幾重丸の印の外側に、花弁を模した螺旋をいくつも描いたもの。小学生の頃、何度かテストで花丸をもらった事がある。何故、こんなものが自分の掌に。首を傾げながらもマークを擦ってみると、塵のようなものが指先に付着した。

 

「白雲くん」

 

 頭上から穏やかな声が降って来て、杳は俯いていた顔を上げた。凪のように静謐な表情を浮かべた塚内警部が、病室の出入口に立っている。彼は静かな足取りでこちらへやって来ると、深々と頭を下げた。

 

「平和を守る人間として、灰廻夫妻の友人として、君にまずお礼を言いたい。……救けてくれて、ありがとう」

「いえ、そんな」

 

 杳は慌てふためいて両手を前に出すと、ブンブンと横に振った。救けてくれたのは航一と和歩の方だし、自分は戦いの途中で意識を失ってしまったのだ。

 

 頭を上げた塚内は小さく微笑むと、この鳴羽田の事件で負傷者こそ出たが、一般人や警察、ヒーロー側に死者は誰も出なかった事を教えてくれた。うねるような安心感が、杳の体を包み込む。塚内はベッドの傍にある椅子に座ると、大きく息を吐き、表情を硬く引き締めた。

 

「君が気を失ってからの事を説明する。……()()()()()()()()。容疑が掛かっているのは(ヴィラン)連合の死柄木弔だ。殺害方法から見て、間違いはないだろう」

「え……」

 

 ――”ロックが殺された”。その衝撃的な事実を飲み下すのに、杳は多くの時間を必要とした。確かに自分は怒りに身を任せ、彼を殺そうとした。

 

 しかしロックの記憶を見て、杳の考えは変わった。そして彼を救うために無力化し、助けが来るまで身動きを取れないようにした、()()()()。だが力及ばず、彼は殺されてしまった。死柄木の冷たく荒れた指の感触を思い出し、杳は身震いする。乾いた唇を舐め、なんとか言葉を絞り出した。

 

「どうして死柄木が……」

「この事件に彼が関与しているからだろう。もしくは彼のブレーンが」

 

 塚内は杳の手上で咲く、花丸マークを指差した。そして椅子に座り直すと、深刻な表情で言葉を続ける。

 

「そのマークを見て、僕は全てを話す事に決めた。もはや君にとって対岸の火事ではない。今から話す事は、くれぐれも内密にしてくれるかい?」

「はい」

 

 杳は塚内の正面に座り、話を聴く事に専念する。塚内は淀みない声で、以下の事を話した。――杳が和歩と共にロックに連れ去られた一方で、爆弾蜂を内包した脳無が鳴羽田の町を襲撃した。しかしヒーロー達の活躍で、脳無は捕縛された。負傷者や町の被害も最小限に抑えられ、首謀者であったロックは死亡し、事件は幕引きとなった。

 

 それと時を同じくして、保須市に3体の脳無が襲来し、町に甚大な被害をもたらした。その影に紛れ、ステインも行動を開始する。彼はターゲットのヒーローを殺そうとするが、その場に居合わせた飯田、緑谷、轟と交戦し、制圧された。事件が終結した後、面構署長の計らいによってステイン逮捕はエンデヴァーの功績ということになり、現在ステインは特殊刑務所”タルタロス”へ収監されている。

 

 ――飯田、緑谷、轟。馴染みのあるクラスメイトの名前を聞いたとたん、杳の口から心臓が飛び出しそうになった。彼女の不安は的中した。飯田くんはどんな思いで、ステインと戦ったんだろう。杳には大切な人を殺されかけ、敵を憎む気持ちが痛いほどに分かった。ざわざわと胸騒ぎがして、落ち着かない。三人は無事なのだろうか。

 

「皆、無事なんですか?」

「無事だよ。本当に君達雄英生は勇敢というか、命知らずな子達が多い。まぁ、それがヒーローの本懐でもある訳だが」

 

 塚内は苦笑し、髪を搔いた。ああ、本当に良かった。クラスメイト達のあどけない表情が頭の中に浮かび、杳はほっとして胸を撫で下ろした。塚内は居住まいを正すと、再び口を開く。

 

「同日、ほぼ同時刻に起きたこの二つの事件は、二つの共通点がある。一つは脳無、もう一つは死柄木弔だ。保須の事件においても、彼が仲間と共に現場の近くにいるのをマスコミが目撃している。……君は、こんな話を知っているか?」

 

 お話の舞台は”超常黎明期”。社会がまだ変化に対応し切れていない頃の話だ。かつて個性が発現し、突如として人間という規格が崩れ去った。たったそれだけで法は意味を失い、文明は歩みを止めた。そんな混沌の時代に、いち早く人々をまとめ上げた男がいた。彼は人々から個性を奪い、圧倒的な力によってその勢力を広げていった。計画的に人を動かし思うままに悪行を積んでいった彼は、瞬く間に”悪の支配者”として日本に君臨した――

 

 それはネットや噂話などでよく見かける、いわば”都市伝説”の一種だった。都市伝説というのは押しなべて、根拠が曖昧で不確かなものだ。だから杳は、他の大勢の人々と同じように”悪の支配者”は実在しない架空の人物だと思っていた。

 

「ネットで噂話とかをよく見ますけど、作り話じゃないんですか?」

「あまりに巨大すぎる悪は公にできない。人々の混乱を煽るだけだし、力を持て余す者の行き先を示す事になる」

 

 静かで、抑揚のない声だった。杳は小さな頃、家族で見たホラー映画を思い出した。それはテレビに映っていた幽霊がぬうっと手を伸ばし、画面の外に出て来て実体化し、人々を襲う話だった。今まで作り物だと思っていた存在が不意に形を成し、こちらへ近づいてくる。得体の知れない恐怖に胆が冷やされ、彼女は思わず総毛立った。

 

「巨悪は実在する。彼の名はオール・フォー・ワン。他者から個性を奪い我が物とし、そしてそれを他者に与える事のできる力を有している」

 

 塚内の言葉は静かに、だが巨大な威圧感をもって、杳の心に圧し掛かった。――”オール・フォー・ワン”。直訳すると、皆は一人の為。個性を自由自在に操るなんて。そんな神様みたいな力を持っている人が、本当にいるのだろうか。塚内の黒い瞳に、長い時の中で錆び付いた疲労の色が滲んでいる。

 

「彼は与える事で信頼、あるいは屈服させていった。ただ与えられた人の中にはその負荷に耐えられず、物言わぬ人形のようになってしまう者もいたそうだ。……ちょうど脳無のように」

(あいつは、死体を元にして造られた”人造人間”だ。脳みそから心臓まで滅茶苦茶にして、複数の個性に耐えられるようにするんだと)

(さすがに()()()までは教えちゃくれなかったが……ロックを生き返らせたのも、十中八九、そいつだろ)

 

 ソーガの言葉が脳裏をよぎり、杳はごくりと生唾を飲み込んだ。ロックを生き返らせ、脳無を創り出したのがオール・フォー・ワンなのだ。

 

「我々警察とヒーローは、長い間、人知れず彼と戦ってきた。ある時、遂にオールマイトが彼を打ち取ったかのように見えたが、彼は生き延びた。そして今、敵連合のブレーンとして再び動き出している」

 

 塚内は唇を真一文字に結んで、杳の掌に視線を注いだ。

 

 ――”頑張れ”と少女を激励し、敵を倒した彼女に花丸を与えた死柄木弔。ロックの遺体を精査すると、脳内に埋め込まれたチップが執行する自壊プログラムを待たずして、崩壊が始まっているという事が分かった。もう解き終わった問題を、黒板からさっと消し去るように。まるで学校のテストだ。先生が”頑張れよ”と生徒の肩を叩き、テスト用紙を出す。期待以上の成果を出した生徒は褒められ、”大変良く出来ました”と花丸を与えられる。

 

「そして理由は分からないが、彼は君に興味を示している。いずれ君は、敵連合と対決する事になるかもしれない。もしくはまた、死柄木弔が君に接触を図る可能性も充分あり得る。……そこで、これをスマホに翳してくれるかい?」

 

 塚内はコートのポケットから名刺を差し出した。杳がスマートフォンに名刺を翳すと、ピピッという電子音が鳴り、画面に塚内の連絡先が表示される。彼は安心したように頷くと、椅子からゆっくりと立ち上がり、居住まいを正した。

 

「もし何か不安に思う事があって警察に相談したい時は、僕に連絡してくれ。宵っ張りだから、遅い時間でも大抵起きているよ。()()()は、電源ボタンを二回押すんだ。それで僕に、君の現在地と一緒に警報が届けられる」

 

 塚内はさっと敬礼し、病室を去っていった。杳は何とも言えない複雑な表情で、マイクモデルの黄色いスマートフォンを見つめる。――たかが一人の女子高生が、警部から独自の連絡先を渡される。明らかに()()()()()だった。

 

 ヒーローは司法、つまり警察の管理下に置かれている。超常社会となった現代、警察を”ヴィラン受け取り係”なんて揶揄する者もいるが、実際はそうじゃない。ヒーロー活動は警察への通報から始まり、警察への引き渡しと報告で終わる。言い方を変えれば、ヒーローが”警察の使い走り”なのだ。ヒーロー達にとって、警察は――それこそ一般市民が浮かべるイメージ以上に――厳粛な存在だと言えた。だからこそ塚内が特別対応を取ったその重みが、杳には痛いほどに分かった。

 

 ロックが掛かり、真っ暗になった画面から、幽霊の手がぬうっと伸びて来そうな気がして、杳は思わず画面を伏せた。首を横に振って嫌な気持ちを振り払うと、彼女は二つ目のネコ型林檎を口に放り込む。

 

 

 

 

 杳が林檎を全て平らげた頃、出入口から和歩がひょっこりと顔を覗かせた。体の節々に包帯を巻いてはいるが、元気そうだ。杳は和歩の姿を見たとたん、涙が溢れて止まらなくなった。

 

 本当に無事でよかった。和歩は顔をくしゃくしゃに歪ませながらベッドに駆け寄り、杳をギュッと抱き締めた。人肌の温もりと一緒に、日常に戻って来た嬉しさが込み上げて来る。静かにそれらを噛み締めていると、和歩が杳の耳元でしゃくり上げながら囁いた。

 

「私たちを救けてくれてありがとう」

「カズホさん……」

 

 杳は鼻水をすすりながら、和歩の名前をそっと呼んだ。この事件の結末をハッピーエンドと言い切る事はできない。ロックの命は永久に失われた。だが、和歩達はこうして生きている。それが言葉にできないくらいに嬉しかった。一時はどうなる事かと危ぶんだけれど、これで元通りだ。崩れかけた日常は繋ぎ直されて、いつもの日常が始まる。()()()()。その時、杳はふと思った。

 

(私は弱くて、その癖、意地っ張りで……自分の事ばっかり。私のせいで、あの人の人生は……)

 

 和歩は、航一に妊娠している事を秘めているのと同様に、今までの気持ちも伝えていないのだろうか。――杳の脳裏に、体育祭での出来事がよぎった。あの時、心操が本音をぶつけてくれたからこそ、今の自分があるのだと思う。

 

 人間はよく分からない生き物だ。言葉を交わさずとも分かる事もあるし、口に出さないと分からない事もある。心操が勇気を出して自分を救ってくれたように、今度は自分が勇気を出して和歩を救う番だ。杳は意を決して体を離すと、彼女を見上げた。

 

「カズホさん。私、兄の真似をしていた時……自分を守るのに必死で、友達を突き放した事があるんです。でもその友達は、本音でぶつかってくれました。だから、今の自分があるんだと思ってます」

 

 和歩はピンク色に輝く隼眼を見開いて、こちらを見つめ返した。

 

 杳には分かっていた。”航一は和歩を愛している”と。病院に緊急搬送された和歩を案ずる航一の声は、心から妻を案じているものだった。何も不安に思う事はない。フワフワした幸せの塊を抱き締めて、その芳醇な香りに酔いしれ、心の底から笑っていいんだ。戸惑う和歩の両手を取ると、杳は人を安心させるような優しい笑みを浮かべた。

 

「コーイチさんと本音で話すべきです。お腹の赤ちゃんのためにも。きっと、きっと大丈夫です」

「ヨウちゃん……」

 

 後に続く言葉がない。その代わりに、和歩の目から新たな涙が溢れた。――杳と初めて会った時、気の弱そうな女の子だと思った。今はその曇った目の奥に、強く優しい輝きが見える。

 

 いつも自信がなさそうにおどおどとして、個性もうまく扱えず、航一の後ろを付いていくのも精一杯だった彼女が、いつの間にか自分達を敵の脅威から守り、そして怖気づく自分を励ましてくれるまでに成長していた。和歩が深く感じ入っていると、出入口の方から軽いノックの音が飛んできた。二人は揃ってそちらを向く。

 

「あ、ごめん。俺、出直した方がいい?」

「コーイチさん!」

 

 杳は明るい歓声を上げた。全身包帯グルグル巻きで”ミイラマン”と化し、ほとんど顔も見えないが、何となく雰囲気でコーイチだと分かった。和歩は乱暴に涙を拭うと、いそいそと立ち上がる。

 

「べ、別に何でもないの。ちょっと売店に行って来るね」

「カレーパン買って来てー」

「入院中なんだからダメ!」

 

 鬼の形相をした和歩にピシャリと言い返され、肩を竦めた航一は、杳の前に座り込むと彼女の手を取った。包帯越しに垣間見える優しい眼差しが、杳の心をそっと撫でていく。分厚いギプスを嵌めているのに、彼の温もりが不思議と伝わって来た。

 

「ヨウちゃん。俺たちを守ってくれて、本当にありがとう」

 

 一点の曇りもないその声を聴いた時、杳の心臓が()()()()を放った。――思い出したからだ。怒りに身を任せて、ロックを殺しかけた事を。

 

 あの時、ロックの過去を見て考えを改めていなければ、自分は今ここにいないだろう。こうして航一にお礼を言われる事もなかったに違いない。”平穏な日常”を体現する彼と対峙した事で、杳は自分のしようとしていた事を改めて実感し、大きく身震いした。感情一つで、人はヒーローにも敵にもなれるのだ。杳は勇気をもって、口を開いた。

 

「コーイチさん。……私は、ロックを殺そうとしました」

「……うん」

 

 航一は怒りも悲しみも、そして失望もしなかった。ただ真剣な表情で頷き、杳の手を握ったまま、言葉の続きを待った。コーイチさんは、私がどんな事をしても受け入れてくれる。その受容性に一縷の希望を見出した杳は、まるで教会で迷える子羊が神父に懺悔するのと同じように、思うまま言葉を連ねた。

 

「その時、彼の過去が見えたんです。彼は……誰かに生き方を歪められていました。だからといって、彼が今までしてきた事が許されるわけじゃない。でも……」

 

 杳はそこで言葉を途切らせて、乾いた唇を舐め、考え込んだ。――死柄木もロックもステインも、れっきとした”ネームドヴィラン”だ。だが、それは()()姿()で、過去は違っていたのかもしれない。もし彼らがそうなる前に、道を踏み外す前に、誰かが手を伸ばしていたら。

 

 それは幼稚園児が落書きしたみたいな、()()()だった。社会はそんなにシンプルでクリーンじゃない。だが、それでも。杳は気絶する寸前、不意に苦しみ出したロックが、縋るように自分を見ていた事を思い出した。あの目は救いを求めていた。なのに、自分は救う事ができなかった。塵でできた花の咲く掌を見下ろし、まるで毒を吐き出すように苦しげな声で、彼女は話を続ける。

 

「世の中には、本当は敵なんていなくて。ヒーローが救けられなかった人が、敵と呼ばれているだけなのかもしれない。そう思うと……この拳が重くて、辛くなるんです」

 

 馬鹿みたいと思うだろうか、それとも怒るだろうか。杳はごくりと生唾を飲み込んで、航一の反応を待った。だって自分は、和歩を傷つけたロックを庇ったのだ。こんななよなよしたどっちつかずの考えでは、まともなヒーローになれるはずがない。

 

 その時、ふと名前を呼ばれて、杳はおどおどと顔を上げた。泣きたくなるほどに優しい輝きを帯びた目で、航一がこちらを見つめている。

 

「それがヒーローとしての責任だと思う。公で個性を使う者の責任だ」

 

 その言葉は空中で白熱した刃に変わり、杳の心臓に突き刺さった。小さな心臓がぶるりと震え、熱く燃え始める。他者の言葉がこんなにも心に染み入ったのは、初めてだった。航一はセメントのように固められた自分の手を見つめながら、静かな声で言葉を続けた。

 

「ヒーローになって初めて、個性を人に向けたんだ。……その時に思った。”小さい頃から漠然と憧れていた仕事は、こんなにも辛く重いものだったのか”って。

 俺は話し合いが好きだけど、力を使う事でしか救えない人もいる。そういう人を救うために、それ以上罪を犯すのを止めるために、俺達は力を使うんだ。それを師匠が教えてくれた」

 

 カーテン越しに差し込む陽光が、サイドテーブルに転がされた一対のナックルダスターを輝かせる。一週間の絆で結ばれた師弟は、しばらくの間、互いを見つめ合った。杳は数日前に塚内から言われた事を、ふと思い出した。――”救いようのない悪”。本当にそんな存在はいるのだろうか。その答えはきっと航一だけが知っているような気がする。杳は訳もなく、ただそう思った。

 

「コーイチさんは、”救いようのない悪”を見たことがありますか?」

 

 まるで哲学のように難解な質問を受け、答えに窮した航一は少しの間、瞼を伏せて考え込んだ。やがて彼は顔を上げると、いつも通りの優しい声でこう応えた。

 

「俺はまだペーペーだから、そんなすごい人は見た事ないな。……でも、()()()()()()()ならいる」

 

 ”救えなかった人”。それが誰か、杳は何となく分かった。その時、心の中で、白くて丸い生き物が輝く手に導かれ、明るい場所へ歩いていく光景が垣間見えた。魂や幽霊といった超自然的な類を、杳は何となく信じている。今さっき見えたものが、幻想でないといい。彼女は頭の中でそっと呟いた。

 

 

 

 

「おかえり」

 

 航一が自分の病室に戻って来ると、和歩が売店で買ってきた林檎の皮を剥いていた。

 

「ただいま」

「カレーは退院してから作ったげる。今はこれで我慢して」

「はーい」

 

 のんびりと返事をすると、航一は大人しくベッドに潜り込む。”返事は伸ばさない”――危うく出かけたその言葉を、和歩は寸でのところで飲み込んだ。本当に言いたいのは()()()()()じゃないでしょ。彼女は自分を叱咤した。

 

 今まで何度も救けてくれてありがとう。私にとってあなたは本当のヒーローだよ。いつもワガママばっかり言ってごめんね。こんな私と結婚してくれてありがとう。本当に本当に、大好きだよ。子供ができたの。女の子みたい。――言いたい事は山のようにあるのに、どれ一つとして口から跳び出して行ってはくれない。せっかくヨウちゃんが励ましてくれたのに。心が挫けそうになったその時、ふと航一の声が聴こえた。

 

「俺、びっくりしちゃった。あの時、助けた男の子ってポップだったんだね」

「……え?」

 

 あまりの事に和歩は茫然とし、剥きかけの林檎を取り落した。――何故、彼がその事を知っているんだ?ずっと言い出せないまま、心の奥に秘めていたはずなのに。呆気に取られる和歩をよそに、航一はギプスハンドを器用に動かして林檎を空中キャッチしてみせると、照れ臭そうに笑った。

 

「さっきヨウちゃんから聴いたんだ。ごめん、髪が短くて男の子っぽい服装だったからさ」

「いや、それは良いんだけど……ヨウちゃんが?」

 

 確かに和歩は、先日、杳に自分の過去を語った。でも、どうして彼女がそんな事を。杳の行動の意図が掴めず、和歩は俯き、視線を彷徨わせる。そんな彼女の手を取り、航一は真正面から見つめた。

 

「ポップはさ、時々よく分からない事で怒ったりするけど……いつの間にか機嫌が直ってるし。()()()も、何も言わなくても、傍にいれば大丈夫かと思ってた。でも、そうじゃなかったんだね」

 

 航一の漆黒の双眸と、和歩の淡紅の隼眼が、静かに交錯する。見つめ合う二人の間を、ヴィジランテとして駆け抜けた日々が、その後、夫婦となって紡いできた日々が、穏やかな川のように流れていく。航一は和歩の左薬指に嵌まった銀色の指輪を、愛おしそうにそっと撫でた。

 

「俺の人生はポップのおかげで変わったよ。自分の行動に後悔なんてしてない。だってあの時川に飛び込んでなきゃ、今こうしてポップに出会えなかった。……かわいい奥さんに子供。おまけにプロヒーローにもなれた。俺は充分幸せだよ」

 

 和歩は、何も口にする事が出来なかった。ただ、涙が溢れた。苦しみや悲しみではなく、歓喜の涙だ。許されるはずがないと諦めていた。彼の人生を穢したと思っていた。だが、そうではなかった。自分と共に過ごす明日、明日の先にある未来を、彼は心から望んでくれている。航一は手を伸ばし、和歩を優しく抱き締めると、照れ臭そうに、だがしっかりとした声で、こう言った。

 

「愛してる、カズホ。大好きだよ」

「コーイチ……!」

 

 航一の腕の中で、和歩は小さな子供のように激しく泣きじゃくった。白く痩せた首筋に絡まったマイクのコードが、静かに融け、消えていく。そのとたん、和歩の口から堰を切ったように、拙い言葉が溢れ出した。今までずっと心の底に押し込めていた積年の想いが、涙と一緒に外へ押し出されていく。航一はただその背中を優しく撫でさすり、彼女の話に耳を傾けた。

 

 

 

 

 翌日の昼。Hopper's Cafeのドアには”本日貸し切り”のプレートが下がっていた。オーナーの鎌池や多古部達の粋な計らいで、杳の送別会が催される事になったのだ。店内は鳴羽田の住人で溢れ返り、とても賑やかだった。料理は立食(ヴュッフェ)形式となっており、店の奥に設置された長テーブルに、多古部が腕によりを掛けたご馳走がずらりと並べられていた。乾杯の音頭は、送別会の幹事を務める堀田兄弟が取り行う事となった。

 

「全員グラス持ったか?……よし。んじゃ、乾杯!」

「かんぱーい!」

 

 陽気なユニゾンの後、グラスを合わせる硬質的な音色が、店内に次々と弾けていく。はにかんで笑いながらも、杳は向かいに座る心操のグラスに、自分のグラスをそっと合わせた。

 

 最初の方こそ、グラスを合わせに色んな人々がどっと来たものの、後は無礼講といった感じで、皆、思い思いの場所に行き、自由に寛いでいた。甘酸っぱいイチゴシェーキに舌鼓を打っていると、通路に面したガラスの壁の方から、バイクのクラクションが数回飛んできた。思わず顔を上げた杳は、明るい歓声を上げて立ち上がる。

 

「ソーガさん!」

 

 大型のバイクに乗ったソーガが、こちらに鋭い眼差しを注いでいる。杳はカフェの外に出ようとしたが、ソーガはそれを待たずして口角を少し上げ、バイクのエンジンを吹かすと、その場から走り去っていった。どうやら、杳の顔を見に来ただけらしい。

 

「さっきの誰?」

「ソーガさん。コーイチさんのお友達」

 

 杳がソファに体を沈めながら応えると、心操は面白くなさそうに鼻を鳴らした。……なんで不機嫌になるんだろう。杳は首を傾げつつ、フライドポテトを口に運んだ。

 

 相澤と航一は仕事の合間に少しだけ顔を出すと言ってくれてはいるが、まだ来ていない。杳は心操の隣に座り、スマートフォンを起動して保須事件に関するニュースを一緒に見たり、今後の社会情勢がどう動いていくのかという事について、訥々(とつとつ)と語り合った。

 

 今の時代は、良くも悪くも抑圧された時代だ。ステインは大罪を犯した敵だが、”英雄回帰”という一つの信念を持って行動していた。――曰く、ヒーローとは見返りを求めてはならない。自己犠牲の果てに得うる称号でなくてはならない。現代のヒーローは英雄を騙る偽物。粛清を繰り返す事で、世間にその事を気付かせると。

 

 心臓に一本芯が通っている人間は、そうでない人々を魅了する。ステインに感化されて道を踏み外す者が今後、出て来ないとは言い切れなかった。ヒーローの卵である二人がすべき事は、一刻も早く仮免許を取得する事だ。決意新たに見つめ合う二人の足元に、おすしⅡ世が擦り寄って来る。杳は小さな猫をそっと抱き上げた。膝の上で幸せそうに丸まっているおすしを見て、心操がふと口を開いた。

 

「この猫、学生ん時に()()()()()()が拾った猫の子供らしい」

「え、そうだったの?!」

「うるせェな」

 

 不思議な縁もあるものだ。杳はおすしの喉をくすぐってやりながら、寂しそうに微笑んだ。明日からおすしと会えないなんて、信じられない。一週間の職場体験は今日で終わった。あと数時間後にはこの町を発つのだ。黙り込んで感傷に浸る杳を眺めつつ、心操は照り焼きピザにかぶり付く。

 

「なぁ。焦凍ん家、マジで行くのか?」

「んー……()()

 

 杳は煮え切らない返事をした。先日、彼女は心操と一緒にREINでテレビ通話をし、轟達の安否を確認していた。画面越しに見た友人達は至って元気そうで、二人は思わず顔を見合わせ、胸を撫で下ろしたのだった。”また明日学校で会おう”と言って通話を切ろうとした時、珍しく緊張した面持ちで、轟がこんな提案をしてくれた。――期末試験前の週末に、自分の家に泊まり込みで勉強会をしないかというお誘いだ。詳しく聞くと、なんと彼の姉と兄が杳達に会いたがっているのだという。

 

 友達の家に泊まりで遊びに行くのなんて、本当に久し振りだ。杳はわくわくしながら、未来に思いを馳せた。しかし次の瞬間、その未来は灼熱の業火に燃やし尽くされる。

 

 ――エンデヴァーは根っからのクロウラー嫌いだ。その弟子である自分が轟家の敷居をまたぐ事を、彼は許してくれるんだろうか。さすがに物理的な攻撃をされる事はないだろうが、()()()()攻撃をされる事は、まさに火を見るより明らかだった。

 

 だが、しかし。轟や彼の兄達は”何かあっても自分達が守るから気にするな”とまで言ってくれているし、轟がいうには、姉の料理は絶品らしい。格式ある旅館のような造りの豪邸も見てみたいし、何より轟は1-Aクラスきっての優等生だ。杳の心の中で、自分の命と轟家の勉強会が天秤にかけられる。やがてそれは()()()()に傾いた。

 

「エンデヴァーに丸焼きにされるリスクを差し引いても、ショートのお家訪問とお姉さんの美味しいご飯と勉強会を合わせると、トータルで得してる事になると思うんだよね」

「安い命だなオイ」

 

 心操は呆れながら、唇の端に付いた照り焼きソースを拭い取った。杳は期待に満ちた眼差しで、彼の首元に巻かれた捕縛布を見つめる。友人は普段こそ素っ気ない態度だが、いざという時は優しく面倒見がいいタイプなのだと彼女は知っていた。

 

 もしエンデヴァーにぶちのめされそうになっても、きっとこの布を駆使して、相澤先生のように素早く拘束してくれるに違いない。杳は自信をもって口を開いた。

 

「何かあっても、ヒトシが捕縛布で守ってくれるでしょ?」

「知るか。こんがり焼かれとけ」

「え?」

「君、心操くんだよね?」

 

 すげない友人の返事に杳が愕然としていると、ポラロイドカメラを構えた堀田兄が、そのいかつい顔立ちに似合わぬ、猫撫で声を繰り出しながらやって来た。心操が頷くと、堀田兄は”ハイチーズ”と言いつつシャッターを切り、怪訝そうな顔をしている彼の写真を一枚撮った。そしてそれを、店内の壁に飾られたホークスのサイン色紙の近くに、しっかりと貼り付ける。

 

「お前もJKから人気あんの!よし、ヨウ。あとは轟くんを連れて来い!これで我が布陣は完璧だ!」

「あのー、クロウラーさんの写真は?」

 

 写真を満足気に眺める堀田兄に、杳はおずおずと話しかけた。鳴羽田の町を守っているのはクロウラーだ。たとえJKから見向きもされないようなマイナーヒーローだとしても、彼の写真は貼っておくべきだと彼女は思う。すると堀田兄は当然のように頷きながら、ちょいちょいと手招きした。

 

「ああ、あいつの写真は()()()

 

 堀田兄にカウンターレジまで連れて来られた杳は、明るい歓声を上げた。――壁に大きなコルクボードが吊るされ、そこに鳴羽田の住人達の写真が沢山飾られていた。

 

 カフェがオープンした日に撮ったのだろう、かしこまった格好の鎌池や多古部達が並んだ集合写真。マルカネデパートの屋上で歌って踊る、少年少女達。イベントのMCを務めるマイク。大勢の人々に囲まれているキャプテン・セレブリティ。おすしと一緒にうたた寝する相澤先生、それをこっそりスマホ撮影しているミッドナイト。ポップの応援グッズを作る、硬派な恰好をした青年達。更生中の疾風怒濤の三兄弟――

 

 数えきれない程の輝かしい思い出が、コルクでできた四角い世界にぎっしりと詰まっていた。それらの中にはもちろん、ヴィジランテ時代やプロヒーローとなったばかりの航一や和歩、ナックルダスターの写真もたっぷりと含まれている。言葉もなく見入っていたその時、杳はふと名前を呼ばれて振り向いた。堀田兄がカメラのファインダーを覗き込んで、こちらを向いている。

 

「ハイ、チーズ」

 

 突然の事態に慌てふためきながらも、杳はなんとか、ぎこちない笑顔とピースサインを捻り出す事に成功した。堀田兄はカメラから吐き出された写真を振って乾かすと、ヒーロー免許を手に笑っている航一の写真の横に貼り付ける。

 

「んで、おまえも()()()な」

「……ありがとうございます」

 

 徐々に色付いていく小さな世界の中で、自分が恥ずかしそうに笑っている。なんだかこの町の一員になれた気がして、杳はとても嬉しい気持ちになり、顔を大きく綻ばせた。

 

 

 

 

 その頃、警察署から解放されたヒーロー達は、およそ半日振りの太陽光に目を細め、大きく伸びをした。ホークスはすぐさま羽根を広げて九州へ飛び立ち、ミッドナイトは心的外傷を受けた一般市民達の治療に加わるべく、保須中央病院へ急行する。後には、この町の主たる航一と相澤だけが残された。相澤は苦虫を噛み潰したような表情で航一を見やってから、Hopper's Cafeのある東鳴羽田方面に足を向けた。

 

「……猫を見るだけだからな」

「ヨウちゃんが喜びますよ。ありがとうございます」

 

 航一は穏やかな笑みを浮かべると、相澤の後ろについて歩き始める。やがて目的のカフェが近づいて来た。大きなガラス壁越しに見える店内は、大勢の人々でごった返していた。賑やかな場所を不得手とする相澤の足取りは、明らかに遅くなる。

 

「だいたい送別会とか、合理的じゃないだろ。馬鹿馬鹿しい。個々で挨拶しろよ」

「あの子のために、何かしてあげたかったんです」

 

 真剣な声でそう言うと、航一は心操と笑い合う弟子の姿をじっと見つめた。

 

「俺とカズホは、あの子に救われましたから」

 

 ――”救われた”というなら、自分だってそうだ。相澤は神妙な面持ちで、黙り込んだ。USJ襲撃事件で、杳は脳無の手から相澤を命懸けで救った。あの少女は、時として驚くような芯の強さを垣間見せる。何気なく店内に視線を向けた時、相澤は大きく息を飲んだ。

 

(ショータ!)

 

 おすしを抱っこした()が、にっかりと笑い、こちらに手を振っている。その横には、仏頂面をした、かつての自分の姿もあった。思わず伸ばした手は、硬いガラス壁に当たって阻まれる。透明なガラスは太陽光を反射してキラキラと輝き、とある記憶のワンシーンを映し出した。

 

 ――学生時代、腐るほどに足を運んだ学舎の屋上。相澤、マイク、白雲、そしてミッドナイトの四人は、屋上にたむろして青い夢を語っていた。”無責任に拾う事などできない”と相澤が諦めた捨て猫は、朧がたやすく救い出し、”おすし”と命名された。おすしの身柄は当時、仲の良い先輩だったミッドナイトの下へ預けられる事となる。

 

(ショータもなんかないのかよ。俺達の事務所に必須の設備)

(……キャットタワー?)

(おっ。猫つき事務所かー)

(そうか。おすしさんをお迎えするわけだな!)

(香山先輩に預けっぱなしじゃ無責任だし、三人いればどうにか世話できるかなと。どうですか先輩)

(そ、そうね。それがいいわよね……)

 

 相澤だけでなく、ミッドナイトも無類の猫好きだった。猫ハーレムと化した事務所を想像し、頬を赤らめる彼女の様子を見て、三人は明るい笑い声を上げる。

 

 ……一人ではなく二人なら、三人ならきっと、なんだってできる。誰だって助けられる。まずは猫一匹から。そんないつかの計画は、花と共に手向けられ、儚く消え去ったと思ってた。でも、そうじゃないみたいだ。

 

「相澤先生!コーイチさん!」

 

 カフェのドアをいそいそと開けて、杳と心操がやって来る。おすしをそっと抱え直し、笑顔を浮かべる杳とは対照的に、心操は俯きながらも小さく礼をして、首元に手をやった。

 

 初夏の夏が澄んで、群青色にきらめく。真っ白な入道雲が湧き立つ空の下で、二人の生徒と航一が仲良く笑い合っている。優しくて明るい未来の足音が、相澤の耳をくすぐった。

 

 荼毘に付したはずのいつかの夢を、若者達が灰の中から拾い上げ、次のページをめくっていく。相澤の口元がほんの少しだけ緩んで、笑みの形を創り出す。……俺も救われたよ。彼は声に出さずにそう呟くと、踵を返した。

 

「じゃあな」

「え?!本当に猫見ただけ?」

「元々そういう話だっただろ」

 

 今にも帰ろうとする相澤をなんとか引き留めるため、カフェから六本腕全てに猫を抱えた多古部が飛び出してきた。堀田弟に無理矢理猫じゃらしを握らされ、苦悶の表情を浮かべる相澤の様子を、街灯に設置された防犯カメラがじっと眺めている。

 

 

 

 

 首都圏内、とある施設の一室にて。黒霧は床に(ひざまず)き、創造主たるオール・フォー・ワンに、二つの事件の顛末を報告していた。

 

 部屋に照明の類はない。壁に嵌め込まれた大型ディスプレイから漏れ出る光だけがリノリウムの床に反射し、二人の輪郭をぼんやりと照らしていた。全てを聞き終わると、オール・フォー・ワンは優しく手を上げて黒霧を労い、手元の端末を操作した。するとディスプレイに、ある町の監視カメラを傍受した映像が表示される。

 

「黒霧。君は”ボジョレー・ヌーヴォー”というワインを知っているかな」

「ええ」

 

 ボジョレー・ヌーヴォーとは、フランスのボジョレー地区で、その年に収穫した葡萄を醸造した新酒ワインだ。通常のワインとは異なる、みずみずしい味わいが特徴で、フランスの法律によって毎年11月の第3木曜日が”解禁日”となっている。その日は収穫祭のような文化的側面も有しているため、世界中から注目される。日本では秋の風物詩としてその味を楽しむ人々が多い。

 

 博識な黒霧にとって、そのワインの蘊蓄を語るのは造作もない事だ。だが、あの方の目的は()()あるはず。黒霧は必要最低限の返答をするだけに留め、主の反応を待った。椅子に深く腰を沈めたオール・フォー・ワンは、上品な仕草で片手を持ち上げ、ゆっくりと回転させる。まるでワイングラスを回して空気を含ませ、その味わいや香りを際立たせるように。

 

「まだ解禁日には早いが、栓を抜いてしまおうかな。メインディッシュをより深く楽しむための、食前酒(アペリティフ)さ」

 

 四角く切り取られた世界の中で、雲のようにフワフワした髪を揺らして、一人の少女が明るい笑い声を上げた。その声は、巨悪の食欲をそそり上げる。オール・フォー・ワンは歪んだ愉悦の笑みを口元に浮かべ、失われた目で黒霧を見つめた。

 

「君が()()醸造されたかを知ったら、この子は一体どんな顔をするだろう」

 

 

 

 

 赤く熟れた太陽がビルの谷間に沈むのと同時に、別れの時間がやって来た。

 

 杳は鳴羽田駅のホームに立ち、電車が来るまでの間、もうじき離れ離れになる灰廻夫妻と惜別の想いに浸っていた。首都圏行きの電車は運行間隔が短く、十分もしない内にのどかなチャイムを引き連れて、迎えの列車がホームに滑り込んでくる。和歩は顔をくしゃくしゃに歪ませて、少女の体を抱き締めると、ぎこちなく微笑んだ。

 

「また遊びに来てね。赤ちゃんの顔も見せたいし」

「もちろんです。今度はショートも一緒に、遊びに行きます」

 

 窓越しに見る車内はさして混んではなかったが、座れる席はなさそうだった。スーツケースとリュックサックを抱え直し、改めて謝辞を述べようと二人を振り返った杳のハーフズボンのポケットに、航一は()()()()を差し入れた。ずっしりとした重みがぶつかり合い、硬い金属音を立てる。――ナックルダスターだ。杳は息を飲んで、彼を見上げた。

 

「こんな大切なもの……」

「いいんだ、君に託すよ。ヒーローには()()()()()が必要なんだ。俺にはカズホがいるから、大丈夫」

 

 航一はとびっきり優しい眼差しを、和歩と彼女のお腹に注いだ。

 

「個性は人を救いもするし、傷つけもする。だから握るたびに思い出して。……君が()()()()()個性を使うのか」

「何よ、急にカッコつけちゃって。馬鹿みたい」

「あはは」

 

 航一は、杳のもつ個性の危険性を示唆していた。個性は銃と一緒だ。弾丸一発で脅威にさらされた人を助け出す事ができるが、撃たれた敵は深い傷を負う。ヒーローはその覚悟をもって安全装置を外し、自らの引き金を引くのだ。杳は、師匠の言葉を宝物のように抱き締めた。

 

 二人に心からの感謝の言葉を送ると、杳は車内に飛び乗った。荷物を足元に置いて振り返ると、二人が鼻をすすりながら手を上げた。その姿を見たとたん、まるで天啓のように、杳の心に()()()()が舞い降りる。ドアが閉まる直前、彼女は込み上げて来る涙を拭いもせずに、航一に向かって叫んだ。

 

「ザ・クロウラー!私、あなたみたいになりたいです!こんな私でも……あなたみたいな立派なヒーローに、なれますか?」

 

 航一はひどく驚いたように、眠たげな目を見開いた。それから軽く吹き出し、小さな弟子に向けてサムズアップしてみせる。

 

「もうとっくにヒーローだよ、君は。お互い色々大変だけど、がんばろーね!ヨウ」

 

 数秒後、ピッチリと閉まった一枚のドアが、二人の師弟を隔てた。くすんだガラス越しに、二人が大きく手を振っている。きっとこの瞬間を、杳は生涯忘れる事はないだろう。ゆっくりと列車が動き出す。杳はガラス窓に顔を押し付け、灰廻夫妻に向かって、電車がカーブしてホームが見えなくなるまで小さく手を振り続けた。




これにて2期終了です(*´ω`)
皆様、お付き合い頂きまして、本当に本当にありがとうございました!

師匠とかパープルさんとか、他にも出したいキャラがめっちゃあったけど、無理でした( ;∀;)真さんとソーガさんは死穢八斎會編にてまた出す予定です。

3期は轟家お泊り会~期末試験~林間合宿まで、さっと駆け抜ける予定です。やっとヒロアカ本編に戻れる。


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3期:期末〜林間合宿編
No.23 職場体験後


※ご注意:少し性的な表現があるかもしれません。苦手な方はご注意ください。


 翌日、1-Aクラスの教室は一週間振りに子供達を迎え入れた事で、ワイワイと賑わっていた。懐かしい面々を眺めながら、杳はひとまず自分の席に向かおうとした……ところで、爆豪の()()()()が視界に入って吹き出しそうになり、両手でパチンと口を押さえる。1-Aの()()も、ファイバーヒーロー”ベストジーニスト”には敵わなかったらしい。瀬呂と切島は完全にツボに入ってしまったのか、涙を流しながら笑い転げていた。

 

「クセついちまって洗っても取れねえんだ。……おい笑うな。ブッ殺すぞ」

「やってみろよ8:2坊や!アッハハハハハハ!」

 

 まるで笑ってはいけない何とやらだ。爆豪の髪型を頭から振り払い、杳は自分の机上にリュックを下ろした。ブチ切れた爆豪が怒りと髪を爆発させているのをよそに、クラスメイト達は気の置けない者同士で集まり、それぞれの職場体験の感想を語り合っていた。――飯田くんは大丈夫だろうか。ふと心配になった杳は教室内を見回し、彼の姿を探す。

 

 飯田は緑谷と一緒に轟の席にいた。その近くには心操と常闇もいる。彼らは深刻な表情を突き合わせ、何事かを語り合っていた。ふと心操が振り返り、杳を指差して何かを言った。すると、飯田達の気遣わしげな視線がこちらへ一点集中する。――恐らく鳴羽田事件の事を話しているのだろう。そう思った杳が席を立とうとすると、突然、視界がピンク色に染め上げられた。

 

「杳ちゃん!心配したんだよー」

 

 1-Aクラス随一の”おてんば娘”である芦戸が、目の前に立っていた。机に両手を突いて身を乗り出し、金色の目を心配そうに細め、こちらを覗き込んでいる。麗日と蛙吹、そして八百万の面々も後方からやって来て、それぞれ労りに満ちた声を絞り出した。

 

「クロウラーの奥さんと人質に取られたんだよね?」

「大変だったわね。怖かったでしょう?」

「心配しましたのよ」

「……あ、ううん。私、気絶してたからよく分からないんだよね。気が付いたら病院にいたし」

 

 杳は頭をかきながら、緊張感のない笑顔を浮かべた。――ヒーロー社会において、資格未取得者が保護管理者の指示なく個性で危害を加える事は”規則違反”だ。たとえ敵の手から人を守るために戦ったとしても、杳の処罰は免れない。そのため、塚内は航一を功労者として擁立する事で、杳の活躍を隠蔽した。幸い目撃者はいない。

 

 表向きは――()()()()()()を打たれて気絶した状態で、杳達がロックに攫われた。救けに来たクロウラーはロックと交戦し、彼を制圧した後、力尽きた。全員の意識がない中、密かに現場へやって来た死柄木弔が口封じのため、ロックにとどめを刺した――という事になっている。奇しくも杳達は、保須事件と同じ顛末を辿ったのだった。

 

「ま、一番変化というか大変だったのは、()()()だよな」

 

 上鳴はやおらそう言うと、轟達と杳をそれぞれ指差した。爆豪の容赦なき袈裟(けさ)固めから抜け出しつつ、瀬呂が明るい声で後を続ける。

 

「そうそう、ヒーロー殺しに何だっけ……ロック?命あって何よりだぜ。マジでさ」

「エンデヴァーとクロウラーが救けてくれたんだってな。No.2は当然として、クロウラーって意外とすげーのな」

「そうだな。……救けられた」

「うん。クロウラーはすごいよ」

 

 轟は妙に大人びたような表情で頷いた。緑谷は困ったように笑い、そっと彼を見上げる。一方、クロウラーが話題に上った事に気を良くした杳は、すかさず鳴羽田土産”くろうらーまん”をリュックから取り出すと、布教ついでに皆に配り始めた。尾白は切れ長の目を恐怖の色に濁らせ、向かいの席に着く口田に話しかける。

 

「俺、ニュースとか見たけどさ。あいつら、敵連合とも繋がってたんだろ?もしあんな恐ろしい奴らがUSJ来てたかと思うと、ゾッとするよな」

 

 杳は不意に黙り込んで、開いた掌を見下ろした。そこに描かれていた花丸マークは、もうすっかり消えている。――敵連合、死柄木弔。昼下がりの公園で一緒に飲んだコーヒーとドーナツの味を、杳は今でもよく覚えている。顔をひたりと覆う、冷たく荒れた手の感触も。何とも言えない複雑な感情が心の中で渦を巻いて、胃もたれしそうだった。杳が浮かない表情でまんじゅうの空き箱を畳んでいると、おもむろに上鳴が口を開いた。

 

「でもさ、確かに怖ぇけどさ。尾白、ステインの動画見た?アレ見ると一本気っつーか執念っつーか、カッコよくね?とか思っちゃわね?」

 

 その瞬間、教室内の空気がピーンと張り詰めた。誰もが口を噤み、ガラス細工を扱うように繊細な視線を、飯田の方へ向ける。緑谷が窘めるような口調で上鳴の名前を呼ぶと、彼はやっと自らの失言に気付いたのか、ハッと大きく息を詰めた。

 

 ――ステインとロックは同じ(ヴィラン)という存在ではあるものの、その犯罪内容に()()()()()()があった。ステインは”英雄回帰”という確固たる思想に基づいて行動しており、無関係な民間人を手に掛ける事はなかった。対するロックは自分の欲望を叶えるため、誰でも巻き込んだ。そのため、ロックは世に吐いて捨てるほどいる”身勝手な敵”の一人として認識されるだけに留まったが、ステインの存在はメディアに祭り上げられ、その主張思想が国中にばら撒かれる事態にまでなった。

 

 強い信念を持つ者は、大衆の心を惹き付ける。上鳴がステインをカッコいいと思うのも無理はない。だが、彼はヒーローを志す人間だ。決してそれに迎合してはならないし、ましてやこの教室にはステインに兄を害された飯田がいる。今や、あの爆豪すらも友人達にプロレス技を掛けるのを中断し、鋭い目で飯田を見守っていた。

 

「いや、いいさ。確かに信念の男ではあった。クールだと思う人がいるのも分かる」

 

 飯田は冷静だった。古傷の残る自らの手をじっと見つめながら、静謐な声で言葉を続ける。眼鏡の奥に光る精悍な眼差しは、ひときわ凛とした輝きを放っていた。

 

「ただ奴は信念の果てに粛清という手段を選んだ。どんな考えを持とうとも、そこだけは間違いなんだ」

 

 クラス委員長の言葉は正しく的を射ていた。どんな大義名分があろうと、暴力や殺人を犯した時点でその者は罪人となる。クラスメイト全員が固唾を飲んで見守る中、飯田は俊敏な動作で片手を持ち上げ、空気を切り裂くように勢い良く振り下ろした。

 

「俺のような者をもうこれ以上出さぬためにも!改めてヒーローへの道を俺は進む!」

 

 カーテン越しに差し込んだ一筋の陽光が、飯田のひたむきな表情を照らし上げる。どうやら保須事件を通して、彼は心身共に大きく成長を遂げたようだった。杳は思わず麗日と顔を見合わせて、安堵の溜息を吐く。

 

 しゅんとする上鳴を気遣ってか、飯田はクラス委員長としていつも以上にきびきびとした態度で、皆に着席の指示を出した。――カッコいいよ、飯田くん。杳は彼の後姿を見守りながら、そう思った。

 

 

 

 

 一週間振りの「ヒーロー基礎学」は運動場γ(ガンマ)で行われる事となった。そこは運動場とは名ばかりの、広々とした工業地帯をまるごと再現したフィールドだった。複雑に入り組んだ迷路のような細道が、延々と続く密集工業地帯の最中に、杳達は立っていた。

 

「職場体験直後って事で、今回は遊びの要素を含めた”救助訓練レース”だ」

 

 黄金時代(ゴールデンエイジ)のコスチュームに身を包んだオールマイトは、授業内容をざっと説明する。――曰く、5人4組に分かれ、1組ずつ訓練を行うとの事。生徒達は放射線状に散らばって待機。レースの号砲は、救助者役のオールマイトが出す救難信号だ。スモッグ薫る金属製の迷路をやり過ごし、無事に彼の下へ辿り着いた者から、順位が割り振られていく。

 

 記念すべき一番手のメンバーは、緑谷、芦戸、飯田、瀬呂、そして杳だった。杳は指定の位置に着くと、赤いスニーカーの靴紐を結び直し、ポケットからナックルダスターを取り出して装着する。――ものすごく緊張する。上手くできるだろうか。杳は祈るように目を閉じて、大きく深呼吸した。そんな彼女達の様子を、他の生徒達は大きなモニターで観戦する事ができた。

 

「クラスでも機動力良い奴が固まったな。()()()()

「強いて言うなら、緑谷が若干不利かもしれん」

 

 砂藤と障子はそれぞれ腕組みをしつつ、モニターを見上げ、チームの順位予想をし始めた。悲しい事に、杳は()()()()()を受けていた。だが、それは当然の事だ。クラスメイト達は、職場体験を通して彼女が急成長した事をまだ知らない。耳郎がイヤープラグを人差し指に絡めながら、口を開く。

 

「確かにぶっちゃけあいつの評価ってまだ定まんないんだよね」

「ウィ☆まるで体に個性が合ってないみたい☆」

 

 青山はバイザー越しにきらめく瞳を物憂げに曇らせ、耳郎に応える。このレースのダークホースに当たる存在は、緑谷だった。緑谷はしばしば予想外の活躍をして番狂わせを演じる事がある。だが、その代償はいつも笑えないほどに重すぎた。口田は思いつめた表情で両手を組むと、小さな声で祈りの言葉を捧げ始める。

 

「……!(白雲さんが怪我しませんように!)」

「案ずるな、動物使い(ビーストテイマー)よ。白雲は大丈夫だ」

「ダイジョーブ!」

 

 マントの隙間から黒影がニュッと顔を出し、口田に向かってサムズアップしてみせる。――常闇は、鳴羽田から帰還したホークスに、杳の成長物語を聞いて知っていた。いずれ妹弟子となる彼女の雄姿を見守りながら、彼は嘴を小さく綻ばせる。

 

「俺、瀬呂が一位」

「おいらは芦戸!あいつ、運動神経すげぇぞ」

「デクが最下位」

「ケガのハンデがあっても、飯田くんな気がするなぁ」

 

 クラスメイトの誰もが杳を順位予想から外し、好き勝手に話し合う。捕縛布を首に巻いた心操は貯水タンクに寄りかかり、腕組みをしながら、モニターをじっと見据えていた。

 

 

 

 

 やがてスタートの号令が掛かり、皆は一斉に個性を発動し、動き出した。しかし、杳だけはその場にクラウチングスタートの体勢を取ったまま、動かない。まだ彼女は自分の個性を使い慣れていない。車に乗る際、ドアにキーを差してロックを解除するように、一連の”予備動作”が必要だった。強く目を閉じて集中しながら、小さく呟く。

 

点火(イグニッション)……使用燃料:15%」

 

 刹那、杳の体の輪郭が淡く透け、胴体部分がガラス細工のように透明になり、中に鈍色の雲が滞留し始めた。――思い浮かべるのは、音速を超える雷をまとわせた”ブーツ”のイメージ。吐いた息が半ばで色づき、禍々しい稲妻が走る雲へと変化する。生温い風が周囲に発生し、地面の砂や埃を舞い上げていく。

 

2WD(ツーワード)……T(サンダー)モード……”ソニックブーツ”!」

 

 イメージを口に出した瞬間、両足の付け根から爪先までが、金色の電流をまとわせる()()()()に変化した。ゆっくりと瞼を開けた杳は、地面を蹴り、大きく跳躍する。――全身が霹靂となる”雷獣”とは違い、”ソニックブーツ”は両足部分のみを変化させている。その分、機動力が下がるものの、使用燃料は節約できる。それに雲化しているだけの上半身は生身の体と同じなので、救助活動が可能だ。

 

 ”霹靂化”系統の技は、水分子を操作して雷の軌道を描いているため、実質、空を飛んでいるのに近かった。何の遮蔽物もない高度まで一気に上昇すると、杳は中央エリアへ向かって飛翔する。

 

「え?!ちょ……そして、()()()ぉぉぉ?!」

 

 テープを伸ばして上空に舞い上がった瀬呂の横を擦り抜けた時、度肝を抜かれたような声で彼が叫んだ。貯水タンクに登った芦戸も目を見開いて、歓声を上げる。

 

「杳ちゃん!飛んでるじゃーん!」

「……ッ」

 

 杳は返事をする余裕がなかった。一蹴りする度、アクセルがベタ踏みされたような感覚に襲われる。言うなれば、三輪車にF1のエンジンを無理矢理搭載したようなものだ。全身を霹靂化していれば、脳神経も加速するために問題なく動けるが、”ソニックブーツ”は上半身が()()()()()()()。圧倒的な馬力に、脳の処理が追いついていなかった。――これは後で、反省と調整が必要だ。そう考える杳の視界の端を、あるものが掠めた。何も考えず、彼女はそこへ向かって急降下する。

 

 一方その頃、”グラントリノ”の下で修業を積んだ緑谷は、”ワン・フォー・オール”が発する緑色のエネルギーを全身にまとわせ、複雑に入り組んだ道中を、軽やかに跳んでいた。

 

(落ち着け、いける落ち着け。常に5%。常に緊張と冷静を保て……)

 

 次の瞬間、緑谷の片足が濡れたパイプを踏んで、ずるりと滑った。しかし、重力に従って墜落してゆく最中、()()がその体を空中キャッチする。少年の髪がにわかに静電気を帯び、より一層、モフモフと逆立っていく。

 

「大丈夫?緑谷くん」

「し、白雲さん?」

 

 自分を抱き上げていたのは、()だった。緑谷は驚いて、大きく息を詰める。――何かの拍子に緑谷が自分の足に触れ、感電してしまったら大変だ。一方の杳はそう思って急上昇し、手近にあったビルの屋上に緑谷を下ろした。そして再び飛ぼうとした時、緑谷がふと自分の名前を呼んだ。振り向くと、彼が真剣な表情を浮かべ、こちらをじっと見つめている。

 

「救けてくれてありがとう」

「うん」

 

 緑谷の強い意志を宿した瞳と、杳のぼんやりした瞳が一瞬、交錯する。――その時、杳は初めて、緑谷達と()()()()()に立てたような気がした。

 

 杳がゴールに辿り着いた頃には、瀬呂が1位のテープを肩に掛けていて、次いで到着した飯田がエンジンの排気筒の整備を始めていた。そしてその数秒後に、緑谷がエネルギーの粒子の残滓を散らしながら、軽やかに着地する。さらにそれから数十秒後、悔しそうな顔を浮かべた芦戸が到着し、第一レースは終了した。生徒達の顔を一人一人眺め、オールマイトは大きく頷く。

 

「皆、入学時より個性の使い方に幅が出て来てたぞ。一番は瀬呂少年だったが、個人的MVPは()()()()だな」

 

 不意に名前を呼ばれ、杳は頭が真っ白になった。オールマイトは力強くサムズアップし、白い歯を惜しげなく見せつけながら、輝かしい笑顔を浮かべる。

 

「驚いたぜ、見違えたよ。まさに”Plus Ultra(さらに向こうへ)”だ。職場体験で、自分の個性をものにしたな!」

 

 オールマイトに褒められたのも、初めてだった。嬉しさと驚きの感情が綯交ぜになり、杳のハートは風船のように膨らんで、体ごとフワフワと浮き上がりそうになった。モニターのある待機場所へ向かうと、興奮した面持ちのクラスメイト達にざっと取り囲まれる。彼女は気付いていなかった。――爆豪が凄まじい焦燥と殺気を込めた目で、自分を睨み付けている事を。

 

 

 

 

 授業が終わった後、杳は麗日と授業の反省会をしつつ、皆と一緒に更衣室へ向かった。隣は男子更衣室で、壁越しに男子達の喧騒が漏れ聞こえて来る。杳はロッカーを開けると、タオルでざっと汗を拭き、ハンガーに掛けてあるシャツを手に取った。その風圧で、書きかけの被服控除届が網棚を離れ、ひらひらと宙を舞う。

 

「おっと……あ!杳ちゃん、コスチューム決まったの?」

 

 不意に前方から明るい声がして、被服控除届が空中にピタリと静止した。数秒遅れて、制汗剤の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。杳はお礼を言って、葉隠から用紙を受け取ると、恥ずかしそうに笑って頭をかいた。

 

「うん。コードネームはまだ考え中だけど」

「えー!見たい見たい見たーい!」

「うぐっ……」

 

 芦戸が元気いっぱいにタックルをかましてきて、杳は仰向けに倒れそうになった。ヒーローを志す者にとって、コスチュームはコードネームと同じくらいに大切なものだ。他の女子達も興味をそそられたようで、皆作業を一旦中断し、杳が見やすいようにと広げた紙面を覗き込む。麗日が制汗剤を振りつつ、明るい声を上げた。

 

「チャイナドレスや」

 

 杳が考案したコスチュームは、白地に金糸の刺繍が入った旗袍(チイパオ)だった。背面には兄のコスチュームにあった”円形の紋章”を入れる予定だ。機動力を重視するため、ドレスの袖は取り払い、裾はマイクロ丈にしている。深いスリットの入ったドレスの下には、同じ丈の黒スパッツを履く。フワフワとしてボリュームのある髪は視界を遮らないよう、両サイドで緩めのお団子にし、白い布カバーで覆う事にした。杳は円形の紋章をそっとなぞりながら、蛙吹に向けて小さく笑う。

 

「結局、お兄ちゃん離れできてない感じだけど……形見として受け継ぎたいんだ」

「とっても素敵よ。杳ちゃん」

「――見ろよこの穴!ショーシャンク!恐らく諸先輩方が頑張ったんだろう!」

 

 その時、後方から()()()()がして、女子達は一斉に振り向いた。――良く見ると、目の前の壁に小さな穴が開いており、声はそこから聴こえている。嫌な予感がした耳郎は、ゆっくりと迎撃態勢を取った。唇の前に人差し指を立てて、皆に向け”静かに”と合図すると、片手に絡めたイヤープラグを振り回しながら、そっと穴に近づいていく。

 

「やめたまえ峰田君!ノゾキは立派なハンザイ行為だ!」

「オイラのリトルミネタはもう立派なバンザイ行為なんだよぉ!」

 

 クラス委員長の飯田が峰田を諫めるが、性欲の狂戦士(バーサーカー)と化した彼の勢いは止まらない。ユーモアのある言い回しをしながらも、穴を隠していたポスターを力任せに破り取った。そして峰田は夢と希望に満ち溢れた声で、女子達の恵まれた肢体を順番に賛美し始める。

 

「……麗日の麗らかボディに、耳郎の気ままな(アバンドーノ)耳たぶ、白雲のフワフワおっぱいリターンz――ぎゃああぁぁ……!!」

 

 次の瞬間、金属が大気を切り裂くような鋭い衝撃音が弾けた。峰田の悲痛な叫び声が天井近くまで急上昇し、ギリギリと何かをふん縛る音が穴の中から聴こえて来る。

 

「よくやった心操君!全く油断も隙もない!」

「さっすが()()J()r()

「それ止めろ」

 

 飯田と切島が、心操を褒め称えている。恐らく彼が捕縛布を使い、峰田を拘束したのだろう。そして再び、更衣室に安寧が訪れた。女子達はホッと肩を撫で下ろし、着替えを再開した。八百万は”創造”の個性で穴を念入りに修復する。葉隠が大きく伸びをしながら、軽快な声を上げた。

 

「いやー、杳ちゃんもだけど、心操くんも急成長だよね。あと緑谷くんも。”激変トップ3”って感じ!」

「ほんとそれ。峰田のストッパー役になってくれて助かるわー」

「デクくんもピョンピョンしてカッコ良かったし……」

「え?お茶子ちゃん、今なんて?」

「な、なんでもないんよ!」

 

 甘酸っぱい恋の香りを嗅ぎ付け、光の速さで飛んできた芦戸の追撃から逃げ回る麗日をぼんやりと眺めながら、杳は口元を綻ばせた。大切な友人を褒められるのは、誰だって気分が良いものだ。彼女は誇らしい気持ちで一杯になった胸を、シャツの上から軽く叩いた。

 

 

 

 

 梅雨が終わり、いよいよ本格的な夏がやって来た。抜けるような青空に真っ白な入道雲、眩い陽光に、相澤は思わず目を細める。教卓に置いた書類のページをめくりつつ、彼は、夏の熱気とは程遠い冷え切った声で連絡事項を伝え始めた。

 

「そろそろ夏休みも近いが、もちろん君らが30日間一ヶ月休める道理はない。……夏休み、()()()宿()やるぞ」

「知ってたよー!やったー!」

 

 クラスメイト達は一斉に両手を上げ、歓喜の雄叫びを上げた。小学校の時に行った合宿の思い出が脳裏をよぎり、杳はほんわりと微笑んだ。――飯盒で炊いた白米と一緒に食べる、手作りカレー。キャンプファイヤーに肝試し、興奮してなかなか眠れなかった夜。さすがに小学生時代と同じカリキュラムではないだろうが、寝食を皆と過せる事が単純に楽しみだ。しかし、そんな杳達のふわふわと浮ついた気持ちは、相澤が放った鋭い眼光により、跡形もなく消失する事となる。

 

「……ただし。その前の期末テストで合格点に満たなかった者は、学校で補習地獄だ」

「皆、頑張ろーぜ!」

 

 ”学校で補習地獄”――その恐ろしい言葉は、クラス内成績()()()()2()の実力を誇る、芦戸と上鳴の心臓の鼓動をピタッと止めた。熱血漢の切島は拳を握り締めながら、クラスメイトに激を飛ばす。一方の杳はマイクデザインのシャープペンをノックしながら、そっと安堵の溜息を零した。――轟のみならず心操も、座学は比較的優秀な方だ。大手を振って林間合宿へ行くためにも、勉強会頑張ろう。杳は頬を膨らませて気合を入れつつ、相澤が黒板に書き記す細々とした連絡事項をノートに写していくのだった。

 

 

 

 

 そうして時は流れ、期末テストまで残り一週間を切った金曜日の放課後。上鳴と芦戸はそれぞれ頭を抱え、机に突っ伏していた。体育祭や職場体験などの行事が立て続けに催された事もあり、腰を据えて勉強する時間が取れなかったのだ。おまけに期末試験は座学のみの中間と違い、戦闘能力を問われる”演習試験”も控えている。そんな”万事休す”と言わんばかりの様子を見兼ねて、頭脳明晰な八百万がおずおずと声を掛けた。

 

「お二人とも。座学なら私、お力添えできるかもしれません」

「ヤオモモー!」

 

 八百万はクラス内で常にトップの成績を残している。彼女の鶴の一声で、上鳴や芦戸はこの週末、八百万邸に赴いて勉強会を取り行う事となった。二人ほどの成績ではないが、耳郎や瀬呂らも勉強会に参加する意志を見せる。そこで耳郎がふと振り返り、轟の席で立ち話をしている”青春コンビ”を見た。――ちょうど二人の間に席が配置されている事もあり、耳郎は普段から何かと杳達を気にかけてくれていた。

 

「青春コンビはどーすんの?あんたらもお世話になったら?」

「悪ィな。こいつらは俺ん家で勉強会だ」

 

 杳達が何かを言う前に、轟は母宛の手紙に切手を貼りつつ、耳郎に応えた。

 

()()()()で」

「へー。そーな……は?」

 

 その瞬間、教室の空気がピシッと凍り付いた。いち早く冷凍睡眠から目覚めた峰田と上鳴が、血涙を流しながら泣き叫ぶ。

 

「おいおい泊りがけってなんだよ!昼は普通のお勉強、夜は秘密のお勉強ってかぁぁぁ?!」

「ふざけんなクソ野郎ども!羨ま死ね!俺らも混ぜろ!」

 

 心操が捕縛布で二人を拘束している間、杳は皆の誤解を解くため、”轟の兄と姉にご招待いただいたのだ”という事情を話して聞かせた。――そもそも自分達は今まで男女の関係を意識した事なんてないし、仮に一万歩譲ってそういう雰囲気になったとしても、轟家にはあのエンデヴァーがいるのだ。良いムードを作る前に、消し炭にされるのがオチだった。しかしそんな諸事情は、峰田達の知ったところではない。執念で拘束を抜け出すと、彼は魂の雄叫びを上げた。

 

「今からお姉さんに言ってこい!もう二人友達がいたってよ!」

「峰田、お前……」

「お前らマジで黙れ」

「うるせぇこのむっつりスケベがぁ!どうせこの捕縛布で白雲を亀甲s――」

 

 その瞬間、心操の捕縛布が再び、一閃した。亀甲縛りにされた峰田の姿が、前衛的なオブジェとして教室内に展示される。あわあわとその様子を見守る杳は、ふと小さく名前を呼ばれたような気がして、振り向いた。そこには、どこか思いつめた表情をした緑谷の姿があった。

 

「白雲さん。本当に轟くん家に行くんだよね?……良かったら、これ」

 

 そう言って緑谷が手渡してくれたメモ用紙に、杳は視線を落とす。――オールマイトのイラスト付きの紙面に、几帳面な字体で、隣町にある老舗の和菓子店の名前と住所、それから電話番号が書いてあった。緑谷は照れ臭そうに鼻をこすりながら、小さくガッツポーズをしてみせる。

 

「ここの葛餅、エンデヴァーが好きらしいんだ。お土産に持っていくといいかも。その……気を付けてというか、頑張ってね」

「うわー、すごく助かる。ありがとう。緑谷くん」

 

 手土産を何にしようかと考えあぐねていた杳にとって、この情報はまさに渡りに船だった。さすがは情報通の緑谷だ。彼の厚意に甘え、素直にお礼の言葉を告げる杳はまだ知らなかった。――エンデヴァーが(もたら)した、轟家を覆う闇の深さを。




今回の話、難産すぎてやばかったです。何故だろう。朧の衣装が”孫悟空”のイメージなので、杳も中華風にしました。


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No.24 轟家①

 翌日の朝9時。轟家にほど近い駅の中央口で、杳は人使と共に焦凍の迎えを待っていた。売店でパプコを買い求めるついでに構内をざっと見て回ったが、エンデヴァーの本拠地(ホーム)だというのに、関連商品の類は思ったよりも少なかった。

 エンデヴァーがメディアやファンに媚びないストイックな人物だという事は、杳もメディア報道を通じて何となく知っている。彼が渇望するのは今も昔も、No.1ヒーローの玉座だけだ。

 

 改札口前の壁には、”事件解決数史上最多ヒーロー”という金文字が刷られた、ヴィラン撲滅啓発ポスターが等間隔に貼られている。その中で仁王立ちするエンデヴァーの厳しい眼差しから思わず顔をそむけ、杳は外の景色を眺めた。

 

 駅舎の外では、夏の朝の日光が、道路を走行する車に乱反射し、辺り一帯をダイアモンドのように輝かせていた。ねっとりとした暑さが皮膚にまとわりつき、額に玉のような汗がいくつも浮かぶ。外がとてつもなく陽気な雰囲気であるのに対し、杳の心は冷たく凍りつき始めていた。

 

 焦凍の家に遊びに行くのはとても楽しみだが、それ以上にエンデヴァーと邂逅する事が怖かった。だが、賽は投げられたのだ。今更引き返す事などできないし、深く考えるのは止めよう。杳は大きく深呼吸して嫌な気持ちを打ち払うと、人使と半分こしたパプコのキャップをねじ切った。

 

 人使は焦凍とREIN通話を終え、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。そして濃い隈に縁取られた紫色の瞳で、小さな友人を見下ろす。

 

「もうすぐ来るって。おまえ、マジで大人しくしてろよ」

「大丈夫。私、騒がしいタイプじゃないし」

「そうじゃなくて。クロウラーの事、エンデヴァーに何言われてもヘラヘラしてろって事」

 

 人使はパプコを勢い良く吸い込んだ。相澤に師事してから、彼は流動食を摂るスピードが格段に早くなったように思う。杳は航一の優しい笑顔を思い出し、大きな溜息を零した。

 もしエンデヴァーが航一の悪口を言ったら、自分は言い返さずにいられるだろうか。自信なさそうに俯くと、杳は小さな声で呟いた。

 

「……うん」

「オイなんだその間は」

「悪ィ。待ったか」

 

 見知った低い声がして、二人は前方を見た。構内を忙しなく行き交う人混みの中に、シンプルな私服に身を包んだ友人、焦凍が立っていた。彼の色違いの目は、二人の持っているパプコを興味深そうに見つめている。

 

「それ、何だ?」

「パプコ。ショートの分もあるよ」

 

 杳は新しい袋をショルダーバッグの中から取り出すと、封を切った。ボトル型のアイスが二つ連結しているのをパキンと折り、キャップ部分をねじ切って焦凍に渡す。

 すると焦凍は本体の方に熱心な視線を注ぎ、まだ中身の詰まっているキャップをゴミ箱に捨てようとした。それを目の当たりにした杳は、慌てて”待った”をかける。

 

「ダメだよ、もったいない。この部分が一番美味しいんだから」

「そうなのか?」

 

 杳は本日二個目となるパプコのキャップ部分を、美味しそうに吸ってみせた。焦凍も真似して吸ってみる。それから本体に取り掛かった彼は、アイスの味を確かめるように口をもごもご動かした後、複雑な表情を浮かべた。

 

「……味、変わらねェ」

「そりゃそうだ。肉や魚じゃねーんだから。内容物は一緒だろ」

 

 二人のパプコ劇場を黙って鑑賞していた人使は、とうとう堪え切れなくなり、吹き出した。――そんな筈はない。キャップ部分の方が食感も良いし、美味しいと思う。杳は膨れっ面で言い返した。

 

「絶対キャップの部分の方が美味しいもん」

「はいはい。てかおまえ、アイス食うの早くね?」

 

 そう指摘されて、杳ははたと考え込んだ。思い返せば、小さな頃から冷たいものが好物だったような気がする。そしてそれらを食べるのも、心なしか早かったような。杳は自分の新たな一面を発見し、大きく息を飲んだ。

 

「私、”アイスの早食い”が特技なんだ」

「何その無駄な特技」

 

 夏を謳歌するように鳴き立てる蝉しぐれの中、軽口を叩き合う二人は、前を進む焦凍の口元が綻んでいるのに気づかなかった。

 

 

 

 

 轟家は、立派な生け垣に囲まれた、純和風の豪邸だった。(ひのき)で造られた格子戸門を開けると、手入れの行き届いた日本庭園が視界を彩る。

 石や岩を組んで島や山を表現する龍門瀑(りゅうもんばく)の様式が取られており、小さな池や川に見立てた曲線の水路が引かれていた。周囲には石灯籠や手水鉢(ちょうずばち)鹿威(ししおど)しがあしらわれ、水の流れや竹が石を打つ音色で、何ともいえない安らいだ情緒が味わえる。

 

 庭園の奥には、凛とした佇まいの屋敷があった。藍色の瓦屋根が日光に反射して、燦然と輝いている。苔むした延べ段をそろそろと歩き、杳達は屋敷の玄関に辿り着いた。

 門扉と同じ造りの引き戸をカラカラと開けると、奥の方から明るい声が飛んでくた。やがてエプロンを身に着けた一人の女性がやって来て、晴れやかな笑顔で頭を下げる。

 

「初めまして。焦凍がいつもお世話になっております。姉の冬美です。今日は来てくれてありがとう!」

 

 大人しいタイプの焦凍とは異なり、冬美は朗らかな性格のようだった。人使が丁寧に礼をして自己紹介と挨拶をした後、杳もそれに習い、最後に隣町の和菓子店の紙袋を手渡した。中には葛餅と練り菓子の詰め合わせが入っている。恐縮しながらも受け取った冬美は、紙袋の銘柄を見て、驚いたように目を丸くした。

 

「気を遣わせちゃってごめんね。このお店、お父さんが好きなんだ。調べてくれたの?」

「友人が教えてくれまして」

「そうなんだ。きっととっても喜ぶよ。本当にありがとう」

 

 ――掴みはOKだ。ありがとう、緑谷くん。杳は友人の素朴な笑顔を思い浮かべ、心の中でそっと手を合わせた。あとは、本番(エンデヴァー)をどう切り抜けるかだ。杳は拳を固く握り、なけなしの勇気を奮い立たせた。

 一方の冬美は、焦凍に友人達を客間へ案内するようにと指示した後、弟が持っているパプコの空き容器に目を留めた。

 

「焦凍。それ、パプコ?」

「ああ」

 

 空になった容器を見下ろし、焦凍は少し嬉しそうに応えた。次の瞬間、杳達は度肝を抜かれて立ち竦んだ。――冬美が涙ぐんでいる。

 

 その時、杳の脳内を金色の電流と共に、一つの推測が閃いた。筋金入りのお坊ちゃまである焦凍は、パプコ等といった庶民の食べ物を口にする機会がなかったに違いない。もしかしたら家で禁止されていたのかも。知らなかったとは言え、悪い事をしてしまった。杳は慌てて冬美の前に駆け寄ると、深く頭を下げた。

 

「すみません。私がショートくんに渡したんです」

「あ、違うの。ごめんね。嬉しくって」

 

 冬美は目尻に浮かぶ涙を拭いながら、微笑んだ。――()()()()()?その言葉の意図が分からず、杳は思わず人使と目線を交わし合った。

 

「焦凍には友達とアイスを分け合ったりとか、お家で仲良く遊んだりとか……そんな普通の子みたいに他愛無い事をさせてあげられなかったから。だから本当に、今日杳ちゃん達が遊びに来てくれて嬉しいんだ」

「……行くぞ」

 

 焦凍はちょっと恥ずかしくなったのか、色違いの髪を乱暴にかき乱しながら、靴を脱いで玄関に上がった。――そうか。杳の耳に、かつて聞いた焦凍の言葉がよみがえる。彼はオールマイトを超える存在になるため、家族から引き離され、父から厳しい訓練を受けて育ったのだ。

 

 客間へ向かう友人の背中を、杳は労りに満ちた眼差しで見つめた。自分はヒーローになるために有用な情報は何一つ知らないけれど、下らない知識ならたっぷりと有している。今まで焦凍は――それこそパプコの存在も知らないくらい――炎と氷に囲まれた場所で、ずっと我慢して過ごしてきたんだ。せめて自分達と一緒にいる時くらい、そこから解放されたって構わないだろう。杳は優しい声で、そっと友人の背中を撫でた。

 

「ショート。林間合宿でいっぱい遊ぼうね。お菓子も沢山持っていくから」

「ああ」

「いや遊んでる暇ねェし。また先生に怒られるぞ」

 

 すかさず人使の突っ込みが捕縛布のように飛んできて、杳は口籠った。

 屋敷内は隅々まで清掃が行き届いており、快適だった。庭に面した渡り廊下を突っ切った先に、客間が数部屋、並んでいる。

 杳と人使にはそれぞれ個室が与えられた。襖を開けると純和風の部屋が広がっており、床の間には掛け軸が吊るされ、花が一輪生けられている。大きな窓の外には、先程の庭園があった。――”エンデヴァーが控えている”という一点を除けば、ここは天国だった。

 

 

 

 

 荷物の整理を終えた杳達は、空き部屋の一室を借り、さっそく期末試験の勉強を始めた。焦凍は因数分解の問題を解き進めている杳のノートを見ると、シャープペンシルの先端で数式の一部を指し示す。

 

「まず共通項を括り出さないと。いきなり公式に当て嵌めちゃダメだろ」

「うーん……」

「どう、お勉強はかどってる?お昼ご飯持ってきたよ」

 

 襖を少しだけ開けて、中から冬美がちょこんと顔を覗かせた。慌てて居住まいを正す杳達に微笑みかけながら、冬美はテーブル上に漆塗りの盆を置く。そこには薬味や具材がたっぷり入った、冷やしぶっかけ素麺が三人分載せられていた。杳達は恐縮しながら受け取り、頭を下げる。

 

「すみません。ありがとうございます」

「いいのいいの。簡単なものでごめんね。その代わり、夕飯は奮発しちゃうから」

 

 力こぶを作ってみせる冬美の表情には、明るい希望の色が漲っていた。上機嫌な様子で去って行く彼女を見送った後、杳達はそれぞれ素麺の入った器を手に取った。素麺は冷たくてこしがあり、豊富な具材に絡めて食べると、より美味しかった。そして何より、窓の外から見える庭園の景色と鹿威しの音に良く合う。思わず舌鼓を打ちながら、杳は二人を見上げ、おずおずと口を開いた。

 

「あのさ、御夕飯のお手伝いしない?」

「そうだな。これ食ったら行くか」

 

 よくよく考えてみると、冬美はたった一人で()()()の食事の準備をしているという事になる。招かれた側だとしても、ここは手伝うのが礼儀というものだ。杳の提案を聞いた焦凍はコクンと頷き、食べ進めるスピードを早めた。人使はそう応えると、自分のコップにコーラを注ぎ入れようとする。

 

「あ、待って。私が注ぐ」

 

 杳は急いで立ち上がり、友人の手からコーラのペットボトルを受け取った。――実は轟家へ遊びに行くと決まった日から、ちょくちょく父の晩酌に付き合い、お酌の練習をしていたのだ。エンデヴァーがお酌をさせてくれるとは限らないが、もしかしたらそうなるかもしれない。少しでも彼との関係性を向上させるためにも、練習に励まねば。

 杳が緊張した面持ちでコーラを注ぎ終えると、人使は何とも形容しがたい顔つきで、泡だらけになったコップを見た。

 

「めちゃくちゃ泡立ってんだけど」

「ごめん。ビールをイメージしてて」

「俺にも入れてくれ」

 

 焦凍が好奇心に満ちた眼差しで、杳に自分のコップを差し出した。喜んで注ぎ入れると、今度は焦凍が”自分もやりたい”と言い出し、結局三人の前に泡立ったコーラ入りのコップが爆誕する事となった。早く冬美の下へ行くために一息で飲んだ三人は、泡のヒゲが付いたお互いの顔を見るなり、一斉に吹き出したのだった。

 

 

 

 

 杳達はダイニングルームへ向かった。広々としたシステムキッチン内をくるくると動き回り、冬美は一人、料理の支度に勤しんでいる。

 

 冬美は恐縮しつつも、三人の提案を受け入れてくれた。人使が野菜の下ごしらえをし、焦凍が足りないものの買い出しに行っている間、杳は冬美と天ぷらの準備に取り掛かる。杳がたどたどしい手捌きでエビの背綿を取り除いていると、冬美が優しく声を掛けた。

 

「ありがとうね。すごく助かるよ」

「いえいえ、そんな。夕食、とても楽しみです」

「ふふ」

 

 シャボン玉のように儚く美しい笑みを浮かべると、冬美は六人分の食器や箸がずらりと並んだテーブルを見つめた。その黒い瞳の奥に、小さな炎の揺らめきが垣間見える。

 

 杳はふと”マッチ売りの少女”という童話のワンシーンを思い出した。――寒さにかじかんだ体を暖めるため、少女は売り物であるマッチを一本擦り、点った炎の中に幻影を見る。暖かいストーブや七面鳥などのご馳走、綺麗に飾り付けられたクリスマスツリー、優しい家族。決して叶う事のない、夢の瞬き。

 

 幼い時に母が読んでくれた絵本の中の少女と、今の冬美は、()()()をしていた。彼女は一体、どんな夢を見ているのだろう。やがて杳の視線に気づいたのか、冬美は下準備の終わったエビに衣を付けながら、穏やかに話し始めた。

 

「ずっとね、夢だったの」

 

 杳は大葉を洗う手を止め、冬美の話を聴くために、全身全霊を耳に傾けた。

 

「うちは、お父さんが()()()()()でしょ。正直言って、まともな家庭環境じゃなかった。だから小さい頃からずっと憧れてたの。お父さんとお母さんがいて、兄弟がいて、毎日一緒に食卓でご飯を食べる事。皆笑ってて……ううん、喧嘩したっていい。とにかくそんな、平凡な生活」

 

 今、冬美が見つめているテーブルには、轟家の幻影が映っているのだろう。――テレビを見ながら食事をする夏雄、その様子を叱る母親、戦闘訓練での反省点を真剣に話し合うエンデヴァーと焦凍。ありふれた平凡な家庭のワンシーン。

 

 だが、杳は知っていた。”平凡”、”普通”、”一般”――これらの言葉は一見するとありふれた、手を伸ばせばすぐ届きそうな、親しみのある距離感を示しているように思える。しかし、そんな事はない。”平凡な家庭”など、空に光る星と同じだ。どれほど渇望しても決して届かず、だからこそ無情なほどに冷たく、そして美しく輝き続ける。

 冬美は先端に衣を付けた菜箸を天ぷら鍋に入れ、温度を確かめながら、小さく微笑んだ。

 

「でも杳ちゃん達と出会って、焦凍が変わったの。お母さんに会うようになって、それで、家の雰囲気も少しずつ変わっていって……お父さんも今晩のお食事会に参加するって言ってくれて。

 もしかしたら、これをきっかけに普通の家族に戻れるかもしれないって。その一歩を踏み出せたかもしれないって、そう思ってるんだ」

 

 冬美の目には、薄い水の膜が張っている。それを見た瞬間、杳は今晩、たとえエンデヴァーに市中引き回しの上、打ち首拷問された挙句、火炙りにされても、一切抵抗しないでいる事を決めた。自分のせいで、冬美が両手でそっと包み、風に吹かれて消えないようと守り続けて来た夢を壊したくない。

 

 やがて衣を付けたエビを手際よく揚げていく音が、キッチン内に弾けた。――そう言えば、()()()()はどんな人なんだろう。ふと杳は気になって、口を開いた。

 

「お兄さんはどんな人なんですか?」

「夏雄は明るいよ。お調子者って感じかな。大学入ってからは、あんまり帰ってこないの。なんでも彼女ができたんだって」

 

 冬実は茶化すようにそう言って、朗らかな笑い声を上げた。大学生で彼女がいる、明るい人。杳の脳裏に、1-Aきってのお調子者である上鳴のウェイ顔が思い浮かぶ。仲良くなれそうだ。杳は気持ちが楽になった。

 

 その時、玄関の引き戸がカラカラと開く音がした。――夏雄か、エンデヴァーか、一体どっちだ。杳が身を固くして構えていると、きつね色になった天ぷらをバットに上げつつ、冬美が申し訳なさそうに声を掛けた。

 

「夏雄が帰ってきたみたい。今、手が離せないから、杳ちゃん迎えに行ってくれない?」

「はい!」

 

 お兄さんのお迎えなら、お手の物だ。杳は快く頷いた。軽く手を洗うと、彼女はスリッパの音を響かせながら玄関へ向かった。




轟家編を書くに当たり、シンソー&ショートの表記を名字→名前に変更いたしました(*´ω`)
パピコ&バタービールネタで5,000字超えたので、二つに分けました( ;∀;)次回は地獄のエンデヴァー&夏雄編です。


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No.25 轟家②

 杳が急いで玄関に向かうと、カジュアルな服装に身を包んだ青年が屈み込み、三和土(たたき)に脱いだ靴を揃えているところだった。こちらに背を向けているため、顔立ちや表情までは分からない。緊張気味の笑顔を浮かべて、杳は明るい声を出した。

 

「初めまして、白雲杳です。今日と明日と二日間、お世話になります」

「……ああ」

 

 おもむろに振り返った夏雄の口から、白い息と共に苛立った声が零れた。

 

 杳は思わず狼狽して、その場に立ち竦む。――冬美が言っていた”明るいお調子者”と、今の彼の姿とは全く合致しない。一体、どういう事だ?ドライアイスを押し固めたような冷たい瞳が杳をじろりと見やり、興味を失ったように逸らされる。

 

 俄かに、遠くの方から車のエンジン音が近づいて来た。車は砂利を踏みながらゆっくりと停まり、そこから誰かが降りた。そして一人分の足音がこちらへやって来る。

 

 その瞬間、周囲の気温がガクッと下がった。まるで冷蔵庫の中に放り込まれたような冷気を感じ、杳は思わず震え上がる。あまりの変化についていけず、縋るように夏雄を見上げた杳は、小さく息を詰めた。――彼の目には、痛々しいほどの殺意と敵意が込められていた。その目線はただ真っ直ぐに、玄関の引き戸へ注がれている。

 

 やがて、がらりと戸が開き、轟家の大黒柱である炎司が、少し背を屈めて入って来た。雄偉な顔立ちと体躯を持つ、壮年の男性だ。神話に登場する”地獄の閻魔大王”を彷彿とさせるような覇気が、その全身から放たれている。

 

 夏雄が無意識に発する冷気と、炎司の体内に籠もった熱気がぶつかり合い、玄関内を生温い風が吹き付けた。言葉を交わす事なく、二人は睨み合う。杳はその場の雰囲気に圧倒され、動けなかった。――明らかに、親子の雰囲気ではない。

 

 やがてキッチンの方からバタバタと何かを急いで片付けるような音がして、冬美が早足でやって来た。玄関の引き戸が()()開く音がしたため、相当慌てたのだろう。濡れた手をエプロンで拭いながら、彼女は努めて明るい声を出した。

 

「お父さん、夏雄!お帰りなさい!」

「ただいま」

「……」

「紹介するね。この子が白雲杳ちゃん。焦凍のお友達」

「ああ。君がクロウラーの」

 

 炎司の青い双眸が、杳を見下ろす。――その瞬間、()()()()()()()()()()()

 

 近くには処刑台がもう一つあり、そこには()()が磔にされていた。カラスの群れが飛び交う空の下、処刑台を囲むように張り巡らされた柵の前には、大勢の観衆がひしめいていた。皆、罵詈雑言を並べ立て、杳と航一に石を投げつける。

 

 石が当たると痛みと共に罪悪感が増し、涙と血の混じった液体が、苦痛に歪んだ顔を濡らしていく。やがて後方に控えていた処刑人が杳の肩を掴み、断頭台に引っ立てた。――嫌だ、死にたくない。器具で頭部を固定された杳が泣いていると、目の前に誰かが立った。業火に身を包んだエンデヴァーが、こちらを見下ろしている。

 

()()()()

 

 そして、頭上のギロチンが振り下ろされた。ゾッとするような風切り音と共に、周囲は暗黒に包まれる。

 

 ――気が付くと、杳は玄関先に立っていた。さっきの光景は、エンデヴァーとなった炎司に一睨みされ、杳が感じた()()だった。足が小さく震え始めたのを、杳は気合で封じ込めた。これほどの重圧(プレッシャー)を感じた事はない。ロックと対峙した時とはまた違った種類の恐怖だった。

 

 つまるところ、炎司は息子の友人ではなく()()()()、杳を見ているようだった。数秒後、玄関を開けた焦凍はすぐさま状況を理解し、杳をかばうように引き寄せ、父を睨んだ。――こうして見ると、二人はよく似ている。杳は恐怖が限界突破して真っ白になった頭の中で、他人事のようにそう思った。

 

「皆、ボーッとしてないで。ご飯食べよ」

 

 冬美の朗らかな声に、杳は思わず耳を疑った。――()()()()()()

 

 ダイニングルーム内は冷気と熱気が滞留し、生温い風が吹き荒んでいた。さっきまで明るかったはずのルームライトは今、まるで煤がかったように薄暗く感じられた。テーブルに所狭しと並べられたご馳走は、ツンと焦げた匂いがする。誰も喋ろうとしない。口を開くと、灰と煙混じりの刺々しい空気が、肺に突き刺さるからだ。

 

「食べられないものあったら遠慮しないでね」

「ありがとうございます」

 

 この世紀末な状況下で、気の弱い杳が人使に続いてお礼の言葉を言えたのは、まさしく奇跡だった。冬美以外は皆、まるでここが地獄であるかのような表情をして、目の前の料理を口に押し込んでいた。

 

 ――これは、家族団らんじゃない。杳は気が動転するあまり、茶碗蒸しに醤油を注ぎ入れながら、強くそう思った。今日出会ったばかりの他人を引っ張って来たって、これほどぎこちない空気にはならないだろう。

 

 炎のように苛烈で、氷のように冷酷、砂漠のように不毛……こんな家庭環境下で、焦凍は生きていたんだ。視界の端に冷えたビール瓶が見えたが、それどころではない事は、杳にも分かる。それでも何とか家族の絆を結ぶチャンスを得ようと、冬美は明るい笑顔を浮かべ、口を開いた。

 

「皆、職場体験終わってどんな感じ?」

「杳が一番成長してた。個性を扱えるようになってたよ。……な」

 

 焦凍は竜田揚げを一つ取りながら、優しく微笑んで、杳に語り掛けた。冬美が目をキラキラと輝かせ、尋ねる。

 

「すごい!どういう教え方だったの?」

「言わなくていい。クロウラーの教えなど」

 

 その瞬間、赤々と燃え盛る業火がダイニングルーム内を包み込んだ。

 

 ――また()()()で、炎司がこちらを牽制している。言葉を発するために酸素を吸い込んだ喉が、灼けるようにひりついて、杳は口を噤んだ。額に玉のような汗が浮かび、次々と流れ落ちていく。

 

「焦凍の教育に悪い」

 

 冷静な口調でそう続け、炎司は白飯を口に運んだ。それは、”これ以上何も話すな”という明確な拒絶だった。焦凍が箸を置き、何か言いたげに口を開きかけるが、冬美の悲壮な表情に出鼻をくじかれて、渋々といった様子で食事を再開する。

 

 食器と箸が触れ合う音だけが、お茶の間を支配する。――こんなの無理だ。杳は冷たい茶そばをフーフーと冷ましながら、泣きそうになった。ボロボロに焼け落ちた家の残骸を掻き集め、また家を創り上げようとするのと同じだ。不毛過ぎる。

 

「自分の教えが正しいって?」

 

 不意に、知らない青年の声がして、杳はおどおどと顔を上げた。人の神経を逆撫でするような、嘲り笑いを含んだ声だった。

 

 ――夏雄が茶碗を持ったまま、引き攣り笑いを浮かべている。今にも爆発しそうな感情を辛うじて押し込めているように、唇の端が細かく震えていた。冬美が泣きそうな顔で夏雄の袖を握るが、彼の勢いは止まらない。

 

「クロウラーはあんたより、ずっとまともだろ」

「奴の勝手な行動のせいで五人のヒーローが死んだ」

 

 炎司の冷静な言葉に激昂したのは、杳ではなく()()だった。茶碗と箸を持った両手を、彼は感情任せにテーブル上へ叩きつけ、勢い良く立ち上がった。そしてそのままの勢いで、夏雄は上座に胡坐をかく父親に掴みかかろうとする。

 

「あんたは()()()()()()だろーがッ!」

「――夏兄!」

 

 その時、焦凍が弾丸のように飛び出し、まるで父をかばうように二人の間に立った。この三人の中で焦凍が一番、自分の行動に驚いた様子を見せていた。火傷したように息を詰め、彼は小さく眉を顰める。夏雄は凍り付いたように動きを止めると、声にならない声を絞り出した。

 

「な、んで。()()……」

 

 夏雄は今にも泣きそうなくらい、悲哀に満ちた表情を浮かべると、振り上げた拳を下ろした。そして力ない足取りで、廊下へ通じるドアへ向かう。

 

「ごめん。姉ちゃん。……やっぱ無理だ」

 

 ドアの開閉音が、静まり返ったダイニングルームに響き渡る。炎司はしばらくの間、青い双眸を見開いて、信じがたいものを見るかのような目で、焦凍を眺めていた。やがて我に返った彼は、ゆっくりとした動作で立ち上がり、勝手口に繋がる方のドアへと足を進める。

 

「すまなかった。少し外に出る。ゆっくり寛いでくれ」

 

 そうして嵐のような時間と生温い暴風は過ぎ去り、後には杳達だけが残された。

 

 栓を抜かれたはいいが、誰にも飲まれる事のなかったビールが、杳の視界の端に再び映る。瓶の表面に結露した水滴が、まるで涙のように次々と流れ落ちていく。

 

(もしかしたら、これをきっかけに普通の家族に戻れるかもしれないって。その一歩を踏み出せたかもしれないって、そう思ってるんだ)

 

 冬美の言葉と共に、罪悪感のヴェールが背後から襲い掛かり、杳の体をすっぽりと包み込んだ。――()()()()()。彼女はそう思ったとたん、込み上げて来る涙の塊を抑え切れなくなった。

 

「……ずびばぜんでじだあああ!!」

「よ、杳ちゃん?!」

 

 冬美は慌てふためき、杳の小さい体を抱き締めた。杳はあまりの罪悪感に心神喪失し、今や手放しの状態で泣きじゃくっていた。人使はテーブルに置いてあったティッシュをまとめて引き出すと、友人のひどすぎる泣き顔にドン引きしながらも、丁寧に拭きはじめた。焦凍は困り果てたように眉根を下げ、杳の背中をあやすように撫でる。

 

「悪ィ、完全に巻き込んだ」

「本当にごめんね!()()()()()。早まっちゃってた」

 

 冬美は杳の頭を優しく撫でると、くしゃりと顔を歪め、心からの謝罪の言葉を送った。それから何とか食事を終えた杳達は、後片付けを始めた。残った料理を器に移し替えながら、冬美は焦凍を伺い見る。

 

「私だって、夏みたいな気持ちがないわけじゃないんだ。でもチャンスが訪れてるんだよ。焦凍はお父さんのこと、どう思ってるの?」

 

 杳の脳裏に、父をかばう友人の姿がパッと思い浮かんだ。重ねた食器を流しへ持っていきつつ、焦凍を見る。左半分に残る火傷の痕に触れると、心の輪郭をなぞるように繊細な声で、彼はゆっくりと話し始めた。

 

「この火傷は親父から受けたものだと思ってる。お母さんは堪えて堪えて、あふれてしまったんだ。お母さんを蝕んだあいつをそう簡単には許せない。

 でも……お母さん自身が今、乗り越えようとしてるんだ。正直、自分でも分からない。親父をどう思えばいいのか。まだ何も見えちゃいない」

 

 水の流れる音と食器を洗う音に混じって、友人の思い悩む声が聴こえた。人使が洗って手渡してきた食器を、杳は黙ったまま、キッチンタオルで拭いていく。

 

 先程の友人の言葉を、杳は頭の中でゆっくりと反芻した。そして導き出された答えを口にするべきかどうかで、逡巡する。だが、友人を救けたい。杳は意を決して、口を開いた。

 

「ショートは……たぶん、許したいと思ってる」

 

 その言葉は彗星のように飛んできて、焦凍の心の奥深くに突き刺さった。流しの方を見ると、杳が静かな眼差しをこちらに向けている。まるで教室で黒板に答えを書き記す時のように、幾分か緊張した面持ちで、彼女は言葉を続けた。

 

「すごく優しいから。お母さんに勇気を出して会いに行って、エンデヴァーさんの職場体験に行って、歩み寄ろうとしてるんだと思う。

 ……でも、もっと自分を大切にするべきだよ。こんなの、辛すぎるよ」

 

 枯れたはずの涙腺が疼き、大粒の涙がまた、杳の目から零れ落ちた。――あの食卓の空気を、杳は決して忘れる事はないだろう。食事という人生で一番平和とも言えるシーンで、あれほどに辛いのだ。友人は一体、どんなに過酷な生活を送って来たのだろう。

 

 どんな理由があろうと、父は暴力を振るい、母は煮え湯を浴びせた。言葉にならないほど、悲しく辛かったに違いない。それなのに自分の想いを押し込めてまで、両親を救おうとしている。だからお互いの想いが拮抗し、どうしていいのか分からないのだ。

 

「ショートはもっともっと、自分の本当の気持ちを吐き出すべきだよ。もっとお父さんに怒っていいんだよ。お母さんのために、良い子にならなくていいんだよ。……私達、付き合うからさ。海辺で叫ぶのでもいいし、カラオケで絶叫するのでもいいし、何でもいいから」

 

 ――そうだ。自分は下らない事なら、山ほど知っている。その中で一つでも、友人の抑圧されてきた思いを発散できるものがあるなら。すぐに見つからないなら、これからの長い人生の中で一緒に探していけばいい。

 

 涙混じりの拙い杳の言葉は、とても単純で素朴な音色で、焦凍の心に響いた。切れ長の目を少し見開いて、彼は優しく微笑む。そしてフワフワの友人の髪を、そっと撫でた。

 

「ありがとな。……お前にはずっと救けてもらってばっかりだ」

 

 

 

 

 それより五分程前。勝手口前の石段に腰を下ろし、炎司は先程の光景を思い返していた。――”お前が家族を殺した”と涙ながらに殴りかかった夏雄、それをかばった焦凍。二人の姿が、瞼の裏に焼き付いて剥がれない。

 

 ――炎司はずっと、オールマイトを追いかけていた。どれほど血の滲むような努力を重ねても、彼は追い越せない。やがて自分を犠牲にするだけでは追いつけないと判断した彼は、彼の周りにいる存在に手を伸ばした。

 

 ただ、必死だった。炎司には自らを燃やす火炎とオールマイトしか、見えていなかった。しかし、どれだけ力を付けても、炎はオールマイトを燃やしてくれない。憎々しい笑顔を浮かべ、ライバルはいつまで経っても自分の遥か先で、星のようにキラキラと輝いている。

 

 だが、あの時――焦凍が自分をかばった一時、炎司の身を焦がしていた炎が束の間、()()()()()。今まで彼は、誰かにかばわれた事などなかった。彼が強すぎて、そうする必要がなかったとも言える。何故、炎が消えたのか。その理由を、炎司は思案した。子供にかばわれた事で自分の面子が損なわれ、プライドが傷ついたと思ったのだろうか。

 

「ショートは……たぶん、許したいと思ってる」

 

 その時、少女の静かな声が、頭上から振って来た。”許したいと思ってる”――その言葉に打ちのめされ、炎司の思考が止まる。極限まで鍛え抜いたはずの均衡能力と三半規管が束の間、意味を失くし、足元がグラグラと揺れて、そのまま倒れ込みそうになる。まるで、()()()()()()()のように。

 

(な、んで。とう……)

 

 夏雄の言葉の続きを、炎司は知っていた。何故なら彼も、焦凍の姿に()()()()()()からだ。――憤怒と羨望の炎をどれほど燃やしても、オールマイトを倒す事はできない。だが、彼以外の全ては燃え尽きた。炎が消え去った後の世界には、ボロボロに炭化した家族、そして息子の亡骸が転がっていた。一度変質したものは、もう二度と戻らない。

 

 

 

 

 あれから片付けを終えた杳達は再び食卓に集い、冬美の淹れたお茶を飲んでいた。

 

 お茶請けにとガラスの器に入れてくれた高級苺は、一口で食べ切れないほどに大きく、綺麗な紅色でとびきり甘かった。冬美の話から、杳達は、轟家には彼女の上に”燈矢”という兄がいた事を知った。恐らくさっき夏雄が言いかけたのは、きっとその人の事なのだろう。

 

「お兄さんが……」

「それは話してないんだ」

「率先して話すもんじゃねぇだろ」

 

 お茶を一口飲んだ焦凍がそう言うと、冬美は哀しげに微笑んで、白い髪を一房、ゆっくりと耳に掛けた。

 

「夏は燈矢兄ととても仲良しでね。よく一緒に遊んでた。お母さんが入院してまもなくの頃だった。……お母さん、さらに具合悪くなっちゃって。焦凍にも会わせられなくて」

 

 焦凍は当時の状況を思い返しているのか、静かに俯いた。――心神喪失して子供を傷つけ、さらには子供を失った。彼の母の心境は計り知れない。自分ごときの経験で、一体何が言えるだろう。杳と人使も沈痛な面持ちで、黙り込んだ。そんな三人を掬い上げるように覗き込んで、冬美は言葉を続ける。

 

「でも乗り越えたの。焦凍も面会に来てくれて。家が前向きになってきて。……夏だけが、振り上げた拳を下ろせないでいる。お父さんが殺したって、そう思ってる」

 

 

 

 

 広々とした浴室には大きなガラス窓が付いていて、その前には小さな庭園があった。

 

 香り豊かな(ひのき)風呂にゆっくりと浸かり、ライトアップされた庭園を眺めていると、ズタボロに傷ついた心が浄化されるようだった。湯浴みを終えた杳はバスタオルで体を拭くと、ドライヤーを手に取った。――本当はこのまま部屋に直帰してお布団に飛び込みたいところだが、最後の詰め込み作業が残っているのだ。

 

 苺柄のルームウェアに着替えると、杳はリビングルームへ向かう。するとそこに、()()()()()()が寛いでいた。紫色の髪を下ろした少年で、大型のソファに座り込み、前方にあるテレビをぼんやりと眺めている。

 

「誰?」

 

 少年は黙って、前髪をかき上げた。――()使()だった。普段はワックスか何かで、前髪を上げているらしい。杳は友人の隣に座ると、しみじみと彼の横顔を見つめた。いつもライオンのように髪を立てているので、結構威圧的だが、こうして見ると幾分かとっつきやすいように感じる。

 

「ヒトシ、前髪下ろした方がカッコいいよ。うん、いい感じ」

 

 杳は人使の傍へにじり寄ると、目の下の隈を指先で隠してみた。――こうして見ると、かなりのイケメンだ。だが、これではただの美丈夫。アングラ系ヒーロー”ゴースト・コール”のイメージに反してしまうだろうか。コードネームと外見は合致する状態にしておかなければ、人々の心に根付かない。思案を重ねていた杳は、ふと気づいた。人使の顔が、真っ赤になっている事に。

 

(昼は普通のお勉強、夜は秘密のお勉強ってかぁぁぁ?!)

 

 峰田の言葉が脳裏によみがえる。――杳はその時、人使を初めて()()()()()意識した。

 

 我に返った杳は、いつの間にか人使に抱き着くような恰好になっている事に気付き、転がり落ちるようにして距離を取る。彼女だってウブじゃない。もう15才、コウノトリが赤ちゃんを運んでくる訳がない事は知っていた。きっと自分をイヤらしい目で見て、()()()()()()とやらをするつもりに違いない。自意識過剰になった杳は思わず両手で自分の体をかき抱き、叫んだ。

 

「い、イヤらしい目で見ないで!」

「見てねーよはっ倒すぞ!」

「……お前ら何飲む?」

 

 図星を突かれた人使が、思いっきり顔を逸らしながら吐き捨てた時、焦凍が抜群のタイミングでやって来た。その両手には牛乳とフルーツ牛乳、そしてコーヒー牛乳がそれぞれ入った小瓶を持っている。杳は子供のように目をキラキラと輝かせて、立ち上がった。入浴後の牛乳は格別なものだ。だが、どれを飲もう。杳が顎に手を当てて真剣に考え込んでいると、気を遣った焦凍はこんな事を言った。

 

「全部飲んでいいぞ」

「いいの?」

「ああ。後、冷凍庫にバーゲンダッツもあった。食べるか?」

 

 お祭り騒ぎ状態の杳を見て、人使はなんだか嫌な予感がした。――小瓶ではあるが大量に牛乳を飲んで、挙句にアイスまで。夜中、腹を下してトイレで唸っている友人の姿が目に浮かび、思わず彼は眉根を下げて口を開く。

 

「おまえ、腹下すぞ」

「大丈夫大丈夫」

 

 ”馬耳東風”、”暖簾に腕押し”とは、まさにこの事だと人使は思った。アイスを食しながら、のんきにテレビを眺める友人の姿をじろりと見て、彼は特大の溜息を吐く。テレビは、夏の風物詩とも言われる心霊番組を放映していた。森に肝試しに来た大学生のグループが一人ずつ襲われるという、ありきたりなストーリーだ。

 

 それをへっぴり腰でこわごわと鑑賞する友人を見て、人使は()()嫌な予感がした。自分の部屋は、彼女の隣。まさか夜中、トイレに叩き起こされるなんて事はないだろうか。だが数秒後、人使は首を横に振り、その考えを否定する。――それは杞憂だ。彼女も高1、さすがにそんな小学生低学年みたいな事態にはならないだろうと。

 

 

 

 

 だが数時間後、杞憂は現実となった。――お腹を下して夜中に起きた杳は、トイレに行くために廊下へ出たはいいものの、屋敷の灯りは全て消えていた。静まり返った夜の日本家屋というのは、存外恐ろしく感じられるものだ。寝る前に観た心霊番組をふと思い出し、恐怖を感じた杳はトイレのお供を求めて、隣の襖をトントンと叩いた。

 

 しかし寝ているのか、返事はない。何度か押し殺した声で名前を呼ぶと、もぞもぞと布団の動く音が襖の奥からかすかに漏れ、やがて欠伸混じりの友の声がした。

 

「ヒトシ。トイレ一緒に行こ」

「知るか。一人で行け」

 

 ――現実は無情だった。人使は自分が道中、幽霊に襲われても良いって言うのか。恨みがましい目で襖を睨んでいると、また欠伸がして、しばらく経ってから声がした。

 

「オイまだいんのかよ。焦凍についてってもらえ」

「できないよ。自分の家、お化け屋敷みたいに言われるの嫌じゃん」

「何その謎の気遣い」

 

 人使は呆れたようにそう言うと、襖を数センチほど開けた。そして期待に目を輝かせる杳の目の前に、使い込んだペンライトを差し出す。

 

「さっきまで捕縛布の自主練してたから眠いんだよ。一人で頑張れ15才」

 

 そして襖はピシャンと閉まり、その後、二度と開く事はなかった。――ヒトシの薄情者!杳は心の中で悪態を吐きながら、ペンライトの心細い灯りを頼りに、なんとか屋敷の奥にあるトイレに辿り着いた。やがて事を終えた彼女は、手を洗ってトイレを出る。またペンライトを付けようとした時、視界の端が淡く光ったのを感じた。

 

 身の危険を感じてその方向を見ると、裏庭に面した縁側が、青白い月光に照らされて、かすかに光っていた。他の縁側に面した窓は全て雨戸が引かれているのに、ここだけ開放されている。好奇心に駆られた杳は、縁側へ近寄った。そして恐る恐る庭園を覗き込んで、大きく息を飲む。

 

 ――ささやかな小川の流れる裏庭には、()()()()、舞っていた。星や月の光よりも冷たく、それでいて優しい、不思議な質感の光だ。ふわふわと漂ったり静止したりしながら、あちこちに灯っている。蛍を直に見たのは、初めてだった。

 

 言葉もなく見蕩れていると、ふと目の前を、緑色の光がよぎった。――どこかから入り込んだのだろうか。蛍はすうっと音もなく飛んで、奥の方に消えていく。杳は蛍の軌跡を追いかけた。

 

 迷い蛍は、縁側に面した大部屋へ、ふわふわと飛んで行く。襖は開け放たれており、広大な和室の中には立派な仏壇が据え置かれていた。そこに置かれた写真立ての上に、蛍は止まった。淡い緑色の光が、()()()()()を儚く照らしている。

 

 手を合わせてから遠慮がちに見ると、焦凍によく似た少年がそこに映っていた。もしかしてこの人が、亡くなった兄なのだろうか。夕食時の会話を思い出し、杳が静かに感傷に浸っていると、すぐ後ろから優しい声がした。

 

「それ、俺の兄貴なんだ」

「ぎゃああああ!!」

「ごめんごめん!俺俺!夏雄夏雄!」

 

 急に声を掛けられ、口から心臓が飛び出るほど驚いた杳を、慌てふためいた様子の夏雄が必死に取り成した。しばらくして落ち着いてみると、夏雄はきさくな笑顔を浮かべて、こちらを見つめていた。――夕食時に会った時の剣呑な雰囲気は、全くない。きっとこの気の良いお兄さんな感じが、普段の彼なのだろう。

 

 夏雄は杳の前に座り込むと、夕食時の無礼を心から詫びた。杳はそうするに至った事情を冬美達から聴いているし、むしろ夏雄の方が心配だった。おずおずと仰ぎ見ると、彼は優しい目で兄の遺影を見下ろしながら、おもむろに口を開いた。

 

「燈矢兄は、あいつに捨てられたんだ。……焦凍が生まれた時」

 

 杳は言葉を失い、夏雄を仰ぎ見た。低く、抑揚のない声だった。語尾が掠れていた。蛍の優しい光が、彼の横顔を照らしている。

 

「やっとあいつから解放されたってのに、燈矢兄は悲しそうだった。それで、気が付いたら……もう二度と会えなくなってた。

 その内、焦凍もあの時の兄ちゃんと同じ顔をするようになって、止められなくて。……でも、ある日から雰囲気が変わったんだ。”杳ちゃんに会ってからだ”って、姉ちゃんが言ってた」

 

 夏雄は勢い良く顔を上げて涙を吹き飛ばし、袖で乱暴に顔をこすって、愛おしそうな笑顔でこちらを見た。

 

「俺、本当に感謝してるんだ。ありがとう。これからも弟のこと、よろしく頼むよ」

「いえ、そんな。こちらこそ、焦凍くんにはずっとお世話になりっぱなしで」

 

 杳は恐縮して縮こまりながら、そう応えた。――焦凍は”救けられた”と言っていたが、それはこちらの台詞だ。それから少しの間、二人は言葉を交わす事無く、ぼんやりと目の前で明滅する蛍の光を見つめていた。ふと夏雄が、再び口を開く。

 

「”許したいと思ってる”って言ったよな。……ごめん。通りすがりに聴こえちまって」

 

 夏雄はバツが悪そうに笑うと、遺影の傍に留まる蛍をそっと捕まえた。優しく儚い光が、彼の悲哀に満ちた顔を照らし出す。その瞳の中には、抱えきれないほどの悲しみと苦しみの感情が、ぎっしりと詰め込まれていた。

 

「俺は、許す時なんて来ないと思う。焦凍みたいに優しくないから。姉ちゃん、”また家族になれる”って、すごく嬉しそうでさ。でも、あいつの顔を見ると、思い出しちまう。

 ……いつか俺も、姉ちゃんや焦凍みたいに、気持ちの整理がつくかな」

 

 とぎれとぎれの告白を聞き終わった杳は、しばらく何も言う事ができなかった。――その代わり、一つだけ分かった事がある。夏雄は父を許さないのではなく、()()()()()()()()のだ。

 

 ”許す”という行為は憎んだ相手だけでなく、自分の心も解放する。だが、夏雄は兄を想うあまり、そうする事ができない。そしてその状態は今も尚、彼の心を強く苛んで、苦しませ続けていた。杳はただ手を伸ばして、夏雄の背中を撫でさする。夏雄はまた滲んできた涙をなんとか押し込めると、ゆっくりと立ち上がり、縁側へ向かった。

 

「どこから入ったんだろ。兄ちゃん、蛍が好きだったんだ。可哀想だって姉ちゃんに怒られたけど、二人で一緒に追いかけ回して、こうして手の中に捕まえてさ。……懐かしいよ」

 

 夏雄はガラス戸を開けると、手の中の蛍をそっと放した。蛍はゆっくりと小川に向かい、群れに合流して、ひときわ美しく輝く。その光は、他の蛍よりも色が青みがかっているように見えた。夏雄は不思議そうに目を細める。

 

「お盆にはまだ早いけど、帰ってきてくれたのかな」

 

 ――なんて馬鹿な事を。夏雄は自分の言葉の拙さに恥ずかしくなり、笑って誤魔化そうとした。その時、杳が静かに頷いた。

 

「きっとそうだと思います」

 

 その声には、夏雄の悲しさや寂しさを打ち消す”力強さ”があった。杳もまた彼と同じ苦悩を抱いていたからだ。

 

 死者の魂は天国に昇り、空から自分達を見守ってくれているのだと世間は言う。しかし空を見上げても、彼らの姿はほとんどの人には見えない。だからこそ、人は言葉やイメージなどで、愛する者が変わらず自分の傍にいると信じ、生きていくのだ。二人はしばらくの間、静かに寄り添い、蛍の舞いを眺めていた。

 

 

 

 

 翌朝、杳達は豪華な朝食をたっぷり摂った後、身支度を整えて、轟家を出た。古き良き時代を彷彿とさせる屋敷を振り返り、杳は浮かない顔で溜息を漏らす。――エンデヴァーは明け方近くに仕事が入り、もう家を出てしまったらしい。挨拶をしたかったのだが――いや、()()()していいのか分からないが――仕方ない。二人は冬美に、お世話になった旨を彼へ伝えてくれるように頼んだ。

 

 最寄りの駅までは焦凍だけでなく、冬美と夏雄も来てくれた。駅の入り口で惜別の想いに浸っていると、夏雄が悪戯っぽく笑いながら、大きな声でこんな事を言った。

 

「焦凍。俺、杳ちゃんみたいな()ほしいなー」

 

 その言葉を聞いた冬美はくすぐったそうに笑い、人使の表情は少しこわばる。肝心の杳と焦凍は意味が分からず、考え込んだ。やがて焦凍は何かを閃いたのか、軽く息を飲み、真剣な表情で呟く。

 

()()()()ってことか」

「違う」

 

 夏雄はがっくりと項垂れ、突っ込んだ。そんな弟を見て、冬美がころころと笑う。――夏雄も冬美も朗らかで、包み込むような優しさを持った人達だった。実質一人っ子となる杳には、そんな二人に囲まれている焦凍がちょっと羨ましかった。

 

 二人とは今朝REIN交換したし、会おうと思えば会える距離感なのに、いざその時が来ると、離れるのがとても寂しく感じられる。後ろ髪を引かれる思いで、杳は人使に続いてICカードをかざし、改札口をくぐろうとした。

 

 その時、冬美がよく通る声で二人の名前を呼んだ。急いで振り返ると、泣きそうなくらいに優しい顔で、彼女がこちらを見つめている。

 

「杳ちゃん。人使くん。焦凍と友達になってくれて、ありがとう」

「……いえ」

「こちらこそです」

 

 ――”友達になってくれてありがとう”だなんて言われたのは、初めてだ。逆にこっちがお礼を言いたい位なのに。何だか気恥ずかしくなってきて、杳はその気持ちを振り払うように大きく手を振ると、人使と一緒に迎えの電車が待つホームへ向かった。




轟家重すぎわろた…。自分的にエンデヴァーはあまり好きなキャラじゃなかったのですが、SSを書くに辺り色々と調べた結果、好きになってしまいました。生まれた時代が悪かったんだ(;_;)


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No.26 期末試験①

※期末試験編をお読みになる方へ:申し訳ございません( ;∀;)自分は何故か1-Aクラスが19名だと思い込んでおり、杳+人使で21名になるなーと思ってたのですが、いや20名やんけ…と最近気づきました。
シナリオ修正せな…と思ったのですが結局できず…このSSではどうか時空が歪んでいると思って頂ければ…本当に申し訳ないです(;_;)


 俺は、オールマイトの勝つ姿に憧れた。

 どんなにピンチでも、最後は必ずその手に勝利を掴む姿に。

 

 昔から、俺は何だってできた。

 他の奴らがなんでできないのか、分からなかった。

 

 きっと誰よりも高い場所に、俺はいる。

 一番低い場所で這いつくばるあいつを見下ろして、俺は特別なんだと思った。

 

 ”オールマイトと並び立つ事を許された人間”。

 俺はいずれ、彼をも超えるNo.1ヒーローになる。

 

 ……なのに、なんでだよ。

 なんでおまえが、ここにいる?

 

 

 

 

 翌日の朝、杳は教室のドアを開けると、真っ直ぐに緑谷の席へ向かい、授業の準備をしている彼にお礼の言葉を告げた。

 

「ありがとう緑谷くん。すごく助かったよ」

「白雲さん。エンデヴァー大丈夫だった?」

「……うーん。だ、大丈夫……」

「じゃなかったんだね」

 

 歯切れの悪すぎる杳の返事を聞いた緑谷は、何かを察して後を引き取り、小さく苦笑いした。

 ――さすがにあの地獄のような食事会の全貌を語るわけにもいかない。杳も笑ってお茶を濁し、代わりに”焦凍の兄姉と仲良くなれた”と話を締めくくる。

 

 緑谷は大きな瞳を輝かせ、まるで自分の事のように喜んでくれた。二人の近くでは、お泊り会の感想を血眼で追及する峰田に対し、心操が捕縛布の感想を求めているところだった。

 

「峰田くんも懲りないな……」

 

 簀巻きにされた峰田が、天井からミノムシのように垂れ下がっている。その様子を心配そうに見守る緑谷を、杳はじっと見つめた。

 

 ”緑谷出久”というクラスメイトは、良くも悪くも、人々の目を惹きつけてやまない人物だった。

 

 普段こそ牧歌的な雰囲気を漂わせているが、有事の際はそれが()()()()。今にも爆発しそうな焦燥感を迸らせ、人々がたじろぐような気迫を見せつける。

 彼の武器は優れた頭脳と、オールマイトを彷彿とさせるような超パワー系の個性だ。体育祭の障害物レースでは1位を獲り、ガチバトルでは焦凍に肉薄するほど、桁外れに強力なパワーを発揮した。だがそれと引き換えに、彼の体は深刻な重傷を負う。

 その強烈な正と負のコントラストが、余計に人々の興味をそそるのだった。

 

 極めつけは、あの爆豪との浅からぬ因縁だ。だが、それは爆豪が一方的に緑谷に絡んでいるといったもので、彼自身が喧嘩を吹っかけた事はない。

 ――あんなに理不尽な態度を取られ続けていたら、普通言い合いになるはずだ。恐らく緑谷は人格者なのだろうと、杳は思う。クラス委員長に選ばれた事から鑑みても、飯田や八百万のように、優れたリーダーシップの資質を有しているのは間違いない。

 

 本来の杳は人見知りなタイプで、慣れ親しんだ友人――それこそ人使や焦凍、常闇や口田、蛙吹といった物静かな面々――と共に行動し、他のクラスメイト達に関しては、受け身一辺倒だった。だがこの時初めて、杳は緑谷に()()()()()()。ぼんやりした目で眺めていると、緑谷は戸惑って首を傾げ、尋ねた。

 

「どうしたの?白雲さん。僕の顔に何か付いてる?」

「あ、ううん。何でもない。……そうだ」

 

 杳は明るい声を上げて、ポケットの中からスマートフォンを取り出した。職場体験中に交わした、航一との会話のワンシーンをふと思い出したからだ。

 

「あのね。クロウラーがオールマイトファンらしくって、”一度緑谷くんとお話ししてみたい”って言ってたよ」

「マジで?!プロヒーローとの新たな繋がりが……だけどクロウラーの戦闘スタイルはオールマイトじゃなくて独特な……」

 

 すかさず深慮モードに入った緑谷は手を口に当て、ブツブツと呟き始める。もはや1-Aの風物詩となったこの光景を眺めつつ、杳は航一の連絡先を画面上に表示させ、緑谷のモード終了を待った。だがその内に朝の予鈴が鳴ったため、杳は大人しく自分の席に戻る。

 

 ――この一連の流れに突っ込む(ヒトシ)は、生憎この場にいなかった。とにもかくにも、この時から、杳と緑谷の友情は始まり、ちょくちょくと話すようになったのである。

 

 

 

 

 午前の授業はつつがなく終わり、ランチの時間がやって来た。杳達三人組は、緑谷達のグループと長テーブルの一帯を陣取り、食事を摂っていた。杳は向かいに座る緑谷に、校外でも”自らも破壊する超パワー”と称されている彼の個性について訊いてみた。すると彼は少し考える素振りを見せてから、”筋力強化”の個性だと教えてくれた。

 

「”筋力強化”か。シンプルで強いね」

「うん。突然変異らしくって、今年いきなり発現したんだ。だからまだ調整が追いついていないというか。医者が言うには奇跡だって」 

「そんなことがあるんだねぇ」

 

 緑谷が個性を使うたびに負傷していた事に合点がいき、杳は大きく頷いた。恐らくあの強力な個性に、体の強度がまだ追いついていないのだろう。小さい頃からヒーローを目指していたという彼にとって、この奇跡はまさしく天啓だったに違いない。

 

 ――あの緑色のエネルギー粒子のようなものが、筋肉を活性化させるのだろうか。ますます興味を惹かれた杳がさらに追及しようとすると、緑谷はカツを二枚まとめて口に押し込んで、これ以上話す気がない事をさりげなく示した上で、話題を変えた。

 

「そういえば期末の演習試験、内容不透明で怖いね」

「一学期の総復習だっけ。どんなことしたかなぁ」

 

 煮込みハンバーグを箸で切り分け、口に運ぶ。――今学期でした事といえば、戦闘訓練と救助訓練、あとは基礎トレーニングくらいだ。

 杳はポケットの中のナックルダスターをギュッと握り締めた。個性の調整が追いついていないのは、自分も同じだ。航一達から学んだ事を無駄にしてはならない。自分と緑谷達の立ち位置は違う。自分はやっとスタートラインに立ったばかり、対して彼らはもうずっと先を進んでいるのだ。

 

「試験勉強に加えて、体力面でも万全に……アイタ!」

「ああ、ごめん。頭が大きいから当たってしまった」

 

 その時、緑谷の頭に、一人の男子生徒が()()()ぶつかった。――爆豪のように稚拙な嫌がらせをする者が、他にもいるなんて。そんな事を思いつつ見上げた杳は、小さく息を飲んだ。焦凍とはまた違った趣のイケメンだ。

 

 それに何だかこの顔、見覚えがある。杳は、はたと思い出した。体育祭は騎馬戦であの爆豪に肉薄したという、確かB組の物間寧人(ものまねいと)だ。飯田が友を傷つけられた事で憤り、片腕を振り下ろしながら、きびきびと言い放つ。

 

「B組の物間君!よくも!」

「君ら、ヒーロー殺しに遭遇したんだってね」

 

 物間は飯田の怒りなど意に介さず、美しい碧眼を瞬かせ、彼を見つめ返した。それから緑谷と焦凍へも、彼は仄暗い視線を投げかける。次の瞬間、物間の甘いマスクが、毒々しい嫉妬と羨望の感情に憑りつかれ、みるみるうちに歪んでいった。

 

「体育祭に続いて注目を浴びる要素ばかり増えていくよね、A組って。ただその注目って決して期待値とかじゃなくて、トラブルを引きつける的なものだよね」

 

 淀みのない口調でそう言い切ると、物間はまるでここが舞台であるかのように、大袈裟な動作で自分の体をかき抱き、眉尻を下げて身震いしてみせた。その口元は大いなる愉悦に歪んでいる。観客と化した杳達はただ圧倒され、言葉もなく彼の演技に見入っていた。

 

「あー怖い!いつか君達が呼ぶトラブルに巻き込まれて、僕らにまで被害が及ぶかもしれないなぁ!ああ怖……フッ」

「シャレにならん。飯田の件知らないの?」

 

 刹那、茶髪をサイドテールにした女子生徒が、物間に手刀を喰らわした。

 ――B組のクラス委員長、拳藤一佳(けんどういつか)だ。彼女は攻撃の間際、非常に手慣れた動作で、物間の食事プレートをテーブル上へ避難させていた。どうやら物間ミュージカルは、日常茶飯事の出来事であるらしい。一仕事終えた拳藤は、杳達を優しい眼差しで見下ろした。

 

「ごめんなA組。こいつちょっと心がアレなんだよ」

「心がアレ……」

「あんたらさ、さっき期末の演習試験不透明とか言ってたよね」

 

 拳藤は小さく咳払いすると、演習試験は入試の時のような対ロボットの実践演習であるらしいと教えてくれた。仲の良い先輩から聞いた、確かな情報だとか。

 杳達は彼女に感謝すると共に、幾分かホッとしてお互いの顔を見合わせた。――ロックとの決戦に比べれば、ロボットなどお茶の子さいさいだ。肩を竦めた拳藤は、ちょっと悪戯っぽい笑顔を浮かべてみせる。

 

「ちょっとズルだけど」

「ズルじゃないよ。そうだきっと前情報の収集も試験の一環に織り込まれてたんだ。そうか先輩に訊けばよかったんだ。なんで……」

「?!」

 

 深慮モードに移行した緑谷が、いつものように口を高速で動かし、さらなる思考の向こうを目指し始めたのを、拳藤が言葉もなく凝視する。そうこうしている内に物間は元気を取り戻し、拳藤に首根っこを掴まれた状態ではあるものの、また性懲りもなく悪態を吐き始めた。

 

「馬鹿なのかい、拳藤。せっかくの情報アドバンテージを。憎きA組を出し抜くチャンスだったのに……」

「憎くはないっつーの」

 

 拳藤は再び物間に手刀を落とし、気を失った彼を引き摺って行った。――どうやら彼女は、B組の姉御的存在であるらしい。

 

 

 

 

「んだよロボなら楽勝だぜ!」

 

 怒涛のヒーロー科目が終わり、放課後。緑谷から試験の内容を聞くや否や、芦戸と上鳴は諸手を挙げて喜んだ。――1-Aのムードメーカーである二人の元気が戻って良かった。杳はホッと安堵の溜息を零し、リュックを持って人使の席へ向かう。障子が二人に労いの言葉をかけた。

 

「おまえらは対人だと、個性の調整大変そうだからな」

「ああ!ロボならぶっぱで楽勝だ!あとはヤオモモに勉強教えてもらって、これで林間合宿バッチリだ!」

 

 ”個性の調整”、それを言うなら杳も同じだ。――ロックと対戦した時は、ただ必死だった。だが、これからはそうもいかない。人相手に全力を出せば、その人は死んでしまう。そう思うと、自分の個性の恐ろしさに今更ながらヒヤリとした。

 今後の課題は戦闘スタイルを確立していくのと同時進行で、調整方法も身に付ける事だ。進み続けなければ。課題は山積みだが、こなすのを皆は待ってくれない。

 

(握るたびに思い出して。君が何のために個性を使うのか)

 

 航一の言葉が耳にこだまして、杳は自分の手をギュッと握り締めた。――個性を使うのは、()()()()()()だ。航一のようなヒーローになるためにも、頑張らなければ。

 決意を胸に抱いた杳が、友人達の帰宅準備が整うのを待っていると、爆豪がスクールバッグを掴み上げながら荒々しく立ち上がった。そして出口へ向かいながら、地を這うような声で捨て台詞を吐く。

 

「人でもロボでもぶっとばすのは同じだろ。何がラクチンだアホが」

「アホとはなんだアホとは!」

「うるせえな!調整なんか勝手に出来るもんだろアホだろ!」

 

 爆豪は激しい口調で上鳴にやり返すと、ドアの直前で振り返り、緑谷をギロリと睨んだ。

 

「……なあ、デク」

 

 高校生らしからぬ、どすの効いた声に、緑谷の肩が思わず大きく跳ねる。さっきまでの和やかな空気は一変し、きな臭い匂いが教室内に漂い始めた。やがて焦凍が音も立てずに杳の傍にやって来た。それから警戒した目で、事態の成り行きを見守ろうとする。

 

「個性の使い方、ちょっと分かって来たか知らねえけどよ。てめェはつくづく俺の神経逆撫でするな」

 

 杳は、復習のために視聴覚室で「ヒーロー基礎学」のVを見返していた時、とあるワンシーンが目を引いた事を思い出した。――それは、緑谷がエネラルドグリーンに輝くエネルギー粒子をまとい、ウサギのように軽やかに跳んでいるというものだった。奇しくもそのスタイルは、爆破の威力で進む爆豪と酷似していた。

 

 クラスメイト達が固唾を飲んで見守る中、憎悪に満ちた赤い双眸と、戸惑いに満ちた緑色の双眸が束の間、交錯する。

 

「体育祭みてえなハンパな結果はいらねえ。次の期末なら個人成績で、否が応にも優劣つく。完膚無きまでに差ァつけて、てめェぶち殺してやる」

 

 ――”ぶち殺してやる”って。あんまりな言葉の暴力に打ちのめされ、杳は思わずリュックを取り落としそうになった。爆豪は激しい殺意に満ちた目で緑谷を射抜き、次いで焦凍を睨んだ。

 

「轟ィ!てめェもなァ」

 

 そう啖呵を切ると、爆豪は乱暴な動作でドアを閉め、去って行った。数秒後、教室内に再び安寧が訪れる。切島が肩を竦めて、誰にともなく呟いた。

 

「久々にガチなバクゴーだ」

「焦燥?あるいは憎悪……」

 

 常闇が嘴をさすりながら、思慮深い声を虚空に投げかける。――恐らく、その()()だと杳は思った。まるで切り立った崖の際に立っているような、余裕のない目。世界中の全てを敵と見做しているような、孤独な目。爆豪はそういう目をしていた。

 

 爆豪は確かに他者を寄せ付けない人物だが、それは周りを敵とする事で自らを追い込んで、より成長するためなのだという事は、付き合いの浅い杳にも何となく分かっていた。だが、それを加味しても、今の彼は少し行き過ぎているように思える。

 

(俺は、何の、た、ために……生まれ、たん……ですか?)

 

 その時、杳はふとロックの目を思い出した。実験台として日々弄られる中、彼はただひたすらに自分の生きる意味を見出そうと、もがいていた。

 何故、今そんな事が思い浮かんだのかは分からない。だが、あの時のロックの瞳とクラスメイトの赤い瞳は、どことなく似ているような気がした。

 

 

 

 

 空に浮かぶ白い雲と一緒に、時間はゆったりと流れていく。やがて期末試験期間が到来した。数日間に渡る筆記試験はつつがなく終了し、悲喜こもごもの中、ついに演習試験がやって来た。

 数日振りのコスチュームに身を包んだ1-Aの生徒達は、指定された場所へ急いだ。そこには、相澤を始めとした教師陣がずらりと並んでいる。相澤は手元の書類に目を落としつつ、冷静な口調で話し始めた。

 

「それじゃあ演習試験を始めていく。この試験でも勿論赤点は出る。林間合宿行きたけりゃ、みっともねえヘマはするなよ」

「……先生多いな」

 

 杳が新しいコスチュームの着心地を確かめていると、隣に立つ耳郎が小さく呟いた。――確かにそうだ。通常ならば監視役も含め、二・三人くらいで事足りるはず。

 

 そこで不意にトントンと尾てい骨辺りを叩かれて、杳はそっと振り向いた。峰田が大量の鼻血を噴出しながら、力強くサムズアップしている。やがて蛙吹の容赦なき舌ビンタを受け、彼は撃沈した。天使の輪っかが浮かんだミネタゴーストが彼の頭上に現れ、そして昇天していく。その様子を杳が茫然と眺めている間にも、相澤の話は進んでいった。

 

「諸君なら事前に情報仕入れて、何するか薄々分かってると思うが」

「入試みてぇなロボ無双だろ!」

 

 すかさず上鳴と芦戸がウキウキ気分で叫ぶ。すると、おもむろに相澤の首元に巻かれた捕縛布が動き始め、中から校長がピョコンと顔を出した。

 

「残念!諸事情あって、今回から内容を()()しちゃうのさ!」

 

 ――その瞬間、二人の心臓の鼓動は永久に止まった。絶望という名の闇に囚われ、ピクリとも動けなくなった二人を心配そうに見やりつつ、八百万がおずおずと口を開く。

 

「変更とは?」

 

 とても毛並みの良い手先を動かしながら、校長はよく通る声で説明を始めた。――曰く、これからの社会、現状以上に対(ヴィラン)戦闘が激化すると考えれば、ロボとの戦闘訓練は実戦的ではないと。そもそもロボは、入学試験という場で人に危害を加えるのか等といったクレームを回避するための策だ。これからは対人戦闘・活動を見据えた、より実践に近い教えを重視するとの事。

 校長のビーズのように輝く黒い目が、たじろぐ生徒達をしっかりと見据える。

 

「というわけで、諸君らにはこれから、二人または三人一組で、ここにいる教師一人と戦闘を行ってもらう!」

 

 ()()()()()()杳達は思いも寄らない事態に驚き、大いにざわついた。尚、チームメンバーと対戦する教師はすでに決定済みとの事だった。動きの傾向や成績、親密度など、諸々の事項を踏まえて独断で組み上げたらしい。教師陣の中にマイクを見つけた瞬間、杳は両手を組んで神様に祈った。

 ――マイクが敵となって立ちはだかるなんて、そんなレアなシーンはそうそうない。戦えるなら、鼓膜が破けても構いません。むしろご褒美です。どうか私にマイクの生戦闘を見せてください。

 

「まず轟と八百万がチームで、俺とだ」

 

 相澤は不敵な笑みを浮かべ、自らを指差した。――()()()組み合わせだ、と杳は少し驚いた。二人とも1-Aクラスの特待生、強力な個性とそれを操る優秀な頭脳を持つ人間だ。組んだ時点で、試験合格を約束されているようなものだった。

 しかし二人の方へ視線を投げかけてみると、焦凍が変わらぬ冷静さを発揮している一方で、八百万の目は不安そうに揺れていた。一体、どうしたんだろう。首を傾げている間にも、チーム発表は進められていく。

 

「次は緑谷と白雲」

 

 いきなり名前を呼ばれて、杳はびくりと肩を撥ねさせた。だが、緑谷と一緒なら、きっと二人三脚で頑張れるだろう。ホッと安堵した顔を見合わせようとしたその時、相澤が恐るべき名前を呼んだ。

 

「そして()()がチーム。ここだけトリオだ」

 

 信じられないものを見るかのような目で、緑谷と爆豪が視線を交わし合う。杳も本当に勘弁してほしかった。

 

 ――何故、二人を組ませたのだろう。そして何故、そこに自分を付け加えたのだろう。はっきり言ってチームワークどころじゃない。ともすれば、爆殺王による一方的な大虐殺が始まるかもしれない。爆豪が今までどれほど熾烈に緑谷を甚振ってきたか、先生方は知らないはずないのに。

 

 これで対戦相手がマイクじゃなかったら、許さないぞ。公安に告訴してやるんだから。やけっぱちになり、相澤へ抗議の目を向けようとした杳の視界を、目が覚めるような色合いのボディスーツが埋め尽くしていく。

 

「相手は私がする!協力して勝ちに来いよ、三人共!」

 

 ()()()()()()だ。杳は大きく息を詰めた。――最悪のチームメイトに最強の敵。考えうる限りで、最凶の組み合わせだった。耳郎が引き攣った声で”ドンマイ”と囁き、肩をポンと叩く。赤点確実な気がする、杳はそう思い、特大の溜息を零した。

 

 

 

 

 マイクと対戦する事になった耳郎と口田に、試験の感想を詳しく教えてもらう約束を取り付けた後、杳はオールマイトの先導に従い、バスに乗り込んだ。――チームそれぞれにステージが用意されており、一斉に試験がスタートする。概要については、各々の対戦相手から説明されるとの事だった。

 

 移動中、バスの中は()()()()()()に包まれていた。硝煙に似たきな臭い匂いと、ピリッと張り詰めた空気が、車内を圧迫している。気の弱い杳がパニックにならずに自我を保てているのは、もうすでに轟家で地獄を体感していたからだった。あの修羅場を超えるものはそうそうないだろう。

 

 杳は緑谷の向かいの席に着いて押し黙り、窓に映る外の景色を眺めていた。爆豪は一番後ろの席に陣取り、腕組みをして俯いている。やがて前方の席にちょこんと腰掛けたオールマイトがゆっくりと振り向き、おずおずと口を開いた。

 

「……しりとりでもする?」

「はい。えっと……”オールマイト”」

「あ、するんだ。”トイトイ”」

「……」

 

 思いがけない提案につい反応してしまった杳から、言葉遊びは始まった。緑谷は一瞬戸惑ったものの、すぐさま答えを導き出す。そして二人は押し黙り、爆豪の反応を待った。順番で行くと、次は彼だ。しかし爆殺卿は一言も喋らず、まるで空間が歪んでいるのかと見紛うような、激しい怒りのオーラを噴出させるだけだった。

 約一分後、根負けしたオールマイトが口を開いた。

 

「……”インゲニウム”」

「え、ヒーローネーム縛りですか?えっと……」

 

 杳が”ム”から始まるヒーローネームを必死に考えている間、オールマイトはバックミラー越しに見える爆豪の表情を、思慮深い眼差しで見つめていた。

 

 

 

 

 演習試験の前日。オールマイトを始めとする教師達は一堂に会し、チームメンバーの構成について協議していた。1-Aの担任である相澤が中心となり、冷静な思考と口調で、手際良く組の采配を決めていく。

 

(……緑谷と爆豪、白雲ですが、オールマイトさん頼みます。緑谷と爆豪、この二人に関しては能力や成績で選んでいません。偏に()()()()

 

 緑谷と爆豪の独特な関係性は、今やほとんどの教師の知るところとなっていた。オールマイトは落ち窪んだ眼を束の間、憂いの感情に曇らせる。

 

 ――コミュニケーション能力は、ヒーローとして必要な能力の一つだ。ヒーローの飽和時代と言われている昨今、特定のサイドキックと抜群のチームプレイを発揮できるより、誰とでも一定水準をこなせる方がよしとされている。

 

 チームという観点で見るなら、緑谷と爆豪はまさに絶望的だった。果たして、あの二人がまともなコミュニケーションを取れる日など来るのだろうか。誰もが思わず匙を投げたくなるような顔をする中、相澤は念押しするようにオールマイトを見つめ、言葉を続けた。

 

(緑谷のことがお気に入りなんでしょう。上手く誘導しといてくださいね)

(よく見てるね君……)

(てか大丈夫かよ、白雲Jrは。思いっきり巻き込まれる感じになるけど?)

 

 相澤の指示に異議を唱えたのは、マイクだった。不満そうに唇を尖らせ、彼は親友に物申す。しかし相澤は気にもせず、ただ口元を少し緩めただけだった。

 

(それでいい。白雲は普段、心操と轟に頼り過ぎてる。あいつにも交流力の底上げが必要だ。それに……)

 

 ふと窓辺から爽やかな風が吹き込んで、カーテンをふわりと揺らした。隙間から覗く晴れ渡った青空に、白く輝く雲が浮かんでいる。何かを思い出しているのか、相澤の黒い双眸が一瞬、優しいセピア色の輝きを帯びた。

 

(白雲には人の心を癒す力があります。大丈夫でしょう)

(……君も白雲少女がお気に入りみたいだね)

(何の話です。次、山田。お前だ)

Don't call me by my real name.(本名で呼ばないで)

 

 オールマイトの突っ込みを、相澤は何食わぬ顔で受け流す。そして、次のチーム構成の発表を始めた。



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No.27 期末試験②

 バスから降りた杳達は、市街地を丸ごと模倣した戦闘用フィールドの前に立った。大きな金網の張られたゲートを指差し、オールマイトは勇猛な笑みを浮かべる。

 

「さて、ここが我々の戦うステージだ」

「あの……戦いって、まさかオールマイトを倒すとかじゃないですよね?どうあがいても無理だし」

 

 緑谷の言葉は全くもって正しい。杳は首がちぎれるほど強く頷いて、心の底から同意した。そんな二人に対し、オールマイトは茶目っ気たっぷりな仕草で人差し指を立ててみせる。そしてポケットから金属製のハンドカフスを取り出して、こう言った。

 

「消極的なせっかちさん達め!ちゃんと今から説明する」

 

 オールマイトによると、試験内容は以下の通りだ。――制限時間は30分。勝利条件はハンドカフスをオールマイトに掛けるか、三人の内誰か一人がフィールドから脱出する事。ただし今回は極めて実戦に近い状況での試験であるため、オールマイトを一教師でなく”本当の敵”だと想定する事。会敵したと仮定し、戦闘するか逃げに徹するかを、その場の状況に応じて決める。戦って勝つか、逃げて勝つか。戦闘中における臨機応変な判断と決断力が試されるテストだ。

 

「けど、こんなルール逃げの一択じゃね?!って思っちゃいますよね」

 

 可愛らしく首を傾げると、オールマイトはポケットからどっしりとした造りの金属輪を四つ取り出した。サポート科謹製の超圧縮型おもりで、体重の約半分の重量が込められているのだという。ちなみにデザインは体育祭で活躍したサポート科1年の、とある発明女史によるものだとか。おもりを手早く四肢に装着しながら、オールマイトは軽快な口調で話を続ける。

 

「古典的だが動きづらいし、体力は削られる!あ、ヤバ思ったより重……」

「戦闘を視野に入れさせる為か。ナメてんな」

 

 爆豪は黒いバンダナ越しに燃える灼眼でオールマイトを睨み上げ、呟いた。それを受け取ったオールマイトの目が、ほんの一瞬、剣呑な輝きを帯びる。不敵に笑いながら、彼は応えた。

 

「……HAHA!どうかな」

 

 

 

 

 迷う必要なんかなく()()()()だ。杳は緑谷達と共に指定の位置に向かいながら、静かに決意を固めた。――たとえ一斉攻撃を仕掛けたとしても、ハンドカフスを掛ける隙すら与えてくれない事は分かり切っている。三人がバラバラのルートで逃げるか、二人が足止めをしている間に一人が逃げるか、この二手しかないだろう。

 思案を練り終えた杳が、前方を歩く二人に声を掛けようとしたその時、街灯に設置されたスピーカーからリカバリーガールの声が降って来た。

 

「皆、位置に着いたね。それじゃあ今から雄英高1年、期末テストを始めるよ。レディー……ゴー!」

「あのさ……」

 

 さあ、開戦の狼煙は上がった。杳はいざ行かんとばかりに前方を見て、そして()()()()()()()。爆豪は杳を完全に無視し、十数メートル先をずんずん歩いて行っていた。その後を、時折こちらを心配そうに振り返りつつ、緑谷が追いかけている。

 急いで二人に近づいてみると、何やら彼らは言い争っているようだった。杳の気配に気づいたのか、爆豪はおもむろに振り返り、彼女を憎々しげに睨みつける。

 

「ついてくんな!」

 

 ……いや、そんなこと言われても。杳は心の中でそうごちり、黙って二人の後を歩いた。たった一人でこの町をほっつき歩き、出くわしたオールマイトにあの規格外のスマッシュを喰らわされるのはごめんだ。爆豪に対する恐怖よりも、スマッシュに対する恐怖の方が圧勝した杳は、たとえ爆殺卿から何を言われようと金魚のフンのように二人の後をついていく所存だった。

 

 一方の緑谷は、いつもの聡明な態度は鳴りを潜め、おどおどとした挙動不審な素振りを見せていた。爆豪を見上げる顔には、大量の脂汗が浮かんでいる。その様子を目の当たりにした杳は、”緑谷は爆殺王が相当苦手らしい”という事が分かった。しかし、それでも緑谷は勇気を振り絞り、爆豪に物申す。

 

「せ、戦闘は何があっても避けるべきだって!」

「ブッ倒した方が良いに決まってんだろが!終盤まで翻弄して、疲弊したとこ俺がブッ潰す!」

 

 爆豪が勇猛果敢に叫ぶ。その勢いに呑まれた緑谷は小さくなり、俯いた。……まるでいじめっ子といじめられっ子だ。二人は()()()()仲の悪い幼馴染じゃなかったのか?杳は二人の異様な関係性に圧倒され、ただ静かに成り行きを見守った。緑谷は一旦言葉を飲み込んだものの、指先が白くなるほど強く両手を握り締め、再び口を開く。

 

「オールマイトをな、なんだと思ってるのさ。いくらハンデがあっても、かっちゃんがオールマイトに勝つなんて……」

 

 ――刹那、爆豪が振り向きざまに緑谷の顔を()()()

 

 あまりにも衝撃的なシーンを目の当たりにし、杳の思考は真っ白になった。倒れ伏した緑谷の下へ駆け寄り、助け起こしつつ、杳は爆豪からじりじりと距離を取った。

 

 ……普段から暴君だと思っていたが、まさか()()()()とは。いくら気に入らないとはいえ、クラスメイトに暴力を振るうなんて正気の沙汰ではない。怖すぎる。敵と同じだ。

 グラグラと煮えたぎる殺意に満ちた爆殺王の眼差しが、緑谷に注がれる。

 

「これ以上喋ンな。ちょっと調子良いからって喋んな。ムカつくから」

「み、緑谷くん。二人で頑張ろ。爆豪くん怖いし……」

「……合格する為に僕は言ってるんだ!」

「えぇ……」

「聞いてってかっちゃん!」

 

 杳の言葉は緑谷の耳には届かなかった。恐怖におののき、顔を引き攣らせながらも、緑谷は負けじと爆豪に言い募る。どうする事もできず、杳はその場に立ち竦んだ。

 

 ――爆豪も変だが、()()()変だ。これほどの殺意を向けられたら、普通は距離を置こうとするはず。それなのに緑谷は爆豪の傍から離れようとしない。その姿を見た爆豪は、ますます嫌悪感と殺意の感情を募らせていく。

 

 単なる仲の悪い幼馴染、いじめっ子といじめられっ子の関係ではない。――羨望、嫌悪、追走、畏怖、拒否、自尊心。様々な感情がごちゃ混ぜになった歪な世界の中心に、二人は立っていた。杳が二人の異様な関係性に茫然としている間にも、目の前の口論はヒートアップしていく。

 

「だァからてめェの力なんざ合格に必要ねェっつってんだ!」

「怒鳴らないでよ!それでいつも会話にならないんだよ!」

「ちょっ……落ち着い……」

 

 もはやオールマイトどころの話ではない。杳が慌てて二人の間に割って入ろうとした瞬間、()()()()()()()

 

 

 

 

 リカバリーガールの号令が掛かると同時に、凄まじい爆発音と地鳴りが人使の体を揺さぶった。次いで周囲の地面がひび割れ、重力が瓦礫ごと、彼を奈落の底へ引き摺り込もうとする。

 

 人使は寸でのところで捕縛布を繰り出し、数メートル先のショベルカーに引っ掛け、辛くも墜落死を回避した。そして自分の空いた手を掴んで空中をぶら下がっている、チームメイトの尾白へ声を掛ける。

 

「大丈夫か?」

「ああ、マジで危なかった。ありがと。助かったよ」

 

 すぐさま体勢を立て直すと、尾白は持ち前の身体能力を発揮し、上空へ跳び上がった。そして穴の淵から手を伸ばし、心操の捕縛布を掴んで一気に引き上げる。二人は素早くショベルカーの上に昇り、フィールドの全体像を見渡した。

 

 二人に与えられた戦闘フィールドは、周囲を高い塀に囲まれた工事現場風の瓦礫・土砂ゾーンだった。周囲にはショベルカーやクレーンなどの重機が数台置かれている。スタートの号令が掛かるまで地面は見渡す限り、平らだった。だが、今は見る影もない。わずか数秒の間に、エメンタルチーズの断面を彷彿とさせるような穴ぼこ状態になり果てていた。

 

「はは。さすが”パワーローダー”」

 

 尾白が額に滲んだ汗を拭い、苦笑いした。――二人の対戦相手は、掘削ヒーロー”パワーローダー”だ。どんなに硬い地面だろうと重機なしにガンガン掘り進む。その個性が今、二人に向かって如何なく発揮されていた。

 

 無駄に可愛らしくデコレーションされたゲートは、土煙の中、遥か前方に霞んで見える。そこまでの道程には一切の足掛かり――つまり岩などの出っ張りや重機などがなかった。あるのは、平らな地面と無数の穴ぼこだけ。恐らくさっきの攻撃で一緒に飲み込んだのだろう。”逃げられるものなら逃げてみろ”と言わんばかりに、周囲を取り囲む無数のクレーターが、大口を開けて自分達を嘲笑っているように見える。

 

(恐怖に呑まれるな。呑まれたところで良い事なんぞ、一つもないからな)

 

 思わず恐怖の渦中に沈み込みそうになった人使の意識を、かつての師匠の言葉が救い上げた。

 

(余裕があるなら深呼吸して、日常的な事でも考えろ。で、落ち着いたら自分の現状を洗い直せ。どんな絶望的な状況でも、必ず打開策がある)

 

 人使は深呼吸し、捕縛布を握り締めながら考えた。――日常の事。杳の顔がパッと思い浮かんだ。今日は試験終了のご褒美として、三人で”放課後ヒロド”をする事になっている。その後は、もし時間が残っていればカラオケにでも行ってみるか。

 約数秒間くだらない事を考え、やがて平常心を取り戻した人使は、緊張している様子の尾白に向かい、小さく微笑んでみせた。

 

「大丈夫だ、尾白。お互いにフォローし合って進めばいい」

 

 尾白の機動力が及ばない部分を、リーチのある自分の捕縛布が補えばいいのだ。尾白は驚いたように細い目を見開いた後、パシッと頬を叩いて精悍な顔立ちを引き締め、遥か先のゴールを見据えた。ふさふさとした尻尾が戦闘態勢を取り、後方にピンと伸びる。尾白は果敢な笑みを浮かべると、心操の肩を親愛を込めて軽く叩いた。

 

「そうだね。頑張ろう!()()J()r()

「だからそれ止めろって」

 

 

 

 

 人使と尾白が良好なコミュニケーションを築いている一方で、杳達は今まさに()()()()の中にいた。

 

 オールマイトがゲート付近から放ったスマッシュは、たった一発で、町の三分の一を文字通り()()()()()()。突如として、目の前に隕石が落ちて来たのと同じだ。杳達が凄まじい衝撃波と爆風に揉みくちゃにされ、瓦礫だらけの地面を転がっている中、朦々(もうもう)と立ち込める土煙の中から悠然たる声がした。

 

「町への被害などクソくらえだ。試験だなんだと考えていると痛い目見るぞ」

 

 そして三原色カラーのボディスーツに包まれた筋肉隆々の肉体が、三人の前に姿を現した。その勇猛たる眼差しが、ひときわ強い光を帯びて杳達に突き刺さる。杳は声もなく震え上がった。

 

 ――杳の目には、オールマイトが人間ではなく()()()()()に見えていた。

 

 視界を埋め尽くすほどの巨石が、恐ろしい炎をまとい、上空から自分に向かって迫り来るイメージ。目を焼くほどの強い光、あまりの高熱に海が沸騰し、地震が起き、火山が噴火する。衝突すれば最後、世界の全てが一瞬で吹き飛んでしまう。決して抗えない力。ただの人間に、惑星一つを止める力などない。

 

 オールマイトがプロヒーローとしてデビューした当時、超人社会は今とは比べ物にならないほど混乱しており、個性を悪用する犯罪が当たり前のように横行し、人々は犯罪者の影にいつも怯えながら暮らしていた。彼はそんな世の中で誰よりも多くの人々を救い出し、凶悪な敵を次々と打ち倒す事で犯罪への抑止力となり、混迷の最中にあった社会の在り方を一変させたのだ。

 

 どんな悪にも屈しない無敵のヒーローで在り続けようとするオールマイトの精神と肉体は、()()()()()()で杳の戦意を挫き、ありもしない幻影をも見せていた。

 

「私は(ヴィラン)だ、ヒーローよ。真心込めてかかってこい」

「あっ……」

 

 そう言うや否や、オールマイトは軽く身を屈め、三人に向かって跳躍した。杳の視界が色鮮やかなボディスーツに埋め尽くされたその時、強大な威圧感がレーザービームのように発射され、彼女の心臓を打ち抜いた。

 

 たまらず杳の腰は砕け、両目から涙が零れると共にほんの少し失禁する。頭の中が恐怖の感情一色に塗りつぶされ、彼女は形振り構わず、這いずってその場から逃げようとした。

 一方、緑谷はとっさに防御態勢を取りつつバックステップを踏み、爆豪はオールマイトに狙いを定め、突撃の構えを見せた。

 

 ――それが、ヒーローを目指して間もない杳と、とっくに自分達のヒーロー像を見定めている緑谷と爆豪との()()()()()だった。

 

「正面戦闘はマズイ!逃げよう!」

「俺に指図すんな!」

 

 緑谷は茫然自失状態になっている杳を助け起こしながら、爆豪に向かって叫ぶ。しかし爆豪は歯牙にもかけず、迫り来るオールマイトの真正面に立ち、全力の閃光弾を放った。オールマイトが思わず片手で目を塞いだ隙に、爆豪は新たな一手を投じる。

 

「オールマイト!言われねぇでも最初(ハナ)からそのつもりだよ!」

「……あ(イタ)タタタタ!」

 

 爆豪は両手をオールマイトの体表に押し付けると、目にも留まらぬ速さで連続爆破を仕掛けた。連続といっても小さな爆発ではない。数メートル先にいる杳達が、オールマイトの背中越しに飛んできた衝撃波と熱風を受け、思わず体勢を崩すほどの威力だった。

 

 オールマイトが攻撃の途中で爆豪の顔と片手をわしっと掴んでも、彼の勢いは止まらない。通常は顔を掴まれたら、反射的に引き剥がそうとするものだ。爆豪は()()()オールマイトを倒す心積もりのようだった。

 

「爆豪少年。私をマジで倒す気()()ないようだな!」

「カハッ……」

 

 しかしその決死の攻撃も、オールマイトにとっては”ちょっと小突かれた程度のダメージ”でしかないらしい。オールマイトは赤子の手を捻るように爆殺王を地面に叩き伏せた。地面に小さなクレーターができるほどの威力だった。

 唾液混じりの胃液を吐いた爆豪は、一瞬意識を飛ばしたのか体を弛緩させる。不意にその姿が、ロックの手によって地面に投げ捨てられた()()()姿()と重なった。

 

 次の瞬間、杳は無我夢中で、オールマイトの眼前へ飛び出した。爆豪を守るように立ち、両手を前に突き出しながら、イメージを形にするために言葉を発する。

 

点火(イグニッション)!使用n――」

「敵はTwinkleTwinkle☆Timeを待っちゃくれないぞ、魔法少女!」

 

 オールマイトがすかさず放った強烈なパンチが杳の鳩尾にクリーンヒットし、彼女は数メートルを吹っ飛んだ挙句、ビルの壁に背中からぶち当たった。頭もぶつけた事で軽い脳震盪を起こし、目の前の景色が切れかけた蛍光灯のように明滅し始める。朦朧とした意識の中、オールマイトの教師モードになった声がぼんやりと響き渡った。

 

「その時間さえなくせば、君はもっと強くなれる。……そして君も君だ、緑谷少年!爆豪少年(チームメイト)を置いて逃げるのかい?」

 

 オールマイトの鋭い眼光に気圧された緑谷は、エメラルドグリーンに輝くエネルギー粒子を体表にまとわせ、反射的にバックステップを踏んだ。しかし、ちょうど再起動したばかりの爆豪と空中でぶつかり合い、二人は大きく体勢を崩して地面に墜落する。すぐさま起き上がり、オールマイトに向かおうとする爆豪の手を、緑谷が必死で掴んだ。

 

「だから!正面からぶつかって勝てるわけないだろ!」

 

 しかし爆豪はその手を振り払い、尚も前に進もうとした。――その目は、狂おしいほどの焦燥と羨望の感情に揺れている。

 

「勝つんだよ。……それがヒーローなんだから」

 

 

 

 

 一方その頃、住宅地を丸ごと再現した戦闘フィールドにて。焦凍と八百万は対戦相手である相澤を警戒しつつ、ゲートに向かい、ひた走っていた。

 

 ポコポコと軽快な音を立て、小さなマトリョーシカ人形が、八百万の体表から数秒おきに創造されていく。――相澤の抹消の個性を警戒した焦凍が、八百万に一策を講じさせたのだ。人形が生み出せなくなれば、それは相澤が接近していると言う事。

 ……素晴らしい作戦ですわ。八百万は人形をベルトの隙間に詰め込みながら、憂鬱な表情で溜息を零した。

 

 ――雄英での推薦入学者。スタートラインは同じだったはずなのに、ヒーローとして一番重要とされる実技においての差はもはや歴然としていた。体育祭で焦凍は優勝したが、八百万は常闇に成す術なく完敗。ベストを即決できる判断力を有している焦凍に対し、自分は何ら特筆すべき結果を残せていない。

 

 一方の焦凍は小さな溜息を耳にして、思わず振り返った。――自信のなさそうな顔で、こちらを見つめ返す八百万の姿が、紙袋をかぶった()()姿()と重なった。あの時の杳は本当の自分を見出す事ができず、悪路の行き止まりでうずくまり、途方に暮れていた。

 今になって思い返せば、八百万は試験前からずっとこの表情をしていたような気がする。焦凍は自分の至らなさを恥じ、小さく唇を噛み締めた。

 

 次の瞬間、焦凍は何の前触れもなく冷気を放出し、二人を取り囲むように大きな氷のドームを創り上げた。

 雪を内部に含ませた氷の壁は光を乱反射させ、相澤の視線は届かない。思いも寄らない事態に八百万は軽くパニックになり、人形をバラバラと取り落しつつ、焦凍に尋ねた。

 

「な、いきなり何を……轟さん」

「八百万。何か、あるんだよな?」

 

 焦凍はただ真っ直ぐに八百万の目を見つめ、ゆっくりとした口調で問いかけた。炎のように暖かく、それでいて氷のように冷静な眼差しが、彼女の昂った心を瞬く間に鎮めていく。

 

「いきなり突っ走って悪かった。ゆっくりでいい。意見を聞かせてくれ」

「でも、私の考えなんて……」

「大丈夫だ」

 

 焦凍はやおら屈み込んで、八百万の黒曜石のように輝く瞳を覗き込んだ。それから人々を安心させるような、優しい笑みを浮かべてみせる。

 

「学級委員決めた時、お前2票だったろ?……1票は俺が入れた。そういう事に長けた奴だと思ったからだ」

 

 焦凍の色違いの双眸と、八百万の漆黒の双眸が束の間、交錯する。ほろ苦い挫折の経験を味わい、ポッキリと根元から折れた心の断面を、焦凍の言葉が労わり、癒していく。心の奥底から暖かいものが込み上げて来て、やがて両目から溢れ出しそうになるのを、八百万はじっと堪えた。

 

 ……なんてみっともないの。でもそんな私を見捨てずに、支えてくれる方がいる。今は、そんな事を考えている場合じゃない。前に進まなければ。八百万は唇を強く噛み締め、決意に満ちた眼差しで焦凍を見つめ返した。

 

「済んだ?」

 

 刹那、頭上を覆う氷のドームがガシャンと割れた。無数の氷雪の欠片を引き連れて、相澤が降って来る。――撒き菱を大量に包んだ捕縛布の塊をモーニングスターのように振り回し、ドームの一部を破壊したのだ。新たな捕縛布が二人に向かって繰り出されようとしたその時、八百万がありったけの人形を上空に向けてばら撒いた。

 

「目を閉じて!」

 

 次の瞬間、人形の内部に隠された一つの閃光弾が炸裂し、周囲が真っ白な光に包まれた。まともに目潰し攻撃を喰らった相澤は地面に不時着した後、光量を自然調節するため、しばらく動かなくなる。

 その隙を突いて二人はドームの壁を破り、外の世界へ飛び出した。滲む涙を乱暴に拭い取りながら、八百万は隣を駆ける轟に向かって、果敢に叫ぶ。

 

「轟さん!……私、ありますの!相澤先生に勝利する、とっておきのオペレーションが!」

 

 

 

 

 なんとか体勢を立て直すと、杳はよろめきながら立ち上がった。――何か、考えなきゃ。このままじゃ逃げる事も戦う事もできないまま、全員ノックアウトされてしまう。でも()()()()で連携を取る事なんて不可能だ。

 

 ――もしチームメイトが緑谷と爆豪じゃなく()使()()()()だったら、今の状況は少しでも違っていただろうか?思わず弱気になり、挫けそうになった杳の耳に、頭上のスピーカーからリカバリーガールの穏やかな声が発信された。

 

「報告だよ。条件達成最初のチームは、轟・八百万チーム!」

 

 鈍器でしこたま頭を殴られたような衝撃が、杳を襲った。パプコを吸いながら仲良く歩いていたはずの友人の姿が、目の前でふっとかき消える。遥か遠くに光り輝く道の上を、彼は一人、堂々とした足取りで歩いている。

 

 杳の目の前で、爆豪は強烈な一撃を鳩尾に喰らい、胃液混じりの唾液を吐き出した。今にも(くずお)れようとする爆豪の姿を、ガードレールと地面の間に挟み込まれた緑谷が食い入るように見つめている。オールマイトは悠然とした足取りで爆豪に近づきながら、優しく話しかけた。

 

「分かるよ。緑谷少年の急成長だろ?でもさ、レベル1の力とレベル50の力……成長速度が同じなハズないだろう?」

 

 その瞬間、爆豪の心は子供時代にタイムスリップした。――小さい頃、テレビで何度も見たオールマイトの姿。ずっと憧れていたヒーローが今、目の前で俺を見下ろしている。()()()()()を見る目で。俺がデクを見るのと同じ目で。こんなはずじゃなかった。その為に俺はずっと努力を重ねてきた。

 

 

 

 

 ――緑谷出久は、爆豪にとって幼馴染であるのと同時に、()()()()()()だった。

 無個性で何もできない弱い人間なのに、自分と対等に張り合おうとする。誰よりも強くあろうとした自分を救けようと手を伸ばす。緑谷の行動はいつだって、爆豪の自尊心を傷つけた。けれど、どんなに手酷く痛めつけても、彼はしつこく自分の後を追い縋った。

 

 だが、どれほど自分の心をかき乱そうと、緑谷が()()()()()()事に変わりはない。自分の覇道を脅かす存在には、なり得ないのだ。道端の石ころ、モブの中のモブ。そう思っていた。――雄英の体力テストで、あの不可思議な力を見るまでは。それからわずか数ヶ月の間に、取るに足らない石ころだった幼馴染が、いつの間にか自分を脅かすほどの存在になっていた。自分が小さい頃から積み重ねて来た努力の壁を、いとも容易く飛び越えて。

 

(君が救けを求める目をしてた)

 

 世界で一番大嫌いな幼馴染の目が、視界の端に映る。今のオールマイトと同じように、憐憫に満ちた眼差しを、自分に注いでいる。あの忌まわしい言葉が害虫のように心の暗がりから飛んできて、耳の中をゴソゴソ這い回る。

 

 爆豪の高くそびえ立った自尊心の塔が崩れ去る間際、ある記憶のワンシーンが蘇った。――小さな頃、年上の少年2人相手に喧嘩をし、辛くも勝利を治めた思い出。本当はとても怖かった。小1と小4の体は全然違う。体じゅう痛くて怖くて悲しくて、すぐ家に帰って母親に甘えたかった。

 

 だけど、憧れたヒーローはそんなみっともない事しない。爆豪は浮かんできた涙を気合で飲み下すと、周りを囲む友人達に呟いた。

 

(いちばんすげえヒーローは、最後に必ず勝つんだぜ)

 

 ……そうだ。俺はいつだってそうしてきた。そしてそれは今までも、これからも変わらねぇ。誰にも頼る事のない孤独な茨の道を、彼は進み続けるのだ。オールマイトがそうしてきたように。爆豪は力を振り絞って、よろよろと立ち上がる。

 

「もったいないんだ君は!わかるか?わかってるんだろ?君だってまだいくらでも成長できるんだ。でもそれは力じゃない……」

「黙れよ、オールマイト」

 

 爆豪は胃液混じりの唾と共に言葉を吐き捨てると、オールマイトを睨み上げた。

 

「あのクソの力ぁ借りるくらいなら……負けた方がまだ……マシだ」

「報告だよ。心操・尾白のチームが条件達成!」

 

 杳の隣を歩いていた人使の姿が、かき消えた。そして遥か遠くに光る道を、焦凍と共に歩き始める。やがて二人の横に、1-Aのクラスメイト達がずらりと並んだ。

 ――自分はただ、スタートラインに立っただけ。普通に歩いているだけじゃ、決して彼らに追いつけない。どんどん距離が離れていく。たとえ全速力で駆けたって、間に合うかどうかも分からない。言いようのない焦燥と孤独の感情が、杳の心を責め立てる。

 

「かっちゃん!」

 

 緑谷がガードレールを引き抜こうと懸命にもがく。しかしそれを嘲笑うかのように、爆豪の前に立ったオールマイトが、容赦なくその拳を振り上げた。

 

「……そうか。後悔のないようにな」

「クソが……」

 

 爆豪はふらつきながらも、決してその場から退こうとしなかった。不意に風向きが変わり、硝煙の匂いが杳の鼻腔を掠める。

 

 その時、目の前にいる爆豪が、ボロボロに傷ついた()()に、足掻き続ける緑谷が、泣きじゃくる()()の姿へ変わる。そしてオールマイトがロックの姿へするりと変貌し、金色のエネルギー粒子を纏わせた片手を情け容赦なく振り上げた。

 

 ――()()。友人に追いつくとか追いつけないとか、プライドとか焦りとか、そんなのはどうでもいい。

 

 この世の理は二つに一つ、シンプルだ。”大切な人を守るか、守れないか”。それを私はあの時、思い知ったはずじゃないか。

 

 次の瞬間、()()()()()がオールマイトに襲い掛かった。しかし、常軌を逸したレベルの反射能力と身体能力で、オールマイトは雷獣化した杳をも、ガッシリと受け止めてみせる。彼は、高速でブツブツと呟き、稲光を放出し始めた彼女を視界の端に認め、攻撃を見越していたのだ。

 

「クッ……結構痛いなコレは。だが白雲少女、イメージは心の中だけに……」

(――”氷河期(アイスエイジ)”!)

 

 刹那、杳はイメージを頭の中で()()()()()。――使用燃料も出力先も、一切考えない。ただ一心に、冷気を放出する事だけを考えた。やおら体内の雲が大きく膨れ上がり、猛吹雪を伴った強風を辺り一帯に叩きつける。

 

 やがてそれが過ぎ去った後、爆豪と緑谷の目の前に、周囲の建物をも巻き込んだ()()()()()が現れた。柱の中心部分には、オールマイトが閉じ込められている。

 

 思わず身じろぎしようとした二人は、ピクリとも動けない事に気付いた。驚いて見下ろすと、足元が冷たい氷に包まれている。せっかくの反撃のチャンスを棒に振ったと、爆豪が苛立ち紛れに怒鳴った。

 

「てめェ!何してくれとんだ!」

「それはこっちのセリフだ!……あんたらは大切な人が殺されそうになってても、そうやっていがみ合ってんのか!」

 

 爆豪の声を捻じ伏せるほどの声量で、杳は叫んだ。いきなり大声を出したので眩暈がし、そのまま倒れ込みそうになるのを、何とか気合で持ち応える。――体内の天候を、無理矢理雷から氷へ切り替えたからだ。それにさっきの攻撃で、燃料の全てを使い切ってしまった。だが今は、そんな事を気にしてる場合じゃない。杳は歯を食い縛り、二人を睨みつけた。

 

「それで死体に言うのか?”仲が悪くて救けられませんでした”って!」

 

 にわかに、巨大な洞窟の奥から響くような()()()が、辺り一帯にこだまし始めた。砕かれた氷の中に入った空気が排出される音だ。オールマイトが氷柱を内部から破壊し、抜け出そうとしている。

 

 ――これは反撃のチャンスではなく、()()のチャンスだった。

 このわずかな間に自分達が手を取り合う事ができなければ、この試験は終わりだ。杳の言葉はごくありふれた一般論だ。だが、それを一蹴できるほど、爆豪も緑谷も愚かではない。

 

「うるせェよ。ンなこたァ……」

 

 爆豪の灼眼は揺れ、緑谷が唇を噛み締める。二人がこの奇妙な関係性を結ぶに至ったのは、きっと()()()()()があるのだと思う。それを蔑ろにするつもりはないし、すぐに解決できるものでもないだろう。だが、それを覆すのがヒーローじゃないのか。少なくとも、自分の憧れたヒーロー達ならそうするはずだ。こんなところで、ナメクジのようにのたくっている場合ではない。

 

 ――1-Aクラスでも優れた実力を有している爆豪と緑谷は、自分とはレベルが違う。たとえ望まずとも連携すれば、あのオールマイト相手でもきっと勝機を見出せるはずなのだ。一足先に合格を掴んだ友人達の姿が脳裏をよぎり、杳は込み上げる涙を噛み締めて叫んだ。

 

「頼むよ。ヒーローになりたいんだ。追いつきたい人達がいるんだ。……だから、お手本見せてよ。()()!」

 

 次の瞬間、目の前の氷柱が轟音を立てて()()()()。巨大な氷の欠片が鏡のように青空を映し込み、この世の終わりを告げるかのように、辺り一帯にまき散らされていく。直径数十メートル以上もある氷の牢屋を、オールマイトはわずか1分足らずで抜け出した。車一台分ほどもある氷塊をひょいと投げ捨てると、彼はちょっと身震いしてから、アメリカナイズなくしゃみをする。

 

「Atchoo!……この悪戯っ子め!」

 

 そんな茶目っ気たっぷりな声音とは裏腹に、恐ろしい風切り音を立てながら、オールマイトの剛腕が杳に向かって襲い掛かる。――その刹那、爆豪と緑谷が動いた。




終わらなかった…。③まで一気に書いてから微調整しよう(;'∀')


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No.28 期末試験③

 人は、生まれながらに平等じゃない。

 これが齢4歳にして知った”社会の現実”だった。 

 

 ……だけど。

 あの人と出会って、僕の人生は変わった。

 死ぬほど焦がれた力だけじゃない。

 彼は、ずっと誰かに言ってほしかったあの言葉を、僕に掛けてくれた。

 

 ”君はヒーローになれる”

 

 ……オールマイト。

 僕は必ずなります。

 あなたのような、最高のヒーローに。

 

 

 

 

「――”SMASSH(スマーッシュ)”!」

 

 まず最初に、緑谷がエメラルドグリーンに輝くエネルギーをまとった右手で、オールマイトに渾身のスマッシュを放った。緑谷とオールマイトとの接点に彗星の衝突を彷彿とさせるような凄まじい衝撃派が発生し、放射線状に強い突風が辺りを吹き抜けて、砂埃がもうもうと巻き上がる。

 思わぬ奇襲にオールマイトが動きを止めている間、爆豪は目視で避難経路を確保し、杳の首根っこを掴んで路地裏へ放り投げた。

 

「走れアホ!」

「うわっ」

 

 オールマイトはすぐさま体勢を立て直し、反撃に出た。小規模な竜巻を伴ったアッパーを辛うじて回避した緑谷を擦り抜け、今度は爆豪がオールマイトに肉薄する。低く身を屈めて懐に潜り込むと、ほぼゼロ距離からの爆破を放った。閃光弾も含まれていたのか、強烈な光と熱、そして火炎がオールマイトを蹂躙する。

 

 しかしオールマイトにとって、それらは”タバコの煙がちょっと顔に掛かった”程度のものだった。彼は気軽な動作で片手を振るい、全てを散らす。――もうその場には誰もいなかった。

 

 緑谷と爆豪が瞬時に連携し、杳を救い出してから逃げるまで、()()()()()()()()の出来事。おまけに爆豪がさっき繰り出した攻撃も、オールマイトがすでに破壊した軌道上に重ねた事で被害を軽減させている。

 ……Keep it up(その調子だ)!生徒達の急成長を見たオールマイトは満足気に口角を上げ、小さく咳き込んだ後、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 

 

 一方その頃、杳は一人、路地裏を疾走していた。数秒も走らない内に、後方で凄まじい爆音と閃光がまき散らされる。強い硝煙の匂いが鼻腔に突き刺さった。

 

 刹那、数メートル程前方に爆豪が舞い降りた。両掌を爆破させ、その推進力で滑空している。肌にちりつくような熱波が襲い掛かり、杳は思わず顔をしかめた。

 ”爆破”は自分の弱点。雲化していたら、もろにダメージを喰らっていたところだ。無意識に距離を置こうとする杳を気配で察知したのか、すかさず爆豪が叱声を飛ばす。

 

「オイスピード落とすな!」

「ひっ……」

「大丈夫?白雲さん」

 

 優しい声と共に、追いついた緑谷が杳の体を抱え上げる。――たった数秒で、二人はあのオールマイトを退け、巻いたのだ。すごい。やはり彼らは、自分とは立っているステージが違う。杳はいたく感じ入り、自分を救けてくれた事のお礼を言おうと口を開いた。

 

「あの、緑谷くん。爆豪くん。救けてくれt――」

 

 やおら爆豪が振り向いた。普通にしていれば整っているであろう面貌は、今や悪鬼のような造形に歪んでいる。爆豪は無理矢理、杳の体を緑谷の腕から引っこ抜くと、近くの壁に叩きつけた。

 恋愛要素など欠片もない、恐怖純度100%の()()()だった。反射的に逃げようと身を捩るが、爆豪がすかさず繰り出した両手が、彼女の体を檻のように閉じ込める。

 

 ――目と鼻の先に、爆豪の顔がある。杳は”ヤンキーからメンチを切られる”という経験は初めてで、キュッと心臓が縮み上がった。小さくなる杳を上から押さえつけるように睨め付け、地を這うような低い声で、爆殺王は吐き捨てた。

 

「テメェに言われんでも分ァっとンだタコが!」

「すすすす、すみませんでした……」

「ちょっ、かっちゃん!」

「喋りかけんなデク!」

 

 緑谷の声が聴こえたとたん、爆豪の顔は怒りの一点集中から、とびっきりの苦虫を噛み潰したようなものへ変わった。恐怖の二面相だった。周囲の建物に反響するほど大きな舌打ちをすると、爆殺卿は杳を解放した。またあの口喧嘩が始まるのかと身構えたものの、二人の会話はそれで終わった。杳は拍子抜けし、小さく肩を竦める。

 

 ――それは、彼女自身が()()()()()を力の限りアピールした事で、二人がこの場に”第三者がいる”という事実を改めて認識したからに過ぎなかった。

 

 二人だけの空間――それが良い空気であれ、悪い空気であれ――によそ者が紛れ込むと、なんだか気が削がれるものだ。杳の存在は、ドロドロに煮詰まった毒のような二人の関係を一時的に中和し、冷静な感情と知性を呼び覚ましていた。

 

 

 

 

 個性なしで二人に追従できるほど、杳の身体能力は優れていない。ガス欠になった事を知ると、緑谷は彼女を背負ってくれた。

 杳は恐る恐る後ろを振り向く。――オールマイトはいない。やがて道の先に、ゲートのようなものの輪郭が見えてきた。このまま進めば勝てるはずだ。杳は楽観的に考えると、緑谷に囁いた。

 

「オールマイト、いないよ。このまま行けばゴールできる!」

「いや、それはないよ。白雲さん」

 

 しかし緑谷の返事は、焦燥に満ちていた。彼は唇を真一文字に引き締めると、前方をひた走る爆豪に話しかけた。

 

「かっちゃん。僕にはオールマイトに勝つ算段も逃げる算段も、とても思い付かないんだ」

「あ?!」

 

 爆豪は脊髄反射レベルで緑谷に突っかかろうとしたが、彼に背負われている杳の顔を見たとたん、毒気を抜かれて口を閉じた。緑谷はひたむきな眼差しを幼馴染の背中に向け、静かに言葉を続ける。

 

「負けていいなんて言わないで。諦める前に僕を使うくらいしてみろよ。勝つのを諦めないのが、君じゃないか」

 

 杳は背負われているので、緑谷の表情は分からない。だが、喉の奥から絞り出したようなその声はとても切なく、羨望の感情がカラメルみたいに煮詰まった()()()()()()がした。

 対する爆豪はしばらくの間、黙して語らなかった。やがて特大の舌打ちをするや否や、おもむろに振り返り、杳にハンドカフスを放ってよこす。

 

「お前は()()だクソ雲。持っとけ」

「でも。私、個性の容量を……」

「全部使い切るなんてこたねーんだよ。残りカスで踏ん張れカス」

 

 あんまりな言い草と共に、人を殺せそうなほど鋭い眼光が飛んできて、杳はハンドカフスを握り締めたまま、口籠った。――実際、爆豪の言葉は正しかった。個性の容量は動物としての本能に直結している。命の危険にさらされた時、最後の力を振り絞る事ができるように、生物はいつ何時も余力を残すものなのだ。

 

「……二度は言わねぇぞクソナード」

「うん」

 

 爆豪は隣に並んだ緑谷に、手早く作戦内容を伝え始めた。――爆豪の作戦はこうだ。さっきの攻撃で片方を使い切ったが、自らの手榴弾型の籠手には、ビルを半壊させるほどの威力を持つ最大量の汗が蓄積されている。半端な威力ではビクともしないオールマイトの動きを止めるには、”ゼロ距離からの大爆破”が有効だ。現に今も、それを喰らった彼は自分達を追いかけてきていない。

 

 ――ゲートが目視できる十分な距離まで接近したら、杳を下ろし、二人で彼女を挟んで走る。オールマイトは必ず、連なった三人の内、誰かに攻撃を仕掛けてくるはず。杳はあくまで逃げに徹し、()()()()()()()()()()を持つ――籠手持ちの緑谷か爆豪が迎撃。

 

 どちらかが攻撃されたら、その隙にどちらかが攻撃する。挟み撃ちにできれば上々だが、そんな余裕はないだろう。どちらかが必ず爆破に巻き込まれるというハイリスクな戦法だが、オールマイト相手に勝つ手段はもうこれしかない。

 

 

 

 

 数十秒後、路地裏を抜けると、いよいよ脱出ゲートに近づいて来た。無駄に可愛らしくデコレーションされたゲートには、根津校長が激励を飛ばしているイラストが描かれていた。――今の杳には、それがまるで天国への入り口に、根津校長が神の使いのように見えた。うねるような安心感が、彼女の全身を包み込む。

 

 ゲート付近の建物は半壊し、舗装がひび割れ、めくれ上がっていた。世界の終わりが到来したかのようなその崩壊は、ゲート手前から放射線状に広がっている。恐らくオールマイトはここからスマッシュを放ったのだ。……つくづく人間離れしている。杳がオールマイトの戦闘能力に戦々恐々としていると、緑谷が心配そうに後方を振り返った。

 

「追ってくる様子ないね。まさか気絶しちゃったんじゃ……」

「あれでくたばるハズねぇだろクソ」

 

 爆豪は緑谷と同じ空間にいる、および会話をする事が生理的に受け付けないのか、露わになった体表に蕁麻疹を発生させながら、憎々しげに吐き捨てた。

 

「作戦通りにしろ。追いつかれたら俺の籠手でブッ飛ばせ」

「うんうん。それでそれで?」

 

 ――何の気配も音もしなかった。気が付くと、杳のすぐ傍に()()()()()()()()()

 

 旧来の友人のように気安い態度で、オールマイトは爆豪の言葉の続きを促す。半瞬遅れて、オールマイトが放った気迫が、杳の心臓と脳をプレス機のように押し潰した。

 

 電光石火の如く反応した爆豪が、最大量の半分位まで蓄積された籠手を構える。籠手が起爆する寸前、緑谷が素早く杳の体を抱え上げ、「ごめん!」と叫んでからゲートの方に放り投げた。

 軟着陸した杳は、夢中でゲートまで駆ける。……後ろの様子は分からないけれど、自分がゲートを抜ければこの恐ろしい戦いも終わるのだ。きっとあの二人なら大丈夫。あと数秒もあれば、ゲートをくぐり抜けられる。

 

 緑谷が籠手のピンを引き抜いたのだろう、後方から激しい爆発音と共に突風が吹き抜け、杳の体はそれに煽られて、前方へ浮き上がった。そして右足の爪先がゲートのラインを超えかけた――まさにその時、誰かが左の手首を掴んだ。()()()()()()だ。

 

 その直後、杳の体は右後方にあったビルの残骸付近へ放り投げられた。杳は十数メートルほどの距離を飛ばされ、一度地上に激突したが勢いは止まらず、地面を滑り、瓦礫の破片に衝突してやっと止まった。全身を強打して朦朧とする意識の中、彼女はうつ伏せに倒れ伏したまま動かない爆豪の姿を見た。

 

 なんとか立ち上がろうとする緑谷をオールマイトがヒョイと持ち上げる。緑谷の両手首を凄まじい握力で拘束しつつ、茶目っ気たっぷりに小首を傾げ、何やら思案に暮れている様子だ。

 

(全部使い切るなんてこたねーんだよ。残りカスで踏ん張れカス)

 

 爆豪の言葉が、ふと杳の脳裏を掠めた。辺り一帯は二度の大爆破で、熱気が充満している。――やるなら今しかない。杳はよろめきながら立ち上がると、ハンドカフスを握り締めた。その様子を視野に入れていたオールマイトは、必死にもがく緑谷をキーホルダーのようにぶら下げたまま、杳に向き直る。

 

「白雲少女。無理は禁物……」

(……”蜃気楼(ミラージュ)”)

 

 刹那、おびただしい量の冷気が杳の体表から噴き出した。それは周囲の熱気と混ざり合い、大気を揺らがせる。そして暖気から冷気へ向かう()()()()()()()事で、ありもしない幻を映し出す。

 

 今、オールマイトの目には、ハンドカフスを構えた大勢の杳が自分を包囲し、突撃してくる幻影が見えていた。オールマイトは眉をひそめると、空いた手を軽く振る。たったそれだけで一陣の風が吹き、周囲を取り巻いていた幻はかき消え、()()()()が露わになった。

 

 オールマイトは杳に肉薄し、彼女を昏倒させるため、その首に手刀を落とした。だが手応えはなく、オールマイトの手が首を突き抜けるのと同時に、ガチャリと()()()()()()()()がした。

 

 杳はどさくさに紛れて自らを雲化させ、体内にハンドカフスを隠し持っていたのだ。オールマイトが攻撃を仕掛けてきた際、ハンドカフスを体内で移動させ、嵌めればいい。そしてその作戦は上手くいった――

 

 ――ように思われたが、()()()。杳の体内から引き抜かれたオールマイトの手には、ハンドカフスが()()()()()()。迫り来るその気配だけで位置を把握し、直前で避けたのだ。途方もない絶望の感情に囚われた事で一時的に集中を欠き、杳の雲化が解ける。その瞬間を、オールマイトは見逃さなかった。

 

「なるほど、二段構えの攻撃だったわけか。土壇場でよくここまで考えた、白雲少女。……だが、これで終わりだ」

 

 狙いすました手刀が、杳の首に叩き込まれる。彼女の意識は奈落の底へ落ちていった。

 

 

 

 

「白雲さん!」

 

 地面に崩れ落ちた杳を救おうと、緑谷はますます激しくもがいた。その鳩尾に強烈な一撃を喰らわせ、地面に放り投げると、オールマイトは悠然とした態度で口を開いた。

 

「”二人がかりの最大火力で私を足止めしている間に、白雲少女に脱出ゲートをくぐらせる”、これが君達の答えだったようだが、その最大火力も消えた。保険も掛け捨てになったようだし」

 

 オールマイトは数メートル先に散らばった、籠手型のサポートアイテムの残骸に目線を落とす。――つい数秒前、緑谷が自分に向けて放ったものだ。もう一対も、すぐ傍に転がっている。両方共、オールマイトが充填できないように握りつぶしたため、砕いたビスケットの如く粉々になっていた。無理を押して立ち上がろうとする爆豪の体を踏みつけ、史上最強の()()()は容赦なく言い放った。

 

「終わりだ。ヒーロー共」

「うるせえよ」

 

 だが、爆豪の掠れた声がそれを拒んだ。次の瞬間、辺り一帯を凄まじい爆炎と衝撃波が蹂躙する。真下から襲い掛かる突風にオールマイトが防御反応を取った隙を突いて、爆豪が拘束から抜け出し、緑谷の傍で迎撃態勢を取った。

 

 杳が決死の思いで掛けた保険は完全に無駄にはならず、爆豪の体力をわずかに回復させるまでの時間を稼いでいた。しかし、爆殺王ももう限界だった。彼はおもむろに緑谷の襟首を掴むと、爆破の勢いに載せ、ゲートまで放り投げる。

 

「スッキリしねえが今の実力差じゃまだ、こんな勝ち方しかねえ!」

「かっちゃ……!」

 

 けれど、あと数ミリで緑谷の指先がゲートに届く寸前、オールマイトのドロップキックが彼の背中を容赦なく直撃した。緑谷の体が大きなクレーターの中に沈んだと同時に、爆豪が再びオールマイトに急接近し、度重なる爆破の反動でボロボロになった掌を押し付け、特大の爆破攻撃を放った。ついに拒否反応を起こし、痙攣し始めた体を執念で動かしながら、爆豪は怒鳴った。

 

「行けデク!早よしろ!ニワカ仕込みのてめェよか、俺のがまだうまく立ち回れンだ!」

「ぐうっ……」

 

 緑谷は今にも途切れそうになる意識を強く舌を噛む事で辛うじて繋ぎ止め、ガクガクと震えながら立ち上がった。腰と背中が尋常ではない激痛を訴え、下半身の力が入らない。だが、そんな事を言っている場合ではない。走るんだ、と緑谷は自分の脳を叱咤した。

 ……オールマイトはゴールにより近い自分を狙いに来る。そうしたら、かっちゃんは攻撃の軌道を予想しやすくなり、その分負担も減る。走れ、走れ!

 

 次の瞬間、凄まじい衝撃音と共に幼馴染のくぐもった断末魔が、緑谷の鼓膜を揺らした。思わず振り返った彼の目に飛び込んで来たのは、オールマイトの足に二度(にたび)踏みつけにされた、瀕死の爆豪の姿だった。

 

「寝てな爆豪少年。そういう身を滅ぼすやり方は、悪いが私的に少々トラウマもんで……痛ッ!」

「行けや、クソナード……!」

 

 最後のあがきとばかりに小爆破を起こし、ろくに身動きの取れない体でオールマイトにしがみ付きながら、爆豪は掠れた声を絞り出す。

 

「折れて折れて、自分捻じ曲げてでも選んだ勝ち方で……それすら敵わねえなんて、嫌だ」

 

 幼馴染の悲痛な言葉は誰よりも、緑谷の心に響いた。

 

 ――緑谷にとって、強い個性を持ち、なんでもできる天才肌の爆豪は”憧れの存在”だった。

 いつもテレビ画面の向こうで手を振っているオールマイトよりも、現実味のある目標。当時、親ぐるみで付き合っていたために、一緒に遊ぶ事も多かった。接する機会が多いと、お互いがどう思っているかは別として、心理的距離は縮まる。

 

 手を伸ばせば届きそうな、だが実際には決して届かない遠いところで、爆豪は一等星のように冷たく輝き、緑谷を照らし続ける。その光に焦がれ、緑谷は地上を駆けずり回り、夜空にきらめく幼馴染の背中を追い続けた。

 

 しかし、オールマイトの介入により、その力関係は一変する。()()()()()()()()のだ。気が付くと、緑谷は爆豪と同じ目線に立っていた。しかし、それを爆豪は許せない。

 緑谷は分析が得意だ。一番身近なヒーローの事なら、彼は何でも知っていた。――歪んだ絆は長い年月の中で硬く結ばれ、そう簡単には解けないという事も。

 

(あんたらは大切な人が殺されそうになってても、そうやっていがみ合ってんのか!)

(折れて折れて、自分捻じ曲げてでも選んだ勝ち方で……それすら敵わねえなんて、嫌だ)

 

 その時、かつての杳の言葉が、心の琴線をつま弾いた。その後を、爆豪の叫びが追いかける。……あの自尊心の高い幼馴染が、自分の生き方を踏み付けてまでも戦ってくれたのに、僕は。緑谷は唇を噛み締め、最後の力を振り絞った。あと一歩でゲートを抜けられるはずだった足を翻し、彼はオールマイトに立ち向かう。

 

 目の前の師匠に教えてもらったように――どんなに怖くとも辛くとも、不甲斐なくて泣きそうでも――力強い笑顔を湛えて。たとえこの試験が不合格になったとしても、危機に瀕した友を救ける。後々、どれほど不利な状況に自らが追い込まれようとも、今そこにある命を救う。緑谷は元来、そういう人間だった。

 

「どいてください、オールマイト!」

 

 人を救うために、緑谷は力を振るった。手加減のない本気のスマッシュが、オールマイトを襲う。まともにそれを喰らった彼が半瞬、動きを止めたその隙に、緑谷は爆豪と杳の体を抱え上げ、脱出ゲートをくぐり抜けた。彼の体表を駆け巡るエメラルドグリーンのエネルギー粒子が弾け、その残滓が、酸素と一緒に杳の口に吸い込まれていく。

 

 

 

 

 ふと気が付くと、杳はあの暗くモヤモヤとした世界に一人、漂っていた。時の流れに関与しない”量子の世界”。この世界に存在する、ありとあらゆる事象や出来事が複雑に折り重なり、互いにせめぎ合って、周囲は黒く靄がかっている。

 

 どうして、こんなところにいるんだろう。杳はぼんやりと思考した。ふと視界の端を明るい光が掠め、彼女はその方向へ顔を向ける。――手を伸ばせば届くほどの距離に、小さな篝火(かがりび)が浮かんでいる。炎は金色の火花を散らしながら、少しずつ消え去ろうとしていた。

 

 杳は興味を惹かれ、炎の傍へ近づく。すると、炎の中から誰かの声がした。悲しい声。奈落の底に落とされても尚、足掻こうとするひたむきな声。

 

(ああ。こんなところで。どうか、あの人の想いを……)

 

 炎の中に目を凝らすと、瓦礫の下敷きになった一人の男性が手を伸ばし、目の前にいる少年に触れようとする光景が垣間見えた。少年は激しく泣きじゃくりながらも手を取り、皮膚に付いた血を舐める。弾けた火花の一欠けらが杳の頬に触れたとたん、様々な記憶と感情がどっと流れ込んで来た。

 

 ――敵に家族を殺され、天涯孤独となった少年を引き取り、親代わりとして育てて来た中堅のヒーロー。だが、彼は大いなる敵の攻撃に巻き込まれ、瓦礫の中に埋もれて死んでしまう。亡骸の手を取り、”置いていかないで”と嘆く少年。

 

 錆びたブリキ人形のようにぎこちなかった、二人の関係性。それが日を経る毎に、錆びついた部分に油を差すように少しずつ改善されていく工程。”倒すべき敵がいる”と養父から知らされた時の、少年の驚いた顔。愛する人を喪った時に感じた、抱えきれないほどの悲しみ。耐え切れず、杳の瞳から大粒の涙があふれ出した。

 

(限界だって感じたら思い出せ。何のために拳を握るのか)

 

 力強い女性の声が聴こえて、杳は顔を上げた。目の前に、新たな篝火が浮かんでいる。青白い火花をまき散らし、今にも消えようとするそれを、杳は慌てて両手の中に閉じ込めた。だが、それは勢いをなくし、見る間に小さくなっていく。

 

 そうして闇の中に融ける寸前、残り火の中に、金髪の青年とマントを羽織った女性が川辺に佇んでいる光景が映り込んだ。青年の決意に満ちた横顔を、杳はどこかで見た事のあるような気がした。

 

 杳はふと()()()()()()を感じ、振り返った。――ずっと遠くにあるようにも、手を伸ばせば届くほど近くにあるようにも感じる不確かな距離に、おぼろげな人影が数人、並んでいる。左端に行くほどに輪郭が霞み、右端に行くほどはっきりとしていた。

 

 奇妙なのは、人々の両手がひどい火傷を帯び、煤だらけだという事だ。まるでひどく熱いものを、随分長い間、持っていたかのように。右に行くほどに火傷の範囲は増大し、手はボロボロに傷ついている。隣の誰かに手渡すたび、それが大きくなっていったのだというように。

 

 右から三番目の位置に立つ、マントを羽織った女性が、ふと優しく微笑んだ。そしてひどく焼け焦げた手で、隣に並び立つ金髪の男性の肩をそっと掴む。

 

 しかし、彼は気付いていないようだった。男性の体躯は痩せ細り、顔は骸骨のように落ち窪んでいる。だがその目の奥は、強い輝きを帯びていた。その視線は一番右端、つまり自分の隣に立つ、一人の少年に注がれている。その少年の顔を見るなり、杳は大きく息を詰めた。

 

 ――()()だった。彼はその両手に、荘厳な輝きを放つ聖火(トーチ)を抱えていた。美しい火花が舞い散るそれを、彼はとても大切そうに抱き締める。炎が皮膚を焼き、その熱と痛みに苛まれても、彼はその手を離さない。まるでそれが我が子であるかのように。命よりも大切なものであるかのように。

 

 その様子を、金髪の男性が泣きたくなるほどに優しく、そして悲しい目で見守っている。杳が近づくごとに、大勢の声が混ざり合って聴こえて来た。それは絵画のように静止した人影達ではなく、緑谷がもつ炎の中からあふれ出て来る。

 

(頑張れよ、チビ助。今度こそ、必ず……)

(君は一人じゃない。僕達がついてる)

(挫けるな。最期まで戦うんだ。皆の心と一緒に)

(…………)

(……)

 

 絶望の底で懸命に足掻く中、一縷の希望を見出し、未来へ託そうとする、ひたむきな声の数々。その聖火は、希望の光だった。一人が力を培い、その力を一人に渡し、また培い、その次へ。そうして脈々と受け継がれ、創り上げられてきた()()()()

 

 強い義勇の心を持つ点火者達を、巨大な黒い影が笑いながら踏みにじる。自らの命と共に炎が消えてしまう前に、彼らは次代へ、心と力を託していく。余りにも目まぐるしい生と死のスピードに、その想いの強さに、杳はただ胸を締め付けられ、立ち竦んだ。

 

「――駄目だよ」

 

 刹那、杳の視界を、誰かが塞いだ。どこかで聴いた事のあるような、優しくて穏やかな声がする。

 

「君は――()()()ではない」

 

 

 

 

 そして、杳の意識はゆっくりと浮上した。意識も視界も、何もかもがぼんやりしている。一体、ここは何処だろう。少しだけ枕の上で顔を動かし、周囲を見渡してみる。まず最初に、布張りのこじんまりとした天井が飛び込んで来た。かすかな消毒薬の匂いが、鼻を突く。

 自分の横にはベッドが二つ並んでいて、隣では爆豪が仰向けになって眠っていた。さらにその隣に、緑色のモフモフ髪が垣間見えた。恐らく緑谷だろう。彼はどうやら起きているらしかった。

 

「全く、あんたは本当に加減を知らないね!特に緑谷の腰、これギリギリだったよ!」

「すみません……」

 

 リカバリーガールの叱責の声が飛んできて、杳はその方向へ顔を向けた。緑谷のベッドの前に、怒り心頭のリカバリーガールが立っている。その横でうな垂れているのは、オールマイトだ。

 

 ――その勇猛たる眼差しを、さっき()()()()で見た事がある。そう思った瞬間、杳の頭の中で、夢で見た男性と、目の前にいるオールマイトの姿がリンクした。

 

(突然変異らしくって、今年いきなり発現したんだ。だからまだ調整が追いついていないというか。医者が言うには奇跡だって)

 

 かつて食堂で聞いた緑谷の言葉が、それに重なった。

 

 ――緑谷はヒーローとして戦う時、いつも爆発しそうな焦燥感を迸らせ、人々がたじろぐような気迫を見せつける。そして桁外れに強力なパワーを発揮するのと引き換えに、洒落にならないほど深刻な重傷を負う。今になって思い返せば、緑谷がオールマイトと行動を共にしているのを、杳達クラスメイトは時折目にしていた。

 

 さっき夢の中で見た、汗と涙をボロボロと流しながら、聖火を抱き締める緑谷の姿が、瞬きした瞼の裏側に焼き付いて、儚く消え去った。

 

 ――その時、杳は頭ではなく心で、()()を理解した。そしてその何かは決して誰にも言う事なく、自分の心の内に秘め、墓場まで持っていくべきものなのだと本能的に理解した。目を閉じて眠る振りをした杳の目から、熱い涙が流れ落ちる。オールマイトの前で屈託なく笑っている友人は、その背中にどれほど大きな荷を背負っているのだろう。



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No.29 ショッピングモール

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●パープル(姿だけ)
プロヒーロー。情熱的な人。白雲朧・相澤・ミッドナイトのインターンを請け負っていた。


 翌日の朝。駅舎の外から空を見上げると、溶かしたダイアモンドのように七月の太陽が輝いていた。新調し立ての雄英バリアをくぐり抜け、いつものルートを通って教室のドアを開けた杳は、そのままピシッと凍り付く。――教室の隅っこに、芦戸、上鳴、砂藤、切島の面々がうな垂れて立っていたからだ。

 

 その周りを緑谷達が心配そうに取り囲んで、口々に慰めの言葉を掛けていた。どうやら芦戸達は、実技試験を通過できなかったらしい。重々しい悲痛な空気が、教室内を包み込んでいた。愛らしい顔をくしゃくしゃに歪め、芦戸が呻く。

 

「皆、お土産話楽しみに……うう……してるっ……がら!」

「まっまだわかんないよ!どんでん返しがあるかもしれないよ!」

「緑谷。それ口にしたらなくなるパターンだ……」

 

 緑谷が善意100%で放った言葉は、上鳴の逆鱗をフルスイングでビンタした。彼はほとばしる怒りの感情に任せ、緑谷の大きな瞳を力の限り指で突きながら泣き叫ぶ。

 

「試験で赤点取ったら林間合宿に行けずに補習地獄!そして俺らは実技クリアならず!これでまだわからんのなら貴様らの偏差値は猿以下だ!」

「落ち着けよ長え」

 

 友人の蛮行を宥めた瀬呂は、椅子に背を預けると、怪訝そうな表情を浮かべて自らを指差した。

 

「わかんねえのは俺もさ。峰田のおかげでクリアはしたけど、寝てただけだ」

 

 峰田はすかさず耳に手を当て、”もう一度聞かせてほしい”といった素振りをする。確かに()()()()()()峰田くんは輝いていたと、杳は思う。

 

 先日の放課後、人使と共にVを観たが、ミッドナイトと戦う事になった瀬呂は開始早々、彼女の攻撃に合い、眠り込んでしまった。しかし後半、チームメイトの峰田が大奮闘し、ミッドナイトを行動不能にした上で、熟睡中の瀬呂を背負い、二人一緒に脱出ゲートを通過してみせたのだ。

 いつもの性欲の権化としての姿とは一線を画した、勇敢なヒーローの姿に、二人は思わずテレビ画面の前で小さな歓声を上げたのだった。

 

 その時、杳の心臓が嫌な音を立てて軋んだ。――行動不能になったのは瀬呂だけじゃない。()()()だ。それに緑谷と爆豪に比べ、目立った活躍もしていない。

 

 まさか赤点なんて事はないだろうか。いやいやいや、それはないはずだ。杳は勢い良く首を横に振り、鎌首をもたげた恐ろしい考えを消し去った。あの最悪過ぎる組み合わせの中で、あんなに、そう、()()()()頑張ったのだから。ブツブツと呟きながら自分の机にリュックを下ろす杳を、人使が気味悪そうな目で見上げている。

 

「とにかく採点基準が明かされてない以上は……」

「予鈴が鳴ったら席に着け」

 

 音もなくドアを開けて教室に入って来た相澤の姿を見たとたん、瀬呂は凍り付いたように口を噤んだ。クラスメイト達は光の速さで席に着き、担任の動向を固唾を飲んで見守った。軽く朝の挨拶をしてから、相澤は教壇に置いた書類に目を落とす。

 

「今回の期末テストだが。残念ながら赤点が出た。従って……」

 

 重々しい沈黙の帳が、教室内に下ろされた。――赤点を取った者は林間合宿に行く事ができない。今の段階で赤点確定だとされている者は、演習試験でクリアできなかった芦戸達四名だ。だが、沈痛な面持ちを浮かべる生徒達を気にもせず、相澤は人を食ったような笑顔を浮かべ、驚くべき結果を告げた。

 

「林間合宿は()()行きます」

「どんでん返しだあああ!!」

 

 ――良かった、どうやら自分の杞憂だったみたいだ。杳は心の底から安堵して、机の上に突っ伏した。しかし現実、いや雄英は無情だった。上鳴と暑苦しく抱き合い、男泣きする切島の姿をぼんやりと眺めていた彼女は、相澤が淡々と続けた言葉に打ちのめされる事となる。

 

「筆記の方はゼロ。実技で切島・上鳴・芦戸・砂藤……あと瀬呂・()()が赤点だ」

「えっ」

 

 刹那、杳の頭から爪先までを一筋の電流が駆け抜けた。恐れていた事態が現実となり、茫然自失状態となった彼女はマイクデザインのボールペンを取り落とす。……緑谷と爆豪の喧嘩に巻き込まれても、オールマイトにスマッシュを受けても、めげずに頑張ったのに()()

 瀬呂が羞恥のあまり赤くなった頬を両手で隠しつつ、ボソボソと呟いた。

 

「確かにクリアしたら合格とは言ってなかったもんな。クリアできずの人よりハズいぞコレ……」

「うぅ……」

 

 そんな事を言われたら、杳だって周囲の視線を意識してしまう。カッコ悪すぎて心の奥底に押し込めていた”黒歴史”――オールマイトと会敵した瞬間、泣きべそをかいた上に失禁し、且つ腰を抜かして逃げ出そうとした事――をふと思い出し、彼女は小さな体をますます萎縮させた。

 

 そんな二人の姿を静かに見下ろしつつ、相澤は懐から分厚い書類の束を取り出して、最前列に立つ生徒達に配り始める。

 

「お前らには別途に補習授業を設けてる。ぶっちゃけ学校に残っての補習よりキツイからな。じゃあ合宿のしおりを配るから、後ろに回してけ」

 

 

 

 

 放課後。杳は合宿のしおりを枕代わりにして、机上に頭を載せ、ボーッとしていた。100%自分のせいなのだが、せっかくの楽しい林間合宿に水を差された――どころか消化ホースで大量の水をぶっかけられた――気分で、ショックのあまり何も考えられない。

 

「……帰るぞ」

 

 やがて目の前に焦凍がやって来て、いつもの調子で呟いた。――彼のリュックには、ヒロドナルドのオリジナルキーホルダーがぶら下がっている。

 

 先日、放課後ヒロドをした際、生まれて初めてのファーストフード店にはしゃいだ焦凍は、余程のマニアでなければ買わないような店舗オリジナルのキーホルダーを記念に買いたいと言い出したのだ。何だか面白くなってきた杳と人使は、どうせなら三人一緒にしようと同じものを買った。なので今、三人の鞄には同じキーホルダーが揺れている。

 

 ――ああ、あの頃に戻りたい。何も知らず、のんきにハンバーガーにかぶりついていたあの頃に。杳は重く長い溜め息を零すと、小さく口を開いた。

 

「あんなに頑張ったのに……赤点て……」

「気にすんなって。お前、よくやったと思うぜ。あの面子でさ」

「運が悪かったとしかいいようがないよ」

 

 瀬呂と耳郎がやって来て、優しい言葉を掛けてくれた。それらは陽光のように杳の心に差し込んで、冷たくかじかんだ部分を暖めていく。――確かにNo.1ヒーローと犬猿の仲である幼馴染コンビは、最凶の組み合わせだった。だが、そんな中でも自分は精一杯頑張ったじゃないか。

 

 林間合宿にクラス全員で行けるのは変わりないのだし、過ぎた事をこれ以上悔やむのは止めよう。杳は小さくお礼の言葉を言い、しおりをリュックに仕舞い込んだ。見ていて居たたまれなくなったのか、緑谷がすまなさそうな顔でやって来て、深々と頭を下げる。

 

「ごめんね白雲さん。僕のせいで……」

「いや緑谷くんのせいじゃないよ。自分の力不足だし」

 

 杳は慌てて首を横に振り、緑谷の頭を強引に上げさせた。爆豪は忌々しそうに舌打ちすると、リュックを掴み上げ、荒々しい足取りで教室を出て行く。――そう、自分の力不足だ。自然と口を突いて出た言葉は、杳の頭にじんわりと浸透した。

 

 多少は活躍した面もあるかもしれないが、やはりヒーローとして心構えがまだ未熟である事が露呈した上での、赤点なのだろう。このモヤモヤした気持ちは、林間合宿で挽回する事と、スマートフォンに録画したマイクの戦闘Vをお家でじっくり楽しむ事で昇華しよう。

 

 完全に気を取り直した杳が帰る支度を整えていると、飯田がしおりをパラパラとめくり、明朗快活な声で持ち物リストを読み上げ始めた。

 

「フム。一週間の強化合宿か。長期旅行用のスーツケースを下ろした方がいいな」

「けっこうな大荷物になるね」

「水着とか持ってねーや。色々買わねえとな」

「あ!じゃあさ」

 

 代わる代わるしおりを覗き込んで、緑谷と上鳴が言葉を続ける。すると、葉隠が透明な手を打ち鳴らして、明るい声を上げた。

 

「明日休みでテスト明けだし、A組みんなで買い物に行こうよ!」

 

 ――それはとても良い案だ。林間合宿前のミニイベントに心浮き立ち、杳は小さな歓声を上げる。教室内の雰囲気は一気に和やかになった。

 

 

 

 

 木椰区ショッピングモールは、県内最多店舗数を誇る巨大複合商業施設だ。個性の差による多様な形態を数でカバーするだけでなく、ティーンからシニアまで幅広い世代にフィットするデザインの商品やサービスが集まっている。

 

 ちょっとした町規模の施設はコの字型になっており、中央の吹き抜け部分には透明な屋根が貼られていて、柔らかな陽光が差し込んでいた。広大な中庭には本物の椰子の木が植えられており、訪れた人々の目を楽しませる。休日ということもあり、中は人でいっぱいだった。

 

「……スポーツタオルと着替えな。どういう系の奴がいい?」

 

 杳は中庭の中ほどにある噴水前のベンチに座り、人使が焦凍とREIN通話しているのをぼんやりと聞いていた。――焦凍は、休日はいつも母の見舞いに行っているため、ここにはいない。

 

 ふと真上を振り仰ぐと、大きなデジタル時計下に据え置かれた電子パネルがニュースを放映していた。崩れ落ちた建物が炎に包まれている光景が大写しになっている。やがてその前に、悲しげな表情を浮かべたリポーターが立ち、マイクを手に美しい声で話し始めた。

 

「本日早朝頃、敵の襲撃により〇〇区の〇〇ビルが破壊されました。ヒーロー数名が駆けつけましたが、救助は間に合わず、3名の民間人が重体。病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました」

「またじゃん。最近マジでダメだよねえ、ヒーローって」

「ステインってホントは正しかったかもー」

 

 好き勝手な事を話しつつ、大学生らしき男女のカップルが目の前を通り抜けていく。二人が着ているTシャツの全面には、可愛らしくデフォルメされたステインの絵が描かれていた。最近、巷で流行っているステイングッズだ。

 

 良くも悪くも抑圧されたこの社会に、ステインは一石を投じた。そんな彼にシンパシーを感じた者は、思った以上に多かった。現にこの日本有数の巨大ショッピングモール内にも、彼に関連したグッズが密かに売られている。

 

 ――ヒーローだって人間だ。オールマイトだって国民全員を救う事はできない。だがそんな事、血税をもらって綺麗事を実践するヒーローが言ってはいけないのだ。杳は浮かない顔で溜息を零し、瞬きした。刹那、大きな電子パネルは()()()()を映し出す。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 四角く切り取られた世界は、セピア色に染まっていた。菊の花の香りが、ひっそりと鼻を突く。玩具仕掛けの靴を履いた自分の足は、歩くたびにピョコピョコと音が鳴った。父が点した線香の匂いが嫌で、杳は母のスカートに顔を埋める。

 

 ――それは、まだ兄を模していた頃、心が壊れないようにと奥底に沈めていた記憶のワンシーンだった。

 

 杳の眼前で真新しい墓石に水を掛け、両親がしゃがみ込んで両手を合わせている。しばらくした後、二人は悲しそうに微笑んで、そっと娘の肩を掴むと、兄の魂が眠る石に向き合わせた。

 

(さあ、杳もお兄ちゃんにお話しして。きっとお空で聞いてくれてるわ)

 

 その時、背後から()()()()()が聴こえた。見る間に両親の笑顔がゾッとするほど冷たいものへ変わり、二人は自分を守るように前に立つ。

 

 杳は父のズボンにしがみ付きながら、おずおずと来訪者の姿を見上げた。仕立ての良い喪服に身を包んだ男性は、波打つ髪を一つ括りにしている。舞台役者を彷彿とさせるぱっちりした目と分厚い唇は、海の底のように果てない悲哀の色に染まっていた。

 

(どうかお引き取りを)

(……申し訳ありません)

 

 父がにべもなく言い放つ。すると男性は沈痛な声でそう呟き、頭を下げた。じっとりとした夏の暑さが皮膚にまとわりつき、杳の背中を大量の汗が流れ落ちていく。忙しなく鳴き立てる蝉の声が妙に怖くなって、彼女は首に下げたゴーグルをギュッと握り締めた。失意のまま、うな垂れる男性の姿をなじるように、ヒステリックな声で母が叫ぶ。

 

(プロヒーローが聞いて呆れるわ!私の息子を************)

 

 

 

 

「杳ちゃーん。おーい。ユニシロ行くよー」

 

 芦戸に揺すぶられ、杳はハッと我に返った。目の前に、心配そうな顔をした女子達の顔ぶれが並んでいる。――さっきのは白昼夢という現象だろうか。思わず電子パネルを見上げるが、もうそれは過去の記憶を映してはいなかった。人使は眉をひそめて杳の顔を覗き込み、薄い唇を開く。

 

「大丈夫か?」

「……うん。ちょっとボーッとしてた」

 

 杳に関してだけ何かと心配性な人使は、無意識の内に救護室の場所を探し求めながら、さりげなく彼女の肩を抱き寄せた。それは恋愛ではなく看護のための行動だったのだが、恋バナ好きな芦戸達のハートをくすぐるには十分なものだった。芦戸は頬を赤らめ、耳郎とクスクス笑い合いながら、わざとらしい口調で言い放つ。

 

「ごめーん、私らお邪魔だったぁ?二人っきりでデートする感j――」

「違う。行くぞ、尾白」

 

 人使は火傷したように杳の肩から手を放すと、勢い良く立ち上がり、突然の事に呆気に取られる尾白を連れてどこかへ去って行った。その後を、戸惑いの表情を浮かべた砂藤と障子が追いかける。杳は友人の奇行を不思議に思いながら、先程の記憶の欠片に思いを馳せた。

 

 ――あの時、母は()()言ったのだろう。ユニシロで女子達と一緒に服を見繕う振りをしつつ、いくら頭を悩ませても、その言葉の続きは思い出せなかった。

 

 

 

 

 一方その頃、緑谷は死柄木と邂逅し、噴水前のベンチに肩を並べて腰掛けていた。さりげなく首元に掛かった四本指が、凍えるほどに冷たく感じる。眼前を大勢の人々達が通り過ぎるたびに、緑谷の心は潰れそうなほどに大きな不安と恐怖、そしてヒーローとしての使命感にかき乱された。

 

 ――何か、対策を考えろ。努めて冷静になろうと心がけながら、緑谷は自分を叱咤した。死柄木に不審に思われる事なく、この絶望的な状況を打開する方法を。彼がまんじりともせず、数メートル先にある椰子の木を見つめていると、死柄木はゆったりと座り直しながら、ひび割れた唇を開いた。

 

「おい、コーヒーとドーナツは?」

「……は?」

 

 思いがけない催促の言葉を受け、緑谷の思考は一時的にショートした。――まさか()()()お茶をするつもりなのか?(ヴィラン)とそんな事、するわけがない。

 反射的に死柄木を睨んだ緑谷の顔は、口にせずともはっきりとそう言っていた。その強い嫌悪感と恐怖の感情に満ちた眼差しをまともに受け取った死柄木は思わず吹き出し、おどけて肩を竦めてみせる。

 

「ハハ。冗談だよ」

 

 ――そりゃそうだよな。当然と言えば当然の反応に、死柄木は喉の奥で小さく笑った。()()()が異常だっただけだ。

 

 噴水の向こうにあるコーヒースタンドで、若い学生のカップルが仲良く身を寄せ合い、商品を頼んでいる。吐き気がするほど、平和でのどかな光景。風に乗って挽き立ての豆の香りが鼻腔を掠めたその時、死柄木はあの灰色のフワフワ髪と過ごした一時を思い出した。

 黒いフードの下で、危険な輝きを孕んだ赤い瞳がショッピングモール内を見回す。あの子供は今、どこにいるのだろう。

 

 

 

 

 その数分後、大型スポーツ用品店では。人使は尾白、砂藤と一緒に合宿で着るための衣服を選んでいた。どうせ死ぬほどしごかれるのだから、通気性が良く動きやすくてシンプルなものが良い。人使は商品棚から黒い半袖シャツを取ると、鏡の前で軽く当て、試着する前のイメージを確認する。すると後ろから見知った声が飛んできた。

 

「”決まってるな。これで白雲もメロメロだぜ”」

「勝手にアテレコすんな」

 

 ――ゲリラ声優は上鳴だった。人使はすげなく言い返し、シャツを会計カゴに放り込む。瀬呂と切島も陽気にピースサインをしながら、鏡越しに顔を覗かせた。1-Aクラスの賑やかし要員である彼らも、ここで衣装合わせをしているらしかった。

 このままここにいたら、上鳴達に白雲について根掘り葉掘り訊かれ、良い玩具にされてしまう。人使はズボンのコーナーを物色している尾白の下へ向かおうと、床に置いていたカゴをさっと拾い上げた。

 

 だが、そうは問屋が――いや上鳴が――卸さなかった。カミナリボーイは霹靂の如き早さで人使の腕を掴むと、満面の笑みで口を開く。彼もまた、恋バナが好きなのだ。

 

「なぁなぁ!ぶっちゃけ白雲、どー思ってるわけ?」

「どーもこーもない。俺は卒業するまで、そういうことは考えない」

「じゃあ卒業したら告白するってことぉぉぉ?!」

「そんなこと言ってないだろ。そもそも、俺はあいつをそういう目で見てない」

 

 人使は冷たく言い放ち、上鳴の腕を引き剥がすと、ズボン関連の商品が立ち並ぶ一角へ足を向けた。その時、瀬呂が真剣な表情と声音でポツリと呟いた。

 

「……あっそ。安心したわ。じゃあ()()もらお。あいつ可愛ーし」

 

 それは聞き捨てならない言葉だった。思わず人使は立ち止まり、振り返ると鬼の形相で瀬呂を睨みつける。その顔を見るなり、瀬呂と上鳴は盛大に吹き出した。

 そして人使はようやく気付いた。――彼らに一杯食わされた事に。瀬呂は笑い過ぎて涙が滲んでいる目元を拭おうともせず、両手で口元を隠すと、乙女チックな声音で叫んだ。

 

「やーんシンソーくん怖ぁぁぁい!殺気立ってるぅー!」

「ブチ切れウェイウェイ~!」

「てめーら!」

「おお落ち着けシンソー!どうどう!」

 

 大いにブチ切れた人使はカゴを地面に置くと、陽気にふざけ回る瀬呂と上鳴に怒りのダブルフェイスロックを決めようとした。雲行きが怪しさを察知した切島は、とっさに上鳴達の前に立つ。

 騒ぎを聞きつけてやって来た尾白と砂藤もそれに加わり、自慢の尻尾と筋力をそれぞれフル発揮して、荒ぶる友人を必死に押し留めようとした。

 

 だが、彼らのくだらない青春劇は、数秒後、店内に”特別緊急事態”を知らせるブザー音が鳴り響いた事によって、幕引きとなった。――死柄木の魔の手から緑谷を救い出した麗日が、警察に通報したのだ。

 

 ショッピングモールは一時的に閉鎖され、区内のヒーローと警察が緊急捜査に当たるも、結局、死柄木の行方を掴む事はできなかった。もはや隠しようのない不安の色を宿した暗い雲が、明るい夢と希望に満ちた子供達の頭上を少しずつ覆っていく。




SS書く時に指輪物語とかハリポタのASMR風BGM聴いてるのですが、本当にめちゃ楽しい…。自分的に、裂け谷とハグリッドの小屋系が特にいい…。youtuber様達よ、いつもありがとうございます。


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No.30 林間合宿①

 木椰区ショッピングモールにて死柄木が白昼堂々、緑谷に接触を図ったという事件はしばらくの間、平穏を望む者達の心を大いにかき乱した。これで敵連合の起こした事件は()()になった。この数ヶ月間、間を置かずに連発した三つの事件――雄英襲撃事件・保須事件・鳴羽田事件――から、人々の敵連合に対する認識は”一介の小悪党”から”ネームドヴィラン”へと変わっていた。

 

 そしてそれは雄英にとっても同じ事だった。敵の動きを警戒した学校側は、例年利用している合宿先を急遽キャンセルし、行先は当日まで秘めておく事とした。

 

 1-Aクラスの教室にて。相澤が宿泊先の示された紙を破り捨てるのを見届けて、杳は浮かない顔で溜息を零した。USJ襲撃事件に、職場体験での邂逅。まるで頭上にずっと暗雲が掛かっているみたいに、どこにいても死柄木の存在が追いかけてくるような気がする。だが、とにもかくにも、緑谷が無事でよかった。そう思って斜め前の席を見やると、彼は早速、愛すべき幼馴染に因縁を付けられていた。

 

「てめェ。骨折してでも殺しとけよ」

「ちょっと爆豪!緑谷がどんな状況だったか聴いてなかった?そもそも公共の場で個性は使用禁止だし」

「知るか。とりあえず骨が折れろ」

「かっちゃん……」

 

 か、()()()()()。あんまりな爆豪の言い分に、杳も思わず心中で突っ込んだ。兄の真似をしていた頃は平気でそう呼べたが、本来の気弱な自分に戻った今では絶対に無理だ。あの頃の自分は色々と現実が見えていなかったというか、命知らずだったのだと思う。果敢に爆豪を諫める葉隠がキラキラと輝いて見え、杳は少しだけ目を細めた。

 

 ――その時だった。()()自分を呼ぶ小さな声が、背中にコツンとぶつかった。

 

 その声が”兄のものだ”と頭が理解するより早く、体が動いた。反射的に振り向くが、もちろん兄はいない。後席の耳郎が驚いたように目を丸くして、朝のHRを終えて教室を出て行く相澤を静かに見送ってから、心配そうに口を開いた。

 

「どした?」

「あ、いや……気のせいかな。お、お兄ちゃんに呼ばれたような気がして」

 

 杳はふと我に返り、照れ臭そうに頭をかきながら苦笑いした。きっと誰かの話し声が偶然、兄のものに聴こえただけだろう。それを聴いた耳郎は口元をピクリと引き攣らせ、呆れたように溜息を零す。それは、いわゆる”ドン引き”に値する反応だった。

 

「あんたってホント、ブラコンだよね。幻聴とか……」

「Good morning class!ファニーな英語の時間だぜぇ!」

 

 マイクがドアを勢い良く開け放ち、二人の会話はそこで途切れた。耳郎は口を閉ざして居住まいを正し、杳は頬を林檎のように赤らめて、机上に投げ出した教科書のページをめくり始める。その僅かな隙にマイクは片手を口に当てて即席メガホンを創り、悪戯っぽいウインクと共に()使()へ小さな言葉を投げてよこした。

 

Congrats(ごーかく)

「……どうも」

 

 人使はわずかに頷き、机に立てた教科書の影に潜ませていたペルソナコードを、机の下に差し入れる。――マイクが独自に考案した()()()()()を用いて発される声は、照準を定めた者にしか届かない。人使は職場体験中、相澤のアドバイスで、自分と同じ”声”の個性を持つマイクからも教示を受けていた。濃い隈に縁取られた瞳が、二つ前の席でフワフワと揺れている灰色の髪をじっと眺めている。

 

 

 

 

 そうしてあまりに濃密だった前期は幕を閉じ、待ちに待った”林間合宿”がやって来た。玄関先で母と一時の別れを告げ、杳は大型のキャリーケースを引きながら、雄英に向けて出発した。

 

 小さめのショルダーバッグにはお菓子やトランプ、携帯サイズのオセロボードなどが入っている。授業の一環とはいえ、遊ぶ暇くらいはあるはずだ。杳はのんきに構えて、母が持たせてくれたおむすびにかぶり付いた。――そう、彼女はまだ知らなかった。エリート・ヒーロー育成機関である雄英の林間合宿が、どれほど苛烈極まるものであるかという事を。

 

 林間合宿はA組とB組の合同参加であるため、集合場所は大勢の生徒達が集まってワイワイと賑やかだった。何やら良からぬ事を聞きつけたのだろう、B組きっての問題児である物間がアーモンド型の目を爛々と輝かせ、切島達に詰め寄っている。

 

「え?A組補習いるの?つまり赤点取った人がいるって事?ええ?おかしくない?おかしくない?A組はB組よりずっと優秀なハズなのにぃ?あれれれれぇ?!」

 

 痛いところを突かれた杳達・補習組が傷ついたハートを抑えて悶絶していると、悪役さながらの高笑いをする物間の背後に、拳藤が現れた。彼女の繰り出した手刀は物間の首筋にクリーンヒットし、彼はストンと意識を失い、地面へ崩れ落ちる。拳藤は手慣れた様子でその首根っこを掴むと、切島達に一言謝ってから、B組が乗るバスの方へ去って行った。その間、約五秒。熟練の職人技を思わせる、鮮やかなお手並みであった。

 

 一方、A組きっての問題児である峰田は、B組の女子達を見るなり、辛抱たまらんとばかりに涎を垂らし始める。

 

「よりどりみどりかよ」

「おまえダメだぞそろそろ」

 

 切島が冷静に突っ込んでいなければ、峰田はあふれる欲望のままにB組の女子達の中へ突っ込んでいるところだった。……峰田くんは本当に女の子が好きなんだなぁ。いつでも自分に正直なその姿にいっそ感動すら覚えて、杳は小さな溜息を零す。

 

「A組のバスはこっちだ!席順に並びたまえ!」

 

 飯田が羊の群れを追い立てるように、機敏な動きでクラスメイト達をバスへ導いていく。蛙吹に続いて、キャリーケースをバスの荷室に放り込んだ杳は、いそいそと車内へ上がり込んだ。

 

 杳は八百万と隣席になった。バスが走り出すと共に、クラスメイト達のご機嫌なエンジンも暖まっていく。たちまち車内は賑やかな話し声で包まれた。皆、世間話をしたりお菓子を食べたり、ゲームをしたりと、思い思いの時間を過ごしている。

 

 上鳴がスマートフォンをスピーカー状態にして、最近流行り始めた夏のJ-popを流し始める。その軽快な曲調に耳を傾けながら、杳は八百万をチラリと伺い見た。彼女は窓際の席に着いた時からそわそわとし始め、ずっと落ち着かない様子だ。杳も他のクラスメイト達と同じように、八百万とお菓子を食べたり世間話をしたりしてみたかった。座席に吊るしたショルダーバッグからお菓子を数種類、それからトランプを取り出すと、杳は小さな声で話しかけた。

 

「百ちゃん。お菓子食べる?それか、暇だったらトランプでもする?」

「……え、あ、はい。そうですわね」

 

 八百万はハッと我に返り、大きく澄んだ瞳をこちらへ向けた。そしてほんのりと紅潮した頬を両手で包み込んで冷まそうとしながら、はにかみ笑いを見せる。そういうとっさに出るような所作や表情にも、同性である杳が思わず見惚れてしまうほどの上品さや可憐さがたっぷりと含まれていた。これが”生粋のお嬢様”というものなのだろうか。

 

「ごめんなさい。同じ年頃の方々と寝食を共にするなんて、初めてで。とてもワクワクしているんですの」

「分かるよ。なんかそわそわしちゃうよねー」

 

 杳は緊張感のない笑顔を浮かべ、”エンデヴァーガム~キシリトール配合~”と銘打たれた風船ガムの包装を解いた。轟家から帰る際、駅の売店で買い求めたものだ。筒状の容器を傾けると、真っ赤なガムボールが数個、転がり出て来た。表面に描かれたエンデヴァーのイラストを見ると、友人宅で過ごした二日間が思い起こされる。――確かにエンデヴァーとの食事会は地獄だったが、それ以外の時間はとても楽しかったと思う。

 

 八百万の掌にガムボールをいくつか転がしている時、杳はふと()()()()を感じた。慌てて見上げると、八百万がいつにないほど真剣な表情でこちらを見つめている。黒曜石を嵌め込んだようなその瞳には、生まれたばかりの切なく甘い感情が揺れていた。ガムボールをそっと握り込み、彼女はごくりと生唾を飲んだ。それから意を決したように口を開く。

 

「あの、杳、さん。轟さんと……とても仲が、良いですのね」

「うん」

 

 確かに仲は良いと思う。杳がガムを膨らませながら素直に頷くと、八百万の表情はより悲しげになった。あてどなく彷徨う視線が、杳の足元に置かれたリュックで揺れる、ヒロドナルドのキーホルダーへ吸い寄せられる。――演習試験で救けられた時から、八百万は焦凍を密かに慕うようになった。膝の上に重ねた両手をギュッと握り締め、彼女は震える声を絞り出す。

 

「その。杳さんが轟さんに抱いている感情は、あの……」

 

 皆まで言わず、八百万は真っ赤になった顔をそむけた。一方の杳は力加減を間違えて破裂させてしまったガム風船を口周りに貼り付かせたまま、その横顔を茫然と見つめる。まさか、八百万は轟を好いているのだろうか。杳だって年頃の女の子、恋バナは好きだ。彼女は八百万の肩を軽く揺さぶり、興奮して上擦った声で囁いた。

 

「え?もしかして百ちゃん、ショートの事好きなの?応援するよー!」

「ち、ち、違いますのよ。これは……」

「心配しないで。ショートと私とヒトシは”仲良し三人組”って感じで、そういうのとか全然ないから」

 

 杳はあっけらかんとした調子で笑った。――彼女は焦凍と人使の事は良き友であり、尊敬できるヒーローの先輩であり、とりわけ何かと世話を焼いてくれる人使に関しては()()()だと思っていた。轟家の風呂上り事件も、ただ単に異性同士だったからドキッとしてしまっただけだ。そもそも自分はやっと”白雲杳”としての人生を歩み始めたばかりで、ヒーローとしても赤点を取るほどに未熟。恋バナは好きだが、人として発展途上中の身である自分がその題材になるというのは、いまいちピンと来ない。

 

「……え?」

 

 対する八百万は思わず呆気に取られて、前方の席に座る紫髪の少年を見た。ミステリアスな轟は不明だが、心操が杳に好意を抱いているというのは、クラスメイトであれば観察眼の鋭い者でなくとも容易に察する事のできるものだった。杳は二人の内、どちらかと良い仲にあるか、好意を抱いているのかもしれないと予想していたが、いざ蓋を開けてみれば()()()()の問題だったとは。……お互い、苦労しますわね。八百万は小さな溜息を零し、心の中で呟いた。 

 

 

 

 

 一時間後、バスは山頂の開けた場所に止まった。周囲にはパーキングエリアどころか仮設トイレすらない。目の前にはただ青々とした山脈が広がっていた。バスから降りた杳は大きく伸びをして、座りっぱなしで硬くなってしまった体をほぐす。たった一時間で、周囲の景色は都会の真っただ中から自然豊かな山中へ様変わりしていた。深呼吸すると、澄んだ空気が肺の隅々まで行き渡る。

 

「あれ?B組は?」

「つか何ここ。パーキングじゃなくね?」

 

 瀬呂と切島は怪訝そうな顔で、キョロキョロと周りを見回し始める。……そういえばそうだ。杳も深呼吸を止め、二台目のバスを探した。道中は二台のバスで連なって来ていたはずなのに、B組のバスも彼らの姿もどこにも見当たらない。何時の間に別ルートになったのだろう。相澤はゆったりとした足取りでバスから降りて来ると、ニヒルな笑みを浮かべてこう言った。

 

「何の目的もなくでは意味が薄いからな」

「よーうイレイザー!」

「ご無沙汰してます」

 

 次の瞬間、陽気なユニゾンが飛んできて、杳達は思わずそちらへ視線を向けた。バスの影から姿を現したのは、猫をイメージした愛らしいコスチュームを身に纏う、四人のプロヒーローだった。彼らは息のぴったり合った声でそれぞれ名乗りを挙げ、ヒロイックなポーズを決めていく。

 

「きらめく眼でロックオン!キュートにキャットにスティンガー!ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ!」

「今回の合宿でご指南いただく、”プッシーキャッツ”の皆さんだ」

 

 突然のプロヒーローの出現に、杳達は揃って明るい歓声を上げた。プッシーキャッツは山岳救助などを得意とする、ベテランのヒーローチームだ。杳も小・中学校のハイキングや登山などのイベントで、彼らが主演する登山時のマニュアル動画を出発前によく見せてもらっていた。

 

 ヒーローマニアの緑谷によると、赤毛のボブヘアの女性がマンダレイ、金髪の明るい女性がピクシーボブ、緑髪の四白眼の女性がラグドール、そして筋肉隆々とした体躯を持つ女性が虎というヒーローネームらしい。だが、キャリアが12年という情報はどうやら()()であるらしく、気分を害したラグドールが緑谷に渾身のデコピンを喰らわせていた。痛みに悶絶する緑谷にラグドールが”心は18”とエンドレスリピートさせている間、マンダレイは周囲の山々をざっと差して快活な声で笑う。

 

「ここら一帯は私らの所有地なんだけどね。あんたらの宿泊施設はあの山のふもとね」

「遠っ!」

 

 杳はよく目を凝らしてみた。遠くの方に霞んで見える山の上に、建物の輪郭がうっすらとあるような気がする。何故、バスはこんな辺鄙な場所に留まったのか。そして何のために、マンダレイは遠方にある宿舎の位置を自分達に示してみせたのか。その答えに早くも気付いたクラスメイト達は、バスの方へじりじりと後退り始めた。

 

 その一方で、杳はごくりと生唾を飲み込んだ。この見渡す限りの広大な土地が全て、プッシーキャッツの私有地だなんて。山岳救助ヒーローだからこそというのもあるのだろうが、やはりヒーローチャートに載るようなメジャー格というのは、常人とはレベルが違う。

 

()()()()

「え?」

 

 突然、頭上から低い声が降って来て、杳は思わず間の抜けた声を出した。――いつの間にか、すぐ傍に()使()が立っていた。首元に捕縛布を巻いてペルソナコードを装着し、臨戦態勢に入っている。物憂げな感情を宿した紫色の瞳でこちらを見下ろすと、彼は眉をしかめて師匠そっくりの不愛想な声音を叩きつけた。

 

「早よしろ」

「え、あ、はい。えっと、”点火(イグニッション)”……」

「いやいや、バスもどろっか」

 

 杳は急いで雲化し、ハーフズボンのポケットに入れたナックルダスターを装着した。引き攣り笑いを浮かべた瀬呂を筆頭に、一部のクラスメイト達がバスに逃げ込もうと猛ダッシュし始める。しかし、それを許すキャッツ達ではない。ヒーローらしからぬ悪辣な笑みを浮かべ、ピクシーボブがうそぶいた。

 

「今は8時半。早ければ、12時前後かしらん?」

「ダメだ、おい!戻ろう!」

「12時半までに辿り着けなかったキティ達はお昼抜きね」

「……悪いね諸君。合宿はもう始まってる」

 

 相澤の静かな声が蛇のように地上をくねり、瀬呂達の背中を追いかける。ピクシーボブは舌をペロリと出し、可愛らしいグローブに覆われた両手を地面にひたりと付けた。

 

 刹那、岩のように硬く頑丈だった大地が一瞬で()()()()、柔らかい土砂となって崩れ落ちる。土砂は意志を持っているかのように大きくうねり、クラスメイト達を巻き込むと、崖の下に広がる深い森の中へ連れ去ろうとした。土砂に埋もれゆく友人達の姿を目の当たりにした瞬間、杳は夢中で動いた。

 

(”C(クラウド)モード”……”()()()()()()()()()”!)

 

 杳の背中に、雲でできた()()()()()が展開される。心操の助言で予備動作が済んでいた事から、初動は早かった。力を込めると、両翼の大部分は無数の羽根にバラけた。そして谷底へ吸い込まれていく生徒達を掴もうと、バラバラになって飛んで行く。――それは、職場体験で見たホークスの個性”剛翼”のオマージュだった。杳は無意識の内に、かつて模倣し、そして本能が拒絶した兄の個性を、再び自分の意志で使えるようになっていたのだ。

 

「うわっ……!」

 

 だが、杳が救けられたのはたった()()()()だった。幼少期から個性の精密な制御方法を学んできたホークスと、いきなり同じ事をするのは不可能だ。正直言って、付け焼刃にもならなかった。しまいには自分が飛ぶ事すら危うくなり、小さな体は空中をふらつき始める。――大きな雲を創ってそれを動かし、皆を載せた方が確実だ。頭の中に次なるイメージを膨らませようとしたその時、相澤がふと自分を呼んだ。

 

「……白雲」

「は、はい」

 

 杳は急いで振り向き、大きく息を飲んだ。――相澤が今まで見た事がないほどに優しい微笑みを浮かべている。日向ぼっこをして気持ち良さそうに目を細める猫のような、暖かく和やかな表情だった。思わず見惚れていると、彼はその笑顔を絶やさぬまま、爽やかな声でこう言った。

 

()()()()

 

 次の瞬間、相澤の個性が発動した。雲化は強制的に解除され、杳は尾を引く悲鳴を残しながら、救助途中だったクラスメイト達と仲良く土砂に呑まれ、森の奥底へ消えていった。その様子を見届けると、相澤はいつもの仏頂面に戻り、ポケットから目薬を取り出した。手慣れた調子で点眼していくその横顔を、マンダレイが悪戯っぽい表情でひょいと覗き込む。

 

「へー。イレイザーもそんな表情するんだ?」

「作り笑いって奴ですよ。ヒーローなら皆、十八番でしょ」

 

 相澤は素っ気なくそう返し、目薬をポケットに仕舞い込んだ。




文章が下手すぎて本当に申し訳ないです( ;∀;)でも書かないと物語が進まないというジレンマ…。そしてPCが固まって入力できん。でもハロウィンまでに荼毘を出すぞ!おー!


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No.31 林間合宿②

 鬱蒼たる森の中には、森の主ならぬ――ピクシーボブが創り上げた土魔獣の群れがたっぷりと棲んでいた。崖の上からマンダレイがひょっこりと顔を覗かせ、”私有地につき、個性の使用は自由”という事、それから”各々の力と足で魔獣の森を抜け、先ほど示した宿舎まで来るように”という、無慈悲すぎる指令を飛ばす。個性を抹消されて崖下へ転げ落ちた杳は、さっそく土魔獣の引っ掻き攻撃を喰らいそうになり、とっさにバックステップを踏んで回避した。

 

「ひょえぇえ……」

 

 周囲を取り囲んで自分達を威嚇する土魔獣達は皆――まるでファンタジー映画にそのまま出演できそうなほど――おどろおどろしい外見をしていた。息を吸う度に、強烈な土と木々の匂いが嗅覚を刺激する。あまりに非現実的な光景に気圧され、杳の足は思わず数歩、後ずさった。すると、どこかから様子を見ていたのか、人使が木々の枝を伝い跳んで、音もなく前方に舞い降りた。それからこちらを振り向いて、小馬鹿にしたような笑みを浮かべてみせる。

 

「オイぼさっとすんな。()()出遅れんぞ」

「……なっ!」

 

 分かってますよーだ!なけなしのプライドを傷つけられ、杳はむかっ腹が立ち、思わず人使を睨んだ。――もう演習試験の二の舞は演じたくない。杳は奮起し、先陣を切っている緑谷や爆豪、焦凍に追いつくために、友人と並んで走り始めた。

 

 

 

 

 それから時計の針はグルグル回り、午後5時半。気の遠くなるような時間を掛け、杳達はなんとか土魔獣の群れをやり過ごして、森の外にある宿舎へ辿り着いた。皆、度重なる戦闘でズタボロに傷つき、疲れ果てていた。宿舎の前で待機していたピクシーボブは、ボロ雑巾のようになった杳達の姿を見るなり、にんまりと笑う。

 

「やーっと来たにゃん。とりあえずお昼は抜くまでもなかったねぇ」

「”12時前後”って……どう考えても無理なんすけど……」

「悪いね。私たちならいつもそれくらいだったんだけど」

 

 瀬呂の抗議を軽やかにかわし、マンダレイは悪びれない様子でウインクした。限界を超えて酷使した体に、ベテランヒーローから放たれた実力差自慢攻撃が、容赦なく染み渡っていく。砂藤達がちょっぴり顔をしかめていると、ピクシーボブが舌なめずりをしながら小さな唇に指を当てた。

 

「でも正直もっと掛かると思ってた。私の土魔獣が思ったより簡単に攻略されちゃった。いいよ。君ら……特にそこ5人」

 

 猫の前足をイメージしたフワフワの手で、ピクシーボブは緑谷と爆豪、飯田と焦凍、それから人使を指差した。

 

「躊躇の無さは経験値によるものかしらん?三年後が楽しみ……ツバ付けとこー!」

 

 そう言うなり、ピクシーボブは緑谷達に向け、本当に唾を吹き始めた。嫌そうに身をよじって後ずさる彼らに、尚も追いすがろうとするキャッツを見て、相澤とマンダレイが呆れたような口調で二、三、言葉を交わす。それによると、ピクシーボブは結婚相手を一刻も早く見つけたいお年頃らしい。

 

 その時、背後から突き刺すように鋭い視線を感じ、杳は急いで振り向いた。マンダレイの近くに、小さな少年が立っている。銀色の角を二本くっつけたデザインのキャップを目深に被り、彼はまるで()()()ような眼差しでこちらを睨んでいた。

 

「あの、その子はどなたかのお子さんですか?」

 

 ピクシーボブのマーキング攻撃から逃げ出した緑谷が、少年を指差して尋ねる。マンダレイは軽く首を横に振り、仁王立ちしている少年の頭に、フワフワの猫の手をポンと載せた。

 

「ああ違う。この子は私の従甥だよ。……洸汰!ホラ挨拶しな。一週間一緒に過ごすんだから」

 

 洸汰は返事をする代わりに、ふいと杳から視線を逸らした。――どうして、あんな目で自分を見たんだろう。知らない内に、何か失礼な事をしてしまったのだろうか。杳が居心地悪そうにもじもじしていると、緑谷は洸汰に歩み寄り、優しい声で自己紹介をした。しかし洸汰はそれに応える事無く、なんと緑谷の股間を蹴り上げた。

 

「おのれ従甥!何故緑谷くんの陰嚢を!」

「ヒーローになりたいなんて連中とつるむ気はねえよ」

「つるむ?!いくつだ君!」

 

 マンダレイや飯田の叱責も意に介さず、どこかへ歩み去って行く洸汰の後ろ姿を、杳は何とも言えない複雑な気持ちで見送った。――全ての人々が、ヒーローを好きなわけじゃない。否定的な感情を抱く人もいる。ステインが逮捕されてから、その傾向は強くなった。あの少年もきっと、そちら側なのだろう。

 

 

 

 

 相澤の指示で、杳達は玄関先に置かれた荷物を部屋に運び込み、簡単に体を拭いて着替えを済ませた。そして広々とした食堂で思う存分、プッシーキャッツお手製の絶品料理をかき込んだ。疲労困憊した体に、味噌汁の優しい味が染み渡る。杳はうっとりとため息を零した。

 

 向かいの席では切島と上鳴が、白米の粒立ちに異様な感動を見せている。それを聴いていた杳はご飯のお代わりがしたくなり、空になった茶碗を持って立ち上がった。炊飯器からご飯をよそっていると、ふと視界の端にあの角付きキャップが映り込む。――洸汰少年だ。野菜の詰まった段ボール箱を抱えて、不機嫌そうな顔でこちらを見上げている。何か話したい事があるのだろうか。杳は炊飯器の蓋を閉め、少年に向き直ると、おずおずと話しかけた。

 

「こ、洸汰くん。こんばん……」

「あんた、頭イカレてるよ」

 

 しかしその言葉を遮り、洸汰は荒んだ声で吐き捨てた。思いも寄らぬ暴言に、思考回路が一時的にショートして、杳は凍り付いたように黙り込む。

 

「テレビで見たよ。あんたの兄貴、ヒーロー目指してたんだろ?……ヒーローとか言っちゃって、後先考えず、馬鹿みたいに突っ込んで。人、救ける代わりに、自分が死んじまってさ。残された家族の人生、メチャクチャにしてさ」

「……洸汰」

「それ、知ってるはずなのに。あんた……平気な顔して、よくここに来れたよな」

「洸汰!やめな!」

 

 洸汰の言葉は空中で冷たい氷でできた魔法の手に変わり、杳の頬を思いっきりビンタした。見兼ねたマンダレイが走って来て、洸汰の肩を掴む。しかし洸汰はマンダレイの手を乱暴に振り払い、キッチンへ走り去っていった。その後を、マンダレイが追いかける。呆けたように突っ立っていると、近くのテーブルで偶然、二人のやり取りを見ていたらしい緑谷が心配そうに、杳の肩を掴んだ。

 

「白雲さん。大丈夫?」

「……うん」

 

 やがてマンダレイが戻って来て、杳に向け、申し訳なさそうな表情で頭を下げる。

 

「不快な思いをさせちゃって、本当にごめん!実はその、あの子は……」

 

 マンダレイによると、洸汰の両親は”ウォーターホース”という二人一組のプロヒーローだったらしい。だが、まだ洸汰が今以上に幼かった頃、彼らは敵との戦いで命を落としてしまったのだ。――だから彼はあんなにも、身を切られるような、辛く悲しい表情をしていたのだ。先ほどの言葉は杳に対してだけでなく、自分自身にも言い聞かせているようにも感じられた。思案に沈む杳の横顔と、灯りの消えたキッチンのガラス戸とを、緑谷の真摯な目が交互に映し出す。

 

 

 

 

 あれからずっと、杳は洸汰の言葉が耳にこびり付いて離れず、魂が抜けたようにボーッとしていた。女子達揃って入浴中に、峰田がベルリンの壁よろしく乱入を図り、それを洸汰が命懸けで阻止してくれた時も、口をポカンと開けたまま、上の空だった。広々とした部屋に布団を並べ、芦戸達がカードゲームに興じている声を聴き流しながら、杳はうとうとと微睡んでいく。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 気が付くと、杳は再び、セピア色に統一された夏の墓地に立っていた。――ああ、あの思い出の続きだ。杳は合点がいき、両親の足の間から、ヒーローをそっと見上げた。力なくうな垂れる男性の姿を憎らしそうに睨み付け、ヒステリックな声で母が叫ぶ。

 

(プロヒーローが聞いて呆れるわ!私の息子を救けられなかったくせに!)

(……面目次第もございません)

 

 仕方ないんだよ、お母さん。杳は心の中で呟いた。自分がヒーローを目指しているからこそ、分かる事がある。あのオールマイトだって、全ての人を救えるわけじゃない。

 

 その時、ふと自分の足が一歩、前に出た。杳の体は過去の記憶に沿って操り人形のように勝手に動き、ヒーローの前に立つと小さな口を開いた。そして拙い仕草で、空を指差す。

 

(おじさんはヒーローなの?じゃあ、お空からお兄ちゃんを救けてくれる?)

 

 刹那、ヒーローの顔が凍り付いた。その瞬間、杳は思い出した。母に兄の名を呼ばれる前に起き、そして忘却の彼方に置き去ろうとした、この()()()()()()を。

 

 爪先から冷たく粟立つような恐怖が、ひたひたと忍び寄って来る。小さい頃の自分は、もう二度と還らない場所に兄が行ってしまったという事実を呑み込めていなかった。人知れず空に浮かぶ、見えない不思議の国に連れて行かれたのだと思っていた。

 

 ヒーローは震える唇を噛み締め、ゆっくりと口を開く。――いやだ。聴きたくない。杳は耳を塞ごうとして、できなかった。いやだ。いやだ……!

 

「……起きて、杳ちゃん。朝よ」

 

 蛙吹に優しく揺り動かされ、杳はハッと目を覚ました。寝ぼけ眼で周囲を見渡すと、ほとんどの女子達は布団を畳み、運動服に着替えているところだった。カードにまみれて気持ち良さそうに眠りこけている芦戸を、耳郎が恐怖のイヤホンジャック攻撃で容赦なく叩き起こそうとしている。

 

 早鐘を打つ心臓をパジャマ越しに掴んで、杳は思わず俯いた。背中を冷たい汗が流れ落ちる。――梅雨ちゃんに起こしてもらえて、本当に良かった。杳は暗く湿った気持ちを振り払うようにわざとらしく伸びをすると、心配そうにこちらを見つめる蛙吹に向け、微笑んだ。

 

 

 

 

 ようやく太陽が山の向こうから顔を出した、朝5時半頃。杳達は筋肉痛のしっかり残る体を引きずり、訓練場となる広大な空き地に集結した。手始めに、相澤は爆豪に個性を使ってボールを投げさせ、その飛距離が入学当初に行った体力テストの数値とあまり変化がないという事に着目した。

 

「約3ヶ月間様々な経験を経て、確かに君らは成長している。だがそれはあくまでも精神面や技術面、後は多少の体力的な成長がメインで、個性そのものは今見た通りでそこまで成長していない。だから……」

 

 相澤は不敵な笑みを口元に浮かべ、煙の燻ぶる爆豪の掌を悠然と見下ろした。

 

「今日から君らの個性を伸ばす。死ぬほどキツイがくれぐれも、死なないように」

 

 個性は筋繊維と同じで使い続ければ強くなり、使わなければ衰える。相澤が提言したのは、()()()()()()()だった。許容上限のある発動型は上限の底上げ、異形型・その他複合型は個性に由来する器官・部位の更なる鍛錬。

 

 ヒーロー科2クラスが一堂に会して行う、この過酷な訓練の教授を一手に引き受けるのは二人の担任とプッシーキャッツの面々だ。ラグドールの個性で生徒達の居場所や弱点をサーチし、状況把握を行う。ピクシーボブは各生徒の鍛錬に見合うステージを土流の個性で創造。マンダレイは定期的にテレパスを飛ばし、一度に複数の生徒達へアドバイスを送る。格闘相手が必須の、単純な増強型個性の生徒達をまとめて相手取るのは、ゴムのように柔らかい体を持つ虎だ。

 

 そうして、地獄の個性伸ばし訓練が始まった。1-Aのクラスメイト達はそれぞれの個性に合った方法と場所で、トレーニングを開始する。焦凍がドラム缶風呂に漬かりながら半熱半冷の個性を同時使用する傍らで、人使は緑谷達と共に”(トラ)ーズブートキャンプ”に勤しんでいた。汗水を垂らして組み手をする彼らから遠く離れた上空では、ひと塊の雲が蠢き、目まぐるしく天候を変え続けている。

 

「うぅ……っ、R(レイン)T(サンダー)S(スノー)C(クラウド)→……」

 

 鈍色にくすんだ雲の中心には、大量の食料が入ったカゴを持つ杳の姿があった。食物エネルギーを摂取して個性の使用容量を回復するタイプの彼女は――八百万や砂藤と同じように――食べ続ける事で個性を反復して使い、全体的な容量の底上げをする訓練を行っていた。

 

 胃の中身が空っぽになる前に、杳はみっちりとしたパウンドケーキを三枚掴んで口に頬張り、ろくに噛まずに飲み下す。疲労は蓄積されていく一方なのに、ガス欠にだけはならず、そして眠くもならない。何時まで経ってもこの奇妙な感覚に慣れず、杳はブルッと身震いした。

 

 職場体験の時は、航一と和歩の手厚いサポートがあった。ちょっとしんどそうな素振りを見せたら航一がタオルを持って背中を撫でてくれ、和歩は事務所でゆっくり休むようにと言ってくれた。あの優しく労りに満ちた日々と、阿鼻叫喚の現在とではまさしく雲泥の差があった。――そうだ、ちょっとくらい休んだって良いはずだ。自分の体は雲に隠れて、誰からも見えない。あまりに過酷な訓練に心が折れかけ、サボろうとしたその瞬間、杳の雲化が強制的に解除された。

 

「……ッ?!」

 

 不快な浮遊感が、杳の全身を包み込む。重力に従って、彼女の体は十数メートルの距離を落下し、地上に叩きつけられる――寸前、相澤の手により無造作に抱き留められた。個性を発動した影響で赤く光る目が、何が起きているか未だに分からず、怯えて縮こまっている杳を無慈悲に見下ろす。

 

「白雲。次サボったら受け止めないからな」

「……は、はひ……」

 

 杳が密かに休憩しようとした事を、相澤はまるっとお見通しだった。プレス機のように容赦ない圧力を持った相澤の視線から逃げるように、彼女は素早く雲化して上空へ退避する。――なんで同じ地元で育っているのに、相澤先生とコーイチさんはあんなに性格が違うんだろう。そんな馬鹿みたいな事を考えながら、杳は泣く泣く訓練を再開した。

 

 

 

 

 午後4時。あまりにひどすぎる疲労で、ぐったりした杳達を待っていたのは、大量のカレーライス――()()()()だった。いち早く元気を取り戻した飯田の指示により、1-Aクラスの面々はそれぞれ役割分担し、自炊を開始する。杳は焦凍と共に、(かまど)の準備をする係に任命された。不器用な手つきで竈の内に薪を並べていると、施設の裏へ薪の束を取りに行っていた焦凍が合流し、後ろから手を伸ばして薪の位置を調整する。

 

「こういう感じの方がいいだろ。火が回りやすい」

「そうなんだ。さすがショート」

「なんだそれ」

 

 焦凍は喉の奥で小さく笑い、組み上げた薪に炎を放った。そしてそのまま杳のすぐ傍に座り込み、火炎がパチパチと音を立てて木々を燃やしていく様子を見守った。――()()。杳は思わず身じろぎした。肩や膝が触れそうになるほど、焦凍は自分に身を寄せていた。焦凍は親密な人間には心身共に接近する、まるで犬猫のような不思議な癖があった。今までならば気にしなかったが、もう杳は八百万の想いを知っている。ただ、気まずかった。もしかしたら、この光景を八百万が見ているかもしれない。そう思った瞬間、杳の頭にある名案が閃いた。

 

「……あっつ!」

 

 杳はわざとらしく眉をしかめ、炎の熱で火照った顔を両手で仰ぎながら、立ち上がった。キョロキョロと周囲を見回し、人使と共に野菜の仕込みをしている八百万の下へ駆け寄っていく。自分とまな板の合間に、杳がひょっこり顔を出したので、八百万は思わず息を飲んで、小さく跳び上がった。

 

「ど、どうしましたの、杳さん。包丁を持っているので、危ないですわ」

「ごめん!えっと。……私、雲の個性だから熱気に弱くて。火の番と代わってくれない?」

「まあ。そういう事でしたら、構いませんわよ。どちらの竈へ?」

 

 当番の変更を快く承諾した八百万は、竈の前にしゃがんだ焦凍を見るなり、顔を真っ赤にして立ち竦んだ。その背中をそっと押し、杳は申し訳なさそうな表情で焦凍に話しかける。

 

「ごめん、ショート。私、熱に弱くて。百ちゃんと代わってもらうね」

「……ああ。そうだった。悪かったな。八百万、よろしくな」

「は、はい。よろしくお願いいたしますわ」

 

 八百万は錆び付いたブリキ人形のようにぎこちない動作で振り返ると、驚きと喜びと緊張が綯交ぜになった複雑な笑みを見せた。――頑張れ、百ちゃん!杳は焦凍に見えないような角度で小さくガッツポーズを取る。仲良く肩を並べて竈の前に座る二人の様子を見届けると、彼女は満足気な表情で人使の隣に立ち、包丁を持った。

 

「そして私はヒトシの隣をゲットだぜ」

「相澤先生。ここにバカがいます。抹消してください」

「そんなこと言わないでよ。私、ヒトシのこと大好きなんだから」

 

 素っ気ない反応を返した人使に、杳がそう言った瞬間、一定のリズムで小口ねぎを刻んでいた彼の動きと呼吸がピタリと止まった。内弁慶な気質である杳は、友人達の中でもとりわけ心を許している人使に対して、まるで家族のように深い情を抱いていた。

 

「なんていうか……一緒にいるとすごく安心するんだ。”お母さん”って感じ」

「……あっそ!」

 

 人使は腹立ち紛れにそう吐き捨てると、親の仇を見るような目で小口ねぎを睨み付け、周りの人々が気圧されるほど凄まじいスピードで細切れにし始めた。

 

 

 

 

 それから1時間後。カレーライスとサイドメニューの冷製スープが人数分並んだ長テーブルに、杳達はゾロゾロと座っていく。飯田の挨拶に続けて唱和すると、ほとんどのクラスメイト達は一斉にがっつき始めた。杳は皆と同じようにスプーンを手に取ったはいいが、その先を進める事ができないでいた。――ついさっきまで常識を限界突破した量の食べ物を吸収・消化し続けていたため、もう心身が”食事を摂る”という行為に疲れ切り、拒絶反応を示していたのだ。

 

「白雲。心配すんな。俺もだ」

 

 空腹なのに食べたくない。そんなジレンマを抱えていると、ふと野太い声が前方から飛んできた。――砂藤だ。彼もまた、恐怖のもぐもぐサイクルに取り込まれた者の一人だった。ぽってりとしたタラコ唇をへの字に曲げて、付け合わせの福神漬をスプーンで突いている。辛い境遇を分かち合い、二人が虚ろに微笑み合っていると、八百万が小さく咳払いして注目を集めた。

 

「お二人とも、食事に関する考えを改められては?」

「どういうことだよ?」

 

 砂藤が首を傾げながら尋ねると、八百万は小高い山のように盛り付けたカレーライスをスプーンで崩しつつ、話を続けた。

 

「呼吸はいくらしても飽きないでしょう?寝ている間にも無意識にできるほど、体に深く根付いている生命活動です。だから私達にとって、食事は呼吸と同じレベルの生命活動だと考えるのですわ。……呼吸と同じように、何も考えず、無意識に食べるのです」

 

 まるで鶯のように流麗な声で提言する八百万の目は、曇り硝子を上から重ねたように()()だった。しかしそのアドバイスは迷える子羊2匹のハートをしっかりと打ち抜いた。”なるほど”と熱に浮かされたように呟きながら、覚束ない手付きでカレーライスを食べ進める二人の姿を、クラスメイト達は少し不気味そうに見守った。




とりあえず、③まで一気に書き切って微調整します!


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No.32 林間合宿③

※追記:SSの後半、ちょっと下?ネタ(トイレ系?)のような表現があります。苦手な方はご注意ください。


 翌日の朝。杳達・補習組は皆、墓場から蘇ったばかりのアンデッドのように動きが鈍かった。――だが、それは仕方のない事だった。入浴後、四時間にも渡る補習授業が待ち構えていたのだ。よって他の生徒達の就寝時間が10時であるのに対し、補習組は2時。そして起床時間は全員7時。4時間のペナルティは実に痛手だった。

 

「だから言ったろ。()()()って」

 

 相澤先生は、夜なべ組を優しく労わってはくれない。当然のように、昨日と同じ内容の訓練が始まった。相澤軍曹は、疲れ果てて注意が散漫になった生徒達を誰一人見逃さず、キツイ言葉の鞭を浴びせかける。その光景はまるで、古代エジプトでピラミッドの石材を運ぶ奴隷と監督者のようだった。杳がげっそりとした顔でカルピスの原液を瓶から直飲みしていると、相澤がふと口を開いた。

 

「何をするにも()()を意識しとけ。向上ってのはそういうもんだ。何の為に汗かいて、何の為にこうしてグチグチ言われるか。常に頭に置いておけ」

 

 その言葉は、杳の摩耗した脳細胞を通過して心臓を突き抜け、その奥底に響いた。――”原点”。真っ先に()()の顔が思い浮かんだ。そうだ。私はあの人みたいに立派なヒーローになるって決めたんだ。だからこんなところで、挫けてるわけにはいかない。疲れ果てて干からびたはずの心身が潤い、生命力が漲っていく。杳は歯を食い縛り、霹靂化するために、体内にただよう陰陽の電荷をグイッと掴んで引き離した。

 

 

 

 

 今日の夕食は肉じゃがと味噌汁、そして白飯だった。思う存分それらをかき込んだ生徒達を待ち受けていたのは、クラス対抗の”肝試し”だった。やっと林間合宿らしいイベントがやってきたと喜ぶクラスメイト達とは対照的に、杳の気持ちは暗く沈んでいた。

 

 杳はお化けは信じているが、同時に()()()だった。なんでキャンプファイヤーとか花火とか、そういう明るい感じのイベントじゃないんだろう。彼女は浮かない顔で、大きな溜息を吐く。目と耳を塞いでペアの人に引っ張っていってもらおうか。そうしたら怖くない。そんな他力本願な対処法を考えていると、相澤が勿体ぶった仕草で小さく咳払いした。

 

「大変心苦しいが、補習連中は……これから俺と補習授業だ」

「ウソだろ?!」

 

 芦戸が黒瑪瑙(オニキス)を嵌め込んだような目を限界まで見開き、信じられないとばかりに絶叫する。しかし、嘘ではなかった。相澤は抵抗する芦戸達を捕縛布で拘束し、ホッと肩を撫で下ろした杳に手招きしてから、森の中へ足を向ける。

 

「すまんな。日中の訓練が思ったより疎かになってたので、こっちを削る」

「うわああ!堪忍してくれええ!試させてくれええ!」

 

 非情な現実を受け入れられず、芦戸達は声を枯らして泣き叫んだ。散歩から帰りたくないと駄々を捏ねる犬のような彼らを、飼い主は無情に引き摺り、鬱蒼とした森の奥へ連れ去って行く。

 

 

 

 

 十分も歩くと、深く生い茂った木々の向こうに、慣れ親しんだ宿舎の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。もう芦戸達の拘束は解かれていた。打ちひしがれた表情で隣を歩いていた芦戸は、相澤の背中を軽く突いて、泣き事を言う。

 

「私たちも肝試ししたかったあ」

「俺らムチばっかりかよ……」

「サルミアッキでもいい。アメをください先生」

「サルミアッキ旨いだろ」

 

 愛する教え子達の切なる訴えも、相澤の鉄の心臓にはちっとも響かないようだった。楽しみにしていたイベントを反故にされ、やり場のない怒りを持て余す芦戸達は、その矛先を()へ向けた。彼女だけは文句も垂れず、大人しく皆の後ろをついて歩いていたからだ。芦戸は不満そうに唇を尖らせ、ひょいと友人の顔を覗き込む。

 

「ねー!杳ちゃんからも何か言ってやってよー」

「私は肝試し苦手だったから、ちょうど良かったかな」

「へー。白雲、怖がりなんだ?」

 

 杳は頭をかいて小さく苦笑いした。するとそれを聴いた上鳴が悪戯っぽい笑みを浮かべ、芝居がかった動作で宿舎を指差すと、こんな事を言い始めた。

 

「この宿舎さあ、出るらしいぜ。ホラここの壁見ろよ。妙に新しいと思わねえ?実はこの近くで十年前に焼け死んだ敵の亡霊が夜な夜な……Boo!」

「ちょっ杳ちゃん気絶してるじゃん!」

 

 調子づいた上鳴が両手を恨めしげに垂らし、大声で脅かしたとたん、杳の恐怖心は臨界点に達した。芦戸は慌てて友人の肩を揺さぶり、彼女の意識を呼び覚ます。口から出まかせヒーロー”イタズラズマ”は怒り心頭の相澤によってギチギチに拘束され、”リアル・ミイラマン”にジョブチェンジした。そうしてワイワイと騒ぎながら教室に辿り着いた杳達を、一足先にダークサイドへ堕ちてしまった物間が出迎える。

 

「あれぇおかしいなァ?優秀なハズのA組から赤点が6人も?B組は一人だけだったのに?!おっかしいなァ!」

「物間くん。そのセリフ二回目だよ……」

「どういうメンタルしてんだこいつ」

 

 杳は思わず小さな声で突っ込んだ。切島も肩を竦めながら、彼女の後席に腰掛ける。――B組唯一の赤点取得者である物間は、先日と全く同じ文句とテンションで杳達を煽っていた。自分も同じ穴の貉だと言うのに、一体どういう心境でいるのだろう。杳は荒んだ笑い声を立てる彼の横顔をチラリと盗み見て、小さく溜息を零した。

 

 

 

 

 そうして補習授業が始まった。杳はふと下腹部に小さな違和感を覚えて、机の下でおへそ辺りをそっと撫でた。10時10分を回った頃には、その感覚は強烈な尿意へ変貌していた。今日の訓練で少しでも咀嚼する手間をなくそうと、飲み物系にばかり走ったのがダメだったのかもしれない。

 

 ――トイレに行きたい。杳は仲間を求めて、周囲を見回した。しかし皆、授業に集中していてそんな素振りすら見せない。やがて観念し、杳はおずおずと手を挙げた。

 

「どうした」

「先生、すみません。おトイレに……」

「行ってこい。()()()()

 

 ”その手があったか”と言わんばかりに目を輝かせる上鳴を、鬼神の如き眼力で押さえつけながら、相澤は教室のドアを軽く指差した。杳は小さく礼をして、急ぎ足で教室を出た。

 

 ドアを閉めると、しんとした静寂が周囲に満ちた。広々とした廊下を、古ぼけた蛍光灯がぼんやりと照らしている。等間隔に並んだガラス窓の外には、黒々とした樹木の影がひっそりと映り込んでいた。正直言って、とても不気味で怖かった。しかし行かなければ、膀胱が破裂してしまう。びくびくしながら、トイレのある廊下の突き当たりへ向かって歩いていると、視界の端に()()()がチラついた。

 

 ――すぐ横のガラス窓からだ。反射的に眼球を動かすと、窓の外に青白い炎がポッと浮かび、消えていった。

 

(実はこの近くで十年前に焼け死んだ敵の亡霊が夜な夜な……)

 

 最悪のタイミングで最悪な言葉を思い出し、杳の全身は総毛立った。こんな時にも、彼女の想像力はクルクルとよく働いた。おどろおどろしい外見をした亡霊が、焼けただれた両手を自分に伸ばすイメージが思い浮かび、心臓が早鐘を打ち始める。

 

 さらに追い打ちをかけるように、パチンという鋭い音がどこかから飛んできた。何かを巻き取るようなシュルルという音も、合わせて聴こえてくる。心霊現象でよくあると言われる”ラップ音”だ。そうに違いない。恐怖心が排泄欲を上回った瞬間、杳はくるりと踵を返し、その場から一目散に逃げ去ろうとした。

 

 刹那、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。音もなく忍び寄ってきた()()が、背後から自分に覆い被さっている。

 

 抱き締めるように前方に回されたその両腕は、焼け焦げたように変色した皮膚ときれいな皮膚とを――金属製の太い糸で継ぎ合わせた――()()()()だった。そして、火傷しそうなほどに熱い。思わず仰け反ったとたん、頬にチクチクとしたものが触れる。誰かの髪の毛だ。すぐ近くに、亡霊がいる。

 

「Boo!」

 

 季節外れの黒いコートを羽織った亡霊は、おどかすようにそう呟いて、杳の体を軽く揺さぶった。杳の意識は再び、銀河系の彼方へ吹き飛んで行く――

 

 

 

 ――寸前、突如として飛んできた白い布が自分の体を拘束し、亡霊から引き剥がして、数メートルほど後方の床へ転がした。ミイラ男ではない、()()だった。あまりの急展開についていけず、目を白黒させている杳を背中に庇いつつ、相澤は亡霊を捕えて床に捻じ伏せる。

 

「目的・人数・配置を言え」

「何で?」

 

 小馬鹿にしたような笑みを含んだ声で、亡霊が応える。すると相澤は一切の躊躇も見せず、亡霊の右腕をボキリと折った。

 

「こうなるからだよ。……動くな」

 

 衝撃的なシーンを目の当たりにした杳は、相澤を止めるため、とっさに立ち上がろうとする。しかし彼はそれを気配だけで察し、冷たく制した。相澤は地下活動(アンダーグラウンド)ヒーローとしての本来の姿を、如何なく発揮した。呻き声を上げる亡霊を無感動に見下ろし、恐ろしい言葉を次々に投げつける。

 

「次は左腕だ。合理的に行こう。足まで掛かると護送が面倒だ」

「焦ってんのかよイレイザー」

 

 からかうような声音でそう呟いたとたん、亡霊の周囲が蜃気楼のように揺らめき、ツギハギの皮膚から青い炎が噴き出した。しかし蒼く燃える舌先が相澤に触れる直前、彼の発動した個性が全てを抹消する。――その瞬間、杳は理解した。目の前の亡霊は生きた人間で、(ヴィラン)である事を。

 

 突如として、四角く切り取られた世界にざわめく黒々とした森が、()()()()()()()()。そう遠くはない距離で、くぐもった爆発音と共に、大きなきのこ雲が立ち昇る。バチバチと激しく燃え盛る草木の音が、薄いガラスを通してここまで聴こえてきた。

 

『……皆!』

 

 刹那、脳内に直接、マンダレイの逼迫した声が突き刺さった。それに気を取られ、わずかに動きを止めた相澤を突き飛ばし、敵が捕縛布を抜け出して距離を取る。

 

『敵二名襲来!他にも複数いる可能性アリ!動ける者は直ちに施設へ!会敵しても決して交戦せず、撤退して!』

 

 ――()()だ。杳は大きく息を詰めて、轟々と燃え盛る森の奥に目を凝らした。クラスの皆が襲われている!目付きの悪い友人の顔がポッと思い浮かび、杳は夢中で捕縛布を振りほどいて、立ち上がった。

 

 相澤の制止の声を無視して雲化しようとしたその時、森の方から見知った面々が駆け寄って来るのが見えた。飯田、峰田、口田に尾白の4名だ。飯田は凄まじいスピードで窓に走り寄ると、激しくガラス面を叩いた。

 

「白雲くん、開けてくれ!相澤先s……なんだ、彼は?敵か?!」

「さすがに雄英の教師を務めるだけはあるよ。なあヒーロー」

 

 敵は相澤に臆する事なく、ゾッとするような暗い笑みを口元に浮かべた。青く光る目がヒーローを警戒しつつ、後ろ手で窓の鍵を外そうとする杳の瞳とぶつかり合う。その瞬間、相澤の捕縛布が一閃した。

 

「生徒が大事か?……守り切れるといいな」

 

 しかし、絡み取った布の先をグイと引っ張ったとたん、敵の体が泥のように形をなくし、崩れ去った。その不穏な言葉は、聴いた者の心を悪戯にかき乱し、気が狂いそうなほどの焦燥感を募らせていく。

 

 

 

 

 相澤は、杳達に”教室へ戻るように”と言い含め、外へ飛び出して行った。B組の担任であるブラド先生に守られながら、生徒達は居ても立っても居られず、子熊のように教室内をうろつき回った。

 

 時計の針は10時30分を指している。この数十分間に、一体どんな出来事が森の中で起きているのだろう。クラスの皆が心配でたまらなかった。さらに悪い事は続くもので、マンダレイのテレパスが立て続けに飛んできて、”相澤の責任の下、生徒達の戦闘が許可された事”、そして”敵の狙いは()()である事”が分かった。

 

「ダチが狙われてんだ!頼みます!行かせてください!」

「戦闘許可は自衛の為だ。皆がここへ戻れるようにな」

 

 切島が悲痛極まりない声でブラドに嘆願するも、彼は頑として許可しない。切島は爆豪と特に親しかった。自分だって気持ちは痛いほど分かると、杳は拳をギュッと握り締める。

 

 飯田が言うには、森の中は火炎だけでなく毒ガスも充満しているらしい。さっきから頭の片隅に、人使や焦凍と過ごした記憶がチカチカと点滅して、全く集中できない。最悪なイメージばかりが思い浮かび、杳は頭を振るって気を引き締めようと努力した。

 

 その時、教室の出入口付近から大きな物音がした。きっと相澤先生だ。人使達を連れて帰って来てくれたかもしれない。異常事態に憑りつかれ、一時的に視野が狭まっている杳は何も疑問に思わず、ドアへ歩み寄った。宵闇のヴェールをかき分け、人影がぼんやりと浮かび上がる。薄い擦りガラスの向こうで――杳の甘い考えを嘲笑うかのように――()()()に光る目がすうっと細められた。

 

 刹那、()()()()()が教室のドアから噴き出した。目の前でバチバチと銀色の火花が弾け飛び、摂氏約1,000度を超えた蒼炎が濁流のように押し寄せ、杳を蹂躙した。

 

 身を守るため、杳は本能的に雲化した。しかし、炎の発する高熱が水分子の構成を崩したせいで、彼女の体は強制的に元へ戻る。脳が死を覚悟したその時、ブラドが炎ごと敵の体を素早く拘束し、渾身の力で壁に叩きつけた。炎の渦から救い出され、力なくうずくまる彼女の体を、駆けつけた飯田が教室の隅へ引き摺っていく。

 

「大丈夫か白雲くん!すぐに体を冷やすものを」

「だ、だいじょうぶ。自分でできる、から。できるだけ、あの人から離して……」

 

 ――()()()()()()()。焦凍以上の高温だ。自分の雲化が強制的にキャンセルされるほどの威力だった。教室内にまき散らされた炎はまだしつこく燻ぶっており、杳の体力と使用容量を容赦なく削っていく。

 

 芦戸が強酸を垂らして周囲の炎を消してくれた事で、やっと一息ついた杳は、すぐさま全身を氷雪で押し固めた。生徒達が全員、教室の隅っこへ避難した事を確認すると、ブラドは鋭い視線を敵に突き刺した。

 

「こんなところにまで考えなしのガン攻めか!随分舐めてくれる!」

「そりゃあ舐めるだろ。思った通りの言動だ。……後手に回った時点で、おまえら負けてんだよ」

 

 劣勢を強いられているというのに、敵は慌てる素振りすら見せず、人を食ったような笑みを口元に浮かべるだけだった。

 

「ヒーロー育成の最高峰雄英と平和の象徴オールマイト。ヒーロー社会に於いて最も信頼の高い2つが集まった。ここで信頼の揺らぐような案件が重なれば、その揺らぎは社会全体に蔓延すると思わないか?例えば……」

 

 冷酷な輝きを帯びた碧眼が、生徒達に取り囲まれた小さな雪ダルマをちらりと見やる。

 

「何度も襲撃を許す杜撰な管理体制。挙句に生徒を犯罪集団に奪われる弱さ」

「てめー!まさか爆豪を……!」

 

 切島と上鳴が果敢に吼え、それぞれの個性を宿した両腕を構えて威嚇する。そんな彼らを歯牙にも掛けず、敵は大胆不敵に笑った。そしてどこか芝居がかったような口振りで、滔々と語り続ける。

 

「見てろ。極々少数の俺達がおまえらを追いつめてくんだ」

「――無駄だブラド」

 

 次の瞬間、出入口に詰まった暗闇の奥から相澤が跳んできて、敵に強烈なドロップキックを喰らわした。捕縛布も巻き付けて床に引き倒し、情け容赦のない殴る蹴るの暴行を加える。あまりに残虐なシーンを見兼ね、芦戸は雪の中からポコンと顔を出した杳の両目を塞いだ。

 

「こいつは煽るだけで情報出さねえよ。……それに見ろ。ニセモノだ。さっきも来た」

 

 相澤は冷静な口調でそう言うと、みるみるうちに形をなくし、茶色い泥へ変貌していく敵の残骸を蹴り崩した。生徒達がそれぞれ驚きの反応を見せる一方で、ブラドは小さく唸った後、相澤へ視線を戻す。

 

「イレイザー。おまえ何してた?」

「悪い。戦闘許可を出しに行ったつもりが、この子を保護してた。預かってくれ」

「こ、洸汰くん!」

「おねえちゃ……!」

 

 出入口の奥からおずおずと顔を覗かせたのは、洸汰少年だった。大人びていたはずのその顔は、恐怖の感情に歪められ――まるで極寒の地で一晩過ごしたかのように――ガタガタと全身が震えている。杳が驚いて名前を呼ぶと、少年は激しく泣きじゃくりながら、大きく広げた彼女の腕の中に飛び込んだ。相澤とブラドが今後の行動方針を詰めていく中、洸汰はか細い声で、拙い言葉を絞り出していく。

 

「ぼ、僕……。あの人に、モジャモジャ頭の人に、救けてもらったんだ。なのにお礼も、言えなくて。あの人、僕を守るために、傷だらけに……」

「大丈夫だよ」

 

 ”モジャモジャ頭”、きっと緑谷の事だ。杳は彼の身を案じる気持ちを心の内に秘め、人を安心させるような力強い笑みを浮かべてみせた。少年の涙をそっと拭い、ポンポンと頭を撫でる。緑谷ならきっと大丈夫だ。彼はとても強くて賢い。そして何より、あの人の意志を継いでいる”唯一無二のヒーロー”だ。

 

「緑谷くんなら絶対大丈夫。帰ってきたら、たくさん”ありがとう”って言ってあげてね。きっと喜ぶよ」

 

 洸汰は顔をくしゃくしゃに歪めて、小さく頷いた。その様子を静かに見守ってから、相澤は再び地を蹴り、戦地へ舞い戻っていく。杳達は何もできない己の立場を歯がゆく思いながら、その場に留まり続ける事しかできなかった。

 

 

 

 

 それから数十分後。地獄のように長い夜を耐え忍んだ杳達を待ち受けていたのは、()()()()()だった。

 

 A・Bクラス合わせて生徒42名の内、敵のガスによって意識不明の重体に陥った者が15名。重・軽症者12名。無傷で済んだのは14名だけだった。そして……マンダレイの忠告も空しく、爆豪は敵の手にかかり、連れ去られてしまった。プロヒーローは6名の内1名が頭を強く打たれ重体。1名が大量の血痕を残し、行方不明となった。

 

 緑谷と八百万を載せた救急車を見送りながら、杳は沈痛な面持ちで、血が滲みそうなほどに唇を強く噛み締めた。つい数時間前までは、こんな事になるなんて思ってもみなかった。そしてこの襲撃の犯人は、またしてもあの”敵連合”だと言う。冷たい泡のような不安の感情が足下から湧き上がり、頭の中を埋め尽くしていく。爆豪が酷い目に遭わされていたらどうしよう。

 

「大丈夫か」

 

 無意識の内に呼吸が浅くなっていた杳の肩を、慣れ親しんだ友人の手が掴んだ。知的な輝きを帯びる紫色の双眸の周りは、青い痣に包まれて膨れ上がっていた。人使は八百万やB組の泡瀬と共に、敵達と一緒に送り込まれた脳無と交戦していたのだ。

 

 その数メートル程先では、焦凍が常闇や障子と共に何事かを話しながら、ひどく深刻な表情を浮かべていた。彼らは敵に攫われた爆豪を、緑谷と一緒に救出しようとしていた。目の前で友人が連れ去られた時、どんなに無念で辛かっただろう。杳は浮かんできた涙を乱暴に拭うと、友人に向けて小さく頷いた。

 

 まだ仮免すら取っていない、ヒーローの有精卵である自分にできる事は少ない。どうか爆豪とラグドールが無事で、敵連合の手から救い出されますように。神様に祈りを捧げていると、ふと視界の端を何か青いものが掠めた。

 

「……ッ!」

 

 あの蒼炎使いの敵の姿が脳裏にフラッシュバックし、杳はとっさに雲化して迎撃態勢を取る。しかし、彼女を待ち受けていたのは敵ではなく、焼け焦げた男子トイレのドアの残骸だった。戦闘の最中に吹き飛び、壁に突き刺さったそれには()()人型マークが描かれている。なんだ、見間違いか。思わずホッとして肩の力が抜けた瞬間、杳は恐ろしい事実に気が付いた。――結局、自分は今に至るまで()()()()()()()()

 

「あ……っ……」

 

 意識したとたん、()()()尿()()が牙を剥いて襲い掛かり、杳は息を詰めて下腹部を押さえつけ、もじもじとし始めた。人使と焦凍に再会した事で安心し、気が抜けたというのもあるかもしれない。さすがに友人の目の前で、失態を冒すわけにはいかなかった。

 

 そもそもこんな張り詰めた空気の中で、バカみたいにお漏らしなどしたら、一生の笑い者どころか顰蹙者だ。爪先立ちでよろめきながら宿舎の中へ入ろうとした、まさにその時、人使が心配そうに眉をひそめて、杳の肩をぐいと抱き寄せた。

 

「どうした?」

 

 それは、純粋な親切心から生まれた行動だった。しかし、その小さなアクションが引き金となり、杳のダムは決壊した。

 

「……ッ?!おま、ちょっ……!」

 

 凍り付いたように動きを止めた瞬間、大粒の涙を流すと共にお漏らしをし始めた友人の姿を見て、人使はいつも冷静な彼にしては珍しく、大いに取り乱した。確かにトイレに行く状況ではなかったとは思うし、生理的な現象なので仕方のない事だとは思う。だが、同年代の人間が粗相をする瞬間を目撃したのは、生まれて初めてだった。友人の尊厳を守るため、人使は素早く周囲を見渡して、脱いだパーカーを彼女の腰回りに当てて隠そうとする。

 

 ――その時、人使は気付いた。杳の粗相している内容物は尿ではなく、()()()()である事に。

 

「は……?」

 

 あまりに突飛な展開に付いていけず、掠れた声が人使の口から漏れる。驚いているのは彼だけでなく、杳も同じだった。どうして体から泥が?そう訝しんだとたん、左腕がドロリと融け、みるみるうちにくすんだ色の液体に変わり、地面に音を立てて零れ落ちていく。

 

 どこかからクラスメイト達の逼迫した声が聴こえて来る。急速に霞んでいく意識と視界の中で、杳は友人の伸ばした手を掴もうと、残っている右手に力を入れた。――だが、()()()()だった。人使の腕の中で、杳の体は形をなくし、ボタボタと地面に垂れ落ちた。物言わぬ泥だまりになった友人の残骸をかき集め、人使は声にならない声で彼女の名前を叫んだ。




これにて3期終了です!林間合宿編急いで書いたので、ちょっと微調整してから4期に入ります。神野事件~死穢八斎會編までノンストップゴーゴーや…がんばれ自分!!


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4期:神野事件編
No.33 敵連合①


 杳は夢と現の狭間を揺蕩(たゆた)っていた。鉛を流し込まれたかのように体が重く、指先一本動かせない。どこからか声が聴こえた。知らない男の声。意識が朦朧としているためか、声はくぐもって不鮮明だ。

 

(早く済ませろ)

(せーかーすーなって!コンプレス、右の瞼持ち上げろ。いや左だ!)

(……え、どっち?)

(一気にしろよ。めんどくせェ)

 

 真っ暗だった世界が不意に彩りを帯びて、輝いた。曇り硝子を重ねたように不明瞭な視界に、自分を覗き込んでいる二人分の人影が見える。……一体、誰だろう。白くて細長い()()が目の前を横切り、薄い金属が擦り合う音を残した。そして周囲は再び、暗闇に閉ざされた。

 遠くの方で、かすかな物音と賑やかな話し声がする。どこか懐かしい響きのする、屈託のない子供達のざわめき。それらを遮るように、焦げ臭い匂いがツンと鼻を突いた。

 

(イレイザーが来る。撤収しろ)

(は?もう?教室出てからまだ10分も経ってないぜ?)

(過保護かよ。キショイな!)

 

 ”イレイザー”、相澤先生のコード名。その名前は、杳のばらけていた意識を一気に結集させた。重くて粘度のある液体が、ボタボタと零れ落ちる音がする。なけなしの力を振り絞り、彼女は瞼をほんの数ミリこじ開けた。おぼろげな視界の中に、人影が三人分と、土くれで出来た人形がある。人形はみるみるうちに少女の姿に収束して、色付いた。

 その灰色のフワフワ髪にとても見覚えがある。――信じられない、()()()姿()だ。糸を切られた操り人形のように崩れ落ちようとするそれを、一人の男が抱き留めた。

 

(気を付けろ。たぶんそいつ、もうすぐ起きるぞ。いや起きねーよ!)

(それでいい。行け)

 

 男の大きな掌が近づいて来て、杳は何も見えなくなった。続いて、パチンという大きな破裂音がする。丸みを帯びた硬い壁に軽く頭をぶつけた拍子に、彼女の意識は再び遠のいた。

 

 

 

 

 やがて、杳は再び意識を取り戻した。ゆっくりと目を開ける。性質の悪い風邪を引いた時のように、体の節々が痛くてだるい。どこからか煙草の強い香りも漂って来て、彼女は思わず顔をしかめた。ゆっくりと立ち上がろうとするが、できない。無意識に視線を下ろしたとたん、彼女は背中に冷や水を浴びせられたようになり、慄然とした。

 自分は頑丈な造りの()()()()に座らされている。――何故、こんな事に?焦って必死にもがくが、分厚い金属製の拘束具はどれ一つとして、びくともしない。

 

「やーっと起きたか、ガキンチョ。早起きだな!」

 

 突然、部屋の奥から見知らぬ男の声が飛んできて、杳は思わず顔を上げた。どことなく聞き覚えのある声だ。真正面にはドアがあり、その前に屈強な体つきの男がどっかりと座っていた。全身をぴったりとした黒いスーツで覆っている。そのため表情は全く分からないが、男はマスク越しに咥えていた煙草を一吸いしてから灰皿に置くと、おもむろに立ち上がった。

 

 ――その瞬間、全ての記憶が蘇った。補講授業を受けていた途中、自分はトイレに行った。それから青い炎を見て、火傷だらけの手の亡霊に遭遇したとたん、意識が遠のいて……。再び目覚めると、虚ろな視界の中で、知らない三人の男が見えた。土くれで出来た()()()()()も。記憶の数々は鮮やかに明滅し、ジェットコースターのようなスピードで、眼前を過ぎ去っていく。

 

 おおよその現状を把握すると、杳は思考を開始した。雄英に入学して以来、”ヒーローの卵”として積み重ねて来た行動の成果が今、如何なく発揮されようとしていた。――拘束椅子に、明らかに民間人ではない雰囲気の男。これは補講授業の続きじゃない。ここから逃げなければ。

 

「大人しくしとけよ。ボスがお前を……」

 

 相手の言葉を待たずして、杳は雲化して拘束から抜け出そうとした。しかしそれを阻むように、頭を鋭いナイフで突き刺すような痛みが襲ってくる。右手だけ雲化に成功し、拘束から脱した中途半端な状態で、杳は思わず頭を抱えた。男は大股で距離を詰め、杳の自由になった方の手を掴むと、凄むような声で怒鳴る。

 

「オイ、暴れんな。逃げようったって無駄だ。いやそんなことはねえ!今ならまだ間に合う!」

(エキストラ失格っすね。シナリオ通りにできない子は死んで――)

 

 目の前の男の姿と、かつて自分を苦しめたロックの姿が、不意に重なった。数ヶ月前に受けた凄惨な仕打ちの数々が脳裏にフラッシュバックし、心身を蹂躙していく。――だけど今は、個性を扱い切れていなかった()()()とは違う。杳は奮起し、過去のトラウマを追いやると、掴まれた手から大量の氷雪を噴出した。

 

 突如発生した雪崩(アバランチェ)に巻き込まれ、男は間抜けな悲鳴を上げながら部屋の中を吹っ飛んで、ドア付近の壁にぶち当たる。その上から部屋の三分の一を埋めるほどの大雪が降り注ぎ、彼の姿は完全に見えなくなった。杳は今度こそ完全に雲化し、拘束椅子から抜け出すと、素早く周囲を見渡した。

 

 部屋に窓はない。鼻をクンクンと動かすと、紫煙に混じり、淀んだ空気の匂いがした。ここは()()()である可能性が高い。屋内、それも地下室の脱出ルートは非常に限られているし、そこで新たな敵と克ち合う危険性がある以上、ドアから逃げるのは得策じゃない。――と、なれば。杳は天井の隅を見上げた。そこには、年季の入った換気扇がカラカラと回っている。()()()()通気口を通り、外へ抜け出すのが最善手だ。

 

 杳が霧状に姿を変えようとしたその瞬間、男の苦しそうな呼吸音が、耳をくすぐった。声の出所を探ると、こんもりとした雪山の中から男の上半身が突き出ている。万が一にも凍死してはならないと、空気をたっぷりと含ませた柔らかい雪にしていたのだが、思ったよりも出て来るのが早かった。

 

 しかし、なんだか様子が可笑しい。男のマスクは脱げていて、金髪を短く刈った精悍な顔つきが露出していた。その顔は、激しい狂気と恐怖に歪んでいる。両目はてんでんばらばらな方向を見つめ、震える手で雪をかき集めては、執拗に顔に押し付けている。

 

「ああ……ダメだダメだダメだ、包まなくちゃ裂ける。包まなくちゃ……」

 

 柔らかい雪は体温で融け、ついに男の体は雪山から転がり落ちた。そして煙草の吸殻が大量に散らばった床の上で、塩を掛けられたナメクジのようにのたうち回る。時折、電流を流されているかのように痙攣しては、激しい呼吸を繰り返している。

 

 ()()()()()()だ。男は今、行動不能状態にある。この状況に置かれた多くの人は、”敵から逃げ出す最高のチャンスが来た”と思うだろう。しかし、杳はそう思わなかった。鳴羽田でクロウラーと駆け抜けた一週間の日々は、彼女の価値観を一変させていた。

 

 ――”救けなければ”。杳はそう思い、手を伸ばした。彼女にとってそれは、鳥が羽ばたいて空を飛ぶように、魚がヒレを動かして水中を泳ぐように()()()()だった。だが、それは同時に自らの首を絞め、拘束椅子よりも手酷く行動を制限する()()でもあった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 分倍河原仁は、とにかく不運な人間だった。中学生の時に両親が敵犯罪に巻き込まれて亡くなり、彼は天涯孤独の身となった。やっとありついた仕事と住まいも、バイクを走行中、信号無視で飛び出してきた男性を轢いてしまった事により、失った。親のように面倒を見てくれた零細工場の社長が、憎々しげに言い放つ。

 

(おめーがはねた男な。お得意様んとこの役員だってよ。今後そちらとの付き合いは考えさせていただきますってよ。……衣食住世話してやった結果がこれか?二度と顔出すな!厄病神め!)

 

 人生に躓いても、やり直せる人間はいる。だが躓き方が悪い人間は、どこまでも転げ落ちていく。仁は、後者の方だった。彼はまた一人ぽっちになった。話し相手がほしかった。信頼し合える人間といたかった。

 

 だから彼は、()()()()()()()()()。同じ考えや価値観と持つ人間に囲まれて、彼は満ち足りた。転落中の人間が考える事は一つ、”楽になる事”。彼は数えきれないほどの犯罪を繰り返して悪銭を増やし、道中で消費した自身のストックを補充した。

 

 落ちている時、人は何も考えない。考える必要がないからだ。必要に迫られるのは、落ち切った時だけ。奈落の底の地面をかきむしり、もうどうする事もできない事実を目の当たりにして、人はやっと過ちに気付く。

 

 ある時、自分の分身達が謀反を起こした。きっかけは些細な口論だった。自分同士が口汚く罵り合い、互いを殺し合う様子を見て、彼は気が狂ってしまった。この世で唯一信頼できた自分自身さえ、信じられなくなってしまった。

 もはや日常生活すらままならなくなり、紙袋をかぶって自分が分裂しないようにと自制している彼のところに、一人の仲介人(ブローカー)がやって来た。

 

(終わった人間はどうしたらいい?)

(……信頼されることだ)

(誰に?)

()()()

 

 仲介人は義爛と名乗り、彼に外国の銘柄の煙草を一本、差し出した。義爛の濁った目の奥は優しい輝きを帯びていて、彼のボロボロに擦り切れた心をそっと照らしていく。

 

(近頃、元気な集団があってな。おまえなら必ず必要とされる。……大丈夫、似たような人間なら案外沢山いるもんだ)

 

 そうして、彼は(ヴィラン)連合に入った。――落っこちた先に見つけた、新しい居場所。自分を受け入れてくれた者達に報いたいと、彼は悪行に精を出した。生き甲斐、そして仲間を見つけ、彼の人生は再び、彩りと音楽に満ち溢れた。

 だが、抱えている病までが治る事はない。光が強いほど影が濃くなるように、ふとした拍子にそれは牙を剥き、まばゆい光の只中にいた彼を引き摺り込んで、容赦なく喰らい尽くしていく。

 

 

 

 

 気が付くと、彼はかつて自分が暮らしていた()()()にいた。些細な口論から殴り合い、そして殺し合いに発展した分身達が一人、また一人と液状になっていく。

 命からがらクローゼット内に逃げ込んだ彼は、その凄惨な光景を通気口の隙間から眺めていた。全身からぶわっと汗が噴き出し、心臓は激しく鼓動を打ち始める。――”俺は本物だ”と、彼は何度も心中で自分に言い聞かせた。

 

「違う。お前は分身だ」

 

 刹那、クローゼットの扉がガチャリと開け放たれた。血飛沫と泥でまだらに染まった分身達が、口の端を歪めて笑う。声にならない悲鳴を上げ、我武者羅に暴れる仁を引き摺り出すと、彼らは持っていたナイフでその体を突き刺した。飛び散る血飛沫の中に、()()()()が混じる。――偽物の、分身の証である事を示す、茶色い液体が。

 

 ……違う。見間違いだ。()()()()()。彼はギュウッと目を閉じ、必死でそれを見ないようにした。だがその瞼を、無理矢理こじ開けられる。嗅ぎ慣れた土臭さが鼻を突いた。視界の全てを、自分と同じ顔の群れが覆い尽くし、冷たくせせら笑っている。

 

「お前はニセモノなんだよ。ホラ見ろ。もうすぐ、泥になって消える」

「違う違う違う!俺は裂ける俺は消えない俺は!」

 

 狂気に満ちた仁の叫びを、同じトーンの哄笑が掻き消した。視界が歪む。意識が薄らいでいく。土の匂い。どろりとした液体の感触。自分という存在が消えていく。跡形もなく融けて、崩れ落ちていく。半ばまで泥と化した自身の体を、分身達の足が蹴散らそうとしたその瞬間――

 

「大丈夫ですか?」

 

 ――優しい声と共に、陽だまりのような柔らかい光が一筋、頭上から差し込んだ。

 その光を見るなり、分身の群れは苦しそうな呻き声を上げて、部屋の奥へ引っ込んでいく。薄暗闇の中から注がれる、未練がましい視線の数々から逃れるように、彼は夢中でその光を()()()

 

 金色の光は触れることができ、絹糸のように滑らかで、体重を預けてもびくともしないほどに丈夫だった。まばゆく輝く糸を手繰り寄せ、彼は地獄を離れて、上へ上へと昇っていく。陰鬱な空気を宿した地下室の光景は徐々に霞んで消え、周囲の景色が明るくなっていく。

 

「ゆっくり呼吸してください。吸って、吐いて。その調子です」

 

 また声がする。ふと背中に()()()()()()を感じた。――熱を帯びた小さな手が、自分の背を繰り返し撫でている。彼は目を閉じて、言われた通りに大きく息を吸い込んだ。

 懐かしい匂いが鼻腔いっぱいに広がる。お天道様にしっかり当てられた布団の香りだ。遠い遠い昔、自分は確かこの匂いが好きだったような気がする。凝り固まっていた肩の力が抜けていく。彼は肺の中が空っぽになるまで、大きく息を吐いた。

 

(ちゃんとお手伝いして、偉いねえ)

 

 目を開くと、仁は色褪せたセピア色の世界に立っていた。小さな少年の姿に戻った彼は、母に頭を撫でられている。こじんまりとした借家の中庭で、彼は洗濯物を取り込んでいた。目の前で揺れる白い掛け布団からは、優しい陽だまりの匂いがする。

 

 ――これは彼が転落する前、最も幸福だと感じていた頃の記憶の一部だった。虚しく悲しい日々を送るうちに、思い出す事すら辛くなり、いつしか心の奥底に沈め、そのまま忘却の彼方へ置き去っていたものだ。なんだか照れ臭くなって俯く彼の頭を、どこからかやって来た父が乱暴な手つきでかき混ぜる。

 

(いいぞ、仁!この調子で将来は立派なヒーローになって、パパとママに楽な生活を……)

(ちょっとパパ!)

 

 痴話げんかを始める両親を見上げ、仁は明るい声で笑った。そしてズボンのポケットにいつも入れている、オールマイトの人形をそっと取り出す。今よりもっと小さい頃、両親に強請って買ってもらった物だ。長年の時を経て、艶は消えて色も落ち、至る所が傷だらけだった。だけど、この人形はいつも彼を支えてくれた。

 

 ――自分が本当に困った時、オールマイトは必ず駆けつけ、救けてくれる。そしてこんな風に、とびきりの優しい笑顔を見せてくれる。まだ幼かった頃、彼は心からそう信じていた。

 夢と希望に満ち溢れ、何も怖いものなどなかった世界で、この人形は大切な宝物であり、信頼に値する友人だった。塗料が剥がれ、黄ばんだプラスチックの目は、彼にだけしか見えない()()()()()を放っている。

 

 

 

 

 次に閉じた瞼を開いた時、仁の意識は現実に戻っていた。いつの間にか、自分の体は古びたソファの上に座らされていた。とっさに頬を指でなぞると、愛しい布の手触りが返ってくる。うねるような安心感が全身を包み込んだ。

 

 にわかに視界の端から、ぼんやりとした雰囲気を放つ少女が歩いて来た。彼女は安堵したように顔を綻ばせると、ふちが欠けた硝子のコップを差し出した。部屋に転がっていたものだ。元々空っぽだったその中には、透明な液体が満たされている。

 

「良かった。いっぱい吐いてたので、水を飲んでください。少しずつでいいですよ」

 

 ――幻覚の中で聴いた声と()()だ。少女はそう言うと、部屋の隅に向かった。いつの間にか氷雪はきれいさっぱり消え去っていて、代わりに自分が出したのだろう、大量の吐瀉物が広がっている。彼女はやおら腕まくりをして、掌上にモコモコとした雲の塊を出すと、それで手際良く拭き取り始めた。

 

 剥き出しになったその両手首には、紫色の痣が浮かんでいる。拘束具の締め付けにより出来たものだ。仁は虚ろに口を開け、少女の姿をただぼんやりと見つめていた。やがてその視線に感づいたのか、ふと彼女が顔を上げ、こちらを見た。そしてぎこちない笑顔を浮かべ、空いた手で小さくガッツポーズを取ってみせる。

 

「大丈夫です。こういうの得意なんで。ゆっくり休んでて」

 

 その灰色の双眸は、かつて大切にしていたオールマイトの人形の目と()()()()を宿していた。――ああ、こいつは()()だ。仁はただ漠然とそう思った。

 

 刹那、彼の中で()()がプツンと切れた。彼の創った少女の分身が、ドクターの手に掛かって死んだのだ。彼の心中に強烈な罪悪感の海が生まれ、みるみるうちにそれは心臓を突き破って体じゅうに満ち、涙となって両目から溢れ出した。

 

「ご、ご、ご、ごめんよおおおお!!」

「うわっ!」

 

 いきなり男がコップを投げ出して、自分に抱き着いて来たので、杳は目を白黒させながら踏ん張った。――凄んできたかと思えばパニックになったり、子供のように泣き出して縋り付いたり。随分と情緒が不安定な人だと、彼女は思った。だがよくよく観察してみれば、不思議と憎めない、愛嬌のある雰囲気を持っている。

 

 この人がロックのような暴力を、突然自分に振るうとは思えない。また発作を起こして重症化してしまっては大変だし、とりあえずは抵抗せず、この人に状況を訊いてみよう。杳はそう決断し、おずおずと口を開いた。

 

「あの、ここはどこですか?なんで私、攫われたんでしょうか?」

 

 その言葉を聞いたとたん、男の体は鞭打たれたようにビクリと撥ねた。まるでひどい罵詈雑言を浴びせかけられたかのような反応に、杳は思わず訝しんで首を傾げる。やがて男はゆっくりと体を離した。それから随分と決まりが悪そうに、蚊の鳴くような声で応える。

 

「ココ、ヴィランレンゴウノ、アジト。シガラキガ、オマエ、サラエッテ」

「なんで片言?」

 

 ”ヴィランレンゴウノアジト”、不思議と聞き覚えのある言葉だ。屈強な体躯を縮こまらせ、鼻をすすり始めた男の背中を宥めるように撫でながら、杳は声に出さずに復唱した。

 ヴィランレンゴウ、ヴィランれんごう、敵連合。シガラキ、しがらき、死柄木。男の発した拙い言葉は、時間を掛けて、彼女の脳内で適した言葉に変換されていく。敵連合の死柄木が手下に命じて、自分を攫わせた……?

 

 ここに来て、ようやっと真実に辿り着いた杳は、しばらくの間、凍り付いたようにピクリとも動く事ができなかった。――つまり、”敵連合が合宿先を襲撃した”という事だ。皆は無事だろうか。攫われた者は自分一人だけだろうか。無数の質問が頭の中に浮かんで、嵐のように吹き荒れていく。

 

「えーっと。これ、どういう状況?」

 

 頭上から困惑した男の声が降って来て、二人は急いで顔を上げた。いつの間にかドアが開け放たれていて、そこにすらりとした長身の男が立っている。洒落たトレンチコートにシルクハットを被ったその男の顔面は、不可思議な文様を描く仮面で覆われていた。彼は大袈裟に両手を上げ、仰け反った体勢で、壁に張りついている。

 

 杳は困り果て、頭をかいた。拘束を抜け出している自分に手を出さないところを見ると、少なくともこの二人は、ロックのような問答無用の強硬手段は取らない主義らしい。

 どちらかというと質問したいのはこちらの方だが、自分のせいでこのスーツの人を傷つけてしまったのは事実だ。杳はスーツの男の背中を撫でるに至った事情を説明すると、小さく頭を下げた。

 

「すみませんでした。……あの。生徒の皆は無事ですか?」

 

 仮面の男は、質問に応えなかった。指先で顎をそっと撫でると、仮面の奥からまるで何かを見定めるような鋭い目で杳を見下ろした。それらが放つ、冷たく無機質な感情を彼女が読み取るよりも早く、彼は視線を逸らした。それから芝居がかった動作で両手を上げ、廊下の右側を指差す。

 

「それは死柄木に訊いて。おじさん、ちょっと呼んでくるからさ」

「……ッ!」

 

 思いも寄らぬ言葉に、杳は大きく息を詰めた。冷たく荒んだ指先の感覚を思い出し、彼女は思わず身震いする。だが、ここに連れ去られた以上、避けては通れない道だろう。現在地だけでなく敵の人数も個性も、他に人質がいるかどうかも分からないというあやふやな状態で、無闇に暴れるのは危険だ。杳は覚悟を決めて、小さく頷いた。

 

 

 

 

 敵連合の潜む、神野区のバー近辺。秘められた地下の研究室にて。病院を彷彿とさせる、白く清潔な天井と壁に囲まれた部屋の中には、大きなガラス管が設置されていた。内部には透明な液体が満たされていて、その中には一人の少女が眠っている。その前には、白衣を羽織った高齢の老人が立っていた。老人は皺だらけの顔を綻ばせ、まるで愛しい孫を見るような目をガラス管の少女へ向ける。

 

「クラウディちゃん。君は()()()()()()()なんじゃよ」

 

 子守唄を歌うように優しい声でそう言うと、老人は眼前に浮かんだホログラム端末を操作した。天井からいくつものチューブが降りて来て、ガラス管に接続され、何かの薬剤を流し込んでいく。複数の薬剤は内部で混ざり合い、透明だった液体の色が不気味な色へ変貌していく。

 

 突然、少女が目を見開いた。そして苦しそうに泡を吐き、芋虫のように身をくねらせて、分厚いガラスの壁を叩き始める。恐怖と苦痛の感情に染まったその双眸を真正面から受け止め、老人は嬉しそうに頷いた。

 

「そう。君は男女の交わりなく母体に宿った。”ただの偶然、両親の個性の暴発だ”と当時の主治医はのたまったが、そんな訳がない。君は自分の意志で、自らの命を創造したのじゃ」

 

 刹那、少女の体が内側から弾け飛んだ。その体は血肉ではなく()()()()でできていた。様々なものが混ざって濁り、ついには内部が見えなくなってしまったガラス管を、端末を操作して処分すると、老人は残念そうに眉尻を下げる。

 

「ちいと刺激が強かったかの?分身はもろくて扱いづらい。……よし、仕切り直しじゃ。では次は」

 

 喜び勇んで揉み手をし、新たなガラス管を呼び寄せる老人の姿を、部屋の前に設置されたモニターが映し出す。その前には一人の男が立っていた。少女が酸鼻を極める実験の材料になり、泥の塊になって崩れ去る工程を観察しながら、彼は唯一残った口元に、どこか陰鬱で狂気じみた笑みを浮かべた。

 

「……さあ、杳。僕からも一つ、試験を与えよう。君はこれを通過できるかな?」




一番好きなコーイチネタが書けて満足だ。分かりにくいところがあれば修正しますので、仰ってください(*´ω`)次回は弔&黒霧が出るよ!


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No.34 敵連合②

※追記:やっぱりキリが悪いなと思い、夜の散歩シーン付け足しました。すみません…。


 舞台は再び、神野区内に隠されたアジトへ戻る。年季の入ったバーの内部を、古びた間接照明がぼんやりと照らしていた。ぼやけたオレンジ色に染まった室内には人影がいくつか佇んでいて、それぞれ思い思いの場所で寛ぎながら、一人の少年を見つめていた。カウンターのスツールに腰かけた死柄木がふと乾いた唇を開き、しわがれた声を出した。

 

「俺達の仲間にならないか?爆豪くん」

「寝言は寝て死ね」

 

 多数の敵に包囲され、強固な拘束椅子に縛り付けられていても尚、爆豪の目は勇猛果敢に輝いていた。死柄木を真正面から睨み上げ、憎々しげに吐き捨てる。ヒーローと敵――それぞれ違う志を宿した灼眼は、混じる事なくぶつかり合った。

 

 緊迫した空気が辺り一帯に流れる。だが、それに怖気づいているのは、小心者の魂を鱗で覆い隠したスピナーだけだった。いつまで経っても仲間になる気配を見せない爆豪に早くも愛想を尽かし、渡我は彼から視線を外して、退屈そうに毛先をいじり始める。そこで急にドアが開き、コンプレスがひょっこりと顔を覗かせた。

 

「死柄木。白雲ちゃん起きたぞ」

「どんな感じ?」

「杳ちゃん起きたの?!見に行くのです!」

「こらこら、慌てないの」

 

 とたんに渡我は目を輝かせ、腰かけていた酒樽から立ち上がると、一目散に外へ出ようとした。マグネは逞しい手を伸ばし、その肩を優しく捕まえる。小さい子供のように頬を膨らませる少女を宥めるように見下ろすと、マグネは続きを促した。コンプレスはおどけて肩を竦めてみせる。

 

「パニック起こしたトゥワイスの看病してる」

「そう。……は?」

 

 マグネは一旦飲み込んだ言葉を頭で処理し切れず、間抜けな声を漏らした。――目の前の少年のように威嚇したり警戒する訳でなく、パニックを起こした隙に逃げる訳でなく、()()?その言葉を聞いた瞬間、死柄木のひび割れた唇が歪んだ笑みを描いた。

 

 一方の爆豪は、肝臓に冷水を注がれたかのように戦慄した。”白雲杳がここにいる”――その事実を嚥下したとたん、張り詰めていた緊張の糸がより太く頑強になり、脳が活性化してアドレナリンが大量分泌され始めた。自分自身だけでなく、彼女の身も護らなければならない。守るものが多くなり、脱出が困難になればなるほど、彼の魂は磨かれて輝き、強くなる。

 

「オイ。あいつに何かしたらブチ殺すぞ」

 

 十代半ばの少年からとは思えない、強烈な威圧と殺意を込めた視線が、どすの効いた声と共に死柄木へ放たれた。スピナーは気圧されて身じろぎし、マグネは面白そうに目を細め、口笛を吹く。死柄木は緩慢な動作でスツールから立ち上がると、爆豪の前にしゃがみ込んだ。死人の手に隠された真紅の双眸が、少年をゆらりと見上げる。

 

「じゃあ、慎重に考えて行動しろ。俺は別に、あいつが死んだっていいんだ」

 

 ――その言葉は、白雲が()()()()()()()()可能性がある事を暗に示していた。カウンターの奥には古びたテレビが置かれている。黄ばんだブラウン管の向こうで、マスメディア達が、林間合宿で起きた事件の全貌を繰り返し放送していた。白雲の両親らしき人物がくしゃくしゃになって泣き崩れる様子が視界に入り、爆豪は血が滲むほどに強く唇を噛み締める。

 

「クソが……ッ!」

「良い子だ。コンプレス、また眠らせておけ」

 

 鬼神の如き眼力でコンプレスを睨みつけていた爆豪の目は、強烈な眠気に囚われて、次第に蕩けていく。――白雲の場所を特定し、安全を確保するまでは()()()()()()。爆豪は完全に意識がなくなるその時まで、必死に呼吸を殺して耳を澄ませた。廊下に出た死柄木が向かう足取りの先を、聴覚だけで追いかける。きっとあの先に白雲がいる事を信じて。

 

 

 

 

 声が聴こえる。浅い睡眠を取っている時によく見る幻覚だと、人使は思った。過去を繰り返す夢。ただ鮮明に再現される、現実かと見紛うほど精密な夢。屈託のない人々のざわめきと、食事を摂る音が辺り一帯を支配していた。やがて油の染み込んだファーストフードの匂いが鼻腔を掠め、人使は目を開いた。

 

 ――演習試験が終わった放課後、国内でも有数のファーストフード店”ヒロドナルド”で休憩を取っていた時の記憶の世界に、人使はいた。三人の鞄にはそれぞれお揃いで買ったキーホルダーが揺れている。人使がケチャップで口元をベタベタに汚している杳の口を乱暴に拭いていると、向かいに座る焦凍が神妙な面持ちで口を開いた。

 

(卒業したら、三人で事務所を開かないか?)

(え?)

 

 思いも寄らない提案に、二人は揃って素っ頓狂な声を上げた。彼女は恥ずかしそうに人使――の持っているティッシュ――から身を捩って離れると、眉を下げて、自信なさそうに自らを指差した。

 

(ヒトシは分かるけど、私も?足手まといになっちゃうよ)

(心配すんな。フォローする)

(足手まといは否定しないんだ……)

 

 友人の曇りなき眼と言葉に、杳が小さなショックを受けている。その様子を見て、人使は思わず吹き出した。そして想像した。気心の知れた仲間達と共に戦い、支え合う日々を。身も心もまだまだ未熟な今の段階では、砂糖菓子みたいに甘くてフワフワした夢のように思えるけれど、頑張ればいつかは実現できるだろうか。頬杖を突いて杳の顔を覗き込むと、彼は自分でも驚くほど優しい声でこう言った。

 

(俺はフォローしない。けど、待ってるから。頑張れよポンコツ)

(ポンコツて!)

 

 あんまりな友人達の言い分に杳は思わず憤慨し、怒りに任せて半分ほど残っていたシェーキを一気に吸い込んだ。そして冷たいものを大量に摂取した事による頭痛に悩まされ、額を押さえる。――馬鹿だった。だが、彼女が日々たゆまぬ努力を続け、心身共にアップデートしている事を彼は知っていた。

 

 いつか杳がもっと成長し、自分達の手を引っ張れるほど強くなる日が来る事を、彼は期待した。期待をもって明日を待つ。明日の積み重ねが未来へ続いていく。彼が望んだのは、こじんまりとした事務所を開き、そこで三人で笑い合う、ささやかで幸せな未来だった。

 

 ――ある日突然、明日が消えてしまう事を、積み上げてきた未来が無情にも崩れ去る可能性がある事を、その時の彼はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 人使はゆっくりと目を開いた。夢が終われば、現実が始まる。()()()()()()()が。消毒薬の匂いが染みついた病院の待合室に、彼はいた。つるりとした素材のソファに背中を預けたまま、うたた寝をしていたらしい。

 

 この病院には重傷を負った雄英生が運び込まれ、治療を受けていた。彼は鷹揚な動作で体を起こし、包帯の巻かれた掌を見下ろした。目の前で泥と化し、崩れ去って行く友人の姿を思い出し、彼は指先が白くなるほど強く手を握り締める。――過去の事を悔いても仕方がないとは理解している。だが、気が狂いそうだった。

 

 自分がこうしてのんびりとソファに腰掛け、友人達の面会時間を待っている間にも、二人は敵に酷い目に遭わされているかもしれない。ホークスの手で鳴羽田の病院に搬送された時の杳は、一時、集中治療室に運び込まれるほど危うい状態だった。また同じ、いやそれ以上の事態になったら――

 

「人使。話がある」

 

 刹那、見知った友人の声が降って来て、彼は思わず顔を上げた。悲壮な決意に燃えた眼差しで、焦凍がこちらを見つめている。その後ろには、同じく思いつめた表情をした切島の姿もあった。

 

()()()()()()()()。おまえも来るだろ?」 

 

 ――その言葉を聞いた時、人使の心が震えた。今まで学んできた社会のルールやヒーローとしての矜持は、跡形もなく吹き飛んだ。何もない真っ白な世界の中に、口元をケチャップだらけにした杳が恥ずかしそうに笑っている。彼は幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。焦凍と人使、それぞれの持つ鞄の先で、お揃いのキーホルダーが揺れている。

 

 

 

 

 その頃、神野区のアジトでは。廊下の奥から見知った低い怒声が飛んできて、杳は反射的に肩を竦めた。演習試験で軽くトラウマになるほどにたっぷりと浴びたあの声、忘れるはずがない。――()()()()だ。杳の心臓が不規則な鼓動を打ち始める。彼女はトゥワイスの制止を振り切り、転げ落ちるようにして廊下に飛び出した。

 

 しかしその行く手を阻むように現れたのは、敵連合の親玉・死柄木だった。杳の足はたまらず急ブレーキをかけ、緊急停止する。

 

「久しぶりだな。元気だったか?」

 

 まるで旧知の間柄であるかのように、親しみを込めて死柄木は笑った。言葉に窮し、杳は彼の視線から逃れて、その先に目を凝らす。廊下の壁には、等間隔にドアが並んでいた。そのどれかに爆豪が閉じ込められているのだ。ここでのんびりと、その場しのぎの対応をしている場合ではない。だが、そんな彼女の気持ちを意にも介さず、死柄木は芝居がかった動作で腹を擦り、こう言った。

 

「腹が減ったな。昨日の晩から何も食ってなくてさ。一緒に食わないか?」

「……は?」

 

 思いも寄らぬ提案に、杳は素っ頓狂な声を上げた。友人と一緒に人質に取られているこの緊迫した状況で、敵の親玉と食事?そんな事、出来る訳がない。杳は臨戦態勢を取ると、勇気を振り絞って口を開いた。

 

「あの。そんな事はでk――」

()()()()()()()。人質の命が大事ならな」

 

 死柄木は諭すような口振りでそう応えた。まるで間違った解を黒板に記そうとする生徒をやんわりと牽制し、正しい答えを示す教師のように。にわかに彼の後方が靄がかり、漆黒の霧が結集した。金色の双眸がすうっと細められ、杳を射抜く。

 

「それに、この状況で暴れて何とかなるかどうか、分からないほど馬鹿じゃないだろ?雄英生」

 

 ”自分の置かれた立場をよく考えて行動しろ”と、死柄木は仄めかしていた。――ワープの個性を持つ敵、黒霧。彼に捕まらず、この狭い通路を突破する事は不可能だ。もし一旦部屋に逃げ込んで通気口へ逃れたとしても、その間に爆豪が害される。杳は観念したように俯き、こくりと頷いた。

 

 部屋に戻ると、固唾を飲んで様子を見守っていたトゥワイスが、死柄木に話しかけた。大袈裟な身振り手振りで杳と自らとを指差し、逼迫した声を絞り出す。

 

「あのよ、死柄木。こいつは……」

「トゥワイス。席を外せ」

 

 死柄木は穏やかな、だが有無を言わせない声音でそう命じた。トゥワイスは何度も何度も杳を振り返りながら、名残惜しそうな様子で部屋を出て行く。

 

 杳はトゥワイスがいなくなった事により、一抹の寂しさを感じていた。まだ何も知らず、鳴羽田でのんきにお茶をしていたあの頃とは、もう何もかもが違うのだ。だがそんな彼女の心境など気にもせず、黒霧はワープの個性を使い、手際よく食事の準備を進めていく。拘束椅子は片付けられ、大きなラグの上にクッションが二つと、木製のローテーブルが設置された。そしてテーブルの上には、美味しそうな湯気を立てる中華料理の数々が並べられる。最後に二人分の食器を用意すると、黒霧は恭しく一礼して、その場から姿を消した。

 

 

 

 

 そうして、二人の奇妙な食事が始まった。――実はこれは”相手と共に食事をする”という基礎的な交渉術に則しているのと同時に、鳴羽田でお茶をする羽目になった事に対する、死柄木からの()()()()でもあった。だが、単純な杳がそれに気づく事はない。作り立ての料理の匂いは、半日何も口にしていなかった杳の食欲を、嫌が応にもかき立てる。杳は心中で爆豪に謝ってから、手を合わせた。

 

 死柄木は小指だけを浮かせた奇妙な箸さばきで、料理を口に運んでいた。飲み食いする様子を見るだけで、人は知らずに緊張の糸を解き、相手にある種の親しみを覚えるケースがある。当たり前だが、敵だって人間、食事を摂るのだ。死柄木がぎょうざを何も付けずに食べているのを見て、杳はつい口を出した。

 

「つけだれに付けないんですか?」

「……?」

「あ、こういうのです」

 

 不思議そうな目でこちらを見つめる死柄木に、杳は自分の小皿を差し出した。中には醤油とラー油、酢が入っている。食の好みは人それぞれだろうが、杳の周りは押しなべて、つけだれに付けて点心を食する人が多かった。死柄木は二個目のぎょうざを箸で摘まむと、それを小皿のたれに付け、口に放り込んだ。

 

「……」

 

 死柄木は口内のものを嚥下した後、杳に空っぽの小皿を手渡した。”自分の分のつけだれを創れ”という事らしい。どうやら彼はその存在自体を知らなかったようだ。たれの調合をしている杳の姿は、食事をする前よりも雰囲気が和らいでいた。その事実を確認すると同時に、死柄木は交渉を開始した。

 

「この社会に()()()()()()()はいると思うか?」

 

 杳が差し出した小皿を受け取りつつ、死柄木は静かに切り出した。何と答えていいか分からず、杳は沈黙する。本物のヒーローの定義は人それぞれであるからだ。この問いは保須事件以降、メディアやSNS等で良く目や耳にするフレーズだった。”守るという行為に対価が発生した時点で、ヒーローはヒーローでなくなった”――ステインの”英雄回帰”の一節からヒントを得て、創られたものだ。

 

「遠い昔、ヒーローは自由な存在だった。だがそれが公務として認められた瞬間、社会はおかしくなった」

 

 小さな子供に昔話を聴かせるように穏やかな声で、死柄木は話し続けた。蒸器の中から立ち昇る湯気が、徐々に薄くなり、消えていく。

 

「人の命を金や自己顕示に変換する異様。それをルールでギチギチと守る社会。敵に屈したヒーローを励ますどころか責め立てる国民――」

「でも。それで平和が保たれていたというのも事実です」

 

 耐え切れず、杳は口を挟んだ。確かに現状に疑問を呈する人々は多い。かくいう自分自身もその一人だ。そもそもヒーローや個性という主題に関係なく、自分を取り巻く今の世界に不満や疑問を抱かない人はいないだろうし、一度タガを緩めてしまえば、世の中は再び無法地帯に戻ってしまう。そうしないためにヒーローは拳を振るうのだ。

 

()()()()()のな」

 

 死柄木は引っかかる物言いをした。つけだれにシューマイを浸し、ゆっくりと口に運ぶ。

 

「今のヒーロー社会が守れるのは、ルールに従える人間だけ。他は切り捨てられる。本当に困っているのは後者の方だってのに、奴らは見て見ない振りだ。救うと法に触れるし、金や名誉にもならないからな」

「そ、そんなこと……」

「お前も、鳴羽田で見てきたはずだ」

 

 錆びた血のように赤く濁った双眸と、ぼんやりとした輝きを放つ灰色の双眸が、ほんの一瞬、拮抗する。負けたのは、()の方だった。

 

「理解しがたい特殊な性癖を持つ者、人を救ったのに犯罪者扱いされてブタ箱にぶち込まれた連中、見た目のせいでまともな仕事にありつけない奴……そういう、社会のルールに従いたくてもできなくて、生きていく事もままならない連中の事を」

 

(些細なきっかけがあったり、誰かに巻き込まれたり、そういう生き方しかできなくて、仕方なく敵になったって人もいる)

 

 ”Hopper's Cafe”で航一がくれた言葉が、死柄木の声に重なる。杳の表情は苦々しげに歪んでいった。――確かに今の社会は、本当の意味での弱者に厳しくできている。そんな彼らを救おうと日々航一は奮闘しているが、その行動が社会に評価される事は決してない。

 

 人々はオールマイトのように華々しく敵を高速制圧するような者をこそ、高く評価するからだ。出た杭に寄り添い、”自らの意志で引っ込むように”と時間をかけて説得するよりも、有無を言わせず打ちのめす方が――刹那的ではあるが――早く平和を実感できる。杳の茶碗に中国茶を淹れてやりながら、死柄木は言葉を続けた。

 

「今まで強引な手段を取った事は謝るよ。だけど、俺達は敵じゃないって事を分かってくれ。言葉だけじゃ民衆は動かない。それはステインが身をもって教えてくれた事だ。

 ……俺達の戦いは問い。ヒーローとは正義とは何なのか、この社会が本当に正しいのか、一人一人に考えてもらう。俺達は勝つつもりだ。そしてそれには仲間がいる。爆豪くんのように強い人間や、お前のような優しい人間が」

 

 その甘言は、地中に埋まるほどに低い杳の自尊心を巧みにくすぐった。

 

「俺はお前こそが、本当のヒーローだと思ってる。お前は敵だと分かっていながら、トゥワイスを救けてくれた。……そして、俺も」

 

 そう言うと、死柄木はパーカーの首元をくつろげた。ガサガサに乾燥して荒れ果て、無数の搔き壊しがあったはずのその首筋は今、幾分か症状が和らいでいるように見える。死柄木はポケットから小さなクリームジャーを取り出すと、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。

 

「お前があの時くれた薬、今でも使ってるよ。ありがとな」

「…………」

 

 杳の心中は今、様々な想いがぶつかり合い、嵐のように荒れ狂っていた。ガラガラと歯の根に響くほどに大きな音を立てて、何かが崩れ去っていく。自分の信じていたものが、芽生えたばかりの幼い自我が、ひび割れて壊れていこうとする音だ。

 

 人使や焦凍と交わした淡い約束を、トゥワイスの泣き顔が塗り潰す。航一や和歩と一緒に駆け抜けた日々を、死柄木が嘲笑っている。”敵の言葉に惑わされるな”と戒める相澤の幻聴を、”Hopper's Cafe”のスタッフ達が上げる、朗らかな笑い声が掻き消していく。おすしの鳴き声。眼球が泳ぐ。緑谷と爆豪に対して、自分はなんと啖呵を切ったっけ?……そうだ、私は人使達に追いつきたくて。クロウラーのようなヒーローになりたくて……コーイチさんならどうする?心臓の鼓動がどんどん早くなる。呼吸が荒くなっていく。敵を救ける?敵を――

 

 ――その瞬間、目の前に、息も絶え絶えになった()()()()姿()が思い浮かんだ。自分が救けられなかった人。涙を流し、必死に手を伸ばして助けを求めている。冷たくかじかんで震える手を握り締めると、杳はなけなしの勇気を振り絞り、問い掛けた。

 

「本当に弱い者を救けるのが目的なら、あなたはどうしてロックを殺したんですか?」

 

 刹那、空気が()()()()()()()()。周囲の壁や天井が迫って来るような閉塞感が、辺り一帯を支配する。世界が急速に色褪せていく。何もない暗がりの奥に、陰鬱で狂気じみた灼眼だけが浮かんでいた。どうやら杳は、死柄木の逆鱗に触れてしまったらしい。彼から放たれる殺気に気圧されて、杳は息をする事すらできずにその場に固まった。

 

 しかし、それは一瞬の事だった。瞬きしたとたん、死柄木は白けたように肩を竦めると、視線を逸らした。

 

「あいつがお前を殺そうとしたからだ」

「ち、違います。ロックは私に――」

「殺そうとしてた。……怖かったんだ」

 

 杳の言葉を遮ると、死柄木はやおら俯いて顔を片手で覆い隠した。にわかに呼吸が浅く、早くなっていく。――パニック発作を起こしている。杳は慌てて席を立ち、テーブルを回り込むと、彼の傍らに座った。数ヶ月振りに撫でた背中は、相変わらず痩せ細り、骨がうっすらと浮き出ている。死柄木は縋るように杳に身を寄せた。まるで自分も本当の弱者だと、ヒーローが本来守るべき存在なのだと言うように。

 

「ずっと苦しいんだ。俺の行動が間違ってるって言うなら、お前が傍にいて直してくれよ。今まで、誰も教えてくれなかった。ヒーローですら、誰一人、救けてくれなかったんだ。

 ……だけど、お前は違う。特別だ。なあ、頼む。見捨てないでくれ。俺達のヒーローになってくれよ」

 

 情に訴えかけるような悲しい声音とは裏腹に、白髪に隠された死柄木の顔は、ゾッとするほど軽薄な笑みを浮かべていた。――感謝するよ、クロウラー。あんたのおかげだ。こいつはもうじき、ここに墜ちる。死柄木は付け入る隙をたっぷりと与えてくれた新米ヒーローに、心から感謝した。

 

 

 

 

 あれからしばらくして死柄木が去った後、黒霧が現れて、寝床と着替えの準備をしてくれた。細々とした日用品の中に混じっていたデジタル時計は、深夜0時を差している。けれど、杳は全く眠れる気がしなかった。ベッドの淵に腰掛けたまま、彼女はまんじりともせず、虚空をじっと眺めていた。

 

 色々と考える事が多すぎた。――爆豪の安否、林間合宿襲撃事件の顛末、そして死柄木達への想いの変化。日用品の中にはテレビやラジオ、スマートフォンといった外と繋がるような道具は含まれていない。杳は力なくうな垂れた。敵になるつもりはない。だが、彼らを見捨てる事もできそうになかった。

 

 その時、コンコンと控えめなノック音がして、杳は急いで顔を上げた。扉越しに穏やかな声が聴こえて来る。

 

「夜分に申し訳ありません。黒霧です。今、宜しいですか?」

「は、はい。どうぞ」

 

 杳が小さくそう応えると、静かにドアが開いた。黒霧は恭しく一礼し、中に入る。彼はベッドの前まで来ると、上品な動作でひざまずいて目線を合わせた。金色の目がふわりと揺らぎ、まるで労わっているかのように優しい輝きを帯びる。

 

「部屋の電気が付いていたのを見かけ、立ち寄らせて頂きました。……眠れませんか」

 

 黒霧の気遣いが、疲れ切った杳の心に染み入っていく。敵が眼前にいるというのに、杳は不思議と警戒する気持にならなかった。もう一つの想いもあったが、それはまだ彼女自身が自覚していないものだった。素直にこくんと頷く杳を見て、黒霧は少し考えるような素振りを見せた。しばらくして、彼はこんな提案を投げかける。

 

「では、貴方の気が紛れるまで、夜の散歩はいかがでしょう?」

 

 

 

 

 黒霧が創り出したワープゲートをくぐると、そこは小高い丘の上だった。周囲は深々とした山脈に囲まれ、人家の灯りは見当たらない。ふわりと良い芳香が鼻腔を掠め、目線を下げた杳は思わず声を上げた。

 

 辺り一帯に広がる、黒々とした草原のあちこちに、()()()()が咲いている。天上から神様が金平糖をばら撒いたかのように、それらは至る所で花開き、月の光を受けて、美しく星形に輝いていた。どこか遠くの方で、水の流れるさらさらという心地良い音もする。幻想的な光景に見入っている杳の傍らに立つと、黒霧は静かに言った。

 

「もう少し時期が早ければ、蛍も見れますよ。来年は死柄木弔も一緒に」

 

 ”死柄木弔”という言葉で、杳の意識は一気に現実へ引き戻された。渋い顔をする杳を優しく促して、黒霧は見晴らしの良い場所にカーペットを敷くと、そこに座らせた。

 

 それから黒霧は、杳にとって有用な情報を与えてくれた。小型タブレットを出し、アジトの一室にいる爆豪のLive映像を見せてくれたのだ。彼は簡素なベッドに転がされ、眠っているようだった。杳は必死に目を凝らし、その腹部がきちんと上下している、つまり生きている事を確認し、額に浮かんだ汗を拭った。――必ず助けるからね。待ってて、爆豪くん。爆豪が聴いたら”余計なお世話だ”と大激怒しそうな事を、杳が真摯に画面越しの彼へ語り掛けていると、黒霧が静かな声で補足する。

 

「投与している睡眠薬は効果の強いものですが、副作用や多用する事でのデメリットはありません。ご安心ください」

「……あの。彼を解放する事はできないのでしょうか」

 

 黒霧は黙して、何も語らなかった。代わりに彼は、林間合宿での襲撃事件の顛末を簡潔に教えてくれた。命に関わるような重傷者や死者はいないという事を聞き、杳はひとまず安堵の溜息を零した。

 

 なんとも不思議な事だが、黒霧の言葉には()()()()()があった。口から出まかせを言っているかもしれないのに、杳は彼の言葉を真実だと確信できた。そういえばUSJ襲撃事件の時も(ヴィラン)という感じがしなかったし、遠い昔に会った事があるような気さえする。奇妙な既視感を覚えて、杳は小さく首を傾げ、記憶の糸を辿ろうと試みた。

 

 ――実はそれは、杳と黒霧の持つ個性が()()()()起きている現象だった。お互いに、肉体を細分化して操作する力を有する二人は、()()()()()()()を持つ。外見も声も性格も、何もかもが正反対の兄の姿を杳が完璧に演じきれていたのも、黒霧が曲者揃いの敵連合を取りまとめる”陰の立役者”となっていられるのも、それのおかげだった。二人は無意識の内に、遠い昔に失われた絆の残り香を感じ取り、不思議な親近感を覚えていたのだった。

 

「どうぞ、苺のフレーバーティーです。カフェインは抜いてあります」

 

 砕いた氷の奏でる涼やかな音が目の前で弾け、杳はハッと我に返った。金色の液体と氷で満たされたグラスを、黒霧が差し出している。グラスの淵には大きな苺が一粒、差してあった。甘酸っぱい香りがふわりと鼻を掠める。――苺も冷たい飲み物も、自分の好物だ。杳は素直に喜んだ。

 

「ありがとうございます。苺、好きなんです」

「それは良かった。なんとなく、貴方がそれが好きかと思いまして」

 

 黒霧は金色の目を細め、笑った――ように、杳には見えた。杳が苺に齧りつく様を、黒霧は愛おしそうに見守っている。ふと気になって、彼女は口を開いた。

 

「黒霧さんは飲まないんですか?」

 

 ――そんな事を訊かれたのは、黒霧にとって初めてだった。彼の体を取り巻く靄が、狼狽えたように揺らいだその時、感覚器官を濃厚な苺の香りが支配した。目の前にあるものではなく、()()()()()()の匂いだ。彼が訝しむより早く、それは幻のように立ち消えた。彼は上品な動作で、靄がかった手を自らの胸に添える。

 

「私に食事は必要ありません。胃に似た器官は備えてあるので、真似事ならできますが……」

「じゃあ、一緒に飲みたいです」

 

 杳は甘えるような声でそんな事を言った自分にびっくりした。だが、それは紛れもない()()()()()だった。不思議そうに首を傾げる少女を見ても、黒霧は咎める事なく、二つ目のグラスを呼び寄せる。

 

 そうしてしばらくの間、二人の間に、敵と人質の関係とは思えないほどに穏やかな時間が流れた。時折、吹き付ける風が草原を凪いでいく音と、お茶を飲む音だけが周囲を支配する。それらが途切れた時、黒霧が静かに口火を切った。

 

「白雲杳。死柄木弔の傍にいてくれませんか。彼には貴方が必要だ」

 

 それは、まるで哀願するような声だった。黒霧にとって、死柄木は主人であるのと同時に、自分の子供のように愛おしい存在だった。その声の端々に、彼に対する惜しみない愛情が滲み出ている。

 

(ヴィラン)になる必要はありません。ただ傍にいるだけで充分です。それだけで、彼は救われる」

 

 死柄木はこの少女と出会ってから変わったと、黒霧は思う。数ヶ月前、鳴羽田から帰って来た彼の顔は、いつもと様子が異なっていた。目の奥に、苛立ちや狂気だけではない()()()()があった。少女と会った日は、体をかく頻度が少なくなった。それに何より――どんな企みがあったにせよ――他人と食卓を囲みたいと言ったのは、初めてだった。こっそりと様子を見守っていたが、あんなに楽しそうに会話をし、よく食べた事も今までにない。ずっと彼に仕えてきた黒霧にとって、そういった心境の変化は喜ばしいものであった。

 

 ()()()の意志を継ぎ、いずれ大事を成す存在となる彼には、仲間だけでなく()()も必要だ。黒霧にとって白雲杳は、あの人間嫌いの主が珍しく気に入った”貴重な人材”だった。だが、そんな思いは露知らず、彼女は憂いを帯びた目を伏せると、静かな声を闇の中に放り出した。

 

「救われるというなら。死柄木、さんも、他の人も皆、逮捕されるべきだと思います」

 

(俺は話し合いが好きだけど、力を使う事でしか救えない人もいる。そういう人を救うために、それ以上罪を犯すのを止めるために、俺達は力を使うんだ)

 

 病室で航一から聴いた言葉が、消毒薬の匂いと共に思い起こされる。敵の誰もが、分かりやすい()()ばかりじゃない。心の病に冒されていたり、やむにやまない事情があったりして、凶行を止められない人達もいるのだ。ヒーローが投げかけた声が耳に届く前に、彼らは多くの人々に害をなす。だから、力尽くで止めなければならない時もある。結果的にそれが、敵を救う事にも繋がるのだ。

 

 ――仮に自分が仲間になったとして、死柄木を言葉で止められる筈がない事は分かっている。彼を本当の意味で救うには、法の目の行き届く場所へ連れて行くしかない。その答えを聴いた黒霧は、先程とは打って変わった冷たい声でこう言い放った。

 

「死刑になる事が、救われると?生涯、檻の中に囚われる事が救いだと仰るのですか?

 今の社会は、哀れな境遇に置かれていた彼の身の上を興味本位で取り上げる事はあれど、情状酌量までする事はないでしょう」

「でも。これ以上、人を殺したり、傷つけずに済みます」

「ヒーローらしい考えですね。面識もない、見ず知らずの人々の安全にまで気を配る。博愛的な考えだ。……だが、同時に浅はかでもある」

 

 にわかに金色の双眸が、獲物に狙いを定める肉食獣のように細められ、杳を射抜いた。喉元に喰らいつく、一瞬の隙を探し当てるために。

 

「常々不思議に思っていました。貴方は何故、ヒーローを目指すのです?」

「兄がヒーローを志していたからです」

 

 一切の迷いのない声で、杳は応えた。――そう、最初は兄の真似だった。だけど、今は違う。()()()()だ。心に浮かんだ声をそのまま言葉に変えて、黒い靄の奥へぶつける。

 

「最初は兄の真似から始まりましたが、今は自分の夢です」

「……自分の夢。本当に?」

 

 黒霧は疑わしいものを見るような目で、杳を見下ろした。その奥に不穏な思惑を感じて、彼女の心は大いにざわめく。目の前の獲物が足を止めた――その刹那を逃さず、黒霧は()()()()を放った。

 

「ヒーローは貴方の兄を救わなかったというのに」

 

 ――それは、闇の中で砕けた鏡の欠片へ変わり、杳の心臓に突き刺さった。心が捩じれて、歪んでいく。グラスの中の氷が融けてぶつかり合い、からりと音を立てた。ガラスの表面に浮かんだ雫が零れ落ち、カーペットに染みを作る。その様を茫然と見下ろしながら、杳は全く別の事を考えていた。

 

 何度か見た、()()()の続き。蝉の声。菊の花の香り。思い出した。あのヒーローは確か、パープルさんだ。なんで今まで忘れてたんだろう。お兄ちゃんが”インターン先が決まった”って喜んでいたっけ。それで、それで、あの後……。

 

 凍り付いたように動きを止めた少女を眺め、黒霧は心中で呟いた。彼女の自我は瓦解しつつある。首尾は上々です、死柄木弔。それに――

 

 ――愛する妹と共にいられるなら貴方も本望でしょう、と。無論、白雲朧からの返事はない。魂や心など、非科学的なものは存在しない。そんなものが存在していたら今頃、朧の幽霊が化けて出ているはずからだ。

 

 ”十三年もの間、自分を殺して亡き兄の模倣をする”、明らかに正気の沙汰ではない。だが、白雲杳は迷わずそれを選択した。それほどの強い絆が、二人の間にあったと言う事だ。通常であれば荼毘に付されて二度と会えないところを、あの方の慈悲で――()()()()ではあるが――再びこの世に生まれる事ができた。”死で分かたれた二人が奇跡の再会を果たす”、これはまさに幸福と呼べる事なのではないだろうか。

 

「……ッ?!」

 

 次の瞬間、()()()()()()が黒霧を襲った。まるで核の内側を鋭い爪で引っ掻かれたような激痛が全身を走り回り、次いでグラグラと煮え立つ油を体内に注ぎ込まれたかのような感情の昂りが、拷問のように彼を責め立てる。

 

 ――それは、凄まじい()()()()()だった。そしてそれは、()()()()()向けられていた。

 

 どこか遠くの方で、誰かが感情のままに怒鳴り散らす声が聴こえた。何を言っているかは聴き取れないが、()()に対して罵詈雑言を並べ立てているという事だけは理解できる。興味をそそられた黒霧が、体内で起きている不可思議な現象を観察していると、すぐ傍で優しい声が聴こえた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 杳が心配そうに眉尻を下げて、こちらを覗き込んでいる。そのとたん、黒霧の心中を吹き荒れていた現象の全ては消え去った。彼はゆっくりと居住まいを正すと、彼女に微笑みかける。

 

「すみません。少し考え事をしていました。……そろそろ帰りましょうか」

 

 黒霧は恭しく少女の手を取ると、創り出したワープゲートの中へ連れて行く。杳は沈んだ表情でゲートをくぐる。その顔は完全に血の気が引いていた。――先程の黒霧の言葉は、杳がヒーローを志す以上、遅かれ早かれ立ち向かわなければならないものだった。だが、頼りになるヒーローや友人達に支えられた状態ならいざ知らず、敵の巣窟で一人、孤独な戦いができるほど、彼女の精神は成長し切っていなかった。冷酷な氷の王に魅入られて、彼女はその根城へ一歩ずつ、歩みを進めていく。



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No.35 敵連合③

≪アレンジ登場人物紹介≫
●胡蝶 夢路(こちょう ゆめじ)
マグネの幼馴染。ヒロアカ本編では、マグネとのツーショット写真に映った姿だけ登場している。髪を二つくくりにした男性。
※姿以外(名前など)の情報は作者のねつ造です。ややこしくてすみません…。

≪オリジナル登場人物紹介≫
●胡蝶 望(こちょう のぞむ)
夢路の弟。芸能人を目指していた。故人。


 翌朝、杳はベッドからむっくりと起き上がった。体が重くて力が入らず、何もする気になれない。あまり良い目覚めとは言えなかった。腫れぼったい目を擦りながらサイドテーブルを見ると、そこにはガラスの花瓶が置かれており、中には黄色い水仙が活けられていた。

 

(ヒーローは貴方の兄を救わなかったというのに)

 

 昨晩の記憶と共に、黒霧が言い放った()()()()を思い出し、杳は気分が沈んでいくのを感じた。恐らく彼が摘んでくれたのだろう。親切にしてくれているが、やはり彼は(ヴィラン)なのだと思わざるを得なかった。そして自分は囚われの身。その事に変わりはない。

 

 小さなラッパのような形をした愛らしい花々から目をそむけると、杳はベッドから立ち上がった。中央のテーブルには、簡単な朝食の準備がされている。杳がテーブルの前に座り、皿に掛けられたラップを剥がしていると、突然騒々しい足音が近づいて来て、ドアが勢いよく開け放たれた。

 

 ――ドアの前には、一人の少女が立っていた。ここまで全速力で走って来たのか頬は上気し、くたびれたセーラー服の胸部は激しく上下している。猫のように吊り上がった金色の目が、茫然としたままの杳を射抜く。そのとたん、少女は弾けるような笑顔を見せ、なんとこちらへ向かって突進してきた。

 

「杳ちゃん杳ちゃん杳ちゃああああん!会いたかったのです!」

「うわあっ!」

 

 そして、二人はぶつかり合うコマのように激突した。パワー負けして床に転がった杳の上に、セーラー服の少女が覆い被さる。反抗させないため、杳の首元にナイフを押し当てながら、少女は無邪気な声で自己紹介した。

 

「渡我被身子です!トガって呼んでね!」

「は、はい」

「仲良くしようね!」

「は、はい」

「やったあああ!」

 

 ただただ圧倒された杳が、蚊の鳴くような声で肯定している内に、二人の友情は確立された。トガは底抜けに明るい歓声を上げると、グワッと大きく口を開け――なんと杳の肩口に景気良くかぶり付いた。

 

「いだあああっ?!」

 

 サメのように鋭く尖ったトガの歯は、少し力を入れるだけで薄い皮膚を食い破り、内部へ到達した。トガは恍惚とした表情を浮かべ、溢れ出る血を旨そうにすすり始める。数瞬後、遅れてやってきた激痛と共に、杳の危機管理能力が大音量のアラートを発した。――このままでは食い殺される!

 

「うわあああっ!」

 

 我が身を守るため、杳は渾身の力でトガを突き飛ばした。バックステップを踏んで壁際まで退避し、血を流す傷口を氷雪で固めて止血する。一方のトガはぺたんと尻餅をつき、ひどく傷ついたような目でこちらを見つめていた。血塗れの唇を悲しそうに震わせながら、彼女は切ない声音で訴えかける。

 

「杳ちゃん。ひどい……。なんで、そんなことするの?」

「いやこっちのセリフぅ!」

 

 杳は光の速さで突っ込んだ。さっきまで自分の心を支配していた嫌な感情は、もう銀河系の彼方へ吹き飛んでいた。――刹那、押し殺した笑い声が上から振って来て、二人は顔を上げる。ドアの淵に寄りかかるようにして、一人の男性が立っていた。屈強な体躯から漂う雰囲気は、しっとりしていてたおやかだ。サングラスを外して(まなじり)に浮かんだ涙を拭うと、彼は笑みを含んだ声でこう言った。

 

「ごめんなさい。あんたたちの行動が漫才みたいだったから、おかしくって」

 

 ”どこが漫才やねん”と、杳は心中で突っ込んだ。危うくこっちは食い殺されるところだったというのに。負傷中の杳ではなくトガの頭を優しく撫でて労わってやりながら、男はマグネと名乗った。マグネはトガの隣に座ると、テーブルの中央に置かれた紙カップを三つ並べ、コーヒーを注ぎ入れていく。どうやら、彼女はこのまま三人でお茶をするつもりらしい。

 

 杳は一刻も早くお帰り願いたかった。傷口はひどく痛むし、トガは飢えた獣のような目でこちら――というより真っ赤に染まった杳の肩――を見つめている。両軍、川ならぬ、テーブルを挟んで、長らく睨み合っていると、マグネが静かに口を開いた。

 

「その子の事、嫌いにならないであげて。悪気はないのよ。()()が愛情表現なの」

「きゅ、吸血が……愛情表現?」

 

 ――”吸血”。日常生活ではなかなか耳にする事のない単語が頭の中でクルリと宙返りして、杳は首を傾げた。その時、彼女の脳裏にふと航一との出来事がよぎった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(人の()()は尊重するべきだと思うんだよね、俺は)

 

 それは職場体験4日目、疾風怒涛の三兄弟の役割療法を終えた時の事だった。妙にかしこまった態度で警察を送り出した後、航一は無造作にそう言い放つ。――”性癖”。いきなり何を言い出すんだ、この人は。杳は思わずぎょっとして師匠を仰ぎ見るが、彼の顔は至って真剣だった。

 

(性癖、ですか?)

(そう。あ、イヤらしい意味じゃないよ?)

 

 航一は慌てふためいて、杳――というよりはインカムに向かって弁解した。イヤホン越しに和歩が発した()()()()を感じ取ったのだろう。冷や汗を拭う仕草をすると、航一は噛んで含めるような優しい声で会話を再開する。

 

(”ありのままの自分”として生きるのに、必要な考え方や行動のクセ……って言ったら分かりやすい?たとえば、そうだなぁ。ケチとかコレクター、姉御肌とか。ヨウちゃんだと人の真似をする事だよね)

(は、はい……)

 

 本来、性癖とは人間の心理・行動上に現出する癖や偏りの事を示す。だが、いつしかその言葉は、性的な行為の際に現れる癖・嗜好を表すものとしても用いられるようになった。性癖を後者の意味合いで捉えていた杳は、恥じらうあまり、穴があったら入りたいような気持ちになった。すっきりと晴れ渡った顔で路地裏へ消えていく三兄弟を見送りつつ、航一は肩を竦めてみせた。

 

(大体の人の性癖は、普通だよ。だけど一部の人は、犯罪に直結してしまう場合がある。そういう時は、あの人達みたいに折り合いをつけていく必要があるんだ)

(……役割療法とかですか?)

(そうそう。まあ、妥協点を見つけるのが大変だけどね。我慢し過ぎてもその人が辛いだけだし、反対にこっちが譲歩し過ぎても犯罪になっちゃうし)

 

 航一は苦笑いすると、ウサギ耳の付いたフードを被り直した。その奥に二つ並んだ目は、しっかりとした力強い輝きを帯びている。きっとあの三兄弟の折衷案を導き出すのにも、相当苦労を重ねたのだろう。

 

(大切なのは、その人の話を聴いてあげる事かな。特殊な性癖を持ってる人は、人から理解されずに寂しい思いをしてる場合が多いからね。せめて俺達(ヒーロー)くらいは、ちゃんと聴いてあげないと)

(まあ、ほとんどの場合はすぐ妥協点なんて見つからないし、ホントに聴くだけになっちゃうけどね)

 

 インカム越しに和歩が茶々を入れる。航一はムキになって唇を尖らせつつ、ポケットからスマートフォンを取り出した。慣れた様子で画面を操作し、杳に差し出す。

 

(その情報が大事なんだよ。俺達じゃ無理でも、他の人だったら解決できるかもしれないでしょ?……ホラ。たとえばこういうお店とかね)

(おお……)

(ちょっとコーイチ?)

 

 そこには、鳴羽田界隈の遊興店や非営利団体が、ずらりとリストアップされていた。電話番号などの基本的な情報のみならず、それぞれが取り扱っているサービスやテーマについても事細かに記載されている。多感なお年頃である杳は、いけない事とは知りながらも興味津々で覗いてみて、首を捻った。

 

 ――どのお店や団体も、本当に需要があるのかと疑わしくなるほど、奇妙な題材ばかり取り扱っている。石を愛でる会、スライムとお喋りするサービス、傷口を眺める会、体に虫を這わせるサービス、ファイトクラブ、階段から蹴落とすサービス……etc。”異性の客を接待する”といったような、ありがちな内容はほとんどなかった。

 

(変わってるでしょ。俺もそう思う)

 

 航一のきさくな声がして、杳は慌てて顔を上げた。スマートフォンを取り上げてポケットにしまうと、彼は無造作に腕を組み、しみじみと感じ入ったように言葉を続けた。

 

(でも、それが普通だっていう人もいるんだ。世の中には、色んな人がいるもんだねー)

 

 その声には、軽蔑や畏怖、無関心といったマイナスな感情は一切、含まれていなかった。ただ、あるがままを受け入れようとする――水のように柔軟な心だけを、杳ははっきりと感じ取った。

 

 

 

 

 壁を背にして座り込んだまま、突如としてヌイグルミのように動かなくなった杳の姿を、トガは恍惚とした表情で見つめていた。

 

 ほとんどの人々の愛情を表現する方法は、だいたい同じか似たようなものだ。優しく触れ合ったり、キスやハグをしたり、特別な言葉を交わしたり……etc。しかしトガにとって、それらの行動はどれもピンと来ないものばかりだった。彼女が愛を伝える方法はただ一つ、()()()()()だったからだ。

 

 個性と性癖は、時として密接に関係しあうケースがある。”血を飲み変身する”――生まれ持ったその個性の影響で、トガは血に強い関心を示すようになった。そしていつしか好きなもの、憧れているものに対して、吸血という愛情表現を取るようになった。――吸血行為は、一般的な愛情表現に当てはまらない。トガは異端な存在になった。誰も理解を示そうとしない。家族すらも、彼女を見放した。皆、ひどく怯えた顔をして、化け物を見るような寒々しい視線を突き刺していく。

 

(その不気味な笑顔をやめなさい!なんで普通にできないの?)

 

 トガにとっての普通は、皆にとっての普通ではなかった。彼女は何も悪くない。生まれ持った個性が悪かっただけだ。親を恨んでも良かったのに、彼女はそうしなかった。本当の自分を隠し、世界に適応しようと努力した。

 

 しかし、それは長く続かなかった。ライオンがガゼルの群れに紛れ、草だけ食べて生きようとするようなものだ。すぐに()()()()()がやってくる。かくして、トガは(ヴィラン)になった。ゴミと悪意に塗れた、危険な闇の世界は、彼女にとって居心地が良かった。息が詰まるほど清潔で優しい表の世界よりも、ずっとずっと素敵だった。

 

 ”愛を注ぐ”、つまり吸血するには、相手を傷つけなければならない。たとえ相手がすでに怪我を負っていたとしても、血をすすろうとすれば警戒される。当たり前の事だ。そんな中、彼女の脳内で()()()()()が生まれた。

 

 ――それは、自分を拒絶しようとする人や、ボロボロに傷ついた人を愛おしいと思う気持ちだった。歪んだ愛は主の欲望を満たし、人を傷つける事に対する罪悪感から心を守ってくれた。だから彼女は、人が嫌がったり痛がる顔を見ると高揚し、なおのこと嬉しそうにナイフを振るうのだ。

 

 トガは、杳が好きだった。林間合宿で友達になった麗日や蛙吹と同じ、憧れの同年代・同性の友達。だから、もっと仲良くなりたかった。はっきり言えば、血をすすりたかった。牙がうずき、喉の奥がグルルと鳴る。さっき喰らいついた傷痕を抉ったら、お友達はどんなに苦しそうな顔をするだろう。あふれる欲望のままに、トガは音もなく杳の真横に忍び寄り、愛用のナイフに手をかけた。その時――

 

「トガちゃん。ちょっと血ぃ吸ってみてくれない?」

「……え?」

 

 思いも寄らない言葉が杳の口から飛び出して、トガの手はぴたりと止まった。杳はトガの正面に座り直すと、視線を合わせる。やや緊張してはいるが、彼女の表情は至って真剣だった。――”血を吸ってみて”なんて言われたのは、初めてだ。どうしていいか分からなくなって、トガは床にへたり込んだ。どうして彼女は拒絶しないんだろう。怖がらないんだろう。苺のトライフルを突きながら、マグネが呆れたように溜息を零す。

 

「あんたって物好きねえ」

「いや、吸血ってどんな感じなのかなーと思って。さっきはあんまり分からなかったし」

 

 航一の言葉を思い出した杳は再び噛まれる事で、()()()()をしようと決意した。――必要とする血液量、好みのターゲットはどんな年齢層や性別で、そしてどんなシチュエーションでの行為を望むのか。それらの条件によって、対策も異なってくる。適した対策が取れれば、トガは(ヴィラン)でいる必要がなくなる。いつも雄英で鍛えられているから血の気は多いと思うし、体は常人より丈夫な方だと思う。気合を入れるために頬を軽く叩くと、杳はトガを見上げた。

 

「よっし。いつでもいいよ。トガちゃんがいつもしてる感じで」

「あ、……え?」

 

 その時、トガの脳内を()()()()()がとぷんと満たした。それは陽だまりの匂いがして、キラキラと輝いていた。ひどく酔っぱらったように意識がふらついて、何も考えられない。熱に浮かされているように覚束ない仕草で、トガは杳に手を伸ばした。

 

「あ。じゃあ……いき、ます?」

「うん。どうぞ」

 

 杳は大きく腕を伸ばし、トガを受け入れた。二人の双眸が交錯する。なんて穏やかな眼差しなんだろう。こんな風に――まるで()()()()()()()みたいに――見つめ合うのは、本当に久しぶりだった。杳の目の奥には、トガにしか見えない銀色の星がチカチカと瞬いていた。象牙のように白く滑らかな肌に、トガは牙を突き立てる。そうして溢れ出る血を一口、すすった。杳は痛そうに顔をしかめたが、それだけだった。

 

 ――本当は、トガは、誰かにあるがままの自分を受け入れてほしかった。血を吸っても拒まず、恐れず、自分を好きでいてくれる人間を、心のどこかで待ち望んでいた。だが、そんな事あるはずないと、同時に諦めてもいた。親ですら、自分を見放したのだ。

 

 一方の杳は、冷静に状況判断を行っていた。噛まれると痛いけど、我慢できない程じゃない。貧血症状も出ていない。落ち着いた状態で再挑戦してみると、最初は恐怖のヴァンパイア娘にしか見えなかったトガが、なんだか可愛く見えてきた。これくらいなら航一に相談すれば、何とかなるかもしれない。小さな子供を安心させるように、杳はトガの頭をぽんぽんと撫でた。

 

 その瞬間、()()()()()()()()()()()。とても美味しい料理を口にしたり、かけがえのない人と食卓を囲んだりして、心身共に満たされた時、人間はほんの少しの食事で満腹になる。目には見えない”幸せ”というご馳走が心と胃の中に詰め込まれ、いっぱいになってしまうのだ。初めての感覚に戸惑いを覚えながら、トガはゆっくりと口を離す。

 

「もういいの?トガちゃん」

「もういいのです。トガは……トガは、お腹いっぱいなのです」

 

 もしや遠慮しているのだろうかと、杳は注意深くトガの顔を覗き込んだ。だが、彼女が嘘を吐いているような様子はない。これくらいの量ならば、ワイルドな吸い方さえ考え直してもらえれば、何とかなるだろう。杳はホッとして笑った。トガも笑った。それは二人が初めて見せ合った、心底からの笑顔だった。両肩を血塗れにした少女と、口元を血で汚した少女が笑い合っている様子を眺めつつ、マグネは温くなったコーヒーをすする。

 

 

 

 

 物語はどれも、”むかしむかし、あるところに……”という語り出しから始まる。でも、ハッピーエンドで終わるか、バッドエンドで終わるかは、その話次第だ。おとぎ話ならいざ知らず、現実の物語は圧倒的に()()が多い。マグネの知り合いの結末も、多分に漏れず、そうだった。

 

(俺、早く一人前になりたいんだ)

 

 腕の良い彫刻師が創り上げた逸品のように、少年の容姿は整っていた。ただにっこりと笑うだけで、周囲が華やいだ。小鳥がさえずるように美しい声で、彼は嬉しそうに言葉を続ける。

 

(有名になって、いっぱいお金稼いでさ。姉ちゃんに楽させてやりたい)

 

 そう言った少年は数週間後、首を吊った状態で発見された。彼から全部奪った奴は、お咎めなし。世の中はいつだって不条理だ。頭と金と力のある奴が得をする。そうじゃない奴は馬鹿を見る。一方的にしゃぶり尽くされて、死んでいく。宝石のように綺麗だった少年の体は、たった一晩で見るも絶えない姿になった。それにすがりつき、幼馴染がむせび泣く。

 

 そういえば、この幼馴染はいつも泣いてばかりだった。臆病で泣き虫で、自分の世話すらままならないくせに、お節介焼きだった。”○○テレビ著名プロデューサー、敵に殺害”と一面に書かれた新聞を叩き付け、幼馴染は声を震わせて泣き叫ぶ。

 

(あんたが犯罪者になってどうするのよ!望が、そんなこと……ッ)

(あの子は関係ないわ。私は自分のルールに従っただけ)

 

 涙の滲んだ新聞を踏みつけると、マグネは冷徹な声で言い放った。

 

(私の居場所は私が決める。あのクソ野郎は、たまたま私の縄張りを這ってた虫。目障りだから、踏み潰しただけよ)

 

 

 

 

 あの時の少年の目と()()()()を宿して、少女が無邪気に笑う。だがその笑顔が限りあるものである事を、マグネは知っていた。――黒霧に秘められた悍ましい真実を、彼女は仲間と共に聴いたのだ。救いのない物語の中心に据えられた、悲劇の主人公。

 

 別に救けようとは思わない。それはヒーローの仕事だ。敵の出る幕じゃない。一人の観客として、物語の行く末を見守るだけだ。人の獲物に手を出すほど不作法でもないし、悲しい出来事に思わず心を痛めてしまうほどウブでもない。

 

 (ヴィラン)となった、今の人生に後悔はなかった。――けれど。むかしむかしは、あの幼馴染たちと同じ場所で、同じように笑っていたはずなのに。今のマグネには、彼らが遠くかけ離れた場所にいるように思えた。彼女は食べ終わったトライフルの器をわざと乱暴にテーブル上へ放り出す。

 

「……()()()ね」

「え?」

「いえ、こっちの話」

 

 マグネの言葉には強い響きがあった。彼女は軽く手を振り、訝しそうにこちらを見る二人の少女をあしらうと、サングラスの奥から鋭い目で監視カメラを睨み上げた。

 

 

 

 

 次の瞬間、部屋の空気が一変した。灼熱の地獄に放り込まれたかのように、室内の気温が急上昇し、生温い突風が辺り一帯を吹き抜ける。何とも言えない嫌な匂いを含んだ黒い煙が、開け放たれたドアの向こうから迫って来た。

 

「あつーい!」

 

 トガがじっとりと汗ばんだ顔を仰ぎつつ、迷惑千万と言わんばかりの表情で出入口を睨んだ。――火事か?煙を吸わないように、三人分のミニサイズ雲を創り出しつつ、立ち上がろうとした杳を、マグネはやんわりと制した。

 

「荼毘よ。ほっとけばいいわ。ああいう時は触っちゃ駄目」

 

 刹那、四角く切り取られた世界を、()()()()()が横切った。見る見る内に炎は消え、中から亡霊のように一人の青年が現れる。サファイア色の火炎は、彼の皮膚の中に吸い込まれるようにして消えていった。

 

 青年はこちらに気付いていないようだった。青く光る目と唇は虚ろで暗く、季節外れのコートを引きずるようにして世界の外へ去って行く。まるで恐ろしいモンスターに見つからないようにと息を潜める、ホラー映画の主人公にでもなったような気分だった。青年の周囲は火炎でまばゆく照らされているはずなのに、まるで煤がかったように薄暗く感じられた。息をすると、灰と煙混じりの刺々しい空気が肺に突き刺さった。――杳はそう遠くない昔に、()()()()()()()を嗅いだ事のあるような気がした。

 

「全く。今は大人しくしろって言われてるのに。また暴れたのね」

 

 足音と炎の爆ぜる音が完全に消えてしまうと、室内は元の明るさを取り戻した。マグネがひんやりとしたミニ雲で火照った顔を冷やしながら、文句を垂れる。フウと息を吐いた杳は、何気なく視線を足元に落としたとたん、眉をひそめた。廊下の上に、黒々とした血痕が足跡のように続いている。それらは沸騰し、煙を上げていた。杳はマグネの制止を振り切り、青年の後を追いかけた。

 

 

 

 

 与えられた部屋に戻ると、荼毘はドアに背をあずけ、ずるずると座り込んだ。体の継ぎ目から血が滲み、煙を上げながら体表を流れ落ちていく。そのほとんどは皮膚上で蒸発し、残ったわずかな量だけが地面に垂れ落ちていった。

 

 高熱の炎を体内で創り出し、放射する事のできる彼の体は、熱に弱い。多用し続ければ、オーバーヒートする。一番の治療法は冷やす事だが、そこらへんに都合よく氷の塊が転がっているわけもない。こうして敵の来ない場所に身を隠し、体温が下がりゆくのを待つというのが常套手段だった。手負いの虎がねぐらに潜み、時間をかけて怪我をひっそりと癒すように。

 

 その時、冷たい手がそっと頬を撫でた――()()()()がした。周囲の気温が急激に下がり、凍てつき始める。四方を囲むコンクリートの表面に雪の結晶が生まれ、複雑に重なり合い、厚い氷の壁を形成していく。あっという間に雪が降り積もり、辺りは一面の銀景色へ変わった。

 

 舞い散る粉雪に紛れて、小さな()()()()がフラフラと近づいてくる。荼毘は無意識に手を伸ばし、それを捕まえた。継ぎ接ぎだらけの手の中で、蛍火は震えるように輝いて、力尽きるように消えていく。その度に、荼毘の中で小さな記憶の断片が蘇り、死んでいった。雪を含んで撫でてくれる、優しい手。誰かと一緒に、蛍を追いかけた日々。

 

 ――それらは全て、()()()()()()()()()。蛍火が、急速に薄れていく。蛍はしばらくもがいた後、ころりと上向けになり、足を畳んで動かなくなった。荼毘はゆっくりとそれを握りつぶした。そして背にした扉の向こうに立つ誰かに向けて、冷たい言葉を放り出す。

 

「なんで俺を救けた?」

 

 扉越しに冷気を放出していた杳は、小さく息を詰めた。――理由なんてない。救おうと思った瞬間、体が勝手に動いていたのだ。あの青い炎を、彼女は数日前に見た事がある。自分達を襲い、攫った張本人だと分かっていても、敵だと知っていても、彼女は救いたいと思い、行動した。ただそれだけだ。

 

「あなたが苦しそうだったから」

「……優しいねえ」

 

 ”優しい”とは微塵も思っていない、酷薄な声が返ってくる。青年が杳の事を良く思っていないのは、火を見るより明らかだった。かすかに衣擦れの音がする。座り直したのだろうか。息苦しくなるような重たい沈黙が、二人の周囲を包み込む。これ以上の長居は無用だ。居たたまれなくなって、部屋に戻ろうと踵を返したその時、ドアの向こうから冷たいせせら笑いが聴こえた。

 

「なぁ。もし俺があんたの兄を殺した敵だったとしても、同じ事をしたか?」

 

 ――杳は応えられなかった。その沈黙は、彼女のヒーローとしての稚拙さを露呈させた。そして、それこそが問いに対する明確な答えだった。

 

「応えられねぇかよ。()()()

 

 無造作に放り投げられたその言葉は、杳の背中を乱暴に蹴っ飛ばした。数歩、よろめいた後、杳は覚束ない足取りで、部屋に向かって歩き出す。”敵・味方関係なく、救いの手を伸ばす”――クロウラーの行動指針を胸に掲げ、杳は日々を生きている。だけど、誰もがその手を喜んで取るわけじゃない。小さな親切、大きなお世話という奴だ。好意を抱く者もいれば、露骨に嫌う者もいる。

 

 しかし、極稀に、その手に深く感銘を受け、汚れた心を洗い流そうとする者もいた。

 

 

 

 

 その日の夜。杳はベッドの中で胎児のように丸くなり、眠っていた。真っ暗な世界の中で、声が聴こえる。徐々にはっきりと明確になっていくその声は、ひどく逼迫した様子で、自分に向かって何事かを懸命に話しかけていた。

 

「杳、起きろ。ここから逃げるんだ。早く!」

 

 ――それは、()()()だった。体も激しく揺さぶられ、杳の意識は一気に覚醒した。鉛のように重たい瞼を気合でこじ開けると、目の前には兄ではなく()()()()()がいた。トゥワイスは人差し指を唇に当て、”静かに”という仕草をすると、押し殺した声で囁いた。

 

「今がチャンスだ。皆、出払ってる。……ここから逃がしてやる。嘘だ。行かないでくれ」

 

 トゥワイスは杳にくたびれた自分の上着を押し付け、羽織るように促すと、手を引いてドアから出た。……一体全体、これはどういう事だ?最初、杳は茫然としていた。トゥワイスに手を引かれるまま歩いていたが、やがて彼女はハッと我に返り、意を決して前方を歩く彼に語り掛ける。

 

「どうして?トゥワイスさん……」

「あんたは本物のヒーローだ。こんなところにいちゃいけねえよ」

 

 トゥワイスは振り返ると、戸惑うようにこちらを見上げる少女を眺めた。やっぱり同じだ。まだ何も知らなかった頃、大切な友達だったヒーローの人形と同じ目をしている。優しくて暖かい輝きが、彼の心にこびり付いた汚泥をそっと拭い去っていく。

 

「世の中はいつも同じだ。あぶれたもんは斬り捨てられる。……だけど、あんたはそれを救い上げてくれた」

(ゆっくり呼吸してください。吸って、吐いて。その調子です)

 

 トゥワイスの脳裏に、優しい声と金色の光の糸がよみがえる。マスクの下で小さく鼻をすすると、彼はグイと杳の手を引っ張った。

 

「ちゃんと学校で勉強して、俺らみたいな奴らを救ってやってくれよ。俺を見捨てないでくれ」

「ま、待ってください。爆豪くんを置いていけません!」

 

 まるで散歩から帰るのを嫌がる犬のように、杳は力の限り両足を突っ張り、その場に踏み止まろうとした。もし本当に逃げる事ができるのなら、爆豪も一緒でなければ意味がない。彼を置いていくのなら、自分もここに残る。トゥワイスは無理矢理、少女を引き摺って歩きながら、先程とは打って変わった冷たい声でこう言った。

 

「お前だけだ。やっぱりやめるか?」

「そもそもこんな事したら、後でトゥワイスさんが責められます!」

 

 杳の言い分は、的を射ていた。裏社会の報復はどれも酸鼻を極めたものばかりと聞き及んでいる。危険を冒して攫って来た人質を独断で逃がしたと知られれば、トゥワイスの身がどうなるか、想像に難くない。”敵連合をクビになる”なんていう生易しいものでは済まされないだろう。本当に()()()()可能性だってあるのだ。トゥワイスはマスク越しでもはっきりと分かるほど、顔を切なそうに歪めた。そしてより強い力で、杳の手を引っ張る。

 

「俺の事はもうどうだっていいんだ!」

「良くな――」

 

 杳が必死に言い募ろうとしたその瞬間、周囲の空気が粘つき、ずっしりと重くなった。息ができない。巨大な手にグッと押さえつけられたかのように、身動き一つ、取る事ができない。四方の壁が音もなく迫って来るような閉塞感と圧力が、二人の心臓に情け容赦のない負担を掛けていく。

 

「何してる?」

 

 ――()()()()()だった。二人が立っている廊下の奥には、地上へ繋がる階段があった。その段の一つに死柄木が腰かけ、危険な輝きを孕んだ目でこちらの様子を伺っていた。杳の手を掴んだトゥワイスの指先は、恐怖のあまり細かく震えていた。それでも彼は乾いた唇を舐め、戦慄く声で言葉を発する。

 

「あのよ、死柄木。俺は……」

 

 それは、()()()()()()だった。瞬きすらできないそのわずかな間に、死柄木は音もなくトゥワイスに接近していた。冷たくかさついた五指が、トゥワイスの覆面に触れる。表面の繊維が崩壊し、塵になっていく。その瞬間、杳の口から出まかせが飛び出した。

 

「お腹が空いて夜食を取りに行ってたんです!」

 

 陰鬱で狂気じみた死柄木の眼差しが、トゥワイスを離れてこちらに注がれる。白い骨のような手が下ろされた直後、トゥワイスは喉を震わせながら息を吸った。恐怖に呑まれて、呼吸を忘れていたらしい。

 

「き、き、キッチンに冷蔵庫があるから。それで、その……」

 

 今度は杳が、恐怖の感情に丸呑みにされる番だった。死柄木は疑わしいものを見るような目をこちらへ向けていた。実際、疑わしいのだから当たり前だ。その時、杳の出まかせを裏付けるように、腹の虫がグウと鳴った。――ナイスタイミング!杳は自分の腹部を褒めてやりたい気分になった。

 

 死柄木はその音で戦意を削がれたのか、ふいと視線を逸らす。それと同時に、周囲の重苦しい空気は霧散した。二人は肩の力を抜き、肺に酸素をめいっぱい詰め込んだ。だが、死柄木の凶行はそれで終わらなかった。苛ついたように首元をかき毟ると、彼は廊下の奥へ足を向けつつ、荒れた声でこう命じた。

 

「腹が減ってるなら、俺の部屋に来い」

「へ?……あ、はいっ」

 

 再び、周囲の空気が重たく粘ついたものへ変わりかけ、杳は思わず姿勢を正して返事をした。それから呆気に取られた様子のトゥワイスを見上げると、安心させるように微笑んでみせる。

 

「トゥワイスさん。()()()()()()()()()()()

 

 ――ここで動くべきだと、トゥワイスは自分をけしかけた。あの純真な子供を助けたいなら、たとえ自分が殺されても、今ここで逃がさなければ。死柄木が自分を崩壊させている間に、彼女は階段を駆け上がって逃げられる。トゥワイスは覚悟を決め、そうしようとして、できなかった。死柄木が自分に向けたあの冷たい目は、こう語っていた。――”また()()()()()になりたいのか?”と。彼の居場所は敵連合(ここ)しかない。彼はこの判断を、後に悔いる事となる。

 




ほんとは敵連合&ヨウでUNOしたかったけど、さすがに爆豪くんに怒られそうだったからやめました(;_;)スピナー&コンプレス出せなくてごめんな…。5期で出すからな…。
胡蝶兄弟のシーン、中途半端な感じですみません。二人は5期にて詳細に書く予定です。お待ちください(*´ω`)


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No.36 志村転弧:オリジン

※ご注意:残虐な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 死柄木の後をついて廊下の突き当たりを右に曲がると、地下へ続く小階段があった。一歩一歩踏みしめて降りる度に、杳の不安と恐怖心は増していく。終点には古びたドアが一枚嵌まっており、その先が彼の部屋だった。死柄木がドアノブを回した瞬間、杳は思わず目を閉じた。

 

 ――敵連合の親玉の部屋だ。きっと見るのに勇気のいるような光景が、目の前に広がっているに違いない。死体のはく製とかが壁に飾られていたらどうしよう。杳は息を止めたまま、こわごわと目を開け、それから()()()()した。

 

 そこは、広々としたフローリングの部屋だった。だがその広さを感じさせないほど、物が満ち溢れた雑然とした空間だった。室内を彩る調度品は、大きめのベッド、シンプルな作業机と椅子、そして飾り棚しかない。ただ、それらの上は異常に散らかっていた。

 

 本、新聞、雑誌、ゲームソフト、着古した衣服などの様々な物品が、今にも落ちんばかりに散乱している。実際に溢れてしまったのか、床には大量の本が散らばっていた。杳が危惧していたような怪しい物品は、どこにも見当たらない。――掃除、苦手なのかな。あまりの雑然さに呆れている杳を尻目に、死柄木はある方向を気怠そうに指差すと、ベッドに潜り込んだ。指先を辿った杳は、小さく息を詰めた。

 

「……ッ?!」

 

 ベッドの足元付近に白い皿が載っており、その上には赤い血に塗れた生首がいくつか転がっていた――というのは勘違いで、良く見るとその正体は半分に割られた()()だった。恐怖の感情と敵に対する偏見が化学反応を起こし、一時的な錯覚を生み出しただけだった。肩を撫で下ろし、杳が柘榴を取った瞬間、室内は仄暗い闇に包まれた。

 

「……ッ?!」

 

 思わず身構えた杳の視界に、シーツから伸びた白い手が映る。その手は小さなリモコンを握っていた。どうやら死柄木が寝るために消灯したらしい。何か起こるたびに邪推し、その結果、疲れ果てる杳なのであった。床のあちこちに散らばる本を蹴飛ばしながら、なんとか部屋の隅っこに腰を落ち着けると、彼女は柘榴の実を摘まんで口に入れた。良質なものなのだろう、噛み締めると芳醇な香りと甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。

 

 美味しい――が、ここでゆっくりと食事を楽しむつもりはなかった。怪しまれないようにキリの良いところまで食べ、早く部屋を出よう。猛スピードで柘榴を食べ進めながら、杳はあてどない視線を部屋内に巡らせる。やがて暗闇に目が慣れたのか、周囲の様子が鮮明になってきた。何気なく目線を寄せた作業机の上に()()()()を見つけ、彼女の呼吸がピタッと止まった。

 

 ――机の上に散らばる日用品の中に、一台のスマートフォンが埋もれている。上部が波状に大きく盛り上がった、特徴的な形のカバーを付けている。間違いない。あれは()()()スマートフォンだ。そういえば、連れ去られる直前までズボンのポケットに入れていた事を、杳は今になって思い出した。何故、それが死柄木の部屋にあるのだろう。

 

(緊急時は、電源ボタンを二回押すんだ。それで僕に、君の現在地と一緒に警報が届けられる)

 

 塚内の言葉が耳元にこだまして、杳はごくりと唾を飲み込んだ。――罠かもしれない。そもそも地下だから電波が届かないかもしれないし、すでに通報システムを破壊された後かもしれない。だが、もしそうじゃなければ、()()()()()()()。杳は忍び足で近寄ると、そっと顔を近づけた。人の気配を認知したのか、スマートフォンがポッと光り輝いた。充電が切れかけている画面に、REINのポップアップが表示される。

 

《HS:大丈夫だ。必ず救ける》

「……ッ!」

 

 ()使()からのREINだった。先日送られたものだ。まるで彼がすぐ傍にいて、励ましてくれているように感じられた。杳はその場にへたり込みそうになった。ガクガクと震え始めた足を叱咤して、自分に言い聞かせる。――まだ終わってない。頑張れ、頑張れ、と。

 

 人使は恐らく――杳がスマートフォンを見ることができる状態を仮定して――このメッセージを送ったのだろう。恐怖におののく友人の心を、少しでも勇気づける事ができるように。()()()人使が救けに来ている事をまだ知らない杳は、込み上げて来た涙を歯を食い縛って堪えた。確かに彼女はヒーロー志望者だが、それと同時に15才の平凡な子供でもあった。

 

 杳は眼球だけをそろりと動かして、ベッドを見た。死柄木はこちらに背を向け、眠っているようだ。細心の注意を払い、スマートフォンに手を伸ばす。上に乗っているゲームのソフトをそっと退ける。本や雑誌の山を崩さないよう、慎重に持ち上げる。人使の顔が脳裏をよぎる。指先に全神経を集中する。崩したら終わりだ。音を立てるな。お母さん。

 

 果たして、スマートフォンは首尾よく主の手に戻った。マイクの髪型を模したスマホカバーを見るだけで、うねるような安心感が杳の全身を包み込む。あとは、電源ボタンを二回押すだけ。杳は吸い寄せられるように、電源ボタンの上に人差し指を置き、グッと力を込めようとした――

 

(死刑になる事が、救われると?生涯、檻の中に囚われる事が救いだと仰るのですか?)

 

 ――その時、黒霧の言葉がどこかから矢のように飛んできて、杳の心臓に突き立った。屈託のないトガの笑顔、トゥワイスと繋いだ手の感触を思い出し、彼女は苦々しげに顔を歪める。通報するという事は、敵連合の面々を刑務所に送り込むという事だ。自分を救けようとしてくれたトゥワイスが絞首台に昇る場面を想像し、杳はギュッと唇を噛み締めた。通報するべきか、否か。スマートフォンを見下ろし、逡巡していたその時、部屋の奥から死柄木の声が飛んできた。

 

「食べ終わったんなら、こっちに来い。……ここで寝ろ」

「えっ」

 

 踏み潰された蛙のような、女性らしからぬ声が、杳の口から漏れた。――()()とはベッドの事だ。”男女が寝所を共にする”というのはどういう事か、分からないわけじゃない。まさか、最初からそういう目的で……。顔を真っ青にして固まっていると、しびれを切らした死柄木が振り返り、頬杖を突きながら、探るような目でこちらを見た。やがて何かを勘付いたのか、人の神経を逆撫でするような薄ら笑いと口調で、彼はこう言った。

 

「見張るだけだ。安心しろマセガキ」

「なっ!」

 

 その言葉は、思春期真っ盛りの杳のプライドを刺激した。柘榴を皿に戻すと、荒々しくベッドにダイブする。あまりの勢いにスプリングが軋んで、死柄木の体が少し浮いた。不機嫌そうな舌打ちが頭上で聴こえたが、杳は無視した。顔をしかめたまま、死柄木に背を向け――ようとして、後ろポケットにスマートフォンがある事を思い出し、急いで正面に向き直る。ベッドは広く、大きかった。二人の間にはゆったりとした距離があった。杳がなるべくベッドの端に寄り、掛け布団とシーツで壁を創ろうとしていると、視界の端を何かが掠めた。

 

 死柄木が顔から死人の手を外し、壊れ物を扱うように繊細な手つきで、枕元に置いている。見るも悍ましい代物であるのに、それを触れる手や眼差しはとても穏やかなものだった。そもそも、何故彼は、死体の手を顔や体じゅうに付けているのだろう。杳は素直に疑問を口にした。

 

「なんで手を顔に付けてるんですか?」

「安心するんだよ」

 

 死柄木はしわがれた声でそう応えた。杳はベッドの上に座り込むと、枕元に置かれた死人の手を見下ろした。防腐処理が施されているのか、色や質感は寒々しいものへ変わっている。愛らしいヌイグルミならいざ知らず、死人の手を付けると安心するとはどういう事なのか。そしてこの手や――死柄木が体じゅうに付けていた手の群れの――持ち主は一体誰で、今はどうしているのだろう。疑問は尽きなかった。杳があまりにも熱心に見つめているので、死柄木は冗談交じりにこんな事を口走った。

 

「付けてみるか?」

 

 そう言われれば、ほとんどの人は断るだろう。だが、杳の自我はまだ幼く、そのため好奇心旺盛だった。手の届くものは何でも口に入れ、確かめる赤ん坊と同じくらいには。杳はそろそろと手を伸ばし、死人の手を取った。血抜きがされているためか、思ったよりずっと軽い。まじまじと見つめる。

 

 大きく筋張った手、男性の手だ。恐らく自分や死柄木よりはずっと上の年代。紛うことなき、本物の人間の手だった。鼻を近づけてみるが、匂いはない。――得体の知れない誰かの体の一部を顔に付けるのは、さすがの杳も抵抗があった。だが、吸血が愛情表現という人もいるのだ。死人の手を顔に付けるのがリラックス方法だという人もいるかもしれない。情報収集をしなければ。杳は意を決し、それを自分の顔に近づけた。

 

「――ッ!」

 

 次の瞬間、思わず身震いするほどに悍ましく、禍々しいものが全身を駆け抜け、彼女は火傷したように顔から手を離した。腐った血の海の底で、誰かが歯を剥き出しにして笑っているような、悪意のある感情が心臓に齧りつき、歯形を残して消えていく。黒板を引っ掻いた時のように耳障りで、気の狂いそうな哄笑が、耳元で響き渡り、ゆっくりと融けていく。――それは杳の知覚能力が感知した、()()()()()だった。不意に横から手が伸びて来て、死人の手を取り上げる。

 

「乱暴に扱うな」

 

 咎めるようにそう言うと、死柄木は再びそれを顔に付けた。杳は居ても立っても居られなくなって、死柄木の腕を掴んだ。

 

「それ付けて、本当に安心しますか?」

 

 五指の間から赤い双眸がこちらを見た。――感情の無い、狂ったような目をしている。

 

()()()

 

 杳は何も言えなくなった。――これは性癖なんかじゃない。そんなわけがない。死人の手に込められた、途方もない悪意と狂気。それを付けて安心すると思えるほどに、死柄木は歪んでしまったのだ。そもそも、この手は彼自身が創ったものなのだろうか。

 

「この手は、死柄木さんが創ったんですか?」

「……なぜなぜ期のガキかお前は。()()がくれた」

 

 杳の質問攻めに多少うんざりとしながらも、死柄木は教えてくれた。――”先生”。まさか雄英の教師という事はあるまい。皆目見当もつかず、杳は首を捻った。もしかしたら裏社会には、ヒーローならぬ(ヴィラン)の学校というものがあるのだろうか。

 

「先生って、誰ですか?」

 

 死柄木は何も応えず、死人の手を外して枕元へ転がした。遠くで、どこか遥か遠くの方で、得体の知れない何かがこちらに向かって一斉に這って来るような予感がした。杳は思わず総毛立ち、ブルッと大きく身震いする。

 

(巨悪は実在する。彼の名はオール・フォー・ワン。他者から個性を奪い我が物とし、そしてそれを他者に与える事のできる力を有している)

 

 頭の中で、塚内の言葉が警鐘のように鳴り響く。敵連合の裏には()が潜んでいる可能性があると、塚内は言っていた。――ロックの中で見た、記憶のワンシーンが蘇る。『これが君の目指すべき姿だ』と、ロックに優しく囁いた声。肩に優しく置かれた手。

 

(今の社会は、()()()()()に置かれていた彼の身の上を興味本位で取り上げる事はあれど、情状酌量までする事はないでしょう)

 

 黒霧の声が、スクリーンを熱心に眺めるロックの姿と重なった。――”哀れな境遇”。バラバラの場所にあった点と点が、繋がって線になり、一つの推測を描いた。恐らく、死柄木は()()()に歪められてしまったのだ。ロックと同じように。人を殺す事に心を痛めず、死人の手を付けて心が安らぐと思えるほどに。杳の脳と心を支配していた恐怖の感情が――日の出が世界を明るく染めていくように――()()()()()へ塗り替えられていく。

 

 ポタ、と暖かい何かが、死柄木の渇いた頬に滴った。干天から降り注ぐ慈雨のように、優しい雫だった。訝しんで見上げると、少女が悲しい顔をして泣いている。死柄木は驚いたという風に目を見開き、掠れた声を絞り出した。

 

「……なんで泣いてる?」

「な、なんでもないです。おやすみなさい」

 

 ハッと我に返った杳は布団を頭まで被り、寝たふりをした。腹の底から這い上がってきた衝動に突き動かされ、死柄木は頬に伝っていた涙を拭うと、口に入れた。塩辛いはずなのに、それは不思議と甘く感じられた。

 

 

 

 

 今から数時間前。地下に秘められた研究室にて、死柄木は先生と一緒に、少女の実験過程を眺めていた。ガラス管の中で冷凍保存されていた少女が解凍され、酸鼻を極めた実験が行われる中、もがき苦しみながら死んでいく――という悍ましい流れが、壊れたレコードのように何度も繰り返される。

 

(トゥワイスが拒否するとは思わなかった。”二倍”を複製しておいて良かったよ)

 

 気軽な調子でそう言うと、先生はおどけて肩を竦めてみせた。一方の死柄木は、何とも形容しがたい()()()()()()()に囚われていた。――苛立ち。怒り。憎悪。不快感。苦しみ。吐き気。今まで自分を苛んできたどの感情にも、それは当てはまらない。少女が死ぬ度に、それは増幅していく。正体不明の感情に脳が痺れ、思考や行動を制限される。不愉快な事、この上なかった。死柄木がいつも以上に苦み走った顔をしていると、先生は口元に柔らかな笑みを浮かべ、ポツリと呟いた。

 

(……懐かしいな。弟に()()()()を抱いていたのを思い出す)

 

 先生は拭い去られた目で、自らの掌を見下ろした。そこに、気が遠くなるほど遠い昔、自分が失くして、もう二度と手に入らなくなった宝物があるかのように。数秒後、掌を静かに握り込むと、先生は平然とした態度に戻り、こちらの様子を伺う死柄木を見つめ返した。

 

(僕も、好き好んであの子を切り刻みたいわけじゃない。……人として生きる、最後のチャンスを与えるつもりだ。()()()()の期末試験といったところかな)

 

 笑みを含んだ声でそう言うと、先生はスーツの内ポケットから、スマートフォンを取り出した。目の覚めるような黄色いカバーに描かれたプロヒーローが、死柄木に向かって陽気に笑いかける。このスマートフォンは少女のもので、高レベルの緊急通報システムが組み込まれている事、だが今はそれを解除し、枠組みだけ残している状態である事を告げると、先生はそれを軽く振ってみせた。

 

(もし彼女が通報せず、君達と共に生きる事を決めたら、僕らは手を出さない。だが、もしそうでなければ……)

 

 皆まで言わず、先生はほとんど拭い去られた顔を歪め、ゾッとするほど凄艶な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 そして現在。そのスマートフォンは今、少女の手元にある。死柄木はしばらくの間、何をするでもなく、規則正しく上下している布団のふくらみを観察していた。この少女と一緒にいると、不思議な感情がひたひたと押し寄せてくる。海辺に立っていると穏やかな波が打ち寄せ、知らないうちに足を濡らすように。自然に感情が凪いでいく。乾いた脳に、正体不明の苛立ちに、そっと寄り添ってくる。

 

 ふと目の前のふくらみが、モゾモゾと動いた。陽だまりの匂いが、息を吸う度、鼻と肺を満たしていく。布団の中はとても熱く、少し湿っている。布の繊維が擦れ合う音。小さな呼吸音。今にも触れそうなほどに近い、人の気配。――誰かと一緒に寝るというのは、これほど騒がしいものなのか。それなのに、死柄木の意識は自然と微睡んだ。先生は決してこんな風に、寄り添って寝てくれた事などなかった。彼はずっと独りだった。

 

 ――いや、()()()()()()()。遠い昔、こんな風に、誰かと一緒に寝た事のあるような気がする。

 

(また怒られたの?)

 

 知らずに閉じていた瞼の向こうで、誰かの声がした。ぼんやりとした視界の中、黒髪を二つくくりにした少女が、こちらを気遣わしげに見つめている。刹那、忙しなく鳴き立てる蝉の声が両耳を塞いだ。うだるような夏の熱さが皮膚に焼きついて、大量の汗が流れる。かゆくて皮膚をかき毟ろうとした自分の手を取ると、少女は膨れっ面で唇を尖らせた。

 

(もうねー。黙ってればいいんだよ。私もお父さんにはね、『およめさんになりたい』ってゆってるもん。……ホラ、いこ)

 

  ――()()()()()()。死柄木は、失われた記憶の一部を取り戻した。そっか。そうだったけな。メソメソしてるといつも俺の手を引いてくれたっけ。華ちゃんだけだったんだ。ガキの無邪気な一言だけど。

 

 人はいつも心で何かを感じながら、生きている。長い人生の中、とても辛い出来事が起きた時、人は心に()()()を負う。癒す方法はただ一つ、その人が本当に安心できる場所で、時間をかけて、傷と向き合う事。

 

 いつも自分の傍に仕えている()()に似た雰囲気、個性、または知覚能力を、少女が有していたからか。彼女が向けた憐憫の情に、心動かされたからか。陽だまりの匂いと、過去の記憶が奇跡的にリンクしたのか。きっかけは分からない。けれど、死柄木の封じられた記憶は、今まさに紐解かれようとしていた。脳がグルグル回る。思い出が湧き上がって蘇る。心に沈む正体不明の苛立ちに、スッポリと抜けていた思い出が当て嵌まっていく。感情に経験が伴っていく。

 

(目の周り、ひどくなってきちゃったねえ。お薬お薬……。かくとまたかゆくなっちゃうよ)

 

 ()()()()だ。美しい妙齢の女性が、心配そうに眉尻を下げて自分を覗き込み、何かを探すように周囲を見回している。

 

(ホラ転弧。おはぎ!好きだろー。おいしいもの食べるとな。悲しい気持ちが吹っ飛ぶんだ)

(泣かないの。もうおばあちゃんまで悲しくなっちゃうよ)

 

 優しかったおじいちゃんに、おばあちゃん。作り立てのおはぎは甘くて柔らかかった。自分の頭をそっと撫でるしわくちゃの手も、嫌いじゃなかった。けれど、違う。違うんだよ。あの時、僕が言ってほしかったのは……。

 

 

 

 

 気が付くと、杳は見知らぬ豪邸の玄関内に立っていた。……どこだ、ここ?呆気に取られて、キョロキョロと周囲を見回す。自分はさっきまで死柄木の部屋にいたはずなのに。夢を見ているのではないかと思い、杳は頬をつねった。()()。ということは、夢じゃない。もしや黒霧の個性が暴発し、飛ばされたとか?混乱する思考の中、彼女はそんな推測を導き出した。とにもかくにも、ここにいては家人に迷惑がかかる。早く外に出て、交番を探そう。

 

 そう思い、玄関のドアノブに手を掛けたとたん、ドアが内側から開いた。開け放たれたドアの向こうに、お巡りさんと少年が立っている。――まずい、不法侵入罪で逮捕される!杳は焦りながら『すみません』と言おうとして、()()()()()()()。魔法の契約で声を失った人魚のように、呼吸音すら消えている。ぼうっと立ち竦んでいる杳の体を()()()()()()擦り抜けて、警察官が玄関内に入った。

 

(ご親切にありがとうございました。大変ご迷惑をおかけしました。本当にもう、よく言い聞かせます!)

 

 背後から女性の逼迫した声が飛んできて、杳は振り向いた。きれいな女性が眉尻を下げ、警察官に頭を下げている。――誰も、杳の姿が見えていない様子だった。見えていないというよりは、()()()という認識の方が近い。まるで舞台に上がり、周囲で行われる演劇を眺めているような気分だった。

 

 ――その時、杳は気付いた。以前、ロックの記憶に侵入した時と状況が似ている事に。だけど、これは一体()()記憶なんだ?登場人物は皆、自分の知らない人だ。

 

(また英雄ごっこで人に迷惑をかけたな?)

 

 警察官が去った後、精悍な顔立ちをした男性が、廊下の奥からやって来た。怯えたように息を詰め、後ずさる少年を見た瞬間、杳のヒーロー心が燃え上がった。『やめてください』迷わずそう言って、彼女は男性と少年の間に割って入ろうとした。しかしその体を煙のように通過して、男性は少年の手を掴むとどこかへ引き摺っていく。少年は恐怖に引き攣った顔をして、無茶苦茶に暴れて泣きじゃくった。杳は血の気が引いた。――この反応は尋常じゃない。児童虐待だ。

 

(やだあああ!お父さんやだあああ!)

(弧太朗さんやめて!乱暴はやめて!)

 

 女性が二人の後を追いかける。だが、実際に手を出して引き留める事まではできないようだった。廊下の奥には二人の老夫婦が立っていて、その様子を心配そうに見守っている。杳はそんな家族の対応に()()()()()()、その原因を推測した。

 

 もしかしたら、あの男性が家族に対し、恒常的に暴力を振るっている可能性もある。だから家族は怖がり、誰も手出しできないとか。しかし、注意深く家族の体――幸い夏だった事もあり、皆軽装で、剥き出しになった手足の観察がしやすかった――を見るが、別段怪我をしている様子はない。

 

(嫌ならいい加減聴き入れなさい)

 

 どうする事もできずに、やきもきする杳の眼前で、男性は少年を広々とした庭へ放り出し、窓の鍵を閉めた。女性が憤り、男性に突っかかる。

 

(謝るまで家に入れるな)

(でもお夕飯……アレルギーまたひどくなってるのに!)

(ルールはルールだよ)

(最近厳し過ぎじゃない?)

 

 老夫婦も耐えかねた様子で、女性の肩を持った。彼らの話をざっと聴いたところ、この家には弧太朗なる男性の決めた()()()()()()があるらしい。――それは、”ヒーローの話をしてはいけない”というものだった。はっきり言って、杳は意味が分からなかった。むしろ憤りすら覚えた。相手は子供だ。ヒーローは人気職業で、子供なら誰だって夢中になる。そもそも子供は自由気ままで、夢見がちなものだ。もしルールを破ったとしても、庭へ放り出すほどの事か?

 

(この年で個性も出てない。分からせなければ、不幸になるのは転弧自身です。ヒーロー願望なんて不幸の原因にしかならない)

 

 弧太朗が静かに放ったその言葉で、家族は皆、気まずそうに目を伏せた。ダイニングルームの隅っこでは、一人の少女が犬にエサをやりながら、悲しそうな顔をしている。――何故、誰も少年を守ろうとせず、弧太朗に従うのか。そして何故、彼はそれほどまでにヒーローが嫌いなのか。杳には分からなかった。ただ、弧太朗が自分の気持ちを、家族に、とりわけ子供に押し付けているという事だけは理解できた。

 

 他人の家庭に首を突っ込むべきではないというのは、分かっている。だが、それでも、杳は転弧という少年に同情した。何もできない自分が情けなかった。とぼとぼとした足取りで庭先へ下り、少年の姿を探す。彼は庭の隅っこで、弱々しく泣きじゃくっていた。――『転弧くん』杳は少年の隣に座ると、名前を呼んだ。煙のような手で、小さな頭を撫でる。近くで見ると、彼の顔から首筋にかけて、ひどいアレルギー症状があった。それをかき毟りながら、彼は泣いていた。

 

 

 

 

 ハッと気づくと、杳はまたあの豪邸の中にいた。さっきまで昼だったのに、今はもう夕方のようだった。深い憂愁を込めたオレンジ色の光が、カーテン越しに差し込んでいる。広々としたリビングルームで、転弧は女性に薬を塗ってもらっていた。――良かった。あれから、ちゃんと家に入れてもらったみたいだ。杳は安堵して肩を撫で下ろした。首をかき毟ろうとする転弧を見下ろし、母は困ったように言う。

 

(ホラ、もうかかないの)

(だってかゆいんだもん。お家だとかゆいよ。お母さん)

(なんのアレルギーかわかんないの、辛いねえ)

 

 どうやら転弧は、原因不明のアレルギー症状に悩まされているようだった。二人の会話を聴き取りやすいように、杳は彼らの傍に腰を下ろす。お母さんと呼ばれた女性は洗濯物を畳む手を止め、何とも形容しがたい、静謐な眼差しで転弧を見下ろした。

 

(ねえ、転弧。ヒーロー……まだなりたい?)

 

 杳は複雑な気持ちで、少年の返事を待った。ヒーローになりたいという夢は、子供なら誰しも一度は抱く夢だ。だが、転弧の場合は()()だ。なにせ、あのヒーロー嫌いの父がいるのだから。少年は少し考えた後、迷いのない瞳と声で応えながら、母に抱き着いた。

 

(うん。なんでお父さんはダメってゆうの?僕のこと嫌いだから?個性が出たらいいってゆう?)

 

 転弧は母の胸に顔を埋めながら、少しばかり拗ねたような口調で訊いた。すると、母は複雑な表情を浮かべた。今、目の前にいる我が子ではなく()()()()を哀れみ、労わっているような、不思議な面持ちだった。彼女は小さく微笑むと、転弧を抱き締め返す。

 

(嫌いなんじゃないよ。お父さんは。……ただ知ってるの。ヒーローは大変だって事)

 

 きっと転弧と自分が知らない()()を、母と老夫婦は知っているんだろうと杳は思った。父をあそこまでヒーロー嫌いにさせるほどの出来事が、過去にあったのだ。母の返答を聴いて少年の顔は沈んだ。その時、杳は()()()()()()に気付いた。

 

 ――誰も、少年を見ていないのだ。少年を通して、父を見ている。父の事を思い、父をかばっている。まるで少年を間接的に、そして優しく否定しているように見えた。

 

 

 

 

 瞬きをして、閉じた瞼を開けた時、杳は立派な書斎に立っていた。転弧と少女が、飴色に光る書斎机の前にいる。少女は机の引き出しを開けると、中からボロボロに擦り切れた封筒を取り出した。長い年月の中、何度も読み返したのか、手垢がついて黄ばんでいる。少女は封筒から一枚の写真を抜き出し、転弧に見せた。そこには明るく笑う少年と妙齢の女性の姿があった。

 

(ひみつだよ。この人、おばあちゃんなんだって。……ヒーローなんだって)

 

 転弧だけでなく、杳もびっくり仰天した。まさか、あのヒーロー嫌いの父のお母さんが、ヒーローだったなんて。杳は二人の頭の上から写真を覗き込むが、生憎、知らないヒーローだった。全てを包み込むような――そしてどうしてだか、オールマイトを彷彿とさせるような――優しく凛々しい目をしている。

 

 ふと少女が手に持った封筒から、一枚の手紙がするりと抜け出て、床に落ちた。杳はしゃがみ込んで、手紙の文面を読んだ。何度も読み返したのか、紙のフチがひどく擦り減っていて、文字のところどころが滲んでいた。まるで涙の痕みたいだった。

 

『弧太朗へ。突然のお別れになっちゃって、本当にごめんね』

 

 とても拙い文字だった。だが、その一文字一文字に、母としての、そしてヒーローとしての想いが込められている。一生懸命、思いの丈を書き連ねたのだろう、その文章を見るだけで、抱えきれないほどの悲しみと切ない感情が、杳の心臓を突き刺していった。

 

『お母さんはこれからすごく悪い奴と戦わなきゃならないんだ。そいつが弧太朗にいたずらするかもしれないから、お母さんは弧太朗とお別れしなくちゃいけないの。

 弧太朗大好き。これからどうか笑って暮らせるように、幸せに。お母さんはずっとお空から弧太朗のこと見守ってるからね』

 

 手紙を読み終わったその時、杳は何故、弧太朗があれほどにヒーローを嫌うのか、そして家族が彼をかばうのか、分かったような気がした。――弧太朗の母はヒーローで、因縁ある敵から子供を守るため、離れていったのだ。そして自分は戦いの最中、命を落とした。遺された弧太朗は、どんなに辛い思いをしただろう。どんな想いで毎日、この手紙を読んだのだろう。悲しそうな洸汰の顔が、脳裏に浮かぶ。杳だって、失った家族を想う気持ちは痛いほどに分かった。

 

(華ちゃん。なんでこんなの僕に……)

(お父さんはああいうけどねえ。大丈夫だよ。私は転弧の事、応援してるから)

 

 戸惑うようにそう尋ねた転弧に笑いかけると、華ちゃんと呼ばれた少女は、無邪気にガッツポーズを取ってみせた。

 

(お父さんに内緒で姉弟ヒーローになっちゃおう!)

(……うん!)

 

 刹那、写真を見つめる転弧の目が、宝石みたいにキラキラと輝いた。なんて綺麗な目なんだろう。良かったね、転弧くん。杳は嬉しくなって顔を綻ばせ、少年たちに微笑みかけた。この記憶が、いつ頃のものなのかは分からない。だが、もしかしたら――このシーンが二人の原点だとしたら――杳は現実世界で何かの拍子に、姉弟ヒーローとして会っているかもしれなかった。

 

 その日はひどく蒸し暑かったが、転弧はずっとご機嫌だった。にこにことしている彼の姿を見るだけで、杳の心も晴れ晴れとした。ずっと憧れていたヒーローが、自分の家族にいたのだ。喜びもひとしおだろう。転弧はうきうきとした様子で、庭の芝生に座り込み、犬のモンちゃんと遊んでいた。

 

(モンちゃん。僕はね。今どんな困難にも立ち向かえる気がするよ)

 

 明るい声でそう言って、ボールを投げたその瞬間、転弧の手が大きく震えた。痛そうに顔をしかめると、不思議そうに両手を見下ろす。――またアレルギー反応が出たのだろうか。杳は草むらの上に手を突き、少年の手を心配そうに覗き込んだ。皮膚上に目立った変化はない。だが、よくよく目を凝らしてみると、手の周囲に塵のような粒子が舞っている。なんだろう。杳が首を傾げていると、縁側から凄まじい怒声が飛んできた。

 

(転弧!書斎に入ったな?)

 

 杳と転弧はびくりと肩を跳ね上げ、揃って縁側を見た。――凄まじい憤怒の感情をまとった弧太朗が、そこに仁王立ちしていた。子供に向けて良い顔ではなかった。

 

(見たな?)

 

 ――()()見たと言っているのかは、明白だった。父の後ろには、手放しで泣きじゃくる華とそれを抱きかかえる母の姿があった。

 

(わあああん!転弧が、転弧が見たいって言ったんだもおおん!)

 

 『違うよ!』杳は、声の限りに叫んだ。『華ちゃんが見せてくれたんじゃんか。転弧くんは見たいなんて言ってない。知らなかったんだ!』杳はなんとか父の凶行を止めようとするが、その体は実体がないため、空しく擦り抜けていくばかりだった。

 

 杳の目の前で、父は拳を振り上げると、転弧に打ち下ろした。あまりの力の強さに小さな体が頭ごと捻じれて、草むらに転がっていく。犬が狂ったようにキャンキャンと鳴き立てる。

 

 母も、老夫婦も、縁側から必死に声を出し、父を止めようとした。しかし、()()()()()()出る事はなかった。誰一人として、庭先へ下りて父に立ち向かい、その手から転弧をかばい、救い出そうとはしなかった。『やめろ!』杳はさらに手を振り上げようとする父の前に立ち、狂ったように体じゅうをかき毟る少年を抱き締めながら、声の限りに怒鳴った。けれど、その声は誰にも届く事はない。杳もまた、家族と同じように無力な存在だった。

 

(あれはおばあちゃんじゃない。子供を捨てた鬼畜だ。……いいか。ヒーローというのはな。他人を助けるために、家族を傷つけるんだ)

 

 思い出の写真を見られた事で、心的外傷(トラウマ)が蘇った父は、もはや自制を失っていた。杳は腕の中で、少年が可哀想なくらいに激しく震えているのを感じた。

 

 ――ああ、神様。杳はか弱き存在を救うため、ギュッと目を閉じて、心の底から祈った。これが現実じゃない事は分かっています。けれど、どうかこの少年を救う力を。さらなる力の向上を欲した結果、杳の体内で個性因子が著しい急成長を遂げていく。彼女の個性の形が、メキメキと音を立て少しずつ変容する。

 

 

 

 

 突然、世界じゅうから()()()()()。耳の痛くなるような静寂が、辺り一帯を包んでいる。杳はそろそろと目を開け、息を飲んだ。――自分の目の前で、弧太朗が手を振り上げたまま、凍り付いたように動きを止めている。彼だけではない。家族や犬、芝生をそよぐ風までもが――まるで神様が魔法のストップウォッチを使い、時の流れを止めたように――その場でビシリと固まっている。”精神世界の観測、および()()”、それが杳の新たに会得した能力だった。

 

「もう大丈夫だよ」

 

 くぐもった声がすぐ傍でして、杳は驚くあまり、心臓が止まるかと思った。――いつの間にか、自分の体が()()()()()()()、少年をしっかりと抱き締めていた。転弧は杳を見上げると、静かに笑った。子供らしくない、ひどく大人びた笑顔だった。甘えるように杳の胸に顔を押し付けると、彼は熱っぽい声で囁いた。

 

「君は僕を救けてくれるんだね。……最初に会った時も、そうだった」

「あなたは誰?」

「もうすぐ分かるよ」

 

 ”自分の全てを受け入れてほしい”――誰もがこの欲求を、少なからず持っている。だが、ほとんどの人は他者に心の深いところを見せるのを躊躇ったり、嫌われる事を恐れたり、諦めたりして、その気持ち自体を認める事ができない。そしてその抑圧が強ければ強いほど、一度(ひとたび)それが緩んだ時、濁流のようにあふれ出てくる。まるでダムを創り、ずっと長いこと我慢してきた気持ちが、ふとしたきっかけで決壊してしまうように。

 

 ――本当は、ずっと、自分の全てを肯定してほしかった。受容してほしかった。だけど、家族の誰もが自分の中に父を見て、救いの手を差し伸べようとはしなかった。神様にすがるように、転弧は両手を伸ばして少女の頬に当てた。その顔を正面に向ける。ぼんやりと輝く灰色の瞳に、自分だけが映り込むように。

 

「だから、僕を見て」

 

 転弧の目の奥に、赤い輝きが見える。――その時、杳は理解した。これは、()の記憶の追体験なのだと。だとしたら、今目の前にいる心優しい少年が、(ヴィラン)に身を(やつ)してしまうほどに辛く悲しい出来事が、これから先、起きるという事になる。耐えられるのか?杳が転弧の肩をそっと掴んで、そう尋ねようとすると、彼は小さく笑った。その表情には、深い諦めと暗鬱の色があった。

 

「いいんだ。もう君がいる」

 

 

 

 

 たった一人の観客である杳の前で、再び、悲劇は幕を上げる。杳は気が付くと、またあの書斎の中に立っていた。弧太朗が暗く思いつめた表情で、母からの手紙を読み返している。パタパタとスリッパが廊下を擦る足音が複数近づき、母と老夫婦が開きっ放しのドアから中へ入ってきた。彼らの表情は皆、悲壮な決意に燃えている。

 

(限界だよ)

(……やり過ぎた。二人は?)

(手を挙げるならもうルールには従えない。幸せな家庭を創るって言ったじゃん)

(こんなはずじゃなかったんだけどな)

 

 弧太朗の気持ちは分かると、杳は思った。お母さんやおじいちゃん、おばあちゃんの気持ちも。書斎やリビングルームに飾られた写真の数々から察するに、きっとこの豪邸は弧太朗が建てたもので、何不自由ない暮らしも彼が提供しているものなのだろう。ヒーローの話さえしなければ、穏やかで豊かな暮らしが、この家の中でずっと続いていたに違いない。

 

 だけど、そうじゃないんだよ。杳はうなだれて、拳を強く握り締めた。他人の家庭に口を出すべきじゃない事は、重々承知している。でも、あなた達の行動は間違っていた。そして、()()

 

 言い争いを続ける家族を擦り抜け、庭先へ出ると、杳は犬を抱き締め、泣きじゃくる転弧のそばに座った。手を伸ばして、そっと少年の頭を撫でようとするも、自分の体は再び、実体を失くしていた。――いや、たとえそうでなかったとしても、()()杳には何もできない。何故ならこれは、過去の出来事なのだから。

 

(うう……やだ、僕、もうやだよ。ひっ……モンちゃん。僕やだ、もう。……皆、嫌いだ)

 

 次の瞬間、目の前で起きた現象を、杳はとっさに受け入れる事ができなかった。まず、犬がキャンと一鳴きした。そして、転弧が触れている手の付近から、犬の体毛上に亀裂が入り、バラバラに分解され、息絶えた。おびただしい量の血飛沫が芝生を染め上げる。弾けた肉塊の一つが少年の指先に触れた時、それは瞬く間にひび割れて、塵になって消え去った。

 

 その時、杳は全てを理解した。――転弧の()()()()()したのだ。考えうる限り、最悪のタイミングで。そしてその事を、転弧自身はまだ気付いていない。あまりに惨たらしい光景に茫然となった彼の呼吸は、やがて浅く早くなっていく。杳の背筋を戦慄が駆け抜けた。

 

(転弧ー。ごめん。ごめんね。あのね。違うの)

 

 縁側の大きなガラス窓を開け、華がこちらにやって来た。――今、ここに来てはダメだ!転弧はまだ個性の調整ができていない!杳は無我夢中で少年の前に立って隠そうとしたが、華には見えていなかった。気まずそうに口角を下げ、庭の奥で座り込む人影に向け、拙い謝罪の言葉を送る。

 

(ひみつって言って見せたの私なのに。……ごめん)

 

 分かるよ、華ちゃん。お父さんに怒られるのが怖かったんだよね。杳はやきもきするあまり、その場で地団太を踏んだ。だけど、謝るのは後にして。今すぐ家族のところへ走って、ヒーローを呼ぶんだ。――ああ、()()()()が。全ての個性を抹消する担任の姿が脳裏をよぎり、杳の両目から涙があふれた。彼が今、ここにいてくれたら。

 

 どうする事も出来ない杳の眼前で、弟の異変を感じた華は迷わず彼の下へ駆け寄った。そしてバラバラになった犬の亡骸を見るなり、悲鳴を上げ、逃げ出した。救いを求め、転弧は我武者羅に手を伸ばし、華の服を掴んだ。崩壊が始まる。パニックになって泣き叫ぶ華が、無数の肉塊へ変わり果てていく。

 

「すごく悪い敵が、僕らを狙ってるんだと思ってた。モンちゃんが崩れたのも。華ちゃんが崩れたのも。そいつのせいだって」

 

 独白とも思えるようなその言葉は、今、目の前にいる少年の口から発されたものではなかった。

 

 ――たとえるなら、それは()()()()()()()に近かった。患者が最も安全だと思える場所で、心的外傷(トラウマ)に向き合う。辛い過去の出来事から目を逸らさずに、その当時、感じた思いや感情、状況の整理を行う。そうする事で、トラウマは今なお自分を苦しめる()()から、過去の残骸へ昇華されるのだ。巨悪が家族の手を檻代わりにして封じ込め、今日まで熟成させていたその呪いを、杳は意図せずして解き放ったのだった。

 

 転弧の髪が白くなっていく。気が狂ったように、体じゅうをかき毟る。激しく嘔吐した少年は、体勢を大きく崩して、芝生に手を付けた。再び、個性が発動する。広々とした庭が、地面ごとひび割れていく。杳はもう何も考えられなかった。声にならない声を上げ、煙のような体で少年にしがみ付く。その時、またあの声が聴こえた。とても静謐で、確信に満ちたものだ。

 

「いや、()()()

 

 今、思えば、この時、僕はすでに理解していたのかもしれない。転弧はかつての状景を冷静に観測しながら、自らの心の輪郭をなぞった。――なんで父を庇うんだろう。なんで泣くなとしか言ってくれないんだろう。もう嫌だよ、僕。家族が少年に対して繰り返し行ってきた、小さな小さな積み重ねが、やがて一つの想いを彼の心に生み出した。『皆、嫌いだ』という、単純であるが故に覆しがたい、強烈な感情を。

 

 異変を感じて庭先に出てきた母と老夫婦も、転弧の発した個性に巻き込まれ、崩壊していく。その時、()()()()転弧の名前を呼び、駆け出して、彼を救おうとした。しかし、伸ばした両手が我が子に触れるより早く、彼女は息絶えた。家族を失った事で、個性がより大きく暴発する。激しい地震が起きた時のように、家ごと地盤が振動する。

 

 書斎を飛び出して縁側へやってきた弧太朗は、あまりに凄惨な状況に息を飲んだ。血の強烈な匂いが鼻孔を刺激する。血だまりと瓦礫の中に埋もれた、家族の体の一部を見たとたん、嘔吐感が駆け巡り、胃の中のものを戻しそうになった。スプラッタ映画の一場面を思い出させるような、悪夢のような感覚が彼を襲う。

 

 ――ただ、家族を守るために。ヒーローとして戦い、家族を置いて死んだ母と同じ道を、息子が辿らぬように。たとえ今はぎこちなくとも、いつかは皆、笑って暮らすことができるように。そう思って、心を鬼にして生きてきたつもりだった。その結果が、今、彼の目の前に展開されている。

 

 転弧はひどいパニック発作を起こしながら、声にならない声で父の名前を呼び、すがるように手を伸ばした。再び、凶悪な個性が牙を剥く。崩壊は弧太朗や庭だけでなく、立派な一軒家にも及んだ。全てが崩れ、土砂に変わっていく。轟然たる音響が周囲にこだまする。

 

 大きく体勢を崩し、弧太朗はうねるように波打つ瓦礫の中に巻き込まれた。視界の端に剪定バサミを捉えた彼は、夢中でそれを掴み取り――息子の暴走を止めるため――目の前で救けを求める、小さな頭をガツンと()()()。しかし数瞬後、弧太朗はハッと我に返った。そして自らの過ちに、やっと気づいた。彼は手を伸ばしたが、もう全てが遅かった。

 

(やめろ転弧!)

 

 ――その時、杳は見た。転弧の赤い双眸が、ゾッとするほど陰鬱で狂気じみたものへ塗り替えられていくのを。少年は()()()()()を持って、父に触れた。

 

(死ね!)

 

 ()()()()()()()が、転弧の全身を貫いた。――心のどこかでずうっと望んでいたんだろう。こうなる事を。かゆみはもう感じなかった。

 

 家族も、家も、何もかもがなくなって――瓦礫しか残らなくなった小さな世界で、体のどこかが破けてしまいそうなほどに声を枯らし、杳は泣いた。そして――そうすることしかできなかった――哀れな少年を、後ろからギュウッと強く抱き締めた。柔らかくて気持ちいいと、転弧は感じた。陽だまりの匂いがする。嫌いじゃない。そう言えば、初めて会った時も、彼女はこんな匂いのする雲を出し、自分を救ってくれた。

 

「……君は僕を否定しないんだね」

 

 転弧は静かに呟くと、前に回された少女の腕にそっと触れ、ひび割れた口元にわずかな笑みを浮かべた。




ひたすら長ぇ。まだ死柄木:オリジン編もあるんだよ…。グダグダで本当にすみません(;_;)
死柄木の解釈ってこれで合ってる…かな?めちゃくちゃ好きなキャラなのに、いまだによく分からん…100%妄想で書いてます( ;∀;)誰か詳しい人、教えてくれ…。


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No.37 死柄木弔:オリジン

※ご注意:残酷な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 少年を抱き締めていた両手が宙をかき、杳はハッと顔を上げた。どことも知れぬ街中に座り込んでいる。幹線道路沿いに多数の商業施設やオフィスビルが立ち並び、道路いっぱいに広がった人々が、川のように絶えず流れていた。――転弧くん。杳は少年を探すため、駆け出した。

 

 転弧はすぐに見つかった。十メートルほど先を行き交う人々が、ある箇所で――まるで何かを避けるように――小さなカーブを描いていたからだ。冷たく無関心な人々の檻を擦り抜けると、その中に転弧がいた。通行人は皆、不審げに少年を横目で見るが、すぐに立ち去ってしまう。

 

 あの後、家を飛び出してから何日も彷徨ったのだろう。服も手足もボロボロで、一番ひどいのは()だった。パッチリとしていた目は骸骨のように落ち窪み、その奥に狂気の色を宿した灼眼が輝いている。

 

(ボク?大丈夫?そんなボロ……)

 

 ふと、二人の前方を中年の女性が立ち塞いだ。見るからに人が良さそうな雰囲気を放つ彼女は、心配そうに転弧を覗き込んだとたん、恐怖に顔を引きつらせ、口を噤んだ。

 

(す、すぐ、ヒーローか警察か、()()()()からね。……おばちゃん会社に行かないとだから。ね)

 

 ぎこちない愛想笑いと言葉を浮かべ、女性は足早に去って行った。その後ろ姿を、転弧は呆けたように眺めている。”誰か来る”、女性の放ったその言葉が杳の耳にこだました。けれど、彼女を責める事はできない。杳はそう思った。むしろ声を掛けてくれただけ、親切だ。

 

 ――ヒーロー飽和社会と呼ばれる現代では、()()()()()()をする人々が大勢いる。下手に手を出してトラブルに巻き込まれたり、事態を悪化させたりするよりも、あともう少し待てばヒーローが来てくれる。今、自分が通報しなくとも、きっと他の誰かがしてくれるだろうと、皆、心の内で思っているのだ。それらは我が身を守るための賢い判断であり、意地悪な言い方をするなら、間接的な幇助行為であるとも言えた。

 

()()()、もし誰かが手を差し伸べてくれていたらって思うんだ」

 

 荒れた首筋をかきながら、転弧はポツリと呟いた。杳はしゃがみ込んで、落ち窪んだ少年の目を見上げる。――もし、誰かが手を差し伸べていたら。ヒーローや警察の下に、少年を連れて行ってあげていたら。未来は変わっていたかもしれない。自分と向き合い、罪を償えたかもしれない。新しい家族と一緒に、新たな人生を踏み出せていたかもしれない。学校で友達をつくり、放課後ヒロドを楽しんでいたかもしれない。

 

 だけど、()()()。小さく鼻をすすると、杳は少年のボロボロになった足に、雲でできた靴を履かせようとした。過去は変えられない。けれど、せめて仮初めの世界だけでも、彼の歩みが少しでも楽になるようにと。しかし、彼は小さく首を横に振り、それを拒んだ。

 

「いらない。ホラ見て」

 

 転弧が両足の踵を合わせると、傷ついた素足が、()()()()()()()に包まれた。サイドに白い翼のマークが刺繍されたそのスニーカーは、少年の足には大きすぎた。それでも彼はブカブカの靴を大切そうに見つめ、片足を揺らして遊ぶ。

 

「お揃いだよ。僕、嬉しかった」

 

 少年はひび割れた顔をほころばせ、年相応に幼く清らかな笑顔を見せた。”個性の暴発”により起きた悲しい事故、少年もその被害者である――とはいえ、家族を全員殺めてしまったのに――その事実を認めた上で()()()()()()()()。だが、杳はそれに気付かない。自分を慕う健気な心にただ胸打たれ、痩せっぽちな体をギュッと抱き締めた。フワフワの髪が乾いた頬に触れ、転弧はくすぐったそうに目を細める。

 

「……それに、もうすぐ救けが来る」

 

 耳元で囁かれたその言葉を杳が理解するより早く、周囲の景色が変わった。今度は、どことも知れない高架橋の下に立っている。薄汚れた支柱に背をあずけて足を投げ出し、転弧は目の前を流れる川面のきらめきをぼうっと眺めていた。

 

 ふと、その頭上に大きな影が差す。――何の前触れもなく、そこに一人の男が出現していた。

 

(誰も救けてくれなかったね。志村転弧くん。辛かったね。可哀想に)

 

 聞き覚えのある声だ。蕩けるように優しい(トーン)。記憶の世界で、ロックに囁いた声と同じ。――じゃあ、この人がオール・フォー・ワン。ロックと死柄木を歪めた人物。

 

 杳は眉根を寄せ、その男を注意深く観察した。年の頃は三十代後半ほど。背丈は高く、均整の取れた体格を上質なスーツに包んでいる。奇妙なのは、()()()()()()()事だった。目元から上がモザイクを掛けられたかのように靄がかり、確かめることができない。そういえばロックの記憶の中で、”ドクター”と呼ばれていた老人らしき人物の顔も同じような現象が起こり、判別できなかった。困惑する杳の前で、彼は大きな手を伸ばすと転弧に差し出した。

 

(もう大丈夫。僕がいる)

 

 

 

 

(……おとうさん、おかあさん。華ちゃん)

 

 転弧の虚ろな声がして、杳はいつの間にか閉じていた瞼を持ち上げた。真っ白な部屋の中に転弧がいて、机の上に転がされた大量の手を一つ一つ手に取り、家族の名前を呟いている。机の前にはオール・フォー・ワンと白衣を着た老人、ドクターがいた。相変わらず二人の面相は不鮮明で判別できないが、杳はそれよりも転弧の事が気になった。何故、手に家族の名前を付けているのだろう?その疑問に応えるように、オール・フォー・ワンは穏やかな声でこう言った。

 

(肌身離さず持ち続けなさい。想いが風化しないように)

 

 杳の思考は停止した。転弧が”おばあちゃん”と呼んだ死人の手には、さざ波のように細かな皺がある。死柄木の顔を覆っていた手の感触をふと思い出し、杳はとっさに両手で口を塞いで、込み上げてきた嘔吐感を堪えた。両足がわなわなと震える。

 

 ――()()()()を切り取り、転弧に持たせたというのか。それは傷口に塩を塗りたくるようなものだ。思い出すだけでも辛いだろうし、実際彼はそれで心が壊れてしまったというのに。何故、そんな悪意に満ちた事をするのだろう。

 

 次に瞬きした時、杳は簡素なベッドの上に座っていた。前方の床に、転弧が倒れている。だが、様子がおかしい。苦しそうにのたうち回り、顔のそばには吐瀉物が広がっていた。杳はベッドから転がり落ち、激しく体じゅうをかき毟る転弧に飛びついて、介抱しようとした。しかし、その手はまたもや実体を失くしている。歯がゆい思いをする彼女の背後から、あの優しい声がした。

 

(君は君自身にもコントロールできないほどの破壊衝動を抱えている。そいつが溢れて体に知らせているんだ。かゆみとしてね)

 

 振り返ると、オール・フォー・ワンがベッドの上に腰を下ろしている。彼は転弧を介抱するわけでなく、ただじっと観察していた。吐き気が吹き飛んでいく。杳の心に込み上げてきたのは、恐怖ではなく怒りだった。なんで助けようとしないんだ。あなたは救うために手を伸ばしたんじゃないのか。カッとなってオール・フォー・ワンを睨んでいると、誰かが自分の袖を軽く引っ張った。――()()だった。彼は唇を尖らせ、たしなめるようにこう言った。

 

「そんな目で見ないで。先生はいい人だよ。僕を救ってくれた」

(我慢なんてしなくていい。それは決してダメなことじゃない)

 

 いい人なわけがない。杳が言い返そうとしたとたん、オール・フォー・ワンの声が室内に響いた。耳で聴いているはずなのに、その声は内臓にまで染み渡った。もし仏様がこの世に現れたら、きっとこんな声を出すに違いない――そう思うほどに、慈悲深く優しい声だった。この人は転弧を甘い言葉で()()()、自分と同じ(ヴィラン)に育てあげようとしている。ますます警戒心を露わにする杳の手首を、不意に転弧が強い力で握り込んだ。痛さに息を詰め、視線を下ろした杳は思わず息を飲む。

 

 ――ゾッとするほど冷たく攻撃的な目で、転弧がこちらを睨んでいた。自分の話を上の空で聞く親に機嫌を損ね、かまってほしいと駄々を捏ねる子供のように、彼は頬を膨らませる。

 

「僕を見てって言ったよね。()()()()()()()

 

 その言葉は、たった5歳の子供の口から発されたとは思えないほどの重圧と凄味があった。びしり、と音を立てて、杳の手首の皮膚にわずかなひびが入る。血管が千切れ、大量の血が溢れ出す。痺れるような激痛が襲い、杳は声にならない悲鳴を上げた。思わず身を捩り、拘束から逃れようとしたその時――

 

(んだテメーは!俺らが道を歩いてんだよ!ガキだからって容赦されると思ったか?しねーよ!)

 

 ――突然、見知らぬ男性の怒声が飛んできて、杳はびくりと肩を跳ね上げた。いつの間にか、薄汚れた路地裏に座り込んでいる。転弧に掴まれていた方の手首は、血で真っ赤に染まり、もう少しで崩壊するところだった。すぐに氷雪で患部を固め、止血する。脈打つような痛みに耐えながら、それでも杳は転弧を探した。

 

 転弧は数メートル先の袋小路で見つかった。二人組のチンピラに絡まれ、暴行を受けた挙句、壁に蹴倒されようとしている。とっさに転弧のそばへ駆け寄ろうとする寸前、杳は気付いた。怒りと憎悪に満ちた表情で二人を睨み、おもむろに拳を握った転弧の口元が――ほんのわずかではあるが、()()()()()を形作っている事に。だが、それは一瞬の事だった。転弧は眉尻を下げると、ゆっくりと手の力を抜き、俯いた。

 

(ああ、可哀そうに。何を恐れている?心のままに動けばいい。でなければ君が苦しむだけだ)

 

 再び、背後からオール・フォー・ワンの声がして、杳は振り返った。――また、あの部屋に戻っている。オール・フォー・ワンは悠然とベッドに腰掛け、激しく嘔吐し、のたうち回る転弧を見下ろしていた。本当に、転弧は苦しそうだった。まるで体の中に猛毒の固まりを抱えていて、それをどうにかして吐き出したいと足掻いているようだった。杳はまたも手を伸ばすが、その手は幽霊のように少年の体を通り抜けていくばかりだった。その現象は、()()()()()力不足だと彼自身に拒絶されているようにも感じられた。

 

(大体の人の性癖は、普通だよ。だけど一部の人は、()()()()()してしまう場合がある)

 

 その時、何の前触れもなく、杳の脳裏にかつての航一の言葉がよみがえった。

 

(まあ、妥協点を見つけるのが大変だけどね。()()()()()()()その人が辛いだけだし……)

 

 転弧は原因不明のアレルギー症状に悩まされていた。彼がかゆみから解放され、心から晴れ晴れとした笑みを浮かべた状景は、杳の知る中でたった二つしかない。一つは、ヒーローである祖母の写真を見た時。そしてもう一つは――()()()()()()時。

 

 僕を見てと言った転弧の真意を、杳はやっと汲み取った。個性と性癖は時として、密接に関連し合うケースがある。トガが吸血を愛情表現としているように、たとえば人や物を崩壊させるといったような――()()()()()を転弧が有していたとしたら。それが、代替案など存在しないほどに強い欲望だったとしたら。オール・フォー・ワンが、本当に彼を救おうとしていたのだとしたら。

 

(さあ転弧。君はどうしたい)

(……僕を殴ったあの二人を殺したい)

 

 その言葉は、杳の心を残酷に撃ち抜いた。――そんな事、言っちゃダメだ。ヒーローに憧れていた優しい君が、誰かを殺したいだなんて。

 

 しかし、杳は同時にこうも思った。それが転弧の性癖だというなら、ヒーローとして受け止めるべきではないのかと。相反する強い想いに打ちのめされ、茫然とする杳の前で、転弧は机の上に這い寄ると、無造作に積み重ねられた手の一つを掴んだ。

 

(なんでか分からないけど、嫌な気持ちが溢れて止まらなくなるんだ。抑えられないんだ)

 

 死人の手は見る間にひび割れ、塵と化して崩れ去る。その様子を見た転弧の表情は、深い陶酔に落ちていった。オールフォーワンは鳥肌が立つほどに凄艶な笑みを浮かべ、優しい声で励ました。

 

(ならば頑張ろう)

 

 曇天から降り注ぐ雨が全身を濡らし、杳はハッと我に返った。むせ返るような血臭が、鼻孔を刺激する。足元に目をやると、赤黒い肉の塊が大量に落ちていた。背筋を戦慄が駆け抜けていく。悍ましい血溜まりの中心に、転弧がぼうっと佇んでいた。死人の手に隠された(かんばせ)は、とても穏やかだった。まるで全てのしがらみから解き放たれたかのように、清々しい表情を浮かべている。

 

 ()()()()()()。恐怖でろくに回らなくなった頭をなんとか動かして、杳は師匠の名前を呼んだ。あなたなら一体どうしますか、と。いつまでたっても応えのない呼びかけをしながら、杳は――小さく哀れだったはずの少年が――もはや自分の手には負えないほどの、恐ろしい(ヴィラン)に羽化していく音を聴いた。

 

(おめでとう。涙を飲んで歯を食いしばり、君は生まれ変わった)

 

 惜しみない拍手の音が、周囲に響き渡る。杳の前には、死人の手を体じゅうに散りばめた転弧が立っていた。まるで生まれたばかりの赤子を抱き上げるように、オール・フォー・ワンは愛情と労りに満ちた声で、そっと囁きかける。

 

(さあ、見せておくれ。君の姿を。死柄木弔)

(しがらきとむら?)

 

 転弧が不思議そうに尋ねると、オール・フォー・ワンは芝居がかった動作で両手を広げてみせた。

 

(弔う。死を悲しみ、別れを告げる事。志村転弧は弔いを招く存在へ生まれ変わるんだ)

(しがらきは?)

(……私の苗字)

 

 それを聴いた瞬間、転弧は歓喜の笑みを浮かべた。――かつて、彼が祖母の正体を知った時に見せてくれたものとは程遠い、陰鬱で狂気じみた表情だった。

 

 

 

 

 オール・フォー・ワンが立ち去ると、室内には弔と杳だけが残った。力なく俯いた杳の顔を覗き込むと、弔は指先で少女の口角を押し上げた。オールマイトのみならず、ヒーローはいつでも癇に障る笑顔を浮かべているものだ。困っていた人を救った後なら、尚更。弔は口の端を歪め、自ら手本を示すように笑ってみせる。

 

「なぁ、笑えよヒーロー。お前は俺を救ったんだ」

 

 ぼんやりした銀鼠色の双眸と、狂気に満ちた真紅色の双眸が、交錯する。――こいつのおかげで全部、思い出した。俺は()()()、お父さんを殺したくて殺した。お母さんたちが崩れゆくのを見て、心が軽くなった。家族を皆殺しにしたあの夜は、心的外傷(トラウマ)でもなんでもない。

 

「あれは悲劇なんかじゃない。……()()だ」

 

 そう、本当の自分になるための。生まれた意味が今、やっと分かった。弔は穏やかな表情で自らの両手を眺めた。

 

 ――俺はただ、()()()()だ。たったそれだけ。目の前にあるものを原型を留めなくなるまで、粉々になるまで壊し尽くす。世界の全てを瓦礫に帰すのが、ガタガタに整地された地平線を創るのが、俺の存在意義であり、夢だ。全てを成した後の事は、どうでもいい。弔が煩わしそうに体を振るうと、体じゅうを彩っていた家族の手が瞬時に砕け、塵と化した。

 

「未来なんていらない」

 

 顔を覆っていた手を取り、壊しながら、弔は自嘲めいた声で笑った。その言葉を聞いたとたん、杳の肩が鞭打たれたようにビクリと跳ねる。フラッシュバックのように、杳の心の底から、細切れになった記憶のコラージュが這い上がってきた。――墓石。冷たいガラスに遮られた、兄の笑顔。灯りの消えた家。塩辛い涙の味。恐ろしい穴に囚われた家族の姿。喪失感。もう戻らなくなった日常。

 

 ――生きていてほしかった。たとえ敵でも、大勢の人を殺していても。

 

 杳はポケットからスマートフォンを取り出すと、電源ボタンを二回押した。刹那、部屋の天井を突き破り、巨大な黄色い金属板が降って来た。二人の間を隔てるように床に突き刺さったそれは、スマートフォンをそのまま巨大化したような外見をしている。”通報完了”という電子文字が表示された画面を見上げると、弔は憤りも悲しみもせず、ただ静かに笑った。

 

「……ッ!」

 

 寂しそうなその笑みは、杳の心臓を激しくかき乱した。罪悪感と後ろめたさで、息ができない。

 

 やがて画面の奥から、プレゼント・マイクが顔を覗かせた。杳が世界で一番、()()()()()()()と思っている人物だった。通報した事に対する罪の意識、そしてこれから起こるであろう出来事への予想が、マイクというイメージを具現化させるに至ったのだ。マイクは杳を守るように前に立つと、好戦的な笑みを浮かべて大きく息を吸い込んだ。

 

 ――その瞬間、二人は敵とヒーローという、決して分かり合えない立場へ戻った。

 

 転弧と過ごした記憶が走馬灯のように駆け巡り、杳は激しく泣きじゃくりながら、心の内を叫んだ。あなたを救けたいのだと。弔が逮捕されたら、杳は時間の許す限り、刑務所に足を運んで向き合うつもりだった。彼が未来に希望を持てるようになるまで、根気強く話をするつもりだった。だが、その声は無情にもマイクの声にかき消されていく。

 

「ハハ。聴こえねぇよ」

 

 弔は乾いた声で、ポツリと呟いた。マイクの個性に巻き込まれ、周囲の世界が崩れていく。杳は不意に首根っこを掴まれ、どこか上の方へ引っ張られるような感覚に襲われた。弔が覚醒しようとしている。――転弧!杳は手を伸ばそうとしながら、叫んだ。

 

 

 

 

 杳はベッドから飛び起きた。心臓が今にも口から飛びだしそうなほど、激しく脈打っている。汗と涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔を拭こうともせず、血塗れになった右手の応急処置をしようともせずに、彼女は必死に周囲を見回して弔の姿を探した。

 

 ――この部屋にはいない。外に出てしまったのだろうか。何気なくドアに目をやった彼女は、()()()()()。ドアの表面に、大きな×(バツ)印が描かれている。崩壊の個性で壊したのか、くすんだ色の塵が焼け焦げたようにこびり付き、まるで血のように赤く見えた。

 

 ベッドから転がり落ちると、杳はドアにしがみ付き、開けようとした――とたん、勝手にドアが外側から開いた。勢いよく前に倒れかかった杳の体を受け止めたのは、黒霧だった。血に染まった杳の右手を見るなり、金色の目尻と靄の一部がまるで動揺したように、ゆらりと揺らぐ。だが、興奮状態に陥っている杳はそれらの異変に気付かず、黒霧に縋りつくと悲痛な声で叫んだ。

 

「黒霧さん!転k……しg、と、弔に会わせてください!話したいことがあるんです!」

「落ち着いてください。それよりも先に、貴方の手当てを」

 

 黒霧は杳が死柄木を名前で呼んだ事に、不思議そうな反応を見せた。しかしそれは数瞬の事で、彼はすぐさまワープの個性で救急道具を呼び寄せると、有無を言わさぬ態度で杳を部屋のベッドに座らせ、傷の治療をし始める。軟膏を塗って包帯を巻きながら、黒霧は穏やかな声でこう言った。

 

「我々も丁度、今後について()()()とお話がしたいと思っていたところです。治療が終わりましたら、死柄木弔のいる場所へ案内します」



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No.38 黒霧

※ご注意:非常に気分が悪くなる展開が含まれます。
このSSにおける一番の胸糞回が、今話となります。苦手な方は飛ばしていただき、No.39からお読みいただければと思います(あらすじを別途つけます)。本当にすみません(;_;)


 黒霧に連れられて入った部屋は、年季の入ったバーのようになっていた。酒棚に並べられたガラス瓶の群れを、古びた間接照明が照らしている。ぼやけたオレンジ色に染まった室内には人影がいくつか佇んでいて、それぞれ思い思いの場所で寛いでいる。その中に、ずっと探し求めていた人物を見つけ、杳は一目散に彼の下へ駆け寄った。

 

「爆豪くん!大丈夫?!」

「ウゼェ!心配すんなクソカス!」

 

 相変わらずの切れっぷりだ。杳に案じられるという状況が癇に障ったのか、爆豪は三白眼を直角に近い角度まで吊り上げ、怒鳴り散らした。だが、以前までは恐怖でしかなかったその反応も、今の杳には心地良く感じられた。まるで実家に帰ってきたような安心感が全身を包み込む。

 

 頑丈な拘束椅子に座らされてはいるが、爆豪は至って元気そうだった。彼の体をざっと確認してみても、外傷らしきものは見当たらない。杳が心から安堵していると――この数時間で随分と聴き慣れてしまった――しわがれた声がカウンターの方から飛んできた。

 

「おはよう。よく眠れたか?」

 

 ――弔だ。カウンターのスツールに腰かけ、ウイスキーと氷の入ったグラスを傾けている。死人の手に隠されたその表情と声には、杳に対する怒りも失望も、何も含まれていなかった。その淡々とした態度が、逆に杳の心を追い詰めていった。まだ口汚く罵られる方が、マシだった。

 

 杳は乾いた唇を舐めると、言葉を発するために、淀んだ空気を吸い込んだ。あなたが敵だから通報したんじゃない、()()()()()()通報したのだと、自分の口で伝えたかった。

 

「転弧。あのね……」

「今、爆豪くんを勧誘してたところだったんだ。面白いニュースがあってさ。お前も見るか?」

 

 弔は杳の言葉を遮ると、テーブルに置いてあったリモコンを取り、操作した。それは弔が杳に向けた、はっきりとした拒絶の意志だった。涙ぐんで俯く少女の顔を、ブラウン管が放つ人工的な光が照らし出す。

 

『……()()()()()()()()さん』

 

 突然、見知ったヒーローネームが耳に飛び込んできて、杳は弾けるように顔を上げた。分厚いガラス板の向こうに、きちんと身なりを整えた相澤が佇んでいる。彼の両脇には根津校長とB組の担任であるブラドの姿もあった。いつも自分を支えてくれた担任の顔が、新たに溢れ出した涙で滲んでいく。

 

「ビービービービー泣くなカス!」

 

 爆豪が不快そうに身を捩りながら、吐き捨てる。――同じ雄英・ヒーロー科とは思えないほど、二人は心の強さが違っていた。放映されている映像は、どうやらつい先程行われた、雄英側による謝罪会見の一部を抜粋したものであるらしい。杳が慌てて涙を拭っていると、荒んだ顔をした記者が立ち上がり、マイクを口元に近づけた。

 

『攫われた爆豪くんと白雲さんに対しても、同じ事が言えますか?』

 

 記者が自分達の名前を出した事に驚き、杳はニュースの内容に耳を傾けた。記者は淀みのない口調で、爆豪に関しては決勝で見せた粗暴さや表彰式に至るまでの荒々しい態度、杳に関しては本来の個性をまともに扱い切れていない事や精神面の不安定さを、朗々と指摘する。

 

『もしそこに目を付けた上での拉致だとしたら?言葉巧みに彼らをかどわかし、悪の道に染まってしまったら?未来があると言い切れる根拠をお聞かせ下さい』

 

 それは、あまりにも攻撃的な質問だった。空気が淀んでいく。相澤がメディア嫌いだと知っての挑発なのか、わざとストレスを掛けて粗野な発言を引き出そうとしているように思えた。――そもそも、自分達が攫われたのは相澤先生達のせいじゃないのに。杳が悔しそうに唇を噛み締めていると、弔が芝居がかった動作で両腕を広げてみせた。

 

「不思議なもんだよなぁ。何故奴ら(ヒーロー)が責められてる?」

 

 テメーのせいだろうが、と言わんばかりの爆豪の強い視線を歯牙にも掛けず、弔はなおも言葉を続けた。

 

「奴らは少ーし対応がズレてただけだ!守るのが仕事だから?誰にだってミスの一つや二つはある。”お前らは完璧でいろ”って?現代ヒーローってのは堅苦しいなぁ、()()()()よ」

「……?」

 

 弔が自分にしか声を掛けなかった事に、爆豪は一抹の疑問を感じた。そのわずかな表情の変化を機敏に察知すると、弔は薄笑いを浮かべて、ズボンのポケットから黄色いスマートフォンを取り出した。――自分のスマートフォンだ。杳の困惑した灰色の目と、弔の虚ろな灼眼が、小さな音を立ててぶつかり合う。

 

「ああ、()()()はもういいんだ。俺達を裏切って通報したからさ。プログラムを破壊した後だったから未遂に終わったけど。……そうだよな?」

「そ。そうだよ」

 

 数秒の拮抗の後、勝ったのは()だった。自分のした事に後悔はしていない。だが、その事で弔を苦しめているのが、杳にとっては辛かった。

 

「クソカス……」

 

 爆豪は大いなる感動に打ち震え、杳を見つめていた。まるで赤子が初めて立ち上がったのを目の当たりにした、父親のような表情だった。それぞれの想いを胸に秘め、対峙する杳達の前で、相澤がふと下げていた頭を上げる。

 

『行動については私の不徳の致すところです。ただ……体育祭での()()()は、彼の理想の強さに起因しています』

 

 思わずハッと息を飲むような、真摯でひたむきな相澤の眼差しが、ブラウン管越しに杳を射抜いた。

 

『誰よりも理想を追い求め、もがいている。そしてそれは()()()()()です。だからこそトラウマを乗り越え、前に進み続ける事ができている。あれらを見て隙と捉えたなら、敵は浅はかであると私は考えております』

 

 ――その言葉は、世界中のどんなものよりも強く、杳と爆豪の心を打った。体の底から、勇気と戦う力が湧き上がってくるようだった。記者達の心ない追撃の言葉を遮るように、根津校長は居住まいを正すと、小さな口元にマイクを寄せる。

 

『我々も手を(こまね)いているわけではありません。現在、警察と共に調査を進めております。……我が校の生徒は必ず取り戻します』

「ハッ。言ってくれるな雄英も先生も……そういうこったクソカス連合!」

 

 爆豪は勝気な表情でそう吼えながら、足先をほんの少しだけ動かし、杳にだけ分かるようにサインを送った。――”こっちへ来い”と。躾の行き届いた犬のように、杳がこちらにすっ飛んでくるのを確認すると、爆豪は”自分が合図したら拘束具を凍らせるように”と唇の動きだけで命じる。

 

 杳に拘束具を凍らせた直後、ゼロ距離爆破する事で()()()()を発生させ、拘束具を破壊する――わずか数秒の間に、爆豪は冷静な戦略を立てていた。連中がこちらの心に取り入ろうとする以上、本気で殺しにかかる事はない。裏切った白雲にまだ手を出していないのが、その証拠だ。奴らの方針が変わらない内に、白雲と共闘して何人か行動不能にした上で、脱出する。爆豪は不敵な笑みを浮かべると、敵の注目を自分だけに向けるため、さらに言葉を続けた。

 

「俺はオールマイトが勝つ姿に憧れた。誰が何言ってこようが、そこァもう曲がらねえ」

 

 その言葉を言い切る寸前、爆豪は杳に合図を送った。杳が力を込めて雲化しようとしたその時――

 

「残念だ。君達にはそれぞれ、素晴らしいプレゼントを用意していたのに」

 

 ――蕩けるような優しい声が、二人の鼓膜に染み入った。転弧の記憶の世界で何度も聴いた、慈悲深い(トーン)。オール・フォー・ワンだ。

 

 杳はごくりと唾を飲み、拘束椅子を冷気で満たしながら、油断なく周囲を見渡した。カウンターの一番奥に、薄型の液晶ディスプレイが置かれている。画面には”SOUND ONLY”という文字だけが、無機質に浮かんでいた。オール・フォー・ワンの声はそこから聴こえている。

 

「……先生」

 

 弔の虚ろな声を聴いた瞬間、杳はぞわりと肌が粟立つのを感じた。()()()は都市伝説じゃない、この世に実在する人物なのだと改めて実感したのだ。その言葉を聞き咎めた爆豪は、(あらかじ)め溜めておいた汗で爆破する準備を固めつつ、人を食ったような笑みを浮かべる。

 

「先生ェ?テメェがボスじゃねえのかよ。白けんな。……それにプレゼントなんざ、いらねーよ。どうせロクなもんじゃねェだろ」

「心が浮き立つような贈り物だよ」

 

 オール・フォー・ワンは思わず聴き惚れてしまうほどに上品な声で、小さく笑った。

 

「爆豪くん。君にはどんな強敵にも打ち勝つ事のできる、強靭な個性と肉体を。そして杳。君には……死別した兄ともう一度会えるチャンスを」

「デタラメだ。聞くな」

 

 杳が言葉の内容を理解するよりも早く、爆豪は鋭い声で忠告した。ニトログリセリンを含んだ汗が放つ、果実に似た甘い匂いが、杳の鼻腔にまとわりつく。弔が持つグラスの中の氷が融けて、からりと小さな音を立てた。オール・フォー・ワンは嘆かわしいと言わんばかりに溜息を吐く。

 

「おや、杳。君にとって彼はもう()()()()になってしまったのかな?……せっかく共にいる機会を創ったのに、彼がそうだとも気づかなかったね」

 

 オール・フォー・ワンがさらりと言い放ったその言葉に、杳は反応を示す事ができなかった。――今、彼はなんと言った?

 

「君が弔の傍にいる事を選択してくれたら、生きている兄に再会できたかもしれない。だが、可哀そうに。彼は()()()()だ」

「……え?」

 

 労りと悲しみに満ちた巨悪の声には――あの恐れ知らずな爆豪ですら――思わず怖気を振るうほどの()()が内包されていた。杳の返答には驚きや恐怖も、何の感情も含まれていなかった。声というよりは、ただの信号、ただの音に近い。理解できなかったからだ。――どこに兄がいるんだ?杳は口をポカンと開け、キョロキョロと周囲を見回すが、どこにも兄の姿はない。

 

 その一方で、爆豪はすぐさま真実に辿り着いた。”生きている兄”という単語を、敵連合が有する人造人間である()()と結びつけるのは、聡明な彼にとって造作もない事だった。

 

 にわかには信じられず、そして考えたくもない事だが、白雲の兄の遺体を原材料に脳無を創った。そしてその悍ましい事実を――よりによって、()()()()()突き付けようとしている。連中のうち、誰が脳無かなんてすぐに分かる。明らかに()()()()、人の形を成していないからだ。爆豪は凄まじい眼力を飛ばして黒霧を牽制しながら、どすの効いた声を放った。

 

「おいKY女。そいつの話を聴くんj――」

「邪魔するなよ」

 

 継ぎ接ぎだらけの手が、爆豪の顔を覆った。青色の火花が脅すように眼前で散らされ、爆豪は悔しそうに唇を噛み締める。――まだ拘束も解けていない状態で、多数の敵と戦うのは危険だ。何より、白雲は()()()()()()()()となる。彼女が冷静さを欠いている今、迂闊に動く事はできない。

 

 大人しくなった爆豪を見下ろすと、荼毘は酷薄な笑みを浮かべた。そして顔を近づけ、押し殺した声で囁く。プレゼントの包装を解くのが待ち切れない、小さな子供のように浮き立った声だった。

 

「さあ、偽善者のメッキが剥がれるぞ」

 

 二人の攻防も、杳は何も聞いていなかった。――兄は十三年前に死に、荼毘に付された。お骨も家にある。ここにいるはずがない。そう言い返そうとするも、舌先が渇いて喉の奥に張り付き、声が出なかった。

 

 ()()()()()()()がその考えを否定し、オール・フォー・ワンの言葉こそが真実だと告げていた。だが頭が理解しても、心が追いつかなかった。視界の端に黒い靄が映る。その方向を見るためには、超人的なエネルギーが必要のような気がした。杳の異変に気付いたオール・フォー・ワンは、感心したように小さく唸る。

 

「これは失礼。君は気付かないふりをしていたのか。……興味深いな」

 

 遠くで、どこか遥か遠くの方で、得体の知れない何かがこちらに向かって一斉に這って来る音が聞こえた。それに捕まってしまったら、もう二度と元に戻れないような予感がした。

 

 心の片隅で、杳は”弔達と自分は()()()()の住人なのだ”と思っていた。彼らの境遇には同情するが、共に生きる事はできない。杳はヒーローで、深淵から敵を救い出す事が使命だからだ。自らが深淵に落ちる事はない。そう、()()()()()。不意に足元が音もなくひび割れ、露わになった深淵がこちらをじいっと覗き込む。

 

 ――思い返せば、初めて出会ったUSJ襲撃の時も、彼は不思議と敵という感じがしなかった。何故、あの時、”夜の散歩”と言ったのだろう。自分が苺や冷たいものが好きだと()()()()()分かったのだろう。そして何故、一緒にお茶をしたいと思ったのだろう。考えれば、分かる事だった。

 

 だが、杳は分からないふりをした。気付かないふりをした。そうしなければ、自分の心が壊れてしまうからだ。いよいよ間近に迫ってきた恐ろしい真実を振り払うために、杳は引きつった笑みを浮かべ、声にならない声を絞り出した。

 

「な、なんで。そんな……。だって、お兄ちゃんは十三年前に……」

「葬儀場の遺体をすり替えるのは簡単な事だよ。ロックもそうだったろう?」

 

 オール・フォー・ワンは赤子をあやすように優しい声音で、杳の退路を断ち切った。

 

「杳ちゃん!トガが教えてあげます!黒霧さんがね――もがっ」

 

 いつまでたっても真実に辿り着こうとしない杳を救けてあげようと、トガは元気良く挙手し、真実を告げようとした。しかし、マグネが素早くその口を塞ぐ。眉をしかめ、不満そうに見上げるトガの額に軽くデコピンしつつ、マグネはひどく投げやりな口調でこう言った。

 

「関わっちゃダメよ」

 

 マスク越しでも分かるほどに顔を歪め、今にも飛び出そうと体を屈めているトゥワイスの前に立って通せんぼをすると、マグネは”あんたもね”と囁いた。マグネは彼女なりに敵連合のルールを守り、激情に任せてそれを破りかけている仲間達を、さりげなく守ろうとしていた。

 

 トゥワイスは血が滲むほどに強く唇を噛み締め、絶望の涙に濡れた目で、ほんの数メートル先で演じられる――悲劇の一幕を鑑賞し続ける。

 

「なんで、そんなことを?お、お兄ちゃんが……私が、あなたに、悪いことをしたんですか?」

 

 ()()、オール・フォー・ワンの所業が真実だとして、何故そんな極悪非道な事をするに至ったのか、杳には皆目見当がつかなかった。微塵も理解できない。もしかしたら過去に、自分か兄が何か許されない行いをして、彼の恨みを買ってしまったのかもしれない。そうでもなければ、納得ができない。

 

「意味などないよ。敢えて言うなら、そうだな……ワインと同じさ。踏みにじって絞り出すんだ。僕はその味を楽しみたいだけ」

 

 ”踏みにじって絞り出す”――その言葉を聞いたとたん、杳は数ヶ月前にソーガから与えられた、ある情報を思い出した。

 

(脳無。お前もUSJで見たんだろ。あいつは、死体を元にして造られた”人造人間”だ。脳みそから心臓まで滅茶苦茶にして、複数の個性に耐えられるようにするんだと)

 

 嘔吐感が駆け巡り、杳は埃だらけの床に手を付いて、唾液混じりの胃液を吐き出した。――脳無の悍ましい外見と、兄の優しい笑顔が交互にフラッシュバックして、気が狂いそうだった。呼吸がどんどん浅く、早くなっていく。息ができない。苦しい。爆豪が抵抗しているのか、室内の気温が徐々に上昇し、焦げ臭い匂いが立ち込め始めていた。

 

 誰か、誰か、助けてくれ。芋虫のように床を這いずり、杳はのたうち回った。こんな現実、受け止められない。心が壊れてしまう。

 

 しかし、その場にいる――爆豪を除く誰もが――杳をじっと観察するだけで、救いの手を差し伸べようとはしなかった。彼らにとって、こんな悲惨な出来事は日常茶飯事だった。それらに身も心もボロボロにされ、狂いに狂い果てた末に、彼らは(ヴィラン)になったのだ。

 

 杳と弔達とでは、最初から生きる世界が違っていた。彼らと通じ合えたと思ったのは、杳の勘違いだった。――家畜が屠殺場に送られるまでの間、気まぐれに愛でてくれていただけだったのだ。

 

「杳。大丈夫だよ」

 

 蕩けるように優しい声が、頭上から振ってくる。いつの間にか傍らにしゃがみ込んでいた弔が、ぎこちない手つきで、杳の背中を撫でていた。かつて杳が彼にしたのと同じように何度も繰り返し、優しい力加減でさすっている。

 

「俺はお前が脳無になったって、嫌いにならない。ちょっと痛いかもしれないが、手を握っててやるから。……頑張ろうな」

 

 慈悲深い声音とは裏腹にその内容は、思わず耳を塞ぎたくなるほどに()()()()()だった。濁った灼眼が自分を覗き込んだとたん、声にならない悲鳴を上げてその手を振り払うと、杳は壁際に這いずって逃げた。弔を転弧と呼んで慕っていた頃が、悪夢のようだった。――()だ。決して相容れない存在なんだ。畏怖と拒絶に満ちた眼差しを隠そうともせず、彼女は弔を凝視した。

 

 ――()()()()()が、杳のヒーローとしての意識の低さを決定づけるものだった。荼毘の言葉は的を射ていた。絶望の中から立ち上がる事のできる者をこそ、人はヒーローと呼ぶ。彼女はまだその器ではなかったのだ。航一から習った事は、もう彼女の頭の中から消えていた。

 

 ふと、眼前に誰かが屈み込んだ。黒く暗鬱とした靄が、杳の視界を奪っていく。――黒霧だった。

 

「貴方は誇りに思うべきだ。彼に選ばれた事を」

 

 その声には、何の悪意も含まれていなかった。心からそう思っているような声だった。杳が自分と同じ脳無になる事を、誇りに思っているような声だった。

 

 ――人の記憶は、()()()消えていくと言われている。だが、杳は人使に()()()を偽装された時、すぐにそれだと分かった。十三年もの時が経っているというのに、彼女の記憶は少しも風化していないのだ。

 

 杳は兄に会いたかった。たとえ死体でも、生前とは似ても似つかない姿に変わり果てていたとしても、兄に会いたかった。

 

 だから、杳は手を伸ばした。目の前に広がる黒い靄に両手を差し入れて、中にある輪郭をなぞろうとした。小さな頃、自分が黒い靄の世界から手を伸ばし、現実世界にいる兄の顔に触れたように。

 

 ――冷たい金属板と管、ほのかに肉を思わせるような感触が、指先に伝わった。頭の形は凸凹(デコボコ)としていて、明らかに人間の形ではなかった。

 

 だが、兄だった。それは紛れもなく、兄だった。杳の本能が、知覚能力が、そう断言していた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(兄ちゃんはお前のヒーローだ。どこにいたって救けてやるからな)

 

 杳がまだとても小さかった頃、兄は快活に笑いながら、小さな彼女を軽々と抱き上げ、真上に広がる青空に掲げてくれた。

 

 ――兄は、青空と太陽が好きだった。お日様に照らされてキラキラと輝く空に浮かぶ杳を見上げては、”自分の好きなもんばっかりだ”と、よく笑っていた。その明るい笑顔が、不意に霞んでいく。黒い靄が滲み出し、世界の全てを覆い尽くして、何も見えなくなる。

 

(ヒーローは貴方の兄を救わなかったというのに)

 

 真っ暗な世界の奥で、かつて黒霧の放った言葉が、恐ろしいモンスターに変異する。それは牙をむき出して杳へ襲い掛かり、彼女の心を粉々に噛み砕いた。ぼんやりとした杳の双眸から、ふっと光が消える。

 

 ――人の顔から正気が失われていく瞬間を、爆豪は生まれて初めて、目の当たりにした。緑谷に心無い言葉を投げかけた時、彼が浮かべた表情や雰囲気とは()()()()()。杳が虚ろな声で”ごめんなさい”と呟いたその時、彼の中の理性が吹き飛んだ。

 

 優れたヒーローになる者は皆、”気が付けば体が動いていた”と言う。ただ目の前のクラスメイトを救うため――戦術など何もない、自分の命を度外視した――無謀な脱出を、爆豪は迷いなく実行した。

 

 荼毘の火炎攻撃を可能な限り身を逸らして避け、拘束具を爆破させて破壊し、爆豪は杳の前に滑り込んだ。目の前に展開されたワープゲートを一歩下がる事でかわし、その下がった反動を勢いに変えて踏み込んだ。黒霧の首部分を狙うように、拳を繰り出す。凄まじい爆破が起こり、黒霧はたまらず数歩、下がった。

 

 爆豪の姿は、無惨に変わり果てていた。全身が焼け爛れ、一部では細胞が壊死を起こしていた。特に荼毘の攻撃を受けた上半身がひどかった。衣服もボロボロで、そこかしこから黒ずんだ皮膚が見え隠れしている。

 

 彼が意識を保って動けているのは、”爆破”という個性に特化した頑強な皮膚と肉体を有しているからだった。だが、それにも限度というものがある。満身創痍、そして多数の敵に囲まれた状態で、それでも爆豪は杳を守った。口の端から煙を吐き出しながら、彼は地を這うような低い声を放つ。

 

「……テメーら全員ブチ殺す」

「はは。その体でか?」

 

 弔が向けた侮蔑と嘲笑を、爆豪は真っ向から受け止めた。自分達を捕えようと動き出す敵の動きに目を配り、今にも霞もうとする視界と意識に活を入れる。場の緊張感が最大限に高まったその時――

 

「どーも!ピザーラ神野店でーす!」

 

 ――のんびりした愛想の良い声が、バーのドアから飛んできた。杳を除く全員が、思わずその方向へ視線を向けた瞬間、部屋の壁を豪快なSMASHで吹き飛ばしながら、”平和の象徴(オールマイト)”が彗星のように降ってきた。




リカバリーガールがいなかったら、この世界は大変だろうなと思います。爆豪くんの体は後々、綺麗に治りますのでご安心を…。次回は人使達が大活躍!


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No.39 神野事件①

【No.38のあらすじ】
杳は黒霧に連れられて、アジトのバーへ。そこには敵連合の人々と爆豪がいた。弔の勧誘を拒絶し、杳と爆豪はヒーローとして戦う決意をする。そんな中、杳は黒霧の正体が兄・朧だという衝撃の事実を知る。心神喪失状態となった杳を救うため、爆豪は決死の覚悟で拘束を抜け出し、敵達に対峙する。そこへオールマイト達が救援にやって来て…。

※追記:作中に出てくる”特殊拘束具(フェンリル)”はオリジナルです。



 分厚いビルの外壁を内装ごと一撃で貫いて、”平和の象徴”オールマイトが彗星のように降ってくる。ヒーロー達による奇襲にいち早く反応したのは、弔と黒霧だった。弔は干からびた唇を開き、素早く命じる。

 

「黒霧!ゲート――」

 

 黒霧の体を構成する靄が揺らめき、ワープゲートを作成しようとしたその時、降り注ぐ瓦礫の中から力強く脈打つ()()()が飛び出した。それらは獲物を定めた蛇のように空中を切り裂いて、敵連合の面々に絡みつく。

 

「”先制必縛、ウルシ鎖牢”!」

 

 シンリンカムイが繰り出した樹枝は(ヴィラン)達を捕縛すると同時に肥大し、指先一本動かす事のできないように、凄まじい力で締め上げた。歯の根が響くような轟音と共に、周囲に濃厚な新緑の香りが満ちた事により、杳の虚ろな意識は少しだけ覚醒した。ぼんやりした視界の中に、()が枝に絡み付かれて、苦しそうに顔を歪めている光景が映り込む。

 

「がああっ!」

 

 刹那、シンリンカムイの周囲が()()()()()()()。くぐもった雷鳴と共に、一陣の風が吹き抜ける。――雲化した()が、シンリンカムイに掴み掛っていた。杳の胴体部分はスノードームのように淡く透け、中には禍々しい雷雲が滞留している。数万Vに達する小雷のエネルギーは凄まじい高熱でもってシンリンカムイを内側から焼き尽した。彼の四肢から力が抜け、仰向けに倒れていく。黒焦げになったマスクの継ぎ目部分から、黒い煙が零れた。

 

「――ッ?!」

 

 シンリンカムイを含めたこの場にいる誰もが、まさか()()()攻撃を仕掛けてくるとは思わなかったのだろう。オールマイト達が杳達を救うため、綿密に準備してきた戦局が、皮肉にも杳自身の手によってひっくり返されようとしていた。

 

 数百分の一秒、瞬きさえできないそのわずかな間、ヒーロー達の動きが止まる。この機会を黒霧は逃さなかった。周囲に漂い始めた複数のワープゲートの生成を阻止するべく、今度はグラントリノが電光石火で黒霧に肉薄する。だが、それも――雷獣と化した杳が阻んだ。

 

「……」

 

 グラントリノと対峙する杳の目は涙で濡れ、濁っている。明らかに正気の状態ではない。――洗脳か、脅迫されているか。グラントリノは眉をひそめると、黒霧の関節部分を狙った強烈な蹴り技を()()()()()()。周囲を薙ぎ払うように右足を振るい、その足先からジェットを噴出させる。少女の個性が”風に弱い”と聞き及んでいたためだ。果たして彼の思惑通り、杳はぐらりと体勢を揺らがせた。

 

 集中を欠いた事で、杳の雲化が強制解除されると同時に、漆黒の糸が――グラントリノを迂回するようにして――杳とその後ろにいる黒霧をまとめて貫いた。エッジショットだ。意識を失い、沈黙する黒霧の体から、元の姿に戻ったエッジショットが出てくる。彼は音もなく跳び、気絶した杳の体が地面に触れる前に、素早く抱きかかえた。

 

 杳が決死の覚悟で黒霧を守り、ひっくり返そうとした戦局は、たった一秒足らずで元の状態に戻った。しかし、その時間は()にとって、決して無駄にはならなかった。――黒霧を攻撃されたら、お前は当然そうなるよな。時間稼ぎ、助かったよ。自身を捕えようとするオールマイトの碧眼と、弔の狂気に満ちた灼眼が、音を立ててぶつかり合う。陰鬱な笑みを浮かべると、弔は緩んだ拘束ごと地面に伏せ、掌をひたりと床に押し当てた。

 

 その瞬間、弔を起点として半球状の()()()()()()()()()が発生した。不可視のフィールドは瞬く間に膨張し、触れたもの全てを塵に変えていく。体の底から込み上げてくる万能感、細胞の一つ一つが生まれ変わっていくような快感に、弔は涎を垂らし、歓喜した。弔の周囲から崩壊が伝播し、やがて全てを崩壊させ、塵に帰す強力な個性――それが彼の個性の()()姿()だった。杳と共に往った記憶の旅路は心の解放だけでなく、個性の覚醒をも促していたのだ。

 

 このままフィールドを拡大すれば、周囲にいる仲間を巻き込んでしまう事も、弔は何も考えなかった。死柄木が全てを支配する個性に呑まれたように――彼もまた、目覚ましい進化を遂げた自身の個性に溺れた。ただ、目の前に広がる全てを、宿敵を壊す。その想いを成就させるため、彼は崩壊の波をさらに奥へと押し込んだ。

 

「ッ!」

 

 オールマイトの目には、精緻なハニカム構造となったフィールド層が()()()()()。半球状の膜を構成する、細かな粒子の一つ一つに――凄まじい崩壊のエネルギーが詰まっている。瞬きする間もなく、火薬の爆発などで生じる衝撃波のように、それはこの建物をまるごと飲み込まんと膨れ上がった。

 

 弔の個性が”触れたものだけを崩壊させる”と知っているヒーロー達からすれば、彼のそれも完全なる奇襲だった。崩壊は伝播し、半径数メートル内の空間を塵に帰していく。死の球体に取り込まれる前に、動ける者は皆、その場から逃げ出した。

 

 しかし弔は、オールマイト()()()その場から逃げないと分かっていた。――フィールドのすぐ傍に、杳を抱えるエッジショットがいたからだ。ヒーローはあくまで人命救助優先、そしてこの絶望的な状況下で、二人を救い出せるのはただ一人、オールマイトだけ。

 

 果たして弔の目論見通り、オールマイトは二人の傍に駆け寄ると、彼らの体を抱きかかえた。そうして踵を返そうとしたその足先に、不可視のフォースフィールドが到達する。鮮やかな三原色のブーツの塗装が、塵になっていく。呆気ないな、ラスボス。ゲームオーバーだ。窮屈な蛹から抜け出し、蝶が大きく美しい羽根を伸ばすように、弔は快感と達成感に酔いしれた。やがて崩壊の波はオールマイトを飲み込み、弔は本当に彼を殺せた――

 

 

 

 ――()()()()()。不意にその波が、時の流れを凍らせたように、静止する。辛うじて崩壊を逃れたオールマイトは、訝しむような視線を弔に投げつけた。対する弔は、全く()()()()を見ていた。波打ち際で揺れる、小さな赤いスニーカーを。その白い紐が塵に変わったとたん、まるでその先を冒す事を拒むように崩壊の波は揺らぎ、そして停止してしまったのだ。

 

(お前は俺を救ったんだ)

 

 あの時、軽い気持ちで投げつけた言葉が、弔の心へ跳ね返ってくる。――違う。弔は虚ろな声で呟いた。そんなつもりで言ったんじゃない。

 

 

 

 

 鳴羽田で出会って以降、弔は杳に対し興味を抱いていたが、じっくりと時間を掛けて確認した結果、()()()()。彼女はやはり、ただの家畜だったのだ。理解のある優しい人間を装っていたが、結局はオールマイト達と同じ側の人間だった。弔達の気持ちを知っていながら、杳はヒーローとして生きるために、彼らの手を振り払って逃げた。そして黒霧が兄の遺体から創られたと知ったとたん、彼女はヒーローにも盾突いた。

 

 ――敵にもヒーローにも成り切れない、卑怯な薄っぺらい人間。杳の検品結果はそれだけだ。後は屠殺場に送られ、加工されるのを待つだけ。

 

 最初は哀れに思うかもしれないが、どうせすぐに忘れるだろう。パック詰めされた精肉に同情する人間がいないのと同様に。杳の肉体は少し特殊で、塵になっても死体として充分に使えると先生は言っていた。今から弔がする事に何ら支障はない。どうせ彼女は死ぬ。少し、その時間を早めてやるだけの話だ。

 

 屠殺場へ送られるトラック、その通気口から、ぼんやりした灰色の目がひょっこりと覗いて、転弧を見下ろす。

 

 ――それだけだ。それだけだったじゃないか。

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 ベンチに座り、お茶をする。

 揃いのものを身に着ける。

 食卓を囲んでお喋りをする。

 興味をもち、質問する。

 優しく触れたり、抱き締める。

 自分の事のように心配し、怒り、喜び、そして泣く。

 

 杳が転弧に手渡してきた”小さな善意”は、そういう些細なものだった。個性や賢さなどは関係ない。誰にでもできるような事だ。数秒もたてば忘れてしまうほどに、ささやかな日常の詰め合わせ。それらは善意ではなく、ただのコミュニケーションやスキンシップの一種だと、一笑に伏す者もいるかもしれない。

 

 ――だから、転弧は忘れていた。だが、彼の心は覚えていた。それらは今まで誰も、彼にしてこなかった事だったから。

 

 人々が見惚れるほど大きな石筍(せきじゅん)は、()()()()から始まる。途方もない年月を掛け、それは積み重なり、やがて見上げるほどに壮大な結晶体へと成長する。杳が転弧に対して取ってきた行動は、その最初の数滴だった。ともすれば、何かの拍子に――例えば、通りがかった獣に踏み散らされたりして、無くなってしまうかもしれない。そんな儚い存在でも、踏み散らされるまでは、決して消えない。大いなる未来の礎となるため、そこにあり続けるのだ。

 

 杳は確かに転弧の覚醒を幇助したが、同時に()()()()も与えていた。今にも消えそうなほどに、かすかなその光は――転弧には強すぎた。遅効性の毒のように、気が付かない間に体内へ蓄積されてゆき、ふとした時に自由を奪い去っていく。

 

 

 

 

 埃だらけの床に押し当てた弔の手に、()()()()()が喰らいついた。甘噛み程度の痛みしか与えられないその牙は、現実時間にしてほんの数瞬、弔が展開するフォースフィールドを停止させるほどの力を有していた。そしてその時間は、ヒーロー達が巻き返しを図るのに充分なものだった。

 

「グラントリノ!特殊拘束具(フェンリル)を!」

 

 オールマイトは今しがた開けたばかりの風穴を通過し、外で待機している塚内に杳を託すと同時に踵を返し、優に十数メートル以上は離れているフォースフィールドとの距離を、わずか一歩で至近とした。それは、弔の感覚を完全に超越した素早さだった。加えて、レーザービームのように射出された威圧(プレッシャー)が、弔を真っ向から押し潰す。オールマイトは崩壊の波に触れる事も厭わず、拳を握り締め、渾身の一撃を放った。

 

「――”TEXAS SMASH(テキサス スマッシュ)”!」

 

 繰り出された拳から凄まじい風圧が押し出され、弔を蹂躙する。急接近、威嚇、そして風による攻撃――No.1ヒーローによる怒涛の三連撃に、弔のフォースフィールドはたまらず砕け散った。刹那、グラントリノが豪風と共に襲来し、弔の両手にオリハルコン製のハンドカフスを嵌める。漆黒の光沢を放つその拘束具は、捕えた者の個性を封印する、移動式牢(メイデン)と同じ効果を有していた。

 

「……ッ!」

 

 弔は拘束具を壊そうと躍起になるが、それは頑として外れない。――あともう少しで、全てが壊せるはずだった。なのに、あいつのせいで!弔の狂気と憎悪に満ちた灼眼が、虚ろな風が吹き荒ぶ大穴へ向けられる。その視線から杳を守るように、オールマイトが穴の前、つまりは弔の正面に立った。幾多の戦いを乗り越え、磨き上げられた勇猛な眼差しが、矢のように放たれる。

 

「さて。もう逃げられんぞ、敵連合。何故って――我々が来た!」

「ピザーラ神野店は俺達だけじゃない。外はエンデヴァーを始め、手練のヒーローと警察が包囲してる」

 

 エッジショットがドアの鍵を開けると、大勢の機動隊員が雪崩れ込み、分厚いシールドとテーザーガンを構え、敵連合の面々を包囲した。続いてやってきた医療ヒーロー達は、重度の火傷を負ったシンリンカムイと爆豪をタンカに載せ、外へ運び出そうとしていた。今にもタンカに載せようとするヒーローの手を振り払い、自分の足で行くと意地を張る爆豪と目線を合わせ、オールマイトは優しく力強い言葉を贈った。

 

「怖かったろうに……よく頑張った。あの子を守っていたんだろ?……ごめんな。もう大丈夫だ、少年!」

「こっ……怖くねーよ!ンなの、掠り傷だ。ヨユーだヨユー!」

 

 爆豪は潤みかけた視界を悟られまいと、煙の味がする唾を吐きながら、啖呵を切った。一方の弔は周囲を見回し、状況を確認する。高火力を持つ荼毘、黒霧は気絶。他の仲間達もフェンリルの先端から射出された鎖を床に繋がれ、その場に拘束されている。――あまりにも、絶望的な戦況だった。その残酷な事実をまざまざと見せつけるように、オールマイトは揺らめく正義のオーラを纏わせ、堂々たる立ち振る舞いで対峙する。

 

「いたいけな少女まで()()()()……おいたが過ぎたな。ここで終わりだ、死柄木弔!」

「終わりだと?ふざけるな。……まだ始まったばかりだ」

 

 死人の手の奥で、弔はギリギリと歯噛みし、拘束具を引きちぎろうと抵抗した。だが、フェンリルはびくともしない。

 

「正義だの、平和だの、あやふやなもんでフタされたこの掃き溜めをぶっ壊す……その為に諸悪の根源(オールマイト)を取り除く。仲間も集まり始めた。……ここからなんだよ」

「引石健磁。迫圧紘。伊口秀一。渡我被身子。分倍河原仁」

 

 グラントリノが淡々と告げていく人名に思うところがあったのか、敵連合の面々はぴくりと肩を引き攣らせた。それらはいずれも、彼らが(ヴィラン)に成り果てた際に脱ぎ捨てた、一市民としての名前だった。黒霧と荼毘の手にも拘束具を掛けながら、グラントリノは言葉を続ける。

 

「もう逃げ場ァねえってことよ。なぁ死柄木。聞きてぇんだが……おまえさんのボスはどこにいる?」

「……」

 

 弔は黙して、何も語らなかった。いや、あまりの敗北感、そして無力感に打ちのめされて、何も語る事ができなかったのだ。もう、ゲームオーバーだ。何もかも。――彼の師、オール・フォー・ワンに手を差し伸べられた時の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 

(誰も救けてくれなかったね。辛かったね……志村転弧くん)

 

 今まで――オール・フォー・ワンを除いて――誰一人として、彼を救おうとはしなかった。救いを求めても無視をされ続け、十数年越しにやっと差し伸べられた手は――拳を固く握っていて、安全装置を外したテーザーガンを構えていて、そして明確な敵意を宿していた。

 

(”ヒーローが”、”そのうちヒーローが”、皆そうやって君を見ないフリしたんだね。一体誰がこんな世の中にしてしまったんだろう?……君は悪くない)

 

 大敗を喫した弔の心が砕け、散らばった欠片から憎悪の感情が滲み出していく。杳と共に歩んだ自身の記憶のコラージュが、蜃気楼のように浮かんでは消えていった。――父に虐待されていると知っていても、自分を救おうとしなかった母や祖父母も。嘘を吐いて自分を陥れた姉も。理想を押し付けようとした父も。無関心に通り過ぎていく街の人々も。今、自分達を包囲している、憎らしいオールマイトやヒーロー、警察達も。全てを壊し、新しく塗り替えるため、コツコツと盤上を整えてきたというのに。

 

「こんな呆気なく……ふざけるな……失せろ……消えろ……」

 

 ――転弧を救う者は、ここにはいなかった。深い絶望の瘴気に当てられて、彼の体じゅうから冷たい汗が噴き出し、体温が下がっていく。オールマイトは力強く一歩踏み込むと、威嚇と気合のぎっしり詰まった声で、轟々と吼えた。

 

()は今どこにいる?死柄木!」

「――おまえがッ!嫌いだッ!」

 

 思わず耳を塞ぎたくなるほどに悲痛な声で、弔が泣き叫んだその瞬間、彼の周囲の空間から――黒い泥のようなものをまとった()()()()()が出現した。脳無は部屋の至る所に現れ、目が合ったヒーローや警察達に攻撃を仕掛けていく。警察官を襲おうとした脳無に向け、強烈な爪先蹴りを撃ち込みながら、グラントリノはエッジショットに怒鳴った。

 

「エッジショット!黒霧は――」

「気絶している!こいつの仕業ではないぞ!」

 

 脳無の急襲はビル内だけでなく、エンデヴァーや塚内達のいる外の世界にまで及んでいた。数体どころではない、何十体もの脳無の群れが地獄の底から蘇り、黒い粘着質な泥の膜を突き破って、人間界に仇をなそうと蠢いていた。まるでこの世の終わりのような光景にも一切怯まず、エンデヴァーは周囲に点在するヒーローや警察の人々を巻き込まぬよう、精密かつ確実な攻撃を放ち、敵を制圧していく。

 

 医療用テントを()()()()焼き払おうとする脳無の首根っこを掴み、地面に叩き伏せながら、エンデヴァーはその中にいる友人に向け、鋭い声を放った。

 

「塚内!避難区域広げろ!」

「わかっ……ッ?!」

 

 その苛烈な声は防炎ターポリン製の分厚い布を通過し、塚内の耳にしっかりと届いた。だが、彼はとっさに応える事ができなかった。目の前で応急処置を受けていた杳が、不意に体を二つに折り曲げ、大量の()()()を吐き出したのだ。その泥は瞬く間に彼女自身を覆い尽くし、やがて彼女ごと、跡形もなくその場から消え去った。

 

「きゃああ!爆豪くん?!」

 

 数瞬遅れて、一番奥にあるベッドの周りから、人々の悲鳴が上がった。()()の眠っていたベッドだ。塚内は急いで駆けつけたが、もう全てが遅かった。黒い泥の数滴が消え去ると同時に、鼻が曲がりそうな悪臭の残り香が周囲に漂い始める。――二人を連れて行かれた!新手の敵か?塚内は無念に堪えられず、歯噛みをしながら、ジーニストに連絡を取ろうとインカムを操作した。

 

 警察のたゆまぬ捜査の結果、敵連合のアジトは()()()()()という結果が出た。一つは、オールマイト達が突入した目の前のビル。そしてもう一つは、ジーニスト達が向かった廃工場だ。そこは脳無格納庫と化していたが、無事に制圧したと、さっき報告が上がったばかりだった。大量の脳無を導入すると共に連れ去られたのなら、もしかしたら二人の居所はそこに関係しているかもしれない――塚内は一縷の希望を抱き、ジーニストの応答を待った。しかし、返事はない。

 

「ジーニスト!人質がまた連れ去られた!そっちに行ってないか?……ジーニスト?!」

 

 

 

 

 今から2分前。雄英・ヒーロー科の有志達が結成した()()()()は、八百万謹製の発信機を頼りに――図らずも、杳達のいるビルではなく――二つ目のアジトとされる廃工場の様子をこっそりと伺っていた。

 

「――ッ?!」

 

 しかし次の瞬間、ビルの谷間にうっすらと輝く月を覆い隠すように、()()()()()が伸び上がる。最近、朝のニュースで見ない日はない、若手ヒーロー・Mt.レディだ。Mt.レディはなるべく周囲を破壊しないように大きな体を縮こまらせると、廃工場の前に屈み込んで、強烈なストレートパンチを浴びせた。

 

 ――それは、隕石が降ってきたのと同じような威力を有していた。凄まじい衝撃波と爆風が周囲に吹き荒れ、グラグラと地盤が揺れ、緑谷達は瓦礫だらけの地面を転がった。彼らが大した怪我をせず、またヒーロー達にも見つからなかったのは、廃工場の周囲を覆う()()()()があったからだ。その上にちょこんと顔を出し、八百万と人使が内部の状況を確認する。

 

「ギャングオルカ、ジーニストもいます。虎さんもいますわ」

「脳無の奴らを捕縛してる……二人はいない」

 

 人使の言葉は、はっきりとした落胆に満ちていた。巨大化したMt.レディの言葉を盗み聞くに、どうやら敵連合のアジトは二か所存在するらしく、ヒーロー達はチームを分け、行動しているらしい。言い方は非常に悪いし、協力してくれた八百万には心から感謝しているが、自分達は()()()()()()という事だ。特に抵抗する様子も見せず、大人しく拘束される脳無の群れを見下ろし、人使は浮かない顔で溜息を漏らした。

 

 人使の肩車をしていた飯田は、明らかにホッとした様子を見せていた。――やはり、未熟な自分達が出る幕ではなかった。ヒーロー達はしっかりと作戦を立て、最適な人選を行い、迅速に事に当たっているのだ。Mt.レディによると、死柄木達のいる方には、あのオールマイトがいるらしい。ならば、なおさら安心だ。二人は必ず救出される。クラス委員長である自分が守るべきは今、目の前にいる()()だ。飯田は乾いた唇を舐めると、無謀な隊員達を見つめ、その場からの撤退を促した。

 

「さぁ、すぐに去るとしよう。俺達にもうすべき事はない」

「……確かに、飯田の言う通りだ。撤退を。心操」

 

 常闇は変装のために被ったペンギン型のくちばしを外しながら、人使に忠告した。人使の視界の端に――焦凍のリュックからぶら下がる――ヒロドナルドのキーホルダーが映り込む。本来ならば、杳達のいるアジトまで赴き、二人の無事をこの目で確かめたかった。だが、そこまでは強要できない。力なくうな垂れ、拳を握りしめる人使の姿を、焦凍と緑谷が心配そうに見つめた――

 

 

 

 ――刹那、()()()()()()()。歯の根が震えるような轟音が周囲に響き渡り、瓦礫と衝撃波が入り混じった突風が、辺り一帯を蹂躙する。朦々とした土煙が夜空を覆い尽くす。

 

 反抗期状態と化したダークシャドウは、金色の目を意気揚々と開きかけるも、キャンと一鳴きして常闇のマントに隠れた。光に当たったわけでもないのに、怯えた子犬のようにブルブルと震えている。そしてそれは常闇も、緑谷達も皆、同じだった。

 

「せっかく弔が自身で考え、自身で導き始めたんだ。邪魔はよして欲しかったな」

 

 蕩けるような優しい声が、十数メートル先の頭上から振ってくる。その穏やかな声音に内包された、どす黒い瘴気に呑まれ、緑谷達は振り向く事すらできなかった。

 

 ゾッとするような静謐が、周囲に満ちている。ヒーローや警察達の声がしない。物音さえも。さっきの爆発も一瞬の出来事で、辛うじて形を保っている壁の向こうで、一体何が起こったのかも分からないままだった。だが、それでも、その男が刹那に放った気迫は、若きヒーローの卵達に()()()()を錯覚させた。

 

 ――()()()()()()。緑谷達は本能でそう思ったが、体は怖気づき、ピクリとも動かない。辛うじて意識を保っていたジーニストが最後の力を振り絞り、渾身の一撃を放つ。しかしそれすらも、彼は一瞬でかき消した。まるで目の前を浮遊する埃を、容易く吹き払うように。

 

 No.4ヒーローであるジーニストが、意識を失い、倒れ伏す。その音は、緑谷達の恐怖心をますます増幅させた。もはや呼吸すらまともに出来なくなった、まさにその時、バシャリという大きな水音が彼らの鼓膜を打った。

 

「ゲッホ!くっせえぇ……んっじゃこりゃあ!」

「ごほっ、うえぇっ……」

 

 続いて、懐かしい友人達の声が耳に飛び込んでくる。――()()()()だ。探し求めていたそのトーンは、緑谷達の恐怖心をほんのわずかに退けた。一方の爆豪は激しく嘔吐(えず)きながらも、素早く体勢を取り直し、立ち上がる。その姿を静かに見下ろし、オール・フォー・ワンは気遣うように言った。

 

「悪いね。爆豪くん。杳」

「あ?!」

 

 あのオール・フォー・ワンにも脊髄反射で突っかかる、恐れ知らずの爆豪と杳の周囲に、突如として複数の黒い泥塊が出現した。敵連合の面々が泥の膜を突き破り、地面へ転がり落ちていく。苦しそうに顔を歪めているが、拘束具は外れているようだった。爆豪はボロボロの体に鞭打って臨戦態勢に入ると、杳の首根っこを掴んで引き寄せ――ようとしたその時、彼女の周囲を()()()が包み込んだ。

 

「おいクソ雲ッ!」

「余計な真似はせぬように」

 

 間に合わず、空を掴んだ爆豪の苛立った灼眼と、冷酷な金色の双眸が拮抗する。杳の命を人質に取られた爆豪は、何もできず、ただ睨みつける事しかできない。杳は黒霧の腕の中にすっぽりと治まっているのに気づくと、雲化して逃げ出そうとした。その気配を勘付いた黒霧は靄がかった手で彼女の頭を撫で、耳元でそっと囁く。

 

「大丈夫です。杳。()はここにいます」

 

 その言葉は、杳の頭に辛うじてへばり付いていた平常心を、きれいに拭い去っていった。彼女は目を閉じると、幼子が母親に甘えるように両腕を伸ばし、黒霧にしがみ付いた。それに応えるように腕の力を強めながら、黒霧は自身の状況を精査する。――エッジショットの攻撃を受けたために、空間把握能力が一部、損傷しているという結果が出た。先程のように近距離ならば問題ないが、完全回復にはまだしばらく時間が掛かりそうだ。

 

 身を寄せ合う黒霧と杳を見守った後、オール・フォー・ワンは力なく地に伏せている弔にそっと歩み寄り、穏やかな口調で語りかけた。

 

「また失敗したね。弔。でも決してめげてはいけないよ。またやり直せばいい。こうして仲間も取り返した。……この子達もね」

 

 オール・フォー・ワンの不気味なマスクに隠された不可視の目が、こちらを果敢に睨む爆豪と、黒霧に抱かれた杳を順番に見つめる。

 

「いくらでもやり直せ。その為に僕がいるんだよ」

 

 十数年前のあの時と同じように、オール・フォー・ワンが差し出した大きな手を、弔は陶然とした眼差しで見上げた。

 

「……全ては、君の為にある」

 

 壁の向こうで交わされる会話を盗み聞きながら、人使は歯を食い縛り、わなわなと震え続ける体を叱咤した。――思い出せ!()()()の事を。杳の体が、自分の腕の中で崩れ去っていった時の感情を。怖いから動けないなんて、目の前にいるんだぞ。不安定に揺れる眼球を動かし、人使は――恐らく自身と同じ事を想っているであろう――緑谷、そして焦凍と、視線を交わし合う。

 

 ”恐怖に呑まれるな”――かつて先達から受け取った教えを、人使は頭の中で念仏のように繰り返した。きっとあいつらはまだ、俺達の存在に気付いていないはず。ここから二人のところまで6~7メートル位だろうか。とにかく、事は急を要する。爆豪と黒霧の会話が終わった直後、()()()()()がわずかに聴こえた。もし黒霧が杳を自身の下に呼び寄せたとするなら、ワープさせられたら一巻の終わりだ。

 

 ――()()!人使は血が滲むほどに強く唇を噛み締め、恐怖に打ち勝とうとした。杳と過ごした何気ない日常の記憶が走馬灯のように心中を駆け巡り、彼の勇気を奮い立たせる。そして彼が最初の一歩を踏み出そうとした、その時――

 

「……ッ?!」

 

 ――その肩を、切島の体ごと()()()が掴んだ。彼女だけではない。今にも飛び出そうとしている焦凍、常闇、緑谷の体を、飯田が大柄な体を駆使して止めている。二人は決して意地悪をしているわけではない。危険すぎる死地へ向かおうとする友人達を留めるために恐怖心をかなぐり捨て、行動したのだ。

 

 刹那、オール・フォー・ワンがふと無機質な金属製の頭を上げ、夜空を眺めた。

 

「やはり……()()()()

 

 濃紺色のビロードのように広がる空には、無数の星々が散りばめられている。その星の一つがひときわ強い輝きを放ち、膨れ上がった。大気の圧縮熱で赤々と燃え上がり、音速を超えた事により発生する衝撃波をたなびく尾のように引き連れて、彗星のように()()()()()()が飛来する。

 

 決して相容れる事のない想いを抱いた二人の人間が、激しくぶつかり合った。著しい空気の摩擦で、地獄のように熱された大気を物ともせず、二人は真っ向から睨み合う。

 

「全てを返してもらうぞ!オール・フォー・ワン!」

「……また僕を殺すか。オールマイト」




ストーリーが全然進まねー(;_;)人質が二人いるので戦力補強のため、常闇くんを投入しました。
自分の人生どん底よ…という時、誰かに優しくしてもらった記憶ってずっと消えないので、弔もそんな感じだったらよいなと。


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No.40 神野事件②

 決して相容れる事のない想いを抱いた二人の人間が、激しくぶつかり合った。著しい空気の摩擦で、地獄のように熱された大気を物ともせず、二人は真っ向から睨み合う。彼らの足元を起点として地表が割れ、大気が軋み、凄まじい突風が吹き荒れた。オール・フォー・ワンはしっかりと宿敵の拳を受け止め、マスクの奥で上品に笑う。

 

「ずいぶん遅かったじゃないか」

 

 ――二人が手を離した()()で、空気の震えるような大音量が鳴り響いた。二人の間に発生していた衝撃波が拡散され、瓦礫混じりの強風が辺り一帯を放射線状に吹き抜ける。弔達や爆豪は飛ばされそうになりながらも、何とか体勢を立て直した。黒霧は杳を庇うようにワープゲートを展開し、自分達に降りかかる衝撃波や瓦礫を防いだ。

 

 辛うじて自分達を守っていた壁が削られてますます小さくなり、人使達は思わず身を伏せた。オール・フォー・ワンはスーツに付着した砂埃をゆったりとした仕草で払うと、オールマイトに向き直る。

 

「バーからここまで5km余り……僕が脳無を送り、優に30秒は経過しての到着。衰えたねオールマイト」

「貴様こそ、何だその工業地帯のようなマスクは?だいぶ無理してるんじゃあないか?」

 

 濛々(もうもう)と舞い上がる土煙を片手で薙ぎ払い、オールマイトは猛々しい眼差しで宿敵を射抜いた。オールマイトから立ち昇る――虹色に輝く正義のオーラと、オール・フォー・ワンの体表から滲み出る――底知れない悪意がそれぞれ牙を剥き、拮抗する。オールマイトは熱く燃える拳を、ゆっくりと握り込んだ。

 

「5年前と同じ過ちは犯さん。オール・フォー・ワン」

 

 全くの予備動作なしで、オールマイトは跳躍した。尾のようにたなびく衝撃波を引き連れ、積年の想いが詰まった鉄拳を振り上げる。その拳からは、虹色の火花を彷彿とさせる美しいエネルギー粒子が舞い散っていた。まるで蛍が死の間際に放つ光のように、それらは儚い輝きを放ち、消えていく。

 

「爆豪少年と白雲少女を取り返す!そして貴様は今度こそ刑務所にブチ込む!貴様の操る敵連合もろとも!」

「それは……やる事が多くて大変だな。お互いに」

 

 オールフォーワンは喉の奥で小さく笑うと、片腕を持ち上げた。不意にその腕がぼごりと異様な音を立て、内側から膨れ上がっていく。そして黒い稲妻状のエネルギーが迸り始めたその掌を、彼はオールマイトに向けた。

 

 ――刹那、オールマイトの姿が()()()()()。いや、吹き飛ばされたのだ。巨大なビルを何棟も突き抜け、目を凝らしても見えないほど遥か彼方へ消え去っていく。爆豪は砂埃混じりの風に喉を傷める事も厭わず、叫んだ。

 

「オールマイト!」

「心配しなくてもあの程度じゃ死なないよ。だから……」

 

 オール・フォー・ワンは小さな子供を安心させるような声で、爆豪にそう言った。それから不可視の目で、弔を射止める。

 

「ここは逃げろ、弔。その子達を連れて」

 

 その言葉の意図を読み取った弔は戸惑うように視線を彷徨わせた後、オール・フォー・ワンを見上げた。弔にとって、彼は()()のようなものだ。普通の親子のような関係性ではなかったにしろ、彼なりに大切に想っていたのは事実だった。――それなのに、何故。共に戦うか、逃げるのではないのか。オール・フォー・ワンは機械仕掛けのマスクを、今度は黒霧に向けた。

 

「黒霧。もう飛べそうかな」

「ええ」

 

 黒霧は頷くと、自身の状況を再び精査した。空間把握能力はあと1分程で修復完了し、長距離の転送が可能になる。そう応えようとした矢先――体を構成する霧が一部、揺らいだ。まるで体の内側から()()()入り込んで操作しているように、全身の力が抜け、身動きが取れなくなる。予想外の事態に硬直する彼の前で、自らの靄がかった両手が、杳を離すように力を緩めようとした。

 

 ――()()()()。聡明な黒霧はその瞬間、”魂や心、非科学的なものは存在しない”という()()()()()()。同時に電子脳をシャットダウンし、わずか数秒後に再起動する。体の主導権は再び、自身に戻った。実に興味深い現象だが、行動が制限されるのは厄介だ。少女をドクターの下へ送り届けた時、自身も点検(メンテナンス)してもらう事としよう。少女を抱く腕の力をますます強めると、彼は冷酷な声を放った。

 

「あと45秒、お待ち頂ければ」

「それは重畳だ」

「先生は……?」

 

 弔は捨てられた子犬のように弱々しい声で、尋ねた。だが、オール・フォー・ワンはその問いに応えず、鷹揚な動作で振り返る。

 

 刹那、オールマイトが全身から虹色の火花を散らしながら、宿敵の前に地響きを立てて着地した。周囲の地面は陥没し、局地的な砂嵐が発生する。一跳びで煙の及ばない範囲まで出ると、オールマイトは再び、オール・フォー・ワンに肉薄した。

 

「逃がさん!」

「常に考えろ弔。君はまだまだ成長できるんだ」

 

 ひどく優しい声で包まれたその言葉には、弔に対する()()()()が内包されていた。唖然とする弔の眼前で――神々の戦いを彷彿とさせるような――凄絶な攻撃の応酬が繰り返される。コンプレスは気を失った荼毘の体に触れ、小さな玉に封じ込めると、弔に怒鳴った。

 

「行こう死柄木!あのパイプ仮面がオールマイトを食い止めてくれてる間に……」

 

 コンプレスはそこで言葉を途切らせ、不可思議な文様の描かれた仮面を()()へ向けた。示し合わせたように敵連合の面々は戦闘態勢を取り、爆豪の下ににじり寄っていく。爆豪はボロボロの体に鞭打って迎撃体勢に入ると、好戦的な笑みを浮かべてみせた。

 

「コマ持ってよ」

「めんっ……ドクセー」

 

 ――そうして、()()()の無謀な戦いが始まった。卓越した戦闘能力で敵達の攻撃をいなし続けてはいるが、重度の火傷を負っている爆豪がいずれ力尽きるのは時間の問題だった。触れた物を圧縮させる個性を有するコンプレスを最も警戒し、彼は巧みに戦場を逃げ惑った。今にも霞みそうになる視界の端に、フワフワの灰色髪が映り込む。

 

(あんたらは大切な人が殺されそうになってても、そうやっていがみ合ってんのか!)

 

 演習試験での出来事を思い出し、爆豪は薄い唇を噛み締めた。――自分の個性すらまともに扱えない、モブ中のモブ。そんな存在から放たれたその言葉は、爆豪のプライドを大いに揺るがした。道端に転がる石ころ風情に自分の行為を戒められた事が、ずっと腹立たしかった。彼は荒々しい性格に反し、意外と()()()()タイプだったのだ。

 

(頼むよ。ヒーローになりたいんだ。追いつきたい人達がいるんだ。だから、お手本見せてよ。先輩!)

「……テメーが発破かけたンだろが」

 

 コンプレスの攻撃を掻い潜り、黒霧の下へ跳ぼうとした矢先、トガのナイフが容赦なく突き出される。爆豪はとっさに首を傾け、避けた。――もし今、杳と共闘できていたら。爆豪は忌々しいとばかりに舌打ちをする。

 

 本当にヒーローになりたいなら、今すべき事は、死体にすがりついて悲嘆に暮れる事じゃない。喪ったものを悼み、涙を飲んで歯を食いしばり、それでも()()()()事だ。自ら手本を示すように、爆豪は残った気力を絞り尽して爆風を生み、群がる敵達を吹き飛ばす。クラスメイトを救おうと手を伸ばしながら、爆豪は擦り切れた声で怒鳴った。

 

「ちゃんと見ろや!白雲ォ!」

 

 その悲痛な声は、杳――ではなくオールマイトの耳朶(じだ)を打った。彼は踵を返すと、二人を救けようと手を伸ばした。だがその手を、オール・フォー・ワンが繰り出した金属製の触手が絡め取り、体ごと地面に叩き伏せようとする。

 

「させないよ。その為に僕がいる」

「貴様!白雲少女に何をした!」

 

 オールマイトは握っていた拳を開き、手首を回して逆に触手を掴み返すと、自分の方に引き込んだ。急接近するオール・フォー・ワンに掌底を撃ち込もうとするが、その手をまたも掴まれ、膠着状態となった二人は再び、睨み合う。

 

 ――先程から、()の様子が明らかに可笑しい。バーでは黒霧を守るように戦い、今も彼の首元にしがみ付いたまま、こちらを見ようともしないのだ。激しい戦闘で破損したマスクの奥から、オール・フォー・ワンはゾッとするほど陰鬱な笑い声を上げた。

 

()()()()()()のさ」

「救っただと?」

「黒霧は、彼女の兄の遺体をベースに創り上げた脳無(ハイエンド)だよ」

 

 

 

 

 その声は、ボロボロにひび割れた壁の隙間をくぐり抜け、()()()()の耳にも届いた。

 

 皆、あまりのショックに茫然とし、息をする事さえ出来なかった。――何故、杳が黒霧から逃げないのか。その理由が今、分かった。緑谷達は、彼女がどれほど強く兄を愛しているかを知っていた。そしてその悲しみを乗り越え、少しずつ前に進もうとしている事も、知っていた。

 

 皆の驚愕と動揺は、やがて身を焦がすような――義憤と憎悪の感情に変わっていく。人使の脳裏に、体育祭で対峙した杳が、紙袋をくしゃくしゃに丸め、自分に微笑みかけている姿がよぎった。

 

 心の一番奥、どうしようもないほど深いところから、マグマのように熱い感情がせり上がってくる。視界が真っ赤に染まる。馬鹿みたいに体が震え出す。普段の冷静さをかなぐり捨て、激情のままに立ち上がろうとする彼の肩を、()()()グッと掴んだ。

 

「落ち着け」

 

 ――()()だった。色違いの目は、激怒のあまり、血走っていた。彼の肩を掴む手は、わなわなと震えている。

 

「今動いたら、全部無駄になる」

 

 友のおかげで、人使はなんとか平静を取り戻す事ができた。飢えた獣のように荒くなった呼吸を鎮めつつ、自身に言い聞かせる。――感情を鎮めろ。黒霧の言う通りなら、あと十数秒でワープゲートが展開されるはず。今の彼に妹を救う気持ちはない。冷静にならなければ、二人を救う事はできない。

 

 

 

 

 無惨にひび割れたマスクのガラス面に、オールマイトの流した汗が、涙のようにポツポツと滴っていく。

 

 ――オールマイトの脳裏に、不器用ながらも懸命に生きてきた杳の姿が、走馬灯のように駆け巡った。彼は優れた教師ではなかったが、生徒達の事は皆、大切に想い、気に掛けていた。とりわけ”馬鹿な子ほど可愛い”というが、不器用で至らぬところの多い杳は教師陣の目を引き、彼の記憶にもよく残っていた。

 

(コラちゃんと聞きなさい!)

(あわわわわー!)

 

 教師の言葉にも耳を傾けず、兄の幻影にしがみ付いていた杳が――やっと前を向いて歩き出した時は、直接口には出さなかったものの、本当に嬉しかった。職場訓練明けの救助レースで、緑谷を救出した彼女の姿は、内側から光り輝いていた。褒められて嬉しそうに顔を綻ばせる少女を、天上から現れた()()()()が、無惨に踏みにじっていく。

 

 オールマイトの口元からスマイルが消えていく様子を、オール・フォー・ワンは恍惚とした表情で見つめた。まるでグラスに注がれたワインの色をうっとりと眺め、馥郁(ふくいく)とした香りを楽しむように。

 

「その反応は、心外だな。僕は喪った絆を取り戻してあげたというのに」

「き、さま……ッ!」

 

 (ほとばし)る激情のあまり、それ以上言葉を紡げず、オールマイトは至近距離から()()()()()を放った。凄まじい衝撃波と砂嵐が再び、辺り一帯を蹂躙する。オール・フォー・ワンは瞬時に展開したエネルギーシールドでそれらを防ぎ、数メートルの距離を取った。それからマスクの中にある不可視の目を細め、身を寄せ合う兄妹を見つめる。

 

「所謂()()()ってものだろう。……ああ、君達(ヒーロー)の気持ちが分かったよ。善行をすると、心が晴れやかになる」

「――黙れ!」

 

 オールマイトはわずか一歩で宿敵との距離を詰め、虹色の火花が激しく舞い散る拳を叩きつけた。その勢いは凄まじく、とっさにオール・フォー・ワンが展開させた多重防護壁を貫き、その体を地上に叩きつけるほどだった。蝶のように飛ぶ火花、無機質に輝くシールドの残骸と共に、オール・フォー・ワンが地盤深くへ沈んでいく。

 

「貴様はそうやって人を弄ぶ!……壊し!奪い!つけ入り支配する!私はそれが許せないッ!」

 

 ――再び、地表に巨大なクレーターが発生した。この世の終わりが来たかのように、世界が振動する。周囲のビルが瓦解していく轟音を聴きながら、緑谷達はやきもきして、血の味がする唇を噛んだ。

 

 オール・フォー・ワンが邪魔をするせいで、オールマイトは二人を救えない。かっちゃんが傷ついた体に鞭打って、孤軍奮闘しているというのに。白雲さんがあんなに辛い目に遭っているというのに。――なのに、僕達は戦う事が許されない。緑谷は必死に考えを巡らせた。

 

 せめて、()()。どこか、一瞬でも良い。二人を救い出せる道はないか。二人がいるから、オールマイトは全力で戦えない。もし救けられれば、事態は好転するはずなんだ。だけど、白雲さんは一番厄介な敵・()()()()にいる。一体どうすれば……。

 

 ――その時、緑谷の脳天から足先に至るまでを()()()()()が駆け抜けた。瞼の上を伝う汗を拭うと、彼は押し殺した声を放ち、皆の注目を集めた。

 

「皆!……あったよ」

「ダメだぞ。緑谷くん!」

「違うんだよ。あるんだよ!」

 

 飯田は眉をひそめて止めようとするが、緑谷は思わず気圧されるほど強い眼差しで、彼をグッと押し返す。

 

「決して戦闘行為にはならない。僕らもこの場から去れる!それでも二人を救け出せる方法が」

 

 焦凍が人使の様子を注意深く見守りながら、押し殺した声で呟いた。

 

「言ってみてくれ」

「でもこれは、かっちゃんと白雲さん次第でもあって……」

 

 緑谷はごくりと唾を飲み込み、数秒の間、逡巡するように瞳を伏せてから――真っ直ぐに、切島と人使を見た。

 

「それでも……切島くん。心操くん。君達が成功率を上げる鍵なんだ」

 

 白羽の矢を立てられた二人はそれぞれ息を飲み、クラスメイトの素朴な瞳を見つめ返した。

 

 緑谷は作戦内容を手早く説明する。――爆豪は現在、敵を警戒して距離を取った状態で戦っている。出撃のタイミングは、爆豪と敵達が二歩以上離れた瞬間。緑谷のフルカウルと飯田のレシプロで推進力を確保、切島の硬化で壁を破壊し、焦凍の創り上げた氷のジャンプ台を滑って空高く跳ぶ。その際、皆が衝撃でバラケないよう、人使の捕縛布で固定。常闇のダークシャドウで翼を創り、飛行の軌道をランダムにずらす事で、黒霧のワープの座標に入らないようにする。

 

「黒霧……の、ワープはたぶん発動に()()()()()がある。かっちゃんに手を出していないのが、その証拠だ。……感覚じゃなく()()()ゲートを創ってる。単純に早すぎるか、不規則な軌道を描けば、僕らを追い切れないはず」

 

 そして手の届かない高さから戦場を横断し、二人と特に関係の深い切島と人使に声を掛けてもらう。――入学してから今まで、二人とそれぞれ親密な関係を築いてきた二人なら、きっと応えてくれるはず。緑谷はひび割れた壁の隙間から戦況を伺いながら、言葉を続けた。

 

「問題は声を掛けるタイミングだけど……」

()()()()()

 

 人使はペルソナコードのダイヤルを素早く回して()()()()()を創り上げながら、冷静に切り返した。もう迷いや怒りは消えていた。――かつて自身が一番忌み嫌っていた”洗脳”の個性。前を向いて進むために考案した、他人の声を真似るサポートアイテム。さらに磨き上げるために学んだ、特定の人物のみに届ける発声技術。きっとそれらの事は、()()()()()()にあったのだと思った。一方の切島は訝しげに眉をひそめ、尋ねる。

 

「同時でいいって。かぶっちまうぞ」

「そのための訓練を受けた。それに、俺はあいつの兄の声を出せる」

 

 緑谷達は思わず目を見張り、人使を見つめた。――きっかけは些細な事だった。強力だが不安定な友人の個性がまた暴走してしまった時――たとえ自分の声がダメでも――()()()ならば効き目があるのではないかと思い、保険としてマイク達から教えてもらっていたのだ。杳が応えてくれさえすれば、自分の命令で個性を鎮める事ができる。それは間違いなく、洗脳の個性を持つ自分にしか出来ない事だった。

 

 黒霧の声質は、朧のものとは明らかに違う。兄の声を偽装した時、杳は電光石火で反応した。今は心が塞ぎ、誰の声も聴こえない状態でも、かつての兄の声なら、きっと。人使は祈るような気持ちでマイクテストを終えると、戦支度を固めた。八百万は迷いながらも、飯田をおずおずと見上げる。

 

「飯田さん……」

「バクチではあるが、成功すれば全てが好転する。やろう」

 

 飯田の一声で、全てが決まった。切島が先頭に立ち、その脇を緑谷と飯田が固める。その後ろに人使が付き、捕縛布で自分達の体を縛った。四人の頭上にダークシャドウをまとった常闇が、ふわりと舞い降りる。焦凍謹製のジャンプ台を補強するべく、太腿から大量の形状記憶合金を創り出しながら、八百万は小さく呟いた。

 

「皆様。ご武運を」

 

 全員が言葉に出さず、頷いた。

 

 ――刹那、緑谷の体表にエメラルドグリーンのエネルギー粒子が舞い、飯田のエンジンが大きく震え、唸り出す。そうして、()()()()()()()()。切島は硬化した両腕をクロスし、眼前の壁を破壊する。瞬時にして小高く創られたジャンプ台を滑り、決死隊は空高く舞い上がった。いち早く異変に気付いたオール・フォー・ワンがすかさず叩き潰そうとするが、オールマイトが力尽くで妨害する。

 

「ダークシャドウ!右の羽根を30度傾けろ!」

「アイヨッ!」

 

 常闇は決死隊の主舵を取り、前方にポツポツと展開されるワープゲートを巧みに掻い潜った。思いも寄らない奇襲に身構えるものの、決死隊は弔達の個性では到底、手の届かないような高さにいた。彼らが爆豪と杳の真上に差し掛かった時、切島と人使が動いた。

 

「来い!」

 

 切島が爆豪に手を差し出し、肺の中に溜めていた空気を一気に吐き出しながら、大音量で叫んだ。それとほぼ同時に、人使はペルソナコードで創り出した兄の声を、黒霧の中に埋もれた友人に解き放った。

 

「杳!兄ちゃんだ。一緒に帰ろう」

 

 ――頼む、応えてくれ!黒い靄の中でチラチラと垣間見える灰色の髪を見下ろし、人使は指先が真っ白になる位に強く拳を握り締めた。チャンスはたった一度きり。黒霧の冷酷な金色の双眸と、人使の紫色の双眸が拮抗する。今、応えてくれなければ、彼女はもう二度と戻らない。

 

 

 

 

 その頃、杳は心の一番深い場所にいた。冷たい穴の底にぺったりと座り込み、兄に抱き締められている。兄の体表には不気味な黒い靄がまとわりつき、周囲は消毒薬と薬品の匂いが充満していた。まるで壊れたレコードのように――雑音がかった不鮮明な声で――兄はかつて掛けてくれた優しい言葉を、彼女の耳元で繰り返す。

 

「杳。兄ちゃんだ。一緒に帰ろう」

 

 その時、どこからともなく飛んできた()()()が杳の耳朶を打った。紛れもない、()()の声だ。今、耳元で囁かれている()()()()()よりもずっとずっと力強く、優しかった。杳はよろめきながら立ち上がり、周囲を見回した。

 

 やがて、周囲を満たす暗闇の一部がぼんやりと光り、中から()()姿()が現れた。その体は亡霊(ゴースト)のように淡く輝き、透けていた。兄は労わるような眼差しでこちらを見つめ、手を差し出す。兄が二人いる事を杳は不思議に思い、振り返って、さっきまで自分を抱き締めてくれていた兄を見ようとした――

 

 ――寸前、()()()後ろから杳の頭を優しく押さえ、そっと前に向けると、背中を押した。

 

 つんのめってたたらを踏んだ杳は、よろけた拍子に兄の手を掴んだ。その時、彼女は()()()()()()を覚えた。目の前にある暖かい手を、確かめるように触ってみる。――お兄ちゃんの手じゃない。傷と血豆だらけでゴツゴツした、節くれだった手。いつもこの手で私を引っ張ってくれた。慣れ親しんだ()()()()だ。杳は小さな声でその名前を呼んだ。

 

「ひとし?」

 

 その声は空中を飛んで人使の鼓膜に突き刺さり、彼の脳神経に届いた。心の底から込み上げる万感の思い、そして涙を強引に飲み下し、彼は命令を発した。

 

「来い!」

「……ッ、いけません!白雲杳!」

 

 黒霧の腕の中で霹靂と化した杳は、目にも留まらぬ速さで飛翔する。その様子を視界の端で確認した爆豪は、爆破の個性を使って宙を飛び、彼女に追従した。黒霧が展開するワープゲートは、二人の速さに追いつけていない。トガはナイフを放り出し、幼い子供のように泣き叫びながら、杳の跡を追って走った。

 

「やあああ!杳ちゃん行かないでえええ!」

 

 弔は唇を噛み締めると、フォースフィールドをまとった右手を上空へ掲げる。しかし、空を飛ぶ少女の姿が視界に入ったとたん、その指先がわなわなと震え始めた。グラグラと煮え立つような憎悪の感情の詰まった灼眼が、決死隊を指揮する緑谷に注がれる。

 

「どこにでも……ッ、現れやがる……!」

「マジかよ……全く!」

 

 オールマイトは驚愕と安堵が綯交ぜになった――複雑極まりない表情を浮かべ、空飛ぶ決死隊を見送った。マグネがコンプレスを弾丸にして撃ち込んだ、”反発破局夜逃げ砲”を、巨大化したMt.レディが肉の盾となって防ぐ。再び、人間弾を装填しようとしているマグネ達を、遅れて到着したグラントリノがまとめて捻じ伏せた。

 

 決死隊に二人が合流するまで、あと数メートル。人使が捕縛布を放ち、二人の体に巻き付け、引き寄せようとしたその時――決死隊と人質達の間を、()()()が塞いだ。

 

「逃がしませんよ」

 

 ――()()()()()()だ。黒霧の空間把握能力は完全に回復し、緑谷達の予想をはるかに凌駕した精密な座標計算を打ち出した結果、二人の位置を正確に予測し、捉える事に成功していた。

 

 爆豪はとっさに上昇し――洗脳が解けるリスクを踏まえた上で――杳の首根っこを掴んで、進行方向を変えようとした。しかしそれを嘲笑うように、黒い靄はさらに大きく広がり、繭のように二人を包み込もうとする。逃げられない。爆豪の灼眼を、黒い靄が覆い尽くしていく。

 

 その時、人使は見た。ちょうど彼の視界にある靄の一部が膨らみ、()()()()()()()()のを。それは、杳がかつて演じていた()()姿()によく似ていた。風を受けた煙のようにワープゲートが揺らめき、不安定に霞んでいく。

 

「猪口才な!死人の分際で……ッ!」

 

 一方の黒霧はワープゲートに綻びが生じた事に激昂し、自身と対峙する恰好となった朧の幻影を睨みつけた。靄の状態でもはっきりと分かるほどに、憤怒した形相の彼は、黒霧を迎え撃つように大きく両腕を広げ、牙を剥いた。

 

 刹那、黒霧は苦悶の悲鳴を上げ、身を捩った。ワープゲート全体がますます大きく揺らめき出す。その隙間をなんとか掻い潜り、爆豪は杳の体を人使の下に放り投げた。

 

「杳。……寝ろ」

 

 目覚めた杳が動き出す前に、人使は兄の声で再び、彼女を洗脳した。決死隊に感謝するどころか、むしろ仕切り出そうとする爆豪の怒声をBGMに、ふと眼下を見ると、気を失って宙を落下する黒霧らしき人影が、オール・フォー・ワンの繰り出した触手に捕えられている様子が確認できた。

 

 ――あれは、本当に亡霊だったんだろうか。体の底から熱い感情が込み上げて来て、人使の双眸から涙が溢れた。何に対する涙かは、分からない。だけど今はただ、腕の中の友人が哀れでたまらなかった。人使は世界の全てから守るように、そっと小さな体を抱き締めると、耳元で何度も囁いた。

 

「もう大丈夫だ。大丈夫……」

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 その夜、後に”神野の悪夢”と恐れられる事となるこの事件は、一人の英雄と一人の巨悪を代償に、幕を閉じた。

 

 ”平和の象徴”の力と引き換えに、オールマイトは宿敵を打倒した。オール・フォー・ワンはステインと同じく、死刑すら生温い罪人たちが送られる特殊刑務所”タルタロス”に収容される事となった。戦いの余波で戦闘地帯となった横浜市神野区は大部分が破壊され、大勢の死傷者が出た。さらにベストジーニストを筆頭に、多くのヒーローが浅くない傷を負ったが――

 

 ――敵連合のメンバーは誰一人欠ける事なく、逃げ遂せた。

 

 この戦い以降、敵連合は一介の小悪党から、誰もが恐れる()()()()()()()()として、名を馳せていく事となる。




杳達不介入のため、オールマイトvsオールフォーワンのシーンはカットしました。あの原作の素晴らしすぎるシーンを描写する事ができんかった…。二人を救出後、原作と同じ流れが進行したんだよという感じで補填していただければ。もしご要望があれば書き足します。

これにて4期終了です。次期は死穢八斎會編となります。


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5期:死穢八斎會編
No.41 神野事件後


12/21追記:なんか分かりづらいな…と思い、杳の本音シーンちょっと書き足しました。

※作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●塚内 真(つかうち まこと)
塚内警部の妹。キャプテン・セレブリティの元・マネージャー。現在は国際弁護士。



 ふと目を開けると、杳は薄暗く不気味な廊下に立っていた。両側に広がる壁には、ガラス窓の付いたドアが等間隔に並んでいる。消毒用エタノールの強烈な匂いが鼻を刺し、杳は顔をしかめた。一体、ここはどこだろう。注意深く周囲を見渡した時、彼女の視線は右側の壁に面したドアに吸い寄せられた。――小さなガラス窓の向こうに、見覚えのある()()()()が映り込んでいる。

 

 杳は夢中で窓に覆い被さり、中を覗き込んだ。目の前に広がる――ぱっと見たところ、手術室にも思えるその部屋は――かつてロックの記憶の世界で見た部屋と()()だった。中心に設置された手術台には、()が拘束されている。その体は蝋のように青ざめ、生気を感じられない。不意に台の下から金属製の拘束具が伸びて来て、彼の四肢をとり籠めた。

 

「い。いやだ……お願い、やめて……」

 

 これが夢なのか、朧の過去の記憶の追体験なのか、杳には分からなかった。だが何にせよ、これ以上は見たくない。心臓が嫌な音を立てて軋み、早鐘を打つように高まっていく。手足の感覚がなくなり、自立する力が抜けていく。冷たい汗が体じゅうを流れ落ちていく。息ができない。甲高い耳鳴りが彼女の耳を支配する。ドアノブを握り、ガチャガチャと狂ったように回すが――内側から鍵が掛かっているのか、ドアはびくともしなかった。

 

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

 

 杳は大声で叫び、ガラスの窓をガンガンと叩いた。やがて向かいのドアが自動的に開き、白衣を羽織った男がやって来て、手術台の前に立った。男の顔はモザイクが掛けられたように不鮮明でよく分からない。――()()()()だ。杳は声にならない悲鳴を上げ、ドアを壊そうと無茶苦茶に暴れ回った。

 

 ドクターは作業台からメスを取り、麻酔も掛けずに朧の体を切り裂き始める。そのとたん、死体だと思われた朧の体がびくりと跳ねた。空色の目が限界まで見開かれ、凄まじい悲鳴が上がる。その声は杳の心を切り裂き、残酷に踏みにじった。

 

「やめろおおおっ!!」

 

 杳は泣き叫びながら、自身の体が傷つくのも厭わず、ドアに何度も体当たりを仕掛ける。けれど、ドアは壁の一部になっているかのように、びくとも動かなかった。やがて、朧が杳に気付いた。見開かれた空色の目から涙が流れ落ち、救いを求めるように、痙攣した手をこちらへ伸ばす。わずかに開かれた口から、大量の血と共にかすかな声が吐き出された。

 

「杳、救けてくれ……」

 

 

 

 

「――ッ!!」

 

 

 杳は息を切らして跳ね起きた。夢だった。心臓が今にも飛び出しそうな位、大きな音を立てて波打っている。パチパチと瞬きをして、周囲を見渡した。白い清潔な布団にテレビ付きの床頭台、淡い色合いで統一された壁と天井――ここは病院のようだった。杳の頭の中に、数時間前の記憶が濁流のように流れ込んでくる。黒霧の姿と、夢の中の兄の姿が交互にフラッシュバックした。

 

 ()()()()()()()()。杳は喘ぎながら、ベッドから転がり落ちた。薄い扉越しに、見知った大人達の話し声がする。――塚内だ。夢中で病室を飛び出そうとするが、何かが自分を引っ張り、杳はつんのめりつつ、振り返った。点滴の管が数本、腕に刺さっている。杳はためらう事なく点滴の管を引き抜くと、血の跡を点々と残しながら、ドアを開け、廊下に飛び出した。

 

 一方その頃、院内に設けられた休憩室に入った塚内と炎司は、三茶が持ってきた報告書を片手に、事件の顛末を語り合っていた。炎司は報告書から目を離すと、しわの寄った眉間を揉んだ。不本意極まりない形ではあるが、国を牽引する”次代の象徴”として――彼は、人々からより一層の衆望を集めていた。

 

 本当は、炎司の心は()()()()()を失った事で大いに傷つき、荒れ狂っていた。だがそれでも、彼はヒーローだった。その意地が防波堤となり、心の決壊をギリギリのところで留め、職務を全うさせるに至っていた。目下、彼の心を悩ませているのは、息子の友人である()()()の事だ。気に食わない娘ではあるが、敵に酷い目に遭わされても何とも思わないほど、情がないわけでもない。不器用ではあるが、彼は彼なりに、杳を気にかけていた。

 

「黒霧が白雲朧……奴の妄言ではないのか?」

「いや、死柄木弔の件もある。恐らく、事実だろう。……認めたくはないが」

 

 塚内はひどい疲労が滲んだ両目を手で覆うと、長い溜息を零した。――かつて鳴羽田で彼女に放った警告が、まさか現実になろうとは。オール・フォー・ワンが彼女に興味を示していた理由は、これだったのだ。

 

 刹那、ドアが勢い良く開かれ、二人の注意はそちらに向いた。中から簡素な病衣に身を包んだ杳が転がり出て来て、一目散に駆け寄ってくる。何も聴かずとも、その目は”兄を救けてほしい”と叫んでいた。いつも穏やかな塚内の表情が、はっきりとした悲哀の形へ歪んでいく。

 

「塚内さん!おに、兄が、敵連合に捕まってるんです!黒霧さんがそうなんです!救けてあげてください!」

「白雲くん。彼はもう……」

「白雲朧は死んだ。あれは脳無だ」

 

 傷つけまいとして、塚内がなかなか口に出せなかった言葉を、炎司が代わりに言い放った。苛烈な言葉の連なりが、杳の鼓膜を焼き払っていく。轟々と燃え盛る感情を宿した碧眼が、立ち竦む少女を見下ろした。

 

「兄を想うなら、一刻も早く捕縛し、今度こそ荼毘に付して魂を解き放ってやる事を考えろ」

「……ッ」

 

 あまりに残酷な言葉に打ちのめされ、杳はとっさに呼吸を忘れて喘いだ。――他の脳無と同じように補殺しろという事か。身も蓋もない物言いに耐えかね、塚内は思わず声を荒げて突っかかる。

 

「エンデヴァー!言い方ってものがあるだろう!」

「では”希望を持て”とでも言えばいいのか?」

 

 炎司の鼻の頭にしわが寄る。彼はじろりと塚内を睨むと、屈強な腕を組んで仁王立ちした。

 

「真実を先延ばしにして、苦しむのはこの子だぞ。……過去はどうあれ、今の奴は脳無だ。個性も危険すぎる。処刑は免れん」

「こ、殺さないで!」

 

 杳は必死になって、炎司に縋り付いた。熱気の籠もった炎司の体は燃えるように熱く、杳の体力を容赦なく奪い去る。だが、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。燃え盛る碧眼と、涙に濡れた灰色の瞳が束の間、交錯する。

 

「私が、お兄ちゃんを説得します!元の記憶も取り戻す!お兄ちゃんの分もヒーローとして頑張ります!一緒に罪を償います!だから……ッ!」

「……()()?」

 

 冷たく突き放すような声が、炎司の口から漏れた。彼の目が、レントゲンのように杳の心を透視する。絶望に呑まれて戦う相手を見誤り、オールマイト達の手を煩わせた挙句――ヒーローである自らの立場すら忘れて、敵を救ってほしいと惨めに泣き喚く、未熟な心を。

 

「話にならん。俺は行く」

 

 杳の手を丁寧に引き剥がすと、炎司はドアに向かって歩き出した。――溺れる者は藁をも掴むと言うが、杳は必死だった。黒霧は他の脳無とは違う。オール・フォー・ワンに無理矢理、敵にさせられただけなんだ。杳は救けを求めて塚内を見たが、彼は辛く哀しい顔を浮かべるだけだった。困窮して万策尽きた杳は、それでも頭をかき毟りながら、なんとか救い出せる方法を考え続けた。

 

 ――そうだ。()()()()()()なら、きっと。心の中に、明るい色をした風船がポッと膨らんだ。オールマイトが自分達を救けに来てくれた事は、杳の記憶の片隅にぼんやりと残っている。彼女はまだ神野事件の顛末を知らなかった。どんな凶悪な敵もやっつけ、人々を救い出してきた彼ならば。ごくりと唾を飲み込むと、彼女は期待に上擦った声を絞り出した。

 

「オールマイトは……」

 

 その名は炎司の心の防波堤を貫き、()()()()()を生み出した。ドアに手を掛けた状態で、彼の足がピタリと止まる。周囲の大気が蜃気楼のように揺らめいて、辺り一帯を乾いた熱風が吹きつけた。

 

()()()()()

 

 ”オールマイトが死んだ?”――思いも寄らぬ返答に茫然とする杳の目の前で、ドアは乱暴に閉められた。しばらくして、慌しい足音が複数、こちらに近づいてくる。再びドアが開き、今度は相澤とマイク、そして杳の担当の看護師が駆け込んできた。

 

 教師達の顔は――まるで出口のない迷路に閉じ込められたかのように――暗く青ざめていた。杳は二人にそんな顔をしてほしくなかった。二人は兄と親友だったはずだ。きっとどうにかして救けてくれるに違いない、そう信じていた。資格も持たない未熟な自身とは異なり、二人はベテランのプロヒーローだ。とりわけ自由人でポジティブなマイクなら、落ち込む杳を元気づけ、”エンデヴァーの言葉なんて信じるな”と豪語しそうなものだった。

 

「相澤先生。マイク先生。お兄ちゃんを……」

 

 お兄ちゃんと言った瞬間、二人の肩がほんの一瞬だけ、震える。杳はその先を続ける事ができなくなった。心の底から、()()()()の続きがゆらゆらと浮き上がってくる。

 

 ――セピア色の世界。夏の蒸し暑い午後。真新しい墓石。両親の足元から見上げた、パープルというヒーロー。色褪せた過去の世界と、今の世界が、静かに重なり合っていく。マイク(パープル)はゆっくりと杳の前にしゃがみ込むと、腫れものに触るような手つきで、彼女の頭を撫でた。

 

(ごめんなさい。救けられなかった)

「……ごめんな。もう救けられない」

 

 己の魂から絞り出すような、二人の悲痛な声が、杳の鼓膜に突き刺さった。ずっと憧れだったヒーローの顔が、セピア色に揺らめくパープルの顔と重なって見える。

 

 杳にとって、マイクは()()()()()だった。単なる”推しヒーロー”というだけでなく、彼は心の灯台として、いかなる時も彼女の人生を明るく照らしてくれていた。だからこそ、杳はマイクにだけはそんな事を言ってほしくなかった。――だが、それは逆に、マイクだけが彼女を諦めさせられるという事でもあった。ずっと心の底に秘めていた記憶の続きが紐解かれ、灰色の目からわずかに残っていた光が消えていく。

 

(常々不思議に思っていました。貴方は何故、ヒーローを目指すのです?)

 

 不意に部屋の暗がりから()()()()()が滲み出て、杳に問い掛けた。”お兄ちゃんがヒーローを目指していたからだ”と、杳はあの時と同じ答えを返した。

 

 ――私は、ヒーローが()()だった。お兄ちゃんを見捨てたヒーローになんて、なろうとも思わなかった。でも、それがお兄ちゃんの夢だったから。私は本当の気持ちを隠して、お兄ちゃんの想いを遂げようとした。そしてそれはいつの間にか、自分の夢にもなっていた。黒霧は金色の目を細めると、かすかな悪意の滲む声でこう尋ねた。

 

(では、()()?)

 

 杳は応えられなかった。たった一つ確かな事は、兄が()()、ヒーローに見捨てられたという事だけだ。希望は砕け散った。体の中心をあの冷たい穴が穿ち、がらんどうになった内部を、深い絶望の感情が満たしていく。空虚な声で、彼女は呟いた。

 

「お願いがあります」

「なんだ?」

 

 マイクは自分でも驚くほど優しい声を出し、続きを促した。

 

「両親には、この事を言わないでください」

 

 杳の脳裏に、兄を喪った当時の両親の姿がよぎった。黒霧という(ヴィラン)が、朧の死体をベースに創った人造人間で、彼はいずれ捕まり、処刑される。そんな覆しようのない事実を両親に突き付けて、一体何になるというのだろう。今度こそ、彼らは立ち直れなくなってしまう。凍り付いたように動きを止めた二人の代わりに、塚内が口を開いた。

 

「分かった」

 

 杳の口元にわずかな笑みが浮かんだ。それはひどく寂しそうで、今にも消えてしまいそうなほどに儚いものだった。看護師はテキパキとした動きで杳の応急処置をし、病室に戻るために手を引いて歩き出す。ドアが閉められたとたん、マイクは引き攣った声で笑い始めた。

 

 ――ヒーローは全てを救えるわけじゃない。その事は、長年の活動で理解しているつもりだった。だが、理解はできても納得ができない事はある。マイクにとって、今回の件がそうだった。熱い感情が心から溢れ出し、理性を押し退けて喉を通過し、閉じた唇の内側でハウリングを起こしている。

 

(ホラ、三人いればさ。誰かがミスっても残りの二人がカバーしてくれるし)

 

 かつての友人の言葉が、快活な笑みと共に蘇る。――本当は、法律など無視して救けに行きたかった。いつかの約束を果たす事もできない無力な自分を、マイクは心の底から呪った。

 

「あああはは……消太ァ。()()

 

 次の瞬間、マイクは()()()()。相澤がマイクの個性を声ごと抹消していなければ、病院じゅうの患者が叩き起こされ、窓が粉砕されていたところだった。マイクは叫び終わると、壁を背にしてズルズルと座り込んだ。浮き上がっていた前髪がふわりと垂れ、相澤の表情を覆い隠す。塚内はやるせない気持ちを持て余し、拳を固く握り締める事しかできなかった。

 

 

 

 

 マイクを気遣い、相澤と塚内は休憩室を出た――と同時に、ドアの影に潜んでいた()使()と鉢合わせた。昨晩、救出した二人を警察に引き渡した決死隊と別れ、人使だけはずっと病院に留まっていた。杳の面会許可が降りるまで、待つつもりだったのだ。相澤は溜息を零すと、咎めるような声を放った。

 

「盗み聞きか」

「……ッ、すみません」

 

 痛いところを突かれた人使は思わず唇を噛んで、顔を伏せた。しかし数秒後、意を決したように拳を握り締め、再び顔を上げる。

 

「黒霧の件、どうする事もできないんですか?」

「できん。家まで送るから付いて来い」

 

 きっぱりした口調で応えると、相澤は病院の出口に向かって歩き出した。後を付いて歩きながら、人使は必死に考えを巡らせた。黒霧は、他の脳無とは違うような気がする。恐らく自身しか目撃していないだろう、救出作戦時での()()()を伝えるために、彼はためらいながらも口を開いた。

 

「俺、黒霧の中に……顔を見ました。あいつ、が真似ていた兄の姿に似ていて。……あいつを救けようとしていました」

 

 相澤の歩みが止まった。手応えを感じた人使は、さらに言い募ろうと相澤の顔を仰ぎ見て、大きく息を飲んだ。――相澤はわなわなと震える手で口元を押さえていた。少し血走った両目からは、透明な滴がいく筋も流れ落ちている。

 

「……もう、何も言うな」

 

 その時、やっと人使は気付いた。マイクだけでなく相澤もまた、()()()()()()だったのだ。友を救うため、我武者羅に放った言葉が、師を傷つけた。その事実に打ちのめされた人使は、相澤が顔を背けるようにして、肩を震わせ、静かに泣き続ける光景を見守る事しかできなかった。

 

 

 

 

 窓から差し込んだ朝陽が、杳の頬をオレンジ色に照らし出す。軽い拘束具を付けられた彼女はベッドに横たわり、ぼんやりとテレビの映像を眺めていた。

 

 一夜明け、世間は騒然としていた。戦いの舞台となった神野区は半壊し、多数の民間人の犠牲者が出た。ベストジーニストを始めとする多くのヒーローも被害を受けており、この事件は”神野の悪夢”と呼ばれ、国民に恐れられているようだった。不意にニュースのテロップが切り替わり、制服を着た杳と爆豪の写真が大写しになる。

 

『人質となった白雲杳さんと爆豪勝己さんの命に別状はなく、病院に運ばれ……』

 

 イヤホン越しにドアをノックする音が聴こえ、杳はリモコンを取り上げてテレビを消した。薄い引き戸を開け、看護師が顔を覗かせる。

 

「白雲さん。航一さんと和歩さんという人が面会に来られているんだけど、どうする?」

 

 現在の杳は()()()()()となっており、本人が希望する場合のみ、会う事ができるようになっていた。懐かしい名前が飛び込んできて、彼女は思わず目を丸くした。――鳴羽田の治安維持で忙しいはずなのに、わざわざ会いに来てくれたなんて。ためらいながらも頷くと、看護師は点滴袋の下に付いたクレンメを調整し、病室を出た。

 

 それから数分後、カラカラと引き戸を開け、私服に身を包んだ航一と和歩が中に入ってきた。おっとりとした二人の顔を見たとたん、杳の涙腺が緩んだ。和歩はそれに感化されたように顔を歪め、少女をそっと抱き締める。涙でくぐもった声で、杳は航一に尋ねた。

 

「な、鳴羽田は?」

「他の人に頼んでるから大丈夫だよ。それより今は……」

 

 航一は皆まで言わず、杳の前にしゃがみ込むと、かすかな笑みを浮かべてみせた。道端にポツンと立つ、古ぼけた地蔵菩薩のように――労りに満ちた優しい目をしている。その目を見て、杳はふと考えた。航一は、黒霧が兄だという事実を知っているのだろうかと。

 

 恐らく――希望的観測に近いかもしれないが――この一件はヒーロー側に周知徹底したところで、()()()()()ものだ。むしろ、誰かの口からゴシップとして広められるリスクを鑑みて、箝口令を敷き、限られた一部の者しか知らされていない可能性が高い。

 

 知っているのか、知らないのか。判断しかね、杳は俯いて唇を舐めた。その時、彼女は気付いた。――俯いた先にある、和歩の腹部が大きく膨らんでいる事に。もし和歩がこの事実を知らされていないなら、多大なショックをその身に受ける事になる。赤ちゃんと和歩を案ずる気持ちが、杳の激情に歯止めを掛けた。

 

「大丈夫?」

 

 和歩は頭を撫でる手を止め、心配そうに杳を覗き込む。何もかもぶちまけたいと喚く自身の心を押さえつけ、杳は唇の端を歪めて、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。

 

「大丈夫です」

 

 理由は分からないが、杳が強がっているのは明白だった。和歩は何か言いたげに口を開きかけたが、真剣な表情をした航一に肩を引かれ、渋々といった調子で口を閉じた。やがてドアがノックされ、面会時間の終了を告げるため、看護師がちょこんと顔を覗かせた。

 

 航一は名残惜しそうな顔で杳を見下ろすと、ズボンのポケットに手を突っ込んで、一枚の名刺を抜き出した。そしてそれを杳に手渡す。そこには、見覚えのある女性の名前と連絡先が綴られていた。

 

「君の事、マコトさんに話しておいたんだ。これにスマホを翳せば、自動的に連絡先がインプットされるから。……もし俺達に言えない事でも、この人ならきっと力になってくれると思う」

 

 最後に杳の頭を代わる代わる撫でて、航一達は病室を出て行った。薄いアクリル板でできたカードを、杳はじっと見つめた。――”Makoto Tsukauchi(マコト ツカウチ)”、そう打たれたシンプルな銀文字が、朝陽に反射してキラキラと輝いている。

 

 

 

 

 神野の悪夢から数日後、世間はより一層の混乱を極めていた。杳の容態が落ち着いた事で、面会許可制が解除された事を人使から聴きつけ、決死隊メンバーはそれぞれ見舞いの品をぶら下げて、病院へ足を運んだ。焦凍は巨大な発砲スチロール箱を肩から下げており、緑谷達の注目を一心に集めていた。人使は胡散臭そうな眼差しでそれを見た後、代表して訊いてみる。

 

「それ、何入ってんの」

「バーゲンダッツ全種類」

「あっそ」

 

 果たしてこれはツッコミ待ちのボケなのか、それとも天然ゆえの行動なのか。人使は疲弊した頭でぼんやりと考えるも、答えは出なかった。不器用な焦凍なりの、精一杯の気遣いなのだろう。けれども病室に備え付けられている小型冷蔵庫に、この大量のアイスが入り切るとは思えなかった。

 

 十中八九、残りは持って帰る羽目になるだろうが――友人は種々様々なアイスを選ぶ事に、少しでも()()()を見出してくれるだろうか。数ヶ月ほど前、轟家でのんきにアイスを食していた友人の姿を思い出し、人使の心は沈んだ。緑谷は病室の番号を確認しながら、廊下を静かに歩く。

 

「確か、この辺りだよね。かっちゃんの病室とだいぶ離れてるなぁ」

「そりゃそーだろ。近くに爆発三太郎がいたら、おちおち昼寝もでk――」

「オォイ誰がサンタローだクソが」

「……ッ?!」

 

 いつの間にか、鬼の形相をした爆豪が切島の背後に迫っており、皆は思わず息を飲んで身構えた。入院中である事を示すタグを手首に付けた彼は、憎々しげに舌打ちする。あれほど体表を覆い尽くしていた大火傷は、リカバリーガールの丹念な治癒(チュー)により、きれいさっぱりと消え去っていた。

 

「あいつ、面会許可降りたんだろ。(ツラ)見てやろーと思ってよ」

 

 三白眼をますます吊り上げながらそう吐き捨て、肩を怒らせて先へ進もうとする爆豪を、切島達が必死で押さえつけた。

 

「ちょちょちょ、バクゴー!今はヤバイって!やめたげて!」

「暴力はいけませんわ!」

「お礼参りか……」

「ちゃうわアホが!ただの見舞いだクソが!」

「……院内は静かに」

 

 爆豪と決死隊達がしばらく揉み合っていると、不愛想な声が廊下の奥から飛んできた。――相澤先生だ。皆は反射的に口を噤んで、居住まいを正す。相澤は鋭い眼差しで周囲の人気をざっと確認した後、生徒達を見下ろした。

 

()()()、救出に出向いたのはお前達で全部だな?」

「……はい」

 

 決死隊はわずか数秒の間に視線を巡らせ、お互いの意志を確認し合った。やがて直立不動の体勢を取った人使が、代表して返事する。

 

 自身を教え導いてくれた相澤の期待を裏切った事は、今でも心苦しく思っている。どんな大義名分があったとしても、資格も持たない自分達がした事は()()()()だ。その反省はしている。だが、後悔はしていなかった。同じ気持ちを宿した幼い目の群れが、相澤をじっと見上げる。相澤は小さく溜息を零すと、薄い唇を開いた。

 

「黒霧の件だが、本人の希望で彼女の両親には伏せておく事となった。お前達もそのつもりで、みだりに口を滑らすな」

「なっ……ッ、あんな事を一人で?」

 

 人使が沈痛な表情を浮かべて俯く一方で、焦凍達は様々な反応を見せた。押し殺した声でざわめき、困惑した目線を交わし合う。あの気が弱く情緒も不安定なクラスメイトが、あんな悍ましい事実をたった一人で抱え込もうとしている事が、信じられなかったのだ。相澤は咳払いして再び注目を集めると、少し逡巡するような間を置いた後、ズボンのポケットから真っ白な封筒を取り出した。

 

「本人が望んだ事だ。それと……」

 

 ――それには”休学届”と書かれていた。噛み締めた爆豪の奥歯がギリリと鳴る。爆豪は相澤の持っていた休学届をむしり取ると、周囲の制止の声を振り払い、一目散に杳の病室へ向かった。

 

 薄い引き戸を勢いよく開け放つと、ベッドに腰掛けてテレビを見ていた杳が驚いたように目を丸くしながら、振り返った。ぼんやりした灰色の瞳が爆豪を見て、それから彼の持つ白い封筒に移る。杳は何事もなかったかのように薄い笑みを浮かべると、爆豪を再び見つめた。

 

「爆豪くん。あの時、救けてくれてありg――」

「おまえ、逃げるンか」

 

 鋭い眼光に怒りを込め、爆豪は唸った。感情に任せてぐしゃぐしゃに握りつぶした封筒を、ベッドに投げつける。紙の塊はカサカサと軽い音を立てて、白いシーツの上を転がった。

 

「辛いのはテメーだけじゃねぇんだよ。あの戦いで大勢傷ついて、大切なモン失ってんだ。()()()()にそれを乗り越えんのがヒーローだろが!」

 

 爆豪の脳裏に、オールマイトの見せた雄姿がよぎり、彼は悔しそうに唇を噛み締めた。俺達を救うために、オールマイトは全てを失った。俺達が一番に頑張らなきゃ、意味がねぇんだよ。――だが、若く(たぎ)るようなその想いは、杳の心に届かない。代わりに彼女の体内にじわじわと忍び寄ってきたのは、()()だった。

 

「いい加減にしろ!」

 

 数秒後、慌しい足音と共に人使が駆け込んできた。人使はベッドに転がった紙の塊を見るなり顔をしかめ、杳を守るように前に立つと、爆豪に真っ向から対峙する。爆豪は乾いた笑い声を漏らすと、自身より少し背の高い人使の胸倉を果敢に掴み上げた。

 

「ハッ!テメーがそうやって()()()()からつけあがンだろが!あァ?!」

「何だと?!」

 

 クラスメイト達による凄まじい言葉の応酬が、杳の目の前で展開される。どんどん激しくなっていくそれらに比例して、杳が感じる冷気もひどくなっていった。個性も発現していないのに、吐息に白いものが混じり始め、みるみるうちに体温が下がっていく。体表に霜が張り、雪の結晶の文様が浮かび始めた。思わず咳き込んだ杳の口から、氷の欠片が零れ落ちる。

 

 ――多大なストレスを受けた杳の体は再び、個性の制御を失い始めていた。友人の異変に人使が気付いてナースコールを鳴らし、駆けつけた看護師が鎮静剤を打つまで、その不可思議な症状は続いた。

 

 

 

 

 杳の滞在する病室の三フロア上、つまり屋上では。好き勝手に吹き荒ぶ偏西風に煽られながら、一組の男女がモーニングティーを(たしな)んでいた。クラシカルなデザインのペアコスチュームに身を包み、目元を黒いラインで囲んでいる。ラブラバは不満そうに唇を尖らせ、スマートフォンを睨みつけた。

 

「再生数が伸び悩んでいるわ、ジェントル!最近は神野事件のせいで全然ダメ……ポッと出の()()()よりジェントルの方がずっとずっと素敵なのに、許せない!」

「やはり、もっと大きな偉業を成し遂げねばならない」

 

 ジェントルは低く甘い声でそう言うと、上品な仕草でティーカップに紅茶のお代わりを注いだ。だが、容赦ない風の猛襲が、紅茶の行き先をカップ――ではなくジェントル自身に強制変更させる。上半身がびしゃびしゃになってもジェントルは顔色一つ変えず、落ち着き払った様子でカップの底に残った紅茶を飲み干した。

 

「偉業とは行動の意味。時代への問い掛けさ、ラブラバ。……私は探しているよ。私をもっと偉大にしてくれる案件を」

 

 うっとりとした眼差しで自身を見上げる相棒に応えると、ジェントルは双眼鏡を構え、次なる犯行目標を見下ろした。――数百メートル先にある、立派なオフィスビルに挟まれるようにして建てられたコンビニエンスストア。その玄関口を掃除する店長らしき人物を認めると、彼はその口元にわずかな笑みを浮かべた。



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No.42 白雲家①

 数時間後、杳の意識は再浮上した。重たい瞼をこじ開けて周囲を見回すが、殺風景な病室の中に友人達の姿はない。帰ってしまったのだろうか。寂しさと無力感が、杳の心にぐるぐると渦巻いた。ベッドに横たわったまま、眠気が覚めるのをぼんやりして待っていると、ドアがノックされた。杳が小さく返事をすると、ドアはゆっくりと開き、中から白衣を着た老人がひょいと顔を覗かせる。――自分の担当医だ。杳はベッドの上で居住まいを正した。

 

「……()()先生」

「こんにちは。調子はどうかの?」

 

 殻木は眼鏡の奥にある目を細め、好々爺然とした笑みを浮かべた。彼は、国内で有数な総合病院――”蛇腔総合病院”の創設者にして、理事長であるらしい。そんな輝かしい肩書を持っているにも関わらず、その体から放たれる雰囲気は至って親密で優しいものだった。

 

 慈善事業にも広く関わっており、先の事件で患者がどっと押し寄せ、パンク状態になっているこの神野中央病院にも、無償で応援に来てくれているらしい。杳の担当看護師は、殻木が主治医になった事を心から祝福してくれていたし、杳もまた、優しい彼に心を許すまでさほど時間は掛からなかった。殻木は杳のバイタルチェックを終えると、心配そうに白眉を垂れた。

 

「君の発作はストレスによるものじゃろう。原因を突き止め、取り除く事ができれば治まるが……君の場合は何より、心と体を休ませる方が肝要じゃ。しばらくはこれを使いなさい」

 

 殻木は白衣のポケットから携行用の吸入器を取り出すと、杳に手渡した。丸みを帯びたデザインの容器には鎮静剤が入っており、レバーを引く事で一回分の薬剤が充填される。杳は殻木に教えられるまま、レバーを引き、薬を吸ってみた。かすかな甘みと粉の感覚が口内に広がり、杳は思わず咳き込みそうになりながらも、顔をしかめる。その反応を見て、殻木は笑った。

 

「ホッホ!上手にできたようじゃ。もし味がしなければ、そのままもう一回吸ってみなさい。レバーは動かさんでいいからの」

「ありがとうございます」

 

 お礼の言葉を口にした直後、杳は()()、頭の中がドロリと融けていくような感覚に襲われた。思考能力が鈍り、強い眠気に囚われる。それらは、鎮静剤が脳の機能を低下させた事により発生する、副作用の一種だった。

 

 心が塞ぎ、判断力が低下していなければ。また、鎮静剤を間を置かずに服用した事で、知覚能力が鈍化していなければ――殻木の声が、ロックや転弧の記憶の世界で聴いたドクターの声と()()()()事、そして吸入器の中に仕込まれた()()()()の類を、杳は感知できたかもしれなかった。だが、挽回のチャンスは(ことごと)く眠気の中に融け、消えていく。杳がうとうとと微睡んでいると、殻木のポケット内にあるPHSが震え出した。ぎこちない手付きでPHSの通話ボタンを押し、耳に当てながら、彼は部屋を出ようと立ち上がる。

 

()()を突き止め、取り除く事ができれば……)

 

 その時、ふと先程の殻木の言葉が脳裏をよぎり、杳の眠気は吹き飛んだ。ストレスの原因は分かっている。――()()()だ。

 

 だが、それはどうあっても取り除く事のできない要因だった。プロヒーローや警察ですら、解決の糸口を見出す事ができないのに、資格も持たない子供が何を成せるというのだろう。このまま、敵連合で兄が犯罪を冒し続けるか、捕まって処刑されるのを、()()()()事しかできないのだろうか。喉の奥から熱い感情がせり上がってくる。杳が弱々しく泣いていると、殻木は慌ててPHSをポケットにしまい、再びベッドのそばにしゃがみ込んだ。

 

「ど、どうしたんじゃ白雲くん。大丈夫か?」

「先生。ストレスの原因は……分かってるんです。でも、取り除く事なんて、できない」

 

 まるで出口のないトンネルに閉じ込められたように――鬱屈した感情が、杳の心を覆い隠してゆく。刹那、殻木の顔が変化した。まるでろうそくの火を吹き消すように、優しい人格者としての仮面が剥がれ落ち、自分本位な科学者の本性が露出する。だが、涙のせいで不明瞭になった杳の視界に、その表情は映っていなかった。

 

「何故、できないと思うのかね?」

 

 静かな声が、杳の耳朶を打った。幼い子供のようにしゃくり上げながら、彼女は懸命に言葉を探す。民間人である殻木は当然、黒霧の件を知らないはずだ。自分の抱えているものがどれほど重く、覆しようのない代物であるかを、どんな風に表現すれば伝わるか考えあぐねていると――殻木はさらに言葉を続けた。

 

「白雲くん。できるか、できないかを判断するのは、世間ではなく()()()じゃ。……君はどうしたい?」

 

 どこか()()()()のあるその台詞はまるで棒読みで、感情の欠片も籠もっていなかった。なのに、それはどんなものよりも強く、杳の心を打った。思わず目を丸くして殻木を見つめていると、おもむろにドアが開き、細々とした日用品を抱えた両親がやってきた。殻木はすぐさま笑顔に戻り、両親に杳の容態を丁寧に報告した後、こちらに手を振り、病室を出て行った。

 

(……君はどうしたい?)

 

 先程の殻木の言葉が、耳元で何度もこだまする。それに()()()()ように体内から立ち昇り始めた冷気を押さえるため、杳は吸入器のレバーを引き、充填された薬を吸い込んだ。

 

 

 

 

 神野の悪夢から一週間が経過した。診察の結果、杳の治療方針は()()()()へ移行した。殻木と看護師たちに見送られた杳は、父が運転する車に乗り、家に帰りついた。杳は二階へ続く階段を昇り、蛾が光に吸い寄せられるように、自身――ではなく()()()()へ向かった。狼狽える母を振り返り、杳は小さな声で尋ねる。

 

「しばらく、お兄ちゃんの部屋にいていい?」

「……もちろんよ。あなたの好きになさい」

 

 杳はドアを開け、中に入った。――室内は十三年前のまま、時が止まってしまったようだった。杳はクローゼットを開け、兄のコスチュームの一部である上着を取り出して羽織ると、ベッドの上に座った。布団や服などの生活用品は、定期的に母が手入れをしており、時の経過で古びているが、痛んではいなかった。もうとっくに兄の匂いなど消えているはずなのに、それでも深く息を吸い込むと、かすかに懐かしい痕跡を感じられるような気がした。

 

 馬鹿みたいだと、杳は自嘲するような薄笑いを浮かべた。気持ち悪い。狂ったブラコンも同然だ。こんな事をして、一体何になるのだろう。あの時から、少しも成長していないじゃないか。――立ち直ったと思っていた。兄の死を乗り越え、仲間と共に前に進めたと安心していた。それなのに、()()()だ。だが、理性がどれほど苛烈に自身を罵っても、心と体は愚直なほどに兄を求めていた。その事実が、自己嫌悪に一層の拍車をかける。

 

(卒業したら、三人で事務所を開かないか?)

 

 いつかの友人の言葉が、耳の中で空しく反響する。雄英生の中でもずば抜けて優秀な焦凍と、その彼に迫る勢いで日々、目覚ましい成長を見せる人使。そんな前途有望な二人と肩を並べ、活動する。そんな事は未熟な自身には無理だと分かっていても、杳は密かな希望を持たずにはいられなかった。だが、その希望は砕け散った。他ならぬ、自分自身のせいで。不甲斐なくて、情けなくて、杳はギュッと瞼を閉じた。

 

(俺はフォローしない。けど、待ってるから。頑張れよポンコツ)

 

 頬杖を突き、こちらを覗き込んだ人使の優しい眼差しと言葉が、()()()()()()感じられる。お母さんが見ている。これ以上、心配させちゃいけない。杳は必死の思いで泣くのをこらえた。目と鼻の奥が熱い。悲しかった。寂しかった。悔しかった。涙が鼻の脇を伝って流れていく。

 

 ふと、()()()()()()が、杳をふわりと包み込んだ。母が、自身を抱き締めている。涙でくぐもった声が、確かな覚悟をまとい、杳の耳に届いた。

 

「杳。雄英、辞めなさい」

「……ッ、うわああああっ!」

 

 母にすがり付き、杳は泣いて、叫んで、わめいた。娘を守るため、泥をかぶる決意を固めた母に抵抗するどころか、()()()()()を、杳は心の底から呪った。だが、兄を二度も救えなかったヒーローに、もう夢と憧れを見出す事はできない。希望に満ち溢れた日々は、静かに終わりを告げた。

 

 

 

 

 それからさらに、一週間が経過した。”平和の象徴”を始めとした多くのヒーローを失い、世間は()()()()に陥っていた。不安はいつしか()()へ変わり――全くもって不本意ではあるが――神野事件の発端となった雄英も、その標的となった。雄英は一刻も早く生徒達の安全を守るため、全寮制度を導入する事を決定した。根津校長やオールマイトを始めとした教師陣は生徒のご家庭へ赴いて、父兄に事の次第を説明する運びとなった。

 

 学校を離れれば、何の事件もない、平穏な日々が杳を待っていた。彼女は兄の部屋かリビングルームにいて、ずっとぼんやりとしていた。時たま、冷蔵庫からアイスを出して食べたり、縁側に座り、空模様や庭を眺めたりする。家から外に出る事は、警察に固く禁じられていた。

 

 また、テレビやパソコン、スマートフォンなど、外界と繋がるようなものには触れるなと、殻木によるドクターストップが掛かっていた。その事に、杳は別段不満を感じなかった。何かの拍子に黒霧の姿を見たら、自分が何をしでかすか分からないし、あれほど熱心に聴いていたマイクのラジオも、今はもう聴く気になれなかったからだ。

 

 ある日の昼下がり、杳が焦凍のくれた最後のアイスを食べながら、庭を眺めていると、家の固定電話が鳴り響いた。母は皿洗いをする手を止め、電話を取る。

 

「はい、白雲です。……()使()()()?ちょっと待っててね」

 

 慣れ親しんだ名前を聞いて、杳の肩がほんの一瞬だけ震えた。母が電話を保留にし、伺うようにこちらを見る。彼女が退院してから一週間、人使は毎日電話をくれていた。外出禁止令のせいで会えない代わりに、声だけでも届けて、元気づけようと思ってくれているのだろう。友人の優しい想いは、痛いほどによく分かる。

 

 ――本当は、人使に甘えたかった。みっともなく泣きじゃくる自身を受け止め、優しい言葉で慰めてほしかった。けれど、母から受話器を受け取ろうと手を伸ばす度に、爆豪の投げつけた()()()()が、頭の中でガンガンと鳴り響く。

 

(テメーがそうやって甘やかすからつけあがンだろが!)

 

 もし、人使の声を聴いてしまったら。ドロドロになるまで甘えて、何も考えられなくなる気がした。人使に言われた事だけを実行する、意志がないロボットになってしまう気がした。――それでいいじゃんと、杳の幼い心が叫ぶ。少しでも苦しみの少ない方へ、楽な方へ流れて生きていく。それの何がいけないの、と。

 

「……ごめんなさいね。今日も調子が良くないみたい。いつも本当にありがとう。落ち着いたら、ぜひ遊びにいらっしゃいね」

 

 だが、杳の首は弱々しく横に振られ、電話に出る事を拒んだ。母は丁重に断りを入れると、名残惜しそうに受話器を置く。

 

「いえ。こちらこそ、何度もすみません。ありがとうございます。……失礼します」

 

 人使はかしこまった口調でそう締めくくると、スマートフォンを見下ろし、浮かない顔で溜息を零した。外出禁止令さえ出ていなければ。この時ばかりは、警察の下知を恨めしく思う。

 

 人使は、杳に会いたかった。彼女が無理をして、強がっているのは明白だったからだ。あの悍ましい真実を一人で抱え込んでいる友人のそばに行き、心ゆくまで話を聴いて、涙を拭き、頭を撫でてやりたかった。こっそりと行ってやろうか。人使はやけになり、サイドテーブルに転がした自転車の鍵を手に取ろうと試みた。だが、その寸前、爆豪に投げつけられた()()()()が鼓膜に突き刺さる。

 

「……」

 

 しばらく逡巡した後、人使は憮然とした表情で、ベッドの上に座り込んだ。神野事件の時は、あらゆるリスクを度外視して救いに行ったのに。どうして今、友人の家に行く事がこんなに躊躇われるのか、彼には全く分からなかった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 一見奇妙にも思える()()()()()は――杳の自我が確立し始め、また、人使が彼女を()()()()()として認めようとしているために、起きたものだった。フワフワとした紫色の髪をかき乱し、彼は隈の滲んだ目を机に向ける。机の脇に吊るされたリュックに、揃いのキーホルダーが揺れていた。

 

 

 

 

 杳は縁側に腰かけ、空模様を眺めていた。青空と太陽、両方とも兄が好きだったものだ。兄は()()、この組み合わせが好きだろうか。目の覚めるような青い空を、一羽の鷹が飛んでいる。ひときわ大きな雲が視界に入り、消えていく。にわかに強い風が吹き、庭の芝生をなびかせて、杳の髪をくすぐった。――その時、癖のある()()()()()が、風に乗ってふわりと鼻腔を掠めた。

 

「……ッ!」

 

 上向けていた顔を下げ、鼻をひくつかせながら周囲を見渡すと、古びた石垣の上から、見覚えのある金髪がちょこんと飛び出ている。飾り穴から覗く鋭い目が、こちらと克ち合うなり、慌てたように逸らされた。――信じられない、()()()()()だ。

 

 一瞬遅れて、杳の腹の底から込み上げてきたのは――凄まじい憎悪と怒りの感情だった。激情は時に、人をあらゆる感情から解放する。トゥワイスが命を賭けて自身を逃がそうとしてくれていた事は、杳の頭から消えていた。今の彼女にとって、トゥワイスは兄を奪った敵連合の一味、つまり()()()でしかなかった。

 

 杳が険しい表情で立ち上がると、石垣の向こうにある金髪が狼狽したように揺れ、そして消えた。慌しい足音がどんどん遠ざかっていく。杳は駆け出し、大人の背ほどもある石垣を跳び越えた。平日の昼下がりという事もあり、閑静な住宅地であるこの近辺に人通りはない。杳は必死に駆け、裏路地へ逃げ込もうとするトゥワイスの背中に、渾身の体当たりを喰らわせた。

 

 小さな体でも、杳はヒーローの卵だ。走っていたスピードも相まって、体当たりの威力は結構なものとなった。だがトゥワイスも、あの(つわもの)揃いの敵連合の一味だ。彼は電光石火で反応し、空中で体勢を変えると同時に両腕を広げ、一緒に倒れ込もうとする杳を守るように抱き締めた。

 

 かくして、二人の体は勢い良く弾みながら地面を転がり、角にぶちまけられた不燃ゴミの山に不時着して、止まった。杳はトゥワイスの腕から逃れようともがきながら、叫んだ。

 

「離せ!今度は……私のッ、家族を奪いに来たのか!」

 

 トゥワイスの拘束を抜け出すと、杳は彼の手を掴んだ。荷物を担ぐように体ごと背負い上げて前方に落とし、両腕を拘束する。トゥワイスは抵抗する素振りも見せず、されるがままになっていた。――通報しなければ。そう思うが、スマートフォンを最近は携帯していない事を思い出し、杳は悔しそうに唇を噛み締めた。地面に押し付けられた顔をなんとか持ち上げ、トゥワイスはかすれた声を絞り出す。

 

「違うんだ。俺は、俺はお前が心配で……」

 

 その言葉は、杳の()()()穿()()()。身を焦がすほどの激情が、心を責め苛んでいく。杳はトゥワイスの胸倉を掴み上げた。顔のほとんどを覆い隠したバンダナの隙間から、悲しい色を湛えた瞳がこちらをじっと見つめ返す。その目付きすら、杳は腹立たしくてたまらなかった。

 

「なら、お兄ちゃんを元に戻してよ!知ってたくせに!何もしなかったくせに、今更……ッ、心配なんて綺麗事、言うなぁ!」

 

 ――逃がすのは()()()()だと、あの時、トゥワイスはそう言った。きっと彼は事の顛末を知っていたんだ。知っていたなら、なんで黒霧に敵連合を辞めるよう説得してくれなかった。あなたが手を取って逃がすべきだったのは私じゃなく、黒霧だったはずだ。

 

 心の容量を超える悲劇が起こった時、人は()()()()()にする事で自分を守ろうとする。杳が並べ立てているのは、責任転嫁も甚だしい言葉の数々だった。泣き叫びながら、杳は拳を振りかざし、トゥワイスを殴ろうとする。もはや杳は自分が何をしようとしているのかも、分かっていなかった。

 

(トゥワイスさん。ありがとうございました)

 

 かつて自分を守り、笑いかけてくれたヒーローが――今、泣きじゃくりながら、自分に拳を振り上げている。変わり果ててしまったその姿を見ていられず、トゥワイスの目から涙が溢れ、バンダナに滲んで、黒い染みをいくつも創り出した。

 

 俺はいつも、そうだ。自分の考えなしの行動や不始末のせいで、大切なものを傷つける。今だって。自分の感情が先回りして、この子の顔を見に行ってしまった。冷静に考えれば、彼女がどんなに辛い想いをするか、分かるはずなのに。罪悪感に打ち震えた声で、トゥワイスは咽び泣きながら、謝った。

 

「ごめんな。ごめんなぁ……俺が勇気を出してりゃ、こんな事に……」

 

 トゥワイスは目を閉じると、歯を食いしばり、来たる衝撃を待った。どれほど強く殴られても、たとえ殺されても、彼女の気が済むならそれで良いと思った。だが、彼の頬を打ったのは痛みではなく――()()()()だった。

 

「……ッ……」

 

 あの時、トゥワイスがくれた優しい言葉、暖かい手の感触が、記憶の底から蘇り、振り上げた拳にすがり付く。杳はよろめきながらトゥワイスから離れると、汚れた壁を背にして座り込んだ。

 

 ――何が正しくて、何が間違っているのか。杳にはもう分からなかった。頭の中が、色んな人々の言葉や自身の揺れ動く感情で錯綜し、もう爆発寸前だった。どこか遠くの方から、人々の逼迫した声が近づいてくる。見つかれば、トゥワイスは捕まってしまう。

 

「もう、行って。人が来ないうちに……ッ!」

 

 トゥワイスを()()()()()言葉を放ったその時、杳の体内からおびただしい量の()()が噴き出した。瞬く間に体表を雪の結晶が覆い尽くし、咳き込んだ口から氷の欠片がゴロゴロと転がり出る。――それはまるで、敵を救けようとした杳を咎めるような反応だった。

 

 トゥワイスは必死で手を伸ばすが、突如として地面から突き出た氷柱の群れが、それをバチンと弾き返した。――これ以上、俺がここにいても、()()()()()()()()だけだ。彼は血が滲むほどに強く唇を噛み締めると、後ろ髪を引かれる思いで、路地裏の奥に駆け去った。

 

 杳はポケットから吸入器を取り出すと、レバーを引いて、充填された薬を吸い込んだ。徐々に寒さが引いていき、代わりに強烈な眠気が襲ってくる。

 

 薄れゆく視界の中、杳は新鮮な苺の入ったパックが、ひしゃげた紙袋から飛び出しているのを見た。パックから零れ落ちたのだろう――汚れた地面に苺が数粒、転がっている。それらを()()()()、ヒーロー達が逼迫した表情でこちらに駆け寄ってきた。杳は、ゆっくりと意識を手放した。




はっさいかい編は勢いで書く。どーんと書いて、後でちょこちょこ微調整します。分かりにくいところがあれば修正しますので、仰ってください(*´ω`)


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No.43 白雲家②

 あれから、杳はヒーローに連れられて無事、家に帰りついた。だが、いくら両親に問い詰められても、杳はトゥワイスを追いかけていた事は言わず――苺を食べたくて家を飛び出してしまったのだと()()()()()。幸か不幸か、二人の追いかけっこを目撃した第三者はいなかった。

 

 最終的に、精神的な病から生じた()()と周りに判断され、杳は急遽、殻木の電話診察を受ける事となった。事態を重く看た殻木はドクターストップの対象を、敵を想起させるためという理由で”ヒーローに関わる人間”にまで拡張する。――ついに杳は、人使達と会う事すらできなくなってしまった。

 

 

 

 

 その翌日。相澤はシンプルなスーツに身を包み、白雲家の前に立っていた。――急遽導入された全寮制度に基づき、わずか3日で建築された”ハイツアライアンス寮”。その説明と杳の今後について話し合うのが、足を運んだ目的だった。同行していたオールマイトには、どうしても自分一人だけで行かせてほしいと頼み込んだ。彼は現在、尾白の家に向かっているはずだ。

 

 この家に来るのは、実に()()()()()だった。家の外観も、古びた石垣の飾り穴から垣間見える小庭も、昔のままだ。名札の下にある呼び鈴を押すと、玄関のドアが開いた。朧の両親がそっと顔を覗かせる。相澤の呼吸は少しの間、止まった。

 

 薄暗く濁った空から、雨が降って来て、相澤の頬を濡らす。その瞬間、彼の心は十三年前に戻った。――そういえば、()()()も雨が降っていた。友人の葬式の時も。色褪せた世界で、喪服に身を包んだ両親がやつれ切った顔を歪め、しわがれた声を絞り出す。

 

(……どうしてあなた達が生きていて、あの子が死ななければならなかったの)

 

 あの時、友を喪った過去の自分と――杳の担任である現在の自分が――心の中で乖離(かいり)し、相澤はほんの数瞬、躊躇した。だが、そんな彼の前で、両親は深々と頭を下げた。

 

 雨が体を濡らすのも(いと)わず、小さな門の鍵を開け、中に招き入れる。間近で見る二人の目には、あの時には失われていた――優しい光と、相澤に対する悔悟の念がぎっしりと詰め込まれていた。母の目尻から大粒の涙が零れ、雨と一緒に滴り落ちていく。

 

「いらっしゃい。消太くん」

「お久しぶりです」

 

 相澤はかすかに微笑んで、掠れた声で応えた。三人の心に長年こびり付いていた(わだかま)りが、雨に融け、流されて消えていく。――約十三年の時を経て、相澤と朧の両親はやっと再会を果たした。

 

 

 

 

 両親に勧められ、相澤は仏壇の前に座った。立派な額縁に、朧の遺影が飾られている。お(りん)を鳴らし、手を合わせた。問題は山積みだが、やっと友人の供養ができた気がする。閉じた瞼の裏に、友人と過ごした思い出と積年の想いが込み上げてきて、相澤はこらえるように唇を噛み締めた。

 

 ()()()も連れてくるべきだったかもしれない。金髪を逆立てた陽気な友人の姿を思い浮かべるが、相澤は首を小さく横に振った。もう自分達は、彼が()()()()()事を知っている。しかも、考えうる限り、最悪な形で。

 

(俺、黒霧の中に……顔を見ました。あいつ、が真似ていた兄の姿に似ていて。……あいつを救けようとしていました)

 

 線香の匂いと鈴の音色が、相澤を感傷に浸らせた。かつての弟子の言葉が脳裏をよぎり、彼はそっと手を伸ばして友人の遺影に触れる。朧の魂は、今もここに眠っているのだろうか。それとも、黒霧の中に封じられているのか。彼は基本的に現実主義者(リアリスト)だ。魂や愛など、あやふやな存在は信用していない。だがもし、魂というものが本当にあって、朧が今も変わらず、思考する事ができるとするなら――

 

 ――相澤は、()()()を考える事ができなかった。代わりに、杳の事を考えた。時を巻いて戻す事はできない。変えられるのはいつも未来だけだ。きっと朧もそれを望んでいるはず。自身の教え子を救うため、相澤は座布団から立ち上がると、確かな足取りで両親の待つリビングルームへ向かった。

 

 

 

 

 しかし、広々としたリビングルームに杳の姿はなかった。相澤の心はざわめき、()()()()がした。父がやって来て、相澤に席へ着くように勧める。お礼を言って彼が座ったのを確認すると、母が急須と菓子の載った盆をテーブルに置き、三つの茶碗にそれぞれお茶を注ぎ入れた。

 

 ――茶碗が一つ足りないと、相澤は訝しんだ。今回の話し合いには必ず、()()出席させるようにと、事前に通達しておいたはずなのだ。主治医である殻木にも、特別に許可を取っている。もしかして急に具合が悪くなり、休息を取っているのかと相澤は思いを馳せた。

 

「ありがとうございます」

 

 様々な憶測が心中をせめぎ合うが、相澤は結局何も言わずに茶碗を受け取り、お茶を一口飲んだ。そして鋭い眼差しで、両親の顔を見る。二人はそわそわと落ち着かない素振りで、お互いの顔を見合わせた。居心地の悪い沈黙が、三人を包み込んだ。相澤は咳払いしてその沈黙を破ると、低く落ち着いた声で話し始める。

 

「では、早速本題に入らせていただきます。こちらの資料を……」

 

 相澤がビジネスバッグから、寮化のお知らせに関する書類を引き出したのと――父が追い詰められたような表情で”退学届”をテーブルに置いたのは、()()()()だった。相澤の冷酷な黒い双眸と、澄んだ空色をした父の双眸が、拮抗する。父は膝に置いた掌を握り締めると、テーブルに頭が着くまで、深く頭を下げた。

 

「こんな結果になってしまい、大変申し訳ありません。ですが……どうか、お受け取りください」

 

 眼前に置かれた白封筒を、相澤はじっと見つめた。心に受けた衝撃は、思ったより少ない。塚内越しに休学届を受け取ってから、予想できなかった事ではなかったからだ。両親は沈痛な表情を浮かべ、こちらの反応を伺っている。まるで全ての負の感情を内側に向け、溜め込んでいるような顔だった。

 

 ――ああ、結局()()だと相澤は悟った。十三年前から、ここは何も変わっていない。両親のフワフワした雲のような優しさは、杳の心を弱める毒と同じだ。兄を敵にされ、その事実を誰にも言わずに秘め、杳がどれほど辛い思いをしているか、相澤には痛いほど分かる。だが、ここで挫折してしまったら、本当にあの子は立ち直れなくなってしまう。相澤は心を鬼にして眉をしかめると、口調を強めた。

 

「杳さんと()()お話しさせていただく事はできませんか」

 

 引くつもりはないと言わんばかりに、相澤は椅子から腰を浮かした。さっきから上階でかすかに物音がしている事を、彼の鋭敏な聴覚は捕えていた。きっと両親に言い含められ、部屋に閉じこもっているのだろう。たとえ両親に羽交い絞めにされようと、彼は杳の部屋へ強行し、説得するつもりだった。

 

 相澤の覚悟を見た両親は示し合わせたように立ち上がった。そして、彼の目の前で正座した。両手を突き、床に着くまで深く頭を下げる。――()()()だった。

 

「ごめんなさい。消太くん」

 

 悲しみで押し潰されたような声が、母の口から漏れた。相澤の呼吸は再び、止まった。

 

()()()()()失いたくないの」

 

 ――その言葉は、相澤の心の一番深いところを容赦なく穿(うが)った。杳はヒーローの卵であると同時に、()()()()でもあった。我が子が何度も死にかけるほどの大怪我を負い、挙句に敵に誘拐され、ひどい心の傷を負う。

 

 だが、その度に歩みを止めていては、ヒーローにはなれない。雄英は今まで、生徒の家族に対してそれほど丁寧なフォローをしてこなかった。杳の両親が出した結論は、ヒーローの親としては失格だが、子を持つ普通の親としては()()()()()と言えるものだった。

 

 

 

 

 数時間後、雄英の職員室にて。相澤は机に退学届を放り出し、目を閉じて思案に耽っていた。同僚達のざわめきに混じって、雨の降る音がする。ただ雨が降っているだけなのに、今だけはそれがひどく哀しそうな音に聴こえた。無力感が全身を苛み、何もする気になれない。仮眠もとらず、携帯食も摂らず、彼はずっと椅子に座って目を閉じていた。

 

Hiya(よう)!……って寝てんのか」

 

 ふと隣から、慣れ親しんだ陽気な声が飛んできた。――()()()だ。相澤は応える気になれず、そのまま寝たふりをした。コーヒーの芳ばしい匂いがふわりと鼻腔をかすめ、すぐ前にコトリと何かを置くような物音がする。しかし、どっかりと隣の椅子に座る音は続かず――代わりに、マイクの()()()が突き刺さった。

 

「……なんだよ、これ」

「退学届だ。白雲の」

 

 次の瞬間、相澤は胸倉を掴まれ、無理矢理立ち上がらされた。周囲はどよめき、同僚が数名、コーヒーカップ片手にこちらへやって来ようとする。だが、ミッドナイトがそれらを制した。相澤が目を開けると、怒り狂ったエメラルドグリーンの双眸が、こちらに向けられていた。

 

「で、受け取ってのこのこ帰ってきたってか?……ふざけんな!それでも担任かよ、テメーはァ!」

「もう()()()()()()()だ!お前も分かってるだろッ!」

 

 その瞬間、心の底に押し込めていた激情が音を立てて爆発し、相澤は声を荒げた。

 

 ――杳は雄英において、目立った功績を何も残せていない。座学も戦闘技術も鳴かず飛ばす、兄の模倣を辞めてからは、肝心の個性すらまともに扱い切れていないという有様だった。唯一の手柄であるロックを倒した功績は諸事情のため、闇の中へ葬られた。世間の評価はいまだに”ビニール袋の子”のままだ。

 

 今は”神野事件の可哀想な被害者”という目で見られているが、いずれ不満を持つ者も出てくるだろう。雄英は普通の学校ではない。他者を蹴落とし、トップに立つための戦場だ。嫌がる杳を説得し、その歩幅に合わせ、のんびりとスクールライフを送らせてやる余裕などあるはずがなかった。付いていく事のできない者は振り落とされる。彼女の代わりを務めたいという者はいくらでもいるのだ。

 

 相澤の胸倉を掴む、マイクの手が震えた。彼はゆっくりと手を放し、椅子に座ると、両の掌で顔を覆った。くぐもって不明瞭な声が、指の間から漏れる。

 

「なあ。やっと乗り越えてきたとこだろ?これからじゃねえか。……なのになんで、こんなことに」

 

 相澤は手を伸ばし、コーヒーカップを取った。湯気の立つ黒い水面に、杳と過ごした数ヶ月の思い出が浮かんで、消えていく。

 

 ――決して真っ直ぐな道ではなかった。曲がりくねり、泥だらけで臭くて、行き止まりばかりの悪路だった。だが、それでも、彼女は()()()()()。あんな紙切れ一枚で、全部無かった事になど、してたまるか。コーヒーの苦味と一緒に決意を飲み込んで、相澤は静かに口火を切った。

 

「1ヶ月、待ってくれと言った」

「HA。時間稼ぎかよ」

 

 マイクはやけになり、天井を振り仰ぎながら、乾いた笑い声を漏らす。相澤は思わず息を飲むほどに真摯な表情で、友人を見つめ返した。

 

「違う。考える時間を与えたいだけだ。……俺は、あの子を信じたい」

 

 張り詰めた空気が、霧散していく。二人の様子を静かに見守っていたミッドナイトは、溜息を零し、職員室を出た。ハイヒールの音を高らかに鳴らして廊下を歩き、中庭に出て()()()()()()を探した。――紫色の髪を逆立てた少年は、大きな樹の下に座り込み、カロリーメイトをかじっていた。

 

 

 

 

 先の事件で臨時休校となっていた雄英が復興し、新しく建てられた寮で生徒達が生活を営み始めてから、一週間が経過していた。

 

 昼休憩時、人使は他の友人の誘いを断り、中庭にある大樹の木陰に座って、一人で食事を摂った。放射線状に広がった枝には新緑がしっかりと芽吹き、吹き抜ける風に揺られてささやかなメロディを奏でていく。――繋がる事はないだろうが、また電話を掛けてみようか。カロリーメイトをかじりながら、人使がポケットからスマートフォンを取り出していると、すぐ頭上から鈴を転がすような声が降ってきた。

 

「心操くん。お隣、良いかしら?」

「……はい」

 

 日光を背にして立っているため、黒い影にしか見えないが、その甘い声と香りで、人使は誰だかすぐに分かった。――ミッドナイト先生だ。人使が怪訝に思いながらも頷くと、彼女は小さく礼を言い、隣に座った。ラベンダーを思わせる、安らかな香りが周囲に漂い、人使の心の壁を揺らがせる。ふと強い視線を感じて中庭を見ると、峰田が血涙を流してこちらを睨みながら、ハンバーガーにかぶり付いていた。まるで親の仇を見るような眼差しだった。

 

「白雲さんの事、考え過ぎてない?……大丈夫?」

 

 鬼神・峰田を投げキッスで撃沈させながら、ミッドナイトは優しい声でそう言った。人使は一瞬、言葉に詰まった。毎日杳の事について考えているし、大丈夫でもないからだ。だが、いくら根を詰めて考えたところで、突破口が見い出せるわけじゃない。それにドクターストップがかかっている今となっては、彼女に会いに行く事さえできなかった。電話も毎日かけてはいるが、出る様子もない。――もはや、手詰まりだった。

 

 ()()()、無理を押してでも会いに行けば良かったと、今更になって強く思う。紫色の髪をかき乱し、彼は沈痛な表情で俯いた。

 

「俺は何も、できなくて……」

「そんなことないわ」

 

 ミッドナイトはきっぱりとした強い口調でそれを否定した。幾多の心の傷を癒してきた黒い双眸と、悩める若者の双眸が交錯する。ミッドナイトはスーツの懐部分から一枚の広告を抜き出すと、彼に手渡した。

 

「本当に辛い時こそ、大切な人に話せないってケースもあるのよ。だから……これをあの子に渡してあげて」

 

 それは、神野区にほど近い街で催される”カウンセリングフェス”の知らせだった。カウンセリングフェスは、(ヴィラン)犯罪に巻き込まれた被害者達のために、定期的に国が主催している――メンタルケアに特化したイベントだ。先の神野事件を鑑み、今回のフェスは町全体を巻き込んだ、かなり大規模なものとなっていた。紙に乗り切れないほど沢山の企業や医療施設がブース出展し、心の傷を癒す様々な治療法を提供するらしい。

 

 ――もし、杳がこれで、名前も知らない誰かに自分の悩みを打ち明けたとしたら。()()()()()()。人使の胸はチクリと痛んだ。だが、それよりも、彼女を大切に想う気持ちが勝った。どんなものだろうが、それで彼女の苦しみが少しでも減るなら、それでいい。彼は礼を言うと、広告をきれいに畳んでポケットにしまい込んだ。

 

 

 

 

 数時間後、人使は自主練を終えて寮に帰りついた。シャワー室で軽く汗を流した後、エレベーターに乗り、5階のボタンを押す。――寮は1階が共同エリア、2~5階が居住区となっている。男女別で各1フロア4部屋あり、男女合わせて計32部屋。最新設備の行き届いた部屋を、一人に一部屋もらう事ができる。

 

 人使の住む5階の間取りは、男性側は奥から砂藤、瀬呂、轟、人使、向かいの女性側は八百万、空室、蛙吹、そして杳だった。最近の人使の日課は、杳の部屋を掃除する事だった。備え付けの調度品以外は何もない――殺風景な部屋だが、それでも無人の空間は何故か、すぐ埃が溜まる。ふと思い立った時に部屋に行き、掃除をし、今日の授業内容をノートに書き留めていると、重く沈んだ心が少しだけ軽くなるような気がした。

 

 人使はリュックに仕舞い込んだ広告を取り出し、じっと見つめた。――()()()。直接会えない今となっては、手紙を書くくらいしか方法がない。確か、自室に家族へしたためる用の便せんがあったはず。人使はその事を思い出し、指の関節を鳴らした。一旦部屋に戻り、それを取ってから彼女の部屋に行こう。

 

 そうこうしている内にエレベーターは5階につき、重い金属製のドアが開いた。続いて、人使の目と耳に飛び込んできたのは――杳の部屋周辺を忙しなく行き交うクラスメイト達と、廊下に散りばめられたアジアンテイストの調度品達だった。

 

「このランプ可愛いよねぇー」

「……え?何語?」

 

 芦戸がうっとりとした表情で、ラタンで編み上げられたペンダントランプを持ち上げる。その隣では、尾白が目を細め、外国語の取扱説明書と睨めっこしていた。ウォーターヒヤシンス製のローテーブルとソファーを運び込んだ砂藤と障子は、額に浮かんだ汗を拭う。

 

「こんなにクッション置いてどーするわけ?あいつそんな寝相悪いの?」

「アンタさぁ……それがオシャレなの。アジアンなの」

 

 ラタン製のベッドとローテーブルの周りに大量のクッションを敷き詰めながら、上鳴と耳郎が軽口を叩き合う。その近くでは、八百万と麗日が天井から薄く透けた布を幾枚か垂らし、ベッドを覆う天蓋の代わりとしていた。

 

 数日前まで殺風景だった友人の部屋は――今や、お洒落なアジアンテイストの部屋に様変わりしていた。人使が呆気に取られて、目の前で着々と進められている劇的なビフォーアフターを見学していると、細々とした小物――掛け軸や香炉、食器などを抱えた切島が、ソファーの影からひょっこりと顔を出す。

 

「全部、箱から出しといたぞー。どこに置いたらいいんだ?」

「あー……そこらへんにガサッと置いとけよ。後でシンソーが良い感じにすんだろ」

 

 飾り棚の組み立てに苦心している瀬呂は、大量の小物を一瞥するなり、ちょっと面倒臭そうな顔をして、部屋の片隅を指差した。――まさかの()()()()だった。よくよく考えてみれば、こんなに手の込んだ部屋を、杳が一人で掃除できるはずもない。人使は辛抱たまらず、勝手な匠たちに物申そうと部屋に入った。

 

「あんまりごちゃごちゃさせんな。片付けられなくなる」

「ハイ保護者チェック入りましたぁー!」

 

 その瞬間、上鳴が嬉々として叫び、皆の注目を集める。焦凍と共に、部屋のレイアウト図を見直していた緑谷が、慌ててこちらに駆け寄ってきた。

 

「ごめんね心操くん。びっくりしたよね」

「……いや、良いけど。何だよこの騒ぎ」

 

 憮然とした表情で、人使は緑谷に尋ねた。緑谷は気まずそうに頭をかいた後、事の次第を離して聞かせた。

 

 ――曰く、きっかけは()()()()だった。人使が毎日、杳の部屋に足を運び、掃除しているのを、八百万が見ていたのだ。感銘を受けた彼女は、談話室で皆にその事を話した。話の方向性をまとめる者がいない中で話し合っても、なかなか結論は出ないものだ。話はやがて迷走し始め――最終的に何故か――杳が帰ってきてもすぐに生活を始められるように、部屋を改造するという考えに至ったのだった。アジアン風なのは、単に杳のコスチュームが中華風だからだ。

 

 今に至るまでクラスメイトと談笑する気になれず、共有エリアに足を運ばなかった事を、人使が猛烈に後悔していると、緑谷が苦笑いしながら口を開いた。

 

「あ、心配しないで。白雲さんが帰ってきたら、改めて意見を聴くつもりだから。……皆、白雲さんのために何かしたいだけなんだよ」

 

 ――白雲さんが帰ってきたら。その言葉は春風のように暖かく吹き、人使の凍り付いた心を融かしていった。無意識の内に入っていた肩の力が抜けていく。

 

 皆は、あいつが帰ってくると信じている。人使は改めて、部屋の様子を見た。そして想像した。――杳と一緒に、この部屋で過ごす未来を。案の定、大量のクッションに足を取られて転び、部屋中に飲み物をぶちまける彼女の姿を。それを軽く叱りながら、部屋の掃除をする自分の姿を。それはこの先、()()()()()()()()未来の一欠けらだった。”夢は思い続ければいつか、現実になる”という。根拠の欠片もない使い古されたそのフレーズを、今だけは信じてみたい気になった。

 

「なぁ。部屋の写真、撮っていいか。あいつに送りたい」

「いーじゃん!どーせだから皆、映ろうぜ」

 

 人使の提案を、皆は快諾した。アジアンリゾートを彷彿とさせる洒落込んだ室内に、見慣れた面々がずらりと並ぶ。人使は、彼らが抱く思いも共に映るようにと願いを込めて、シャッターを切った。

 

 

 

 

 その夜。杳の部屋でクッションに身を預け、人使が手紙を書いていると――ドアが控えめにノックされる音がした。人使が返事をすると、ドアがゆっくりと開き、中からひょっこりと()()が顔を覗かせる。確か、彼女は夕方の劇的ビフォーアフターにいなかったはずだと、彼はぼんやり思考を巡らせた。

 

「心操ちゃん。入ってもいいかしら」

「ああ。どうぞ。……まぁ、俺の部屋じゃないけど」

 

 蛙吹はお礼の言葉を口にすると、人使の対面に座った。敷き詰められたクッションに埋もれるようにして、彼女は膝を抱えて俯いた。長い黒髪が垂れて顔を隠す寸前、いつも冷静沈着な蛙吹の双眸の奥に、何か()()()()が見えたような気がして、人使は思わずペンを走らせる手を止める。

 

「心操ちゃんは()()()()のね。杳ちゃんに何があったのか」

 

 思いも寄らぬ言葉に、人使は一瞬、言葉に詰まった。そして、息を飲んだ。蛙吹が泣いていたからだ。彼女は――先の事件の時、忠告を無視して二人を救けに行った自分達を涙ながらに叱責した時と――()()()をしていた。人使の沈黙を肯定と捉えたのか、蛙吹は得心がいったように頷いた。だが、それから先を問い質す事はしなかった。

 

「杳ちゃんは人より心が幼くて、もろいわ。それが分かってるから私、貴方や他の皆がいない時、なるべく彼女の傍にいたの。今回の件も、落ち着いたらお見舞いに行こうと思ってた。でも、ドクターストップがかかったって、今朝先生に言われて……」

 

 皆まで言わず、蛙吹は膝を抱え込んだ。――雄英から杳がいなくなった事でできた()の存在を、人使は今更にして思い知った。悲しんでいるのは自分だけじゃない。蛙吹は杳と親しかった。長女である彼女は面倒見がよく、手のかかる子供のような存在である杳を特別に気にかけていたのだろう。そしてそれは、彼女とよく行動を共にしていた常闇や口田、焦凍にしても同じ事だ。涙を拭いながら、蛙吹は震える声で言葉を紡ぐ。

 

「私、毎日心配でたまらないの。立ち直ってくれるかしら。帰ってくるかしら?」

 

 不安に揺れる漆黒の双眸と、静謐な紫色の双眸が束の間、交錯する。その時、人使の脳裏にある記憶のワンシーンがよぎった。数ヶ月前に実施された実技試験の時、そして体育祭の時、お互いに交し合った()()の事を。

 

 ――俺は忘れないよ。だから、お前も忘れるな。人使は目を閉じて深く息を吸い込むと、蛙吹に向け、人を安心させるような笑みを浮かべてみせた。

 

「きっと帰ってくるよ。俺は信じてる」

「……そうね。私も信じてる」

 

 蛙吹は少し驚いたように目を丸くして、人使を見上げていたが、やがて自分自身にも言い聞かせるようにそう言いながら拳を握り、コクコクと何度も頷いた。

 

「私、これから毎日この部屋に行くわ。杳ちゃんがここに()()()事ができるように。……(わたし)は縁起がいい生き物だもの」

 

 そして、蛙吹も涙を拭い、小首を傾げてにっこりと笑った。――陽だまりのように優しくて、見る者の心を暖めるような、朗らかな笑顔だった。

 

 

 

 

 その日の夜。ふと気が付くと、杳は、あの敵連合のアジトである――年季の入ったバーにいた。古びた間接照明が、辺りをぼんやりと照らしている。からりと氷のぶつかり合う小さな音がして、杳はその方向へ顔を向けた。弔が隣のスツールに腰かけ、グラスを傾けている。

 

 敵が目の前にいるというのに、杳は不思議と恐怖を感じなかった。ふと、甘酸っぱい香りが鼻腔を掠め、彼女は顔を正面に向ける。ずらりと種々様々な酒瓶が並ぶ壁棚の前に、黒霧が立っていた。手渡された苺のフレーバーティーは()()()と同じ味がして、とても美味しかった。グラスに刺さった苺にかじりつくと、黒い靄がかった手が自分の頭をそっと撫でる。

 

「杳。ずっとここにいて良いのですよ」

 

 そして、杳は目覚めた。――()()()()。睡眠中に発作が出ていたのか、室内の気温は真冬並みに下がり、壁には薄く霜が張っている。吐く息すらも白く変わり、涙も流れる途中で凍り付いた。それでも、杳は吸入器を手に取る事すら忘れ、歯を食いしばって泣いた。

 

 兄に会いたい。だけどそれは、いけない事なんだ。相反する思いが心中でグルグルと渦を巻き、拮抗する。杳は鼻をすすりながらベッドから起き上がり、枕元に置いた吸入器のレバーを引いた。

 

 ――もし”ヒーローに関連する人々と会うな”という殻木の指示が()()()()。その想いは信頼できるヒーロー達、そして友人達の支えを受け、徐々に昇華されていくはずだった。だが、彼の企みにより、逃げ場はなくなった。袋小路に迷い込んだ想いは同じところで循環し、淀んで腐り、やがて抗えないほどの()()へ変わっていく。

 

 杳は殻木との約束を破る覚悟を決めた。ベッドから抜け出すと、机の引き出しを開け、スマートフォンを取り出す。逸る気持ちを押さえて電源を入れ、インターネットに繋いだ。黒霧の面影を探し、電子の海を彷徨うために。

 

 果たして、そう時間は掛からず、黒霧の情報は()()()()で見つかった。彼の属する敵連合はもう、国内に広く知られる大物ネームドヴィランとなっていて、尚且つ彼らは日々、悪行を重ねていたからだ。深刻な表情でニュース内容を読み上げるアナウンサーの背後に、少しぼやけた黒い靄と弔の姿が一瞬、映り込む。

 

『……敵連合に違法な武器を売買したとして、仲介人(ブローカー)と名乗る(ヴィラン)・○○を逮捕しました。この情報を受け、警察は……』

(ずっとここにいて良いのですよ)

 

 画像解析の荒い黒霧の映像が、新たに滲んだ涙でたちまちぼやけて、霞んでいく。ついさっき夢で聴いた()()()()が、吐き気がするほど優しい響きでもって、耳元でリフレインした。階下で眠る両親に気取られないように、杳がTシャツに顔を押し付け、声を殺して泣いている間に、ニュースの放送は終わった。そして、MowTubeのAIが視聴者の好みに合わせて選んだ――オススメの動画が自動再生される。

 

『初めまして諸君!私は……そう!ジェントル・クリミナル!』

 

 出し抜けにスピーカーから流れた、その(トーン)と口調は――低く上品な黒霧の声に()()()()()()。杳は弾かれたように顔を上げ、乱暴に涙を拭い、画面を凝視する。そこには、目の周りを黒いラインで囲った英国紳士然とした男性が映っていた。紅茶を淹れるのが下手なのか、びしゃびしゃになったティーカップを掲げ、彼は視聴者に向けて、人を安心させるような笑顔を浮かべてみせる。

 

『今を嘆く若者よ!私を信じて付いて来い!私が未来を変えてやる!』

 

 ジェントルは、例えるならば、夜空に輝く()に似ていた。ヒーローのように眩しい光ではなく、敵のように鬱屈とした闇でもない。その中間にある、優しく頼りない光だ。だが、そんなかすかな光でも、それは魂を燃やし、懸命に輝いているような気がした。――ヒーローを挫折し、そして敵に会いたいと願う、()()()()を否定しない、優しい煌めきだった。それに杳は魅せられ、気が付くとジェントルのチャンネル登録ボタンをクリックしていた。

 

 ざっと調べてみると、どうやらジェントルは巷を賑わせている、動画界の(ヴィラン)であるらしい。それなりの月日を警察の捜査網から逃げ遂せているようだ。世間からは――緻密な計画に反してスケールの小さい犯罪を繰り返す――はた迷惑な小悪党として、認知されているようだった。

 

 相棒であるラブラバが視聴者のためにと作成したプレイリストを再生していると、MowTubeの片隅にポップアップが表示された。”ジェントル、Live配信開始”と表示された吹き出しを、杳は迷わずクリックする。

 

『初めまして諸君!……そう、私はジェントル・クリミナル!』

『きゃああ!今日もカッコいいわ、ジェントル!』

 

 すかさずラブラバの合いの手が入る。悲しい事に、視聴者は杳以外、まだ誰もいなかった。たった一人の視聴者に向け、ジェントルは芝居がかった動作で肩を竦め、好戦的な笑みを浮かべてみせる。

 

『さあ。今宵は少し趣向を変え、臨場感溢るる経験を共に味わおう!これより始まる怪傑浪漫! 目眩からず見届けよ!』

『どーせカットしまくりなくせに』

『失敗ばっか』

『通報した』

『はよラブラバうつせ』

 

 どっと流れ始めた、辛辣なコメントにも怯まず――大量に押されていく、バッドボタンにもめげず――ジェントルはただ快活に微笑んだ。雪を押し退けて芽を出すフキノトウのように、健気な笑顔だった。彼の背後には、薄汚れた壁が広がっている。その一部分にあるものを認め、杳は息を飲んで立ち上がった。

 

 それは、潰れてへばり付いた()()()()だった。間違いない、ジェントルはこの近辺にいる。黒霧の優しい声と、ジェントルの上品な声が、心の中で同期(リンク)する。窓を開けると同時に雲化し、藍色に輝く夜空へ飛び立ちながら、杳は熱に浮かされたように何度も呟いた。――ジェントルは()()()()()()。まだ間に合うんだと。

 




ひたすら長ぇ…もうええて…(;_;)やっとはっさいかいの話に持ってける。次回はジェントル&ラブラバ回です!


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No.44 飛田弾柔郎:オリジン

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●キャプテン・セレブリティ
アメリカのメジャー級ヒーロー。
●塚内 真(つかうち まこと)
塚内警部の妹。国際弁護士。


 ――飛田弾柔郎(とびただんじゅうろう)という少年は、夢を持っていた。

 

(夢はヒーローになって、教科書に載るくらいの偉大な男になることです)

 

 だが、飛田はそれに()()()()()()とは言い難かった。元々悪意こそ無いものの思考がどこかズレていた事が災いし、何度も仮免試験に落ちて留年し、高校から自主退学を勧められるような落第生だった。

 

(いや聴いてないから。お前ヤバイから飛田)

 

 担任の冷たい視線に耐え忍び、息子の能天気な回答に頭を痛めながら、飛田の母はなんとか三者面談を乗り切った。彼女は憔悴し切った顔で、ふと廊下の先を見る。

 

 ――そこでは息子の同級生である竹下くんが生徒達に囲まれて、楽しそうに笑っていた。成績優秀な彼は確か、ヒーロー事務所の内定が早くに決まったはずだ。羨望と嫉妬の感情が心に渦巻き、母は暗い声で呟く。

 

(竹下さんのとこはもう事務所から声かかったんだってね)

(大丈夫さ。母さん。私はめげない!頑張るさ!)

 

 飛田の底抜けに明るい声は、母を元気づけるどころか、逆に追い詰めていった。

 

 ある日の事。馴染みの喫茶店で紅茶を嗜んだ後、店を出た飛田が目撃したのは――ビルの上階から転落しかけた、清掃作業員の姿だった。屋上から吊るされた足場のロープが切れ、今まさに十数メートル先を落下しようとしている。

 

 飛田の個性は”弾性(エラスティシティ)”、触れたものに弾性を付与する事のできる力だ。自身の個性ならば、あの人を救う事ができる。飛田は迷いなく地面に弾性を付与し、空高く跳んだ。そして落ちようとしている男性に接近した、その時――

 

「わっ?!」

 

 ――ちょうど別方向から男性を救助しようとしていたヒーローと()()()()。飛田とヒーローの救助は間に合わず、二人の眼前で男性の体は地面に激突した。

 

 ヒーローに関する多くの書籍は、”学生時から逸話を残しているヒーローは、多くが考えるより先に体が動いていた”と結ぶ。だが、杳や緑谷達のように、考えるより先に体が動いた結果が良い方に作用する場合もあれば、そうでない場合もある。飛田の場合は()()だった。

 

 落下した男性は全治6ヶ月の大怪我を負った。飛田はヒーローの救助を妨害した(かど)で、公務執行妨害となり逮捕された。学校も退学処分となった。性質の悪いマスコミがたまたまその事を嗅ぎ付け、面白おかしく取り上げる。飛田の自宅は特定され、心ない者からの悪戯を受けるようになった。

 

 ――家庭は崩壊した。出所した後の出迎えもなかった。家族に詰られながら、飛田は荷物をまとめると、失意のままに家を出た。

 

 それから、数年の時が経った。飛田は日々の生活で精いっぱいだった。まともな職に就く事すら難しい現状を生き抜くのに必死で、いつかの夢に思いを馳せる余裕などなかったのだ。あてどなく街を彷徨っていると、飛田の目に見覚えのある男が映り込んだ。

 

 竹をモチーフにしたコスチュームに身を包んだヒーロー。――同じ学び舎で過ごした級友、竹下だった。かつてと同様に、周囲にいる人々の対応に追われている。懐かしい夢の残り香を思い出し、思わず飛田は彼に歩み寄った。

 

(竹下くん!もう独立したのかい?素晴らしい!私のこと覚えているかい?同じクラスで、留年してしまったが)

 

 だが、飛田の姿を見ても、竹下は困ったように頭をかくだけだった。やがて彼はよそよそしい愛想笑いを浮かべて、こう言った。

 

(あー、えーっと。誰でしたっけ?)

 

 その声は、空中でレーダーのように広がり、飛田の全てを映し出した。日々の困窮した生活に追われているからこそ、()()()()()()()()本当の自分を。夢も何も持たない、未来もない、空っぽな自分の姿。飛田の全身を言いようのない不安が駆け巡った。

 

 ――このまま貧しく哀れに、私は老いていくだけか?飛田は夢中で家へ駆け戻り、押し入れの中から本を引っ張り出した。ヒーローにはなれない。かつての夢を再び描く事は不可能だ。だが、()()()()なら、まだ。”超常犯罪史”と銘打たれた本を宝物のように抱え込み、飛田は虚ろに微笑んだ。

 

 

 

 そして、飛田弾柔郎は――ジェントル・クリミナルという(ヴィラン)になった。迷惑行為を動画にし、サイトにアップするのが主な仕事だ。無作為に罪を犯すわけでなく、現代の義賊を名乗るジェントルにはこだわりがあった。彼が選ぶターゲットは、”社会的に不義理を通している”と認識する店だけ。

 

 デビュー当時は芳しくなかったジェントルの活動は、やがてハッキングのプロを自称するラブラバという相棒を得た事で()()()()()した。ラブラバが企画・編集した動画は再生回数がみるみるうちに伸びていった。ヒーローの手から逃げ遂せ、警察に投稿動画から追跡されるも煙に巻き、何度アカウント削除されても上げ直しているうちに、何時しか6年もの月日が経ち、そして彼は――動画界において――名実ともに有名な敵として、名を馳せるようになった。

 

 

 それからさらに時は流れ、()()。ジェントルはとあるコンビニエンスストア内で、今まさに犯罪を行っている最中だった。ちなみにこのコンビニの店長は、今まで数々の店員達にひどいパワハラ・セクハラをした挙句、クビにしてきたという噂が立っている。気の強そうな顔立ちをしている店長は、ジェントルにナイフを突きつけられても、身じろぎもしなかった。

 

「もう終わったことだ。今更、蒸し返すんじゃねえよ」

「貴方はその言葉を、被害者の方々にも言えるのですか?」

「強気なジェントルカッコいい!」

 

 痛いところを突かれた店長は、気まずそうに口籠る。その様子を見たラブラバは興奮する余り、辺りをピョンピョンと跳ね回った。――刹那、自動ドアをこじ開けるようにして、ヒーローの一群がドタドタと雪崩れ込む。ジェントルは巧みな手捌きでナイフをクルクルと回して唇に当て、小さく唸った。

 

「ラブラバ。ここは()()()で。……危ないから外に出ていなさい」

 

 ”カット”はラバーモードを使うという合図、二人が創った合言葉だ。去り際に愛の言葉を囁くと、軽やかな足取りで、ラブラバはコンビニを出た。――ラブラバの個性は”(ラブ)”、愛する者を短時間パワーアップする事のできる力を有している。ヒーロー達は、のんきに目の前を歩くラブラバに指一本触れる事ができず、ジェントルの手により昏倒させられた。

 

 奇妙に()()()始めたコンビニエンスストアから離れると、ラブラバは大量に流れていくコメントの内容にざっと目を走らせた。

 

 その時、ベルトに付けていた小型探知機が()()()()()()を鳴らした。この探知機は、車用のレーダー探知機のシステムをラブラバが独自に改造したもので、周囲に仕込まれた監視カメラの類を見つけ次第、警告音を発するよう設定されている。場合によっては妨害電波を発し、一時的に無効化する事も可能だ。

 

「……?」

 

 ラブラバは不思議そうに首を傾げた。動画を撮る際はいつも辺り一帯の下調べをした上で、望んでいる。特に監視カメラの位置は、映り込まないように(あらかじ)め精査して頭に叩き込んでいるため、これは言うなれば()()のようなものだった。このエリアに監視カメラはないはず。なのに探知機は今、小さな警告音を鳴らしている。やがてそれは数秒後、ふっとかき消えた。誤作動だろうか。考え込むラブラバの傍に、一仕事終えたジェントルが並び立つ。

 

「さあ、行こうラブラバ」

「……あの。ジェントルさんですよね」

 

 ――何の気配も音もしなかった。気が付くと、二人の前に()()()()()()()()

 

 愛嬌のある顔は血の気もなく虚ろで、目の周りには濃い隈と涙の痕があった。そして苺柄のパジャマを着ていて、裸足だった。まるで亡霊のように、彼女は二人のすぐ傍に出現していた。

 

「いかにも。私がそうだが」

 

 内心、ドン引きしながらも――ジェントルは紳士然とした振る舞いで少女に向き合った。彼は動画界の有名人だ。当然、彼を慕うファンもわずかだがいる。ラブラバのように居所を突き止められる事まではないものの、偶然居合わせたファンに声を掛けられたり、握手を求められたりする事は、ままあった。

 

 少女は安心したように口元を緩ませる。汚れたアスファルトの地面をぺたぺたと歩き、ジェントルのマントの裾を掴んだ。

 

「良かった。もしかしてここら辺にいるんじゃないかって思って。探したんです」

 

 間近で見る少女の瞳は、常服している鎮静剤の副作用で、どんよりと濁っていた。二人は思った。――ヤバイ(ファン)が来たと。

 

 だが、同時にラブラバはその姿に既視感を覚えた。そう遠くない昔に、少女と会った事のあるような気さえして、彼女は再び首を傾げる。一方のジェントルは、奇妙なファンの尊厳を守るため、押し殺した声でラブラバに囁いた。

 

「ラブラバ。カメラを……」

「ええ。すぐに……?」

 

 カメラを止めようとしたその時、探知機から()()()警告音が鳴り始めた。ラブラバは不審に思ったものの、ジェントルの引き攣った声が耳に飛び込んできたために、慌ててそちらへ視線を向ける。

 

 ――まるで子泣き爺のように、少女がジェントルにしがみ付いていた。恐怖を感じたジェントルは振り払おうとするが、彼女の力は異様に強かった。ジェントルが怯えるのも構わずに顔を近づけると、少女は逼迫した声でこう言った。

 

「もう犯罪を冒すのは止めて下さい」

「……断る。帰りなさい」

 

 その言葉を聞いたとたん、ジェントルの目が鋭く凍てついた。ジェントルを取り巻く人々は至って()()()だ。ファンの声援よりも、偶然居合わせた事で野次を飛ばされたり、罵倒されたりする方が圧倒的に多かった。そしてその中には彼女のように――ファンを装って正義面し――敵を辞めるように説得する人も少なからずいた。

 

 ジェントルは鼻白んだものの、それでも少女の身を守るために思考を巡らせた。彼は紳士だ。こんな夜更けにパジャマ一枚の少女を、人気の通らない場所に放っぽり出して逃げ出す事などできない。そうこうするうちに、遠くの方からパトカーのサイレン音が近づいてきた。交通道路を走る真っ赤なパトランプが視界に入ったとたん、ジェントルはラブラバの腰に手を回しながら、少女に忠告した。

 

「明るいところにいなさい。警察が君を保護してくれるだろう」

 

 三人一緒にいるところを目撃され、()()()()()をかけられるのはごめんだ。ジェントルは空気に弾性を付与し、少女を明るい道路の脇へそっと押し出すと同時に、自身の足元の弾性膜を踏んで、空高く跳び上がった。パトカーから出て来た人々の目が届かない上空を跳んで移動しながら、ラブラバは頬を膨らませる。

 

「全く!ファンかと思ったのに。がっかりだわ」

「フフ。ラブラバ、私には君という最大のファ……えッ?!」

 

 ジェントルの決め台詞は、途中で絶叫に変わった。――いつのまにか、再び自分の傍に()()()()()()()。甲高い悲鳴を上げるラブラバを、ジェントルは守るように抱き寄せる。そんな二人に急接近しつつ、少女はなおも頑固に言い募った。

 

「お願いです!あなたは重罪を冒してない……今ならまだ間に合うんです!」

「そいつはできぬ相談だ」

 

 小さなラブラバをしっかりと抱きかかえ、ジェントルは足元の空気に弾性を付与し、それを力強く踏みつけ、二十メートルほど上空を跳んだ。私は紳士だと、ジェントルは自分自身に言い聞かせた。無闇に反撃して、女性に傷をつけるわけにはいかない。――だが、次の瞬間、眼前がまばゆい光に包まれ、二人は思わず目を閉じた。こわごわ瞼を開けてみると、徐々に薄まりゆく閃光の中から、またあの少女が現れ出る。

 

「お願いです。話を聴いて……ッ!」

 

 刹那、少女の体表からおびただしい量の()()が吹き出した。周囲の空気が凍てつき、晩夏には凡そ相応しくない()が舞い散り始める。少女は苦しそうに咳をしながら、胎児のように体を丸めた。同時に、その体は重力に任せ、空中を自由落下し始める。

 

「――ッ!」

 

 ジェントルは何も考えずに急降下し、空いた手で少女を受け止めると、自分達の真下に大きな弾性膜を展開した。弱い弾性を含んだ膜の上で、少女は苦しそうにもがいた。彼女の周囲はみるみるうちに凍りつき、雪と氷で覆われていく。やがてパジャマのポケットからスマートフォンと吸入器がコロリと飛び出して、小さな雪原を転がった。――個性が暴発している。だが、専門家でない二人にはどうする事もできなかった。ジェントルは少女の体を覆い尽くそうとする雪を払い、耳元で声を掛ける。

 

「大丈夫かね、君!……ラブラバ、近くに救急病院はないか?」

「分かった。きっとこれよ。ジェントル」

 

 吸入器を発見したラブラバは見よう見まねでレバーを引き、少女の口に押し当てた。見る間に、大量の氷雪が彼女の体内に吸い込まれるようにして消えていく。少女の呼吸は安定し、四肢に入っていた力もだらりと弛緩した。眠っているようだ。二人は顔を見合わせ、ホッとため息を零した。

 

「一体何だったんだ。この子は」

「分からな……いえ、思い出したわ」

 

 ラブラバは少女の顔を覗き込んだ瞬間、はたと思い出した。――雄英の体育祭で話題になった”紙袋の子”だ。いや、それよりも()()()()、もっと自分の記憶に刻み込まれる決定的な理由があったはず。ラブラバは思い出そうと頭を捻ったが、記憶の引き出しには今一つ届かなかった。

 

「白雲杳ちゃんよ。雄英ヒーロー科一年生。十三年ずっと死んだお兄さんの真似してたっていう、メンヘラ女子だわ」

「クレイジーガール!それに雄英の。ますます関わるべきじゃないな」

 

 雄英生、それもヒーロー科。敵である自身にとっては、天敵とも言える存在だ。ジェントルは眉をしかめると、すぐ傍で眠る少女を見下ろした。三人の足場となっている弾性膜は、時間の経過と共に薄れ、消えていく。その度にジェントルが張り直しているため、三人の足場は海辺を揺れる船のように不安定だった。

 

 何度目かの張り直しをした際、少女が落ちないように、周囲に気を配ったその時――彼女の真下にある暗闇が、()()()()()。ジェントルは反射的にラブラバと少女を抱えると、新たな膜を展開して跳び、十数メートルほど上空に舞い上がる。突然の事態にラブラバは慌てふためき、ジェントルを見上げた。

 

「ど、どうしたの……ッ!ジェントル!」

 

 ラブラバの声は、途中で悲鳴に変わった。――暗闇よりも()()()が、ジェントルの背後に迫っていたからだ。

 

 やがてその靄に金色の目が浮かび、獲物に狙いを定める肉食獣のように、スッと細められる。ジェントルは寸でのところで、靄の前方に膜を張った。跳ね返りで、ジェントルは数メートルほどの距離を取る。あっという間に遠のいていく、黒い靄に金色の目。ラブラバはようやく記憶の引き出しに辿り着いた。

 

「思い出したわ!この子、神野事件の被害者よ。敵連合に誘拐されていたの。今は心を病んで、引きこもってるって」

 

 ――()()()。その言葉でジェントルも思い出した。この黒い靄の主は、黒霧という(ヴィラン)だ。彼はそこに所属していたはず。ヒーローの保護網を抜け出した少女を狙っているのだろう。

 

 ふと眼下に、灯りの付いた交番やヒーロー事務所を認め、ジェントルは思考した。――この子を連れて下りるか。しかし、はたと気付く。自分達は(ヴィラン)だ。そうすれば、()()()()誘拐したと嫌疑をかけられる。そして自分達が揉めている隙に、この靄は少女を包んで消え去るだろう。そもそも、警察やヒーローが自分達を逃がすはずもない。捕まれば、ラブラバも罪人となる。今まで犯してきた罪の数々を思い、ジェントルは唇を噛み締め、周囲を不気味に漂う靄を睨みつけた。

 

 警察やヒーローに救けを求める事はできない。ラバーモードもつい数分前に使ってしまった。それに、ここは()()だ。空を跳び回る自分達を不審に思い、通報する者もいるだろう。そうでなくとも、空を飛んでパトロールするヒーローの巡回時間が近づいているのだ。――こちらに逃げ道がない事を分かった上で、強襲を仕掛けている。

 

 ジェントルが進退窮まったその時、眼前に巨大なワープゲートが作成された。思わず身構えるが、それはその場を漂うばかりで、ピクリとも動かなかった。まるで、ジェントルが少女をここに放り込むのを待っているようだった。

 

「ジェントル」

 

 マントを握るラブラバの手が、細かく震えている。――もしあの靄の中から()()が現れたら、どうする。ジェントルの額を冷たい汗が伝い落ちた。あのオールマイトやエンデヴァーですら手こずった相手だ。逃げる間もなく、我々は殺される。ラブラバを危険には晒せない。少女を掴んでいる方の手が、少しだけ動いた。

 

 ()()()()()()だ、とジェントルは自身に言い聞かせた。オールマイトは”学生時から逸話を残しているヒーローは、多くが考えるより先に体が動いていた”と説く。だが、考えなしの人間全員がヒーローになれるわけじゃない。自分はそうではなかったと――あの時、充分に思い知っただろう。

 

 また、あの過ちを繰り返す気か。ラブラバを守るように抱き寄せ、低く唸る。今の自分は夢を()()()()()し、守るべき大切なものもある。今の自分は敵だ。少女を守るのは、自分の役目じゃない。

 

(夢は()()()()()()()()、教科書に載るくらいの偉大な男になることです)

 

 かつての自分の夢が、輝きと後悔の炎をまとい、胸を熱く切なく焦がしていく。――夢などもう忘れろ。想いを馳せる余裕など。同じ過ちを。守るべきものが。錯綜する感情のコラージュは結集し、やがて一つの想いを創り出した。

 

()()

 

 ジェントルはそう吐き捨てると、少女を守るようにしっかりと抱きかかえた。その瞬間、ラブラバが感極まったように、涙を散らしながら叫ぶ。

 

「愛してる!」

 

 刹那、ジェントルの体は武者震いした。もうラバーモードは使い切ったはずなのに、それでも彼の体に強大なパワーが漲ってくるような気がした。――そうして命懸けの鬼ごっこは再び、幕を上げた。

 

 黒霧のワープゲートは先程とは打って変わって早く、そして攻撃的になった。ジェントルの軌道を完璧に予測し、時にフェイントも混ぜ、巧みに翻弄する。ギリギリのところで、ジェントルは膜を張って軌道を変えるが、いずれ捕まるのも時間の問題だった。ワープゲートに攻撃は通らない。対するジェントルは生身で、長期戦の心得もなかった。ジェントルの息は徐々に上がり始め、顔に疲労の色が滲み出る。手の中に捕まえられた蝶のように、彼は成す術なく追い詰められようとしていた。

 

 ――何かできる事はないの。逃げ切る方法は。ラブラバはジェントルの腕の中で、必死に考えを巡らせた。そして、()()()()()。小型探知機が警告音を鳴らしていた事に。貴重なワープの個性は座標計算で操作されると伝え聞いた事がある。黒霧のワープゲートは精密過ぎる。もしかして、この子に発信機の類が付けられていて、それを辿っているのでは。

 

「ジェントル!私とこの子を()()()()で包んで!調べたい事があるの」

 

 ”ポケット”とは二人が創った合言葉で、ジェントルのマントを前に合わせた状態を――カンガルーが子を育てる袋に見立て――その内部に、軽い弾性の膜を張る事を示す。ポケット内は少し跳ねるものの安全領域となり、ジェントルにしがみつかずとも、手放しで動き回る事ができる。

 

 ラブラバは少女に手を伸ばしつつ、空いた手で探知機を精密探査モードに設定した。発信機の隠し場所にラブラバは心当たりがあった。――今の時代、スマートフォンに発信機のアプリを入れるのは造作もない事だ。彼女の予想通り、パジャマのポケットにある膨らみに反応し、探知機はけたたましいビープ音を鳴らした。ラブラバは夢中でそれを掴み取り、愕然とした。

 

「えっ?」

 

 ――それはスマートフォンでなく、もう片方のポケットに入っていた()()()だった。だが、探知機は間違いなくそれが発信機だと告げている。内部に仕込まれているのか。しっかりと閉められた蓋を開けようとしたその時、ラブラバの手がツルリと滑った。

 

 空中を自由落下する吸入器を追いかけるように、黒い靄がジェントルの傍を離れて、去って行く。吸入器は黒い靄の中に溶け込むようにして消えた。靄から再び、金色の目が浮かび出て、不気味にこちらを見つめるが――もう追いかけてくる様子はなかった。その隙に、ジェントルは新たな膜を創って跳び、さらに大きく距離を離す。

 

聖域(サンクチュアリ)へ戻ろう!あそこならば君のセキュリティがある!安全だ」

「ええ!」

 

 ”聖域”とは、二人が根城にしている()()()()()の事だ。周囲にはラブラバが巡らしたセキュリティシステムが完備されており、何人も居場所を掴む事はできない。もうすぐ飛翔系のヒーローもここら一帯を巡察にやってくる。グズグズしている時間はない。ジェントルは目的の場所へ向け、力強く跳躍した。

 

 

 

 

 同時刻。首都圏のどこかに秘められた、研究施設にて。寒々しい光を放つ電子媒体に囲まれたドクターは、椅子に深々と身を沈めたまま、上空に掌を差し出した。その上にワープゲートが作成され、中から()()()が降ってくる。難なくそれをキャッチすると、ドクターは面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 

「はー。止めじゃ止め。やはり先生のようにはいかんのう」

「申し訳ございません。それを離されては追えず……」

 

 傍らに佇んでいた黒霧は上品な動作で胸に手を添えると、頭を下げる仕草をした。ドクターは分厚い眼鏡の奥から黒霧を見やり、吸入器を持った手を軽く振る。

 

「いや、いいよ。お前の()()()()も兼ねておったし」

 

 吸入器の中には、発信機と盗聴器が仕込まれている。ドクターはそれを介して日々、少女の動向を探っていた。そんな彼女が夜中、ヒーローの保護網を掻い潜って外に飛び出したのを察知した時、ドクターの心は大いに踊った。踊り過ぎてジョンちゃんと社交ダンスに興じたほどだった。上手く行けば、一足先に彼女を手に入れる事ができる。期せずしてチャンス到来、そう思っていたのだが。思いの外、()()()()()したせいで、ドクターの思い付きの行動は失敗に終わった。

 

「深追いして外野に見つかったら面倒じゃ。どうも年をとるとせっかちになってしまうのう。……やはり、当初の予定通りに行くか」

 

 ドクターは吸入器を弄びながら、老獪な妖怪狸のように笑った。黒霧は無機質で冷たい色を宿した目で、その様子を見守っている。

 

 

 

 

 数時間後。杳は目覚めた。古びた天井とそこから釣り下がる小さなシャンデリアが、まず目に入った。ラベンダーの優しい香りが鼻腔をくすぐる。――ここはどこだろう。杳はベッドから起き上がり、周囲を見渡した。アンティーク調の調度品が散りばめられた、昔懐かしい洋館を思わせる部屋だ。

 

 ふとドアが軋みながら開き、中から()()()()()が姿を現した。目元を黒いラインで囲み、たっぷりとした赤毛をツインテールにしている。彼女はこちらを見るなり、目を丸くして、廊下の奥へバタバタと駆けて行った。

 

「起きたわ!ジェントル!」

 

 ジェントルという言葉で、杳は思い出した。――彼を追いかけ、敵をやめるように説得していた事を。あの後、発作が出て、それからの事はよく覚えていない。なんとか思い出そうと頭を捻っていると、ドアがノックされた。わずかに開いたドアの隙間から、警戒した様子のジェントルと先程の女性がひょっこりと顔を出す。ジェントルはなるべく杳を刺激しないように、優しい声で言った。

 

「ここは我々のアジトだ。この子はラブラバ。……君に危害は加えないと約束する。あと数時間もすれば日が昇る。その前に、君を家まで送り届けよう」

 

 ラブラバと呼ばれた女性が、銀の盆にティーカップを載せてやってきた。湯気と共に優しいカモミールの香りが立ち昇り、荒んだ杳の心を癒していく。

 

「さあ、これを飲んで。気分が落ち着くわ」

 

 白磁のカップを彩る()()()()()()()が、あの時、黒霧から貰ったフレーバーティーと同期(リンク)して、杳の目から熱い涙が零れ落ちた。――優しい人たちだ。発作を起こした自分を見捨てず、危険を冒して、ここで休ませてくれていたのだ。二人の優しさが胸に染み入り、杳はしばらくの間、カップを握り締めたまま、すすり泣いた。だからこそ、もうこれ以上、罪を重ねないでほしかった。

 

「お願いします。敵をやめてください」

「ちょっと!あなた、しつこいわよ!」

「ラブラバ。落ち着きなさい。刺激してはいけない」

 

 救ってもらった事に礼を言うどころか、また()()()を性懲りもなく言い出した杳に――ついに堪忍袋の緒が切れ、ラブラバは両手を腰に当てると口調を荒げた。しかし、また発作を起こしては大変だと警戒したジェントルに止められる。

 

 ジェントルは杳の前にしゃがみ込んだ。冗談や妄言、冷やかしなどではない。杳の眼差しは息が止まるほどに純粋で真摯だった。こんな目で説得されるのは、彼にとって初めてだった。だが、彼の夢もそんな言葉で諦められるほど小さくはない。たとえどんな形でも歴史に名を残すため、彼は敵になったのだ。

 

「何故、そこまでして君は……私を敵をやめさせたいのだ?」

 

 それは()()()()()だった。正直言ってジェントルも、あんなに必死に――それこそ個性を使ってまで追い縋られるのは、生まれて初めての経験だった。杳は戸惑ったように瞳を伏せ、黙して応えない。ジェントルは鼻白み、腕を組んだ。

 

「言えないという事か。自分の事情は隠し、主張だけ通そうとするのはいささか卑怯ではないかね」

「……兄が。敵連合に」

 

 絞り出された二つの単語の関連性が分からず、怪訝そうに顔を見合わせる二人の顔は、続く言葉で()()()()()

 

「死体を……改造されて、黒霧という脳無に。無理矢理、敵にさせられているんです」

(十三年ずっと死んだ兄の真似してたっていう、メンヘラ女子だわ)

 

 ラブラバの言葉が、ジェントルの耳元で虚ろに反響する。あまりの悍ましさに二人は数秒の間、呼吸を忘れた。やがて我に返ったラブラバは”ごめんなさい”と言うなり口元を押さえ、トイレへ駆け去って行った。その様子を茫然と見送りながら、ジェントルは泣きじゃくる少女を見下ろした。――謎が全て解けた。この子は、自分を兄に重ねていたのだ。だが、どのような理由があろうが、この行動をやめる事などできない。

 

「君の気持ちは理解できる。だが、私はこの活動に魂を懸けている」

 

 悲しそうに歪められた少女の顔を、ジェントルは覚悟を持って見つめ返した。――私のしている行いの意味を、君は理解できないだろう。みっともなく、下らなく、意味のないものに見えるだろう。だが、それでも成し遂げたい。中年の淡い夢だ。諦めろと言われて諦められるほど、この思いは弱くない。

 

「夢を終わらせることなどできない」

「あなたは嘘を吐いている」

 

 次の瞬間、杳が涙混じりに放った言葉は、空中で鋭い矢に変わり、ジェントルの心の奥深くを貫いた。思わずよろめいた彼に、杳はさらなる追撃の矢を放つ。

 

「本当にしたいことはそうじゃない」

(夢はヒーローになって、教科書に載るくらいの偉大な男になることです)

 

 その言葉は、時の経過の中で歪んでいった()()()()()の輪郭を瞬く間に修復し、ジェントルの眼前に突きつけた。ジェントルは唇を食いしばり、教科書に載っているような綺麗事ばかり並べ立てる少女を、憎々しげに睨みつける。

 

「だったら何だ?敵を辞めれば、誰かが……私の犯罪歴を帳消しにしてくれるのか?ヒーロー免許を取得できるのか?終わった人生をやり直せるのか?」

(あー、えーっと。誰でしたっけ)

 

 同級生の愛想笑いが瞼の裏に(よみがえ)り、ジェントルの心を締め付けた。――間違った道だとは充分理解している。義賊だなんだと体の良い事を言ってはいるが、結局は全て自分のためだとも。だが、残されたのはその道しかなかった。もう走り出してしまったのだ。注目を浴びれば浴びるほど、道の傾斜は下がり、ますます猛スピードで転げ落ちていく。もう誰も止められない。その先にあるのが破滅だとも分かっている。

 

 だが、それでも――誰にも知られずに一人、老いて死ぬのよりはマシなのだ。

 

 確かにこの子の境遇は同情に値すると、ジェントルは思う。しかし、それをこちらに押し付けられるのはごめんだ。同情で敵をやめられるほど、自分の想いは軽くない。

 

()()()()()()なら、口を出さないでもらいたい」

 

 ジェントルの厳しい声が、杳の鼓膜に突き刺さった。自分の無力さを噛み締め、杳はがっくりと俯いた。特別な権力があるわけでも、個性があるわけでもない。おまけにもうすぐ雄英も退く身だ。何の力も持たない、ただの子供。このまま何もできずに、黒霧と同じように――

 

(もし俺達に言えない事でも、この人ならきっと力になってくれると思う)

 

 ――いや、違う。その時、杳の頭の天辺から足の先までを、一筋の電流が駆け抜けた。病室で航一がくれた、()()()()()()()を思い出したのだ。おもむろにポケットからスマートフォンを取り出した杳を見咎め、ラブラバは部屋に戻ってくるなり、叫んだ。

 

「ちょっと!通報するつも……」

「塚内真さんという国際弁護士をご存じですか?」

「……知っているが、それがどうした?」

 

 質問の意図が掴めず、二人は再び、顔を見合わせた。――塚内真はヒーローや敵専門の国際弁護士だ。彼女がアメリカの訳アリヒーロー、C.C.(キャプテン・セレブリティ)の再生に一役買った事や、青年ヴィジランテをプロヒーローに生まれ変わらせた事は、密かに自身の更生を願うジェントルの記憶に根強く残っていた。

 

 しかし、それは()()()()()()の話だ。宝くじが当たるようなわずかな確率を、不運な自分が掴めるとは思えない。――そう、思っていた。茫然と立ち竦むジェントルの前に、杳は自身のスマートフォンを差し出した。その画面には、()()()と表示されている。涙を流しながら、彼女は言い募った。

 

「あなたを救うことは、私にはできません。でも、この人ならできるかもしれない」

「に、偽物よ。そんな都合よく……信じちゃダメ」

 

 ラブラバは混乱しながらも、念仏のように呟いた。全くその通りだと、ジェントルも思う。もし百歩譲って()()だったとして、”手に負えないから”と通報されたらどうする。本場アメリカのヒーローに目を付けられたら?様々な想いが錯綜するも、ジェントルとラブラバは凍り付いたようにその場から動けなかった。ジェントルの夢を願う心が――ラブラバの彼を愛する心が――わずかな希望を見出していたからだ。固唾を飲んで見守る二人の前で、杳は電話を掛けた。

 

「Hi。塚内です。貴方が杳ちゃんね?」

「はい」

 

 初めて聞く真の声は優しくて、言葉の一つ一つに不思議な力が漲っていた。オールマイトが女性になったらこんな声をしているのかもしれないと、杳は漠然と思った。挨拶も何もかもをすっ飛ばし、彼女は涙ながらに訴えかける。

 

「救けてほしい人がいるんです」

「……OK。今はどういう状況かしら。分かる範囲で良いから、話してくれる?」

 

 杳が自分ではなく()()()救けてほしいと言った事に対し、思うところがあったのか、真はしばらくの間、沈黙した。やがて気を取り直した彼女にそう促され、杳は一生懸命、拙い言葉で事の次第を話して聴かせる。数分後、本人に代わってほしいと言われたのか、スマートフォンはジェントルに差し出された。

 

「ジェントルさん。動画で()()()()()()って言ってましたよね。……お願いです」

 

 杳の向ける真摯な眼差しが、ジェントルの胸を打った。――他力本願も甚だしい、みっともないとつくづく思う。だが、ヒーローを挫折してしまった自分にはこうする事しかできない。誰かに想いを託すしか。それに反抗するように、体内で疼き始めた冷気を押し込め、杳は懇願するように言った。

 

「未来を変えてください。間違っても、敵になっても……もう一度、やり直す事ができるって。証明してください」

 

 その言葉には、大の大人が思わずたじろぐ程に強い想いが内包されていた。魔法使いに操られるように、ジェントルはスマートフォンを手に取った。

 

 ――それが、彼の()()()()()()だった。優しく力強い女性の声が、ジェントルの鼓膜に響き渡る。

 

「初めまして、ジェントルさん。もっと詳しい話を聴かせて戴いても?」

 

 

 

 

 その数時間後、つまり翌朝。ジェントル達が杳をこっそりと家へ送り届けた直後、真は()()()()()した。直ちに管轄の警察署に報告し、ジェントル出頭の手続きを進める。彼女の知人弁護士が代理としてジェントルに同行し、担当警察官に必要事項等を伝え、できる限り迅速に捜査するよう求めた。

 

 その間に真は帰国し、警察の資料とラブラバの提出した動画内容から、過去全ての被害者を特定し、被害届を取り下げる事が可能かどうかを話し合った上で、示談を進めた。幸いな事に、ジェントルの行ってきた犯罪で大怪我を負った者は――学生の時に怪我をさせたビルの清掃員以外は――いなかった。

 

 そうして話をまとめると、真はジェントルとラブラバを連れて、アメリカへ戻った。――敵を逮捕するには()()()が要件とされる。逮捕の必要性とは、被疑者が逃亡するおそれ、被疑者が罪証を隠滅するおそれの事を言う。真はジェントルが罪を認めて反省している事を示し、必要ならばアメリカと締結している”敵引き渡し条約”に沿って連れて戻るとし、ジェントル達の私生活が()()脅かされる危険性をなくすという名目で、彼らの生活拠点をアメリカに移した。

 

 そして、1週間後。日本の検察官は、ジェントルに()()()()という裁定を下した。起訴猶予とは犯罪の疑いが十分にあり、起訴して裁判で有罪に向けて立証する事も可能だが、特別な事情に配慮して検察が起訴しない事例を指す。ジェントルが深く反省し、そして被害者全員と示談した事が決定打となり、彼は自由の身となった。

 

 だが、ジェントルにホッと一息吐く時間などなかった。――彼はその足でC.C.(キャプテン・セレブリティ)が教師を務めるヒーロー育成機関に向かい、2週間にも渡るHeat Camp(ヒートキャンプ)に勤しむ事となったのだ。

 

 Heat Campは新米ヒーローに対して行われる特別訓練の俗語で、志願者は2週間施設に寝泊まりし、特別な教育・訓練を受ける。それに耐えきった者はライセンスを取得し、そうでない者は退学となる。ヒーローの本場とされるアメリカは、日本とは比較にならないほど治安が悪く、日々うんざりするほど大量の敵が湧いて出る。ヒーローの人手は慢性的に不足している状態だった。

 

 たった2週間とは思えないほど、特別訓練は厳しかった。元々レベルの低いとされる日本のヒーロー校でも落第しかけたジェントルは、本場の地獄のような訓練に付いていけず――()()()()で根を上げそうになった。だが、その度に、ラブラバの笑顔が脳裏をよぎる。

 

(あなたの思う事をすればいいわ。私、あなたと一緒ならどこででも幸せなのよ)

 

 アメリカに行ってヒーローになると告げた時、ラブラバは躊躇いもせず、にっこりと笑ってそう言った。その包み込むような優しい笑顔に、何度救われた事だろう。愛しい人を思い出す度に、弱っていたはずの体が目まぐるしく生命の鼓動を打ち始める。愛の言葉も囁かれていないのに、体の奥から強大なパワーが湧いてくる。

 

(間違っても、敵になっても……もう一度、やり直す事ができるって。証明してください)

 

 あの時の少女の言葉が、立ち上がったジェントルの背中を押す。――かつてジェントルが抱いた夢は、もはや彼一人のものではなくなっていた。そうして彼は地獄のHeat Campを耐え忍び、来たる14日目の朝、生き残ったわずかな同胞達と共にヒーローライセンスを獲得する事に成功した。

 

 

 

 

 そして、その日の昼頃。ジェントルはC.C.(キャプテン・セレブリティ)と共に、ダイナーで遅めのブランチを摂っていた。ダイナー特有の気取らない雰囲気の中で、大勢の人々が食事を楽しんでいる。渡米したての頃はその空気に呑まれて緊張したものだが、今となっては懐かしく、そして愛おしくも感じられた。

 

 カウンターの奥ではウェイトレスが数人、料理や飲み物の支度に追われている。パトワイザーのビール瓶を二本持ってきたウェイトレスにチップを渡すついでに魅惑的なウインクを送ると、C.C.は慣れた調子でキャップを引き抜き、一本をジェントルに手渡した。

 

「おめでとう。明日からよろしく頼むよ」

「……ありがとうございます」

「オイオイそこは押忍!だろう?……HAHA!奥ゆかしいな君は!さすがJAPAN!」

 

 懐かしの()()()()をスルーされるも、C.C.は傷つく事なく大袈裟に肩を竦め、天井を振り仰いでみせた。――本場のヒーローは打たれ強いのだ。そんな彼を尻目に、ジェントルは胸ポケットからライセンスを取り出すと、熱を帯びた目でじっと眺めた。

 

 あの少女からスマートフォンを受け取った瞬間、自分の未来は180度変わった。彼女には返し切れないほどの恩がある。幸せが飽和すると、人の感情は麻痺するらしい。ここ三週間が殊更に目まぐるしかったせいもあるのだろうが、ジェントルは今もまだ、フワフワとした夢を見ているようだった。

 

「正直、まだ実感が湧きません。夢を見ているようです」

「夢、か。君の場合は、まさにアメリカン・ドリームってヤツだろうね」

 

 C.C.はビールを一口飲むと、ハンバーガーの横に添えられたピクルスを齧った。彼は友人である真から、ジェントルがここへ来るに至った事情を聞き及んでいる。どこか似たような境遇に親近感を覚えた彼は、ジェントルを後進として預かり、自ら指導する事に決めたのだ。

 

「我が国において、夢は勝ち取るものだ。君は与えられたチャンスを逃さず、叶えた。……自分を誇りに思うべきだよ」

 

 ジェントルの心の奥から()()()()()が怒涛のように込み上げて来て、彼はたまらず、涙と一緒にビールを飲み込んだ。湿っぽくなった空気を振り払うように、C.C.はわざとらしく眉をしかめて腕時計を覗き込む。そして茶目っ気たっぷりな視線をこちらに送り、ウインクした。

 

「さて。今日のディナーは僕の家でBBQだ。君の恋人を連れてくるのを忘れないように。年下でキュートで頭も切れる……全く、まさにトロフィーワイフじゃないか。君が羨まs――」

「トロフィーワイフじゃなくて悪かったわね」

「ヒッ!ハニー!」

 

 ――何の気配も音もしなかった。気が付くと、C.C.のすぐ横に()()()()()が立っていた。そばかすの散る健康的な顔を怒りに歪め、小さく縮こまるC.C.を睨み付けている。

 

「お買い物に付き合ってほしかったんだけど、もう結構。……ダン。おめでとう。今晩は腕に寄りをかけるわね」

「ままま、待っておくれハニー!」

 

 他人のご家庭に首を突っ込む事もできず、固まるジェントルに優しい笑顔を向け、奥方は颯爽とした足取りで店から去って行った。小柄ながらも気迫溢れるその後ろ姿を、慌てふためいた様子のC.C.が追いかけていく。仲睦まじい――と思いたい二人の姿を見送っていると、無性にラブラバに会いたくなった。夢や心の世界では毎日彼女と会っていたが、()()()()()のは2週間振りだ。ジェントルは会計を済ませた後、足早に帰路へ着いた。

 

 

 

 

 ジェントルとラブラバは現在、都心部に近い場所に建設された――年代物のアパートを一室、借りている。ジェントルがHeat Campに勤しんでいる間、ラブラバは真の紹介で、電子情報を専門とする教育機関に通っていた。彼女はその才能を如何なく発揮し、学費が無償になる特別奨学金の資格を入学試験時に取得している。

 

 薄汚れた木製の階段を、ジェントルは一段一段、確かめるような足取りで昇った。そうして部屋に辿り着くと、彼は少し緊張した面持ちで、黄ばんだドアのチャイムを押し込んだ。――きっとラブラバは文字通り飛び跳ねながら、自分を抱き締めてくれるに違いない。ジェントルは来たる愛の衝撃を思い、唇の端をだらしなく緩めた。

 

 だが、ラブラバは飛んだり跳ねたりもしなかった。静かに内鍵とチェーンを外される音がして、ドアがわずかに開く。その隙間から、疲れ果てた表情のラブラバが顔を覗かせた。ジェントルの浮ついた感情はたちまち消え去り、愛する女性を心配する気持ちへ塗り替わっていく。

 

「一体どうしたんだ?ラブラバ。具合が悪いのかい」

「ジェントル。実はその……」

 

 ラブラバは一旦言葉を途切らせると、その先を言っていいのか逡巡しているように瞳を伏せた。しかし意を決したように唇を噛み締め、彼女は言葉を続けた。

 

()()()()の事で、話があるの」




次回の時間軸は再び、三週間前に戻ります。話があっちこっちですみません( ;∀;)
今年も大変お世話になりました。皆様、よいお年をお過ごしください!三が日までにはあと一話上げたいな…(抱負)。


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No.45 カウンセリングフェス

≪アレンジ登場人物紹介≫
●胡蝶 夢路(こちょう ゆめじ)
マグネの幼馴染。ヒロアカ本編では、マグネとのツーショット写真に映った姿だけ登場している。髪を二つくくりにした男性。
※姿以外(名前など)の情報は作者のねつ造です。ややこしくてすみません…。

≪オリジナル登場人物紹介≫
●胡蝶 望(こちょう のぞむ)
夢路の弟。芸能人を目指していた。故人。


 ジェントルと出会ってから一週間が経過した。その日の朝、ダイニングルームで杳が朝食を摂っていると、朝刊を取りに行った父が()()()()()を抱えて戻ってきた。納豆をかき混ぜている杳の前に、父はその封筒をそっと置く。

 

「人使くんからだぞ」

 

 杳は食事の手を止め、それを食い入るように覗き込んだ。封筒全体に可愛らしい猫のイラストが散りばめられている。人使は猫が好きだった。かつて彼と共に過ごした輝かしい思い出が脳裏を掠め、杳は込み上げてきた涙を味噌汁と一緒に飲み込んだ。

 

 手紙の内容がどんなものにしろ、今はただ――文字だけでも人使に触れたかった。手早くご飯をかき込み、食器を重ねてシンクに置くと、杳は父に”いってらっしゃい”の挨拶をしてから封筒を掴み、二階へ続く階段を駆け上がった。

 

 青空模様のシーツが敷かれたベッドに座り、杳は封筒を開いて中身を取り出した。中には、同じ猫のイラストが描かれた便せんと、四つに折り畳まれた紙片、それから集合写真が入っている。手紙には几帳面な文字で、こう綴られていた。

 

『杳へ。言いたい事は我慢するな。周りの誰にも言えないならここに行け。追伸:写真はお前の寮室』

 

 ()()だった。業務連絡かと見紛うほどに簡潔な内容だった。友情や絆を彷彿とさせるような、甘ったるい言葉は欠片も見当たらない。人使らしい文章だ。シンプルな言葉の連なりは杳の心にすうっと染み入った。一旦手紙を置き、杳は改めて写真をじっくりと眺めた。自分の寮室。アジアンリゾートを彷彿とさせる洒落込んだ部屋の中心に、1-Aクラスの面々がずらりと並んでいる。

 

 深い郷愁の想いが、杳の胸を突いた。つい一月程前まで自分のすぐ傍にあった世界が、今は遠くかけ離れた場所にあるように思えた。竜宮城を恋しがる浦島太郎の如く、杳は写真を握ったまま途方に暮れる。だが、もう二度とここへ戻る事はできないだろう。もう杳は()()()を開いてしまった。弱々しく首を横に振ると、彼女は四つ折りにされた紙片を開いた。――”カウンセリングフェス”、そこにはそう書かれていた。

 

 

 

 

 それからさらに一週間後。カウンセリングフェスの開催日、杳は会場となる街へやってきた。最寄り駅を降りると、もうそこはフェスの会場だった。オフィス街の一画を丸ごと貸し切っているらしい。周囲に並び立つクリスタルビルに空模様が反射して、街全体が宝石のようにキラキラと輝いている。

 

 その下を、歩道に沿って縁日がずらりと立ち並び、威勢の良い呼び声と美味しそうな匂いを辺りに漂わせていた。杳は帽子を目深に被り直すと、行き交う大勢の人々にぶつからないように気を付けて歩いた。

 

 駅から徒歩3分ほどのところに、目当ての建物はあった。――S&D(スカイ&デトネラット)ビルだ。元はスカイ社という老舗のライフスタイルサポートメーカー企業だったが、経営難からデトネラット社に事業譲渡し、現在は”S&D”という子会社に生まれ変わった。

 

 老朽化していたビルも大規模な増改築が行われ、今は見上げると首――どころか肩が疲れるほどの高く立派なコンクリートビルになっている。この町で一番高く大きなそのビルがフェスのメイン会場となっており、多くのブースが軒を連ねているという事だった。正面玄関に立つ守衛に帽子を取って挨拶すると、杳はその脇をすり抜けて中に入った。

 

 中は広々としており、大勢の人々でごった返していた。その隙間を縫うようにして自立歩行型の案内ロボットやスタッフが行き交い、客人達を目的の場所へ導いていく。外の陽気な雰囲気とは打って変わり、人々の表情は穏やかで真剣だった。ロビーのソファーに座り込み、スタッフに支えられて泣いている人もいた。

 

(辛いのはテメーだけじゃねぇんだよ。あの戦いで大勢傷ついて、大切なモン失ってんだ)

 

 あの時、投げつけられた爆豪の言葉が蘇り、杳はカバンに吊り下げたキーホルダーを縋るように握り締める。やがて彼女は案内板の前に立ち、どのブースに行くべきか思い悩んだ。1対1のカウンセリング、箱庭療法、集団療法……ざっと見ただけで、ブースは50以上ある。心の中で数え歌でもして決めようか。杳が人差し指を一番上にあるブース名に向けた、その時――

 

「ねえ!君って”紙袋の子”だよね!雄英生の!」

 

 軽薄な笑いを含んだ声が飛んできて、杳は振り向いた。――と、同時にカメラのシャッター音の切られる音がして、彼女は面食らう。スマートフォンをこちらに向けた、遊び人風の青年が傍らに立っていた。その浮ついた雰囲気から、なんとなく物見遊山で来ているであろう事が推察できる。青年は許可なく杳の写真を撮った後、SNSにアップし始めた。まるで動物園で撮影したパンダの写真を掲載しているような、軽いノリだった。

 

「#紙袋の子 #雄英生 #神野事件 #悲劇の主人公……いやー、バズんなこれは」

「……ッ」

 

 静かに落ち着いていた心の水面が、瞬時に揺れて、かき乱されていく。ヒーローを志していた時は、杳は勝手に写真を撮られても、別段何も思わなかった。――だが、今は違う。ヒーローを挫折し、何もかもを諦めてしまった()()()()を映されるのは嫌だった。ましてや不特定多数の人々にその姿を見られるなど、耐えられない。心拍数が急上昇し、体じゅうから冷たい汗が吹き出していく。

 

 青年に写真を削除するように頼みたい。だが、それで彼が機嫌を損ね、学校に文句を言われたらどうする。今の逼迫している状況下で、雄英にこれ以上の迷惑はかけられなかった。進退窮まり、俯いてカチコチと固まった杳の肩に手を回し、青年は馴れ馴れしい口調で話しかける。

 

「どこのブースに行くの?あ、箱庭療法にしようよ!俺……白雲ちゃん、だっけ?の創った箱庭見たいなー」

 

 青年が杳の手を引き、上階にある箱庭ブースに向けて足を進めようとした、その時――

 

「あんた常識ないわけ?」

 

 ――二人の前に、()()()が現れた。砂色の髪を高い位置で二つ括りにした、背の高い男だった。花柄のワンピースに包まれた体躯は男性らしくがっしりとしているが、漂う雰囲気はしっとりしていてたおやかだった。杳の目に涙が浮かんでいるのを認めると、男は眉をしかめ、彼女の腕を引っ張って自身の後ろに保護した。そして、電子板に表示された注意書きをビシッと指差す。

 

()()()()って書いてあるでしょうが。ここは心に傷負った人が治すために来るところなのよ。あんたみたいな冷やかし野郎はお呼びじゃないの」

「あァ?っせーなカマ野郎が。やんのかコラ」

 

 青年は馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべると、下から睨み上げるようにして男に突っかかる。杳がおろおろとしながら動向を見守っていた刹那、二人の間を割って入るようにして、スーツに身を包んだスタッフが二人やってきた。彼らは機械のように無駄のない動きで、青年の周囲を取り囲む。

 

「お客様。乱暴な言動・行動はお控えください」

「この人、この子の事盗撮してたわよ」

 

 男の告発に狼狽し、青年は慌てて身じろぎする。スタッフ二人組はさらに距離を詰め、彼の動きを完全に封じ込めた。その内の一人が青年の手からスマートフォンを取り上げ、画面を操作する。サングラスの奥に光る目が、画面から杳へ移った。

 

「違反行為を確認しました。写真は削除します。ご安心を」

「是非そうしてちょうだい」

 

 男は過保護な母親のような声でそう言い放ち、たくましい腕を組んだ。一方、杳は二人組のスタッフの存在をどこか()()()()()()()。彼らの目や声には、まるで感情がないように感じられたのだ。もしや精巧なロボットなのだろうか。首を傾げる杳を尻目に、二人組はもがく青年をどこかへ引き摺っていく。その姿が従業員用扉の奥に去ってから、男はようやく肩の力を抜いた。そして改めて杳に向き直ると、小さい子供にするように灰色のフワフワ髪を撫でた。

 

「もう大丈夫よ。神野事件以降、どっと人が増えたんだけど……ああいうマナーの悪いヤツも増えちゃってさ。やんなっちゃうわよね」

「……救けてくれてありがとう」

 

 杳がお礼を言うと、男は照れ臭そうに笑った。笑うと、猫が欠伸をする時のようにクシャリと目が細まる。素朴で気取らず、暖かい雰囲気が心に染み入り、杳は一瞬でこの人が好きになった。――男は胡蝶夢路(こちょうゆめじ)と名乗り、杳がどこのブースに行くか迷っている事を知ると、一緒に”集団療法(グループセラピー)”へ行こうと誘った。

 

 大勢の人々と一緒にすし詰め状態になりながらエレベーターに乗り込み、夢路と杳は5階に着くのを待った。――集団療法とは何だろう。杳はふと疑問に思った。役割療法ならば、鳴羽田で聴いた事があるが。杳は夢路の服の袖を軽く引っ張ると、他の乗客の邪魔にならないように、小さな声で話しかける。

 

「集団療法って何?」

「んー……あ、ホラ。海外映画とかで時々出てくるでしょ。皆が輪になって、あーだこーだ話すヤツ。それそれ」

 

 分かったような分からないような夢路の説明を心の中で反芻している内に、エレベーターは5階へ着いた。広々としたフロア内には何十という会議室があり、それぞれの入り口には各ブースの受付があった。夢路は杳の手を引き、ある一室へ向かう。――そこは”デトネラット社”が主催するブースだった。デトネラット社は杳も良く知っている。国内トップシェアを誇るライフスタイルサポートメーカーだ。実際に杳も、鳴羽田で散々お世話になった。

 

「カウフェス歴十何年の私が初心者にオススメするのは、()()ね。色々としっかりしてるのよ。受付のチェックも厳しいから、さっきみたいに変なヤツも入ってこないわ。……あ、気月さん。こんにちわ」

 

 このビルの企業の親会社だというのに、入り口から垣間見える内装はとても簡素だった。受付に座っている女性と知り合いなのか、夢路は小さく手を振る。笑い返す女性の目は白黒反転していて、黒曜石を嵌め込んだみたいだった。クラスメイトの芦戸の目を思い出し、杳の心はきゅんと痛んだ。

 

「こんにちわ。夢路さん。……この子はお友達?」

「ええ。杳って言うの。さっき友達になったのよ。ねー」

 

 人見知りな杳を気遣い、夢路は優しい声で話しかける。受付ノートに名前を書いていた杳が遠慮がちに頷くと、気月は紫色の髪を一房かき上げて耳に掛け、母性を感じさせる笑顔を向けた。洗練されたその仕草がとても様になっている。まさに大人の女性という雰囲気だった。

 

「ようこそ、杳さん。初めは緊張すると思うけど、どうか気負わずに。リラックスしてね」

「はい」

 

 杳は深呼吸して肩の力を抜くと、夢路と共に中に入り、中心部で円形に並べられた椅子の一つに座った。開始時間が近づくにつれ、十脚ほどある椅子の上に次々と人が座っていく。全ての椅子が埋まった頃、部屋のドアが閉じられ、気月が薄型タブレットを片手にやってきた。周囲のざわめきが一気に終息し、俯いてぼんやりとしていた杳は顔を上げる。気月は愛おしそうな目で人々を見回すと、自身の胸にそっと手を添えた。

 

「さて。では時間が来たので、始めます。まず進行役の自己紹介を。私は気月千歳、ここには()()()()でやってきました。普段は皆さんもご存じの通り、マスコミ関係に勤めていますが……あなた達の事は神に誓って記事にしたりはしませんので、ご安心を」

 

 周囲の人々が穏やかな笑い声を上げた。どうやらここにおける、気月の定番ジョークであるらしい。場の雰囲気が暖まってきたのを確認すると、気月は壁際に置かれた椅子に腰かけ、再び口を開いた。

 

「さあ。誰から始める?」

「……じゃあ、私から」

 

 恐らく杳を気遣っているのだろう、夢路が手を挙げ、一番手に立った。しばらくの間、夢路は逡巡するように顔を伏せていたが、やがて深呼吸を一つして話し始めた。

 

 

 

 

 ――胡蝶夢路には、(のぞむ)という弟がいた。生まれつき容姿に恵まれた望は、性格も明るく素直だった。交通事故に巻き込まれて早くに両親を亡くしてから、兄弟は互いに手を取り合って生きてきた。意地悪な院長の支配する孤児院を飛び出した彼らには、他に頼る当てもない。生活のために学校も辞め、劣悪な職場でわずかな給金をもらい、食い繋ぐ日々。それでも夢路が幸せを感じられたのは、自身を慕う望がいてくれたからだった。

 

 望には夢があった。芸能人になるという、子供らしく華々しい夢。だが、学校も行かず、定まった住所も持たない孤児同然の少年が、芸能会社にスカウトされる事は難しい。あの子が夢を叶えるのは今じゃない。

 

()()()私が定職に就いて、家を借りられたら、これをあの子に渡すの)

 

 地元を飛び出してからも、ちょくちょく会いに来てくれる()()()に、夢路は古びた通帳を見せて微笑んだ。弟のために少しずつ貯めた特別な資金。望の夢は、夢路の夢も同然だ。今日を耐え忍び、期待をもって明日を待つ。明日の積み重ねが未来へ続いていく。未来はいつか夢になる。――そう、思っていた。

 

(姉さん!僕、スカウトされちゃった!どうしよう!)

 

 夢路の働きぶりが認められ、勤務先の小さな工場から正社員昇格の話が舞い込んできた、その夜。アルバイト先から帰って来るなり、息せき切った様子で叫んだ。望を見初めたプロデューサーはどうやら著名な人物であるらしく、話はトントン拍子で進み、一週間後にはデビュー作となるドラマの出演も決定した。

 

 自分が手を貸すまでもなかった。望は自らの力で夢を叶えたのだ。夢路は首を横に振って、少し寂しそうに微笑んだ。望は嬉しそうにこちらに手を振った後、プロデューサーと台本の打ち合わせをするために家を出て、彼の下へ向かった。

 

 ――それ以降、望の消息はぱったりと途絶えた。

 

 いつまで経っても帰って来ず、電話にも出ない。残した名刺を頼りにプロデューサーに連絡するが、彼も行方を知らなかった。夢路は不審に思い、警察とヒーローに通報した。捜査の結果、どうやら望は打ち合わせの帰りに、()()()()()に連れ去られていたという事実が判明する。警察が長年、マークしていた組織であり、アジトの場所も分かっていた。

 

(我々は()()()動き、必ず弟さんを救け出します)

 

 涙に暮れる夢路を安心させるように、警察官とヒーローは力強く微笑んだ。――だが、彼らの言う迅速と、夢路の想う迅速は、その速度が全く異なっていた。警察は逮捕令状を作成し、特殊戦闘に長けたヒーローを各地から選定し、連日作戦会議を行った。そして、夢路の通報から()()()()。警察とヒーローはアジトに突入し、敵を全員逮捕すると共に、望を救い出す事に成功した。

 

 だが、望はもう、生きてはいなかった。美しい顔と体をボロボロに汚され、心は死んでいた。翌朝、テレビが放映したニュース速報で、ヒーローは”あの子が生きていてよかった”と涙を流した。()()()()()、と夢路は虚ろな声で繰り返した。心臓が鼓動していれば、それは生きていると言えるのか。望は涙を流す事もできないほど、心が壊れてしまったというのに。

 

 夢路は、望を殺した敵が憎かった。こんなに誰かを憎いと思ったのは、生まれて初めてだった。有り金を全部つぎ込んで、良からぬ知人の伝手で紹介してもらった殺し屋に”刑務所にぶち込まれた敵連中を皆殺しにしてほしい”と頼んだ。だが、そんな()()()()では了承できないと、首を横に振られる。その代わりに、彼はこんな情報を教えてくれた。

 

(その組織は単なる隠れ蓑だ。弟さんを汚したのはそいつらじゃない。……犯人は別にいる)

(そいつは誰?)

 

 殺し屋が告げたのは、望をスカウトしたプロデューサーの名前だった。捕まった敵組織は権力や金のある民間人と癒着し、彼らが悪事に手を染めるための場所を提供する事で悪銭を稼いでいたらしい。ヒーローと敵達が交戦している間に、プロデューサーはまんまと逃げ遂せた。彼を真の黒幕だと決定づける証拠もない。プロデューサーを殺すための資金は、もう夢路に残されていなかった。

 

 夜遅く、家に帰りついた夢路を出迎えたのは、暗闇の中でぼんやりと立ちんぼうになった望だった。部屋の電気を付けた夢路は、弟の体を支えているのは床ではなく、()()である事に気付いた。望の体にしがみつき、必死で首にかかったロープを外す。望の亡骸を抱えて、夢路は我を忘れて泣きじゃくった。

 

 ――先行き不安な貧しい生活でも、弟がいるだけでよかった。時折尋ねてくる幼馴染と近況を話し、三人で笑い合うだけでよかった。何がいけなかったのだろう。こんな小さな幸せでも、私には贅沢すぎたのだろうか。欲張りだと神様が判断したから、弟を奪ったのだろうか。

 

 ふと気が付くと、夢路は薄く白みがかった靄が漂う世界に立っていた。目の前には、穏やかに微笑む弟の姿があった。彼の個性は”夢”、自分や他者の夢に干渉する事ができる能力を有している。――これが自分の夢か、死んだ弟の魂が見ている夢かは分からない。だが、夢路には果たさねばならぬ想いがあった。望をギュッと抱き締め、涙ながらに言い募る。

 

(私があんたの無念を晴らす!……やったのはあいつね?)

 

 望の宝石のような瞳から大粒の涙が零れて、滴った。そして、彼はコクンと頷いた。

 

 

 

 

 だが、夢路の()()()()は証拠にならず、ただの妄言として扱われた。あくまで夢の中での出来事だと、警察とヒーローは聴く耳も持たなかった。もはやどうする事もできず、弟に顔向けできないと泣く夢路の背中を、幼馴染がそっと撫でて労わった。

 

 その翌日。プロデューサーが自宅で惨殺されたという速報が、テレビを付けた夢路の耳に飛び込んできた。朝刊に記載された容疑者は、()()()()()()だった。慌てて電話をかけるも、繋がらない。夢路は新聞を握り締め、外へ飛び出し、幼馴染の姿を探した。数時間後、薄汚れた路地裏の奥にその姿を見つけ、夢路は泣き叫びながら新聞を投げつけた。

 

(あんたが犯罪者になってどうするのよ!望が、そんなこと……ッ)

(あの子は関係ないわ。私は自分のルールに従っただけ)

 

 涙の滲んだ新聞を踏みつけると、幼馴染は冷徹な声で言い放った。

 

(私の居場所は私が決める。あのクソ野郎は、たまたま私の縄張りを這ってた虫。目障りだから、踏み潰しただけよ)

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

「……それで、彼は(ヴィラン)になったの。今でも、私は……彼に謝りたいと思ってる」

「よく話してくれたわ。夢路」

 

 顔を覆った夢路にハンカチを差し出し、気月は労しげな表情でそう呟いた。周囲の人々も彼の勇気を讃えて頷いたり、穏やかな拍手を送っている。あまりに壮絶な話の内容に圧倒され、杳は茫然としたまま、その場を動く事ができなかった。

 

 人の苦しみに優劣を付ける事はできない。だが、苦しんでいるのは自分一人ではないのだ。皆、それぞれ辛い過去を抱えて、懸命に日々を生きている。その事を改めて認識し、杳は力なく俯いた。そんな杳の前で、セラピーは穏やかに続いていく。心の傷を負うに至った出来事を話して他者に受け入れてもらい、互いに問題を共有する。そうする事で、一人で抱え込むよりも早く傷を治せる。集団療法はそういった効果を有していた。

 

 そうこうする内に時は過ぎ、いよいよ杳の出番がやってきた。周囲の人々の視線が、自身に一点集中する。だが、誰一人として冷やかすような眼差しを向ける者はいなかった。杳はもじもじとしながらも、小さく頭を下げる。

 

「こんにちは。私は……杳です」

「こんにちは、杳」

 

 皆の穏やかな声が重なり、室内に広がった。その余韻が消えても、杳はまだ次の言葉を発する事ができなかった。いくら個人情報を保護してくれるとは言っても、()()()()は話せない。頭の中が、色んな人々の言葉や自身の揺れ動く感情で錯綜し、杳の思考はショート寸前だった。

 

 いっそパスしてしまおうか。そう思って、杳が気まずそうに口を開きかけたその時、誰かがその肩にポンと手を置いた。――気月だった。彼女は不可思議な力を込めた唇を、杳の耳元に寄せる。

 

「杳ちゃん。無理しなくていいの」

 

 その瞬間、杳の心中に()()()()が濁流のように流れ込んできた。視界が、意識が、バチバチと音を立てて明滅する。理性も何もかもを吹っ飛ばし、目の前に現れた()()()()()()を、杳は夢中で掴んで言葉に変えた。

 

「……お兄ちゃんを救けたい」

 

 ――小さな頃、兄は何度も自分を救ってくれた。諦める事なんてできない。たとえ世界中のヒーローが匙を投げても、私だけは絶対に見捨てたらいけないんだ。その考え自体が許されないものだとしても、()()()()。杳は歯を食いしばり、天井を見上げた。融けるほどに熱くて塩辛い涙がいくつも零れ出て、頬を伝い落ちていく。

 

「お兄ちゃんを救けたいよお!うわあああっ!」

 

 良識ある一般市民として、ヒーロー科の雄英生として、守るべきルールの中で虚しくもがきながら、杳は幼い子供のように手放しで泣きじゃくった。――()()()()()()()()。気月と夢路が、杳を抱きかかえるようにして慰める。その光景を、部屋の隅に設置された監視カメラがじっと眺めていた。

 

 

 

 

 泣き過ぎて()()()()()状態になってしまった杳を見兼ね、夢路は彼女を自身の家へ導いた。夢路の家は年代物の木造二階建てアパートで、小さな部屋じゅうに段ボール箱がひしめき合い、足の踏み場がなかった。聞くところによると、なんと彼女は()()、引っ越してきたばかりらしい。散らばる箱をいくつか足で蹴っ飛ばし、彼女は杳のために玄関から洗面所へ向かう道を創ってくれた。

 

「顔、洗っといで。そんな顔で帰ったら、家族の人がびっくりするでしょ」

「ありがとう」

 

 冷たい水で顔を洗って洗面台を出ると、目の前に積まれた段ボール箱の上に、シンプルな写真立てが飾られているのが目に入った。中には儚い雰囲気の少年が映っている。こんなに美しい人間を、杳は初めて見た。宝石でできているように透明感があり、内側から輝きを放っているようだった。恐らくこの少年が、集団療法時に夢路の話に登場した、望という人物なのだろう。杳はぼんやりと想いを馳せた。

 

「この子が望。私の弟なの。……私の宝物だった」

 

 ふと隣に夢路が立ち、優しくて、でもどこか寂しげな声で、杳の予想を肯定した。白い指先がそっと写真の輪郭をなぞる。故人を悼む気持ちは、杳には痛いほど分かった。だが数秒後、夢路はパンと軽く自身の両頬を叩き、明るい笑顔をこちらに向ける。

 

「ね。一緒にコーヒー飲まない?良いコーヒーメーカー持ってんのよ。この箱の山のどっかにあるはずなんだけど」

 

 梱包された大量の箱の中からコーヒーメーカーを探し出すのは、結構大変な作業だった。やっと探し出した時には、時計は夕方頃を差していた。箱の中にあるのは機械と豆だけで、砂糖やミルク、茶器などの類はなく、夢路は気まずそうに頭をかいた。

 

 家に帰る時間が近づいていた。足りないものを買い足しに行く暇はない。二人は手ごろな大きさの段ボール箱をテーブル代わりにして、床に座り、偶然見つけた味噌汁用のお椀でコーヒーを飲んだ。ブラックコーヒーは、子供舌な杳にはかなり苦く感じられた。だが、杳は段ボール箱でいっぱいになった部屋も、気取らないお茶会も、優しい夢路も好きだった。部屋の主である夢路を中心に暖かな空気が漂っているような気がして、杳は何となくここから帰りたくなくなった。

 

「またここに来てもいい?」

 

 そう訊くと、夢路は驚いたように目を丸くして、コーヒーに噎せた。だが次の瞬間、心から嬉しそうに顔を綻ばせる。その笑顔は、写真の中で笑う望に少しだけ似ていた。

 

「もちろん。あんたさえ良ければ、いつだって来て良いわよ。引っ越しの手伝い、タダでしてもらえるしね」

「何それ」

 

 夢路は悪戯っぽく笑う。杳も笑った。やがて茶碗の中のコーヒーがなくなると、夢路は腕時計の時刻を確認し、腰を上げた。

 

「さ。ちょっと早いけど、駅まで送るわ。ここ()()()()()から」

「そうなの?」

 

 駅からアパートへの道程は少し寂れた感じはあるが、特段治安の悪そうな印象はなかった。杳が首を傾げて尋ねると、夢路は芝居がかった動作で周囲を見回し、窓際に立ってちょいちょいと手招きした。素直に近づく杳に、白い遮光カーテンをちょっとだけ開けるように指示する。

 

「このアパートが家賃半額な理由。……なんとか白菜会だっけ?ヤクザってヤツ」

 

 こじんまりとした交通道路を挟んで、向かい側には()()()()()()()が建っていた。広大な敷地を守るように、石垣にしては妙に分厚く背の高い壁が取り囲んでいる。立派な門扉には黒い大理石でできたプレートが嵌め込まれ、”死穢八斎會”と金文字で銘打たれていた。

 

 杳は「倫理学」で学んだ授業内容を、頭の中で反芻した。――いわゆる暴力団(ヤクザ)と言われる組織はヒーローの隆盛により次々と摘発・解体され、オールマイトの登場で完全に時代を終えたとされている。現在では昔気質の極道などは、天然記念物と呼ばれるほどにその数は少ない。摘発を免れた勢力も敵予備軍として扱われ、監視されながら細々と活動を続けているのだと言う。

 

 剛健な門扉の前を、くたびれた風貌の老人が箒で掃き清めていた。彼もその一員なのだろうか。杳がぼんやりとその姿を眺めていると、目の前のカーテンの隙間がシャッと閉じられた。

 

「あんまりジロジロ見ないの。ママに聴いたんだけどさ……組長が代替わりしてから雰囲気変わったんだって。みかじめ料も爆上がりしたらしいわ」

「なんで代替わりしたの?」

「ここだけの話よ」

 

 玄関先で靴の踵をトントンし終わると、夢路は杳の耳に口を寄せた。

 

「若頭が権力欲しさに組長に毒を盛った。組長は寝た切りに。若頭はまんまとその座についた、らしいわ。……あくまで噂だけど」

「こわ……」

 

 杳は思わず総毛立った。だが、今に至るまでヒーローや警察の捜査が入っていないという事は、その話は()()()なのだろう。どちらにせよ、あまり良くない人々の集まりである事には違いない。友人がそんな組織にほど近い場所に住んでいる事を、杳は心配に思った。夢路はポケットから大量のキーホルダーの付いた鍵束を取り出しながら、まるで小さな子供に聞かせるように、噛んで含めるような口調でこう言った。

 

「そういうことだから、あんたこの辺りを一人で出歩いちゃダメよ。何かあったらご両親に申し訳立たないし」

 

 

 

 

 同時刻。死穢八斎會の本拠地にて。屋敷の前の道路を掃き清めていた老人の前を、若い組員が通りかかった。チャラチャラした遊び人風の恰好をしているのに、口には古めかしいペストマスクを付けている。組員は細い足を伸ばし、老人の足を引っかけた。

 

 老人は思わず体勢を崩して転ぶが、その体勢のまま、大人しく後退り、意地悪をした組員に言い返したりはしなかった。そんな老人に唾を吐きかけると、組員は唇を歪め、くぐもった声で吐き捨てた。

 

「んなとこに突っ立ってんじゃねーよジジイ」

「……何をしている」

 

 組員と老人は同時に凍り付いた。――組員のすぐ後ろに、()()()()が立っていた。黒髪を短く刈り、赤いペストマスクを付けている。清潔感のある年相応の身なりをしているが、その体からは異様な気迫が漂っていた。酷薄な輝きを宿した金色の双眸が、たじろぐ組員を射竦める。彼は大きく身震いし、マスク越しでも分かるほどに顔を恐怖に歪め、頭を下げた。

 

「すッ、すみません!治崎さん」

「くだらない事をするな」

 

 魔法使いのような白いローブに身を包んだ青年を引き連れ、治崎と呼ばれた男は門扉をくぐり、中に入った。――その時、治崎の金色の目と、老人の黒い目がほんの一瞬、拮抗する。数瞬後、目を伏せたのは()()()()だった。その事実を確認すると、治崎はさらに歩みを進めた。白いローブの男がその後に続き、二人の後を先程の組員が追いかける。三人の姿は屋敷の庭に生える大きな樹の下に入り、誰からも見えなくなった。

 

 刹那、周囲の空気がピリッと震えた。何度も経験してきた老人には分かる。これは、空気と共に()()引き裂かれた証だ。地を這うようにして忍び寄ると、自身を転ばせた組員が血飛沫に変わり果て、木の幹を赤く染めている光景が映り込んだ。思わず立ち上がろうとした足を、老人は空いた手でグッと押さえつける。

 

 ――この(シマ)には、()()()()。人の姿をした鬼を、老人は静かな闘志が燃える目で、草葉の陰から睨み上げた。

 

 

 

 

 その日の夜更け頃。夢路は酔いが回ってフラフラとした足取りでアパートへ帰りつくと、玄関先に倒れ込んだ。フローリングの冷たさが、酒が回って火照った頬に心地良い。――今日は散々だった。性質の悪い客に捕まり、長々と愚痴や罵倒やらを聞かせられて。思わずため息を吐くと、酒の臭いと香水の匂いが一緒になって、耐え難い悪臭が鼻を突いた。

 

 ちゃんと布団で寝なくちゃ。押し入れに突っ込んだ煎餅布団を思い出すが、もう敷くのも面倒だった。このまま寝てしまおう。――こんなだらしない姿を見たら、()()()は怒るだろうか。今日知り合ったばかりの友人を思い出し、夢路の唇は綻んだ。

 

 望と幼馴染を失ってから、夢路はずっと独りで生きてきた。孤独ではないというのは、良いものだ。明日が来るのが楽しみに思える。今度はちゃんとミルクと砂糖、あと茶器も用意しなくちゃ。ぼんやりと思いを馳せながら、夢路は眠りに落ちていった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 気が付くと、夢路は()()()()()のような場所にいた。消毒薬の匂いがツンと鼻を突く。ワックスの剥げ掛けたリノリウムの床に、天井に吊るされた手術用のライトが反射していた。部屋の奥には、医療器具や電子媒体の類に取り囲まれるようにして、古びた診療椅子が置かれている。

 

 ――そこには、()()()()()が目を閉じて横たわっていた。眠っているのだろうか。夢路はそっと近づいて、絶句した。

 

 少女は簡素な病衣を着ており、体じゅうに包帯を巻いていた。異様に細い体付きから、食事をまともに摂っていない事が推察できる。そして何より、その四肢はベルトで椅子に拘束されていた。夢路は思わず少女の傍に駆け寄り、話しかけた。

 

「あんたは誰?どうしたの?」

 

 少女はゆっくりと瞼を開け、赤い瞳に夢路を映したとたん、大きく息を詰めた。その反応で、夢路は確信した。これは自分の夢ではない。()()()()同期(リンク)したのだと。夢路は個性を完全に使いこなせているわけでなく、時折意図せずして、他者の夢に入り込んでしまう事があった。この夢は、目の前にいる少女のものだ。夢の世界は多くの場合、抽象的か、実体験に即したものだとされている。だが何にせよ、これはまともな夢ではなさそうだった。

 

「……ッ?!」

 

 少女が口を開けて何かを言おうとしたその時、無数の注射針が二人の間を隔てるように、バラバラと落ちてきた。次の瞬間、少女の顔がはっきりとした恐怖に歪み、その体が内側から()()()()()。おびただしい量の血飛沫がシャワーのように降り注いで、夢路の体を汚していく。

 

「は……?」

 

 ――あまりの事に、夢路の思考は停止した。こんなに残虐な夢を、彼女は今まで見た事はなかった。おまけに彼女は民間人だ。惨たらしい光景も見慣れていない。呆けたように、その場で立ち竦む事しかできなかった。

 

 不意に、医療椅子の上に浮かんでいた壁掛け時計の針が()()()()。同時に、辺りに飛び散っていた血飛沫は椅子の上に結集し、()()()姿()に戻った。少女は骨の髄まで震え上がりながらも、耐え忍ぶように目をギュッと閉じ、唇を噛んだ。そして再び、少女の体は弾け飛んだ。時計の針が巻き戻されるたびに、少女は分解される。この狂った流れを、夢の世界は何度も繰り返した。

 

(私があんたの無念を晴らす!……やったのはあいつね?)

 

 涙を流して頷く弟の姿と、目の前の少女の姿が重なって見える。冷たい恐怖の感情が吹き飛んでいく。夢路の心に込み上げてきたのは、凄まじい憤怒の感情だった。彼女は歯を食いしばり、ありったけの力を込めて怒鳴った。

 

「やめなさいッ!」

 

 夢路は個性を使い、この狂った世界を力尽くで止めようとした。夢の世界は彼女の独断場だ。彼女の命を受け、時計の針はピシッと止まる。夢路は手を伸ばしてベルトを外し、少女を連れて逃げようと試みた――その時、頭上が暗闇に覆われた。何事かと見上げた夢路は、口をあんぐりと開けたまま、立ち止まった。

 

 ――部屋全体を埋め尽くすほどに巨大な(からす)が、自分達を見下ろしていた。冷たく鋭い金色の目が、夢路を射竦める。少女は弱々しく泣きじゃくりながら、夢路の足元にしがみ付き、声にならない声で囁いた。

 

()()()()

 

 次の瞬間、烏は嘴を開いて、少女をばくりと飲み込んだ。世界が急速に色を失くし、霞んでいく。夢路の意識もたちまち、あやふやになっていった。




今までずっとデトラネット社だと思ってたんですが、デトネラット社だと今日気づきました…。驚き初めや。
やっと治崎さんと壊理ちゃん出せた( ;∀;)ここまで長かったほんとに。


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No.46 壊理

※追記:作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 翌朝の4時頃。杳は兄のベッドに潜り込み、ぐっすりと眠っていた。昨日は久しぶりに外出して日の光を浴び、自分の本音をぶちまけ、新しい友達もできた。そういったプラスな出来事が重なった影響なのか、彼女は穏やかで優しい夢を見ていた。

 

 だが、枕元に置いたスマートフォンが振動した事で、その眠りは妨げられる。杳は鉛のように重たい瞼を開くと、寝ぼけ眼で画面を見た。――()()からの電話だった。こんな早朝に一体何の用だろう。杳は通話ボタンを押し、スマートフォンを耳に当てた。

 

「もしもs――」

「大変よ!あの子が殺されるのよおおおっ!」

 

 いきなり夢路の大音声が鼓膜に突き刺さり、杳の眠気は吹き飛んだ。――()()()()?あまりに物騒な言葉を受け、杳の心臓は今にも飛び出しそうな位、大きな音を立てて波打ち始める。夕方、カーテン越しに見た死穢八斎會の本拠地をふと思い出し、杳は背中に冷水を浴びたような気持ちになった。まさか犯罪に巻き込まれたのか?素早くベッドから抜け出し、警察に通報するために固定電話のあるリビングルームへ向かいながら、杳は押し殺した声で尋ねた。

 

「夢路。あの子って誰?今どういう状況か話せる?」

「……ッ、えっと……その」

 

 とたんに夢路の声は歯切れが悪くなった。しばらくの間、不規則な呼吸音だけが続いたが、それも徐々に落ち着きを見せ始める。杳は電話の向こうに注意深く耳を澄ませたが、夢路のほかに人の気配はなさそうだった。不審な物音や環境音もしない。恐らく彼女は一人で屋内にいるのだろう。杳はひとまずホッとして肩の力を抜いた。静かに待っていると、やがてスマートフォンから夢路の弱り切った声がした。

 

「夢を見たの。でも普通の夢じゃなかった。……ねえ。今晩、非番だから泊まりに来てくれない?」

 

 

 

 

 その日の昼頃。杳は両親と殻木に許可をもらい、夢路の家へやってきた。約半日ぶりに見る夢路の顔は、紙のように白く青ざめていた。段ボールの山は相変わらずだった。夢路は杳を見るなりホッとしたように笑い、ドアを大きく開け、中へ迎え入れた。

 

「いきなり呼び出してごめんね」

「ううん。私も別にすることないし。さっきの話、聴かせてくれない?」

 

 コーヒーを注ぎ入れながら、夢路は夢の話を聴かせてくれた。――小さな女の子が医療椅子に縛られ、分解と再生を繰り返していた事。彼女はその事にひどく怯え、また痛がっていた事。最後に現れた大きな烏の事。夢路はカップを段ボール箱の上に置くと、笑っているような泣いているような、歪んだ表情をして杳を見た。

 

「信じられないと思うけど、たぶんその子の夢よ。……私、個性をちゃんと扱い切れていなくって。寝てると時々、誰かの夢に()()しちゃう事があるの」

「その子、自分の名前とか言ってた?」

 

 夢路は俯き、首を横に振る。杳は口に持っていこうとしたカップを戻し、冷静に考えた。夢の内容は人によって様々だ。現実では凡そあり得ない、支離滅裂なものもあれば、実際に体験した出来事を元に創られたものもある。夢路は、少女の夢が()()であると確信しているようだった。そして杳も――彼女の有する超感覚が何かを感じ取ったのか――何の疑いもなくその話を信じた。

 

 だが、少女を救うにはあまりに情報が少なすぎる。杳は顎に手を当て、考え込んだ。夢路の個性で夢の内容の()()()を立証できたとしても、名前も知らない、そしてどこにいるかも分からない少女を救け出すのは不可能だ。警察に通報したって悪戯だと思われるに違いない。どうしたものかと杳が思案に耽っていると、夢路は思い詰めたような表情で、温くなったコーヒーを一気に飲み干した。

 

「だから。今晩、また夢を見るでしょ。その時に、あんたも一緒に来てほしいの」

「どうやって行くの?」

 

 夢路曰く、眠る時にお互いの体の一部に触れていると()()()()()らしい。あとは夢路が水先案内人となり、少女の夢の痕跡を何とか辿って導いてくれるとの事だった。小さな頃、弟が怖い夢を見ていた時期に、独自に編み出したものらしい。――夢の世界。以前、転弧やロックの記憶の世界に入り込んだ事はあるが、それと似たようなものだろうか。杳はぼんやりと思いを馳せた。

 

 

 

 

 その後、二人は体を疲れさせてよりぐっすり眠るために、部屋の片づけに勤しんだ。山ほどあった段ボール箱を全て片付け、中身をあるべき場所へ移動し、晩御飯を食べ、お風呂に入った頃には――時計の針は深夜遅くを差していた。一人用の煎餅布団に、二人は狭かった。部屋の電気を消すと、遮光カーテンの隙間から青白い月の光が差し込んで、辺りを朧げに照らし出す。

 

 夢の少女を想うと、夢路は興奮してなかなか寝付く事ができなかった。ちらりと横目で友人の姿を見ると、彼女もぼんやりと天井を見上げている。この子には警戒心というものがないのだろうか。今更ながら、夢路はそう思った。冷静に考えてみれば――出会って間もない、自分のような得体の知れない人間の話を信じ、家に泊まりに来てくれるなんて。とても頼りになるし有難いが、同時に無防備過ぎて心配になる。それともヒーローを志す人間というのは、総じて彼女のような性格なのだろうか。

 

 ふと友人の様子を見ると、彼女は目を閉じて眠り込んでいた。まるで何かに耐えているように、寂しげで苦しそうな横顔だった。夢路は胸がきゅんと締め付けられ、二人で共有していた掛け布団で小さな友人をそっと包み込んだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 気が付くと、杳は薄暗い病室のような場所に立っていた。ワックスの剥げ掛けたリノリウムの床に、天井に吊るされた手術用のライトが反射している。消毒用エタノールの強烈な匂いが鼻を刺し、杳は顔をしかめた。部屋の奥には、医療器具や電子媒体の類に取り囲まれるようにして、古びた診療椅子が置かれている。そこには夢路の言った通り、小さな少女が横たわっていた。

 

「あの子だわ!」

 

 夢路が涙交じりの声で叫び、一目散に少女の傍に駆け寄った。杳も近づいて、その痛々しい姿に息を飲んだ。――少女が身に着けているものは簡素な病衣だけ。皮の下に骨しかないような腕と足には包帯が巻かれ、わずかに露出した肌には真っ赤な斑点が浮かんでいた。閉じた瞼の下には涙の痕が残されている。身体的な虐待を受けている事は明白だった。夢路と杳が拘束を解いていると、少女は目を覚ました。零れ落ちそうなほど大きな赤い瞳が、二人の姿を映し出す。

 

「ねえ!あんたのこと救けたいの!名前は?どこに住んでるの?」

「……ッ、うぅ」

 

 夢路が切羽詰まった声で叫ぶと、少女の目から大粒の涙が零れ出した。こんなに怯えきった表情を、杳は初めて見た。うまく口が回らないのか、唸るような声を何度か上げ、二人の顔を代わる代わる見上げる。話す事ができないのだろうか。杳が少女に目線を合わせようとしゃがみ込んだ、その時――

 

 燃えるような熱さが脳内を埋め尽くし、息ができなくなった。お腹の辺りがバーナーで炙られたように熱く、ひりついている。無意識に視線を下げた杳は、大きく咳き込んだ。空気の代わりに、ごぽりと血の塊が零れ出る。

 

 ――鳩尾辺りから下の部分が、()()()()()()。杳の体はバランスを保てなくなり、自身で創り上げた血溜まりの中に崩れ落ちる。

 

「あああああっ!」

 

 刹那、少女の慟哭が杳の耳朶(じだ)を打った。切れかけた蛍光灯のように明滅する視界の中に、自身の傍にすがり付き、顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣きじゃくる少女の姿が映り込んだ。まるで自分を責めているように感じられ、杳は思わず手を伸ばして少女の頬を撫でようとした。

 

 ――次の瞬間、凍るほどに冷たい()()()が頭上から降ってきた。

 

「壊理。お前のせいでまた人が死ぬぞ」

 

 その台詞はまるで棒読みで、感情の欠片も籠もっていなかった。だが、杳はその声が脳に到達した瞬間、奥に秘められている()()を機敏に感じ取った。なけなしの力を振り絞って見上げると、天井を覆い尽くすほどに()()()()が自分達を見下ろしていた。普通の烏なら真っ黒であろう瞳は金色で、ゾッとするほど酷薄な輝きを宿していた。

 

 烏は恐ろしい鉤爪の付いた足で、血塗れになった夢路を踏みつけていた。夢路は必死にもがくが、抜け出す事ができない。あまりに惨たらしい悪夢に()()()しているようだった。壊理と呼ばれた少女は青ざめた唇を噛み締め、よろよろと立ち上がる。同時に、世界の彩りは急速に薄れていった。

 

「壊理、ちゃん!これは夢だ……ッ、私はだいじょうぶ、だから!」

 

 杳は口内に溢れた血を吐き出すと、懸命に叫んだ。――少女が目覚めようとしている。夢が終わってしまう。まだ何も情報を掴んでいないのに。夢路も野獣のような雄叫びを上げ、鉄骨のように頑強な鉤爪に、果敢に齧りつく。しかし、二人の奮闘は壊理の足を止めるに至らなかった。みるみるうちに目の前の光景は薄れて消え去り、二人の意識は何もない暗闇の中へ放り出された。

 

()()()()()()

 

 ――暗闇の中で、少女の悲しそうな声だけが空しく響き渡った。

 

 

 

 

 数秒後、杳と夢路は布団から勢い良く飛び起きた。ついさっき経験したばかりの夢の世界での出来事が、嵐のように脳内を駆け巡る。泣きじゃくる少女の姿が思い浮かんだとたん、杳の胃の底に罪悪感が濁流のように流れ込んだ。二人は呼吸を荒げながら、しばらくの間、言葉もなくお互いの顔を見つめていた。やがて杳が意を決したように唇を開く。

 

「通報しよう」

 

 ――もうこれは自分達の手に負える問題ではなくなった。”また人が死ぬ”と烏は言った。あの烏が現実に存在する()()を象徴化したものだとしたら、その人は殺人を犯しているという事になる。時は一刻を争うのだ。少女の身が危ない。だが、夢路は髪をぐしゃぐしゃにかき乱し、力なく俯いた。

 

「だけど、これは夢なのよ。警察もヒーローも信じてくれない。……妄想だって。弟の時も」

 

 杳は自分の無力さを噛み締めながら、それでも必死に考えを巡らせた。夢路の言う通りだ。やはり情報が少なすぎる。せめて苗字や住所、他の手掛かりを訊き出せればと、彼女は悔やんだ。虐待されているといっても、その家が分からなければ警察も対処できない。――今の限られた情報で、現状を打開する方法は。杳はふと思い至り、夢路を見た。

 

「夢路。個性の()()()()ってどれくらい?個性カードに書いてないかな?」

 

 一部の個性には影響を及ぼす範囲というものが存在する。個性を精査した際、生活に支障をきたさないよう、発動する条件に加えてその情報も記載されるのだ。かくいう杳もその一人だった。夢路の個性に効果範囲が存在するなら、少女の居場所をある程度絞れるかもしれない。夢路は転げ落ちるようにして布団を飛び出すと、箪笥の一番上の引き出しを慌しく開け、中からひしゃげた個性カードを取り出した。

 

「あった!……半径50メートル」

「じゃあ、その範囲内の家を調べよう」

 

 数時間後、現実世界に朝日が昇った。二人は昨日の味噌汁に卵を落とし込んだものと白米で、簡単な朝食を摂った。口の中にご飯が入っているので無口になるのは仕方ないが、どんよりとした空気が辺りに漂っていた。――夢路は民間人だ。非常時における心の在り方が、彼女と元ヒーロー科である杳とでは大きく異なっていた。

 

 杳は友人の不安を和らげようとテレビを付けた。いきなり可愛らしいアニメのキャラクターが目に飛び込んできて、彼女は面食らう。小さな子供に人気の魔法少女アニメ番組”ふたりはプリユア”が放映されていた。夢路の様子をちらりと伺うが、彼女は無反応だった。アニメに興味はないらしい。何気なくチャンネルを変えると、今度は敵連合の弔の顔が画面いっぱいに映し出された。杳の手に持っていた味噌汁はカチンと()()()()

 

「速報です。敵連合が○○銀行を襲撃、五千万を盗み逃亡しまs――」

「――プリユア☆ファイナル☆アターック!」

 

 杳は慌ててポケットから予備の吸入器を取り出すと、薬を吸い込んだ。そしてチャンネルを元に戻す。幸か不幸か、彼女は初代吸入器を失うに至った理由を知らなかった。彼女の体調を慮ったジェントルが、”空を跳んでいる時に落とした”と嘘を吐いたのだ。魔法少女が煌びやかな魔法で敵を倒すシーンを眺めながら、杳は浮かない顔で凍った味噌汁を砕き、かき込んだ。

 

 

 

 

 そうして、二人の()()()()が始まった。スマートフォンの地図アプリで範囲内の家をざっと調べ、虱潰(しらみつぶ)しに探して回る。ここにマンションがなくて助かったというのが、二人の言う唯一のジョークだった。一軒家を一つずつ覗き、子供の姿を探したり、庭や玄関先に遊具があるかどうかを確認するのは、結構大変な作業だった。よそのお宅でずっと立ち止まっていると不審に思われるし、通りすがりに一瞬見るだけでは全然分からない。捜査は難航を極めた。

 

 11時を少し回った頃、二人は休憩を取るために、五分ほど歩いた先にある公園に立ち寄った。日頃の運動不足が祟ったとベンチで横になる夢路を尻目に、杳は公園の出口に開かれたタコ焼きの屋台へ向かった。店主は気の良い親父で、二人分のタコ焼きを渡すついでに、屋台内に吊り下げた小型テレビを指差し、こんな事を教えてくれた。

 

「お嬢ちゃん。夕方にはお家に帰った方がいいよ。もうすぐ()()()()()ってさ」

「……え?台風、ですか」

 

 小さなテレビ画面には、日本地図を前にした天気予報士が映っていた。彼によると、先日生まれたばかりの台風の進路が大きくズレ込み、急遽こちらに向かって来ているらしい。今は台風がよく発生する時期だし、その軌道が複雑な動きを見せるのは仕方のない事かもしれないが、少女の事を想うと――タイミングが悪いとしか言いようがなかった。ますますあの彼女の身が案じられる。早く休憩を終えて、捜査を再開しよう。店主にお礼を言った後、杳はベンチに向かうため踵を返した。

 

 その時、杳は()()()()と擦れ違った。ツンツンと立てた髪を金色に染め、派手な色合いのポロシャツとチノパンを着崩している。目付きが異様に鋭い。明らかに堅気ではない風貌だった。安っぽい香水の匂いが鼻にまとわりつき、彼女は思わずくしゃみをした。

 

「タコ焼き一つ」

 

 杳は鼻をこすりながら振り返り、男性を注意深く観察した。手元を見ると、大きく角ばった白いビニール袋を持っている。杳はなんとなくそれが気になり、道の端っこに寄って、わざとゆっくりしたスピードで歩いた。

 

 やがて、のんきな鼻歌を歌いながら、男性がその脇を通りすがった。杳は目を凝らし、息を飲んだ。――白く薄いビニール越しに透けて見えたのは、()()()()の玩具のパッケージだった。彼の年は恐らく十代後半~二十代前半ほど。見たところ結婚指輪をしている様子もないし、プリユアのファンという感じでもない。杳はその男を尾行する事に決めた。隠密行動の基本は雄英で学んでいる。杳は一旦ベンチに立ち寄り、夢路にトイレに行ってくると言ってから、彼を追いかけた。

 

 男性は閑散とした住宅街を突っ切り、その先にあるコンビニに入って酒類を買った。そして、向かいの交通道路の隅に潜んで待機していた杳の前で――()()()()()の重厚な門扉をくぐり抜けた。

 

 予想だにしなかった展開に打ちのめされ、杳は数秒の間、魂が抜けたようにその場で立ち竦む事しかできなかった。確かにあのアジトは効果範囲内にある。()()()()()。あの少女の居所としては考えうる限り、最悪の場所だ。指定敵団体の根城に、あの少女が閉じ込められている()()()が浮上してしまった。

 

 少女の凄惨な夢の内容が脳裏をよぎり、杳はポケットからスマートフォンを取り出した。だが、今から通報したとして、”構成員が女児用の玩具を持っていた”という情報だけで警察は動いてくれるのか?もし()()()あの子がここに囚われているなら、下手に騒いだ事で敵に勘付かれた場合、彼女は余計に危ない目に遭ってしまう。

 

 杳が逡巡していた――その時、屋敷の前を掃き清めていた老人の脇を、男性が通り掛かった。彼は老人が隅に寄せていたゴミの山に近寄ると、足を振り上げ、無惨に踏み散らす。杳は思わず息を飲んだ。煙草の空き箱が転がり、杳の近くにある電信柱にぶつかって止まる。

 

 なんて失礼な人なんだ。杳は義憤に駆られ、馬鹿にしたような笑い声を上げて屋敷の中へ入っていく若者を睨んだ。それから空き箱を拾うと、老人の掃除を手伝うために、再び周囲を掃き始めた彼の傍に近寄った。

 

「すまねぇな。堅気の嬢ちゃん。みっともねえとこ見せちまった」

 

 杳の持っている空き箱を見ると、老人は驚いたとばかりに身じろぎし、それから穏やかな低い声でそう言った。老人の落ち窪んだ目に不思議な既視感を覚えて、杳は記憶の引き出しを探った。そして、見つけ出した。――()()()()()と同じ目だ。

 

(ごめんな。ごめんなぁ……俺が勇気を出してりゃ、こんな事に……)

 

 汚れて荒んではいるけれど、その奥は優しい輝きを保っている。悪意のない目だ。一縷の希望を抱いた杳は、思い切ってかまをかけてみる事にした。何の駆け引きもせずに、唐突に質問をぶつける。敵の尋問技術に長けた相澤が、座学で教えてくれた基礎的な話術の一つだった。

 

「あなたは壊理という女の子を知っていますか?」

「……どこでそれを」

 

 老人の反応が数瞬遅れ、言葉尻もわずかに震えた。落ち窪んだ目の奥から優しさが消え去り、()()()()()へ塗り替わる。――やはり、あの少女はここにいる。杳の予想は確信に変わった。任侠らしく凄味の効いた声を放つと、老人はくたびれた作務衣の懐に手を突っ込んだ。杳は自分に敵意がない事を示すため、両手をポケットから出して脇に垂らしてみせる。それから一歩踏み込むと、真剣な表情で言い縋った。

 

「救けたいんです」

 

 言葉の真意を確かめているかのように、老人は臨戦態勢を崩さぬまま、杳をじっと見つめた。ぼんやりした灰色の双眸と、鋭い黒褐色の双眸が、静かに交錯する。やがて老人は懐から手を抜くと、興が削がれたように視線を外した。何事もなかったかのような態度で杳に背を向け、箒を動かし始める。どうしたらよいのか分からず、杳がその場に立ち竦んでいると、老人は箒を掃く手を止めないまま、独り言のように言葉を放った。

 

「……30分後。公園脇のゴミ置き場で待ってろ」




これでまた1週間ごとの投稿に戻ります。明日から仕事嫌っすね…。皆様、無理せずに頑張りましょうね。


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No.47 治崎

≪オリジナル登場人物紹介≫
●嘘田 要助(うそだ ようすけ)
死穢八斎會の元・鉄砲玉。現在は掃除夫。

※追記:組長の名前「佐伯拳火(さえきけんか)」はオリジナルです。


 杳は公園に取って返すと、夢路に事の成り行きを話した。あの少女が()()()()()にいるという事実を知ったとたん、夢路の白い顔はより一層青ざめ、しまいには貧血を起こしたのか、その場に倒れ込みそうになった。

 

 慌てて夢路の体を支え、杳はその顔を覗き込む。しっかりとお互いの目が合っているはずなのに、その瞳は何も映していなかった。強い恐怖に囚われているようだ。夢路が()()対して恐怖を感じているのか。そして何故、これほどまでに必死に壊理を救おうとしているのか。杳はその理由が分かったような気がした。夢路の頬に両手を当てると、軽く額を合わせて目を閉じる。

 

「夢路。あの子に望くんを重ねているのは分かるよ。すごく怖いのも」

 

 静かな杳の声は、夢路の心の奥深くに浸透し、不安にさざめく水面に小さな波紋を生み出した。心の一番深い場所にへたり込み、大切な弟を救う事ができなかった過去の自分を責めている夢路が、そっと顔を上げる。

 

「でも、あなたの力が必要なんだ。あの子を救けたいなら、なおさら私達がしっかりしなくちゃ」

 

 不安な気持ちを押し込めて、杳はヒーローらしく口元に笑みを浮かべてみせた。過去は変えられない。だけど、未来は変える事ができるかもしれないのだ。涙に濡れた夢路の瞳に、少しずつ光が戻ってくる。やがて彼女は瞼を閉じ、溢れた涙を指で払うと、細かく震える両手でガッツポーズを取った。

 

「……そうね。私達がしっかりしなくちゃ」

 

 夢路の気持ちがある程度落ち着くのを待ってから、二人は老人と合流するためにゴミ置き場へ向かった。老人はゴミ袋をダストボックスに投げ入れ、重たい鉄の扉を閉めたところだった。人の気配に気づいたのか振り返り、杳と夢路を交互に見る。

 

 ――目付きこそ異様に鋭いが、それ以外は総じてボロボロだった。痛々しいほどにやせ衰えた体躯を、襤褸(ぼろ)切れのような着物に包んでいる。その上に乗っかった傷だらけの剣呑な顔面が、彼をただの哀れな老人だと思わせないようにしていた。老人はふいと目を逸らし、聴こえるか聴こえないかの微妙な声量で話しかける。

 

「あんたのお仲間か」

「はい」

 

 杳が返事をすると、老人は眼球だけを動かして周囲の状況を確認した。――台風が近づいて来ているのか、徐々に風が強くなってきた。灰色にかき曇った空の下を、凄まじいスピードで雲が流れていく。警報が発令されている事もあり、公園内の人気はほとんどなかった。

 

 ベンチにオフィス勤めらしき服装のうら若き女性が座り、風に弄られる青い髪を鬱陶しそうにかき上げながら、タコ焼きを頬張っているくらいだ。出口付近には、早々に店じまいを始めているタコ焼き屋の亭主もいる。ベンチは空いているが、直に暴風雨が襲い来るだろうここで長話をするのは得策ではないと杳は思った。彼女の考えを代弁するように、老人はこう言った。

 

「ここじゃ人目に付く。雨風凌いで話せる場所、知ってるか」

「私のアパートがあるわ。あんたんとこの向かいだけど」

 

 夢路は挑むような口調で言い放った。()()()は別として、得体の知れない人間、しかも()()()を自分の家に上げるのは正直嫌だった。だが、今はそんな事を言っている場合ではない。杳も顎に手を当てて考えを巡らせたが、生憎この辺りの土地勘はなかった。喫茶店でできる話でもないし、夢路には悪いが、ここは素直に甘えさせてもらおう。

 

 ――問題は、老人がどう思うかだ。二人がそれぞれの思惑の籠もった目で見上げると、彼は吊り上がった目尻をほんの少し緩めた。それが二人の緊張を解くためにしたものなのか、何かを諦めているために自然としてしまったものなのか、杳には判別が付かなかった。

 

「構わねぇよ。だが、ぞろぞろ連れ立って行くのはダメだ。別々の道筋で行こう」

 

 嘘田は用心深い性格のようだった。人目を避けるため、三人は別々のルートを辿ってアパートへ向かった。三人が一堂に会した頃、カーテンの隙間越しに雷鳴が鳴り響いた。天井から下がったペンダントランプが、チカチカと頼りなく明滅する。風はますます強くなり、やがて窓ガラスを大粒の雨が叩き始めた。夢路はキッチンに立ち、朝淹れたコーヒーを温め直すと、三つのカップに注ぎ入れた。

 

 ――老人は嘘田要助(うそだようすけ)と名乗った。コーヒーには手を付けないまま、二人の顔をじろりと見やる。

 

「あの子は組長の孫だ。身柄は治崎が押さえてる」

「治崎?」

「治崎廻。うちの若頭だ」

(若頭が権力欲しさに組長に毒を盛った。組長は寝た切りに。若頭はまんまとその座についた、らしいわ。……あくまで噂だけど)

 

 かつて夢路から聴いた噂話の一端を思い出し、杳は思わず身震いした。果たして噂は眉唾物ではなく、事実だったのか。自然と前のめりになる杳を尻目に、嘘田は一旦言葉を区切ると、染みだらけの壁に背を預けて腕を組んだ。その目の奥は、期待と不安が綯交ぜになった複雑な光を宿している。

 

「あんたらはどうやって壊理の事を知った?サツか夜目(ナイトアイ)の回し者……にゃ見えねえが」

「夜目って何よ」

「サー・ナイトアイ。この辺りを守ってるヒーローだよ」

 

 杳は嘘田の代わりに、夢路の問いに答えた。ヒーローの卵にとってプロヒーローの情報は必須――緑谷には到底及ばないが――著名なヒーローの名前と活動拠点の場所くらいは暗記していた。ナイトアイはその昔、オールマイトの相棒をしていた事で有名だ。杳が覚えているのは必然と言えた。

 

 それから、杳と夢路は顔を見合わせた。誤魔化したり、嘘を言う必要はない。ここはありのままを話すのが得策だろう。杳は事の顛末を話して聴かせた。嘘田はしばらく狐につままれたような顔をして二人の顔を見ていたが、やがて深く目を閉じ、長く重い溜息を吐いた。そして数秒後、開かれたその目には、夜更けの湖のように静謐な輝きが宿っていた。

 

「なるほどな。これで俺も覚悟が決まったよ。……爺の遺言を聴いてくれるか」

 

 ――()()?不吉な言葉を聞き咎め、杳が口を開こうとしたその時、凄まじい雷鳴が轟いて、カーテン越しでもはっきり分かるほど窓が明るく輝いた。嘘田はコーヒーを一口飲むと、ひび割れた唇を開いた。

 

 

 

 

 死穢八斎會の組長・佐伯拳火(さえきけんか)は仁義と人の道を重んじる昔気質の老人だった。組員の多くは彼の人柄を慕っていたし、嘘田もその一人だった。”死穢八斎會は(ヴィラン)ではなく、侠客であらねばならない”という信念に従い、組員達は警備や代理交渉、私設賭博、水商売等で、細々と生計を立てていた。

 

 威厳のある外見に反して佐伯は優しい性格で、どこにも行き場のない人間を拾っては組員にしていた。ある日の事、佐伯が怪我だらけの少年を連れて帰ってきた時、嘘田は思わず文句を垂れた。

 

(ガキじゃねえか。ここは託児所じゃねえんだぞ)

(そう言うな嘘田。面倒見てやってくれ)

 

 佐伯は苦笑いすると、棒立ちになった少年の背中をぐいと押した。野良猫を思わせる鋭い金色の目が、嘘田に突き刺さる。――それが()()だった。()()()()()が原因で家を飛び出し、自暴自棄になり暴れ回っていた自身を、佐伯が救ってくれた時の記憶が脳裏にふと蘇り、嘘田は渋々頷いて少年に手招きした。

 

 治崎は佐伯と養子縁組をし、組の子として育てられる事となった。治崎は感情の起伏が乏しい割にやけに好戦的で、しばしば()()()()()事があった。だが、根っこの部分は親代わりの佐伯を慕う純粋な少年なのだと、嘘田は分かっていた。

 

 ある日、治崎が組を(ヴィラン)扱いする子供相手に喧嘩をしかけたという廉で、佐伯は学校から呼び出しを受けた。数時間後、彼は気まずそうに俯く治崎に傘を差しかけながら帰ってきた。庭先で紫陽花に水をやっていた嘘田は、やんちゃをして帰ってきた少年に笑いかける。

 

(おう。お帰り。治崎)

(……ただいま)

 

 小さく呟いた治崎の顔は、いつも通りの仏頂面だった。なのに嘘田には、彼が笑っているように思えた。見下ろす佐伯の顔にも、深い愛情の心が見える。――これでいい。父親と共に屋敷の中へ入っていく息子を見送りながら、嘘田はそう思った。かつての俺のように、あいつの中に宿る()()も少しずつ鎮まっていくだろう。帰るべき場所がある。自分を受け入れてくれる人がいる。それだけで、人の心は救われるのだ。後はその事実が心身に染み込むまで、時間を掛ければいい。

 

 ――そう思っていた。オールマイトが来るまでは。

 

 

 

 

 時は流れ、ヒーロー飽和時代が到来、そしてオールマイトの台頭により、旧来のヤクザは組織解体が進んでいった。摘発を免れた死穢八斎會は”敵予備軍”として扱われ、監視される日々を送る事となった。佐伯はその事実に憤慨しながらも、今までの生き方を変えず、表立って事業を広げようともしなかった。

 

 その頃には、治崎は若頭の地位にまで上り詰めていた。治崎は組の未来を強く憂い、佐伯が禁じていた()()()()()()に手を付けるよう説得を試みた。だがそれを、佐伯は(ことごと)く撥ね付ける。

 

(人の道から逸れたら侠客終いよ。心のねェ外道に人はついてきやしねェ)

 

 佐伯の部屋から出てきた治崎の表情からは、相変わらず感情が読み取れなかった。だが、その目の奥に宿る()()()()()は消えていなかった。――昔の自分に似た、あの狂気。時間の経過と共に少しずつ消えているのだと、嘘田は思っていた。しかし、それは彼の勘違いだった。

 

 治崎が佐伯に黙って新しいシノギをしている事は知っていた。そしてそれが私益ではなく、緩やかな死を迎えようとしている組を救うための行動である事も。だが、()()()()()。もしヒーロー共に見つかれば、組は解体される。皆の居場所がなくなってしまう。嘘田は治崎を呼び止め、釘を刺した。

 

(妙な気起こすんじゃねえぞ治崎。あんだけ親父に絞られたのにまだ懲りてねえのか)

 

 治崎は応えなかった。金色の瞳だけが静かに動き、嘘田が作務衣の帯に隠した匕首(あいくち)を見る。その短刀は、”組の鉄砲玉”を自負し、長らくの間、先陣を切って戦ってきた嘘田の相棒だった。だが、あくまで脅しの道具、その刃が血に塗れた事はほとんどない。嘘田の前で、治崎の表情がわずかに変わった。――それは明らかに、嘘田に対する軽蔑の感情が色濃い表情だった。

 

 組長と若頭の溝が徐々に深まっていく中――ある日、佐伯は彼の実娘の娘、つまり孫である壊理という少女を連れてきた。彼女の世話と個性の扱いを治崎に任せると言うのだ。曰く、壊理は危険な個性を持った少女で、個性を発現した際に自分の父親を消失させ、それに怯えた母に捨てられたのだという。佐伯が何故、()()()少女の世話を任せようとしているのか、嘘田には何となく察しが付いた。

 

(壊理は治崎に似てる。子供ってえのは可愛いもんだ。あいつの気も少しは晴れるだろ)

 

 治崎が壊理の手を引っ張って廊下の奥へ去って行くのを見送りながら、佐伯は昔を懐かしむように目を細めてそう言った。子供特有の清らかな心に癒される大人は多い。治崎も少女と触れ合う事を切っ掛けに、あの狂気を鎮めてくれればいいのだが。嘘田は祈るような気持ちで、二人の後姿を眺めた。

 

 しかし、狂気は壊理との出会いにより、一気に加速し、()()()()。壊理の個性を解析・研究していく中で、その個性の真価に気付いた治崎は、彼女を利用して組復興のための計画を立て始めたのだ。

 

 ――元々、治崎の中には狂気が宿っていた。佐伯に対する恩義と疑念、そして不条理な社会への憎悪と組織拡大への野望。そうした思いが積み重なる中、限界を迎えた治崎を、膨れ上がった狂気が包み込む。そして、彼は鬼になった。

 

(ウチの考えに背きてえなら、おめェ……もう出てけ)

 

 治崎の提言する”壊理の肉体を原料に薬を作る”という非人道的な計画を、佐伯が許可するはずもなかった。いよいよ今までの行動を看過できなくなり、佐伯はついに治崎を勘当しようとした。二人が言い争っていると聞いて部屋に駆け込んだ嘘田が見たのは――治崎の個性によって、物言わぬ体に変えられた佐伯の姿だった。思わず匕首に手を掛けながら、嘘田は怒鳴る。

 

(てめえ治崎ィ!恩を忘れたか!)

(……違う。()()()()だけだ)

 

 突然、嘘田はピクリとも動けなくなった。今にも匕首を引き抜こうとする右腕に、薄茶色の髪束が突き刺さっている。治崎より少し後に拾われた子、玄野の個性だ。まだ二人が幼かった頃、照れ臭そうに笑いながら、組主催の夏祭りに興じていた姿を思い出し、嘘田の(まなじり)に涙が浮かんだ。――止めなければ。戻れなくなる。額に脂汗を滲ませながらも全身に力を入れ、抗おうとする嘘田を見下ろし、治崎はこう言った。

 

(いいから……黙って見ててくれ)

 

 

 

 

 その後、組の実権を握った治崎は”オーバーホール”という(ヴィラン)紛いの名を名乗るようになる。仁義を重んじた昔気質の佐伯に対し、治崎は部下の命さえもゴミのように使い捨てる強引な手腕で、組織の拡大路線を推し進めた。佐伯を慕う大多数の組員は治崎に反発心を抱き、彼の独裁を止めようとした。だが、悉く殺されるか、死よりも惨い目に遭った。

 

 治崎の恐怖支配で怖気づく者が続出し、いつしか反抗する者は()()()()になった。それでも嘘田は諦めなかった。その事実を確認すると、治崎は胸ポケットから小さな銃弾を一つ取り出した。

 

(ちょうど良かった。やっと完成したんですよ。人から個性を消す銃弾)

(治崎……)

 

 嘘田はその先を続ける事ができなかった。瞬きした瞼の裏に、壊理の幼い表情が焼き付いて消えていく。――どこにも寄る辺のなかったお前を引き取り、育ててくれたのが佐伯だろう。お前は何故、()()()を壊理にしてやれなかった。

 

 いや、それは()()だ。俺も同罪だ。嘘田の表情が絶望に歪み、手から匕首が滑り落ちて転がった。治崎の悪行を知っていながら、組を潰さないために、今日に至るまで警察に駆け込む事ができなかった。治崎は迷いのない動作で銃に弾を装填すると、嘘田に向けた。

 

(鉄砲玉同士、組のために死んでくれ)

 

 そうして、嘘田は個性を()()()()()()。嘘田は治崎の手により――日常生活をなんとか送れるほどの力になるまで――体内の臓器を萎縮させられた。地位も取り上げられ、屋敷内の掃除夫としての役目を与えられた。

 

 かつては現組長の側近として仕えていた嘘田が、みすぼらしい服を着て屋敷の隅を掃除する様を毎日見せつける事で、治崎は()()()の組員達にさらなる恐怖心を植え付けようとしていた。何も知らない新参の若者が、通りすがりに嫌がらせをしかけていく。だが、個性も地位も何もかもを失っても、嘘田は諦めなかった。廃品を漁り、治崎に首を垂れながらも、嘘田は今日に至るまで()()()()()を虎視眈々と狙っていた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 嘘田は話し終えると、すっかり冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干した。激しい雷鳴が再び轟いて、窓ガラスがビリビリと震える。あまりに凄まじい話に圧倒され、杳は全身に氷の塊を当てられたかのように震えていた。今も囚われている少女の事を想うと――彼女がどんな扱いを受けているかと思うと――強い眩暈がし、息が詰まった。

 

「もう組は終わりだ。だが、その前にあの子を助けたい」

「……どうやって?」

 

 嘘田は作務衣の袂から何かを取り出すと、テーブルに転がした。――小さなアンプルだ。ガラスの容器の中には、血のように赤い液体が詰まっている。

 

「化学兵器の一種だ。空調設備の近くで破壊すると、中の薬品が蒸発し、気体になって周囲に拡散される。吸った者は四半刻(約30分)、無個性になる。……連中を嗅ぎまわって、産業廃棄物処理箱に投げ込まれたところをくすねてきた」

「廃棄って。完成品じゃないの?」

 

 ”個性社会”と呼ばれる現代、たとえ一時的にでも無個性になるというのは大変な災禍だ。捉えようによっては、暴走した個性を鎮める良薬であるとも言える。どちらにせよ、世間を大いに賑わす代物であるのは間違いない。嘘田は壊れ物を扱うように繊細な手つきでアンプルを掴むと、袂の奥に仕舞い込みながら、杳の質問に応えた。

 

「血清が創れなかった。つまり、使った奴も無個性になる。使う奴が絶対的に()()()()()にいられなきゃ、商品として成立しないんだよ」

「何よそれ……」

 

 堪え切れずに、夢路の目尻に涙が浮かんだ。――壊理は人間だ。兵器の材料じゃない。あの夢と同じ凄惨な仕打ちを、少女はその身に受けて来たのだ。彼女がどんなに苦しく辛い思いをしてきたかを考えると、杳は言葉が出なかった。嘘田は腕を組むと、深く眉根を寄せ、口を開く。

 

「一週間前、大口注文が入った。今晩から三日三晩、薬を創るために、あの子の体は引き裂かれ続ける。その前に救い出す。……証拠品と一緒に壊理を交番に連れて行き、保護してもらう。きっと親父もそれを望んでるはずだ」

 

 嘘田はおもむろに懐を漁り、二人によく見えるように掌を広げてみせた。――その上には、やや形の潰れた銃弾が八つほど載っている。

 

「一時的なモンだが無個性弾だ。不良品をいくつかかっぱらってきた。……ゴミ漁りだからできたことだ」

「他の仲間は?」

 

 杳が今にも消え入りそうな声で尋ねると、嘘田は小さく笑い、力なく首を横に振った。

 

「皆、殺された。残ってるのは腰抜けと、あいつが引き入れた新参者ばかりだ」

 

 嘘田は掌を銃弾ごと握り締めると、固い決意を秘めた声を空中に放り出した。声量はそれほど大きくないはずなのに、(つんざ)くような雷鳴や雨音を押し分けて、その言葉は二人の耳元にしっかりと届けられた。

 

「今日の十時から、数年振りに宴会が開かれる。作業前に英気を養おうってこった。……連中が酔っぱらって油断した頃合いを見計らい、アンプルを投げ込んで、あの子を救い出す」

「そんな……ッ、たった一人で?無茶だよ」

 

 杳は思わず声を荒げた。――無謀にも程がある。いくら無個性になると言ったって、体が動かなくなるわけじゃない。酒に酔わない体質の者もいるだろう。大勢で襲い掛かられれば、ひとたまりもない。

 

 すると、虚田は羽織を広げてみせた。思わず二人は大きく息を飲む。羽織の内側には小型のパイプ爆弾が大量に括り付けられていた。何食わぬ顔で羽織の紐を結び直しながら、嘘田は言葉を続けた。

 

「手製の爆弾だ。壊理と合流した後、これで治崎を脅す。”一緒に爆死する”とな。……治崎は死んだ人間を元に戻せるが、その時間は限られてる。四半刻後じゃ、到底間に合わない。その間に、俺はあの子と証拠品を持って自首しに行く」

 

 ――死にに行くようなものだ。杳はわなわなと震える唇を噛み締めた。嘘田に壊理を殺せるわけがない。この作戦は最初から破綻している。もはや作戦とも言えない、捨て身の行動だとしか思えなかった。バネ仕掛けの人形のように勢い良く立ち上がると、杳ははっきりとした声で言い放った。

 

「通報しよう。今すぐ」

 

 嘘田が持っている兵器や無個性弾が、紛う事なき()()()()となる。治崎はこれほどに大規模な悪行を重ねているのだ。ヒーローも警察もすぐさま動いてくれるに違いない。だが、嘘田は能面のように冷ややかな表情で杳を見上げ、唇だけを動かした。

 

「嬢ちゃん。俺は()()()だ。言葉の真偽を確かめてる間にあいつに勘付かれて、壊理ごと雲隠れされるのがオチだ。……事件を起こした後じゃなきゃ、警察もヒーローも動かない」

「きっと動き出すまでに何日もかかるわ。私の弟がそうだった」

 

 夢路の暗い声が鼓膜にまとわりつき、二人は思わず振り返った。夢路は両手で顔を覆っていた。その指の間から、激しい怒りを宿した目が杳を睨みつける。

 

「あんたは廃人になった壊理ちゃんを見て、”生きていてよかった”って言えるの」

 

 ――夢路は正気を失っている。杳はごくりと唾を飲み込んで、身じろぎした。今や、夢路は完全に壊理に弟を重ねているようだった。あの時、救けられなかった弟の無念を晴らそうとしているのだろう。だが、かつてヒーローを志していた者として、こんな無茶苦茶な計画を認められるはずがなかった。最悪、作戦が失敗して、嘘田が殺害され、少女がもう手の届かない場所に連れ去られる可能性だってあるのだ。

 

 ここはヒーローや警察に相談するのが、一番確実だ。自分達はオールマイトにはなれない。だからこそ、時間を掛けて分析と予測を重ね、作戦に適したチームを組むのだ。ルールを破るわけにはいかないんだと、杳は自分自身に言い聞かせた。ルールを破ろうとしている人間を見過ごすわけにもいかない。この世界で生きるには仕方ない。お兄ちゃんのように、世の中には()()()()()()()もいる。

 

(できるか、できないかを判断するのは、世間ではなく君の心じゃ。……君はどうしたい?)

 

 ポケットの中の吸入器を縋るように握り締めたその時、かつての殻木の言葉が耳元にこだました。凍り付いたように動きを止めた杳に向け、嘘田は脅すような低い声を叩きつける。

 

「悪いが、嬢ちゃん。俺はこの日のために辛酸舐めて、泥ン中這いつくばって、廃棄品拾い集めてきたんだ。爺の遺言として口を拭っといてくれるんならまだしも……サツにチクるってんなら、こっちも考えがあるぜ」

 

 夢路は抱え込んだ膝に顔を埋め、声を殺して泣いていた。――二人共、冷静さを欠いている。私がしっかりしなければ。救える命を守るために。杳は虚ろな声で自らを鼓舞した。

 

 刹那、杳の眼前に、弱々しく泣きじゃくる壊理がポンと現れた。その傍らに黒霧が滲み出て、少女の肩に靄がかった手をそっと置く。幻覚だ。鎮静剤を飲み過ぎた事による副作用。これは現実じゃない。杳は必死に自分自身に言い聞かせた。――()()()

 

 杳の考えを肯定するように、彼女の両脇にパープルとマイクが現れる。彼らは静かに口を開き、()()()()を紡ごうとした。その寸前、杳の心の奥から熱い感情がせり上がり、一つの言葉となって口から飛び出した。

 

()()()()

 

 ヒーロー達は驚いたように身じろぎして杳を見下ろした後、霞のようにかき消えた。壊理は泣き顔を歪めてぎこちなく笑い、黒霧と一緒に空中に融けるようにして消えていく。一瞬遅れてやってきた冷気を鎮めるために吸入器を取り出しながら、杳は()()()()()()に囚われていた。

 

 ――自棄(やけ)でも、黒霧を救わなかったヒーロー達に対する復讐でもない。()()()の時と同じだ。目には見えない、大きくて熱いものに引っ張られているような気がした。

 

 杳は呆気に取られた様子の二人を見下ろした。彼らの肩越しに見える自身のリュックから、揃いのキーホルダーがぶら下がっている。可動式の人形の腕がわずかに揺れて、まるで”さよなら”を言っているように思えた。杳は唇を噛んで目を逸らし、決意と共に静かな声を放り出す。

 

「私も手伝うよ。だから、作戦を練り直そう」




毎回長々うだうだと本当にすみません…。
次はウサギ好きのあの人が出ます。何気にめっちゃ好きかもしれない。


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No.48 戦支度

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●ナックルダスター
元・超速ヒーロー”オクロック”、そして元・ヴィジランテ。航一の師匠。
●釘崎 爪牙(くぎざき そうが)
ソーガさん。航一達の知人。4年前の事件で、和歩の命を救った。



 二人の同志を前に、杳は顎に手を当てて考えを巡らせた。夢路は争い事とは無縁の民間人、嘘田は身体機能を弱体化させられている。嘘田の提言する捨て鉢作戦に乗っかるつもりは毛頭ないが、いざ戦闘になった場合、彼らが素手で敵と渡り合えるとは思えなかった。――()()()()()。だが、ここは日本だ。資格を持つ者以外、武器の所持は許されない。

 

(知り合いの()()()()()から、大枚叩いて買った情報だからな)

(敵連合に違法な武器を売買したとして、ブローカーと名乗る敵・○○を逮捕しました)

 

 刹那、杳の脳裏に二つの記憶が蘇った。一つは、鳴羽田の病院で爪牙と話していた時のワンシーン。もう一つは黒霧の姿を探して、スマートフォンのあるニュースを見た時の思い出だ。ブローカーとは中売人を示す。違法だが、背に腹は代えられない。武器の代わりになるものを探す時間もない。丸腰で行って皆殺しにされるよりはマシだ。

 

 同じ罪を冒すなら、どこの誰とも知れない人物よりも、爪牙の知り合いの方が良い。杳はポケットからスマートフォンを取り出すと、彼の連絡先をタップした。

 

 爪牙は数コール後に出た。杳は久しぶり過ぎて――爪牙は恐らく神野事件の事を想起しているのか――しばらくの間、二人を沈黙のヴェールが包み込んだ。やがて杳は大きく深呼吸した後、覚悟を決め、事の次第を順を追って話し始めた。

 

「武器がいるんです。民間人でも扱えて、人をなるべく傷つけないものが」

『……お前、(クスリ)でもやってんのか?』

 

 正気を疑われ、杳は思わず口籠る。だが同時に、爪牙の反応は(もっと)もであると思った。極道の家に乗り込んで子供を救い出すなど、常軌を逸している。杳はギュッと瞼を閉じ、両足に力を入れた。――ずっと心は迷いの中にある。けれど、不思議と引き返そうとは思わなかった。

 

『本気なんだな?』

 

 杳が一歩も引く気配を見せないと分かると、爪牙は長い溜息を零した。――爪牙もかつては違法な薬に手を出し、札付きのワルとして鳴羽田の街を荒らし回っていた過去がある。人生において誰しもが間違った選択をするものだ。頭ごなしに少女を責める事はできない。だが、敢えて泥沼に首を突っ込もうとしている彼女を放って置く事もできそうになかった。

 

()()って奴だ。俺からの紹介だと言え。……だが、そいつが取引するかどうかは知らん。期待はするな』

 

 杳の返事を聞く前に電話を切ると、爪牙はREINを通じて彼女に義爛の連絡先を送った。そして手早く外出の準備をすると、大型バイクの鍵を持って家を出る。

 

 ――爪牙は義爛の事はそれなりに信用しているが、彼が()()()である杳と取引をするとは到底思えなかった。かくいう自分も、義爛と長い付き合いのあったナックルダスターを介して紹介を受けたのだ。大物ブローカーは、何の後ろ盾も力も持たない()()()()を相手にしない。

 

 躍起になっている若者は、壁にぶち当たらなければ冷静になれない。義爛に体よくあしらわれて落ち込んでいるところを、自分が改めて説得すればいい。爪牙はそう考えると、使い込んだヘルメットを被り、バイクのエンジンを勢い良く吹かした。

 

 

 

 

 同時刻、夢路のアパートにて。杳は緊張を解きほぐすために何度か深呼吸をしてから、義爛の電話番号をタップした。一体、どんな人物なのだろう。気を揉みながら、スマートフォンを耳に当てる。無機質な通話音はすぐに切れ、間もなくして穏やかな笑みを含んだ男の声が降ってきた。

 

『やあどうも。ご新規さんかな?』

「は、はい。ソーガさんの紹介で。杳と言います」

 

 杳がまごまごした様子で応えると、義爛は軽く吹き出した。

 

『おっと!こりゃ可愛いお嬢さん』

「お買い物をしたいのですが」

『なんでもどうぞ』

 

 耳を澄ますと、電話の向こうで静かなジャズミュージックが聴こえた。グラスの触れ合う音や氷の割れる硬質音、人々が声を潜めて話しているような喧騒がそれに重なる。どうやら義爛はバーのような場所にいるらしい。杳は頭の中で言葉を選びながら、ゆっくりと声を発した。

 

「三人分の武器をお願いします。民間人でも扱えて、殺傷力のないものを」

『OK。一応聞いとくが、何に使うつもりだ?』

 

 杳が素直に目的を話すと、義爛はしばらくの間、言葉を失ったように沈黙した。それから、彼は爪牙と全く同じ台詞を口にした。

 

『……お嬢ちゃん。クスリやってんのか?』

「えーと……」

 

 果たして鎮静剤は彼らの言う(クスリ)の範疇に入るのか、今更になって杳が思案していると、義爛は呆れたように小さく笑った。

 

『にしても、たった三人で特攻するつもりかい?そりゃ無理だろ。武器だけじゃなく()()もいるんじゃないか?』

「確かに欲しいところですが……」

『……ちょっと待ってくれ』

『♪ジョージラビットのおうちは ちいさなおかのうえにあるの♪』

「……ッ?!」

 

 義爛が保留ボタンを押したのか、いきなりウサギのキャラクターが主人公の海外アニメ”ジョージラビット”のテーマソングが杳の耳に飛び込んできた。掴みどころのないクールな雰囲気を持つ義爛と、愛らしいジョージラビットとの関連性が見い出せず、杳が茫然としている間に歌は途切れた。

 

『悪かったね。……で、ご予算はいかほど?』

 

 杳はごくりと唾を飲み込んだ。たとえば銃一丁がいくらするのか、正直言って見当も付かない。ここは有金を全部出すしかないだろう。杳が正直にお年玉貯金の全額を告げると、義爛は余程ツボに入ったのか大きく吹き出した。

 

『OKOK。じゃあ残りは()()()()だな。今すぐあんたのところへ届けるよ』

「ありがとうございます」

 

 電話を切ると、杳は大きく溜息を零した。出世払いという言葉が、背中に重く圧し掛かる。この作戦が終わったら、自分は多額の借金に追われて生活する事になるのだろうか。暗い覚悟を固める杳に、夢路と嘘田が声を掛けようとしたその時、アパートのインターホンが鳴った。

 

「お届け物でーす」

 

 間延びした男の声が、薄っぺらい金属のドア越しに聴こえてくる。家主が宅配注文したものが届いたのかと、杳は夢路を見た。しかし、彼女は不思議そうな表情で首を横に振る。まだ注文して数分も経っていないし、()()という事もないだろう。杳はドアの前に走り寄ると、のぞき穴から外の様子を伺った。――外の廊下に、配達員らしき男が小箱を抱えて立っている。杳は鍵を外し、ドアを開いた。

 

 だが、外には()()()()()()()。慌てて廊下に出て周囲を見渡すが、人の気配はない。一体全体、どういう事だ?杳は狐につままれたような気分になり、首を傾げながらドアを閉じ、振り返ろうとしたその時――

 

「……ッ!」

 

 ――狭い三和土にドンと置かれた、特大のジェラルミンケースに蹴躓いて、転びそうになった。こんなものはついさっきまで()()()()()()だ。夢路と嘘田も揃って色めき立ち、こちらへやってくる。ケースの隅には”Good Luck”と書かれた納品書付カードが貼り付けられていた。カードに印字されたウサギのマークと保留中に流れていたジョージラビットの主題歌がリンクする。――間違いない、義爛からのお届け物だ。

 

 杳は手を擦り合わせると、頑丈そうな蝶番を解除して蓋を開けた。中にはぎっしりと武器が詰まっていた。携行用の通信機器、スタングレネード、催涙手榴弾、照明弾、ロケットランチャー、捕縛用ワイヤーロープ、多機能ゴーグル付きマスク、大量のゴム弾にビーンバッグ弾、それらを装填する銃火器。

 

 義爛が選別したこれらの武器は――恐らく外壁を崩す目的で入れてくれたのだろうロケットランチャーを除けば――全て()()()()のものである事に、杳は気付いた。夢路は杳の肩越しにこわごわと武器を眺めつつ、震える声を絞り出す。

 

「ママゾンより早くない?」

「うん」

 

 カードをポケットに突っ込み、杳は箱の中に、武器に関する取扱説明書がないかを探した。――ヒーローが個性を使うのに対し、警察は銃火器を使い、敵を制圧する。雄英と警察との合同訓練の際、職場体験の一環で銃火器に触れた事はあるが、実際に使うのは初めてだった。だがケースの底をさらっても、説明書の類は見当たらない。

 

「あれ?取説(とりせつ)は?」

「そんなもんはない。俺が教えてやる」

 

 嘘田はハンドガンを一丁掴み取り、まじまじと見つめた。一目見ただけで、粗悪品ではないと分かる。パーツの隙間にカーボンの蓄積はなく、グリスアップも済んでいる。こんな最高の状態の武器を――このヒーロー飽和社会をものともせず――数分足らずで大量に調達できる人物を、嘘田は一人しか知らなかった。あの佐伯ですら一度しか取引を許されなかった、伝説の大物ブローカー。

 

「……おったまげた。本物かよ」

 

 杳はケースの奥から金属製の棒を取り出した。三段式特殊警棒だ。力強く振ると、警棒は七十センチほどに伸びた。グリップ部分に刻印された警察の日章(にっしょう)を見れば、それが盗品だと分かる。杳の心は見る間にかき曇った。吐いた息が白く凍り、棒の表面に薄く霜が張る。それをゴシゴシと乱暴に擦って落とすと、杳は武器の数を確認し始めた。――やはり、多い。予備はいらないだろうマスクだけでも六、七個はある。武器に至っては、三人では到底使い切れないほどの量が入っていた。

 

「量が多いね。多めに入れといてくれたのかな」

「あんたそんな、八百屋のオマケじゃないんだか……」

 

 夢路の言葉が不意に途切れ、訝しんだ杳は顔を上げた。ちょうど向かい側に座っていた夢路は魂が抜けたように茫然とした表情で、杳――正確には()()()()を眺めている。刹那、背後の空気がわずかに動いたような気配がして、杳は重たいケースを支点にして側転し、距離を取った。そして、息を飲んだ。

 

 ――ついさっきまで自分がいた空間に、()()()が蠢いている。黒霧のワープゲートだ。

 

 それをくぐってやってきたのは、敵連合の一味である、マグネとスピナーだった。彼らを吐き出した後、靄は見る間に薄れて、消えていく。”何故、敵連合がここに?”などと考える余裕はなかった。杳の体の一番深い場所から、何とも形容しがたい()()()()()が噴き上がってくる。迷わず戦闘体勢を取った杳と嘘田を尻目に、マグネはおどけて肩を竦めてみせた。

 

「人手がいるんでしょ?私たちも混ぜてよ」

「……帰れ!敵連合の助けは頼んでない!」

「やぁん怖ぁい」

 

 マグネは乙女チックな動作で自身の肩をかき抱き、しなを創った。――義爛が裏切ったんだと、杳はぎりっと唇を噛み締めた。しかし実際のところ、彼は裏切ってなどいなかった。()()()()()()()()()()だ。義爛が敵連合のアジトへ寄って酒を嗜んでいる時、杳から電話が掛かってきた。人手がいると言ったから、彼がここ最近で一番評価している敵連合に協力を要請した。弔はそれを承諾し、戦況に適した人材を派遣した。それだけだ。スピナーは鱗だらけの腕を組むと、バンダナ越しに鋭い目を杳に向ける。

 

「俺達は弔の命令で加勢に来た。”コーヒーとドーナツの礼がしたい”と言えば伝わるか?」

「なんだコーヒーとドーナツって……()()か?」

「そんなのいらない!今すぐ帰れ!」

 

 嘘田は、()()()杳が弔と肩を並べてコーヒーとドーナツを嗜んでいた事実を知らない。心の古傷を無理矢理穿り返されたような気がして、杳は強い眩暈がした。まさに身から出た錆、自分の浅はかな行動のせいだ。このままでは壊理を救うどころではない、皆が危険に晒される。杳が床に転がったスタングレネードを拾い上げたその時――ぐしゃぐしゃに顔を歪めた夢路が駆け出し、なんとマグネに抱き着いた。

 

「健ちゃん!」

「夢……あんたってホントバカ」

 

 今にもピンを引き抜こうとした杳の手が止まる。――夢路の言っていた”プロデューサーを殺した幼馴染”というのは、()()()だったのだ。緊張が一気に解けたのか、夢路は小さな子供のように肩を震わせて泣いていた。その背中を優しく撫でながら、マグネは冷え切った眼差しを杳に向ける。

 

「私たちは()()()()()()()のよ。人救けなんて興味もないし。でもさ、冷静に考えてみなさいよ。……ジジイにガキンチョ、か弱い乙女の三人ぽっちでどうやって戦うわけ?」

「……ッ」

 

 返す言葉もなく、杳は拳を握り締めて力なく俯いた。――チャンスは()()()()。やり直しも効かない。必ず成功させなければならない。そのためには、少しでも多くの戦力がいる。最初の選択肢(ルート)は一つだった。だが、”敵連合と手を取る”という新たな選択肢が出現してしまった。

 

 今や”泣く子も黙る”と世間から評されるほどのネームドヴィラン・敵連合の援軍はまるで麻薬のように、極限状態に置かれた杳の心を魅了する。しかしそれは同時に、本格的に闇の世界に足を踏み入れるという事も意味していた。壊理を救い出せたとして、自分は二度と元の世界には戻れないだろう。

 

 兄を想うが故に敵連合を憎み切れず、真っ向から否定する事もできない杳の心に、弔は狡猾に漬け入っていた。――自分の未来と壊理の命。杳の心の中で、この二つが天秤が掛けられた。そしてそれは、迷いなく()()の方に傾いた。

 

 

 

 

 その時、ドアのインターホンが鳴り響いた。チャイムが壊れかけているのか、その音色は不安定に揺れて、尻すぼみのように消えていく。――義爛の宅配物はもう届いている。この台風の最中、客人が来るはずもない。ヒーローか、死穢八斎會か。杳達は色めき立ち、静かに戦闘体勢を取った。杳は代表してドアの前に行くと、のぞき穴から外の様子を確認する。廊下にはレインコートを着込んだ男が一人、立っていた。男はフードを外し、顔に付いた水気を無造作に払う。

 

「ソーガさん」

 

 驚きに満ちた声が、杳の口から漏れた。――()()だ。きっと心配になり、様子を見に来てくれたのだろう。杳は一旦目を閉じると、大きく深呼吸した。今更、誤魔化す事などできない。

 

 ドアを開けると、爪牙はまず鋭い目で杳を見た。それからその目はゆっくりと動いて、部屋の片隅に積まれた武器の山と、敵連合の面々を視認する。彼らがゆったりと寛いでいる様子から、彼は()()()()を把握したようだった。咎めるような視線が杳に突き刺さる。

 

「てめェ、自分が何してるのか分かってんのか」

「……はい」

 

 爪牙の激昂を、杳は真正面から受け止めた。爪牙は血が滲むほどに唇を噛み締めると、小さな胸倉を掴み上げる。山嵐(やまあらし)のように尖った彼の心の内側は、今や()()で荒れ狂っていた。――義爛が杳を相手にする事はないだろうという、彼の予想は外れた。そして事態は()()()()()に進んでいる。

 

 けれども、交番か巡回中のヒーローに助けを求めれば、まだ間に合うかもしれない。航一の弟子を犯罪者にさせたくはなかった。元々、様子を見に来たという名目で凶行を止めるつもりだったのだ。思わず駆け寄ろうとする夢路と嘘田の肩を、マグネがグッと押さえて止める。

 

()()()()のつもりか?お前一人の問題じゃねーんだぞ。家族や学校にも迷惑がかかる。あいつらがお前の言う事を素直に聴くわけねぇだろが」

 

 協力するとか耳障りの良い言葉を言ってこの少女を懐柔しているのだろうが、相手は賢しらな敵だ。隙を見て少女を攫うに決まっている。それでなくとも、敵連合と杳が共にいるところを誰かに見られたりでもしたら、()()()()()()だ。苛烈な言葉の連なりが、杳の心を炙っていく。

 

 確かに自棄になっているかもしれないと、杳は思った。雄英で一体何を学んできたんだと思うくらいに、愚かな選択ばかりをしている。あろうことか兄の(かたき)である敵連合と手を組み、皆を巻き込んで犯罪を冒そうとしているのだ。どんな大義名分があろうが、ルールから逸脱すれば自分は(ヴィラン)になる。この作戦が終了すると同時に、自分の未来も終わるだろう。

 

 ――だけど、ここで諦めたら、全てが終わってしまう気がした。今までに得てきたものが、無駄になってしまう気がした。

 

 心の一番深いところで、もどかしいほどに鈍く輝いている何かを、杳はそっと包み込む。形もなく、言葉も持たぬもの。だが、数え切れぬほど多くの人々を命を賭した戦いに導いてきた。それは、杳の心に芽生えたばかりの()()だった。

 

「ソーガさん。信じてください」

 

 杳は静かな声でそう言うと、臆する事なく爪牙を見上げた。自分を信じろという意味か、それとも敵連合の連中を信じろという意味か、あるいは両方か。言葉が少ないにも程があるだろうと、爪牙は鼻白んだ。だが、それは――ポップを救おうと決意した――在りし日の航一に()()()()()()

 

 ぼんやりとした灰色の瞳と、鋭い鳶色の瞳が交錯する。やがて、爪牙は興が削がれたように手を放した。よろけながらも地面に降り立つ杳を見下ろし、彼はぶっきらぼうな声音で言い放った。

 

「なら、必ず成功させろ。俺も協力してやる」

「……!」

 

 煙を封じ込めたような杳の瞳が見る間に輝き、澄んだ銀色になっていく。居ても立っても居られなくなった爪牙は髪を乱暴にかき毟りながら、床にどっかりと腰かけた。

 

「別にお前のためじゃない。灰廻夫婦のためだ」

「もう、素直じゃないんだから♪」

「あァ?!」

 

 不器用な台詞をマグネがからかうと、爪牙は脊髄反射で突っかかった。嘘田は遠慮がちに咳払いをし、自身が書き記したというお手製の間取り図をテーブルに広げた。――人材も武器も揃った。後は作戦を立てるだけだ。杳は覗き込んで、建物の構造の複雑さに舌を巻いた。まるで迷路のように入り組んでいる。フェイクの扉や階段、地上のマンホールに繋がっている秘密の通路もあった。

 

「いかにも悪いコトしてますって感じね」

 

 マグネがせせら笑うと、嘘田は小さく鼻を鳴らした。入り口から壊理の部屋までの経路を、杳は指先で辿った。少女は屋敷の一番深い場所にある部屋に閉じ込められていて、そこに到達するにはかなりの時間が掛かりそうだった。これほどの長距離を個性もなく、誰にも気づかれずに向かう事は不可能だ。覚悟はしていたものの、やはり戦闘は避けられないだろう。夢路はごくりと唾を飲んで、こわごわと嘘田を見る。

 

「敵さんはどれくらいいるの?」

「四、五十程は優にいる。だが、そいつらはさして問題じゃない。厄介なのは……()()()の連中だ」

「八斎衆?」

 

 壁を向いて弾倉にゴム弾を詰めていたスピナーが、振り返らずに問い掛ける。――嘘田曰く、八斎衆とは治崎直属の実働部隊の事であるらしい。仏教の教えに(なぞら)えて、全員で八名。いずれも非常に高い戦闘能力を持ち、治崎との個人的な主従関係により所属している。嘘田は口元に重ねた両手を当ててみせた。

 

「連中は皆、マスクか覆面を付けてる。それが目印だ。側近の入中と玄野も、同じもんを付けてる」

「その十人が()()()か」

「そういうことになる」

 

 ハンドガンにサイレンサーを装着しながら、スピナーはぼそりと呟いた。続いて、嘘田が中ボス全員の個性内容を告げる。揃いも揃って厄介な個性ばかりだと、杳は頭を抱えた。特に警戒すべきなのは入中の”擬態”だ。話によると、治崎は個性を一時的に強化させる()()()()()なるものも作成しているらしい。以前、他組との抗争があった時、入中は屋敷の一部に擬態し、敵をかく乱したのだと言う。最悪、戦闘が長引いて無個性ガスの効果が切れた場合も加味し、杳は懸命に作戦を考えた。

 

「三つのチームに別れるのはどうかな。壊理ちゃんを救い出す本隊と、証拠品を集める別動隊①、敵の注意を惹く別動隊②」

 

 杳が思案した作戦は以下の通りだ。――秘密の通路を使い、本隊と別動隊①が屋敷内に忍び込み、無個性ガスのアンプルを破壊。気体が蔓延した事を確認したと同時に、別動隊①が電気室のブレーカーを落とす。同時に別動隊②が小型爆弾とロケットランチャーを屋敷の敷地内に放ち、”敵が正面から突入してきた”と敵を錯覚、かく乱させる。

 

 幸い、外は凄まじい台風模様だし、敷地の周りは分厚くて高い壁に囲まれている。雷鳴に乗じて攻撃すれば、住民達が気付くまでに多少の時間は稼げるはずだ。その隙に本隊が壊理を救い出し、全員で脱出。別動隊①②が殿(しんがり)を務め、最寄りの交番かヒーロー事務所に駆け込む。

 

「……で、ベストはあの十人と治崎に無個性弾を撃ち込んでおく事だと思う。正直、個性ありきの状態で逃げ切れる気がしない」

「なるほどな。だが、弾は八つしかねぇぞ」

「そこは選別しよう」

「なんでもっと持ってこなかったのよクソジジイ」

「うるっせぇな!これでも精一杯だったんだよ」

 

 いがみ合うマグネと嘘田、彼らをいさめる夢路を差し置いて、杳は思考を続けた。

 

 ――もし全てが上手くいき、壊理が無事、警察に保護されたとして、果たして彼女は()()()過ごせるのだろうか。警察の追跡を逃げ延びた死穢八斎會の残党が、再び彼女を攫おうとするかもしれない。”事象を巻き戻す”個性というのは、杳もついぞ聞いた事がなかった。だが、それが非常に稀有な力だというのは理解できる。噂を聞きつけた新たな敵が、彼女に目を付ける可能性だってあるだろう。

 

「無事に救け出せたとして、壊理ちゃんは大丈夫なのかな」

 

 何気なく呟いた杳の言葉に応えたのは、室内にいる人々ではなく――彼女の()()()()()()()だった。聞き覚えのある高く愛らしい声が、彼女の鼓膜に突き刺さる。

 

『それなら心配ないわ。壊理ちゃんの身柄は()()()()で保護します』




死穢八斎會の話を復習しようとマンガ借りたら四巻分もあった…長すぎるわい…( ;∀;)


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No.49 誰かの為に

※1/18追記:杳が治崎について言及するシーン書き足しました。


『それなら心配ないわ。壊理ちゃんの身柄はアメリカで保護します』

「……()()()()?」

 

 愛らしい女性の声が、自身の腹部ら辺で聴こえる。――ラブラバの声だ。杳は慌ててパーカーの前ポケットを探り、スマートフォンを取り出した。なんと画面上にラブラバが映っていて、こちらを見つめて”Hi”と手を振っている。

 

 杳はラブラバやジェントルの連絡先を知らない。なのに何故、ラブラバが自分とLive通話が出来ていて――そして更に追及するならば――壊理の話も知っているのか。杳は頭の中が質問で溢れすぎて、黙りこくってしまった。よく見ると、ラブラバは自室のテーブルに腰かけているようだった。周りには無数の電子媒体が設置されている。恐らくその一つと繋がっているのだろう。ラブラバは恥ずかしそうに頬に両手を当てた後、もじもじとしながらこう言った。

 

「ごめんなさい。びっくりしたわよね?……実は貴方が心配で、時々()()()()()()()して様子を見ていたの」

「え?」

「ストーカーじゃないの」

「それで今回の件を聞いて……」

 

 マグネのツッコミを右から左へ聞き流し、ラブラバは憂わしげな表情を浮かべた。――ラブラバは人一倍愛情深い性格で、自分達の恩人である杳の動向をずっと気にかけていた。”お互いの状況が一段落したら帰国して、杳に会いに行こう”とはジェントルと話していたが、その前に彼女の身に何かあっては大変だからだ。目の前で攫われかけた前例もある。そのため、ジェントルがHeat Campに勤しんでいる間、ラブラバは杳のスマホにハッキングして定期的に近況を傍受していた。そして、壊理の件を知ったのだ。

 

 ラブラバは優しい目で笑いかけた。あの時に淹れてくれたハーブティーの香りを思い出し、杳の目尻に涙が滲む。

 

「私達にも協力させて」

「ダメだよ!ジェントルはヒーローになったんでしょ?ラブラバは支えてあげなくちゃ」

 

 このタイミングで話しかけてきた事から鑑みて、ラブラバの言葉は予想できなかったものではなかった。だが、杳は激しく(かぶり)を振る。――二人はずっと暗い場所で、息を潜めて生きてきた。ジェントルがアメリカでプロヒーローになったという吉報は、真からのReinメッセージで知っている。やっと念願叶い、新しい人生のスタートを切ったのだ。邪魔をしたくなかった。けれども、ラブラバは小首を傾げて、悪戯っぽく笑ってみせる。

 

「ええ。もちろん支えるわ。貴方を救けるヒーロー(ジェントル)をね」

「ラブラバ……」

 

 ラブラバの言葉に迷いはなかった。後に続く言葉もなく、杳は抑え切れなくなった涙を零れ落とす。それは二人に対する感謝の涙であり、彼らを犯罪に巻き込んでしまった事に対する後悔の涙でもあった。二人の援助を振り切れるほど杳の精神は熟達しておらず、また戦力も潤沢ではない。俯いて泣きべそをかく杳の顔を掬い上げるように覗き込んで、ラブラバは明るい声で言葉を続けた。

 

「ジェントルは夜更け頃に着くはずよ。……それに、作戦にオペレーターは必要でしょ?」

 

 杳はぐしゃぐしゃになった顔でぎこちなく笑い、白い息を吐きながら小さく頷いた。――仲間が増える毎に、杳の精神的重圧も高まっていく。今や彼女の肩には、支えきれないほど大勢の人々の命運がかかっていた。

 

 

 

 

 ラブラバは早速、死穢八斎會と関係の深い建築会社を特定し、社内システムにハッキングして本拠地の構造図を盗み出した。実際に屋敷内を歩き回って測量した嘘田の地図と照らし合わせ、改めて作戦内容を話し合う。議論が一段落つき、ふと腕時計を見ると、もう時刻は18時を過ぎていた。――作戦は夜明け前に始まる。正直食欲はなかったが、皆の腹ごしらえは必要だ。杳はリュックを背負って立ち上がった。

 

「食料買ってくるよ」

「私も行くわ」

「いいよ。一人で大丈夫。ご飯炊いといてくれない?」

 

 杳は夢路の助けをやんわりと拒絶した。外は台風の真っ只中、風に煽られた看板や他の何かにぶつかり、怪我でもしたら大変だ。――”怪我でもしたら”。杳は虚ろな声で呟いた。今宵の作戦は夢路も同行する。台風の怪我が可愛く思えるほどの大傷を負うかもしれない。心の奥底で蠢き出したマイナスな思考を、杳はなんとか振り払った。夢路が傘代わりにとくれた、やたらにファンシーなデザインのレインコートを着ると、玄関のドアノブに手を掛ける。

 

「お酒もお願ぁい」

「いや未成年だから」

 

 マグネのおねだりを軽くいなし、杳はドアを開け――た途端に凄まじい豪風と雨が吹き込んできて、思わずギュッと目を閉じる。周囲の世界は濃灰色に染め上げられ、激しい水流の中をもがきながら進んでいるようだった。幸いな事にコンビニは歩いて数分足らずの場所にある。入口の前でさっと水気を落とすと、杳は店内に入った。

 

「らっしゃーせー」

 

 杳はフードを下げると、店員の気のない挨拶に小さく礼をして会計カゴを取った。飲料や缶詰、惣菜などの類をカゴの中に放り込んでいく。大量に食料を買っても、この台風という状況下では、うっかり()()()()準備を忘れたためだと思われ、後々不審がられる事はないだろう。――”不審がられる”。まるで(ヴィラン)の考え方だと、杳は苦笑いした。だが、すぐにその笑みは消える。そう、敵なのだ。自分のしようとしている事は。ふとデザートコーナーを通りすがった時、苺のタルトを見つけ、杳は吸い寄せられるようにその前に立った。

 

「……」

 

 もし兄の魂が黒霧の中じゃなく天国にあって、今の自分の姿を見ていたとしたら、一体どう思うだろう。杳は想像しようとして、()()()()()()。苺のタルトの隣にあるチョコレートケーキを取り、レジに向かう。

 

 ――だが、もし(ヴィラン)と認定されても、兄の(かたき)と手を組んでも、全てを失っても、壊理を救いたかった。その想いだけが杳の心の底でエンジンとなって唸りを上げ、今に至るまで彼女を我武者羅に前進させ続けていた。

 

(貴方は誇りに思うべきだ。彼に選ばれた事を)

 

 かつて黒霧の放った言葉が、自身の心に突き刺さる。あんな恐ろしい事を言えるまでに、兄は変貌してしまった。壊理にはそうなってほしくない。自分も夢路と同じで、救えなかった家族の無念を晴らそうとしているだけなのかもしれなかった。”救えなかった”、その語句が杳の心にまたもやブレーキを掛ける。――本当に救えないの?未練たらしく叫び始めた内なる声を無視し、杳は吸入器を取り出して薬を服用した。ずっしりと重たいレジ袋を持って、俯いたまま歩き出す。

 

 

 

 

 帰る道すがら、ふと視線の先に()()()()()を認め、杳はレジ袋を持ち直した。このまま行けばぶつかってしまう。迂回するために進行方向を変えようとしたその時――

 

「こんな台風模様に外出とは感心しないな」

 

 ――静かな男の声が、杳の耳朶を打った。杳は顔を上げ、思わず()()()()()。白のシンプルなレインコートをきっちり着込んだ長身の男が、こちらを見つめている。緑色の髪に走る金色のメッシュ、眼鏡の奥に光る鋭い眼差し――この界隈を守るヒーロー”ナイトアイ”だ。心臓が早鐘を打ち始める。それを何とか押さえつけ、杳は愛想笑いをした。

 

「はい。食べもの買うの忘れちゃって。これから帰るとこです」

「ならば送って行こう。君は確か、友人宅に滞在していたな」

 

 杳は眉をひそめて、ナイトアイを仰ぎ見た。彼の表情は依然として冷たく無表情なままだ。だが、その目は異様に鋭かった。まるでサーチライトのように力強い光を帯びている。周囲を吹き荒れる雨風の音が急速に遠のいて、自身の心音だけが体内でドクンドクンと響き始めた。

 

「何故そんな事を知っている?と言いたげな顔だ」

 

 ナイトアイは眼鏡を指で軽く持ち上げた後、フードの位置を微調整した。

 

「白雲杳。君の保護網は解除されたわけじゃない、()()()()()だけだ。スマートフォンに内臓されたGPSによって、君の位置情報や大まかな近況はHN(ヒーローネットワーク)で常時共有されている」

「そ、そうなんですか。びっくりした」

 

 杳は必死でその場を取り繕おうとした。――神野事件から凡そ一月余りが経過している現在、保護網は緩められ、許可を取れば外出できるようになり、スマートフォンなどの電子媒体の使用も許可されたという事は知っていた。だが、()()()()()は初耳だ。主な手続きを取っていたのは両親だったので、気を遣って言わなかったのかもしれない。知っていたなら、もっと慎重に動いたのに。そう思ったが、今となってはどうしようもできない。

 

 兄の演技をしていた頃の感覚を思い出せ。杳は自身を叱咤した。ちょっと驚いた振りをして肩を竦めてみせた後、杳はナイトアイの隣を通り過ぎようとする。

 

「お気遣いありがとうございます。でも……すぐ近くなので大丈夫です」

「私が付いていくと困るのか?まるで誰かを匿っているような反応だ」

 

 杳の歩みがピタリと止まる。気持ちを顔には出さなかったが、彼女の体は正直に表現した。手足が細かく震え出す。恐る恐る見上げたナイトアイの目は、かつてエンデヴァーが自身に向けたものと同じ()()()を内包していた。

 

「我々は秘密裏に指定敵団体”死穢八斎會”を違法薬物の製造・販売容疑で追っていた。本日昼頃、私の相棒(サイドキック)が……公園で君と胡蝶夢路、そして構成員の嘘田要助が会話をし、胡蝶の自宅に入っていくのを確認した」

 

 公園のベンチでタコ焼きを食べていた青髪の女性を思い出し、杳の全身から冷たい汗がぶわっと吹き出した。今や心臓は口から飛び出しそうなほどに激しく脈打っている。――あのアパートには()()()がいる。今乗り込まれたら言い逃れはできない。杳は覚悟を決め、ナイトアイの前に立った。

 

「ナイトアイ。全て話します。私が首謀者です。だから、皆に手を出さないで。……死穢八斎會の本拠地に少女が捕えられています。どうかあの子を救けてください」

 

 ナイトアイは杳の自白を聞いても動揺する素振りを見せなかった。寸分の狂いもなく整えられた眉をわずかにひそめ、彼は冷たい声でこう言った。

 

「君は指定敵の()()を間に受けたのか?嘘田の個性は”嘘吐き”だ」

「……え?」

 

 杳はポカンと口を開け、間抜けな声を出した。嵐のように吹き荒れていた脳内が、漂白剤をぶちまけられたように()()()になる。――嘘田の個性が嘘吐き?そんな事実、知らなかった。だが、どんな個性にしろ、彼は治崎の手でそれを奪われているはずだ。

 

「でも、”個性を奪われた”って」

「それも嘘だ」

 

 ナイトアイは目頭を押さえると、溜息を零した。――最近、この界隈で若者が行方不明になる事件が相次いでいる。恐らく八斎戒の差し金だろうと踏んでいたが、まさかこの子が餌食になるとは。敵とは賢しい存在である事を、ベテランヒーローであるナイトアイは誰よりも知っていた。息をするように嘘を吐き、誰かを苦しめる。でまかせのエピソードを語り、自分を哀れに見せて警戒心を解く手法は、敵の十八番だ。

 

「夢の個性で見たんです。夢路の個性で……ッ!」

「胡蝶夢路は長年、躁うつ病で治療を受けている。精神安定剤と睡眠導入剤を常用中だ。個性で見た夢かどうかも定かではない。……君は、少女が()()()()()()だと証明できるのか?」

(だけど、これは夢なのよ。警察もヒーローも信じてくれない。……妄想だって。弟の時も)

 

 それは、今まで信じてきたものを根底から覆そうとする言葉だった。かつて聞いた夢路の嘆きが、耳内で虚ろに反響する。杳は思わずよろめいて、レジ袋を地面に落とした。――ダメだ、絶望するな!杳は弱気になりかけた自身を叱咤した。ナイトアイは嘘田が嘘を吐いていて、夢路の夢は妄想だと言う。だけど、()()二人を信じる。壊理ちゃんを救けるんだ。

 

「胡蝶の家まで同行してもらおう。君達を精査する。もしその少女が実在するなら、()()()、我々が必ず救出する」

「それじゃ遅いんです、()()()じゃなきゃ!あの子は明日から三日間、酷い目に遭わされ続けるんです!」

 

 杳は形振り構わずにナイトアイにしがみ付き、切なる声で訴えた。鋭利な刃のような瞳と、涙に濡れた瞳がぶつかり合う。極限状態に置かれた事で、いつになく精神が研ぎ澄まされた杳は――ナイトアイの目の奥に――わずかな()()()()()が滲んでいるのを感じ取った。ナイトアイは抵抗する素振りも見せず、冷静に言い放つ。

 

「我々はオールマイトにはなれない。回りくどいと思うだろうが、確実にその子を救うために分析と予測を重ね、慎重に動く必要がある」

 

 杳は茫然として立ち竦んだ。――ナイトアイの言葉は尤もだ。しかし、理解できても納得はできなかった。変わり果てた兄の姿が閉じた瞼の裏に浮かび、杳は静かに頭を振った。もう二度と、あんな想いは。指先が真っ白になるほど強く両の拳を握りしめると、杳は今にも怒りで爆発しそうな声で唸った。

 

「あなたが動かないなら()()行きます。この場を見逃してください」

「愚かな考えだ。君は(ヴィラン)になるつもりか?」

「壊理ちゃんを救うためです。だけど、あなたは違う。()()()()()()だけだ!」

 

 杳の悲痛な叫びは空中で鋭い矢に変わり、ナイトアイの心臓に突き立った。思わず凝視した少女の瞳に、()()()()()()が映り込む。――オール・フォー・ワンとの決闘で深刻な後遺症を負っても尚、ヒーローで在り続けようとしたオールマイトの背中に、ナイトアイは涙ながらに言葉を叩きつけた。

 

(私はあなたの為になりたくて、ここにいるんだ!オールマイト!)

(世の中の為に、私はここにいるべきじゃないんだ。ナイトアイ)

 

 五年間、身を粉にして尽くしてきた相棒(サイドキック)の懇願は、オールマイトの足を止めるに至らなかった。ナイトアイにとって、オールマイトは全てだった。だからこそ、オールマイトがいずれ迎えるだろう()()()()を肉眼で見る事など堪えられなかった。

 

 杳の言葉は、ナイトアイの心的外傷(トラウマ)を無情に穿り返した。ナイトアイは一度目を閉じて古傷の痛みを振り払った後、厳格な眼差しを杳に向ける。若者の未来を閉ざすわけにはいかない。ナイトアイは右耳に付けたインカムに軽く触れた。

 

「安い挑発には乗らない。……バブルガール。1分後に突入を」

 

 ――夢路のアパートに相棒を待機させている!杳は決死の覚悟で、ナイトアイに()()()()()()。だが、彼の方が数枚上手だった。完全に雲化する前に杳の体を地面に叩きつけ、個性を強制解除した後、難なく組み伏せる。そして何事もなかったかのように、相棒との会話を続行した。突然揉み合っているような物音が耳に飛び込んできて、アパートの付近に潜んでいるバブルガールは思わず警戒した声を発する。

 

『サー?大丈夫ですか?』

「問題ない。……白雲杳。君を個性不正使用、及び公務執行妨害で逮捕する」

「……いっ……ッ!」

 

 杳は泥だらけの地面に組み伏せられたまま、ピクリとも動く事ができなかった。ナイトアイが四肢の関節を押さえているために激痛が生じ、雲化する事ができないのだ。雨と泥で塗れた顔を、悔悟の涙が伝った。――私のせいだ。全部、無駄になる。皆が罪に問われてしまう。

 

 対するナイトアイは、杳が()()()()抵抗した事を疑問に思った。プロヒーロー相手に個性を使って挑むなんて浅はかな行為を――いくら興奮状態にあったとしても――ヒーロー科の雄英生がするとは思えない。まさか、この奥にもっと()()()()()が潜んでいるのでは。敵連合の面々が脳裏に浮かび、ナイトアイは少女の顎を掴むと、素早く自分に向けた。

 

「すまないが、事は急を要する。君の全てを見せてもらおう」

 

 見る間にナイトアイの眼球が黒く染まり、不可思議な文様が浮かぶ。――彼の個性は”予知”、1時間の間その人物の取りうる行動を先に"見る"事ができる。カメラのフィルムのような形式で、ナイトアイの視界に、杳の未来が一コマずつ映し出されていく。数時間後の未来に、杳と共に戦う敵連合の一味を目の当たりにし、ナイトアイはぎりっと唇を噛み締めた。やはり不安は的中した。だが、その先にある未来を見る内に、彼の思考はどんどん混乱の最中に巻き込まれてゆき、やがてあるワンシーンで完全に停止した。

 

 ――オールマイトが生きている。()()()()姿()を取り戻し、自分の傍らに立って、いつものように笑っている。

 

 どうあっても変えられなかった絶望が、明るい色に塗り替えられている。積年の想いが怒涛のように込み上げて来て、あっという間に脳内を埋め尽くし、集中力を削がれたナイトアイは予知を解除した。杳はかすかな違和感を覚えたものの、何が起きているのかまでは分かっていなかった。数分前に服用したばかりの鎮静剤が、知覚能力を鈍らせていたためだ。

 

「君は何だ?」

 

 ナイトアイの言葉は杳に対する問い掛けではなく、独白に近いものだった。呆気に取られたままの杳を置き去り、ナイトアイはインカムの通信を再開する。

 

「バブルガール。突入は中止だ。私の勘違いだった」

「え……?」

 

 最早何がどうなっているのか分からないと言わんばかりの杳を助け起こすと、ナイトアイは地面に落ちたレジ袋を拾い上げ、渡した。杳は小さく礼をしながら受け取り、訝しげにナイトアイを仰ぎ見る。――”全てを見る”と彼は言った。一体、彼は自分の()を見たのだろう。そして何故、自分を見逃してくれたのだろう。ナイトアイはインカムの通信を切ると、再びこちらを見下ろした。

 

「君の作戦、私も微力ながら援助しよう。だが、今回限りだ。この先、どれほど多くの人々を救おうと、私は君をヒーローとは認めない。認めてはならない。……これは、私への戒めだ」

 

 ――ヒーローとしての矜持よりも、オールマイトの命を選んだ自分自身への。

 

 ナイトアイの瞳は、冷たくも優しくもない、複雑な感情を宿した光を帯びていた。ただ訳もなく、杳の瞳から涙が流れた。――悲しいのか嬉しいのか、安心しているのか、自分の感情が分からない。最早何が正しいのか、間違っているのかも分からなかった。今まで生きてきた家を追い出され、宛もなく一人で歩いているような気分だった。

 

 とても悲しくて、寂しくて、けれど前に進まなければならなかった。激しい雨風に弄られ、よろめきながらも、杳はあるべき場所に向けて歩き続ける。その後ろ姿が商店街の角を曲がり、完全に見えなくなった直後、ナイトアイは静かに口を開いた。

 

()()()()

「あららバレてた」

 

 飄々とした声と共に、路地裏の暗がりからホークスが姿を現した。剛翼を傘代わりにして雨風を器用に防いでいるため、コスチュームは一切濡れていない。人を食ったような笑みを浮かべると、ホークスはナイトアイに向け、力強くサムズアップしてみせた。

 

「さすがはナイトa――」

「茶番はいい。君は彼女の何を知っている?」

 

 ――途端にホークスの軽薄な笑みは消え去り、目の奥に猛禽類を思わせる鋭さが燃え上がった。

 

「いーや、まだ何も。泳がせてる最中で。逆に何か知ってます?」

 

 

 

 

 杳は黙ってアパートに帰り着いた。濡れ鼠となった杳を見るや否や、夢路は浴室からバスタオルを取ってきて、小さな子供にするように杳の体を拭き始めた。

 

「どうしたのよ。泥だらけじゃない」

「ちょっと転んじゃった」

「ドジねぇ」

 

 ナイトアイと出くわした事を、杳は誰にも言わないと決めていた。言ったとして、余計な混乱を招くだけだ。

 

 杳が買い物に行っている間に、夢路は塩をまぶしたおむすびを大量に作ってくれていた。杳がおむすびに齧りついていると、夢路のスマートフォンが震え出した。夢路は口をもごもごさせながらロックを解除し、素っ頓狂な声を上げる。

 

 夢路のスマートフォンには町内会の回覧板代わりのアプリが入っていて、それに”台風接近に伴う近隣住民避難のお知らせ”という通知が更新されたらしい。杳がそっとカーテンを開いて外の様子を伺うと、住民達がヒーロー達の先導に従って、公民館へ避難しているところだった。

 

(君の作戦、私も微力ながら援助しよう)

 

 ナイトアイの言葉が、杳の心に跳ね返ってくる。――ヒーローとしての矜持を度外視して、自分を救けてくれた彼の為にも、ますます負けるわけにはいかなかった。

 

 だが、杳の悲壮な感情はそう長く続かなかった。いよいよ夢路の住む地区に辿り着いたジェントルがアパートとの距離を縮める度、ラブラバが画面越しに黄色い歓声を上げるからだ。皆が迷惑そうな顔で装備の点検をしていると、ついにインターホンが鳴った。卒倒しそうなほどの勢いでラブラバが叫ぶ。

 

『きゃあああっ!ジェントルが来たわ!私も一緒に連れてって!』

「分かったから落ち着いて……」

 

 杳はスマートフォンを手に取って立ち上がり、玄関のドアを開けた。そして口をあんぐりと開けたまま、茫然とした。

 

 ――そこには()()()()()()()とした男性が立っていた。英国紳士風のスマートな雰囲気はそのままに、服の上からでも分かるほどの筋肉が育っている。精神的にも肉体的にも、一回りほど大きくなった印象だった。ジェントルが渡米してから三週間も経っていない。本場アメリカのヒーロー訓練はそんな短期間で、これほど結果にコミットするのかと、杳は舌を巻いた。

 

 画面越しの恋人に熱烈な投げキッスを送った後、ジェントルは杳を真っ直ぐに見つめた。杳はおずおずと口を開いた。新天地で幸せに暮らしていた二人を戦いに巻き込んでしまった事を、謝りたかったのだ。けれども杳が何かを言う前に、ジェントルは優しく微笑んで、彼女の肩にポンと手を置いた。

 

「杳。大丈夫だ。必ず成功させよう」

「……うん」

 

 太陽のように力強いその言葉とスマイルは、杳の心中に渦巻くネガティブな感情を瞬く間に融かしていった。幼子のように泣きじゃくる杳、その様子をからかうマグネを見ながら、嘘田は静かに思いを馳せた。

 

 ――独りで戦い、死ぬのだと思っていた。だが、今はこんなに大勢の仲間がいる。全て()()()()のおかげだ。どこにでもいる平凡な子供のように思えるが、不思議な事に皆、彼女の下に集っている。義爛が何故、彼女と商談をしたのか、嘘田には分かったような気がした。じんわりと滲んだ目元の涙を拭っていると、スピナーが引き攣った声を出した。

 

「おいジジイ……まだ何も始まってねーぞ」

「うるせーな耄碌(もうろく)しちまったんだよ、年のせいでなぁ!」

 

 根っからの()()()である嘘田は、素直にお礼を言う事ができなかった。嘘田は鼻をすすりながらもスピナーに言い返し、ジェントルと軽い挨拶をした後、杳の頭を撫でてからアパートを出た。

 

 週に一度、嘘田は昼から夜頃まで外出するという習慣を作っている。遊びのためではなく、()()()()()のためだ。今更、掃除夫である自身を気にかける人間などいないと思うが、念には念を入れ、彼はいつも通りに酒とつまみを買った後、屋敷の門をくぐった。自分の(ねぐら)である庭先のバラック小屋に足を向けると――庭の片隅に一株だけ、ポツンと花開いた――紫陽花(あじさい)が目に入った。激しい雨風に負けじと、小さな花の群れが身を寄せ合っている。嘘田の脳裏に、()()()()の記憶が蘇った。

 

 

 

 

 今を遡る事、数時間前。嘘田達はローテーブルを囲んで、作戦の再考に勤しんでいた。ジェントルとラブラバという新たな仲間が参入した事で、選択肢も増える。皆であれこれと作戦内容を話し合っていたその時、杳がおもむろに口を開いた。

 

(治崎さんって人、逮捕されるのかな)

(そりゃそうでしょ。証拠品と壊理ちゃん、サツに突き出すんだから)

 

 マグネはおどけて肩を竦めた。それから首を掻っ切るジェスチャーをして、舌をペロリと出してみせる。

 

(良くて終身刑、悪けりゃ死刑になるでしょうね。こんだけ悪いコトしてんだし。……私も人の事言えないけど)

(……そっか)

 

 杳は膝を抱えて俯いた。しばらくの間、何かに想いを馳せているかのように目を閉じて黙り込んでいたが、やがてゆっくりと瞼を持ち上げ、悲しそうな声でポツリと呟いた。

 

()()()だね)

(ちょっとあんた、ガン萎えなんだけど。そういうのやめてくれない?)

(ご、ごめん。別にその、かばうとかそんなんじゃないんだけど)

 

 マグネがサングラス越しに放った非難の眼差しに思わず首を竦めつつ、杳は浮かない顔で言葉を続けた。

 

(大切な人の為に一生懸命頑張ってたはずなのにな、と思って)

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 風に弄られて、淡い紫色に輝く花弁が飛んでくる。嘘田は空いた手を伸ばしてそれを掴み取った。杳の言葉を聞いたからと言って、彼の決心が揺らぐ事はない。治崎はあまりにもやり過ぎた。然るべき場所へ連れてゆき、報いを受けさせるしか道はない。今更、後に引く事はできないのだ。しかし――

 

(大切な人の為に一生懸命頑張ってたはずなのに)

(返したいだけだ)

 

 ――かすかな花の香りと記憶の声が、一陣の風と共に、嘘田の心を撫でていった。佐伯と一緒に帰ってきた時の治崎の幼い顔がふと思い起こされ、嘘田は耐え忍ぶように唇を噛むと、花弁を握り込んだ。刹那、吹き荒ぶ雨風に紛れて、ゾッとするほど()()()()が彼の背中に突き刺さる。

 

「遅かったな。何してた?」

 

 嘘田は静かに振り返った。広々とした玄関の屋根下に、()()が影のようにひっそりと立って、こちらを睨んでいた。仄暗い闇の中、金色の目だけが不気味に浮かんでいる。嘘田は卑屈な笑みを口元に浮かべると、まとわりつくような猫撫で声でこう言った。

 

「なぁ、治崎。()()()があるんだ」

 

 

 

 

 翌日、午前3時10分前。杳は浅い睡眠から目覚めると、枕元に置いた自身のリュックを引き寄せた。サイドポケットからスマートフォンを取り出し、一ヶ月振りにラジオアプリをタップする。チューニングを”HERO FM”に合わせ、イヤフォンを耳に突っ込んだ。毎週金曜日――つまり今日――プレゼント・マイクは深夜1時から早朝5時まで”PresentMICのぷちゃへんざレディオ”というラジオをノンストップで放送している。

 

 ――怖気づいているのかもしれないと、杳は思った。平和な頃は聴こうと思わなかったマイクの声が、有事の際に恋しくなるなんて。自分勝手も甚だしい。杳は自分がますます嫌になって、布団の中で縮こまった。やがて波長が合ったのか、懐かしい陽気な声が耳に飛び込んでくる。杳の予想通り、この時間帯は”PresentMICのお悩み相談室”のコーナーを開いているようだった。彼女は息を潜めて、()()()を待った。

 

『……マイリスナー・ホワイトクラウドからのお便りだ』

 

 マイクが杳のラジオネームを読み上げた途端、彼女の目から熱くて塩辛い涙が溢れ出た。

 

『”間違う私を許してくれますか?”』

 

 杳が送ったメッセージは――ありきたりな挨拶も何もかもをすっ飛ばした――怪文書めいたものだった。ほとんどのリスナーはラジオ前で茫然としている事だろう。さしものマイクもその意味を解読するのに時間を要したのか、しばらく黙り込んでいた。やがて彼は、静かに燃える炎のような声を絞り出す。

 

『許すぜ、マイリスナー。他の誰が許さなくたって、俺が許す。たとえ間違いだろーが……()()()()にすることなら、それは間違いじゃない』

 

 ――その言葉で、杳の心はどれほどに救われただろう。マイクに()()()()しまったのかもしれないと、杳は思った。マイクは杳がしようとしている事を知らないし、弱きを救う模範的なヒーローだから。だけど、やっぱり私にとってあなたはヒーローだ。こんなどうしようもない生徒で、ファンでごめんなさい。でも、今日だけは甘えさせてください。杳は布団の中で一頻(ひとしき)り泣いた後、立ち上がった。

 

 リュックの中身を出していると、着替えに混じって――かつて航一が自分にくれた――オールマイトのなりきりパーカーが入っている事に気付いた。急いで準備をしたので、箪笥の奥にしまっていたのを一緒に掴んで、持って来てしまったらしい。

 

 杳はリュックの底にタオルを敷き、捕縛用ワイヤーロープ、マスク、スタングレネードと催涙手榴弾を仕舞い込んだ。ハーフズボンのベルトにキーホルダーを取り付け、ベレッタとアサルトライフルをホルスターで肩から吊るす。そしてその上から、鮮やかな三原色のパーカーを羽織った。所々に傷やほつれのあるパーカーの生地をなぞり、それから腰元で揺れるキーホルダーを握り締め、杳は心の中で()()に謝った。

 

 ――約束を守れなくて、ごめんなさい。でも、今日だけでも、あなた達に誇れるヒーローになれるように頑張るから。必ず壊理ちゃんを救け出す。全員で生きて帰るんだ。杳は決意と覚悟を秘めた眼差しで、戦支度を終えた仲間達を見渡した。

 

 アパートのドアを開けると、凄まじい雨風が吹き込んだ。もう時刻は朝の4時を示しているのに、分厚い積乱雲が空を覆っているせいで、真夜中のように暗いままだ。恐ろしい咆哮を上げて雷が閃き、夢路は怖気づいたように一歩引いた。しかし、ごくりと唾を飲んで、震える声で囁く。

 

「行きましょう」

 

 ――そうして、ならず者部隊(ローグフォース)は出撃した。




いつもこの拙いSSを読んでくださり、そして感想や評価、誤字訂正してくださり、本当に本当にありがとうございます( ;∀;)
今年もマイペースに書いていきますので、気長にお見守りいただけましたら幸いです(*´ω`)


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No.50 急襲、混戦

※作中に暴力表現・残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 午前4時。死穢八斎會の本拠地、地上で行われている宴の喧騒も届かない――奥深くに秘められた一室にて。治崎は塵一つない黒張りのソファに浅く身を沈め、テーブル上の薄型ディスプレイを覗き込んだ。大きな電子画面は、ここから程近い場所に設置された監視カメラの情報を傍受している。雨風が吹き荒れているために画質は良くないが、三つの人影が身を寄せ合うようにして進んでいる光景が映し出されていた。

 

 治崎の後方には側近の玄野が影のように控えており、ソファの肘掛けには小さな人形(パペット)に擬態した入中がちょこんと腰掛けていた。そして治崎の足元には――嘘田が(ひざまず)き、卑屈な笑みを浮かべている。治崎は白い手袋で覆われた手を顎に添えると、三つの中でも一際小さな人影をじっと眺め、目を細めた。

 

「……雄英生もここまで堕ちたか」

 

 

 

 

 時は()()()()に遡る。本拠地に帰り着いた嘘田は、雨でびしょ濡れになった体を拭いもせず、治崎の傍に這い寄ると、猫撫で声を繰り出した。

 

(治崎、良い話があるんだ。健康そうなガキ、欲しがってたろ?ちょうど良いのが釣れたんだ)

(……よく知っているな)

(もちろんだ。お前の困ってることなら何でも知ってる)

 

 薬の実験台を求め、治崎は度々部下に命じて、素行の悪い若者――つまり行方不明になってもさほど問題にはならなさそうな者を調べさせ、攫わせていた。だが、総じてそういう人間は酒や煙草、薬に溺れ、思うような臨床結果は出ず、また長持ちしない。健康で優れた個性の素体を、治崎はずっと探し求めていた。

 

 だが、治崎がただの掃除夫である嘘田にその事を言うはずもない。恐らく自身の周辺を犬のように嗅ぎ回ったのだろう。もう嘘田のその顔に、かつて”組の鉄砲玉”と恐れられた――()()()()()はなかった。治崎自身が消しておいて、なんとも身勝手な話ではあるが。治崎が向ける侮蔑の視線を気にも留めず、嘘田はますます卑屈な笑みを浮かべた。

 

(あの夢路って奴がサツに垂れ込む前に、(そそのか)せてよかったよ。なぁ、治崎。いくらお前でもガキの夢までは()()()()()もんな)

 

 嘘田は恩着せがましい声でそう言うと、治崎にいそいそと近づいた。嘘田の纏っている衣服は垢に塗れて穴だらけで、汚れた雑巾のような悪臭が漂っていた。治崎の目の色が侮蔑から汚物を見るようなものへ変わる。シャツに隠された皮膚には大量の蕁麻疹が浮き出ていた。

 

(俺は組を守った。だから、解放してくれよ。俺はもう年だし、これ以上犬小屋で暮らすのはうんざりだ。楽になりたい)

 

 治崎は了承する前に玄野を呼び寄せた。公的な監視システムをハッキングし、街灯に取り付けられた監視カメラの映像を傍受させる。嘘田の告発した場所近辺を調べると、(くだん)の少女は当然のように見つかった。屋敷のある方角へ向かい、暴風雨の中を歩いている。

 

 だが、()()()雄英生が敵の本拠地へのこのこ来るものか?疑り深い治崎はさらなる確信を得るため――()()を呼び寄せ、個性を使わせた。音本の個性は”真実吐き”、問い掛けた相手に強制的に本心を語らせる事ができる。音本はマスクの奥にある目を光らせると、嘘田を睨んだ。

 

(お前が言った事に嘘偽りはないな?)

(ないよ。本当のことさ)

 

 しばらくの沈黙の後、音本は治崎に向け、(しっか)りと頷いた。そうして、嘘田の潔白は証明された。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 そして、()()。玄野が盗んできた雄英高校の学生データをざっと速読しながら、末期の病人だと治崎は思った。ヒーロー志望の学生にドラァグクイーン、ゴロツキ――()()()()()で奇襲をかけるなど、常軌を逸している。玄野は矢印型になった髪を一房耳に掛け、治崎を見た。

 

「……で、どうしやす?」

「連れて来い。生憎、待ってやれるほど暇じゃないんでな。大仕事が控えてる」

 

 玄野はスマートフォンを取り出すと、活瓶と宝生に舎弟を数人連れて攫って来るようにと命じた。――腐っても、相手は()()()()()の雄英生だ。戦闘の心得はある。ゴロツキの素性、個性も不明だ。もし戦闘が長引いて、()()()()()に目を付けられでもしたら事だ。

 

 治崎は金色の瞳を細め、杳の写真を眺めた。紫煙を集めて創ったような髪と瞳に、愛嬌のある顔立ちをしている。”白雲杳”、不思議と聞き覚えのある名前だ。――ああ、神野事件の被害者かと治崎は思い出し、指の関節を鳴らした。精神を病んで引き篭もっていると聞いていたが、ここまで病んでしまったとは。だが、このまま素直に家に帰らせるのは勿体ない。健康そうな素体、しかも雄英生だ。さぞかし長持ちする実験体になるだろう。大仕事が控えている自身にとっては、まさに()()()()だった。

 

 それにしても、胡蝶夢路の個性は少々厄介だ。治崎の酷薄な眼差しが、今度は杳から夢路へ移った。夢路は殺そう。そして壊理にはもう二度と夢を見ないよう、強い睡眠薬を与えておかなければならない。彼女は組の要なのだ。不意に湧き上がった嘘田の下品な笑い声が、治崎の思考の邪魔をする。

 

「なぁ、治崎。言う通りだったろ?金をくれ。それで俺はここを出て行く。足を洗う」

「……ああ。そうだったな」

 

 治崎は全く感情の籠もっていない声で、そう呟いた。――もう治崎に、嘘田を慕う気持ちはなかった。今まで嘘田を生かしていたのは、謀反を企てる者に対しての見せしめと、そしてほんの少しだけ嘘田に対する情があったからだ。だが、もうあの嫌らしい笑顔を見た瞬間、そのわずかに残った情も消え去った。治崎は未知の生物を見るような目で、自身の足元に這いつくばる嘘田を眺めた。

 

()()()()にしてやる」

「……ッ、やめろ!離せ!」

 

 治崎の目配せを受け取った音本が、嘘田を素早く羽交い絞めにした。恐怖の感情を露わにして、口角泡を吹きながら暴れ出す嘘田を尻目に、治崎は白い手袋を脱いだ。

 

 ――元から金など渡すつもりはなかった。たとえ一円足りとも、治崎のものではない。組を拡大させる為の大切な資金だ。組の矜持を破り――堅気の命さえ差し出すような――堕ちた人間に渡す金など有りはしなかった。我が身可愛さに人を裏切る者は、たとえ望み通り逃がしたとして、ほとぼりが冷めれば同じ事を繰り返す。

 

 まだ自身が幼かった頃、侠客としての心得を口を酸っぱくして言い含めていた、在りし日の嘘田の姿を、治崎はふと思い出した。()()()()()()が治崎を襲う。それは彼の心の片鱗だった。数えきれないほど多くの仲間や人々を殺し、その返り血で真っ赤に染まった心の――まだ染まり切っていない部分が鈍い輝きを放っている。あの頃によく感じていたむず痒さの片鱗が頭をもたげ、治崎は素早くそれを叩き潰した。

 

「失望したよ。あんたが堅気に手を出すなんてな。仲間を裏切るような奴はいらん」

「やめろおおおっ!死にたくない!!」

 

 嘘田は骨の髄まで震え上がりながらも絶叫し、無茶苦茶に暴れ回った。やがて抵抗も空しく、治崎の指先が嘘田の頬に触れる。

 

 ――しかし、()()()()()()()()()()

 

「……?」

 

 治崎は怪訝そうに目を細めた。――治崎は完璧主義者だ。だが、同時に彼はまだ若かった。決して一枚岩ではない”ならず者集団”をまとめ上げ、いくつもの事業を立ち上げ、敵対する組織と渡り合う――という多忙な日々を送る間に、()()()()()が生じるのも仕方のない事と言えた。多忙になればなるほど、人は作業効率を重視し、立ち止まって思考する事を厭う。

 

 どこからともなく陰湿な笑い声が聴こえてきた。嘘田の口からだ。ぽっかりと落ち窪んだ穴のような目に――思わず怖気を震うような――()()()()がぎっしりと詰まっている。感情の機微に疎いはずの治崎ですら、思わず全身が総毛立った。

 

 刹那、ディスプレイに表示された映像が水面のように揺れ、斜めに線がいくつも入ったかと思うと、杳達の姿が()()()()()()。誰もいなくなった道の上に宝生達が雪崩れ込み、不思議そうにキョロキョロと周囲を見渡している。宝生が耳に触れるような仕草をしたと同時に、玄野のスマートフォンが鳴った。活瓶が狂ったように周囲を駆け回り、今にも泣きそうな声で叫ぶ。

 

『カワイコちゃんどこぉ?!』

『どこにもいません!』

「今すぐ戻れッ!」

 

 玄野がスマートフォン越しにがなり立てた。だが、宝生は返事をする間もなく、慌しく通話を切った。数瞬後、映像に巡回中らしきヒーローが映った。――ムカデのような外見を持つ、ナイトアイの相棒(サイドキック)”センチピーダー”だ。

 

 死穢八斎會は()()()だ。この台風の最中、群れているだけで疑いの目を向けられる。センチピーダーは活瓶が持っていた()()()を見咎め、たくましいその腕を掴んだ。宝生が止める前に血気盛んな活瓶は振り払い、激しい口論になる。センチピーダーは強靭な自身の体を使って活瓶の体を拘束しつつ、耳元のインカムで応援を呼んだ。

 

 痛々しい沈黙が、室内を包み込む。この場で一番焦っているのは、()()だった。彼は治崎への忠誠を尽くす事に命を賭けている。この不測の事態は、治崎の信頼が大いに揺らぐ事を意味していた。

 

 ――個性が効いていた時、嘘田は嘘を吐いていなかったはずだ。音本は血走った目で、嘘田を睨みつけた。個性もとっくの昔に奪われている。”私は間違っていない”、”失敗していない”、狂ったように何度も自身に言い聞かせながら、音本は嘘田の胸倉を掴み上げ、感情任せに怒鳴り散らした。

 

「何故だ!お前は嘘を吐いていなかった!」

 

 嘘田は抵抗する素振りを見せなかった。ただ地獄の釜底のような目を音本に向け、虚ろに笑う。音本の全身を戦慄が駆け抜け、彼は思わず手を離した。

 

 

 

 

 今から()()()()、夢路のアパートにて。作戦会議中に休憩を取っていた杳は、嘘田の提案を聞くや否や、飲んでいた麦茶を盛大に吹き出した。びしゃびしゃになった口元を拭う事すら忘れ、杳は灰色の瞳をまん丸に見開いて、嘘田を見上げる。

 

()()()()()()……って、なんで?)

(治崎は必ず俺を疑う。今から帰ったんじゃ()()()()からな)

 

 嘘田はキッチンから布巾を取って来て、杳の汚したテーブル周りを拭き取りながら言葉を続けた。

 

(その時に敢えてばらす。”俺の話に(たぶら)かされた学生が、壊理を救いに行ってる”とな。作戦の全てや敵連合(おまえたち)の事は伏せる。治崎は恐らく人員を一部、割くだろう。それで少しは楽に戦えるはずだ)

(私がヒーローの巡回ルートに近い場所に、ダミー映像を流すわ)

 

 嘘田の意図を理解したラブラバは、そう言うが早いか、目にも留まらぬ速さでキーボードを叩き始めた。――だが、杳の心は不安で一杯だった。治崎の実行部隊だと言う”鉄砲衆”には()()()()()()()個性を持つ者もいると聞いた。戦力が減るのは非常に有難いが、この賭けは(いささ)か危険すぎる。杳の気持ちを代弁するように、マグネはリップクリームを塗る手を止め、咎めるような口調で言い放った。

 

(隠し通せるの?ウソ発見器みたいな奴もいるんでしょ?)

(……嘘吐くのに個性なんざいらねえよ)

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 個性と性癖は、時として密接に関係しあうケースがある。嘘田という魂の器に”嘘吐き”という個性が染みついていたのか、音本の個性を捻じ伏せるほどに怨嗟と執念が強かったのか――詳細は分からない。だが、兎にも角にも、彼は()()()()()()()のだ。入中が感情の昂るあまり、人型に戻った。激しい怒りで全身を滾らせながら、嘘田に掴み掛かる。

 

「てめぇ嘘田ァ!裏切りやがったな!」

「入中。お前なら分かってくれるだろ?」

 

 元々組長・佐伯の舎弟であった入中と嘘田は、治崎の謀反を皮切りに、正反対の道を歩き始めた。最初は二人共同じ道を進んでいたはずなのに、今やその行く末は悲しいほどに異なっていた。嘘田は薄ら笑いを浮かべ、かつての兄弟を見上げる。お前が外道に堕ちてでも、治崎の野望を果たそうとしているように――

 

「堅気に手ェ出しても、どんな姿に成り果てても……成し遂げたい事があったんだ」

 

 その一方、治崎は冷静な思考能力を取り戻していた。無個性弾を撃たれていない――という事は恐らく、この事態を引き起こしたのは()()()()だ。効果が強すぎるために抗体が創れず、やむなく廃棄処分にした事を覚えている。

 

 犬畜生にも劣ると見くびっていた存在から、まさかこんな仕打ちを受けるとは。激しい憎悪に満ちた目で、治崎は嘘田を睨んだ。だが、嘘田はそれを平然と受け止めた。自分達は最早外道に堕ち、引き返す道は無い。ならばもうこれ以上、罪を冒さぬように、共に地獄へ落ちる算段だった。

 

「積年の恨み、思い知れ」

「廻。私がやる」

 

 入中も治崎も、嘘田の狂気に呑まれている。二人と深い縁がある代わりに、個性も力も持たない嘘田(こいつ)はただの()である可能性が高い。一刻も早く拷問し、口を割らせなければ。玄野はそう結論を出し、袖口に仕込んだホルスターからナイフを引き抜いた――瞬間、周囲は()()()()()()()

 

 ――雷獣と化した杳が、送電線に電流を放ち、瞬間的に電圧を低下させ停電させたのだ。

 

 刹那、天井の排気ダクトを換気扇ごと踏み抜いて、ジェントルと爪牙が降ってきた。二人共、暗視機能付きの多機能マスクを付けているため、視界は良好だ。爪牙は入中に急接近すると、その首元に狙いすました手刀を浴びせた。

 

「……ッ!」

 

 爪牙は意識を失った入中の手首に銃口を押し当てて、無個性弾を撃ち込んだ。弾は特殊な構造になっており、通常の弾丸のように貫通はせず、内部に仕込まれた針が飛び出して刺さり、体内に薬を注入するという仕組みになっている。爪牙は弾を抜き取ると耳元で軽く振り、中が空っぽになっている事を確認した。マスクに内臓された通信機器に触れ、ラブラバに報告する。

 

「入中、着弾確認」

『了解。まもなく本隊突入。瞬停回復まで残り50秒。ガス有効時間は残り29分』

 

 ラブラバの冷静な声が、ソーガの昂った精神を冷ましていく。――その頃、ジェントルは嘘田に暗視ゴーグルを投げ渡し、治崎と玄野、そして音本と対峙していた。暗闇に乗じて治崎を攻撃したが、彼はまるで夜目の効く猫のようにしなやかに動いて、ジェントルの拳を避けた。ジェントルは反射的に距離を取り、攻撃のタイミングを見計らう事とした。

 

 電子処理された粒子の荒い視界の中で、治崎の金色の瞳だけが不気味に光っている。暗闇の中、敵から攻撃を受けているというのに、治崎達は取り乱す素振りすら見せていなかった。影のように気配を潜め、こちらの出方を伺っている。ジェントルはごくりと唾を飲んだ。見たところ、二十代前半の若者だというのに――彼らの放つ、この()()はなんだ?元より覚悟はしていたが、やはり一筋縄ではいかないようだ。ジェントルは迎撃の構えを取りつつ、ラブラバと交信した。

 

「失敗。交戦開始」

 

 

 

 

「了解」

 

 マンホールの穴を通り抜け、霧状から人型に戻ると、杳は下水道をひた走りながら応えた。――”失敗”というのは、治崎を無個性弾で狙撃する事に失敗したという意味だ。下水道はトンネルのような構造になっていて、中央には濁った水でできた川が流れていた。多機能マスクを付けていなければ、下水の発する悪臭や有毒ガスを吸っているところだ。

 

 数百メートルの距離を一気に駆け抜け、杳はマグネと夢路に合流した。嘘田の教えてくれた秘密の抜け道は、手掘りのトンネルだった。随分と昔に、構成員が創ったらしい。歪に曲がりくねった道の先は土塗りの壁になっていて、その先は本拠地の物置の床に繋がっているとの事。マグネは手鏡をしまうと、多機能マスクを被って立ち上がった。

 

「ま、()()()()って事よね。んじゃ行くわよおおおっ!」

 

 刹那、マグネは拳を振り上げると、土壁に凄まじいパンチを浴びせた。物置の床ごと壁を破壊し、マグネは屋敷内に躍り出る。杳と夢路も彼女に続いて、素早く床に降り立った。

 

 ――今や屋敷の中は、男達の怒号や慌しく走り回る足音でひしめいていた。一寸先も見えない闇の中に放り出され、おまけに個性を使えない事が判明し、皆混乱している様子だった。酔っている事もあり、その動きは緩慢だ。

 

 次の瞬間、()()()()()()()()が杳達の鼓膜を揺るがし、屋敷全体がビリビリと震えた。

 

「おいやべえ!武器庫か?!」

 

 勘の良い構成員が、引き攣った声で叫んだ。――スピナーの放ったロケットランチャーが蔵を装った武器庫を貫き、内部の爆薬を誘爆させたのだ。死人が出なかったのは、外が台風模様だったのと、人々が皆、蔵から離れた屋内の宴会場にいたためだった。

 

 茫然とする男達を待っている暇はない。マグネは拳を振り回し、杳はアサルトライフルを連射し、屋敷の奥に続く道を切り開いていった。無個性の状態で大勢の敵を相手取るには、杳の身体能力はまだ力不足だった。

 

 非戦闘員である夢路を守りながら、防戦に徹する杳とは異なり――マグネは水を得た魚のように生き生きと動いていた。元から彼女は肉体派なのだ。腕っぷしの強そうな構成員を二人まとめて締め上げた直後、雄叫びを上げて突っ込んできた男の首をひょいと掴む。そのまま――いつものように――首の骨を折って殺しかけたその時、杳が鬼の形相で叫んだ。

 

()()()!」

「……はいはい」

 

 マグネは興冷めしたように溜息を吐くと、両手をパッと離して男を解放した。失神して崩れ落ちる構成員は、酒の入ったグラスを持っていた。床に叩きつけられた事でグラスが割れ、中に入っていた氷とウイスキーが床にぶちまけられる。何気なくそれを眺めていたマグネは、ふと()()()の出来事を思い出した。

 

 

 

 

 アパートを出る直前、杳はマグネとスピナーを呼び止め、真剣な眼差しを向けてこう言った。

 

(個性を使わない。殺さない。死なない。これを約束して欲しい)

(ハァ?なんでだよ)

 

 スピナーが憮然とした表情で尋ねると、杳はパーカーの裾を縋るように握り締めながら、二人との距離をさらに詰めた。

 

(無個性の状態なら、個性不正使用には当たらない。もし逮捕されても、罪を軽くできる)

(あんた、まだそんな事言ってんの?)

 

 マグネは思わず呆れた声を上げた。――今まで自分達がどれほど多くの人々を傷つけ、殺してきたか、知っているだろうに。もう自分達の全身は、血と怨嗟でくまなく塗れているのだ。それに敵の社会は殺すか殺されるかの二択、不殺なんて生温い考えが通用するのは、ヒーローが跋扈(ばっこ)する一部の社会だけだ。マグネは煩わしそうに手を振った後、腕を組んだ。

 

(イヤよ。あんた達はともかく……あたし達なんて今更、罪重ねたところで痛くも痒くもないわ)

(ダメだよ。お願い)

 

 スピナーは捨てられた子犬のように瞳を潤ませる杳を見て、露骨に頬を赤らめていた。相当ウブな性質らしい。だが、同性であるマグネはそんな事に心動かされたりはしない。ただ冷え切った眼差しで、杳を見下ろした。――レプリカのオールマイトパーカーを羽織って盗品の銃をぶら下げた、不均衡(アンバランス)な姿。まるで今にも破裂しそうなほど膨らんだ風船のように、()()()だった。谷底に落ちまいと、崖っぷちで必死に踏ん張っているような顔をしている。

 

 ――その様を見てマグネは理解した。彼女は()()()()()()()()のだと。

 

 

 

 

 時はさらに()()()()()。マグネとスピナーをワープゲートに載せて送り出す直前、弔はこう命じた。

 

(この戦いが終わったら、連れて帰ってこい)

 

 ――()()連れ帰るのか、訊かずともマグネには分かった。だからこそ、納得がいかなかった。いくらヒーロー科とは言っても、彼らの行う戦闘訓練など()()()()同然、実際の戦闘はもっと卑怯で残酷だ。そこでぬくぬくと育った子供の作戦など、最初から上手くいかないに決まっている。

 

 無論、マグネ達は命を賭してまで彼女を助ける義理はない。いよいよ雲行きが怪しくなってきたら、彼女を連れて撤退する。そうしたら、彼女はもう二度と立ち直れなくなってしまうだろう。全てを犠牲にしても救いたかった者すら救えず、帰る場所も失った子供の行き着く先は、(ヴィラン)しかない。

 

(デビュー戦ってわけ?随分と大仰な舞台ね)

(そんなちゃちなものじゃない)

 

 マグネが肩を竦めながら嫌味を言うと、弔はグラスを揺らして中の氷をからりと鳴らし、小さく笑った。

 

()()()()()()だよ)

 

 優しく掠れたその声は、あの不気味な金属面の声と良く似ていた。――やっぱり同じ穴の貉だわとマグネは鼻白んだ。トガやトゥワイスのように、彼女に対して特別な思い入れがあるわけではない。だが、彼女の行く末を何とも思わないほどに無関心でもなかった。ワープゲートに全身が呑まれる寸前、マグネはサングラス越しに鋭い目で弔を睨む。

 

(あんたって……ひどい男よね)

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 そして、時は()()()()()。マグネは軽く首を振って感傷の残滓を振り払うと、杳に掴み掛かろうとした構成員の襟首を掴んだ。背後に回り込もうとしていた男達に向け、勢い良く投げつける。

 

 ――雷が送電線に落ち、瞬時電圧低下が発生した場合、電力会社は電気を正常に送るために落雷した送電線を一旦切り離し、約1分後に再度送電を行う。電力会社の再送電の信号を感知したラブラバは、鋭い声で叫んだ。

 

『あと15秒で電力回復!皆、マスクを外して!』

 

 そして世界は再び、()()()()()()()。宴会場から転がり出てきた構成員達が――角砂糖に群がる蟻の群れのように――杳達をざっと取り囲む。皆、酒を飲んでいたのか、顔は赤らんで足取りは若干ふらついていた。

 

 杳は素早く周囲を見回し、八斎衆の証である――ペストマスクを付けた者がいない事を確認する。だが、如何せん数が多すぎる。このまま包囲されたら、押し負けてしまう。消耗戦に持ち込まれたらこちらの負けだ。杳は迷わず先陣を切り、鮮やかなサマーソルトキックを放って一番体格の大きな男を昏倒させると、腹の底から叫んだ。

 

「退くな!囲まれるぞ!押し返せ!」

「わーかったから落ち着きなさい」

 

 狂犬のように誰彼構わず威嚇する杳を、マグネが呆れたように笑いながら宥め、小さな頭をわしわしと撫でた。――数多の死線を超えてきたマグネは、肩の力の抜き方を心得ているが、杳は最初からフルスロットル状態だった。壊理を救うためにも、負けるわけにはいかないのだ。無理にでも押し通る。十代半ばの少女が発したものとは思えない()()に押され、構成員達は思わずたじろいだ。

 

 そして男達は少し冷静になり、気付いた。――今、自分達の前にいるのは()()()の一味だと。

 

「敵連合だ!何しに来た?国盗り合戦か?」

 

 構成員の誰かが発したその声は、恐怖と()()が入り混じった奇妙なものだった。彼らは一様に浮足立ち、好き勝手にざわめいている。杳は身を捩ってマグネの手から逃れると、毅然とした声で応えた。

 

「壊理ちゃんを救けに来ました!」

 

 ――その時、構成員達の脳裏に()()()()が浮かんだ。

 

 現在、組内部は組長派と若頭派の二つの派閥に分かれている。しかし、二つに分かれているとは言っても、後者の数はごくわずかだ。組長の方針から外れた若頭の治崎の人望は乏しく、彼は人柄の代わりに()()で配下を支配している。つまりは皆、治崎に不満を持っているという事だ。

 

 そして、敵連合は今を時めく大物敵(ネームドヴィラン)だ。首魁である死柄木はあの伝説の巨悪の後継者だと囁かれている。彼らはいつも破天荒な作戦と圧倒的な力で、立ち塞がる敵を捻じ伏せてきた。その連中が喧嘩を仕掛けてきたという事は、もしかしたら治崎の命運はここまでかもしれない。敵連合は――その分、敵も多いが――自由な生き方に基づく組織だ。重箱の隅を突くように陰湿な性格の治崎が治める現状よりは、ずっとマシなはず。

 

 仁義と打算の間で構成員達は激しく惑い、やがて――()()()()()()()

 

「俺はお前らにつくぜ、敵連合!あいつにはうんざりしてたんだ!」

「んだテメー!治崎さん裏切るつもりかよ!」

「……え?」

 

 突然、目の前で始まった構成員同士の戦いに、杳は思わず呆気に取られて立ち竦んだ。意図したつもりは全くないが、虎の威を借る狐になった気分だった。治崎という男はよほど人望に欠けているらしい。ともあれ、劣勢だった戦況はこれで一気に持ち直した。互いに戦い合う男達の間を擦り抜け、杳達が屋敷の奥に向かって駆けていると――

 

「ッ?!」

 

 ――左側の壁が()()()()。瓦礫を煩わしそうに振り払いながら出てきたのは、屈強な体躯を持った男だった。丸太と見紛うほどの逞しい剛腕、嘘田から事前に聞いた情報と合致する。杳は彼が八斎衆の一人、()()であると確信した。シャチに似たデザインのマスクを付けており、その表情は分からない。ついさっき見かけた構成員達とは比べ物にならないほどに、異様な気迫を漂わせている。

 

 乱波は無造作に周囲を見渡した。そして目の前にいる三人のうち、杳と夢路を攻撃対象から外すと、マグネに掴み掛かった。マグネは難なく乱波の拳を受け止め、牽制する。二人が激しくぶつかり合った事で小さな衝撃波が生じ、杳と夢路の体勢はグラリと揺らいだ。

 

「強そうだなお前!俺と殺し合おう!」

「……なぁにあんた」

「おい乱波!一人で先走るな!」

 

 マグネがすこぶる鬱陶しそうな目線を乱波に注いでいると、乱波の空けた風穴をくぐって一人の男が現れた。落ち着いた雰囲気を纏った男で、和服に似合わぬ大きなペストマスクを付けている。恐らく八斎衆の一人、()()だろう。――天蓋は杳達を見逃してくれそうになかった。迷わず二人の前に立ち塞がると、拳を構えて腰を落とし、武術の構えを取る。杳は夢路を自らの後ろに隠し、リュックのサイドチャックを開けてスタングレネードを取り出した。

 

「ここから先は通さん。オーバーホール様のご下知だ」

「俺はステインの意志に沿う者だ」

 

 今にも杳がスタングレネードのピンを引き抜こうとした、その時――()()()()の声が後方から飛んできた。――組全体が瓦解しつつある今、人々の心をかく乱するのが目的の破壊工作は意味を成さない。手持ち無沙汰になったスピナーが応援に来てくれたのだ。スピナーと天蓋は何か通じるものがあったのか、ちょっと感じ入った目でお互いを見つめ合った。しばらくして視線を外すと、スピナーは杳に目配せした。

 

「先に行け」

「分かった。二人共、頑張って!」

「!」

 

 杳が何気なく発したその言葉に、マグネとスピナーは――自分でも戸惑うほどの――()()()()を示した。厳しい闇の世界では、日々生き残るために頑張り続ける事が当たり前だ。素直に応援されたのは、本当に久しぶりだった。知らず知らずのうちに吊り上がっていた口角をそのままに、二人は戦闘を開始する。

 

 

 

 

 一方、杳は夢路の手を引いて、誰もいない廊下をひた走っていた。だが、十メートルも行かないうちに、ガクンと腕が引っ張られてつんのめる。――敵襲か?急いで振り返ると、夢路が床にへたり込んでいた。

 

「ご、ごめんなさい。足が……動かないの」

 

 夢路の顔色は真っ青を通り越して、今や死人のようだった。極寒の地に放り込まれたかのように、全身がブルブルと震えている。戦闘で高揚していた杳の心は、罪悪感一色に塗りつぶされた。――夢路の反応は当然だ。杳達は戦闘経験がある。だが、彼女だけは争いとは無縁の()()()なのだ。その事を失念していたと、杳は血の味のする唇を噛んだ。ここを歩くだけでも怖かったに違いない。それでも彼女は勇気を振り絞り、付いて来てくれたのだ。

 

 杳は素早く周囲を見回し、敵がいない事を確認すると、夢路の前にしゃがみ込んだ。――正直言って、自分も怖い。だけど、あの子を救い出すと決めた。杳は人を安心するような力強い笑みを口元に浮かべてみせた。

 

「大丈夫だよ。夢路。必ず壊理ちゃんを救け出そう」

「杳……ッ?!」

 

 涙でぐしゃぐしゃになった夢路の顔が、杳を見上げるなり――()()()()()()

 

 刹那、ガシャンという耳障りな音が鼓膜一杯に鳴り響くと同時に、ガラスの破片が夢路の頭上に降り注ぐ。痺れるような激痛が後頭部を支配し、杳の視界がどろりとした赤色に染まった。血に混じってアルコール臭が鼻を突く。

 

 何が起きたのかを認識する前に、杳は行動を開始した。朦朧状態になった意識に活を入れ、夢路の上に覆い被さってガラス片から彼女を守る――と同時に首根っこを掴まれ、床に仰向けに引き倒された。金髪を長く伸ばした三白眼の男がニヤニヤと笑い、こちらを覗き込んでいる。

 

「へー。あんたが噂の雄英生?」

 

 男が片手に下げている()()()()()を見て、杳は”男が酒瓶で背後から自身を殴ったのだ”と理解した。――男はペストマスクを付けている。長く伸ばした金髪と鋭い目、八斎衆の一人、()()だろう。杳は素早く体勢を立て直すと、ハンドガンを引き抜いた。しかし、窃野はますます笑みを深めただけだった。その場から逃げる事もせず、動かない。逃げない事を杳は不気味に思ったものの、銃口と目は逸らさないまま、夢路に囁いた。

 

「夢路。先に行って」

「でも……」

「いいから!」

 

 夢路は涙を飲んで立ち上がり、転がるようにして走り出した。同時に、()()()()()()。おもむろに手を伸ばして銃口を掴むと、自身の頬に押し当て、もう片方の手を引き金に添える。――何をしているんだ?自殺行為とも思えるその奇行に、杳の全身を戦慄が駆け抜けた。

 

 この銃はあくまで()()だ。こんな至近距離で撃ってしまったら、たとえゴム弾でも重篤な怪我を負わせる可能性がある。窃野の指先に力が籠もった。このままでは本当に撃ってしまう。思わず銃から手を放した杳にずいと顔を近づけ、窃野は悪辣極まりない笑い声を上げた。

 

「なぁ。早く撃てよ雄英生。……撃てねーのか?」

 

 ――次の瞬間、杳のハンドガンは()()()()()()()()

 

「俺は撃てるぜ」

 

 そして窃野はためらいなく銃口を杳に向け、()()()()()()()。ゴム弾は至近距離になるほど、その威力を増す。凄まじい痛みが再び、杳の全身を襲った。一発目で嘔吐物をぶちまけ、二発目で全身が痙攣し、三発目で失神しかける。朦朧と仕掛ける意識を舌を強く噛む事で堪え、杳は必死に自身に言い聞かせた。

 

 ――まだ死ぬな!壊理ちゃんを救けてから死ね!杳は窃野が銃を撃った直後の反動に合わせて半身を捻り、左肘打ちを放った。窃野がハンドガンを取り落とした拍子に身を引いて起き上がり、彼のベルトに大振りのナイフが刺さっているのを視認して、夢中で引き抜く。そして立ち上がると同時に、その切っ先を向けた。

 

「ははは。刺してみろよ」

 

 だが、窃野は全く怯まない。むしろ両手を広げて、こちらに歩いてきた。――死ぬ事を恐れていない目、殺し合いを楽しんでいる目をしていた。何故そんな狂った目ができるのか、杳には理解出来なかった。戦闘において、無駄な思考は命取りだ。杳は一歩踏み込むと、ナイフの柄で窃野のこめかみを殴りつけた。窃野は唸り声を上げ、頭を押さえてよろめく。杳は今度は身を低く屈めると、ナイフを持った手を握り込んで、彼の鳩尾を打った。

 

 ――鳩尾は人間の急所だ。人体に効果的なダメージを与えられる反面、致命傷を与えてしまう危険性を秘めている。杳は雄英で学んだ通り、()()()()した。鳩尾にめり込んだ彼女の腕を、窃野がグッと掴む。

 

「ぜんっぜんダメだなァ!ヒーロー!」

 

 情けも容赦も全く入っていない、強烈な膝蹴りが杳の鳩尾にクリーンヒットした。内臓の形がひしゃげる感覚が、皮膚越しに分かった。――殺す戦いと殺さない戦いでは、戦闘時における危険性が全く異なっていた。激しい耳鳴りと朦朧とする意識のせいで、何も考えられない。胃液を吐いて崩れ落ちた杳の上に馬乗りになると、窃野は奪い取ったナイフを杳の心臓に突き立てようとした。杳は必死で窃野の両手首を掴み、それを止めようとした。

 

 個性を使う事ができれば、杳は窃野に勝てたかもしれなかった。無個性の状態では、個人の()()()()()()のみが浮き彫りとなる。約一ヶ月ほど戦闘訓練から身を退いていた杳と異なり、窃野は()()()()()だ。上背や体格も一回りほど違う。徐々にナイフの切っ先は、杳の体に近づいていった。パーカーを貫き、内部の皮膚と肉を裂いていく。――ナイフの先には、力強く脈打つ心臓があった。

 

 生命の危機に瀕した時、人はただ純粋に”生きたい”と願う。ヒーローの矜持すら忘れ、杳は泣き喚きながら夢中で暴れ回った。バタバタともがく足を押さえ付けると、窃野は頬を紅潮させ、舌なめずりをする。人を痛めつけて殺す事に()()()()()を感じているのだ。今や、完全に死の恐怖に呑まれてしまった杳の口から、不明瞭な叫びが迸った。

 

「ああああああっ!」

 

 ――刹那、何の前触れもなく()()()()()()。窃野は宙を舞うように一回転し、背中から床に叩きつけられた。

 

 すかさず黒いスーツに全身を包んだ男が窃野に馬乗りになり、固く握り締めた両の拳で執拗に殴り始める。杳は今、自分の見ている光景が信じられなかった。魂が抜けたように茫然とし、涙を拭って何度も瞬きして確認する。だが、間違いない。――()()()()()だ。あまりに激しい拳の応酬に気を失ったのか、窃野が動かなくなっても、トゥワイスは殴る手を止めなかった。

 

「テメー俺のダチになんつーことしやがる!死ね!生きろ!」

「ああ、もったいないのです!」

 

 チクリとした痛みを感じて思わず視線を下げると、至近距離に金髪の緩いお団子頭が見えた。()()だ。杳の胸元に口を付けて、溢れ出る血を旨そうに啜っている。――敵連合から送られた仲間はマグネとスピナーだけだったはず。何故、二人がここにいるのか、杳には皆目見当が付かなかった。疑問はそのまま言葉になり、口から零れ出ていった。

 

「な、んで……ここに、いるの?」

 

 するとトゥワイスは殴る手を止めて力強くサムズアップし、トガは血塗れの顔をにっこりと微笑ませて、元気な声をハミングさせた。

 

「ボランティアだ!」

「ボランティアです!」

 

 ”ボランティア”――杳は虚ろな声で繰り返した。ボランティアとは、個人の自発的意思に基づいた奉仕活動を指す。こんな命懸けで無謀過ぎる戦いに、()()()()()で来てくれたという事だ。二人の言葉や表情は()()からのものだと、杳の知覚能力は判断した。偽りを匂わせる不自然な感情は、欠片も見当たらない。

 

(世の中には色んな人がいるもんだねー)

 

 かつて航一が何気なく放った言葉が、摩耗した杳の心にじんわりと染み渡っていく。そして彼女は(ようや)く、()()()()

 

 ――この人達はただ人よりもかなり自由で、考え方が変わっているだけなのだ。多くの罪を犯した(ヴィラン)である事は変わらない。けれども同時に、命懸けで自分を救おうとしてくれるほど()()()()を持っている。

 

 兄を変えてしまったのはオール・フォー・ワンで、敵連合の人々じゃない。そんな簡単な事すら分からないほど、自分は憎しみに囚われていた。まだ気持ちの整理は完全にはつかないけれど、彼らに深く感謝もしている。好きと嫌い、憎しみと愛情が両立している。なんて滑稽な心の在り方なんだと、杳は自身に呆れた。やがて彼女の心に込み上げてきたのは――大粒の涙と、()()だった。

 

「……ぷふっ、あははははは!」

「オイオイ大丈夫か?ついにイカレちまったか?」

「杳ちゃん?」

 

 笑うと刺されたばかりの傷が激しく痛む。けれども、杳はけらけらと笑い続けた。そして心配そうにこちらへやって来たトゥワイスとトガを――両腕を伸ばしてギュッと抱き締めた。

 

「救けてくれてありがとう」

 

 ――それは、杳の心からの感謝の言葉だった。陽だまりの匂いと優しい温もりに包まれて、二人は束の間、言葉を失った。七色の輝きを放つ()()()()()で胸がいっぱいになり、彼らはただそっと杳の肩に手を回した。戦場のど真ん中で、三人がひしと抱き締め合っていると――インカム越しにラブラバの逼迫した声が飛んできた。

 

『急いで!隠し通路を使われた!壊理ちゃんが攫われるわ!』




全体的にわちゃわちゃしててすみません(;'∀')下記に現状をまとめました。

【チーム編成】
Aチーム(治崎奇襲)ジェントル・ソーガ・嘘田
Bチーム(壊理救出)…杳・夢路・マグネ
Cチーム(破壊工作)…スピナー
ボランティアチーム(杳を支援)…トガ・トゥワイス

【戦闘状況】
ジェントル・ソーガ・嘘田vs治崎・玄野・音本
マグネvs乱波
スピナーvs天蓋

【戦線離脱者】
宝生・活瓶・入中・窃野

あと2~3話くらいで終わらせる予定です。祈ろう、なにとぞ上手くいきますように。


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No.51 壊理救出

※作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


『ごめんなさい。私が警告しようとした時にはもう……』

「ううん。ありがとう」

 

 ラブラバは屋敷内に仕掛けられた防犯カメラを通して戦況を把握し、杳達に指示を送っていた。指示を送りたくとも、自分達は全員戦闘中だったのだろう。悔しそうに歯噛みするラブラバを、杳は労った。ここまで迷いなく来れたのは、優秀なオペレーターである彼女のおかげだからだ。

 

 ――隠し通路とそれを使わないルートの距離は変わらない。だが、それは()()()()()()()()()場合だ。何故、立て続けに八斎衆が立ち塞がったのか、杳はやっと理解した。壊理を連れ去る時間を稼ぐためだ。こうしてはいられない。腕の力を解き、杳は二人の助っ人を見上げる。

 

「救けたい子がいるんだ。手伝ってくれる?」

「……ッ!」

 

 間近で見る杳の瞳は、かつてトゥワイスが魅了された()()()()を取り戻していた。――もう二度とそんな目で見てもらう事はできないと思っていた。許される事はないと諦めていた。トゥワイスの心を熱い感情が突き上げ、それはやがて心を満たし、両目から溢れ出す。大粒の涙はマスクに滲んで、不恰好な黒い染みをいくつも創り出した。

 

ばばべぼ(まかせろ)

 

 トゥワイスはマスク越しでも分かる位に顔をぐしゃぐしゃに歪め、大きく鼻をすすりながらサムズアップする。突然トゥワイスが泣き出した事に狼狽し、杳はパーカーのポケットからティッシュを取ると、差し出した。そう言えば、この友人は初めて出会った時から情緒が不安定だったような気がする。()()の言えた義理ではないが。

 

「な、泣いてるの?大丈夫?」

ばいべべーび(泣いてねーし)!」

「仲直りできて嬉しかったんだよねぇ。仁くん」

 

 杳から露骨に顔を背け、マスクを少し浮かして乱暴に涙と鼻水を拭うトゥワイスを覗き込み、トガは嬉しそうに微笑んだ。軽口を叩き合う二人を尻目に、杳はリュックから応急処置セットを取り出すと、窃野の傍に駆け寄った。

 

 よほどトゥワイスがひどく殴ったのか、元々細面だった顔は(いびつ)に膨れ上がっていた。――明らかに()()()()だ。だが、窃野は()()()()()気だった。下手をすれば自分だけでなく、トゥワイスもトガも殺されていたかもしれないのだ。

 

 杳は窃野の傷回りに過酸化水素液を振りかけ、液によって出た泡を拭い、消毒薬をかけた。傷に沁みたのか、窃野が呻き声を上げる。腫れ上がった瞼が開き、鋭い目がこちらを見た。その目は今も尚、殺気で爛々と輝いていた。

 

「こわ……」

 

 杳はその目に軟膏を塗った滅菌ガーゼをそっと当て、隠した。そうして大方(おおかた)の傷の処置を終えると、捕縛用ワイヤーロープで――なるべく傷のある個所を痛めないように――手足をさっと縛る。トガは退屈そうにその様子を眺めていたが、やがて冷たい声を放り出した。

 

「なんで手当するの?その人、杳ちゃんのこと殺そうとしてたんだよ?」

「だって放っといたら死んじゃうし……よしっと」

 

 トガは納得がいかないと言わんばかりに、鼻を鳴らす。しかし壊理を救うために気が急いている杳が、それに気付く事はなかった。再び屋敷の奥に向かって走り出しながら、杳がざっと事の経緯を説明すると、トゥワイスは何度か頷いた。

 

「つまりその壊理っつーガキを助ければいーんだな?」

「うん。あと、三つの事を約束してほしい」

 

 自分の刺し傷の手当てを簡単に終えると、杳は右手を掲げて三本指を立てた。

 

「個性を使わない、殺さない、それから死なないって事」

「……なんで殺しちゃダメなの?」

「え?」

 

 トガは頬をぷくっと膨らませ、猫のように鋭い目を細めて、杳を睨んだ。――”人を殺さない”というのは当たり前の事だ。杳は言葉に詰まり、とっさに言い返す事ができなかった。社会において、多くの人と関わって生きる以上、多くの人が共有する価値観に反する行動に出てはいけない。命は尊いものなのだ。トガは瞳の奥に暗い影をよぎらせて、一気に畳みかける。

 

「杳ちゃん、さっきから()()()()よ。自分を殺そうとしてる人を殺して、何が悪いの?」

「うーん……」

 

 どうやらトガは、窃野の手当てを杳がした事に対し、大きな不満と疑念を抱いているようだった。その問い掛けを聞いた杳は激昂するでも恐れるでもなく、ただ考えた。

 

 ――今までの視野が狭い自分だったら、法律で決まってるからとか、ダメなものはダメという理由で捻じ伏せていただろう。けれど、杳は再び、()()()()()しようとしていた。命の尊さを流麗に説明できるほど、杳の精神は熟達していない。杳は小さな頭を捻り、自分なりに理由を考えて、やがておずおずと口を開いた。

 

「トガちゃんは私の事、好き?」

「好きです!大好き!今すぐ殺したいくらい大大大好きだよ!」

 

 トガはすかさず頬を紅潮させながら、そう叫んだ。あまりの勢いにちょっと引きつつも、杳は話を続ける。

 

「私も好きだよ。確かにまぁ、色々あったりしたけどさ。でも……ッと」

 

 まるで通せんぼをするように、廊下の先に立ち塞がっている構成員の懐に飛び込むと、杳はその顎に向けて掌底をぶち込んだ。打つ時にスナップを効かせる事で、近接格闘があまり得意ではない杳でも威力のある攻撃となる。男は軽い脳震盪を引き起こし、呻き声を上げながら床に倒れた。見たところ、八斎衆ではない。拘束は不要だろう。そう判断した杳は再び、走り出す。

 

「あの人に私が殺されてたら、今こうして仲直りできてなかった。と思う」

 

 その言葉を聞いた瞬間、”また殺さなかった”と言わんばかりに杳を睨んでいたトガの瞳から、剣呑な輝きが消え去った。

 

「最初、私達は敵同士だったよね。でも、()()()()。もしかしたら、トガちゃんの周りにいる人やこれから先、出会う人で……友達になれる人がいるかもしれない。今は嫌いでも、いずれ分かり合える人がいるかもしれない。でも、それは()()()()()()()()()なんだ」

 

 ――そう、生きているから。杳は()()の事を思い出した。朧の肉体は確かに生きている。だが、その中に朧はいない。あの太陽みたいな笑顔を見る事は、もう二度とないだろう。死ぬという事は、その人の人生が強制的に遮断され、希望や未来を奪われる事だ。

 

 杳の答えは、トガにとって()()()()を迫るものだった。自分のやりたいように、生きやすい世の中にするというのが、トガの信念だ。我慢をしなくていい敵連合は、トガにとって居心地の良い場所だった。邪魔をする者は全員殺す。今までそうして生きてきた。だけど、友人はそれではダメだと言う。

 

 トガは苛立った様子を隠そうともせずに、爪を噛んだ。この世界は、他人の為に我慢する人ばかりが泣きを見る。杳の言っている事は、まるで意味のない事のように思えた。この先、いるかどうかも知れない未来の友達のために辛くて嫌な思いをする位なら、自分の好きな人しかいない世界で生きる方がいい。

 

「我慢するのは、()。この世界は生きにくいもん」

「そうだね。でも、たまに良いこともあるよ」

 

 俯くトガを掬い上げるように覗き込んで、杳は緊張感のない笑顔を浮かべた。本当にトガの言う通りだ。この世界は生きにくい。とても不条理で、辛くて悲しくて、嫌な事ばかりの世の中だけど。でも、それでも時々、()()()()()。もがき苦しんだ末に見つけた――蜘蛛の糸のように頼りなく輝く、一縷の希望を――杳はそっと手繰り寄せ、それを言葉に変えた。

 

「私は、トガちゃんたちと仲良くなれた」

 

 杳が何気なく発したその台詞は、ずっと暗い場所で生きてきたトガには眩し過ぎた。トガの脳内をまたも()()()()()が満たしていく。それは陽だまりの匂いがして、星のようにキラキラと輝いていた。トガは酸欠状態に陥った金魚のように口を開閉した後、顔を真っ赤に染め上げて、ぷいとそっぽを向いた。

 

「そういうこと言うの、ずるいよ……」

 

 その声はあまりに小さかったので、杳には聴こえなかった。――こんな拙い言葉で納得してくれただろうか。借りて来た猫のように大人しくなったトガを、杳が不安そうに見つめてていると、目の前に再び構成員達が立ち塞がった。だが、すかさず背後から跳んできた銃弾の群れが、彼らを昏倒させる。数瞬後、杳の隣に、孤高の雰囲気を漂わせるリザードマンが降り立った。()()()()だ。

 

「おい、夢路はどうし……お前らなんでここにいんだ?」

 

 スピナーはトガとトゥワイスを見るなり狼狽して、予備のマガジンを取り落としそうになった。トガはすっかり元の調子を取り戻し、走りながら器用にピースサインとウインクをしてみせる。

 

「ボランティアでーす♪」

「抜け駆けしやがって。ずりーぞ!」

「いやボスの命令だっつーに」

 

 スピナーは冷静に突っ込んでから、体じゅうに下げた銃火器の再装填(リロード)を始めた。その鮮やかなお手並みは、杳に歴戦の傭兵を彷彿とさせた。そもそもスピナーがここに来たという事は、あの強そうな僧兵を倒したという事だ。杳は思わず尊敬の眼差しで彼を見上げた。

 

「強いんだね」

「あ?……別にそうでもねーよ」

 

 スピナーは杳を見るなり、ふいと顔を逸らした。女の子が自分を尊敬の眼差しで見つめているので、単純に照れてしまったのだ。実は激闘していたマグネが乱波を投げ飛ばし、その軌道にたまたま天蓋がいて、彼は壁とサンドイッチ状態になり気絶、マグネに”先に行くように”と促されて、今に至る――とは、決して言い出せないスピナーなのであった。

 

 杳は走りながら後ろを振り返った。だが、マグネは来ていない。乱波の丸太のような両腕を思い出し、杳の脳裏を一抹の不安がよぎった。彼女は大丈夫だろうか。

 

「マグネは大丈夫かな」

「杳ちゃん!マグネじゃなくて()()()だよ!」

「マグ姉?」

 

 トガの言葉を素直に鸚鵡返しすると、彼女は嬉しそうに笑った。どうやらマグネは仲間に殊更慕われている人物らしい。治崎とは真逆だと、杳は大変失礼な事を思った。

 

「うちのマグ姉舐めんなよ。一番の肉体派d――ッ!」

 

 トゥワイスが突然顔を逸らしたのと、黒い人影が彼と擦れ違ったのは、()()()()()()だった。ガチンという重たい衝突音が、杳の耳朶を打つ。視界の端でトゥワイスを捉えると、彼の頭を覆うマスクの右頬部分が噛み千切られている事が分かった。露わになった肌も少し削られて、赤い血が滲んでいる。マスクに空いた穴に触れた瞬間、トゥワイスの全身がわなわなと震え出した。トガがスカートのポケットからハンカチを取り出し、彼の下へ駆け寄る。

 

「あ……ッ」

「仁くん!」

 

 黒い人影は壁を蹴って宙返りすると、動きを止めたトゥワイスへ再び、肉薄した。人食い鮫のように牙のゾロリと生えた大口を開け、トゥワイスの喉元に喰らいつこうとする。杳はアサルトライフルを下から振り上げる事で、それを阻止した。人影はガチンと銃身に喰らいつく。

 

 ――ただ噛んでいるだけなのに、()()()()だ。ライフルを支えている杳の両腕が、細かく震え出した。目元に穴をあけた袋で顔を覆い、ひもで首元に縛った案山子のような風貌の男。恐らく八斎衆の一人、多部だろう。鋭い牙から大量の涎が伝い落ち、ボタボタと床に落ちていく。多部は鼻息荒く、血走った目で杳を睨みつけた。

 

「動くな!」

 

 スピナーは鋭く叫び、構えたライフルから無数の銃弾を放った。だが、多部は獣のように柔軟な動きで身を翻し、弾幕を避け、杳達から数メートルほどの距離を取った。四つん這いになって低く身を伏せ、こちらの様子を伺っている。トゥワイスの手当てを終えたトガは、唇を尖らせてスピナーに物申した。

 

「へたっぴなのです」

「すばしっこいんだからしょうがねえだろ!」

 

 刹那、仄かな()()が杳の鼻腔を掠め、周囲の空気が揺れた。知覚能力の優れた杳だからこそ気付けた()()()()()()だった。クンクンと鼻を動かしながら匂いの下を辿ると、天井の配管からぶら下がった長髪の男が、スピナーにナイフを向けている。

 

 杳は空のマガジンをポケットから引き抜き、投擲した。マガジンは狙い違わず男の手に命中し、ナイフが落ちる。男はその事がツボに入ったのか、手を叩きながら笑い出した。

 

「ウヒヒヒヒ!失敗しちまったぁ!」

 

 ワニの頭蓋骨を思わせる仮面を被った、長髪の男。八斎衆の一人、酒木だろう。杳はハンドガンの安全装置を外しつつ、歯痒い想いで二人の刺客を睨んだ。――壊理を今すぐ救けに行かなくてはならないのに。こんなところで足止めを喰らっている場合じゃない。すると、おもむろにトガがナイフを引き抜いて、杳の前に立った。

 

「杳ちゃん。スピナー。先に行って」

「こいつらは俺達がぶっ潰す」

 

 トゥワイスもしっかりとした足取りで立ち上がる。彼の頭は可愛らしい模様のハンカチで包まれていた。――なんという立ち直りの早さ。さすがは敵連合の猛者、敵ながら天晴(あっぱれ)と杳は感嘆した。トゥワイスのメッシュ越しの目とトガの鋭い目、そして杳のぼんやりした目が交錯する。

 

 三人の瞳の奥にあったのは、()()()()()だった。杳は無条件で、二人を信じた。もはや一刻の猶予もない。一足先に着いた夢路が戦闘に巻き込まれているかもしれない。杳は短い激励の言葉を掛けると、スピナーと共に走り出した。

 

 目的の部屋は、迷路のように曲がりくねった廊下の奥に秘められた――地下へと通じる、隠し階段の先にあった。ドアの前では、夢路が声にならない悲鳴を上げながら、ドアノブを狂ったように回している。内側から鍵が掛けられているようだった。夢路が振り返り、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔で叫んだ。

 

「開かないの!鍵がかかってる!」

「しゃがんで!……スピナー、ごめん!」

「えっ」

 

 ――これしか方法はない。杳は助走を付けて跳び、()()()()()()()()()した。そうして二人の体は宙を舞い、小階段としゃがんだ夢路を一息に跳び越えて、ドアに勢い良く衝突する。二人分――おまけに彼らの抱えていた銃火器分――の重量を支え切れず、ドアは蝶番ごと()()()()()

 

 灯りの消えた部屋に、廊下から差し込んだ光がパッと広がる。一人の男が少女を抱きかかえている光景が、闇の中にぼんやりと浮かび上がった。少女がこちらを振り返り、大きな赤い瞳を丸くする。杳は無我夢中で起き上がり、名前を呼んだ。

 

「壊理ちゃん!」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 ――幸せになってはダメなんだと、ずっとそう思っていた。

 

 壊理の両親は駆け落ちの末、結ばれた。極道の家を飛び出し、壊理の母はどこの組にも入れない半端者である父と結婚した。道ならぬ恋が盛り上がったのは一瞬で、平凡な生活に飽きた父は女の影を匂わせて帰って来るようになった。壊理にとって一番幸せだった記憶は、家族でピクニックに行った時のものだ。公園に行き、レジャーシートを敷いてお弁当を食べた事を覚えている。あの時はまだ、両親は自分に優しくて、構ってくれていた。

 

 育児は本当に大変なものだ。自分達の子供を一生懸命育てるよりも、家に縛り付けられるよりも――父は自由に生きる事を選んだ。スリルやときめきを外に求めた。不毛な言い争いの日々が続く。悲しい事に、壊理の両親は子煩悩ではなかった。壊理はあまり世話をされた事はなかったが、それでも母が毎日泣いているのを見ると、幼い心と耳がズキズキと痛んだ。

 

 その日、父はいつものように浮気相手に会うため、家を出て行こうとした。ドアノブに手を掛けた父の背中に母がすがり付いて、感情的に泣き喚く。

 

(またあの女のところに行くつもり?)

(うるさいな。お前に関係ないだろ)

 

 ――()()()()()()。壊理は壁掛け時計を見上げて、ぼんやりとそう思った。あそこにある時計の針を巻いて戻したら、幸せだったあの頃に戻れるだろうかと。押し殺した母の悲鳴が耳朶を打ち、壊理は慌てて玄関を見た。母が床に引き倒され、父に蹴られようとしている。壊理は母を救うため、父の足に夢中でしがみ付いた。

 

 そして、()()()()()()()。父は見る間に若返り、やがて胎児になり、この世界から消滅した。

 

(化け物!あんたは父を殺した!呪われてる!)

 

 母は我が子を庇いもせず、畏怖の視線を叩きつけた。――母は壊理よりも、父を愛していた。そしてさらに言うならば、父よりも()()()愛していた。壊理は母に捨てられて、祖父が切り盛りする極道の家に身を置く事となった。

 

 祖父である佐伯は、養子の治崎に孫娘の世話を託す。治崎の金色の瞳と、壊理の赤い瞳が束の間、交錯する。治崎の目はどことなく()()()()()()()と壊理は思った。群れとはぐれた雛みたいに、一人ぽっちの悲しい目。白い手袋をした治崎の手が降りて来て、自分の手をそっと掴む。

 

(おいで)

 

 治崎は自前の研究室まで壊理を連れて来ると、彼女の個性を調べ上げ、過去を聞いた。そして全ての作業を終えると、治崎は先程とは打って変わって、冷たく悪意のある声でこう言った。

 

(可哀想に。お前は()()()()だ)

 

 周囲にゾッとするような冷気が立ち込める。治崎から迸る――凄まじい怨嗟の念は、彼の体をどす黒く染め上げ、一回りも大きく膨れ上がらせた。その容貌は、まるで昔話に登場する()そのものだった。壊理は言葉もなく震え上がり、腰が抜けて立ち上がる事も出来ない。治崎は白い手袋を脱ぐと、小さな少女の肌にそっと触れた。

 

(壊理。力を貸してくれ)

 

 ――それからの出来事を、壊理はよく覚えていない。自由もなく、ただ身を切られる日々が永遠に続いた。ずっと痛くて苦しくて、辛かった。夜寝る時に目を閉じると、個性を発動する寸前に見た父の顔が浮かんだ。

 

 ”お前は呪われた存在なのだ”と、治崎は言った。使い方すらも知らない恐ろしい力、そんなものを持って生まれてしまった自分が悪いのだ。そういう宿命なのだと、受け入れるしかなかった。もう父のように、誰かを傷つけたくない。今にも狂いそうな程に高まったマイナスの感情を押し込めて、壊理は灯りの消えた部屋で、玩具のマジカルステッキを掲げた。

 

(”闇を照らし 未来を紡ごう 傷を癒し 明日を歌おう”)

 

 スイッチを押すと、希望に満ちた魔法少女の声と一緒に、ステッキがキラキラと光る。七色の光が、壊理の痩せこけた頬を明るく照らす。ひび割れた唇を開いて、壊理は魔法の呪文を呟いた。

 

 ――いつか、魔法少女が来てくれるだろうか。壊理はぼんやりとそう思った。魔法少女は呪われた魔物を倒し、呪縛から解き放ってくれる。自分は呪われている魔物だから、倒しに来てくれるだろうか。それとも治崎を倒してくれる?けれど、いくら待っても、魔法少女が来てくれる気配はなかった。

 

 だが、そんなある日。壊理は夢の中で、小さな女の子と大きな女の人に出会った。間近で見る二人の目は――スイッチを押したマジカルステッキみたいに――キラキラと光り輝いていた。一生懸命自分を救おうとしてくれている二人の姿は、壊理の心を揺らした。

 

 壊理はかすかな希望を抱いた。しかし、治崎はたとえ夢の世界においても、壊理を許さなかった。芽生えかけた希望の光を彼女自身に踏みにじらせる。そうして彼女が目を覚ますと、そこはいつもの部屋だった。

 

(壊理。お前のせいでまた人が死ぬぞ)

 

 治崎の放った言葉が、壊理の摩耗した心の奥に、深く突き刺さる。傷から血が溢れ出し、傷口が腐っていく。たとえ夢の中でも、救けを求める事すら許されないのか。ボロボロになった二人の姿が、今も脳裏に焼き付いている。目と鼻の奥が熱い。壊理は声を殺して泣いた。

 

 治崎は壊理の心を支配するために、世話役がへまをすると、わざと彼女の目の前で殺していた。――やっぱり自分は呪われている。悪い子なんだ。消えた父、世話役の人の悲鳴が頭の中に響き渡り、壊理は耳を塞いだ。自分一人が我慢すればいい。たとえ夢の中でも、もうこれ以上、誰かが傷つくのを見るのは嫌だった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 いつも通り、壊理がベッドの上でじっとしていると、壁の奥に隠された扉から世話役の男が出てきた。壊理は抵抗する様子も見せず、素直に抱き上げられる。もう何も考えない。見ない。感じない。壊理は心を閉じ、目を閉じ、耳を塞いだ。その瞬間――

 

「壊理ちゃん!」

 

 ――凄まじい破壊音と共に、鬼気迫った声が、壊理の両手を突き抜け、耳朶を打った。夢で聞いた()()()だ。杳は立ち上がると同時に、男に掴み掛かった。夢路が雄叫びを上げながら体当たりし、男の手から壊理を取り返す。

 

 数瞬後、壊理は()()()()()()にいた。今まで自分に触れてきたどんな人とも違う、不思議な温もりが――彼女をすっぽりと包んでいる。今よりもっと小さな頃、家族でピクニックに行った時、両親が自分に触れてくれた手付きと同じだ。陽だまりの匂いは壊理の心を蝕んでいた呪縛を解き放ち、()()()()()を照らし出した。心の底に押し込め、我慢していた気持ちが、堰を切ったように溢れ出す。

 

 ――本当は、ずっとずっと怖かった。嫌だった。辛くて痛くて、逃げ出したかった。壊理は夢路にしがみつき、とめどなく溢れる感情を涙に変え、声を枯らして泣きじゃくった。

 

「あ、ああ……うわああああぁあッ!」

「もう離さない。離さないんだから……ッ」

 

 夢路は咽び泣きながら、小さな少女の体を潰れるほど強く抱き締めた。ギュッと閉じた瞼の裏に、()()姿()が浮かぶ。彼は華やぐように笑って、ふっとかき消えた。――その瞬間、今までずっと心の底にあった(わだかま)りが、融けて消えていくような心地がした。言葉もなく、固く抱き締め合う二人を見守りながら、杳はインカムに触れて通信を取る。

 

「壊理ちゃん救出したよ!」

『……了解。作戦終了』

 

 ラブラバの声は少し涙ぐんでいた。小さく鼻をすすると、彼女は言葉を続ける。

 

『たった今、ジェントルが治崎を制圧したわ……ッ。各自、撤退開始。脱出ルートを案内(ナビ)します』

 

 ”ジェントルが治崎を制圧”――無個性弾を撃ったという事だ。ジェントルはやり切ったのだ。うねるような安心感が杳を包み込んだ。そのまま倒れ込みそうになるのを、唇を強く噛む事で何とか持ちこたえる。ダメだ、もう少し頑張れと杳は奮起した。まだ戦いは終わっていない。壊理を警察の下に引き渡すまで、終われないのだ。

 

 

 

 

 ラブラバのナビゲートに従い、杳達は来た道とは違うルートを辿った。薄暗い廊下をひた走っていると、ふと何処からか()()()()()が聴こえて来た。――機械のエラー音だろうか。どこか聞き覚えのある、不安を感じさせる(トーン)だ。入院中に時折聞いた、医療機器のエラー音に似ている事を思い出す。音は廊下の奥にある和室から聴こえていた。杳はひとっ跳びに駆けて先頭に出ると、(くだん)の和室の襖を開いた。

 

 そこは広大な和室で、中央には医療用ベッドが置かれていた。周りには医療機器とそれらを管理する電子媒体が設置され、そこから伸びた無数のチューブが、ベッドで眠る()()に接続されている。老人の口には酸素マスクが嵌められていた。か細い呼吸音が、杳の耳朶を打つ。

 

(若頭が権力欲しさに組長に毒を盛った。組長は寝た切りに)

 

 かつての夢路の言葉が、脳裏をよぎる。――この老人が恐らく組長である佐伯拳火なのだろう。だが今は何よりも、機械のエラーを修復する事が先決だ。自分が引き起こした停電か、度重なる戦闘における振動か、それとも単なるエラーか。しばらくの間、杳の心中を罪悪感の嵐が吹き荒れた。生憎、自分は医療系ヒーローではないため、病状や機械の状態を理解する事ができない。すると、ラブラバが静かに口を開いた。

 

『杳。あなたのスマホを電子媒体に近づけて。ハックする』

 

 ラブラバは杳のスマートフォンを介して電子媒体に同期(リンク)した。そして医療機器のエラーを瞬く間に修復し、佐伯の身体情報を精査する。そうこうしている内に、追いついた夢路達が和室に入って来た。そして寝た切りになっている佐伯の姿を見るなり、眉をひそめる。

 

「誰だこの爺さん」

「……もしかして組長?」

「うん。この人も救けなきゃ」

 

 夢路は壊理を抱え直しながら、何か言いたげに口を開き、そして閉じた。杳は腕まくりし、ラブラバの指示を待つ。――杳もヒーローの卵、人一人位は抱えて移動できるほどの筋力は備えていた。何より、身動きの取れない病人を戦場に見捨てて行く事はできない。だが、杳の意志はラブラバの緊迫した声で断ち切られる事となる。ラブラバは言いにくそうに咳払いをした後、沈んだ声で言葉を紡いだ。

 

『残念だけど、ここから動かす事はできないわ。機械を外せばこの人は死ぬ。……そういう状態に()()()()みたい』

 

 ”諦めろ”、ラブラバは言外にそう仄めかしていた。刹那、上階でマグネ達が戦闘を繰り広げているのか、天井がギシギシと音を立てて軋んだ。治崎が無個性弾を受けたからと言って安心はできない。化学兵器の効果時間も残り少ない。早く壊理を警察の下へ届けなければ。そう思うも、杳はその場から凍り付いたように動けなかった。

 

 ――佐伯は治崎の手で、嘘田と同じように弱められた。もし治崎が逮捕されれば、彼は一生このままだ。ラブラバは溜息を零した。

 

『杳。私達は()()()()()()()。残酷なようだけど、取捨選択も必要なの』

 

 杳は心中で、取捨選択という単語を繰り返した。閉じた瞼の裏に黒霧の姿が浮かんで、消える。自分達がするべき事は、こちらへ向かっているだろうナイトアイ達に壊理と証拠品を引き渡し、取って返して戦闘中の仲間達の逃亡を手伝う事だ。それは重々承知している。けれど――

 

 ――その時、杳の脳裏に()()()()が浮かんだ。彼女は何かに導かれるように振り返ると、壊理の目を覗き込んだ。

 

「壊理ちゃん。巻き戻す個性を持っているよね。()()()()()()()()?」

「……え?あ、……ッ」

「はァ?!何言ってんの?この子、個性を扱えないのよ?」

 

 思いも寄らない杳の言葉にいたく狼狽し、夢路は壊理をひしと抱き締めつつ、目を白黒させた。だが、杳は躊躇(ためら)う事なく、壊理と見つめ合う。ぼんやりした灰色の瞳と、不安に揺れる赤い瞳が、数秒間、混じり合った。

 

 杳は安心させるように笑ってみせる。その笑顔に、ヒーローのような()()()はない。魔法少女のように、夢と希望が満ち溢れていたわけでもない。それなのに、壊理の心は揺り動かされた。()()()()()()()を有していると分かったから。

 

 惑い、挫折し、もがきながらも諦めず、前に進もうとする、タンポポのような強かさ。敵・味方関係なく理解しようと努め、共に進もうと手を引く社交力と柔軟性。それらが、杳の持つ”ヒーローの資質”だった。

 

 夢路は試すようにこちらを見た後、壊理をそっと床に下ろす。杳はしゃがみ込んでパーカーを脱ぎ、壊理に着せかけた。小さな体に合わせて服の袖を折ってやりながら、杳は言葉を続ける。

 

「これは魔法のパーカーなんだ。私もこれのおかげで個性を扱えるようになったんだよ」

「……ッ、むりだよ。でき、ないよ……私、呪われてる、から」

(お前は人を壊す。そう生まれついた)

 

 かつて浴びせられた治崎の言葉が、壊理の心を瞬く間に啄んでいく。個性を扱えないから、父を消し、家族を壊した。呪われているから、治崎の機嫌を損ね、多くの人を殺した。しかし杳は首を大きく横に振ってその言葉を否定すると、壊理の頭を優しく撫でた。

 

「壊理ちゃんは呪われてなんかない。()()()()だ」

「え?」

 

 予期せぬ言葉に茫然となり、壊理は目を丸くして杳を見上げた。――自分がヒーロー?聞き間違いだろうか。

 

 個性の制御方法は()()()()()が大きく関係している。何もかもが分からなくて不安な壊理の気持ちが、杳にはとてもよく分かった。怯えている壊理の姿が、かつての自分の姿と重なって見える。航一が自分にそうしてくれたように、今度は自分が壊理を救わなければ。救うべき女の子としてではなく()()()()()として、杳は壊理を見た。真っ直ぐな眼差しが、少女の魂を明るく照らし上げていく。

 

「夢の中で、勇気を出して”救けて”って言ってくれたよね。君は自分の力で自分を救けた。それに……私達を守ろうとしてくれた。とても優しくて勇敢で、カッコいいヒーローだよ」

 

 痩せ細った壊理の両手を、杳はそっと包み込んだ。夢で見た通りの痛々しい姿。この子がどんなに辛い仕打ちを受けたかと想うと、杳の心はギリギリと痛んだ。――痛かっただろう。怖かっただろう。辛かっただろう。それでも彼女は、自分達を治崎の攻撃から守ろうと()()退()()()のだ。

 

 だが、理不尽を前に(うずくま)っていても、歯を食い縛って我慢していても、未来は好転しないという事も、杳は骨身に沁みる程、分かっていた。時には勇気を振り絞り、戦わなければならない事もある。必死に抗ってこそ、見えるものもあるのだ。混じりけのない杳の言葉が、壊理のおぼろげな心の輪郭を少しずつ取り戻していく。杳はパーカーのフードを被せると、真剣な表情で願った。

 

「力を貸してほしい」

『……あと10秒でガスの効果が切れる。1分だけよ』

 

 ラブラバが根負けしたように呟いたのと、壊理がかすかに頷いたのは、ほとんど同時だった。杳は壊理を抱き上げて、ベッドの上に載せる。そして後ろから抱き締め、小さな両手に自らの両手をそっと添えた。

 

 にわかに壊理の額に生えた角が淡く発光し始め、金色の光が周囲に舞い散り始めた。意識していないのに、個性が発動したのだ。この状態になると、治崎が分解するまで止まらない。本来の個性に目覚めたばかりの杳と同じで、ブレーキの掛け方が分からないのだ。

 

「……ッ、やっぱり」

 

 壊理が怯えたように身を竦めた、その時――

 

 ――杳は()()()()()()()()を差し出した。小さな子供にとって、お気に入りの玩具は大切なものだ。枕元に転がっていたのを取って来ておいたのだった。随分と使い込まれたそれは、スイッチを入れると色とりどりに輝いた。壊理を包んでいた金色のオーラが、見る間に弱まっていく。

 

(出力先も大事だね。出力面積が小さいほど、個性の威力や精度は上がる。”面じゃなく点で放出する”ってイメージ)

 

 航一の教えを心中で反復し、杳は小さく頷いた。ナックルダスターの代わりに、壊理にはこのステッキを()()()にしてもらうつもりだった。まるで実の姉妹のように、二人は身を寄せ合った。お互いに自我が幼く、不条理に捻じ伏せられたという()()()()を持っているからこそ、二人は今、通じ合えているのかもしれなかった。ステッキを縋るように握り締める壊理の手を包み込むと、杳は一緒に歌った。

 

「”闇を照らし 未来を紡ごう 傷を癒し 明日を歌おう”」

 

 子供は純粋でひたむきな存在だ。自分が信じたいものを信じ、真っ直ぐに突き進む。――その時、壊理は治崎ではなく()()()()()。ボロボロに傷ついた壊理の心に根を張ったタンポポが、ゆっくりと花開いていく。

 

 ステッキに流れた金色の光が、佐伯に注がれていく。やせ衰えた肌が艶を取り戻し、土気色の体が生気を取り戻していく。()()()()()()。宝石みたいな瞳を輝かせ、ステッキを握っている壊理は、本当に魔法少女(ヒーロー)みたいだった。杳は跳び上がらんばかりに喜んで、壊理に笑いかけた。

 

「すごいよ!壊理ちゃ――」

 

 刹那、()()()()()した。四方を囲む天井や壁、床の全てが崩れ、土砂に変わっていく。轟然たる音響が周囲にこだました。大きく体勢を崩し、杳達はうねるように波打つ瓦礫の中に巻き込まれた。たった数秒足らずで和室は建物ごと瓦礫の山へと変わり、頭上には()()()()が開いた。

 

 やがて、そこから()()()()が顔を覗かせた。――冷酷な金色の目、夢で見た()と同じだ。杳は眼球だけを動かして素早く仲間の無事を確認しながら、壊理を守るように抱き締めた。何故、治崎が()()()使()()()()()?ジェントルが無個性弾を撃ったはずじゃないのか。それよりも、治崎がここにいるという事は、ジェントル達は無事なのか?嵐のように疑念が吹き荒れ、思考が追いつかない。

 

 ただ一つはっきりしているのは――杳は()()()()()()()という事だけだった。もう一人救おうと欲張った彼女の判断は、多くの人々を命の危険に晒す結果となった。治崎は杳を射竦めると、酷薄な声を放つ。

 

「お前が()()()か」




プリユアネタをどうしても出したかった…。次回はブチ切れ治崎回です。


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No.52 形勢逆転

※作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 時は30分前に遡る。死穢八斎會の本拠地、地下深くに秘められた一室にて。六人の男達が無言で相対する中、()()()()()した。大きな照明灯がまばゆく輝き、辺り一帯を照らし出す。ラブラバの指示に従い、ジェントル達は灯りが点る寸前にマスクを脱ぎ捨て、素早く戦闘体勢を取った。治崎は自身と向かい合う恰好となったジェントルを見た瞬間、何かを思い出したように目を細めた。

 

「その顔……”ジェントル・クリミナル”か。(ヴィラン)風情が何故こんな所にいる」

 

 ジェントル・クリミナルは昨今、ネット界を賑わせている(ヴィラン)だ。やっている事は、()()()()な動画配信者の行動に毛が生えたようなもので、正直敵というのもおこがましい程の小悪党だ。――問題は何故、ジェントルがここにいるのか。治崎は静かに思案を巡らせる。

 

 一瞬、ここを舞台にするつもりかという馬鹿げた考えが浮かんだが、治崎はすぐにそれを打ち消した。ジェントルは以前に動画で見た時と、明らかに風貌や雰囲気が異なっている。威風堂々とした、妙にオールマイトじみた佇まいだ。そして治崎ですら無意識に警戒態勢を取るほどの()()を放っていた。そもそもジェントルは今まで単独か、相棒の女性と共に行動をしていたはず。こんな風に多人数で組織立った動きはしなかったはずだ。

 

「もう私は敵ではない」

 

 治崎の問いを受けたジェントルは胸ポケットからヒーロー免許を取り、よく見えるように掲げてみせた。爪牙と相対していた玄野が視界の端でそれを見るなり、大きく息を飲む。

 

()()()()だ。アメリカ産ではあるがね」

「この馬鹿げた戦の首謀者はお前か?」

「……そうだ」

 

 ジェントルは静かに頷いた。だが、その目の奥に垣間見えた()()()()()()()を、治崎は見逃さなかった。どんな大義名分があろうと、プロヒーローが民間人を巻き込むはずがない。首謀者は別にいる。恐らくあの学生もフェイクだ。

 

 不意にジェントルが力強く一歩を踏み込んだ事で、治崎の思考は途切れた。ジェントルは両の拳を構え、轟々と吼える。

 

「治崎、君の負けだ。もうすぐナイトアイが援軍を引き連れてやってくる。今の君にできる事は何もない。降伏しろ」

 

 日米ヒーロー条約により、日本とアメリカのプロヒーローは双方の国での活動が許可されている。このゲリラ戦を正当化し、責任の所在を――未成年の杳ではなく――このならず者部隊の中で唯一責任ある立場と言える、()()()()()へ変える事ができるのだ。

 

 元々、ジェントルとラブラバはそのつもりでアメリカを出た。だが、彼らとて何も考えなしに行動した訳ではない。弁護を塚内に頼み、上司(C.C.)にも許可を取ってある。自分を信じて送り出してくれた二人を失望させるわけにはいかない。

 

 ジェントルは()()()()で治崎を制圧せねばならなかった。そしてナイトアイに見つかる前に、杳を逃がす。この戦いをあくまで自分の一存とするために。やらねばならない事は沢山ある、だがどれ一つとして取り零しはしないと、ジェントルは拳を固めた。平穏な日常が崩れ去り、家族が崩壊していく経験など、杳にはしてほしくない。

 

 刹那、屋敷内をくぐもった爆発音が響き、屋敷全体がグラグラと揺れた。作戦通り、上階では戦闘が始まっているらしい。

 

 ――嘘田の言葉が真実なら、()()()()()()。治崎の目配せを受けた玄野は踵を返し、ドアへ駆け寄った。しかしそれを阻むように、爪牙が彼の側面に躍り出て、右膝裏辺りに強烈な回し蹴りを放つ。関節の繋ぎ目を狙ったその攻撃で、玄野は思わず膝を突いた――その顔面を今度は()()()()()()。反射的にバックステップを踏んで、玄野はドアから数メートル程の距離を取った。嘘田がバチバチと唸る高圧スタンガンを構え、ドアの前に低く身を伏せる。

 

「くそ……ッ」

 

 個性が使えれば、こんな連中。玄野は悪態を吐き、ぎりっと唇を噛み締めた。思うようにいかない事態に翻弄され、ただ只管(ひたすら)に焦燥感が搔き立てられる。玄野は年季の入った柱時計をチラリと見た。――化学兵器の効果時間は三十分。効果時間内にナイトアイ達が来れば、抵抗できない。ジェントルというヒーローがいる今、誤魔化す事もできない。指定敵の立場は弱い。だからこそ、治崎は影に隠れて、今日に至るまでひっそりと計画を進めてきたのだ。ナイトアイに見つかれば、全てが終わる。

 

 数瞬後、()()()()()()。床に転がったマスクを拾い上げると共に嘘田を狙って投擲、同時に床を蹴って爪牙に肉薄する。治崎はナイフを握った右の拳を素早く繰り出した。その突きを爪牙は身を捻ってかわし、逆に右腕を掴もうとする。

 

 だが突如、真横から襲い掛かった治崎の左拳が、爪牙のこめかみを殴打した。一時的な脳震盪を起こした事で、爪牙の意識が揺らぐ。背後から迫るジェントルの気配を察した治崎は、振り返らずに、返す左肘を後ろに叩き込んだ。

 

「ぐっ……」

「音本!壊理を守れ」

 

 押し殺したジェントルの悲鳴に被せるようにして、治崎が叫んだ。音本は電流に撃たれたように全身を大きく震わせ、ドアに向かって走り出す。今こそ、治崎の信頼を回復する時だ。振り向き様、治崎はジェントルに掴み掛かり、玄野が爪牙と嘘田をまとめて相手にしている間――音本はドアを開け、廊下へ一歩踏み出した。

 

「おーおー逃げろ逃げろ。意気地なしが」

 

 今にも駆け出そうとしたその時――嘲り笑いを含んだ声が、音本の耳朶を打った。

 

 ()()()()()だ。それは、長年”鉄砲玉”として先陣を切り、敵の注意を自身だけに向け、仲間を守って来た――彼の常套手段だった。その事を付き合いの長い治崎と玄野は周知しているが、音本は知らない。まんまと挑発に乗せられ、音本の足はピタリと止まった。治崎はジェントルが繰り出した踵落としをかわしながら、苛立った声で叫んだ。

 

「聞くな!」

「大したことねェなァ、治崎もお前も。ビビりのハイエナ共が」

 

 ――その言葉は、治崎を慕う音本の怒髪天を突いた。音本は激昂し、殺気立った目で振り返り、嘘田をはったと睨んだ。

 

「貴様ァ!若を……ッ」

 

 嘘田はその瞬間を見逃さず、玄野の胴体部分にスタンガンを突き出した。玄野が一歩引いた隙に、爪牙が身を屈め、低く跳ぶ。爪牙は音本の懐に飛び込むと同時に、その顎に渾身の掌底をぶち込んだ。一時的な脳震盪を起こした音本は、ぐらりと体を揺るがせ、倒れる。

 

 爪牙はショットガンを引き抜くと、音本の両足首に銃口を押し当て、ゼロ距離でビーンズバッグ弾を放って骨折させた。ショットガンを片手で撃った反動で右腕が浮き、体勢を少し崩した爪牙に今度は()()()()()する。爪牙は玄野の裏拳をかわして打点をずらし、威力を殺した。そして冷酷な声で言い放つ。

 

「この部屋からは出さねーぞ」

 

 ――とは言ったものの、爪牙は結構な疲労状態に陥っていた。今は個性社会――いくら個性を操作する薬を創っていたとしても――いざ個性が使えなくなれば、もっと動揺するかと思っていたが、そんな事はなかった。無個性の状態でこれほど抵抗するとは。

 

 だが、これ以上時間を掛けたくはない。もうすぐナイトアイ達が援軍を引き連れて乗り込んでくる。その前に、敵連合と一線を交えてでも、杳を逃がさなければならない。

 

「まだくたばんじゃねーぞジジイ」

「わかっとるわ!」

 

 呼吸を整えた爪牙と嘘田が、再び玄野に突撃する。一方、ジェントルと治崎は激しい肉弾戦の渦中にあった。オールマイトを彷彿とさせる――凄まじいスピードのラッシュを受け流しながら、治崎は眼球だけを動かして時計を見やる。無個性の状態だと認識した時から、治崎は定期的に時刻を確認していた。あと数分でガスの効果が切れる。その前にナイトアイにここへ踏み込まれたら終わりだ。

 

 一刻も早く屋敷内の状況を確認したいところだが――目の前の敵はそうさせてくれそうもない。八斎衆の面々が誰もここへ来ないところを見るに、恐らく会敵して戦闘中か、もしくは制圧されたのだろう。敵はあの学生共だけでなく、()()()()()という事だ。――役立たず共め。治崎はぎりっと唇を噛み締めた。

 

「廻!もう時間がない!」

 

 玄野の逼迫した声が、治崎の鼓膜に突き刺さる。テーブル上に広げられた大型ディスプレイには、本拠地近辺に設置された防犯カメラの映像が映しっぱなしになっていた。四角い世界の中で、ナイトアイ率いるヒーローの一群と特殊警察部隊が、激しい雨風に顔をしかめながらも、迷いのない足取りで道を進んでいる。

 

(坊主。どこにも寄る辺がねェなら、俺んとこに来い)

 

 かつて救いの手を差し伸べてくれた佐伯の姿が、治崎の脳裏をよぎる。――こんな訳の分からん連中に、俺の計画を台無しにされてたまるか。治崎は再度、時計を見た。あと一分足らずでガスの効果が切れる。ナイトアイ達に見られる前に全員分解してしまえば、全て元通りだ。危険な輝きを孕んだ目が、ジェントルを一瞥した。

 

「浅ましいな。ジェントル・クリミナル。立場が変わった途端に正義面か?」

「生憎、敵上がりでね。誹謗中傷には慣れている」

 

 治崎の嘲笑を、ジェントルは真っ向から受け止めた。治崎の指摘は最もだ。敵として世間を荒らし回っていた過去を日本に置き去り、今は新天地でヒーローとして活躍を始めている。いずれジェントルがアメリカでプロヒーロー化した事が日本で明るみになれば、その事を批判したり、否定的な考えを持つ者が大勢出てくるだろう。

 

 だが、それでも、成し遂げなければならないのだ。あの日、交わした約束を守るために。

 

「この立場は最早、私だけのものではない」

『ジェントル!頑張って!勝って!』

 

 愛する者の声援が、ジェントルの魂を強く鼓舞した。治崎はわずか一歩でジェントルとの距離を至近とし、その首目掛けて手刀を繰り出した。ジェントルはその手首をかわしながら掴み、捩じり上げようとした。だが、すぐさま治崎は()()()()()()()()。ジェントルの顎骨にひびが入り、歯が数本折れて、口の中に血と歯の欠片が広がった。続いて胸の中央を蹴られ、ジェントルは埃一つない天井を仰ぐ羽目になる。

 

(未来を変えてください。間違っても、敵になっても……もう一度、やり直す事ができるって。証明してください)

 

 かつて交わした約束が、ジェントルの意識を繋ぎ止めた。ジェントルは息と共に口内に溜まった血と歯の欠片を吐き出し、力強く一歩を踏み込んだ。両腕を伸ばして治崎の胸倉を掴み、渾身の頭突きを喰らわせる。

 

 ――できるできないの話ではない。()()()()。ジェントルの心に芽生えた信念が熱く燃え、彼の魂をより強くした。Heat Campで教えられた通りに、右の拳をきつく固めて腰を落とす。徐々にガスの効果が切れ始め、ラブラバの個性がわずかにジェントルに宿った。揺らめく愛のオーラをまとい、ジェントルは腹の底から叫んだ。

 

「終わりだ!治崎!」

 

 治崎は咄嗟(とっさ)に防御態勢を取り、左腕をかざして軌道を逸らそうとした。だがその勢いは死なず、ジェントルの拳が、治崎の頭に深く突き刺さる。――あまりの衝撃に、治崎の脳が大きく揺れた。治崎の体は膝を突き、どうと床に倒れる。すかさずジェントルはハンドガンを引き抜いて、治崎のシャツの袖と手袋の間に見える皮膚に向けて、無個性弾を撃った。

 

「廻……ッ!」

 

 戦闘中に戦い以外の事を考える。それが身の危険を招くという事は重々承知しているはずなのに、玄野は治崎を救わんと()()()()()()()()。爪牙はその背中に無個性弾を撃ち、脳天に強烈な踵落としを喰らわせた。――敵である以上は、情け容赦なく叩き潰す。それが不良上がりの爪牙の戦い方であり、彼の強さだった。ジェントルは乱れた呼吸を整えると、インカム越しに泣きじゃくっているラブラバに優しい声を掛ける。

 

『治崎、玄野、共に着弾確認。ラブラバ、大丈夫かい?』

「ジェントルが、がっごよずぎで……ぐすっ……壊理ちゃんも救出完了よ……」

 

 その言葉を聞いて、ジェントルが心と唇を綻ばせた――

 

 ――その時、視界の端に()()()()()、彼はそちらに顔を向けるや否や、唖然とした。

 

 治崎の腕が――まるで義手のように肩口から外れて――床にころりと転がっている。ガスの効果が切れ、無個性弾を撃たれるまでのわずかな間に、治崎は個性を使い、自らの腕を切り離していたのだ。手首に撃たれた薬が、静脈を通して全身に回る前に。

 

 次の瞬間、()()()()()()()。四方を囲む壁、天井や床に見る間にひびが入り、粉々に割れ――そして()()()()へと再構築され、ジェントル達を囲い込むように襲い掛かる。

 

 ジェントルは空気に弾性を付与して跳び、爪牙と嘘田を掴むと、中空へ逃れた。だが、その頭上にも棘の先端が迫る。意志を持っているかのように蠢く石槍の群れに守られながら、治崎はゆっくりと立ち上がった。平然とした表情で床に落ちた片腕を拾い、一部を修復した後、再び繋ぎ合わせる。

 

 刹那、ジェントルは理解した。――治崎は()()()、自分に倒されたのだと。

 

「先に仕掛けたのはお前達だ」

 

 治崎は静かな声で宣言し、懐から出した大量のブースト薬を()()()()()()()()

 

 色白だった皮膚は見る間に黒ずみ、ぼごりと異様な音を立てて筋肉が内側から膨れ上がっていく。骨格も拡大化し、上背も一回りほど大きくなった。治崎は鋭く爪の伸びた手を伸ばし、玄野に触れる。まるでシャボン玉のように、玄野の体が内側から弾け飛んだ。――仲間に何をしている?ジェントル達の全身を戦慄が駆け抜ける。

 

「……ッ!」

 

 突如として、治崎の全身から()()()()()が飛び出した。触手の先端は鋭く尖り、矢尻状になっている。触手の群れは蛇のように空中をうねり、床に倒れた音本と――ジェントルの左腕に抱えられた()()に突き刺さった。数瞬後、二人の体は玄野と同じように、内側から弾け飛んだ。

 

 仲間の体と個性を吸収し、治崎の体はますます大きく歪に膨れ上がっていく。――その姿は、昔話に登場する()そのものだった。

 

 刹那、頭上から降り注いできた雨粒と風が、爪牙の頬を叩く。見上げるように周囲を見回すと、部屋どころか、屋敷の姿は跡形もなく消え去り、灰色に掻き曇った空が天上を覆っていた。やがてその空を覆い隠すように()()()()が組み上がり、辺り一帯を包んでいく。敷地内が瓦礫の繭で完全に覆われた直後、治崎は憎しみに満ちた声で呟いた。

 

「さァ、壊理を返してもらおうか」

 

 

 

 

 一方、センチピーダーから応援要請を受けたナイトアイ達は、宝生達()()()を沈黙させた後、死穢八斎會の本拠地へ向かっていた。だが、到着した彼らが目の当たりにしたのは――本拠地を覆う()()()()()()だった。

 

 要塞のように頑強な石垣を土台に、半球状の石壁が、敷地内をすっぽりと覆い隠している。壁は相当分厚いのか、耳を澄ませても何も聴こえない。しかし、内部で良からぬ事が起きているのは明白だった。何かを()()()()()のだ。いかつい顔をした警部補が、唇を引き攣らせながらも、部下に向かってがなり立てる。

 

「なんっだこりゃ……おい!こじ開けろ!」

 

 警部補とナイトアイは同時に目配せし、さらなる増援を双方の部署に依頼した。周辺の住民が避難していたのが、唯一の救いと言えた。突貫用の特殊兵器をもってしても、この頑強な壁を貫くのには時間が掛かりそうだった。ヒーローと警察、総出で壁を崩そうと奮闘しながらも、ナイトアイは静かに思考を巡らせる。

 

 今、この壁の中で()()()()()()()のか。杳の目を通して未来を見た――ナイトアイだけは知っていた。だが、予知ができるからと言って、()()()()()()でいられる程、彼の心は冷たくない。未来が正しくある事を、彼は心中で願った。そしてどうあっても変えられない運命を、あの少女がどうやって捻じ曲げたのか。いくら考えても答えの出ない謎を、彼は頭の片隅でじっと考え続けた。

 

 

 

 

 その頃、()()()()では。――何が起こったのか、分からない。杳は壊理を守るように抱き締め、パチパチと目を瞬かせた。広大な屋敷は跡形もなくなっており、半球状のドームが天上を覆っている。屋敷そのものを材料にしたのか、壁の内部にガラスが混じっており、そこから外の光が薄っすらと透け、辺り一帯を薄気味悪く照らしていた。

 

 杳は素早く周囲を見渡し、皆の無事を確認した。佐伯の眠るベッド周辺はほとんど綺麗な状態で残っており、そこにスピナーと夢路がひっそりと身を寄せている。治崎は二人に手を出さなかったのではなく――たまたま彼らが佐伯のベッド付近にいたために、攻撃できなかったようだった。すり鉢状になった穴の淵から、治崎が顔を覗かせて、杳を見た。

 

「お前が病原菌か」

「……ッ」

 

 私のせいだ。引き際を誤った。ジェントル達は無事なのか?――錯綜する杳の心は、腕の中で細かく震え出した小さな体を再認識した瞬間、()()()()。冷静になって耳を澄ませると、風や雨の音に紛れて、男達の怒声とくぐもった衝突音が聴こえてくる。

 

 ラブラバの流したダミー映像で八斎衆の一部と交戦後、ナイトアイ達がここへ来ているのだ。杳は()()()()()を見出した。まだ終わっていない。この繭を破って、彼らに壊理を託すんだ。

 

 ――お前が仕掛けた戦だ。責任を取れ。杳は”個性を使わない”という約束を破る覚悟を決めると同時に、()()()()。それに反抗するように全身から噴き出した冷気を、薬を何度か吸う事で押し込める。何としても治崎を倒し、壊理をナイトアイ達に託し、仲間達を逃がすのだ。自分はどうなっても構わない。

 

(お前一人の問題じゃねーんだぞ。家族や学校にも迷惑がかかる)

 

 無謀な戦いを始めようとする杳を引き留めるように、爪牙の言葉が胸に深く突き刺さった。――お父さん。お母さん。家に残してきた両親を思い、杳の心は震えた。寮の自室で屈託なく笑うクラスメイト達の顔が掠れて、消えていく。だが、立ち止まり、惑う暇などない。腕の中にある温もりが、杳の決意を強くした。治崎を倒し、壁を壊せば、壊理は自由になれる。杳は二歩ほど後退し、振り向かずに壊理を夢路に託した。

 

「夢路。スピナー。二人を守って。ベッドの近くにいれば、たぶん攻撃されない」

 

 佐伯のベッド周辺には、分解の波が及んでいない。治崎は佐伯を大切に想っているのだろう。ベッドの近辺にいれば、攻撃の巻き添えを喰らう事もないはずだ。

 

 杳は獣のように身を低くして伏せ、戦闘体勢を取った。激しい電流を迸らせた灰色の雲が、彼女の口から排出されていく。不意に()()()()を感じ、彼女は瓦礫の向こうに少しだけ眼球を動かした。――見覚えのあるスカイブルーの目が二つ、薄らときらめいた。ジェントルの目だ。それだけではない。周囲の瓦礫に混じり、何人かの影がひっそりと蠢めく気配を感じる。杳は治崎の注意を自分だけに向けるため、彼に向かって啖呵を切った。

 

「病原菌はあなただ」

 

 治崎は金色の瞳を細め、杳を睥睨した。それからしゃがみ込んで、瓦礫の欠片に触れる。突如として杳の周囲の瓦礫が変形し、()()()()となって、四方八方から襲い掛かった。霹靂と化した杳は大地を蹴り上げ、上空に舞い上がる。同時に物陰から敵連合の面々、ジェントルや爪牙も跳び出して、治崎を囲い込むように攻撃を放った。

 

「ムーンフィッシュ、君に決めた!その陰険ヤクザを倒せ!いや倒すな!」

「しごとしなきゃ……肉肉肉肉……」

 

 トゥワイスが”二倍”の個性で創り出した敵・”ムーンフィッシュ”は口を大きく開け、中にぞろりと生えた歯牙を自在に伸縮・分岐させ、治崎が地上に創り上げた針山を一本一本、精密に突き砕いていった。破壊した(そば)から再構築される棘と歯牙の林を走り抜け、マグネとトガ、トゥワイスが、回り込むようにして治崎に接近する。歪に膨れ上がった治崎の体表に――つい先程まで自分が戦っていた――乱波らしき衣服の一部を認め、マグネはサングラス越しに眉をひそめた。

 

 巨大なザトウムシのように中空に君臨するムーンフィッシュの()()()()、弾性膜を踏みつけ、ジェントルは跳ぶ。弾性を多分に含ませた拳を構えて突撃するジェントルを迎え撃つ為、治崎は()()()()()を展開させた。しかし、それを霹靂と化した杳がタックルする事で、粉々に破壊する。

 

 ――多人数に同時に追い詰められているというのに、治崎は平然とした態度を崩さなかった。金色の双眸が中空に浮かぶムーンフィッシュを見て、それから眼前で、今にも拳を振り上げんとするマグネへ移る。治崎の背後に接近していた爪牙が、鋭い爪を生やした足を繰り出し、回転蹴りを放った。しかし、治崎は背中の体組織を肥大化させ、それを難なく受け止める。それから、静かにこう呟いた。

 

「そういう事か」

 

 次の瞬間、()()()()()()()()

 

 気が付くと、杳は治崎の前にいた。いや、いたのではなく――地上から突き出た()()()()に全身を貫かれて、浮いていた。あまりに一瞬の事だったので、痛みや驚きを通り越して、杳は茫然としていた。耳鳴りのせいで周囲の音が聴き取れない。

 

 仲間の無事を確認するために周囲を見回すと――自分だけでなく――他の皆も、棘の山に全身を貫かれ、動かなくなっていた。凄まじい罪悪感と絶望の感情が、杳の心に濁流の如く流れ込んでいく。歯を全て折られ、芋虫のように地上をくねるムーンフィッシュを踏みつけて殺した後、治崎は虚空に向け、冷酷な声を放り出した。

 

()()()()。責任を取れ。でなければ、全員死ぬぞ」

 

 全ては敵連合の差し金だったのだ。泥に変わっていくムーンフィッシュを無感動に見下ろしながら、治崎は考えた。この学生は()()()()()に過ぎない。指導者と同じように――自らは手を汚さず――駒を上手く動かして、薬と壊理を奪う算段だったのだろう。

 

 丁度良かった、俺もお前が欲しかったんだ。組を拡大する為、知名度の高い組織を傘下に入れる事を治崎は前々から考えていた。死柄木は失敗した。今度は()()()が攻める番だ。死に掛けの人形を眺めつつ、治崎は死柄木の返事を待った。

 

「……はっ……ッ」

 

 体が熱い。息ができない。意識が朦朧として、何も考える事ができない。全身から流れ出る血が、杳の皮膚を濡らしていた。動け。まだ諦めるな。杳は決死の思いで自分を叱咤した。戦わなければ。あと本当にもう少しなんだ。こんなところで。――だが、集中して雲化しようとしても、激痛の余り全身に力が入らない。痛いのにその痛みは意識を覚醒しようとはしてくれず、暗闇へ引き摺り込む促進剤にしかなってくれなかった。

 

「あ、あ……ッ、やめ、て」

 

 壊理は夢路の腕に抱き締められながら、まるで極寒の地に放り込まれたようにブルブルと震えていた。ついさっきまで夢と希望に満ちていた視界が、見る間に掻き曇っていく。数秒前まで元気に走り回っていた皆は、地上から突き出た無数の棘に貫かれ、四肢をだらりと垂らしていた。皆、治崎に殺される。私を救けようとしたせいで。内側にびっしりと棘の生えた――罪悪感のヴェールが音もなく壊理に覆い被さり、彼女の心を拷問のように責め苛んだ。

 

 おもむろに治崎は()()()()()を呼んだ。たったそれだけで、壊理の肩はまるで鞭打たれたようにビクリと跳ねる。さらに追い打ちを掛けるように、治崎は杳の左腕に触れてみせた。血飛沫と共に杳の腕が弾け飛び、彼女は声にならない呻き声を上げ、身を捩る。

 

「壊理。お前のせいで人が死ぬ。もう()()()()()

 

 ――それは壊理の人格そのものを否定する、あまりに冷酷な言葉だった。絶望の谷底に突き落とされ、幼い子供が静かに青ざめていく()を、杳は今際(いまわ)(きわ)に感じ取る。杳は口の中に溜まった血を吐き出すと、掠れた声を絞り出した。

 

「それは違う」

 

 治崎の冷酷な金色の瞳と、灰色の瞳が拮抗する。

 

「壊理ちゃんじゃない。()()()()()()だ。責任転嫁をするな」

「……そうか」

 

 突如として、血塗れの男性が真横から跳び出し、治崎に襲い掛かった。マグネが決死の覚悟で棘の山を抜け出し、杳を救おうとしたのだ。血塗れの拳を開き、マグネは治崎の顎に掌底を放とうとする。

 

「返して」

「なら()()も、お前の責任じゃないな」

 

 治崎は顔を逸らしてその拳を避けると、擦り抜け様にマグネの腕にそっと指先をなぞらせた。数瞬後、杳の目の前で――マグネの全身に細かなひびが入り、やがてその体は内側から弾け飛んだ。夥しい量の血飛沫が、シャワーのように降り注ぎ、杳の全身を濡らしていく。

 

(わーかったから落ち着きなさい)

 

 優しい言葉と頭に載せられた温もりが、杳の心に蘇った。――()()()()だ。マグネが死んでしまった。トガとトゥワイスが懸命にもがきながら、悲痛な声で仲間の名前を叫ぶ。治崎は一歩退いて血飛沫を避けながら、気安い声でこう言った。

 

「気にするな。お前のせいじゃない」

「あ……ッ」

 

 その瞬間、薬で抑え切れなくなる程に膨張した――杳の()()()()が冷気に変わり、彼女の体を、彼女の体を貫く棘ごと、内側から凍てつかせた。涙すら、流れる途中で氷の欠片に変わっていく。芯まで凍り付いて砕けた棘の欠片と共に、杳は地面にうつ伏せに倒れ込んだ。その衝撃で、体の節々にひびが入っていく。

 

 個性をまともに扱えていない。治崎はゆっくりとしゃがみ込んで、杳を観察した。――哀れな子供だ。壊理に関わらなければ、生きていられたのに。病を治し切れなかった為に仲間を巻き込み、全員死ぬのだ。そしてこの人間は、死柄木にとって価値がないらしい。待てど暮らせど返答のない死柄木に業を煮やし、治崎は蕁麻疹の浮き出た右腕を擦った。

 

 死柄木がどこかで()()()()()を決め込んでいるのは分かっている。”敵連合は仲間を大切にしている”という治崎の認識は、誤りだったようだ。――そうこうしている内にも、壁にはひびが入り始めている。治崎には時間が残されていなかった。この少女の死体をヒーロー共に見られると厄介な事になる。まるで紙屑をゴミ箱に捨てるように無造作な手つきで、治崎は杳に手を伸ばした。

 

 

 

 その頃、杳はまさしく()()()()()()を彷徨っていた。さっきの衝撃で凍った心臓が割れたのだ。死を悟った脳が大量のドーパミンを分泌し、彼女の苦痛と恐怖を鎮めていく。

 

 ――ああ、死ぬんだ。やがて彼女は抵抗する事を止め、薄れゆく意識の中でぼんやりと悟った。滲んだ視界に、泣きじゃくる壊理の姿が映り込む。頑張ったけどダメだった。私じゃ、お兄ちゃんみたいに立派なヒーローにはなれなかった。お兄ちゃんは命を賭けて、大勢の子供達を救ったのに。私はたった一人の子供さえ守れずに、死ぬ。大勢の人の命を巻き添えにして。

 

 心臓が最期の鼓動を打ち、沈黙した。――死んだら、私は地獄に行くのかな。悪い事をいっぱいしたから。地獄に堕ちても、お兄ちゃんは天国から私を見つけてくれるかな。それとも、お兄ちゃんはもう私を見つけてくれないかな。私が悪い子だから。悔しくて、悲しくて、だけど、もうどうしようもできなくて――杳の目から熱い涙がボロボロと溢れ出し、凍り付いた頬を融かしていく。

 

「そうだ。そのまま死ね。()()()()

 

 今にも霞んで消えようとする杳の意識の中で、()()は静かに呟いた。治崎に取り込まれても尚、音本は彼の為に忠誠を尽そうとしていた。音本の個性で()()()()()を露わにされ、絶望に呑まれた杳は生きるために抗う意志をそっと手放そうとした。その時――

 

()()()()

 

 ――しわがれた声がインカムを貫いて、杳の耳に深く突き刺さった。()()()だ。

 

 思い出せって、一体何を?虚ろな意識の中で、杳は弔の言葉を繰り返した。心臓の鼓動が止まり、血液の循環がなくなった事で、杳の脳は飢餓状態に陥った。いよいよ間近に迫った死を回避するために、杳の脳はあらゆる記憶の引き出しを開けては、放り投げていく。まるで狂った走馬灯のように――今までの記憶が猛スピードで回転し――時に鮮やかに明滅しながら、眼前を過ぎ去っていく。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(あれは悲劇なんかじゃない。……()()だ)

 

 白く靄がかった世界で、弔は自らの両手を見つめながら、穏やかな表情で呟いた。――原点。私の。

 

(兄ちゃんはお前のヒーローだ。どこにいたって救けてやるからな)

 

 朧はそう言うと、小さな杳の体を軽々と抱き上げ、快活に笑う。――お兄ちゃんは私の全部だった。にわかに朧の体から黒い霧が滲み出し、周囲を覆い尽くしていく。救けたかった。守りたかった。不気味に蠢く霧を透かして、弔やオール・フォー・ワンと共に、どこか遠くへ去って行く黒霧の姿が垣間見える。

 

(できるか、できないかを判断するのは、世間ではなく君の心じゃ。……君はどうしたい?)

 

 殻木はベッドの脇に座り込んで、静かにそう訊いた。――私のしたい事。”お兄ちゃんを救けたい”。でもそれは無理なんだと、杳は同時に諦めていた。黒霧はあまりに多くの罪を重ね過ぎた。そもそも、兄は十三年も前に死んでいる。死者を甦らせる事はできない。

 

 だけど、お兄ちゃんの部屋、まだそのまま残してあるんだよ。冷たい刑務所なんかじゃなく、暖かいお家に帰してあげたかった。おかえりって言ってあげたかった。

 

 

 

 

 気が付くと、杳は()()()()()()に横たわっていた。ベッドの脇には、全身包帯グルグル巻きで”ミイラマン”と化した航一が座っている。――鳴羽田で職場体験をした記憶のワンシーンだ。包帯越しに垣間見える優しい眼差しが、杳の心をそっと撫でていく。航一は杳の手を取り、そっと撫でた。分厚いギプスを嵌めているのに、彼の温もりが不思議と伝わって来る。

 

(君は、”救いようのない悪”を見たことがある?)

 

 その問いを聞いた瞬間、杳は大きく息を飲んだ。航一は泣きたくなる位に優しい笑顔で、こちらをじっと見つめている。――その時、杳は()()()()()()()()()を理解した。溢れる涙を拭う事もせずに、杳はベッドから起き上がると、心の底から湧き出た想いを言葉に変える。

 

()()()()()。これからもずっと。……だって、私が救うから」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 閉じた瞼を押し上げると、杳は()()()()に戻っていた。ヒロドナルドのキーホルダーが眼前に転がっている。度重なる戦闘で、それは無惨にひび割れ、ボロボロに朽ちていた。塗装の剥げた人形の目の周りは黒く汚れて隈模様ができている。杳はふと友人の優しい眼差しと言葉を思い出した。

 

(俺はフォローしない。けど、待ってるから。頑張れよポンコツ)

「……うん」

 

 杳は血塗れの指先を伸ばしてキーホルダーを手繰り寄せ、涙を流しながら頷いた。

 

 

 

 

 治崎が杳の肌に手を触れようとした、次の瞬間――彼女の体から()()()が吹き出した。

 

 想いの力は個性に深く関与する場合がある。かつて大いに恐れ、ロックを殺すために使った力を、今度は杳は()()()()()使おうとした。主の命に従い、個性因子は手を繋ぎ合って、新たなフェーズへ進化を遂げる。

 

 ”量子化”――それが杳の個性の最終形態(ファイナルフェーズ)だった。

 

 時間に関与しない量子の世界は、ありとあらゆる事象や出来事が複雑に折り重なり、互いにせめぎ合っているために、黒く靄がかっている。杳はその世界と同期し、自在に操作する力を手に入れた。見る間に杳の体は黒く靄がかり――まるで一昔前のゲームのように――黒いドット模様が周囲に舞い散り、ノイズが走った。幽鬼のようにゆらりと立ち上がった杳を警戒し、治崎は数歩、距離を取る。

 

「なんだお前は」

 

 生命の危機に瀕した動物が、異常なパワーを発揮するように――()()()()()()()というのは書物で読んだ事がある。だが、それを実際に目の当たりにしたのは初めてだった。だが何にせよ、もう時間がない。徐々に広がっていく壁のひび割れが、治崎の焦燥をかき立てる。どんな個性にしろ、捻じ伏せれば済む話だ。

 

 おもむろに振り返った杳の瞳と、治崎の瞳が交錯する。――もう冷気は感じない。迷いもなかった。力が足りなくても、誰にも理解されなかったとしても、私には必ずやらなきゃならない事がある。救えないと決まっているなら、そのルールを変えればいい。オールマイトがそうしたように。

 

 ――()()()()()()。お兄ちゃんを。救えないと皆が投げ出した人を。誰一人、見捨てたりしない。ある種の狂気とも、信念や強迫観念とも言える()()()()()が、杳の魂を総装甲(フルカウル)する。杳はみなぎる決意と覚悟を言葉に変え、眼前に立ち塞がる(ヴィラン)に放った。

 

「私は、あなたを救う」




話が終わらナイトレイブンカレッジ…( ;∀;)あと2話で終わりたい。


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No.53 白雲杳:ライジング

※作中の前半に非常に残酷な虐待表現、全体的に残酷な描写が含まれます。苦手な方は本当にご注意ください。


()()()()だと?」

 

 治崎の唇が、はっきりとした憎悪の形に歪んだ。(おびただ)しい量の蕁麻疹が両腕に浮き出て、彼の精神を苛んでいく。

 

 ――ヒーローは”指定敵”である自分達を救わない。飢えたハイエナのように周囲を嗅ぎ回って、逮捕する口実を探すだけだ。佐伯がどれほど任侠として堅気の人間を守り、真っ当に生きていても、彼らは決してそれを認めなかった。忌まわしい過去を思い返した治崎は、ヒーローの卵を睨んで、憎々しげに吐き捨てた。

 

「お前の救けなど、求めてない」

 

 治崎はおもむろに右腕を伸ばし、付近に突き立った棘に触れた。たったそれだけで、地上を覆い尽くす茨の園は分解と共に再構築され、地盤ごと大きく盛り上がり――ぼうっと立ち尽くす杳を、まるで食虫花のように包み込もうとした。瓦礫で出来た花弁の内側には、鋭く尖った棘がぞろりと生え揃っている。杳は黒い靄を纏った指先を伸ばし、その一つを突いた。

 

 量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った――とても小さな物質やエネルギーの単位で、この世界を構築するあらゆるものの根源だとされている。注がれた器の形に適応する水のように、今の杳は()()()()()()()。シンプルで強大過ぎるその力は、常人の理解の範疇を超えていた。だから彼女は、自らの理解が及ぶ範囲で、個性を行使した。

 

 十三年、兄の演技をし続けた事で培われた、今や杳の性癖とも呼べる”模倣能力”。杳は新たな力を、自分が一番慣れ親しんでいるその行動に出力変換させた。主の命に従い、量子の群れは自在に動き回り、その姿を鮮やかに変えていく。

 

 ――そうして、杳は治崎の個性を模倣(コピー)した。杳が触れた部分から、棘は()()()()()()()されていく。瓦礫で出来た食虫花だけでなく、トガ達を捕えている棘の山にまで、分解の波は及んだ。杳は砂を媒介にして仲間達に触れ、瞬時に分解と再構築を行って、皆の傷を癒した。

 

「いだあああっ!!」

 

 だが、オーバーホールの個性を使った治癒は()()()()()。ありがた迷惑と言わんばかりに、トガ達は身を捩りながら元気良く絶叫した。その足下を、今度はフワフワした雲がポンと出現して包み込んだ。雲の群れは皆を載せ、佐伯の眠るベッド付近まで飛んで行く。その後、大量の雲は互いに繋がり合い、モコモコと膨れ上がって――仲間達を守る、小さな伽藍(がらん)となった。

 

 

 

 

「ちょっと爺さん!起きてよ!」

 

 同時刻、伽藍の内部にて。夢路は佐伯の肩を掴むと、少し乱暴に揺り動した。ラブラバが再び精査した結果、佐伯の体は()()しているという事が判明した。壊理は正しく力を行使できたのだ。だが、佐伯は依然として目を覚まさないままだった。壊理は大きな瞳を不安そうに潤ませて、静かに眠り続ける祖父を見下ろした。

 

「しっぱいした……?」

「そんなことない。壊理はとっても頑張ったわ」

 

 弱々しく泣きじゃくる少女の頭を優しく撫でて、夢路はにっこりと微笑んだ。それから彼女は、伽藍の外で、治崎と戦う杳を見やる。

 

 まるで神野事件でのオールマイトを見ているようだった。不安と絶望に揺れる夢路達の前で、杳は個性を進化させ、不死鳥の如く蘇ってみせた。だが一見して、善戦しているように思えるが、杳の体を包んでいる黒い靄は少しずつ小さくなっている。対して、大量にブースト弾を撃ち込んだ治崎はますます大きく肥大化していた。戦いが長引けば、杳が危ない。

 

(あなたの力が必要なんだ。あの子を救けたいなら、なおさら私達がしっかりしなくちゃ)

 

 かつての友人の言葉が、夢路の背中をグッと押す。夢路は覚悟を決めると、足元に転がった杳の吸入器を掴んだ。嘘田によれば、治崎は物だけでなく()()も壊し、また創り直す事ができるのだと言う。自分達を襲った時、佐伯ごと部屋を潰せば良かったのに、彼はそうしなかった。

 

 治崎にとって、佐伯は”特別な存在”――という事は、佐伯であれば今の治崎を止められるかもしれない。杳と壊理が紡いだ希望を、私が繋ぐのだ。夢路は壊理をスピナーに託すと、吸入器のレバーを引いた。

 

「この人を起こす。壊理を頼んだわよ」

「……え?おいっ?!」

 

 異変に気付いたスピナーが止める前に、夢路は吸入器のレバーを数度引いて、許容量以上の鎮静剤を吸い込んだ。たちまち暴力的な眠気が脳を痺れさせ、夢路は意識は急速に微睡(まどろ)んでいく。気を失う寸前、佐伯の手を握る事で、夢路の精神体は彼の意識に同期(リンク)した。

 

 ミルフィーユのように多重層を成す心の世界を擦り抜け、夢路は()()()()()に向けて飛ぶ。無数の思い出が散らばる、広大な記憶の世界を擦り抜け、さらにその奥へと――

 

 

 

 

 同時刻。突如として、伽藍の床に()()()()()が芽吹いた。雲で出来た花弁がふわりと開くと――その中には、生まれたままの姿の()()()が眠っていた。杳がオーバーホールの個性を使い、蘇生させたのだ。やがてマグネは目を覚まし、大きな欠伸をしながら伸びをした。それから呆気に取られた様子の仲間達をぐるりと見渡す。

 

「あら。私、生きてたのね」

「マグ姉ぇーっ!」

 

 トガとトゥワイスは転がるように駆け出して、マグネの腕の中に飛び込んだ。スピナーはそっと顔を背けて、鼻をすする。しばらくの間、聖母のように二人の頭を優しく撫でていたマグネは、やがて自分が()()であるという事に気付き、愕然とした。

 

 まるでヴィーナスの絵画のように、マグネは自身の大切な箇所を手で隠しながら立ち上がり、佐伯のベッドにいそいそと走り寄る。その際、ギョッとしたような顔でこちらを見ているスピナーと視線が克ち合った。

 

「いやん見ないでっ!ちょっと借りるわよ」

「へぶうっ!」

 

 マグネは恥じらいつつも、スピナーに強烈なビンタをぶち込んだ。空中を切り揉み回転しながら吹っ飛んでゆくスピナーを尻目に、マグネは佐伯に掛けられた毛布を剥ぎ取り、チューブドレスのように巻き付ける。それから、ベッドに寄りかかるようにして眠っている()()に気付いた。

 

 その手に握られた吸入器を見て、マグネは――幼馴染が今、何をしているのかという事を理解した。スピナーが赤く腫れた頬を擦りながら戻って来て、仏頂面で釘を刺す。

 

「起こすなよ。今、爺さんの夢ん中だ」

「……そう」

 

 あの臆病な幼馴染が、勇敢に戦っている。マグネは静かに拳を握りしめ、()()()()を見た。

 

 伽藍の外の空間は――まるで出来損ないのガラスを通して見ているように――全てが不可思議に捻じ曲がっていた。治崎と杳の個性が拮抗し、周囲を取り巻くあらゆる物質が崩れ去り、また修復される――というサイクルを高速で繰り返しているためだ。注意深く周囲を観察し、再出撃のタイミングを見計らっているジェントルと爪牙の肩に手を置くと、マグネは好戦的な笑みを浮かべた。

 

「さあ。私達も行くわよ!」

 

 

 

 

 伽藍の外にて。空間の至る所に亀裂やノイズが走っている――奇妙な世界で、治崎はぎりっと唇を噛み締めた。――このガキの進化した個性は、どうやら()()の類であるらしい。先程から、自分が分解した時には再構築を、再構築した時には分解を、同じタイミングに放つ事で相殺している。

 

 だが、所詮は付け焼刃に過ぎないと、治崎は目を細めた。杳が個性を発動するまでには、若干の()()()()()がある。進化したばかりの個性を、すぐさま自在に扱うというのは難しいようだ。

 

「同じ土俵で俺に勝つつもりか」

 

 冷たく吐き捨てると同時に、治崎の背部が急速に膨れ上がった。硬化した皮膚が裂け、中から血管が異様に浮き出た()()が姿を現す。指先には鋭く伸びた爪が生え、二対の腕は丸太のように頑強だった。杳が防御反応を取るよりも早く、両腕は唸りを上げて、彼女の胴体に深く突き刺さる。煙が風に揺らぐように、黒い靄が大きく棚引いて、杳は苦しそうに顔を歪めた。

 

 このガキの個性は一時的に形を変えるもの。今回の個性も()()()()なら、集中を欠けば勝てる。人の姿に戻った後、一息に殺せばいい。果たして治崎の思惑通り、杳の周囲を取り巻く靄は急速に霞んでいった。

 

 そのまま小さな体を二つに引き千切ろうと、治崎が複製腕に力を込めた、その時――彼の頬に()()()()がそっと触れた。

 

 鬼の腕に殺される直前、杳はトゥワイスの”二倍”の個性で創った自らの分身と入れ替わっていた。本体は霧化する事で中空に逃れていた。杳の分身は量子化の個性によって本物同然に強化され、死して尚、泥と変わる気配を見せない。

 

 治崎が反射的にその手を振り払った瞬間、二人の心が触れ合った。

 

 ”精神世界の観測、および干渉”、杳の固有能力は、量子化する事でさらに昇華した。夢の中に限定されていたその力は今、対象に()()()()()で可能となる。量子の塊と化した杳は、治崎の体内へ侵入した。皮膚の組織の隙間を掻い潜り、血流の流れに乗って、神経が織り成す複雑な森を掻き分け、さらにその奥へと――

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 気が付くと、杳は古びた家の玄関内に立っていた。廊下は足の踏み場がない位にゴミが散らかっていて、据えた匂いと煙草の匂いが充満している。突き当たりにあるドアには擦りガラスが嵌まっていて、その中から光と、男女の怒鳴り声が漏れていた。杳はゴミが足を汚すのも構わずに廊下を進んで、ドアを開ける。

 

 中はリビングルーム――と思しき間取りだったが、はっきり言って廊下よりも()()()()()だった。凄まじい悪臭が鼻を刺し、杳は吐き気を堪えるために口元を押えた。室内の至る所を、蠅や害虫が我が物顔で這い回っている。中心部分には一際高く積もったゴミの山があり、その(ふもと)に男が座り込んで、酒を飲んでいた。その背中に火の付いた煙草を投げつけ、女が噛みつく。

 

(働かないんならさっさと死ねよ!このごく潰し!)

(うるせーな!今まで誰のおかげで飯が食えてきたと思ってんだ!)

 

 思わず耳を塞ぎたくなるような、汚い言葉の応酬が続く。杳は、部屋にはこの二人だけでなく――()()()()()もいる事に気付いた。部屋の隅のゴミ山に埋もれるようにして座り、虚ろな表情で耳を塞いでいる。杳は少年の前にしゃがみ込むと同時に、息を詰めた。

 

 少年の黒髪は所々、毟られていた。ろくに食べ物を摂取していないのか、あばらが浮き出ている。殴打された痕、煙草を押し付けられたような火傷痕、刃物で付けたような蚯蚓腫れが、体表をくまなく覆っていた。

 

 小さな子供になんという所業を。腸が煮えくりかえる程の義憤の感情が、杳の心身を駆け巡った。その勢いに任せ、彼女が両親と思しき男女を振り返った、その時――大量のアルコールでどろんと濁った男の目が、()()()()()を放った。

 

 無意味な事だとは知っていながらも、思わず二人の間に割って入ろうとした杳を擦り抜け、男は掴んだ酒瓶を女の頭に叩きつける。女は悲鳴を上げて床に倒れ込み、金切声で少年の名前を呼んだ。

 

(救けてええ!廻いい!お父さんに殺されるうう!)

(黙ってろ!)

 

 男は女に圧し掛かると、口の辺りを殴った。女の口から不明瞭な叫びが漏れる。抵抗できない彼女をさらに痛めつけようと、男は拳を振り上げた。

 

(やめろおおお!)

 

 刹那、少年が弾丸のように飛び出して来て、男を殴った。激昂した男は、標的を女から()()()変更する。身代わりになった息子を救けようともせず、女は安全な場所に逃れると、スマートフォンを取り出して警察に通報した。

 

 自身のみぞおちに深くめり込んだ男の足を、少年が夢中で掴んだ、その瞬間――触れた足の部分から無数のひび割れが走り、男の体は内側から弾け飛んだ。

 

 身を守るため、少年は個性を使ったのだ。大量の血飛沫がシャワーのように降り注ぎ、少年の体を濡らす。彼は自分のした事をまだ理解できずに、茫然としていた。恐怖と悔悟と安堵――様々な感情が入り混じった金色の瞳が、ぼうっとその場に立ち尽くす女の顔を映し込む。

 

(大丈夫?母さん。もう父さんは……)

(来ないでッ!)

 

 女は恐れおののいた表情で一歩退き、叫んだ。杳の目の前で、少年の幼い顔が()()()()()

 

 子供にとって母親は特別な存在だ。それなのに、女は縋るように伸ばした少年の手から身を捩って逃げ、どやどやと室内に雪崩れ込んだ警察官とヒーローに縋りついた。二人はまず部屋の惨状に絶句し、吐き気を堪えながらも、女を抱き留める。女は少年を指差し、泣き叫んだ。

 

(こいつが夫を殺したの!私は何も悪くないの!被害者なのよお!)

 

 その言葉を聴くと、警察官とヒーローは真剣な表情で少年を見た。血飛沫に塗れた子供を警戒しつつ、二人はそれぞれ静かに一歩、踏み込んだ。

 

 少年が親から虐待を受けている事は明らかだ。母親が嘘を吐いている可能性もある。一刻も早く母子を保護し、真偽を確かめたかったのだろう。だが、父を殺し、母に裏切られたばかりの幼い子供に、()()()()は残酷過ぎた。少年は助けを求め、女を見上げる。

 

(か、母さんも……父さんのこと、死んじゃえって……)

(そんなこと言ってない。嘘吐き)

 

 女は再び、()()()()()()()。突き放すように冷たい声が、少年の頬を打つ。警察とヒーローの胡乱げな目線が、女に注がれた。女は焦りを帯びた顔でヒーローの腕を掴んで、激しく揺さぶった。

 

(この子、すぐ嘘を吐くの!怖い個性も持っててえ……病気なんです、病気!病気いい!)

 

 目の前で喚き立てる女と自分が()()()()だとは、杳には到底思えなかった。心無い言葉が少年の心に突き刺さる度、彼の体表に(おびただ)しい量の蕁麻疹が浮かんでいく。

 

 ――もうこれ以上、見ていられなかった。杳が思わずその痩せた肩を掴もうとした瞬間、おもむろに少年が振り返った。その目は激しい憎悪に燃えている。

 

「見るな」

 

 少年は杳を突き飛ばし、心の世界から弾き出した。杳の精神は強制的に()()()()へ戻り、再び治崎と対峙した。少年と同じ金色の瞳を――激しい憎悪と怒りの感情で燃え上がらせ――治崎は吐き捨てた。

 

「人の心に土足で踏み込んで、無遠慮に眺め回す事が、お前の言う”救い”か?」

 

 治崎は、八斎衆を吸収した時に彼らが持っていたブースト弾を破壊し、取り込んだ。過剰服薬(オーバードース)の影響でバイタルサインが異常上昇し、全身が大きく軋んで悲鳴を上げる。痙攣を起こし始めた心臓を無理矢理押さえつけ、治崎は自らの体躯をますます肥大化させた。

 

 ドームの天井に()()()()()、外界で警察達が懸命に創っていたひび割れを瞬時に修復する。そして、今や蟻のように小さく見える――杳を叩き潰さんと、巨大な左手を叩きつけた。

 

「俺に触れるな!」

 

 だが、その寸前、雲で出来た()()()()()が杳の周囲に芽吹いて、鬼の手に絡み付いた。数瞬後、地上から蓮の花や葉を引き連れて、顕現したのは――()()()()()だった。

 

 大きな仏様は蓮と同じように雲で創られていて、その姿は――まるで幼稚園児が粘土で創ったように――不恰好で、(いびつ)だった。杳の歪んだ正義感を体現しているように。

 

 菩薩は地上にふわりと浮かんで、鬼と対峙した。抱擁する為に、菩薩は腕を広げた。殺す為に、鬼は威嚇した。鬼は菩薩の胸に飛び込むと、中にいる杳を喰らい尽くさんと、雲でできた柔らかな体を引き千切り始める。その鬼を、菩薩はそっと抱き締めた。鬼が仏様の奥深くに入り込み、中に眠る杳の心臓を突こうとした、その時――()()が、杳の手を引っ張った。

 

 

 

 

 ヒーロー飽和社会と呼ばれる現代、ヒーロー業は基本的に()()()だ。多くの人を救う程、敵を倒す程、その人の社会的価値は上がる。元々は無償だったその善行に金銭が発生するようになってから、世界は徐々に歪んでいった。

 

 個性を公に使用する事のできる存在は、ヒーローのみ。人々は皆、ヒーローになりたがった。世界はヒーローで溢れ返り、彼らは日銭を稼ぐため、活動に精を出す。一人でも多くの人を救い、敵を倒す。その為には、一人一人とじっくり向き合っている時間はない。高速制圧・救助、そして人気。それらがヒーローとして、最も評価される基準となった。

 

 やがて民衆は、”ヒーローと敵”――その単純な認識しか抱かないようになった。彼らがどんな想いで戦っているのか、どんな想いで敵に身を(やつ)したのか、そんな事は考えない。大抵深く考える前に敵は連れ去られるし、考えたところで自分達にできる事は何もないからだ。ヒーロー達が提供し続ける、ファーストフードのように中毒性のある平和を日々享受するだけ。

 

 ――これが、オールマイトが全てを犠牲にして創り上げた、()()()()()()だった。

 

 そんな社会で、杳は敵を救わんと手を伸ばした。その異質な想いは、深く心を閉ざした治崎にはまだ届かない。だが、彼が体内に取り込んだ()()()()には届いた。彼らを取り巻く闇が深い程、人々が偏見と無関心に満ちている程、その光は身を焦がす位に眩く、強く周囲を照らし出した。まるで光を求める蛾のように、彼らは我武者羅に手を伸ばし、それに触れようとした。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 気が付くと、杳は()()()()()にいた。どこか見覚えのある公園には、縁日がずらりと立ち並び、威勢の良い呼び声と美味しそうな匂いを辺りに漂わせていた。目の前には、金魚すくいの屋台がある。水色の大きな桶に水が張られ、中には金魚の群れが泳いでいた。揃いの作務衣に身を包んだ子供が二人、ポイを掴んで、泳ぎ回る金魚に狙いを定めている。短く切った黒髪に金色の目の少年と、時計の針のような髪を持つ少年だ。

 

「杳」

 

 ふと名前を呼ばれ、杳は顔を上げた。桶の前に座る店主は、()()だった。今とは比べものにならないほどに活気に満ち、若々しく勇猛な顔立ちをしている。嘘田は太陽のようににっかりと笑うと、杳にポイを手渡した。

 

「お前ならきっとできる。()()()()

 

 次の瞬間、巨大な()()()が空から降りて来て、杳を掴もうとした。だが、その寸前、手の中にあるポイが消え去り、杳の立っている地面が和紙のように破れた。重力に従い、杳の体は暗闇の中を落ちていく。精神世界は多層構造になっており、下層になる程、その人の行動の根源――つまりは魂に深く関わるものを映し出す。

 

 暗闇の中から金魚の群れが現れて、杳を守るように囲み、泳ぎ始める。金魚の吐き出す泡の一つ一つに、治崎が今まで行ってきた所業の数々が映し出された。

 

 確かに治崎は許されない罪を犯した。けれども一つとして、彼が笑っている場面はない。能面のように(いろ)のない顔、怨嗟の念がぎっしり詰まった瞳――そればかりだ。一体、どうして。杳は答えを求めて宙を蹴り、さらに下降するスピードを速めた。

 

「……ッ!」

 

 その行く手を阻むように、治崎の()()()()が牙を剥く。無数の刃が闇の中から現れて、空中を自在に飛び回り、金魚の群れを突き殺した。そして守るものの無くなった杳を包んで串刺しにしようと、一斉に襲い掛かる。刹那、銀色に光る刃の表面に――見覚えのある()()()()が映り込んだ。

 

「なぁ。()()俺から奪うのか?」

 

 後方から窃野の声がして、杳は振り向いた。――薄汚れた路地裏に、窃野が座り込んでいる。杳はしゃがみ込んで、窃野の頬にそっと触れた。彼は抵抗しなかった。杳の心に、彼の記憶が流れ込んでくる。

 

 窃野は昔、飛び降り自殺を図ったところをヒーローに助けられた。だが、彼は窃野と話をしなかった。窃野が負っている多額の借金も、彼がどんな想いで死を選んだのかという事も知らないまま、彼は諸手続きを済ませた後、忙しそうに走り去っていく。

 

 少しでも多くの手柄を上げなければ、新人ヒーローが本業だけで食べて行く事は難しい。その事は分かっている。やるせなくて、杳は唇を噛み締めた。絶望に打ちひしがれる窃野の前に、治崎が現れて救いの手を差し伸べる。その様子を見ている杳の肩を、誰かがそっと掴んだ。

 

「心から、私を必要としてくださった方だ」

 

 振り返ると、淡い緑色の髪をかき上げた一人の男が、こちらを見つめていた。――生まれ持った個性の為に、()()は孤独な人生を送っていた。個性で本音を問い質すと、人は皆、嘘を吐いていた。音本はただ信頼できる友が欲しかった。彼にとって治崎は唯一の友であると同時に、生涯を賭けて守るべき主人でもあった。

 

 かつて治崎を確かめたように、音本は()()()()()。ヒーローとは音本の最も忌み嫌う人種、綺麗事と嘘が服を着て歩いているような連中ばかりだ。

 

 だが、この子供は違う。死の間際に感じ取った脆弱な心は鳴りを潜め、今は()()()治崎を救おうと思っている。それが現代の社会でどれほど奇異な事か、音本にはよく分かった。彼の目から、一粒の涙が零れ落ちる。その涙は地面に染み込んで世界を融かし、杳は再び、暗闇の中に放り出された。

 

 次の瞬間、()()()()()が蛇のように空中をうねり、杳の体にきつく巻き付いた。焼け焦げたその縄は、彼女の皮膚に黒い跡を残す。拘束から逃れようと身を捩る杳の周囲に、巨大な鉄の斧や(のこぎり)が現れた。黒い跡に沿って切ろうと、刃の群れが彼女に迫る。

 

 刹那、()()が刃の群れを振り払い、杳の胸倉を掴んだ。金髪を短く刈った、壮年の男だ。

 

「見ろよヒーロー!見ろ!」

 

 閉じた瞼を開くと、杳は交番に立っていた。中には――先程の壮年の男と佐伯、警察官とヒーローが立ち並び、深刻な表情を突き合わせている。書斎机には、貴金属の類が転がっていた。ヒーローは、貴金属と男を交互に指差して”盗っ人は彼なのだ”と警察に言った。男は激昂して怒鳴る。

 

(わけわかんねェいちゃもん付けンじゃねーぞ!盗んだのはテメーだろうが!)

 

 思うように手柄を上げられず、生活に困窮するようになったヒーローは、前々から目を付けていた宝石店から貴金属の類を盗んだ――ところを、偶然その店の前を通り掛かった男に捕まった。だが、ヒーローはあろうことか、男を犯人に仕立てあげようとしたのだ。天井の隅に設置された防犯カメラを認め、男は警察に言い募った。

 

(カメラで確認しろ!どっちが正しいか分かるはずだ)

(そんなもの、見るまでもないだろう。お前達は()()()だ)

 

 警察官が冷たく放り投げた言葉を、杳は咄嗟に理解する事ができなかった。義憤に駆られて、今にも暴れ出しそうに唸り声を上げた男の手を、佐伯がグッと掴んだ。そしてそのまま二人で頭を下げる。

 

 警察とヒーロー側による()()で、事件は未遂に終わった。拘留所から解放された男を佐伯が迎える。黙り込んだ二人の影が、夕焼けで赤く染まったアスファルトに長く伸びた。

 

(すまねェな。()()

 

 その言葉を聴いた瞬間、入中の瞳から()()()()()()が消え去った。昔、それこそヒーロー飽和社会と呼ばれる前は――死穢八斎會は時にヴィジランテとして、縄張りを()()()()の手から守っていた。縄張りに住む人々と組の構成員は、一定の信頼で結ばれていた。だが今は、もう何もない。

 

(もう世間様は、任侠(俺達)の手助けは求めてねえらしい)

「……これがヒーローのする事か?」

 

 入中の静かな声が、杳の耳朶を打つ。確かに、彼らは許されない罪を犯した。だが、その原因を創ったのはヒーローであり、ヒーローを支える社会なのだ。――突如として、入中が杳を突き飛ばした。同時に空から()()()()が飛んできて、入中を貫き、地面に突き立った。

 

 杳が矢を抜こうと踏ん張っていると、夕焼け空に掛かる雲を煩わしそうにかき分け、巨大な鬼が姿を現した。頭が金色に輝き、目から火を噴いている。血に染まった和服を着た巨人は杳を睨み、大きな弓に矢を番えた。

 

 その時、杳の体に()()()()()()が巻き付いて、下へ引っ張り込んだ。その毛先は時計の針のように尖っている。地面は薄いガラスのように砕け散り、杳はまた、暗闇の中を落ちていった。

 

 真っ暗な世界を落下していく中で、周囲に様々な光景が映った。それは、”指定敵”のレッテルを張られた治崎達が受けて来た――差別と偏見の記憶だった。美しく輝くヒーロー社会の()()()()を目の当たりにし、杳の心がズタズタに引き裂かれていく。今まで信じていた世界がひび割れ、汚泥に塗れ、腐臭が漂い始める。絶望に呑まれかけた自分の心を、杳は叱咤した。

 

(他の誰が許さなくたって、俺が許す。たとえ間違いだろーが……誰かの為にすることなら、それは間違いじゃない)

 

 絶望する必要などない。何故なら、杳を救ったのもまた、ヒーローだからだ。世界の全員が、敵とヒーローに分かれるわけじゃない。皆、自分と同じ――汚いところも綺麗なところも併せ持つ、人間なんだ。その事を忘れるな。希望を絶やさず、迷いの中を進め。杳は歯を食い縛り、ボロボロになったキーホルダーを潰れるほど強く握り締めた。

 

 やがて、眼下に青白い輝きを放つ部屋を認め、杳は静かに降り立った。――そこはありあわせの機具を寄せ集めた、不恰好な研究室だった。医療椅子に壊理が横たわり、苦しそうに息を荒げている。折れそうな程に細いその腕に、男が注射針を押し込んだ。彼の髪は、時計の針のように先端が尖っている。

 

(もう限界ですね。体力も尽きてやす)

(そうか。じゃあ、そろそろ修復するか。仕切り直しだ)

 

 治崎が白い手袋を脱いで、男の後ろに立った。彼が退くのを待っているのだ。だが、彼は青ざめて声もなく泣いている壊理を見つめたまま、凍り付いたようにその場を動かなかった。

 

(……玄野)

 

 治崎は怪訝そうに眉をひそめ、男の名前を呼ぶ。玄野の表情は平静を保っているが、空の注射器を持った右手が細かく震えていた。杳は両手を伸ばし、その手を注射器ごと包み込む。玄野は一瞬、激しい憎悪の感情に燃え盛る目で、杳を睨んだ。だが、数秒後、何かを堪えるように唇を噛み締めて俯き、部屋の奥を指差した。

 

「頼む」

 

 玄野の指し示した方向、壊理の横たわる医療椅子の奥には――大きな扉があった。杳の目の前で、扉がゆっくりと開いていく。

 

 ――仄かな雨の気配、優しい花の香りが、杳の鼻腔を掠めた。しかし、中の様子が見える前に、杳は()()()()に背中を深々と貫かれた。治崎の防衛本能が、杳と仲間達の想いを上回ったのだ。石炭のように燃え盛りながら、矢は轟々と宙を飛ぶ。体外に放り出される寸前、杳は最後の力を振り絞り、吸収された玄野達を修復し、排出する事に成功した。

 

 

 

 

 同時刻。夢路は佐伯の夢の世界に到達していた。――そこは、()()()()()()だった。見渡す限り、荒涼とした大地が広がっていて、空は血のように赤く染まっている。血と錆びでできた剣が突き立った山、ぐつぐつと煮えたぎる湯釜の周りを、巨大な鬼が歩き回っていた。

 

 立っていられない程の悔悟と懺悔の念が、背中に重く圧し掛かる。これほどの悪夢を、夢路は今までに見た事がなかった。よろけた拍子に足元に目をやり、彼は大きく息を飲んだ。地面のひび割れから毒液や火を噴く虫や蛇が這い出して来て、自分に襲い掛かろうとしている。

 

 思わず身構えたその時、突然、目の前に閃光が炸裂した。たちまち、虫や蛇は蒸発して消えていく。光が徐々に消え去ると、そこには儚い雰囲気を讃えた美しい少年が立っていた。

 

 ――望だった。呆気に取られた夢路が弟の名前を呼ぶ前に、望は華やぐように笑うと、武骨な岩山が脈を連ねる世界の奥を指差し、ふっとかき消えた。恐らくその先に、()()がいるのだ。

 

(姉さんなら大丈夫。頑張って)

 

 静かな声が、頭の中で聴こえる。夢路の心にもう恐怖はなかった。熱い感情で一杯になった心を奮い立たせ、前に向かって足を進む。周囲を見回る鬼の足元を掻い潜り、虫や蛇を退け、剣山の上を跳び、そして行き着いた先は――さらなる地獄だった。

 

 まるで()()()()のように、佐伯は終わる事のない責め苦を受けていた。無数に突き立った剣山に全身を貫かれ、その上から更に千本の釘を打たれる。舌を引き抜かれ、激痛にもがく体を毒や火を吐く虫や大蛇が蹂躙する。無数の目がついた鬼が火を噴き、その体が炭になるまで責め苛む。消し炭になった佐伯の体を鬼が摘まんで持ち上げる。しばらくすると真新しい皮膚が生まれ変わり、佐伯の体は癒された。その体を、鬼は剣山に叩きつける。

 

 ――その時、夢路は気付いた。佐伯の意識は()()()()()のだ。日々、非業の限りを尽くしていく治崎を見守る事しかできない自分を、夢の中で罰しているのだろう。

 

 自分の力ではどうする事もできない不条理を前にした時、人は絶望し、自棄になる。だが、()()そんな事をしている場合じゃない。佐伯なら、治崎を止める事ができるかもしれないのだ。夢路はありったけの力を込めて、夢の世界に干渉した。カチリと音を立て、時が止まる。

 

「ねえ、起きてよ!こんな不毛な事してる場合じゃないわ!治崎を止めて!」

 

 しかし、その言葉は佐伯に届いていないようだった。虚ろに開かれた老人の瞳から、涙が零れ落ちていく。――心が折れてしまっている。夢路は唇を噛み締めた。

 

 心が頑固な程、衝撃を受けた時は脆いものだ。その事はよく分かる。だが、それにのんびりと付き合う時間は残されていなかった。今も尚、現実世界で果敢に戦っている友人を思い、夢路の目から熱い涙が零れた。体じゅうが傷つくのも構わずに剣山を昇り、佐伯の胸倉を掴み上げる。

 

「あたし達は、良い人間じゃない。今まで、人に誇れない事ばかりして生きてきた。取り返しのつかない間違いをして、大切なものを失って……もう二度と立ち直れないって思った日もある。でも、それでも……前に進まなきゃなんないのよ!」

 

 刹那、怪獣の咆哮のような地鳴りと共に、世界が大きく揺れる。杳が治崎と戦っているのだ。――私があの子を焚き付けた。鋭く尖った罪悪感の刃が、夢路の背中に深々と突き刺さった。”弟の無念を晴らす為”という自分の我儘のせいで、平凡に生きていられたはずの少女を巻き込んだ。

 

「頼むから、あいつを止めてよ。あんたの息子でしょ!」

 

 夢路の叫びが、陰鬱な世界に響き渡り、余韻を残して消えていく。大粒の涙が、佐伯の頬に流れ落ち、こびり付いた血を洗い流していった。

 

 

 

 

 その頃、()()()()では。度重なる戦闘の中で疲弊し、杳の全身は燃えるような高熱を発していた。起き上がろうと地面に付いた両腕が融けて燃え落ち、杳は無様に倒れ伏した。

 

 ――重度のオーバーヒートが起きていた。杳はまだ量子化の個性を扱い切れていない。強大な個性を()()()()に押し込めて強引に使い続けた為、体組織がエネルギーを循環し切れず、深刻な摺動抵抗が起こっていた。体内の一部を雲化して冷気を出すが、付け焼刃程度にしか回復しない。

 

 このまま戦い続ければ、自分がどうなるか分からない。だが、杳はそれでも立ち上がった。杳の最後の足掻きにより、仲間達を取り除かれた治崎は人の形に戻っていた。だが、それだけだった。彼の瞳に籠もった怨嗟の念は、依然として弱まる様子を見せない。

 

「お前も壊理も、力の価値を分かっていない」

 

 治崎はおもむろに手を伸ばし、瓦礫の一部に触れた。出来損ないの泥人形のように、最早自分の形すら保てなくなってきた杳を睥睨する。

 

「個性は伸ばす事で飛躍する。俺は研究を重ね、壊理の力を抽出し、到達点まで引き出す事に成功した」

 

 次の瞬間、治崎の体躯が急速に膨れ上がった。周囲の瓦礫を吸収したのだ。今までの抵抗は全て無駄だったと嘲笑わんばかりに、見上げる程に大きな()()()()が立ち上がり、杳を見下ろす。もう彼女に、それと真っ向から立ち向かう力は残されていなかった。

 

「結果、単に肉体を巻き戻すに留まらず、もっと大きな流れ……変異が起こる前の形へと()()()()。壊理にはそういう力が備わっている」

 

 巨大な手が杳を掴んで、人形のように持ち上げた。大きな金色の瞳とゴマ粒のような灰色の瞳が混じり合う。その時、杳は治崎の目の奥に――小さな少年を見つけた。守られるべき者に傷つけられ、それでも救けようと力を振るい、裏切られた子供の姿を。杳は力を振り絞り、再び、治崎の心に同期(リンク)した。

 

「個性因子を消滅させ、人間を正常に戻す力。個性で成り立つこの世界を、理を壊す力。それが壊理だ!」

 

 ある記憶のワンシーンが、杳の網膜に焼き付いた。――研究室の医療椅子に壊理を座らせ、治崎が話を聴いている。個性が暴発して父を消滅させ、母に呪われていると詰られた哀れな娘。治崎は全てを聴き終わると、静かに壊理を見下ろした。怯えたように身を縮こまらせる少女の姿が、()()()()()()と重なった。

 

(可哀想に。お前は()()()()だ)

 

 ――俺と同じように家族を殺し、呪われた個性を持つ病人。どこにも寄る辺のない、価値のない人間だ。恐れおののいた壊理の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。その目に映り込んだ治崎の表情は、底知れない悲哀の感情に満ちていた。

 

「どいつもこいつも大局を見ようとしない!俺が崩すのはこの世界!その構造そのものだ!」

 

 今にも杳を握り潰そうとする治崎の足下に、伽藍を抜け出した敵連合・ジェントルと爪牙が、一斉攻撃を仕掛ける。それを煩わしそうに一撃で振り払い、治崎は杳の体を地面に叩きつけた。大破した体を修復しきれず、黒い靄が激しいノイズとドットを撒き散らし始める。スライムのように地上をのたうつ杳を踏み付けんと、治崎は巨大な足を振り上げた。――俺を救うだと。

 

「目の前の小さな正義だけの――感情論だけのヒーロー気取りが――俺の邪魔をするなッ!」

 

 治崎は地盤ごと、杳の体を踏み潰した。汚らわしい害虫を滅殺するように強く踏みにじった、その時――治崎の頬を白い手が再び、撫でた。

 

 その瞬間、周囲を舞っていた土埃の一片(ひとひら)ひとひらが、淡く色付いた()()()()()()に変わった。突如としてドーム内の天井に雨雲が発生し、そこから優しい慈雨が降り注いで、治崎の体を濡らしていく。雲の中から、小さな少女の声が降りて来た。

 

「思い出して」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(俺の事(ヴィラン)野郎と言われて、ケンカしたんか)

 

 気が付くと、治崎は雨の降り続く中に立っていた。傍らには、和傘を差した佐伯がいる。――それは、外道を歩む為に心の片隅に置き去った、治崎の一番大切な記憶であり、彼の原点だった。

 

 学校で”敵野郎”と佐伯を詰られ、元々喧嘩っ早い事も災いして、治崎は生徒と激しい喧嘩をしてしまった。治崎が指定敵の家の子だというだけで、詰った生徒は哀れな被害者になった。治崎は問題児として扱われ、保護者の佐伯は学校から呼び出しを受けたのだ。

 

(この子、すぐ嘘を吐くの!怖い個性も持っててえ……病気なんです、病気!病気いい!)

「……ッ」

 

 かつての母親の言葉が心の底から蘇り、深く突き刺さる。脳髄が痺れるような恐怖心に支配され、彼は凍り付いたように黙り込んだ。

 

 裏切られる。捨てられる。追い出される。また、嘘を吐いたと、病気だと言われる。心臓の鼓動が早くなっていく。冷たい汗が全身から噴き出す。手足の感覚がなくなり、氷のように冷たくなる。だが、治崎に佐伯は傘を差しかけ、慈愛で包まれた武骨な声で呟いた。

 

(極道がカタギに手ェ出しちゃあいけねぇ。……でもな、治崎。面子守ろうとしてくれて、ありがとうよ)

 

 ――優しい人だった。守りたかった。何も大した事は望んじゃいない。一緒にいるだけで良かったんだ。だけど、世間はそれを許さなかった。このまま行けば、組は解体される。家を失って霧散した極道の未来は、ない。あんたを路頭に迷わせたくなかった。惨めな思いをさせたくなかった。鬼になってでも、救いたかったんだ。

 

 

 

 

 頬を濡らす暖かい感覚で、杳は鉛のように重い瞼を開いた。もう四肢の感覚がない。わずかに残った頭と胴体部分だけで、杳は生きていた。――自分の上に覆い被さった治崎が、泣いている。治崎は自分の視界を邪魔する熱い水を不審に思い、何度か目元を拭った。そして指先を伝う透明な滴をじっと観察した後、杳を見る。

 

「なぁ。ヒーロー。満足したか?」

 

 治崎の問いに、杳は応えなかった。もう応える力が残されていなかった。か細い呼吸を繰り返す子供を見下ろし、治崎は思考を巡らせる。

 

 どう足掻いたところで、この小さな子供に自分達を救う事などできない。怪物が善い心を取り戻し、ハッピーエンドで終わるのはお伽噺(とぎばなし)だけだ。現実は死なない限り終わりはなく、ただ苦しみが募るだけ。治崎は流れ落ちる涙をそのままに話を続ける。

 

「お前達はいつもそうだ。好き勝手に踏み荒らして、後片付けもせずに去って行く。だが、おかげでよく分かったよ。……俺にはまだ人の心が残ってた」

 

 戦闘の最中、治崎は自分の心の在り処を見出した。それのせいで、治崎は今でも戸惑う事があった。そのわずかな躊躇う時間すら惜しいというのに。どれほど自分の脳を弄っても、その感情は消えなかった。

 

 だが、その煩わしい時間ももうすぐ終わる。この子供と一緒に、俺の心も殺す。苦しそうな呼吸を繰り返す少女の姿が、幼い自身の姿に変わった。ボロボロに傷ついた体を縮こまらせ、怯え切った金色の瞳でこちらを見上げている。その首に治崎は手を掛けた。そのまま頸椎を折ろうとした、その時――

 

「もういい。治崎」

 

 ――穏やかな老人の声が、治崎の耳朶を打った。

 

 

 

 

 ひゅう、という奇妙な呼吸音が、治崎の口から漏れた。――目の前に()()が立っている。怒りも憎しみも、苦しみもない、静かな瞳で、佐伯は治崎を見つめていた。

 

(ウチの考えに背きてえなら、おめェ……もう出てけ)

 

 ああ、()()()と同じ目だ。その事に気付いた瞬間、治崎の理性が吹き飛んだ。

 

 ――居場所を失うなど、治崎には耐えられなかった。だから、佐伯を眠らせ、もう一度やり直そうとした。大きく成長した組を見れば、佐伯は必ず認めてくれると。だが、聡明な治崎には分かっていた。外道に進んだ組を、目覚めた佐伯が認めるはずがない。自分はただ、終わりを先延ばしにしただけなのだと。

 

 恐れていた事が現実になり、治崎の心は割り砕かれた。自制を失った治崎は空を振り仰いで、獣のように慟哭する。そして、()()()襲い掛かった。もう彼は、自分が何をしようとしているのかも分かっていなかった。

 

 佐伯は右の拳を引き、力を込める。――彼の個性は”拳固(げんこ)”、握った拳を強化し、炎のエネルギーを纏わせる事ができた。周囲にバチバチと火花が散り、拳全体が石炭のように熱く燃え上がる。

 

 そして――治崎の瓦礫に塗れた拳と、佐伯の赤く燃える拳が()()()()

 

 二人の力は一瞬拮抗していたが、やがて治崎の力の方が上回り、佐伯の踏み込んだ足が地盤に沈んでいく。ギシギシと体が軋む音がする。――たとえ相打ちになっても、お前を。佐伯が死にゆく覚悟を固めると同時に、拳を包んでいた炎は全身に燃え広がった。その時、柔らかく暖かな手が右足に触れる。佐伯は足元を見降ろした。

 

 ――幼い少女がしがみ付いている。()()だ。大きな赤い瞳を涙で潤ませながら、彼女は佐伯を見上げ、震える声で囁いた。

 

「がんばって」

 

 次の瞬間、壊理の個性が発動した。老いさらばえた体に生気が(みなぎ)り、細胞が若返り、筋肉と肌が力強い張りを帯びていく。

 

 ()()()()()()()。佐伯は無力な我が身を呪った。だけれども、人には退いてはならぬ時がある。――壊理、ありがとうよ。佐伯は拳を握り直し、体を大きく退いた。そして、渾身の一撃を放つ。

 

 佐伯の拳は、壊理が修復する毎に膨れ上がり、やがて治崎を飲み込んだ。不気味に輝く瓦礫の世界を、赤色と金色のエネルギーが埋め尽くしていく。佐伯の瞳と治崎の瞳が、静かに交錯した。

 

「治崎」

 

 名前を呼ばれた時、治崎の顔が――まるで親に叱られた時の子供のように――大きく歪んだ。そう、子供だ。佐伯は心中で呟いた。

 

 あの時、自分が歩み寄っていれば、組の未来は違ったものになっていたかもしれない。当時は、自分の生き方を曲げる事などできなかった。だが今となっては、それがどれほど無意味で無価値なものか、佐伯にはよく分かる。

 

 肩身の狭い暮らしでも、ただ家族と共に過ごせればよかった。だがその為には、泥を被る必要があった。決して褒められたやり方ではないが、治崎は()()()()()()に、泥を被ろうとしたのだ。佐伯は治崎を殴り倒す寸前、悔悟の言葉を放った。

 

「一人で頑張らせて、すまなかった」

 

 ――数瞬後、治崎の体は轟音を立てて、ドームに叩きつけられた。

 

 瓦礫の壁に無数のひび割れが走り、ボロボロと崩れ落ちて、治崎の頭上に降り注いでいく。思わず駆け出そうとした途端、佐伯は体が湧き立つような感覚に襲われ、ひざまずいた。細胞の一つ一つが燃え上がるように熱い。やがて、体じゅうの穴から金色の炎が吹き出した。

 

「ぐっ……ッ」

 

 壊理の個性が暴走し始めていた。壊理は必死に心を落ち着けて、力を沈めようとした。だが、度重なる戦闘に巻き込まれた事で、興奮状態に陥った彼女の精神はすぐには鎮まらない。焦る程に力の勢いは増し、やがて佐伯の体は()()()()始めた。手に持ったマジカルステッキが消失する。

 

 ――止まって!嫌、この人が死んじゃう!壊理は身を捩り、泣き叫んだ。治崎の埋もれた瓦礫の山から、黒々とした呪いの影が染み出して、壊理の背中に覆い被さろうとする。

 

(お前は呪われた存在……)

 

 その時、風に乗って()()()()()()が聴こえた。

 

 壊理は狂ったように周囲を見回し、声の在り処を探す。数メートル先に、黒い靄の塊が広がっていた。まるで壊れかけのプログラムのように――耐えずノイズが走り続けるその靄の中から、白い手が突き出ている。その手はマジカルステッキを持っていて、壊理の前でスイッチをもう一度押してみせた。

 

(壊理ちゃんは呪われてなんかない。ヒーローだ)

 

 壊理の脳裏に、暖かな腕の感覚が蘇る。優しい陽だまりの匂いも。――脳髄が痺れるような、恐怖の感情は消え去った。壊理は喉を震わせて大きく息を吸った後、歌を謳い、徐々に個性を鎮めた。気が抜けたのか、地面に崩れ落ちようとする小さな体を、佐伯が抱き留める。その光景を見守った後、杳は意識を手放した。

 

 ふと視界の端に()()()が映った。黒霧のワープゲートだ。マグネ達がこちらに手を振りつつ、中へ消えようとしている。杳の心はとても清らかで静謐な状態だった。完全に意識が途切れる寸前、彼女は心に浮かんだ言葉を素直に呟いた。

 

「ありがとう」

 

 

 

 

 もう台風は過ぎ去っていた。美しいオレンジ色の朝陽が、瓦礫の山となった敷地内を染め上げていく。もうこれ以上、治崎に戦う力は残されていなかった。鉛のように重たい瞼を押し上げると――金色の瞳に、警察とヒーロー達が血相を変えて、こちらに駆け寄ってくる光景が映り込む。治崎はただ静かに、()()()()を待った。

 

 ――その時、頭に()()()()が載せられた。節くれだった、血豆だらけの指の感覚。佐伯の手だ。治崎がずっと心の底に押し込めていた、積年の想いが涙と共に一気に溢れ出した。乾いた唇を引き剥がし、治崎は震える声で何かを呟いた。

 

 

 

 

 突如として内部からドームが破壊され、一斉に駆け込んだ警察とヒーロー達は――皆、()()()()()に慄然とした。

 

 屋敷は全壊。所々に転がっている全裸の男達は皆、構成員である事が判明した。組とは関係のない民間人も複数名、確認。大々的な戦闘の痕跡が見られるが――瓦礫内に生き埋めになった者達も含め――全員、意識喪失状態になる程の怪我を負っているものの、死者は誰一人、いなかった。

 

 さらに現場を検証した結果、個性を使用した痕跡が多数見受けられ、その一部は民間人のものと一致した。杳達は被害者から()()()()として認識され、警察病院へ身柄を運ばれる事となる。




やっとおわた。長かったホントに( ;∀;)精神世界のシーン書くために、仏教の地獄の事調べたのですが怖すぎる…。
次回で5期終了、塚内兄妹・ヒーロー・警察・公安メンバーが出るよ!敵連合もちょこっと出ます。


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No.54 同じ空の下

※作中に差別的な表現、気分を害する表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●塚内 真(つかうち まこと)
塚内警部の妹。国際弁護士。


 敵連合の新たなアジトにて。黒く蠢くワープゲートが、徐々に霞んで消えていく。殿(しんがり)を務めたトゥワイスは、振り返ってその残滓をじっと眺めた。

 

「なぁ。ホントに良かったのかよ」

 

 トゥワイスの寂しそうな声が埃っぽい部屋に放り出されて、余韻を残し、消えていく。その問いに答える者はいなかった。荼毘とコンプレスは所要の為に席を外していて、室内にはマグネとトガ、トゥワイス、スピナーの出向組、そしてカウンターには――弔と黒霧がいた。トガは不満そうに眉を吊り上げて、マグネを見る。

 

「滅茶苦茶にされるよ」

 

 トガの鋭い声が、マグネの耳朶を打つ。――眼前にワープゲートが展開され、いざ脱出という時、マグネは杳を連れ去る事を拒んだ。トガ達を半ば強引に説得し、現場に杳を残して帰ったのだ。だが、それが杳を庇うための策だとすれば()()()だと、トガは思う。

 

 現場には治崎が分解しそびれた――マグネ達の指紋や個性使用痕が、たっぷりと残されている。杳も同じ事だ。彼女は敵として逮捕され、少年院で窮屈な人生を送る羽目になるだろう。こちらに連れて来た方が、危険と隣り合わせではあるが、よほど自由で幸せな生活を送れたはずだ。

 

 何よりマグネは、弔の命令を()()()()。裏社会において、ボスに逆らう事は許されない。けれども、仲間達が注ぐ心配そうな視線を気にも留めず、マグネは真っ直ぐにカウンターへ歩みを進めた。

 

「あの子は自分の居場所を見つけたのよ」

 

 青々とした草原を吹き抜ける涼風のような声で、マグネは囁いた。――敵連合の面々は、誰かの下に付く為に集っているのではない。何にも縛られずに生きたくて、自分らしくいられる場所を探し求めて、立ち寄った先がたまたま()()だっただけだ。ヒーローとして生きると決めた杳を、無理矢理敵にする為に暗い場所へ閉じ込める事は、マグネにはできなかった。

 

 周囲の空気は息苦しさを感じる程に、ピンと張り詰めている。俯いたままこちらを向こうともしない弔の隣に腰かけ、マグネはポケットから何かを取り出し、カウンターに置いた。

 

「ハイ。お・み・や・げ」 

 

 それは金属製の小箱で、蓋を開けると中には――薬の入ったアンプルが数本、並んでいた。嘘田が命懸けで掠め取った粗悪品ではなく、()()()無個性弾とその抗体だった。戦いのどさくさに紛れていただいて来たものだ。杳の代わりとまでは行かないが、自分の命を救ける足しにはなるだろう。何よりマグネには()()があった。

 

 ――弔は部下を救けに来なかった。杳と夢路がいなければ、自分達は治崎に殺されていただろう。裏社会ではボスの命令は絶対だが、それと同等に()()も重要視される。その事を提訴するため、マグネは頬杖を突いて弔を覗き込んだとたん、絶句した。それから天井を振り仰ぎ、してやられたとばかりに大きな溜息を零す。

 

「ちょっともー……信じらんない。最初っからあんたの手の内ってわけ?」

 

 弔の口から掠れた笑い声が漏れると同時に、錆びた鉄の味のする空気は霧散した。耳元のインカムを取るとカウンターに放り出し、弔は鮮やかな青色に輝くスカイダイビングのカクテルを傾ける。その様子を、カウンターの奥に佇む黒霧がじっと眺めていた。――細く伸びた金色の双眸が、室内の照明に反射して冷たく輝いている。

 

 

 

 

 杳は夢と(うつつ)の境目を揺蕩っていた。ぼやけていた意識がふと収束し、瞼を開けると――白く靄がかった視界の中に()が立っていた。目が合うと、朧は驚いたように澄んだ瞳を瞬かせる。それから、眩しい太陽を見ている時みたいに目をくしゃっと細めて、笑った。暖かくてがっしりした手が伸びて来て、杳の頭を優しく撫でる。

 

「頑張ったな」

 

 ――”お兄ちゃん”。安堵した拍子に再び意識が遠のく中、杳は小さな声で呟いた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 同時刻。首都圏にある警察署本部、そこに隣接された警察病院にて。治崎との戦闘で重傷を負った杳は、(ヴィラン)収容病棟の一室に移され、警察からの緊急要請を受けて飛んできた――殻木による治療を受けていた。

 

 マイクは病室のベッド脇に座り込み、優しい言葉を掛けながら杳の頭を撫でていた。昏睡状態の杳が()()を呟いたとたん、彼は感極まったように涙ぐみ、入口で待機している相澤に向けて話し掛ける。

 

「今の聞いたか?俺の事、ズズッ……お兄ちゃんっつって……」

「時間だ行くぞ」

「いやもーちょい余韻に浸らせてくんNIGHT?!」

 

 素っ気ない相澤の返答に、マイクは大仰な動作で振り向きながらも突っかかる。だが、相澤は一切それに動じる事無く、冷静に切り返した。

 

「終わってから浸れ。発言に気を付けろ。さっきのも録音されてる」

 

 マイクの表情に大きな影が差した。――殻木と同じく警察から緊急要請を受け、雄英の校長である根津と担当教師である相澤、マイクは警察署へ来ていた。相澤とマイクにひとまず杳の見舞いを任せ、根津は彼女を担当する弁護士と話をするため、病院のロビーへ向かっている。

 

 殻木の診察によれば、杳の体は自身の個性で()()()()()であるらしく、まもなく意識も回復するらしい。だが、杳の名誉と未来は二度と回復しないだろう。数十分後に開かれる合同会議を思い、相澤の心は沈んだ。

 

 

 

 

 最初、事件に関する証言に矛盾はなかった。ジェントルは”八斎會に囚われている()()を救う為、単独で奇襲を仕掛けた”と事件の正当性を主張。八斎會の構成員の内、嘘田は”杳・夢路・爪牙の三名は実験の為に誘拐された()()()で、突如発生したゲリラ戦から身を守るために戦った”と証言した。それ以外の全員は、黙秘を貫いた。

 

 だが、話がまとまりかけた時、犯行現場に()()()の指紋や個性使用痕が大量に残されている事を、鑑識班が見つけ出した。世紀の大悪党である敵連合が絡んでいると分かった瞬間、警察は――本来は任意の検査であるはずの――()()()()系の個性の使用を強行。嘘田のみが証言通りの記憶を見せたが、それ以外の人々は在りのままを映し出した。警察は色めき立ち、この事件の詳細と主犯である杳の処遇について話し合うべく、公安委員会や雄英関係者も含めた――合同会議を開く事を決定した。

 

「聞かれたって構わねーよ。俺はあいつがどんなことしたって許す。そう決めたからな」

 

 揃って病室を出ながら、マイクは静かに呟いた。彼の右頬は赤く腫れ上がっている。ラジオの件を聞いた相澤が激昂し、力いっぱい殴り飛ばしたからだ。廊下で擦れ違う度、敬礼と共に――どこか含みのある視線を注ぐ警官達に黙礼を返しながら、相澤は重たく沈んだ声で言い返した。

 

「お前が許したって、世間は許さない」

「……お前はどうなんだよ」

 

 相澤は応えなかった。マイクは白けたように鼻を鳴らす。廊下の角を曲がると、そこには根津校長と()()()()()が立っていた。緩やかに波打つ黒髪を流れるままにした美しい人で、均整の取れた体を上質なスーツに包んでいる。根津校長はこちらに気付くと、肉球の付いた小さな手を挙げ、女性を紹介した。

 

「やぁ。こちらは弁護士の塚内真さんさ。彼女も出席するらしい」

「塚内真と申します。白雲杳さんを含めた、今回の事件の関係者全員の弁護を担当させて頂きます」

 

 真は上品な仕草で胸に手を添えると、一礼した。オールマイトを彷彿とさせるような――明るく活力的なオーラが、その身から発散されている。まるで無から有を生み出せるのではないかと思える程の()()()が、彼女にはあった。頑なな表情を浮かべている相澤とマイクに反し、根津と真の雰囲気は至って穏やかだった。揃ってエレベーターに乗り込み、会議室へ向かいながら、根津は二人に囁いた。

 

「大丈夫。きっと悪いようにはならないさ」

「何故そう言い切れるんです」

 

 憮然とした相澤の表情を、黒いビーズのような丸い瞳が映し出す。根津は、人間がとうの昔に忘れてしまった――純粋な感性の導くままに言葉を発した。

 

()()()()さ」

 

 

 

 

 広々とした会議場には、既に大勢の人々が座っていた。誰もが難しい顔で押し黙り、配布された書類の文章を指先で辿ったり、唇を噛んだり、忌々しげに天井を見上げたりしている。ほとんどの人々には()()の表情が見えた。真の兄である塚内直正も出席者の一人で、妹の存在に気付くと、何とも言い難い表情で小さく黙礼した。

 

 そうして定刻になると、会議が始まった。中央に浮かんだホログラムスクリーンが、事件の全貌を映し出す。――杳が夢路の話を信じ、嘘田と共に壊理救出に乗り出した事。違法なブローカーと取引した事。敵連合の一味と手を組んで、屋敷に奇襲攻撃を仕掛けた事。囚われた少女を救い出し、治崎を制圧するための幇助をした事。八斎會と接点のある組織・グループも統率を失い、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うか、力尽きたように自首し始めているという事。全ての報告が終わった後、誰かが何かを言う前に、真が口を開いた。

 

「評価に値するのでは?」

 

 いきなり何を言い出すんだと言わんばかりの強い眼差しを、直正が真に向ける。だが、真は堂々とした態度で、臆する事なく言葉を続けた。

 

「警察本部とプロヒーローが数週間掛けても捕えられなかった敵組織を、白雲杳は最適なチームを率いて、たった一晩で壊滅させた。双方死者ゼロ。物的被害も敷地内だけに留まっている。逮捕した敵達に抵抗の意志はなく、関連組織も続々と解体・摘発されています」

「そりゃあ結果論だろうが」

 

 苛立たしさを含んだ武骨な声が、室内に響き渡った。――国の警察機関をまとめる最高位、警視総監が発したものだ。雄偉な容貌を義憤の感情に歪ませ、彼は指折り、杳の罪を数え始める。

 

「個性不正使用。敵共謀。民間人への教唆扇動。不法侵入。傷害。盗品譲り受け……この小娘の罪状上げりゃ切りがねえ」

 

 ほとんど全ての国民が”個性”という武器を所持している昨今、大きな暴動も起きずに平和を保てているのは――皆が()()()()()()()()からだ。その模範となるべきヒーローの卵がルールを破るなど、あってはならない。もう保須事件や鳴羽田事件の時のように、若さ故の過ちとして見ない振りをする事はできなかった。ナイトアイは眼鏡を指先で持ち上げ、顔をわずかに俯かせる。

 

「てめえで救えねぇと分かってるなら、通報するべきだった。自分のしたい事が我慢できず、ルールを破る……(ヴィラン)と同じだ。おまけによりにもよって、この娘は敵連合と手を組んだ。敵として逮捕する。それしか道はない」

「対応は慎重になされた方が宜しいかと」

 

 静かな女性の声が、室内に凛と響き渡った。――ヒーロー公安委員会、その会長が発したものだ。鋭い知性を思わせる瞳を警視総監に向け、彼女は薄い唇を開いた。

 

「”雄英生の逮捕”、これは世間が最も注目するニュースのはず。少女を救う為に敵となった彼女の所業は、ルールの逸脱を無視すれば……塚内弁護士の仰る通り、偉業です。分かりやすいストーリーは若者の心を掴み、彼女は”善意の私人”として祭られる。

 そうなれば……いずれ彼女自身が広告塔となり、敵連合は脚光を浴びる。恐ろしい悪人だったはずの彼らが、本当は()()だったのだと人々は勘違いする。結果、平和の崩壊は加速する」

 

 そうして、ここにいる誰もが薄々勘付いており、敢えて言わずにいた事を、彼女は静かに口にした。

 

「白雲杳は、死柄木弔がプロデュースした”第二のステイン”です。マスコミの規制を掛けたとしても、今は電子社会。どこからともなく話が漏出するでしょう」

 

 重苦しい沈黙が、辺り一帯を包み込んだ。つまるところ、杳はいつ爆発するか分からない()()()のような存在だった。無罪放免とするわけにはいかず、かといって逮捕したら――どこから真実が漏れ、大騒ぎになるか分からない。加えて黒霧の事をマスコミに嗅ぎ付けられてしまったら、人々が少女に寄せる同情心はますます加速するだろう。大人達はそれぞれ書類の影に隠れて、重たい溜息を零した。

 

「平和の在り方が変容してきている、と考えられては?」

 

 そんな進退窮まった室内に、真は再び、一石を投じた。露骨に非難めいた視線が自身に一点集中するのを感じつつ、彼女は居住まいを正した。

 

「世代を経る毎に、個性は多様化・膨張の一途を辿っています。数十年前に提唱された、”超常特異点”という概念を覚えていらっしゃいますか?」

 

 世代を経る毎に混ざり、より複雑に、より曖昧に、より強く膨張していく”個性”。その容量の膨らむ速度に身体の進化が間に合わず、コントロールを失う現象。容量に身体を適応させなければ人は制御できなくなる――超常特異点とは、数十年前にある博士が提唱した仮説だが、その当時は誰一人、目を向ける者はいなかった。時を経てその説は今一度、アメリカにて注目を浴びようとしていた。

 

「最早、個性を不正に使う者を一律に敵と見做す……今までの定義では、社会は立ち行かなくなってきています。力で捻じ伏せるだけでは、いずれ世界は敵で溢れ返り、崩壊するでしょう。昨今のアメリカでは、ヒーローの概念が変容しつつあります」

「敵と組んで、好き勝手に暴れ回る無法者を、ヒーローと呼べと?」

 

 ゆっくりとした口調で、警視総監は尋ねた。やけに低いその声には、聴く者全てを圧倒するような力が内包されていた。

 

「言い方を変えれば、敵と対話し、味方にできるヒーローだという事です。彼女なら、敵連合を自ら檻に入るよう説得できるかもしれません」

「そりゃ単に、あの子供の善悪の判断が乏しかったってだけだろ。敵と……それも家族の死体を弄ってた連中と、どう転んだら仲良くなれる?あいつも同じ穴の貉、つまり()()()()って事だ。……ああ、今の発言はまずかった。訂正頼む」

 

 警視総監は軽く咳払いをすると、入り口付近の席で記録を続ける書記官をちらりと伺い見た。忙しなく奏でられるキーボード音に紛れて、マイクは大きく深呼吸をし、昂ぶった感情を鎮めようと試みる。

 

「白雲杳は……我々の築いたボーダーラインを崩し、社会を混乱に陥れようとしている(ヴィラン)だと、私は考えます」

 

 二人のやり取りを静観していた会長は、やがて毅然とした態度でそう告げた。――真の提言は、今の日本には受け入れ難いものだった。オールマイトが全てを賭して築き上げ、皆が今日に至るまで懸命に守って来た”平和の塔”を、悪戯に崩す事と同義だからだ。だが、それなら問答無用で逮捕すればいいのに、大掛かりな会議まで開いて、上層部は今に至るまで決定を先延ばしにしている。

 

 ――やはり彼らは対処を迷っている。真は咳払いをした後、()()()を出した。

 

「もしお困りなら、我々(アメリカ)が引き取ります。連邦ヒーロー公正委員会(Federal Hero Commission)は、彼女に有用性を見出している」

「……」

 

 それは、杳を逮捕するならば、アメリカに連れて行くという通告だった。――これで三度目だ。また掠め取られる。”ジェントル・クリミナルがヒーローになった”という()()を思い出し、警視総監は疲労の滲んだ目をゆっくりと閉じた。

 

 人々の心に強く影響を及ぼす事件が起きた時、決まって模倣犯が頻出する。罪を犯しても許されるという、歪んだ甘い考えを持つ輩が出ないようにと、事実をマスコミにひた隠すのに警察はひどく苦心した。クロウラーの件どころではない。ルールを破り、好き勝手に暴れ回った人間でも、ヒーローになれるという事実を人々に知られたら最後、この社会は淀んで弛み、腐っていくだろう。

 

 塚内真はアメリカのヒーロー公正委員会の顧問弁護士であると共に、方々(ほうぼう)に幅広い人脈を持つフィクサーの一面も有していた。経済や文化、政治のみならず、ヒーロー社会においても、アメリカと日本は強い結びつきがある。アメリカが興味を示している手前、粗略な扱いは許されない。何より、今一番日本で危険視されている敵連合と関わりの深い者を国外まで遠ざけるのは、惜しかった。

 

 警視総監は深々と溜息を吐いた後、現状において最適と思われる采配を思い描いた。――杳達の罪状は、ひとまず伏せ置くしかない。幸いな事に住民達は皆避難しており、この事件に関する目撃者はいない。この事件の全貌を完全に闇に封じられるという事だ。それにあの子供は、上手く泳がせれば()()()()がある。

 

「白雲杳はこの国で預かる。だが、首輪も付けずに放牧するほど俺達も馬鹿じゃない。以後、白雲は敵と()()、監視を付ける事とする」

 

 さすがに無実の少女を服役させるわけにもいかず、泳がせると決めた以上、ある程度自由の利く場所でなければ意味がない。それでいて有事の際、戦闘能力に長けた人間が集まっている場所。――やがて、総監は苦み走った表情を()()()()()()。根津は立ち上がり、相澤、マイクと共に深々と頭を下げた。

 

 

 

 

 会議終了後。廊下の角にある自販機でミネラルウォーターのボタンを押し、真は大きく伸びをした。自分の背後に近づく気配を察すると、彼女は取り出し口からペットボトルを取りながら、明るい声を発した。

 

「予定調和ってところね」

「何がだ」

 

 直正は肩を竦めると、自販機に署員カードを当てブラックコーヒーを購入した。廊下を通り掛かる署員の目もある為、口や態度には出せないが、彼は妹の意図を理解していた。

 

 ――杳に対する処遇は現状、()()()()しかなかった。平和の象徴を失い、不安定に揺らいでいるこの社会に、これ以上の混乱を招くわけにはいかない。だが、それを即決できる程、この国も組織も単純ではない。あの会議は筋書きが決まった芝居のようなものだった。直正が缶のプルリングに指を掛けた時、真は首を傾げつつ、腕を組んだ。

 

「それにしても、妙に早くまとまったと思わない?……上層部は何か知っているのかしら?」

「それは僕らの管轄じゃないな」

「ごもっとも」

 

 真は軽く両手を上げた。そんなおどけた態度を疲れ切った眼差しで眺め、直正は苦い液体を数口で飲み干した。――時折、旺盛な好奇心が度を過ぎる事もあるが、彼は妹の有能さをよく知っていた。彼女はしばらく日本に滞在し、この事件に関わった全ての人の弁護を担当するという。被害を最小限に留めようとしてくれているのだろう。内心、杳の身を案じていた直正にとって、妹の参入は非常に心強く喜ばしい事だった。

 

「お前がいてくれて助かるよ」

「どういたしまして。同じお兄ちゃんっ子のよしみもあるけど……私は彼女の想いの強さに惹かれたの」

 

 白雲杳と初めて言葉を交わした時の記憶を、真は静かに思い返した。絶望の谷底に堕ちても尚、彼女は他者を救おうとしていた。――人間は感情の生き物だ。社会はいつも()()()()から創られる。オールマイトが人々の柱になるという信念で、今の日本を築き上げたように。揺るがない心の強さを持つ人間に民衆は惹かれ、その人を中心に世界が形成されていく。それが悪しきものであれ、良いものであれ。杳の病室へ向かいながら、真は直正をじっと見上げた。

 

「頑張ってね、お兄ちゃん。黒霧を捕まえない限り、あの子はずっと宙ぶらりんのままだから」

「言われなくても。今、グラントリノが捜査に向かっているところだ」

 

 二人が歩む廊下には、大きなガラス窓が等間隔に並んでいた。施設の周りに植えられた木々が、もう随分と弱まった蝉しぐれの中でさらさらと梢を揺らす。夏は終わりかけていた。日増しに眩さを失っていく太陽の光が、兄妹の後姿を密かに見守るナイトアイの瞳に反射し、余韻を残して消えていった。

 

 

 

 

 それから数時間後、病室にて。鉛のように重たい瞼を持ち上げると、杳は柔らかなベッドに横たわっていた。ゆっくりと起き上がり、周囲を見回す。――そこは()()()()()()だった。扉の上部には鉄格子が嵌められ、天井の四方にはセンサーやカメラの類が取り付けられている。違和感を感じて手元を見ると、両手には特殊拘束具(フェンリル)が付けられていた。しかし、それは次の瞬間、ガチャンと外れてシーツの上を転がった。やがて扉をノックして、一人の女性が入って来る。

 

「初めまして。やっと会えたわね」

 

 女性はそう言うと、にっこりと笑った。――燦々と輝く太陽、オールマイトを彷彿とさせる声。かつて航一に見せてもらった写真と、今の彼女の姿がバシッとリンクする。間違いない、()()()さんだ。

 

「塚内真さん……ですか?」

「ええ。あなた達の弁護を担当させてもらう事になったの」

 

 その言葉で、ぼんやりしていた杳の意識は一気に覚醒した。数時間前の記憶が鮮やかに明滅し、ジェットコースターのようなスピードで、眼前を過ぎ去っていく。自分が気を失った後、皆はどうなったのだろう。無事だろうか。不安と罪悪感の色に染まった風船が、心の中いっぱいに膨らんでいく。杳はまだ回復し切っていない体をなんとか起こそうとしながらも、真に尋ねた。

 

「皆は無事でしょうか?治s、死穢八斎會の人達も……」

「OK。順番に話すわね」

 

 杳の反応を見た時、真の口元に微かな笑みが広がった。こんなところに長居させるつもりはないと言わんばかりに、てきぱきと退院の準備をしながら――真は全ての出来事を話してくれた。ジェントル達が罪に問われる事はないという事を聴いたとたん、杳の心を内側から破裂させる程に膨らんでいた風船は、パチンと弾ける。次いで、うねるような安心感が全身を包み込んだ。

 

 その直後、自分の将来を不安に思う気持ちが、心の温度をすうっと下げていった。だが、その下げ幅は思ったより小さかった。あれほどの事をしておいて無傷で帰れるはずがないと、予感していたからかもしれない。ただ、その呼び名を両親や、自身を今まで支えてくれた人達が知ってしまった時の事を思うと――。杳が浮かない顔でリュックを背負っていると、別れの握手のつもりなのか、真が不意に手を差し出した。素直に差し出した杳の手を握り締め、彼女は真剣な眼差しで口を開く。

 

「はっきり言うわ。黒霧を救う事は、現時点での日本では不可能に等しい。それでも貴方はこの国でヒーローを目指す?」

 

 真の個性は”嘘発見器(ポリグラフ)”、身体的な接触をしている相手の()()()()()を確かめる力を有している。杳の決意に少しでも揺らぎが見えたら、引き摺ってでもアメリカへ連れて行く。真は最初からそのつもりで来日していた。

 

 ――ヒーローとしての覚悟を再確認されている。一方、真の意図を理解した杳は目を瞑ると、深呼吸した。十何年も経った今でも、克明に思い出せる。兄が創ってくれた雲の感触。優しくて明るい声。太陽みたいな笑顔。そしてそれらは今も心の中に輝いていて、自分を救ってくれている。どんな形であれ、人々は自分がヒーローとして在る事を許してくれた。与えてくれたチャンスを逃したりしない。

 

「小さな頃、お兄ちゃんは何度も私を救ってくれました。今度は私が救ける番です。もう逃げません」

 

 灰色の瞳と漆黒の瞳が短い間、交錯する。――真偽の判定は”(TRUTH)”。

 

「あなたをここに残すのは、ちょっと惜しいわね」

 

 真はくしゃりと顔を歪めて笑った。――人は変化を嫌う生き物だ。誰かが何か新しい事を始めようとすると、周りの人々は拒否反応を起こしたり、強く反発したりする。島国精神のある日本なら尚更だ。杳が行くのは正義でも悪でもない、未踏の道。だけれども、彼女はその方向を選んだ。これ以上、自分ができる事はない。後は信じるだけ。真は名残惜しそうに手を離すと、開け放たれたドアの方を振り返った。

 

「じゃあ、ここから先は()()()()と言う事で」

 

 相澤がドアの影から現れて、小さく礼をした。無感情な黒い瞳が杳を映し出した途端、彼女の呼吸と思考は一時的にショートした。相澤は真に挨拶をした後、静かに手招きをし、カチコチと固まる杳を誘った。

 

 

 

 

 ワックスの効いたリノリウム製の廊下を進み、二人はロビーのソファに腰を下ろした。杳のいる病棟は一般の外来病棟ではなく()()()()()である為、ロビー内を行き交う医療従事者以外の人気はない。重苦しい沈黙のヴェールが、二人をすっぽりと包み込む。まるで自分が拒絶されているような錯覚を、杳は覚えた。――いや、錯覚ではない。間違いなく、自分は拒絶されているのだ。そして怒ってもいる。当たり前だ。杳は唇を噛み締め、力なく俯いた。自身を救おうとしてくれた相澤を裏切り、()()()()()間違った道を進んでしまったのだから。

 

 不意に相澤が動いた。視線を前方に向けたまま、首元に巻いた捕縛布に手を突っ込む。――ビンタか、捕縛されるか。来たる衝撃を思い、観念して目を閉じた杳が膝に感じたのは、()()()()()()だった。びっくりして目を開けると、膝の上に数十センチはあるだろう分厚い紙束が置かれている。小さく印字された無数の文字を読む前に、相澤は静かに口を開いた。

 

「敵連合の犯罪歴だ。一番上のページが最新。……お前と手を組んだ()()から、強盗と殺人を犯してる。この文字の数だけ、人の命が奪われて、遺族が悲しんで、真っ当に働いてる人達の貰える金が奪われたって事だ」

 

 冷たい水を背中にぶち撒けられたような気分だった。紙面を辿る指先が凍り付いていく。杳が救おうとしている人達は、数えきれない程の人の命と怨嗟を踏みつけにして生きているのだ。――トガ達に友情を感じた時、杳は心のどこかで”彼らも八斎戒の人々と同様に、今までの行いを顧みてくれるかもしれない”と期待していた。だが、それは完全な思い上がりだった。バラバラの方向を進む線同士が、たまたま混じり合っただけ。あの戦いは()()()()で、お前がした事は何の意味もないのだと、相澤から言外に宣告されているようだった。

 

「八斎會も元から善人ってわけじゃない。やる事はやってる」

 

 次いで、相澤は八斎會の犯罪歴の書類を杳の膝にドサリと載せた。――お前は見なくていいものを見てる。まだ間に合う。今にも口から飛び出そうとする言葉の群れを飲み下し、相澤は冷静な口調で話を続けた。

 

「で、改めて訊く。お前はどういうヒーローになりたい」

 

 相澤は静謐な眼差しで杳を眺め、答えを待った。書類の束は積み重なったレンガのように重くて、膝が鬱血しそうだった。それでも、杳は書類を抱き締めながら、言葉を探した。――きっと自分は、世間が賞賛するような()()()()()()()になれはしないだろう。だけれども、たとえ紛い物であったとしても、諦めなければ、壊理のように誰かを救う事ができる。そしてそれは間違いなく、自分にしかできない事だ。犯した罪は消えない。今まで自分を育んでくれた社会に盾突くつもりもない。しかし――

 

「間違いを犯しても……償って。もう一度、人生を歩んでいくお手伝いができるような……ヒーローになりたいです」

 

 その答えを聴いた途端、相澤は何かを堪えるように瞼をギュッと閉じた。だがそれは一瞬の事で、彼はすぐさま元の平静さを取り戻し、杳の眼前に紙片を突き出した。

 

「なら頑張れ」

 

 ほんの数十センチ先でひらひらと揺れるそれが()()()だと理解するのに、杳は多くの時間を必要とした。真は事のあらましを語る際、相澤に気を遣い、復学の件を言わないでおいたのだ。

 

 ――許されないと思っていた。深く暗い海底に沈んでいった友人達の顔が浮かび上がり、日光に反射してキラキラとした輝きを放つ。杳の体の底から、何とも形容しがたい熱い感情がせり上がってきた。雄英に帰れるのだ。ヒーローの卵として。

 

 一方、相澤は憂わし気な表情で、素直に涙ぐむ杳を見下ろしていた。これは許しではなく()()だ。これから彼女が歩むだろう茨の道を思うと、相澤の心はかき乱された。もし兄が脳無になっていなければ、彼女は頼りになる友人達と共に明るい道を歩めていただろう。適度なヒーロー・芸能活動に給金。多くのヒーローが、実は心密かに目指している安泰な未来を掴めていたはずだ。けれど――

 

(お前はどうなんだよ?)

 

 旧友の言葉が脳裏をよぎる。――自分達が救えないと諦めた者に、杳は手を伸ばそうとしている。そして彼女は諦める事なく、一部の人間を救った。許すも何もない。最初から、自分は彼女を信じていたのだろう。相澤は泣きじゃくる少女の頭に手を置くと、乱暴にかき混ぜた。

 

「書いたら昼飯食って、親御さんとこに行くぞ。時間ないからヒロドでドライブスルーな」

ばび(はい)……」

「HEYHEY俺も俺もォ!」

ばぶべんべ(マイクせんせ)ぇ……」

「オイ鼻水垂らすな」

 

 遠くで様子を見守っていたマイクがすかさず乱入し、杳の肩を抱き込んだ。涙の痕が点々と滲んだ復学届を提出し終えると、三人は揃って警察署を出た。初秋の澄んだ空から柔らかな太陽光が差し込み、お互いに寄り添うように歩みを進める彼らを優しく照らし出していく。

 

 

 

 

 それから一週間後、雄英登校二日前。杳と夢路と壊理の三人は、デトネラット社が主催する秋祭り会場にいた。気月からのREINでイベント情報を知った夢路が、学業で忙しくなる前に話をしようと杳を誘ったのだ。壊理は真の計らいで、今は夢路と共に暮らしている。

 

 デトネラット社は慈善活動にも力を入れていて、こうした――定期的に催されるイベントで得た売上金は、恵まれない子供達や難しい個性を持った事で苦労している人々が暮らす施設に丸ごと寄付されるらしい。同社と関係の深い小さな商店街が今回のメイン会場となっており、アーチ型の天井には赤提灯が沢山ぶら下がっていた。歩道にはずらりと縁日が並び、美味しそうな匂いと威勢の良い掛け声が、辺りに溢れ返っている。

 

 可愛らしくおめかしした壊理と手を繋いで、杳と夢路は沿道を歩いた。こうしていると、一週間前の出来事がまるで夢のように思えた。”一人一人の個性に合わせる”というコンセプトのデトネラット社が主催しているだけあって、様々な用途に沿った店が軒を連ねている。浴衣姿の男女や家族連れが草履を踏みながら、沿道を楽し気に行き交い、思い思いの商品を買い求めていた。

 

「色んな人がいるね」

「そうね」

 

 至極当たり前の事を言う杳に、夢路が返事をした。ふと壊理が吸い寄せられるようにして――りんご飴屋の前で立ち止まる。遠慮がちに夢路を見上げた後、彼女は一生懸命商品を選び始めた。微笑ましいその様子を見守りながら、杳は思いを馳せた。――こうして自分が平和な時間を過ごしている間にも、敵連合は犯罪を冒している。八斎會の人々は刑務所に囚われている。目に見えるものだけが、世界の全てではないのだ。相澤が膝に乗せた書類の重みを想起して、杳は瞼をぐっと強く閉じた。

 

 ”再びヒーローを目指す”と言った時の両親の顔が、ぼんやりとした暗闇の世界に浮かんで、消える。――敵連合だけじゃない。沢山の悲しい出来事を踏みつけにして、自分は生きている。

 

(ネズミでも校長になれた。君もきっと君が望むヒーローになれるさ)

 

 根津校長に挨拶に行った時、彼はそう言って快活に笑った。だが、校長がそうなるまでに行った努力はきっと並大抵のものではないだろう。今更ながらに怖気づき、杳はボロボロになったキーホルダーを握り締め、俯いた。――頑張れるだろうか。いや、自分には()()がいる。そう思い直し、杳は縋るように友人を見上げた。杳にとって夢路は、共に死線をくぐり抜けた戦友だ。彼女はいつでも自分の家に来て良いと言ってくれた。落ち込んだ時は彼女の家にコーヒーを飲みに行き、話を聴いてもらえばいい。

 

「私達、アメリカに行くの」

 

 壊理が三人分のりんご飴を買い求めた後、小休止を取ろうとベンチに座り込んだ時――夢路がおもむろに放ったその言葉を理解するのに、杳はかなりの時間を必要とした。捨てられた子犬のような目をする杳を見下ろしつつ、夢路は申し訳なさそうに体を竦めて、話を続ける。

 

「来月、ジェントルがC.C.の子事務所として独立するの。そこの事務員として雇ってもらえる事になってね。あっちじゃ、壊理みたいに難しい個性の子を受け入れてくれる教育機関もあるみたい。この子もここにいるよりはいいでしょう」

「……そうだね」

 

 壊理の未来を思うと、杳の心は少し晴れやかになった。壊理には、治崎のいる日本に固執する理由もないだろう。言葉の勉強を頑張らないといけないが、新天地で新しい人生のスタートを切る方が気分もリフレッシュできて、精神衛生上好ましいかもしれない。個性も扱えるようになれば一石二鳥だ。杳は心の底から込み上げてくる寂寞(せきばく)の想いを、何とかして押し込めようと努力した。

 

「それに、私みたいに変なのも……海外の方が寛容だしね」

 

 ――夢路が何気なく発したその言葉を聴いた瞬間、杳の感情と涙腺が音を立てて爆発した。

 

「夢路は変じゃないよお!優しくてかわいくて、最高の友達だよお!」

「やめなさいよお!泣くの我慢してたんだからあ!」

 

 二人は顔をくしゃくしゃに歪め、ギュッと抱き締め合った。短い日数で育まれた友情は、二人が思った以上に互いの心に強い影響を及ぼしていた。周囲の人々が向ける好奇の視線も、壊理が唖然とした顔で見守っているのも気づかずに――二人はひしと抱き合い、しばらくの間、惜別の想いに浸ったのだった。

 

「ねえ、杳。常識やルールってのは案外適当で、曖昧なものよ。だけど、皆……人の心を捨ててまで、それに固執する」

 

 不意に杳の耳元で、優しい夢路の声がした。夢路は体を離すと、涙をたっぷりと貯めた目で精一杯微笑んでみせた。

 

「あんたは常識に囚われずに、正しいことをした。最高のヒーローよ。私と壊理が保証する」

 

 その台詞は今まで受けたどんな褒め言葉よりも優しく、杳の心を包み込んだ。食紅で赤く汚れたそれぞれの口元を見て、杳達はころころと笑う。――自分のした事は、これからしようとしている事は、無駄ではないのかもしれない。鈴を転がすような笑い声を上げる壊理を見守りながら、杳はかすかな希望を抱いた。

 

 

 

 

 同時刻。愛知県・泥花市にて。タワーの最上階では、代表取締役である四ツ橋が肘掛け椅子に腰を埋め、眼前に展開されたホログラムスクリーンを眺めていた。――そこには、自社が開催した祭り会場で、りんご飴を手に仲良く笑い合う二人の少女と一人の女性の姿が投影されていた。

 

 四ツ橋は中空に右手を彷徨わせた。その瞬間、ホログラムスクリーンの周囲に別の映像が浮かび上がる。約一週間前に警察本部で行われた合同会議の議事録と、死穢八斎會事件の詳細な記録――双方共に警察から盗み取った資料だ。

 

「君にはあの子がどう見える?」

「ただの()()()としか」

 

 四ツ橋が尋ねると、後ろに控えている近属は憮然とした表情でそう応えた。四ツ橋は上品な微笑みを深めて、鷹揚な動作で椅子に座り直す。

 

「私は……新たな時代を担うヒーローだと」

「あのステイン気取りの娘がですか?」

「ハハ。手厳しいな」

 

 四ツ橋は軽く吹き出したが、近属は一切笑わなかった。繊細そうな顔つきを苛立たしそうに歪め、りんご飴にかぶり付く少女を睨んでいる。完璧主義者で神経質な性格の彼にとって、後先考えず、その場しのぎの行動を繰り返す杳の存在は受け入れ難いものだった。しばらくして、四ツ橋は指の関節を鳴らすと、椅子から身を乗り出した。

 

「そうだ。スライディング・ゴーにインターンの申請をするように言ってくれ」

 

 近属は一瞬、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたものの、すぐに元の冷静さを取り戻し、スーツの胸ポケットに入れたスマートフォンを取り出した。

 

「御意。ですが、彼女のインターン先はもう()()()()()()のでは?」

「いいんだよ。目に留まるだけで、今は充分だ」

 

 四ツ橋は顎に手を添え、何とも形容しがたい――不思議な温かみを帯びた眼差しで、あどけなく笑う少女の姿を見守った。小さなツバメが一羽、少女の頭上を掠めるようにして飛び、画面の外へフェードアウトしていく。

 

 

 

 

 翌朝、東京空港にて。杳達()()()()()()は再び、一堂に会していた。欠員はラブラバと服役中である嘘田の二名。ちなみに爪牙は皆の様子をちらりと見ただけで手を振り、足早に去って行ったばかりだ。ジェントルは気遣わしげな笑みを口元に浮かべると、杳の前に屈み込んだ。

 

「……守り切れず、すまなかった」

「ジェントルは守ってくれたよ。ありがとう」

 

 杳は首を横に振ると、心からの謝辞を述べた。壊理の救出が成功したのは、チームの一員であるジェントルが頑張ってくれたからに他ならない。

 

 ――違う。私が守りたかったのは君なのだ。口から出かけた言葉を、ジェントルは寸でのところで飲み込んだ。自分だけが逃げ遂せ、彼女に不名誉な肩書を背負わせてしまった。償いとしてできる事はもっと力を付け、今度こそ彼女を守れるようになる事。それしかない。自分に対する不甲斐なさごと――唇を噛み締めた後、ジェントルは黙って杳の頭を撫でた。そしてアーチ型になった金属探知機をくぐり、搭乗ゲートへ向かう。多忙なジェントルは、夢路達よりも一つ早い便で帰国する予定になっていた。

 

 ゲート付近は大勢の人々が行き交っている。夢路と壊理、杳の三人は改めて向き合った。言いたい事は沢山あるはずなのに、胸がいっぱいになって言葉が出ない。その時、突然壊理が駆け出して、杳にギュッと抱き着いた。

 

「たすけてくれて、ありがとう。わたし、おべんきょうがんばって……ようちゃんみたいな、ヒーローになる」

「あー……うーん……」

 

 何とも歯切れの悪い声が、杳の口から漏れた。――壊理の気持ちはとても嬉しい。だが、自分の進んだ道は、つまるところ(ヴィラン)と同じなのだ。そんな自分を手本にしてしまっては、壊理の情操教育に悪影響を及ぼす。だが、馬鹿正直に敵だと言うのも(はばか)られる。幼子の将来を案ずる余り、どう答えたらいいのか分からず、額に脂汗を垂らしながら唸っていると、夢路が杳の頭を軽く叩いた。

 

「そこは”うん”でいいのよ、”うん”で!」

「う、うん」

 

 杳が観念して頷くと、壊理は腕の中でにっこりと笑った。一点の曇りも陰りもない。太陽みたいに明るくて、キラキラした笑顔だった。――小さなオールマイトみたいだ。その純真なスマイルにつられて、杳も笑った。やがて二人は搭乗ゲートをくぐり、アメリカ行きの便に乗り込んだ。杳は広々としたロビーに向かい、大きなガラス窓にぺったりと顔をくっ付けて、二人の乗った飛行機が大空へ飛び去って見えなくなるまで、じっと眺めていた。

 

 その時、パーカーのポケットに突っ込んだスマートフォンが小さく震えた。杳は取り出して画面を覗き込み、大きく息を飲んだ。――航一からのREINだ。

 

『航一:頑張って』

 

 絵文字も何もない、たったそれだけのメッセージが――杳の心をかつてない程に強く鼓舞する。これから先、未来がどうなるかは分からない。だが、今だけは、世界中の全ての人に許された気がした。込み上げてくる熱い涙を拭い、杳はガラス越しに澄んだ青空を見上げて、気丈に微笑んだ。

 

 

 

 

 同時刻、北の果てにある刑務所にて。玄野は個別の運動場に立ち、空を見上げていた。労役中には一週間に数日、わずかな時間ではあるが、運動場と言われる屋外の場所で体を動かす時間が与えられる。刑務所における運動場はコンクリートで区切られた個別の檻を示し、天井にはネットが張られていた。網目状に区切られた大空を、長い飛行機雲が伸びている。玄野は太陽に手を(かざ)し、それを睨んだ。

 

 白い雲を見るだけで()()()を思い出す。腹の底から、凄まじい憎悪の感情が湧き出してくる。――許さない。あの娘のせいで、治崎の野望は潰えた。どの国にいようが必ず壊理を連れ戻し、計画を再興してみせる。そして、あの娘を殺す。監視役の刑務官が浴びせかける()()()()()を意にも介さず、玄野は狂ったように心中で呟き続けた。そうだ。()()()()()()()()――

 

(あなた方の量刑を少しでも軽くできるよう、努めます)

 

 塚内弁護士の快活な声が、玄野の耳に蘇る。――聴くな。こんな簡単に。玄野は唇をぎりっと噛み締めた。今日まで募らせてきた怒りが、憎悪が、その全てが、無駄になってしまう。

 

 その時、高くそびえ立ったコンクリート塀の向こうから、自転車のペダルを漕ぐ音と共に、子供達の屈託ない笑い声が聴こえた。塚内弁護士がガラス越しに見せてくれた――壊理がりんご飴を片手に浮かべた幼い笑みと、医療椅子に横たわっていた時の絶望し切った蒼白な表情が、心の中で静かに重なり、消えていく。治崎の覇道を支える為――纏った鬼の皮に、ふと小さなひび割れが走った。わずかな隙間から、ある一つの想いが零れ出す。

 

 ――地獄の日々は終わった。もう二度と、あんな想いを。

 

 突然、玄野の目と鼻の奥が熱くなった。涙が鼻の脇を伝って流れていく。違う。()()()()を思ってたまるか。玄野は冷たい檻を背にして座り込み、刑務官が諫める声を気にも留めず、静かに咽び泣いた。




これにて5期終了です。八斎戒編は書いていてすごく難しかった…というか、治崎を救済するにはこの流れしか思い浮かばなかった…。
今話もめちゃめちゃ分かりにくくてすみません…。何かございましたら、ご一報いただけますと幸いです。


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6期:黒霧救出編
No.55 蛇腔総合病院


※3/21追記:全体的な内容を再修正しました。


 夢路達の乗った飛行機を見送った後、杳はリムジンバスの停留所へ向かった。ロータリーには都心部行きのバスが停まっている。太陽の光を反射して、オレンジ色の車体が燦然と輝いていた。

 車内はさして混んでいなかったが、座れる席はない。杳は少し背伸びをして吊革を掴んだ。やがて空気の抜けるような音と共に扉が閉まり、バスが走り出す。

 

 杳は何をするわけでなく、ぼんやりと窓の景色を眺めていた。ジェット機が辺りを震わせるような轟音を上げ、滑走路を飛び出して秋晴れの空に浮かぶ。

 ――真っ白な車体が雲みたいだ。()()()()の両親とのやり取りをふと思い出し、杳は目を伏せた。

 

 

 

 

 一週間前、警察病院を出た後。杳は相澤と共に自宅へ戻り、戸惑いを見せる両親に黒霧の件を除いた――ほとんど()()の出来事を話して聞かせた。

 友人の家に泊まりに行くという嘘を信じていた両親は、まさか娘がそんな命懸けの大冒険をしていたとは露知らず、相槌を打つ事すらできずに茫然としていた。まるで石になる魔法をかけられたように――両親は目を見開き、わずかに口を開けたまま、ピクリとも動かなかった。

 

 杳が話し終わると、リビングルーム内を痛々しいほどの沈黙が支配した。見る間に室内の気温が下がり、レースのカーテン越しに差し込む陽光が薄れて、どこからか()()()()が吹いてくる。

 ――幻覚だ。杳は自らにそう言い聞かせ、剥き出しになった腕をさすった。

 

 もしマイクがここにいてくれたなら。車内で待機中のマイクを思い、杳は少しだけ心細くなった。きっと彼は言葉の魔法で、氷のように冷え切ったこの空間を暖めてくれたに違いない。だが、相澤は()()()として彼の同行を拒んだ。

 そして今、兄を喪った時と同じ状態が訪れている。避けては通れぬ道ではあるし、100%自分のせいなのだが、杳は正直居たたまれなかった。

 

 相澤は身じろぎもせずに、何かを見定めるような眼差しを両親に注いでいる。杳も覚悟を決めて、居住まいを正した。両親にはまだ――というよりも()()()()のショックを与えないために――黒霧の件を伏せている。

 だけど、いずれは話すつもりだった。自分には果たさなければならない使命がある。どんなに変わり果ててしまったとしても、兄の帰る場所はここなのだ。きっとお父さんもお母さんも、それを受け入れてくれるはず。杳は乾いた唇を舐め、言葉を発した。

 

(雄英に戻りたいんだ)

(ダメです。何、考えてるの)

 

 冷たい言葉の(つぶて)が、杳の頬を打った。――()だった。一切の感情が拭い去られた能面のような顔に、青白く輝く二つの目が浮かんでいる。ああ、あの時と同じだと、杳は両の拳を握りしめた。

 

 幸せは雲と一緒だ。包まれている時は何も考える必要がない位にフワフワして暖かいけど、去る時は一瞬。実体がないから掴めないし、どうやったら戻って来てくれるのかも分からない。だからニセモノの雲を創った。そして私は今、それを壊したんだ。

 剥き出しになった現実と向き合うのは恐ろしい。だけど、逃げ出そうとは思わなかった。

 

 おもむろに父が椅子を蹴立てて立ち上がり、()()()()()()()()()

 突然の凶行に慌てふためき、杳は夢中で二人の間に割って入ろうとした。――相澤先生を責めるのはお角違いだ。今回の件は全て自分の意志でした事なのに。

 

(やめてよ!先生は関係ない!)

(お前は部屋に入ってなさいッ!)

 

 父は鬼の形相で叫んだ。こんなに怒り狂った父の顔を見たのは初めてで、思わず杳は怯んだ。そして同時に、心の一番端っこで()()がゆっくりと頭をもたげた。

 長年放置されていたせいで降り積もった埃の層が、バラバラと零れ落ちていく。兄の真似をしていた頃、時折感じていた虚無感、鼻がもげそうな程に嫌な匂いが、杳の感覚器を支配した。(いろ)を失ったモノクロの世界で、父が相澤を壁に押し付ける。

 

(あんた、教師だろ?!ヒーローなんだろ?!なんで止めてやらなかった!)

(止められなかったのは、お父さんもじゃん!)

 

 埃と腐った味のする()()が喉を駆け昇ってきたと思った瞬間、杳は怒鳴っていた。

 

 数秒遅れて、思いっきり鈍器で殴られたような衝撃が、脳を揺らした。目と鼻の奥が熱い。火傷しそうな程に熱い涙がいくつも零れ出て、頬を伝って流れ落ちていく。

 ――自分は一体、何を口走っているんだ?そう思うも、まるで呪いを掛けられたみたいに言葉が止まらなかった。父は茫然とした表情でこちらを見つめている。

 

(私がお兄ちゃんの真似をしてるの、止めなかった。”杳でいいんだよ”って言ってくれなかった。自分にできないことを、人にさせようとするのはやめてよ……ッ)

 

 ”こんなことを言うつもりはなかった”という後悔の気持ちと、”やっと言えた”という安堵の気持ちが、心の中で不可思議なマーブル模様を描いた。――それは、杳がずっと隠し続けている内に忘れてしまった()()だった。

 

 兄の真似をしたのは自分だけでなく、両親の為でもある。だが、それを受け入れる両親を見る度に、杳は寂しさを募らせるようになった。本当の自分を見てくれるのは、マイクのラジオだけだった。彼がいなければ、自分は今ここにいないだろう。

 多くの人々と出会い、様々な経験をする事で自我が研磨され、杳は自分自身や家族と真正面から向き合えるようになっていた。乱暴に涙を拭い、杳は父と母をきっと見据える。

 

(真似してたのも今回の事件も……全部、私が悪いよ。でも、後悔はしてない。もし時間が巻き戻っても、私は同じことをする。壊理ちゃんを救ける)

 

 父と母は何かを噛み締めているような、不可思議な光を宿した瞳で娘を見つめた。胸倉を掴む父の手が緩んだ事を確認すると、相澤は床にしゃがみ込んで両手を突き、深々と頭を下げる。

 

(この度の事、全て私の責任です。お詫びの申し上げようもございません。……ですが、どうか、彼女を認めて頂きたい)

 

 教え子を守る事もできなかった情けない教師の懇願に、二人が耳を貸すとは思えない。だが、相澤にもまた成さねばならぬ事があった。ゆっくりと顔を上げ、相澤は両親を見つめる。

 

(彼女は()()()()()()()大勢の人々を救いました。いずれも、他のヒーローでは救うことのできなかった者達です)

 

 事件の全貌を知った後、相澤は八斎會の構成員達と話をする為に、収容されている刑務所へ足を運んだ。地下活動(アンダーグラウンド)ヒーローとして大勢の敵と接する中で、相澤は彼らが隠している本心や意図を、対話の中で見破る技を有していた。

 

 ――八斎會の人々は杳を恨んでいるはず。相澤はそう思っていた。だが、()()()()()()

 ほとんどの者にその意志はなかった。何かから解放されたような顔をしていたり、彼女に感謝している者すらいた。

 

 敵とヒーロー、民間人……別々の世界で生きる者同士が協力し合い、一つの大型敵組織を壊滅させた。まるで大衆映画さながらの快進撃を、彼女が中心となってやってのけたのだと――その時、相澤は確信した。

 彼女は、今までのヒーローとは毛色が違う。彼女だからこそ、救える者もいるのかもしれない。

 

(彼女にしかできない事がある。私はそれを尊重し、守り育てたいと考えております)

 

 杳を()()()()にはさせまい。たとえ不可抗力だったとしても、教え子が”暫定敵”というレッテルを張られる様子を見ている事しかできなかった自身を責め、相澤は両の拳を固く握り締めた。

 ”ヒーローとして”――相澤の言葉が耳元で何度もリフレインし、杳の(まなじり)を新たな涙が零れ落ちた。先生は自分を信じてくれている。最後の言葉の余韻が消えると、リビングルーム上に再び、沈黙のヴェールが舞い降りた。

 

(そんなのどうだっていいんです)

 

 やがて母の口から飛び出した言葉の群れが、透明なヴェールを引き裂いた。

 

(危険な思いをして世界中の全員を救うよりも、私はこの子が安全に過ごしてくれたら、それでいい。……でも)

 

 母はぎこちなく微笑むと、心配そうに自身を見上げる杳の前に立ち、小さな時によくそうしたように、涙をそっと拭い取った。

 

(この子が”したい”といったことだから)

 

 間近で母の瞳を見た時、杳は気付いた。――両親は、朧の真似をしていた私を愛していたんじゃない。ずっと前から()()()を愛してくれていたのだと。ただ傷つけさせまいという想いばかりが空回りして、今まで気づかなかっただけなんだ。

 

 多くの親にとって、我が子は命より大切な存在だ。その喪失は言葉に尽くせないほどの絶望と悲嘆を(もたら)す。だが、その悲しみを乗り越えて、両親は娘の意志を尊重してくれた。

 父は相澤を助け起こすと、頭を下げた。朧によく似た空色の髪が、相澤の目の前でフワッと揺れる。父は震える声で言葉を紡いだ。

 

(こんな情けない親で申し訳ない。だが、一つ約束してください。死なせないと。そしてそれは……あなたもです)

 

 相澤は込み上げてきた熱い感情を涙と一緒に塞き止め、しっかりと頷いた。

 

 

 

 

 そして、()()。バスの終点である渋谷駅前で降りると、杳は最西端へ向かう都営バスに乗り替えた。日曜日の昼下がりという事もあり、街は大勢の人々と車でひしめき合っている。車線の端から端まで車が数珠つなぎに並び、汚れた海を漂う泡のようにゆっくりと動いていた。

 ――間に合うかな。杳はちょっとハラハラしながら、マイクデザインの腕時計で時刻を確認する。しばらくすると空いてきたのか、バスが速度を上げ始め、杳はホッとして溜息を吐いた。

 

『次は、蛇腔総合病院前です』

 

 三十分後。そのアナウンスが流れると同時に、杳は停車ボタンを押し込んだ。電子マネーアプリで決済し、運転手に軽くお礼を言ってからバスを降りる。

 

 蛇腔総合病院は、杳の主治医である殻木が理事長として勤める病院だ。三つの大きな建物が合わさった立派な施設で、入口前にある庭には木々の間を縫うように遊歩道が設けられており、人々が柔らかな陽射しを楽しんでいる。

 

 ――明日からいよいよ雄英に復学する。杳は登校前の最終診察、及び個性届の更新手続きを受けるために来院したのだった。

 

 庭には遊歩道の他に噴水があり、周りにはベンチが設置されていた。その一つに見知った人物が腰かけているのを発見し、杳は子犬のように走り寄った。

 ――殻木先生だ。電子端末の操作が苦手なのか、ぎこちない手付きでPHSを弄っている。殻木は杳に気付くと人の良さそうな顔を綻ばせ、白衣の胸ポケットにPHSをしまい、鷹揚な動作で立ち上がった。

 

「元気そうじゃの。白雲くん。……さあ、行こうか」

「はい」

 

 ちょうど午後の診察受付が始まった頃なのか、病院内は大勢の患者でごった返していた。その隙間を縫うようにして、二人は歩いた。

 中庭では、ミント色の運動着を着た患者達が体操をしている。賑やかでアットホームなその雰囲気は、かつて自分がいた警察病院とはまるで違っていた。

 

 廊下を忙しげに行き交う医療従事者達や患者達の多くは、殻木を見ると皆笑顔になり、杳にも親しげな様子で挨拶をしてくれた。殻木はとても慕われている人物であるらしい。大好きな先生を褒められたような気分になり、杳は嬉しくなった。

 

 病院内はとても広々としていて、小さなカフェやコンビニ、書店の類もあった。検査の都合で、杳は何も食べてきていない。カフェ前の食品サンプルが目に入った杳は、たまらずグウと腹の虫を鳴らす。殻木は軽く吹き出した。

 

「可哀そうに。お腹が空いてしまったのお。後でカフェに行くと良いよ。あそこのオムライスは絶品なんじゃ」

 

 恥じ入って頬を真っ赤に染めた杳の手に、殻木はカフェの食券を数枚、握らせた。――まるで孫を可愛がるおじいちゃんみたいだと、杳は思う。そうしてエレベーターで最上階まで上がると、殻木は自身の診察室に杳を誘った。

 広々とした室内には、医学書が満タンに詰まった本棚と、電子機器の載った長机がある。その前にある丸椅子に掛けるように勧めると、殻木は自らの椅子に座った。少しの間目を伏せた後、彼は気遣わしげな表情を浮かべる。

 

「さて。まずは、君に謝らなければならないことがある」

 

 一体何だろう。思わず居住まいを正した杳に、殻木は――事件直後、主治医として警察から呼び出しを受けた際、()()()()も知ったという事を教えてくれた。やはり殻木はその事を知らなかったのだ。知性の色濃く滲む顔を翳らせ、殻木は言葉を続ける。

 

「君の許可なく……内情を知ってしまった。本当に申し訳なく思っておる」

「先生。気にしないでください」

 

 まるで酷く化膿した傷を看ているような目を、殻木はこちらへ向けた。杳はやんわりと首を横に振ると、小さく笑ってみせる。

 ――黒霧の事はまだ完全に乗り超えたわけじゃない。だが、もう自分は前に進むと決めたのだ。

 

 杳の覚悟を受け取った殻木は口の端を少し緩め、何度か頷いた。それから、おもむろに机上にあるキーボードに指を走らせる。中空にホログラムディスプレイが浮かんだ。

 

「では、君の個性の話に移ろうかの」

 

 青白く光るスクリーンに、不可思議な鎖状になった杳の個性因子や採血データが表示されていく。恐らく八斎會事件で呼び出しを受けた際、杳の体組織を一部採取したのだろう。先程の好々爺然とした雰囲気とは打って変わり、研究者らしい淡々とした口振りで、殻木は話を続けた。

 

「白雲くん。こういう話を知っているかね?……世代を経るごとに混ざり、より複雑に、より曖昧に膨張していく個性。容量の膨らむ速度に身体の進化が間に合わず、いずれコントロールを失う。遠い昔、ある博士はこの概念を超常特異点と呼んだ。

 容量に身体を適応させなければ、人は立ち往かなくなる。第四世代……そうじゃのう、君のご両親の時代から、その兆候は表れていた」

 

 殻木の声は次第に優しさを弱め、学者としての熱を帯びていく。――超常特異点という話は、杳も人伝(ひとづて)に聴いた事がある。今は個性特異点と呼ばれ、オールフォーワンと同じように都市伝説化しているが。

 杳はふとクラスメイトの青山を思い浮かべた。彼は臍部からレーザーを放つ強力な個性を有しているが、使用する度に腹を下し、よくトイレに駆け込んでいた。

 

 分厚い眼鏡のレンズ越しに、殻木がふと杳を見る。思わず杳がたじろいでしまう程、強い眼差しだった。

 

「先の戦いで君の個性は花開き、その特異点に()()()()。だというのに、君は暴走の兆しも見せず、生きておる。その身体は今も尚、膨張し続ける個性に、適応し続けているのじゃ。

 本来の君の力は、常人では扱えないスーパーコンピュータと同等に複雑で恐ろしい。だが、君は()()()()()()()模倣というプログラムを組み込み、何のエラーもなく実行してみせた。君は永遠に状態変化しない水と同じ……特異点そのものなのじゃよ」

「……」

 

 杳は必死に頭を回転させ、難解な話の内容を少しでも理解しようとして、結局出来なかった。

 ――沸騰したり凍らない水って一体どういう意味なんだろう。額に脂汗を垂らしながら杳が唸っていると、殻木は元の好々爺然とした調子を取り戻し、小さく笑った。

 

「簡単に言うと()()()()ということじゃよ。ついては精査をしたい。最初に個性因子の働きを弱める注射を――」

 

 殻木がそう言いながら、診察机の横に置かれたサイドテーブルに手を伸ばしたその時、ドアが控えめにノックされる音がした。殻木が訝しげな口調で返事をすると、わずかに開いたドアの隙間から申し訳なさそうな顔をした看護師がちょこんと覗く。

 

「山田くん。今は入室禁止にしているはずじゃが」

「すみません先生……この方が”どうしても”と」

 

 殻木の厳格な声に気圧されて、看護師はたじろいだ。次の瞬間、スライドドアが大きく開かれ、杳の見知ったヒーローが室内に滑り込んでくる。――()()()()だ。相澤は長髪を一つにまとめている以外、いつも通りの恰好だった。

 

「遅れてすみません。彼女の検診に、私も同席させていただきます」

 

 診察室に流れる空気が、ピンと張り詰めたものへ一転する。殻木と相澤は数秒の間、互いを値踏みするように見つめ合った状態で、その場から動かなかった。おろおろとした様子で二人を伺う杳の頭を撫で、殻木はまるで試験管の中の液体を確認しているような――鋭利な眼差しを相澤へ注ぐ。

 

「君は確か……この子の担任か。申し訳ないが、保護者以外の同席はご遠慮願いたい」

「私は彼女の()()()です」

 

 静かに、だが確かな威圧感を感じさせる声で、相澤はそう言い放った。それから、殻木に見えるように令状を掲げてみせる。

 眼前で揺れる紙面を見た途端、杳は今を(さかのぼ)る事、一週間前――真に”監視役が付く”と言われた事を思い出した。相澤先生なら安心だ。相澤は殻木の持つ注射器に一瞥をくれた後、至って冷静な声で話を続ける。

 

「ご協力をお願いします」

「……」

 

 ――個性黎明期、あらゆる辛酸を舐めつくした政府は、病院を含む公私の団体が警察やヒーローに協力する事を()()と定めた。殻木個人の意志として断る事は許されない。招かれざる客人を受け入れる他あるまいと、殻木は重たい溜息を零した。

 

 

 

 

 三十分後。杳の検診は、手術専用フロアにあるバイオクリーンルームで行われる事となった。病衣に着替えると、看護師の先導に従い、ミント色のクッションが敷かれた手術台に横たわる。

 室内は涼やかな風が吹いていて、耳を澄ませると、先週放送されたばかりのマイクのラジオ番組が流れていた。杳の気持ちをリラックスさせるために、殻木が音源を選んでくれたのだろう。

 

 ――戦闘行為よりも、注射が怖いのは何故だろう。杳は点滴の針を持って近づいてくる看護師を見ないで済むように、目をギュッと瞑った。

 

「随分と大掛かりな検査ですね」

 

 殻木に続いて消毒作業を終えた相澤は、邪魔にならないよう広々とした室内の壁際に立つと、マスク越しのくぐもった声で殻木に話しかけた。

 通常の個性診査は採血や心電図などの簡易的な検査が主だったもので、全部合わせても一時間足らずで終わるはず。杳の待遇は()()だった。

 

 殻木は壁掛け時計で現在時刻を確認した後、相澤を見る。照明灯の光をレンズが反射しているために、その表情は分からない。

 

「彼女の個性は特別じゃからの。君も経験してみるか?イレイザーヘッド」

「いえ。遠慮しておきます」

 

 首を横に振ると、相澤は気配を消して()()()と化した。彼の素っ気ない態度に腹を立てるわけでなく、殻木は至って冷静な様子で、手術台に横たわる小さな患者に歩み寄った。

 

 ――これから麻酔をかけ、殻木が遠隔操作するミクロサイズのカプセル型医療機器で、個性因子を含めた全身を精査するのだ。この検査は非常に高度な技術が必要とされ、施行できる医師は数少ない。

 

 やがて麻酔が全身に回り、杳が深い眠りに堕ちたのを確認すると、殻木達は検査を開始した。相澤は医療用バイザー越しに目を細め、手術の様子をじっと観察していた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 時は数日程前に(さかのぼ)る。塚内警部から相澤に連絡があった。内容は相澤が杳の監視役に抜擢されたという事と、神野事件後――杳が密かに家を抜け出してジェントル・ラブラバとコンタクトを取り、その後()()()()()を受けたという話だった。

 もうすでにこの話は、真を通じて警察の上層部に伝わっており、秘密裏に捜査が進められているのだという。

 

 ――精神状態に異常をきたしていたとは言え、彼女の行動は無茶にも程がある。肝を冷やすという感覚を、相澤はこの時初めて実感した。ラブラバの話によれば、主治医が渡した()()()に発信機が仕込まれていたのだと言う。

 

(吸入器に発信機が?)

(ああ。だが、肝心の証拠品がない。あくまで()()()()止まりだ)

 

 相澤は人の良さそうな殻木医師の顔を思い出した。個性社会とも言われる今の時代、何かに発信機を仕込むのは容易い事だ。たまたま敵の目に入った吸入器が悪用された、もしくは――殻木本人が吸入器を仕込んだか。その場合、殻木が何者かに脅迫されたか、操られている可能性も考えられる。

 どちらにせよ、敵連合と関連性があるという事には変わりないだろう。ますます杳の身が案じられる。相澤が彼女の家がある方向へ足を向けると、塚内が色濃い疲労と警戒心が滲んだ声を押し出した。

 

(聞くところによれば、彼女は殻木医師の下で個性届更新手続きを踏むそうだ。……イレイザーヘッド。あの子を頼む)

 

 

 

 

 そして時は巻き戻り、()()。相澤はサーチライトのように広大な視野と観察眼を以て、目の前で行われている検査を監視していた。つぶさに観察しているが、不自然なシーンは今に至るまで欠片も見つかっていない。

 それも当然だと相澤は思った。自分の見ている前で、殻木や影に潜む敵が悪事を働くとは考えにくい。

 

 ――かつての旧友の姿が、ふと脳裏をよぎる。静謐な湖のような心にさざ波が立つ。あまり露骨に嗅ぎ回り、彼らに怪しまれるのは得策ではない。あくまでこれは()()なのだと、相澤は自身に言い聞かせた。

 

 

 

 

 数時間後。殻木に勧められるまま、カフェで食事を摂り、病院を出た頃には――もう日はとっぷりと暮れていた。見上げると、濃紺色のビロードのような夜空いっぱいに白く輝く星々が散りばめられている。

 相澤は駐車場へ向かい、車を取りに行っていた。それを待っている間、杳はハーフズボンのポケットから個性カードを取り出すと、街灯の光に当ててじっくりと眺めた。

 

 ――”量子化(オーバーフロー)”、杳の新たな個性を殻木はそう名付けた。

 

(君の個性は、科学や物理の範疇を()()()()()。我々人間が持ちうる能力の全てを使い切る事ができないように……君もまた、その個性の全てを掌握する事はできぬじゃろう)

 

 主治医の言葉が脳裏を掠め、余韻を残して消えていく。やがて杳の前に、銀色のハイブリッドカーが滑り込んできた。”わ”ナンバー、レンタカーだ。

 杳は小さくお礼を言って、助手席に乗り込む。シートベルトを締めると同時に、車はゆっくりと動き出した。

 

「お疲れ。明日から頑張れよ」

「ありがとうございます」

 

 相澤はハンドル横のドリンクポケットから缶ジュースを取り出すと、杳に手渡した。苺ミルクだ。プルリングを開けると、甘酸っぱい苺と優しいミルクの匂いが辺りにふわりと漂った。

 ――いよいよ明日から、学校生活が再開される。竜宮城にまた帰る事ができるのだ。

 それに伴って杳は()()()()、相澤にお願いしたい事があった。ジュースを一口飲んだ後、彼女は意を決して唇を開く。

 

「相澤先生。あの……どうしても、事件の事を話したい人がいるんです」

 

 八斎會事件は箝口令が敷かれ、社会に余計な混乱を招かない為に――()()()()()がサイドキック達と共に制圧したという事になっている。一部の警察やヒーロー、事件の関係者以外で全貌を知っている者は、杳の両親くらいだ。

 もちろん杳も、みだりに口を滑らせるつもりはない。だが、どうしても、知っておいてほしい人物がいた。

 

()()か」

 

 いきなり核心を突かれ、杳は飲んでいたジュースを吹き出しそうになった。相澤はウインカーを出して大通りを左折した後、ちらりと杳を見て静かに呟いた。

 

「いいよ。まぁ、あいつが()()()()()は分からんが」

 

 相澤が何気なく続けた最後の言葉で、杳は石になる個性を掛けられたように、ピシリと固まった。だが数瞬後、杳は大きく深呼吸をして、強張った体をほぐす事に成功した。

 ――人使はきっと自分を受け入れてくれるはず。彼女は繰り返し、幼い自身の心に言い聞かせた。

 

 

 

 

 同時刻。首都圏のどこかに秘められた、研究施設にて。寒々しい光を放つ電子媒体に囲まれたドクター(殻木)は、椅子に深々と身を沈めたまま、深く目を閉じて、万感の想いに浸っていた。膝の上にはどこか犬を彷彿とさせる――不気味な容貌の生き物が載っている。

 

 ドクターの周囲にはホログラムディスプレイが数枚、浮かんでいて、半透明の画面には一人の少女にフォーカスした映像や、彼女のものらしき生体データが表示されていた。

 

「よくぞここまで成長した!わしは嬉しいッ、のうジョンちゃん!」

 

 白衣の裾で涙を拭いながら、ドクターは犬らしき生き物をギュッと抱き締めた。”ジョンちゃん”と呼ばれたその生き物は、飛び出した眼球を不思議そうにぐるりと回してドクターを見上げる。

 

 愛おしげにジョンの頭を撫でながら、ドクターは中空に空いた手を彷徨わせる。数秒後、新たなディスプレイが複数枚、展開された。

 ――そこには、病院の周囲をうろつく警察やヒーローの映像、それから殻木と()()()()姿()をした人物が、親しげな様子で患者と語り合っている光景が映し出されていた。

 

「外の世界はわしの記憶を操作した()()に任せておる。ちょびっと窮屈じゃが、我慢我慢……いずれは捜査も退くじゃろうて」

 

 慎重で用心深い性格である殻木は、オールフォーワンと関わりを持っているという外的証拠を何一つ残していない。塚内達の捜査は、広大な砂漠の中から一粒のダイヤモンドを探す出すようなものだった。あの弔ですら、ドクターの正体を知らないのだ。

 いずれ信ぴょう性に欠けると上層部が判断し、闇に葬り去られるだろう。自分はただその時を待っていれば良い。ドクターは老獪な笑みを浮かべ、肘掛け椅子にゆったりと腰かけた。

 

「さあ、先生。そろそろわしらもあの子と同様……最終段階(ファイナルフェーズ)へ進む頃合いじゃ」




いつもこのSSを読んでくださり、誤字訂正や感想、評価をくださりまして、本当に本当にありがとうございます( ;∀;)生きる糧になります。


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No.56 ”一緒に

※追記:55話の内容の意味が分からず、全体的に書き直しました。お時間ある時に見直してくださると幸いです。いつもすみません(;_;)


 翌朝。杳はベッドから起き上がると、窓を開けた。明け方特有の冴え冴えとした空気を思いっきり吸い込む。

 ――いよいよ今日から始まるのだ。友人の顔がふと思い浮かび、起きたてでぼんやりしている脳と心は引き締まった。パチンと両手で軽く頬を叩いて気合を入れると、布団を直して部屋を出る。

 

 ドアを閉める寸前、杳は――約一ヶ月余りの時を過ごした――兄の部屋をじっくりと眺めた。次にこのドアを開けるのは、兄を連れて帰った時だ。決意を新たに、杳はドアを閉める。

 

 リビングルームでは両親が待っていた。二人共いつも通りを装っているが、明らかにソワソワしている様子だ。テーブル上で交わされる日常会話も、テレビのニュースも、杳の頭に入ってこない。まるで魂だけが飛んで、どこかに行ってしまっているみたいだった。

 杳はろくに味わわないまま、朝食をかき込んだ。そして空になった食器を重ねてシンクに持って行こうと立ち上がった時――

 

「杳」

 

 ――椅子を蹴立ててやって来た両親に、ギュッと抱き締められた。痛いと感じるほど、その力は強かった。温もりと陽だまりの匂いがする。

 今日から寮生活が始まり、毎日家に帰る事もできなくなる。その事を思うと、杳は――今思いっきり抱き締められているというのに――風に吹かれて消えそうに揺らぐ蝋燭の火のように心細くなり、泣きそうになった。やがて母と父は体を離すと、涙をいっぱい溜めた目で娘を見下ろす。

 

「無理はしないでね。人使くんの言うことちゃんと聞くのよ」

「毎日連絡しなさい。分かったね?」

「うん」

 

 どうやら両親は、人使を”雄英における娘の保護者である”と考えているようだった。杳は素直に頷くと共に――昨晩、相澤に言われたばかりの言葉を思い出した。

 

(あいつがどう思うかは分からんが)

 

 八斎會事件の全貌を話した時、果たして友人はどんな反応を見せるだろう。無謀な事をした自分を叱るだろうか。またしても正体不明の不安が、杳の心をよぎった。だが、彼女はすぐさまそれを振り払う。

 人使なら受け入れてくれる。杳は全てを話した後も、人使と共に学んでいく事ができると信じていた。――()()()()()()

 

 両親に”行ってきます”の挨拶をして、玄関のドアを開けると、前方の生活道路に――黒いジャンプスーツに身を包んだ男性が立っていた。

 ()()()()だ。家の前には昨日と同じ車種のレンタカーが停まっている。

 何故、先生がここにいるんだろうという疑問を、昨日聴いたばかりの”監視役”という単語が、バキュンと撃ち砕く。自分はもう一介の学生ではない、暫定敵なのだ。杳は表情を引き締めると、相澤に向かって頭を下げた。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 相澤は無感動な眼差しでそれに応えると、無造作に車を指差した。

 

「迎えに来た。乗れ」

 

 スーツケースを後部座席に乗せると、二人は車に乗り込んで出発した。出勤時間と被っているのか、道路は満遍なく渋滞していた。無数の車が芋虫のように連なって、信号が青になる度にノロノロと動く。

 ――いよいよ学校生活が始まる。期待よりも不安の方が大きかった。信号待ちをしている間、前の車が出している蜃気楼をまんじりともせずに眺めていると、相澤が不意に口を開いた。

 

「お前が休学してた間に、一年の生徒達は()()()()仮免を取得した」

「……ッ」

 

 杳はぎょっとして相澤を仰ぎ見た。林間合宿が仮免取得を見据えたものだという事は、元々相澤から聴き及んでいた。

 ヒーロー免許は言い方を変えれば、個性使用許可証――人命に直接関わる責任重大な資格だ。当然、取得のための試験はとても厳しく、仮免といえどその合格率は例年五割を切る。その難関を乗り越え、クラスメイト達は栄光を勝ち取ったという事だ。

 

「不合格になった生徒達にも()()()()が設けられた。今年中にはお前以外の全員が、ヒーローのひよっこって事になる」

 

 相澤の淡々とした声は、空中でずっしりと重たい鉛に変わり、杳の肩に圧し掛かった。心臓が冷たくなって、額に脂汗が滲む。

 ――ゆっくりと体を慣らしていく暇なんてないという事だ。我武者羅に頑張って、遥か先を歩むクラスメイト達に少しでも追いつけるよう、日々精進しなければ。ごくりと唾を飲んで、杳はリュックにぶら下がったキーホルダーにそっと触れた。ウインカーを出して左折しながら、相澤は言葉を続ける。

 

「お前は次回、来年の四月だ。一年と()()を見る目は違う。時間を無駄にするなよ」

「はい」

 

 掠れた声で、杳は応えた。車が大通りを曲がると、やがて懐かしい学び舎が見えてきた。広大な敷地の中に鎮座する、サファイアのように煌めく機械仕掛けの城。城を守る外壁の前で車を一時停止させ、相澤はポケットからリモコンを取り出して、操作した。

 たちまち壁の一部が割れ、車一台が通れる程の空間を創り出す。車は敷地内に入り、職員用と看板の掲げられた駐車スペースに停まった。エンジンを切ると、車内をしんとした静寂が包み込む。

 

「白雲。……理由はどうあれ、お前は信頼を裏切った」

 

 地を這うように低い声が、静寂のヴェールを引き裂いた。相澤は夜更け前の湖のように静謐な目で、こちらを見つめている。その瞬間、トガとトゥワイスの優しい眼差しが、杳の脳裏を掠めた。同時に、彼らが踏みにじっていった無数の命の重みを思い出し、両の膝が痺れた。

 

「お前のしようとしてる事は分かってる。だが、信用のない人間が何を言ったって、世間は見向きもしない。

 今後は正規の手続きを踏んで正規の活躍をし、失った信頼を取り戻すよう尽力しろ」

「……はい」

 

 杳はなけなしの勇気を奮い立たせ、大きく頷いた。杳が後部座席からスーツケースを取り出している間、ふと相澤の視界の端を、一体の小型ドローンが飛び掠めた。

 ――恐らく()()()の機体だろうと、相澤は推察する。ドローンは知覚能力に優れた杳に察知されないよう一定の距離感を保ち、音もなく中空を浮遊して、学び舎へ向かう二人を尾行し始める。相澤は垂れた前髪越しに、鋭い目でそれを睨んだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 ”雄英側に内通者がいる”というのは、USJ襲撃事件以降、公安と警察、雄英側で密かに抱かれてきた()()だった。先の神野事件で、それは()()に変わる。

 雄英バリア破壊・USJ襲撃、保須・鳴羽田、神野、そして八斎會事件――立て続けに起きたこれらの事件の裏には、いつも()()()が絡んでいた。彼らと深い関わりを持つ杳が内通者として疑われるのは当然だった。

 

 ――暫定敵は裏を返せば、敵の一歩手前という状態だ。たとえ個性を使わずとも、警察が疑わしいと思う行動・言動をすれば現行犯逮捕できる。

 杳が復学するのに伴い、警察は監視用ロボットの追加導入を雄英に命じた。表面上自由に泳がせて、尻尾を掴む算段なのだろう。かつて治崎達が辿った道を、皮肉な事に今度は杳が辿ろうとしていた。

 

(HA。尻尾なんてねーっつーの)

 

 今を遡る事()()()()、職員室にて。マイクは相澤と共に朝のコーヒーを嗜みつつ、窓の外を通りすがる監視ロボットを一瞥し、フンと鼻を鳴らした。それからエメラルドグリーンに光る目を曇らせて、同僚を見上げる。

 

(公安も警察も……なんか()()()()()音がすんだよな。あいつら、何か知ってんだろ)

 

 

 

 

 数時間前に見たロボットがいかにも親切そうな電子音声で、”スーツケースを寮に運ぶ”と杳に声を掛けている。嬉しそうにそれに対応する生徒の姿を眺め、相澤は何とも言えない複雑な気持ちで溜息を漏らした。

 

 それから相澤は杳を伴って校長室と職員室に足を運び、各教師へ挨拶周りをした後、1-Aクラスにやって来た。

 ――学内にオールマイトはいなかった。杳はその事に少し安堵し、同時に罪悪感を抱いた。正義の権化である彼が()()()()を見たら、一体どんな顔をするだろう。杳は頭をかき、答えの出ない問題を考えるのをやめた。

 

 やがて杳は、教室のドアの前に立っていた。数分前にアイドル的存在であるマイクにハグされた事で、杳の緊張と心臓のビートは今や最大限にまで高まっていた。――何も考えられない。手足の先が凍るように冷たく痺れている。支えのない朝顔みたいに、体がフラフラとよろめき始めた。

 

 ドアの向こうで、懐かしい声の群れがさざめいている。そのどれもがまるで熱を帯びたような、上擦った(トーン)を含んでいた。相澤がドアをがらりと開け放った途端、大勢が息を飲む音がした。杳がガクガクと震えながら教室に入った瞬間――

 

「おかえりいいいっ!」

 

 ――何十人もの声が合わさったユニゾンと共に、クラッカーの破裂する音が方々(ほうぼう)で鳴り響いた。

 突然の事に呆気に取られ、杳は硬直したまま、周囲を見渡す。教室は色とりどりのテープで飾り付けられていた。紙吹雪の舞い散る中、クラスメイト達がひまわりのような笑顔をこちらに向けている。杳がカチコチと固まっていると、飯田が立ち上がり、彼女の手を包み込んで力強く握手した。

 

「また共に学べる事を嬉しく思っている!委員長として、何より友として、俺にできることは何でもする。遠慮なく言ってくれ」

「夕食後の一時間、私と一緒にお勉強しましょう。お茶とお菓子付です。一か月間の穴埋めはお任せくださいね」

 

 八百万がやって来て、小さくガッツポーズをしてみせた。懐かしい顔ぶれがゾロゾロとやって来て、代わる代わる優しい声を掛けてくる。

 透明な輝きを放つ言葉のシャワーは、かじかんだ杳の心を溶かし、幼い本心をさらけ出した。いきなり杳が顔をくしゃくしゃに歪めて泣き出したのを見て、切島は立てた前髪をかき乱し、オロオロとし始める。

 

「うわっ、悪ぃ!デケー音とか声出したから、びっくりしちまったよな?!」

 

 杳は千切れるほど強く首を横に振り、嗚咽を堪えようとした。皆がますます心配そうな声を上げ、輪を縮める。

 ――暖かかった。一度挫折してしまったのに、いつも皆の足手まといにしかなっていないのに、こんなに優しくしてくれるなんて。甘えてはダメだと思うのに。今だけは、彼らの優しさに包まれていたかった。

 

 ()()が自分の涙と鼻水を丁寧に拭い始める。もう何も見えないけれど、誰がそうしてくれているのか、杳には分かった。上鳴がドン引きしながらも、大いに引き攣った声で呟く。

 

「ウワ出た保護者ムーブ」

「うるせェ」

 

 低くて少し掠れた声。()使()の声だ。涙で滲んでぼやけた視界に、懐かしい紫髪の少年が映った。顔に押し付けられたティッシュを受け取り、鼻をかんでいると、誰かがぎこちない手つきで頭を撫でた。節くれだった冷たい手。()()の手だ。

 次いで、しっとりした剥き卵みたいな感触が頬に触れる。蛙吹がそっと自分を抱き締めていた。

 

「おかえりなさい。杳ちゃん」

「ただいま。梅雨ちゃん」

 

 蛙吹は涙を張った大きな目を細めて、にっこりと笑った。人の心を芯から暖めるような優しい笑顔だった。杳は思わずその笑みに見蕩れ、つられてぎこちなく微笑んだ。クラスメイトのほとんどが和やかな感情に包まれた、その時――

 

「はい終わり。HR始まるから席に着け」

 

 ――あらゆるものをばっさりと斬る名刀のように威圧感ある声を、相澤が放つ。皆は電光石火で席に着くと、お口に素早くチャックをした。

 

 

 

 

 午前の座学は飛ぶように過ぎた。雄英は日本一のヒーロー校であると同時に、()()()だ。一ヶ月の遅れは想定以上に厳しかった。ノスタルジックな気持ちに浸る暇もない。杳は中休みの度に八百万や人使、焦凍に分からないところを訊き、昼食を大急ぎでかき込んで、残った時間を復習に充てた。

 

 午後はヒーロー学だ。約一ヶ月振りの実践訓練は演習場γ(ガンマ)で行われる次第となった。内容は至ってシンプルな戦闘訓練で、二人一組になって個性を使った模擬戦闘を行う。相澤の采配により、杳はなんと()()とペアになった。

 

 諸事情で仮免ストレート合格を逃したとはいえ、爆豪は焦凍と並んでツートップと称される位の実力者だ。復帰し立ての杳が相手取るには、厳し過ぎるものがあった。

 数秒後に始まる一方的な大虐殺シーンを思い浮かべ、耳郎が苦虫を噛み潰したような表情で、爆豪と相澤を交互に見た。

 

「え……ちょ、マジで?」

「バクゴーさぁん!優しくしてあげてくださぁい!」

「するかボケが。フルスロットルで殺す」

 

 上鳴の懇願を無情にも叩き伏せ、爆豪は不敵な笑みを浮かべた。その喰らいつくように威圧的な眼差しを、杳は若干怯えながらも()()()()()。爆豪が訝しげに目を細めた瞬間、開始の合図が飛ばされた。

 

 数瞬後、爆豪は爆速ターボで杳に肉薄、情け容赦のない”徹甲弾(A・P・ショット)”を放った。まともに喰らった杳は大量の粉塵と爆炎を撒き上げながら、フィールド外まで吹っ飛ばされる。

 あっという間の勝負だった。辺り一帯をゾッとするような沈黙が支配する。瀬呂が冷や汗をかきつつ、物申した。

 

「いや鬼か」

「ちょっとバクゴー!手加減ー!杳ちゃん復帰したばっかなんだってー!」

 

 芦戸の非難を右から左へ受け流しつつ、爆豪は何かを見定めるように煙の中に目を凝らした。濛々(もうもう)と立ち昇る土煙の中、杳は体を起こし、鼻血を拭う。

 

 次の瞬間、杳は()()()し、スローモーションがかった世界を跳んで、爆豪の背後へ回った。だが、爆豪は()()()()()()()()

 振り向かず、大規模な爆破を伴った左の拳を放つ。雷と化していても、杳が爆破――熱と風に弱い事は変わらない。依然として爆豪は自分の天敵なのだ。直撃を避け、且つ無力化する必要がある。

 

 杳は雷獣化を解除した。加速した反射神経が元に戻るまでのわずかな間に、治崎の個性を模倣し、発動する。

 爆豪が巻き上げた粉塵を起点に、それらを構成している地面ごと隆起させ、()()()を前方に展開した。それはアメーバのように球状に広がり、爆豪を繭のように包んで密閉しようとする。

 

 ――爆発は酸素がなければ起きない。一時的に空気を遮断すれば、彼は個性を発動できないはず。だが、その壁は爆豪の”徹甲弾 機関銃(A・P・ショット・オートカノン)”によって壊された。

 再び、杳が土砂を結集させようとした刹那、猛獣のように爛々と輝く爆豪の灼眼と目が合った。

 

「……ッ!」

 

 突然、トゥワイスやトガ、マグネ達が瓦礫の棘に貫かれ、苦痛に喘いでいる光景が――杳の脳裏にフラッシュバックした。瞬きすらできないわずかな間、杳は動きを止める。その隙を爆豪は見逃さず、杳の右手を捩じり上げ、地面に叩き伏せた。

 

 頭を軽く打った事で集中が途切れ、杳の個性は強制解除される。杳は抵抗する素振りすら見せず、茫然としていた。何故あの時、トゥワイス達の顔が浮かんだのだろう。数秒後、爆豪の押し殺した怒声が降ってくる。

 

()()()()暇あンのか」

 

 (いかり)のように放り出されたその言葉は、杳の心の一番深い場所に突き刺さった。

 ――そうだ。私は迷っている。心の内を見透かされ、杳は砂の味がする唇を噛み締めた。今周りにいる皆や家族と()()()()に、トゥワイス達がいる。八斎會事件を通して彼らに友情を抱いた杳は、敵という概念が分からなくなっていた。

 

 一方のクラスメイト達は、手に汗握る高速戦闘を目の当たりにして、暫し茫然としていた。

 杳は一ヶ月のブランクがあるはずだというのに、あの爆豪相手に善戦した。峰田はブドウのようにまん丸な目を細め、腕組みをして葉隠に呟く。

 

「なぁ。強くなってねーか?」

「個性が進化したって言ってたよ。戦闘スタイルも変わったよねー」

「引き篭もっていた……特に個性を伸ばす訓練もしていないのに、あそこまでの急成長・変化を遂げるのは論理上あり得ない。何か別の要因が……」

「おーいデクくん。戻ってこーい」

 

 虚空を睨んで熟慮モードに入った緑谷の肩を、麗日が軽く突っつく。

 

 杳は取り立てて優秀なところもなく、実践分野においては特に――下から数えた方が早い位の実力だった。しかし今、彼女は自分達と双肩する程の実力を垣間見せた。まるでつい最近まで()()()()()()()()ように。

 

 先の八斎會事件の時――相澤とマイク、校長は揃って外出し、急遽代理の先生が立てられた事を、緑谷はふと思い出した。一見無関係にも思えるそれらの事項を一本のラインで結べたのは、かつて神野の戦場を掠め飛んだ()()()だけだった。やがて彼らは何か勘付いたように表情を変えていく。

 ゆっくりと身を起こす杳の姿を、人使は静かな眼差しで見つめていた。

 

 

 

 

 ハイツアライアンス寮は校舎から徒歩五分のところにある。見渡す限り広大な敷地内に、ヒーロー科他全課程各クラスに一棟ずつ用意されたという――大きな邸宅(レジデンス)が整然と並んでいる。

 杳は浮足立った皆に引っ張られるようにしてエレベーターに乗り、自室へ赴いた。青山に促され、杳はおっかなびっくりといった様子でドアノブに手を掛ける。

 

Sésame, ouvre-toi(開けゴマ)ってね☆」

「わあ……」

 

 ドアの向こうは、アジアンリゾートの一室を彷彿させるような光景が広がっていた。かつて人使が送ってくれた写真と同じ内装なのだが、実際に見ると感慨深いものがある。

 しばらくの間、杳が言葉を失っていると、脇の下を潜り込むようにして黒影(ダークシャドウ)が顔を覗かせた。金色の目を細めると、黒影は人懐っこい猫のように頭をすり寄せる。

 

「ヨウ、ゲンキシテタカ!ヒサシブリー!」

「久し振りだね」

 

 わしわしと黒影の頭を撫でていると、今度は口田がうさぎを抱き抱えてやって来た。男の子で(ゆわい)というらしい。まさに両手に華、ふれあい天国だ。

 杳が無心になってモフモフの生き物たちを撫でまわしていると、主である常闇がやって来た。壁際に吊るされたドリームキャッチャーをちょっと興味深そうに覗き込んだ後、口田の隣に並ぶ。

 

「お前の理想郷を冒してすまなかった。希望があるならば……」

「ううん。すごく素敵だよ。ありがとう」

 

 杳は何度も頷いて、にっこりと笑った。華やいだ明るい光が零れ落ちるような笑みだった。

 やがて階下から甘くて優しい香りが漂ってくる。杳の復帰をお祝いして、砂藤がケーキを焼いてくれているのだ。焦凍がスマートフォンを片手に、ドアの向こうからひょっこりと顔を覗かせる。

 

「晩飯とケーキできたって。行くぞ」

「うん」

 

 朝・夕食はランチラッシュが創った料理が、各寮に届けられる。一階の食堂で杳達は一堂に会し、手の込んだ美味しい料理に舌鼓を打った。砂藤が腕によりをかけた特製ケーキが、賑やかな食卓風景にさらなる彩りを添える。

 長テーブルにぎっしりと見慣れた顔ぶれが並んでいる。――幸せはいつもフワフワして暖かくて、そして優しい匂いがする。この日を忘れない。皆と共に歩けるよう、信頼を築くんだ。杳は深く息を吸い込んで、その空気を肺いっぱいに取り込んだ。

 

 

 

 

 その日の夜。勉強会と入浴を終えた後。杳は人使と共に、寮の近くにある小さな庭園に来ていた。美しく刈り込まれた木々の輪郭を、警備用のドローンがサーチライトで照らしながら去っていく。休憩用に拵えられたベンチに腰掛けると、杳はごくりと唾を飲んで、ちらりと人使を見た。

 

 ”話したい事がある”と言って庭へ連れ出した時も、そして今も――人使は何も言わなかった。いつもなら、それこそ自分が何かを言う前に先回りして、あれこれと世話を焼いてくれるはずなのに。

 人使が黙っている事に、杳は言い知れない不安を感じた。心臓がぞわりと粟立つ。――いや、気のせいだ。杳は頭を振って嫌な考えを打ち払うと、人使に八斎會事件の全てを話して聞かせた。

 

 長い時間をかけてようやく話し終わった頃には、杳の声は()れていた。人使は杳の回りくどい話も、時には内容を確認するための相槌を打ちながら、辛抱強く応対してくれた。

 杳は人使の変わらない対応に安心すると共に、返事を待った。恐らく彼は怒るだろう。だがその後、自分を受け入れてくれるに違いない。いつもみたいに。そう思っていたが――

 

「それを俺に言ってどうするんだ?」

 

 ――返って来たのは、冷たく無関心な声だけだった。杳の足下から冷たい不安の泡が立ち昇り、体じゅうを埋め尽くしていく。急に世界が(いろ)を失い、平衡感覚がなくなるような感覚に襲われた。

 

 薄くて硬いものがひび割れていく音がする。それは自分が思い描いていた理想と、人使との間にあった友情が、静かに瓦解していく音だった。――違う。そんなはずはない。乾いた唇を舐め、杳はなんとか平静を取り戻そうと努力しながら、言葉を発する。

 

「ど、どうするって……友達、じゃん。聴いてほしかったんだよ」

「散々ほったらかしといて、今更そりゃねェだろ」

 

 杳の方を見ようともせずに、人使は言った。その声は、杳と同じように掠れていた。

 

 自分が思っている以上に、杳は人使に依存していた。彼は実の親以上に自分を見て、受け止めてくれたから。絶対的な信頼は心を麻痺させ、やがてある種の怠慢を生み出した。

 

 ”どんな事をしても、彼は受け入れてくれる”と。そんな確証など、何処にもないのに。

 

 この一ヶ月、杳は――自分自身に精一杯だったというのもあるが――命を賭けて自分を救い出してくれた人使と()()()()()()()()()。人使の反応は人として、友人として、当然の帰結と言えた。

 

 一方の人使は膝の上に放り出した両の拳を、指先が白くなる程に強く握り締める。

 ――”一緒にヒーローに”。かつて交わした約束が、汚泥に塗れて消えていく。だが、最初に加担したのは()だ。気が狂いそうな程に熱い悔悟の炎が、心の中で轟々と燃え盛り、彼を責め立てた。

 

 俺があの時、直接会いに行っていれば。カウンセリングフェスの広告を渡さなければ。時を巻いて戻す事はできない。人使は唯々(ただただ)、葛藤した。

 同じヒーロー志望として杳の気持ちは痛いほど分かる。だが、その度にヒーローがルールを破っていては、いずれこの社会は立ち行かなくなってしまう。

 

 ”不可抗力だった。これ以上責めるな”と説く理性の奥底で、その時――仄暗い何かが、むっくりと起き上がった。一月前、ミッドナイトからカウンセリングフェスの広告を受け取った際に生じた想いが、喉元まで込み上げてくる。

 

(もし、杳がこれで、名前も知らない誰かに自分の悩みを打ち明けたとしたら。()()()()()()

 

 それは友達という範疇を超えた、()()()()だった。同時にそれは、一歩間違えばひどく危険な代物でもあった。恐ろしいほど大きな嫉妬の影が人使の背後から覆い被さり、彼の暗い気持ちを外へ押し出していく。

 ――何故、杳は自分を頼らず、敵の手を取ったのか。そう(うそぶ)く暗い影を、理性は轟々と吼え立てて押さえ付けんとする。だが、勢いは止まらなかった。

 

 杳はわなわなと震える手で、人使の腕を掴んだ。どこか遠くの方で、潮が静かに引いていくような音がした。大切な人の心が離れていく音だ。その時、杳はやっと――()()()()()に気付いた。

 

 他の誰にどう思われてもいい。だけど、人使にだけは受け入れてほしかった。変わらず、ずっと傍にいてほしかった。後悔はいつも、どうにもならなくなった後にやってくる。なりふり構わずに、杳は泣き叫んだ。

 

「ごめん。謝るから……ッ。全部自分に話せって……支えてくれるって言ったじゃん。置いていかないで……ッ」

 

 しがみ付いて震える杳の弱々しい温もりと泣き声が、人使の心に幾筋もの引っかき傷を残していく。――もうやめろ。こんな事がしたいんじゃない。内臓を直に抉られたような激痛に苛まれ、人使は思わず杳を抱き締めようと空いた手を伸ばした。

 

 刹那、爆豪と戦っていた杳の姿が思い浮かんだ。ただ目の前の相手だけを見据えて、個性を繰り出し、果敢に戦っている。

 ――ほんの一月前まで、彼女は鳥の雛のように自分の後ろを歩き、傍を離れようともしなかった。かつての思い出が閉じた瞼に焼き付いて、火傷痕を残していく。無数の傷跡が膿んで、どす黒く濁った血をドロドロと垂れ流した。

 

「お前の保護者は、もう俺じゃない」

 

 ――今までずっと杳には自分しかいないと思っていた。だけど、それは()()()だった。人使はそっと杳の体を引き剥がすと立ち上がり、その場を去った。

 

 失ったものの尊さに打ちのめされ、杳はベンチ上に(うずくま)り、ずっと泣き続けた。体じゅうの水分を絞り尽くす程に嘆いても、涙は止まらなかった。

 どんなに悲しくても、時間は刻一刻と過ぎていく。いつかは涙を拭いて、立ち上がらなければならない。やがて杳は腫れぼったい目を擦り、寮に向かってよろよろと歩き出した。




6期を書くに当たり、”ヴィラン(罪人)は許されるのか”というテーマをずっと考えていて、やっと自分なりに答えが出たのですが、めちゃめちゃ更新が遅れてしまってすみませんでした( ;∀;)

あと文章構成ですが、「改行なし」から「改行あり」に戻してみました。余計に見にくくなったわ!という場合はご一報くださると幸いです。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます!


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No.57 少しずつ前へ

 翌朝、寮の自室にて。杳の意識はゆっくりと浮上した。目を開けると――天井から幾枚も垂れ下がった、花弁のように繊細な造りの布が視界に入り、同時に()()()を――そして昨夜の出来事を思い出す。閉じた瞼が見る間に熱くなり、杳は寝転がったまま、しばらく泣いた。

 

 けれども、ずっとそうしている暇もない。朝食の時間が迫っていた。杳はひとまず顔を冷やそうと小型冷蔵庫を開け、中身を見るなり、また泣いた。昨日の放課後、人使と学内の売店に行き、一緒に――というより杳の好みを訊いて人使が――準備したものだ、という事を思い出したからだ。

 

 自分の心だけでなくこの部屋の中にも、至るところに友人の面影が宿っている。体の中心にぽっかりと穴が開いたように虚しくて、寂しかった。けれど、そうせざるを得なかった友人の気持ちを想うと――自分がやるせなくなり、杳は拳をギュッと強く握り込んだ。

 

 ――今の状態で人使に謝るのは、ただの自己満足だ。そう反省できる程度に、杳の自我は成長していた。保冷剤を取り出して顔に当て、大量のクッションに足を取られながら部屋を出る。

 廊下には誰もいなかった。賑やかな人の声と朝餉の匂いが、階下から立ち昇っている。

 

 杳はエレベーターの前に立ち、機体が上がってくるのをぼんやりと待っていた。やがて扉が開くと――中には()使()が立っていた。

 

「……ッ」

 

 心臓が飛び跳ねるほど強い動悸を感じ、杳は茫然と人使を見つめた。人使も驚いたという風に目を丸くして、こちらを凝視している。

 ほろ苦い味のする沈黙のヴェールが束の間、二人の周囲を包み込んだ。やがてそれを取り払ったのは、人使だった。首元に手をやり、杳の傍を擦り抜けながら呟く。

 

「おはよう」

「……お、はよう」

 

 ()()()()だった。別に無視されているわけじゃない。だけど、いつものような保護者然としたやり取りはもうなかった。まるで宝箱を開ける鍵を失くしてしまったみたいに――もどかしくて切ない気持ちが、杳の心を焦がしていく。エレベーターに乗り込んで前を向くと、廊下を進んでいく人使の後ろ姿が目に入った。

 

 杳はふと体育祭での出来事を思い出した。時計の針が、あの当時に巻き戻ったみたいだ。自分はまた友人を傷つけた。そしてどうやったら修復できるのかも分からない。杳が俯いてエレベーターの閉ボタンを押した、その時――閉まりかけるドアに誰かの手がガッと挟まった。()使()だった。

 

「杳」

 

 走って戻って来たのか、人使の息は少し乱れていた。濃い隈に縁取られた紫色の瞳が、自分をじっと見下ろしている。杳は上手く息ができなくなった。心臓がフワッと浮き上がり、とんでもないスピードで早鐘を打ち始める。まるでこの世界に――自分と人使以外、誰もいないような感覚に囚われた。

 そんな杳の心情を知る由もなく、人使はちらっと腕時計を確認した後、矢継ぎ早に言葉を続ける。

 

「食うの遅いだろ。着替えてから朝飯にした方がいい」

 

 人使はエレベーターの扉を開け、杳がフラフラとした足取りで出てくるのを待った。それからくるりと踵を返し、自室へ戻って行った。

 

 ――全部が振り出しに戻ったわけじゃない。()()()よりも友人は成長し、大人になっていた。

 

 杳は石炭のように熱く燃え始めた顔を保冷材で押さえ、くたくたになったTシャツの裾部分をギュッと握った。相も変わらず己の事で精一杯な自分が、恥ずかしくて堪らない。

 

 遠く隔たれた崖の上に、人使が立っている。彼は、杳のいる向かいの崖まで続く架け橋を()()()()編んでくれた。だけど、杳が――今までのように何も考えず――続きを編んでしまっては、その橋は倒壊する。杳は今一度、自分自身を深く見つめ直す必要があった。

 

 

 

 

 本日より、杳は()()()()()()()を受講する運びとなった。目下の目標は戦闘能力の向上と必殺技の考案。放課後、杳はコスチュームに着替え、体育館γ(ガンマ)へ向かった。

 

 体育館γはTDL(トレーニングの台所ランド)の通り名で知られる特殊訓練施設で、広々とした室内の床は全てコンクリートで構成されている。この施設の主であるセメントスが、杳の個性に合った戦闘フィールドを創り上げていく間、彼女はこわごわと周囲を見回した。

 ――相澤にセメントス、それにエクトプラズム。錚々(そうそう)たる顔ぶれを眺め、杳はぶるりと武者震いする。たった一人の生徒相手でも、雄英は人員を削減したりしなかった。

 

「ヒーローとは事件・事故・天災・人災……あらゆるトラブルから人々を救い出すのが仕事だ。取得試験では当然、その適性を見られる事になる」

 

 施設内を浮遊する監視用ドローンから目を離し、相澤は杳に向けてそう言った。――現代はヒーロー飽和社会だ。山のようにいる志望者達は振るいに掛けられ、毎年より多くの力を持った者だけが日の目を見る事となる。必要とされる能力は情報力、判断力、機動力、戦闘力、コミュニケーション能力や統率力……etc.

 何層にも重なり合うフィールドを錬成した後、セメントスは床から角ばった手を離してにっこりと笑う。

 

「多くの適性を違う試験内容で試されるが、その中でも()()()はこれからのヒーローにとって極めて重視される項目になる。状況に左右される事なく安定行動を取れれば、それは高い戦闘力を有しているのと同じなんだ」

 

 トゥワイス達の顔が、ふと杳の脳裏をよぎった。彼らと戦い捕縛するという事は、刑務所に――さらに言えば処刑台に送る事と同義だ。

 彼らは確かに優しい心を持っているが、同時に大勢の人の命を奪い、人生を壊している。その罪は償わなければならない。だが、彼らが死ぬのは嫌だった。せめぎ合う心を持て余す杳の目前で、エクトプラズムが生み出す無数の分身が、フィールド上に芽吹いていく。

 

「戦闘トハ、如何ニ自分ノ得意ヲ押シ付ツケルカダ。例エバ……君ノ十八番デアル”雷獣化”ハ一時的ナ超速移動ト精密ナ電撃ヲ可能トスル。ソレ自体ガ脅威デアル為、必殺技ト呼ブニ値スル」

 

 エクトプラズムに手招きされ、杳はフィールドに上がった。

 

(信用のない人間が何を言ったって、世間は見向きもしない。正規の手続きを踏んで正規の活躍をし、失った信頼を取り戻すよう尽力しろ)

 

 担任の言葉が耳元でリフレインする。何にせよ、力を付けて仮免を取得しない事には意味がない。考えるのは後、今は目の前の授業に集中しなければ。

 杳は大きく深呼吸すると同時に、雲化した。相澤が隣に降り立って、地を這うように低い声で激励を飛ばす。

 

「今日から二週間、雲化と量子化……双方の個性を伸ばしつつ必殺技を編み出す圧縮訓練を行う。プルスウルトラの精神で乗り越えろ」

「はいッ」

 

 戦闘開始の合図が放たれる。杳は獣のように低く身を伏せ、エクトプラズムが放つ攻撃を避けた。彼は口から放出する煙のような不定形物質を自らの分身に変えられるほか、効果範囲内という制限はあるものの、不定形物質の性質を自在に操り、精密に操作できる。

 

 ――本体を探し、無効化するしかない。杳の胴体部分がスノードームのように淡く透け、中に紫電が閃く暗雲が滞留し始める。

 次の瞬間、杳は雷獣化し、地を蹴って空中に舞い上がった。無数の分身達がこちらに向かって吐き出すエクトプラズムの動きが、スローモーションのようにゆっくりと見える。

 

(戦闘トハ、如何ニ自分ノ得意ヲ押シ付ツケルカダ)

 

 エクトプラズムの助言が、杳の背中を押す。――知覚能力は自分の得意分野だ。感覚を研ぎ澄ませ、杳は分身の中に潜む本物を探索(サーチ)した。

 本物にしかない独特な気配、重み、匂いの濃さ……そういったわずかな差異を杳は機敏に察知する。

 

 数瞬後、杳は不規則な軌道を描き、電流を纏った体でエクトプラズムに()()()()()()()。だが、それを見越したように彼は大きく身を捻り、音速に匹敵する速度で回し蹴りを放つ。

 

 杳の放つ金色の電光と、エクトプラズムの義肢が生み出した衝撃波がぶつかり合い、フィールド内をイオン化された突風が吹き抜けた。

 

 ――八斎會での死闘は、杳を飛躍的に成長させた。相澤は戦況を冷静に観察しながら、そう思った。爆豪との模擬戦でもそうだった。彼女は獲物を狙う肉食獣のように静かな目で相手を探り、臆する事なく攻撃を仕掛けている。以前までの気の弱い彼女とはまるで別人だった。

 

 本体が攻撃を受けた事により、分身達の足下がぐらりと揺らいだ。砂塵と不定形物質の残骸が中空を舞い散る中、杳はさらなる追撃を仕掛けるため、エクトプラズムに肉薄する。黒々としたフェイスマスクに銀色の目、というエクトプラズムの顔が――

 

「……ッ」

 

 ――次の瞬間、()()()()に変わった。兄を傷つける事を拒絶した杳の脳は、迷わず雷獣化を解除する。その直後、黒い靄を突き破って、煙のような不定形物質が放射線状に広がり、動きを止めた杳をギュッと圧縮し、拘束した。

 

 地面に転がされた杳が見上げると、黒霧の姿はどこにもなく、当然のようにエクトプラズムがこちらを見下ろしていた。エクトプラズムはわずかに首を傾げ、冷静な口調で尋ねる。

 

「君ガ個性ヲ解除スル寸前、我ヲ見テ驚イテイタナ。……()()()()()()

「先生の、顔が……兄……黒霧に、見えました」

 

 杳が気まずそうに顔を俯かせてそう応えた直後、エクトプラズムの向ける眼差しが――優しくて柔らかいものへ変わった。救いを求める人々を見る、ヒーローの目だ。拘束を解くと、杳の前にそっとしゃがみ込む。使い込まれた戦闘用義肢が、天井の照明に反射してきらりと輝いた。

 

「少シ休憩スルカ?」

「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」

 

 エクトプラズムの厚意に感謝しつつ、杳は立ち上がる。――きっとこれはどうする事もできないネガティブな現象なんかじゃなく、自分が立ち向かわなければならない()なんだ。生徒の目に覚悟を見出したエクトプラズムは頷いて、周囲に再び、大勢の分身達を召喚する。

 

 

 

 

 圧縮訓練はその後二時間続いたが、結局杳は壁を乗り越える事はできなかった。相手の動きを封じる決定的な技を繰り出そうとする度に、エクトプラズムの姿が黒霧を始めとした――(とも)の姿へ変わる。

 傷つけられない。躊躇した杳は集中を欠き、その隙を突いたエクトプラズムに拘束される――という、一連の流れをずっと繰り返す事となった。

 

 教師に挨拶して体育館を出ると、外の世界は淡いオレンジと紫がかった色に染まっていた。()けたガラス玉みたいな夕陽が、辺りを飛び交う(からす)達に最後の輝きを振りまきながら、力尽きたようにビルの谷間へ沈んでいく。

 

(迷ってる暇あンのか)

 

 級友の言葉が耳朶を打つ。杳は力なくうな垂れて、己の不甲斐なさを噛み締めた。目を閉じると瞼の裏に――細切れになった記憶のコラージュが広がった。

 敵達の内面に触れた杳は、今日のヒーローの在り方に()()を抱くようになっていた。

 

 杳がぼんやりと思いを馳せていると、ふと前方で地面を踏みしめる音がした。誰かの足音だ。迷いのない足取りで、真っ直ぐこちらへやって来る。

 先生だろうか。杳は急いで顔を上げ、息を飲んだ。

 

「や。白雲少女」

 

 ――()()()()()()が立っていた。トレードマークの二本の角は垂れ下がり、骨ばった痩せた体躯をシンプルな衣服に包んでいる。彼はきさくに片手を上げ、笑いかけた。その姿にかつての軍神の如き勇猛さはない。

 

 他ならぬ自身と爆豪を救う為、そして巨悪を討つ為に、彼はあの夜、全てを失ったのだ。テレビ画面の中央を真っ直ぐに指す――痩せた人差し指を、杳は静かに思い出した。

 

 あの悪夢の一夜から解放された二人の人質は、それぞれ別々の道を歩んだ。悩み苦しみながらも、正道を往った級友とは異なり、杳はオールマイト達に背を向け、あろうことか彼を追い詰めた敵連合と手を組み、犯罪を冒し、そして暫定敵となった。

 

 自己嫌悪と罪悪感が綯交(ないま)ぜになった灰色の瞳と、深みを帯びた紺碧の瞳が、静かに交錯する。オールマイトの目は、落ち窪んだ眼窩の奥で今も尚、勇猛果敢に輝いていた。現役時代と同じ――見る者を圧倒させる程の気迫と強い光を内包している。彼はわずかに眉をひそめ、力強く一歩を踏み込むと、杳に尋ねた。

 

「君は自分の行いを恥じているのか?」

 

 オールマイトの青く澄んだ眼差しが、杳の心をレントゲンのように透視する。杳は束の間、言葉を失い、酸欠状態の金魚のように口を開閉させながら、オールマイトを見上げた。

 

 ――ただ心の在り方を問うているのか、それとも確かめているのか。質問の真意を捉えかね、杳の瞳は泳いだ。だが、どんな大義名分があろうと、自分のした事は()()だ。”恥ずべき事”だと応える為、杳は小さく震え出した唇をこじ開けた。

 

 その瞬間、小さな白い手が二つ、杳の腰に柔らかく巻き付いた。――()()だった。

 

 幼い少女は華やぐように笑って、首を横に振る。その小さな体の中には――善と悪、ヒーローや敵といった垣根を超えた――あまりに複雑な想いが詰まっていた。熱い涙と一緒に込み上げて来たその想いを、杳はオールマイトに差し出した。

 

「誇りには思えません。でも……恥ずべき事だとも、思いません」

 

 オールマイトは失望も怒りもせず、ただ笑った。今までのヒーロー然とした、人を勇気づける為のものではない。二人の頭上に広がっている夕焼け空のように優しく素朴で、どこか切ない笑顔だった。彼は杳の背中をポンと叩き、自信なさげに丸まった背筋を伸ばそうとする。

 

「なら、胸を張りなさい」

 

 オールマイトが静かに放ったその言葉は、杳が心の中で無意識に張り詰めていた糸を()()()()()()()()()

 

 涙で滲んだ杳の視界に、職員室で一つだけ空いた席が浮かぶ。それを見た時に感じた安心感と、その直後に襲ってきた罪悪感も。

 ――本当は、逢うのがずっと怖かった。誰よりも平和の為に尽力してきたオールマイトは、自分を赦すはずがないと思っていたから。だが、その予想は外れた。オールマイトは杳の選択を受け入れ、そして励ましてくれた。

 

 

 

 

 オールマイトは中庭のベンチへ杳を連れて行き、人目も(はばか)らず、堰を切ったように泣き続ける彼女にハンカチを差し出した。そして涙が止まるまで、ずっと傍にいてくれた。大分落ち着いて来た杳がしつこく鼻をすすっていると、ふと目の前に缶ジュースが差し出された。苺オレだ。

 

「喉渇いただろ?」

「ありがと、ござます……」

 

 オールマイトのスマートな優しさに、杳は深い感銘を受けた。教え子が美味しそうにジュースを飲んでいる間、オールマイトはその広々とした背中に隠すようにして――生徒のこまごまとした情報を書き止めたメモ帳を、ズボンのポケットにこっそりと仕舞い込む事に成功する。

 

 しばらくの間、秋風が木立や芝生をくすぐる音と、杳がジュースを飲む音だけが響いた。やがてそれらが止むと、オールマイトは咳払いをして、ちょっと緊張気味に口を開く。

 

「久々の学校はどう?困ったこととかない?」

 

 先程までの威厳ある声とは一転し、今のオールマイトは生徒を案じる一教師そのものだった。優しい素朴な言葉の連なりが、杳の心を凪いでいく。

 

 ――正直言って、困った事は山ほどあった。そしてその中でも一番厄介なものが今、自分の前に立ち塞がっている。杳の中の迷いが強くなる程、それはますます大きく膨れ上がり、意地悪な顔で通せんぼをした。杳は大きく深呼吸をしてから、恐る恐る口を開いた。

 

「困ったこと。質問でもいいですか?」

「全然いいよ」

「……その。敵とヒーローは、分かり合う事はできないのでしょうか」

 

 突然、辺り一帯を強い風が吹き荒れた。芝生上に降り積もった木の葉を勢いよく巻き上げ、二人の髪や頬を悪戯に弄り、藍色に染まる空へと還っていく。続いて、突き刺さるような視線を感じ、杳はびくりと肩を強張らせながらオールマイトを仰ぎ見た。

 だが、オールマイトは杳ではなく――生け垣からひょっこりと顔を覗かせたロボットを睨んでいただけだった。ロボットが大人しくその場を去るのを見送ってから、彼は話し始める。

 

「君と()()()()を持った者を……昔、何人か見た事がある」

 

 静かで、抑揚のない声だった。同じ考えを持ったヒーローが過去にもいた。自分一人ではなかったのだ。杳は空き缶を握り締め、居住まいを正して、話を聴く事に集中する。

 

「彼らは敵を理解しようと努め、情けをかけた。そして殺された」

 

 オールマイトが最後に放り出した言葉を、杳はとっさに理解する事ができなかった。青ざめた顔で硬直する教え子を見下ろし、オールマイトは静かに唇を噛み締めた。

 

 ――敵に寄り添おうとするヒーロー達の覚悟が足りなかったのか、敵の悪意が強すぎたのか、その両方か。真意は分からない。捕えた敵は皆、嫉妬と憎悪を剥き出しにした悪辣な顔で、オールマイトに罵詈雑言を投げつけるだけだった。

 

 敵とは賢しい存在だ。笑顔の裏に怖気を震うような()()を隠し、平然と嘘を吐く。理解しようと手を差し伸べても、彼らはその手を振り払い、唾を吹きかける。だが、視点を変えれば――彼らがそうせざるを得ない状況を、今の社会が創ってしまったのかもしれなかった。

 

 水と油のように、混じり合う事はない。殺し合う事はできても、分かり合う事はできない。もう戦う以外、止める方法はない。人々の善意を命と共に踏みにじり、話し合う為に設けた時間を”殺す為の時間”だと勘違いし、ますます暴れ回る敵と戦う中で――オールマイトは平和を守る為、そう思わざるを得なかった。

 

「分かり合う事はできない、そう思っていた。……()()()()()を見るまでは」

 

 思いがけない言葉に驚き、杳は目を丸くしてオールマイトを仰ぎ見た。彼は、夜明け前の海のように静謐な眼差しで、こちらを見つめている。

 

 八斎會事件後、警察本部に緊急招集されたオールマイト達は、事実確認の為――事件に関与した者達の記憶を見る事となった。

 ――敵連合はオールフォーワンが創り出したものだ。この事件も彼のシナリオの一篇に過ぎない。オールマイトは敵連合の人々に焦点を置き、不自然な点がないかと注意深く目を凝らした。

 

 だが、彼らが杳を見る眼差しは、どれも素朴で優しかった。悪意や殺意は微塵もなく、そこにはただ()があった。彼らの視界に映る杳も、彼女の仲間達も、同じ目をしていた。

 

 敵とヒーローが手を取り合い、一人の少女を救う。使い古された大衆映画のような結末。結局はそれも含めて、オールフォーワンの策略なのかもしれない。だが、それでも、オールマイトは相澤と同様、杳という人間に()()()()()を見出した。

 

 彼女の兄を宿敵の手から救えなかった事は、自分の責任だ。その罪を忘れた日はない。だが、後悔と罪の前に(うずくま)っていても、敵は容赦しない。嘲笑いながら、無情に過ぎていく時間と共に、全てを奪っていくだけだ。

 現在の自分にできる事は、成長の手助け。ヒーローとしての在り方を今一度問う為に、オールマイトは咳払いをして、教え子に向き直る。

 

「今度は、君自身の考えを聞かせてくれるかい?」

 

 杳は深く目を閉じて、大きく息を吸った。瞼の裏に、雄英に入学してから夢中で駆け抜けてきた――数ヶ月間の記憶が川のように流れていく。どんなに拙くとも、未完成でも、自分の言葉で。杳は長い時間を掛けて言葉を探し、それを藍色に染まった外の世界に並べていった。

 

「簡単には、できないかもしれません」

 

 黒霧が兄であると知った時、絶望に呑まれた杳が周囲に助けを求めても、弔達はじっと観察するだけだった。あの冷たく無関心な目を、杳は今でも克明に思い出せる。あんな恐ろしい目ができるまでに彼らの心は傷つき、壊れてしまったのだ。荼毘の投げつけた野次が、杳の耳にへばり付いて消えていく。

 

「でも……間違った人が、罪を犯した人が、もう二度と許されないとは思わない。()()()()()()

 

 中空を巡回するドローンが、ベンチに佇む二人の姿を、眩い光で照らしながら去っていく。杳は迷いながらも、ぎこちなく前を向いた。

 自分も含めて、人は間違う生き物だ。そしてそれを悔いて反省し、また前を向いて、正しいことを選択できる力も有している。

 

 弔は信頼できる仲間を送ってくれた。マグネは命懸けで自分を救おうとしてくれた。スピナーは何かとぎこちない皆の関係性を繋いでくれた。トガとトゥワイスは危険を押して助けに来てくれた。

 ――彼らが自らの罪を後悔し、反省しているかは分からない。だが、彼らは自分を救けてくれた。

 

(思い出せ)

 

 インカムから聴こえた弔の声をふと思い出し、杳は無意識に耳を触った。彼のおかげで杳は立ち直り、治崎と戦う力を得る事ができた。彼はヒーローを、この世界を心から憎んでいたはずだ。もしかしたら他に企みがあるのかもしれない。だけど、そうではない、それだけではないはずだと――杳は信じたかった。

 

 悔いるという事は、相手の痛みを知る事だ。今は自身の痛みに精一杯で何も考えられなくとも、根気強く向き合っていればきっと、お互いの気持ちを理解できる日がやってくる。たとえ刃を交える事態になったとしても、()()()()()はずだ。わかりあう為に、戦う。杳は勇気を出して、本当の名前で弔を呼んだ。

 

()()は私を救けてくれました。私は、それに応えたい」 

 

 ――あたたかい雫が一滴、ポツンと手の甲に滴ったような気がした。雨だろうか。杳は不思議そうに空を見上げたが、星の瞬き始めた濃紺色の世界に雨雲らしきものは見当たらない。

 視線を戻すと、オールマイトの薄い唇がほんのわずかに持ち上がっているのが見えた。だがそれは一瞬の事で、彼は短く息を吐いて立ち上がると、振り返らずに言葉を発する。

 

「君は、私の往けなかった道を歩もうとしている」

 

 その言葉の真意を理解する前に、オールマイトはきさくな様子で手招きし、杳を寮の前までエスコートした。

 夕食を摂って入浴し、明日の復習をした後、杳はベッドに潜り込んで、夕方の出来事をじっと考えた。オールマイトが往けなかった道とは何だろう。考えたが、答えは出ず――杳の意識はやがて静かに夢の世界へ融けていった。




杳の敵に関する話、分かりづら過ぎてすみません…。敵を赦す、分かり合うって難し過ぎるわ。根っからの戦闘狂であるマスキュラーとかどうすんだよ、殺した人や残された家族はどうなるんだよって話になるし。やっぱりヒロアカ原作の流れが一番理に適っている。

でも、じゃあトガちゃんが敵になるまで追い詰めた一般の人々とか、ジェントルの家に嫌がらせしまくったマスコミ達はお咎めなし?ってなるんですよね。突き詰めていくと、正義とか悪って何?ってなるんですよね。

結局は逮捕して刑務所に入って、反省して罪を償って…っていう流れしか解決策がない。反省して罪を償うっていうのが一番難しいところで、そこをこのSSで治崎さんとかを絡めて書いていきたいです。


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No.58 視点は違えど

※追記:作中に登場する『箱の中のカブトムシ』は、実際にある思考実験です。

このSSに目を通してくださり、また感想・評価・誤字訂正・ご指摘をくださりまして、本当に本当にありがとうございます( ;∀;)
何か分かりづらい所などございましたら、修正しますのでご一報ください。


 翌日、三時限目の授業にて。「倫理学」を担当するミッドナイトは電子黒板に”犯罪心理学”と書き記し、優雅な動作で振り向いた。

 ミッドナイトは人の心を鎮静化させる個性を有しているからか、敵の心理鑑定や再犯防止に関する教育に造詣が深かった。犯罪心理学の目的は、文字通り心理的な観点から――何故敵が犯罪を冒したのか、そしてどうすれば再発を防げるのか、等の有効な処遇方法を考えていくといったものだ。

 

「”人は何故、犯罪を冒すのか”。これは我々ヒーローや警察にとって永遠のテーマです。この問いについて真に考える時、現場に残された証拠・警察が提供するデータだけでは情報不足だとされている。……昨日の復習だけど、何故か分かる人?」

 

 教室内でちらほらと手が挙がった。ミッドナイトは一番早く、尚且つ綺麗に手を挙げた八百万を指名する。彼女は席を立つと淀みの無い声でこう言った。

 

「皆、独立した意志を持つ人間だからです。犯行に至った理由はあくまで表層的な動機に過ぎません。本質的な動機を理解するには、その人の個性(パーソナリティ)を理解する必要があります」

「その通り」

 

 ミッドナイトが魅惑的なウインクを送ると、八百万は口元を少し誇らしげに上げ、席に着く。クラスメイト達が何かを書き取る音や、ページを捲る音が静かな室内に響いた。杳はマイクデザインのシャープペンシルを顎に当て、話を聴き取る事に集中した。

 

「犯罪行為に至った背景には、その人が生まれてからその時点に至るまでの長い歴史があるの。真の動機は、本人すら自覚できない深層意識内で発生している事が多い」

 

 電子黒板の中央に大きな丸が表示された。ミッドナイトが丸をレーザーポインターで差すと、それはどんどん形が歪み、傷だらけになり、膿んでいく。ミッドナイトは言葉を続けた。

 

「人の心は皆、生まれた時は()()()だったと考えて。それが生まれた場所・育った環境・大きな衝撃を受ける事で歪み、変質していくというイメージ。敵は心が著しく損傷し、病んでいる状態なのだと想像すれば、分かりやすいかも。

 私達は敵を捕らえるだけでなく……再犯防止の為に、彼らが負った傷や病の原因を紐解いていく義務がある。では、それを知るにはどうすれば良いのか」

 

 電子黒板の画像が、刑務所で服役中らしい敵の画像に切り替わった。プライバシー保護の観点からか、容姿の部分にはぼかしが入っている。

 

「まずは外的要因、環境から見てみましょうか。服役中の敵を数十年間に渡り調査した結果、いくつかの共通点が導き出されたわ。特殊な個性、経済的及び教育的貧困、過度のストレスや愛情不足、日常的な暴力を振るわれていた……etc.どれもマイナスな項目ね。

 しかしそれらはあくまで共通点であり、直接的な原因ではない。同じ環境に置かれても、秩序を守って生活している人の方が()()()()()()の」

 

 珍しい個性を持った事でいじめられている子供、痩せ細った子供や暴力を振るわれている子供……彼らの上に×マークが付き、困難を乗り越えて生活している大人達の姿に上書きされる。ミッドナイトが黒板の前で片手をはらうような仕草をすると、それらの映像はパッと消えた。

 

「内的要因に移る前に。ここで、ある思考実験の話をしましょう」

 

 電子黒板は音声と共にあるアニメーション映像を映し出した。――本当の意味で()()()()()を理解する事の難しさを提起する、『箱の中のカブトムシ』という思考実験のダイジェストだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 一つの部屋に複数名の人間が集められ、『カブトムシの入った箱』を各自一つずつ与えられる。

 自分の箱だけは覗き見る事ができるが、他人の箱は覗けない。自分の箱にカブトムシが入っているのは分かるが、皆の箱の中身も同じかどうかは分からない。

 

 だが、皆の箱にカブトムシ以外のものが入っていても、いっそ空っぽの状態でも、彼らは()()()()()()()。彼らの箱に入っているそれ、もしくは空っぽの状態が、()()()()()()()()()()()()なのだから。

 

 自分のカブトムシは、自分にしか知り得ないもの。自分の考えている事や感情を言葉で表しても、それらは本質的には自分にしか分からない。

 どれほど言葉を尽しても、互いの心を完全に理解する事はできないのだ。他者に痛みについて語られた時、想像する事はできても、同じ痛みを知覚する事まではできないように。

 

 

 

 

「人それぞれ育まれた心があり、それを完全に理解するのは難しい。さて、これらの前提を踏まえた上で……どうしたら人は犯罪を冒さなくなるかを考えてみて」

 

 それは答えのない哲学の領域に近かった。誰もが言葉に窮して俯き、手持ち無沙汰にシャープペンを回したり、ノートや教科書を捲って考える。

 

 やがて教壇の最前列の席で、すらりと白い手が伸びた。――()だった。

 体育祭から休学する前までは、マイクの担当する英語以外、ほとんど手を挙げる事のなかった彼女にしては珍しい事だった。教室が少しざわめく。ミッドナイトが指すと、杳はゆっくりと立ち上がった。

 

「想像すればいいと思います」

 

 他人の箱の中身が分からなくても、痛みを分かち合う事ができなくとも、()()()()()()()を思い描く事はできる。パーソナリティを知るというのは、相手がどんな人間かというのを知る事だ。もし自分が敵連合の人々と関わりを持たなければ、彼らはずっと()()()()だった。

 

 ”相手の立場に立って考える”――使い古された、道徳のフレーズ。当たり前の事だけど、何故かとても難しい。相手の立場に立って考えるのを忘れた時、人は人を傷つける。

 許し合うには、他者の心を想像するしかない。どうしてそんな事をしたのか。どういう想いで人を傷つけたのか。傷を負ったらどういう風に痛いのか。大切な人を傷つけられたら、どれほどに心が痛むのか。

 

「皆が他人の気持ちを想像して……許し合う事ができれば、心の痛みを鎮める事ができれば、その人はもう犯罪を冒さなくなると思う」

 

 鳴羽田の街中を颯爽と去っていく三兄弟の姿が、杳の脳裏をよぎる。多種多様な個性・性癖を、押しなべて抑圧する事なく、否定する事なく皆が受け入れられれば、人々が心に負う傷は少なくなるはずだ。

 

「職場体験で、特殊な性癖に対処できる施設や療法を見ました。たとえば風邪を引いた時と()()()()()……そういう風な治療をする事が、当たり前になればいい」

「しつもーん」

 

 飄々とした声が教室内に響き渡った。瀬呂が手を挙げ、杳を見つめている。その目の表面には、ナイロンテープのように薄い警戒心が張ってある。

 

「それで差別とか偏見とかはなくなるかもしんないけどさぁ。罪は消えないわけでしょ。被害者のケアはどうすんの?」

()()()使()()。ヒーロー以外の人も皆、使えるようにする」

 

 クラスの空気がピンと張り詰めた。ヒーロー等の特殊な職業の者を除き、一般の人々が個性を使う事は禁じられているからだ。だが、八斎會事件を通して、杳は、世の人々が秩序を守っている事に疑問を持つようになった。

 

 ――あの日、杳は()()()()()、壊理を救い出した。ルールのない世界はとても自由だ。あえて黙っていたり、杳と同じ想いに囚われていた者もいるが、ほとんどの者は杳のやろうとしている事を止めなかった。

 (ヴィラン)は自分の欲望を我慢しないし、仲間にもさせないから。

 

 そして周りの大人達も、暫定敵となり果てて帰って来た杳を、()()()()()()

 警察や公安の人々には”自由に泳がせる”という思惑があり、八斎會事件でとどめを刺された格好となった――雄英の教師達は上層部に対していよいよ立つ瀬がなくなり、要求を呑むしかない為に、表立って杳を叱る事ができない。唯一彼女に苦言を呈したのは、相澤とオールマイトくらいだった。

 

 杳は人工的に創られた自由の中で平和を模索し、やがて”個性を使ってはいけない”という秩序そのものに疑念を抱くようになった。オールマイトに認めてもらったという事実が、暴走に拍車を掛けた。

 

 ――個性の使用を一部の者だけに独占させる事に意味があるのか。あの時、自分はマグネ達と手を取り合えた。それと同じように皆が他人を思い、誰かの為に個性を使う事ができれば、この世界はもっと平和になる。杳はそう思うようになった。

 

 杳はぼんやりとした灰色の瞳で、クラスメイト達を見回した。その目の奥には、小さな芽が生えている。可哀想な少女を救いたいという善意に紛れ、弔が密かに撒いた()()()だ。それは杳の心の底に眠る()()を養分にし、少しずつ成長を遂げようとしていた。

 

「理不尽を受けて、そのまま我慢する必要なんてない。治療関係の個性の人は少なくとも、それに準じた個性の人は沢山いると思う。そういった人達に協力を仰いで、皆で助け合って被害者の心と体のケアをするべきだと思う」

「傷つけられても癒せばいい、最悪殺されても……蘇らせればいいという事か?」

 

 飯田が手を挙げ、静かな声を放った。その声にはほんの少しだけ、咎めるような響きが内包されている。

 委員長の放つ厳粛な空気に呑まれ、教室内の気温がたまらず数度、下がった。さっきまで幸せそうに口の端を緩めてうたた寝をしていた上鳴は、今や眠気も吹っ飛んだと言わんばかりの様子で、事の成り行きを見守っている。

 

「俺は正直、その考え方は犯罪の助長に繋がるだけだと思う。人の命の尊さはどうなる?」

 

 真っ直ぐな黒い瞳と、ぼんやりした灰色の瞳が拮抗する。怪我の為にヒーロー業を退く事となった兄を救えるかもしれないのに、飯田は杳の意見に賛同せず、彼女を止めようとしていた。それがどれほどに理知的で尊い事なのか、今の杳にはまだ分からなかった。

 

「蘇っても、命が尊い事に変わりはない。”傷つけられても、殺されても治るから何をしてもいい”……そういう風に考える人の方が、病んでいる」

 

 他者と完全に分かり合う事はできない。だからこそ人は秩序を創り、それを守って生きてきた。杳の主張は見方を変えれば、社会の(ことわり)を壊し、世界を再び混沌の最中へ突き落そうとする――危険な代物だった。

 

 ふと優しい花の香りが、杳の鼻腔を掠めた。ミッドナイトが皆に見えないよう教壇の下で、薄絹のようなスーツを指先で少しだけ引っ張り、個性を放出していた。教室内に(みなぎ)っていた緊張の糸が、少しずつ緩んでいく。

 

「白雲さん。あなたの意見はとても優しいけど……同時に、難しい事でもあるわ」

「……簡単な事なんだって。皆がそういう考え方になればいいと思います」

 

 教室内には監視カメラの目が光っている。ミッドナイトには杳の他にも守るものがあった。――これ以上、止める事はできない。彼女の瞳がとても哀しい色を湛えている事に、杳は気付けなかった。

 

 航一がゴミをリサイクルボックスへ仕分けしていく光景を、杳はふと思い起こした。アルミ缶はアルミ缶のところへ、スチール缶はスチール缶のところへ、小さな子供でもできる簡単な作業だ。お互いを理解し合う事が、それほど容易く――深く考えなくてもできるようになれたなら。

 

「誰だって敵になる可能性を秘めています。()()()()()()()です。資格を取る必要なんてない。皆がヒーローn――」

 

 後方の席で()()()がして、杳はハッと我に返った。

 

 周囲の空気は冷たく無機質で、喉に何かが引っかかっているような――独特の気持ち悪さが、辺り一帯を支配していた。恐る恐る見回すと、柔らかい警戒心を宿した目の群れが、自分を観察している。ひときわ強い視線を感じ、杳は前方の席を見た。

 

 ――()()だった。大きくて丸い瞳の中には、毅然とした輝きが宿っている。しゅんとなって席に座る杳を見て、人使は溜息を漏らし、腕を組んだ。

 

 

 

 

 授業が終わると同時に、杳は図書室へ向かった。昼休憩の間に読書をする為だ。やるべき事が山積していて、時間はいくらあっても足りなかった。

 ヒーロー学関係の書物が集められた一画へ向かい、本棚にざっと視線を走らせる。『被害者の心とその回復について』と『新書・敵被害者支援必携』を抜き取り、『英雄回帰』の上に『異能解放戦線』を重ねた時、クラスメイト達の言葉が鼓膜に突き刺さった。

 

(罪は消えないわけでしょ。被害者のケアはどうすんの?)

(俺は正直、その考え方は犯罪の助長に繋がるだけだと思う)

 

 級友達は皆、自分の考え方をよく思っていない様子だった。()()()――。杳は途方に暮れ、本をぎゅっと抱きしめた。

 秩序を守るだけでは、救けられない人々がいるのも事実なのだ。そしてその中には自分の兄もいる。見捨てる事はできない。杳は頭を振ると、貸出受付へ向かった。

 

 だが、図書室を出て数メートルも行かない内に、杳は立ち止まる事となる。廊下の一画に設けられた掲示板コーナーに大勢の生徒達が集まり、進路を塞いでいたからだ。

 皆、嬉しそうな表情で何事かを話し合っている。興味を惹かれ、杳は人の垣根の隙間から、中の様子を覗き込んだ。

 

 掲示板コーナーの中央部には、”オールマイト展”のポスターが飾られていた。展示資料や映像、アート作品、パネルによる解説……etc.の多種多様な方法で、”平和の象徴”の半生や業績を広く紹介し、それらを惜しみ、讃えるイベントとの事。このイベントで得た収益のほとんどは、神野事件で被害を受けた人達への補償金へ補填されるらしい。

 

 今週の週末から一ヶ月程、近隣のイベント会場を丸ごと貸し切って催されるとの事だ。雄英の学生には優待券があるらしく、”希望の方は職員室まで”と書かれていた。

 ――コーイチさんや緑谷くんが喜びそうだ。杳は本を抱え直しつつ、漠然とそう思った。ポスターの中心で輝くようなスマイルを浮かべるオールマイトのイラストは、今の彼女には眩し過ぎた。

 

「絶対行こ」

「うん。……やっぱオールマイトじゃないとダメだわ」

 

 突然聴こえてきた涙混じりの声に、杳は思わず、食堂へ向かおうとする歩みを止めた。振り返ると、学生の一人が涙ぐんで、ポスターを見つめている。

 

「他のヒーローは皆、なんかピンと来ないっていうか。言っちゃ悪いけど、ニセモノって感じがするんだよ」

 

 ()()()()という単語が、杳の心の奥底に(いかり)の如く突き刺さる。鈍い痛みを感じて目を閉じると、瞼の裏に――異分子を見るようなクラスメイトの眼差しが浮かんだ。

 ぼんやりした状態で歩いていると、杳は曲がり角で()()にぶつかりそうになった。盛大に本をぶちまけつつ、その人が転ばないようにと体を支える。

 

「すみません!大丈夫ですか?」

「大丈夫です。こちらこそ、すみません」

 

 その人は長身痩躯の若い男性で、深い藍色の作業着に身を包んでいた。特徴のない平凡そのものといった顔立ちをしていて、目深に被った帽子には”デトネラット社”のロゴが入っている。

 納品か、製品の点検に来たのだろう。彼は申し訳なさそうな顔をして、散らばった本を拾うのを手伝ってくれた。帽子の下に光る目が『異能解放戦線』のタイトルを興味深そうに眺め、それから杳の着ている制服に移る。彼は柔らかく微笑んで、ツールケースを持ち直した。

 

「ヒーロー科ですか。頑張ってくださいね」

「あ、ありがとうございます」

 

 杳は恥ずかしそうに身を縮こまらせ、小さく礼をすると、食堂へ向かって歩き去った。その後ろ姿を見送った後、彼は人の良さそうな笑みを絶やさないまま、袖の下で親指と人差し指を伸ばすハンドサインを形作る。

 

「応援していますよ。……我々も、()()()も」

 

 

 

 

 広々とした大食堂はヒーロー科だけでなく、経営科やサポート科の生徒達も一堂に会する為、どこの席も埋まっていてガヤガヤと賑やかだった。

 杳は手早く注文を済ませると、長テーブルの隅っこにそっと腰を下ろし、ハンバーガーの包み紙を剥いて、かぶり付く。数分で平らげると、図書館で借りてきた本を手に取った。

 

 ふと向かい側の椅子が引かれる音がして、杳は本から顔を上げた。――()()だ。プレートにはいつものようにざるそばが載っている。色違いの目は杳を見るなり、ちょっと驚いたという風に見開かれた。

 

「もう食ったのか」

「うん」

「早ェな」

 

 焦凍は手を合わせると、そばをすすり始めた。黙々とそばを平らげていくその様子を、杳はじっと眺める。

 杳が復学するまでに何があったのかという事も、人使と仲違いしてから()()()食事を摂っている事も、「犯罪心理学」での出来事も――焦凍は何も言わなかったし、訊かなかった。今も何事もなかったような顔で、傍にいる。

 

 『箱の中のカブトムシ』の話が、杳の脳裏を掠めた。自分の知覚能力は、心を透視する事まではできない。杳は自嘲気味に笑った。教室であんなに偉そうな事を言っておいて、結局自分は――目の前にいる友人の気持ちすら分からないのだ。だから、人使も離れていった。

 杳は本を閉じると、おずおずと焦凍を見上げた。()()怒っているだろうか。

 

「怒ってる?」

「何を?」

 

 焦凍は食事の手を止め、不思議そうにこちらを見つめ返した。怒る理由は山ほどあるはずだと、杳は頭を抱えそうになった。だが、さすがに八斎會事件の全貌を語る訳にもいくまい。杳はしばらく悩んだ後、人使の怒りを買った理由を答えとして選んだ。

 

「休学中、一回も連絡しなかったから」

「……」

 

 焦凍は何かを考えているかのように沈黙した。それから納得したように頷いて、おもむろに顔を上げ、どこかを見る。

 視線の先には、食堂のカウンターで料理を受け取る()使()がいた。彼は焼き魚定食をランチラッシュから受け取るついでに、何か話をしている様子だった。プレートと食器を交互に指差し、真剣な表情で口を動かしている。

 

「そういうことか」

「え?」

()()気にしてねェ。こっちこそ連絡しなくて悪かったな」

 

 きょとんとする杳の頭を撫で、焦凍はその口元に悲しげな笑みを浮かべた。焦凍にとって、心の病を患う母と杳は()()()()()()に位置している。単に”ヒーロー関係の人間と接触禁止”というドクターストップが掛かっていた為――というのもあるが、二人共、とりわけ繊細に扱わなければならない存在である事に変わりはない。そう思い、彼は杳自身が連絡を取ろうと思うまで待っていたのだ。

 

「ううん。ごめん。あの……」

「足りなかったか?」

「いや、そうじゃなくて。あの……」

 

 何か言いたげな表情で、もじもじとしている杳の真意を”腹が減っている”と勘違いしたのか、焦凍は予備の皿にそばを載せて、押し遣った。

 ――やっぱり八斎會の事は言えない。杳は浮かない顔で溜め息を漏らした。自分の傍を離れていった友人の後ろ姿が、『英雄回帰』の表紙に浮かんで、消えていく。

 

 焦凍も皆、知らないから仲良くしてくれているだけだ。知ったらきっと、人使と同じように失望するだろう。俯いたまま、テーブル上にある割りばしに手を伸ばしたその時――少しひんやりとした手が、自分の頭を覆った。

 驚いて見上げると、焦凍の顔がすぐ近くにあった。腕の良い彫刻師が創り上げたように端麗な容貌が、陽だまりみたいな笑顔を形作る。

 

「杳。()()()()()()()()()だ」

「……え?」

 

 突然、隣の席に勢い良くランチプレートが置かれ、杳はびっくりして跳び上がった。――()()だった。

 

「オイ白雲ォ!いきなり飛ばしてんじゃねーよ!」

「あだぁっ!」

 

 峰田は怒り狂いつつ、小さな額にデコピンした。そして杳の持っている本のタイトルを見るなり、露骨に顔をしかめる。

 

「おまっ、んな()()()()()()()()読むな!もっと清く正しいモンを読め!オイラのように!」

「……」

「なんだその反抗的な目はァ!」

 

 何か言いたげな目をした杳と峰田教官が睨み合っていると、八百万が焦凍の隣に腰を下ろした。彼女のプレートには大量の食べ物が載っている。

 

「私も峰田さんの意見に同感ですわ。私達は秩序を守り、被害者の心に寄り添わなくてはなりません。ですが、あなたは、その……」

 

 八百万は黒曜石のような瞳を伏せ、言葉を詰まらせた。――彼女は黒霧の秘密を知っている。だからこそ、強く言う事ができないのだった。後方のテーブルでは、飯田と緑谷、麗日の面々が心配そうに顔を(かげ)らせて、様子を見守っていた。

 

「気を悪くしてしまったなら、ごめんなさい。その……責めているわけではありませんの。心配、なのです」

 

 友人の真摯な言葉と想いが、杳の心を揺らした。杳は皿の上のそばをかき混ぜる振りをして、込み上げてきた熱い感情を嚥下した。皆がぐずる赤子を見るような目で杳を見守っていると、上鳴が明るい声を上げて唐揚げ定食大盛りをテーブルに置きつつ、峰田の隣に腰かけた。

 

「なになに何の話ー?俺も混ーぜてっ♪」

「白雲がオイラに惚れてるってはなs――」

「嘘ですわ」

 

 峰田がすかさず放った冗談を、八百万がぴしゃんと跳ね返した。しんみりとした空気が少しずつ和らいでいく。焦凍はそば猪口にうずら卵を割り入れながら、冷静な声でこう言った。

 

「俺は良い案だと思った。”皆が同じ考え方になれば”っていう大前提があるが」

「あー()()()ぃ?……いやそれが一番難しーんだって!皆が個性使えんなら、絶対悪だくみする奴出てくるっしょ!」

 

 峰田はハードボイルドじみた顔で、コーヒーに付いていたシナモンを吹かしてみせる。

 

「結局オイラ達は、敷かれたレールに沿って進んでくしかないのさ。長いモンには巻かれとけ白雲」

「それ食えねぇぞ」

「知っとるわ!」

 

 真剣な顔で忠告する焦凍に、峰田が突っかかる。柔らかく和やかな雰囲気で、杳達は食事を進めていく。その様子を、1-Aのクラスメイト達はそれぞれのテーブルで密かに見守っていた。

 

 大人達の事情など、学生達は知らない。彼らにとって、杳は同じ目線で同じ夢を目指す()()()()()なのだ。だから、不純物の含まれていない透明な瞳で、真っ直ぐに彼女を見る。彼らは静かに道を踏み外そうとしている友人をそれとなく気遣い、正しい道へ戻そうとしていた。

 

 

 

 

 その日の夜。補講授業を終えた後、杳は洗濯室へ向かった。一日二回以上は体操服に着替える為、洗濯物は毎日山のように出るのだ。皆が食後の憩いとして談話室に集まって他愛無い出来事を話している間――杳は一人、ドラム式洗濯機の前で、授業の復習をしていた。

 

 寮の食事は朝・夕、ランチラッシュが創ったものが寮に届けられる。ただそれは強制ではなく、注文するかしないかを選択する事ができた。杳の最近のライフワークは、補講授業を終えた後、簡単な家事と自習をし、夜遅くまで自主練をするといったものだった。

 夕食を摂る時間はない。杳は夕食を注文せず、携帯食などで手早く済ませるようになった。

 

 多忙な生活は心身ともに疲弊を生み出す。やがて強い睡魔が襲い、杳はうたた寝をしてしまった。――ふと目が覚めると、鼻腔を洗剤の良い香りが掠めた。

 

「……あれ?」

 

 しっかりと渇き、綺麗に畳まれた洗濯物が、自分のカゴの中に積まれていた。杳は首を傾げ、記憶の糸を辿る。だが、どれほどに頭を捻っても、乾燥機に入れた覚えがないし、そもそも自分はこんな風に綺麗に畳む事なんてできない。

 

 ――()()してくれたのだろう。慌てて見回すが、周囲には誰もいなかった。

 腕時計を見ると、もう深夜0時を切っていた。今から自主練をすると明日の授業に支障が出る。大人しく寝るのが正解だろう。杳は寝ぼけ眼を擦りながら立ち上がり、洗濯室を出た。

 

 談話室の前を通りすがる時、杳はちらりと中の様子を伺い見た。ドアは開きっ放しになっていて、広々とした室内では切島と瀬呂がテレビを見て爆笑しつつ、ソファで寛いでいた。杳は遠慮がちにドアの敷居に立ち、小さな声で挨拶する。

 

「おやすみ」

「おーおやすみー!腹出して寝んなよー!」

「いやガキかっつーに」

 

 露骨な子供扱いする切島に、瀬呂が軽くツッコミを入れる。腹は出さないが()()()。ぐうぐうと唸り続ける腹部を擦りながら、杳が階段のある方へ足を向けたその時、瀬呂が少しばかり緊張の色を含んだ――優しい声で名前を呼んだ。

 

「しーらくも」

 

 白いテープの塊が談話室から飛んできて、杳の持つカゴの中に何かを落とした。――苺プリンだ。驚いて振り向くと、瀬呂がソファの背に顔だけをちょこんと載せ、こちらを見つめている。

 

「倫理学の時、きちぃ言い方してごめんな」

「……ううん。こっちこそごめん」

 

 陽だまりのように暖かな優しさが、杳を包み込む。その真摯な想いは彼女の心を癒し、同時に()()をそっと否定した。

 ――それは、ヒーローを目指す以上、杳が手放さなければならぬものだった。エレベーターに乗り、上階のボタンを押す。自室に辿り着きドアを開けると、()()()()()が鼻を突いた。

 

「わあ……」

 

 いつの間にか部屋は綺麗に片付いており、テーブルの上には蓋のされた一人用の土鍋が置いてあった。蓋を開けると、湯気と一緒に美味しそうな匂いが立ち昇り、杳の顔を包んだ。中には野菜と卵の入った雑炊が入っている。プレートや土鍋、蓮華等の食器類は、いずれも大食堂で使われているものだった。

 

 だが、自分は夕食を頼んでいないし、そもそも夕食を自室まで運んでくれるシステムはない。杳は冷蔵庫の前にしゃがみ込んで、ドアを開けた。自分が使った保冷剤や食料、飲料がしっかりと補充されている。

 

 ――その時、ドアを静かにノックする音がした。

 

「入ってもいいかしら」

「うん。どうぞ」

 

 ()()の声だ。杳が慌てて返事をすると、ゆったりとした部屋着に身を包んだ蛙吹が入って来た。長い黒髪をバレッタで優雅にまとめ上げている。蛙吹は雑炊を見ると、人差し指を唇に当て、首を傾げた。

 

()()()()()?」

「……たぶん」

 

 蛙吹は大量のクッションの中に埋もれるようにして、ローテーブルの前に座った。杳は冷蔵庫から缶ジュースを取り出して、友人に渡した。それから俯いて、雑炊を食べ始めた。隣から感じる()()()()と、真正面から向き合いたくなかったのだ。

 

 蛙吹が杳に向ける眼差しには、オールマイトに似た()()()が内包されていた。しばらくの間、部屋の中にはジュースを飲んだり、雑炊を食べる音だけが響いていた。やがてそれらが尽きた時、蛙吹は口を開いた。

 

「私、思っていることは何でも言っちゃうの」

「……うん」

「あなたは守るべき対象を違えているわ。私達が守るのは、敵ではない」

 

 杳は黙り込んで、空になった土鍋をかき混ぜる振りをした。――私も()()()()()()んだよ、梅雨ちゃん。でも、今は違う。皆の箱の中身を聴いてしまった。彼らの知るカブトムシがどんな形、色なのかを覚えてしまった。

 だけど、捕まれば彼らは間違いなく死刑になる。その定めから救おうとするには、秩序が邪魔だった。

 

(正規の手続きを踏んで正規の活躍をし、失った信頼を取り戻すよう尽力しろ)

 

 果たさなければならぬ自分の義務と、理想が遠くかけ離れた場所にある事を、杳はその時、思い知った。だが、ほんの一歩でも足を止めてしまったら、その間に黒霧が死刑台に昇ってしまうかもしれない。

 

 秩序を守る限り、被害者も敵も、誰もが傷つかない方法はない。叫び出したい位にもどかしい気持ちが、杳の心をかき乱した。ふと誰かの泣き声が聴こえ、杳は慌てて顔を上げ、呼吸が止まった。

 

 ――蛙吹が悲しそうに顔を歪め、()()()()()。大きくて丸い瞳から大粒の涙が零れ出て、頬を伝い、床に滴り落ちていく。

 

「杳ちゃん。お兄さんが、敵になったのね。……そしてあなたも、敵になった」

 

 杳は何も言わなかった。ただ熱くてほろ苦い味のする涙が、言葉の代わりに溢れた。それだけで、蛙吹には充分だった。蛙吹は杳の頬に手を添え、優しく涙を拭う。その指先は細かく震えていた。毒を吐き出すように苦しげな表情で、蛙吹は口を開いた。

 

「心を鬼にして、辛いことを言うわ」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 蛙吹は聡明な少女だった。はっきりとした情報が与えられなくとも、周囲に散らばる欠片を集め、事実の輪郭をかたどる事ができた。

 一番決定的だったものは、神野事件後の夜、談話室のテレビの前で、切島と常闇が密かに交わしていた会話だった。ニュース映像には黒霧が映っていて、それを食い入るように見つめ、切島が鼻をすすっていた。

 

(もう元に戻らねえのかな。……()()

(切島)

(……ッ、悪ぃ)

 

 それきり切島は口を(つぐ)んでしまったので、詳しい事は分からない。だが、秘密は知る者が多くなればなる程、その神秘性を薄めていく。

 あの夜、救出へ向かった者達が垣間見せる――何気ない仕草や言葉の選び方を丁寧に紐解き、友人の大切な家族が敵になってしまったという事実に、蛙吹は辿り着いた。

 

 そして八斎會事件の直前に校長達が姿を消し、杳は復学を果たした。進化した個性を携え、監視ロボットやドローンを物陰に潜ませて。

 

 杳が金襴(きんらん)の友であったはずの人使と繋がりを断ち、倫理学で秩序を乱すような発言をした時、蛙吹の()()は確信に変わった。

 ――明確な言葉で言い表せぬ程、とても哀しかった。だがその悲しみを乗り越えて、彼女は伝えなければならぬ事があった。

 

「人々が秩序を守っているのは、その背景に()()()()()()()だと言われているの。

 個性が発現した当時、たった一日で世界は崩壊した。文明は崩れ去り、数えきれない程に多くの命が失われた。それほどの恐ろしい脅威があったから、人々は協力して生き残るためにルールを創り、それを守って生きてきた」

 

 蛙吹は杳の髪を撫で、まだ幼さが色濃く残った二つの瞳を覗き込んだ。煙を封じ込めたような目の奥に、一体の脳無にしがみ付く少女の姿が垣間見える。

 

「あなたの気持ちはとても分かる。でも、その気持ちばかりを優先していたら……そこから()()()()()()。やがて、世界は崩壊してしまう」

「お兄ちゃんの命よりも……それ以外の人の命の方が、大事なの?」

 

 頼りなく震える声が、蛙吹の耳朶を打った。蛙吹は覚悟を持って、頷いた。

 

 蛙吹は、杳の持つ箱の中にいるカブトムシを知る事ができない。”気持ちが分かる”なんて所詮(しょせん)綺麗事に過ぎないと、彼女は血の味がする程に、強く唇を噛み締めた。

 けれど、それでも、()()()()。完全には理解できなくとも、言葉や肉体を使って少しでも寄り添おうとする人の心が、世界を支えてきたのかもしれなかった。

 

「誰もが心に傷を負い、痛みを抱えて生きているわ。多くの人々がそれを堪え、一人の為ではなく()()()()、今日の平和を保ってきた」

 

 ――こんなの綺麗事だ。梅雨ちゃんに私の気持ちは分からない。杳はそう言い返そうとして、できなかった。

 

「杳ちゃん。次に、あなたが一歩を踏み出す時……よく考えて。その行いが、皆の為になるのかを。

 私達は、先人達が命懸けで、涙を飲んで繋いできた平和の上に立っている。それはとても尊く、少しの刺激で破れてしまう程、脆いものなの。……私達が一番、その事を忘れてはダメなのよ」

 

 蛙吹が去った後、杳は一階に降りて食器を片付け、歯磨きをし、自室のベッドに潜り込んだ。歯と一緒に心まで消毒してしまったみたいに、何も感じる事ができない。杳はベッドに横たわったまま、しばらくぼうっとしていた。

 

 目を閉じると、兄の真似を止めてから必死で駆け抜けてきた――数ヶ月間の記憶が、メリーゴーランドのようにぐるぐると回り始める。そうして全てが過ぎ去った後、杳の手の中に()()()()が残った。

 

 ――それは”世界中の誰よりも、兄を優先する”という身勝手な欲望だった。野蛮な輝きを放つそれを握り締め、彼女は前方を見る。

 

 十数メートル程先には切り立った崖があり、その上に()()()()()が立っていた。二人の間には半分程編まれた橋が架かり、風に煽られてゆらゆらと揺れている。

 手を前に付き出すと、優しく蕩けるような声が、杳の鼓膜に染み入った。

 

「おや。捨てていいのかな?」

「……うん」

 

 杳は涙を飲んで、欲望を手放した。手の中からするりと滑り落ちたそれは地面に埋まり、そこから青々とした蔓草(つるくさ)が芽吹いた。蔓は力強く脈打ちながら中空に広がり、翡翠色の葉を幾重にも生やして、橋の断面にしっかりと絡み付く。

 風船葛(ふうせんかずら)や小さな白い花が散りばめられた()()()()を、杳はゆっくりと歩いていった。

 

 

 

 

 翌朝5時前、杳が自主練に励んでいる頃。人使は談話室のキッチンを借り、ブレックファストブリトーを創っていた。

 ブレックファストブリトーとは、言うなれば”アメリカ版のおむすび”みたいなものだ。軽く表面を炙ったトルティヤにスクランブルエッグやポテト、ソーセージなどの具材を挟んで丸める。完成後ラップで包んでおく事で、手を汚さずに食べられる。

 

 杳がろくに食事を摂っていない事を見兼ね、気軽につまめるような軽食を用意しておこうと思ったのだった。ランチラッシュのロゴが入った紙ラップで包んでおけば――昨日の雑炊みたいに食堂からの配給だと思って――何の疑いもなく食べるだろう。

 

 トルティヤの焼ける匂いと、コーヒーメーカーから立ち昇るほろ苦い香りが、朝の光と一緒に、室内にふんわりと漂っていた。人使が具材を刻んでいると、焦凍が降りてきた。そして人使の背後に立ち、まな板の上に乗った野菜やソーセージを眺める。

 

「杳の朝飯か」

 

 人使は応えなかった。みじん切りにした野菜と豆を小さなボウルに放り込み、辛さを調節したサルサソースであえていく。

 ――本当に自分でも嫌になる。だが、放っておけないのだった。文字通り、()()()()()()()彼女の事を考えていて、気が付くとその姿を目で追っている。

 

 ”今すぐにでも駆けて行って、いつも通りに世話を焼きたい”という友人を案ずる想いと、”それでは彼女の為にならない”という同志を信じたいと願う想いが、常に心の中で相対し、嵐のように吹き荒れている状態だった。

 その二つの想いより()()()()で――どす黒く渦巻く歪な感情に気付かない振りをして、人使はきゅうりを手に取った。

 

 焦凍はシンクの蛇口を捻り、シェイカーボトルに水を注ぎ入れる。それから至って自然な口調で、言葉を続けた。

 

「八斎會事件。あいつが解決したんだろ」

 

 人使は思わず硬直し、隣に並び立つ友人の顔を探るような眼差しで見た。くすんだ紫色の瞳と色違いの瞳が、暫しの間、交差する。

 ――あの事件は秘密裏に隠され、一部の関係者と()()()()知り得ぬはずだ。何故、焦凍がそれを知っている。心の奥底で、大きな蛇の形を模した嫉妬心が、ゆっくりと頭をもたげた。ひりつくように低く掠れた声で、人使は言葉を発する。

 

「……なんで知ってる?」

「親父がブチ切れて怒鳴りまくっててな。嫌でも聴こえた。で、細切れの情報から……自分で辻褄合わせた」

 

 焦凍はあっけらかんとした口調で応えると、シェイカーボトルに蓋をして振り始めた。

 ――杳から聴いたのではなかった。生温い安心感が人使の全身を満たし、次いで強烈な自己嫌悪の感情がその背中に覆い被さった。嫉妬心は舌先を残念そうにチラつかせつつ、心の奥底へ這い戻っていく。

 

 杳に対して自分が向けている想いの正体を、人使は改めて痛感した。深い溜息を零し、彼は頭痛を堪えるように額を押さえた。焦凍はシェイカーの中身を半分ほど空にした後、口を開く。

 

「敵になったから許せねえのか、頼られなかったから許せねえのか、どっちだ?」

「……」

 

 返答に窮し、人使は包丁を握り締めたまま、思考した。――いや、考えるまでもない。答えなど分かり切っている。年相応のプライドを押し退けて、人使は友人に本音を零した。

 

「どっちもだ。……もう、自分でもどうしていいか、分かんねんだよ」

「我慢できねえくらい溢れてんなら、けじめつけろ。俺はもう萩月屋に注文入れてんだ」

 

 ”けじめをつける”――その言葉を聴いた途端、人使の呼吸は束の間、止まった。克己的な性格の彼にとって、仮免を取ったばかりの半人前な身の上で――しかも杳との仲が過去最悪に落ち込んでいる状態で、無謀にも自分の想いを伝えるというのは、非常に堪えがたいものだった。

 彼はしばらく躊躇した後、”萩月屋”という聴き慣れない店舗名に首を傾げる事となる。

 

「……何。萩月屋って」

「来月の十五夜、(うち)で月見するんだ。お前とあいつも一緒に」

 

 そんな予定は初耳だ。萩月屋は老舗の団子屋であるらしく、月見シーズン限定の団子が特別美味しいのだと、焦凍は遊園地に行く寸前の子供のように瞳を輝かせる。そんな彼を、人使は困惑した眼差しで見つめるのだった。

 

「いや聞いてないけど」

「これから誘う。だからそれまでに仲直りしとけ」

 

 焦凍は気安く笑ってみせ、人使の肩をポンと叩いた。空になったシェーカーを水で洗っていると、ある記憶のワンシーンが、ふと焦凍の脳裏をよぎった。まだ彼が思い悩んでいたあの頃、空色の髪をした友人は優しい瞳で真っ直ぐに自分を見て、こう言った。

 

(お互いに色々あって苦労するよね。でも、轟くんは頑張ってると思うよ)

 

 ミッドナイトの言葉を借りるとするなら――確かにあの時、彼女は自分の箱の中のカブトムシを見たような気がした。焦凍は談話室を出る直前に振り返り、真摯な眼差しで人使を見る。

 

「俺はあいつに()()()()()()()()。お前もそうだろ」

 

 キッチンの小窓からオレンジ色の陽光が差し込み、人使の頬を明るく染め上げていく。窓際には小さな花瓶が置いてあり、そこには丸く膨れた風船葛が数輪、揺れていた。

 




5期はヴィラン側の視点で書きましたが、6期はヒーロー側の視点に戻って書いてます。

「秩序を守るのが何故大事なのか」っていうのをずっと考えてたのですが…
指輪物語ではフロドが指輪を滅びの山へ持っていき、ハリポタではハリーが分霊箱を壊す旅に出て、最終的に自らの命を犠牲にします。
その時には世界ははちゃめちゃになっていて、別にフロドやハリーが目的を達成せずに逃げても、誰も見ていないから責めなかったと思うんですよね。
でも、彼らは逃げずに、仲間と助け合いながら目的を達成しました。
じゃあそれはなんで?と思った時に、「自分の命よりも、世界・他の大勢の命を助ける為」なのかなという事に気付き、つまりはそれが秩序を守る事=世界・自分以外の人を守る事になるのかなと思いました。文章下手過ぎてすみません…。


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No.59 想いは同じ”

※作中に恋愛表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 ――夢を見る。

 受刑者になる(ここに来る)までは、夢なんて見なかった。

 

 極道は絶滅危惧種と同じだ。敵にも民間人にも成り切れない、()()()()

 一瞬でも気を緩めれば、敵対組織に潰される。ヒーロー共に足を掬われる。

 

 肩肘張って、敵だらけの世界を泳ぐ。

 疲れ果てて帰って来ると、あの娘の怯えた顔が待っている。

 

 気の休まる時など、立ち止まる暇など、今まで少しもありはしなかった。

 

 

 

 

 神野事件の三日後、八斎會一家――()()達の判決が下った。全員、有罪。彼らは日本各地に点在する刑務所に移送され、ほとんどの者は独居房に入れられる運びとなった。

 

 室内にあるのはトイレとベッド、それ以外は何もない。あの戦いで、私物も全て――屋敷ごと無くなってしまった。手紙や差し入れを送りそうな連中は皆、自分と同じ刑務所に入っている。面会は週に一度、弁護士がガラス越しに裁判の進捗状況を伝える位のものだった。

 

 一日の間に数度ある食事と業務、そして弁護士との面談を終えれば、()()()()()が玄野達を待っていた。

 

 人は考える生き物だ。仕事、食事、恋愛、子育て、趣味、戦い――何かに没頭していなければ、心が、思考が循環する。立ち止まり、過去の行いを思い返し、それについて考え始める。”罪を悔い改める”。それこそが刑務所の存在意義であり、受刑者の務めだった。

 

 だが、そう簡単に人の心は変わらない。最初に玄野の頭を支配したのは、後悔と怨恨の感情だった。あの時、爪牙に背を向けてしまった事への後悔。白雲杳に対する恨み。治崎の計画の再考。玄野は薄汚れた天井を睨み、まるで壊れたレコードのように――何度も繰り返しそれらの事項を考え続けた。

 

 

 

 

 夢を見たのは、独居房に入った()()の事だった。内容は――急襲を受け、治崎や音本と防戦していた時の記憶の追体験。治崎を助ける為に敵に背を向けた直後、背筋に熱い痛みが炸裂し、玄野はバネ仕掛けの人形のように勢い良く跳び起きた。汗と涙と興奮でぼやけた視界に、見慣れた天井が映り込む。

 

 ――夢だ。そう悟った時、玄野の心に流れ込んできたのは安堵ではなく、治崎に対する()()()()()()だった。彼は息を弾ませながらベッドに座り込み、汗でぐっしょりと濡れた髪をかき上げ、涙を乱暴に拭った。

 

 しばらくそのままでいると、部屋の電気がパッと付いた。()になったらしい。玄野の住む独居房は地下にある為に窓がなく、時間の移ろいを照明で表現していた。

 

 次いで、ドアがノックされた。――ドアには二つの仕掛けがある。一つは、何か用事がある時に刑務官を呼び出せる”報知器”のボタン。もう一つは、食事や手紙等を出し入れする受け取り口だ。訝しんで目を向けると、受け取り口から薄くて平べったい何かが出て来て、ポトリと受け取り皿に落ちた。

 

()()だ」

 

 刑務官らしい無機質な声が、ドア越しに響く。一体、誰からのものだろう。玄野は警戒しながら立ち上がると、手紙を取った。

 

 ――空色の便せん。差出人は()()()だった。頭痛を伴った眠気はたちまち吹き飛び、マグマのように激しく煮え立つ憤怒の感情が、全身を支配する。わなわなと震える指先で封を破ると、中にはカサの付いたどんぐりが一粒、入っていた。それだけだった。便せんやメッセージカードの類は入っていない。

 

 玄野の怒りはさらに増し、怒髪天を衝いたように、先端の尖った髪が風もないのに逆立った。あまりの憎しみに視界が真っ赤になり、四肢が馬鹿みたいに震え出す。――嫌がらせか。”窓も何もない独房に閉じ込められているお前達とは違い、自分は外で自由を謳歌している”というメッセージか。

 

 ――虚仮にしやがって!玄野は()()()()()()を全て、あの少女に向けた。(ほとばし)る激情のままに、便せんごとどんぐりを叩き付け、踏みにじる。だが、それでも怒りは治まらず、彼は靴跡で汚れた紙クズと木の実の残骸を、部屋の隅へ蹴り飛ばした。

 

 

 

 

 だが、少女からの手紙はそれ以降、()()()()()。相変わらずメッセージの類は何も入っていない。空色の便せんに、植物が入っているだけだった。ただ植物の種類は毎日違った。葉っぱや木の実、見事な一輪花が専用の封筒に入っている時もあれば、そこら辺で摘んだらしい素朴なたんぽぽの時もあった。

 

 やがて玄野は怒りを通り越し、()()()に思うようになった。

 

 ――意味が分からない。あの少女は、知能に問題がありそうには見えなかった。何か意図があるはずなのだ。だが、それが分からない。

 実は精神異常者だったのか。それともわざと不可解な行動を取る事で、自分を得体の知れない、不快な気分にさせる事が目的なのか。義務教育を受けて育った十代半ばの子供が、受刑者に毎日せっせと葉っぱやどんぐりを送る意味を――玄野は来る日も来る日も考え続けた。

 

 花言葉が関係しているのか。それとも植物の頭文字か何かで、暗号を送っているのか。考える時間は山程ある。玄野は床に植物を並べ、考えを巡らせた。しかし、依然として答えは出ない。薄汚れた天井を睨み、過去の輝きや後悔に身を委ねるよりも、葉っぱや花弁に触れている時間の方が多くなっている事に、玄野はまだ気付いていなかった。

 

 ()が訪れ、ベッドに潜り込んだ玄野は、落ち葉を顔の前に持ってくると、朧げな輪郭をじっと眺めた。悪意、偽善、同情……きっと何か意味があるはずだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 気が付くと、玄野は()()()()()()()に立っていた。懐かしい八斎會の屋敷の前に立っている。

 広々とした中庭の中心では落ち葉がかき集められ、簡素な焚き火ができていた。その周りに、佐伯や嘘田を始めとした組員達が集い、ガヤガヤと話をしている。鼻を動かすと、火や枯れ葉の匂いに紛れて、優しい素朴な香りを感じられるような気がした。

 

 たまらずグウと腹が鳴る。治崎は学生帽を被ったまま、遠巻きに様子を見ていた。学校から帰って来たばかりの少年達を見つけると、入中はトングをカチカチ鳴らし、気さくに笑った。

 

(早いもん勝ちだからな。ま、俺の焼き加減は天下一、どれとってもホックホクだk――)

(カッスカスだぞこれ)

(あァ?!)

 

 ハズレの焼き芋を掴んだ嘘田と入中が早速言い合いになっているのを差し置いて、佐伯は玄野達に手招きし、一番大きくてずっしりした包みを放り投げた。

 

 落ち葉の山に、パチパチと赤い炎が上がる。アルミホイルに包まれた紫色の塊を割ると、湯気と共に金色の身が現れた。飾り気のない素朴な甘みが――学業と社会に疲弊した――幼い頭と心にじんわりと染み入っていく。

 

 まだ世界が平和だった頃。貧しくても、幸せだった頃。彼らは少しでも日の光の当たるところへ身を寄せ合い、笑っていた。

 

 

 

 

 パチンと明るい光が差し、玄野は目を開いた。朝だ。こんなに穏やかな夢を見たのは、初めてだった。

 

 ベッドの上を彷徨う手が、何かに触れる。()()()だった。鼻に近づけて匂いを嗅ぐと、あのセピア色の記憶が、薄暗い天井を彩った。素朴な甘い匂い、笑い声、パチパチと炎の爆ぜる音が、耳元でこだました。それは、玄野が鬼になる前の――まだ人だった頃の、他愛無い記憶の一欠けらだった。

 

 ――もしかしたら。心の一番奥底で、小さな声が囁いた。摘んだ草花を、子供がテーブルの端に置くように。何の他意もなく。

 

 玄野は静かに立ち上がると、部屋の隅へ向かった。紙クズでできた青い山の所々に、萎れた花や葉っぱ、どんぐりが埋まっている。パッと見ればゴミ屑だが、好意的な見方をするなら、まるで幼稚園児が創ったみたいに――()()()()()()()()のようにも思えた。くすんだ色の山に落ち葉を戻すと、彼は疲れ切って摩耗した瞳で、それらをじっと眺めた。

 

 

 

 

 同時刻、雄英高校・ハイツアライアンス寮の一室にて。遮光用カーテンを透かして、柔らかい朝陽が室内を満たしていく。秋風が梢を揺らす音、鳥のさえずる声が、それに続いた。

 

 ()は自室のローテーブルの前に座り込み、大量の手紙を書いていた。全ての住所欄を書き終わった後、分厚い紙束を輪ゴムでまとめ、リュックのサイドポケットに突っ込む。後は、校内にある郵便ポストへ投げ込むだけだ。

 

 ――本当は、彼らと直接話がしたかった。だが、暫定敵である自分は面会や手紙、電話等で、敵とコミュニケーションを取る事が禁じられている。行き詰った彼女は最後の足掻きとして、()()()()()()()を真似る事にしたのだった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

()()()()()()、すまなかった)

 

 神野事件の翌日、快癒したシンリンカムイがお見舞いに来てくれた時、杳は両親と共に頭を下げた。本来ならば、傷つけたこちらが病室を訪れて謝るべきなのに、彼は杳の容態を一番に案じ、自分が至らぬせいだと詫びた。

 

 それから時が経ち、八斎會事件の翌日。シンリンカムイはまた手紙を送ってくれた。生花を送る事のできる特殊な封筒で、中には紫色のアネモネが一輪とメッセージカードが入っていた。優しい香りと色彩、そして絹のように繊細な花弁の感触を、杳は今でも克明に思い出せる。

 

『君がまたヒーローを志した事、心から嬉しく思っている。困難の中にこそ、希望はある。君を信じて待っている』

 

 ――”植物療法(フィトセラピー)”という精神療法がある。植物や植物の一部、葉、根、実あるいは種子など、様々な部位の薬理効果を使い、体の不調を整えたり、自身の治癒力を上げていくというものだ。

 

 シンリンカムイが植物療法に則り、花を送ってくれたのか、純粋な善意で送ってくれたのかは分からない。だが、確かにあの時、自分の心は励まされた。さらに――家族以外の誰とも話せない孤独な状況で――人使からの手紙は、杳の心を癒してくれた。

 

 手紙と花には人の心を慰め、上向きにさせる不思議な力がある。杳が植物入りの手紙を送ろうと思ったのは、そういう経緯(いきさつ)があったからだった。――植物だけなら何とかなるかもしれない。許可を取る為、真に事の次第を伝えると、彼女はしばらくの間、言葉を失ったように沈黙した。

 

(それは何故?)

(彼らと話をしたくて)

(”話をしたい”)

 

 真は噛んで含めるように、杳の言葉を繰り返した。”何故、話をしたいのか”――そう問われているような気がして、杳は答えに窮し、思案を巡らせる。

 

 刑務所は、特に彼らの入れられている独居房は窓もなく、外の景色も見られないと聞いている。八斎會の敷地内は――今でこそ瓦礫だけしかないが――嘘田が丹念込めて整えた、綺麗な日本庭園があった。四季の移り変わりを感じられるような、情緒ある草花があった。

 

 だが、手紙がきっかけとなり、それを思い出せたとして――家は壊され、もう二度と戻らないのだ。自分の行動の()()に、杳はやっと気付いた。

 

 ――”大勢の大人達を刑務所に押し込めた”という事実は、平凡な心を持つ杳にとって重すぎた。自分のせいで刑務所に入る事になった敵達を、どうケアしていいか分からない。だけど、その根底にあるものは、結局……。杳は乾いた唇を舐め、浮かない声で呟いた。

 

()()()……許して、ほしいのかも、しれません)

 

 なんて手前勝手な、薄っぺらい人間なんだ。杳がほとほと自分自身に呆れ果てていると、やがて電話口の向こうで小さな笑い声がした。

 

(そういう正直なところ、好きよ)

(……え?)

(分かりました。許可を取ります。彼らの住所録を送るわね)

 

 呆気に取られる杳に親しみを込めた挨拶を送った後、真は通信を切った。かくしてその日中に住所録が送られ、杳は手紙を送り始めた。だが、今日で二週間になるが、()()()()()()。――嘘田からもだ。

 けれども、逆に”送るな”という通達も来なかった。違う手段を考えるべきなのかもしれない。杳は溜息を零し、真っ赤なポストに手紙の束を放り込んだ。

 

 

 

 

 そして、それからさらに一週間が経過した。杳は人使と話し合うチャンスを伺うも、なかなかその機会を掴めずにいた。

 元々ヒーロー科は――放課後ヒロドもできないと相澤から事前通告されている程に――多忙なスケジュールを極めている。ストイックな性質である人使はそんなギュウギュウ詰めの時間割に、さらに自主トレや自習を詰め込んでいた。杳も補講などで忙しい身、人使をずっと付け回している時間はない。

 

「あ……」

「ドンマイ。何か知んないけど」

 

 今日も忙しく早足で駆け去っていく人使を見送っている間に、昼休みのチャイムが鳴った。がっくりとうな垂れる杳の肩に、何かを察した耳郎がポンと手を置く。

 

 杳はそのまま耳郎と葉隠に誘われ、大食堂へ赴く事となった。いつものように手早く食事を済ませ、杳は耳郎達に許可を取った後、読みかけの本を開く。アネモネの花で創ったしおりを取り払った時、ふと視線の端を()()()()が掠めた。――人使だ。焦凍と尾白と一緒のテーブルに着き、煮魚定食を食べている。

 

 ――今すぐ走って行って、話しかけろ。杳は自分の体に命じた。今までそうしてきたじゃないか。だが、体は怖気づいたようにその場を動かなかった。

 

 元の関係に戻りたい。でも、()()上手くいかなかったら。拒絶されたら。嫌われたくない。

 目に見えない()()()()が人使の前にあって、近づこうとする度に押し戻される。そんな風に感じられた。心臓の内側を引っ掻かれているような、もどかしくて切ない気持ちが、杳の気持ちを苛んでいく。

 

 きっと自分のカブトムシは、醜いモンスターの姿をしているに違いない。杳は自嘲気味に笑った。自分の心を覗き見る時、そこはいつだってゾッとする程、暗くて汚くて、薄っぺらで――おまけに自分勝手な嵐が、轟々と吹き荒れているのだから。

 

 やがて人使達の後ろを、ランチプレートを持った芦戸と切島が通りすがった。芦戸は悪戯っぽい笑みを浮かべると、立ち止まって人使の背中に寄りかかり、何事かを話しかける。人使はうっとうしそうに顔を歪めた。二人の様子はとても親し気に見えた。

 

「……ッ?」

 

 突然、心臓が鋭い痛みを訴えると同時に、杳の想像力が凄まじいスピードで働き始めた。

 人使の隣を歩いていた自分の姿が、芦戸の姿に上書き(オーバーライド)される。芦戸は可愛くて明るくて、人望がある。人使も優秀で堅実な人間だ。おまけに背が高く容貌も良い。並んでみると、二人はとてもお似合いだった。

 

 ――人間としてもヒーローとしても中途半端で、問題ばかり起こす自分なんかよりも、ずっと。

 

「……」

 

 だけど、そんなのは嫌だった。お似合いじゃなくても、ワガママでも、月とすっぽんでも――人使の傍にいるのは()()()()()()()。杳はやっと、自分の想いを自覚した。

 

 杳が泣きそうな顔で二人の様子を眺めていると、芦戸が不思議そうに首を傾げて、こちらを見た。彼女はそのまま周囲を見回し、杳の何か言いたげな視線の範囲内に、自分と人使がいる事をしっかりと認識する。

 

 次の瞬間、芦戸は――まるで砂漠の中から一粒の煌めくダイヤモンドを探し出した探検家の如く――黒曜石(オニキス)のような目をキラキラと輝かせ、(まばゆ)いばかりのスマイルを放った。

 

 芦戸は杳に向かってドンと胸を叩いてみせ、サムズアップした。それから、ついでに人使の肩も――彼が味噌汁の椀に顔を突っ込みそうになるほど――勢い良く叩き、突然の凶行に戸惑いと怒りを見せる彼に向け、サムズアップしてみせた。

 それから芦戸は人混みをかき分け、呆気に取られている杳の前に座ると、芝居がかった動作で自身の可愛らしい触角を指差したのだった。

 

「あなたの恋心……このアンテナがキャッチしました!恋愛マスターにお任せあれっ!」

「マスターって。彼氏いたことないじゃん」

「イメトレは完璧だからいーのっ!」

 

 芦戸はムキになって耳郎のツッコミに物申すと、プレゼントの包装を解く子供のように浮足立った表情で、杳にずいっと迫る。

 

「ねー()()あったの?」

 

 思春期の少女達にとって、恋バナは特別なスイーツと同じだ。頬をバラ色に染めた級友達に囲まれて、杳は根負けしたように口を開いた。あくまで八斎會事件の件は伏せ、”一か月間人使の連絡を絶った事がきっかけで仲違いし、仲直りの機会を模索しているのだ”という事だけを話す。

 

 なんとか全てを話し終わり、ジュースを飲もうと顔を上げた途端、杳はギョッとして仰け反った。

 目の前に、麗日や八百万、蛙吹――つまり1-Aクラスの女子メンバーが勢ぞろいしていたのだ。甘酸っぱい恋の香りを嗅ぎつけ、応援に来てくれたらしい。蛙吹は杳の顔を掬い上げるように見つめると、優しい声を出した。

 

「もう一度、心操ちゃんと話し合うべきね。問題はどこで話をするか。……学校だと気が削がれて、なかなか難しいでしょう?」

 

 八百万はプリンを掬う手を止め、人差し指を中空にピンと立ててみせた。

 

「そうですわ。オールマイト展にお誘いしては?話し合いができると同時に、授業の一環にもなります。有意義な時間を過ごせますわ」

「モモちゃん真面目かっ!そこは水族館とか遊園地とかでしょー」

 

 葉隠が杳の頭に顎を載せ、杳の手を操り人形のように持ち上げて、突っ込むジェスチャーをした。だが、杳は()()()だと思った。オールマイト展ならばお互いに勉強になるし、誘いやすい。どちらにせよ、このままずっと手をこまねいているより、少しでも足掻いた方がいいはずだ。

 敵との交流は禁じられているが、外出は制限されていない。――決戦は日曜日。相澤先生に許可を貰い、人使を誘おう。その事を告げると、皆は浮足立って喜んだ。そんな中、耳郎がイヤープラグを弄りながら、ふと口を開く。

 

「まさかとは思うけど……()()()()()()で行くんじゃないよね?」

 

 耳郎の言う”いつもの恰好”とは、兄のお下がりかマイクデザインの男物のトップスにズボン――という杳の基本スタイルだった。杳はあまりファッションに頓着がなく、男装していた時の服を今もそのまま愛用している。だが、大事な日にさすがにいつもの恰好で行くつもりはない。杳はきっぱりと首を横に振った。

 

「新品のシャツとジーンズ卸すよ」

「そうゆうことじゃないんよ……杳ちゃん……」

 

 麗日ががっくりと項垂れながら、杳の肩に手を置く。皆の頭の中に、マイクのどでかい顔が描かれた黄色いTシャツにジーンズ――という洒落っ気の欠片もない姿で人使とのデートに赴く、杳の姿が思い浮かんだ。

 マイクに罪はないのだが、少しでも乙女らしい格好をしてほしいというのが、皆の総意だった。皆は無言で目を合わせ、杳の肩を掴む。何事かと驚く杳に、彼女達は何かを企んでいるような顔で、にっこりと笑いかけた。

 

 

 

 

 そして時は流れ、日曜日。オールマイト展の最寄り駅――その改札口前で、人使は杳を待っていた。シンプルな私服に身を包んだ彼は、いつも通りの仏頂面でスマートフォンを取り出し、ロックを解除してREINアプリをタップする。

 

 今を(さかのぼ)る事三日前、杳から”オールマイト展に行かないか”という誘いのメッセージが来た。なかなか彼女と話をする機会を取れなかった彼にとっても、その提案は渡りに船だった。

 それにしても、()()()アクションを起こすなんてどういう風の吹き回しだろう。いつも自分からなのに。人使は電子チケットのQRコードを見つめながら、考え込んだ。おまけにチケットも彼女が取ったとの事で、今ここにある。ルーズな彼女らしくない用意周到さだった。

 

「ごめん。待った?」

 

 何にせよ、まともに杳と話すのは二週間振りだ。人使が内心そわそわしながら待っていると、すぐ近くで見知った声がした。

 本当は待ち合わせ時間の一時間以上も前に着き、イベント会場までの道程やガイドマップを予習していたという事情はおくびにも出さず――人使は至って冷静な表情で振り向くと、絶句した。

 

 ――そこには、女の子らしい格好をした杳が立っていた。秋物のワンピースとバッグを持ち、フワフワした髪をバレッタでまとめている。ヒールのあるサンダルを履いていて、踵を合わせると硬い音が鳴り、シフォン生地のスカートの裾が花弁のように舞った。

 

 人使の心の奥を熱いものが突き上げる。中身は同じだ。外装(パッケージ)が変わっただけなのに、何故こんなにも愛らしく見えるのだろう。世の女性が化粧をしたり着飾る事の意味を、彼はこの時、まざまざと思い知った。

 一方の杳は、人使が何も言わずに自分を凝視している事を不安に思った。居心地悪そうに身じろぎして、頼りない声で呟く。

 

「きょ、響香ちゃん達にしてもらったんだけど。変?」

「……ヒラヒラしてる。こけんなよ」

 

 人使はいつも以上にぶっきらぼうな声でそう返し、背を向けた直後、猛烈に後悔した。だが、すぐに謝ってご機嫌を取れる器用さがあれば、二人は今ここにいない。杳の靴音が遠のかないよう、一定のペースを保って歩くのが、現状における精一杯のフォローだった。

 

 一方の杳は完全に自信を失い、落ち込んでいた。――きっと人使は怒ってるんだ。私のせいで、皆の努力を無駄にしてしまった。杳は自信なさげに俯いて、人使の跡をついて歩き始める。兎にも角にも、二人の逢瀬はスタートを切ったのであった。

 

 

 

 

 オールマイト展は大勢の人でごった返していた。チケット売り場には気が遠くなる程の行列ができている。予め電子チケットを買っておいて良かったと、杳は心から安堵した。オールマイトをイメージした制服に身を包んだスタッフにチケットを見せ、入り口を通り抜ける。

 

 内部に入ると、ファンタジックな装いの建物に囲まれるようにして、見上げる程に大きく、荘厳なオールマイト像が立っていた。半透明の球状ドームが頭上を覆い、柔らかな陽光を観客達に投げかけている。

 

 取り潰す予定だったテーマパークをそのままイベント会場に再利用している為、周囲はとても賑やかで幻想的な雰囲気に包まれていた。陽気なポップミュージックが耳を躍らせ、ポップコーンの匂いが鼻腔を掠める。ソワソワと浮足立った子供に、オールマイトを模した着ぐるみが風船を配っていた。

 

 杳達は会場の中心部にある”平和の湖”へ足を運んだ。オールマイト像の真下に創られた人工湖で、希望者はランタンに火を点し、湖面に浮かべる事ができる。広大な湖面にはすでに、数え切れぬ程のランタンが浮かんでいた。

 

 エントランス付近の喧騒は、ここまで届かない。喪ったものを悼む気持ち、抱えきれない程の悲しみが、辺り一帯に漂っていた。湖畔に座り込み、泣いている人もいる。――皆、不安なのだ。杳はランタンを抱えながら、静かにそう思った。だから、ここに来ている。もう最後の蝋が溶け切り、今にも消えそうな残り火に縋って、心の平安を保っている。

 

 オールマイトはあまりにも偉大だったから。たった一人で、世界を支えていた柱だったから。なのに私は、その崩御に()()()()

 

 人使はランタンに火を点し、湖にそっと浮かべた。続けて、サファイアのように輝く水面に()()()ランタンを置く事は、今の杳には(はばか)られた。後で持って帰って部屋に飾ろう。人使の隣にしゃがみ込み、美しい火の群れを遠慮がちに見ていると、彼がぼそりと呟いた。

 

「立派なヒーローになって、自分の個性を人の為に使いたい。ってのが俺の夢だ。今も昔も」

 

 突然の独白に、杳は思わず人使を見上げた。彼もこちらを見ていた。ぼんやりした灰色の瞳と、強い意志を宿した紫色の瞳が、静かに交錯する。

 

 ――洗脳という特殊な個性を持つ自分。敵を救うという異質な考えを持つ彼女。ある意味で、自分達は同じ苦しみを有しているのかもしれなかった。だが、根底にある想いは()()である筈。人使は杳の持っているランタンに手を置くと、小さいけれど、とても力強い声で言葉を続けた。

 

「おまえも同じ想いなら、遠慮なんかしなくていい」

「……うん」

 

 擦れ違っていた二つの想いが、ゆっくりと向き合っていく。バラバラになっていた想いのコラージュが結集し、一つの決意を描き出す。杳は静かに頷くと、ランタンに火を点し、湖に浮かべた。不思議と涙は出なかった。しばらく幻想的な湖の様子を眺めた後、二人はオールマイトの歴史を見る旅に戻った。

 

 

 

 

 レストランコーナーはどの店も、うんざりするほどの人でごった返していた。人波をかき分けるようにして二人はレストラン街を彷徨い、空いている店を探したが、ほとんど全ての店に長蛇の列ができている。――駅で待っている間に予約しておくべきだったと、人使は後悔した。殊勝にも杳がチケットを準備していた為、店の予約もしているかもしれないと、余計な気を回したのが不味かった。

 

 結局、二人は三十分以上の待ち時間を経て()()()()()()でランチを買い求め、広場の芝生の端っこに何とか腰を落ち着けた。杳は限定ドリンクやクレープを口に運ぶ人々を羨ましそうに眺めながら、ハンバーガーの包みを剥く。

 

「せっかくオールマイト展に来たのに。ヒロドって……」

「胃に入れば一緒だろ」

「そんな相澤先生みたいな……」

 

 人使はそう返しつつ、レストラン街で杳が一番長く立ち止まり、食品ディスプレイを凝視していた――フレンチ風レストランの事前受付(プライオリティ・シーティング)を済ませた。限定フードやドリンク、デザートなどが全て付いた高級コース料理が看板メニューだ。まだイベント会場を半分しか見ていない。全てをゆったりと回り切った頃、ちょうど夕食時になるだろう。

 

 ふと、漠然とした不安が人使の心をよぎった。フレンチ料理はテーブルマナーが必要とされる。大丈夫だろうか。恐る恐る隣を見ると、杳が口周りをベタベタにケチャップで汚しながら、ハンバーガーにかぶり付いていた。毎回何故こんなに汚せるのかと感心する程に、口元が真っ赤になっている。ハンバーガーの包装紙の表紙には、オールマイトを模したヒロドナルドのキャラクターが描かれていた。

 

 突然、杳と過ごしてから駆け抜けてきた――数ヶ月間の記憶が、川のように人使の心を流れていった。その中で紡がれた絆は、恋愛や友情といったラインをとうに超えていた。

 

 あの日、差し出された手を取ってから、本当に色んな事があった。何もかもが変わって、今も現在進行形で変わり続けている。だけど、一番大事なものは変わっちゃいない。

 いつまで経っても、こいつは雨雲みたいに不安定で、幼いままで、他人を振り回す。だけど、たとえ無茶苦茶な方法でも――こいつなりに足掻いて、誰かを救おうと頑張っているんだ。あの時、俺を救ったように。人使が紙袋の中からナプキンを取り出した時、杳はポツリと呟いた。

 

「色んなことがあったよね」

 

 杳は、夕焼けを眺めているような――郷愁を帯びた瞳で、ヒロドナルドの紙袋を見つめていた。体育祭で被っていたものと似ている。あの頃を思えば、今の自分は本当に奇跡みたいだ。あれから沢山の出来事があった。今でも思い出すだけで笑っちゃうくらい、楽しい事も。眠れなくなる程に辛い事も、沢山。

 

「そうだな」

 

 人使は自分でも驚く程に優しい声でそう言うと、杳の口を拭った。周りの目もある。とても恥ずかしかったけれど、同時に杳は嬉しかった。いつもの人使が戻ってきたような気がしたのだ。杳は大人しく拭かれる事にした。拭き終わると人使は芝生に座り直し、バニラシェーキを手に取った。

 

(もう一度、心操ちゃんと話し合うべきね)

 

 蛙吹の言葉が、杳の背中をグッと押す。いつも人使に甘えてばかりではダメだと、杳は自分を叱咤した。拙くとも、自分の言葉で想いを伝えなければ。だけど、ちょうど良い言葉が見当たらない。頭の中をグルグルと回るのは、芦戸がスマホを片手に教えてくれた――ロマンチックな愛のセリフだけだった。

 

 杳がポテトを凝視しながら必死に考えていると、ふと小さな子供の悲鳴が上がった。次いで視界の端をカラフルな風船が掠める。杳は素早く立ち上がると同時に跳んで、子供の手を離れて中空に舞い上がらんとする――風船の紐を掴んだ。

 

「はいどうぞ。離しちゃダメだよ」

「ありがとー!」

 

 子供は嬉しそうに笑い、オールマイト型の風船を突いた。隣にいた母親が申し訳なさそうに頭を下げる。

 

 ――その瞬間、杳の脳裏に()()()()()()()が閃いた。人使が感心したような目でこちらを見て、労いの言葉を掛ける。杳はその傍に腰かけると、緊張気味に口を開いた。

 

「私、風船なんだよ。ヒトシはそれを持ってる人」

 

 突然の妄言に虚を突かれた人使は、人目を憚るように周囲を気にした後、ほんの少しだけ諦めの混じった――生暖かく優しい眼差しと頷きで、続きを促した。

 

「私……いつだって自分の事ばっかり。自分の事で精一杯だった。……でも、ヒトシはずっと傍にいてくれた。会わなかった時も、心の中にいた」

 

 体育祭の時、手を差し伸べてくれた()()()から、自分の歯車は回り始めた。怖気づいた時、本当の自分が何か分からなくなった時、深い絶望の中で苦しんでいた時――いつだって傍にいてくれたのは、彼だった。

 

「自分のした事、反省はしてる。でも、後悔はしてない。これから先も……こうやって迷いながら、進んでいくんだと思う。だから、できたら、その……傍にいてほしいんだ」

 

 人使はゆっくりと俯いて、片手で顔を覆った。色鮮やかな三原色のバルーンを持って歩く子供達を見守りながら、杳はただ素直な心のままに、想いを言葉にした。

 

「ヒトシがいるから、私はどんな形にもなれるし、どこにでも飛んでいけるんだと思う。私の紐を持ってて、時々引っ張ってくれる……ヒトシが、()()()()なんだ。その、上手く言えないけど、私にとって、とても大切な人で……だから、その」

 

 杳はごくりと唾を飲み込むと、真剣な表情で人使に向き直った。

 

「な、仲直りしてほしい……です」

 

 だが、その言葉は知り切れトンボになって終わった。人使が俯いたまま、黙りこくっていたからだ。彼の耳が赤く染まっている事に、杳は気付かない。返事がない事に焦った杳は、やがて暴走し始めた。――話し続けろ。挽回するんだ。現状の打開策を求め、杳の脳はやがて芦戸仕込みの愛のフレーズを思い出す。杳は上擦った声で、ひたすら話し続けた。

 

「あとね、もし、ヒトシがよければその、えっと……お、女の子として、見てくれたら、嬉しいなって。立候補っていうか。お兄ちゃんの事とか、色々あるんだけど……その、女の子としても、ヒーローの卵としても、一生懸命頑張るかr――」

 

 突然、人使にぐいと抱き寄せられ、杳の呼吸は止まった。

 

 ――全部、熱い。火のように燃え盛った大きな体が、自分を包み込んでいた。ギュッと押し当てられた耳に、忙しなく脈打つ人使の鼓動が聴こえてくる。人使はぐずる子供をあやすように、杳の体を揺らしながら背中を撫で、小さな頭をポンポンと撫でた。

 

「分かったから。一旦落ち着け。な」

「……ッ、う、うん」

 

 落ち着いていないのは、人使も同じだった。別に格好つけたわけでなく、杳に真っ赤になった顔を見られたくないが為に、抱き寄せただけなのだ。思いも寄らない形で告白を受け、人使の心は大いに乱れていた。

 

 ――暫定敵の件が解決するまでは。黒霧の件が落ち着くまでは。資格を取るまでは。卒業するまでは。自分が心の中で掛けていた無数のストッパーが、音を立てて崩れていく。塞き止めるもののなくなった想いは心から飛び出し、喉を駆け抜けて、口からポロリと零れ落ちた。

 

「もうとっくに女の子として見てる……っつーか()()()()()。大丈夫」

「……!」

 

 その瞬間、甘くとろけるような幸福の蜜がギュッと詰め込まれ、杳は胸が張り裂けそうになった。感極まったのか泣き出す友人の頭を撫で、周囲の人々が向ける好奇の視線に耐え忍びながらも――人使は彼女が落ち着くまで待った。

 

 鼻水を垂らしているのか、腕の中でズビズビという嫌な音がする。だが、そんな情けなく幼稚なところも、どうしようもなく好きなのだった。グシャグシャになった顔を拭いてやりながら、人使はちょっと厳しい声色を創り、ある宣言をする。

 

「卒業までベタベタすんのは禁止な」

「……()()()()()()ってこと?」

 

 杳は言葉の意味を考え、不思議そうに首を傾げながらそう言った。――”いつもと同じ”。そのフレーズが、人使の心にすとんと落ちる。

 

「そうだな。いつもと同じだ」

 

 友達から恋人に関係が変わったって、今までの何かが変わるわけじゃない。二人は真っ赤になった顔を見合わせ、小さく笑った。やがて続きを見て回ろうと芝生から立ち上がった、その時――

 

 ――杳のスマートフォンが鳴った。画面には”塚内直正”と表示されている。一体、何の用事だろう。もしかしたら植物入りの手紙に関して、ついに本格的なクレームが入ったのかもしれない。杳は覚悟を持って通話ボタンを押し、耳に押し当てた。

 

「白雲です」

『白雲君。今、話せるかい?』

「はい。大丈夫です」

『……落ち着いて聴いてほしい』

 

 直正の声には、隠し切れない焦燥の音が含まれていた。人使がパンフレットから顔を上げ、こちらを見る。さっきまで体内を満たしていた幸福の感情が、辺りの賑やかな歓声や音楽が、見る間に色褪せ、消えていく。

 

()()()()()()()。彼は、君に逢いたがっている』




次回より、残酷なシーンがずっと続きます。別途あらすじを付けます。すみません…。最終的に悪い感じにはならないので…。

ちなみにヨウは葉っぱ事件のせいで、後に八斎會の人々から、とある愛称で呼ばれるようになります。


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No.60 タルタロス

【お読みになる方へ】
No.60~6期最終話まで、非常に気分が悪くなる展開(残酷な表現、暴言、暴力表現、倫理を問われるような描写、グロテスクシーン)が含まれます。
苦手な方は飛ばしていただき、次回から付けるあらすじをお読みいただければと思います。可能な限りそのようなシーンを削ったのですが、削り切れませんでした。本当にすみません(;_;)

※ご注意:作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 最初、杳は茫然としていた。塚内が放ったその()()()()()が、あまりにも重すぎたから。

 

 長い読み込み(ロード)時間をかけて一つ目の言葉を理解した時、周囲の色と音が消えた。

 しんと静まり返ったモノクロの世界で、安堵とも恐怖とも言い難い――複雑な感情が心の中を満たしていく。その中には、もうこれ以上黒霧が罪を重ねる事はないという想いと、死刑になるまでのカウントダウンが始まったという想いも含まれていた。

 

 次いで二つ目の言葉が脳に浸透し、恐怖の感情を溶かしていく。八斎會事件を経た杳はマグネ達だけでなく、()()に対する認識をも改めていた。

 黒霧は仲間を送り込み、自分を救けてくれた。敵連合のアジトで自分を追い詰めた、冷たく残酷な彼はもういないはず。それだけではない。逢いたいと言ってくれているという事は、もしかしたら何かの拍子に記憶の一部が戻ったのかもしれない。杳はそんな希望的観測を思い描き、息ができなくなった。

 

 ――その時、誰かが杳の肩を掴んで、軽く揺さぶった。目の前に紫の色彩が見える。

 

「何があった?」

 

 最も信頼できる声が、杳の耳朶を打つ。()使()だ。次の瞬間、全ては元に戻った。たちまち周囲の喧騒がどっと耳に流れ込んで来て、カラフルな彩りに満ちた世界で人々がワイワイと賑わい始める。杳はもつれる舌をなんとか動かして、途切れ途切れの言葉を吐き出した。

 

「黒霧さんが、捕まった。私に、逢いたがってるって」

 

 杳はあまりに複雑に入り乱れる感情を処理し切れず、両手で顔を覆って泣き出した。

 

 その一方、人使は目を細めて思案を巡らせた。――神野事件の時、黒霧の一部が朧の形になり、杳を助けた。あれが朧の意志だったとするなら、彼は本当に妹を大切に思っているはずだ。

 仮に記憶が戻ったとして、()()()()()()()()?もし自分が同じ立場なら、遠ざける。危険な目に遭わせたくないからだ。――記憶が戻りかけている()()をして、会いたいと騙っているなら。何とも形容しがたい不安の感情が、人使の心を駆け抜けた。

 

 だが、その疑惑を今の杳に伝える事は(はばか)られた。杳は人使よりも約三十センチ程、小さい。人使はやおら屈み込んで杳の顔を覗き込むと、噛んで含めるような声で言い聞かせた。

 

「俺も行く。いいな」

 

 杳は弱々しく頷き、人使の胸に顔を埋めてますます泣き出した。非常時ではあるが――”べたべたしない”というルールを早速破った彼女を咎める事なく、人使はその小さな体を抱き寄せた。

 今の彼女は明らかに冷静さを欠いている。仮にそうでなかったとしても、独りで行かせるつもりはなかった。そのままの体勢で人使はスマートフォンを取り出し、ロック画面を解除する。――刹那、()()に肩を掴まれた。

 

 何の気配も音もしなかった。無意識に迎撃態勢を取ると共に顔を上げ、息を詰める。()()()()だった。髪をまとめ、シンプルな私服に身を包んでいる。相澤の無感動な瞳は、杳をしっかりと抱く人使の腕を注視していた。その事に気付いた途端、人使の顔は今にも発火しそうな程に熱くなる。

 

 やがて相澤はふいと視線を逸らし、出口のある方へ指を差しながら、ぶっきらぼうな声で言い放った。

 

「出るぞ。マイクが車を取りに行ってる」

「……はい」

 

 相澤が突如出現した事に対して、内心かなりの動揺を見せた人使と異なり、杳は特に疑問は抱かなかったようだった。監視役である彼が傍にいるのは当然だし、そもそも今はそんな些末な事を気にしている場合ではないからだ。

 

 三人は特に会話をする事なくゲートを通り抜け、イベント帰りの客で賑わうエントランスへ向かった。広々としたロータリーの端っこに、見慣れたクラシックカーが停まっている。マイクの愛車だ。

 

 マイクは運転席にいたが、彼にしては珍しい事に深刻な表情を浮かべたまま、何も喋らなかった。かくして全員無言のまま車は発進し、海岸線へ向かうルートを走り出す。杳が思い出したように鼻をすする音だけが、静寂に満ちた車内に時折響いた。

 

 にわかに空が掻き曇り、暗雲が立ち込め始めた。バックミラーに時々映る教師達の表情を伺い見て、人使は自分の考えが正しいという事を再認識した。

 二人共、沈痛な表情で押し黙っている。つまり、黒霧の記憶が戻ったのではない、もしくはそれが確定していない状態という事だ。次いで、心の隅にポッと思い浮かんだ――二人が自分達の一部始終を見ていたかもしれないという――恐ろしい仮説を、人使は頭を振る事で強引に打ち消した。

 

 タルタロスは本土から五キロ程離れた沖に建設されており、その間には頑丈な海峡横断橋が架かっている。橋の入り口には関所が設けられていて、通行者はそこで検問を受ける義務があった。

 

 杳は車の窓を開け、橋の向こうに目を凝らした。強い潮風が吹き荒れて、彼女の髪を弄ぶ。橋の向こうは濃い乳白色の霧が漂っており、巨大な建物の輪郭だけが薄っすらと垣間見えた。

 あの中に黒霧がいるのだ。鬱屈とした閉塞感が、杳の背中に圧し掛かった。それは長い間、恐ろしい罪人達を幽閉し、また死した体と魂を封じ込めてきた――呪われた()()()()の放つ瘴気だった。

 

 そうこうしている内に車は関所に到着し、マイクが運転席の窓を開けて、職員と手続きをし始めた。人使が心配そうに杳の様子を見守っていたその時、マイクが情報を書き終えた書類を返すついでに咳払いをして、バックミラー越しに彼を見た。

 

「AH……こんな時になんだけど、おめでとさん」

「節度ある交際を心がけろ」

「……はい」

 

 相澤も間髪入れずに指導する。人使は首に手をやり、俯きながら返事した。――やはり全部、見られていた。気まずい沈黙が束の間、車内を支配する。

 やがてクラシックカーは立ち込める濃霧の中に侵入した。ギリシャ神話に(なぞら)えて創られた、鈍いブロンズ色に輝く”青銅の門”をくぐり抜け、杳一行はタルタロスへ到達した。

 

 

 

 

 タルタロスとは、対”個性”最高警備特殊拘置所の通称だ。本土から約五キロ程離れた沖に建造された、特別な収容施設を示す。

 便宜上拘置所とされているが、実態は国民の安全を著しく脅かす、又は脅かした人物を、厳重に禁固し監視下に置くものであり、刑の確定・未確定を問わず様々な個性の持ち主が収監されている。居房は六つに区分されており、個性の危険性や事件の重大性によって振り分けられている。危険性の高い人物程、地下深く収監される。

 

 杳達は車から降りると、駐車場内の入り口から内部へ入った。その途端、()()は噎せ返る程に強くなった。

 施設内に勿論、窓はない。つるりとした材質でできた両の壁には、特殊なハッチの付いた自動開閉式のドアが等間隔に並んでいた。上部には至る所に監視カメラやセンサー、そして銃火器の類がしっかりと備え付けられている。

 

 タルタロスの内部は一見すると、SF映画で良く見かける宇宙船の内装のように思えた。――四方の壁が迫って来るような閉塞感と、こちらを静かに追跡する銃火器が放つ緊迫感を、脇に置いていいとするならば。

 

 ”一度入れば生きて出る事はできない”。かつて教科書に載っていた一文を、杳は心の中で復唱した。あまりに残酷なフレーズに総毛立ち、首を横に振る。――そうさせない為に、自分はヒーローになるのだ。杳が必死にそう言い聞かせていると、前方から靴音が二人分、聴こえてきた。

 

「ご無沙汰してます」

「やあ。急がせてしまって、すまないね」

 

 足音の主は塚内警部、それから小柄な老年のヒーローだった。塚内の目には酷い隈がある。ろくに睡眠を取れていないのだろう。老年のヒーローは所々に包帯を巻いてはいるが、弱っている様子は微塵もなく、研いだ刃のように鋭い眼差しで杳を見上げた。

 

 杳はその目に覚えのあるような気がした。やがて彼女はぼんやりと思い出す。――神野事件で黒霧を守る為に戦ったヒーロー、”グラントリノ”だ。緑谷が職場体験でお世話になったと話していた。杳がおずおずと話しかける前に、グラントリノはふいと視線を逸らし、不満げな口調で言い放った。

 

「本気でこのガキンチョにやらせる気か」

「奴が会話を望んでいる。……順を追って話そう」

 

 今を(さかのぼ)る事、数週間前。警察に複数の目撃情報が寄せられた。――”ある山間部に黒い靄がかった人間がいた”と。グラントリノと塚内は現場に向かい、捜査の末に黒霧を発見、捕縛。突如、地盤を割り砕いて現れた()()の追撃を振り切り、黒霧をタルタロスへ収容した。

 

 黒霧は敵連合の中核に位置する存在だ。以前、杳を攫おうとしていた()()()とも、密接な繋がりがある。口を割らせる事ができれば、一気に大元を叩ける。だが、塚内達の想いを嘲笑うかのように、黒霧は無反応の状態を固持、こちらの尋問に応じる姿勢を見せなかった。

 そんな黒霧が時々、口走るフレーズはただ一つ。”妹に逢わせてほしい”、それだけだった。

 

「黒霧の体を精査した」

 

 刑務官の指示に従い、窓のないエレベーターにぞろぞろと乗り込みながら、塚内は呟いた。エレベーターの天井部分にもカメラと銃口が設置され、それはさりげなく杳に向けられている。刑務官の冷たい眼差しが、機体の隅っこで縮こまる少女に容赦なく突き刺さった。

 

「黒霧は他の脳無と違い、かなり特殊だ。複数の因子が結合され、一つの新たな個性になっている。そのベースはやはり……白雲朧のものと極めて近かった」

「記憶が戻った()()をしているという可能性は?」

「それも十二分にあり得る」

 

 相澤とグラントリノが交わす会話を聴きながら、杳は唇を噛み締めた。手の中にわずかに残っていた願いは、儚くも砕け散った。やはり黒霧は兄なのだ。理解はしていたが、やはり事実として突きつけられると哀しいものがあった。

 

 うな垂れる杳を見下ろしつつ、相澤は言葉を続けようと息を吸い込んだ。仮に生前の人格を残しているというなら、雄英で自分と一線を交えている時、林間合宿で杳を攫った時、何らかの反応があっても良かったはずだ。()()()()()()――

 

(俺、黒霧の中に……顔を見ました。あいつ、が真似ていた兄の姿に似ていて。……あいつを救けようとしていました)

 

 かつての弟子の言葉が、脳裏をよぎった。言葉と思考が不意に行き場を失い、その隙を突いて、積年の想いが体の一番深い場所から、マグマのようにせり上がって来る。相澤は瞼を強く閉じ、それを静かに嚥下した。グラントリノは腕を組み、エレベーターの壁に寄りかかる。

 

「脳無は意志を持たん操り人形。そう思っていた。だが……あんたの証言で、それが覆った」

 

 グラントリノは猛禽類のように鋭い眼差しで、()使()を見た。――神野事件の事だ。杳の不思議そうな瞳と、人使の哀しい瞳が交錯する。今でも克明に思い出せる。霧の一部が膨らんで、朧と思わしき形に変化したのを。黒い靄の状態でもはっきりと分かるほど、あの時の彼は怒っていた。

 

 根拠があれば奇跡は可能性になると、グラントリノは語った。罠の可能性も充分にあり得るが、個性の使えない現状において、黒霧が杳に害を成せるとも思えない。反対にそれが罠ではなく、朧の人格が蘇りかけているのだとしたら。それを呼び覚ますのは、彼が最も逢いたがっている杳が適任なのだ。

 

 ”黒霧が自分を救おうとしていた”――その事実を聴いた途端、杳の心に熱い感情が噴き上げる。

 敵連合のアジトに誘拐されていた時、黒霧から時折感じる事のできた、優しく懐かしい気配。それが今でも残っているのなら、消えないように私が守らなきゃ。たとえ不完全で歪な形でも、朧の人格が戻りつつあり、彼自身が逢いたいと思ってくれているのなら。杳は自らを奮い立たせ、拳をぎゅっと握り締めた。

 

 タルタロスは海底深くに沈められた独房が最深部・B-10となっており、黒霧はその一段階上であるB-09に収容されていた。

 刑務官がハッチを操作すると、重厚な造りの金属扉がゆっくりと開いていく。廊下から差し込んだ灯りが、正面にあるガラス壁に反射して煌めいた。ガラスの向こうは真っ暗で何も見えないが、恐らくそこに黒霧がいるのだ。塚内は杳の肩に手を置くと、疲弊と労りの滲んだ声で呟いた。

 

()()()になるかもしれない。辛い役目をさせるが……口を割れば大きな進展に繋がる」

「はい」

 

 バッグに吊るしたキーホルダーを軽く握り、杳は頷いた。杳と監視役である相澤を残し、部屋の扉は重々しい音を立てて閉じられる。

 

 敵連合、さらにその奥に蠢く巨悪の陰謀を防ぐため、塚内とグラントリノは”黒霧を杳に逢わせる”という決断を下した。

 相澤とマイクは、神野事件で”黒霧が杳を救おうとしていた”という事実に一縷の希望を見出した。

 人使は、杳が兄を想う心を否定したくないが為に、彼女を行かせた。

 

 ――平和を想い、大切な人を想うが故の行動が、積み木のように一つ一つ、積み上げられていく。その結果、兄妹は再会を果たした。歪に積み重なった想いの積み木を、地獄の底から、冷酷な氷の王が愉しそうに見つめている。

 

 

 

 

 ガラス壁の前には簡素な椅子が二脚、並んでいた。その一つに腰を下ろした後、杳は不安にざわめく心を鎮める為、大きく深呼吸をした。震えの止まらない冷え切った肩を、相澤の武骨な手がそっと叩いた。

 

「大丈夫だ」

「……はい」

 

 夜明け前の湖のように静謐な――恩師の瞳を見ると、不思議と心が落ち着いた。辛くて怖いのは先生も同じなはずなのに。杳は自分を責め、唇を噛んだ。

 

 やがてガラス壁の向こうの照明が付き、中の様子が露わになった。杳の呼吸と思考はピタッと止まる。――黒霧が頑丈な拘束椅子にとり籠められ、眠っていた。ワープ系の個性を持っている為、必要時以外は眠らされているらしい。

 

 刹那、ピンと空気の弦が弾かれる音がして、杳は思わず相澤を仰ぎ見た。彼の長い黒髪が風もないのに浮き上がり、両目が赤く輝いている。消失の個性を発動したのだ。杳の心の準備が整う前に、黒霧を構成している靄の一部がユラユラと動き始める。

 

『起きた。始めてくれ』

「……おにい、ちゃん」

 

 スピーカーから流れる塚内の声に背中を押されるようにして、杳は躊躇いがちに言葉を発した。それに気づいたのか、黒霧は金色の目を眠たそうに揺らめかせ、周囲の状況を探る。やがて正面に座る杳を見つけた瞬間、その目は狼狽したように大きく揺らいだ。

 

「ああ、杳。会いたかった」

 

 穏やかで低い声も、慇懃な口調も、生前の朧とは似ても似つかない。だが、杳は何も言えず、呼吸する事すら忘れて、ただ一心に黒霧を見つめ返した。

 

 心の中で色んな思いがせめぎ合い、やがて一つの希望的観測を見出した。――やっぱり、何かの拍子に記憶が戻ったんだ。心が期待に震え、わななく唇を杳は気合で引き結んだ。黒霧は胸を撫で下ろすような仕草をした後、深い親しみを込めた声で言葉を続けた。

 

()()()()は元気ですか?」

 

 ゾッとするような沈黙が、辺り一帯を包み込んだ。まるで杳が敵連合に所属していて、ついさっきまで弔と一緒にいたかのような口振りだった。室内にある銃口が音もなく動き、杳に照準を合わせていく。

 都合の良い希望は無残に打ち砕かれ、潰えた。絶望のどん底に叩き落とされた杳の肩を、相澤が強く掴む。その痛みで彼女は現実に戻った。――諦めるな。絶望するな。お兄ちゃんの方が、もっとずっと辛いんだ。

 

「知らない」

「……何故?」

 

 杳が弱々しく首を横に振った瞬間、黒霧の表情と声は先程とは打って変わり、冷たく厳しいものになった。

 

「窮地を救われたと言うのに、貴方は()()彼を見捨てたのですか?」

「違うよ。見捨ててない」

 

 ――転弧に救われたから、今度は私が救うんだ。()()()()()()()。恐怖でかじかんだ唇を動かして思いの丈をぶつけても、黒霧は耳を傾ける素振りすら見せなかった。まるで魔法の掛かった鏡の欠片が、黒霧に届く前に、杳の言葉を全て跳ね返してしまうようだった。

 

 個性を使う隙を探ろうとしたのか、黒霧はほんのわずかに身じろぎをする。たったそれだけで、室内にある大量の銃火器が、一斉に黒霧の方を向いた。物々しい装填音が、ガラス越しに杳の耳にも聴こえるような気がした。だが、それを気にかける事なく、隣にいる旧友に見向きもせず、黒霧は杳だけを見つめ、根気強く説得を続ける。

 

「私の個性を模倣し、彼の下へ。今の貴方ならそれが出来る筈だ」

「……ッ、できないよ!」

 

 杳はついに涙を散らして、椅子を蹴立てて立ち上がった。――お兄ちゃんの記憶は戻ってない。()だったんだ。杳は残酷な真実を飲み込まざるを得なかった。でも、それでも、諦めない。杳は涙を乱暴に拭うと、ありったけの力を込めて、黒霧を見つめる。たとえ何年掛かったとしても、黒霧の中にお兄ちゃんがいるなら、それを呼び覚ます。オール・フォー・ワンの呪縛から解き放つんだ。ロックや転弧と同じように。

 

 ロックと転弧の記憶の世界での出来事を、今でも克明に思い出せる。思わず身震いするほどに悍ましく、禍々しい日々。あんなものに今もまだ兄が囚われているとするなら、一刻も早く解放してあげたかった。――もう大丈夫、怖かったね、辛かったねって、暖かくて安全な場所で休ませてあげたかった。

 

(ヴィラン)じゃなく、ヒーローとして救けたい」

 

 ――お兄ちゃん。あなたも同じ気持ちだったはずだ。()()()()()。迷いのない声で言い切った後、杳は祈るような想いで黒霧の反応を待った。ぼんやりした灰色の瞳と、感情の読めない金色の瞳が長い間、交錯する。

 やがて黒霧は鷹揚な動作で椅子に座り直し、目をスッと細めた。道端に転がる石を見るような、冷たく無関心な眼差しだった。

 

「貴方は誰も救えない」

 

 黒霧が無造作に放ったその言葉は、呪いのように()()()を持っていた。それは空中で鋭い矢に変わり、分厚いガラスを突き抜け、杳の心に深く突き立った。大きく息を詰め、よろめいた杳の肩を支えると、相澤は虚空に向けて言葉を発する。

 

「中止を。もう限界でs――」

()()()()()()。これは、当然の帰結だ」

 

 次の瞬間、黒霧を構成する靄が大きく膨れ上がり、()()()()()()した。(おびただ)しい量の血飛沫が噴水のように噴き出して、ガラス壁にべったりと付着する。

 

 目の前で起きた出来事を脳が理解する前に、()()()()()()()。――黒く汚れたガラスの向こうで苦しんでいる黒霧以外、何も見えない。考えられない。

 迷わず量子化してガラス壁を擦り抜けようとした刹那、誰かに首根っこを掴まれて、引き倒された。()()だった。相澤が消失の個性を使っている為に、個性を使う事ができない。壁に押しつけられた状態で尚、杳がもがいていると、相澤は声の限りに名前を呼んだ。

 

「白雲!」

 

 生徒を助けようとする真摯な声は、杳の意識をほんの少し、呼び覚ました。正常な働きを取り戻した耳に、けたたましいサイレンの音が突き刺さる。

 気が付くと、室内は――高速回転する赤いパトランプの煌めきで彩られていた。濃い硝煙とイオン化された空気の匂いが、鼻を刺激する。押し付けられた肩越しに、冷たいガラスの感触を感じる。何とか振り向こうとする杳の顔を両手で包み込むと、相澤は顔を寄せた。

 

()()()()。他は見るな」

 

 赤く光る相澤の瞳の奥に、杳は――肩を寄せ合って仲良く笑い合う()()()()()を見たような気がした。興奮していた心が、結び目の解けた風船みたいに、徐々に鎮まっていく。

 

(今後は正規の手続きを踏んで正規の活躍をし、失った信頼を取り戻すよう尽力しろ)

 

 かつての恩師の言葉が、ルールを破ろうとした杳の頬を()()()()()()。視界の端に青白く光る火花が映り込み、杳は目線を下げる。

 

 ――相澤の右足に、二つの小さな針の生えた()()()が突き刺さっていた。射出体からは細い銅線が伸びており、それは天井付近に設置されたテーザー銃本体に接続されている。

 

 個性を使おうとした杳を警戒し職員が放ったものを、相澤が庇ったのだ。激痛と筋肉麻痺の余韻がまだ十二分に残っているはずなのに、一切表情には出さず、相澤は杳の涙を拭った。そして同時に、目の前に広がる血みどろの世界を()()()()

 

 ガラス壁の向こうは、酸鼻を極めた光景が広がっていた。黒く濁った血飛沫が辺り一面に飛び散り、黒霧は内側から攻撃を受けているかのように苦し気に身を捩り、痙攣し続けていた。床には血に塗れた金属片と赤黒い肉片が散乱している。爆発の時に、肉体の一部が損傷したのだろう。

 

 消失の個性を発動しているというのに、異常事態は止まらない。――個性が原因ではないという事か。長時間発動し続けている為に激痛が走り、真っ赤に充血し始めた視界に活を入れ、相澤はサイレンに負けじと鋭い声で叫んだ。

 

()()()()()が、状況は変わらない!」

『麻酔処置と治療を!医療班急げ!』

『二人は退出してくれ!一体どういう事だ……ッ』

 

 塚内の動揺した声に促され、相澤は杳を立ち上がらせた。数メートル先では頑強な防護服に身を包んだ職員達が室内に雪崩れ込み、ストレッチャーに黒霧を載せようとしている。

 

 仮に記憶が戻ったとして、目の前にいるのは()()()()。還って来るわけじゃない。理不尽を嘆いたところで、事態が好転するわけじゃない。だが、それでも――何故、あいつがこんな目に遭わなければならない。閉じた瞼の裏に、かつて朧と過ごした輝きと幸福に満ちた日々が浮かんでは、消えていく。

 

 今にも狂い出しそうな感情を心の奥底に押し込めて、相澤は杳を抱え、部屋の外へ足を踏み出した。廊下にも赤いパトランプが忙しなく輝いていて、鬼気迫ったアナウンスが施設内にガンガンと反響している。

 

『セキュリティ・イエロー発動!()()()()()()()を確認、エリアBを緊急封鎖します。職員はただちに厳戒態勢へ移行してください』

 

 

 

 

 同時刻。杳達のいる階よりもさらに下層、最深部・B-10にて。――海底深くに沈められたその独房は、無数のセンサーと銃火器が至る所に散りばめられていた。

 常人であれば正気を保つ事ですら難しいであろう、その過酷過ぎる環境で、オール・フォー・ワンはゆったりと拘束椅子に座り直した。咎めるように一斉に向けられた銃口の一つに笑いかけると、彼は上品な仕草で唇を開く。

 

「そろそろかな。来ているんだろう?」

 

 医療用マスクを通す為にくぐもってはいるが、優しい響きを宿した声が室内に反響し、不気味な余韻を残して消えていく。オール・フォー・ワンはセンサーが敷き詰められた天井に顔を向け、上階で起きている緊急事態を見透かしているかのように口角を持ち上げた。

 

「……()()()と話がしたい」




タルタロスについて調べたらヒロアカのネタバレ情報ちょっと読んでもた…。ソウルジェム砕けた…(;_;)


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No.61 オール・フォー・ワン

【No.60のあらすじ】
塚内警部から『黒霧が捕まった』と知らせが。杳は人使、相澤、マイクと共にタルタロスへ向かう。黒霧と話をするが、彼は弔の仲間にならない杳を責め、自壊する。

※ご注意:作中に残酷な表現、暴言、倫理を問われるような描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳が物心ついた時から、朧はずっと傍にいた。四六時中、何をするにもずっと一緒で、杳を抱き上げると、いつもその小さな体の輪郭を確かめるように触っていた。

 

 ある休日の昼下がり。こじんまりとしたリビングルームに陣取って、朧は杳を膝に上げ、ふっくらした指の一本一本を軽く握っていた。くすぐったくて、杳は身を捩る。

 

(くすぐったいよ)

(そーかくすぐったいか……じゃあこれはどうだあっ!)

(あはははははっ!)

 

 朧は深刻そうな顔で首を傾げた直後、杳の脇に手を差し入れ、ちょっとだけくすぐった。

 杳はふざけて暴れ回り、リビングルームに響き渡る程に大きな声で笑う。屈託ない笑い声を上げる杳の輪郭が不意に()()()()()途端、朧は慌てて彼女を抱きすくめた。

 

(おーっとお!……大丈夫だからな)

 

 しがみ付いて震え始めた小さな温もりに、朧は何度も”大丈夫だ”と囁き続けた。ゆっくりと腕を解くと、中からぐしゃぐしゃに泣き濡れた杳の姿が現れた。その姿は亡霊のように透け、今にも消えそうに揺らいでいる。

 朧は優しく微笑むとその手を取り、まるでマッサージをするように――握ったり撫でたりといった動作を繰り返した。杳は青ざめた表情で、その様子を見守っている。

 

(お兄ちゃん)

(ん?)

(わたし、おそとにでられるのかな)

 

 小さな頃の杳は、少しの感情の昂りですぐに雲化してしまう――不安定な状態だった。朧を始めとした家族によるリハビリで徐々に改善してはいるが、医師の指示により、他者と関わりをもったり家の外に出る事は、固く禁じられていた。

 朧の笑顔が一瞬、消える。だが、下を向いている杳の瞳に、その表情の変化は映らなかった。やがてしっかりと実態を取り戻した手を、朧はギュッと握る。

 

(絶対に大丈夫!兄ちゃんを信じろ!)

 

 ガラス越しに見る()()()みたいに明るい光が、朧の笑顔と一緒に放たれる。泣いてばかりの杳をいつだって笑わせてきた、天下無敵のスマイルだった。

 弱々しい笑みを浮かべる杳を抱き寄せ、朧は窓ガラスに映った庭の景色に目を凝らす。その先に待っている明るい未来を見透かして、空色の瞳は宝石のように輝いていた。

 

(おまえに見せたいもの、知ってほしいこと。沢山あるんだ。逢ってほしい奴らもいるし)

 

 ”抱えきれない位、でっかい苺もあるぞ”と続けると、杳の目はキラリと輝いた。何はともあれ、少しは元気を取り戻したらしいという事に、朧は安堵する。そのまま妹を抱き締め、ゆりかごのように体ごとユラユラと揺らした。小さな笑い声をBGMに、朧はゆっくりと瞳を閉じる。

 

(一緒に色んな世界を見よう。いっぱい遊ぼう。……大丈夫だ。兄ちゃんが傍にいる)

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 面会から約一時間後、杳達はタルタロスの上層階にある集中治療室(ICU)の前にいた。分厚いガラス壁の向こうで、電子機器や医療機器の山に埋もれるようにして、黒霧が眠っている。

 ベッドの周囲は半透明のエネルギーシールドで覆われていた。業務用の冷却器(チラー)から漏れ出す駆動音が、ガラス壁をわずかに震わせ、表面に霜のヴェールをまとわせていた。

 

 ガラス壁にぺったりと両手と額を押し当てて、その様子を眺めている杳を、相澤は常に視野の片隅に入れていた。いつでも消失の個性が発動できるように。先程から茫然自失状態に陥っており、話しかけても返事がない。

 

 相澤は別室で待機しているであろう、杳の()()()――マイクと人使に思いを馳せた。彼らを呼びに行くと出て行った刑務官は、一向に帰ってくる気配を見せない。相澤は()()()()()を案じ、顎を撫でた。

 

 やがて廊下の奥から忙しない靴音が聴こえてきた。相澤の予想とは反し、靴音の主は塚内と黒霧の担当医だった。

 塚内はこの一時間で、どっと老け込んだようだった。濃い隈の滲んだ目がそろりと動いて、ガラス壁の前で佇んでいる少女を映し、それから相澤を見る。

 

「状況説明を」

「……奴の体内で爆弾ができてる」

 

 塚内は小型のタブレットを差し出した。相澤は受け取り、杳への警戒心を保ったまま、画面に目を落とす。青白く光るスクリーンに、黒霧の身体状況が映されていた。

 

 

 

 

 黒霧の靄の大半はヘリウムで構成されている。ワープゲートを展開する為だろう――それを生成する器官も、体内に増設されている。

 ヘリウムは水素よりも浮揚力があり、燃えない為、水素よりも安全なガスとして、風船などの浮揚用ガスから広告用バルーンや天体観測用気球、果ては軍事用偵察気球まで、世界中で幅広く利用されている。

 

 ヘリウムは世界中でありふれた、安全な化学物質の一種に過ぎない。だが、杳との面会中、それは突然、()()()()()()()

 

 靄の一部がヘリウム原子へ急速分解され、励起状態となった。原子の群れは高エネルギーを保有したまま安定化し、結合。同時に体温が上昇し、ヘリウム原子は固体に変化した。

 

 ――”電子励起爆薬”。個性黎明期以前、人々が爆薬の威力を高める為、研究を重ねていた”次世代爆薬”の一つだ。

 

 わずかな量でも、核兵器並みの威力を有すると言われている。ただ、ヘリウム原子を固形化するにはコンピューターによる緻密な電子軌道の計算が必要で、現在に至るまで実用化の目途は立っていない――とされていた。

 

「爆薬は()()()()()()。今は冷やす事で固形化を押さえてるが、時間の問題だ」

「俺の目は効きませんでしたが、他の個性を使う事は?」

 

 杳が小さく鼻をすすった。相澤は反射的に捕縛布へ指を掛けながら、塚内に問い掛ける。塚内は苦虫を噛み潰したような表情で、黒霧を見やった。

 

()()()()。他の者でも試したが……個性を感知すると、化学反応が激化する」

 

 消失の個性を掛けているのに治まるどころか、余計に苦しそうにのたうち回っていた黒霧の姿を思い返し、相澤は血が滲む程に強く唇を噛み締めた。

 ――友を救う為に個性を使った自分、それが促進剤となった黒霧、泣き叫ぶ少女を見物して、誰かが嗤っているような気がした。こうなる事を予測していたのか。相澤と塚内が憮然とした面持ちで黙り込んでいると、またも複数名の足音がこちらに近づいてきた。

 

「取り込み中にすまない」

「看守長」

 

 看守長はタルタロスにて高位の階級に相当する人物だ。厳格そのものといった顔立ちをした壮年の男性で、百八十センチを超える程の背丈があった。武装した刑務官を二人、後方に連れている。看守長は自然な動作で敬礼をした後、一切の感情を削ぎ落としたかのような冷たい眼差しで、小さな少女を見下ろした。

 

「オール・フォー・ワンが、”白雲杳と話がしたい”と」

 

 自分の名前を呼ばれ、杳はゆっくりと振り向いた。涙で滲む視界の中に、特殊拘束具(フェンリル)を持った刑務官の姿が映る。何か言いかけようとした塚内を、看守長は強く睨む事で黙らせた。相澤は杳を守るように前に進み出て、看守長に視線を走らせる。

 

「私が見ています。拘束具は不要です」

「不安要素は潰しておきたい」

 

 看守長は頑として退く気配を見せない。最早相澤や塚内の抵抗だけではどうにもならない程に、事態は悪化を極めていた。相澤の横をすり抜けるようにして、刑務官は拘束具を嵌める。武骨な金属音と冷たい感触が、杳の心に大きな傷を穿(うが)った。

 

 

 

 

 杳達はエレベーターに乗り込み、最深部へ向かった。広大なその区域に囚われているのは、たった一人の敵だった。

 

 個性を封印する効果を有した特殊金属や銃火器、センサー類が大量に埋め込まれている為、独房の壁は他のものより何倍も厚い。頑丈な扉が閉められた途端、恐ろしい程の静寂が辺り一帯を包み込んだ。頑強な壁は音の全てを跳ね返す。その感覚に慣れず、杳は気持ち悪くなって口を塞いだ。

 

 だが、背中をさすってくれる手はない。――オール・フォー・ワンは二人きりでの対話を求めていた。杳は拘束具を額に押し当て、上昇した体温を下げる努力をしながら、パニック症状を起こしかけた心を鎮めようとする。

 

 ふと目の前にある真っ暗なガラス面に、大きな拘束具にとり籠められた自身の姿が映った。まるで()()の方が、囚われている敵のように思える。

 だが、その事に深く思いを馳せる前に、一面のガラスがパッと明るい輝きを放った。面会の準備が整ったのだ。

 

 ――そこは、太古の氷河期を彷彿とさせる、魂まで凍てつくような冷気が漂っていた。そこらじゅうに氷柱のように下がった銃火器の群れが、部屋の主を見下ろしている。

 無数のセンサーが入り乱れる事で生まれた()が、ガラスの壁を透過し、杳の肌に突き刺さった。耐え切れず、泣き過ぎて充血した瞳から、新たな涙が零れ落ちる。

 

 そんな地獄を体現しているかのような場所で、オール・フォー・ワンはゆったりと寛いでいた。医療用マスクに大半を覆われたその顔は、口元以外の全てを失くしている。何も見えていないはずなのに、彼は杳の方へ顔を動かし、優しげに微笑んだ。杳の緊張を解きほぐす為か、さらに笑ってみせる。

 

「やあ。こうして顔を合わせるのは二回目……だけど、君は覚えていないだろうね」

 

 オール・フォー・ワンはきさくな調子でそう言い、首を傾げた。すぐさま警告音と共に無数の銃口が向けられたので、彼はおどけて肩を竦めてみせる。

 

 脳髄が痺れるように甘く、優しい声。忘れるはずもない。次の瞬間、杳の脳内でフラッシュバックが発生した。――苦しそうにのたうち回る黒霧の記憶の上に、神野での凄惨な記憶がぶちまけられる。耐え切れず、杳は声を上げて泣き出した。オール・フォー・ワンはすぐさま口元の笑みを消し、深い労りに満ちた声で問いかける。

 

「可哀想に。どうして泣いているのかな」

「おにい、ちゃんに……ッ、何を、したんですか?」

「……そうだな」

 

 オール・フォー・ワンは一旦言葉を区切り、考え込んだ。その沈黙は、その先を話すかどうかを逡巡しているのではなく、杳の幼い頭にも理解できるように言葉を噛み砕いている為に、起きたものだった。

 

「黒霧の全ては()()()()で制御されている。そこに論理爆弾(ロジックボム)、ウイルスの一種を仕掛けた。『君が黒霧の願いを拒絶する』というのが、プログラムの発動条件だった」

 

 徐々に正気を失っていく少女の顔を面白そうに()()しながら、彼は言葉を続けた。

 

「ウイルスには自滅機能がある。時計がないから明確な時間は分からないが……約半日後に、彼は()()()の死を迎えるだろう。上手く行けば、小さな町が丸ごと消し飛ぶ位の威力になる」

 

 その実験も兼ねているんだと、オール・フォー・ワンは穏やかな口調で締めくくった。その後、彼は沈黙する。肉食獣が、獲物のどの部位に齧り付けば、一番肉が柔らかくて旨いのか品定めしているように、杳の感情の動きを探る。そうして最高のタイミングを見計らい、彼はとどめの一撃を放った。

 

「杳。君が――」

 

 突然、オール・フォー・ワンの声が()()()()。様子を見ていた塚内が、スピーカーのボリュームを絞ったのだ。実に面白くないと言わんばかりの顔で、オール・フォー・ワンは天井の辺りを見上げる。

 しかし、声が聴こえずとも、唇の動きは見える。()()を理解すると同時に、杳の視界は真っ暗になった。息ができない。轟音のような耳鳴りのせいで、何も聴こえない。

 

(選択を誤った。これは、当然の帰結だ)

 

 黒霧の冷たく棘のある声が、杳の心の傷に突き刺さり、患部を悪化させる。血が流れて膿んだ傷跡に、オール・フォー・ワンが塩を塗り込んだ。

 ――()()()()()。激しい眩暈と吐き気がして、何も考えられない。顔にまとわりついている液体が、涙なのか汗なのかも分からなかった。狂ったメリーゴーランドのように、世界がグルグルと回転し始める。自分を責めるあまりに平衡感覚が麻痺し、杳は椅子から転げ落ちそうになった。

 

 その時、暖かくて優しい手が、杳の体を抱き上げた。()だ。それは、狂いかけた末に、現実と妄想の境目が曖昧になった――杳の心が垣間見た()()()だった。

 

 窓を開けた時に吹き込んだ、冷たくて清らかな風。マシュマロみたいに柔らかい雲。手を伸ばせば届きそうな程に近づいた月と星。真っ黒いビロードみたいに広がる空。兄の屈託ない笑い声。――夜間飛行を楽しんだ時の記憶の追体験。

 心の傷が、薄いかさぶたで覆われていく。そのわずかな癒しで、杳はなんとか息を吹き返した。

 

「どうして、そんなことを?」

 

 杳は震える両手で椅子にしがみ付き、純粋に浮かんだ想いを口にした。そのフレーズは図らずも、オール・フォー・ワンに捻じ伏せられてきた多くの人々が、絶望のどん底で彼を見上げ、口にしてきたものと同じだった。

 

「どうしてって……僕が(ヴィラン)だからに決まってるだろう?!」

 

 話の途中で耐え切れなくなったのか、オール・フォー・ワンは肩を竦め、吹き出した。最早聞き飽きたセリフだと言わんばかりに、口元を皮肉げに歪ませる。

 

「杳。一つ、為になる()()()()をしてあげようか」

 

 オール・フォー・ワンが噛んで含めるような声で話し始めたのは、イソップ寓話の一つとして知られる”卑怯なコウモリ”だった。

 

 ――昔々、獣の一族と鳥の一族がどちらが強いかで戦争をしていた。 その様子を見ていたコウモリは、獣の一族が有利になると獣達の前に姿を現し、『私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です』と言った。鳥の一族が有利になると鳥達の前に姿を現し、『私は羽があるから、鳥の仲間です』と言った。

 

 その後、鳥と獣が和解した事で戦争が終わったが、幾度もの寝返りを繰り返し、双方に良い顔をしたコウモリは、鳥からも獣からも嫌われ、仲間外れにされてしまった。居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、ひっそりと生きるようになった。

 

 オール・フォー・ワンは話し終えた後、杳の反応を待った。――杳の体の震えが止まる。彼の意図を理解したからだ。だけど、それならば何故、彼がその事を知っている?八斎會事件は彼の逮捕後に起きた事だ。カラカラに乾いた口内は、いくら唾液を飲んでも潤ってくれない。

 

「君はどれも捨てなかった。どちらにも良い顔をして、行き場を失った」

 

 不可視の目が、杳を捉えている拘束具を見て、それから天井に装備された銃火器の群れを見て、最後に彼女へ戻った。そして悠然と笑う。まるで自分ではなく、君こそが大罪人なのだと知らしめるように。

 

 だが、社会もヒーローも敵さえも、杳を――そして死に向かう黒霧を救ってはくれなかった。味方のいない薄暗い洞窟で、小さなコウモリは傷だらけの羽根を引き摺って、震えている。杳の自我が粉々に破壊されたのを見届けると、オール・フォー・ワンは唇を開いた。

 

「……だが、弔は君を救けた」

 

 薄暗い洞窟で(うずくま)って泣いている杳に、オール・フォー・ワンは手を差し出した。怯えながら顔を上げた杳の涙を拭い、彼は仏のように優しい笑みを浮かべる。

 ”奈落の底からの救済”――その両極端な相転移は、いつの時代も麻薬のように人の心を魅了してきた。人心掌握に長けたオール・フォー・ワンが用いる、常套手段の一つだ。

 

「君に最後のチャンスをあげよう。ウイルスを破壊できたなら、黒霧は自由だ。他人の中を(まさぐ)るのはお手の物だろう?」

『聴かなくていい。席を立ちなさい』

 

 塚内の声は耳に入っているが、杳は椅子から立ち上がる事ができなかった。

 細分化して黒霧の体内に侵入し、直接ウイルスを駆逐すれば、救けられるかもしれない。オール・フォー・ワンの与えたわずかな希望の光に、杳は――光を求める蛾のように――まとわりついて、消えないようにとしがみ付いた。埒が明かないと判断した塚内が操作したのか、徐々に眼前のガラスが白く曇っていく。

 

「別に逃げたって構わないよ。遺体が一つ、消滅するだけだ」

 

 何も見えなくなった銀白色の世界で、オール・フォー・ワンの笑い声だけが不気味に反響し、ゆっくりと融けていった。

 

 

 

 

 後方でハッチが回され、頑丈な扉の開く音がした。悲壮な顔つきをした塚内と武装を固めた刑務官が数名、室内に雪崩れ込んでくる。杳の心は決まっていた。

 

「塚内さん。私――」

「ダメだ」

 

 塚内の冷徹な声が、言葉の続きをむしり取った。

 

「思い通りになるな。奴の狙いは君だ」

 

 ――()()()()()()に、こんな大袈裟な段取りを組むはずがない。塚内は短く刈った髪をかき乱した。黒霧を餌に、誰の手も届かない場所へおびき寄せる算段だったのだ。これ程の精密な動作ができる人工知能なら、彼女を生きたまま洗脳・改造する事もできるに違いない。

 

 黒霧の電子頭脳は現在、警視庁・サイバー犯罪対策課から派遣されたハッカー達が解析に当たっている。しかし、防護障壁(ファイヤーウォール)が何重にも掛けられており、何かアクションを起こす度、管理者(スーパーユーザー)である()()()()を求められる。認証に失敗すると、化学反応が激化した。

 その為、作業は遅々として進んでいなかった。分かっているのは爆発までの残り時間だけ。塚内は上層部と緊急会議を開き、やがて苦渋の決断を迫られた。

 

「ここからさらに五キロ程離れた場所に、建設中の人工島がある。……()()タルタロス建設予定地だ」

 

 昨今の敵犯罪増加の影響により、タルタロスの収容人数はもう七割を超えつつあった。政府は関係者閣僚会議で”第二のタルタロス増設”を決定、現在予定エリアは建設作業が急ピッチで進められており、建物の輪郭だけが辛うじて完成している――という状態だった。

 

 刑務所の構造は大元と同じだ。最深部であるB-10に相当する場所にはすでに独房の骨組みができている。もし仮にオール・フォー・ワンが暴れたとしても、耐えうる程の強度を持つと謳われる独房だ。

 

「そこに黒霧を閉じ込める」

 

 ――()()()()()()という事だ。灰色の瞳にわずかに残っていた希望の火が、風に揺られて消えていく。それを覚悟を持って見届けると、塚内は杳の前に屈み込み、肩をそっと掴んだ。

 

 資格も持たない少女にヒーローの真似事をさせる訳にはいかない。そもそも彼女は修行中の身。プロヒーローの助けもない、そして何が起こるかも分からない不安定な環境で、長時間の戦闘を行う事は不可能だ。

 そして何より現実問題として――防護障壁をかい潜り、()()()で電子脳内に潜り込んでくれる特異な個性を持つヒーローを探し出すのは――非常に難しい事だった。

 

「白雲君。すまない。()()()()()()

「……ッ、離してください!」

 

 杳は反射的に、塚内の手を払いのけた。その瞬間、刑務官が駆け寄って来て、杳を取り押さえる。

 ――私が捕まったら、誰も兄を救けられなくなる!必死になって抵抗するが、両手を拘束された状態で、体術を極めた大人数名とまともに戦う事はできない。あえなく杳は床に引き倒され、眼前にテーザー銃を突きつけられた。

 

「銃を引いてください」

 

 相澤が杳の上に覆い被さるようにして立ち、冷淡な声で警告した。間近で見上げるその黒い瞳は、抱えきれない程に深い悲哀の感情が、ぎっしりと詰まっている。あまりの悲壮さに、杳の心臓はギュッと締め付けられた。

 

(私達は、先人達が命懸けで、涙を飲んで繋いできた平和の上に立っている)

 

 蛙吹の言葉が、杳の耳朶を打つ。相澤先生は涙を飲んで、平和を守る方法を選んだ。プロヒーローだから、秩序を破ってまで黒霧を救う事はできない。

 

 ――なら、()()?閉じた瞼の裏で、オール・フォー・ワンが唇を歪めて嗤う。敵連合や仲間達と手を取り合い、ルールから逸脱した世界で自由に走り回った快感が、脳天を駆け抜けていく。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 気が付くと、杳は瓦礫だらけの世界に立っていた。前を見ると、オール・フォー・ワンに手を引かれて、小さな転弧少年が歩いている。

 転弧は不意に立ち止まり、振り返った。養父と同じように嗤い、手を差し出す。その手をぼんやりと眺めている杳の肩を、()()が掴んだ。

 

(次に、あなたが一歩を踏み出す時……よく考えて。その行いが、皆の為になるのかを)

 

 蛙吹はそう説くと、ふっとかき消えた。その瞬間、杳は我に返った。――()()()()

 

 オール・フォー・ワンの言う通り、私は卑怯なコウモリだ。何にも成れない、どこにも寄る辺のない人間。暫定敵。でも、だからこそ、出来る事がある。敵とヒーロー、双方の考えを吸収した事で培われた――良く言えば柔軟、悪く言えば中途半端な思考が、杳の決意を彩った。

 

「第二タルタロスに黒霧を拘束してください」

 

 力強い少女の声が、緊迫した空間に響き渡った。

 

()()()()()侵入する」

「馬鹿を言うな!心中する気か!」

 

 あまりに突飛な発想に相澤は激昂し、杳の肩を掴んだ。今度は刑務官達が、相澤を止める側に回った。

 杳は首を横に振ると、恩師をじっと見上げた。その目の輝きに胸打たれ、相澤は思わず言葉を失った。さっきまで絶望に濁っていたはずの瞳は、今はぼんやりとした光に満ちている。オールマイトを彷彿とさせる、勇猛な力を携えて。それを感知した時、彼は――自分が心の内で流している()()()()を、そっと拭われたような気がした。

 

「必ず救けます。万が一の時の保険です」

 

 どんな大義名分があろうと、資格なしに個性を使った人間は(ヴィラン)になる。まして自分は()()()だ。もし計画が失敗しても、表向きは黒霧と心中した敵だと処理されるだろう。

 だが、()()()()を貰えるなら――敵として逮捕されるまでの自分の行動は、ヒーローの任務と同じだ。杳は覚悟を持って、頷いた。

 

「許可を頂けるなら、これは()()()()()です」

 

 制限時間(タイムリミット)制のヒーロー。使用期限を過ぎれば、腐ってしまう(ヴィランになる)。だが、杳は悲観してなどいなかった。

 

 覚悟を決めて冷静になった杳の頭が、クルクルと回転し始める。――先程のオール・フォー・ワンとの会話で、一つ分かった事がある。 

 彼が何故、八斎會の出来事を知っていたのかは分からない。でも、本当に黒霧の改造が自分への罰なら、彼を変えたのは()()()()であるはずだ。杳は記憶の引き出しを探り、中から一人の老人の情報を抜き出した。

 

 敵連合のアジトにも、壊理救出前にマグネ達と会話をしていた時も、ロックが”ドクター”と呼んでいた人物はいなかったし、聴かなかった。ドクターは恐らく、オール・フォー・ワン側の人間だ。黒霧を救け出せれば、彼の居所も掴める。もう犠牲者を出さずに済むんだ。

 

 ヒーローは常に、現状で最適な判断を求められる。

 ――黒霧を救えるのは、自分しかいない。死に怯える心を、愛と使命が凌駕した。震えの止まった両の拳を強く握り込んで、人々の反応を待つ。社会は秩序を破った自分を逮捕せず、救けてくれた。今こそ、その恩に報いる時だ。

 

 

 

 

 束の間の静寂が、室内を支配する。大人達の心中は、葛藤と計算の嵐で激しく吹き荒れていた。

 

 助けたのではなく()()()()()に、社会は杳を生かした。それほどまでに敵連合の存在が脅威だったからだ。出来る事なら、貴重な情報源である黒霧を失いたくなかった。だが、彼の死は確定されている。まるで飢餓状態で食べ物を見せられ、それからゴミ箱に捨てられるような仕打ちだった。

 

 だが、杳ならそれを救える可能性がある。彼女の立場と選択は、人々にある種の逃げ道を提示した。――民間人の少女を危険な目に遭わせる事はできないが、暫定敵ならば。筋書きは何とでも作れる。

 

 ――社会はルールに沿う人間だけを守る。杳はそれを破った事で()()()()()()移動(シフト)した。今彼女がいるのは、白黒曖昧な世界だ。だが、そこに到達した者にしかできない事がある。

 

 やがて室内のスピーカーが震え、低く落ち着いた声が放たれる。緊急事態につき、この場の状況を傍受していた警視総監のものだった。

 

()()()()

「……ッ、本気ですか?!」

 

 塚内は思わず声を荒げ、相澤が大きく息を詰めた。抗議しようと開いた唇が、力なく噛み締められる。もしかしたら、彼らは――杳と同じように、社会を守る為に人知れず散っていった人間を、過去に見てきたのかもしれなかった。

 

 その一方、杳はさらに思案を巡らせていた。――”一人で来い”とは言われていない。もし可能であるならば、戦力が要る。自分と同じ細分化ができる人物に、彼女は()()()()心当たりがあった。だが、その人が命懸けの戦いに、そもそも自分に協力してくれるとは思えない。

 ふと杳の脳裏に、ポストに投げ込んだ手紙の束がよぎった。()()()()を。彼女は不安そうに瞳を惑わせ、逡巡した挙句、おずおずと顔を上げる。

 

「助っ人を頼みたいのですが」




6期後半、書いていて本当にしんどいのですが、『泣いて震えている』っていう描写が急にモルカーにしか思えなくなってしまった。
読んでしんどくなった時は、優しいフェルトの世界で杳がPUIPUI言いながら頑張ってると脳内変換していただければ…。次回はチサキモルカーも出るよ!


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No.62 侵入

【No.61のあらすじ】
黒霧の体内には時限爆弾ができていた。オールフォーワンは『黒霧の電子頭脳に仕込んだウイルスを破壊できれば、黒霧は自由』だとけしかける。杳は黒霧を救う為、体内に侵入する事を決断。助っ人を求め、自分と似た個性を持つ治崎の手を借りようとするが…。

※ご注意:残酷な表現、暴言、倫理を問われるような描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 それから一時間後、杳は塚内、相澤と共に車に乗り、タルタロスを出た。海岸沿いに西へ三十キロ程走った先に、波羅蜜(はらみつ)刑務所はあった。

 

 杳は車から降りると、ドアを閉めた。立体駐車場の中から外の景色を眺めると、暗いレンガ色をした公用営造物が、曇天の下にどろりと広がっている。だが、タルタロスを彷彿とさせる瘴気は感じられず、杳は少しだけ気分が楽になった。

 

 十分後、正面玄関で待機していた刑務上官と合流し、彼の引率の下、杳達は古びた網格子の連なる廊下を進んで、面会室へ入った。

 

 

 

 

 面会室は刑事ドラマで良く見るような、薄いグレーがかった部屋で、中央には長机とパイプ椅子、その前にはアクリル板の壁があった。鏡映しのように、アクリル板の向こうも同じ景色になっている。塚内と相澤は席を外している。杳はパイプ椅子に座り、()()()を待った。

 

 やがてアクリル板の奥にあるドアが開き、刑務官に連れられて一人の青年が入って来た。簡素な囚人服に身を包み、両手を拘束されている。杳の心臓が握りつぶされたように痛み、不規則なスピードで脈打ち始めた。

 ()()()だ。長く伸びた黒髪に隠された金色の目が冷徹な輝きを放ち、こちらを睨んだ。

 

 刑務官に促され、治崎はパイプ椅子に座った。治崎は無言で、こちらを見るだけだった。心が凍てついてしまったかのような、冷たい表情をしている。それは、憤怒や憎悪よりも強く厳しい、()()()()()だった。

 

 儀礼的な挨拶は勿論、黒霧の件どころか、葉っぱ入りの手紙も口に出せるレベルではない。これならまだ許さないと罵られている方がマシだった。だが、今更引き返す事などできない。杳は覚悟を決め、口を開いた。

 

 緊張のあまり上擦った声で、杳はここへ来るに至った経緯、そして()()()()を話し続けた。治崎は杳の話に頷きもしなかった。そもそも聴いているかどうかも分からない。ただ凍り付いたような眼差しを向けるだけだ。それでも何とか最後まで話し終わると、杳は懇願し、頭を下げた。

 

「……手を貸すと思っているのか」

 

 やがてゾッとするほど冷え切った声が、杳の頭に圧し掛かった。おずおずと顔を上げると、治崎はまるで――性質の悪い病原菌を見るような――怖気を震うほどに強い嫌悪の視線を投げかけている。それを受け止め切れず、杳はとっさに俯いた。

 しかし、これは予期していた事だ。唇を噛んで、自分に言い聞かせる。

 

「思っていません」

 

 杳はなけなしの勇気を振り絞って再び顔を上げると、カバンから()()を取り出して、よく見えるように掲げてみせた。

 

―――――――――

――――――

―――

 

 今を遡る事、()()()()。杳は弁護人である真に電話し、事の次第を報告した。真はしばらく呆気に取られたように沈黙していたが、静かにこう言った。

 

(これは提案なんだけど)

 

 先週、アメリカにてジェントルがある大型敵を制圧し、最優秀新人ヒーロー賞(MVP)を獲得した。真はその事について親米派の政治家と協議し、前々からアメリカが導入を推奨していた”(ヴィラン)更生法”を、ついに日本にも試験導入するという約束を取り付けた。

 

 ”ザ・クロウラー”の一年間に渡る治安維持の功績、そして鳴羽田の”敵更生プログラム”が今日に至るまで問題なく実行できている――という事実が、保守派の政治家達の背中を押した。真は直ちに責任者と打ち合わせを開始、佐伯を始めとした()()()()()を推薦した。

 

 治崎は非常に用心深い性格で、実験台にと拉致した者は――身元を調べれば皆、元・敵であったり犯罪を冒していたりという――後ろ暗いところのある人ばかりを選んでいた。また、人を殺めても可能な限り蘇生していた為、冒した犯罪の()()()に比べて、実質的な被害は少なかった。

 

 つまり、佐伯達も治崎も――後者は良心があっての行動かどうかは別として――法を守っている真っ当な人間には手を出さなかった。その事が、良くも悪くも功を奏したのだった。

 

 

 

 

 ”敵更生法”とは、アメリカを始めとした世界各国で運用されている国際法の一つだ。保守的な日本は長らくに渡り、導入を拒んでいた。有事の際に戦う人員を増やせるというメリットがあるが、それよりも社会に混乱を招き、元・敵達が裏切った場合、さらなる被害を被るリスクの方が大きいからだ。

 

 その為、敵の手を借りる事なく、たった一人で国の平和を守っていた”平和の象徴”・オールマイトは、世界でも一目置かれていた。だからこそ、彼を失った事による損害や影響は大きかった。

 

 神野事件以降、他国に習って敵更生法を取り入れるべきだという声も国会で度々上がったが、その意見が取り入れられる事はなかった。

 だが、今回のジェントルの一件で、敵更生法導入がいよいよ現実問題として差し迫って来た。一年前、政府はアメリカ――というより真に負けて、鳴羽田限定の”敵更生プログラム”を渋々許可したが、あのシステムはあくまで軽微犯罪者を対象としたものだ。

 

 国際法は()()()()を対象とする。政府公認とされた元・敵は、敵更生法に基づいた様々な義務と権利に拘束される。厳重な監視下に置かれた状態で、義務や命令を果たす事が服役と同等だと見做され、果たしたものの重さによっては刑期が繰り上がる。

 

 ただし、更生敵が再犯を冒した場合、刑は()()()()()()()。アメリカを始めとした他国では、更生敵が市民から詰られて反撃した事で死刑になったという例も珍しくなかった。”首吊り縄が巻き付いた状態で、制限付きの自由を謳歌する”というのが、敵更生法を知る人々のイメージだった。

 

 ――今回の試験運転で、もし治崎が失敗すれば、八斎會の者達が失態を冒せば、海外における日本の立ち位置、友好国であるアメリカの心象に悪影響を及ぼす。クロウラーやジェントルの功績に泥を塗る事にもなる。

 それほどのリスクを負ってまでも、真は治崎達を推奨した。その理由は分からない。だが、治崎の助けを借りたい杳にとって、これは()()()()()()に他ならなかった。

 

「作戦に協力すれば、刑務所から出られます」

 

 杳は力を込め、治崎を見つめた。灰色の瞳と金色の瞳が束の間、拮抗する。やがて治崎の薄い唇が歪んで、弧を描いた。氷を削って創り出したような、冷たく侮蔑的な笑みだった。

 ――勝手に人の家に押しかけて夢も仲間も全てを壊し、今度は仮初めの自由を与えてやると来た。自分の兄弟を守る為にという身勝手な理由で。馬鹿げたマッチポンプ、はた迷惑な人間だ。

 

 治崎の憎悪心は杳だけでなく、()()にも向けられた。今度は更生敵という名称を押し付け、犬としてこき使うつもりなのだろう。そんなものに縋ってたまるか。治崎は鷹揚な動作で足を組み、杳を見下ろした。

 

()()か。仮にもヒーロー志望がやる事とは思えんな」

「……」

 

 治崎の言葉が突き刺さる。――”脅迫”。だが、その通りだ。杳は肩を落とし、俯いた。兄を救う為に、自分が逮捕した人間を()()()()()としているのだ。それも、命を賭けた危険な戦いに巻き込もうとしている。

 

 モンスターの形をしたカブトムシが、心の中で醜い鳴き声を上げた。――だが、それでも。かつて道に迷った時、自分の背中を押して”前に進め”と叫んだ()()が、杳の心を突き動かした。浮かんできた涙を乱暴に拭い、杳はきっと治崎を見据えた。

 

「そうです。ですがこれは、交渉でもある。治崎さんだけじゃない。嘘田さんや佐伯さん……他の皆m――ッ!」

 

 杳が佐伯の名を口にした途端、()()()()()()。パイプ椅子を蹴り倒し、アクリル板が壊れるのではないかと危ぶむ程に強く額を打ち付ける。

 

 間近で見るその端正な顔立ちは、全身が粟立つ程の凄まじい殺気に満ちていた。喉元に刃物を押し付けられているような緊張感と恐怖が、杳の脳を支配した。

 空気が粘つくように重くなり、息ができない。蛇に睨まれた蛙のように、杳はその場から動く事ができなかった。刑務官が治崎を取り押さえる寸前、地を這うように低い声が放たれ、杳の耳に突き刺さる。

 

「よく覚えておけ、(ヴィラン)。お前を殺すのは黒霧でもオール・フォー・ワンでもない。()()

 

 

 

 

 杳達が治崎を連れて海岸線へ戻った頃には、爆発までの残り時間は六時間を切っていた。心の準備をしたり、綿密な会議を重ね、他の方法を模索する時間の猶予はない。それすらも、オール・フォー・ワンの策略かもしれなかった。

 誰もが納得できず、もどかしい思いを抱えたまま、現状下で少しでも最悪を回避できるルートを消去法で選び取り、時間を飲み込んでいく。

 

 最寄りの港から小型フェリーへ搭乗し、一行は第二タルタロス予定地へ向かった。

 辺り一帯は乳白色の霧に囲まれており、時折、首の長いクレーン車やショベルカーなどが――まるで死者の国に棲む動物のように――不気味に佇んでいた。中心部では、骸骨のようなくさび式足場に囲まれて、新たな仕置き場が杳達を待ち受けていた。

 

 黒霧はもう移送が済んでいるとの事。相澤と塚内は最終会議の場へ足を運び、治崎は緊急召喚された真と共に別室へ向かった。

 杳はお別れの挨拶をする為に、人使とマイクの下へ向かった。杳を見つけた途端、マイクは人の心を勇気づけるようなスマイルを放ち、彼女の前に屈み込んだ。

 

Good luck(頑張れ)My dear HERO(ちびすけ)!自分を信じろ!」

「……ッ、はい!」

 

 朧に似た、燦々と輝くお日様みたいな笑顔と声。彼の存在に、杳はいつだって元気付けられてきた。

 

 ――ラジオであのメッセージを送ってから、マイクはどんな時も杳の味方になると決めていた。たとえどんなにハチャメチャな事を考えていても、肯定し続ける事が自分の責務であり、彼女の心の防波堤を保つ事になるのを自覚していたからだ。

 

 しかし、明るいヒーローを演じる一方で、マイクの心中は――無力な自身を責め、血涙を流していた。()()()()()が吹き荒れ、今の彼の心は正常心を保つのが難しいほどに荒れ狂っていた。だが、彼は歴戦のヒーローだ。それを律する事のできる心の強さを有している。

 

 本当ならば、自分が付いていきたかった。その願いを、笑顔の裏で握りつぶす。せめてもの償いとして、マイクは真と共に弁護のサポートをするつもりだった。

 マイクは思いっきり杳の頭を撫でた後、人使の背中を押し、その場を去って行った。気を遣ってくれたのだろう。

 

 廊下に二人以外の人気はない。冷たい灰色をした静寂のヴェールが辺り一帯を覆っていた。人使は俯いたまま、何も喋らない。――また怒らせてしまった。杳がそう思いつつ、居心地悪そうに身じろぎした途端、人使は彼女を乱暴に抱き寄せた。

 

 人使はわなわなと震える唇を開きかけ、閉じた。――()()()と言え。人使は自分の脳に命じた。あの時の二の舞を踏むな。脳裏に、杳が自分の傍を離れて敵連合と手を取り、知らない場所へ駆け去っていく状景がまざまざと思い浮かぶ。

 

 作戦が失敗した時、タルタロスは体内にいる()()()黒霧を殺す気だ。リセットボタンなんてないんだぞ。小さな温もりを潰れるほど強く抱き締める。敵になるどころじゃない、もう二度と会えなくなるかもしれない。諦めろと言え。行くなと言え。愛する者を喪う恐怖に駆られ、恥も外聞もなく叫んで縋ろうとした、その時――

 

 ――閉じた瞼の裏に、数時間前の記憶が色鮮やかに蘇った。燦然と輝くオールマイト像の前で、無数の希望の火が揺らめく湖畔に、杳がしゃがみ込んでいる。

 灰色の瞳には、とても()()()が満ちていた。彼女の持つランタンの上に自らの手を置いた瞬間、人使の目の前で、儚く揺らいでいたその光が、今にも零れ落ちそうな程に輝きを増していく。

 

 友人である前に、恋人である前に、白雲杳はヒーローだ。不安にさざめく心が凪ぎ、静かになる。()()()()()()()

 

 人使はゆっくりと腕の力を解き、杳を見つめた。表情筋にありったけの力を込め、いつも通りの仏頂面に戻る。それから、彼は何気ない口調でこう言った。

 

「来月の十五日、空いてるか?」

「……え?うん」

 

 杳はきょとんとして、人使を見つめ返した。タルタロスにいるとは思えない、まるで寮の自室にいるかのようなリラックスした雰囲気が、彼から漂っている。

 

「焦凍が家族で月見会するらしい。で、俺らも来いって」

「……エンデヴァーさん、いるかなぁ」

「そりゃいるだろ」

 

 どんなしがらみがあろうと、エンデヴァーは一家の大黒柱だ。無碍にはできまい。二人はまじまじと互いの顔を見つめ、小さく吹き出した。あの時は地獄としか思えなかったけれど、いや正直今も地獄だと思っているけれど、じっくりと思い返してみると、何故だか()()()()も感じる。

 

 杳は想像した。エンデヴァーに――縁側に置いた月見団子が()()()()になる位に――睨まれながらも、皆でお月見を楽しむ自分の姿を。きっとまたハチャメチャな展開になるのだろう。けれど、それも悪くないと思った。杳は涙を拭い、精一杯微笑んだ。

 

「絶対行く」

 

 その返事を聴いた人使は杳の肩を掴んで廊下の方へ向け、景気づけに背中をバシッと叩いた。つんのめってたたらを踏みつつ、杳が振り返ると、人使は優しい表情を浮かべている。ずっと人使の特等席に陣取ってきた杳だけが、ごくたまに見る事のできる――特別なスマイルだった。

 

「じゃ、待ってる。行ってこい」

「……ッ!行って、きます!」

 

 目に見えない追い風が吹いている。杳はそんな風に感じられた。マイナスな感情や未来は全部、その風が吹き飛ばしてくれた。杳は小さくガッツポーズをして、廊下の奥へ駆けていく。その姿が完全に消え去り、足音も聴こえなくなってから――人使は力任せに拳を壁に打ち付け、そのままズルズルと座り込んだ。

 

 

 

 

 第二タルタロス、B-10・独房にて。誘爆の危険性を鑑みて、室内には銃火器の類はない。部屋の中心には医療用ベッドが設置され、その上に黒霧が横たわり、眠っていた。周囲には大量の医療機器や電子機器がひしめき合い、業務用の冷却器(チラー)が放つ冷気が四方の壁を凍り付かせている。

 

 ――独房へ向かう直前、杳はヒーロー公安委員会直属のサポート会社から、特製のボディスーツを支給された。長時間に渡る細分化を補助する効果を有する他、生命維持に関する多彩な機能を持っているらしい。

 体に密着するデザインだが、素材の伸縮性も強いので、手先の不器用な杳でも着る事ができた。刑務官に促されて室内に入ると、スーツ越しに凄まじい冷気が杳を包み込んだ。

 

 内部は白い冷気でかすかに煙っている。ベッドの近くには、同じスーツを着た治崎の姿が見えた。個性の為なのか、彼の両手はグローブに覆われていない。

 杳は治崎の近くに歩み寄った。しかし、二人のパーソナルスペースが残り二メートルを切った瞬間、治崎はギロッとこちらを睨んだ。同時に、周囲で作業を続ける職員達が思わず震え上がる程の殺気を放つ。

 

「それ以上近寄るな。虫唾が走る」

「……すみません」

 

 まるで残飯を漁る害虫を見るような目を、治崎は杳に向けていた。しゅんとなって俯き、杳は一歩下がった。

 そうこうしている内に、今度は防護服を着た職員が近づいて来た。両手には、赤と緑色にぼんやりと輝く液体の入ったアンプルが一つずつ、載っている。

 

「アンチウイルスソフトウェアです。ウイルス本体に接触した時、起動してください。外部に解読できないよう置き換えました」

 

 アンチウイルスソフトウェアとは、コンピュータウイルスに対する()()()()の総称だ。

 検査対象のデータを自動的に解析し、ウイルスのような不審な振る舞いをするプログラムコードやウイルス特有のプログラムコードが含まれていれば、脅威として検出し、駆除を行う。職員は治崎に緑のアンプルを、杳に赤のアンプルを渡した。

 

「白雲さんの方には暗号化したデータを入れています。治崎さんに渡す事でデータが複合化され、ソフトウェアとして使用できます」

 

 暗号化とは、データの内容が当事者以外には解読できないように、文字や記号を“一定の約束”でほかの記号に置き換える事を言う。暗号化されたデータを元に戻し、読める状態に戻す事を復号化という。武器を持っている事を黒霧に悟られないよう、細工をしてくれたのだろう。

 

 アンプルに入っている液体は、アメリカで開発された()()()()の電子媒体で、経口摂取する事で体内に定着するのだと職員は説明した。対敵用の監視チップを応用したものらしい。

 素直に礼を言ってアンプルの液体を一飲みした杳と異なり、治崎は緑色に輝くアンプルをじっと眺めるだけだった。やがて彼は静かに呟く。

 

「これに組み込まれてる()()()()の説明は?」

 

 刹那、人の良さそうな職員の顔から一切の感情が剥ぎ取られ、能面のようになった。――治崎はアンプルを密かにオーバーホールし、内容を精査していたのだ。それには、もし作戦が失敗した時、宿主もろとも自爆するようにというプログラムが組み込まれていた。

 

 杳は凍り付いたようにその場に固まった。頑なに黙して応えない職員に興味が失せたのか、治崎はアンプルの上部を折り取り、液体を飲む。その事を確認するや否や、職員は元の人の良さそうな顔に戻り、説明を再開する。

 

「先程飲んでいただいた電子媒体に毒性はありません。約半日を掛けて体内を循環し、便と一緒に排出されます。もし出なければ、早急にご連絡を」

「治崎さんは緑色のうんc――」

「黙れ」

 

 なんとか場を和ませようとした杳の試みを、治崎がぴしゃんと跳ね返した。取りつく島もない。居心地悪そうに身じろぎする杳と治崎、黒霧を残し、職員は一礼してハッチの扉を閉めた。ガチャリという重々しい音と、ハッチが回されてロックの掛かる電子音が、杳の耳に残酷に反響する。

 

 だが、怖がっている暇などない。賽は投げられたのだ。今更引き返す事はできないし、そのつもりもない。杳はベッドの脇にしゃがみ込むと、黒霧の靄がかった手を掴み、額を押し当てた。

 ――絶対に助けるから。待っててね、お兄ちゃん。しばらく祈るような体勢でそうしていると、静かな声が降ってきた。

 

「救け出せたとして、罪まで消えるわけじゃない。今度は()()()()へ引き摺り込む事になる。……それでも、お前は行くのか」

 

 杳はゆっくりと顔を上げ、治崎を見上げた。治崎の瞳は拒絶とも憎悪とも違う、()()()()()()()を宿していた。杳の心中に、朧と過ごした数年間の記憶が星の煌めきのように瞬いて、消えていく。

 

 たとえどんな形でも、生きていてほしいと願うのは、死なないでほしいと願うのは、ワガママなのだろうか。

 

 塩辛くて熱い涙が流れ、まつ毛についた霜を溶かしていく。何が正しいのかも分からない。だが、足を止める事だけはできなかった。弱々しく泣いている杳の傍に寄ると、治崎は小さな溜息を零した。

 

「迷惑な話だ」

 

 治崎の手が近づき、少女の頬に触れる。今からオーバーホールの個性を用いて杳の体に()()()、身を隠すのだ。

 作戦の一つであるとは言え、潔癖症の治崎には筆舌に尽くしがたい拷問の筈だが、何故か彼は――その事をそれほど不快には思わなかった。そしてそれを一番不審がっているのは、他ならぬ彼自身だった。

 

 やはり、触れても蕁麻疹が出ない。訝しむ治崎の鼻腔を、優しい花の香りが掠めた。彼は頭を振り、雑念を追い払う。余計な事を考えるな。相手はあの()()だ。どんな理由があるにせよ、明確な拒絶反応が出ないのは好都合。

 

「まぁ、俺には関係ない。精々利用させてもらう」

 

 次の瞬間、治崎の体は杳の中に溶け込むようにして消えた。――誰も味方はいない。だけれども、多くの人を巻き込んだ。杳は涙を拭いて、立ち上がる。兄を救う事だけを考えろ。他は何も考えるな。杳は胸に手を当てて、自らの体を()()()()()

 

 結集してキューブ型になり、空中に浮遊する水分子の群れを擦り抜け、量子の塊と化した杳は黒霧の体内へ侵入する。ヘリウムの森を抜け、皮膚の組織の隙間を掻い潜り、血流の流れに乗って、神経が織り成す複雑な森を掻き分け、さらにその奥へと――

 

 

 

 

 B-10・独房の外では。監視と対策をロボットに任せ、人々は撤収を始めていた。だが、相澤は人使をフェリーに載せた後、独房に戻った。分厚いガラス壁の前に立ち、内部の様子に目を凝らす。黒霧の他には誰もいない。もう二人は体内への侵入を果たしたのだろう。

 やがて扉が開き、大きなカメラアイを搭載したロボットが滑り込んできた。スピーカーから、職員の音声が響く。

 

『イレイザーヘッド。危険です。撤退を』

「万が一の場合、()()()で被害を最小限に食い止められます」

 

 相澤はロボットの方を振り向きもせず、静かにそう応えた。警察が想定しているのは、あくまで()()()()の被害だ。考えたくもない事だが、もし杳が洗脳される等して爆薬以上の脅威が発生した時――消失の個性で被害を抑える事ができる。

 だが、それは相澤が共に死ぬという事を意味する。職員は追いすがり、言い募った。

 

「あなたの個性は希少です。社会の為に、どうか懸命な判断を」

「ヒーローである前に、私は白雲杳の担任教師です」

 

 静かで、揺るぎない声だった。相澤は振り返り、ロボットの目を見つめる。

 ――元からこうするつもりだった。生徒より希少なものなど、この世に在りはしない。だが、その大切な存在を、自分は戦場へ行かせた。あまりの不甲斐なさに視野が真っ赤に染まり、振動する。朧と過ごした思い出が心をかき乱し、激情のままに走り出そうとする体を、秩序の鎖がギチギチと縛り付ける。

 

「そーゆーこった。Get out of here(どっか行ってくれ)!」

 

 突然、聴き慣れた騒がしい声が飛んできて、相澤はハッと我に返った。()()()がロボットを押し出してドアの外へ放り出し、鍵を閉めている。それから彼は当然のように相澤の隣に立った。相澤は唖然として口を開く。

 

「……なんでいる」 

「ハァアアン?!それ、マジで言ってんのか?」

 

 マイクはアメリカナイズなオーバーリアクションで突っかかる。空気読めよと言わんばかりに顔を歪めた相澤を睨むと、マイクは一気に言い切った。

 

「白雲bro'sが帰ってきた時に()()()()いたら、俺の印象めっちゃ悪くなんだろーが!」

 

 あんまりな動機(アリバイ)に相澤はたまらず、軽く吹き出した。そしてガラスの壁に向き直り、腕を組む。

 

「それだけかよ」

「それだけだ」

 

 二人の旧友が命を賭して見守る中、黒霧を構成する靄の一部が、少しずつ動き始めた。




ひたすらややこしい感じになってすみません…。
皆の気持ちをまとめると、

・杳:兄を救いたい/社会の為、暫定敵である自分を利用して下さい
・治崎:組の再興の為、杳を利用する
・人使:行かせたくない/ヒーローとして行かせる
・相澤・マイク:行かせたくない/ヒーローとして行かせる/朧を救ってほしい
・塚内警部:行かせたくない/上部に逆らえない・これしか方法がない
・真:杳を信じてる
・上層部の人々:秩序を守る為、敵連合の情報を得る為、杳と治崎を利用する

上記のようになってます。
治崎の実質的な被害の話は、倫理学の授業で『飯田君が杳を止めた』シーンの答えになります。誰もが優しい気持ちでいられるわけがない、治崎と同じように人命を弄ぶために個性を使う者もいるんだという。それでも真が治崎達を更生敵に推薦したのは、後々の展開でも書きますが、真が彼らを信じているからです。
本当にややこしくてすみません…。分かりづらい所があれば修正致しますので、ご一報いただけますと幸いです。




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No.63 フェーズⅠ

【No.62のあらすじ】
杳は真の助けを借り、治崎と一緒に戦ってもらう事に。黒霧の体内に侵入を果たすが…。

※ご注意:残酷な表現、暴言、暴力表現、倫理を問われるような描写、グロテスクシーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳は黒霧の体内を飛翔し、電子頭脳に繋がる入口を探した。内部の世界はほとんどの細胞が壊死しているか、機能停止している為に()()()で、固形化したヘリウムが紫色の燐光を放ち、砕けた隕石のようにひしめき合っていた。

 

 万が一にもぶつからないように、杳は細心の注意を払って飛んだ。――あの全てが爆発したら。そう思うだけでゾッとする。辺りを照らすのはヘリウムの光と、神経系に情報とエネルギーを伝達する()()の輝きだけだ。杳は壊死した細胞の一つを蹴り、猛スピードで飛翔する電子の群れに追いついた。

 

 ――神経は()()()()している。杳は青と黄色に光る電子の一つを掴んだ。電子の群れは杳を載せたまま一列に連なり、急上昇する。

 

 にわかに周囲の景色が明るくなってきた。世界が淡い寒色(ブルー)に色付き、0と1の数字の群れが、頭上をオーロラのように棚引いていく。前方に目を凝らすと数百メートル程先に、白く眩い輝きを放つリングが見えた。

 あのゲートが電子頭脳の入り口だ。真っ白い光に包まれて、杳は思わず目を閉ざした。

 

 

 

 

 気が付くと、杳は()()()()()()に立っていた。天上には乱層雲が広がり、そこから雪がしんしんと降っている。――電子頭脳が創った仮想世界(サイバースペース)だろう。

 

 周囲を見回すと、広大な雪原の向こうに、大きく高い壁がそびえ立っていた。近づいて上方を見上げたが、壁の先は靄に埋もれていて、途方もない高さがある事が推測出来た。壁は非常に強固で取っ掛かりもなく、登る事もできない。まるで壁の外と内とで、この世界を二つに分断しているようだった。

 

 おっかなびっくり壁に触れると、不意にその表面が真っ赤に光り輝いた。同時に、涼やかな女性の声が響き渡る。

 

『不正なアクセスを認めました。管理者(スーパーユーザー)の認証が必要です』

 

 ――”管理者”、自分の事だ。杳は職員に教えられた通りにグローブを取ると、壁に手をグッと押し当てた。

 

『……承認しました』

 

 刹那、目の前の壁に無数の亀裂が走り、()()()に変わった。局地的なホワイトアウトが発生し、杳は身を伏せて嵐に耐える。

 

 やがて嵐が過ぎ去った後、そこには――荘厳な造りの()()がひっそりと佇んでいた。城の全ては、青白い燐光を放つ()で構成されている。遠目にも分かる程に美しいその城は、同時に得体の知れない不気味さを醸し出していた。

 降り続く雪の音と自分が立てる物音以外、何も聴こえない。それでも杳は歩き続け、細かな意匠の施された正面玄関の扉を開いた。

 

 

 

 

 中に入ると、見渡す限りに広大な大広間(グレートホール)が、杳を待っていた。凍り付いた調度品の数々が来客者を出迎える。五感を総動員して周囲に気を配るが、人の気配は感じられない。

 

 大きな円を描いたデザインの部屋には、階段があった。それは壁を沿うようにして上昇し、遥か頭上に設けられた踊り場に繋がっている。杳は踊り場に目を凝らして、大きく息を飲んだ。

 

 ――踊り場に()が立ち、こちらを見下ろしている。目が合った瞬間、彼は手摺りから体を離し、戸惑うように数歩、退いた。

 

「お兄ちゃん!」

 

 杳は夢中で階段を駆け上って、朧の腕の中に飛び込んだ。しかし、朧は杳の肩を掴んで無理矢理引き剥がし、彼女が思わず跳び上がる程の怒声を放った。

 

「なんで来た!」

「お、お兄ちゃんを救けたくて……ッ」

 

 杳の目の前で、怒りに燃えていた朧の顔が、くしゃりと歪む。朧は杳を抱き寄せ、そのまま床にへたり込んだ。

 

 ――今まで我慢してきた想いが一気に込み上げて来て、杳は咽び泣きながら兄に縋りついた。子犬が母親に甘えるように兄の胸に顔を埋め、匂いを嗅ぐ。小さな頃、よくそうしていたように。

 

 だが、どれほど感覚器官を働かせても――兄の匂いはせず――薬品と血の匂いがするばかりだった。その事実が、杳の心をズタズタに引き裂いた。オール・フォー・ワンの下で兄が受けた仕打ちを想い、杳の瞳から熱い涙が零れ落ちる。杳は兄にしがみ付き、決意と共に言葉を押し出した。

 

「お兄ちゃん。一緒にウイルスを倒して、お家に帰ろう」

「……無理だ」

 

 朧の声は震えていた。その弱々しい声が、オール・フォー・ワンがいかに凶悪で逃れようのない存在であるかという事を如実に物語っていた。杳は小さな腕を広げ、朧を強く抱き締めた。――自分の中にある勇気と希望が、少しでも伝わるように。

 

「もう逃げられない。罠だったんだ」

「大丈夫だよ!絶対に助ける!」

 

 朧はするりと腕を解き、首を横に振った。杳の大好きな空色の瞳には、悲哀と絶望の感情がぎっしりと詰め込まれている。こんなに哀しい顔をした兄を、杳は生まれて初めて見た。やがてその目から溢れ出した涙を拭い、杳は兄の額に自分の額をくっ付けた。――それは小さな頃、杳が泣くと兄が”涙が止まるおまじない”だと言ってしてくれていた事だった。だが、それでも彼の涙は止まらない。

 

「大勢の人を傷つけ、殺した。帰る場所なんて……もうどこにもない」

(今度は違う地獄へ引き摺り込む事になる)

 

 治崎の言葉が、耳朶を打つ。あまりの残酷さに打ちのめされ、杳は苦痛に喘いだ。

 ――兄は誰よりもヒーローだった。後悔しても意味のない事だとは分かっている。時は巻いて戻せない。だが、何故、彼がこんな仕打ちを受けなければならなかったのか。悔しくて悲しくて、だけどどうする事もできなくて、杳は歯を食い縛り、咽び泣いた。

 

 朧は妹の背中をあやすように撫で、空いた手でスーツの表皮に触れた。指先を擦ると0と1の数字が輝きながら現れて、空中を舞い踊る。それを見るなり朧は眉間にしわを寄せ、荒々しい声で唸りを上げた。

 

「お前のスーツは爆発の衝撃を和らげる為に創られた。チップにも自壊機能が搭載されてる。俺達を助ける気なんて、(はな)からないって事だ」

 

 杳の救出劇にかける上層部の期待値は、地を這う程に低かった。焼けた石に落とされた数滴の水に等しい。そもそもそれを仕掛けたのも、上層部が他の方法を見つける事ができないように仕組んだのも、オール・フォー・ワンの方なのに――朧はその事は伏せ、杳が上層部にだけ不信感を抱くように誘導した。

 だが、杳がその事に気付く前に、朧は彼女の肩を抱き、そっとその顔を覗き込む。小さな頃、杳によくそうしたように。

 

「こんな世界、守る価値なんてないだろ?一緒に(ヴィラン)になって、全部壊そう。……大丈夫だ。兄ちゃんが傍にいる」

 

 朧は陽だまりのように優しい笑みを浮かべ、妹の返事を待った。――ずっと焦がれていた声が、杳の鼓膜に甘く切なく、染み渡っていく。

 だが、その声が発する言葉は、兄が発したものとは思えない程に()()()()()だった。その残酷な事実を受け止め切れず、杳は気が遠くなる。

 

 刹那、腰の辺りで軽い金属音がした。目線を下げると、ボロボロのキーホルダーが揺れている。その彩りと音で、杳は我に返った。断腸の思いで立ち上がり、朧から距離を取る。それから首を横に振り、泣き濡れた目で彼を見下ろした。

 

「本物じゃない。本物のお兄ちゃんは……そんなこと、言わない」

 

 朧は目を丸くして、”本物?”と唇の動きだけで問いかけた。そして冷たくせせら笑う。こんなに意地悪な笑い方を、杳は今までの人生で見た事がなかった。

 

「それはお前の妄想の話だろ?十三年前の記憶で止まってる……心の中で()()()思ってる俺だ。()()()()()の俺の事なんて知るわけない。……そりゃそうだよな?!だってお前は、探しもしなかったんだから」

「……ッ、ち、ちが……」

 

 朧の言葉は杳の心に深々と突き立ち、白熱した刃のように焦がせて、燃え上がらせた。――理性が、ヒーローとしての決意が、ボロボロと焼け落ちていく。杳の罪悪感をさらに刺激するように、朧はますます大粒の涙を流し、両手で頭を抱えた。

 

「辛かったよ。痛くて、苦しかった……ッ!だけど、どれだけ叫んでも……誰も、救けてくれなかった」

 

 杳は声にならない声を上げて、朧を抱き締めた。小さな温もりに包まれて、彼は歪んだ笑みを浮かべる。

 

 次の瞬間、朧の背部が音もなく()()()()。背中の皮膚が破け、筋肉が内側から盛り上がり、巨大な触手が鎌首をもたげる。その先端には、鋭い爪の代わりに――注射針がぞろりと付いていた。獲物に狙いを定める蛇のようにゆらりと動き、泣き濡れる杳に喰らい尽こうとした、その時――

 

「とんだ茶番だ」

 

 ――杳の視界が()()()()()()()()。冷たい血飛沫が降りかかる寸前、誰かに突き飛ばされ、杳は冷たい氷の床をバウンドしながら転がった。壁にぶつかる寸前、体勢を整えて着地する。

 

 呆れたような声の主は、治崎だった。彼の前には()()()()があり、朧の姿はどこにもない。反射的に駆け出そうとした杳の足が、ピタッと止まる。

 血溜まりはアメーバのように不気味に蠢いて、人の形に戻りつつあった。――明らかに兄の個性ではない。治崎は戦闘体勢を取り、血溜まりから目を離さぬまま、何かを杳に放り投げた。

 

()()自動処理(マクロ)化しておいた。トリガーを引く事で複合する」

 

 それは、機械仕掛けの注射器(シリンダー)だった。中のアンプルでは、緑と赤に光る液体が螺旋(スパイラル)を描いている。

 治崎は杳が朧と話している間にデータを拝借し、自らの複合化データと合わせ、再構築していた。その際、見るからに機械関係に疎そうな杳の為に、複合化に至るまでの手順を可能な限り省いてくれていた。

 

 杳がスーツのポケットに注射器を仕舞い込んだのを見届けると、治崎は部屋の奥にあるドアを顎で指した。

 

「先に行け」

「でも、治崎さんが――」

「杳。”お家に入ったら()()は脱げ”って、教えただろ?」

 

 ゾッとするほど冷徹な声が、室内に響き渡る。朧が元の姿を取り戻していた。頬に残った血飛沫を舐め取ると、好戦的な笑みを湛えて治崎を見やる。

 

 空気の糸がビリッと震え、張り詰めた。――やはり侵入した時点でバレていたか。治崎は顎を撫で、思考を張り巡らせた。さっきの芝居も、杳をだしに自分を引き摺り出す魂胆だったのだろう。

 

 ちらりと杳を視界の端に収めると、彼女はまだ泣きそうな表情で固まっていた。こんな覚悟の欠片もないガキに、俺はしてやられたのか。強烈な苛立ちの感情が体の底から湧き立ったが、それに身を委ねている時間はない。治崎は怒気を含んだ声を投げつけた。

 

「行け。こいつの目的は俺だ」

「そーゆーこった。大人しく吊られてろよ、()()()ちゃん」

 

 朧は嘲り笑い、指をパチンと鳴らした。たちまち氷の床から雪山がいくつも隆起して、力強い腕や触手で内部を割り砕きながら、()()()()()が現れた。反射的に雲化した杳を、ポケットの重みがたしなめる。――やるべきことを。

 

 治崎はすぐさま床に触れる事で氷の壁や床を分解・再構築(オーバーホール)し、応戦し始めた。大広間全体が凄まじい地響きを立てて揺れ、砕けた氷の欠片が(ひょう)のように降り注ぐ中を、杳は夢中でひた走った。扉の前まで到達し、ドアノブに手を掛ける。

 

 その時、凄まじい断末魔が空気を切り裂いて、杳の耳に突き刺さった。――()()()()だ。思わず耳を塞ぎたくなる程に痛ましいものだった。

 

 振り返ると、治崎が創り出した氷の槍に胴体を貫かれ、朧が苦しそうに身を捩っている。酸素を取り入れる為に大きく開けた口から、噴水のように大量の血が吹き出した。

 ――頭では分かっていた。自分が成すべき事も、果たさなければならない使命も。だが、体は止める事ができず、杳は操られるように走り出した。

 

 

 

 

 刹那、目の前を()()()()()()が塞いだ。治崎がとっさに展開した雪の壁が、大広間を二つに分断していた。朧の悲鳴が突如、途絶える。杳が量子化して通り抜けようと力を込めた時、壁の向こうから、静かな声が降ってきた。

 

「……お前が気を失った後の事だ」

 

 治崎の声だ。ゆっくりとして、彼にしては高く、いつも以上に抑揚がなく、語尾がかすかに震えていた。

 

「親父に、殴り飛ばされて……瓦礫の上を転がった」

 

 話を聴いている内に、杳は気付いた。――治崎と戦い、戦闘不能になった後の事だ。自分の代わりに佐伯が戦ってくれたのを何となく覚えている。だが、何故今その時の事を話すんだ?杳は全身全霊を傾け、続きを聴く事に集中した。

 

「朝日が昇って……親父が、頭を撫でた。……その時、俺は……救われたと思った」

 

 その言葉を脳が理解した時、鼻の奥がツンとして、新たな涙が零れ落ちた。――この瞬間に感じたものを、杳は明確な言葉に表す事ができなかった。目に見えない追い風がまた吹いて、杳の髪をふわりと舞い上げる。

 やがて壁の向こうがギシギシと軋んだ音を立て始めた。大広間全体が再び、振動する。治崎が拘束している朧や脳無達が、抵抗を始めたのだろう。

 

「行け、ヒーロー。お前のしている事は間違いじゃない。救けたい奴が、この先にいるんだろう」

 

 杳は頷くと、踵を返してドアを開き、駆け去った。その足音が完全に消え去った後――治崎の目の前で、朧が盛大に吹き出した。ついさっきまで血を吐いて苦しそうに喘いでいたのに、今はケロリとしている。槍が深々と貫通している腹を抱え、彼はケラケラと笑い続けた。

 

()()()()()()!」

「子供騙しにゃ充分だろ」

 

 二人の(ヴィラン)は悪辣に笑い、対峙する。朧が口元の笑みを深めた瞬間、その全身は肥大化した。その勢いに耐え切れず、氷の槍は砕け散る。

 体じゅうに空いた無数の穴がみるみるうちに肉組織で埋まり、再生していく。両腕が肩口から大きく膨れ上がると共に破裂し、中から不気味な粘液を引いた黒い腕が姿を現した。

 

 血管が異様に浮き出ていて、鋭い爪が光っている。――好青年然とした朧の外見に、その醜悪な腕は不釣り合いだった。朧の周りに、拘束を解いた脳無の軍勢が集結する。その一体に気安い感じで寄りかかると、朧は首を傾げた。

 

「……()()か?」

 

 長い沈黙があった。治崎は静かに腰を落とし、返事にも相当しない――ただの音を放り出す。

 

「さあな」

 

 

 

 

 永遠に続くかと思うような廊下をひた走り、突き当りにあった階段を駆け上がると、杳は大きな部屋に到達した。丸みを帯びた天井以外、室内には何もない。内部に一歩足を踏み入れた途端、頭上が真っ白に輝いた。数秒後、それは大型スクリーンのように()()()()()を映し出す。

 

(想像すればいいと思います)

 

 聞き覚えのある声が空間に反響した。――()()()()だ。学び舎の教室で、手を挙げて席を立ち、発言する自分の姿が投影されている。

 

(皆が他人の気持ちを想像して……許し合う事ができれば、心の痛みを鎮める事ができれば、その人はもう犯罪を冒さなくなると思う)

 

 次の瞬間、映像はパッと消え、元の白い天井に戻った。声だけが四方の壁に跳ね返って、不気味なリフレインを残し続ける。

 

 ふと視界の端を黒いものが掠めた。()()()()()だ。それは低く唸るような羽音を立てて飛び、やがて奥の壁に留まった。用心深く近づいてみると――そこには()があった。耳を澄ませると、中から声がする。杳は扉にくっつき、耳を押し当てた。

 

(カァイイねえ。もっとボロボロになったら、もっとカァイイよ)

(やめてくれっ……やめっ……ぎゃああああっ!!)

 

 刃物が唸る音と肉を断つ音、男の断末魔、血飛沫の上がる音が、ドアを突き抜け、凄惨なハーモニーを奏でる。杳は息を飲んで、飛び退いた。――先程の映像と目の前を這い回るカブトムシ、今の音で、何となく察しがついた。これは、トガが犯した罪とその犠牲になった者達の記憶だ。

 

 杳は確かに敵を許したいと思っている。だが、あくまで彼女が知るのは罪状だけだ。文字の連なりと、()()()()()()()は違う。事実は想像よりももっと悲惨で、悍ましいものだ。――見たくない、知りたくない。杳は先へ進む事を本能的に拒み、じりじりと後退った。

 

 その時、誰かの嘲笑う声がどこかから聴こえた。君の想っている事は所詮(しょせん)、ただの綺麗事なのだと揶揄うように。

 

 杳は自らを奮い立たせ、頬を叩いた。立ち止まっている時間なんてないだろう。ドアノブを回して扉を開けると、中から腐臭のする暗闇が噴き出して、彼女を包み込んだ。

 

 

 

 

 次の瞬間、杳の精神はトガに()()した。全身を()()()()()()()が突き抜ける。人を甚振(いたぶ)って殺す事が、たまらなく楽しいと感じる。杳は逃げ回る男を追い詰めた。――楽しかった。怯える男に接近し、左肩口を深々と刺した。悲鳴を上げて身を捩る男を、地面に蹴り飛ばす。

 

 赤くて、ボロボロで、なんて綺麗なんだ。杳は歓喜に溢れた表情で、衝動が突き動かすままに、ナイフを何度も振り下ろした。すごい。刺す度に――宝石が研磨されて輝きを放つように――ますます綺麗になっていく。感極まった目から、涙が零れ落ちた。

 

 興奮して激しく息を荒げながらも、グチャグチャになった肉塊を見下ろした時――杳は、今度は()()()の精神に同期した。

 

 ならず者ではあったかもしれない。だが、彼には内縁の妻と子供がいた。ナイフが自分の体に食い込んでくる痛苦。トガが刃物を捩じって回すと、痛覚が最大限に刺激され、脳を一斉に痛めつけた。あまりの激痛に気を失う事すらできない。拷問のように全身を苛まれ、杳は血反吐を吐いて暴れ回った。

 

 ――痛い!痛い!誰か、救けてくれ!懸命に伸ばした手を掴み、皮膚に伝う血を美味しそうに舐め、トガがうっそりと笑う。脳髄が痺れる程の恐怖心が、全身を支配した。

 

 やがて男が息絶えると共に、杳は()()()()に弾き出された。トガが馬乗りになった男のポケットから、子供の為に買った小さなミニカーが零れ落ちて、血溜まりに着水する。

 

「――ッ、……!」

 

 杳は声にならない悲鳴を上げ、芋虫のように床をのたうち回って、何度も吐いた。吐瀉物の中に()()()()が蠢いている。それは、秩序で雁字搦めにされ、換気も(まま)ならなくなった世界の底が淀み、腐り切った事で生まれた――()()()()()だった。

 

 他人の心を理解できないからこそ、人は寄り添い合い、生きていけるのかもしれなかった。その事をまざまざと思い知った杳の脳裏に、トガがかつて見せてくれた――屈託のない笑顔が蘇る。命を賭けて、自分を救ってくれた記憶も。

 

 杳はよろめきながら、立ち上がった。ガクガクと震える足で一歩を踏み出すと、杳はまたトガと同期した。そうして、トガの犯した罪と怨嗟を全て飲み込んだ頃には、杳の目の下に消えようのない隈が刻まれていた。

 

―――――――――

 

――――――

 

――― 

 

 それから、どれほどの時間が経っただろう。この部屋には、敵連合の人々が犯した罪の記憶が、ぎっしりと詰め込まれていた。

 

 トゥワイスは銀行を襲い、勇敢に立ち向かった銀行員を殴り殺した。彼には愛する家族と犬、ローンの残ったマイホームがあった。荼毘は何人もの敵を生きたまま焼き殺した。あまりの熱さに泣き叫び、命乞いをする者もいた。

 

 コンプレスは警察官を玉に封じ込め、ビルの屋上から放り投げると、解除した。スピナーは怪我をして動けないヒーローに鉛弾を撃ち込み、とどめを刺した。マグネは立ち向かうヒーローや警察官の頸椎を折り、命を散らした。

 

 ――他人の心に同期するというのは、常人なら精神に異常をきたす程に辛く、拷問に等しい行為だ。それが心的外傷(トラウマ)に繋がりかねない()()()()()なら、尚更。

 

 しかし、杳の心はまだ一線を保っていた。”兄を救う”というたった一つの想いだけが、ある種の狂気とも、信念や強迫観念とも言えるその執着が――いわば最期の防壁となり、外の攻撃を跳ね返し続けていた。ただ、その内部は採り尽された鉱山のように穴だらけで、空虚だった。

 

 ”何故、殺さなければならなかったのか。そして、殺し続けなければならないのか”。その疑問だけが、がらんどうな世界を木枯らしのようにずっと吹き荒れている。けれど、どれほどに考えても、答えは出なかった。

 

 やがて、ぼんやりと歩き続ける杳の耳を、低く穏やかな声が撫でた。

 

(これ以上は時間の無駄です。効率よく行きましょう)

 

 ――部屋の最深部に用意されていたのは、()()の罪の記憶だった。

 

 ワープゲートが展開されたのか、無数のヘリウム粒子がぶつかり合い、空気が大きく揺らぐ音がする。大勢の人々が逃げ惑い、泣き叫び、断末魔を上げる。数秒後、血飛沫の飛び散る音と、切断された肉塊がボタボタと垂れ落ちる音が周囲に満ちた。

 杳の心を守っていた最期の要塞が砕け散り、儚くも崩れ去っていく。

 

「……ッ、いやだあああっ!!見たくない!!見たくないいいっ!!」

 

 恥も外聞もなく、杳は涙を散らして泣き叫んだ。兄が喜んで人を殺し、痛めつけている光景を見る位なら、死んだ方がマシだ。杳は狂ったように(かぶり)を振り、踵を返して逃げ出そうとした。

 

 その瞬間、()()にぶつかって、杳は数歩よろめいた。杳はすぐさま顔を上げ、茫然とした。――()()()()だった。

 

 精神状態が異常をきたした事で見える、幻覚だ。もう一人の自分は青ざめた顔を苛烈に歪め、こちらを睨んでいる。わなわなと怒りに震える唇を開き、彼女は大音声で叫んだ。

 

「お前が決めたんだ。――行け!!」

 

 自分自身に蹴り飛ばされ、杳は部屋の奥へ吹っ飛ばされた。長く尾を引くような悲鳴を残し、杳は血と恐怖の薫る残酷な黒い靄の中に蹂躙され、やがて意識を失った。

 

 

 

 

 しんと不気味に静まり返った氷の城、最上階に繋がるドアがゆっくりと開いた。小さな少女が中から(まろ)び出て、仰向けに倒れ込む。

 

 陸に上がった魚のように痙攣し、弱々しい呼吸を繰り返す少女に向け、惜しみない()()()()()()()。廊下の奥から一人の男が歩いて来て、傍にしゃがみ込む。均整の取れた体格を上質なスーツで包んだ、美丈夫だった。彼は芝居がかった動作で両手を広げると、朗々とした声で宣言する。

 

「おめでとう。よく頑張った。これで君は……”君の理想とするヒーロー”になったんだ!」

 

 杳は鉛のように重たい瞼をこじ開け、男を見た。――年の頃は三十代前半程だろうか。高い鼻と整った鼻筋が、顔の彫りをより深く見せていた。その容姿は誰が見ても、非の打ち所がないほどに凛々しく美しい。

 だが、杳の優れた知覚能力は、その男が内包している()()()()()()()を感じ取った。彼女は苦しそうに顔を歪め、げぽりと透明な胃液を吐く。

 

「おいおい、人の顔を見るなり吐くのは失礼ってものだろう?」

 

 オール・フォー・ワンは軽く吹き出し、肩を竦めた。それからゆっくりと屈み込み、杳の目に刻まれた隈を、親指の腹でそっとなぞる。

 

「可哀想に。この隈は消えないな」

 

 優しい労りに満ちた声が、杳の鼓膜に赤外線のように沁み渡った。オール・フォー・ワンは指を滑らせ、少女の頬を這い回る()を摘まんだ。それを掲げて、何かを確認しているかのようにじっと目を凝らす。やがて口角を上げて蛆をすり潰すと、彼は杳をひょいと抱き上げ、廊下の奥に向かって歩き始めた。

 

「……おいで。話をしよう」




敵と被害者双方に寄り添うヒーローってこういう事だよな…と思いながら書きました。そりゃしんどいぜ…っていう。
次回からやっとオールフォーワン戦です。あと3話くらいで終わるかな。長かったぜホントに( ;∀;)


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No.64 フェーズⅡ

【No.63のあらすじ】
杳と治崎と共に、黒霧の体内へ侵入する。仮想世界に降り立った杳は、氷の城で朧のニセモノと邂逅した。治崎は彼と戦闘を開始する。一方、杳は城の奥へ進んでいく過程で力尽き、倒れてしまう。そこへオールフォーワンがやって来て…。

※ご注意:作中に残酷な表現、暴言、倫理を問われるような描写、グロテスクシーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。


 オール・フォー・ワンに抱かれた瞬間、杳は意識を手放しそうになった。大量のセンサーや分厚いガラス越しではなく()()()()()事で、世界の頂点に君臨できる程の()()を彼が有している――という事実を実感したからだ。

 

 鉛のように重たい瞼を何とかこじ開けると、こちらを見下ろしている彼と目が合った。杳を安心させるように柔らかく微笑む。その笑顔は異様なまでに美しく、そして優しかった。

 

 圧倒的な強者が創る()()()は、世界中のどんな場所よりも安全で心地良く感じられた。疲弊し切った脳に、蜂蜜のように甘くどろりとした眠気が覆い被さってくる。それでも杳が眠る事ができなかったのは、彼の内側から――隠しきれない悪意が滲み出ていたからだ。

 

 不可視のそれは有害な光線のように杳の肌に突き刺さり、心の傷を刺激する。良くも悪くもそのおかげで、彼女はなんとか意識を保つ事ができていた。

 

 

 

 

 やがて、二人は廊下の突き当たりにある――宏大な造りのドローイング・ルームへ到達した。そこは優美かつ典雅な空間で、半球状にくり抜かれた格好の丸天井には、精緻な天井画が彫り込まれている。丸い壁の周りには大きな窓がいくつかあり、ドレープの掛かった氷のカーテンが下がっていた。

 

 重厚感のある調度品に囲まれるようにして、立派なダイニングテーブルが中央に据えられている。テーブルの両端には、大きな肘掛け椅子が二脚、並んでいた。

 

 オール・フォー・ワンはその一つに杳を座らせようとした。だが、彼女はもう逃げ出す力どころか、座る力すらなかった。小さな体は意志に反して――支えのない朝顔のように――逞しい腕にくたくたとしなだれかかる。その様子を見るなり、彼は小さく吹き出した。

 

「ハハ。仕方ないな。……ほら、おいで」

 

 その声は耳で聞いているはずなのに、内臓にまで染み渡った。彼は再び少女を抱き上げて自分の膝に載せ、ゆったりと椅子に腰かけた。時折、赤子をあやすように膝を軽く揺らし、杳の頭を優しく撫でる。たったそれだけで、彼女の心は深い陶酔に堕ちていった。

 

 ――()()()()()()()。彼は敵、全ての元凶だ。このまま呑まれてはダメだ、戦わなければ。杳は今にも蕩けてなくなりそうな意識にムチを打ち、両手を彼に見つからないように隠した。それから震える右手で左手の小指を掴み、躊躇う事なく()()()()()

 

「……ッ」

 

 乱暴な手段ではあったかもしれない。だが、効果はあった。知覚能力を総動員して痛みを全身に行き渡らせ、陶酔状態からの覚醒を試みる。やがてピントの合わない眼鏡越しのように――ぼやけていた視界が徐々にはっきりとし始めた。そうしてなんとか平静を取り戻した後、彼女は状況把握を開始する。

 

 目の前には、白い冷気を纏った()()の数々が――優美な氷の器に盛り付けられて――テーブル上に所狭しと並んでいた。ナッツやレーズンがふんだんに入ったアイスクリームや柑橘の皮が散りばめられたシャーベット、色とりどりのジェラート、凍らせた苺……etc.杳が今まで見た事のない位、手の込んだものばかりだ。

 

 その時、頭上から何かを嚥下する音が聴こえてきた。見上げると、オール・フォー・ワンが氷製のゴブレットに入ったシェリー酒を飲んでいる。視線が合うと、彼は空になったゴブレットを振り、上品に微笑んだ。

 

食前酒(アペリティフ)だよ。君にはまだ早いかな」

 

 どうやら彼は、一緒に食事を摂るつもりのようだった。杳の体をヌイグルミのように抱え直した後、彼はテーブル上に手を広げる。

 

「食べながら話そう。……沢山動いてお腹が空いただろ?」

 

 確かに杳は氷菓が好きだ。だが、ここでのんびりと食事をしている時間はない。

 

 ――恐らく、オール・フォー・ワンの形をしている彼こそが、黒霧の電子頭脳を侵している()()()()なのだろう。こうしている間にも、刻一刻と黒霧の命は削られているのだ。自分がするべき事は話し合うか、戦う事だけ。

 杳は折れた小指をますます捻じ曲げ、痛みに脂汗を垂らしながら、ゆっくりと首を横に振った。

 

 彼は特段気分を害した様子もなく、テーブル上のスプーンを手に取った。アイスクリームを一さじ掬い取り、少女の口元へ運ぶ。杳は口をへの字に曲げ、顔を背けた。同時に空いた手でポケットを探る。

 

 刹那、腐ったような生臭さが杳の鼻腔を刺激した。反射的に向き直り、戦慄する。――スプーン上にあるそれは氷菓ではない。薄く霜の張った()()()()()だった。

 

「……ッ?!」

 

 パチパチと瞬きすると、テーブル上に並んだ全ての料理は氷菓から、()()()()()へ変化した。美しい氷の器の上で臓物がとぐろを巻き、大小様々な大きさの目玉がうず高く積まれ、一口大に切られた人肉は不気味な輝きを放っている。それらは全て腐り、蛆が(たか)っていた。

 

 凄まじい嘔吐感が駆け巡り、杳は反射的に口を押え、嘔吐(えず)いた。悍ましいのに目を離す事ができない。やがて狂気の料理を透過して、薄らと()()が見え始めた。聴くに堪えない痛苦の悲鳴も。

 

 それは、料理の形に擬態したオール・フォー・ワンの罪の記憶、そして彼が今までに傷つけ、狂わせ、殺めてきた――無数の犠牲者達の記憶だった。敵連合全員の罪を合わせても、これほどに酸鼻を極めるものとはならないだろう。こんなものを食べたら(受け入れたら)、狂ってしまう。

 

 本能が警鐘を鳴らした事で眠気が一気に吹き飛び、杳の体から大量の汗が噴き出した。心臓が今にも壊れそうになる程に早く、鼓動を打ち始める。彼女は無我夢中で暴れ、その場から逃げ出そうとした。

 すると、彼は静かな声でこう言った。

 

「君は敵を許し、理解するヒーローになるんだろ?」

 

 彼はゆったりと微笑んだ。振り仰いだ灰色の瞳と、巨悪の瞳が交錯する。 

 ――その瞬間、杳は理解した。これは食事ではなく、()()()()()なのだと。

 

「僕だけ仲間外れは寂しいじゃないか」

 

 その言葉は特殊拘束具(フェンリル)よりも頑強に、杳を縛り上げた。――もし、彼を拒絶したら。杳は忘我状態となった意識の片隅で、ぼんやりと思考した。自分の行動に()()()()()()事になる。

 

(貴方は誰も救えない)

 

 かつての黒霧の言葉が、杳の背中を蹴り上げた。彼女は観念して座り直し、わなわなと震える唇を開く。

 

 やがて、口の中に丸いものが入ってきた。それを舌で転がして噛んだ瞬間、じゅわりと悍ましい体液が溢れ出て、杳の精神はオール・フォー・ワンの記憶に()()した。

 

 

 

 

 ――瓦礫だらけの世界で、宙を跳んで駆け去っていく二人の人影が見える。愉快でたまらなかった。上質なコメディを観ているような高揚感が心を突き動かし、鼻歌を歌いながら、果敢にこちらを睨む女性と対峙する。そして昂る感情のままに彼女を痛めつけ、殺した。

 徐々に光を失っていくその顔に、杳は見覚えがあった。転弧が小さな頃、姉に見せてもらった祖母の写真と同じ顔だ。

 

 次の瞬間、杳の心は()()()()の記憶に同期した。――巨悪を倒す為に全てを燃やし、最期まで戦い続けたヒーロー。

 あたたかくて愛おしくて、甘いミルクの匂いがする温もりが消える。目の前にグシャグシャに泣き濡れた少年の姿が映り、やがて遠ざかっていく。

 

 バラバラになった記憶のコラージュが、頭の中にまき散らされる。離れ離れになった母子。転弧が弔になるまでの過程。写真に映った女性。カブトムシの部屋で見た、転弧の凄惨な罪の記憶――全く違う場所にあった複数の点が線で繋がった瞬間、()()()()()()()()()()

 

「あ、あ、ああああああッ……!」

「おや。口に合わなかったかな。珠玉の一匙(ひとさじ)だったんだが」

 

 涎と涙を散らし、狂ったように泣き叫ぶ杳の頭を撫で、オール・フォー・ワンは当てが外れたとばかりに首を傾げた。空になったスプーンをテーブル上で彷徨わせ、今度はダイス状に切った人肉を掬い取る。そして少女の耳に口を寄せ、優しく囁いた。

 

「杳。まだ一口目だ。()()()()

 

 その言葉は、呪いの掛かった時計のように、杳の心を元の状態へ巻き戻した。彼女はわずかに口を開け、二口目の惨劇を飲み込んだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 長い時間を掛けてテーブル上の料理を全て平らげた頃、杳の髪は()()()()()()していた。許容範囲を遥かに凌駕したストレスを一気に受け止めた事により、髪の色素が抜け落ちたのだ。空模様と共に色味を変える雲のように――それは周囲の色彩をわずかに映し込んで、煌めいた。

 

「本当によく頑張った。君はとても良い子だ」

 

 ――人の心はキャンパスみたいなものだ。年を重ねる毎にキャンパスに何かが描き足され、その絵がその人を形作っていく。人を支配するには、そのキャンパスを白紙に戻す必要があった。今まで得てきたものを上回る程の、強い恐怖や痛苦を与えるのだ。

 

 世界を牛耳る為、今までうんざりするほど繰り返してきた()()()()を、オール・フォー・ワンは――画家が汚れたキャンバスに白い絵の具を上塗りするように――事務的に実行しただけだった。

 彼は死んだように大人しくなった杳の髪を梳き、目の下の隈をそっとなぞる。

 

「弔が喜ぶよ。お揃いがまたできた」

「……し、がらき、さんは」

 

 オール・フォー・ワンはそのか細い声に気付くまでに、時間が掛かった。そのタイムラグは、彼が本名で呼ばれる機会があまりなく、養子の弔を指しているのか自身を指しているのか、判断し兼ねた為に起きたものだった。

 杳はゆっくりとした動作で居住まいを正し、じっと彼を見上げた。フワフワした白髪を弄びつつ、彼は優しい声で返事をする。

 

「ん?」

()()()()を、知ってますか」

 

 この状況に凡そそぐわない質問に虚を突かれ、彼の手が止まった。彼は不思議そうに少女を見下ろす。その表情は彼にとってとても珍しい事であったが、付き合いの浅い杳はそれが分からず、ただ真っ直ぐに彼を見つめ返すだけだった。

 ――狂っているのか、それともまだ足りないのか。探るように少女を観察しながら、彼は言葉を発した。

 

「……それは点心を食べる時に用いる調味料の事?」

「はい」

「もちろん知ってるよ。食事制限が掛かるまではそれで良く食べていたな」

 

 彼が皮肉混じりにそう言いながら肩を竦めると、杳は弱々しく頷いた。

 

「そう、ですか」

 

 そうして再び、二人の間に沈黙のヴェールが下ろされた。――何を考えている。まさか()()()点心が食べたいってわけじゃないだろう。精神を直接覗き見る為、彼が瞳に力を込めようとしたその時、杳は静かに口を開いた。

 

「転弧は知らなかったんです」

 

 その瞬間、オール・フォー・ワンは()()()()を理解した。

 

 彼の口元の笑みが消える。まるでそんなものは最初からなかったのだと、知らしめるように。周囲の空気がずっしりと重たくなって粘度が増し、息をする度に肺の中で刺すような痛みを放った。だが、杳は話を止めるつもりはなかった。

 

「転弧の心には歪みがあって、あなたはそれを救けてくれたんだと思ってた。……でも、()()()

 

 (ヴィラン)達の心と同化しても、杳は結局、彼らの気持ちを理解する事はできなかった。けれども、たった一つだけ、分かった事がある。

 

 カブトムシの部屋には、転弧の記憶も含まれていた。個人に寄り添うのと、心に同期するのとは訳が違う。――彼は心的外傷(トラウマ)に苦しんでいた。毎日、家族を殺した凄惨な記憶に苦しめられ、泣いて後悔して、救けを求めて手を伸ばしていた。

 

 だが、オール・フォー・ワンはそれに気づいていたのに、無視し続けた。こんな風に膝に抱き上げて頭を撫でるだけで、転弧の心はどれほど救われただろう。彼はそうしなかった。代わりに与えたのは一人ぽっちの部屋と家族の手、それから狂気に満ちた未来だけだった。

 

 杳はオール・フォー・ワンを見上げた。怒りも憎悪も恐怖も含まれていない、ただ座って対話しているように――穏やかな眼差しで。

 

「確かにあなたはあの時、転弧を救ったかもしれない。でも、そこから先……あなたのしたことは、虐待です」

 

 小さな少女の瞳の奥に、彼は()()()()()を見出した。

 

 かつて鳥籠に閉じ込め、(いつく)しんだカナリアと同じ目をしている。地獄の底へ何度叩き落としても、小鳥は折れた翼を引き摺って這い上り、恐れる事なく自分を(いさ)め続けた。

 世界で一番弱いはずの生き物が、憐憫の情が籠もった瞳で、自分を見つめている。

 

「だから何だって言うんだ?」

 

 地を這うように低い声が、彼の口から放たれた。その身から迸る――凄まじい憎悪と怒気は、逞しい体躯をどす黒く染め上げ、一回りも大きく膨れ上がらせる。その容貌は、まるで神話に登場する魔王そのものだった。魔王の逆鱗に触れた――哀れな村娘は言葉もなく震え上がり、その場から縫い付けられたように動く事ができない。

 

「君はあの子を虐待した家族でも、無関心に通り過ぎた人々でもなく……()()()()()のか?僕が(ヴィラン)だから?あのまま放っておいたら、彼は死んでいたぜ?

 君達(ヒーロー)はいつもそうだ。できもしない事を並べ立て、自分達の不甲斐なさは棚に上げて、僕等(ヴィラン)を責める!」

 

 刹那、弱々しい呼吸音が耳を掠め、彼は思わず腕の中を確認した。

 

 ――殺気に当てられてパニック状態に陥り、少女が過換気症候群を引き起こしていた。仕掛けたのは彼女の方だというのに、なんという心の弱さだ。彼は呆れたもののすぐさま元の状態に戻り、猫撫で声で囁きかける。

 

「しっかりしなさい。……困ったな」

 

 だが、杳の発作は止まらない。やがて顔が青ざめ、四肢の筋肉も硬直し痙攣し始めた。彼は少女の胸に手を当てて個性を発動し、彼女の体内を外部から直接操作した。呼吸の速さと深さを落ち着かせ、背中を擦る。

 やがて杳は意識を取り戻し、大人しく彼の体に身を預け、すすり泣き始めた。

 

「ごめん、なさい」

 

 杳は歯を食い縛り、震える声で謝った。

 

 ――()()()()()で心を覆っていなければ、彼と真正面から向き合う事すらできない。杳はうな垂れて、悔悟の涙を零れ落とした。だが、その心の動きは――外界を飛ぶ一匹の羽虫を視認する事が難しいのと同じように――あまりに小さく、彼が汲み取る事はできなかった。

 

「大丈夫だ。杳。僕は怒っていないよ」

 

 彼は少女の顔を両手で包み、そっと持ち上げる。そして溢れる涙を拭い、微笑んだ。杳の中に巣食っていたあらゆる負の感情が、たちまち消え失せていく。度重なる精神的疲弊でどろりと濁った灰色の瞳を見つめ、彼は静かにこう告げた。

 

「僕はただ話をしたいだけなんだ。……”君が協力してくれれば、白雲朧の死をなかった事にできる”って話をね」

 

 

 

 

 朧の名を口にした途端、杳は目を丸くして、大きく身じろぎした。”兄の死を覆す事ができる”――その甘言は悪魔の契約のように彼女の心を魅了した。オール・フォー・ワンは鷹揚な動作で座り直し、中空に手を彷徨わせる。

 

「順を追って話そう」

 

 数瞬後、テーブルの上空辺りに青白い輝きを放つホログラムディスプレイが数枚、浮かび上がった。拡大されたスクリーンには粒子の荒い映像が映っている。中国語で銘打たれた病院の看板の前に、光り輝く赤子を抱いた医師が緊張した面持ちで立っていた。

 

「まず、個性の話から始めようか。超常黎明期と呼ばれる時代から今に至るまで、動物が個性を持った例はほぼない。個性が発現するのは人間ばかりだ。僕が立てた仮説は……人は他の動物に比べて()()()()()からという事。個性は持ち主の強い感情や想いに影響を受け、変化する性質がある」

 

 彼が片手を払うような仕草をすると、映像が切り替わった。電子顕微鏡で拡大された”個性因子”だ。最初は一つだけだったのに、二つ三つと増殖し、内部に様々な色が付着し、歪な形に膨れ上がっていく。

 

「”超常特異点”という話を?世代を経るごとに複雑・多様化していく個性に体が耐えられなくなる、という仮説だ。……君の個性は特異点に達したのにも関わらず、崩壊の兆しを見せない。個性と体、そして心が()()()調()()しているんだ。君は”新しい世代の人間”と言えるかもしれないね」

 

 ぼんやりとスクリーンを眺める杳に隠れて、彼は上品に咳払いをし、小さく鳴った腹の音を誤魔化した。

 

「さて、これらの話を踏まえて聞いてほしいんだが……君は優れた知覚能力を有している。不安定な量子の世界に体を適応させる為、緻密な内部整備(メンテナンス)を無意識下においても行えるようにだ」

 

 整然と並んだスクリーンの一枚が杳の眼前にスライドされ、拡大される。それは分娩室と思わしき室内を映した映像で、右上辺りに産婦人科の病院名が記載してあった。医療用に撮られた映像を盗み取ったらしい。

 

 目を凝らした途端、杳は大きく息を詰めた。()()()()()がいる。天井辺りを見上げて、医者や看護師、杳の父が慌てふためいた様子で、右往左往していた。母も分娩台の上から必死に手を伸ばしている。

 身を乗り出して覗き込むと、手術用ライトの近くに――ドットやノイズの舞い散る()()()が漂っているのが見えた。それは今にも消えそうに霞んでいる。

 

 その時、一人の少年が靄の下で手を伸ばした。()だ。音声はないので何を言っているかは分からないが、大きく口を動かして懸命に何かを叫んでいる。すると、黒い靄は吸い込まれるようにして彼の手の上に舞い降り、やがて靄を突き破って、()()()()がモクモクと湧き出した。

 

 朧がそれを手でそっと払うと、中から小さな赤ん坊が現れた。映像はそこでブツリと途絶える。杳の反応を確かめながら、彼は話を続けた。

 

「君の個性は()()()量子化だった。だが、生まれたての君はそれを上手く扱う事ができなかった。母の胎内と外界では全く環境が異なるからね。そして君は生き残る為に、身近にいた……より単純な構成である兄の個性を模倣した。

 だが、完璧過ぎたんだ。()()()()になってしまった。体と個性は優秀だが、それを支える心は赤ん坊同然。だから君は個性を暴発させ、発作を起こし続けた」

 

 また映像が切り替わる。杳が幼い頃、かかりつけになっていた総合病院の映像だった。――病室の天井の隅っこで()()()()がプカプカと浮いている。稲光(いなびかり)が走り、雨や雪が降り注ぐ中、両親は幼児用の玩具やヌイグルミを振る事で、懸命に気を惹こうと頑張っていた。

 

 彼はゴブレットにシェリー酒を注いで一口飲み、喉を潤した。

 

「君のこの生活は、兄の死で一変する事となる。強いショックを受けた君は、家族や自分の心の傷を癒し、兄の喪失を埋める為……()()()()()を意識した。強い感情に影響を受け、個性はまた変化を遂げたんだ」

 

 二人の少女の写真が、中空にパッと表示された。一人は現在の自分だと分かるが、もう一人は兄にそっくりだった。今改めてじっくりと見てみると、それは髪や目の色を変えるだけでは到底及ばない程に精度が高く、むしろ()()に近かった。

 

「ご覧のように、君は兄と酷似した姿や性格、声を手に入れた。個性もね。

 ……少し話は脱線するが、空気清浄機って知ってるかい?心に大きな傷を負っている人間の周囲は、常人では気付けない程の()()()()()()を発しているそうだ。君はそれも無意識の内に修復しているんだろうね。だから、弔達と通じ合えた。まさか添い寝までするとは思わなかったけど」

 

 彼は茶目っ気たっぷりにそう言うと、おどけて両手を挙げてみせた。そして誘惑のスパイスがふんだんに(まぶ)された声で、とどめの一撃を放つ。

 

「君の個性を使えば、僕を癒すどころか、()()()()()()だってできるだろう。量子の世界は無限の可能性を秘めている。……元気に駆け回ってるラウドクラウドを見たくないか?

 残念ながら、君の個性、心と体は()()()()となっていて切り離す事はできない。だから、君をもらいたい。タイムトラベル(体ごと)リープ(意識だけ)かは今後の研究次第だけど、もし成功したら……”君の兄には手を出さない”と約束するよ」

 

 全てを話し終えた後、彼は悠然と微笑んでゴブレットの中身を飲み干し、杳の返事を待った。

 

 杳は深く目を閉じ、想像した。成長して格好良い大人になった兄が、マイクや相澤先生と手を取り合い、ヒーロー活動に勤しんでいる光景を。

 ――ああ、見たいなぁ。心の底から杳は思い、じんわりと暖かい涙を流した。その場に自分がいなくても、こうして想像するだけで幸せなんだもの。しばらくの間、彼女は想像の世界で束の間の夢を楽しんだ。やがて涙を拭い、夢の残滓に手を振って、そして――

 

()()

 

 目を開けて、しっかりとした口調で、杳は断言した。

 

 

 

 

 黒霧は、オール・フォー・ワンから明らかに別格の扱いを受けている。それだけ、彼が()()だからだ。常人を凌駕するほどの高い知性があり忠実で、希少な個性を有している。

 ――黒霧達の記憶の中には、脳無になりきれずに壊れてしまった実験体が数え切れぬほどいた。適した個体自体がそもそも少なく希少なのだ。

 

「あなたはずっと彼を重用してきた。たとえ最初からやり直しになったって、手放すはずがない」

 

 数秒後、オール・フォー・ワンの唇が、歪んだ弧を描いた。彼から放たれている気配が、()()()()()()へ一変する。優しい春の温もりから、血も凍りつくような真冬へ――その著しい温度の相転移に晒されて、杳はたまらず震え上がった。

 

「僕なりに、黒霧に敬意を払ったつもりだったんだぜ?」

 

 大きな手を伸ばし、彼は少女の頭を包み込んだ。そして掴んだ手の力を少しずつ強めていく。苛立ちを隠そうともせずに、大きな溜息を零した。

 

「だから精一杯、優しくしたんだけど……どうやら伝わらなかったみたいだ」

 

 自分の頭蓋骨が軋む音を、杳は生まれて初めて聴いた。――このまま万力のように潰されたら。脳髄が痺れる程の痛苦と恐怖に苛まれ、反射的に悲鳴を上げようとした唇を噛んで、必死に堪える。

 

「……ッ、分かり合うことは、できませんか?」

「どうあったって分かり合えない人種ってのはいるものだよ。僕らの心を見ても、君は理解できなかったろう?」

 

 彼は突き放したような口調でそう言い放ち、先程とは打って変わった――冷たく残忍な笑い声を上げた。

 

「”話をしよう”と言ったね。話し()()じゃない、君は聴くだけだ。……まな板の上に載った魚が”分かり合おう”と言ったところで、君はそれを理解できるか?」

 

 彼が指を鳴らすと、中空に粒子の荒い映像が浮かび上がる。杳は思わず目を凝らして、息を飲んだ。()()()姿()だ。

 

 ――小さな頃、家族と一緒に回転寿司屋に行った思い出のワンシーンが、四角く切り取られている。恐らく自分の記憶を盗み見て、ホログラムスクリーンに透写(トレース)しているのだろう。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 店内に設置された大きな水槽に興味を示し、小さな杳は朧に肩車をしてもらって中を覗き見た。業務用の水槽の中には、種々様々な魚たちが(ひし)めいてる。皆、どろりと濁った瞳をして、薄く開いた口から(あぶく)を立ち昇らせていた。

 

(かわいいおさかなさん、いっぱい)

(そ、そうだな。……あ、オールマイトだ!)

 

 ガラスに額をくっつけ、杳は無邪気な眼差しを魚達に注いだ。やがて大きな網を片手に近づいてきた店員を察知し、朧は慌てて妹の注意を惹こうとする。

 

 しかし一足遅く、杳は――網に掬い上げられ、まな板の上で生きたまま調理されるという――残酷な光景を目の当たりにしてしまった。言い方を変えれば、それは生き物の命を糧にして生きているという事実を理解する為の、教育の一環でもあった。

 

 朧はすぐさま杳を店外に連れ出して落ち着かせた後、水槽の魚は食べられる為にいるのだという事を教えた。悲しそうな顔をする杳に向け、朧は寄り添うように優しい笑みを浮かべてみせる。それから、彼は噛んで含めるような口調でこう言った。

 

(おまえは優しい子だ。けどさ、お肉とお魚も大事な栄養なんだぜ?食べるとオールマイトみたいに、強く賢くなる!)

 

 今のところ、杳に食物アレルギーはない。医師は虚弱体質である杳を案じ、好き嫌いなくしっかりと食べる事を推奨していた。朧がオールマイトを真似た勇猛な顔つきをして力こぶを創ってみせると、杳は鼻をすすりながら小さく笑った。

 

(だからえーっと……ツナマヨ軍艦にもサーモンにも感謝して、”いただきます”だ。……で、残さないように食べなきゃな)

 

 杳の好物を指折り数えつつ、朧はゆっくりとした足取りで、両親の待つ店内へ戻る。兄妹が店の奥へ消えると同時に、優しい追憶の光景は泡のように弾けて、消えた。

 

 

 

 

「あの後、君はこう思ったはずだよ。”かわいそう。でも、おいしそうだな”と。()()()()だ」

 

 冷たい声が、感傷に浸っていた杳の頬を(したた)かに打ち、恐ろしい現実へ引き摺り戻した。間近にあるはずのオール・フォー・ワンの顔が――分厚いガラスを隔てているように――不可思議に歪んで見える。

 

「分かり合う必要など、あるのかな?」

 

 凄まじい殺気と悪意の濁流に呑まれて、まともに息ができない。酸素を取り込む為、喘ぐように開いた杳の口から、銀色の泡が立ち昇った。捕食者は無遠慮に小さな魚を眺め回し、空腹に耐えかねたように舌なめずりをする。

 

 だが、その数秒後――彼は()()()()()()()()を目の当たりにし、またも毒気を抜かれる事となる。

 

 杳が再び、過換気症候群を引き起こしていた。民間人上がりのヒーローでもここまで酷くはないはずだと、彼は心底呆れ果てて頬杖を突いた。

 

 だが、ちょっと突いただけで割れるシャボン玉のような――か弱い子供が何故、あの弔を手懐け、ならず者連中をまとめ上げて敵組織を壊滅させる事ができたのか。凶悪な(ヴィラン)とその犠牲者の記憶を追体験させるという、凄惨な精神的拷問を耐え抜く事ができたのか。

 

「……」

 

 思案に暮れる支配者の脳裏に、かつて愛した者の顔がよぎった。――何にせよ、不穏分子は早めに潰しておくのが最善だ。あまり揺さぶって使い物にならなくなっても困る。精密機械と同様、繊細に扱わなければ。

 手を伸ばすと、彼女は雷に打たれたように体を大きく震わせ、呂律の回らない声で泣き喚いた。

 

「……ひッ、わたしを、こ、ころす……?」

「ハハ。殺さないよ。痛みはすぐ――」

 

 次の瞬間、彼の声は()()()()。唇や声帯だけではない。体の節々が、指先に至るまで――ピクリとも動かす事ができない。

 

 ――杳が”洗脳”の個性を模倣し、発動したのだ。だが、彼を止めるには力不足だった。個性に抵抗しているのか、強靭な肉体がギシギシと軋み始める。彼女の眼前で、形の良い口角が徐々に吊り上がっていく。

 

 緊迫した空気の中で、巨悪の瞳と灰色の瞳が、真正面からぶつかり合った。――どうあっても分かり合う事はできない。杳はその残酷な現実を、受け入れざるを得なかった。なら、()()()()()()

 

 理想が破れても、どんなに自分が不甲斐なくても、立ち止まっている時間はない。杳には成さねばならぬ事があった。()()()()()()。ポケットに手を突っ込んで、注射器のトリガーを引く。アンプル内で緑と赤の液体は混ざり合い、金色に光り輝いた。

 

()()()

 

 杳は静かな声でそう命じ、オール・フォー・ワンに撃ち込む為、眩い金色に輝く注射器を振りかざした。




なんかもう本当に毎回グロくてすみません…( ;∀;)
もしよろしければ、6期終了後のおまけ回にプラスアルファでショートショート作品を付けようと思いますので、お好みのものを選んでいただけたら幸いです。
いつもこの稚拙なSSを読んでいただき、本当に本当にありがとうございます!


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No.65 フェーズⅢ

【No.64のあらすじ】
オールフォーワンは杳に彼女のルーツを話して聞かせ、『仲間になれば兄を見逃してやる』と言い、誘惑する。杳はそれを断り、二人は敵として戦い始める。

※ご注意:作中に残酷な表現、暴言、暴力表現、倫理を問われるような描写、グロテスクシーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。


 オール・フォー・ワンの首筋に注射針が触れようとしたその時――()()が、それを掴んだ。逞しくて大きな手。その主が彼である事を認識する前に、杳の右手が注射器ごと()()される。鈍い破裂音が鼓膜を震わせ、痛覚が脳に伝わるよりも早く、彼は少女をそのまま引き寄せた。獰猛な笑みを浮かべ、空いた手で杳の頭を掴もうとする。

 

「……ッ!」

 

 だが、それは()()()()()()()。杳は(あらかじ)め、注射器を持つ手を除いた体表を――超高反発性の弾性膜で覆っていた。オール・フォー・ワンに触れられた事が引き金となり、杳は()()()()で十数メートルほど上空に舞い上がる。彼女の周囲に軽い風圧が生じ、テーブル上のものが吹き飛ばされた。空中に弾性膜を張って体勢を整え、彼との距離を充分に取った上で、杳は氷の床に着地した。そして、破裂した右手と注射器を再構成する。

 

 粉々になった食器が床に散らばる――硬質的な音が、広々とした室内に反響する。静かに睨み合う二人の瞳に、シャンデリアの灯りに反射した氷の欠片が映り込み、煌めいた。

 

 ――洗脳を自力で、しかも数秒足らずで破るなんて、常軌を逸している。杳は怖気づく心を叱咤して、注射器を握り締めた。オール・フォー・ワンは鷹揚な動作でスーツに降りかかった氷の破片を払い、椅子から立ち上がった。嘲笑うような彼の目が、杳の持つ注射器を見て、それから彼女に戻る。彼は慈悲深い声で囁いた。

 

「何故、抗う?勝てないと分かってるはずだろ?」

 

 オール・フォー・ワンは自らの頭に人差し指をトントンと当ててみせた。杳の持つ知覚能力を指しているのだ。杳はごくりと唾を飲んで、恐怖と緊張の余りカラカラに乾き切った喉を潤した。濃い隈に縁取られた灰色の瞳が――スーツ越しにもはっきりと分かる――彼の強靭な体躯を映し出す。

 

 ()()()に抱かれた時、本能が理解した。人が自然災害に立ち向かう事ができず、ただ受け入れる事しかできないように――”彼には決して勝てない”と。これから自分が挑むのはあまりに無謀な戦いで、状況は絶望的だ。頼りの助っ人もいない。でも、それでも成さねばならない事があった。杳は大きく息を吸って、吐いてから、言葉を絞り出した。

 

「大切な人なんだ。だから取り返す」

「その後はどうする?」

 

 オール・フォー・ワンは乾いた笑い声を響かせ、おどけて両手を挙げてみせた。

 

「今度は()()()()()取り返すつもりか?」

「そんなことはさせない。私が変えてみせる」

 

 幼く丸みを帯びた顔立ちの杳が果敢に凄んでみせても、迫力はない。彼は口元の笑みをますます深めるだけだった。

 

「成る程、Plus Ultra(さらに向こうへ)という奴か。お手並み拝見といこう。……雄英生」

 

 次の瞬間、オール・フォー・ワンの全身から凄まじい威圧(プレッシャー)が放たれた。辺り一帯の氷の壁や床が音を立てて軋み、彼の足下を起点として――蜘蛛の巣状の(ひび)をいくつも創り出していく。

 

「……ッ?!」

 

 気が付くと、杳は無惨にひび割れた床に四つん這いになり、涎を垂らして苦痛に喘いでいた。

 重力が何十倍にもなって自身に圧し掛かっているように感じられる。断末魔に似た耳鳴りのせいで、何も聴こえない。濃厚な血臭のせいで、鼻が利かない。真っ赤に染まった視界の端に、こちらに悠々と近づいてくる革靴が映った。

 

 ――ダメだ、立ち上がれ!何度も自分に言い聞かせているのに、体はピクリとも動かない。濃厚な死の気配に当てられて、知覚能力がオーバーヒートを引き起こしていた。自分が惨たらしく殺される妄想(シミュレーション)が耐えず脳内で明滅している為に、他の事が何も考えられない。オール・フォー・ワンの放った本気の殺気に耐え切れず、杳は正気を失いそうになった。

 

 その時、視界の端に、手元を離れてコロンと床に転がった注射器が映った。金色に輝く粒子は、杳に()()()()()()()を想起させた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 今を遡る事、数時間前。杳が黒霧の体内を飛び回って電子脳内の入り口を探していた時、耳の内側で特徴的な低音が響いた。――()()の声だ。

 

()()は?)

 

 ――計画って何の事だ?杳がきょとんとして黙り込んでいると、やがて痺れを切らしたのか、再び治崎が話し始めた。

 

(目標を達成するには計画がいる。話せ。整合性を取る)

(……えっと。電子脳内に侵入したら、ウイルスを見つけ出してワクチンを打ちます。もし効かなければ、戦って倒します)

 

 杳が拙い言葉で話し終わると、治崎の反応を待った。

 

 二人の思考には大きな隔たりがあった。杳はさっき話した内容が計画だと思っていた。だが、それはあくまで目標であり、治崎が追及しているのは――それを達成する為の()()だった。

 待てど暮らせど、治崎からの応答はない。分かりづらかっただろうか。不安に思った杳がもう一度説明しようと息を吸い込んだ時、地獄の底から響き渡るような怒声が脳を貫いた。

 

(”何も考えていない”という事だな?)

(え?いや、考えてまs――)

 

 突如として杳の全身をグラグラと煮え立つ程に苛烈な感情が支配した。治崎の怒りが溢れ、杳に浸潤しているのだ。

 

 全く予想していなかった事ではないが、慎重な性格である治崎にとって、杳の考えなしな行動は本当に理解しがたいものだった。この子供は安っぽい大衆映画のように――真正面から敵と戦い、勝つのだと信じているのだろう。沈みかけの泥舟に乗り、生きて帰れるのだと思っている。

 

 だが、自分もそれに乗ってしまった身だ。この子供を殺すのは自分だが、心中するのだけは死んでも嫌だった。想像するだけで喉がかゆくなり全身に蕁麻疹が湧き立って、治崎は思わず身震いする。彼は荒ぶる感情を鎮め、静かに言葉を放った。

 

(……奴は必ずお前を孤立させる。力押しで勝てる相手じゃない。()()()()

 

 返事は一度でいいのに杳が何度も頷くので、治崎の腹立ちは増していく一方だった。今すぐ怒鳴りつけたいという思いを堪え、思考を巡らせる。

 ――渡されたウイルスも()()()創ったものだ。正直、本当に有効性があるかどうかも分からない。これは結局のところ、黒霧の爆発を和らげる緩衝材となる為に持たされたと考えて良いだろう。

 

 だからこそ、上層部は八斎會が更生敵となる事を許可した。褒美をちらつかせれば、自由に飢えた敵は涎を垂らして死地に赴くと思われているのだ。馬鹿げたギャンブルだと、心底思う。だが、そうでもしなければ、この忌々しい社会で再起を図る事ができないというのも事実だ。

 

 治崎は塚内真に一定の信頼を置いていた。――もし自分が任務を果たせずに死んでも、佐伯達は救けるようにと頼んである。杳と同様に、彼にも守るものがある。今も尚、独房で一人、罪を償っているだろう佐伯の姿を想い、彼は唇を噛み締めた。

 

(最悪の事態になった時は、怒れ)

(怒る……?)

 

 怒りは戦う為の感情だ。長い歴史の中で人間が敵から身を守り、淘汰されずに生き延びる為に備えられた本能の一つ。あらゆる障害から心を解放する、恐ろしい力を持った想いだ。怒りは持続し、心身を活性化させ、死への恐怖と痛覚を一時的に麻痺させる。

 

 杳はロックと戦った時の事を思い出した。確かにあの時、自分は怒っていた。ロックを憎んで殺す為に、量子化の個性を行使したのだ。――()()為に戦う。まるで振り出しに戻ったかのような無気力な感覚が、彼女の心身を襲う。静かに俯く少女の様子を気にも留めず、治崎は言葉を続けた。

 

(怒りは原動力になる。……俺は今までそうしてきた)

 

 

 

 

 杳はわなわなと震える手で注射器を掴み取り、立ち上がろうとした。同時に、オール・フォー・ワンに対する怒りの感情を爆発させる。

 ――カブトムシの部屋で見た黒霧の凄惨な記憶。オール・フォー・ワンが今まで甚振(いたぶ)り殺してきた人々の無念。救うという考えを()()()()()()、杳は憤怒の想いを体内で循環させた。

 

 胃の中で膨れ上がった怨嗟の念が、無数の人影へ変わる。彼らは胃の内壁へ縋りつき、『殺せ、殺せ!』と狂ったように爪を立て、急き立てた。やがて憤怒の炎は彼女自身も燃やし尽くす程の勢いで、ますます盛んに燃え盛り始める。

 だが、彼の恐怖を克服するにはまだ足りなかった。――何故、足りない?杳は自問する。

 

 ――”帰れる”と思っているからだ。冷酷な自分の声が、脳内に響いた。杳はベルト付近で揺れるキーホルダーを手探りで掴み、それを握り潰した。帰路を断ち、自分を追い込む為に。()()()()を捨てた瞬間、杳の心に巣食う恐怖は完全に消え去った。彼女が怒っているのは、目の前の巨悪だけじゃない。

 

 ――兄を救ってくれなかったヒーローや社会に対する怒り。

 兄を再び見捨てた彼らへの怒り。

 そして何よりも、無力で汚く薄っぺらい自分への怒り――

 

 凄まじい自己嫌悪と憎悪の本流が、小さな心臓を無茶苦茶に叩き壊していく。まるで自分が自分でなくなってしまうような感覚に襲われ、杳はその場に(うずくま)った。だが、無数の怨嗟の手が――彼女の体を内側から押し上げ、無理矢理立ち上がらせる。

 

 兄を救けようと足掻く度に、事態が悪化していく。自分自身がますます嫌になっていく。理想が砕き壊され、社会の無情さを呪いたくなる。だが、どんなに不甲斐なくても、情けなくても、進まなくてはならなかった。

 

 やがてオール・フォー・ワンが杳の前に到達した。大きな手を伸ばし、小さな頭に触れる。

 ――だが、個性は発動しなかった。下から睨み上げる杳の両眼が()()()()()()()。”消失”の個性だ。オール・フォー・ワンの手を、今度は杳がガッと掴んだ。肩口や手首から生えた複製腕が触手のように巻き付いて、万力のように渾身の力で締め上げる。

 

「くたばれクソジジイ」

 

 吐き捨てると同時に雷獣化、()()する。稲光は氷室に反射し、世界は真っ白に閃いた。

 

 杳の胴体部分はスノードームのように淡く透け、中には禍々しい雷雲が滞留している。”帯電”の個性を体内に組み込んだ事で、彼女の雷撃は――比較的短時間で終わる”火花放電”から、持続的な攻撃を可能とする”アーク放電”へ昇華した。

 

 数万Vに達する小雷のエネルギーは凄まじい高熱でもって、彼の体を内側から焼き尽くし続けた。全身が炭化しているというのに、杳にはまだオール・フォー・ワンが笑っているように見えた。彼女は戦慄し、ますます威力を強める。

 やがて雷が放つ高温で四方の壁が融け、ひび割れた部分から倒壊し始めた。天井から氷の塊がいくつも降り注ぎ、空中で融けて、流れ落ちていく。

 

 次の瞬間、大量の氷が融けた事で生まれた水と雷の熱気がぶつかり合い、大規模な()()()()()が起こった。杳は身を低くして伏せ、斥力の防護障壁を半球状に展開させ、身を守る。

 

 そのシールドの外壁を掠めるように――黒々とした触手が一振りされ、水蒸気のヴェールを薙ぎ払った。焼け焦げどころか、少しの綻びもないスーツを着こなしたオール・フォー・ワンが当然のようにそこに立っている。彼は薄く笑いながら触手を指先に収め、首を横に振った。

 

「なんて言葉遣いだ。弔の教育に悪い」

「黙れ。お前の創った名であの子を呼ぶな」

 

 スカイブルーに輝く繭が砕け散ると同時に、杳の体はオール・フォー・ワンの上空に移動していた。倒壊しかかった天井に展開した斥力場を蹴り、空中で右半身を大きく捻って、強靭な筋肉で構成された()()を叩き付ける。あまりの衝撃にオール・フォー・ワンごと床を踏み抜き、二人は下層のフロアへ落ちていった。

 

 ”蛙”と”ヤモリ”、さらに”剛翼”の個性を複合する事で、今の杳は常軌を逸したレベルの身体能力と動体視力を有していた。蛙の頭、鱗のびっしり付いた上半身に真っ赤な両翼が生え、臀部からはフサフサの尻尾が生えている。その異形な体躯は、ギリシャ神話に登場するキメラを彷彿とさせた。不恰好だと言わんばかりに、彼は小さく失笑する。

 

「まるで子供の手遊びだな」

 

 何の前触れもなく、オール・フォー・ワンの両の指先から――真っ赤な電子ラインの走る触手が飛び出して、杳の体に突き刺さった。

 

 触手はその先端からさらに枝分かれし、体内をずたずたに引き裂きながら侵攻して脳に到達しようとする。その激痛は気を失う事さえ許さず、杳を拷問のように苦しめた。温かい血が少女の体から噴水のように噴き出して、彼の体を濡らしていく。

 

 やがて視神経と鼓膜が破壊されたのか、何も見えず、聞こえなくなった。視界が暗転する寸前、頬に掛かった血飛沫を舐め取り、オール・フォー・ワンは至極楽しそうな笑みを浮かべて奪い取った注射器を目の前で破壊してみせる。視覚や聴覚が消失しても、痛覚だけはある。杳の口から不明瞭な叫びが放たれた。

 

「ッ、があああああああああ――ッ!!」

 

 その叫びは途中で獣のような咆哮に変わり、凄まじい()()()()となってオール・フォー・ワンに襲い掛かった。仕立ての良いスーツが破れ、皮膚が弾け、骨が砕けて、肉が潰れていく。――痛覚はあるという事は、触覚もあるという事だ。その様子を皮膚感覚で感じ取りながら、杳は死に物狂いで彼の体にしがみ付いた。

 

 次いで、杳は全身を再構成した後、”硬質化”、そして”透明化”する。両肘から射出した”テープ”と”もぎもぎ”を組み合わせる事により、巨悪の体をさらに固定した。

 

 オール・フォー・ワンは愉快そうな笑い声を上げ、凶悪な触手を再び、杳の体に深々と突き刺した。水晶のように輝く少女の体躯は、触手が暴れ回る程に研磨され、ひび割れて――まるで本物の宝石のように輝いた。やがて墜落する彼の背中が下層フロアの床に触れようとしたその時、杳の全身が()()()()()()()

 

 ――ダイアモンドが美しいのは、光を封じ込めるカットを施しているからだ。それと()()()()で、杳は内部攻撃をあえて受ける事で体内を研磨させ、無数の境界面を生成していた。

 臍部から放たれた”ネビルレーザー”は内側に屈折し、体内に閉じ込められ、無数に設けられた境界面に反射し続ける事で、何十倍にもその威力を増していく。

 

 オール・フォー・ワンは攻撃の手を止めると、感心するように口角を吊り上げた。そうして極限まで強化されたレーザーの出力先を、杳は臍部へ戻す。――もう痛みも恐怖も、後悔すらも感じない。怒りや憎悪を募らせる度、無限に戦う力が湧いてくる。血反吐を吐きながら、杳は憎々しげに叫んだ。

 

「……死ね!」

 

 刹那、世界が()()()()()()()()()。直径一メートルはあろうかという――高エネルギーを保有したレーザービームが放たれ、オール・フォー・ワンの体は城外へ吹き飛ばされる。レーザービームが城の支柱を焼き切り、放射線状に放たれた衝撃波が室内を蹂躙した事で、ついに城全体が歯の根が震えるような轟音を立てて、崩壊し始めた。

 

 ――外の世界はすっかり夜の帳が降りていた。青白い燐光を纏った城の残骸が、息を荒げて立ち上がる杳の輪郭をぼんやりと照らし出していた。地響きを起こしながら城が崩れ去った直後、局地的なホワイトアウトが発生した。それが過ぎ去った後、雪原に伸びる杳の影と夜の闇が混じり合った、その時――彼女の影がゆらりと蠢いた。

 

「”衝撃反転”」

 

 パチンと指を鳴らす音が聴こえたと同時に、杳が全身全霊を掛けて放ったレーザー攻撃が――()()()()()()となって頭上から放出される。いつの間にか空中に移動していたオール・フォー・ワンが、反撃を仕掛けたのだ。スーツの袖から露出している皮膚には火傷や傷痕一つ残っていない。杳の覚悟を嘲笑うように、悠然と微笑んでいる。

 

 不可視の衝撃波が雪原を抉り取りながら進行し、杳を飲み込もうとした寸前、彼女の背後から()()()()が伸び上がった。

 

「GYAAAOOOOOOOOOOONNN!」

 

 邪悪な金色の双眸を吊り上げ、黒影(ダークシャドウ)が雄叫びを上げた。それは獣の咆哮というよりも、どこか耳の奥に残るような悲壮感のある叫びだった。

 

 杳はほとんどの個性を模倣する事ができるが、使いこなす事まではできない。――特に黒影は意志を持った特別な個性であり、模倣した黒影は常闇の相棒とはまた似て非なる者である為、まともに制御する事すらできなかった。だが、()()()()()()()。敵はたった一人しかいないからだ。

 

 主人の荒れ狂った精神状態に冒され、黒影はたちまち暴走状態となり、不定形な体躯から何本もの腕を生やして暴れ回った。終焉(ラグナロク)を告げるべく、杳は黒影を前方に解き放つ。

 

 黒影は凄まじいエネルギーを迸らせた衝撃波を弾き飛ばし、圧倒的なパワーで直線状のあらゆるものを押し飛ばして、ついにオール・フォー・ワンを掴み取った。――黒影の五指には”崩壊”の個性を組み込んである。そのまま壊せと、杳は強く念じた。

 

 そうだ、()()。杳は黒影の頭に乗り、血走った目で狂ったように何度も念じた。情けをかけるな。体表に(ひび)が入り始めても反撃する様子も見せず、生温い笑みを浮かべたままのオール・フォー・ワンが心底不気味に思える。

 

 こいつは化け物だ。救いようのない悪人だ。悍ましい料理を口にした途端、流れ込んできた被害者達の怨念と記憶が――杳の考えに心から賛同し、怨嗟の言葉をがなり立てた。恐怖と痛苦に泣き叫び、愛する者を殺されて嘆き悲しんでいる人々の記憶が、猛毒のように杳の脳を腐らせていく。彼らの瞳にはいつも、楽しそうに笑う()()()()の姿が映っていた。

 

 ――殺して。傷つけて。奪って。

 復讐されて。また殺して。傷つけて。奪って。また――

 

 酸鼻を極める負の螺旋(スパイラル)の中に、杳は落ちていった。小さな子供が積み木で遊ぶように大勢の人々の命を弄んで、彼は幼く笑っている。狂った手遊び。理解できないし、理解しようとも思わない。だけど、彼は――

 

 ――ずっとずっと、それだけなんだ。

 

「……?」

 

 崩壊が止まった。ポタ、と暖かい雫が、オール・フォー・ワンの頬に垂れ落ちて、ひび割れた皮膚に染み込んでいく。彼は怪訝そうに眉をしかめ、頭上を見上げた。

 

 杳がじっとこちらを見つめていた。憐憫の情を必死に抑え込もうとしている、()()()()()()で。わなわなと震える唇を噛み締め、灰色の瞳から涙が零れ、頬を伝っていくつも流れ落ちていく。

 ――その表情を見た途端、彼の唇が歪んだ。それは彼が初めて見せた、怒りの感情だった。

 

「その顔は僕に対して失礼だ」

 

 オール・フォー・ワンの右手が急速に膨れ上がった。右腕の上着が肩口から引き裂け、中から異様に膨れ上がった太い腕が姿を現す。辛うじて肌色をしているが、外側には異様に盛り上がった血管や筋肉、金属片が浮き出ており――五指の先端には、金属さえ切り裂けるのではないかと危ぶむ程に鋭い爪が付いていた。

 

 巨大な手が杳の頭を包み、荒々しく雪原へ叩き付ける。深刻な脳震盪を起こした事で集中を欠き、黒影の姿は宵闇に融けるようにして消えていった。

 

「個性を使いこなすには修練がいるんだ。人々は長年の努力の末に修得するが、僕は()()意のままにできる」

「……ッ!」

 

 異形の右手に脳を圧迫され、杳は宙吊りにされた状態で必死にもがいた。みしみしと頭蓋骨が軋む音がする。オール・フォー・ワンに()()()()ではあるが――憐憫の情を抱いた事により、戦意に綻びが生じ、杳はさっきまでの苛烈さを完全に見失っていた。涎を垂らして這い寄ろうとする恐怖のモンスターを振り払い、杳は夢中で戦意を呼び起こそうとする。その葛藤を知ってか知らずか、彼は冷淡な声で話を続けた。

 

「だが、君はそうじゃない。この期に及んで僕を殺す事さえできない。君に、君は不釣り合いだ。……全て僕によこせ」

 

 刹那、オール・フォー・ワンの胴体に()()()()()()が走った。彼は怪訝そうに眉を吊り上げ、目線を下げる。

 ――杳の腹部から人間の手が一本生え、その手は()()注射器を握っていた。注射針はオール・フォー・ワンの胴体に突き刺さっている。

 

 程なくして、オール・フォー・ワンの体表が音を立てて瓦解し始めた。彼は感嘆したように低く唸ると、杳の体を無造作に投げ飛ばす。

 雪原をボールのように跳ねながら転がっていく杳の体から()()が分離し、鋭い眼光を巨悪に注いだまま、地面に着地した。オール・フォー・ワンは新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせ、顎を撫でる。

 

「君は味方をも欺き、この子の体内に潜んでいたのか。となると、朧と戦っているあれは()()かな」

 

 治崎は応えず、なんとか立ち上がろうとする少女を視界の端に入れたまま、迎撃態勢を取った。――他者の体と融合すると、治崎はその者の個性をも扱う事ができる。治崎は杳の個性でトゥワイスの個性を模倣し、自らの複製を創り出したのだ。そして本体はずっと彼女の体に潜伏していた。

 

 オール・フォー・ワンの体が徐々に崩れ去っていく。ウイルスは撃ち込んだというのに、彼から迸る――威圧と力強さは微塵も衰える様子も見せない。()()()()()()()()。本能でそう感じた杳は”半冷半燃”の個性を宿し、戦闘体勢を取った。

 

 突然、オール・フォー・ワンの崩壊が()()()()。彼は皮膚を模した――壊れたウイルスの外殻を摘まんで放り捨てると、気さくな調子で笑う。

 

「丁度良かった。コートを着たまま食事をするのはマナー違反だろ?」

 

 オール・フォー・ワンが煩わしそうに体を振るった瞬間、周囲の空気がビシリと震えた。彼の皮膚が宵闇と同じ色に染まり、ぼごりと異様な音を立てて体組織が内側から膨れ上がる。巨大な背骨が皮膚を突き破り、空に向かってアーチを描くように伸びて、それに沿うように血肉や筋肉が生成されていく。

 

 急激な温度変化に晒されて周囲の雪が融け、辺り一帯は冷気と熱気が混ざり合った事で、またも局地的なホワイトアウトが発生した。杳は焦凍の戦闘Vを必死に思い出し、それに習うように氷と炎を操って自分達の身を守る。

 

 程なくしてそれが過ぎ去った頃、そこには神話に登場する巨人族(ギガース)を彷彿とさせるような――見上げるばかりに壮大な巨人がそびえ立っていた。彼は丸太程もある指を伸ばして杳と治崎を摘まむと、口の中に放り込み、飲み込んだ。

 

 

 

 

 生温い液体が頬を打つ感覚と稲光で、杳は意識を取り戻した。目を開くなり、彼女は大きく息を詰める事となる。

 

 血のような真紅色に染め上げられた分厚い雲が一面に広がっていて、時々走る稲光が、雲を不気味に光らせていた。世界を真っ二つに引き裂くような雷鳴が轟く。耳を澄ませると、それは雷鳴ではなく――大勢の人々が今際の際に放った()()()だった。

 

 上空からは真っ赤な血が降り注ぎ、杳の体をぐっしょりと濡らしている。真下には濁った血海があった。――そこは、オール・フォー・ワンの体内、もしくは個性因子が創り出す心象世界ともいえるような場所だった。

 

 杳の体は、海面から突き出た()()()()()()に支えられている。不意に海面が一際強く泡立ち、中から怨嗟の表情を浮かべた亡者達が顔を出し、杳を引き摺り込む為に痩せ細った手を伸ばした。その中に埋もれるようにして――見覚えのある金色の双眸が一瞬、垣間見えた。

 

 だが数秒後、それは苦しそうに歪められ、鬼の手と一緒に沈んでいく。海面に着水した杳は亡者の手を振り払い、治崎を引っ張り出そうとした。

 

「治崎s――」

「……君は」

 

 刹那、耳元で蕩けるように優しい声が響く。群がる亡者達は長く尾を引くような悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように海底へ逃げ去って行った。そのまま沈み込もうとした杳を、誰かが掴み上げる。杳は眼球を最大限に移動して、手の主を確認した。――オール・フォー・ワンだ。

 

 戦う為に雲化しようとした杳の体を、何本もの巨大な虫ピンで串刺しにし、彼はさっきまで治崎がいたはずの海面を視界の端に収めた。

 

「僕が丹念に育てたものに穴を空け、ダメにする。害虫は駆除しなければ」

 

 オール・フォー・ワンは冷たくせせら笑い、杳の体を血の海に叩き落とした。

 

 ――海は()()()()でできていた。殺虫剤を掛けられて必死にもがく害虫のように、杳は串刺しにされた状態で尚、足掻いた。酸に体が冒され、凄まじい煙と臭いと熱が自分の体から放出されていく。皮膚と肉が溶けて白い骨が露出し、やがてそれすらも融けていった。

 

 意識が少しずつ削り取られていく。濃厚な死の気配が、()が近づいてくる。ドロドロに融けた体に亡者達が絡み付いて、少女が今まで遮断してきた――臆病な本心を引き摺り出した。耐え切れず、杳の瞳から涙が零れ落ちる。それはすぐさま海に融け、小さな煙を上げて消えていった。

 

 どう頑張っても、彼には勝てない。ワクチンも効かなかった。治崎さんも私のせいで。死ぬ。死にたくない。負ける。今ならまだ、泣いて縋れば――

 

 ――その時、ある()()()()()が心の底から飛び出して、杳の脳を強く揺さぶった。

 

 この人に屈してはダメだ。

 今度はお兄ちゃんだけじゃなく私も使って、数えきれない程に多くの人を苦しめる。

 命を賭してでも、倒さなければ。誰の為ではない、ただ()()()()()()に。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 次の瞬間、杳の目の前に()()が光り輝きながら現れた。

 ――”希望の火”だ。金色に輝く炎は群れを成して川のように、過去から未来へと流れている。美しく揺らめく火の一つ一つに、それを創り出した者の姿が見えた。

 

 それは幻想ではなく――死の淵を彷徨い、現実と量子世界との境目が曖昧になった彼女が垣間見る事のできた――”平和の概念”だった。

 

 ヒーローが戦っているような、大きなものばかりではない。ほとんどが()()()()()だ。誰かを守る為に何かを耐える人。転んだ子供にティッシュを差し出している通行人もいた。国を守る為に、歯を食い縛って大切なものを手放す者もいた。皆が涙を飲んで次世代へと繋いできた、希望の道標(みちしるべ)だ。

 

(お前も同じ想いなら)

 

 ふと慣れ親しんだ声が聴こえ、杳は頭上を振り仰いだ。――数メートル程前方に、一抱えもある炎が浮かんでいる。その中に()使()がいた。無数のランタンが浮かぶ湖畔に座り込み、静かな眼差しでこちらを見つめている。

 

 杳は最後の力を振り絞って亡者達を振り払い、血肉の混じった(あぶく)を吐き出して、真っ黒に変色した手でそれに触れようとした。

 

 だが、わずかに届かない。美しい黄金の川が徐々に霞み、代わりに亡者の暗鬱に笑う声が響き渡った。彼らが少女の体を寄ってたかって掴み、海底に引き摺り込もうとしたその時――

 

「白雲さん!」

 

 ――今にも消えそうに揺らいだ金色の炎から、白いグローブに包まれた両手が突き出して、杳の右腕をガッと掴んだ。

 

 聞き覚えのある優しく素朴な声に、杳は融けかけた眼球に力を込めて、手の主を確認する。――フワフワの緑髪の少年、クラスメイトの()()だ。そのまま亡者達から引き離すように手繰り寄せ、彼はいまだかつてない程に逼迫した声と表情で懸命に話しかける。

 

「手を取って――僕を取り込んで――進化するんだ!」

 

 溺れていた者が海面に浮上した時、必死で呼吸して酸素を取り込むように――杳はただ夢中で緑谷の手を掴み、彼の個性を模倣しようとした。しかし、模倣の過程(プロセス)は途中で()()()()キャンセルされる。――取り込む、進化。緑谷の言葉を、杳は最早機能をほとんど成していない脳内で繰り返した。

 

 模倣ではなくそのものになる為に、生き残る為に、戦う為に。杳は緑谷と()()した。死に際に放たれた強い想いに影響を受け、個性がまた新たな進化を遂げていく。細胞や体組織の構成が一から創り変えられていく。暖かい光に包まれて、杳は胎児のように体を丸めた。表皮がガラスのように硬くなり、淡い虹色の光沢を放ち始める。

 

「……余計な真似を」

 

 突如として赤い海が渦巻き、海底に横たわる()()()()が露わになった。オール・フォー・ワンは苛立った口調で吐き捨てながら地面に降り立ち、両手でその繭を真っ二つに引き裂く。眩い七色の光が溢れ、彼の顔を煌々と照らし出した。彼は心底忌々しそうに顔をしかめる。

 

 ――内部では一人の少年に抱かれて杳が小さく丸まり、眠っている。オール・フォー・ワンの瞳と少年の瞳が拮抗した瞬間、少年の輪郭に大きなノイズが走り、ほんの一瞬だけ()()()()()へと姿を変えた。それを見るなり、彼はうんざりだと言わんばかりに大袈裟な溜息を吐き、無造作に手を伸ばす。

 

「勘弁してくれよ。これは僕のだぜ?」

 

 刹那、凄まじいエネルギーを迸らせた()()()が海底から上方を一直線に貫き、その軌道上にいたオール・フォー・ワンを数百メートル上空まで吹き飛ばした。著しい圧縮熱と突風で大海は大きくうねって沸騰し、みるみるうちに蒸発して、消えていく。

 

 血腥(ちなまぐさ)い蒸気を腕を一閃する事で薙ぎ払い、オール・フォー・ワンは唇を舐めた。その口元は冷徹な怒りで歪んでいる。彼が見下ろす先、荒涼とした大地の上に――鮮やかな三原色のヒーロースーツが垣間見えた。オールマイトは勇猛な笑みを浮かべ、堂々とした佇まいで彼と対峙する。




あと3話で終わるはず…!グロイのは次回で終わりです!本当にいつもすみません…。


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No.66 フェーズⅣ

【No.65のあらすじ】
オールフォーワンと戦うが、杳は力及ばず、追い詰められる。死にかけたその時、不思議な世界から緑谷が出て来て杳を救うが…。

※ご注意:作中に一部のキャラを貶めるような発言、残酷な表現、暴言、暴力表現、倫理を問われるような描写、グロテスクシーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。


「……はぁっ……はッ……ッ」 

 

 誰かが苦しそうに喘いでいる声で、杳は意識を取り戻した。だが、意識が次第にはっきりしてくると、それは()()()()()だという事に気付いた。記憶が混濁していて、何も思い出せない。――ここはどこだ?今にもパニックを引き起こしそうな脳を落ち着かせ、状況把握を試みる。

 

 まず目の前に、ひび割れた赤銅色の地面が見えた。そこから視点を動かすと、自分は膝と肘を突いて四つん這いになっている状態だという事が分かった。加えて、今にも火を噴きそうな程に体が熱くてずっしりと重く、おまけに内側から振動している。まるで真っ赤に熱した魔法の岩を飲み込んでしまったようだった。

 

 雲化して体内を冷却しようとするも、()()()()。全身がぐっしょりと濡れていて、大量の汗が音を立てて滴り落ち、乾いた地面を潤している。吸って吐く息すらも、口内が火傷しそうな程に熱かった。

 何百キロにも思われる体の重みを、頼りない四つの点が支えている。両の肘と膝は凄まじい負荷に耐えかねて、地盤に数センチほど沈み込んでいた。身動きすら取る事もできず、杳はただその痛苦に耐え続ける事しかできない。

 

 ――吐き出せ。やがて身の危険を感じた本能がそう告げた。体内にある()()を吐き出せば、楽になれる。杳が必死で口を開いたその時、体内に宿った()は自ら飛び出すような動きを見せると同時に――まるで怒っているようにますます熱を帯び、激しく振動した。相反する反応に戸惑っていると、ふと視界の端に黄色いブ―ツが映り込んだ。

 

 俯いていた顔を持ち上げると――鮮やかな三原色のスーツに身を包んだ()()()()()()が、眼前に立っている。

 

 杳は驚きのあまり痛苦も忘れ、目と口をあんぐりと開いた。信じられない、どうしてここに?そもそも、彼は力を失ったはずじゃ……。茫然自失状態となった少女を守るように、オールマイトは背を向けていた。やがて彼は顔を上げ、前方を睨んだ。その視線の先、数百メートル先の上空には――上質なスーツに身を包んだオール・フォー・ワンが浮かんでいる。

 

 次の瞬間、杳の脳内に今までの出来事が鮮やかに明滅しながら、どっと流れ込んできた。――そうだ。自分は兄を助ける為に体内に潜り込んで、オール・フォー・ワンと戦って、それから……。必死に記憶の糸を辿っていると、オールマイトが不意に優しい声で笑った。

 

「分かった。君に任せよう」

 

 にわかにオールマイトの体表から虹色の炎が噴き出し、やがてその残滓を散らして――中から()()()()が現れた。深緑と白を基調としたコスチュームに身を包んでいる。彼は杳の傍らにしゃがみ込んで、その背中を擦った。体内を荒らしている熱と振動が、少しだけマシになる。緑谷は深い翡翠色の目で彼女を見下ろすと、人を安心させるような笑みを浮かべてみせた。

 

「白雲さん。もう大丈夫だよ」

「み、どりや……くん……」

 

 何故、緑谷がここにいるのだろう。体内に侵入しているのは、自分と治崎だけであったはずだ。一体何が起こっているのか、杳が尋ねようとしたその時――

 

 ――数メートル先の中空に、虹色の炎が輝きながら現れた。中から黒い衣装を纏った少女がポンと跳び出して、地上に降り立つ。ボリュームのあるピンク色の髪を高い位置で二つ括りにした、可愛い女の子だった。年の頃は杳とそんなに変わらない。アイマスク越しの目が優しく微笑んで、杳を見る。

 

「大丈夫だよ。ヨウちゃん」

「あ。ポップそっちの姿なんだ」

「まぁね。こっちの方が動きやすいし」

 

 続いて炎が燃え上がる音と共に見知った優しい声が聴こえ、杳は思わず振り向いた。――()()だった。ウサギ耳パーカー付きのコスチュームを着て、のんびりした顔を”ポップ”と呼んだ少女へ向けている。

 

 混乱するばかりの杳の脳内で、ポップという呼び名と和歩の名前がバシッとリンクする。だが、今目の前にいる彼女は、現在の和歩と明らかに様子が違った。改めてじっくりと見てみると、ポップが着こなしているのはかなり刺激的なデザインの衣装だという事にも気が付いた。ミッドナイト先生に負けず劣らずと言ったところだろうか。杳が食い入るように見つめていると、若き日のポップは顔を赤らめ、恥ずかしそうに自身の体をかき抱いた。

 

「ちょっとぉ!ジロジロ見ないでっ!」

「えー、いいじゃん。ポップらしくて面白いと思うよ」

「面白いってどーゆーことよっ」

 

 現在のコーイチと過去のポップが軽口を叩き合っているのを唖然として見ていると、前方が()()()()()()で満たされた。炎をかき分けて、中から爪牙と鎌池、それから田古部が現れる。

 数秒後、爪牙達の前に二人の戦士が降り立ち、一糸乱れぬ動作で戦闘ポーズを決めてみせた。彼らの顔は巨大な複眼で覆われており、肉体は逞しく引き締まっている。

 

 ――杳が知る筈もないが、彼らの正体は掘田兄弟であり、その姿は数年以上前に、当時流通していた合法ドラッグを摂取した事で得たものだった。

 ()()ドラッグとは言っても、その実は違法だ。法律の隙間を掻い潜って創られたものなので、個性を強化する特製を持ってはいるが、副作用もない代わりに効果は比較的短い。二人は嬉しそうに複眼に映ったお互いの顔を見て、それから惚れ惚れとした様子で自らの体を確かめ始めた。

 

「おっ!最高の状態じゃん」

「なんでお前らだけ。不公平だろーがよー」

「いやカマやんもやってみ?」

 

 鋭い鎌を持ち上げて文句を垂れる鎌池を、堀田兄弟が取り成す。田古部は四本の手をもじもじとさせながら、気恥ずかしそうに呟いた。

 

「僕らはトリガー使ってたし……()()しない?」

 

 掘田兄弟と違い、田古部と鎌池が服用したのは()()ドラッグ――使用者の理性を弱め、“個性”を極端化(ブースト)する効能を持っているものだ。表向きは弱個性改善薬として配られ、服用した者は皆理性を失い、突発性ヴィランと化して鳴羽田の街を荒らし回った。副作用や後遺症も重く、彼らはいまだに元の姿に戻れていない。その時の状況を思い返しているのか、田古部は唇をますます尖らせた。だが、堀田兄はあっけらかんと言い放つ。

 

「大丈夫じゃね?」

 

 田古部達は勇気を奮い立たせて、体に力を入れた。二人の体躯がぼごりと異様な音を立て、筋肉が内側から膨れ上がっていく。骨格が数倍にも拡大化し、彼らの身長を大幅に伸ばした。着ていた服や靴が急な膨張に耐え切れず、内側から弾け飛ぶ。しばらくすると、鎌池は見上げる程に大きなカマキリを彷彿とさせる姿に、田古部は六本腕の巨大な魔人に変身していた。二人は変異したお互いの姿をじっと眺めた後、先程の掘田兄弟と全く同じ行動を取った。

 

「おー。意識あんなー」

「すごいじゃん♪」

 

 Hopper's Cafeのスタッフ達がわいわいと盛り上がっているその周囲で、次々と虹色の炎が湧き出した。荒涼とした世界を埋め尽くさんばかりの勢いで炎は燃え広がり、中から大勢の人々が現れる。多くの者は戦闘体勢を取り、オール・フォー・ワンに狙いを定めた。不思議な事に杳はその全員に見覚えがあった。

 

 数メートル程先に一際大きな炎の渦が巻き、中から和服を着た一群が現れる。藤色の着物に真っ黒な羽織を着た老人は、静かに腕を組み、巨悪を睨んだ。彼の傍には嘘田、入中や音本、かつて杳が戦った窃野達も控えている。

 

「恩人の危機だ。道理は守れ」

 

 佐伯が袂を捲りながら低く唸ると、治崎が白い手袋を脱ぎ、玄野は懐から銃を取り出した。――今もまだ状況は何一つ把握できていない。だが、その言葉を聴いた時、杳の心臓がシェイクされたかのように激しく揺れて、熱い涙が零れ落ちた。思わず俯いたその頭を、()()が乱暴にかき混ぜる。垂れ下がった白い布が視界の端に映った。相澤先生だ。

 

「よく頑張った」

「のど自慢大会の会場はここですかァ?高得点叩き出してやんよ」

 

 相澤の隣に立ったマイクが好戦的な笑みを浮かべ、わざとらしく咳払いをする。たちまち熱い感情が胸を深く突き上げて、杳は顔をくしゃくしゃに歪め、泣き出した。

 

 

 

 

 ――”ワンフォーオール”の個性を取り込んだ事で、杳の個性は()()()()に進化を遂げた。

 

 心理学において”集合的無意識”という言葉がある。民族、文化、時代に関係なく、人の心は深い意識の底で繋がっているという考えだ。

 

 人の心はミルフィーユのように複数の層が重なり合って出来ている。上部の層は頭で考えたり、行動や感情、表情を形作ったりするなど――他者が見る事の出来る”表面上の領域”を管理している。反対に下部の層は、他者が絶対に見る事の出来ない”裏側の領域”――無意識や潜在意識、魂に根差した思考を司る。

 

 件の集合的無意識は()()()の領域に存在する――とされている。川の果てが海に繋がるように、人々の意識も一つに合わさっているのだ。昔から神話や物語のストーリー構成がどの国も似通っているのも、集合的無意識が存在する根拠として伝えられている。

 

 杳はその集合的無意識の領域にリンクし、自らと繋がりのある者の意識を検索。想いそのものの()()()()、量子化の個性を用いて個性因子ごと鋳造し、現実世界に顕現させていた。その技は模倣というより創造に近かった。個性因子をその人の想いごとストックし、次代へ受け継いでいく”ワンフォーオール”の力を借りているからこそ、可能になった技だ。

 

 だが、全員が味方であるわけではない。オール・フォー・ワンを見るなり恐怖に震えて、逃げ出す者もいた。弔は養父と対峙するなり首を横に振って消え、荼毘とコンプレスは戦線を退き、傍観に徹する様子を見せた。

 

「薄情野郎共が!最高だ!」

 

 トゥワイスが両手を口に当ててメガホンを創り、後方の辺りで高みの見物を決め込もうとする仲間達に野次を飛ばす。

 

「本職には遠く及ばねえだろうが、手は尽くすよ」

 

 厳格な顔をした壮年の男性が、銃を装填しながらエンデヴァーと語り合っていた。警視庁を取りまとめる警視総監だ。彼らの傍には塚内や三茶を始めとした警察官、そして刑務官も数名ほどいた。

 秩序の中で守られるという事は、同時に不自由である事を意味する。想いだけなら、人は自由だ。杳の個性は()()()()を具現化する。――本当は皆、助けたいと思ってくれていた。それが分かっただけで、それだけで充分だった。杳の心は救われた。

 

「……蛆のように湧いて出る」

 

 今や大勢の人々が織り成す個性の輝きで、地上は七色に輝いていた。敵とヒーロー、民間人までもが入り乱れる――混沌とした世界を見下ろし、オール・フォー・ワンは冷たくせせら笑った。その笑い声は数百メートルの距離を超え、杳の耳に届いた。

 

「白雲さん」

 

 再戦の覚悟を決めた少女に顔を寄せ、緑谷は真剣な表情で言葉を放った。

 

()()()()()()()。だけど、必ず救ける。諦めないで」

 

 杳の両肩に手を置いて目を瞑ると、緑谷は彼女の体内に融け込むようにして、()()()。彼の目的は、核となっている”ワンフォーオール”の個性に押し潰されないよう、杳を内側から支える事だった。

 

 やがて杳の背中から一対の虹色の炎が噴き上がり、法衣のように垂れ下がった。自身を苛んでいた高熱と重圧がさらに和らいでいく。だが、それでも、立ち上がる事はできなかった。いくら汎用性の高い個性を持っていると言っても、使用者の容量は限られている。杳にとって、”ワンフォーオール”はそれほどまでに負担が大きいものだった。

 

 涙と汗で滲んだ視界に、クラスメイト達の姿が映り込んだ。こちらを心配そうに見つめながら激励の言葉を掛け、半ば恐れおののきながらも戦闘準備を整えている。蛙吹が軽やかに跳んできて、ひんやりと冷たい手で杳の額を冷ましてくれた。

 

「杳ちゃん。想い続けて」

 

 ――”ワンフォーオール”が『オール・フォー・ワンに屈しない』という想いを核としているように、杳の個性は『兄を救う』という想いが核になっている。一見、関連性のないように思える二つの核には、『オール・フォー・ワンを倒す』という共通の目的が含まれている。その事実が親和性を(もたら)した為に、杳は拒絶反応を示す事なく”ワンフォーオール”を取り込めた。

 

 ”ワンフォーオール”の源は、強い想いだ。継ぎ手である緑谷も『人々を救う』という揺るぎない想いを心に宿している。集合的無意識の領域にいた緑谷は、杳が今際の際に発した強い想いに呼び寄せられ、文字通り彼女を救ったのだった。

 杳が兄を想い続ける限り、仮初めの炎は消えない。蛙吹の助言を静かに噛み締めていると、今度は自分の両肩を誰かが掴んだ。もう彼女はその方向を見なくても、()()の正体が分かっていた。

 

「頑張れ」

「諦めるなよ」

 

 杳は人使と焦凍に向けて、こくんと頷いた。人使はペルソナコードを装着し、捕縛布を握り締める。焦凍は形の良い唇を引き結び、周囲に熱気や冷気を迸らせた。二人が地を蹴って跳び出した瞬間、再び――戦いの火蓋が切られた。

 

 

 

 

 オール・フォー・ワンに一番早く接近したのは、エンデヴァーだった。両足の先から凄まじい火炎を放射し、空気抵抗を減らす為に両手を組んだ状態で飛翔、瞬時にオール・フォー・ワンに肉薄する。エンデヴァーが放出する熱を受け、大気が一気に膨張し、辺り一帯を凄まじい突風が吹き荒れた。

 

 一見荒々しいように思えるが――エンデヴァーは戦線が破綻しないよう、そして後続の邪魔にならないように、全てを計算した上で飛んでいた。迎え撃とうとしたオール・フォー・ワンの服の繊維が解け、強固な拘束具のように彼の体をとり籠める。ベストジーニストが地上に立ち、眉間にしわを寄せて力を込めていた。

 

 次の瞬間、オール・フォー・ワンの全身が、()()()()()()()()()()。エンデヴァーが大きく四肢を広げ、前方一帯に強力な熱線を放射したのだ。白熱した炎の破魔矢が巨悪を深々と貫き、情け容赦なく蹂躙していく――

 

 ――かと思われたが、しかし。真っ直ぐに伸びていた光の筋がぐにゃりとねじ曲がり、()()()()()()。その際、高熱レーザーは放射線状に拡散されるだけでなく、隕石のように細かく砕けて、辺り一帯に降り注いだ。猛火の残滓を振り払い、中から右腕を異形に変化させたオール・フォー・ワンが姿を現した。

 

「”空気圧出”+”筋骨発条化”+”瞬発力×4”+”膂力増強×3”……ハハ、やはりこの組み合わせはいいな」

 

 何倍にも膨れ上がったその腕には、異様に盛り上がった血管や筋肉、金属片が露出していた。かつて神野事件でオールマイト達を追い詰めたその技を、彼は再び使用していた。筋肉と骨を発条(バネ)化、瞬発力と筋力を増強する事でバネの性能を強化し、その力に乗せて空気を押し出す事で、プロミネンスバーンを押し返したのだ。

 

 だが、炎の隕石は仲間を襲う直前、幻のようにかき消える。面白くなさそうに細められたオール・フォー・ワンの瞳と、相澤の真っ赤に輝く瞳が拮抗した。

 

「俺が見ています」

 

 相澤の抹消は、個性の核となる因子を一時的に停止させる。相澤が見ている限り、オール・フォー・ワンは個性を出す事ができない。退屈そうに顎を撫でる巨悪の頭上を、()()が遮った。

 

 グラントリノに首根っこを掴まれて、マイクが宙に浮いている。巨悪の背中にマイクの顔が重なり、杳の視界から見えなくなった瞬間、彼からスマイルが消えた。大きく開け放たれた口から、杳が放ったものとは格が違う――高精度の音波攻撃が、オール・フォー・ワンを蹂躙する。

 

 しかし、通常であれば、どんなものでも粉塵と化すその攻撃を受けて尚、オール・フォー・ワンは笑っていた。圧倒的多数に囲まれているこの絶望的な状況下にいても、彼の平然とした態度は少しも変わる様子を見せない。

 

 突如として、地上から数百メートル先への上空を繋ぐ()()()()()が出現した。――焦凍が氷結の能力を使い、一瞬にして大質量の氷を作り出したのだ。凍てついた道を一気に駆け昇り、1-Aのクラスメイト達が総攻撃を仕掛ける。両方の掌を自身の後方に向けて連続爆発させ、推進力として高速移動を行う”爆速ターボ”で空中を疾走しながら、爆豪は好戦的な笑みを浮かべた。

 

「手柄取られてたまっかよ!」

「バクゴー!おまっ……先走りすぎ!」

 

 両肘から射出したテープを駆使して爆豪に追従しつつ、瀬呂は冷や汗を流した。――今を遡る事、数分前。彼らはその場で短いミーティングを開き、三手に別れる事となった。爆豪率いる戦闘チームと、相澤、そして杳を守る用心棒チームだ。若き卵の群れに融け込んで走りながら、航一は感心したような眼差しで焦凍を見る。

 

「君がショート君?凄いn――」

「貴様ァ!焦凍に話しかけるなッ!」

「航一さんですよね。杳から話、聞いてます」

「焦凍ォ!!!」

 

 焦凍が至って友好的な様子で航一を握手を交わしている場面を目の当たりにし、エンデヴァーは血涙を流して絶叫した。ホークスはその様子を見て苦笑いしながら――どちらにも援護ができるように、相澤と杳の中間に位置する場所でホバリングしている。

 

 やがて爆豪達が攻撃範囲内へ到達した。八百万謹製の携行対戦車弾、AT-4を片手で受け止め、航一の繰り出したエネルギー弾を気持ちよさそうに浴びながら、オール・フォー・ワンは鷹揚な動作で両手を組んだ。

 

「杳。……”臓器や細胞に記憶が宿る”という話を知ってるかい?」

 

 ()()()という嫌な音がして、体のバランスが大きく崩れる。”ワンフォーオール”の重圧に耐え切れず、右の肘骨が砕けたのだ。――倒れるな。杳は野獣のように唸り、ただ耐えた。口田がヒッと小さく息を飲み、杳の背中を撫でさする。杳は小さく礼を言い、少しでもエネルギーを循環できるように、口内に溢れた血を唾液と一緒に飲み込んだ。

 

「半ばオカルトのように語られる事もあるが、いくつもの事例が報告されている事実だ。それと同様に、意識……まさしく個性(その人)そのものは”個性因子”に宿る事があるらしい。君の現状を見て、僕は一つ分かった事がある」

「……ッ!」

 

 オール・フォー・ワンが人差し指を持ち上げた途端、相澤と杳の背後に――荒涼とした地面を地底から割り砕き、()()()()()()。相澤が見る前に、脳無を転送し地中に隠していたのだろう。

 

 警視総監の号令で、塚内を含む警察部隊、そして数人の刑務官達が銃を構えて発砲する。彼らが放っているのはゴム弾ではなく実弾だ。だが、それらは比較的至近距離で撃たれているのにも関わらず、彼らの皮膚上を空しく跳ね返るばかりだった。ヒーロー達の波状攻撃をものともせず、脳無達は標的に向かって迫る。数瞬後、その侵攻はホークス、グラントリノの共闘によって辛くも止められた。

 

「魂や死後の世界は存在しない。死んだら終わりなんだよ、人間ってのは。……その証拠に、君は兄を模倣できていないだろ?」

 

 その言葉を聴いた瞬間、杳の頭は真っ白に()()()()()。思わず周囲を見渡す。しかし、どれほど注意深く目を凝らしても、兄の姿どころか黒霧の姿もない。杳の心にわずかな揺らぎが生じた瞬間、それに引きずられるように皆の輪郭もねじ曲がった。相澤の消失の効果が一瞬、消える。

 

 刹那、オール・フォー・ワンは自分に向かい来る全ての攻撃を増幅した上で、()()()()。歯の根が震える程の地響きと衝撃波が、辺り一帯を蹂躙する。瞬きすらもできないわずかな間に、()()()()()した。

 

 オール・フォー・ワンが協力者達の優に半数を薙ぎ払った時、杳の頭にガツンと重い衝撃が走った。――脳無の攻撃が頭を掠めたのだ。どろりと赤くて熱いものが、視界を覆い尽くしていく。脳に直接攻撃を受けた事で集中が途切れた。口田の輪郭がゴーストのように霞み始める。杳は気力を振り絞り、霞みゆく意識を必死で繋ぎ止めた。

 

「……ッ」

 

 今や杳の呼吸は激しく乱れ、荒い息継ぎの音が耐えず、汗と血が音を立てて地面に落ち続けていた。四肢は今にも砕け落ちそうにガクガクと震え、口が空気を求めてだらしなく開きっ放しになり、口の端から唾液が垂れ落ちていた。――もう一度、集中が途切れたら終わりだ。狂ったように自身に言い聞かせていると、眼前を金色の釣り目が覆い尽くした。

 

「杳ちゃん!」

 

 ()()だ。悲しそうに顔を歪めて泣いている。彼女は杳の両頬を手で包み込み、額をくっ付けた。好き勝手に跳ねた金髪の毛先を透かして、脳無と死に物狂いで戦うヒーローや警察、クラスメイト達の姿が垣間見える。

 

()()()()()。考えないで。全部、感じて。……()(みみ)から相手の存在を逸らすの。息を止めて、何も考えずに潜み、紛れるの」

 

 ”死なないで”。暖かい涙と一緒に零された言葉が、杳の勇気を奮い立たせた。杳は知覚能力を総動員してトガの技術を模倣し、()()()()()()。存在そのものを希釈し、透明化させる。脳無は不思議そうに周囲を見回し始めるが、オール・フォー・ワンには効かなかった。彼はしっかりと杳を捕捉し、ちょっと申し訳なさそうに笑ってから、とどめの一撃を放った。

 

「白雲朧という存在はもうどこにもいないんだ。僕が黒霧に宿った個性因子を破壊してしまったから」

 

 ――その言葉を飲み込むのに、杳は多くの時間を必要とした。

 

 

 

 

 オール・フォー・ワンの放った黒い触手に玄野が()()()()、乱波がそれらをまとめて引っ掴んで動きを止めている間――その触手を駆け昇って、佐伯達が接近した。地面に転がった岩の群れと擬態し、見上げる程に大きな岩の巨人と化した入中が、巨悪の体を背後から掴み上げる。

 

「去ねやこの悪党がァ!」

 

 佐伯が白熱した拳を叩き付けた。その苛烈なエネルギーが一点集中するように、天蓋が防護障壁を創り出し、オール・フォー・ワンを内部に閉じ込めた。障壁にわずかに開けた風穴から瓦礫で創り出した棘を突き刺し、治崎は精密且つ執拗な攻撃を繰り返す。窃野が手を動かす度に、巨悪の肉体が少しずつ削られていく。それらを煩わしそうに触手のひと振りで薙ぎ払うと、オール・フォー・ワンは上品な笑い声を上げた。

 

「優秀な脳無は()()、つまり生前の人格を残している場合があってねぇ。大抵、それは良い方向に作用するんだけど……黒霧は君と出会って以来、その執着が()()()()に作用した。だから消したんだ。

 ああ、支障はなかったよ。もう原型を留めない程に彼の全てはグチャグチャになってしまっていたからね」

「……聞かなくていいっすよ」

 

 涼やかな男性の声が、杳の鼓膜に染み入った。冷たい手が杳の頭を掴んでいる。すぐ横に、傷の走った精悍な顔が見えた。――()()()だ。その姿を見るなり、オール・フォー・ワンはとんでもなく下らないコメディを観ているかのように口を開け、笑った。

 

「ハハハ!僕が言った途端、()()()()()とは!それは君が無意識に創った贋作だよ。分かるだろ?……君のせいで、」

 

 オール・フォー・ワンの声がまたしても、途中で止まった。そして杳達を除く――()()()()()()()()()()

 

 ロックが杳に同化し、彼女の脳を加速(オーバークロック)したのだ。加速とは脳機能の賦活(ふかつ)、認識と思考の加速による体感時間の遅延を発生させる。加速した彼女には、周囲の状況がスローモーションを超えて、止まって見えた。彼女が創り出した人々も同様だ。

 生き残った人々がオール・フォー・ワン、そして脳無の軍勢に総攻撃を仕掛ける。固唾を飲んで見守る杳の目の前で、巨悪の唇が大きく裂けた。まるで絶望を顕現するかのように。

 

 数瞬後、世界は――真っ赤な血と飛び散る臓腑、痛苦の悲鳴で満たされた。オール・フォー・ワンの黒い触手が杳の間近まで迫った時、真っ黒なスーツを着た男が飛び出して来て、彼女を包み込んだ。()()()()()だ。

 

 触手が恐ろしい轟音を立ててトゥワイスの左肩を打つと、彼の腕はあり得ない形にひしゃげた。それでもトゥワイスは死に物狂いで杳にしがみつき、衝撃から彼女を守ろうとした。彼の屈強な体を伝わって、凄まじい攻撃の振動が伝わって来る。――このままでは死んでしまう。杳は心臓がギュウッと握り潰されたかのように痛み、なりふり構わずに泣き叫んだ。

 

「もういいよ!トゥワイスッ」

「俺の、ため……なんだ。今度、は」

 

 マスクのメッシュ越しに見える優しい目と克ち合った途端、杳はトゥワイスの犯した凄惨な罪の記憶を思い出していた。――許されない罪。戻ってこない被害者達。心の傷。犯罪を止めない理由。それでも……彼は救けてくれた。心の中で種々様々な想いが錯綜し、杳は激しくしゃくり上げて、彼の体に頭を寄せた。二人がひしと抱き締め合ったその時、頭上から退屈そうな声が降って来る。

 

「実を言うと()()()()んだ。そういうシーンは」

 

 刹那、トゥワイスの体を無数のレーザー光線が貫いた。杳の目の前で彼は()()()()()に変わり、ボタボタと垂れ落ちた。噴水のように噴き出した鮮血が、杳の全身と乾いた地面を濡らしていく。音もなく地上に降り立ったオール・フォー・ワンが、血肉の一つを戯れに踏みにじった。杳は血塗れの顔を歪め、友人の名前を叫んだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 そして、世界の支配権は再び、()()()()()()()()。ご丁寧に杳だけを残し、オール・フォー・ワンは皆の命を蹴散らした。――どう足掻いても君は僕には勝てないのだと、知らしめるように。

 

 世界にはもう、魔王と勇者のフリをした村娘以外、誰もいなかった。杳の肘と膝の骨は完全に砕け、折れた骨が皮膚を突き破って露出している。最早、痛覚も触覚もない。立ち上がるどころか、気を失っていないのが不思議な位だった。――”兄を救う”。その強烈な想いだけが、杳を延命させていた。巨悪が近づいてくる気配を察すると、血塗れの少女の顔が持ち上がり、彼を果敢に睨みつける。

 

 オール・フォー・ワンが大きな手を伸ばして少女の頭を掴もうとした途端、杳は顔を逸らして彼の指を噛んだ。だが、噛む力はとても弱い。それでも涎を垂らし、鬼気迫った表情で唸り続ける少女を見て、彼は小さく吹き出した。もう片方の手で頭を掴む。

 

 刹那、()()()()()にその手が振り払われた。杳の眼前に、辛うじて人型を留めた――優しい紫色の炎が燃え上がる。風に吹かれて消える寸前の蝋燭のように、その輪郭は危なげに揺らめいていた。

 

「ハズレくじを引いたな」

 

 よろめきながら立ち上がった時、オール・フォー・ワンの嘲り笑う声が、杳の耳朶を打った。彼女の頭は真っ白になった。――今、彼は何と言った?

 

「最後に残るのが”洗脳”とは。僕と戦うなら、君は緑谷出久と仲を深めるべきだった」

 

 頭を思いっきり鈍器で殴られたような感覚が、杳を襲った。苛烈な()()()()()が、小さな心臓を掴んで無茶苦茶にシェイクする。熱くて塩辛い涙が溢れ、食い縛った歯の間を流れた。彼の体から零れ落ちる火花の一つ一つに――試験会場で出会ってから、今まで過ごしてきた記憶の数々が輝きながら現れて、杳の瞳と心を励まし、彩っていく。

 

「何度も救ってくれた。世界で一番、大好きで……強くて、カッコいい、最高の個性だ」

 

 杳は口の中に溜まった血の塊を吐き出すと、ひび割れた声帯を酷使してあらん限りの声を出し、啖呵を切った。

 

「人に依存しなきゃ何もできない……あんたの方が!大ハズレで、最低の……、へなちょこ個性だッ!」

 

 叫び声が余韻を残して消えていく。オール・フォー・ワンの口元から笑みが拭い去られた。彼が左手に力を込めると、その中空に()()()が渦を巻きながら現れる。それは粘度のある液体で激しく沸騰し、不気味に蠢いていた。

 

「そうか。なら共に死ぬといい」

 

 オール・フォー・ワンが指を鳴らした途端、黒い水が()()()()()になって大きく広がり、杳を包み込んだ。すぐさま紫色の炎が杳の上にヴェールのように被さる。視界が闇に閉ざされる寸前、指の隙間からオール・フォー・ワンの邪悪な目が映り、愉快そうに細められた。

 

 数瞬後、紫色の炎は黒い水にかき消され、()()()()()()()()。――そこは、完全な暗闇に支配された世界だった。何も見えない、聴こえない。感覚を総動員させても、何も感じられない。それは感覚の鋭い彼女にとって、精神の均衡を失いかねない危険な場所だった。

 

 オール・フォー・ワンの嘲笑う声が、不気味に反響する。彼は”ワンフォーオール”に触れる事はできない。たとえ紛い物だろうが、()()()()である限り、彼は杳に手出しできない。だから彼は間接的に――外側から強い恐怖と絶望を与えて彼女の心を砕く事で、その残り火を踏み消そうとしていた。

 

「……ッ?!」

 

 突然、杳はどこかから音もなく放たれた銃弾に、腹を撃ち抜かれた。暖かい血が噴出する気配が、感覚器を支配する。杳は痛苦に喘ぎ、脂汗を垂らしながらも必死に風穴を押さえた。その背中を、二発目の銃弾が貫く。だが、量子化の個性を使って治崎の個性を模倣し、治す事はできない。もう彼女の個性は変質してしまっていた。――リセットできない。冷たい恐怖が鉛のようにどろりと重く、杳の心に圧し掛かる。()()()()、生き残れる。死にたくない。怖い。

 

 花壇に咲いた花を丁寧に手折るように、オール・フォー・ワンは少しずつ杳を追い詰めていった。逃れようのない死が近づいてくる。恐怖に発狂しそうな心を、()()()()が慰めた。死の間際に垣間見た、尊い金色の炎の群れ。もう彼女は命を賭して戦うに足る尊い何かを、知ってしまっていた。

 

(諦めないで)

 

 緑谷の声が聴こえる。その声は遠くから聴こえ、杳の頭の中で何度も何度もリフレインした。それは彼女の心を強く鼓舞すると同時に、()()のように縛り付けた。杳が頷いた時、すぐ傍に――長身痩躯の男を(かたど)った炎が現れる。彼は杳の肩に手を置き、西()()()()を指差した。

 

 ふわり、と清らかな花の匂いが鼻腔を掠める。――私は、彼の言う事は信じない。今まで自分を救けてくれた人々の事を信じる。杳は何度も自分に言い聞かせた。お兄ちゃんはあの方角にいる。絶対に諦めない。

 

 杳は呼吸と表情を元の状態に戻し、()()()()()()。ヒーローはいつだって笑顔でいるものだからだ。少しでも明るく聴こえるように声のトーンを調整し、暗闇に向かって語り掛ける。

 

「お兄ちゃん!救けに来たよ!」

 

 兄の名前を呼びながら、杳は西へ向かって飛んだ。――もうこれ以上、彼が不安にならないように。かつて自分にそうしてくれたように。何度も繰り返し、明るい声で呼び続ける。やがて悪辣な忍び笑いと共に、濃厚な死の気配が迫ってきた。それを気丈に振り払い、彼女は話し続ける。

 

「遅くなってごめん!辛かったよね。悔しかったよね……ッ」

(優秀な脳無は執着……つまり、生前の人格の一部を残している場合があってねぇ)

 

 オール・フォー・ワンの言葉が脳裏をよぎり、杳の声が震えた。兄の心はずっと黒霧の中で生きていたのだ。今までどれほど辛く、悲しい想いをしただろう。無念だっただろう。怖かっただろう。寂しかっただろう。それに比べれば、今の自分の痛みや苦しみなんて、何でもない。

 

 西へ行く程に、花の香りは強くなった。杳は涙を振り払い、さらに先へ進む。淡く色付いた蓮の花弁が視界の端を彩り始め、透明な雫が、足下に生えた大きな丸い葉に落ち、つるりと滑って落ちていった。

 

「皆、待ってるよ。お父さんもお母さんも。相澤先生も……マイク先生も」

 

 刹那、杳の肺を白熱した刃が()()()()()()。彼女の口から噴水のように大量の血が噴出する。死を悟った杳の脳は大量の脳内麻薬を分泌し、いよいよ間近に迫った死の恐怖と苦痛の感情を急速に和らげ始めた。――諦めない。それでも、杳は笑おうとした。最後の最後まで。兄と過ごした数年間の記憶が、走馬灯のように目の前を輝きながら彩っていく。彼女は血塗れの手を伸ばし、声にならない声で囁いた。

 

 ……一緒に帰ろう。




ヒロアカ本編、最新刊まで読んだけども…。エンデヴァーさんさぁ…(;_;)いや気持ちめっちゃ分かるところもあるけど、なんかこう…荼毘~(;_;)轟家全員かわいそうやろ!誰かなんとかしてくれ!


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No.67 白雲朧

【No.66のあらすじ】
杳は緑谷の力を借り、オールフォーワンと再戦する。オールフォーワンは兄の個性因子を破壊した為に彼はもう戻らない事を告げる。杳は最後まで諦めず、兄を呼び続けるが…。

※ご注意:作中に残酷な表現、暴言、倫理を問われるような描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 ペンと紙が触れ合う細やかな音で、杳は目を覚ました。しかし、意識を取り戻したはいいが――視線を動かすどころか呼吸一つ、指一本すらも自由に動かす事ができない。

 

 この不可思議な感覚と現象に、杳は覚えがあった。心や体の動き、その一つ一つが、まるで自分のものであるかのように克明に感じられるのに、全てが自由にならない。カブトムシの部屋でトガ達の記憶と同期した時と、状況がよく似ている。

 もし現状がそうだと仮定するならば、自分は今()()の記憶を追体験しているという事になる。――オール・フォー・ワンとの戦いはどうなった?これも彼の術中なのか?杳は混乱しながらも、状況観察を試みた。

 

 ひとまず視野の範囲内で、自分の体――と言っていいかは不明だが――に外傷は見当たらない。そしてここは屋内のようだった。窓が開け放たれているのか、右の方から涼やかな風が吹いて頬を撫でている。物悲しい日暮(ヒグラシ)の鳴き声もする。どうやらこの空間の季節は夏であるらしい。

 自分は先程から机に座って数学の参考書を開き、勉強をしているようだった。参考書の隣には、夏期講習のチラシが広げられている。

 

 やがて杳は、眼前にある勉強机がどこか見覚えのあるものである――という事に気付いた。ニスの剥げ掛けた机面に残された傷や落書き、空色の電気スタンド、読み込まれて手垢の付いた漫画本が備え付けの本棚に乱雑に突っ込まれている。先程から熱心に数式を書き綴っているその手は、大きくてがっしりとしていた。大人に差し掛かった少年の手だ。

 

()ー!ご飯よー!」

 

 階下から若々しい女性の声が聴こえてくる。母の声だと杳はすぐに気づいた。同時に、彼女の思考と呼吸がピタリと止まる。――これは、()()()()だ。

 

 朧は元気良く返事をして参考書の上にシャープペンを投げ出し、チラシを掴んで席を立った。電気スタンドを消す寸前、赤いセロハン式の下敷きが灯りに反射して、彼の顔を映し出した。逆立てた髪に釣り目がちな瞳、いつも快活に笑っている口元。

 ――お兄ちゃんだ。泣き出したいのに、叫びたいのに、杳は何もできなかった。過去の朧の足跡を、ただ影のように追い続ける事しかできない。

 

 朧は階段を降りる途中でふと立ち止まり、チラシを見た。それは杳も通った事のある、雄英高校合格者を多数輩出した有名塾の一つだった。裏返すと、参考書のタイトルも何冊分か書かれている。やがて彼は歩みを再開し、リビングルームの扉を開くなり、明るい歓声を上げた。

 

「今日の晩飯何?……おっ!寿司じゃん!」

 

 ダイニングテーブルには黒い桶の中にずらりと並べられた寿司があった。新鮮な魚の切り身が蛍光灯の光を反射して、てらてらと光っている。朧の好物は寿司だ。出前の寿司なんて、それこそ祝い事や特別なイベントでもない限り食卓には上らない。

 ――何か良い事があったのだろうか。父が昇進したとか?とりとめのない事を考えながら朧が椅子に腰かけると、両親は示し合わせたように互いの目を見た。やがて母が咳払いし、おずおずと口を開く。

 

「……()()()()()ができるの」

 

 朧は湯呑に入った緑茶を盛大に噴き出した。目を白黒させつつ、母の言葉を脳内で反芻する。――”新しい家族”、弟か妹ができるという事だ。両親は少し照れ臭そうに笑いながら、産婦人科院の名前が刷られた封筒を取り出した。そこはかつて朧が取り上げられた病院だった。

 もう朧ももうすぐ高校生だ。コウノトリが子供を運んでくるわけはない事は知っている。彼は気まずさ半分、恥ずかしさ半分といった複雑極まりない表情で、頬をかいた。

 

「なんつーか、親父もおふくろもまだまだ現役?なんだなっつっt――」

(ちゃ)うわぁ!」

「あだあっ!」

 

 すかさず鬼の形相をした母にチョップされた事により、朧は頭を押さえて悶絶した。父が困ったような表情で母を取り成しつつ、封筒から書類を一式取り出し、説明し始める。

 

 ――三ヶ月程前から原因不明の生理不順と吐き気、食欲不振に悩まされていた母は、今日の午前中、かかりつけ医である産婦人科を尋ねた。すると、医師はなんと()()()()()()事を説明。

 父も母もお互いに体の一部を短時間だけ雲化できる個性だったのだが、その個性が偶然暴発し、所謂(いわゆる)――体外受精に酷似した現象を引き起こしたのだという。個性の複雑化・多様化が進む第四世代以降、こういった症例はごく稀にではあるが、存在するとの事だった。幸運だったのは母体が結婚していて、尚且つ父親が夫だった事だ。

 

 もう赤子は受精して数ヶ月になるという。朧は心底驚いて、まじまじと母の腹部を眺めた。だが、膨らんでいる様子はない。それでも母は下腹部を愛おしげにさすり、申し訳なさそうに眉根を下げて息子を見た。

 

「高校入学前にこんな事になってごめんね。あんまり贅沢させてあげられなくなっちゃうけど」

「気にすんなって。赤ちゃんの方が大事じゃん!」

 

 朧は太陽のように快活に笑うと、膝の上に載せていたチラシを握りつぶし、ポケットの中に突っ込んだ。彼の心の中は、金色に輝く期待と喜び、それから一握りの不安でひしめいていた。

 

 朧はずっと一人っ子で、両親の愛情を一心に受けて育ってきた。それなのに突然、十三歳も年が離れた弟か妹ができるというのだ。両親を取られるような寂しさ、新しい家族と仲良くできるかという不安、そして雄英という国内最難関の高校受験を間近に控えたプレッシャー……様々な感情が渦を巻き、彼の心は今にも押し潰されそうに軋み始める。

 だが、少年がそれを両親に悟らせる事はない。いつも通りの明るい表情と調子を保って寿司を食べ切り、一緒に未来の家族へ想いを馳せたのだった。

 

 

 

 

 それから数ヶ月の時が経過した。その間、朧は一度も新しい家族を恨んだり、嫌な感情を向けたりする事はなかった。

 両親も決して朧を蔑ろにしているわけではない。だが、どうしても朧より――未来の子供の方へ焦点が向いてしまいがちだった。その事に負い目を感じているのか、両親は度々、朧に欲しいものがないかどうかを聴いたり、せめてもの償いとしてお小遣いを多めに渡そうとした。だが、彼はそれら全てを断った。

 

「俺はいいって!」

 

 朧はそう言って笑った。嘘偽りのない本心だった。――自分の家は裕福ではない。新しい家族は特殊な性質であるらしく、母は毎日のように病院へ通っていた。治療費が(かさ)んでいるだろうという事は、朧も薄々分かっていた。

 

 未来の子供がいなければ、朧は参考書を買って夏期講習に行き、万全の状態で高校受験に臨めたはずだった。だが、彼はその事に対してマイナスな感情を抱く事はなかった。不安な気持ちよりも、楽しみであるという気持ちの方が大きかったからだ。勉強は自分の努力でカバーできる。節約したお金を未来の弟か妹に使い、少しでも幸せを感じてくれた方が絶対にいい。彼は心からそう思い、迷いなく行動に移せる人間だった。

 

「名前ね……杳にしようと思うの」

 

 やがて臨月を迎えた頃。母はお腹をさすりながらそう言って、柔らかく笑った。だが、彼女の下腹部は少しも膨れていない。――杳の体は子宮内を渦巻く小さな()()()に過ぎず、人の形すら成していなかった。性別どころか、ちゃんと生きている事すら分からない。特殊な精密機械を用いて、医師は日々丹念な生体確認を行っていた。

 今は個性社会――人型ではない者も大勢いる為、杳のようなケースは別段珍しい事ではないのだが、胎児の生体反応があまりに弱すぎるという点に危機感を抱いた医師は、母にある提案をした。

 

「先生が、”名前を呼んであげてください”って」

 

 名前は人を表す魔法の呪文だ。小さな儚い命を繋ぎ止める為、母は毎日名前を呼び、日々の他愛無い出来事を話し続けた。

 その話を聞いた朧はしゃがみ込んで、母の腹にそっと手を当てる。――弟か妹かも分からない。だけどその子は今、弱っている。不安に思っている。自分が未来を漠然と憂いていた事が急につまらなく、そして情けなく思えた。彼は未来の兄弟に向け、不安を吹き飛ばすように明るく笑ってみせる。

 

「杳!俺、楽しみにしてるからな!」

 

 

 

 

 その翌日。いつものように学校で授業を受けていた朧は、青ざめた顔の副担任に呼び出され、急遽早退する運びとなった。――母が破水し、救急車で運び込まれたのだ。

 焦る気持ちを押さえて副担任の運転する車に乗り、両親が待つ病院へ向かう。正面玄関に駆け込むと、父が慌しく手招きして息子を呼び寄せた。看護師の引率に従い、二人は分娩室のドアを開く。自動消毒システムが起動し、ドアの上部からアルコール成分を含んだ白い霧が降りかかった。それが消えると――室内の騒然とした状況が露わになった。

 

「杳ちゃん!杳ちゃん!」

「白雲杳ちゃん!」

 

 ミント色の手術着を着た医師と看護師が数名、天井辺りを見上げて右往左往している。分娩台からも母が必死に手を伸ばしていた。皆一様に慌てふためき、繰り返し杳の名前を呼んでいる。朧が見上げると、手術用のライト付近に――()()()の塊がふわふわと浮いているのが見えた。それは少しずつ濃度を弱め、儚げに震え、薄れていく。まるでこの世界から消え去ろうとしているように。医師が必死の形相で駆けて来て、父と朧の肩を掴んだ。

 

「声をかけてください!このままでは消えてしまう!」

 

 その言葉を聴いた時、朧の呼吸と思考が止まった。寝る前に何度も思い描いた空想が、メリーゴーランドのように脳内を点滅しながら回り始める。――まだ弟か妹かも分かっちゃいない。どんな顔なのか。どんな声をしているのか。どんな風に笑うのか。何が好きで、何が嫌いなのか。まだ何も知らないのに。

 

 朧の心の底をとびっきり熱い感情が突き上げて、年相応の不安と嫉妬の感情を銀河系の彼方へ吹き飛ばした。天井の隅っこで固まり、小さく震えている杳の動きが、まるで怖がって泣いているように見える。彼は靄の真下に駆け寄ると、大きな声で叫んだ。

 

「杳!兄ちゃんだ!こっちだ!」

 

 手を伸ばして、何度も名前を呼ぶ。もうこれ以上不安にならないように、笑ってみせる。すると、靄は力尽きるように彼の両手の上に舞い降りた。中から鈍色の雲がモクモクと湧き出した。それをそっと払い退けると――中から()()()()()()が姿を現した。しわしわの肉の塊はくしゃっと顔を歪め、朧の手の中で弱々しく泣き出した。

 

 ――この時の感動を、朧は明確な言葉で表現する事ができなかった。

 

 暖かく脈打つ小さな命を感じた時、彼の頭は真っ白になった。分かっているのは、これから先の人生、自分の傍にずっとこの子がいるんだという事。そしてベッドで毎晩寝る前に考えたり、勉強の合間に考えていた事は――空想ではなくて()()()()()()だったという事。

 

 小さな泣き声を聴く度に、ただ訳もなく胸が揺すぶられ、蕩けるように熱い涙が溢れた。守るんだ。この子のヒーローになる。力強くシンプルなその想いが心の中を循環する。震えながら伸ばされた小さな手を、彼は夢中で取って包み込んだ。

 

「大丈夫だからな。兄ちゃんが、守ってやる……ッ」

 

 玩具みたいに小さくてふにゃふにゃした手の感触が、朧を通して伝わって来る。刹那、杳は思い出した。――物心つく頃には忘れてしまっていた、本当の自分の()()を。

 

 

 

 

 ――私は生まれた瞬間(とき)から臆病だった。

 外の世界が怖くてたまらなくて、このまま消えてしまおうと思った。

 

 その時、誰かの声を聴いた。

 

 生きる事を()()()()ような気がした。

 

 その人は私を見て、手を伸ばして、暖かい笑顔で、何度も同じ言葉を叫ぶ。

 

 もっと近くに行きたいと思った。

 同じ形になりたいと思った。

 一緒に生きたいと思った。

 

 だから、私は()になった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 誰かの泣きじゃくる声で、杳は目を覚ました。自分の泣き声だ。とめどない流涙が頬を伝って落ち、真っ暗な地面に吸い込まれていく。杳は再び、オール・フォー・ワンの創り出した亜空間に戻っていた。

 だが、()()()()()()。暖かくて陽だまりの匂いのする両腕が、後ろから自分を抱き締めていた。大量に血を失った事で冷え切った体が、あっという間に暖められていく。春の日差しが名残雪を融かしていくように、心が明るい色に染め上げられていく。

 

「……こんなところまで、救けに来てくれたのか」

 

 優しくて、切なげに震える声が、杳の耳朶を打った。それは十三年もの間、ずっとずっと待ち望んでいた声であり、今日まで少しも色褪せる事なく自分を支え続けてくれた声でもあった。彼は自分の頬を杳の頬にすり寄せる。その頬は濡れていた。――彼もまた、泣いていたのだ。

 

「大きくなったな。杳」

「……うええっ……えええええぇっ……」

 

 自分の心を押さえ付けていた重圧や悲しみ、全てのマイナスな感情が――全部、バチンと弾け飛んだように思われた。積年の想いが一気に込み上げて来て、杳は顔をぐしゃぐしゃに歪め、生まれたての赤子のように大声で泣き出した。

 ――お兄ちゃんの魂は消えていなかった。ここにあったんだ。私を救けてくれた。本当に良かった。茫然自失状態になって泣きじゃくっていると、集中が途切れたのか少女の輪郭が大きく揺らぎ始めた。朧は慌てて杳を強く抱き締め、大型犬にするようにわしわしと頭を撫でる。

 

「わかったわかった!あともうちょっと頑張ろう!な!……一緒に倒すんだ」

 

 静かな闘志と覚悟が秘められた兄の声に、杳の涙と鼻水は引っ込んだ。おずおずと振り返ると、朧が真摯な表情で頭上を見上げている。気が遠くなるほどの距離を隔てた上空に、()()()()()を感じた。恐らくここはオール・フォー・ワンの手も届かない――心の最深部に当たる場所なのだろう。

 

 あそこまで戻るのは正直、骨が折れそうだった。もう力もほとんど残っていない。けれども、兄がいるだけで、杳は勇気と力が無尽蔵に湧いてくるような気がした。個性は想いの力に強く影響される。杳が拳を強く握って力を込めると、指の間から()()()()()がわずかに迸った。ゼロになったわけじゃない。まだ少し残ってる。()()()。杳は希望と決意を漲らせ、兄に頷いた。

 

「お兄ちゃん。一緒に帰ろう。皆、待ってるよ」

 

 ――朧は応えなかった。杳の心に漠然とした不安がよぎる。カブトムシの部屋で見た、罪の記憶が脳裏を掠めた。

 

 刹那、不可視の衝撃波が頭上から隕石のように降り注ぐ。オール・フォー・ワンの攻撃だ。とっさに朧が杳を庇ったその時、彼の体から()()()()が噴き出した。やがてそれは一人のヒーローを(かたど)り、襲い来る衝撃波を力強いSMASHの一撃で打ち返す。

 

「もう大丈夫。私が来た」

 

 ()()()()()()だ。だが、彼はコスチュームを身に付けておらず、骨ばった長身痩躯をシンプルな衣服で包んでいた。垂れ下がった二本の角を透かして、不滅の輝きを宿した碧眼が二人を見つめている。――あの力は緑谷くんから()()()借り受けたものだ。何故、兄の体から出てきてくれたんだろう?杳が不思議そうに見つめていると、オールマイトは筋張った傷だらけの手で二人の肩を掴んだ。そして優しく、力強く笑ってみせる。

 

力の一部(のこりび)を預かっておいたのさ。……さあ、行こう」

 

 オールマイトは緑谷から()()()()()()力の一部を預かり、朧さえも(あずか)り知らない内にその弱った魂を――妹と再会を果たせるまでに――修復してくれていたのだった。突如として、オールマイトの全身が()()()()に変化した。やがてそれは一対の翼になり、寄り添い合う兄妹の背中に一(よく)ずつ、広がった。

 二人は迷いのない眼差しで頭上を睨み、互いの手を繋いで固く握る。――もう二度と離す事のないように。数秒後、両の翼は大きく羽ばたき、二人の体は勢い良く上空へと舞い上がった。

 

偽物(イミテーション)にしがみついて、満足か?」

 

 刹那、冷たい哄笑と共に、精緻なハニカム構造を成したエネルギーシールドが()()()()された。あれに触れたら、粉々になってしまう。杳が思わず身構えたその時、兄の手が安心させるように握る力を強めた。

 ――ああ、本物なんだ。杳は漠然とそう感じた。人は死んで終わりなんかじゃない。寂しくなる必要なんてなかった。見えなくなっただけで、本当はずっと心の傍にいたんだ。ガチガチと震える歯の根を伝って、透明な滴がいくつも零れ落ちていく。

 

 次の瞬間、二人が固く繋いだ手の隙間から――モクモクと白い雲が噴き出して、丸太ほどもある()()()へ姿を変えた。危なげに揺らめいた杳の体を朧が支え、巨大な柄にもう片方の手を置く。途端に柄から虹色の炎が(ほとばし)り、悪を滅する仏具である()()()()()へ昇華した。

 

 七色に輝く切っ先がエネルギーシールドに触れた瞬間、それは頑強な多重防壁を易々と貫いて、破壊した。だが、粉々になったエネルギーの破片は消える事なく蠢き、やがて鋭い槍の形状を成して、四方八方から二人に襲い掛かった。

 しかし、それは二人に触れる事なく()()()()。特徴的な低音が、杳の鼓膜に染み入った。

 

「延命させる」

 

 視界の端で、オールマイトを模した虹色の炎が消え、中から一人の青年が現れる。()()だ。彼のサポートにより、倶利伽羅剣はますます太く長くなった。杳と朧は渾身の力で大剣を振りかぶり、()()()()()()()。けたたましい硬質音が辺り一帯に響き渡り、何もない空間に――蜘蛛の巣状に無数の(ひび)が走っていく。

 

 それが割り砕かれたと同時に、杳達は外の世界へ飛び出した。眩い光を目を細めてやり過ごすと、心底呆れた表情のオール・フォー・ワンが三人を出迎える。だが、彼は不思議な事に――剣を振りかぶった杳達を前にしても反撃する様子を見せず、ただ静かな声でこう尋ねた。

 

「死体を救って何になる?」

 

 その問いは、杳の逆鱗を穿(うが)った。この期に及んで、こんな事しか言えないのか。全身が沸き立つ程の怒りの感情を全て、握った大剣に込める。虹色の炎は最期の輝きをますます強くさせ、眩いばかりに白い火花を散らし、轟々と燃え盛った。

 

「それが分からないから、あんたは私に負けるんだ!」

 

 杳は朧、そして治崎と力を合わせ、大きく振りかぶった倶利伽羅剣をオール・フォー・ワンに()()()()()。彼が相殺する為に放った衝撃反転の個性をも凌駕して捻じ伏せ、虹色に煌めく刃は彼の体に深く突き刺さり――その強靭な体躯を真っ二つに引き裂いた。

 

「お兄ちゃんを返せ!オール・フォー・ワン!」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 同時刻、第二タルタロスにて。黒霧の靄が不意に()()()()()()()()。相澤とマイクは固唾を飲んで、分厚いガラス壁に手を押し当てる。靄は内側から膨れ上がったかと思うと、虹色の輝きを放ちながら真っ二つに割れた。その隙間から少女と青年が飛び出して、霜の張った床に転げ落ちる。

 

 二人の体は虹色の炎に包まれており、床に触れた瞬間、炎と接触した霜が沸騰して――辺り一帯を水蒸気のヴェールが包み込んだ。

 

 杳も治崎も満身創痍で、今にも意識がなくなりそうな状態だった。もう指先一本動かせない。このまま冷たい床に伏せて寝てしまいたいと、杳が心からそう思った瞬間――治崎が逼迫した声でがなり立てた。

 

()()()ッ!」

 

 その声を聴いた時、杳の背筋を戦慄が駆け抜けた。それは壊れかけた彼女の知覚能力が発動した――()()()()()だった。杳は渾身の力を振り絞って顔を持ち上げ、前方を見る。

 

 乳白色のヴェールを透かして、黒霧の靄が()()()()のような形状に変化しているのが確認できた。そしてそれらの切っ先は全て、()()()()に向けられていた。自害しようとしている。杳はボロボロの体に鞭打って、立ち上がろうとした。だが、液状化した床の上で滑り、無様に転んでしまう。彼女の眼前で、黒霧が自らの命を絶とうとした、その時――

 

 ――全ての()()()()()。ガラス越しに見える相澤の瞳が、赤く輝いている。黒霧の金色の瞳が、相澤を見た。その瞳に映ったものを、彼は生涯忘れる事はないだろう。怒り、悲しみ、絶望、裏切り……あらゆる負の感情が詰め込まれた()()()()が、その奥に渦巻いていた。あまりの苛烈さに息をする事さえ忘れて、相澤はただ一心に友の目を見つめ返した。

 

 数秒後、杳が黒霧の首っ玉に抱き着いた事で、二人の繋がりは途絶える。杳は戸惑うように身じろぎする兄にますます強くしがみ付き、必死で言葉を連ねた。

 

「こんなこと、言って、どうしようもないの、分かってる。でも……ッ」

 

 兄の体が震えているのに気づき、杳は声を失った。自分は黒霧には、兄にはなれない。彼の罪を被ってやる事もできない。痛みを知る事もできない。自分如きの慰めや励ましの言葉が、彼の心に一体何を(もたら)すというのだろう。

 

 だけど、ただ、生きていてほしかった。結局、自分のした事は――最初から最後まで()()()()()だったのだ。その事をまざまざと思い知らされ、杳は血が滲む程に唇を噛み締めた。それでも、彼女は兄から離れる事はできなかった。

 

 正しい事って一体何だろう。自分のしてる事は間違ってるのだろうか。何も分からない。ただ分かっているのは……自分が恐ろしくて、汚くて、悍ましくて、どうしようもない人間だっていう事だけだ。それでも――

 

「死なないで。()()()()()

 

 杳の流した涙が黒霧の靄の中へ、ポツポツと滴り落ちていく。やがてそれは心の奥深くへ浸透し、オール・フォー・ワンが彼に植え付けた――悪魔の鏡の欠片を融かしていった。

 ――生温い水が一滴、杳の頬を伝う。そっと拭うと指先に灰色の液体が付着し、血と油の匂いが彼女の鼻腔を突いた。それは、黒霧の流した()だった。彼は小さな妹を静かに抱き寄せ、ゆっくりと口を開く。

 

「……貴方は」

 

 とても不思議な声だった。落ち着いた黒霧の声と明るい朧の声が混じり合ったような――大人と少年の中間を思わせる、不可思議な(トーン)だ。

 

「なんと、残酷な事を言う」

 

 その言葉を聴いた途端、杳の全ての感情が()()()()。彼女は兄に縋りつき、あらん限りの声を上げてわんわんと泣きじゃくった。やがて頑丈な金属扉の開かれる音がして、力強い両腕が二人分、兄妹を包み込んだ。――相澤とマイクだ。相澤達はただ黙って二人を抱擁した。黒霧は顔を上げ、旧友達を見上げる。そして朧によく似た声で小さく笑った。

 

「……カバー、してくれて。ありがとな」

「お互い様だろ」

 

 相澤は泣きたくなるくらいに優しい笑みを口元に浮かべた。そのすぐ脇を()()()()が流れ落ちていく。マイクは勢い良く顔を上げてそっくり返り、瞳に溜まった涙を吹き飛ばした。

 

 

 

 

 それから、さらに数時間後。黒霧は戻ってきた医療班により、丹念な治療と精密検査を受けた。

 ――黒霧の個性因子はズタズタに破壊されており、ワープゲートは二度と使用できない状態になっていた。加えて、オール・フォー・ワンに関する情報のほとんどが脳内から削除されていて、失われた記憶を取り戻すには長い時間が掛かる事が予想された。恐らくウイルスが破壊された時、()()()()ように仕向けたのだろう。

 

 今の()は朧と黒霧、二つの人格が両立している不安定な精神状態だった。精神科医は時間が経過するにつれ、()()()()()吸収・統合されていくだろうという推測を立てた。どちらの人格が消えるのか。それとも両方が統合された人格になるのか。それは、彼自身と時間が決める事だった。

 

 朧の人格が蘇っても、黒霧の罪は消えない。改めて彼はタルタロスの独房に移され、残りの刑期を過ごす事となった。

 黒霧の対処が終われば、今度は杳と治崎の番だ。かくしてタルタロスの会議室で二度目の緊急会議が開かれ、結論を出した警視総監と塚内警部が、黒霧の独房にいる杳の下へ足を運ぶ。そして独房に入るなり、彼らは一様に口をぽかんと開け放つ事態となった。

 

「やだああああっ!」

 

 天井に備え付けられたスピーカーから、(つんざ)くような悲鳴が響き渡る。分厚いガラス壁の向こうで――まるで子泣き爺のように――杳が黒霧にしがみ付いて、けたたましく泣き叫んでいた。その両隣では、相澤とマイクが疲労困憊した表情で様子を伺っていた。鼻水と涙でベタベタに汚れた顔を気にも留めず、彼女は激しく(かぶり)を振る。

 

「ここで一緒に暮らすううう!暮らすんだもおおおん!」

「宿屋じゃねぇんだタルタロスは」

「帰りにアイス買ってやっから。なっ?帰るぞー」

「やあああああっ!」

 

 至近距離で放たれた駄々っ子シャウトがマイクの耳を直撃し、彼は思わず耳を押さえてしゃがみ込んだ。黒霧の体内での死闘、そして兄が還ってきた事による安堵――という両極端な感情の相転移に晒された事で、彼女は一時的な()()退()()を引き起こしていた。やがて埒が明かないと思ったのか、黒霧の中から朧の人格が顔を出し、とびっきりの優しい声で説得し始める。

 

「杳。俺なら大丈夫だk――」

「さっき死のうとしてたもんっ!」

 

 鬼の形相で杳が叫んだ。朧は痛いところを突かれ、黙り込む。最早進退窮まったその時、スピーカーから警視総監の静かな声が降ってきた。

 

「白雲杳。……先の君の働きを評価し、暫定敵を解除する運びとなった」

 

 その言葉に過剰反応を示したのは、杳以外の全員だった。死に直面した時、人の本性は露呈する。杳は命を賭けて死地に飛び込む事で自らの潔白を証明し、自身を暫定敵として縛り付けるよりも、ヒーローとして動かした方が有用性と利用価値がある――と社会に示してみせたのだ。

 杳が敵連合と繋がりがある事に変わりはない。暫定敵という名目がなくなっただけで、彼女の監視は秘密裏に続けられるのだろうが、一先ずは肩の荷が下りた心地だった。相澤とマイクは大きく息を吐き、黒霧は杳の頭を撫でる。

 

「公にはできないが、報奨金もある。君に渡したいから、出て来てはくれないか」

 

 だが、杳は()()()だった。――今の彼女にとって、そんな事はどうでもいい事だった。タルタロスは面会も原則禁じられていると、犯罪心理学でミッドナイトが説明していた。この独房を出たら最後、もう二度と会えなくなるかもしれないのだ。杳はますます兄に抱き着いた。しばらくの沈黙の後、警視総監は再び言葉を放った。

 

「月に一回、黒霧との面会を許可する」

 

 警視総監が提示したのは()()()()()だったが、杳はそれでも首を縦に振らなかった。少女の白髪と目の下に刻まれた黒い隈が、大人達の良心をズタズタに痛めつける。やがて咳払いを一つして、警視総監は苦み走った顔を少女へ向けた。

 

「二週間に一回」

「……」

 

 杳の涙が止まった。黒霧が訝しんで覗き込むと、彼女は小さくしゃくり上げながら、()()()()()()()()。子供特有のずる賢い輝きが、その顔に宿っている。

 

「……一週間に一回」

()()()()

「いい加減にしろ」

 

 すかさず人差し指を立てて交渉し始めた杳を、捕縛布が音もなく捕えて絡め取る。かくして相澤は泣き喚く生徒を自身の背中に縛り付け、諸手続きの為に強制連行していったのであった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 治崎は黒霧救出の功績を認められ、八斎會一派と共に、内閣公認の()()()の手続きを受けた。ただし、全員ではない。規則を破った時のデメリットが大きすぎる為、仮初めの自由を謳歌するよりは、刑務所で刑期が終わるのを待つ方が安全であるとして――半数以上の者は刑務所に留まった。

 

 かくして佐伯や嘘田、入中を始めとした古参者、そして治崎を始めとする八斎衆の全員が、透明な首吊り縄を首に巻き付けて、外の空気を謳歌する次第となったのだった。

 

 元々の棲家である屋敷は灰燼と帰している上に、警察が取り押さえていて戻る事はできない。国は彼らの住まいとして、警察本庁に比較的近い場所にある()()()を貸与した。

 恐らく前世紀に建てられたものであろう年代物だ。外壁には目立つ(ひび)がいくつも走り、内部には至る所に監視カメラやセンサーの類がびっしりと付けられている。――治崎達の動向を探る為だ。住めば都と言い切るには、なかなか厳しいものがあった。

 

 

 

 

 兎にも角にも、彼らが新天地で暮らし始め、三日後。

 ――どうして、こんなことになったんだろう。()は小さな体をさらに縮こまらせ、かっぱ巻きを口に押し込んだ。

 

 事の始まりは、()()からの一本の電話だった。一家揃って放免祝いをするというので、客人として招かれたのだ。――何故、自分が?杳の頭に巨大な疑問符が浮かんだ。恨まれこそすれ、宴に呼ばれるような事は絶対にないはずだ。杳は断ろうとしたが、玄野は頑として退かなかった。

 

 ビルの入り口に着いた瞬間、佐伯と嘘田は玄関先に(ひざまず)き、懇切丁寧な感謝の言葉を捧げてくれた。だが、それ以外の全員は、冷たい怒りと拒絶の態度を見せた。

 少女を救う為とは言え、断りなく彼らの人生を奪った事に変わりはない。だから、杳は挨拶もそこそこに帰ろうとした。だが、そうはいかなかった。すでに自分の為に席が用意されていて、細やかではあるがご馳走もあった。そして、宴という名の地獄が始まったのであった。

 

 

 

 

 佐伯達の暮らすビルの三階には二十畳ほどの広々とした和室があり、杳は今、そこにいた。広大な座敷には座布団と膳が並べられ、出前で取ったらしい寿司や酒、つまみの類が中央に広げられていた。その周りでは酒に酔って顔を赤らめた大人達が賑やかに会話している。皆、露出した腕や背中に入れ墨があり、揃って和服かスーツ姿で、おまけに険のある顔つきをしていた。その中にポツンと紛れ込んだ杳は、明らかに悪目立ちしていた。

 

 座敷の中央では大きな桶に沢山の寿司が並び、各自が好きなものを取る形式になっている。杳はわさびが食べられない為、それの入っていないかっぱ巻きとおしんこ巻きばかりを口にしていた。先程から目を爛々と輝かせ、杳に近づこうとする活瓶を、天蓋が必死に押し留めている。

 

 ちらりと末端の席に目をやると、窃野と宝生、多部の三名が時折こちらに視線を投げかけながら、酒を飲んでいた。ちなみに治崎は自分の顔を見るなり、気分を害したのか席を外していた。――本当は訊きたい事もあったのだが、共に戦ってくれたお礼を言う隙すらない。気まずい事、この上なかった。なるべく気配を消して食事に専念し、時が過ぎ去るのを切実に待っていると、杳の皿にトロの握りといくら軍艦が放り込まれた。

 

「オイ、()()()()()!」

 

 アルコールの強い匂いが、杳の鼻腔を刺激する。()()だった。ワンカップ酒を力強く握り締め、すわった目でこちらを睨んでいる。――ちなみに”ごんぎつね”とは、杳の事を指しているらしい。何故そう呼ぶのか訊いたところ、葉っぱやどんぐりをせっせと送り続ける姿が、日本昔話に登場する”ごんきつね”を彷彿とさせたからだと入中は言い、周りの皆は大いに笑っていた。

 

「若いモンが脂っこいネタ食わねえでどーすんだッ!あぁ?!」

 

 ――早く帰りたい。杳は切実にそう思った。おまけに、この会話は()()()だ。だが、馬鹿正直に入中に進言しては痛い目を見る。酔っ払いに逆らうとろくなことがない。彼女はこの数時間で、嫌と言うほどそれを思い知っていた。杳はじりじりと壁際に後退すると、蚊の鳴くような声で口を開く。

 

「いや、あの。わさび入ってるので、食べられn――」

「わさびの部分だけ取りゃあいいだろうが」

「取っても辛いの残ってるんです」

「甘えんじゃねーぞコラァ!」

「ひいぃっ」

「入中ァ!」

 

 すかさず佐伯の怒号が飛ぶ。ちなみに、この流れも三度目だった。佐伯が入中を押さえてくれている間に、杳はそそくさと戦線離脱した。上階にあるトイレで用を足した後、屋上へ繋がるドアが開け放たれている事に気付く。

 

 杳はそっと周囲を見渡して人の気配がない事を確認してから、おっかなびっくり外に出た。――濃紺色のビロードのような夜空に、銀色の星が散っている。周囲の建物が放つ灯りのせいか、星は少しだけしか見えなかった。涼しい秋風が吹いて、頬を撫でていく。屋上の錆び付いたフェンスに両手を掛けて、ぼんやりとそれを眺めていると、隣から()()の声がした。

 

「すいやせんね。騒がしくて」

「……玄野さん」

 

 矢印型の髪を一房耳に掛け、玄野はワンカップ酒を一口含んだ。表情の希薄が元々乏しいのか、彼は会った時からずっと無表情だった。――やはり断るべきだったのだと、杳は唇を噛んだ。恐らく彼は()()()()()で、渋々自分を誘ってくれたのだろう。自分を逮捕した者が宴に来たら、楽しい気分が台無しになるに違いない。

 

 ――入中達が向けている不器用な想いを汲み取るには、杳はまだ若かった。玄野はその行き違いに気付いてはいたが、フォローするつもりなどなかった。自分達を逮捕した事に対する意趣返しだ。それよりも、彼には訊きたい事があった。

 

「あの手紙の意図は?」

 

 それは純粋な疑問だった。杳は言葉に窮して、考え込む。玄野の薄氷色の目と、灰色の瞳がしばらくの間、交錯した。

 

 言葉を交わさなければ、人は他人を理解する事はできない。だが同時に、物に込められた想いが伝わるという事例もある。――もし葉っぱを送っていなければ、二人は今、ここにいないかもしれなかった。杳は深呼吸した後、未熟な心の内を話して聞かせた。つまるところ、自分のせいで刑務所に入る事になった敵達を、どうケアしていいか分からなかったのだ。隈をなぞり、視線をあてどなく彷徨わせ、彼女は言葉を続ける。

 

「話をしたくて。でも、きっと怒ってるだろうと思ったから……どういう言葉を掛けたらいいか、分からなかったんです」

 

 杳が口を閉じると、二人の間を宵闇色の夜風が駆け抜けた。数秒後、玄野は肩を震わせて()()()()()。呆気に取られる杳を尻目に、彼はよほどツボに入ったのか、フェンスに額を押し付けて笑い続けている。

 

 ――”怒っている”?そんなレベルじゃない。殺されても可笑しくない位だ。全く、とんでもない奴に目を付けられた。自分達の運の悪さに、玄野はほとほと呆れ果てた。刑務所で毎日、葉っぱを片手に悩んでいた時間が心底馬鹿らしく思える。

 生温いカップ酒を傾けていると、ふと視線を感じて玄野は目線を下げ、また吹き出した。怒られた犬が飼い主に許しを乞うような、頼りなく弱気な表情を少女がしていたからだ。

 

「……返事を返さなかったのは」

 

 久し振りにアルコールを摂取したからか、玄野は優しい気持ちになった。静かに口を開く。

 

「葉っぱがなかったからです」

 

 二人の頭上を、監視用ドローンが飛び去って行く。その様子を視界の端に収め、玄野はカップ酒の残りを一息に飲み干した。街のネオンにガラス瓶を透かしてみると、その向こうに――かつて過ごした日々が輝きながら現れるような気がした。

 

 野望も富も誇りも、恐怖と憎悪に満ちた日々も全て、何もかもなくなった。もう二度とあの日には戻れない。これから自分達を待っているのは、いつ終わるとも知れない――暗鬱とした、貧しく窮屈な日々だ。任侠の誇りを持つ彼らにとって、政府や警察の犬となるのは非常に屈辱的なものだった。だからこそ、組の半数以上は戻る事を止めたのだ。

 

「シャバには出れやしたが。……みじめなもんですよ」

 

 つい、ぽろりと愚痴が零れた。口に出してしまったものは元に戻らない。ふと()()()()を感じて玄野は顔を下げ、大きく息を飲んだ。あまりに真摯な瞳で、少女がこちらを見ていたからだ。

 

「みじめじゃないです」

 

 はっきりと力強く、少女はそう言った。その表情と声のひたむきさに、玄野は深く胸を打たれた。玄野が茫然と見守る中、少女はやけに(かしこ)まった表情で――今度は月を見て、もう一度同じ言葉を噛み締めるように言った。彼は三度、笑いのツボを押される事となる。

 

「なんで二回言ったんですか」

「大事な事なので」

「……大事な事、ねぇ」

 

 玄野は喉の奥でくつくつと笑った。こんなに笑ったのは本当に久しぶりだった。――刹那、階段を駆け上がる忙しない足音が数人分、聴こえてくる。次いで、甘くて素朴な芋の香りが二人の鼻腔を掠めた。焼き芋の匂いだ。細長い銀の包みを両手いっぱいに抱えて、入中と嘘田が屋上の出入口から顔を覗かせた。

 

「焼き芋作ったんだが、食べるか?」

「でっかいのくださいよ」

 

 玄野がそう強請ると、入中は鼻で笑った。

 

「甘えんな。でっかいのは()()の分って……昔から相場が決まってんだよォッ!」

「のわあああっ!」

 

 入中が振りかぶって剛速球で投げた銀の包みを、杳は必死で受け止めた。――焼き芋は少し時間を置いたのか、ちょうど良い温度で熱くない。アルミホイルを剥くと、中から紫色のさつま芋が姿を現した。焼き芋を食べるのなんて、本当に久しぶりだ。杳は芋を二つに割ると、大口を開けてかぶりつき、蕩けるように甘くねっとりとした実に舌鼓を打った。

 

「おいしいです」

「ったりめーだろーが!舐めんじゃねーぞ畜生がッ」

「照れんなよ」

「照れてねーよ!!」

 

 悪態を吐きながらそっぽを向く入中を嘘田がすかさず揶揄(からか)い、入中はムキになって突っかかる。その様子を、焼き芋を頬張りながら玄野が穏やかな眼差しで見つめていた。ビルの中からは、相変わらず賑やかな男達の声が聴こえている。

 

 杳はその和やかな雰囲気に、心の底から救われた。”何もかもが変わっても、それで全部が終わりになるわけじゃない”と、彼らから教えてもらったような気がしたからだ。タルタロスにいる兄の事を思い浮かべる。――いつかこんな風に、一緒に笑い合えるよう頑張ろう。杳は宴から帰る時、入中から焼き芋を山ほど貰い、リュック一杯に詰め込んだ。

 

 

 

 

 その翌日、タルタロス・B-09にて。黒霧が拘束椅子に座って目を閉じていると、天井に備え付けられたスピーカーから冷たい声が降ってきた。

 

「……食事はできるか?」

「必要はありませんが、胃に備えた器官はありますので真似事であれば」

 

 ――自分が食物エネルギー摂取を必要としないのは周知の事実である筈なのに、今更何を言っているのだろう。訝しみながらも黒霧が応えると、刑務官はちょっと気まずそうに咳払いした後、こう言った。

 

「君の妹から、()()()を預かっている」




これにて6期終了となります!皆様、お付き合い頂き、本当にありがとうございました( ;∀;)お疲れ様でございました…。
次話でおまけ回①(オールフォーワンとヨウとの再会少し+ヒトシとヨウが打ち上げする話)と、おまけ回②を書く予定です。
5期に引き続き、色々と悩みながら書いた感じでした。今の社会で黒霧を救うにはこの方法しか思い浮かばなかったです…。

アンケートにご協力いただきまして、本当にありがとうございました( ;∀;)ラーメン回以外の話も余裕があれば書きたいと思います。

最後となりますが…いつもこのSSに目を通してくださり、感想や評価、ご指摘、誤字指摘等くださりまして、本当に本当にありがとうございます!7期も少し遅れるかもですが、更新がんばります!


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No.68 舞台裏

【No.67のあらすじ】
杳と治崎は朧の意識と共に、現実世界へ帰還した。自害しようとする朧を止め、生きてと願う。

※ご注意:作中に残酷な表現、暴言、倫理を問われるような描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳と治崎の帰還後。上層部で緊急会議が開かれ、二人の処遇が正式決定された。暫定敵の解除、そして国際法における更生敵の認定という結論が、()()()()()()()内に下される。

 確かに彼らは使命を果たした。だが、それで冒した罪までも帳消しになる事はないというのが現代社会のセオリーだ。上層部の決断は明らかに異常だった。

 

 敵更生を今日まで頑なに拒んできた日本が、いきなりその考えを翻すとは思えない。何か別の思惑があるはず。緊急召喚されていた()は沈んだ顔で、艶やかな髪を一房、耳に掛けた。

 

 

 

 

 事件終了後、逮捕されるだろう杳の為に、真は水面下で準備を進めていた。敵更生法だって、あれほど導入を嫌がっていた日本政府がすんなり受け入れるとは思えない。その後押しと誘導もしておきたかったのだ。

 

 しかし、予想は外れた。真は早々にお役御免となり、帰路に着く事となった。その表情には拭う事のできない陰りが差している。――嫌な予感がする。本当はここに留まっていたいが、彼女の本拠地(ホーム)はアメリカだ。自由の国では現在進行形で、腐るほど大量の敵が湧き続けている。解決した事件に縋っている時間はなかった。

 

 直正は妹を労い、フェリー乗り場まで見送る事とした。真は何も喋らず、乳白色の霧中を黙々と歩く。明るくお喋りな彼女にしては珍しい事だった。だが、直正はその事を不審には思わなかった。彼もまた、同じ事を思っていたからだ。

 

 やがて二人は簡素な造りの係留施設へ到達した。白く煙った海岸の向こうに目を凝らしても、本島どころかタルタロスの輪郭すら見えない。打ち寄せる波がコンクリートの壁に当たり、白い泡を散らして消えていく。

 

 突然、直正は大きく息を詰めた。淡い白のヴェールを突き破り、誰かが自分の手を掴んだからだ。――真だった。

 

「お兄ちゃんは、本当に何も知らないのよね?」

「……」

 

 ――()()()()()()()()()。直正は顔をしかめ、真を見つめ返した。朧げに霞んだ妹の顔は、はっきりとした疑念と怒りに満ちている。

 

 真の気持ちは分かると、直正は思った。杳達の待遇は明らかに異様だった。オールマイトがたった一人で全てを変えたように――社会が再編される先触れだと捉えるべきなのか、それとも。互いの瞳が、静かに交錯する。

 

「俺の知る範囲では、知らない」

 

 真偽の判定は、”(TRUTH)”。真は溜息を零し、ゆっくりと手を離した。”俺の知る範囲では”――随分と思わせぶりな発言だと、直正は思う。だが、自分の(あずか)り知らない場所で何かが起きている事は事実だった。その場所で起きた事が彼らを自由の身にさせ、真を追い払ったのだ。真もそれを分かっている。

 

 そうこうする内に、霧の向こうから亡霊のような汽笛が聴こえてきた。帰りの船が近づいている。真は拳を強く握り、振り返った。第二タルタロスの輪郭がぼんやりと霞んでいる。先程からずっと胸騒ぎがする。だが、居ても立っても居られないという程じゃない。その絶妙な感覚が、今に至るまで彼女を苦しめていた。

 

 ――パターンが似ている。社会の歯車となる為に利用され、壊されてしまった者達と。彼らは皆、誰の手も届かない――あまりに狭くて深い場所に入り込んでいた。迫り来る機械に押し潰されて圧死していく彼らの断末魔を、真は今まで何度も耳にしてきた。だが、彼女には杳の他にも守らねばならないものがある。漠然とした理由だけで、杳一人に掛かり切りになるわけにはいかなかった。

 

「真」

 

 フェリー船のタラップを上がる直前、直正が静かに名前を呼んだ。不安に揺れる真の瞳をしっかりと見つめ、彼は決意の籠もった声を放つ。

 

「生贄にはさせない」

 

 真は笑った。静かに、穏やかに、凛とした顔立ちを歪ませて、笑う。彼女は右手を虚空に差し出し、小指を立てて揺らしてみせた。

 

「……約束よ。お兄ちゃん」

 

 

 

 

 それから一時間後。杳は再び、B-10へ向かっていた。――何の意図があっての事かは不明だが、オール・フォー・ワンが()()()()()()為だ。特殊加工を施された部屋は音の全てを跳ね返し、無数のセンサーが入り乱れる事で生まれた波が、杳の肌に突き刺さる。だが、もう彼女の心には恐怖も痛苦も、何もなかった。

 

 しばらくして白く曇っていたガラスが透明化し、その向こう側を映し出す。拘束椅子に取り篭められた状態で、当然のように()がいた。天井に突き刺さった銃火器の群れを眷属のように引き連れて。不可視の目で杳を見つけると、彼は大袈裟に身じろぎして驚いてみせた。

 

「おめでとう!ああ、拍手ができなくてもどかしいな……君は成功を果たしたんだね」

「……怒って、いないんですか?」

「何を怒る必要がある?」

 

 オール・フォー・ワンは医療用マスクの奥でくぐもった笑い声を上げ、肩を竦めた。ベルベットのように柔らかい声が、杳の心を優しく愛撫する。

 

「君はよく頑張った。ヒーローとして、愛する兄を()()()んだ」

 

 その言葉は、杳に()()()()を思い出させた。――現実世界に戻るなり自害しようとした黒霧の姿が、眼前で笑う巨悪の姿に重なって見える。

 個性を使えなくなり、記憶もほとんどなくなってしまう程に心身を破壊されて。兄の意識が蘇った状態で、残りの刑期を過ごす事になって。死刑だっていつ実行されるか分からない。そんな状態を、果たして救ったと言えるのか。よくそんな事が言えるな。激情に任せて怒鳴りつけようと息を吸い込んだその時、杳の胸の奥がズキンと痛んだ。

 

 全ての原因をオール・フォー・ワン一人に(なす)り付ける事はできない。だって、兄にとどめを刺したのは()だ。死ぬ事で救われようとした彼を、無理矢理引き留めたのだから。杳の瞳を支配していた憎悪と怒りが、静かに消えていく。その彼女の内心を嘲笑うように、オール・フォー・ワンは言葉を続けた。

 

「そうか。君はそちら側で生きる事を選んだんだね」

 

 ――些細な幸福に縋り、現実から目を逸らして。声に出さずに唇の動きだけで杳にそう伝え、彼は嗤った。

 

「つまり、僕の敵になると」

「いいえ。私はあなたの敵にはならない」

 

 杳は首を横に振った。その言葉は彼に屈したのではなく、ヒーローで在ろうとした為に紡がれたものだった。オール・フォー・ワンは毒気を抜かれたように軽く吹き出し、失笑する。

 

「忠告するが、自分の立場を曖昧にするのは賢明な手段とは言えないよ。中立というのはとどのつまり……全員が敵という事だ」

 

 ”全員が敵”、そのフレーズを杳は心中で繰り返した。閉じた瞼の裏に、黒霧の電子脳内で見た()()()()が浮かび上がる。緑谷が力を貸してくれたからこそ到達できた、優しく暖かな世界。現実世界ではそうもいかないだろう。だが、あの時、皆の心は一つだった。

 杳が当時の心境を思い返していると、オール・フォー・ワンは退屈そうに小首を傾げた。まるで、結末の見え透いた陳腐な映画を観ているように。

 

「……何故、人が秩序を創り、守るのか知っているかい?」

 

 杳はハッと我に返り、オール・フォー・ワンを見つめ返した。独房の放つ警告音など意にも介さず、彼は爛れた顔をぐっと杳に近づけ、悪辣な笑みを浮かべる。

 

()()()()だよ。一人では物事を決められず、生きられない弱者の集まりが、社会だ。彼らは秩序だった行動が正しいのだと愚直に信じ込み、自らの行動の責任をそれに押し付ける。……つまり、秩序にそう書いてさえあれば、人は人を容易に殺せる」

 

 杳の心に芽生えたわずかな希望を踏み潰すように力を込めて、彼は言葉を紡いだ。

 

「僕は君にチャンスを与えた。だけど、彼らは()()()()()()()()。機嫌を損ねれば、すぐさま黒霧の首が飛ぶだろう。そしてそれは君も同じだ」

 

 黒霧は自由の身になどなっていない。生殺与奪権が巨悪から政府へ移っただけ。彼の意図を汲み取り、杳の顔が憂いと陰りを帯びていく。労いをたっぷり含んだ激励を、彼は小さな少女へ贈りつけた。

 

「精々尻尾を振って頑張る事だ。子犬(パピー)

 

 やがてスピーカー越しに塚内から退出を促され、杳はゆっくりと立ち上がった。これ以上の話し合いは不毛だと判断されたのだろう。身長の低い彼女は立ち上がる事でやっと、大柄な彼と視点が同じになる。彼女は拳を強く握り締めた、目を閉じて深呼吸した。それから口を開く。

 

「あなたは何故、私を生かしたんですか?」

「生かしたも何も、単に僕が君を殺せなかっただけだ。完敗さ」

 

 オール・フォー・ワンはそう言うと、おどけて肩を竦めてみせた。だが、杳はその答えが真実であるとは思えなかった。彼女の有する知覚能力がそう告げていた。黒霧の電子脳内に侵入した時は、ただ生き残る事に必死で、冷静に物事を考える余裕なんてなかった。だけど、今、思い返してみると――

 

「すぐに殺し、支配できたはずです。なのに、そうしなかった」

 

 言葉の意図を図りかねているのか、オール・フォー・ワンは小首を傾げて杳を見た。その不可視の目を真っ直ぐに見つめ返して、杳は言葉を紡いだ。

 

「あなたは、()()()()()ように見えた」

 

(大切なのは、その人の話を聴いてあげる事かな。……せめて俺達くらいは、ちゃんと聴いてあげないと)

 

 数ヶ月前、職場体験の時。そう言って笑った航一の声を噛み締める。

 

(犯罪行為に至った背景には、その人が生まれてからその時点に至るまでの長い歴史があるの。真の動機は、本人すら自覚できない深層意識内で発生している事が多い)

 

 倫理学の授業でミッドナイトが説いた言葉を、零れ落ちないように抱き締める。

 

 ――ヒーローとして、目の前の人を救う為に。

 

「……何を?」

 

 氷菓を模した巨悪の記憶、そして彼が屠ってきた人々の記憶。酸鼻を極めたあの光景は、もう二度と自分の頭から消え去る事はないだろう。そしてそれを思い返しても狂わない程度には、自分も壊れてしまった。だが、あの地獄が自分に与えたのは痛苦だけじゃない。

 ――彼が罪を重ねるごとに()()が感じられた。今にも消えそうな程に頼りなくもどかしい位に薄っぺらいそれを、杳は何とか掴み取り、一握りの言葉に変える。

 

()()()です」

 

 その瞬間、オール・フォー・ワンの口元から笑みが拭い去られた。彼の纏っている雰囲気が禍々しいものへ一変する。否、それこそが彼の本性なのだろう。拘束椅子に身を預け、銃器に囲まれた彼は、まるで昔話に登場する恐ろしい魔王のように見えた。彼はたった独りで玉座に座り、待ち人を待っている。

 

「僕は死ぬのを待っていると?」

「はい」

「……君が僕を殺すのか?」

「いいえ。あなたを倒すのは、私じゃない」

 

(白雲さん!)

 

 優しい素朴な声が、杳の耳に蘇った。――今でも克明に思い出せる。緑谷が希望の火の中から自分を見つけ出し、救ってくれた状景を。彼が手を差し伸べてくれたからこそ、今があるのだ。最後の最後まで、諦めないでと何度も励ましてくれた。その声に導かれ、杳は現世に還って来る事ができた。

 

 オール・フォー・ワンの不可視の瞳と杳の瞳が、交錯する。やがて彼が口元を緩めると、室内に充満していた瘴気は音もなく霧散した。

 

「とても面白い解釈だ」

 

 彼が上機嫌に笑った途端、杳の背後で、扉の電子ロックが解除される音がした。重々しい音を立てて扉が開く。恐れと安堵の入り混じった、不可思議な感情が杳の心を満たした。――私の戦いは終わった。もう二度と彼と関わる事はないだろう。そう、思いたかった。

 杳がガラス面に背を向けたその時、彼は甘ったるいミルクチョコレートのような声で優しく囁いた。

 

「忘れないで。僕はいつでも君の味方だよ」

 

 その声は耳で聞いているはずなのに、杳の内臓にまで染み渡った。あらゆる負の感情が心から消えていく。

 ――彼は大勢の人々の心を魅了し、支配していたのだと言う。もうすでに自分の心の一部は、彼に支配されているのかもしれなかった。だが、それに屈してはダメだ。死の間際に垣間見た()()()()が、静かにそう告げる。彼に縋りつきたいと泣き喚く意識を捻じ伏せ、杳は振り返ると、ぎこちない笑みを口元に浮かべてみせた。

 

「私もあなたの味方ですよ。死柄木さん」

 

 

 

 

 そして、杳は冥界から現世へ戻った。監視役の刑務官が敬礼をして去った直後、杳は体じゅうの皮膚が痒くてたまらなくなった。ワンピースの裾や袖をまくって見ると、体表に大量の蕁麻疹が浮き出ている。次いで、食道から胃液が駆け昇り、彼女は思わず口元をパチンと押さえた。

 

 ――オール・フォー・ワンを味方だなんて。彼も救助の対象になるの?大嫌いだ。気持ち悪い。憎い。怖い。許せない。逃げ出したい。体の一番深いところから激情がせり上がり、嵐のように吹き荒れて、杳の心をズタズタに傷つけていく。

 ダメ、ダメだよ。杳は息を荒げながら胸を押さえて、何度も自分にそう言い聞かせた。だって、そんな事を思ったら……()()()()()()

 

 見たところ、廊下に人気はない。だが、杳の知覚能力は、こちらを監視しているカメラとセンサーの波形を感知していた。せっかく信頼を得たのに不審がられてはダメだ。

 時間は一方通行で、間違った道を戻る事はできない。ただ、前に進み続ける事しか。兄がまた笑えるように。生きていて良かったと思えるように。少しでも罪を軽くできるように。杳は自分の決断が間違っていないと思い込む事で、不安に揺れる心を懸命に守ろうとした。

 

「がん、ばれ。頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ……」

 

 小さな頃、兄は何度も自分を救ってくれた。今度は自分の番だ。杳は脂汗を垂らしながら引き攣り笑いを浮かべ、エレベーターを目指してよろめきながら廊下を進んだ。たった一人、誰も味方がいない道を。

 

 刹那、誰かがその肩を掴んだ。驚いて顔を上げると、紫色の髪をした少年が自分を見下ろしていた。――()使()だ。杳は彼にこれ以上の心配をかけまいと口角を引き上げ、明るい声で言葉を紡ぐ。

 

「ヒトシ。心配かけてごめn――」

()()()

 

 人使は両手で杳の頬を挟んで押し潰し、()()()()()()。これほどに苛烈な彼の顔を、杳は初めて見た。怒りと悲しみの感情を必死に内側へ押し留めようとしている、悲壮な表情だった。

 大きく見開かれた彼の瞳に、真っ白に変色した髪と、目の下に色濃く刻まれた隈が映っている。だが、人使は何も言わなかった。おもむろに彼女の前に立つとしゃがみ込んで、両手を後ろへ出し、ちょいちょいと指先で手招きする。

 

「……え?」

「おんぶしてやる。ホラ」

 

 杳はおずおずと一歩踏み込んだ途端、よろめいた。数時間に渡る激闘で蓄積された疲労が、ずっしりと背中に圧し掛かって来る。人使の背中に全身を預け、がっしりとした首に両手を回すと、彼は立ち上がり、前へ進み始めた。

 

 道中で数名の刑務官と擦れ違ったが、彼らは背負われている少女を無機質な瞳で見つめるだけで、別段何も言わなかった。やがて人使はエレベーターに到達し、機体に乗り込んで上昇ボタンを押す。気圧が少しずつ緩まり、閉塞感が遠のいていく。階数の表示画面がB-10からB-09へ切り替わった。そして、B-08へ変わっていく。

 

 ゆっくり、ゆっくりと、タルタロスが遠のいていく。――()()()()()()()にして。一種の無感覚状態と非現実状態が、杳の頭を支配した。意識が靄がかったようにぼんやりとして、何も考える事ができなかった。

 

 

 

 

 愛車の後部座席で肩を寄せ合い、ぐっすりと眠り込んでいる二人の生徒をバックミラー越しに見守りながら、マイクは車を運転していた。

 

 土曜日の昼から深夜にかけて、およそ半日の間に起きた出来事は――”事件”という一言で片づけるには壮絶過ぎた。活躍を評価された杳は暫定敵を解除され、雄英に放たれた監視ロボットの類は撤収されるという事だが、諸手を挙げて喜ぶ事はできない。あまりに上手く行き過ぎている。マイクと相澤の心には今も尚、一握りの不安が()()()のように残っていた。

 

 オールマイト展に行き、若い友情と愛を深めていたはずの生徒達が、ただ哀れだった。車が橋を通過する間際、相澤は助手席の窓から、暗い靄に包まれたタルタロスの輪郭を眺め、数時間前の記憶に思いを馳せた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 タルタロスと公安、そして警察本庁はお互いに手を取り合い、黒霧の記憶を取り戻す作業を執り行う事を決定し、相澤はそのチームの一員に引き抜かれた。万が一、黒霧が異変をきたした時、有効打を打てるのは”個性因子の動きを止める”という希少な個性を持つ彼だけだからだ。朧を想う相澤にとっても、それは願ってもない申し出だった。

 

(……ショータ)

 

 帰り際、相澤が黒霧の独房に立ち寄ってその事を伝えていると、不意に黒霧の靄の一部が雲のように湧き立った。やがて中から朧の顔が創り出される。

 

(もう俺は戻れない)

 

 聴くに堪えないほど悲痛な内容とは裏腹に、朧の顔は諦めても、絶望してもいなかった。無事に記憶や個性を取り返せたとして、もう二度と日常に戻れないという事は、朧には分かっていた。あまりに多くを殺し、傷つけた。目を閉じると、今まで屠って来た人々の悲鳴、恐怖に歪んだ顔が暗闇に浮かんでくる。心の内側に爪を立て、膿んだ傷を引っ掻き壊していく。

 

 昔の記憶が放つ()()()()()()だけが彼を朧たらしめ、同時に彼を苦しめていた。だからこそ、彼は妹を掬い上げた後、死のうとしたのだ。罪を償う為に。だが、その時――友の目と妹の温もりが、彼を救った。何もかもを喪った自分の存在が、あの時だけは許されたような気がした。

 

(覚悟はできてる)

 

 巨悪の恐ろしさと執念深さは、十何年も黒霧の体内にいた朧が一番よく分かっている。たとえ、それすら彼のシナリオだったとしても。自分に泣いて縋っていた小さな妹が伸ばした血塗れの手を、何度も自分の名を呼ぶ(しわが)れた声を、彼は一生忘れる事はないだろう。だから彼は、戦う決意をした。

 

(守ってくれ)

(……約束する)

 

 朧の目には、生前の()()()()が戻っていた。相澤と朧の双眸が数秒間、交錯する。しばらくして、相澤は懐かしい言葉を紡いだ。――学生時代、彼らが飽きるほど口にした、ある数字の単位を。猫のように吊り上がった朧の瞳が、丸くなる。それから彼はくしゃりと顔を歪め、まるで泣きながら笑っているような、不可思議な表情を浮かべてみせた。

 

 

 

 

 数時間後、杳と人使は無事、ハイツアライアンス寮へ帰って来た。もう時刻は深夜二時を過ぎていて、施設内は当然のように静まり返っている。

 杳は共用エリアで立ち止まり、呆けたように口を開けてぼんやりと室内の様子を眺めた。脳髄まで痺れるような疲労と眠気が、全身にどっと圧し掛かって来る。こうして安全地帯で佇んでいると、さっきまでの出来事がまるで夢物語のようにも思えてきた。

 

 誰かがカップラーメンでも作って食べたのか、室内には食欲をそそるジャンキーな残り香が漂っていた。意図せずして、杳のお腹がグウと鳴る。――思えば、昼からまともに食事を摂っていない。その様子を見た人使は部屋の照明を点けると、ソファーを指差した。

 

「座っとけ。なんか作る」

 

 人使はキッチンへ向かい、共用の冷蔵庫から食材を取り出し始めた。杳はぼんやりとした足取りで彼の傍に行き、包丁を動かしている彼の脇の下からひょっこりと顔を出す。人使は顔をしかめて脇を軽く締め、杳の頭が動かないようにホールドした。

 

「危ない」

「ぐえ」

「つかベタベタすんな」

 

 苦しみながらも、杳は頑固にその場を離れなかった。抵抗するように人使の腰に手を回してしがみつき、その脇腹に自分の頭をぐりぐりと押し付ける。明確な理由は分からないが、今は無性に彼に甘えたかった。

 一方の人使はその様子に呆れながらも、彼女を傷つけないように細心の注意を払いつつ、調理を続けた。まな板に拳大程のフィレ肉を載せると、包丁の背で肉をトントンと叩き始める。

 

「何してるの?」

「肉叩き」

 

 肉の表面を軽く叩いて繊維を断ち切る事で、火の通りが均一になる。そのまま食べるよりも柔らかい食感に仕上がるのだと、人使は噛んで含めるような口調で説明した。

 

()()()()()()()と料理は旨くなる」

 

 杳は相槌も打たずに黙り込んでいる。人使は眼下を覗き込むなり、ぎょっとした。――自分にしがみついたまま、杳は瞼を閉じて船を漕いでいた。危ない事この上ない。

 人使は手早く手を洗った後、共用のお菓子置き場――砂藤が管理者だ――からマシュマロを数個取り、竹串に突き刺してガスコンロで軽く表面を炙った。そして程よく焦げたマシュマロを杳の鼻面で振ってみせる。甘い匂いにつられたのだろう、杳は目を覚ました。

 

「ソファーで待ってろ。これ食ってる間に作るから」

 

 杳はマシュマロ串をくんくんと嗅ぎながら、ソファーに体を沈めた。初めて食べる焼きマシュマロは、歯を立てるとさっくりと表面が裂け、餅のように伸びた。甘くて柔らかい。杳はソファーの肘掛け部分に頭を乗せ、ぼんやりと薄目を開けて、人使の背中を見ていた。

 とても安心できる場所だと、心から思った。まるで悪夢から目覚めて母親の懐に潜り込んだ幼子のように――甘いミルクの匂いのする安堵感に、心身がどっぷりと浸されていく。二つ目のマシュマロに齧りついた状態で、杳の意識は急速に微睡んでいった。

 

 気が付くと、杳は揺り籠に揺られていた。――いや、人使に抱きかかえられて自分の部屋に向かっていた。ふと、オール・フォー・ワンに抱かれた時の感覚を思い出す。人使の方が彼の体温よりも低いのに、何故かとても暖かく感じられた。杳は寝たフリをした。

 人使は杳の部屋に入ると、小さな体をベッドにそっと寝かせた。布団を掛け、頭を撫でて、電気を消そうとリモコンを手に取る。

 

 ――その手を、杳は急いで掴んだ。起きていると思わなかったのか、ぎょっとした顔で人使がこちらを見下ろす。

 

「悪い。起こしたか?」

「ううん。ご飯食べる」

「疲れてるんだろ。寝とけって。飯はラップしといたから」

 

 杳はくしゃりと顔を歪めて首を横に振り、人使にしがみ付いた。彼の強靭な胸板に顔を押し付け、くぐもった声で我儘を言う。

 

「今食べる。一緒に食べる」

「……はいはい」

 

 人使は溜息を零し、テーブル上の皿に掛けたラップを剥がし始めた。一口大に切ったステーキに猫型りんご、ほうれん草の胡麻和え、卵焼き、おかゆと湯豆腐だ。深夜という時間帯を考慮しているのか、メインであろうステーキ以外で脂っこいものはなかった。

 

 食欲を搔き立てる匂いが室内に満ちる。二人は静かに手を合わせて、遅い夕食を摂り始めた。ステーキにはグレービーソースがたっぷり掛かっている。それを箸で摘まんで口に運びかけた時、杳の手が()()()()

 ――自分だけこんなに幸せで、平和でいいのだろうか。兄は今も拘束具に捕えられて、身動き一つできないというのに。夢中でひた走っていた為に考えないでいられた事が、今更になって重く圧し掛かってくる。凄まじい後悔の念が心身を渦巻いて、彼女はたまらず箸を置いた。

 

(君は兄を救ったんだ)

 

 オール・フォー・ワンの言葉が、耳朶を打つ。()()()()()()。相手の意志を尊重しない善意など、ただのエゴだ。自分のどうしようもないエゴが、大勢の人を巻き込み、傷つけた。自分の犯してきた罪が、目の前をジェットコースターのように流れていく。流れ星のように慌しく駆け去っていくのに、それは一つ一つ、閃光のように瞬いて頭と心の全てに焼き付き、消えない残像を刻み付けていった。

 

 ――夢の世界で袂を分かち、泣きそうな顔で笑った転弧。真っ黒に焼け焦げたシンリンカムイの口から漏れ出た煙。マイクと相澤先生の哀しい顔。殴られて倒れた窃野。棘に貫かれたトゥワイス達。怨嗟の鬼として咆哮を上げた治崎。人々の向ける冷たい眼差し。蛙吹の流した涙。拘束具の感触。オール・フォー・ワンとの死闘。兄の体の震え――

 

 人使の目の前で、杳の顔が無惨に歪んでいく。小さな額から大量の汗が噴き出て、頬を流れ落ちていく。

 ふと、自分の名前を呼ばれたような気がして、杳は我に返った。縋るような眼差しで自分を見つめる彼女をじっと眺め、人使は口を開いた。

 

「おまえのしたことは、正しいことじゃない」

 

 静かな、だが、苦悩に満ちた声だった。人使の言葉は杳の心の奥底に浸透し、荒れ狂った内部を鎮静化させていく。否定されたが、杳は傷つきはしなかった。ただ拒絶する為に、彼がその言葉を放ったのではないと分かっているからだ。

 

 人使の瞳に、小さな少女の顔が映り込んでいる。彼女の瞳は人使を見ているようで、()()()()()。もっとその奥――世界の最底辺、腐敗物やゴミが溜まって蠅が(たか)り、腐った匂いのする場所にいる()()に視線を注いでいた。蛆や泥に塗れたその顔を、彼は真っ直ぐに見る。

 

「でも、間違ったことでもない」

 

 二人はただ素直に見つめ合った。平和の湖で向き合った時と同じように。――あの時、彼女を行かせるという決断を下してから、人使はある種の()()を決めていた。彼は手を伸ばし、杳の頭を撫でる。暖かいと彼女は思った。緑谷の力で発現したあの炎と同じ温もりが、疲れ切って摩耗した自身の心を包み込んでいく。

 

「よく頑張った。だからもう、今日は休め」

「……うん」

 

 杳は人使の手にそっと触れた。節くれだった血豆だらけの手。大好きな手だ。人使は何も言わずに傍へ寄り、彼女をそっと抱き締める。杳は人使に頬を寄せ、静かに呟いた。()()()、言いそびれた言葉を。彼を通して、彼の魂――そして自分を救けてくれた大勢の人々にも、伝わるように。

 

「救けてくれて、ありがとう」

 

 

 

 

 時計を見ると、もう時刻は四時を回っていた。日曜日と言う事もあり、ドア越しに聴こえる人気はまだない。ほとんどの学友達は今も尚、夢の世界にいるのだろう。元々、部屋の防音設備はしっかりと整っているのだが――それでも二人はテレビのリモコンを取り、ボリュームを最大限に絞ってテレビを付けた。

 

 刹那、テレビ画面に大写しになったあるヒーローの顔を見るなり、杳はアッと声を上げそうになった。――()()()()()だ。

 

 弾性膜を足場にして上空を自在に跳び回り、数十メートルはあろうかという巨大な敵を翻弄させながら海へ誘い込み、強烈なパンチと共に海面へ叩きつけている。水蒸気爆発を彷彿とさせる――凄まじい水飛沫が辺り一帯を埋め尽くし、周囲は真っ白な霧で覆われた。映像が一区切りついた後、二十代半ばらしい女性アナウンサーが美しい声で話し始める。

 

『先週、アメリカで()()()()のヒーロー”ジェントル”が大型敵を制圧し、最優秀新人ヒーロー賞(MVP)を獲得しました』

 

 ジェントルが弾性膜を多重展開し、敵を捕縛している映像が左にスライドし、右側に新しい映像が展開される。――動画界の(ヴィラン)として日本を荒らし回っていた時の動画のダイジェスト版だ。

 

『驚くべき事に、ジェントルの正体は十数年もの間、我が国で迷惑行為を働いていた敵・”ジェントル・クリミナル”でした。この事に、多くの人々は()()()()()()を向けています。ですが同時に……罪を償い正しい道へ進もうとしている彼を応援する声も少数ではありますが、上がっています。……敵更生の先駆者となったジェントル。彼の今後の活躍に注目していきたいところです』

 

 右側の映像が消え、左側の映像が再び、大写しになった。――ジェントルが敵の引き渡しをアメリカの警察に任せた後、弾性膜を展開して跳び去ろうとしているシーンだ。その後ろ姿に追いすがり、リポーターがよく響く声で尋ねた。

 

『ジェントルさん!あなたは元・敵だったそうですが?ヒーローになり、MVPを獲得した今のお気持ちをお聞かせください!』

 

 ジェントルはゆっくりと振り返った。その表情はとても真摯で、画面越しに見ている者の心を一瞬にして鎮めさせる程の()があった。次の瞬間、画面の右端に位置する街のビルから、凄まじい爆発音と煙が上がる。新たな敵が暴れているのだろう。ジェントルはすぐさま腰を低く屈め、跳躍の姿勢を取る。

 

『私の罪が許されるとは思いません。だが、止まるつもりはない。……ある少女と約束をした。私は、証明し続けなければならない』

『そ、その少女とはァ?!』

 

 リポーターの質問に応えず、ジェントルは力強く前に踏み込んだ後、真上へ急上昇した。それから弾性膜を展開して跳び、街中で暴れる敵に向かっていく。その後、ジェントルの知人らしい竹の恰好をしたヒーローに、ニュース番組が電話で取材している音声を聴きながら、杳は鼻をすすり、滲んだ涙を拭った。

 ――ジェントルは約束を果たそうとしてくれている。あの優しい瞳はもう月どころか、太陽のように眩い輝きへ昇華していた。すっごくカッコいいよ、ジェントル。杳は声に出さずにそう呟いた。テーブルの食器を片付けながら、人使が不思議そうにこちらを見る。

 

「知り合いか?」

「うん。あーあ、サインもらっとけばよかったなぁ」

 

 粘度を帯びた眠気が、柔らかいブランケットのように覆い被さって来た。杳は大きく伸びをして欠伸をする。のんきな発言に人使が呆れていると、ドアを控えめにノックする音がした。――煩かっただろうか。二人は気まずそうな顔を見合わせ、小さな声で返事をした。

 

 やがてゆっくりと扉が開かれ、中から特徴的な髪色をした少年が顔を覗かせる。()()だ。焦凍の優しい目は杳を見るなり大きく見開かれ、整った顔が驚愕に歪んだ。だが、彼はすぐに元の表情へ戻る。それから何事もなかったかのようにテーブルの傍へ腰かけた。

 

「こんな時間に悪ぃ。……やっぱ帰ってたんだな」

「うん」

「で、今度は何があったんだ?」

 

 さりげない口調で放たれたその質問に、思わず杳はムキになって頬を膨らませる。――今度は私は悪くない。あの人が勝手に仕掛けた戦だ。

 

「私は悪くないもん」

「おまっ……」

 

 人使に注意され、杳はハッとなって口を(つぐ)んだが、もう全てが遅かった。というよりも、()()()()()()の話だが――彼に隠し立ては無用なのかもしれなかった。彼の父がエンデヴァーで、杳が航一の弟子である以上は。

 焦凍は気まずそうな顔で髪をかき、労わりと気遣いがたっぷりと染み込んだ瞳で友人を見た。色違いの瞳がわずかに揺れて、杳の髪と隈を交互に映し出す。

 

「すまん。訊き方が悪かった」

 

 二人は顔を見合わせると、軽く笑った。カーテンの向こうの空模様が濃紺色から群青色へ変わっていく。もう杳の眠気はすっかり消えていた。

 

「ショート。何飲む?……うわっ!」

 

 長い話になる。友人の飲み物を確保するついでに、自分達のコップの中身も補充しようと杳は立ち上がった。その直後、彼女は大量のクッションに足を取られて盛大に転ぶ事となる。両手に持っていたコップのジュースが零れて、クッションを濡らしていった。

 ――怒られる。反射的に人使を伺い見るが、彼は目を丸くした後、なんと吹き出して笑い始めた。

 

()()()()()

 

 

 

 

 それからさらに数時間後、朝七時。杳はベッドからむっくりと起き上がった。寝ぼけ眼で見下ろすと、大量のクッションをベッド代わりにして人使と焦凍が眠っている。杳は起こさないように細心の注意を払い、部屋を出てトイレへ向かった。

 

 用を足している間、杳はふと思い出した。――半日前に飲んだチップが排出されるはずだ。赤い便が出ている事をきちんと確認しなければ。杳は目を擦りながら、便器の中をひょいと覗き込んだ。

 

(精々尻尾を振って頑張る事だ。子犬)

 

 オール・フォー・ワンの言葉が脳裏をよぎる。杳は黙ってトイレを流すと手を洗い、廊下に出た。やがてポケット内でスマートフォンが震え始めた。慌てて取り出して画面を見ると、知らない番号が表示されている。一体誰だろう。杳は首を傾げながらロックを解除して、機体を耳に当てた。

 

「はい。白雲です」

『ああ、白雲さん。朝早くに申し訳ございません』

 

 耳障りの良い声がスピーカーから降ってきた。どこか聞き覚えのある声だ。――杳ははたと思い出した。黒霧の体内に侵入する際、自分と治崎にアンプルを渡して説明してくれた職員のものだ。彼は改めて自らの職種と名前を名乗り、心配そうな声で尋ねた。

 

『経過確認でそのぅ……うら若い女性にこんな事を尋ねるのは、大変申し訳ないのですが……その後、赤色の便は出ましたか?』

 

 ――その問いに内包された()()()()()を、杳は鋭敏に感じ取った。やがて彼女は口元に笑みを創り、尻尾を振ってこう答えた。

 

「出ました」

『それは良かった!……昨日は本当にお疲れ様でした。今日はゆっくり休んでくださいね』

 

 職員は愛想をふんだんに散りばめた口調で杳を一頻(ひとしき)り労い、電話を切った。無機質な通話音が鳴り響くスマートフォンを握り締めたまま、杳はぼんやりと考えた。()()()()を。彼のアンプルはきちんと排出されたのか、それとも……。だが今のところ、彼と連絡を取る手段はない。

 

 廊下にある大きな窓から朝陽が昇り、杳を照らし出す。どんな事があろうと、時は無情に進んでいく。(ひず)んで欠けた不恰好な歯車を噛んで、社会はギチギチと音を立てて回っていく。回る毎にその小さな部品を軋ませ、罅割(ひびわ)れさせながら。

 

 再び、スマートフォンが震えた。またも知らない番号からだ。――さっきの続きだろうか。杳は訝しみながらもロックを解除し、機体を耳に押し当てた。

 

「はい。白雲です」

『……久し振りですね。白雲さん』

 

 先程とは打って変わった、愛想の欠片もない冷たい声だった。なのに、この声もどこか聞き覚えのあるような気がする。杳が記憶の引き出しを必死に探っていると、彼はぶっきらぼうな口調で言葉を続けた。

 

()()ですが。来週の日曜、予定はありやすか?』




~あれ?ラーメン回は?と疑問に思われている皆様へ~

大変申し訳ございません…。感想を頂いた折に教えていただいた「レディ・ナガン」という新キャラクターが気になり過ぎて、調べたら必死に抑えようとしていたダーク熱が燃え上がってしまい、えぐ過ぎるかな…と思いお蔵入りにしたNo.67の没シーンを全部書いてしまいました。
今話はNo.67の裏側という感じです。そしていつのまにか大ボリュームになってしまい、ラーメン回を書き逃すという。

次回、ラーメン回とあと僅差をいただいた敵連合回も、余裕があれば書きたいと思います。

重ね重ねになりますが、いつもこのSSに目を通していただき、本当にありがとうございます!


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おまけSS①:真夏のラーメン

おまけショートショートその①になります。杳と人使と焦凍がラーメン屋に行く話です。林間合宿に行く前くらいの時間軸です。


 ある土曜日の昼下がり。杳と人使、焦凍はいつものように連れ立って、街中を歩いていた。

 

 一般的な高校と同じく、雄英も基本的に土日は休みだ。だが、事前に申請しておけば、休校日も学舎を使う事ができる。ヒーロー科に限った話ではないが、熱心な生徒達はその制度を使い、週末も学業に励んでいた。杳達もそれに習い、週末は午前中いっぱいを学校のグラウンドでの戦闘訓練に費やす。終わった後はシャワー室を借りて体を清め、どこか適当な店で食事を摂って帰る――というのが最近の週課だった。

 

 そんなわけで、ルーチンを果たして下校した杳達は今、めぼしい店を探していた。のんびりとしたペースで歩道を歩く杳と焦凍から少し離れた場所で、人使は周囲に気を配りつつ自転車を押している。

 

 夏特有の蒸し暑い気温と容赦のない日光がじりじりと肌を焦がし、杳はたまらず携帯扇風機を顔の前に向け、舌を垂らした。しかし、扇風機に空気を冷やす機能はない。熱風が来るだけだった。あまりにだらしない所作を見兼ね、人使が厳しい声で注意する。

 

「コラ人前」

「だって暑いんだもん」

「我慢しろ。店入ったら涼しくなる」

 

 杳は渋々といった調子で舌を引っ込め、今度はシャツやスカートを引っ張り始めた。汗で衣服が肌にまとわりつき、気持ち悪いのだ。人使は頭痛を堪えるように眉をしかめ、溜息を吐いた。――雄英生は良く言えば芸能人と同じで、街を歩いていれば高確率で人目を惹き、声を掛けられる。その時にだらしない恰好や問題のある対応をしては、将来に影響が出る。

 

 ヒーローとは人気商売なのだ。”皆の模範になれ”とまでは言わないが、悪感情を抱かれかねない振る舞いは控えてほしかった。――もう一度、言い聞かせるべきだろうか。娘の将来を案じる父のような想いで杳を見ると、彼女は扇風機を口の前に持って来て、無邪気に笑っていた。

 

「宇宙人の真似しまーす」

「どうやるんだ?」

 

 色違いの瞳をキラキラと輝かせて、焦凍が尋ねる。――させるか。人使は凄まじいスピードで自転車を道端に止め、杳の野望を阻止せんと手を伸ばした。しかし、その手が届く直前に彼女は立ち止まった。そして弾んだ声を上げる。

 

「あ。アイスだ」

 

 杳の視線の先には、全国展開中のアイスクリームチェーン店、”11(ワンワン)”があった。ガラス張りの店内はポップな色彩で彩られ、大きなガラスケースの内部に色とりどりのアイスクリームが並んでいる。出入口から女子高生が二人出て来て、アイスクリームを嬉しそうに口へ運んでいた。杳は心底羨ましそうな目でそれを眺め、やがてアッと声を上げた。

 

 ――透明なカップには大きなアイスがどんと収まっていて、犬の顔を模したチョコレート菓子が飾られている。さらにその上には、犬の耳をイメージしているのか、二つの小さなアイスが乗っけられていた。その特徴的な外見のパフェに、アイス好きの杳は見覚えがあった。

 

「創立記念日か」

 

 焦凍は店内に置かれたポスタースタンドを興味深そうに覗き込む。そう、今日は11の創立記念日だ。この日だけ販売される――マスコットキャラクターのワンワン君をイメージした――11パフェは、毎年大人気のスイーツだった。こじんまりとした店内は大勢の人々で賑わい、店の外にも行列ができている。

 今日しか食べられない、特別なアイス。杳の食欲は限界突破した。彼女は人使の手を取って引っ張り、その場に留まろうと踏ん張った。

 

「食べたい」

「まだ昼飯食ってねェだろ」

 

 人使はすげなく言い放ち、逆に杳の手を取って離れようとした。11パフェはかなりのボリュームがある。あんなものを食前に食べたりしたら、昼食が入らなくなるに決まっているのだ。だが、杳はそれも覚悟の上だった。パフェは一年に一度、つまり今日しか食べられない。譲れない想いを宿した二つの瞳が、激しくぶつかり合った。

 

「私のお昼ご飯、これでいい」

「アホ言うな」

 

 二人は戦闘職と謳われるヒーローの端くれ、力と体力だけはあった。まるで駄々を捏ねる子供とその相手をする母親のような光景が、焦凍の前で展開される。勝負の行く末を面白そうに見物していると、やがて()()()()()()が風に乗って飛んできて、焦凍の鼻孔をくすぐった。

 

 匂いの下を辿ると、ゲームセンターと定食屋の間に挟まるようにして、こじんまりとしたラーメン屋があった。くすんだ色の暖簾をくぐり、満足そうな顔をした男子高校生のグループが店から吐き出されていく。日差しの加減のせいか、彼らの様子が輝いて見える。思い返せば、今までラーメン屋に行った事などなかった。焦凍がぼんやりとそんな事を思っていると、少年達は汗を拭いながら賑やかに言葉を交わし始める。

 

「替え玉何回すんだよお前」

「っせーな。お前こそ麺針金みたいだったくせに」

 

 少年達は楽しそうに笑い合いながら、雑踏の中へ融けていった。――わけもなく、食欲がかき立てられた。いまだに綱引きを頑張っている二人の下へ向かうと、焦凍は少し緊張気味に口を開く。

 

「ラーメン、食わねェか?」

 

 

 

 

 かくして暖簾をくぐり、三人はラーメン店に入った。こじんまりとした店内は混み合っていて、カウンター席が辛うじて空いていた。店内に店主以外のスタッフはいない。一人で切り盛りしているようだ。厳格そのものといった顔つきをした壮年の店主は、頭に黒いバンダナを巻き、ラーメンの汁気を切っていた。来客に気付いたのか、湯気の奥から店主がじろりとこちらを見て、にこりともせずにカウンター席を指す。

 

「……らっしゃい。こちらへどうぞ」

 

 チェーン系列ではない、個人経営のラーメン店に足を運ぶのは初めてだ。カウンター席に着くと、杳は興味深そうに周囲を見回して、やがてその異様さに圧倒される事となる。――外は夏真っ盛りだというのに、客は皆押し黙り、熱々のラーメンを一心にすすっていた。テレビや有線音楽などの類もなく、店内には客が麺をすする音と店主が料理をする音、そして鍋が沸騰する音だけが厳粛に響いていた。

 

 偶然立ち寄った三人には知る由もない事だが、ここは厳格な店主が切り盛りする事で有名なラーメン店だった。人使と杳は不穏な気配を察知し、静かに顔を見合わせる。しかし、焦凍の瞳はいきいきと輝いていた。

 

 杳は店内に掲げられたメニューを見上げた。この店の売りは豚骨ラーメンであるらしい。豚骨ラーメンは好きだと彼女は思った。だが、真夏にも食べたい程じゃない。困り果てている杳の肩を、誰かが突いた。人使だ。彼はカウンターに置かれたメニュー表を指差した。目を凝らしてみると、片隅に小さく――冷やし中華始めましたと書いてある。涼を感じるのに最適な一品だ。

 

「私、冷やし中華にする」

「俺も」

 

 二人は店主に見つからないように、カウンターの下で小さくサムズアップした。その様子を、焦凍が少し寂しそうな表情で見つめている。

 

「お兄ちゃん達、雄英生?ヒーロー科の」

 

 突然、知らない声がカウンターの奥から飛んできて、三人は揃ってその方向を見た。空っぽになった丼を前に、壮年の男がこちらを興味深そうに眺めている。その顔が大量の汗をかいている事から、恐らく冷やし中華を食べたのではないのだろうという事を杳は推測した。彼は慣れた手つきで水差しを引き寄せると、グラスに水を継ぎ足した。

 

「応援してるから頑張ってね。……あと、冷やし中華。おいしいと思うよ」

 

 男の優しい口調に内包された()()を汲み取ったのは、人使と焦凍だけだった。のんきに笑う杳に手を振ると、彼はグラスを空にして勘定を済ませ、席を立つ。

 

「すみません」

 

 男が暖簾をくぐって店を出た後、人使はおもむろに手を挙げた。この店は食券制ではなく、直接注文する形式になっている。店主が振り返ると、彼は少し険しい表情でこう言った。

 

「豚骨ラーメン三つ。濃いめのバリカタで」

「えっ」

「あいよ」

 

 ――冷やし中華は?杳は焦って人使の腕を掴んだが、彼は静かな決意に満ちた眼差しでこちらを見下ろすばかりだった。その瞳の奥には静かな闘志が燃えている。

 

「あそこまで言われて、冷やし中華が食えるか」

「……うん?」

 

 意味が分からなかった。一人首を傾げている杳を置いてけぼりにして、周囲の空気の糸がピンと張り詰めていく。

 ――戦いは(ヴィラン)とヒーローだけのものじゃない。戦場は世界中に存在し、この店もその一つなのだ。だが、そんな事情は杳の知った事ではなかった。店主に注文のやり直しを要求したいが、彼はもうラーメンを創り始めていた。

 

 かくして、三人の前に熱々のラーメンがやって来た。トッピングは半熟卵にのり、ネギ。スープは粘り気があり、底が見えないほどに濁っていた。とても、とても熱そうだった。

 これは不思議な一致だが、実は杳達は皆、()()だ。杳はラーメンを食べる時、子供用の取り皿をもらって麺を移し、冷ましてから食べる。恐る恐るカウンター越しに店主を仰ぎ見たが、とてもじゃないがそんな事が言い出せる雰囲気ではなかった。仕方なく麺を持ち上げ、フーフーと冷まして唇に当てる。

 

「あひっ」

 

 ――熱い。フーフーのし過ぎで酸欠症状を引き起こし、倒れるのが先か、麺が冷めるのが先か。そんなネガティブな事を考えていると、杳の耳に麺を勢い良くすする音が()()()、聴こえてきた。

 

「えっ?」

 

 人使と焦凍だった。ろくに冷ましもせずに麺をすすり上げ、唇の周りに散ったスープを無造作に拭っている。杳は信じられないものを見るような目で、彼らを凝視した。まさか、このわずかな時間で猫舌を克服したというのか。

 

 いや、そうではないようだ。よく見ると、彼らは苦しそうに顔を歪めている。やっぱり熱いのだ。何故そこまで必死になる必要があるのか、杳には皆目見当がつかなかった。目を丸くしてその光景を眺めていると、焦凍が動いた。戦場で怖気づいた兵士を焚き付けるように、彼は逼迫した声で檄を飛ばす。

 

「頑張れ」

「え、でも、熱いし……」

 

 杳は躊躇(ためら)って、もごもごと口籠った。すると今度は、人使が自分の名前を呼んだ。汗でしっとりと濡れた髪を無造作にかき上げ、彼はこちらを見る。杳は不覚にもドキッとした。

 

「11パフェ奢ってやる」

 

 その瞬間、杳は猫舌をPlus Ultra(さらに向こうへ)する覚悟を決めた。

 

 

 

 

 それから、数分後。三人の前には()()()になった丼が並んでいた。スープまで飲み切ったのは初めてだ。杳は少し誇らしげに、膨らんだお腹をさすった。最後までラーメンは地獄のような熱さを保っていたが、それで完食を断念しようとは思えない程に美味しかった。今度は冬に来よう。杳は固く胸に誓った。

 

 人使と焦凍は顔を見合わせると、妙に清々しい笑みを浮かべた。――期末試験をやり遂げた時と同等の()()()が、彼らの心中に渦巻いていた。今なら、どんな敵も一撃で倒せそうな気がする。

 

 舌を真っ赤に腫れあがらせた三人がそれぞれ勝利の余韻に浸っていると、カウンターで会計が終わった客の一群が、彼らの肩を気安い感じで叩いていった。

 

「いいねぇ!若い子は食いっぷりが違うなあ」

「ありがとうございます」

 

 周囲の空気が次第に和らいでいく中、会計を済ませて杳達は店を出た。もう夕方に差し掛かったというのに、夏の日差しと気温は一向に衰える気配を見せない。ラーメンを食べたせいか、杳は余計に暑く感じた。

 だが、それも永遠に続くわけじゃない。アイスを食べるまでの辛抱だ。杳の足は自然とアイスクリーム屋の方へ向く。彼女は人使に向けて人差し指を立て、宣言した。

 

「約束だよ。11パフェね」

「はいはい」

 

 人使は汗の滲んだ首筋をかき、ちょっと悔しそうに呟いた。

 

「……俺もそれにしよっかな」

 

 焦凍はそれを聴くと色違いの瞳を丸くして、唇の端を緩めた。――ちょうど、自分も同じ事を思っていたからだ。




ショートショートというか短編、難しいけど楽しい。
次回から7期となります。一番書きたかった回なので、頑張ろう。

いつもこの拙いSSにお目通し頂き、本当にありがとうございます!


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おまけSS②:傍にいてくれ

おまけショートショートその②になります。杳が敵連合に入る話(八斎會編ifルート)です。

※読んでいて欝々とした気分になる恐れがあります。全体的に残酷な表現、キャラクターの死、SS後半にR-15表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 敵連合に身を寄せてから、杳の朝は早くなった。どれほど夜更かしをしようとも、午前四時前には目を覚ます。薄汚れた天井を見上げ、眠気が薄れていくのをぼんやり待つ――というのが日課だ。やがて大きく伸びをして、杳は部屋を出る。浴室で身を清め、新しい服に着替える。

 

 そうして全ての身支度を済ませて廊下に出ると、階下に繋がる小階段から芳ばしい豆の香りが漂ってくる。()()()()()だ。杳の口角は自然と綻んだ。階段を降りて突き当りに面した扉を開くと、そこはバーのような構造になっていた。

 

 敵連合の新たな拠点(アジト)は神野同様に地下施設(UGF)で、窓はない。古ぼけたオレンジ色の照明は、杳にとって()()の代わりだった。飴色に輝くカウンターの奥には大きな酒棚があり、その前に黒霧がいた。カウンターの上にはガラス製のサイフォンが載っていて、微かな音を立てて水を吸い上げ、コーヒーを抽出している。黒霧は杳を認めると、金色の目を細めて微笑んだ――ように見えた。

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 カウンター前にずらりと並んだスツールは皆、背が高い。身長の低い杳が腰かけるのは一苦労だった。黒霧は棚の奥から苺柄のマグカップを取り出して、コーヒーを少し注ぐ。その上から牛乳と蜂蜜をたっぷり入れてかき混ぜ、杳の前に滑らせた。毎朝作ってくれるカフェオレだ。

 

 黒霧は基本的に多忙で、日中のほとんどを外界で過ごしている。カフェオレを飲みながら彼と話をするこの時間が、杳はとても好きだった。一番大事な一時(ひととき)だ。彼に逢えない間、降り積もっていった孤独を融かすように、杳は一心に話し続けた。――と言っても、外出、及びテレビやスマートフォンなどのマスメディアの所有を許されていない杳のレパートリーは少ない。スピナーと攻略を進めているゲームの話だとか、トガとした恋バナの話だとか、マグネとコンプレスと興じたポーカーの結末だとか。彼女が話せるのは、そういった細やかなものばかりだった。

 

 だが、杳もずっとこうしてゆったりしていられるわけではない。彼女には()()()()()がある。幸せな時間は、カップの中身がなくなると同時に終わりを告げた。

 

「ごちそうさま。いってらっしゃい」

 

 杳は黒霧とカウンターの位置を交代した。黒霧がワープゲートを展開して去ると、彼女はやおら腕まくりをして、壁に掛かったエプロンを巻き付けた。内部にはこじんまりとした造りではあるが、キッチンと冷蔵庫が備えられている。もうすぐトゥワイスが起きて来る頃だ。そう思った瞬間、ドアが開け放たれる。

 

「おはよう」

 

 トゥワイスは返事もせずにスツールに荒々しく腰かけ、カウンターに突っ伏した。酒と煙草の入り混じった悪臭が、杳の鼻に突き刺さる。彼女は思わず鼻をつまみたくなった。さてはまた飲み過ぎたのだろう。杳は顔をしかめると、冷蔵庫から経口補水液を取り出してグラスに注ぎ、トゥワイスの前に滑らせる。二日酔いには水分補給、それも人の体液に近い経口補水液が一番だ。

 

「あんまり飲み過ぎちゃダメだよ」

「……んあ……」

 

 間の抜けた声で返事をすると、トゥワイスはマスクを持ち上げて水を啜った。彼は酒も煙草も常に適量以上を摂取している。友人としてその体が心配だった。杳は気を取り直し、ブランデーを垂らしたブラックコーヒーを出す。コーヒーと果実酒の馥郁(ふくいく)とした香りが、辺りに漂った。本場のブランデーコーヒーは砂糖を混ぜて生クリームを載せるのだが、甘党ではないトゥワイスは断った。彼は背を丸めてカップに直接口を付け、コーヒー内に含まれたアルコールを味わうようにちびちびと啜っている。

 

 杳は冷蔵庫から人参と小松菜、林檎、それからバナナを取り出し、ざっくりと刻んだ。ジューサーに放り込み、ヨーグルトと蜂蜜、豆乳を入れてスイッチを押す。全ての材料が一つになった時、ドアが開いた。

 

「おはよー」

「おはよう」

 

 マグネとトガだ。マグネは顔にパックをしていて、トガは目がほとんど閉じていた。トガは低血圧気味で、朝に弱いのだ。杳は二つ分のグラスにスムージーを注ぎ入れ、目覚まし用のミントを縁に飾って出した。女性が二人増えると、室内は途端に華やかに、そして賑やかになった。

 

 再び冷蔵庫を開けて、杳は鮭の切り身を()()()取り出した。カウンターにいる三人、スピナー、そして転弧の分だ。荼毘とコンプレスはここで食事を摂らない為、勘定には入れていない。彼らが意志を変えた時に備えて、軽食や常備菜を数品、冷蔵庫に入れているが、今のところ減った様子はない。

 トガは鮭を見つけると、淡い緑色に染まった舌をベッと出した。猫のような顔立ちと性格をしている彼女だが、魚はあまり得意ではないらしい。

 

「お魚きらーい。私、食べないよ」

「骨ナシだから食べなさい」

 

 杳に抜かりはなかった。トガ――そして転弧もだが――が魚を食べないのは、骨があるからだ。彼女は考えた結果、(あらかじ)め骨が抜かれているものを黒霧に頼んだ。魚用グリルにアルミホイルを敷いて、その上に切り身を並べ、満遍なく塩を振る。

 

「何でも好き嫌いなく、ちゃんと食べないと。強くなれないよ」

 

 ――どこかで聞いたようなセリフだ。塩を振る手が止まる。周囲の景色が不意に色褪せ、陽だまりの匂いが鼻腔を突いた。

 

(おまえは優しい子だ。けどさ、お肉とお魚も大事な栄養なんだぜ?食べるとオールマイトみたいに、強く賢くなる!)

 

 バチンという音と共に首筋に衝撃が走り、杳の意識が一瞬、途絶えた。だが、彼女はすぐに我に返る。早朝は仲間達が揃う貴重な時間帯、ボーッとしている時間なんてないのだ。杳は頭を振って雑念を追い払うと、棚から食器類を出して手際よく並べ始めた。駒のようにクルクルと働く杳を視界の端に入れた状態で、マグネとトゥワイスは密やかな声で言葉を交わし始めた。

 

「……まだ吐かねぇ。しぶとい奴だ。いや弱っちいな」

「もう頃合いね。死体は隠す?それとも……」

 

 杳は小鍋を水で満たして、ガスコンロの火を点ける。卵を四つ出してボウルに割り入れる。解きほぐして水とだしを入れ、卵焼き用のフライパンに少しずつ入れて、菜箸で形を整えていく。ふっくらと焼き上がった黄色い塊を皿の上に載せて粗熱を取っている間に、豆腐を賽の目状に切り、小鍋に入れる。焼き鮭に添えようと大根をすっている時、ドアが静かに開いた。

 

 この遠慮がちな開閉音、間違いない。スピナーだ。今日も皆変わらず来てくれた事に、杳は心から嬉しくなった。優しい朝餉の匂いが室内に満ちる。杳はカウンターに手早く料理を並べると、茶碗に炊き立てのご飯をよそった。

 

「はい。どうぞ」

 

 ”いただきます”がてんでんばらばらに唱和され、皆、箸を取って食べ物を口に運び始めた。世間を賑わしている敵連合とは思えない程、和やかな光景が杳の眼前に広がっている。だが、それに浸っている時間はない。白菜ときゅうりの浅漬けを置くと、杳は盆に一人分の朝食、それから余り物を載せた小皿を準備した。そしてそれを持って、部屋を出る。

 

 転弧の部屋は拠点内の一番奥まった場所にあった。軽く声を掛けてからドアを開け、杳はテーブルに盆を載せた。それから腰に手を当てて室内を見回し、彼女は大きな溜息を吐く。ほぼ毎日、部屋の掃除をしているというのに、入る時には必ず室内は散らかっていた。転弧は散らかしの天才であるらしい。

 

 部屋の片隅にはベッドがあり、その上で丸くなったシーツがかすかに蠢いていた。朝の気怠い雰囲気が、その周辺にこびり付いている。杳はベッドに乗り上がると、シーツの塊をそっと両手で包み込んだ。

 

「朝だよ」

 

 ――起きない。優しく揺さぶった。起きない。杳は唇をへの字に曲げた。そして、戸惑う事なくシーツを掴み、勢い良くひっぺがした。

 

「起きろおおおっ!」

 

 中にはこの部屋の主、転弧がいた。眩しそうに歪められた瞼の隙間から、やがて赤い瞳が覗き、忌々しそうに杳を睨んだ。彼はトガ以上に低血圧なのか、寝起きがすこぶる悪かった。だが、深刻な病でもない限り、そんな事情は杳を止める要素にならない。

 

 敵連合の首魁である彼には、出来る限り健康な生活を送ってもらいたいのだ。そう、強くなって、いずれ世界を――。バチンという音で、杳の記憶にまた隙間ができる。彼女は頭を振って意識を取り戻すと、転弧をソファーに座らせ、自身はその足下に座り、手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 

 

 

 転弧は朝食を摂った後、拠点を出る。他の皆もそうだ。杳を除いて、ここにずっといる人間は基本的にいない。不在が数日間に至る、という事もざらにある。

 杳はがらんどうになった拠点内の掃除をして、洗濯、そして料理の仕込みをする。転弧の部屋にあるものは自由にしていいと彼から許可を貰っているので、本や雑誌を読んだりゲームをしたりして時間を潰す。そうこうしている内に、夕食の時間が近づいてくる。

 

 今日の献立はカレーライスとポテトサラダだ。カレーをかき混ぜていると、突然、()()()()()()された。気のせいだと思い直して鍋に視点を戻した直後、またコンコンという音がドアから放たれる。

 

「……」

 

 杳はお玉を鍋に転がすと、ごくりと唾を飲み込んでキッチンを離れた。仲間達は鍵を持っているし、そもそもこの場所は彼ら以外、誰も知らないはず。ドアがノックされたというのは、いわば敵襲と同義だ。”決して反応せず、隠れるように”という黒霧の言いつけを守り、杳は自室へ向かおうと踵を返した。その時――

 

「白雲。そこにいるのか?」

 

 ――焦りの感情を必死に押し込めようとしている低い声が、杳の足を止めた。どこかで聴いた事のあるような気がする。一体、誰だったっけ。記憶の糸を辿ろうとした瞬間、断片的な過去の欠片が、彼女の脳内にまき散らされた。ひび割れたガラス越しの視界。子供達の笑い声。血豆だらけの手の感触。グラウンドの土の匂い。大きな歓声。誰かの泣き声。静謐な黒い瞳……。

 

「あ、いざわ、せn――」

 

 記憶の輪郭を取り戻し、杳がかつての恩師の名を呼びかけた、刹那、その体を()()()()()()()()()。靄を透かして大勢の人々がドアをけ破り、内部に雪崩れ込んでくるのが垣間見えた。その中の一人に、杳は覚えがあった。包帯みたいな白い布を首に巻き付けたヒーローだ。

 

 二人の目がぶつかり合った瞬間、彼は逼迫した表情で何かを叫んだ。まるで見えない手に捕まれてシェイクされたみたいに――杳の心がグラグラと揺れ、奥底から熱い感情が湧き立ってくる。

 

 ヒーローの髪が風もないのに蠢いて、黒い瞳が輝きを放ち始めた途端、黒霧は杳の()()に触れてボタンを押した。バチン、という音と共に衝撃が走り、杳の意識は暗闇に閉ざされた。

 

 

 

 

 気が付くと、杳はカウンターのスツールに伏せて眠りこけていた。――何だかとても大切な事を忘れているような気がして、その感覚はすぐに消え去った。正常な働きを取り戻した嗅覚がカレーの匂いを認識し、杳は調理の途中だったという事を思い出した。その直前の出来事は、何も思い出さなかった。

 

 寝ぼけ眼を擦っていると、仕事の途中で立ち寄ってくれたのだろう、黒霧がカウンターにいた。カレーをひとさじ掬い、味を確かめている。次いでポテトサラダに目を留めると、彼は満足気に目を細めた。

 

()の好物揃いですね」

「うん。カレーは辛くして、じゃがいもは少し硬めに茹でたよ。……その方が好きだから」

 

 杳がもじもじしながら応えると、黒霧は彼女を抱き締め、頭を撫でた。杳にとって一番大切な存在は黒霧だ。だが、黒霧は()()()()()()。彼にとって一番大切な存在は転弧であり、彼の本懐は主の夢が達成される事。杳が転弧達の世話を買って出たのは、彼らではなく黒霧の為だ。

 

 杳は幼子のように黒霧に身をすり寄せた。その目に光はなく、どろりと濁っている。――もう私には何もない。杳は偽りの幸福にしがみ付き、虚ろな声で呟いた。お兄ちゃんしか。黒霧は優しい手付きで少女の頭を撫で、空いた手で首輪のボタンに触れる。赤いランプが点滅し始めて、彼は目を細めた。

 

「ラボへ行きましょう。薬の補充とメンテナンスも兼ねて」

 

 

 

 

 蛇腔総合病院、その地下深くに秘められた研究所にて。いつもの薬(トランキライザー)の補充とメンテナンスを終えた後、杳はロリポップを舐めていた。ドクターは杳がお気に入りなのか、会うといつも子供向けの棒付き飴をくれるのだ。

 

 ふと足首にフサフサした毛並みが触れ、杳は真下を覗き込んだ。――ジョンちゃんだ。辛うじて犬のようなフォルムをしているが、その実態は――様々な獣の遺体を掛け合わせた動物型の脳無で、剥き出しになった脳はガラスの球体で覆われていた。そっと抱き上げて頭――というよりガラスの球体を撫でると、ジョンちゃんの尻尾がほんの少し揺れた。喜んでいるらしい。

 

 施設内はほとんどの部分が白い壁と強化ガラスで構成されている。現在、杳のいる場所は中枢的なエリアにあるらしく、眼前のガラス壁を通して施設内の全貌が見渡せた。杳は壁に手を押し当てて、()()()を覗き込んだ。

 

 施設はすり鉢状になっており、最下層は完全な闇に閉ざされていた。煌々と辺りを照らす照明の光も無数にあるガラスの反射も、そこには届かない。世界の全てを無に帰す程の圧倒的な力が色づいたとしたら、きっとこんな風になるのだろう。魅入られたように杳がそれを眺めていると、奥の方からかすかなモーター音が近づいてきた。

 

「気になるかね。クラウディちゃん」

「うん」

 

 可動式の椅子に座った老医師が、杳の隣に並ぶ。()()医師だ。彼の周囲には数枚のホログラムディスプレイが展開されていた。良い先生だと、杳は素直に思った。敵となった今も、彼は変わらず自分を支え続けてくれている。

 良い先生、本当に?杳の脳にこびり付いた理性が、牙を剥いた。彼が兄を脳無に――

 

 バチンという音と共に、杳の思考は途切れた。バイタルサインの異常値を感知した殻木が、鋭い目で少女を見下ろす。やがて意識を取り戻した杳の目に、焦がれるような輝きが宿った。プレゼントの包装を解くのが待ち切れない子供のように、忙しなく体を揺らす。ジョンちゃんもそれにつられて、ゆらゆらとスイングした。

 

「……まだかなぁ」

「ホッホ!焦らずともよい」

 

 ドクターは気の良い笑い声を上げた。眼鏡の奥にある瞳が揺れ、陰鬱で狂気じみた色を帯びる。何十年もの間、彼の中で凝縮され、抑圧されてきた想いの片鱗だ。

 

()()は必ずやって来る」

 

 その凄惨なセリフは、優しく柔らかな感触で少女の心を慰めた。杳は口の端を緩め、ますますガラス面に顔を寄せた。吐息で目の前が白く曇り、慌てて服の袖で曇りを拭き取る。黒霧が迎えに来るまで彼女はそこにいて、最下層にある()()が世界の全てを飲み込む日をじっと待ちわびていた。

 

 

 

 杳は黒霧に連れられて、拠点へ帰り着いた。キッチンに戻った後、彼女は顎に手を当てて思考する。思いの外、検査が首尾よく進んだのか、想定時刻よりも数時間程早く帰って来てしまった。夜の時間は皆バラバラで、杳は弔が帰って来るまでここで待機する。彼が帰還するまでに仲間達が食事を摂りに来れば配膳し、そうでなければすぐ食べられるように準備しておく――というのが常だった。

 

 杳は壁掛け時計を見上げた。明日の料理の仕込みをしたとしても、まだ時間がある。そうだ、と杳は指の関節を鳴らした。昨日読みかけだった本を転弧の部屋まで取りに行こう。杳は廊下を出ると、屋敷の一番奥へ向かって歩き始めた。

 

 その時、くぐもった男の悲鳴が聴こえた。苦痛に苛まれている声だ。心臓が飛び跳ね、嫌な音を立てて軋んだ。鼻をひくつかせると、濃厚な血臭が漂ってくる。仲間が傷ついたのか?杳は逸る気持ちを押さえて、その場所へ向かった。声と匂いの出所は()()()()だった。急いでドアを開けて内部に踏み入れた杳は、あやうく叫び出しそうになった。

 

 ――中は凄惨な状況になっていた。血の強烈な匂いが杳の鼻腔を刺激する。床には(おびただ)しい量の血液が飛び散り、所々に血塗れの爪や歯が散らばっていた。部屋の奥にはビニールが張られていて、そこで血塗れになった一人の男が蠢いている。彼の前にはマグネがいた。茫然と立ち尽くす杳を認め、彼女は顔を引きつらせる。その逞しい手には血の滴る刃物が握られていた。

 

「……ッ?!ちょっとあんた!なんでここに」

 

 杳は応える事ができなかった。背筋を戦慄が駆け抜ける。――体の奥底からフラッシュバックのように、()()が這い上がって来る。二度と思い出さないようにと厳重に封じられた記憶の引き出しが、がらりと開く。体表に大量の汗が噴き出て、流れ落ちていく。

 

 バイタルサインの異常値を観測したのか、バチン、バチンと狂ったように首輪が薬を打ち込み始めた。しかし、その効き目がすぐさまなくなる程に、杳の精神は昂ぶっていた。

 

(救けよう)

 

 ――頭の中で、()()()()がした。目の前の景色が歪んで、古ぼけた和室に変わる。傍にいる二人の人間の顔は黒く塗りつぶされていて、見えない。

 

 マグネは業を煮やして、大股で近寄ると杳の肩を掴んだ。その直後、マグネの体から知らない男の体が()()()()、宙を舞い、地面に叩きつけられた。トゥワイスがその男に馬乗りになり、固く握った両の拳で殴り始める。――過去と現在の境界線が曖昧になり、杳の意識が揺れて、蕩けていく。

 

 水の中で酸素を求めているような、ゴボゴボという苦しげな音がした。男の肺が破れているのだ。彼の唯一残った片方の眼球が、杳を見る。赤く濁った瞳と、救いを求める小さな少女の瞳が、杳の頭の中で重なって見えた。男は苦痛に喘ぎ、指がほとんど欠けてしまった血塗れの手を差し出した。

 

「たすけてくれ」

 

 ――その瞬間、彼女は全てを思い出した。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 今を(さかのぼ)る事、数ヶ月前。死穢八斎會の本拠地に突入した夜。ラブラバの説得を受け、杳は昏睡状態となった佐伯を()()()()決断を下した。そして、ガスの効果が切れない内に全員で本拠地を脱出する事に成功した。

 

 しかし、ナイトアイの事務所が間近に迫った時、治崎が追って来た。彼は仲間達と強制的な融合を果たし、恐ろしい大鬼に変貌していた。壊理を守る為、杳達は総出で鬼を迎え撃つ。遅れてやって来た警察とナイトアイ達も加勢するが、治崎はブースト弾を自身に大量投与し、ますます激しく暴れ回った。

 

 杳が提案したのは()()だ。この戦いは治崎だけでなく、警察やヒーロー達にとっても予想だにしないものだった。予想ができないという事は、起きた事に対して臨機応変に対応しなければならない――つまり、後手に回り続けるという事だ。唯一、先を知る事のできる者は瞳を翳らせ、何かを呟いた。

 

 戦闘は先手を取られた方が不利になる。治崎は壊理を奪還する為、杳達は壊理を守る為、そしてヒーロー達は治崎を捕縛する為、戦局を変えようと、無理を押して必死に戦い続けた。

 

 世界は多くの事象が複雑に折り重なって出来ている。一つ一つのアクションがある一点で重なり”奇跡”としか言いようのない出来事を巻き起こすように、()()()も起こり得る。たった一つの木片を抜いただけで、高く積み重なったジェンガが崩れていくように。

 

 壊理を抱いた夢路に、杳は比較的安全地帯と思われる古ビルの影に身を潜めるように指示した。戦いの最中、暴走状態となった治崎が、屋根の上で狙撃の準備をしていたヒーローを始末する為、巨大な手を真横に振り、家ごと薙ぎ払う。

 

 辛くも鬼の手からヒーローを救った杳の瞳に、散弾銃のように辺り一帯に降り注ぐコンクリートの塊が見えた。その直後、彼女は石が砕ける轟音と共に、後方から放たれた()()()()()を聴き取った。

 

 杳はヒーローを地面に下ろすと古ビルの裏に飛び、目の前の光景を見るなり、膝から(くずお)れた。――夢路が上から降ってきたコンクリートの塊に押し潰され、動かなくなっていた。ひしゃげた夢路の手を握り、壊理は体を震わせ、体内の水分を絞り出すように激しく泣きじゃくっていた。

 

 夢路と過ごした記憶が、壊れたメリーゴーランドのように脳内を旋回し始めた。立て。お前のせいだ。まだ終わっていない。杳はガチガチと震える歯の根を合わせ、必死で立ち上がろうとした。凄まじい精神的負荷が心身を苛み、体表が氷で覆われて、吐く息が白く凍りついていく。歩く度に半ば氷像と化した体はひび割れ、破損していく。それでも、杳は目の前にいる少女を救う為、手を伸ばした。

 

 その時、壊理の体が()()()()()()。個性を発動したのだ。彼女は夢路の体を巻き戻したが、まだ止め方を知らない。唯一のストッパーである治崎は、ヒーロー達と交戦中だった。大きなコンクリートの塊は液体になり、砂に還る。灰色の砂に包まれて、夢路は青年から少年、そして赤子に戻り、二人の目の前で()()()()

 

(壊理、ちゃ……)

 

 声にならない声で、杳は壊理の肩を掴んだ。その肩が、みるみるうちに小さく縮んでいく。さらに暴走した壊理の個性が、宿主自身をも蝕み始めたのだ。振り返ってこちらを見上げる少女の虚ろな瞳を、杳は生涯忘れる事はないだろう。杳の腕の中で、少女は夢路の跡を追うように自らの時を巻き戻し続け、やがて金色の光の粒子を散らして消え去った。

 

 ――そこから先の事を、杳はほとんど覚えていない。覚えているのは、暗闇の中で涙を拭ってくれた優しい手と声だけ。その声はどこか郷愁を帯びた声で、何度も同じ言葉を囁いた。

 

(彼だけが、全てを終わらせてくれる)

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 杳はベッドの上でシーツに包まり、泣いていた。()()の手が伸びて来て、シーツを引き剥がそうとする。杳は嫌がって、ますます身を縮こまらせた。――私のせいで、夢路と壊理が死んだ。許されない罪人だ。それなのにのうのうと生き延び、日常を貪っている。二人の人間を死に追いやったという事実は、平凡な心根を持つ少女には重すぎた。あまりの罪深さに打ちのめされ、杳は体をくの字に折り曲げて、柔らかな繭の内部で苦しげにのたうち回る。

 

 刹那、シーツが()()()()()()。転弧の個性だ。崩壊が自分にも作用してくれたらいいのに。杳は心からそう願ったが、崩壊の個性が彼女を傷つける事はなかった。荒れ果てた手が塵を払い、杳の頭を撫でて抱き締める。頬に伝う涙を拭い、そっと触れるだけのキスをする。

 

 その優しさが、今の杳にとっては辛かった。自分にはそんな風にされる資格などない。心の底から死にたいと思っているのに、自死する勇気がない。だが、転弧なら殺せるはずなのだ。生き汚く逃げ回る自分を骨も残さず、容易に壊す事ができる。杳は涙で濡れた顔をぐしゃぐしゃに歪め、転弧の手を掴んで自身の頬に押し当てた。

 

「ころして。こわして……ッ」

「まだダメだ。言っただろ?」

 

 吐き気がするほど優しい声で、転弧は囁いた。

 

「全部壊した後、お前を殺してやる」

「……時間かかる?」

 

 転弧は裂傷の走る口角を引き上げ、少女の頬を撫でた。濃い隈に縁取られた、灰色の瞳を覗き込む。その目の奥はぼんやりと煙っていて、何も反射せず、映し出さない。しかし転弧は、そのさらに奥で蠢く()()を感じ取った。この小さな少女が本物の(ヴィラン)に羽化するまで、あと少し。

 

()()()()だ」

 

 杳は激しくしゃくり上げて、何度も頷いた。転弧は小さな体をベッドに沈める。塵の海の中で懸命にもがく中、杳は見た。自身を見下ろす赤い瞳の奥に()()()()()が映っているのを。彼は心配そうに杳を見つめ、手を差し出す。

 

 ――可哀想に。苦しいんだよな。転弧は声に出さずに呟いた。分かるよ。何もかも許せないんだろ。この世界が、自分自身が、憎くて哀しくて、たまらないんだよな。

 救いを求めるように伸ばされた手を掴み、強く握り返す。心配するな。俺が全部終わらせてやる。だから、それまでは、




前半ほのぼの、後半鬼ダークみたいな感じですみません…。敵連合は大勢の人々の命を奪って来た敵なので、ヨウが仲間になるにはここまでの出来事がないと無理だろうなと思いました…。

ちなみにヨウが敵連合に連れ去られてからの展開ですが、
治崎達八斎會一家は全員逮捕、ソーガとジェントルは逮捕されるものの真の弁護で釈放、ヨウは敵連合所属の敵と認定されます。


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7期:チームIDATEN編
No.69 コードネームⅡ


※追記:作中に恋愛表現、R-15表現?が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳は玄野との通話を終えた後、スマートフォンをポケットにしまった。そして、首を傾げた。――まさか放免祝いの宴に招かれるなんて。どういう風の吹き回しだ?思いもよらぬ展開に茫然となった頭の片隅に、嘘田の顔がポッと浮かぶ。彼が気遣ってくれたのだろうか。

 

 八斎會一家が内閣公認の更生敵になったという経緯(いきさつ)は、塚内警部から聴き及んでいる。だが、それは(ひとえ)に治崎の頑張りによるものだ。あの時、彼が救けてくれなければ、自分も黒霧も間違いなく死んでいた。皮肉な事に八斎會を変えてしまったのも彼で、その事に関する(しがらみ)もあるだろうが、命懸けで組を守り抜いた彼に感謝こそすれ――()()と一緒に宴をしたいという結論に至るとは、どうしても思えない。

 

 そもそも、それほど好意的に想ってくれていたならば、手紙を無視するはずがないのだ。一体、何の目的があるのだろう。皮肉にも、今度は杳が考える立場に回った。必死で頭を捻り、先程の会話の一部を脳内で再現してみる。

 

(でも、あの。私が行ったら……)

(まさか断って)

(え?)

(俺の面子を潰すつもりじゃありやせんよね)

(……イキマス)

 

 どすの効いた玄野の声が頭の中に響き渡り、杳は思わず溜息を吐いた。結局、考えたって答えは出ない。思いもよらない形ではあるが、対話のチャンスがつかめたのだ。曲がりなりにもヒーローとして行動した事に対する責任が、胃にずっしりと圧し掛かってくる。結果がどうあれ、()()()()だ。杳は覚悟を決め、拳をギュッと握り締めた。――まさかビルの屋上で焼き芋を片手に笑う合う仲になるとは、この時の杳はまだ知る由もなかったのであった。

 

 

 

 

 もう時刻は七時半を過ぎていた。階下からはテレビの音声と朝餉の匂い、それから誰かが喋ったり走り回る音も聴こえてくる。学友達は身支度を済ませ、一階に集っているらしい。平和な、屈託のなさそうな人々のさざめきが、杳の心をじんわりと暖めた。――たった半日の間に、沢山の出来事が起きた。だけどまた、ここに戻ってこれたんだ。彼女はただ漠然とそう思った。

 

 自室に戻ると、人使と焦凍の姿はもうなかった。杳はカーテンを開け、朝陽の眩しさに目を細めつつ、窓を開けた。冷たい初秋の風が吹き込んで、彼女の頬を優しく撫でていく。オレンジ色の光に照らされた生活道路を、一人の少年が走っていた。緑谷だ。朝のロードワークだろう。仮想空間で垣間見た()()()()を思い出して、杳は唇を噛み締めた。だが、いつまでも感傷に浸っている時間はない。頬を叩いて気合を入れると、杳は新しい衣服に着替えた。次いで身だしなみを整えようとテーブルに手鏡を出した途端、杳は大きく息を詰めた。

 

 ――真っ白に変色した髪、目の下にある隈。半日前の自分とは外見がまるで違っている。戦いの最中、髪と目の色が変わった事は何となく理解していたが、改めて見ると辛いものがあった。こうして自分の外見が変わるのは二度目だと、彼女は鏡越しに隈をなぞる。

 

 だが、今回はレベルが違った。自分の外見は好きではないが、それでも前の方がマシだったように思える。杳は一縷の希望にかけてみる事にした。日用品の入った引き出しを開けると中を引っかき回し、以前ショッピングモールへ行った時にもらったメイク用品の試供品(サンプル)を取り出す。コンシーラーの袋を破って中身を指先に出すと、隈の上に塗り広げた。

 

「……」

 

 しかし、隈は一瞬で元に戻る。()()()と一緒だ。兄の真似ができなくなった時と。気怠げな雰囲気の少女の顔が、歪んでいく。この様子では恐らく、髪も同じだろう。苦し紛れに白髪を撫でつけ、乱暴に隈を擦っても、状態は良くならない。

 

 食い入るように見つめていると、今度は鏡の周りに――黒霧の体内で起きた凄惨な出来事が映り込んできそうな気がして――杳はギュッと目を閉じた。これらの変化はある意味で、巨悪が杳に刻んだ()()()()()だと言えた。自分の姿を見る度に過去の辛い出来事を思い出し、心の傷はいつまでも治らず、膿んでいく。彼女は思わず身震いした。引き摺られるな。もう終わったんだ。前向きに。

 

 杳はベッドの背に寄りかかり、部屋の壁に飾ったワンピースを見上げた。服とバッグ、それからサンダルも、全て蛙吹に借りたものだ。この姿を蛙吹達が見たら、驚くに違いない。杳はがっくりと項垂れた。せっかくお洒落をして送り出してくれたのに。とめどないネガティブ思考が、心中に大きな渦を巻く。

 

 ふと、人使の顔が思い浮かんだ。彼は何も言わなかったが、外見の変わってしまった自分を見てどう思ったんだろう。今更になって不安になり、杳はテーブルの前で膝を抱え込んだ。その時、スマートフォンが小さく震える。慌てて取り出してみると、人使からだった。

 

「もしもし」

『十分後にエレベーター前な。……髪と目の事、皆に説明しといた方がいいだろ』

 

 人使の気遣いが、今の杳には辛く感じられた。説明を要する程の()()なのだという事が、彼を通じて分かったからだ。黒霧の件は勿論、皆に話せない。人使は”個性が進化した事による体質変化”だと説明すると続けた。そのまま彼が通話を切ろうとしたので、杳はもごもごと口籠る。受話器の向こうでガチャリという音がした。彼が部屋を出て、鍵を閉めたのだろう。

 

「……あの」

『何』

「髪が、白くなって。隈もできちゃった女の子を、どう思いますか」

 

 おずおずと放たれたその質問を受け、人使はしばらく沈黙した。やがて、彼はいつも以上に不愛想な声でこう言い放つ。

 

『可愛いと思いますけど』

 

 杳の反応を待たずして、通話はブツリと音を立てて切れた。人使から、可愛いなんて言われたのは初めてだった。”可愛いと思いますけど”。そのフレーズが耳の中でリフレインする度に、暗鬱とした記憶や気分が薄れ、その中に隠れていた――等身大の少女の輪郭が露わになっていく。杳は真っ赤に紅潮した頬を押さえ、ふやけた笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 二人が一階の共同エリアへ到着すると、学友達は思い思いの時を過ごしていた。ソファーに座ってテレビを見たり、ダイニングテーブルで朝食を摂ったり、勉強をしたり、朝の支度に追われたりしている。そんな中、いち早く二人の存在に気付いた上鳴は、乙女チックな動作で両手を頬に当て、叫んだ。

 

「あっ!()()()組、リターンz――どうした白雲ォ?!」

 

 その鬼気迫った大声で、好き勝手な方向を向いていたクラスメイト達の視線は二人に――特に()へ一点集中した。太陽が夜空を塗り替えていくように、杳の目の前で、好奇心がいっぱいに詰まった幼い顔の群れが、心配一色に塗り潰されていく。杳が何かを言う前に、人使は一歩、前に出た。

 

「昨日、オールマイト展に行ってたんだが、突然こうなった。で、夜まで検査入院してたんだ。……()()()()らしい」

 

 ”個性由来”とはその名の通り、個性に由来した体質変化を示す。ただし正式名称ではない。世の人々が使う俗語の一種だ。肉体は個性因子を受け入れる器のようなもので、個性因子が変化すれば外見もそれに適したものへ変わる。人使は、杳の個性が雲化から量子化へ進化した事を挙げ、その事が原因で外見が変化したのだと説明した。――黒霧の事件は八斎會の時と同様、箝口令が敷かれている。個性由来は彼の考えた()だった。納得したのか、皆の顔から少しずつ陰りが消えていく。だが、完全になくなったわけじゃない。単なる体質変化とは言え、白髪と隈は良い結果とは言えないからだ。

 

「だから健康上、特に問題はない。心配かけたな」

 

 人使に続いて、杳は小さく頭を下げた。爆豪は忌々しそうに舌打ちをしてリュックを掴み上げ、玄関口へ向かう。仮免の補講授業を受ける為だ。一段落ついて人使がその場を去ろうとしたその時、地を這うように低い声が彼の背中に突き刺さった。

 

「……騙されねぇぞ」

 

 ()()だった。杳は思わず息を飲んで彼を見るなり、絶句した。峰田の丸っこく愛らしい瞳は血走り、食い縛った歯の間からは血が垂れていた。目の下には今の自分に匹敵するほどの隈がある。ろくに睡眠を取っていなかったのだろう。――そこまで心配してくれていたなんて。杳が峰田の人情味に感動していると、彼はビシッと音が鳴る程の勢いで人使を指差し、激しい口調でがなり立てた。

 

「男女二人が半日デート……何も起きないはずねーだろがッ!髪真っ白になって隈できるまで、白雲の何を検査s――」

 

 刹那、空気を切り裂く衝撃音が、談話室内に炸裂した。人使の捕縛布だ。かくして談話室内の照明横に、前衛的なオブジェが飾られる事となった。学友達は何事もなかったかのような顔で日常へ戻る。もがく峰田を無視して部屋を出て行こうとする人使の背中をぼんやり眺めていると、杳は興奮した様子の女子達に手招きされた。芦戸と葉隠に手を引っ張られ、洗濯室まで連行される。芦戸が大きな瞳を輝かせ、期待に弾んだ声で尋ねた。

 

「で!で!どうだったの?!」

 

 八百万は祈るように胸の前で両手を握り、麗日は丸い瞳を瞬かせてコクコクと頷いた。皆の放つ甘酸っぱい恋の香りで、杳はオールマイト展での特別な一時(ひととき)を思い出した。――目の前を踊る、色とりどりの風船。人々の賑わう声。芝生の青臭い匂い。特別な温もりと言葉。甘くとろけるような幸福の蜜。優しい記憶の断片が慈雨のように降り注ぎ、乾いた心を潤していく。杳は顔を真っ赤に染め上げ、蚊の鳴くような声で応えた。

 

「……えっと。つ、付き合うことに、なりました」

 

 その瞬間、杳の前で、女子達全員の目と口がまあるく開かれた。皆、興奮し切った顔を見合わせて叫び出そうとしたところで――部屋の外に飾られた峰田オブジェ、及び談話室にいる男性陣を振り返り、慌てて声を押し殺す。不意に体が宙に浮き上がり、杳はびっくりして目を白黒させた。愛らしいワンピースに包まれた透明な両腕が、自分を持ち上げている。()()だ。

 

「宴じゃあああっ!」

 

 そうして、杳ははしゃいだ少女達に胴上げされる事となった。芦戸の音頭で万歳三唱をした後、何故か一本締めをして、杳達は揃って朝食を摂る為にダイニングルームへ足を向けた。

 

 寮の食事は事前注文制となっており、ランチラッシュが創ったものを、寮まで配膳ロボットが届けてくれる。ワゴンには和洋二タイプの朝食膳がずらりと並んでいた。杳は昨日の今日で注文できていなかった為、皆がめいめいの皿から一品ずつ分けてくれた。バタートーストに卵焼き、鮭の切り身にソーセージ、おにぎり……etc.かくして皆の優しさのおかげで、杳の前に和洋折衷な朝食が完成した。数時間前に食事を摂ったばかりだというのに、彼女のお腹はまたもグウと鳴る。

 

 ふと強い視線を感じ、杳はキッチンの方を見た。焦凍が切なそうな眼差しでこちらを見ている。一体、どうしたんだろう。しかし、杳が口を開く前に彼は顔を逸らし、談話室を出て行った。彼もまた、仮免の補講授業を受けるのだ。

 

()()、コンシーラーとか使ってみた?」

 

 耳郎が気遣わしげな声を向けた事で、杳は我に返った。隈の事を言っているのだろう。杳はこくんと頷きつつ、耳郎が取ろうとしているケチャップの瓶を彼女の前に押し遣った。

 

「ダメだった」

「そっか」

 

 耳郎は残念そうに頷き、ケチャップを絡めたスクランブルエッグを口に運ぶ。

 

「専用ブランドを検討されては?」

 

 八百万が巨大なおむすびを上品に持ち、不思議そうに尋ねた。麗日は納豆をかき混ぜる手を止め、渋い顔をする。

 

「高いんよ。庶民には手が出んとゆーか……」

 

 個性由来の体質変化を全く違うものに上書きするというのは、言わば()()()()()と同じだ。超常社会が到来した事で、化粧品業界はより慎重な対応を求められるようになった。顧客の肌質の違いがより顕著になった為だ。鱗のような肌を持つ者、液状の体、朝と夜で体の創りが全く異なる者……もはや一人一人がオンリーワンであり、従来通りの分類では興味を示してもらえる事すらできない。だからといって一人一人に合わせていては、いずれ経営は立ち行かなくなる。彼らは苦肉の策として、個性因子による大まかな分類を行う事とした。爬虫類系の個性はこのブランド、スライム系の個性はこのブランド……etc.

 

 だが、化粧品業界がそんな丹念な努力を続けているにも関わらず、どの製品も合わないという人はいる。市販のメイク品以上の変化を求める者も。例えるなら、それは透明な水でできた少女が()()を求めるようなもので、そういった場合は必ずオーダーメイドになる。特殊な薬剤が必要となり、使用しても健康上問題はないという事を国に証明する実験もしなければならない為、値段も当然跳ね上がる。化粧水一本で、豪華なフレンチ料理のコースが食べられる程の万札が飛んでいくのだ。

 

 蛙吹は切り分けた冷ややっこをペロリと飲み込んだ後、小首を傾げて杳を見た。

 

「杳ちゃんが嫌じゃないなら、無理して変えなくてもいいんじゃないかしら」

 

 嘘偽りのない、優しい目と声に、杳の心は救われた。ある意味、病的とも言える体質変化なのに、蛙吹は人使と同じように肯定してくれた。彼女にはいつも救われてばっかりだ。杳の口元は自然と綻ぶ。

 

「うん。ちょっと考えてみる。……皆、ありがとう」

 

 友人達は気遣わしげに微笑んで、食事を再開する。零れ落ちそうな程に丸くて大きな蛙吹の瞳が、スッと細められた。友人のこの笑顔が、杳は特別好きだった。

 

 杳には政府からもらった報奨金がある。だが、それに手を付けるつもりはない。義爛の借金返済に充てる為だ。爪牙から教えてもらった番号はもう繋がらなくなってしまったが、彼は敵であると同時に取引をした商人でもある。いつか連絡先が分かったら、耳を揃えて返したいと思っていた。今すぐでなくとも、大人になればお金は稼げる。いざ変える事ができるとなると、杳の心に()()が生じた。――その理由を今から考えるべきなんだ。杳は小さく頷いて、バターの塗られたトーストを口に運んだ。

 

 

 

 

 翌日。早朝のロードワークを終えた後、杳は教室へ向かっていた。月曜日、朝一番の授業は()()だ。すなわちマイクが教鞭を取るという事。最前列にある自分の席の価値が、最大限に発揮される時だ。杳の心は自然と浮き立った。スキップしながら職員室の前を通りすがった時、引き戸をガラリと開けて出てきた相澤先生と目が合った。相澤は少し考えるような素振りを見せた後、指先で彼女を手招きする。

 

「白雲。ちょっと来い」

 

 一体、何だろう。杳は首を傾げつつも、相澤の跡をついていった。職員室は始業時間が近づいている為か、ほとんど人がいなかった。カーテンのレースの隙間から朝陽が零れ落ち、床に美しい模様を描いている。挽き立ての豆の芳ばしい香りが、杳の鼻腔をくすぐった。相澤の席は、入り口に程近い場所にある。比較的、整理整頓がされている机の上には、飲みかけのコーヒーカップと一緒に書類の束が置かれていた。――いずれも、インターンに関する書類だ。

 

「明日、インターンの話をする予定だが……お前に確認しておきたい事がある」

 

 インターンとは、校外活動(ヒーローインターン)の略称だ。以前行った、職場体験の本格版に相当する。授業の一環ではなく生徒の任意で行う活動で、事務所からは給金が出る。ただし、活動ができるのは仮免取得者のみ。つまり、現時点で仮免を持っていない杳、そして諸事情でストレート合格を逃した爆豪と轟は、今回のインターンには参加できないという事になる。

 

 休学中にインターンの話が出たという事は、飯田を通じて知っていた。後悔してもどうにもならない事だとは分かっている。だが、あの時、休学しなければ今頃は……。航一とホークスの顔が思い浮かび、杳はたまらず顔を伏せた。そんな彼女を見下ろし、相澤は静かな声で尋ねる。

 

()()()()()()は決まったか?」

 

 ――杳の頭は真っ白になった。必死に記憶の糸を辿り、やがて彼女は思い出した。職場体験前、相澤に言われた一言を。

 

(……次のインターンまでには決めとけよ)

 

 ここ数ヶ月間が殊更に目まぐるしかったせいもあるが、すっかり失念していた。その場ですぐ決められる程、杳のセンスは光っていない。もはや万事休すだった。杳が俯いたまま黙り込んでいると、相澤の不愛想な表情はもっとひどくなった。

 

「明日のHRまでに決めろ」

「俺が考えてやろーk――」

「人に決めてもらうのはなし」

 

 マイクの提案を相澤はばっさりと斬り捨てた。それは優柔不断な生徒を想っての言動であったが、マイクは何か思うところがあったようで、エメラルド色の瞳を丸くした後、盛大に吹き出す。

 

「いやお前のコードネーム俺g――」

「もしそれまでに決まらなかった場合」

 

 相澤は消失の個性を使い、マイクの声を容赦なく消し去った。それから彼は腕を組んで少し思案した後、捕縛布に手を突っ込んで中から栄養補給ゼリーを取り出し、杳の前に掲げた。それはお手頃価格の割に配合されている栄養素量が多く、彼が最近好んで飲んでいるものだった。

 

「お前のコードネームは”inジェリーパワーストロング・()()()()”になる。……”アミノ酸2,000mg・クエン酸1,500mg配合”は長くなるからはしょるか」

 

 絶対に嫌だ。杳は心の底からそう思った。その傍らでは、マイクが両手を頬に押し当ててムンクの叫びの真似をしつつ、相澤を凝視している。冗談だと思いたいが、相澤はかつて生徒達を本当に除籍処分とした事があると聞く。有言実行、やると決めたらやる人なのだ。制限時間内に決めなければ、自分の将来はない。杳は恐怖に痺れた頭で想像した。四角くて銀色のゼリー容器の着ぐるみを着て、ヒーロー活動に勤しむ自分の姿を。――彼女のコードネームが本当にそうなってしまうまで、あと半日。




70話も書いてんのに、仮免取れずインターンに行けない&コードネームまだ決まってない主人公って、どんなやねん…。次回は前途ー?!の人達が出ます!

重ね重ねになりますが、この拙いSSを読んでいただき、本当にありがとうございます!感想や評価、誤字報告もありがとうございます!本当に助かります( ;∀;)


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No.70 クラウディ

 その日じゅう、杳の頭はコードネームの事でいっぱいだった。だが、腰を据えてじっくり考える時間はない。雄英高校は日本有数の進学校であると共に、ヒーロー育成機関でもある。午前は怒涛の座学で脳を、午後は戦闘訓練で体を、それこそ擦り切れる寸前まで酷使する。なんとか怒涛のスケジュールをこなすと、今度は夕食が待っている。

 

 しかし、のんびりと摂っている暇もない。山のような宿題と予習に復習、そして家事と夜の自主練が控えているのだ。ただでさえ、()()()()の遅れを取っている身。ロードワークを疎かにする事はできなかった。杳がカレーライスを手早くかき込んでいると、洗濯カゴを抱えた尾白がやって来た。

 

「白雲さん、お待たせ。終わったよ」

「ありがとう」

「今日はカレー?」

「うん。炊飯器のご飯少な目だったから、急いだ方がいいよ」

「マジか。サンキュ」

 

 尾白は良い香りのする洗濯カゴを抱え直し、急ぎ足で去って行った。カレーにはご飯が大量にお代わりしたくなる魔法が掛けられている。それがランチラッシュの創ったものなら尚更だ。杳がお代わりしようと炊飯器の蓋を開けた時、もう白米は数杯分しか残っていなかった。杳は手を合わせると食器を片付け、足下に置いていた洗濯カゴを取り上げる。

 

 ――寮には洗濯室が用意されているが、さすがに全員分の洗濯機はない。だからといって皆の洗濯物を一緒にするのは、思春期真っ盛りの少年少女には辛いものがある。すぐさま話し合いの場が設けられ、飯田の提案でおおまかな順番表を創る事となった。尾白はその表を見て、自分の次となる杳に声を掛けてくれたのだった。

 

 真新しいドラム式洗濯機に衣類を放り込むと、杳はスタートボタンを押して、待機用のベンチに座り込んだ。カゴの底にあるホワイトボードを取り出す。数ヶ月の月日に晒されて、ボードの縁は少し黄ばんでいた。ラウドに×(バツ)印、クラウドに丸がつけられた黒い線をそっとなぞる。――この時はまだ、未来が()()()()になるなんて思ってもみなかった。束の間の感傷に浸る杳の意識に、秒針の音がチクタクと突き刺さる。

 

 ゆったりとしている時間なんてないんだ。一刻も早く考えなければ。杳は水性ペンのキャップを引き抜くと、ボードを睨みつけた。だが、彼女は人の真似をする事は得意だが、一から新しいものを創り出すのはとことん苦手だった。すぐに考えが煮詰まり、キャップを戻して天井を振り仰ぐ。

 

(人に決めてもらうのはなし)

 

 オフホワイトの天井に、職員室での一幕が映り込む。――コードネームを決めてもらうのはアウトとして、ヒントを貰う事はセーフだろうか。杳はそんな他力本願な事を考えた。人使や焦凍、蛙吹など、親しい友人には事情を打ち明けている。頼めば、手伝ってくれるかもしれない。

 

 期待に胸を膨らませて談話室を伺い見ると、人使がテレビ前のソファーに体を沈め、常闇と共に猫カフェ特集を見ていた。二人共、表情はとても和やかだ。どうやら人使だけでなく常闇も猫好きであるらしい。映像に目を凝らして、杳はアッと声を上げた。

 

 ――東鳴羽田の”Hopper's Cafe”だ。人懐っこいおすしⅡ世が看板猫として映し出されていた。多古部の見守る中で、可愛らしい女性リポーターが日替わりランチを食している。その周りの席にはいつもの常連客だけでなく、うら若い女性や女子高生のお客もいるようだ。

 

 ()()()()()んだ。杳は自分の事のように嬉しくなって、人使達と感動を分かち合おうと談話室の敷居をまたいだ。二人の間にはもう一人分、座れるスペースがある。杳とソファーの距離が残り一メートルを切ったその時、人使が仏頂面で振り向いた。気配を察したらしい。彼はソファーの背に顎を載せると、挑発的な笑みを浮かべた。

 

「どうした?”inジェリーパワーストロング・クラウド”」

「ぐうっ」

「あと12時間38分だ」

 

 常闇が腕時計を覗き込みつつ、発破をかけた。どうやら二人に手伝う気持ちはないらしい。杳は踵を返し、すごすごと洗濯室へ戻るほかなかった。ボードを抱え込んで、一生懸命考える。――ラウドはうるさいという意味。私はうるさくないから、サイレントなんてどうだろうか。

 

「”サイレント・クラウド”」

 

 何だかしっくりこない。うんうんと唸っていると、隣の乾燥機が終了のチャイムを鳴らした。空のカゴを下げた爆豪がやって来て、中身を取り出して畳み始める。――そう言えば、彼は決まったのだろうか。飯田君も。杳は考えかけて、頭を横に振った。自分と彼らには一ヶ月ものタイムラグがある。きっとその間に決めているだろう。

 

 ボードの片隅に雲の落書きをしていると、こちらへ近づく足音がした。柔軟剤の良い香りが鼻腔に絡み付く。爆豪だ。彼は杳の手元を覗き込むなり、せせら笑った。

 

「ハッ。まだ決まってねェんかよ」

「……」

 

 その堂々とした口振りから、杳は爆豪がもうコードネームを決めているのだという事実を理解した。爆豪が優しく義理堅い人間なのは知っているが、それ以上に杳は彼が怖かった。息を殺して嵐が過ぎ去るのを待っていると、爆豪はおもむろに彼女の手からペンを取り上げ、ボードの空白部分に大きく”Weenie(ウィニー)”と書く。

 

「いっつもビービー泣いてンだからコレでいいだろ」

「……ッ」

 

 爆豪はボードの上にペンを転がし、満足そうに去って行った。――”Weenie(ウィニー)”は弱虫、泣き虫、臆病者である事を示す英語圏のスラングだ。幸か不幸か、スラングを多用するマイクのラジオ番組を聴いて育った杳は、その意味をすぐさま理解する事ができた。

 

 ウィニー、声に出さずに呟く。思ったよりも語感がいい事に、杳は少々腹が立った。呼びやすく、ともすれば親しみさえ感じられ、泣き虫な自分にピッタリの名前だ。爆豪の才能はこんなところでも発揮されるのかと、彼女は溜息を零した。

 

 杳にとって、爆豪はいわば雲の上の人に近い存在だった。プロを凌駕する実力を有している、という理由だけではない。彼がただの粗暴な人間ではないという事は、演習試験や神野事件での関わりを通して、骨身に沁みている。人使や焦凍、緑谷に次ぎ、尊敬する人物の一人だ。だが、爆豪は杳が秘密裏に行った戦いを知らない。弱虫じゃないと自分を評価できる位には、彼女の自我は成長していた。

 

 やがて爆豪と擦れ違うようにして、砂藤が入ってきた。彼は杳がムッとした表情でボードを睨みつけているのと、悪役のような笑い声を上げている爆豪を交互に見て、大体の事情を察したようだった。

 

「あとで言っとくから気にすんな」

 

 砂藤は溜息を吐くと、ボード上の”Weenie”を服の袖で消した。洗濯機の蓋を開け、大量の衣類を放り込んでボタンを押した後、彼は過去の記憶を辿っているのか、天井を見上げて首を傾げる。

 

「あー。そういや、まだ決まってなかったな」

「明日のHRまでに決めないといけなくて」

「マジか。……クッキー食う?」

 

 砂藤は首を竦めた後、ポケットからクッキーの入った小さな袋を取り出して、杳に渡した。――シュガーマンのシュガータイム平日ver.だ。彼女は頬を綻ばせ、礼を言って袋を受け取った。

 

 糖分を摂取する事で身体能力をアップするという個性を有している為か、砂藤の趣味はお菓子作りだ。そんな彼が週に一度、腕に寄りをかけたスイーツを披露する”シュガーマンのシュガータイム”は皆の毎週楽しみなイベントでもあった。週末に限らずとも、彼の傍に行くと、時々こうしておすそ分けを貰う事ができる。

 

 カレーを食べたばかりだと言うのに、杳の腹はグウと鳴った。中身はパンダの顔を模したアイシングクッキーだ。プレーン味のクッキーに、パンダのアイシングがされている。垂れ目がちなパンダの瞳と、杳の瞳が交錯した。

 

「パンダ……」

 

 その時、杳の脳天から足の爪先までを、一筋の電流が駆け抜けた。――白い髪に黒い隈。今の自分の外見はパンダに似ているのでは?

 

(将来自分がどうなるのか、名を付けることでイメージが固まりそこに近づいてく。それが”名は体を表す”ってことだ)

 

 相澤の言葉が耳朶(じだ)を打つ。将来、自分は”ラウド・クラウド”みたいに立派なヒーローになりたい。自分の外見(パンダ)個性(クラウド)をイメージづける名。――決めた、自分のコードネームは”パンダ・クラウド”だ。灰色がかっていた視界が一気に開けた気がした。不安で萎んでいた心臓が、明るい色をした未来でいっぱいに膨らんでいく。杳は目をキラキラと輝かせながら立ち上がり、壁に寄りかかってスマートフォンを弄っている砂藤の前に立った。

 

「”パンダ・クラウド”にする!ありがとう砂藤くん」

「え、俺なんかした?」

「クッキーでピンと来たんだ。今の私ってパンダっぽいでしょ?」

「……」

 

 同世代の女の子が、自らの白髪と隈を指さしパンダに見えると言う。それを素直に肯定する事は、いくら単純明快な性格だと自負している砂藤にも、できなかった。――自虐には思えないが、肯定する事で彼女が傷つくのでは?とか、今は何とも思わなくとも後々悲しむのでは?という漠然とした考えが、頭の中に浮かんでは消えていく。

 

 砂藤は返答に窮して、談話室にいる保護者(人使)に救難信号代わりの視線を送った。だが、彼は気付かない。観念した砂藤は、首を縦に振る事にした。

 

「そうだな……っつーかまぁ、俺は普通に可愛いと思u――」

 

 突然、静かなノック音が二人の間に割って入った。砂藤は失言を自覚すると同時に、大きく息を詰める。()()に違いない。違うんだ。恐怖でカラカラに乾き切った喉を潤し、砂藤は口を開こうとした。基本的にヒーロー科の人間は――自分もそうであるかは不明だが――社会の支持を得る為だろう、容姿端麗か、キャッチーな見た目である場合が多い。白雲もその一人だったという、客観的な意見を述べただけだ。決してやましい気持ちがあったわけじゃない。錆び付いたブリキ人形のように、砂藤はぎこちない動作で出入口の方向を見て、そして拍子抜けした。

 

 ――そこにいたのは心操ではなく、()()だった。自主練に行くのだろう、使い古したノートを小脇に抱えて首にタオルを巻いている。彼は気まずそうに瞳を伏せた後、杳を見た。

 

「白雲さん。その、言いにくいんだけど……”パンダ・クラウド”は実在するヒーローなんだ」

 

 砂藤がホッと肩を撫で下ろした一方で、杳はがっくりと項垂れた。自他ともに認めるヒーローオタクの彼の事だ、それは事実なのだろう。緑谷によると、”パンダ・クラウド”はパンダの個性を持ったヒーローで、今を(さかのぼ)る事五年前、出産を機に引退したらしい。関西地方で活躍していたローカルヒーローだったので、関東出身の杳や砂藤は知らなかったのだろうと締めくくり、緑谷は腕を組んだ。

 

「引退しても名前は()()んだ。違う名前を考えた方がいいと思う」

「……じゃあ、”クラウド・パンダ”にする」

「いや訴えられるわ」

 

 砂藤は冷静に突っ込んだ。そもそも公安に承認されない可能性が高い。また振り出しに戻ってしまった。杳は苦悶の表情を浮かべ、白髪頭を抱え込んだ。せっかく良い名前を考えたと思ったのに。

 

 それにしてもと、杳は羨望の眼差しで二人を見た。――”シュガーマン”に”デク”。呼びやすくキャッチーで、名前と外見がしっかり合致する。シンプルで素晴らしいコードネームだ。あの授業の時は何とも思わなかったけれど、ヒーロー飽和社会と呼ばれる現在、誰とも被らない()()()()名前を考えるというのは、実は至難の業なのかもしれない。

 

「皆、すごいよね。センスがあるというか」

「あー、うん。僕の場合は……まぁ、そうだね」

 

 緑谷はなんとも歯切れの悪い返答をして、そばかすの散った健康的(ヘルシー)な頬をかいた。砂藤は洗濯機の蓋を開け、今度は乾燥機へ中身を放り込みつつ、何気ない口調で言った。

 

「大体、皆決まってるわな。小さい頃に」

「小さい頃かぁ」

 

 杳は腕を組み、天井を見上げて考え込んだ。皆、小さな頃からヒーローを目指してここに来たんだ。自分はそうじゃなかった。兄と一緒にいる事が幸せで、ただそれだけでよかったんだ。ふと記憶の中のワンシーンが心の底から浮かび上がり、彼女の脳内を彩った。二人で空の散歩をしている時の、他愛無い日常の切れ端だ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(私、お兄ちゃんみたいな青い髪と目が良かったなあ)

 

 杳は羨ましそうに朧を見上げた。青空を融かしたみたいな髪と目の色が、彼女はとても好きだった。対して自分の髪と目の色はどんよりした灰色。今にも大雨が降り出しそうな――人が空を見上げて不安そうな顔をする――()()()と同じだ。青空を見て笑顔になる人はいても、曇り空を見て笑顔になる人はいない。

 

 杳がいじけて自分の髪を引っ張っていると、朧は軽く笑い、彼女を抱き上げた。透き通った水色の瞳に、泣きそうな少女の顔が映り込む。

 

(俺は杳の髪と目、大好きだぞ。曇り空って感じだ)

 

 ――それが嫌なんだ。杳がますます悲しそうな顔をすると、朧は軽く吹き出しておでこをくっ付けた。涙の止まるおまじないだ。額を通して、朧の熱と想いがじんわりと伝わってくる。

 

(たまーにさ、青空が眩しく感じる時があるんだ)

 

 明るく朗らかなその声には、ほんの一握りのスパイス(にがみ)が内包されていた。ヒーロー科は他者との競争がメインだ。楽しい事ばかりじゃない。時には挫折を味わったり、辛さや悲しみに支配される時もある。だが、杳がその声に隠された本音に気付く前に、彼は優しい声に戻り、言葉を紡いだ。

 

(そんな時に空が曇りだと……なんか救われた気がするんだよな。それに、何か起こる前触れみたいでワクワクするだろ?)

 

 青空みたいな快活な笑みが、瞼の裏に焼き付いて、消えていく。――杳は現実に戻り、静かに掌を握り締めた。自分の原点はずっと心の中にある。ありのままを認めてくれた兄を救うヒーローになるんだ。曇り空が好きだって言ってくれた彼の為に。そう、曇り空……英語にすると”クラウディ”。その名前は自分でも驚く程に抵抗なく、心の奥底にすとんと落ちた。杳はおずおずと二人を見上げ、新たなコードネームを口にする。

 

「”クラウディ”はどうかな?」

「どうだM・N(ミドリヤネットワーク)?」

「M・Nって」

 

 砂藤に促されると、緑谷は脳内の膨大なデータを検索する為、しばらく沈黙した。二人が固唾を飲んで見守る中、やがて彼は厳かな動作でサムズアップしてみせる。

 

「……うん。検索結果はありませんでした」

 

 

 

 

 三十分後。杳は寮を出て、学舎の職員室へ足を運んだ。時刻は夜九時を回っていたが、ほとんどの教師が机にかじりつき、山積した書類と格闘している。相澤も多分に漏れず、コーヒーカップを片手に事務作業を進めていた。杳はその前に立つと、少し緊張した面持ちでコードネームを伝えたのだった。

 

「”クラウディ”です」

 

 相澤は黒い瞳をわずかに細めただけで、何も言わなかった。おもむろにパソコンのキーボードを弄ると、彼女にも見えるようにディスプレイの向きを調節する。次いで学内のシステムにアクセスして生徒のコードネーム申請処理ソフトを起動し、杳の名前を検索した。コードネームは”inジェリーパワーストロング・クラウド”で仮登録されている。――本当にその名前にするつもりだったんだ。相澤先生の本気を知り、杳の体を戦慄が駆け抜けた。

 

 だが、その名前はすぐさま相澤の手で消され、”クラウディ”に上書きされる。杳は心の底からホッとした。ちらりと隣席を伺い見るが、マイクはいない。席を外しているようだ。ついでに頭を撫でてもらえるかもしれないという杳の(よこしま)な願望は泡と消えたのだった。相澤は本登録ボタンを押すと同時にディスプレイの向きを戻し、杳を労った。

 

「お疲れさん。帰ってよし」

「ありがとうございます」

 

 これで目下の不安はなくなった。後は仮免取得に向けて邁進(まいしん)するのみだ。杳が職員室の引き戸に手を掛けた時、ふと視界の端から何かが飛んできて、反射的に彼女はそれをキャッチした。――未開封のプロテインゼリーだ。直前まで冷蔵庫に置いてあったのか、よく冷えている。

 慌てて相澤を見ると、彼は唇の端をほんのわずかに緩め、武骨だが優しい声を放った。

 

「頑張れよ。”クラウディ”」

「……はいっ」

 

 なんだかとってもくすぐったい気持ちになって、杳ははにかみ笑いを浮かべ、元気良く返事をした。そのまま勢い良く引き戸を開けると、目の前に見知った友人の姿があった。――()()だ。彼も自主練をする前なのか、運動着に着替えている。

 

 だが、その表情はあまりに深刻だった。苦しそうに歪められた双眸が、自分を真っ直ぐに見つめている。その眼差しの強さに呑まれ、杳の呼吸は止まった。胸がギュウッと握り潰されたように息苦しくなる。焦凍は杳が持っているゼリー容器に目を留めると、いつものように笑おうとした。しかし、直前で唇の端が引き攣り、そうする事ができなかった。

 

「決まったのか」

「うん」

 

 杳はズボンのポケットにゼリー容器を突っ込んだ後、焦凍の様子を尋ねようと顔を上げ、息を飲んだ。――ほんの少しでも身動きしたら触れ合う程の至近距離に、焦凍がいたからだ。神様が創り出した彫刻みたいに整った顔が、自分の数センチ前にある。不覚にも杳はドキッとし、同時に人使に対して猛烈な罪悪感を感じた。そんな彼女の内心を知る由もなく、焦凍は真剣な表情で言葉を紡ぐ。

 

「二人きりで話がしたい。今から時間取れるか?」

 

 

 

 

 それから十分後。杳と焦凍はそれぞれ自販機で買い求めた缶ジュースを手に、中庭の片隅にあるベンチに腰を落ち着けた。涼やかな秋風が、黒々とした芝生の輪郭を優しく撫でていく。真上を見上げると、真っ暗なビロードを張ったような空に白銀の月が浮かんでいた。

 

 耳を澄ませても、風が草を凪ぐ音と虫が鳴く声しか聴こえない。――監視用のロボットやドローンがいないと、夜はとても静かだ。杳は少し自嘲気味に笑った。一方の焦凍は缶ジュースのプルトップを開け、一息に飲み干す。空になった缶を握り潰すと、彼は意を決したようにこちらを見た。

 

「俺は、今から言う事でお前を傷つけるかもしれねェ」

「……うん」

 

 よほど言いにくい事なのだろうか。だが、焦凍は大切な友人だ。どんな内容であれ、真摯に受け止めるべきだと心から思う。杳は覚悟を決めて、頷いた。すると焦凍はベンチを立ち上がり、杳の前に(ひざまず)いた。そうする事で二人の視点は同じになる。彼は小さな肩に手を置くと、熱を帯びた声で言葉を紡いだ。

 

「だけど、俺は……あいつに負けない位、お前を大切に思ってる。それだけは分かってくれ」

「う、うん……?」

 

 色違いの瞳と灰色の瞳が、静かに交錯する。やおら強い風が吹いて芝生がざわざわと揺れ、黒々とした雲の群れが月を覆い隠した。薄暗い視界の中で、焦凍が――まるで毒を吐き出すかのように――苦しそうに顔を歪めて、指の腹でそっと自分の隈をなぞるのが見えた。

 

 杳の心臓が爆発しそうな程に強く、跳ね上がる。雲行きがおかしい。瞬きする度に、人使の顔と八百万の顔が瞼の裏に浮かんだ。状況に混乱した脳が()()()()()に行き当たった瞬間――突然、焦凍と過ごした今までの記憶がどっと流れ込んできた。

 

 思い返せば、彼はずっと自分を気にかけてくれていた。思春期特有の多感な心が、杳の予想を後押しする。まさか……。焦凍はますます苦しそうに顔を歪め、白髪を労わるように撫でる。こんなに辛い顔をさせてしまうまで、自分は気付かなかったんだ。強烈な罪悪感に苛まれ、杳は唇を噛み締め、力なく首を横に振った。それから勇気を振り絞り、蚊の鳴くような声で言葉を発する。

 

「ごめん、ショート。私――」

「クリニックに行くか?」

 

 思いも寄らない発言を受け、杳の目は点になった。焦凍はズボンの後ろポケットからパンフレットを取り出して杳の膝に広げ、良く見えるようにスマートフォンのライトで照らしてくれた。ベルベットみたいに柔らかい笑みを浮かべ、自身の火傷痕を指してみせる。

 

「資料送ってもらった。火傷した時、冬姉が調べてくれたの思い出してな。個性由来に特化した病院らしい」

「……ソウナンダ」

「ッ、すまん。やっぱり嫌だったよな」

「いや、ち、違うよ。えと、あの、その……」

 

 杳は穴があったら入りたい気持ちで、胸がいっぱいになった。焦凍がこんなにも気遣ってくれていたというのに、自分はあんな馬鹿みたいな妄想を――。謝るのはこちらの方だ。

 

 杳が泣きそうな顔で縮こまっているので、傷つけたと思ったのだろう――焦凍はいつもの彼とは整合性が取れない程に、ひどく取り乱した様子で、宥めるように彼女の背中を擦り始めた。その場しのぎの理由を言ったところで、納得しないだろう。杳は観念して、熟したトマトのように真っ赤に染め上がった頬をかきつつ、口を開いた。

 

「ショートが。その、私に告白するのかな、とか勘違いしてて。す、すみません。ハイ」

 

 焦凍は首を傾げ、未知の生命体を見るような眼差しをこちらに向けた。杳はますます居たたまれない気持ちになり、苺・オレの空き缶でサッと顔を隠した。

 

 焦凍は何故杳がそういう結論に至ったのか、理解する事ができなかった。人使と杳は彼にとってかけがえのない友人で、二人の仲も心から応援したいと思っている。そこまで考えて、焦凍はふとある事実に気が付いた。――確かに自分達は同じ志を持った友人同士だが、()()は違う。杳の心は幼く不安定だ。何かの拍子にそう思い込んでしまったのかもしれない。焦凍は納得し、頷いた。それから自分達の友情を証明する為、彼女の肩を掴み、真摯な表情で言葉を紡ぐ。

 

「心配すんな。俺がお前を異性として意識した事は、一回もねェ。これからもだ。約束する」

「う、うん……」

 

 杳は引き攣り笑いを浮かべた。そこまで全否定されると――自分に女性的な魅力がないと断言されているような気がして――ちょっと落ち込む杳なのであった。二人の間に結ばれた絆を再確認したところで、杳は気を取り直し、焦凍が調べてくれたパンフレットに目を通す事にした。

 

 首都圏に近い場所に設立された美容整形クリニックで、三十年以上もの間、個性由来関連の病状治療に専念してきたらしい。殻木医師によく似た優しい顔立ちをした老医師が、懇切丁寧に院内や治療の説明をしている。段々静まってきた杳の心に、罪悪感の針がチクリと突き立った。

 

「……ごめんね」

 

 焦凍が自分に向けていた目の()()が分かった。髪と目の色が変わってしまった自分と、過去の自分とを重ねていたのだ。不可抗力ではあるものの、彼を傷つけてしまったという事実に打ちのめされ、杳は眉尻を下げた。――焦凍の過去は凄惨極まりないものだ。フラッシュバックがどれほど辛いものか、自分も良く知っている。言葉にならない程、苦しかっただろうに。それでも焦凍は自分の為にそれを堪え、冬美と連絡を取って準備をし、向き合ってくれたのだ。

 

 ふとある事が気になり、杳は恐る恐る顔を上げて焦凍を見た。個性は想いに関係すると聞く。恐らくその火傷痕も個性由来なのだろう。彼は病院に行ったのだろうか。

 

「ショートは行かなかったの?」

「ああ」

 

 色違いの瞳で、焦凍は優しげな医師の顔を見下ろした。ふとその瞳の奥が、暗い影を帯びる。入学し立ての時に垣間見た、彼の奥底に今なお眠る――怨嗟の念の残滓だ。鋭利で孤独な氷の匂いが、杳の鼻腔にまとわりついた。当時の想いの輪郭をなぞろうとしているのか、彼は噛み締めるように言葉を連ねた。

 

「あいつの罪を()()()()()()にしたくなかった」

 

 ――自分で鏡を見る度、目的を忘れないように。父親が自分の顔を見る度、あの出来事を思い出すように。地獄の底から響くような憎しみの籠もった声に、杳は思わず総毛だった。それがどんなものであれ、人の想いは容易に消えない。だが、()()()()はずだと、杳は友人の両手を強く掴んだ。右は冷たくて、左手は熱い。氷細工のように繊細で、いかなる壁も打ち砕く熱を持った手だ。開いた心の傷をそっと塞ぐように、杳は静かな声で尋ねた。

 

「今は。治したいと思う?」

 

 焦凍は答えに窮し、ただ黙って杳の手を握り返した。穏やかな夜風が二人の間に吹き込んで、沈黙のヴェールを揺らしていく。やがて彼は右手を離して火傷痕に触れ、不思議そうにこう言った。

 

「……思わねぇ。なんでだろうな」

 

 

 

 

 翌朝、1-Aクラスの教室にて。杳が片目を閉じてシャープペンの替え芯を入れていると、相澤先生が引き戸を開けて入って来た。朝のHR開始だ。しんと静まり返った生徒達をよそに、相澤は教壇に出席簿を置いて捕縛布の位置を直す。

 

「今日はインターンの話を本格的に進めてく。……入っておいで」

 

 相澤は引き戸の方へ顔を向けた。――”入っておいで?”杳は不思議そうに首を傾げた。今の時期に転校生という事もあるまい。インターンに関連した人物なのだろうが、一体誰だろう。そうこうする内に引き戸が開いて、中から三人の上級生が入って来た。

 

「職場体験とどういう違いがあるのか、直に経験している人間から話してもらう」

 

 まず入ってきたのは、金髪碧眼の青年だった。その堂々とした立ち振る舞いと快活なスマイルは、どことなくオールマイトを彷彿とさせる。鍛え抜かれた好青年と言ってよいだろう。腕を大きく振りながら元気良く入って来て教室内を見回すと、青年は誰かを認め、微笑んだ。あの方向、恐らく()()だ。振り返って確認すると、緑谷は驚いたような表情を浮かべていた。知り合いだろうか。

 

「多忙な中都合を合わせて来てくれたんだ。心して聞くように」

 

 青年の後ろを歩いているのは、容姿端麗な少女だった。すらりと背が高く、艶やかな水色の髪を(なび)かせて歩く様は――同性でさえも見蕩れる程に、妖艶で愛らしい。ふっくらとした唇に指を押し当て、興味深そうに周囲を見渡している。

 

 最後に入ってきたのは、黒髪の青年だった。ズボンのポケットに手を突っ込み、俯き気味に歩いている。険しい顔立ちをして、誰とも目を合わさない。気難しい人なのだろうか。杳は彼の機嫌を害さぬよう、視線を下げた。やがて三人の男女が壇上に並び立つと、相澤は引き戸を閉め、いつも以上に厳しい声音で言葉を続けた。

 

「現雄英生の中でもトップに君臨する三年生三名……通称、”ビッグ3”の皆だ」




7期は杳視点に戻って書いている為か、楽しいけど全然話が進まない…。次回でやっとインターンもどき?的なシーンまで行き着きたいところ(;_;)


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No.71 前途多難

※追記:全体的な微調整、及び蛇腔総合病院のシーンを少し付け足しました。


「あの人たちが……的な人がいるとは聞いてたけど」

 

 後方から耳郎の声がする。杳はごくりと唾を飲んで、こわごわと三人の上級生を見上げた。自分がいるのは中央ラインの最前席、手を伸ばせば届く位の距離感で彼らを視認できる。

 

 ――雄英学校は”平和の象徴”オールマイトやエンデヴァーを筆頭に多数のスーパーヒーローを排出した実績を持つ、名門中の名門のヒーロー育成機関だ。その頂点に位置すると評価されている時点で、実力は推して知るべしだろう。言うなれば、次代のオールマイトに相当する人物。相澤の発言を飲み込んだ生徒から反応が変わっていく。芦戸は黒曜石(オニキス)を嵌め込んだような瞳を(またたか)かせた。

 

「びっぐすりー」

「めっちゃキレーな人いるし……そんな感じには見えねーな」

 

 上鳴の言う通りだと、杳は小首を傾げた。ビッグ3の纏っている雰囲気は実力あるヒーローというより、暖かくて親しみのあるものだった。――ただ一人、()()()()()を除いて。そう思いつつチラリと彼を見上げた時、ちょうど視線が克ち合った。黒髪に隠された双眸は吊り上がり、険しい表情をしている。杳はヒッと息を飲んで、慌てて視線を下げた。マイクデザインの下敷きを眺めて平常心を取り戻そうとしていると、相澤が言葉を紡ぐ。

 

「じゃ手短に自己紹介よろしいか?()()から」

「――ッ」

 

 次の瞬間、俯いた杳の頭をグッと押さえつけるような、強烈な威圧(プレッシャー)が前方から放たれた。だが、脅しや悪意を彷彿とさせる不純物は含まれていない。弱気を救け強気を挫くパワーを持った、真っ白な力の奔流だ。真正面からそれに晒されているのだろう、飯田達の身じろぎする音や呻く声が、杳の背中にぶつかってくる。ひたすら目を瞑って耐え忍んでいると、やがて頭上から弱々しい声が降ってきた。

 

「ダメだ。ジャガイモだと思って望んでも、頭部以外が人間のままで依然人間にしか見えない。どうしたらいい……ッ、言葉が、出て来ない」

 

 ビリビリと痺れるようだった空気が霧散していく。――どうなってるんだ?ついさっきまでの凄まじい気迫と、今の声との不均衡(アンバランス)さに脳が混乱し、杳はおずおずと顔を上げ、それから目と口を丸くした。黒髪の少年は自分達ではなく()()と向き合っていた。彼は自信なさげに丸めた背をますますひどくして、額を黒板に押し付ける。

 

「帰りたい……ッ」

 

 黒板の端に寄りかかった相澤の瞳に()()()()()が宿る。ビッグ3と謳われてはいるけれど、こんなに繊細な心根の人もいるんだ。一方の杳は下敷きで半分顔を隠しつつ、思いを馳せた。実力は遠く及ばないだろうが、シャイなのは自分も同じだ。杳は少年に同情すると共に、ちょっと親近感を抱いたのだった。

 

「あ、聴いて。天喰君。そういうのノミの心臓って言うんだって。人間なのにね。不思議」

 

 相澤の放つ威圧で再びピンと張り詰めた空気をものともせず、今度は美少女が口を開いた。そしてにっこりと笑う。華やぐような笑みだった。少女は黒板と一体化している少年を指し、それから自身を指す。

 

「彼はノミの天喰環、それで私が波動ねじれ」

「ノミの……」

「今日は校外活動(インターン)について皆にお話ししてほしいと頼まれてきました」

 

 鈴を転がすような声で紡がれた言葉には、小さな棘が含まれている。――ビッグ3は皆、総じて二面性があるのだろうか。そういえば、オールマイトも勇猛な面とお茶目な面、その双方を有している。杳がそんな失礼な事を考えていると、波動は壇上で立ち止まった。

 

 波動は不思議そうに首を傾げ、障子の前にしゃがみ込んで、彼を見上げる。上鳴は心底羨ましそうに歯を食い縛って、障子を凝視していた。同性でさえも見惚れる程の美少女だというのに、障子は顔を赤らめる素振りすら見せない。彼は冷静沈着なタイプなのだ。少し身じろぎした後、彼女を見つめ返す。

 

「けどしかしねぇねぇところで君は何でマスクを?風邪?オシャレ?」

「これは昔n――」

 

 しかし障子が応える前に、波動はくるりと振り返り、今度は杳を見た。そしてこちらへ歩み寄る。動くと水色の長髪が翼のように舞い、良い芳香が辺りに漂った。まるで神様が美しくこしらえた人形のような、端整な外見をしている。澄んだ瞳に自分が映っていると分かった途端、杳は彼女に()()された。波動は白魚のような手を伸ばし、フワフワとした白髪を興味深げに弄ぶ。

 

「あなたの髪入道雲みたい。本物の雲でできてるの?雨や雪は降る?」

「い、いいえ。あn――」

 

 杳がしどろもどろになりながら言葉を選んでいる内に、波動の興味は別の対象へ移動した。水色の瞳は、今度は一番後方の席にいる焦凍を映し出す。

 

「あなた轟くんだよね?ね?なんでそんなところを火傷したの?」

 

 あまりにデリケートな部分を突いた質問が耳に入った途端、杳はハッと我に返った。慌てて後方を振り向くが、焦凍が応えようとした時には、もう波動は峰田の丸っこい形をした髪を覗き込んでいた。――まるで外の世界を知覚したばかりの赤子のように、彼女はクラス中を興味深げに見回して、あどけない仕草で首を傾げる。きっとその目で見る世界は自分が見ているものとは違うのだろう。杳は何となくそう思った。

 

「どの子も皆気になるところばかり!不思議」

「……合理性に欠くね?」

 

 波動の天真爛漫な雰囲気に和んでいた杳達の意識は、相澤の放った低音(バス)で、一気に現実へ引き摺り戻された。ビッグ3の内、一人は黒板の妖精と化し、もう一人は花畑を舞う蝶のように教室内を歩き回り、下級生にちょっかいを出している。この混乱した事態を収拾する事ができるのは、残る()()()()()だけだった。何か言いたげな相澤の視線を受け止め、金髪の少年は空気が唸る程の速度で自分自身を指差してみせる。

 

「イレイザーヘッド安心してください!大トリは俺なんだよね!」

 

 そう言うと、少年は芝居がかった動作で耳に手を当てて教室内にずいと身を乗り出し、大音声を放った。

 

前途(ぜんと)ー?!」

多難(たなん)ー!」

 

 ()()()()で放った杳の返事(アンサー)が、教室内を彩った。中途半端に振り上げた右手に、全員の視線が集中する。一瞬遅れて杳は我に返り、顔を真っ赤に紅潮させて俯いた。しまった、ついマイク先生の時のノリで!猛烈に後悔するも、時は巻き戻す事ができない。

 

 ――マイクはラジオ番組やliveのみならず、授業においてもリスナー達に対するコールを忘れない。毎回それに律儀に返答してきたのは、杳だけだった。長年の経験の蓄積により、まるでパブロフの犬の如く反射的に行動してしまったのだ。杳は元来大人しい性格だった。恥じ入るあまり引っ込めようとした右手を、誰かがガッと掴む。金髪の少年だ。

 

「そう多難だよね!よォし掴みは大成功だ」

 

 少年は眩いばかりのスマイルを浮かべ、小さな手を力強くシェイクする。その時、杳は本能的に理解した。――人の手には、今まで積み重ねてきた経験が現れる。大きく節くれだった手には、気の遠くなるような根気と努力の痕跡が感じられた。

 

 自分にないものに人は惹かれるというが、杳にとっては”明るい元気な人”がそうだった。良く見ると逆立てた金髪に優しい空色の瞳をしていて、杳が大好きなヒーロー達の外見にどこか雰囲気が似ている。彼女が少年のファンになるまで、あまり時間は掛からなかった。やがて手を離すと、少年は両腕を組んで教室内を見回す。

 

「まぁ何が何やらって顔してるよね。必修てわけでもない校外活動(インターン)の説明に、突如現れた三年生だ。そりゃわけもないよね」

 

 少年は記憶の糸を手繰るように目を閉じて天井を見上げ、ポツリと呟いた。

 

「一年から仮免取得、だよね。フム。今年の一年生てすごく元気があるよね……てことで」

 

 何やら不穏な気配を察した天喰が振り向き、尾白の尻尾と戯れていた波動が不思議そうに少年を見つめる。少年は逞しい右手を振り上げ、元気良く言い放った。

 

「君達まとめて、()()()()()みようよ!」

「……え、ええー?!」

 

 ――戦う?インターンの説明に来たんじゃないのか?思いもよらない展開に困惑し、杳達は不安そうな顔を見合わせた。そんな生徒達を尻目に、彼は照れ臭そうに鼻の下を擦りながら、相澤にウインクを送る。

 

「俺達の経験をその身で経験した方が合理的でしょう?どうでしょうねイレイザーヘッド!」

 

 相澤は視線だけを少年に向けると、しばらく考え込んだ。やがて彼はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作して耳に押し当てる。生徒達が固唾を飲んで展開を見守る中、彼は静かに頷いた。

 

「……好きにしな」

 

 

 

 

 そうして、杳達は運動着に着替えて体育館γ(ガンマ)に集合する事となった。体育館γはTDL(トレーニングの台所ランド)の通り名で知られる特殊訓練施設で、広々とした室内の床は全てコンクリートで構成されている。ここ一ヶ月間に渡る補講授業ですっかり慣れ親しんだ床を踏みしめ、杳ははてと考えを巡らせた。

 

 ――この授業は、あくまで仮免取得者を対象としている。そうでない自分が参加していいものだろうか。なんとなく焦凍を探すと、彼は相澤の隣で()()()と化していた。自分もそうするべきだろう。杳は焦凍の傍にいそいそと駆け寄った。ちなみに爆豪は戦闘に参加するようだが、その事に対して相澤が異議を唱える様子はなかった。どうやら自由参加であるらしい。

 

「ミリオ……止めた方がいい。形式的に、こういう具合でとても有意義ですと語るだけで充分だ」

(とお)

 

 しっかりと屈伸運動をする少年――ミリオという名らしい――に向け、体育館の出入口に限りなく近い壁の前から、天喰が冷静な指摘を放った。その距離の余りの遠さに、峰田が冷静な口調で突っ込む。

 

「皆が皆、上昇志向に満ち満ちているわけじゃない。立ち直れなくなる子が出てはいけない」

 

 その忠告はクラスメイト達の恐怖心ではなく、闘争心を煽り立てた。爆豪の額に青筋が浮かび、切島は険しい顔で硬質化した両の拳を打ち付ける。施設内に剣呑な雰囲気が漂ってきた事に杳が警戒心を抱いていると、芦戸の触角を突いていた波動がミリオの方へ顔を向けた。

 

「あ、聴いて知ってる?昔、挫折しちゃってヒーロー諦めちゃって問題起こしちゃった子がいるんだよ。知ってた?」

「ぐああっ!」

「大丈夫か?!」

 

 不意を突いて放たれた()()()()に心臓を深々と貫かれ、杳は苦悶の表情を浮かべて(くずお)れた。突然の奇行に息を飲み、焦凍が背中を擦る。――耳が痛いどころの騒ぎではない、一語一句自分に当てはまる。杳は痛苦に喘ぎながら思った。もしかして自分の事だろうか。恐る恐る波動を伺い見るが、彼女の視線はこちらにない。どうやら自分の事ではないようだ。杳は一先ずホッと胸を撫で下ろした。

 

「大変だよねぇ通形。ちゃんと考えないと辛いよ」

「おやめください」

 

 くすぐったそうに身を捩りながら、芦戸が物申す。その一方で、念入りな準備運動を終えた爆豪と常闇、そして切島はミリオに相対し、真剣な表情で言葉を紡いでいた。

 

「随分舐め腐ってくれてンなァ」

「我々はハンデがあるとはいえ、プロとも戦っている。敵との戦いも経験している」

「そんな心配されるほど、俺ら雑魚に見えますか?」

「うん。いつどっから来てもいいよね」

 

 至極あっさりとミリオは言い放った。――恐らくその返答は、切島の問いに対するものではないだろうとは思う。だが、ミリオの構えは型も何もなかった。両腕の力を抜いて立っているだけという時点で、自分達を同列に見ていない事が分かる。切島達の顔が歪んでいく。いつでも弱虫な自分を元気づけ、励ましてくれた皆の心が翳るのは、見ている杳が辛かった。そんな一年生達の想いの変化をよそに、ミリオは元気良く声を発する。

 

「一番手は誰だ?!」

「俺――」

「僕、行きます」

 

 好戦的な笑みを浮かべて火花を飛び散らせる爆豪、そして切島を差し置いて、緑谷がミリオの前に立った。数瞬後、杳達の眼前で最早日常茶飯事となった爆豪と緑谷の喧嘩――と言っても怒りのエネルギーのベクトルはほぼ一方通行だが――が展開される。だが、緑谷とて受け身を取るばかりではない。自分が休学中、二人の関係性に変化が生じたらしいという人使の話は、どうやら真実であったようだ。なんとか爆豪を振り切った緑谷を見て、ミリオは口元を緩める。

 

「いいね君。やっぱり元気があるなぁ」

 

 緑谷は両手を高く挙げると一気に振り下ろし、利き足を大きく踏み込んだ。エメラルドグリーンに輝くエネルギー粒子が激しく(ほとばし)り、稲妻状になって彼の全身にまとわりつく。イオン化された突風が杳の頬を撫でた途端、全身の毛が逆立った。――以前はこんな風にならなかった。力が増している。固唾を飲んで戦況を見守っていると、真横から相澤の冷静な声が飛んできた。

 

「お前ら、行かんのか。興味がないわけじゃないだろ」

「俺は仮免取ってないんで」

「私m――」

「いやお前は揉まれてこい」

 

 焦凍に続いて頷こうとした時、相澤にグイと背中を押され、杳はつんのめった。ミリオは大きく手を振ると、気安い感じで杳を手招きする。

 

()()ちゃん!いいよ君もおいで」

「多難ちゃんて」

 

 耳郎の傍に駆け寄ると、彼女は苦笑いしながらこちらを見た。いかに上級生、ビッグ3が一人といえど、あちらは一人。対してこちらは二十名。多勢に無勢過ぎる。密かにミリオの身を案じ始めた杳を置きざりにして、事態は進んでいく。切島が硬化した拳を再び打ち合わせたのが、戦闘開始の合図だった。

 

「よっしゃ先輩ッ!それじゃご指導……よろしくお願いしまーす!」

 

 刹那、体育館内はそれぞれが発する()()()()で満たされた。飯田の点火したエンジンが唸りを上げ、峰田はもぎもぎを両手に持ち、投擲の構えを取る。ニトログリセリンを含んだ汗が放つ、果実に似た甘い匂いが、焦げ臭い匂いへ塗り替えられる。近接戦闘を得意とする一軍が、ミリオを放射線状に囲んで一斉攻撃を仕掛けた。その場の空気が未だかつてないほどに高まった、その時――

 

 ――皆の目の前でミリオの服が脱げ落ち、彼の逞しい体躯が露わになった。

 

「わあああっ!」

「ああ失礼!調整が難しくてね」

 

 その光景を直視した杳と耳郎は、顔を真っ赤にして目を隠す。総攻撃を仕掛けられているというのに迎撃するわけでなく、ミリオは女性陣に謝るといそいそと服を着直し始めた。その隙だらけな顔面に、緑谷が情け容赦のないスマッシュをぶち込む。

 

「……ッ?!」

 

 しかし、その拳はミリオに触れる事なく()()()()()。次いで放たれた爆豪の”徹甲弾(A・P・ショット)”、レーザーやテープ、ビーム、溶解液すらも、幻であるかの如くミリオの体内を通過する。

 

 次の瞬間、今度はミリオの姿が()()()()()。同時に杳は反射的に振り向いて、迎撃の構えを取る。意識したのではない。彼女の優れた知覚能力が、突如として自分達の背後に出現したミリオの気配を察した為にできた事だ。勇猛な輝きを放つミリオの瞳と杳の瞳が、音を立ててぶつかり合う。

 

「まずは遠距離持ちだよね!」

 

 ミリオは杳ではなく()()へ視線を移し、振り上げた両手をハンマーのように打ち下ろそうとした。杳はとっさに耳郎の前に躍り出て、雷獣化する。雷獣化は雷撃そのものに変化する事で、運動・知覚、双方の伝達速度を飛躍的に上昇する。ミリオの拳は速く鋭いが、今の杳にとっては全てがゆっくりに見えた。拳の軌道を逸らそうと電撃を放つが、ミリオの体はそれすらも透過した。

 

 ――雷でもダメなら。立て続けに弾性膜、斥力の防護壁を展開するが、依然として効果はない。知覚能力を総動員させて観察すると、彼の体は幽霊(ゴースト)のように透けていた。彼の体を構築する物質の一つ一つが、霞んでいる。一時的に存在を希釈する個性?あらゆる攻撃を無効化するというなら、彼のいる()()()()()()()()のはどうだ?杳は雷獣化を解除し、加速した脳神経が元に戻るまでの間に、黒霧の個性を発動した。

 

「……ッ」

 

 次の瞬間、頭が割れそうな頭痛が襲い掛かり、体が鉛のようにずっしりと重くなる。黒霧の個性で容量超過(キャパオーバー)を引き起こしている。目の毛細血管が千切れたのか赤く滲み始めた視界に、目の前にいる人々のターゲットマーク、そして無数の英字と数字の羅列が浮かび上がった。座標だ。杳が何とか複雑な座標計算を終え、フィールド外へミリオを飛ばそうとした、その時――

 

 ――()()()()()()

 

 頭痛と倦怠感がなくなり、視界から座標も消え、正常な時の流れに強制送還された杳の鳩尾に()()()()()が突き刺さる。ミリオのスマッシュだ。あまりの衝撃に呼吸が止まり、杳は腹部を押さえて地面に崩れ落ちた。その隣に、同じ格好をした耳郎が倒れ込む。彼女は額に脂汗を垂らしながらも、食いしばった歯の隙間から言葉を放った。

 

「ちょう、いたい。……大丈夫?」

「うん」

 

 杳はフワフワと浮ついた声で返事をした。さっきから何度も個性を発動しようと力を込めているが、何も変化がない。オール・フォー・ワンとの死闘の時でさえ、こんな状態にはならなかった。どんなに疲れ果てていようとも、それこそ死にかけていたって個性を発動できたのだ。不安と恐怖の感情が鎌首をもたげ、小さな心臓にグルグルと巻き付いた。このまま発動できないままだったら?恐ろしい考えが脳裏をよぎった途端、杳は息ができなくなった。

 

 刹那、優しい温もりが、杳の背中を包んだ。耳郎が背中を撫でてくれている。――クラッカーの音と色とりどりのテープ。朝餉の匂い。優しいクラスメイト達の目。かけがえのない記憶のコラージュが、杳の心を彩った。これ以上、迷惑はかけられない。杳は大きく深呼吸すると、平気な顔を装って耳郎に微笑んだ。相澤は激しい戦闘を繰り返す生徒達を見守りつつ、大きな声で言葉を紡ぐ。

 

「いい機会だ、しっかり揉んでもらえ。……その人、通形ミリオは俺の知る限り、最もナンバーワンに近い男だ」

 

 

 

 

 それから数分後、クラスメイト達は全員鳩尾に強烈な一撃を喰らい、地に伏した。戦闘終了の合図が相澤の口から放たれると、杳は彼の下へ行き、簡単な事情と蛇腔総合病院へ行きたいという旨を伝えた。相澤には生徒を導く義務がある。彼は後で自分も合流すると言い、その場で早退の手続きをしてくれた。

 

 体育館を急ぎ足で出ると、杳は寮に戻り、身支度を整えた。その間も何度もトライするが、個性は出ない。――ちょっと調子が悪くなったんだと思った。思い込もうと努力した。蛇の形をしたネガティブな感情が、じわじわと心臓を締め付ける。タルタロスで眠る黒霧の顔が、瞬きする度、瞼の裏に浮かび上がった。

 

 杳はこれ以上悪い事を考えないようにイヤホンを耳に突っ込んで、マイクのラジオ番組の再放送を聴き始めた。雄英バリアをくぐり抜け、最寄りのバス停で立ち止まる。終点である渋谷駅前で降りると、杳は最西端へ向かう都営バスに乗り替えた。目を瞑ってマイクの陽気な声と音楽に心を載せ、何も考えないように努める。

 

 イヤホンのボリュームを上げれば、バスに座る人々の身じろぎどころか呼吸音すら聴こえない事も、分からないままでいられた。耳を澄ませば人の心音すら聴こえる程に、杳の感覚は鋭敏な()()()()()。だが、今はどれほど五感を研ぎ澄ませても、何も感じられない。大丈夫、一時的なものだ。杳はそう言い聞かせ、運転手に軽くお礼を言ってからバスを降りた。

 

 蛇腔総合病院は、杳の主治医である殻木が理事長として勤める病院だ。三つの大きな建物が合わさった立派な施設で、入口前にある庭には木々の間を縫うように遊歩道が設けられており、人々が柔らかな陽射しを楽しんでいる。受付を済ませるや否や、杳は逼迫した顔の看護師達に取り囲まれた。

 

 

 

 

 三十分後。杳の検診は、手術専用フロアにあるバイオクリーンルームで行われる事となった。病衣に着替えると、看護師の先導に従い、ミント色のクッションが敷かれた手術台に横たわる。

 

 室内は涼やかな風が吹いていたが、前のような音楽はなく()()だった。その事が、杳の不安を増長させる。これから麻酔をかけ、殻木が遠隔操作するミクロサイズのカプセル型医療機器で、個性因子を含めた全身を精査するのだ。やがて麻酔が効いてきたのか、暴力的な眠気が襲って来た。瞼を閉じると、夢うつつの意識の中、皺だらけの手が自分の頭を撫でる感触がした。

 

「大丈夫じゃよ。リラックスしなさい」

 

 殻木先生だ。杳は心から安堵し、意識を手放した。そうしてつつがなく検査は終わり、杳は最上階にある殻木の診察室で検査結果を待つ事となった。その頃には、彼女の心は大分落ち着いていた。

 

 ――良くも悪くも、人は順応する生き物だ。立て続けに起きたトラブルとそれに付随した戦闘行為は、彼女の心を強く成長させていた。今までだって何とかなってきたじゃないか。今回もきっとそうだ。杳は自分自身を励ました。それは良く言えば自信であり、悪く言えば慢心でもあった。診察室は特殊な構造になっていて、奥は医療従事者の連絡通路ではなく、また別の部屋に繋がる引き戸がある。やがてそれがガラリと開き、殻木医師が入って来た。

 

 杳が思わず挨拶を忘れる程、殻木の顔は重々しかった。年を経た顔の皺一つ一つに、冷徹な怒りが刻まれている。殻木は椅子に座ると、正面から杳を見た。彼の全身から、凄まじい怒りのエネルギーが放出されている。

 

「個性因子がズタズタに傷ついている。()()()()で損傷したのだろう」

 

 殻木の怒りの矛先は杳ではなく、タルタロスでの作戦時、杳達の体調管理を務めていた公安直属の医療従事者達に向けられていた。何故、戦闘後の精査と経過観察(フォローアップ)をもっと丹念にしなかったのかという事を、彼はわなわなと震える声で指摘した。杳の特殊な体質、そして何よりあの死闘を考慮すれば――秘密裏の任務である事を度外視しても――かかりつけ医である自身に招集をかけるべきだったと。まるで盆から零れ落ちた水を嘆いているような暗い感情が、彼の言葉の一つ一つに宿っているような気がした。突然、杳の心に漠然とした不安がよぎった。治崎は大丈夫だろうか。

 

「治崎さんは?」

 

 殻木は大きく息を吸って吐いた後、力なく首を横に振った。

 

「彼に問題はない」

 

 杳はホッと肩を撫で下ろした。その様子を注意深く見守りながら、殻木は拙い仕草でキーボードを叩く。数秒後、中空にホログラムスクリーンが二枚、浮かび上がった。左側が個性更新届の手続きをする際に採取した個性因子の写真で、右側が現在の写真だ。素人目にもはっきりと分かるほど、右側の写真に映る物質はズタズタになり、焼け焦げていた。戻るのにはかなりの時間が掛かりそうだ。杳は首を傾げ、殻木に尋ねた。

 

「先生。治るのはいつになりますか?」

 

 ――長く、重苦しい、沈黙があった。

 

「もう二度と治らぬ。ヒーローは諦めなさい」

 

 その言葉を理解するのに、杳は多くの時間を必要とした。いや、どれほどの時間を経たとして、理解できるはずがなかった。したくなかった。――そんなわけない。冗談だ。嘘に決まってる。だが、殻木は沈痛な表情で病状の説明をするだけで、種明かしをしようとはしなかった。

 

 殻木曰く――杳は充分な戦闘経験を積んでおらず、まだ長期間の量子化に耐えられる状態ではなかった。それなのに体内を細分化・他者と融合という不安定極まりない状態で、数時間に渡る長期戦を行った。しかも相手はあの巨悪だ。何度も死にかけ、その度に修復し、後先考えずに暴れ回った。

 

 杳の個性は無限に等しい力を持っているが、それにも限度というものがある。死闘による疲労と損傷は、消える事なく因子内に蓄積されていった。そしてそれらがまだ回復し切っていない段階で、杳は緑谷出久の魂を個性ごと取り込んだ。

 ――継承者達の心身を呪いのように蝕んできた、()()()()()の奔流を。

 

 丹念な精査の結果、殻木は杳の個性因子が最も強い衝撃を受けた瞬間を特定した。彼が警察から開示された情報はかなり大まかなもので、その中に黒霧の体内で起きた詳細な内容は含まれていない。だが、その時刻は、杳がワンフォーオールを取り込んだ時と合致していた。

 

 巨悪を倒す為に手に入れた力が、皮肉にも、杳の身も滅ぼす決定打になった。

 

 タルタロスに帰還してから今まで使用できていた個性は、壊死しかけた因子が振り絞った”残り火”だった。最期の火花が消えた瞬間、個性因子は灰と化し、粉々に砕け散った。忘我状態となった杳の鼓膜に、恩師の言葉が残酷にリフレインする。

 

(頑張れよ。クラウディ)

「う、そだ……」

 

 杳はよろめきながら椅子から立ち上がり、恥も外聞もなく殻木の足下に縋りついた。天井の照明が逆光となり彼の表情を黒く塗り潰している為、見る事はできない。杳はなんとか希望を見出そうと、必死に言葉を連ねた。

 

「先生は、個性と心と体が……三位一体だって。個性因子が壊れたなら、私だって無事では済まないはずじゃ」

「完全に壊れたわけではない。君が生きるのに必要な分は残っている。だが、それだけじゃ」

 

 他者と戦闘行為に及ぶ余裕などある筈がないと、殻木は厳格な口調で言い放った。あらゆる希望的観測を否定する()()()を持った声だった。それは自分の身を守る為に発されたものだとは分かっている。だが、それでも、杳の心は今にも押し潰されそうな程にギシギシと痛んだ。

 息ができない。あまりのショックで過換気症候群を引き起こし、視界が白み始める。殻木は杳を抱え込むと、空いた手で背中を擦った。

 

「白雲君。大きく息をしなs――」

「これからなんです!」

 

 杳は痛苦に喘ぎながらも、悲鳴のような声を上げた。

 

「コードネームも決まって……ヒーローって何なのか。この社会のことも、少しずつ分かって来て。個性もうまく扱えるようになってきたし……」

 

 まだ何も、誰も救えていない。追い詰められた杳の脳は、この絶望的な状況を何とか挽回する為、過去の記憶を次々と映し出していった。そんな中、ある一幕が目に入った途端、彼女の背筋に電流が駆け抜ける。――鳴羽田の病院で、ソーガが()()()()()()()()の話を聞かせてくれたシーンだ。彼は個性を失ったにも関わらず、多くの敵に鉄拳制裁を加えてきたと言う。私もそうなればいい。わずかな希望の光を手繰り寄せ、決して消えないようにと惨めにしがみ付く。

 

「私、頑張ります!個性を失くしたって」

「君は小柄で筋肉量も限られている。純粋な白兵戦は不可能じゃ」

 

 夢の終わる音、物語の裏表紙を閉じる音が、杳の鼓膜に響き渡った。彼女の理性は、殻木の言葉を理解したのだ。――だが、心はまだ諦めていなかった。杳は駄々っ子のように激しく(かぶり)を振り、殻木の白衣を握り締めて、泣き喚いた。診察室の奥にはいつしか看護師が一人控えていて、安定剤入りの注射器を持ち、痛々しいものを見るような眼差しをこちらに向けている。

 

「救けなきゃならない人がいるんです!」

「今はヒーロー飽和社会。君が手を下さずとも、いずれ誰かが救けてくれる」

「そういって皆、見捨ててきたんです!社会も、ヒーローも!だから、私が……ッ」

 

 ポツリ、と温かい雫が杳の腕に滴った。殻木の涙だった。彼はゆっくりと眼鏡を取り、溢れた涙を拭う。潤んだ瞳は鏡のように、白髪と濃い隈の刻まれた少女の姿を映し出した。耳を塞ぎたくなる程に沈痛な声が、彼の唇から零れ落ちる。

 

「仮にそれが真実であるとして、()()()()()()()()()()()。……君の両親を呼んだ。担任の先生ももうすぐ到着する。詳しい事情はわしからお話ししよう」

 




最近のヴィジランテが心臓もたない…。次回はビッグ3再登場となります。


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No.72 チームIDATEN

【お読みになる方へ】
当SSにおいて、インゲニウム(飯田天晴)の立ち位置が異なっています。彼はヒーロー業を退きましたが、65名の元・サイドキックが連盟にて”チームIDATEN”という事務所を最近設立し、彼はその顧問となっています。ややこしくてすみません…。

≪ヴィジランテ原作の登場人物紹介≫
●ナックルダスター
元・超速ヒーロー”オクロック”、そして元・ヴィジランテ。航一の師匠。

※追記:欝々とした展開、残虐な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
作中に登場する特殊医療カプセル”PMO(ピュグマイオイ)”はオリジナルです。


 両親と相澤先生が来るまで、杳は回復室で待機する事となった。看護師の指示に従い医療椅子に体を沈め、瞼を閉じる。直前に打たれた安定剤は非常に効果の強いものであったが、それをもってしても、今の彼女の心を鎮める事はできなかった。

 いくら言葉を重ねても表現できない程の焦燥感が、脳と心の内側をぞわぞわと這い回っている。杳は頭を強く振ってそれを追い払い、何度も何度も集中した。だが、依然として個性は出ないままだ。

 

 ――なんで、()なんだ。噛み締めた唇から、暗い呻き声が漏れた。視界を乳白色の霧が塞いでいく。それを透かして、拘束椅子に囚われた黒霧が見える。()()()()()()()()()()という時に、どうして。黒霧の幻覚が熱い涙で滲んでいく。杳は数十分前の出来事に思いを馳せた。

 

 

 

 

(ひび)が入っている)

 

 杳がなんとか泣き止んだ後、殻木は彼女の個性因子についての仔細(しさい)なデータ映像を展開した。彼は(いにしえ)の破片を元に歴史の空白を埋める考古学者のように、損傷した個性因子をつぶさに調べ、そうなるまでに至った過程を分析・映像化したのだった。

 杳の前で、自らの個性因子はひび割れ、傷つき、砕け、そして元の形に修復する――というサイクルを超高速で繰り返す。素人目にもはっきり分かるほどの変化が、あの場でどれほど激しい戦闘が行われたかという事を如実に物語っていた。

 

 殻木はある時点で映像を止め、杳の反応を見ながら画像を拡大し、彼女が身じろぎした時点で止めた。――蜘蛛の巣のように繊細で、そして深い(ひび)が因子全体に走っている。他の傷やひび割れはその都度修復されたが、その罅だけは治らず、時間が経過するにつれてより深くなり、作戦終了後も自らを酷使し続ける主の命についに応えきれなくなって、事実上の再起不能となってしまった。

 杳は画像の右上に表示された時刻に目を留める。あの時は現在時間なんて気にしている余裕はなかった。真実を確かめる術はない。だが、思い当たる瞬間が一つだけある。

 

(手を取って――僕を取り込んで――進化するんだ!)

 

 緑谷の逼迫した声が、杳の耳朶(じだ)を打った。――彼の手を取った事、後悔はしていない。心から感謝している。彼の力があってこそ、悲願を達成できたのだから。だが……。行き場のない鬱屈した想いが、彼女の心身を駆け巡る。殻木は悔しそうに歯噛みして、指揮棒で丸く罅の箇所を囲んだ。

 

(あの時、PMOを使っていれば……)

 

 当時、公安が杳の身体精査用に使用した医療カプセルは非常に精度の高いものだったが、殻木の扱う特殊医療カプセル”PMO(ピュグマイオイ)”はそのさらに上を行く。乱暴な表現をすると、虫メガネから顕微鏡に置き換えるようなものだ。画像の解析度が数倍以上も違っていた。

 殻木は眼鏡を取ってもう一度涙を拭うと、振り返って看護師に指示した。ベテランらしい看護師は優しく微笑みかけ、杳の腕に注射針を押し込む。絞り出すようにして放たれた彼の言葉は、傷ついた杳の心に突き立ち、じわじわと悍ましい()()を注入した。――公安に対する疑念という名の毒を。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 男女の言い争う声が引き戸越しに聴こえてきて、杳はハッと我に返った。院内という状況を考慮してか、声は抑え気味だ。

 

「ヒーローはもう――普通科に――」

「彼女の意志を――」

 

 次の瞬間、引き戸を静かに開いて相澤先生が、それから着の身着のままといった様子の両親が入ってきた。泣き濡れた娘の顔を見るなり、父は言葉を詰まらせ、母は顔をくしゃくしゃに歪めて両手を伸ばす。母の温もりは、杳の眠気を呼び寄せた。思わず瞼を閉じそうになったその時、タルタロスの独房で眠る黒霧の姿が脳裏にフラッシュバックする。

 杳は両手を突っ張り、母の抱擁を解いた。そして立ち上がる。少し遅れて診察室へ入って来た殻木先生の方を見ないようにして、杳は言葉を放った。

 

「私、諦めないよ。相澤先生と二人で話がしたい」

 

 揃って息を飲み、言い返そうとした両親を押し留めると、殻木は首を横に振った。

 

「気の済むようにさせてあげなさい」

 

 殻木が沈痛な表情で零した言葉は、杳の心にさらなる傷を穿(うが)った。この場で杳と同じ想いを持っているのは、相澤だけだった。彼は静かに頷き、杳を伴って院内の休憩室へ向かう。消毒薬の匂いが染みついたソファーに腰かけると、相澤は室内にいる患者達に聴こえないよう絞った声で、切り出した。

 

「……この件を塚内警部にも話した」

 

 殻木医師が急遽提出した資料の通り、杳の個性因子はほとんどが壊死していた。相澤達は、杳がそうなったのは、殻木の言う通り死闘ではなく、オール・フォー・ワンの姦計によるものではないかと考えていた。

 彼は非常に執念深く、歯向かう者には必ず報復を与えたという。黒霧の心身を破壊したように、自分に屈しなかった彼女も、もう二度とヒーローになれないよう破壊したのではないか。彼女がこれから新しい道に向かって進もうと夢を膨らませていた、最高のタイミングで。

 

 上層部から命を受けた看守長がオール・フォー・ワンに尋問したところ、彼は口角を皮肉げに歪め、こう切り返した。

 

(世の悪事は皆、僕のせいか?)

 

 看守長は応えない。オール・フォー・ワンは心底つまらなさそうに肩を竦める。

 

(僕とのお喋りに時間を費やすより先に、やる事があるだろ?……救けを求めてる子供がいるんだ。一刻も早く駆けつけ、涙を拭き、優しい言葉で励まし、痛んだ個性を直してあげなきゃ)

 

 ――再び、沈黙があった。それは、先程のものとは様子が違っていた。オール・フォー・ワンは医療マスク越しにくぐもった笑い声を上げ、まるでこの独房が王の間であるかのように、悠々とした動作で拘束椅子に座り直した。

 

(できないのか?残念だ。だが、()()()()

(黙れ。痴れた事を言うな)

 

 看守長が放った怒声を意にも介さず、オール・フォー・ワンは不可視の目で天井の隅に隠された監視カメラを見上げ、労りに満ちた声で話し続けた。

 

(救けたいだけさ。……これを外してくれれば、すぐにでも)

 

 

 

 

 独房で背中越しに聞いた、蕩けるように優しい声が、杳の耳にまとわりつく。確かに死柄木なら、自分を救う事ができるだろう。だが、そもそも自分をそこまで追い詰めたのは彼なのだ。――見え透いたマッチポンプだ。杳はそう思い、心の奥底で情けない泣き声を上げた()()()()を踏み潰した。それから意を決した表情で、相澤を見上げる。

 

「先生はナックルダスターという人物をご存じですか?」

 

 ナックルダスターは、かつては超速ヒーロー”オクロック”として活動していたプロヒーローだった。オール・フォー・ワンに個性を奪われてヒーロー業を退いた彼は、(ヴィラン)にされた娘を救う為に鳴羽田の街を奔走し、ナックルダスターとその身一つで大勢のヴィランに鉄拳制裁を与えてきたと言う。

 

 縋るような教え子の瞳を見つめ、相澤は思考を巡らせた。ナックルダスター――という通り名は後々航一から話のタネとして聞いたもので、実際の彼は危険人物に等しい存在だったが――は確かに自分も知っている。だが、彼は元・ベテランのヒーローだった。海外にもその名が知られる程の実力者で、犯罪対応専門家として、長年活動してきたキャリアがある。そもそも個性を補助として扱うオクロックと、個性を前面に押し出して戦う杳とでは、戦い方がまるで違っていた。

 

 相澤は現実主義者(リアリスト)だ。個性は簡単に言えば、その人にプラスアルファが成されるという事。それがなくなった今、彼女はプラスアルファを自分自身の能力で補わなければならない。――雄英の並み居る強豪達を押さえ、後進達のより強く複雑になった個性を押し退けて。そんな事を、無責任にできるとは言えなかった。ナックルダスターならばできただろう。だが、彼女には。わずかに眉根を寄せた後、相澤は静かな声で言葉を発する。

 

「お前は彼のようにはなれない」

 

 絶望に打ちひしがれる生徒の顔を、覚悟を持って見届ける。確かに彼女はナックルダスターにはなれない。しかし、諦めさせるつもりは毛頭なかった。雄英のモットーは”Plus Ultra”、眼前の壁を打ち砕く事だ。懐を探り、真新しい捕縛布を取り出して差し出す。

 

「捕縛布を教える。仮免まで時間がない。授業と併用するから、かなりきつくなるぞ」

 

 

 

 

 ハイツアライアンス寮に戻った相澤は飯田に連絡を取って、共同エリアにクラスメイト達を集合させ、皆に事の次第を説明した。捕縛布を握り締めて俯く杳を、驚きに満ちた表情のクラスメイト達がざっと取り囲む。

 

「無個性ンなったァ?!」

「ほんとーに個性使えなくなったの?さ、さっきまで使えてたじゃん……ッ」

 

 耳郎の声は、今にも泣き出しそうに震えている。杳はおずおずと顔を上げ、友人達の表情を伺い見た。憐憫の情をたっぷりと含んだ顔が、自分を取り囲んでいる。皆、もう手遅れになったものに向ける目をしていた。

 ――それもそのはず、個性のない者がヒーローを志すには突出した能力がなければならない。杳の数少ない功績は、全て()()()で起きた事だ。表の世界での杳の評価は、成績も鳴かず飛ばず、おまけに心を病んで一ヶ月も休学中だった問題児に他ならなかった。

 

 杳は縋るように人使を見上げた途端、小さく息を詰めた。――彼もまた()()()()をしていたからだ。周囲の空気が次第に重く、粘度を帯びていく。抗えない強さを持った絶望のヴェールが、小さな少女に覆い被さろうとする。それらに呑まれ、再び俯きかけた彼女の肩を、駆け寄って掴んだ者がいた。緑谷だ。

 

「白雲さん!大丈夫。一緒に頑張ろう」

「……」

 

 間近で見る翡翠色の瞳は、照明もないのに内側から光り輝いていた。地獄から垂らされた蜘蛛の糸のように繊細で、それでいて、眩いほどに力強い光だった。まるで杳ではなく自分が個性を失ったのだと言わんばかりに、彼の顔は悲しく切なげに歪められている。その余りの悲壮さに、杳の心臓はギュッと握り潰されたように痛んだ。

 

()()()()()

 

 緑谷の真摯な言葉が、杳の心を強く鼓舞した。――ああ、同じセリフだと彼女は思った。あの時、自分に掛けてくれたものと同じだ。やっぱりどんな時でも、緑谷くんは変わらない。奈落の底に落ちていた心がほんの少しだけ、浮き上がる。杳の口元に笑みが戻るまで、緑谷は手を握り、励まし続けた。そんな彼の放つ熱気に当てられて、ヴェールは融け、暗く淀んだ空気は徐々に霧散していく。

 

 

 

 

 気が付くと、杳はタルタロスの面会室にいた。頑丈な造りの椅子に座り、天井から監視カメラやテーザー銃の群れが見下ろす中、真っ暗なガラス壁と向き合っている。やがてガラス壁の向こうの照明が付き、中の様子が露わになった。――黒霧が頑丈な拘束椅子にとり籠められている。金色の目が蠢き、杳を見ると優し気に細められた。スピーカ―越しではあるが、焦がれていた声が彼女の耳をそっと撫でていく。

 

「学校はうまくいっていますか?」

「うん」

 

 杳が頷くと、黒霧はますます金色の瞳を細め、それから優しい声でこう続けた。

 

「……本当に?」

 

 杳の呼吸が止まる。心の奥底から、忌まわしい記憶の断片が浮かび上がってくる。突然、天井から捕縛布が降りてきて、黒霧の首に巻き付いた。彼の体が乱暴に空中に吊るされて、足がバタバタと宙を搔く。くぐもった悲鳴が室内を満たした。杳は声にならない悲鳴を上げ、椅子を蹴立てて立ち上がる。その手を誰かが掴んだ。殻木医師だ。

 

「ヒーローは諦めなさい」

 

 眼鏡が独房の照明に反射して、殻木の表情は見えなかった。杳は力尽くでその手を振り払うと前を向き、戦慄した。ガラス壁の前を覆うようにして、()()()()()がひしめいている。氷像達は全員、杳と親しい人物であり、ヒーローだった。皆、氷そのものを体現しているかのような無表情だった。相澤先生の姿をした氷像の口が開き、白い息と共に冷たい言葉を振りかざす。

 

「お前は彼のようにはなれない」

 

 杳は狂ったように首を横に振り、氷像の群れを押し分けて先に進もうとした。暖かくて大好きだった彼らの体は、今は触れると震え上がる程に冷たく、硬くて重たい。――個性を使えれば、擦り抜けられるのに。どうにもならない事を悔いて、杳の(まなじり)から涙が零れ落ちた。それは周囲の冷気に当てられ、流れる途中で凍り付く。

 

 無数の氷像を前に、戦う術を持たぬ杳は無力だった。それでも何とかして押し退けようと踏ん張っていると、氷の体を透かして、ガラス壁の向こうの景色が垣間見えた。――ゆらゆらと振り子のように揺れる黒霧の足先は、()()()()()()。杳の心身を、真っ黒な絶望の感情が塗り潰した。

 

「ああああああ――ッ!」

 

 刹那、轟音と共に視界の全てが真っ白に閃いた。粉砕されたガラスと氷の破片が照明に反射して、辺り一帯をダイアモンドのように輝かせる。そんな幻想的な光景の中に、オール・フォー・ワンがいた。腕の中に()を抱き、中空に浮かんでいる。彼は友だった氷の塊を踏みにじり、杳に優しく微笑みかけ、朧の体を手渡した。

 

 杳は小さな腕を伸ばし、もぎ取るように朧を抱え込んで、その胸に耳を押し当てた。――暖かく息づいている。トクントクンという心音が、狂おしいほど愛おしかった。首に絡まった捕縛布の残骸を取り払い、ギュウッと抱き締める。蕩けるように優しい声が、杳の鼓膜にそっと染み入った。

 

「忘れないで。僕はいつでも君の味方だよ」

 

 

 

 

 自分の泣き声で、杳は目を覚ました。()だった。冷たい友の体、兄の心音、オール・フォー・ワンの優しい声――その一つ一つを、今でも克明に思い出せる。なんて(おぞ)ましい夢を。杳は乱暴に目を擦り、自分を責めた。オール・フォー・ワンが人々を殺した事に何の反応も示さず、ただ兄の無事だけを考えるなんて。

 

 人の心は不確実だ。オセロの裏表のように、誰もが心に良い面と悪い面を有している。自分の弱く汚い部分を剥き出しにされたような気がして、杳はベッド上に起き上がり、小さく鼻をすすった。泣き過ぎて真っ赤に充血した瞳が、勉強机の片隅に吸い寄せられる。

 

 そこには、ボールのように丸まった布の塊が転がっていた。()()()だ。元々白かったそれは泥に塗れ、所々に血が滲んでいる。杳は目を瞑って深呼吸し、ありったけの力を込めた。だが、個性は出なかった。

 ――現状を受け入れて、前に進まなければ。そう思っているのに、心はまだ現実を受け入れていなかった。兄が死んだ時と同じだ。あの時は、個性のおかげで逃げられた。だが、今はどこにも逃げられない。

 

 個性を失ってから、杳はほとんど毎日、黒霧の死ぬ悪夢か、個性が蘇った夢を見ていた。悪夢で泣いて目覚めるか、目が覚めて絶望する、そのどちらかだ。夢であってほしい事が現実で、現実であってほしい事が夢。それは充分に分かっている。だけど……。

 疲弊し切った少女の鼻腔を、素朴な朝餉の香りが掠めた。杳のお腹がグウと鳴る。どれほど絶望に打ちひしがれていても、朝はやって来る。そして今日を生きる為に、お腹は空くのだ。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 芳ばしい匂いが鼻腔を掠め、()使()は目を覚ました。ベッドから起き上がると、こじんまりとした寝室が彼を取り囲んでいる。懐かしいような、真新しいような、不可思議な感覚が彼の心臓を満たした。ベッドは一人用にしては大きく、サイドテーブルには古ぼけた人形が転がっている。プロヒーロー”プレゼント・マイク”をデフォルメした小さなヌイグルミだ。

 

 人使はベッドから抜け出すと、部屋を出た。廊下を進み、その先にあるドアを開ける。そこは小さなダイニング兼リビングルームで、小さな背中がキッチンに向かい、不器用な手つきでフライパンと格闘していた。目玉焼きを皿に移そうと苦心している事が、その後ろ姿だけで推察できる。

 

 ()()()()()()が、人使の頭の中にぼんやりと浮かび上がってきた。――そう、不器用な彼女は目玉焼き一つ創るのにも、かなりの時間を必要とする。だが、これでもかなりマシになった方だ。最初の頃、持たせてくれたお弁当は黒炭しか入っていなかった。覗き込むなり絶句した相澤の顔を、彼は今でも克明に思い出せる。

 

 人使は食パンを二枚取り出してトースターに押し込み、スイッチを押した。彼女が覚束ない手付きでソーセージに切り込みを入れようとしているので、その手を後ろからやんわりと掴む。もう一方の手は彼女の腰へ回した。彼女は恥じらいながら、人使の手に自身の手を重ねた。二人の薬指には、同じデザインの銀色の輪っかが嵌まっている。

 

「おはよ」

「……お、おはよう」

 

 人使が数秒足らずでウインナーをタコさんウインナーへ変身させていく様子を、彼女は申し訳なさそうに見守っていた。ふわ、と柔らかな毛並みが(くるぶし)に触れる。二人の飼っている猫”おすしⅢ世”だ。数年前に多古部からもらい受けた、おすしⅡ世の子供だった。スリッパを猫ごと持ち上げて遊んでやりつつ、彼女は言葉を続けた。

 

「非番の時くらい、ゆっくりしてくれていいのに」

「してるよ」

 

 彼女と共に過ごす時間が、どれほど安らぎと癒しに満ちているか。その事実を上手に伝えるには、人使はまだ若過ぎた。彼女がオニオンスープをカップによそっている間に、人使は冷蔵庫から出したプチトマトとレタスをざっと水で洗い、皿に盛り付け、食パンを取り出して、朝食の仕上げにかかる。スープの表面に一生懸命パセリを散らしていた彼女は、突然、アッと声を上げた。

 

「食パン――」

「もう焼けた。蜂蜜とジャムどっち」

「……蜂蜜」

「ん」

 

 そうして二人はテーブルに着き、手を合わせた。窓際に置かれたキャットタワーの頂上で、おすしⅢ世が丸まって幸せそうに日向ぼっこをしている。杳はテレビを点けた途端、明るい歓声を上げた。――朝のニュース番組はほぼ毎日、ヒーローの活躍を放送する。今朝、一番大きく取り上げられていたのは、大型の敵を制圧した新人ヒーロー”ショート”だった。大量の氷と火を自在に操るその姿は非常に幻想的で、容姿端麗なのも相まってとびきり勇ましく美しかった。映像を見るアナウンサーの顔も深い陶酔に満ちている。

 

 人使の眼前で、彼女は目をキラキラと輝かせて手を伸ばした。だが、それはテレビ画面に触れる寸前、ピタリと止まる。彼女は表情を翳らせ、中途半端に開いた掌をそっと閉じた。――まるで()()()()()()を掴むような仕草だった。数秒後、彼女は元のあどけない顔つきに戻り、蜂蜜で口周りをベタベタに汚しながらトーストを頬張る。

 

「カッコいいなぁ。ヒトシもいつかニュースに出ないかな。録画するのに」

「出ねぇよ」

 

 人使は相澤と同じ地下活動(アンダーグラウンド)ヒーローの道を選んだ。警察やヒーロー、敵業界ではある程度名の知れた存在だが、一般社会での知名度はゼロに等しい。ある意味で、ショートとは真逆の道だった。だが、相澤は完全に自分と同じ(わだち)を辿らせようとはしなかった。任務の最中、人使の気が急く度、相澤はたしなめるように言葉を紡ぐ。

 

(俺と同じ道を往くな。……()()()()があるだろ)

 

 その考え方はヒーローとしては合理的じゃないのかもしれない。だが、ヒーローだって人間だ。愛する家族を持つ者もいる。特に相澤のような犯罪専門ヒーローは、敵の恨みを買いやすかった。敵は復讐する為、ヒーローの家族を狙う。家には可能な限り防犯対策を施し、彼女にもなるべく外出は控えるようにと言い含めている為、今まで襲撃を受けた事はなかった。だが、確約された未来などない。彼女は敵連合にも目を付けられた過去がある。引き続き、用心するに越した事はなかった。

 

 部屋の壁にはカレンダーが貼ってある。人使はなんとなくそれに目を向けた。――今日の日付に花丸が描かれ、”〇時・タルタロス”と彼女の丸っこい字体で書かれていた。温くなったブラックコーヒーを一息に飲み干し、感傷に浸りかけた自身の心を現実に引き戻す。空になった彼女のグラスにオレンジジュースを注いでやりながら、人使は可能な限り優しい声で切り出した。

 

「天気もいいし、車で行くか」

「うん」

 

 彼女は今にも消えそうなほど儚く、寂しそうな笑顔で微笑んだ。やり場のない()()()が自身の体をギュウッと押し包み、人使は束の間、言葉を失くす。だが、それでも、彼女の事が愛おしかった。夢と理想を捨てて、たった一つの存在を守る為に創った、小さな鳥籠。その中で彼女は懸命に(さえず)っている。白いレースのカーテン越しに朝陽が室内に差し込み、彼女の笑顔をキラキラと輝かせた。その光はますます煌めきを増し、やがて世界は白く染まって――

 

 

 

 

 ――そして、人使は目を覚ました。見慣れた天井が視界に入った瞬間、さっきの光景が夢だったという事に気付く。偽りの幸福感はパチンと弾けて消え、空っぽになった心に、強烈な罪悪感が濁流の如く流れ込んだ。

 

 ()()()()()。ベッドから起き上がると、人使は血が滲む程に唇を噛み締め、乱暴な手つきで髪をかき乱した。あいつが今どんな想いをしているか、分かっているはずなのに。どんな状況に追い込まれても、彼女がヒーローであろうとしている限り、支え続けると覚悟を決めたはずなのに。それなのに、この様だ。心の奥底に隠していた欲望をまざまざと見せつけられたように感じて、彼は長く重苦しい溜息を零した後、目を閉じた。

 

(諦めないで)

 

 緑谷の逼迫した声が、脳裏をよぎる。本来ならば、あれは自分が掛けるべき言葉だった。人使は額に滲んだ汗を拭い、ただ過去を悔いた。あの時、自分は他の彼らと同じように()()()()()。そして同時にこう思った。

 

 ――”もう彼女がこれ以上、危険な目に遭わずに済む”と。病室のベッドで救命装置を付けられ、か細い呼吸を繰り返す青白い顔、白髪と隈が色濃く刻まれた顔、汗に塗れてねじ曲がった顔……あんな顔をもう見なくて済むと。だが、そんなのは所詮、手前勝手な、彼女の意志を無視した欲望に過ぎない。そんな(よこしま)な気持ちが、緑谷の言葉を通して見透かされたような気がした。

 

 オレンジ色の朝陽が窓から差し込んで、少年の頬を照らし出す。どんなに不甲斐なくとも、生きる気力がなくなっても、朝はやってくる。地球は回り続ける。何をしても、何もしていなくとも。人使はベッドから抜け出すと身支度を整え、部屋のドアを開けた。

 

 

 

 

 杳が個性を失ってから、周囲の対応はがらりと変わった。ヒーロー科は午後は主に戦闘訓練をメインとした演習をとり行う。杳と組む事になった時、クラスメイト達はあからさまに手加減をし、出来る限り個性を使わないようにした。まるで腫れ物に触るように、彼らは彼女を扱った。手加減をしないのはごく一部の人々だけ、特に全く変化が見られなかったのは()()だった。

 

 ある日の戦闘訓練での事。爆豪とペアになった杳は、構えて呼吸を整えた直後、力強く一歩を踏み込んだ。小柄な体格を生かして爆豪の懐に入り込み、右正拳で彼の腹部を狙う。だが、その拳は左手で逸らされ、俯き気味の彼女の顎に、爆豪が放った右の掌底が突き刺さった。

 

「どーしたァ?!俺ァまだ個性使ってねーぞ!」

 

 衝撃で脳が揺れ、朦朧とした意識に、爆豪の怒声が突き刺さる。杳は両足を踏ん張り、歯を食い縛って意識を回復させようとした。一瞬動きの止まった彼女の腹部に、爆豪は情け容赦のない”徹甲弾(A・P・ショット)”を放つ。まともに喰らった杳は大量の粉塵と爆炎を撒き上げながら、フィールド外まで吹っ飛ばされる。

 

 ――場の空気がしんと凍り付く。誰もが組み手を止め、非難めいた視線を爆豪に注いでいた。砂藤は慌てて駆け寄ると、黒焦げになった少女を救け起こした。ポケットから冷却スプレーを取り出して振りかけてやりながら、彼は――普段温厚な彼にしては珍しく――激しい怒りの感情に顔を歪め、空気が震える程の大音声を放った。

 

「おい爆豪ッ!個性使えねぇんだぞ!もっと考えてやれよッ!」

「考えてねーのはテメーらの方だろうがッ!」

 

 それ以上に大きく強い咆哮が、砂藤の気迫を押し返す。爆豪は肩を怒らせながら砂藤の前に歩み寄ると、冷却スプレーを払いのけ、彼の胸倉を掴み上げた。

 

「”無個性のヒーローです”って(ヴィラン)に言ったら、敵は手加減すんのかよ?!公安は同情で仮免くれんのか?!ンなわけねえよなァ?!」

 

 絶句した砂藤を乱暴に突き飛ばす。ギラギラとした闘志と怒りに満ちた灼眼が、戸惑うように立ち尽くすクラスメイト達を()め回した。

 

「俺達のやるこたァ決まってんだろ?!……こいつを全力でブチ殺すんだよ!”もう無個性でヒーローなんて目指しません”って土下座するくらいになァ!」

「いやそれはさすがにやりすぎいいいっ!」

 

 あまりに無慈悲な宣言に、上鳴は泣きベソをかきながら爆殺王に進言した。だが、家臣の言葉など意にも介さず、爆豪は地面に(うずくま)っている少女の前に立つ。手を差し出す事もせず、涙を拭う事もせず、彼はただ熱く燃え滾る声を叩き付けた。それが彼の強さであり、自身にも他者にも厳しいとされる彼が唯一与える事のできる、優しさでもあった。

 

「立てや()()()()。立てなくなった時が、テメーの終わりだ」

 

 クラスメイト達が固唾を飲んで見守る中、杳は鼻血と涙と煤でぐしゃぐしゃに汚れた顔を乱暴に拭い、よろよろと立ち上がった。

 

 

 

 

 その日の放課後。杳は体育館を()()()()して、捕縛布の自主練に励んでいた。――捕縛布は炭素繊維に特殊合金を編み込んだ帯状の捕縛武器で、一般的な布とは異なる、独特の感触と重さがある。繊細な指さばきが必要とされ、グローブ越しではなく素手での扱いが必須だった。

 

 手先の不器用な杳が扱うのは至難の業で、布の先端を放った途端に絡まり、自分がグルグル巻きにされて地面に転がされるか、付近にあったオブジェを巻き込んで一緒に簀巻きにされるのが常だった。布の両端は特殊な加工が施してある為、指先が切り落とされる危険性こそないが、ロープを素手で扱っているのと同等の負荷がかかる。彼女の両手はすぐ血豆と傷だらけになった。

 

 天井から垂らした捕縛布を掴んで昇降訓練を行っている時、()()は起こった。両手に力を込めた瞬間、掌の血豆が潰れて、激痛と共に血が噴出した。血は包帯から溢れ出し、そのせいで摩擦抵抗がなくなり、杳の体は十メートルの距離を一気に急降下した。内臓の浮き上がる不快な感覚が、彼女の神経を支配する。

 

「……ッ!」

 

 生身の状態でこの距離から落下したら、無事では済まない。杳はとっさに捕縛布を掴んだが、血で滑り、掴み切る事ができなかった。絶体絶命のピンチに追い込まれたその時、彼女はある事を思い出した。――人は死の危機に瀕した時、未知の力が発揮されると言う。一縷の希望を見出し、彼女は力を込めた。

 

 ――だが、個性は出なかった。その代わり、中途半端に伸ばした右足が()()()状態になっていた捕縛布の一部に運良く引っかかり、彼女の体はぐるんと逆さまになる。落下のスピードは大幅に軽減されたものの、彼女は顔面から地面に落ちた。ぐしゃ、と柔らかいものの潰れる音が、鼓膜いっぱいに響き渡る。呼吸が止まるほどの激痛が脳を痺れさせ、大量の鼻血が噴き出して、地面を汚していった。視界が見る間に滲んでいく。

 

(ヒーローは諦めなさい)

(お前は彼のようにはなれない)

 

 消毒薬の匂いと共に、大人達の残酷な声が脳裏に蘇った。

 

(立てなくなった時が、テメーの終わりだ)

 

 爆豪の言葉が、耳朶を打つ。――”個性を失う”、言葉にすると短くてシンプルだ。それがどれほど悲惨で覆しがたいものなのか、失った直後は分からなかった。しかし、日が経つにつれ、その意味が心身にじわじわと染み込んでくる。抗えぬ絶望の影を引き連れて。

 

 クラスメイト達と戦う度、彼らとの間に()()()が出来てしまったという事を思い知らされる。かつては同じ目線で、同じ夢を目指していたはずなのに。今は雲がかかるくらい高い場所にいて、憐憫の情を宿した瞳でこちらを見下ろしていた。――情けなかった。悔しかった。惨めだった。床に転がったまま泣いていると、ふと視界の端に何かが飛び込んできて、杳は目を凝らした直後、仰け反った。

 

 ――数十センチ先の地面から、ニョキッと人の顔が生えている。その顔に杳は見覚えがあった。ビッグ3の一人、通形ミリオだ。次いで、その近辺から逞しい右手も突き出し、唖然とする杳の前でピタリと止まった。その拳は固く握り締められている。ミリオは飄々とした表情で言葉を放った。

 

「ファイトー?」

「…………い、ぱつ」

「もっと大きな声で!ファイトオオオ?!」

「……いっぱあつ!」

 

 杳はやけっぱちになって叫んだ。そして泥と汗と血に塗れた自身の拳を、ミリオの拳と軽くぶつける。

 

「よォし元気いっぱいだ!タカのマークの……ってね!」

 

 次の瞬間、ミリオの姿は地中から地上へ瞬間移動(ワープ)していた。彼は苦笑してフワフワの白髪をかき混ぜ、杳を助け起こす。彼女を支配しているネガティブな感情を根こそぎ蒸発させるほど、そのスマイルは明るく強く、希望に満ちていた。

 

 ふわりと良い香りがして、杳は頭上を見上げ、息を飲んだ。水色の髪を翼のようにはためかせた美少女が、宙に舞っている。波動だ。彼女は音もなく地上に降り立つと、杳の顔をふかふかのタオルで拭き取り始めた。その手付きはとても優しくて、タオルは良い匂いがした。

 

「わぶ」

「ねぇねぇこの子のことずーっと気にしてるのどうして?責任感じてるの?」

「まーぶっちゃけタイミングがね!悪すぎたよね」

 

 ミリオは逆立てた金髪をかきながら、あっけらかんと言い放った。超感覚などなくても、その声に内包された()()()()()を感じ取れる。

 

 ――そう言えば、先輩と交戦している時に個性が消失したんだ。杳の心中でネガティブな感情が再び芽吹いて、歪な花を咲かせた。クラスメイト達だけじゃない、先輩方にまで迷惑を掛けてしまった。愛らしいドラゴンのイラストが描かれたフェイスタオルが、自分の涙と血と鼻水で汚れていく。もう自分はここにいるべきではないのかもしれない。極限まで落ち込んだ杳はますます泣きじゃくった。いくら拭いても涙が止まらないので、波動は不思議そうに首を傾げる。

 

「……ヒーロー。あき、らめた方が。いいんでしょうか」

「どうして?」

「個性が、なくなったから」

 

 波動は涙を拭く手を止め、未知の生命体を見るような目を杳に向けた。それから、彼女は鈴を転がすような声でこう言った。

 

「不思議!なんで個性がないとヒーローになれないと思うの?」

「波動さん。君が言うと嫌味に聴こえる。彼女の気持ちも考えてあげてくれ」

 

 蚊の鳴くようにか細い声が、どこかから飛んできた。杳が周囲を見回して確認すると、体育館の二階席の端っこに天喰がいて、こちらの様子をひっそりと伺っている。相変わらず、その距離はとても遠かった。――天喰先輩の言う通りだ。杳はむかっ腹が立ち、歯を食い縛った。

 

 皆、強い個性を持っているから、自分の気持ちが分からないんだ。だから、こんな綺麗事を言える。そもそも大前提として、ヒーローは個性を持っていなければならない。それを失くした自分は……。自分勝手な怒りの炎はたちまち消え去り、彼女は意気消沈してうな垂れた。その視界に、今度は逆立てた金髪が飛び込んでくる。ミリオがしゃがみ込んで、自分を見上げていた。

 

「俺の個性、強かった?」

「……は、はい」

 

 何故、今ここで個性の自慢を?杳は少し憮然としながらも、()()()。――本当に強かったからだ。単純な身体能力の強さだけではない。全ての攻撃を擦り抜けるし、黒霧のようなワープ移動もできる。好きなタイミングで具現化できる幽霊みたいなものだ。クラスメイト達は誰一人として歯が立たず、もれなく腹部に強烈な一撃を喰らい、地に伏していた。

 そんな最強の個性を持っている彼に、落伍者となった自分の気持ちは分からないだろう。卑屈極まりない杳の思いをよそに、ミリオは話を続ける。

 

「君にはまだ言ってなかったけど、”透過”っていうヤツなんだよね。全身個性発動すると、俺の体はあらゆるものを()()()()()

 

 ――あらゆるものを擦り抜ける。かつて自分が苦しめられた量子の世界が、杳の脳裏をよぎった。まだ個性を扱えていなかった頃、自分は細分化の制御ができず、あの世界に閉じ込められて苦しんでいた。擦り抜けるというのは、きっと今立っている地面もそうだろう。立っていられなくなる。つまり……

 

「……落っこちる?」

「そう、地中に落ちる。そして落下中に個性を解除すると不思議な事が起きる。質量のあるものが重なり合う事はできないらしく、弾かれてしまうんだよね。つまり俺は瞬時に地上へ弾き出されているのさ。これがワープの原理」

 

 ミリオは慣れた調子で説明してくれたが、制御が非常に難しい力だというのは、杳にも容易に推察できた。

 

「発動中は肺が酸素を取り篭めない。吸っても透過しているからね。同様に鼓膜は振動を、網膜は光を透過する。あらゆるものが擦り抜ける。何も感じる事ができず、ただただ質量を持ったまま、落下の感覚だけがあるという事なんだ」

 

 ――()()()。杳はそう思った。かつて量子の世界に彷徨い苦しんでいた自分と、真っ暗な世界で落下し続けるミリオのイメージが同期(リンク)する。呼吸ができない時点で、自分よりも苦痛はさらに上だ。息も出来ず、何も感じられず、誰にも認識されない世界を落下し続けるなんて、正直言って危険すぎる。運用するには大きすぎるデメリットだった。壁一枚擦り抜けるにも部分的な解除と発動、工程が必要なのだと、彼は言葉を続ける。

 

「……」

 

 ミリオの言わんとしている事を理解し、杳はおずおずと顔を上げた。彼は元から強かったわけではない。想像を絶する程の鍛錬と努力があってこそ、彼は学内の頂点を掴み、ビッグ3と謳われるまでになったのだ。

 

「そう。俺はさ、強い個性だったんじゃない。強い個性に()()んだよね」

 

 ミリオはしっかりと頷くと、両腕を動かして大きくガッツポーズを創ってみせた。

 

「君は個性を失った。だけど、ここに残る事を選んだ。なら頑張らなきゃ!」

「……どうやって?」

「まずは()()()()()()()()。なんかこう……今はガッカリ一直線になっちゃってるからね!」

 

 ミリオは両手を顔の横に添えると、それを前方へ伸ばす仕草をした。波動は大いなる好奇心に瞳を輝かせ、捕縛布の感触を確かめている。

 

「で、色んな人を頼る!自分一人だけだと、どうも行き詰っちゃうからね。俺もサー……あの人に支えてもらったから、今がある」

 

 ――その通りだと、杳は素直に思った。今まで色んな人に助けられてきたから、自分はここまでやって来れた。そして今も、彼らが自分を救ってくれている。優しい色をした碧眼と、涙に濡れた灰色の瞳が暫しの間、交錯する。

 

「どんな物事にも()()()ってのがある。今の君にしかできない事、戦い方が絶対にある。それをここで見つけて行こう。俺でよけれb――」

「”手合わせするし、君は一人じゃないから一緒に頑張ろう!”って事を言いたいの?」

「……ッ、まーそういうことだよね!ホントは俺が言いたかったんだけどね!」

 

 捕縛布を拭き終わった波動は首を傾げつつ、美味しいセリフをごっそりもぎ取っていった。ミリオは底抜けに明るい表情に戻り、逆立てた髪をかき毟りつつ、天井を仰ぐ。その瞳にはちょっと悔しそうな光が宿っていた。コミカルな様子に杳は思わず吹き出して、小さく笑う。

 

 一方、天喰は仲睦まじい三人の様子を見守った後、振り返って、窓から外の景色を眺めた。体育館の周囲には背の高い生け垣があり、それに隠れるようにして、数名の生徒が中の様子を伺っている。制服の肩部分についたボタンの数からして、普通科の生徒だろう。

 ――皆、()()()()()をして、体育館に備えられた窓越しに見える、杳の様子を伺っていた。

 

 

 

 

 翌日、いよいよ今週末よりインターンが本格的に開始されるという事が、朝のHRで相澤の口から告げられた。学内での協議の結果、受け入れの実績が多い事務所に限り、一年生のインターン実施を許可するという結論に至ったらしい。仮免を持たない杳と爆豪、焦凍以外のクラスメイト達は皆、インターンを実施するようだった。

 ただでさえ慌しいヒーロー科が、さらに慌しくなった。ちなみに杳は人使と共に相澤先生の下へ身を寄せ、引き続き捕縛布と近接戦闘の訓練をする運びとなっていた。

 

 昼休憩は一時間あるが、それをゆっくり摂っている時間はない。手早く食事を済ませた後、杳は体育館に向かう為、早々に立ち上がった。その時、目の前を行き交う生徒達の中に、背の高い青年が見えた。()()だ。彼は目を凝らし、誰かを探しているように辺りを見回している。深い知性を帯びたその瞳が自身と克ち合った途端、彼は輝くばかりの笑顔になった。

 

「白雲君!探したぞ」

「え?あ、ごめん……?」

 

 一体何の用事だろう?体育館が急遽、借りられなくなったとか?杳があてどなく想いを巡らせている間に、飯田は大勢の生徒達でごった返す中、抜群のハンドル――ならぬ足さばきで、誰ともぶつかる事無くこちらへやって来た。良く見ると、彼の手には一枚の紙切れが握られている。杳が戸惑うように見上げると、彼はその紙切れを掲げ、少し緊張したような口振りでこう言った。

 

「もし良ければなんだが……インターンの期間中、”チームIDATEN”でアルバイトをしてみないか?」




書く事が多すぎて長くなり過ぎた( ;∀;)次回は緑谷くん&明ちゃんが出ます!


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No.73 ベイビーシッター

※追記:欝々とした展開、また一部に職業差別を思わせる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


「アルバイト?」

 

 杳は呆気に取られて、飯田の言葉を鸚鵡(おうむ)返しした。――雄英は原則アルバイトを禁止していない。優秀な卵達を早期に迎え入れるべく、周辺の企業はこぞって求人票を貼り出していた。その中で一番多く、目を惹くのはヒーロー事務所だ。社会勉強や話題づくり、小銭稼ぎを兼ねてヒーロー事務所の短期スタッフとして働くというのは、生徒内ではよく見られる光景だった。ただしヒーロー科に限ってはそんなフワッとした理由ではない。万が一資格取得を逃しても、卒業後サポートスタッフとして働けるよう、予防線を張っておくというのが主たる目的だった。

 

「チームIDATENって、飯田くんの……」

「ああ」

 

 躊躇いながらもそう尋ねると、飯田はしっかりと頷いた。――”チームIDATEN”は杳も知っている。元は飯田の兄でありプロヒーロー”インゲニウム”が組織する、サイドキックやサポートスタッフを中心としたチームだった。ヒーロー飽和社会と揶揄され、個人プレーで手柄を競い合う彼らの光景が日常となっていた現代社会において、インゲニウムは約65名ものサイドキックから成るチームを率い、総合力と連携プレーで拠点(ホーム)を守っていた。

 

 今を(さかのぼ)る事数ヶ月前、インゲニウムは(ヴィラン)・ステインに襲撃され、下半身麻痺の重傷を負って再起不能となり、ヒーローを引退した。だが、全てはそこで終わらなかった。その三ヶ月後、元・サイドキック達が連名で”チームIDATEN”というヒーロー事務所を結成したのだ。顧問役は元・インゲニウムである飯田天晴だった。チームIDATENは認可が下りたその瞬間から活動を開始し、今日に至るまで何の問題もなく街を守っている。

 

 杳は手渡されたA4用紙を覗き込んだ。チームIDATENの短期アルバイト求人票で、”サポートスタッフ(事務職員)急募!~初心者・学生大歓迎~”というファンシーな字体のタイトルが躍っている。事務職員という単語を見た時、杳の胸がちくりと痛んだ。何気ない風を装って、飯田は言葉を紡ぐ。

 

「最近、サポートスタッフが立て続けに寿退社をして、とても忙しくなってね。君の話をしたら、兄が是非と。実戦には参加できないが、ヒーローの現場や事務所の雰囲気を知る事はできると思う。……どうだろうか?」

 

 飯田の声は涼風のように爽やかだったが、注意深く耳を澄ませるとその奥には、碓氷の上を歩くような慎重さがたっぷりと含まれていた。一方、杳はまたしても針で突いたような痛みを感じ、小さな胸を押さえる。彼女が知る由もないが、それは幼いプライドが傷ついた為に生まれたものだった。傷だらけの体を引きずって、それは意地悪な声で泣き叫ぶ。――”事務員なんか嫌だ”と。

 

 何て失礼な事を。杳は激昂し、その声を押さえ付けた。今の自分を受け入れる事が大事だと、ミリオ先輩も仰っていた。事務や営業、弁護士に経理、エンジニア……ヒーローは大勢の人々のサポートがあってこそ、活動に専念できる。相澤先生が許してくださるかは分からないが、きっと素晴らしい経験になるに違いない。

 

 個性を自在に操り、果敢に戦っていた頃の記憶が、頭の内側を未練がましく引っ掻いた。杳は頭を強く振るってそれを払い落とし、お礼を言う為に顔を上げ、()()()()

 

 ――クラスメイト達が自分の周りを取り囲み、憐憫の眼差しを注いでいる。だがそれは一瞬の事で、瞬きすると彼らの姿は消え去り、後には飯田だけが残った。彼はさっきの皆と()()()をしている。むず痒いような、煩わしいような感覚が心臓をひと撫でした途端、杳の口は勝手に動き出した。

 

「私に同情してる?」

 

 その言葉はゾッとするほど卑屈で、おまけに意地悪な(トーン)でできていた。自分の口から出たとは思えない声だった。だが、それは間違いなく杳の本心だった。それだけではない。自分は散々痛めつけられた爆豪でも、先輩であるミリオでも、恋人である人使でもなく――紳士的で穏やかな飯田に対して、牙を剥いたのだ。なんてことを。自分の暴言と心根の汚さに呆然とする杳の眼前で、飯田の顔が無惨に歪んでいく。

 

 二人共、この状況をどう挽回するかという事に必死になっていて、付近にいた数名の生徒が暗い表情で何かを呟きつつ、スマートフォンを向けている事に気付かなかった。四角い画面に映し出された飯田は、短く切った髪をかき乱しながら、決死の思いで言葉を紡ぐ。

 

「すまない。僕は――」

「インゲニウムは”ワンポイントの個性を拾い上げて適材適所に配置する”のが方針なんだ!」

 

 突然、素朴で温かい声が二人の間に割り込んだ。()()だ。彼はさりげなく二人の前に立ち、スマートフォンのカメラレンズから彼らを守った。舌打ちをしつつ、雑踏に紛れて消えていく生徒達の姿を横目で見届けた後、緑谷は真摯な声で話を続けた。

 

「活用の機会に恵まれない移動系個性の人々を積極的に勧誘してるって聞いた。だから今回の事もきっと……()()()を見出してくれたんだと思う」

 

 温かい、傷だらけの手が自分の肩に置かれた瞬間、杳の中のプライドは消え去った。――個性を失くしてから気分が塞ぎ、自棄になっているという自覚はあった。だが、その感情は自分の中で消化するもので、他人に向けていいものじゃない。

 

 飯田の中には確かに同情もあったかもしれない。だが、それは人として、何より友人として当たり前の事だ。杳だって同じ立場になったら、きっとそう思うだろう。彼は哀れむだけでなく、共に前に進もうと手を伸ばしてくれた。それなのに、感謝するどころか八つ当たりするなんて。自分が心底情けなくなり、杳はこの場から消え去りたいと強く思った。眼球が融ける程に熱くなり、大粒の涙がいくつも零れ落ちる。杳は頼りなく震える声で、拙い謝罪の言葉を連ねた。

 

「本当にごめんッ、私……」

「こちらこそだ。僕の発言が不用心だった」

 

 飯田は人としてもヒーローとしても、杳より数枚も上手だった。すぐさま冷静さを取り戻し、小さな少女に目線を合わせ、笑ってみせる。その様子を見守っていた緑谷は、やがて大きく息を飲んだ。杳の姿が見る間に歪み、一人の少年の姿へ変わっていく。学ランを着て黄色いリュックを背負った、悲しい目をした男の子に。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 テレビ画面で輝く三原色のスーツ、眩いスマイル――物心ついた時から、オールマイトは緑谷の目標だった。ほとんどの子供達と同じように、緑谷の夢も彼になった。だが、その夢は途中で潰える事となる。

 

 緑谷には個性が発現しなかった。人は生まれながらに平等じゃない。齢四歳にして、彼は社会の現実と挫折を思い知った。人類の八割が有個性者である現代社会で、無個性者は社会的弱者に相当する。彼の生活は孤独で(いびつ)だった。

 

 だが、緑谷はそんな過酷な状況に置かれても尚、夢を諦めなかった。――無個性のヒーローというのは()()()()()。今まで誰もなった人がおらず、轍もないという事だ。彼は国中のヒーローを調べ上げ、個性を使わない戦闘スタイルを取っている者を探した。しかし、国外まで範囲を広げても、そんな人は存在しなかった。

 

 緑谷の情報収集能力は確かだったが、それはあくまで()()()()()だ。もっと深く掘り下げる事ができれば、例外を見つけられたかもしれなかった。身体強化系の個性と肩を並べる程に頑強な肉体にできる、特別なメニューを教える教師に出会えたかもしれない。だが、彼は特別な階級の人間ではなく、しがない一般市民だった。

 

 そして緑谷の周りも同じ世界の人々で、身の丈に合わぬ夢を語る彼を諭し、除け者にするだけだった。爆豪達は自分達と同じ目線に立とうとする彼を忌み嫌い、執拗ないじめを繰り返した。母親ですら、彼の言葉を応援せずに否定した。

 

(出久ぅ!ごめんねぇ!)

 

 この世界で、緑谷の味方は誰もいなかった。皆が彼を否定する。母ですら、優しく労わるように彼を突き放した。オールマイトの画像が、溢れた涙で滲んでいく。あがいた分だけ無力が募り、月日が悪戯に過ぎていく。年を重ねる度、ヒーローと敵の個性は複雑で強くなっていく。だが、彼は依然として無個性のままだった。運命はますます悪意に満ちた顔をして、彼の前に立ち塞がり続ける。

 

 緑谷が中学三年生になり、受験を間近に控えたある日、()()()()は起きた。――自分と同じ雄英に進もうとする緑谷に、爆豪が激昂したのだ。爆豪は爆破の攻撃で、緑谷を壁際に追い詰めた。教師は見て見ぬ振りをし、クラスメイト達は彼を助けるわけでなく、取り囲んで嘲笑った。

 

 日光に背を向けている為、彼らの姿は逆光になり、ほとんど見えない。皆、その身や手に個性を宿していて、その力が放つ光だけが、震えながら座り込む緑谷の顔を照らしていた。その中央で爆豪が王のように君臨し、特大の火花を見せ付ける。

 

(テメェが何をやれるんだ?!)

 

 爆豪の攻撃はそれで終わらなかった。これほど痛めつけられて尚、緑谷が自分に屈しない事に腹が立ち、同時に不気味に思ったのだろう。緑谷がずっと書き溜めていたヒーローの分析ノートを目の前で灰にして投げ捨て、せせら笑いながらこう言い放った。

 

(そんなにヒーローに就きてんなら効率いい方法があるぜ。……()()()個性が宿ると信じて、屋上からのワンチャンダイブ!)

 

 ――それはあまりにも乱暴な、人の存在そのものを否定する言葉だった。放課後、空っぽの教室に立ち尽くす少年を、ひっそりと訪れた夕陽が照らし出した。彼は何度も傷つき、引き裂かれ続けた心の痛みを耐え忍ぶように涙を浮かべ、唇を噛み締め、ブルブルと震えていた。

 

 諦めないからといって、何も感じないわけじゃない。本当は彼の心はずっと絶望していて、悲しみとやりきれなさで黒ずんでいた。けれど、それらのネガティブな感情を遥かに凌ぐ()()()()()がずっと心の奥底で輝きを放っていて、そのおかげで、彼はどんな事があっても前を向き、生きる事ができていた。

 

 

 

 

 やがて緑谷は運命の邂逅を果たし、超常は日常に、夢は現実になった。”平和の象徴”の弟子として日々たゆまぬ努力を重ね、選りすぐりのヒーロー候補生達に遅れを取らぬよう自主練に明け暮れた後、彼は宿舎に戻り、大きく息を飲んだ。

 

 眼前に()()()()()が立ち竦んでいる。彼女を取り囲んで、クラスメイト達が哀れむような眼差しを向けていた。窓から差し込む陽光がにわかに遮られ、彼らの姿が黒く染まり出した。

 

 ――あの時の言葉にならない感情が、心を掴んでシェイクする。次の瞬間、緑谷は我武者羅に飛び出した。自信なく俯いた少女の両肩を掴んで、強く揺さぶる。

 

(白雲さん!大丈夫。一緒に頑張ろう)

 

 泣き濡れた灰色の瞳に、自分の顔が映り込んだ。いや、それは現在の姿じゃない。今よりずっと幼くて、学ランを着ていて、何かを堪えるように震えていた。込み上げてきた涙をグッと堪え、緑谷は人を安心させるような笑みを浮かべてみせた。友人として、ヒーローとして、今自分がするべき事は泣く事じゃない。安心させ、励まして、一緒に前に進む事だ。緑谷は、あの時、一番言ってほしかった言葉を、(昔の自分)に投げかけた。

 

(諦めないで)

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 食堂事件を境に、緑谷は杳のトレーニング中、しばしば顔を出すようになった。最初の数日、緑谷は思い通りに事が進まず、泣きじゃくる杳を励まし、その様子をつぶさに観察していた。

 

 それから一週間後、緑谷は杳を誘い、中庭で少し話をしようと持ち掛けた。芝生に投げ出されたノートのタイトルを見るなり、杳は小さく息を詰めた。”()()()()トレーニング法ノートNo.3”と書いてある。緑谷は多忙な中、自分の為にトレーニング方法を研究してくれていたのだ。その一ページ目を開き、緑谷はボールペンの頭を顎に当てた。

 

「これはあくまで個人的な意見なんだけど……戦闘スタイルを考え直すってのも手かもしれない」

 

 言葉の意図を図りかね、杳は思わず首を捻った後、ノートを覗き込んだ。そこには三つの人型マークが描かれていて、一番小さいものには自分、中くらいのものには人使、一番大きいものには相澤先生の名前が書かれていた。そのほかにも身長や体重、推定筋肉量など、細々としたデータが書き込まれている。あらゆる項目で杳の数値は二人より低く、ひどい場合は倍以上の差があった。

 

「白雲さんは今、相澤先生や心操くんと同じ”捕縛布を使って格闘戦をする”というスタイルを目指しているよね」

 

 杳は素直に頷いた。現在、彼女は相澤の指示を受け、捕縛布を扱う訓練、及び戦闘訓練を行っている。だが、戦闘スタイルを変えてまだ間もないという事もあってか、その進展は思わしくなかった。杳が表情を翳らせると、緑谷は無造作な仕草で髪をかいた後、言いづらそうに言葉を続けた。

 

「先生も心操くんも大柄で筋肉量がある。その、先生に怒られるかもしれないんだけど……僕は正直、全く同じ方法は難しいんじゃないかと思う」

「……うん」

「だ、だけど!先生達、というか僕らの中で誰よりも、君が一番優れてるところがある。()()()だ」

 

 瞬発力とはその瞬間に発揮するパワーを示し、神経の伝達速度が早いほど高い瞬発力を発揮する事ができる、とされている。神経の伝達速度とは反応にかかる時間の事だ。定期的に行われる体力測定で、杳の反応速度はいつも人類の限界だとされている0.1秒を切り、クラスの上位に食い込んでいた。個性を失った後でも、その順位は変わらない。全身の神経や細胞に直接アクセスする個性を行使していた名残ではないか、と緑谷は推測した。

 

「瞬発力ってすごく大事だよ。そうだな。ウサギと亀に例えると……君はウサギってこと!」

 

 緑谷は杳にも分かりやすいように童話に例えて、彼女の自信を取り戻そうとした。しかし、杳の気持ちは晴れなかった。――他の人を出し抜いてトップに躍り出たとして、結局どうなる。童話の終わりでウサギは亀に追い抜かれる。自分も同じように、個性を使った人々に追い抜かれるに決まっているのだ。たとえば火災現場に駆け付けたとしよう。個性を失う前は雲化して雨を降らし、雪の衣で被害者達を包んであげられた。傷だって癒せたかもしれない。だが、今は自分の肉体一つしかないのだ。

 

(今の君にしかできない事、戦い方が絶対にある)

 

 ミリオはそう言ってくれたが、その言葉を現実とする為には、気が遠くなる程の鍛錬と挫折を味わう必要がある。ミリオや緑谷はその地獄を乗り越えられる強さを有していたが、杳はそうではなかった。個性を失うというのは、鳥が羽根をもがれるのと同じだ。生活・戦闘スタイルのみならず、()()()()()さえも再構築する必要がある。欝々とした思いは少女の喉元を駆け抜けて、口から零れ落ちていった。

 

「人よりスタートが早くたって、どうせ途中で抜かれちゃうよ」

「それでいいんだ。後で巻き返せばいい」

 

 思いもよらぬ言葉に、杳は思わず顔を上げて緑谷を仰ぎ見た。

 

 ――社会に溢れ返ったヒーローは、やがて専門化の一途をたどる事になった。オールマイトのような全てに対応できるヒーローは稀で、大抵は救助や敵退治・捜索専門といった無数のジャンルに分けられ、ヒーロー達はそれに合った技術を磨き、活動はますます効率的になっていった。だが、それは裏を返せば専門外、つまり得意ではない分野には反応できないという事に他ならない。現在のヒーローの多くは柔軟さが欠けているのだ。つまり、反応・判断に若干のタイムラグが発生するという事。

 

「追い抜かれても、彼らが対応を考える・立ち止まってる間に、君がまた前に出る」

 

 個性を行使して彼らが戦っている場合はその補助をすればいいと、緑谷は説いた。その時間も、瞬発力でできた空白時間があるからできる事だ。最終的に亀にいいところを持っていかれたとしても、その前に苦しんでいる誰かを救い出したり、敵の足止めをして、彼らの罪を一つだけでも減らす事ができる。

 

「もちろんそれには身体能力の向上がマストな条件になってくるんだけど、()()()()()()()は今のヒーロー情勢を絡めて考えると、結構重用されるんじゃないかと思う」

 

 突然、杳の脳裏にある光景がポンと思い浮かんだ。鳴羽田の街で、航一が床に張り付いたアイスクリームの残骸を拭き取っているワンシーンだ。

 

(んー。でもこれも人救けだからねー)

 

 あの時の素朴で清らかな気持ちが、杳のささくれた心の表面にじんわりと浸透していく。やがて、彼女は気付いた。あんなに熱心にしていたゴミ拾いすら、今はもうしていないという事に。

 

「……」

 

 杳は瞳を閉じて、航一の笑顔を思い出した。暖かく親しみのある顔、今までずっとそんな風に思っていた。だけど、そうじゃなかった。ヒーローを心の在り方で決めるとするなら、自分は不合格だ。それは諦めでも自棄でもなく()()として、杳の心に融けていった。

 

 敵との戦闘行為が最も重視されている昨今、ヒーローの卵は強い個性を持つ者ほど優位に立つ。杳は幸運にも強い力を持っていた。だから個性があった時は、皆と一緒のラインに立てていた気がした。だが、それは個性の放つ輝きに目が眩んでいただけだった。逃げ場のなくなった今、それが分かった。自分は完成品の中に紛れ込んだ、紛い物ですらない。そうあろうとした、ただの()()だった。

 

 話し合いが一区切りついたところで、二人は芝生に足を投げ出し、小休止を取る事にした。フォルムの違う真っ赤なスニーカーが二足分、草の上に揺られている。中庭の向こう側はヒーロー科専用のグラウンドになっていて、頑丈なフェンスの内側では種々様々な個性を繰り出し、上級生達が戦っていた。杳が静かにその様子を眺めていると、緑谷はゆっくりと言葉を吐き出した。

 

「僕は、オールマイトみたいなヒーローになりたかった。でも、個性の発現がとても遅かったんだ」

 

 静かで、抑揚のない声が耳朶を打ち、杳は思わず緑谷を見た。彼は、まるで輝く星を掴もうとしているように苦しく切なげな表情で、グラウンドの光景を眺めていた。ほんの一摘まみだけ、寂しさの混じった声が、上級生達の放つ轟音に紛れて消えていく。

 

 オールマイトに出会うまで、僕はあの方法しか知らなかった。誰も味方のいない、孤独で寂しい日々を、春を待つ獣のように耐え忍ぶ事しか。自分の人生に後悔はない。恵まれ過ぎているとも思う。だけど、新しい世界を知った今、無個性となった友人の姿を見て、彼はふと考える事があった。――もし、()()()、ありのままで良いと、それでも君はヒーローになれると励ましてくれる人がいたとしたら。

 

 爆破で攻撃してせせら笑う爆豪達と、杳に手を伸ばす彼の姿。黒い影のようになって自分を嘲笑うクラスメイト達と、杳を優しく案じるクラスメイト達の姿が、緑谷の脳裏に交互に浮かび上がる。悔しさとも悲しみとも、追慕とも言い難い、ほろ苦くて複雑な感情が彼の心をそっと撫でていった。

 

「あの時……僕は、諦めかけていた。だから、君にはそうなってほしくない」

 

 個性と共に知覚能力も失くした今、彼の気持ちを読み取る事はできない。だが、わけもなく目の奥が熱くなり、杳の(まなじり)から涙が溢れた。夜風が湖面を凪ぐように、静かで穏やかな涙だった。

 

 杳は()()()()を知っている。彼の体には、たった一度の使用で、規格外(オーバーフロー)と銘打たれた自分の個性を再起不能なまでに破壊してしまった、強大な力が宿っている。正統な持ち主であるはずなのに、彼はその力を使う度、命を削られているかのようなダメージを負っていた。

 

 涙を拭いて顔を上げると、いつもと変わらない素朴な笑顔がそこにあった。航一と同じ温度で、緑谷は穏やかに笑う。陽だまりのように優しく暖かで、空想の中の人物であるかのように完璧で冷たい。緑谷は杳に救いの手を伸ばし、同時に彼女をそっと突き放した。

 

 

 

 

 緑谷は、瞬発力は神経の伝達スピードを鍛える事が必要なのだと説いた。そして神経の伝達スピードそのものは()()()()、つまり繰り返し動作を行う事によって発達する。ヒーローにとっての反復運動とは、戦闘訓練の事だ。杳は相澤と相談し、組み手の数を大幅に増やした。相澤の提案で、親しい友人達に少し時間を割いてもらい、救助者に見立てた人形を抱えた状態で個性を使っての攻撃を避け続ける――という捻った手法も加える。

 

「予測ってのは突き詰めると、”無意識に体が反応する”ことなんだよね」

 

 ある日の放課後、時間借りしたグラウンドγ(ガンマ)の一画にて。ミリオは杳と対峙しつつ、そう言い放った。――ヒーローは高速制圧・高速救助が命題とされており、その行動は常に判断の連続だ。一瞬で敵の動きを読んで拘束する、攻撃をかわして反撃する、崩れ落ちる建物から人々を救出する……そういった行動は全て、知識でも生まれ持った個性でもなく、経験から生み出された無意識レベルの動きなのだとミリオは説いた。

 

「それは経験から培われる。……()()()()

 

 ミリオとの組み手は開始コンマ一秒足らずで白旗を上げそうになる程、きつかった。だが、その分、杳の経験値はしっかり積まれていく。そうして課題を一つクリアすると、今度は別の課題が立ち塞がった。――()()()()()()()()のだ。杳が手本としているイレイザーヘッド達には、敵の動きを確実に止められる個性があった。それを捕縛布と体術のみで補うのは厳しいものがある。

 

 昼休憩時、緑谷、麗日、飯田の面々と共に昼食を摂りながら、杳は今後の相談をした。緑谷は箸を止めて少し考え込んだ後、躊躇いがちに言葉を発する。

 

「昔、ちょっと考えてた事があるんだけど。個性をプラスアルファだと考えるなら、それを疑似的に得る事はできないかな?」

「……それってサのつく科のことじゃないやんな?」

 

 緑谷の発言で何かを察した麗日はわらび餅を食べる手を止め、とても渋い顔をした。その隣に座る飯田は、黙って眼鏡の縁を押さえた。

 

 

 

 

 サのつく学科は、雄英では一つしかない。プロヒーローに提供するアイテムやコスチュームの開発を行うデザイナーを目指す、()()()()()だ。その主担任であるパワーローダー先生に指示を仰ぐ為、杳は手早く昼食を済ませると三人に別れを告げた。相澤に許可を取った後、サポート科へ足を向ける。

 

「……?」

 

 サポート科の敷居をまたいだ瞬間、()()()()()が鼻を突いた。すぐ近くで爆豪が戦ったのかと危ぶむ位に、強くはっきりとした匂いだ。――事故か、事件だろうか。杳は鼻をひくつかせ、匂いの元を探す。廊下には生徒達がたむろしていたが、誰一人として異臭に慌てる者はいなかった。皆、手に分厚い本や電子媒体、作りかけのサポートアイテムを持ち、熱心に何事かを話している。大人しく研究者然とした雰囲気の人がほとんどで、通りがかった杳をちらりとは見るものの、それ以上の興味を示す様子は見せなかった。

 

 匂いの元を辿るうちに、杳はサポート科の最奥にある工房”Develop Studio”に到達した。サポート科の主任であるパワーローダー先生がいる工房だ。扉の前に立つと、思わず咳き込んでしまうほどに強い硝煙の匂いが、杳の鼻腔に突き刺さった。大元はここであるらしい。先程から、くぐもった爆発音も響いている。

 

 昼食時、緑谷達が浮かべた何とも言い難い()()()()()がポッと頭に思い浮かび、杳はごくりと唾を飲み込んだ。この中で何が行われているんだろう。頭を振って不安を追いやり、扉に手を掛けた途端、轟音と共に熱風と煙がドアを押し上げ、杳は()()()()()()()()()――

 

 ――かに思われたが、しかし。杳の鍛え抜かれた反射神経はとっさに爆風を受け流すように体を逸らし、受け身を取った。同時に吹き飛ばされてきた()()を抱き留め、自分がクッションになるようにして床に軟着陸する。そのコンマ数秒後、吹き飛んできたドアがすぐ傍の壁に衝突し、廊下全体に響き渡る程の轟音を立てた。

 

 少しでも遅れていたら、危なかった。杳が今更ながらに緑谷の言葉を噛み締めていると、自分の上に乗っかっている少女がむっくりと起き上がった。ゴーグルを押し上げて、じっとこちらを観察している。スコープをそのまま嵌め込んだように特徴的な瞳だった。エンジニア風のラフな服装をしていて、体じゅうが油や煤で汚れている。制服を着ていないが、サポート科の生徒だろうか。やがて少女は自我を取り戻し、はきはきとした物言いで話し出した。

 

「突然の爆発失礼しました!救けていただいてありがとうございます。あなたはえー、ヒーロー科の……?」

 

 少女の瞳は杳を離れ、彼女の制服に付けられたボタンの数に映る。慌てて起き上がり、杳は頭を下げた。

 

「ヒーロー科の白雲杳です。よろしk――」

「なる程!では私、ベイビーの開発で忙しいので」

 

 杳が全てを言い切る前に、少女はくるりと踵を返して工房の中へ戻った。杳は慌ててその跡を追いすがる。先程の爆発で煙が充満し、室内の様子はほとんど見えなかった。それでもよく目を凝らすと、灰色の煙を透かして、薄汚れた壁に無数のパイプや機械部品が這い回っているのが垣間見えた。天井部分に数本突き出した煙突が、蛇が長い舌を出すように赤い炎をチロチロ出している。

 

 ――とにかく換気を。咳き込みながら窓を探すも、窓はどこにも見当たらない。少女を探すと、彼女は至って元気そうな様子で、黒焦げになった大型サポートアイテムの前にしゃがみ込んでいた。

 

「ケホッケホッ……お前なァ。思いついたもん何でもかんでも組むんじゃないよ……」

 

 部屋の奥から、しわがれた声を引き連れて、半裸の男がゆらりと姿を現した。建設重機のようなヘルメットタイプのマスクと、異常に発達した両手が特徴的なヒーロー”パワーローダー”だ。ちょっと怒っているのか、彼はマスクの奥で歯を剥き出しにしつつ、壁のボタンを押した。すると天井の一部が割れ、中から巨大な換気扇が姿を現した。数秒足らずで室内の空気を清浄にすると、換気扇は天井内へ格納される。少女は悪びれなく言い放った。

 

「フフフフフ。失敗は発明の母ですよパワーローダー先生。かのトーマスエジソンが仰っています。創ったものが計画通りに機能しないからといってそれが無駄とは限らn――」

「客人が来てる。挨拶したか?」

 

 パワーローダー先生がこちらに視線を向けた事で、二人のやり取りを茫然と眺めていた杳はハッと我に返った。少女はポケットから使い古したスパナを取り出し、杳の方を一切見る事なく答えた。

 

「しました!」

「名前は?」

「忘れました!」

 

 ここまで清々しい返答をされると腹立たしさよりも、むしろ彼女に対して興味が湧いてくる杳なのであった。キャラクター性こそ強いものの、自分よりも他者を優先するクラスメイト達に囲まれて過ごしてきた杳にとって、少女の対応はどこか新鮮で人間味があった。少女は壁に立てかけていたスケートボードを手に取ると、機体の下に潜り込む。杳はパワーローダーに頭を下げ、改めて自己紹介をしようとしたが、それは途中で遮られた。

 

「ヒーロー科の白雲杳だろ。知ってるよ。で、何しにここへ?」

 

 杳はごくりと唾を飲み、ここへ来た理由を話して聞かせた。そもそもサポートアイテムは個性を補助する道具で、単体で活躍するものではない。お門違いだと怒られるかもしれない。だが、杳にはどんな手段を使っても、ヒーローにならねばならぬ理由があった。パワーローダーは猫背気味の背中を少し持ち上げ、黙り込んだまま、じっとこちらを見つめていた。やがて彼はふいと視線を逸らし、少女のいる機体を振り返って、その表面を軽くノックする。

 

「発目。力になってやr――」

「お断りします」

 

 次の瞬間、ジャッと勢い良く車輪の滑る音がして、発目と呼ばれた少女が機体から上半身を覗かせた。どうやら二人の話を聞いていたらしい。彼女は杳を見上げ、きっぱりとした口調で言い放った。

 

「我々の使命はあくまで()()()()()()()です。個性のない場合は対象外となります」

「本音は?」

「メリットがありません!」

 

 そして発目は再び、機体の下に引っ込んだ。そこまではっきり言われると、さしもの杳もショックを受けたが、同時に頷かざるを得なかった。ヒーロー業界と同じく、サポートテクノロジー業界も熾烈な競争を日々繰り広げている。少しでも有力な会社に就職するには各社へのアピールが不可欠、学業以外の事に時間を費やしている暇などないのだ。杳が所在なげに立っていると、パワーローダーはちょいちょいと奥の工房へ手招きした。

 

「俺が見繕ってやる。ケヒヒッ……確かに繊細な作業だ。勿体ねえが、一年坊主にゃまだ難しいか」

 

 パワーローダーは小型ドローンを操作して杳の身体情報を集めつつ、何気ない口調で言葉を続けた。

 

「サポートアイテムによる個性の疑似再現、やりようによっちゃ再生可能エネルギーの先駆けになるかもしれん。何より”友達の為”っつう動機が良い。印象を底上げできる。それn――」

「ぎゃんっ!」

 

 突如として飛び出してきた()()()()が両足の脛を直撃し、杳はたまらず悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込んで悶絶した。発目だった。彼女の好奇心が杳の反射神経を上回ったのだ。スケートボードから転がり落ちるようにして着地すると、発目は油に塗れた手でがっしりと杳の肩を掴んだ。

 

「お待ちください!えーと……すみません誰でしたっけ?」

「し、白雲です。いいよ。あの、パワーローダー先生に」

「私達、お友達じゃないですか!ですよね?」

 

 発目は杳の肩を強く揺さぶった。あまりの強さに、杳の脳と視界がぐわんぐわんと揺れる。

 

「それにお忙しい先生の手を煩わせるなんて、心が痛みます。……もちろん協力しますよ。こちらにサインを頂ければ!」

 

 発目はウエストバッグから小型電子端末を出すと、画面を手早く操作してこちら側に向けた。杳は涙の滲んだ目を擦って覗き込み、絶句した。()()()らしき文面が、小さな画面にびっしりと表示されている。パワーローダーはそういう事じゃないと言わんばかりに口を苦々しく曲げ、眼前の展開を見守っていた。友情という言葉の意味を改めて考え直している杳に、発目は浮足立った様子で電子ペンを握らせる。

 

「私はあなたに合うドッ可愛いベイビーを創る。その間、あなたは他のベイビー達の()()()()になってもらいます」

「べ、ベイビー?」

「この子たちのことですよ!」

 

 杳が聞き慣れぬ言葉に目を白黒させていると、発目はさも当然と言わんばかりに部屋の隅っこを指した。そこには彼女が創り上げたのだろう、サポートアイテムやコスチュームの試作品が山のように積まれてある。ベイビーシッターになるとはつまり、彼女専属の試験者(テスター)になるという事だ。発目の瞳は溢れんばかりの好奇心と研究欲でギラギラと輝いていた。その勢いに圧倒されつつも、杳は腹をくくった。ベイビー達と戯れる日々は、自分にとって貴重な経験の一つとなる……に違いない、たぶん。漠然とした不安を振り払い、杳は電子ペンを画面の上に当てて丸っこい字でサインをした。

 

「分かった。よろしくお願いします。は、発目さん」

「契約完了ですね。こちらこそよろしくお願いします。シッターさん」

「え、いや、あの、白雲……」

 

 兎にも角にも、二人の友情は書面上にて締結され、発目と杳は握手を交わしたのだった。

 

 

 

 

 昼休憩後。1-Aクラスの面々はコスチュームに着替え、運動場γ(ガンマ)に集まっていた。そこは運動場とは名ばかりの、広々とした工業地帯をまるごと再現したフィールドだった。ここ最近の「ヒーロー基礎学」の内容は、数日後に迫ったインターンを見据えての事なのか、(もっぱ)ら模擬戦だった。複雑に入り組んだ迷路のような細道が、延々と続く密集工業地帯の最中に立ち、生徒達は思い思いの方法で先生が来るまでの時間を潰していた。少し遅れてやって来た人使はざっと周囲を見回し、焦凍に話しかける。

 

「トイレか?」

「いや、まだ来てねェ。迷子か?」

 

 その会話の主語が()()示しているのか、皆は何となく理解した。人使と焦凍は別のテーブルで昼食を摂っていたので、杳がサポート科に行っていた事を知らない。事情を説明しようと緑谷が口を開きかけたその時、ふと機械の駆動音が路地裏から聴こえて、皆は一斉に振り向いた。

 

 ――数メートルはあるだろう、武骨なデザインの多足歩行式大型マニピュレーターが、路地裏の影からのっそりと姿を現した。剥き出しになった操縦席(コックピット)には、杳がいた。皆の視線を一心に受け、彼女は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、縮こまる。

 

「お、遅れてごめん。あの、なるべく迷惑は掛けないようにs――」

『飛行モードに移行します』

「えっ、えっ」

 

 何かの拍子に、操縦席に搭載されたボタンの一つに誤って触れてしまったのか、突然、機体の胴体部分が割れ、補助ロケットエンジンが四基、放射線状に展開された。ポカンと口を開けて成り行きを見守っているクラスメイト達の眼前で、杳の真下に主エンジンが展開される。全てのロケットは点火し、オレンジ色の閃光を噴き出して、ふわりと上空に舞い上がった。大気を引き裂くような轟音を辺り一帯に響かせ、白い水蒸気の軌跡を残し、その姿は天空高くへ舞い上がっていく。

 

「白雲さあああん!」

 

 皆が杳の名前を呼ぶ声が、青い空に虚しく融けていった。ちなみに一番大きな声を出したのは()()だった。杳がパワーローダーではなく発目と手を取ってしまったのだと理解したからだ。いち早く自我を取り戻した焦凍は長大な氷壁を展開した。クラスメイト達はその表面を駆け昇り、それぞれの個性を展開しつつ、青空救出大作戦を決行する。全ての様子を物陰から見守っていた相澤は、スマートフォンを取り出し、画面を操作して耳に押し当てた。

 

「……パワーローダー先生?」




今話、難産すぎて大変だった…。

スピンオフ”ヴィジランテ”で、ナックルダスターが航一に向けて書いた手紙の中に「揺るがぬ善意を持って生まれてきた稀有な人間、それこそが真の英雄」的な一文があるのですが、自分もそれを参考にヒロアカ本編を解釈しました。

誰も味方のいない、苦しい生活を送る中でも、緑谷くんは自棄になったりせず、爆豪を救けようと手を伸ばしました。恐らくそれが”どんな状況にあっても善性を保ち続ける”という事の現れなのではないかと。オールマイトも同じものを有していたから、惹かれあったというか、見出したんじゃないかと思います。
そう思うと緑谷くんと転弧の境遇は似てますね。スニーカーもデザインは違うけど同じ赤だし、師匠が最強のヒーローと敵だし。なんてカッコいい対比なんや…。

ヒロアカ世界において、どのキャラクターにも長所や欠点、過去の傷や罪がある。揺るがぬ善性を持つオールマイトや緑谷くん、航一も聖人ではない。
という事を踏まえると…ヒロアカ世界は現代社会のメタファーで、「社会(人々)はいつも完璧で綺麗なものを強いるけど、本当は皆不完全で不確実、善性と悪性が両立し、何らかの罪や傷を抱えて生きている。それでも前を向いて生きていかなければならない(生きることができる、生きてもいい)」というのがメッセージの一つでもあったりするんかな…と思いました。

気が付いたら600字くらい書いていた…長々と申し訳ございませんでした( ;∀;)


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No.74 初日

≪オリジナル登場人物紹介≫
●トレインマン
チームIDATEN所属のヒーロー。元・インゲニウムのサイドキック。
●曽我さん(そがさん)
チームIDATENの拠点地区に突如出現したホームレス達の仲間。現在は行方不明。

≪アレンジ登場人物紹介≫
●掛本小(かけもとちい)
チームIDATEN所属のサポートスタッフ。とても優秀なので、一人でナビと事務作業をしている。
※ヴィジランテ2巻中盤に登場する女性オペレーターです。外見以外は全部作者のねつ造です。ややこしくてすみません…。

※追記:作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 発目と友情契約を結んでから、杳の学生生活はより一層の多忙を極めるようになった。高難度の授業に大量の課題、演習訓練に自主練――ただでさえ過密な日々のスケジュールに、”大量の試作品(ベイビー)保育”という新たな項目が追加されたのだ。だが、どれ一つとして手を抜く事は出来ない。まるで回し車に乗ったハムスターのように駆け回り、頬袋――ではなく両手いっぱいに試作品を抱えてサポート科を去っていく杳の姿を、発目はじっと見守っていた。

 

 最初の頃、発目が杳にかける期待値は果てしなく低かった。発目が興味を持っているのはあくまで”個性の疑似表現”、杳はその添え物(モデル)に過ぎなかったからだ。試験者欲しさに契約を交わしたはいいものの、良く見れば背丈も小さく体付きも華奢、ヒーロー科らしからぬ、気弱そうな顔をしている。発目は自分の軽率な行動を――彼女にしては珍しく――ちょっぴり後悔したほどだった。

 

 しかし、日が経つにつれ、その考えは徐々に変化を見せていく事となる。常人以上の身体能力と耐久力、指示に従う柔軟さと従順さ、加えてベイビー達の邪魔をするような個性のない、プレーンな存在――それが杳の本質であると気付いたのだ。認識を改めると同時に、発目は育成を開始した。

 

 発目の個性は”ズーム”だ。そのスコープのような瞳でベイビー達のあらゆる問題点、そしてその解決法を見つけ出してきた。杳にしても同じ事だ。――サポートアイテムは主に戦闘時や救助時など、非常事態に使われるもの。効果があるのは勿論だが、それと同等に重要視されるのは使()()()だ。いくら効果があっても窮屈だったり、使用時に違和感を覚えるようでは完成品とは言えない。杳はベイビーを持ち帰った時だけ、その使用感をメールにまとめて送信するよう指示されていた。

 

『バーンってなりました。ここがキュッときつくなって……』

「……」

 

 だが、如何せん言葉が拙過(つたなす)ぎて、メール内容はほとんど要領を得なかった。発目はメール報告を早期に中止し、ベイビーにカメラとマイクロチップを埋め込んだ。加えて、杳に自作のスマートウォッチを持たせ、言葉ではなくバイタルサインで実際の使用感を確認する事に成功したのだった。

 

 一つ問題を解決すると、また新たな問題が立ち塞がる。杳は手先が不器用である為に、時々ベイビー達を雑に扱ったり、傷を付けてしまう事があった。発目はその事態を収拾すべく、ベイビー達のカラーリングを()()に統一する事とした。

 

「マイクカラーだ!」

 

 発目の思惑も知らず、杳は嬉しそうに頬を綻ばせ、アイテムを抱きかかえる。杳がマイクの大ファンである事は、普段身に付けているキーホルダーやステーショナリー、ハンカチなどの小物から、容易に推察できる事だった。黄色はマイクのイメージカラーだ。単純な杳にとっては、ベイビーが黄色く塗られているだけでヒーローグッズと同じように見える。彼女は自然とベイビーを大切に扱うようになり、破損率は大幅に下がった。だが、発目の進撃はそれで終わらない。杳のモチベーションをさらに上げる為、ある一策を講じる事とした。

 

「か、缶バッジだぁ!」

 

 ある日、杳がいつものように工房へ入ると、発目は缶バッジを一枚、彼女に手渡した。プレゼント・マイクの写真をプリントし、スクラップから創った缶バッジに貼り付けた自作品だ。だが、写真は既存のものではない。発目が職員室へ直談判しに行くと、マイクは相当杳の事がお気に入りなのか――

 

(オーライ!いくらでも撮ってくれや)

 

 ――快く撮影許可を出し、尚且つ自分のプライベート写真も大量にくれたのだ。缶バッジは掌に乗るほど大きくて、写真がよく見える。今、杳が持っているのは職員室の机に着き、コーヒーを飲んでいる様子を上から撮ったものだった。ほぼ毎日見慣れているというのに、推しは変わらずカッコ良かった。目をキラキラと輝かせる杳の肩に、発目はポンと手を置く。

 

「このバッジは非売品です。マイク先生が貴方の為に撮ってくれた特別な写真ばかり。貴重なプライベート写真もありますよ」

「……ッ!」

「全部で二十一種類、内シークレットが一種類です。ベイビーシッター七機ごとに一枚、差し上げます。どれが当たるかはお楽しみ」

「がんばります!!」

 

 目の前に人参ならぬマイクバッジを吊り下げられた杳は、文字通り馬車馬のように働いた。発目との出会いによって、杳の生活はさらに好転し始めた。まだ試作段階である為、荒削りな動作が目立つベイビー達との日々は予測力を鍛えたし、壊さないよう慎重に扱うという意識を置いた上で戦闘行為をする――という二段重ねの行動は不器用さを克服する救けになった。何よりマイクのオリジナルバッジをもらえるという単純で明るい目的は、ただ彼女の心をフワッと浮上させた。

 

 何時しか杳は日々の忙しさに呑まれ、どうにもならない事を考えて欝々としている暇が完全になくなった。ある意味で二人は相性が良く、互いに良い影響を及ぼし合っているとも言えた。

 

 

 

 

 ある日の昼休憩での事。杳は売店でサンドイッチとカフェラテを三人分買い、サポート科の工房へ足を運んだ。初めの時こそ緊張したものの、今では随分と慣れ親しんだ道であるような気もする。爆発音と硝煙の匂いが漂う工房の扉をくぐると、発目が電動ドリルで金属板に穴を空けているところだった。彼女の顔には今の自分に匹敵するほどのクマがあり、身なりも大いに乱れている。どうやらここ数日程、ろくに休息を取っていないらしい。換気扇を回すついでに奥の工房を覗き込むが、パワーローダーはいないようだった。席を外しているらしい。

 

「発目さん。休憩しようよ」

 

 発目は返事をしなかった。――発目は集中すると周りが見えなくなる。最初、杳は自分が嫌われているのかと思ったが、後にパワーローダー先生から彼女の癖である事を教えてもらい、それ以降気にしなくなった。杳は発目から離れてスクラップの山の(ふもと)に腰かけると、サンドイッチの包装をむいて齧り付いた。万が一にでもサンドイッチを零さないように集中して食べていると、発目が額の汗を拭いながら口を開いた。

 

「サポートアイテムの希望はありますか?」

 

 発目はカフェラテをすすりつつ、空いた手でポケットから小さなコントローラーを取り出して操作した。工房内の照明の光量が絞られ、煤だらけの壁がスクリーン代わりとなって、杳のパーソナルデータがパッと表示された。定期的に行われる体力テストや戦闘訓練などから得た大まかなデータも掲載されており、発目はそれを元にレーダーチャートを創ってくれていた。1-Aのクラスメイト達の平均値も導き出し、それと重ねる事で杳の身体能力を比較している。それによると、杳の強みは瞬発力・柔軟性・耐久力だけ、他の項目は全て平均値を下回っていた。特にひどいのは筋力、つまりパワーだ。

 

「シッターさんの身長は147センチ・体重は37キロ、かなり小柄です。諸々の事情をひっくり返せる個性がない以上、体格を中心に据えた戦法、それに則したアイテムを考える必要がある」

「えっと。一応考えてて……」

 

 ――杳が緑谷達と考えて導き出したのは、一撃離脱(ヒット&アウェイ)スタイルだった。一気に接近して先に攻撃をヒットさせ、相手の本格的な反撃が来る前にアウェイするのが基本スタイルで、長期戦の中で機動力を使いながら徐々に相手にダメージを与えていく戦術である。発目のチャートを見るに、その戦い方は不可能ではないようだ。自分の戦闘法が後押しされたような気分になり、杳は少し自信が付いた。

 

 問題は、筋力のない自分が一撃(ヒット)をどう捻り出すか。杳がおずおずと口を開こうとした時、発目はパチンと指の関節を鳴らした。

 

「なる程。一撃を()()()()()()()しようという訳ですね。フフフ、腕が鳴ります」

「……うん。ごめんね。無茶を言って」

 

 発目と出会って、杳はデザイナーの苦悩を改めて思い知った。サポートアイテム一つの影には、デザイナーの膨大な時間と無数のトライ&エラーがぎっしりと詰まっているのだ。一撃でどんな個性を持つ相手にも打撃を与える道具――言葉にするとシンプルだが、そういうものほど難しいものである事は、ここ最近のシッター生活で身に沁みていた。協力関係にはあるが、発目にさらに負担を掛けてしまう事は間違いないだろう。しかし、発目の力を借りなければ、先へ進む事はできない。杳が瞳を翳らせていると、発目はその前に歩み寄って、小さな肩を強く掴んだ。

 

「ご安心ください!クライアントの無知無謀難題に応えるのがデザイナーの務めです!」

 

 発目の瞳はまだ見ぬ未来のベイビーを夢見て、キラキラと光り輝いていた。その力強さに杳は救われた想いがし、勇気づけられた。せめてもの助けとして、彼女は制服のポケットを探り、小さなきんちゃく袋を取り出す。内部でナックルダスターがぶつかり合い、ずっしりとした重みと共に硬質音を奏でた。――鳴羽田で航一からもらったストッパーだ。個性を失っても戦い続けた()()()に、少しでも近づけるように。杳はごくりと唾を飲んで、発目を見上げる。

 

「あとあの。もしよかったらなんだけど、アイテムの持ちよりってできたりする?」

 

 

 

 

 そうしてさらに時は過ぎ、土曜日。いよいよ旅立ちの日がやって来た。ドアの外から滲み出す喧騒が眠気を追い払い、杳は予定時刻よりも随分早く目覚めてしまった。恐らくクラスメイト達が朝の準備に追われているのだろう。もうインターンは二週間前から始まっていた。

 

 杳は身支度を整えた後、階下の喧騒が落ち着くまで、窓を開けて外の景色を眺める事にした。初秋を思わせる乾いた風が頬を撫でていく。まるで水にインクを垂らしたように、朝焼けがじんわりと空に溶けて広がっていた。

 

 エレベーターで一階まで下りると、共同エリアはまだ数人の生徒達が残っていた。周囲を見回すが、飯田――だけでなく人使や焦凍の姿もない。週末、人使は相澤先生の下でインターンに励み、焦凍は仮免取得に向けての補講授業を受ける。土曜日の朝はそんな彼らと共に食事を摂り、玄関まで見送るというのが週課になりつつあったのだが、今日はもう出発してしまったのだろうか。

 

 杳は少しだけ寂しい気分になりながら、ダイニングテーブルで朝食をかき込んだ。食器を片付け、身だしなみを整えて、玄関に向かう。ヒーロー同様、事務職にも夜勤がある。帰ってくるのは日曜日の夜との事だった。

 

「すまん。どうしても……」

「大丈夫だ。基本的に事務所から出ないし、見回り時も……」

 

 見慣れた声が聴こえて来て、杳は玄関に繋がる廊下で立ち止まった。靴箱の傍で人使と飯田が顔を突き合わせ、何事かを話し合っている。飯田は深刻な表情を浮かべた人使を宥めるように話し続けていたが、杳の存在に気付くと途端に明るい表情と声に戻り、俊敏な動作で片手を上げてみせた。

 

「おはよう白雲君!いよいよだな。忘れ物はないかい?」

「おはよう。……うん、たぶん大丈夫。今日からよろしくお願いします!」

 

 杳はポシェットの中身をざっと再確認した後、頭を下げた。人使は何事もなかったかのようにいつもの仏頂面へ戻り、靴を履き直して玄関口を上がる。

 

 ――二人の間には”卒業まではベタベタしない”という約束が取り付けられている。よほどの事がない限り、人使は杳に触れようとはせず、その関係性も本当に恋人なのか疑いを抱きたくなる程にドライだった。杳は誰かに依存しがちで寂しがりな性格だった。もし彼女の身に個性を失ったという非常事態が起きていなければ、近い将来、二人の間に大喧嘩が起きていたかもしれない。共同エリアへ戻る為に杳と擦れ違う瞬間、人使は小さな猫型のポーチを手渡した。

 

応急処置(ファースト)キットと金が入ってる。一応持っとけ」

「ありがとう」

「あと、夜十時。空けといてくれるか」

 

 小さな愛情の塊を抱き締めていると、不意に優しい声が頭上から降りてきた。人使が口元を緩めて、自分を見下ろしている。突然、心臓が甘酸っぱい感情で一杯になり、杳はそのままフワッと宙に舞い上がりそうな感覚に襲われた。電話だろうか。それとも、会いに来てくれるとか。顔を赤らめ、コクコクと何度も頷く杳の頭を撫で、人使は廊下の奥へ去っていく。

 

「終わったかい?」

 

 玄関先から元気な声が飛んできて、杳はハッと我に返り、顔を上げて固まった。――キスをするとでも思ったのか、飯田が律儀に眼鏡ごと目を両手で塞ぎ、全力で見ないフリをしてくれていた。

 

 

 

 

 杳は飯田の跡をついて、雄英学校を出た。ステインが出没した保須市に程近い場所に”チームIDATEN”の拠点地区(ホーム)はある。二人は最寄り駅に向かい、電車ではなくハイウェイバスに乗った。

 

「うちの街の交通機関は、バスや車がメインなんだ。そっちを使った方が早い」

 

 車内は休日という事もあり、とても混んでいた。背の低い杳は座席上部にあるハンドルを掴み、飯田はそんな彼女を守るようにして立っていた。雄英の制服を着ている事もあり、車内の客達は時折、興味深げな視線を二人に注ぐ。杳は気にしないフリをして、ガラスの向こうに見える景色に集中した。そうこうしている内にバスは上向きに傾き、視点が徐々に上昇していく。――高速道路に入ったのだ。

 

 薄い透明な壁越しに、景色が高速で流れていく。チームIDATEN、一体どんな事務所だろうか。航一と和歩のようにフレンドリーな人達だと嬉しいのだが。今更ながらに不安と緊張が込み上げてきて、杳はちらりと飯田を見上げた。彼は視線に気づくと微笑んでみせ、道路の前方を指差す。杳はその方向を見て、目を丸くした。

 

 数十メートル先に掲げられた案内標識に、”チームIDATEN”まであと三キロと書いてある。バスがその標識を通過した途端、周囲の景色が徐々に変わってきた。まず杳が目にしたのは、電車が通るような()()だった。ただしそれは宙に浮いていて、ジェットコースターのように気ままな軌道を描き、眼下に広がる街の中へ消えていた。セメントでできた道路、金属製のレール、砂利道……様々な種類の道路が、大きな街を守るように放物線を描き、広がっている。

 

「あっ!”トレインマン”だー!」

 

 明るい子供の声がして、杳は急いで振り返った。バスのすぐ傍を走る空中線路に、蒸気機関車のようなフォルムをしたヒーローが走っている。トレインマンと呼ばれた彼は車内の子供に気付くと、にっこりと笑って頭の汽笛を吹かせ、手を振った。子供はますますはしゃぎ回り、千切れるほど強く手を振り返す。

 

(移動系個性の人々を積極的に勧誘してるって聞いた)

(うちの街の交通機関は、バスや車がメインなんだ)

 

 二人の友人の言葉が脳裏に蘇る。飯田家は由緒正しいヒーロー一家だ。昔になればなるほど文明は揺らぎ、街の灯りは消え、その暗がりに悪がのさばる。街じゅうを走る不思議な道路は、この街の人々と初代インゲニウムが創り上げた()()()()()()だった。この道路を通り、今まで何人もの人々を救ってきたのだろう。

 

 使い込まれて色褪せた空中線路は途中で真新しいものに変わっている。きっとこの線路は一番最初にあったものじゃない。何度も何度も走る内に壊れて、その度に継ぎ足してきたんだ。そして次代のインゲニウムが、多くの仲間達の為に新しい道を創った。この道路の一つ一つに、脈々と受け継がれてきた想いが詰まっている。杳はきゅっと唇を噛み締めた。

 

 

 

 ハイウェイバスは高速道路から一般道へ戻った。事務所に程近い停留所で、二人は下車する。初秋の日差しに目を細めながら、杳が頭上を見上げると、なだらかな放物線を描いて空中道路が数本、走っていた。その先は()()()に集中している。停留所から数百メートル程歩き、大きな高層ビルを右折した先に、目当ての建物はあった。

 

「……!」

 

 まず目に入ったのは広大なサーキット会場だった。東西に細長く、中間部分の立体交差が特徴的なアスファルト舗装のコースが四輪、走っている。わずかなすり鉢状構造になっていて全貌を見渡す事ができるが、その全長は数千メートル分もあるに違いないと杳は思った。

 

 街の上空を走る道路達は、全てそのサーキットの末端と連結していた。コースを走っているのは車ではなくヒーロー達で、コースの末端からジャンプ台のように空中道路へ乗り上げ、街中へ消えていく。――ここが”チームIDATEN”の事務所なのだろう。興味深そうにキョロキョロと周囲を見回していると、杳は()()()()に視線が吸い寄せられた。

 

 サーキットの奥には三階建てのビルがあり、その下にガレージがある。真っ白な作業着とキャップを被った人々がヒーローを取り囲むようにして、何かの作業を行っていた。良く見ると、同じようなガレージが数十メートル間隔でいくつも点在している。杳の視線の先を認め、飯田は何気ない調子で口を開いた。

 

「”ピット”が気になるかい?」

 

 飯田曰く、ピットとはサーキット内ガレージの事を示すらしい。移動系のヒーロー達は調整(メンテナンス)が欠かせず、タイヤ交換、燃料補給、緊急作業は全てここで行われるとの事。ピットで作業する人の事をピットクルーと呼ぶそうだ。燃料補給、確か飯田君の燃料はオレンジジュースだったはずだ。杳は彼の大きく膨らんだズボンを見て、そう思った。その強靭な両足には力強いエンジンが付随している。同じ人間なのに個性が違うだけで、その生活や対応は千差万別なんだ。杳が深く感じ入っていると、誰かがポンとその肩を叩いた。飯田が大きく息を飲み、浮ついた声を発する。

 

「あに……ッ、兄さん!」

「やあ。君が白雲君?」

 

 杳が慌てて振り返ると、電動式の車椅子に乗った青年がこちらを見上げていた。飯田と良く似た矢印の様な眉毛が特徴の好青年で、短く切った髪は無造作に散っている。清潔感のある服装に身を包んでいて、ズボンのふくらはぎ部分は大きく膨れていた。恐らく彼こそがインゲニウム、飯田天晴だろう。その体からは芝生を吹き抜ける涼風のように爽やかな雰囲気と共に、歴戦のヒーローを冠するに相応しい威厳が滲み出ていた。杳は緊張でカラカラに乾き切った唇を舐め、大きな声で挨拶をした。その様子に感化されたのか、飯田も彼女の隣に立ち、一緒に頭を下げる。

 

「よろしくお願いします!」

「いや気合入り過ぎ!初日だしもっとリラックスして」

 

 二人のあまりに必死な形相に笑いのツボを突かれたのか、天晴は思わず吹き出した。天晴は弟にパトロールを開始するように指示すると、杳を伴って眼前のビルへ入った。大きな玄関口を通り抜けると、右側の壁にあるボタンを押し込む。ガスが抜けるような音がして扉が開き、青白い光と何重もの声が杳の周囲を包み込んだ。――そこは無数の機材が並ぶナビゲーション室だった。何百というモニターが壁一面に浮かんでいて、その前にずらりと人々が並び、ヘッドフォンマイク越しに通信をし続けている。

 

「天哉からもう聴いてるかもしれないけど……うちの事務所はチームプレイでやっててね。前衛(フォワード)だけじゃなく、パトロールやナビなんかのサポートの働きも重視してる。特にナビと事務は大事で、各ヒーローに一ペアが付く。そうする事によって、タイムロスなく活動ができるんだ」

 

 特殊な例であるオールマイトを除き、基本的にヒーローは警察からの通報を受けて出動する、()()()()だ。インゲニウムはヒーロー活動において、何よりも速さを重視する。”事件が起きてから動く”という現在の制度を憂いたインゲニウムは、サポート体制を大幅に強化する事とした。そうして試行錯誤の末、彼は、チームを構成して担当エリアを決めて街をパトロールし、異変を見つければナビへ連絡。事務員が活動申請を警察に提出し、ヒーローはその場で待機する事なく活動を継続――という能動的な動き方を会得したのだった。

 

「皆のおかげで、僕等は速く駆けつける事ができる。期待してるぞ、新人くん」

 

 真っ直ぐな天晴の瞳と、杳の瞳が交錯する。彼の目は杳を哀れんではいなかった。杳は込み上げてきた熱い感情を何とか飲み下して、こくりと頷き、自分を指導してくれる事となった女性スタッフの隣に腰を下ろした。艶やかな茶髪をショートボブにしたその女性は、ヘッドフォンマイクを外すとにっこり微笑んでみせる。

 

「ナビと事務、両方担当してる掛本小(かけもとちい)です。よろしくね。杳ちゃん」

「よろしくお願いします!」

 

 天晴と掛本が暖かい眼差しで見守る中、杳は手渡された真新しいヘッドフォンマイクをしっかりと被り、メモ帳とペンを取り出した。初々しいその様子に掛本は小さく吹き出して、これから取り掛かる仕事の大まかな説明、そして現状報告を始めていく。掛本の手がキーボード上を軽やかに舞うと、二人の前方に一枚のホログラムディスプレイが展開された。――街中をパトロールするトレインマンと天哉が映っている。

 

「私達が担当するのはこの二人です。主目的はパトロール、及び()()()()()の捜索」

「行方不明?」

 

 物騒な響きを持つその言葉は、杳の浮き立った気持ちをぺしゃんと押し潰した。これほどしっかりと監視体制が確立されているこの街で、行方不明者が出るなんて。掛本の口元に浮かんだ笑みが、見る間に霞んでいく。彼女はマウスを何度かクリックし、ある一つの報告書を表示した。その事件が発生した日付は、三日前の夕方頃。事件発生当時の子細な情報と共に、数枚の写真も載っていて、そこには十何人もの人々が映っていた。いずれも街中を歩けば必ず人目を惹くような――非常に特異な外見をしている人達で、移動系民族であるかの如く大量の旅道具を背負っている。

 

「三日前、大勢のホームレス達が、この街の繁華街に突然出現したの。全員保護して、今は仮設住宅で生活してもらってるんだけど……皆、口を揃えてこう言うの。”()()()()がいない。探してくれ”って」

 

 

 

 

 同時刻、街の右端部にて。インゲニウムは先輩のヒーロー”トレインマン”と共に、入念なパトロールを行っていた。このエリアは隣町である保須市と距離が近く、市境に沿って地下鉄も創られている為、商業ビルや商店街が建ち並び、比較的賑わっていた。

 

「……」

 

 ここから数百メートル程前方に進めば、保須市に到達する。心の傷が癒えるには、体の傷よりも遥かに多くの時間が必要だ。数ヶ月前の記憶と感情が胸の奥を突き上げて、天哉はたまらずマスクの奥で瞳を伏せ、唇を噛んだ。頑強なアーマーで覆われたその背中を、トレインマンがバシッと勢い良く叩く。

 

「顔上げな。ヒーローってのは辛い時も前を向いて、笑顔でいるもんさ」

「……、はいッ!」

 

 先輩ヒーローの激励が、若き卵の背中を押す。マスク越しなので判別はできないだろうが、天哉は歯を食い縛り、顔を上げてそっくり返った。その勢いで涙を吹き飛ばし、笑顔を創ってトレインマンに向き直る。トレインマンは頭の煙突から蒸気を出し、満足気にサムズアップしようとして――

 

 ――そのまま深く腰を落とし、臨戦体勢を取った。何事かと身構えつつ、振り返った天哉はまだ目尻に涙の残る瞳を大きく見開く事となる。

 

 繁華街に溢れ返り、川のように流れていく雑踏は、今や大きく()()に割れていた。不自然にできたその空間に、一人の若者がフラフラと覚束ない足取りで立っている。青年に近づくと、強烈なアルコール臭が天哉の鼻を突いた。

 良く見ると、彼の顔は赤らんで正気を失っており、大きな酒瓶を握っている。Tシャツから露出した腕には無数の注射痕があった。明らかに普通の酔っ払いではない。若者が自分だけに注目するよう、トレインマンは頭の煙突で蒸気を盛んに出し始めた。若者のどろりと濁った瞳が、汽車の形をしたヒーローを映し出す。

 

「皆さん。落ち着いてその場を離れてください」

 

 天哉はエンジンを点火し、音声システムを拡声器モードに切り替え、周囲の住民達に避難勧告を試みた。だが、ほとんどの人々にとって自分に関係しない危険は娯楽の一つとなる。物珍しげに若者を眺めつつ、焦れったくなるようなスピードでその場を離れる者がほとんどだった。野次馬根性丸出しで観戦を決め込もうとする者もいる。天哉がじりじりとその様子を見守っていると、不意に若者が笑い始めた。大きく緩んだ口角から唾液が垂れ落ちて、地面に水たまりを創る。

 

「え、へへ……いのう、ばんざい」

「は?」

 

 若者は覚束ない足取りで一歩、踏み込んだ。その拍子に着崩したズボンのポケットから小さな文庫本が零れ落ちて、水たまりに着水する。その表紙とタイトルに、天哉は見覚えがあった。クラスメイトである杳が熱心に読んでいて、お調子者の峰田がそれを見咎め、珍しく説教した事を覚えている。

 

 その本の名は”異能解放戦線”。まだ個性が異能と呼ばれた時代に、異能の自由行使は人間として当然の権利と謳った解放主義者達によって結成された過激派組織の指導者が、獄中で書いた自伝だ。指導者はその後自決し、異能解放軍は解散の道を辿ったとされている。ステインに敵連合……現代社会の本質を問う(ヴィラン)の出現により、最近こういった反社会的な本が発掘されて世に出回るようになったという事は、ヒーロー学の授業で聞き及んでいた。だが、それが何故、今――。

 

「いのう、ばんざあああいっ!!!」

 

 戸惑う天哉の眼前で、若者は胸ポケットから注射器を取り出すと、流れるような動作で首筋に撃ち込んだ。若者の叫び声は途中で咆哮に変わる。細身の体躯がぼごりと音を立て、筋肉が内側から膨れ上がっていく。骨格も拡大しているのか、彼の背丈は一気に二回りほど大きくなった。急激な膨張に耐え切れず、服や靴が弾け飛ぶ。不気味な粘液を体じゅうから垂らしながら、異形のモンスターがトレインマンに躍りかかった。その瞳は破壊衝動に呑まれ、血走っている。

 

『手続き完了。行動開始。応援到着まであと一分三十秒』

「了解!」

 

 掛本の冷静なナビゲーションが、二人の心を強く鼓舞する。トレインマンは車輪の付いた両腕を構え、モンスターと化した若者の突撃を受け止めた。しかし、あまりの衝撃にたまらず数メートルほど轍を創り、後退する。その頭上に、エンジンをフル点火した天哉が急接近した。

 

 人の急所の一つは頭だ。あまり強すぎる力は危険だが、確かな衝撃を与える事で脳震盪を起こし、意識を失う。六気筒型の超小型エンジンが轟々と火と煙を噴く。救助だけでなく勝負もスピードがものを言う。そのタイミングは、今――!

 

「”レシプロ・エクステンド”!」

 

 炎と火花を(まと)い、音速を超える速度となった装甲脚が放つ強烈な踵落としが、若者の脳天に突き刺さる。トレインマンの眼前で、若者の両眼がぐるりと反転し、白くなった。だらしなく弛緩した体が、どうと音を立てて地面に倒れる。天哉は見事、敵を制圧したのだ。

 

 緊迫していた周囲の空気が緩みかけた、その時――遠くの方で地響きと人々の逃げ惑う悲鳴が聴こえてくる。二人のヒーローと住民達はその方向を見て、愕然とした。――三階建てのビルと同じ位の高さを持つ怪獣が奇声を上げつつ、のっそりとした動きで街中を歩き回っていた。




オリジナル登場人物めっちゃ出て来てすみません…。薄目を開けながら流し読みしてくださると幸いです( ;∀;)

本当に拙いSSで申し訳ないです。
いつも目を通してくださり、感想や評価、誤字指摘してくださり、本当にありがとうございます!生きる糧となってます…。


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No.75 再会

※追記①:多戸院(たといん)市はチームIDATENの拠点地区です。保須市と隣接しています。
※追記②:普通科の女の子達と杳と天哉のごたごたシーン付け足しました。


 数分前、チームIDATEN事務所・ナビゲーション室にて。杳は掛本の隣に座り、仕事の手ほどきを受けていた。――チームIDATENはヒーロー一人につき、ナビゲーターと事務員が一ペア付く。掛本の担当はトレインマンだった。トレインマンは天哉の指導役である為、杳は必然的に彼の同行も見守る事となった。ヒーローはGPSとアクションカメラが搭載されたインカムを頭部に装着しており、ナビゲーターはその視界を通して現状を把握する。トレインマンと天哉は繁華街を巡回中のようだった。

 

 その時、天哉の視点が交通道路の上部に掲げられた案内板を映し、そのまま静止した。青く塗られた金属板には”()()()まであと五百メートル”と記載されている。

 ――言葉はない。けれど今、天哉が何を想っているのか。杳は何となくそれを読み取る事ができた。やがてトレインマンに諭され、天哉は元気を取り戻し、巡回作業に戻る。

 

 異変は()()()()に訪れた。トレインマンの視界に不気味な男が現れたのだ。突如として、キーボードを激しく叩く音が杳の耳に突き刺さる。掛本がH・N(ヒーローネットワーク)に接続し、ヒーロー達の活動申請を行っていた。数秒後、電子端末は明るいチャイム音と共に、申請が無事完了した事を掛本に伝える。彼女は続けて応援要請作業を始めながら、マイク越しに冷静な声を発した。

 

「手続き完了。行動開始。応援到着まであと一分三十秒」

「了解!」

 

 異変を察知してから数秒も経っていない。あまりに素早い対応だと杳は舌を巻いた。固唾を飲んで見守る杳達の前で、男は呂律の回らない声で何かを叫んで、注射器を首筋に撃ち込んだ。男の体がみるみるうちに膨れ上がっていく。周囲にいた市民達は散り散りになって逃げ惑い、悲鳴を上げた。

 

「……ッ!」

 

 カメラの視界いっぱいに男が大写しになった。トレインマンが急接近し、男を受け止めたのだ。

 

 ――()()()()()()。杳は無意識の内に立ち上がっていた。それは、”危機があれば現場に急行する”というヒーローの矜持が骨身に沁みていた為に起きた反射行動だった。個性を失った事も彼女は忘れていた。自分の持ち場を離れようとしたその手を、冷たい手がギュッと掴む。掛本だ。画面を注視したまま、彼女は鋭い声を放った。

 

「あなたの役割は?」

 

 冷たい声がねじ込まれ、興奮して熱された脳が急速に冷えていく。ハッと我に返ると、前方のモニター壁は逃げ惑う人々で満たされ、室内には赤いパトランプが回転し、警告ブザーが鳴り響いていた。――今、トレインマンと戦っている男だけではない。複数の(ヴィラン)が、この街中で暴れているようだった。

 

 皆、それぞれの役割を全うし、崩された平和を修復しようとしている。ヒーローは戦い、後援者は現場に急行し、ピットは支援物資の搬入に追われ、ナビゲーターと事務員は互いに連携し、声を張り上げて作業を行っていた。

 

 皆、自分の役割を果たしている。私の役割は、今、ヒーローじゃない。事務員だ。杳は唇を噛むと、椅子に座った。掛本が手を離すと同時に、ナビゲーション室全体に天晴の声が響き渡った。錯綜する現場の情報をまとめ上げ、彼は現状において最適と思われる指示を飛ばした。

 

『F・M・L地区で(ヴィラン)発生。いずれも交戦中。後援(バックアップ)・ピットチームは指定ポイントへ急行中。救援(レスキュー)チームα(アルファ)は避難経路の確保・誘導を。β(ベータ)は警察・消防局の応援部隊と合流後、αのサポートへ。……冷静に、素早く対応しよう』

「了解」

 

 その瞬間、ナビゲーション室の空気ががらりと変わった。スタッフ達の顔から微かに滲み出ていた恐怖と混乱の感情が消えていく。バラバラになっていた情報が収束し、皆がますます固く手を取り合い、一つの道標に到達するべく突き進んでいく。

 

 まるで大衆映画のワンシーンを見ているようだった。有機ディスプレイの向こうで、ヒーロー達は輝かしい個性を振りまき、敵を倒していく。ほんの少し前まで、自分も()()()()の人間だった。だが、今はもう何もできない。杳は手を伸ばし、ディスプレイに触れた。わずかな熱と共に静電気が指先を伝い、消えていく。

 

 

 

 

 街に突如として出現した敵は皆、程なくして制圧された。チームIDATENの迅速な対応により、この事件における死傷者はなく、物的被害も比較的最小限に留まった。――杳は事務所が作成した報告書、及びそれに対する警察の返書に目を通す機会を与えられ、それらをざっと読み込んだ。

 

 三人の敵には()()()があった。彼らが所持していたのは、注射器型のアンプルに入った違法薬物。街を歩いていると売人に声を掛けられ、買ったのだという。使用者の理性を弱め、個性を一時的に強化させる効能を有しているそうだ。その薬に、杳は覚えがあった。

 

 一つは鳴羽田で爪牙から聴いた話に登場する"個性"因子誘発物質(イディオ・トリガー)、通称トリガーだ。鳴羽田の場合は非常に性質が悪く、薬を摂取して暴れた敵は元・一般人で、トリガーは”知らない人にもらった”と言う。この為、敵との区別が難しく捜査が難航し、プロヒーローの対応が遅れる事も多かったそうだ。爪牙はこの事件の裏に――恐らくナックルダスターの個性を奪ったとされる――オール・フォー・ワンが潜んでいるのではないかと考えていた。今回の事件もそうであるならば、彼の仲間、つまりドクターなる人物が関与している可能性が高い。

 

 だが、トリガーと似た薬は世界中で流通している。抑圧された力を開放したい。皆、考える事は同じなのだろう。もちろん、そういった薬は日本での流通が禁止されている。アジア製は効果が短く、アメリカ製なら効果が1~2時間続くらしい。売人がたまたま街に紛れ込み、粗悪品を売りつけたという線も考えられなくはなかった。しかし本当にそうであるならば、ほぼ同時刻に敵が暴れ出したという事実が気にかかる。マウスを動かす杳の手が、不意に止まった。

 

 ――治崎が壊理の体を分解して作った違法薬品も、()()()()を持っていた。

 

 治崎が創っていたのは個性因子そのものを破壊する無個性弾だったが、その抗体と共に、個性因子の働きを一時的に強化する薬も生成していた。だが、彼は無実だと杳は断言できる。治崎の行動原理は佐伯を守る事だ。だからこそ、彼は恥もプライドも全てをかなぐり捨てて、自分の手を取ったのだ。命を賭して、計画の(かなめ)である自分を守り続けてくれた。酸の海に触れぬよう押し上げてくれたあの異形の手の感触を、杳はいまだに克明に覚えている。

 

 だが、自分はそう思っているが、他の人間はどうだろうか。

 

(シャバには出れやしたが。……みじめなもんですよ)

 

 玄野の声が鼓膜に蘇る。心臓が嫌な音を立てて軋んだ。確かに彼らは自由の身にはなったが、それはあくまで仮初めのものだ。更生敵は少しでも疑わしい行動を取れば、極刑を科される。思わず閉じた瞼の裏に、セピア色に色付いた青年の姿が映り込む。長く伸ばした黒髪の隙間から、金色の双眸がこちらを睨んだ。

 

(お前を殺すのは黒霧でもオール・フォー・ワンでもない。俺だ)

 

 ――私が彼を焚き付けた。そう思った瞬間、昼休憩を知らせるチャイムが鳴り響く。杳はトイレに行くと偽って、廊下へ跳び出した。居ても経っても居られない。治崎達があらぬ疑いを掛けられ、絞首台に昇っていく嫌なイメージが頭の中で明滅し、他の事が何も考えられない。震える手でスマートフォンを操作し、玄野の連絡先をタップした。無機質なコール音は数回鳴った後、やがてふつりと途切れる。ぶっきらぼうで冷たい声がスピーカー越しに飛んできた。

 

『……はい』

 

 スピーカーの奥は()()だった。どこにいるんだろう。彼らの棲家は街中にあり、車の音や雑踏などの生活音に溢れていたはず。警察署内の静かな廊下を思い出して、杳はますます嫌な予感がした。

 

「あ、あのっ、今どこにいますか?」

『……警察本庁の鑑識室、の前です』

 

 杳は目の前が真っ暗になった。ふらりと眩暈がして、思わず壁に背中を預ける。

 

「なんで、警察に……」

『協力要請を受けたからです』

 

 玄野は先の事件で起きた薬を調べるに当たり、かつて似た効能の薬を作成していた治崎に白羽の矢が立ったのだと説明した。この事件の解決に尽力すれば、刑期が数年繰り上がるのだという。

 

 ――逮捕されたんじゃなかった。杳は全身の力が抜け、壁を背にしてズルズルと床に座り込んだ。かつては敵同士だったし、壊理や被害者達にした所業が許されるわけでもない。だが、今の杳にとって彼らは仲間であり、大切な人達だった。暖かい陽だまりの匂いのする安心感に包まれて、杳は素直に言葉を口にした。

 

「心配してたんです。よ、良かった……」

 

 

 

 

 同時刻、警察本庁・鑑識室前にて。玄野は返事を返す事なく、通話終了ボタンを押した。そしてくるりと振り返る。壁に嵌め込まれた自動ドアは傷や汚れ一つなく、まるで正義そのものを体現しているかのように清廉だった。ドアだけではない。警察組織全てを取りまとめる、警視庁全体の雰囲気がそうだ。

 

 どこにいても、警察官特有の鋭い眼差しに晒されているようで息が詰まるし、真っ白な壁が目に痛い。消毒液の中に放り込まれたばい菌にでもなったような心地だった。ここに足を踏み入れたのは、更生敵の手続きで訪れた日以来だ。できれば二度と来たくないと願った警視庁に、玄野は再び来てしまった。だが、彼一人ではない。治崎もいる。

 

 ――事の始まりは、今から数時間前の事だった。多戸院(たといん)市で、違法薬物を摂取した敵が多数発生した為、その鑑識をするようにと緊急要請が来たのだ。どんな用事であれ、更生敵にとって警察の命令は絶対だ。違法薬物、実に耳に痛い話だった。元・敵の手を借りねばならぬ程、警察本庁の鑑識課が頼りないという線は限りなく薄い。協力要請という名の事情聴取だろう、というのが二人の下した結論だった。

 

 ”鑑識”とは現場に残された痕跡、又は遺品などの証拠資料を調べ、事件の中に潜む真実を見つけ出す作業の事だ。鑑識室のドアは二重仕掛けになっていて、一つ目のドアをくぐると小さな空間がある。鑑識室に私物の持ち込みは禁じられている為、玄野は預かり棚にスマートフォンを置いた。消毒液の含まれたミストシャワーが天井から降り注ぎ、それが止んだ後、二番目のドアが開いた。

 

 中は見渡す限り広大なスペースが広がっており、非破壊・赤外線分光・光学拡大などの精密な機械がずらりと並んでいる。科学の粋が一所(ひとところ)に集められていると言っても過言ではないだろう。かつて自分達が細々と作業をしていた研究所とは雲泥の差だった。糊の効いた白衣に身を包んだ職員達に紛れて、治崎の姿がある。玄野は彼の下へ行き、口を開いた。

 

「予想通りの反応でした」

「……いちいち癇に障る餓鬼だ」

 

 治崎の形の良い眉が、ぴくりと神経質に引き攣った。杳の大まかな現状は、彼女といまだに文を交わし合っている――今度は植物入りではない――嘘田を通して知っている。多戸院市は、杳がアルバイトを始めたヒーロー事務所の拠点地区(ホーム)だ。あのお節介な子供の事だ、違法薬物とかつて似たような手口を使っていた自分達とを結びつけ、大騒ぎするに違いない――と思っていた矢先、狙いすましたかのように連絡が来たのだった。

 

 玄野は白衣に覆われた治崎の背中を見て、考えを巡らせた。”白雲杳という人物から電話が掛かってきた”と職員から通達があった時、作業を中断してまで、治崎は電話に出るようにと指示した。それが心配によるものなのか、何か別の思惑があるのか。付き合いの長い玄野にも、時折彼の感情が分からない事がある。いや、分からない方がいいと玄野は思った。

 

「続けるぞ」

 

 治崎の声で、玄野は我に返った。二人の眼前には直径1.5メートル、高さ3メートルほどはある、大きな金属柱がそびえ立っている。柱の周囲には金属のバルブや計測器が無数に散りばめられていた。

 

 ――それは最新式の走査型透過電子顕微鏡(STEM)だった。観察対象に電子線を当て、それを透過してきた電子を観測する事ができる。高分解能の電子顕微鏡を用いれば、原子レベルの大きさのものも観察可能だ。数億円は下らない超精密機械で、扱うには特殊医療カプセル”PMO(ピュグマイオイ)”同等の知識、繊細な技術、そして専用資格を必要とした。警察本庁内においても使用者は、二人の隣にいる所長一人だけだ。

 

(君は薬の構造を熟知している。適した場所を見る事ができるから、比較的短時間で精査が終わるはずだ)

 

 その所長にレクチャーを受け、治崎は今、敵から押収したアンプルの観察を行っていた。――敵の理屈は敵が一番良く知っているという理屈は分かる。だが、頭の固い警察がこうも容易く更生敵の手を取ろうとするものだろうか。治崎は訝しく思ったが、その感情を表に出す事はしなかった。

 

 手際良くフィルムに原子を塗り、現像していく様子を見て、所長は低く唸った。彼はいかにも研究者然とした人物で、常識よりも好奇心に重きを置くような性格をしていた。その年齢の割にあどけない雰囲気がどことなくあの子供に似ていて、治崎はますます苛々した。

 

「素晴らしいなー。敵になってしまった事が惜しまれるよぉ」

 

 その減らず口を分解してやりたい衝動に駆られたが、治崎の自制心は確かだった。作業は一時間足らずで終わった。撮影した写真を並べ、玄野と意見のすり合わせをした後、治崎は担当警部と所長に向き直る。

 

「これは輸入品じゃない。国産の粗悪品だ」

 

 そう治崎が断定したのには理由がある。一般的には生産ラベルを見ない限り、肉眼で国産か外国産かを見分ける事は難しい。だが、原子レベルまで解析度を上げれば、話は別だ。その国特有の物質――火山灰や工業ガス、花粉といった微細なもの――が、物質の表面に付着していたり、内部に含まれているからだ。

 

 精査したアンプルに含まれていたのは、この国特有の物質だった。このご時世で恐れ多くも()()()()をやってのける悪党が自分の他にもいたとは。治崎は心の内で皮肉げに笑った。

 

 さらに粗悪品と言い切ったのも理由がある。薬の構造が、かつて自分が創っていたものと()()しているのだ。だが、似ていると言っても、その程度は腹立たしくなる程にレベルの低いものだった。核となる体組織を人工物質で真似ているのだから当然の事だろう。効能は非常に不安定で、効果時間も比較的短時間で終わっていた。だからこそ、間を置かずして敵が複数出現しても、大した被害もなく制圧できたのだろう。

 

 誰かが流通していた薬を悪用し、量産している。その犯人に、治崎は心当たりがあった。

 

 ――()()()

 

 屋敷は灰燼に帰したが、どさくさに紛れて奴らが持ち帰った可能性も十二分にあり得る。あの傍若無人が服を着て歩いているような連中を思い出すだけで反吐が出るが、治崎ははたと思い直す。粗悪品とは言えども、アンプル一つ分の薬を創るにも結構な機材と原材料、有識者がいる。型破りで破天荒な犯罪を繰り返す彼らが、こんな回りくどい方法で小銭稼ぎをするとは思えなかった。

 

 どちらにせよ、ここから先は自分達の領分ではない。治崎は白衣を脱ごうとボタンに指を掛けた。状態が悪いのは薬だけでなくアンプルも同じで、接合部分の裏に指紋が付いているくらい杜撰(ずさん)な作りだった。捕まるのも時間の問題だろう。一通りの見解を聴いた警部は、腕を組んで静かに頷く。研ぎ澄まされた刃のように鋭い眼光が、治崎の前で少しだけ和らいだ。一定の信を置き、疑いも解いたというメッセージだ。

 

「ご苦労だった。接合部分の隙間に隠された指紋を見つけ出すとは、想定以上だ。協力感謝する」

 

 警部はそう言って所長を一睨みした。所長はおどけて肩を竦めた後、上には上がいるもんだと言ってからからと笑う。そして、彼は警部に見えないようこちらに向かって器用にウインクしてみせた。――恐らく治崎が見つける事を予想して、敢えて見逃したのだろう。こちらの実力を試していた。鑑識課の人事を考え直せと嫌味の一つでも言いたくなったが、佐伯の顔を思い出し、踏み止まる。

 

 しかし、白衣を丁寧に畳み、玄野を促して部屋を出ようとした時、その前を警部が立ち塞がった。もう自分の任務は終わったはずだ。まさかまだ疑っているわけじゃないだろう。治崎が胡乱げに見上げると、警部は深刻な表情で言葉を放った。

 

「もう一つ、頼みたい事がある。白雲杳の個性因子を調べてほしい」

 

 その表情と声色を認識した瞬間、治崎は()()()()()()だという事を悟った。所長は好き勝手に跳ねた髪を無造作にかき、にっこりと笑ってみせる。

 

「残念だけど、この国で僕以外にPMO(ピュグマイオイ)を扱える人がいないんだ。もう一人いるにはいるんだけど、ちょっと諸事情で頼れなくてね。……医療の基本はWチェック!君と僕とでできるでしょ?」

「待て。まず事情を説明しろ」

 

 何故、警察本庁の警部の口から白雲杳の名前が飛び出してくるのか。そして、その因子を世界有数の超精密機械で調べる必要があるのか。治崎は理解する事ができなかった。そもそもあの子供の個性因子は再起不能になったと、PMO資格者にして最高技術者である医師から診断書が出ていたはずだ。

 

 その時、前方で自動ドアの開く音がして、玄野は小さく息を飲んだ。治崎も同じ方向を見て、金色の双眸を忌々しげに細める。

 

 ――かつての宿敵、サー・ナイトアイが立っていた。皺一つ、綻び一つない純白のスーツを着こなして、彼は眼鏡を押し上げる。

 

「確証を得たいだけだ。……事情は私の口から説明しよう」

 

 

 

 

 舞台は再び、チームIDATEN事務所へ戻る。電話を切った直後、杳は誰かに肩を叩かれた。掛本だ。ここまで走ってきたのか息を切らし、薄手のニットに覆われた胸が激しく上下していた。

 

「ごめんね。さっきはきつい言い方しちゃって」

「い、いいえっ。こちらこそ、迷惑をお掛けしてしまって……」

 

 杳は慌てて首を横に振る。自分の仕事を無視して飛び出そうとしたのだ。謝るのはこちらの方だった。萎縮して縮こまっている杳は、彼女が傷ついた患部を看るような眼差しを自身に向けている事に気付かなかった。やがて掛本は腕時計をちらっと見て、穏やかに笑う。

 

「そうだ。一緒にランチしよっか。非常事態だからゆっくりできないけど」

 

 二人は事務所内の食堂に足を向けた。組織化する事により、チームIDATENはまさしく年中無休の活動を可能としていた。本拠地となるこの事務所はヒーローやスタッフ達が生活できる施設が最低限備わっている。食堂は四人がけの丸テーブルが数脚あるだけの、こじんまりとした作りだった。メニューは日替わり定食のみ。窓際に置かれたテーブルに腰を落ち着け、二人は手を合わせた。

 

 本日の献立はきんぴらごぼうにだし巻き、チキンカツ、ご飯と味噌汁だった。温かくて素朴な味が、疲れ切った五臓六腑に染み渡る。掛本はのんびりとした動作でスマートフォンを弄り、眉根を下げた。

 

「ごめんねー。ホントは今日歓迎会するつもりだったんだけど、延期になったみたい」

「いえ、そんな」

 

 杳は首を振ると、チキンカツをろくに噛まずに飲み込んだ。のんびり食事を摂っているのは自分達だけだ。他の人々は慌ただしく食堂に駆け込み、数分足らずでお皿を空にして、来た時と同じ速さでどこかへ立ち去ってゆく。――掛本さんは気を遣ってくれているけど、それに甘えてはダメだ。早く食べて、仕事の続きをしなければ。杳は完全にその場の雰囲気に呑まれていた。掛本はテーブル中央に置いてあるやかんから、二つのグラスに麦茶を注ぎ入れる。

 

「ゆっくり食べていいんだよ」

「はいっ」

 

 杳はその言葉を社交辞令だと思い込み、だし巻きを二つまとめて口に入れた。お茶で流し込もうとコップに手を伸ばしたその時、掛本は静かに口を開いた。

 

「杳ちゃん。目を瞑ってみて」

「え?」

「目を瞑ってみて」

 

 掛本は両眼を手で隠し、口元だけで優しく笑って見せた。何が何だか分からず、杳は口をもごもごと動かしたまま、素直に目を閉じる。

 

「今、あなたは車に乗ってます。あ、高校生でも運転できるゴーカートね。……どれくらいのスピードで走ってる?」

 

 杳は想像する事が得意だ。目を閉じて集中するだけで周囲の喧騒が遠のき、彼女はあっという間にイマジネーションの世界に入り込んだ。

 

 ――気が付くと、杳は黄色く塗られたゴーカートに乗っていた。ハンドルを固く握り、アクセルを限界まで踏み込んでいる。突っ張った右足がぎしぎしと軋んだ。前のめりになった視界を、歪んだ景色が高速で流れ去っていく。

 

 凄まじいスピードで、杳は車を走らせていた。風圧とGが小さな体をシートに縫い付け、ろくに呼吸もできない。速度は光を超えると、やがて暗闇へ変わっていく。もう前を走っているのかどうかすら分からない。だが、杳は歯を食い縛り、ますますアクセルを強く踏み込んだ。エンジンが唸る轟音が、真っ暗な世界に虚しく響き渡る。

 

「もういいよ。目を開けて」

 

 優しい声に背中を叩かれたと思った途端、杳は現実世界に戻っていた。いつの間にか、頬に涙が伝っている。狂ったようなエンジン音が、まるでチューインガムみたいに耳にこびり付いて離れなかった。掛本はポケットからタオルハンカチを取り出して、杳の涙をそっと拭う。

 

「これ、心の速さを知るセルフコントロールなの。天晴さんに教えてもらったんだ」

 

 掛本は少し照れ臭そうに笑うと、杳の小さな手を両手で包み込んだ。近くでよく見ると、彼女の手はいくつものペンだこや切り傷ができていて、指には絆創膏が巻かれている。

 

「恐怖や怒り、焦り……そういうマイナスな感情は、人の心を加速させるの。それに呑まれると、段々スピードが上がっていく。何も見えなくなって、レーンを外れて、崖から転げ落ちちゃう」

 

 ――ヒーロー科は厳しい世界だ。全力で走り続け、他者と競合し、自己を犠牲にして誰かを救い敵を倒して、当たり前の世界。クラスメイト達の跡を追いかけている内に、いつしか杳は立ち止まる事を忘れてしまった。多くの陰惨な出来事が、それに伴うマイナスな感情が、さらに速く駆けろと彼女の背中を蹴り上げる。もうどこを走っているかも分からない。だけど、止まる事が怖かった。途方に暮れた杳の瞳から、また熱い涙が零れていく。掛本は元気づけるように、小さな手を強く握った。

 

「ここにいる間にブレーキの掛け方を思い出そう。……大丈夫。杳ちゃんは一人じゃない。皆ついてるよ」

 

 

 

 

 その日の夜十時。掛本と共に全体ミーティング、夜勤者への引継ぎをして、杳の仕事は終わった。天哉の終業時間は杳より遅く、夜十二時だ。自宅へ帰るという掛本を、杳は玄関口まで見送った。華奢な造りのミュールを履き終えると、掛本は柔らかく微笑んだ。

 

「じゃあね。杳ちゃん。また明日」

「はい。ありがとうございました」

 

 杳ははにかむように笑って、頭を下げた。そしてくるりと踵を返し、客間かわりに与えられた宿直室へ戻る。夜十時までまだ少し時間はある。杳は机の上にスマートフォンを置いて、今日学んだ事の内容をノートにまとめ直した。今日は土曜日だ。杳は人使の他に、待っているものが()()()()あった。

 

 ――黒霧との面会許可だ。あの時、警視総監は一週間に一度の面会を許可してくれたが、原則タルタロスは面会を禁じている。不可能を可能にするには、かなりの手間と時間を要するようで、杳はいまだに兄に会えていなかった。早く会いたい。一度(ひとたび)そう思うと、栓の壊れた蛇口みたいに想いが止めどなく噴き出していく。

 

 でも、今の自分を想うと。杳は眉尻を下げ、俯いた。その時、スマートフォンがシンプルな電子音を奏でた。人使からだ。ワンコールが鳴り切る前に、杳は震える手で機体を取り上げ、耳に押し当てる。

 

「も、もしもし」

「取るの早。……スマホ離せ。なんも見えない」

 

 ――何も見えない?杳は不思議そうに首を傾げ、スマートフォンを離した。画面には人使が映っている。Live電話だ。どうやら自室にいるらしい。きっと直接顔を見ながら、話を聞いてくれるつもりなんだろう。杳は嬉しくて、その場を跳ね回りたい衝動に駆られたが、なんとか堪える事に成功した。今日は彼に話したい事が沢山あるのだ。一方、人使は周囲を見回し、杳にこんな事を言った。

 

「今、自分の部屋?」

「うん」

「よし。スマホ、机に置け」

「……?」

「床に仰向けになって、膝立てろ」

「……?」

 

 首を傾げながらも指示に従い、杳は床に仰向けになって膝を立てた。四角い画面越しにその様子をじっと見下ろして、人使は冷静な声で次の指示を飛ばした。

 

「ハイ腹筋開始。30回5セット。筋トレ終わったら捕縛布な」

「ええええっ?!」

 

 あんまりな結末に杳は思わず飛び起き、人使を睨みつけた。――この時間は蜜月ではなく、筋トレをする為に取られたものだったのだ。トレーニングなんて何時でもできる。せっかく人使と会える希少な時間なのだ。少しだけでも世間話をしたかった。杳は恨みがましい目で人使を見て、頬を膨らませる。

 

「お話しできると思ったのに」

「そんなのいつでもできるだろ」

「できないよ」

 

 杳が個性を失ってから、二人の距離はますます遠ざかった。ただでさえ半人前な杳に人使とのんびり話をする時間を作る余裕はなく、人使も自ら距離を縮めようとするタイプではなかったからだ。仕方のない事ではあるが、杳は寂しそうな顔をして溜息を吐いた。人使は首に手をやり、少しだけ目線を逸らす。言いにくい事を口に出す時にする、彼の癖だ。

 

「杳。俺達はヒーローの卵だ。やるべきことは山ほどある」

「……」

「捕縛布の訓練は一日でも欠かしちゃダメだ。おまえはまだ自分一人じゃできない。指導者がいる」

 

 杳は黙りこくったまま、そっぽを向いた。――人使の言葉はいつも理路整然としている。その正しさが、今の杳にとっては辛かった。

 

 杳が知る由もない事だが、人使にとってこの時間は最大限の愛情表現だった。通常であれば、今、杳の目の前にいるのは人使ではなく相澤のはずだった。その事を知った人使は相澤に頼み込み、彼女の指導役を交代してもらったのだ。しかし、人使の中にあるプライドが、その事実を杳に告げる事を許さない。

 

 ――人は皆、テレパスの個性を持っていない。言葉に出さなければ、伝わらないものもある。二人はまだそれが分かっていなかった。杳は泣きそうな顔で体勢を整え、腹筋をスタートさせた。

 

 

 

 

 同時刻。峰田は今を時めく新人ヒーロー”Mt.(マウント)レディ”の下で、インターンに励んでいた。

 

 ――非常に愛らしい外見とは裏腹にレディは厳しく辛辣だ。まだ何も知らなかった職場体験時、下心満載で近づいた峰田にレディがした仕打ちを、彼は今でも克明に思い出せる。女性は悪魔のような本性を隠し持って生きているのだという事を、峰田は地獄のような一週間を経て痛感したのだった。

 

 もう二度とレディの事務所へは行かない、彼は固く神に誓おうとして、()()()()()()。――レディがあまりに美し過ぎたからだ。どんなに精緻な作り物でも、拡大すれば必ず粗が出る。それが人なら尚の事だ。だが、レディはいくら巨大化しても、美しいままだった。見上げるほどに壮大なその体躯、薄衣越しに垣間見えるボディラインには、少しの揺らぎもない。神話に登場する女神が顕現したら、きっとこんな姿なのに違いない。峰田は深く魅了され、気がつくとインターン先をここに決めていた。

 

 そして大いにこき使われ、今に至る。レディの事務所は巨大化する度に、街の修繕費がテトリスのように積み上がっていく為、客間などを作る余裕はない。上階にあるレディとサイドキックの自室を除けば、事務室の他にトイレと物置代わりの小部屋が一つあるきりだ。峰田はそこに布団を敷き、寝ていた。

 

 だが、一人ではない。瀬呂もいる。先程から彼は壁に背を向け、スマートフォンを弄っていた。青白い光がぼんやりと部屋の隅を照らしている。いくら仲の良い友人であるとは言え、思春期真っ盛りの男子高校生が同じ部屋で寝るのは辛いものがあった。やがて、スマートフォンから顔を上げ、瀬呂がちらっと峰田を見た。

 

「なぁ。ちょっと話あんだけど」

「Rは?」

「18」

「聞こう」

 

 すぐさま布団から身を乗り出して正座した峰田の前に、瀬呂はスマートフォンを突き出した。――そこには、若者の間で流行っている、短い文章を投稿するネットサービス”Poster(ポスター)"のホーム画面が映っていた。

 

 Posterは、一般的には身の回りに起こった事を投稿(ポスト)したり、趣味の情報を収集したりするために使用される。

 ヒーローは芸能人と同じく人気商売だ。世間の評価がそのまま自分の将来に直結する。瀬呂は眠りに就く前の習慣として、Posterを使い自分や雄英に関する情報を集めていた。()()()()を掴んだのは偶然であり、必然とも言えるかもしれなかった。

 

 R18というからには、さぞかし官能的な文章がしたためられているに違いない。一方の峰田は目を皿のようにして表示された文章の群れを眺め回し、それらの中にエロス成分が一ミリも含まれていない事に心の底から失望した。すぐさま興味を失い、画面から目を離そうとしたところで――

 

”雄英に()()()がいるらしい”

”何年?何科?”

”一年生。ヒーロー科”

 

 ――やっと文章の意味が頭に入って来た。聡明な峰田はすぐさまその投稿者の仄めかす人物を把握し、布団の上に座り直す。Posterは皆、匿名性だ。文章だけで投稿者を特定する事はできないが、その人数は一人ではない事が分かった。

 峰田の前で、各メッセージの評価数がじわじわと伸びていく。この投稿が人々の関心を得ている証拠だ。数秒後、スポッとポストに手紙が放り込まれるような電子音がした。新たなメッセージが投稿されたのだ。

 

”休学してたんだって”

”誰?”

”無個性はヒーロー無理だろ”

”退学一択”

”なんで退学させねーんだ”

”普通科の人ら可哀想。そいつのせいで席空かないじゃん”

 

「オイラ言ってねーかんな」

「俺も言ってねーし」

 

 無数に増え続けるメッセージを前に、二人は憮然とした表情で睨み合った。二人を含め、1-Aのクラスメイト達は誰一人として、杳が個性を失った事を口外していない。だが、いくら彼らが口を噤んでいても、秘密は必ずどこからか漏れ出すものなのだ。峰田達は性格こそ個性的だが、皆人格者であり、問題児である杳を案ずる事はあれど、疎ましく思う事は決してなかった。

 

 だが、ヒーロー科以外についてはその限りではない。杳はヒーローとしてあまりに未熟で、人々に守られ過ぎていた。徐々に過激さを増していく文章達は、学校関係者でなければ知り得ないような情報を多分に含んでいた。恐らく一部の学生達が画策し、炎上させようとしているのだろう。

 

「通報するわ」

 

 瀬呂がそう吐き捨てて通報ボタンを押そうとすると、新しいメッセージが表示された。何気なくそれを見た瞬間、彼の全身が総毛立つ。

 

 ”そいつ今、多戸院市にいるらしいよ”

「オイ飯田あああああっ!」

 

 峰田はレディの安眠を妨げる危険性を度外視して、飯田の連絡先をタップし、掠れた声で絶叫した。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 ”シャーデンフロイデ”という心理用語がある。ドイツ語で”加害の喜び”、”他人の不幸は蜜の味”という意味を示す。誰もが持っている感情の一つだ。

 

 ――個性社会とも呼ばれているにも関わらず、個性を扱えるのは()()()()()のみ。大多数の人々は、個性を抑圧して生きている。上を見上げれば華々しく活躍するヒーロー、下を見れば好き勝手に暴れる(ヴィラン)。その中間地点は最も自由でなく、凡庸である事を強いられ、窮屈だった。

 

 抑圧された心は、蓄積されたストレスを発散できる場所を探す。ほとんどの者は下を見ず、上を見上げて考える。ヒーローのように夢と希望を引き連れて、輝かしく活躍する事を夢見るのだ。

 

 秩序だった世界でヒーローの真似事ができる場所は限られている。――その一つが、SNSだ。個性を使わずとも自分を自由に表現でき、思うままに力を振るえる。間違いや罪を犯した人々を叩き潰す事で、ヒーローと同じように正義の鉄鎚が下せる。自分達が相手にしているのは悪人だ。皆の為、社会の為に正しい行いをしているから、どんな暴言を吐いても構わない。ヒーローが普段している事と同じじゃないかと。

 

 客観的に見れば、それは正義でもなんでもない。しかし、彼らがその事実に気付く事はない。今日もまた、彼らは()()()()()に狙いを定めていく。

 

 

 

 

 翌朝。杳は天哉に叩き起こされて天晴の下へ行き、事の次第を説明された。幸いな事に、杳は最近Posterを見る暇もなかった為、心無いメッセージの嵐に気付かないままでいられた。

 

 天哉は杳と目が合うと、優しくて、それでいて力強い笑みを浮かべてみせる。だが、眼鏡の奥にある瞳は義憤に駆られ、燃えている。掛本が心配そうに眉をひそめ、杳の肩にそっと手を置く。Posterと警察、そして雄英と連携して然るべき処置を取ると説明した後、天晴は真剣な表情で言葉を紡いだ。

 

「落ち着くまでアプリは消しなさい」

 

 ――それは杳を想うが故の忠告であったが、そう言われると見たくなるのが人間というものである。果てに破滅しかないと分かっていても、追い求めずにはいられない。人の好奇心というものは、かくも理不尽なものなのだ。

 

 杳はトイレに籠もり、Posterのアプリをタップした。検索画面で”雄英、無個性”と検索すると、メッセージが大量に表示されていく。一番評価が多いメッセージを、杳は画面越しにそっとなぞった。

 

”ヒーロー科なのに守られてばっかておかしくない?”

 

 彼らの言う事は最もだ、と杳は思った。これはただの誹謗中傷ではない。――ヒーローは人を救う存在だ。なのに自分は救われてばかり。強く優しい人々に守られて安心し、伸ばされる手に依存していた。だけど、それではダメだ。杳は首を横に振った。これからもっと頑張って、個性がなくとも皆に並べるよう、強くならなければ。トイレのタイル壁を睨み、杳は膝の上で両手を強く握った。肩に力を入れ、ハンドルをギチギチと握り締める初心者ドライバーのように。

 

 

 

 

 先日に引き続き、多戸院市はチームIDATENの指示の下、厳戒態勢を敷いていた。杳は事務職だけでなく、外回りの手伝いもする事となった。主な内容は補給物資の運搬や避難経路の整備などだ。商店街付近の避難経路をライン引きで引き直していると、杳は誰かに肩を叩かれた。

 

「白雲さんだよね?」

 

 冷たく棘のある声だった。振り返ると、同じ年頃の少女が二人、こちらをじっと睨んでいる。恐らく彼女が肩を叩いたのだろう――中空に彷徨わせた手を引き上げつつ、背の高い少女は傍に立つ友人に合図をした。彼女はスマートフォンを操作して、杳の前に突き出す。杳は目を凝らし、息を詰めた。Posterのホーム画面だ。今朝、見たばかりの自分に関する心ない投稿がずらりと並んでいる。

 

「これってあなたのことでしょ?」

 

 杳は思わず後退(あとじさ)った。だが、二人はそれを許さない。

 

「個性使って戦うのがヒーロー、だよね。なんでまだヒーロー科にいるの?」

 

 電子画面で見るのと、面と向かって罵倒されるのとでは()()()()()。だが、逃げる事は許されない。杳は覚悟を持って二人の顔を真摯に見上げ、絶句した。背の高い少女は悔しそうに唇を噛んで、大きな瞳を潤ませていた。彼女の体は杳よりもずっと引き締まっていて、Tシャツから見える両腕にはいくつもの傷が走り、痣が浮かんでいる。常日頃から厳しい鍛錬をしている証だ。

 

 ――杳が知る由もない事だが、少女達は()()()の同級生だった。普通科は大学進学就職を第一目標とする一方で、一度は入試で夢破れたものの、”成績優秀者はヒーロー科への編入を検討する”という千載一遇のチャンスを虎視眈々と狙う者が大多数を占める、事実上の復活枠でもある。

 

 自分達がどれほど努力しても、(こいねが)っても座る事のできない席に、杳は腰を下ろしている。個性というアドバンテージを失ったという事は、ヒーロー科でいられなくなるのと同義だ。なのにまだ、彼女は除籍される事なくその席にしがみついている。地面に伏して泣きじゃくるフリをして、クラスメイト達や先輩方が救けてくれるのを待っている。――マイナスな感情は人の目に歪んだサングラスを掛ける。杳の拙い訓練風景は、彼女らにとってそんな風にしか見えなかった。

 

「私だって、ヒーローになりたかった……ッ!」

 

 絞り出すような苦しい声が、少女の震える唇から放たれた。それはどんな罵倒よりも強く、杳の心を打った。鈍器で殴られたような衝撃が脳に走り、杳は思わずよろめいた。熱い感情と一緒に涙が込み上げる。それが少女に同調してのものなのか、自分の境遇を知らずに放たれた言葉に対し、反発したものなのか。杳には分からなかった。杳が泣いたのを見るや否や、傍らに立つ友人が顔を怒りに歪ませ、手を振り上げる。

 

「あんたに泣く資格なんか――」

 

 刹那、杳と友人の間に()()()()()が滑り込んだ。金属板を叩くぺちんという気の抜けた音が、周囲の雑踏に溶けていく。聞き慣れたエンジン音が、杳の耳に染み込んだ。――天哉だ。マスクを取ると、彼は真っ直ぐな瞳で二人の少女を見下ろした。その威圧感に押され、二人はたまらず数歩、後退する。

 

「な、によ。かわいそうな女の子を救けるヒーローってわけ?」

「彼女は”かわいそう”じゃない」

 

 天哉は静かにそう応えると、こちらを振り向いた。知性を漲らせた黒曜の瞳と、涙に濡れた灰色の瞳が、交錯する。彼は怒りとも悲しみとも言い難い、不思議な表情をしていた。

 

「失っても前に進もうと足掻き、努力し続ける人だ。尊敬に値する」

「そんなの誰だってしてる!私も、この子も、皆!」

「君達の言う通りだ。だが、彼女を評価するのは()()だ。僕等じゃない。それを知って尚、許せないというのなら」

 

 言葉を途切らせ、天哉は二人の前でゆっくりと頭を下げた。

 

「その矛先は()に向けてほしい」

 

 天哉の真摯な対応と言葉で完全に毒気を抜かれたのか、少女達は杳を一睨みした後、その場を去って行った。所在なげに立ち竦む杳の前にしゃがみ込み、天哉は優しい笑顔を浮かべ、ハンカチを差し出した。

 

「大丈夫かい?」

 

 

 

 

 天哉と別れた後、杳は市内公園付近の清掃、そして避難経路の整備を行っていた。ふと良い匂いが鼻腔を掠め、彼女は周囲を見回す。――公園の側に小さな屋台が出ている。味噌煮込みうどんだ。屋台の前には客がちらほらと並んでいた。

 

 杳は公園内にある時計台を見上げた。12時、昼休憩の時間だ。ぼんやりとした足取りで、列の後ろに並ぶ。しわくちゃの人の良さそうな店主が、一人で切り盛りしているようだった。杳がまごつきながら人差し指を立てると、店主はますます顔をくしゃくしゃにして笑い、発泡スチロールの丼に味噌煮込みうどんを注ぎ入れた。美味しそうな湯気と共に、くたくたに煮込まれた具材が杳を出迎える。

 

「あいよ。五百円ね」

 

 杳は小さく礼を言ってカバンを探り、愕然とした。――財布を入れ忘れた。スマートフォンは何となく見る気になれなくて、事務所に置いてきてしまっているので、電子マネーも使えない。どうしよう。その時、苦し紛れに鞄の中を探っていた手が、小さなものを掴んだ。猫型ポーチだ。チャックを開くと、中には最新式の応急処置セットと、各紙幣と硬貨が一枚ずつ入っていた。

 

(大丈夫。杳ちゃんは一人じゃない。皆ついてるよ)

 

 瞳を閉じると、瞼の裏に暗闇が映った。凄まじい轟音と豪風に蹂躙される中、杳は歯を食いしばってハンドルを握っている。

 

 ――その手を、血豆だらけの手がそっと掴んだ。

 

 杳は黙って五百円玉を出すと、店主に手渡した。週末の昼時という事もあり、人気は多かった。なんとか空いているベンチを探し出し、端っこに座る。杳は猫舌で、熱いものが得意ではない。うどんを箸ですくい、ふーふーと冷ましていると、誰ががその隣にどさっと座った。

 

 年季の入ったベンチが軋む。うどんの表面もちゃぷりと揺れた。そんなに乱暴に座らなくてもいいのに。杳は気遣ってさらに端っこへ寄りながら、横目で相手の様子を確認するなり、丼を落としそうになった。

 

「よぉ。平和の象徴」

 

 荒れ果てた声が、杳の耳朶を打つ。ベンチのすぐ傍を、ボールを持った子供達の群れがはしゃぎながら駆け去っていく。――くすんだ色のパーカーを纏った()()()()が、隣に座っていた。




ネットが使えんくなってスマホで書いた…書きやすいような書きにくいような、不思議な感じだ。


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No.76 胎動

※追記①:前話(No.75)のシーンを少し書き足しました。お手隙な時に読んでいただけましたら幸いです。
※追記②:全体的に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 黒霧が捕まった事で、敵連合の生活は()()()()。影の功労者を失ったのだから当然の事だろう。黒霧伝手に資金を送っていたドクター以外に、彼らを支える後援者(パトロン)はいない。弔達は歯向かう敵組織を叩き潰し、資源を略奪する事で、何とか日々の生活を送っていた。

 

 しかし、そんな生活をしていると、警察やヒーローだけではなく、(ヴィラン)の恨みもたっぷりと買う事になる。元々自由奔放な気質である彼らは、組織同士の繋がりや縄張りが重要視される裏社会において他に仲間を創らず、どんなバックが付いていようが、邪魔者は平等に蹴散らしていた。

 黒霧は常日頃から厳重な警戒網を張り巡らし、そんな有象無象の敵達からも一味を守っていた。だが、黒い靄のバリケードはもうない。袋小路に追い詰められるネズミのように、彼らは徐々に苦境に立たされようとしていた。

 

 警察と敵、双方に拠点(アジト)を暴かれる度、弔は唯一残された繋がりと言える義爛と交渉し、新たな拠点を手に入れていた。義爛は最早何の後ろ盾もなくなった敵連合を見捨てず、可能な限り援助をしてくれていた。だが、新たな拠点に着いても、荷解きをする間もなく敵が現れる。

 

 目下、弔達の頭を悩ませているのは、()()()()()()だった。人数こそ少ないものの、異様に統制された動きでこちらを奇襲し、生け捕りにして拷問しようとしても、寸前に自爆する。今まで屠って来たチンピラ風情とは一線を画していた。弔達もたかが数人の敵に引けを取るほど、弱くはない。だが、こうも連日来られるとさすがに疲弊が募ってくる。

 

(こっちもボランティアでしてるわけじゃねえんだ)

 

 紫煙混じりの嫌味を添えて義爛に紹介された五件目の拠点は、最初にいた神野の地下施設(UGF)と比べ物にならない程、規模が小さかった。埃っぽい室内に咳き込みながら、トガはスマートフォンを弄る。ネットは繋げず、通話ができるだけの細やかなものだ。敵連合(いち)自由奔放とも言える荼毘はいつものように理由なき外出、弔は義爛と交渉、トゥワイスは買い出しに行っていて不在だった。

 

 退屈しのぎに内臓されたアプリのゲームに興じていると、また()()()()がやって来た。天井の換気口を蹴破って侵入してきた連中を、マグネは隈のしっかり刻まれた目でじろりと睨む。

 

 黒いジャンプスーツで全身を覆った刺客達は、爪先が地面に触れると同時に跳躍し、マグネ達に相対する。下から振り抜かれた刃をナイフで受け止め、トガは敵と睨み合った。放り投げたスマートフォンが重々しい音を立てて、床に転がっていく。競り合う刃が火花を散らし、硬質音を奏でた。

 

(最初、私達は敵同士だったよね。でも、今は違う)

 

 刹那、トガの前に()()()()()がふわりと出現した。セピア色に色付いた少女は、目が合うと柔らかく微笑んだ。人を殺めようとする度に出て来る、友人の幻だ。

 ――唯一の同年代・同性の友達。本当の自分を受け入れてくれた人。杳の存在は彼女が思っている以上に、トガの心に大きな影響を及ぼしていた。繰り返し回して擦り切れてしまったテープレコーダーのように、その声は雑音混じりでくぐもっている。

 

(もしかしたら、トガちゃんの周りにいる人やこれから先、出会う人で……友達になれる人がいるかもしれない)

 

 杳の体は、幽霊のように透けていた。ぼんやりとした優しい瞳を透かして、血走った男の目が見える。憎悪と殺意に満ちた眼差し。話し合いの余地などない。殺すか、殺されるか。選択肢はこの二つだけだ。

 

 最初はちょっとだけ頑張ったんだよ。トガは心の内で友人に言い訳した。でも、ダメだった。トガは猫のような目を細め、()()()()()。相手の感覚器から己の存在を逸らし、息を潜め、闇に紛れる。完全に闇と同化した彼女は、動揺して動きを止めた刺客の脇腹を深々と切り裂いた。

 

 血飛沫が上がり、トガの顔面を真っ赤に塗り潰す。男はバックステップを踏んで距離を取った後、今度はスピナーの背後に迫った。スピナーはハンドガンの弾を充填する事に必死で、気付いていない。トガは埃を被ったローテーブルを踏んで跳躍し、刺客の頭上に舞い上がった。視界の端にセピア色の幻影がちらつく。血塗れのトガを見ても、杳は何も言わない。ただ笑って、過去のセリフを繰り返すだけだ。

 

(でも、それは生きているからこそなんだ)

 

 ――逢いたいよ、杳ちゃん。きゅんと軋んだ胸の痛みを、唇を軽く噛む事で堪える。トガは自重を利用し、刺客の後頭部から背中・臀部に至るまでをナイフで一気に引き裂いた。鮮血が噴水のように降り注ぎ、トガの全身を濡らしていく。反射的に口を開けて飲み込んだ後、彼女は眉根を下げた。苦くて美味しくない。友人の血はミルクの匂いがして甘かった。チョコレートみたいに蕩けて、ほんの少しの量で幸せな気持ちになった。彼女はわけもなく寂しい感情に支配され、俯いた。

 

 

 

 

 それから三十分後。激しい戦闘の最中、年代物のペンダントライトが破壊されてしまった為、周囲は不気味な暗闇に満ちている。コンプレスはコートの内ポケットから煙草を一本取り出すと口に咥え、マッチで火を点けた。わずかな灯りが、血溜まりの中に伏した刺客達の輪郭をぼんやりと照らし出す。その中には、まだ息をしている者がいた。

 

 ――友達になるのでも、殺し損ねたのでもない。指示者を吐かせる為、わざと生かしているのだ。だが、彼の命はそう長くはないようだった。陸に上がった魚のように痙攣しながら弱々しい呼吸を繰り返す男の前に、マグネがしゃがみ込んだ。男の頬を叩き、意識をこちらに向けさせる。

 

「誰からの命令?」

 

 男は虚ろな眼差しでマグネを見るも、応えない。マグネはおもむろに男の右手を掴み、万力のように握り潰した。くぐもった痛苦の悲鳴と血肉の垂れ落ちる音が、埃っぽい室内に反響する。

 

「苦しんで死ぬか、楽に死ぬか。今すぐ選びなさい」

 

 マグネは男の耳に口を寄せ、冷徹な声で囁いた。死を目前にした時、人の本性は露わになる。だが、抗えぬ運命が迫っているというのに、男は狼狽えもしなかった。血に濡れた唇が歪んだ弧を描き、掠れた笑い声が零れ落ちる。

 

「おまえ、たちは。()()に……すぎない」

「は?」

 

 男は唇の動きだけで何かを呟く。刹那、彼の虚ろに開いた目と口が、まるで体内に太陽を押し込んだように()()()()()()()。硝煙の匂いがマグネの鼻腔を突く。咄嗟に身構えるも、男の姿は忽然と消えた。自爆の寸前、コンプレスが圧縮したのだ。眩く周囲を照らし出す小球を見下ろつつ、マグネは乱れた髪を手櫛で直した。

 

「カルト集団?」

「最近流行りの異能オタクか?」

 

 一昔前、個性は異能という名で呼ばれていた。その時代において、異能の自由行使は人間として当然の権利と謳った解放主義者達によって結成された過激派組織があった。――”異能解放軍”だ。

 法の整備を進める国との数年にも及ぶ対立の末に敗北し、指導者は獄中で活動を記した自伝を出版した後、自決したと言う。誰の思惑かは不明だが、オールマイト引退とオール・フォー・ワン逮捕という二大事件の直後、その本は再び出版された。

 

 日本の犯罪の多くは()()()だ。本の影響を受け、異能だなんだと騒いで襲撃を仕掛けてくるチンピラもいた。だが、それらと同じだと言い切る事はできない。妙に組織だっている。戦闘慣れしているし、こちらの情報を得られないよう自決する徹底ぶりだ。

 

「……っとと。ボイルになっちまう」

 

 コンプレスは指の関節を鳴らし、個性を解除した。焼け焦げた遺体が、騒々しい音を立てて血溜まりに着水する。耐えがたい悪臭が室内を汚染した。爆破には酸素が必要だが、圧縮された空間の分だけでは足りなかったようだ。肉の焼き加減を人にも例えて良いとするならば、彼の状態は生焼けだった。震える手でリュックから軍用ランタンを取り出してマグネに押し付けると、スピナーは部屋の隅に(うずくま)った。マグネはふっくらとした唇に人差し指を当て、首を傾げる。

 

「ギリ半熟って感じね。及第点?」

「厳しいね。じゃあ始めるか」

 

 トガはスマートフォンを拾い上げ、古めかしいソファに腰を落ち着ける。マグネがランタンを掲げて周囲を照らす中、コンプレスは腕まくりをして死体の傍にしゃがみ込んだ。

 

 

 

 

 それからさらに一時間後。拠点に戻ってきた弔に、トゥワイスは小さな機械を放ってよこし、二人の解剖医からの申し送りを伝え始めた。

 

 ――二人は手術の末、患者の奥歯が高性能の発信機と取り換えられている事を発見した。さらに手術を進めると、男の体は一部を改造されているという事が分かった。血管に沿うようにしてコードが埋め込まれ、それらは奥歯型発信機、心臓付近に備え付けられた爆弾――と思わしき残骸、そして人工コラーゲンに包まれた小型装置と繋がっていた。

 

 誰かが男の体を監視・遠隔操作している可能性も出てきたと、コンプレスは首を捻る。ハッキングして突き止めようにも、集積回路は修復不可能なまでに焼け焦げてしまっている。専用の業者に依頼するのが最善手だが、肝心の資金がない。二人はそこまで考えたところで匙を投げ、どこかしらへ飲みに行った――との事だった。

 

「どうするよボス」

 

 トゥワイスは灰皿から比較的長い()()()()を探しながら、呟いた。弔はビールの空き箱に座り、荒れ果てた首筋を搔いた。今から数十分後にハウスクリーニングと新たな拠点探しを依頼するだろう事を思うと、義爛は頼れない。だからといって、このまま手を(こまね)いているわけにもいくまい。

 ――金を掛けず、速やかに問題を解決する方法。弔は小型装置をポケットに仕舞い込むと立ち上がり、再び拠点を後にした。

 

 薄暗い路地裏で、弔はスマートフォンを取り出した。曲がりなりにも組織のリーダーである彼の電子媒体は、唯一ネットの接続ができる。彼は慣れた動作で画面を操作し、Posterのアプリをタップした。嘘か真実かどうかも定かではない電子の海を、彼は気ままに泳ぎ続ける。

 ある情報を見つけた途端、赤いスニーカーの爪先がふらりと進行方向を変えた。ヒーローの歴史が深く染み込んだ街に向けて、彼は静かに歩みを進める。

 

 

 

 

 そして、現在。杳はただ茫然として、隣に座る弔を見つめていた。――多戸院市は今、厳戒態勢が敷かれている。警察やヒーローが総がかりで警邏しているが、それでも大きな都市全体を賄うには足りないという事になったから、曲がりなりにもヒーロー科である自分が外回りに駆り出されたのだ。監視カメラも大幅に増設されたと聞く。そんな厳しい監視の目を掻い潜り、彼はここにいた。

 

 今までの欝々とした感情が、非常事態を前にして、銀河系の彼方へ吹き飛んでゆく。そもそも平和の象徴ってなんだ。嫌味か?杳はここ数ヶ月の間に随分と卑屈になった心で、必死に考えを巡らせた。――彼は自分が個性を使えなくなった事を知っているのだろうか。黒霧が記憶を取り戻した事も。

 

 切なくて、悲しくて、苦しくて、言葉にできない複雑な感情がマーブル模様を描いて、過去の記憶と一緒に杳の頭を支配した。くたびれたラフな服装も癖のある白髪も、その奥に隠れた皺だらけの顔と灼眼も、弔は何一つ変わっていない。変わったのは自分なのかもしれなかった。

 弔に対して今感じている想いを、杳は表現する事ができない。警戒するでもなく、拒絶するでもなく、彼女はただそこに留まり、自分の昂った感情が落ち着くまで待つ事にした。

 

 弔は目深に被ったフードの奥から、じっと少女を眺めた。彼女の外見は以前とはまるで様子が違っている。灰色だった髪は色素が抜け落ち、目の下には濃い隈が刻まれていた。――裏社会の情報網はインターネットよりも素早く繊細だ。自分の手を離れてから、彼女の身に何が起こったのか。大まかな内容ではあるが、弔は知っている。

 

 敵だけではなく、社会からも凄惨な仕打ちを受けたというのに、少女の瞳は透明で、小動物のような雰囲気は健在だった。()()()(くるぶし)を濡らしていくような感覚に再び囚われながら、弔は丼を指し、呟いた。

 

「一口いい?」

「……うん」

 

 頷いたはいいものの、杳は思いもよらない着地点にベンチからずっこけそうになった。だが、本当にうどんを食べる為だけにここへ来たじゃないだろうという事くらいは、杳にも分かる。()()は何だろう。弔は杳から丼と箸を受け取ると、ろくに冷ましもせず、器を傾けて汁をすすった。どうやら彼は猫舌ではないらしい。

 

 杳は視線を巡らせ、周囲を見回した。週末の昼下がりという事もあり、園内は民間人でいっぱいだ。敵連合のリーダーがここにいる事が知れれば、大パニックが起きる。戦闘は避けたい。杳にとって、弔は敵であり、友人だった。ヒーローの矜持と想いの間で静かに揺れていると、弔はちらりとこちらを見た。

 

「話をしに来ただけだ。大人しくしていれば、何もしない」

 

 噛んで含めるような優しい声が、杳の耳に染み込んでいく。それは裏を返せば、下手に騒げば個性を使うという脅しに他ならなかった。杳は小さく頷いて、右耳に付けたGPS機能内蔵の()()()()を指差した後、ベンチの上で膝を抱えた。指示に従うが、自分の行動は事務所の管理下に置かれている――というメッセージだ。弔はそれを見届けた後、箸を持ち直した。彼はもう五本の指で食事ができるようになっている。彼はうどんを箸で掬いながら、静かに尋ねた。

 

「……元気?」

 

 世間を騒がせているネームドヴィランが発したとは思えない程、当たり障りのない質問だった。だが、その問い掛けは今の杳にとって辛い。精神的にも肉体的にも元気じゃないからだ。きっと心配してくれているのだろう。杳は気を遣い、こくんと頷いた。

 

「うん」

「いやおまえじゃなくて」

 

 ――じゃあ、誰の事を訊いているんだ?杳はしばらく首を傾げて考え込んだ後、やがて脳裏に()()の姿を思い浮かべた。

 

「お兄ちゃんのこと?」

 

 弔は黙して応えなかった。この場合の沈黙は肯定と捉えるべきだろう。―― 面会ができなくとも、杳は兄に手紙を送っていた。これ以上のストレスを掛けない為、手紙の中の世界では、杳は個性を失わず学校で日々頑張っているという事になっている。恐らく手紙は届いているだろうが、彼からの返信はまだ許されていない。

 だが、返事を読んで確認する必要はない。兄が元気であるはずがないのだ。タルタロスの陰鬱とした空気を思い出し、杳はたまらず俯いた。

 

「救われたか?」

 

 頭上から降り注ぐ太陽の光が眩しくて、杳は目を閉じた。拘束椅子に囚われた黒霧の姿が、瞼の裏にまざまざと思い浮かぶ。――泣いてはダメだ。泣くと否定する事になる。杳は歯を食い縛り、勢い良く顔を上げて涙を吹き飛ばした。袖で乱暴に目を擦り、涙の痕跡を拭い取る。

 

「転弧ってさ。意地悪だよね」

 

 杳が転弧の名前を口にした時、弔の肩がほんの一瞬だけ、震えた。だが、前を向いている杳はその事に気づかない。やがて、からんと軽いものを置く音がして、杳は弔の方を向き、絶句した。二人の間には、空っぽになった丼があった。箸を器に投げ込む弔の手を、杳は思わず掴んだ。

 

「一口だけって言った……」

「腹減ってんだよ」

 

 弔は悪びれなく肩を竦めるだけだった。良く見ると彼の衣服はボロボロだった。少し伸びた白髪はごわついていて、服は汚れている。フードの奥に隠れた顔を覗き込むと、老人のような皺やアレルギー症状は余計にひどくなっていた。

 甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれた黒霧の記憶を、杳はぼんやりと思い出した。弔も同じように面倒を見てもらっていたのだろうか。そうだとするならば、黒霧がいなくなった事で弔達の生活は変わったのだ。満足に衣食住を満たせなくなる程に。杳は掴んだ服の袖を、軽く揺すぶった。

 

「なんでそこまでして、頑張るの?」

 

 ――自首すれば、もう誰も弔達を傷つける事はない。安全な場所で毒の入っていない食事を摂り、清潔な衣服を着て過ごす事ができる。もうこれ以上、罪を犯す事もない。過去と向き合う事ができる。(ヴィラン)としてどれほど名を馳せたところで、行き着く先は破滅しかないのだ。弔は薄く笑い、杳を見下ろした。

 

「おまえと同じだよ」

 

 赤い瞳に、個性を失っても必死にヒーロー科にしがみつく哀れな少女の姿が映り込む。杳は唇を噛み締めて、ゆっくりと首を横に振った。様々な人達との出会いを()て、そしてオール・フォー・ワンの策略により敵達の記憶を疑似体験して、杳は敵に関する自分の考えを改めるに至った。

 

 ――弔達が罪を犯すに至った経緯は、確かに悲惨なものだった。だが、彼らに傷つけられ、屠られた人々がいる事も事実なのだ。彼らが悔い改めない限り、許す事はできない。同情するばかりでは、敵達も被害者も、誰も救えない。

 

()()。転弧は人を殺す。私は殺さない」

 

 幼く丸みを帯びた顔立ちの杳が毅然とした態度を見せても、迫力はない。弔の口から掠れた笑い声が漏れた。濁った灼眼が危険な輝きを孕む。彼は芝居がかった動作で手を広げ、園内を行き交う雑踏を指し示してみせた。

 

「殺して何が悪い?おまえの事情を知りもせず、SNSで吊し上げ、(なじ)るような奴らだ。おまえを利用して死地に向かわせ、約束を守ろうともしない薄情な奴らだ」

 

 遥か上空を走る空中線路を、トレインマンが汽笛を鳴らして走っている。少しずつ、潮が引いていくように自然に、園内から人気がなくなっていく。その事に気付いた弔は小さな少女の肩に手を回して傍に引き寄せ、青空を彩る七色の線路を一緒に見上げた。

 

「あの線路だってフェイクだ。その下には守れなかったモノが五万といる。……痛んだ上から蓋をして、築き上げてきたんだ。残るのは守られるのに慣れ切ったゴミ共、それを生み出し庇護するマッチポンプ共だけ。この世界は腐って、蛆が湧いている」

 

 麗らかな昼下がりの空気と光景が、弔から放たれる威圧感で汚染されていく。空気が粘つくように重くなり、まともに呼吸ができない。だが、ひたひたと忍び寄る死の気配を何とか堪える事ができる程度には、杳は成長していた。血の味がする唾液を飲み込んで、彼女は眼球だけを動かし、周囲の状況を探る。あれほど園内にいた人々は今や影も形もない。

 

 ――確かにその通りかもしれない。杳は思った。この世界は不条理で、融通が利かなくて不平等だ。ヒーローがその手から取り零してきた多くの人々の中に、自分や兄もいる。でも、それでも。狂気に満ちた灼眼を、杳はきっと見据えた。

 

「確かにこの社会はきれいじゃないよ。変えた方がいいこと、沢山ある。でも……そんな中でも皆、生きているんだ。どんな悪人だって、誰だって、死にたくない。生きる為に生まれてきたんだ。どんな理由があろうと、それを勝手に奪う権利は誰にもない」

 

 狂気を孕んだ灼眼と灰色の瞳が束の間、拮抗する。次の瞬間、弔を起点にして不可視のフォースフィールドが放たれた。

 

「おまえに何ができる?」

 

 腐りかけた甘い果実のような声が、杳の鼓膜にまとわりついた。凄まじい崩壊のエネルギーが詰まった半球状の膜が、音もなく杳を包み込む。崩壊は伝播し、内部にあるものは徐々に(ひび)割れ、塵と化していく。杳の眼前で、舞い散る木の葉が砂に変わった。吸い込んだ空気が崩壊の粒子を含んでいたのか、肺が灼けるように熱くなる。びしりと音を立てて、激痛と共に皮膚が割れ、血が溢れ出した。

 

 ――()()。杳の本能はいよいよ間近に迫った危機から逃れる為、大音量で警鐘を鳴らし始めた。量子化の個性も失った。もうリセットできないんだぞ。()()()()()()()

 

 弔は試すような目でこちらを見ている。本能が理性を上回らんとしたその時、杳の視界いっぱいに粒子の荒い映像が浮かび上がった。もう今の自分に超感覚はない。極限状態に追い込まれた事で発現した幻覚の一種なのだろうか。呆然とする杳の前で、四角く切り取られた世界はある記憶のワンシーンを映し出す。――個性を暴発させた転弧少年を抱き締めようとする、母親の姿。彼女はバラバラの肉塊になって絶命するまで、我が子を一心に見つめ、救おうと手を伸ばしていた。

 

 杳は無我夢中で手を伸ばし、弔を抱き締めた。そうだ。個性がなくとも、できることがある。血の混じった唾液を飲み下し、杳は確かな声で言葉を紡いだ。

 

「あなたを抱き締められる」

 

 弔の体温は驚く程に低く、痩せていた体は筋肉が付き、以前よりもずっと頑強になっていた。――成長している。何を糧に成長を遂げたのかという事を考えると、杳は悲しくなった。血塗れの手で、杳はそっと彼の頭を撫でる。

 涙で滲んだ視界の端を、一枚の木の葉がひらひらと舞い落ちていく。いつの間にか、死の伝播は消えていた。もうこれ以上、悲しい出来事が増えないように。勇気をもって、彼女は口を開いた。

 

「だから――」

「杳ちゃん?」

 

 その時、聞き覚えのある声が、杳の耳朶を打った。()()だ。走って来たのか彼女はひどく息を荒げ、怯えた表情で弔を見ている。――何故、彼女がこんなところに。疑問が一瞬、頭をよぎる。チームIDATENは適材適所を原則としている。いくら人手不足だと言っても、有能な事務員である彼女が持ち場を離れる事はないはずだ。だが、今はそんな事を考えている場合じゃない。杳は視線を彷徨わせ、言葉を探した。まず、彼女をこの場から遠ざけなければ。

 

「お友達?」

「友達です」

 

 掛本の質問に応えた瞬間、乾いた笑い声が弔の口から零れ落ちた。

 

「嘘吐くなよ」

 

 弔はそう言い放つと体を離し、その場を去っていく。杳は傷が開くのも構わずに勢い良く立ち上がり、叫んだ。

 

「嘘じゃないよ!」

 

 弔は振り返る事なく、()()を放り投げた。それは綺麗な放物線を描いて、ベンチの上に置かれた器の中に投げ込まれる。杳が訝しんで覗き込むと、中には黒ずんだ小さな装置があった。公園を立ち去ろうとする間際、彼は静かな声で言葉を紡ぐ。

 

「最近、うちに襲撃を仕掛けて来る奴の体から出てきた。……そっちでなんとかしてくれよ。迷惑だ」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

「あーっ!」

 

 ヒーローの包囲網をやり過ごし、拠点に帰り着いた弔を出迎えたのは、怒れる()()だった。風に乗って流れてきた懐かしい匂いを嗅いだトガは、その大元が弔である事に気付いたのだった。トガはスマートフォンを放り出し、褪せた白髪にべったりと付着した血痕を睨んで、ハムスターのように両頬を膨らませる。

 

「やっぱり杳ちゃんの匂いがする!弔くん自分だけ逢ってきたんだ!ずるいっ!」

「元気だったか?!」

 

 部屋の隅で死体の処理をしていたトゥワイスは、杳の名前を聞いた途端、転がるようにして弔の傍にやって来た。殺伐として埃っぽい室内の空気が、少しだけ和らいでいく。その様を見るなり、荼毘は忌々しげに顔を歪め、吐き捨てた。

 

「……気色悪ぃ」

 

 

 

 

 時計の針をいくらか巻き戻し、弔が公園を離れた直後。杳のインカムを通じて異常事態を察したのだろう。ヒーロー達が人々を避難させたのか、園内はもうどこにも人気がない状態だった。掛本に応急処置を受けた後、肩を貸してもらい、杳は痛む体を押さえながら遊歩道を歩いていた。

 

 重傷というには程遠いが、軽傷でもない。全身の皮膚がところどころ破け、巻いた包帯にはまだ血が滲んでいた。弔とは反対側の出口から公園の外に出ると、物陰に潜んでいた警察達が二人に近づこうとする。しかし、掛本は所員証を見せて身分を証明した後、自分が病院に連れて行くと断った。

 

「大丈夫だからね。もうすぐ病院に着くから」

 

 掛本は近道だと言って繁華街を外れ、路地裏に入り込んだ。人々のざわめきが急速に遠のいて、せり合うようにして建つビルが陽光を覆い隠した。薄暗く不気味な隘路(あいろ)を前にしても、掛本の足取りは変わらない。相当焦っているのか、杳をほとんど抱きかかえるようにして移動していた。

 

 杳の耳に装着されたインカムに、大きな雑音が走る。その瞬間、杳は両手を突っ張り、掛本から距離を取った。彼女は軽くバランスを崩しながら、慌ててこちらを振り返る。

 

「どうしたの?ごめん、私の支え方が――」

「……あの」

 

 言葉を遮り、杳は乾いた唇を舐め、インカムを取った。聞くに堪えない雑音に混じって、かすかに()()()()()()()()()。逼迫した声で、彼女は先程から何かを叫んでいた。不意に真上の空が掻き曇り、周囲の景色はますます仄暗くなっていく。黄昏のような暗闇が、前方に立つ掛本の表情を束の間、覆い隠した。

 

(最近、うちに襲撃を仕掛けて来る奴の体から出てきた)

 

 弔の言葉が脳裏をよぎる。杳はごくりと唾を飲み、ポケットに突っ込んだ捕縛布を手繰り寄せる。

 

「掛本さんじゃ、ないですよね?」




難産すぎてマジでエタるかと思った。無事書けて良かった。やっと杳が事件解決に乗り出すというか巻き込まれていくので、ここから先は少し読みやすくな…ったらいいな。

いつもこのSSにお目通しいただき、感謝します。


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No.77 交錯

※作中に残酷な表現、R-15的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

≪アレンジ登場人物紹介≫
●デイダラ
チームIDATEN所属のヒーロー。元・インゲニウムのサイドキック。
※ヴィジランテ2巻中盤に登場する女性ヒーローです。外見と何となくな個性イメージ以外は全部作者のねつ造です。ややこしくてすみません…。


 薄汚れたビルの隙間から一陣の風が吹き込んで、二人の髪を揺らす。じり、と後ずさった杳の足下に新聞の切れ端がまとわりついた。掛本(ニセモノ)の髪に隠れた唇が、すっと吊り上がる。杳が手に持っているインカムを指差すと、彼女は言葉を紡いだ。

 

「どうして()、その質問を?そこから声が聴こえた時点で、私が得体の知れない人間だという事は分かっていたはずでしょう」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 時を(さかのぼ)り、数分前。掛本の肩を借りて公園を移動していた時の事だ。怪我の痛みに喘ぐ杳の耳に、突如として()()の声が突き刺さった。

 

『その人から離れて。私じゃない!』

 

 インカム越しでもはっきりと分かる程、逼迫した声だった。その瞬間、杳は眼前にいる彼女が()()であると確信した。

 

 ――街中で女生徒達に絡まれていた時、すぐさま天哉が駆けつけてくれたのは、ネットの情報を鵜呑みにした市民達の暴動から守る為、自分の音声と状況を常時傍受していたのだろうと杳は推測する。チームIDATENは個より全の動きを重視する。街じゅうにヒーローや”オービス”――ラテン語で眼を意味する。ヒーロー免許を取得中、もしくはヒーロー志望者ではないが身体能力の高いスタッフを示す――を配備し、監視の目が行き届くようにしているのもその為だ。

 

 弔と会話をしていた時、杳はまるで潮が引くように人々が園内から去っていくのを視認した。遥か上空の空中線路からこちらの様子をそれとなく伺っていたトレインマンも。自分の推測が当たっているとするなら、インカム内蔵のマイクとカメラを通して状況を知り、園内の人々を避難させたのだ。転弧の個性は範囲内の全てを塵に帰すという強力なもので、きっとヒーローや警察も大勢動員されているはず。そんな危険な戦闘区域に、非戦闘員である掛本を連れてくるはずがない。しかし、杳が返事をしようと口を開いた途端、インカムの通信に()()が混じり始めた。

 

 

 

 

 同時刻。街全体の警邏網を一部緩め、急遽動員された大勢のヒーローと警察達は、死柄木弔の包囲に当たっていた。――多戸院市はヒーロー一家が代々守ってきた街という事もあり、国内でも比較的治安の良いエリアだとされている。当然住み心地も良く、福利厚生も整っていて人口も多い。つまり避難に時間がかかるという事だ。

 

 市内公園の近くには、オフィス街とそこに通う社員達の為の集合住宅が何棟かあった。たった十分程度の時間内で、そのエリア内の人々を全員避難させる事は難しい。弔はわざとその近辺を選んで移動した。それは、戦闘になればビルや住宅を崩壊させるという脅しに他ならない。避難を完了させない限り、市街戦は不可能だ。現場のヒーロー達がそう思った瞬間、街の西端エリアで再び、違法薬物を服用した(ヴィラン)が暴れ出した。街の警邏網も、弔の包囲網も、現状を維持するのが精一杯でこれ以上網目を広げる余裕などない。それでも彼らは杳を助ける為、何とか少ない人手を捻出して救出に向かった。

 

 ヒーロー達が公園に向けて疾走している頃、杳と掛本は公園の出入口を通り抜けた。出入口付近には警察が数名待機していて、生け垣からひょっこりと顔を覗かせた二人を見ると、こちらに来るように手招きした。応援で来ているのか、彼らは掛本と直接の面識がないようだった。

 

『ジャミn――グされ――聴k――eい察に救けを――』

 

 もう掛本の声は、雑音(ノイズ)がひどすぎてほとんど聞き取る事ができなかった。目の前にいる掛本は自らの身分を証明し、警察と話をしている。杳の背中を冷たい汗がじんわりと伝っていった。視線を巡らせると、道端にパトカーが止まっているのが目に入った。窓ガラスは半開きになっていて、中から紙を破るような騒音が聴こえてくる。その音は、車内で警官が持っている無線機から発されていた。操作盤を弄りながら、彼は深刻な表情で何かを叫んでいる。

 

 刹那、街中に騒々しいクラクション音が響き渡った。無数の悲鳴や怒号、咆哮が続けざまに轟く。杳は顔を上げ、大きく息を飲んだ。――視界に広がる信号機が全て、全色点滅している。チームIDATENの(かなめ)は通信だ。通信網全体が何者かの手によって断絶させられている。

 

(……ッ)

 

 自分を抱き締めている掛本の腕に、ぐっと力が籠もった。杳の全身をじっとりと汗が伝い始める。それは、得体の知れない恐怖に対する汗だった。杳は唇を噛んで、警官達を見上げた。――この人の個性が何なのかも分からない。視界の範囲内にヒーローはいない。このまま救けを求めたら、彼らが犠牲になるかもしれない。杳は人の味噌煮込みうどんを完食した上、厄介事を押し付けてきた友人を心の底から恨むと同時に、掛本の指示に従う覚悟を決めた。

 

 しかし、いかにも見通しの悪そうな路地裏に入った途端、いよいよインカムの雑音は激しさを増し、ついには何も聴こえなくなった。()もまだ、思わず放り捨てたくなる程に騒々しい雑音がインカムから溢れ出ている。

 

「君は警察を巻き込みたくなかった。危険から遠ざける為、上司の命令を無視し、独断で私に着いていった」

 

 杳が警戒して黙っていると、掛本は先程とは打って変わり、冷たく男性的な口調でそう言った。それは、間違った答えを黒板に記した生徒を咎めるような声色を含んでいる。どこかで激しい衝突音が聴こえ、地盤がわずかに振動した。転弧が戦っているのか、また別の敵か。杳の表情はこわばった。

 

「だが、君は通信が完全に途絶えた事で警戒した。結局、自分一人の手には負えないと判断したのだ。だから今、下らぬ質問をして私の足を留め、救けが来るまでの時間稼ぎをしようとしている」

 

 不意に掛本の表情から、一切の感情が拭い去られた。同時に、ひんやりとした鋭利な気配が放たれる。――殺気だ。

 

「実に浅はかで、その場しのぎの、中途半端な行動だ」

 

 視界の端に何かが蠢く。捕縛布を取り出し周囲を見回すと、無数の人影が建物の暗がりに潜み、こちらをじっと見つめていた。杳の背筋に戦慄が走る。――何時の間に。彼らが姿を現すまで、何の音も気配もしなかった。その無機質な瞳の群れに杳は覚えのあるような気がしたが、悠長に思い出している時間はない。この人数を相手取るのは不可能だ。彼女は撤退の構えを取った。掛本は右手を伸ばし、静かに命ずる。

 

「装置を渡せ」

 

 そうする(ほか)あるまいと、杳は思った。掛本の指摘する通り、自分は判断を誤ったのだ。ポケットから小型装置を取り出して掌に載せた、その時――

 

 ――閉じた瞼の裏側に、バタバタともがく黒霧の足が閃き、残像となって焼き付いた。心無いPosterの投稿が、その周囲を彩る。悔しそうに泣きじゃくる少女の声と涙。何度も舐めたグラウンドの泥と血の味。哀れむ者を見るようなクラスメイト達の眼差し。

 

 心の原っぱに雪のように深々と降り積もってきた焦燥感、怒りや悲哀の感情が、ブレーキを踏みかけた杳の足を()()()()。ズタズタに傷ついたプライドが、その足をアクセルペダルに誘導し、渾身の力で踏み込む。そうして杳はタイヤを鳴らし、煙を上げて悪路を走り出した。

 

「いやです」

 

 杳は手を引っ込め、首を横に振る。そして捕縛布を両手に絡め、迎撃の構えを取った。

 

(精々尻尾を振って頑張る事だ。子犬)

 

 死柄木の皮肉混じりの激励と、公安職員の耳障りの良い声が、杳の心をますます追い詰める。――手柄を立てなければ。せっかくここまで来たのに。兄の死刑はなくなったわけではない。もう今の杳の頭に、通形や緑谷達から教えてもらったヒーローとしての矜持はなかった。

 

「あなたは誰ですか?」

 

 ほんのわずかな沈黙があった。やがて掛本は瞳を細め、冷ややかに笑う。氷を削り出して創ったような、冷たく侮蔑的な笑みだった。

 

「君はずっと他人に縋って生きてきた。数少ない功績も、そのおこぼれに縋った結果に過ぎない」

 

 掛本は質問に応える事なく、指の関節を鳴らした。建物の影からのっそりと姿を現した男を見るなり、杳の呼吸は止まった。男は一人の少女を抱きかかえていた。少女の顔は恐怖で歪み、弱々しい声で泣きじゃくりながら震えている。――()()だ。

 

「自分一人では何も成せない。()()()()ことを予測できなかったか?」

「……ッ?!」

 

 杳が咄嗟(とっさ)に放った捕縛布は、少女を捕える寸前、前方になだれ込んできた大勢の敵に絡まった。彼らは自身に巻き付いた捕縛布を、逆に引っ張り込む。杳はたまらず前方に倒れ込んだ。間髪入れずに、頭上から数人の男が飛び掛かり、杳の上に折り重なって押し潰す。

 

「がっ……!」

 

 肺が押し潰され、まともに息ができない。骨が軋んで血管が圧迫され、杳の意識は飛びそうになった。今にも消えそうな意識を気力だけで奮い起こし、必死で動こうと足掻き続ける。だが、そんな儚い抵抗も空しく、杳の眼前で敵達は少女を押さえ付け、金属片混じりの瓦礫を振り上げた。――あんなものを振り下ろされたら。グチャグチャの肉塊になった少女の姿を想像し、杳は絶望の呻き声を上げた。

 

()()選択を誤ったな」

 

 どこかで聞いたような掛本の台詞が、杳の耳朶を打つ。その時――

 

「”ホロ・チセ・テケヘ(大きな手の家)”」

 

 ――空から()()()()が降りて来て、敵達を弾き飛ばし、杳と少女をそれぞれ包み込んだ。大きな指の隙間を通して、杳は見た。古ぼけたビルの上から、モノクロの巨人がこちらを見下ろしているのを。真っ黒でフワフワした巨体に特徴的な目、日本史の教科書で見た”土偶”を彷彿とさせるようなフォルムだった。巨人が身を屈めると、その大きな背中を滑走路代わりに大勢のヒーロー達が雪崩れ込んでくる。

 

 路地裏は一瞬にして戦場へ変貌する。しかし、戦いが長引く事はなかった。数秒も経たない内に、敵達の様子が一変したからだ。顔や体じゅうの皮膚、服までもがチョコレートのように融け、中から現れたのは――物言わぬ()()()()だった。

 

「なんだ?れ、冷蔵庫……ッ?!」

「こっちはタイヤだ!」

 

 まるで狐か狸に化かされたようにヒーロー達は狼狽し、攻撃を中断する。少女の体表もどろりと融け、薄汚れたヌイグルミへ変わった。ボタボタと粘度のある液体が零れる音がして、杳は咳き込みながら顔を上げた。もう掛本の輪郭はない。人の形をした泥塊から、壊れた車のバンパーが露出していた。眼球が一つ零れ、落下していく。地面に落ちて潰れる寸前、目玉はギョロリと動いてこちらを見た。辛うじて残った唇がぼそりと呟く。

 

「何故、あの方はお前のような無能を――」

 

 敵は来た時と同様、忽然と去った。しゅるしゅると音を立て、柔らかな巨人の掌が消えてゆく。数秒後、黒髪をお下げにした女性ヒーローが地上に降り立った。その外見は、ついさっき自分と少女を守ってくれたモノクロの巨人によく似ている。彼女はヌイグルミをじっと見た後、杳を振り返った。その顔は明確な怒りに燃えている。

 

おめ、なぬすてけづかる(君は一体、何をしているんだ)ッ!」

 

 

 

 

 ほぼ同時刻に発生した、死柄木弔の出現、事務員を模倣した敵、及び通信遮断、そして違法薬物を摂取した突発敵事件。チームIDATENは通信インフラの遮断によりパニック状態となった街全体の回復を行いつつ、全ての事件の対応に当たり、いずれも短時間で事態を治める事に成功した。

 

 杳は事務所と市内病院の創った災害時救助用テントで処置を受けていた。放心状態で俯いている杳を見兼ねたのか、テントを警備中のトレインマンがその前に座り込む。激しい戦闘をしたのだろう、彼の体には至るところに包帯が巻かれ、血が滲んでいた。それでも彼は明るく笑い、気丈に振舞った。

 

「そー落ち込むなって!俺も若い頃はよく突っ走って怒られてたよ。汽車ポッポーってな!」

 

 トレインマンが汽車の真似をしておどけてみせると、ベルトに装着された写真入りのパスケースがユラユラと揺れた。中には、彼とそっくりの顔と煙突を付けた子供が恥ずかしそうに笑っている。

 

「笑いごとじゃねぇずら」

 

 冷たく怒りに満ちた声が、二人の耳朶を打った。あの女性ヒーローが腕を組み、トレインマンを睨んでいる。杳は知る由もない事だが、普段何をしても怒らないと言われる彼女がここまで感情を露わにするのはとても珍しい事だった。トレインマンは眉根を下げて立ち上がり、二人の間に割って入る。

 

「まーまー、デイダラ!落ち着けっt――」

「あんガラクタが()()だったば、この子ん人生終わっちょうたべや!」

 

 その言葉を聴いた途端、トレインマンの肩がびくりと跳ね上がった。デイダラと呼ばれた女性ヒーローは唇を悔しそうに噛み締め、細い糸のような瞳からは涙が流れている。

 

 ――デイダラの指摘は(もっと)もだった。杳は自分の勝手な判断で上司の指示に背き、敵に包囲された。もし少女が本物の人間だったとしたら、その行動を問題視したネットの住民達がますます激しく騒ぎ立て、杳の信用と地位を地に堕とすだろう。チームIDATENにも多大な迷惑を掛ける。もう二度と雄英に戻れないという事態になったかもしれないのだ。杳は力なくうな垂れ、拳を握りしめた。

 

 

 

 

 十分後。杳は塚内警部に呼び寄せられ、市内の交番で事情聴取を受けていた。警察は敵連合に対し、特別捜査本部を設置し捜査に当たっている。その責任者が彼だったのだ。大方の事情を聞いた後、塚内は疲労の滲んだ眉間を揉んで思案を巡らせた。

 

 ――杳が死柄木から受け取った装置は、小型のインターフェースだった。インターフェースとはコンピューターなどの装置を円滑に使用できるようにする為の媒介装置を示す。敵の体と操作者を繋ぐ媒介だと考えて、間違いないだろう。杳を脅したという事は、それほど重要なものであるという事に他ならない。ほぼ同時期に起きた突発敵の事も気にかかる。数日前にとり行った敵達の取り調べの記憶を、塚内は脳内でゆっくりと反芻した。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 多戸院市を暴れ回った敵が服用した(ドラッグ)には確かに個性を極端化(ブースト)させる効能があったが、幸いな事に、鳴羽田のトリガーを彷彿とさせるような()()()()()()はなかった。ただ一般的な違法ドラッグと同じように一時的な多幸感と依存性はある。敵となった彼らには皆、共通点があった。皆、社会に不満を持ち、素行の悪い若者だったという事。そして――

 

(道歩いてたら、怪しいオッサンに声掛けられて、建物ん中連れてかれた。で、遊んで、薬買って、暴れた)

(その建物はどこにある?)

 

 塚内は問い質したが、彼らは一様に顔をしかめ、髪を狂ったように掻き毟った後、薄汚れた天井を見上げるだけだった。どろりと濁った目は焦がれるように黄ばんだ照明を眺めている。その白々しい輝きの中に、かつて得た快楽と栄光が映っているかのように。

 

(俺だって知りてーよ。だけど、分かんねえんだ)

(分からない?)

(目隠しされたわけじゃない。記憶もある。でも、居場所だけが分からねえんだ。……ああ、戻りてえよ。薬も酒も()も、やりたい放題だった)

 

 その証言により、違法薬物だけでなく女性が囚われている可能性も浮上し、警察はますます色めき立った。だが、捜査範囲をいくら広げても、売人の在り処は依然として不明のままだった。

 

 ――オールマイトとオールフォーワンが表舞台を退いてから、犯罪件数は大幅に増加した。有象無象の敵組織もわんさかと出てきた。これもその一つなのかと塚内は顎に手を当てる。

 

 杳を連れ去った敵は、無機物を人に変えて操る個性を有していたという。敵連合を襲った敵の体内にあったという装置はインターフェース。一見無関係に見える二つの事柄は”他者を操る”という点で合致する。同一人物の犯行か、それともそう見せかけた死柄木弔の策謀なのか。違法薬物を流通させ金と人々を支配しようとする手口は、裏社会ではよくある事だ。関連性は否めない。件の装置はすぐさま鑑識に回され、現在調査が行われている。

 

 

 

 

 ズズ、と鼻をすする音で、塚内は我に返った。泣き過ぎて真っ赤に腫れあがった瞼を擦り、杳が俯いている。その小さな体には、至るところに包帯が巻かれていた。

 

 タルタロスに囚われている黒霧を思えば、杳の()()()()は理解できる。不可解なのは死柄木だった。鳴羽田、神野、八斎會、そして今回。USJでの邂逅も数に入れていいとするならば、死柄木弔と杳の邂逅はこれで五回目だ。明らかに多すぎる。おまけに今回はタイミングも悪かった。杳は今、人々に悪感情を抱かれている。誰かが死柄木弔と杳が深い関わりがある事を知ったら、彼女は社会的に殺されるだろう。

 

 ――”試し行動(リミットテスティング)”と呼ばれる心理的な行動がある。相手の自分に対する愛情を計る・確認する行為で、子どもが大人の気を引きたい、もしくは自分に注目して欲しい時に起こすものだ。大体の試し行動は成長と共に消えていくが、虐待を受けた者は潜在的な大人への不信感を抱えている為に、いまだにその行動を取ると言われている。死柄木の行動がそれに即しているかは定かではないが、犯罪者が特定の人物に執着し、歪んだ愛情や性嗜好を向けるパターンは良くある事だ。それとも、ただ単に利用しているだけなのか。

 

(クロウラーは敵味方問わず、救いの手を差し伸べる人だ。彼のようになりたいと思うのは、僕にも充分理解できる。だがああいった活動ができるのは、限られたごく一部の人間だけだ)

 

 かつて自分の放った言葉が、心の内側に跳ね返ってくる。もしかしたら、杳はクロウラー同様、その()()()()()なのかもしれないと塚内は思った。

 

 だが、もうそれは過去の話だ。災害や事故、個性を操って暴れ回る敵を最前線で食い止め、戦うヒーローは個性を持っている事が大前提だ。その事は、彼らと長年行動を共にしてきた塚内が誰よりもよく知っている。このままヒーローを続けていれば、いずれ彼女の未来は閉ざされてしまう。もう彼女は充分に頑張り、役割を果たした。塚内は覚悟を決め、明るい声で杳を呼んだ。

 

「白雲君。警察官に興味はないか?」

 

 小さな肩がほんの少し、跳ね上がる。――この言葉が彼女を傷つける事は分かっている。塚内は心中で溜息を零した。だが、彼女が近い将来、ヒーローになる夢を諦めざるを得なくなった時、他に多くの選択肢がある事を伝えたかった。

 

 実際、ヒーローを止めて警察の道を選んだ者も多いのだが、スカウトした理由はそれだけじゃない。彼女には敵の警戒心を緩め、会話を交わす事のできる()がある。黒霧、そして敵を助ける仕事はヒーローだけじゃない。何より戦いの最前線から退く事で彼女の身が守られる。警察学校のパンフレットを広げ、塚内は努めて明るい声で説明を続けた。

 

 

 

 

 一時間後。塚内に送られて、杳はチームIDATENの事務所へ帰り着いた。玄関口で待っていたのは、掛本と天晴だった。掛本は杳を見るなり、瞳を潤ませてギュッと小さな体を抱き締める。杳は思わず目を閉じた。このままずっと掛本の腕の中に閉じこもっていたいと願った。

 

 ――怖かったからだ。失敗してしまった。心のブレーキを掛ける事ができなかった。非常事態にも関わらず、大勢のスタッフ達に迷惑をかけ、自分を誘ってくれた天晴と天哉の顔に泥を塗ってしまった。杳が震える声で謝ると、二人は神妙な顔を見合わせた。やがて天晴が前に出て、杳の頭をポンと撫でて笑う。

 

「少し話をしよう」

 

 二人は事務所内のエレベーターに乗り、屋上へ向かった。こじんまりとした造りの屋上に辿り着くと、ちょうど日が沈むところだった。見下ろした街が陽射しを浴びて金色に輝いている。どこか寂しくて、けれど美しい光景だった。誰もいない錆び付いたフェンスに両手を掛け、杳は少しずつ輝きを失っていく街並みを眺めながら天晴の言葉を待った。

 

「白雲君。”正しい行動”ってのは何だと思う?」

 

 シンプルでクリーンな声が、杳の鼓膜に染み入った。怒っても、呆れても、哀れんでもいない。だが、それが公園での行動についての問い掛けだという事は明白だ。杳は必死に考えを巡らせ、恐る恐る答えを口にした。

 

「物事の善悪を見極めて……」

「ハハ。俺も同じ事言って親父に怒られたよ」

 

 天晴は少年のように明るい声を上げて笑った。そして真っ直ぐな瞳で街並みを見下ろし、言葉を紡ぐ。

 

「正解はさ、すごくシンプルなんだ。……ただその時、その瞬間、”自分がするべきことだ”と心から思える事」

 

 杳は灰色の瞳を大きく見開いて、天晴を仰ぎ見た。今、自分達を包んでいる夕焼けみたいに優しい笑顔を見て、じっくりと考える。――公園で自分が選んだ行動が、心から正しいと思えるものであったかどうかを。杳は唇を噛んで、俯いた。彼は困ったように笑うと、大型犬にするように彼女の頭をわしわしと撫でる。

 

「焦らなくていいんだ。君の気持ちはわかってる。少しずつ頑張ろう」

 

 

 

 

 多戸院市は夜間に限り交通規制を敷く事となった。それに伴い、杳達は翌朝、直接多戸院市から学校へ向かう運びとなった。――その日の夜、十時。杳は何もする気になれず、自室で膝を抱え込み、ぼんやりと時が過ぎるのを待っていた。すると、スマートフォンが鳴った。()使()からだ。

 

『……』

 

 人使は、ぐしゃぐしゃに泣き濡れた杳の顔を見た途端、明らかに狼狽した。深い紫色の瞳が揺れ、わななく唇が開いて、閉じる。昼の事件の全貌を天哉から聴いた彼は、今、杳がどんな想いでいるのか手に取るように分かった。だが、彼女が今するべき事は泣く事じゃない。彼は首元に手をやり、目を少しだけ逸らして言い放った。

 

『筋トレするぞ。準備しろ』

 

 杳はかすかに首を横に振ると、抱えた膝の間に顔を埋め、命令を無視した。思わず人使が伸ばした手はガラス板に阻まれ、彼女に届く事はない。人使の脳裏に、数ヶ月前の記憶が蘇った。

 

 ――相澤の下で修業を積み始めた、ある日の事だ。小手先の器用さだけでは到底及ばない程、捕縛布の扱いは難解だった。今の杳など比べ物にならない程、人使は簀巻きになり無様に地面を転がった。失敗や挫折は人の心を弱くする。人使は玉結び状態になった捕縛布を解きながら、ぼそりと呟いた。

 

(……イレイザーが六年かかって修得したものを、俺なんかが本当に扱えるようになれるんでしょうか)

(俺はゼロから独学で六年だ。ノウハウがあるのとないのじゃ違う)

 

 人使が捕縛布を解くのを待つ間、相澤はポケットからゼリー飲料を取り出してキャップを捻り開けた。いつものように一気に吸い込んだ後、彼は静謐な輝きを湛えた黒い瞳で教え子を見る。

 

(俺やおまえのような人間はな、いざって時に一人でどうにかできなければ死ぬだけだ)

 

 その通りだと人使は唇を噛み締めた。個性のない杳は、自分達()()に戦えなければ未来はない。今だって離れ離れだ。ずっと傍にいて守っていられるわけじゃない。人使は鬼になる覚悟を決めたものの、杳を見て、また心が揺れた。俯いた杳の肩が小さく震えている。泣いているのだ。

 

『……杳』

「でぎ、だいぼ(ないもん)……」

 

 頼りなく震える声を聴いた瞬間、人使の中で庇護欲が理性を上回った。彼は無意識の内に座椅子から立ち上がっていた。夜中にも関わらず、杳に逢いに行こうとしたのだ。矢も楯もたまらず、ドアに手を掛けようとした、その時――

 

(ハッ!テメーがそうやって甘やかすからつけあがンだろが!あァ?!)

 

 ――最悪のタイミングで、最悪の記憶を思い出した。追い打ちを掛けるように、スマートフォンの画面上に通知バーが表示される。Posterの新しい投稿が話題を集めているのだ。それらはいずれも杳に対する誹謗中傷の類だった。立ち止まった人使を、追いついた理性がグッと押し留める。

 

 今の精神状態で会ったら、彼女は間違いなく自分に依存する。人使は指が真っ白になる程に強く両の掌を握り締め、耐えた。――杳が今までどれほど頑張ったか、多くの人を救ったか、自分が一番良く知っている。だが、世間はそうじゃない。社会に一度張られたレッテルを剥がすには、自分自身の実力を見せるしかないのだ。不条理の中でも戦い続ける心の強さを持たなければ、明日はない。ギリギリと歯を食い縛り、彼は断腸の想いで厳しい言葉を放った。

 

『いいからやれ。できないんなら諦めろ』

 

 杳は顔を上げ、信じられないものを見るような目で人使を見た。ひどく泣き腫らした目から、さらに大粒の涙が溢れていく。まるで白熱した刃で心臓をめった刺しされているように、人使の胸は痛んだ。だが、その痛みを堪えて彼は追撃の矢を放つ。

 

『んな顔しても――』

「……やだだい(やらない)

 

 拒絶の言葉が、人使の耳朶を打った。同時に重々しい衝突音を立てて、画面の視界が暗転する。杳がスマートフォンを取り落したのだ。――人の痛みを他者が理解する事は難しい。人使が想定しているよりもずっと、杳を取り巻く境遇や人々は陰惨で、力を失い絶望した心はもうそれに耐え切る余力を残していなかったのだ。杳の名前を呼んでも、彼女は返事をしない。真っ暗闇の中で、杳が弱々しく泣きじゃくる声がするだけだ。

 

『待て!言い方が悪かった……ッ』

 

 人使の説得も空しく、杳は部屋のドアを開け、どこかへ走り去ってゆく。スマートフォンの通話終了ボタンを押した後、激しく髪をかき毟り、彼は特大の溜め息を吐いた。それから部屋の中を小熊のようにうろつき回り、暫しの間、逡巡する。やがて彼は心中で天哉に謝った後、彼の連絡先をタップした。

 

 

 

 

 杳は事務所の屋上に上がり、ぼうっと佇んでいた。多戸院市は主だった交通手段に電車がない事が関係しているのか、車の所有者が多く通行量も多い。車のヘッドライトが鮮やかな川の流れとなって、街じゅうをゆっくりと流れ、照らしていた。――人使は怒っているだろうな。先程の自分の行いを恥じ、杳は小さくしゃくり上げた。彼が誰よりも頑張り屋で努力家な人間である事は、杳が一番良く知っている。

 

(いくら強くなったと思っても、あいつらにさらにその先を行ってる。……やっぱすげーよ。ヒーロー科)

 

 自分も同じヒーロー科だというのに、人使は尊敬と羨望、それから少しだけ誇りの混じった目でそう言って笑っていた。彼は忙しい合間を縫って自分の為に時間を創ってくれていた。それなのに――。杳が打ちひしがれていると、屋上の出入口から足音が聴こえた。リズムよく軽快にシューズの底を鳴らし、天哉は杳の横に並ぶ。風呂上りなのか彼は首にタオルを巻いていて、石鹸の良い香りがした。

 

「やあ。休憩かい?」

「……うん」

「僕も風呂上りの休憩だ」

 

 警戒態勢を敷いている事もあり、街の灯りはいつもよりずっと多かった。ダイアモンドや真珠、ルビーのように鮮やかに輝いて、初秋らしく澄んだ外気に浮かび上がっている。ライトアップされた色とりどりの空中線路とあいまって、まるでテーマパークのような幻想的な雰囲気を醸し出していた。天哉はズボンのポケットを探り、杳に苺・オレの缶を差し出した。良く冷えていて缶の表面が結露している。

 

「君の()()は確か、苺・オレだったかな?」

「……うん」

 

 杳は小さくお礼を言って缶を受け取り、プルトップを引き上げた。天哉はその隣でオレンジジュースの缶を開ける。しばらくの間、液体を嚥下する音だけが周囲に響いていた。やがて缶の中身が空になった頃、天哉が口を開いた。静かで真摯な声だった。

 

「白雲君。これを飲み終わったら、君は部屋に戻って筋トレをすべきだ」

「……して、どうなるの」

 

 杳は()()()()()()に呑まれ、完全に心が折れてしまっていた。どんな破天荒な作戦でも今までやり遂げる事ができたのは、あの敵の言う通り、他者の助けがあったからだ。自分の前には今、途方もなく高い壁が立ち塞がっている。立ち往生していると、過去の辛い出来事やそれに伴う感情が追いついてきて、自分を声高に責め立てる。それらが引き摺り出した――今まで激動の中に身を委ねていた為に気付かないでいられた――卑しい本心を、杳は勇気をもって口にした。

 

「私、ヒーローになれないよ。皆とは違う。個性を失って、それが分かった。皆は優しくしてくれるけど……そうしてくれるたびに、自分がますます惨めになる。見下されてるみたいに、思う」

 

 今まで散々色んな人に縋り救けてもらって、出た言葉がこれとは。なんて最低な人間なんだ、救いようがない。自分がほとほと情けなくなり、杳はフェンスに額を押し付けて塩辛い涙を零れ落とした。天哉はそんな杳を、痛みに呻く患者を看るような優しい瞳で見つめていた。だが、彼はその事実に気付くと同時に唇を引き結び、再び前を向く。

 

「何故君がそう思うのか、そこまで自分を卑下するのか。俺には分からない。……だが、君と同じような経験を俺もした事がある」

 

 その声はいつもの天哉にしては低く、抑揚のないものだった。語尾が掠れている。杳は思わず息を潜め、フェンスを掴んだまま言葉を待った。

 

「どう足掻いても認められない現実ってのが突きつけられる。泣いても、暴れても、眠った時、夢であってほしいと(こいねが)っても……目を開けると、同じ現実が待っている」

 

 途切れ途切れの言葉を聴きながら、杳は自分が震えているのを知った。――()()だと気づいたからだ。個性を失って間もない頃、杳は辛い夢と想いの奔流に巻き込まれ、苦しんでいた。天哉は大きく息を吐き、自らの胸に手を置いた。

 

「俺は現実を認める事ができなかった。絶望に呑まれ、復讐に走った」

 

 ――()()()()の事だ。杳の瞳が揺らぐ。

 

 兄を再起不能にしたステインへの接触と復讐の為、彼は職場体験を利用して保須市へと赴いた。そこで返り討ちに遭うも、自分を守るために命懸けで戦う友人達の姿を見て、大切なものを見失っていた事に気付く。――世界中の誰よりも尊敬していた兄だからこそ、いつか肩を並べて戦える日を夢見ていたからこそ、それを奪ったステインが許せなかった。けれど、それ以上に許せないものに、今度は()()がなってしまった。不甲斐なくて情けなくて、たまらなかった。

 

「だけど、兄はそうじゃなかった。自棄でも、無謀でもない。自分の出来ることを考えて、それを精一杯」

 

 間違いを犯して帰って来た弟を見ても、天晴は見捨てなかった。ただ自分の肩を抱き、いつもと変わらない笑顔と声で、共に進もうと勇気づけてくれた。天哉は傷だらけの手をグッと握る。先程とは打って変わり、明るい声と表情で、彼は杳に笑いかけた。

 

「兄はそうした。そして、()()()()

 

 いつしか杳だけでなく、天哉の瞳にも透明な滴が伝っていた。二人は前方に広がる、七色に輝く街の夜景を眺めた。色とりどりの線路はいずれも大きな弧を描いて、その先を街の中へ溶け込ませている。まるでヒーローが人々に差し伸べる()()()()のように。優しい汽笛を鳴らし、頭上の線路をトレインマンが走ってゆく。

 ――その瞬間、杳は目の前の友人が自分をここへ誘ってくれた訳を理解した。天哉は拳を固く握って、杳の前に突き出す。

 

「俺は諦めない。だから、君も諦めるな」

「……うん」

 

 杳は鼻をすすり、小さく頷いて包帯だらけの拳を握った。七色の線路が見守る中、二人は硬く握った拳をぶつけ合った。




よく考えたら掛本さんもアレンジ登場人物(ヴィジランテ2巻登場のオペレーターさん)だった。設定文、書き直します。

最近、ヒロアカアニメ新しいシーズン始まったのか、youtubeで白雲朧さんの切り取り映像出てたので思わず見てもた…カッコいいし哀しいしで心臓もたねぇ…。

いつもこのSSにお目通しいただき、ありがとうございます。


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No.78 マイヒーロー

※作中に残酷な表現、R-15的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 天哉と別れた後、杳は宿直室に立ち戻った。半開きになったドアからは部屋の照明が漏れ、中に入ると床に自分のスマートフォンが転がっていた。

 

「……はぁ」

 

 つい数十分前に自分がさらした醜態を思い出し、杳は苦々しい表情で溜息を零した。スマートフォンを拾い人使の連絡先をタップして、Live電話を掛ける。

 ――電話に出てくれなかったらどうしよう。そう思うか思わないかの内にふつりと呼び出し音が途切れ、画面に人使の顔が映った。もう時刻は十一時を回っている。彼はずっと待ってくれていたのだ。杳は泣き腫らした目を擦ると、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

「さっきは、ごめん。あの……今から筋トレしても、いいですか」

 

 その時、人使の瞳に()()()()()。息を止めて見蕩れるくらい、とても暖かくて優しい輝きだ。――言葉を交わさなければ、人は他者を理解する事が難しいとされている。だが、(まれ)に何も言わずとも通じ合える瞬間がある。きっと今がその時なんだと杳は思った。

 四角く切り取られた世界で、人使の唇がほんのわずかに弧を描く。だが、それは一瞬の事で、すぐさま彼は光を打ち消して仏頂面に戻り、軽く両手をクラップした。

 

 

 

 

 翌朝。食堂で朝食を摂った後、杳と天哉はハイウェイバスに乗り雄英高校へ向かった。

 

 1—Aクラスの教室前は、まるで小鳥の群れを閉じ込めた鳥籠のように賑やかだった。いつものように天哉が大きな声で挨拶をしながら引き戸を開け、杳がその後に続く。その瞬間、思い思いの場所で寛いでいた小鳥達の視線が一点集中し、二人をざっと取り囲んだ。

 

「大変だったね。突発敵?だっけ。ずっと出てるんだろ」

 

 スマートフォンを振りながら、尾白が眉根をひそめる。”多戸院市の突発敵、敵連合が関与か?”、ニュース画面にはそう書かれていた。

 

「敵連合絡みかもって話……」

 

 杳の身を守る為、塚内警部は”死柄木が彼女に接触を図った”という事実を世間に伏せた。ほぼ同時期に起きた、多戸院市での突発敵事件と()()()()()死柄木との関連性を疑い、情報(マスコミ)業界は連日熱心なニュース報道を行っている。

 

 杳は顎を撫で、思案を巡らせる。神野事件以降、国内の犯罪数は軒並み増加した。尾白達が向かうインターン先も多くの敵が出没すると聞く。悲しい事だが、敵の出現は今の社会において珍しい事ではなくなった。ならば何故、多戸院市の事件がここまで衆目を集めているのか。

 

 ――()()()()が関係しているからだ。

 

 今、多戸院市で流通している違法薬物は、服用者の理性を麻痺させ、攻撃性と個性を極端化(ブースト)させる効能を持つ。飲んだ者なら誰でも敵になる可能性があるからこそ、危険なのだ。最悪、購入者が学校の給食や外食施設の食材に薬物を混入させれば、深刻なバイオテロが発生する。警察とチームIDATENは日々懸命な捜査を続けているものの、いまだに売人の正体が掴む事ができずにいた。

 

(まるで蜃気楼だな)

 

 報告書を一読し、天晴がぽつりと呟いた言葉を思い出す。街じゅうを調べ尽くしても、売人どころかその痕跡すら見つける事ができない。ヒーローや警察達の努力を嘲笑うかの如く、突発敵は毎日のように現れて市民の安全を脅かす。今も人知れず悪事を働いているだろう誰かの事を思うと、杳はやりきれなくなって俯いた。

 

「心操君!」

 

 天哉の焦った声で、杳はハッと我に返る。そして前方を見るなり唖然とした。人使が天哉に頭を下げ、立派な紙袋に入った高級菓子の詰め合わせを渡そうとしている。

 

「本っ当に申し訳ない。迷惑かけて、世話になった。お兄さんや皆さんにもよろしく伝えてほしい」

「いや、世話になっているのはこちらの方だ!どうかお気遣いなく……」

「親か」

 

 恐縮しながらも菓子のキャッチボールをしている二人を見て、瀬呂が冷静に突っ込んだ。いや、むしろ自分の親以上に親だ。羞恥心と至らなさで顔を紅潮させながら、杳はそう思った。

 贈り物を渡す時の問答は、この国において一種の様式美に近い。長期戦になると悟ったクラスメイトから視線を逸らし、元の他愛無い(さえず)りに精を出し始める。その様子があまりにもいつも通りだったので、杳は気付かなかった。彼らが一切、Posterの件を話題に出さないという事に。

 

 

 

 

 午前の授業は飛ぶように過ぎ、昼休憩の時間がやって来た。大食堂へ向かう道の途中、杳は誰かの肩にぶつかった。思わずよろめいた彼女の耳に、数人分の嘲笑がまとわりつく。

 

「だっさ」

「個性ないくせに……」

 

 顔の温度が一気に高まり、額から汗がぶわっと吹き出した。今にも口から飛び出しそうなスピードで、心臓が鼓動を打ち始める。

 

 ――通学途中、そして教室にいた時は、天哉を始めとした学友達が守ってくれていた為、杳はPosterの事を思い出さないでいられた。だが、クラスの外は違う。周りを行き交う雑踏の中から、怒った蜂の群れのような悪意ある声が飛び出して、杳を包囲した。サーチライトのように白熱した視線が、小さな背中にいくつも突き刺さる。

 

 ネットの誹謗中傷は()()()()()()と同じだ。誰でもいつでもどこででも発信する事ができるからこそ、一度燃え上がってしまうと収束させるのが難しい。

 

 泣きじゃくっている少女の顔が閃いて、杳は顔を俯かせた。我慢しなければ。今の自分に言い返す資格はない。冷たい真冬の海に沈められたように全身が凍え、息ができなくなり、杳はふらりとよろめいた。スカートの裾を握り締める両手の内側に汗が滲んでゆく。そんな杳の姿にさらなる義憤を覚え、誰かがスマートフォンを向けた、その時――

 

「君達って想像力がないのかなァ?!」

 

 廊下じゅうに響き渡るような大音声が炸裂し、人々の視線は杳から()()()へ大移動した。杳も顔を上げて声のした方向を辿る。そして、たじろいだ。

 

 ――1—Bの物間だ。彼は芝居がかった動作で両手を上げ、スマートフォンで杳を撮影しようとしていた一群を見ていた。助け舟に入ったのがヒーロー科の人間だと分かった途端、その中の一人は皮肉げに唇を歪める。

 

「こっちは悪者、そっちは正義の味方ってわけ?」

「いやいや、僕は()()したいのさ」

 

 物間は金糸のように美しい髪を梳き、白く細い指先で杳を指し示した。その紺碧の瞳は未だかつてないほどに輝き、澄んでいる。

 

「彼女に対する世間の評価は今、すこぶる悪い。だけど、未来は不確実だ。……もし幾多の苦難を乗り越えて免許を取得し、彼女が”本物のヒーロー”となったら?」

 

 ――その場がしんと静まり返る。

 

「醜聞は()()に変わる。今度は君達が非難される側に回るんだ」

 

 冷静な声が、悪意のヴェールを引き裂いていく。ここに来てやっと、杳は物間の真意を理解した。彼は常日頃からA組を目の敵にしているけれど、それは本当に憎くて嫌いだからじゃない。ライバルとして認めているからだ。そして彼は不甲斐ない自分をまだA組の一員だと思い、信じてくれている。

 

「だから、僕は我慢することをお勧めしたい。彼女が無様に三年間もがき回った末、仮免を落とした瞬間……思う存分、共に嘲笑おうじゃないか!アーッハッハッハッh」

「ッ?!」

 

 突如として物間の笑いが消えた。何時の間にかその背後に拳藤が忍び寄っていて、職人を彷彿とさせる滑らかな手刀を首筋に喰らわし昏倒させたからだ。意識を失った物間の首根っこを掴むと、拳藤は杳の前に立ち、人々を睥睨する。

 十代半ばの少女が発したとは思えない程の威圧感に押され、人々はたじたじと後退り、一人、また一人とその場から離れていった。やがて拳藤は振り返り、杳の視点に合わせるように屈み込んで微笑した。

 

「ごめんな。なんか困ったことがあったら言ってよ。B組(うちら)も力になるからさ」

 

 優しい言葉と眼差しが杳の体を暖め、酸素を注ぎ込んでゆく。暗い場所に迷い込んでも、誰かが必ず手を伸ばす。見捨てずに励まし、明るい場所まで連れて行ってくれる。――多くの人々に支えられて自分は生きている。”あなたは一人じゃない”。かつて掛本の与えてくれた言葉が、杳の心にじんわりと染み渡った。

 

 

 

 

 そのまま拳藤に誘われて、杳は大食堂で彼女達と共に食事を摂った。復活した物間の嫌味をBGMにハンバーガーを完食し、彼らにお礼と別れを告げてサポート科に足を向ける。

 

 サポート科の人々は俗事に興味がないのか、杳を見ても無反応だった。発目と逢えなかった二日の間に、あの工房では孤独――なんかではなく、さぞかし大量のベイビー達が生み出されているに違いない。頑張らなければ。杳の足は自然と早まった。そして工房のドア前に立った――

 

「シッターさん!」

 

 ――瞬間、ドアが勢い良く開け放たれて発目にタックルされ、杳は油と煤で汚れた床に盛大に倒れ込む事となる。

 

「ドッ可愛いベイビーができましたよ!」

 

 発目は杳に馬乗りになった状態で目をキラキラと輝かせ、()()()()を掲げてみせた。それは一見すると丸っこくて大振りなフォルムをしている遊戯銃(トイガン)に見えた。目が覚めるような黄色を基調としていて、銃口はラッパのように丸く広がり、その表面には”HOBAKU”というポップが躍っている。発目は杳を助け起こすと、工房の中に招き入れた。

 

「ネットランチャーです。捕縛布に似た構造の物質を格納しています。カートリッジ式なので、戦闘時は充填(リロード)のタイミングを考慮する必要がありますが」

 

 発目が指し示す先には、壁に寄りかかるようにしてマネキン人形が転がっていた。促されるまま、杳はアイテムを構えて安全装置を外す。小さな電子音と共にアイテム上部にターゲットスコープが展開された。その中に人形を入れて引き金を引くと、銃口から白い塊が射出される。それは空中で大きな蜘蛛の巣状に広がり、瞬時に人形を絡め取った。

 

「……ッ?!」

 

 ――自分が数ヶ月かけても達成できない事を、たった一瞬で。

 

 科学の力、否、発目の類まれなる才能を目の当たりにし、杳は初めて火に触れた原始人のように目と口を丸くして、立ち竦んだ。その手からアイテムを取り上げると、発目は興奮冷めやらぬ顔つきで説明を続ける。

 

「捕縛対象をロックして引き金を引く事で、サイズ・距離感をこの子が自動的に計算し、ネットを射出・展開してくれます。そうですね、3Dプリンターと同じような原理だと思っていただければ」

「……」

「シッターさん?聞いてます?」

「う、うん。聞いてる、ごめん。あの、あまりにすごくて言葉が……」

 

 上擦った声で返事すると、杳は血豆だらけの両手を見下ろした。彼女の心の内側で、ある種の()()()が生まれようとしていたからだ。捕縛布は手で扱うものだという固定概念が邪魔をして、このネットランチャーを使う勇気が持てない。一人だけズルをしているような気がする。

 

「なんていうか、その……捕縛布って、機械で使っていいのかな」

 

 アッと思った時には、もう本音が口から飛び出していた。杳は申し訳なさのあまり、発目の顔を見ていられなくなって俯いた。せっかく作ってもらったのになんて言い草だ。視線の先にある発目のズボンは二日前に見た時以上にボロボロになっていて、杳はますます縮こまった。しかし、発目はそんな彼女の様子を気にする事なく、不思議そうに首を傾げる。

 

「シッターさんはヒーローになりたいんですか?それとも、捕縛布を手で扱えるようになりたいんですか?」

「ぐうっ!」

 

 強烈な言葉の矢が杳に突き刺さり、彼女は思わず悶絶した。ぐうの音も出ないとはまさにこの事だ。

 

 閉じた瞼の裏に、敵に囚われた少女の姿が閃く。――発目の言う通りだ。もしあの時、このアイテムがあれば彼女を救えていたかもしれない。自分の至らなさを恥じていると、ささくれた皮手袋が杳の肩をそっと掴んだ。スコープのように不可思議な瞳が、杳の血豆だらけの手を映し出す。それは瞬きする間もないくらいに一瞬の事だったので、杳が気付く事はなかった。

 

「既成概念は成長の妨げになります。囚われない事が大事です……が」

 

 発目は中途半端に言葉を区切ると、人形の傍にしゃがみ込んで、網の一部を持ち上げた。網の外周には投網を彷彿とさせる()()()()がずらりと付随している。

 

「形状記憶ポリマーを混ぜたので、網の強度は捕縛布(オリジナル)より劣ります。そのフォローをこの子に任せたいのですが、なかなかの曲者でして。重くし過ぎると動作の邪魔になるし、吸着性のある素材を探しているのですが……心当たりあります?」

 

 投網についた錘は沈降力、つまり投げた場所に網を()()()()役割を持つ。発目はそれと同じように、捕えた敵をその場から動けないようにする仕組みを錘に付与したいと考えていた。――どんなものにもくっつく素材。杳はクラスメイトの一人に心当たりがあった。

 

 

 

 

 杳と発目は大食堂へ向かい、程なくして目当ての人物を発見した。ブドウのような色と形状をした頭が特徴的な生徒、級友の峰田だ。食堂内で一番見晴らしの良い席に陣取り、熱心に――女生徒限定の――人間観察をしている彼が、瀬呂と共にPoster事件をいち早く天哉に報告してくれた事は杳の記憶に新しい。

 

 やがて峰田の視線は杳を通り過ぎ、発目の胸部で固定された。杳が彼の前に到達して声を掛けても、彼は魂を抜かれたような表情で生返事をするだけだ。

 

 杳はなんだか嫌な予感がして、そっと傍らに立つ発目を見た。あまり意識した事はなかったが、良く見ると彼女の乳房はとても大きく迫り出している。そしてそのたわわな膨らみを、インナーパットの入ったキャミソールだけで支えていた。発目は先程から溢れんばかりの知的好奇心に顔を輝かせ、峰田の髪を見つめている。

 

 ――出会わせてはいけない二人を出会わせてしまったかもしれない。杳は強烈な罪悪感に駆られ、峰田に早口でまくし立てた。

 

「峰田くんもぎもぎ一つだけもらっていいかな?」

「ウン、イイヨ」

「一つと言わず、十個ほどいただいてもよろしいですか?」

「ウン、イイヨ」

「ありがとうございますいただきます!」

 

 明らかに様子がおかしいと思った杳が止める前に、発目は両手を伸ばして峰田のもぎもぎをもぎ取った。

 ――峰田の個性は”もぎもぎ”、頭から粘着力の高いボール状の物質を無限に生み出す事ができる。攻撃力こそないが、相手を傷つけずに無力化できる良い個性だ。粘着力は体調に左右されるらしく、本人以外にくっついたもぎもぎは峰田本人にも剥がす事はできない。その情報を事前に杳から得ていた発目は、手袋の上に薄いビニールを貼っていた。

 

「ブニブニとした感触ですね。えーとお名前忘れました……にくっついている状態では粘着力はナシ。しかし離れると……なる程、力を発揮すると。実に興味深い。何で構成されているのか非常に気になります。縦に並んでいるようですが、位置や大きさによって効果が違ったりするんでしょうか?」

「は、発目さん。もうその辺で……」

 

 もぎもぎは髪の毛が変異したものらしく、もぎり過ぎると出血する恐れがある。茶葉を摘み取るように淀みないスピードで紫色の玉を刈り取ってゆく発目の肩に手を置いたところで、杳は言葉を失った。

 

 収穫に没頭するあまり、発目はいつしか峰田に抱き着くような恰好になっていて、彼の顔は豊かな乳房の中に完全に埋もれていた。制服の袖から露出している峰田の両腕は真っ赤に変色し、震えている。

 ――窒息死しかけている!杳は慌てて発目の肩を掴み、引き離した。

 

「大丈夫?発目さんも大丈夫?」

「何がです?」

 

 窒息死しかけた峰田のバイタルと、不可抗力ではあるが異性に触れられてしまった発目のメンタル、杳は双方を気遣う必要があった。この事故の原因は自分なのだ。

 発目はきょとんとして杳を見つめ返すだけだった。一方の峰田は喉を震わせて呼吸をしながら、心拍数を整えている。やがて、がっくりと項垂れた彼の顔から、大量の液体がボタボタと垂れ落ちた。――涙と鼻血だった。

 

「……白雲」

「ん?」

「俺ァ、もう死んでもいい」

 

 

 

 

 その日の夜。杳が自主練を終えて玄関先で靴を脱いでいると、峰田がやって来た。彼は杳の名前を呼び、一枚のTシャツを放り投げる。

 

「わ、何?」

 

 慌てて受け取ると、懐かしい香りが鼻腔を掠めた。怪訝に思ってよく見ると、それは()使()の服だった。黒猫のシルエットがトレードマークになっている海外のブランドで、学友内では彼以外に着用者はいないはず。少しくたびれた服の生地に触れているだけで、杳の心は緩んで泣きそうになった。慌てて唇を噛み、理性を奮い立たせる。

 

 ――そもそも何故、峰田が彼の服を自分にくれたのか。答えを求めて峰田を見ると、彼はこちらに向かってウインクしてみせた。

 

「やるよ。洗濯室からかっぱらってきた」

「なんで?」

 

 峰田はおもむろに靴箱に寄りかかる。それから訳知り顔で笑い、鼻の下を小粋に擦ってみせた。

 

「一つ良い事を教えてやる。好きな奴の服ってのは、もうその人そのものっつっても過言じゃねえ。最高のオカズだ」

「最高のオカズって?」

「ググれ。そして夜食を楽しめ」

 

 杳はひとまずTシャツを畳み、人使に返そうと共有エリアを覗いた。しかし、彼の姿はない。洗濯室にもいなかった。エレベーターで五階に上がり、彼の部屋のドアをノックするも返事はない。――寮外に出ているのだろう。

 REINをして部屋の前に置いておこうかとも思ったが、峰田の発言したフレーズが妙に気になって、杳は一旦自室に持ち帰る事にした。寝支度を済ませた後、杳はベッドに寝転がり、スマートフォンで”夜 オカズ”と検索する。

 

「……ッ!」

 

 次の瞬間、四角く切り取られた世界は刺激的な情報で溢れ返った。杳はたまらず顔を真っ赤に染め、スマートフォンを放り投げる。――さすがエロの伝道師、峰田といったところか。杳は頭を振って気を取り直すと、Tシャツを返すため、布端を掴んだ。その際、何となく鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。

 

 人使の良く使う柔軟剤の香りがした。寂しい気持ちが、少しだけ和らぐような気がする。Tシャツの下に腕を入れ、袖から手を出した。目を閉じて、自分の頭を撫でてみる。

 ――杳は想像した。人使が自分の頭を撫でている光景を。暖かなセピア色の追憶に、脳が浸されていく。心がゆっくりと(ほど)けていく。最高のオカズだよ、峰田くん。杳はそう思い、じんわりと涙を流した。

 

 

 

 

 同時刻。夜のロードワークを終えた人使は洗濯室に立ち戻り、乾燥機から衣類を取り出していた。すると、出入口から口笛が飛んできた。峰田が壁に寄りかかり、妙に大人ぶった表情でこちらを見ている。人使は何事もなかったかのように視線を逸らし、作業を再開した。

 

「良いご身分だよなァ彼女持ちってのは。それだけで全てを手に入れた気分でいやがる。大切なモノを失ったことにも気づかねぇ」

「何が言いたい」

「ヒッ!か、カゴを見てみな!」

 

 地を這うような低い声と、相澤に良く似た鋭い眼差しを受け、峰田はたまらず怯んだ。しかし、彼はなんとか元の調子を取り戻し、洗濯物を改めるよう人使に指示する。人使は面倒臭そうにカゴの中をかき回した。そして、ようやく気付いた。――愛用しているTシャツがない事に。

 

「Tシャツ」

「そいつは今、白雲んとこにいるぜ」

「……は?」

「なぁ、心操」

 

 やけにシリアスな声音で名前を呼ばれ、人使は思わず顔を上げた。いつもの様子を知る者が見れば驚く程に、今の峰田は真摯な表情を浮かべている。その瞬間、人使は理解した。何の気まぐれかは知らないが、峰田が杳と逢う口実を創ってくれたのだという事に。

 

「清廉潔白なお付き合いっつーのもいいけどよ。大概にしねえと、マジで大切なモノを失うぜ」

 

 エレベーターで五階に上がり、人使は杳の部屋へ向かった。ベッドの脇に座り、花弁のような薄いヴェールをかき分けると、色とりどりのクッションに埋もれるようにして少女が眠っている。見覚えのあるTシャツで上半身が隠れていて、そっとめくると泣きそうな顔が露わになった。

 

 人使は持ちうる理性の全てを動員させ、腹の底から突き上げてきた衝動を押し留めた。手を伸ばし、杳のフワフワ頭をかき混ぜる。まるで実家で飼っている犬のようだと彼は思った。

 

 峰田の言葉が脳裏に蘇り、人使は静かに溜息を漏らした。Poster事件で疲弊している杳を、峰田が気遣っているのは分かる。だが、それに迎合する事はできない。

 

 思春期の男女が同じ屋根の下で過ごすという特殊な環境下にいる以上、決して踏み越えてはならぬ一線というものがある。寂しさを堪えているのは人使も同じだった。

 加えて今は、杳のコンディションが悪すぎる。少しでもルールを緩めれば歯止めが効かなくなり、彼女はずっと自分に甘えるようになるだろう。そうすると、なし崩し的にクラス全体の風紀に影響が及ぶ可能性がある。皆、懸命に夢を追っているのだ。だが、せめて眠っている時くらいは……。

 

「寂しい想いさせて、ごめんな」

 

 人使は杳の頭を最後にひと撫でして、部屋を立ち去った。ドアの閉じる音がしてから、杳はTシャツを抱き締め、胎児のように体を丸めて泣きじゃくる。――()()()()だった。

 

 

 

 

 その翌日の夜。杳は自室で課題をこなしていた。雄英は国内有数の進学校、宿題も山のように出る。八百万謹製の対策ノートを参考にしながら書き進めていると、スマートフォンが鳴った。杳は画面を見るなり、アッと声を上げた。

 

 ()()からだ。懐かしい記憶が走馬灯のように脳裏を駆け去ってゆく。空港で別れを告げた時、杳は夢路と定期的に連絡を取り合おうと約束した。だが、新天地の生活は想定以上に忙しいらしく、REINのトーク画面は何往復かしたきりで終わっている。その彼女から連絡が来たという事は、やっと余裕ができたのだろう。

 話したい事、聞いて欲しい事が沢山ある。杳はシャープペンを投げ出して、興奮するあまり震える指先で画面のロックを解除しようと――

 

 ――したところで、()()()()()()()()。明るい感情で膨らんだ心がパチンと弾けたような気分だった。杳が黒霧を救う為に治崎に協力を要請した事、彼らが更生敵となった事を、夢路は知らない。いや、もしかしたら真を通じて知っているかもしれない。

 杳はしばらく迷うも、画面のロックを解除した。

 

 その瞬間、スクリーンいっぱいに粒子の荒い映像が浮かび上がる。どうやらLive通話にしているようだ。画面の片隅にはキッチンらしき場所が映っている。家の中で撮影しているらしい。やがて映り込んだ人物の顔を見るなり、杳の思考と呼吸は止まった。

 

 ――()()だ。癖のある銀髪をショートヘアにしている。真っ赤な瞳がこちらに向いた途端、彼女は驚いたように目を丸くして、それから恥ずかしそうに微笑んだ。

 

「ひさしぶりだね、杳ちゃん」

 

 たった数ヶ月の間に、壊理の様子は()()()()していた。少女の顔はふっくらと丸くなり、ほっぺは薔薇色に色付いている。まるでお日様でできているみたいに、体の内側から輝きを放っていた。酸鼻を極める虐待を受け、心が壊れかけていた頃のあの陰りは少しも見当たらない。

 

 壊理は杳の破けた心を(つくろ)い、明るい感情を詰め込んだ。愛らしい少女の姿が見る間に涙で滲んで、ぼやけていく。ついに感極まり泣き出した杳を見て、壊理は明らかに狼狽した様子を見せた。

 

「だ、大丈夫?どこか痛いの?」

「ううん。大きくなったな、と思って……嬉しくて」

 

 杳は涙を拭って鼻水をすすると、微笑んだ。壊理は小さく吹き出す。妙に大人びた仕草だったが、不思議と様になっている。それは、彼女が経てきた経験から滲み出てきたものなのかもしれなかった。

 

「まだ数ヶ月しかたってないよ」

「そうだね。ごめん。……夢路は元気?」

 

 壊理は大きく頷くと、カメラをキッチンの方へ向けた。こじんまりとした造りのキッチンで、夢路が料理を作っている。彼女は包丁を振り、”後でね”と囁いてウインクしてみせた。

 

 夢路が合流するまでの間、壊理は色んな出来事を話してくれた。痛んだ部分をばっさりと切り、ショートヘアにしたのだという事。ジェントルの事務所はとても忙しいが、毎日有意義だと夢路が言っている事。難しい個性をコントロールする専門の教育機関があるらしく、壊理はその学舎にあるヒーロー科に通学しているのだという事。友達とお揃いのランチバッグを買ってもらい、毎日ランチが楽しみなのだという事。アメリカのハンバーガーはとても大きくて、いつも夢路と二人で一つ分を完食するのだという事……etc.

 

 こんなに屈託なく笑い、明るく話し続ける壊理の姿を、杳は初めて見た。まるで別人だ。だが、今の方がずっとずっと良いと杳は思った。

 そして同時に、心の片隅で()()()がむっくりと頭をもたげた。それは治崎の姿をしている。心臓が不規則なリズムで鼓動を打ち始めた。徐々に体が痺れて、手足の感覚も覚束なくなっていく。

 

 壊理は治崎の一件を知らない。杳はそう確信した。だから自分を見て、こんな風に笑う事ができている。知っていたなら許せないはずだ。

 

 ――自分は治崎を利用し、更生敵にして刑務所から解放し、壊理を裏切ったのだから。

 

 あの時はただ黒霧を救う事に精一杯で、深く考えている余裕はなかったが、壊理を目の前にしてようやく杳は自分の罪を自覚した。そして、罪と向き合うのが()()()()()。自分のした事が知れれば、壊理の修復しかけた心はまたズタズタに傷ついてしまう。もうあの悲惨な表情を見たくない。杳は思わず壊理から視線を逸らし、俯いた。

 

「どうしたの?元気ないね」

「う、ううん。平気だよ。ごめん、ちょっと眠たくなって」

 

 心配させてはダメだ。杳は自分を叱咤して気丈に笑おうとした、その時――

 

()()()()()()()()()

 

 ――その言葉に、呼吸が止まった。恐る恐る顔を上げると、そこには壊理の笑顔があった。だが、紅玉のような瞳は笑っていない。その奥には白熱した怒りの炎がぎっしりと詰まり、轟々と燃え盛っていた。

 

「真さんから聴いたよ。あの人を刑務所から出したんでしょ」

 

 虚ろに開いた杳の唇から、絶望の呻き声が漏れる。考えうる限り、最悪の結末だ。頭が真っ白になって何も考える事ができない。

 

 突如として、酸の海から自分を救い上げた()()()が、脳裏にフラッシュバックした。焼き芋を手に笑い合う玄野達の姿も。だけど、それを言って何になる?余計に壊理を追い詰め、傷つけるだけだ。過去は消えない。そしてそれは自分も同じだ。杳はわなわなと震える声で、なんとか言葉を紡いだ。

 

「ごめん。壊理ちゃん。あの……」

「許さないよ」

 

 苛烈な言葉が、杳の頼りない言葉を薙ぎ払った。涙の滲んだ目を乱暴に擦り、嗚咽を飲み込んで、杳は前を向く。泣く資格は自分にないと分かっているからだ。

 

 壊理は憎々しげに杳を睨んだ。真っ赤な瞳が潤んで大粒の涙が零れ落ちる。小さな画面越しにも分かるほど、呼吸が浅く、速くなっていく。――過呼吸を起こしている。杳は思わず手を伸ばした。しかし、その手が画面にぶつかる直前、壊理は身を退いて避ける。杳の心臓が、見えない手に握り潰されたかのような痛苦を訴えた。

 

「杳ちゃんは、自分を救けてくれる人なら()()()()()()んだッ!私にあんなこと、したのに……たった一回の人助けで、あの人は今、刑務所から出て、外の世界にいるの?」

 

 ――その通りだと杳は唇を噛み締めた。だけど、治崎は悪くない。彼を脅して協力させたのは自分だからだ。激しくしゃくり上げながら、壊理は苦しくて熱い言葉の(つぶて)をぶつけ続ける。

 

「よく仲良くできるよね。私が、どんな扱いを受けたか、どんなに辛い想いをしたか、知ってるはずなのに!」

 

 壊理の言葉を受け止める以外に、杳ができる償いはない。ただ、壊理が好きだった。それと同じ位に、治崎達も好きだった。ついに壊理は椅子を蹴立てて立ち上がり、悲鳴のような声を放った。

 

「大嫌いッ!見損なったよ。憧れだったのに……ッ、もう二度と会いたくない!顔も見たくない!」

「ご、めん……」

 

 自分の罪深さにいよいよ耐え切れなくなり、杳が思わず俯いた、その時――

 

「……でも」

 

 小さく震える少女の声が、その心を揺らした。

 

「それでも、杳ちゃんが好き」

 

 しんとした静寂が周囲を包み込む。ぼんやりした灰色の瞳と赤い瞳が、静かに交錯した。呆気に取られる杳の前で、壊理は涙を拭い、笑う。自分の体を貫く敵の刃をものともせず、救いを求める人々に気丈に接するヒーローのような笑顔だった。痛々しいほどの強い輝きを放っている。

 

 壊理は胸に手を当てて、深呼吸した。心の中は嵐が吹き荒れている。好きと嫌い、憎悪と愛、恐怖と勇気――さまざまな相反する感情がオセロのように重なり合い、混在している。もう二度と思い出したくない記憶もあれば、絶対に忘れたくない特別な記憶もある。全部手放したいけど、どれ一つとして手放したくない。

 

「きっとこの気持ちが、杳ちゃんのいる場所なんだよね」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(わたし、おべんきょうがんばって……ようちゃんみたいな、ヒーローになる)

(あー……うーん……)

 

 あの時、あなたは迷っていたよね。

 ずっと不思議だったけど、今なら分かる。

 

 ……肯定したら、私があなたの跡を追いかけると分かっていたから。

 

 あなたは私を救けるために敵になった。

 自分の家族を傷つけた敵と手を取った。

 

 全てを失い未来すら危うい状態なのに、あなたはあの時、私の未来を考えていた。

 

 杳ちゃんは救けてもらえるなら誰だっていい。

 でも、救ける人も誰だっていいんだ。

 浅ましくて、弱虫で、残酷なまでに優しいヒーロー。

 

 だから、私は憧れた。

 あなたのようなヒーローになりたいと思った。

 あなたの心に近づきたいと思った。

 

 

 

 

 確かな痛みを訴え続ける心を押さえて、壊理は気丈に微笑んだ。()き止められたダムが崩壊するように、感情や涙がどっと溢れてくる。杳は最早辛抱たまらず、顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣き出した。

 

「私のこと、真似しなくていいよ」

 

 ――自分の心は決して公式(オフィシャル)にはなれない。いつまで経っても、敵ともヒーローともつかない中途半端な道を行く、非公式(イリーガル)なままだ。多くの人の救けがなければ通ることのできない、辛く険しい道程だった。だが、壊理は違う。自分の轍を辿る必要はないのだ。

 

「許さなくていい。許せなくていいよ。もっと怒っていいんだよ。殴ったって、何したっていい」

「……フフ。そんなこと言ってたら、また逮捕されちゃうよ」

 

 壊理は小さく吹き出した。幼児のように泣きじゃくる少女の姿を見て、彼女はまた笑う。私よりも小さな子供みたいだ。――いや、違う。壊理は思い直して、首を横に振った。彼女の方が、私よりずっと大人だ。だって、治崎と戦う勇気がまだなくて()()()()()()をぶつけても、彼女は何も言わずに受け止めてくれた。

 

「杳ちゃんが敵になっちゃうのは嫌だ。たとえ個性を失ったって、私にとって、ずっとずっとヒーローだから」

 

 後に続く言葉がない。杳の瞳からまた涙が溢れた。悲しみではなく、歓喜の涙だ。杳は小さくしゃくり上げながら、不器用に微笑んでみせた。

 

「もー見てらんないわあんたたち!」

 

 素朴な声が、湿っぽくなった空気を混ぜっ返す。()()だ。壊理はあどけない子供の顔つきに戻り、夢路の腕の中に飛び込んで、わんわんと泣きじゃくった。溢れる感情を抑え切れなくなったのか、手放しの状態で泣いている。

 夢路は母そのものといった表情で、我が子を愛おしそうに抱き締めた。壊理を膝に載せてあやしながら、彼女の短く切った髪を弄ぶ。

 

「ほら見て。この子のヘアスタイル、あんたに似せたのよ。”痛んだところを切った”って……フフ、カッコつけちゃって」

 

 杳は胸がいっぱいになって、何も言えなかった。夢路は悪戯っぽく笑い、壊理の鼻をくすぐる。壊理は恥ずかしそうに身を捩って、ますます夢路の胸に顔を埋めた。毛先の間からちらりと覗いた耳が赤く染まっている。

 

「すっごく可愛いよ、壊理ちゃん。似合ってる」

 

 杳が力を込めてそう言うと、壊理はにっこりと笑った。華やぐようなスマイルがまた見れた事に、杳は心から満足した。すっかり元気を取り戻した壊理の背中を優しくさすると、夢路は歌うように言葉を紡ぐ。

 

「えーり。もう一個、言いたいことがあったんじゃないの?」

 

 一体、何の話だろう。杳がきょとんとしていると、壊理は夢路の胸の中でこくんと頷き、小さく咳払いをして杳と向き合った。

 

「あのね。……私、訓練して個性をコントロールできるようになったの。まだ完全じゃないけど」

 

 驚いたとばかりに大きく息を飲む少女の姿を見て、壊理の胸は誇らしい気持ちでいっぱいに膨らんだ。

 

 アメリカにおいて、強い個性を持つ者はその力を善き事に使う()()が課せられる。日本だけでなくアメリカにおいても、治療系の個性は希少だ。壊理の持つ”巻き戻し”の個性もそれに当て嵌まる。壊理は専門の教育機関で訓練を積み、公務執行時のみ個性を使用できる特別資格を取得した。

 

 アメリカと日本は友好関係にある。敵連合の逮捕に苦心する日本が、脳無・黒霧の修復作業の協力をアメリカに申請し、その執行チームの一員として壊理が選ばれたのは全くの偶然だった。だが、黒霧の正体が杳の兄だと知った時、壊理は()()()と思った。

 

 ――ずっと恩返しがしたかった。本当は杳の個性を戻してやりたいが、よほどの重要人物でない限り不可能だ。ならば、黒霧を巻き戻す事こそが、現状における最大級の恩返しになる。大いなる希望と夢を持って、壊理は言葉を紡いだ。

 

「あなたのお兄ちゃんを治せるかもしれない」

 

 

 

 

 その日の夜、杳は夢を見た。多戸院市内の公園に座っている。噴水から舞い上がる水飛沫が、陽光に反射してダイアモンドのように輝いている。ベンチに座ってぼんやりとその光景を眺めていると、すぐ隣に誰かが座る気配がした。視線を向けると、見覚えのある()()()()()がこちらを見ていた。赤い瞳がゆっくりと瞬く。

 

「元気?」

 

 杳は答えようと息を吸い込んで、何も言えなかった。中途半端に開いた唇から空気だけが押し出される。水が落ちる音がざあざあと響き、沈黙のヴェールを押し流していく。その音は次第に大きくなり、やがて規則正しい電子音に変わって――杳は()()()()()

 

「……」

 

 むっくりとベッドから起き上がり、膝を抱えて丸くなる。何故こんな夢を見たのか、杳には分かっていた。

 

 ――巻き戻すという事は、朧を生き返らせ、()()()()()事になるからだ。

 

  杳は強く頭を振って自分に言い聞かせた。余計な事は何も考えるな、と。黒霧は兄の個性因子を元に創られた人工知能のようなものだ。乱暴な言い方をすれば、多重人格者が持つ人格の一つに等しい。朧の体は朧のものだ。いずれ黒霧の意識が兄の中に統合されるなら、終わりを少し早めるだけじゃないか。何も不安に思う必要はないんだ。

 

 ふと喉の渇きを覚えて小型冷蔵庫へ向かう。扉を開けると、ひんやりとした冷気が小さな体を包み込んだ。その瞬間、杳の心が過去の記憶と同期(リンク)する。――冷たい夜風。月の光。水仙の花。草の匂い。カーペットの柔らかな感触。一緒に飲んだお茶の味。そして、優しく細められた金色の瞳。

 

 杳はストロベリーティーのミニペットボトルを取り、ベッドの端っこに腰かけた。蓋をねじ開け、中身を口に含む。優しい苺の香りが鼻腔を駆け抜けていった。

 

 黒霧だった未来を消せば、兄は解放される。だが、冒した罪が消えるわけじゃない。――()()()()()()。杳は憤慨してペットボトルを握りつぶした。兄は何も悪い事はしていない。したのは黒霧じゃないか。

 

 いや、違う。させたのはオール・フォー・ワンだ。凸凹になったプラスチックの表面に、自分の虚ろな表情が映り込む。やり場のない感情を弄んでいると、スマートフォンが鳴った。塚内警部からのショートメールだ。こんな早朝に珍しい。杳はメール画面を開き、息を飲む。

 

 ――それは、黒霧の面会許可が下りたという知らせだった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 多戸院市のどこか、朽ちかけたビルの地下室にて。薄汚れたベッドに身を沈め、青年が煙草を吹かしていた。ベッドの周囲には空の酒瓶や注射器が散らばり、その中に埋もれるようにして女性が眠っている。彼女の顔には涙で濡れていて、体じゅうに痛々しい暴行の痕が刻まれていた。

 

「いーい拾い物したよ。俺は。やっぱついてる。敵としての才能()あったわけだ。なぁ」

 

 青年が語り掛けると、女性は怯えたように目を見開いて肩を揺らした。彼は薄く笑い、スマートフォンを取り出してPosterのアプリをタップする。

 キーワードを入力して検索すると、ある雄英生の盗撮画像がピントの合わない状態で数枚、浮かび上がった。それに付随したコメントを見て、薄い唇を噛み締める。彼はその生徒に心からの()()を向けていた。

 

 同情と一口に言っても、その内実は様々だ。青年が今向けている感情は、絞首台を上がる死刑囚同士、偶然目が合って、互いの運命を無言で分かち合うような――暗く濁った、陰惨なものだった。

 

「可哀想に。俺が救けてやるよ」

 

 ――仄暗い感情を宿した声が気怠い空気に溶け、消えていく。




なんだこのSS…と毎回不思議に思いながら書いていて、時折くじけそうになるのですが、その度にお目通しいただいている皆様に救われております。
いつも本当にありがとうございます。

次回からやっと事態が大きく動く感じになります。夢路(昨日の電話の続き)と朧・相澤先生を忘れずに前半に書かなければ。ここまで長かったぜほんと…。


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No.79 継がれゆくもの

≪オリジナル登場人物紹介≫
●曽我瀬文太(そがせぶんた)
チームIDATENの拠点地区に突如出現したホームレス達のリーダー。現在は行方不明。通称曽我さん。
●熊猫笹次(くまねこささつぐ)
チームIDATENの拠点地区に突如出現したホームレス達の仲間。元・ヒーロー。

≪アレンジ登場人物紹介≫
●眠羊(ねむりひつじ)
チームIDATEN所属のヒーロー。元・インゲニウムのサイドキック。
※ヴィジランテ2巻中盤に登場する女性ヒーローです。外見以外は全部作者のねつ造です。ややこしくてすみません…。

※追記:作中に残酷な表現、気分を悪くするような描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 翌朝、九時。杳は午前中の授業を免除され、タルタロスへ向かう運びとなった。黒霧の件は一部の人間しか知らない為、表向きの理由は”かかりつけ医の定期診察を受ける為”という事になっている。クラスメイト達の心配そうな顔に見送られ、杳は最寄りの停留所から海岸線行きのバスに乗り込んだ。

 

 通勤時間のピークを過ぎた為か、車内には人がほとんどいない。杳は一番奥の席へ向かい、くたびれた布張りのシートに腰を埋め、スマートフォンを取り出した。画面に触れると、壊理と夢路が幸せそうに笑っているツーショットが浮かび上がる。杳の心は綻んだ。昨日、夢路に送ってもらったものだ。

 

 やがて出発時間がやって来たのか、ガスの抜ける音がして扉が閉まり、バスはゆっくりと走り出す。穏やかなバスの揺れと窓ガラス越しに流れる風景を何となく受け入れている内に、いつしか杳は眠り込んでいた。夢と(うつつ)揺蕩(たゆた)う意識は、数時間前に経験した記憶の一欠けらに触れ、融け込んでゆく。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(あなたのお兄ちゃんを治せるかもしれない)

 

 壊理の紡いだ言葉を理解するのに、杳は多くの時間を必要とした。ようやく言葉を噛み砕いて理解した時、突然、頭の中に()()()姿()がポッと思い浮かぶ。まるで魂が抜けたように杳が茫然としているので、強い不安に駆られたのか、壊理は眉根を下げ、体を竦ませた。

 

(どうしたの、杳ちゃん。ご、ごめん……わたしッ)

(ううん。ありがとう。すっごく嬉しいよ!嬉し過ぎて、ちょっと茫然としてた)

 

 少女の怯えた声を聴いて杳はハッと我に返り、大きく笑った。――()()()()()()()()()じゃないか。自分にそう言い聞かせ、いまだに何の反応も見せない心を叱咤する。

 

 お兄ちゃんに逢えるんだ。あの青空を映し込んだような瞳でまた自分を見てもらえる。それに将来、自分がもっとヒーローとして頑張り、そして全ての事が上手く運べば、一緒に家に帰れるかもしれないんだ。十三年前に穿たれた()()()()をようやく塞ぐ事ができる。杳は頭の中で幸せな家族の想像図を描き、視界の端から忍び寄ろうとする――靄がかった罪の記憶に気付かないフリをした。

 

 杳が笑顔を見せた事に壊理は安心し、興奮して上擦った声で一生懸命、未来の話をしてくれた。――曰く、今は国から指示を受けた人物しか施行対象とはならないが、いずれヒーロー免許を取得し、一般市民である杳も治せるように頑張るという事。

 壊理の個性は事象そのものを巻き戻す、とても特異な能力だ。近い将来、彼女が救うであろう大勢の人々を思うと、杳の瞳はまたも涙で潤み、心は誇らしい気持ちでいっぱいになった。

 

 やがて壊理はこっくりこっくりと船を漕ぎ始めた。小さな心臓に閉じ込めていた感情を一気に解放した反動で、疲れてしまったのだろう。見る間に瞼は下がり、言葉が途切れ途切れになり――壊理はぐっすりと寝入ってしまった。

 

 そっと様子を見守っていた杳と夢路は顔を見合わせて、小さく笑う。夢路は手を伸ばしてどこかからブランケットを引き寄せると、それで壊理を(くる)んだ。壊理はわずかに身じろぎして、夢路の胸にすっぽりと納まり込む。

 

 数ヶ月の間に様変わりしたのは壊理だけじゃない。()()もそうだと、杳は目を見張った。ミディアムヘアを(うなじ)が見えるくらいに短く切り、シンプルで品の良いファッションに身を包んでいる。メイクもしていないのに纏っている雰囲気は女性そのもので、その中に母親特有の肝っ玉――ある種の()()が混ざり、杳を軽く圧倒させていた。空港で別れる直前まで夢路が持っていたはずの、臆病で気弱な面は少しも見当たらない。

 

 ――本物の母娘になるのに、血の繋がりや時間は関係ないのだ。杳はそう思わざるを得なかった。テーブル上にある子供用の花柄グラスを取り上げながら、夢路はウインクする。

 

(少しお話ししない?あんた、夜更かしできる方だっけ)

(うん)

 

 夢路はグラスにブランデーを注ぎ、杳は冷蔵庫を開けて苺サイダーの缶を取り出し、二人は酒とジュースで乾杯を果たした。段ボールをテーブル代わりにして、味噌汁用の椀で苦いコーヒーを飲んだ記憶をふと思い出して、杳は懐かしい気持ちになった。今は部屋どころかそれぞれ違う国で、画面越しに杯を交わし合っている。たった数ヶ月で過去と今はこんなにも変わるものなのだと、杳は笑った。

 

(なんだか懐かしいような、新鮮なような……不思議な感じ)

(大人になったってことよ。お互いに)

 

 夢路はグラスを回しながら、小さく微笑んだ。相当使い込んであるのか、ガラスの表面にプリントされた花柄が剥げかかっている。ブランデーを口内で転がしながら、夢路は絵画を鑑賞するようにじっくりとした目線で杳を見つめた。

 

(あんた、素敵になったわ。前よりずっと綺麗になった)

 

 面食らい、思わず手鏡で自分の髪と目の隈を確認する杳なのであった。以前の姿を知る大抵の人は、今の姿を見ると、決まって痛々しいものを見るような表情をする。綺麗とは程遠いと思うが。自信なさげに顔を俯かせ、杳はおずおずと夢路を見上げた。

 

(そ、そう?)

(影のある女は美しいの。自信持ちなさい)

(影……)

 

 突然、杳の脳内にポンと()()の姿が現れた。彼は無邪気に金色の瞳を細め、”キニスンナ!”と笑っている。杳の気分は楽になった、ような気がした。コットンのようにフワフワした白髪を指先に絡め、杳は恥ずかしそうに首を傾げる。

 

(そういうもの、なのかな)

(そーゆーもんよ)

 

 夢路があまりにも大きく胸を張り、自信満々に言い放つので、耐え切れなくなって杳は思わず吹き出した。それでも笑いの波は治まらず、やがて夢路にも伝播して、二人は壊理を起こさないように声を潜め、クスクス笑い合った。

 

 それから、二人は時折喉を潤しつつ、互いの近況を訥々(とつとつ)と話していった。渡米してからトラブル続きだったが、一番大変だったのは、壊理が”治崎が更生敵になった事”を知った時だと夢路は苦笑する。壊理はひどく興奮してパニック状態になり、おまけに個性も暴発しかけて、宥めるのにとても苦労したらしい。

 

(あんたを責めた時、私は止めなかったわよ。じゃないと、この子を傷つける事になるでしょう)

(分かってるよ)

 

 夢路が壊理の全面的な味方になってくれているという事に、杳は心の底からホッとした。()()()()の大切さを、杳は良く知っている。だからこそ、壊理は本当の自分を見つけ、未来に向かって歩き出す事ができたのだ。彼女を救ってくれたヒーローに、杳は心から感謝の言葉を口にする。

 

(ありがとう。壊理ちゃんを幸せにしてくれて)

(お礼を言われる筋合いはないわ。家族なんだから)

 

 夢路は顔を赤らめ、照れ臭そうに笑った。笑うと、猫が欠伸をする時のようにクシャリと目が細まる。大好きな表情をまた見る事ができて、杳はますます嬉しくなった。ふと壁掛け時計を見ると、もう時刻は深夜十二時を回っていた。そろそろ寝る時間だ。杳が小さく欠伸をすると、夢路は優しく微笑んだ。

 

(もう休む?そっちは夜遅いでしょ)

(うん)

 

 二人の顔が見れなくなるのは名残惜しいが、これで今生の別れというわけじゃない。夢路によると、新天地での生活がようやく軌道に乗ってきたようで、これからは定期的に連絡が取れるとの事。寂寞(せきばく)の想いが杳の胸を突いたが、それは充分に我慢できる範囲だった。

 

 別れの挨拶をして通話終了ボタンを押そうとした、その時――夢路が躊躇いがちに杳の名前を呼んだ。杳の指はひたりと止まる。指をどけると、夢路が心配そうにこちらをじっと見つめていた。

 

(この子はあんたをオールマイトかなんかだと思ってる。なんだかんだ言いつつ、どんな困難も跳ねのけるスーパーヒーローだって)

 

 夢路はおどけて肩を竦め、壊理の頭を撫でた。

 

(でも、本当はそうじゃない)

 

 真摯な輝きを宿した砂色の瞳と灰色の瞳が、交錯する。夢路は死地に向かおうとする兵士を引き留めるように強く、そして静かな声で、言葉を紡いだ。

 

(……オールマイト()()()、引退したのよ)

 

 言葉の意図を汲み取ったのか、俯いて唇を噛み締める友人の姿を、夢路はやるせない気持ちで眺めていた。――どんな物事にも()()()がある。夢路は確かに壊理を救い、彼女の壊れかけた人生を取り戻した。けれど、それは同時に、暫定敵になった杳を見捨てて逃げたという事を意味する。心の底に(おり)のように溜まっていた罪悪感に気付かないフリをして、夢路はアメリカに発った。杳はオールマイト同様、どんな困難も跳ねのける不滅のヒーローなのだと信じて。

 

 夢路の想いに応えるように、杳はかの英雄と同じ道程を辿った。兄を救う為に戦い、その代償に力を失ったのだ。では、()()()今度は、命まで失ったら……。まるで罪を悔い改めているように苦しげな声で、夢路は懸命に言葉を紡ぐ。

 

(私は心配なのよ。あんたは正しいことをする。それがどんなに危険なことだろうと、それがあんたしかできないことだとしたら……)

 

 

 

 

 海岸線の終着駅を知らせるアナウンスで、杳はハッと我に返り、停車ボタンを押し込んだ。――停留所から海岸沿いを三十分程歩いた先に、タルタロスと本島を繋ぐ海峡横断橋がある。

 橋の入り口には関所が設けられていて、通行者はそこで検問を受ける義務があった。乳白色の霧が橋の半ばから発生し、全ての海を呑み込んでいる為に何も見えない。冷たい潮風が杳の心に流れ込み、今まで必死にかき集めてきた希望の欠片を吹き飛ばしていく。

 

 杳は関所で生徒手帳を見せ、迎えに来た車に乗り込んだ。青銅の門を通り抜けタルタロスに到達すると、刑務官の案内に従い、エレベーターに搭乗して目的の階まで降下する。そして重厚な金属扉を開けてもらい、中にある簡素な椅子に座った。

 目の前には真っ黒に染まったガラス壁がある。ここまで来ると、もう杳は兄に逢いたいという事以外、何も考えられなかった。そわそわとしながら待っていると、正面のガラス壁が突然、パッと明るくなった。

 

「……ッ」

 

 黒い靄で構成された人物が拘束椅子に取り篭められている。杳が固唾を飲んで見守る中、金色の瞳がゆらりと揺らめいて、こちらを見据えた。矢も楯もたまらず、杳は椅子を蹴倒して立ち上がり、駆け出した。

 

 しかし数秒後、杳を迎えたのは兄の抱擁ではなく()()()()()()()だった。鈍い衝撃音が周囲に響き渡り、杳はたんこぶが出来た頭を抱えて、床に(うずくま)る。あまりの激痛に、生理的な涙がボタボタと垂れ落ちていった。

 スピーカーから監視員による安否確認の声が放たれるも、その声は当惑に満ちていた。黒霧は心配そうに身じろぎし、杳の様子を確認する。

 

「うぅ……」

「大丈夫ですか?」

「うん。平気」

 

 杳は慌てて涙を拭き、兄を見て微笑んだ。面会時間は限られている。こんなつまらない事で時間を食っている場合ではなかった。たんこぶを擦りながら、杳は席に戻る。

 ――不思議だった。外見は黒霧と変わらないのに、その中に兄がいて自分を見てくれている事を、杳はしっかりと理解できた。そして同時に、十三年の時を経て、自分と兄の住む世界は()()してしまったのだという事も理解せざるを得なかった。

 

 今は杳がガラスの外側、朧が内側にいる。――お兄ちゃんは私が小さい時、弱音を吐いたりしなかった。いつも明るく笑って、世界は広い事、そして未来は夢と希望に満ち溢れている事を教えてくれた。()()()()()()。全ての弱音と本音と嘘を押し込めて、杳はヒロイックなスマイルを浮かべる。

 

「大丈夫だよ。お兄ちゃん」

 

 黒霧は穏やかな口調で学校での出来事、手紙の内容を尋ねた。杳は時間の許す限り、話し続けた。その様子を、黒い靄を透かして、()はじっと見守っていた。今にも不安で泣き出しそうな顔を無理矢理スマイルの形に押し固めて、()を言い続ける妹の顔を。

 

 

 

 

 今の黒霧の状態は、黒霧と朧の意識が混在し、また浸潤している()()()()()()だった。オール・フォー・ワンの情報を握っているのは黒霧だが、彼の主に対する忠誠心は高く、一向に口を割ろうとしなかった。しかも黒霧は単なる人工知能ではない、巨悪が創り出したものだ。下手に刺激すれば、朧の意識を喰らい、巨悪の右腕として返り咲く危険性もあった。電子爆弾事件の前例もある。

 

 一番確実なのは、朧が強い意志でもって黒霧を支配する事だ。言うなれば自然治癒、自己免疫力で大病を弱め、退縮させてゆくのに近い。猛威を振るわせずに押さえ付け、弱らせ、必要な情報を奪い、消滅させる。黒霧は当然の如く抵抗し、作業は難航を極めた。黒霧を制御するべく、朧は幾度となく黒霧と戦った。

 その度に否が応でも黒霧の全て、心象風景や感情が流れ込んでくる。不愉快な程に似通ったその心の中にあるものを見つけて、朧は攻撃の為に振りかざした手を止めた。

 

 ――白髪の青年を守り、慈しんでいる。自分が杳に抱いているのと()()()()を彼に注いでいる。

 

 あくまで黒霧は自分の人格のコピーだ。電子制御されたプログラムの一つに過ぎない。杳に対する愛情を似せただけなのか、それとも。朧にとって、黒霧は罪そのものだ。多くの人の命を屠り、苦しめてきた巨悪の一部。決して許す事はできない。

 

 だが、それは同時に――決して認めたくはないが――自分の一部でもあるのだ。どうあっても自分自身から逃れる事などできないように、黒霧を拒絶する事もできない。朧はその事実を受け入れる事ができる程、強い人間だった。そして、優しい人間でもあった。黒霧にも自分と同じように愛する者がいる。その事実が朧を苦しめる。殺そうとする想いが躊躇われる。

 

 黒霧として生きていた事を、朧はかすかに覚えている。ただそれは、年代物の映画をスクリーン越しに見るような現実感(リアリティ)のない状態でだ。死柄木弔の放つ雰囲気は、どこか杳や相澤、捨てられた子猫に似ていた。彼もまた自分と同じオール・フォー・ワンの被害者だ。

 黒霧とは違う観点で、朧もまた彼に情を注いでいた。だからこそ、捕える為に尽力しなければならない。かつて巨悪と最も近い距離にいた、もう一人の自分がキーなのだ。

 

 本能が理解している。――オール・フォー・ワンは終わってなどいない。待っているだけなのだ。現世に再び降臨し、全てを意のままにする瞬間を。アメリカと合同のプロジェクトチームを結成してまで、自分の記憶を取り戻そうとしている上層部がその予感を後押しする。巨悪の再臨を何としても止めなければならない。他ならぬ、小さな妹の為に。

 

 杳の内情は相澤を通して知っている。彼女は兄に隠し事をするような性格ではなかった。無理をしているのは明白だ。そしてそうさせているのは自分なのだ。今の状態でいる限り、彼女はヒーローである事を諦めはしないだろう。妹の分も頑張り、安心させなければ。もうヒーローをしなくてもいいように。何故なら、彼女の()()()()は、

 

 ――その時、ふつりと朧の意志が途切れた。杳の前で、黒霧を構成している靄が、音を立てて不穏に蠢き出す。

 

「死gggrk――とmmr、は、元?蜈?ー励?気、ですか」

 

 思わず息を飲んだ杳の前で、黒い靄がぶわりと広がり、独房を覆い尽くした。不安定に蠢く暗黒の中に一瞬、怒りに燃えた兄の顔が浮かび上がる。二つの人格が拮抗しているのだ。熱い感情が体の底から湧き上がり、杳はゆっくりと立ち上がった。

 室内に設置されたパトランプが回転し始め、杳と黒霧をブザー音と黄色い光で満たしていく。

 

『白雲杳。危険です。距離を取ってください』

「大丈夫です。たぶん」

 

 吸い寄せられるように、杳はガラス壁の前に立った。目を閉じると、瞼の裏に転弧の顔が蘇る。やがて黒い靄が一際大きく膨れ上がり、中から一人の少年が現れた。グラグラと煮えたぎるような怒りの感情を露わにして朧は両手を伸ばし、黒霧を押さえ付ける。救いを求めるようにこちらを見る金色の瞳をしっかりと受け止め、杳は言葉を紡いだ。

 

「元気だよ」

 

 その答えを聴いた時、黒霧の動きがピタリと止まった。その瞬間を見逃さず、朧は再び支配権を取り戻す。刹那、硬く張り詰めていた心が(ほころ)んでいくような、暖かい感覚が朧を満たした。一時的に黒霧の感情と同期(リンク)したのだ。

 

 ――やめろ、そんなものを抱くな!この子に救けを求めるな!躍起になって、朧はますます強く力を込めた。しかし、朧の眼前で、杳の表情は変わってゆく。救いを求める人に手を差し出す、ヒーローの顔に塗り替えられていく。黒霧は決死の想いで抵抗し、靄がかった手を縋るように伸ばした。まるで嵐が到来しているかのように、靄全体が再び、激しく渦を巻いて蠢き始める。

 

「杳――dddddうか、彼?を――やめろッ、聞くな!」

「大丈夫です。必ず救けます」

 

 突然、大きな金属の束を切るような轟音がして、独房の照明は真っ暗になった。黒霧の状態が著しく不安定になった為、終了時間を早めたという旨をスピーカー越しに監視員が告げる。やるせない感情を持て余すかのように拳を強く握り、溜息を吐いて出て行く杳の姿を、ガラスの向こうから相澤がじっと眺めていた。

 

 

 

 

 相澤の個性と鎮静剤で、黒霧の状態は一先ず落ち着いた。兄妹の再会に水を差さない為、杳には伏せていたが――相澤は面会中、黒霧に何かしらの異変が起こった際、個性を用いて止める役割を担っていた。さらに言うならば一時間後、アメリカの合同チームメンバーとの打ち合わせも待っている。相澤は独房の壁に背中を寄りかからせ、腕を組んだ。

 

「大丈夫か」

「……ああ」

 

 しばらくすると靄が蠢き、人型に収束して、やがて()()姿()になった。朧が妹を守ろうとする想いが勝っているのか、本来の体の持ち主が彼であるからなのか――詳しい理由は不明だが、朧は一時的に元の姿を取る事ができるようになっていた。ただ、彼の体を構成しているのが靄である事は変わらない。

 

 本当はこの姿を見せて安心させてやりたかったと、朧は溜息を吐いた。杳が今どんな状況にあるのか、彼は知っている。支えてやらなければならなかったのに、そんな時に限って制御が効かなくなるとは。どうやら朧だけでなく黒霧にとっても、杳は特別な人間であるらしかった。

 

「話したいこともあったし、この姿も見せてやりたかった。なかなかうまく行かないな」

 

 朧は悲しそうに笑い、握った拳を乱暴に打ち合わせた。――杳の気持ちは痛いほど分かる。かつて外の世界に焦がれていた杳を自分が元気づけたように、今度は彼女がその立場になろうとしているのだ。だが、ガラス越しに見た妹の顔は()()()()だった。不安そうな顔を隠しきれずに震えていて、抱き締めておかなければ、今にも()()()()しまいそうな不安に襲われた。

 

 無理をしているのだ。無理矢理、ヒーローという枠に自分を当て嵌め、届きもしない場所に精一杯手足を伸ばしている。その現状が分かっているのに何の救けにもなれず、むしろ追い詰めていくばかりの自分が、情けなくて憎くてたまらなかった。

 相澤は灯りの消えた面会室を眺めていたが、やがてその瞳を朧に移し、薄い唇を開く。

 

「お前の為にヒーローになろうとしてる。想いを汲んでやれ」

 

 はっきりと口には出さないが、相澤にしてみれば――無理矢理押し付けられた陰惨な過去や人格を否定するどころか、憐憫の情すら見せ、自棄になる事なく杳を救おうと努力する朧の行動は賞賛に値するものだった。強く優しい性格は昔から何も変わっていない。そしてその想いや生き方は、妹である杳に受け継がれている。相澤の言葉を聴くと、朧は小さく息を吐き、静かに首を横に振った。

 

「ショータ。あいつの夢はさ……」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 杳が三度目の七夕を迎えた頃の事だ。七夕の日は手作りの吹き流しや折り鶴で笹竹を飾りつけるのが、白雲家の伝統行事だった。字を書けるようになった事を祝い、両親は五色で彩られた短冊を杳に手渡した。願い事を書いた短冊を吊るし、天に向かって掲げるのだ。子供用の椅子に座り、クレヨンを使って、短冊の空きスペースを埋め尽くしてゆく杳の様子を、朧は頬杖をついて興味深そうに眺めていた。

 

 リビングテーブルには竹に飾り切れなくなった――色とりどりの折り鶴や紙飛行機、細工物が散らばっている。数分後、杳は満足そうにクレヨンを転がし、短冊を両手でゆっくり掲げた。朧はひょいと身を乗り出して覗き込む。

 ――単純に興味があったのだ。泣いて怖がる以外に自己主張がほとんどなく、ずっと自分にしがみついているばかりの妹が、一体何を願ったのか。

 

(何が書いてあるのかなーっと)

(み、みないでぇ!)

(わーかったわかった!)

 

 普段兄に隠し事をしない杳にしては珍しく、彼女は顔を真っ赤にして短冊をテーブルに伏せ、声を荒げた。朧は慌てて両手を挙げ、降参のポーズを取る。だが、杳は知らなかった。短冊は竹に吊るしたら、誰でも見る事ができるのだという事に。

 

 朧は自分の短冊を吊るすついでに、杳の短冊を見た。すると、そこにはミミズののたくったような字で”むむいん”と書いてあった。その字の周囲を彩るようにして、青っぽい雲と人らしきもの、その横に灰色の人らしきものも描かれている。

 

 

 

 

「……むむいん?」

 

 話の意図が分からず、相澤は狐につままれたような表情でその言葉を繰り返した。朧は苦笑してフワフワの頭をかく。

 

()()()だよ。”ヒーロー&バディ”ってアニメあるだろ?」

 

 ヒーロー&バディは毎週日曜の朝に放送されるご長寿アニメだ。オールマイトが№1ヒーローになってから放映され始めたものだった。主人公のヒーローはオールマイトをモデルとしている為、変わる事はないが、相棒となる人物と職業は毎シーズンごとに異なる。

 

 杳が生まれた当初、オールマイトのサイドキックである”サー・ナイトアイ”――特にその卓越した事務処理能力と知的なユーモアセンス――が非常に話題になっており、彼をモデルにした優秀な事務員がバディキャラクターとして設定された。

 ウィットに富んだジョークを交わし合うヒーローとバディの掛け合いはお茶の間の人気を独占し、通常シーズンであれば一年で切り替わるバディは好調の為、三年まで延長された。

 

 杳の夢は、ヒーローとなった兄を影から支える事務員だった。だが、その夢を彼女が口に出す事はなかった。朧がそれとなく誘導しても、彼女は否定した。また発作を起こしてはいけないと思い、朧はそれ以上深く追求する事ができなかった。

 

 ――単純な話だ。同じ志・夢を抱く者は団結する。違う夢よりも同じ夢を語る方が、兄に気に入ってもらえる、兄に近づく事ができると杳は知っていたからだ。子供は案外、狡くて単純だ。杳は自分の夢よりも兄の事が好きだった。

 

 人にとって夢の重みは様々だ。生涯追い続ける者もいれば、途中で諦める者もいる。抱いていた事すら忘れてしまう者も。杳は()()に当てはまる者だった。朧はセピア色の追憶から戻り、靄がかった手を握って、開いた。

 

「俺が夢を捻じ曲げた」

 

 過去を嘆いてもどうしようもない事は骨身に沁みている。だが、それでも、ふとした瞬間に考えてしまう。

 ――杳の歪んだ夢を修復させ、卒業後、彼女を事務員として雇い、相澤とマイクと三人で、新米ヒーローチームとして働いていたかもしれない未来を。悔悟の想いが胸を突き、朧は思わず俯いて、医療用チューブの走る床に視線を走らせた。刹那、放たれた友人の声が、彼の心を強く打ち鳴らす。

 

「過去と今は違う。人は成長するもんだ」

 

 強い力を持った友人の声に、朧はゆっくりと顔を上げた。靄がかった瞳と黒い瞳が、交錯する。――朧の中で、杳の時間は三歳のまま止まっている。だが、彼女はもう十六歳だ。

 人の心は不確実性を秘めている。成長すれば、心も変わる。朧が知らない事を相澤は知っていた。たった一年にも満たない期間ではあるが、彼女を見守り、支え続けた人間の一人だから。ねじ曲がった夢が色んな経験や時を経て、やがて()()()()に昇華する場合もある。相澤は小さく微笑んで、希望の声を紡いだ。

 

「おまえが思っているより、あいつはずっと強いよ」

 

 

 

 

 それから日は飛ぶように過ぎ、週末。杳は天哉と共に、多戸院市を訪れた。事務所に着くと同時に、二人はそれぞれの持ち場に別れる。オペレーター室のドアを開くと掛本はおらず、杳は年配の女性事務員に手招きされて隣席に座った。

 眼前には巨大なホログラムスクリーンが展開されていて、そこには大勢の人々が映っている。()()()()だ。杳は慌ててペンとメモ帳を取り出し、テーブルに広げた。

 

 ヒーローだけでなく、ナビゲーターや事務員、オービス、ピットクルー……etc.チームIDANTENでは様々な役割を持つ人々が働いている。その代表者達が一堂に会し、日々の業務報告と情報共有をするのが会議の目的だ。掛本はナビゲーターと事務員達を束ねるリーダーである為、天晴の隣に座っている。長テーブルの上座に立っている人物を見て、杳は目を丸くした。塚内警部だ。彼が淀みない口調で話す内容に、杳は必死で耳を傾けた。

 

 多戸院市では杳達が学校に戻ってからも、毎日のように敵が出没していた。いずれも早期制圧により人的・物的被害は最小限に抑えられたものの、敵は全員、違法薬物を摂取した事により凶暴化したという()()()()を有していた。警察は売人が個性を使って行方を晦ましている可能性を考慮し、多戸院市・及びその周辺市、そして事件に関わりがあると見られる関係者達全員の個性届を捜査した。その結果、ある人物に白羽の矢が立った。

 

 ――曽我瀬文太(そがせぶんた)。多戸院市に突如出没したホームレス集団の一員で、人々からは”曽我さん”と呼ばれ、慕われていた。現在、彼は行方不明で、仲間達により捜索願が出されている。身元を調べると、個性は”認識阻害”。自分、及び自分を含めた周囲の人々の認識を逸らさせる個性だ。身寄りのない人間なのか、家族から捜索願は出されておらず、五十年以上も前に住民票は職権削除されて住所不定となっていた。

 

 仲間達の話によれば、曽我瀬は行き所のない人間を誘い、何十年もの間、さながらジプシーのように国中を旅して回っていたのだという。曽我瀬を案じる彼らの境遇も似たようなものだった。恐らくその個性を用いて、旅の仲間達を守っていたのだろう。

 

 問題なのはタイミングだった。何らかのトラブルで個性が解けたのなら、突然、街中に姿を現す羽目になった仲間達の中に()()()()()()()()だ。だが、彼の姿はなく、入れ替わるようにして突発敵が暴れ出した。単に曽我瀬が事件に巻き込まれた線だけでなく、仲間達を隠れ蓑にして売人をしているという線も考えられる。認識阻害の個性と煙のように掴みどころのない売人も、妙な親和性がある。

 塚内は曽我瀬の立ち位置を行方不明人から重要参考人へ変更すると、冷静な口調で告げた。

 

 

 

 

 メモ帳を眺めて情報を整理していると、杳の肩を柔らかな手がポンと叩いた。小さく返事をして顔を上げると、そこには真っ白な中華服(チャイナドレス)に身を包んだ女性ヒーローが立っていた。年の頃は、杳とそう変わらないだろう。羊を彷彿とさせるグルグル巻きの角が耳の上に生えていて、眠たそうな目をバイザーで隠している。彼女はたっぷりとした袖口で口元を覆って欠伸をした後、気の抜けたような笑みを浮かべてみせた。

 

「杳ちゃん、だよねぇ。チーちゃんに代わって今日、君を担当する眠羊(ねむりひつじ)でぇす。カウンセリング行こっかぁ」

 

 不思議そうに首を傾げている杳に、眠は間延びした口調で、自分は”スタンドクルー”の一員なのだと説明した。

 ――スタンドクルーとは、市内で発生した事件・事故に巻き込まれた被害者達のケアを担当するスタッフを示す。眠のような医療系ヒーローのみならず、医療従事者も多く所属しているそうだ。しかし、緊急事態により、今はほとんどの人員が病院の応援に回っている。その穴を少しでも埋めるべく、スタッフ見習いとしてではあるが、杳の同行が打診されたようだった。

 

 随分と年代物だが立派な造りをした多戸院市民病院内のワンフロアを貸し切って、杳達はカウンセリングブースを設置した。ブースは予約制のものとそうでないものとで区分けされている。

 

 杳は医療関係の資格を持っていない為、カウンセリングルームの中には入れないが、予約制のブースの受付を任される事となった。やがてブースは開場し、悲しい顔をした人々がポツポツと杳の前にやって来た。暗く苦しい過去を抱えきれずに、途中で床に(くずお)れる者もいた。

 杳はそういった人々に駆け寄り、肩を貸したり涙を拭いたりしながら、なんとか眠達の待つ部屋の中に送り出す。

 

 ――昔の私と同じだと、杳は唇を噛んだ。かつてカウンセリングフェスで自分をケアしてくれた人々の立場に、今度は自分がなっている。与えられた役割を全うしなければ。杳はますます奮起し、受診者達の間を忙しく駆け回って、彼らの心を支える事に尽力した。

 

 

 

 

 カウンセリングブースは夕方の五時、つまり病院の受付終了時間と共に閉場する事となった。撤収作業が済んだ後、杳は眠に誘われて、病院の近くにある小さなカフェに軽食を摂りに行った。

 一時間の食事休憩を挟んだら、眠は別の病院へ応援に、杳は市内の環境整備と避難経路の手直しをする手筈になっている。ゆっくりと食事を摂る暇はない。二人はメニューに目を通す事なく、ドリンクと日替わりプレートを頼んだ。

 

 しばらくして店員が運んできたのは、苺・オレとグレープフルーツジュースだった。少しほろ苦いような柑橘系の香りが、杳の鼻腔を掠める。物珍しがって見ていると、眠はグラスを杳の方へ押し遣った。

 

「飲んでみなよぉ」

「いいんですか?」

 

 杳はグレープフルーツという果物があるのは知っているが、実際に口にした事はなかった。一体どんな味だろう。杳は好奇心に駆られて一口飲み、その直後、思いっきり顔をしかめる事となる。――グレープフルーツが苦いのは、ナリンギンという物質が含まれているからだ。ナリンギンは針のように尖っているので、摂ると苦味を感じ、舌にピリッとした感覚が残るのだと言う。

 子供舌な杳にとって、その刺激は非常に辛いものだった。急いで苺・オレを飲んで口直しをしている後輩を見守りつつ、眠はのんびりと笑う。

 

「苦いよねぇ。私も苦手。でも、仕事の時は絶対に飲むようにしてるんだぁ」

「な、なんでですか?」

「……天晴さんの燃料だから。戒めって感じぃ?」

 

 杳は思わず目を見張り、眠の持つグラスを眺めた。こんなに苦くて癖のあるグレープフルーツジュースが、天晴の燃料とは意外だった。とても明るくて爽やかな容姿と性格をしているのだから――それこそアップルだとかパイナップルだとか――もっと口当たりが良く飲みやすいものを想像していたのに。杳の胸中を承知しているかのように、眠は訳知り顔で頷いてジュースをすする。

 

「意外でしょ。燃料って先天的なものだから、関係ないかもしんないけどぉ……うちらの見えない所で、色々我慢してたり苦労したりしてるのかもねぇ」

 

 他の柑橘類と同じ爽やかそうな外見をしているのに、中身はほろ苦いグレープフルーツのように。やがて二人の前に日替わりプレートがやって来た。揚げ物が数種とサラダ、スープにご飯も付いている。育ち盛りの杳のお腹はたまらずグウと鳴った。自分の分のクリームコロッケをさりげなく杳の皿によそってやりながら、眠は自分の仕事について訥々と話し続ける。

 

「一説によると、()()()()()()()()()()()()んだって。自分の身を守る為にした事が、他の誰かを傷つける。皮肉だよねぇ。……傷が癒えるまで、被害者はとてもとても長い時間、隠れて逃げ続けなきゃならない。でも、加害者だって元・被害者なんだ。

 この悲しい連鎖を断ち切らなくちゃって、私はずっと思ってる。まぁ、これはボスの受け売りなんだけどねぇ」

 

 眠は照れ臭そうに笑って、杳の口にエビフライを突っ込んだ。もぐもぐと従順に口を動かしながら、杳は先程受け取った言葉を噛み砕く事に専念する。

 ――”この悲しい連鎖を断ち切らなくちゃ”。何気なく放たれたその言葉は、杳が幾度となく悩み苦しみながらも、ずっと求め続けてきた()()()()()によく似ているような気がした。長い旅の果てに法師が手にした巻物のように。そのフレーズは少女の心中でグルグルと旋回し、今まで経てきた経験の数々を巻き込んで、小さな台風を巻き起こしてゆく。

 

 

 

 

 一時間後、杳は眠と別れて、市内の環境整備に向かった。担当区域は人の多く集まる繁華街の一画で、杳は大きなゴミ袋とトングを手に歩き回り、周囲にゴミや不審物が捨てられていないかをチェックしていた。立派な商業ビルの一階に建てられたコンビニの前を通り過ぎ、ビルとビルの隙間にある路地裏に差し掛かった時、杳はピタリと足を止めた。

 

 ――路地裏にはコンビニの管理者が備え付けたのだろう、業務用のゴミ箱があった。その蓋を開け、人影が上半身を突っ込んでモゾモゾと動いている。杳が静かに様子を伺っていると、インカムを通じて状況を把握したのか、掛本の困ったような声が聴こえてきた。

 

『……また()()()()だ』

「熊猫さん?」

 

 杳の不思議そうな声は思いの外、路地裏じゅうに大きく響き渡った。ゴミ箱を漁る音が不意に止む。眼前の人影はゴミ箱から上半身を引き抜き、肩を怒らせながらこちらへやって来た。杳は路地裏の入り口に立っており、その周囲は商業ビルの放つ煌びやかなネオンの光で溢れていた。

 

 やがて人影が杳の前に立つと、その外見が明らかになった。――身長は百八十センチ程、がっしりとした屈強な体格も相まって、非常に威圧感のある壮年の男性だった。人間の耳の代わりに丸っこい熊の耳が生えていて、垂れ目がちな目の周りを大きな黒い模様が覆っている。熊猫は杳を見るなり、ギョッとして立ち竦んだ。

 

「?」

 

 怪訝に思って杳が見返すと、熊猫は狐につままれたように目をぱちぱちと瞬かせている。しばらくして彼は雑念を断ち切るように頭を振ると、杳の耳に付いたインカムをじろりと一瞥した。その両手には膨らんだビニール袋が握られている。

 

「おまえもあの事務所の仲間か。なんか文句あるんかい」

『杳ちゃん。あのね……』

 

 杳が黙り込んでいたのは、熊猫の放つ威圧感に圧倒されていたわけではなく掛本の声に集中していた為だ。曰く、熊猫は多戸院市に突然現れたホームレス集団の一員であるらしい。曽我瀬を失い不安状態となった仲間達のまとめ役となっているが、同時に彼はヒーローに対して強い不信感を抱いている。仮設住宅には食糧が用意してあるのに口にせず、廃棄された食料を持ち帰ろうとして人々とトラブルになっているとの事。

 悪い人ではないので、説得して仮設住宅まで送り届けて欲しいと、掛本は遠慮がちに指示を飛ばした。杳は白髪頭をかいて、言葉を探す。

 

「熊猫さん。一緒にお家に帰りましょう」

「嫌や」

 

 熊猫は吐き捨てるように言い放ち、その場にどっかりと胡坐をかいた。ビニール袋の中から弁当を取り出してビニールの内装を破り、箸を取る。どうやらここで食事を摂るつもりであるらしい。杳はそっと近づいて、袋の中身を確認した。そこには廃棄された食糧がぎっしり詰まっている。仮設住宅で待つ仲間の分もあるのだろう、量はとても多かった。杳の目線に気付くと、熊猫は冷たく意地悪な声で笑う。

 

「嬢ちゃんも食うか」

 

 挑むような黒い瞳とぼんやりした灰色の瞳が数秒間、交錯する。杳は食事を摂ったばかりでポンポンに膨らんでいるお腹を擦り、考えた。好物のハンバーガー一個くらいなら入るかもしれないと。覚悟を決めて袋の傍にしゃがみ込み、ハンバーガーらしき包みを探す。

 

「じゃあ、あの……ハンバーガー、いただいても良いですか」

 

 捨てられたものを食べてはいけないというルールは重々承知しているが、今はそれを破ってでも食べないといけないような気がした。彼が自分を試しているのだと理解したからだ。心の表面に防壁を張り、それを打ち砕く事ができるか見極めている。

 程なくしてハンバーガーの包みを探し当てると、杳は熊猫の傍に座って紙を剥き、かぶり付いた。日数が経って硬くなっているが、好物は変わらず美味しい。幸せそうな顔で咀嚼する杳の姿を、熊猫は何とも言えない複雑な表情でじっと見つめた。

 

「ハンバーガー好きか」

「はい」

 

 杳は頷くと同時に、はたと気付いた。アイスクリームに引き続き、自分の()()()()()を見つけられたかもしれないと。

 

(行動の理由を常に考えろ。それが自我の形成に繋がる)

 

 体育祭を切っ掛けに自我を取り戻して以来、耳にタコができる位に聞いた人使の言葉だ。アイデンティティーの欠片を見つける度、彼は嬉しそうに口元を緩め、不器用な手つきで自分の頭を撫でてくれた。どんな些細な行動にも理由がある。杳はハンバーガーを好きになった理由を考えて、その輪郭をなぞるようにゆっくりと口にした。

 

「あの、友達と一緒に行った思い出の場所が、ファーストフード店で」

「……」

「あと、今思うとその。ケチャップで汚すと、彼氏が口を拭いてくれるんです。それが嬉しくて、いつも食べてるのかなぁ」

「……おい」

 

 いつの間にか杳の口周りが真っ赤に汚れているのを見て、熊猫は思わず突っ込んだ。口元を指差すと、杳は慌ててポケットからティッシュを取り出し、拭き始めた。しかしその手付きは非常に拙く()()()()で――どういう原理なのかは不明だが――余計に汚れが広がるだけだった。熊猫は溜息を吐き、少女の手からティッシュを取り上げる。刹那、雑音(ノイズ)混じりのセピア色の記憶が、彼の脳裏に浮かび上がった。

 

(まーたこんな汚して。あかんやろー?)

(あう、ろー!)

 

 乳児用の椅子に座った小さな子供は、熊猫の声に合わせてコロコロと笑う。その口元はケチャップで汚れていた。

 ――今、眼前にいる少女と同じように。ふと我に返って少女を見ると、彼女は不服と言わんばかりに顔をしかめている。本当は彼氏に拭いてもらいたかったのだろう。

 

 ああ、思い出した。()()、俺の手付きが乱暴だからと嫌がり、女房に拭いてもらいたがっていた。一度、埃の被った記憶のアルバムを開いてしまうと、もう閉じる事はできなかった。長い間、心の奥底に封じ込めていた熱い感情が喉元までせり上がってきて、気が付くと熊猫は咽び泣いていた。塩辛い涙がいくつも瞳から零れ出て、黒い模様を伝って流れ落ちていく。

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 突然、熊猫が泣きだした事に狼狽し、杳は急いでティッシュを全部引き出すと彼の目元に押し当てた。熊猫はその手を取り、引き寄せる。彼はまるで夕焼けを見るように優しく切なげな眼差しで、杳を眺めた。まるで彼女を通して他の誰かを思い出しているように。

 

「……わしにも娘がおってなぁ。あんた、その子によぉ似とる」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 熊猫笹次(くまねこささつぐ)はヴィジランテ上がりのヒーローだった。正義感が強い分、喧嘩っ早いのが玉にキズだったが、頑固親父を彷彿とさせる熊猫のキャラクターは頼り甲斐があり、拠点地区に住む人々に愛されていた。

 当時はヒーローが公務と定められて間もない頃で、犯罪数は現在とは比べ物にならない程に多く、彼と同じように善意の私人から公務員に昇格した者が山のようにいた。

 

 突然降って湧いたような権力と金に呑まれず、矜持を守り続ける者が大半だったが、一部の者は慢心し、自滅した。ミイラ取りがミイラになるような醜態があってはならないと、熊猫はますます心を引き締め、日々の業務に当たっていた。

 

 だが、熊猫達のそんな生活は、あるヒーローの登場をきっかけに一変する事となる。――後に”平和の象徴”と称される生ける伝説、オールマイトだ。彼は誰よりも多くの人々を救い出し、凶悪な敵を次々と打ち倒す事で犯罪への抑止力となり、混迷の最中にあった社会の在り方を一変させた。

 

 やがて人々のヒーローに対するイメージはオールマイトに()()され、公安の資格基準も彼の行動理念に沿って大幅にブラッシュアップされた。それは一本の丸太を削り、美しい偶像を創り出す作業に近い。熊猫達はその過程で削られて、木くずとして払いのけられないよう、窮屈な生活を送るようになった。

 

 何時の時代も古いものは淘汰され、新しいものが生き残っていく。()()()にかけられるのは敵だけでなく、ヒーローも同じだった。乱暴な行動をしたりトラブルを起こしたりするヒーロー達は静かに免許をはく奪され、代わりにオールマイトの意志を継ぐ――新世代のヒーロー達が台頭するようになった。彼らは一様に優しくスマートで人当たりも良く、行動が早い。人々は徐々に、熊猫よりも新しいヒーローを頼るようになった。

 

(気にしなや。あんたはあんたでええさかい)

 

 妻は気丈に笑い、熊猫に気取られないようパートのシフトを増やした。熊猫は所謂(いわゆる)頑固者で、今までずっと続けてきた自分の生き方を変える事は考えられなかった。

 少しずつ仕事がなくなり、救けても器物損害や傷害の件で、警察にチクチクと嫌味を言われるようになった。真綿で首を絞められるように、追い詰められていく。事務所を維持できなくなり、サイドキックは出て行った。拠点地区の近くに新しいヒーローが赴任したので、そこで働くのだと言う。

 

 熊猫は躍起になり、街じゅうを跳び回った。だが、プライドが邪魔をして後進たちと仲良くする事ができない。する事成す事全て、人々の足を引っ張った。昔はそれでもいい、いやそれがいいと賞賛された。今はただ息苦しい。誰もが迷惑そうな顔でこちらを見る。

 熊猫のストレスが限界値を超えた頃、呼吸をすると煙と油の混ざった嫌な味が舌に残るようになった。体が熱い。頭がぼうっとして耳鳴りがする。まるで酷使し過ぎて壊れかけた車に、自身がなってしまったようだった。

 

 そして来たる或る日の事、()()()()()()。自分の拠点の近くに赴任したヒーローは優しい性格で、熊猫の事をずっと気にかけて、チームアップを打診し続けてくれていた。それにようやく応じる事ができた熊猫は、チーム総出で子供達を人質に幼稚園に立てこもっていた敵の制圧に当たった。

 

 熊猫は斥候が帰ってくるまで、幼稚園の付近で()()する事を命じられていた。だが、泣いている子供達の顔が窓越しに垣間見えた瞬間――我が子の顔とダブって――気が付くと、彼は単身、園内に通じるドアを蹴破っていた。

 

 そこから先の事を、熊猫はよく覚えていない。子供達に死者が出なかったのが、唯一の救いだった。だが、敵は突然やって来たヒーローを警戒し、巨大化して暴れ回り、幼稚園だけでなく何棟もの住宅を踏み潰した。人々を守る為に多くのヒーローが戦い、深い手傷を負った。そしてその責任は全て、熊猫をチームメンバーに引き入れた若いヒーローに課せられた。

 

 暗く濁った瞳が熊猫を映し出した瞬間、彼の人生は坂道を転げ落ちるように破滅していった。ヒーロー免許をはく奪され、家に帰れば誹謗中傷のビラがベタベタと貼ってある。新しい仕事を探すが、なかなか見つからない。

 

 気が付くと、熊猫はどことも知れぬ山中の川に架かった吊り橋の上に佇んでいた。ぼんやりと眼下を見下ろすと、青く澄んだ川が穏やかに流れている。優しい陽光を受けて川面は白く輝き、水流の一部が石に当たって砕け、七色に煌めいた。

 熊猫の足が、()()()()()()()を踏み込む。そのままふらりと身を投げ出し、命を終えようとした、その時――

 

(大丈夫かい)

 

 ――優しい声と手が、熊猫の肩を掴んだ。それが、曽我瀬文太との出会いだった。曽我は人々から自分達の存在を希釈する、特異な個性を持っていた。ただ単に感覚器からだけではない、()()()()()()から存在を切り離すのだ。

 

 社会に適合できない個性を有する者、どこにも寄る辺の無い者――そういった人々を集め、彼は一種のジプシー集団を結成していた。同じ場所にずっと留まれば心は淀み、暗い感情が増幅する。曽我はそういった影の部分を成長させないよう、一所(ひとところ)に留まらず、旅をし続けた。

 

 

 

 

「敵になる勇気もなかった。どないしても社会に適合できん奴はおる」

 

 あまりに壮絶な話に杳は言葉を失い、熊猫をじっと見つめた。彼は苦笑いし、杳の頬っぺたに残っていたケチャップを拭き取る。

 

「国中回ったわ。残飯も拾い放題でな。……人の目ぇや暴力に晒されんよう、守ってくれた。孤独は優しいもんや」

 

 杳は目を閉じて想像した。誰も自分達を認識しない世界で、朧と共に旅をする光景を。過去も罪も、何も気にする必要はない。誰も自分達を知らないのだから。好きなところに行き、好きなように生きる。それはとても残酷で寂しくて、自分勝手で、でも――

 

「とても、素敵な旅ですね」

 

 熊猫は驚いたように息を詰め、ティッシュを握りつぶした。数秒後、彼は気まずそうに頭をかき、ふいと視線を逸らす。

 

「お嬢ちゃん相当苦労しとんな。普通は寂しいとか虚しいとか……そう言うもんやろ」

「まぁ、色々あったので」

 

 フワフワの白髪頭を弄びつつ、杳は緊張感のない笑みを浮かべてみせた。その笑顔に毒気を抜かれたのか、熊猫は穏やかに笑い、杳の持っていた紙くずをポケットに突っ込み、立ち上がる。それからビニール袋を持って、くるりと踵を返した。ゴミ箱の蓋を開けて袋の中身を戻しながら、彼は言葉を紡ぐ。

 

「あんたに言ってもしゃあないかもしれんが、曽我さんは優しい人や。薬なんて、絶対に関与してない」

「……はい」

 

 杳は慌てて居住まいを正し、しっかりと応えた。熊猫の話を聞いて、彼女もそう思ったからだ。熊猫は仮設住宅に戻ると言った後、くるりと振り返った。その瞳の内側には、杳が思わず見惚れるくらいに優しい光が点っている。希望という名の透明な輝きだ。彼は気恥ずかしそうに無精ひげの生えた頬をかいた。

 

「こんな人生やったけど、一つだけ誇れることがあってなぁ。うちの娘、ヒーローになったらしいんや」

「えっ?!」

「関西圏やから知らんか。……”パンダ・クラウド”言うねん」

 

 そのヒーローを杳は知っている。ヒーローネームについて試行錯誤していた時、緑谷に教えてもらったからだ。確かパンダの個性を持った関西出身のヒーローで、今を(さかのぼ)事五年前、出産を機に引退したはず。

 パンダの個性――言われてみれば、熊猫の外見はどことなくパンダに似ていた。きっと彼女もその個性と共に想いも引き継いだのだろう。自分や兄と同じように。杳は何だかくすぐったいような、暖かいような、不思議な感覚に囚われたまま、口を開いた。

 

「知ってます。というか友達が教えてくれて。あの……五年前にお子さんができて、引退されたんですよね」

 

 ――その言葉を理解するのに、熊猫は多くの時間を必要とした。熊猫は家族から逃げてしまった事を悔いて、可能な限り、妻と子の情報を集めていた。だが、生存確認はできても、具体的にどうしているかまでは分からない。だからこそ、娘がヒーローとしてデビューした事を知った時は本当に嬉しかった。元気そうに笑う我が子の顔を見るだけで、彼の心は救われた。

 

 だが、熊猫は国じゅうを回る旅団の一員で、娘はローカルヒーローだ。関西地方を離れると、途端に近況が掴めなくなった。もどかしい想いを抱えたまま、数年以上の時が経過し、そして今、彼は()()()()()をやっと手に入れた。

 

「そうか」

 

 今にも爆発しそうな激情を押し込めて、そう返事するのが精一杯だった。熊猫はくるりと杳に背中を向けて手を振り、路地裏の奥へ進んだ。そして杳がその場から完全に立ち去った事を確認してから、薄汚れた壁に体を預けてズルズルと座り込み、堰き止める必要のなくなった感情を涙と共に押し出した。

 

 

 

 

 同時刻。杳はインカムを通じて掛本に事の次第を説明した後、環境整備作業に戻った。熊猫が話してくれた内容は、今まで事務所や警察の誰もが聞いた事のないものであったらしく、杳は掛本に褒められて少し嬉しくなった。

 そして同時に、曽我瀬の身がますます心配になった。彼は何者かに攫われたか、事故に遭って救けを求める事もできない状況下にいる――という線が非常に濃厚になってきたからだ。

 

 どこかに曽我瀬と思わしき人物はいないか。杳は路地裏を一つ一つ覗き込んでは、キョロキョロと周囲を見渡した。そうして五本目の路地裏に足を踏み入れ、数メートル程奥へ進んだ時、()()が杳の肩をそっと掴む。

 

「お嬢ちゃん。イイ薬あるよぉ」

 

 どこか得体の知れない、ねっとりとした声が、杳の耳朶にまとわりついた。




いつもこのSSをお目通しいただき、本当にありがとうございます。
やっとここまで来れました…。あと三話くらいで終わります!
祈ろう、なにとぞ上手くいきますように。


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No.80 回心

※追記:先週書いた分の改訂版となります。あと三話で終わらせるのに最後のシーンをどうしても書いとかないといけない事に気付いた…。全体的な文章も多めにしました。お急ぎの方は最後の方だけ、ちろっと見て頂けたら有難いです。

≪オリジナル登場人物紹介≫
●葛真ニア(ぐずまにあ)
違法薬物を流通させ、曽我さんを誘拐していた敵。過去、雄英ヒーロー科に在籍していた。

※ご注意:作中にR—15表現、残酷な表現、暴力表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳はゆっくりと振り返り、声の主を確認した。三十代半ば頃の痩せ気味な男性が肩を掴んでいる。季節外れな常夏ファッションをしているのに、皮膚の色は骨のように白かった。良く見ると、肘の内側に(おびただ)しい注射痕がある。

 

 緊張を解こうとしているのか、男は顔を歪ませて大きく笑った。黄ばんでボロボロになった歯列が覗く。薬を多用した事による副作用だろうと杳は推察した。男の開き切った瞳孔がわずかに動き、杳の片耳に付いたインカムを注視する。

 

 ――チームIDATENのメンバーは外出時、配給されたインカムを装着するよう義務付けられている。サポートマークの役割も兼ねているので、それは人目を引く為、割と派手なデザインになっていた。

 

 そのインカムが視界に入っているのに、売人は慌てる素振りを見せない。薬のせいで判断力が著しく低下しているのか、それとも、チームの一員と接触しても追跡対象にならない()()()があるのか。杳は判断しかねた末、警戒態勢を取ろうとして、ようやく気付いた。インカムから何の音もしていないという事に。

 

 杳のインカムは掛本と常時、繋がっている。怪しい人物に声を掛けられたなら――それこそ熊猫に遭遇した時のように――何らかのアクションを示すはずだ。しかし、いくら耳を澄ませても、電源を切ってしまったかのような無音状態が続くだけだった。そしてその静寂はインカムだけでなく、その周囲にも及んでいた。

 

 この路地裏は市内でも一際賑やかな区域にあり、出口を見れば大勢の人々が忙しなく行き交う様子を確認できた、はずだった。けれど、今はまるでゴーストタウンのように閑散としている。路地裏の奥から生温い風が吹き上げて、杳の頬を不気味に撫でていった。

 

「……ッ」

 

 ”世界から存在そのものを切り離す能力”。熊猫は、曽我瀬の個性をそう評した。その表現はあくまで熊猫の主観であり、実際は曽我瀬本来の個性である”認識阻害”を応用したものなのだろうと杳は推測していた。誰もが認識できないという事は、存在しないのと同義だからだ。

 

 しかし、それは杳の()()()だった。ゆっくりと左手を持ち上げ、繁華街から零れ落ちるネオンの光に翳してみる。その輪郭は薄らと透けていた。そのまま手を伸ばして壁に触れる。突き抜けない。実体はあるようだ。

 

 杳は壁を凝視したまま、必死に考えを巡らせた。熊猫の言葉は正しかった。曽我瀬の個性はきっと、自分と同じく進化したのだ。どういう経緯があったのかは不明だが、認識阻害の範囲が人々だけから世界全体にまで及ぶようになった。

 

 今の自分は()()()()()、もしくは存在を限界まで薄められている。だから、インカムの通信が断たれた。このゴーストタウンのような世界は、現世から消えゆく人々が到達する――特別な領域なのだろう。

 

 突然、強烈な孤独感が込み上げ、杳を支配した。世界の一員ではなくなった事を脳が理解したのだろう。まるで生者のいない幽世に迷い込んでしまったかのような――得体の知れない恐怖を感じて、杳の体はカタカタと震え始めた。

 

「怖がらないで、俺達は君の味方だよ」

 

 噛んで含めるような売人の声を聴き、杳はハッと我に返った。この状態が曽我瀬の個性によるものだという推測が正しいなら、彼は売人達に囚われている事になる。

 

 かつて路地裏で味わった苦い経験が、杳の決断をますます躊躇わせる。――()()下手を打てば、天晴達の責任問題になる。どうすればいい、次に取るべき行動は?早鐘のようなスピードで脈打ち始めた心臓を鎮めるべく、杳は目を閉じて胸に手を置き、深呼吸した。

 

 すると、閉じた瞼の裏にある情景が浮かび上がった。黄色いゴーカートを分岐点の前で停止させ、立ち往生している自分の姿だ。いくつもの選択肢(ルート)が記載された看板の群れが、周囲を取り囲んでいる。その中の一つに、彼女の心はすうっと吸い寄せられた。

 

(正解はさ、すごくシンプルなんだ。……ただその時、その瞬間、”自分がするべきことだ”と心から思える事)

 

 追い風が天晴の言葉を連れてきて、杳の背中をそっと押す。彼女は小さく頷いて車に乗り、ハンドルを握った。

 

 

 

 

 杳は俯いて、何か悲しい出来事を思い浮かべた。皮肉な事にそういったジャンルの記憶なら山ほどある。両目が融けるように熱くなったと思った途端、大粒の涙がボロボロと零れ落ちていった。売人は慌てふためき、杳の背中をさする。

 

 ――インカムの録画・録音機能はまだ生きている。たとえ演技でも、下手な発言をして後々天晴達の手を煩わせる事がないように、杳はどっちつかずな行動を取った。

 

 泣くという行為は相手の警戒心を弱め、物事を曖昧にする効果を秘めている。人は物事を曖昧にされると、自分に都合の良いように解釈しがちだ。度重なる誹謗中傷で心が折れてしまったのだろう。売人は自分の中でそう結論づけ、杳の顔を覗き込むと、歯の抜けた顔でまた笑いかけた。

 

「よしよしカワイソーに。辛かったねぇ。こーんな雑用させられてさぁ?よし、俺と一緒に行こっか」

 

 杳は返事をせず、ただ俯いた。売人はすっかり警戒心を解いた様子で、小さな手を引いて路地裏の奥へ歩き出す。杳は大人しく従いつつ、スニーカーのインソールに仕込まれたギミックをそっと解除した。

 

 

 

 

 売人は杳を、路地裏の果てにある小さな廃ビルへ誘った。元は商業施設だったのか、周囲には錆びたハンガーやマネキン、業務用らしき機材、錆びて文字が判読できなくなった看板が大量に投棄されている。

 

 出入口を通過すると、ロビーを思わせる広々とした空間が二人を出迎えた。売人はその空間を突っ切り、奥にある地下階段へ向かう。階段の前に立つと、煙と酒の入り混じった悪臭が、杳の鼻を突いた。煙草の吸殻や注射器、酒の空き瓶が至る所に散乱している。

 

 階段を降り切ると、正面の壁に大きなドアが嵌まっている。その脇に椅子に座った男がいた。いかにも門番然とした筋肉隆々の体躯を、ヴィンテージ風の服装に包んでいる。スマートフォンから顔を上げて売人を認めると、門番は立ち上がってドアを開けた。オレンジ色のぼんやりした照明の灯りが、杳の輪郭を照らし上げる。

 

 三人が連れ立って中に入ると、すぐ右手に――元はクロークスペースだったのか――こじんまりとした空間があった。何気なく視線を向けた途端、杳は驚きの余り、大きく息を詰める事となる。

 

 ――長い灰色の髪を垂らした老人が、椅子に縛り付けられていた。死んだようにうな垂れているため、表情は分からない。ひどくよれよれで裾や袖の擦り切れた薄手の黒いロングコートを着ている。空間内には古びた医療機器や点滴台が設置され、それらと老人の体は細い管で繋がっていた。

 

 門番がすぐ近くまでやって来ても、老人は無反応だった。ひどい悪臭が鼻を突き、杳は思わず顔をしかめた。老人が座る椅子の下にはバケツが置かれ、中は汚物で満たされている。門番は腰のベルトから棍棒を引き抜くと、老人を小突いた。まるで自分がそうされたように、杳の肩もびくりと震えた。

 

「おいジジイ。こいつも仲間だ。承認しろ」

 

 しかし、老人は唸るだけで動かない。俯いた顔の下から、涎がボタボタと垂れ落ちていく。老人が相手の目を見て承認する事で、認識阻害の個性が整合化されるのだと、売人は杳に説明した。承認されていない者は適合者に触れていなければ、範囲外まで弾き飛ばされてしまうらしい。業を煮やした門番は老人の髪を掴み、耳元で囁いた。

 

「監禁してる仲間を……」

 

 その瞬間、老人は掠れた悲鳴を上げ、のろのろと顔を上げた。濁った瞳と灰色の瞳が一瞬、交錯する。杳を支配していた孤独感は泡のように弾けて消え去った。門番が無造作に髪を離すと、老人の頭は左右に大きく揺れる。その様子を見て、門番と売人はゲラゲラと笑った。

 

 ――()()()()。今にも飛び出そうとする足をグッと押さえつけ、杳は自らに言い聞かせた。まだ何も情報を掴んでいない。敵の数、建物の構造を把握していない状態で戦っても、負けるだけだ。杳は細く長く息を吸って、吐いた。それでも体内に籠もった激情を抑え切れず、体が小さく震え始める。それを恐怖から来ているものだと誤認して、売人は杳の肩を抱き寄せた。

 

「君にひどいことはしないよ。こいつは特別。ボスが拾ってきたんだけどさ。眠ると個性が解けちまうから、眠らないように機械で調整してんの」

「仲間を監禁してるの?」

「嘘嘘!そーゆーと頑張るからさ、嘘も方便ってやつ?」

 

 動物は睡眠を取らなければ、数週間で死に至る。人間が不眠の結果死亡した実例はまだないが、人間だって動物の仲間だ。人権の観点から実験結果がないだけで、危険な事に変わりはない。あの機械は眠らずとも生命を維持する役割を持っているのだろうが、老人の心身は極限まで衰弱しているように感じられた。

 

 

 

 

 老人の部屋を通過してさらに奥へ進むと、そこには広大な空間が広がっていた。今度は甘ったるい独特な香りが、杳の鼻にまとわりつく。ゴミが散乱した床には、奇妙な形をしたガラス容器が転がっている。杳はその前にしゃがみ込んだ。それは水パイプ(ボング)と言われる喫煙道具だった。器具上部に据えられた火皿に煙草などを入れ、炭火を載せて煙を出し下部の瓶の水をフィルターとして用いるのだ。

 

 周囲を見回してみると、ソファや床にぐったりと身を預け、水パイプを抱き締めて白い煙を吐き出す人々が数名、確認できた。彼らの吐き出す煙で、周囲はおぼろに霞んでいる。杳があまりにも熱心にその様子を眺めているので、売人は小さく吹き出した。

 

「気になる?でもまー最初は……オイルからにしとこっか。慣れたらパイプ、教えたげる。最高に良くなれっから」

 

 売人が促され、杳は大人しく立ち上がった。その拍子に空き缶を踏んでよろけたフリをして、近くにいた男に爪先をぶつける。だが、彼は身じろぎもせず、死んだような目で煙を吐き出すだけだった。深い酩酊状態に陥っている。この空間内にいる人間は皆、彼と似たような状態だった。

 

 売人は杳を連れて、部屋の奥へ進む。奥間の敷居は一段高くなっていて、そこには一人の青年がいた。大きなソファに体を沈め、パイプを燻らしている。杳を認めると彼は口元を緩め、緩慢な動作で立ち上がり、両手を広げた。

 

「ようこそ、白雲杳ちゃん。歓迎するよ」

 

 見たところ二十代後半と思われる青年で、均整の取れた体格はとても見目が良い。美麗な外見をしているのに、蒼白な顔色と濃い隈がそれを台無しにし、同時に異様な凄味を発していた。堂々とした立ち振る舞いや売人の態度からして、恐らく彼が組織のボスなのだろう。彼は葛真(ぐずま)と名乗り、杳の顔を覗き込んだ。

 

「何が何だかって顔してるね。……大丈夫。俺は味方だよ」

 

 甘く優しい声とスマイルが、杳の心を愛撫する。ここが敵のアジトでなければ間違いなく魅了されたほど、それらは優艶だった。まるで小さな子供にするように、葛真は杳の前にしゃがみ込んで、涙の残滓をそっと拭い去る。

 

()()()()をしたから、君の辛さは良く分かる」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 葛真(ぐずま)ニアはヒーローを目指していた。小さな頃に抱いた夢をほとんどの人々が捨てる中、彼は大切に守り抜き、雄英高校のヒーロー科に入学を果たした。雄英高校は名門中の名門であると同時に、その(ほまれ)に違わない厳しさも有している。

 

 何度も()()()に掛けられ、生き残った喜びを感じる間もなく、今度は仮免というさらに網目の細かいザルに放り込まれる。網目から擦り抜け落下していく仲間達の悲鳴を、今まで葛真は何度も耳にしてきた。自分だけはそうなるまいと彼は歯を食い縛り、今まで以上に鍛錬を重ねて壁を乗り越えてきた。

 

 そうして乗り越える度に感じる達成感は、彼の自尊心を大きく守り飛躍させた。やがて彼は、自分は特別なのだと思うようになった。道半ばで倒れゆく烏合の衆とは違う。自分こそが努力の末に限界を超え、オールマイトに匹敵する英雄になるべき存在なのだと。

 

 だが、二年目に突入した頃、壁の様子に変化が現れた。どれほど努力を重ねても乗り越える事ができない程、厚く高くなってしまったのだ。葛真の実践成績はクラス内の底辺を彷徨うようになった。不可能を可能にする事ができるのは、何時だってほんの一握りの人間だけだ。彼はそうではなかった。

 

 だが、肥大化した自尊心がそれを認める事を許さなかった。教師の指示やクラスメイト達のアドバイスを、葛真は次第に煩わしく思うようになった。自分を見る周りの目に憐憫の情が含まれているような気がして、彼はますます意固地になった。

 

 光が強いほど、暗闇が恐ろしくなる。高く昇るほど、落ちる事が恐ろしくなる。自分が今まで笑って軽蔑してきた人々が、部屋の暗がりから覗いているような気がする。負け犬と野次る声が、耳を塞いでも頭の内側で聴こえる。もう彼は別の道を考える事などできない程に、追い詰められていた。

 

 

 

 

 三年目の仮免を控えた前日の事だった。葛真は人気のない空き地で必死に訓練をしていた。彼は仮免許を有していない。今、彼のいる場所は両親名義の私有地ではあるが、仮免を持たずして個性を扱うのは限りなくグレーに近い行為だった。だが、そんな事を言っている場合ではない。学内で訓練中、クラスメイトに口を出されて以降、彼はずっとここでトレーニングをしていた。

 

(お兄ちゃん。雄英生だよね)

 

 葛真の下に怪しい人間がやって来たのは、その時だった。その男は学校とは無関係で非常に人当たりがよく、葛真の疲弊した心を優しく労わるような言葉ばかりを聞かせてくれた。――ヒーロー飽和社会と呼ばれる現代で暗躍するには、敵はより一層(さか)しらになる必要がある。その人物は人の心を解きほぐす話術を熟知していた。葛真の警戒心が大分薄まってきた頃、男はある言葉を放った。

 

(もうすぐ仮免でしょ。イイ薬あるんだけど、どうかな?)

 

 今までの葛真ならば毅然とした態度で断り、通報しただろう。明らかにまともな薬でない事は明白だからだ。だが、今は()()まともな状態ではなかった。仮免は今年で最後、つまりラストチャンスだ。これを逃せば、もう――。

 

 二人を照らしていた夕焼けが、儚く消えてゆく。昼から夜へ切り替わる時間帯、逢魔が時を迎えようとしていた。

 

 人生にはさまざまな選択肢がある。ヒーローになれなくとも人生は終わらない。別の夢や生き甲斐、楽しみは山のようにある。だが、葛真はどれも選べなかった。彼の心は、ただ一つの道だけを進めと叫んでいた。小さな頃、何度もテレビ画面で見た、三原色のヒーロースーツが閉じた瞼の裏にフラッシュバックする。

 

 ただ、ヒーローになりたかった。その夢だけは諦める事ができなかった。どんな手段を使ってでも。

 ――男の姿が夕闇の中に溶け込んで消えてしまう直前、葛真は彼の手を取った。

 

 翌日、仮免試験前。受験者達は一所(ひとところ)に集められ、ドーピング検査を受けた。 (くだん)の検査は受験者がクリーンである事、並びにそのパフォーマンスや記録が本物である事を証明するために行われる。それは個性社会となり、人の平均が崩れた現代において、継続の必要性が問われている行事の一つでもあった。

 

 検査結果を待つ間、葛真は大丈夫だと自分自身に言い聞かせた。自分の商品はどんな検査にも引っかからないと、男が豪語していたからだ。そわそわと落ち着かない様子の葛真を気にする事なく、受験者達は黙々と準備運動をし、個性の微調整を始めている。自分も習おう。葛真は気を取り直し、ストレッチをする為、床にしゃがみ込んだ。

 

(葛真ニアくんだね)

 

 その肩を、職員がそっと掴んだ。薬の服用がバレたのだ。自分の血の気が引いていく音を、葛真は初めて耳にした。――ドーピング検査がなくならないのには理由がある。年々条件が厳しくなる仮免試験を通過するため、ドーピング薬を使う生徒が少数ではあるが、後を絶たないからだ。だが、服用者が雄英高校で出たのは初めてだった。

 

 葛真は退学処分となり、失意のままに引き篭もった。もう何もする気になれなかった。度重なるマスコミの取材や嫌がらせを受け、両親はやつれていく。数人の学友達は心配して様子を見に来てくれたが、葛真が無視していると愛想を尽かし、去っていった。

 

 だが、たった一人、決して諦めない者がいた。彼は毎日のように部屋の前に足を運び、明るい口調で日々の出来事を話す。彼の存在は、葛真の心を悪化させた。自分を励ます声を聴く度に、葛真の体の底からどうしようもできないほどに強い嫌悪感と憎悪感が湧き出てくる。

 

 ある日の夜更け頃、葛真は衝動的に家を飛び出した。そして、少しずつ闇を溶かしていく乳白色の夜明けから逃げるように、暗い場所を目指して走り続けた。どことも知れない路地裏で、自分に掴み掛かった誰かを殴り飛ばした瞬間、葛真は(ヴィラン)として生きる覚悟を決めた。

 

 裏社会で名を上げるのは、拍子抜けするくらい簡単だった。敵に関するあらゆる情報、弱点も手管も全て、雄英で学んでいたからだ。そうして彼は衝動のままに裏街道を走り続け、やがて一つの組織を指揮するまでの地位と力を手に入れた。

 

 

 

 

「俺は君を救けたいだけなんだ」

 

 葛真はフワフワとした白髪を撫で、力を篭めて少女の瞳を見つめた。彼は人心掌握術に長けている。敵に身を(やつ)してから、今まで篭絡できない人間はいなかった。だが、大粒の灰色水晶(スモーキークオーツ)を嵌め込んだような瞳は何も映し出さない。ただ薄明の輝きを放つだけだ。彼はますます感情を乗せて、言葉を紡いだ。

 

「このまま学校にしがみ付いても、未来はない。……ノウハウなら俺が教える。一緒に敵になって、全てを支配しよう。ここでは何もかもが自由だ。皆、幸せだよ」

 

 突然、大広間の右手にあるドアが開け放たれた。中から一糸まとわぬ女性が転がり出て来て、床に倒れる。遠目にも分かる程、その体には痛々しい暴行の痕が刻まれていた。ガクガクと震える手足を必死に動かして這いずり、彼女はドアから距離を取る。

 

 数秒後、下劣な笑い声が部屋じゅうに響き渡った。半裸状態の男達が数人、ドアを押し開けてやってくる。恐怖のあまり固まってしまった女性の姿を見て、彼らは下卑た笑みを浮かべた。男の一人が狼の真似をしながら女性に近寄り、圧し掛かろうとした瞬間、杳は()()()()()()。腰を屈め、一跳びの跳躍。

 

「どわあっ?!」

 

 杳は男にタックルを喰らわせ、女性の前に立った。思わぬ奇襲に男はよろめき、無様な悲鳴を上げて床に倒れ込む。滑稽なその様子を見て、周りにいた男達は手を叩いて笑った。女性は弱々しくすすり泣き、藁にも縋る思いで両手を伸ばして、自分より一回り程小さな少女にしがみ付く。その手をギュッと握る杳の姿を見て、葛真はようやく彼女が説得に応じなかった理由を理解した。

 

「ハハ。まだ頑張ってんだ。すごいなぁ!」

 

 葛真は芝居がかった手振りで拍手をしながら、杳の下へ近づく。かつて彼に酷い仕打ちを受けたのか、女性はますます怖がって竦み上がる。その震えが杳の体にも伝わってきた。

 

「でも、無駄だよ」

 

 さっきまでの穏やかな口調とは一変し、その声は凍るように冷たく侮蔑に満ちていた。ボスの怒りを察したのか、男達は笑い声を引っ込め、固唾を飲んで事の成り行きを見守っている。粘度を増した空気の中で、葛真の瞳と杳の瞳が再び、交錯した。

 

 ――ここでは皆、自由で幸せなのだと葛真は言った。しかし、目を凝らして良く見ると彼の瞳は乾き、飢えていた。不浄の場所に閉じ込められ、常に飢えと渇きに苦しむ()()と同じように。大勢の部下を従え、高価な貴金属を身に付け、女性を抱き、幸せになる薬を飲んでいるのに、彼は満たされず、苦しそうだった。

 

 注射痕の目立つ腕で、葛真は杳の肩を掴む。まるで同じ場所に引き摺り込もうとするように切羽詰まった声で、彼は囁いた。

 

「君は絶対、ヒーローになれない」

 

 杳は応える事なく、葛真の手に自らの手を重ねた。分厚く硬い石のような感触が伝わってくる。(おびただ)しい量の傷と豆が、手の表面を覆っていた。自分とは比較にならない量の鍛錬を、彼が積み重ねてきた証だ。

 

 ――それでも、夢を叶える事ができなかった。どれほど無念で、辛かっただろう。悔しかっただろう。杳の心は締め付けられるような痛みを放った。過去の彼を労わるように、杳はその手を優しくさする。葛真の指先がわずかに震えた。

 

「ヒーローになれなかったことは」

「……」

「敵になって沢山の人を傷つけるくらい、辛かったですか」

 

 まるで自分自身に問い掛けているように静かな声が、杳の口から放たれる。

 

 ――その瞬間、葛真の視界が揺らぎ、()()が見えた。大量の指紋が重なり合う事で白く濁り、傷だらけになったフロントガラス。その前に、誰かがいる。彼は何度もガラスを叩き、懸命に何かを叫んでいる。葛真は狂ったように首を横に振り、幻覚だと言い聞かせた。深呼吸をし、心の乱れを整える。やがて彼は元の穏やかな笑顔に戻り、杳の肩を優しく揺すった。

 

「ああ、辛かったよ。君も分かるだろ?……散々、打ちのめされた。どれだけ頑張っても、たった一回の失敗で終わりだ。()()()()()()()()()()()()

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(捕縛布を教える。仮免まで時間がない。授業と併用するから、かなりきつくなるぞ)

 

 杳の脳裏に、中空に垂れ下がる()()()が閃いた。夢が潰えそうになった時、相澤が与えた捕縛布だ。仏様が地獄に垂らした蜘蛛の糸と同じ、白く美しい輝き。それを掴んだ瞬間、杳の中で止まっていた時間がまた動き始めた。けれど、捕縛布の訓練は想定以上に厳しく、杳は何度も布から手を離し、地獄の底へ墜落しそうになった。

 

 最初に滑り落ちそうになった時、白いグローブを纏った手が杳の手を掴んだ。大きな翡翠色の瞳が、泣きじゃくる自分をじっと見つめている。

 

(白雲さん。大丈夫。一緒に頑張ろう)

 

 ――うん。緑谷くん。杳は涙を拭って、捕縛布を掴み直した。私、すごく弱虫で意気地なしで、何回も迷惑かけてごめんね。でも、皆と一緒だから、頑張れたよ。

 

 また滑り落ちそうになった時、今度は真っ黒なグローブが杳の両腕を乱暴に掴み、捕縛布に押し付けた。甘ったるいグリセリンの香りが、杳の鼻腔を掠める。

 

(立てやウィニー)

 

 ――分かってる。爆豪くん。杳は歯を食い縛り、目の前で揺れる布にギュッとしがみ付いた。私、あなたみたいに強くなりたい。絶対に諦めないよ。

 

 彼らだけではない。夢を諦めそうになる度に多くの手が杳を救い、励ましてくれた。そのおかげで、杳は希望を失う事なく昇り続ける事ができたのだ。

 

 やがて美しい七色の光が天上から差し込み、杳の心身を包み込んだ。夢と希望が放つ、尊い輝きだ。いよいよ間近に迫った時、光の膜を突き破り、真っ赤なグローブが杳の手をガッと掴んだ。煌めく光を透過して、彼は太陽のように眩いスマイルを浮かべてみせる。

 

(今の君にしかできない事、戦い方が絶対にある)

 

 ――そうですよね。ミリオ先輩。杳は頷いて、その手を掴んだ。私は私にできることを、精一杯。

 

 

 

 

 杳は閉じた瞼を開いた。それから真っ直ぐに葛真を見て、静かに尋ねる。

 

「本当に誰一人、あなたを救けてくれる人はいませんでしたか」

 

 突然、()()()()()()が杳の頭を襲った。葛真が杳を殴ったのだ。攻撃を受ける直前、杳は反射的に女性を突き飛ばしていた。真正面から打撃を喰らった杳の体はボールのように床を弾み、背中から壁に衝突して、やっと止まった。

 

 痛苦と衝撃でまともに呼吸ができず、咳き込んでいる杳の胸倉を掴んで仰向けにすると、葛真は彼女の着ているブラウスを引き裂いた。女性は恐れおののき、か細い悲鳴を上げて部屋の隅へ逃げていく。その声は、男達の下品な笑い声と口笛でかき消された。葛真は抵抗しようともがく杳の顔を殴って、沈黙させる。

 

「顔はやめろって。萎えんだろ」

「うるせぇな。黙ってろ」

 

 葛真が殺気立った視線を向けると、男達は黙り込んだ。葛真は杳に向き直り、マイクデザインのスポーツブラをむしり取った。(まろ)び出た白い膨らみを内出血するほどに強く掴む。下劣な目的ではない、恐怖と痛苦を与える為だ。もう片方の手で白髪を掴み、悪意に満ちた声でがなり立てる。

 

「無個性がいきがってんじゃねえよ。アァ?!……おい、動画取れ。拡散してやるよ。もう二度とヒーローできねえようn――」

 

 悪辣な笑みを浮かべ、葛真は部下に指示を飛ばす。拘束するために小さな両手首を掴んだ時、俯いていた杳の瞳が瞬いて、彼を映し出した。葛真は言葉を失った。

 

 乱暴されかけているというのに、ただ悲しく、寂しげな光を宿した二つの瞳で、少女は自分を見つめていた。その輝きに葛真は一瞬、魅入られた。だから、気付けなかった。――杳が靴底を自分の腹部にそっと押し当てた事に。

 

 

 

 

 救世主・オールマイトの台頭に伴い、ヒーロー業界の曖昧だった行動理念は”高速制圧・救助”へ統一された。通報を受けてからヒーローが現場に到着する時間は年を経る毎に短くなり、前年度は全国平均4.7分となっている(※特殊な例であるオールマイトを除く)。

 

 しかし、ヒーロー活動において何より速さを重視する()()()()はそのさらに上を行く。到着時間を彼らに限定して平均化すると、所要時間は2.5分となる。到着時間だけで評価はできないが、誇るべき事なのかもしれないと掛本は照れ臭そうに笑っていた。

 

 杳は右手に巻いたデジタル腕時計で、時間を確認した。――曽我瀬を眠らせて個性を解除させるまでの時間を含めると、少し多めに見積もって3.5分、葛真達を足止めする必要がある。その為の備えが、杳にはあった。

 

 杳は葛真の腹部に当てた靴底を、わずかに捻って押し込んだ。ギミックが解除される電子音がする。

 

(ドッ可愛いベイビーは一人っ子じゃありません。()()()です!)

 

 元気の良い友人の声が、杳の心を強く鼓舞する。――実用化に向けてテストをしたが、どのベイビーもかつての自分の個性に勝るとも劣らない威力を有している。世間の評判も悪く、突出した能力もない自分の為に、発目が全てを削って生み出してくれた珠玉の子供達だ。二人の間に結ばれた不器用で、けれど確かな絆の証を携えて、杳は戦闘を開始した。

 

「ッ?!」

 

 凄まじい雷撃が脳を揺らし、陸に上げられた魚のように、葛真の体が激しく痙攣した。――杳が使用したのは発目の第二子・スニーカー型スタンガンだ。安全装置を解除すると、数万ボルトもの電圧を発生する二つの刺突体が靴底から飛び出す。使い勝手・威力共に申し分ないが、容量が一回分しかない事がネックなベイビーだ。

 

 意識を失った葛真の体を、杳は足裏で軽く(プッシュ)した。杳と葛真の体は今、靴で繋がっている。慣性に従って背中から仰向けに倒れゆく葛真に追従するように、ふわりと杳の体が浮き上がった。その体勢のまま、視界全体で周囲の状況を確認する。

 

「こんのガキ!葛真さんをッ?!」

 

 いち早く反撃体勢に入った二人の男に狙いを定め、杳は胸の前で交差していた両手を勢い良く振り抜いた。――第三子・リストバンド型テーザー銃だ。両手首に装着したリストバンドから刺突体が射出し、青白い火花を散らしながらターゲットに突き刺さる。男達は体の自由を失い、一時的な意識障害に陥った。

 

 杳は振り抜いた両手を、今度は強く引っ張り込んだ。刺突体にはコードが付随している。フラフラとゾンビのように彷徨う二人の体は内側に引っ張られ、杳を捕えようと動き出した人々の邪魔をした。敵達の視線が一瞬、離れる。

 

 杳は間髪入れず、カバンから取り出した煙幕手榴弾のピンを抜いて、床に叩き付けた。濃い灰色の煙が杳を起点として発生し、瞬く間に部屋の全てを覆い隠してゆく。大きな翼を窮屈そうに羽ばたかせる男に、売人が叫んだ。

 

「バード!吹き飛ばs――」

『YYYYYEEEEEAAAAAHHHHH――――!!!』

 

 その声に被さるようにして、陽気な大音声が響き渡る。マイクヴォイスは部屋じゅうに反響し、わんわんと跳ね返った。あまりのうるささに自分達の声がかき消され、連携を取る事ができない。男達は耳を押さえて、音の出所を探した。

 

 その時、大きな振動と共に視界の下方に何かが入り込み、売人は足元を確認した。真っ白な布に簀巻きにされた人間が倒れている。気を失っているのか、彼はぴくりとも動かなかった。布の隙間からは、バードによく似た色の羽根が覗いている。

 

 不意に肩を叩かれて、売人は情けない悲鳴を上げながら振り返った。――仲間だった。彼は口元を指差し、唇の動きだけでこう伝える。

 

「けむり すうな くさい どくかも」

 

 今、室内に充満している煙は()()()()()を伴っていた。遅効性の毒などが含まれていた場合、大量に吸っては危険だ。売人達は口と鼻を布切れで覆い、その動きはますます緩慢になった。しかし実のところ、第四子・煙幕発生手榴弾にそんな効能はない。異臭は敵の警戒心を誘うためのダミーだった。

 

 

 

 

 その頃、杳は曽我瀬の下にいた。手首に繋がったチューブを外し、猫型ポーチの中から応急手当セットを取り出して簡単な処置をする。――発目の第一子・ネットランチャーは、捕縛網だけでなく救助者を覆う防災布を創り出す事もできる。白く清潔な布の上に曽我瀬を寝かせていると、彼は自我を取り戻したのか唸り声を上げ、弱々しい動きでもがき出した。杳は屈み込んで、耳元に口を寄せる。

 

「大丈夫です。もうすぐ救けが来ます」

 

 杳はカバンから小さな香水瓶を取り出し、曽我瀬の鼻下部にシュッと吹きかけた。――第五子・催眠香、パニック状態になった救助者を落ち着かせる為のアイテムだ。瓶横のダイヤルを回す事で催眠レベルを調節できる。笑気ガスと呼ばれる亜酸化窒素が主成分の香水で、空気より重く設定してある為、余程の強風でない限り霧散する心配はない。香水の構造は、工房へ杳達の様子を見に来てくれたミッドナイトの個性を参考に創られた。

 

 暴力的な眠気に晒されて尚、抵抗の意志を見せる曽我瀬に、杳は心を込めて言葉を紡ぐ。

 

「熊猫さんも皆、無事です。曽我瀬さんの帰りを待ってますよ」

 

 ――唸り声がぴたりと止んだ。涙と涎、鼻水の混じった液体が曽我瀬の顔を汚していく。杳は清浄綿でそれらを拭き取り、力尽きたように意識を手放した彼の体を防災布で(くる)み込んだ。

 

 

 

 

 同時刻。女性は部屋の隅で小さくなり、震えていた。音と煙のせいで周囲の状況が全く分からない。ただ怖かった。

 

 突然、肩を叩かれて、彼女は跳び上がらんばかりに驚いた。恐れおののきながら振り返ると、そこには男ではなく()()()()()がいた。杳は安心させるように優しく微笑みかける。ぼんやりとした灰色の瞳を見ると、女性の心は不思議と静まった。

 

 杳は女性に声を掛ける直前、曽我瀬の周囲に――捕縛布と周囲にあるものを組み合わせた――簡易バリケードを作成していた。不器用な杳にも実践できるよう、相澤が何度も丁寧に教えてくれたのでしっかりと覚えている。それを指差し、彼女は唇の動きだけでこう伝えた。

 

「ここに かくれて」

 

 防災布を女性に着せかける寸前、目を覆いたくなるような暴行の痕が、杳の視界を奪った。女性は縋るような目で自分を見上げている。このアジトに連れ去られてから、彼女が負ったであろう()を想うと、杳は居たたまれなくなって強く唇を噛み締めた。――怖かっただろう。苦しくて、辛かっただろう。きっと何度も救けを求めたはずだ。杳は思わず手を伸ばし、女性をそっと抱き締めた。

 

「遅くなって、ごめんなさい」

 

 周囲は喧騒に満ちている。杳の言葉が伝わったかどうかは分からない。けれど、その時、小さくすすり泣く声が、耳元で聴こえたような気がした。やがて杳はゆっくりと体を離し、もう一度女性に微笑みかけると、再び煙の中に溶け込んだ。

 

 

 

 

 同時刻。予期せぬ足止めを喰らい、ある男は文字通り()()()()していた。何か柔らかいものを踏んだと思った瞬間、その場から動けなくなったのだ。眼前の煙をかき分け、目を凝らしてみると、見慣れない紫色のボールが床にいくつか転がっている。どうやら、自分はそれの一つを踏んでしまったようだった。

 

 ボールは接着剤を思わせる、強い粘性を有している。靴を脱ぐしかないだろう。舌打ちをしてブーツの靴紐に手を掛けた、その時――煙の膜を突き破り、大きく広がった蜘蛛の巣が、身動きの取れない男をすっぽりと包み込んだ。

 

 男の個性は”(アックス)”、両腕を斧に変える事ができる。複雑に絡まり合った白布はひどく頑丈で、斧の刃先を当てても容易に切り裂く事はできない。躍起になって集中する彼の脳天に、何者かの一撃が突き刺さった。

 

 

 

 

 ヴォイスが急に途絶えたのが、()()()()()()()だった。煙が急速に薄れ、消え去っていく。部屋の中心には恰幅の良い男がいて、掃除機のようになった右手で煙を吸い込んでいた。第六子・瓢箪型スピーカーを踏み潰し、屈強な男が唾を吹きかけている。その様子を視認しつつ、杳は再び時刻を確認した。

 

 戦闘開始してから曽我瀬を寝かせるまでに1分、そこから2.5分は堪えなければならないのに、()()1()()()残っている。インカムも反応がない。――まずい、このままでは。焦りを帯びた杳の視界を、七色の光が覆った。種々様々な個性の放つ輝きだ。

 

 男達は怒りに歪んだ顔で杳を取り囲み、一斉攻撃を放った。対多数の攻撃を正面から捌けるほど、杳は強くない。とっさに腰を屈めて高く跳躍した杳を、オレンジ色の輝きを放つエネルギー弾が追従する。そのまま天井とエネルギー弾の板挟み状態になりかけた、刹那――

 

 ――不可視の力に首根っこを掴まれて、杳は宙を飛んだ。軌道の先には()()がいた。悪鬼のような形相で、右手に力を篭めている。彼の個性は”引力”、右手にあらゆるものを引き寄せる力を発動できる。

 

「手ぇ出すなッ!俺の獲物だッ!」

 

 葛真にとって、杳は罪の意識そのものだった。あの時、自分が諦めずにいたら叶えられたかもしれない()()()I()F()。もう杳は哀れな同志ではない。確実に殺し、自分の記憶から一刻も早く抹消するべき存在だった。

 

 純粋な格闘戦ならば、葛真の方に分がある。杳の回転蹴りをいなして首を掴み上げると、鶏を(くび)り殺すように、彼はその力を徐々に強めていった。杳は必死に暴れて、周囲のものを蹴り飛ばす。ガラスのテーブルが砕け、空き缶や瓶が辺りを跳ね回り、騒音を奏でた。哀れな少女を取り囲んで、男達はゲラゲラと笑う。一緒になって笑っていた売人は、ふと気づいた。

 

 ――目の前に転がった空き缶が、砕け散ったガラステーブルの破片が、カタカタと振動している事に。

 

 振動は見る間に大きくなり、葛真達も異変に気付いたのか、動きを止めて周囲を見回す。何十台もの車が群れを成しているかのような轟音が、この部屋を包囲するようにして近づいていた。苦しそうに咳き込む少女を床に放り出し、葛真は呆けたような顔で廊下の奥を見る。

 

 ――曽我瀬を閉じ込めた部屋の扉が、開いている。その前には奇妙なテント状のバリケードがあり、その中に白い布に包まれた人影が二つあった。

 

 冷静に考えれば分かる事だった。過去のトラウマと慢心が、葛真の思考力を鈍らせた。いくらサポートアイテムを使ったって、無個性の子供が大勢の敵を相手に勝てるわけがない。()()()()曽我瀬を気絶させる事が目的だった。後はわざと派手に暴れ回り、救けが来るまでの時間稼ぎをしていたのだ。――終わる。今まで築き上げてきたものの全てが。突如として地面が崩れ去り、虚空に放り出されるかのような深い絶望の感情が、葛真の心身を支配する。

 

 一方の杳はふらつく体を叱咤して、立ち上がる。このまま転がっていたら、確実に殺されるからだ。少しでも時間稼ぎをしろ。杳は自らにそう言い聞かせ、()()()を起動させようとした、その時――

 

『杳ちゃん!頑張って!』

 

 涙に滲んだ掛本の声が、インカム越しに杳の心を揺らした。そしてようやく彼女は、室内が今や地震のように揺れ動いている事、エンジンの如き轟音がこちらに接近している事を理解した。―― 2.5分という到着時間の限界を突破して、チームIDATENが駆けつけてくれたのだ。万感の想いが杳の心身を支配する。今にもその場に崩れ落ちそうになるのを気合で押し留め、彼女は葛真と相対し、戦闘体勢を取った。

 

 かつて同じ道を進み、今は道を違えてしまった両者の瞳が三度、ぶつかり合う。その瞬間、葛真の心の奥底で何かが弾けた。――こいつは俺を踏み台にするつもりだ。真っ黒に煮詰まった劣等感と憎しみの感情が、心の奥底からひたひたと這い上り、葛真の体を操り人形のように操縦する。

 妬ましい。許せない。今度こそ少女の首を掴み、華奢な造りの頸椎を折ろうとした――

 

 次の瞬間、出口を突貫し、大勢のヒーロー達がどっと雪崩れ込んできた。白銀の甲冑をまとったヒーローが轟々と唸りを上げ、一群の中から飛び出して、葛真に渾身のタックルを喰らわせる。敵の手から解放され、ふわりと宙に浮いた少女の体を、彼はしっかりと抱え込んだ。()()と丸く見開かれた杳の瞳が交錯する。

 

「……ッ」

 

 この時、天哉の心中にあった感情を、彼は明確な言葉で表現する事ができなかった。杳の顔は殴られて腫れあがり、服は引き裂かれ、ブラウス越しに見える乳房には手形状の痣が滲んでいた。おまけに体じゅう傷だらけだ。――アジトで孤軍奮闘していた杳の映像と、学内で友人達に囲まれて幼く笑う彼女の姿が、天哉の脳裏に交互に明滅する。

 

 何故、逃げて僕らを頼らなかった。いや、敵は最初から逃がすつもりなどなかった。彼女は充分にベストを尽くしたじゃないか。だからといって、個性も仮免も持たない彼女が危険な行為に及ぶ必要は……。様々な想いが頭の中をせめぎ合い、天哉が戸惑っていた、その時――

 

『よく耐えた!』

 

 インカム越しに飛んできた天晴の声が二人の心を揺らし、止まっていた時間の針を動かした。

 

 ――今回の自分の活動はあくまで正当防衛だと、杳は考えていた。敵に乱暴されかけた自分、及び他の人々を守る為の行動だと。でも、それでも、きっと怒られると思っていた。失望されると思っていた。杳は込み上げてきた熱い感情を何とか飲み下し、頭を振って涙の残滓を吹き飛ばす。それから真っ直ぐな眼差しと声で、友人達に応えた。

 

「ごめんなさい。……信じてました。救けてくれて、ありがとう」

 

 ぼんやりと立ち呆けていた背中を兄に押されたように感じ、天哉はマスクの奥で息を飲んだ。天晴からの返答はない。弟の言葉を待っているのだろう。

 

 その瞬間、天哉は理解した。個性を失った杳を、心のどこかで市民と同じ、”守るべき対象”だと捉えていた事に。普段の杳の貧弱さを見るに、それは何ら間違った思考ではない。だが、今、自分のできる事を考えて戦い抜いた彼女に対し、その想いを向けるのは礼儀に反していると思った。出口付近まで杳を運びながら、天哉は静かに言葉を紡ぐ。

 

「無事で良かった」

 

 杳は思わず顔を上げ、天哉を見つめた。刹那、凄まじい衝撃と爆発音が立て続けに起こり、アジト内をグラグラと揺らした。あまりの衝撃に四方の壁がひび割れ、天井から瓦礫の破片や埃が降ってくる。天哉は反射的に杳を背中に庇い、地面に伏せた。その肩越しに、杳は見た。

 

 ――葛真が大量の注射針を首筋に撃ち込んで、凶暴化しているのを。彼だけではない。杳の拘束を逃れた数名の敵達も彼に習い、違法薬物を大量に自身へ投与している。逮捕を目前にした葛真達が見せる、最後の悪あがきだった。そうして形勢は一時的ではあるが再び、逆転した。

 

「わあああッ?!」

 

 ズズズッ、といきなり数メートル以上も廊下を引き摺り戻されて、杳は間抜けな悲鳴を上げた。葛真の中空に掲げた右手の前方には()()()()()()が巻いている。

 

 ――違法薬物で個性を極端化した事により、葛真は疑似的なブラックホールを創り出していた。同じ個性を持つ13号には遠く及ばない引力だが、あらゆるものが不可視の力で引き寄せられてゆく。杳の耳からインカムが離れ、ゴミや水パイプと共に渦の中へ消えてゆく。ヒーロー達は直ちにチームを再編成し、そのほとんどを葛真の制圧に費やした。

 

 だが、それでも人員が足りない。杳はネットランチャーのダイヤルを回し、射出速度を最大にして出口付近にある昇り階段に向け、引き金を引いた。粘着性のある捕縛糸が射出され、コンクリートにくっつく。何度か引っ張ってみるが、強度に問題はなさそうだ。そして階段付近にあるゴミに動きはない。葛真の個性の効果範囲は室内だけに留まるという事になる。

 

「飯田くん!私はこの糸を辿っていく!後ろに戻って!」

「ダメだ!君を安全に――」

 

 天哉の大音声を掻き消す程の轟音が再び、後方で炸裂する。巨大な斧を振り回した敵が、ヒーローの展開した空中線路を破壊し、暴れ回っていた。

 

 急遽通信が入ったのか、天哉は息を飲み、小さく頭を振る。一見、葛真達が押しているように思えるが、その実、彼らは追い詰められていた。葛真達はチーム戦に長けていない。おまけに違法薬物はいずれも粗悪品、効能も不安定、効果時間も短い。彼らが混乱している今のうちに一気に抑え込んでしまった方が被害を押さえられるというのが、チームIDATENの総意だった。

 

 天哉は絞り出すような声で謝罪の言葉を紡いだ後、戦場に駆け戻る。謝りたいのはこちらの方だと、杳は思う。だけど、謝るのは後だ。杳は糸を辿り、出口の方へ進んだ。少しでも踏ん張る力を弱めると宙に浮きそうになるが、捕縛布の昇降訓練と比べるまでもない。

 

 簡易バリケードの横を通り過ぎる際、内部を覗くと空っぽだった。――無事に避難できたんだ。杳はホッと安堵して、さらに先へ足を運んだ。やがて三茶を始めとした警察部隊の一群が、階段を慌しく駆け下りてきた。そのまま室内に雪崩れ込んできそうな勢いだったので、杳は慌てて口を開く。

 

「この部屋に入らないで!引力が働いています!」

「ッ!……分かった!糸を引っ張るから捕まっていなさい!」

 

 三茶が杳と階段を繋いでいる糸を認め、引っ張ろうとした途端、()()()()()した。杳は思わず前につんのめり、たたらを踏む事で何とか体勢を取り戻す。

 

 慌てて振り返ると、天哉達が葛真を制圧したところだった。意識を失った彼の両手に特殊拘束具を嵌めている。他の仲間達が捕まるのも時間の問題だろう。三茶の号令を受け、警察部隊が杳と擦れ違うようにして内部へ突入してゆく。もう大丈夫だ。緊張感でいっぱいに膨らんだ杳の心臓はみるみるうちに萎んでいく。その時――

 

「うぅ……」

 

 苦しげに呻く男の声が、床を這うようにして聴こえた。曽我瀬が閉じ込められていた部屋だ。安心感は瞬く間に消え去り、杳の全身を戦慄が駆け抜ける。

 

 ――まさか曽我瀬が逃げ遅れ、怪我をしたのか?杳は急いで部屋に駆け込み、大きく息を詰めた。元々古かったのに加えて戦闘の振動が影響したのか、天井が抜け落ち、瓦礫の山ができている。そこから()()()()が突き出ていた。杳は夢中で駆け寄り、瓦礫をどかし始めた。

 

「救けてくれ……」

「大丈夫です!すぐに救けます」

 

 瓦礫を取りのけていく度に、少しずつ腕の輪郭が露わになる。杳は突然、()()()()()()に囚われた。――ボロボロに焼け焦げた皮膚と健康な皮膚を針金で継ぎ合わせた、不可思議な腕。どこかで見た事のあるような気がする。記憶を探り当てる寸前、継ぎ接ぎの手は素早く動いて、杳の手をガッと掴んだ。邪悪な感情を宿した瑠璃色の双眸が、暗闇の中から杳を捕える。

 

「ありがとう。()()()()()

 

 ――次の瞬間、完全燃焼の蒼炎が、杳を包み込んだ。




日本の救急車の現場到着時間は8.7分が平均だそうです。ヒロアカ社会はヒーローがいるので、グッと短めにしてみました。

いつもこのSSにお目通しいただき、本当にありがとうございます。


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No.81 ナックルダスター

※ご注意:作中に残酷な表現、暴力表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 完全燃焼の蒼炎が、杳を包囲する。杳はとっさに両手を交差させて頭部を守り、後方に跳び退(すさ)って包囲網から逃れようとした。しかし、炎はそれよりも早く小部屋を満たし、杳の周囲を()()()()へ一変させる。

 

 瞬間的に皮膚が損傷を受ける温度は七十度であると言われている。完全燃焼の蒼炎はその十倍以上もの熱量を有する。猛烈な熱波に弄られ、杳の体表が融け始めた。体内に残ったわずかな個性因子が高熱で損傷し、人の形を維持できなくなったのだ。あまりの熱さに意識すら蒸発しかけた、その時――眼前にエネルギーシールドが展開された。

 

 杳はシールド内に尻餅をついて、そのまま倒れ込んだ。まるで切れかけた蛍光灯のように意識と視界が明滅している。それでも何とか、いち早く元の形を取り戻した眼球を動かし、杳は状況把握を試みた。

 精緻なハニカム構造を成したエネルギーシールドは自分を起点にして球状に展開され、蒼炎から守ってくれているようだ。淡く輝く膜を透かして、こちらを浸食しようと暴れ回る蒼炎が見える。辺り一帯は猛火が放つ光で瑠璃色に輝いていた。

 

 次の瞬間、小さな爆発音がすぐ傍で二回発生し、両手に熱い痛みが走った。思わず目線を落とすと、両手に嵌まったリストバンドが見るも無残な形に変形し、白煙を上げている。同時に、ぐらりとシールドの輪郭が揺らいだ。蒼炎の勢いに押されるようにして、シールドの内壁が火花を散らしながらこちらに迫ってくる。逃げ道を探して周囲を見回していると、今度は食道から何かが駆け上がってきて、杳は顔を歪めてそれを吐き出した。――()()()だ。それは瞬く間に全身を包み込み、杳は何も分からなくなった。

 

 

 

 

 数分前、雄英高校・Develop Studio工房にて。発目は開発途中の機体(ベイビー)の下に潜り込み、内部構造の点検を行っていた。

 

 突然、電車の発車メロディを思わせるキャッチーな音楽が室内に鳴り響く。”失敗は発明の母”という言葉を座右の銘にしている発目は、日々大量に発生するベイビー達のエラーを――緊急性があるものに限り――警告音を発して自分に知らせるように設定していた。マイクのラジオ番組のテーマソングをなぞった先程のメロディは、杳の携行しているベイビー達が破損した事を意味する。

 

「ベイビー!」

 

 発目は慌ててモニタースペースへ向かった。黄色い警告マークが浮かぶ電子画面には、瓢箪型スピーカーの破損という情報が表示されていた。杳に持たせたベイビー達は機能停止する寸前、直近のデータを記録し、発目の下へ自動転送する――というプログラムを組まれている。これにより、発目は杳の要領を得ない説明に付き合う事なく正確な情報を手に入れ、さらなるベイビーの向上に貢献する事ができていた。油の染み込んだ手袋でキーボードを叩き、圧縮データを解凍し、ざっと目を走らせる。爛々と輝く発目の瞳が、訝しげに細められた。

 

「外部衝撃による破損?」

 

 確かシッターは最近、どこぞのヒーロー事務所にアルバイトへ行っているはずだと発目は顎を撫で、思案を巡らせた。さしもの発目も仕事の邪魔をするつもりはない。杳がベイビーを使うのは、事務所内で実践する機会が与えられた場合だけだ。それが破壊されたという事は今、彼女はヒーローと模擬戦闘中なのだろうか。

 

 データ発信場所は、多戸院市内のある一画だった。だが、妙だ。あのベイビーは余程の衝撃を受けない限り壊れないよう、とびきり頑丈にできている。犯人はシッターではない。そもそも彼女が発動させたのだから壊す必要もないだろう。ならば、プロヒーローがスピーカーを壊したという事か?

 

 再び、メロディが鳴り、電子画面が黄色く輝いた。今度はリストバンドだ。発信場所は最初の区画から数キロ程、離れている。破損理由は同じく外部衝撃によるもの。発目の胸がざわりと騒いだ。相次ぐベイビー達の破壊、数キロ離れた場所への瞬間移動。こんな不可解な事をヒーローがするとは思えない。導き出される結論は一つ。――敵との戦いに巻き込まれている。

 

 突然、発目の渇いた舌に甘ったるいカフェオレの味が蘇った。サンドイッチを頬張るシッターの姿が、フラッシュのように脳内に閃く。発目は何かに急き立てられるように工房の奥へ駆け込むと、はんだごて中のパワーローダー先生の肩をガッと掴んだ。あまりの勢いに危うく()()先に顔を突っ込みそうになり、彼は目を白黒させながら振り向いた。

 

「あっぶ!ねぇなオイ!」

「シッターさんのアルバイト先ってどこでしたっけ?!」

 

 

 

 

 同時刻。チームIDATENの事務所、オペレーター室にて。掛本は手当たり次第に情報を集め、()()()()()を探していた。ビルの出入口を包囲している警察達やスタッフから、姿が見当たらないと通報があったのだ。インカムは戦闘に巻き込まれて破損している。――戦闘に巻き込まれたのか?どこかで怪我をしてアジトに取り残され、動けない状態にある?掛本は逸る心を押さえて、天哉達に指示を送った。

 

『スタンプを辿って!』

「了解」

 

 杳のスニーカーに仕込まれていたのはスタンガンだけではない。童話でヘンゼルが帰り道を辿ろうと光る小石を落としたように、時間が経つとわずかに発色する液体が靴底に仕込まれていた。杳は売人に付いていく時にそれを発動させ、自らのルートを示していたのだ。

 

 天哉は素早く返事をすると床に視線を落とす。大勢の足跡や戦闘痕で汚れきった床から、杳と思しき小さな足跡を見つけ出すのは大変な作業だった。それでも懸命に目を凝らし、天哉は友人の足取りを辿る。杳は出口に向かう寸前、何故かその脇にある小部屋に入っていた。迷いなくそこに跳び込んだ瞬間、天哉は狼狽し、大きく息を詰める事となる。

 

「……ッ!」

 

 小さな室内は黒い煤で塗り潰され、全てがボロボロに焼け焦げていた。天井が抜け落ち、中央に瓦礫の山ができている。揺らめく陽炎と熱波の残滓、雪のように降り注ぐ灰燼が天哉のコスチュームを汚していく。ついさっきまでここで激しい戦闘があり、彼女はそれに巻き込まれたという事だ。強烈な自責の念に駆られ、天哉は一瞬、呼吸を忘れた。――あの時、僕がきちんと出口まで運んでいれば。虚ろな視線が()()()()へ向く。室内にはそれ以外に何もなく、考えられる居場所はそこしかない。夢中で瓦礫に手を掛けたその時、彼の耳に通信が入った。

 

『白雲さんの居場所が判明!分隊して救援に!』

 

 安心とも不安ともつかない、不可思議な感情が天哉の心にどっと押し寄せた。発目という雄英生の通報により明らかになったと掛本は続ける。新たな居場所と思わしき場所は、数キロ先にある年代物の旧病院だった。数ヶ月後に取り壊し予定となっている空き施設だ。

 戦闘中のヒーロー達はすぐさま短い会話を交わし、チームを再編成した。その時、床に組み伏せられていた葛真の指先がぴくりと動いた。図らずも、杳の名前は彼の戦意を呼び覚ましたのだった。

 

 突然、街中で次々にくぐもった悲鳴や怒号、破壊音が発生した。 

 

 葛真は機械関係に聡い人間だった。曽我瀬の生命を機械で維持していたのも彼だ。彼が奥歯に仕込んだ電子チップを破壊すると、街中に潜んでいた仲間達の電子端末にメッセージが届く。――”最後の晩餐を楽しめ”と。葛真の仲間はここにいる人間だけではない。現状に希望を持てず自棄になり、破壊衝動を持て余す人間は腐るほどいる。皆、持っている違法薬物を一斉に服用し、暴れ始めたのだ。

 ――もうどうにもならない。葛真は唇を獰猛に吊り上げた。ならば、できるだけ多くの破壊を。多くの人間を道連れに。あの少女もだ。みすみす助けに行かせてたまるものか。

 

 アジト内の残党の制圧、同時多発的に発生した突発敵の捕縛、杳の救出。三つの事態に対処する為、チームは再び編成された。

 だが、如何せん敵の数が多すぎて人手が足りない。一先ず人数を平等に振り分け、戦況に応じて対応するように天晴は指示を飛ばした。唯一()()()()()()()()のは杳だけだ。ごくりと唾を飲んだ天哉の脳内に、屋上で共に缶ジュースを傾ける友人の姿が浮かび上がった。泣き腫らした灰色の瞳に、虹色のネオンが映っている。この中で一番速いのは自分だ。天哉は戦闘体勢を取り、エンジンを吹かした。異変に気付いたトレインマンが慌てて手を伸ばす。

 

「天哉!何してる」

「俺が斥候になります!その間に編隊を」

 

 ――全ての責任はあの時、手を離した自分にある。美しく並んだ銀色の筒が震え、地鳴りのような音を轟かせた。白銀の甲冑を陽炎が包み込む。次の瞬間、大きな衝撃音を残し、天哉はアジトを跳び出した。

 

 

 

 

 同時刻、多戸院市内の旧病院にて。杳は硬い床に背中から放り出された。強烈な嘔吐感に突き上げられ、体をくの字に折り曲げて泥の残滓を吐き出す。泥は体外に排出されると、地面に落ちる前に消え去った。だが、それの発していた――ガソリンとタールを彷彿とさせる刺激臭と何とも言えない味はまだ残っている。杳は怖気を震い、喉をかきむしった。

 

「うええっ……くっさ……」

 

 粘度の高い水が盛大にぶちまけられる音がして、杳は前方を見た。黒い泥をかきわけるようにして、中から一人の青年が姿を現した。忌々しい顔をして口から泥の残骸を吐き出し、こちらを見る。酷薄な輝きを放つその瞳を見た瞬間、大量の情報がどっと頭に流れ込んできて、杳の思考は一時的に停止した。

 

 継ぎ接ぎの手、瑠璃色の瞳。忘れるはずもない、敵連合の一味・荼毘だ。何故、彼が葛真のアジトにいたのか。葛真が口にしなかっただけで、敵連合は彼の仲間だったのか。私を殺せと転弧が命じたのか?黒い泥。あれと同じ経験を以前にした事がある。でも、思い出せない。そもそも、ここはどこだ?

 

 葛真達のアジトに赴いた時は、情報を一つ一つ手に取り、確かめる時間があった。だが、今は違う。混乱する脳内を整理するために、杳は大きく深呼吸した。――捕縛布の訓練時、相澤が教えてくれた事の一つだ。毎度の如く自身の放った捕縛布に返り討ちに遭い、必死にもがく杳の前にしゃがみ込むと、相澤は噛んで含めるようにこう言った。

 

(お前はすぐパニックを起こす。そういう時こそ落ち着くのが肝要だ。混乱は混乱を呼ぶからな。……意識を違う方向に一瞬、シフトしてみろ。状況によるが、飴を食べたり、頭の中で計算をしたり、好きなものを思い浮かべたりしてみるのがいい)

 

 戦闘の最中で褒められた事ではないが、杳は頭の中で人使の顔を思い浮かべた。それだけで、一気に昂ぶった感情が凪いでいく。不安定に膨らんでいた心が、あるべき形へ戻っていく。――また戦いに巻き込まれて、彼は心配するだろうな。無事に帰ったら、猫型りんごを創ってくれるだろうか。

 

「さっきのは何だ?」

 

 冷たい声が飛んできて、杳の意識は一気に現実に引き戻された。さっきのというのは、シールドの事だろう。人は理解の及ばない出来事が起きると、周りにあるもので整合性を取ろうとする。リストバンドが爆発したと同時にシールドが揺らいだ。この事実から、杳は恐らくあのシールドは発目が仕込んでくれたものだと推察した。元より彼女は――親切心か探求心かは不明だが――ベイビーにこっそりオプションを付けてくれる事が多々あった。

 

 しかし、それを馬鹿正直に荼毘に言う事は(はばか)られた。彼が一定の距離を置いて攻撃を仕掛けないのは、自分に個性があるかもしれないと警戒しているからだ。そのおかげで、杳は平常心を取り戻す時間を与えられた。

 

 葛真のアジトにいた時と今とでは状況が違う。自分のできる正しい行動は戦う事ではなく()()()()()()()事だ。杳は(きびす)を返し、出入口に向かって駆け出した。

 

 コンクリートが剥き出しになった大きなフロアは、同じ素材の柱以外に遮蔽物は何もない。至る所に埃の塊や蜘蛛の糸のカーテンが下がっている事から、ここが放置されて長い年月が経っているという事が分かる。出入口は一つだけで、ぽっかりと空いた大きな口の向こうには下り階段があった。杳が出入口の敷居を跨ごうとしたその時、荼毘は乾いた笑い声を上げた。

 

「おっと。それはお勧めしねェな」

 

 思わず振り返ると、荼毘は杳の横にある窓を指差してみせた。ガラスの抜かれた窓枠に手を掛けて覗くと、喧騒に混じって救急車のサイレン音が近づいてきた。眼下には大きな交通道路が走っていて、その向こうに建物を二つ程挟んで真新しい病院があった。そこに救急車が吸い込まれていく。ゴマ粒の程の大きさの救命士が車から飛び出し、患者の載ったストレッチャーを施設内に運ぼうとしている。荼毘は指先に炎を点し、煙草を吹かした。

 

「俺は射的が苦手でね」

 

 杳はギュッと拳を握り締めた。市民達の避難誘導を済ませているのか、元々寂れた街並みという事も影響しているのか、辺りに人気はない。そうこうしている内に、酸素ボンベを積んだトラックが救急車の横に停止した。――救けを求める事はできない。杳は戦う覚悟を決めた。あのボンベに引火すれば大変な事になる。

 

 ――なんでこんな事に。そう考えかけて、杳は頭を振った。不条理を嘆いても敵は待ってくれない。自分が出来る事は生き残る術を模索し、実行する事だけだ。

 杳は迎撃態勢を取りながら、脳内の情報を整理する。あのアジトは地下にあった。街並みの様子から見て、あの建物の上階に移動したとは考えられない。距離の離れた全く別の建物にいると考えるのが妥当だろう。

 

 ()()()()。その言葉を切っ掛けに、杳は記憶の一部を思い出した。そう、神野のバーに連れ去られた時。あの時も黒い泥に包まれて、死柄木の待つ場所へワープさせられた。今回も同じ個性だとするなら、杳の頭にある人物の名前が浮上する。――ドクター。

 

「ドクターの指示ですか?」

「……ヒーローごっこの次は探偵ごっこか?」

 

 意地悪な声で質問返しをすると、荼毘は旨そうに煙草を吸った。吐き出された紫煙が二人の間に棚引いて、ゆったりと薄れていく。

 

「あいつらはしくじった。その尻拭いに俺が来たってわけだ」

 

 やる気のなさそうな口調とは裏腹に、荼毘の瞳は溢れんばかりの殺気で(みなぎ)っている。――荼毘と葛真は繋がっていたのか?杳は再び混乱しそうになった頭を押さえて、思考を巡らせた。だが、葛真は当初自分を殺すのではなく仲間に引き入れようとしていた。黒い泥とドクターの関連性も無視できない。一つだけ分かっているのは、恐らくこの状況を()()()()()()()という事だけだ。知っているなら止めるはず。無意識の内にそう思えるほど、杳は彼に対して友情を抱いていた。それがどれだけ儚く、また矛盾に満ちた悍ましいものなのか、気づきもせずに。

 

「転弧は知ってるんですか?」

「そのテンコっての止めろ。気色悪ぃ」

 

 荼毘は吐き捨てると、両手を中空に伸ばした。刹那、両の掌から凄まじい物量の蒼炎が吐き出され、大気をびりびりと震わせながら渦を巻いて、杳を囲むように広々とした空間に真円を描いた。炎の壁は厚く高く、床から天井まで届いている。防具なしに突き抜けるのは自殺行為だった。蒼炎の発する超高温を逃すには、ガラスの抜けた窓やドアだけでは心許ない。

 

 武骨なコンクリートの箱は一瞬にして灼熱地獄と化した。再び高熱に晒されて、杳の個性因子が悲鳴を上げる。――普通の火じゃない。息をする度に肺が灼けるように熱くなる。今にも遠のきそうな意識を気力だけで奮い起こし、ポケットの中の捕縛布を探る。もうシールドはない。あの炎の壁に少しでも触れたら、終わりだ。皮膚を炎症から守る為、大量の汗が杳の体表を流れ落ちていく。

 

「可哀想になァ。ヒーローなんか目指さなきゃ、お前は幸せに生きられた」

 

 荼毘は吸い終わった煙草を指先で弾いた。吸殻は床に落ちる直前、蒼炎に包まれて消えていく。その声はわずかな自虐と諦観の感情を含んでいたが、高熱に耐える杳がそれに気づく事はなかったし、荼毘もまた気付かせるつもりはなかった。

 

 ぼんやりした灰色の瞳と感情の読めない瑠璃色の瞳が、交錯する。――幸せ。杳は朦朧とした頭で、その言葉を繰り返した。確かにヒーローを志す中で、悲しく苦しい出来事は沢山あった。だが、それと同じ位、幸せな出来事も沢山あった。

 

「私、幸せです」

 

 額を伝う汗を拭って言い切ると、杳は低く腰を落として戦闘体勢を取った。その様子を見て、荼毘は苦笑する。死にゆく獣を看取るような、悲しく傲慢な笑いだった。

 

「そうかよ。……つくづく救いようのねェ馬鹿だな」

 

 

 

 

 荼毘が右手を杳に(かざ)す。青く輝く熱衝撃波が蛇のように宙をうねり、杳を蹂躙する。しかし次の瞬間、それは炎の壁と共に()()()()に変わった。思わず息を飲んだ荼毘の腹部に、小さな拳が突き刺さる。

 

 拳は接触すると同時に、一定量の振動エネルギーを荼毘の体内に送り込んだ。とっさに体を逸らして打点をずらし、蒼炎を地面に叩き付けて強制的に煙を払う。地面に降り立つ荼毘の足がふらりと傾いだ。

 

 荼毘が見つめる先には、真っ黒に煤けた防災布を被る杳の姿があった。右手には真っ黒なボールが握られている。――発目謹製の消火ボールだ。安全ピンを引き抜き、火炎内に投げ入れる事で爆発し、内包された消火剤が自動散布される。

 

 一時的に炎を消せる有力なアイテムだが、熱を下げる事まではできない。フロア内は依然として灼熱の温度を保っていた。おまけに、ボールのストックは残り二つ。ネットランチャーのストックも使い切ってしまったので、防災布もこれ一枚切りだ。防災布のおかげで焼死を免れたが、もう布のあちこちが焼け焦げて穴が開いている。

 

「おいおい。個性失ったっつーのは嘘か?」

 

 返事の代わりに、()()()()()が杳の拳から放たれた。まるで小さな子供が泣いているような音だった。杳の両手には金属製のナックルダスターが嵌められている。――第七子・ウィニーフィスト(泣き虫の拳)、振動エネルギーを発生させるアイテムだ。撃ち込んだ振動エネルギーは対象の全身に伝わり、ダメージを与える。今は個性社会、固体や気体で構成されている者達であっても、”揺らす”というシンプルな攻撃は有用だ。

 

 荼毘は冷たくせせら笑い、蒼炎を再び放出した。だが、それはまたしても煙に変わる。続いて死角からの一撃が、彼の背中を襲った。

 

「……ッ」

 

 振り向きざまに伸ばした荼毘の手が、空を掴む。気配も音もさせず、まるで幽霊のように朧げに、杳は立ち回っていた。感覚器が焼き切れている為に一撃で昏倒されはしないが、さすがに何発も喰らえば支障が出る。荼毘は忌々しげに唇を噛み、ぼんやりと揺蕩う煙を睨んだ。――この戦い方に、彼は覚えがある。あのイカレ女、()()の戦闘スタイルだ。

 

 

 

 

 週に何度か、杳は相澤と共に組み手をしていた。相澤は時に図解を用いて、学友達との戦いで学んだ事の総復習をさせた後、杳の戦い方に妙な癖が付かないよう、格闘技の基礎・応用をしっかりと叩き込んだ。相澤はミリオや爆豪同様、杳に手加減をしなかった。彼が繰り出す一撃は心が折れる音が聴こえるほどに重たく、苦しい。

 

 その日は、杳の調子が悪かった。続けざまにスマッシュを喰らった次の瞬間、杳の目の前に走馬灯が見えた。――もう嫌だ。痛い。喰らいたくない。無我夢中になった脳は現状を打破するため、過去のあらゆる記憶を引き摺り出す。

 突然、閉じた瞼の裏にトガの泣き顔が浮かび上がった。

 

(私になって。考えないで。全部、感じて)

 

 死柄木との戦いの最中、自分を守ってくれた時の記憶だ。暖かい涙と一緒に零された言葉が、杳の気力を奮い立たせる。杳は()(みみ)から相手の存在を逸らし、息を止めて、何も考えずに潜み、紛れようとした。存在そのものを希釈し、透明化させる。知覚能力が失われているために完全とは言えないが、杳の気配は一瞬、幻のように霞んだ。思わず動きを止めた相澤の真下にしゃがみ込み、杳は渾身の回転蹴りを放つ。ばちり、と肉のぶつかり合う音が周囲に響き渡った。

 

(いッ……!)

 

 しかし、痛いと叫びたくなるのを必死で堪える羽目になったのは杳の方だった。壁を蹴ったのかと見紛う程の衝撃が、脛全体をびりびりと痺れさせている。痛苦に悶絶する杳の前にしゃがみ込むと、相澤は静かに尋ねた。

 

(今のはなんだ?)

 

 口元を血塗れにしてあどけなく笑う友人の顔が思い浮かぶ。杳は気まずそうに瞳を伏せて黙り込んでいると、相澤は一歩にじり寄り、辛抱強く促した。

 

(言葉にできる範囲でいい。話してみろ)

(……友達。敵の、戦い方です。私を救けてくれたんです)

 

 泣きそうな灰色の瞳と、静謐な輝きを宿した黒い瞳がしばらくの間、混じり合う。やがて相澤は手を伸ばし、フワフワの白髪頭を撫でた。

 

(出し惜しみするな。使えるものはなんでも使え)

(……でも)

(その友達を救けるためなら、いい)

 

 

 

 

 再び炎を放とうと後退(あとすさ)った時、荼毘の背中は()()に跳ね返された。煙を透かして白い布が見える。――捕縛布、トラップか。警戒した荼毘はすぐさま直下に蒼炎を放った。コンクリートが火炎を噴き、彼を守るように炎の障壁を創り上げる。青白い光源で周囲の状況を確認した荼毘は、瞳を細めた。

 

 杳と荼毘を囲い込むような形で捕縛布が張り巡らされている。捕縛布は凄まじい強度を誇り、蒼炎の中にあってもびくともしなかった。捕縛布を蜘蛛の巣状に編んで行動範囲を狭め、煙で視界を奪い、布の一端に引っかかったところを襲うつもりなのだろう。随分と小手先の、薄っぺらい作戦だ。

 

「最初に会った時から気に入らなかったよ」

 

 荼毘はそう言うと、巣の中を充分蹂躙できる量の蒼炎を放った。――神野のバーで邂逅した時、杳は荼毘を冷気で救った。頼んでもいないのに余計なお節介だと言葉の弾丸を放つと、彼女は尻尾を巻いてすごすごと立ち去った。どこにでもいるヒーロー志望の安っぽい人種。荼毘にはそんな風にしか見えなかった。だからこそ、少女を覆うメッキが剥がれ落ちた時、荼毘は胸のすく想いがしたのだ。たまたま巨悪に気に入られ、スポットライトを浴びただけ。特別な存在なんかじゃない。照明が消えると、少女は俯いて舞台を去っていった。もう二度と会う事はないだろう、そう思っていた。なのに――

 

 ――少女は()()舞台に上がってきた。恥も外聞もなく泣きじゃくる彼女を、トガ達が物珍しそうに覗き込む。少女を見つめる弔の瞳が、不可思議な輝きを帯び始める。少女は涙の滲んだ目を擦り、ふと荼毘を見た。その目を見るなり、荼毘はぞわりと総毛立った。DNAが傷つくと成長を一時停止させる植物のように――成長を止めてしまった傷だらけの幼い瞳が、どことなく自分と似ているように感じられたのだ。

 

「……ッ」

 

 荼毘を追い詰めるために巣を創ったが、実際追い込まれているのは杳の方だった。杳は防災布を強く巻き付け、消火ボールを叩き付ける。最後の一つだった。世界が煙に巻かれる寸前、杳は見た。荼毘の皮膚の継ぎ目から煙が漏れ、どす黒い血が流れているのを。彼はそれに気付いていない。

 

 杳は再び、気配を消した。体格の小ささを利用して荼毘の懐に潜り込み、彼を下から殴り上げる。ウィニーフィストから常人が昏倒するレベルの振動波を送り込む。だが、荼毘は杳を見下ろして好戦的に笑うだけだった。じりじりと音を立てて、彼の皮膚がますます黒く焼け焦げていく。

 

「悪ぃな。もう何も()()()()んだ」

 

 杳の眼前に突き出された右手から、大量の蒼炎が噴き出した。その反動で、荼毘の体は大きく宙を舞う。杳はボロボロに焼け焦げた防災布を巻き付けると、地面を強く蹴って荼毘に追いすがった。

 

 瞬間的に放出された熱波が強力な上昇気流を生み出し、二人の体はフロアの天井付近にまで舞い上がる。防災布が灰燼に帰し、崩れ去っていく。守るものの無くなった杳の全身に、容赦のない高熱が襲いかかった。

 杳はウィニーフィストを最大出力にし、それを我武者羅に振り回した。マシンガンを連射したような轟音が辺り一帯に響き渡る。しかし、それらは荼毘ではなく――その周囲にある天井を傷つけていた。

 

「……?」

 

 荼毘が訝しんで目を凝らすと、杳はなんと瞼を閉じていた。あまりの熱さに開ける事ができないのだ。――下手な鉄砲も数打ちゃ当たるってか。荼毘は鼻でせせら笑い、今度こそ小さな子供を蒼炎で包み込んだ。

 

 白い髪の幼い子供が、業火の中に消えていく。ずっと遠い昔、荼毘はこの光景をどこかで見た事があるような気がした。ああ、そうだ。()()()は熱かったな。焼け爛れた心臓がわずかな痛みを放った、その時――

 

 ――轟音を立てて天井が砕け、落ちてきた。あまりの衝撃に老朽化した建物がぐらぐらと揺れる。続いて、()()()()が頭上から襲い掛かった。苔や埃、泥を含んだ汚水は濁流のようにフロア内に流れ込み、蒼炎を消し、一部の沸騰した水は水蒸気爆発を起こして、凄まじい衝撃波を辺り一帯にまき散らした。

 

(君に託すよ。ヒーローにはストッパーが必要なんだ)

 

 発目と共に”一撃”の主材を模索していた頃、杳は候補の一つである()()()()に触れた。その際、振動波に意識を集中すると周囲の状況や物の配置が大まかに分かるという事実が判明した。――世界は振動で満たされている。エネルギーが最低状態となる絶対零度付近においても、原子の振動は止まる事がないとされている。最小の世界で”揺らぎ”に触れ続けてきた杳だからこそ得る事のできた、疑似的な”空間把握能力”。戦いの最中、壁に送り込んだ振動を通じて、杳はこのエリアは建物の最上階に位置している事、そしてその上――屋上に手つかずの貯水タンクが数基ある事を把握した。

 

(握るたびに思い出して。……君が何のために個性を使うのか)

 

 振動波には干渉という性質がある。荼毘を外したフリをして何度も撃ち込んだ振動波は壁の内部で激突し、極限まで増幅させられたエネルギーに耐えかねて、老朽化した天井を貯水タンクもろとも破壊した。

 

 ウィニーフィストの音が見る間に小さくなる。エネルギーが完全に切れる間際、杳は荼毘に()()()()()を放った。威力は随分と弱まっているが、人体に影響を与える程度の余力はある。意識を失った荼毘の体を抱え込み、杳は捕縛布の一端を引っ張った。

 

(あやとりと一緒だ)

 

 杳の創った蜘蛛の巣は、荼毘を追い詰めるためではなく()()()()のものだった。手先の器用な人使が、独自に考案したものだ。少しでも長く一緒にいたくて、分からないフリをして何度も聞いたのでよく覚えている。それは一端を引っ張る事で繭のように丸く結集し、即席の盾となり、降りかかる瓦礫から内部にいる二人をしっかりと守り抜いた。

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 凄まじい衝撃が脳髄をシェイクする。その振動は焼け焦げた荼毘の神経を揺さぶり、在りし日の記憶を呼び起こした。

 

 ――ゴツゴツとした熱い手が、自分の体を撫でている。()()()()だ。来てくれたんだ。燈矢は笑おうとして、唇の端が引き攣れたように痛んでできなかった。起き上がろうとするが、父は肩を押してそれを留め、それからできるだけそっと彼を抱き締めた。

 

 万感の想いが燈矢の心身を突き上げ、涙腺がツンと熱くなる。だけど何故か、涙が出ない。凄かっただろ。焦凍にだって負けないよ。ガラガラに枯れた声で燈矢は言い募った。俺、頑張るからさ。もっともっと、頑張るから。

 

 父は何も言わない。代わりに、小さな泣き声が周囲に響き渡った。女の子の声だ。冬美か?燈矢の心がざわざわと騒ぎ、焦りを帯びる。女の人は嫌いだ。いつだって自分をたしなめ、どうしようもない現実を突きつけるから。立ち込めている煙のせいで何も見えない。どこにいる?余計な事を言わないように口止めしなきゃ。

 

 

 

 

 爆発と崩壊が鎮静化したのを確認してから、杳は捕縛布の一部を緩め、逆方向に引っ張った。するすると音を立てて、繭が解けていく。杳は地面に降り立ち、荼毘をそっと床に横たえた。その拍子に体がふらりとよろけて、瓦礫の一部に激突する。だが、痛みは感じなかった。あれほど自分を苦しめていた熱さもない。

 

 壊れかけた蛍光灯のように明滅する視界と意識をなんとか奮い起こし、杳は荼毘の前に座り込んだ。じっくりと見れば見るほど、痛々しい状態の体だった。どう手当てをしていいものか、杳は迷う。火傷の応急処置は冷やす事だが、汚水を使うわけにもいかない。杳はひとまず継ぎ目の部分から血が流れているのを確認し、それを拭う事にした。

 

「お、とう……さん」

 

 奇跡的に焼け残っていた猫型ポーチから滅菌ガーゼを取り出し、優しく拭き取っていると、すぐ傍で()()()が聴こえた。――お父さん?杳は声の出所を探し、やがてそれが荼毘の口から発されたものである事に気付いた。彼は薄らと目を開けているが、明らかに焦点が合っていない。呆気に取られる杳の前で、荼毘は苦しそうに、そして幸せそうに微笑んだ。唇の端がわずかに震えている。泣いている。杳は手を伸ばし、荼毘の目尻をそっと拭う。

 

 次の瞬間、杳の視界いっぱいに粒子の荒い映像が()()、浮かび上がった。呆然とする杳の前で、四角く切り取られた世界はある記憶のワンシーンを映し出す。ただ父に愛されたくて、見てほしくて、我武者羅に頑張り続ける少年の光景を。命を燃やし、心を焦がし、全てを灰燼に帰しても、報われる事がなかった彼の半生を。何かを求めるように虚空に伸ばされた少年の手が蒼炎に包まれ、消えていく。

 

(燈矢兄は、あいつに捨てられたんだ。……焦凍が生まれた時)

 

 轟家の仏間で夏雄が放った言葉が、杳の心に大きな波紋を描く。――彼はただ、自分の還る場所を懸命に守ろうとしただけなんだ。

 

 

 

 

 知らない少女の声が、燈矢の耳朶を打つ。その瞬間、荼毘の意識は過去から()()()()()()。遮るもののなくなった天井から風が吹き込んで、煙を晴らしていく。荼毘を抱き締めているのは父ではなく一人の少女だった。無惨に焼け焦げた両手を使い、彼の頭を繰り返し撫でている。全てを理解すると、もう戦う気にもなれなかった。荼毘は長く深い溜息を零した。

 

()()()()と思ったから、嫌だったんだよ」

 

 体のどこかが破けてしまいそうな程に声を枯らし、杳はますます咽び泣いた。幼子のようにしがみ付く杳の全身は焼け爛れて、黒くなっている部分が多かった。細胞が壊死しているのだ。衣服もボロボロで、そこかしこから黒ずんだ皮膚が見え隠れしていた。身じろぎする度に、黒い靄が煙のように体表から滲み出す。明らかに少女の方が重傷なのに、それでも彼女は懸命に手を伸ばし、荼毘を介抱しようとしていた。その様子をぼんやりと眺めていた荼毘は、やがて気付いた。

 

 ――小さな少女の服の端を、まるで縋るように自身の手が掴んでいる事に。

 

 感覚のない手を引き剥がしながら、荼毘は静かに思った。こいつは蜘蛛の糸と同じだ。だけど、釈迦がカンタダに垂らしたものとは違う。地獄から引き上げる力もない()()()だ。それなのに、腹が立つほど優しくて悲しくて、救けられもしないのに縋りたいと願ってしまう。叶わぬ夢、もしかしたらあったかもしれない違う未来に思いを馳せそうになる。もうそんなものは全部、あの日に伏したはずなのに。荼毘は瑠璃色の瞳を閉じて、白髪頭をそっと撫でた。

 

「救けてくれて、ありがとな」

 

 小さな体を抱き締め、荼毘は力を篭めた。そして――

 

「やっぱ死んでくれ」

 

 ――過負荷(オーバーロード)を起こして激痛を放つ自身の体を無視して、荼毘は全身を燃え上がらせた。まだ健常な色を残している皮膚が黒ずみ、焼け焦げ、感覚を失くしていく。それでもいいと荼毘は威力を強めた。せめて苦しまないように。小さな子供の体が燃え尽き、炭化した体表がぼろぼろと崩れ始めた時、低く唸るようなエンジン音が二人の側に近づいてきた。迎えが来たぞ。荼毘は子供をあやすように揺らし、ヒーローの到着を待つ。

 




あと二話で7期完…ここまで長かったぜ( ;∀;)

いつもこのSSをお目通しいただき、本当にありがとうございます。


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No.82 覚醒

※ご注意:作中に残酷な表現、暴力表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 災害や戦闘――所謂(いわゆる)非常事態が発生した時、人々は現状における最適の判断・行動を迫られる。最前線に身を置くヒーローはその力を最大限に磨く必要がある。

 

 チーム随一の速さを誇る天哉に斥候を任せ、他のヒーローはアジト内の敵の残党、及び街中に発生した突発敵の制圧に回った。状況こそ派手だが、違法薬物はいずれも効果が短く不安定である事を把握していたからだ。敵達の衰退はさながら線香花火のようであった。急速に勢いを弱め、ヒーローの手によって意識を落とされてゆく。制圧・救助・避難誘導――各々の役割を果たした者から(きびす)を返し、天哉の跡を追う。

 

 多戸院市の南端部。アスファルトで創られた空中道路を、白銀に輝く機体が駆け抜けていく。それは空気抵抗を失くすため、路面にヘルメットが着く寸前まで体を倒した天哉の姿だった。()()()()()。天哉は素早く燃料を補給するとさらにスピードアップし、目標の地点へ接近する。やがて建物の輪郭を肉眼で捕えた時――

 

「ッ?!」

 

 ――旧病院の屋上が給水タンクごと、鈍い音を立てて崩落した。爆散する瓦礫に混じり、鬼火のように青い炎が舞う。戦っている。主の想いに呼応して、エンジンが今にも焼き切れそうな程に唸りを上げ、ガタガタと震え始める。天哉は道路を滑走路代わりにして宙を跳び、崩壊した内部へロケットのように突っ込んだ。

 

 揺らめく蜃気楼と凄まじい熱波が辺り一帯を蹂躙している。電子視界が気温の異常上昇を感知し、無機質な警告音を発した。天屋はそれを無視して瓦礫だらけのフロアに着陸する。臨戦態勢を取って周囲を見回したその時、フロア内の奥地に――青い炎の塊が見えた。その中心には男がいて、彼は何かを抱いている。辛うじて人型を留めた()()()だった。天哉はそれから目を離す事ができなかった。

 

(俺は諦めない。だから、君も諦めるな)

 

 かつて友人に放った言葉が、真っ白に漂白された心にじんわりと染み渡る。全ての音が、色が遠のいていく。よろめいた足が、黒焦げになった猫型ポーチを蹴り飛ばした。天哉の予想が()()()()()()。一瞬遅れて、彼の背中に強烈な罪悪感と後悔のヴェールが覆い被さった。だが、彼は判断力と速さに長けた一族の人間だ。――今するべきなのは後悔に身を委ねる事じゃない。強靭な精神力でそれらを振り払い、天哉は駆け出した。

 

 男は視線に気づき、顔を上げた。それから両手をパッと離す。支えるもののなくなった亡骸が、ぐらりと前に傾いだ。その体を抱き留める寸前、瑠璃色の瞳と黒い瞳が交錯する。あの継ぎ接ぎの顔に天哉は覚えがあった。林間合宿で会敵した敵連合の一味だ。

 

「遅かったな。ヒーロー」

「白雲君!」

 

 直視できないと泣き叫ぶ心を叱咤して、天哉は腕の中の亡骸を確認した。炭化しているため生きている時よりずっと軽く、少しの衝撃を与えただけでバラバラに砕け散りそうな程、儚い存在に成り果てている。俺が遅かったせいで救ける事ができなかった。込み上げてくる激情を涙と共に飲み下し、それでも天哉は前を向く。彼は荼毘がまだそこにいる事を認識していた。せめてこの体を守り抜く。親御さんに必ず。天哉が固く胸に誓った――

 

「……ッ!」

 

 ――刹那、友の亡骸が不意に()()()()()()。呆気に取られる天哉の眼前で、真っ黒な杳の体表に音を立てて(ひび)が走っていく。続いて、まるで内側から肥大するように、亡骸の輪郭が一回り以上膨張した。その勢いに耐え切れず、炭化した体表がボロボロと剥がれて落ちる。思わず見入った瞬間、天哉の背筋を戦慄が駆け抜けた。

 

 友の体の一部がぱっくりと裂け、歯を剥き出しにして嗤っている。だが、それは彼の見間違いだった。口に見えたのは罅の割れ具合で、白い歯に見えたのはその隙間から覗く真っ白な皮膚だった。()()()()()。一瞬囚われた不穏な感情が、友の無事を喜ぶ想いに塗り潰されてゆく。暖かな体温が天哉の両腕に戻ってくる。やがて灰色のぼんやりした瞳がゆっくりと瞬いて、彼を見た。万感の想いが天哉の心身を突き上げる。

 

 家宝のように友人を抱き締めるヒーローの姿を、荼毘は訝しげに眺めていた。度重なる個性の酷使が祟ったのか、継ぎ目の部分から嫌な匂いのする黒煙が立ち昇っている。それを気に留める事なく、荼毘は思案を巡らせた。――完全に炭化させたはずだ。弱っている個性因子ごと焼殺したはずなのに何故、蘇生した?荼毘は鷹揚な動作で立ち上がった。しぶとい子供の命を今度こそ焼き尽くそうとした、その時――何の前触れもなく、荼毘の口から()()()が溢れ出た。右耳に嵌め込んだカナル型のインカムを押さえ、彼は薄く笑う。

 

「そういうことかよ。氏子さん」

 

 荼毘を包み隠し、黒い泥はさらに大きく膨れ上がる。数秒後、泥をかき分けるようにして()()()()()が姿を現した。露出した眼球はぐるりと一回転し、戦闘体勢を取った天哉を通り過ぎ――彼の腕に守られた杳で固定される。転送される間際、荼毘は小気味良く指を鳴らして青い炎を放った。鬼火のように不気味に中空を漂うそれは脳無が大量に吐き出したタールに引火し、辺り一帯を再び業火で支配する。

 

「選手交代だ」

 

 瑠璃色の瞳と灰色の瞳が、静かに交錯する。全身の細胞を一から創り直した事による副作用なのか、鉛のように重たい体と意識を気力だけで奮い起こし、杳は懸命に手を伸ばした。――俺が見てほしいのは()()()()()()()。燈矢はわずかに目を逸らし、それを拒絶する。天哉は杳を守ろうと後退(あとじさ)り、叫んだ。

 

「待てッ!」

「お前の大好きな”お兄ちゃん”だ。遊んでもらえよ」

 

 その言葉は杳の心に広範囲の火傷を負わせ、炭化した心臓を粉々に握り潰した。まだ回復し切っていない喉を酷使して、杳は()()()()を呼ぶ。だが、その声は脳無の放つ業火に阻まれ、誰に届く事もなく消えていった。

 

 脳無の吐き出したタールは意志を持っているかのように蠢き、広々としたフロア内を灼熱地獄へ一変させる。天哉は杳を強く抱えてフロアを脱し、下り階段を駆け抜けた。脳無は青い炎を引き連れて、二人を追いかける。階段内は一瞬にして竜胆色の輝きで埋め尽くされた。――()()()()()()()。天哉はインカムで短い通信を交わしつつ、脳無の放つ火炎攻撃をかわし続けた。

 

 タールの容量は底無しなのか、脳無が下層に降りる度、そのフロア内は大規模な火災に襲われる。やがて老朽化したビルがギシギシと大きく揺れ、不穏な異音を立て始めた。一階に続く階段の踊り場で、天哉は急ブレーキを掛けて立ち止まる。――外には民間人がいる。杳を狙っているのだから外へ逃がすわけにも、熱に弱い彼女を抱いて戦うわけにもいかない。

 

 天哉はまだ延焼が及んでいない廊下の端を走り抜け、建物脇に設置された非常階段を駆け上がった。そして再び、屋上へ跳び出す。高熱と爆風で歪んだフェンスに降り立つと、小さな泣き声が天哉の耳朶を打った。杳が顔を歪めて泣いている。なるべく熱を避けて逃げ続けたが、それでも熱かったのだろう。そして何よりも怖かったに違いない。伝う涙を拭い、天哉は優しい声を掛けた。

 

「すまない。怖い想いを――」

「ご、めん」

 

 ガラガラにひび割れた声が、火炎の弾ける音に儚くかき消されてゆく。

 

「わた、し……また、めい……わく。……か、けた」

 

 杳は歯を食い縛り、咽び泣いた。チームIDATENの事務所で過ごした日々が、閉じた瞼の裏に流れていく。天哉、天晴、掛本、トレインマン、デイダラ、眠――多くの事を教えてもらい、支えてきてくれた人々に、恩を仇で返してしまった。半端な自分が情けなくて不甲斐なくて、たまらなかった。数秒後、轟音を立ててビル全体が大きく揺れ、杳がかつて穿った大穴から大量の蒼炎が噴き出した。それを煩わしそうに振り払い、脳無が姿を現す。

 

「白雲君」

 

 ふと静かに名前を呼ばれ、杳はぐしゃぐしゃに泣き濡れた目で天哉を見上げた。いつの間にか、彼はヘルメットを取っていた。理知的な輝きを放つ黒い瞳が、杳を優しく見下ろしている。絶望に支配された杳の心を瞬時にして凪ぐ程に、その瞳が放つ光は強く尊かった。一切の迷いのない声で天哉は言葉を紡ぐ。

 

()()は人事を尽した。後は天命を待つだけだ」

 

 突如として、杳の頬に()()()()()()()()()。干天に降り注ぐような優しい水の粒だった。驚いて顔を上げると、巨大な龍(カムイシンタ)が上空に浮かんでいる。龍は両手を伸ばして天晴と杳をそっと掴み、自分の背に乗せた。間近で見ると龍のフォルムは丸っこくモノクロで、見覚えのある目が二つ、心配そうに瞬いて杳を見守っている。――デイダラさんだ。杳は何となく龍の正体を理解した。ふっくらとした龍の手が、杳の頭を不器用に撫でる。

 

『このまま真上に上昇する。消火・包囲開始』

 

 龍の背に括り付けられた業務用スピーカーから、天晴の冷静な指示が飛ぶ。――天哉のインカムを通じて状況を知った天晴は、近隣エリアを担当する消火活動に秀でたヒーロー達に協力を要請し、新たなチームを編成したのだった。プロヒーロー・”バックドラフト”と”マニュアル”が、トレインマンや他のヒーローの背に乗り、龍の周囲を空中旋回している。それぞれ本拠地(ホーム)も戦闘スタイルも異なる彼らが――まるで旧知の友であるかのように結託し――最高のコンディションで力を発揮できるように()()()のが、チームIDATENの務めであり本領だった。消化ホースの先端をビルに向け、バックドラフトが叫ぶ。

 

「呼吸合わせるぞ!」

「はいッ!消火栓お願いします!」

 

 マニュアルの指示を受け、ビルの真下に駆け付けた消防士達は町中にある消火栓を開放した。噴き出した大量の水は中空で渦を巻き、美しい水のドームとなって旧病院を包囲する。蒼炎の発する高熱に耐え切れず、水の膜は瞬間的に沸騰して水蒸気爆発を発生させた。しかし、水のドームは強い粘度と耐久力を有しており、度重なる爆発を外に出す事なく内側に押し留めた。バックドラフトはホースを向け、大量の()()()を放つ。

 

 ――タールから引火した炎は消火が難しい。バックドラフトの作戦は水のドームで密閉状態にして酸素を断ち、あえて水蒸気爆発を起こさせて火種を破壊、独自に配合した窒息消火剤を内部に注入する――というものだった。二酸化炭素やハロゲン化物のガス、炭酸水素塩やリン酸塩類の粉末が含まれた不燃性の泡が、マニュアルが一時的に薄めた水の膜を貫き、注ぎ込まれていく。果たしてそれは脳無にも有効だったのか、彼は苦し気に身を捩り始めた。タールを吐き出して抵抗するが、その量も見る間に少なくなっていく。自身を包む炎が消滅すると、脳無の全身が露わになった。

 

「……ッ」

 

 杳は眼下を覗き込んで、息を詰めた。――脳無の体は人型を保っていなかった。タールのように融けた黒い皮膚から、白い骨と腐りかけた内臓が覗いている。死にかけている。脳無はぶるりと身を震わせた。同時に背中の組織が大きく膨張し、不恰好な翼が突き出す。それを羽ばたかせ、彼は真上にいる杳を目指し、水の膜を突き破って飛翔した。

 

 しかし、さながらイカロスの翼のように――タールでできた羽根は主の命を果たす前に、融けていく。溶解はやがて脳無自身にも伝播した。ドロドロに融けた脳無の手が自分に向かって伸ばされる。殺す為に伸ばされたはずの手が、まるで救いを求めているように見えた。杳は何も考える事ができなかった。龍の背から夢中で身を乗り出し、押し留めようとした天哉とデイダラをも凌ぐ()()()で、この世から消え去ろうとする脳無の手を掴もうとした。

 

 ――燈矢の時は、掴めなかった。ある種の強迫観念や狂気とも言える()()()()()が、不可能を可能にする。そして、杳は脳無の手を掴んだ。タールに高熱が残っていたのか自分の手がジュウッと(おぞ)ましい音を立てて、焼けていく。今にも融けて無くなろうとする脳無の眼球に、薄い水の膜が張っている。それを見た途端、杳の脳内に熱い感情が弾け、それは心臓を掴んで滅茶苦茶に揺さぶった。杳は顔をぐしゃぐしゃに歪め、最後の言葉を放った。

 

「やく、そく……します。もう、にどと、あなた、みたいに」

「何をしてるんだ白雲君ッ!手当てを……!」

 

 天哉は慌てて杳の体を抱き込み、応急処置を始める。脳無が一切の抵抗を止め、静かに消滅していく様を見守りながら、杳は意識を失った。

 

 

 

 

 首都圏の閑散区に秘められた地下研究所にて。広々とした空間の両端には培養装置が並び、液体に満たされた異形の者達が浮かんでいた。装置と接続された無数チューブが不気味な血管のように部屋じゅうを這い回っている。突如として中空に黒い泥が滲み出て、中から一人の青年が姿を現した。

 

 ()()は黒い泥を吐き出し、忌々しげに舌打ちする。――何度経験してもこの味は慣れない。味覚がほとんどやられているのにこの様だ。両側に等間隔に並ぶ棺桶の群れを見物しつつ、荼毘はチューブを跨いで部屋の奥に進んだ。

 

「”あの子供を殺せ”と言ったはずだ」

 

 機械の駆動音と電子音だけが支配する無機質な空間に、荼毘の声がこだました。部屋の最奥には――大量に展開されたホログラムディスプレイと制御卓、電子式の稼働椅子がある。肘掛け部分から小さな皺だらけの手が伸び、足下にいる()()()()()()を抱き上げた。辛うじて犬のようなフォルムをしているが、目玉と脳は剥き出しでガラスのカバーが付けられている。

 

「あんた、俺を騙したな」

「騙してなどおらんよ」

 

 涙で滲んだ弱々しい老人の声が、荼毘の耳朶を打つ。――命じたのは彼なのに今更、あの子供に同情しているのか?不審に思い、荼毘は眉を潜めた。騒々しい音を立てて鼻をすすり、ドクターは言葉を紡ぐ。

 

「あの子の最も苦手な熱で、個性因子ごと殺してほしかった」

「そうしたはずなんだがな」

 

 荼毘はそうぼやいて自身の手を見下ろした。まだ人の色を保っていた皮膚が、継ぎ目の部分から少し焼けている。――殺したはずの子供は生き返り、こちらは損傷を負った。ドクターによれば後発の脳無は廃棄予定の失敗作らしい。子供を殺す事は叶わないだろう。なんとも皮肉な結末だと荼毘は自嘲気味に笑った。

 

 ドクターは荼毘の言葉に返事もせず、愛おしそうな手付きでディスプレイを撫でていた。単純に興味をそそられた荼毘は近づき、首を傾げた。無機質な数字の羅列が画面いっぱいに(ひし)めいているだけだ。これに何の意味があるのだろう。ドクターに尋ねようとした途端、荼毘の背中を強烈な悪寒が走り抜けた。

 

 ――青白い光に照らされた老人の顔は、()()()()()に歪んでいる。歓喜に細められた瞳から涙が伝い、卓上に滴った。今やっと視線に気づいたとばかりに、老人は彼を見上げる。何十年もの年月を経て熟成された憎悪と執念で創られた笑みが、荼毘を圧倒した。薄暗闇の中から、ガラスに覆われた眼球が荼毘を不気味に見つめている。ドクターは溢れる涙を拭いもせず、歌うように囁いた。

 

()()()じゃよ」

 

 

 

 

 杳は龍から降りると、待機していた救急隊員に付き添われて救急車両へ向かった。――その時、凄まじい絶叫が杳の背中を直撃した。()()だ。杳を見るなり、拘束具をものともせず一目散に駆け寄ろうとする。しかし、その歩みは杳の二メートル先で止まった。拘束具から伸びたワイヤーを警察が力いっぱい引っ張ったからだ。

 

 さながら狂犬のように彼は我武者羅に力を篭め、杳との距離を縮めようとした。ギシギシという関節の軋む音と金属音が、周囲に響き渡る。葛真の顔色と隈はより一層ひどくなっていた。薬を多用した事による副作用だろう。真っ赤に充血した瞳には、杳に対する憎悪がぎっしりと詰まっている。葛真は口角泡を飛ばし、がなり立てた。

 

「お前のせいだ!許さねェからな!俺の人生がめちゃくちゃだ!」

「やめんかッ!」

 

 応援に駆け付けた警察が一喝し、葛真を取り押さえる。地面に這いつくばる羽目になっても彼の憎悪の感情は消えるどころか、ますます強く燃え上がるばかりだった。杳は彼の前にゆっくりとしゃがみ込んで、静かに応えた。

 

「私のせいじゃないです」

「綺麗事言いやがって!覚悟しろ、お前を必ず殺してやる!お前の家族も友人も皆殺しだ!」

 

 葛真の心身は今や激しい憤怒の炎で轟々と燃え盛っていた。――殺してやる。この子供のせいで、今まで築き上げてきた全てが潰えた。()()()()が俺の居場所だったのに。現状に耐え切れなくなった葛真は自棄になり、今まで自分が行動してきた責任の全てを少女に擦り付けようとしていた。杳は警察の制止の声も聴かずに一歩前ににじり寄り、葛真の名前を呼んだ。

 

「私達は正しい人間にはなれないかもしれません」

 

 十代半ばの子供には凡そ不釣り合いな、苦悩に満ちた声が、葛真の耳朶を打った。

 

「だけど、正しい行動をすることはできます」

 

 ――”正しい行動”。葛真は虚ろな声でそのフレーズを繰り返した。誘惑に負けて違法薬物を摂取してから現在に至るまでの記憶が、心の奥底から這い上り、フラッシュバックのようにチカチカと明滅する。頼りなく震える声で、彼は言葉を紡いだ。

 

「だから何だってんだよ。今更、そうしたって何が変わる?……もう俺の人生は終わりなんだよッ!」

「終わりはありません」

 

 杳は包帯だらけの手を伸ばして葛真の肩に触れ、ありったけの力を篭めてそう言った。葛真を含めた周囲の人々が思わず気圧される程、その声は力強く、また()()()()()に満ちていた。――過去は消えない。失ったものは戻らない。社会は理不尽に満ちている。それなのに、杳の知っている人々は諦める事なく前を向き、罪を償って生きている。その姿は、雪に埋もれながら春の到来を待つ蕗の薹(ふきのとう)に似ていた。蕗の薹は忍耐力だけではなく、雪を押し上げて芽吹く生命力も有している。

 

 杳は両方とも持っていなかった。与え、育ててくれたのは()()()()()だ。ありのままの自分を受け入れ、励まし、傍にいてくれた。光と影、双方に支えられて自分は立っている。”全てを失っても終わりはない”、皆が教えてくれた()()()()()だ。杳の灰色の瞳がぼんやりとした輝きを放つ。その光は不思議な力で、葛真を苦しめているマイナスな感情を薄めていった。隠すもののなくなった彼の心が、本当の想いをさらけ出す。

 

「なんで、お前が。俺だって……俺の方が、ヒーローになりたかった」

「分かってます」

 

 突然、葛真の脳裏にある記憶の一幕が閃いた。――自棄になり部屋に閉じこもっていた頃、何度も逢いに来てくれた友人の記憶だ。混乱する葛真の脳内で、実在する記憶と心象風景が奇妙に混ざり合う。大量の指紋が重なり合う事で白く濁り、傷だらけになったフロントガラス。その前に、誰かがいる。傷だらけのガラスの向こうで、内側から殴られてボコボコになったドアの向こうで、()()()()()が立っている。

 

(信じてるから。一緒に頑張ろう)

 

 目と鼻の奥が熱い。熱い涙が零れ落ち、鼻の脇を伝い、食い縛った歯の間を流れていく。――人生は多様性に満ちている。ヒーローの資格取得学校は高校だけじゃない。あの時、自棄にならずに友人と話し合っていれば()()()()があったかもしれない。ヒーロー以外の職種を探す事もできただろう。人生の選択肢(ルート)は無数にあった。だが、自分はどれも選ばなかった。救けようと手を差し伸べた曽我瀬すら利用し、最悪のルートを突き進んだ。体の底から湧き上がる衝動に任せ、全てを何かのせいにして逃げ続け、転がり落ちて行った。小さな少女が掲げた停止マークに衝突するまで。

 

「うるせぇんだよ」

 

 葛真は掠れた声で捨て台詞を吐いた。心配そうな顔で何度もこちらを振り返りながら、救急隊員に付き添われて車両へ向かう少女を尻目に、葛真は立ち上がって泥と涙に塗れた顔面を拭う。駆けつけた塚内警部に、葛真は静かに言葉を放った。

 

「……東北訛り」

「え?」

「俺に薬を売った連中は、言葉に訛りがあった。個性を異能と呼んで、妙に組織立っていた」

 

 塚内は目を見張った。見ただけで分かる、葛真のプライドは一級品だ。尋問は長丁場になると踏んでいたのに。葛真が向ける視線の先には、車両に乗り込もうとする()の姿があった。その瞳に浮かんでいる感情を――犯罪心理学に優れた塚内も、そして葛真自身すらも――表現する事はできなかった。塚内は死柄木弔が何度も杳にコンタクトを取る理由を、本能で理解した。力なくうな垂れる葛真の肩に、塚内は手を置く。

 

「詳しい事は署で聞こう」

 

 

 

 

 十五分後、杳は市立中央病院に搬送された。病院の入り口に着くなり、杳は血相を変えた医師と医療従事者達にざっと取り囲まれる。どうやら彼らは、杳のかかりつけ医である()()()()から指示を受けているらしい。PMOまでは行かぬもののそれに準じた精密検査を受け、その結果を受けた医師は診察室で頭を捻った。

 

「奇跡としか……個性因子が少し、回復してます」

「えっ?!」

 

 杳は身を乗り出し、そのまま前に倒れ込みそうになった。――現在、杳の両腕はギプスで保護され、三角巾で吊るされている。脳無に触れた為に深刻な火傷を負ったが、医師によれば数日も掛けない内に完全修復されるらしい。輝かしい記憶が杳の脳内を駆け抜け、美しい希望の音楽が鳴り響く。夢と希望をどっさりと携えて、杳は口を開いた。

 

「じゃあ、また個性を使って戦えますか?」

「いやそれは無理です」

 

 医師は頑とした声音で杳の言葉を突っぱねた。彼は神経質な手つきで眼鏡の位置を微調整し、杳を見据える。

 

「死の脅威に晒された個性因子が自力で一部の損傷部分を修復しただけです。戦う余裕なんてありませんよ。

 白雲さん。貴方は特別な体質です。()()()()()()()()()()()んですよ。……まぁ僕の口から言っても聞かないと思うので、後で殻木先生にしっかり説教してもらいますけど」

 

 散々世話になった殻木医師の顔が脳裏をよぎり、杳の気分は沈んだ。普段は茶目っ気のある優しい老人だが、時には厳しい顔を見せる事があるのを杳は知っている。今回ばかりはこっぴどく怒られるかもしれない。杳はしゅんとなって診察室の引き戸を開けた。

 

 ――ドクターストップを掛けられたらどうしよう。杳が浮かない顔でナースステーションを通りすがると、騒々しい足音が背後から接近してきた。何事かと振り向くと、一人の女性が花束を持ち、ナースステーションのカウンターに手を掛けているのが確認できた。不思議な花束だと杳は思った。普通の花に紛れて()が数本、入っている。

 

「熊猫さんっていませんか?!娘なんですけど!」

「ここは病室ですのでお静かに……」

 

 関東(ここ)では珍しい、関西訛りの声だった。目の下にある黒い隈と熊っぽい耳が特徴的な女性で、白髪のショートヘアはフワフワとしている。次の瞬間、杳の頭の天辺から爪先までを一筋の電流が駆け抜けた。熊猫・娘・パンダっぽい外見、もしかして”パンダ・クラウド”じゃないか?夕焼けを眺めているように優しく切なげな表情をして自分の口元を拭っていた熊猫の様子を、杳は思い出した。

 

 多戸院市で起きた一連の事件はニュースになっている。その情報を目にしてここに来たのだろう。父を探して街じゅうを走り回っているのか、花束はすっかり萎れていた。超感覚などなくても、パンダ・クラウドが心から父を案じているのが分かる。杳はそわそわと落ち着きなく周囲を見回した。事務所に連絡して、熊猫が今どこにいるかという事を訊けないだろうか。杳は公衆電話を探して廊下を一往復し、そして唖然とした。

 

 ――病院の中央部には美しい中庭が設けられている。その中にある笹林に隠れるようにして、()()が縮こまっている。だが、体格が大きすぎるあまり、隠れ切れていない。杳はパンダ・クラウドに気付かれないよう、そっと中庭に通じるドアを開けて熊猫に近づいた。

 

「あの、何してるんですか?」

「見舞いに来たんじゃ!お前のっ!」

 

 熊猫は押し殺した声で唸り――恐らく事務所の人々に聞いたのだろう――スーパーのレジ袋に包まれた苺のパックを杳に押し付けた。それからこわごわといった様子でナースステーションを伺い見る。

 

「ちょうどええ。そのまま俺の盾になってくれヒーロー。あの子が去るまで」

 

 杳は不思議そうに首を傾げた。娘を誇りに思い、愛していたのに、何故会う事を躊躇うのだろう。怒っているから、憎しみをぶつけられるから会いたくないというのなら分かるが、熊猫の行動は不可解そのものだった。

 

「会ってきたらいいじゃないですか。娘さん、本当に熊猫さんを心配してますよ」

「……()()()()()や。今更、どんな顔して会えっちゅーねん。会う資格なんかないやろ」

 

 途方に暮れたような声で、熊猫は呟いた。――自分を置き去りにして逃げた父を憎んで然るべきなのに、娘は花束を持って再会に来た。()()()()()に。優しい人なのだ。恐らくそれだけのものを父から貰ったのだろう。数十年の空白を置いても色褪せる事のない、思い出と絆を。父の想いと共に。杳は大きく深呼吸すると、熊猫の前にしゃがみ込んだ。

 

「熊猫さん。あの時、”敵になる勇気がない”って言ったけど……敵にならないことも勇気がいります」

 

 カタカタと震えている熊猫の指先を、杳はそっと握った。黒い隈に縁取られた灰色の瞳と、黒い瞳が混じり合う。杳はわずかに微笑んで、(かぶり)を振った。

 

「私にはできなかったから」

 

 吹き抜けになった空から、一陣の風が吹き込んだ。それは追い風のようにふわりと、熊猫の背中を押す。熊猫は絶句して、小さな少女を見つめた。――十代半ばの子供には不釣り合いな白髪と黒い隈。それらが後天的なものである事は、熊猫にも何となく分かった。単純に娘に似ていただけではない。同じ傷を負い影を背負った者だからこそ、杳は熊猫の心の壁を砕き、寄り添う事ができたのだ。杳は元気づけるように熊猫の手を振り、言葉を紡いだ。

 

「だから、その。今までのご褒美だと思ったらいいんです」

「……ガキが。一丁前に言いよって」

 

 熊猫の目尻が優しく下がり、薄らと涙が滲む。こんな小さな子供に勇気づけられるとは、自分も焼きが回ったものだ。そう心中で呟いて立ち上がろうとした、その時――

 

「お父ちゃんやんなっ?!」

 

 ――涙で震える大音声が、頭上から降ってきた。呆気に取られる杳の頭上を跳び越して、パンダ・クラウドが父にダイブする。放り投げられた花束が放物線を描き、地面に倒れた二人の周りを、飛び散った笹や花弁でフラワーシャワーのように彩った。親子は固く抱き締め合い、咽び泣いている。小さな温もりを熊猫はそっと抱き締めた。――もう二度と触れる事も会う事もないと諦めていた。許される事はないと思っていた。娘の瞳から零れる大粒の涙が熊猫の心の表面を叩き、古傷に浸透して癒していく。

 

「ごめんな、ごめんなぁ……ッ」

「許さんで!一緒に家に帰るまで、絶対に!」

 

 娘は涙を拭い、気丈に微笑んだ。再び言葉もなく抱き締め合う親子を見守りつつ、杳はそっとその場を去った。

 

 

 

 

 

 病室に戻ると、杳は苺のパックをサイドテーブルに置き、ベッドに座り込んだ。大粒の苺を見ると食欲が湧いてくる。退院は明日の朝なので、たった一日我慢すればいい話なのだが、育ち盛りの杳には薄味で量の決まった病院食だけでは辛いものがあった。だが、両手が不自由な現状、苺をパックから出して洗う事もできない。事務所に繋がる端末を渡されてはいるが、そんな些細な用事を頼むのは気が引ける。

 

 ――誰か。人使の顔がポッと思い浮かんだ。交通機関が厳重規制されている今、彼がここにいないのは仕方のない事なのだろうが、弱っている時特有の()()()が杳の背中に覆い被さった。チームIDATENの人々も事件の解決に奔走し、まだここには来ていない。杳がサイドテーブルのストロー付コップから水を飲んでいると、引き戸が開け放たれた。

 

「さっきはごめんなぁ!みっともないとこ見せてもーて!」

 

 パンダ・クラウドだ。その脇には熊猫がいる。パンダ・クラウドは苺を見るとざっと水で洗い――さっき売店で買い求めたのか――林檎と梨を剥いて、へたの取った苺と共に紙のボウルに入れ、恐縮する杳を押し切って手ずから食べさせた。続いて杳の日用品やベッド周りをテキパキと整頓し、冷蔵庫を開けて中に何も入っていない事を確認し、杳がアレルギーにもなく食事制限も掛かっていない事も把握すると、所在なげに佇んでいる熊猫に財布を押し付け、売店で何か買って来るようにと命じた。

 

「簡単に開けられるやつな!おにぎりとかやめてよ!」

「わかっとるわい……」

 

 たじたじとした返事の声が廊下の奥へ消えていく。恐るべき手際の良さ、そしてエネルギッシュな女性だった。まるでマイクみたいだ。杳が密かに舌を巻いていると、パンダ・クラウドは優しく微笑んでこちらをじっと見つめた。それから手を伸ばし、小さな頭をかき混ぜて笑う。

 

「お父ちゃん、救けてくれてありがとうな」

「い、いいえ。私は何も……」

 

 杳は慌てて首を横に振った。自分は熊猫と一緒に食事を摂り、話をしただけだ。救けたのは曽我瀬の方なのに。しかし、パンダ・クラウドは小さく首を横に振り、杳をそっと抱き締めた。母に似た優しい香りに包まれて、杳はわけもなく泣きたくなった。

 

「杳ちゃん。ウチ、応援しとるからな」

 

 静かな、闘志に燃える声が、杳の心を(したた)かに打ち鳴らす。その瞬間、杳は理解した。――自分が今どんな状況にあるかパンダ・クラウドは知っていて、そして恐らく()()()()をしたのだと。やがて体を離してヒロイックなスマイルを浮かべると、彼女は大きくガッツポーズを取ってみせた。

 

「なんかあったら関西(こっち)に来ぃ!ファットさんと面倒見たるっ!」

 

 

 

 

 同時刻。黒い泥に送られて、荼毘はアジトへ帰り着いた。彼は独自のルートでスマートフォンを有している。コートのポケットから取り出し、彼は電子の海を彷徨った。――多戸院市での事件は脳無が出現した事も影響し、ネットニュースのトップを飾る程の大事件に成長していた。荼毘は面倒くさそうに溜息を零し、アジトの入り口へ足を向ける。足下に散らばるゴミや酒瓶を蹴っ飛ばして階段を降り、地下施設(UGF)の扉を押し開く。

 

 同時に、荼毘は凄まじい重力を伴った()()()()()()()()()。粘り気を帯びた空気を吸い込む間もなく、胸倉を掴まれ、壁に押し付けられる。骨のように白い手が触れている部分からシャツが色褪せ、塵となって消えていった。ケロイド状の体表にも細かな罅が刻まれていく。――大層なお怒りで。死の脅威に晒されているのに、他人事のように荼毘は笑った。褪せた白髪の下から覗く赤い瞳がギラギラと燃えている。トゥワイスは煙草を放り出し、二人の間に割って入ろうとした。

 

「よせ死柄木!仲間同士で――」

()()()()?」

 

 狂気に満ちた赤い瞳と瑠璃色の瞳が、音を立ててぶつかり合う。

 

「ただのガキを殺し損ねただけだ」

 

 ”民間人を殺す”。そんな事は今まで皆、当然のように行ってきた所業の一つだ。躊躇いや罪悪感などない。死柄木の手を荒々しく振り払い、同意を求めるように荼毘は周囲を見回した。だが、誰一人として首肯する者はいない。どいつもこいつも気色悪い。虫唾が走ると荼毘は思った。コンプレスだけは仮面の奥に無機質な瞳を隠し、状況を冷静に見守っている。

 

「そんなに大切か?……あいつは特別だって?ヒーローだって?救いを求めてんのかよ」

 

 嘲笑と苛立ちに満ちた荼毘の声が、()えた匂いのする室内に響き渡り、染料(ステイン)のように染み込んでいく。――この世界は矛盾だらけだ。荼毘は必要最小限の動作で臨戦態勢を取りながら、心中でそう呟いた。俺だけじゃない。父親も、家族も、こいつらも、あの子供も。サイズの違う歯車が立てる不協和音が俺達を壊した。それが嫌だからこの社会を、ヒーローを壊すんじゃないのかよ。怒りに燃える瑠璃色の瞳が再び、赤い瞳と衝突する。

 

「なぁ、リーダー。なんで()()()()()()?」

 

 ――ヒーローを待つ要救助者らしく、手が差し伸べられる瞬間を。転弧が一般市民ならば、杳との邂逅は何の問題にもならない。だが、彼は今を時めく敵連合の親玉だ。転弧が外の世界に出る度、社会が揺れ動く。最初はどこにでもいるような素朴な子供だった。けれど、渇く前の紙粘土にそうするように転弧が触れる度、杳は少しずつ元の形を失い、歪んでいく。乾ききると、少女の姿はもうヒーローとも敵とも呼べない()()()()()に成り果てていた。脳無と同じだ。どこにも属せず何にもなれず、社会から雲のように浮いている。

 

「何度も近づいて触って、離れて。ガキみてェに」

 

 荼毘はコートのポケットからスマートフォンを取り出すと、電子画面を掲げた。そこにはMowtubeのアプリが起動されており、葛真のアジトでサポートアイテムを駆使して戦う杳の姿が録画されている。異変に気付いたマグネが手を伸ばすが、もう全てが遅かった。

 

「ちょっと、何を――」

「可哀想になァ」

 

 ――()()()()()()。荼毘は地獄の底から湧き上がるような声でそう呟き、動画の配信ボタンをタップした。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 その頃、杳は夢を見ていた。真っ白な壁が美しい()()()の中にいる。広間の中心には飴色に輝く長テーブルが置かれていて、その両脇に置かれた椅子に、杳はちょんと腰かけていた。大きな窓は開け放たれ、目の前に整然とした芝生が見える。白い壁と草の緑、それから空の青が美しいコントラストを描いていた。テーブルには等間隔に子供達が座り、前を向いている。

 

 ――色んな人がいた。液状の者もいれば、機械を思わせるフォルムをした者、獣人らしい者も。だが、誰もかれも無表情で人形のように静止している。杳が不思議に思って口を開こうとした時、頭上から大きな手が伸びてきて、真っ白な皿を杳の前に置いた。焼きたての小麦の香りが杳の鼻腔に広がる。大きな丸パンだ。上の部分が焦げ、膨れている。

 

 全員分の配膳が終わると、誰からともなく自分のパンに手を伸ばし、食べ始めた。”いただきます”の挨拶はない。杳は両手を合わせてからパンを手に取り、景気良くかぶり付こうとした――

 

「あっ!」

 

 ――その時、大きな手が伸びてきて、杳のパンから焦げた部分をむしり取った。そして、それを向かい側に座る少年に渡す。赤髪の少年は差し出されたパンの欠片を奪い取るようにしてもぎ取り、口に押し込んだ。良く見ると、彼のパンは()()()だった。だが、そんな事はどうだっていい。まるで自分の一部を奪われたように寂しくて悲しい気持ちが、杳の心臓をどっぷりと浸していく。

 

「わたしのパンだったのにいいいっ!」

 

 杳は止め処なく溢れる感情を涙に変えて、手放しで力いっぱい泣き出した。だが、周囲にいる子供達は杳に興味を示したり、反応をする素振りはない。まるで心を失くしたようにただ前を向き、パンを咀嚼していた。やがて大きな手が降りて来て、泣き喚く杳の頭を優しく撫でる。

 

「ごらん、君のパンは元々大きいだろう?食べ切れない部分を与えただけじゃないか」

 

 蕩けるように甘い声が、杳の小さな心臓を愛撫する。確かに杳のパンは他の皆より、一回り以上も大きかった。同じサイズのパンを配られたのは、一番奥の席に座る()()()()()だけだ。彼は赤い瞳を瞬かせて杳を見つめながら、パンをかじっていた。――取られた部分は黒く焦げていて食べられそうになかったし、もしそうじゃなかったとしても、これほどに大きなパンを杳一人で食べ切る事はできないだろう。だけど、全部欲しかった。大きな手にしがみ付いて、杳は我儘を言う。

 

「ぜんぶ、ほしいんだ(もん)……」

「……ハハ。欲張りだな、君は」

 

 愛おしそうな声で、大きな手の主は笑う。だが、いくら待っても彼がパンのお代わりを持ってくる様子はなさそうだった。恨みがましい目で赤髪の少年を見ると、彼は凄まじいスピードでパン――というよりパンの形をした()をガツガツと食べ始める。盗られると思ったのだろう。パンに手を付けず、当てつけのようにしつこく鼻をすすっていると、杳は突然、誰かにガッと肩を掴まれた。

 

 自分の肩を掴んでいるのは、テーブルの向こうから身を乗り出した()()()()()だった。ぬいぐるみを人型にしたような、白くて丸いフォルムをしている。体の至る所に”6”とナンバリングされていた。前を見なかったのかテーブルに置かれた水差しが倒れ、大きな水溜りができている。拭かなきゃ。思わず水面を見た杳はハッと息を飲んだ。――水面に映った子供の顔は精悍で、強い焦燥感に歪んでいる。水面越しに彼が杳を見て、何かを叫ぼうとした瞬間、大きな手が子供の頭を掴み、中空に吊し上げた。

 

「君の役目は終わっただろ?」

 

 ――()()()!杳は椅子を蹴立てて立ち上がり、懸命にもがく子供を救ける為、テーブルを乗り越えようとした。だが、テーブルに足を掛けた刹那、一際強いお日様の光が、水面に当たって砕けた。それは広間内を蹂躙して(おびただ)しい光の渦を起こし、目も眩む程の乱反射を発生させる。世界が、全てが白んで、薄れていく。思わず杳は目を瞑ってしゃがみ込み、そしてそのまま意識を手放した。




最後のシーンでヴィジランテ111話を読んでないと分からんやろ的なネタを出してもーた…。一周回ってロック可哀想になってきました。


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No.83 頑張れ

※ご注意:作中に残酷な表現、暴力表現、R—15的表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳は眠りから目覚めた。むっくりと起き上がり、寝ぼけ眼を擦る。病室のカーテンが朝陽を透かして淡く輝いていた。サイドテーブルに置かれたデジタル時計に目を移すと、時刻は六時ちょうどを差している。

 

 青白く光る数字が妙に気にかかり、杳は首を傾げた。――何か大切な事を忘れているような気がする。だが、その感覚はすぐ消え去った。そのままぼんやりしていると、昨日の記憶がゆっくりと頭の中に浮かび上がってきた。

 売人との邂逅、アジトでの戦闘、旧病院での戦い。たった数時間足らずの出来事だったが、まさに激動だった。安全な場所で療養した事で改めて疲労を自覚したのか、体じゅうが鉛のように重く、じんと痺れている。

 

「……」

 

 真っ白な布で固められた両腕を、そろりと布団から持ち上げる。軽く左右に振ると、再生した手指を通してギプス包帯の感触が伝わってきた。自己修復は順調なようだ。杳は安堵して小さな溜息を零した。

 

 ふと荼毘の記憶を思い出す。――結局、救ける事ができなかった。ウィニーフィストで昏倒したように思われたが、介抱している内に意識を取り戻した彼に反撃を喰らってしまった。

 

 突然、とうに解き放った問題の答えを忘れてしまったかのような()()()()()()()が、杳の心身を支配した。わけもなく悲しい気持ちになって目頭が熱くなる。どうして涙が出るんだろう。後悔とはまた別の理由があるような気がする。目尻を伝う雫を拭いながら考えるも、答えは出なかった。

 

「おはようございます。よく眠れましたか?……ああ、そのままでいいですよ」

 

 それから一時間後。病室のスライドドアを開け、担当医が朝の検温とバイタル確認にやって来た。ベッドから起き上がろうとした杳を制し、キャスター付きの医療機器を病室内に運び込む。人一倍責任感が強いのか、それとも殻木にそう指示されているのか、杳に関する検査の類は全て()()()で行っていた。優しく繊細な手つきで白髪をかき分け、頭皮に皿電極を装着していく。脳波検査だ。しばらくモニターを観察した後、医師は小さく頷いて電極を外す。

 

「経過は良好ですね。ということで、お待たせしました」

 

 医師が最後の言葉をスライドドアに向かって言うと、それがゆっくりと開かれた。中に入ってきた人々を見て、杳は小さく息を飲む。天晴、そして塚内警部だ。容態が落ち着くまでヒーロー及び警察関係者との接触を禁じられていた為、彼らと会うのは半日振りだった。杳はベッドから起き上がり、天晴に向けて頭を下げようと――

 

「やめてくれ」

 

 ――するも、天晴が急接近して肩を掴んだ事で、未遂に終わる。天晴は俯く杳の顔を覗き込んだ。間近で見る黒い瞳は、内側から優しい光を放っている。

 

「謝るのは俺の方だ」

「そんな、違います。私がもっと……」

 

 ヒーローの世界はいわば戦場と同じだ。甚大な被害が出ると想定される場所に人員を割き、状況が分からない場所に斥候を送る――という天晴の判断は正しかった。だからこそ死傷者も出ず、街の物的被害も最小限で済んだのだ。しかし、天晴は首を横に振り、杳を力強く見つめた。

 

「君は最善を尽くした。信じて戦ってくれたのに、二度も敵の攻撃に晒してしまったのは俺の責任だ」

 

 天晴は大きく頭を下げる。思わず言葉を失う程にその姿勢は重く真摯だった。――天晴達は救けてくれた。杳は心の中で叫んだ。心の中でも戦場でも。踏み出した一歩が途切れないように、繋いでくれた。失敗に終わるかもしれない危うい行動を成功へ導いてくれた。天晴達のおかげで今がある。けれど、ヒーローの矜持を傷つけずにこの場を治める為の方法を杳は有していなかった。ただ黙って天晴の肩に触れる。自分の気持ちが彼にも伝わるようにと。やがて塚内がやって来て、小さく咳払いをした。

 

「白雲君。今回の件を彼と話し、ヒーロー・警察協力章を君に授与する運びとなった」

 

 ヒーロー・警察協力章とは、特に顕著な功労があると認められる警察部外者に対して警察庁長官から授与される記章を示す。警察における民間人への最高位の表彰で、人命救助・犯罪者制圧など、社会の犯罪を抑制する働きを示した者に感謝状と共に与えられる。良くも悪くも人々の行動が抑制された――ヒーロー飽和社会と呼ばれる現代において、この記章の対象となる民間人はほとんどいなかった。

 

 ――ヒーロー社会において、資格未取得者が保護管理者の指示なく個性で危害を加える事は”規則違反”だ。杳の場合は個性を使っていないが、それでも無罪放免とはいかないだろう。だから、杳は最初から自分の行動が隠蔽されるのを見越した上で、警察に整合性を疑われないよう(はか)らった。

 

 ただでさえ世間の評価も悪く仮免も有していない身だ、正当防衛だと警察が認めたところで、人々はそう思わないに違いない。予想だにしなかった展開に杳は戸惑い、不規則な鼓動を打ち始めた心臓の辺りをギュッと掴んだ。

 

「君が行動していなければ、今はなかった」

 

 頼りなく震える杳の背中を、天晴が撫でた。強く優しい声が彼女の心を打ち、補強する。

 

「評価されるべきだ」

 

 誰かに認められる事はあっても()()認められる事はない。ずっとそう思い半ば諦めていた杳にとって、彼の言葉は表現できぬ程に嬉しいものだった。塚内警部は濃紺のビロードに包まれた小箱を取り出した。蝶番を外して蓋を開けると、中に美しい意匠の施されたバッジが収まっている。

 

「どうか受け取ってほしい」

 

 塚内は屈み込んで杳を見つめ、わずかに微笑んだ。黒い隈に縁取られた彼の瞳を、今まで闇の中に葬り去られてきた()()()()が瞬きながら現れ、消えていく。大人達に支えられ、杳はさらに向こうへ前進する覚悟を決めた。彼女は震える手を伸ばし、小さな箱を受け取った。

 

 

 

 

 

 その日の正午。チームIDATENと塚内警部は多戸院市内のホテルの会場を借り、一連の事件に関する記者会見を開いた。――葛真の供述によると、彼はとある密売組織から薬を買ったらしい。組織のアジトと想定される場所に急行したが、案の定()()()()()だった。

 

 さらに公にはまだできないが、治崎が電子顕微鏡で精査したところ、弔が杳に渡した小型装置と、件の違法薬物に含まれている物質がほぼ同じものであるという事が判明した。葛真に薬を売っていた密売組織は、大きな組織の傘下にある可能性が高い。個性を異能と呼ぶ”異能解放軍”絡みの組織、その場所が東北付近にある事をヒントに、警察は捜査を続けている。報告が一段落つくと、塚内は真っ直ぐにカメラを見て言葉を紡いだ。

 

「事件の早期解決に尽力した白雲杳さんに、ヒーロー・警察協力章を授与する運びとなりました」

 

 記者達は一斉にどよめき、戸惑う顔を見合わせた。そんな周囲の騒めきを気にする事なく、塚内は至って冷静な口調で説明を始める。ヒーロー飽和社会と呼ばれる現代では、ヒーロー以外の者が戦闘行為に及ぶのは原則禁止されている。”資格を持たぬ者は戦わない”。その暗黙のルールが敷かれたこの社会で、個性を持たぬ少女の戦闘は異様なものとして映った。記者の一人が手を挙げ、鋭い目で質問する。

 

「協力章と仰いましたが、仮免も持たない子供が敵相手に戦った事を、警察・ヒーローは許容するという事ですか?」

「はい。白雲さんの行動は正当防衛に当たると判断しました」

「その結果、重傷を負った事についてどう思われますか?」

「全て私の不徳の致すところです」

 

 天晴は車椅子から静かに立ち上がり、頭を下げた。その立ち姿は真摯で清廉されていて、人々の不穏な騒めきを一瞬で凪ぎ、静寂で満たしてゆく。

 

「よろしいでしょうか」

 

 最前列に座っている記者が手を挙げた。ギラギラと光る三つの瞳が特徴的な壮年の男性だった。その一つを意地悪そうに細め、彼はマイクを口元に近づける。

 

「”売人に声を掛けられた”という箇所が気になりまして。白雲さんは現在、世間からバッシングを受けていますが、事の発端は体育祭での未熟さ・精神面の不安定さから始まったものだと考えます。そういったものに目を付けられたのでは?彼女が世間の評価に焦り、手柄を立てる為に勝手に行動した・または本当に薬を欲していたが、直前で怖気づいたのではないと言い切れる根拠はありますか?」

 

 それはあまりにも攻撃的で悪意に満ちた質問だった。人々は顔を歪め、発言した記者を見る。だが、それはあくまで表向きの表情であり、心の内側では誰しもが思っている事だった。

 

 ――多くの人は個性を押し込め、窮屈な想いをして生きている。時としてそのうっ憤は、個性を自由に行使できるヒーローに向けられた。自分達が我慢しているのだから、あなた達はより一層清廉潔白であるべきだと。彼の発言は(もっと)もだった。話がここまでこじれているのは、授与者が民間人ではなく杳だからだ。

 

 その時、天晴が淀んだ空気を払うように右手を薙いだ。数秒後、その付近に一枚のホログラムディスプレイが展開される。

 

「彼女の行動記録を見れば、ご納得いただけるはずです」

 

 ――杳はチームIDATENの救助、及び外的被害を想定して動いていた。限られた選択肢の中で、彼女なりの最善を尽くしたのだ。目を皿のようにして探しても、杳の行動に目立った(あら)は見つからない。やがて記者達は行動内容そのものに疑問を抱いた。記録の中で、杳は敵組織相手に奮闘し、二人の民間人を救い出している。個性もなくサポートアイテムだけで。本当に戦ったのか?多くの人々は首を捻り、疑いの感情を見せた。

 

「この記録は事実ですか?」

「あまり発言が過ぎると名誉棄損で訴えられますよ」

 

 次の瞬間、冷え冷えとした声が会場の奥から放たれた。青い肌をした美しい女性が立ち上がり、発言した記者を睨みつけている。左胸付近に付けられた名札には気月と記載されていた。

 

「嘘を吐くわけがないでしょう」

 

 気月の言葉を皮切りに人々の認識が変わり始めた。疑わしい子供から、健気な子供へ。冷静に考えれば、長きに渡り国を守ってきた警察、そして飯田一族が嘘を吐くはずがない。

 

 翌朝、マスコミはあくまで好意的なニュアンスでニュースを報道したものの、世間の反応は芳しくなかった。大方(おおかた)手柄を欲して無茶をし、ヒーローに尻拭いさせたのだろう。見栄を張って嘘の申告をしたに違いない。SNSの悪意あるイメージに汚染された人々の意見は、実に冷ややかだった。

 

 だが、その日の夜、世間の評価は()()()()事となる。Mowtubeで一つの動画が話題になったのだ。それは杳がアジトに入ってからヒーローが駆けつけるまでの一部始終を俯瞰視点で撮影したものだった。Mowtube・警察はすぐさま動画を削除したが、誰かの手によってコピーされたものが再掲載され、その努力は徒労に終わった。トリミングなしの生々しく泥臭い戦闘シーンに、人々は夢中になった。その内容は、記者会見で塚内達が報告した杳の戦闘記録と何も変わらない。

 

「この子だよね」

「マジで戦ってんじゃん。えっぐ……」

 

 マイナスに振り切れていた杳のイメージが、徐々に戻り始めた。多くの人々がこの動画について持論を展開し、他者と意見を交わし合う。杳の行動は正しくもないが間違ってもいない。その曖昧な状態が議論をさらに熱くさせ、彼女の認知度を高めた。一部の政治家や芸能人、所謂(いわゆる)社会に大きな影響力を持つ人々が杳の行動を肯定的に捉えたメッセージを発信した。それを受けた世間の風向きは、やがて中立からプラスの方向へ舵を切る。――”百聞は一見に如かず”という(ことわざ)がある。杳が懸命に戦っている様子を見て心動かされ、認識を改める者も多かった。名もなきヒーロー達は、やがて未だに誹謗中傷を繰り返す一部の人々へ()()()()()を向ける。

 

 サポートアイテムを使う杳の姿は、人々にその重要さを広く知らしめると共に、未来に悩む一部の人々に勇気と希望を与えた。個性がなくとも、人はこんなにも強くなれるのだと。彼女を育てた学び舎であるとして、一時失墜していた雄英の評価・信頼も幾分か向上した。

 

 ――そして杳は一躍、時の人となった。

 

 

 

 

 翌朝。杳は天哉と共に厳重な変装をして登校し、正面口――通称・雄英バリアの方ではなく、裏手にある車両搬入口から学内に入った。雄英バリアの前には杳と取材をするべくマスコミ達が詰めかけていたからだ。

 

 廊下で擦れ違う生徒達の反応もまるで違っていた。動物園のパンダを見つけたように頬を綻ばせ、手を振ったり写真を撮ったりしている。その中には杳にわざとぶつかった人や、聞こえよがしに悪口を言った人達も含まれている。杳はその事を嬉しく思うよりも、ただ怖かった。急き立てられるようにして1—Aクラスの教室に入ると、変わらない顔ぶれが彼女を出迎える。

 

「白雲ォ!シラクモッパイは無j――」

「気にしないで」

 

 大いに嘆き悲しみながら駆け寄ろうとする峰田を舌ビンタで弾き飛ばしながら、蛙吹はにっこりと微笑んだ。瀬呂がスマートフォンを掲げてみせる。

 

「トップニュースんなってる」

 

 ”頑張れクラウディ!”、記事のタイトルにはそう書かれている。体育祭で個性もまともに扱えなかった少女が紆余曲折を経て、病により個性を失った状態で尚、ヒーローとしての責務を果たした――というストーリーが終始涙ぐましい調子で書かれていた。記事の中央部には、グラウンドで緑谷に手を差し伸べられ、立ち上がろうとする杳の写真が掲載されている。学生の誰かが隠し撮りしてSNSに載せたのだろう。SNSで杳の事を調べたが、概ね肯定的な意見ばかりだと瀬呂は締めくくった。

 

「掌サイクロンかっつー感じだけど、まぁ良かったんじゃねーの?」

「そうだよ。本当に……」

 

 不意に言葉を詰まらせ、緑谷が大粒の涙をいくつも零れ落とした。大きくてつぶらな翡翠色の瞳に水の膜が張ってキラキラと輝いている。思わず貰い泣きしそうになったのか切島が唇を噛み締め、そっぽを向く。

 

「止めろよ緑谷!俺まで、」

「本当に、頑張ってたから、嬉しくて……ッ」

 

 優しく透明な涙と想いの粒が床に落ち、小さな水溜りを創る。その中に、今まで自分が駆け抜けてきた日々が映り込んだ。どのシーンにも誰かがいて、自分に手を差し伸べている。()()()()()だ。貴重な時間を自分の為に惜しみなく割き、励まし、戦い、傍にいてくれた。今までの感情がどっと胸中に込み上げてきて、杳は涙の滲んだ声でお礼の言葉を繰り返した。その小さな肩を天哉がそっと叩く。教室内がかつてないほどの優しさで包まれたその時、勢い良く引き戸が開け放たれた。爆豪は肩を怒らせて周囲を見渡し、身震いする。

 

「ウゼェなんだこの空気!つーか分かってンだろうな白雲?」

 

 爆豪はクラスメイト達を押し退けながら杳の前に立ち、見目の良い三白眼から凄まじい威圧感(プレッシャー)を放った。

 

「お前の成長記録に()()手ェ貸したってなってンだよ。……仮免落ちたらブチ殺す。体育祭でヘマしてもブチ殺す」

「爆豪!白雲の足!生まれたての鹿みたいになってっから!」

 

 上鳴の取り成しのおかげで杳は爆豪から解放され、震えながら席に座った。なんだか体中がソワソワして落ち着かない。自分の行動を公に評価してもらった事が初めてで、どうしていいか分からないのだ。人使を求めて何度も周囲を見渡すが、まだ彼は来ていない。ミーアキャットのように落ち着きのない杳を見兼ね、耳郎が小さな背中をバシッと叩いた。

 

「シャキッとしなよ。自信持ちなって」

 

 耳郎はイヤープラグを指に絡めて振り回しつつ、爽やかに笑った。

 

「今のあんた、すっごく良い音してる」

 

 耳郎は聴覚に優れている。血流の流れる音、心音、内臓の動く音、呼吸音――そういったものを総合すれば、大まかにではあるが人の心情を聞き取る事ができた。今まで何かとトラブルの多い友人を気にかけてきたが、今は一番自信に満ち、優しい音をしている。

 

 はにかむように笑う二人のクラスメイトの姿を、緑谷は静かに見守っていた。小さな少女の影に、在りし日の少年の影が溶け込んでいく。――君は僕の夢の続きだ。緑谷は心の中でそう呟いて、目尻の涙を拭った。

 

 

 

 

 昼休憩時、杳は早足で大食堂へ向かった。相好を崩して手を振る上級生のグループに、杳は遠慮がちに応える。だが、学内の全員が杳の味方になったわけではない。敵意を忍ばせた人々が悪意ある言葉を振りまく前に、またもや芝居がかった大音声が衆目を集めた。

 

「おやおやおやァ?仮免も持ってないのにヒーロー気取りかい?!」

 

 ――物間だった。整った顔を嫌味たっぷりに歪ませ、両手を上げている。杳の全身を羞恥心が駆け抜け、彼女は思わず手を下ろし、ポケットに突っ込んだ。

 

「さすがA組!謙虚なB組(ぼくら)にはできない芸当だ!」

「いや、あの……」

「ヒーロー気取りなんかしてないじゃん」

 

 その時、一人の少女が杳を守るようにして立った。不思議と見覚えのある顔だ。杳は首を捻って頭の引き出しを探り、やがて行き着いた。――多戸院市内で自分に声を掛けた学生の一人だ。少女が振り返ると、栗毛色のポニーテールがふわりと宙に舞った。彼女は杳を見下ろし、バツの悪そうな顔で頬をかく。

 

「あの時、ひどいこと言ってごめん。……動画見たよ。私はあんな風に戦えなかった」

 

 どうやら彼女は動画を見て、杳の認識を改めるに至ったらしい。杳は首を横に振った。

 

「私が戦えたのは皆のおかげだよ。その、だから……」

(自信持ちなよ)

 

 友人の言葉が脳裏に蘇り、杳の背中をグッと押す。――これはヒーロー気取りじゃない、ハズだ。杳は勇気をもって拳を握り、宙に掲げた。恐らく来年、体育祭で席を争い合うかもしれない彼女に向けて。

 

「一緒に頑張ろう」

 

 少女は毒気を抜かれたように小さく笑った。それから握った拳を軽く打ち合わせる。

 

「体育祭、あんたの席、奪ってやるから。見ててよね」

「うん」

「うんって……」

 

 

 

 

 杳は大食堂でハンバーガーセットを買い求めた後、プレートを持って中庭にやって来た。杳は元来人見知りな性格で、目立つ事が得意ではない。なるべく人目を避け、大きな常葉樹の根元に座り込む。見上げると、艶のある葉の群れが青空を覆っていた。包帯だらけの手で包み紙を剥こうと苦心していると、横から手が伸びてきてハンバーガーを掴んだ。――人使だった。包装紙を剥いて、杳に手渡す。

 

「ありがとう」

「ポテトはフォークで食え」

 

 杳はハンバーガーにかぶり付きながら、隣に座った人使の表情を伺い見る。相変わらずの仏頂面をぶら下げて、彼はポテトを皿に広げてケチャップを振り、子供用のフォークを突き刺していた。――ウィニーフィストを使ってこっそり微振動を送ったら、彼の心の震えも感じ取れるだろうか。杳は自嘲気味に笑った。それから軽く唇を舐め、勇気を振り絞って言葉を発する。

 

「多戸院市の事、怒ってる?」

「怒ってるよ」

 

 カロリーメイクをポケットから取り出しつつ、人使が応えた。しゅんとなってうな垂れる杳を見た瞬間、人使はふと峰田に言われた言葉を思い出した。

 

(清廉潔白なお付き合いってのもいいけどよ)

 

 ――この感情の()()は分かっている。銀色の包装を剥きながら、人使は冷静に心の輪郭を辿った。誰しもが、大切な人に危険な目に遭ってほしくないと願って生きている。かつて見た夢のように自分の創った鳥籠の中で生き、(さえず)ってほしかった。だが、そんなものは彼女の意志を無視した欲望に過ぎない。杳は先程から泣きそうな顔でハンバーガーを凝視している。今度は人使が勇気を出す番だった。

 

「だけどこの感情は、俺個人の問題だから気にしなくていい」

 

 彩りの異なる二対の瞳がしばらくの間、交錯する。言葉の意図が掴めないでいる杳の口にポテトを差し入れると、彼は小さな子供に言い含めるような口調で言葉を続けた。

 

「おまえが大事だから、その、心配しただけだ。……突っ走り過ぎだが、あの状況でよく頑張ったと思う」

 

 そんな風にはっきりと愛情を伝えられたのは、オールマイト展以来だ。杳は目を見張り、人使の顔を覗き込んだ。彼の目に刻まれた隈は少し濃くなっている。心配してくれたのだろう。だが、それでも、彼は自分をヒーローとして認めてくれたのだ。寂しいような、嬉しいような、不可思議な感情が杳の心に渦巻いた。それは人使に依存して甘える心と、一人の人間として確立された自我が拮抗して生まれたものだった。親離れをし始めた子供の心境に等しい。

 

 二人は昼食を摂りながら、多戸院事件の反省を訥々(とつとつ)と話し合った。杳がハンバーガーを食べ終えると、人使は口を拭くために手を伸ばした。杳にとって、それは愛情表現の一つだった。

 

 素直に身を寄せる杳の口周りを見て、人使の頭にある懸念がよぎった。――自分の口も満足に拭けないようでは、今後に支障をきたすのでは、と。人気商売であるヒーローは人々の模範でなければならない。マスコミが興味をもっている今、つまらない事で彼女の評価を下げたくなかった。彼は断腸の想いで、杳の手にナプキンを握らせる。

 

「口の拭き方、覚えるか」

 

 その瞬間、杳は今にも泣きそうにくしゃっと顔を歪めた。人使は慌てて手を伸ばし、いつもの倍の時間を掛けて口を拭く。なんだかんだで杳に甘い人使なのであった。

 

 

 

 

 昼食を摂った後、杳はサポート科へ向かった。最奥にある工房”Develop Studio”のドア前で、杳は二人分のカフェオレと軽食の入った紙袋を手に、大きく深呼吸する。――発目はまさしく()()()()だ。だというのに、自分は彼女のベイビー達をほとんど壊してしまった。その事を伝え、謝らなければならない。杳が意を決してドアに手を掛けたその瞬間、それは内側から開け放たれた。目をキラキラと輝かせた発目が飛び出し、杳の肩を掴んで揺さぶる。

 

「シッターさん!ドえらい事になりましたよ!」

 

 大興奮した様子の発目曰く――杳が戦闘で使用したサポートアイテムに多くの企業が興味を示し、発明者である発目にコンタクトを取ろうと殺到しているらしい。無数の配管が走る壁にはクリーニングされた制服が吊るされていて、”インターンはこれを着る事!”というメッセージカードが付いていた。そうこうしている内に騒ぎを聞きつけたのか、工房の奥からパワーローダー先生が顔を覗かせた。重厚なマスクをかぶった顔が杳へ向けられる。

 

「無事でよかったよ」

「はい。救けてくれてありがとうございました」

「礼は発目に言いな」

 

 気を遣ったのか、パワーローダー先生はカフェオレと軽食を受け取り、外に出た。杳が発目の方を見ると、彼女はもう杳に背を向けて機械の調整に勤しんでいた。油汚れの目立つキャミソールに包まれた背中を、杳は感謝と尊敬の念をもって見つめた。彼女のおかげで戦う力を得て、そして命も救われたのだ。

 

「救けてくれてありがとう。……ベイビー、壊しちゃってごめんね」

「お気になさらず!今度はさらにタフで高熱に耐えうるよう改良しますので!」

 

 発目は振り向かないまま、元気良く言い放つ。杳はふと想いを馳せた。――ウィニーフィストという一撃が完成された今、発目との友情契約は終了した事になるのだろうか。それとも彼女のベイビーを使用する限り、契約は自動更新される?どちらにせよ、杳は()()()()()の友情を結びたかった。それだけの繋がりが出来たのだと信じたかった。杳は発目の傍に一歩にじり寄り、機械の駆動音に負けないくらい大きな声で叫ぶ。

 

「あの、契約は終わったかもしれないんだけど、これからも友達でいてもいいかな?!」

 

 突然、機体から大量の蒸気が噴き出し、室内を乳白色のヴェールで包んでいく。発目はバルブを締めて蒸気を止めた後、前を向いたまま応えなかった。――怒ってるのかな。杳がおずおずと発目の顔を覗き込もうとしたその時、予鈴のチャイムが鳴り響く。杳は戸口に取って返し、カフェオレと軽食を発目の傍に置くと、緊張気味に囁いた。

 

「よろしくね!明ちゃん」

 

 杳の足音が完全に消えてから、発目はコツンと音を立てて、真っ赤になった額を機体に押し当てた。

 

 

 

 

 その日の夜、敵連合のアジト付近の路地裏にて。寂れたバーに転がったテレビが、傷だらけの画面にニュース番組を映し出している。中心的に取り上げられている少女の姿を面白くなさそうに眺めると、荼毘は煙草を灰皿に押し付け、ウイスキーの残りを飲み干した。隣でソルティロックを飲んでいたマグネは、グラスの縁に(まぶ)された塩を指でなぞる。

 

「恰好悪ぃ……」

「命拾いしたって事でいいじゃないの」

 

 ――荼毘の動画がなければ、人々はここまで杳に注目しなかった。動画は真実の裏打ちとなり、荼毘は杳を表舞台に押し上げた()()()となるに至った。今までと同じように天晴が杳の行動を闇に葬り去ろうとしたら、荼毘の動画はヒーローの信頼をますます失墜させ、杳の立場を追い詰めるものとなっただろう。荼毘は天晴という人間を見誤った。

 

 薄汚れた天井を害虫が這っている。――ドクターの目的は果たしたし、()()()()も消去されたと聞いている。荼毘にもうあの子供を殺す気力はなかった。だが、不快であるのに変わりはない。人が害虫に好印象を抱かないのと同じだった。ともあれ杳の顛末を見た転弧の溜飲は下がり、荼毘は再び敵連合の敷居を跨ぐに至ったのだった。

 

「あの子はね、浮雲みたいに自由なのよ」

 

 掴もうとしても掴めず、逆にこちらの心が掴まれる羽目になる。マグネはそう言うとサングラスの奥にある瞳を優しく細め、グラスを傾けた。

 

 ――たくましい子供だと荼毘は思った。虫も殺せぬような顔をして、あらゆるものを浅ましく喰らい、成長していく。マグネは、そして弔も、あの子供の瞳に眠っていたものを()()()()()()のだろうか。自由なんて代物じゃない。(おぞ)ましく、幼く、憎悪に満ちた、あの輝きを。荼毘は二本目の煙草に火を点け、ゆっくりと吹かした。

 

 バーの片隅には埃のかぶったプリザーブドフラワーが飾られている。誰かの手によって切り取られ、薬漬けにされて、時間の流れを止められた草花。もう成長を遂げる事のない植物を見て、荼毘はようやく合点が行った。少女に出会って以来ずっと感じていた、正体不明の嫌悪感と苛立ちに説明書が追加されたのだ。

 

「あいつがムカつく理由が分かった気がする」

「はぁ?」

 

 素っ頓狂な声を上げつつ、つまみのオリーブをかじるマグネに向け、荼毘は小さく呟いた。

 

()()()()

 

 

 

 

 三日後、杳は学校を早退して蛇腔総合病院へ向かった。いつも通りの検診を受けた後、待合室で待機していると、杳は年配の看護師に名前を呼ばれた。杳は小さく息を吐いて、診察室の引き戸を開けた。中には殻木医師が座っていた。

 

 殻木は咳払いをすると正面から杳を見た。その顔にもう笑顔はない。覚悟していた事ながら、実際に目の当たりにすると辛いものがあった。杳が気圧されてドアの傍から動けないでいると、殻木は少しばかり表情を和らげ、椅子を示した。

 

「座りなさい」

「はひ……」

 

 杳はおっかなびっくり椅子に腰かけ、膝の上で両手を握り締め、来たる()()()()()()を待った。殻木は電子端末に表示された杳のカルテをじっと眺めていたが、やがて一枚の用紙を印刷し、杳の前に滑らせる。

 

 杳は視線を落とし、小さく息を詰めた。診断書だ。戦闘禁止、及びヒーロー科の退学を勧める旨の文書がしたためられている。医師が患者に対して、病状の悪化、死亡や後遺障害を防ぐため、何らかの行動を禁止するドクターストップは、個性社会となり個々の生態状況が多岐に渡っている現代、非常に重要視され、拘束力の強いものとなっていた。

 

「これを発行すればヒーローを諦めざるを得なくなるわけじゃが……そうなると、君はどうする?」

 

 殻木は試すような目でこちらを見ている。杳は少し考えた後、真っ直ぐに殻木を見つめ、言葉を紡いだ。

 

「新しい()()()()()を探して、それに従事します」

 

 もう杳の心に幼い執着はない。人生には多くの選択肢があり、そのどれもが意味のあるものだという事を人々に教えてもらったからだ。正しい行動は、自分の心が目的地を知っているからこそ選択できるルートだ。その事を知った杳の顔に迷いや恐れはなかった。殻木はただ静かに杳を見定めている。

 

「その役割が、信念が、君を殺す事になってもかね?」

「はい」

 

 やがて殻木は根負けしたように相好を崩した。やんちゃ盛りな孫を見る祖父を思わせる、呆れと愛おしさの混じった表情だった。診断書を取り上げると、机下のシュレッダーに掛ける。殻木は医師としての矜持を捻じ曲げ、杳の意志を優先してくれたのだ。

 

「全く、ヒーローは頑固者揃いで困るわい。……頑張れよ、クラウディ」

 

 殻木は椅子から立ち上がると手を伸ばし、杳のフワフワ頭をかき混ぜた。うねるような安心感が杳の心身をどっぷりと浸していく。自分が人生のどん底にいた時、支え続けてくれた殻木の存在は、彼女にとって非常に大きなものだった。

 ――甘えてばかりじゃダメだ。先生が安心できるように強くならなきゃ。込み上げてきた熱い涙を、杳は必死に堪える。だから、殻木がどんな表情をしているのか見る事ができなかった。

 

 

 

 

 今週末はアルバイトの最終日だ。杳は再び、飯田と共に多戸院市へ向かった。与えられた仕事は繁華街のエリアを巡回し、ゴミ拾いや避難経路の微調整をする事だった。イチョウ並木が美しく色付き、広々とした歩道を金色に彩っている。

 

 地面に落ちた大量の葉は――踏み潰された実の発する匂いさえなければ――とても綺麗で幻想的だった。今生の別れというわけではないが、あと二日で天晴達に会えなくなる。杳の心を突然、寂寞の想いが突き上げた。鼻をすすって目頭を擦り、自分を救ってくれたこの街を少しでも綺麗にしようと箒を掃いた、その時――

 

 ――潮が引いていくように、周囲の音や気配が遠のいた。耳の痛くなるような静寂が、杳を包み込む。思わず手を(かざ)してみると、その輪郭は薄っすらと透けていた。強烈な孤独感が込み上げ、小さな心臓が悲鳴を上げる。この感覚を以前に経験した事がある。()()()の個性、認識阻害だ。だけど彼は今、入院中であるはず。

 

「やあ、杳」

 

 穏やかで優しい声が、杳の耳朶を打った。くたびれた黒のロングコートを着た老人が、眼前に立っている。先程まで大勢の人が行き交っていたはずのその周囲は、今は不気味な程の静寂と孤独で満たされている。箒を握り締め、警戒態勢を取る少女に苦笑して、彼は言葉を紡いだ。

 

「君から懐かしい気配がしてね。少しばかり、話をしたかった」




曽我瀬さんとチームIDATENのお別れ会と月見会入れようとしたら、1話で収まらなかった。よもやよもやだなっ!

いつもこのSSにお目通しいただき、感謝します。ここまで更新できたのは皆様のおかげです。本当にありがとうございます。


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No.84 月見会

※ご注意:作中に残酷な表現、暴力表現、R—15的表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳は曽我瀬と対峙したまま、空いた手でインカムに触れた。やはり反応はない。彼は今、市内の病院で療養中であるはず。長期に渡り薬漬けにされた影響で心身共にひどく弱り、回復にも時間がかかると聞いている。こんな風に元気に歩いたり、まして個性を使う余裕などありはしない筈なのだ。

 しかし、一時的にパニックを起こして病院を抜け出した可能性もある。本来ならば駆け寄るべき相手に対し、とっさに警戒態勢を取ったのは理由があった。

 

 ――悠然と立つ曽我瀬から、()()()()が発されていたからだ。

 

 混乱した杳の脳裏にある情景が閃いた。タルタロスの独房で死柄木(AFO)と対面した時の記憶だ。冷たく鋭く重い、海底に沈む巨大な氷塊が笑い声を上げたような――彼の発する振動音と似ている。

 杳の超感覚は先の戦いで微量に回復し、ウィニーフィストに頼らずとも、万物の持つ様々な”揺らぎ”を感知できるようになっていた。さながら蛇に睨まれた蛙のように、その場から動けない。曽我瀬は杳の隈と白髪をじっと見た後、苦笑いした。

 

「逆らったな。彼らしい(きゅう)の据え方だ」

 

 その言葉で杳の予測は確信に変わった。曽我瀬は苦しむ人々を救う善意の旅団長ではなく、彼の部下だったのか?暖かく居心地の良い暖炉の前から氷点下の雪原へ無理矢理ワープさせられたように、杳の心身は大きく震えた。わななく唇を真一文字に引き結び、言葉を紡ぐ。

 

「あなたは死柄k、オール・フォー・ワンの部下ですか?」

「昔は」

 

 曽我瀬はおどけて肩を竦めてみせた。同時に、不気味な音は消失する。杳を威圧するというより、自分の正体を知らせる事が目的だったようだ。杳の体の震えは止まった。だが、依然として警戒態勢を崩す事はできそうにない。

 

「今は逃亡中の身だ」

「……どうして?」

 

 杳は曽我瀬の態度に違和感を覚えた。死柄木が歯向かう者に容赦のない報復を与えるという話は、杳も身をもって知っている。逃亡者なら尚更、報復を恐れるはずだ。だが、曽我瀬にそんな素振りはなく、むしろ死柄木を懐かしんでいる気配すらあった。よほど自分の力に自信があるのか、まだ本心では彼を慕っているのか、はたまたその言葉自体が嘘なのか。判断し兼ね、杳は縋るようにポケット内の捕縛布を握り締める。

 

「彼の組織も一枚岩ではない。忠誠を尽くす者もいれば、裏切り、逃げる者もいる。私もそういう人間だったというだけだ」

 

 ――忠誠を尽くす者。そのフレーズを聞いた瞬間、杳の脳裏にドクターの姿が閃いた。目の前にいる彼ほどではないが、ロックの記憶の世界で見た限りでは相当高齢であるはずだ。活動時期が重なっていた場合、お互いに面識があるのでは?

 

「ドクターを知っていますか?」

「悪いが答えられない」

 

 その瞬間、曽我瀬の顔から柔らかな笑みが拭い去られた。冷たい声にははっきりとした拒否の念が含まれている。

 

「私も命が惜しいし、彼には恩がある」

「逃げているのに?」

 

 単純な杳には、曽我瀬と死柄木の間に紡がれた()()()()()()()を理解する事ができなかった。杳が眉根を寄せて唇を曲げ、如何にも不服そうな表情をすると、曽我瀬は堪え切れなくなったのか小さく吹き出した。

 

「大人ってのは狡くて卑怯なんだよ」

 

 無数のカメラが焚くフラッシュに動じる事なく車椅子から立ち上がり、謝意を表した天晴の姿を、杳はふと思い出した。――今までと同じように、杳の活動を闇に葬り去る事もできたはずだ。だが、彼はそうしなかった。敢えて矢面に立ち、杳の汚名をそそぎ、再び明るい場所へ押し上げてくれた。熱くてほろ苦い感情が、体の底からせり上がって来る。杳は目を閉じて大きく深呼吸した後、確かな声で言葉を紡ぐ。

 

「確かにそうかもしれません。だけど、全員がそうじゃない。私は……どんな困難があっても逃げずに立ち向かう人達を知っています」

 

 曽我瀬は品定めするように目を細め、杳を観察した。やがて彼は顎の髭をさすりながら、静かに呟く。

 

「君は彼が今まで手を掛けてきた者と、随分()()()()()な」

 

 のらりくらりと言葉遊びをし続ける曽我瀬の目的は分からない。だが、自分の成すべき事は決まっている。杳はポケットから捕縛布を取り出し、一歩前に踏み込んだ。

 

「一緒に来てください」

「そう焦らずとも、私の寿命は長くないよ」

 

 曽我瀬は呼吸を整えると、大きく息を吐き出し、だらりと両手を垂らした。すると、見る間に彼の体表が黒ずみ、血管が異様に浮き出て、皮膚はますます乾燥して岩石のようになった。その姿は、数日前に世界史の授業のスライドで見た――深刻な感染症に罹った人々によく似ていた。

 無惨に変わり果てた曽我瀬から発される振動は、今にも途絶えそうな程に脆くて儚い。杳を安心させるように、彼は優しく微笑んだ。

 

「彼の下を離れてから徐々に進行し、今ではもうほとんど体の感覚がないんだ。個性も衰えた。救助対象者を見誤り反撃を喰らうとは、私も焼きが回ったものだ」

「だったら尚更、病院に……ッ」

 

 駆け寄ろうとする杳を手を挙げてやんわりと牽制し、曽我瀬は首を横に振った。

 

「いいんだ。これでいい。彼の遺してくれた余生を全うするよ」

「……」

 

 今にも死に喰らい尽くそうとされているのに、曽我瀬の瞳は優しい光に満ちていた。まだ死柄木を許す事のできない杳にとって、認めたくない事実ではあるが――きっと曽我瀬は彼に救われたのだろう。彼の秘密を守り、死を甘んじて受け入れる程に。やがて曽我瀬が力を篭めると、体は元の状態へ戻った。心配そうな目で見守る杳の意図を勘違いしたのか、彼は宥めるように言葉を放つ。

 

「旅の仲間達については心配ご無用だ。彼の手も及ばない場所に、終の棲家を用意した」

 

 曽我瀬は杳に手を差し出し、穏やかに微笑んだ。

 

「さて、そろそろ本題に入ろう。……私は君を救けに来たんだ。お兄さんと一緒に来るかい?」

 

 杳は立ち竦んだまま、大きく筋張った老人の手をじっと見つめた。その掌には()()()()()が映っていた。無人の遊園地でメリーゴーランドに乗る杳を、朧が傍らで優しく見守っている。そこには何の(しがらみ)も、悲しみもない。痛くて怖い想いもしなくていい。兄がいるから孤独もない。杳は無意識の内に手を伸ばし、曽我瀬の手に載せようとした――

 

 ――刹那、杳の手に()()()()が縋りついた。色とりどりのグローブを纏った手の群れだ。それらは彼女にとって希望であり、足枷でもあった。エンジンオイルの染み込んだ武骨な手の温もりが、自分勝手に生きたいと泣き叫ぶ杳の心を鎮めていく。杳はゆっくりと手を下ろし、曽我瀬を真っ直ぐに見つめた。

 

「もし死柄木さんに捕まったら、あなたは熊猫さん達を差し出しますか?」

 

 曽我瀬は意表を突かれたように瞳を丸くした。彼の鼓膜に、優しく蕩けるような声が蘇る。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

(……セブン)

 

 瞳を閉じると、色褪せた追憶の世界に曽我瀬はいた。民間の研究施設に偽装したアジトの一室で、死柄木が曽我瀬の名を呼ぶ。その前には十何人もの亡骸が無造作に積み上げられていた。その全てが絶命している。着せ替え人形のように何度も個性を抜かれたり、詰め込まれたりしている内に、命が擦り切れてしまったのだ。

 やがて醜悪な肉塊の山から()()()()が突き出しているのを発見し、曽我瀬は絶句する。

 

(こんな俺でも必要としてくれるんですよね?)

 

 路地裏で(うずくま)っていた少年の声が、曽我瀬の心に虚ろな反響音を残していく。――当時は個性黎明期と呼ばれる時代で、社会はまだ充分に機能しておらず、彼のように路頭に迷う人々が大勢いた。個性の発現により人の規格が崩れた今、闇の世界でしか生きられなくなった者もいる。曽我瀬の仕事はそういった人々に声を掛け、死柄木の下へ連れていく事だった。かつての自分と同じように居場所を得て、生き生きと輝く人々の顔を、彼は今まで何人も見てきた。

 

 ――なのに今、曽我瀬の前には()()()()が展開されている。苦痛と憎悪に歪んだ顔の群れを見下ろし、死柄木は満足そうに笑った。

 

(今、興味のある実験があってね。皆喜んで協力してくれたよ。残念ながら、適合者はいなかったが)

 

 

 

 

 杳の眼前で、曽我瀬は何かを断ち切るように眉をしかめ、首を横に振った。少しずつ、その輪郭が薄れてゆく。まるで海の底にいるように不明瞭ではあるが、街の喧騒が周囲を満たし、薄く(かげ)った人々の影がポツポツと出現した。インカムが耳障りな雑音を発する。――幽世から現世へ戻っている。曽我瀬を掴もうと伸ばした手は、あえなく空を掴んだ。

 

 街中を行き交う人々の姿が明瞭化するのに反比例して、曽我瀬の体は霞のように消えていく。勧誘を拒絶した今、彼がここに留まる道理はない。応えずに消え去るつもりなのか。

 

 ――卑怯だ。私も連れていって!ヒーローの手を押し退けて泣き叫ぶ心を押し留め、杳は血が滲む程に強く唇を噛んだ。もう曽我瀬がどこにいるかも分からない。だけれども、彼女にはどうしても伝えたい事があった。涙を散らし、小さな両足で地面を踏みしめて、ありったけの大声で叫ぶ。

 

「応えられないなら、逃げ続けてください!今度は誰にも捕まらないで!ずっとずっと皆を守って!……それが()()()()()()ですッ!」

 

 その声は、幽世にいる曽我瀬にも届いていた。二人の世界が完全に分かたれる瞬間、彼の唇が静かに弧を描く。多くの人命を散らし、無邪気に笑う死柄木の横顔が脳裏によぎる。何度も止めようとする度に、彼に救われた記憶が足下に縋りつく。結局、私にはできなかった。だが――。

 

 その後、杳は復旧したインカムを使って掛本に連絡を取った。すぐさま曽我瀬の捜索が行われたが見つける事はできず、熊猫以外の仲間達全員が仮設住宅から忽然と姿を消していた。曽我瀬の身分は被害者から(ヴィラン)へ一変し、その情報は国中で共有される事となる。

 

 

 

 

 思わぬ緊急事態が発生し大幅に時間が遅れたものの、チームIDATENの送別会は無事、開催された。事務所の屋上にアウトドア用のテーブルやチェアを運び込み、周囲をランタンで飾りつけた後、杳達はコップを掲げて乾杯した。テーブルには料理スタッフが腕によりをかけたご馳走が並んでいる。

 

 当番中のスタッフ達は休憩時間に屋上に立ち寄って料理を摘まみ、杳達と別れの挨拶をして現場へ戻っていく。慌しいが、暖かくて優しい時間だった。デイダラとトレインマンが上空から代わる代わる杳に手を振り、パトロールへ戻っていく。

 格好つけてグレープフルーツジュースを眠に入れてもらったが、やはり杳の幼い味覚には辛いものがあった。後悔しつつちびちび飲んでいると、白い手が杳の頭を撫でる。

 

「杳ちゃん。ブレーキの掛け方、ちゃんと思い出せた?」

「はい」

 

 掛本だ。優しく面倒見の良い彼女が、杳は大好きだった。本当に多くの事を教えてもらった。二人は顔を見合わせ、目尻に滲んだ涙を誤魔化すように笑う。

 

 その時、爽やかな笑い声のユニゾンが聴こえて、杳は屋上のフェンスへ顔を向けた。天晴と天哉だ。天晴が肉をかじりながら何かを言うと、天哉は屈託ない表情で笑い転げた。その光景になんとなく()()()()()()、杳は目を細める。

 ――以前、天哉に教えてもらった事なのだが、飯田兄弟と白雲兄妹の年の差は同じであるらしい。明るくて精悍な天晴と彼を慕う天哉の姿は、何となく兄と自分を彷彿とさせた。

 

(あなたのお兄ちゃんを治せるかもしれない)

 

 壊理の言葉が秋風と共に耳をくすぐり、消えていく。なんとかコップの中身を空にすると、杳はお別れの挨拶をする為に天晴の下へ駆け寄った。杳に気付くと天晴はますます快活に笑い、小さな頭を愛情込めてわしわしとかき混ぜた。

 

 その途端、事務所で過ごした今までの記憶が走馬灯のように心身を駆け巡り、杳はたまらず泣き出しそうになった。慌てて傍にあったバーベキュー串を口いっぱいに頬張り、感情を誤魔化す事に成功する。天晴は心配そうにその様子を見ていたが、やがてふっと表情を和らげた。

 

「ありがとう。君には本当に救けられた」

「い、いえ。こちらの方こそです。本当にありがとうございました」

 

 ――()()言われてしまった。一ヶ月に満たない期間ではあったが、彼より先だって行動できた事は一度もない。情けなさの余り、しどろもどろになりながらも、杳は懸命に感謝の言葉を紡いだ。

 

 そして二人はしばらくの間、食事を摂りながら眼下に広がる街並みを眺めていた。ダイアモンドや真珠、ルビーのように鮮やかに輝く建物や車、そして空中線路の放つ灯り。そんな幻想的な光景を気軽に見られるのも、今日で最後だ。杳は感傷の想いに浸りながら、そっと天晴の顔を伺い見た。

 どうしても彼に聞きたい事があった。そして彼ならば、答えてくれるはずだと信じていた。やがて杳は覚悟を決め、おずおずと口を開く。

 

「天晴さん。……もし足を治せるとしたら、どうしますか?」

「どうもしない」

 

 その言葉には何の迷いも躊躇いも含まれていなかった。思いも寄らない返答内容に呆気に取られた杳を見つめ、天晴は明るく笑ってみせた。見た者の心を鎮めて傷を癒すような、力強く優しい笑顔だった。

 

「俺はヒーローだ。多くの人が怪我を負い、病に苦しんでいる。俺はそういう人を勇気づけるポジションにいるんだと思ってるよ。今の君みたいにね」

 

 杳の見守る中、天晴はおもむろに車椅子から立ち上がった。支えようという考えが思い浮かばない程、その姿は真摯で誇りに満ちている。シャツの裾から単気筒型のエンジンが覗いた。傷だらけで艶の消えた機体が震え、地を這うような低音が響き渡る。天晴は何の支えもないままエンジンを吹かし、席からフェンスまでの数メートルの距離を()()()

 

 フェンスに体を預けて呼吸を整えている天晴の下に、杳は走り寄った。額に滲ませた汗を拭い、彼は照れ臭そうに笑うと、こっそりと振り向いてある方向を見た。そこには買い出しに行き、帰ってきたばかりの天哉の姿がある。

 

「守らなきゃいけない約束があるんだ」

(俺は諦めない。だから、君も諦めるな)

 

 かつて屋上で天哉と交わした約束を思い出し、杳の心身を熱い感情が込み上げた。いつか一緒にヒーローとして活躍できる未来を実現する為に、二人は言葉だけでなく心を通じ合わせ、頑張っている。兄の前で見栄を張っている自分が急にちっぽけな存在に見えてきて、杳は思わず涙ぐみ、俯いた。その顔を掬い上げるように覗き込み、天晴は穏やかな口調でこう言った。

 

「杳。君も一度、()()()()と本音で話し合ってみるべきだ」

 

 その瞬間、杳の感情が音を立てて爆発した。彼女自身ですら気付けなかった複雑な心の揺らぎを、天晴はとうに知っていたのだ。クラスメイトの泣き声を感知した委員長が駆けつけるまで、天晴は泣きじゃくる少女の頭をそっと撫でていた。

 

 

 

 

 それから一週間後、タルタロス・B-09にて。杳は独房前に(しつら)えられた椅子に座り、そわそわと落ち着かない様子で、真っ黒に染まったガラス壁が輝くのを待っていた。やがて独房内の照明が点き、目の前に拘束具に取り篭められた黒霧の姿が映り込む。

 

 ――前回と同じような失態は繰り返さない。そう誓っていたはずなのに、杳はパブロフの犬の如く駆け出して、再びガラス壁に額を打ち付ける羽目になってしまった。その様子を見ていた相澤が、次回の面会から付けるようにと杳にヘルメットを渡すのは、もうしばらく先の事である。

 

 かくして黒霧と監視員に心配されながら、杳は席に戻る。前回、会話の主導権を握ったのは杳だったが、今度は黒霧が口火を切った。彼曰く、(さかのぼ)る事二週間程前からアメリカと合同での復元作業が始まっていると言う。

 

 穏やかな声音が壊理の名前を紡いだ時、杳の心は大きく揺れた。安心と嬉しさと悲哀、そして罪悪感――種々様々な感情が入り乱れて、不恰好なマーブル模様を描く。兄が戻って来るのは、言葉にならない程に嬉しい。だが、黒霧が消えてしまうのも同じ位に悲しかった。泣きそうな表情をしている杳を宥めるように、兄は金色の目を細め、微笑んでみせる。

 

「黒霧はいなくならないよ」

 

 その言葉を理解するのに、杳は多くの時間を必要とした。――兄は黒霧を消さず、共に生きるというのか?黒霧が犯した罪を抱えて。マーブル模様を描いていた感情が、不意に()()()()()。見る間にそれは勢い良く沸騰し、心の底から食道を駆け昇って、固く閉じられた唇の内側に激突する。口内でモンスターのように暴れ回る激情を抑え込む為に、杳はわずかに俯いた。そんな杳の心中を分厚いガラス壁を通して把握する事は難しい。兄は昔と同じ優しい声音で言葉を続けた。

 

「ワープゲートの個性は希少だ。雲よりも役にt――」

「そんなの、もういいよ」

 

 涙に震える声が、兄の声を遮った。一度口を開いてモンスターを解き放ってしまうと、もうどうする事もできなかった。瞬きする度に、事務所の屋上で楽しそうに笑う飯田兄弟の姿が瞼に焼き付き、残像を残して消えていく。杳は席を立ち上がり、ガラス壁に両手を突いた。

 

 ――()()()()()()()のに、兄を閉じ込めているタルタロスが憎かった。彼をそうした黒霧が嫌いだった。素早く視線を巡らせ、杳の周囲にある銃火器が動いていない事を確認している兄に身を寄せ、杳はただ在りのままの心を言葉に変えて、涙と共にまき散らす。

 

「なんで、お兄ちゃんだけ。何にも悪いことしてないのに。これ以上、辛い思いしなくていいよ」

「……杳」

「一緒にアメリカに行こう。真さんがきっと何とかしてくれる。家族で静かに暮らそうよ。後の事は、他の人達に任せたらいい……ッ」

 

 自分の本心をぶちまけながら、杳は()()()()()。この願いが叶う事はないだろう。何故なら兄はヒーローであると同時に、どんな困難にも逃げずに立ち向かう人間だからだ。だが、杳は想像せずにはいられなかった。全ての(しがらみ)から解き放たれた場所で、家族全員で食卓を囲んでいる光景を。悲しくて、苦しくて、腹立たしくて、でもどうにもならなくて――杳は目を固く閉じ、歯を食い縛って咽び泣いた。

 

 その時、小さなノック音が杳の耳朶(じだ)を打った。監視員による警告だろう。杳は鼻をすすりながら目を開け、思考が停止した。

 

 ――()()()()()()()()。雄英の制服を着た、十七歳の朧だ。

 

 拘束椅子の近くには刑務官が控えていた。恐らく彼が一時的に拘束を外してくれたのだろう。背の高い朧は杳の前にしゃがみ込む事で、視点が同じになる。彼は夕陽を眺めているようにくしゃっと目を細め、笑った。

 だが、その笑顔は数秒後、跡形もなく消え去る事になる。驚きの余り、杳の呼吸が止まっているのに気付いたからだ。

 

「ちょっ、おま、呼吸忘れてるぞ!息しろ、息!」

「……ッ?……」

「よっし、兄ちゃんの真似っ子しろよー。こうして……そうそう、うまいうまい」

 

 朧の対応は実にスマートだった。現状を把握すると慣れた様子で杳の注意を惹き、多少オーバー気味ではあるが、呼吸のジェスチャーをする。かくして朧の奮闘により、杳の命は現世に繋ぎ止められた。分厚いガラス壁に身を預け、二人はそっと傍に寄り添い合う。

 

 朧がわずかに身じろぎすると、その体表は黒く濁り、見覚えのある靄が空中に舞った。――黒霧の体はほとんどが靄で構成されている。朧は雲の個性の要領で、それを生前の姿に押し固めていたのだった。

 杳の頬に伝っている涙を、朧はガラス越しに拭う仕草をする。

 

(お前の為にヒーローになろうとしてる。想いを汲んでやれ)

 

 旧友の言葉が脳裏をよぎる。――そうだな。朧は大きく息を吸って、吐いた。杳の前ではいつだって良き兄、良きヒーローであろうとした。だがそんなものは所詮、ただの意地に過ぎない。彼女は意地を捨て、心の内を見せてくれた。今度は自分が歩み寄る番だ。

 

「辛くないってのは、嘘になるな」

 

 絞り出されるようにして紡がれた言葉に、杳は大きく息を詰める。それは、朧が今までひた隠しにしてきた()()()()だった。杳の瞳から新たな涙が零れる前に、朧はコツンとガラス越しに額を合わせた。涙の止まるおまじないだ。彼はそのまま白い歯を見せ、悪戯っ子のように笑う。

 

「だけどさ。お前の顔見ると全部吹き飛んじまう」

「……う、ん」

「杳。兄ちゃんの方がいいか?」

 

 静かな声が杳の耳朶を打った。朧は優しく穏やかな表情で妹を見守っている。彼にとって一番大切なのは杳だ。彼女が望むなら――アメリカと日本、双方を説得するのは骨が折れるだろうが――黒霧を消すつもりだった。

 

 静かな覚悟を秘めた空色の瞳を、杳は魅入られたように見つめ返す。スカイブルーに輝く虹彩の奥に、屈託なく笑い合う飯田兄弟の姿が見える。自分達も同じように一緒に戦うんだ。マーブル模様をしたモンスターが力尽きるように床に倒れ、消えていく。杳はガラス壁の上から朧の手に自らの手を重ね、ぎこちなく微笑んだ。

 

()()()()()()

 

 その瞬間、朧の瞳に金色の光が煌めいた。心の一番深い場所で冷たく凍り付いていた部分が融けていく。そこから優しくて暖かい感情がじんわりと広がって、心身に沁み渡った。彼は今にも泣きそうにくしゃりと顔を歪めて、笑った。

 

 

 

 

 その三日後、いよいよ月見会の日がやって来た。杳達は相澤に外出許可を貰い、轟家へ向かった。――数ヶ月振りの訪問になるが、轟家はやはり凄い。立派な生け垣に囲まれた純和風の豪邸を眺め回しながら、杳はしみじみとそう思った。(ひのき)で造られた格子戸門を開け、手入れの行き届いた日本庭園を鑑賞しながら、苔むした延べ段をそろそろと歩く。屋敷の玄関に辿り着く寸前、引き戸が開かれた。中からエプロンを付けた冬美が顔を覗かせる。

 

「いらっしゃい!今日は楽しんでいってね」

「お邪魔します」

 

 人使に続いて挨拶すると、杳は手土産の入った紙袋を差し出した。エンデヴァーの贔屓にしている高級和菓子店で月見の時期だけ販売されている、月見団子だ。月見団子は関東と関西で姿が違う。杳が人使と相談して買い求めたのは、里芋を模した形の団子にこしあんが載った()()だった。

 

 これで関東と関西、二種類の団子が食べられる事になる。さらに付け加えるならば、冬美のご馳走もついてくるのだ。育ち盛りの杳の腹はめくるめく晩餐の予感を察知し、高らかに咆哮した。玄関内に響き渡った腹の虫に冬美達は揃って吹き出し、辺り一帯は和やかな雰囲気に包まれる。と、そこへ――

 

「あ、お父さん!」

 

 ――廊下の奥から炎司がやって来た。鋭い輝きを放つ碧眼が自分を射竦めた瞬間、凄まじい威圧(プレッシャー)が放たれる。杳は電光石火で笑顔を引っ込め、体勢を整えた。無意識の内に臨戦態勢を取っていた人使と焦凍に動じる事なく、彼はまるで何かを見定めるように杳を見つめていた。

 

 やがて炎司はふっと視線を逸らし、玄関に屈み込んで靴を履き始める。冬美は慌てて父の傍に駆け寄った。

 

「一緒にお月見しないの?」

「所用ができてな。……ゆっくりしていきなさい」

 

 人使と杳を交互に見て、炎司はそう言った。相変わらずその表情は厳しく、とてもじゃないが歓迎されているようには見えない。炎司が立ち去ると、後には沈黙と熱を帯びた空気だけが残った。

 

 ――覚悟していた事ではあったが、やはりそう簡単には自分を認めてくれないのだろう。力なくうな垂れた杳の頭を、焦凍が労わるように撫でる。もしかして自分が来なければ炎司は外出せず、家族全員で月見会が出来たのだろうか――という杳の推察は半分当たっていた。確かに炎司は家を出なかったが、その代わりに夏雄が来なかった。轟家のジレンマである。

 

 やがて夏雄が帰宅した事で、杳達の調子は元に戻った。冬美は杳達をダイニングルーム――ではなく奥の一間へ誘った。そっと開けられた襖の向こう側を見て、杳は感嘆の声を上げる。

 

 部屋の正面には立派な縁側があり、ススキと月見団子が飾られていた。テーブルにはご馳走が所狭しと並べられている。竜田揚げにハンバーグ、野菜の煮物、寿司、肉じゃが、グラタン、筑前煮、天ぷら……etc.大粒の苺を始めとした果物やデザート類も、美しいガラス容器にたっぷりと盛られている。こんなに沢山のご馳走を、杳は今までに見た事がなかった。

 夏雄は苦笑しつつ、座布団の上に胡坐をかく。

 

「姉ちゃん、随分張り切ったな」

「フフ。だって杳ちゃん達が来るんだもの。いっぱい食べてね」

 

 かくして杳達は手を合わせ、食事を始めた。成長期の子供達の食欲は凄まじく、テーブル上の料理をブラックホールのように吸い込んでいく。あまりの美味しさに箸が止まらず杳達は全部の料理をお代わりし、ふと気づくと何故か、手に持っていたご飯茶碗が(どんぶり)に代わっていた。大量のおかずをかき込むのに、通常のお椀では力不足だったらしい。

 

 満腹になっても、甘いものは別腹だ。食器を片付けた後、杳達はポンポンに膨れたお腹を擦りながら月見に興じ、素朴な甘味を持つ団子を何個も食べた。

 

 ――”花より団子”とはよく言ったものだが、今の自分は花も団子も両方有している。罰当たりなくらい、幸せだ。左手に高級苺の刺さったピック、右手に月見団子の串を持ち、日本庭園の上空に浮かぶ月を眺めながら、杳はしみじみと思った。薄煙のような雲に守られて、月が青白い輝きを放っている。

 

 幻想的な光景をぼんやりと眺めている内に、杳はお手洗いに行きたくなってきた。取り皿の上にデザートを置き、立ち上がった杳の意図を察知して、冬美がお手洗いへ誘導する。二人の足音が完全に消えた後、夏雄は屈託のない表情で人使に言い放った。

 

「杳ちゃんと付き合ってるってマジ?」

 

 不意を突かれ、人使は口に含んでいた緑茶を盛大に吹き出した。その反応を見て、夏雄はますます嬉しそうに頬を綻ばせる。彼にとって可愛い弟の友達同士が結ばれたのは単純に喜ばしい事だった。咳き込む人使の傍ににじり寄ると、彼はその逞しい背中にポンと手を置いた。

 

「俺も彼女がいてさ。君真面目そうだし、良かったらオススメのデートスポットとk――」

「大丈夫です」

 

 人使は顎に伝う雫を拭いつつ、柔らかい声で応える。その奥には、はっきりとした拒絶の意志が内包されていた。

 

「卒業まで、そういうことはしないつもりでいるので」

「え……?」

 

 あまりにストイック過ぎる人使の返答に夏雄は驚愕し、救いを求めるように焦凍を見た。焦凍は呆れたように肩を竦め、団子を二つまとめて頬張る。

 

「そもそも授業か自主練以外で一緒にいる事がほとんどねェ」

「えええええっ?!いやそれ付き合った意味あるぅ?!」

 

 夏雄の大音声が周囲に響き渡る。もっと言ってやれと言わんばかりに焦凍は腕を組んで深く頷く。やがて二人分の足音が戻って来る気配がして、夏雄は慌てて口を噤んだ。襖が開けられる寸前、彼は人使に耳を寄せ、逼迫した声音で囁いた。

 

「あんまり締め付けると離れてっちゃうよ。……これ、俺の格言な!」

 

 

 

 

 時計の針を数分前に戻し、轟家の廊下では。杳は冬美と共に飴色に光る回廊を歩いていた。真新しい和紙の張られた襖障子が、両側に規則正しく並んでいる。その中心をしずしずと進む冬美の後姿を見ている内に、杳はある記憶を思い出した。――自分の隈と髪色を気にかけて、焦凍が個性由来の病院を紹介してくれたワンシーンが、白く輝く襖にスクリーンの如く映し出される。二人が口火を切ったのは、ほぼ同時だった。

 

「杳ちゃん――」

「個性由来の病院。紹介していただいて、ありがとうございました」

 

 弾かれるように振り向くと、冬美の髪が翼のように舞った。真っ白な髪に赤いメッシュの混じった、綺麗な色だ。心配そうに自分を見つめる冬美の視線をしっかりと受け止め、杳ははにかんだように笑った。

 

「でも、あの。大丈夫です。……この髪と隈も()()()()だから」

 

 ――過去を受け入れてこそ、人は前に進む事ができる。その事を兄を始め、多くの人々が教えてくれた。一方、冬美はさざ波のように心を浸していく感嘆の想いに身を任せながら、杳を見つめていた。心配するまでもなかった。この子も焦凍と同じ、立派なヒーローなのだ。願わくば、この子達の道が閉ざされる事のないように。冬美は労りと願いを込めて、小さな少女の体をそっと抱き締めた。

 

 

 

 

 それから一時間後。杳と人使は寮に戻る為、玄関で身支度を整えていた。焦凍は家族の団欒を楽しむ為、もうしばらく家に留まるらしい。靴紐を結ぶ人使の肩を、焦凍は(けしか)けるように軽く叩いた。――本当は冬美の言葉に甘えて一泊したい所だが、生憎(あいにく)明日から怒涛の授業が待っている。夜のロードワークもしておきたい。ヒーローを目指す限り、杳達にぐうたらな生活は存在しなかった。

 

 改めて二人でお礼の言葉を述べていると、冬美が風呂敷で包んだ手土産を二つ、杳達に差し出した。余った団子にきな粉と餡子を掛けてくれたらしい。梅雨ちゃん達を誘って団子パーティをしよう。杳が感激に打ち震えていると、冬美は少しばかり複雑そうな笑みを浮かべ、杳に()()()()()()()を差し出した。

 

「お父さんがね。”お兄さんの分を用意してあげなさい”って」

 

 ――その言葉を噛み砕くのに、杳は多くの時間を必要とした。雲に覆われた月のように表情を翳らせる冬美と夏雄は、杳の兄が亡くなったものと思っている。だが、杳達、そして炎司は兄が生きている事を知っている。

 炎司の向けていた不器用な優しさに、杳はやっと気づいた。黒霧を兄だと認めてくれた。その事実が言葉にならない程に嬉しくて、杳は宝物のように包みを抱き締めて、涙に滲む声で何度もお礼の言葉を紡ぎ出した。

 

 数分後。美しい月明かりが照らす夜道を、杳達はのんびりと歩いていた。間違いなく、今日は最高の一日だった。冬美達と会えて、美味しいご飯と団子を堪能し、手土産まで頂いた。おまけに最後は人使とのデート付きだ。ただの帰り道でも、杳にとっては立派なデートだった。少しでも長く一緒にいたくて、杳はグリコ・チョコレート・パイナップルゲームをしながら帰ろうと提案したが、終電がなくなる事を危惧した人使にあえなく却下された。

 

「月が綺麗だなぁ」

「そうだな」

 

 杳はまあるく輝く月を見上げ、感嘆の溜め息を零した。普段、ゆっくりと夜空を見上げている余裕などないからか、余計に新鮮に美しく感じる。次の瞬間、辺りを幻想的に照らしていた月光が不意に遮られた。人使が目の前に立っている。月を背にして立っている為、彼の表情は分からない。

 だが、彼にとってはその方が良かった。不思議そうに見上げる杳を見つめる彼の顔は、不自然な程に強張っていたからだ。

 

(あんまり締め付けると離れてっちゃうよ。……これ、俺の格言な!)

 

 数時間前の夏雄の言葉が、人使の背中をグッと押す。確かに最近の杳の甘え具合は、まるで飢えた雛のように余裕がなくなってきていた。恐らく自分のストイックさが、彼女を――それこそ峰田のアドバイスに従い、服をおかずにするまでに――追い詰めてしまったのだろう。

 人使はストイックではあるが、同時に合理的な人間だ。度重なる友人達の忠告と杳の心理状況を鑑みて、自分の意志を改め、現状を改善する事に決めたのだった。彼は首元に手をやりつつ、緊張して掠れた声でこう言った。

 

「目ェ閉じろ」

「えー、何?またスクワット?」

 

 杳は不満そうに唇を尖らせ、素直に瞳を閉じる。スクワットじゃないなら、早期消化を促すトレーニングだろうか。どちらにしてもロマンがない。杳は内心でぶつくさ文句を言いながらも、無意識に両手を背中に回そうとした。人使はその手をそっと掴んで、自らの傍に引き寄せる。そして、小さく笑った。

 

「違ぇよ」

 

 ――青白い月光が夢のように周囲を照らす中、人使は静かに屈み込んで、杳の唇にキスをした。




これにて7期完となります!
ここまで更新できたのは見守っていただいた皆様のおかげです。本当に本当にありがとうございました!くじけそうになる度、いただいた感想などを読み返して力を貰ってました…。




※以下、少しネタバレを含みますので、大丈夫な方のみご覧ください。

当SSは次の8期で完結となります。「8」が杳の数字である為です(杳→木+日→日→8、また「よう」は漢数字・八の読み仮名の一つ)。またしてもヴィジランテネタですが、”No.20 6日目①”の冒頭シーンで杳の隣に蜂須賀ちゃんが座っていたのは、No.8の世代交代的な意味を含んでいました。

これからも何とか更新がんばります!最後になりますが、いつもこのSSにお目通しいただき、本当にありがとうございました!


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おまけSS③ ストロベリージャム

おまけショートショートその③になります。以前リクエスト頂いた”杳が人使に依存するIF”です。No.42白雲家①の分岐ルートになります。

※少し残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 十月の半ばを過ぎると、秋は一気にやって来た。木々を覆う新緑は見る間に褪せ、どこか寂しさを感じさせる色へ変わっていく。力尽きるように散る葉の群れが庭を彩り、秋風がそれらを吹き上げて乾いたメロディを奏でる。ふわりと宙に舞う枯れ葉と空の色は今、ちょうど同じ位だ。

 

 杳は通信教育の教材をテーブルに伏せ、椅子の背に体を預けて大きく伸びをした。両親は働きに出ていて、家には自分の他に誰もいない。こじんまりとしたリビングルームが、何だかいつもより広く感じられる。

 

 ふと喉の渇きを覚えて、杳は椅子から立ち上がった。ペンケースに付けていたキーホルダーが揺れ、小さな音を奏でる。色褪せた碧眼とぼんやりした灰色の瞳が一瞬、交差した。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 今を遡る事、数ヶ月前。世間を大いに揺るがした神野事件から数週間が経過した頃。人使は自室のベッドに座り込み、天井を仰いで目を閉じていた。彼の意識の大半を占めているのは、依然として()()()()()の事ばかりだった。外出禁止令さえ出ていなければ。この時ばかりは、警察の下知を恨めしく思う。結局、今の自分にできる事は、彼女の自宅に毎日飽きもせず、電話を掛ける事くらいだった。

 

 浮かない顔で溜息を零すと、人使はスマートフォンを手に取って連絡先をタップし、耳に押し当てる。コール音が数回鳴った後、途切れた。ここ数週間で随分と聞き慣れた女性の声が出る。杳の母親だ。だが、いつも落ち着いている彼女の声音が、今回は随分と余裕がないように思えた。

 

『は、い……、白雲、です』

「こんにちは。心操です。いつもすみません」

 

 ”杳さんはいますか”、そう言いかけた時、人使の思考は止まった。電話の向こうで、小さな泣き声が聴こえたからだ。

 

 人使の体の一番深い場所で、熱い感情が弾けた。それはマグマのように全身を駆け昇り、彼の理性を焼き切って、その奥に隠れた本能を掴んで強く揺さぶった。

  

 ――プライドも、友としての思いも、何もかもがどうでもよかった。今はただ、傍にいたかった。気が付くと、人使は自転車の鍵を掴み、部屋のドアを開けていた。

 

(オイ!)

 

 突然、どすの効いたクラスメイトの声が手元から放たれる。思わず目線を下げると、手に持ったヒロドナルドのキーホルダーが、オールマイトを模したキャラクターから爆豪をデフォルメした姿に代わっていた。ヒーローコスチュームを着た彼は小さな顔を歪めて言い放つ。

 

()()()()()()()

 

 それは自分の心が創り出した幻覚だった。人使は理性的な人間だ。今から自分のする事がどれだけ危険に満ち、そして愚かしい事であるかを理性が警告しているのだ。だが、そんな事は人使も承知の上だった。

 

 今会えば、杳は間違いなく自分に依存する。せっかく共に育てていた自我を踏み潰す事になる。けれど、もうこれ以上、彼女が辛い目に遭うのは堪えられなかった。

 

 ――何かを決断するというのは、同時に何かを捨てるという事だ。ヒロドナルドで青い夢を語り、笑い合っていた自分達の姿が色褪せ、消えていく。人使はようやく自分の想いを自覚し、そして()()()()()、ドアを開いた。

 

 

 

 

 杳はリビングルームで母親に抱かれ、泣いていた。彼女の発する冷気で室内は凍り付き、至る所に霜が張り、粉雪が舞っている。

 ――数日に一度、何の前触れもなく、脳裏に神野事件の記憶がフラッシュバックする。すると、どうしようもなく悲しく寂しく、気の狂いそうな程に不安になるのだ。一度こうなると、殻木先生が処方してくれた鎮静剤を服用するまで治らない。

 

 母は自らの体表が凍傷を起こしかけているのも気にかけず、杳の体を毛布で包み、口元に吸入器を押し当てた。やがて杳の震えが止まった。雪や氷が小さな体に吸い込まれるようにして消えていく。

 

「おかあ、さ……ッ、ごめん、なさい……」

「大丈夫よ。大丈夫。落ち着いた?」

「……うん」

 

 ()()()()()()()。――あの時からずっと、心の中には穴が開いている。兄を飲み込んだ、冷たい風の吹く穴だ。その中には暗く悲しい記憶がいっぱいに詰まっている。誰にも塞ぐ事のできない穴だった。お母さんにもお父さんにも言えない。抱き締められているのに、杳は孤独で凍えるようだった。

 

 たった一人で、この苦しみを抱えて生きていくしかない。兄と共に過ごした輝かしい記憶――杳の宝物も、今はこの穴に放り込まれてしまった。覗くには、()()()()も覗かねばならない。

 

 黒い靄がかった手が何本も伸びてきて、杳を掴んで穴の中に引き摺り込む。落ちていく。永劫に続く浮遊感と冷たさが、杳を支配する。あまりの痛苦に杳は母の腕の中で暴れ、苦し気に身を捩った。母がますます心配そうに抱き締めた、その時――

 

 ――玄関のチャイムが鳴った。母はその場から動かなかったが、やがて何度も鳴り続けるチャイムに観念して立ち上がった。杳を抱き上げてインターホンに向かい、液晶画面を表示させる。次の瞬間、彼女は大きく息を詰めた。虚ろに開いた唇から、吐息と共に言葉が漏れる。

 

「人使くん」

 

 母の胸元にしがみ付いて息を荒げていた杳は、よろよろと顔を上げた。確かに画面に映っているのは人使だった。帽子を目深に被り、相当急いできたのか、肩を上下させている。画面の端には道端に止めた愛用の自転車が映っていた。

 ――雄英生は外出を禁じられている。その事に気付いた母はソファに杳を下ろし、急いで玄関に駆け寄ると、ドアを大きく開いて彼を迎え入れた。戸惑う母の瞳と人使の瞳が、交錯する。

 

「どうして……」

「処罰は受けます。杳さんと会わせてもらえないでしょうか」

 

 真摯な声が、リビングルームにいる杳の耳朶を打つ。――固い地面を踏みしめる感触がした。黒く靄がかった凄惨な記憶が、人使と駆け抜けた明るい記憶に上書き(オーバーライド)されていく。

 子供はいつだって刹那的で単純だ。杳は何も考えなかった。夢中で駆け出し、玄関先にいる人使の胸の中に跳び込んだ。人使は杳の頬に伝う涙をそっと拭う。血豆だらけの両手が、マントのように小さな体を包み込んだ。

 

 ――これから先、現実がそう上手く行く筈はない事は分かってる。だけど、今だけは。誰かの為じゃなく、彼女だけのヒーローに。その覚悟を決め、人使は言葉を紡いだ。

 

「大丈夫だ。俺がいる」

 

 

 

 

 杳は雄英を退学し、通信制の高校に通う事になった。人使は忙しい学業の合間を縫って、ほとんど毎日連絡をくれた。電話をする時、大抵彼は寮にいる。談話室にいる時は、ちょうど居合わせたクラスメイト達もひょっこりと顔を見せてくれた。懐かしい顔ぶれをみると、杳の心は和んだ。

 

 けれど、画面越しに笑う皆の姿は、今となってはまるで夜空に輝く星のように完璧で美しく、遠いものに思えた。自分が皆と同じ場所にいたなんて、信じられない。長い夢を見ていたようだった。悲しいような、切ないような気分になって、杳はぎこちなく笑った。

 

 警察や両親、殻木医師の指示もあり、杳は日中のほとんどを家の中で過ごす。暇を持て余した杳は、やがて新たな趣味を見つけた。――()()だ。母の料理を何となく手伝ううちに、いつしかそれは生き甲斐になっていた。手付きは不器用でも、それを補う時間はたっぷりとある。

 料理はとても平和だ。誰も傷つけず、奪わない。失敗しても、自分や食材が傷つくだけで済む。

 

 

 

 

 ある日の週末、杳は苺ジャムを創っていた。鍋にへたを取った苺、グラニュー糖、レモン汁を加えて混ぜ、煮立ったらかき混ぜる。杳はアクを取る手を止め、鍋の中をじっと見下ろした。

 

 鮮やかなルビー色に輝く液体が、グツグツと沸き立っている。甘酸っぱい果実の香りがキッチン内に充満していた。粗熱を取り、味見してみる。痺れるような甘さが杳の味覚を支配した。苺の酸っぱさよりも、たっぷり入れた砂糖の甘さが際立っている。力強く、暴力的とも言える甘さだった。

 

 まるで人使みたいだと杳は思った。どんなに辛く悲しい出来事も受け入れて、和らげてくれる彼と同じ。幼子が母親を求めてする仕草のように、杳はジャムのついた指を舐めた。

 

 今週末、人使が遊びに来てくれる。その事を思うと、杳の心は甘ったるい幸福感で満たされた。このジャムを使ってお菓子を創ろう。クッキーやマフィン、シンプルにパンにつけて食べてもいい。あまり甘いのが好きじゃないから、カナッペの一種にしてみようかな。

 

「……ッ」

 

 突然、あのフラッシュバックが脳内に閃いた。キッチンの暗がりから黒い靄がかった手が現れて、穴の中へ引き摺り込もうとする。だが、杳はもう怖くなかった。全能の(オールマイティ)ヒーローが心の中にいるからだ。杳は彼と共に黒い靄を払い落とし、鍋に放り入れて、へらでかき混ぜた。真っ赤なジャムの中に、凄惨な記憶がどろりと融け、消えていく。

 

 ――もう発作を鎮めるのに、吸入器はいらない。過去も現実も、夢も何も。ただ、彼がいてくれればいい。うねるような安心感が、杳の背中をマントのように覆い隠す。

 

「早く会いたいなぁ」

 

 杳は寂しそうにそう呟いて、ジャムをもう一さじ、口に含んだ。その瞳はジャムのように甘く煮詰まって、鈍い輝きを放っている。



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8期:異能解放軍編
No.85 優しい世界


※ご注意:作中にR—15的表現が少し含まれます。苦手な方はご注意ください。


 ふと気が付くと、杳はどこまで続くとも知れぬ暗闇の中に一人、漂っていた。手を伸ばすと、真っ黒な闇は煙のように揺れて、棚引く。

 

 懐かしい感覚が杳の脳を支配した。ここは、時の流れに関与しない”量子の世界”だ。この世界に存在する、ありとあらゆる事象や出来事が複雑に折り重なり、互いにせめぎ合って、全てを黒く翳らせている。

 

 ――夢なのだろうか。杳は頬っぺたをつねろうとした。だが、自分の体であるはずなのに呼吸一つ、指先一本自由に動かす事ができない。

 そこでようやく杳は理解した。これは、過去の記憶の再現なのだと。

 

 やがて不思議な気配を感じ、杳は振り返った。ずっと遠くにあるようにも、手を伸ばせば届くほど近くにあるようにも感じる不確かな距離に、おぼろげな人影が数人、並んでいる。左端に行くほどに輪郭が霞み、右端に行くほどはっきりとしている。

 この光景を、杳は以前に見た事があった。左から数えて八番目、一番右端にいる少年の下へ、杳の体はゆっくりと近づいていく。

 

 緑色のフワフワした髪を持つ少年は、その両手に荘厳な輝きを放つ聖火(トーチ)を抱えていた。美しい火花が舞い散るそれを、彼はとても大切そうに抱き締める。その聖火は希望の光だ。一人が力を培い、その力を一人に渡し、また培い、その次へ。そうして脈々と受け継がれ、創り上げられてきた力の結晶。

 

 聖火から虹色の火花が舞い散る。それらは消える寸前、点火者達の記憶の一部を映し出した。強い義勇の心を持つ点火者達を、巨大な黒い影が笑いながら踏みにじる。自らの命と共に炎が消えてしまう前に、彼らは次代へ、心と力を託していく。余りにも目まぐるしい生と死のスピードに、その想いの強さに、杳はただ胸を締め付けられ、立ち竦んだ。

 

 刹那、杳の視界を誰かが塞いだ。白魚のような指の間から、長く伸びた髪が見える。その間から、悲しい色を湛えた瞳がこちらをじっと見つめていた。

 

「まだ、駄目だよ」

 

 優しくて穏やかな声が、鮮明に響き渡る。突然、杳は不思議な感覚に囚われた。今は思い出せないだけで、自分がものすごく小さい時、もしくは遠い未来に――彼と会ったような気がしたのだ。

 

 何の前触れもなく、杳の心臓を深い感傷の情が突き上げた。瞼が蕩けるように熱くなったと思った途端、大粒の涙が零れ落ちる。その滴を優しく拭い、彼は言葉の続きを紡ぎ出した。

 

「君はまだ継ぎ手ではない」

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 数秒後、杳の意識は浮上した。寝ぼけ眼でベッドから起き上がり、スマートフォンを手に取った。時刻は六時半を差している。夢の中で()()あったような気がするも、内容が思い出せない。

 

 最近、良くある事だった。殻木医師によれば、夢は”脳に記憶を定着するプログラム”に過ぎないとの事で、忘れても何の問題もないそうだ。しかし、気になるものは気になる。躍起になって頭を捻り、何とか思い出そうとするが、杳の脳内にフラッシュバックしたのは、夢の内容ではなく――昨夜の記憶だった。

 

「……ッ!」

 

 蒼白い月明かりに包まれた、特別な一時(ひととき)。唇を合わせただけなのに、まるで人使と一つになったような心地がした。胸が息苦しくなる程に心音が高鳴り、体温が急上昇する。だが、それらはどこか心地の良いものだった。震える指先で唇をなぞると、暖かくて親密な風が杳の心をくすぐり、悪戯っぽく笑う。もう辛抱たまらず、杳は枕に顔を埋め、両足をバタバタと暴れさせた。

 

 ――不幸だけでなく幸福にも、()()というものがある。あの夜、人使が杳に与えた幸福は明らかにそれを超えていた。にも関わらず、彼は忘我状態となっている杳に向け、さらなる幸せの爆弾を放ったのだ。

 

(卒業までベタベタしないっつーのはナシにしよう。お前の好きにしていい)

 

 大丈夫です、その言葉を鵜呑みにはしません。杳はマイク人形を握り締め、安心させるように頷いてみせた。しかし、その決意は人使からのモーニングコールが来た事によって、早くも崩れ去る。

 

 それから一週間、長い時の中で降り積もっていった孤独を融かすように、杳は人使にくっ付いて回った。人使はそれを嫌がるどころか、逆にそれ以上の愛情を与えて杳を最大限に甘やかした。――たとえどんなに幸せな出来事でも、飽和すると人は()()()ものだと知っていたからだ。

 

 人使からの愛情が一時的ではなく恒常的なものにシフトした事を理解すると、やがて杳は満足して、次第に距離を離していった。そして、二人はいつも通りの関係に戻った。

 

「あ。このウサギ、(ゆわい)くんに似てる」

「僕も思った」

「ハシビロコウはヒトシに似てるね」

「心操人使(とりのすがた)、か」

「オイ」

 

 人使が突っ込むと、杳は鈴を転がすような声で笑った。二人は今、口田・常闇と共に談話室のソファーに腰かけ、テレビを鑑賞していた。大きな液晶画面には、ここ数年で見事なⅤ字回復を遂げたと話題になっている――市営動物園の様子が映っていた。

 

 人使の隣に座っていても、杳はもう以前のように顔を真っ赤にしてもじもじする事はない。二人の間に漂う空気は至って穏やかなものだった。――人間関係、とりわけ恋愛は本当に難しいと人使は思った。結局、何もしないでいる事が正解だったのだ。風紀を守るには抑圧しかないと信じ込んでいた自分の滑稽さに思わずため息が出る。

 

 穏やかな眼差しで杳を眺める人使の横顔を、芦戸達は物陰からひっそりと見つめていた。乙女達の敏感なセンサーは、彼らの関係が一つ上の段階にシフトした事をとうの昔に感知していたのだ。程なくして、芦戸達は談話室を出てトイレに行き、戻ってきた杳を問答無用で洗濯室へ連れ込んだ。彼女達にとって、杳は小さな子供のように目の離せない存在であり、大切な学友であり、唯一の恋バナ保有者であった。

 

 杳は基本的に単純で、訊かれた事には可能な限り答えようとする性格を有している。だから彼女は正直に月見会後の出来事を答え、その結果、二度目の胴上げをされる次第となった。

 

「ファーストキスってどんな味だった?!」

「しーっ!声が大きいよっ」

 

 黒曜石(オニキス)のような瞳を輝かせ、芦戸が尋ねる。葉隠は透明な手を伸ばし、慌てて彼女の口を塞いだ。杳は真っ赤に燃え上がった両頬を落ち着きなく擦りながら、記憶を反芻する。あまりよく覚えていないけれど、彼の唇はとても熱くて、少しだけ渇いていた。あと、素朴な甘味がして――

 

「だ、団子の味。かな」

「……ッ、ちょっともー!ウチ、あんたらに挟まれてんのに!」

 

 まるで自分の事のように顔を真っ赤にして、耳郎はその場にしゃがみ込んで悶絶する。切れ長の双眸が一瞬、談話室で切島と笑い合う上鳴を見上げて、パッと伏せられた。

 

「出身国によって味が異なるのでしょうか?」

「モモちゃん。それは違うと思うわ」

 

 白磁のように美しい肌を紅潮させ、八百万が感嘆の声を上げる。梅雨は小さく首を傾げ、冷静に突っ込んだ。麗日は両手のふっくらした肉球を合わせ、蚊の鳴くような声で言葉を紡ぐ。

 

「もっちもち……」

「麗日さぁん?誰を想像したのかなー?」

「ッ!ち、ちゃうちゃう!そんなことしてへんよっ」

 

 麗日は慌てて自らの顔を両手で覆い隠し、フワフワと中空に浮き上がった。同じ学び舎で時を過ごす中で、育まれてゆく想いがある。だが、杳と異なり、彼女らはまだその想いを誰かに差し出す予定はないようだった。

 

 やがて杳は洗濯室を出て、談話室のソファーに戻る。口田と常闇の姿はない。どうやら自室に戻ったようだ。杳とて、いつまでもだらだらしている暇はない。夜のロードワークが迫っていた。人使に声を掛けて自室に戻ろうと立ち上がった時、彼はスマートフォンの画面を突き出した。――そこには先程、テレビに映っていた市営動物園の電子チケットが二人分、載っている。

 

「明日で補習終わりだろ。……日曜日、行くか」

 

 杳の心は許容量を超えた幸福をぶち込まれ、臨界点に達した。広々とした談話室内を文字通り跳ね回る杳の様子を、瀬呂達が面白そうに見物している。

 ――人使の最終目標は、杳を日常生活だけでなくデートにも慣れさせる事だった。しかし、さすがにまだ時期尚早だったらしい。詰め込み過ぎたか。人使は頭をかき、申し訳なさそうに瀬呂達を見た。

 

「すまん。もうしばらく我慢してやってくれ」

「いやいーよ。見てて面白いし」

 

 瀬呂は白い歯を見せて笑う。――二人の仲が変化を遂げても、ほとんどのクラスメイトの心境にさしたる影響はなかった。これには理由がある。杳のキャラクター性を皆理解していて、その事を()()()()()()()()行動していたからだ。遊園地にいる着ぐるみが決して逸脱した行動を取らないように、杳が周囲に悪影響を及ぼさないよう配慮している事を、皆はしっかりと承知してくれていた。

 切島は赤く染めた髪をかき上げ、快活に笑う。

 

「なんつーか、お前らは男女って感じじゃねぇんだよな」

「家族サービスするパパとその子供って感じ?」

「そうそれ!さすが大喜利範太!」

「大喜利範太」

 

 上鳴は嬉しそうに頬を綻ばせ、瀬呂の肩を勢い良く叩く。それから同意を求めるように、ダイニングテーブルの席に座る峰田を見た。

 

「な!お前もそう思わね?」

「別れろ糞カップル共」

「情緒どうなってんの?」

 

 峰田は連日リア充を目の当たりにしているストレスと嫉妬により、今や悪鬼と化していた。地獄の底から這い寄るような低音で呪詛を吐き、血涙を拭いもせず、ギリギリと歯ぎしりしている。

 

 深く沈み込んだ峰田の肩を、杳はそっと叩いた。自分達の仲がここまで回復できたのは、間違いなく峰田と焦凍のおかげなのだ。それなのに恩を仇で返すような事をしてしまってはダメだ。その事は重々承知しているのだが、なかなかどうして上手くいかない。

 

 杳と峰田は意外に波長が合い、仲が良かった。それは二人共――はけ口こそ異なるものの――欲望に忠実なタイプだからかもしれない。杳は友人の瞳を掬い上げるように覗き込んで、眉尻を下げた。

 

「ごめんね峰田くん。あんまりはしゃがないようにするから……」

「白雲。一つ、頼みがある」

 

 友人の頼みならお安い御用だ。杳は居住まいを正し、全神経を聴覚に集中する。まるで銃で撃たれたかのように胸を押さえつつ、峰田は苦し気に顔を歪めて言葉を放った。

 

「胸が苦しいんだ。お前の脱ぎたてのb――」

 

 次の瞬間、どこからともなく捕縛布が飛来し、峰田の体は三度、談話室内に前衛的なオブジェとして飾られる事となった。

 

 

 

 

 翌日。杳は人使と共に外出届を提出し、市営動物園に向かった。学舎からそう遠くはない距離に、目的の場所はあった。広大なエントランスには優しい音楽が流れ、秋色に染まった観葉樹がゲートからひょっこりと顔を覗かせ、人々の心を和ませる。

 

 週末という事もあり、園内は大勢の人々で賑わっていた。――この動物園には檻が存在しない。赤字経営を憂いた園長の息子が立ち上がり、来園者達がもっと身近に動物達と触れ合えるよう試行錯誤を重ねた結果だ。

 

 ほんの数メートル先で、一頭のパンダが笹を食べている。人々はその周りをぐるりと取り囲み、歓声を上げたり、熱心に写真を撮っていた。杳は目深に被った帽子の下から、その様子をじっと眺めていた。逃げ場のない場所で人々に囲まれているパンダの姿が、かつて誹謗中傷を受けていた自分の姿と重なって見える。

 

「動物園にいるの、幸せなのかな」

 

 杳はパンフレットを握り、小さく呟いた。檻が透明になっただけだ。人間に支配されている事に代わりはない。パンダが大きな牙で竹を数本まとめて噛み砕くと、人々は大きな歓声を上げた。

 ――また妙な事を考えてるな。憂いを帯びた杳の瞳を人使は静かに見つめつつ、頭をかいた。

 

「分からない。でも、動物は心の動きがそのまま体に反映されるらしい」

 

 杳が席を外していた時、口田が教えてくれた豆知識だ。彼は動物の表情や動きを見るだけで、どんな感情を抱いているか分かると言っていた。人使はくしゃくしゃになったパンフレットを杳の手から取ると皺を伸ばし、ズボンのポケットに突っ込んだ。

 

「だから、すぐ病気になったり死んだりする。……それがないってことは、幸せってことなんじゃないのか」

 

 人使の言葉を、杳はゆっくりと反芻した。自然の世界は確かに広大で自由だ。だが、その代わり、弱者は淘汰される。一方、動物園に天敵はいない。居住スペースこそ限られているが、毎日充分な食糧を食べ、安寧に生きられる。淘汰される者はおらず、皆が必要とされている。

 

 ――この小さな世界は、自分達が今いる世界よりも優しい場所であるように思えた。改めて感覚器を研ぎ澄ませてみても、周囲に不穏な揺らぎは感じられない。穏やかな一定のリズムだけが、さざ波のように満ちているだけだ。

 

 動物達は自分達が支配されている事を知らないのだろうか。それとも知っている?杳は列を成して歩くペンギンの群れを見物しつつ、ぼんやり考えた。黒いビーズのような瞳を覗き込んでも、彼らの心中は分からない。

 

 やがて二人は喉の渇きを覚え、自販機コーナーへ向かった。機体にはパンダのイラストが描かれていて、その上部には吹き出しがあり、内部にこんな文章が躍っている。

 

 ――”かつての恐竜がそうであったように、生き物は絶滅すると、もう二度と地球上に戻る事はありません。全ての生き物は、自然の中で密接な関わり合いを持ちながら生存していています。我々人間もその一種です。少しでも多くの生き物を守りましょう。それが、この地球上のほぼすべてに分布している()()()()()です。この自販機で得た売り上げは……”

 

 突然、杳の頭の天辺から足の先までを一筋の電流が駆け抜けた。思わず閉じた瞼の裏に、大勢のヒーロー達が個性を使って人々を救ける場面がチカチカと閃光を放ち、消えていく。――そうか。正解はすごくシンプルだったんだ。頭の中にずっと漂っていた黒い霧が晴れていくような、清々しい気持ちに包まれて、杳は束の間言葉を失くした。ふらりと傾いだ小さな体を、人使は慌てて抱き留める。

 

「大丈夫か?」

「大丈夫だよ。ヒトシ、私……勘違いしてた」

 

 杳は屈託のない表情で笑い、一点の曇りもない瞳で彼を見上げた。動物のように純真な輝きに呑まれ、人使はわずかに身じろぎする。

 

「ヒーロー(イコール)自己犠牲じゃない。彼らの行動の()()が、自己犠牲なんだ」




いつもこのSSをお読みいただき、ありがとうございます。

最近、FNF(Friday Night Funkin'というボーカルゲームの略称)のプレイ動画を観るのにはまってます。全部英語でストーリーほぼ分からんけど、最高過ぎる。FNF知ってる方は、杳の外見と声の雰囲気「Carol」というキャラみたいな感じだと思っていただければ…。


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No.86 次は

※追記①:作中に登場する『正義論』は、1971年ジョン・ロールズにより著された政治哲学です。『無知のヴェール』はその中に登場する概念の一つです。

※追記②:オールマイトのシーン付け足しました。お暇な時にちらっと見ていただけたら幸いです。


 その翌日。杳は再びタルタロスへ向かっていた。海岸線行きのバスに乗り込み、終着駅に着くと電子マネーで運賃を支払い、バスを降りる。停留所から海岸沿いを三十分程歩いた先に、タルタロスと本島を繋ぐ海峡横断橋があった。橋の入り口には関所が設けられていて、通行者はそこで検問を受ける義務がある。

 

 乳白色の霧が橋の半ばから発生し、全ての海を呑み込んでいる為に何も見えない。タルタロスを初めて見た時の心情をふと思い出し、杳は白髪頭をかいた。――まだ”慣れ親しんだ”という表現などできないし、したくもないが、もう冥界が放つ瘴気に呑まれても杳の気分が憂鬱になる事はなかった。これが良い事なのか悪い事なのか、杳には分からなかった。関所で生徒手帳を見せ、迎えに来た車に乗り込む。

 

 やがて車は青銅の門を通り抜け、タルタロスに到達した。駐車場内部の入り口から施設内に入った途端、杳は大きく息を飲む。瘴気が噎せ返る程に強く、濃厚になったからだ。建物内の上部には至る所に監視カメラやセンサー、そして銃火器の類がしっかりと備え付けられている。

 

 杳の知覚能力は、先の戦いで微量に回復している。だが、その感覚に頼らずとも、監視機器の出力が限界まで上がり、また行き交う職員達の警戒心が異常に高まっている事が確認できた。杳は思わず寒気を感じ、ブルッと身を震わせた。それは物理的な温度の効果ではなく、張り詰めた場の緊張感によるものだった。

 

 杳は刑務官の案内に従い、エレベーターに搭乗して目的の階まで降下した。そして重厚な金属扉を開けてもらい、中にある簡素な椅子に座った。個性を封印する効果を有した特殊金属や銃火器、センサー類が大量に埋め込まれている為、独房の壁は他のものより何倍も厚い。扉が閉められた途端、恐ろしい程の静寂が辺り一帯を包み込んだ。杳はリュックを足元に下ろし、瞳を閉じて大きく深呼吸する。

 

 ――今日の面談の相手は、兄じゃない。

 

 ふと目の前にある真っ暗なガラス面が明るい輝きを放った。面会の準備が整ったのだ。そこらじゅうに氷柱のように下がった銃火器の群れが、独房の主を見下ろしている。無数のセンサーが入り乱れる事で生まれた波がガラスの壁を透過し、杳の肌に突き刺さった。それに動じず、眼前にいる人物を観察できるほどには、杳は成長していた。見方を変えれば、()()()()()と言えるかもしれないが。

 

 死柄木は拘束椅子の上でゆったりと寛いでいた。何も見えていないはずなのに、彼は杳の方へ顔を動かし――まるで愛する姪っ子に対するように――親しげに微笑んでみせる。

 

「まさか()()()逢いに来てくれるだなんて思わなかったな」

 

 脳髄が痺れるように甘く、優しい声。感覚を研ぎ澄ませば、声紋から彼がとても上機嫌である事が分かったかもしれないが、生憎今の杳にはその余裕がなかった。声を聴いた瞬間、脳内で過去の凄惨な記憶が閃いたからだ。まだ塞がりきっていない心の傷痕から大量の血が噴き出て、膿がどろりと滲み出る。

 

 ――杳はこの面会が心的外傷(トラウマ)を悪化させると承知していた。だが、それでも彼女の信念が、彼を除け者にする事を許さなかった。正義を成すには痛みが伴う。それを緩和する方法を、杳はきちんと準備していた。

 

 視線をずらし、足元を見る。そこには黄色いリュックサックが置いてあった。ただの鞄ではない。表面にはビニールが張ってあり、そこにプレゼント・マイクの写真が載った缶バッジがずらりと並んでいる。俗に言う”痛バッグ”というやつだった。発目のシッター業務を無事コンプリートした杳が、記念に仕立てたものだ。

 

(意識を違う方向に一瞬、シフトしてみろ)

 

 相澤の言葉を噛み締め、意識を現状からリュックへシフトする。ひまわり畑のように並ぶスマイルの上部には、アメリカンな筆跡でサインがされていた。杳はふと、ある記憶を思い出した。

 

 ――先週の金曜日、中庭で緑谷と痛バッグのお披露目会兼オタク談義をしていたところ、その場を通り掛かったマイクが感激&ふざけてサインとメッセージを書いてくれたのだ。その瞬間、記念品のバッグは杳にとって()()になった。動物園デートで張り切って背負って行った時、人使のよこした生温い視線を、彼女は今でも不服に思っている。日常の他愛無い出来事を思い返している内に、彼女の心は段々と落ち着いてきた。

 

(犯罪行為に至った背景には、その人が生まれてからその時点に至るまでの長い歴史があるの。真の動機は、本人すら自覚できない深層意識内で発生している事が多い)

 

 ミッドナイト先生の授業は、杳にとって一番必要な講義の一つだ。誰だって、自分の行動・言動の理由を言語化するのは難しい。杳はカウンセリングフェスの集団療法で救われた。自分の声を聞き、歩む道を決めたのだ。

 あの時、集団療法を受けていなければ、自分の人生はまるで違っていただろう。本当の自分を知るには()()()()()が必要なのだという事を、杳はつくづく思い知った。だから、彼女は今まで関わった被害者の支援活動に携わると共に、(ヴィラン)全員との面会を希望している。

 

 面会は双方の合意があって、初めて成立する。当然の結果ではあるが、ほとんどの敵は杳との面会を拒否した。その場合、杳は手紙を送っている。文面の内容は様々だ。今のところ、受取拒否された事はない。

 

(一説によると、攻撃は恐怖心から来ているんだって。自分の身を守る為にした事が、他の誰かを傷つける)

 

 眠の言葉は真実だと杳は思う。黒霧の脳内で、かつて自分は敵達の記憶を追体験した。彼らの心と同期した時、杳は彼らが人々を傷つけ殺す度に感じている――脳髄が痺れるような快楽の感情に()()がある事を感知した。

 あの時は戦う事に必死で余裕がなかったけれど、今になってじっくりと記憶を吟味してみると、その愉悦の奥底に――誰かの泣き声が聴こえた。それを含めて純粋な喜びだと、その人なりの幸せなのだと言い切る事はできない。

 

 ミッドナイト先生が電子黒板に写した白い丸が傷ついて、歪んでいく。――彼らもきっと()()()だったのだ。だが、誰かのせいで、何かのせいで、形が歪んだ。誰も救けてくれないから、自分で自分を守るしかなかった。たとえそれが人の道に反した悪行になろうとも。

 

 チームIDATENに属する眠やミッドナイトは臨床心理士の資格に加え、処遇カウンセラーの非常勤務も行っている。処遇カウンセラーとは刑務所に属するカウンセラーの事だ。ヒーローは敵を制圧するだけでは終わらない。再犯防止の(かなめ)が心にあると考え、心理学の道へ進む人々も少なくなかった。

 

 紆余曲折を経て、多戸院市で多くの事を学んだ杳も同じ道を辿ろうと決めた。そんな彼女の青い意志に、死柄木は敵の中で唯一応じてくれたのだった。だが、死柄木が許しても、彼の立場と罪がそれを許さない。連日、タルタロスの上層部による綿密な会議が成され、杳の精神状態を考慮した上でようやく日取りが決定された。

 ――そして今、二人は分厚いガラス壁を挟んで向かい合っている。

 

 自分が落ち着いた事を確認すると、杳はバッグから目を外し、死柄木を見上げた。どんな思惑があるにせよ、彼は自分に会ってくれた。それに応えなければ。彼と別れたあの時、戦いは終わったと思ったけれど、()()()()()()んだ。杳はぎこちなく笑った。

 

「だって、仲間外れは寂しいって言ったじゃないですか」

「優しいね。さすがは僕の見込んだヒーローだ」

 

 死柄木の口角が愉快そうに吊り上がる。その反応を見た事で、杳の予想は確信に変わった。先程の発言は、黒霧の体内で彼が発したものだ。やはり、黒霧の体内での死柄木と今の彼は、意識上で繋がっている。意識の複製・共有なんて神業も、彼なら容易くしてしまえるだろう。

 まるでどこへ逃げても彼の掌上にいるような――どっしりとした絶望と閉塞感が、杳の全身に圧し掛かる。きっと自分は彼にとって羽虫みたいなもので、ほんの少し指を動かせば潰れて死ぬような――儚い存在なのだろう。

 

 だが、今はそんな事を考えている場合じゃない。杳は頭を強く振り、雑念を追い払う。カウンセリングに来たんだ。――カウンセリングの基本は、相手の現状や悩み事を訊き、遮ったり批判・拒否する事なく受け入れる事だ。杳は室内に据えられた時計で時刻を確認した。面会時間は決まっている。のんびりしている時間はない。ごくりと唾を飲んだ後、緊張気味に言葉を紡ぐ。

 

「その。最近、どうですか?」

 

 死柄木は虚を突かれたとばかりに、口をわずかに開けた。それは彼にとって非常に珍しい反応だった。しばらくすると彼はわずかに(こうべ)を垂れ、肩を震わせて笑い始める。だが、その声は主の動きを感知した独房の放つ警告音と銃口の動作音でかき消された。

 ――この人は私がどんな想いでここに来ているのか、知らないんだ。杳が懸命に泣くのを我慢していると、死柄木は笑いの滲んだ声でその場を取り成した。

 

「ああ、どうか気を悪くしないでくれ!君があんまりにも可愛いものだから……」

「……」

「そうだな。まあ、絶好調とは言えないね」

 

 死柄木はおどけて肩を竦めてみせた。ゆっくりと首を回し、不可視の目で真っ黒な氷柱の下がった天井を見上げてみせる。

 

「君もご存じの通り、ここは窮屈だ。少しの身動きも許されないし、常にバイタルサインに加え脳波までチェックされてる。奈落(タルタロス)とはよく言ったものだ。さすがの僕も、神の反逆となると一苦労するだろう」

「……死柄木さんは、ここから出たいですか」

「そりゃあそうだろう?!僕に限った話じゃないが、望んでここに来た奴なんていないさ」

 

 杳は少し目を伏せて考え込んだ後、膝に置いた両手をギュッと握り締め、真摯な眼差しで死柄木を見つめた。

 

「”無知のヴェール”を知っていますか?」

 

 ――無知のヴェールとは、超常社会以前にアメリカの哲学者が著した本”正義論”の中で登場する概念の一つである。それを被ると、人々は自分の生まれ持った才能、性格、運、財産、信条などの諸条件を全て忘れてしまう。生まれたての赤子と同じような状態になる、と考えれば分かりやすいかもしれない。かの学者はこのような原初状態では”自分が最も不利な条件で生まれ落ちた可能性”を考えて、皆が社会秩序を選ぶと考えた。

 

 つまり、弱者が虐げられない――本当の意味で()()()()()を創るという事だ。そしてその中で培われる思念こそが、正義であると考えた。今週の倫理学の授業でミッドナイトが限界まで噛み砕いて教えてくれたので、(そら)んじられる程によく覚えている。

 死柄木は感心したように唸り声を上げた。

 

「正義論か。最近の学生は随分と難しい事を習うんだね」

 

 不可視の瞳とぼんやりした灰色の瞳が(しば)し、交差する。聡明な彼は、先程の質問だけで杳の意図を理解したようだった。ゆったりとした動作で拘束椅子に身を預け、彼は蕩けるように優しい声で言葉を紡ぐ。

 

「杳。僕は無知のヴェールを人々がまとう瞬間を見たよ。そう、異能……ああ、君の時代は個性だね。それが生まれた時の事だ」

 

 個性黎明期の事だと、杳は静かに唇を噛み締めた。人々に個性が発現した当時、種の規格が大きく崩れ、世界中が壊滅的な混乱に陥った。文明は一瞬にして崩れ去り、数えきれない程に多くの命が失われたと言う。眼前に浮遊する埃を吹き払うように――さりげない仕草で、彼は大きな唇に侮蔑的な笑みを浮かべた。

 

「皆、弱者の事なんて考えなかったよ。考えたのは()()()()()()だ。平和だなんだと謳っていても、追い詰められた時、彼らが選んだのは自由主義だった。だから僕もそうした。

 いつの時代も強者が生き残り、弱者は排斥される。例外は無いよ。群生生命の原則だ。……平和も正義も結局は、人々が生み出した幻想に過ぎない」

 

 恐ろしい悪意を内包した言葉が、杳の小さな心臓を踏み潰そうと迫る。だが、いくら力を篭めて踏みにじっても、か弱く脈打つ臓器は潰れなかった。灰色にぼんやりと輝く一対の瞳に、冷たく笑う支配者の顔が映っている。

 

「なら、あなたは幻想によってここに封じられたという事になる」

 

 その瞬間、死柄木の口元から笑みが消えた。杳は目を閉じて、今までの記憶を思い起こした。――ヒーローだけではない。敵や民間人、本当に様々な人々に救けられて、自分はここまでやって来た。そしてそれは()()()()()話じゃない。生きとし生けるもの全てに当てはまる。

 

 たとえ幻想のように儚く不安定な存在でも、多くの者がそれを信じ、誰かに手を差し伸べ、命を繋ぎ、想いを紡いで生きてきた。その昔、”夢は思い続ければ現実になる”と誰かが言った。幻想も同じだ。たった一人で崩れた世界を立て直し、平和を創り出したヒーローを杳は知っている。

 

「幻想がなければ、世界はここまで発展しなかった。その中であなたも生まれ、育まれてきたんです」

 

 だけど、と杳はわずかに俯き、言葉を濁らせた。死柄木の発言は的を得ている。この幻想は完璧ではない。不確実な心から生まれたものだから、当然なのかもしれないが。杳にはそれがもどかしくてたまらなかった。

 

「でも、あなたの想いも理解(わか)ります。この幻想では全員を救えない」

 

 閉じた瞼の裏に、動物園の記憶が蘇った。淘汰される者はおらず、皆が必要とされている優しい世界。穏やかな一定のリズムだけが()()()のように満ちている、小さな理想郷を。

 ――今この時もヒーロー達は個性を奮い、誰かを救ってくれている。だが、それでも完璧じゃない。オールマイトのように自然の摂理をも捻じ曲げるような、圧倒的な力を持つ者が、彼らの手から零れ落ちた不条理を調整する必要があった。

 

「私は、均衡者(イコライザー)が必要だと思うんです。私欲なく、社会を調整できる人物が」

「……君が望んでいるのは()()()()だ」

 

 杳は静かに首を振り、曇りのない瞳で死柄木を見上げた。死柄木は少しだけ力を篭めて杳を見たが、彼女は頑として退く姿勢を見せない。死柄木は退屈そうに溜息を吐いた。

 

「そういう窮屈なのは()に頼んだらどうだい?余程、適任だ」

「彼はもう充分に責務を果たしました」

 

 杳は毅然とした態度で応えた。死柄木は苦笑し、呆れたように首を傾げてみせる。しばらくして笑いと共に放たれた声には、わずかな苛立ちと怒りが内包されていた。杳の発言が彼のプライドを少しばかり害したのだろう。

 

「つまり君の提案は……僕に夢を捨て、トラブルの後始末係になれという事かな?」

「死柄木さん。これは義務なんです」

 

 静かな、力を持った声が、独房内に響き渡る。小さな杳は立ち上がる事でようやく死柄木と視点が同じになる。煙を封じ込めたような双眸には怒りも憎悪も恐怖も、マイナスな感情は何も含まれていない。生まれたての赤子が放つような純粋な輝きに、死柄木は一瞬、魅入られた。

 

「強い力を持った者は、世の為にその力を使わなければなりません」

 

 ”合わない個が排斥される”というのが自然の摂理なら、”力を持った者が持たざる者を救ける”と言うのもまた自然の摂理だ。その事実を、杳は何度も多くの人々に教えてもらった。ヒーローは人間のあるべき姿を投影した職業だったのだ。だからこそ彼らはあんなにも輝き、人を魅了し、冷たく完璧に見える。

 視界の端に映る向日葵色に勇気づけられ、杳は微笑んだ。それから覚悟をもって、言葉の矢を放つ。

 

「次は、あなたです」

 

 

 

 

 突然、周囲の空気が粘つき、ずっしりと重くなった。息ができない。巨大な手に押さえつけられたかのように身動き一つ、取る事ができない。四方の壁が音もなく迫って来るような閉塞感と圧力が、杳に襲い掛かった。

 

 それは死柄木が()()()に向けて放った、悪意だった。心の片隅に置き去ったはずの心的外傷(トラウマ)が、涎を垂らして這い戻ってくる。心臓が馬鹿みたいなスピードで鼓動を打ち始める。恐怖で歪んだ視界の中で、彼の大きな唇が禍々しい弧を描きかけた、刹那――

 

 ――無機質な警告音が独房内に鳴り響いた。地獄のような空気は霧散し、杳は必死に息を吸い込んで呼吸を整える。死柄木は観ていた映画が突然途中で終わってしまったような、悔しげな顔をして天井を振り仰ぐ。

 

「もう終わりか!つまらないな」

「……また、会えますよ」

 

 杳は弱々しい声で応え、椅子から立ち上がりかけてようやく体の異変に気付いた。四肢が冷たく凍り付き、痺れている。死柄木の放つ悪意に、体が悲鳴を上げていた。――()()()()。彼もまた救う対象の一人だ。杳は自らに言い聞かせ、椅子の背を支えに立ち上がる。それから顎に手を当て、思考を巡らせた。

 

 死柄木の面会許可は――彼の立場を考慮すると当然かもしれないが――兄の時よりもずっと遅かった。何にせよ、血縁者でもない民間人(じぶん)との面会を許可してくれたのは奇跡に等しい。ひょっとすると次回は許可してもらえないなんて事態も充分考えられる。杳は自信なさげに視線を彷徨わせつつ、フワフワの白髪頭をかいた。

 

「上からの許可が降りたら、ですけど」

「ハハ。もうすっかり子犬(パピー)が板についてきたね」

 

 死柄木の皮肉めいた冗談を杳は肩を竦める事で聞き流し、リュックを持ち上げ、ベルトに腕を通した。よろめきながら背を向けると、分厚い金属扉が杳を待っていた。武骨で冷たい色とデザインをした扉が、今はまるで天国への入り口のように見える。

 杳は扉に向かって一歩を踏み出した。その時、背後から蕩けるように優しい声が降ってきた。

 

「セブンは元気だったかい?」

 

 その瞬間、杳の呼吸と思考が止まった。幽世に消え去ろうとする老人の姿が脳裏に焼き付き、霞んでいく。杳はその場で深呼吸した。それから大きく首を傾げて、すっとぼける。

 

「誰のことですか?」

 

 数秒後、重々しい音を立ててロックが解除され、扉が開いた。その中に吸い込まれていく少女を見送りながら、死柄木は満足気に呟く。

 

「……全く。君は面白いな」

 

 

 

 

 オール・フォー・ワンの囚われた独房、その面会室の扉の前で、()()()は杳が出て来るのを待っていた。その顔にはひどい疲労が滲んでいる。

 

 ――オール・フォー・ワンとの面会が二度あった為だ。一回目はオールマイト、そして二回目は白雲杳だった。オールマイトはともかく、血縁者でもない民間人に何故、許可が与えられたのか、彼には分からない。分かるのは、あの顔のない不気味な男が――個性を使えない状況にも関わらず――核弾頭以上の脅威を今も有しているという事実だけだった。

 

 あの敵は人間ではない、人の形をした()()なのだと彼は思う。人の(ことわり)を超え、長く生き永らえる中で巨悪が蓄積してきた悪意は、到底その体には収まり切らず、普通の人なら正視する事すら難しいほどの瘴気となって滲み出ていた。

 

 だが、あの少女は人として彼と向き合っていた。家族を玩具にされ、自身も殺されかけたというのに、彼に微笑みかけていた。――狂っていると、刑務官は思った。おまけに話す内容は浮世離れした事ばかり。きっとこの子も彼の悪意に呑まれ、他の被害者達と同様に正気を失ってしまったのだろう。彼は白雲杳という少女をそう結論付ける他なかった。

 

 やがて扉が開き、中から少女がよろめきながら現れた。次の瞬間、彼女は体をくの字に折り曲げ、嘔吐した。吐いたものは、口の前に持ってきたエチケット袋の中に吸い込まれる。その体表には(おびただ)しい量の蕁麻疹が浮かんでいた。

 刑務官は棒立ちになったまま、何もできなかった。手出しする事が失礼であると思うほど、その姿が気高く感じられたのだ。

 

「……あ。すみません」

 

 少女はふと刑務官の視線に気づき、申し訳なさそうに微笑んだ。その顔は血の気が引いて真っ白で、鳥肌が立つ程に凄艶だった。

 

 

 

 

 杳はトイレで少し休憩した後、腕を組んで考え込んだ。先程の刑務官に”車の迎えが来るまで一時間以上の待ち時間がある”と伝えられたのだ。タルタロスには――というより公的機関全般に言える事なのかもしれないが――施設を維持するのに必要な設備は揃っているが、それ以外のものはない。要するに娯楽の類がないのだ。

 

 職員の気晴らし・休養は必須事項だが、それ以上にこの施設の役割は重要だ。売店や娯楽など、迂闊に外部の物資を取り入れる事で職員の気の緩み、及びテロが発生し、敵が再び世に解き放たれる事があってはならない。その為、施設内にある唯一の娯楽と言えるのは、休憩室を兼ねた食堂だけだった。職員だけでなく関係者も利用が許されている。

 

 杳は腕時計を見た。昼過ぎにここに着いて、今は三時。道中、お菓子を少し口にしただけで昼食は摂っておらず、お腹は空いている。

 

 そんなわけで、杳は食堂へ向かった。広大なフロア全体にテーブルと椅子がずらりと並んでいる。昼時をとうに過ぎている為か、人はほとんどいなかった。出入口付近に食券機が数台あり、かすかな駆動音を立てている。先にボタンを押してから決済するタイプのようだ。

 

 メニューは意外と豊富で、優柔不断な杳は早速迷った。好物のハンバーガーはない。杳は迷いに迷い、やがて唐揚げ定食のボタンを押した。そのまま決済に進もうとした時、三色アイスなるものがある事に気付く。値段は七百円と割高だが、三つのアイスが入っているなら納得がいく。

 

「うーん……」

 

 杳はまたも迷った。彼女のお小遣い事情は実にシビアだ。敵宛に送る郵送代と被害者支援活動費・タルタロスへの交通費で仕送りのほとんどが消え、残ったわずかな銭で日々の生活をやりくりしている。チームIDATENのアルバイト代もあるが、それは何かあった時のために取っておきたかった。

 つまり、昼飯に二千円弱も使う余裕はない。杳が断腸の思いでボタンから指を離したその時、上から筋張った手が伸びて来て、そのボタンをポチッと押した。

 

「や。白雲少女」

「オールマイト!」

 

 垂れ下がった金色の前髪から優しい碧眼を覗かせて、オールマイトは気さくに笑う。たったそれだけで、タルタロス内に漂う陰鬱な空気は霧散した。オールマイトと杳では、大人と幼児に等しいほどの身長差がある。杳は首を捩じってオールマイトを見上げ、大きく息を飲んだ。何故、彼がここにいるのだろう。

 

「ご馳走させてね」

 

 オールマイトは杳が何か言う前に決済し、恐縮する彼女に食券を渡した。杳は興奮で上擦った声でお礼の言葉を紡ぎ、二人でカウンターへ向かう。頼んだ料理を待つ間、杳はそわそわとした様子でオールマイトを見上げる。

 

 だが、話のネタが見つからなかった。彼は言うなれば、架空のスーパーヒーローみたいなものだ。引退したって、彼の放つオーラや凄味は少しも損なわれていない。教師と生徒の関係は良好だけれど――杳を含めた大勢の人にとっては――いまだに”雲上の人”だった。親しげに接しているのはクラスメイトの緑谷くらいだ。

 

 やがて二人の料理がやって来た。千切りキャベツの上に山と積まれた唐揚げ、お茶碗にたっぷり盛られた白飯と漬物、味噌汁、副菜、そしてバニラとストロベリーとチョコレートのアイスが、プレートに窮屈そうに押し込められている。対してオールマイトの頼んだものは、素うどんだけだった。

 

 ――もしかしてオールマイトは自分の為に食費を削ったのだろうか。あまりの格差に杳は言葉を失い、申し訳なさそうに彼を見上げた。その顔を見るなり、彼は小さく吹き出した。死柄木とは全く違う――悪意の欠片もない、優しい素朴な笑顔だった。

 

「私は粗食だから気にしないで。良かったら一緒に食べる?」

「はい!」

 

 かくして二人は食堂のテーブルに着き、手を合わせた。オールマイトは静かに手を合わせ、うどんをすすり始める。良く見るとその顔はいつも以上にげっそりと落ち窪んで、影が濃かった。杳は口をもぐもぐさせたまま、目を閉じて反響定位(エコロケーション)を実行した。

 

 ――反響定位とは、自分が発した音が何かにぶつかって返ってきたものを受信し、その方向と遅れによってぶつかってきたものの位置関係を知る事を示す。集中して感覚器を研ぎ澄ませると、オールマイトの放つ音の中に――まるでチューイングガムのように――ひと欠けらの悪意がへばりついているのが分かった。

 

 今になって思い返してみると、死柄木は随分と上機嫌そうだった。タルタロス全体が異様に殺気立っていたのも納得がいく。オールマイトも自分と同じように、彼と会ったのだろう。

 

 一方、もりもりと昼食を平らげていく杳の姿を、オールマイトは微笑ましい気持ちで眺めていた。大量の唐揚げや白飯がブラックホールのように吸い込まれていく。その視線の先には常にアイスがあった。融ける前に早く食べたいのだろう。食後に買ってあげるべきだったかもしれない。オールマイトは少し後悔しつつ、優しい声で言葉を紡ぐ。

 

「ちゃんと噛んで、ゆっくり食べなさい」

 

 杳は恥ずかしそうに頬を赤らめ、オールマイトを見た。その幼い子供のような振る舞いに彼は思わず頬が緩む。――ともあれ、()()()()()ようで良かった。オールマイトはそっと安堵の溜め息を吐いた。

 

――――――――—

 

――――――

 

―――

 

(僕に何を求めてる?)

 

 今を(さかのぼ)る事、数時間前、オールマイトはオール・フォー・ワンとの邂逅を果たしていた。いまだ行方の掴めぬ敵連合の情報を問い質し、巨悪の真意を探る為だ。しかし、オール・フォー・ワンはそれらの問いに応えるどころか、オールマイトをせせら笑い、悪意の迸る言葉を次々と投げつけて挑発するばかりだった。

 

(今後君は人を救う事叶わず、自身が原因で増加する敵共を指を咥え眺める事しかできず)

 

 徐々に苛烈さを失っていくオールマイトの顔を面白そうに見物しながら、オール・フォー・ワンは歌うように上機嫌な声音で言葉を続けた。

 

(無力さに打ちひしがれながら余生を過ごすと思うんだが、教えてくれないか?どんな気分なんだ?)

 

 

 

 

「……sい、先生?」

 

 杳に遠慮がちに話しかけられ、オールマイトはハッと我に返った。教え子の瞳は心配そうに(かげ)っている。――なんと不甲斐ない。オールマイトは唇を噛み、拳を握り締めた。私の力が及ばなかった為に、この子には多くのものを背負わせてしまった。これ以上、不安にさせるような事をしてはならない。気丈に笑い、杳のほっぺたに付いたご飯粒を取ろうとした、その時――

 

「あんまりあの人の言う事、気にしない方がいいですよ」

 

 ――その手が、止まった。杳の言葉は一聴すると、まるでご近所付き合いに関するアドバイスのように気軽な感じに思えたが、同時に確かな真実味を帯びている。オールマイトの視線の先に気付くと、杳は頬についたご飯粒を取り、得意げに口に運んだ。その瞳に煌めいているものは、彼の弟子と同じ()()()()だった。心の奥底でずっと張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ解けてゆく。

 

 呆然としているオールマイトを見て、杳はハッと我に返った。同時に自分の発言がいかに不遜なものであったかという事を痛感し、背中に冷たい汗が伝う。相手はあのオールマイトだ。それなのに、普通の人と同じように接してしまった。彼はこの国を代表する人間であるにも関わらず、驕り高ぶったところが少しもない。

 

「す、すみません。あの、なんていうか。その……」

 

 混乱する杳の脳内に、ふと()()()()が蘇った。期末試験の終わり、夢で見た”希望の火”。点火者達の生きた時代はどれも陰惨で荒廃していた。そんな中で彼らは個性を奮い、敵と戦い、人々を救っていた。その中で最も大きく長く輝いたのが、きっと彼なのだ。

 

 ――”好事門を出ず悪事千里を行く”という(ことわざ)がある。善行はあまり広がらず悪行ばかりが跋扈(ばっこ)するのは、人の悲しい(さが)かもしれない。その中で、彼は懸命に頑張った。多くの人々の心に火を点した。

 

 諦めないでいるよりも、諦める方がよっぽど簡単だ。火が消えてしまっても、彼は諦めずに国中を駆け、何度でも火を点した。どんなに辛くとも怖くとも笑顔で、涙を堪えて戦う事の困難さを、杳は身をもって知っている。そして彼は最後まで戦い抜き、全てを失ってもまだ自分達を救おうとしてくれている。

 杳は平和というものの尊さ、そして儚さを――それらを培ったオールマイトの偉大さを、改めて思い知った。

 

「きっと大丈夫です。オールマイト」

 

 杳は勇気を出して小さな拳を握り、ガッツポーズをしてみせた。不思議な事にその姿は、彼を慕う弟子の姿によく似ている。

 

「あなたが救けてくれたから。今度は、私達の番なんです」

 

 オールマイトは言葉を失い、杳を見つめた。少女は優しく力強い笑顔を浮かべている。数ヶ月前、泣きながらジュースを飲んでいた時とは比較にならない程に、彼女は成長を遂げていた。

 

 ふとした時に、ナイトアイが涙混じりに叫んだ予言が脳裏をよぎる。戦いは終わらない。最期まで安寧の時はなく、また望むつもりもない。だが、この時、教え子の発した”大丈夫”という言葉で、オールマイトの心は救われた。一番手のかかる子だと思っていた。――だが、今は。君ならきっと、()()()を。

 オールマイトは目尻に滲んだ涙を見せまいと気丈に笑い、杳の反対側のほっぺについたご飯粒を優しく取り払った。




ヒロアカ最新刊を読んでバッキバキに折れた心に文化祭編が染み渡る…。


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No.87 スカウト

≪オリジナル登場人物紹介≫
●須加宇 斗真(すかう とうま)
ヒーロー公安委員会・渉外部第一課所属。スカウト係。

●顧問役
ヒーロー公安委員会・顧問役。前会長の元側近。現会長と折り合いが悪い。

※ご注意:作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 翌朝、学び舎の教室にて。杳は席に着き、朝の準備を始めていた。ペンケースから筆記用具を出して机に並べていると、ひんやりした秋風が白いカーテンを揺らしたので、何となくその向こうに目を凝らした。コバルトブルーの空の下に白い薄雲が散っている。淡い色合いのコスモスが中庭で群れを成し、風にそよいでいた。杳が秋の到来を楽しんでいると、後ろの方から明るい声が跳んできた。

 

「見ててー!」

「……わあっ」

 

 杳は声の方向を見るなり、思わず歓声を上げた。芦戸が軽快なステップを踏んだ後、空中回転ジャンプしたのだ。片手だけで体重を支えて両足を上げるフリーズ技”マックス”、続けざまにパッと手を離して”ヘッドスピン”を決めている。流麗で力強いブレイクダンスだった。瀬呂と葉隠が両手を上げ、やんやの喝采を送っている。芦戸は自身の動きを分析ノートに書き留めていた緑谷、それから青山を誘い、その場で即席のダンス教室を始めた。

 

 杳は基本的に人見知りな性格で、賑やかな様子を見るのは好きだが、その中に突っ込んでいくのは苦手だった。机の上に頬杖を突き、感嘆の溜め息を零す。ヒーローを志す者は皆――自分もそうであるかは不明だが――人や場の雰囲気を明るくさせるムードメーカーの素質を有している。芦戸達が笑って踊るだけで、教室の一画はミラーボールのキラキラ輝くダンスホールへ変化した。

 

「砂藤のスイーツとかもそうだけどさ、ヒーロー活動にそのまま活きる趣味は良いよな!強い!」

 

 いつの間にか耳郎の隣にやって来た上鳴が、感心したように腕を組む。そう言われてみると、芦戸の全ての挙動に全身を使う格闘スタイルは、今眼前で展開されているダンスの動きによく似ていた。杳は天井を見上げ、学友達の趣味に思いを馳せてみた。一番最初に浮かんだのは、砂藤の趣味だった。彼のレパートリーは菓子だけに留まらず、栄養学や災害時の調理法にも及んでいる。英語の教科書を開きつつ、上鳴の話に耳を傾けていると、彼はふと耳郎の方を向いた。

 

「趣味といえば耳郎のも凄えよな」

「ちょっ、やめてよ!」

「音楽のこと?」

「そーそー!部屋ん中楽器屋みてーだったもんなァ。ありゃ趣味の域超えてる」

 

 耳郎は恥ずかしそうに顔を赤らめ、眉をしかめた。その様子を微笑ましく見守りつつ、杳は耳郎の部屋に遊びに行った時の事を思い浮かべた。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 耳郎の部屋はドラムやギターやベース――ありとあらゆる軽音楽を奏でる為の楽器が、整然と並んでいた。聞くところによると、実家が音楽家であるらしい。杳は恥ずかしそうにしている耳郎をよそに部屋じゅうの楽器を見て回り、やがてベッド脇に立てかけられたクラシックギターに興味を示した。古びてはいるがしっかりと手入れされており、ボディが部屋の照明を反射して飴色に輝いている。

 

(お客さん見る目がありますねぇ)

 

 耳郎は悪戯っぽい口調でそう言うとギターを取り上げ、杳の肩にベルトを掛けてやった。父のお下がりなのだそうだ。楽器を持つのなんて、それこそ小学校の演奏会でトライアングル担当になった時以来だ。杳は嬉しそうにギターを抱え、ベッド脇に座り込んで爪弾こうとした。だが、体格の小ささが災いしてなかなか上手くできない。しばらく黙って様子を見ていた耳郎は、やがて堪え切れないとばかりに吹き出した。

 

(ぶふっ!ギターに隠れてるじゃん)

(隠れてないもん。弾けるもん)

 

 杳はムキになって反論しつつ、ギターを抱え込むようにしながら、五弦の上にそっと指をなぞらせた。暖かくて親密な音が溢れ出し、水面のように広がってゆく。たったそれだけで、なんだか杳はとても特別な気分になった。

 ふと優しい温もりが背中を包んだ。耳郎が杳を抱きかかえるようにして後ろから手を回し、ギターのネックを押さえる。

 

(いいよ。そのまま弾き続けて)

(わあ……ッ)

 

 魔法のように耳郎の指がネックを舞い踊ると、単調な杳の音はたちまち美しい旋律(コード)になった。耳郎は小さな杳の体ごと体を揺らし、リズムを取る。杳の笑い声に目を細めながら、耳郎はボディを軽く叩くと息を吸い込み、やがて小さな声で歌い出した。真冬の澄んだ空気を集めて創ったような――少し掠れていて、だけど突き抜けるように力強く透明な歌声。ギターが新たなメロディを創り、耳郎の声が切なげに震える度、杳の心は大きく揺れた。そして思った。

 ――彼女は社会だけじゃなく、音楽界のヒーローでもあるのだと。

 

「歌もすっごく上手d――」

「もういいって!」

 

 しかし、その時の感動を上鳴と分かち合おうとした次の瞬間、二人の間を切り裂くようにイヤープラグが一閃した。二人は思わず口を噤み、恐る恐る耳郎を見る。彼女は羞恥のあまり顔を真っ赤にして、怒っていた。

 

「マジで!」

「ご、ごめん……」

 

 杳は小さな声で謝った後、こっそり上鳴と目線を合わせた。彼も怪訝そうな顔で首を傾げている。――上鳴も自分も、耳郎をからかうつもりなんて毛頭なかった。何故、あんなに怒ったのだろう。杳は席に着き、耳郎の後頭部を遠慮がちに見上げた。今、感覚器を研ぎ澄ませれば、友人の本心を理解できるかもしれない。けれど、それは(はばか)られた。

 やがて静かに引き戸が開き、相澤先生が入って来た。教室内は途端にしんとした静寂に包まれる。彼は名簿を教壇に置くと、単刀直入にこう言った。

 

「文化祭があります」

 

 その瞬間、クラスメイトのほぼ全員が椅子から立ち上がり、雄叫びを上げた。杳は一部の生徒と同様に大人しく座ったままだったが、心は皆と同じで浮き立っていた。皆と一緒に寮で過ごしているだけで楽しいのだ。文化祭だなんて、きっともっと楽しいに違いない。きっかり三秒間待った後、相澤は威圧感をたっぷり含ませた眼光を放つ。生徒達は瞬時に席に戻り、高鳴る鼓動とテンションを必死に押さえつけた。切島が躊躇いがちに手を挙げ、進言する。

 

「いいんですか?!このご時世にお気楽じゃ……」

「もっともな意見だ。しかし雄英もヒーロー科だけで回ってるわけじゃない」

 

 ヒーロー科が主体となる体育祭と異なり、文化祭は他科が主役となるのだと相澤は説明した。現状、寮制を始めとしたヒーロー科主体の動きにストレスを感じている者も少なくない。だからこそ、そう簡単に自粛とするわけにはいかないらしい。

 杳はサポート科の友人・発目の顔をポッと思い浮かべた。文化祭が彼女の晴れ舞台であるなら、自分は可能な限り手伝うべきだ。そう決心し、小さく頷く。

 

 文化祭では一クラスに一つ、出し物をするのだという。だが、クラスメイト達の自己主張は凄まじく、飯田と八百万が力を合わせても意見はまとまらなかった。無論、内弁慶な杳がその激闘の中に身を投じられるはずもない。大人しく戦況を見守っている間に始業のチャイムが鳴り、朝礼は終わった。業を煮やした相澤は寝袋を抱え、引き戸に手をかける。

 

「実に非合理的な会だったな。明日の朝までに決めておけ。……決まらなかった場合、公開座学にする」

 

 ――”公開座学”。皆の虚ろな声がハミングした。こんなに興味をそそられない出し物を杳は生まれて初めて知った。引き戸が開かれると、相澤の前に蠱惑的なシルエットが滑り込んだ。ミッドナイトだ。眼鏡に縁取られた理知的な瞳が、杳を射止める。ミッドナイトはふっくらとした唇を舐め、躊躇いがちに言葉を発した。

 

「白雲さん。ちょっと来てくれる?」

 

 

 

 

 放課後。杳は都心部へ向かう地下鉄に乗り、吊革に捕まった。帰宅時間と重なっている事もあり、電車はすし詰め状態だった。しかし、日頃戦闘訓練を積んでいる杳にとって、満員電車はさほど脅威にはならない。吊革に掴まる事なくバランスを取りながら、さりげなく周囲の状況に気を配り――気分の悪そうな人や転びそうになっている人がいないか確認しつつ――杳は朝の出来事に思いを馳せた。

 

(公安委員会の方が、あなたに話があると)

 

 ミッドナイトの言葉を聴いた途端、杳の心臓は嫌な音を立てて軋んだ。注意深く観察してみると彼女の優しい笑顔に、ほんの一摘まみだけスパイス(うれい)が混じっているような気もする。また何かしでかしてしまったのかと、杳の心に不安がよぎった。残念な事に()()()()なら山ほどある。公安委員会に招集されても動じないほど、自分の道は舗装されていないのだ。やがて二人は校長室前に到達した。二回ノックをし、ミッドナイトはドアを開ける。

 

 杳が校長室を訪れるのは、これで三度目だった。一度目は八斎會事件の時、二度目は黒霧事件の時だ。応接用のテーブルとソファ、トロフィーや賞状を飾る棚はあるが、それ以外の調度品は何もないシンプルな部屋だった。根津校長らしさを強いて挙げるとするなら、書斎机の片隅に置かれた――穴あきチーズの盛られたガラス容器くらいだ。だが、それも彼の嗜好品というよりは――来訪者に親しみを覚えてもらう為の()()と言った方が適切なのかもしれない。杳は校長がそれを食べる光景を、今まで見た事がなかった。

 

 ミッドナイトに続いて室内に入ると、根津校長の前に見知らぬ人間がいた。スーツを着た中年の男性で、引き締まった顔立ちをしており、その立ち振る舞いには一介の職員では到底出せないだろう威厳があった。根津校長は小さな手を挙げると、杳にソファへ座るよう勧めた。いつもの明るく気さくな調子に、不穏な要素は少しも混ざっていない。

 

「白雲君。この方が君とお話ししたいと。ヒーロー公安委員会の方さ」

 

 杳が戸惑いがちに頷き、ソファにちょんと座った。ミッドナイトがその場を立ち去ると、杳はますます心細い気持ちになった。男性は穏やかな笑みを浮かべ、杳に一枚の名刺を差し出した。必死になって感覚器を研ぎ澄ませても、彼の心は洞窟の奥底に秘められた湖のように静かで、何も読み取れない。

 

「申し遅れました。私、ヒーロー公安委員会・渉外部第一課の須加宇(すかう)と申します」

「……ちょ、ちょうだいいたします」

 

 インターン時ならばともかく、仮免すら持っていない杳にとって、名刺を受け取るのは初めての経験だった。学校で習ったうろ覚えの知識を総動員させ、カタカタと震える両手で名刺を受け取る。上質な素材で創られた名刺には、今しがた彼が名乗ったばかりの情報が紛う事なく印字されている。杳は拙い声で自己紹介をし、頭を下げた。須加宇はしばらくその様子をじっと観察していたが、やがて笑顔をさらに深めると、こう言った。

 

「白雲さん。単刀直入に申し上げます。社会をより善くする為、当会で力を尽していただけませんか?」

 

 

 

 

 ヒーロー公安委員会とは、内閣総理大臣所管の下に置かれている合議制の行政委員会だ。国の公安に係る警察運営を司る国家公安委員会の所轄下にあり、ヒーロー行政に関する調整を行う事により、公共の安全と秩序を維持する事を主任務とする。ヒーローの中立性確保と治安に対する内閣の行政責任の明確化を目的とした組織であり、国家公安委員会に続く”第二の警察庁”と呼ばれる事もある。いわばヒーロー専門の警察庁のようなものだ。

 

 須加宇が指定した時刻は、放課後に当たる夕方の五時だった。車を用意させると言ってくれたが杳は丁重に断り、公共機関で指定の場所へ向かった。地下鉄を数駅分走らせた先に、その建物はあった。夕陽を受けてオレンジ色に輝く白亜の建物が、杳を出迎える。守衛に学生証を見せて挨拶すると、彼はすぐさま電話をかけて誰かに連絡を取り、最上階へ向かうように伝えた。

 

 公安委員会を訪れたのは初めてだ。杳は物珍しくなって周囲を見回した。広々としているが、公共施設特有のシンプルな内装が目立つ作りだった。行き交う人々は皆、判で押したように同じようなデザインのスーツに身を包み、そして感情の見えない顔をしていた。杳を見ても驚く素振りすら見せず、義務的な挨拶をして去っていく。感情がないというより、あえて()()()()()()といった方が正しいかもしれない。彼らの足音には、杳がそう思わざるを得ないような――くぐもった波長が含まれていた。

 

 警察庁やタルタロスとはまた違った、砂を噛んでいるような虚しい空気が杳を押し包む。居心地の良いものではなかった。杳は急に学校へ帰りたくなった。だが、そうも言っていられない。エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。

 

 要人の接待を目的としているのか、はたまたこのエリアに常駐する人々の身分がそうさせているのか、最上階の様相は一階のロビーとはまるで違っていた。高級ホテルを彷彿とさせる内装と調度品が、杳を出迎える。廊下には深いワインレッドのカーペットが敷き詰められていた。やがて中程にある”顧問室”と書かれたプレートを見つけ、杳は立ち止まる。そして木製のドアノッカーを恐る恐る叩いて、主の了承を得てから、そっと入室した。

 

 中には広々とした空間が広がっていた。立派な書斎机にソファーとテーブル、絵画に飾り棚。庶民育ちの杳でさえ、その一つ一つの調度品が最高級のものであると分かる。根津校長の部屋とは、真逆だった。書斎机の前で肘掛け椅子に身を沈め、一人の男性が杳を待っていた。彼こそが、杳を呼び出した人物だった。皺の走る顔と後退した生え際、ビール樽のように突き出た腹部からして、年の頃は恐らく六十代前半くらいだろうか。

 

 男性は鷹揚な動作で椅子から立ち上がると、こちらを見下ろした。その目に射竦められた瞬間、杳は既視感を覚えた。――()()()。エンデヴァーが自分を見るのと同じ、冷たくて厳しい光を宿している。杳が緊張気味に自己紹介を済ませると、彼は自分の名前を名乗りもせず、ソファへ座るよう勧めた。だが、名乗らずとも彼がこの委員会においてかなりの上層に位置する人間である事くらい、杳にも分かる。

 

 黒革張りのソファにおっかなびっくり身を沈めると同時に、向かい側に男性がどさっと無造作に腰かけた。そして、テーブルに一枚のカードを滑らせる。思わず覗き込んだ途端、杳は大きく息を詰めた。

 

 ――ヒーロー活動認可資格免許証と書いてある。その下には自分の名前と顔写真が印字されていた。一体全体、これはどういう事だ?事態が飲み込めず、杳が酸欠状態の金魚のように口をパクパク開閉させていると、彼は横柄な口調で言った。

 

「免許証だ。特別なものだから、他人に見られたりしないように」

「で、でも、私……」

「君にはこれから特別なプログラムを受けてもらう」

 

 ”まだ仮免すら取れていない”。そう言い募ろうとした杳の声に被せるようにして、男性は言葉を続けた。それから冷たい瞳で再び杳を射抜き、ふっくらとした両手を組む。

 

「最終目標は、敵連合への潜入捜査・及び抹殺だ」

 

 杳はその言葉を理解するのに多くの時間を必要とした。心臓が鼓動する音すら聴こえそうな程の静寂が、辺り一帯を包み込む。杳の手から免許証が零れてテーブルにぶつかり、カチンと硬質的な音を立てた。男性の放つ鋭い眼光から逃れるように、杳は視線を落とす。虚ろに開かれた両手が震えていた。この手の内側に一瞬包み込んだ青年の感触を、杳はぼんやりと思い出す。

 ――何故、殺す?他の敵と同じように、収監されるのではないのか?杳はわなわなと震える声で、言葉を紡いだ。

 

「何故、殺す必要が?」

「奴らは最早一介の敵ではない。災害に等しい量の罪を犯している」

「と、友達、なんです……」

 

 杳は思わず立ち上がって、悲鳴のような声を上げた。心臓が今にも破けそうなほどに激しく速く、鼓動を打ち始める。男性は小さく鼻を鳴らし、杳を見上げた。蝋燭のように頼りなく揺れる杳の瞳と、ドライアイスを押し固めたように冷たい男性の瞳が束の間、拮抗した。

 

「奴らが屠ってきた被害者や遺族を前にしても、同じ事が言えるかね?」

「……ッ!」

 

 迷いなく頷けるほど、杳の精神は熟達していなかった。それほどに、杳と転弧達の友情は矛盾に満ちていて、儚く、汚いものだったから。杳が力なくソファに座った途端、書斎机に設置された電話が鳴り響いた。だが、男性は無視した。電話は数コール鳴った後、諦めたように沈黙する。

 

「何も君に殺せと言っているわけじゃない。情報を流してくれれば、後はこちらで何とかする」

「そんなことできません。私が……私が、説得します」

「具体的な日取りは?その間、一体何人の人間が犠牲になる?」

 

 見えない手で頭を押さえ付けられ、四方の壁が迫って来るような閉塞感が、杳に襲い掛かる。瞬きする度に、転弧達と過ごした日々がメリーゴーランドのように煌めいて、暗い闇の底へ消えていった。かつて相澤先生が膝に載せた犯罪歴の重みが、杳の膝に還ってくる。

 

 ――違う、違う。杳は真っ白になるほどに強く両の掌を握り締め、自らに何度も言い聞かせた。学んだ事を思い出せ。私はやっと目的地を見出した。そこへ到達する為にいくつものルートがある事を教えてもらったじゃないか。必ず、彼らを救う方法がある。公安委員会がなんだ。こんなところで、諦めるな。

 

「我々は社会というシステムを支える部品に過ぎない」

 

 男性はテーブルをゆっくりと回り込むと、杳の小さな肩に手を置いた。その手の温度は冷たく、鉛のようにずっしりと重かった。彼の顔を良く見れば、その目の奥にわずかな憐憫の情が滲んでいる事、そして深い皺と隈が刻まれている事が分かったはずだった。だが、杳はまだ若かった。自分の感情を抑えるのに精一杯で、他に気を配る余裕などなかったのだ。

 

「正義に情は必要ない。危険因子(エラー)は排除するだけだ」

 

 その言葉は、杳の心をズタズタに傷つけた。――八斎會の戦いで、マグネは自分を命懸けで救けようとしてくれた。スピナーはずっと傍に寄り添ってくれた。トガとトゥワイスは自ら助けに来てくれた。転弧は自分が抱き締めた時、崩壊の個性を発動しなかった。自分と彼らの中で少しずつ育まれてきたものがあった、はずだった。今はまだダメでも、いつか必ず。周りの人々が不可能を可能にしてきたように、自分も。杳はずっとそう思っていた。

 

 想いを明日に繋げる。明日の積み重ねが未来を創る。その果てに夢があるのだと、そう信じていた。だが、その夢が、道端に咲く花のように手折られる可能性があるのだという事を、杳は知らなかった。

 突然、()()()()が杳の中で弾けた。どうにもならない事があるのは承知している。それでも、彼らは一人の人間なのだ。

 

「そこまでして守って、何になるんですか?」

「平和を維持できる。必要な事だ」

 

 杳は男性の手を力任せに払いのけ、涙に滲んだ声で叫んだ。

 

「必要な犠牲なんてありません!皆を救えなきゃ――」

「我々は神ではない。舞台上の人間しか救う事はできない」

 

 絶望に塗れた杳の目を射竦めると、男性は酷薄な声を放った。それは、舞台に乗り切れなかった者は排除するという無情な宣告と同じだった。彼はテーブルに転がったカードを取り、杳の手に握らせる。

 

「君は何も考えず、ただ命令に従っていればいい。……()()を絞首台から救いたいのなら」

 

 

 

 

 かしこまった場で部屋を出る時、部屋にいる人に挨拶をして出るのは一般的なマナーだ。ヒーロー業は職業柄、人と接する事が多い為、そういった一般的な作法は授業のカリキュラムにしっかりと含まれている。ましてや相手は公安委員会の上役だ。杳は挨拶をして扉を出るべきだった。だが、()()()()()()。杳の幼いプライドがそれを許さなかった。グツグツとマグマのように煮えたぎる怒りの感情で、握った拳が震えている。杳は黙りこくったまま、扉を押して外に出た。

 

 ――尊敬するヒーロー達を束ねているのがこんな冷血な人物だったとは。腸が煮えくり返るようだった。キラキラと輝く遊園地の裏側を見てしまったような心地だ。あの人は自分だけでなく、ヒーローも転弧達も侮辱した。もう一秒たりともこんなところにいたくなかった。いればいるほど、自分が穢れていくように感じた。そのまま廊下を猛スピードで突き進んでいると、背後から扉の開く音がした。男性が部屋を出て、エレベーターの方へ向かっている。恰幅の良いその背中に、杳は激しい憎悪の視線を突き刺した。

 

 自分が兄を選び、敵連合を見捨てる事を選択した事実と向き合うより、男性に憎悪を向ける方がずっとずっと楽だ。杳は激情のままに、目の下に人差し指を載せ、舌を思いっきり突き出そうとした。その時――

 

「こらこら」

 

 ――背後から両手が降りて来て、杳の顔を塞いだ。疲れ切った、聴き慣れない男性の声だった。絆創膏だらけの五指の隙間から、不穏な気配を察したのか、顧問室から出てきた男性が怪訝そうな顔でこちらを振り返る様子が垣間見える。

 

「なんだ。目良」

「いえ。お疲れ様でございます」

 

 今、自分の手を持っている男性は目良というらしい。彼はそのまま杳の左手を下ろし、右手を額の前にもってきて、敬礼させた。涙混じりの杳と男性の視線が混じり合う。彼は面白くなさそうに鼻を鳴らし、廊下の奥を歩き去っていった。その姿が完全に見えなくなってから、目良はふうと息を吐いて杳の体を解放した。杳は両目を乱暴に擦りながら、振り返る。

 目良は白みがかった髪を無造作に伸ばした、痩躯の男性だった。やつれた顔をしていて、目の下には杳に匹敵するくらいの濃い隈がある。

 

「一瞬、目ェ冴えました。若いんでまぁ難しいとは思いますが……感情を外に出さないよう努めるのは大事ですよ」

「……」

 

 杳の中の理性がお礼を言うべきだと叫ぶ。もし自分の感情任せの行動を彼が見咎めていたら、きっと無事では済まなかっただろう。だが、唇は噛み締められたまま、開く事はなかった。たとえ間接的にでもあんな人間に謝るなんて、媚びを売るなんて真っ平御免だ。頑なに黙り込んでいる杳を、目良は静かに見守っていた。しばらくして彼はスマートフォンを取り出してどこかへ電話をかけ、通話終了ボタンを押した後、杳を見る。

 

「三十分後、迎えの車が来るそうです。待ち合わせ場所まで行きましょうか」

 

 

 

 

 二人は建物を出た。建物の前は広々としたロータリーが広がっており、その中心には白磁でできた噴水、観葉樹が等間隔に植えられている。その下にはベンチがあった。その一つに腰を下ろして車を待っていると、目良がのっそりと歩いて来て、隣に座った。そしてスーツのポケットからココアの缶を取り出して、杳に渡す。缶はなんとか両手で持てるほど温かい。杳は小さくお礼を言ってプルリングを引き上げた。優しい甘い香りが鼻腔に広がる。噴水の音と木々のせせらぎが、少しずつ杳の怒りを鎮めていく。

 

「あの人のこと、勘弁してやってもらえると助かります」

 

 目良は栄養ドリンクの小瓶を一気飲みし、キャップを閉めた。間近で見ると彼のスーツの裾は擦り切れ、革靴は相当使い込んだのか、褪せた飴色に輝いている。

 

「悪い人じゃないんです。昔……その、色々ありまして。当たりが強くなってるだけですから」

「ゴマすりですか」

「ゴマすり」

 

 目良は杳の言葉を鸚鵡返しして、スーツのポケットから二本目の小瓶を取り出した。あの男性は公安委員会前会長の側近であり、前会長と彼は――無情な方法であったかもしれないが――彼らなりに必死に平和を維持しようと行動していた。だが、その事を杳が知る由もないし、目良も語るつもりはなかった。

 杳は空き缶を強く握り締めた。収まったはずの炎が、再び燃え上がる。

 

「そんな風には見えませんでした。自分も、ヒーローも、物みたいに」

 

 杳は過去の記憶をなぞり、山嵐のように攻撃的に膨れ上がった想いを言語化する。やがてゆっくりと心の底から何かが浮き上がってきた。彼との邂逅で生まれた、()()()()()()()だ。

 

「お兄ちゃんのことで、脅して……それで……」

 

 ――そして私は、夢よりも、友情よりも、兄の命を優先したんだ。杳はようやく真実に辿り着き、愕然とした。正義に情はないのだということを、ヒーローはシステムの一部に過ぎないということを、夢に終わりがあるのだということを、結局私は自分自身で証明してしまったんだ。

 

 沈んだ表情で噴水を眺める少女の様子を、目良は静かに見守っていた。平和を維持するというのがどれほど罪深い所業かという事を彼は知っている。だが、今は違う。現会長は現状を常に憂い、日々試行錯誤を重ねていた。亀の歩みのような速さだが、少しずつ社会は善くなっている。今はどうにもならないとしても、いつかは必ず。この子と彼女の兄が障壁なしで会えるような――危険因子が殺されずに済むような――そんな未来が実現するはずなのだ。その為に、彼は寝る間も惜しんで業務に励んでいる。

 

「酷な事を言いますがもう一度、信じてくれませんか。少しずつ、社会は善くなっている。彼らを殺さずに済む方法が見つかるかもしれない」

 

 杳は小さくしゃくり上げながら、頷いた。だが、心の内側でこうも思った。――社会(あなたたち)は待てる。だけど、(わたし)は待てないのだと。

 

 

 

 

 彼はエレベーターのボタンを押し、機体が上がって来るのを待っていた。やがて上品な電子音を奏でて、扉が開く。その中には、精悍な雰囲気を放つ女性が立っていた。公安委員会を取りまとめる現会長だ。急いでいたのか、きっちりとまとめられた髪は少し乱れ、表情にも余裕がない。彼女は驚いたように目を丸くし、それから唇を引き結んだ。相容れぬ想いを宿した二つの双眸が、真っ向からぶつかり合う。

 

「何故です。私が話をすると――」

「君のやり方は()()()()()

 

 彼はわずらわしそうに片手を振った。夜更け前の湖のように静謐な女性の瞳が青白く光り、剣呑な雰囲気を帯びる。

 

「同じ過ちを繰り返すおつもりですか」

「多くの犠牲なくば、平和は成り立たない」

 

 二人の想いはどこまでも平行線で、水と油のように交わる事はなかった。彼は彼女を押し退けるようにして、エレベーターに乗り込む。

 

「その対象に情を向けるな。……トロイの調整(メンテナンス)を」

 

 その言葉を聴いた途端、現会長の肩がわずかに震えた。エレベーターの扉を背にして、彼女は何かを堪えるように瞼を固く閉じ、拳を握り締める。




会長ズの名前を書き足そうか迷い中…。


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No.88 落日

※ご注意:作中に残酷な表現、R-15的な表現(強め)が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 その後、杳は迎えの車に乗り、雄英に辿り着いた。立派な意匠の施された寮のドアを開け、中に入る。靴を脱いで下駄箱に入れていると、談話室から明るい笑い声が聴こえた。クラスメイト達が一堂に会し、わいわいと賑やかな様子で話し合っている。文化祭の出し物を決めているのだろう。

 

 やがて戸口に立ち竦む杳の気配に気づいたのか、人使がこちらを振り返り仏頂面で手招きした。八百万が華やぐように笑い、飯田は俊敏な動作で片手を挙げる。

 

「おかえりなさい、杳さん!」

「君の意見も聞きたいんだ。こちらに来てくれるかい?」

 

 学友達から放たれる()が、疲れ切って摩耗した杳の心を癒していく。悪意や無関心などの不純物質は一切含まれていない、強く優しいリズム。蛾が光に吸い寄せられるように、杳は部屋の敷居を跨ごうとした。

 

 ――その時、スカートの内ポケットで何かが()()()()()()内腿を引っ掻いた。公安からもらった免許証が、足の動きに捩れて引っかかったのだ。

 

 突然、杳は衝動的に免許証を引き抜いて、地面に叩きつけたくなった。こんなものを持っている自分は、ここに相応しくないような気がした。だが、腹立ちまぎれにカードを握り込んだ瞬間、ガラス越しに優しく笑う兄の顔が思い浮かぶ。

 

(家族を絞首台から救いたいのなら)

「……うん」

 

 杳は平静を装うと、いつもの定位置である人使ではなく()()の隣に腰かけた。何人かのクラスメイト達は不思議そうに首を傾げる。峰田と一緒になって”メイド喫茶”案を死守していた上鳴は、限界まで昂りきったアドレナリンが導くまま、杳に突っ込んだ。

 

「おおっとついに親離れか?!」

「ほっといてやれ」

「思春期ー!!」

 

 人使パパの助け船に、上鳴は大仰な仕草で天井を仰ぎ、額に手を当てる。その様子を横目に、人使はフワフワと立ち上がった髪をかいた。先程の言葉は本心ではない。人々の注目から彼女を遠ざける為に発したものだった。

 

 ――”杳を自分に慣れさせる”という彼の作戦は現在に至るまでつつがなく進行している。一頻(ひとしき)りべったりして満足した杳は、時々こんな風に距離を置く様子を見せるようになっていた。

 だが、()()()違うだろう。今日の放課後、杳が公安委員会へ赴いた事を人使は知っている。自分の隣に座らず、表情にわずかな陰りがある。何か良からぬ事があったのは明白だった。

 

 いかに保護者と言えども、会議の途中で強引に聞くわけにもいくまい。後で話を聞こう。人使は思考をまとめると、会議の方に意識を戻した。

 

「さて、思春期とは周囲の影響を受けながら一人の大人として自分を確立する時期です。そこで我らの――」

「もーいいってメイド喫茶はー」

 

 峰田は思春期というワードから新たな着想を得たのか、再びクラスメイト達にメイド喫茶のプレゼンテーションを始める。欲望の赴くままに話しては支持を得られない事に気付いたのか、彼の話術は巧みになった。饒舌な語り口と豊富な知識で、聞く者を飽きさせない。

 だが、一聴するとまともな内容に思えるが、如何せんその奥底に含まれたエロス成分が隠れきれておらず、皆の心を掴むのは変わらず難しそうだった。

 

 ――梅雨に聞くところによると、文化祭の出し物会議は今日の五時から始まり、現在の九時まで延長されているらしい。選択肢は増える一方だが、いまだ結論は出ていないそうだ。

 

「やっぱビックリハウスだよー」

「クレープだって」

「そこっ!静かに!」

 

 杳は白熱する議論をぼうっと眺めていた。周囲は喧々諤々(けんけんがくがく)としているが、今の彼女にとってはどんなリラクゼーション法よりも心を落ち着かせるものに感じられる。

 

 だが、それに身を委ねきるのは(はばか)られた。――彼らと同じ道を往く事は、もうできない。やはり自分は()()でしかなかったのだ。今まで彼らと接する度、何となく感じていた劣等感や疎外感に説明書が追記された気分だった。

 

 公安であった出来事を、この場で洗いざらいぶちまけてしまおうか。自棄になって杳は笑い、それから首を横に振った。余計な事を言って皆の心を傷つけたくない。

 

 ふと、杳の膝に柔らかいものが掛けられた。目線を落とすと、可愛い蓮柄のブランケットが膝を覆っている。梅雨がにっこりと微笑んだ。

 

「最近寒いでしょう?私、寒気は苦手だから必需品なの。……暖かいかしら」

 

 まるで温かい紅茶に落とされた角砂糖みたいに、鬱屈した感情がほろほろと溶けていく。杳はわけもなく泣きそうになった。しかし、梅雨の肩に頭を寄せようとした瞬間、ブランケットに押されたカードが腿に触れ、杳の意識を引き締める。杳は手の甲を思いきり抓って痛みで涙を吹き飛ばし、気丈に微笑んで頷いた。

 

 

 

 

 夜九時。寮の自室に戻り、杳はドアの内鍵を閉めた。スマートフォンを取り出し、連絡先アプリをタップする。冷たく痺れた人差し指が、()()の箇所で止まった。

 

 ――もう番号が繋がらないのは承知している。だが、他に頼れる者を知らなかった。杳は喉を震わせて大きく深呼吸すると番号を押し、耳に押し当てる。数秒の沈黙の後、聴こえてきたのは、やはり無機質な機械音声だった。

 

『おかけになった番号は現在使われておりません』

 

 杳は溜息を吐き、スマートフォンを耳から離した。当然の結果だ。”ほとぼりが冷めた今、番号が復活しているかもしれない”という都合の良い希望は潰えた。杳の目的はただ一つ、”敵連合に会って話をする”事。近い未来、自分は友達の皮をかぶった(ヴィラン)になる。その前に、どうにかして(くだ)ってほしかった。それが、友人として最後にできる行動だから。

 

 杳はこの行動がどれほど危険で愚かしく、また今まで支えてきてくれた人々を傷つけるものであるかを()()()()()。だが、それでも、そうせざるを得なかった。

 

(杳――dddddうか、彼?を――)

 

 タルタロスで黒霧が放った言葉が、壊れたレコードのように何度も耳元でリフレインする。――救けるって約束した。杳は熱に浮かされたように虚ろな表情で、スマートフォンを握り締めた。個より全を優先するのが平和の原則、その事は重々承知している。彼らはあまりにも罪を犯し、平和を脅かし過ぎた。だが、理解はできても、納得ができない。それが杳の有する弱さであり、矛盾であり、醜さだった。灰色の瞳から生温い涙が滴り落ち、スマートフォンの画面を汚す。

 

 次の瞬間、暗くなっていた画面がポッと光り輝き、震え始めた。杳は涙を拭いて画面を注視し、息を飲んだ。義爛からだ。番号が復活している。杳は慌てて通話ボタンを押し、耳に押し当てた。

 

『やあ、お嬢さん。元気かな?』

 

 穏やかな笑みを含んだ低い声が、スピーカー越しに杳の鼓膜に沁み渡る。うねるような安心感と強烈な罪悪感が心にどっと雪崩れ込み、複雑なマーブル模様を描いた。義爛はお気に入りのドラマが始まった時のような、妙に弾んだ声で言葉を紡ぐ。

 

『色々と細工してあんのさ。こっちも商売でね。……で、今度は何をしでかすつもりなんだ?』

 

 

 

 

 同時刻。人使はホットミルクの入ったカップを二つ持ち、杳の自室前までやって来ていた。――きっと泣いているだろう。そう思っていると、ドアの向こう側からボソボソと話し声がした。思わず耳を澄ませたが、防音機能がしっかりしている為か、内容まで聞き取る事はできない。

 

 杳は泣いていなかった。はっきりとした穏やかな声で、誰かと話している。おまけに何とも珍しい事に、ドアには鍵がかかっていた。まるで心に穴が空いたように寂寞とした感情が、人使の心に染み渡った。――”親離れ”。上鳴が冗談交じりに発した言葉が、耳の内側に跳ね返ってくる。

 

 刹那、今まで杳が解決してきた事件が、走馬灯のように彼の頭をよぎった。いつもあいつはあいつなりの方法で、危機を乗り越えてきた。今回もそうなのかもしれない。()()として、自分のするべき事はこの扉をこじ開ける事じゃない。彼女がこちらに来るまで待つ事だ。杳という人間(ヒーロー)を信頼しているからこそ、そう判断した人使は踵を返して部屋に戻った。

 

 

 

 

 翌朝、土曜日。杳は外出届を提出し、学校を出た。雄英は国内有数の進学校であり、加えてヒーロー科である杳達は、たとえ週末でも何かと忙しい。文化祭の出し物の話し合いは談話室にて夜の七時から開始予定となっている。それまでには帰らなければならない。

 

 ――これからの行動を思うと、愛用しているマイクグッズを身に着ける事は憚られた。なるべく目立たないようくすんだ色合いの服装を着てキャップを目深に被り、地下鉄に乗って指定の駅まで向かう。トンネルに入ると電車の照明がチカチカと危うげに瞬き、その度に自分の姿がガラス面に映り込んだ。早まる心臓音と罪悪感に耐えられなくなり、杳は思わず顔を俯けた。

 

 義爛が指定した場所は、駅から数分ほど歩いた先にある寂れた商店街、その奥にある裏路地の一画だった。周囲に雑居ビルがひしめいているので辺りは薄暗く、道端にはゴミが散らかっている。警戒態勢を取りながら歩いていると、癖のある煙草の匂いが杳の鼻腔を掠めた。どこか嗅ぎ覚えのある懐かしい匂い、トゥワイスと同じ匂いだ。

 

 やがて杳の視界の端に、誰かが映り込んだ。特徴的なマフラーを巻いた壮年の男性がビルの壁に寄りかかり、煙草を燻らせながら興味深そうにこちらを見つめている。サングラスの奥の目がすうっと細まった。

 

「白雲杳ちゃん、かな?」

 

 紫煙と共に吐き出されたのは、電話で聞いたのと同じ(トーン)だった。彼が義爛で間違いないだろう。杳が素直に頷くと、彼は芝居がかった素振りでお辞儀してみせる。

 

「いつもご贔屓にどうも。やっと会えてうれしいよ」

「こちらこそ、治崎さんの節はお世話になりました」

 

 杳はぎこちない動作で頭を下げた。義爛の支援がなければ壊理を救う事はできなかった。彼は影の立役者と言える存在かもしれない。杳はスマートフォンをポケットから出して、義爛に手渡した。

 

 その瞬間、杳の目の前で、義爛の飄々とした顔つきが一転して狡猾な武器商人の顔に塗り替わる。否、それこそが彼の本性なのだろう。スマートフォンを小さな電子端末と接続し、魔法のように鮮やかな指捌きで、杳のネット銀行口座から請求金額を――サイバーネット警察に気取られないよう――特殊なプログラムを介して自身の口座へ送金する。

 

 新たな交渉と返金を口にした時、義爛が対面を希望したのはこの作業の為だったのだろう。杳は納得し、小さく頭をかいた。やがて彼は接続を解除し、元の穏やかな顔つきに戻ってスマートフォンを手渡した。

 

「はい、今回の分を含めて確かに。にしてもこの年でこれだけの貯金があるなんて、やるねぇ。感心感心」

「報奨金とか危険手当とか、色々ありまして」

 

 警察から授与された(くだん)の報奨金は――内訳にある”危険手当”という名の口止め料を含めると――()()()()どころか、かなりの額になっていた。当然両親には言えるはずもないので、杳は自分で新たに口座を開設し、そこに入金している。

 

 スマートフォンを覗き込むと、その口座はほとんど空になっていた。ギリギリ足りて良かった。安心して銀行アプリを閉じると、義爛は小さな巾着袋を彼女に手渡した。杳は袋の紐を解き、中を覗き込んだ。――どうかこれを使う時が来ませんように。心の中でそう祈り、袋をポケットに仕舞い込む。

 

「さて。じゃあ、本題に入ろうか」

 

 義爛は指の関節を小気味良く鳴らす。――敵連合は今を時めくネームドヴィランではあるが、表社会だけでなく裏社会にも盛大に恨みを買い過ぎ、所謂(いわゆる)()()()()()に陥っていた。そんな彼らの場所と時間を守るのは容易ではない。だが、歴戦の裏商人である義爛はやり切った。

 

 彼に促されてスマートフォンを見てみると、見覚えのないアカウントから一通のREINメッセージが届いている。タップすると一枚の地図が浮かび上がった。

 

「そこが今のアジトだ。あんたが行く事はボスが承知してる。俺が守れるのは三時間だけ。それ以上は自己責任だ」

「ありがとう、ございます」

 

 賽は投げられた。罪悪感に押し潰されそうな心を奮い立たせ、杳は前を向く。ここで挫けてしまったら、一生後悔する気がした。地図を頼りに、杳は引き返す事のできない悪路を進み始める。

 

 小さな少女の背中を、義爛は静かに見守っていた。一説によると、人間の脳は欲望を満たそうとするアクセル・その欲望を抑制するブレーキ、二つの働きによってコントロールされているそうだ。義爛の見立てでは、(ヴィラン)は皆、そのブレーキが壊れているように思えた。

 

 ――少女が抱く友情と彼らが抱く友情は言葉が同じでも()()()()。果たして、彼らに友人をお返しするブレーキが残っているかどうか。あまりの警戒心のなさについ老婆心が生じ、義爛は呆れ気味に声をかける。

 

「連中が大人しく返してくれると思ってんのか?」

 

 杳は振り返ると、不思議そうに義爛を見た。言葉の意図が理解できなかったからだ。きっと心配してくれているのだろう。杳は義爛を安心させるように微笑んでみせた。灰色の瞳は生まれたての赤子のような輝きに満ち、仄暗い闇の中で尚、ぼんやりとした輝きを放っている。

 

「信じてるので、大丈夫です。ありがとうございました」

 

 再び小さく頭を下げ、少女は迷いのない足取りで悪路を進んでいく。その姿が完全に闇に溶け込んで見えなくなってから、義爛は盛大に吹き出した。目尻に浮かんだ涙を拭うと、二本目の煙草に火を点ける。

 

「こちらこそ。……あんたとはまた出会える気がするよ」

 

 

 

 

 路地の奥深くへ入り込む度、辺りはより一層の暗闇に包まれた。上を見上げると、建築基準法を無視して建てられただろう増改築部分やそれに付随した配線が複雑に絡み合い、空を覆い隠している。人々の目を欺く為にわざとそういう造りをしているのかもしれないと杳は思った。

 

 我が物顔で道を占領するゴミの群れを避けながら杳は進み、やがて目的地に到着した。敵連合のアジトは廃墟と化した雑居ビルの真下、つまり地下施設(UGF)だった。階段を降りた先には錆び付いたドアがある。表面は汚れて、錆だらけで、おまけに誰かが暴れたのか至る所がへこんでいた。

 

 ――この扉の先に転弧達がいる。切なく震えるような感情が、杳の心臓を押し包んだ。インターホンを探すが、当然のようにない。仕方なくノックする為に手を振り上げた、その時――まるで招き入れるようにドアが内側から開き、ふわりとスパイスの効いた花の香りがした。この匂いを、杳は以前に嗅いだ事がある。マグネの香りだ。マグネはドアの影からひょいと顔を出すと、サングラス越しに優しい眼差しで杳を見下ろした。

 

「いらっしゃい」

 

 マグネは数センチほど伸びた髪をお洒落なバレッタで一つにまとめていた。衣服が少し破けてボロボロになっているが、彼女の放つたおやかな雰囲気は何も変わらない。杳がいつまでも戸口に突っ立ったまま、呆けたように自分を見つめているので、マグネは可笑しそうに笑った。

 

「なーに見蕩れてんのよ。さ、入んなさい」

「うん」

 

 施設内はとても殺風景だった。二十畳ほどのスペースに古びたソファとテーブルがあるきりで、生活感はまるでない。部屋はこの大部屋の他にあと二つしかないらしいが、仲間達が一堂に会するという状況が皆無の為、特に不便に感じた事はないという。マグネは皮肉げに肩を竦めると、穴だらけのソファに身を沈めた。

 

「で、あんたは何しに来たの?また危ないお仕事の勧誘?それとも……」

 

 マグネは意味ありげに言葉を切り、杳が背負っている登山用リュックに目配せした。大きなリュックサックはぎっしりと何かが詰まっており、ベルトは今にも張り裂けそうに悲鳴を上げている。もし着替えなどの生活必需品が入っているなら、優に数ヶ月は暮らしていけそうなほどの量だった。

 ――”仲間になるつもり?”マグネがからかい半分、本気半分で言葉の続きを口にしようとした時、杳は真剣な表情でリュックを下ろし、チャックを開けて中身を取り出した。

 

 杳は大きな寸胴鍋を、床の上にどんと置く。蓋を開けると、中にはジップロックに包まれた野菜・冷凍肉が入っていた。寸胴鍋の中に肉と油を入れ、小型発電機に接続した電気コンロに火を付け、テキパキと料理を進めていく杳を呆気に取られて眺めつつ、マグネは呟いた。

 

「……何、してんの?」

「カレーライス創ろうと思って」

 

 開いた口が塞がらないとは、この事だった。もしや白昼夢を見ているのかと頬を(つね)るが、しっかりと痛みがある。現実だった。曲がりなりにも敵のアジトに単身乗り込んで来て、する事が()()とは。そうこうしている内に、肉の焼ける良い音と匂いがマグネの鼻をくすぐった。

 

 ――義爛の腕は一級品だ。三時間の平和は確約されている。さらにそれに、友人の創るあたたかいご飯が追加されるのだ。常に敵の奇襲に晒されて心身共に疲弊していたマグネにとって、それらは非常にありがたいものだった。ほんの少し安らいだ空気が周囲に漂い始める。マグネの口は知らずの内に優しい弧を描いた。

 

「相変わらず奇天烈ねぇ」

 

 杳は無洗米を七合分炊飯器に入れ、ペットボトルの水を注いでボタンを押した。お玉で鍋をかき混ぜ()()を取っている杳の傍にしゃがみ込むと、マグネはそっと声を掛けた。

 

「手伝う?」

「ううん。大丈夫。……あ、マグ姉」

 

 杳はポケットからスマートフォンを取り出し、REINアプリを起動した。夢路とのトーク画面を開き、フォトアルバムを出す。そこには、新天地で懸命に日常を紡いでいる夢路と壊理の写真がぎっしりと詰まっていた。

 

「二人共、元気だよ」

 

 マグネは写真を覗き込んだ。ケチャップで汚れた少女の口を、幼馴染が苦笑しながら拭き取っている。どの写真を見ても、弱々しく臆病だった昔の面影はなく、皆たくましい母親の姿に更新(アップデート)されていた。

 

 マグネの中に残っていたわずかな()()()が、優しく解けて消えていく。――夢。あんたも居場所を見つけられたのね。マグネは心の中でそう呟いて、冷たいガラス面を愛おしげにそっとなぞった。

 

 そうこうするうちにドアが騒々しく開け放たれ、トガとトゥワイスが入って来た。二人は杳を見るなり、顔をキラキラと輝かせる。

 

「杳ちゃんっ!」

「元気だったかあああっ!死にそうだな!」

 

 トガは猫のように身を屈めてしなやかに跳躍し、杳の腕の中に跳び込んだ。トゥワイスもやって来て、大型犬にするように杳の頭をわしわしとかき混ぜる。

 

 ふと鋭い痛みを感じて杳が視線を向けると、トガが尖った歯を突き立て、一生懸命血をすすっていた。彼女なりの愛情表現だ。杳が金色の頭を撫でると、トガはパッと顔を上げて華やぐような笑みを浮かべる。トゥワイスはそわそわと揉み手をして、ソファを指差したり、両手に持ったビニール袋を掲げてみせたりと大忙しだ。

 

「ホラ、お前の好きな苺いっぱい()()()きたぞ。練乳かけるか?お菓子もあるしジュースもある。酒もヤクもあるぞ!」

 

 戦利品をテーブル上に所狭しと並べ、トゥワイスは屈託のない笑顔を浮かべている。一目で高級品だと分かる、大粒で真っ赤な苺だった。以前に転弧と会った時、彼はやつれ、飢えていた。今も状況はさほど変わらないだろう。高級苺を買う資金などないはずだ。――とってきてやるという言葉は”盗んできた”という意味に他ならない。

 

 トゥワイスはビニールを破き、苺を洗いもせず大量の練乳をかけた。杳は意を決してその苺を一粒取り、口に運ぶ。指に絡み付いた練乳を舐め取る。甘く苦しい、吐き気を催すような罪の味がした。

 

「おいしいよ。ありがとう」

「そっかそっか。もっと食えよ。もうねェよ!」

 

 トゥワイスはマスク越しにも分かる程に相好を崩し、乱暴に頭をかいた。杳は鍋の具合を時折確認しつつ、お互いの近況報告をした。やはり予想通り、黒霧がいなくなってから彼らの生活水準は大幅にグレードダウンしたそうだ。

 杳が料理を作っている事を知るとトガとトゥワイスは大喜びし、物珍しげに覗き込んだり、鼻をクンクンと動かしたりし始めた。ずっと非日常の世界に身を置き、落ち着いて食事をした事がない彼らにとって、杳の行動はとても新鮮なものだった。

 

 ――料理には()()()()()がある。単なる家事やレクリエーションとしてだけでなく、”非薬物療法”の一つとして取り入れている施設も多く存在する。作る側だけでなく、食べる側や見ている側にも癒しの効果は付与される。遥か昔から脈々と続いて来た、生命活動に根差したセラピーとされているが、杳はそんな心理作戦を考慮して料理を持参したのではなかった。

 

 単純に転弧が飢えていたのを覚えていたので――時間制限付きではあるが――安全な場所であたたかいご飯をお腹いっぱい食べてほしかったのだ。いつも自分が家や寮でしているのと同じように。杳は料理が得意ではないが、カレーくらいなら何とか作れる。後は事前に作っておいたポテトサラダを付け合わせとして出せば完璧だ。

 

 ルーを割り入れてかき混ぜながら、杳は周囲を見回した。他の仲間はどこにいるのだろう。いくら平和主義の杳と言えども、敵連合の全員が一堂に会し食卓を囲んでくれる事は想定していなかった。荼毘はそもそも自分に逢いたくないだろうし、コンプレスはほとんど面識がない為、自分に興味はないだろう。――そうだ、転弧とスピナーは。やがて彼女の意図を察知したのか、マグネがポテチを食べながら言う。

 

「他の皆は知らないわよ。あんたの事は言ってあるから、たぶんもうすぐ帰ってくるはずなんだけど」

「スピナーは?」

「奥の部屋にいるわ。だけど……」

 

 マグネはそこで言葉をふつりと途切らせた。どうしたんだろう。杳は妙な胸騒ぎがしてその場を立ち上がり、部屋の外に出る。

 

 

 

 

 杳は廊下を歩き、奥の部屋に向かった。薄く開いたドアの隙間から青白い電子光が漏れている。こじんまりとしたスペースにはベッド代わりのローソファが一つとかび臭いクッションがいくつか、それから年季の入った電子端末とゲーム機があった。四角く切り取られた世界の中は戦争中で、大勢の人々が個性や銃火器を放って戦っている。

 

 (ひび)の入ったディスプレイの前にスピナーが胡坐をかいて、コントローラーを無心で動かしている。杳はその隣にそっと腰を下ろした。バンダナの下に光る目が音もなく動いて、杳を見る。最後に会った時よりスピナーはやつれ、そして疲れているように思えた。

 

「よぉ。マジで来たんだな」

「うん」

 

 スピナーのプレイは素人の杳でも感心するほどに上手だった。巧みな銃捌きでダメージを受ける事なく、大勢の敵を倒している。杳は思わず舌を巻き、熱を帯びた溜息を漏らした。

 

「上手だね」

 

 しばらくするとスピナーはゲームを一時停止し、ディスプレイの下からコントローラーをもう一つ取り出して杳の手に押し付けた。

 

「やってみるか?」

 

 ゲームに限らず何にでも言える事かもしれないが、人がやっているのを見ると簡単そうに見えるけれど、実際にやってみると()()()()だった――というケースが多い。まず歩いたり走ったり、視点を合わせるという基本動作で杳はつまづいた。銃を扱うなど夢のまた夢だ。結局、ナイフを無駄に振り回し無駄にジャンプかガードをし続ける杳――という名のお荷物――を守りながら、スピナーはストーリーを進める羽目になった。

 

 数十分後、ついにスピナー達は敵国の城に攻め入り、敵国の王を捕える事に成功する。次の瞬間、杳の眼前に二つの選択肢が表示された。一つは王を殺す、そしてもう一つは逃がすというもの。王は床にへたり込み、不安そうに自分を見ている。いつの間にかゲームの世界観に没入していた杳は、迷わず”逃がす”を選択しようとした。しかし――

 

「ダメだ」

「あっ」

 

 ――スピナーの鱗だらけの指先が伸びてきて、杳のコントローラーを上から操作した。選択肢は無理矢理”殺す”に変更され、杳の目の前でボスは無惨に撃ち殺された。何も殺さなくて良かったじゃないか。杳は憤懣やる方ないという表情でスピナーを睨んだ。

 

「なんで?」

「初見殺しだよ。あいつを逃がすとこっちがやられる。友好国と同盟組んで全滅させられンだ」

 

 その声はゾッとするほど冷たくて、虚ろだった。以前までのスピナーとはまるで雰囲気が違う。杳は大きく息を飲み、彼の顔を伺い見た。よく見ると、青白い光に照らされた彼の目には濃い隈があり、鱗には艶がなかった。

 

「……まぁ、()()()()()って奴だ」

 

 まるで自分自身に言い聞かせているように、スピナーはぼそりと呟いた。バンダナを乱暴に引き下げて目元を隠す寸前、杳は見た。彼の瞳の奥底に()()()()()()があるのを。今ならまだ間に合う。杳は深呼吸を一つしてコントローラーを置き、スピナーに正面から向き合った。

 

「スピナー。もうやめよう」

 

 コントローラーを動かす彼の手が、ピタリと止まる。動きを止めた二人のキャラクターに敵はわらわらと殺到し、やがてゲームオーバーのロゴが赤く点滅して周囲を照らし出した。鬼火のように危うげな光が、二人の姿をぼんやりと映しては消えていく。

 

「説得しに来たんだ。一緒に来てほしい」

「そりゃヒーローとしてか?」

 

 スピナーはコントローラーを無造作に放り出すと、冷たくせせら笑った。はっきりと示された拒絶の態度にも怯まず、杳は膝の上に置いた手をギュッと握り締め、スピナーににじり寄って言葉を紡ぐ。

 

「友達としてだよ。もう……そうじゃいられなくなるから」

 

 

 

 

 次の瞬間、杳は首根っこを掴まれて乱暴に引き倒された。逆さまになったトガの顔が見える。猫みたいに吊り上がった金色の瞳は、悲哀と憤怒の炎でギラギラと燃え盛っていた。

 

「どういうこと?」

 

 ヒヤリと冷たいものが押し当てられ、杳の首筋に()()()()が走った。トガが馬乗りになり、ナイフを首に押し当てているのだ。首は重要な血管や器官が密集している人体の急所の一つだ。そのままトガが少しでも刃を押し込めば、杳は死ぬ。だが、杳は痛苦や恐怖よりも、すぐ眼前にあるトガの表情に魅入られた。まるで打ち捨てられた子犬のように――今にも泣き出しそうな――頼りなく悲しい表情をしている。

 

「私の事、嫌いになったの?」

 

 杳の心の奥底で、とびきり熱い感情が弾けた。無理矢理体を起こし、トガを抱き締める。――このまま動けば、殺してしまう。トガは咄嗟にナイフを捨てた。からんとナイフの落ちる音が周囲に響き渡る。薄い首の皮膚から溢れ出す杳の血が、固く抱き締め合う二人の体を濡らしていった。

 

「嫌いになるわけないじゃん……ッ」

 

 ”罪人は、罰を受けなければならない”、その理論(セオリー)に例外はない。皆は多くを殺し、傷つけた。彼らに想いを馳せる度、被害者達の()()()()が杳の心身を呪い、痛めつける。だが、それでも、杳は彼らが好きだった。最初は皆、同じ形だったはず。何かがきっかけで歪んで、壊れて、もうどうすることもできなくなるまで変わってしまった。

 

 でも、それで全部が終わりになるわけじゃない。どんな人間も良い心と悪い心、両面を有しているように――彼らは命を賭してまで、自分を救けてくれた。

 

「ごめん。私、皆に甘えてた」

 

 その事実を知っているのは、救けられるのは自分だけだったはずなのに。自分は甘えていた。確約もない未来と夢に縋り、彼らを見捨ててしまっていた。なのに、彼らは再び受け入れてくれた。こんなに不甲斐なく、卑怯な自分を。――(ヴィラン)は私の方だ。杳は血が滲む程に強く唇を噛み締める。

 

「大切なんだ。だから、死んでほしくない。……()()()()()

 

 真摯な声で言葉を紡ぐ友人を、トガはじっと見つめていた。――麻薬には、脳の受容体に作用する化学合成物が含まれている。麻薬に含まれた成分が大量にドーパミンを脳内に放出させ、興奮や多幸感・快感をもたらすのだ。アルコールやカフェイン、砂糖も同じ効果を有しているが、麻薬はその数倍の効果を与えるとされている。その強烈な快感が忘れられず、人は薬物に依存する。

 

 ()()()()()だ。ずっとひた隠しにしていた欲望を発散するという快感を覚えたら、なかなか現実には戻れない。戸惑うトガの心に、ある記憶が蘇った。殺そうとする度に杳の幻が現れ、葛藤していた頃の思い出だ。

 

 ――杳ちゃんは好きだと、トガは思った。殺す事も、血を飲む事も、彼女と出会ってから以前より好きではなくなった。

 だけど、それでも、杳と一緒に元の世界に戻るより、このまま好き勝手な事をして過ごす方が()()()と思った。

 

 私はずっと水中で溺れながら生きてきたんだよ、杳ちゃん。血とミルクとお日様の匂いがする友人の体を強く抱き締め、トガは声に出さずに呟いた。好きな人の血を吸った時だけ、息ができたの。やっと息ができたのに、誰かが私をまた海の中に引き摺り込む。呼吸ができなくなって苦しむ私の足を、パパとママが掴んで、もっと深くへ引き摺り込もうとするの。苦しくて、怖くて、辛かったんだよ。

 

 辛い過去の記憶が、心の水底からフラッシュバックのように這い上り、トガは思わずブルリと身震いした。あの異常(ふつう)の世界に押し込められて生き延びるより、たとえ明日死ぬとしてもトガは自由に生きたかった。そしてそれは、他の皆も同じだった。

 

「もう我慢するのは()なの」

 

 するりと腕を解き、絶望に塗れた友人の顔に見蕩れながら、トガは歌うように囁いた。――トガは聡明な人間だ。何故、杳が義爛の手を借りる危険を冒してまで、自分達を説得しに来たのか。その理由を、彼女は今、手に持っている情報のピースだけで推測する事ができた。そうせざるを得ない程に()()()()()()()()からだと。

 

 トガの心が罪悪感と惜別の情にギシギシと軋んで、鈍い痛みを放つ。良心の呵責に耐え切れなくなったトガは、やがてその矛先を杳へ向けた。――杳ちゃんはどんなに残酷な事を言っているか、分かっていないんだ。だって杳ちゃんは水中で息ができるから。羨望とも嫉妬とも言えない複雑な感情が、愛憎入り混じって金色の瞳に宿る。

 結局、杳ちゃんもパパやママと同じ人魚だったんだね。

 

「杳ちゃんに私の気持ちは分からないよ」

「それはお互い様じゃんか!」

 

 杳は言葉を荒げると、怯えたように一歩退いたトガと距離を詰め、血に塗れた友人の両手を取った。――人の心を覗き見ても、過去を追体験しても、彼らの心を理解する事はできなかった。だけど、完全に理解(わか)り合えなくても、理解しようとし、寄り添おうとする気持ちが尊いのだ。箱の中にあるカブトムシの形を知ろうとする努力が美しいのだ。その儚く頼りない光に育まれ、自分達は生きてきた。

 

 杳は涙に濡れるトガの両頬に両手を添え、おでこをくっつける。涙の止まるおまじないだ。

 

「私がずっと傍にいる。他の誰が許さなくても、私が許すから。一緒に生きよう」

 

 長い長い沈黙が、二人と周囲の間に流れた。やがてトガは名残惜しそうに杳の手を外し、視線を外し、ふらりと背を向けた。それが、()()()()()だった。

 

 ――人生は、選択の連続だ。敵連合は杳と一緒に過ごすよりも欲望を発散する事を選び、杳は敵連合との友情を守るよりも兄の命を守る事を選んだ。

 

 敵とヒーローの間に結ばれた歪な友情は、たった数分の問答で終わりを告げた。気が付くと、周囲には誰もいなくなっていた。悲しかった。寂しかった。情けなかった。自分と彼らの中にある想いは特別なのだと思っていた。それは、杳の勘違いだった。絶望してすすり泣いていると、その肩を誰かがそっと撫でる。

 

「救けたいか」

 

 ――転弧だった。杳は縋るように身を寄せ、何度も頷いた。すると、転弧は蕩けるように優しい声でこう言った。

 

「なら、俺を殺せ」

 

 

 

 

 転弧の言葉を理解するのに、杳は多くの時間を必要とした。――殺したくないから説得しに来たのに、何を言ってるんだ?

 

「そうすれば、皆止まる」

「何、を……ッ」

 

 転弧は応えず、杳の両手を自らの首に添えた。生温い皮膚の奥で、どくん、どくんと生命が力強く脈打っている。その振動(リズム)に意識を集中させた瞬間、杳は大きく息を飲んだ。

 

 ――常軌を逸した量の苛立ちと破壊衝動が、激しい奔流となって彼の体の中に押し込められ、渦巻いている。そしてそれは今も尚、彼が心音を刻む度、呪いのように増大していた。やがてそれはその体から溢れ出し、瘴気のように周囲に漂い始める。

 

 荒れ果てた(かんばせ)を歪め、混沌と狂気に満ちた陰惨な笑みを彼は創り出した。赤い瞳が二つ、爛々とした輝きを放っている。蛇に睨まれた蛙のように、杳は指先一本動かせない。

 

「憎しみが止まらないんだ。だから、終わらせてくれよ」

 

 救いを求めるような、どこか悲壮な響きを内包した声が、ひび割れた唇から放たれる。転弧と出会ってから今までの記憶が、瞬きする度に瞼に焼き付き、消えない残像を残していく。杳は首筋から手を離そうともがき、苦痛に喘いだ。

 

「でき、ないよ」

「今殺さなきゃ、俺はもっと大勢殺すぞ」

 

 刹那、頭を鷲掴みにされたような痛苦が一瞬、杳を支配した。そして、四角いスクリーンに縁取られた映像が映し出される。――まただ。これは幻覚?それとも壊れかけの個性が見せる、未来予知の類なのか?錯乱しかけた頭脳を回転させるが、答えは出ない。

 

 映像の中では、転弧が黒い襤褸切れを纏い、大きな市街地を崩壊させていた。倒壊した街に無数の悲鳴や泣き声がこだましている。運び出されていく遺体の中に、杳の見知ったヒーローの姿もあった。まるで珊瑚が死の伝播を仲間に伝えるように、その街の事件を切っ掛けに、社会が急速に壊死していく。

 

(誰もが心に傷を負い、痛みを抱えて生きているわ。多くの人々がそれを堪え、一人の為ではなく皆の為に、今日の平和を保ってきた)

 

 冷たい手が杳の肩に置き、梅雨がかつての言葉を囁いた。思わず振り返ると、彼女の瞳にはあの()()()()が輝いている。悲しげに睫毛を震わせて涙を流し、彼女は消え去った。極限状態まで追い込まれた事によって垣間見た、幻覚の一種だった。

 

 ――違う。杳は気が狂ったように首を横に振り、何度も自分に言い聞かせた。この手は殺す為じゃなく、救ける為にあるはずだ。だけど、彼は私の説得じゃ止まらない。今、この手を離せば、彼の言う通り、大勢の人間が死ぬ。社会が崩壊してしまう。ヒーローとしての使命感が、あの日見た”平和の概念”が、杳の手に力を与える。

 

 転弧はゆっくりと自分の体を床に横たえた。それに従うように、杳も彼の体に乗り上げる。

 

「いいんだ。やれ」

 

 その言葉は愛の囁きと同じように優しく甘く、そして切ない(トーン)を含んでいた。転弧は試すような顔で杳を見ている。だが、冷静な判断を欠いている杳はその表情に気付く事ができなかった。

 

(奴らが屠ってきた被害者や遺族を前にしても、同じ事が言えるかね?)

 

 四角く切り取られた世界で垣間見た犠牲者達、過去の記憶で見た被害者達の()()()()が群れを成し、杳の体を内側から操作する。杳は歯を食い縛り、転弧の首を絞める力を強くした。体格が小さくとも、杳はヒーローの卵だ。人一人(くび)り殺す位の膂力はある。

 

 ぎし、びき、と筋肉や骨の軋む感触と音が、手の内側に伝わってくる。やがて転弧の乾いた肌に汗が浮かび、青白い肌が赤みを帯び始めた。周囲の血管が圧迫され、歪に膨張する。見開いた灼眼が血走り始める。本能が生命の危機を感じたのか――咄嗟に杳を止めようと伸ばされた両手は、ゆっくりと地に落ちた。

 

 苦しいはずなのに、怖いはずなのに、転弧は抵抗しなかった。まるで何かから解放されるかのように清々しく安らかな、そして陶然とした瞳で杳を見上げている。

 

 突然、その危うげな瞳が、在りし日の転弧少年の姿と重なった。祖母のヒーローの写真を見せてもらい、キラキラと美しい輝きを放つ無垢な瞳。マグマのように熱い感情が、杳の心の奥底で爆発した。それは凄まじい勢いで血管を駆け上り、食道を跳び越えて、虚ろに開いた唇から零れ落ちる。

 

「いやだ。死なないで……ッ」

 

 気がつくと、杳は両手を離していた。転弧は喉を震わせて息を吸い、肺に酸素を取り入れる。暖かく息づいている。その事実が、狂おしいほど愛おしかった。ヒーローとしての使命を無視し、そう遠くない未来に喪われるだろう大勢の命を見捨て、杳は友人の命を優先した。それが、彼女の犯した罪だった。

 

 ――生きていて。杳は何度も何度も、心からそう願った。

 かつて、兄が自分が生きる事を許してくれたように。今度は()()()なのだ。

 たとえそれが、どれほど罪深く、悍ましい事であろうとも。

 

「生きててよおおおっ!」

 

 杳は転弧に馬乗りになったまま、手放しでわんわんと泣きじゃくった。溢れる感情を絞り出すようにして泣く少女を、大きな乾いた両手が包み込む。その手は、かすかに震えていた。壊れ物を扱うようにそっと傍に引き寄せ、転弧は杳を抱き締め、キスをした。大きく開いた唇に深く口づける。まるで息継ぎのように苦しいキスだった。

 

 さざ波が知らぬ間に足を濡らしていくように、自分を包む感情が再び凪いでいく。目を閉じると、穏やかな海面の上に一人の少年が立っていた。祖母の写真を宝物みたいに掲げて、目をキラキラと輝かせている。

 

 ――もしあの時、おまえがいてくれたら。

 

 だが、過去は覆らない。転弧もまた、杳と共にやり直すつもりもなかった。引き返す事など考えられないほど彼は狂い、壊れ、穢れきっていた。幼子をあやすように杳の体を揺らし、転弧は止め処なく流れ落ちる涙を唇で優しく拭い取る。その一粒一粒が、自分の為に創られたものだ。塩辛いはずなのに、甘露のように感じられた。

 

 ソファにゆっくりと小さな体を下ろし、キスの雨を降らしながらシャツのボタンを外していく。乾いた手がそっと素肌に触れたところで――杳はハッと我に返った。

 

「ぎゃああああっ!」

 

 本能のままに右手を奮い、フルスイングのビンタを決める。その一撃は狙い違わず、転弧の左頬にクリーンヒットした。ソファから転げ落ちる転弧を横目に、杳はバネ仕掛けの人形のように勢い良く飛び起きた。その拍子にシャツが少し肌蹴(はだけ)て、素肌が露わになった。

 

 さすがの杳でも、事態を理解できる。羞恥のあまり、杳の顔は熟したトマトのように真っ赤になった。数瞬後、人使に対する強烈な罪悪感が濁流のように胃の中に流れ込む。

 

「ど、どどどさくさに紛れて、チューすなっ!」

 

 杳は怒りの迸るままにクッションを取り、投げつけた。果たしてそれは間抜けな音を立てて転弧に命中する。だが、彼は身動きもせず盛大な溜息を零すばかりだった。

 

「減るもんじゃないし良いだろ」

「減るわっ!私、彼氏いるし!」

 

 二つ目、三つ目のクッションが転弧に命中した。

 

「転弧のヘンタイ!大っ嫌い!」

「俺は好きだよ」

 

 転弧はクッションをどけて起き上がると、素直に笑った。年相応より少し幼い、あどけない笑顔だった。杳はそんな顔をする彼を見るのは初めてで、思わず魅入られる。透明な光を湛えた瞳が、ふと杳を射止めた。その奥で渦を巻く劣情と愛情を上手に覆い隠し、彼は優しい声で言葉を紡ぐ。

 

「おまえは?」

「……わたしも、好きだよ」

 

 杳の言葉は本心からのものだった。二人を取り巻く環境はあまりに複雑で、杳はいつしか家族に似た()()()を彼に抱くようになっていた。幼い愛を受け止めて、転弧は満足気に笑う。やがて小さな換気口からオレンジ色の陽光が差し、二人を照らした。陽がゆっくりと輝きを失いながら、落ちていく。馬鹿げた興奮が冷めると、後には――今にも胸が張り裂けそうなほどの罪悪感と悲しみ、寂しさだけが残った。

 

 やがて無機質なアラーム音が、杳の腕時計から発される。残り時間はあと十五分。現実に戻る時間が近づいていた。――このまま、太陽が止まってしまえばいいと杳は思った。そうしたら、何も考えずにいられる。だが、現実はそう甘くない。取り返しのつかない間違いをして、大切なものを失って、もう二度と立ち直れないと嘆いても、生きて行かなければ、前に進まなければならないのだ。

 

 杳は別れの挨拶をしようとして、()()()()()()。よろよろと立ち上がり、錆びついたドアノブに手を掛ける。その時、転弧が杳を名前を呼んだ。

 

「おまえは俺達を見捨てた」

「……うん」

「その罪を、後悔を、ずっと抱えて生きてくれ」

 

 杳が知る由もない事だが、転弧にとってそれは――醜悪な形に歪んだ愛の告白に等しかった。杳は黙ってノブを回し、中に入ってドアを閉める。ガチャンとドアが閉まる音が室内に響いた。その音の余韻が消え去ろうとしたその瞬間、かすかな違和感を感じ、転弧は真下を見た。

 

 ――手を伸ばせば届く程の近距離に、()()()()。体格の小ささを利用し、地を這うように限界まで低く腰を歪めている。その容姿は亡霊のように揺らめき、危うげだった。トガの技術を模倣しているのだ。その手には特殊拘束具に似た効能を持つ、ハンドカフスが握られている。義爛との交渉で得たものだ。スタンの特性を有していて、ボタンを押すと錠の内側でバチバチと青白い花火が散った。

 

 ドアを開けて出たフリをしてトガの技術を模倣、瞬発力で転弧に肉薄し、カフスを嵌める――それが、杳の作戦だった。交渉が決裂した時の、最後の強硬手段。

 

 だが、カフスが転弧の手に触れる直前、彼を起点として不可視のフォースフィールドが展開された。舞い散る埃や杳の髪がそれに触れると、細かな塵となって消滅する。だが、杳は止まらず、そのままの勢いで突き進んだ。彼が自分を殺すはずがないと信じているからだ。

 

 ――トガ達は転弧を慕っている。だからこそ、ここまで追い詰められても彼の下を離れなかった。彼を殺せば皆が止まるという発言は、ある種正しいのだ。必ず捕まえてみせると杳は奮起した。

 

 果たして杳の目論見通り、フォースフィールドは彼女を崩壊する事を拒むように霧散した。赤い瞳と灰色の瞳が一瞬、交錯する。数瞬後、青白い電光が室内を鈍く照らし出した。

 

 

 

 

 寂れた商店街にある路地裏、その最奥にある廃ビルから()()()()()が姿を現した。ぐっすりと眠る小さな少女を抱えている。明るい場所を目指して立ち去っていくその姿を追いかけるように、一枚の赤い羽根がふわりと飛んだ。それは薄汚れたビルの隙間に入り込み、一気に急上昇して上空に舞い上がる。風もないのに羽根は飛び続け、やがて遠く離れた雑居ビルの屋上に佇んでいたホークスの手の中に収まった。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 宇宙船から見ると、地球は青く輝いて美しい。公安が学校代わりに実施した座学で初めてその写真を見た時、ホークスはこの星はキラキラ輝く宝石でできているに違いないと思った。だけど、()()()()()()()()()()()。確かに綺麗な場所もあるが、戦争をしていたり、環境破壊が極まって見るに堪えない光景になった場所もある。

 

 遠目から見ると美しいけれど、近づいてみると穴ぼこだらけなのが社会の実態だ。そして、それを塞ぐのがヒーローの役目だった。穴がこれ以上広がらないよう被害を最小限に抑えて、穴から落ちた人間を救い出し、穴を創った人間を拘束する。塞ぐ事のできる穴の大きさ・数はそのままヒーローの実力に直結する。

 

 ほとんどの穴に特別性はない。実力さえ伴えば、誰でも埋められる。だが、ごく稀に()()()()が存在する。まるで鍵と錠のように、その人でなければ塞ぐ事のできない穴が。会長から渡された報告書を読み終わり、ホークスは重々しい溜息を零した。

 

(本当に俺じゃダメですか)

 

 風もないのに、ざわりと剛翼が揺れた。強く握った拳が小刻みに震えている。ホークスは自分の役割を承知している。今ここで動けないなら、一人の少女を見捨てるなら、何の為に今まで訓練を積んできたのか分からない。

 

 ――平和は少しでも多くの人々が明日を不安に思う事なく生きていけるシステムの事だ。だが、そのシステムは完璧じゃない。こちらがどれほど手を尽しても、そのシステムから弾き出されてしまう人間がいる。何故なら、システムを創った者も組み込まれている者も皆、不完全な人間だからだ。

 

 望んでそうなったわけじゃない。弾き出されたわけじゃない。分かるよ、ごめんな。だけどどうしようもできない。ホークスは断腸の思いで、穴の底で泣き喚くそういった人々に手を掛けてきた。敵連合も同じだ。

 だが、その対処をするのはこちらの役目で、何の関係もない子供を巻き込むのは道理に反している。たとえ、それが彼女にしか塞げない穴だったとしても。

 

 だが、もう事態は動き出していた。()()()()()だ。百人を救う代わりに一人が犠牲になる――そういう状況が現れたら、その人が特別階級でもない限り、間違いなくその一人を犠牲にする。そうして社会は平和を保ってきた。会長を溜息を吐き、小さく首を横に振る。

 

 

 

 

「考え事か?寂しいねェ」

 

 からかうような青年の声が振ってきて、ホークスはふと我に返った。人を食ったような笑みを浮かべ、荼毘が紫煙を燻らせている。ホークスはすぐさま元の調子を取り戻し、()()()()で笑ってみせた。薄っぺらい笑顔の裏で行われているのは、(はら)の探り合いだ。

 

 ホークスは今、杳とは別ルートで敵連合と接触を図っている。視野が広く名誉名声に頓着がなく、連合に取り入る間の被害にも目を瞑れる冷静さがあるからこそ適任と見込まれての依頼だった。――敵連合の中で唯一仲間探しを続けている荼毘とようやくコンタクトが取れたのだ。このチャンスを逃さず、慎重に事を進めなければ。ホークスは猛禽類を思わせる鋭い双眸をすうっと細めた。

 

「すいませんね。まぁ色々と」

 

 不可能を覆す事こそがヒーローの本懐。自分の原点(オリジン)たるヒーローと同じ色の翼を纏い、ホークスは決意を固めた。――諦めはしない。最高速度で駆け抜け、あの子を救ける。もう二度と、彼女のような過ちは繰り返さない。強い意志と覚悟を両翼の影に隠し、彼は屈託のない表情で甘ったるい缶コーヒーをプルリングを引き上げる。

 

「やる事が多くて大変なんです」

 

 

 

 

 それから一時間後。アジトに帰って来た転弧を出迎えたのは――悲しいほどに相変わらずの――血肉と断末魔の入り混じる、凄惨なアジトだった。義爛の防壁がなくなった途端、敵の襲撃が入ったらしい。

 

 拷問をするつもりなのか、痛みに呻く敵の首根っこをトゥワイスが掴んで、廊下の奥へ引き摺って行った。トガはむすくれた表情で部屋の隅っこに座り、スマートフォンを弄っている。ふと画面から顔を上げると、トガはぎらりと転弧を睨んだ。開きかけた唇が、何かに耐えるようにギュッと引き結ばれる。転弧は肩を竦め、ソファに腰かけた。

 

 マグネが血塗れのテーブルを敵の上着で適当に拭き、彼の前にカレーライスを置いた。トガは小さくすすり泣き、膝を抱えて猫のように丸まった。

 

「アンタの分、死守しといたわよ。……あ、お代わりはないからね」

「すまん!俺が食っちまった!いや俺だけじゃねぇだろ!」

 

 聞くに堪えない断末魔に紛れて、トゥワイスの弁明が跳んできた。転弧は気を害する事なく食事を始める。少し冷めているが、味は悪くない。カレーライス――というより、人が創ったものを食べるのは本当に久しぶりだった。最後に食べたのはいつだったか思い出せないくらいだ。

 

 ほんの一瞬、セピア色に輝く何かが心の隅っこに映りかけるが、転弧がそちらに意識を向ける前に、シャボン玉のように壊れて消えた。もう昔の記憶をろくに思い出せない程、彼の心は血で汚れ、真っ黒に染まっていた。あっという間に完食し、スプーンを皿に放る。

 

「心配するな」

 

 蕩けるような優しい声が、トガの頭をそっと撫でていく。その(トーン)は彼の養父に良く似ていた。トガは思わず涙を拭い、顔を上げる。褪せた白髪の間から、宝石のように輝く灼眼が自分を見つめている。

 

 転弧は無造作に手を伸ばし、皿に触れた。皿は瞬く間に塵と化し、地面に落ちる前に消失する。その残滓を名残惜しそうに指先で擦り落とし、彼は言葉を続けた。

 

「全部壊して、迎えに行く」

 

 ――歪んだ愛は、加速する。




年末は忙し過ぎるので、この回をちょこちょこ加筆修正してる内に年が明けそうです。
皆様、このSSをお読みいただいて本当に本当にありがとうございました( ;∀;)
おかげさまでここまで更新できました…!
来年も更新がんばります!良いお年を!


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No.89 届かぬものより

※ご注意:残酷な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 杳はゆっくりと瞼を開いた。頭に靄がかかっているようだ。意識を回復させようと、額を撫でて身じろぎする。ぐり、と頭皮に固い感触が返ってきた。体を起こすと、自分はどうやら古ぼけた木のベンチに横たわっているという事が分かった。ベンチに座り直し、周囲を見回す。

 

 どこともしれない寂れた公園の風景が広がっていた。ブランコが風に揺られて、錆びついた規則正しい音を立てている。頭上にあるイチョウの木から葉がハラハラと落ち、足元を彩った。

 

 ふと白いものが視界を掠め、杳は視線を落とした。小さな容器が置いてある。手を伸ばし引き寄せ、息を詰めた。――リカスキンの容器だ。中身は空っぽだった。

 

 その瞬間、杳の頭に数時間前の記憶がどっと流れ込んできた。今の心境を体現するように空が見る間に色褪せ、暗くなっていく。――早く帰らなければ。そう思うのに、体はピクリとも動かなかった。やがて園内に建てられた街灯が一斉に光を放った。無機質な光が遊具や砂場、水の止まった噴水を照らし出す。杳は空になった容器を握り締め、ベンチの上に蹲った。

 

 いつまで経っても動かない杳を急き立てるように、真っ暗な空が雨を降らし始める。だが、それでも彼女はそのままでいた。

 

 ――本当は分かっていた。自分はどこにも寄る辺のない人間なのだという事を。人使達のいる世界にも転弧達のいる世界にも馴染めない、中途半端な存在が自分だった。だけど、そのどちらも自分の居場所だったのだ。その一つが今、失われた。他ならぬ自分の意志で手放してしまった。杳は唇を噛んで、生温い涙を流した。

 

 それから、どのくらいの時間が経っただろう。ふと雨が止み、周囲がより暗くなった。雨音は続いているのに一体なんだ?杳はのろのろと顔を上げる。

 

 一人の青年が傘を差しかけていた。シンプルなスーツに身を包んだその姿に、杳は見覚えがあった。()()だ。彼は忌々しそうに顔を歪め、吐き捨てるように言い放った。

 

「電話に出ろ。濡れ鼠」

「え……?」

 

 杳は慌てて濡れたポケットを引っ張り、スマートフォンを取り出した。言われてみれば、成る程確かに見知らぬ番号から何度か着信があった。この番号が治崎のものなのだろう。茫然自失状態になっていた為、気付かなかったらしい。その事情は理解できたが、何故今彼がここにいるのか、そして自分に電話をかけたのか、杳は見当も付かなかった。

 

 ぐしゃぐしゃに泣き濡れた杳の顔を見ると、治崎は不愉快そうに眉をひそめた。だが、何も言わず、彼は手袋を外して杳に触れる。その瞬間、杳に付着していた雨粒は全て分解された。濡れた衣服で凍えていた体温が急速に回復していく。あたたかかった。彼は右手に下げていた予備の傘を差し出し、くるりと背を向けた。

 

「来い。車に乗れ」

 

 年代物の乗用車が公園の前に留まっている。内装は相当古ぼけているが、綺麗に手入れされていて、中は埃一つないほどに清掃されていた。――車は持ち主の個性・生活感が少なからず露呈するものだ。だが、治崎の車にそんなものは微塵もなかった。あるのは神経質な人間が放つ()()()()()()だけだ。

 

 一見すると杳が雨に濡れないよう、スマートにエスコートしているように見える治崎の瞳には、”汚すな・傷つけるな”という無言の威圧(プレッシャー)が内包されていた。杳は細心の注意を払って助手席に座り、シートベルトを締めた。二人分の傘を後部座席に放り込んだ治崎が、運転席に続く。彼がナビを起動させ、雄英を帰り道に設定しているのを、杳はぼんやりと眺めていた。そして車はゆっくりと走り出した。ワイパーが一定の速度で往復し、雨粒をかき分けていく。

 

「政府の犬になったらしいな」

「……治崎s」

「喋るな。唾が飛ぶ」

「えぇ……」

 

 そんなご無体な、と心の中でぼやいた瞬間、杳はくしゃみが出そうになった。雨で冷えてしまったのだろうか。寸でのところで鼻を摘まみ、必死に耐える。こんな状況でくしゃみをしてしまったら、治崎に飛沫ごと分解される危険性がある。彼は筋金入りの潔癖症だと嘘田に聞いていたが、まさかこれほどまでとは。杳は小さく溜息を落とした。おおざっぱな自分とは大違いだ。

 

 ナビの指示に従い高速道路に入りつつ、治崎は杳に接触を図った理由を話して聞かせた。彼らは更生敵であると同時に、政府や公安から要請があれば動く――いわば特殊工作員のような立場も有している。いずれは公安直属となった杳と共同任務に携わる可能性もあるらしく、その事を知らせに電話を掛けたらしい。迷惑をかけてしまった。杳は反省して頭をかこうとして――髪の毛が落ちる可能性を考えて――そっと手を下ろした。

 

 杳はちらりと治崎の横顔を見た。精悍な顔つきは相変わらず能面のようで、感情の揺らぎは見当たらない。やがて高速道路のガードを通して、徐々に見知った街並みが見えてきた。――このまま何もなかったかのように帰るのだ、と杳は掌を握り締めた。あの数時間の出来事が、まるで夢のようにも思えてくる。街を水没させようとする勢いで、雨は降り続く。今はきっと(あまね)く全てが濡れているはずだ。

 

 だけど、雨は乾く。この胸の痛みもいつか消えるのだろうか。転弧達の事は忘れて、学校に戻って文化祭を楽しんで、学業に励み、卒業して……いつか大人になって。空っぽになった容器に触れる度、指先を針のように突き刺す痛苦も、少しずつ心の片隅に忘れ去って。いつか思い出の一つになるのだろうか。日々の生活の中でふと思い出し、彼らの墓前でこんな事もあったねと懐かしく笑えるようになるのだろうか。

 

 そんなのは嫌だ。杳の中を、ほろ苦く熱いものが満ちた。やがて彼女の体から零れ落ちたのは、涙と――

 

 ――()()()だった。無音の車内に間抜けな音が鳴り響く。思えば、朝から何も食べていなかった。安全地帯にいる事により気が抜けてしまったのかもしれないが、何も今でなくていいだろう。杳は脂汗を垂らしつつ、自分の腹を叱りつけた。もう敵同士ではなくなったとは言え、治崎と杳の関係は友好的とは言い難い。治崎は腹の虫を指摘して笑うでもなく、無反応だった。気まずい事、この上なかった。

 

 硬直する杳を見て、治崎は少し思案するような素振りを見せた。それから杳の時間の都合を聞き、おもむろにウインカーを右から左へ変える。

 

 

 

 

 数分後のドライブの後、車は趣深い造りの門扉をくぐり抜ける。中には数寄屋造りの料亭が、美しく剪定された生け垣に守られるようにしてひっそりと建っていた。砂利の駐車場に車を停め、二人は店を降りる。

 

「いらっしゃいませ」

 

 和服を上品に着こなした女将の案内で、二人は小さな和室に入った。殿様屋敷のような轟家に比べると規模は小さいが、如何にも老舗然とした、手入れの行き届いた部屋だった。床の間には竜胆が数輪、活けられている。大きなガラス窓の向こうでは、秋色に色付いた草木や石灯籠がしとどに濡れていた。雨が降り続く音と、廊下を誰かが行き交う音以外、何も聴こえない。まるでこの場所だけ時が止まっているような、寂しい気分に杳は浸った。

 

 けれど、それは不思議と嫌なものではなかった。やがて襖を開け、女将がしずしずと入ってきて配膳を始めた。天辺に山葵がちょんと載った胡麻豆腐が、小さなガラス容器に盛り付けられている。箸を手に取り豆腐を切り分けながら、治崎は静かに問うた。

 

「何があった」

 

 杳は俯いて、言い淀んだ。雨に降られるまま、ずぶ濡れで泣いていたら誰だって理由を問うだろう。だが、自分の行いを言う事は躊躇われた。治崎は刺身を醤油につけ、口に運ぶ。

 

「この店は安全だ。盗聴器の類は仕込まれていない。お前の行動を告発するつもりもない。……状況を把握したいだけだ。話せ」

 

 その言葉は驚くほど抵抗なく、豆腐のようにするりと杳の心に入り込んだ。世界から切り離されたようなこの部屋の雰囲気が、そうさせているのかもしれない。杳は覚悟を決め、数時間前の出来事を話して聞かせた。治崎は静かに相槌を打つだけで、話の腰を折るような真似はしなかった。そうして全てを聞き終わると、彼は怒るでも騒ぐでもなく、何事もなかったかのように箸を動かし始めた。

 

 全くもって身勝手な話ではあるが、治崎のその反応を見て杳はますます落ち込んだ。所詮、お前の行動は彼らの心に何も及ぼさなかったのだと、取るに足らないものだと言外に匂わされたような気がしたのだ。

 

 泣き過ぎて鼻が詰まっているために匂いは分からないが、会席料理はどれも優しい味だった。傷ついた心に寄り添うような、情に満ちた味。静かな屋敷の雰囲気とあいまって、杳の心は知らずの内に癒されていった。唯一の難点は一品一品の量が少なく、食べ盛りの子供には物足りない事だった。治崎はさりげなくそれを察知し、酒のお代わりと共に追加の品をいくつか女将に頼む。それから、自分の皿を杳の方に押し遣った。

 

「す、すみません。気を遣わせて」

 

 杳は恐縮しつつ、皿を受け取った。かつて殺し合ったとは思えない程に穏やかな空気が、二人の間に流れていた。冷静になって思い返してみれば、とても良い人なのかもしれない。自分を心配して迎えに来てくれ、ご馳走もしてくれた。杳は治崎の認識を改め、おずおずと彼を仰ぎ見た。彼はお猪口に日本酒を注ぎ、旨そうに飲んでいる。ふと目が合うと、金色の双眸を意地悪そうに歪めてこう言った。

 

「気にするな。お前の泣き顔が最高の()()になる」

 

 ――前言撤回、良い人ではなかった。杳はむすくれた顔で煮魚を崩し、口に運んだ。空いた手を受け皿のようにして、食卓に零れないようにする。その様子を見た途端、治崎が眉を潜めた。

 

「手で受け皿をするな。懐紙を使え」

 

 治崎はスーツの内ポケットから美しい布を取り出し、杳に放った。開くと中には薄い和紙が折り重なって入っている。彼が杳に渡したのは、帛紗挟(ふくさばさ)みと呼ばれる袋だった。茶道の稽古や茶席において必要となる小物を一まとめに入れ、携帯する袋の事だ。それを皮切りに、彼は杳の食事中のマナーを指摘し始めた。箸で魚を綺麗に食べる作法、盛り付けられた料理は手前から手を付ける事、食事中は余所見をしない……etc.

 四苦八苦しながら料理を消化していく杳の様子を見守りつつ、治崎は言った。

 

「今後、格調高い店で食事をする機会も多くなるはずだ。最低限のマナーは覚えておけ」

 

 公の場に出たり、格式張った場所で会食をする事は人気職業であるヒーローにとって何ら珍しいケースではない。世間知らず故の不作法を可愛らしく思う者もいるかもしれないが、不快に思う者もいるのだ。治崎の向けている不器用な優しさを、杳はまだ汲み取る事ができなかった。品書きは滞りなく進行し、やがて小さな土瓶が杳の前に置かれた。蓋の上には半分に切られたすだちが載っている。

 

「土瓶蒸しでございます」

 

 杳は土瓶蒸しなる料理を見るのは初めてで、戸惑った。一先ず、治崎の作法を真似る事にする。見様見真似でお猪口に土瓶を傾け、出汁を飲んでみる。あたたかく優しい味がした。しかし、如何せん味が薄く――何より泣き過ぎて鼻が詰まっているために――良さというのがいまいち分からなかった。

 

 こういうものなのかな。一人で納得してすだちを手に取った時、おもむろに治崎の手が伸びて来て杳の鼻に触れた。ばちん、と空気の層が弾けるような異音と共に激痛が走る。杳の鼻腔を構成する全てが弾け、再び合わさった音だ。突然の痛苦に杳は涙目で泣き叫んだ。

 

「いっだ……!!」

「鼻が詰まった状態で食うな」

 

 杳は恨みがましい目で治崎を睨み、すだちを絞ったお猪口から出汁を飲んだ。その瞬間、杳は大きく息を飲んだ。――秋の味がする。優しく切ない、少し寂しいような、それでいて芳醇な山の香りが杳の心身をゆっくりと満たしていった。杳はいつの間にか目を閉じていた。ふと閉じた瞼の裏を、オレンジ色に色付いた落ち葉が舞い落ちた。優しい焼き芋の匂いが杳を鼻腔を掠めてゆく。男達の粗野な笑い声が、暗闇の中にこだまする。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 ()()の言いつけさえ破らなければ、更生敵である治崎達の生活が脅かされる事はない。任侠として生きるプライドよりも家族を守る事を優先した彼らに待っていたのは、拍子抜けするほどに穏やかな日々だった。

 

 ――人は考える生き物だ。何かに没頭していなければ、心が、思考が循環する。立ち止まり、過去の行いを思い返し、それについて考え始める。治崎は夜毎、不思議な夢を見るようになった。真っ白な世界で何をするでもなく、ぼんやりと揺蕩う夢だ。生活スタイルが一変した事で精神に異常をきたしたのか、それとも安寧を感じている為か、夢を見る理由は治崎には分からない。

 

 やがて、真っ白な世界の奥に()()()()()()が見えるようになった。日を重ねる毎に、その点は少しずつ大きくなる。それは点ではなく()だった。穴から吹く正体不明の風が鳴き、肌を撫でる度、治崎の全身は粟立った。見たくないと本能的に目を逸らそうとした瞬間、彼は穴の中に何が詰まっているかを理解した。

 

 ――穴の中には無数の屍がぎっしりとひしめいていた。黒く朽ちた手を伸ばし、治崎を引き摺り込もうとしている。虚ろに開いた口から漏れる怨嗟の声が、風のように唸って治崎の耳にまとわりついた。その中の全員に彼は覚えがあった。自分が屠ってきた人間達だ。

 

 そうしてやっと、治崎は気付いた。自分は世界を揺蕩っているのではない、()()()()()のだと。治崎は穴から逃れようと必死にもがいた。しかし健闘虚しく、彼は地獄の穴へ落ちていく。

 

 無数の手が治崎を掴み、穴の底へ引き摺り込む。誰が使ったかも分からない、錆びついて汚れた注射器を押し込まれた。汚れた手が肌を虫のように這い回る。もののように乱暴に扱われ、踏みにじられた。暴力の限りを受けた。それらの行動は全て、彼が被害者に対して行ってきたものだった。

 

 ――痛い、苦しい、やめてくれ。汚れた手で触らないでくれ。いくら声を枯らして泣き叫んでも、彼らは能面のように冷たい表情で拷問を繰り返すだけだった。痛みのあまり意識を失っても、黒い手の群れの奥から()()()が伸び、治崎の肌に触れるとたちまち傷は癒え、彼は再び息を吹き返した。

 

 舌を千切られ、狂ったようにのたうち回る治崎の前に小さな少女がしゃがみ込む。彼女は美しい紅玉の瞳を瞬かせ、静かに問うた。

 

(私が止めてって言った時、あなたは止めてくれた?)

 

 その瞳の奥には、両親に虐げられる少年の姿が映っている。壊理は泣き喚く治崎の額に手を当て、全てを巻き戻した。

 

 ――気の遠くなるような時間が過ぎ、東の空が薄明の輝きを放つ頃、治崎は目を覚ました。汗か涙かも分からない生温い体液で、全身が汚れている。野獣のような呻き声を上げ、ベッドから転げ落ち、狂ったように周囲を見回した。ここは現実だ、今までが夢だった。その事実を確かなものとするには、痛みを感じるのが一番手っ取り早い。彼は自分の体を何度も分解し、再構築した。

 

 だが、何度オーバーホールしても、()()()()が思い浮かぶ。ようやく平穏を取り戻した背中に、今まで自分が犯した罪の重さが、醜悪さが涎を垂らして追いついて圧し掛かってくる。あまりの痛苦に喘ぎ、治崎は髪をかき毟った。

 

 ”罪を悔い改める”。言葉にすると簡単だが、実現するのは至難の業だ。鬼から人の身に戻った今、治崎は自分の犯した罪に耐える事ができなかった。もう一度自分を分解しようと衝動的に頭を掴んだ時、大人達の騒ぎ声が聴こえた。何かを焦がしたのか、焦げ臭い嫌な匂いもする。

 

 佐伯の笑い声がした。蛾が光に吸い寄せられるように治崎はふらふらと立ち上がり、居間へ向かった。キッチンから煙が上がっている。フライパンを手に持つ多部を、入中が覗き込んでいた。

 

(どーやったらこーなんだ、多部ぇ……)

 

 多部はずた袋に包まれた頭をしょんぼりと俯かせている。見兼ねた窃野が多部の肩に腕を回した。八斎會の食事は当番制となっており、今朝は彼が料理担当だったらしい。卵焼き用の四角いフライパンの中に鎮座する黒炭を見下ろし、窃野は気安い口調で言った。

 

(食ってるうちに旨くなります)

(朝飯にアハ体験求めてねえよ)

 

 入中が突っ込み、逆立てた髪をかきながら冷蔵庫へ向かった。新たな卵のパックを探すのだろう。新聞を読んでいた佐伯がふと振り返り、治崎を見た。死人のような顔をした彼を認めた瞬間、開いた唇がわずかに震える。佐伯は唇を噛み締め、不器用に微笑んだ。

 

(……お早う)

 

 この世は地獄だ、と治崎は思った。寝ても起きても、その事実は変わらない。だが、死ぬ事もできない。夢の中の壊理の手と同じように、佐伯の声を聴く度、心と体が巻き戻される。生きる力を与えられる。許されざる罪を犯し、呵責に苦しみながら、それでも生きていたいと願ってしまう。それは希望であり、絶望であり、許しだった。

 

 

 

 

 気が付くと、杳は現実に返っていた。熱くて塩辛い涙がいくつも溢れて、頬の上を滑って滴り落ちる。治崎が見せてくれた心の内を追体験し、彼女は何も言う事ができなかった。当然の報いだと切り捨てる事ができないほど、杳は彼に対して情を抱いていた。

 

 ――こんなに苦しんでいる事、少しも知らなかった。だが、治崎が救けを求めたとして、一体何が出来ただろう。他者どころか自分の身すら満足に守れない自分に。八斎會での出来事、そして壊理の笑顔がチカチカと脳内に明滅し、杳は唇を噛んで俯いた。治崎は手袋を嵌め、静かに呟く。

 

「お前が()()()()()ものだ」

 

 杳の抱えた小さな土瓶の上に、パタパタと涙が落ちてゆく。その様子を見つめ、治崎は言葉を紡いだ。

 

「俺達は神様じゃない。救えるものは限られてる。……お前にとって大切なものは何だ?」

 

 いの一番に杳の頭に思い浮かんだのは、やはり()だった。ヒーローである前に一人の人間として、一番大切なものは彼以外に何もない。――この世界は残酷な程、シンプルだ。何かを守るには何かを捨てなければならない。その事実を改めて思い知り、杳は顔をくしゃくしゃに歪めて黄土色の土瓶を握り締めた。まるでその中に兄が封じ込められているかのように。

 

「それを守り抜け。もう届かぬものに目を向けるな」

 

 治崎はお猪口に酒を注ぎ、ゆっくりと飲み干した。それは、治崎が杳に対して与えた()()だった。

 

 

 

 

 治崎の車に送られて、杳は雄英に帰り着いた。重厚な防衛システムの施されたバリアをくぐり、寮へ向かう。談話室には学友達が数名、集まっていた。室内に入る直前、杳は両頬を軽く叩いて気持ちを切り替える。咄嗟にそうできたのは、治崎と摂った食事のおかげだろう。マイナスな感情を心の片隅に押し込めて、杳は人使の隣に座ろうと周囲を見回した。だが、彼はどこにもいない。

 

「ヒトシは?」

「補講。インターン組は全員。話し合いに参加できないから決定に従うって。ちなみにバクゴーは寝てる」

 

 耳郎は自分の隣をポンポンと叩きながら、そう応えた。杳は頷いて素直に座った。そして次の瞬間、ぶわっと全身から大量の冷や汗を垂れ流す事となる。先程の言動を咎めるように、転弧とのワンシーンが脳内にフラッシュバックの如く閃いたからだ。

 

 ――不貞を働いてしまった。あまりの罪深さに戦々恐々とし、唇を必死に擦り始めた杳の姿を、耳郎が不審そうに見つめている。その前では飯田がテーブルの前にしゃがみ込み、ノートパソコンを操作していた。大きな画面にはMowtubeのサイトが映っている。

 

「落ち着いて考え直してみたんだが……先生の仰っていた他科のストレス、俺達は発散の一助となる企画を出すべきだと思うんだ」

 

 八百万が紅茶を淹れる手を止め、納得したように頷く。――雄英高校の根幹を成しているのはヒーロー科だ。社会に最も注目を浴びるのはいつだってヒーロー科で、学校も彼らを主体として動く。寮の建設がその最たる例だろう。多くの生徒達はそういった学校の対応に不満を覚え、ヒーロー科に悪感情を向けるようになっていた。杳の動画事件で一時的に収まったように見えたが、あくまで表層的なものに過ぎない。ヒーロー科と他科の因縁は根深いのだ。

 

(不思議なもんだよなぁ。何故奴ら(ヒーロー)が責められてる?)

 

 ふと耳の中に転弧の声がこだました。――()()()()()()。杳は感情が動き出す前に目を閉じ、思考を一時停止した。それから真っ赤に腫れた唇を押さえ、間違った方向に進みかけた意識の分岐器を文化祭へ切り替える。他科のサービスという点を念頭に入れると、ランチラッシュの味を知る雄英生には食で満足させられるものを提供するのは難しいだろう。

 

 となると、必然的に()()()の出し物となる。杳と口田が合同で発案した”動物園”は衛生上の問題で、”コント”は素人芸ほどストレスを与えるものはないという(せろ)の一声であえなく却下された。

 再び進退窮まって、皆はそれぞれの体勢で空を見つめ、考え込む。芦戸はソファーに座り込んだまま、パタパタと軽快に足を動かした。

 

「皆で踊ると楽しいよ……」

 

 その発言を掬い上げる者がいた。焦凍が席を立ち上がり、飯田のパソコンを借りて何かを入力する。

 

「ちょっといいか。なんかあっただろ。なんていうのか知らねェけど……馬鹿騒ぎするやつ」

 

 そう言いながら焦凍が再生したのは、ミラーボールがキラキラと輝くダンスホールで、煌びやかな衣装に身を包んだ人々が踊り狂うショー動画だった。体の底にずしんと響くような重低音と七色に煌めくライトの揺らめきがあまりに派手派手しく華やかで、杳は思わず小さく縮こまる。お祭り騒ぎを繰り返す動画と静けさを好む焦凍との関連性が見い出せず、皆は思わず突っ込んだ。

 

「轟から出る発想じゃねー!」

「パーティーピーポーになったのか轟?」

 

 峰田が怯えた声でおずおずと問いかける。焦凍はボリュームを少し下げると、至って平静な声で応えた。

 

「違ぇ。飯田の意見は尤もだと思うし、その為には皆で楽しめる場を提供するのが適してんじゃねえか」

「今一度言うが素人芸ほどストレスなもんはねえぞ?!」

 

 さながら暴走する列車を止めようとするかのように両手を広げ、瀬呂が待ったをかける。だが、一度高まった皆の熱は下がらなかった。ようやく終着駅を見出したのだ。子供達の熱意を石炭代わりに蒸気を噴き上げ、想いを載せた汽車はガタガタのレールを一直線に走っていく。芦戸はウサギのように飛び跳ねて、わくわくとした表情で青山を指した。

 

「私、教えられるよ?」

 

 青山は芦戸の意図を察知し、軽快なステップを踏んだ。――いつかの朝礼前、芦戸が即席のダンス教室を開いていた事を杳は思い出した。たった数十分足らずの時間で、青山は見るも鮮やかな足運びをマスターした。芦戸の指導力は確かだ。雲みたいにあやふやだった未来が徐々に色付き、形を創り始める。皆の想いが一つになり、場が熱気を帯び始めた。そわそわと浮足立つクラスメイト達を睥睨し、峰田が叫ぶ。

 

「待て素人共!ダンスとはリズム!すなわち音だ!客は極上の音にノるんだ!」

「音楽と言えば……」

 

 葉隠は透明な人差し指を唇に当て、芝居がかった仕草で耳郎を振り向いた。つられるように皆、一斉に耳郎の方を向く。急に注目を浴びる事となった耳郎は泡を食ったように慌てふためき、杳の背中に顔を隠した。

 

「響香ちゃんの楽器で生演奏!」

「ちょっと待ってよ!ウチは……ッ」

 

 耳郎は咄嗟に言い返そうと息を吸い込んだが、やがて力尽きたように肩を落とした。それから、手持ち無沙汰にイヤープラグを弄る。言いにくい事を言い出す時の彼女の癖だった。

 

「芦戸とか、皆はさ、ちゃんとヒーロー活動に根差した趣味じゃんね。ウチのは……本当のただの趣味だし、正直表立って自慢できるもんじゃないつーか」

「自慢できるよ!すごく綺麗だったもん」

 

 杳はありったけの力を込めて耳郎の心を鼓舞した。音楽業界に詳しくないので明言はできないが、何度思い返しても、あの時聴いた彼女の歌声と演奏力はプロと比べても遜色ないものだったと感じる。耳郎は申し訳なさそうに微笑むと、意気込む杳の頭を一撫でした。その瞬間、ただの照れや謙遜から生じたのではない()()を、杳は微弱に感じ取る。

 上鳴は合点がいったように頷き、髪を乱暴にかきながら耳郎の前にしゃがみ込んだ。

 

「そういうことか、前のあれは。あんなに楽器ができるとか、めっちゃカッケーじゃん!な!」

 

 上鳴に水を向けられ、杳は何度も頷いた。俯く耳郎の頬にほんの一刷け、朱が差している。口田も一生懸命駆けてきて、緊張気味に言葉を紡いだ。

 

「人を笑顔にできるかもしれない技だよ。充分ヒーロー活動に根差してると思うよ」

 

 耳郎は唇を噛み締め、ますます深く俯いた。癖のない黒髪から覗く両耳が今や真っ赤に染まっている。もう一息だと言わんばかりにダメ押しの応援をしようと、上鳴が息を吸い込んだその時、見兼ねた八百万が彼女の前に立って言葉を紡いだ。

 

「皆さんの主張も良く分かりますが、これから先は響香さん本人の意志で……」

 

 突然、()()()()が杳の耳朶を打った。不安そうに震えていて、だけど力強く優しい音が、一定の間隔で耳郎の心臓から放たれている。それは生命が脈打つ音にも、本の表紙を開く音にも似ていた。杳のすぐ傍で、何かを堪えるように苦悶していた耳郎の表情が、どこか吹っ切れたような――決意の色に塗り替えられてゆく。もしかしたら夢の始まる音なのかもしれない。杳はそう思った。

 かき乱された髪の隙間から、真っ黒な瞳が八百万を射抜く。

 

「ここまで言われてやらないのも、ロックじゃないよね」




明けましておめでとうございます!
本年もよろしくお願いいたします。herotoo良過ぎる…更新がんばります。


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No.90 Aバンド

「文化祭はちょうど一ヶ月後!時間もないし今日色々決めてしまいたい」

 

 文化祭の議事録を片手に飯田がそう言うと、障子は頷いた。やがてインターン組が帰ってきたのか、玄関口がにわかに騒がしくなる。耳郎の許可を得て部屋から持ち出した楽器類を談話室に並べると、皆の気持ちは嫌が応にも高まった。

 

「まずは楽曲だね」

「ノれるやつがいい!踊れるやつ!」

「となると四つ打ち系だよね。本当はEDMで回した方が良いんだけど……」

 

 さりげなく挟まれた耳郎の言葉に皆は揃って首を傾げた。皆の反応があまりに薄いので、耳郎はその場でちょっとした音楽講座を開催する。

 

 ――四つ打ち系とは、主にダンス・ミュージックにおいてバスドラムにより等間隔に打ち鳴らされるリズムの事を示す。簡単に言えば、音楽に”ドンドンドンドン”という低い音が一定間隔で入っていれば、それが四つ打ち系となる。EDMとはシンセサイザーを始めとした電子楽器を用い、クラブなどでその場の人々を踊らせるという目的の元、創られたダンスミュージックの事だ。

 

 分かったような分からないような顔で曖昧に頷いたり、熱心にメモを取ったりするクラスメイトの様子を見守りつつ、耳郎は言葉を続ける。

 

「皆は楽器やる気なんだよね。ドラムとかベースやってた人いる?」

 

 またしても室内に呆けたような沈黙が広がった。しかし、耳郎はその様子を見て落胆するどころか、むしろ納得したように頷く。

 

「まずバンドの骨子ってドラムなんだけどさ。ウチ、ギターメインでドラムは正直まだ練習中なのね。初心者に教えながらウチも練習しなきゃだと一ヶ月じゃ正直キツイ」

 

 その瞬間、珍しく深刻な表情で考え込んでいた上鳴が、素っ頓狂な声を上げた。閃いたとばかりにポンと手を打ち、期待に目を輝かせて爆豪を見る。

 

「そういえばおまえ、昔音楽教室行かされてるっつってたじゃん?」

「あ?」

 

 爆豪はいつも以上に不機嫌そうな表情で、返事ともメンチとも取れる声を発した。――否定しないという事は事実なんだ。杳は耳郎の背中に半身を隠しつつ、信じられないものを見るような目で爆豪を眺めた。いくら小さな頃とは言えど彼がお行儀よく音楽教室に通い、楽器を嗜んでいたなんて想像もつかなかったからだ。瀬呂はドラムのスティックを取ると、爆豪に差し出した。

 

「爆豪ちょっとドラム叩いてみろよ」

「誰がやるかよ」

 

 杳の記憶する限りでは、爆豪がクラスメイトの意見を素直に聴いた事はない。その事実を立証するように、彼は素っ気なく背を向けた。だが、瀬呂も負けていない。勿体ぶった手付きでスティックを弄び、煽り立てるような口調でこう言った。

 

「かなりムズいらしいぞ」

 

 その言葉は爆豪のプライドを逆撫でした。爆豪は鬼の形相で振り返ると瀬呂からスティックを奪い取り、ドラムの前に荒々しく座る。そして次の瞬間、プロを彷彿とさせる鮮やかな指捌きでドラムを打ち鳴らした。獅子の咆哮のように猛々しく、それでいて繊細な音が談話室内に殷々(いんいん)と響く。粒立った音の一つ一つがあまりに気高くて、杳の毛が逆立ち、ぶわりと鳥肌が立った。最後にスティックが掠めたシンバルの余韻が消えた途端、皆はわっと盛り上がる。

 

「すごい……完璧!」

「才能マンキタコレ」

「爆豪ドラム決定だな!」

 

 けれど、やんやと喝采を送るクラスメイト達を尻目に、爆豪は乱暴に髪をかき毟りながら席を立った。

 

「そんな下らねーことやんねェよ俺ァ」

「爆豪お願い!」

 

 今にも談話室を出て自室へ戻ろうとする爆豪に耳郎が駆け寄り、懸命に言葉を紡ぐ。

 

「アンタがやってくれたら、良いものになる」

「なるハズねェだろ!」

 

 刹那、爆豪の荒々しい咆哮が談話室内に響き渡った。それは打ち水のように皆の心に広がり、昂ぶった神経を強制的に冷ましてゆく。明るい空気が一変して凍り付き、皆はその急激な変化についていけず、戸惑う視線を交わし合った。だが、爆豪はそんな彼らの様子など意にも介さず、苛立った声でがなり立てる。

 

「他科のストレス発散みてーなお題目。ストレスの原因がそんなもんやって自己満以外の何だってんだ。……ムカつく奴から素直に受け取る筈ねェだろが」

 

 耳郎の表情が見る間に翳った。縋るように上げた手が力尽きるように下ろされる。その様子を見ていた人使は険しい表情で、鋭い言葉を放った。

 

インターン組(おれら)がすんのは否定じゃなくて改善だろ」

「そういうのが慣れ合いだっつってんだよ!合理的に考えろや!」

 

 静かに睨み合う二人をおろおろと見守りつつ、杳は耳郎の傍に駆け寄って背中を労わるように撫でる。飯田は眼鏡の縁を押さえ、真剣な表情で考え込んだ。

 

「いやしかし……確かに……配慮が足らなかったか?」

「話し合いに参加しねェで後から腐すなよ」

 

 焦凍が一歩前に踏み込んで、厳しい声を放った。焦凍の放つ冷気と爆豪から溢れ出す熱気が拮抗し、室内を生温い暴風が駆け抜ける。――すわ、一大事か。杳達が来たる衝撃に備えて無意識に戦闘体勢を取った時、爆豪は強く歯を食い縛り、天井を振り仰いだ。

 

「ムカつくだろうが。俺らだって好きで敵に転がされてんじゃねェ……!」

 

 転弧達との記憶を思い出し、杳の心臓は古傷がうずくような痛みを放った。自分と爆豪達の抱く敵のイメージがあまりにもかけ離れているという事実を痛感したからだ。彼らにとって敵――とりわけ敵連合は何度も雄英を襲った極悪ヴィランだ。相澤先生や13号先生のみならず、多くの人々を傷つけた。平和の象徴を崩御させ、社会に大きな暗雲を(もたら)した。それは今も尚広がり続け、人々の心を理由のない不安に翳らせている。杳自身もかつては殺されかけた。

 

 ()()()――。そう思いかけ、杳は首を横に振る。もう何も考えるな。終わってしまった事だと自分に言い聞かせる。

 

「なんでこっちが顔色伺わなきゃなんねェ!」

 

 歯の根が震えるような大音声が爆豪の口から撃ち出される。真っ赤に燃える灼眼がクラスメイトをじろりと睨めつけ、最後に小さく縮こまった杳を掠め見た。勇猛な輝きを宿したその瞳はあまりに尊く眩しい。神野のアジトで、爆豪が命を賭して救ってくれた時の記憶が脳裏をよぎり、杳はやるせなくなって唇を噛み締めた。

 

「てめェらご機嫌取りのつもりならやめちまえ!殴るンだよ。慣れ合いじゃなく殴り合い…やるならガチで……」

 

 勢い良く自らの首を親指でかき切る物騒なジェスチャーをしつつ、爆豪はあらん限りの声量で想いを叩き付ける。

 

「……雄英全員、()()()()()!」

 

 

 

 

 バンド演奏は大きく分けてボーカル・ギター・ベース・ドラム、この四つのポジションに分けられる。ほとんど経験者がいないこの現状で人員配置をどうするべきか。耳郎が考えを巡らせていると、八百万が白魚のような手をすらりと挙げた。

 

「私、幼少の頃から教養の一環でピアノを嗜んでおりましたが、何かお役に立ちますでしょうか?」

「じゃあヤオモモはキーボードだ!」

 

 耳郎は心から安堵した様子で溜息を吐く。これから一ヶ月の間、耳郎は自分自身だけでなく他のメンバーの演奏も指導していかなければならない。余裕のないスケジュールの隙間を広げてくれる爆豪や八百万という経験者はとても助かる存在だった。素直な明るい気持ちで、彼女は残りのポジションを指折り数える。

 

「ベースはウチやるから、あとはギターとボーカルだね」

「へ?歌は響香ちゃんじゃないの?」

 

 麗日が不思議そうに首を傾げつつ、マイクを持つようなジェスチャーをして尋ねた。耳郎は素っ頓狂な声を上げ、手を顔の前で振ってみせる。

 

「いやまだ全然……」

「私も耳郎ちゃんだと思うんだよ!」

 

 その様子をぼんやりと見ていた杳の背中に突然、爽やかな柑橘系の香りと重みが加わった。葉隠だ。透明な両腕を杳の首に回して抱き着きながら、彼女はよく通るソプラノボイスで言葉を紡ぐ。

 

「前に部屋で聴かせてくれたの!すっごくカッコよかったよ!」

「わ、私も弾き語りしてくれて……もがっ」

「わあああっ!もういいって!」

 

 負けじと杳が追撃すると、耳郎は頬を紅潮させて二人の口を塞ごうと駆け寄った。耳郎はその話をなかった事にしたかったらしいが、爆豪の大爆破によりテンションが最高度までブチ上がっている皆の勢いは止まらない。やんやと囃し立てられた結果、耳郎は渋々といった調子でマイクを取った。

 

 甘くて掠れた声が室内にじんわりと広がっていいく。聞き慣れた洋楽のはずなのに、耳郎が歌うととても新鮮なものに聴こえた。声が空気に融けて消える寸前、かすかに震える度、皆の心も大きく揺れ動く。鼓膜を擦り抜けて心の奥底まで届くような声だった。

 

 ――やっぱり響香ちゃんは本物だ。杳は両腕に立った鳥肌を擦りながらそう思った。本当に持っている人は余計なものは使わない、声だけで人を感動させる事ができる。

 

「耳が幸せー!ハスキーセクシーボイス!」

「満場一致で決定だ!」

「じゃあそれはそれで……で!あと、ギター!二本ほしい!」

 

 耳郎は恥ずかしそうに髪をかき、照れ隠しなのかいつもより大きな声で言い放った。順調にバンドのメンバーが決まっていく。――ヒーローは緊急事態において常に正しい判断・行動を迫られる職業だ。その卵である杳達も、先達ほどではないがその資質を有している。杳が見守る中、驚くべきスピードで未来は形になっていった。

 

 ヒーロー活動時はその限りではないが、杳は自己主張するのが苦手だった。何かとお節介焼きなクラスメイト達との生活は、柔らかなブランケットと同じだ。たとえ杳が何も言わなくとも彼らは彼女の最適を考え、その方向へ導いてくれる。杳がじっと指示を待っていると、どこかから鋭い眼光が飛んできた。相澤先生そっくりの仏頂面で、人使がこちらを睨んでいる。おまえの考えている事はまるっとお見通しだと言わんばかりの表情だった。

 

「ひ……」

 

 杳は肩を竦め、考えを巡らせる。人使は手先の器用さを買われ、早期に音響・演出組に引き抜かれていた。氷と炎という派手な演出効果が期待できる個性を有する焦凍も同じだ。――私も二人と一緒がいい。思い切って立候補しようと手を挙げた途端、耳郎が叫んだ。

 

「あの、サブボーカルもほしいんだけど!」

「いーじゃん!ハモりパートって事ね」

 

 上鳴がノりにノった調子でウインクしてみせる。――メジャーやインディーズ・アマチュア問わず、バンドのボーカル形態は様々だ。一人で歌う場合もあれば、二人や複数で歌う場合もある。サブボーカルは安定した歌唱力を持つメインボーカルとは()()()()をサビや見せ場で歌う事で全体の質を上げ、メロディをより美しく響かせる役割を担っていた。

 不意に、強い意志を宿した漆黒の瞳とぼんやりした灰色の瞳が、ふわりと混じり合う。

 

「ウチは、杳に頼みたい」

 

 その瞬間、皆の視線が杳に一点集中し、彼女はたまらず熟したトマトのように顔を真っ赤に染め上げ、よろめいた。混乱する頭の中に、大勢の観客の前で、耳郎と肩を並べて歌うイメージ像がパッと思い浮かぶ。――絶対無理だ。千切れんばかりに首を強く振り、ソファーの影に身を隠そうとする杳を、ピンク色の両手がしっかりと掴んだ。芦戸だった。小さな体をヌイグルミのように抱え、彼女は黒曜石のような瞳を吊り上げる。

 

「杳ちゃんはダメだかんね!ガールズダンサーのメンバーがいなくなくなっちゃうもん」

「えっ」

 

 それは杳にとって聞き捨てならない言葉だった。耳郎のスカウトがなかった場合、自分はダンスを踊る運命だったらしい。歌か踊りか、どちらにせよ目立つポジションである事には変わりない。まさに前門の虎、後門の狼だった。演出組に入りたい、演出組に――。オアシスの幻影に手を伸ばす、餓死寸前の砂漠の民(ベドウィン)のような瞳で人使を見ていると、眼前に耳郎が立ち塞がった。

 

「お願い!ウチが教えるからさ」

 

 杳は今にも泣き出しそうな顔で耳郎を見上げ、やがて大きく息を飲んだ。彼女の頬と耳は真っ赤に染まり、口の端と両手がかすかに震えている。――耳郎だってプロじゃない。音楽が好きとはいえ、公衆の面前で歌うのだ。緊張するに決まっている。ようやっとその事実に思い至り、杳は自分が不甲斐なくなって拳を握りしめた。

 

 間近で見る耳郎の瞳は至って真剣で、からかっているわけでも冗談を言っているようにも見えなかった。ひどく高揚した気分が、杳の判断を鈍らせる。杳の双眸を救い上げるように覗き込むと、耳郎は明るく素朴な声で後押しした。

 

「最高のバンドにしよ。一緒に頑張ろーよ」

 

 

 

 そしてその夜の深夜一時を回った頃、ようやく全役割が決定した。しっかり睡眠を取り英気を養ってから練習に臨む為、皆は眠たげな目を擦りつつ、自室へ帰っていく。杳もパジャマに着替えベッドに潜り込んで目を瞑ったものの、全く寝付く事ができなかった。目を閉じると、さっきまでの喧騒が脳内にわんわんと反響する。興奮冷めやらぬ、とはまさにこの事だった。

 

 ――早く寝なきゃ。瞼を強く瞑って何度目かの寝返りを打った時、ほんの少しだけ冷静になった事でできた心の隙間に、転弧との出来事がするりと入り込んだ。杳はむっくりと起き上がり、壁を見つめた。

 

 杳が転弧に抱いているのは恋愛感情ではなく、家族に対する情に似たものだった。転弧の印象は、いつかの夢の世界で見た()()()()()のままだ。あのキスは事故のようなものだった。だが、してしまったのは事実だ。言うべきだよ、と心の声が呟いた。

 

(どれが嘘で、どれが本当か分からないなら……全部、出し切れ。俺が受け止めてやる。カバーしてやる)

 

 かつて人使のくれた言葉が、耳朶を打つ。杳にとって、彼は親以上に信頼できる存在だった。自らの意志ではないにせよ、不貞を働いてしまったのなら正直に告げるべきだ。だが、それを咎めるように()()()()()()が叫ぶ。

 

(言ってどうなるの?嫌な気分になるだけじゃん。自分の立場になってみてよ)

 

 杳はベッドの上に(うずくま)り、想像してみた。――人使が別の女性とキスする光景を。想像するだけで嫌な気持ちになり、心臓が締め付けられるように痛んで、目頭が熱くなった。ほろ苦い感情が涙と共に押し出されて流れ落ち、シーツを汚していく。追い打ちをかけるように、八斎會事件の顛末が脳裏をよぎった。

 

 ――あの時みたいに嫌われたくない。怖い。そもそも転弧とのキスを自白するなら、敵連合に逢いに行った事実も言わなければならない。公安での出来事も。自分の過去を彩るのは後ろ暗い事ばかりだ。その重さに、愚かさに、今にも押し潰されて死にそうだった。治崎のように全てを抱えて一人で生きる強さを、彼女は有していない。秘密を打ち明けられる唯一の存在にすら口を閉ざすなら、彼女を救える者はどこにもいなかった。

 

 居ても立ってもいられなくなった杳はよろよろと立ち上がり、談話室へ向かう。

 

 談話室に人気はなかった。壁のスイッチを探って電気を点け、テレビの前のソファーに座り込む。テレビを点けようとして、やめた。膝を抱えて目を閉じ、カチコチと冷淡に進む秒針の音に身を委ねる。やっぱりテレビを点けようか。杳がリモコンを手に取った時、誰かが部屋に入って来た。

 

「びっ……くりした。どした?」

「……ッ」

 

 ()使()だった。杳を見るなり猫のように髪を逆立てて、数瞬後、何事もなかったかのように取り澄ました声で尋ねる。彼だけに限らず、男子生徒は深夜帯に腹が減る者が多い。夜な夜な、談話室に降りてカップラーメンや菓子を食するのは何ら珍しい事ではなかった。

 

 だが、杳は違う。人使は顎を一撫でし、思案を巡らせる。怖がりな彼女は普段部屋の中で過ごし、深夜こうして談話室に向かう事は滅多にない。一体どうしたんだろう。興奮して寝付けなくなったのか。杳は返事もせず、しょげ込んでいる。その反応だけで、人使は彼女の大まかな心理状況を把握した。

 

 ――何か言い出せない事、後ろめたい事があるのだろう。思い当たる節は山ほどあった。あの時ドアをこじ開けるべきだったかと一瞬、後悔がよぎる。だが、彼は合理的な人間だった。過去の失敗を挽回する為、黙って肩を竦めると、キッチンの棚からマグカップを二つ取り出す。ミルクパンを取り出して牛乳を注ぎ、火にかける。それから蜂蜜の瓶を手に取った。

 

「ホットミルクに蜂蜜入れる人」

 

 杳は思わず顔を上げた。周囲を見回しても、いるのは自分達だけだ。人使は背中を向けたまま、返事を待っている。杳はおずおずと手を挙げて、蚊の鳴くような声でハイと返事をした。人使はマグカップに牛乳を注ぎ、蜂蜜を垂らしてかき混ぜる。次いでおもむろに振り返ると、ホットケーキミックスの箱を仏頂面で振ってみせた。

 

「豆乳ドーナツも食べる人」

 

 くん、と紐を引っ張られたような気がした。杳は返事をする代わりに、ふわふわと風船のように浮ついた足取りでキッチンに向かい、人使の背中に両手を回した。人使はその手をそっと取り、引き寄せる。血豆だらけの指が小さな掌を撫でた。

 

 数十分後、粉砂糖を振りかけたドーナツとホットミルクを盆に載せ、二人は杳の部屋に腰を落ち着けた。甘くて優しい匂いが室内に満ちると、陰鬱な気分が薄れて消えていくような心地がした。猫舌な二人は寄り添って座ったまま、ぼんやりと料理の熱が冷めるのを待っていた。ふと人使が杳の名前を呼ぶ。

 

大丈夫(だいじょぶ)だから。全部、話せ」

 

 その瞬間、熱くて蕩けるような感情が杳の中で爆発した。杳は必死に嗚咽を堪えつつ、拙い口調で全てを話して聞かせた。公安で顧問役の彼と交わした会話、義爛との商談、それから敵連合、転弧との出来事――。杳の口が最後の言葉を紡ぎ終わった後、人使は静かに首元に手をやって、俯いた。話の内容をゆっくりと反芻すると、凄まじい憤怒の感情が腹の底からマグマのように湧き立ってくる。だが、それは杳に対する怒りではない。無力な自分に対する怒りだった。

 

 人使は深く息を吸い込んでそれを押し留め、ただ静かに杳の頭を撫でる。杳は信じられないとばかりに小さく呻いた。別に怒ってほしいわけじゃないが、まるでどうでもいいと軽く流されたような、もう手が付けられないと突き放されたような気がしてしまったのだ。杳は理不尽にも寂しくなった。

 

「なんで、怒らないの?」

「怒ってほしいのか?」

「そういうわけじゃないけど……」

 

 人使は入道雲のようにフワフワと揺れる白髪を見下ろしたまま、考え込んだ。

 

「おまえと一緒にいて、色々と分かった事があるんだよ。この世界は正確な領域もあるけど、ほとんどが……グレーなんだ」

 

 人間は善人と悪人に別れるわけじゃない。一人一人が良い面と悪い面、二つを有している。それは特殊な個性を持って生まれた頃から分かっていた事だった。だけど、この世界はその事実を認めない。ヒーローに対する世間の対応がその証左だ。世界は矛盾に満ちている、と人使は思う。じっくりと腰を据えて鑑賞すると、途端に世界の輪郭は曖昧になる。人の数だけ正解が違う。何が正しいか悪いか、人使だけでなくどんな人にも分からない中を、杳は必死にもがきながら進んでいる。

 

 ――誰の理解も賞賛も浴びる事なく、汚泥に塗れて進むその姿を、彼は尊いと思った。

 

 人使は小さな頬を両手で囲み、おでこをくっつける。相澤曰く、彼女の心が落ち着く仕草なのだそうだ。

 

「正直、キスはムカつく。けど、おまえの気持ちが変わってないなら、それでいい」

「……ッ」

「おまえの紐を持つ手が、還る場所が、俺でいいって思ってくれてるんなら……それでいいよ」

 

 優しくて甘く、ひりつくほど強い覚悟を秘めた声が、杳の鼓膜を通り過ぎて心の奥底まで染み渡る。杳は幼子が母親に甘えるように人使の胸に額を寄せ、しがみついた。小さな少女を抱き寄せて、人使は思う。――本当は杳の唇を奪った死柄木が許せない。殺してやりたかった。けれど、激情のままに暴れ出そうとする彼の本能を、金色の炎を宿した理性がそっと押し留める。

 

 人使はそれほどまでに杳を尊重し、大切に思っていた。それは親が子に注ぐような()()()()()に似ている。杳と人使は言葉もなく、見つめ合う。頼りなく泣きそうな少女の顔をいくら見つめても、本当の心は見えない。

 

 ――俺もおまえと同じだよ。嫉妬とヒーローとしての矜持と友情の間で、ずっと揺れてる。人使は杳の髪をそっと撫でた。失敗ばかりだ。嫉妬して突き放して、ひどく傷つけて、思いやったつもりが寂しい想いをさせて。肝心な時に傍にいれない。うんざりするほど遠回りして、振り出しに戻って。それでも、彼女はここにいてくれた。

 

 ()()()()()だ。強い力で拘束すると破裂してしまう。少しでも油断すると風に吹かれて、自分の手の届かないところまで舞い上がってしまう。糸が千切れないように、慎重にそっと手繰り寄せる事しかできない。

 

 今、彼女が何を考えているのかも分からない。それは彼女にとってもそうだろう。だけど、俺はおまえの味方だ。たとえおまえがどんな行動を取ったって、見捨てたりしない。それだけは分かってくれ。人使は祈りを込めて、杳の額にキスを落とした。薄い風船のような皮膚の内側に眠る心に、自分の想いが伝わるように。

 

 逞しい胸板に耳を押し当てると、どくん、どくんと人使の鼓動音が伝わってくる。世界中のどこよりも落ち着ける、最高の四つ打ちサウンドだ。杳は目を細めて涙を流し、微笑んだ。湯気が完全に消えてしまうまで、二人はずっとそうしていた。

 

 

 

 

 翌朝、杳達バンドパートはそれぞれの楽器を抱え、寮の二階に設けられた多目的ホールに集まっていた。バンドのポジションは、メインボーカル・ベースの耳郎、サブボーカルの杳、ギターの常闇と上鳴、キーボードの八百万、ドラムの爆豪だ。芦戸率いるダンスパートは寮前の中庭でレッスンを開始しており、瀬呂率いる演出パートは談話室で作戦を練っている。杳達の演奏する楽曲は”Hero too”、疾走感のあるロックテイストなポップミュージックだ。洋楽ではあるが有名なハリウッド映画の主題歌に起用された事で、年代問わず知名度は高い。

 

 杳が必死に譜面を読み込んでいると、耳郎が悪戯っぽい顔つきで耳打ちした。

 

Can you sing in English(英語で歌えるよね)?」

「……A little(ちょっとだけ)

「Nice!」

 

 耳郎はくしゃっと顔を綻ばせ、杳のフワフワ頭をかき混ぜた。物心ついた頃からプレゼント・マイクの発する英語に触れてきた杳は、好きこそものの上手なれの言葉通り、簡単な日常会話であれば対応できる程度の語学力を有している。耳郎は上質なスピーカーをスマートフォンに接続し、楽曲を再生した。誰もが知る名曲という事もあり、杳の体は自然とリズムを刻み始める。

 

 小さな声で歌詞を(そら)んじていると、目の前にアコースティックベースが差し出された。以前、耳郎が弾かせてくれたものと似ている。

 

「杳にはベースもやってほしいんだ」

「ええっ」

「ダブルベースかよ!音圧すごそー」

 

 上鳴が好奇の目を輝かせて杳を見た。――ベースは曲の(ボトム)を支える重要な役割を有している。低音域や重低音をベースが鳴らす事で、曲全体の締まりや厚みが与えられる。特にLive演奏の臨場感や盛り上がりは、ベース音の音圧が全身に響く事で生み出しているとされている。

 

 不安そうな顔でベースを抱える杳の姿を、爆豪が大いなる殺意をもって見つめた。――バンドのベースとドラムは、合わせて“リズム隊”と呼ばれている。ドラムのビートで音の強弱をつけ、ベースで音の長短を区切る事で、曲全体のリズムを支えるのだ。リズム隊の安定はバンド全体の実力に直結する。外したら殺すと言わんばかりの威圧(プレッシャー)に怯えていると、耳郎が勇気づけるように杳の肩を揺すった。

 

「一番根っこ……ルートとリズムを弾いてほしいんだ。杳ちゃんは初心者だし、コードも楽譜も限界まで易しくする。残りとフォローはウチがするから」

 

 複数の和音を同時に演奏する事を”コード”と呼ぶ。そのコードの最も低い音を”ルート音”と呼ぶ。ベースのルート音が、ギターのコードとコードの間を流れる事で、曲全体の調和が確立される。ギターやドラムのような華やかさはないが、ベースは必要不可欠な存在なのだ。杳は血の気の引いた顔でこくこくと頷いた。

 

 ――どちらにせよ、迷っている時間はない。もう文化祭まで一ヶ月を切っているし、平日からは怒涛の学業が待っている。満足に練習できる時間は土日しかない。我武者羅に眼前の課題に取り組み、どうしてもクリアできなければ次の策を考える。現状、それしか手立てはなかった。

 

 

 

 

 練習は早朝からノンストップで続き、深夜遅くまで続いた。”楽器の演奏と歌の練習”。いくら耳郎が簡略化してくれていると言えども、音楽の知識がまるでない杳にとっては至難の業だった。掠れた喉を酷使して顔を突き合わせ、耳郎と杳は何度も繰り返しメロディを紡ぐ。耳郎の声に引き摺られないよう、杳は片耳を押さえて必死に歌った。

 

 ボーカルはバンドの要だ。不協和音など聞かせては皆の心を興ざめさせてしまう。耳郎の美しい声を生かすも殺すも、自分次第なのだ。今にも重圧で押し潰されそうな杳の姿を見て、耳郎はふっと吹き出した。

 

「もうお開きにしよっか。明日から授業だし」

「……うん」

 

 時計を見ると、もう時刻は深夜一時を回っていた。気が抜けた途端、杳の口から大きな欠伸が溢れ出す。眠たげに目を擦る友人のつむじを、耳郎は静かに見守っていた。耳郎が杳をサブボーカルに抜擢したのは気まぐれではなく、三つの理由がある。一つ目は杳の声。少し掠れた舌っ足らずなソプラノボイスが、楽曲の雰囲気に合うと思ったから。二つ目は優れた均衡能力だ。自分と似た感覚を有しているのか、初心者にも関わらず杳は決してリズムや音程を外したりしなかった。三つ目は――。

 

 耳郎は大きく深呼吸をし、耳をそばだてる。彼女の聴覚は特別製だ。血流の流れる音、心音、内臓の動く音、呼吸音、そういったものを総合すれば、大まかにではあるが人の心情を聞き取る事ができた。

 

 杳が発しているのは、くぐもった音だった。卵の殻を破ろうと雛がもがいているように、繊細で弱々しい振動がイヤープラグを通して伝わってくる。以前に聴いた、優しく自信に溢れた音は鳴りを潜めていた。――()()何かあったのかな。覚束ない手付きで片付けを進める友人の横顔を、耳郎は掠めるように見た。

 

 耳郎は杳の事情を何一つ知らない。けれども、彼女自身や周囲の人が放つ音に耳を澄ませれば、真実の詳細(コード)までは行かなくとも、雰囲気(ルート)くらいは聞き取る事ができる。殻の中で途方に暮れている友人を救ける為、彼女は意を決して口を開いた。

 

「ウチ、家が音楽系の仕事しててさ。そっちの方面に進むか、ヒーロー目指すか、中学ん時すごく迷ってたんだよね」

 

 突然、耳郎が発した言葉に、杳は驚いて作業の手を止めた。恥ずかしがり屋の耳郎が初めて聞かせてくれた、心の音だ。杳は居住まいを正し、聞き入る事に専念する。耳郎はイヤープラグをしばらく弄んだ後、少し寂しそうに杳を見た。

 

「でも、ウチはヒーロー目指した」

「音楽は諦めたの?」

「諦めてないよ。()()()()()()

 

 心臓の辺りをトンと叩いて、耳郎は照れ臭そうに笑う。その笑顔が眩しくて、杳は思わず目を細めた。中途半端で、暗く泥だらけの道を往く事しかできない自分とはあまりにもかけ離れているように思えたから。不意に杳の中の意地悪な部分がむっくりと頭をもたげる。

 

「……もし、忘れちゃったら?」

「そしたらそれでいーじゃん」

 

 耳郎はあっけらかんと言い放つ。自らを鼓舞するように、彼女は再び胸を叩いた。まるでその中に、本当に夢が詰まっているかのように。

 

「心ん中にしまってるうちに忘れて、別の何かが夢になったら、それでいい。でも、ずーっと忘れられなくて、諦められないんなら……本当の夢ってことじゃん。いつかチャンスが来て、叶えられるってことだよ」

 

 ”今みたいにね”、と耳郎は朗らかに笑った。強く優しく、少し掠れた声が、杳の心にこびり付く()()()を根こそぎ奪い去っていく。

 

「あんたの夢は、分かんない。けど、きっとそれは捨てる必要のないものだよ」

 

 ――耳郎は何も知らない。自室のテーブルに置かれた免許証を思い出し、杳は唇を真一文字に引き結んだ。自分が抱いている夢がどれだけ悍ましく、また秩序を壊しうるものであるかを知らないから、手放しで応援してくれるんだ。だけど、不思議と杳はその言葉を信じる事ができた。きっと全てを知っても、彼女は変わらず自分の味方でいてくれる気さえした。彼女だけじゃない。たぶん、他の皆もきっと。

 

 鼻の奥がツンと痛くなる。熱くて塩辛い涙が一粒、頬を伝ってテーブルに落ちた。

 

「なんで、そんな風に言い切れるの?」

 

 涙混じりの声で問いかける。だけど、杳はもうその答えを知っていた。心に浮かんだその輪郭をなぞるように、耳郎は丁寧に笑って言葉を紡ぐ。

 

「信じてるから」

 

 

 

 

 それから日は飛ぶように過ぎ、いよいよ文化祭当日。杳達の演奏は体育館を丸ごと貸し切り、行われる次第となった。舞台裏で杳達は最後のチューニングに励んでいた。分厚いカーテンの向こうで無数の声が飛び交っている。だが、どれ一つとして明るい声はない。まるで蜂の群れのように一本調子で、不安と緊張をかき立てる低い音ばかりだった。

 

 杳はそわそわと落ち着かない様子で、周囲を見回した。頼みの綱の人使・焦凍はホールの天井付近に設置された制御盤の近くにいる為、励ましてもらう事はできない。やがてブザー音が高らかに鳴り響き、幕が上がった。仄暗いホールを埋め尽くすようにして、人がぎっしりとひしめいている。(おびただ)しい量の視線が杳に突き刺さった。幕が上がり切ると、まばらな数の拍手がパラパラと上がり、そして消えた。

 

 会敵した時とは全く違う種類の恐怖と緊張感が、杳を押し包んだ。頭が真っ白に漂白され、何も考える事ができない。――失敗できない。うまく歌えなかったら。音程を外したら。巨大な手の形をしたプレッシャーに今にも押し潰されようとした瞬間、耳郎がそっと呟いた。

 

「舞台が上がった。後は楽しもう!……大丈夫!」

 

 促されるまま、握った拳を打ち合わせる。杳だけでなく、耳郎の拳も大きく震えていた。一番最初に動いたのは爆豪だった。天井まで届かんばかりにスティックを振り上げ、豪快に振り下ろす。

 

「行くぞゴラアアアッ!!!」

 

 スティックが強化プラスティックの膜上を乱舞する。出し抜けに放たれた爆音に次ぐ爆音は、広大なホールの白けた空気を()()()()()。杳はきつく目を閉じて、感覚を集中させる。――ドラムはバンドの骨子だ。荒々しく、それでいて繊細なリズムが、楽曲の輪郭を象っていく。骨の髄まで響くような、そして歯の根が震えるような重低音がホール全体をグラグラと揺らした。それに続けとばかりに、上鳴・常闇・八百万が音色を奏でる。

 

 骨組みだけだった世界が、途端に華やかに色付いた。楽曲に込められた明るくキャッチーな世界観が、皆の心をグッと持ち上げる。一本一本の糸が合わさって美しい織物を創り出すように、全ての音が重なって一つの世界を顕現させてゆく。それが壊れないように、杳は弦をつま弾き、世界を包むバリアを張った。だけど、完璧じゃない。私だけじゃ持たない。壊れる。響香ちゃん。杳は縋るように耳郎を見た。彼女はマイクに顔を近づけ、大きく息を吸い込む。

 

「よろしくお願いしまあああすっ!」

 

 耳郎の大音声に呼応するようにして、杳達の背後から芦戸達が跳び出した。すぐさま奏でられた耳郎のコードが、杳の頼りないコードと手を繋ぎ、楽曲が織り成す世界をしっかりと安定させる。その瞬間、皆の耳と心は一気に楽曲の世界へ惹き込まれた。

 

 ――よかった。()()()。安心して滲みかけた視界に活を入れ、杳は息を吸い込んだ。二人が紡ぐ軽快な歌に合わせ、緑谷と青山が華やかなアクロバティックを決める。芦戸仕込みのブレイクダンスだ。ぴったりと息の合った動きに大きな歓声が上がった。青山が安心させるようにウインクしてくれたので、杳の気分はいくらか楽になった。彼はヒロイックポーズを決めた後、尾白の助けで舞台の天井近くまで舞い上がる。

 

「”What am I to be? What is my calling?”」

 

 観客の心に問い掛けるような耳郎の声に寄り添い、杳はメロディを重ねた。峰田がもぎもぎを大量にもいで、障子と共に舞台の中空目指して投擲する。二階席に控えていた瀬呂が大量のテープを射出した。深い葡萄色に煌めくボールと透明なテープが天上を余すところなく彩った瞬間、楽曲はサビに入った。

 

「”Hero too I am a hero too”」

 

 杳達の声を掻き消さず、且つ観客の衆目を一気に集める――そんな絶妙な力加減で、爆豪が凄まじい打音を放つ。同時に、焦凍の放った大量の氷雪がもぎもぎとテープを絡め取り、観客席の上空に氷でできた幻想的なランウェイを創り出した。

 

 八百万謹製のクラッカーから放出された大量のテープや紙吹雪が、爆破の風に煽られてキラキラひらひらと舞い踊る。天井から吊るされた青山が放つレーザーが、ホール全体を眩く照らし出した。爆破の放った熱風と焦凍の放つ冷風が混じり合い、心地良い突風が観客達の髪や肌をなぶる。その風は皆の心臓を掴んで、一気に高揚状態にまで引き上げた。

 

「”True heroes stand up for what they believe”……”So wait and see”」

 

 氷のランウェイを軽快に滑り、麗日を舌で結んだ蛙吹がやってくる。麗日に触れた観客達は皆、ふわりと宙に浮いた。切島がランウェイを走り回りながら氷の欠片を削り、大量のダイアモンドダストを降らせる。小さな氷晶は青山のレーザーに反射して、宝石のように輝いた。上鳴が麗日の個性を受け、勇敢にも空中ギター芸に勤しんでいる。飯田のロボットダンスに感銘を受け、涙が出るほど笑う者もいた。

 

 さながら妖精の粉を浴びた子供達のようにホールじゅうをフワフワと飛ぶ観客達は、人使と障子が頃合いを見てテープや捕縛布を巻き付け確保し、元の場所へ還した。その脇を、峰田が麗日達を引き連れて踊り狂う。

 

「”Am I doing right?  Am I satisfied?”」

 

 今やホールはそれぞれの放つ個性で七色に眩く輝き、溢れんばかりの歓声と興奮で満たされていた。――音楽は人の心を豊かにする、最も原始的なセラピーの一つだ。悲しく塞ぎ込んだ心を融かして柔らかくし、希望を注ぎ込む隙間を開けてくれる。気が付くと、杳の目に涙が伝っていた。

 

 脳内に大量分泌されているだろうドーパミンが作用している為なのか、単純に嬉しいのか感動しているのか、はたまた悲しくて泣いているのか。杳には分からなかった。見えない手で掴まれてシェイクされているかのように心臓が苦しくて、痛い。だけど、それはどこか心地の良いものだった。

 

「”People will judge for no reason at all”」

(君は何も考えず、ただ命令に従っていればいい)

「”Yea they might try To say your dreams dumb…don’t listen”」

(もう届かぬものに目を向けるな)

 

 大人達の冷静な声が耳にこだまする。現実はシンプルで残酷なものだと、杳は骨身に沁みている。何かを得るには何を捨てなければ。それでも――

 

(きっとそれは捨てる必要のないものだよ)

 

 ――兄を守る為に捨てた夢を、掬い上げてくれた。汗と涙でぐしゃぐしゃになった視界を乱暴に擦った時、ふと耳郎と目が合った。彼女は今にも泣きそうなくらいに眉根を下げ、でもとびきり誇らしげに笑ってみせた。今まで見た中で間違いなく、最高に可愛くてカッコイイ笑顔だ。

 

「”I have met so many heroes in my life”」

 

 花火が散り際にますます強く燃え盛るように、爆豪のドラムが激しくなっていく。――終わりが近づいていた。高揚状態のあまり、夢と現が曖昧になった杳の頭に、今までの記憶が走馬灯のように現れて過ぎ去っていく。間違えてばかりだった。胸を張って正解だなんて言える行動をした事なんて、一度もない。だけど、それでも、意味がなかった事だとは思えない。そう思えるのは間違いなく、目の前にいる皆のおかげなんだ。

 

「”Gave me the power to smile everyday”」

 

 指先が真っ白になるほど強くピックを握り締める。少しずつ勢いを弱めて、やがて手を振っているように優しい響きに変わった耳郎の声に、杳は懸命に寄り添う。――私も夢を捨てないよ、響香ちゃん。今まで皆に与えてもらったものを還すために。七色に輝く紙吹雪がホールじゅうに降り注ぐ中、杳は涙と汗を散らし、決意を秘めた(ことば)を放った。

 

「”Now it’s my turn to be the one to make you smile”」



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No.91 誘い

 Aバンド演奏後。祭りの後に漂う寂しさを振り切るように、杳達は撤収作業を開始した。派手な演出になるほど小道具は多くなる。撤去しなければならないものは山のようにあった。楽器や演出装置、焦凍が創り出した氷や八百万謹製の紙テープや吹雪……etc.

 

「杳ちゃーん!こっちー!」

「はーい」

 

 杳は八百万謹製の巨大チリトリを持って館内を走り回っていた。麗日や蛙吹達がホウキで集めた紙くずを回収し、廃棄する係に任命されたのだ。何度目かの往復を終え、杳は額に浮かんだ汗を拭う。

 

「皆さん、列を崩さずに、ゆっくりとお進みください!ご気分の悪くなった方は手を挙げて!」

 

 飯田のきびきびとした声が館内に響き渡る。彼の誘導の下、綺麗に整列した観客達が、出入口から少しずつ吐き出されていく。皆、憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をして、興奮のあまり大きく開かれた瞳には七色の輝きが宿っていた。青山が出したネビルレーザーの輝きを、杳は思い出した。皆が心からこの演奏を楽しんでくれたという証だ。

 

 去りゆく者の中には何度も名残惜しそうにこちらを振り返ったり、労いや感謝の言葉を掛けてくれる者もいた。

 

「A組!」

「オツー楽しませてもらったよ!」

「わっ!やったァ!あざっス!」

 

 切島が氷塊を削る手を止め、元気良く返事する。上鳴に小突かれた耳郎は、その数倍の力でもって彼の肩を叩き返した。痛みに悶絶する上鳴を見下ろす彼女のイヤープラグが、振り子のように大きく揺れている。きっと照れているのだろう。杳はくすぐったい気持ちになり、満タンになったゴミ袋の口を締めた。

 

 目を閉じると、あの時の光景が瞼の裏に蘇る。あんなに煌びやかで美しい場所に自分もいたなんて、本当に夢みたいだった。全力疾走した後のような充足感と心地良い疲労が今も尚、杳を包んでいる。いつも感じている劣等感や罪悪感はこの時ばかりは鳴りを潜め、本当に皆の一員になったような気がした。

 

 祭りの名残を味わうように、杳が鼻歌を歌いながらゴミ箱に向かっていると、氷塊をかき集めていた峰田が突如牙を剥く。

 

「歌う暇あったら片付けろ!片付けまでが文化祭だぞッ!」

「びっくりした……はーい」

 

 杳は肩を竦め、ゴミ袋を持ち上げた。演奏が終わった瞬間、峰田は鬼軍曹に豹変した。杳だけでなく、作業が疎かになっている者を発見しては一喝し、自ら見本を示すように──他者の追随を許さぬ凄まじいスピードで片付けを進めている。

 

 この体育館は本日A組の貸し切りで、急いで撤収する必要はない。それなのに”片付けまでが文化祭”なんて殊勝な事は言ってまで、皆を急かすなんて。もしや激しい音と光に脳が洗脳され、綺麗な峰田くんになったのだろうか。杳が大変失礼な事を考えながら作業を進めていると、切島がきさくな調子で声をかけた。

 

「峰田さっきからカリカリだな」

 

 その途端、峰田は氷塊が満載されたリアカーを持つ手を止め、血走った目で叫んだ。

 

「早くしないとミスコン乗り遅れるぞ!」

 

 ──そういうことか。女性陣の空気は氷点下まで下がり、一部の男性陣の作業スピードは大幅アップした。

 

 雄英にもミスコンは存在する。各学年の有志達が一所(ひとところ)に集い、互いの美を競い合うのだ。今でも定期的に自主練に付き合ってくれているミリオ先輩によると、波動先輩も出場するらしい。きっと綺麗だろうな。美しく着飾った先輩を見てみたい。杳はポケットにねじ込んだ文化祭のパンフレットを広げ、スケジュールを確認した。

 

 文化祭の日はもちろん、学業は休みだ。この片付け作業が終われば、閉祭時間まで杳達は自由の身だった。人使と焦凍を誘って行ってみようか。杳は二つ目のゴミ袋の口を縛りつつ考えて、やがて首を横に振った。人使が波動先輩に見蕩れる場面を見たくなかったからだ。悶々としていると、ポケット内のスマートフォンが小さく震えた。

 

 その瞬間、杳は()()()()を思い出した。演奏の緊張と高揚感ですっかり忘れていた。自分は今日、会わなければならない人達がいるのだ。峰田に追従するように猛然と走り回り始めた杳の姿を見て、蛙吹は不思議そうに首を傾げる。

 

「杳ちゃんもミスコンに行くのかしら?」

「ううん。友達が来てるの。逢う約束してるんだ」

 

────────

 

──────

 

────

 

 時を遡る事、一週間前。杳のスマートフォンに夢路から連絡があった。夢路は挨拶もそこそこに、嬉しそうに声を弾ませてこう言ったのだ。

 

(もうすぐ文化祭でしょ?私達、応援に行くからね)

(えっ?!)

 

 夢路曰く、雄英の警備の応援に向かうようC.C.(キャプテン・セレブリティ)の事務所に声がかかったとの事。今や事務所の”期待のエース”となったジェントルがサイドキックやスタッフと共に、日本にやって来るらしい。懐かしい母国を堪能しようと、ラブラバや夢路、壊理も同行するそうだ。

 

 ──雄英はアメリカの№1ヒーロー”スターストライプ”の最も尊敬するヒーロー、オールマイトが在学していた学校であり、憧憬を抱いているアメリカ国民が多い。また、”平和の象徴”が倒れた事で敵犯罪が増加し、社会の基盤が揺らいでいる日本はアメリカとの協力関係を密にし、今まで以上に強固なパイプラインを形成しようと試みていた。

 

 その先駆けとも言えるものが、この日米合同警邏なのだという。今回の文化祭は関係者以外は入れない閉鎖空間であり、第三者による余計な混乱を招く危険性が少なく、テストに最適な環境であるそうだ。念には念を入れ、日本人であるジェントルを始めとした日系ヒーローを派遣するらしい。

 

 日米の国際問題はどうあれ、懐かしい面々に会えると思うと杳の心は弾んだ。恥ずかしそうに演奏する旨も伝えると、夢路はまるで自分の事のように喜んでくれた。グッと握り締めた拳を見せ付けつつ、鼻息荒く捲し立てる。

 

(三脚持ってくわ!)

 

 

 

 

 そして時は現在に戻る。夢路からのREINメッセージによると、今彼女らは軽食エリアにいるそうだ。一部の経営科と普通科が合同で、種々様々なフードを屋台形式で提供しているらしい。大きなバルーンでできたアーチをくぐると、徐々に賑やかな声と食器の触れ合う音、何かの焼ける音や食欲を搔き立てる香りが漂ってくる。杳はソワソワしながら指定の場所へ向かった。

 

 ──演奏時は緊張し過ぎて周りを良く見る余裕はなかったけれど、一体夢路達はどう思っただろう。楽しんでくれただろうか。軽食エリアの中心部には広々としたテントが張られており、購入者はその下に並べられたテーブルに着いて食事を摂る事ができた。昼前という事もあり、なかなかの賑わいだ。

 

 杳はキョロキョロと周囲を見回し、やがてあるテーブルの一画に釘づけとなった。あの一画だけ、英国風の雰囲気が醸し出されている。三段重ねのティースタンドにきゅうりのサンドイッチやケーキ、スコーンが上品に盛り付けられ、それを囲うように三人の女性が座っていた。林檎ジャムでベタベタになった壊理の口周りを、夢路がティッシュで拭っている。たっぷりとした赤い髪をツインテールにしたラブラバはカップを傾ける手を止め、杳に手を振った。

 

「遅いじゃないの!先に始めちゃったわ」

「み、皆……久し振り!」

 

 元気そうな皆の顔を見ると、杳の胸の奥から熱いものが込み上げてきた。興奮のあまり掠れた声でなんとか言葉を紡ぐ。夢路と壊理は揃って振り返ると、くしゃっと猫のように目を細めて笑った。──親しい関係性にある者同士は仕草が似るのだという。二人の笑顔はよく似ていて、そしてとても素敵だった。

 

 椅子から降りて駆け寄ってきた壊理を抱き留める。陽だまりの匂いがした。会えて嬉しいはずなのに、杳は心臓が握りつぶされたように痛んで、泣き出したい気持ちになった。だが、それはどこか心地の良いものだった。しばらくそのままでいると、壊理は体を離して微笑んだ。ふっくらとした幼い顔は日に焼けている。

 

「久し振り、杳ちゃん」

「うん。元気そうだね。すっごく可愛くなった」

 

 零れ落ちそうなほど大きな瞳、白磁のように白い肌、彫りの深い顔立ち。フリルがたっぷりとあしらわれたワンピースとセットアップのポシェットを身に着けたその姿は、まるで美しいビスクドールのようだった。壊理ならきっと──あるとすればの話だが──アメリカのミスコンで一位を獲れるだろう。

 

 あんまり熱心に杳が見つめているので、壊理は恥ずかしそうに身を捩った。それからおもむろに大きく首を振り、溢れる感情を体現するかのように頬を上気させて瞳をきらめかせ、小さく握った拳を振りかざす。

 

「杳ちゃんも可愛かったよ!みんな、カッコ良くてキラキラで、体の奥までドンドンってなって……わたし、わああってなっちゃった!」

「あ、ありがとう」

 

 純真な子供の声援を受け、杳は思わず赤面してもごもごと口籠った。

 

「あら、オシャレじゃない。あたしとジェントルに似て」

 

 舌っ足らずなソプラノトーンが振ってきて、杳は顔を上げる。ラブラバが腰に両手を当て、杳を覗き込んでいた。その瞳は()()()を注視している。ラブラバの特徴は目の周りを囲むアイラインのような隈だ。よく見ると、彼女は隈を隠すのではなく惹き立てるようにシャドウとラメを散りばめていた。陽を受けて桃色に輝くそのメイクは、ラブラバのトラッドな雰囲気に合っている。杳の視線に気づくと、ラブラバは小首を傾げた。

 

「何?」

「そのメイク。素敵だね」

「ああ、これ?流行ってるのよ。今度HeroTokの動画、送ったげるわ」

 

 なんでもない事のように、そして少しだけ誇らしげに、ラブラバは笑った。人種のサラダボウルと称され、多様な文化・価値観が独自に息づくアメリカでは、隈やそばかすから始まり、果ては異形の容姿までをコンプレックスではなくチャームポイントとし、あえて目立たせるメイクが流行しているらしい。

 

 雄英はメイクを禁止していない。今度、人使にも教えてあげようかな。杳は嬉しくなって自分の隈を擦った。動画を頼りにやってみたが大失敗し、人使にメイクをしてもらう未来が到来するとは、まだこの時の杳は知る由もなかったのである。ラブラバは勝ち誇ったような顔をして鼻を鳴らした。

 

「まぁ、ジェントルの方が気品と紳士的な雰囲気が相まってずっとずっと素敵なんだけどね。実はあの隈は私の──」

「──コンプレックスを汲み取った愛の証!」

 

 ラブラバの陶然とした声と、夢路のうんざりした声がハミングする。二人は同じ事務所で働く仲間だ。きっと耳にタコができるほどこの話を聞いているのだろう。もはや鉄板ネタなのか、壊理は臆する様子もなくころころと笑っていた。

 和やかな雰囲気で、杳達はテーブルに戻った。電話だけでは話せない事、いつかあったら言おうと思っていた事、沢山ある。生徒達が腕によりをかけたアフタヌーンティーセットで、杳達は極上の女子会(ティータイム)を過ごした。

 

「これはねクロテッドクリーム。ジャムと一緒に食べるの。はい杳ちゃん」

「ありがとう」

 

 杳が小さなガラス容器に入った乳白色のクリームを物珍しげに眺めていると、壊理が小さめのスコーンにそのクリームをたっぷりと載せた。さらに林檎ジャムを同じ分量付けて、杳に渡す。ホイップよりこっくりとしたクロテッドクリームと甘酸っぱいジャムは、焼きたてのスコーンに良く合った。

 

 ジャムとクリームでベタベタに汚れた杳の口を壊理が得意げに拭き、壊理の口を夢路が苦笑しつつ拭う。話が一段落した女子達が紅茶をお代わりし、Aバンドの動画を見直していると、ふと頭上に影が差した。

 

「やあ」

「ジェントル!」

 

 真上から照らす太陽が、スポットライトのようにジェントルの姿を照らし出す。彼はまた体格が一回り大きくなったようだった。オールマイトを彷彿とさせる、優しく力強いオーラが体の内側から発散されている。かつて彼が小悪党だった事を匂わせるような影は、もうどこにも見当たらなかった。──彼は夢を実現し、そしてさらなる高みへ今も昇り続けているのだ。そのあまりの眩しさに、杳は目を細めた。

 

 ジェントルは愛する姪っ子にするように、杳の頭をかき混ぜた。見る者全てに安心感を与えるヒロイックスマイルを浮かべると、首に下げたICカードを振ってみせる。

 

「実に魅力的なティータイムだが……生憎警邏中でね。微力ながら尽力する所存だ」

「ありがとう」

 

 アメリカは日本とは比較にならない規模の敵事件が発生する。ジェントル達の本拠地(ホーム)はあくまでアメリカである為、任務が終わり次第、とんぼ返りする手筈になっていた。懐かしさを噛み締める時間もない。ジェントルは少し湿っぽくなった空気を茶化すように周囲を見回すと、気取った仕草でお辞儀をしてみせる。

 

「私がいる限りこの学園に敵は近づけさせない。()()()()()に乗ったつもりでいたまえ」

「きゃあああっ、ジェントルジョーク面白い!」

 

 ラブラバは黄色い歓声を上げ、大いに受けた。鈴を転がすような笑い声が一人分だけ、テーブル上に響き渡る。次の瞬間、ラブラバは愛らしい瞳を歪め、鬼の形相で杳達に迫った。

 

「ちょっとここ笑うところよ」

「ひっ」

 

 ジェントルは怒れるラブラバをなんとか宥め、警邏に戻った。愛が強すぎるのも考えものである。

 

 ──夢路はAバンドだけでなくB組の演劇も動画に撮ってくれていた。準備期間中、物間達が本格的なドラゴンの模型を創っていたのを見かけたので、杳が録画をねだったのだ。さすがは物間率いるB組というべきか、マイクがなくとも台詞が朗々と響き渡り、プロ顔負けの演出技術と相まって素晴らしい劇だった。あらゆる名作映画の良いところだけを抽出し結晶化させたようなストーリーを、壊理と一緒にタブレットで鑑賞していると、ふと夢路がぐいと顔を近づけて悪戯っぽく笑う。

 

「で、あんたのカレシは?なんで連れてきてくれないわけ?」

 

 杳は飲んでいた紅茶を盛大に吹き出した。いくら親しい間柄とは言えど、他者に面と向かって恋人を紹介するのは気恥ずかしかったのだ。人使には友人に会いに行くとだけ伝えている。彼は杳の連絡が来るまでの()()()()に、焦凍と自主練をするらしい。

 

 噂をすれば影が差すとはよく言ったもので、軽食エリアの始まりを示す風船アーチの向こうに、見知った紫髪が近づいて来た。運動服に着替えた焦凍と何かを話しながら歩いていたが、杳の視線に気づくと一度立ち止まる。それからその周囲にいる夢路達に軽く会釈をし、立ち食いソバの屋台の暖簾をくぐって中に入った。湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしている杳を、夢路達が生温い笑顔で包囲する。

 

「どっち?ダーティなイケメン?正統派イケメン?」

「ダーティな方……」

 

 杳が消え入りそうな声で応えると、夢路はからかうように杳の肩を小突いた。

 

「ちょっと良い男じゃなーい。離しちゃダメよ、エリート一直線なんだから!」

「ジェントルには遠く及ばないけど、いいんじゃない?」

「ラブラバさんそればっかり」

 

 ラブラバの言葉を壊理が混ぜっ返す。いざ自分の恋人を褒められると、杳は自分の事のように嬉しく思った。まるで羽毛でくすぐられているみたいに、心臓がくすぐったくてむず痒い。小さな背中を丸めてもじもじと両指を弄る杳の肩をしっかりと掴んで、夢路は真剣な表情で釘を刺した。

 

「胃袋がっしり掴むのよ!今度家庭料理教えたげるから」

「う、うん……?」

 

 返事をしたはいいものの、実際、胃袋を掴まれているのは()()()だった。今だって彼女の自室にある小型冷蔵庫には──給食を食べ逃したり小腹が空いた時用に──人使お手製の常備菜がぎっしり詰まっている。

 

 だが、杳は想像する事が得意だ。目を閉じてイマジネーションの世界に入る。キッチンに立ち、人使に手料理を振舞っている光景を思い浮かべてみた。──なんだか新婚さんみたいだ。気の早すぎる感想に杳はますます顔を赤らめ、きゅうりサンドを丸ごと口の中に押し込んだ。

 

 

 

 

 夢路達と別れた後、杳はサポート科エリアへ足を向けた。(くだん)のエリアはマップを確認せずとも分かる。風に乗ってオイルの匂い、機械の駆動音が聴こえてくるからだ。金属で創られた小高いアーチにはホログラムディスプレイが沿うように浮かび、”サポート科へようこそ”という見出しが躍っている。

 

 中は別世界だった。地面には足の踏み場もないくらい無数のチューブが走っており、その下には電子回路の走る強化ガラス製の床が敷き詰めらている。行き交う人々の頭上には、いくつものドローンやホログラムディスプレイがフワフワと浮いていた。──まるでSFの世界に迷い込んだようだ。

 

 サポート科の生徒一人一人にブースが設けられ、自慢の発明品を展示していた。興味深そうにそれらを覗く企業人の群れを擦り抜け、杳は最も大きくて目立つマシンを目指した。見上げる程に巨大な球形ロボットが鎮座している。その直下に控えているのは、やはり発目だった。いつも通りのラフな服装にスパナを握り締め、愛おしいベイビーを撫でながら、目をキラキラと輝かせてスーツ姿の老紳士と話し込んでいる。

 

(他の科が注目を浴びるのが文化祭)

 

 ふと相澤の声が、杳の脳裏に響いた。文化祭は発目達にとって貴重なアピールチャンスだ。皆、真剣な表情をして機械を弄ったり、来訪者と話をしたりしている。──また後で来よう。単純に遊びに来ただけの自分はなんとなくその中に立ち往ってはいけない気がして、杳はくるりと踵を返した。

 

「君、少し待ちたまえ」

 

 冷静な声が咎めるような響きをもって飛んできたのは、その時だった。思わず振り返ると、癖のない長髪を垂らした痩身の男がこちらを見つめている。君、というのは自分の事なのだろうと杳は推測した。男はこちらを凝視したまま、発目と話し込んでいる男に耳打ちする。すると、男は会話を上手に切り上げ、振り返って人好きのする笑みを浮かべた。その顔に杳は見覚えがあった。

 

 デトネラット社の社長、()()()()()だ。柿色の髪を整髪剤でまとめ上げ、鋭角に尖った鷲鼻が特徴的な老紳士だった。──デトネラット社は国内トップシェアを誇るライフスタイルサポートメーカーで、国内でも有数の企業の一つだ。マスメディアを介したコマーシャルや通販番組には必ず登場するので、杳のみならず全国民がその姿を周知している。

 

 四ツ橋は杳の緊張を解こうとしているのか、ますます人の良さそうな笑みを深めた。

 

「ヒーロー科、一年の白雲杳くんだね?噂はかねがね……お逢いできて光栄だ」

「え、あ、はい」

 

 四ツ橋は洗練された仕草で自らの立場を証明し、杳の手をそっと取って握手した。噂とは動画の事だろう。杳はおっかなびっくり握手に応える。──事件から一ヶ月以上が経過した今、杳に興味を示したりファンだと豪語する者はほとんどいなくなっていた。人とは熱しやすく冷めやすい生き物なのだ。

 

 久々の好待遇に泡を食い、救けを求めて発目を見るが、彼女は新たな来訪者と熱心に話し込んでいた。そもそも杳が来ている事すら気付いていない可能性が高い。進退窮まった杳はおずおずと四ツ橋の瞳を見上げた。その瞬間、二人の双眸が交錯する。

 

 初めて会うはずなのに、四ツ橋の瞳の奥には()()()()()が満ちていた。ただの興味本位や社交辞令ではない、心から杳に関心を抱いている目だった。その強い眼差しに、杳は魅入られた。まるで子供の手を離す親のように名残惜しそうな仕草で、彼は杳の手を離す。

 

「年甲斐もなくはしゃいで申し訳ない。あの動画を見て以来、君のファンになってしまってね」

「ありがとう、ございます……」

 

 杳は体じゅうの熱が顔に集まって来る気配を感じ、思わず俯いた。社交辞令かもしれないけど、好意を向けられると誰だって嬉しいものだ。だけど、それは自分一人の力じゃない。杳は羞恥心を堪えて顔を上げる。

 

「私があの時戦えたのは、チームIDATENの皆さんと、何より明……発目さんの力があったからです。他にも沢山、救けてくださった方々がいて」

 

 拙い口調で話し続ける杳の言葉を、四ツ橋はにこにことした笑みを絶やさず、聞いてくれた。彼の傾聴力は巧みだった。人見知りな杳が何でも話せてしまうような柔らかい態度を笑顔にまとわせ、それとなく質問して話の範囲を広げ、当時の杳の気持ちをしっかりと受け止めてくれる。たった数分間の会話で、杳が彼の前に立てていた心の壁は容易く砕け散った。

 

 ──善い人だ。杳が明らかに警戒を解いた瞬間、狙いすましたように痩身の男が四ツ橋に耳打ちする。彼は残念そうに眉根を寄せた。

 

「困ったな。もっと話を聞きたいのに」

 

 杳も同じ想いだった。善人だろうと悪人だろうと、一本筋の通った人間は他者を魅了する。杳は四ツ橋に魅了されていた。彼ならば、()()()()も否定せず聞いてくれるような気さえした。

 

 しかし、彼は今を時めく大企業の代表取締役だ。サポート科でない杳は、元々会う機会すらなかった。今が奇跡のようなものなのだ。曖昧に笑って別れの挨拶のタイミングが来るのを待っていると、突然、四ツ橋は手をポンと打ち合わせた。それから傍らにいる男に声を掛ける。

 

()()()の空きはまだあったかな?二人分ほど」

 

 痩身の男は苦虫を噛み潰したような表情で、小脇に抱えた電子端末を操作した。数秒後、端末の脇にある挿入口からカードが二枚、続けて吐き出される。まとめて渡されたカードは薄く透明な強化プラスチックでできていた。埋め込まれたICチップが日光を反射してキラキラと輝く。表面に印字された仰々しい文面を、杳は緊張のあまり震える指先で辿った。

 

 それはデトネラット社・創業感謝祭の招待状だった。開催日は今から一ヶ月後となっている。──特別扱いされると、人は誰だって嬉しいものだ。四ツ橋の行動は杳のボロボロに傷ついた自尊心を癒し、掬い上げるものだった。優しい笑みを深め、彼は言葉を紡ぐ。

 

「来月一日、当社は創業四十周年を迎える。その記念すべき式典に君達も同席願いたいのだが、どうだろう?」




鬼滅の刃面白すぎる。劇場版?って思うくらいアニメの迫力が凄い。

8期は勢いで書く‼派手にいくぜっ‼
いつもこのSSをお読みいただいて本当にありがとうございます。


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No.92 創業祭①

※ご注意:作中にR-15的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 来たる創業祭当日、早朝五時前。杳はアラームが鳴るよりも早く目覚め、ベッドからむっくりと体を起こした。

 

Time to get up, sleepyhead(起きる時間だぜ、ねぼすけ)!Tim──』

 

 数分後、時間通りにご機嫌なヴォイスを鳴らし始めたスマートフォンを取り、停止ボタンをタップする。再び、室内に沈黙が満ちた。杳は不機嫌そうな顔をこすってベッドから起き出し、冷蔵庫を開けて、一番手前にある大きめの保存タッパーを掴んだ。ドアノブを回し、部屋を出る。

 

 ──創業祭の行われる京都の名部(なぶ)市は、新幹線に二時間程度乗れば到達できる距離だった。開催時間は十時~十七時までで、現在は朝の五時。比較的余裕のある起床時間に思えるが、万が一にも交通遅延があっては困るので、杳達は予定より早めに出立するつもりだった。

 

 ギリギリに到着して気を揉むより、早めに着いて時間潰しをしている方が精神衛生上良い。昨日の夜、リュックの中身を詰め替えながら人使にそう告げると、彼は就寝前に自室を訪れ、このタッパーをくれたのだった。

 

 

 

 

 日曜日の早朝という事もあり、談話室に人はいなかった。タッパーの蓋を開けると、中にはラップに包まれた味噌玉が一つ、それから小さな陶器皿に入ったおかずが三種並んでいる。味噌玉の上にはメモが貼られていた。人使らしい几帳面な筆跡で”頑張れ”とだけ書かれている。

 

 ──()()()()だと杳は思った。おかずはほうれん草の胡麻和え、五目豆、ごぼうと牛肉のしぐれ煮だった。しぐれ煮の端っこにはアルミホイル容器が詰め込まれ、沢庵が数切れ入っている。

 

(胃袋掴むのよ)

 

 夢路の言葉が、杳の耳朶を打つ。掴める日など来るのだろうか。あまりに卓越した人使の料理スキルに舌を巻きつつ、杳は食器棚を開け、共有のお椀とご飯茶碗を取り出した。

 

 味噌玉をお碗に入れて、電気ポットから湯を注ぐ。透明な湯が見る間に茶色く濁り、ねぎと乾燥わかめ、油揚げが湯気の立つ水面にふわりと浮かんだ。心の落ち着く素朴な香りが鼻孔をくすぐる。杳はご飯茶碗に山盛りご飯を注ぎ、テーブルに着いた。

 

「いただきます」

 

 しぐれ煮には牛肉がたっぷりと入っていた。甘辛い味で煮つけてあり、自然とご飯が進む。

 

 やがて心もお腹も満タンになった杳は、食器を片付けて部屋に戻った。クローゼットを開けて、冠婚葬祭用に取っておいた新品の制服を取り出す。

 

 ──招待状に服装規定(ドレスコード)の記載はないが、杳達は無難に制服で行く事にした。糊のきいたシャツは動く度にパリパリと音を立て、少しごわついた。普段愛用しているマイクデザインのリュックではなく指定のスクールバックを肩に下げれば、準備は完璧だ。

 

 姿見に映った自分は見知らぬ新入生みたいだった。ふと入学したばかりの頃を思い出す。半年前の記憶が、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。

 

「よし」

 

 だが、感傷に浸っている暇はない。小さな頬を叩いて雑念を追い払い、杳は部屋を出た。玄関先で靴紐を結んでいると、ガチャリとドアが開く。杳は顔を上げ、間の抜けた声を上げた。

 

 ──人使だった。全力疾走してきたのか呼吸は荒く、全身がしっとりと汗で濡れている。人使は杳を認めた瞬間、こわばった表情を弛緩させた。”間に合った”、声にならない独り言が薄い唇から零れ出る。

 

「気を付けてな。先方に失礼のないように」

「……うん」

 

 その瞬間、杳のワガママモードが発動した。一番安心できる顔を見た途端、()()()()()の事が脳裏をよぎり、心細くなったのだ。杳は下ろしたてのスカートを摘まみ、むずかる子供のように俯いてもじもじとした。文化祭から今に至るまでの記憶が脳内にぶちまけられ、不可思議なコラージュを形成する。気が付くと、杳は口を開いて──

 

「行ってらっしゃいのチューは?」

 

 ──拗ねた口調で、とんでもない駄々を捏ねていた。しばらくして、杳はハッと我に返る。何を馬鹿な事を。そもそもお出かけ前のキスなんて今までした事もないじゃないか。真っ赤になって自分を責めるが、一度口に出した言葉を取り消す事はできない。

 

 人使はこちらを凝視したまま、黙りこくっている。紫色の前髪から汗が滴り落ちた。()()()()。杳は居た堪れなくなって、ますます深く俯いた。まだ胃袋も掴んでいないのに、こんな調子では今に愛想を尽かされてしまう。急いで顔を上げ、さっきの妄言を取り消そうと息を吸い込んだ。

 

 けれど、肺に取り込んだ酸素は言葉を作る間もなく押し出された。──目の前に人使の顔があったからだ。彼の体表から発散される熱と強い匂いに当てられて、杳は頭がクラクラした。酩酊状態になった杳の顎を掴み、人使は軽く柔らかなキスを送る。そして頬を薔薇色に染めてぼうっとする杳の頭を優しく撫ぜた。

 

 本当は抱き締めてやりたいというのが、人使の本音だった。抱擁しながら頭を撫でるのが、杳の精神を一番安定させるコミュニケーションだからだ。しかし、自主練直後の汚れた体で、下ろし立ての制服に触れる事は(はばか)られる。人使は両手の代わりに優しい声を出し、恋人の心を抱き締めた。

 

「何食べたい?作っとくよ」

「……オムライス」

「ん」

「旗も立てて。マイクのやつ」

「はいはい」

「あとケチャップで猫ちゃn ──」

「分かったから早よ行け」

 

 堰を切ったように流れ出すワガママトークを強引に締め切って、人使は杳の背中を軽く押した。つんのめってたたらを踏んだ杳は、ドアノブに手を掛けた後、振り返る。あどけない笑顔を浮かべ、彼女は人使に手を振った。

 

「行ってきます!ヒトシだいすき」

 

 まるでバズーカでゼロ距離射撃されたような凄まじい衝撃が、人使の心臓を貫いた。目を閉じて深呼吸し、今にも笑い出しそうに引き攣っている口角を鎮静化する。エビフライとプリンもつけて、お子様プレートにしてやろう。そう思って立ち上がった瞬間──

 

 ──()()()()()()が人使の脳を通過し、消えた。さっきの感情は一体、何だ?発生源の不明な激情ほど不気味なものはない。首元に手をやり思案に沈んでいると、今度は不愉快な甲高い声が背中に突き刺さった。

 

 振り返ると、瀬呂と上鳴が靴箱の影から上半身を出し、ニヤニヤ笑っている。二人は握り拳を頬に当ててぶりっこのポーズをし、体をくねらせながら裏声で言った。

 

「俺にもオムライス作ってぇ~ん」

「ひとしだぁいすき!ちゅっ」

「殺すぞ」

 

 かくして三人の生死を賭けた鬼ごっこが始まった。早くも捕縛布の餌食となった上鳴を見た途端、瀬呂はテープを応用した立体的機動を展開し、本気の逃走モードに入った。そんな彼を駆逐するべく追いかけている内に、人使はいつの間にかそういった感情を抱いた事すら忘れてしまった。

 

 

 

 

 

 発目との待ち合わせ場所は雄英バリア前だった。東の空から滲むように広がる朝焼けが、武骨な門扉を今だけ優しい色へ塗り替えている。杳は急ぎ足でバリアをくぐり抜け、そこで待っている少女を見るなり、口をあんぐりと開けて立ち竦んだ。

 

 見目麗しい少女がそこにいた。()()だった。折り目正しく制服を着こなし、愛用のゴーグルをヘアバンドのようにしてドレッドヘアをまとめている。いつものラフな服装を止めるだけで印象はこんなにも変わるものなのだと、杳は目を瞬かせた。目鼻立ちのはっきりした容姿と女性らしい丸みを帯びたボディラインは、異性だけでなく同性から見ても魅力的だ。

 

 やがて杳の視線に気づいたのか、発目は電子端末を弄る手を止めてこちらを見た。

 

「お、おはよー明ちゃん」

「おはようございます。行きましょうか」

「うん」

 

 二人は徒歩で最寄り駅まで向かい、(あらかじ)め購入しておいた新幹線の切符を通してホームに並んだ。定刻ぴったりに滑り込んだ新幹線に乗り、指定席に腰を下ろす。

 

 杳はバッグを足元に置き、隣を見た。発目の意識は雄英バリア前で合流してから今に至るまで、ずっと手元の電子端末へ向けられている。だが、時折交わされる杳との会話に支障はなく、道中、人にぶつかったり障害物につまづくといったような失態も冒さなかった。器用なものである。

 

 ──そんなに面白いのかな。杳はつい好奇心に駆られて電子端末を覗き込んだ。けれど、そこには、杳では到底理解できそうもない難解な文字や図形が大量に表示されているだけだった。

 

「何してるの?」

「ベイビー達のシステム構築です」

「熱心だね」

「杳さんも戦闘訓練するでしょ?それと同じですよ」

 

 発目は何気ない口調でそう応えて、システムの試運転を開始した。だが、システムは開始早々、原因不明のエラーを起こして停止する。発目は落胆するどころかますます目を輝かせ、猛烈な勢いでキーボードを叩き出した。

 

 やがて新幹線が走り出すと、車両のあちこちで缶のプルリングを引き上げたり、弁当を広げる音が聴こえてきた。

 

 杳はバッグからカップ状のお菓子を取り出し、蓋を剥がし開ける。中にはじゃがいもをスティック状にして揚げたスナックが詰まっていた。スナックを摘まんで発目の口に近づけると、彼女はぱくりと食いついた。

 

 食べ終わると発目は口をわずかに開け、次のスナックを待つ。その様子があまりにも愛らしいので、杳は小さく吹き出した。先月訪れた動物園のふれあい牧場で遊んだモルモットにどことなく所作が似ている。段々面白くなってきた杳は、発目が満腹を訴えるまでスナックを食べさせる事に終始したのだった。

 

 

 

 

 新幹線が発車してから一時間が経過した。退屈しのぎにネットサーフィンをしたり、新しいお菓子をつまんだり、急な不安に駆られてデトネラット社の会社概要を血眼で暗記し始めたりしている杳の傍らで、発目は他の何かに気を取られるわけでなく、ずっと電子端末にかじりついていた。

 

 ──驚異的な集中力だ。プロヒーローチップスの袋を開けながら、杳は羨望の思いに駆られた。同い年なのに頭の中はまるで違う。

 

 発目が創ってくれた七つ子たちはどれも強力で、設計された擬似個性を忠実に体現していた。ベイビーズの献身がなければ自分は今、ここにいないだろう。荼毘の蒼炎から自分を保護してくれた()()()()()()を思い出し、杳は感慨深い気分に浸った。友情と尊敬の入り混じった灰色の瞳で、キーボードを叩き続ける友人を眺める。

 

「明ちゃんってホントにすごいよね。アイテムはどれも強力で使いやすかったし、シールドも」

 

 突然、キーボードを打つ手が止まった。うるさかっただろうか。杳はハッとして口を噤んだ。しかし、こちらを向いた発目の顔は怒ってなどいなかった。電子端末をスリープ状態にさせると不思議そうに首を傾げ、ドレッドヘアをかき上げる。

 

「何の事ですか?私、どのベイビーにもそんな機能つけてませんけど」

「えっ?でも、ちゃんと発動したよ。私の事、守ってくれたもん」

 

 杳は首を横に振り、言い募った。今でも克明に思い出せる。複雑なハニカム構造を成した球体状のフォースフィールドを。あのシールドがなければ、杳はその場で丸焼きになり、焼死していたはずだった。

 発目はしばらく怪訝そうな顔でブツブツと呟いていたが、突然大きく息を飲み、猛烈な勢いで電子端末を抱え込んだ。

 

「システムのバグ?アイテムの組み合わせ?法則性があるなら……」

 

 完全に自分の世界に入ってしまった発目をよそに、杳は白髪頭に手をやり、深く考え込んだ。あのシールドの発生原因がアイテムによるものではなかった場合、ある一つの可能性が浮かび上がってくる。

 

 ──荼毘との戦いで微量に回復した自分の個性が、さらに修復され、成長している()()なのだとしたら。得体の知れない高揚感が爪先から頭の天辺までを一直線に駆け抜け、小さな体をぶるりと震わせる。

 

 結局、発目はその場でできる限りの調査を行ったものの、原因は不明のままだった。杳は早速、好奇心と期待の赴くままにチャレンジしてみる事にした。人気のないホームで中空にかざした両手に力を籠め、集中する。

 

「ふん!ふん!」

「何してんですか」

「……いや、何でもない」

 

 しかし、いくら脳内にイメージを強く思い描いても、シールドが展開される事はなかった。発目と車掌が一緒になって送る冷たい視線をたっぷり味わいながら、杳は頬を真っ赤に染め、両手をポケットに突っ込む。現実は無情だった。

 

 ──こと自分に限っては、期待というのは裏切られるためにあるのかもしれない。杳は自虐的な気分に浸り、スカートの内ポケットにしまった免許証を取り出した。身を切るような寒さと共にやって来た朝陽を受け、それは白々しい輝きを放つ。

 

────────

 

──────

 

────

 

 時を遡る事、数週間前。文化祭から一週間が経過した頃、杳は公安委員会より召集を受けた。まだ日の高いうちに学舎を出て、目的地へ向かう。西日に照らされた白亜の建物を見ても、杳の気持ちが浮かぶ事はなかった。行き交う職員達の無機質な視線に晒されつつ、エレベーターに搭乗して最上階のボタンを押す。

 

 深いワイン色のカーペットは分厚く、踏み込む度に足が沈んだ。──このまま動けなくなればいいのに。そう願うも、残念な事に自分の足はそこまで非力ではない。小さな両足は難なく顧問役が常駐する部屋まで主を運んだ。観念した杳は木製のドアノッカーを叩き、了承を得てから入室する。

 

(失礼しま……)

 

 だが、その言葉は途中で潰えるようにして、消えた。思いも寄らぬ人物を見つけたからだ。顧問役の影に控えるようにして、()()()()が佇んでいる。戸惑う素振りを見せた杳を気遣うように、塚内は柔らかい笑みを浮かべて挨拶した。

 

 ──何故、塚内警部がここにいるのだろう。今までだったら気にもならない事が、今日は妙に気になった。

 

(揃ったな。掛けてくれ)

 

 顧問役の冷たい声で、杳は我に返った。頭を小さく振り、頭の隅に雑念を追いやる。ぼうっとしている暇はないのだ。兄を守ると決めた以上、任務を果たさなければ。ソファーに座ると、向かい側に塚内、上座に監視役が座った。監視役の目配せを受け、塚内はバッグから書類を取り出し、机上に置いた。クリップで束ねられた分厚い紙束の表面には、見覚えのある言葉が印刷されている。

 

 ──”異能解放軍”。杳は困惑した表情で塚内を見上げた。

 

(少し話は遡るが……神野事件以降、違法な戦闘用サポートアイテムの流用が激化した事は知っているかい?)

 

 塚内の言葉に、杳は頷く。──サポートアイテムは多種多様な個性が崩した”ヒトの規格”をある程度まで修復、改善する役割を担っている日用品の一つだ。その内容は実に様々で、遠くを見る時だけ使用するメガネのように気安いものもあれば、それがあってこそ日常生活を送る事ができる医療機器のような大役を有するものもある。

 

 世代を経る毎に個性が複雑・多様化する現代において、サポートアイテムの需要は増していく一方だった。不要な事故や事件を防ぐのが目的なのだろう、政府もサポートアイテムの使用を推奨している。

 

 だが、それが()()()となれば話は別だ。原則、個性を使って戦う事が許されているのはヒーローのみ。免許を持たざる者が戦えば、それは押しなべて違法となる。神野事件以降、全国の犯罪発生率は激増した。敵が増えれば当然、サポートアイテムも増える。

 

 杳の反応を確認しながら、塚内は新たな書類をテーブルに差し出した。そこに挟まれているマグショットに杳は息を飲む。()()()()だ。囚人服に身を包み、力尽きたような顔で番号の印字された札を持っている。

 

(葛真ニアに薬を下ろした売人はサポートアイテムの売買も行っていたそうだ。供述を元に大元を探った結果、ある可能性が浮上した)

 

 葛真の情報をたぐって辿り着いたのは、民間の町工場(まちこうば)を装った違法工場だった。そこでは違法薬物とサポートアイテムが受注生産されており、スタッフは海外から来た出稼ぎ労働者ばかりだった。言葉の通じない彼らはヒーローと警察の姿を見るや、違法薬物を摂取して戦闘開始する。その乱闘に紛れて逃げようとした管理者らしき人物を捕えるも、彼は奥歯に隠した毒を噛んで自決しようとした。

 

 しかし、思惑に勘付いたヒーローが辛くも阻止、自殺は未遂に終わる。数日後、取り調べ室にて厳重に身柄を拘束された状態で、尋問が始められた。彼は異能解放戦線の愛読者であり、()()()()()だった。戦士の一人にこの商売を譲ってもらったのだという。

 

 ──”解放主義者”というのは、個性の自由行使を主張する者の事を示す。まだ個性が”異能”と呼ばれていた時代、異能の自由行使は人間として当然の権利と謳った過激派組織”異能解放軍”により生み出された思想だ。

 

 その首魁であったデストロが逮捕後に獄中で執筆した自伝”異能解放戦線”は、杳も一読した事がある。神野事件後に再出版されたその書籍は、影響された読者の一部が個性犯罪に手を染めるようになった経緯がニュースで取り沙汰されると、本屋からひっそりと姿を消した。

 

 日本の犯罪の多くは模倣犯だとされている。解放主義に触発された連中が徒党を組み、犯罪を冒しているのだろうというのが担当刑事の見解だった。戦士の連絡先すら知らない管理人は、新生組織の末端に位置する人間に過ぎない。

 

 しかし、刑事が取り調べを終了しようと腕時計を確認した途端、管理人は天井を仰ぎ、狂ったように笑い始めた。額に親指を付け、人差し指を上に差す独特なハンドサインを形作る。

 

(デストロは()()()()()!窮屈なこの社会を解放してくださるのだ!)

 

 真に迫った大音声と異様に血走った瞳が、周囲の空気を凍り付かせる。──ただの妄言とは思えない。担当刑事は上司である塚内警部に相談し、指示を仰いだ。

 事態を重く見た塚内はすぐさま対策本部を設置する。捜査網を全国に広げ、どんな些細な出来事も拾い上げて精査した結果、()()()()()を見出した。

 

 摘発した違法なサポートアイテム・違法薬物をつぶさに調べると、その多くは不自然に似通ったデザインや構造をしていた。まるで既成の設計図を元に生産したかのように。そしてそれらを製造した工場の同市内に、必ず()()()()()()()()支社や工場、出張所や営業所が存在していた。

 

(……)

 

 その瞬間、杳は自分が呼び出された意味を理解してしまった。これから何をするべきなのかも。膨らんでいた幸せの風船がぺしゃんこに押し潰されたような心地がした。

 だが、風船の空気はまだ少し残っている。杳は四ツ橋の優しい笑顔を思い出し、大いに奮起した。

 

 ──デトネラット社は国内トップシェアを誇るライフスタイルサポートメーカーだ。慈善事業にも広く携わっている。そんな優良大企業と異能解放軍が関与しているはずがない。そもそも、同じ条件なら全国展開している会社の全てが当て嵌まるはずじゃないか。()()()()()だ。

 杳は塚内を真っ直ぐに見つめ、言葉を放った。

 

(偶然だと思います)

(全ての出来事には必ず理由がある)

(デトネラット社は大企業です。慈善事業もされているし、それに……)

(会社の規模や歴史、慈善事業の有無は、彼らの身の潔白を証明するものには成り得ない)

 

 感情の読めない顧問役の声が、杳の希望的観測を(ことごと)く否定する。

 

 塚内は何か言いたげに口を開いたが、やがて力なく瞳を伏せ、拳を握り込んだ。かつて杳を庇う為にエンデヴァーに食って掛かった過去があるなんて信じられないほど、彼は弱っていた。──きっといじめられたんだ。杳は幼い憎悪の感情を顧問役に向ける。彼は動じる事なく緑茶を飲んで喉を潤し、杳を見返した。

 

(四ツ橋が君を見出した事にも、理由があるはずだ。随分と前から興味を示していたようだからな)

 

 顧問役はテーブル脇に置いていたファイルを広げ、よく見えるようにした。覗き込んだ杳は息を飲む。それは自分のインターン()指名事務所一覧だった。

 

 ──ヒーロー飽和社会と呼ばれる現代において、優秀な後進は現役ヒーローの生命線の一つだった。故に、彼らは早期に人間関係を築き、囲い込める可能性の高い職場体験・インターンに精を出す。優秀な卵を見つけたら、仮免を通過するしないに関わらず、指名しておく。もし合格できずともその情報は学校に、卵に届く。”君に興味を示している”という力強いスカウトメッセージは、厳しい現実を叩き付けられ、痛みと不安に震えている若き卵の心を穿(うが)つ。

 

 プロヒーロー達は年々厳しさを増していく仮免・本免許のストレート合格を望んでいるのではない。優秀な人材を求めているのだ。

 

 何年掛かっても、インターンに来れなくても構わない。だが、本免許を取った(あかつき)には必ず、数ある事務所の中から()()指名し続けた我が事務所を選んでくれという想いを籠め、彼らはメッセージを送る。そういった努力が功を結び、卒業ギリギリ、又は卒業後に仮免・本免許を取得した若き卵が、指名を送り続けた事務所に身を寄せる事例は多い。

 

 最新の仮指名事務所一覧に載っている事務所は、たったの三件だった。体育祭直後の仮指名がピークで、それ以降はもっぱら下降の一途を辿っている。体育祭で醜態をさらした挙句、敵に誘拐されて休学し、成績も振るわず、数ヶ月前まで社会の評価が地に落ちていた諸々の事情を考慮すると、指名されているだけで奇跡と言えるかもしれなかった。

 

 上部の二つは見知った名だ。ザ・クロウラー事務所とホークス事務所。申請開始時期からずっと指名を続けてくれている。だが、最後の一つは知らない名前だった。杳が八斎會事件を経て復学した直後に締め切った一覧に名を載せて以降、ずっと指名が続いている。

 

 ──”スライディン・ゴー”。見知らぬヒーローの名前を、杳は声に出さずに呟いた。

 

(スライディン・ゴーは愛知県の泥花市を本拠地とする地方ヒーローだ。件の市にはデトネラット社の支社がある)

(……)

 

 わずかに残った風船の空気が、丹念に押し出されていく音がする。後には最悪な気分だけが残った。

 杳は茶碗を持ち上げ、すっかり冷めてしまったお茶を飲んだ。むすくれた表情で茶碗を受け皿に置く。その子供っぽい反応を咎める事なく、顧問役は冷淡な、それでいて有無を言わせぬ口調で指令を放った。

 

(四ツ橋力也、及びデトネラット社の関係者と交情を結び、情報を入手せよ)

 

 

 

 

 新幹線は上品なチャイムを鳴らし、京都駅に滑り込んだ。観光地であり都心部でもある為、ホームは人でごった返していた。杳はさりげなく発目の傍に寄り添い、周囲を警戒しながら改札口へ進む。

 

 ──顧問役から指令を受けた直後、杳の脳裏をよぎったのは()()の顔だった。創業祭には彼女も行くのだ。異能解放軍の関係者が潜んでいるかもしれない危険地帯に、友人を連れていく事はできない。

 しかし、顧問役は首を横に振る。

 

(創業祭は世間も注目している大規模なイベントだ。ホークスを始めとしたプロヒーローも招致されている。君達の安全は確約されている。余計な事は考えず、デトネラット社の関係者と交友を深める事に終始しなさい)

 

 ホークスもいると聞いて、杳は心から安堵した。だが、警戒するに越した事はない。彼が四六時中、傍にいてくれるわけではないのだ。二人は地下鉄に乗り換え、目的の駅に降りる。階段を上がって地上に出ると、そこには別世界が広がっていた。

 

 しとやかな喧騒が周囲に漂っている。景観を損ねないためだろう──落ち着いた色合いの近代的建物が建ち並び、その向こうに神社仏閣、古い史跡や町並みが、紅葉混じりの秋風に吹かれ、ぼんやりと(けぶ)るようにして建っていた。京都を訪れるのは初めてだ。美しい紅葉並木の間を川が流れ、渡された古橋を舞妓たちがしずしずと歩いている。

 

「舞妓さんだっ」

 

 石橋の欄干(らんかん)に身を乗り出すようにして耳を澄ませると、ぽっくり下駄の特徴的な足音が杳の心を弾ませた。人々の交わす言葉には独特のイントネーションがあり、異国情緒と懐かしさを同時に堪能できる。

 

 欄干に肘を乗せ、ぼんやりと周囲を見回していると、盤の目のようにきめ細やかな公道の向こうから誰かがやって来た。行き交う人々の歓声や挨拶の一つ一つに律儀に対応しつつ、街中を巡回している。

 

 ぴったりとしたボディースーツに翼のように広がるマント、如何にもヒーロー然とした恰好だった。そしてその外見に杳は見覚えがあった。

 

 スラインディン・ゴーだ。彼と面識はないのに情報だけは知っていると言う事実にばつの悪さを感じ、杳は白髪頭を乱暴にかく。彼は立ったまま、滑るようにして移動していた。航一の個性を思い出し、杳の胸はきゅんと痛む。酒を飲んで騒いでいる観光客の一群を落ち着かせた後、スライディン・ゴーはそのまま杳の前を通り過ぎていく──

 

 ──かに思われたが、なんとスライディン・ゴーはそのままバックして、杳のすぐ前で一時停止した。

 

 鍛え上げられた筋骨隆々な肉体と大きな顎が特徴的なヒーローだった。スーツは紫色をベースに黒の矢印マークがデザインされており、緑色のマントとグローブ、黒のベルトとブーツを装着している。黒のフェイスマスクに縁取られた大きな目玉がぎょろりと動いて、杳と発目を交互に見た。

 

「やや!その制服は確か雄英高校……君達は修学旅行に来たのかな?観光センターはあっちだ!」

「いえ、あの、私達、デトネラット社の創業祭に」

「ならばこっちだ!このバスに乗りたまえ!」

 

 スライディン・ゴーは芝居がかった仕草で、広々としたロータリーに等間隔に並ぶバスの一つを指差した。バスの電光掲示板には”デトネラット社・京都支社直行”と表示されている。スマートフォンの地図アプリで調べながら向かおうと思っていた杳にとって、このバスはまさに渡りに船だった。

 

 杳はお礼を言うついでに、仮指名の件を話そうか迷った。だが、大勢の観光客がバスに乗ろうと押し寄せてきた事で、その試みは未遂に終わる。杳は人波に揉まれるようにして搭乗しながら、親切なヒーローに頭を下げた。

 

「ありがとうございました。スラインディン・ゴー」

 

 杳の目の前で大きな目玉がますます大きく見開かれ、そしてわずかに細められた。微々たる表情の変化だが、普段ポーカーフェイスを貫いている彼にとって、それは満面の笑顔に等しいものであった。芝居がかった仕草で強靭な胸をどんと叩き、美しい秋空の中心に向かって指を指す。

 

「どういたしまして、未来のヒーロー・()()()()()!友と共に、夢の彼方へ進みなさい!」

 

 スライディン・ゴーは一糸乱れぬ動きで敬礼をし、その場を去った。観光客でごった返している街中を滑らかに移動し、人助けをしながら。バスが走り出してその姿が見えなくなるまで、杳は窓ガラスに額を押し当て、熱心に動きを追った。良くも悪くも杳は単純な性格だった。早速スマートフォンを取り出し、スライディン・ゴーの人形を検索する。

 クロウラーの人形はまだ出ていなかった。

 

 

 

 

 バスを降りた途端、ポップコーンの良い香りが漂ってきた。広々とした道路にひしめき合うようにして縁日の屋台が並び、威勢の良い声や美味しそうな匂いを漂わせている。タコ焼きや金魚すくいの誘惑から目を逸らして歩き続けていると、やがて目的地が目の前に現れた。

 

 ──創業祭の会場は、デトネラット京都支社が有する大型施設だった。三階建ての施設を三棟、広大な敷地内に配置した創りになっている。

 

 一番大きな建物はメインファシリティーと呼ばれ、数千もの座席のある大ホールから少人数制の会議に適した小ブースまで、様々な状況に適した空間が配備されている。

 

 南側にあるサウスファシリティーはレストランなどの飲食店や娯楽施設、図書館が集結しており、北側にあるノースファシリティーは研究施設と工房が併設されていた。広々とした敷地にはテントがいくつも建てられ、様々なサポートアイテムの展示を行っている。

 

 杳が物珍し気に周囲を見回していると、赤い羽根がふわりと視界を掠めた。──()()()()だ。真っ赤な両翼を力強く羽ばたかせ、メインファシリティーの屋上に降り立つ。どよめくような歓声が周囲の人々から上がった。フワフワと雪のように舞い散る赤い羽根を掴もうと、子供達がはしゃぎ回っている。

 

 ホークスは今をときめくNo.3ヒーローであり、彼の羽根は──さながら野球選手が放ったホームラン球、あるいはコンサートのクライマックスで飛ばされる飾りテープのように──価値のあるアイテムだった。一部のファンの間では幸運を呼ぶパワーフェザーだとも囁かれている。

 

 杳はしゃがみ込んで、自分の足下に落ちた羽根を拾い上げた。二枚の小さな羽根が重なり、大きな風切羽のようになっている。杳は何となく幸運を呼ぶという噂を信じたい気持ちになった。

 ──どうか明ちゃんを守ってください。ふわふわと柔らかな羽毛を額に押し当て、杳は鷹の神様に祈りを捧げる。

 

 

 

 

 発目にホークスの羽根をあげた後、杳はメインファシリティーにある受付ブースへ向かい、招待状を見せた。

 美しい受付嬢は招待状をスキャンすると受話器を取り、誰かと話し始める。受話器を置いた後、彼女はよく通る声でこう言った。

 

「まもなく担当が参ります。ロビーでお待ちくださいませ」

 

 受付嬢によれば、杳達の()()()がいて、その人が施設やイベントのガイドをしてくれるらしい。しがない学生相手になんという厚待遇だ。杳達が恐縮しつつロビーで待機していると、白衣に身を包んだ中年の男性がやって来た。渡された名刺によると、彼は京都支社の研究員であるらしい。

 人の良さそうな顔を綻ばせ、彼は発目に向き直った。

 

「では発目さん。案内いたしますので、こちらへどうぞ。白雲さんはもうしばらくお待ちください」

「えっ?い、一緒じゃないんですか?」

 

 ──()()()になるということか?杳は思わず発目の腕にしがみ付いた。あまりに幼稚な所作を目の当たりにし、研究員は狼狽したように視線を惑わせるが、すぐさま取り成すように優しい口調で言い含める。

 

「白雲さんはヒーロー科で、発目さんはサポート科です。学問分野が異なりますので……」

「私、大人しくしてます。だから一緒に、」

「来なくて大丈夫です」

 

 発目の関心はもう杳になく、眼前にいる研究員と彼が指揮を執る研究室にあった。杳は子泣き爺のようにしがみ付いたまま、成す術なく引き摺られる。

 

 杳は本心では顧問役を信じていなかった。いくら安全は確約されていると豪語されたところで、彼は異能解放軍の人間ではないからだ。もし自分の(あずか)り知らない場所で、発目に何かあったら。万が一の事態を想起するだけで、杳の心臓は締め付けられるような痛みを放った。

 二人の奇妙な行進を研究員がおろおろと見守っていたその時──

 

「遅くなってごめんなさいね」

 

 ──ふわりと妖艶な香りがして、杳の頭を優しい手が撫でた。青味がかった肌を濃紺のフォーマルドレスに包んだ妙齢の女性が、上品に微笑む。()()だった。




デトネラット社と敵連合が戦った泥花市はずっと北海道だと思っていた。
漫画を読み返して、愛知県であると気づいた。
四ツ橋さんすみませんでした…。

いつもこのSSをお読みくださり、本当にありがとうございます!


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No.93 創業祭②

 気月は杳の頭をそっと抱え込み、自らの肩に持たせかけた。ふっくらとした唇に人差し指を押し当て、研究員に意味ありげな視線を送る。純朴そうな彼は明らかにどぎまぎしていた。

 

「この子、人見知りなの」

 

 どぎまぎしているのは、杳も同じだった。押し付けられた頬にざらりとした感触が伝わる。気月のドレスにあしらわれたシアーレースだろう。吸い付くようにタイトなシルエットは、彼女の妖艶なボディラインを上品に際立たせている。

 華奢な首筋から漂うホワイトムスクの香りが、杳をますます惑わせた。大人の色香にあてられ酩酊状態に陥っている視界を、水色の髪が遮る。その隙間から黒曜石(オニキス)のような瞳が覗き、優しい弧を描いた。

 

「お友達と別行動になっちゃうから寂しくなったのよ。ね?」

 

 気月の分析に疑問を抱く者は、その場に誰一人としていなかった。発目にしがみついていた杳の行動は幼稚そのものだったからだ。周囲の人々から向けられる視線が、見る間に奇異から憐憫(れんびん)を帯びた色へ塗り変わっていく。

 

「……はい」 

 

 杳は観念して頷くしかなかった。今やロビー内にいる人々の半数が、自分の行動を見守っている。衆目を集め過ぎた。これ以上抵抗すれば、()()()()()を招く可能性がある。

 

「では行きましょう!私、御社の機構モデルに興味がありまして……」

 

 自由の身となった発目は研究者を引きずるようにして、意気揚々とノースファシリティーズへ去っていった。その背中を見送る杳の不安そうな目を”寂しがっている”と誤認したのか、気月は苦笑し肩を竦めた。

 

「大丈夫よ。発目さんと合流するまで私が一緒にいるわ。貴方に見てほしいもの、沢山あるの」

 

 

 

 

 二人はロビーを出て、メインファシリティーの中心部へ向かった。大企業の創業祭という一大イベントに惹かれてやってきたのか、物々しい撮影機材を構えたマスメディア関係者があちこちにいる。彼らは皆、気月に気付くと親しげに顔を綻ばせたり、会釈したりしていた。

 不思議そうにその様子を眺めていた杳は、以前に訪れたカウンセリングフェスでの一幕をふと思い出す。あの時、気月は自らの職業をマスコミ関係だと明かしていた。知り合いなのだろう。納得した杳は一人、頷いた。

 

 突然、プッと小さく吹き出す声が聴こえた。気月が口元を指先で隠し、可笑しそうに笑っている。杳の百面相を見ていたのだろう。杳の顔は燃え上がるように熱くなった。

 

「クルクル表情が変わるのね。見てて飽きないわ。……そうだ、まだちゃんと自己紹介をしていなかったわよね?」

 

 気月は華奢なチェーンの付いたクラッチバッグから名刺を抜き出し、杳に差し出した。”集瑛社 専務、気月置歳”と書いてある。──集瑛社は国内有数の総合出版社だ。(およ)そ百年前に創業して以来、着々と陣地を広げ、今では市場占有率の四割超を我がものとしている。特定分野にこだわらず、あらゆるジャンルの書物を扱っているのが特徴で、最近はデジタル広告や海外発信にも力を入れていると聞いた。

 

 気月は杳の耳に口を寄せ、悪戯っぽい口調で囁いた。

 

「杳ちゃんが創業祭に招待されたって聞いて、慌てて来たのよ」

「え……!」

「フフ、嘘!四ツ橋社長とは旧知の仲なの。今回はイベント取材と撮影を頼まれただけ」

 

 気月は小さな額をツンと突いた。”魔性の女”とは彼女のような人を指すのかもしれない。真っ赤になった額──ではなく頬を押さえながら、杳は思った。

 

 

 

 

 そうこうしている内に二人はデトネラット社の企業案内ブースへ辿り着いた。受付嬢に挨拶をして、二人は中へ入る。

 

 広大な空間はパーテーションで間仕切りされ、その一つ一つのブースにデトネラット社が歩んできた社史や概要が詳しく展示されていた。”Protect your personality,A better future(個性を守り、よりよき未来を)”、真っ黒な壁一面に印字されたブランドスローガンを、杳は歩きながらゆっくりと指でなぞる。

 

 デトネラット社は国内トップシェアを誇るライフスタイルサポートメーカーだ。東京に本社を構え、全国各地・一部海外にも支社・工場があり、社員は十数万名にも及ぶ。最近はヒーロー関係、つまり戦闘用のサポートアイテムの業界にも参入し、話題を集めている。

 世間が選ぶ”働きたい企業ランキング”で上位を独占している優良ホワイト企業でもあるが、その理由は企業の規模や充実した福利厚生だけではない。

 

 代表取締役・四ツ橋力也の人柄が、デトネラット社の評価をさらに大きく押し上げている。彼は一代でデトネラット社を国内有数の大企業へと成長させた経済界の大物であると同時に、慈善事業を積極的に展開する人格者でもあった。

 自社コマーシャルによく登場し、世間的にも名の知れた人物であるのに、四ツ橋の態度は至って謙虚で平身低頭、少しも驕り高ぶった部分を見せない。そんなところが世の人気を集めているのだろうと、杳は推測する。

 

「……」

 

 ブースをどれだけ事細かに観察しても、不穏な影は少しも見当たらない。杳は知覚能力を総動員させ、周囲の振動を観測した。

 

 ──超感覚を有し、敵と長らく関わってきた杳だからこそ得た豆知識だが、敵は皆、生命兆候(バイタルサイン)()()()がある。痛苦に耐え切れず上がった呻き声のような、押し殺した泣き声のようなわずかな乱れが、生命の放つ振動のリズムに時々混じるのだ。

 だが、どれほど感覚器を研ぎ澄ませても、気月達にそういったものは微塵も見当たらなかった。

 

 きっと気月や四ツ橋達は異能解放軍とは無関係だ。杳はそう結論づけた。しかし、顧問役の言う通り本当に敵がいるのなら、彼女らが害される危険性がある。杳はますます気を引き締め、出口のゲートを通り抜けた。

 

 眩い日差しが降り注ぎ、杳はとっさに手をかざして目を細めた。外に出たのだ。サウスファシリティーの近くまで来たらしい。周囲には軽食や遊戯を提供するテントがずらりと並び、大勢の人々で賑わっている。だが、杳は美味しそうな匂いを放つ軽食やスーパーボールすくいに目移りする余裕はなかった。テントの中心、つまり自分の正面に展示されていたものに、強く魅入られていたからだ。

 

 ──中庭の中心に、美しい氷像が建っていた。妙齢の女性が幼子を強く抱き締めている。

 

 女性は何かに耐えるように唇を固く引き結び、目を閉じていた。彼女の腕に抱かれた子供の体表は、大半が霜で白く濁っている。()()、と杳は思った。子供の個性由来である痣を霜で表現しているのだろう。陽光を受けて幻想的に、そして厳かに輝くこの母子の存在を杳は知っている。

 

「”個性の母”……」

 

 

 

 

 その昔、まだ個性が異能と呼ばれ、恐れられていた頃。一人の女性が異能を持つ子を産んだ。まだ異能に対して偏見の強かった動乱の世、人々はその子供を受け入れず、排除しようとした。心無い罵詈雑言と差別にさらされ、母親は愛しい我が子に石を投げられる日々を送った。

 子供が反異能派の人々に害されようとした時、母は必死に我が子をかばい、勇気をもって言葉を放った。”これはこの子の個性です。この子が自由に生きられる世の中を”と。

 

 だが、その訴えは嘲笑と共に埋もれていった。そして母親はもう二度と声を上げる事はなかった。反異能の人々に殺されたからだ。異能を持つ子供は母親共々殺されたとも、母親が死の間際に逃がしたとも言われている。

 

 やがて強力な異能を持つ善意の私人・ヴィジランテが隆盛し、それに伴って政府も混乱を是正する余力が生まれ始めた。政府が選んだ政策は、一部の人間にのみ異能を使用させ、それ以外の者は規制する事。現在の抑圧社会の鋳型である。強引な策ではあるが、治安を維持するには一番手っ取り早く確実だ。

 

 議事が進行する中、誰かが()()()()の訴えを掘り返した。異能を恐れるべき力ではなく人の個性の範疇だとする思想は、政府のプロパガンダに最適だった。

 ──特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為をプロパガンダと呼ぶ。その中で最も影響力のあるものは、()()だとされている。名もなき母は”個性の母”という名を付けられ、神話化した。

 

 子供達は道徳や情操教育のカリキュラムで”個性の母”を学び、個性の尊さと抑制の大切さを刷り込まれる。凶暴な野犬が飼いならされていくように少しずつ確実に、社会は平和になっていった。個性の母は政府に利用されたとも、平和の礎になったとも言えた。

 

 

 

 

 万が一にも子供達が駆け寄って怪我をしないよう、像の周囲にはポールと立ち入り禁止のテープが張られている。じっくりと見入ったり、撮影をしたりしている人々の邪魔にならぬよう、杳はそっと近づいた。

 

 母親が浮かべる苦悶の表情は真に迫り、それでいて見る者に苦痛を与えない程度の柔らかさをまとわせている。(まなじり)から零れて頬の辺りで凍り付いた母の涙を、子供が心配そうに見上げていた。まるで今にも動き出しそうなほど、その像は生命力に満ちていた。

 健気にしがみつく子供のふっくらとした手を、杳はぼんやりと眺める。

 

────────

 

──────

 

────

 

 瞬きをした一瞬の間、杳は追憶の中にいた。優しい陽だまりの匂いがする(かいな)の中で、朧に駄々を捏ねている。

 

(わたし、じぶんのこせい、きらい)

 

 杳は自分の個性がとても怖かった。制御できない力は、いつ爆発するとも知れない時限爆弾を抱えているのと同義だ。出来る事なら切り取って、どこかへ放り捨ててしまいたかった。そうすれば、あの暗いモヤモヤとした世界に引き摺り込まれずにすむ。幽霊のように霞んだ体を震わせ、杳は大きくしゃくり上げた。

 

 朧は杳の手をマッサージし、徐々に実態を取り戻していく指先を眺めていた。だが、妹の泣き言を聴いた途端、やおらその手をギュッと握り、小さな顔を覗き込む。

 

 天下無敵のヒロイックスマイルが、杳の前で弾けた。杳の心を支配していたマイナスな感情が、根こそぎ薙ぎ払われていく。つられてぎこちない笑顔を浮かべる妹の頬に自分の頬をすり寄せ、朧はより一層強く彼女の体を抱き締めた。言い含めるように何度も何度も、彼は愛の言葉を紡ぐ。

 

(兄ちゃんは大好きだぞ。大事な大事な、お前の一部だ)

 

 

 

 

 束の間の追憶から覚め、杳は改めて周囲を見回した。これほど大掛かりで繊細な作品であるにも関わらず、支える機材どころか冷却機すら見当たらない。芝生の上に防熱・防水台が置かれ、その上に像が鎮座しているだけだ。

 知覚能力を張り巡らせたが、その台には何の細工もされていない。なのに、像は少しも融ける様子がない。さらに感覚器を研ぎ澄ませると、ほんのわずかに人の息づくような気配が感じ取れた。つまり、この氷像は──

 

「ある民間人が、個性を使って創ったものよ」

 

 杳の横に並び立った気月が、予測を事実に変えた。見事なものでしょう、と何でもない事のように笑う。杳は氷像を凝視したまま、思考を巡らせた。確かに見事だ。しかし、秩序を重んじるヒーロー側の人間として、気月のように手放しで賞賛する事はできない。杳は唇を噛み締め、勇気をもって言葉を放った。

 

「綺麗です。でも、民間人の個性の使用は禁じられています」

「なぜ?」

「法律で決まっているから」

 

 杳の答えを気月は一笑に伏した。それから、わずかに首を傾げる。先程とは打って変わった冷たい表情で、彼女は言葉のナイフを放った。

 

「法律で赤子を殺せと書かれていたら、あなたは赤子を殺すの?」

「……ッ」

「ごめんなさい。意地悪が過ぎたわね」

 

 気月は表情を弛緩させ、口を開けずに笑ってみせた。だが、その瞳はいまだに見る者が身震いするような()()()()()を残している。蝶が戯れているような色香と優しさは気月の体から鳴りを潜め、代わりに酷薄な空気が辺り一帯に充満していた。

 

「質問を変えるわ。あなたは今のヒーロー社会が正しいと思う?」

 

 気月がこの質問をした時、相手は決まって()()()()()を見せた。一つは表情を曇らせ、沈黙するというもの。頭の中で当たり障りのない言葉や、どこか切り取られても問題のなさそうな言葉を探しているのだろう。パズルのようにそれらを繋げ、やっと勿体ぶった表情で彼らは言葉を口にする。もう一つは、顔を口を歪めて好き放題に不満をがなり立てるといったものだ。ヒーローを含めた公的な業務についていない者は、大抵後者の反応を取る。

 

 だが、目の前にいる少女は、そのどちらでもない反応を見せた。懐かしそうに目を細め、くしゃりと笑ったのだ。それは十六年という年齢には不釣り合いなほど苦々しく、またノスタルジアに満ちたものだった。

 

「……ッ」

 

 押さえられない衝動を隠すため、気月は口元を手で覆った。その手の下にある唇は、大きく吊り上がっている。最高の被取材者を目の前にし、思わず出てしまった歓喜の笑みだった。──カウンセリングフェスで出会った時とは比較にならないほど、成長している。やはり()()()の人選に狂いはない。気月は最高指導者の横顔を思い浮かべ、尊敬の念を新たにした。

 

 一方、杳は転弧との一時(ひととき)を思い出していた。神野のアジトで食事をした時、彼にも似たような質問をされたっけ。白髪頭をかき物思いにふけっていた杳は、やがてハッと我に返った。質問されたのに黙っていては失礼だ。慌てて顔を上げ、言葉を紡ぐ。

 

「すみません。以前、友達に似たような事を訊かれたなって思って、懐かしくなって」

「その友達は学校の?」

「いいえ。その……」

 

 転弧との出会いを何と表現したらいいのか分からず、杳は口ごもった。馬鹿正直に(ヴィラン)だと告げるわけにもいかない。曖昧に笑ってその場をやり過ごそうとした杳の肩を、気月の手がガッと掴んだ。

 

 気月の瞳は異様な輝きを放っていた。杳が閉じかけた心の扉に指を掛け、無理矢理こじ開けてその奥を覗き込もうとしているかのような、不躾(ぶしつけ)な眼差しだった。その勢いに杳は気圧され、一歩退く。すかさずその隙間に気月が入り込んだ。心の内側に土足で入り込み、好奇心に胸を弾ませ、彼女は言葉を重ねる。

 

「どんな人?学生かしら?社会人?お仕事は何をしているの?」

「……」

()()()()()()をしているのかしら」

 

 尋問にも似た怒涛の質問攻撃をかわし切れず、杳はとうとう唇を固く引き結び、黙秘権を行使した。警戒し切ったその表情を見た途端、気月から不穏な雰囲気が霧散した。元の優しげな顔つきに戻り、ばつが悪そうに微笑む。

 

「ごめんなさい。職業病が出ちゃった。好奇心で質問しただけなの。ここで話した事は口外しないと約束するわ」

「……敵です。あの時の答えと、今の答えは変わりません」

 

 気月の言葉を素直に飲み込める程度には、杳は彼女を信頼していた。だが、転弧の名を言う事はできない。戸惑いながらも顔を上げ、真っ直ぐに応える。

 

「正しいとは思えません。でも、間違っているとも思いません」

「曖昧な答えね。どうしてそう思うの?」

「今の社会に抑圧され、苦しんでいる人もいる。だけど同時に、守られて生きている人もいるからです」

 

 杳が口にしたのは、保守派の人間が出す答えのテンプレートだった。耳が腐るほど聴いた使い古しのフレーズであるはずなのに、今まで聴いた誰よりも真実味を帯びている。

 

 気月は何かを量るように杳を見つめた。その横顔はひどく大人びて、諦観に満ちている。鳥籠に取り篭められた鳥が鉄柵の隙間から空を見上げるような、悲しい目をしている。その目で、一体この子は()()見てきたのだろう。一時の感傷に身を委ねた後、気月は小さな少女に寄り添うようにして立ち、共に氷像を見上げた。

 

「あなたはこの社会を変えたいと思う?」

 

 そんな事を訊かれたのは初めてだった。杳は思わず息を飲み、気月を仰ぎ見た。この社会を守るのではなく、変えたいだなんて。杳がためらいながらも答えようとしたその時、中庭に設置されたスピーカーから上品なチャイム音が鳴り響く。心求党の代表者が出演する公演会が、間近に迫っているという知らせだった。

 

 

 

 

 

 二人はメインファシリティーで一番大きなホールへ足を向けた。大ホールはなだらかな()()()状になっていて、舞台を囲むようにして並ぶ観客席は、最上階である三階席を含めると優に三千はあった。コンサートやオペラ、演劇はもちろん、公的な演説まで幅広く対応できる空間なのだそうだ。

 杳は入口付近で立ち止まり、ざっと周囲を眺め回した。

 

 公演時間が迫っている事もあり、席はほとんどが埋まっている。その最前列に見知った赤いポンパドールヘアを見つけ、杳は早足で歩み寄った。

 

 ──()()()社長だ。隣に座る秘書と話をしていた彼は、杳の存在に気付くとたちまち相好を崩し、上品な動作で立ち上がった。実は受付の時に挨拶ができないかと受付嬢にお伺いを立ててみたのだが、イベント当日で多忙の為、気遣いは不要だと秘書を通してやんわり断られていたのだ。彼を見つけたのは幸運だった。

 発目の分も込め、杳は頭を下げて謝辞の言葉を述べた。

 

「お招きいただき、本当にありがとうございました」

「こちらこそ来てくれてありがとう。楽しんでくれているかな」

「はいっ」

 

 杳が元気良く応えると、四ツ橋はますます笑顔を強くした。あまり時間を取らせては申し訳ない。杳はもう一度頭を下げ、気月の下へ戻った。杳が四ツ橋と話をしている間に、気月は壇上の二階席を取ってくれていた。所用を済ませるから先に行ってと促され、杳は階段を昇る。

 

 美しい黒檀でできた飾り柵に囲まれるようにして、ゆったりとした造りの特別席が五つ設えられてある。その一つに、黒髪を長く垂らした痩身の男が腰かけていた。確か、文化祭で四ツ橋の隣にいた人物だ。

 

「こんにちは」

 

 杳は緊張気味に挨拶すると、男の眉がわずかに寄った。苦虫を噛み潰したような表情でほんのわずかに会釈し、すらりとした足を組む。理由は不明だが、どうやら自分は嫌われているらしい。杳は肩をすくめ、席に座った。シートはとても上質なビロードでできていて座り心地が良い。密かに堪能していると、真横から鋭い声が跳んできた。

 

「デトネラット社の企業理念は?十項目全て答えよ」

 

 突然投げかけられた質問に杳は目を白黒させ、口ごもった。数時間前、新幹線の中で吸収した付け焼刃の知識は、もうとっくに熱を失って杳の脳から転げ落ちていた。企業案内ブースでも見かけた記憶はあるが、ちらりと目視しただけで暗記まではしていない。結果、杳は答える事ができなかった。しどろもどろになっている少女を見下げ、男は冷たくせせら笑う。

 

「招待を受ける前に下調べをしようとは思わなかったわけだな?」

「あの、わたし、調べたんですけど……」

 

 忘れました。罪悪感と羞恥心が心の中で渦を巻き、杳の言葉は尻切れトンボになる。しかし、それを見た男は溜飲を下げるどころかますます身を乗り出し、食い付いてきた。

 

「”調べたんですけど”、()()()()

 

 わざと大袈裟な身振りをする事で杳の羞恥心を煽り立て、男は怒涛の追撃を始める。

 

「国語の基本を学校で習わなかったのか?それともかの有名な雄英高校は中途半端に言葉を終わらせれば、聞き手が君の都合の良いように解釈してくれると教えたのか?」

「……調べたんですけど忘れました。すみません」

 

 杳はつっけんどんに言い放った。そして、自分がこんなにも怒りを露わにしているという事実に驚いた。最近、怒りの感情がよく発現し、その制御が上手くできないのだ。

 

 ──杳は知る由もない事だが、人使という保護者の下ですくすくと育った彼女の心は、文字通り()()()を迎えようとしていた。上鳴の言葉は的を射ていたのだ。思春期に到達した自我は自分という存在を社会でどう位置付けるか悩み、葛藤する。その一端が反抗期だと言われている。杳が顧問役に噛み付いているのもその一例だった。

 

 この人に比べれば顧問役の方がまだマシかもしれないと杳は思った。顧問役に悪意はない。あるのは残酷なまでに合理的な思考だけだ。だが、この人は違う。こんなに意地悪な人は初めてだった。杳の分かりやすい憎悪の視線を受け止め、男はさらに加速する。

 

「なんだその態度は。雄英の教育が知れるな。特別で、有名な、自分の身がちやほやとされなくてご不満なのか?ちなみにデトネラット社の企業理念は」

「ちょっと。いじめないでちょうだい」

 

 美しきヒーローの声が、殺伐とした空気を一閃する。気月が帰ってきたのだ。気月は杳を腕の中に閉じ込め、男の視界から見えないようにした。男は面白くなさそうに鼻を鳴らし、指を組んで前を向こうとした、その刹那──視界の端に何かがちらついて振り返り、彼は目を剥いた。

 

 気月の胸という安全地帯から、少女が勝ち誇ったような顔つきで自分を見ている。

 

「きさm……ッ」

 

 男の怒りを遮るように、武骨なブザー音が鳴り響いた。照明が絞られ、重厚なドレープの掛かった幕が上がる。スポットライトで照らされた壇上に、一人の男が立った。割れるような歓声と拍手、眩いフラッシュの光をやり過ごしながら、舞台上に立つ人物を杳はまじまじと見つめる。本当に心求党党首、花畑孔腔だ。

 

 心求党は日本のまつりごとを担う政党の一つだ。心求党が発足から現在に至るまで発信し続けている公約は、一貫して”個性の尊重”だ。年を経るごとに大きくなり、複雑化していく個性に悩む国民によって支持率は右肩上がりを続け、今では野党第一党の地位を固めるに至った。いまだ個性抑圧の体制を保守する与党と戦っている。

 

 花畑の眉目秀麗な容姿も、人々から支持率を集める要因の一つだとされている。だが、彼の本当の魅力は容姿ではなく、発する言葉にこそある。他の観客と同様に、杳は彼の声に熱心に耳を傾けた。

 

「個性は新たに発達した人体の一部です。その抑圧は、我々の手足を縛る事と同義。道徳的に許されない行為なのです」

(もう我慢するのは嫌なの)

 

 友人の言葉を思い出し、杳は膝の上に載せた両の掌をギュッと握り締めた。故意によるものか、個性の影響による不可抗力か、犯罪の線引きは非常に難しい。そもそも犯罪を冒すという状況自体が異常なのだから。誰しもが納得できるボーダーラインは引けず、その折衷案として後に社会の闇と称されるタルタロスが創られた。心求党の公約にはタルタロスの撤廃も入っている。

 

 デトネラット社のブランドスローガン”個性を守り、よりよき未来を”をテーマに花畑は雄弁を振るい、拳を握りしめた。

 

 

 

 

 溢れんばかりの拍手と歓声に恭しく礼をして応え、花畑はマイクを置いた。花畑が水分補給をしている間、司会進行役が舞台袖から登場し、観客に質疑応答の時間を設ける。しかし、手を挙げる者はいなかった。有名な党首を目の前にして、きっと緊張しているのだろう。自分もその一人だと杳は思った。そのままつつがなく公演が終了するかと思いきや、花畑は寂しそうに表情を翳らせる。

 

「これは手厳しいな。京都は奥ゆかしい方が多いようだ」

 

 花畑が芝居がかった素振りで両手を上げてみせると、観客はどっと盛り上がった。しばらくの間、何事かを考え込むように顎を撫でていた彼は、やがて小気味よく指を鳴らし、悪戯っぽい表情でぐるりと周囲を見回す。

 

「そういう時は、私から質問する事にしてるんです。……そうだ、確かここに雄英生が来られているとか。()()()()()の。そうですよね、四ツ橋さん?」

 

 杳にとってその言葉はまさしく寝耳に水だった。小さな体をより一層屈め、必死に気配を消そうとする杳の瞳と、花畑の理知的な瞳が交差する。

 

「そう。あなたです。雄英高校ヒーロー科一年生、白雲杳さん」

 

 ひときわ強いスポットライトの光が、杳に当たって砕けた。光の筒の向こうで、先程の男が頬杖を突いてこちらを眺めている。薄い唇が愉快痛快と言わんばかりにまくれ上がっていた。

 

 だが、杳はそんな事に構っている余裕はなかった。奥手な杳は目立つ事が何より苦手なのだ。スポットライトの真っ白な光が頭まで漂白してしまったかのように、何も考える事ができない。思考停止状態になり、カチコチと固まってしまった様子を見兼ねて、気月がよく通る声で助け舟を出した。

 

「あまり注目しないであげて。シャイなの」

 

 再び、観客が湧いた。温かい声援の声がいくつも飛んでくる。杳はスタッフに手を引かれ、壇上まで上がった。四ツ橋はにこにこと笑って様子を見守っている。恐る恐る前方を向くと、何千もの瞳がこちらを見つめていた。無機質なカメラのレンズに、自分の姿が映っている。

 

 もはや足の感覚がない。よろけながら、ふらふらと花畑の下へ近づいた。呼吸ができ、立っているのが不思議なくらいだ。文化祭で演奏した時と似た緊張感が、杳の心身を支配していた。だが、頼みの耳郎はここにいない。花畑は優しく笑い、杳の肩に手を置いた。その顔に緊張の色は微塵もない。何故そんなに穏やかな表情ができるのか、杳には皆目見当がつかなかった。

 

「大丈夫ですよ。リラックスして」

「はひ……」

「未来を担う若き卵に質問です。あなたの思う、未来に必要なものとは?」

 

 花畑に促され、杳は公演台に立った。背が低いので、背伸びしてマイクに口を近づける。その様子が可笑しかったのか、親しみを込めた笑い声がいくつか飛んできた。だが、それもやがて収まる。──ここまで来たらもうやるしかない、プルスウルトラだ。いよいよ逃げ場のなくなった杳は校訓と人使お手製のオムライスを思い浮かべ、奮起した。静寂の中で目を閉じ、深呼吸する。

 

(あなたは今の社会を変えたいと思う?)

 

 気月の言葉が杳の背中をそっと押した。瞼を閉じれば、今まで辿ってきた道程がまざまざと思い浮かぶ。その(わだち)をなぞりながら、杳はゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「初めまして。私は雄英高校・ヒーロー科に所属する一年生、白雲杳です。雄英に入学し、ヒーローを志す中で、多くの敵を見てきました。その中の何人かは、私に友情を抱いてくれました」

 

 ”敵に友情を抱いた”というフレーズに反応したのか、観客の一部がざわざわと騒ぎ始める。だが、杳はそんな反応に動揺を見せたりしなかった。友情に貴賤はないからだ。胸に手を当てて大きく息を吐き、ミッドナイト先生が教鞭を取った授業の一幕を思い返す。

 ──人の心は皆、生まれた時は同じ形だった。それが生まれた場所・育った環境・大きな衝撃を受ける事で歪み、変質したとミッドナイトは説いた。トガの血塗れの屈託ない笑顔が杳の心を彩り、儚く消える。

 

「血を吸う事が好きな友達がいます。彼女は我慢することは嫌だと言いました。だけど、欲望のままに力を振るっていても、彼女は幸せそうではありませんでした」

 

 トガとの友情が途絶える間際、彼女は陶然とした笑みを浮かべていた。蕩けるように甘く、同時にどこか苦しそうな表情だった。その様子を目の当たりにして、杳は気付いた事がある。

 

「本当に幸せになる方法は、抑圧することでも、欲望のままに力を振るうことでもありません。……()()()()()を誰かに知ってもらうことです。愛してもらうことです」

 

 閉じた瞼の向こうで、朧が小さな妹を抱き上げて快活に笑う姿が垣間見える。その存在に、杳は何度救われた事だろう。仲睦まじく寄り添う兄妹の姿が、”個性の母”の氷像と重なり合い、ゆっくりと消えていく。

 

「人は、独りで生きることはできません。個性は世代を経るごとに大きくなっています。もしかしたら、いずれ、個性を自由に使える時代が来るかもしれません」

 

 顧問役に命じられ、兄を守る為に心の奥底に埋めた夢を杳は掘り出した。土を払い、砂を吹き払って、一度諦めた夢を再び掲げる。

 

「その時が来たら、私は……その力を分かり合い、助け合うために使えたらいいと思います。どんなに違う立場でも人は分かり合い、助け合う事ができる。私はそんなヒーローを、彼が守る街を知っています」

 

 雑多な鳴羽田の街並みを、ウサギ耳を(なび)かせてクロウラーが這い回っている。その背中を一心に見つめている杳の左肩を、ミッドナイトがそっと掴んだ。彼女は物憂げに表情を曇らせ、首を横に振る。

 

「難しいことだと、先生に、皆に諭されました。だけど、きっとできるはずです」

(その夢は捨てる必要のないものだよ)

 

 耳郎がもう片方の肩を掴んで、明るく笑った。そして後ろを指差す。曲がりくねった轍に沿うようにして、杳が今まで出会ってきた大勢の人々が立っていた。杳は彼らに多くの事を学び、前進するための力をもらった。

 

「過ちを犯しても、償い、前を向いて歩くことができる人を知っています。全て失っても、また一から種をまき、仲間と共に明るい未来に向かって走り出せる人を知っています」

 

 ()()()()()()。杳は自らに言い聞かせた。今の秩序を乱すことなく、少しずつ、一つずつ。もし誰かに踏み散らされても、また別の種をまいて水をやる。

 

 ──人々が見惚れるほど大きな石筍(せきじゅん)は、一滴の雫から始まる。途方もない年月を掛け、それは積み重なり、やがて見上げるほどに壮大な結晶体へと成長する。社会を変える為の行動は、ほとんどがその最初の数滴だ。誰もが見向きもしない些細な行動でも、それは決して消えない。”個性の母”のように、いつか大きな未来の礎となるため、そこに有り続けるのだ。

 

「私達よりも昔の時代、個性は異能と呼ばれていたそうです。誰かが、誰かを理解し、守る為にした行動が、社会を善くした。その行動を風化させないように、私達が守り継いでいかなければなりません。この力は武器ではなく、私達の体の一部だと花畑さんは仰いました。

 ……私が未来に必要だと思うものは、()()()()です」

 

 杳はなんとか話し終えた後、踵を付けてフウと息を吐いた。終わったのだ。後は無事に帰り、人使のオムライスを堪能するのみ。だが、待てど暮らせど、スピーチを労う拍手はやって来なかった。沈黙が続いているだけだ。一体、どういう事だろう。ご清聴ありがとうございましたと言いそびれたのが、不味かったのだろうか。杳はおずおずと顔を上げ、そして()()()()

 

 何千もの瞳がじっと自分を睨んでいる。とっさに知覚能力を総動員させると、混沌とした()()()()が杳の全身を貫いた。一人一人の瞳に怒りや戸惑い、感動──様々な感情が渦巻いている。あまりにも多くの想いが混ざり合い、干渉し合っている為に、辺り一帯は激しい波の(ストーム)に覆われていた。

 

「……ッ?!」

 

 次の瞬間、()()()()()()が杳の心臓を圧迫した。あまりの大きさに、鋭さに、どの方向から発されているかも分からない。重力が何十倍にもなって自身に圧し掛かっているように感じられる。断末魔に似た耳鳴りのせいで、何も聴こえない。

 ──黒霧の脳内で死柄木と戦っていた時、彼が発した殺気と雰囲気が似ている。だが、彼のものとは本質が違った。今感じている威圧(プレッシャー)に悪意はない。絞首台の真上から落とされるギロチンのように鋭く、無慈悲なまでに圧倒的な力だった。

 

 突如、パンと乾いた音がして、驚いた杳はウサギのように跳び上がった。四ツ橋が打ち鳴らした拍手の音だった。同時に、殺気は幻のように掻き消える。

 

「素晴らしいスピーチでした。皆さん、未来を担う若きヒーローの卵に拍手を!」

 

 朗々たる花畑の声で、杳は我に返った。割れんばかりの歓声と拍手が、広大なホール内を席巻している。まるで白昼夢を見ている気分だった。杳は一礼をし、壇上から飛び降りる。二階席へ戻る足がカタカタと震えていた。心臓が馬鹿みたいなスピードで鼓動を打ち続けている。

 

 ──やはり、異能解放軍はこの中にいる。強烈な殺気を受け、杳はそう思わざるを得なかった。だが、その人物が分からない。早く捕えなければ、四ツ橋達が害される。強い焦燥感が、杳の頭を支配した。

 

 

 

 

 創業祭は大盛況のまま、夕方五時に閉祭となった。杳達は気月の厚意で、彼女が運転する車に乗せてもらい、公共交通機関の混雑に揉まれる事なく学舎まで帰り着いた。深々と頭を下げる杳達を見て、気月は軽く吹き出した。

 

「本当にありがとうございました」

「気にしないで。この辺りのお店で打ち上げがあるから、そのついでよ」

 

 気月の車が他の車の群れに呑まれて交通道路の彼方へ消えてしまった直後、杳は行動を開始した。発目をサポート科の工房まで送り届け、雄英生のトレードマークであるブレザーを脱いでリュックに詰め、薄手のパーカーを羽織り、再び雄英バリアをくぐり抜ける。

 

 気月はこの付近の店で打ち上げがあると言った。この街の繁華街はここからそう遠くはない。数キロも進まないうちに、色とりどりのネオンが夜の闇を照らし始める。大勢の人々が歩道を行き交い始めた。

 

 繁華街の中心部に到達した頃、杳の歩みが不意に止まった。杳はエコロケーションを定期的に発動させ、周囲の状況に気を配っている。無作為な雑踏に紛れて、こちらに接近する足音を複数、感知した。自分を囲い込むように円を描き、着実に近づいている。──気付かれた。索敵・精査しようと感覚器をより深く研ぎ澄ませた瞬間、杳の鼓膜を高周波が貫いた。

 

「うぁッ……」

 

 ()()()()だ。杳は声にならない悲鳴を上げ、壁に手を突いた。音響兵器は音波を投射する事により、人の行動能力・判断能力を奪ったり、聴覚器官や脳にダメージを与えたり、物体を破壊する事を目的とする兵器である。杳の知覚能力を把握しているが故の先制攻撃だった。

 指向性のある高周波は杳だけを狙っていた。跳ね返った音がわずかに反響するも、繁華街の騒音で相殺され、往来する人々は異変に気付かない。

 

 もう気月の行方を捜すどころではない、杳は警戒態勢を取り、ポケット内の捕縛布を握り締めた。すぐ傍に小さな子供が立っている。カメラレンズのように無機質な瞳で、彼はぼうっと杳を観察していた。知覚能力を封鎖された代わりに、杳は目を凝らした。

 

 ──()()()()()()()()。彼だけではない。通りを行き交う人混みの影から、隙間から、自分を監視する目をいくつも見つけた。徐々に強さを増していく高周波が、ますます杳の感覚器を狂わせる。ついに平衡感覚すら失い、杳は大きくよろめいて壁に背を預けた。

 

 名もなき集団は杳を取り囲むようにして人の壁を創り、周囲の視線を逸らし、路地裏の方へ追いやった。路地裏の奥には、同じ目をした人間が幽鬼のように立っている。あの中に連れ込まれたら終わりだ。杳が意識を固くした、その時──

 

「うぇーい!飲んでるぅー?!」

 

 ──雑踏の中から一際やかましく騒ぐ若者の大音声が聴こえてきた。この辺りは居酒屋やカラオケボックスが多く建ち並び、店を出ても一向に士気の下がらない連中が大勢たむろしていた。そういった人々が大声で騒ぐのは珍しい事ではない。

 

 浮かれた声はどうやら()()のようだった。通りすがる人々に誰彼構わず挨拶したりちょっかいをかけながら、徐々にこちらに近づいてくる。姿は見えなくとも声を聴いているだけで、巻き込まれた人々が迷惑そうにしているのが分かった。

 

「うぃーっす!」

 

 やがて見知らぬ男が人垣を押し退けるようにしてやって来て、杳の肩に腕を回し、圧し掛かった。──何だこの人。突然の事態に、杳は思わず硬直して固まった。男が息を吐くと、アルコールの強い臭いが鼻を突いた。酔っている。危険に巻き込むわけにはいかない。この場を離れるよう指示する為に顔を上げると、さらりとした金髪の向こうに見覚えのある三白眼が見えた。

 

「よぉ、ごんぎつね。()()()()()

 

 ()()だった。辛うじて聞き取れる程度に絞った声で、彼は短い指示を放つ。背中にどでかい龍が描かれたスカジャンを着込み、軽薄な成り立ちをした彼は陽気な大声も相まって衆目を集めた。安っぽい香水の香りが威嚇するように周囲を漂う。

 

 通行人達がちらほらと立ち止まり始めた。性質の悪いナンパかと思ったのだろう、杳を心配そうに見る者もいる。名もなき人々の行動がピタリと止まった。

 

「ナンパ?」

「なんか変な音しない?」

 

 通行人達が耳を押さえて異変を訴えた瞬間、高周波は消え去った。杳は脂汗を拭い、安堵の溜め息を吐く。──何故、ここに窃野がいるのかは分からない。だが、復活した超感覚は”彼が味方である”と告げていた。杳は乱れた呼吸を整えて声の調子を取り戻し、猿芝居を開始する。眉根を下げて頬を膨らませ、窃野のスカジャンをぐいっと引っ張った。

 

「遅かったじゃーん!」

「ごーめんごめんって。何かおごってやるからさ」

 

 二人が知り合いだと分かった途端、通行人達はしらけたようにその場を去った。だが、ヤンキーと少女という奇妙な取り合わせは、依然として人々の注目を集め続ける。窃野と杳が大声で騒ぐ度に名もなき人々の壁は堅牢さを弱め、やがてとうとう瓦解した。

 

 歩きながら、窃野は杳の前に小さな革袋を差し出した。中にはスマートフォンが一台、入っている。恐らく窃野のものだろう。──最近のハッカーはスマートフォンの電源を切っていても傍受する事ができるらしい。この小袋はアメリカから輸入した防衛装備品で、入れる事で外部・内部からの接続を遮断するのだと窃野は補足した。

 

「スマホ入れろ。傍受されてるかもしれない」

 

 杳はスマートフォンを袋に突っ込んだ。通りの一画にこじんまりとしたラーメン店を見つけ、窃野は歩みを早めた。二人は暖簾をくぐり、中に入る。”スープが終わり次第終了”という立て看板がかかったその店は、杳達でちょうど店じまいとなり、約一分ほど遅れて追いついた名もなき人々の前で”営業終了”の札を貼った。

 

 

 

 

 二人は店のカウンター席に腰を下ろした。杳が依然として戦闘体勢を保つ一方で、窃野は手早く注文を済ませた後、カウンター脇にある小皿を取り出して”ご自由にどうぞ”と書かれたキムチと漬物をたっぷり乗せ始めた。

 

 杳は目を閉じ、感覚器を研ぎ澄ませる。店の前にじっと立ち尽くす人の気配を複数、確認できた。──市街戦になったらどうしよう。不安そうに息を荒げる杳の前に小皿を置き、窃野はのんきに割りばしを割る。

 

「しばらくしたら消えんだろ。警告してるだけだ。……つか、」

 

 窃野はやおら杳を覗き込み、小さな額にデコピンする。

 

「お前、突っ走り過ぎ。オシゴトに尾行は含まれてないだろ?」

「なんでそれを……」

 

 ここにきてやっと、杳は治崎から共同任務に携わる可能性があるかもしれないと言われた事を思い出した。聞けば、窃野は治崎の命令で任務に当たっているらしい。彼の仕事はデトネラット社関連の情報収集であるとの事。社員の一人を尾行中していたところ、何者かに攻撃を受けていた杳を()()見つけ、救けてくれたのだという。

 ──仕事の邪魔をしてしまった。杳の胃の中を罪悪感が濁流のように流れ込む。

 

「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「ホントに迷惑だったっつーの。ま、お前のお節介は今に始まったことじゃねーし、(やっこ)さんも勘ぐり過ぎゃしねェだろ」

 

 窃野は杳の額に二度目のデコピンをかました後、スカジャンのポケットをごそごそと探り始めた。カウンターの下では、ヴィンテージジーンズに包まれた両足が忙しなく揺すられている。貧乏ゆすりは考え事をする時に決まって発動する、窃野の癖だった。やがて彼はポケットから透明なビー玉を二つ取り出し、掌の中で転がし始める。ガラス玉がぶつかり合う涼しげな音が、杳の意識を鎮めていった。好奇心に駆られて、ひょいと覗き込む。

 

「それ、何ですか?」

「健身球みたいなモン」

 

 健身球は中国発祥の健康器具の一つだ。二つ一組の中空の球体により構成され、球体の内側には金属製や石製の小さな球とそれが外側の球体に触れる事で音が鳴るベルが入っている。掌の中で球を回転させて使用する。西洋でいうところのストレスボールと似たようなものだ。

 

 手に関した個性が影響しているのか、窃野は手の中に何かがないと落ち着かない性分だった。煙草やナイフをよく弄んでいたが、健身球を中国の商人から買い求めて以来、それは彼の良き相棒となった。だが、全てを失った今、彼には新しい健身球どころか嗜好品を買う資金すらない。窃野は仕方なく、ラムネ瓶から取ったビー玉を代替品として使用した。健身球よりは小さくベルもないが、ないよりマシだ。それにいざという時は()()にもできる。

 

 杳があまりにも熱心に見つめるので、窃野は持っているビー玉を渡してやった。少女は目をキラキラと輝かせ、見様見真似で掌に握り込む。だが、その内側で回す事は叶わず、ガラス玉はボロボロとテーブル上を転がった。

 

「下手くそか」

 

 危うく転がり落ちそうになったガラス玉を、杳は慌ててキャッチする。緊張感の欠片もない笑顔が、窃野を真正面から直撃した。

 

「もう一回いいですか?」

「……いいけど」

 

 無限にカウンター上を転がり続けるビー玉を、窃野はラーメンが来るまでの間、頬杖を突きながら鑑賞した。ビー玉と格闘している杳は、窃野が向けている──何とも言えないばつが悪そうな眼差しに気付く事はなかった。

 

 やがて二人の頼んだチャーシューメンがやって来た。杳は手を合わせた後、子供用の取り皿を器の横に置き、麺を移してフーフーと冷ます。生まれたての赤子のような純朴な横顔にいよいよ良心が耐え切れなくなり、窃野はつい口を滑らせた。

 

「お前さぁ。殺されかけた奴とよく平気で飯食えるよな」

 

 杳はメンマを咥えたまま、窃野をポカンとした顔で見上げた。──殺されかけた?そんな物騒な事、あったっけ。杳がキーワードを打ち込んで検索ボタンを押すと、激動の記憶が大量に詰まった脳は、数分のタイムラグを経て、八斎會のアジトで窃野に殺されかけた時の記憶を表示した。

 白髪頭をかき、杳は緊張感のない顔でへらりと笑う。

 

「そういえば、そんなこともありましたね。あの時は怖かったです」

「……」

 

 最早返す言葉が見つからず、窃野は絶句した。少女を凝視する視界が、色素の抜け落ちた白髪と黒い隈を映し出す。いずれも最初に会った時にはなかったものだ。──自分の暴行が笑い話になるほど、辛い目に遭ったって事だ。その瞬間、窃野の心に情が芽生えた。カウンターを見上げ、人の良さそうな顔をした店主に声をかける。

 

「おやっさん。こいつにチャーシューと煮卵追加。あとデザートに冷凍苺」

「えっ?いいんですか?」

「食え食え。食ってもっとデカくなれ」

 

 嬉しそうにチャーシューを頬張る杳は、同年代の子供と比べて上背が低く、高校の制服を着ていなければ中学生くらいにしか見えなかった。彼女の取る拙い所作と幼気な雰囲気が、ますますそれを助長する。家族の為に角を折った鬼の上司を、窃野はふと思い出した。頭痛がした。

 

「犯罪だよな……」

「え?」

「いや、何でもねぇ。こっちの話」

 

 窃野は溜息を吐き、自分の分のチャーシューを杳の丼に入れてやった。はぐはぐと旨そうに食べる杳はすっかりと失念していた。寮に帰ったら、人使のオムライスが待っている事を。




ヴィジランテ最高すぎる‼最新話読んで泣いた‼頼む、アニメ化してくれ‼


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No.94 泥花市にて

≪オリジナル登場人物紹介≫
●沼田広(ぬまたひろし)
デトネラット社・泥花支社の営業課所属。異能解放軍戦士。コードネームはスティッキー。
●沼田留(ぬまたとめ)
広の奥さん。異能解放軍戦士。コードネームはアスフェクシア。

※ご注意:残酷な描写、差別的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 ──人生というのは、窮屈だ。

 

 人は皆、鋳型(いがた)の中に生まれる。

 最初、それは透明で、外を見ることができる。

 だが成長するにつれ、黄ばみ、くすんで、外の景色が遠のき、内側が見えてくる。

 

 稀に鋳型を壊す者もいるが、ほとんどはその中で生涯を終える。

 

 古ぼけた型の中で”若い頃は良かった”なんて管を巻き、仲間と笑い合うか。

 はたまた、昔の記憶にすがり、見果てぬ夢を想い続けるか。

 

 その切なさや苦々しさが、私は羨ましい。

 

 物心ついた時から、私には自由がなかった。

 自分を取り篭める鋳型が見えていたから。

 

 母の手や瞳は、私を慈しんではいなかった。

 (かしず)き、(こうべ)を垂れる多くの者も、私を見ることはない。

 

 彼らは皆、私の鋳型を見ていた。

 正確には、過去を。

 ──()()()()()を。

 

 

 

 

 杳を学舎まで送り届けた後、窃野は繁華街へ戻った。()が指定した場所は、繁華街の中枢区にあるビルの狭間だ。人一人が辛うじて通り抜けられる程のスペースに、窃野はするりと入り込む。

 

 小路の先は袋小路になっていた。分厚く高いコンクリート壁に三方向を閉ざされている為、周囲は静かだった。両脇にそびえるオフィスビルの窓はカーテンが閉じ切られ、人気はない。上空はと見上げれば、雑多に張り巡らされた配線と電線が絡み合っていて、何も見えなかった。

 

 八斎會がまだ敵組織として機能していた頃、窃野は斥候役を担っていた。情報収集・索敵は彼の得意分野だ。袋小路内のクリアリングはざっと済ませたが、このエリアが敵のテリトリーである事に変わりはない。周囲の警戒を怠らず、彼を待っていた、その時──

 

「お疲れ様でした」

「ッ!」

 

 突如として袋小路の最奥、光の届かない暗闇から飄々とした声が飛ぶ。振り向きざまに投擲した窃野のナイフは──まるで柔らかなブランケットに埋もれたような──もふ、という間抜けな音を立てた。

 

 窃野の視界に入ったのは、()()だ。大振りな鳥の羽根がびっしりと生え揃った、大人の背丈ほどはある片翼の中心にナイフが突き刺さっている。

 

「危なっ」

 

 大きな翼のすぐ向こうで、笑い声がした。アイスクリームを落っことしそうになったみたいな、何でもない調子の(トーン)だった。──神出鬼没か、こいつは。得体の知れない恐怖を感じ、窃野は総毛立つ。あの配線と電線の森をくぐり抜け、おまけに物音も立てず、どうやってこんな狭い中に入った?

 

 ()が軽く身を捩るような動作をすると、翼がわずかに震え、ナイフが飛んだ。使い込まれたジャックナイフは放物線を描き、窃野の手に収まる。窃野はナイフを仕舞うと壁に身を預け、忌々しそうに唾を吐いた。ただ自分の背後に立つだけで圧倒的な強さを見せつけた彼に対する、精一杯の虚勢だった。

 

「脅かすんじゃねーよ」

「いやいや、労っただけですって。物騒だなぁ」

 

 人懐っこそうな声と一緒に翼がばさりと旋回し、持ち主の顔が露わになる。──大きな両翼を武器に戦う№3ヒーロー・ホークスだ。彼こそが、窃野をここへ導いた人物だった。飄々とした笑顔を浮かべているが、その体からは見る者を怖気(おじけ)づかせるような覇気が発散されている。

 

 仄暗い闇の中でも、彼の輪郭ははっきり分かった。まるで内側から光り輝いているようだった。豹のようにしなやかで強靭な体躯、立派なコスチューム、個性ヒエラルキーの上位にいる事を示す両翼。それらが統合された容姿は、非の付け所がないほどに美しく凛々しい。

 

 光は眩しいほど、見る者の心に暗い影を落とす。さぞかし良い家に生まれて、順風満帆な人生を歩んできたんだろう。泥水をすすり、這いつくばって生きる自分とはまるで真逆だと、窃野は卑屈な笑みを浮かべた。

 

 不意にホークスの瞳が動き、ある方向を見据えた。窃野は薄汚れたコンクリート壁の向こうにあるものを知っている。雄英の学舎だ。

 

()()は無事、送り届けた。あんたのおかげでな」

 

 ごんというのは”ごんぎつね”の略称で、八斎會の中でだけ使われる杳の愛称だった。無論、部外者であるホークスはその事実を知らない。しかし、彼は頷いただけで、ごんが誰かを訊き直したりはしなかった。

 窃野は上着のポケットから赤い羽根を取り出し、パッと指を離す。羽根はふわりと空を舞い、あるべき場所へ戻っていった。

 

 

 

 

 時をいくらか(さかのぼ)り、杳が敵連合の面々と邂逅を果たしていた頃。──”異能解放軍の制圧”という特別任務を遂行するに当たり、公安は潜入捜査員として杳を起用、八斎會一家に協力要請を発出する事を決定した。捜査要員を求められた治崎は、一家の中でも情報収取能力に長けた窃野を斡旋する。

 

 公安に向かった窃野を待っていたのは、現会長とホークスだった。ホークスも窃野達同様、協力要請を受けて公安へ出向しているらしい。現会長が窃野に命じた任務は異能解放軍の捜査、ホークスとのチームアップ、そして杳のサポートだった。

 

 ホークスの羽根は生え変わるまでの数日間、感知機能が持続する。彼は窃野に羽根を渡し、創業祭当日、杳に何か異変があれば震えて知らせると伝えた。杳が何者かに襲われているのを救け出す事ができたのは、彼の羽根のおかげなのだ。

 

 

 

 

 そして、現在。猛禽類のように鋭いホークスの瞳が、窃野の眼前でふわりと柔らかく融けていく。心からホッとしたようにホークスは笑った。窃野がヒーローに対する嫌悪感を一時的に忘れてしまうほど、その笑顔は純粋だった。

 

「ありがとうございます。本当に良かった」

「……本題はそれだけか?」

 

 窃野は苛々とした様子で貧乏ゆすりをしながら、唾を吐いた。杳を助ける為とは言え、敵前に顔をさらすという()()()()()()を負ったのだ。何かしらの保障がなければ割に合わない。

 

 ──杳の前では気丈に振舞ったが、敵が自分の情報を調べて更生敵である事を突き留めるのは時間の問題だった。

 更生敵は意地悪な言い方をすれば、政府の犬だ。杳を救けに来たタイミングも加味すれば、敵は間違いなく警戒する。ホークスから指示を受けた時、窃野は他の人間を行かせるよう提言した。けれど、彼はそれを拒否した。

 

 窃野はホークスの指示に従うよう、現会長より厳命されている。所詮、更生敵の扱いなんてそんなもの、名ばかりのチームアップだと窃野は鼻白んだ。だが、逆らえば家族が危険に晒される。家族で過ごす穏やかな日常を味わってしまうと、もう元の地獄に戻ろうという考えは浮かばなかった。

 

「……まさか」

 

 低く絞った声が、ホークスの口から放たれる。猛禽類を思わせる双眸が、薄闇の中で冷たい輝きを放った。

 

 ──ホークスは杳のお節介で衝動的な性格を把握していた。彼は十中八九、デトネラット社が怪しいと勘付いているが、杳は無関係だと思い込んでいる。ホークスは杳や発目の持つ羽根を通して、二人を取り巻く状況を確認していた。

 

 公演会で凄まじい殺気が放たれた時、ホークスは羽根の感度を上げて()()()を突き止めた。そして杳の行動を予測した。あんなものを喰らったら、きっと”無関係な彼ら”を救けようと衝動的に行動するはずだと。

 果たして、杳はその通りに動いた。

 

「あなた達の奮闘のおかげで、警戒が一時的に緩んだ。その隙を突いてアジトを特定しました」

 

 二人が敵達の目を集めている間に、ホークスは町じゅうに羽根を飛ばし、アジトの所在地を特定していた。窃野は冷たくせせら笑い、ホークスを睨む。

 

「ヒーロー様よォ。俺らは囮ってわけか?」

「陽動と言ってください」

 

 二人の間には数メートルほどの距離がある。近いようで遠いその距離は、決して縮められる事はない。だが、ホークスは恐れる事なくその領域に一歩、踏み込んだ。

 

「で、ここからが本題です。……あなたにはこれからアジトに行き、異能解放軍に加入してもらいたい」

 

 ──突拍子もないその指令を理解するのに、窃野は三十秒ほどの時間を必要とした。

 

「正気か?今頃、(やっこ)さんは俺の正体を掴んでるよ。信用されるはずがねェ」

「だからこそです。あなたの”更生敵”という位置付けはアドバンテージになる」

 

 ホークスは訝しむ窃野に語り掛けた。──異能解放軍は、今の社会を破壊する事を目的とする集団だ。個性を不正使用した者を一律に敵とみなし、その更生を今まで良しとしなかった政府が、ここに来てついに()()()()()()()()。革新的に思えるその行動は、裏を返せば、更生敵を受け入れざるを得ない程に社会が疲弊し追い詰められているという事に他ならない。

 

 窃野達は表向きは政府に従っているが、本心はそうではない。たとえ政府と繋がっていると分かっていても、その反骨心を買われ、社会を内側から壊すスパイとして起用されるはずだとホークスは説いた。

 窃野は酷薄な笑みを浮かべ、腕を組む。

 

「俺がそのまま裏切ったらどうすんだ?」

「それはあり得ない。あなたは善い人だ」

 

 ホークスもまた笑った。窃野を始めとした八斎會一家が持つ良心を見抜いているが故の言葉と笑顔だった。

 

 音本ほどではないが、窃野もまた人の表情──わずかな眼球の動きや表情筋の引きつれなど──を見て、その人の本心を見定める事ができた。ホークスに偽りはない。だが、そんなものに(ほだ)されるほど、彼は甘い人生を生きていなかった。善い人というのはとどのつまり、都合の善い人という事だ。

 

「身の安全は保障する。俺が守ります」

「馬鹿言ってんじゃねーよ。どう考えても捨て駒だろが」

 

 窃野は思わず声を荒げた。危険地帯に独りきりで特攻する自分を、誰が守ってくれるというのか。家族の為なら命は惜しくないが、その命を弄ばれるのは我慢ならなかった。過去のトラウマがヒーローに対する嫌悪感を何倍にも増幅させる。

 

 忌々しそうに吐き捨てる窃野を見た途端、ホークスから笑顔が消えた。今にも霞んでしまいそうなくらいに儚く哀しい表情で、彼は言葉を紡ぐ。

 

「……全部、話します」

 

 

 

 

 数十分後、窃野は袋小路を出た。迷いのない足取りで、目的地に向かって歩き出す。もう夜はとっぷりと更けていた。オフィス街を通り過ぎ、シャッターの閉まった店舗が建ち並ぶ商店街を歩く。──襲撃を仕掛けるなら最高のシチュエ―ションだ。他人事のように思うが、依然として周囲には人の気配が全く感じられなかった。若干拍子抜けしつつ、先を急ぐ。

 

 向かって左側、”テナント募集中”という掲示物が張られたシャッターが半分開いている。窃野は最大限の気を払ってその奥に耳を澄ませ、索敵した後、進行方向に目を向けた。

 

 ──その肩を、シャッターから伸びた手が掴み、一気に内部へと引き摺り込む。

 

 

 

 

 同時刻、ハイツアライアンス寮・談話室にて。杳は湯気の立つオムライスを見下ろし、震えていた。マイクデザインのトレーナーに隠れた腹部は、ぱんぱんに膨れている。

 

 オムライスにはマイクが力強くサムズアップしている旗が刺さっており、その横にはタルタルソースのたっぷり掛かったエビフライとサラダ、ガラス容器に入ったプリンが添えられていた。とろりとした卵の表面には愛らしい猫のイラストがケチャップで描かれている。

 

 ──全ての要望が、いっそ残酷なまでに叶えられていた。

 

 いや、残酷なのは自分だ。杳は膨れたお腹を擦り、自分を呪った。いくら非常事態で気が立っていたとはいえ、何故、あんなに楽しみにしていたオムライスを忘れていたのだろう。

 一方、人使はオイルポットに使用後の油を注いでいた。まな板の上には揚げたてのエビフライと唐揚げが数個、載っている。

 

「エビフライ、お代わりあるけど食うか?唐揚げもあるけど」

「ダイジョウブデス」

「……?弁当にしとくから。明日、忘れずに持ってけよ」

 

 妙にかしこまった杳の返事に首を傾げつつ、人使は弁当の仕込みを始める。──杳はサポート科の発目と知り合ってから忙しさに拍車がかかり、よく昼飯を食べ逃すようになっていた。自分と同じように携帯食を摂らせるのは忍びない。そう思った人使は手作り弁当という対策を取ったのである。愛妻ならぬ、愛彼弁当だった。

 

 十分後、ようやく仕込が終わった人使は振り返るなり、面食らった。杳はまだオムライスに手を付けていなかった。いつもは口周りをケチャップ塗れにしてかき込み、お代わりをねだるのに。杳が公安から指令を受けている事を、彼はふと思い出した。一抹の不安がよぎる。隣の椅子を引いて腰かけ、杳の顔を覗き込んだ。

 

 次の瞬間、わずかに開いた杳の唇から、けぷ、と小さなげっぷが漏れた。人使はなんだか嫌な予感がして、トレーナーの上から腹をさすった。ぽんぽんに膨れている。

 

「何か食ってきたのか?」

 

 灰色の瞳からぼろっと大粒の涙が零れ落ち、テーブルに滴った。あまりに悲壮な杳の表情に慌てふためき、人使は小さな体を抱き寄せ、フワフワの白髪頭を撫でる。くぐもった謝罪の言葉が、彼の逞しい腕の中にこだました。

 

「……ごべんだだい(ごめんなさい)

「いや別にいいよ。俺の弁当にするし」

 

 手料理を味わってもらえないのは残念だが、オムライスはいつでも作れる。もっと深刻な出来事じゃなくて良かったと、人使はホッと胸を撫で下ろした。弁当に詰めきれなかった分は食べてしまおう。人使は立ち上がり、プレートを掴む。しかし、その手は杳によって阻まれた。

 

「何してんだ」

「……ッ」

 

 その時、杳は葛藤の只中にいた。きっと無意識の範疇だろうが、人使がほんの少しだけ悲しそうな顔をしたからだ。せっかく忙しい合間を縫って作ってくれたのに、満腹だからと言って食べないなど言語道断。プルスウルトラだ!杳は自らを奮起し、スプーンを持ってオムライスをすくい、猛然と口に運んだ。

 

 小さなフードファイターの挑戦を、人使は唖然とした眼差しで見守る。──擦ったお腹は相当膨れていた。杳は良く食べるが、あくまで食べ盛りの範疇に過ぎない。このプレートを食べ切る事はできないはずだ。しかし、人使の予想に反して、プレート上の料理は瞬く間に消えていく。

 

「お腹壊すぞ。そこらへんにしとけ」

「ううん大丈夫。ヒトシのご飯美味しいから、満腹でもいくらでも入る」

 

 エビフライを咀嚼しつつ、杳はあどけない笑顔を浮かべた。不思議と人使の料理を口にする度、胃の消化が促進され、新たな空きスペースができていくような心地がする。これなら完食できる。杳は心の中でガッツポーズを取った。

 

 一方の人使は、料理人として最高の褒め言葉を送られた事による多幸感を冷ますため、深く呼吸をして瞑想状態に入っていた。ようやく落ち着きを取り戻して瞼を開けると、デザートのプリンに取り掛かっている杳の横顔が映り込む。緊張感のないその表情を眺めていると、脳の奥底から()()()()()がゆらりと浮かび上がってきた。

 

────────

 

──────

 

────

 

 

 今を遡る事、二週間前。人使は杳ほど頻繁ではないが、相澤の下で定期的に捕縛布の鍛錬を積んでいる。その日の夕方、いつものように訓練を終えて小休止を取っていると、相澤が人使の傍に座り込み、眼前に小型タブレットを差し出した。──そこには自分の個性因子と身体情報に関するデータがずらりと表示されている。

 何が何だか分からず、戸惑いながら見上げる人使と相澤の瞳が(しば)し、交錯する。

 

(能力を強化するつもりはないか)

(……え?)

(調べたんだよ、お前の個性。半分が()()()()に入ってる事が分かった)

 

 人使の個性は、洗脳する意志を持ってした問いかけに返事をした者を操る事ができるというものだ。意識を集中させる必要があるため、本人の意思に関係無く個性が発動する事は無い。彼の意思で自由に解除ができるほか、操られた本人にある程度の衝撃を与えると解除される。

 

 この()()()()()()()というのが曲者で、捕縛布を巻き付ける過程で洗脳が解ける事もままあった。その度に対処に追われる人使を見て、相澤はふと疑問に思った。

 

 ──あまりに限定的、()つ弱すぎる。下せる命令も受動的な内容に限り、能動的な内容は無効となる。つまり、秘密を聞き出すなどの用途には使えない。

 本来、洗脳とは強制力を用いて、人の思想や主義を根本的に変えさせる事だ。人使の個性は洗脳という仰々しい名前の割にライト過ぎた。

 

 相澤は人使の個性届をつぶさに調べ、届を作成した個性測定センターにも行き、医師から話を聞いた。その結果、以下の事が分かった。

 

 ──人使の個性因子は、その半数が休眠状態に入っている。つまり、今の個性は本来の姿ではないという事だ。個性因子は宿主の精神状況に多大な影響を受ける。恐らく個性を使った事によるトラウマ、個性そのものに対する恐怖心が影響しているのではというのが医師の見解だった。

 

 人使の個性因子サンプルを元に医師がシュミレーションした()()()()は、まさしく洗脳と呼ぶにふさわしい強個性だった。どんな衝撃を受けても、その人物ができうる限りの任務を遂行させる。問い掛けをする必要はなく、対象者の耳に肉声を届かせるだけでいい。対象者の脳に命令を埋め込み、任意の時間に発動する事もできるのだそうだ。それらの仮説が本当なら、人使の力ははるかに強力なものとなる。

 

(何で今、それを?)

(お前はもう力の責任を知ってる。タイミングが来たと判断した)

 

 相澤が自分を信頼してくれている。その事実が、人使は何より嬉しかった。──彼の個性は戦闘向きではない。純粋な戦闘力ではいつもクラスメイト達に遅れを取っていた。だが、この力を解放すれば、間違いなくクラスの上位に食い込む事ができる。それは彼の野望であり、夢であり、宿願だった。凄まじい高揚感が体の奥底から這い上がってくる。それに身を委ねようとした瞬間──

 

(あいつにはなしかけんな!()()()()されるぞ!)

 

 ──過去の声が亡霊(ゴースト)のように蘇り、人使の耳にこだました。

 

 人使の体が小さく震え始める。それは武者震いではなく、恐怖によるものだった。辛い記憶はプラスチック片と同じだ。いつまでもなくならず、劣化する事もない。心の真ん中にずっと刺さったまま、何度も繰り返し(うず)いて、人を傷つける。自分の個性が洗脳だと知った時の人々の態度。惑う視線。話しかけても答えてくれなかった孤独──。幼少期から受け続けた小さな悪意の積み重ねが、未来へ羽ばたこうとする彼を嘲笑い、脈打つような痛みを放った。

 

(……少し考えさせてください)

 

 

 

 

 人使はぼんやりと物思いに(ふけ)ながら、寮の玄関口で靴を脱いだ。声を出そうとして、皆を洗脳してしまうかもしれないと思い、口を噤む。そんな事はあるはずがないのに。まるでハリネズミになってしまったみたいに、今の自分は触れるもの全てを傷つけるような気がした。いつの間にか、薄い唇は愛想笑いを浮かべている。

 

 トラウマに、完全に呑まれている。非合理にも程があるだろうと、人使は自らを叱咤した。いまだに克服できていないという事実に深く打ちのめされる。まるで全てが振り出しに戻った気分だった。視界に移る全てが灰色に色落ちして見える。人使は頭を振って雑念を追いやると、談話室を通過して自室へ戻ろうとした──

 

 ──ところで、洗濯室でもたもたと洗濯物を畳んでいる()()に気が付いた。恐るべき手際の悪さだった。下着を裏表逆のまま畳んでいる内に、積み重ねていたものが倒れる。靴下を二つ重ねて丸めるのに数分掛かっていた。人使は耐え切れず、手を伸ばして彼女の洗濯物を奪い去る。

 

(あ、ヒトシ!ありがと)

(……)

 

 杳は”待ってました”と言わんばかりに機敏な動きで人使に席を譲り、彼の肩にちょんと顎を乗せ、瞬く間に畳まれていく洗濯物を見物した。小さな両手が人使の首に絡まる。陽だまりの匂いがする重みが、彼の背中に圧し掛かった。隙あらばくっ付こうとする杳なのであった。

 

(離れろ。汚れる。汗臭いだろ)

(臭くないもん。ヒトシの匂いがする)

(ヘンタイかおまえは)

 

 軽口を叩くついでに、人使は体を軽く(よじ)る。しかし、杳は頑としてその場を動かなかった。人使の首筋に顔を埋め、子供のように甘えている。本当に同い年なのかと嘆きたくなるほど、その行動は一つ一つが幼かった。だが、不思議と嫌な気分はしない。フワフワとした綿飴みたいな髪が人使の頬をくすぐった。心の痛みが、少しずつ和らいでいく。人使はふと口を滑らせた。

 

(もし、俺の個性が強化されたらどうする?)

(え?)

(成長の余地があるって言われたんだ。個性因子が未発達な部分があるって)

 

 杳はぴょんとジャンプして、人使の顔を覗き込んだ。灰色水晶(スモーキークオーツ)のように輝く大粒の瞳に、自分の顔が映っている。今にも泣き出しそうな、頼りない表情をしている。──情けない。こんな顔を見せるつもりはなかった。男としてのプライドが傷つき、人使は耐え切れず、首元に手をやって俯いた。だが、言葉は止まらない。

 

(相手に返事をさせる必要もない。俺の声が認識できたら発動、どんな命令も遂行させる。任意の時間に発動させる事もできるって。そうなったらどうする?)

 

 杳が少しでも怖がったり、警戒したりする様子を見せれば、人使は諦めるつもりだった。同時に、庇護対象であるはずの杳に全てを委ねるほど()()()()()という事実に気付き、愕然とする。

 

 一方、杳はいつも通りのぼんやりとした表情で、人使を見つめていた。だが次の瞬間、つぶらな瞳を大いに輝かせ、彼女は嬉しそうに笑った。屈託のない笑い声が室内に響き渡り、反響して彼の鼓膜を揺らす度、灰色の世界がゆっくりと(いろ)を取り戻していく。

 

(えっ?そうなったら私、人使に洗脳してもらって、毎朝五時に起こしてもらう!)

(……は?)

(あと乾燥機に入れ替える時間と、C言語の基礎情報と、ピーマン食べれるようにしてほしいのと、それから……)

(待て待て。人の個性を便利グッズにすんな)

 

 人使は杳の頭を乱暴にかき混ぜた。”人使に洗脳してほしい百のこと”を指折り数えていた杳はハッとしたように口を噤む。そして、頭を抱えて考え込んだ。

 

(ごめん、真剣に考える……)

 

 ──真剣に考えてなかったのか。人使は落胆した。突拍子もない反応に当てられて一時的に麻痺していた痛みが、再び疼き出す。しばらく目を閉じて思案に暮れていた杳は、やがてゆっくりと顔を上げた。その瞳の輝きは失われていない。友人が誇らしくてたまらないと言わんばかりに照れ臭そうに笑い、杳は彼の目を覗き込むと、しっかりと頷いた。

 

(うん。やっぱりヒトシはすごいよ。パニックになって暴れ回ったりしている人を自力で助かるようにできたり、敵がこれ以上被害を冒さないよう行動を制限できるって事でしょ。なんだっけ、昨日日本史で習った……()()()()だってできるじゃん。超すごいじゃん!)

 

 陽だまりのようにあたたかな笑顔と言葉は、人使の心に突き刺さったプラスチック片を銀河系の彼方へ吹き飛ばした。

 

 ──人使にとって、杳は庇護するべき存在であると共に一番信頼のおける友人であり、同志でもあった。彼女から与えられたものを言語化する事は難しい。

 だが、眼前にいる小さな少女が誰よりも頼もしいと感じた時、人使は自分もまた彼女に救けられ、今日まで支え続けられていたのだという事を痛感した。

 

(ふと隣に立つそいつを見て、心から感謝したりもする。……こいつが一緒にいてくれて良かったってな)

 

 かつての師の言葉が、人使の耳朶(じだ)を打つ。知らないうちに、彼の口元は笑みを浮かべていた。愛想笑いでも恐怖による引き攣りでもない、自然な笑いだ。

 

(無血開城だよ、馬鹿)

 

 人使はとびきり優しい声を出し、小さな体を抱き寄せた。そして、個性を強化する覚悟を決めた。その先がどこへ繋がっているかは分からない。だが、彼女と一緒なら、どこへでも飛んでいけるような気がした。

 

 

 

 

 その日の夜、杳はあまりの満腹さに寝付く事ができなかった。トッピング山盛りのラーメンを一杯、そしてオムライスとエビフライ、プリンまで食べたのだから当たり前だ。ベッドに横になると、胃酸が逆流してくる。

 

 杳は苦悶の表情で起き上がり、膨らんだお腹をさすりつつ、壁に背を預けた。目を(つぶ)ると、今日の出来事が閉ざされた視界の中にぼんやりと浮かび上がってくる。それらを眺めている間に、杳の意識は融けていった。

 

────────

 

──────

 

────

 

 ふと気が付くと、漂白剤をぶちまけたように真っ白な空間に、杳は立ち尽くしていた。どこかから、小さな子供の泣き声が聴こえる。声の聴こえる方へ、杳は歩いた。眩いほどの白さを保つ世界には、良く見るとあちこちに公園の遊具が置かれている。やがて前方に砂場が見えた。その中に()()がいる。

 

(──rい──きらいだ──)

 

 小さな少年だった。こちらに背中を向けてしゃがみ込み、弱々しく泣いている。思わず声をかけようとした瞬間、世界がより一層白さを増し、眩く輝いた。(おびただ)しい光の渦が起こり、目もくらむ程の乱反射を発生させる。杳は耐え切れずに瞼を閉ざし、地に伏せた。

 意識が再び遠ざかっていく──

 

 

 

 

 翌日の放課後。相澤に呼び出され、杳はおっかなびっくり職員室へやってきた。──また何かあったのだろうか。残念な事に、思い当たる事は山ほどある。相澤は杳に手招きして自分の机の前まで来るよう指示し、電子端末のディスプレイ位置を調整する。そこに表示されたものを見るなり、杳は大きく息を飲んだ。

 

「イメージキャラクター契約のプレエントリーが来てる。デトネラット社からだ」

 

 ──イメージキャラクターは特定の企業や商品のイメージ向上のため、その広告に起用される人物を示す。起用される人物は著名な芸能人から架空のキャラクター、果ては動物まで種々様々だが、一番人気なのは()()()()()()だ。彼らは芸能人と同等の衆望を持ち、仲介を通さないためギャラも安く、おまけに仕事柄スキャンダルも少ない。

 

 人気なヒーローほど争奪戦になる。それを避ける為、一部の企業はヒーローがまだ卵の内から、学校にプレエントリーを申請している。”あなたに興味がある”という意志表示だ。

 ヒーローの卵からすれば、飽和社会と呼ばれる現代、年間で数百万~一千万以上の収入が確約されるのは非常に有難い。プロデビューと同時に芸能界入りするニューヒーローも、昨今では珍しい話ではなかった。

 

 杳もイメージキャラクターの話は聞き及んでいるし、ヒーロー科には芸能活動に関する授業もカリキュラムに組み込まれている。だが、それはあくまで特別な学生に限った話だ。正直、自分には無縁な話だと思っていた。

 ──(もたら)せるメリットが何もないからだ。今まで乗り越えてきた数々の苦難を加味すると、むしろデメリットしかない。自分が商品を手にアピールなどしたら、きっとデトネラット社のイメージは大幅に下がってしまうだろう。

 

(四ツ橋が君を見出した事にも、理由があるはずだ。随分と前から興味を示していたようだからな)

 

 突如として、顧問役の声が杳の耳朶(じだ)を打った。心が急速に冷えてゆく。──何か思惑があるんだ。私を()()()評価しているわけじゃない。暗い顔をしている杳を、相澤は静かに覗き込んだ。

 

 ──イメージキャラクター契約は、言うなればスポンサー契約と同義だ。話を聞いて、今まで喜ばない生徒はいなかった。単純で素直な性格である杳なら、きっとウサギのように飛び跳ねて喜ぶはずだと相澤は推察していた。なのに彼女は今、暗く悲しい顔をしている。

 

 相澤は杳に下された任務を知らない。だが、今まで何を成してきたかは知っている。多くのヒーローが成せなかった事をやり遂げた。救えなかった者を救った。だが、世間はそれを知らないし、評価する事もない。

 

 杳のタイムラインは過去の瘢痕だらけで、宣伝向きのクリーンなキャラクターとは言いづらい。だが、それでもデトネラット社は杳を選んだ。スキャンダルを恐れずに契約を持ちかけてくれたという事実が、相澤は何より誇らしく、嬉しかった。──デトネラット社のエントリーを一番喜んでいるのは、彼なのかもしれなかった。

 掬い上げるように覗き込み、相澤は言葉を紡ぐ。

 

「デトネラット社はお前を評価してる。胸を張れ。誇っていい」

 

 力強くあたたかな声が、小さな背中を後押しする。──先生の言う通りだ。杳はふと冷静になり、考え込んだ。自分はヒーローとして優秀でもないし、お金持ちでもない。一体、自分の()()見出してくれたと言うのだろう。

 

 

 

 

 プリントアウトされたエントリーシートを握り締め、杳は寮へ立ち戻った。談話室のソファに体を沈め、シートにざっと視線を走らせる。責任者である四ツ橋力也の代表電話が掲載されていた。不器用な手つきで番号を登録していると、隣に焦凍がどさっと座った。シートを覗き込むなり、彼は色違いの瞳を輝かせる。

 

「良かったな」

 

 さながら大型犬にするように、焦凍は杳の頭をわしわしと撫でた。並みの女性であれば平常心を保っていられなくなるほど、その笑顔は優艶だった。だが、杳の心と胃袋は人使にがっしり掴まれているため、一ミリも動く事はない。

 

「ショートはエントリーされたことある?」

「ああ。事務所が管理してるから、詳しい数は知らねェが」

「そーなんだ……」

 

 文武両道、眉目秀麗、強力な個性、極め付けは№2ヒーロー・エンデヴァーの息子である。杳とは最初から立っているステージが違っていた。

 ──焦凍は最初、エントリー企業の対処を事務所に一任していたが、体育祭以降考えを改め、一つ一つの企業を調べてメールを送る事にしているのだという。

 

 杳は焦凍に教えてもらいながら文面を作成し、デトネラット社にお礼のメールを送った。そうこうしている内に、風呂上りらしき砂藤がやって来て、炊飯器の釜をどんとキッチンに置く。そして、こちらを振り返った。

 

「台湾カステラ創るけど、食う?」

「食うーっ!」

 

 杳と、ダイニングテーブルで課題をしていた芦戸と葉隠の声がハミングする。台湾カステラはふんわりとしていて素朴な甘味があり、いくらでも食べられた。

 

 杳が三切れ目のカステラに舌鼓を打っていると、麗日がテレビの電源を点けた。彼女が贔屓にしている関西系列のニュース番組が始まるらしい。愛嬌のある顔立ちをした女子アナウンサーが、デトネラット社の創業祭の様子を取り上げていた。杳の向かい側でカステラを食していた口田は嬉しそうに声を弾ませ、常闇を見る。

 

「あ!出てるよ」

「ホークスー!」

黒影(ダークシャドウ)ッ」

 

 はしゃいでテレビ画面に突撃しようとする黒影を、常闇が必死で押さえつけた。──映像越しでも、やはりホークスは恰好良い。記念にと、ホークス人形にくっ付けた赤い羽根を杳はぼんやりと思い出した。ダイジェスト映像の中には花畑氏による公演会のシーンは含まれておらず、杳はホッと胸を撫で下ろす。公衆の面前でスピーチをしたなんて事が皆に知れたら、からかわれるに決まっているからだ。

 

 その時、杳のスマートフォンが小さく震えた。ポケットから取り出して画面を見るなり、杳は自分の目を疑った。()()()()()と表示されている。震える手で通話ボタンをタップし、耳に押し当てた。

 

『やあ、白雲くん。メールありがとう。エントリーは見てもらえたかな』

 

 優しいベルベットボイスが、杳の心を優しく愛撫する。まさか当人から連絡が来るとは思ってもいなかった。緊張のあまりしどろもどろになりながらも、彼女は何とか言葉を捻り出した。

 

『はい。でも、あの、私なんかが……』

『自分を卑下するのは良くないよ。もっと自信を持ちなさい。君は素晴らしいヒーローだ』

 

 何十年もの間、多くの人々を導き、会社を一流企業に押し上げ、着々と力を培ってきた四ツ橋の声には()()がある。彼の言葉は、地中に埋まるほど低い杳の自尊心を巧みにくすぐり、持ち上げた。杳は幼い心の導くままに、ただ純粋に浮かんだ疑問を口にする。

 

『どうして、そんな風に言ってくれるんですか?』

『……そうだな。その答えを、電話で伝えるのは野暮だろう』

 

 四ツ橋は一呼吸置いた後、穏やかに笑った。

 

『この週末、予定はあるかな。もしよければ、私に泥花市を案内させてもらえないだろうか?』

 

 

 

 

 日曜日の朝。杳はクリーニングが終わったばかりの制服に袖を通し、愛知県・泥花市にやってきた。中山間地域にある泥花市は外からのルートが限られているが、周囲を山々が囲んでいる為に、外──つまり都会の喧騒は届きにくい。

 

 杳はバスから降りた後、長時間座席に座りっぱなしで凝り固まった体を念入りにほぐした。バス停はちょうど小高い丘の中腹地点にあり、泥花の街並みを見下ろす事ができた。

 

 大きな山脈に守られるようにして、発展した街並みが広がっている。ビルや最新の建物が多いため、秋晴れの空を反射して、街全体が青く輝いていた。遠くの方には農場のような場所もある。一番目を惹くのは中央にある大きなタワーだった。頂上にある球状の()()()()は展望台だろう。

 

 ──待ち合わせ場所はタワー前だ。紅葉した木々が、山々をパレットのように彩っている。都会の只中に住む杳にとって、こんなに深い自然と触れ合うのは久し振りだった。不思議と心が落ち着いていく。山道を彩る紅葉を蹴散らして遊んでいるうちに、街の入り口へ到達した。”ようこそ泥花市へ”という大きなアーチ状の看板をくぐると、杳は街の中にいた。

 

 アーチの付近は商店街になっているらしく、住民達で賑わっている。杳が物珍しげに周囲を見回していると、小さな子供の手から風船が離れて、ふわりと空へ舞い上がった。杳がとっさに捕縛布を手に取った、その時──

 

「……っとと。はい」

「ありがとー!」

 

 ──通りがかった青年が首を長く伸ばして風船の紐をくわえ、少女に渡した。思わぬ事態に、杳は茫然と立ち竦む。民間人の個性使用は禁じられている。青年はヒーローという感じではなさそうだった。

 

 不意に、杳の頭上に影が差した。一反木綿のように体を引き延ばした老人が、背中に子供達を載せ、空を泳いでいる。街路樹の剪定を庭師が宙に浮かんで行っていた。サイコキネシスで料理器具を操り、大量の料理を作る店主もいる。

 

 まるでひと昔前のファンタジー映画のような光景が、杳の周囲を取り巻いていた。皆が、まるで息をするように自然に個性を使い、生活している。杳は強く瞳を閉じ、意識を集中させた。──周囲に不穏な揺らぎは感じられない。以前訪れた動物園に似た、穏やかな一定のリズムだけが、さざ波のように満ちている。誰も、個性を使う事に罪悪感を抱いたりしていない。

 

「やぁ。白雲くん」

「……ッ」

 

 ぽんと肩に手を置かれ、杳はびっくりして跳び上がった。四ツ橋だ。仕立ての良いスーツを上品に着崩している。杳の全身は総毛だった。慌てて腕時計を見ると、約束の時間を五分も過ぎている。三十分も茫然とここに立ち尽くしていたらしい。慌てて姿勢を正し、頭を下げた。

 

「すみませんでした!私、ぼうっとしてて……」

「気にしないでくれ。それよりも」

 

 四ツ橋は気さくな口調で杳を労った後、悪戯っぽく笑い、こちらを見た。その声音には揶揄するような気配が滲んでいる。

 

「驚いたかな。この様子を見て」

「……はい」

「違反ではないよ。()()を発令したのさ」

 

 ──条例とは地方公共団体が国の法律とは別に独自に定める自主法の事だ。原則は国の法律で十分にカバーできない分野について、住民を守ったり自治体を運営したりするために定めるものとされている。多くの場合は情報公開条例や個人情報保護条例のように、ほぼすべての自治体が類似の内容を制定しているが、各自治体の理念や独自性が色濃く表れているものも少なくない。

 

 この街で定められている条例は”非常時における、民間人の個性使用許可”。この非常時という状況はあくまで()()()()()()()()()()ものであり、たとえ第三者が否定しても本人がそうだと主張すれば成立する。

 現代社会において自己防衛の為の個性使用はもちろん法律違反だが、大半は黙認される。個性社会におけるグレーゾーン、その穴を突いた策なのだと四ツ橋は笑った。

 

「花畑氏は立派な御仁だ。この街に生きる人々の為、粉骨砕身してくださった」

 

 ──政府は今も尚、複雑・多様化し続ける個性、それに伴う個性犯罪に頭を抱えている。平和の象徴も潰えた今、抑制政策はいよいよその堅牢さを弱め、社会は所謂(いわゆる)黎明期を迎えようとしていた。

 

 花畑はその兆しを感じ取り、焦り始めた与党の人間を言葉巧みに抱き込んで、自らのテリトリーである泥花市にてこの条例を成立させた。

 ──”個性の尊重”という公約を果たすため、という大義名分はあるものの、法律に抵触し、犯罪の増長にも繋がる危険な条例である事に変わりはない。従って、この条例が表沙汰にされる事はなく、杳も実際に目にするまで、まさかそんなものが成立しているのだと知らなかった。

 

 ふと粘度のある水が大量に流れ落ちる音がして、杳は思わず前方を振り仰いだ。数メートルはあるだろう、巨大な泥色のスライムが蠢いている。

 

「──ッ!」

 

 現代は個性社会と呼ばれ、個性を有さない者はいわれのない差別の対象となっている。だが、それは無個性者に限った話ではない。()()()の有個性者も、人としての規格からあまりに逸脱した容姿である場合、被差別対象となる。

 

 ──守らなければ。杳は思わず一歩を踏み出し、周囲を見回した。だが、道行く人々は誰も気にする素振りを見せない。スライムの上部には大きな目玉が二つ付いている。泥状の手は、傍らにいる妙齢の女性と繋がれていた。

 彼は四ツ橋に気付くと、一目散にこちらに向かって這って来た。彼は大きな体を屈ませ、お辞儀をする。眼球の下が大きく割れ、そこから軽快な声が溢れ出した。

 

「四ツ橋社長!お疲れ様です。こんな辺鄙なところまで、一体どうして?」

「こちらのお嬢さんと観光に興じているところだ。白雲くん、紹介しよう。泥花支社の営業課エース、沼田くんだ。彼のセールストークは必聴だよ」

「よしてくださいよ社長!俺なんてまだまだで……」

 

 沼田は照れ臭そうに目を細め、大きく口を開けて笑った。隣の女性も穏やかに微笑む。奥ゆかしそうに口元に添えられた左手には、銀色の指輪が嵌まっていた。

 

「白雲さん。ド田舎でマジ(なん)もないとこだけど、楽しんでいってね!」

「ちょっと!社長がいらっしゃるのに失礼でしょ!」

 

 片方の目玉を体内に埋没させ、小粋にウインクした沼田の体を、女性が軽く叩く。夫妻漫才のようなやり取りに、杳は思わず吹き出した。何となく灰廻夫婦を彷彿とさせる二人だった。杳が彼らの背中を見送っていると、沼田の体の一部から()()()()()()が放たれた。彼女と同じデザインの指輪が体内に埋め込まれている。

 

 ふと、鼻にツンと来るような異臭がして、杳は後ろを振り向いた。こじんまりとした雰囲気の駄菓子屋があり、店先で一人の子供が血のようにどす黒い色をした棒付きキャンディを何本か買い込んでいる。老年の女性店主は、愛おしげな目付きでその様子を見守っていた。

 

「今日は臓物マシュマロはいいのかい?」

「うん!今日レストランに行くからがまんするー!」

 

 嬉しそうに血液キャンディを頬張る少年の姿が、()()の姿と重なった。──杳は想像する事が得意だ。他愛無い日常のワンシーンを頭の中に思い浮かべてみる。学校帰り、トガと一緒に駄菓子屋に行き、血液キャンディを買い食いするのだ。きっと杳は食べられなくて、トガが代わりに食べてくれる。苦手なピーマンを人使が食べてくれるのと同じように。

 

 トガだけじゃない、転弧やトゥワイス、黒霧達──そして人使や焦凍、クラスメイト達と、ごく普通に日々を過ごして、生きていく。それは、有り得たかもしれない未来だった。一度諦め、再び掲げた杳の夢。誰も見向きもせず通り過ぎていたそれに、一人の人間が目を止める。

 

 ──閉じた夢の続きは、ここにあった。杳の瞳から涙が零れ、頬を伝い落ちる。その肩を、四ツ橋がそっと掴んだ。

 

 

 

 

 観光を終えた頃には、日はすっかり暮れていた。二人はこの街のシンボルマークでもある泥花タワー、その最上階へ向かった。広々としたフロアには重厚なワイン色のカーペットが敷き詰められており、その上を丸テーブルと椅子が等間隔に並んでいる。週末の夕飯時という事もあり、席はほとんどが埋まっていた。金粉を散りばめた紫陽花色の夕焼けが、街の上に広がり、天井のシャンデリアを輝かせている。

 

 人々の会話を邪魔しない程度に低く流されているのは、上質なクラシック音楽だ。食器の触れ合う音や給仕の立てる物音が、時折それに混じる。

 ──紛う事なき、高級レストランだった。

 

 杳達は一番見晴らしの良い窓際の席に案内された。杳の前には白い皿の上に載ったナプキンが鎮座している。まさか、こんな格式高い場所に案内されるとは。治崎に叩き込まれたフレンチ料理の作法手順を必死に思い返していると、四ツ橋は手を上げて給仕を呼び、杳に尋ねた。

 

「アレルギーや嫌いなものは?」

「ぴ、ピーマンデス……」

「何か食べたいものはあるかな」

「ハンバーガー」

 

 もしも治崎がここにいたら杳の頭は分解され、その後、二度と再構築される事はなかっただろう。だが、幸いな事に彼はここにいなかった。杳の世間知らず故のリクエストにも四ツ橋は快く応じ、ハンバーガーに合わせたコース料理を給仕に頼んだ。

 

 果たしてハンバーガーはコース料理のメインとして、二人の前にやってきた。──さしもの杳も最低限のTPOは(わきま)えている。口周りをケチャップで汚して受け入れてくれるのは人使だけだ。フォークとナイフを駆使し、杳は上品に食べる事に専念した。

 

 ハンバーガーは小振りで食べやすく、野菜がたっぷりと挟まれていてとても美味だった。泥花市は地産地消に取り組んでおり、この街で使われる野菜は全て()()()()()で賄われているのだと四ツ橋は誇らしげに笑う。

 

 デザートに取り掛かる頃には、杳の緊張は大分解けていた。オレンジとパイナップルのソルベに、パッションフルーツのソースが添えられた氷菓に舌鼓を打っていると、四ツ橋がワインを燻らせつつ、ふと杳の名前を呼んだ。

 

「君のスピーチは素晴らしかったよ。さらにファンになってしまった」

「あ、ありがとうございます……」

 

 杳は恐縮しつつ、もごもごと口籠った。同時にスピーチ直後に受けた()()()()()を思い返し、ハッと我に返る。のどかな街と住人達に癒され、観光にのめり込んでいる場合ではなかった。デトネラット社には異能解放軍の戦士がいるのだ。いつの間にか油断し切っていた意識を引き締め、杳はエコロケーションを発動させた。周囲に敵意や害意は感じられない。

 ほっと胸を撫で下ろし、四ツ橋の言葉に耳を傾けた。

 

「人には最早型などない。それなのに、いつまでも古い型に当て嵌め、型ズレした者を排斥する」

 

 人間を含めた動物は恒常性(ホメオスタシス)という性質を秘めている。自分の内部・外部の環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向で、有体に言えば変化を嫌うのだ。異能が発現し新たな段階に進化しても、人は元の枠に固執した。精神が変化を嫌う一方で、体は進化を続ける。その溝は年を経る毎に深まっていた。

 

「個性は進化した我々のピースだ。慈しみ、理解し、守らなければ」

 

 四ツ橋さんは()()()()()なのだ。航一や天晴と同じように。悲壮な決意を秘めたその顔を眺め、杳はそう感じた。彼のような人が大勢いたら、社会はもっと良い方向に変わっていたかもしれない。壊理がひどい目に合う事も、転弧が家族を殺める事もなかったかもしれない。

 仮定の話をしたところで、どうにもならない事は骨身に沁みている。けれど、杳はそう思わざるを得なかった。十代には凡そ似つかわしくない溜息と共に、素直な言葉が口から零れ出る。

 

「四ツ橋さんのような考えを持つ人が、もっとたくさんいたらなぁ」

 

 ──数秒の沈黙があった。しばらくして、四ツ橋の唇が()()()()を描いた。さっきまで杳に向けていた、他者を安心させるような優しい笑顔ではない。残酷な笑いだった。

 

「悲しむ事はない。私と同じ思想を持つ者は大勢いる。来たる日に向け、何代もかけて準備を整えてきた」

 

 見る間に太陽が山の向こうに消え失せ、優しい自然光の代わりに、重厚なシャンデリアの灯りが周囲を照らし出した。意図的に絞られた光量は、四ツ橋の顔に不気味な陰影を創り出した。密やかな人々の話し声や食器の触れ合う音が、不意に止んだ。さざ波を思わせる穏やかな波のリズムが、ぷつりと途絶える。

 

「我々の宿願は”異能の解放”。人が人らしく能力を100%発揮できる世の中、既存の枠を壊し再建することだ」

 

 異変を感知した杳が臨戦態勢に入った途端、四ツ橋の背後の空気がゆらりと蠢いて、(おぞ)ましい瘴気が吹き出した。創業祭の時と同じ、凄まじい威圧(プレッシャー)が彼から放たれる。重力が何十倍にもなって自身に圧し掛かっているように感じられた。ギロチンのように鋭く、無慈悲なまでに圧倒的な力を耐え抜くのに必死で、杳は力なく椅子にへたり込み、指一本動かす事ができない。

 

 ──やっと思い出した。あの時、放たれた殺気の真正面には、()()()()のだ。

 

(会社の規模や歴史、慈善事業の有無は、彼らの身の潔白を証明するものには成り得ない)

 

 顧問役の声が杳の耳朶を打つ。冷静になって考えれば、四ツ橋の正体に気付けたはずだった。──人は好意を向けてくれた相手を嫌いにくいという性質を有している。四ツ橋を始めとしたデトネラット社の人々はそのほとんどが杳に対し、非常に好意的な態度を取った。彼らに対する好感と顧問役に対する反発心が杳の判断力を鈍らせ、ここまでの事態に追い込んだ。

 

「……理由を知りたがっていたね」

 

 強烈な負の覇気が、大気をぐらぐらと煮立たせる。まるで分厚いガラスを隔てているように、杳の視界が意識ごと歪んだ。四ツ橋と過ごした数日間の記憶が脳裏に閃き、杳はすがるように椅子の背を握り締める。まさか、そんな、彼が異能解放軍の──。驚愕に唇を震わせ、今にも泣き出しそうに歪んだその顔を見て、四ツ橋はただ穏やかに笑った。

 

「私は君を()()にと考えている。全国に潜伏する解放戦士、その先頭を往く者に」




謎路線を爆走し続けるこのSSをお読みくださる皆様には、本当に感謝しかないです…。
皆様のおかげで更新できてます。
いつもありがとうございます!

P.S. 誤字報告、評価、感想等々、本当にありがとうございます。生きる糧になってます!



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No.95 トロッコ

※ご注意:作中に残酷な表現、暴力表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 四ツ橋の放つ強烈な威圧を跳ねのけ、杳は立ち上がる。鳴羽田や神野、タルタロスに多戸院事件──たった半年足らずの間に起きた激動の日々は、彼女の精神を飛躍的に成長させていた。今にも途絶えそうな意識に活を入れ、ひりつく空気を肺に取り込んで、両手首に装着した()()()()()()のギミックを外す。シンプルなデザインの黄色いリストバンドは光の粒子を纏いながら膨れ上がり、両手から両肘を覆うまでのウィニーフィストに変形した。

 

 ──発目にインターンのオファーを送っていたのはデトネラット社だけではない。学術人工移動都市《I・アイランド》もその一つだった。彼女はI・アイランドで、欧米を中心に飛躍的に進歩した”超圧縮技術”を学び、早速杳のアイテムで実験、もとい導入したのだった。

 

 平時はリストバンド型に圧縮されているが、有事の際は元の姿──流線型の形状をしたマイクカラーのガントレットへ変形する。ウィニーフィストの()()()は最上級の波だ。木目(きめ)の細かい高振動波はどんな些細な波も拾い上げ、杳へ教えてくれる。

 

 数瞬後、凄まじい波の奔流がレストラン内を蹂躙した。レストランにいる客・スタッフの全員が立ち上がり、こちらに個性や武器を向けている。

 その一人一人が凡庸ではなく、並みのプロヒーローに匹敵するほどの強さを有していると、超感覚が告げていた。彼らの中には今日の昼、商店街で見かけた少年もいた。幼い顔立ちには不釣り合いな冷たい眼差しでこちらを睥睨している。

 

 突然、公演会での記憶が杳の脳裏を駆け抜けた。あの時の波の記憶も加味すると、俄かには信じがたい事実だが、この場どころかこの街の住人全員が異能解放軍の戦士である可能性が高い。最初から皆──。自分の迂闊さを、彼女は呪った。個性を有していた時ならいざ知らず、今の状態でこの人数を相手取るのは不可能だ。

 

 逡巡している杳をよそに、四ツ橋は椅子から微動だにしない。やがて彼はおもむろに顔を上げ、静かに尋ねた。

 

「何故、私に拳を向ける?」

 

 まるで小さな子供を叱るような、優しく穏やかな声だった。何故、戦うのか。そんなの答えは決まってる。ヒーローが敵と戦うのは当然の事だ。杳は言葉を発するために息を吸い込んだ。しかし──

 

「公安に命じられたからか?それとも、黒霧、失礼……お兄さんの為かな」

 

 ──言葉は形になる前に、吐息と共にかき消された。体じゅうから汗が吹き出し、体温が急激に上昇していく。

 

 四ツ橋の予想はどちらもヒーローの矜持とは遠くかけ離れたもので、同時に()()だった。兄を守る為、杳は公安の任務を受け、彼と対峙している。その中に正義はない。あるのは家族を愛する気持ちだけだ。そして任務が失敗した今、杳の頭に一番最初に浮かんだのはやはり、兄の安否だった。その事実が、彼女をさらに打ちのめす。

 

「あなたが(ヴィラン)だからです」

 

 任務が早々に失敗してしまったのが悔しくて、杳は自分の不甲斐なさを棚に上げ、やけっぱちな言葉を放った。

 

 四ツ橋は気分を害した様子もなく、楽しそうに杳を見ている。やがて彼はゆっくりと片手を挙げた。すると、周囲の殺気はたちどころに霧散する。人々は椅子を引いて腰かけ、何事もなかったかのように食事を再開した。

 ──まるでロボット、あるいは非常に統率の取れた軍隊の行進を見ているようだ。その急激な変化に着いていけず、杳は眩暈を覚える。

 

「誰がそうだと決めた?」

「国と法律です」

 

 四ツ橋は顎を撫で、考えているような素振りを見せる。

 

「ふむ。そもそも敵とはなんだと思う?」

「……傷つける人」

「では、ヒーローは?」

「救ける人」

「相違点は何が考えられるかな?ああ、精神論ではなく現実的な事項を頼むよ」

 

 四ツ橋は杳との問答を楽しんでいる様子だった。対する杳はその意図が分からない。だが、質問の答えは分かった。敵とヒーローの相違点は決まっている。たった一つのシンプルな制約の下に、世界は二つに分かたれた。

 

「個性使用を許されているかどうか」

「その許可は誰が出す?」

 

 その瞬間、杳は四ツ橋の思惑を理解した。──この人は私に本音を言わせたいんだ。だから公安や兄の事を明らかにし、逃げ道をなくした。そして、気付かせようとしている。私の夢が、()()()()()()()実現可能なものであると。

 

 道徳(モラル)を無視して自由(リベラル)な視点で見ると、今の社会は政府にとって都合の良い人間だけに個性使用を許可し、そうでない者は抑圧する──歪なシステムによって運営されているという風に考えられる。ヒーロー免許を与えるのは公安だ。より従順で優秀な人間を。少しでも都合の悪い人間は、弾き出される。

 

「この社会は最初から破綻している。我々の目標は現行社会の破綻、再構築。これは断じてテロ行為ではない、()()だ」

「そんなことはさせない」

 

 まるで壊れかけのロボットが喋ったみたいな声が、杳の口から漏れた。自分でその声にゾッとする。四ツ橋の言葉に心が動かされていると気づいたからだ。社会を変えるのが至難の業だという事は、杳の骨身に沁みている。かのステインも絶望して敵に堕ち、歪んだ殺人鬼になった。

 だが、四ツ橋は違う。実際に社会の一部を変えている。

 

 ──騙されるな!自我を保とうとする脳の奥底が叫んだ。彼は確かに社会を少し変えたかもしれないが、その裏で多くの犯罪を犯している。テロ行為も革命も、言葉が違うだけで結局は同じ戦闘行為だ。無関係な大勢の人が巻き添えになる。

 

「何故、君は商店街で涙を流した?」

 

 何の個性も含まれていない四ツ橋の声が、杳の脳髄を激しく揺さぶった。ウィニーフィストの泣き声が、ふつりと途絶える。──本当に望んでいるものが、夢の続きがあったからだ。夢の作り手は穏やかな眼差しで少女を見る。心の内側に問い掛けるような深い声が、その唇から放たれた。

 

「君には私がどう見える?」

 

 ──杳はその質問に答える事ができなかった。

 

 

 

 

 数時間後。泥花市にあるビジネスホテルの一室に、杳は幽閉された。ビジネスホテルと銘打ってはいるが、内実は最新のテクノロジーが満載された()()に等しい。自分の意志でドアや窓を開ける事はできず、おまけに部屋の各所に据えられたカメラで行動が常時監視されている。

 

 杳は少しでも抵抗の意志を見せる為、ベッドのシーツを引き剥がしてその中に(くる)まった。カメラの放つ無機質な波が遮断され、ホッと息を吐く。

 

 ホテルに入る前に強いられた”保安検査”の結果、杳はスマートフォンを始め、持ってきたものを全て取り上げられてしまった。外部と連絡を取る事ができない。 

 

 ──そもそも何故、公安の事が分かったのだろう。四ツ橋は最初から分かっていたような口振りだった。私は一言も口にしていない、ハズだ。とっさに唇をなぞり、杳は今までの記憶を反芻する。おまけに、彼は兄の事まで知っていた。もしかしたら、私の(あずか)り知らないところで、もう情報を得ていたのかもしれない。

 

 杳はシーツからひょこっと顔を出し、壁掛け時計を確認した。公安への安否確認を断ってから、数時間が経過している。彼らはもう異変に気付いているかもしれない。

 公安と敵対して困るのは四ツ橋さんの方だ。それなのに彼は私を捕え、幽閉した。目的が分からない。ベッド上にうずくまり、瞳を閉じた。真っ暗な靄がかった世界で、様々な人々の言葉が蘇っては、わんわんと反響する。

 

(一人ではなく皆の為に)

(お前を評価してる)

(世界はほとんどがグレーなんだ)

(君には私が──)

「うぅ……」

 

 頭の中が、過去の()()()や自身の揺れ動く感情で錯綜し、もう爆発寸前だった。還る場所を求め、杳はシーツの端を夢中で手繰る。だが、その先は想い人に繋がっていない。

 

 ──何も考えるな。公安のスカウトを受け入れた時、そう決めたじゃないか。これ以上、余計な事を考えたら、自分が恐ろしいモンスターに変身してしまう気がした。四ツ橋力也は敵だ。社会に仇名(あだな)す悪い人なんだ。心中で何度もそう呟いていると、その奥底で冷たい自分の声がした。

 

(じゃあ、兄を見殺しにして、私を追い詰めた社会は正しいの?)

「うるさい……黙れ……」

 

 ベッドの上でくちゃくちゃになったシーツの塊を抱え、杳は胎児のように丸まる。その様子を、カメラ越しに見守る者達がいた。

 

 

 

 

 同時刻、泥花市・市役所にある第一会議室にて。()()()()は四ツ橋と共に、頭上に展開されたホログラムディスプレイを見上げていた。青白い輝きを放つ四角い世界には、シーツに丸まった少女が映っている。

 

 ──泥花市は表向きはのどかな街だが、その実態は要塞都市である。街の随所に建物に擬態した超圧縮技術を取り入れた防衛施設、兵装ビルが設置されており、有事の際に展開する。彼女が幽閉されているビジネスホテルもその一つだった。街の設計図を元に説明を受けた時、ホークスは内心身震いした。最早一介の敵組織ではない、一国を支配する軍隊レベルの兵力を有している。これほどの脅威が公安の目に留まる事無く、今まで生き延びていたなんて。自分の羽根の精度を、彼は呪った。

 

 何より警戒すべきは首魁・四ツ橋力也だ。恐らく今まで隠れていられたのは、日本の東西で彼が築き上げた複雑かつ広大な人脈、潤沢な資金と政治の力によるものだろう。そう考えると、多戸院を始めとした違法薬物・サポートアイテム事件も、警察の目に触れるようにわざと粗野な犯行手口にしたのではないかとも思えて来る。自分達の存在を知らしめる為に。

 

 やがて会議室のドアが開き、秘書を伴った近属が入ってきた。彼は秘書が恭しく掲げる両手からパウチされたバリアフィルムバックを二つ取り、軽く振ってみせる。中にはゴマ粒よりも小さなマイクロチップが入っていた。

 

「二人共、指摘した通りの部位にマイクロチップが埋められていた。自害機能も解除したよ」

「悪趣味だな」

 

 四ツ橋は肩を竦める。二人がホークスに向ける雰囲気がほんの少し、柔らいだ。

 

────────

 

──────

 

────

 

 ホークスは複雑な経緯(いきさつ)を経て、四ツ橋とコンタクトを取っている。

 

 ──時を少し(さかのぼ)り、一月ほど前。荼毘と密会を続けていたホークスはある日、彼に忠信を示す事を要求された。その内容は”プロヒーローの殺害”。ホークスの持つ正義・倫理観、社会的地位を根本から破壊する、(おぞ)ましい命令だった。しかし、彼はその指令を完遂した。復帰間近だったジーニストの()()を持ってきたのだ。遺体は本物だった。

 

 ホークスが本当の愚者なのか、それとも別の思惑があるのか、荼毘にはまだ分からない。だが、リスクを冒した彼を荼毘は信用した。彼はホークスを懐に入れ、自分と同じ仲間集めをするように命じた。次の指令は”プロヒーローを仲間に引き入れろ”。ホークスは従順に行動を開始した。

 

 公安から事前に情報を得ているスライディン・ゴーと、()()()()()()()で打ち解け、親交を深める。

 

 幸いな事に、ゴーの性格は単純だった。ホークスは持ち前の交渉術で異能解放軍の情報を引き出し、彼に頼んで幹部とコンタクトを取り、そしてその日の内に、四ツ橋に招かれる事となったのである。まるで手負いの獣のように用心深い荼毘と違い、四ツ橋達は逃げも隠れもしなかった。自分達の力によほどの自信があるのだろう。

 

 ホークスは公安の指令を受けている事も、敵連合の一味である事も秘めている。前者を口に出す事は決してないが、後者はまだ交渉のテーブルに載せる時ではないと思ったからだ。まずは荼毘同様、相手の信頼を得る事が肝要だ。ホークスは献上品代わりに、四ツ橋に()()()()を差し出した。

 

 ──曰く、自分は公安の幹部と通じている。もうすぐ君達の下に白雲、窃野という人物がやって来る。二人はスパイである。本人の合意なしに採血検査に偽装して注入されたマイクロチップは、アメリカの最先端技術が導入された輸入品で、公安の意志一つで展開できる自害プログラムが組み込まれている。特殊な過程を踏まなければ取り出し、無害化する事はできないと。

 そして、全ては彼の言う通りになった。

 

 

 

 

 四ツ橋達は現行社会に対する強い憎悪や恨みを抱いている。平和の象徴を失った今、社会は今までにないほどに不安定に揺れていた。公安がよこしたスパイは──かつてデストロを苦しめた、無情なロボットのようなエージェントではなく──時限爆弾を抱えた更生敵に女子高生。それぞれ後ろ暗いものを抱えた、捨て駒に等しい存在だった。加えて№3ヒーロー・ホークスの離反、及び密告。

 彼らの存在は、四ツ橋達に公安の廃退、現行社会の黎明期を強く予感させる。

 

 窃野は公安のスパイであると同時に、八斎會の一味だ。今でこそ更生敵として大人しくしているが、そうでなければ、いずれ敵連合に匹敵する組織に成長してもおかしくはなかった。彼らの犯罪歴・個性届がその可能性を如実に示している。窃野を懐柔すれば、ゆくゆくは八斎會も手中に収められるかもしれない。だからこそ、四ツ橋はホークスの情報を信じ、彼らのマイクロチップを摘出した。

 

 まだ疑いが解けていないのか、元々用心深い性格なのか、近属は胡乱げな瞳でホークスを見ている。

 

「君がスパイではないという証拠は?」

 

 ──来ると思った。ホークスは呆れたように吹き出した。それから緊張感のない笑顔を浮かべ、自身を指差す。

 

「いや逆にこんな目立つの入れます?……まぁ、それは今後の活躍で信頼を得ていくしかないですね」

 

 ばさりとわざとらしく両翼を羽ばたかせ、ホークスは溜息を吐く。その一枚一枚に、盗聴器や小型カメラが張り付けられていた。彼の行動は逐一監視されており、今は荼毘どころか、公安にも非常に限られた時間内に、暗号で情報を流す事しかできなくなった。だが、この不自由な状況がホークスにとっては都合が良かった。彼らに()()()()()を入れられなくて済むからだ。

 

 ホークスはふと、四ツ橋の様子を横目で伺った。彼はまるで父親のように慈愛に満ちた眼差しで、画面の中の少女を眺めている。

 

 ──四ツ橋が杳を後継に選んだという知らせは記憶に新しい。戦士達はおおむね好意的に受け入れている様子だった。杳という人物を評価しているのではなく、四ツ橋を盲信するが故の反応なのだろうとホークスは推測する。彼らの信仰力は目を見張るものがある。四ツ橋が首をくくれと言えば、彼らは迷いなく命を投げ出すに違いない。

 

「そんなに特別ですか」

 

 穏やかな声音に嫉妬心をスパイス程度に振りかけ、ホークスは尋ねる。画面の向こうにいるあの子よりも、今あなたの目の前にいる自分の方がずっと強く優秀であるのに。そう言わんばかりの熱を帯びた瞳で、四ツ橋をちらりと見やった。彼は困ったように笑い、顎を擦る。

 

「ああ。次代を担う子だからね」

「嫉妬か?ホークス」

「まさか!」

 

 ホークスはおどけたように両手を上げ、白々しく笑ってみせた。相手に本心を見せているように装う、つまり()()()()()のは交渉術の基本だ。

 

 ──さあ、ここからが正念場だぞ。大きな風切り音を立てて(ひるがえ)る翼の向こうで、ホークスは表情を引き締める。情報の断絶によって生まれたモラトリアムの中で、自分がどれだけ羽ばたけるか。必ず救け出すから、大人しくしておいてくれよ。祈りを込めて、彼は言葉を紡ぐ。

 

「……あんまり、俺の後輩をいじめんでくださいね」

 

 

 

 

 その日の夜、雄英の職員室で業務をこなしていた相澤の下に、デトネラット社の社長秘書より連絡が来た。彼曰く、杳が()調()()()()()との事。泥花市の病院に搬送して精査すると──緊急性がある程ではないが──個性因子の状態が一時的に不安定になっているという。かかりつけ医の殻木医師と連携し、毎月行っている定期健診も兼ねて数日間、短期入院させたいという内容だった。

 

 杳はしばしば諸々の事情で学外に出る事が多い。毎週末、土日のどちらかはタルタロスへ兄の面会に行き、月に一度以上は殻木医師の下へ診察を受けに行く。必要であれば数日間、そのまま入院する事もあった。デトネラット社の報告に不審な点は見当たらず、相澤は謝辞の言葉を述べて電話を切った。各種手続きを済ませた後、今度は杳と連絡を取るため、入院先の病院に電話をかける。

 

 突然、職員室の引き戸がガラリと開いた。中には根津校長と、凡庸なスーツ姿の男が立っている。判で押したように無機質な顔を見た瞬間、公安の人間だとピンと来た。スマートフォンの奥で響く呼び出し音が、急に不吉な様相を帯びる。根津校長は、笑っていなかった。

 

(少し話があるのさ。校長室へ来てくれるかい?)

 

────────

 

──────

 

────

 

 二ヶ月前、東京・中央区に位置する国際総合病院にて。アメリカに姉妹病院のあるその施設は個性研究にも力を入れており、地下に独自の研究施設が備えられている。最も深く厳重な警備が施されたエリアの一室に、()()()()()はいた。

 

 医療椅子に腰かける彼の頭部には、大型のヘッドマウントディスプレイが装着されている。機体から伸びる無数のチューブが、部屋じゅうを大樹の根のように這い回っていた。彼の周囲には(おびただ)しい量のホログラムディスプレイが浮かび、その全てが何らかの映像を映し出していた。それらの放つ音声、そして機械の駆動音以外、何も聴こえない。

 

『シュミレーション終了。クールダウン開始。映像記憶データの解析を開始します……』

 

 滑らかなアナウンスの声が広がると共に、大量のディスプレイが消え、部屋の照明が点いた。物々しいデザインの機体を外し、ナイトアイは眉間の皺を揉む。その顔には隠しきれない程の疲労が滲んでいた。

 

 検査室には大きな窓が備えられており、ガラス面は透視鏡になっている。その向こう側にいるのは担当の研究員と公安委員会の現会長、そしてホークスだった。

 

 

 

 

 ”祖父殺しのパラドックス”。個性黎明期以前、とあるSF作家が著作で記したものだ。

 

 ──ある人が時間を遡り、血のつながった祖父を、祖母に出会う前に殺した。そうすると、殺害者・タイムトラベラーの両親のどちらかが生まれてこない事になり、結果として本人も生まれない事になる。存在しない者がタイムトラベルをできるはずがなく、祖父を殺す事もできないから祖父は死なずに祖母と出会い、彼が生まれる。すると、やはり彼はタイムトラベルをして祖父を殺す、という堂々巡りが始まるという論理的パラドックスだ。

 

 つまり、過去を変えても未来は元通りに修復される。ナイトアイはかつてオールマイトの壮絶な最期を予知し、未来を変えようと何度も試みたが、結局変わる事はなかった。だが、その諦観はある少女によって覆された。

 

 改変された未来で、オールマイトが笑っている。だが、代わりに()()()()()()()がいた。同じ場所に二人同時にはいられないのだと知らしめるような──その結末を変える為、ナイトアイは時間の許される限りこの施設に通い、未来視を続けた。

 

 アメリカが貸与した最新鋭のマシンは、ヘッドマウントディスプレイを通して装着者の脳神経・個性因子と同期し、何万通りもの分岐した未来映像を計算、設定した目的に適応したルートを高速シミュレートする。最適化アルゴリズムのおかげで個性使用後のクールタイムはなくなったが、その分、脳に大きな負担がかかる。それでも、ナイトアイは予知をやめようとはしなかった。

 

 短い休憩を取った後、再びヘッドマウントディスプレイをかぶる彼の姿を、現会長が厳格な表情で見つめている。

 

 

 

 

 ──”トロッコ問題”という用語がある。”多くの人を救う為、一人を犠牲にするかしないか”という倫理的ジレンマを問う思考実験だ。

 

 メイントラックを一台のトロッコが暴走しており、その進路上には五人の人間が縛り付けられている。レバーで進行方向を変える事ができるが、サイドトラックには一人の人間が縛られている。レバーを引かず、つまりは何もせず、五人が引き殺されるのを傍観するか、レバーを引いてトロッコをサイドトラックに進ませ、一人を殺すか。どちらが、より倫理的な選択となるか。どちらが正しい選択なのかを考える問題だ。

 

 この問題に正解はない。多くの調査では、回答者のほとんどが”一人を犠牲にして、五人を助ける”という選択肢を取るようである。つまり、助かる人が多ければ多いほど、より倫理的だと判断しているわけだ。何もしないでいるより、()()()()一人を犠牲にする方が、本当により倫理的な事なのかどうかは分からない。

 

 だが、個性黎明期、人々にそんな事を悠長に考えている暇はなかった。動物と同じ、食うか食われるかの世界だ。欲望と力を持つ者たちは秩序を踏み潰し、我が物顔で瓦礫の街を闊歩した。先祖たちが脈々と築き、大切に守ってきた文明はボロボロに破壊された。

 このままでは、日本という国そのものが崩壊する。”より多くの者を助ける”という大多数が持つ倫理の名の下に、政府はトロッコを走らせ始めた。だが、レバーを引くのは彼らではない。()()()()だ。彼らは優秀な鉄道作業員だった。

 

 司令官の命令を従順に守り、国は少しずつ安寧を取り戻していった。けれど、いくら平和になっても、ひき殺される人々の悲鳴は絶えない。

 

 レバーを引くよう指示する者も、鉄道作業員も、線路に縛り付けられた人間も、それ以外の人も皆、()()()()だ。人間には心がある。鉄製ではなく、血の通う温かい心臓を有している。平和を噛み締める余裕ができると、その隙間に罪悪感や過去のトラウマが巣食い、持ち主を(さいな)む。

 

 さながら伝言ゲームのように少しずつ指示がズレて、暴走していく。まだ縛られていない者を無理矢理縛らせ、ひき殺すような指示が連発する。優秀な作業員は葛藤し、疲れ果て、やがてレバーを()()()()()で引いて、暴走トロッコで一人の司令官をひき殺した。

 

 新たな司令官はもう二度とこんな悲劇は繰り返さないと決意し、当時の作業員をできうる限りの方法で守った。そして歪んだ体制を大幅に改革し、作業員の心理的負担を減らすよう尽力した。

 

(私達は今も昔も変わらないわね。ホークス。安全な場所でずっと人の命を弄んできた)

 

 新たな司令官・現会長は皮肉げに口元を歪め、優秀な作業員に笑いかける。

 

 

 

 

 ──ナイトアイを含め、優秀な”未来予知”個性持ちの人間は、国の存亡に関わるような重要な未来を見た場合、国に報告するよう義務付けられている。彼は八斎會事件直前、杳を通して見た映像を公安に報告した。公安と政府の上層部はその未来に行き着くまでのプロセスを”トロイ計画”と命名、実行に移そうとする。

 

 しかし、現会長はそれに異を唱えた。前会長の意を汲む顧問役とあわや膠着状態となったその時、政府は()()()()を提示する。未来は基本的に修復不可能だが──今回のケースのように、ごく稀に──変わる事がある。新たな未来を予知し、その未来が及ぼす周辺被害確率がトロイ作戦より50%を下回れば、変更可能であるとした。

 

 未来が変わる原理が解明されていない現状、ナイトアイは手当たり次第に未来視を続けるしかない。だが、リスク評価はどの未来も70%を下回る事はなかった。つまり、トロイ計画よりも被害が拡大するという事だ。

 

(最悪の場合、トロイ計画との併行も考慮しておかなくては。60%で採用しましょう。上には私から通達しておく)

(バレたらただじゃすみませんよ)

(責任は私が負う)

 

 聞き捨てならない言葉に、ホークスは強く眉をしかめた。ふと現会長がこちらを見た。夕陽を見ているようにわずかに目を細め、寂しい顔をして微笑んでいる。

 

(ひどいと思う?あなたの時は救けなかったのに、)

()()()()()

 

 眼前のガラスがかすかに振動する程に大きな声で、ホークスは(さえず)った。猛禽類を彷彿とさせる鋭い双眸が、彼女の心の最深部へ真っ直ぐ突き刺さる。

 ──幼くして親元を離れざるを得なかったホークスにとって、厳しくも優しく導いてくれた彼女は”第二の母”に等しい存在だ。鳥には飛ぶ場所だけでなく、羽根を休める場所も必要だ。双方を与えてくれた彼女に、ホークスは本心からの言葉を送る。

 

(あなたは俺の止まり木です。だから……そんな顔、せんでください。絶対、大丈夫です)

 

 息が止まるほどに情熱的な薔薇色のスマイルに照らされ、現会長はほんの少し微笑んだ。だが、その厳格な表情から罪悪感と後悔が拭い去られる事はない。彼女が自分を通して()()見ているのか、ホークスは知っている。何より彼女自身が、責任と戒めからその辛さを手放そうとしないのだ。一番近くにいる人を救ける事ができない。それが、ホークスにはもどかしくたまらなかった。

 

 やがてシュミレーションが終了し、窓に光が戻る。乱れた呼吸を整えているナイトアイに、現会長は労いの言葉をかけた。

 

(ご苦労さまです。ナイトアイ。あまり無理はしないように)

(お気遣いは無用です。自分の限界は分かっています。それに、)

 

 ナイトアイは額に浮かぶ汗を拭い、静かに囁いた。

 

(……これは贖罪に過ぎない)

 

 

 

 

 四ツ橋との会談を終えた後、ホークスの傍を他の戦士に連れられた窃野が()()、通りかかる。

 

 ──ホークスの羽根はすべてが”正羽”で構成されている。正羽は中心部に羽軸と呼ばれる芯が通っているものを示す。大きく長く、軸がしっかりしているのは風切羽や尾羽と呼ばれ、反対に小さくて短く羽軸が柔らかいものは体羽と呼ばれている。体羽は飛ぶためには使わないが、鳥の頭や胸、腹、背中などに生えていて、体を守る働きをしている。

 

 ホークスは鳥ではないため、体羽もない。だが、彼は必要に応じて、ごく少量ではあるが体羽を生成する事ができた。それ自体に膂力(りょりょく)はないが、感知能力は生きているので、主に索敵・捜査に使われる。

 

 ホークスと対面し、度肝を抜かれている()()をする窃野のポケットに、彼は一枚の体羽を忍ばせた。擦れ違い様、二人の瞳が最後に交差する。ホークスはふと路地裏での一幕を思い出した。袋小路で窃野に全てを話すと、彼は静かな眼差しでこちらを見て、こう尋ねたのだ。

 

(あんたらの言う正しい未来で、ごんは笑ってたか?)

 

 ホークスは公安で特殊な訓練を積んでいる。感情制御は呼吸をするのと同様にできる事だった。彼は人を安心させるような笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。

 

 

 

 

 時は現在に戻り、愛知県・泥花市タワーにて。最上階にあるレストランで、異能解放軍の上層部による定例会議が行われていた。──異能解放軍は裏と表の社会、双方に根差した一大組織だ。表の顔はサポートアイテム会社・その関連会社や工場、出版社、果ては政党までと幅広く、構成員は全国に潜伏している約11万の戦闘員、その予備軍を含めると優に20万人は下らない。それだけ大勢の人数をまとめて一つの目標へ導くには、定例会議が必須だった。

 

 最高指導者・四ツ橋の下に解放戦士の幹部、部署やチーム、取締役が集い、業務・経営に関する意見交換や情報共有をし、進捗状況を可視化する。主な議題は目下、一週間後に開催される予定の()()()だった。小休止が挟まれ、四ツ橋が会議の書類にざっと目を通していると、近属が電子端末を持ってやってきた。

 

「蛇腔総合病院より泥花市民病院へ届いたメールです」

 

 電子画面には殻木医師が送って来た文書が表示されている。彼は杳のかかりつけ医だ。杳を泥花市民病院で短期入院させる事になったため──すでに杳の医療情報は盗んでいるので、儀礼的なものではあるが──近属は正規の流れに(のっと)り、殻木医師に医療情報の提供を依頼するよう指示した。

 

 すると彼はこちらであずかるので、杳を搬送するように依頼してきた。近属は杳の安定したバイタル情報を理由に、その提案を拒否する。だが、殻木はそんなものは証拠にならないと一蹴し、杳の個性因子がどれほど不安定な状態であるかを再三にわたり説明する文面を送りつけてきた。

 四ツ橋は給水しながらそれらを読み、大袈裟に肩をすくめる。

 

「随分と過保護だな。雄英とは雲泥の差だ」

「どうします?」

「もうしばらく相手をしてやってくれ」

 

 再臨祭が始まれば、現行社会は崩壊する。そうすれば、一人の患者にかかりきりではいられなくなるはずだ。四ツ橋は殻木医師の肩書をふと想起した。優秀な医師である事は分かっている。状況が落ち着いたら杳に説得させ、こちら側に引き込んでもいい。

 

 やがて緊張した面持ちの給仕がやって来て、四ツ橋達の前にデザートを一皿ずつ置いていった。会議が長引く時は、大抵こうして軽食が振舞われる。真っ白い平皿に据えられているのは、茶色い球体だった。チョコドームと呼ばれるスイーツだ。会議で酷使した脳に糖分は打ってつけだ。上質なデザートに舌鼓を打つ戦士達の声をBGMに、四ツ橋は皿の横にちょんと置かれた小さなポットを摘まみ上げた。

 

「……()()()()

 

 四ツ橋の手がピタリと止まる。彼は愉快そうに片眉を上げ、近属を見た。近属の瞳は長い前髪に隠れているが、その細面はドームへ向けられている。彼がドームを通して一体()()見ているのか、四ツ橋は手に取るように分かった。

 

「驚いたな。君の愛情表現は分かりづらい」

「からかわないでください」

 

 ドームの表面は艶やかで、周囲の景色が鏡のように映し出されている。ふと、その表面に()()()()が映り込んだ。

 

 ──他の子供と一緒に、公園でヒーローごっこをして遊んでいる少年を、母親が金切り声を上げて引っ張って連れ帰り、激しく折檻している。まだ幼い少年の足下に何人もの大人達がすがり、泣いて喚いて、救いを求めている。

 

(あの方の血を継ぐ──あの方の遺志を──)

 

 呪いのような重たく苦しい言葉が、鋳型を黒く濁らせる。あっという間に外の景色が見えなくなる。少しでも身動きをすると、鋳型の内部に生え揃った()が、少年の体を苛んだ。血塗れになって恐怖と痛苦に喚いても、誰も救けてくれない。母親は少年が悲鳴を上げる事に憤り、ますますひどくしかりつけた。

 

 ──人生の転機はいつだって突然、訪れる。私もそうだった。

 束の間の追憶から戻った四ツ橋はポットを持ち上げ、中のソースをドームへ注ぐ。

 

「予定を変えるつもりはない。私の後に続くか、それとも……」

 

 四ツ橋は残忍に笑った。チョコレートでできたドームは温かなソースにより崩壊し、中から色とりどりのフルーツやシュークリームが顔を出す。本来ならばフォトジェニックであるはずのその光景は──彼の放つ冷酷な雰囲気に呑まれると──まるで車に轢かれた猫の死体のようにグロテスクな様相を帯びた。彼はデザートをスプーンですくって口に運び、咀嚼する。

 

 次の瞬間、四ツ橋は父性を感じさせるような優しい笑みを浮かべる。真冬のような冷たさから、春のような温かさへ──その極端な相転移を目の当たりにし、近属は思わず総毛立つ。四ツ橋は気さくな様子で給仕を呼び寄せ、穏やかな声音でこう言った。

 

「あの子が喜びそうだ。後で運んであげてくれないか?」




書いててめっちゃややこしかった…なんやねんこのSS…。わかりにくい箇所がありましたら修正しますので、ご一報ください。

いつもこのSSをお読みいただき、本当にありがとうございます!


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No.96 ボーダーライン①

※ご注意:作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 ──ぽちゃん、ぽちゃん。()()()の向こうから、水滴の落ちる音がする。押し殺したような子供の泣き声が、それに重なった。杳はゆっくりと瞼を開ける。

 

 いつかの夢で見た真っ白な世界に、また立っていた。スウと息を吸い込むと、清らかな空気が肺を満たす。夢の世界はどうやら雨上がりであるらしい。あちこちに広がった水溜りが空の白を反射して、(けぶ)るように輝いていた。杳は眩しさに目を細めながらも周囲を見回し、泣き声の主を探す。

 

 ──()()。数メートルほど先の水溜りの前で、小さな少年がしゃがみ込んで泣いている。水滴音の出所は名残雨ではなく、彼の落涙だった。

 

 水溜りの中には、少年のものらしきバッグが落ちていた。鮮やかな三原色のスーツに身を包むヒーローを描いたバッグは、大量の靴跡で見るも無残に汚れている。一体、どうしたんだろう。不穏な気配を感じ、杳は目を凝らして、やがて大きく息を詰めた。少年の背中にも泥まみれの靴跡を発見したのだ。

 

 居ても立っても居られず、杳は少年の下へ駆け出した。その足が水溜りを踏む。じゅわ、と靴に水が染み入る嫌な感触がして、杳は思わず下を向いた。同時に、違和感を覚える。男児用のオールマイトデザインの運動靴が、泥に塗れている。

 

 ()()()()()()()()。杳はその場に立ち止まろうとして、できなかった。それどころか指先一本、自由に動かせない。けれど、不思議と怖い気分はしなかった。さながら映画の登場人物の中に入り込んだように、杳は大人しく自らの動きに従う。

 

 杳は少年の傍まで走り寄るとバッグを拾い、軽く絞って、自分の服の袖で靴跡を拭き取った。その時、水溜りにわずかに反射した姿は、やはり自分ではなかった。だが、ダイアモンドのように輝く水面のせいで、顔はよく見えない。杳はおずおずと少年の方を向いた。小さなやせっぽちの体を丸め、途方に暮れたように泣きじゃくる少年の肩にそっと手を置く。

 

(大丈夫?)

 

 変声期を迎える前の子ども特有の、高く清らかで、だけど少しだけ掠れた声が自分の口から漏れた。どこか聞き覚えのある声だ。柔らかな毛布のような、暖かい焚き火のような、優しくて大好きな声。再び、世界が白んでいく──

 

────────

 

──────

 

────

 

 翌朝、午前六時。杳は目を覚ました。ベッドから上半身を起こし、先程の夢を思い返す。だが、世界の白さが夢の内容をも漂白してしまったかのように、何も思い出せない。代わりに頭の中を埋め尽くしたのは、昨日の記憶だった。

 

 杳は窓際にあるカーテンを引いた。朝日を受け、泥花市の街並みが青々と輝いている。爽やかな風景とは裏腹に、杳の心は暗く沈んでいった。眼下に広がるジオラマの中で、ゴマ粒のような大きさの人々や車が忙しく行き交っている。昨日から状況は何も変わっていない。

 

 ──自分が幽閉されてから、およそ半日が経過した。唯一入手できる外の情報は、窓の景色だけ。超感覚を張り巡らせ、念入りに部屋を精査したが、四方の壁や床・窓ガラスは内部に特殊合金が埋め込まれ、とても頑丈にできていた。どういう技術を用いているのかは不明だが、通気ダクトなどの抜け穴も見当たらない。ウィニーフィストがない以上、突破できる見込みはなかった。

 

(私は君を後継にと考えている)

 

 四ツ橋の言葉が耳朶を打つ。ヒーローではなく、()()()()。乾いた笑いが、杳の口から漏れた。

 

 ガラス越しに聴こえる街のかすかな喧騒が、頭の後ろを掠めていく。ふと、コバルトブルーの空を鳩の群れが飛び去った。灰色の大群に紛れて一羽、真っ白な鳩が飛んでいる。真っ白な尾が陽光を透かし、輝いた。

 

 アルビノ種だろうか、と杳は思った。遺伝子の欠損によって色素成分のメラニンが欠乏しているため、光を非常に眩しく感じるらしい。ひときわ小さな個体の鳥は羽根を懸命に動かし、デタラメな軌道を描きながら、それでも群れの最後尾に食らいついていた。強く共鳴するものを感じないではいられなかった。

 

 同じ年で、同じクラスで、同じ想いを持っているはずなのに。どうして、自分だけがこんなにも上手く行かないのだろう。喉から熱いものがせり上がってくる。情けなくて、心細くて、不安で、わななく唇を噛んで下を向いた時──

 

(過ぎた事を悔やむのは合理的じゃない。()()()()()

 

 ──相澤先生が脳内に響き渡った。杳は涙を飲んでぐっと顔を上げる。

 

 相澤が杳に叩き込んだのは戦闘技術だけではない。戦闘時におけるリスク・その影響を事前に回避、もしくは事後に最小化する論理的思考力も身に付けさせていた。その教示に従い、杳は今後の策を組み立てる。

 今の自分にできることは救助を待ちつつ、脱出の機会を探る事。そして、異能解放軍に関する情報を得続ける事だ。

 

「……ッ」

 

 その時、背後からカタンという小さな音がした。杳は急いで振り返る。部屋の壁にはテーブルが取り付けられていた。テーブル中央の上壁に小さな搬出口が出現し、中から料理を載せたプレートが押し出されている。

 

 料理は作り立てのようで、湯気が漂っていた。小麦の芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。プレートの奥、高さ数センチの細長い穴の向こうにわずかに息づく人の気配を感じ、杳はとっさに駆け出した。

 

「あのっ」

 

 しかし、杳が到達する寸前に、搬出口は()()()()。周囲の壁を探ってみるが、扉の継ぎ目すら見当たらない。まるでガラスケージに入れられたハムスターみたいだ。杳は浮かない顔で溜息をもらした。だが、与えられた食事はペレットとは比較にならないほど上等だ。

 

 野菜と豆の入ったスープにライ麦パン、ハーブソーセージ。食欲をそそる匂いに、杳の腹はたまらずグウと鳴った。”毒が入っているのでは”という考えが一瞬、脳をよぎる。しかし、殺すつもりならもっと早くにそうしているはずだ。杳は手を合わせ、食事を摂り始めた。

 

(おいしい……)

 

 出された料理はどれも、強張(こわば)った心を解きほぐすような、手作りの味がする。温かく愛情のこもった味付けに自然と箸が進み、杳は数分も経たずに完食してしまった。テーブルの端に食器を重ね終わった後、ドアがノックされた。杳が反射的に返事をすると、上質なスーツを着こなした初老の紳士が入ってくる。()()()だった。

 

「おはよう」

「お……はよう、ございます」

「昨日はよく眠れなかったかな」

 

 四ツ橋は杳のくっきりと刻まれた隈を心配そうに見た。まるで寝不足な子供を心配する親のような表情だった。幽閉されているのに、ゆっくりと眠れるはずがないだろう。杳はなんと答えたら良いか分からず、沈黙する。次いで、彼はテーブルの隅に寄せられた皿に目を留め、嬉しそうに笑った。

 

「食欲はあるようだね。安心したよ」

 

 四ツ橋はそのまま室内を進み、テレビの前に置かれたソファーに体を沈めた。杳はテーブルの端に立ちん坊になったまま、動けない。二人の間に、沈黙のヴェールが舞い降りる。しかし、その透明な裾が床に触れる寸前、四ツ橋はおもむろに指を鳴らした。大型テレビの画面に電源が入り、何かが映り込む。

 

 タイムスケジュールだ。朝の七時から夜の十一時に至るまで、座学や戦闘訓練、出張に会議──(おびただ)しい量のタスクがぎっしりと詰め込まれている。まるで人使の時間割みたいだ。杳は圧倒され、小さく身じろぎした。

 

「さて。これから君には様々な事を学んでもらわねばならない。当分はこのスケジュール通りに──」

「四ツ橋さん」

 

 ──これ以上、流されてはダメだ。杳は勇気をもって言葉を放った。四ツ橋は片眉を上げ、続きを促す。

 

「何かな?」

「私は後継者にはなりません」

 

 杳と四ツ橋の瞳が一瞬、拮抗した。またあの威圧が来るか、戦闘になるか。杳は身構える。だが、たとえここで殺されたとしても、杳は自分の意志を曲げるつもりはなかった。ここで屈したら、今まで()()()()積み重ねてきたもの全てが崩れるような気がしたのだ。

 四ツ橋はソファーから立ち上がり、杳へ歩み寄った。聡明な顔立ちを(かげ)らせ、手を伸ばす。

 

「我々は分かり合えるはずだ」

「……ッ」

 

 杳は目を強く瞑り、顔を逸らして、四ツ橋の手を避けた。あからさまな拒絶の意志だ。──兄の事を考えろ。隙あらば浮かび上がろうとする”商店街の記憶”を心の底に沈め、くぐもった泡の音に耳を塞ぐ。治崎さんの言葉を思い出せ。届かぬものに目を向けるな。守るべきものを。

 四ツ橋は痛ましいものを見るような目で杳を眺め、ゆっくりと手を引いて、苦笑した。

 

「……残念だよ」

 

 次の瞬間、テレビの映像がバツンと乱暴な音を立てて切り替わる。異音に驚いた杳は思わず目を開け、危うく叫び出しそうになった。”白雲家”の表札が下がった、こじんまりとした一軒家が大きな画面に映っている。()()()()だ。ガレージには車が止まっている。まだ両親が家にいるという証拠だ。杳の心臓が嫌な音を立てて軋んだ。

 

 画面の端から泥まみれの手がぬうっと伸びてきて、古びた石垣を無造作に掴む。商店街で挨拶した、沼田とその妻だ。音もなく夫に寄り添う妻の手にはロープが握られていた。沼田の手には何もない。しかし、泥の中から覗く眼球はゾッとするほど黒い悪意を秘めていた。

 

「乱暴な手段は取りたくなかったんだが……」

 

 四ツ橋は妙に芝居がかった口調で言い、顎をさすった。杳は鳥肌が立つような空恐ろしさと共に、()()()()()()()

 

 ──四ツ橋は老獪な敵だ。何十年も公安や警察に見つかる事なく隠れ続け、組織を拡大させ続けた手腕は、かつて自分を苦しめた”恐怖の象徴”を彷彿とさせる。だが、そんな利口な彼が現在、取っているのは、いかにも敵らしいオーソドックスな手法だった。

 

 人質はあくまで交渉を有利にさせる為の手段に過ぎず、相手の心を支配する事まではできない。自分を本当に屈服させたいなら、拷問や洗脳など、他にもっと確実な方法があるはずだ。敵の意図を探るため、杳は感覚器を研ぎ澄ませ、四ツ橋の様子を伺う。

 

 四ツ橋の放つ波はひどく穏やかで、悪意を示す()()は含まれていない。その瞬間、杳は気付いた。この人は、()()()()両親を脅しているのだと。私が”ここにいざるを得ない”理由を創っている。心の底に無理矢理沈め、溺死させたはずの夢が、未練がましく泡を吐いた。その音にまた耳を塞ぎ、杳は拳を握って、(あつら)えられた言葉を放つ。

 

「”待ってください”」

 

 まるで示し合わせたかのように、沼田夫妻の動きがピタリと止まる。──お父さん。お母さん。杳は心の底から安堵して、へなへなと座り込んだ。両親の無事を喜ぶと同時に、何かに対して安心している自分に気付かないフリをして。

 

 

 

 

 その日の朝十時、杳は四ツ橋と共に定例会議に出席した。定例会議は泥花市・市役所にある第一会議室で行われる。コの字型に展開された長テーブルに、異能解放軍の幹部・各セクションのリーダーがずらりと並んでいた。真正面にある大きな窓は開け放たれ、青空が覗いている。爽やかな秋風が吹き込んで、白いカーテンと杳の心を優しく揺らす。

 

 レジュメを手に真剣な表情で話し合っていた戦士達は、四ツ橋が入ってきた途端、水を打ったように静まり返った。その表情を見て、杳はひそかに震えた。試験管の中身を注視する研究者のように鋭利な視線が、一心に注がれていた。

 硬直している杳の頭を撫で、四ツ橋は苦笑する。

 

「可愛い義娘のお披露目だ。皆、お手柔らかに頼むよ」

「コードはまだ?」

 

 場の雰囲気を和らげようとしたのか、気月が明るい口調で尋ねた。四ツ橋は頷く。コードというのは解放コードの事だ。異能解放軍の戦士達は個性を”異能”と呼び、”解放コード”と呼ばれる別名でお互いを呼び合っている。

 

 四ツ橋に促され、杳は彼の隣席に座った。杳のほかで四ツ橋にひときわ近い位置にいるのは、気月、花畑、近属だ。彼の隣にはもう一席、空きがある。彼らの周りには常に多くの人がいた。いわゆる側近と呼ばれる立ち位置にいるのかもしれない──という杳の推察は正しかった。幹部の中でも最上位に属する存在だからこそ、彼らは次期後継者となる杳と積極的にコンタクトを取っていたのだ。

 

 重厚な造りの肘掛け椅子は背が高く、小さな杳は深く腰掛けると足が浮いた。所在なげに足をぶらつかせていると、目の前にクリップで束ねられた書類が置かれる。会議のレジュメだ。会議の目的やテーマ、内容の要約はもちろん、別途資料まで添付してある。まるで企業の会議に出席しているみたい。ここが敵の組織である事を、杳は一瞬忘れかけた。

 

 ふとスケジュールの半数を占めている”再臨祭”という文字に興味を引かれ、杳はそっとその文字をなぞる。

 

「分からないところはある?」

 

 ホワイトムスクの香りがふわりと舞い、杳は顔を上げた。気月だ。向かい側の席にいたはずの彼女が、テーブルを挟んですぐ前に屈み込んでいる。彼女はおどけたように笑ってみせると、頬杖を突いた。

 

「まぁ正直、分からないところが分からないって感じよね」

「気月さんッ」

「ん?」

「あの……」

 

 気月は最後に会った時と変わらない、美しく穏やかな線を頬に描いている。気月を説得すれば、逃がしてくれるかもしれない。慌てて彼女の腕を掴んだ瞬間、ピッという小さな電子音がすぐそばでして、杳はその方向へ顔を向けた。気月は片耳に小型のインカムを装着しており、そこにはアクションカメラが付随していた。緑色のランプが点滅している。

 

 ()()()()()()。目を凝らすと、美しい記者の目の奥が怪しい光を放った。好奇心(キュリオス)の輝きだ。それはボーダーラインだった。話し合う事はできるが、お互いに歩み寄る事は決してできない事を示す、()()()()()()。敵とヒーローのボーダーライン。唖然として見つめる杳の唇をなぞり、気月は熱に浮かされたような口調で囁いた。

 

「まだ訊き足りない事が、たくさんあるわ。イメージキャラクターの件はもう聴いた?ドキュメンタリーも企画してるの。そのつもりでね」

 

 小さなカメラアイに自分の顔が映り込んでいる。何故、摘発されるリスクを負ってまで、解放軍が自分を幽閉したのか分かった。()()()()()()()。公安のスパイになっている事を、社会は知らない。ドキュメンタリー撮影をされたら──それが良い反応であれ、悪い反応であれ──社会はまた自分に注目する。そうなると、公安は迂闊に手を出せなくなる。

 

 世の中には、表沙汰にしない方がいい公事(おおやけごと)がごまんとある。杳がスパイになった経緯もその一つだ。迂闊な事を言い、彼らにエサを与えるわけにはいかない。杳は口を閉ざした。

 

 気月は面白くなさそうに唇を尖らせたが、気を取り直し、異能解放軍の概要をざっと説明してくれた。

 

 彼らの目的は現行制度、すなわちヒーローの殲滅。最終作戦は全国主要都市を一斉に襲撃。機能停止させ無法地帯となったところで、四ツ橋と花畑が政界へ進出する。民間人にサポートアイテムをばらまき自衛という名の自由を謳い、混沌の世を創り出す。全てがゼロになった世界を、四ツ橋が王となり再建する──といったものだ。さながら英雄譚を歌う吟遊詩人のように美しい声で気月は語る。

 

 彼らが仕掛けようとしているのは小競り合いではない。国を相手取った()()だった。杳は深呼吸し、感覚器を研ぎ澄ませる。何代もかけて培い、積み重ねてきた力と技術が年輪のように重なり合い、四方八方から杳へ跳ね返ってきた。現行制度への敵意や恨みを核にし、彼らは今日まで血を滲むような努力を重ねてきたのだ。異能を解放するという夢を叶えるために。

 

 このままでは、本当に社会が崩壊してしまう。杳だってこの社会を不満に思ったり、憎んだりした事はある。だが、壊そうとまで思った事はなかった。嬉しい事や楽しい事、大好きな人々もたくさんできたから。誰か動く事はできないのか。当て所なく彷徨う杳の瞳は、やがて大きく開け放たれた窓を捕えた。

 

 その時、窓の外をふわりと赤い羽根が舞った。まるで神話に登場する天使のように、大きな翼をはためかせ、一人のヒーローが舞い降りる。()()()()だ。大きく頑強な造りの翼は、羽ばたいても全く音を発しない。だから、会議前の談義に花を咲かせている戦士達は、誰も彼に気付いていなかった。

 

 救けに来てくれたんだ。杳の脳内に希望のファンファーレが高らかに鳴り響く。うねる様な安心感がどっぷりと心身を包み込んだ。やがて、ホークスの猛禽類を思わせる鋭利な瞳が杳と克ち合う。次の瞬間、彼は飄々とした笑顔を浮かべ、そして──

 

「おっ。噂のリ・リ・デストロちゃん!」

 

 ──からかうようにそう言って、手を振った。最初、杳はその反応を受け入れる事ができなかった。心が拒絶したのだ。数瞬後、いきなり鈍器でガツンと頭を殴られたような衝撃が、脳を揺らす。そうこうしている内に、戦士達がホークスの存在に気付きだした。プロヒーローが間近に迫っているというのに皆、焦りもせず、親しげな様子で彼に挨拶をしている。

 近属は苛々とした様子で腕時計を見下ろし、唸った。

 

「遅いぞ。ホークス」

「すみません。抜け出すのが結構大変で……」

 

 ホークスは軽口を叩きながら、近属の隣に腰を下ろした。空席は彼のものだったのだ。──どういうことだ?杳は混乱する頭を抱え込みながら、思考を巡らせた。異能解放軍と繋がっている?それとも、彼もスパイなのか?

 

 多少危ない橋を渡ってでも、彼の本心を知る必要がある。杳は水の入ったグラスを一気に飲み干し、空のグラスを爪弾いた。その硬質音を頼りに感覚器を研ぎ澄ませ、ホークスの心の動きを探る。

 

 とくん、とくん。穏やかな心音が跳ね返ってきた。皮膚電気活動や呼吸にも変化はない。嘘を吐く時、人の生体反応は()()()()を示す。だが、彼にはそれが一切、見当たらなかった。スパイでもなんでもない、自分の意志でここにいるという事だ。その事実に、杳は深く打ちのめされた。

 

 やがて室内の光量が絞られ、会議が始まった。しかし、その内容は全て杳の頭上を通り過ぎていった。杳が出来る事といえば、レジュメで顔を隠しつつ、真剣な表情で会議に参加するホークスを盗み見る事くらいだった。

 

 眩暈がする。体の中を虫が這い回っているみたいに、ソワソワして落ち着かない。瞬きする度、”Hopper's Cafe”で共にランチを摂っている時のあどけない姿、職場体験で航一と戦っていた雄姿、メディアで頻繁に見かけるヒロイックな姿がチカチカと瞬いて、杳の心拍数は上がっていくばかりだった。

 

 

 

 

 十五分後、小休止が挟まれた。俯いている杳の視界に、赤い羽根が映り込む。羽根はこちらに近づき、やがて分厚いグローブを嵌めた手がポンと頭に載せられた。杳は観念し、のろのろと顔を上げる。ホークスは杳と視線が合った途端、掬い上げるように優しい笑みを浮かべた。念のため、用心深く目を凝らしたが、彼の瞳には不穏な輝きは見当たらない。

 

「休憩しよっか。一緒においで」

 

 杳はホークスに連れられて廊下を渡り、非常階段を昇って屋上に出た。吹きさらしのコンクリートでできた世界を、背の高いフェンスが鳥籠のように囲っている。貯水タンクの前には──作業員が休むためのものなのか──錆びれたベンチが置いてあった。ホークスは杳を促し、そこへ腰かける。彼はコスチュームのポケットを探り、中からコーヒー缶を二つ取り出して、一つを杳に手渡した。

 

「コーヒー飲める?」

「はい。ありがとうございます」

 

 見た事のないパッケージだった。彼の本拠地(ホーム)である九州でメジャーな飲み物なのだろうか。目の覚めるような黄色い外装はマイクカラーを想起させ、杳の心はちょっとだけ安らいだ。プルリングを引き上げ、ごくりと飲む。凄まじい甘さが舌を蹂躙した。文字通り、喉が焼けるような甘さだ。いくら甘党の杳とはいえど、受け入れがたい味だった。思わず悶絶し、ブルッと震える。

 

「あっま……!」

「甘いのが好きなんだよね」

 

 しばらくの間、二人がコーヒーを飲む音だけが周囲に響いた。糖分には脳のエネルギー源となるブドウ糖だけでなく、リラックス効果のあるセロトニンも含まれている。予期せぬ事態続きで疲弊した杳の心身が、徐々に癒されていった。少女の頬のラインに柔らかさが戻っていく。その様子を見届けてから、ホークスはそっと切り出した。

 

「俺がいて、びっくりした?」

 

 杳はこくりと頷いた。ホークスはコーヒーを一口飲む。苦いものを噛んだように口元を歪め、かすかに笑った。コーヒーは舌が溶けるほど甘いはずなのに。不思議に思って身じろぎした時、杳は視界の端に違和感を覚えた。思わず目を凝らした瞬間、大きく息を飲む。

 ホークスの羽根の一枚一枚に、まるでフジツボのように小さな機械がびっしりと付着していた。感覚器を研ぎ澄ませると、盗聴器特有の微弱な電波が大量に跳ね返ってきた。

 

 ホークスは恐らく組織の幹部格であろう、近属の隣にいた。ヒーローと敵──重すぎる二足草鞋を履いているというのに、彼はボーダーラインを踏み越える事をまだ許されていないのだ。

 

「……ホークスさん。どうして?」

 

 帰り道が分からなくなった子供のような声が、杳の口から漏れる。ホークスはおもむろに空を見上げた。秋晴れの空には鷹が一羽、旋回している。高く鋭い鳴き声が大気を切り裂いて響き渡る。その叫びは消え去る時、どこか物悲しい気持ちを杳の耳奥に残した。

 

「ずっと夢見てた世界は雁字搦めの鳥籠だった。ただ、自由に飛びたいんだ」

 

 ホークスはまるで夕陽に目を細めているかのように切なく、寂しそうな顔でそう言って、くしゃりと笑った。ショックと後ろめたさを同時に感じ、杳は思わず目を伏せる。

 

 ──彼の言葉は自分の想いと同じだ。だが、彼は思うだけでなく、危険を冒して異能解放軍に入った。自分はただ、ここに留まっているだけ。どこまでいっても中途半端だ。杳はますます落ち込んで、空き缶を所在投げに弄ぶ。何故、四ツ橋さんは私を選んだの?彼の方がよほど適任なのに。

 

 

 

 

 五分後、二人は会議室へ戻った。会議の進行役は解放軍でも最古参に位置する敵・サンクタムが勤めている。サンクタムはその名の通り、聖域を守る神父さながらに厳格な顔立ちをした老年の男性だった。鍛え抜かれた体躯を、鋼色のスーツベストに包んでいる。

 

 深い皺に縁取られた双眸が、異能解放軍の行動理念を映したスクリーンから、ふと杳へ移った。彼はやおら厳しい声で、杳の名前を呼ぶ。ぼんやりとレジュメを眺めていた杳は反射的に飛び上がり、縮こまった。

 

「貴方の口から行動理念を聞かせていただいても?」

 

 氷の塊を削り出して創ったような、冷たい声だった。同じ温度を宿した瞳が、杳を貫く。四ツ橋がその場を取り成すように小さく咳払いした。サンクタムの肩がほんの一瞬、震える。しかし、彼の勢いは止まらなかった。素早く唇を舐めると、鋭い声で言葉の矢を放つ。

 

「いつまで置物でいるつもりです」

「わ、私……」

()()()()()()()であろうが」

 

 サンクタムは杳の言葉を遮り、吐き捨てるように言い放った。

 

「ここに立つ以上、責任がある」

 

 厳格な老人の瞳に、杳は()き火のような輝きを見た。途方もない年月の間、繰り返しくべられ、消えないように守られてきた──反旗・再生を願う想いだ。サンクタムは杳に意地悪をしているのではなく、()()()()()()()のだ。自分や盟友・家族が生涯をかけ、守ってきた組織の未来を任せるに足る人物であるのかを。

 

 同じ想いを宿した目の群れが、サーチライトのように小さな子どもを照らし上げる。不安と不満、悪意が入り混じった不穏な波が、杳の感覚器をじわじわと冒していった。溺れかけ、窒息しそうになった杳を救けるため、ホークスが小声で話しかける。

 

「”個人の自由を──」

「ホークス。(さえず)るな。羽根文字もするな」

 

 近属がぴしゃりと言い放つ。ホークスのフォローを受け入れた事により、ヘイトが高まるのを防ぐためだ。だが、杳にそんな優しさを察する能力はない。単純に意地悪をされたと思い、さらに追い詰められた。パニックになったところで、救けてくれる人はいない。気月に丁寧に教えてもらったはずの行動理念が思い出せない。背中をじっとりと冷たい汗が伝う。

 

 ──後継になりたくてなったわけじゃない!杳は思わず四ツ橋を見た。けれど、彼は救けてくれるわけでなく、ただ静かにこちらを見つめ返すだけだった。まるで孵化直前の卵を見守るような、厳かな眼差しで。結局、杳の頭はパニックになって泣き喚くばかりで、サンクタムの要求に応える事はできなかった。

 

 会議が終わった後、杳は戦士の一人に連れられて、会議室を出た。扉が締まる直前、サンクタムとホークスが何事かを話し合っている様子が垣間見えた。サンクタムは額に手を当て、重く苦々しい溜息を吐いている。

 

「君の方がよほど適任に思える。何故、リ・デストロはあのような……」

 

 ホークスは取り成すように笑った。今までの爽やかな印象からは考えられないほど、卑屈で耳障りな声だった。その声は杳の耳奥に入り込み、ギザギザとした歯で体内を食い荒らす。

 

 ──異能解放軍が今日まで生き残ってこれたのは、表と裏の顔を使い分けていたからだ。だが、それは彼らに限った話じゃない。戦場はヒーローと敵だけのものにあらず、集団生活は武器を持たぬ戦場と同じだ。ヒーローは自分の心の内までは守っちゃくれない。多くの人々は表と裏の顔を使い分け、日々を生きている。

 

 裏表の顔を使い分ける必要がないくらい強く優しい人間に囲まれ、大切に守られて生きていた杳には、サンクタム達の言動は刺激が強すぎた。耳鳴りがする。胃の中に冷たい鉛が流し込まれたみたいに、体が重かった。

 

 

 

 

 案内役の戦士は杳を食堂へ誘い、ここで昼食を摂るようにと言い含め、去っていった。杳は両親を人質に取られている。一人にしたところで逃げ出す事はできまいと判断したのだろう。

 

 広々とした食堂は会議帰りの戦士達と職員で賑わっている。誰もが杳を認めると一瞬、立ち止まり、不躾な視線をたっぷり浴びせた後、声も掛けずに去っていった。まるで見世物になった気分だった。大勢の人に囲まれているのに、杳は強烈な孤独を感じた。

 

 オムライスを注文し、事前に渡されていた電子マネーカードで決済する。ここのオムライスは、ヒトシのものと似ているだろうか。エビフライもプリンも付いていないプレートを受け取り、杳は泣きそうになりながら、そう思った。──逢いたかった。抱き締めてほしかった。

 

 この食堂において、ケチャップなどの調味料は()()()だ。受け取り口の脇に設けられたスペースに調味料が各種準備されており、好きなだけ使用できる。杳はスペースの端に寄り、ケチャップボトルに手を伸ばそうとした。しかし──

 

「よっと。こんくらいか?」

 

 ──その寸前、()()がボトルを取り上げ、杳のオムライスに可愛いネズミの絵を描いた。今日は驚く事ばかり起きる。杳は口をあんぐり開け、窃野の横顔を見つめた。何故、彼がここに?自分と同じく潜入捜査を命じられてはいなかったはずだ。もしかして、彼もまたホークスのように自分の意志でここへ来たのだろうか。治崎さんはこの事を知ってる?

 

 数々の心配事が彗星のように飛来し、杳の心へ衝突する。少女の青ざめた表情を見ると、窃野は彼女を促し、とある席に座った。食堂のど真ん中に位置しているが、周囲を観葉植物が囲んでいるために、人の視線がそれほど気にならない。自分の特等席なのだと窃野は自慢げに笑う。

 

 杳は彼に訊きたい事があった。周囲を注意深く見回し、辺り一帯に盗聴器が仕込まれていないどうか、確認する。しばらくして両手をよじり合わせ、杳はそっと彼を見上げた。

 

「窃野さん……も、解放軍に入ったの?」

「ちげーよ。救けに来たんだ、おまえを」

 

 ミートボールパスタをフォークに巻き付けながら、窃野はあっさり答えた。”救けに来た”。その言葉を、杳は素直に受け取る事ができなかった。異能解放軍という敵組織の恐ろしさ・規模の大きさを思い知っていたからだ。安堵と罪悪感が同時に(もたら)され、心の内側で罪深いマーブル模様を描く。

 

 きっと窃野は公安から指令を受け──表向きはホークスと同じように解放軍に入り──自分を救出しに来てくれたのだろう。だが、無理だ。杳の目尻にじわりと涙が浮かぶ。自分のために、窃野や治崎達を危険にさらす事はできない。救けを拒絶しようと顔を上げた、その時──

 

「心配すんな。お嬢ちゃん」

 

 ──優しい声が降りてきた。小さく鼻をすすっている少女の前に、窃野は右手を差し出す。その指先にはビー玉が一つ、挟まれていた。

 

「なんとかなる。その為に俺がいるんだ。まぁ今は……」

 

 次の瞬間、ビー玉はポンと軽快な音を立て、()()()()に変わった。色とりどりの紙吹雪が花弁のように周囲を舞い、陽光を反射してキラキラ輝く。

 

「これが精一杯だけど」

「わあっ」

 

 杳は顔をほころばせ、花を受け取った。だが、窃野の手品(マジック)はそれで終わらなかった。花と彼の手の間に、小さな国旗がずらりと付いた糸が紡がれてゆく。杳はふと幼少時の記憶を思い出した。

 

 小学校の頃、課外授業の一環で訪れた文化会館で、一人のマジシャンが前座を務めていた時のワンシーンだ。青年がシルクハットの上でステッキを振ると、空っぽだった帽子の中から鳩が飛び出した。──手品・奇術は個性隆盛期の到来と共に廃れ、文化財の一つとなった。個性もないのに、どうしてこんな不思議な事ができるんだろう。幼心に不思議でたまらず、杳はゴーグルを外してまで熱心に見入った事を覚えている。

 

 杳は国旗で飾られた糸を弄びながら、期待に輝く瞳でおねだりした。

 

「は、鳩も出ますか?」

 

 窃野の肩がほんの一瞬、震えた。虚を突かれてわずかに開いた唇は、やがて悪戯っぽく吊り上がる。

 

「いや鳩はさすがに……なんてね」

 

 窃野はパチンを指を鳴らす。たちまち白い鳩が何羽も現れて、親しげに杳の周りを飛び回った。くすぐったそうに身をよじり、ポップコーンが弾けたみたいに明るい声で少女は笑う。

 

 観葉植物の向こうで突如始まった()()()()に、人々は心底迷惑そうに眉をひそめた。しかし、彼らの波は小さな森の奥までは届かない。仮初めの安全地帯で、杳は一時の安寧を抱き締めた。花と旗、それから白い鳩に囲まれて幸せそうに笑う少女を、窃野は優しい眼差しで見守っている。




ずっと書きたかったカリオストロの城ネタ、書けて満足です。ルパンカッコいいよ。そりゃ心盗まれるよ…。

いつもこのSSをお読みいただき、ありがとうございます!


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No.97 ボーダーライン②

※ご注意:作中に残酷な表現、暴力表現、差別的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

≪オリジナル登場人物紹介≫
●安芸玲愛(あきれあ)
泥花市の特別エリアに住む女性。村のリーダー。無個性者。


 古びた音色のチャイムが食堂内に鳴り響く。その瞬間、安寧の時は終わりを告げた。窃野が指を鳴らすと、鳩達は杳の耳たぶやほっぺを愛情込めて甘噛みし、彼の下へ帰っていった。ほんの一瞬、祭りの後に似た()()()が杳の心中をよぎる。だが、我慢できないほどじゃない。窃野の手品と鳩達のおかげで、自分の気分は大分(だいぶ)上向きになったみたいだ。

 

(大丈夫。きっとなんとかなるよ)

 

 胸に手を当てて深呼吸し、自分に言い聞かせる。やがて窃野に促され、杳は食堂を出た。途端に、キュッと意識が引き締まる。会議が終わったばかりらしい四ツ橋と、廊下でばったり鉢合わせたのだ。四ツ橋は杳のシャツの胸ポケットに小さな花が一輪差さっているのを認め、頬を緩めた。

 

 ”モール”と、四ツ橋は聴き慣れない単語を発した。窃野はすぐさま姿勢を正し、一糸乱れぬ()()をする。異能解放軍における敬礼とは、額に親指を付け、人差し指を上に差す事でL、すなわちLiberation(解放)を示すハンドサインである。どうやら”モール(もぐら)”というのは窃野の解放コードであるらしい。四ツ橋は答礼すると、優しい声音で労った。

 

「お()りをありがとう」

 

 杳の(あずか)り知らない事ではあるが、窃野は自害機能を無効化したマイクロチップを再挿入し──異能解放軍のため、公安の情報を探る──二重スパイとして活動していた。彼の持ち帰る情報の()()は、公安の上層部と繋がっているホークスとは比べるべくもない。しかし、互いの整合性を確保するという観点から見ると、窃野の情報は非常に有用だった。もとより、四ツ橋の関心は窃野の諜報活動ではなく、八斎會の元・若頭にあった。

 

 窃野はマイクロチップの件で公安に強い不信感を抱き、四ツ橋に”杳と八斎會一家の身の安全”を確約させ、謀反を決意。現在、公安の監視をかいくぐり、治崎に交渉中である。

 

 立ち去っていく窃野の背中を寂しそうに見守る杳に苦笑しつつ、四ツ橋はそっと手招きした。

 

「君に見せたいものがある。おいで」 

 

 

 

 

 四ツ橋は杳を伴い、泥花市の最南端部にある市民病院へ向かった。愛知県の中心部を横切る大河川・宇多波(うたぱう)川と山地に挟まれるようにして、白亜の建物が広がっている。病院へ至る唯一の道路では検問が行われていた。基本的に、病院は交通の便が良い場所に建てられる。市民病院の立地場所は──地元民ではない杳にも分かるほど──辺鄙(へんぴ)な所だった。検問が行われているのも妙だ。

 

 受付の守衛は四ツ橋を視認した瞬間、こわばった表情で敬礼した。頑丈な鋼鉄の門がゆっくりと開かれ、二人は中へ入った。

 

「あの子供が……」

()()()()らしい。弱者が我々を導くのか?」

 

 門が締まる寸前、守衛達の放った言葉の矢が背中に突き刺さる。杳は力なくうな垂れ、拳を握りしめた。院内は一般的な病院と変わりなく、清潔で広々としていた。午前の診療が終わってしばらく経っているという事もあり、ロビーに人気はない。二人はリノリウムの床を歩き、エレベーターに搭乗した。四ツ橋はタッチパネル式のボタンの前で手をかざす。すると、地下がないはずの階層表示が()()()()までのものへ切り替わった。彼は地下五層のボタンを押す。

 

「わあ……」

 

 扉が開くと、一階とはまるで違う様相を帯びた空間が杳を出迎えた。病院というより研究施設に近い。四方の壁は光沢のある黒い壁で構成されているが、あちこちがガラス張りになっているため、室内はとても明るかった。感覚器を研ぎ澄ませると、途方もない空間が広がっている事が分かる。だが、解放感はなく、どことなくタルタロスを彷彿とさせるような閉塞感が漂っていた。

 

 中心部には”個性の母”の像があった。その周囲にホログラムディスプレイがいくつも浮かび、この施設内の情報がリアルタイムで表示されている。ふと四ツ橋が像の前に立ち止まった。彼はホログラムディスプレイではなく、我が子を抱く母の手を見上げている。その横顔を視野に入れた途端、杳は面食らう。

 

「……?」

 

 四ツ橋はひどく傷ついたような顔をしていた。しかし、それは一瞬の事だった。彼は元の穏やかな表情に戻ると、胸ポケットから取り出したバイザーを杳に手渡した。

 

「これをかけなさい」

 

 四ツ橋は同じものをポケットから取り出し、自らもかけてみせた。二人は像を通り過ぎ、奥へ向かう。何重にもロックのかかった鋼鉄製のドアをくぐり抜けると、強化ガラスで覆われた空中廊下(スカイウェイ)が杳達を待っていた。ガラスの向こうは、巨大な球状にくり抜かれた空間が広がっている。杳の感覚器が捕えきれないほど、途方もない広さと規模を有していた。

 

 ──まるで惑星のコアにいるみたいだ。あまりに壮大な光景に杳は怖気づく。小さな目と口を限界まで見開いた少女の姿を見て、四ツ橋は苦笑した。内部は空洞ではなく、いくつもの真っ黒なキューブが浮かんでいる。それらは機動式のブースで間仕切りされ、白衣の研究員達が電子機器と向き合い、作業を進めていた。一体、中に何があるんだろう。杳が好奇心に駆られたその時、バイザーに光が点り、スピーカーからアナウンスが流れた。

 

『最高指導者の指示により、全てのケージを開示します』

「……ッ!」

 

 杳の全身を戦慄が駆け抜けた。──キューブの内部には()()()()。一人でいるものもいれば、二人、複数でいるものもある。問題は、その中で行われている行為だった。人々は自らを、または他者を傷つけていた。自らの炎で焼かれる者がいる。狼男が女性を嬲り者にしている。皮膚を食い破り、あふれ出た血と臓腑をすする鬼がいた。巨大な蛇が子供を飲み込んでいる。全てのキューブに、酸鼻を極めた光景と断末魔がぎっしりと詰まっていた。

 

 杳は反射的に身をかがめ、空中廊下の中程にある非常口目指して駆け出そうとした。キューブに閉じ込められた人々を救けるためだ。しかし、四ツ橋はその肩を強く掴む。彼は目の前で行われている惨劇に動じる事なく、ただ穏やかな眼差しでこちらを見ていた。

 

 やっぱり、この人は敵だったんだ。杳の心の奥で、義憤の感情が火を噴いた。

 

「離してください!」

「本質を見極める前に、衝動的に飛び出すのは君の悪い癖だ」

 

 杳は必死にもがいたが、四ツ橋の手は万力のように強く、その場からぴくりとも動けない。彼はもう一方の手で杳の背中を押し、一番近くにあるキューブの前へ押し遣った。

 

「彼らをよく見なさい」

 

 杳は訝しく思いながらも目を凝らし、感覚器を張り巡らせる。そして、息を飲んだ。目の前にあるキューブには、少年と少女が閉じ込められていた。蚊を思わせるフォルムに変態した少年が、針のように細長い口吻を少女の首に突き刺し、血をすすっている。

 

 ──よく見ると、被害者である少女の顔は恍惚としていた。震える手を伸ばし、少年の頭をひしと抱き締めている。少年の複眼から涙があふれ、床の血溜まりに滴った。(おぞま)しい光景であるはずなのに、彼らの細部を見ると──まるで友人や恋人が優しく触れ合っているような──そんな柔らかく温かなものを、杳は感じ取る事ができた。彼らはこの行為を望んでいる。

 

 杳の体から力が抜けていく。四ツ橋は彼女の横に並び立ち、穏やかな口調で、ここは個性の研究施設なのだと説明した。

 

「個性と欲望は密接に関係している。だが、望むまま行動しては、()()()()()()()だ。真の解放とは欲望に支配される事ではない。……我が軍、及び泥花市の市民達は漏れなく意識・無意識的な欲求をここで精査し、危険性及び有害性の振るい分けをされている。それが日常生活に支障をきたさないものであれば良し、そうでなければここへ通院してもらう。お互いの欲求が合致する者同士をマッチングさせ、適切なペースで発散してもらっている」

 

(大体の人の性癖は、普通だよ。だけど一部の人は、犯罪に直結してしまう場合がある)

 

 杳は航一の言葉を思い出した。ここで行われているのは、個性カウンセリングの()()()とも言えるような研究だった。従来の個性カウンセリングは、有体に言えば、当人との対話を通して現行社会との擦り合わせを行うプログラムだ。そのため、個性が多様化していく現代においては、一部の知識人に特殊な嗜好を持つイレギュラーが孤独を感じる”第一の関門”だと揶揄されていた。

 

 実践的な点は鳴羽田の敵更生プログラムにも似ている。だけど、それよりもっと()()だ。杳は脇の下を冷や汗が流れていくのを感じた。たとえ両者が合意していても暴力は許されるものではない。だが、キューブの中にいる人々の表情を見てしまうと、頭ごなしに否定する事もできそうになかった。十人十色という言葉の通り、人の数だけ個性や嗜好・想いがある。その中には、誰もが理解できるようなものもあれば、思わず目を逸らしたくなるような、理解しがたいものもあるだろう。

 

 杳は四ツ橋の横顔をそっと見上げた。杳は大勢の人々が何故、彼を慕っているのか、自分にあれほど期待を寄せているのか、少しだけ分かった気がした。

 

『第54セクション、実験終了。クールダウンを開始します』

 

 少年はすぐさま元の姿に戻り、少女を抱きかかえた。少女は安心させるように笑ってみせ、少年の胸に頭を預ける。互いを守るように抱き締め合う二人と、個性の母の像が一瞬、重なって見えたような気がした。キューブは再び、黒く濁る。ブースごとどこかへ浮遊していくキューブを見送りながら、四ツ橋はゆっくりとバイザーを外した。

 

「私は知りたいのだ。我々は異能と共存できるのか。それとも……増大してゆく異能に支配され、絶滅する存在なのか。解放の先に何があるのかを」

 

 四ツ橋は腕時計を覗き込むと、気さくな口調でこう言った。

 

「そろそろ夕食の時間だ。一緒に食べないか?」

 

 

 

 

 杳は四ツ橋と共に川を下り、西部へ向かった。最低限に舗装された山道を走り、小さなトンネルを抜けると、のどかな田園風景が一面に広がっていた。広々とした盆地はほとんどが耕され、水田や畑になっている。ひんやりした山風が吹き抜けると、重く垂れた稲穂やまるまると太った葉物がささやかなメロディを奏でた。透明なビニールに覆われた畑には、トマトがぎっしりと成っている。

 

 山の麓には集落があり、こじんまりとした牧場や工房のような施設もある。四ツ橋はそこへ向かっているようだった。街ほどの賑わいはないが、この村にも沢山の人がいた。高齢の老人から小さな赤子まで、年齢層は実に様々だ。皆、四ツ橋を認めると相好を崩し、親しみを込めて挨拶している。

 

「……」

 

 杳は村の人々に違和感を覚えた。()()()()()()()ような気がするのだ。個性社会と呼ばれる現代、人々の多くはサポートアイテムを付けたり、大なり小なり個性由来の身体的特徴がある。しかし、彼らにはそれが見当たらない。

 

 やがて二人は集落の入口へ到達した。農園で作業をしていた者が知らせたのか、入り口には大勢の人が集まっていた。集団の先頭にいるのは妙齢の女性だった。きりりと上がった眉と瞳は淡桃色で、見る者の背筋をしゃんと伸ばすような、凛とした雰囲気を放っている。彼女は杳を見ると大袈裟に息を飲み、四ツ橋に尋ねた。

 

「この子が噂の?」

「ああ」

 

 期待と喜びが綯交(ないま)ぜになった歓声があちこちで上がる。解放軍の人々が杳に向けるものとは似て非なるものだった。妙齢の女性は安芸玲愛(あきれあ)と名乗った。この村を取り仕切る責任者であるらしい。杳の顔を覗き込み、安芸は笑う。

 

「ここは無個性者が住まう特別エリアです。我々はあなたを歓迎します。……そうだ、お二人共。よろしければ夕食をおあがりになって。カボチャがちょうど食べ頃なんです」

「言われずとも、そうするつもりだ」

 

 四ツ橋が腹をさすり、おどけてみせると、皆はどっと笑った。安芸達は二人を集会所へ誘った。手織りのラグやカントリー調の調度品、暖炉の火がパチパチ爆ぜる音が、来客者を優しく出迎える。大広間ではすでに宴会の準備が進められていて、オーク材の長テーブルにはご馳走が所せましと並んでいた。リンゴやナシを使った前菜の盛り合わせに、栗入りのチキンソテー、五目炊き込みご飯、味噌鍋、カボチャのホットパイ……etc.

 

 料理はどれも、心に寄り添うような優しい味がする。ホテルで食べた朝食の味を、杳は何となく思い出した。秋野菜は夏野菜に比べて水分が少ないのが特徴で、加熱すると甘味が増す。杳は全ての料理をお代わりした結果、体の芯まで温まり、気が付くと上着を脱いでいた。

 少女の額に玉のように浮かぶ汗を見て、安芸は笑いながら立ち上がる。

 

「窓を開けて、暖炉の火を弱めましょう。冷たいゼリーは好き?」

「はい。あ、あの、手伝います」

 

 杳は無個性者を見るのは初めてだった。窓を開けながら、安芸の姿をそっと目で追いかける。安芸は暖炉の空気穴を閉じた後、火かき棒を使い、赤々と燃える薪の位置を調整していた。杳は固唾を飲んでその様子を見守る。個性を失った自分が言える立場ではないかもしれないが、彼女は()()()()()なのだ。火傷をしたら大変だ。何故、四ツ橋は手伝おうとしないのだろう。杳は不思議に思いながらも手早くカーテンをまとめ、女性の傍に近寄った。

 

「代わります。危ないですよ」

「大丈夫よ」

 

 しかし、杳は頑としてその場を離れなかった。安芸は小さく息を吐き、杳に火かき棒を手渡す。その表情には暗鬱とした影がにじんでいたが、火の調整に一生懸命だった杳は気付かなかった。安芸は杳の背中に向けて、この村の成り立ちを語り始める。

 

 

 

 

 かつて個性が”異能”と呼ばれていた頃、異能を持つ者はマイノリティだった。だが、時は流れ、今は異能を持たぬ者がその立場に回った。有個性者をまとめ上げるための法律は、無個性者を想定していない。子ども達は個性抑圧教育を受ける過程で、個性を持たぬ者がごくわずかにいるのだと教えられる。だが、()()()()だった。無個性者に関する正確な情報を知らぬまま、子どもは大人になっていく。

 

 人は異質なものを排除する生き物だ。個性を抑圧され、慢性的なストレスを抱えた人々は、常にはけ口を求めている。”無個性者は有個性者よりも劣っている”──無個性者は根も葉もない噂や差別にさらされた。ひどい場合は衣食住にすら困る事があった。

 

 しかし、その苦境を是正する余力は政府にはなかった。政府も無個性者の状況を認識しているが、今や人類の一割に満たず、緩やかに絶えようとしている彼らと、年を経るごとに複雑・多様化していく有個性者を天秤に載せれば、どうしても後者が傾く。無個性者を守る者はいなかった。

 

 四ツ橋はそういった人々に声を掛け、このエリアに集めてコミューンを形成した。代々個性を持たぬ一族が総出で引っ越した例もあるらしいが、大抵は個人が噂を聞きつけやってくる。”同じ境遇を持った者達が集まって暮らす村がある”と、ネットや人々の噂話でまことしやかに語られた情報の糸口を辿って。

 

 ここにいる赤子や子どもの多くに、村人との血縁関係はない。親の手によってこの村の近くに捨てられたのだそうだ。村の子として皆で育児をしていると、安芸は笑った。

 

 テーブルに戻った杳は顎を撫で、思案に暮れた。異能解放軍は強い個性を持つ者を優遇する。かつて自分達を陥れた者、つまり無個性者は排斥するべき存在のはずだ。四ツ橋の行動は一見すると敵を守る、矛盾したものに思える。彼の真意が分からない。

 視界の端で何かが動き、杳は顔を上げた。四ツ橋の傍に安芸が恭しくかしずき、空のグラスに葡萄酒を注いでいる。

 

「……」

 

 その瞬間、杳は()()()()()()。四ツ橋のしている事は、ただの偽善だ。確かに、彼は無個性者を守っているかもしれない。だが、こんなところに閉じ込めて、決まった仕事をさせるなんて。こんなの監禁と同じじゃないか。農作業だって本当にしたい仕事じゃないかもしれないのに。か弱い存在である安芸が暖炉の前に立っても、彼は気遣いすらしなかった。杳は膝の上に置いた両手を強く握り締め、四ツ橋を睨んだ。

 

 その時、安芸が振り向いて杳を見た。灰色の瞳と淡桃色の瞳が一瞬、拮抗する。安芸の表情が、見る間に悲しげに歪んだ。

 

「そんな目で見ないで。どうか、あなただけは」

 

 切実な響きを内包した言葉が、杳の頬を強かに打つ。大きく見開かれた安芸の瞳には、杳の顔が映っていた。その表情に強烈な既視感を覚え、杳はくらりと眩暈がする。個性を失った時、クラスメイトが自分に向けた憐れみの表情。あんなに悲しくて嫌だったあの顔を今、自分が浮かべていた。

 

「個性があると幸福で、個性がないと不幸ですか?」

 

 杳は言葉に詰まり、弱々しく首を横に振った。感覚器を研ぎ澄ませる。村人達は皆、ほんの少しだけ寂しくて、だけどとても穏やかな波を放っていた。

 四ツ橋が赤子を抱き、優しくあやしている。安芸は周囲を見回した。

 

「ここは差別も何もない。外の人も優しくしてくれる。仕事だって、私達が決めたの。皆、望んでここへ来た」

 

 杳は、無個性者が外の世界で生きる事がどれほどに過酷な事か、知らなかった。多くの無個性者は息を潜め、自分を隠して生きなければならない。人と逢う度、個性はなんですかと聞かれ、応えられない惨めさも。無個性だと言った後、人々が浮かべる蔑むような表情も。個性歴を履歴書に書く必要がない、簡単なアルバイトで日々を食いつなぐ気持ちも。杳は何も知らなかった。

 

 彼らにとって、この村は理想郷だ。外の世界と隔絶された離れ小島──たとえそうだとしても、皆、望んでここに来て、幸せな人生を送っている。安芸は真っ赤に熟れた夕陽に目を細め、陶然とした口調で囁いた。

 

「彼は約束してくださった。いつか必ず、私達のボーダーラインをなくすと」

 

 

 

 

 集会所を出ると、胸が苦しくなるぐらいに郷愁を帯びた夕焼けが、山々や村を染めていた。オレンジ色に染まった農道に、二人の影が長く伸びる。安芸は杳に夜食に食べるようにと、焼きたてのアップルパイを持たせてくれた。シナモンの効いた甘酸っぱい香りが二人の間を漂う。

 杳は四ツ橋に訊きたい事があった。乾いた唇を舐め、一歩先を歩く彼の背中を見つめる。

 

「どうして、あの村を?」

「もう時代はデストロがいた時と大きく変わっている。私はただ、過ちを繰り返したくないだけだ」

 

 四ツ橋はやおら振り返ると、肩をすくめて薄く笑ってみせた。その表情にはわずかな疲労の色がにじんでいる。

 

「だが、実行に移すのは骨が折れたよ。皆の理解を得るのが難しくてね」

 

 当然だ、と杳は思った。異能解放軍の戦士達は、個性至上主義だ。最高指導者である四ツ橋たっての願いだからこそ成立しているが、いまだに街と村の間には不可視のボーダーラインが引かれているだろう。安芸達は農作物だけじゃなく、いつか自分自身をボーダーラインの外に出せる日を待ち望んでいる。

 

 杳は立ち止まった。喉から熱いものがせり上がって来る。自分がいかに綺麗事だけを考えているかを思い知ったからだ。()()()()()()。彼は特別だ。敵だけど、それだけじゃない。種をまく人。四ツ橋も歩みを止め、振り返る。夕陽を背にして立っているために、黒々とした影がマントのように彼の前に伸びて、小さな少女を覆い隠した。

 

「杳。あの時の答えを訊かせてくれないか?」

(君には私がどう見える?)

 

 四ツ橋の声が耳朶を打つ。杳はその場に(ひざまず)き、熱くて塩辛い涙をボロボロと零れ落とした。──あなたは、途中で放り出した本の続きのページ。カーテンの閉じられた窓。ずっと待ち望んでいた春の息吹。なくしてしまった宝箱の鍵。

 

「あなたは私の夢です。リ・デストロ……ッ」

 

 

 

 

 二人はデトネラット支社の広報棟・最上階にある主調整室へ向かった。デトネラット社は各種マスメディアを介した広報活動にも力を入れている。コマーシャルや通信販売の専用番組などを制作するため、小規模なテレビ局を所有していた。主調整室の奥には会議室があり、杳達はそこへ向かった。

 

 壁は一面のガラスになっていて、主調整室の様子が確認できる。無数の並ぶ有機ディスプレイ画面に、電子化された放送運行データに則って、番組やコマーシャルが自動的に放映されていた。今回の会議の主題は情報戦略について。テーブルの中心部に浮かぶホログラムスクリーンに、マスメディアの観点からどのように勢力を広げ、社会に揺さぶりをかけていくかという内容が表示されている。

 

「では今期の概要を」

 

 指揮を執るのは気月だ。杳は配られたレジュメをかぶりつくようにして読み、真剣な表情で聞き入っていた。その様子に、近属は思わず目を見張る。──少女は囚われの目ではなく()()()()をしていた。大きな心境の変化だ。野生の獣のように見るもの全てに怯え、警戒していたあの少女が、四ツ橋と数時間行動を共にしただけで、全てを翻している。

 

(……恐ろしい人だ)

 

 近属は四ツ橋をそっと伺い見た。かつて近属が彼に心酔した時もそうだった。四ツ橋は近属を説得したり、力に物を言わせたりしなかった。ただ、自分の一部を見せただけだ。

 

 ──人は多面性を有している。どんな人間も良い面と悪い面がオセロのように重なり合い、そのオセロはパズルピースのように様々な事柄が合わさってできている。四ツ橋はその中から、近属や杳が最も影響を受けるピースを選び、見せたのだ。計算ずくでしているのか、本能的に嗅ぎ分けているのかは分からない。だが、どちらにせよ常人には不可能だ。やはり彼には特別なカリスマ性がある。近属は改めてそう確信し、尊敬の念を新たにした。

 

 

 

 

 それから数日間、杳はスケジュールに真面目に取り組んだ。異能解放軍を拒絶せず、受け入れようと努力したのだ。杳は日本有数の進学校である雄英・ヒーロー科の生徒だ。まるで乾いたスポンジのように知識を吸収し、分からない事は臆せず訊いて回った。

 

 ──泥花市・市役所にある第一会議室で、杳は定例会議のレジュメを確認していた。今回の議題はサポートアイテムの流通経路について。異能解放軍は敵である事に変わりはない。杳は表情を翳らせ、俯いた。葛真に虐げられていた女性や曽我瀬の表情が、閉じた瞼の裏に焼き付く。違法なサポートアイテムが流通した為に出る被害を、無視する事はできない。

 

「被害者の数は増え続けています。最小限に抑えたい」

「動作データを得るために必要な事だ。縮小する予定はない」

 

 スケプティックはぴしゃりと言い放つ。杳の意見に応じるのはほとんど彼だった。というより、他の誰かが反応するより早く口を出すと表現した方が正しい。自分が萎縮して何も言えなくなるまで、理詰めでネチネチと口撃するスケプティックが、杳は苦手だった。──だけど、負けるな。杳は奮起してボールペンを握り締め、自らを鼓舞する。言いなりになるのでも拒絶するのでもない、改善をし続ける。私も種をまくんだ。

 

「数ヶ月前のように検挙され、アイテムごと製造元を潰されては非効率では?」

 

 スケプティックはギロリと杳を睨んだ。薄い唇が不愉快そうにまくれ上がる。二人の瞳がしばし、拮抗した。

 

「話の腰を折るだけなら口を挟むな。新兵」

「不特定多数にアイテムを売るのは危険です。公に治験などで応募者を募った方が建設的だと思います。効率は落ちますが、より精密なデータ収集・適した状況下での実験が──」

「お前の小さな小さなお(つむ)は砂糖菓子でできているのか?そんな甘ったれた意見が出るという事はきっとそうなんだろうな。え?」

 

 スケプティックは鼻でせせら笑い、腕を組んだ。

 

「データ収集はオプションに過ぎん。これは布石だ。負の感情に訴える事が、民衆を扇動するには効率的なのだ」

「異能の解放という行動理念に従うなら、加害者・被害者も等しく我々の仲間です」

 

 敵とヒーローを隔てるボーダーラインは、そう容易くは崩れない。杳とスケプティックの会話はいつも平行線を辿り、議事進行役であるサンクタムに(たしな)められて終わる──というパターンが多かった。

 

 会議終了後、杳は屋上のベンチに座り、憮然とした顔で書類をまとめていた。ばさりと大きな羽音を立て、ホークスが隣に舞い降りる。

 

「頑張るねぇ」

 

 サングラスに覆われた猛禽類の瞳が一瞬、鋭い光を放つ。──自分が一ヶ月かけて構築した人間関係を、彼女は()()()()()でものにした。最近はあのサンクタムですら、彼女に心を許している。スケプティックの攻撃から守っているのがその証拠だ。彼女は人の警戒心を解き、知らずに懐へ潜り込む才がある。そして赤子同様に無垢で染まりやすい。四ツ橋は杳の才能を理解した上で、取り込んだ。

 

 もし彼女が本当に社会と敵対したら、いつか現会長が予言した通りに──ボーダーラインを崩し、社会を混乱に陥れる──恐ろしい敵になるかもしれない。最悪の未来を回避するため、なんとしても計画を遂行する。ホークスは決意を新たにし、唇を噛み締めた。

 

 

 

 

 会議終了後、杳は泥花市の最西部にある戦闘区域へ向かった。杳は次期指導者として強さを得る必要がある。たとえ個性が弱くとも、解放軍の頂点に立つに相応しい戦闘力を有していなければ、人々の敬意に揺らぎが生じる。彼女の指導を務めるのは()()という青年だった。彼の異能は”氷操”、周囲にある氷を操る事ができる。

 

 外典は雪と氷を混ぜた戦闘フィールドを形成、杳の周囲に氷雪でできた人形をランダムに繰り出し、対処させていた。彼は戦闘のスペシャリストだ。杳の能力を即座に把握し、人形達に彼女の成長を促すような動きをさせる事など造作もない。

 この少女は低温に耐性があるようだ、と外典は推察する。寒さに負けず、元気に動き回る点は評価できる。だが、()()()()だ。それ以外のメリットがまるでない。

 

(羽虫を相手にしてるようだ)

 

 幼い頃から戦闘兵器として育てられた外典と杳の間には、容易には超える事のできない──それこそ人間と羽虫ほどの──隔たりがあった。見たところ、体つきも華奢で、膂力があるわけでもない。何故、こんなひ弱な人間を彼は選んだ?

 

 雪原のように真っ白な外典の心に、ポツリと真っ黒な墨が滴った。その墨は黒く濁り、嫌な匂いを発している。

 

 

 

 

 ──外典は語源となるギリシア語のアポクリファの通り、()()()()()()だった。四ツ橋が育て上げた、最強の戦闘兵器。学校にも通わず、ずっと四ツ橋の傍で異能を鍛えてきた。外典は四ツ橋以外の人間と交流を持った事がほとんどない。食事会などの公な場で戦士と顔を合わせる事はあるが、大抵フードを目深にかぶり、人形のように黙っているだけだ。

 

 異能の強さこそが存在意義であり、他は必要ないと四ツ橋に教えられたから。戦士達が向ける畏怖の視線を感じ取る度、彼は誇らしい気分に浸った。自分も四ツ橋以外は何もいらないと、そう信じていた。

 

 それなのに、四ツ橋はある日、次期後継者の指南役を外典に命じた。蓋を開けてみれば、次期後継者はいわゆる解放主義のカースト最下層にいる存在、弱異能の持ち主だった。強者こそが優位に立つ解放主義の世界で、真っ先に食い殺される子羊に等しい。

 

(僕が……)

 

 黒い墨がジワリとにじんで、広がっていく。外典の家族は一人だけだった。彼の生きる世界は解放主義に基づいた空間だけ。心身ともに四ツ橋に依存し、させられていた。歪んだ愛は独占欲に変わる。

 

 ──四ツ橋は子を成さなかった。解放主義に基づくなら、強者が次代の指導者となるはず。彼の後継は僕こそが相応しいはずなのに。杳と戦う人形達の攻撃が、徐々に苛烈さを極めていく。異能を高める度、優しく撫でてくれた手は、誇らしげな笑いは、僕を認めてくれたからではないのか。何のために、僕は──。

 

 生まれて初めて、外典は自分の存在に疑問を持った。あの娘が視界に入る度に、心がかき乱される。毒ナイフで胸を突き刺されたような痛みが走る。外典は分厚いコート越しに、心臓の辺りをギュッと掴んだ。

 

 同じ痛みを、昔感じた事がある。四ツ橋が火傷を負った時だ。彼の火傷が癒えると同時に、痛みは治まった。なら、今回もそうすればいい。薄氷色の瞳が剣呑な輝きを放った。羽虫を逃がすのは難しいが、殺すのは簡単だ。にわかに氷のフィールドが大きく盛り上がり、巨大な両手に変形して、杳をバチンと叩き潰す。その直後──

 

「ッ!」

 

 ──手元のスマートウォッチがアラーム音を発した。訓練終了の合図だ。外典はようやく自我を取り戻し、蕾のように硬く閉じられた氷塊を見つめた。美しく整った顔立ちが、無惨に歪んでいく。殺してしまった?どうしよう、彼に嫌われる──!

 

 わななく唇の横を冷たい涙が滑り落ちた、その瞬間、歌うような高音を奏でながら氷塊が爆発した。四方に飛び散った氷の欠片が、陽射しを反射してダイアモンドのように輝いている。ウィニーフィストを携えた杳は周囲を見回して外典を見つけると、緊張感のない笑顔を浮かべて手を振った。

 

「最後の一撃、すごかった!ありがとう」

 

 しかし、外典がそれに応える事はない。フードを目深にかぶり、そっぽを向くだけだった。杳は肩をすくめて一歩下がる。彼は優秀な戦士だと四ツ橋から聞いている。指南も申し分ない。だが、それ以外は取り付く島もなかった。思わず俯いた視界の先に、彼の創った氷の世界が映り込む。

 

 杳はふと創業祭で見た”個性の母”の氷像を思い出した。外典の繊細かつ勁烈(けいれつ)な異能の様を見るに、恐らくあの美しい母子を創ったのは彼なのだろう。異能を使い氷を片付ける彼の背中に向け、杳は遠慮がちに話しかけた。

 

「創業祭で見た氷像、創ったの君でしょ?とても綺麗だったよ」

「当然だ。デストロとお母堂の像だぞ」

「えっ?!」

 

 衝撃的な事実を耳にし、杳は開いた口が塞がらなかった。個性の母と異能解放軍にそんな繋がりがあったなんて。像があちこちで建っている理由を察し、杳は深い溜息を零した。その反応を見て、外典は胸のすく思いがした。

 

「お前、そんなことも知らないのか」

 

 個性の母の話は、幼い頃によく四ツ橋から聞いていた。やはり僕は特別だ。歪んだ自尊心を抱き締め、外典は不敵に笑う。

 一方、杳はその笑みに()()()()()()を垣間見た。杳は外典の成り立ちを知らない。けれど、彼の何気ない挙動や言葉の節々を見て取れば、四ツ橋に深い愛情を抱いている事は理解できた。

 

 彼はきっと四ツ橋の一番近くにいたいのだ。だけど、自分はその間に割り入ってしまった。強い罪悪感が胸を突く。杳は傷を看るように優しい目で彼を見た。

 

「外典なら、きっとたくさんの人を救けられるよ」

「何故、そんなことをする必要がある?」

 

 外典は不思議そうに言った。意地悪をしているのではない、本当に理解できなかったからだ。彼は解放主義の狂信者だ。解放主義の基本は弱肉強食、強い者が生き残り、弱い者は淘汰される。彼にとって弱者は──眼前を浮遊する埃と同じ──取るに足らない存在だった。

 

「理由はないけど……そうだなぁ」

 

 対する杳は、思いも寄らない反応に狼狽し、まごついていた。人を殺さない理由と同様に、弱者を救ける理由を誰もが納得できるように説明するのは難しい。杳はしばらく考えた後、おもむろにしゃがみ込んだ。雪原から雪や氷の欠片を集め、押し固めて王冠を創る。そしてそれを、外典の頭に載せた。

 

「救けてもらった弱い人が、お礼に雪冠を被せてくれるかも」

 

 外典の前で、無垢な笑顔がパッと弾けた。戦士達が向ける儀礼的な笑みでも、四ツ橋の穏やかな笑みでもない。子どもの純真な笑みを見るのは初めてだった。真っ黒な墨で汚れた雪原に、再び雪が降り始める。それが良い事なのか悪い事なのか、外典には分からなかった。

 

 

 

 

 戦闘区域の監視塔・最上階にて、雪原の中心で向かい合う二人の男女を、四ツ橋が満足気に眺めている。その傍らには花畑が控えていた。右肩上がりを続ける支持率のグラフを指で追いながら、四ツ橋は言葉を紡ぐ。

 

「二人は似合いだと思わないか?年もそう変わらないようだし」

 

 花畑は四ツ橋の視線の先にあるものを認め、しっかりとまとめ上げた髪を撫でつけた。考え事をする時に髪を弄るのは彼の癖だ。なるほど確かに──外典の顔は普段フードに隠れて見えないが──二人の容姿は世間一般的に見ても整っている部類に入る。

 

 そうこうしている内に、少女は雪冠を青年の頭に載せ、遠く離れていても声が聴こえそうなくらい、楽しそうに笑った。外典もされるがままになっている。仲もそう悪くはなさそうだ。しかし、調書によれば──

 

「確か、あの娘には恋人がいたはずでは」

「……所詮、学生時代の恋だろう」

 

 四ツ橋は冷たくせせら笑った。しかし、(ヴィラン)然とした声とは裏腹に、その瞳は深い諦めと暗鬱の色がにじんでいる。

 

「あの子は私の後を往く。彼のように強い個性を持つ、忠実な人間が必要だ」

 

 

 

 

 杳が幽閉されてから一週間が経過した。明日、いよいよ再臨祭が開催される。再三に渡る会議を経て、再臨祭で大規模な儀式(セレモニー)と街全体を舞台にした戦闘訓練が行われる事だけは理解できたが、具体的に何をするのかまでは知らされていない。四ツ橋は祭の前日に詳細を教えると約束してくれた。そして、今日がその日だ。

 

 ──どんなことをするんだろう。マナー関連は苦手だな。杳はのんきな事を考えながら、四ツ橋の自室のドアをノックする。穏やかな了承の声がして、杳はゆっくり扉を開いた。ふわり、と上質なコロンの香りに紛れて、血の匂いが鼻腔を突く。

 

 次の瞬間、杳の脳と足はその場に一時停止した。椅子に一人の男が縛り付けられている。()()だ。ひどく痛めつけられたのだろう、体じゅう傷と痣で塗れ、ボロボロだった。椅子の前方には小さな作業台があり、そこに彼の右手が載せられている。吸い寄せられるようにその手を見た瞬間、杳の背筋が粟立った。小指以外の指が全て、根元から切断されている。

 

 義爛は杳の気配に気づくと、俯いていた頭を上げ、憔悴しきった表情で笑った。

 

「よぉ、お嬢ちゃん。また会ったな」

 

 義爛の傍には、四ツ橋と近属がいた。近属の瞳は血走り、杳を注意深く見つめている。一方の四ツ橋は穏やかに笑い、杳を手招きした。

 

 突如として部屋の中空に、ホログラムディスプレイが四枚、浮かび上がる。それはいずれも最新のニュース映像で、何者かの指が”異能解放”のメッセージと共に置かれているといった内容を放映していた。伸ばされたり曲げられたりした状態で固定された四本の指は、統合すると解放を示す”L”のハンドサインとなる。

 

 目の前に突き出された異常事態を呑み込めず、呆然と佇む杳の手に、四ツ橋は血の滴るナイフを握らせた。

 

「新たな時代を創る儀式(セレモニー)を始めよう。君が完成させるのだ」

 

 ナイフから滴る血の音は、どこか踏切警報機のサイレンに似ている。

 

 ──メイントラックを一台のトロッコが暴走している。その進路上には大勢の人間が縛り付けられていた。レバーで進行方向を変える事ができるが、サイドトラックには一人の敵が縛られている。レバーを引かず、つまりは何もせず、人質に戻って夢が泡と消えるのを傍観するか、レバーを引いてトロッコをサイドトラックに進ませ、義爛を殺し、軍の存続に努めるか。

 

 この問題に正解はない。




書く度に思うこと:改行難しすぎる。

やっと折り返し地点に来た!ラストまで一気に駆け抜けます!

いつもこのSSをお読みいただき、本当にありがとうございます!


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No.98 ポラリス

※ご注意:作中に残酷な表現、暴力表現、差別的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


 どくん、どくん。今にも口から飛び出しそうなほど、心臓が激しく脈打っている。四ツ橋は(ヴィラン)だ。しかし、杳は今まで彼が敵然とした行動を取った場面を見た事がなかった。自らを心酔させるため、彼はあくまで優しい面だけを見せ続けた。そして杳が手の内に落ちた事を確認すると、彼はようやく本性を現したのだ。

 

 義爛は手酷い拷問を受けている。四ツ橋の拳が血に塗れていた。彼が、自らの手で義爛を拷問したのだ。血の匂いが鼻腔を通り、脳神経に伝達される。予想外の事態に一時停止(フリーズ)していた意識が、ようやく動き始める。──とにかく義爛を救けなければ。杳の足は迷いなく彼に向かって、一歩を踏み出した。

 

「君はこの数日間で何を学んだ?」

 

 その瞬間、四ツ橋の口から穏やかな声が放たれる。同時に、巨大な威圧感が周囲を蹂躙した。強烈な負の覇気が濁流の如く暴れ回り、大気をぐらぐらと煮立たせる。まるで分厚いガラスを隔てているように、杳の視界が意識ごと歪んだ。踏み出そうとした足が、差し伸べようとした手が、ぴくりとも動かす事ができない。重力が何十倍にもなって自身に圧し掛かっているように感じられる。

 

「今日の解放軍があるのは、衝動的になったからではない。未来を見据え、慎重に事を進めたからだ」

(本質を見極める前に衝動的に飛び出すのは君の悪い癖だ)

 

 杳の全身をじっとりと冷たい汗が伝う。──四ツ橋は私を試している。

 

「君の持つ、短絡的で無差別な救助精神は、現行社会を守る為に政府が刷り込んだものだ。社会を変えるには、まずその思想から脱却せねばならない。言葉だけで人は変わらない。行動に示さねば。君もステインの顛末は知っているだろう?」

 

 ステインは最初、善良な一市民だった。オールマイトに感銘を受け、私立のヒーロー科高校に入学するが、”ヒーロー観の根本的腐敗”に失望し、中退。後に書籍化される事となる”英雄回帰”を訴える街頭演説活動を行うも、それに耳を傾ける群衆はいなかった。絶望した彼は敵になった。言葉で変えられないものを、力で変えるために。

 

「個性黎明期、混乱と恐怖の渦中に陥れられた人々は、既存の枠を捨て新しい社会を創った。群衆を動かすには、言葉だけでは役不足。恐怖が必要なのだ。そしてその行為はあくまでテロ行為ではなく、正当性があるものでなくてはならない。再臨祭は、解放主義の復活を示す聖戦だ。人々はようやく自覚するだろう。社会は正しき方向へ再編されるのだと」

 

 四ツ橋はゆっくりとした足取りで義爛の傍に寄り、彼の肩に手を載せた。

 

「彼はその儀式の始まりを完成させる、贄なのだ」

 

 キューブや特別エリアで過ごした時の記憶が、杳の脳裏をよぎった。ナイフを持った手がカタカタと震える。

 

 物事には()()()がある。四ツ橋が落とした人々をヒーローが救う一方で、ヒーローが取りこぼした人々を彼が救い上げている。彼が捕まれば、キューブや特別エリアも取り壊しになるだろう。あの少年や安芸達は地獄に戻される。現行社会は既存の枠から逸脱するものを許さないから。夢は泡と消える。でも、そうさせないためには──

 

「ボーダーラインを崩すためには……戦いが、犠牲が必要だと?」

 

 頭をガツンと殴られたような衝撃が、杳に走る。──()()()()()。こんなの、公安と同じじゃないか。やるせなくなって杳は唇を噛み締め、うな垂れた。握った拳が震えている。

 

 力づくで社会を壊し、その隙間に捻じ入るなら敵連合と変わらない。これほどの大きな組織なら、争いを起こさずに内側から社会を是正する事ができるはずだ。時間はかかるかもしれない。だが、確実に世の中は善くなる。そうするために、四ツ橋は行動を起こしているんじゃないのか。

 

(もう見ないふりは止めようよ)

 

 冷たく尖った声がして、杳は顔を上げた。自分の声だ。真正面に自分に良く似たフォルムの人影が立って、こちらを睨んでいる。その内部には悲しく辛い記憶がぎっしりと詰まり、黒く濁っていた。体表には蛆が這い、周囲に瘴気を放っている。それは杳が今まで遠ざけてきた、()()()()()だった。

 

 ──誰もが傷つかない方法はない。現行社会を守っても、犠牲はなくならない。ならば、少しでも少ない方に、少なくなるだろう方に賭けるのが建設的なんじゃないか?

 

 ずっと中間地点を歩いてきた結果、杳は良く言えば自由(リベラル)な、悪く言えば冷徹な考えを理解できるようになっていた。その心の揺らぎを見逃さず、四ツ橋は口元から笑みを消す。

 

「そろそろ夢から覚めて、現実の話をしよう」

 

 四ツ橋はスーツの胸ポケットからパウチされたバリアフィルムバックを取り、軽く振ってみせた。中にはゴマ粒よりも小さなマイクロチップが入っている。

 

「我々に囚われ、潜入捜査が失敗に終わった時点で、君の帰り道はなくなった。公安が君の体内に無断で注入したものだ」

 

 四ツ橋は中空を薙ぐように右手を振るう。彼と杳の間に一枚のホログラムディスプレイが展開された。何らかのプログラム構造を示すコードが延々と羅列されている。その上部で赤い光を放つ一文に、杳の目は吸い寄せられた。

 

 学校でプログラム言語を履修し、発目の操作する電子媒体を覗いていたから何となく分かる。これはプログラムの実行履歴だ。自分がホテルに幽閉されて数時間後に、プログラムが起動されている。

 

「このチップに組み込まれていたのは自害機能だ。ご覧の通り、プログラムは遠隔起動されている。我々が事前に取り出していなければ、君は死んでいた」

 

 八斎會事件後の記憶が、杳の脳に浮上した。いくら待っても、不定形型の電子媒体が排出された事を示す()()便()()()()()()()。硬直する杳の頬を、青白い光が照らし出す。もう一枚のディスプレイが展開されたのだ。そこには、杳の犯罪歴が表示されていた。

 

「君の前科は抹消されていない。全て残っている。社会が君を殺す事になった時の()()とするために」

 

 四ツ橋は杳の正面に立ち、見下ろした。慈愛に満ちた鳶色の双眸と、虚ろな灰色の双眸が一瞬、混じり合う。

 

「君と君の学友の命は同列ではない。傲慢にもそう決めたのは社会だ。兄の罪が軽くなる事もない。社会の思惑に利用され、こき使われて死んでいく。君達の末路はそんなものだ」

 

 四ツ橋が突きつけたのは、今まで杳が直面してはならないと逃げ回ってきた真実だった。杳と人使達の間には、決して越える事のできないボーダーラインがあった。

 

 社会の秩序から外れた途端、杳はラインの外側へ弾き出された。透明なラインの内側には優しい光が差している。良い香りが漂い、花が咲き乱れる安全地帯を、人使達が歩いている。ぼんやりとその姿を眺める杳の背中を、毅然とした声が貫いた。

 

(ルールを破ったんだもん。当然だよ)

 

 振り返ると、真っ白な輝きを放つ人影がこちらを睨んでいた。中華風の戦闘服(コスチューム)をまとった自分の姿だ。その胴体はスノードームのように透けていて、中には雄英でヒーローを志してからの輝かしい記憶が一杯に詰まっている。極度の緊張により高ぶった精神が(もたら)した、幻覚の一種だ。杳は何度もそう言い聞かせ、頭を小さく振った。

 

 だが、二つの人影はお互いを牽制し合うように対峙したまま、消えない。その一つを擦り抜け、四ツ橋は杳の肩に手を置き、耳元で優しく囁いた。

 

「思い出せ。哀れな少女を、家族を救おうとした君に、社会は何をした?」

 

 ──苦しめられた。殺されかけた。極彩色の記憶が脳内を埋め尽くし、そのあまりの凄惨さに杳は崩れ落ちそうになった。小さな体を抱き留め、四ツ橋は言葉を続ける。

 

「彼は敵で、違法の武器商人だ。捕まれば死罪は免れない。死ぬ時が少し早まるだけだと考えよう」

 

 血に染まった杳の手に自らの手を添え、四ツ橋は義爛へナイフを向ける。

 

「生きるとは、希望的観測に身を委ねて現実逃避をする事ではない。実現可能な未来に向かって歩く事だ。……半年前、体育祭の日、君は最初の型を破った。今こそ、最後の型を破る時だ」

 

 杳は虚ろな瞳を義爛へ向けた。彼は怒りも悲しみもしなかった。歯の欠片が混じった血痰を吐き、何もかもを諦めたように笑って、作業台に固定された小指を見下ろす。

 

「いいさ。気にするな。ただし力を入れて一気にやってくれよ。ギコギコは勘弁だ」

(そんなことしちゃダメ!)

 

 白い少女が憤然と叫ぶ一方で、黒い少女は杳の手にそっと自らの手を添えた。善い心と悪い心が戦っている。杳の額に大量の汗が噴き出て、流れ落ちていく。

 

(早く救けなきゃ)

(もう綺麗事を言える立場じゃないって分かってるでしょ)

 

 俄かに黒い少女の輪郭が、ぶわりと音を立てて膨れ上がる。擦りガラスのように透けた胴体に、牢に取り篭められた兄の姿が映っている。

 

(これから先ずっと、お兄ちゃんを盾に脅されるつもり?)

 

 許されないことだ。指を落とすだけなんて、嘘に決まってる。殺される。罪悪感を枷にして、敵としての道を歩ませるつもりなんだ。耐え難い現実から逃避するため、杳は思わず目をギュッと閉じた。

 

 牽制し合う白と黒の少女が混じり合い、灰色になる。

 

 その時、杳は、誰かのゼイゼイという苦しそうな呼吸音を聴いた。

 

 ──小さな少年の声だ。恐る恐る瞼を開けると、四ツ橋の体が少し透けていた。中に一人の少年がいる。彼は、人を象った鋳型(いがた)に押し込められていた。鋳型の内部に生えた棘がその身を貫き、彼の皮膚は血でぐっしょりと濡れている。

 

 しかし、彼はうめき声一つ上げなかった。ふと、生気のない淀んだ瞳が二つ、そろりと下方へ動いた。いつの間にか、杳の足元に()()が落ちていた。それは、拷問器具を収納するための一つだったが、彼女が体育祭の時に外したものとよく似ていた。刹那、彼の指先が──まるでそれを求めるように──ぴくりと動いた。杳はナイフを落とした。

 

「できません」

 

 その瞬間、誰かが杳の頬を張り飛ばした。あまりの勢いに、杳の体が捻じれる。その人物は宙に浮いた杳の体を掴み、激しく揺さぶった。黒い髪が杳の顔に巻き付く。──近属だ。

 

「言い間違えた、そうだな?怖気づいて怖くなったんだろう。落ち着け。さあ、やるんだ」

 

 近属は床に落ちたナイフを素早く拾い、杳の手に押し付けた。しかし、杳の決意は変わらなかった。まっすぐに彼を見上げ、首を横に振る。

 

「間違っています」

 

 刹那、杳の視界は漆黒に塗り潰された。四ツ橋の攻撃が一閃したのだ。通形達に極限まで鍛え抜かれた瞬発力と反射神経が作動し、杳はとっさに地に深く伏せた。巨大に膨れ上がった黒い腕が大気を切り裂きながら、杳の頭上数センチ上の空を凪ぐ。

 

 ──空気が変わった。ひりつくような緊迫感が、周囲に満ちている。杳の背中をじっとりと冷たい汗が伝った。それは、夢から覚めた事を彼女が自覚するのに充分なものだった。

 

「ヘマしたな、お嬢ちゃん」

 

 義爛が脂汗を垂らし、軽口を叩いた。四ツ橋は笑う事で応える。

 

「過ちを一度は許した。二度目はない。……残念だよ。君とは分かり合えると思っていた」

 

 杳の目の前で、四ツ橋の瞳が父性を帯びたものから、家畜を見るような冷酷な目へ切り替わる。そのあまりの残酷さに、杳はとっさに呼吸を忘れ、苦痛にあえいだ。

 

 たった数日間ではあるが、杳は四ツ橋に情を抱き、また彼も抱いてくれているものだと信じていた。だが、それは杳の勘違いだった。四ツ橋は、感情や欲望任せの敵連合とは違う。彼を動かしているのは()()だ。悲願を果たすためならば、仲間すら殺せる。

 

 ──この人には勝てない。本能がそう悟った瞬間、杳は義爛を守るため、駆け出した。

 

 基本的に、人間の脳は一つの事しかできないとされている。マルチタスクをしているのは()()()()()()()()だけで、実際は脳を逐一切り替えているだけなのだ。能力が高い者ほど、その切り替えが早いとされている。

 

 ”義爛を助け出す”・”逃走経路を考える”、この二つのタスクを杳が遂行するのと、四ツ橋の追撃、どちらが勝つか。結果は明白だった。

 

 漆黒の衝撃波が間近に迫る。突発的な危機に遭遇した瞬間、人は周囲がスローモーションに見える時がある。極度な緊張状態に入るため、時間精度が高まるのだ。──だめだ。間に合わない。せめて自分が盾になろうと、攻撃から守るため義爛をギュッと抱きしめた、その時──

 

 

 

 

 同時刻、直下の食堂にて。いつもの特等席で、窃野は食事を摂っていた。相席者はいない。ふと、着古したシャツのポケットが小さく震えた。窃野の口の動きが止まる。次いで、彼は不敵な笑みを浮かべ、ビー玉を指で打ち上げた。

 

 周囲にいる人々は、彼の行動に疑問を抱かない。彼がビー玉遊びをしているのは、いつもの事だからだ。天井辺りまでビー玉が舞い上がると、彼はそれを指で撃ち抜く真似をした。

 

「BOON!」

 

 次の瞬間、杳達のいるフロアの床が凄まじい音を立てて()()()()。大量の土煙と衝撃波が、辺り一帯を蹂躙する。

 

 無数の瓦礫が杳達の体をハチの巣に変える寸前、巨大な黒い手が土煙を突き破り、杳達を掴んだ。そのまま勢いよくシェイクされ、杳と義爛は硬質的な何かに後頭部をしこたまぶつける事となる。何時の間にか、ガラスでできた玉のようなものに、二人は閉じ込められていた。

 

「おっと悪いね」

 

 その声は()()のものだった。──なぜ、彼がここに?状況が理解できず、杳の頭に巨大なクエスチョンマークが浮上する。だが、とにかく彼は自分達を助けようとしてくれているらしい。指の隙間から視認できるものに、変化はない。つまり、窃野が巨大化したのではなく、自分達が小さくなったのだ。杳が理解できたのは、その事実くらいだった。

 

 局地的な嵐が晴れる前に、窃野は地を蹴って直下、つまり食堂へ降りた。そして半身を捩じって仰向けになり、ビー玉を四ツ橋達のいる上階にある穴に弾く。

 

 すると、突如として大量の瓦礫が出現し、穴を乱雑に塞いだ。次いで、窃野は後ろ手に閃光弾(スタングレネード)を放る。杳はとっさに目を閉じた。周囲は足音や食器の割れる音、誰かの悲鳴や怒号が飛び交っている。

 

 杳が薄っすら目を開けるのと、食堂の床に突如として穴が出現したのは、ほとんど同時だった。窃野は難なくその穴を通過し、床が天井へ切り変わった瞬間、再び玉を出し、大量の瓦礫でそれを塞いだ。そして閃光弾を放る。延々と建物を落ちていく中、小さなガラス玉の中から、杳は窃野を見た。遮光処理をされたゴーグルの奥の瞳が、爛々と輝いている。

 

 そうして比較的人の手が及ばない領域である下水道の奥深くまで、彼らは落ちていった。

 

 

 

 

 同時刻、四ツ橋の自室にて。嵐が完全に過ぎ去った後、四ツ橋は落ち着き払った仕草で、少し乱れた髪を直した。周囲は凄惨な有様だった。美しく磨き上げられた白壁は見る影もなく汚れてひび割れ、ガラスや枠ごと吹き飛んだ大窓から風が吹いて、粉砕された調度品を遠慮がちに揺らした。

 

 床の中央部にできた瓦礫の山を睨みつけ、近属が嚙み締めた唇の端で、低くうなる。

 

「モールが裏切りました」

「困ったな」

 

 芝居がかった仕草で片眉を下げ、四ツ橋は顎をさすった。その顔が急に陰ったのと、瓦礫だらけの床に大きな翼の影が差したのは、同時だった。──ホークスだ。

 

「ホークス。まさかの展開だ」

 

 まるで見飽きたコメディを観ているかのように、四ツ橋はつまらなそうに笑んだ。しかし、ホークスはそれに迎合しなかった。大きな緋色の両翼が窓枠いっぱいに広がり、太陽を覆い隠している。その薄暗闇の中心で、猛禽の瞳が二つ、鋭く冷徹な光を放っていた。

 

 普段のホークスを知る者が見れば驚くほど、彼は怒りの表情をあらわにしていた。それは決して、芝居でできるものではない。

 

 ──実のところ、四ツ橋はホークスに対して()()()()()()を抱いていた。理由は単純明快、彼が現行のヒーローだからだ。しかし、そのしこりはこの瞬間、四ツ橋の中で跡形もなく消え去った。完全なる信頼を得たホークスは、音もなく四ツ橋の前に舞い降りてひざまづき、許しを請う。

 

「俺に行かせてください」

「許可しよう」

 

 飛び去っていくホークスを見送り、四ツ橋は再び、顎を撫でた。──どこへ逃げたとしても、彼らは袋の鼠だ。この街には至る所に監視カメラやセンサーが設置されている。逃げ場はない。予定に変わりはない。彼女が後継の座から滑り落ち、新たな贄になっただけ。そう、それだけだ。

 

 風に吹かれて、くたびれた紙袋が四ツ橋の足元に絡みつく。彼は、静かにそれを踏みつぶした。

 

 

 

 

 同時刻、とある山間部にて。敵連合は瓦礫の上に座り込み、各々休憩を取っていた。揃って満身創痍の一行の視線は、異様に開けた丘の上に鎮座する──()()に集中している。彼こそが、オール・フォー・ワンの最も信頼する直属の配下の一人、グランドマキアだった。

 

 筋骨隆々の巨体に、岩石のように刺々しい顎部と背面、鬣のような雄々しい茶髪を持つ屈強な巨人。魔王が後継者に与えた、生きた試練。彼は要塞のごとき耐久力に加え、鋭い五感、圧倒的なパワー、卓越した戦闘センスを併せ持つ。まさに”歩く災害”と称されるに相応しい存在だった。グランドマキアは一か月もの間、山の約三分の一をプリンのように穿り返しながら、強者揃いの敵連合と戦闘を繰り広げ、やっと睡眠状態に入ったばかりだった。

 

 弔はマグネから渡された携行食に手を出す事なく、ギラギラとした目つきで、休眠中の巨人を睨み上げる。

 

「お」

「ちょっとぉ」

 

 突然、トゥワイスの臀部から大音量の屁が放たれた。仲良くスマートフォンを覗き込んでいたマグネとトガが、すかさず抗議の声を上げる。しかし、それは放屁ではなく着信音だった。

 

「どんな趣味してんだ」

 

 スピナーのツッコミを華麗にスルーし、トゥワイスはスマートフォンを臀部のポケットから取り出し、歓声を上げた。──()()からだ。彼はいそいそと通話ボタンをタップし、耳に押し当てて、何かを喚いた後、沈黙した。そしておもむろに立ち上がり、スマートフォンを弔に押し付ける。

 

 弔は訝しげな視線を送りながら、それを受け取った。数秒後、スピーカーから、知らない男の声が穏やかに放たれる。

 

「死柄木弔。君の北極星(ポラリス)を預かっている」




めっちゃお久しぶりです。更新が遅くなってしまって、本当に申し訳ありませんでした。
これからまたマイペースに更新していこうと思います。
いつも読んでいただいて、本当に本当にありがとうございます。


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