『自転車泥棒』 (バスコ)
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『自転車泥棒』

※本作は『チェンソーマン』の二次創作です。
 日常話で、戦闘シーンや流血描写はありません。


.1

 

「いちばん安いのはいくらですか」

 

――一万円程度からお求めいただけます――

 

「安くて頑丈なやつはありますか」

 

――…………フレームの素材にもよりますが、高耐久で軽いものになりますとお値段が――

 

「頑丈で安いなら重くても平気です」

 

――それでしたら、こちらはいかがでしょうか。お求めやすい値段で提供させていただいております――

 

「それにしてください。タイヤも頑丈なやつで、タイヤ本体のスペアと交換用の道具とパンクの修理キットもまとめてつけてください」

 

――かしこまりました。ご用意させていただきます――

 

「…………ひとつ確認したいことがあるんですが」

 

――なんでしょうか――

 

「この自転車、補助輪は付けられますか」

 

.2

 

 ビルの間に挟まれた路地から見上げる、灰色の枠に切り取られた空はひどく青かった。

 だが、ビルの上を一羽のカラスがグルグルと旋回し、時おりしゃがれた鳴き声を上げている。

 若い男女は揃ってビルの壁に背を預け、カラスを眺めて、ぼんやりと煙草を喫んでいた。

 二人はカラスの色と同じ、喪服めいた黒いスーツをまとっていた。傍から見ればサボっているサラリーマンに見えなくもない。

 だが、男は背に剣を帯び、女の片眼は眼帯で覆われている。

 世間一般から見れば異様な風体は、公安のデビルハンターである証だ。

 市民から敬遠されども愛されない公務員は、こうやって路地の片隅でネズミのように潜んで、やっと人心地がつける。

 

「えー? それで本当に買っちゃったの」

「うるさいんですよ、あいつら」

 

 剣を帯びた男——早川アキが溜息と共に漏らした煙が、青い空に漂う。

 ドン、とアキの肩に軽い衝撃。眼帯の女——姫野が肩をぶつけてきていた。

 

「アキくんってば下の子に甘いんだから~」

 

 唇を悪戯げな猫の形に歪め、見開いた左眼でアキの顔を覗きこんでいる。

 先輩の無体なふるまいにアキはよろけた。煙草を足元に落として、踏み消した。

 

「甘やかすつもりはないです。買い出しのときの足がそろそろほしかったんで……あいつらも乗れるなら、あいつらに買い物へ行かせられるし」

「んん? 前も同じこと言ってなかった?」

「言いましたっけ」

「言ってたァ~。そのときはまだアキくん一人暮らしで……確か原付でも買うとか」

 

 ピシリと音を立てかねんばかりに、アキの表情が強張った。

 

「俺はあいつらに火を噴く道具を扱わせる気はないんです」

 

 ――――話は一週間ほど前に遡る。

 四課で『永遠の悪魔』と対峙した後、病院に運ばれたデンジは診察を受けた。身体に問題はなかったが、極度の疲労からしばらく休ませた方がいい、という診断を受けた。

 アキたちはタクシーに乗って帰宅した。

 助手席にはアキ、後部座席にはデンジとパワーの二人。

 渋滞しがちな時間帯なので、アキはバックミラー越しにデンジの顔を眺めた。

 デンジはアキが管理している『何か』だ。

 退魔特異課の上司であるマキマが連れてきた少年であり——『チェンソーの悪魔』に変身する、という話だった。

 すべてが終わったあと、姫野はアキに尋ねてきた。

 

「デンジくんっていったい何なの?」

 

 アキは答えられなかった。アキも今回初めて、『チェンソーの悪魔』の姿を見た。

『血の悪魔』の『魔人』であるパワーはまだ理解が出来る存在だった。

 悪魔らしく頭に角が生え常識がなく暴力的で攻撃的——角はないが性格だけならデンジも似たようなものだ。しかし、この少年はパワー以上に理解を絶する『モノ』だった。

 デンジは後部座席でうつらうつらとし、パワーに寄りかかろうとしては、押しのけられている。

 タクシーはやっと渋滞から抜け出し、アキのマンションに着いた。

(パワーが手伝わなかったので)アキは苦労してデンジを部屋に運び、ベッドに放り込んだ。全身疲労でカチコチに身体を硬くしたデンジはろくに動けず、ベッドに寝っ転がった。

 

「ミイラになったみてえだ……」

 

 虚ろな眼と乾いた唇でぼそりと呟くさまは、ミイラより道路に転がっている猫の死体に似ていた。

 

「そのまま寝てろ」

 

 アキはデンジを寝かせ、パワーを部屋から引っ張り出し、ニャーコとパワーにエサをやった。パワーとニャーコがデンジの部屋に行こうとするので、パワーは羽交い絞めにして止めた。

 翌日、デンジは死んだミイラから生きたミイラになっていた。

 這うように動き、リビングに放り捨てられたように横になって、ぼんやりと朝のニュースを観ていた。用意した朝食も寝たまま食べた。

 アキはサボっているパワー(当人曰く「ワシも疲れておる!」)にデンジを任せて、出勤した。昼食は作っておいたが、帰宅するとパワーが一人で全部食べて、デンジはキャットフードを齧ろうとしていたので、夕食はデンジの分だけ唐揚げを大盛りにした。

 

「やっぱりよォ、肉を食うと元気になるぜ」

 

 大量の唐揚げを頬張るデンジは大分生気を取り戻していた。肌の血色もよく、動きも油を注したブリキ人形程度には滑らかだ。

 

「マキマさんがあと一日休めと言ってたぞ」

 

「えー! まだ休んでいいのかよ……マキマさんやさしいよなあ」

 

 でれえと顔がデンジの顔がとろける。パワーはその隙を見計らってデンジの唐揚げを盗ったので、パワーの分の唐揚げを一つ取り上げて、デンジの皿に放った。

 

「それはワシの唐揚げじゃ!」

「おまえは書類仕事に向いてないからな。俺と姫野先輩とふたりでやっておく。先輩にお礼を言っておけよ」

「おー、おー、言っとくぜ。感謝するってなァ~。早川先輩にも感謝なァ」

 

 デンジは感謝の言葉と共に、アキに向けて手を重ねた。

 

 ————アキの箸が、止まった。

 

 

「感謝してるぜ。今日の唐揚げも超ウメーしよ。いつもありがとうだぜ、先輩」    

 

 拝んでくるデンジを横目に、丁寧な手つきで箸と茶碗を置くと、顔をじっと見た。

 

「…………おまえ、なにか企んでるな」

「ンなことねーよ!」

 

 間髪入れず否定するデンジ。パワーが叫んだ。

 

「デンジはバイクがほしいんじゃ!」

 

 叫びながらデンジの皿を引き寄せようとするのをアキはブロックした。

 

「今日のデンジは一日テレビを見ておった。バイクレースの中継をこの阿呆は眼を輝かせて見ておったわ! 見終わったあともブツブツ言っていたのをワシは見た! コイツはマンガでもバイクに乗っているキャラが好きなんじゃ!」

「パワー、テメー! バラしてんじゃねーよ! バイクがあったら仕事行くのにも便利だとか巡回とか買い出しに乗ってくのにも使えるとか説得する方法考えてたのによォー」

「バイクなど要らん! あんな騒々しい乗り物はうるさいだけで邪魔じゃ! 一人しか乗れんしな!」

「テメーも『ワシはバイクの免許を持っておる!』とか言ってたじゃねーか! 誰が優勝するか二人で予想して、おまえだけはずしたらムクれやがって!」

「ワシははずしておらん! ワシが先に予想したのをデンジがとったんじゃあ!」

 

 ぎゃあぎゃあと騒ぎだす二人をよそに、アキは茶碗と箸を再び手に取った。

 白米を口に運ぶ——その前に、静かに二人に告げた。

 

「俺たちはこれからも電車通勤だ」

 

 不満で唇を尖らせるデンジ。万歳の格好で喜ぶパワー。ここで話は終わった——はずだった。

 

 翌日、アキは残業で仕事で帰宅が遅れた。

 姫野の宅飲みの誘いを断って、帰宅したアキが目撃したのは……もうもうと煙を噴き出す自室の窓だった。

 

「だってよォ~~~ッ、先輩が帰ってこねえし、パワーが腹減ったってうるせえしよォ~」

「そうじゃ、ワシらのメシを用意しておかないウヌが悪い」

「………………」

 

 アキはニャーコをケージに入れて、換気扇を回し、ドアとすべての窓を全開にし、換気を行った。

 リビングで正座させた二人はぶつくさ言い続けていたが、無視した。

 キッチンは惨劇の現場だった。

 残っている袋から察するに、ホットケーキを焼こうとしたらしい。

 白い粉と牛乳が床に飛び散り、黄色みを帯びた白い液体がコンロから調理台、キッチンシンクにまで飛沫がベッタリとこびりつき、調理器具もベタベタに汚染されていた。

 アキは自分の肩に、象がそっと前肢を置いてきたような重圧を覚えた。

 出火元は焦げついたフライパンだった。炭化したホットケーキが貼りついているのを、フライ返しでこそげとり、水に浸けて磨いてみたが、ダメージは見るからに大きい。

 それでも一抹の希望を抱き、そっと指先で磨いたフライパンの底に触れた。

 だが、いつものなめらかな感触ではなく、焦げついてザラついた感触が返ってきた。

 

「……テフロンが、死んだ……」

 

 アキの背に象がのしかかった。背骨がたわみ、膝が震えた。

 何もしたくなかった。

 安くないフライパンだった。空炊きをしないように気をつけ、油を引くのを怠らず、傷をつけないように柔らかいタワシとスポンジを使うことを心がけていた代物だった。

 明日も仕事だ。しかし、これからキッチンの片づけをしなくてはならないのも、アキの疲労感を倍にした。

 

「パワーが悪いんだぜ。俺はそのまま飲めって言ったのに焼こうっつったのはパワーだ!」

「焼いたのはデンジじゃあ! ワシは手を出しておらん!」

 

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を一喝する気力すら失せていた。

 とりあえず、先にキッチンを片付けようとボウルや菜箸をキッチンシンクに放り込む。

 重ねられた皿を手に取る。これは汚れていなかった。

 ホットケーキのために用意しておいた皿のようだ。

 シンプルな白い皿だ。幸いなことにヒビや傷などもない。仕事は多少は減ったことに安堵し、重ねたまま持ち上げる……と、アキはあることに気づいた。

 皿は三枚あった。

 首だけを突き出し、正座しているデンジとパワー、そして食卓のテーブルの方を見た。

 そこにはフォークとナイフが三人分揃えてあった。

 

「……………………はぁ」

 

 溜息を一つ漏らすと、アキはキッチンを片付けた。

 その晩の夕食は、買い出しで弁当になった。

 翌日は非番だったので、二人を出勤させてから自転車屋に自転車を買いに行った。

 即日購入ではなくとも、時間を置いてから配達してくれるというので、アキは三人揃って非番の日に配達日を指定した。

 フレームに合うものを取り寄せると時間がかかるというので、補助輪はつけなかった。

 

 

.3

 

 自転車が届いた日は気持ちがいい快晴で、空気まで新鮮だった。

 午前中に届いた自転車を見せると、二人は不満に唇を尖らせた。

 

「バイクじゃねえのかよ」

「食い物ではないのか……」

 

 途中で腹が減ったと騒がれたくなかったので、昼食を済ませてから、アキは二人を連れて出かけた。

 目当ては近所の公園だ。広いスペースがあり、自転車の練習にはもってこいの場所だ。ちらほらと親子連れがいるのが目についたので、アキはパワーにパーカのフードを立てて角を隠すように命じた。

 まず、自転車の各部位の説明から始めた。

 

「こっちが前輪のブレーキ。こっちが後輪のブレーキだ」

「ワシはそれぐらい知っておる! ワシは自転車に乗れるからな!」

「おー? じゃあパワー、テメーは自転車の免許を持っているとかいうのかよ」

「……持っておるわ! 当り前じゃ!」

「おまえら、俺の話を聞け」

 

 一通り説明すると、まずはデンジから乗ることになった。

 

「へっへー! これぐらいチョロいもんよ」

 

 デンジは鼻歌交じりで警戒にペダルをこいだ。

 こぐ力がペダルからギア、ギアからチェーン、チェーンからタイヤと伝わり、スポークの銀色も鮮やかに輝かせてタイヤが回転している――

 

「自転車に、乗ってはいるな」

「少しも進んでおらんがの」

 

 自転車のスタンドは立てたままだ。浮いた後輪はデンジがいくらこいでも空回りするだけで、少しも進んでいない。

 当人はまるで風でも感じているような爽やかなツラで、ひどく楽しそうだ。

 

「アホ丸出しじゃな」

「おい、いいかげんちゃんと乗れ」

「乗ってるだろ! 次、パワーの番な」

 

 デンジが自転車から降りようとする——のを、アキは腕を掴んで止めた。

 

「なんだよ先輩」

「おまえ、本当に自転車に乗れないのか」

 

 アキからすれば予想済みのことだった。だが、デンジは眼を逸らした。

 

「そんなことねーよ……自転車ぐらい乗れるって……」

「ワシも自転車に乗れるぞ! その自転車はワシのもんじゃ!」

「うるせーぞ、パワー!」

「いや、本当にパワーのものになるかもな」

「…………へ?」

 

 呆けたデンジにアキは冷たく言った。

 

「自転車は自転車に乗れるやつのものだからな。俺も乗れるから、この自転車は俺のものでもある。おまえはどうだ」

「のッ、の乗ッ、乗れッ、乗れるにッ、決まってるだろぅ……」

 

 後半は蚊の鳴くような声だった。

 アキは黙ってスタンドを倒した。デンジに跨らせたままサドルの調整をしていく。爪先立ちにさせ、バランスが取れる高さに固定した。

 

「この位置がお前が乗る時の高さだ。俺たちの自転車だからな。サドルの高さは乗る時に自分の高さにその都度合わせろ」

「…………お、おう……なんだ? 何してんだ」

 

 アキが後ろに回り込み、自転車の荷台のフレームを両手でつかんでいた。

 

「この自転車には補助輪がない。転ばれても困るからな」

「だから俺は自転車乗れるっての!」

「ワシも自転車に乗れるぞ!」

「黙ってろパワ子! 先輩の助けもいらねー!」

「…………」

 

 アキは荷台から手を離した。

 デンジは遠くを見据えると、意を決してペダルをこぎ出した。

 先ほどまで快調だったスピードが嘘のようにゆっくりと……いや、ぎこちなく、ペダルを踏みこんで回す。その力を伝えたチェーンが後部車輪を回すが、その回転も途切れがちでぎこちない。

 ハンドルはぎこちなく回されるペダルに対して敏捷に動くが、それは倒れそうなのを危うく左右に切った前輪の角度で支えているからに過ぎない。

 まるで生まれたての小鹿だった。いや、産まれたての小鹿が自転車に乗った方がまだマシな様子だった。

 デンジ自身は必至な形相だった。苦虫を口いっぱいに詰め込んだみたいに歯を食いしばり、額に汗の玉を浮かべて、必死に倒れないようにバランスをとっている。

 右に左にと不安定に振られるハンドルは、危うく大きく車体を傾けそうになるのを慌てて切り返してバランスを保っていた。自転車自体も緩やかだが、蛇行軌道で進んではいる。

 

「人間は醜いのう。ナメクジが這っておるようじゃ」

「おい、さっきみたいにもっと強くこげ。スピードを出した方が安定する」

 

 デンジは二人の言葉が耳に入っていない。

 相も変わらず這う速度で危うくバランスを取りながら進んでいる。

 いっそ一種の曲芸にすら見えるが——ついに破局が訪れた。

 車体が大きく傾ぎ、真横に思い切り倒れる。

 

「おげッ⁈」

 

 倒れ込んだデンジは受け身を取り損ねて、その場で悶絶した。

 

「ギャハハハハハハハハハハハハハァァァ――――ッ」

 

 パワーが悪魔じみた哄笑を上げた。白い喉をさらして仰け反り、周囲に響く高笑いを上げている。あまりに大きな笑い声に、周囲の視線が集まった。

 デンジは自転車ごと転がったまま、身を丸めて動かない。

 

「…………補助輪がないから気をつけろと言っただろ」

 

 アキはデンジに近づいた。手を差し伸べたが、払いのけられる。

 

「うるせえッ! 俺は自転車に乗れるからなッ」

「ふん、これでこの自転車はワシのものじゃ」

「黙れパワー! この自転車は俺んだ!」

 

 パワーはデンジが起きるより早く、自転車を引き起こした。そのまま跨ろうとした……時だった。

 

「…………なんじゃ、ワシら見られとるぞ」

「…………ちげーぞ。見られてるのは、パワー。おまえじゃねーか?」

 

 周囲の視線が集まっていた。鋭い眼がパワーに……いや、パワーの頭に向けられている。

 先ほど仰け反った時だろう。パワーが被っていたフードがずれて、角が見えていた。

 親子連れは親が子を庇う格好で、その場から離れようとしている。中には血相を変えて走り出した人間もいる。走っていく方向には――電話ボックスがあった。

 アキは即断した。

 

「通報される前に帰るぞ」

「ま、待てよ! 俺は自転車に乗れるからなッ」

「いいから早く来い」

 

 アキたち三人は慌てて、自転車を乗らずに担ぎ公園を後にした――——

 

.4

 

「だからよォ~、俺は自転車に乗れるんだって…………」

 

 帰宅してからのデンジは、ずっと膝を抱えて丸まっていた。

 ニャーコは同胞意識が芽生えたのか、デンジの横で一緒に丸まり、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。

 

「ニャーコ、デンジの真似をするでない。ウヌも自転車に乗れなくなる」

「猫は自転車に乗らねえよ!」

「おまえら、夕食だぞ」

 

 アキは昼に作っておいたカレーに買ってきたメンチカツを添えて、簡単なサラダと一緒に出した。

 ノロノロとデンジが起き上がり、パワーと一緒に食卓につく。

 デンジはモソモソとカレーを口に運ぶ。いつもならパワーに盗られないように真っ先にメンチカツを頬張るのに、今日は手をつけもしない。

 パワーは食べる前に野菜を除けるところから始めるので、集中して黙っていた。

 静かな食卓だった。食器とスプーンが触れ合う音すらしない。いつもうるさい二人が静かだと、寂しいぐらいだった。

 アキも黙って食べていたが……ついに口を開いた。

 

「おまえ、前はいつ自転車に乗ったんだ」

「あー? …………親父が生きてる時だよ……」

 

 デンジはぽつぽつと話しだした。

 

「俺の家、借金あったからよォ~、親父は車なんか持てなくて、カネ作る時は自転車に乗って走り回ってたんだよ……自転車ならガソリン代は要らねーからな……俺も親父と一緒に乗る練習したんだけど……借金のカタに自転車も持ってかれちまった。親父はカネ作るのに苦労するようになって、もっと借金した」

「なんじゃあ、それは。人間はやはり愚かじゃの」

 

 野菜を取り除け終えたパワーが、迷うことなくデンジのメンチカツに手を伸ばした。

 

「むぐ。むぐむぐん……そんなやつら殺してやればいいんじゃ」

「もう殺した…………借金はパアになったけどよ……あの自転車どこに行っちまったんだろうな……」

「………………さっさと食え」

 

 アキは自分の分のメンチカツをデンジのカレー皿に移すと、残ったカレーを平らげた。

 

 

 深夜。周囲はすっかり静まりかえっていた。

 マンションや一軒家の窓に灯っていた明かりも消え、みな眠りの中に沈んでいる。

 アキはマンションの軒先に腰掛け、煙草に火を点けた。

 深々と吸い込むと、赤々とした火が夜目に鮮やかに輝く。

 

「おい、早川の先輩。きたぜ。パワーは寝てる」

 

 デンジが自転車を押しながら現れた。

 アキは立ち上がると、煙草を消した。二人揃って車道に出る。

 住宅地なので、深夜に車の往来は途絶えていた。

 

「パワーがいるとうるさいからな。早く乗れ」

「…………ぉう……」

 

 デンジが憂き顔で自転車にまたがる。

 アキはその後ろに回ると、荷台をしっかりとつかんだ。

 

「やめろよ先輩。俺は自転車に乗れるんだって」

「ああ、おまえは自転車に乗れるんだろうな」

 

 あっさりと認められて、デンジは眼を瞬かせた。

 

「乗れるだろうが忘れたんだろう。ずっと乗ってないからな」

「……! そーそー! そうだぜ、わかってんじゃねえか先輩」

「だから、思い出すまで俺が後ろで支えてやる」

「おう! 頼むわ!」

 

 憂き顔からバカ面に戻ったデンジは進行方向を見据えた。

 車道はまっすぐでカーブなどはない。一直線にどこまでも進める。

 

「俺は押さない。支えるだけだ。だから、とにかくペダルを強くこげ」

 

 デンジはうなずくとペダルを踏む。

 自転車がゆっくりと進みはじめた。

 まだおっかなびっくりだが、アキが支えているので車体が大きく傾ぐことはない。

 後ろをチラチラ振り返ってくるので、アキは顎で前方を指した。

 

「前を見てろ。転ぶぞ」

「ちゃんと支えてんのか確かめただけだよッ」

 

 デンジは前を向いた。脚の動きがぎこちないが、支えがあるのに安心してから、先ほどより真っ直ぐ進めている。

 しかし、倒れるのに怯えてまだやたらとハンドルを切っている。

 

「ハンドルはやたら振るな。前輪をまっすぐにしろ。かえってバランスを崩す」

「わ、わかった」

 

 ハンドルを水平に保つようにすると、車体の安定度が増した。少しずつだが、デンジのペダルを踏みこむ力が増していく。

 少しずつだがスピードが増してきた。

 アキは早足から駆け足になって、突き進む自転車についていく。

 

「その調子だ。思い出してきたか」

「おう、思い出したぜ!」

 

 デンジが前傾姿勢をとった。ハンドルと視線はまっすぐに、さらに強くペダルを踏む。

 ペダルが滑らかに回転して、ギアとチェーンを駆動させ、後輪が力強く回転した。

 更に速度が増す――荷台を掴んで支えているアキの腕が、強く引っ張られている。

 

「いけるぜ、もっと飛ばす!」

 

 自転車が一気に加速した。

 引っ張られるアキの腕が、いっそ持っていかれそうになる。

 駆け足からついに走り出すようになるが、驀進する自転車についていくのがやっとだ。

 アキはパッと手を離した。弾かれたようにデンジが車道を駆け抜ける。

 

「うおおおおお! 俺は風だァァ――ッ」

 

 デンジは咆哮し、立ちこぎの格好になった。

 もう振り返りもしない。支えがなくなったことにも気づいていない。

 どこまでも前進する自転車は、息を切らせたアキを置いて、闇の中を突っ切っていった。

 

「………………はァ」

 

 息を切らせたアキは顎から滴る汗を拭い、二本目の煙草に火を点けた。

 

 

.5

 

 ――――自転車が、盗まれている。

 

 アキは必死で走っていた。

 せっかく買った自転車が乗っていかれてしまう。

 盗んでいこうとしている後ろ姿は、自転車に比べてやけに小さかった。

 あと少しで追いつけそうなのに、ギリギリで追いつかない。

 それでもアキは夢中で走った。

 自転車はつかず離れずの距離を保ち、カメを追うアキレスのように追いつけない。

 

「待ってくれ――それはうちの自転車なんだ」

 

 盗んだ相手は振り返りもしない。だが、その後ろ姿には見覚えがある気がした。

 

 ただ、ちりん、ちりんとベルの音だけが鳴っている。

 

「デンジも乗れるようになったんだ――必要なんだ――」

 

 アキは呼びかけながら、自転車に向けて手を伸ばす。

 そのとき、自分の手がやけに小さいことに気づいた。

 パッパとフィルムのコマが入れ替わるように、盗まれた自転車のデザインが変わる。

 子供の頃に乗っていた自転車だ。お気に入りで、乗りたいと言われても許さなかった――

 自転車を盗んだ相手が振り返る。見覚えのある顔。幼い顔。自分に似た顔。

 

 ちりん、ちりん、とベルの音が響く。

 

「にいちゃん」

 

 弟が笑いかけた。アキは弟に向けて手を伸ばし――

 

「タイヨウ……ッ!」

 

 伸ばした手が虚空を掴む。見えたのはリビングの天井だった。

 眼を瞬かせるが、瞼の裏にも弟の姿は残っていなかった。

 すでに外は明るい。朝を迎えていた。背中が痛むのは、床に直接寝転がっていたからだ。リビングのテーブルには空けられたビール缶が一本だけ立っている。

 

「おー、早川の先輩。どうしたんだ」

 

 デンジが覗きこんでくる。

 昨日のことを思い返す――自転車に乗れるようになってはしゃぐデンジを連れて帰り、そのあとビールを一本だけ空けたあと、横になってそのまま寝入ったらしい。

 

「デカい声出してたみてーだけど」

「なんでもない」

「そーか?」

 

 アキは身を起こすと、さっさとキッチンに入った

 冷凍室に保存しておいた食パンを厚めにスライスすると、オーブントースターに入れる。

 トーストが焼ける前にコンロでヤカンを火にかけ、フライパンを温める。

 油を落として馴染ませたフライパンに、卵を三つ落とし、火をわずかに強めた。白身の縁が泡だって茶色っぽくなるまで焼くと火を落とし、蓋を乗せて余熱だけで黄身を温める。

 ヤカンで沸かしたお湯は、インスタントコーヒーを入れたマグに注いだ。

 コーヒーを口に運ぶ――そこで、デンジが見ているのに気づいた。

 

「何か用か」

「…………やー、なんかよお…………アンタが悪い夢でも見たのかと思ってよ。俺もたまに見るからな。夢ってわかっててもさびしい感じになるからよ」

「大した夢じゃない」

「…………ふーん」

 

 アキはそこで黙るはずだった。

 

「弟に自転車を盗まれた。そんな夢だ」

「なんだ。思ったより悪い夢じゃねーか」

「…………」

 

 飲みかけのコーヒーを、アキはシンクに捨てた。

 

「悪いっていうなら、俺が悪い兄貴って意味の夢だ」

「そーなの?」

「そうだ」

 

 デンジはまだ納得いっていない様子だった。

 

「でもよォ……アンタ、悪い兄貴かもしれねーけど、いい先輩だぜ」

「……………………」

「バイクじゃねーけど、自転車買ってくれたしな。……そうか今日は仕事に自転車でいけんばいいんじゃねえか。見回りのときも楽にいけるぜ」

 

 にやにやと嬉しげに笑うデンジを、アキはただ見ていた。

 

 ちりん、ちりんと自転車のベルの音――――

 

 アキは思わずマグカップを落としそうになった。

 デンジは素早く、ベランダの方に飛び出すと、階下を見下ろし、叫んだ。

 

「ぱ、パワー! テメエ!」

 

 ちりん、ちりんとベルの音――そしてパワーの声。

 

「ふははは、これはもうワシの自転車じゃあ」

 

 アキもベランダに出ると、パワーが自転車に乗っている。ご丁寧に籠にはみっちりとニャーコが収まり、丸まっている。

 パワーは優雅に自転車を乗りこなし、ぐるりと一周した。

 

「あ、あいつ……マジで自転車に乗れたのか」

「デンジ、今日からはワシはこれで見回りをするぞ。ウヌは走ってついてくるんじゃな」

「ふッざけんなァァ――ッ」

「ギャハハハハハハハハハ! 悔しいならついてこい」

 

 パワーが自転車に乗ってマンションの敷地の外に出ていく。デンジはベランダから飛び降りようとしたのをアキに掴んで制止されたので、部屋を横切って、玄関から外に出ていった。アキがベランダから見下ろし続けていると、デンジがパワーが去っていった方向へと突っ走っていく――自転車なんかいらなそうな速さだった。

 

「………………」

 

 アキはしばらくベランダから外の様子を眺めていたが、煙草がないので部屋に取りに戻った。戻りがけに今日の日程を確認する。

 いつもの仕事に加えて、予定が一つ追加された。

 

「自転車の鍵を買わないとな」

 

 煙草を火を点けないまま銜えて、早川アキはニヤリと笑った。



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