姉がV(なんか)やってる (坂井山)
しおりを挟む

多分これは姉じゃない

「暑っつー」

 七月の第三週、最高気温は三十度を超えた真夏日、何の変哲もない公立高校の教室内にて、学期末の定期試験を終えたばかりの小笠原優也《おがさわらゆうや》は自分の机に頬を当てて、夏の暑さに負けたバニラアイスが如くデロデロに溶けていた。

「ユウ、どうだったよ試験」

 ぐだりと溶ける優也に、団扇片手に自らの顔面に風を送りながら語りかけてきたのはその友人、中田建士《なかたけんし》。

「あー、なんか微妙」

 優也が顔を持ち上げると、木目に汗でへばりついていた頬がぺりぺりと音を立てて剥がれた。机には頬の形の跡が残る。

「どうする? この後、どっか行く?」

「羽伸ばすかぁ」

 三日間ある定期試験の日程も本日が最後。部活動も今日までは休みだし、優也は部活以外に予備校にも通っているが自身でコマを選択するタイプの予備校であるため、前もって「今日くらいは」と授業を入れていない。

 そして本日は金曜日。明日明後日は土日で、さらに一週間もすれば夏休みに入る。

 目下一番の山場を乗り越えた高校生男子にとって、これほどテンションの上がる一日は中々ない。

「何処行く?」

 建士が問う。と言っても未成年の学生が遊びに行ける盛り場なぞそう多くはない。カラオケ、ゲーセン、ファーストフード。たまにいる少しやんちゃな奴らがライブハウスに行ったり行かなかったり。生憎優也たちは至って平凡な高校生。選択肢はそう多くはなく。

「……カラオケ?」

 疑問系で返した答えにどだい文句などあるはずなく、建士は優也とその他大勢のいつもの面子に声を掛けて、都合六人の野郎連中でカラオケ店に放課後向かうこととした。

 

 

 

「天国だわー」

 放課後、と言ってもこの間にあったのはホームルームくらいなものであって、時間自体は大してまたいでおらず。学校が終わり次第自転車に跨って、炎天下の中十五分それを漕いで、カラオケ店に入って店員に通された部屋に入って、ガンガンに稼動するエアコンの前に仁王立ちする建士がそんな声を上げた。

「どうする? なんか頼む?」

 備え付けのメニューを開いて確認する優也。

「フライドポテト《いも》」

「ロシアンたこ焼き」

「金ないからいい」

 周囲から寄せられた意見を統合するとこの三つ。清貧たる男子高校生からすれば至極納得のいく回答が返ってきた。

「じゃあ芋とたこ焼き頼むから」

 フロントに繋がる受話器を手にしたところで、既に友人の一人が選曲を終えて軽快なメロディーが大音量で流れだしていた。

 

「ウォイ! ウォイ!」

 ノリノリでタンバリンを鳴らしながら合いの手を入れる馬鹿。

「一人にしないでとボクは叫ぶよー!」

 それに浮かされてノリノリで歌う馬鹿。

「……」

 一切歌を聴かずにデンモクで曲を探す馬鹿。

「俺さぁ、最近これにハマってんだよねぇ」

「何これ」

 やはり歌を聴かずに世間話をする馬鹿二人。

 男子高校生が遊んでいるときは大抵馬鹿である。

 それでいいしそれが楽しい。ついでに言うと残りの一人はフリードリンクをいいことにガブ飲みしてトイレ行っている馬鹿である。

 世間話する馬鹿の片割れこと建士がもう一方の馬鹿こと優也に見せてきたのは自身のスマホ、そのYouTubeアプリだった。

 建士のYouTubeオススメ画面にはずらりと美少女キャラが並んでいる。

「知らん? VTuberっつうの」

「あー、名前はなんか聞いたことある。声優みたいな奴でしょ」

「おー……まあそれでいいや。うん、大体あってる」

「お前説明めんどくさくなってんだろ」

 建士が斜め上を見ながら頷くときは概ね説明が面倒になって放り投げているときだ。優也は高校に入ってからの付き合い、短さではあるがそれくらい分かる程度に付き合いは深かった。

「面白いから見てみって」

「この人たちは何してんの?」

「えっ、哲学聞いてくんのやめてくんね」

 いやそうではなく。

 優也は突っ込んだ。

「どんな活動してんのって聞いてる」

「あ、そゆこと。えー、歌ったり? ゲームしたり?」

「……これ言っていいかわかんないけどさ」

「何よ」

「それ普通のYouTuberでいいじゃん」

 言った途端、建士に天を仰がれた。

「っはー! 分かってない! 分かってねえわーこの男!」

「そら分かってないよ名前聞いたことある程度だし」

「いいか? 二次元の美少女がやってるのがいいんだよ! キャラがフレキシブルに考えて、喋って、笑って! それが、いいの!」

「……へぇー」

「分かってねえ反応!」

 いいから試しに見てみろって! そう建士に薦められても、いや今Wi-fiないし、ギガ減るし、と優也は守備陣形を取った。

「分かった。ちょっと待て。短い切り抜きなら見せてやっから」

 切り抜きとはなんぞや。

 唐突に出てきた謎ワードに引っかかりを覚えながらもあれでもないこれでもないと動画を探す建士を前にすると尋ねるのも何か悪い気がしてきた。

 優也はストローの刺さったドリンクをぐびぐびと飲み干しながらその問いも同時に胃へと下した。

「……あー」

 同時にふと思う。わざわざキャラになりきる、VTuberになるメリット。それは……。

「身バレしにくいな」

 成る程、思いついてみれば確かにそうだ。

 顔を出してやっているYouTuberは有名な人なら自分でも知っている。テレビにも出るご時勢で最早芸能人だ。

 しかしそうなると知名度と引き換えに差し出すのがプライバシーとプライベート。街中を歩いていて気付かれるのはメリットよりもデメリットのほうが大きいのではないか。

 そう考えるとVTuberというものは存外ネットリテラシーに則したものではないだろうか。

 よく知らない世界に対して一つの解法を得た優也は得心のいった表情で一つ頷いた。

「あった、これだ。最近俺が追ってるVの、雪那《せつな》お姉さん」

 ようやくこれぞという動画を見つけたのだろう建士が再度優也にスマホ画面を突きつけてきた。

 画面に映るのは【リアル弟への愛情がヤバすぎる雪那お姉さん】というタイトルと、髪も肌も真っ白に作られた二次元キャラがコメントに相対しているサムネイル。

「ガチブラコンなんだけどそれがいい。弟くんへの愛が深すぎてマジてぇてぇから」

 こいつちょくちょく意味分からん言語挟んでくんな。

 ずぞぞ、とドリンクを飲み干しながら優也は白い眼で友を見た。

「とりあえず見とけ?」

 そう言ってサムネイルをタップする建士《とも》。

 数秒の広告の後に聞こえてきた音声は。

「……え?」

 

 

 

 優也にとって、中学二年から高校一年の間は平穏に守られた時間を過ごしてきた。

 恐怖もなく、視線もなく、一番多感な時期を大変充実した環境で過ごすことが出来た。

 紛れもなくその要因の一部にして最大は、姉が全寮制の女子高に封印されたことに尽きる。

 姉は、怖かった。

 優也は姉が、怖かった。

 暴力だとか、姉であるという立場から振り下ろされる理不尽から来る恐怖ではなく、むしろその逆。

 愛である。

 果たして愛は恐ろしいものなのか。それは世論においても意見の分かれるところではあるだろうし、むしろ大多数は「愛が怖いってどういうこと」と首を捻ることだろう。

 だが、姉が見せる愛は優也からすれば紛れもなく恐怖だった。

 愛と一言にしても、それには様々なものがある。家族愛、友愛、親愛。

 そういったまともなものなら優也だって恐怖を感じなかった。だが、姉が優也に向ける愛情はそういった類のものではなく。分類するのならば。

 盲愛。

 狂愛。

 性愛。

 そう呼ぶのが正しいものであった。

 時折背中に感じる姉の視線は猛禽類だとか肉食獣が獲物を前にして見せるそれに似ていて。

 定期的にパンツが無くなったかと思うと気付かぬ間に帰ってきたり。

 執拗なまでに肉体的接触を兼ねたスキンシップをしてきたり。

 風呂に入ってくると三日に一度のペースで「ごめん気付かなかった」と風呂場に乱入し、気付かなかったのならさっさと出て行けばいいのにそのまま一緒に入ろうとしてきて。

 頻繁に自分と弟の歯ブラシを間違える。

 バレンタインにとんでもなく本格的にチョコを出してくる。

 子供の頃に言わせられた「お姉ちゃんと結婚する」という台詞が未だにMP3とWAV形式でPC、スマホ、外付けHDD全てに保存されていて。

 血の繋がった肉親から行われるそれらの行為は恐怖以外の何物でもなく、姉の何かがおかしいと勘付いた父が姉の進学先を全寮制女子高に決めるまで続いていた。

 そして、優也が高校二年に進級すると同時に、その姉の、小笠原樹理《おがさわらじゅり》の刑期が終わり野に解き放たれることに弟は心底恐怖した。

 

 だが、お勤めを終えた姉は比較的マトモになって帰ってきた。

 過剰なスキンシップは相変わらずだが、以前と違って精々が耳かきや肩揉みを要求される程度。風呂場には入ってこないし、パンツもなくなりはしなくなった。

 聡い人が聞けば一種のドアインザフェイステクニックではないかと勘ぐる所だが、どうやら優也はそこのところ麻痺していて、これでも随分マトモ扱いにしてしまっていた。

 ともあれ、優也からすれば姉からの愛情が少しでも真っ当な方向に向きつつあるだけで嬉しかった。

 流石通っていた女子高がカトリック系なだけはあると漠然としたイメージのみで褒め称えた。

 姉のこれまでの振る舞いは一種の麻疹のようなもので、歳月を経ればやがて大人しくなっていくものなのだろうと、優也は一筋の希望を見出した。

 実際、高校二年の今日この日まで、姉からの直接的な毒牙は未だ剥かれていないのだから。

 

「何度も話していますけど、弟くんが本当に可愛くてカッコいいんですよぉ」

 ――何度も聞いた。

 ――せやな。

 ――何度目だこの話。

 ――大体一配信で最低四度は弟くん話ある。

 ――弟くんもV化はよ。

 ――弟くんの話題助かる代。

「スパチャありがとうございますぅ。いつもお話しているようにスパチャは弟くんと私の結婚費用に充てさせて頂きますねぇ?」

 ――だから血の繋がった弟とは結婚できないと何度言えば。

 ――弟の為なら法律さえ変えてしまいそうだから雪那お姉ちゃんは怖い。

 ――弟くんもVになれば法律なんて関係ないんだよなぁ。

「ダメですよぉ。私の弟くんはたった一人なんですから、お姉ちゃんと言っていいのは弟くんだけなんですよぉ?」

 ――アッハイ。

 ――コワイ!

 ――あぁ~、圧が凄い。これだからお姉ちゃん呼びはたまらねえぜ(死)。

 ――ホント雪那お姉ちゃんの殺意の目アコガレテル。

「早く弟くんが成人したらいいのになぁって毎日毎秒思います。そしたらお父さんとお母さんも無視して弟くんを拉致監き……じゃなくて大切に大切に養ってあげられるのに」

 ――なんか物騒な言葉が聞こえたんですが。

 ――毎秒なのか(困惑)。

 ――ヤンデレブラコン姉ほんと助かる。

 ――雪那お姉ちゃんの病みはやがて癌に効く。

 

 なんか、友人のスマホから姉に似た声が聞こえてくる。

「……」

「いやあ、ヤンデレ姉ってよくね?」

 暢気にスマホを突き出していた建士が「Vっていいだろ?」と語りかけてくる。

 いや、だがしかし。

 果たして実の姉がVTuberをやっていて、それを友人から見せられるという確率はいかほどなのだろうか。

 それはまさに天文学的確率の下にしか成り立たないのではなかろうか。

 よって、この声は姉によく似た人の声である可能性が極めて高い、というよりはそれこそが疑いようの無い真実なのではないか。

「……いや、ウーン。ちょっと」

「俺にはわかんないですね」

 優也は分からなかった。

 毒牙は剥き出しにされていないだけで、一日一日しっかりと研がれているだけなのだと、分からなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話 後輩は 不意を ついてきた !

 高校の駐輪場にまばらに置かれた自転車の中、優也は自身の自転車のスタンドを立てたままサドルに座ってスマホを弄っている。

 優也はペダルを逆回転させて空転させて、じゃらじゃらとチェーンだけが空回る音を立てて。スマホ画面に映るのは近場のネットカフェの相場。

「せんぱい、帰らないんですか?」

 背後から声を掛けられて、振り返るったその先には後輩女子の堀千尋《ほりちひろ》がいた。

「ちょっと調べものしてんの」

 つい、と顔をスマホの画面に戻せば、「見ていいですか?」と問いかけると同時に画面を覗き込んでくる後輩。

 答え待ってないじゃんと優也は片眉を上げるが実際に声を上げるほど狭量の先輩ではない。何も言わずにスルーした。

「なんでネカフェ調べてるんですか? 家にネット環境ないんですか?」

「一体人の家を何だと思ってんの?」

 黒船来航以前の人間じゃあるまいし。

「ちょっと家で調べものとか二の足を踏む精神状態なの」

「……せんぱい、そのメンタルちょっと尋常じゃないですよ?」

 言われないでも分かっていた。だが優也はやはりそれを分かっていても自室での今回の調べものをやる気は起きなかった。

「ちっひーはさぁ」

 ちっひー。小笠原優也が呼ぶ堀千尋のあだ名である。

「はい」

「VTuberって詳しい?」

「ぶいちゅうばぁ」

 鸚鵡返しで返される。

「あるいは盗撮盗聴について」

「ちょっと待ってください」

 投げかけられた二つが余りに食い合わせが悪すぎた。思わず千尋も待ったを掛ける。

 高低差で耳キーンなるか寒暖差で風邪引くかのレベルであった。

「スイカに天ぷらくらい食べ合わせの悪い文字列を投げかけないでください。それこそせんぱいは私のことを一体なんだと思ってるんですか」

「スイカかぁ。いいね。そろそろ時期だね」

 しゃわしゃわしゃわしゃわ。

 じーじーじーじー。

 みんみんみんみん。

 友人たちと共にカラオケに行った昨日に続いて今日も暑い。もはや単なる日常に溶け込んでいるが、意識を向ければありとあらゆる夏の虫が声を上げている。

 汗でぺたりと身体に張り付いたシャツの気持ち悪さを感じながら、優也が脳裏にキンキンに冷やされたスイカを思い浮かべる。

「そのお供にサイダー」

 ペットボトルの蓋を開け、プシュ! と炭酸の弾ける音が聞こえてくるようだ。

 いっそ帰り道コンビニにでも寄って買って帰ろうか。ああそうなるとアイスも食べたい。だけれど金がない。

「いいですね」

 千尋も頷いた。

「そうではなく」

 そして突っ込んだ。

「せんぱいってVTuberに興味あったんですか? それと何か犯罪をしようとしているんですか? あるいは巻き込まれているんですか?」

 改めて言われると本当に訳わかんねえこと言ってんな自分。優也は思った。

「興味……っていうか」

「恐怖」

「きょうふ」

「犯罪……っていうか」

「懸念」

「けねん」

 鸚鵡にならざるを得ない千尋を誰が責められようか。一つとして要領を得ない先輩の言葉を何とか咀嚼しようとする彼女の頭上には疑問符が浮かびっぱなしだ。

「まあ、分かんないよね。いいよ、やっぱネカフェ行って調べるから」

 そう言って財布を取り出して中身の確認を始める先輩を目の前にすると、何か負けた気がする堀千尋。

「……いいでしょう。明日またここに来てください。せんぱいに本当のVTuberってものを教えて差し上げますよ」

 彼女の掛ける眼鏡のシルバーフレームがきらりと光った。

「いや、そりゃ来るけど」

 土日だというのに部活はあるし。

「ちっひー詳しいの?」

 ぶいちゅうばぁ。

「帰って調べます」

「盗撮とか盗聴については?」

「そっちは闇が深そうなんでパスします」

 はんざいしゃ。

 

 

 

 部活動というものを優也は正直好きではない。

 平日でもガリガリと体力を削られるし、家に帰って晩を取った後予備校に向かい、家に帰って風呂に入っていたら数日に一度寝落ちしてしまう。

 なにより嫌いなのは休日に行われる部活である。昨日今日《どにち》のように休みだというのに学校がある日と変わらない時間に起きて登校して、正午を少し過ぎたところで終わる。活動時間は四時間そこそこだが兎角休みに起きるのが億劫だ。だらだら惰眠を貪りたい。

 実のところ自分以外の高校生のほとんどが似たような感情を部活に抱いているのではないかと統計を取っていない確信さえ持っている。

 にも関わらず帰宅部が許される学校に入っておいて未だ部活《テニス》を続けているのは、一種の惰性に近い。辞めない理由は妥協だ。辞めるに至る動機がないとも言える。大してその競技の名門でもない学校に通う高校生として、とても最大数的だと自認している。

 そうして昨日に続いて今日も優也はめんどくさがりつつも部活に出て、嫌というほど蒸す体育館の中筋トレストレッチをして、クソ暑い中グラウンドを走りまわって、素振りをする一年を尻目にサーブボレーの練習に励む。

 十三時に練習を終え、同じような内容を消化していた女子テニス部所属の千尋を自転車の前にて待つ。

「お待たせしました」

 ラケットバッグを背負いながら小走りに駆けてくる銀縁眼鏡の後輩を認めて、優也は口にしていたスポーツドリンクをしまった。

「調べてくれた?」

「ええ、色々と」

「なんか悪いね」

「いまさらですよ」

 その通りだと優也は笑う。昨日帰ってから後輩に疑問を丸投げしたのを振り返るとどうにも尻の座りの悪いこと悪いこと。しょうがないので盗撮盗聴《もうかたほう》についてはベッドに寝転びながらスマホで調べてみたが、その最中やたらとコンセントプラグの中身を調べたくなったり、姉の部屋がある方の壁が気になってきてまるで自室に一切の安息がないように覚えてきてしまったので打ち止めた。

 VTuberと、盗撮盗聴。

 調べたかったのに自分の部屋で調べられなかったのは、そういうことである。

 姉っぽいVTuber(アレ)

 未だ本当に姉なのか謎に包まれているアレではあるが、もしもアレが真実姉であるのならひょっとして、今こうして寝転がっている姿も姉は観察しているかもしれない。

 形のない妄想ではあるが、あの弟への愛を語る姿は寮《ムショ》暮らし前の姉の姿を想起させるに十分な衝撃であった。

 むしろこれまで姉が大人しかった分の反動で優也は恐怖をぶり返している。いや、むしろ安息の一時が奪われるかもしれない、過ごしてきた分これまでよりも。

「調べたいって言ったのは私ですし、せんぱいは気にしないでもらって」

「……あ、ああ。そう? なら良いんだけど」

 真夏日だというのに一瞬寒気を感じたが、千尋の声で優也は我に返る。

「それで、どっか落ち着いたところで話したいんだけど、どうする?」

「正直なところ、やっぱり実物見ながらの方が分かりやすいと思います」

 実物。VTuberそのもの。

 そうなるとやはり必要となるものはネット回線である。

「……ネカフェ?」

「お金勿体無いじゃないですか。それにせんぱいの家ではやりにくいんでしょう?」

 昨日の感じだと。

 その通りだと優也は頷く。

「なら私の家に来てください。それが一番手っ取り早いです」

「……」

 しばしの沈黙。

 じーわ、じーわ、じーわ、じぃー。

 灼熱の一時を生き急ぐかのように叫び続ける蝉の声だけが青空に響く。

「反応に困りますよせんぱい。何も恋人同士じゃないんですからそんな意識しないでください」

 やはり、千尋の銀縁がきらりと光った。

 そう言われて「いや、でも」と断るのも優也はなんだか意識しているようで嫌だった。いくら後輩とはいえ女子の家を訪れるというのは否が応にも意識せざるを得ないのだが。

「まあそうだね。部活の先輩後輩だしね」

 おかしくない、おかしくない。

 おかしいとは思いつつ、しかしそれでも意識していると思われたくないので、優也は首肯した。

 

 昼食べてから行くよ、という優也の声は「お昼くらい出しますよ」という千尋の一言で却下された。

 学校の先輩後輩二人が自転車に跨って、後輩の家に向かう。

 道中は何故かお互いにしばし無言。

 当然優也は千尋の家を知らないので、彼女に先導されるがままについて行った。

 彼女が向かった先はマンションの一室である。

「ここが私の家です」

 マンションの駐輪場に自転車を置いて、オートロックのマンション玄関を開いて乗ったのはエレベーター。千尋が押したのは七のボタン。

 七階で降り、十数歩の後、扉の前で足を止めた千尋がそう言った。

 ごそごそと制服のポケットをまさぐって取り出したるは家の鍵。

 それを見て優也は疑問に思う。

 家の中にいる家族に開けて貰えばいいじゃんと。

 釈然としない内に千尋は鍵を開けて扉を開く。

「どうぞ」

 と促されるので逆らわずに彼女の家の中に入る。

「……お邪魔しまーす」

 彼女の家の中はしんと静まりかえっていて、人がいる気配がしない。

「……ご両親は?」

 玄関にて靴を脱ぐ彼女を見ながら所在なく立つ優也に、千尋は一切の慈悲なく答えた。

「父は単身赴任で、母は大体夕方までパート、あるいはママ友でお稽古事行ってます」

「……聞いてないね」

「言ってないですね」

「……お昼って?」

「当然私が作るしかないですよ、せんぱい」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話 ハト目ハト科カワラバト属

 日曜日の昼過ぎ。テレビから流れる番組に対して優也は大して興味のあるものがなく、ただただ適当にリモコンのチャンネルボタンを押しっぱなしにしてザッピングする。

 情報バラエティ、ドラマ再放送、プロ野球デイゲーム、政治バラエティ。

 眼が滑る滑る。

 生暖かい空気が滞留していた室内に、背中に吹きつけるエアコンの冷房が汗を乾かしていく。

 結局テレビを点けている理由は見たい番組があるわけではなく、後輩女子の自宅キッチンダイニングにて一人ぽつんと静寂の只中に置かれることを嫌った結果の行動であった。

 

 そう、一人ぼっちである。

 優也は今まさに一人っきりであった。

 その理由というのも。

 後輩堀千尋は、先輩である小笠原優也を招いておきながらも、「すいませんちょっと汗が気持ち悪いんでシャワー浴びてきます」と言い放ったからである。

「はぁえ!?」

 優也が意味のない奇声を上げるのも無理のないことだった。

「せんぱい、これでも私は女子ですよ? 汗臭いとか思われるのも嫌ですし、自分の家にいるのにいつまでも学生服とか嫌ですし」

 普通じゃないですか。千尋は言う。

「確かに普通だと思うよ」

 色恋沙汰ではないけれど曲がりなりにも男子を連れ込んでいる点から眼を背ければ。

「じゃああれじゃん。俺も先に家帰ってよかったじゃん。俺もシャワー浴びたいし着替えたかったし」

 むしろ今からでも帰ってやろうか。そうした方がいいだろう。

 千尋の家の住所は分かった。これならスマホの地図アプリに住所を入れれば一人で来れる。 

「それならせんぱいも私の後にシャワー浴びたらいいじゃないですか」

「何言ってんの?」

 先輩は後輩の正気を疑った。この家の何処かにインスマスの影が存在しているのだろうか。精神の平衡が保たれていない。

「冗談ですよ。着替える服がないですし、多分パパの服も先輩には丈が合わないと思いますし」

「二度手間ですし、シャワーの時間もそんなに掛けませんから待ってて下さいよ」

 大丈夫、先輩は汗臭くないですよ。

 そう言っておそらく自身の部屋だろう扉を開いて消えていく千尋の背中を見送って、優也はそういう問題ではないと頭を抱えた。

 

 故の、テレビである。雑音である。

 ファミリー向けマンションであるからして、防音は整っている。多分鉄筋コンクリート造りだろう。間違っても木造ではないし隣人トラブルが起こりにくい環境のはずだ。

 だけれど何かしらの音を流しておかないと千尋がシャワーを浴びる音さえ聞こえてきそうで。そんなこと有り得るはずがないのだろうけど。

 画面の中で喚声が起きて、それがやがてため息に変わった。五番バッターの打った大飛球はライトスタンド手前で失速して、ウォーニングゾーンで右翼手に捕球された。

 結局画面はデイゲームに固定され、その場面は二回表の攻撃が終わるところだった。

 

 三回裏ツーアウト二塁。外角のスライダーに倒れるバッターを死んだ魚のような目で見ていた優也は唐突に聞こえてきた唸る音に思わず身体をびくつかせた。

 音の正体はおそらくドライヤー。

 どういう構造になってはいるのか知らないが、まあ平々凡々の家と同じく洗面台が風呂場の手前にあるのだろう。そこからぶおおおんと髪を乾かしている音が少々漏れている。

 やがて音が止んで、がちゃりと千尋がドアを開けて顔を出す。

「すいません、お待たせしました」

 少しばかり上気した顔と艶やかに輝く髪。そして首に掛けたバスタオルとシルバーリムの眼鏡に、ジャージ。

 幾許かの間を置いて、優也は言った。

「……北中のだっけ、それ」

 東中出身、小笠原優也が指摘するのは、堀千尋が身に纏った中学校指定ジャージ。

 優也自身も愛用する、卒業した中学のジャージを部屋着に転用したそれだった。

 

 

「お昼何食べますか?」

 紺色のジャージを身に纏った、非常に野暮ったい(リラックスした)後姿を優也に晒しながら、千尋は冷蔵庫の中身を覗きつつ言った。

「簡単なのでいいよ」

 作ってもらう立場の人間として優也は言う。

「なら納豆ごはんとかどうです」

「あ、うん。それでも別に」

「……」

 千尋は当然ネタのつもりで言った。だというのに割りと素直に返されて言葉を失った。

「……焼きそばと、冷やし中華と、チャーハンあたりの具材ならあります」

 何故か不貞腐れた。

 声音を聞いて優也はそれに気付いた。だが何故。今のたった一回の言葉のキャッチボールで不機嫌になる要素はないだろうに。

「え、じゃあ、暑いし冷やし中華お願いできる?」

「最初から素直にそう言えばいいんですよせんぱい」

 極めて素直なつもりだったのに。

 唐突な理不尽に襲われた優也は、とりあえず何事もなく流すことが一番だと女姉弟(きょうだい)を持つ人間として判断した。

 

 千切りのきゅうりに、ハム、錦糸卵、輪切りトマト。その中央に紅しょうが。それらが中華麺の上に乗せられた、極めてオーソドックスな「これでいいんだよ」という冷やし中華が二つ、テーブルの上に並べられる。

「どうぞ」

 千尋は席に着くのと同時に、割り箸と冷やし中華のタレを優也に渡す。

「ありがとう」

 ぱきんと箸を割って、タレの蓋を開けてとくとくと冷やし中華に掛けていく。

「いただきます」

 麺と具材を箸でつまんで、ずるずると口に吸い込んでいく。

 そんな優也を、彼の向かいに座った千尋が真顔でじっと見ている。

 優也が気付く。

 えっ、何。怖い。

 銀縁眼鏡の中からじっと見据えるその眼に慄いた。

「……どうですか? せんぱい」

 冷やし中華。

「ああ、うん。美味いよ」

 普通に。

 文字にしてその三文字をこそ口に出さず、優也は答えた。多くの言葉は時に円滑なコミュニケーションを阻害する。その処世術を彼は既に身に付けている。

 千尋は納得のいく答えだったのか深く頷き、彼女もまた麺を音も立てず食べ始めた。

 

 

 

 部屋である。

 女子の部屋である。

 昼を食べ終え、通された部屋はやはり、千尋の部屋である。

 ピンクいものも可愛らしいぬいぐるみも大して置いてない、ぱっと見優也の部屋と大差ない、質実剛健とした千尋の部屋。唯一女子らしいところは本棚にある少女マンガと何処か甘い部屋の匂いくらいだろうか。

 無感動。

 無感動である。

 部屋に通された優也は極めて無感動であった。

 姉の部屋に比べれば随分乙女度数の少なめな部屋なので、なんら感慨を覚えぬ優也だった。

 千尋はそんな優也の反応に気付くことなく、デスクトップPCを立ち上げてる。

「何から説明しましょうか」

 慣れた手つきでパスワードを打ち込んで、読み込んでいる間の時間潰しをするべきく、千尋はパソコンデスク前の椅子の背もたれに体重を預ける。きぃ、と小さく椅子が軋んだ。

「あっ、どうぞ座ってください」

 立ちぼうけだった優也に座るよう勧めたのは彼女のベッド。

 優也は皺にならないようなるたけ静かにベッドに座り込んだ。

「とりあえず、定義的なのはいります?」

「いや、そこのところは大丈夫かな。大体ふんわり理解してるから」

「そうですか。……なら適当に話していきますね」

「せんぱいはYouTuberについてはどれくらい知っていますか?」

「そこそこ」

「そこそこ」

 千尋は思案した。この先輩は何をもって、どんな杓子を用いて己が知識を「そこそこ」としているのか。

「……じゃあ、YouTuberにも企業所属とそうでない個人勢がいるっていうことは知ってますか?」

「あ、うん。知ってる」

「VTuberも同じで、個人で立ち絵や機材を調達して活動している個人勢と、企業に所属して活動している企業所属がいます」

「へぇー」

 そーなのかー。

 あまり気持ちの乗っていない感嘆が返礼品として千尋に届けられた。

「それで、有名なVTuberは結構な数が企業勢みたいですね」

「はぁー」

 なるほどなー。

 そこまで興味が強くなさそうな感心の声が欲しいものリスト外から千尋に送りつけられた。

「中でも企業と個人の区別なく登録者の多い人、人気のある人を人数でくくって、御三家とか四天王とか五大老とか第六天魔王とか七星とか八王子とか九州とか十日市と呼んでるらしいです」

「なに、戦でも起きてんの?」

「乱世なんじゃないでしょうか。VTuber業界も」

 後半は地域名になっていたがどういうことか。優也はその業界のセンスに悩んだ。

「まず始まりの御三家」

「つよそう」

 黎明期から活動していて人気もある人の括りです、と、千尋は説明する。

「バーチャルアイドル、桃原愛《ももはらあい》」

「それっぽい」

「バーチャルシンガー、しんが尊(しんがそん)

「……洒落?」

「バーチャル即身仏、木乃イ尹《きのいいん》」

「……出落ちじゃなくて?」

 人気なのか。ミイラが。黎明期から。

「含蓄ある言葉と落ち着いた耳通りのいい声の持ち主で、定期的に開催している人生相談に大層説得力があって人気だそうです」

「即身仏だからか」

 やはり優也は業界のセンスに悩んだ。自身の感性が間違っているのかどうなのか。高校二年にして大変な問題を抱え込んでしまった。

「歌手四天王」

「結構まともそう」

「バーチャルドバト」

「待った」

 優也は思わず腰を上げた。

「ドバトって、あのドバト?」

「あのドバトみたいですよ。見ます?」

 千尋はブラウザを開いて「バーチャルドバト」と検索をする。

 検索結果の一ページ目、一番上に燦然と輝く「バーチャルドバト」の文字。

 千尋の肩口からPCモニタを覗き込む優也の瞳に、カーソルがその文字列をクリックする瞬間が反射した。

 

 ――バーチャルドバト。

 バーチャルの世界で生息するハトです。よろしくお願いします。クルッポー。

 現在地「上野公園」

 528フォロー18万フォロワー。

 

「アイコン」

 千尋が開き、優也が見たのは、バーチャルドバトの公式SNSトップページ。

「十姉妹じゃん」

「一応ハトらしいです」

 バーカ!

 そんな十姉妹の鳴き声を優也は聞いた気がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話 ここにフラグを立てよう

「一つ聞いていい?」

 優也は十姉妹《ドバト》と睨めっこしたまま千尋に問うた。

「VTuberって大体がこんな感じなの?」

 こんな感じとは、どのラインまでを示しているのだろう。

 その質問に千尋は右手人差し指を自身の唇に当てて、数秒考える。

 一度PCモニタに視線を向けて、優也が見ている仮想現実を共にする。

 バーチャルドバト(こんなかんじ)

「そうですね……私が見た限りでは大体十人中三人くらいがこんな感じ?」

 三割の人間がこんな感じ。

 過半数は下回っているが、それでも三割。

 先ほど見ていたプロ野球の解説者が言っていた。「この世界三割打てたら一流ですよ」と。

 ではこの業界は一体何なのだろう。三割を満たすこの業態は果たして何の一流なのだろう。

 優也は答えのない迷宮の入り口に立った。

 そして優也も千尋も知らざることだったが、流石にこの手の変化球タイプは三割もいない。一夜漬けで調べた情報が偏っていた弊害であった。

「続いてバーチャル」

「一旦ストップ」

 優也は歌手四天王の残り三を発表しようとする千尋を差し止め提案する。ここで止めたら果たして四天王最弱が一体誰なのか、その真相が藪の中に隠れてしまうが、必要な犠牲と判断した。

「ちょっと個人的に調べたいVTuberがいるからそれを検索してもいい? 分からない単語があるならその都度聞くから」

 そうすることとする。

 この業界全体への興味が無いとは言いきれないが、それよりも可及的速やかに調べたいことが優也にはある。

「……調べたい人がいるなら昨日教えてくれても良かったじゃないですか」

「それはごめん。ただ俺にもちょっと躊躇というか踏み込みたくない領域があるというか」

 しかし同時に踏み込まなければいけない領域でもある。

 さながら居合いの勝負に似ている。

 敵の制空権に侵入せねばこちらの刀も当たらない。しかしこちらの刃が届くということは敵の刃も届くということ。殺意という名の不可視の剣が何時自分の首を刎ねるかも分からない。

 ――あれが姉でなければ、勝ち。

 ――あれが姉であったなら、負け。

 勝てば平穏が手に入り、負ければ姉が一切更生しておらず、一つ屋根の下、常時貞操の危機に晒されているという実感が伴う。

 そのVTuberの名前を確か……。

 席を立った千尋と入れ替わり、優也がPCの前に座る。

「流石に起きてるよな」

 同時にポケットからスマホを取り出して、友人の一人、中田建士へ連絡を取る。時刻は午後二時、いくら相手が日頃昼夜逆転生活を謳い、休日は基本爆睡していると語っていても、流石にこの時間帯なら起きているだろうと予測して。

『こないだ見せてもらったVTuberの名前って、雪那で合ってるよな?』

 文面はシンプル。送信ボタンを押して、秒で既読が付き、十秒で返事が返って来た。

『雪那「お姉ちゃん」な』

「……」

 返事をしばし凝視する。

「うわぁ」

 え、普通に気持ち悪い。優也はそう感じた。

 既読が付くまでの早さも気持ち悪いし文面も気持ち悪い。

 なので素直に、奇を衒わず、ありのままの気持ちを素直にしたためることとする。

『キモ』

 二文字。

 極端まで余分を廃した引き算の美学がそこにあった。

『えっ』

『なんでそういうこと言うの』

『ぴえん』

 文末にあの微妙に腹立つ黄色い顔が付随された返事が三等分されて返って来た。

 しかし優也はこれを当然の如く既読スルー。ゼロというインドが生み出した偉大なる数字を文字数に引用することに成功。

 友人をガン無視して確認の取れたVTuberの名前を早速検索し始めた。

 

 ――雪那。

 バーチャル雪女の雪那です。読みは「せつな」。好きなものは弟くん。結婚したい相手も弟くん。一緒のお墓に入りたい人も弟くん。弟くんとの結婚費用、生活費を稼ぐ為に日々勉強中。応援よろしくお願いします。

 現在地「弟くんとの愛の巣」

 43フォロー8305フォロワー。

 

「……」

 尖っている。

 優也にとってこれ以上ないほど鋭利。

 自己紹介とは漢字で自己消壊とでも書くのかと疑いたくなるほどの鋭さをもって、VTuber雪那のプロフィール欄は優也の水晶体を叩いた。

 雪女だという設定は最早どうでもいいこと。

 もしも万が一、億に一つ、これが真実小笠原樹理(あね)だとしたら。

 優也は身震いをした。悪寒が走る。多分これは冷房に当たりすぎたせいだと眼を背けて、ひとまず自分自身を落ち着かせる。

「……せんぱい、調べたい人ってこの人なんですか?」

 肩越しにモニターを見つめる千尋が耳元で囁いた。

「……一応、ね」

「……ふーん」

 優也の応答が抑揚のない声で返される。

「……せんぱいって、姉キャラが好きなんですか?」

「いや、別に」

 優也は首を振る。

 姉キャラは好きでもないし嫌いでもない。「キャラ」と付くのだからそれは創作物だとか「姉御肌」だとかそういう性格の話だろう。

 ならば優也にそれに対する好悪はない。

 単純に「姉は好きか」と聞かれたら、「まあ、普通に好き」と返す。

 その言葉に間違いはない。優也にはきちんと家族愛が存在し、姉もその中に含まれる。

 しかし弟を愛する姉と違う点は、姉はどう見ても家族愛ではない愛情でもって接してきており、弟はどう見ても家族愛でしかない愛情で接している点にある。

「ですよね。せんぱい、お姉さんがいるっていってましたもんね」

 千尋が言及するのは現実に姉妹がいるとファンタジーの姉妹キャラに萌えることができないという論。リアルがちらついてどうにも好きになれないという話。

 優也もそれはよく分かる。

「ちっひーって兄弟いたっけ?」

「いませんよ。一人っ子です」

「だったら分かんない感覚だと思うんだけど、こういう話聞いたことない? 姉妹は自分の顔を性別逆にさせたようなもんだからそういう感情を持ちようがないって」

 つまりは、そういうこと。

 優也も樹理も、よく似た顔をしている。違いといえば性差くらいで、鏡合わせの自分に性愛を抱けというのは中々に捻くれた性癖を秘めねばなるまい。

 あるいはよほどきょうだいで顔が違うか。

 それでも肉親をそういう対象として見るのはハードルが高いだろう。

「……」

 だが何故か千尋からの返事がない。

 不思議に思った優也が振り向くと、無言の千尋がスマホ片手に携えたままこちらを見ていた。

「いや、なに?」

「せんぱい、はい、チーズ」

 かしゃり。

 スマホのライトが発光して、カメラのシャッター音が切られた。

「……本当になに? 唐突に」

 千尋は指先でスマホ画面をスライドして、タップして、やがて深く高く驚嘆の声を上げた。

「だとしたら、せんぱいのお姉さんてこんな顔ですか?」

 千尋はスマホを反転させて、画面を優也に見せ付けた。

 そこには樹理……っぽい優也が、正確には優也を性転換させたような女性の画像が映っている。

「あー、うん、こんな感じ。だから姉萌えって感覚はよく分かんないんだよ」

 否定もしないけどね、と言い残して、優也は再びPCモニタに向き合った。

「せんぱい」

「何?」

「せんぱいのお姉さん、どちゃくそに美人ですね」

「ありがと、人から見たらそうらしいね」

「せんぱい、どちゃくそに美人ですね」

「なんで二度? 大事なことだから、って奴?」

「いえ、単純に伝わってなさそうだから二度言いました」

「いや伝わったよ。姉さんにも後輩が、先輩のお姉さん美人だーって言ってたって伝えとく」

 いいえ、せんぱい。伝わってないんです。

 だがこれ以上の踏み込みは危険だと千尋は察知し、話を切り上げた。

 不意打ちで撮った優也の画像と、アプリで性転換させた同じ画像をそっとアルバムに保存しつつ。

 

 

 

「結局、弟くんはそこにあるだけで空気が澄んでいくんですよぉ」

 ――スピリチュアル。

 ――マイナスイオン。

 ――滝。

 ――森。

 ――空気清浄機。

 ――お前ら正気に戻れ。

 ――雪那お姉ちゃんが言うことは全面的に正しい(眼グルグル)。

 ――お薬出しておきますねー。

 ――あァー! 弟くんの音ォー!

 

 VTuber雪那が弟を語れば、コメント欄がバグに塗れる。

 適当に選んだ雪那の動画アーカイブなのに、それでもやはり繰り出される弟トーク。

 後輩の家で、後輩の部屋で、垂れ流れるは行き過ぎた弟愛がだだ流れる非日常っぽい日常。

「あの、せんぱい」

「どした」

「せんぱいはどうしてこのVTuberが気になるんですか?」

「それは」

「それは?」

「俺の友達が好きみたいで、こないだ勧めてきたから……あー、少しは見ないと可哀想だと思って」

「その友達って私の知ってる人ですか?」

 千尋のシルバーリムがきらりと光った。

 以前として千尋は真顔のまま、せんぱいと共にモニタをじっと眺めている。

「どうだろ。中田建士っていう、こう、筋骨隆々とした野郎なんだけど。そのくせ帰宅部で仲間内では筋肉の無駄遣いとか入手経路不明の筋肉とか言われてる奴」

「ああ、分かりました。せんぱいと一緒にいるところをかなり見る人ですね」

 

「最近はどうにか弟くんの切った爪とか集めたいんですけど皆さんいい方法ありませんかぁ?」

 ――流石の俺もそれは引くわ。

 ――こんなサイコキャラなんかのマンガにいなかった?

 ――単純にゴミ漁ればいいじゃん。

 ――なに? ごめんちょっと耳が遠いのか聞こえなかった。

 ――登録者減ってて草。僕は平気です(鉄の意志)。

 ――俺はお前らが引くライン引かないラインが分からない。空気が澄むはセーフなん?

 

「ですけどせんぱい」

「なに?」

「……どうして声裏返るんですか」

 優也の声はそれはもうものの見事にひっくり返っていた。

 爪を集めたい宣言に本気でドン引きしていることに対し、隠滅しきれぬ証拠が無形のものとして喉から発せられた。

「……それだけなら普通にせんぱいの家で調べられません? わざわざネカフェとか探さなくても。なんで自分の部屋だと見れないんですか? この人」

 千尋の言葉はPCの中にいるバーチャルを差している。

「家族に見られたくないとかそういう偏見はせんぱい持たないタイプだと思ってるんですけど、違います?」

 せんぱいの友達が好きな文化ですもんね。

 その通りだった。

 優也に友人の趣味を誹る気は一切なかったし、精々が当人同士でのプロレスの範疇で収まる。

 だから別に単なるVTuberを調べている姿を家族に見られるのになんら抵抗はなかった。

 だがこれは別だ。

 この人だけは別だ。

 未だその正体が判明していない、この小笠原樹理《あね》声で話す存在だけは別枠だ。

 これを自分が見ていると姉に察知されたら。

 日頃押さえ込んでいる欲求をこのような形で発散している事実を、隠していた当人にバレたことを姉が知ったら。

 そこからは再度ダイレクトアタックに戻るのではないか。

 

 樹理イコール雪那。

 その方程式は完全には成り立っていない。

 だけれど、この時点で回答を提出しても余裕を持って部分点が貰えるような気がしている。

 大いなる危険を孕んだ存在だった。この雪那は。

 

「……そう言えばせんぱい、もう片方はどうしてます?」

「片方?」

「盗撮盗聴とか言ってたじゃないですか。不穏当に」

「ああ……」

 そちらは優也が一人で調べていて、なんだか途中で無性に怖くなってやめた。

 その理由は語るに及ばず。

「……それにしてもこの雪那って人のブラコンぶり、凄いですね」

「そうだな」

 千尋にしては珍しく話が飛んだなと優也はいぶかしむ。そして同時に、靄の掛かった漠然とした不安がひたりと忍び寄ってきた気がする。

「狂的って言ってもいいかもしれませんね。こんなだと」

「そうだな」

「ひょっとしたら弟くんに盗撮盗聴とか仕掛けててもおかしくないかもしれませんね」

「……いや、流石にそれは良心の呵責ってもんがあるんじゃない?」

 靄が急速に形を持って優也の首根っこを掴んだ。

 優也のワイシャツの中で、滝のような汗が一気にどうと溢れた。

 乾いたはずなのに、じめりとする肌着。

 姉がやばい奴というのは、知られたくない。

 いや、まだこれが姉とは決まっていないけれども! だとしても!

 千歳が優也の肩を乗り越えて、顔をじっと見つめている。

 脳が全力でブレーキを掛けているのか、不思議なことに優也は服の下に精神性の嫌な汗をかいていても、顔や腕には一切その様子が現れていなかった。

 見つめる千尋。

 モニタを見据える優也。

「……なんて」

 すっと千尋の顔が避けていく。

「流石にここまでのブラコンは作りものですよね。現実にいるはずないですよ」

 ファンタジーじゃあるまいし。

「うん、俺もそう思う」

 全くファンタジーじゃあるまいし。

 姉は高校三年間の寮暮らしを経て、大分まともになって帰ってきたのだ。

 それを否定するのは姉の三年間の否定にも繋がる。

 大切な家族なのだから重要なのは信じることだ。

 優也は真理を得て、残り再生時間が少なくなってきたアーカイブ動画を閉じようとマウスを動かした。

 

「そうですねぇ。この間は本当にびっくりしちゃいました、寿命縮みましたよもぅ」

 ――親フラならぬ弟くんフラ。

 ――あの回結構再生数伸びてて草。

 ――イマジナリーブラザーでなく実在したことが証明された回。

 ――個人情報一切出てないからセフセフ。

 ――弟くん「姉さん晩飯出来たってー」

 ――お姉さん、弟くんの声可愛いかったから僕に下さい。幸せにしますんで。

「……」

 ――オイオイ死んだわアイツ。

 ――ブロック喰らってて草。

 ――そらそうなるでしょうよ。

 ――すまん、やっぱ雪那お姉ちゃん怖えわ。

 ――言えたじゃねえか。

 

「ちっひー、この弟フラって何?」

「ええとですね、確かこういう生配信で家族の声とか姿とかが入ってくることを意味してるとかのはずです。親が来たら親フラ。この場合弟さんが来たんでしょうね」

「なるほど、それはキツイな色々と」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話 彼女は姉であり妹でもあり母でもある

 日曜午後一時五十五分。PCモニタの前に座り、一つ伸びをした後腕のストレッチをする。

 その後手首をぷらぷらと揺らしながら首をぐるぐると回す。

「水ヨシ、機材ヨシ」

 一つ一つ指差し確認をしていって、準備不足が生じていないか最終チェック。

 トイレにも行った。家の鍵も閉めている。近隣住民への配慮として防音設備もきちんと整えてある。配信部屋の室内温度は高めだが、止むを得ない犠牲である。代わりにエアコンくんに頑張ってもらう。

「あ、あー。声ヨシ」

 さて、そうして三百秒の時間を潰していけば本番はすぐそこだ。

 午後二時、前もって取っていた配信枠の放送が始まる。

 

 

 

『第五回雪茜会議』

 そう銘打たれた生放送配信のサムネイルには長い髪も肌も真っ白な少女と、セミロングの茜色の髪と、額から二つの角が突き出した少女が向き合っている絵があり、その二人の間には真っ黒な人型があり、その顔の部分にはクエスチョンマークが書かれていた。

 

「やあやあみんな、今日も今日とて暑いね。こんちわー」

 ――こんちわー。

 ――こん。

「オタク鬼女の茜だよ。今日もよろしくー。……さてさて、不定期開催の雪茜会議、前回は雪那のチャンネルでやったんで今回は私のチャンネルで放送。それじゃあ雪那もカモン」

「バーチャル雪女の雪那です。皆さんこんにちわぁ」

 ――おはよう。

 ――こんにちわ。

 ――初見です、こんにちわ。

「あら、茜。初めましての人も来てくれてますよぉ。嬉しいですねぇ」

「マジ? あ、本当だ。前回これやったの何時だっけ? 一ヶ月くらい前? コラボ自体はしてたけど会議は久々だからねぇ。改めて簡単な自己紹介と私たち二人の関係性の説明でもしておく?」

「そうですねぇ。もう知ってるよー、って人も改めて聞いてもらえたら嬉しいですねぇ」

 ――おさらいたすかる。

 ――諳んじれるようになるまで繰り返して。

「私はバーチャル鬼女の茜だよ。ほれ、ツノツノ。配信内容はゲーム、おうた、マンガアニメレビューを中心にやってるよ。オタクなもんでね」

 ツノツノー、と言いながら茜という鬼女は上下に揺れる。

「私はバーチャル雪女の雪那と言いますぅ。配信内容はお絵かき、雑談、ゲームあたりが多いですねぇ。それと最近はASMRも始めてみましたぁ」

「あと雪那はブラコンな? 重篤な」

「違いますよぉ? コンプレックスなんて言葉で括らないでください。私の弟くんへの感情は純粋な愛ですよ?」

「こんな感じで弟が絡むとやべー奴だからそこだけ気をつけてもろて」

 ――初手がこれとか胃もたれする。

 ――いやこれくらいならまだ全然可愛いもんでしょ。

 ――雪ん子に架せられる重すぎるハードル。

「この雪ん子っていうのは雪那のリスナーの非公認ファンネームね」

 ――非公認。

 ――いい加減認めて。

 ――独自の挨拶も作らないストロングスタイル姉。

「リスナーさんはリスナーさんでいいじゃないですかぁ」

「まあそこらへんは改めて自分のチャンネルで十分討論して頂けませんかね? ちなみに私のリスナーはアキアカネって名乗ることを推奨してるよ」

 ――トンボじゃねーか。

 ――分かりやすくて結構好きよ。

 ――挨拶は?

「そこにないならないですね」

 ――バックヤード探してこいよ。

「ですからごめんなさい。ないんですよ」

 ――孤独のアカネ。

 ――そもそも初期茜のキャラさえぶっ壊れてるから茜も大概。

「あ? 初期茜見たいんか? ……ん、ん゛! 人間どもよ、久しいな。吾ぞ?」

 ――雑ゥ!

 ――感情込めろ。

 ――魂も込めろ。

「めんどくさいんでこれくらいでいいかねみんな」

「一ヶ月くらいでそのキャラ崩れてましたよねぇ」

「キャラ呼びはやめろ。人間に親しんでもらえるよう下の階梯に降りて来てやったんだぞ感謝しろ」

 ――横暴すぎて草。

 ――別に降りてきてって頼んでないんですがそれは。

「まあいいや。それで私と雪那の関係性なんだけど……友人であり母親であり妹だよ」

 ――何回聞いてもこんがらがってる。

 ――姉でしょ。

 ――大体合ってる。

「一つ一つ分解していくと、まず単純に友人だよね」

「……えっ?」

「やめろ。おいやめろ。一方的に友人だと思っている虚しい奴扱いになるだろうが」

「冗談ですよぉ。友人ですね確かに」

 ――草。

 ――ぼっち鬼。

「高鬼とかそういう遊びみたいなるからぼっち鬼って呼称はやめろ。で、母親っていうのは、私のこの肉体ね。デザインというか作ったというか、描いてくれたのが雪那だからV的な意味でママ」

「で、雪那の身体を作ったのも雪那自身だから私の妹にもなる」

 ――お前がママになるんだよ。

 ――己を生み出す(哲学)。

 ――ママであり姉であり妹である雪那お姉ちゃんは属性過多すぎ。

 ――じゃあ苗字も同じになるわけ?

「苗字はないよ。私たち妖怪だからね」

「そうですねぇ。今のところは無いですねぇ。そのうち出来るかもしれませんが」

「メタい」

「私たちの関係性はそんなところですかねぇ」

「締めおった。まあいいやそれじゃ適当に近況について話していこうか」

「と言っても話すことありますぅ?」

「大してないわ。至って平穏な日常過ごさせて頂いてるわ」

「トークの内容困りますねぇ。じゃあ弟くんについて話しましょうかぁ?」

「それはご自分の雑談枠でどうぞ」

 ――知ってるか? 雪那姉の雑談枠は最低三時間あるんだぜ?

 ――雑談枠と書いて弟くん談枠と読む。

「と言っても、近況じゃなければあるんだよねぇ。皆も気になってると思うんだけど、サムネに三人目おるでしょ? サムネ真ん中にまだ正体バレしてない犯人みたいな黒づくめが」

 ――おりゅ?

 ――おりゅ。ゲストでも呼んだ?

「ゲストではないけど、ひょっとしたら雪那に娘が一人増えるかも知らんねってこと」

 ――!?

 ――雪那お姉ちゃんは結婚していた?

 ――新たにVのママになるってこと?

 ――あっ、それかぁ! ついに弟くんV化するんか。

「弟くんではないねぇ。私たち妖怪学校通ってたって話前にしたじゃん? その後輩。話振ってみたら『私も受肉したいです!』って食い気味で来た」

 ――妖怪学校。

 ――妖怪学校なのに何故かミッション系の。

 ――退魔しねえのかよその学校。

「一応弟くんの身体も作ってるには作ってるんだっけ?」

「作ってますよぉ? でも、理想にはほど遠いと言いますか。弟くんに釣り合ってないんですよねぇ私の画力が」

 ――枠開いて公開製作してるゾ(白目)。

 ――二時間使って作った設定画がその次の回に「納得行かないんでボツ」って言い出した時はどうしたもんかと思った。

 ――サグラダファミリア建築を眺めてるみたい。

「その分後輩ちゃんならそこまで思い入れないで描けるから、スムーズに行くと思いますよぉ?」

「それ聞いたら泣くぞアイツ」

 ――後輩ちゃんェ……。

 ――ないがしろにされてて草。

 ――後輩ちゃんてどんな人なん?

「あー、傍から見てる分には面白いよ?」

 ――おっと初手不穏。

「ステータス的にはガチお嬢、アホ、ブレーキ効きにくい、百合かな」

 ――お嬢様!?

 ――文字の並びの時点で既にヤバそう。

 ――百合って趣味がそうなん?

「趣味っていうか、ガチ? なのかなぁ。そこのところどうなの? 『お姉さま』呼びされてる雪那さんや」

「どうなんでしょうねぇ。そこまで踏み込んだ話はしていないから分からないです」

 ――キマシ。

 ――相手雪那姉ちゃんかよぉ!

 ――どう考えても無理でしょ弟くん命なのに。

「だから傍から見てて面白いんだって。矢印が私じゃなくて雪那向いてて他人事だから」

 ――この鬼わっるい顔してやがる。

 ――からから笑ってて草。

「ホントこいつら面白いよ。雪那も雪那で大分アレじゃん。リアル弟ガチ恋勢じゃん? それ私の血縁関係でやられてもドン引くだけなんだけどさ、友人がやってるっていう絶妙な他人事距離感がたまらなく面白いよね」

 ――マジでいい性格してるわこの鬼。

 ――愉悦部かな?

 ――弟くん、雪那、後輩ちゃんで三角関係なったら最高に面白そう。

「あぁ~それ絶対楽しい! 傍らで炭酸とポテチ食いながら眺めてたい!」

「茜?」

「アッ、ハイすいません」

 ――秒で謝罪してて草。

 ――今のは謝るよたった三文字なのに雪那姉の声クッソ怖いもの。

 ――アッ(失禁)。

「ちっこ漏れるかと思たけど失禁までは行ってない。私の勝ち。……まあ正直かなり特殊な環境だからさ、女子校って。閉鎖された空間で思春期にこじらせると憧れと愛情を混同する奴もおるんちゃうの。どうなのそこんとこリスナーよ」

 ――分かるかい。

 ――似たようなことありましたわゾ。ちな男子校。

 ――やめて差し上げろ。

「そんな後輩ちゃんだからさ、憧れの雪那お姉さまがやることに何でも興味示すし後追いもしたいみたいでね。ならやってみるかってことで私と雪那が動いてるってわけですよ」

「そうですねぇ。別に私としても可愛い後輩がやりたいって言うのならなるべく手助けしてあげたいんですよぉ」

 ――後輩ちゃんこれは雪那攻略いけるんじゃね?

「あくまで可愛い後輩なのであって、可能性は感じないでほしいですねぇ」

「草生える。あの子も一応あんたの配信見てるんだからもうちょっと手心というものを……」

「前に茜が言ってたあれですよぉ?」

「あれ? あー……」

『痛くなければ覚えませぬ』

 

 

 

「で、来週なんだけど、雪那の家で今度はオフコラボやろうと思っててね。その場に後輩ちゃんの魂も来る予定。……いやあ絶対面白いわ。後輩ちゃんと弟くんが初めて顔合わせるかも知れないの!」

 ――ウッキウキで草。

 ――修羅場になりそう。

「なると思うよ~? 妖怪学校でも雪那は親しい相手にはこんなノリだったからね! おとうトーク聞かされてた時の後輩ちゃんは『あっ、血の涙を流すってこんな表情なんだ』って理解させてくる顔してたもん」

「そうでしたかぁ? にこにこ笑って聞いてくれてましたよぉ?」

「当人はこれだもの。マジで後輩ちゃんは弟くんに殺意持って行きそう。あの子頭いいけどアホだから」

 ――後輩ちゃん散々で草。

 ――他人の不幸は蜜の味を地で行ってないかこの鬼。

 ――そういや茜は弟くんと会ったことあるの?

「茜は蜂蜜が食べたいんだな」

「茜は前に一度だけ私の家に来たことがあるんで、その時に顔合わせましたよねぇ?」

「そうだね。その時は挨拶だけだったけど顔はばっちり見たよ」

 ――どうだった? 生弟くん。

「雪那に似てた。一目見て兄弟だって分かるレベル。下手すりゃ男女の双子かと」

「えぇ? そうですかぁ? 本当に? えへへぇ」

 ――かわいい。

 ――笑顔かわいい。

 ――似てるって言われて喜ぶもんなんですかね? 弟ガチ恋勢は。

 ――お姉さん、弟さんを僕にください。必ず幸せにします。

 ――生きとったんかワレ!

「……」

 ――一瞬で表情なくなってて草。

 ――またブロックだよ南無。

 ――弟ガチ恋雪ん子は命がけである。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6話 ロボチガウ

「ただいま」

 その日優也が家に帰った時刻は午後四時を少しばかり過ぎたころだった。

 住宅街に立つ何の変哲もない一軒家の玄関ドアを開けると、そこには姉たる樹理がいる。日常である。優也にとって代わり映えのしない出来事に過ぎない。

「おかえり、優くん」

「……ただいま」

 優也が帰ってきた瞬間を何故分かるのか、毎日毎回弟の帰宅を出迎え続けるのは新婚ホヤホヤの夫婦でもやらないだろう。そういった細かいことはこの姉の前では些細な問題に過ぎない。

 樹理は言う。

「優くんが帰ってきたときに家の中の空気がなんか変わるの。それくらい分かるでしょ?」

 彼女の友人である宮前瑞希《みやまえみずき》はそれを受けて言った。

「分かるかそんなもん」

 樹理が全寮制の女子高に通っていた時代に友人と交わした言葉、青春の一ページであった。

「じゃあお姉ちゃんパワーだね。神通力の一種」

 樹理はのたまう。

「そうだねアハハ」

 瑞希は諦めた。

 花も恥らう天下の女子高生がする、女子トークであった。

 無論、優也はそんな会話が繰り広げられていることを知るよしもなく。

 しかし姉のこの行動が幼い頃からの常識であっても、やがて歳月を重ねて他の姉弟関係を知るうちに異常であると気付き、同時に言って聞く姉でもないことを重々承知していたので、早々に咎めることを諦めた。

 例えるなら、飼い犬である。

 優也が小学生の時分、犬を飼う友人の家を訪れたことがある。

 その犬は玄関を開けた時点で飼い主である友人を待っていた。尻尾を振り、はっはっと舌を出して、居間に続くガラスが嵌め込まれた引き戸に立ち上がって待っていた。

 友人はそれを見て「ちょい待ち」と優也を差し止める。何故かと問うと「嬉ションするんだあいつ」と応えた。

 犬のおしっこを引っ掛けられて喜ぶ趣味もない優也は成る程、とその犬が友人に連れられ隔離されるのをじっと待った記憶がある。 

 一々玄関にて己を待つ樹理はつまり、そういう類のものである。

 優也はいつしかそう考えることにして、深い詮索をしないことにした。

 それに、これでも寮《ムショ》生活以前と比べてこの時の姉の言動もいくらかマシになっている。

 優也が小、中学生だった時は「おかえり」と「どこ行ってきたの? 寄り道はしてきた?」までがワンセットだった。

 これを家に帰るたび聞かれる。

 これは流石にたまらない。干渉が過ぎる。

 中学二年にもなると思春期と反抗期がピークを迎える。これ以上詮索されるようなことがあればいよいよもって姉を突き放そう。

 優也がそう思い至ったタイミングで、父が姉を封印することに成功した。

 振り上げた拳をそのまま振り下ろす機会を失って、優也は内心で安堵の息を漏らしていた。

 しかも寮生活から帰ってくると樹理にある程度の常識というか理性というものが宿ったのか、それまでの過干渉が減じていたのだ。

 ならば今現在の出迎え程度など痛痒にすらならない。可愛いものだ。

 帰宅の挨拶を返すことなど、家族なのだから当然だし。と、優也は現状においてそこそこの満足を得ていた。

「あ」

 だが、だがしかし。

 ここに至って姉に対する懸念事項が増えてきているのも事実。

 挨拶を交わしたことによって満足し、自室に戻ろうとする樹理を優也は呼び止めて。

「どうしたの、優くん? お姉ちゃんにお話?」

「姉さん、これを聞くのは俺も本当に心苦しいんだけどさ」

「何? なんでも言って? お姉ちゃんは優くんの言うことならなんでも聞くよ?」

「じゃあ聞くけど」

「うん」

「俺の部屋に盗聴器とか隠しカメラとか仕掛けてない?」

 優也は、もういっそ素直に問いただすことにした。

 盗聴器発見器を購入するのも高校生の財布には痛手だ。そもそも本当にあるかどうかさえ分からない。買って調べたはいいけれど空振りでした、では自身の思い込みと先走りでやらかしたこととなり、ダメージが計り知れない。

 それにこの姉ならやりかねない、とも思うが、それと同じくらい流石にこの姉でもそこまでは、という想いもある。

 ならばいっそこうして釘を刺した方が手っ取り早い。

「まさかね、やってはないと思うけど、そこまでしてたらいくら肉親でも本当に嫌うし、姉さんも俺が本気で嫌がることはしないって信じているから」

 それでも一応ね。

「……ヤッテナイヨ」

 間。

 それと、小声。

 そして、早口。

 なおかつ、樹理の視線が優也を向いていない。

「……本当に?」

「ウン、ホントウ」

「……分かった。信じる。ごめん、変なこと言って」

「アタリマエダヨ」

「流石に姉さんもそれをやったら俺が本気で怒って嫌いになるって分かってるだろうし、杞憂だったか」

「ソウソウ。……ソレジャア、オネエチャン、ヘヤニモドルネ」

「ん」

 樹理が二階への階段を登っていく。優也と樹理の部屋は、そちらだ。

 明らかに挙動がおかしい姉を見送って、優也は深く嘆息する。

 長年弟をやっていると分かる。あれは本当にやっていない。

 しかし、完全なる白でもない。

 あれは十中八九、「やろうとしてみて上手く行かなかったから断念した」時の表情だ。

「まあ……」

 ひとまずはこれで良いだろう。姉のブレーキには十分なっただろうし、万が一残りに十中二一で本当に仕掛けていても、これを機に取り外すだろう。

 その場合これまでの自室での行動が筒抜けであるというダメージを負うことになるが、そちらの可能性の方が低いから、優也は眼を背けることにした。

 往々にしてそれは現実逃避と呼ばれるのだろうけれども。

 

 

 

「……ねぇ、瑞希ちゃん?」

「お、戻ってきたなブラコン」

 自室に戻った樹理はしっかりと部屋の扉を閉め、通話状態にしたままだったスマホを持ち上げ、通話先の存在に語りかけた。

「……どうしよう、優くんの好感度下がってそうなんだけどぉ……」

「テンションひっく! さっきウッキウキで『優くん帰ってきたぁ!』ってスマホほっ放りだした人間と同じだとは思えんわ!」

 樹理の通話相手、宮前瑞希は友人のテンションの急降下ぶりにうろたえ、思わず突っ込んだ。

 宮前瑞希、女性、十九歳。

 小笠原樹理とは高校からの友人であり、今現在も同じ大学に通う級友である。

「なにあんた、ひょっとして『どっか寄り道した?』って尋ねでもした? 昔あんだけあたしが口酸っぱくそれはやめろ、ウザがられるだけって忠告したのに」

「気になったけどそれは聞いてないよ! 気になったけど! 何時もより二時間くらい帰ってくるの遅かったもの! 理由聞きたかった!」

 そして高校生活三年間を通じて、樹理にブレーキを仕込んだのも彼女であった。

 重度のブラコンである樹理の言動を今でこそ見世物感覚で楽しんでいる瑞希ではあるが、親しくなってその話を聞かされるようになっていた当初は、思う存分引いていたし、優也に同情もしていた。

 風呂に凸るな。

 誰かと遊んできたかとか付き合いに首を突っ込むな。

 パンツは盗むな。本気で引く。

 弟くんの歯ブラシを使うな。変態か貴様。

 半分以上は当時まだ会ったこともない弟くんの心の安寧の為に。

 もう半分は大変面白い題材なのに刺激というかエグみが凄いのでマイルドにして己が楽しみやすくするために。

 例えるなら、ブラックコーヒーは飲めないけど、砂糖とミルクを入れたら飲める。そうだ、このコーヒー、カフェオレにしよう。そういう思考。

 面白いのは結構だが、可哀想だとアレない、真顔でそうのたまうタイプの人間、それが宮前瑞希という人物だった。

「それじゃないとしたら何やらかしたのあんた」

「やらかしてもないよ! ただ盗撮とかしてない? って聞かれただけ!」

「それは、なにかを、やらかして、いないと、聞かれない」

 読点をたっぷりに、言い聞かせるよう瑞希は言う。

 いや、この友人はそれ以上に前科がありすぎてそもそもの信頼度がゼロなのもあるか。

「なんか心当たりは?」

「ないよ!」

「えぇー、本当にござるかぁ?」

「……」

「本当」

「間」

 いや間。今の言葉に詰まったか選ぶかしたかの間。

 明らかに心当たりのある間だっただろう。貴様は。

 瑞希がそれら十の感情を「間」の一文字に詰め込んだ。

「いや、その……未遂、って言うか」

「やろうとしてんじゃねえか」

 冷静な突っ込みが喉からするっと出てきた。

「違うんだよ? 聴診器を優くんの部屋側の壁に当てて『ひょっとしたら聞こえないかなー?』ってしただけで。実際聞こえなかったし、盗聴器をコンセントに仕掛けたり本格的なことはしてないよ?」

「発想が狂気」

 これは前もって「盗撮盗聴をしてはいけません」と教育すべきだったかと瑞希は天井を見上げるが、そんなもんそれ以前の問題だわと否定した。言われずともやるなよんなもん。

「つーかなんで聴診器なんて持ってんのあんた」

「子供の頃優くんとお医者さんごっこしたくてお年玉で買ったのが」

「エアでやれやエアで。何実物買っちゃってくれてんのよあんた」

「私って形から入るタイプなのかな?」

「知るかあんたの人格形成なぞ」

 思わず瑞希は米神を揉みほぐした。

 この弟馬鹿を少しばかり見誤っていたようだ。こいつはとてつもないド変態だと評価を下方修正する。

「で、弟くんにはなんて言って返したの」

「ヤッテナイヨって」

「ロボかな?」

 瑞希の通話相手が途端にメカメカしくなった。人であったはずなのに。

「明らかなんかやってる声音なんですが」

「だって、言えるわけないじゃない! 聴診器でチャレンジしてみたって!」

「そのブレーキをなんで実行する時に踏めないのかな?」

「……分かんない」

「そっかぁ……」

 分かんないかぁ……。

 瑞希は遠い目で天井の木目を見た。

 ならしょうがねえよなぁ……。

「じゃあもう諦めろ。弟くんからすればあんたの評価なぞ今更だ二十点でも十五点でも赤点なのは変わらない」

「そこまで低くはないでしょ?」

「正気かお前」

 樹理の自己評価の余りの高さに瑞希は目を剥く。

「あー……まあいいや」

 どうでも。

 投げやりなのを隠して話の転換だけの意味を持たせた言葉を吐く瑞希。

「弟くんはなんて?」

「信じてるって言ってくれた」

「弟くんっ……」

 健気さに瑞希は目尻を拭った。

「やってたら本気で怒るし嫌うとも言ってた」

「だろうよ」

 弟に常識を全て持っていかれたのだろうかこの姉《じゅり》は。

「……マジレスすると本当にやってないってもういっぺん言いに行くくらいしかないでしょ。聴診器云々はあんたも言いたくないだろうし弟くんも言われても困るわ」

「そうだね」

 しょんぼりと落ち込んだ声音が耳元から聞こえる。

 ああ、樹理でも落ち込むことあるんだなぁと今更ながらに思って、「あ、そういえば」と思い出す。

「弟くんに来週あたしと由愛《ゆあ》が遊びに行くって伝えた?」

「あっ、まだ伝えてない」

「弁解ついでに伝えといてよ? 出来れば由愛と弟くんが鉢合わせしたとこ見たいけど無理強いできないし、居心地悪かったら友達の家に避難するかもしれないし」

「うん、分かった」

「それじゃ、今日はこのへんで。また今度ね」

「ん。バイバイ」

 通話終了。

「あー」

 瑞希は首と肩をこきりこきりと左右に回しながら呟いた。

「樹理の弟くん絡み面白いけど疲れるー」

 数十秒後、バーチャルの世界に生きる鬼が、似たようなことをSNS上にて呟いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7話 能動的青春間

「いやぁ……」

「夏ね」

 教室内にて優也の友人たる中田建士が呟いた。

 窓の外では雨がざんざんと降っている。

 優也はこの天候で夏を感じるのに疑問符を浮かべたが、しかし涼しさなど欠片もなく、ただただ蒸している熱帯のような状況に「……まあ、ね」と呟いた。

 建士が団扇代わりに顔面へ風を送っている下敷き、それがたわんでぺっこんぺっこん音を立てる。

「来週には、夏休みね」

「そうね」

 期末試験も終わり、今週が一学期最後の週である。教室内の空気はどこか浮ついたというか弛緩したというか、浮き足立った雰囲気が支配している。

「どうよ、なんか予定ある?」

「……ないね」

 夏休みに入っていきなり樹理の友人がやってくるらしいが、それは姉のスケジュールであり。優也個人としては土日を除く午前中部活に出て午後予備校である。

「つまんないわぁ」

 受験の天王山は二年の夏と言われても、実際にやる気が出るかどうかはまた別だった。学校の授業がない分時間の融通は取れるが、イベントは今のところ予定されていない。

「そういうお前はどうなの予定」

「俺はさァ、実はさァ」

 会話のボールをそのまま建士に投げ返してみると、建士は思わせぶりに優也をちらちらと伺い見ながら言葉を濁す。

「いやあちょっとさあ優也くんにはお願いがあってさァ」

「物による」

「じゃあ言うけどさァ……優也くんさァ」

「はい」

「俺の理性になってくんね?」

「理性?」

 意味が分からなかった。

 

「実はさァ、俺さァ、気付いたんだよ」

「その小さい『ァ』やたらめんどくさいからやめて」

「はい」

 優也が真顔で言うと建士もすんと真顔で頷いた。

「だからね、俺もこの夏、いっそVになろうって」

「うーん?」

 V、Vとは。優也は一瞬思考が止まり、やがて答えに辿り着く。

「VTuber?」

「その通り。楽しそうじゃないですか、見てたら。そうなるとやってみたくなるのが人情てもんでしょうよ」

「分からないでもないけど」

 優也からすればVTuberというものに向けてそんな感情は抱かないが、中にはテレビか何かで見て面白そうだと感じるものもある。中学から始めたテニスも最初は面白そうだという気持ちが半分くらいあった気がする。

「なんか色々必要になってくるんじゃないの、機材が。それにやめといた方がいいんじゃないの。黒歴史なりそうだし」

「調べたけど一番手軽なのならウェブカメラがあればいいらしい。俺のPCスペックは結構いい方だから、多分いける」

 中田建士、去年の冬に貯金を叩いて自作PCを組んだ男。

「最悪スマホアプリにもそういうのあるから、余裕よ」

 ズボンポケットからスマホを取り出して、見せ付けてくる。

「へぇー」

 優也は生返事を返した。

「黒歴史には多分なるだろうよ。だけどさ、そういうの気にして行動に移さないっていうのもサ、青春の浪費っていうかサ」

 建士はへへ、と笑って人差し指で鼻の下を掻いた。

「今の年齢だから出来ることってあるじゃん? 後悔はいつでも出来るしサ……!」

 優也からしてみれば良いこと言ってるようで絶妙に響かない言葉が届けられた。そして非常に臭い、台詞が。意図していてやっているがやはり臭い。

 VTuberというものに対してそこまでの情熱も愛情も持っていない人間からすれば、そこで将来の後悔を、枕抱えて「俺は何故あんなことをしたんだ」という煩悶を覚える確定事項を行わなくてもいいだろうに。

 ――まあそれは俺の価値観だからいいけど。

 建士は建士である。そして優也は優也である。

 冷たいようだがやりたいのなら勝手にやってればいい。友人とはいえ、そんなもんだ。友人だからこそ、強く止めないということでもあったが。犯罪でもなしに。

「それで? お前がVとやらになるのになんで理性云々が出てくるの?」

「それなんだけどさ。俺一人で動画取ってたり配信してたらさ、絶対ブレーキ分かんなくなると思うのよ」

 テンション上がっちゃうと思うし。

 中田建士という男を見ていて、なるほどそれはそうかもしれないと優也は友の立場からそれを認めた。お調子者というか、おだてたら木も登りそうなタイプではある。

「だから傍で俺のこと見てて。そしてやりすぎたら止める役やって」

 語尾にハートマークが付きそうな、媚びた声を優也の目の前の男子高校生は吐き出した。

「嫌だけど」

「ちょっとは思案して」

 即断すると、やはり甘く媚びた低音が返ってくる。

「……嫌だけど」

 少しだけ間を置くことによって思案を表現して、同じ言葉を繰り返す。

「とても、勝手にやって欲しいです」

 どうぞご随意に。ただし巻き込まないでください。

「ねぇー、稲ちゃーん。アホがなんか馬鹿なこと言い出したー」

 仕方ないので優也はまた別の友人を生贄に捧げることにした。

 自身の座席より左に二、後ろに三離れた座席の友人、稲ちゃん。優也と同じテニス部の稲ちゃん。どことなく影が薄いことで目立っている稲ちゃん。稲ちゃんこと稲村正敏《いなむらまさとし》。

「んぁい」

 呼ばれた正敏はどうやら寝ていたらしく、びくんと一度身体全体脈打ってからのそりと顔を上げて周囲を見渡した。

 手招きする優也を見つけて、生欠伸を噛み殺しながら席を立ち、二人の会話に参加する。

「クソ眠いんだけど」

「昨日何してたん」

「深夜ラジオ聞いてた。あと単純にクソ暑くて寝れてない」

 優也の問いに答えてから、正敏は、ふぁ、ともう一度欠伸。

 確かにここ数日は熱帯夜もいいところだと優也は頷いて。

「それよりさ、こいつが無駄に行動力発揮して暴走始めそうだから止めるの手伝って」

 あるいは代わりに生贄になって。

 建士を指差し優也は言う。

「随分物騒すね。なに、なに言い始めてんのお前」

「父さんな、VTuberになって食っていこうと思うんだ」

 問う正敏に対して、建士は脱サラをして飲食業を始める父親のような言葉を吐いた。

「だからお前らも手伝って」

「……あー。成る程、了解。暑いからね、仕方ないね」

「熱で頭やられたわけじゃねーんですが?」

 そら一人で相手したくないわけだと正敏は己が呼ばれた意味を知る。一人ぶんの夏馬鹿に二人はちょっと相容れなかった。

「好きなことして生きていく」

「そうか、頑張れ。優やんは夏休みなんか予定あんの?」

「いや、部活と予備校くらいであんまないよ。稲ちゃんは?」

「俺は彼女とどっか行くくらいだと思う」

「話逸らさんでもろて。てか稲村ァ! てめえ彼女いるんかァ! なら俺にも付き合えェ! 彼氏だろが俺のォ!」

「初耳ですが?」

 優也のことを優やんとあだ名で呼ぶ正敏に彼女はいても彼氏はいなかった。

 

 

 

「なー、いーじゃんそんな頑なならんといて。ええやろ、ちょっとだけやん」

 休み時間を跨いで跨いで、昼休みに突入しても未だに建士は優也と正敏にダル絡みをしていた。最早ここに至ってはその絡み方のレパートリーも底を尽き始め、似非関西弁を用いてきていた。

「何時もより随分引っ張るね。……なに、そんな本気なのお前?」

「いや、これで飯食っていくってのは冗談よ? どうせやっても再生数は二桁乗ったら御の字みたいなもんでしょ多分」

 それなら単純にVTuberというものへの憧れが勝っているのか、と言ったら必ずしも建士にとってそれが全てではないらしい。

「馬鹿をやりたいんだよね、俺は」

「馬鹿」

「冬入ったらいよいよもって進路本格化じゃん? 第一寒いしテンション上がんないし冬って」

「なら高校生活で一番はしゃげるのが二年の夏までじゃん。なら、あー馬鹿やりてえーって。夏の暑さにかまけて馬鹿やりてぇーって思うわけよ、分かる?」

「それでチョイスがVTuber?」

「そこはそれ、俺の趣味」

 馬鹿。

 馬鹿という言葉。

 それは思春期の男子にとって素晴らしい意味を持つ。

 いつだって男の子は馬鹿をやりたいし隙さえあれば馬鹿をやろうとし、テンションにかまけて馬鹿をする。

 小学生の時分に階段を何段目から飛び降りれるか競い合い、中学生の頃、修学旅行先で深夜騒ぎまくって教師から大目玉を食らった経験が優也にはあった。

 仲間内で集まって馬鹿をやる。

 それは時に手痛いしっぺ返しや他人への迷惑を伴っていて、大人になるにつれブレーキが掛かっていくものだ。

 だが、隙さえあれば、それが許されるのならば、やりたい。

 考えてみれば建士からは「VTuberをやる」としか聞いていない。その内容を深く聞いてみれば、案外面白いことになるのかもしれない。

「……うーん」

「いいだろ? どうせ暇だろ? お前ら」

「……建士、知ってるか? 馬鹿やれる最後の機会が二年の夏って言うけどな、受験へ向けての天王山が二年の夏なんだぜ?」

 腕を組んで思案し始める優也を尻目に、正敏が教育者がよく使う言葉を引っ張りだすと、建士がそれを鼻で笑った。

「知らんのか。高校に入った時点からもう受験戦争はスタートしているんだぞ?」

 もっともな言葉だった。将来をしっかり見据えている学生はそれを理解してきっちりと勉強しているだろう。

「……お前は一年から戦争に向けての準備してんの?」

 正敏が尋ねれば、しかし建士はそっと視線を外した。結局は遊びたいがための口実であった。

「まあ、建士の受験はどうでもいいから」

 優也はいっそ清々しいほどに友人の将来を切って捨てる。

「俺が理性になるとか意味分からんところで止まってるから、何するのか詳しく聞かせて」

「本当に意味分からんなそれ」

 というかそれさえも初耳なんだが、と正敏が眼を細めた。

「なら夏休み入ってからいっぺん俺の家来い。そこで実際にやってみて、駄目そうだったら止めっから」

「それ俺も?」

「いいけど、よくよく考えたらお前の家知らないんだけど」

「俺もお前の家知らねえよ。後で住所送るからそれ見て来い」

「なあ俺も行くことになってんの? やっぱこれもう巻き込まれてんの?」

 一年と数ヶ月の付き合いなのに、建士宅を訪れたことのない優也がこの日初めてその住所を手にした。

「正敏は……どうしよ。当初の予定になかったんだが?」

「ここに来て梯子外されるのもそれはそれで腹立つんだが?」

 建士と正敏が喧々諤々言いあっている最中、優也のズボンポケットが振動する。

 震源はスマホだ。取り出して確認すると、一件の連絡が入っていた。建士を見る。両手は空手だ。スマホを持っていない。一瞬もう住所を送ってきたのかと勘違いした。

「ちっひー?」

 メッセージを送ってきたのは女子テニス部一年の堀千尋からだった。

 文面を確認する。そこに書いていたのは前後の文脈のないただ一言。

「怖っ」

 それを見て優也は小さく呟いた後、周囲をきょろきょろと見渡した。何処からか千尋が自分たちを見つめているのではないかと錯覚したからだ。

 それに気付いた正敏が「どないしたん」と横から優也のスマホを覗き込む。

「ちっひーじゃん。……ナニコレ怖っ。優やん何かやらかした?」

「いや身に覚えないんだけど。ないから怖いんだけど。……やっぱこれあれ? 建士の家に行くことに対しての未来予知とかなの?」

「何の話だよ。……何これ。というか誰? 堀千尋て」

 更に建士が優也に送られたメッセージを気にし始め、優也は素直に画面を見せる。

「部活の後輩。女テニの」

「リア充してんねえ」

「そういう関係じゃないから。……にしても本当になんだこれ」

 千尋が優也に送ってきたメッセージはただ一言。

 ――せんぱい、ご愁傷様です。

「マジ怖いんだけど」

 優也が震える。

「やっぱこいつの家に行ったらそうなるってこと言ってるんじゃね」

 正敏が「こいつ」こと建士を指差す。

「俺の家は地獄か何か?」

 建士は建士で自身の家を地獄と称して。

「ああ、でも鬼はいるわ。俺の家。そういう意味では確かに地獄」

「鬼?」

「姉貴」

 中田建士。一姫二太郎。

「えっ、姉いるのに姉っぽいVTuber好きなの?」

「姉がいるからなんだよなぁ。二次元に理想の姉を求めてんですわ」

「あぁ……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8話 おハーブ生える

 ぱっぽー、ぱっぽー、ぱっぽー。

 炎天下の青空に、歩行者用信号機が青に変わったと鳴り響く。

 じわじわ蝉が鳴いて、アスファルトをみれば熱気に空間が揺れて見える。

 このままどこか屋内に入ったら、なんだか視界がやたらと紫掛かって見えるだろうなと、日除けの帽子を被った女性が駅前広場のベンチに腰掛けた。

 ぺりぺりとコンビニで買ったサイダー味の氷菓の封を開けて、さくりと音を立てて角を齧った。

「いやあ……」

 駅前の電光掲示板を見る。今日の日時と、現在の気温がそこには記されていた。

「アツがナツいぜ」

 八月初旬。三十五度。午後二時三十分。

 大学生、宮前瑞希、十九歳。

 この地方都市を訪れる後輩を、猛暑日の只中待つ出来た先輩の姿がそこにあった。

 

 大学は七月の下旬の頃にはとっくのとうに長期休暇に入っている。

 しかし後輩が通う、瑞希も通っていた女子高は八月一日からの一ヶ月間が夏休みである。こうして後輩と顔を付き合わせるためには、駄目大学生に相応しくモラトリアムを満喫している自身より、青春真っ盛りの後輩に合わせた方が優しいというものだ。

 件の後輩は長期休暇に伴い一度実家に帰り、数日の間両親と過ごして、今日電車に乗って瑞希と樹理が住まうこの町にやってくる段取りとなっていた。

 到着予定時刻は午後二時四十分。なんと十分前行動を果たした己を褒めてやりたい気分だった。

 いっそ今食べているこのアイスもお高く、そして濃厚な奴を買えば良かったのかもしれないと瑞希は考える。頑張った自分へのご褒美である。事実として大して頑張ってもいないが、隙を見て軽率に自分を甘やかしていきたい。

「お」

 アイスの木の棒から「あた」という文字が見えてきた。

「あたりじゃん」

 たかだか一本百円そこそこのアイスだが、なんだか得した気分になってくる。

 瑞希はじゃくじゃくと音を立てて残り噛み砕いて、木の棒だけになったそれをまじまじと眺める。

「こっちで正解だったなー」

 ――さよならお高いアイス。お前はお前で良い奴だったよ。でも今日はお前じゃなかったんだなぁ。みずき。

 心の中で一節の詩を描いて、瑞希は前言を軽々しく撤回し自身の選択を讃える。

 意気揚々とアイス棒を口に咥えたまま、そろそろ到着したであろう後輩を迎えに駅構内へと足を向ける。鼻歌混じりに。

 

 スーツケースを引く。

 ガラガラと音を立てて。

 一人旅にしてはやたらとでかいそれをえっちらおっちら引っ張って、少女はホームの途中で腰を伸ばした。

 改札を通り抜け、辺りを見回すと見知った顔が一人、木の棒を加えて上下にぴこぴこと動かしていた。

 がらがらがらがらがら。

 やたらとでかいキャスター音が駅中に響く。

「先輩、お待たせしましたか?」

「十分ちょいくらい? にしてもあんたそれうっさいわね。というかデカいわね。何日分持ってきてんのよ着替え」

「これでも三日分くらいですよ?」

「嘘付け押し込めば一週間分は入るでしょこれ」

 先輩、宮前瑞希の言葉に少女は思わず絶句する。

「……先輩、普通の女子は嵩張るものなんです。先輩の身軽さが異常なんです」

 そう言って少女は眼前の瑞希の姿を上から下までじろりと眺めて、嘆息した。

 パンツ、シャツ、帽子、口に咥えたアイスの棒。

 装備品は以上である。出発したての勇者の方がまだ整っていそうだ。ひのきの棒相当のものさえ持っていない。

「駅にあんた迎えに来るだけなのにそんな身嗜み整えてどうすんのよ」

「それをするのが女性というものだと思うんですけれど?」

「……そう?」

「はい」

 言われて、瑞希は自分の姿を改めて見直す。

 着飾ってはいないが、特におかしな点はない。シャツに食べ物が跳ねた染みもないし、鍵もスマホもポケットに入っている。

「……あんたそのでっかいのどうするの?」

 何も問題はなかった。何も問題はないので、えらそうな後輩の話は流すことにする。

「……駅前のビジネスホテルに泊まる予定ですので、そこに一度置きます」

「何泊予定? 一日二日ならウチに泊めてもいいわよ? 気ままな学生一人暮らしだし」

「……何日までだったらお姉様にご迷惑掛からないと思いますか?」

「うーわ」

 何日いるつもりだよこいつ。

 瑞希はごく普通に限界ギリギリまで樹理の傍にいようと試みる姿に顔を顰めた。

「変わってないわねあんた」

「先輩たちが卒業していってまだ半年も経ってませんよ?」

 成る程確かにたった四、五ヶ月で人が変わるなんて滅多になかろう。人生観を揺るがす大きな出来事などそうそうありはしない。

 だが、それでこそだと瑞希は内心でほくそ笑む。

 未だに樹理のことをお姉様と慕う眼前の少女、彼女が向かう先は敬愛すべき樹理の実家である。

 そしてそれは同時に、少女が嫌というほどお姉様の口から聞かされてきた「お姉様の弟」も住む家ということになる。

 愛すべきお姉様が愛を向ける弟くん対お姉様大好き後輩。

 ――ぜったいたのしい。

 瑞希は確信する。

 この三人が邂逅するその瞬間がもう少しでやってくるのだ。

 樹理は同姓相手に恋愛感情は覚える人ではなく、弟くんも実の姉に欲情する人間ではない。

 どうやっても想いが交わりあうことのない関係性だから、これ以上ない娯楽として瑞希は楽しめる。

「あの、先輩」

「なに?」

「なんで笑ってるんですか?」

「いや、なんでもない? なんでもないよ?」

 いけないいけない。思わず顔に出てしまっていたようなので、瑞希は両手で自分の頬をぐにぐにと揉み解す。

「それじゃ、行きましょうか、由愛」

「はい」

 清水由愛《しみずゆあ》。高校三年生。

 宮前瑞希と小笠原樹理の後輩である彼女は、建前としては彼女がVTuber化する際の打ち合わせと称して、樹理との数ヶ月ぶりの接触を持つことに成功した。

「あっそうだ」

 瑞希が足を止める。

「どうしたんですか?」

「これあげる」

「ゴミじゃないですか。いりませんよそんなの」

 瑞希は口に突っ込んでいたアイスの棒を由愛に突き出す。

 唾液まみれでデロデロ……にまではなっていないが、口の中に含まれていたものを目の前にやられて由愛は思わず顔を顰めた。

「いやいや、よく見てみなって。これ当たりよ?」

「はあ」

「これ上げるからコンビニで変えてきてもらいなよ。そしてお前はそのアイスを貪り喰らいながら私にこう言うんだ。こんなうめえもん食ったの初めてですわ! つってな」

「何度か食べたことありますけど。先輩は前々から私のことを一体なんだと思っているんですか?」

 

 

 

「こんなうめえもんがこの世にあるんだから不思議」

 優也はクーラーがよく効いたリビングにて氷菓を噛み砕きながらだらだらと過ごしていた。

 冬にこたつでアイスも良いが、やはり夏に食べるアイスがストロングスタイルで優勝する。

 ソファに寝っ転がり、シャツから腹がはみ出てるのも気にせず、左手にアイス、右手にスマホで溶けていた。

「優也、だらしないわよ」

 キッチンで洗い物をしている母から小言が飛ぶが、「んー」と返すだけで優也はそのまま液状化が止まらない。

 母も母でだらけるのがそれで収まるとは考えていなかったので「まったく」と嘆息をして匙を投げた。

 しばらくそのままごろごろ過ごしていると、不意にチャイムが鳴らされた。

「優也、ちょっと出てくれる?」

「んあー」

 ずりずりと立ち上がり、食べ終わったアイスの棒(はずれ)をゴミ箱に放り捨てて、居間から扉を開けて玄関に向かう。

 廊下はむわっと熱がこもっており、不快感があった。

 もう一度鳴らされたチャイムに「はいはいちょっと待ってください」と独りごちながら玄関のサンダルを突っかけて鍵を外し、がちゃりとドアを開ける。

「はい、どちらさま?」

「やあ弟くん」

 夏の熱気の中には女性二人が立っていた。

 優也からすれば一人は一度見た人で、もう一人は多分初めましての方だった。

「あー、姉さんの友達の……」

「宮前瑞希だよ。一度あったよね。こっちは樹理の後輩の……」

「清水由愛」

「……だよ。よろしくね」

 瑞希が何故か小鼻を膨らませて、声を震わせながら言う。

「はあ、よろしくお願いします。……姉さん呼んできますんで、ちょっと上がって待ってもらえますか」

「それじゃ、お邪魔します」

「お邪魔します」

 とりあえずは二人を玄関に迎えいれて、優也は廊下から階段を登り姉の部屋へ向かう。

「挨拶くらいちゃんとしなさいよ」

「……気乗りしません」

 そんな会話が後ろから小さく聞こえてきた。

 

 ――お姉ちゃんの部屋。ノックしてね。

 最後にハートが描かれたドアプレート。

 思えばこれがぶら下げられるようになったのは割りと最近のことだったと優也は述懐する。

 それこそ、何時か自分が晩飯が出来たと伝えに来てからのような気がする。あの時姉は珍しく自分の言葉に「うぴゃい!」と奇声を発しながらびくんと肩を跳ね上げさせていた。

 結局、VTuber雪那の配信に入り込んだその声は凡そ自分の声だった。九割九分、己の声だと優也は認めた。

 夜、寝る前にベッドに潜り込んで、スマホにイヤホンを差し込み、掛け布団とタオルケットに包まって、再生数が伸びている「雪那」の雑談枠を幾つかタップしていく。

 ありがたいことなのか、それとも優也からすれば迷惑なことなのか、コメント欄にはその都度見所のようなものタイトルとその時間指定を書いてくれている不特定多数の人がいた。

 数度の動画再生で、優也が探していたシーンは容易に見つかる。見事にコメントにて時間帯を指定されており、誰もが容易に気軽に視聴可能という万全のありがた迷惑にて出迎えをされる。

 恐る恐る、震える指先でその時間指定をタップして飛ばされたシーンの先にて。

「……」

 事此処に至って、自身が日頃話していて骨伝導を通じて聞こえてくる自身の声と、空気の振動によって他者に聞こえる声は大分違うという逃げ道に進むのはいっそ無粋に思えて。

 カラオケだとかムービーだとかを介して他人に聞こえている自分の声というものを十二分に理解している優也は潔く声の正体を認め、そっとアプリを落とし、イヤホンを抜き、寝た。

 つまり姉を呼ぶ声が自分なのだから、自分に呼ばれている雪那は、そういうことである。

 友人だとか人前で話すよそ行きの声でこそ決してないが、テンションの低い、身内の前で出す声がこれだ。

 だからと言ってどうしようもない、どうすることも出来ない。ただ純然たる事実が白日の下に晒されただけのこと。

 姉の盲愛は未だ健在であって、「雪那」という架空の存在を通して不特定多数に語ることにより、弟への直接的な求愛を制限するストレスのはけ口にしている現実は、否定も覆しようもないのである。

 優也の立場からすれば、出来ることはただ一つ、沈黙を守ること。

 現在の状況で歯車が上手く噛み合っているのだから、そこに石を、意思を挟み込ませる理由がない。

 他にすべきことと言えば、樹理にバレない程度に今一度身を引き締めることだけだ。

 

 息を一つ吐いて、扉をノックする。

「姉さん? 友達来てるよ?」

「あ、ありがとう。今出るね」

「あい」

 少しの間待てば、姉が部屋から出てきて、一階で待つ友人たちの下へ向かう。

 さて、全て世は事もなし。姉たちは姉の自室か居間のどちらかで過ごすのだろうし、単なる弟に過ぎない自分にとって彼女たちとはまるで関係のない間柄。姉が友人と遊んでいる間、己は自分の部屋で学校の課題でもなんでも消化しておこうと優也はそのまま自室に入った。

 

 

 

 はずだった。

「紹介するね。この子が私の弟の優くん」

「あたしはもう一度会ってるよねぇ……」

「……」

「あんたはなんか喋りなさいよ後輩」

「……近い。お姉様から離れなさいよ獣《けだもの》」

 何故姉という存在は、自身の友人に弟を引き会わせたがるのだろうか。

 この姉が特殊なのだろうか。

 優也は姉の部屋にて答えの出ない問いを虚空に投げ掛けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第9話 誰が至強か

 数ⅡBをやろう。

 優也はそう考えた。

 数ⅡBの夏季課題をやろうと考えた。

 隣室では姉とその友人がよろしくやっているのだろうから、冷房でキンキンに冷えたリビングでだらけていると母から十中八九文句を言われるのに間違いない。

 教科書と課題のプリントを引っ張り出し、机の上に店を広げて、抽斗の中からシャープペン。二回ノックして芯の長さを調整した。

 さあめくるめく数字の世界にいざ征かん……としたところで。

「優也? ちょっといい?」

 ノックもそこそこに母が優也の部屋のドアを開けた。

「何?」

「樹理にお菓子と飲み物持って行ってくれない?」

「……」

「分かった」

 椅子に座ったまま振り向いて、母の顔を見ながら母が言った言葉を数瞬の間反芻するための間を要して、しかし優也はその言葉に頷いた。

 手ぶらで部屋を訪れた母に対して、「俺の部屋来るくらいならそのまま姉ちゃんの部屋に持っていけばいいじゃん」という考えがないわけではなかった。

 だけれどそれについて言及する時期は数年前に過ぎ去っていて、ここは素直に頷いてやり過ごした方が省エネで済むという一種の諦めを優也は学んでいた。

「下にあんの?」

「お盆に載せておいたからそれ持ってって」

 そこまで準備してるなら母が自分で持っていけばいいじゃないという思考が加速するが、そんなことはおくびにも出さず、優也は再度頷いた。

 

 一階に下りて、確かに盆に載せ用意されている菓子とジュースを持って姉の部屋に向かう。

 ――これは優也が食べていいから。

 母から渡されたチョコレートとビスケットの組み合わせがニクい、チョコ部分に船が描かれたアイツを対価として提示され、不承不承個包装のそれをついでに盆に載せた。

 とんとんと音を立て階段を上り、姉の部屋の扉をノックする。

「姉ちゃん、菓子と飲み物持ってきたんだけど」

 部屋の扉が開かれ、姉がひょいと顔を出す。

「優くんありがとぉ」

 ぬるりと樹理の手が伸びて、わっしと盆を掴まれた。

「ちょ、ちょ、ちょい」

 アルフォーなアイツは俺の俺の。

「? どうしたの?」

「いや、それ」

 チョコクッキーは、俺の。

 そう答えるのは何か恥ずかしい。

 ポテトチップスが俺のなら言える。

 けれど、チョコクッキーが自分のだと姉に答えるのは何か恥ずかしい……!

「?」

 盆を持ったまま姉が部屋に引き下がる。

 ――畜生ォ! 持って行かれた!

 ――アル! アルフォーなんとか! くそ! こんなことがあってたまるか!

 ――返せよ! たった一つの勉強のお供なんだ!

 そんな問答が優也の内心で行われていたのかは定かではない。

「!」

 だが何故かまごつく弟を見て、姉は途端に得心がいったかのように表情を明るくした。

 樹理は盆を引き継いだまま一度広げたテーブルの上に戻し、再び扉の前の優也に向かい、ぬるりとその両手を伸ばしその二の腕に抱きついた。

「優くんも一緒に食べよう? ね? そうしよう? それがいいよぉ!」

 ぐいと優也の身体を引き寄せる力が強い。

「いやっ、ちょっと、それはっ」

 樹理の扉が閉ざされて。

 優也は無事扉の向こうへ持っていかれた。

 

 

 

「んふふふふふふ」

 瑞希は現状を眺めて押し殺した笑みを浮かべたつもりだったが押し殺しきれず怪鳥のような気色の悪い笑みを漏らした。

 ――馬鹿《あね》が葱《おとうと》背負ってやってきた。

 先人の言葉は何時だって正しくて何時だって素晴らしい。森羅万象その尽くが諺か四字熟語で補完されているのだろう。

 傍らではお姉様ラヴの由愛《こうはい》が歯軋りを立てている。分かるよ。多分弟くんの二の腕をがっつり乳で挟み込んでるのが気に食わないんだろうさ。

 ――樹理は乳がでけェんだ! 窪んでねェんだ! パッドも寄せて上げても必要ねェんだ!

 瑞希の心の中で兵士が叫んだ。

 そんな乳に抱き寄せられるのは確かに羨ましいと思う。オギャりたいと瑞希も思う。

 しかしどうだろう弟くんの死んだ顔。

 感情というものを母の腹の中に忘れてきたのだろうかと問いたいほどに表情筋が死んでいる。

 そもそも、何故この馬鹿は弟くんを連れ込んできたのか。

 以前会話したときにあたしが「居心地悪かったら友達の家に避難する可能性がある」という提言を無視しているのか。

 その言葉を忘れているのか、現時点で避難していないからオッケーサインが出たと考えているのか。どっちにしたって馬鹿野郎である。

 樹理に対して弟くんの好感度がガンガン下がる音が聞こえる。科学の発展につきものの犠牲になってもこんなに下がる音聞こえないぞってくらい下がっている。

 姉とほぼ面識ゼロのその友人二人に囲まれる。うーん想像しただけで居た堪れない。

 そこまで理解した上で瑞希は弟くんを満面の笑みで受け入れた。好感度が下がるのは樹理だけである。あたしにとっては関係ねえやという黄金の精神の持ち主であった。

「改めて紹介するね。私の弟の優くん」

「知ってる」

「……すぞ」

 横から小さく呪いの言葉が聞こえた。

「ンッフ」

 瑞希は堪えきれず小さく噴き出した。

「……小笠原優也です。弟です」

 小さくぺこりと頭を下げる優也。

 ずっと小せえ挙動が続くな、と瑞希は内心で思いながらテーブルの上に置かれた盆の中からポテトチップスを一つ摘んで口に放り込んだ。

「三度目だけど宮前瑞希。大学一年」

 手を上げて瑞希は元気よく応じる。そして足の爪先で横にいる後輩へ小さく蹴りを入れて促す。

「清水由愛。高三。私の方が年上だから」

「はあ」

「オッフ」

 そこでマウントを取っていくのか。

 由愛の謎マウントに瑞希は顔を背けて細かく震える表情を隠した。

「まあ座りたまえよ弟くん。我々はあまり気にせず何時ものように」

「そもそも姉の部屋に立ち入ることが何時ものことではないんですけどね」

 言いながらキョロキョロと周囲を見渡して、結局優也は姉のベッドに腰掛けることにした。

 流石にテーブルに入り込んで膝突き合わせるほどの勇気がなかったからそうしようとしたのだが、腰を下ろそうとしたところで。

「ア゛ア!?」

 獣のような声がした。

「えっ」

「はい由愛、どうどう」

「もんぐー! ふんぐー!」

 由愛が瑞希に後ろから羽交い絞めにされ口を押さえこまれた。

「え、何、なんですか今の」

「いんやあ? 何でもないよ気にしないで。多分コイツの尻の座りが悪かったんじゃないかなぁ?」 

 瑞希がそのまま由愛の首根っこを掴み、ずりずりと部屋の隅に引き摺る。グエーと悲鳴が由愛の口から漏れていた。

「ごっほ、げっほ。ちょっと先輩、何をするんですか。あいつお姉様の、あろうことかベッドに! ベッドに腰掛けようと!」

「ああ、あんたが大分アレなのは百も承知だけど、もう少し取り繕ってもらっていい?」

「大分アレ!? それはあの野郎の方でしょう!?」

「樹理の肉親やぞ」

 声のボリュームを極限まで落として、部屋の隅でぼそぼそと言い合う二人を尻目に、優也は極めて手持ち無沙汰にしていた。

 姉と話すこともない。姉の友人と話すこともない。ただ連れ込まれた哀れな子羊。本当に自室で宿題を消費していた方が有意義な時間である。

「優くん。お菓子食べないの? ……食べさせてあげよっか。あーん……」

「あっ、結構です」

 チョコプレッツェルを突き出してこようとする姉を両手で制してノーサンクスの意を表する。

「オオ゛イ!?」

「うわやっぱり何!?」

「もうこれ解き放った方が面白いかもと思い始めてるあたしがいるよー」

 ビビる優也に猛獣が跳び掛かって行かないよう、瑞希は由愛の首をキュっと絞めた。ゴエーと乙女が発してはいけない声が由愛の喉から鳴る。

「あの、すいません。先ほどから清水さんは一体何を……」

「そうだねー。よく分かんないよねー」

 菩薩のような表情を浮かべた瑞希が由愛の首から手を離す。

「ケダモノが一匹紛れ込んでるって思ってもらっていいよー」

「ケダモノはあちらでしょう! ふしだらな!」

「そうだねーどっちかと言うと樹理もまたケダモノだねー」

「お姉様がケダモノであるはずなど!」

「ええと、ちょっとタイム。いいですか」

 口角に泡立てる由愛を見て、優也は樹理と瑞希を交互に見やってから「すいません、宮前さんちょっといいですか」と廊下を指で示した。

 樹理と瑞希、どちらがより話しが通じるかを優也が考えた結果、肉親である樹理よりもろくに会話さえしたことがない瑞希に軍配を上げた。

「ちょっと樹理、あたしは弟くんからのラブコールに答えなきゃならんからあんたがこのケダモノ宥めといて」

「決してラブコールではないから勘違いしないでね?」

 人を二、三人殺したことのあるように思えてくる冷酷な視線を向けてさらっと言ってくる樹理を適当に流し、優也を伴い瑞希はドアを開けて廊下に出る。

 由愛が「お姉様、二人っきりですね」と樹理に這っていくのをドアの隙間から瑞希は見た。

 

「さて、何のようだろう弟くん」

「……出会ってばかりの人にこう言うのも何なんですが、その、あの清水さんは一体どういうお方で?」

「クッフぅ」

 至極妥当な質問にやはり瑞希は笑いを噛み殺した。出会って五秒で奇行。やべー奴なのかと疑うのに間違いはなく、事実やべー奴なのに間違いはなかった。

「うーん、まあ、見ての通り、あいつは樹理に懸想していてね?」

「懸想」

「ちょっと樹理のことに関するとブレーキってのが緩くなる」

 言葉にこそ出さないが頭の螺子もだろう。あの有様は大分緩い。

「樹理が……その……ブラコン? だというのは由愛も知ってるんだろうけど、目の前でお姉様が弟くんを甘やかすのを見るとやはり熱暴走を起こすみたいだね」

「それはまた……」

 優也はたっぷりと言葉を選んで。

「難儀ですね」

「ンッフフフフフ」

 チョイスをした結果が瑞希のツボに入った。

 難儀。難儀て。

 難儀なのはどっちかというと意味もなく目を付けられている弟くんの方だろうし、言葉遣いも最大限の配慮してる感じが伝わってきてとてもイイ。

「ンフッフフフフフ……。……あまり気にしない方がいいよ。懸想と言っても女子高の寮っていう閉鎖空間で思春期に拗らせたもんだとあたしは考えてるし、そんな本格的にセクシャリティどうのこうのを考えるほど大層なもんじゃない。十年後にはどっかの男と恋に落ちて結婚して子供産んでるとあたしは思う」

「はあ、そうなんですか……」

「まああいつの戯れに愛想を尽かさず適当に流してくれたら有り難いね」

「なるほど」

 分かりました?

 了解に疑問符をつけて、一応の回答を優也は返す。

 周囲に変わり者が一人増えたと考えることにしよう。

 そう折り合いをつけて、優也は姉の部屋に戻ろうとドアを開けた。

 

「お姉様! お姉様! お久しぶりですお姉様!」

「そうね。卒業して以来ね、由愛ちゃん」

 すんはー、すんはー。

 清水由愛は樹理の下腹部にしがみつき。深呼吸しながら顔をぐりぐりと押し当てている。

「二人っきり! 久しぶりの二人っきりですお姉様!」

「そうね、二人っきりなのは何時以来かしら」

「百四十二日ぶりですお姉様ァァァァァ!」

 

 ――ッスゥー。

 息を小さく吐いて、優也はゆっくりとドアを閉めた。

「……ごゆるりと」

 優也の後ろでは、瑞希は腹を抱えて声も出さずにひきつけを起こし音もなく笑っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 姉がヤーバィ~コロシヤの脅威~

 へぇー。

 そうなんですか。

 凄いですね。

 勉強になります。

 

 それはまさに鉄壁であると瑞希は頷いた。

 何一つとして他人の意見を求めていない、いっそのこと頷いてさえいれば話を聞いていなくてもいい人間に対して峻厳なる天険がそれらの言葉だ。

 別名めんどくさい上司への対応、あるいはキャバ嬢トーク。

 優也が繰り出した穴熊囲いは見事由愛に突き刺さり、彼女が放つ機関銃がごとき罵詈、そのことごとくを無効化することに成功。

 終始由愛を見る目が侮蔑と白眼を足して二で割ったようなものを差し向けたまま、優也は都合三十分弱ほどの付き合いの後自室への帰還を果たしていた。

 全く正しいこってすと、瑞希は後輩に対して満点である振る舞いに内心で頷き、そして多分この姉、姉の友人、姉の後輩の三人組の内二人がまともではないと弟くんの中でカテゴライズされたであろう事実にシニカルに笑う。

 ちゃっかりと己をその中から除外し、まだまともだと自認する辺り、瑞希は自分の心の中に棚を作っていた。

 

 ぱきり、と、齧ったチョコプレッツェルをそのまま半ばほどで折る。

 瑞希が立てたその音は閑話休題の意思を持つ。

「弟くんも帰ったし、本題よ」

 樹理、瑞希、由愛の三人が座卓にて膝を突き合わせる。

「こいつのガワ、それをどうするか問題」

 短くなったプレッツェルで瑞希が指すこいつこと清水由愛。

「今日のメインはそのはずだったんだよなぁ」

 何故か弟くんにちょっかいを出し始めていたけれど、当初の予定はそれが主体だ。

 瑞希は残りのプレッツェルを口に放り込んで、新たな一本をするりと袋から引き出し、摘んだそれを指先で指揮棒のようにゆらゆらと揺らす。

「はい、樹理。なんか意見を」

「うーん、お岩さん?」

「……」

 次は四谷、四谷。お出口は右手の扉です。足元にお気をつけください。ネクストステーションヨツヤ。

 瑞希のプレッツェルがあてどなく虚空に円を描いた。

「いいと思います」

 いいのか。

 由愛の即答に瑞希が目を剥く。

「……他になんかもうちょっとおらん? 頼むぜ樹理ママ」

 茜《あたし》と雪那《あんた》、二人を生んだVの母親だろう?

 真っ当な回答を求めて瑞希は一縷の望みを言葉に託した。

「じゃあお菊さん」

 おう、ワイや。番町や。変化球なぞ投げとらんで漢なら真っ直ぐで勝負してこいや。

「素晴らしいと思います」

「全肯定Botかお前は」

 樹理をただ全肯定するだけの機械と化した由愛を見て、瑞希は白い目をして突っ込んだ。

「妖怪というより個人名の悪霊やんけ。もっとあるやろなんか」

 しかも片一方悲恋で振られてるし。それでいいのか百合後輩。いいと思います言うてる場合じゃないぞ百合後輩。

「……じゃあ由愛ちゃんピアノ弾けるからベートベン」

「だから個人から離れろォ故人から離れろォ」

 果たして学校の怪談とは妖怪や化け物に属するのか、そういった疑問を貫通してどう考えても角が立つキャラクターモチーフであった。

「……対案も出さずに否定だけするのはよくないと思いまーす」

「……唐突にまともなこと言いやがって」

 尽くキャラデザに却下を出されて、編集に対する抗弁を述べる樹理に瑞希は頬をひくつかせる。

「取りあえずこいつで推して行きたいのはそのピアノ弾けるってことだから、そのイメージに合わせて行きたいわよね」

 こいつと指差された由愛は「そうですか」と何とも気のない返事をする。それに思わず「あんた本当にピアノ弾けんの?」と言いたくなる瑞希だったが、高校時代に実際弾いているところを目の当たりにしているため、ぐっとその言葉を飲み込んだ。

「ピアノのイメージ的に西洋の妖怪というか怪物、最大公約数だか公倍数だかで考えたら分かりやすく吸血鬼あたりなんだろうけど」

 そこまで言って瑞希は腕を組んでうんうんと考え込む。

「ミッション系に通っていた吸血鬼ってどうよ」

「今更じゃないかなぁ」

 確かに。

 設定上既に鬼と雪女が通っていたことになっているわけで、大して気にするようなものでもあるまい。

「でも鬼と吸血鬼だと『うわあ、鬼と鬼で被っちゃったぞ』ってあたしの心の中のゴローちゃんがアームロックしてきそう」

「半分くらい何を言っているか分からないけど、鬼と吸血鬼って被ってはないと思うよ?」

 ――こやつめ、碌な案を出してこないくせに論破だけは一丁前にしやがって。

 瑞希は容赦なくブーメランをぶん投げた。

「私は吸血鬼でもなんでも構いませんよ」

「お前はもっと興味を持て」

 自身のガワの話だというのに良く言えば冷静に、悪く言えば蚊帳の外にいる由愛に瑞希はブーメランから持ち替えて、今度は牽制球を投じた。

 由愛は極論樹理の意見ならば一切の否定はなく、瑞希の意見ならばどうでもいいというスタンスで臨んでいるのだろう。

 瑞希からすれば世話の焼き甲斐がない後輩ではあるが、積極的賛成が消極的賛成になるだけでとても都合がいいことに違いはないので文句自体はない。

「ぶっちゃけると吸血鬼キャラは雨後の筍のようにぽんぽこ生まれてきそうなのがなぁ」

 テーブルの上に突っ伏して、プロデューサー宮前はこの乱世極まるバーチャル業界で生き馬の目を抜いていく術を考える。樹理と由愛がオタク界隈に疎いから尚更だ。

 吸血鬼は既に被っているし今後も被るだろう。そうなるとキャラを立てるのに苦労する。

「瑞希ちゃん、鬼は?」

「うん?」

「鬼はぽんぽこ生まれてないの?」

「……」

 樹理のその言葉に、瑞希はしばしの間言葉を失って。

「いやだって、鬼はあたしが好きなキャラだし、由愛は興味ないみたいだけどあたしはやりたいガワをやるのが一番モチべ上がるから、ほら」

 めっちゃ早口で語り始めた。

「先輩」

「はい」

「良くないところ出てます」

「はい」

 おっしゃるとおりで。

 由愛のトドメに、深々と頭を下げた。

 

 

 

 座卓の中心にA4用紙を一枚広げる。

 その用紙の中央最上部に書かれた「吸血鬼」の三文字はぐるぐると雑な円で囲われており、それに伸ばされた矢印には「暫定」と結論付けられていた。

 さらにその下には「河童」だとか「天狗」だとかの妖怪の種族が野放図に列挙されており、企画書の製作が難航している様を如実に示していた。

「……あかん」

「大して出てけえへんわぁ」

 右手のシャープペンをくるくると回しながら、瑞希は何故かはんなりとした口調で愚痴をこぼした。

「妖怪とか種族上げろって余裕っしょって思ってたけど、いざ挙げるとなると難しいもんですわぁ」

「……そないなもんやから、考え方変えます」

 筆が勢いよく滑り、紙の空いたスペースに「春」「夏」と書き入れられる。

「茜が秋、雪那が冬をモチーフに作ってもらったから、必然由愛にも残りの二つどっちかを背負ってもらいます。これは決定事項なんでよろしく」

「それは構いませんけど」

「手っ取り早いのは誕生月で決めるパターンだけど、あんた何時だっけ誕生日」

「一月です」

「冬ですね」

「ええ」

「埋まってますね」

 冬は既に。

 口元にペンを当てて、瑞希はしばし考えて。

「初春ということで春を取ってもいいけど、どうする?」

 書かれた春の一文字を丸で囲んだところで、樹理が声を上げた。

「ダメです」

「……なんでぇ?」

 思わぬところから否定の意見が向けられて、瑞希は素っ頓狂な声を漏らした。

「春は優くん枠です」

「……ん?」

 どういうことだろうか。

 つらつらと手で「春風のように爽やかなアイツ」と紙に書き込みながら瑞希は幾ばくかの間考える。弟くんをV化させるなぞ考えたこともないし、やるつもりもない。そもそも目の前の樹理《こいつ》は自身の家族にもVTuberとして活動していると告げていないし隠しているはずだ。

 だというのに唐突に自身の弟に対して「VTuberやってみない?」と突きつけるつもりなのか。絶対にその理由について問われると思うのだが、それをどう乗り越えるつもりなのか。

「いや、初耳ですけど?」

「え? でも私弟くん設定画枠取ってるの知ってるよね?」

「……雪那としてやってるアレ?」

「そう、それ」

「こないだ『こんなんじゃ弟くんの良いところ百分の一も表現出来てないですよぉ』って言って合計四時間くらい掛けて作った設定画廃棄したアレ?」

「そう、それ」

「あんたん所のリスナーからサグラダファミリアとかベルセルクとかハンターハンターとか言われてるあれ?」

「最近バガボンドって言ってる人もいたけど、ねえ瑞希ちゃん、これも終わりそうにな」

「やめなさい」

 何らかの恐怖を感じて瑞希は言葉を遮った。

「いいか、樹理。バガボンドもヒストリエもいずれ終わるんだ。完結するんだ。それは当然のことなんだ。いいね」

「アッハイ」

 何故だか異様に喉が渇いたので二人は机の上で夏の暑さに汗をかいているグラスを手に取り、ジュースをごくりと嚥下した。

 そして同時にぷはあと息をつく。この上なく飲み物が美味い。

「……あれ、そういうネタでやってたんじゃないの? 賽の河原で石積むのを見る感じで」

「流石にそんな虚無配信はしないよ?」

 樹理が傍らの後輩を横目で見ると白目を剥いていた。一体何の言葉が心に突き刺さったのだろう。ヒストリエだろうか。ヒストリエなのか後輩。

 自身の誕生した季節を示して、それを弟くんが既に予約済みだと言われるという目の前で行われた行為を風呂敷に包んで心の箪笥に仕舞い込んだ瑞希は、多分白目の原因がヒストリエだということにして無視を決め込んだ。

「何時か優くんにも私が描いたキャラクターでデビューして欲しいんだぁ。それで、一緒にコラボするの」

「ほーん」

 まず実現することのない、真実夢物語であることを瑞希は理解した。

 第一に、多分弟くんのキャラデザに妥協が出来ずにキャラクターが完成しない。樹理というものはそういう姉《もの》だ。どこまで描いても結局理想が高すぎて求めるハードルを飛び越えることは出来ないのだろう。樹理の偏愛はそれほどに深い。唯一満足行くデザインにするためには、弟くんを写真で撮ってそれを動かす、ということが眼前のブラコンに刺さる唯一だろう。

 このことは別に告げなくてもいい。勝手に描いて勝手にハードルを越えられないジレンマにとっ捕まっていればいい。瑞希は内心で冷徹に突き放す。

 そして第二に。

「それさあ、あんたん所のリスナーは求めてないと思うよ」

「……なんで? 皆弟くんのこと、好きだよ?」

「違う違う、『雪那』を好いてくれているのは『雪那』が好きなだけであって、別に弟くんに対して深い感情なんて持ってないって」

 あるいは、「弟」というのはあくまで代名詞であって、その実は「彼氏」と呼ぶのではないかと邪推する雪那ガチ恋勢が不快感を抱いていたのかもしれないが、それも先日の「弟フラ」で大分減ったはずだ。

「でも、優くんガチ恋勢名乗ってる人もいるよ?」

「ネタでしょ。あんたが弟くんについて語る。リスナーがガチ恋を名乗る。コメブロックしてもらう。後日ブロック解除。流れが出来てるプロレスじゃん」

 なんつうんだっけ? こういうの。カリカチュア? マクガフィン?

 あくまで弟へのリアクションは「雪那」と対話をするための道具に過ぎないと瑞希は述べる。

「舞台装置でしょ。リスナーからしたら。見たことも聞いたこともない名も知れぬ男子にさ、ガチ恋なんてするわけないじゃん」

 そして、第三に。

「それと、あたしら一応個人勢だけど、『茜』と『雪那』、この二人と、一応将来的にはそこで白目剥いてるバカも入れて女三人で繋がりを持つことになるでしょ。基本的にVってのはオタクカルチャーの一部なワケ」

「そういう層のリスナーがあたしらに求めてるのは女子だけで完結したゆるゆる世界観なの。そこにあんたの弟とはいえ男突っ込んだらさ、血の繋がりがない『茜《あたし》』に対してのありもしない可能性を膨らましてくんのよ」

 俺も仲間に入れてよ、と女子二人の間に首を突っ込んでくるチャラ男が瑞希の手によってA4用紙に書き加えられる。春風のように爽やかなアイツはどこに行ったのだろうか。

「以上の理由から、弟くんをV化させることは話のネタにしかならず実現には動きませーん」

 樹理は瑞希のその歯に衣着せぬ物言いに頬を膨らませてぷりぷりと怒って見せるが瑞希は瑞希で知らん顔を決め込む。

「個人的にはてぇてぇと思うけど、レギュラー化は無理でしょ。歌ってみたコラボで動画一本出すとかはあたしの私利私欲で見てみたいけど」

 言いながら、瑞希はファンシーな雪だるまに三度笠を被せたえらくポップでキュートなキャラクターを描き出す。

「弟くんのデザインはヒトガタのイケメンは絶対無理。こういうプププでペポーイとか言いそうなピンクの悪魔な世界観に住んでる、マスコット系のキャラデザにしなきゃ」

「……瑞希ちゃん、相変わらず二頭身の絵を描くの得意だよね」

「リアル等身のデザインはクソだけどな!」

 まじまじとその雪だるまを眺めて、樹理は呟く。

「……キャラデザ、これが正解かも」

 ぐりぐりと雪だるまが乱雑に塗り潰されていく。それを見て樹理が「ああっ」と悲痛な声を上げるが筆を動かす瑞希の腕が減速することはない。

「正解かもしれませんがデビューは認めませーん。そもそもあんたがVやってるって弟くんに暴露しないと話し持っていきようもないでしょうが」

 そして樹理はそのことを優也に告白するつもりはない。するにしても、今までの動画を全て非公開にして弟《おとう》トークがバレないようにしなければならない。

 以前瑞希から「『雪那』が話してる内容が弟くんにバレたら好感度多分ダダ下がりするわ」と釘を刺されてもいるし。

「万が一あんたが暴露して、同時に弟くんにV化を薦めたとしても」

「としても?」

「まともな人間はようやらんわそんなこと」

 自ら好んでVTuber化した人間のくせに、そしてその世界に樹理を巻き込んだくせに、瑞希は真顔でそうのたまった。

 

 

 

「でも私と優くんの歌ってみたは瑞希ちゃんも見てみたいんだ」

「それはそう。てぇてそうだし。だからどうにかあんたがVだってことを知られずに弟くんのカラオケだけどうにかして収録出来んか」

 土台無理な相談を二人は始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。