釣りバカ提督は今日も一人で。 (匿名)
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一章 釣りバカ提督は今日も一人で。
一投目 独りぼっちの堤防


 文章に重きを置いた作品を目指しています。

 文章の誤字脱字、分かりづらい言い回し、知識の勘違い等ありましたら、ざっくりと斬っていただけるとありがたいです。

 また物語中に出てくる設定に矛盾や疑問点、不十分な点がありましたらご指摘いただけると早急に改善いたします。

 何卒、よろしくお願いいたします。


 

 潮風が優しく頬を撫でていくのを感じながら、光の筋にも見えるライン*1をただ垂らすひととき。

 

 ……至福だ。至高だ。このために僕は生きてるんだ。

 

 桃色のサビキ仕掛け*2が深く青い海の中にぽつりぽつりと漂っている。ただじっと、揺さぶられながらもその役目を果たすために。

 

 鎮守府から徒歩十分ほどの立地にあるこの防波堤。一応海軍の敷地内であるため、一般人は入ることができない。例え、ただ釣りがしたいだけでも。

 

 しかし、幸運なことに僕は提督だ。提督は海軍の所属。つまりボクは海軍の一員。ここの敷地の所有者の一員なのだ。なんの理由がなくても出入りできる。

 

 もちろん、釣りだけが目的で提督になったわけじゃないが、せっかく楽しめる権利があるのだから。やらないのは損だ。

 

 ふと、海面に銀色がチラチラと舞い始めるのが見えた。それに目をとられていると竿先からちょんちょんと振動が伝わってくる。

 

 急かすように振動が早くなる。でもまだだ。まだ早い。

 

 焦る気持ちを抑えこんで、タイミングを見極める。

 

 鼓動が耳の奥をドンドン叩くが分かる。でもまだ上げるわけにはいかない。

 

 じっと、じーっと待ちながら、海中を想像するんだ。

 

 輝きをちらほらと見せる、銀色の葉が桃色の周りに集まり、それをすっと飲み込む。

 

 仲間が暴れているのもいとわず、自分の食欲を満たすため、また食いつく。

 

 そして、遂にはすべての針に銀色がまとわりつく。

 

 ……今だ!

 

 ゆっくりと竿を持ち上げながら、軽くリールを巻く。すると糸の先に付い銀色の魚が次々と姿を現した。

 

 いち、にー、さん……よし、6匹。全部の針についている。狙い通りだ。

 

 竿を真上に上げて仕掛けを取り込み、1匹ずつ手早くはずしクーラーに入れる。既にその中は一面銀世界だ。

 

 二時間程度でこれだけ釣れるとは。やはりここは穴場だ。まあ、誰も来ていない分、魚がたくさんいるだけだが。

 

 いっぱいになったクーラーを覗き込みながら、優越感に浸る。これもまた最高の時間だ。

 

 あまり誇れるようなことではないかもしれないが、ボクの特技は釣りだ。他のことはというと、まったくと言っていいほどダメダメで、それくらいしか特技と言えることがない。

 

 魚を手にとって並び替え、上手くやればもう少しだけ魚が入りそうなことを確認する。なんとか5匹くらいは入りそうだ。

 

 仕掛けのカゴ*3に餌を詰めようと、コマセ*4の入った箱に手を伸ばす。

 

「……提督。そろそろお帰りになった方がよろしいかと」

 

 手にオキアミを掴みかけたところで、背後から聞き覚えのある声がした。

 

 振り返るとそこには弓道着に身を包んだ女性が、眉一つ動かさず、凛とした表情で佇んでいた。

 

「加賀さん。すみません、わざわざ呼びに来てもらって」

 

 彼女は加賀さん。提督としての僕の秘書を務めてくれている。頼りない僕の代わりに作戦を考えたり、訓練メニューを作ったりしてくれている。正直、彼女の方が提督らしいと思う。

 

「いえ、お気になさらず。あまり遅いと鳳翔さんの迷惑にもなりますので来ただけです」

 

「そうだね。もう帰ることにするよ」

 

 彼女はポーカーフェイスというのだろうか。あまり感情をはっきり見せてくれない。ごくたまに言葉に突き刺さるまでの冷たい怒りを孕ませていたり、少しだけ頬を緩ませることはあったが、それも指で数える程度。僕が信用されていないのか。それとも元々そういう性格なのか。……前者の方の気がしないでもない。

 

「……それは、アジですか?」

 

 加賀さんが銀色で溢れたクーラーを見て、尋ねてきた。

 

「ええ、豆アジって言うんです。言ってしまえばアジの幼魚*5ですね。大体十センチ以下のものは豆アジで、それ以上の大きさで成魚*6ではないものを小アジと言うそうです」

 

「……そうですか。相変わらず"魚だけ"に関しては博識のようで」

 

 途中の一部分を強調する言い方に少し棘を感じた。でも、彼女の言うことは事実なのだから仕方がないといえばそこまでだ。

 

 何も言い返さず、さっさと道具を片付けてしまうことにした。

 

 慣れた手つきでしまっていくと、五分と掛からずに全てをタックルボックス*7にしまうことができた。

 

 最後に余ったオキアミをウミネコ*8と小魚にお裾分けして、海水で箱を軽く洗う。

 

 その間加賀さんはただ、黄昏色に染まった水平線を黙って見つめていた。

 

「片付けれましたので、行きましょう」

 

「分かりました」

 

 夕暮れ時の海辺で男女二人きり。普通ならロマンチックな雰囲気に思われるかもしれないが、港町で育った僕には当たり前の日常だ。何の会話もなく、気まずいような雰囲気を漂わせながら家路を急ぐ。

 

 ずしりと重みのあるクーラーが手を引いている。気を抜いた途端に地面と擦り付けてしまいそうだ。

 

「……今日の夜、これ揚げて食べようと思うんですけど、一緒にどうですか?」

 

 ちょっとした僕の提案に、加賀さんはこちらを一瞥して、首を横に振ることで応えた。彼女はとても幸せそうにご飯を食べる。てっきり食事が好きなのかと思ったが、そうではないのかもしれない。あるいは、僕と"一緒に"食べたくないと思っているのかもしれない。

 

 ただ、断られたというのは事実で、それはもうどうしようも無い。

 

 その後はまた波音と二人分の足音だけが聞こえる道を、早歩きで進んだ。

 

 鎮守府につくと、加賀さんは用事があると言ってすぐに空母寮の方へ戻っていった。僕は一人で鎮守府の奥にある自室に向かう。

 

 誰ともすれ違うことなく、すんなりと部屋に着いた。軋む扉に鞭を打って開け、靴を脱ぐ。この部屋は鎮守府の中だというのに、まるでマンションの一室のような間取りをしている。実にその半分以上のスペースは釣り道具が占めているのだが。

 

 入ってすぐに、僕は違和感を感じた。

 

 部屋が何か違う。

 

 朝出るときに見た風景と今見ている部屋とで間違い探しをすると、すぐにその違和感の正体は分かった。棚に置いてあったリール*9がいくつか無くなっているのだ。

 

 でも、僕は至って冷静に、道具だけ適当に置いて部屋から一度出る。

 

 そして真っ直ぐに艦娘の寮の後ろにあるゴミ捨て場に向かった。いくつかの袋を持ち上げて、中を確かめる。リールはすぐに見つかった。生ゴミの袋の中に、なぜか一緒にそれは入っていた。

 

「……鍵、作った方がいいのかなぁ」

 

 生臭いリールを抱えて、僕はポツリと呟いた。僕の部屋からリールを盗み出し、生ゴミと一緒に捨てる。そんなことをする犯人は僕には分からない。ただ、毎日のように似たようなことが起きている。

 

 昨日はロッド*10が一本折られていたし、一昨日は作っておいた仕掛けがいくつかハサミで切られていた。

 

 それだけの頻度で被害に遭っているのに、何故犯人を突き止めようとしないか。疑問に思うかもしれない。でも、それにはちゃんと理由がある。

 

「……うわ、生ゴミの中から取り出したやつ、大事そうに抱えてるよ」

 

「ちょっと汚いかなぁ……」

 

「ちょっとどころじゃないでしょ。やっぱアイツ、不潔なんじゃない?」

 

 どこからともなく、囁く声が聞こえてきた。

 

 一人や二人の声ではない。何人も、何十人も囁いている。

 

 犯人を突き止めようとしない理由。それは、容疑者が多すぎて突き止めようとしても不可能だからだ。

 

 着任してしばらく経ってから、ずっとこんな調子だ。

 

 どこの学校とか、職場とかでもあるイジメというやつだと思う。何をしたわけでもないのに、僕はその被害に遭っていた。

 

 いや、そう言うと語弊がある。正確には、何もしていないから、何もできないダメ提督だからこそ、僕はイジメられている。彼女達の命は、提督である僕の手に預けられていると言うのに、肝心のその提督が何もできない能無しだったら、誰だって反抗したくなるだろう。悪いのは僕だ。何もできない、僕だけが悪い。

 

 冷ややかな目線を背中に浴びながら、僕は部屋に戻り、片隅にある小さな流台でリールを洗い、今日使った竿を真水で濡らしたタオルで拭いた*11

 

 そのまま、部屋で釣りの情報誌を見て、時間を見計らい食堂に行きご飯を食べる。

 

 人が少ない時間でも、そうでなくても、僕の周りにはいつも空席が目立っている。

 

 こんな時に、誰かの楽しそうな顔でも見れたら気分が晴れるかもしれないが、僕の前では誰も笑ってくれない。……いや、一人だけ笑ってくれる人がいた。

 

「ご馳走様でした。鳳翔さん」

 

「お粗末様でした。今日のコロッケ、いかがでしたか? 少し衣が薄かったような気もしたんですが……」

 

「僕にはあれくらいがちょうどよかったです。もしかしたら、もっとサクサクを楽しみたいっていう娘もいるかもしれませんが、味はどっちにしても最高でした」

 

 僕のあまり気の利かせられないような返答にも関わらず、鳳翔さんは笑顔を見せてそうですか、と頷いてくれた。

 

 彼女の笑顔に、僕は何回も救われている。

 

 部屋に戻った僕は、夕食の終了時間まで道具の点検と、ほんの少しだけ書類の点検もした。正直内容はちんぷんかんぷんで、加賀さんに言われた通りにやっているだけだが、上から指摘されたことは一度もない。それだけ彼女が優秀だということだ。

 

 つまらない書類整理の時間は意外と早く過ぎてくれた。気づいた時には、時計は消灯時間を指していた。

 

 重たいクーラーボックスを持って、暗い廊下を渡り、もう一度食堂に向かう。

 

 食堂につくと、料理場から明かりが漏れているのが見えた。きっと鳳翔さんが明日の仕込みをしているのだろう。

 

「すみません! 鳳翔さん。今日も使わせてもらっていいですか?」

 

 声を少しだけ張って言うと、奥からはーい構いませんよー、と返事が来た。

 

 棚から揚げ物用の鍋*12やボウルなどを取り出す。

 

 クーラーから豆アジを1匹ずつ取り出し、エラに手を入れて少し尻尾の方に下げるようにして引っ張ると、簡単に内臓が取れた。すんなり取るにはちょっとしたコツがいるが、慣れれば簡単にできる。銀世界を構成していた豆アジ達も、いつの間にかバットに並べられていた。

 

 その上にまぶすように小麦粉を振りかける。あらかたできたら、1匹1匹、丁寧にまぶしつけて、雪を被らせたような格好にしてやる。

 

 サラダ油*13を鍋に入れ、それが熱くなるまで待った後、豆アジを投入。軽く色付くまで揚げて、一度取り出し、それを繰り返す。

 

 全部揚げ終わったら、再度2、3分油につける。こうすることで、骨が柔らかくなると同時に、サクサク感が増すのだ。

 

「うわぁ、美味しそうですねー」

 

 横から覗き込むようにして、誰かが豆アジに目をつけた。じゅるりとよだれを垂らす音が聞こえる。

 

「赤城さん、油飛びますから危ないですよ」

 

「あ、ごめんなさい。ご注意ありがとうございます」

 

「食い意地あんまり張ってると、いつか痛い目に遭いますよ」

 

「てへへ、美味しそうな匂いがしたのでつい」

 

 一航戦、赤城。加賀さんと並んで、彼女もこの鎮守府のリーダー的存在だ。そして、僕と仲がいい数少ない艦娘の一人でもある。

 

 みんなの前では比較的頼れる素敵なお姉さん、と言った印象の彼女だが、食べ物が関わってくると途端に子供のように目を輝かせ、この世の幸せが全て彼女にやってきたのではないかと思わせるような笑顔で食事を取る姿はすごいギャップだ。

 

 僕はたくさん釣ってくる割にあまり食べることはしないので、基本的に彼女に食べてもらっている。

 

「あれ、提督。半分しか皿に盛ってませんが、残りはどうするんですか?」

 

「ああ、残りは南蛮漬けにしますよ。朝のうちに南蛮酢を作って、野菜もつけておい……」

 

「提督」

 

 言葉を遮って、赤城さんがこちらに体を向けてきた。いつにもまして、その表情は真剣だ。一体、どうしたのだろうか。

 

「赤城、さん……?」

 

 赤城さんはなぜか一度大きく深呼吸して、さらりと一言。

 

「結婚しましょう」

 

 そしてキメ顔。

 

 きっと心の中では決まったー! と叫んでいるに違いない。彼女は変なところで真剣な演技をするのが上手いから、こちらとしても反応に困る。

 

「はいはい、そうですね」

 

「ちょっと流さないでくださいよ! もう唐揚げだけでも幸せなのに、南蛮漬けとか言われたら……もうKO確定です。落ちちゃいました」

 

「南蛮酢の中にですか?」

 

「そうそう。程よい酸味の中に、食欲が掻き立てられるちょっとの甘さを隠した南蛮酢の奥に……って何言わせるんですか。恋に落ちたんです」

 

「結局、どちらも酸っぱく終わりそうですね」

 

 軽口を叩くと、赤城さんは顔を真っ赤にして僕の腕を叩いた。何だか地元の友達と話しているような感覚だ。 

 

「提督。南蛮漬けのほう、冷蔵庫に入れておきますね」

 

 いつの間にか鳳翔さんももう一方にやってきていた。どうやら仕込みはもう終わったらしい。

 

「お願いします」

 

「あー、そっか。漬けないといけないから、すぐに食べれないんですね。残念……」

 

「明日の朝、お出ししますから」

 

 鳳翔さんが赤城さんをなだめている間に、盛り付け終わった豆アジの唐揚げを机に運ぶ。素早い動作で赤城さんは先回りして席についていた。目にも止まらない早技、とでも言おうか。鳳翔さんもやれやれと言い出そうにしている。

 

「提督、いいですか? まだですか?」

 

「ちょっと待ってください。今、塩胡椒とレモン持っていきますから」

 

「ガーリックパウダーもありますよ」

 

 待てを指示された犬のような赤城さんは、箸をフライングで持って今か今かと待ち構えている。その集中力を戦闘に生かしたらどうなのか、とほとんど参加していない僕には言うことができない。

 

「……よし、それじゃあ召し上がれ」

 

「いただきます!」

 

 赤城さんは早速頭から豆アジにかぶりつく。そして盆と正月が一度に来たような、そんな顔をした。

 

「んーふー」

 

 もはや言葉も忘れたようだ。

 

「提督、ビールをお出ししましょうか?」

 

「あ、いただきます」

 

 用意周到な鳳翔さんは、この料理を見越して何本か缶ビールを持ってきているようだ。この鎮守府には酒場は今のところないので、個人の所有物でしかアルコールを楽しむことはできない。一応酒保に売ってはいるのだが、銘柄はそこまで多くないので、外出届を出してわざわざ買いに行かないといけなかったりもする。

 

「……ふぅ、いいですね。こういうおつまみがあるのも」

 

「また釣ってきますから、楽しみにしててください」

 

 鳳翔さんはゆっくりと缶を煽る。嗜む程度に飲んでいるらしいが、多分かなり強い。実際日本酒を一升飲んでも、全く言動がぶれなかったらしい。末恐ろしい人だ。

 

「提督、釣りをするのもよろしいですが……艦隊指揮の方も疎かにしては……」

 

 鳳翔さんが心配そうにこちらに目を向けながらそう言う。きっとイジメのことも気にかけているのだろう。

 

「そう、ですね。本当ならもっとそっちの方もやらないといけないんですが……僕にはどうもセンスがなくて」

 

「あの時のこと、やっぱり引きずっちゃってるんですか?」

 

 一息ついた赤城さんも、心配そうな声色を出した。

 

 あの時のこと。

 

 それは僕が提督に就いて間もない頃。初めての実戦に戸惑った僕は判断ミスをして、加賀さんを大破させてしまったのだ。

 

 彼女自身、初めてのことですから仕方がないですと許してくれていたが、そのあとも僕は多くの失敗を犯してしまった。だから加賀さんに作戦は任せて、書類仕事だけやっている。そしてイジメから逃げるために、唯一心の安らぐ釣りをしている。

 

 改めて考えてみると、僕は最低な人間だ。

 

「提督……? 大丈夫ですか?」

 

 赤城さんが僕の顔を覗き込んできた。その頬には揚げ物のカスがついている。

 

「フフッ、大丈夫です。何でもないですから。ほっぺたにカスがついてますよ」

 

「えっ……ホントだ」

 

「慌てて食べるからですよ、赤城さん」

 

 昼間はイジメられるけど、ほんの少しだけの幸せが感じられるこの時間があれば、僕は十分満ち足りていた。

 

「……提督。加賀さんのことなんですけど」

 

「どうかしたんですか?」

 

「いえ、たいしたことではないんですが……」

 

 赤城さんは1匹丸々口の中に放り込んで、それをビールで流し込んでから続ける。

 

「最近悩んでることが多いんです。何に悩んでるかは言ってくれないんですけど……多分、提督のことですよ」

 

「……そう、ですか」

 

 ビールの味が喉に染みる。お酒が飲めるようになってから二年ほどしか経っていないからか、まだこの味には少し対抗がある。ほろ苦く、そして体に入り込んでいくこの感覚に慣れていない。

 

 少しずつでも、成長したいな。

 

 心の中でそう言ったつもりだったが、どうやら洩れ出してしまっていたらしく、赤城さんが僕の背中を思いっきり叩いた。

 

「そうですよ! 提督! 少しずつでも、頑張ってみましょう」

 

「私たちも、出来る限りお支えしますから……」

 

 鳳翔さんも、優しい笑みでそう言ってくれた。

 

「……分かりました。僕、頑張ります。いつか、みんなから認められるような提督に、なってみせます」

 

 ……僕は今まで自分に嘘をついてきたと思う。

 

 ろくに努力もせず、少しやっただけでもう無理だと諦め、全てを投げ出していた。釣りは楽しかったから続いているだけだ。でも、このままじゃいけない。

 

 変わらなければ、いけない。

 

 みんなを見返すくらいの気持ちで、やってみせるさ。

 

 僕の小さな胸に秘めた、ちょっとだけの勇気と決意に、僕らは飲みかけのビールで乾杯した。

 

 僕のファイト*14が、こうして幕を開けた。

 

*1
釣り糸のことだ。

*2
サビキ釣りという釣法に使われる仕掛け。一本の糸に枝分かれするように針がついていて、その針にはオキアミ(小型のエビのような見た目をしたプランクトン)を模したピンク色の擬似餌がついている。

*3
サビキ釣りという釣法は、小さなカゴの中に餌を詰めてその匂いとこぼれた破片で魚を集めて、擬似餌に食いつかせるというものだ。カゴには基本的にオキアミを詰める。

*4
カゴに詰める餌のこと。撒き餌、寄せ餌とも呼ぶ。

*5
魚の子供のこと。稚魚との違いは卵からかえってどれくらい経ったか。

*6
繁殖力を得た魚のこと。大人になった魚、と言う方が分かりやすいかもしれない。

*7
タックルとは釣り道具全般のこと。それをしまう箱のことをタックルボックスという。釣りの種類によって、そのボックスにも色々と違いがあるので自分の使う用途に合わせたものを買う必要がある。

*8
カモメの仲間。「にゃーおにゃーお」と鳴くのでその名がついたらしいが、正直「あーあーあー」とか「ホォホォホォ……」とか、猫の鳴き声とはあまり似ていない気がする。

*9
釣り糸を巻き上げるための道具。多くの釣りで使われているが、その種類は様々。

*10
釣竿のこと。別に釣竿と呼んでもいいが、ロッドって言ったほうがカッコいいし、頭がよく見えるから僕はそう呼んでいる。

*11
海水に浸かったり、潮風を浴びた道具をそのまま放置しておくと、錆びたり傷んだりして劣化してしまう。それを防ぐために、真水で洗ったり、タオルで拭いたりする手入れが釣行後には必要となってくる。

*12
個人でも料理が楽しめるように、小さいものも用意されている。

*13
ちなみにサラダ油だけでなく、ごま油も混ぜると風味が豊かになるのでオススメ。

*14
もちろん「戦う」と言う意味だが、釣り用語では魚が食いついてからの駆け引きのことを指す。大きな魚を釣り上げるには体力と根気と運が必要になるが、それを乗り越えた先にある達成感は素晴らしいものだと僕は思っている。



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二投目 バックラッシュ

 この話は釣り成分少なめです。そのかわり、三話目は半分くらい釣りです。趣味全開です。


「……はぁ」

 

 ようやく机の上に置かれた書類を元あった場所から処理して、全て反対側に動かすことができた。いつもよりペースを上げていたからか、利き手の握力はもうぼったくりのUFOキャッチャー程度しかない。

 

「提督、今日は随分とお早いですね」

 

 加賀さんが時計を見ながら言う。シンプルな壁掛け時計の短針がもうすぐ真上に着きそうな時刻だ。

 

 いつもは大体夕方の少し前までかかることを考えると、加賀さんの言う通り、かなり早いことになる。

 

「ちょっと午後から用事があるんです」

 

「……釣りですか? 最近、機場湾(はたばわん)*1でアナゴが釣れるらしいですね」

 

「いえ、釣りではなくて……でもアナゴですか。行ってみてもいいかもしれないなぁ」

 

 アナゴだったら、確か去年作ったぶっこみ釣り*2の仕掛けが残っていたはずだ。奥の方にしまい込んでいたおかげか、あれは無事に保存できている。

 

「というか、なんでそんなこと知ってるですか? てっきり釣りには興味がないかと……」

 

「興味はありませんよ。ただ新聞に載っていただけですから」

 

 加賀さんは瞬きもせず、淡々と答えた。

 

 確かにここの酒保で売られている地方紙には、近辺の釣果情報が載っている。僕の場合はネットの速報を利用したり、釣り専門雑誌を読むのであまり活用はしていない。

 

「では、私は鍛錬がありますので失礼します」

 

「あ、お疲れ様です。今日もありがとうござい……」

 

 僕のお礼を最後まで聞くことなく、加賀さんは扉を出て行ってしまった。やはり彼女にも嫌われているのだろうか。

 

 ただこんな対応にはもう慣れてしまっている。何処かに、これはあたりまえのことと囁く自分がいた。諦めの笑みを顔にたたえ、僕は深く息を吐いた。

 

 しばらくそのまま椅子にもたれた後、ゆっくり立ち上がって執務室から自室に向かう。昼食を取るためだ。

 

 僕が昼食を食堂で取ることは少ない。昼食はどの時間帯であっても、誰かに遭遇してしまうからだ。鳳翔さんのご飯はいつも美味しい。だからこそ、僕がのそのそ行って、みんなのご飯を不味くしてしまうことは避けたい。

 

 自室の冷蔵庫にはいつも冷凍食品が詰められている。適当にそれらから幾つか見繕い、電子レンジにかけた。暖かいご飯が食べれるだけ幸せだ。

 

 流石に冷凍食品だけでは栄養が偏るので、コンビニで売っているサラダセットも用意してある。今日はツナフレークの入ったサラダを食べる予定になっていた。

 

「……ん?」

 

 ふと、取り出したサラダに違和感を覚えた。

 

 どことなく包装しているパックの蓋が歪んでいる。じっくりと目の高さに掲げて見てみると、やはり蓋とパックの間にいくつか隙間が空いているようだ。

 

「うわっ、なんだこれ」

 

 顔に近づけた時に生臭い空気が顔に張り付いてきた。思わず手を離しそうになったが、床にこの臭いのついたものが散らばる方が酷いのでなんとか堪える。鼻が腐りそうな臭いだが、これを放っていくわけにもいかない。流し台の三角コーナーの上で、慎重に蓋を開けた。

 

 中にはツナとレタスとトマトと……なんだこれは。

 

 パックの底に黒の斑点があるピンク色の塊が入っている。周りにはそれから滲み出たのか、同じ色の汁が溜まっていた。

 

「……オキアミか」

 

 底にある物体はオキアミの塊だ。おそらく、冷凍庫の隅に保存しておいたものだろう。ただどう考えても既に腐っている。黒みがあるのがその証拠だ。冷凍している限りはここまで腐敗することはないし、まずそれがサラダに入っているなんてこともありえない。なぜこんなことになっているのか。どう考えても答えは明白だった。

 

 パックの中身を全て捨て、生暖かい冷凍食品はラップをかけてもう一度冷蔵庫に突っ込む。幸いにも他のサラダは無事で、臭いも残っていなかった。ただ、もう食欲はどこにもない。

 

 フラフラとした足取りで自室を出た。

 

 もう慣れていると勝手に思っていたが、どうやら間違いだったらしい。少なからず、僕はショックを受けている。竿はまだ修理がきく*3し、仕掛けは作り直せばまだ使えた。だが食事に手を出されるのは初めてだ。

 

 僕にとってどちらも生活の一部。その両方が蝕まれ始めたとなれば、もう末期に近い。じきに毒でも入れられてしまうんじゃないのか。そうなれば、もう釣りはできなくなるし、みんなに認められる提督になるなんて夢も潰える。

 

 焦りと不安と恐怖が入り混じり、ぐちゃぐちゃになった胸を引きずって僕は執務室に向かった。まだ少し先だが、赤城さんと一緒に基本戦術の勉強をする予定がある。それまでになんとか気持ちを切り替えたかった。執務室には基本誰も来ないし、あそこにはコーヒーもある。

 

「あれぇ、提督じゃーん。どうしたの、そんな顔して」

 

 やっとの思いでたどり着いた執務室の扉に手をかけたところで、後ろから呼び止められた。何度も聞いた口調に、うなじに冷や汗が流れるのが分かった。

 

「風邪でも引いたの? ……あ、もしかして、あのサラダ食べた?」

 

 言葉と裏腹に、声はいつもと同じように明るく心配の色は感じられない。

 

「……鈴谷さん、なんのことかな?」

 

「とぼけないでよ、分かってるってー。鈴谷だって悪いことしようとやったんじゃないよ」

 

 振り返ると、そこには緑がかった目をした高校生くらいの女性がいた。

 

 彼女は肩までかかる綺麗な髪をくるくると細い指で巻きながら、しゃがむようにして僕の顔を上目遣いで見ている。

 

「ただ、やっぱり釣りするなら魚の気持ちも分かる方がいいと思って、オキアミ? 入れといたの」

 

 イタズラっぽく鈴谷さんが笑う。僕は何も言えない。ネコに追い詰められたネズミのように、ただ震えることしかできない。

 

 多くの艦娘に僕はいじめられていたが、彼女は特に攻撃的な"イタズラ"をよくしてくる艦だった。例えば、暴力が絡むようなことだ。

 

「どうする? なんだったら今度はミミズでも食べてみる?」

 

 生ぬるい吐息が首筋を襲う。味わうように、彼女がゆっくりと、さらに近づいてきた。後ろに下がるが、すぐに扉にぶつかる。

 

「あっ、今から持ってきてあげようか? それとも取りに行く? 一緒に裏の花壇行こうよ」

 

「……」

 

「なんか言ったらどうなの? ……あれ、もしかして泣いてる?」

 

 彼女の指摘の通り、僕の目には涙が浮かんでいる。怖かった。何もできないでいることが、ただ怖かった。

 

「泣くほど嬉しいんだぁ。じゃあ他の子も連れて……」

 

「あの、鈴谷さん!」

 

 横からかかった声に反応して、鈴谷さんは顔を離して振り向いた。まだ安心できる状況ではないが、ようやく空気が吸えた。

 

「あれ、潮ちゃん。どしたの?」

 

 目だけをなんとか動かして、鈴谷さんの視線を追う。すると廊下の角から頭をひょっこり出している少女の姿が見えた。

 

「いえ、あの……こ、これから海上での連携訓練が……」

 

「あ、やばい。忘れてた……ありがと、潮ちゃん」

 

「い、いえ……し、失礼しました」

 

 潮は顔以外を一度も見せることなく、そのままどこかへ去っていってしまった。

 

「あーあ、仕方ないけど行かないとなぁ。じゃ、提督また今度食べに行こうか」

 

「……」

 

「もう、やっぱなんも言わないじゃん。つまんなーい」

 

 鈴谷さんは僕がうんともすんとも言わないところに飽きたらしく、そのまま背中を向けてきた。どうやら助かったらしい。ただ、傷痕なしでは済むわけもなかった。

 

「そーいえば、あのオキアミ手伝ってくれたの潮ちゃんだからー。じゃ、今度こそバイバーイ」

 

 ……とんでもない爆弾を置いていかれてしまった。

 

 鈴谷さんが見えなくなってから、溶けるように僕はその場に座り込んだ。上手く足に力が入らない。荒れる呼吸で酸素を体中に送り込んで、無理やり働かせようとするが、動いてくれる気配はない。

 

 座った拍子に帽子がずり落ちてきて、ゆっくりと視界を暗闇で包んでいく。

 

 何も見えなくなったからか、先ほどの恐怖が頭に形を残しているのがはっきりと分かった。それ以上に、言い残された言葉が心に深く突き刺さっていた。

 

 

 

 

 ……今まで潮ちゃんは良くも悪くも、僕に接触してくることはなかった。

 

「あ、あの……私、人見知りで……ご、ごめんなさい!」

 

 初めて彼女に会った時のことを思い出す。小さな肩を震わせて、口で空気を食べていた。一目見ただけでも、大人しい子なんだな、と分かるような、そんな艦娘だった。

 

 今思えば、怖がられていたことを別にして、頼りない僕の指示を一番誠実に聞いてくれていたのは彼女だったし、イジメが始まったばかりの頃は彼女は僕のことを気にかける素振りを見せていた。

 

 だから僕は彼女を信用しているということはなかったが、少なくとも警戒しないといけない相手とは一切思っていなかった。ただ、そんな彼女ですらイジメに加担しているとは……。

 

 飼い犬までは行かなくても、今まで大人しかった通学路にいたネコに引っ掻かれたような気持ちだ。ただ、傷は自分が思うより深い。

 

 

 

 

 

 落胆に呑まれて、僕はしばらく動けなかった。寄り掛かった扉の冷たさが、妙に肌に刺さった。

 

 頑張ろうと決めた矢先にこれだ。気合を入れた最初のキャスト*4で、バックラッシュ*5を起こした気分だ。

 

「提督、大丈夫ですか?」

 

 また聞き覚えのある声がした。ただ、恐怖は感じない。

 

 帽子をゆっくりと上げると、心配そうな顔をした赤城さんがこちらを覗き込んでいた。

 

「何か、あったんですか?」

 

「いえ……ちょっとくらっとしちゃって」

 

 赤城さんに無駄な心配をかけたくはない。彼女はただでさえ第一艦隊で戦闘に出ることも多く、それに訓練の指導も務めている。負担は大きい筈だ。彼女の肩には、僕への指導も既に含まれているだろう。これ以上、何かを課すわけにも行かない。

 

 軽くズボンを払いながら立ち上がる。無事なことを伝えるために笑顔を取り繕った。しかし、彼女は微笑み返してくれない。表情を変えずに、僕を見ている。

 

「……提督、また、何かされたんですね?」

 

「な、何がですか?」

 

「笑顔が曇ってます。嘘は吐かないでください」

 

 彼女はいつも穏やかというか、どこか抜けている雰囲気を醸し出しているのに、今はそれが嘘のように鋭くなっている。

 

「……その怖がり方は、鈴谷さんですね。何をされたんですか?」

 

「いや、だから何も……」

 

「とぼけないでください!」

 

 当然赤城さんが大きな声で怒鳴るように言った。そして僕の胸ぐらを掴み、引き寄せる。先ほどの鈴谷さんと同じくらいの距離に彼女の顔が近づいた。

 

 彼女の澄んだ瞳が、僕の視線を捉えて離さない。

 

「私は、あなたを信用しています。

 

 初めてあなたに会った時、私はいい目をした人だと思いました。そしてその見立て通り、あなたはたとえ下手でも、どんなに失敗しても、やれるだけのことをやろうと前を向ける人でした。だから私はあなたがどこへ行っても、そこへついていくと決めました。あなたならこの戦争を終わらせてくれるかもしれない、そう思ったからです。

 

 加賀さんが大破してしまったときも、あなたは真っ先に迎えにきてくれました。他の提督は、わざわざそんなことしてくれません。私も長くこの国に勤めてきましたが、あんなことまでしてくれる人は初めてでした。

 

 ……みんなはまだ、あなたの可能性に気づいていません。それどころか、あなたのことを酷く扱っています。私が彼女たちに注意をしようとしても、あなたは毎回止めました。悪いのは自分だからと、弱々しい笑みを浮かべて。そして、いつかあなたの目の色は変わってしまいました。

 

 とてももどかしいんです! 本当のあなたを知って欲しいのに、あなた自身がそれを拒んでいるから。みんなにあなたのことを伝えたくても、それを止めるから。

 

 だから、あなたが昨日、自分から『変わりたい』と言ってくれた時、どんなに嬉しかったことか……。

 

 変わると決めたのはあなたです。私は全力でそれを応援します。変わるのは戦闘での頭の良さだけではありません。それ以外も変えないといけないと私は思っています。

 

 ……その一歩として、本当のことを言ってください。自分のマイナスな気持ちを隠す、あなたの悪い癖です。ここでの経験のせいで、艦娘を信じられなくなっているかもしれません。でも、私くらいには頼ってください。じゃないと、あなたはいつか孤独に死んでいきます。そう言い切れる自信があります。

 

 だから、お願いだから、私のことも信用してください。そうしないと、あなたがどこかへ消えていってしまいそうなんです……」

 

 叱るような彼女の口調はいつしか掠れ始め、目には大粒の涙を溜めていた。僕の目に浮かんでいたそれよりも、一回りも二回りも大きい。

 

 胸ぐらを掴む手は、もう立てかけられているだけだ。

 

 知らぬ間に、僕は傷つけられるばかりではなく、彼女のことを傷つけていたのだ。悔やんでも、悔やみきれない。

 

 僕はそっと、赤城さんの両手を掴んだ。

 

「ごめんなさい、赤城さん。そして、ありがとうございます。あなたの言葉で、ようやく本当に目が覚めた気がします。昨日も言いましたが、僕、頑張ります。絶対に成長してみせます。

 

 今感じているこの気持ちを、僕は口が達者ではないので上手く言えませんが、きっと嬉しいんだと思います。だって、人生で一度会えるかどうかの美人さんに、こんなにも信用してもらえているんですから」

 

「なんですか提督、ふざけないでくださいよ……」

 

 赤城さんが顔をしかめて横を向いた。頬が少し赤くなっている。

 

「ふざけてません。本当に思ってます。ただ、イジメのことは僕の問題です。だから僕自身で解決してみせます。それができたとき、初めて成長できたと言えると思うんです」

 

「でも……」

 

「僕は大丈夫です。ただ、もし本当に辛くなったら、その時は思いっきり頼らせてもらいますから、覚悟していてくださいね。僕も赤城さんのことを信頼しています」

 

「……そう、ですか」

 

 赤城さんは口角を少し上げながらも、やれやれと言いたそうな渋い顔をした。

 

「分かりました。提督を信頼しているので、今の言葉も信じます」

 

「ありがとうございます」

 

 手を握り合ったまま、じっと見つめてあっていたが、途中でどこかおかしくて、思わず吹き出してしまった。赤城さんも同じことを思ったのか、肩を縦に震わせている。

 

「……それじゃあ、そろそろ勉強、始めましょうか」

 

 涙を拭いて、赤城さんが手を差し出してきた。

 

 僕は頷き、その手を取る。

 

「目の色、戻りましたね」

 

 部屋に入る瞬間、赤城さんは溢すようにそう言った。自分ではイマイチ分からないが、そうだったら嬉しい。

 

 気合を込めて、頬を強く叩いた。

 

*1
鎮守府から北西に位置する湾。現在は深海棲艦の侵攻の影響で、船舶の使用は基本的に湾内に限定されており、牡蠣など一部の養殖漁業しか行われていない。例年なら沖でヒラマサがよく揚る時期なのだが……。(なお、架空の地名です)

*2
竿に重りと針だけを使ったシンプルな仕掛けをセットして行う釣り。足下や少し離れたところに投げ込み、魚が食いつくまで待つことを「ぶっこみ」と言うため、このような名称となっている。簡単に行えるので初心者にもおすすめしやすいが、“待ち"の釣りなので、アグレッシブな性格の方には向かないこともある。

*3
人間では直せない折られ方をされていても、妖精さんに頼むと簡単に直してくれた。

*4
釣り用語で、仕掛けを海や川に投げ込む動作のこと。キャスティングともいう。

*5
一部のリール(釣竿につけて糸を巻く装置)で起こる、糸が出過ぎることによってそれが絡まってしまうこと。場合によっては直すのが面倒であり、やる気を随分と削がれる人も多々いる。



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三投目 墨の中の灯台

 多分後半満足いっていない感じなので、しっかりと書き直すかと思います。

 にしても釣り行きたいですねー。筏釣りをメインとしているのですが、そろそろダンゴを作り始めてもいい頃合いかなぁ……。


 

 鎮守府の外の暗闇の中。僕は静かに歩いていた。

 

 赤城さんとの戦術の勉強は五時間以上続き、なんとかキリのいいところまで進めることができた。ただ、まだ十分というには程遠い。

 

 鳳翔さんの気遣いのおかけで、これから食事は執務室まで運んでもらうことになった。彼女の仕事を増やすのは申し訳なかったが、ありがたいことだ。

 

 僕は成長することを決意した。逃げる事はやめにしたのだ。ただ、釣りをやめる気は全くない。一つ勘違いしないで欲しいのは、過去の釣りと今の釣りでは意味が違う。過去の釣りはただ楽しみに逃げるためにしていた。魚と海と釣りとそれに関わる人たちに、申し訳がたたない理由だった。でも、今からは違う。今からするのは息抜きとしての、純粋な趣味としての釣りだ。言ってしまえば、前に進むための補給時間だ。むしろしなければ進めない。

 

 ……と、適当な理由を取ってつけてはいるが、本当は僕が釣りバカだからだ。死んでも釣りはやめられない。ある種の中毒症状みたいなものだ。

 

 鎮守府からある程度歩くと、道路沿いの街灯はなくなり、真の闇が広がるようになる。ヘッドライト*1のスイッチをつけて、僕は道を進んだ。目的地はいつもの防波堤だ。

 

 今日するのはタコの手釣り*2。仕掛けもシンプルで今回は釣り糸というより紐のようなものを使う*3ことにしている。ただし、先の方はしっかりとハリス*4をつけている。流石に紐だけでは釣りづらいからだ。

 

 そしてこの仕掛けで一番大事なのは、最も先端についた"タコジグ"*5だ。バッグの中を見ると、ひらひらとした蛍光色の足がライトに反射しているのが分かった。

 

 やはり、釣りのことを考えていると気分が良くなる。僕にとって釣りは睡眠と同じくらいなら大事だ。

 

 足下を照らしながら歩いていくと、あっという間に防波堤までついた。今はほとんど役立っていない灯台が、黙々とその職務をまっとうしているところだった。

 

 その光が黒い海の方向へ向いた瞬間、防波堤の先に何かの影が見えた。しかし、回転する光はすぐに動き、よく見えない。そしてもう一度光が回ってきたとき、今度ははっきりと姿を捉えることができた。

 

「……潮ちゃん?」

 

 一瞬の光に照らされた小さな背中は、確かに鎮守府で見たことがあった。

 

 なぜこんな時間に、こんなところにいるのだろうか。

 

 彼女に近づこうと一歩進んだところで、僕は足を止めた。

 

 鈴谷さんは潮ちゃんもイジメに加担していたと言っていた。もし、これもその類の何かだとしたら……。

 

 なんとなく嫌な予感がした。ただ、放っておくわけにもいかない。ここで釣りをしたいし、もし何か特別な理由でここにいるなら、提督としてそれを知るべきだろう。

 

 再び足を進め、彼女の数歩後ろまで近づく。足音とライトに気づいたのか、彼女はすぐに振り向いた。なぜかライトの光が、彼女の頬に反射する。

 

「ひゃあ! て、提督。な、なななんでここここんなところにいい……」

 

 短い悲鳴を上げて、彼女は壊れたレコードのような声を出し始めた。

 

「いや、僕は釣りを……って危ない!」

 

「えっ? きゃっ……」

 

 僕の姿に驚いたのか、潮ちゃんは後退りをしていた。その後ろには、海があるのにも関わらずだ。

 

 足を滑らせた彼女の体がだんだんと横を向いていく。僕は咄嗟に地面を蹴って、手を伸ばした。なんとかギリギリのところで左腕を掴むことができたが、彼女の重心はもう完全に地面にない。引き寄せながら、もう片方の手を回り込ませるようにして彼女の背中に入れ込む。

 

 ……一瞬、背中に強い衝撃が走り、息が止まった。気づくと手の届きそうなところに星が見えた。そして腕の中には柔らかい何かがある。

 

「……あ、あの。こ、これは……」

 

「えっ、あ、ごめん」

 

 思わずして抱きしめるような形で彼女を自分の上に寝かせていた。手を引き寄せるところで思い切り後ろに体重をかけたせいで、こうなってしまったようだ。ヘッドライトが彼女の白い肌と赤くなった頬を照らして……うん? 

 

 僕はふと潮ちゃんの頬が濡れていることに気づいた。……どうやら海水ではなさそうだ。

 

 彼女は僕が手を離すとすぐに立ち上がった。僕もそれを追って立ち上がる。

 

「えっと、潮ちゃんなんでこんなところに……」

 

 僕が彼女の方を向き直りそう聞くと、途端に彼女は腰を曲げた。

 

「ごめんなさい。すみません! 潮が悪いんです。許して欲しいなんて、とても……とても言えません……」

 

「ちょっと待って。どうしたの、急に。それになんでこんなところに……」

 

 彼女は俯いたまま、目を合わせてくれない。やはり、静かというか大人しい印象を受ける。こんな子が到底イジメに加担しているとは思えなかった。

 

 そのまま、灯台の光が三週するまで沈黙が続いた。そしてようやく、彼女は口を開く。

 

「昼間の、ことです」

 

 それだけ言って、彼女はまた沈黙を表した。

 

 昼間のこと……昼食のことだろうか。それ以外に心当たりはない。

 

「えっと、潮ちゃん。僕はとりあえず何も言わないから、もし良ければ詳しく話してくれるかな?」

 

 僕の提案に潮ちゃんは困惑した顔を浮かべた。目をあちこち泳がせて、焦っている様子も見て取れる。僕は何も言わずに、ただ彼女の判断を待った。

 

 また、灯台の光が数周して、彼女は覚悟をしたのか、一度頷いて僕の目を見た。その目は、赤く充血している。

 

「私、提督のご飯にあんなことするの手伝ってしまったんです。やっちゃダメだって、分かってたんです。でも……もしみんなのイジメの標的が自分に変わったら……そう思うと怖くて、やるしかなかったんです。悪いのは潮です。自分のことしか考えられずに、言われるままにしてしまった潮が悪いんです。

 

 今までだってそうです。提督が何をされているのか分かっていながら、何もせずただ傍観していました。ぶたれているところを見ても、誰かが提督の道具にイタズラしていても、それを見て見ぬふりをしました。

 

 やろうと思えば、自分を犠牲にしてでも少しはイジメを止められたはずなんです。それができなくても、声をかけることぐらいはできたはずなんです。でも、結局できなかった……。

 

 潮がしたことといったら、できないのに提督に手を差し伸べようと、ここで海を見ながら決意することくらいです。

 

 とても許してください、なんて言えません。もう解体してくれたって構いません。敵の的にしてくれてもいいです。提督が望むのなら何でも……」

 

 胸に置かれた拳を、彼女はギュッと握った。目も強く閉じている。頬には光を反射する粒が、また流れ始めていた。

 

 そっと、彼女の肩に手を置いた。一瞬小さく肩が跳ねて、それから怯えた様子で彼女は目を開く。僕は微笑んで、一番柔らかい声を生み出した。

 

「潮ちゃん。僕は怒ってないし、君のことを恨んでもいない。誰のことも、僕は恨まない。恨めない。もとを辿れば、全部が僕の因果応報だから」

 

「でも、私は……」

 

「いいんだ。誰だって、一人になるのは怖い。暗闇の中で、置き去りにされるほど、恐ろしいことはないから」

 

「……」

 

 潮ちゃんは焦っているような、そんな目を見せた。おそらく、なんでこの人は怒らないの? と疑問に思っているのだろう。

 

「だって、昼間、鈴谷さんに追い詰められていた僕を助けてくれたのは君だし、他にもきっと裏では色々してくれていたんだよね? それに、僕はみんなのことを、僕が悪いだけで本当はいい子達だと思っているから……」

 

「……てい、とく」

 

「僕は大丈夫。それより、君がそう言ってくれるだけで嬉しかったよ」

 

 その言葉が止めとなったのか、彼女は口をへの字に曲げて、そして崩れ落ちるようにその場にうずくまってしまった。ライトが照らした地面に、いくつか小さな水たまりができる。

 

「ありがとうございます。ごめんなさい。潮が、潮が……」

 

 彼女は嗚咽を交えながらも、感謝と謝罪の言葉を交互にひたすら繰り返した。僕は大丈だからと諭しながら、その背中をさする。

 

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった言葉を、彼女は必死に僕に伝えた。

 

 自分が弱かったこと。何もできなかったこと。本当は、なんとかしたかったこと。

 

 もしかしたら、こんなに簡単に許すのは綺麗事だと思われるかもしれない。ただ、たとえ綺麗事でもいい。彼女が自分の気持ちを正直に伝えてくれたことが、純粋に嬉しかった。

 

 彼女に寄り添うような形でしゃがみ込んだとき、持っていたバッグからキラリと何かが光を反射していることに気付いた。そういえば……とここに来た目的を思い出す。少し考えてから、泣き続ける彼女に一つ提案をした。

 

 突拍子もないが、正直それ以外にできることも少ない。僕なりの和解というか、友好の証というか、そんなつもりで。

 

「潮ちゃん。せっかくだし、よかったら一緒に、釣りしない?」

 

 

 

 

 

 

 

「…-えっと、これでいいんですか?」

 

「そうそう。そんな感じ」

 

 満点の星の下で僕らは並んで立ち、僕は彼女がタコ釣りをする様子を見守っていた。意外と彼女の筋はよく、僕の指示をすらすらと実行してみせた。

 

「海底につけて、二、三回コツコツ叩いて……」

 

「何も変わらなかったらそのままもう一回やって、それでもダメだったら、 イガイ*6のあたりまで上げて、少ししゃくって*7みてね」

 

「はい、分かりました」

 

 彼女は真剣な表情で手を動かしている。まだ頬は光を反射しているが、声から察するに、随分と落ち着いてきているようだ。

 

「……何も来ませんね」

 

「じゃあ横にずれて、もう一回」

 

 夜の海は波の音だけが響いていて、とても居心地が良い。釣り抜きであっても来ていいくらいだ。つい、星と水平線が交わるところを見ながらぼーっとしていると、潮ちゃんが隣で声を上げた。

 

「わ! 重たくなりました!」

 

「お、来たね。思い切り上げてアワセ*8て、それから引っ張り上げちゃおう」

 

 潮ちゃんは背伸びをしながら一度大きく腕を掲げて、そして仕掛けを引っ張った。白い手に紐の重みが食い込んでいるのが見える。

 

「うーん、意外と重たいですね……」

 

「頑張れ。もう少しだよ」

 

「ぐぬぬ……てい!」

 

 一気に引っ張り上げると、黒い海面から赤黒い影が飛んできた。水を滴らせて影は大きく宙を舞う。そして見事に潮ちゃんの頭にそれは着地した。

 

「きゃあ! と、取って、取ってください! お願いします」

 

 頭にへばりついたタコに慌てた彼女は、腕をぶんぶんと振りながらそう訴えた。目に、先ほどと意味は違うが涙を溜めている。

 

「ちょっと力入れて引っ張り過ぎだね……そら、こうやって」

 

 光沢をもった足*9をクネクネと黒い髪に絡ませるタコと、それに対抗しようとしている潮ちゃん。まるで宇宙人に乗っ取られそうになっているみたいだ。吹き出しそうになったが、怒られることは目に見えていたので鼻で息を逃してなんとか堪えた。

 

 さっとタコのエラに指を入れて持ち上げる。意外とずっしりと重みがあった。頭から足先まで三十センチほどの、堤防で釣れる平均的なサイズのタコだ。

 

 釣り上げた潮はヌメヌメした粘液が付いた髪を気にしながらも、タコをマジマジと見ていた。何か疑問に思っているのだろうか。首を傾げている。

 

「……墨、吐かないんですか?」

 

「ああ、意外とタコって墨吐かないんだよね*10アオリイカとかは凄いけど……」

 

 あまり生きたタコに触れる機会がない人には勘違いされがちだが、タコが釣り上げられた後、墨を吐くことは滅多にない*11。水をかけられることはあっても、汚れがつくことは少ないので、服装もそこまで気にしなくて済む。

 

「ちょっとグロテスクだけど、失礼して」

 

 タコの頭の後ろ側から指を入れ、それを一気にまくり上げた。タコの頭の皮はくるりと入れ替えって、白い中身が姿を現す。

 

「きゃっ! な、何してるんですか……」

 

「こうするとタコは動けなくなるんだよ。これで内臓や墨袋も取っておくと、処理も楽だし……」

 

「そ、そうなんですか……」

 

 頭が真っ白になって、元気のなくなったタコの内臓を折り畳みナイフで切り取って海に捨てた*12。それから小さめのクーラーに入れる。それは冷たい底に力なく、だらりと四肢……いや、八肢を投げ出していた。

 

「潮ちゃん、どうかな? 釣り、楽しい?」

 

「……そうですね。まだ始めたばっかりですけど、もっとやってみたいです!」

 

 潮ちゃんはそう言って、またタコジグを海面に放り込んだ。どうやら気に入ってくれたらしい。

 

 何はともあれ、艦娘の釣り仲間ができたし、提督としても一歩進めた気がする。

 

「あ、凄い! また重くなりました!」

 

 潮が小さく跳ねながらこっちを向いた。なんとも可愛らしい仕草だ。僕に対する人見知りも、いつの間にか治っていたらしい。

 

 暗い墨のような夜に浮かぶ彼女の笑顔は、灯台のように輝いて見えた。

*1
探検隊的な人がよくヘルメットに付けてるあのライトのことだ。夜釣りにおいて、両手を開けたまま照らせるライトは必須品とも言える。

*2
竿やリールを使わず、糸と仕掛け(釣り針など)のみを使ってする釣りのこと。簡単だが奥が深く、ファミリー層から熟練者まで、多くの人が楽しめる。ちなみに夜釣りの方が夜行性のタコを釣りやすいが、夜の海は危険が多いので初心者の方は昼から始めることをオススメしたい。

*3
手釣りではその名の通り手を使う。細い糸だと手が痛くなってしまうので太めをチョイスすることが多い。

*4
釣り糸の先に結ぶ、糸のこと。リールに巻いてあるラインは基本的に切れないように太めのものを使っているため、そのままだと魚に罠だとばれやすい。それを防ぐために、細い糸を仕掛け用に使うことがある。その細い糸がハリス。

*5
小さなタコの形をした擬似餌。見た目は完全にタコさんウインナーのフィギュアだが、これでもしっかりと釣れる。

*6
波止場によくついている黒い貝。釣り餌としても重宝される。一応食用のものもあるが、天然のものは毒を含んでいる場合もあるので食べるのは避けた方がよい。

*7
釣り用語で仕掛け(または竿を)上下に揺らすこと。こうすることで仕掛けが動いて目立ち、食いつきを促進する。

*8
釣り用語で、魚が針に食いついたタイミングを見計らい、仕掛け(または竿)を上に引っ張ること。こうすることで針がしっかりとささり、初めて魚が釣れる。

*9
ちなみに、タコの足は正確にいうと"タコの腕"だったりする。一応、"腕として'使うのが6本、"足として" 使うのが二本で、オスのタコはそのうち一本が生殖器になっている。オスメスの見分けかたは色々あるが、吸盤の並びが不揃いなのがオス、綺麗なのがメスというのが分かりやすい。

*10
おそらく水を使って、その勢いで墨を吐くため、水のない地上では吐けないのだと思われる。ただイカは腹に水を貯めているので陸に上がっても吐ける……らしい。(正直私もあまりよく分かってません……)

*11
ただしアオリイカ。君のことは許さない。(お気に入りの釣りTシャツを黒くされた思い出……)

*12
あくまで資源ゴミではなく生モノなので捨てても大丈夫。しかし、普通の釣り道具などのゴミはしっかりと持ち帰らないといけない。釣りを続ける上で、最も重要なことの一つだ。




 タコはたこ焼きに限る……。


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四投目 風の声を聞いて

 釣り要素の薄い回です。

 タイトル詐欺感も少しありますが……釣りバ○日誌も釣りが関係ないシーンが案外重要だったりします……よね? 何卒お許しください……。


 海が涙を溜めている。

 

 遠くから聞こえる波音から、そう思った。おそらく今夜は雨だ。

 

「海ばかり見てどうかしましたか?」

 

「いえ、大きなことではないんですけど……雨で夜釣りに行けなさそうです」

 

「えっ? 天気予報では降水確率10%でしたけど」

 

「多分降りますよ、7時過ぎくらいからだと思います」

 

 僕の誇れる数少ない特技の一つ。それは海の天候や潮流が読めること。生まれてからずっと海と触れ合っていたからか、感覚的にそれが分かるようになっている。自分でもよく分からないが、海が語りかけてくるとでも言おうか。

 

 明日は雨だ、今日はベタ凪*1だ。

 

 そんなふうに、声ではない声で話しかけてくる。

 

 机の上に並んだ戦闘記録*2が扇風機の風になびいてるのを見て、僕は消しゴムを重石代わりに置いた。つい数週間前までは十分に重石となったそれも、いつの間にか角が削れて転がっていきそうになっている。しかし残念ながら、僕の知能は身を削って頑張る彼の努力と釣り合っていない。

 

「……未だに天気予報しかできないのがなんとも」

 

「すごい才能ですけどね。まあ、まだ始めたばかりですから、じっくりやっていきましょう。少しでも指揮能力が身につけば、それはただの天気予報ではありませんよ」

 

「そうならいいんですけど」

 

「弱気になっちゃダメですよ。提督にとっては自信過剰くらいになるのが丁度いいです。はい、お茶入りましたよ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 赤城さんが差し出した湯飲みを受け取り、そっと口につける。渋みのある、冷たい感覚が喉元をするりと通っていった。まだ夏本番ではないのに、炎天下が支配する昼間を生きるには、この感覚が必要不可欠だ。

 

 ここ数日、僕は赤城さんの力を借りて大量の資料の読み取りをしていた。一つ一つノートにまとめて、考えて、覚えて。その繰り返し。でも頭の中にはどうも積もっていかなかった。時間をただ浪費している気がして、だんだんと憂鬱になって、五月病のような状態に陥っていた。

 

 やらなければならないことは分かっている。でも、足が進まない。生命反応のない海を前にした釣り人*3は、大抵こんな気分だろう。

 

「誰か、もう少し教えるのが上手な人がいればいいんですけどね……」

 

 静かに耳に入ってきた声に、一瞬肝が冷えた。赤城さんが頑張ってくれているのに、僕はなんてことを言っているんだろうかと。

 

 でも、幸いなことにその言葉は僕のものではなかった。

 

「私はどうも感覚派というか……理論的に教えるのが下手ですから」

 

「いえ、そんなこと……ないと思いますよ」

 

「ありがとうございます、とだけ言っておきますね」

 

 赤城さんが苦笑いしながら小首を傾げた。そして静寂が訪れる。

 

 自分の発言が間違っていることは分かっている。よくしてもらっているのに、これだけしか言えないというのはないだろう。でも、どう言えばいいのか。僕には分からなかった。どうすれば上手くフォローできるのか。戦術書も、海の声も、何も教えてはくれない。

 

 僕の五月病が彼女にも伝播してしまったのか。最近、元気な表情を見せてくれることが少なくなった。

 

 肩にのしかかる空気を入れ替えるために、窓を開けて風を取り込む。どこからかホースで水を撒く音が聞こえた。

 

「……あっ、提督!」

 

「えっ? ……うわ」

 

 ぼーっとしていたせいか、入り込んだ風が記録書を盗み出して行ってしまった。消しゴムが転げ落ちていることに今気づく。扇風機との見事な連携プレーだ。アライバ*4もびっくり、と言ったところか。

 

「僕、とってきます!」

 

「え、あ、ちょ、ちょっと……」

 

 赤城さんの声をかき消すように厚いドアを閉め、僕は廊下へと飛び出した。

 

 ただ、肩には未だに重い空気が乗ったままだった。

 

 

 

 

「ふぅ……よかった。無事だ」

 

 幸いなことに飛んで行ったのは数枚で、カラカラに乾いた地面はそれに軽く砂を付けただけだった。

 

 誰かに会わないうちにさっさと執務室に戻らなければ。

 

 胸に戦術記録を重ねて、そそくさと廊下を歩く。階段の角に差し掛かり、体を横に向けたその瞬間、ちょうど肘の辺りに誰かがぶつかった。突然の衝撃に思わずよろけてしまった。相手もそれは同じようで、階段に腰掛ける形で尻餅をついた。

 

「いてて……あっ、提督。ごめんなさい」

 

「あ、いやこっちこそごめん。不注意だったね」

 

 ぶつかったのは潮ちゃんだった。良かった、と言っては彼女に悪いかもしれない。

 

 でも、他の艦だったらどうなっていたか。ほっと胸を撫で下ろす。ただそれも一瞬のことだった。

 

「何をしてるんだい、提督」

 

「艦娘に怪我させる司令官ちゅーのは、ちょっちいただけんなあ」

 

 潮の後ろに、小さな影が二つ。鋭い眼光でこちらを睨んでいた。

 

「……ひ、響ちゃん、龍驤さんも。提督が悪いわけでは」

 

「潮姉さん。そんなことないよ。悪いのは"ソイツ"だろう?」

 

「そうやで。こういうのは男が詫びるもんや」

 

 ゆっくりと二人は階段を降り、距離を詰めてくる。視線が下から突き上げられる。俯いても逃げる事はできない。

 

 

「なあ、なんとか()ったらどうなんや?」

 

「さっさと謝った方が身のため、かな。今ならまだ土下座くらいで勘弁してあげれるよね、潮姉さん」

 

「え、えっと、その……」

 

 座ったまま、潮ちゃんは狼狽(うろたえ)る。僕は何も言えない。どうすればいいのか、やっぱり分からない。頭が空っぽになってしまう。

 

 二人の声がひたすらに僕のことを責める。内容は入ってこなくとも、そのことだけは分かった。

 

 ……遠くから波の音が聞こえる。

 

『本当に、それでいいのか?』

 

 耳の奥に、いや頭の中に、ふと言葉が入り込んできた。自分が思っていないのに、言葉が次々と浮かんでくる。何人もが囁いているような、不思議な感覚だった。

 

『あなたは成長したいではないのですか?』

 

『そのままだと、少々厳しい、と私は思う』

 

『まあ、君がそれでいいなら……構わないんだけど』

 

『で、どうなんだ? 君が思っている理想の人物像は延々と黙りこくっているようなやつなのか?』

 

 違う……僕が理想とする人物像はそんなものではない。

 

『ほう。どんなふうになりたいんだ? 言ってみろ』

 

 ……みんなに尊敬されて、指揮も上手くて、人間としても完璧で。

 

『ふむ。そうか。そいつはちょっと出来過ぎだな』

 

 ……そうかもしれない。でも、僕はそうなりたい。ならないと、いけない。

 

『なら、この状況でどうすれば良いのか。考えてみせろ』

 

『君にだって……脳味噌はあるだろう?』

 

『"人間は考える葦である"と、先人は言った。君は藁くらい脆いかもしれんが、考えることができるというのは同じはず、と助言する』

 

『あなたなら、できると思います』

 

 ……僕に、できること。そんなこと、釣りくらいしか……。

 

『それが君のダメなところだろう。一発、ガツンと行くのも一手だぞ!』

 

 一発。ガツンと。できる、のか?

 

『ああ、できるとも。みな諦めているだけで、誰だってできる。世の中の半分は諦めているだけでできることなんだ。やってみせろ。君の勇姿を私は見たい』

 

 ……。

 

『行け、君の後ろには大きな味方がいる。海という、大いなる味方がな……』

 

 背中から風が一陣、駆け抜けて行った。まるで僕を押すかのように。

 

「……ちょっとそれは、違うと思うな」

 

「……は?」

 

 気づいた時には口に出してしまっていた。一度生み出した言葉を戻す事はできない。もうやるしかない。

 

「た、確かに僕が悪かったかもしれないけど、互いに怪我はなかった。潮ちゃんも、僕のことを咎めてはいない……よね?」

 

 チラリと目線を潮に届けると、彼女は小さく頷いた。

 

「……うん、だから、そこまでのことはしなくてもいいかなって思うんだ。情けない姿を、僕はもう見せたくない」

 

 僕の反撃を予知していなかったのか。二人はぽかんと口を開けたまま、しばらく動かなかった。そしてようやくそれを閉じたかと思えば、ため息と舌打ちが聞こえた。

 

「……まあ、今回は潮姉さんも怒ってないようだし、許してあげるよ」

 

「まったく、悪びれる様子もないやなんて。調子狂うわ。響、もう行こか」

 

「そうだね。でも、次はどうなるか……しっかり覚えておきなよ」

 

 睨みを残して、二人は去って行った。見えなくなってから、大きく息を吐く。肩の力がすっと抜けて、思わず潮ちゃんの隣に座り込んでしまった。

 

「こ、怖かった……」

 

「て、提督。あの、なんて言えばいいか……その、ごめんなさい」

 

 潮ちゃんは立ち上がって僕の前に立ち、頭をそっと下げた。慌てて立ち上がり、それを止める。

 

「潮ちゃんが謝ることじゃないよ。元はと言えば、僕が全部悪いんだから」

 

 僕がそう苦笑すると、潮ちゃんは僕の顔を覗き込んで首を傾げた。何か、不思議そうな表情をしている。どうかしたのだろうか。

 

「あの、提督。こんなこと言っていいのか分からないですけど……」

 

「どうしたの?」

 

「いえ、なんだか少し、雰囲気が変わった気がして。何というか、強く? 勇しく? 芯がしっかりとしてきた感じが……って、う、上からですみません」

 

「そう、かな? 本当にそうなら嬉しいけど」

 

 潮ちゃんは本当です、と首を縦にブンブンと振った。

 

 なんだかとってもかっこよかったです、とも。

 

 そんなこと初めて言われた。なんとなく、むず痒い感情だ。頬が赤くなるのが分かった。

 

『……やればできるじゃないか』

 

 また頭の中に声が響く。

 

 ありがとう。誰か分からないけど、君の、君たちのおかげだ。

 

『いや、これは君の力で、私たちはちょっと背中を押してやっただけに過ぎない。よくやった、と言っては立場がおかしいか』

 

 不思議な言葉はふっ、と空気を漏らす。そんな些細な動作まで分かるほど、近くにいてくれているのだろうか。

 

『まあ、これからは背中を押されなくても突き進むんだぞ。そうしていけば、いつか……私たちも……』

 

 ……君たちも?

 

『……何でもないさ。忘れてくれ。それでは"また"な』

 

 次の瞬間には、頭の中から言葉はなくなっていた。まるで溶けた氷のように、跡形もなく。

 

 一体何なのか。僕の深層意識が作り出した幻だったりしたのだろうか?

 

 結局、正体は分からない。ただ、僕のことを助けてくれたことは確かだった。

 

「……ありがとう」

 

「……提督、何か言いましたか?」

 

 小さな声で言ったが、彼女に拾われてしまったらしい。

 

 なんでもないよ、と軽くごまかして、僕は彼女に別れを告げる。まだ、勉強の途中だ。

 

 潮ちゃんは頑張ってください、とポーズ付き*5で励ましてくれた。

 

 まだまだこれから。

 

 憂鬱な気分なんて、どこかに飛んでいった。なんと軽い人間だろうか。でも、見方によってはそれも長所なのかもしれない。

 

 階段を登り切ると、赤城さんがこちらに向かってくる途中だったようで、手に何かを持って歩いていた。

 

「あ、提督。遅かったですけど……何かありましたか?」

 

「まあ、ちょっと。でも、なんともないから心配しないでください」

 

「そう、ですか……」

 

 赤城さんは少し不安気な表情を見せたが、僕が微笑んで見せるとそれもすぐに消えた。いつもより上手く、微笑めた気がする。

 

「それで、赤城さん。それ、なんですか?」

 

 赤城さんが手にしているものを指差して、尋ねた。どうやら何かの書類のようだ。

 

 あっ、と短く声を上げて、赤城さんは思い出したようにそれを差し出してくる。

 

「本部から送られてきました。どうやら、面談らしきものがあるようですが……」

 

 書類に目を通すと、第四次個別報告面談、とデカデカと見出しに書かれていた。

 

「なんですか、面談って?」

 

「書いてある内容から見るに、その鎮守府の内情調査ってことかと。ほら、実際に調査官が来るのって無理じゃないですか*6。だから呼び出しという形かと。秘書艦も連れてくるなって書いてありますし、ひょっとすると少しディープなことにも触れるかもしれませんね……」

 

 ディープなこと……。いくつか、心当たりがある。

 

 例えば、艦娘の運用方法についての指導など、だろうか。

 

「明日の午後からだそうです。えらく急ですが、明日は勉強もお休みですね……」

 

「本部からですし、仕方ないですね。でも、行く途中にも記録書読んでおくので、冊子型にしてもらうことってできます?」

 

「ええ、できますよ。提督、やる気が出てきましたね」

 

「ちょっと、ですけどね」

 

 廊下の隅から流れる夏の風が頬を撫でていく。

 

 背中を押された感覚が、まだ微かに残っていた。

 

 

*1
風がほとんどなく、非常に"静かな"海のこと。

*2
軍の規定で、どんなに小さな戦闘であっても、その記録を綿密に報告しなければならないと定められているため、かなりの数の記録が残っている。それを見るだけでも相手の動きの特徴、指揮官の采配が読み取れ、とても勉強になる。

*3
もちろん諦めはしないが、そんな状況と長いこと向かい合って変化がないとなかなか辛い。結局は自然との戦いであり、人知を超えた何かを相手にしている。潔く諦めるのも一手だと思う。

*4
プロ野球球団、中日ドラゴンズに在籍していた二塁手「荒木雅博」と遊撃手「井端弘和」コンビで、衝撃的とも言える連携プレーの数々を披露した。彼らのことを誰しも一度は見たことがあるのではないだろうか。ちなみに僕は父が見ていた過去の試合の再放送で見た。

*5
ガッツポーズのようなものだった。うん。可愛かった。

*6
実は鎮守府に立ち入りできるのは海軍の中でも一部の人間だけとなっている。妖精からの要請(決してシャレではない)で、そうなっているそうだ。理由は正直よく分かっていない





 龍驤の関西弁ですが、あまり方言には詳しくないので間違っていたら教えていただきたいです。彼女も史実では横浜生まれの横須賀育ちですので、そのくらいがいいのかもしれませんが……。


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五投目 砂浜で出会う

 書いてたら、なんかすごく長くなっちゃいました。

 前半ストーリー、後半釣りです。本日は砂浜での投げ釣りです。


 

 昨夜の雨のせいか、アスファルトが光を反射している。降り始めは涼しく感じた空気も、上がった後はただ蒸し暑いだけだ。

 

 張り付いたシャツを何度も引き剥がしながら、広い本部の敷地を歩く。

 

 本部は大きな入江の中にその身を隠すようにしてあって、作るために小さな街を一つ潰したとも言われている。正直、ここの空気は好きではない。どこか粘性のある雰囲気で、それが喉に詰まるような感覚がするからだ。

 

 何度来ても思うことだが、ここは無駄に広い。本部は基本的に大規模作戦の発案、人員の収集、艦娘の研究を責務としている。一番後ろの理由で、さまざまな設備が建設されていて、一つのテーマパークと言ってもおかしくはないようの見た目をしている。もちろん、楽しいことなどさらさらないのだが。

 

 額に汗を垂らしながら、たどり着いた建物を見上げる。四階建ての、無機質な白色の壁にデカデカと『主要海域奪還・防衛軍』*1と書かれた木札がかかっている。足が進まないのは、果たして疲れたせいだろうか。

 

 入り口に立っている憲兵に軽く頭を下げて、中へと重たい足を進めた。

 

 クーラーがあるおかげで、室内は肌寒いほど冷えていた。ただ、まとわりついてくる空気は変わらない。

 

 指定された部屋への道の途中で何人かとすれ違ったが、軽く会釈をするだけで色のない目をしていた。もちろん、ある程度普通の生活ができているとは言えども、あくまで今は戦争中。そうなっても仕方ないとは思うが、こうも暗いと勝てるものも勝てなくなってしまいそうだ。

 

 威圧感のある厚いドアにノックをすると、すぐになかから「どうぞ」と声が聞こえた。失礼します、と軽く頭を下げながら入ると、そこには薄いフレームの眼鏡のしたに静かに三白眼をたたえる男がソファに腰掛けていた。

 

「どうも。とりあえずそこに座りなさい」

 

「……失礼します」

 

 男が指指したソファに座り、机を挟んで向かい合うような形となる。男は手元にあった茶封筒の中から紙を取り出して、眼鏡を一度、親指で押し上げた。

 

「私は青柳(あおやぎ)と言う。まあ覚えたところで会うこともないだろうがな」

 

「僕は……」

 

「いや、別に構わないよ。もう分かっている」

 

 指を舐めて、男は書類をパラパラとめくり、その内の一枚を取り出した。

 

「どうだい、提督業は? 一年近く経っているようだが……」

 

「まあまあと言った具合かと……」

 

「そうか。君がそう言うならそうかも知れんが、書類は嘘をつかない」

 

 机に書類を置き、胸ポケットから取り出した赤ペンで青柳さんはそこに丸を書いた。僕の鎮守府の戦闘記録のようだ。決して空白になっていたり、負けが続いていたりはしていないはずだが*2、何か不満があるらしく、裏映りも気にせずに何度も同じところを小突いていた。

 

「君はちょっと負けが少ないね」

 

「……え、ええ。負けることはほとんどないかと」

 

「それ、実はちょっと問題なのよ」

 

「……何故ですか?」

 

「うんとねー。ちょっと失礼」

 

 男はどこからかタバコを取り出して、慣れた手つきで火をつけた。

 

 吸わないとこんな仕事やってられないよ、と薄ら笑いで呟く。苦い匂いが鼻の奥を刺激しているが、止めるのもこの状況では良くない気がして、結局何も言えずじまいだった。

 

「えっとー、そうそう。負けが少なくて何故問題かって、分かる?」

 

「……いえ、全く」

 

 まあ、そうだよねー。タバコを咥えたまま、青柳さんは頬杖をついた。眼鏡の光の加減で目が見えなくなる。

 

「あのねー、負けが少ないってことは轟沈数が少ないってことで、ちょいと艦娘(やつら)を丁寧に扱い過ぎってことなの。まあ、一人一人に資材はかなりかかるよ? でも今は海外でも主要な海域はかなり奪還できていて資材に関してはそこまで困ってないのよ」

 

「はぁ……」

 

「それで何が問題かって言うと艦娘(やつら)が調子に乗っちゃうかも知れないってこと。正直言うと、この軍が一番恐れているのは艦娘(やつら)の反乱なのよね。そうなったりしたら、ほら、一番上の人が自ずと叩かれるでしょ? だから必死になってんの。君は一般人だったし、分かんないかもしれないけど、この業界意外と闇もあってね。一つのボロから総崩れなんてよくあるのよ」

 

 タバコを灰皿に押しつけながら、青柳さんはため息を吐く。煙が僕の鼻を掠めていったような気がした。

 

「ぶっちゃけ、この軍って結構腐っててねー。だってほら、相手が人間じゃない戦争やって、それで今経済も凄い回ってるの。罪悪感もなく、むしろヒーローみたいな立場で、さらにお金がどんどんもらえる。そんなここを辞めたい人なんているはずないだろ? アンタも、結構貰ってるはずだしな」

 

「………」

 

「まあ、そんなことしてるから今ちょっと劣勢になり気味なんだけど。完全に負けない限り、永遠とこれを続けるくらいの勢いなんだろうね、上は……おっと、話を戻すか。それで、君のところはちょいと甘すぎだって話ね。もしそんなんで艦娘(やつら)に舐められたらどうすんの? 反乱起きて、それで人が死ぬかもしれないんだぞ?」

 

「そ、それは……」

 

「君は優しすぎだねー。艦娘(やつら)は見た目だけ人間で、中身は得体の知れない化け物かも知れんのだぞ? そんなのに情なんて湧かせるなよ。まあ、女だし、そういう意味ではいいかもしれないねー」

 

 ケラケラと肩を震わせると、青柳さんは二本目のタバコに手をつけた。

 

 彼の言いたいことが分からないというわけでもない。でも、本当にそれは正しいことなのか。僕にはよく分からなかった。

 

「まあ、もうちょっと奴らには厳しくな。多少負けたところで大丈夫だから。よっぽど人員不足の今、クビにされることなんてさらさらねぇーさ。さて、本題はこんだけ。こんなので呼び出すのもあれだが、艦娘(やつら)に聞かれたらそれこそ反乱の種だから仕方ないな。んじゃ、お疲れ。一応これ、他の鎮守府の起用方法。これ参考にしてもいいかもね」

 

 放り投げるように書類を渡された書類には、どう見たって法外な時間設定が書かれている。それを手に取ると追い出されるように部屋から出されてしまった。

 

 まさか十分程度で終わってしまうとは。

 

『この軍って結構腐っててねー』

 

 頭の中で青柳さんの言葉が反響している。確かに、話を聞く限りこの軍はお世辞にもクリーンとは言えない。

 

 なんとかしたい、なんて提督としても成り立っていない僕が言えることではないだろう。

 

「……でも、僕は僕らしくやりたい」

 

 青柳さんにも言われた。そうそうクビになることはない。だったら、せめて僕のところだけでも艦娘(みんな)が笑えるところにしたい。力で押さえつけるだけでは、それこそいつか反乱が起きてしまいそうだ。その前に、まずはみんなに認めてもらえる人間にならなければならない。

 

「……よし、頑張るか」

 

 昨日海の声が聞こえた時から、僕の中の何かが変わった気がする。本当の意味で、前に進んで行けるような気がし始めた。もう、弱いだけの、軟弱なだけの僕ではない。それを証明しなければ。

 

 手に持っていた書類を適当なゴミ箱に突っ込んで、僕は鎮守府へ帰ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……はずだったのだが、つい魔が刺してしまった。気がつけば近くの砂浜に足を運んでいた。道具はないが、今度来た時に釣りできるように下見というわけだ。

 

 海水浴ができるような雰囲気ではあったが、ここも一応海軍所有の土地。一般人は入って来れない。

 

 見る限りでは延々と砂地が続いているようで、投げ釣り*3でもできそうだ。キス*4などが期待できるだろうか。

 

 水平線を眺めていたら、すぐ横から音が聞こえた。風が細い穴を通っている時に聞こえるような音だ。聞き覚えがある。多分、スピニングリール*5の音*6だろう。

 

「……よーし、八色*7飛んだ」

 

「なっ?! 流石は司令官……ただ朝潮も負けていられません!」

 

「食べる役割は球磨にまかせるクマ。七輪は用意しておくクマー」

 

 リールの音に続いて聞こえた声の方を向くと、少し離れたところに三人、内二人は長めの竿を持って立っていた。格好と話の内容からすると、どうやら提督と艦娘らしい。

 

「てぇーい! ……あれ?」

 

「朝潮……仕掛け絡まってるぞ」

 

「んなぁっ! 何たる不覚!」

 

「一人でお祭り*8とは、ちょっとドジっ子クマ」

 

「くぅ……って、あれ? 司令官、あそこに誰かいますよ?」

 

「ん?」

 

 仕掛けを絡ませた少女が、僕の方を向く。司令官と思わしき男性もそれに続いた。

 

 視力が悪いのか、それとも僕が怪しいのか。男性は目を細める。

 

「あ、ど、どうも……」

 

「どうも……アンタも司令官かい?」

 

 アンタも、ということはやはり彼も司令官のようだ。ただ、先程の雰囲気を見る限り、本部からの指示を徹底しているわけではないらしい。

 

「ええ、そうです」

 

「へぇ、そうか。で、何か用でも?」

 

 男性の目が更に鋭さを帯びた。おそらく僕と同じくらいの年齢だと思うが、雰囲気は明らかに格上だ。

 

「いや、あの……ここって釣れますか?」

 

「えっ? あっ、ああ。そこそこってとこかな」

 

 男性は不意を突かれたような顔になる。ひょっとしたら、僕のことを本部の人間だと思っているのかもしれない。

 

「本部に久しぶりに来たんですけど、ちょっと海が気になっちゃって。釣りバカの(さが)ですかね」

 

 僕は苦笑いして、そう付け足した。本部の人間だと思われて、いい気はしない。

 

「へぇ……アンタも釣り人か。投げ釣りやってるのかい?」

 

「たまに、ですけど。基本的にいろんな釣りをしているので、これしかしないって訳ではないです」

 

「オレもまあそんな感じだ。ここらの海はある意味荒らされてないからな。いい釣り場が多い……って言うのは皮肉になるのかね」

 

 男性は水平線を眺めた。海面に反射する光が彼の顔に舞う。その目はどこか空っぽのようにも見える。

 

「……アンタは、なんで司令官になった?」

 

 なんの前触れもなく、男性が尋ねてきた。その視線は海面に漂わせたままだ。

 

「そうですね……恥ずかしながら、あんまり深い理由はないんです。ただ妖精と話せて、海のことをよく知っているから連れてこられた感じです」

 

「……」

 

「本当なら今頃、父の船で漁師をやれていたはずなんですけど、戦争が激化してきてるそうですし、ひょっとしたらそれもできてなかったかもしれません」

 

 脳裏に父の顔が浮かぶ。

 

 僕の家系は代々漁師だった。父さんも、お爺ちゃんも、ひいお爺ちゃんもみんな海と暮らしてきた。海の声が聞こえるのは、もしかすると才能ではなくて遺伝なのかもしれない。

 

「……それで、どうしたい?」

 

 彼はスピニングリールを巻き上げる。竿先が少し唸った。

 

「戦争で深海棲艦(やつら)を皆殺しにしたいか? それとものんびり釣りしながら、甘い蜜を吸い続けたいか?」

 

「……どう、なんでしょうか。分からないんです、そういうの。

 

 ただ、今は色々と必死で先のことなんてどうも考えられてなくて」

 

 正直な気持ちだった。

 

 僕はみんなに認められる司令官になりたい、とは思っていたが、その先を、結局どこへ行き着きたいのかをはっきりさせていなかった。そんなことを考える余裕なんてなかった。だから改めてそんなことを聞かれても、しっかりとした受け答えはできない。

 

 ……でも、一つ思っていることはある。

 

「とりあえずみんなが、艦娘が、人が、海が、笑えるようにしたいって、そう思ってます」

 

 自然と口角が上がって、スラスラと言葉が出た。

 

 男性は何も言わず、ただリールを巻き上げ続けている。光が眩しくて、その表情はよく確認できない。

 

 僕は彼の言葉を待った。何を言われるかは分からない。厳しいことを言われるかもしれない。でも今の僕には、そんなことでは折れないだけの自信があった。

 

 ふと右手がぐいっと引っ張られた。突然のことに驚き、思わず少しよろけてしまう。ズレた帽子の影から手を見ると、僕の手は小さな指で包まれていた。

 

「……朝潮、感動しました。艦娘も人間も同じように幸せにしたい。そんな風に言ってくれるのは、司令官だけだと思っていました。でもそれは間違いだったみたいです。他にもそんな人がいてくれるなんて……」

 

 黒髪の少女が強く僕の手を握る。目を潤ませ、頷きながら、嬉しいですと何度も繰り返す。

 

 茶髪の少女もいつのまにか近くにいて、僕の肩に手を置いた。

 

「やっぱり人間も捨てたものじゃないクマね。提督も喜んでるみたいクマ」

 

 そう言われて男性に目を向けると、ちょうどリールを巻き上げ終わっている。彼は竿を静かに置き、ゆっくりとこちらへ歩いて来た。

 

 そして僕の目の前に立つと、そっと右手を差し出して来た。

 

「……今まで、同業のやつに何を話しても伝わりゃしなかった。誰一人、この娘たちに優しくしようとしなかった。ただ戦争をして、今自分が幸せならそれでいい。そんなやつらばかりだった。

 

 でも、よかった。同じように考えてくれる奴がいて」

 

 彼は白い歯を見せて笑った。細めた目は不思議と柔らかく見える。

 

「オレは笹原(ささはら)っていうんだ。よろしくな」

 

「僕は〈提督〉(主人公)です。えっと、よろしくお願いします」

 

 差し出された手を握り、僕は軽く首を下げる。

 

 話を聞くと、笹原さんは僕の鎮守府からしばらく南下したところにある鎮守府に勤めているらしい。

 

 彼は元々この辺りで土木会社に勤めていたが、戦争中に妖精が見えることに気づき、提督に志願したそうだ。

 

 最初は自分が安定した暮らしができればいいという気持ちでやっていたが、本部から危険とも言われていた艦娘と接するうちに、次第と彼女たちを幸せにしたいという思いが芽生え、今では全員で平和な世界を生きる、という目標の元戦っているとのこと。

 

 優しい人だということが、話し方からも伝わって来た。

 

 今日はたまたま本部に出頭する用事があったため、帰りに釣りがしたくなったからここに来ていたらしい。一緒にいる黒髪の少女は朝潮型駆逐艦一番艦、朝潮と球磨型一番艦、球磨で、彼の鎮守府の中でも釣り好きな二人ということだった。

 

「本部の奴らはこの娘たちを"モノ"として扱えと言ってくるが、オレはどうもそれに納得できねぇんだよなあ。どうみたって可愛らしい女の子じゃないか?」

 

「し、司令官。可愛らしいなんて、そんな……」

 

「照れるクマー」

 

「お世辞じゃないからな、二人とも。みーんな可愛いオレの仲間さ。アンタのところはどうだ? 仲良くやれてるのか?」

 

 彼の何気ない質問に、胸を締め付けられる。

 

 仲良くやれているか……? 

 

 脳裏に鎮守府のみんなの顔が写るが、そのほとんどが笑っていない。思い出せるのはせいぜい嘲笑の顔と陰湿な声だけだった。どうもこめかみのあたりが痛くなってきた。

 

 額に冷や汗を浮かべて答えられない僕。すると彼は何か察してくれたのか、黙って何かのメモを一枚差し出して来た。

 

「……何かあるなら、ここに電話してくれ。オレで良ければ聞いてやるよ」

 

 見てみると電話番号が書かれている。きっと彼の鎮守府のものだろう。

 

「いえ、それは、なんというか……申し訳ないです」

 

「大丈夫だって。釣りバカに悪い奴はいねぇだろ? もっと仲良くしようぜ」

 

 結局彼に押されて、メモを貰ってしまった。こうなってしまっては、頼らない方が無礼だろう。困ってしまったら電話してみよう。

 

 僕が暗い顔なままなところを見てか、球磨さんが背中を軽く叩いた。

 

「色々あると思うクマ。でも、明けない夜はないクマ。止まない雨も、永遠に続く冬もないクマ。それでも耐えきれなくなったら、みんなで温め合うクマ」

 

「そうですよ、三本の矢は折れません! あと三人よればなんとやらです。みんなで助け合いましょう!」

 

「そうだ。せっかくだし、アンタも釣りして来なよ。オレのタックル*9貸すから」

 

 笹原さんはそう言って投げ竿を僕に手渡して来た。メーカーを見て驚く。ガチガチの本気のロッドだ*10

 

「そいつだとよく飛ぶんだよな。アンタ投げは得意か?」

 

「いえ、そこまでですかね……」

 

「んじゃあ、オレが教えてやるよ。ほら、行くぞ」

 

 彼に手を引かれて、波打ち際で竿を握らせられた。近くに置かれた木製の餌箱から、ニュルニュルとしたミミズのような生物を取り出してくる。これは青イソメ*11だ。

 

「餌の付け方は……まあ分かるよな。一応確認がてらやるけど」

 

「あ、球磨は上手くできないからしっかり説明してほしいクマ」

 

「そうか。分かった。じゃ、失礼して」

 

 笹原さんはポケットから糸切りバサミ*12を取り出して、イソメの頭をちょんと切り落とした。

 

「可哀想だが頭は硬いからな*13。これで頭を切ったところから針を通す。このとき曲がらないようにするんだぞ」

 

「なるほどクマ」

 

「んで、この尻尾(?)の方。この針が届いてない部分のこと"垂らし"っていうんだが、この垂らしを全体で針の1.5倍くらいの大きさになるようにして切る。こいつで餌はオーケーだ」

 

 球磨さんは朝潮ちゃんの竿ですぐに実践を始めた。噛まれたのか、痛いクマ! と叫んでいる*14

 

 笹原さんはそれを尻目に、少し笑いながら近くにあった流木を拾った。どうやらそれを釣り竿に見立てて教えてくれるらしい。

 

「まあ、教えるっていっても当たり前のことばっかだけどな。

 

 まず垂らし*15は……そうだな。とりあえず一メートル位でやるか。慣れたらもう少し長くてもいいが、最初はこのくらいがちょうどいい。

 

 次にロッドの振り方だ。意外と勘違いされがちだが、こいつは力で飛ばすんじゃなくて技で飛ばす。しなりをうまく使うんだ」

 

 流木を地面と平行に寝かせて持ち、体を斜め後ろに笹原さんは構えた。

 

「こっから竿を振るわけだが、力任せには振らない。初めはゆっくりでもいいから、ラインを出すタイミングで最高速が出るようにするんだ。あと、真上からじゃなく、若干サイド気味のほうが安定する。野球で言えば、スリークォーターってとこか?

 

 あとそのラインを出すタイミングだが、これが難しいんだな。竿が45度になったときってよく言われるが、正直感覚論だ。動画とか参考にするのが一番いい。

 

 あ、もちろん後ろは要確認な。テンビン*16がぶつかったら痛いじゃ済まないかもしれん。

 

 ……そうだそうだ。こいつ付けないとな」

 

 手袋のようなものを笹原さんは差し出して来た。釣り用のもので、メーカーのマークの刺繍が入っている。釣り人的にはすごくカッコいい*17代物だ。

 

「そいつ付けないと、ラインで指痛くなっちまうからな。

 

 ……さて、さっそく一本やってみてくれ。話はそれからだ」

 

「分かりました。じゃあ、行きます」

 

 先ほどの笹原さんの動きを頭の中で再生し、それを自分の体に適応させる。

 

 ベールアーム*18を立てしっかりと構えて後ろを確認。竿をしっかりと持ち、なるべく足をぶらさないようにステップを踏む。真上より少し横から竿を出し、離すタイミングは45度!

 

 指を離した瞬間、リールからラインが出て行く音がする。上手くいった、と思った矢先、案外すぐにその音が止まってしまった。ラインの色は……三色しか変わっていない。

 

「うーん。ちょっと離すのが早かったかな。こいつは慣れだからなあ。よし、本当はあんまよくない*19けど、もう一回やっちまおう」

 

「了解です」

 

 スピニングリールを素早く巻き取り、もう一度構えを作った。

 

 自分の投げる姿を頭の中で想像する。

 

「……えいっ!」

 

「おっ……」

 

 掛け声と共に、リールが息を吹いた。それは長く続き、スプール*20の色が床屋の看板のようにくるくると変わっていく。

 

 今度こそ上手くいってくれたようだ。

 

「六色までいったなぁ。悪くない。いいセンスだ」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、これからが本番だ」

 

 彼のいう通り、キャスティングはスタートに過ぎない。ここからの動作も非常に大切だ。

 

「オレが教えるのは引き釣りだ。そら、リールをゆっくり巻くんだ。イメージとしては三秒間で一巻きくらい」

 

 彼のいう通りに、僕は心の中で三秒数えながらリールを巻いた。竿先から砂地を這っている感覚が伝わってくる。

 

 しばらく引き続けていると、ブルブルと小刻みな震えが手元に届いた。間違いない。アタリ*21だ。

 

「来てるな。リールをもっとゆっくりにしていいぞ。焦らずゆっくりだ」

 

 アタリが来たり、止まったりを繰り返す。このアタリが楽しみで投げ釣りをする人も多い筈だ。そして、ついに竿が少し重みを増した。

 

「食いついた! でも焦るなよ。ゆっくり、ゆっくりだ。急いてはことを損ずる、だぞ」

 

「はい!」

 

 指示通り、出来る限り慎重に巻き上げる。リールの色はまたゆっくりと変化していく。

 

 そして、ついに砂浜に白い魚影が姿を現した。

 

「よーし。オッケー。いいサイズのシロギスだ」

 

「結構大きいですね」

 

「ま、皮肉な海だからな」

 

 竿一本、魚一匹。それだけでも、人は仲良くなれる。笹原さんのブラックジョークにも近いそれを聞き、僕らは一緒に笑い合った。

 

 その後も三時間ほど、投げては巻いてを繰り返して、投げ釣りを楽しんだ。球磨さんとどちらが先に釣るか勝負してみたり、朝潮ちゃんと遠投対決なんかもしてみた。

 

 とても、楽しい時間だった。ここまで純粋に笑ったのは、いつぶりだろうか。

 

 黄昏色に染まった水平線を見て、僕はふとそう思った。

 

「……さて、今日はこのくらいにしとくか」

 

「分かりました。えっと、今日は本当にありがとうございました。楽しかったです」

 

 頭を下げようとすると、笹原さんが肩に手を回してそれを止めた。

 

「いいってことよ。オレも釣り仲間が増えて嬉しいんだ。朝潮も球磨も、楽しそうだったしな」

 

 釣り道具を片付ける二人を見て、笹原さんは笑みを溢した。

 

「あー、本当ならアンタが釣ったやつはアンタに食べて欲しかったんだが……クーラーがねぇな……氷もそんなに買ってきてないし……」

 

「釣りができただけでも楽しかったですから、大丈夫ですよ。笹原さんのところの"可愛い仲間"たちと食べてください」

 

「もう笹原でいいよ。じゃ、ありがたく魚はもらうことにするか」

 

 クーラーボックスを持ち上げて、肩にかけながら彼は言った。慣れた様子で、軽々と持っている。

 

「〈提督〉さん! 今日はありがとうございました。またお会いした時はもう一回対決しましょう!」

 

「球磨も楽しかったクマ。負けたのは残念だったけど、また練習するクマ。魚は美味しく食べるから安心して欲しいクマね」

 

 道具を片付けた二人は、感謝の意を述べてくれた。僕のほうこそ感謝すべきなのに、何もお礼できないのが辛い。

 

 でも笹原さん……じゃなくて、笹原の言うことには、いつか海で返してくれとのこと。その言葉に甘えさせてもらうことにした。

 

 家路の途中、ポケットから電話番号の書かれたメモを取り出して眺める。心強い味方であり釣り仲間でもある友達ができた。釣りというのは不思議と友情も繋いでくれる。

 

 ……いつか、僕の鎮守府のみんなでも、釣りに行きたい。

 

 頭の中にそう浮かぶ。そうだ、それを一つの具体的な目標にしよう。

 

 僕は僕らしく、いつかみんなと一緒に……

 

 

 

 

 

 

 釣りバカな僕は今日も一人。でも、いつかはみんなで笑おう。一緒に楽しく釣りをしよう。

 

 確固たる決意を胸に、僕は鎮守府へと急いだ。

 

*1
日本は長らく『軍』を持たないことを憲法にて定めてきたが、深海棲艦との戦いの激化に伴い、改正が叫ばれるようになった。これは人類の未来を賭けた戦争であると、一つの決意がそこには秘められている。

*2
今もまだ加賀さんに丸投げしてしまっているままだが、戦闘報告はしっかりと聞くようにしている。敵艦の傾向を探るのにもちょうどいいからだ。

*3
釣りの一種で仕掛けを遠くに投げ、魚を釣るというシンプルな釣り。しかし奥は深く、ポイント予測やそこに投げ込む技術力など、極める要素は多い。今でも安全とされた海域では、大会が盛んに行われている。

*4
海水魚で細長く白い体が特徴。釣りでも比較的初心者向けで投げ釣りで陸からでも釣りやすい。天ぷらが非常に美味しい。

*5
釣りに使うリールの一種。リールの中でもこの種類は場所・道具を問わず使うことができ、初心者にも扱いやすいもの。釣りを始めるなら、まず買うリールはこれをお勧めしたい。

*6
この音が個人的に好き。爽快感があるというか、スッキリする。

*7
投げ釣り用のラインは色が一定間隔で変わっており、どれだけ遠くまで仕掛けが飛んだかを○色飛んだ、と表すことが多い。ちなみに大抵一色25mなので、八色200m。ただもっと上手い人は十色でも足りないことがある。

*8
隣同士で釣りをしている際、その並んだ二人の仕掛けが絡み合ってしまうことをお祭りという。

*9
竿、リール、仕掛けなどを一纏めにそう呼ぶ。

*10
メーカーによって様々な製品があるが、本格的なメーカーは性能がえげつないものをいくつも作り上げている。もちろん、値段は張るがそれだけの価値はある。

*11
ミミズにも似た生物でゴカイと並ぶ万能餌。初心者がぶち当たる最初の関門はこのウネウネ感に耐えられるか否かだろう。しかし、よく見るとまん丸の目がついていて案外可愛いという人もいる。だからといって油断していると口を開いて途端にエイリアンになるので注意。(ちなみに作者はよく筏の上でイソメと遊んでいました。)

*12
釣り用のもの。色々と形はあるが、個人的には針外し用のペンチと一緒になっているのが好きだったりする。

*13
(遊んでいる時に情が湧いて使えなかったイソメが昔いました。最後まで生かしておいて、海に「達者でな」と流してやった途端にフグに食われてしまったトラウマが……。)

*14
実際不意打ちで噛まれると痛いっちゃ痛い。が、ほとんど怪我にはならないので心配は不要。

*15
こちらは餌のことではなく、釣竿から垂れている糸の長さのこと。

*16
投げ釣り・船釣りに用いられる天秤のような形をした重り。サイズは重りとしてもかなり大きめなので普通に凶器になりえる。事故を起こさないためにも安全確認は徹底しなければいけない。釣り人の暗黙の了解の一つだ。

*17
メーカーのマークを色々と使いたがる釣り人は多い。例えば帽子やライフジャケットに刺繍をつけてみたり、車の後ろ窓やクーラーにシールを貼ってみたりと、人それぞれ。(ちなみに作者は『がま○つ』のロゴステッカーを机に貼りたくっています。)

*18
スピニングリールのパーツの一つ。これを横にしている時はラインを巻きとれ、立てている時はラインを送り出せる。

*19
何度も投げ返すと餌の鮮度が落ち、釣れるものも釣れなくなってしまう。餌を無駄遣いしないためにも、一発で決められるようにするとお金が少し浮く……かもしれない。

*20
リールのパーツの一つ。ラインが巻いてある部分。

*21
魚が仕掛けに触り、食いつくか否かと吟味していること。その感覚が視覚・感覚的に分かることも言う。一応釣り方によっては聴覚的に視覚が分かるものもあったり……。




 ※投げ釣りは私の専門ではないため、間違っていることがあれば指摘して頂けるとありがたいです。


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五・五投目 とある艦娘の日記

 今回は断章的な雰囲気の回です。短めですが、さらさらっと箸休め感覚に。


 ○月□日 天気:曇り時々晴れ

 

『努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのなら、それはまだ本当の努力とは言えない』

 

 何処かで誰かがそう言った。

 

 私はその言葉を信じて、今ここにいる。ただ一つ気がかりなのは、その言葉が本当なのかというところだ。彼はここ一ヶ月間、すごい努力をしている。でもそれはまだ報われていない。少しくらいなら報われてもいいと思うのに、世界はまだ彼に厳しい。

 

 なんとかしてもっと彼の力になれないだろうか。いつでも直向きに、ずっと頑張る彼は幸せになるべきなのに、私はまるで彼の役に立っていない。かといって何をしてあげられるかも分からない。今日彼のいいところを褒めてみたけど、上手くいったのか怪しい。

 

 ……もう、私の馬鹿。弱気になってちゃダメ。せめて彼の気を紛らわせることを、何か……。

 

 

 

 

 

 ○月 △日 天気:晴れ

 

 今日は彼とお喋りをした。彼の趣味についてだ。これが彼のためになっているのかは分からないけど、適度な息抜きは大事だと思う。

 

 ……最近彼のことばかり考えている。何故かは分からない。でもずっとその調子だと絶対に仕事にも支障が出てしまいそう。早々に何とかしないと。

 

 今日は仕事の話も少しだけ。

 

 最近、哨戒での会敵の数が極端に減っている。なんだか変な感じ。でも本部から来た報告書を見る限り、この付近全体で敵の目撃例も減っているみたい。逆に北部ではかなりの規模の艦隊が現れたりしてるらしい。深海棲艦も戦略が変わってきているのかもしれない。要注意。

 

 

 

 

 ○月 ☆日

 

 少し前の話だけど、彼へのイジメが少し酷くなってるみたい。鈴谷さんにご飯にイタズラされたとか。もちろん普通のイタズラでもそうだけど、ご飯にイタズラするのはもっと許せない。……でも、正直彼女にも思うところは色々あると思ってる。彼女には彼女の過去がある。私がそれに口出ししても意味はない。彼の力で変えてこそ……って言うのは、私の言い訳になってしまうのかな?

 

 彼の気を紛らわせるためにも、少しずつ釣りについても勉強している。今度隙を見て行ってみたくなってきた。釣るなら"マメアジ"。彼も比較的簡単に釣れると言っていた。釣ってきたら南蛮漬けにでもしてみようかな。

 

 

 

 

 

 *月 ○日

 

 最近気づいたけど、潮ちゃんと彼がとても仲良くなっているみたい。二人だけの時はよく笑顔で話しているし、釣りも時々一緒に行っている。あの子はとてもいい子だし、彼も上手くやったんだと思う。とりあえず一安心。

 

 それになんだか数日前から、彼の目の色が変わった気がする。元々初めて会った時はいい目をしていると思ったけど、今はその時よりも数段澄んでいて、どこまでも見通せそうな目になっている。なんだかカッコ良かった。彼が頑張っているのに、私はやっぱり役に立ててないことが多い。あと一歩は近くて遠い。それとも私は逆向きにエスカレーターを登っているのかな? いつまで進んでもゴールにつけなさそう。。。

 

 たまには誰かに相談してみるのもいいかも。

 

 

  

 

 

 

 *月 □日

 

 今日、彼は本部に出頭していた。これはチャンスだ。隙を見て少しだけ彼の部屋から釣り道具を借りた(←ここ重要)

 

 すぐに返すから、ちょっとだけ。釣りに行くのは明日になるかな……ちょうど休みをもらえてて良かった。何か食べに行ってもいいけど、釣りもしてみたい。確か餌をまず買わないとダメなんだっけ? 近くの釣具屋さんを調べておこう。

 

 にしてもとても楽しみだ。彼があれだけハマっていることなら、楽しいに決まっている。最低限一匹でも釣れれば万々歳だ。

 

 さて、誰にもバレないように早くに起きて行かないと。今日は早めにお休みなさい。。。

 

 

 

 

 

 

 

「……赤城さん。電気消してもいいですか?」

 

「あ、いいですよ。早いとこ寝ちゃいましょう。明日休み貰っちゃってますけど、ゆっくり寝たいですから」

 

「それもそうですね。それでは、おやすみなさい」

 

「加賀さんもおやすみなさい……」

 




 これからも物語の展開のため、ちょくちょくこういうのを入れていく予定です。ある程度長くなったら、まとめみたいな感じで入れようかな、と思っています。

 こっからストーリーを本格的に組み上げていけるように、少しプロット書くので間が空くと思いますが何卒ご了承ください。のんびり待っていただけると幸いです。


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六投目 夜、響く水音

 今回は釣りもありますが、手軽にできる釣り過ぎてなんだか薄くなってます……。多めに見てやってください。。。


 部屋に漂う夏の匂い。窓枠に囲まれた夕暮れの紅い海がとても綺麗だ。どこからか風鈴の音も聞こえる。

 

「……うん。悪くない判断です」

 

 赤城さんが赤い線が引かれた書類を見て、そう頷く。

 

 この勉強を始めてから約一ヶ月。赤城さんから出された状況に対してどう判断を下すのか。その練習にも随分と慣れてきた。

 

「それはよかったです。でも、まだ上手くいけると思うんですよ……」

 

「うーん……まあ、戦いにはその時その時で時の運も絡んできますし、それに備えて色んな手を用意しておくのもいいですけど、これはその一手として十分機能する戦略ですよ。自信もってください」

 

「そう言ってもらえると嬉しいです。ここまで来れたのも赤城さんのおかげですね」

 

「いえ、そんな……笹原さんのお力も借りましたし、私なんてそこまでですよ」

 

 口ではそういうものの、頬を赤く染めているところを見ると褒められて喜んでいるらしい。彼女は顔に現れやすい。見せる顔見せる顔、その全部がちゃんと意味のある絵文字のように、何かを読み取ることができる。

 

「赤城さんも謙遜ダメですよ。自信を持つのが大事なんじゃないですか?」

 

 冗談交じりに言うと、赤城さんは僕の肩を軽く小突き、ありがとうございますと呟いた。本気ですよ、と僕が付け足すと彼女はもう一度肩を小突いてきた。ここ一ヶ月で彼女との距離がまた近づいた気がする。みんなともこのくらいの距離感になれるように、もう少し頑張らなければいけない。

 

 書類を片付けてから、彼女はいつものようにお茶を用意し始めた。鼻歌を歌いながら楽しそうにしている後ろ姿を見て、不意に口から質問が滑り出た。

 

「あ、赤城さん。そういえばですけど……」

 

「はい。なんでしょうか?」

 

「最近お休みの度に出かけてますよね。どこに行ってるんですか?」

 

 僕がそう尋ねたその一瞬。赤城さんを取り巻く空気が固まったように見えた。ピクリとも彼女は動かなくなる。お茶も用意する手も、軽くリズムをとっていた足も、扇風機に弄ばれていた髪さえも、止まった。

 

 彼女が動いたのは数秒間を開けてからだ。関節が擦れる音が聞こえそうなほどゆっくりと、彼女は振り向いた。

 

「……ど、どうしてですか?」

 

 心なしか彼女の顔色が先ほどよりも白い。何か悪いことでも聞いてしまったのだろうか。肩が上下に大きく動いているのが見て取れる。

 

「えっと……赤城さんってご飯食べるの好きですよね。だから、どんなお店に食べに行ってるのかなって思いまして……」

 

「あ、そ、そうですか。そういうことですか……」

 

 大きく一つ、赤城さんは息を吐いた。例えば、大切なスピーチの終わった後に吐くような、そんなため息だ。

 

 湯呑みに氷を入れて、急須からお茶を注ぎながら彼女はうーんと首を捻らせた。

 

「……色々行ってますけど、お気に入りは『三八』*1ですね。ご飯がおいしいのはもちろんですけど、あそこは働いてる皆さんが優しくて、心も満たされます」

 

「へぇ……今度行ってみたいですね」

 

 いいことを聞けた。最近は色々と余裕がなく、鎮守府外に出かけることはほとんどなかった。たまには行ってみるのもいいかもしれない。

 

 まだ見ぬ麺に想いを寄せていると、執務室のドアが小さく4回鳴った。

 

「失礼します。提督、今大丈夫ですか?」

 

「いいよ。何か用かな、潮ちゃん」

 

 開いたドアの影から潮ちゃんが出て来る。彼女ともずいぶんと仲良くなった。釣りにも一緒に何回か行ったし、時には昼食をここで話しながら摂ることもあった。

 

 ドアの側から何故か離れない彼女は、後ろにチラリと目を向けた。それを追って、少し横から覗き込むように体を傾ける。するとぴょんと跳ねた髪の毛がひょっこりと現れた。誰か隠れているらしい。

 

「ねぇ、電ちゃん。出ておいで」

 

「……はい、なのです」

 

 潮ちゃんの背後から、彼女より一回りほど小さい少女が出てきた。小さなその体を一層縮こませて、顔を俯けている。

 

「電ちゃんが、提督と一緒に釣りに行ってみたいって……ね? 電ちゃん」

 

 潮ちゃんの問いかけに、顔を俯けたまま小さく頷いた。恥ずかしがり屋なのか、それとも僕が怖いか。どちらにしろ、彼女がここに来るのには相当の勇気がいるはずだ。僕に興味を持って、来てくれただけでもありがたい。

 

 椅子から立ち上がり、一歩近づくと電ちゃんはまた潮ちゃんの背中へと隠れていってしまった。リスとかモモンガとかそういった小動物を連想させる雰囲気をしている。

 

 彼女とは話した記憶がほとんどない。初めて会った時の記憶も定かではない。ただいつも、彼女の周りには誰かがいたことを覚えている。

 

 きっとそういう才能というか、体質なのだろう。みんなと仲良くできるいい子という印象が強い。でも僕とは話そうとしなかった。いつも僕がいると、離れたところからじっと様子を伺っていることが多かった。

 

「……電ちゃん」

 

 数歩離れたところで足を止め、屈んでそっと呼びかける。電ちゃんはまるで巣穴から顔を出すように、顔だけを覗かせた。

 

「釣り、一緒に行ってくれるの?」

 

 コクンと一回、首を縦に振る。僕はそれに微笑みで応えて、手持ち無沙汰に帽子を直しながら腰を伸ばした。

 

「それじゃあ、行こうか。潮ちゃん、ご飯の後に電ちゃんのも含めて、帽子とタオルと水筒を用意してくれるかな?」

 

「分かりました。行こ、電ちゃん」

 

 潮ちゃんの背中に張り付いたまま、電ちゃんも部屋を後にする。ドアから出る時にこちらを一瞥した目からは恐怖の色は読み取れず、むしろ好奇心に溢れたようにさえ見えた。

 

「……電ちゃん。好奇心旺盛な子なんですけど、ちょっと人見知りなんです」

 

「それなら、尚更僕に近づこうとしてくれて嬉しいですね」

 

「そうですね……では提督。本日はここまでということで、楽しんできてくださいね。電ちゃんとも仲良く」

 

「了解です。ありがとうございました」

 

 赤城さんに一礼して、部屋を出た。

 

 ……ドアを跨いで、安堵の息が聞こえたのは気のせいだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 完全に夏の暑さにやられた僕は鳳翔さんに断りを入れて、夕食におにぎりを自分で用意している。自室で口に塩むすびを咥えながら竿を三本用意する。ちょっと長めの、渓流釣りに使えるものだ。

 

 今日やるのは夏の風物詩としても名高い"ハゼ釣り"*2だ。少し歩くことになるが、基地の敷地の隅っこに良さげな河口がある。そこで前々からハゼ釣りをしてみたいと思っていたのだ。

 

 クーラーに氷と缶ジュースを数本。イソメを買いに行く時間もないので、スーパーでなんとなく買ったボイルされたサクラエビと魚肉ソーセージを袋に入れて持っていくことにする*3

 

 準備ができたら、あとは制服からTシャツ*4に着替えれば、もう提督の面影すらない。まあ、いつもないのだが。

 

 目立たない黒い帽子を被って、鎮守府の門まで向かうと既に二人が待っていた。

 

 潮ちゃんはうなじを隠すように生地が伸びている蒼い帽子*5を、電ちゃんは大きめの麦わら帽子を頭に被るというより嵌めていた。水筒を肩にかけて並んで立つ二人は、家族映画の姉妹のようで微笑ましかった。

 

「ごめん。待たせちゃったかな」

 

「いえ、今来たところです。お気遣いありがとうございます」

 

「ちょっと歩くけど、水だけはしっかりとってね」

 

 分かりましたと頷く潮ちゃん。電ちゃんもほんの少しだけ顎を引いた。

 

 僕が先導して道を行き、その後ろを潮ちゃんが。そのまた後ろを電ちゃんがついて来る。まるでRPGの並び方だなと、思わずクスリと笑ってしまった。

 

 長い夏の日を横目に歩く僕らを(はた)から見たのなら、きっとどこか既視感を覚えるだろう。どこか哀愁の漂うような、懐かしい雰囲気を僕は感じていた。

でも、不思議と寂しくない。なんだか心地よかった。

 

「提督。風が涼しくなってきましたね」

 

「そうだね。昼もこのくらいだといいんだけど」

 

「電も……暑いのは苦手です」

 

 か細い声だったが、電ちゃんの呟きは確かにそう呟いた。振り向きたくなったが、なんとか堪える。今振り向いたら、何処かへ逃げていってしまいそうな気がした。

 

 夜風と共に歩くこと十数分。海から少し離れた川に着いた。川幅は広く、既に水中は闇に包まれかけている。川の周りはコンクリートで囲まれていて、水面は一段低いところにあった。

 

 手にかけた小さなランプに灯りをつけると、ほんのりと光が洩れる。ホタルのような柔らかい光だ。

 

 竿を二人に手渡し、袋からエサを取り出す。

 

「サクラエビと……魚肉ソーセージ? サクラエビはまだ分かりますけど、魚肉ソーセージで釣れるんですか?」

 

「そこそこ釣れるよ。切り方を工夫しないといけないけど」

 

 魚肉ソーセージの袋を剥き、ナイフで細く長く切り、*6二人に差し出した。

 

「これを針につけて……これでよし。タラシは1、2cmにしてね。あと、ここら辺は多分水深が腰までくらいだから、ウキ*7下はそれくらいに」

 

「ウキってどうやってタイミングとるんですか?」

 

「完全に沈み込んだら竿を上げてね。チョコチョコ動くだけのときは、まだ突いているだけで飲み込んでないから、焦らないように」

 

 自分の竿を用意だけしておいて、足元に置き二人の元へ向かう。電ちゃんはこんなので魚が釣れるのかとでも言いたげに、不思議そうな表情で仕掛けを眺めていた。

 

「電ちゃん。一回、やってみようか」

 

 一歩ほどの間を開けて、隣に立つ僕に視線を移した彼女は、二回続けて首を縦に振った。

 

「それじゃあ、まず針を沈めちゃおう。それ」

 

 掛け声に合わせて、電ちゃんは竿を前に出した。チャポン、という音と共に赤いウキがぼんやりと闇に浮かんで見える。ぷかぷかと円形の波を立てながら、それは漂い始めた。

 

「これで……どうするんですか?」

 

「待つんだ。魚が来るまで、のんびりとね」

 

 電ちゃんは立ったままじっと、ウキを眺め始める。ハゼは上手くいけばすぐに釣れるが、時間的にその状況になるのは厳しいかもしれない*8。ただボウズ*9になることもよっぽどないはずだ。

 

 夏の夜。時間はゆったりと流れる。

 

 僕は星がチラつく空を眺めて、ぼーっとする。ラインを垂れ流して、細やかな考え事をする。待ちの釣りの楽しみ方の一つだ。

 

 ふと、脳裏に鎮守府のみんなの顔が浮かんだ。僕が着任したばかりの頃の、まだみんなが笑っていたころの記憶だ。あの頃に戻れるのか、少し前まではとても不安だった。でも、潮ちゃんや電ちゃんを見ると常々思う。

 

「『想いと行動が一致すれば、結果はいつかついてくる』……」

 

 これは祖父の、僕に向けた最後の言葉だ。

 

 家の真っ白な布団の上で、海の男の面影を残した彼は弱々しくも芯のある声で僕に言ったのだ。

 

 お前は不器用な男だ。でもいい。不器用ながらも、いや、不器用だからこそ突き進める。想いと行動が一致すれば、結果はいつかついてくる。一致させるのはお前にとっては難題だ。でも、やるんだ。やってみせろ。俺がやれたんだ。お前がやれないわけがない、と。

 

 力なく首を枕に垂れた祖父の顔が目に、周りの泣き声が耳に。まだこびりつき、残っている。

 

 僕はようやく歩き始めることができた。祖父の言葉を実現することだって、できるはずだ。

 

「……し、司令官さん!」

 

 懐かしい記憶に浸っていた僕を、電ちゃんの声が連れ戻した。

 

「ウキがぴょこぴょこしてるのです……!」

 

「うん。落ち着いて。まだ上げちゃダメだよ」

 

 明らかに焦りの色が見える電ちゃんをなだめ、ウキに目をやる。彼女の言った通り、それは一層強い波を立てていた。

 

 横揺れしたり、時折静かになってそれから急に動いたりするウキは、まるで生きているようだ。

 

 まだ早い。まだ早い。

 

 電ちゃんと自分に何度も言い聞かせる。

 

 そしてついに、ウキがポチャンと音を立てて沈んだ。

 

「今だ!」

 

「え、えいっ!」

 

 電ちゃんが竿を持ち上げる。暗がりから現れた道糸の先に、小さな影が見えた。

 

 影は陸に上がると跳ね回る。電ちゃんは小さく悲鳴を上げながらも、それを両手で掴んだ。

 

「……釣れちゃいました」

 

 10cm程度のサイズで、何をするにも面倒くさそうな顔をした魚。紛うことなきハゼだ。

 

「電ちゃん、やったね!」

 

「やりました!」

 

 潮ちゃんと電ちゃんがハイタッチする。僕はとりあえずほっとして、クーラーを開くことにした。氷をまんべんなく敷き詰めていると、隣に電ちゃんが来た。肩が触れ合いそうな距離だ。

 

「……し、司令官さんとも、ハイタッチしたいのです」

 

「ああ、もちろん」

 

 僕が差し出した手に、彼女の小さな手が優しく打ちつけられた。小さくポンっと、音がする。

 

 電ちゃんは太陽みたいに明るい笑顔で、ありがとうございます、と言ってくれた。僕も微笑み返して、どういたしましてと答える。

 

「私も負けてられないですね」

 

「電ももっと釣るのです……!」

 

 目の色が変わった潮ちゃんも、僕に心を開きかけてくれている電ちゃんも楽しそうだ。釣りの魅力が伝わってくれていて、僕も嬉しい。

 

 置いておいた自分の竿を手に取り、僕も始めることにする。一番熟練者として、負けるわけにはいかない。

 

 しかし、仕掛けを投げ込もうとした瞬間、背後から冷ややかな声がした。

 

「……まったく。時雨と山城さんに聞いてきてみれば……何でこんな奴と一緒に釣りをしてるんだい? 電」

 

 涼しくなった空気が凍る。首筋に冷たい汗が線を描く。

 

 息を呑み、ゆっくりと振り向くと、そこにはこちらを睨む白い髪の少女がいた。

 

「響ちゃん……」

 

 静かな河口が緊張の色に染まる。

 

 どこかで魚の跳ねる音が響き、闇夜に消えていった。

*1
鎮守府から一番近い街にあるラーメン店。店主が長年の研究の末に作り出した"エビ辛味噌"を使ったスープは、離れた土地にも常連客を作り出す。赤城さん曰く「半ライスにスープ混ぜみな。飛ぶぞ」とのこと。

*2
竿と仕掛けだけがあればできる簡単な釣りで、家族で遊ぶのにも最適な手頃な釣りだ。難易度は低め。場所さえあれば毎日でも楽しめる。

*3
エサの代用がききやすいことが、ハゼ釣りの手軽さの理由の一つだ。

*4
今日は釣りTシャツ。背中に『釣り人魂 −三つ子の魂ツヌケまで−』と書かれている。※ツヌケとは、一つ二つといった数え方において、十になったときに「〜つ」と数えるのをやめることから、十匹以上魚を釣ったときに用いられる表現。

*5
僕がこの前プレゼントしたものだったりする。売れ残りで税込¥1,280の5割引だったのは内緒だ。

*6
イソメやゴカイをイメージするといい。

*7
釣りに使われる道具で、糸につけて浮かせることで魚が針を突くのが分かるようになるもの。様々な種類があるが、ここで使われているのは丸いタイプ。

*8
基本的に、日の出と日の入りの時間帯に魚は釣れやすい。それを「朝マズメ」「夕(ゆう)マズメ」と言う。

*9
何も釣れずに帰ること。家族がいると恥ずかしかったりする。




 この物語の電ちゃんはちょっと静かです。

 次の話でまた色々とゴタゴタがあります。頑張れ主人公!(無責任)


 そういえば、アンケートの結果から「釣り要素を潰さない程度にストーリーを織り混ぜていく」という体制をとることにしました。

 ただ、後半になってくると戦闘描写が多くなり、数話の間釣り要素が皆無になる可能性があります……ご了承ください。

 お気に入り登録してくれた方が多すぎて、面白い話を出さなきゃとプレッシャーがすごいのなんの……なんとか頑張りますのでこれからもよろしくお願いします。


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七投目 囁く夜風

 釣りに行きたい作者は「ファミリーフィッシング」をまた一から始めましたとさ……。

 今回は釣り要素薄めです。若干の戦闘要素が入ってますので、何かおかしな点がありましたらご指摘をお願いします。その都度修正いたします。




 体がうまく動かない。肺に空気を取り込めないし、出すこともできない。

 

 焦ってはいけないことは重々承知している。ただ、シャツに滲む汗は動揺の色を隠しきれていない。湿っぽい暑さが、シャツと一緒に体に纏わり付く。

 

「電、あれだけ言っただろう? 信用しちゃダメだって……」

 

 響ちゃんが足音を立てながら、そっと釣竿を手にした電ちゃんに歩み寄った。口を開けたまま、呆然としている彼女の手を掴む。

 

「悪いことは言わないさ。さあ、帰ろう」

 

 こちらに目もくれることなく、優しく手を引く。自分が透明になっているのではないかと錯覚するほど、僕を気にも留めず極々自然に。まるで社交ダンスの相手を誘うように。

 

 しかし、電ちゃんはその場に立って一歩も動かない。首を横に振りながら、小さく口を開く。

 

「……で、でも」

 

「"でも"何だい?」

 

 囁くような声に響ちゃんは噛み付いた。その目からは、どんなことを言われても反論できるという自信と余裕が垣間見える。

 

「て、提督さんはとても優しくて……一緒に居たいんです」

 

「ほう。それは面白いね」

 

 響ちゃんは手を離さず、顔だけをこちらに向けた。首筋が冷える。

 

「君、とっても優しいらしいね……じゃあ、電から離れてあげてよ」

 

「……どうしてかな?」

 

「どうしてって、それは悪影響だからだよ。この子はとても繊細で傷つきやすいんだ。もし何かあったら責任取れるのかい?」

 

 自分が正義だと言わんばかりに、響ちゃんは呆れた顔をしてフッと息を洩らした。

 

「本当に優しい人だったら、そうしてくれるはずだよ」

 

 皮肉っぽく微笑み、彼女は手をヒラヒラさせた。

 

 ……どうするべきか。

 

 思考を巡らせ、必死に考える。

 

 僕としては電ちゃんとも、そしてゆくゆくは響ちゃんとも仲良くしたい。でも彼女はどうだ。僕のことを完全に敵としてしか認識していない。今この状況で無理に電ちゃんを引き止めれば、ただえさえ深い彼女との溝が割れることは避けられない。でも電ちゃんはそれを望んではいないだろう。

 

 でも。ただ。しかし。

 

 ……一向に考えがまとまらない。釣竿を握る手が無意識のうちに強くなる。駄目だ。完全にあがっている。こんな状態じゃ思いつけることも思いつかない。

 

「……何も言わないってことは、了承してくれたってことでいいのかな?」

 

 一呼吸置きたいのに、響ちゃんの口撃はそれを許してはくれなかった。

 

 額から垂れた汗が目に入り、じんわりと滲みる。それでも瞬きすらできない。

 

 視界が揺らぎ始めて、頭が真っ白になってくる。吐き出せない息が胸を押し付ける。

 

 ……ふと、僕の背中に手が置かれた。

 

「提督は人を傷つけるような方ではありません。私が保証します!」

 

 隣を見ると、潮ちゃんが唇を強く結んで肩を上下させていた。背中から微かに震えが伝わってきたが、それはむしろ彼女の決意と勇気を際立たせていた。

 

「潮姉さん……何を言ってるんだい? そんなことどうして分かるって言うのさ?」

 

 響ちゃんは驚き半分、呆れ半分でため息を吐きながら言った。潮ちゃんは普段滅多に聞かないような、大きな声で答える。

 

「ここ一ヶ月。私は提督のことを近くで見てきました。一緒に釣りも行きましたし、ご飯も食べました。少なくとも"あなた"よりは提督のことを分かっています」

 

「へぇ、そう。でもそれは嘘かもしれないよ?」

 

「嘘なんかじゃありません。本当の優しさだと、私は身に染みて知っています。それに……提督は嘘がつけるほど器用じゃありません!」

 

 ……もうちょっと言い方がある気もするが、この際どうだっていい。彼女が手伝ってくれれば2対1。数的有利が取れる。もっとも、相手がその程度で怯まないことは分かりきっていることだが。

 

「まあ、それは言えてるかもしれないね」

 

「だったら……」

 

「でも、潮姉さん。人間っていうのは、本人にその気がなくても私たちを傷つけることがあるんだ」

 

 響ちゃんが首筋に手をかけ、その銀の髪をそっと救い上げた。潮ちゃんは何かを思い出したかのように息を呑む。

 

 薄暗い夜の中、小さなランプの光が細い首をそっと浮かび上がらせた。

 

「……っ!」

 

 僕は唾を飲むことも、声を上げることもできなかった。ただ呆然とした。

 

 ……彼女が救い上げた髪の向こう。白いうなじに、離れたところから見ても分かる大きな傷がついていた。相当時間が経っているように見えるが、肌は未だに赤黒い。

 

「論より証拠ってよく言うだろう? これがそれかな」

 

「……で、でも」

 

「知らないとは言わせないよ?」

 

 声のトーンも、表情も変わっていないのに、その一言には強い圧がかかっていた。隣から激しくなる呼吸の音が聞こえ始めた。

 

「潮ちゃん? どうし……」

 

「ごめんなさい、提督。わ、私にはもう……」

 

 潮ちゃんは俯き、小さく呟いた。背中に置かれた手は力なくずり落ちる。

 

 あの傷が何なのか分からない。ただ、それが響ちゃんの敵意の原因の大部分を占めているであろうことは、潮ちゃんの様子から明らかだ。

 

「それじゃあ、提督。電は貰っていくね。大丈夫、君の元には二度と行かないようにきつく言っておくからさ。これからの心配も何もいらないよ」

 

 彼女が一層強く手を引いた。電ちゃんはよろけて、半ば無理やり引っ張られていく。

 

「……ちょっと待ってくれ」

 

 僕はようやく一声出した。額を垂れる汗もそのままに、まっすぐと目を向ける。

 

 潮ちゃんが声を上げてくれたおかげで、一呼吸置くことができた。一つだけ、賭けを思いついた。

 

 僕の声に響ちゃんは足を止めて、ゆっくりとこちらに体を向ける。

 

「何かな? 正直、なるべく君とは話したくないんだけど」

 

「……電ちゃんの意見を、もう少し聞いてあげてくれないか?」

 

 他人任せ。酷いかもしれないが、それが思いついた唯一の賭けだった。これ以外には何もできる気がしなかった。僕が何を言おうが、彼女に響かないことは明白で、だったら誰の言葉が届くかと言えば、一番近い電ちゃんの声だろう。

 

 我ながら情けない。言い訳もできない。電ちゃんに頼るほかない自分の手腕を恥じる。僕には力がないから、他人に頼る以外にできることはまだ少ない。いくら戦術の勉強をしても補えない部分がそこにはある。

 

 ……人見知りな少女に、僕は一縷(いちる)の望みを賭けるしかない。

 

「……君、本当に司令官なのかい? 人任せって、ねぇ」

 

「僕らが言い合ったところで、どうにもならないはずだよ。これは電ちゃんの問題だ。彼女の意見を尊重すべきだ」

 

「そんな決まりきったこと、聞くまでもないさ。電も本当は君のことなんて信じてないよ。怖いから、雰囲気に流されているんだ」

 

「そんなことは……」

 

「私は生まれてからずっと、電のことを近くで見てきた。一緒に過ごしてきた。少なくとも"君ら"よりも、彼女のことを分かっているよ。ね、潮姉さん?」

 

 青い目が、僕の隣に立つ少女を捉える。彼女は微かに震えていた。

 

「さて、これ以上は時間の無駄だね。潮姉さんも一度しっかりと考え直し……」

 

「響ちゃん!」

 

 電ちゃんの声が響ちゃんを引き止めた。一瞬時が止まったような感覚に包まれた。予想外だったのか、響ちゃんは目をパチクリさせている。

 

「……提督さんの言う通り、私の話を聞いてくれませんか?」

 

 絞り出すように電ちゃんが声を出す。僕の言葉が引き金となったのか、それとも無理をさせる重りになってしまったのか。どちらともとれるような話し方だった。

 

 ただ彼女がどうにかしてくれようとしていることだけは確かだ。ここは任せるしかない。

 

「電? 一体何を……」

 

「私は提督さんと……色んな"人"達と仲良くしたいのです!」

 

 空気を切り裂くような電ちゃんの言葉が辺りを揺らした。途端に響ちゃんの目の色が変わる。

 

 彼女は掴んでいた手を離し、勢いよく電ちゃんの胸ぐらを引き寄せた。

 

「電! 人間がどんな生き物か忘れたのか?!」

 

 鼻が当たりそうな距離で、彼女は捲し立てた。電ちゃんはそれに対して激しく首を横に振る。

 

「忘れてないです! "あの人"がしてくれたこと、私たちにくれたもの、一緒に過ごした楽しかった時間。全部、忘れてないです!」

 

「確かにあの人はそうかもしれない。でもあの人も結局は人間で……」

 

「響ちゃんこそ忘れちゃったんじゃないですか! 優しくて、元気で、いつも頼れる私のお姉ちゃんは何処へ行ってしまったんですか!」

 

 電ちゃんの目元が、ランプの光を反射して光る。彼女は小さく震えながら、響ちゃんの肩を掴み揺さぶる。

 

「響ちゃん、目を覚ましてください。また一緒に……」

 

「目を覚ますのは君の方だよ、電。いい加減、幻想は捨てるんだ。あれは全部夢だったんだよ。悪い悪い夢だったんだ」

 

「そんなこと……」

 

「あるんだよ、そんなこと。今から人間が優しくしてくれたとして、私の傷痕は治るのかい? 感じた痛みはなくなるのかい?」

 

 響ちゃんは胸ぐらから手を離した。そして穏やかな表情を見せる。まるで自分が冷静であるかのように装っている。色のない目から、そんな状態ではないことは明白だと言うのに。

 

 彼女はゆっくりと電ちゃんへと近づく。

 

「ねぇ、電。"あの人"は私たちに確かに幸福をくれたかもしれない。でも、それは絶望に落とすための餌だったんだよ。彼女は悪くないかもしれない。私たちはまんまと"人間"の作った罠に引っかかった……」

 

 パシンッ。

 

 闇夜に一つ、甲高い音が響いた。一瞬、何が起こったか僕にも分からなかった。

 

「……私の好きな響ちゃんはそんなこと言いません!」.

 

 ふと気づいた時には、頬を抑える響ちゃんと、振り向きもせずに走り去る電ちゃんがいた。

 

 慌てて潮ちゃんが電ちゃんの後を追いかけて行き、僕は呆然としたままそこに佇むことしかできずにいた。

 

「……電。どうして、どうして……人間なんかのことを……」

 

 響ちゃんがうずくまり、嗚咽を洩らし始めてようやく、僕は動くことができた。

 

 と言っても何をすればいいかも分からず、ただ響ちゃんの背中を撫でることしかできなかったのだが。

 

 あんなに僕を睨んでいた彼女の背中はとても小さく、か弱かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……これは独り言だよ。ただ風に聞いてもらっているだけさ」

 

 響ちゃんは河原のへりに腰掛けて、しゃがれ声でそう言った。目には未だに煌めきが残っている。

 

 僕は何も言わずに、彼女の独り言(かぜ)に耳を済ませることにした。

 

「数年前のこと。私が前にいた鎮守府の提督は変人だったんだ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 あの鎮守府はなんというか、いい意味でおかしかったよ。艦娘と提督の距離がとても近かったんだ。私と電は毎朝提督に寝癖を治してもらっていたし、一緒にお風呂に入ってた。

 

 ……あ、もちろん提督は女性だよ。そうだね、今いる鎮守府の〈提督〉より2、3歳上の歳だと思う。明るくて、カッコいい人だった。

 

 その提督、名前はアカネさんって言うんだけど、自分のやりたいことはなんでもやる人だった。

 

 空母を見て弓道をやってみたり、漫画を描いている子を見て自分も描いてみたり。本当になんでも。

 

 彼女も鎮守府(ここ)の〈提督〉によく似た思想を持っていて、艦娘だからと言わずに、私たちと友達のように、時に自分の子供のように、尊敬すべき偉人のように接してくれた。幸せだった、本当に。あの日々はその一言に尽きるよ。

 

 ……彼女について語り尽くすには、ちょっと時間がないから、またの機会にしようか。

 

 それで、私達はもちろん艦娘だから、戦わないといけなかった。アカネさんは私達が戦うことが好きではなかったけど、平和のために、みんなのために、そして自分とその艦娘(家族)のためにって言い聞かせて、指揮を執っていた。

 

 彼女の目標はいつも『平和』にあった。

 

 私達が"普通の幸せ"を手に入れられるようにってのも、大きな理由だと言っていたよ。そのこともあってか、彼女は常に昇進を求めていた。上に行って、もっと色んな艦娘達(友達や家族)を作って、みんなで楽しくできる世界にしたい。そんな想いがひしひしと伝わってきたよ。

 

 それで、ある時。大規模な作戦に参加することになってね。上手くやれば昇進にも近づく、もしかするとすぐに昇進ってのもありえるくらいのものだった。

 

 その作戦内容なんだけど、敵主力部隊の殲滅が目的だった。

 

『目撃、戦闘事例が相次いだ敵のエリート空母とその取り巻きを叩く』

 

 この作戦は四部隊合同でね。本部の精鋭遊撃部隊の協力もあった。

 

 作戦内容はこう。私達が先鋒部隊となって、敵艦を捕捉した地点へと向かう。この時、他部隊は近くの離島の陰で待機。

 

 先鋒部隊は敵艦と数分間交戦。艤装のトラブルで戦闘続行が困難となり撤退……っていうシナリオの演技をする。弱った獲物が慌てて逃げていくんだ。追いたくなるのが生き物の性さ。

 

 連絡系統が麻痺したかのように見せかけて、チリヂリに逃げる。そうすれば敵艦も分かれて追ってくると踏んだんだ。あえて敵艦の方が数的有利を取れるように人数を調整したからね。向こうに分かれる躊躇を与えないようにしたんだ。

 

 そしてその後離島で待機している他部隊の元へと逃げていき、そこで二次戦闘開始。島の影からの奇襲での動揺、そして数的有利を取り返した私達が敵艦を撃沈。そういう流れだった。

 

 簡単に言えば誘導作戦だね。先鋒部隊には機動力が必要になるから、私や電みたいな駆逐艦がメインの部隊になった。流石にオンリーだと怪しまれるから、いくらかそれ以外も交ざったけど。

 

 作戦は慎重に計画され、不測の事態に備えていくつものプランを用意された。*1正直、失敗する気がしなかった。それくらいに綿密な計画だったんだ。

 

 迎えた作戦当日。

 

 私達が行こうとした時、アカネさんに呼び止められた。彼女は一人一人を鼓舞するために、声をかけてお守りを渡した。

 

 私には、なんていうんだっけ? ルアー?*2 だったかな。釣り道具の魚の模型みたいなのをくれたんだ。

 

 風さん(提督)なら分かると思うけど、ルアーって色んな種類があるらしくてね。デザイン重視の、ふざけているんじゃないかって思われるようなものもあるでしょ?*3

 

 私がもらったのはその仲間みたいなもので、真っ白な体に青いビーズの目が埋め込まれた、綺麗なものだった。本来針があるところにチェーンが通っていて、首にかけられるようになっていたよ。

 

 ……嬉しかったなぁ。アカネさん、釣りも始めようとしてて、その時に見つけたらしいんだ。

 

『響ちゃんみたいで可愛いから買っちゃった」って。

 

『無事に帰ってこられるように願いを込めてあるから、安心して自分のできることをしてね』って。

 

 あの時、電は確かヒマワリの髪留めをもらっていた筈だけど……最近見てないね。

 

 それで、作戦は始まった。

 

 私達先鋒部隊は指示通り、敵艦が確認されている海域に向かって、簡単にそれを捕捉することができたよ。

 

 そして戦闘(のふり)開始。一緒にいた島風ちゃんの名演技もあって、敵の誘導は簡単に始まったよ。

 

 私は電と龍田さんと一緒に誘導を始めた。

 

 確か駆逐艦3隻と空母ヲ級が私たちの後を追って来ていた。そこまでは想定内だった。でも、途端に作戦は崩れた。

 

 奴ら、全部分かってたんだ。私達が誘導しきるまでに全力で仕留めに来た。具体的にいうと、駆逐艦が途中で私達の航路を読んで先回りして、逆に挟撃にあったんだ。あの読み方は待機部隊が何処にいるか見当がついてないとできない動きだった。激しい戦闘が起こったよ。こちとらせいぜい駆逐艦二隻と軽巡一隻。制空権を取る取らないの話じゃないさ。圧倒的に不利な状況で戦わなければならなかった。

 

 ……途中で龍田さんが私達を先に行かせるために、止まって真っ向勝負をしかけた。もちろん、結果は分かっていたさ。彼女は、轟沈こそしなかったけど右手と左目を失った。

 

『天龍ちゃんとお揃いの眼帯ね』なんて言って気にしてないようなそぶりを見せていたけど、人のいないところでずっと泣いてたことに気づかないほど私は鈍臭くないよ……。

 

 一方私達だけど、龍田さんと別れた後、すぐに敵艦に追いつかれた。合流地点まであと少しってところだったんだ。

 

 もう駄目だと思ったけど、せめて電だけは助けたかった。どこかのドラマみたいに、敵艦の前に立ちはだかったよ。

 

 ……ご察しの通り、この傷はその時のものさ。傷が深すぎて、入渠では治らないんだ。ずっと、私に付き纏うんだ。

 

 こんなこと言うのはいけないことだと思うけど、龍田さんのことを見ると私はラッキーだったんだなって。

 

 これまでの話を聞いて、作戦は失敗したってことが分かるだろ?

 

 ……なんてね。実は作戦は成功したんだ。

 

 何故かって? 結論から言えば、全部計画通りだったんだ。

 

 本部の作戦立案者達は、深海棲艦がこの程度の作戦を読めないほど馬鹿じゃないことまで見越して、この計画を立てた。

 

 "私たちにうわべだけの誘導作戦を伝え、その誘導時に敵艦を消耗させる。そして消耗させた敵を仮初の合流地点から出て一気に叩く"

 

 最初からそういう作戦だったんだ。私達は囮だったんだよ。

 

 奇襲は島の陰からだと思い込んでいた深海棲艦達は、動揺のままに撃沈された。

 

 ……さて、ここで一つ疑問が浮かぶよね。

 

 あの人は、アカネさんはこれを知っていたのか。

 

 ……はっきり分からないけど、知っていたと思うよ。

 

 あの作戦の後、彼女のことを私は見ていない。すぐさま本部勤めに昇進したんだ。彼女からの直接の指示はほとんどなかったけど、先鋒部隊は予想以上の被害を受けていた。それはその艦隊を創り上げた提督に責任があるはずなのに、彼女は何故か昇進した。

 

 答えは簡単。本部に昇進を餌に釣られたのさ。きっとね。

 

 彼女は昇進を望んでいた。それは私達のためだったはずなのに、天秤では昇進の方が重かったらしいね。

 

 ……裏切られた気分だったよ。

 

 でもね。お守りをくれた時の彼女の言葉と笑顔がどうしても頭から離れないんだ。

 

 本当にあの人は昇進のために私達を犠牲にしたのか。何か裏があったんじゃないか。

 

 その真実は未だ分からない。

 

 一つだけ言えるのは、私はまだ彼女を信じている。

 

 彼女という"存在"をね。そして同時に、人間という"存在"を信じないことにした。

 

 ……矛盾してるだろう? でもこれが今の私なんだ。

 

 もしアカネさんが人間という生き物じゃなければ。彼女も艦娘だったら……例え深海棲艦であっても、きっともっと仲良くなれて、別の未来があったんだろうって思うことにしたんだ。

 

 今の〈提督〉に睨みをきかせてしまうのは、そのせいだよ。人間が嫌いで、怖いんだ。

 

 この人間も私を裏切ろうとしてるんだ。人間だからみんな裏切るんだって思うんだ。だから彼女が裏切ったことも自然なことなんだって、そういうことにしているんだ。

 

 結局全部私の我儘なんだ……」

 

 

 

 

 

 

 響ちゃんはこちらを見た。僕の見たことのない、優しい微笑みを浮かべて。底の知れない悲しみをたたえて。

 

「ねぇ、風さん(提督)。私はどうすればいい? どうして欲しい? いなくなって欲しいなら、私はそうする。慰めて欲しいなら、私はそうするよ」

 

「……」

 

 僕は、何を言えばいいか分からなかった。

 

 どうして欲しいかなんて、何もない。ただ僕は仲良くしたい。でも、ここでそれを言うのは本当の意味での救いにはならないだろう。

 

 彼女の目が僕を見つめる。真っ直ぐと、歪みのなく。僕が今までに見た誰よりも、救いを求めている目だった。

 

 ……だからだろうか。気づいた時には僕は言葉を口に出していた。

 

「自分を信じて欲しい」

 

「……えっ?」

 

「君には、自分をまず信じて欲しい。

 

 誰かを信じると言うことは、まずその人を信じる自分を信じるってことだと思うんだ。君には自信を持って欲しい。"その人"を信じることも、〈提督〉を信じることもしなくていい。まずは自分を信じるんだ」

 

 僕は風らしく、そっと囁く。

 

「そしたら、きっと本当に信じるってことができると思うんだ」

 

「本当に、信じる?」

 

「ああ。信じるって言うのは、一方的に誰かを信用することじゃない。互いに道を踏み外そうになった時に正し合う、双方向の関係だよ。アカネさんが道を踏み外したと思うなら、君が正してやればいい。時には一緒に道を踏み外したっていい。

 

 君の力で彼女を人間じゃなくしてあげよう。必ず裏切る、人間っていう型から外してあげればいい。僕はそうしてみて欲しいね」

 

 微笑んだ僕に対して、響ちゃんは俯いた。彼女の膝に、水滴でいくつか染みができる。しかし、僅かに見える彼女の口角は上がっていた。

 

「……ははは。そう、だね。それだけのことだったんだね。信じるっていうことを、よく理解していなかったみたいだ。あー、私、何してたんだか」

 

 響ちゃんは大笑いした。涙を目に溜めたまま、こぼさないように空を見つめて。

 

「風さん……ありがとう。私、色々と分かったよ」

 

「それはよかったよ」

 

「せっかくだし、そうだな。〈提督〉のこともとりあえず"人間"じゃなく〈提督〉としてみることにしようかな。評価をゼロに戻して、これからの活躍を見て決めることにするよ」

 

 響ちゃんは立ち上がり、スカートについた砂を払った。そして大きく一礼して、風に向かいお礼を叫んだ。

 

 風は去っていった。

 

 〈提督〉ぼくが立ち上がろうとすると、彼女は手を差し伸べてきた。

 

「……努力の姿勢から、今はプラスかな」

 

「なんの話だい?」

 

「さぁね」

 

 響ちゃんの細い手に引かれて、僕は立ち上がる。彼女の華奢な手には、想像もできない力が宿っているように感じた。

 

「電と仲直り……できるかな?」

 

「きっとね」

 

 通り過ぎていった風が彼女に何をもたらしたか。それは分からないが、やっぱりそろそろ風も少しは自信を持ってもいいのかもしれない。

 

 電ちゃんが去った方へ駆け出した背中と、揺れる髪に見え隠れする傷を眺めながら、僕は道具を片付けて始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……で、結局どうなったんだい? それ』

 

「今日、二人が一緒に執務室に来てくれた。響ちゃんはルアーをぶら下げて、電ちゃんはひまわりの髪留めをつけて。二人とも可愛らしかったよ」

 

『そいつはよかったな』

 

 電話口から聞こえる笑い声。豪快に笑う彼の姿が、それだけでも目に浮かんだ。

 

「それで、笹原にお願いがあるんだけど……」

 

『おう、大体分かったぞ……"アカネさん"のことだな?」

 

 彼は肉体派に見えて、実は非常に頭もいい。察しがいいことからもそれが窺えるだろう。

 

 本部とは彼も関わりが決して深いわけではない。でも、彼の方が交友関係が広いのは明らかで、頼れる人は彼くらいしか思いつかなかった。なんでもかんでも頼るのは駄目だと思うが、どうしようもないことならそうするしかない。

 

「うん。とりあえず探してほしい。どんな状況なのかまで知りたいけど……難しいかな?」

 

『うーん。何とも言えないな……できる限りはするから待っていてくれ』

 

「ありがとう。今度お礼するよ」

 

『おっ、何してくれるんだ?』

 

「ラーメン奢るよ。いい店を聞いたんだ」

 

 ちょうど昨日赤城さんに聞いた店がある。彼女の舌は十分信用にたるものだということはもう分かっている。お礼にもなるだろうし、僕も行ってみたい。

 

「『三八』っていうんだけど、美味しいらしいよ」

 

『ん? 『三八』?』

 

 反応を見る限り、彼も知っているようだ。でもまあ、それはそれで知っている店のメニューだから安心して奢りに行くことが……。

 

『あそこ、確か半年前から店主が癌治療のために店閉めてたはず……というか、あそこの店員にオレのダチがいるんだが、退院したけど復帰は来月になるって言ってたぞ?』

 

「えっ」

 

 ……赤城さんは"最近"の休みのことを聞かれて、あの店の名前を出した。少なくとも半年も前に行った店の名前が出てくるというのはおかしくないか? 

 

 今思うと、あの時彼女は少し動揺していたような気もする。もし店に行っていないとするなら彼女は何を?

 

『……おい? どした。大丈夫か』

 

「……あ、ああ、大丈夫」

 

 彼の言葉で飛んでいきかけた思考が戻る。

 

 きっと赤城さんのことだ。印象の残った店が咄嗟に出てきてしまったのだろう。

 

 心配もいらないはずだ。

 

 ふと海の声が聞こえて窓の外を見ると、遠くから積乱雲が登っていくのが見えた。不穏な気配が漂う空色に、僕の心は何故か揺れていた。

*1
誘導の初期段階で失敗した際、待機部隊を含めて四方からの挟撃を狙うことになっていたり、最悪の場合の逃走ルートも用意していたよ。

*2
魚を釣り上げる道具の一つで、魚の模型のような形をしている。基本的に小魚を食べるような大型の魚を釣るのに使われて、色んな種類があるらしいよ。

*3
例えば、空き缶のカラーリングがされたもの。メタリックに装飾された特撮映画風のものが実際にあるよ。




 追記 
 ちょっとした編集の事故がありまして、一瞬途中から切れていました……申し訳ありませんでしたm(_ _)m


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第二章 釣りバカ提督は誰かのために。
八投目 暖かい海上で


 時間が空きましたが物語が随分と固まってきました。

 今回、試しに流れを意識するために脚注を減らしてみたのですが、いかがでしょうか?


 

 午後三時。僕は執務室の机の上に広げたノートと睨めっこしていた。

 

「……酸素魚雷は他の方式と比べて雷跡を引きにくい。雷跡っていうのは魚雷が通ったところに出てくる空気のことで、それが少ないことで居場所がバレにくいっていうことか」

 

 ノートに置いた重石の消しゴム。扇風機の首振りは解除してあってずっと僕の方を向いているから、これで留めて置かないとページが次々とめくられてしまう。

 

 今日この部屋には僕しかいない。赤城さんは外出届を出して、どこかに行ってしまった。もちろん時には休息が必要だろうし、仕方がないことだ。自分一人でも出来ることはたくさんある。それに、いつまでも頼ってばかりはいられない。

 

 このノートは赤城さんが昔からコツコツ書き続けてきたものらしく、何度も読み返した痕がついていた。これを見る限り、彼女はセンスでなく努力であそこまで辿り着いたのだろう。その事実は努力しかできない僕に、大きな勇気をもたらした。

 

「……さーん!」

 

「うん?」

 

 どこからか、誰かを呼ぶ声が聞こえた気がする。窓は開いているし、外に誰かいるのだろうか。

 

「提督さーん!」

 

「……えっ、僕?」

 

 確かに今、提督さんと呼んでいた。しかし一体どこから。

 

 窓の外へと身を乗り出して辺りを見回してみたが、日の照りつける地面と伸び伸びとした青草しかない。かと言って廊下側からでもないはずだ。もしそうだったらノックでもしてくれるだろう。

 

「提督さん! 下です。足下です」

 

「下? ……あっ」

 

「やっと気付いてくれましたね。ちょっと遅いですよ」

 

 声に従って見下ろした床の上には、小さな少女が立っていた。精一杯の背伸びをして、両手でメガホンを作って。

 

「こんにちは、フユちゃん」

 

「こんにちはです。提督さん、釣竿の修理が終わりましたので報告に来ました」

 

「ありがとう。ごめんね。いつも頼っちゃって」

 

「いいんです。提督さんはいい人だって、私は分かってますから」

 

 そう言ってフユちゃんは顔をくしゃくしゃっとまるめて笑った。

 

「提督さんのおかげで、私たちの使命がまっとうできてるんですよ。妖精の言葉が分からない人間だと、こうはいきませんから*1

 

 フユちゃんはこの鎮守府の妖精の中でリーダー的存在の子だ。大きさは掌サイズで、妖精の中でも小さい方。それに彼女は他の妖精のように機械をいじったりすることがあまり上手ではない。でも彼女はみんなから信頼されている。

 

 理由は至極簡単で、彼女は自分のことを一番理解していてみんなのことも一番理解しているからだ。一人一人の性格と得意不得意を完全に覚えて、時間やペースを管理することができるという能力にもそれが表れている。

 

 僕はそんな彼女のことを尊敬していて、目標の一つの参考として色々と最近は学ばせてもらっていたり。

 

「にしても、釣竿やリールの損傷具合を見る限り、前と比べて多少マシになったみたいですが、イジメがなくなった訳じゃなさそうですね……提督さん、無理はしてないですよね?」

 

「大丈夫だよ。今は前と違って仲良くしてくれる子もいるし、釣りにも行けるし」

 

「だったらいいんですけど……あ、そうだ。これ提督さんのですよね。落ちてましたよ」

 

 フユちゃんは用事を思い出したようで、机の下から何かの冊子を引っ張り出してきた。

 

「娯楽スペースの端っこにあったんです。シーバスってスズキのことですよね。釣れたら私も食べてみたいです」

 

 渡された冊子はどうやら釣り雑誌らしい。表紙にデカデカと『シーバス好調! 今年の流行はシャロー狙いだ!』と書かれている。

 

 シーバスというのは海で釣れる魚で、大きいものでは80センチを超えるものもいる。小型のサイズも少なくないわけでなく、大きさによって名前が変わる出世魚としても有名だ。分からない人に説明する時は、どう○つの森で釣られる度に「またお前かー!」って言われるスズキという魚のこと、といえば大抵理解してくれたりする。

 

「提督、少し気になったんですけど"シャロー"ってなんですか?」

 

 フユちゃんが顎に指を当て、尋ねてきた。

 

「シャローっていうのは水深が浅いところのことだよ。シーバスなら、基本はルアー釣りだから、そのルアーが浅いところ用のものってことかな」

 

「ルアーってあれですよね。魚の模型みたいなやつ」

 

「そうそう。でも、僕、ルアー釣りあんまりしないんだよね。この雑誌も僕のものじゃないし……」

 

「あれ、そうなんですか。おかしいですね。酒保にも置いてない雑誌で、わざわざ街に買いに行かないと手に入らないものですから、てっきり提督のものかと」

 

 手に持った雑誌は今月の初めに出たもののようだ。でも僕は今月釣具屋には行ってないし、別の専門誌を定期購読しているから他のものを買うことはまずない。だったら一体これは誰のものなのだろう。潮ちゃんは最近竿を欲しがっていたけど、投げ釣り用の万能竿を買うと言っていた。電ちゃんと響ちゃんは時折ハゼ釣りに行ってるみたいだけど、そこからシーバスに飛躍することは考えにくい。かと言って他に釣りに興味がありそうな子に心当たりはない。

 

「誰のかなぁ、これ」

 

「私にも心当たりは……あ、そういえば赤……」

 

 フユちゃんはなにかを思い出したのか小さく声を上げた。でも、口を開いたままその先を言おうとしない。フリーズしたパソコンのように、動きが止まってしまっている。

 

「ふ、フユちゃん?」

 

「……テイトクサン、ワタシ、ナニカイイマシタカ?」

 

 高低の全くない機械のような声に、圧を感じた。

 

 首を横に振るとフユちゃんは「シツレイシマシタ」と言い残し、そのままカクカクとした動きで窓から飛び出していってしまった。妖精は身軽なのでよくそういうことをする。だからその行動自体、別段驚くことでもないが、状況からどう考えてもやましいことがあったようにしか思えない。かと言って追いかけて問い詰めるような趣味は僕にないので、彼女の言いかけたことは扇風機のせいで聞こえなかったということにしておいた。

 

 机の上に取り残された雑誌を手に取り、なんとなく開いてみる。

 

『夏本番到来! 夏の風物詩、テナガエビを釣りに行こう』

 

『筏ダンゴの新定番、新商品"ギョギョ魚スープ"の使い方徹底解説』

 

『今野プロが教える、オカッパリシーバスの心得』

 

「結構ポップな雰囲気だなぁ……最近はこういうのも増えてきたのかな」

 

 僕が読んでいる雑誌はかなり真面目な雰囲気のもので、下手したら教科書と間違われそうなほどマニアックなことまで書いてある。しかし最近は十代、二十代の人も釣りを趣味にすることに多くなったからか、手軽に取り込むために明るい雰囲気にした雑誌や店も増えてきている。

 

 ページをパラパラとめくっていく。すると、折り目がついていたのか、あるページが開かれたところで紙が止まった。

 

「……あれ、このページ切り抜かれてる」

 

『アマチュア投げ釣り大会、一位は三年連続の大川さん! 上位に常連が並ぶ中に謎の美女現る?!』という見出しで始まるそのページの下部の方が、真四角に切り取られていた。釣り人の中には記事を集めてスクラップブックにする人もいるから、不思議なことではない。でも、大会の記事を切り抜くときなんて大抵の場合、自分もしくは知り合いが入賞したときくらいだ。

 

「……ひょっとして誰かこの大会に」

 

「失礼します。提督、お茶を淹れに……って、なにしてるんですか?」

 

 扉の方に目を向けると、そこには加賀さんがいつもと変わらない顔で佇んでいた。いや、いつもより若干視線が鋭い気がする。その視線の先が、僕が持つ雑誌に突き刺さった。眉毛がほんの少しだけピクリと動く。加賀さんは間を置いて、わざとらしいため息を吐いた。

 

「……赤城さんに『提督がきっと頑張って勉強してるからお茶を淹れてあげてください』と頼まれたので渋々来たというのに……サボっているとは何事ですか? 赤城さんの想いを踏みにじっています」

 

「い、いえ、それは誤解で……」

 

「誤解でもなんでもないです。ただの事実です。それは没収です。お茶もなしです。赤城さんにも報告します」

 

 加賀さんは素早く雑誌をむしり取って、僕に背中を向けた。無駄のない動きに、抵抗もできずただそれを眺めることしかできなかった。

 

「少しだけ見直そうかと思っていた私が馬鹿でした。では、失礼しました」

 

 重苦しい扉の音が部屋に反響する。

 

 扇風機の風が僕を慰めるように頬を撫でていく。世界はどうしてこうも上手くいかないのだろうか。

 

「……でも、加賀さん、ちょっとだけでも見直そうとしてくれてたのか……よかった」

 

 未だに僕は無線機から聞こえる苦しむ声と、帰還した時に見た血塗れの背中をよく夢に見る。ずっと頭にこびりついて離れなくなったそれは僕の首を絞め続けていたけど、ちょっとだけそれが緩んだ気がする。

 

「これも挽回しないといけないし、また頑張るか……」

 

『いい姿勢だ。成長が感じられる』

 

「えっ?」

 

 後ろから聞こえた声に振り向く。しかし、執務室にはやはり誰もいない。窓の外にも人がいる気配はない。ただ、絵画のように海の見える景色が広がっているだけだ。

 

 前にもこんなことがあった気がする。確か響ちゃんと龍驤さんに絡まれた時だった。あの時もよく分からない声が聞こえたんだっけ。

 

「聞き間違いかな? でも、確かに……」

 

 窓の外から日が燦々と降り込んできている。暑さで頭がおかしくなってしまったのかもしれない。

 

 なんにせよ、この声の正体は分からない。考えたって仕方がないことだ。

 

 とりあえず今は忘れて、自分のやるべきことをやらなければいけない。

 

「……コーヒーでも買ってくるか」

 

 頭を冷やす意味も兼ねて、階下にある自販機に向かうことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 昼過ぎの鎮守府にはあまり人がいない。演習に出ていたり、訓練をしていたりするからだ。それは僕には好都合なこと。周りのことを気にせず歩ける。

 

 自販機の端の方にいつもある缶コーヒーを買って、その場で空けて一口飲んだ。

 

 キンキンに冷えた感覚が喉元を通り越して、体を覚ましていくのが分かる。苦いものが好きなわけではないけど、落ち着くときにはこういう味のものが一番いい。

 

「せっかくだし、釣竿も貰いに寄って行こうかな」

 

 妖精がいる工廠は一階の奥の渡り廊下を行った先にある。執務室からは遠いので、今行った方があとあと楽になるだろう。

 

 コーヒー缶を一気に煽って、ゴミ箱に落とす。カランカランと心地よい音が鳴った。

 

 真っ白な清潔感のある廊下は浮世離れしていて、改めてここが普通ではない場所だということを認識させる。ふと、その奥から誰かが歩いてきた。手には僕の釣竿が握られている。向こうも僕に気づいたのか、手を振って駆け寄ってきた。

 

「提督、ひと段落ついたのでとっどけに来ましたー!」

 

「あ、明石さん。ありがとうございます」

 

「釣り好きなのは分かりますけど、もっと道具は大事に、ですよ!」

 

「は、はい。気をつけます」

 

「まあ私は修理ができれば楽しいのでいいんですけどね!」

 

 明石さんはそう言って鼻を掻いた。手にオイルがついていたのか、掻いたところが真っ黒になっている。

 

 明石さんはこの鎮守府で数少ない僕の味方……というわけでもない。言ってもただの知り合いか、その程度の間柄だ。でも、他の子と決定的に違うところがある。それは彼女が"イジメに関して無頓着"というところだ。正確にいうと、無頓着というよりそのことについていっさい知らないのだ。

 

 大規模作戦にほとんど参加しないこの鎮守府では、四六時中工廠に篭りきりで彼女は何かを作り続けることしかしていない。他に工廠に興味がある子もいないここでは、話す相手も妖精さんだけでその内容も機械のことばかりらしい。そのせいか、いつになっても彼女は僕に対して何の隔てもなく接してくる。他の子と関わりがないというのは心配だ。でも、彼女はそれでも幸せそうなので放っておいているけど……やっぱりどうにかしたほうがいいのだろうか。

 

「少しは日の光を浴びてくださいよ。吸血鬼じゃないんですから」

 

「ははは、溶接の光なら浴びてますよ! まあ、誰か機械よりも興味を持てる人でも現れれば嫌でも出ますから、しばらく放置しててやってください」

 

「そう言ってずっとじゃないですか……」

 

「そんなに心配なら誰か紹介してくださいよ。では、私はまた機械いじりの続きをしてくるので!」

 

 冗談をスラスラと言った彼女は、待ちきれないと言った様子で駆け出していった。やっぱり幸せなのかもしれないけど、心配なことに変わりはない。かと言って紹介できる相手なんていないし……今度笹原にでも会わせてみようかな?

 

 なんだかいつか彼女が戻ってこれない場所に行ってしまわないか心配になった僕は、真面目にそんなことを考えた。

 

 執務室に戻る前に竿を自室に戻さなければならない。来た道を帰って、階段を上がる。踊り場まで登り切ったところで、背後から鉄の音がした。脊髄反射で振り向くと、何故か空き缶が階段を踊り落ちている。カランコロンと音を響かせながら。

 

「一体どこから……? 捨ててこないと」

 

 そう言って登った階段を降りようと足を踏み出したその時。

 

 ドンっと、背中に衝撃を受けた。そして景色がスローモーションになる。何も分からぬまま、階段の角が近づいてきて僕の額にぶつかった。頭が真っ白になる。

 

 それから世界は等速に戻った。空き缶を追って、僕は階段を踊り落ちた。体のあちこちに強い衝撃と鋭い痛みを覚えながら、大きく音を立てて。

 

 ようやく体の回転が止まったとき、仰向けに僕は寝転んでいた。首だけがどこかへ飛んでいってしまったのではないかと思うほど、体に感覚はない。ただ、腕だけは酷く傷んでいて、首を傾けると横たわっているのが見えた。

 

 見えるものは白い天井と階段と、おかしな方向に曲がった僕の腕。階段の上に立ち尽くす誰か。そして、それらが赤く染まっていくところだった。

 

 意識が、込み上がってきた暗闇に呑まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づくと、僕は海の上にいた。

 

 穏やかな波音と日差しが僕を包んでいる。体はふわふわとしていて、足元にある海面が地面のように支えてくれていた。

 

『まったく、欲望というのは銃弾よりも怖いものだな』

 

 横から柔らかな声が聞こえた。いつからか時折、どこからともなく聞こえてくるあの声だ。首を横に回すと、声の主人(あるじ)はそこにいた。

 

『こうして君が私を見るのは初めてだな。まあ、いつも今のことを見ていた私としては、特に違和感はないんだが』

 

 肩までもない灰色の短い髪とそこに巻いた黒い鉢巻。話している女性はそんな格好をしていた。

 

 腕を組み、遠くを見ながら彼女は話し続ける。

 

「……君は誰なんだ?」

 

『さあな。それを知るにはまだ早い。今回こうして君の頭の中に入った理由は別件だ』

 

 こちらに目を向けた女性はとても澄んだ瞳で、端正な顔立ちをしていた。しかし、背中に背負っている四基、計八門の主砲が彼女が人間ではないことを物語っていた。

 

『時間もあまりないから本題に入らせてもらおう。聞きたいこともあるだろうが、今回は我慢してくれ』

 

「……分かった」

 

『ふむ、物分かりがいい奴は嫌いじゃない』

 

 彼女はそう言い、ゆっくりと海面を歩きながら近づいてきた。目の前まで来ると、僕の服の襟を掴み、引き寄せた。吐息がかかるほどまで近くに彼女の顔がある。

 

『ドキドキするか? こんな美人が至近距離にいると』

 

「……残念だけど、混乱が勝ってます」

 

『はっはっはっ。まあ、それが普通だ』

 

 女性は上げた口角を押し戻し、目を細く真っ直ぐ僕の目の中に向けた。低く、重たい声で尋ねてきた。

 

『質問だ。君はどこを目指している?』

 

 どこを、目指しているか……?

 

 そんなことは決まっている。

 

「僕はみんなから尊敬される司令官に……」

 

『そうじゃない。それはこの前も聞いた。私が聞きたいのはその先だ』

 

「その先?」

 

 聞き返した僕に、彼女はああ、と頷いて応える。

 

『そんな司令官になった後、君はどうする? 物語はエンディングにたどり着いた後も続く。理想としている人間になることは簡単じゃないが、君ならできると私は思っている。だからこそ、その後はどうしたいかを知りたい。単なるエピローグにするには勿体無いほど長い時間だ。ただ堕落的に、形式的に過ごす。それでいいのか?』

 

「……」

 

『確かにまずは目先にある目標を達成するのは大切だ。でも、その先も見ろ。そこには、何がある? 何があってほしい?』

 

 彼女の言いたいことは、頭の良くない僕にもよく分かった。

 

 きっと彼女はこう言いたいんだ。

 

 "君は、この戦争をどうしたいんだ?"

 

 ……考えたこともなかった。今あることをやることにいっぱいいっぱいで、その先に何があるかなんて。

 

「分からない。まだ、分からないな……」

 

 僕が正直にそう答えると、彼女はそうだろうな、とでも言いたげに鼻でため息をついた。

 

『これに関しては期待していなかったから、まあいい。でも、忘れないでくれ。

 

 "夢が達成された段階で、人生が終わるわけではない"

 

 この泥沼の戦争をどうしたいのか、よく考えておいてくれ。それが私の、いや私たちの願いだ』

 

 彼女は襟から手を離し、ズレた鉢巻の位置を直した。

 

 彼女の正体が何かは分からない。でも、少なくとも敵とは思えなかった。

 

『今度会うときは、他のやつも一緒に挨拶に来てやった方がいいかもしれんな。それぞれ言いたいこともあるかもしれんし、アドバイスしてやれるかも分からん。残念だか、私は戦術などを考えるのが苦手でな』

 

「他にも君みたいな子がいるのか?」

 

『さて、どうだろうか。またのお楽しみとしておこう。それじゃあ、またな』

 

 彼女はゆっくりと僕の頬に手を寄せ、そして思いっきりつねった。

 

『痛みは一番の薬だ! こいつも覚えておくといいぞ!』

 

 彼女の声が頭に反響する。次の瞬間、僕は暖かい海の中に落ちていた。

 

 意識が、今度は白い光に呑まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……目を覚ますと、白い天井があった。起き上がろうとすると、右手に激痛が走った。よくよく見ると、包帯でグルグル巻きに固定されている。

 

 痛みによって一瞬で荒くなった呼吸を落ち着けてから、辺りを見回す。

 

 白い棚に並ぶ薬品。窓から見える穏やかな紅い海。ここはどうやら鎮守府の医務室らしい。時刻は夕方だろう。

 

 何があったのか、海を眺めながらぼーっと思い出す。痛む腕のおかげで目はもう覚めていた。

 

 そうだ。僕は階段から……。

 

 大体のことを思い出した辺りで、扉の開く音が聞こえた。

 

 首だけを動かして目を移すと、赤城さんが扉を閉めているところだった。彼女はこちらに体を向けて、僕の顔を見た。そして目があったことに気づいたのか、一瞬動きを止める。それから、勢いよく駆け寄ってきた。

 

「提督っ! よかった……よかったぁ」

 

 彼女は僕の左手を痛いくらいに強く握った。その手はとても、暖かかった。

*1
妖精の言葉が分かる人間と分からない人間の差は明らかになっていないが、今の段階では潜在能力的な要素が強いと考えられており、努力うんぬんではないとされている。



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九投目 誰かとみんな

 ……失踪かと思いましたか?

 残念、忙しかっただけです()

 今回の文章は短いですが、ストーリーは考えていますので何卒お許しを……。


「……衛生妖精*1さんによると腕は早くても全治三ヶ月。頭は九針縫って、打撲もいくつか。あたりどころが悪かったら、今ここにはいないとのことです……はぁ、本当に良かった」

 

「ごめんなさい……僕の不注意で心配かけてしまって」

 

「本当ですよ。不注意にも程があります。心臓バクバクで私の方が死んじゃうかと思ったんですから」

 

 そんな僕を詰る言葉とは裏腹に、赤城さんは柔らかく微笑んでみせた。その優しい笑顔に釣られて、腕の痛みが少し和らぐ。

 

 実を言うと、この怪我は"僕の不注意"で負ったものだと彼女には伝えている。

 

 もちろん、それは嘘だ。あの時、誰かが僕の背中を押したことは確かだった。でもそれを言ってしまったら、きっと彼女は世界中の悲しみを全て1人で背負ったような顔をしてしまうだろう。そう思うと、とても伝えることができなかった。誰にも言えないものを胸の奥に飼い殺して、僕の姿を見るたびに心を痛める姿なんて見たくはない。

 

「……ああ。これでしばらく釣りは無理ですね。バチが当たったんでしょうか?」

 

 わざと冗談めかして言うと、赤城さんは首をそっと横に振る。

 

「そんなことないですよ。提督は頑張っていますから、神様がこんな仕打ちをするわけがないです」

 

 赤城さんは包帯で巻かれた僕の腕をそっと撫でた。撫でられたところがじんわりと熱くなる。でも不思議と痛みはなく、むしろ心地よい感覚に驚いたくらいだった。

 

「人には隙というものが絶対ありますから。そう自分を責めないでくださいね」

 

「隙、ですか……」

 

「ええ、そうです。私にだってありますよ」

 

 ふと空き缶が転がっていく音が頭の中に響く。あの時の僕にも確かに隙があったのかもしれない。誰かが後ろに立っていようと、全く気づかないほどの大きな隙が。

 

 誰にだって隙があるとしても、何の気配も察せないというのは致命的ではないか。仮にも僕も軍人なのだ。これから先、また隙によって何らかの事故に巻き込まれてしまうことも十分考えられる。それを防ぐためにも、何か対策でも考えなければならないだろう。

 

「さてと、提督。夕ご飯お持ちしますね。食べさせてあげますよ!」

 

「え、いや、悪いですよ。なんとか自分で食べますから……」

 

「大丈夫ですよ。遠慮しないでください。どうせただ食べさせてあげるだけで……」

 

 不意に赤城さんが言葉を切った。

 

 何事かと見上げると、汗を額にダラダラと浮かべて口をもごもごさせている。喉に言葉が詰まっているように、小さく息に混ざった声を出している。何があったのかと声をかけようとすると、彼女は胸のあたりからゆっくりと、タコが茹で上がっていくように彼女は赤く染まっていった。

 

「……今日は! 麻婆豆腐です!」

 

「あっ、はい」

 

 赤城さんは無理やり話を歪めて、クルリと背中を向け、歩いていく。焦っていたのか、思い切り入り口のドアの部分に肩をぶつけて鈍い音が鳴った。相当痛いそうに見えたが、そんな動作を一切見せず、行ってしまった。動揺していることは明らかだが、その理由が分からない。

 

 赤城さんを見送った惰性で、朗々と蛍光灯の灯る白い廊下を眺めていると、横から声が聞えた。

 

「一航戦にも弱点はあるんやなぁ……」

 

「……弱点? って、な、何してるんですか龍驤さん」

 

 振り向くと、窓の外から龍驤さんがひょっこりと顔を出していた。どうやら今まで暗闇の中に潜んでいたらしい。全然気が付かなかった。

 

 よいしょ、という掛け声とともに、彼女は身軽に窓を跨いで室内へと入ってきた。ひらりと赤色の服の裾が揺れる。

 

「おいおい待ってや……気づいとらんのか。これだから男っちゅうもんは」

 

「……何か用ですか?」

 

 思わず僕は上体を起こして身構えた。彼女にはあまり手を出せれたことはないが、いい思い出があるわけでもない。本能的に体に力が入り、体温が上がったのを感じた。

 

 警戒していることにに気づいたのか、彼女は慌てて両手を前に出して、止まれのポーズをした。

 

「て、敵意はないで! 安心しい」

 

「……」

 

「ほ、ほんまやで! とりあえず話だけでも聞いてや」

 

 彼女の額に一筋、尾を引いて汗が走っていた。警戒を解くかどうかは後回しとして、ゆっくりと首を縦に振ると、彼女は安堵の息を漏らした。

 

「突然でごめん。堪忍してな」

 

「別にそれは構いませんが……それで何の用ですか?」

 

「えっと、アンタのその怪我に関係することや」

 

 怪我に関係すること……ただお見舞いに来たというわけではないだろう。だったら犯人を知っているとか? いや、それを僕にリークしたところで得はないし、むしろそれがばれたら艦娘間での彼女の立場に関わってくるはずだ。

 

 頭の中で思考が駆け巡るが、出す予想はどれもピンとこない。結局結論も出ないまま、彼女が言葉を繋いだ。

 

「とりあえず、最初に言わせてもらうと艦隊の、この鎮守府の危機かもしれんっちゅう話」

 

「この鎮守府の、危機?」

 

「ああ、そうや。順を追って説明するで……」

 

 彼女はベッドの脇に置かれたパイプ椅子を開き、そこに腰かけた。腰を据えて話したい、という意思表示だろうか。長くなりそうだ。

 

「まず、今回の件がもう噂になってるのは前提として置かせてもらうで。さっきまでうちも食堂でご飯食べとったんやけど、みんなひそひそ話しとった。十中八九、アンタのことや。隣に居った高雄と愛宕に聞いたら、第二発見者やった鳥海から広がったらしいしな。そこまでは分かるとして、その後がちょっち引っかかった。その噂、誰かが故意的に落としたっちゅうおまけ付きやったんや……」

 

「もう、犯人がいるっていうことが確定してるってこと?」

 

「そうや。そこんとこ、その反応見る限り、アンタも確信はないんやろ? でもまあ、こんな鎮守府やで、いない方が不自然って考えるのが妥当やね。

 

 それで事件の噂が今広がって行ってる状態。多分、明日中には全員に伝わるやろ。で、ここで問題や。次は何が起こると思う?」

 

 この次……? 

 

 今の段階で噂が広まっているということは、その噂が広まり切った後に何が起きるか、ということだろうか。

 

 事件の噂が起って、その後どうなるか。頭の中で軽く自分に当てはめてみた。もし、自分の家の近所で事件が起きたと聞いたら、どう思うか。

 

 少し考えてから、一つの答えにたどり着いた。

 

「もしかして、犯人捜し?」

 

「ご名答。その通りや」

 

 彼女は指をパチンと鳴らして頷いた。それと同時に、こちらを見る目つきが一層厳しくなったように感じた。

 

「きっと艦娘たち(私ら)の次の話題は犯人が誰かっちゅうことになるやろう。それに関係して、一つ教えたる。実は、最近アンタに手を出すことがタブーとして扱われ始めてきたんや。薄々、アンタも気づいとるやろ?」

 

 彼女は手でこちらに同情を求めた。

 

 思えば釣り道具に悪戯される頻度も下がってきているし、その度合いもかなり柔くなっている。今朝受け取りに行った釣り竿も、前と比べると折られ方が丁寧というか、悪意が感じられなかった。なんとなく感じていたことは、実際そうだったらしい。

 

「その理由はまあ至極全うで、アンタの努力が実を結び始めたからや。今まで何もできんかったやつだからこそイジメとったのに、急に艦娘たち(自分ら)のためにあんなに頑張ってくれとるなんてことになったら、やる側も胸糞が悪いからなあ。そういうこともあって、暗黙の了解ができ始めた。まだ若干続いとるかもしれんけど……それはじきに解決するやろ。アンタも努力を誇っとき。凄いことやで」

 

 帽子の陰から覗く彼女の目はまっすぐで、嘘を吐いているようには見えなかった。本当なら少し嬉しい。

 

 でも、そんな小さな喜びを感じる暇も与えないままに、彼女は話を続ける。

 

「でもそれがアカンかったんや……手を出すことがタブーになった今、こんな大怪我をさせた奴が同じ鎮守府にいると知ったらどうなるか。艦娘らも人間と同じや。分かるやろ?」

 

「……イジメの対象が移るってことか」

 

 僕の答えに対して、彼女は渋々と頷いた。

 

「生き物は、特に感情をもっている奴らは、何かを失った時に代わりを求めたがる。今までみんな、アンタっちゅうストレスのはけ口に頼っとったんや。それが使えなくなった今、丁度よくこんな事件が起こってまった。誰かが、第二のアンタになる可能性が高い。そうなればこの鎮守府がどうなるかは、ご察しの通りや」

 

「そんな……」

 

 龍驤さんは一息つくと、帽子を脱ぎ、腰を深く曲げた。突然のことに僕は驚いた。

 

「頼む。どうかこの鎮守府を、みんなを救ってほしい!」

 

 頭を下げた龍驤さんの表情は確認できなかったが、頬が微かに引きつっていた。

 

 みんなを救ってほしい。

 

 その言葉に込められた重みが肩にじわじわと圧し掛かる。考えれば考えるほど、息苦しくなっていく。誰を助けるということは言うほど簡単ではない。

 

 僕にその力があるなんて到底思えなかった。

 

 ……でも、それが救いを乞う声を切り捨てる理由にはならないことも、僕は知っている。

 

「分かりました。僕でよければ、できる限りのことをさせてもらいます」

 

「ほ、ほんまか!」

 

 龍驤さんの顔がぱっと明るくなった。

 

「よかったあ……うちだけやと何もできへんからなあ。よしよし、これでなんとかなるかもしれん」

 

「でも、みんなを救うってどうするんですか? 僕にできることなんて、そこまで多くないですけど……」

 

「ああ、そこらへんは大丈夫や。みんなを救ってやれば、おのずと道は拓けてくるはずやでな」

 

 龍驤さんはポケットからシンプルなメモ帳を取り出した。ページのいくつかにカラフルな付箋が貼られており、紙もしおれていて年季の入った物であることは容易に分かった。

 

「ここに、みんなの悩みやトラウマがある程度やけど書いてあるんや。ただこの事件の犯人を見つけて、その子の動機やらなんやらを聞いて解決したところで、ほとんどのみんなが何かを胸に秘めた此処では、絶対になんか問題が起きてまう。だからこれを機に、みんなを救っていくんや。もちろん、道は険しいやろけどな」

 

「でも、進まないとたどり着けないですよね」

 

「千里の道も一歩から、やな」

 

 きっと前までの僕なら、こんなことできっこないって諦めてたんだろうな。

 

 でも、今は違う。誰かのために動きたいと、強く思うことができていた。

 

*1
衛生兵的立ち位置の妖精。各鎮守府に最低1人は配属されており、入渠に至らない程度の怪我の治療を主に請け負う。



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