遊牧少年、シャンバラを征く (土ノ子)
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山羊と飛竜の追いかけっこ

 此処は天険竜骨山脈。西方臥龍山脈、あるいは世界の壁とも呼ばれる場所。

 土地は貧しく、気候は寒冷。地の恵みである牧草や森林も豊かとはいえず、決して人に優しくない雄大なる大地だ。

 だがそんな大地にも人は逞しく生きている。

 

「クソッ、クソっ、クソッたれ!」

 

 そう、ここにも一人。

 美しい三日月形の角を有する山羊に跨った幼い少年が必死に乗騎をけしかけ、天空から迫りくる狩人から逃げまどっていた。その背には鞍が、顔には手綱が巻かれ、意外としっかりした装具なのが分かる。

 

「なんで、花を…、摘みに来ただけなのに…!」

 

 愚痴る、なじる、悪態をつく。

 非生産的と分かっていても罵詈雑言を吐き出さずにいられない。

 

「よりにもよって飛竜(ドゥーク)に追いかけられてるんだあぁぁっ!」

 

 飛竜(ドゥーク)

 竜骨山脈に生息する最大級の肉食竜類。銀嶺を統べる覇者、天から襲い掛かる災厄、頂点捕食者の一角である。

 爬虫類特有の鋭角的な顔付き、前肢と一体化した翼は悠々と巨大な体躯を覆うほど、筋肉の盛り上がった後ろ脚は鋭く曲がった鉤爪を備え、獲物を捕らえる時を狙っている。

 少年はこの時点では知る由もないが、その姿はこの大地とは位相の異なる世界でワイバーンと呼ばれる幻想生物に酷似していた。

 とはいえ少年が起居する移動集落の付近では目撃すらここ十数年なかったという。その生息域は竜骨山脈の奥も奥。本来行儀の悪い子供に対して「いい子にしなければ空から飛竜がやってきてお前を攫ってしまうよ」と脅し文句に使うような、そんな遠い存在なのである。

 ちょっとした野暮用の帰り道に突如そんな怪物と遭遇して目を付けられ、延々と追いかけ回される羽目になった少年達は間違いなく不幸であった。

 

「マズイ…。()()、来るぞっ!」

 

 悠々と天を飛翔する飛龍がぐっ、と巨躯に力を溜める動作と共に無数の火球が何の前触れもなく出現する。

 明らかな異常。人智を超えた現象であったが、幸か不幸か少年はそれが《精霊(マナス)》に依る呪術だと知っていた。少年の保護者である老呪術師も似たような真似が出来るのだ。尤もその規模は桁違いというも生温いものであったが。

 少年は乗騎の上から必死に視線をあちこちに走らせ、なんとか己と相棒が逃げ込めそうな隠れ場所を探す。だが山肌には僅かな灌木と砂礫が覆うばかりであり、彼ら一対が潜り込める隙間など到底望みようもない。

 しばらくは相棒に負担を掛けるのを承知で逃げ回るしかないと悟り、少年は慰撫するように山羊の腹を軽く叩いた。

 機を同じくして飛竜の咆哮を合図に空高くからつるべ打ちに打ち込まれる爆炎の雨。その火力が決して虚仮威(こけおど)しではないことは少年と山羊が逃げ惑う過程で山肌に刻まれた無数の傷跡が証明していた。

 着弾、爆裂。

 荒涼とした山肌に鮮やかな紅蓮の華が咲いた。

 その猛威から逃れるため、少年を乗せた山羊は余力を振り絞って起伏に富む岩肌を跳ねるように駆けていく。人の腰ほどもありそうな大岩を連続で駆け上がり、飛び石を渡るように岩から岩へと跳躍を続ける三次元的な機動であった。

 飛竜に狙いを絞らせないための必死のあがきであったが、幸運に助けられたこともあり、今のところ少年と山羊には汚れこそ目立つものの大きな傷は無い。

 仮に追い掛ける獲物が集落の男たちの騎乗する馬であればこれほどまでに飛竜の狩りが長引くことはなかっただろう。とっくの昔に大岩に道を阻まれるか、窪みに足を取られて立ち往生した挙句に飛竜の手繰る炎に炙られ、焼死体になっていた可能性が高い。

 よく騎手の意を読み取る山羊であること。

 騎手が体重の軽い女子供であること。

 そして、騎手が名手であること。

 この3つの条件を兼ね揃えるのならばこと山岳に限り、山羊の瞬間的な機動は馬すら凌駕する。山羊は本来高所を好む獣であり、山岳はまさに彼らの庭と言っていい。馬が苦手とする段差も軽快に駆け上がり、人間にすら登攀困難な断崖絶壁を悠々と登りきる潜在能力を有しているのだ。 

 だが―――、

 

「ああっ、ヤバイ…。エウェル、もっと早く…!」

 

 頭上から迫り来る巨大な影を仰ぎ見た少年は己が跨る相棒の山羊、エウェルに呼びかけ、危機を知らせた。

 遠間からの火吹き芸では埒が開かないと飛竜も悟ったのだろう。

 《精霊》に命じ、獲物を追い込みながらも上空から山肌を跳ね回る獲物の挙動を見極めていた飛竜が遂に直接の襲撃を仕掛けてきたのだ。飛竜は上空から一気に下降すると地面にぶつかる直前で風を受け止める翼の向きを変え、鉤爪で山肌を抉るように飛来する。

 そうして獲物に背後から襲いかかり、その鋭い鉤爪で捕らえるのだ。そこから先は膂力に任せて握り潰すも良し、上空から放り投げて墜落死させ新鮮な亡骸をゆっくり啄むも良しだ。

 その最高速度は山羊が如何に山岳に長けていようと、騎手の体重分の劣位を負って覆せるものでは到底ない。

 引き離すのが無理ならば機を計り、迫りくる爪牙を躱す他ない。

 もちろん無理無茶無謀と分かっているがやらねば己らは死ぬのだから無茶でもなんでもやらねばならない。少年は生存本能に従って躊躇わず騎獣の腹を蹴り、一層足を速めるようにけしかけた。

 山羊の眼球は顔の横に付いており、瞳も横長に広い。視界の広さは人間など及びもつかないほどだが、流石に上空の飛竜までは捉えられない。

 故に飛竜の挙動を捉えるのは少年の役割であった。

 

「右だ!」

 

 己が頭上に飛竜の影の端がかかるのをいち早く察知した少年は、進行方向の障害物と飛竜の襲来する軌道を見極め、素早くそして迷いなく手綱を右に引き絞る。

 意を察した乗騎もまた寸毫の遅滞も見せず、直角に近い角度で横っ跳びに跳んだ。

 捉えた機は最上に近く、乗騎もよく応えた。だがそれ以上に飛竜が襲いかかる範囲は少年の予想を超えていた。

 一度は襲いくる鉤爪から危うくも身を逃れさせることに成功したが、僅かに翼を傾けることで飛竜は滑空の軌道を修正し、その巨躯で小さな獲物を押しつぶさんと試みる。何もわざわざ鉤爪で捕らえずともその巨体を利用した体当たりを決めるだけで十分な致命傷になるのだ。野生に備わった天性の狩猟勘とでも言うべき追い込みのキレであった。

 詰んだ、と絶望が少年の脳裏を掠める。

 だが天空に座す最高神、草原の民が崇める天神(テヌン)はまだ少年を見放していなかったらしい。急速に接近する飛竜の巨体が唐突に()()

 

『———、——————っ! ———!』

 

 風に裂かれ、切れ切れになった音が耳に届く。声のように聞こえるのは気のせいか。

 グラリ、と体勢を不自然なほど片側に崩した飛竜の飛翔軌道は少年達から逸れ、少年の肩に人間の小指一本ほどの鉤爪の先端を引っかけるに留まった。

 

「ッ…!?」

 

 だが彼我の体重差は何十倍も差が開いており、疾走する速度も相当なもの。騎乗したままで安定した体勢など望めるはずもなく、滅茶苦茶な力を背中に加えられた少年は容易に騎獣の背から()()()()()()()

 

「うっ、…そだろおおおぉぉっ!?」

 

 グルグルと視界が回る。唐突な空中浮遊へ強制的に招待された少年は目を丸くしながら奇妙なほどゆっくりと動く世界の中を不思議な心地で眺めていた。

 これは死ぬかもと直感するや否や、少年の頭の中で不思議な現象が起きた。

 竜骨山脈の一角を縄張りとする遊牧部族の中で暮らした十年間が走馬燈のような形で脳裏に上映されていく。少年的にはその不思議な体験は何とも新鮮味があって面白ささえ感じたのだが、この走馬燈は幼少期から今まさに飛竜に襲われたところまで上映されても終わらなかった。

 なんと()()()()()()()()()映像まで再生され始めたのだ。

 天を衝くような大きさをした石造りの摩天楼が屹立し、ギラギラと光を反射する鉄で出来た車輪付きの箱が石でできた道に並び、連結した巨大な箱からは見たこともないほど多くの人間が絶え間なく吐き出されていく。

 

(なん、だ…。俺は何を見ている?)

 

 見覚えがないのに馴染みがあるという何とも薄気味悪い感覚を伴いながら再生される映像はやがて唐突に終わりを告げる。

 残ったのは変わらずクルクルと空中を回転しながら放物線を描いて浮遊する己だけ。脳裏に移る奇妙な光景はジュチに何も変化を齎すことはなかった、今この時は。

 吹っ飛んでいく先には少年に倍する大きさの岩塊。山々を転がる内に角が取れたのか、尖った箇所がないのが救いか。

 あ、という間抜けな声を漏らした少年は吹き飛ばされた勢いのまま大岩に肩からぶつかり、次いで額に火花が散るような衝撃が走り抜けた。

 激痛、暗転。

 頭部に食らった強烈な衝撃に少年の幼い肉体は耐えきれず、速やかに意識は闇の底に沈んでいく。消え行く意識の中、少年は自分自身すら意味不明な呟きを漏らした。

 

「最期がドラゴンの餌とか…。ファンタジーかよ」

 

 世の無常に向けたボヤキ。

 風に巻かれて消えるだけの言葉に、しかし応える者があった。

 

『―――! ―――――。―んな、――で』

 

 声の位置はやけに近い。視界の端に金の輝きがちらつくが、すぐに全ての輪郭が失い、溶けていく。

 飛竜に食われるぞ、逃げろ。そう思う意思すら形にならず、心地よい安寧の闇に微睡んだ。

 

『———ごめんなさい』

 

 最後の言葉だけはやけに明瞭に耳に残った。

 

 ◇

 

 そして無傷のまま目覚めた少年の眼前には、

 

「メエエェ」

 

 大丈夫か、という風に鳴く相棒のエウェルともう一匹。

 

Qurururu(キュルルル)

 

 よく分からない鳴き声を発する、尻尾に火を灯した手のひら大の蜥蜴が呑気に欠伸をこぼしていた。

 

「……なんぞ、こいつ」

 

 力のない、しかし誰もが同意するだろう呟きは、誰に聞かれることもなく山嶺の颶風に吹き飛ばされ、消えていくのであった。

 




 20/09/24 ルビ・一部語句などを修正。


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老女傑と蜥蜴もどき

 夕暮れ時。

 既に山脈の向こう側へ太陽が隠れ、暗闇が忍び寄って来た頃に少年は目を覚ました。目覚めてすぐに自らのすぐそばに置かれたあるものに気づくと、少年は解けない疑問と共に懐にそれらをしまった。

 

「何があったんだかな…」

「メエエエェ…」

QuAaa(クアァァ)

 

 疑問を零すが、答える者は言葉を解さない相棒と珍妙な蜥蜴(トカゲ)もどきのみ。

 声が聞こえた、それは覚えている。どこか音楽的な響きの綺麗な声だった、それも覚えている。視界の端に煌めく金糸のような髪が舞っていた気もする、これは自信がない。顔に至っては恐らく見てもいない。

 誰かがいた、確かなのはそれだけだった。解けない疑問が、顔の無い誰かの存在に妙に胸がざわついた。

 

「帰るか…」

 

 しかしそのざわつきを収める術もなく、少年に出来たのはただ一言呟いて帰路に就くことだけだった。

 昼間散々飛竜に追いかけまわされ、疲れた体に鞭打ちながら相棒の山羊(エウェル)とともに何とか集落へ帰ろうとするその途中。家畜たちの遊牧に出ていた部族の男たちに発見され、手荒いながらも保護されたのは間違いなく幸運だった。

 見るからに疲労困憊といった風情の少年と山羊には水と少ないながらも乾酪(チーズ)が与えられた。そうして人心地付いたところで事情を聴きだされ、結果なんとも判断しがたいという顔をした男たちによって、少年の保護者が住む天幕(ゲル)にまで連行されたのだった。

 そうして天幕から億劫そうに出てきた老女は男たちから話を聞いてから一言、

 

「入りな」

 

 とだけ少年に告げると、矍鑠とした動作でさっさと天幕に戻ってしまう。足取りに淀みはなく、老女とは思えないほどの健脚の持ち主なのだった。

 男たちは健闘を祈るととばかりに少年の肩を叩くとさっさと家畜たちの様子を見に、馬を飛ばしたのだった。

 その行動には元々の仕事に戻るということもあったろうが、それ以上にかの老女に関わるのを避けたに違いない。怒った彼女がとんでもなくおっかないことは部族の誰もが知る事実だった。

 

「……で」

 

 低く落ち着いた声が天幕(ゲル)に響く。天幕の内側では貫禄ある老婆と妙な落ち着きを持った少年が小さなかまどを挟み、真剣な表情で向き合っていた。

 

「もう一度、言ってみな。どうやら老いぼれの耳は遠くなったみたいだ。誰が、何に遭って、どうなったって?」

 

 飛竜に襲われ、命を拾った少年に嵐の前の静けさを思わせる落ち着いた語調で問いかけるのは齢六十を迎えようとする老女である。

 老女は少年の属する部族の呪術師を務め、周囲からはもっぱら肝っ玉母さん(モージ)の渾名で呼ばれる老女傑だ。部族の最長老、現族長の叔母という立ち位置も合わさり、部族内でも強い発言力を持つ。

 少年にとっては物心つく前からの養母であり、決して頭の上がらない存在だ。独特の民族意匠が刺繍された遊牧衣装を厚く着込み、天幕の東の上座に鎮座するモージの迫力は見た目以上のものがあった。

 

「……朝からアレッポの岩窟に花を摘みに出かけた。花は摘めたけど、帰り道に飛竜(ドゥーク)に襲われて、喰われた……と、思ったけど何故か生きてた」

 

 だが怒れる老女に対する少年もまた幼い見た目に不似合いな落ち着きがあった。訥々と語る姿からは反省はしているが、畏れてはいない。そんな雰囲気が読み取れる。

 少年が自然と醸し出す奇妙な空気に訝し気な目をしつつ、老女は少年の親代わりとしての言葉を紡ぎ出す。

 

「ジュチ、この大馬鹿め。お前の小さな頭は何のためにある? 崖に向かって突き進む鼠でももうちょっと考えを持っているだろうよ」

 

 神妙な顔をした少年(ジュチ)へ向ける呆れと怒りがたっぷりと籠った老女の声は落ち着いていながらも辛辣そのものだった。

 

「あの岩窟はこの辺りで一番の難所だよ。大方エウェルの力を借りて何とかといったところだろう? 一歩踏み外せばあっという間にこの世からおさらばだ」

 

 彼らの言うアレッポの岩窟は集落からかなり離れた断崖の中腹にある洞穴を差す。洞窟の入り口には珍しい花が咲き、奥に行けば美味な茸の類も取れるのだが、間違っても子供一人が山羊を頼みに挑戦していい場所ではない。

 そして少年の腰帯にはその岩窟でしか採れない花がしっかりと括られていた。飛竜との生きるか死ぬかの遁走劇を経ても、幾らかの花弁は振り落とすことなく持ち帰れていたのである。

 故に少年の言を信じた老女(モージ)の怒りは全く妥当なものであり、ジュチにも返す言葉は無かった。いや、本当に当時の己は何を考えていたのだろうと深刻な疑問を覚えるくらいである。

 

「挙げ句の果てに飛竜(ドゥーク)に襲われた、だぁ? 阿呆、吐くならもう少しマシな嘘を吐きな!」

 

 伝法な口調で吐き捨てるモージだが、普段の彼女は不愛想ながらも周囲から慕われる人格者である。だが今はフドウミョウオウとかいうおっかない顔をした神様のようだ、とジュチは思った。

 モージも少年の様子から何かただならぬことが起きていたことは察していた。だからこそ少年が苦し紛れの嘘を吐くのが苛立たしくてならない。

 何故なら飛竜に襲われて人が無事に生き延びた例はほぼ無い。それが幼い少年なら尚のことであった。少年の証言は到底信じられるような内容ではなかったのだ。

 しかも衣服の汚れや身体の傷も元からなかったかのように消えており、それが一層少年の言の信憑性を損なっていた。少年自身目が覚めた直後はそれこそキツネにつままれたような気持だったのだ。飛竜の吐息が山肌に刻んだ傷跡がなければ、白昼夢を見たのかと半信半疑に納得したかもしれない。

 

「嘘じゃない」

「ジュチ、いい加減に…!」

「モージ、本当なんだ」

「馬鹿を言うんじゃない。飛竜に狙われて逃げ切れる獲物なんて西方辺土を逆さに振っても出てきやしないよ」

 

 経験に裏打ちされた言葉であり、実際にその脅威を体感した少年もまったくもって同意見だった。

 羆すら凌ぐ巨体から振り出される膂力、その吐息はひと一人を容易く丸焼きにするだろう火力を誇り、始終冷静に獲物(ジュチ)を観察し、対応し続けたことから相当に高い知性を持っていると推察される。しかもあの巨体で空を飛ぶという反則的な能力まで持ち合わせているのだから、かの魔獣こそ竜骨山脈の覇者と主張しても殆ど異議が出ないであろう。

 言葉では説得出来ないと悟ったジュチは、懐から物証を取り出し、モージに差し出した。最初はいぶかしげなモージであったが、手にしたそれに目を落とすと途端に血相を変えた。

 

「これは…!?」

 

手渡したのは真っ赤な布に加えて砂金の粒。ただし布切れの方は真紅がまだらに広がっており、未だに鉄錆に似た匂いを振りまいている。砂金もそうだが、まず布切れを汚した真紅の正体にモージの意識は集中した。

 

「血だね。それも結構な量だ。額でも割ったのかい?」

「頭を打ったところまでは覚えているけど、起きたら()()()()()()。代わりにコメカミ辺りにそれが巻かれてたよ。その粒は俺の手の平に握らされていた」

 

 方形の小布……形状から見るに手巾(ハンカチ)だろうか。赤色のまだらのせいでなんとも不吉そうだが、よくよく調べると手触りは極上。見た目も何とも言えないぬめる様な光沢があり、妖しさを覚える程に美しい。

 

 (……なんだったっけ。覚えがあるような、ないような)

 

 とはいえジュチはシャンバル山脈から離れたことのない生粋の田舎者だ。羊毛製の布以外を知るはずがない。ならば()()()に蘇った、見知らぬはずの記憶がこの既知感の源泉か。

 あの走馬燈の中で見た光景は少年の頭脳に深く焼き付けられ、知らないはずの知識が頭蓋の中に山ほど詰め込まれていた。その影響か、少年自身の精神年齢も著しく上昇し、結果として年齢不相応の奇妙な落ち着きを備えるに至っていた。

 

(二ホン……だったっけ)

 

 おぼろげな記憶を探り出し、あの奇天烈な光景に溢れていたクニの名を脳裏で呟く。

 

(あれが前世……ってやつなんだろうか)

 

 この大地にも死んであの世に還った霊魂がこの世に何度も生まれ変わる、いわゆる輪廻転生の概念は存在する。走馬燈で見た光景の出どころは前世の記憶であるという考えはこの山脈と草原に(またが)る西辺の大地に生きる無学な少年にも馴染みやすく、納得のいく結論であった。

 とはいえ、今の段階では少年をよく知るモージが多少訝しむ程度の変化であり、頭蓋に溜め込まれた知識もなにがしかのきっかけが無ければ中々思い出すこともない。今のところは毒にも薬にもならない代物であった。

 一方でその生涯で深く智慧を蓄えた老女もまた、なにやら差し出された物品を見てなにがしかの考えを巡らしているようだった。

 

「砂金粒は街に持ち込めば結構な値が付く。この手巾もよくよく見てみれば生地が普通じゃない。少なくともこの辺りで出来るもんじゃない。かといって南や西の方からたまに流れて来る麻や綿でもない……。お馬鹿の傷のこともある」

 

 可能性を一つ一つ潰していくように呟いている。しばらくの間モージはジッと血に濡れた手巾を眺めていたが、やがて得心したように頷いた。

 

「……どうやら、お前の言うことは信じていいらしい。滅多にないことだが、山の奥から飛竜がこの辺りまで迷い出たんだろう。とはいえわざわざ長居するとも思えないが……念のため、皆に伝えておくかね」

 

 話を打ち切るように結論を下すモージだったが、今のジュチにはあまりに一足飛びに話が飛んだように聞こえた。飛竜のことはさておき、手巾の存在について何も説明されていない。

 いや、恐らくモージは敢えて話を飛ばしたのだろう。年老いた賢女は幼い少年が知らない知識を持っており、その上で今の結論を下した。そしてそれ以上のことを少年に伝える気がないのだ。

 両者の立場を考えれば妥当な対応であり、いまこの場で食いついても養母の機嫌を損ねるだけで何の得もないと計算を働かせ、ジュチは沈黙を選択した。昨日までの少年であれば素直に口に出して雷を落とされていただろうが、いくつも段階をすっ飛ばして精神年齢が上昇しつつある少年は世渡りや処世術と呼ばれる術を拙くも身に着けつつあった。

 そうした養い児の気性を知悉しているのだろう。モージは予想よりも大人しいジュチに不可解な面持ちをしていたが、わざわざ問いただすようなことでもない。すぐに気を取り直すと、少年に愚行の報いを与えた。

 

「馬鹿な真似をした罰だ。当分お前の分の朝餉は抜きだよ」

「……ちょっ、そんなことになったら俺が死ぬんだけどっ!?」

「やかましい。自業自得だよ。これに懲りたら勝手に命を投げ捨てるような真似は慎むんだね」

 

 さして裕福でもないこの部族では食事は当然朝と夕の2回だけだ。出される食事の量も決して多くはないのにそれが半分になるというのは、飢えて死ねといわれているのに等しい。血相を変えた少年の反応をしばし伺った後、モージはゆっくりと言葉を継いだ。

 

「それとしばらくの間は族長の天幕(ゲル)で『白い食べ物(ツァガーン・イデ)』を作るのを手伝ってきな。これも罰だ、怠けたら本当に飢え死にさせるから覚悟しておくんだよ」

「…………。あっ」

 

 ふた呼吸ほどの間、養い親の言葉の意味を考え、その言葉の裏を悟ると安堵から間抜けな声を漏らした。

 モージの言う『白い食べ物(ツァガーン・イデ)』とは家畜から搾った乳を加工した乳製品の総称であり、加工する過程で保存が利かずその場の人間だけで楽しむしかない食べ物もそれなりにできる。

 要するに抜いた朝餉の分は族長の天幕(ゲル)の仕事を手伝うことでそれらの食べ物を何とかして譲ってもらってこいということであり、モージが話を通しておくと言っているからには何らかの配慮はしてくれるだろう。

 もちろん罰であるのだから手を抜けば本当に餓死の恐れもあるが、モージの()()()()()を生まれた頃からよく知っている身としては彼女の堪忍袋の緒の限界に挑む愚を犯すつもりは毛頭ない。

 思わず安堵から胸を撫で下ろしたジュチだったが、異様なほど察しが良い養い児の様子にモージは相当な不信感を覚えたようだった。

 ジッと見つめてくる養母に気まずげな思いが過ぎったが、今日己の身に起こったことをうまく説明できる自信がない。中途半端に信じられては逆効果となるかもしれなかった。

 そのまましばらく無言の時が流れたが、やがて目を瞑ったモージがフンと鼻を鳴らしたことで気まずい沈黙は晴れることになった。

 

「……ツェツェクを外に迎えに行ってきな。姿を見せないお前のことを随分と心配していたよ」

 

 目に入れても痛くないほど可愛がっている義妹の名が出ると、少年は弾かれた様に動き出した。気まずい空気から逃れたかったのもあるが、それ以上に義妹と言葉を交わしてその不安を晴らしてやりたかったのだ。

 ゲルの垂れ幕を潜って外に出ていこうとする少年の背中に老いた義母が声をかける。

 

「———ジュチ」

「? なに?」

「よく、帰ったね。……それだけだ、さっさと行きな。この馬鹿息子(ロクデナシ)!」

 

 前世的知識で言う()()()()を見事に披露してくれた義母に感謝と親しみの籠ったやや意地の悪い忍び笑いを漏らしながら少年は足を早める。

 そしてその途中でピタリと立ち止まり、養母に振り返ると出し抜けに問いを発した。部族で唯一の呪術師、最もその道に長けていそうな老女ならばとささやかな期待を込めて。

 

「ところでさ、モージ」

「なんだい」

「これ、見える?」

 

 肩のあたりを指差して問いかけるとモージは馬鹿を言うんじゃないとばかりに鼻を鳴らした。

 

「訳が分からない冗談を言っている暇があったらさっさとツェツェクの前に顔を出してきな。さもなければ今日の夕餉も抜いてしまうよ」

「……そっかー。そいつは困ったなー」

 

 どこか乾いた口調で相槌を打つ少年が改めて自身の肩を見ると、そこにはふてぶてしいまでにリラックスした火蜥蜴がうつらうつら舟をこいでいる姿があった。

 ジュチにははっきり見えるし鳴き声も聞こえるのだが、何故かこれまで会った部族の皆は無視するばかり。業を煮やしてジュチから問いかけてみても不可解な面持ちを返されるだけ。

それでもこの呪術師にして老賢女ならば何か存在の片鱗でも悟ってくれるのではないかと期待をしていたのだが、やはり返ってきたのは皆と変わらない反応だった。

 置き去ろうが追い払おうがいつのまにかジュチの周囲にシレッとした顔をして居座っているこの珍生物について相談したかったのだが、そもそもその存在を誰も認知してくれない。これでは相談しようにも誰も真剣に取り合ってくれないだろう。

 別段害意があるようでもないし、もう放っておいた方がいいのだろうかという諦観の念に支配されつつもやはりこの火蜥蜴の正体が無性に気になって仕方ない。

 意味が分からないと言うかこうなった経緯すら分からないが、どうにもよく分からないモノに憑かれてしまったようだった。

 




 20/09/24 ルビ・一部語句などを修正。


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ツェツェクという少女

 太陽が山々の影に隠れつつある頃、暗闇が覆いつつある草原に向けて足を進める。

 そこには羊と向かい合って遊んでいたのだろうか、夕日に照らされて長い長い二つの影がこちらに向かって伸びてきていた。

 その少女の後姿を見ると、ああ、帰ってきたのだとジュチの胸の内に感慨が一気に湧いてきた。少年にとって彼女こそが家と日常の象徴だった。

 

「おーい!」

 

 今少し距離が二人を隔てていたため、注意を惹くために大声を上げた。

 振り返った幼い少女が目を細めてこちらを見ると、やがて寄ってくるジュチを認め、遠間からでもわかるほどパッと顔を明るくし、大声を上げた。

 

「ジュチー!」

 

 ブンブンと両手を頭の上で勢い良く手を振るのは十二歳の割に痩せたジュチよりもさらに幼く、小さい少女だった。素朴だが可愛らしい顔立ちで、その笑顔は子供らしい天真爛漫な明るさに満ちている。周囲から自然と可愛がられる愛嬌があった。

 そして手を振るだけでは収まらず、ぐんぐんと勢いよくこちらに駆けてくる。そのまま走り寄ってくる勢いを殺さずに真っ直ぐにジュチに向けて突っ込んだ。

 突っ込んでくるのが体重が軽い少女とはいえ中々の衝撃だったが、走り寄ってくる姿に心構えをしていたこともあり、なんとかその勢いを抱き止めて抑え切った。

 少女はそのままえへへと無邪気に笑み、抱き着いたジュチのお腹にぐりぐりと頭をこすりつけ、全身で親愛の情を表してくる。その様子は人懐っこい子犬さながらだった。

 対するジュチもしょうがないなと口だけは仕方なさげだが、口元は言葉に反するようになんともだらしなくやにさがっている。

 この人なつこく幼い少女こそ、ジュチの義妹ツェツェクであった。

 

「どこ行ってたの? わたし、ジュチがいなくて寂しかったんだよ」

 

 ひとしきり体を触れ合わせてしっかり堪能したあと、ツェツェクは若干の不満を込めた非難を義兄に向ける。対するジュチは今日の自分が大いに馬鹿をやった自覚があり、義妹にあまり強く出ることが出来ない。

 

「……んー。ちょっと野暮用があってな?」

「やぼよー?」

 

 難しそうに首を捻るツェツェクに思わず苦笑する少年。正体不明の膨大な知識に目覚めつつある義兄と違って彼女は見た目通りの幼子(おさなご)であるため、語彙がまだまだ足りていないのだ。

 

「ちょっと行きたいところがあったんだ。ああ、そうだ。それにお土産があったんだった」

「お土産? なぁに?」

 

 子供らしい舌っ足らずな声音でこてんと首をかしげた仕草にやはり俺の義妹は世界一可愛いと兄馬鹿全開な妄言を脳裏で漏らす。

 

「ほら。この辺りじゃ中々見かけない種類だろ」

「……お花!」

 

 ジュチは例の岩窟から採取してきたそこでしか咲かない鮮やかな青色の花弁を束ねたものをそっと差し出す。決して派手ではないが、よく晴れた青空のような深みのある色合いだった。

 なお全く関係ないがこの辺りの年頃の青年が婚約者と会う時に度胸試しと求愛のため、贈り物を求めてしばしばアレッポの岩窟に挑戦することがある。もちろん目的は岩窟の入り口にそっと咲く青の花弁だ。

 とはいえそんな風習など一切知らない二人のやり取りに妙な思惑はない。あくまで義理の兄妹の微笑ましいやり取りに過ぎなかった。

 ゆっくり差し出された花弁を受け取ったツェツェクはパッと花咲くような笑みを浮かべた。

 

「とってもきれい! ジュチ、ありがとう!」

 

 ジュチの首ったけに抱き着くように全身で喜びを示し、無邪気に笑う義妹にジュチはほっと肩の力を抜いた。こちらの好意を無碍にするような子ではないが、やはり喜んでもらうのは嬉しいものだった。

 

「おっと」

 

 そういえば例の火蜥蜴はどうなったと肩を見るが、見当たらない。周囲を視線で見渡しても見当たらず首を傾げたが、すぐに所在を示すかのように目の前を小さく火の灯る尻尾がぷらぷらと揺れる。その割に頭に重さを感じないのだから不思議なものであった。

 色々と自由すぎる珍獣にこの野郎いい度胸だなと思わないこともないが、ジュチにとっては目の前のはにかむように笑っている義妹の方がはるかに優先順位が高い。さりげなく頭を振って火蜥蜴を振り落としつつ、義妹に笑いかける。

 

「ツェツェクに似合うと思って、取りに行ったんだ。うん、やっぱりよく似合ってる。綺麗だ」

「そうかな? わたし、きれい?」

 

 胸の前で大事そうに花弁の小束を抱え、舌足らずな声で嬉しそうに問うツェツェクにもちろんだと頷き返す。 

 義妹の名であるツェツェクは草原の言葉で『花』を意味する。

 少女の名前に引っ掛けた贈り物であり、思いついたときはなかなかいい考えだと自画自賛したものだった。本当は花冠にして送りたかったのだが、飛竜に襲われて大半が散ってしまい、贈れたのはほんの数本のささやかな花束に過ぎなかった。

 だがそれでも義妹の目を楽しませ、喜ばせることは出来たらしい。

 それを見て、まあ()()()()()()()と今日一日の苦労が報われたような気がした。もちろんもう一度同じことを繰り返す気は起きなかったが。どう考えても飛竜に丸焼きにされて食われるか、さもなければモージに喉首を絞め上げられて窒息死させられる未来しか見えない。

 と、ここでああそういうことだったのかと今日己がしでかした愚行について奇妙な納得が腑に落ちた。

 要するに、己は義妹(ツェツェク)に喜んでほしかったのだなぁ、と。

 そのためにあんな馬鹿な真似をしてしまったし、迷惑や心配をかけたことを反省しているが、正直あまり後悔はしていない。精神がスレた影響で無意味な浅慮は慎むつもりだったが、自身を動かす胸の衝動が治まった気配は無かった。

 ジュチがこの時自覚したのはこの子をきっと幸せにするのだ、という使命感に似たナニカだ。そして己ならばそれが出来るとこの時根拠なく少年は思っていた。

それはこの時分の少年が抱く無根拠な全能感に近かっただろう。飛竜の襲撃と死に瀕して垣間見た前世 (?)の記憶という非日常が少年の頼りない理性を揺るがしていたということもある。

 とはいえこの雄大なる大地に生きる少年としてとても自然な反応とも言えた。前者は一生自慢できる武勇伝であり、後者は自分を特別な存在ではないかと錯覚するには十分な神秘体験だ。

 十二歳と考えると少しばかり早いが、この年代特有の厨二病(よくあること)といえた。

 

「ツェツェク、帰ろう。モージが待ち草臥れて夕餉を全部食べてるかもしれない」

「もう、モージはそんなに食いしん坊でも怒りん坊でもないよ! なのにそんなこと言ったらまた怒られちゃう」

「良いんだよ。あれも俺とモージのこみゅにけーしょんって奴なんだから」

「こ、こみゅ…?」

 

 ここらの言語とは語感からして異なる異国の言葉に訳が分からないと言った顔をするツェツェクに何故かどや顔になるジュチ。これも、自分自身意味がよく分からない知ったばかりの言葉を使いたがる厨二病の症状の一つだった。

 やがて二人は手と手をつなぎ合わせて少しだけ足早にモージのいる天幕へ向けて歩き出した。

 

「んふふっ…」

「? どうかしたか?」

「なんでもないっ」

 

 やけに機嫌の良さそうなツェツェクの様子を伺うと歌うように語尾を跳ねさせて答えた。

 

「ねえ、ジュチ」

「なんだ?」

「楽しいねっ」

 

 突然の言葉にはてな、と首を傾げるがなんとなくツェツェクらしいなとも思う。日常のふとした何気ないことにも喜びと幸せを見つけることが上手い少女なのだ。

 

「わたしね、ジュチが好き」

 

 出し抜けに義妹の口から飛び出た告白に少しだけジュチの心音は早くなった。

 

義母さん(モージ)も好き。部族の皆が好き。皆と居る此処が好き!」

「俺も……。うん、俺も、そうだ」

 

 無邪気な義妹の言葉に言葉少なく、しかし確かに共感を示すジュチ。

 自分たちは決して恵まれた境遇ではない。縄張りが痩せた土地ばかりの部族はそもそも養える家畜の絶対数が少なく、あらゆる面で余裕がない。

 天神(テヌン)の気まぐれ一つで大地の実りは大きく左右され、悪い方に転べば飢え死にかはたまた戦争かといった苦境に追い込まれるだろう。 

 ()()()()―――そう、それでも。

 

部族(ここ)で生きている俺たちは、本当に幸せだ」

 

 自分たちは幸運だと、誰憚ることなくジュチは心の底からそう主張する。

 モージという特殊な立ち位置の重鎮の養子、という点から察せられるがジュチもツェツェクも訳ありの子供だった。他所の部族を見渡せば幾らでも見受けられる程度の事情だが、訳ありには違いない。実のところ部族の奴隷階級である隷民(ハラン)に落されても誰も文句を言う者がいない、そんな境遇だったのだ。

 それでも義兄妹達は部族の一員として迎えられ、今を生きている。

 それは辺境の弱小部族であるからこそ、だったのだと思う。周囲を厳しい自然に囲まれ、苦境には団結して協力をしなければ生き残れない。一つの事実としてこの大地は決して人に優しい土地ではなかった。

 厳冬には燃料の節約のため部族の皆が集まって一つの大天幕で身を寄せ合って過ごし、秋頃にはたっぷりと脂肪を蓄えた野の獣たちを協力して巻き狩りで追い込む。春と夏には男たちは家畜たちを放牧に何日も遠出し、女たちはその間一切を取り仕切り、家を守る。

 それでもなお全体のために切り捨てられる犠牲はどうしても出る。だがその選別は合理的に、あるいは公平に行われ、ジュチたちに殊更に貧乏くじが回されることはなかった。

 尤も幼い子供らがそうした事情を完全に論理的に理解していた訳ではない。

 保護者(モージ)はぶっきらぼうだが優しく、部族の皆も暖かかった。越冬期には族長の大天幕に一堂に会しての大遊戯大会が開かれ、そこでは誰も彼もが隔てなかった。暮らし向きが苦しくても、人の情は通じ合っていた。

 彼らが理解していたのはそれくらいで、そしてそれだけで十分だった。

 

「ずっと皆と一緒にいたいな……」

「馬鹿、なに言ってんだ」

 

 縁起でもない、と呟くと首を傾げられた。本当に思ったことをそのまま言ったという感じで、話のまとまりのなさがなんとも幼子(ツェツェク)らしかった。

 

「大丈夫だ」

 

 根拠などないけれど、それでもジュチは言う。

 

「きっと、大丈夫だ」

 

 夕日が山々の陰に隠れた空を見ると、暗闇が忍び寄りつつあった。

 




 20/09/24 ルビ・一部語句などを修正。


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天神の寵児

 手をつないで帰ってきた幼い義兄妹が天幕の入り口に下ろされている厚い毛氈(フェルト)をくぐると、老女はジロリと二人を見た。

 

「遅い」

 

 二人が帰ってきた開口一番にこれであった。かと言って不機嫌なわけではなく、基本的にモージはいつでもぶっきらぼうでつっけんどんなのだ。

 

「早くこっちに来て手伝うんだ。さもなければ夕餉は抜きだよ」

 

 ほらな、とばかりにツェツェクを見て肩をすくめると彼女は困ったように笑った。

 モージが天幕の中心に据えられたかまどで土鍋を火にかけながら中身をかき回している。天幕の頂点に通された煙突の中を煙が抜けていくお蔭で天幕の中でも焦げ臭さや煙たさは無い。

 夕飯はこの辺りで『山の茶』と呼ばれる山野で採取される香草を山羊の乳で煮出したところに牛酪(バター)と砕いた岩塩を加えて味を調え、そこに乾酪(チーズ)と御裾分けでもらった草原鼠(タルバガン)の肉がちょっと浮いている。そんなこの辺りでよく見られる煮込み料理だった。特に決まった名前はないが、具入り乳茶(ヒーツティ・ツァイ)とも呼ばれる。

 前世(二ホン)と異なり、ここらで『お茶』というと水で茶葉を煮出したものは指さない。野生茶を乳で煮出したそこに牛酪《バター》を加える『乳茶(スーティ・ツァイ)』が一般的で、具材を入れて汁物(スープ)のように食べることも多い。

 『お茶』とはつまり食事なのだ。

 

「美味い」

「うん」

「……ふん」

 

 天神に祈りを捧げた三人が一口乳茶を啜ると、三者三葉の言葉を漏らした。

 素朴で飾り気のない味付けはいっそ素っ気ない味わいだ。だがジュチはこうした素朴な味付けが嫌いではなかった。

 惜しむべくは食事の量の乏しさであろうか。山羊の乳を多めに入れてかさ増ししているが、肝心の具である乾酪と肉の量の不足はどうしようもなかった。

 元々シャンバル山脈の中央部は山間の割に降る雨が少なく、家畜たちの餌となる牧草の生えが悪い。自然と家畜たちも痩せて乳の出が悪くなり、暖かい季節の主食である『白い食べ物』も大した量ができない。厳冬に備えて幾らかは保存食に回されるから、余計に食事の量に余裕が無くなるのだ。

 苦しい部族の現状を手元の椀の中身から改めて推し量りつつ、三人は黙々と食事を口に運ぶ。他所の家はともかくモージは食事中にむやみにしゃべるのを嫌うのだ。

 やがてわずかに残っていた土鍋の中身も三人で分け合い(ツェツェクの分は少しだけ多めに取られた)、空腹を慰めると三人はかまどの中心に思い思いの体勢でくつろぎ始めた。

 夕食後は遊牧の民にとっては家族の団欒を楽しむ貴重な憩いの時間である。燃料である乾燥させた牛糞(アルガル)も食糧と比べれば備蓄に余裕があるから、もう少しゆっくりとおしゃべりを楽しんでも罰は当たらない。

 

「もう寝るかい?」

「ん……。もうちょっと眠くなるまで待つよ。目が冴えていま床に入っても眠れる気がしない」

 

 おそらく昼間の出来事を気遣って寝床に入るよう促してくれたのだろうが、目を瞑ると自然とあの時の興奮が蘇ってくる。もう少し心を落ち着ける時間が欲しかった。

 

「ならどうだい、一局?」

駒遊び(シャタル)かぁ。打つのは久しぶりだ」

 

 モージの誘いに応と返し、ジュチは天幕の片隅から遊戯に使う道具一式を引っ張り出した。

 駒遊び(シャタル)はチェスや将棋に似た盤上遊戯で、越冬期などに持て余す時間を潰すための良い気晴らしだった。ちなみに駒は主に家畜の骨を加工して作られる。

 モージの家にも一式置いてあり、ジュチも偶に指すことがある。お相手はもっぱらモージだが、力量は年齢相応というところだ。対してモージは部族でも中々の指し手で、越冬期に開かれる娯楽大会では上位入賞の常連だった。

 なので二人が指すと指導対局に近いやり取りになる。

 

「む……」

「へへん」

 

 だが今夜の対局の展開は普段と一風異なっていた。

 

新手(しんて)か」

 

 得意そうな()()()を披露するジュチを見返し、思案気に盤面を見下ろした。しばらくの沈黙の後、モージは返しの一手をパチリと打つ。そのままパチパチと小気味よく盤上に駒を置く音がしばしの間テンポよく続いた。

 ジュチが得た見知らぬ記憶はかなり扱いが難しく、思い出そうと思っても中々思い出せるものではない。だが何かしらに取り組むとそれをキッカケに関連する知識が不意に浮かび上がってくるらしい。

 今回で言えば駒遊び(シャタル)を打つうちに前世で経験したチェスや将棋の定石が自然と思い浮かんだのだ。細かな駒の役割やルールに違いがあるものの、共通点は多い。応用は十分に可能だった。

 普段やりこめられてばかりのモージに一泡吹かせてやろうと勇んで手を進めていく。

 ……だが、

 

「む…」

「新手の連続…はいいけどね。きちんと自分の中に練れてなきゃそれはただの勇み足だよ」

 

 渋い顔をしたジュチが声を漏らすと、段々と形勢はモージに傾いていく。前世知識というアドバンテージを以てしても地力の差は如何ともしがたい。

 やがて数十手ほど指し運びがやり取りされると、ジュチは投了の言葉を吐き出した。

 誰も知らないことを知っている、というのは確かに強力なアドバンテージだが、それを十分に生かすだけの基礎がジュチには欠けているのだ。そのことをジュチはこのあと幾度となく痛感するのだが、その初めてはこの夜の駒遊びの一局だった。

 

「とはいえ中々面白い一局だった。しばらく夜は私に付き合いな」

「えー…」

「……真面目に付き合うなら朝餉の件、少しは考えてやろう」

「よっしゃ!」

 

 露骨に面倒くさいなーという気配を漂わせる少年の鼻先に報酬(ニンジン)をぶら下げるとわかりやすくテンションが急上昇する。欲に釣られたことを隠す気もないあからさまな変節はこのアホの子め、と憐憫と呆れの視線を向けるには十分だった。

 

「そういえば」

 

 と、遊びに使った駒を片付けながら思い出したように言葉を継いだ。

 

「説教のあとに、なにやら妙なことを言っていたね」

 

 何気ない風に出た言葉は静かに少年の後ろめたさを突いた。そっと肩を見るとそこには変わらずとぼけ顔の火蜥蜴が居座っていた。

 

「あ。あー、あれは…」

「まあいいよ。詳しく聞く気はない」

 

 何とかうまく誤魔化そうと頭を回すが、肩をすくめたモージは自分で振った話題にもかかわらず、あっさりと終わりにしてしまう。

 そのまましばしの間沈黙が流れるが。

 

「あんた、天神(テヌン)寵児(いとしご)を知ってるかい?」

「テヌ……なんだって?」

 

 ぼそりと呟かれた耳慣れぬ言葉に問い返すと、心の奥底を見通すかのように静かな視線が返された。我知らず動揺し、心持ち座った姿勢のまま重心が後ろに寄る。

 

「知らぬはずのことを知り、見えぬはずのものを見、常人《ひと》とは異なる理を持って動く者のことさ。世に数多いる奇人変人の中でもひと際変わった連中でね。その魂は私たちよりもずっと天に近く、()()()()()()()()

「神に、愛されやすい……?」

 

 しかめっ面をしたモージの言葉になんとなく不吉なものを感じ鸚鵡返しに問いかける。

 

「……天神はしばしば気に入った幼子の魂を天に召して、自分のもとで仕えさせようとするのさ。特にそうした子どもはお気に入りになることが多いと聞く」

「それは」

 

 その天神の寵児とやらは普通の子供と比べて早逝しやすいということだろうか。心当たりのありすぎるジュチの心音が急に乱れ、まさかという思いが脳裏をよぎる。

 

「まあそうした子どもらは常識を知らず、尊重もしないことが多いらしい。この物騒な大地で守るべき掟も分からぬまま動き回っていれば遅かれ早かれ危険の方からやってくるってことだろう」

 

 だが肩をすくめたモージの言葉に緊張が解け、安堵から肩を落とす。そうした様子もモージはしっかりと目に入れていた。

 

「まあ、いい。私が言いたいのは一つだけだよ」

 

 養い子の様子に薄々察しつつも、老賢女はこれ以上藪をつつく気はなかった。無理に聞き出してお節介を焼くのは己の流儀ではないのだ。

 助けを求められれば、全力で応えればいい。それ以上は余計なお世話というものだ。

 

「なにかあったら、言いな。……それだけだ、寝るよ」

 

 そして会話を切り上げるように手を振って就寝を促す。慌ててジュチが自分の分の寝具まで移動するのを見届けると重い腰を上げてかまどの火を灰で覆い、ほのかな暗闇が天幕に満ちた。

 なおツェツェクはとうの昔に寝具の中に潜り込んで熟睡の寝息を立てている。羊の毛皮から作った寝具はとても暖かく柔らかい。冬季などは寝汗で却って身体が冷えるのを避けるために素っ裸で毛皮の山の中に潜り込む者もいるほどだ。

 昼間の疲れもあって気持ちが落ち着けば自然と眠ることが出来るだろう。

 

天神(テヌン)寵児(いとしご)……)

 

 己はソレなのだろうか。

 分からない。なにしろその言葉を知ったのも今さっきのことなのだ。そう呼ばれる彼ら彼女らはどれくらいいたのだろうか。どのようなことを成したのだろうか。

 気になって頭の中で答えの無い問いがぐるぐると回り、心臓が奇妙な高ぶりを示していた。

 これは興奮なのか、あるいは恐怖なのか。

 それすら分からず、やがて考えることに疲れた幼子は自然と寝入り、寝息を立て始めるのだった。

 



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遊牧民の朝

 遊牧民の朝は早い。

 彼らは太陽が地平線から顔を覗かせるよりも前に起きだして、働き始める。

 ぬくい寝床から最も早く起きだしたモージが寝起きのだるさを感じないかくしゃくとした様子で身支度を整える。するとそのざわめきに釣られるようにジュチとツェツェクも起きだし、養母に倣った。

 

「ジュチ、ツェツェク。羊たちの搾乳を始めるよ。手伝っておくれ」

「はいよー」

「うん。分かった」

 

身支度を整えた三人は天幕(ゲル)の入り口から外に出ると、まだ薄暗い高原の空気に身を震わせる。季節は夏だが、山嶺の中腹に位置するだけあってこの一帯の気候はかなり寒冷だ。

 肌寒さに襲われて漏れでそうになる欠伸が引っ込み、代わりにくしゃみが飛びだした。

 

「さて、乳搾り……って言っても」

「みんなを集めるところからだね」

 

 ツェツェクの言う通り、家畜を搾乳するにはまず天幕(ゲル)の周囲に放牧していた羊の畜群を見つけるところから始めなければならない。基本的に畜群は囲いに入れたりせず、天幕の周囲に放し飼いにしているからだ。これは部族のどの天幕でも同じである。

 なのであまり長期間目を離していると餌となる牧草を求めて天幕からバラバラに散っていってしまう。だがそうした事態を避けるための知恵を遊牧の民は昔から心得ている。羊の類縁である山羊を羊群に対して2~3割ほど混ぜておくと彼らが群れのまとめ役の務めを果たし、全体の統制が保たれるのだ。

 賢くリーダーシップの強い山羊は狼などの外敵が襲い掛かって来た時も真っ先に騒いでその存在を知らせ、時には果敢に立ち向かっていく。そうした性質から遊牧民が暮らす大草原のほとんど全ての地域で山羊は飼育されていた。

 

「特に部族(ウチ)じゃあ土地が貧しい分余計に山羊の数が多いからなぁ」

「こら、ジュチ。貧しいは余計だよ」

 

 貧しいシャンバル山脈の一角に居を構えるジュチの部族では特に重宝されている。山羊は痩せた土地の草でも構わずに摂食し、乳も良く出すからだ。それ故に山羊は貧者の雌牛とも呼ばれる。

 

「事実じゃないか」

「事実でも聞けば怒り出す奴らはそれなりにいるだろう。口は禍の元だよ」

 

 軽口を窘めるモージに素直に頷いた。部族の皆は気のいい連中だが、血で血を洗う部族間の抗争を日常とする修羅の巷を生き抜いてきただけあって血の気が多く荒っぽい。相手が同胞でも腹が立てば大人げなく拳骨でゴツンとやるだろう。

 気を取り直すと三人は手に持った棒きれを振り回したり、ホーイホーイと声をかけながら三方から羊たちを天幕の前にまで誘導していく。

 

「あ、大角(エウェル)だ」

「本当か。ごめん、ちょっと様子を見てくる」

 

 そんな中ツェツェクがモージとジュチが共用で騎乗しているお気に入りの大山羊を見つけると、それに反応したジュチが昨日酷使した相棒の様子を見に駆け寄っていく。

 モージも遠目にそれを見ていたが、大声をあげて叱責することはしなかった。老女自身エウェルの体調を気にかけており、機会があれば一度様子を見に行くつもりだったからだ。

 山羊は元々高山帯に住む獣であり、例外なく山や崖を登るのが得意だが、その中でもエウェルは群を抜いていた。その背に人を乗せて断崖絶壁の山肌を登っていけるのはエウェルだけだ。モージやジュチはそんな特技を持ったエウェルを主に薬草や鉱石の採取に役立てていた。

 部族の薬師も兼ねるモージにとっては欠かすことのできない相棒であり、だからこそ畜獣に名前を滅多につけない遊牧民であるモージから巨大な双角に(なぞら)えて大角(エウェル)の名を与えられたのだ。

 

「おーい、エウェル」

「メエェェッ…」

 

 周囲の山羊たちと比較してひと際立派な大角を備えたエウェルはむしゃむしゃと草を食んでいたが、駆け寄ってくるジュチを認めると顔を上げた。名前を呼びかけると親愛を示すように鳴き声を上げる。

 そのままジュチと合わせるように自身も距離を詰め―――三日月のように反り返った角を容赦なくぶつけてきた。決して嫌われているわけではなく悪戯好きな性格をしたエウェルのちょっと過激な愛情表現なのだが、ぶつけられている側としては結構洒落にならないくらいに痛い。

 

「待て、待って。痛い、元気なのはわかったから痛い!」

 

 ちなみにモージは奴に背を向けていたところ腰を強打され、かなり容赦なくエウェルの横っ面を引っぱたいたことがある。その後しばらく機嫌の悪かったモージは幾度となくエウェルを()()()()こともあって、この悪たれもモージにだけは逆らわない。

 一応齢こそ一二歳を数えているものの、あまり栄養状態の良くないジュチは痩せて小柄で、年齢よりも二、三歳は幼く見える。山羊らの中で体格のいいエウェルの顔がジュチの胸のあたりに来ると言えばその小柄さが分かるだろう。さらに体重で言えばエウェルの方がジュチの倍近くある。

 そんな巨体から固い角をガシガシと容赦なくぶつけられると考えればその恐ろしさも分かるのではないだろうか。

 

「お前なー、いい加減にしろよ。終いにはその鼻面引きずり回すぞ」

 

 とはいえこっちはこっちで中々酷いことをこともなげに口に出すあたりジュチもエウェルのことを責められないだろう。

 

「落ち着け、落ち着け。ちょーっと診るからなー、動くなよー」

 

 なおも元気に突進してくるエウェルを苦心して押さえつけながら、素早く全身の状態をチェックする。一応昨日の時点でも確認していたが、時間をおいて出てくる症状だってあるのだ。

 

「……大丈夫、かな。あとで一応モージにも診てもらおう」

 

 幸いなことにエウェルに目立った異変はない。心配するジュチを他所にメェメェ、ベェベェと鳴く相棒は元気いっぱいな様子である。もっと構えという風に双角を突き付けてくるのだから間違いはない。

 

「うっし。それじゃまた後でな。族長の天幕までよろしく」

 

 エウェルよりもずっと大人しく気のいい牝馬も天幕の近くに繋いでいるのだが、どうにも元気が有り余っている様子だ。それを発散させる意味でも今日の足はエウェルを使うことに決める。

一旦エウェルに別れを告げたジュチは雌山羊たちの乳を搾る手伝いに戻った。

 

「ねえ、エウェルはどうだった?」

「大丈夫だと思う。元気だったよ」

 

 少なくとも弱った様子など微塵も見せずに突撃してくるくらいには。若干の苦笑から義兄が抱いた微妙な感情を感じ取ったのか、ツェツェクはおかしそうに笑った。

 そんな会話を交わしながらようよう追い込んだ羊群が天幕の近くまで戻ると、付近の石垣に羊群とは別に隔離していた子羊たちを1頭ずつ解放し、母山羊たちのもとへと向かわせる。

 これは母羊は自分を生んだ子羊をしっかり認知しており、自分以外の子羊に乳を飲ませることはない習性を搾乳に利用するためだ。

 ツェツェクが連れてきた仔羊のペアとなる母羊をジュチが見つけ出し、2頭を引き合わせる。最初だけちょっと仔羊に母羊の乳を吸わせると、あとは母羊の死角でこっそり仔山と交代して乳を搾るのだ。いうなればこっそり仔羊が飲む乳の上前を撥ねているわけである。

 同じことを山羊の母子でも繰り返し、十分な量の乳を確保していく。

 かれこれ一〇頭ほどの母羊や母山羊の乳を搾り、鍋や容器いっぱいに受けたそれは今日の内に加工され、乾酪(チーズ)牛酪(バター)醗酵乳(ヨーグルト)といった『白い食べ物』に変わるだろう。

 仕事がひと段落付き、周囲を見渡すと起きた時は薄暗かった高原もしっかりと太陽が顔を覗かせていた。露が落ちた牧草が日に照らされてきらきらと輝き、なんとも気持ちのいい朝を演出していた。

 いい朝だな、と伸びをして気を抜くと途端に育ち盛りの肉体が空腹を主張するようにきゅうきゅうと腹が鳴った。

 

「……」

「ジュチ、お腹空いたの?」

「まあ絞った乳くらいは出してやろう」

 

 ばつの悪い思いをして視線を逸らすとそこには無邪気に問うツェツェクとやや意地悪い顔をしたモージがいたのだった。

 



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巫術

 椀になみなみと注いだ絞ったばかりの新鮮な乳を腹に入れると、ジュチの朝食とも言えない時間は早々に終わった。

ものほしそうな視線を椀に向けるが、もちろんそれで椀から食べ物が湧いてくるわけもない。モージが理由もなく罰を取り下げる筈も当然なかったので、義妹から同情の視線を向けられながらも侘しい時間を過ごすこととなった。

 二人は絞った乳をたっぷりと鍋に入れ、そこにアーロールと呼ばれる恐ろしく硬い乾酪と削った少しの干し肉を投入した乳茶を堪能した。食後にはやや酸っぱみのある馬乳酒(アイラグ)を飲んで腹の調子を整える。

 馬乳酒は酒と名がついているものの、遊牧民から見れば普通の飲み物と変わらない。酒精(アルコール)も弱く、子供でもパカパカ空ける者がいる程度には飲みやすいし、栄養もある。モージもこれが大の好物で、これしか飲まない日があるくらいだった。 

 そんな朝の時間を心地よく過ごし、腹を空かせた義息の恨めしげな視線をこともなげに受け流しながら、ようやくモージがどっこらしょと立ち上がった。

 

「ツェツェク、ジュチを連れて少し出かけてくるよ。すぐに戻るから大人しくしてな」

「どこに行くの?」

「族長のところさ。さあ、良い子にしな。なに、そう時間はかからない」

 

 首を傾げた問いかけに諭すように答えたモージだが、すぐにその目にツェツェクのふくれっ面が映った。

 

「ジュチは族長のところに何しに行くの? 私も行きたい」

「駄目だ。今日は私と一緒に歌と踊りを覚える日だよ」

「本当!? やった!」

 

 不満そうなふくれっ面が一転、花が咲くように顔をほころばせる。それこそ今にも踊りだしそうな様子に年長者二人の顔が微笑ましいものを見た顔になる。基本的に幼いツェツェクには甘い二人なのだ。

 活動的で活発なツェツェクは歌うのも踊るのも好きだった。モージの教えは厳しかったが、身体を使う分野ではひと際物覚えのいい彼女はさして苦にしなかった。自ら好んで修練に励み、最近はメキメキと力を付けつつある。

 

「ツェツェクならきっと良い《舞い手》になれるな」

「当然さ。なんせ私の義娘(むすめ)だからね」

 

 出来の良い末っ子を自慢する家族らも何とも言えない()()()である。

 《舞い手》とはつまり歌と踊りを通じて天神(テヌン)とその眷属、精霊(マナス)と交信する巫女(シャーマン)である。天神に捧げる奉納の神楽舞と祝詞(のりと)は美しく見事な程より力のある神が降りてくるとされる。故に一流の《舞い手》は一流の巫女でもあった。

 モージの発言も単なる身内贔屓とは言えない。モージ自身が部族を代表する《舞い手》であり、ツェツェクはその教えを幼少から授かっている。十に満たない歳ながら、生来の運動神経の良さも相まってこの年から光るものを見せる少女は長じれば良き《舞い手》になるだろうと期待されていた。《舞い手》として将来を嘱望されるツェツェクは部族の宝として大切にされている。

 その価値は一介の養い子に過ぎないジュチは勿論、ジュチと同い年の族長の息子よりも更に高い。

 それは練達の巫女が祭事を司る部族の精神的支柱というだけではなく、現実に部族の命運を左右する()を持っていることに起因する。

 その力を人々は巫術(ユルール)、あるいは精霊術と呼ぶ。

 精霊と交信する力を持った(かんなぎ)が祈りを通じて超常的な現象を起こすこの世界の魔法であった。特に歌唱と舞踊の果てに神憑(かみがか)り…一種の入神(トランス)状態に入り込み、己の精神を本来知覚できない精霊の世界(アストラル・サイド)へと近づけることが出来る《舞い手》は、巫術の使い手の中でもより高位の術者とされる。

 火勢を強め、突風を起こし、雨を降らせ、大地を動かす…自然に干渉する祈祷(アミスガル)。あるいは霊眼を以て精霊の世界を覗くことで天気や疫病の訪れといった自然の運行を予見する天眼(テンヌド)

 部族の存亡すら天の気まぐれであっさりと決まってしまうこの世界ではどちらも極めて実用的な力である。

 

(とはいえそこまでお手軽で便利って程でもないんだよな…)

 

 本来精霊のいる世界とジュチ達がいる世界は近いようで遠いのだとモージは言う。その境界を飛び越えることは資質を持った人間が相応の準備をして取り掛からねばならない難事なのだ。(かんなぎ)が精霊に捧げる祈りは恐ろしく深く集中する必要があると言われている。更により大きな事象を起こすには多くの人間が儀式を行い参加者たちの祈りを束ねる手順を踏む必要があるとも。

 

「巫術ももっと手軽に使えればいいのになー」

「罰当たりなことをお言いでないよ。本来人の御世は人が何とかするのが当たり前なのさ。何でもかんでも精霊に頼んで何とかしてもらおうってのは自分の怠け心に過ぎないよ」

 

 尤も幼い少年はそれを不便と捉え、身も蓋もない感想を率直に漏らしてモージに頭をはたかれていた。

 

「ま、例外も無いではないがね」

「例外? なにそれ」

「お前も知っているこわーい魔獣。飛竜(ドゥーク)のことさ」

 

 飛竜と聞いてビクリと背中に一筋の寒気が走る。かの魔獣のおっかなさは昨日の一件で骨の髄まで刻み込まれていた。色々と考えの足りない馬鹿息子へ覿面に脅しが聞いたことを見て取ったモージが一つ頷き、義娘への教育の意味も込めて講釈を続けた。

 

飛竜(ドゥーク)竜馬(ジルフ)は私ら(ヒト)よりもずっと()()()()()()()だからね。私たちが必死に祈り歌と踊りを捧げて精霊に話を聞いてもらうのに対し、彼奴らは呼吸するのと同じくらい自然に精霊に語り掛けて合力してもらえるんだね」

「……それってなんかズルくない?」

「ハッ! 人は人、魔獣は魔獣。そうあれかしと天神が生み出したんだから、必ずそこには意味がある。大体この丈高き草原から峰深き山岳、果て知らぬ湖沼に至るまで最も増えて地を治めているのは飛竜でも竜馬でもなく、人なんだ。当の人間様が文句を言っては罰が当たるってもんさ」

 

 浅慮な発言を鼻息一つで笑い飛ばして諭す女傑。とはいえまだまだ幼い少年には中々その悟った考えは受け入れがたいものであった。 

 

(何言ってるのか分からねー。こう、()()()? みたいに手っ取り早くて凄い力があればもっと部族《みんな》も楽に暮らしていけるのに)

 

 と、少年は前世の記憶を思い起こしつつ、現実に22世紀の猫型ロボットがいればいいのにと愚痴る前世の貧乏苦学生と同じノリで心の中で不満をこぼしていた。求めるものがなんとも漠然としている辺りも色々と近い。

 

「そういえば…」

「なんだい?」

「ちょっと聞いてみたかったんだけど、精霊って一体どんな姿をしているんだろう?」

「突然何を言い出すかと思えば…。まあいい、これは私の師匠から聞いた話だが」

 

 モージ曰く、精霊とは世界の運行をつつがなく回すために天神(テヌン)が遣わした多種多様、無数無量の小さな眷属らしい。その姿を()()巫術者によれば、その姿は無数に光輝く小さな鬼火のようだという。

 それを聞いてジュチはがっかりしたような、ああやっぱりというような落胆とも納得とも言える心情になった。

 

(こいつも最初は精霊ってやつかと思ったんだけど……違うな。うん、違う)

 

 今も己の肩で暇そうに尻尾をプラプラと振り回して遊んでいる火蜥蜴に目を向け、そう確信する。

 姿がそもそも違うと言うのもあるが、その緊張感のない自然体からは神秘的な存在である精霊が纏う威厳とかありがたみが全く見受けられない。己以外に見えず、尻尾に火が付いているのを除けばちょっとデカい蜥蜴だ。

 そんな毒にも薬にもならない浮遊霊じみた存在を丁重に無視することにしたジュチは、族長のところへ足を向ける前にツェツェクに声をかけることにした。

 

「ツェツェク、俺はちょっと族長の天幕に行って家事手伝いをしてくるよ。きっと何かお土産貰ってくるからな」

「これ、馬鹿を言ってないで真面目にやるんだよ」

「えへへ。楽しみにしてるね」

 

 軽口を叩く息子に拳骨をポカリと頭に落しながら叱る老母。そんな二人を見てはにかむように笑うツェツェク。そこには紛れもない一家団欒の風景があった。

 



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《狩人》のアゼル

 ツェツェクに一声かけた後ジュチとモージは天幕を出て、柱を二本立てて綱を張った馬繋ぎ場(ウヤー)に繋ぎとめていた大角(エウェル)達の元へ向かった。そのまま各々の乗騎に手綱と鞍を装着する。モージが乗る大人しい牝馬はもちろんエウェルも騎乗に慣れているだけあってさして戸惑いもなく装具を受け入れた。

 なお心配していたエウェルの体調は朝餉の前に様子を診たモージのお墨付きが出るくらいには陰りが見えない。今もお互いの体格差を考えずグイグイと体を押し付けてくるから間違いはないだろう。エウェルにとってはじゃれ合いのつもりだろうが、小柄なジュチにとってはボディプレスをかけられているに等しい。四苦八苦してのしかかってくるエウェルを押しのけていた。

 遅れて天幕から出てきたモージもそんな一人と一匹のやり取りを見てカラカラと笑いつつ、綱に繋いである大人しい牝馬に馬具を装着していた。

 

「遊んでいないでそろそろ出るよ」

「……遊んでいるように見えるならとっかえてくれよ。こいつ、隙があれば全体重をかけてのしかかってくるんだぜ」

「その悪たれに乗るのは山に登る時だけで十分さね。普段使いにするには鼻っ柱がだいぶ強いからねぇ」

 

 なおその鼻っ柱が強い悪たれに心底からおっかながられているのが当のモージである。視線を向けられただけでそそくさとジュチの後ろに隠れようとする辺りにその心の機微が読み取れる。ところでお前自分より小さい騎手の後ろに逃げるとか恥ずかしくないのか?

 非難の目を向けるも山羊に羞恥の感情が持ち合わせているはずがないので、平然とした顔でメェェと鳴きながら見返してきた。

 そのとぼけた顔になんとも言えず脱力してしまい、何も言わず相棒の背に乗り込もうとする。鞍を付けた背中をトントンと二度叩くと心得たように四肢を追って座り込む。素早くその背を跨いで鞍に腰かけ、再度同じ間隔で叩くと遅滞なくエウェルは立ち上がった。

 準備は出来たかと目で問うモージに頷きで応える。

 

「行くよ」

「ああ」

 

 短く応じ、それぞれの乗騎に出発の合図を入れると、牝馬と山羊はゆっくりと歩きだした。

 族長とその家族がすむ天幕までモージの天幕から馬を使って半時間、距離に合わせれば五キロメートルと言ったところか。

 モージの天幕は比較的族長の天幕から近い方で、遠い方になればその何倍も離れている同胞もいる。天空から俯瞰すれば天幕三~四戸ほどが一塊になり、さらにその塊が一〇~二〇ほどの数で族長の大天幕を中心に点在しているように見えるだろう。

 そして各小規模集落間の距離はかなりバラバラで、近いものならばそれこそ族長とモージの天幕ほど。遠い集落間ならばその何倍も距離が離れている。

 国土が狭苦しい島国だった前世と比較すれば天幕(いえ)天幕(いえ)の距離が離れすぎているように思えるが、遊牧民的視点から見ればこれくらいの距離なら十分近所に当たる。

 というよりも逆にこれくらい各戸の距離が離れていないと、各々の家族が所有している家畜群に十分な量の草を食べさせることが出来ない。健やかに暮らしていくために遊牧生活は農耕生活よりもはるかに広い土地を必要とするのだ。

 あまり天幕が密集していてはあっという間に周囲の牧草は家畜たちに食い尽くされ、却って天幕の移動に手間暇がかかるばかりだ。そのため部族はある程度まとまって行動しつつも基本的に距離をとって家族単位で生活していた。

 モージの天幕もその例に漏れないが、呪術師であるモージは族長の相談役でもある。そのため族長の天幕付近に居を構えつつ、人手や食料を割合頻繁にやり取りすることが多い。男手もない老婆と子供二人だけの一家がまともに暮らしていくには有力者の庇護が必要不可欠なのだった。

 閑話休題。

 このように各戸の距離が離れているものの一年を通じて頻繁に情報や人手のやりとりを発生するし、男たちは協力して大きな家畜の群れを作り、遠くまで放牧に出かけていく。物理的な距離は離れているが、心理的な距離はむしろ密接だ。

 こうした生活が成り立つのはひとえに遊牧部族にとってひと際重要な位置づけにある馬がいるからこそであった。逆に言えば馬がいなければ遊牧生活は成り立たない。それほどに馬は遊牧民にとって重要な家畜なのだ。

 この大地では馬とは人間の兄弟であり、第一の友であった。

 

「んー。やっぱり夏はいいよな、風が気持ちいいよ。このまま昼寝でも出来れば本当に最高なんだけどな」

「そりゃそうだろうよ。冬なら鼻水が凍るし、春先でも油断できるような寒さじゃない。昼寝なぞしようものなら身体を冷やして風邪をひくだろうさ」

 

 山嶺の中腹にある豊かな緑の絨毯の中を緩やかにエウェルに駆けさせながら、天に向かって体を伸ばす。青空に輝く太陽の日差しが燦々と降り注ぎ、貴重な活力の元を山脈の草木に贈っていた。

 何とも心安らぐ気持ちの良い日差しだった。叶うことなら大地を布団に牧草を枕にして昼寝の一つも決め込みたいところだ。

 海抜八〇〇〇メートル級の峰すらいくつも備える竜骨山脈。その中腹から麓の辺りに居を構えるジュチらの部族も相応に厳しい環境で暮らしている。気候は寒冷、土地は痩せて家畜の糧である草の育ちは悪い。

 故にジュチの漏らす呑気な発言にもそうした切実な背景がある。のんびりと太陽に身を晒しながらの昼寝など、寝食に余裕がある者が出来る贅沢なのだ。

 そもそもジュチらが言う『草原』、竜骨山脈を下った比較的低い位置にある大高原ですら海抜一〇〇〇メートル以上の高度に位置する。普通に高山植物が生育している気候風土だ。肥沃な土地はほんの一握り、その一握りの土地を巡って遊牧民たちは部族に分かれて争い合う。

 竜骨山脈の雪峰を屋根に暮らす遊牧の民は総じて厳しい生活を強いられているが、逆に『草原』……ウンドヴルク高原に住む遊牧民らが極楽浄土で暮らしているかと言えばそうでもない。敢えて言うならば草原と言う地形そのものが決して人間に優しくないのだった。

 二人はそんな風に雑談を交わしながら牝馬と山羊を駆って進んでいく。そして族長の天幕までもう半分といったところで、視界の先で動く者が目に留まった。

 

「……誰かいる」

「うちの男衆だ。一騎か」

 

 互いの距離はキロ単位で離れていたが、視線の先で騎馬が立ち止まり、視線をこちらに向けたのが分かった。挨拶のために手を振ると、なにを思ったかこちらへと馬を駆けさせてくる。

 

「……アゼルだね。なにか変わったことでもあったか」

「本当だ。族長の天幕から来たのかな」

 

 族長の甥にあたる男の名をモージが呟くと、遅れてジュチも同意を示す。自慢にならないが、ジュチはこの距離からでもアゼルの人相は勿論表情もはっきりと見えていた。視力で言えば余裕で2.0以上はあるだろう。

 それが自慢にならないのは部族の誰もがこれくらいの視力は標準装備しているからだった。山脈に居を構えるとは言え部族の行動範囲はもっぱら見晴らしのいい高原であり、家畜を見張るため日常的に遠くを眺めているので、自然と視力が鍛えられているのだ。

 その鍛えられた視力で馬にまたがって駆け寄ってくる青年の表情を観察する。相も変わらず口元を引き結んだ仏頂面で在り、平素と変わりが無いようだった。

 

「アゼル、久しぶりだね。壮健そうで何よりさ」

「モージ、ジュチ。貴方たちも」

 

 近づくにつれて駆け寄る勢いを緩め、やがて適当な距離を置いて対峙した精悍な顔立ちの青年はモージの挨拶に言葉少なに答えた。顔立ちは男前と評していいほどに整っているが、弁舌の才とは無縁だった。

 だがそれを補って余りある狩人(ハンター)としての才を持って生まれた男でもある。草原の男は家畜を追っている時以外は野の獣を追っていると言われる程の狩猟好きで、誰も彼もが狩りの腕に覚えがある達者揃いだ。

 アゼルはその中でも部族一の腕利き、《狩人》の位を戴く一流である。夏から秋にかけて部族の男が総出で取り掛かる巻き狩りの指揮を執り、いくさになればその発言は相応の重みを持つ。若年ながら己の腕一つで部族の実力者と認められる青年なのだ。

 尤も当の本人は周囲の評判にも女達から送られる秋波にも気をとられることなく淡々と己の仕事をこなしている。周囲から一歩離れて我関せずと過ごしているような、そんな些か風変わりなところがある男だった。

 

「どこから来たんだい。何かあったのかね?」

「……つい先日のことだ。うちの馬が他所の群れと混じったので、分けた。その場では揉め事にはならなかったが、族長に伝えるべきと考えた」

「ほう。今の時期、ここらでとなると……雲雀(ボルジモル)の一族かね?」

「然り」

 

 その問いにアゼルは短く答えを返した。ジュチもなるほどと頷いた。

 馬は家畜たちの中でも最も足が速く、最も遠くまで放牧に出る。行動範囲が広い以上近隣の部族とも接触する可能性も上がる。

 此処は天険竜骨山脈。楽園ならざる枯れた土地だが、その険しい地勢は逃げるに易く攻めるに難い地の利を生み出す。故に草原の縄張り争いに敗れた部族が逃げ込む最後の住処でもあった。

 ジュチらカザル族が知るだけでも十数以上の部族が竜骨山脈の各地に点在しているはずだった。ボルジモル族の縄張りはカザル族と隣接しており、これまでもニアミスすることはそれなりにあった。今回は偶然から、それもあまり良くない形で接触を持ってしまったようだ。

 

「やれやれだ…。揉め事にならなきゃいいんだがね。混ざった馬はきちんと分けたのかい」

「我らも馬の目利きが出来ないほど節穴ではない。一頭余さず、過たず分けた。だが……奴らが難癖を付けてくるかまでは、予想がつかない。私見で言えば、奴ら自身や奴らの馬は痩せていた。今年、奴らの縄張りは草の育ちが良くなかったようだ」

「なぁるほど。流石にいくさを吹っかけてくるとまでは思いたくないが、ちいと用心が必要な状況だね」

 

 折々の機会を通じて多少は付き合いのある部族だったが、友好的かと問われれば首を傾げる程度の関係である。それに貧しいシャンバルの山々では足りない物資を求めて部族間の略奪合戦が日常茶飯事(あたりまえ)と感じられる頻度で勃発している。

 カザル族はこの辺りではそれなりに大きくまとまった勢力だからわざわざ喧嘩を吹っかけてくるとは思えないが、油断は出来ない状況だ。 

 草の実りが良いこの時期は家畜らに食わせるための牧草を求めて男たちは集団となって遠方まで放牧に出かけている。その隙を突いて女子供たちばかりの集落を襲われれば一巻の終わりだ。そう滅多にあることではないが用心するに越したことはない。

 なるほど、確かにわざわざアゼルが放牧に出ている集団から一人戻ってきてまでしても族長に報告するべき事件であった。

 

「奴らは雲雀(ヒバリ)のようにおとなしいが、縄張りにはひと際敏感だ。またぞろ騒がれても面倒だしね。この辺りの草も大分家畜たちが食べてしまった。そろそろまた居を移す頃合いかもしれん」

「俺もそう思う。この一帯は草の育ちに恵まれていたが、あまり長居し過ぎて明くる年の育ちに差し支えては困るのは我らだ」

 

 同意とばかりに首を振るモージ。

 事なかれ主義と言えばそこまでだが、彼ら遊牧民にはもめ事が起きそうならさっさと逃げるという選択肢がある。いや、むしろ面倒事に成ると思えば躊躇せずに逃げにかかる気質であった。身も蓋もなく言えば逞しく、図太いのだ。

 

「既に族長にはこの考えは伝えてあるが、良ければモージからも進言して欲しい。部族の知恵袋からの言葉とあれば族長も無下にはすまい」

「高き目のソルカン・シラならば道を誤ることは無かろうがね…。まあ、覚えておくよ」

「ありがたい。詰まらぬ諍いから血を見るのも馬鹿らしいことだ」

 

 終始変わらぬ淡々とした口調であったが、その言葉尻にジュチは僅かな安堵が混ざったように見えた。

 

「しかし戦を厭うのは血の気の多い男衆には珍しいね」

「決して臆病風に吹かれたわけではない」

 

 ジロリとモージを睨みつけるアゼルは中々の迫力だった。己の勇気を疑われるのは騎馬の民にとって名誉を傷つけられるのに等しい。例え身内の発言であってもそのまま流すことは出来ないのだ。

 

「もちろん分かっているとも、アゼル。あんたは《狩人》、部族一の勇者だ。何より私もあんたの意見に同意する。戦など、必要に駆られでもしなければしないに越したことはないからね」

「……その()は若輩の身には些か以上に重い。あまり呼ばないでもらえれば助かる。しかしモージと意見が一致しているのは心強い。先ほどのこと、よろしく頼む」

「頼まれたとも。ソルカン・シラには私からも言っておく」

 

 アゼルはもう一度頼んだ、と繰り返すと。

 

「では仲間達のところに戻る」

 

 言うが早いか馬首を翻して草洋を駆け始める。人馬一体の身のこなしは風のような軽やかさ。彼の乗騎が駿馬であり、見事に馬と呼吸を一致させたからこそ可能な動きだった。

 

「アゼルか。対面で話すのは久しぶりだが、良い男になっていたねぇ」

 

 その背中を見送りながら、モージは誰に聞かせるつもりもなく思ったことをそのまま呟く。

 

「アゼルが戦嫌いなのは意外だったな…。《狩人》に選ばれる勇者なら、もっと荒事を歓迎すると思ってた」

 

 相槌を打つようにジュチも呟いた。その呟きには意外さを感じさせる響きがある

 草原の男達にとっていくさとは決して忌むべきものではない。己が武勇を示し、敗者から財産を略奪する絶好の機会だ。部族間の戦争が珍しくない、この騎馬巡る大地では腕っぷしは甲斐性の一部に含まれる。狩りが上手く、戦の強い男はそれだけ財産を得やすい立場にあり、周囲の女達も放っておかないのだった。

 

「いいかい、ジュチよ。男どもは戦の華々しくて都合のいいところばかりを取り上げて持て囃す。けれどね、人間同士の殺し合いなぞ一時は良くても長い目で見れば互いに損をするばかりなのさ。もちろん食い扶持に困って生きるためにやむなく戦を吹っかけるならばまだしも、好き好んで戦などするものじゃあないよ」

 

 しかしそんな草原の気風を真っ向から否定するようにモージは鼻を鳴らしながら憤然と吐き捨てるのだった。

 

(いくさ)ってそんなに面倒くさいのか」

「面倒事に決まっているだろう。戦うってことは、恨みを買うってことだ。恨みを買えばいずれ必ず報復が来る。それを避けるには()()()()()()()根絶やしにするか、最低でも当分は我らに歯向かう気概を無くすくらいに数を減らさねばならん。それがどれだけ面倒くさいことか」

 

 そしてそれだけのことが分からん間抜けな男がどれほど多いことか、と多分一番の本音で在ろう呟きを漏らすモージであった。厭う様子もなく血なまぐさい発言が飛び出す辺りモージも長年草原の掟にどっぷりと身を浸した騎馬の民だった。

 対するジュチはそんなものかと曖昧に頷くほかはない。今世はもちろん前世の記憶においても(いくさ)という事象に身を置いた経験はなく、知らぬことを偉そうに語れるほどジュチは羞恥心を忘れていなかった。

 

「幸いなのは族長のソルカン・シラがうちの腕っぷししか自慢がない阿呆共と違ってきちんとした知恵を持った男だってことさね」

 

 やれやれと肩をすくめて男衆をこき下ろすモージ。

 

「案外アゼルが族長を継ぐかもしれないね。奴は寡黙だが信頼がおける男だ。族長からの信頼も厚い。どうも本人はそれを望んでいないようだが……ジュチ、あんたも困ったら奴に頼るんだよ。私もいるが…男どもには男どもの流儀があるからね」

 

 遊牧や狩り、戦など外の仕事は男が、搾乳や乳の加工、織物など内の仕事は女が。遊牧部族の分担は男女によってかなりきっぱりと別れる。そして互いの職分を超えて口を挟むことは好まれない空気があった。

 そんな一幕を挟みながら、二人は再び族長の天幕へ向かって乗騎を駆けさせ始めた。

 



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世に騒ぎの種は絶えず

「し、死ぬ…。腕がもげそう…」

 

 のっけから息も絶え絶えな弱音を漏らすのは、岩窟踏破の挑戦という無謀な真似をしでかした罰を受けているジュチである。

 

「何だい何だい! 飛竜(ドゥーク)から見事に逃げ切って帰ってきたと聞いた割には根性がないねぇ!」

 

 その姿を見て豪快な大声で揶揄(からか)うのはこれぞ一家のおっかさんと評したくなるような腕が太く恰幅のいいおばさんだった。族長ソルカン・シラの妻、バヤンという名の女傑である。

 

「別に逃げ切っても……フゥ、いないし…ハァ、根性とか? 古臭いしぃ…!」

「罰を食らって泣き言漏らすおチビがそれだけ言えれば上等さねぇ! それだけ元気ならまだまだいけるね? さあ身体を全部使って力いっぱい掻き混ぜるんだよ!」

 

 その視線の先には天幕から吊るされたフフールと呼ばれる牛革で作った巨大な酒袋の中身をひたすら攪拌棒(ブルール)でかき混ぜているジュチの姿があった。

 無茶をしたジュチに罰として言い渡されたのが、騎馬民族がこよなく愛する馬乳酒(アイラグ)造りの手伝いだ。とはいえその仕事自体は難しいことは何もない。ただひたすらに時間と手間と体力がかかるという()()である。

 部族ごと、家族ごとに細かいやり方は違うが、馬乳酒は天幕につるした巨大な酒袋(フフール)酒母(スターター)となる古い馬乳酒を少しと搾ったばかりの新鮮な馬乳をなみなみと注ぎ入れ、あとはひたすらかき混ぜることで出来上がる。

 

「ジュチだ」

「何でうちの天幕にいるの?」

「あ、ジュチが僕らの代わりに馬乳酒仕込んでる」

「やったぜ外で馬乗り回してくる」

 

 ひたすら続く単純労働をヒィヒィと泣き言を漏らしながらこなすジュチの姿を次々と天幕に入ってきた少年少女達が見つけ、口々に疑問と手前勝手な発言が飛び出した。

 

「コラ、悪垂れ小僧ども。お前たちにはまた別の仕事が待ってるよ」

「えー。面倒くさい」

「ちぇっ、喜んで損した」

「母さん、ジュチがいるなら僕らは要らないと思うな」

「ジュチに全部押し付けて皆で遊ぼうと思ったのにー」

 

 族長家の四人兄弟姉妹(きょうだい)が各々勝手なことを騒ぎ、ジュチは口元を引きつらせる。なんというガキどもだ、と年少の子ども達に呆れと腹立ちを込めた視線を送るが、答えるどころか気付いた様子もない。大した面の皮をした子ども達であった。

 

「……大したお子様どもですねえ、母親として何か言うことないの」

「なぁに、こいつらの尻を叩いて働かせるのはもう慣れたもんさ! そう褒めなくてもいいよ!」

「ちくしょう、皮肉が通じねぇ! お子様どもの方も相変わらずだしさぁ!」

 

 相変わらずの我が道を行く自由さに馬乳酒をかき混ぜる手を止め、頭を抱えて嘆く。

 

「こら、勝手に手を止めるんじゃない」

「へーい…」

 

 すぐさま飛び出した注意の言葉に力ない返事を返し、酒袋をかき混ぜる攪拌棒の柄を握り直した。

 ジュチの弱った声音が示すように、この攪拌作業がまた結構な労働量になるのだ。一回一回を力強くかき混ぜる必要があり、更に一度始めたら一〇~三〇分くらいはそのまま続けることになる。これを朝昼晩の三度に分けて一日に合計一〇回程度繰り返す。一日に延べ三~五時間、回数に換算して三〇〇〇~五〇〇〇回の攪拌作業を毎日継続する必要がある。大体一週間したら完成だ。そこから飲んだ分は新鮮な馬乳を継ぎ足し、攪拌作業だけは飲み続ける限り続けていく。

 

「なんだとぅ」

「子供って言う奴が子供なんですー!」

「そもそもジュチだって僕らと歳変わらないじゃん」

「馬鹿じゃないの」

「ゲレル、トヤー、ゾリグ、バヤル! お前ら喧嘩売ってるなら買うぞ! 後で!」

 

 大体の場合母親や子供たちが分担してこれを順繰りにこなしていくのだが、悪戯の罰にこの攪拌作業を集中的に負担させられることも良くあった。

 ジュチに言い渡された罰もこれで、族長家の子供たちとやり取りを交わす間もぶっ通しでもう一時間はかき混ぜ続けている。正直なところかなり疲労がたまってきており、そろそろ腕の感覚が無くなりつつあった。

 

「ほら! お前らはいつも通りに水汲みに行って来るんだ! ツェレンに声をかけて一緒に行くのを忘れるんじゃないよ!」

『ハーイ!』

 

 流石母親と言うべきかバヤンの鶴の一声で、なおもジュチとじゃれ合う空気だった子供たちは声を合わせて指示に従った。そのまま子供らしく賑やかに騒ぎながら天幕を出ていく。

 ジュチはその見事な統率力に思わず感心しながらも攪拌の手は緩めない。子供たちの背中を見送ったあと、バヤンはジュチが攪拌する酒袋(フフール)の中身を覗き込む。

 

「しかし…んー、やけに具合よく仕込みが進んでいるねぇ…。ジュチ、あんたモージに馬乳酒造りを助ける(まじな)いでも習ったのかい?」

 

 酵母の働きに伴って酒袋の底から浮かび上がってくる泡の勢いや発酵熱の様子から、馬乳酒の発酵がいつも以上に活発に進んでいることを経験則から見抜いたバヤンが訝し気な声を上げる。

 

「そんなの知らないって。そんな(まじな)いがあったらモージは真っ先に皆に教えて回って、代わりに馬乳酒をせしめるに決まってるよ」

 

 とはいえそんな心当たりジュチには一切ない。酒袋近くに敷いてある敷物に寝転がった火蜥蜴が『Quuu(キュゥゥ)』と鳴きながら暇そうに尻尾をブラブラと揺らしているのを除けばいつも通りの光景だ。欠伸すらしている呑気なその姿には思わず苛立ちが湧いてくるが、バヤンの前で妙な真似をしてどやされるわけにもいかない。イラっとする心を抑えながら無心になって攪拌棒で掻きまわす作業に没頭する。

 

「モージならまあ、そうするだろうねえ! 最近は暖かい日が続いているから、そのせいかね?」

「だから知らないって…」

 

 答える声にも気力がないとありありと分かるジュチの様子にバヤンは一つ笑ってパンと手を叩き、声をかけた。もっと寒く酵母の働きが鈍い季節なら続けさせただろうが、バヤンの見立てでは朝に行う分の攪拌はもう十分だ。

 

「よし! ひとまず馬乳酒仕込みはここまでだ」

「よっしゃ!」

「それじゃあ次は何をしてもらおうか?」

 

 マジかよ、と喜色が一転して絶望そのものに反転したジュチの顔を見て呵呵大笑するバヤン。とにかく豪快で気風の良い草原の女であった。

 

「安心しな、今度は腕を使わない仕事を任せるからね。今朝絞った乳を火にかけていくから、その火の番をするんだ! いいね?」

「これ以上腕がガクガクにならないなら何だってやるよ」

「よおし良く言った! それじゃあ乳が焦げ付いた回数だけ、昼と夕にさっきの仕込みの続きをやらせるとしようかね!」

 

 舌禍が呼んだ更なる苦境に声にならない悲鳴を漏らす懲りない幼子に、草原の女傑は天に向かって大いに笑うのだった。

 

 ◇

 

 ジュチがひいひい言いながら罰を受けている場所から離れた天幕で、モージは族長のソルカン・シラと向かい合って座っていた。

 

「ソルカン・シラよ。既に話した通りだが―――」

「うむ、馬群が混ざった件だな。おおよそはアゼルから聞いている。部族の皆に顛末を伝え、次の夏営地(ゾスラン)へ赴く用意をするよう促そう」

 

 モージの対面に腰を下ろすのはひとく厳めし気な風貌の男だ。左目に眼帯を付け、反対側の隻眼に炯炯とした光を宿している。既に老年の域に差し掛かりながら、身に纏う空気に微塵も衰えはない。一度笑えば普段の姿からは想像できないほど愛嬌のある男だが、その稚気ある笑みを見れるのはもっぱら身内だけだった。

 

「そうするのが良かろう。伝達にはアゼルを使うのが良いと思うが、如何(いかが)?」

「モージの言葉ならば異存は無い。アゼルは大過なく務めるだろう」

 

 意見が一致し、互いに頷く。

 

「他の部族はどうかね? どこかが動く気配はあるかい?」

「今のところ戦の気配は耳に届いていない。凍霞狼(ショルガ・ボホイ)の一党は北の縄張りに入った。緋熊族(バーブガイ)は東に進出してから戻ってくる様子はない。羚羊(ゼール)蓮華(リャンホア)らの動きも例年通りの範疇だ」

「となれば他所で起こった戦から逃れて玉突き式にこちらまでやってくることはなさそうかね?」

「さてな。突発的な動きまではどうしても読めぬ。仮にそうなったとしても敢えて矢を向けるつもりはないが、必要ならばやむを得んだろう」

「だね」

 

 戦を好まない二人だが、長く生きる中で戦というものは意外なほど簡単に、どうしようもない理由で起こることを知っていた。好まないことと厭うことは全く別の話だ。()()()になって躊躇するつもりは両者とも一欠けらも無かった。

 

「問題はこちらの方か…」

 

 と、ソルカン・シラの視線の先にはモージが懐から取り出した、血の赤によって(まだら)に染められた手巾と砂金の粒があった。

 

「然様。間違いなくこれは()…山の上の王国、黒き妖精族(アールヴ)達が産する織物よ。飛竜に追われたジュチが食われなかったのも、妖精族の()()であったと考えれば説明はつく」

「しかし疑問は残る。何故妖精族が自らの領域を離れ、ここまで遠出してきたのか。そもそもジュチは何故襲われたのだ?」

「さあてね。詫び代わりかは知らぬが砂金の粒が置いてあったことを思えば、存外詰まらない行き違いのような気もするが…。とはいえ奴らに直接話を聞かねば確たることは何も言えん」

「そして妖精族は不用意に縄張りを侵す者に容赦がない。元々さして交流があるわけでもない…。妖精族の言葉を知る者も、今となってはモージ、お主を含めた数人だけだ。であれば、これ以上は追求のしようが無いか」

 

 昔は細々とだが黒妖精の王国とカザル族の間に交流があったというが、最早その時代を知る者は誰一人生き残っていない。モージが先代の呪術師から習い覚えた妖精族の言葉や風習がその交流の名残を示す残滓だった。

 

「藪をつついて飛竜を出す必要もなかろう。皆には飛竜の存在だけ告げ、しばらくは気を付けるよう伝えれば良いと私は考えるが、どうかね?」

「余計な好奇心に命を取られる若者は多い。おかしなことを考える輩が出ぬようにするためには致し方ないか」

 

 かくして部族首脳は結論を出し、ひと段落が付いたと息を吐いた。

 

雲雀(ボルジモル)との揉め事に、妖精族と飛竜か…。この北辺の片隅にあっても、まこと騒ぎの種は絶えんわ」

呵々々(カカカ)…。それは天神がこの世をお造りになった頃から変わらぬ理さ。何時だろうと、何処だろうと変わるものかね」

 

 モージの達観した言葉にフンと鼻息を一つ鳴らしながら首に手を当てて軽く骨を鳴らすソルカン・シラ。重なるトラブルにくたびれたと身振りで主張しているが、まだまだその眼には強い光が宿っていた。

 その姿を頼もし気に見遣り、気を取り直して退出の言葉を交わす。

 

「ではそろそろ私は天幕に戻るよ。ツェツェクの面倒を見なければならないしね。ジュチは置いていく。夕方までは好きに使ってくれ。しばらくはこちらに遣るから、精々キツめの仕事を割り振るといいさ」

「心得ている。そちらへ戻らせる時も人を付けるとしよう。心配は要らん」

「心配なぞするものかね。飛竜も食らうのを避けた悪運の持ち主だよ、アレは」

 

 族長の気遣いを一笑し、天幕の入り口に下げられた毛氈(フェルト)を手で退かして外へ出ていく。牝馬を探して視線を周囲に向けると、晴天の下で搾った乳を火にかけている愚息(ジュチ)の姿が映る。ひいひい言いながら駆けまわっている少年に、よく働いているじゃないかと苦笑を漏らした。

 騒ぎと揉め事に囲まれながらもカザル族は平穏を謳歌していた。しかしこの時誰も予想出来ない密かな脅威が既にカザル族へと忍び寄っていることに誰も気付いていなかった…。

 



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再会①

 今日も今日とて族長家の天幕まで懲役兼臨時の出稼ぎに向かうジュチ。連日のやややけくそ気味だが真面目な働きぶりが評価され、周囲から向けられる評価もただの悪ガキから悪ガキだが家族思いでまあまあ真面目、というものに落ち着いていた。

 評価を受けた本人からすれば、なにせ下手に手を抜けばモージから飯抜きという命の危機となる罰を食らうのだからそれはもう必死であった。相手が義息(ムスコ)だろうと関係ない、やると言えばモージはやる。それを良く知っているからこその働きだった。

 

「それじゃ午後はウチのチビ達が遠乗りに出かけるからその面倒を頼むよ」

 

 とはいえバヤンも鬼ではない。幾ら軽率な真似をした者の罰とはいえ、何も朝から晩まで仕事を割り振るばかりではなかった。午前中いっぱいをいつもの馬乳酒造りに費やしたジュチへ実質的な自由時間が与えられたのである。

 

「え、いいの?」

「まあ、たまにはね。ここ数日手抜きもせずによくやっているんだ。ちょっとしたご褒美くらいあってもいいだろう?」

「やったぜ! バヤン、太っ腹!」

 

 自覚なく軽率な褒め言葉を口にしたジュチへスパーンと快音を上げた平手が飛び、愚か者はグオオと唸り声を上げながら頭を抱えた。

 

「……な、なんで?」

「大分はしこいが、女心はまだまだだね、あんた」

 

 呆れたようにこぼされた言葉に首を捻る少年。

 なお太れるということは太れるだけの豊かな財産の持ち主ということで決して悪口ではないのだが、時と場合と相手の性別を間違えれば()()なる。

 

「まあいい。とにかくチビ共は任せたよ。行きと帰りで気を付けるだけでいいからさ」

「まあいいで流されたのが納得いかないんだけど…分かったよ」

 

 腑に落ちないものが残りつつも、それを飲み込んで首を縦に振る。無暗につついてもロクなことにならないという予感に従った結果である。

 

「遠乗りっても何処へ? 俺が知っている場所なのか?」

「ここから少し南の方に行ったダブス湖沼だね。お前さんもひと泳ぎしてきたらどうだい?」

「ああ、思ったよりも近いな。子どもばっかり向かわせるわけだからそんなに遠くへ行くわけじゃないとは思ってたけど」

「要するにちょっとした気晴らしに向かうだけだからね。私たちの縄張りの奥だから他所の部族と出くわす危険はないし、狼もこの辺りではそれほど見ない。子供たちだけで行っても安心って訳さ」

 

 なるほど、と頷く。聞くとこれまでも何度か族長家の子ども達だけで赴いているようなので、ジュチに面倒を見るよう頼むのも本当に自由時間を与える口実に過ぎないのだろう。

 

「そういえばあそこの湖塩は取って帰ってきた方が良い? 五畜の数が多い分塩の確保も大変だろ?」

「……んー、いや。今回はいいさ。備蓄はまだあるからしばらくは持つ。気を抜いて楽しんでくるといい」

「そっか。ありがとう、バヤン」

「なあに、良いってことさ」

 

 草原地帯には塩水湖が多く、これからジュチ達が向かうダブス湖沼もその一つである。その沿岸には凝結した塩の結晶が露出し、草原に生きる人や獣へ生きるために必要不可欠な塩分を提供していた。

 大体の場合は畜獣達をダブス湖沼へと放牧し、直接塩分を摂らせていたが、手間と時間の関係で備蓄した塩の結晶を与えることもある。人ももちろん塩分を必要としたから塩の備蓄は幾らあっても足りないということはない。それゆえの申し出だったが、バヤンは少し考え込んだ後で気にせず楽しんで来いと送り出した。

 その気遣いをありがたく受け取ることとし、ジュチは族長家の子ども達と合流すると大角(エウェル)に跨って一路ダブス湖沼へ足を向けるのだった。

 

 ◇

 

 夏らしく爽やかな風が草原を通り過ぎていく。日は暖かく、大地も鮮やかな牧草の緑で彩られ、風も心なしか柔らかい。冬が一年の半分近くを占める草原において、夏は一年で最も過ごしやすく暮らしやすい季節だった。

 ダブス湖沼へ向かうジュチと族長家の子ども達は風を背に受けて気ままに乗騎を駆けさせ、抜きつ抜かれつのお遊びじみた競争(レース)を繰り広げながら進んでいた。

 

「ジュチ、おそーい」

「うちの馬に乗り換えて来れば良かったのにー」

「母さんも頼まれたら貸してくれたと思うよ」

「うるせー。放っておけ」

 

 なお、山羊(エウェル)に跨るジュチは当然の如く一行の最後尾だった。見るからに速度が他より出ていないし、手綱を握るジュチ自身エウェルに負担をかける気も無いので当然の結果だ。そもそもなだらかな草原で一直線の駆けっこをして山羊が馬に勝てる道理は無い。これが山岳の起伏に富んだ地形ならば結果は逆となるのだが、いまそんな仮定の話をしても意味は無かった。

 

「先に行くよー」

「場所はジュチも知ってるでしょ?」

「ああ、俺はエウェルと一緒にのんびり行くよ」

 

 わざわざジュチの元へ引き返すと先行の了解を取り付けてくる。勝手気ままな子ども達だが、意外と締めるところは締めている。バヤンの躾の成果かとジュチは少し感心した。

 

「分かったー」

「まあ山羊が馬に勝てるわけないけどさー、最近のジュチはノリ悪いねー」

「確かに」

「前はもっとムキになって追いかけて来そうだったのに」

「つまんなーい」

「大人になったんだよ、お前らと違って」

 

 相も変わらず好き勝手なことばかり言う族長家の兄弟姉妹達に冷めた台詞を返す。ここしばらくの勤労で子供同士の稚拙な煽り合いへ真面目に反応を返す意欲が消費され尽くしていた。

 

「なんだとぅ」

「聞き捨てならんなぁ」

「まーまー。押さえて押さえて」

「そうそう。白黒つけるのはダブス湖沼に着いてからでいいでしょ」

 

 一つ言葉を口にすれば途端に四つの反応が返ってくる。ある意味では小気味のいいやり取りに思わず笑みが浮かんだ。男女の双子が二回連続で続いた族長家の末子達(なおもっと年長の兄姉達は既に独立して独自の天幕を持っていたり、あるいは他家の嫁に出ている)はそれこそ四人で一人であるかのように丁々発止とやり取りを交わしていた。

 

『それじゃ先に向かうねー』

「おお、落馬だけは気を付けてなー」

 

 はーい、と元気のいい返事を返してピューッと風のような速度で各々の騎獣を駆けさせる子ども達。流石は歩くよりも先に馬に乗る術を見に着ける騎馬民族と言うべきか、子どもながら熟練した手綱さばきを見せる素晴らしい速度だった。乗馬技術や馴致の技に優れるのは大人だが、騎手を務めた騎馬が出す速度にて勝るのは子どもである。理由はシンプルに子どもの方が大人よりもはるかに体重が軽いことに由来する。

 それこそあっと言う間に視界からその姿が遠ざかっていくのを見届けると、ジュチはエウェルの脇腹を締め付ける脚の力を緩めた。たちまち早めの駆け足ほどだった速度が落ち、人が早歩きとさして変わらないのんびりとした足取りとなった。

 

「ま、俺たちはゆっくり行こうぜ。なあ?」

 

 相棒にそう語り掛けると、エウェルはまるで相槌を打つかのように首を逸らしてジュチを見つめ、メエエと鳴いた。

 そのままのんびりとした足取りで歩を進めることは半時間ほど、時に駆けさせ時に鞍から降りて自分の足で進み、と変化を挟みつつ、ようよう目的地であるダブス湖沼に到着したのだった。

 

「ほい、到着っと。あいつらは…」

 

 先行していた四人の兄弟姉妹を探すと、目当てのダブス湖沼に入り、水遊びに興じているようだった。向こうもこちらに気づいたようで一緒に遊ぼうとばかりに手を振ってくるが、敢えて首を振って少し離れたところにある小さいが枝ぶりのいい木が生えた小高い丘を指し、向こうに向かうという意思表示を示した。

 ええー、あるいはなんでだよー、と言いたそうな顔をしているだろうことは見ずとも分かったが、生憎とジュチには彼らとの水遊びよりずっと素晴らしい遊興に耽るつもりだった。

 昼寝である。

 今日はきっと今年で一番いい天気だ、だからそんな日にゆっくり昼寝をするという素晴らしい贅沢を味わう己は草原で一番の贅沢者なのだと心の底から信じるジュチは結構アホだった。ここ最近の過重労働に少年の心身が休息を求めていたともいう。

 目星をつけた小高い丘に登ると そこは緑の絨毯も程よく敷かれており、夏の強烈な日差しを遮る木陰もついてこれこそ昼寝のベストポジションだと言わんばかりにジュチを誘っている。

 ここにしよう、ジュチはそう思った。

 あとはエウェルだ。相棒の扱いに少しの間ジュチは頭を悩ませた。

 エウェルも折角の機会なのだし少しの間放して自由にさせてやっても良かったが、自由にさせて遠くまで離れるともう一度捕まえるのが結構大変なのだ。悪いと思いつつ手綱を木の幹に結び、行動範囲を制限させてもらう。尤も彼は気にした様子もなく、ムシャムシャと木の葉や草の根を口に運んでいた。

 

「それじゃ…」

 

 おやすみ、と誰に言うでもなく呟くと頭の後ろで組んだ腕を枕に、瞼を閉じるとあっという間に意識は暗闇に吸い込まれていく。

 程よく暖かな陽気、草原を渡る風が涼やかに肌を擽り、枝ぶりの立派な木が穏やかな木陰を少年に提供してくれる。絶好の環境に身を置いた少年はゆっくりとひと時の午睡を楽しむのだった。

 

 ◇

 

 クスクスと誰かが笑う声に意識がくすぐられ、自然と目覚めを迎えた。笑い声に応じるように相棒が鳴き、引きずられるように意識が覚醒へ向こう。

 

「フフ…。エウェル君のお友達はとっても仲間思いで、家族思いなんだね」

「メエエェ…」

 

 誰かが談笑している気配。聞き覚えのない声と耳に馴染んだ相棒の鳴き声が耳を擽り、寝ぼけた頭に誰に声かと疑問が生まれた。

 

「でも元気そうで本当に良かった…。それが確かめられただけでもここに来た甲斐はあったかな」

 

 次いで暖かな柔らかさを頭に感じる。なんというかとても寝心地のいい柔らかさで、更なる午睡へ洒落こもうとジュチを強く誘惑したが、ギリギリのところで働いた自制が少年を押し留めた。あまり昼寝を楽しみ過ぎて帰りが遅れてはバヤンからどやされる。

 

「おはよ…。誰だか知らないけどありが、と…」

「え…?」

 

 頭は起こさず、ぱっちりと瞼を開ける。すると目に入ったのは金糸の如く輝く髪に人ではありえない尖り耳、何より特徴的なのは青や黄、橙色など複数の色彩が混ざる鮮やかな虹彩だった。

 そんな世に珍しき虹色の眼と()()()()()。一秒、二秒と互いの視線が重なり、静かな時間が過ぎるが、すぐに見慣れぬ少女は露骨なほど動揺を示した。

 

「え、えぇぇっ…!? な、なんで起きてるの…!? きちんと《精霊(マナス)》にお願いしたのに!」

「は? 精霊…?」

 

 謎の少女の口から飛び出たワードに首を捻るジュチ。

 いや、そもそもこの少女は誰なのだ、と起きぬけに回らない頭でぐるぐると自問自答を繰り返す。普通なら答えなど出るはずもないが、少女の特徴的な容姿が過去の衝撃的な記憶と結びつき、一つの思い付きが脳裏に閃いた。

 

「もしかして飛竜(ドゥーク)の時の…?」

 

 語尾が疑問形になったのは、ジュチ自身あの時の記憶がかなりあやふやだったからだ。だがジュチの呟きを聞いた少女はビクリと体を震わせ、すぐに観念したかのように首を縦に振った。

 

「え、本当にそうなのか」

 

 自分で言っておいてなんだが、顔の輪郭も覚えていない朧げな記憶である。口を衝いて出た言葉が的を射ていたとは少年自身予想外であった。

 

「なんでまたこんなところに」

 

 いるのやら、と首を捻る少年。

 もっと言えば何故ジュチに膝枕していたのか。素朴な疑問を覚えつつ、道理で寝心地が良いはずだと一人納得したジュチだった。

 そんな疑問の声に随分と動揺を見せた少女は一瞬口ごもり、すぐに咳を切ったようにまとまりのない言葉が溢れ出した。

 

「わ、私が()()()だからスレンが君を襲って、傷つけて…。傷はなんとか治したけど、もしかしたら見えないところが悪いままかもと思ってそれで…!」

「……あー、ごめん。ちょっと待って。混乱している」

「あ、はい…。ごめんなさい」

 

 混乱している。恐らくは自分だけでなく、目の前の少女も。あまりにまとまりのない言葉にその意味も込めて制止すると、叱られたように項垂れた後、ちらちらと様子を窺うようにジュチを見つめてくる。

 挙動不審過ぎる少女を他所に、深呼吸を一つ、二つと重ねる。いっそ大袈裟なほどに息を吸って吐く動作を繰り返し、呼吸と共に思考も落ち着かせた。間を取ることで少女の方も多少落ち着いたのか、先ほどよりかは視線や手元の動きは大人しい。

 

「うん、ちょっとは落ち着いた。それじゃ」

 

 少年はニカリと太陽のように陽気な(言い換えれば子供らしくてアホっぽい)笑顔を浮かべると屈託のない様子で利き手を少女へ向けて差し出す。

 

「自己紹介から始めるか。俺はジュチ、カザル族のジュチだ」

 

 よろしく、と差し出した手を少女はしばしの間不思議そうに見つめると、おずおずとした様子で同じように利き手を重ねるのだった。

 



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再会②

 

 闇エルフの少女は自らの名をフィーネと名乗った。昔語りの通り金糸の如き艶やかな髪に人ではありえない笹穂耳、日焼けとは一線を画す自然な小麦色の肌。何よりも妖精じみた繊細な顔立ちは純朴な少年がついつい見惚れてしまうほどに美しい。

 

「それじゃフィーネはここから北の方に行った闇エルフ達が暮らす山の上の王国に住んでるのか。昔話でなら聞いたことがあるけど、やっぱり本人達から聞くと感じが違うなー」

「うん。私たちは《天樹の国(シャンバラ)》って呼んでいるんだけどね。とっても高い山々に囲まれてるけど、とっても広くて沢山の同胞達が暮らす素敵な国」

 

 互いに名乗り合うやり取りから話は広がり、世間話のように互いの国/部族についても語り合う二人。ニコニコと無防備な笑みを見せて嬉しそうに故郷を誇る少女に、ジュチがほんの僅かに抱いていた警戒心もすぐに溶けていく。

 

「そんなに良い国ならフィーネはわざわざ国の外に出て何をしているんだ?」

「あ…。私はね、探し物をしているの。とっても大事な探し物を」

「探し物? なにか落としたのか?」

「ううん。薬だよ、とても珍しくて滅多に見つからない貴重な薬草を探しているの。その探し物の途中で…」

 

 あまりの空腹に苛まれた飛竜がたまたま見つけたジュチとエウェルを餌とすべく襲い掛かったのがコトの発端だったと少女は語った。

 

「スレンも普段はもっと大人しくて聞き分けのいい子なんだけど…。随分長い間ご飯を摂らずに薬草探しに付き合ってもらってたから、お腹が空いていて私の制止も聞かなくて。最後には《精霊(マナス)》にまでお願いしてなんとか止めて…」

「スレン?」

「あ、スレンは私の血盟獣(アンダ)…って言っても分からないか。えーと、私があの時に乗っていた飛竜の名前です。とっても強くて空も飛べて、すっごく頼りになるんだよ!」

 

 どこか自慢げな様子のフィーネにそれはそうだろうと呆れた視線を返す。飛竜(ドゥーク)に冠された、竜骨山脈の覇者という称号は伊達ではない。そしてそんな飛竜に騎乗し、《精霊》すら使役する少女は見た目だけなら華奢な手弱女(たおやめ)だが、その脅威は外見よりもずっと高く見積もるべきだろう。

 

「今日は飛竜は連れてきていないのか? でもそうするとここまでどうやって来たんだ?」

 

 見晴らしのいい草原を見渡しても飛竜の姿はない。あれほどの巨体を視力のいい草原の民が見落とすことはありえないから、少なくとも目の届く場所にはいないのだろう。それゆえの疑問だったが、何でもないことのように答えが返ってきた。

 

「実はスレンにはちょっと離れたところで待ってもらっています。スレンが居たらエウェルくんが怯えちゃうし、ジュチくんも落ち着いて話せないでしょ?」

 

 なおこの時少女の語る()()()()()()()距離の認識が双方で大いに異なることがこの後分かったりする。

 

「正直慌てないでいる自信はないな。あれ、ところでエウェルの名前って話したっけ?」

「んうゥっ!? は、話してたよ! 何度も!」

「いや、何度もは話してないだろ。でもパッと思い出せないけど話はしたんだな。まさかエウェルから名前を聞いたはずもないし…」

「そ、そうだよ。そうそう、絶対そう」

 

 やけに曖昧な笑顔でダラダラと冷や汗を流すフィーネに訝し気な視線を向ける。あからさまに挙動不審な様子は後ろめたいことを誤魔化そうとする義妹(ツェツェク)によく似ていた。だが敢えてツッコミを入れるほど話に穴があるわけでも、興味があるわけでもない。サラリと話を流すことにする。

 

「それにしても探し物が薬草ね」

 

 その意味を考えて数秒。すぐに少女の事情を察して、真剣な声音で問いかける。

 

「……誰か病気なのか」

「妹、みたいな()かな。子供の頃からずーっと一緒にいたお友達なの。治すのが難しい病気で……でもその薬草があれば治るはずなんだ」

「そうか。そう、か…そうなのか」

 

 妹のような娘と聞き、ジュチの脳裏に真っ先にツェツェクの存在が浮かぶ。もしツェツェクが治療の難しい病気に罹ったら…。それは思わず胸を掻き毟りたくなるような辛い想像だった。故に自然と心情の籠った言葉が零れ落ちる。

 

「それは、辛いな」

「うん…。ありがとね、ジュチくん」

「お礼を言われる覚えはないけどな」

「でも本当に辛いと思って言ってくれたよね。私、そういうのが分かるんだ」

 

 だからありがとう、と少女は無垢に微笑(わら)った。それは少年が一瞬目を奪われるほど純粋に美しいと思える微笑みだった。

 

「はい、それじゃこのお話はここまで! ここからが今日私がジュチくんのところに来た本題です!」

 

 湿っぽい空気を打ち切るためか強引な話の持っていき方だったが、ジュチとしてもいまは少女の微笑みに見惚れた気恥ずかしさを忘れたかったので好都合だった。妖精じみた美しさを持つ少女の無防備な微笑みは世間慣れしていない少年の心をぐらつかせるだけの威力があったのだ。

 

「さっきちょっとだけ話したけど、今日はジュチくんにお詫びに来ました!」

「お詫び」

「そう、お詫び」

 

 少女の言葉を鸚鵡返しに繰り返すと、ひどく真面目な顔をしたフィーネが肯定の頷きを返した。だがジュチの方はというと、まるで記憶にないとばかりにとぼけた顔を晒していた。

 

「なんで? というかなんの?」

「……まさかそんな反応が返ってくるとは思っていなかったの」

 

 フィーネの言葉は至極妥当だろう。ジュチが飛竜に襲われたのはフィーネの不始末だ。そのお詫びに来たと語る少女になんのことだと疑問符を返すのは流石に予想外に過ぎる。

 

「いや、そうは言っても。お詫び、とかいきなり言われてもなー」

 

 この草原に生きる者として、ジュチの心の根っこには弱肉強食の思想が息づいている。例え襲われた理由が少女の不始末に依るものだろうが、()()()()()()()()()()()。飛竜に襲われるのが特級の災難であることに議論の余地はないが、別段襲い掛かってくるのは飛竜だけではない。狼や熊などの猛獣や他部族の男達などに襲われて命を落とすのもよくあることだ。

 なので結局は自己責任と言う結論に至り、フィーネに対し含む気持ちはあまりなかった。妹のような娘が病気になっているという事情も知ったことで共感と同情すら抱いている。

 もちろん襲われて生き延びたからには応報の矢を向けるのが筋だが、既に負った負傷は癒され、詫び代わりの砂金の粒も渡されている(過日モージに没収されたままだが)。

 これ以上何を求めればいいのだ、と乾いた死生観と素朴な価値観を併せ持つ少年は思った。

 

「正直べつにこれと言って無いんだけど」

「え?!」

 

 予想外の反応を返された少女がなんで? と言わんばかりに驚きの声を上げる。

 

「で、でも私は悪いことをしちゃったからきちんと償いをしなきゃダメで…。このままジュチ君に甘えちゃ私自身がダメになっちゃうから何かしないといけないの」

「そうは言っても…」

「私に出来ることなら何でもするから!」

「ほほう。()()()()()、と」

 

 そう意地悪く問いかけると今更ながらに脇の甘い発言を自覚したのか、若干顔色を青くするフィーネ。だが前言を撤回することはせず、むしろ二言はないとばかりに少女は潔く言い切った。

 

「わ、私が出来て他の人に迷惑が掛からないことなら!」

「じゃ、飛竜(スレン)に乗せてくれよ! 生きてる内に一回くらいは乗ってみたいと思ってたんだよなー。空を飛ぶってどんな感じなんだ? すっげー面白そう!」

 

 無暗に意気込んだ発言を意図的に()かすように少女の予想を外す願いを告げる。半ばからかいの意図を込めてだが、もう半ばは本気の言葉だった。

 ()()()()()()()()()()()()! 少年の心を占めるのはそんな無邪気な好奇心とわくわくとした高揚感である。ジュチは結構その時の気分で物をいうタイプだった。そして軽率な発言をあとで後悔するところまでが予定調和だ。

 

「……ジュチくんって変わってるね。それとも草原ではこれが普通なのかな?」

 

 気が抜けて脱力したような、または突然目の前に珍獣が飛び出してきたような。なんとも味わい深い表情を見せるフィーネだった。

 

「そうか? 多分他の連中も飛竜に乗れるってなったら我先に群がってくると思うけど」

 

 恐らく近くのダブス湖沼で水遊び中の四人兄弟姉妹(きょうだい)も似たような反応を示すのではないか。ジュチの想像は恐らく正しい。

 とはいえそもそも彼らから()()()()()()()()()()()()()()()()()()という発想が出てきたかと言えば非常に怪しい。誰が一噛みで己を丸呑みに出来る猛獣の背に乗りたいと思えるだろうか。少なくとも誰かが試して安全を確かめた後ならともかく、自分が最初の一人に志願するのは相当な勇気か考えなしの無鉄砲さが必要だ。そして少年は後者に属する人間だった。

 

「そうかなぁ…?」

 

 と、ジュチの言い分に首を捻る少女だが、彼女自身普通とは言い難い場所で育った身だ。こういうものだと言われればそうなのかと返す他なく、少年の妄言に疑念を抱く程度に留まっていた。

 

「で、どうなんだ? 俺、飛竜に乗れるの?」

「う、うーん…。同胞以外が飛竜に乗ったことはあったっけ? でも別に他所の民だから飛竜に乗せてはいけないなんて掟もなかったはず…。スレンが許せば有り、なのかなぁ?」

 

 ブツブツと呟きながら有りか無しかの成否判定に迷っている様子に困らせてしまったかと問いかける。少年としてはほんの思い付き以上に意味はない願いなのだ。少女を悩ませるのは本意ではなかった。

 

「なにかマズイことでも?」

「飛竜の背に乗るのはとっても危険なんだよ。スレンは大人しい方だけど、気が荒い個体は気に入らない相手が近づくと威嚇じゃ済まないこともあるし…」

「あー…」

 

 いっそ能天気な相槌が漏れる。飛竜に乗れる、という希望の良いところだけを見ていたのだが、今更になってその危険さを思い出したらしい。

 

「スレンと顔合わせをして、そこで嫌がられなければ、まあ、ギリギリ? 大丈夫、かなぁ…」

 

 はなはだ自信の無さそうな様子にもういっそ前言撤回した方が良いのだろうかと今更ながらに少年は思った。

 

「……流石に顔を合わせた瞬間に襲われるってことはないよな?」

「私がいるから大丈夫! でも絶対に私より前に出ないでね。言いつけを破ったら死んじゃうから」

「あ、はい。頼りにしてます」

 

 笑顔で胸を叩いてその点は自信満々に請け負うフィーネだったが、同時に警告の中身も誇張は一切なさそうだった。思わず真顔になって応じたジュチへ不思議そうな視線が向けられる。

 

(……まあ、方法は分からないが空腹で気が立っている飛竜を抑え込んだフィーネがいるわけだし。死ぬことはない、はず)

 

 胸の内で格好悪い皮算用を立てると、心を擽る好奇心と高揚感に身を任せることに決める。なんだかんだと言って飛竜に乗るという人生で一度あれば幸運と言い切れる機会にジュチの子ども心は大いに揺さぶられていたのだ。

 

「とにかく一度スレンと挨拶してみよう! うん、ジュチくんならきっと大丈夫!」

 

 と、元気は良いが安心感と根拠に欠ける発言にこの娘さては考えながら動くタイプだなと直感する。わざわざ誰が咎めるでもない不始末の()()()をするためだけにジュチを探し出し、馬鹿正直に向かい合う辺りどうもひどく生真面目な性質のようだが、実行に当たっては意外と力業で押し通す性格と見た。気質と才覚で突っ走れるだけ突っ走り、普通なら躓く場所でもセンスと才能でどうにかしてしまうような天才肌。それ故に常人ならば速度を緩める時も気にせず、むしろ加速して突っ走ってしまいそうなじゃじゃ馬じみた気配を感じる。

 

「それじゃあこっちに来て!」

 

 先ほどまでの迷いはどこへ消えたのやら。満面の笑みを浮かべた少女はジュチの手を握るとこっちへ来いとばかりに先導し始める。突然の心理的奇襲から来る気恥ずかしさに身体が強張るジュチだったが、微妙な抵抗を示された少女にきょとんとした顔をされるともうどうにでもなれとやけっぱちな気分で歩調を揃えて歩みを進める。エヘヘとやけに嬉しそうに笑う少女の横顔を意識的に無視しながら。

 少女の歩みは族長家の四人兄弟姉妹たちが水遊びに興じるダブス湖沼とは反対側、彼らの視界が丘によって遮られ、死角となる丘の陰へ下っていく。

 

「どこまで行くんだ? あまり遠い場所だと戻るのに時間がかかるから不味いんだが…」

「大丈夫だよ。すぐそこだから」

「すぐそこって言っても…」

 

 視界にはやはり飛竜の姿はない。首を傾げたジュチだったが、その疑問はすぐに氷解することとなる。丘を下ってすぐ、大地が傾斜から平らになる境界を少し超えた先に到着した。

 

「はい、到着」

「到着って…。飛竜なんて何処にも見当たらないぞ」

 

 疑問の声を上げるジュチだったが、そこで違和感に気づく。少し離れた正面の位置に、ゆらゆらと揺れる陽炎が朧げに揺らめいていた。

 

「フフーン、それは私が《精霊(マナス)》にお願いしてスレンを隠しているからなのです。今からその隠れ蓑を解くから、ちょっと見ててね」

 

 得意気に胸を張り、ジュチの疑問へと答えを返す。そのままフィーネは歌うように《精霊》への祈りの言葉を紡いだ。

 

「《風精(シルフ)風精(シルフ)。お願いゴトはもうおしまい。貴方が隠した私のお友達を、私に返してくださいな》」

「んんっ?」

 

 キン、と耳に来る違和感に襲われる。音楽的な響きの美しい声音が、一瞬にして何十も重なって聞こえたような感覚。クスクス、クスクスと微かに聞こえる軽やかな笑い声は果たして幻聴なのか。

 フィーネの詠唱が終わった瞬間にブワリ、と()()()()()()。瞬間的な突風が大地の砂塵を巻き込み、二人の周囲を駆け抜けていく。

 

「ッ―――!」

 

 吹き抜ける砂塵から両目を庇い、咄嗟に両手で顔を覆うジュチ。突風はすぐさま吹き抜けていき、視界が塞がれたのも一瞬の間だった。

 

「ありがとねー!」

 

 と吹き去っていく風へとお礼を述べる少女。その姿にようやくジュチの理解が追いついた。

 

「今のは巫術(ユルール)か」

「そうだよ。空気をたくさん集めて固めると()()()()()隠れ蓑を作れるの。その隠れ蓑の中にいると誰からも見えなくなるんだよ」

 

 凄いでしょ、とばかりに自慢げな少女。普通なら基礎的な科学的知識の不足と言葉の足りない説明に理解できず頭を抱えていただろうが、ここにいたのは天神(テヌン)寵児(いとしご)と呼ばれる異界の知識の持ち主だ。何とか理解できそうな知識を拾い、頭の中で理屈を組み立てていく。

 

(光の屈折率を空気の密度を変えることで操作している? 光学迷彩ってやつか)

 

 それこそ空想科学小説に登場そうな超技術を《精霊(マナス)》と呼ばれる超自然的な存在の力を借りて、恐らくは感覚頼りに実現しているというデタラメ。闇エルフというのはどいつもこいつもこんな理不尽な存在ばかりなのだろうか。もしそうだとしたら絶対に喧嘩を売らないようにしよう、と心に決めた瞬間だった。

 

(って、待て。そうなると巫術で隠していたモノは―――)

 

 脳裏に理解と連想が結び付き、吹き荒れた砂塵が落ち着きつつある風の爆心地へと視線を向ける。

 

(―――)

 

 ギラリ、と獰猛に輝く一対の眼光が砂塵の向こうからジュチを射抜く。

 其処には飛竜(ドゥーク)が、過日ジュチを散々に追い回した頂点捕食者の姿があった。傍らには騎手であるフィーネがいる、危険はないと理性では理解しつつも、生物としての格の違いが心の準備をする暇も無く飛竜と相対した少年の心を捕らえる。

 

「紹介するね。この子がスレン、私の守護者(スレン)。自慢の血盟獣(アンダ)で、私のお友達です!」

 

 青空に溶けていきそうなくらい朗らかで楽しそうな声で紹介に預かった()()()は、目の前に現れた見知らぬ少年を酷く興味深げな目つきで()()ける。対峙するジュチはその興味が食欲をそそる方向ではないことを思わず天神(テヌン)に祈るのだった。

 



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再会③

 

 草原に生きる騎馬の民の少年と闇エルフの少女を騎手と認め、竜骨山脈を翔ける飛竜。

 普通なら弱肉強食の論理に従った形でしか運命を交錯しないだろう両者は、闇エルフの少女を仲立ちにしてありえざる二度目の邂逅を果たしていた。

 少年は恐怖と好奇心を、飛竜は出処が定かではない興味を湛えて互いの姿を視線に捕らえる。

 

「―――」

『―――』

 

 言葉もなく、身じろぎ一つせずに視線を合わせる両者。両者の間で意味合いが違うものの、張り詰めた空気が流れた。

 

「んー。うん、威嚇の兆候もないし、スレンもジュチくんが気に入ったみたい。なんとなくそんな気がしてたけど、二人は相性が良いみたいだね!」

「……それは光栄。ところで気に入らない奴はどうなるんだ?」

「機嫌が良ければ脅かして追い払うくらいで、悪かったらそのまま襲われて生きてたら御の字かな?」

「…………安全なんだよな?」

「安全だよ? 私がいるもん」

 

 ちょっとした疑問に返された恐ろしい回答に思わずジュチの顔が引きつった。続けての問いかけにひどく能天気かつ自信満々な声が返される。それを聞いたジュチが安心できたかは当人のみぞ知ることだった。

 そんな風に騎手の少女と漫才じみた掛け合いをしている姿を見られたせいか、心なしか飛竜(スレン)が纏う空気も緩んでいた。果たして気に入られているのか当人としては全く分からないのだが、先ほどからスレンの視線がジッとジュチから離れないのは確かだった。

 

「それじゃもう少し近づいてみようか」

 

 と、いとも容易いことかのように告げられる更なる接近宣言。飛竜の持つ絶対強者としての迫力にまだ慣れていないジュチとしてはもう少し段階を踏んでほしいところだが、一方で普通ならあり得ないほどの間近で飛竜(ドゥーク)を観察する機会に興奮していたのも確かだった。

 

「スレン、いまからそっちに行くからね。いきなり怒って噛みつくのはダメだよ」

 

 サラリと恐ろしいことを言っている割にひょいひょいと恐れを見せない自然体でスレンに近づいていくフィーネ。流石は飛竜の騎手と言うべきか、それとも本人の無邪気な性格の賜物か。どちらにしろすぐさま真似は出来ないある種の偉業なのは確かだった。

 ジュチは一歩踏み出して立ち止まり、数秒の間二歩目を踏み出すことを躊躇した。前を行くフィーネを見ると振り返ってどうしたのとばかりに可愛らしく小首を傾げていた。

 その無邪気かつ能天気な様子に若干イラっとしたものを感じつつ、ジュチも遂に覚悟を決めた。男は度胸と怯懦を蛮勇で押し殺し、出来る限り平然とした足取りでフィーネの後を追い、スレンへ近づいていく。

 

『…………ルルゥ』

 

 歩みを進める中で、威嚇とも、呼気とも取れる微かな音がスレンの喉から鳴る。一瞬足が止まり、スレンを注視するが、素人なりに敵意や警戒と言ったサインは読み取れない。既にスレンのすぐ傍まで歩み寄っていたフィーネも相変わらず能天気な笑顔で来い来いと手を振っていたので、その姿を見て脱力感に襲われつつ更に歩みを進めた。

 そしてフィーネと同じようにスレンと触れ合えるほどの近くへたどり着いた時には、いつの間にか冷や汗でグッショリと服が濡れていることに気が付いたのだった。

 

「わあ、スレンが初めてでこんなに近くまで寄るのを許すなんてジュチくんは本当に飛竜と相性が良いんだね」

「ちょっと待て。近づくのを許されなかったら俺は果たしてどうなっていたんですかね?」

「大丈夫! もしスレンがジュチくんを襲っても、傷一つ付けずに取り押さえるから!」

「出来れば襲われる前に止めて欲しいんだが?」

 

 ふんす! と気合を込めて請け負う少女にジト目で突っ込みを入れる。

 自らの()()()とジュチの相性を確かめられたのが嬉しいのか、楽しそうな声を上げるフィーネだが、その内容には突っ込みどころが多過ぎる。と言うよりもこの少女そのものが突っ込みどころしかないと表現するべきか。

 

「でもその程度には飛竜に受け入れられないと、背中を許してもらうのは無理なの。飛竜の世話係は《天樹の国》中の獣の医術師から一番優れた人たちが選ばれるけど、治療できるくらいに近寄れるのはよく慣れた一握りだけ。背を許される騎手はもっと少なくて一頭の飛竜に三人の騎手がいれば多い方なんだから」

「俺から言い出しておいてなんだけど、このお願いって根本的に無理があったのでは?」

「大丈夫だよ。背を許した騎手が同乗するならもう一人一緒に乗るくらいは飛竜も許してくれるの。ジュチくんならきっと大丈夫! ね、スレン?」

 

 頼るように、甘えるように飛竜に上目遣いに問いかける美しい妖精族の少女。恐らくジュチが相手なら相当な心理的ダメージが期待できただろう。深く考えないままどんな『お願い』でも頷いたかもしれない。だが果たして飛竜にまで効果があるかと言えば、スレンが次に取った行動を思えば怪しいところだった。

 

『グル……グラアァッ!』

 

 少女のおねだりに否と拒絶を示すかのように、スレンは一つ咆哮を上げると尻尾を大地にドシンと叩きつけたのだ。スレンの唐突な、しかも否定的な様子の行動に思わずジュチの鼓動が跳ねる。

 

「ええー、スレンってばお高くとまりすぎじゃないかな? もっと広い心で皆に接した方が私以外のお友達も増えると思うの」

『グルルッ!』

 

 大して恐れた様子もなく、むしろ不満そうな言動を隠さない少女の心臓はもしかしたら鋼鉄で出来ているのかもしれない。少なくともジュチはそう思った。

 そのあともフィーネはしばらくの間スレンと言葉とジェスチャーを駆使して意思疎通を繰り返していたが、最後には全くもう仕方がないなぁ、とでも言いたげな表情でジュチに向き直ったのだった。

 

「初めて会ったばかりの相手に背を許すなんて飛竜の誇りが邪魔をするみたい。でもジュチくんが気に入られているのはほんとだから、きっと次に会ったら乗せてくれるんじゃないかな」

『…………』

 

 シレッと言質を取るかのような言葉にも瞼を閉じ、無視を決め込んでいるらしいスレン。これまでのやり取りを見ていて改めて思ったのだが、やはり飛竜は相当に頭のいい魔獣のようだった。人の言葉が分かるとまでは思わないが、その感情くらいなら察知していたとしても全く驚かない。フィーネとのやり取りもまんざら彼女の一人芝居ではなさそうだ。

 

「分かった。まあ、しょうがないな」

 

 果たして次の機会があるのかは不明だが、強行して飛竜(スレン)に食われる危険を冒すつもりは全くない。が、それはそれとして飛竜の威圧にも多少慣れてくるともう少しという欲が湧いてくる。

 触れ合えるくらいの距離で飛竜を観察する。これはこれで周囲に自慢できるくらい貴重な体験だが、もう一歩踏み込んでみたいという気持ちを抑えきれなかった。

 

「それなら背中を許してもらう代わりに、今日のところは挨拶で終わりっていうのはどうだ?」

「それくらいなら、多分。でも私の傍を離れないでね?」

「もちろん」

 

 頷く。

 そしてフィーネに制止する暇を与えることなく一歩を踏み出し、その隣に並ぶ。今やジュチは飛竜の巨躯と遮る者無く正面から向かい合っていた。

 

「はじめまして……じゃあないよな。そっちが覚えているかは分からないけど」

『…………』

 

 声をかけると閉じられていた瞼が開き、ギョロリと縦に裂けた竜種の瞳孔がジュチを捉えた。その絶対強者の瞳と視線を合わせ、胸の内で湧きおこる感情を訝しく思う。

 

(やっぱり、変だな)

 

 散々飛竜の威容に震えておいてなんだが、こうして触れ合えるほどに近くに寄って視線を合わせることで不思議と()()()()感覚がある。妙な親しみを感じると言うか、これまで感じていた原始的な恐怖が年長者のおっかない親戚に感じるそれと同じくらいのものに変わっている。

 

「別に今更文句を言う気は無いんだ。詫びの言葉はフィーネから貰っているし、飛竜に獲物を襲うななんて言うつもりもないし。ただ挨拶位はしたかったし、できればスレンの背を許してほしいとも思ってる」

『ルルル…』

 

 そして奇妙なことに飛竜から向けられる視線にも立場こそ違えど同じベクトルの感情が籠っているのを感じるのだ。具体的には親戚の悪童辺りに向けるような、仕方がないから面倒を見てやるかという若干の諦観を含んだ面倒見の良さというべきか…。

 もちろん全てはジュチの錯覚で、飛竜(スレン)の方はジュチを単なる餌としてしか見ていないとも十分考えられる。だがこの時のジュチは自身の内から湧き上がってくる感覚に身を委ねることを選んだ。

 

「あの時も思ったけど、こうして間近で見てみるとやっぱり飛竜(ドゥーク)は凄いな。こんなにデカいのに、《精霊》とも通じ合えて、空まで飛ぶ。フィーネが羨ましい。まあ、俺には大角(エウェル)がいるけど」

『…………』

 

 思いつくままにつらつらと語り掛けるジュチに反応を示さず、沈黙を貫くスレン。だがその沈黙に無視や拒絶の意は感じられない。ここまでのやり取り……とは言いづらい一方的な声かけだが、ジュチとスレンの間に流れる空気は決して悪いものではないように思えた。故にジュチは更にもう一歩を踏み込むことを決断する。

 

「触って、良いか…?」

『…………』

 

 ジュチの問いかけに瞼を閉じたスレンからフン、と鼻息が返される。知ったことか、とも勝手にしろ、とも取れるような人間臭い反応にその意図を判じかね思わずフィーネを見る。そこには妖精族の少女が先ほどまでの笑顔を上回る勢いで顔中に喜色を浮かべ、花咲くように笑っていた。

 

「大丈夫。スレンは貴方を拒んでいない。だから、踏み出して」

「……ああ」

 

 フィーネの言葉に応じ、最後の一歩の距離を詰める。そしてゆっくりと右手を飛竜(スレン)の鼻先に伸ばし、確かにその体躯に触れた。

 

(熱くて、硬い…。皮一枚下には物凄い『力』が渦巻いてる…!)

 

 スレンに触れた手のひらから伝わってくるのはまるで炎と岩が混ざり合い、生物としての形に押し込まれているような熱量と躍動感。触れることで一層近くに感じられる飛竜の持つ原始的で圧倒的な生命力にジュチは感動すら覚えた。

 

「どう?」

「凄い。そうとしか言えないくらいに、凄い」

 

 飛竜(スレン)を見て、純粋にそう思う。そしてこれほど強大で威厳に満ちた生き物が背中に迎えた騎手の意のままに動くという事実にゾクゾクするような興奮を感じる。優れた駿馬に乗り、その力強い躍動を感じる瞬間の昂ぶりを何倍も濃縮したようなソレ。密かな興奮が胸の内から溢れ出し、発作的な笑い声すら漏れだしそうになるくらいだった。

 

「ジュチくんも楽しそうだね。良かった」

「なに?」

「飛竜に触れた人はみーんな()()なっちゃうの。うん、私はそっちの顔の方が好きだな」

 

 フィーネに指摘されて初めて感情の昂ぶりに呼応するように頬が吊り上がっていたのを自覚する。恐らくいま己はとても獰猛な笑みを浮かべているのだろうと思った。

 ジュチが抱いたそれは飛竜への執着か、欲望か。触れた者に強烈な感情を駆り立てる、強大な生命力と奇妙な吸引力が飛竜(ドゥーク)という生き物にはあった。少なくともこれから先、ジュチは飛竜という生き物に決して無関心ではいられないだろう。

 

『…………グ、ルルル』

「どうしたの? スレン」

 

 不意に黙って鼻先を撫でられていたスレンが(ふいご)のような唸り声を上げ、ゆっくりと体を起こした。再び瞼は開かれ、視線はジュチへ向けられている。微かに開いた口元からは短剣のような鋭い歯が垣間見えた。ゴオオォ、と轟くような呼吸音とともにスレンの胸が微かに膨れ上がる。

 それはまるで息吹(ブレス)を吐く前兆のようで―――。

 

(何を)

 

 するつもりかと、疑問に思う間もなくゴウと燃えるように熱い吐息がジュチに向けて吹きかけられた。厳冬期に部族の皆で集まる時に焚く大火の近くに寄ったときに感じる輻射熱より強烈な熱気が風に伴われてジュチの身体を舐めるように吹き去っていく。

 

(―――)

 

 熱い、と考える余裕もない。この吐息は火を伴わず、決してジュチの生命に害を為す致命のものではない。だがジュチの身体や生命とは全く別の()()()かれ、(きよ)められていることを少年は言葉に出来ない感覚とともに悟る。

 精神そのものに焼きを入れ鍛え上げるような、熱を伴った飛竜の吐息はそのまま十数秒…当人にとっては遥かに長く感じられた時間は、始まりと同じように唐突に終わるのだった。

 



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再会④

 

 で。

 

「結局何のつもりだったんだかな、()()

「うーん。私もあんなことをするスレンは初めて見たの。だから分かんない」

 

 再び瞼を閉じ、身体を折りたたんだ飛竜の傍らで首を捻る少年少女。もちろん悩みごとの中身は先ほどスレンがジュチに施した、祝福のような、あるいは剣の焼き入れのような息吹である。

 

「そうなのか?」

「うん。実際に火を吐いて獲物を焼き殺したところなら何度もあるんだけどね?」

「……二の舞にならなくて良かったよ」

 

 何の気なしに物騒な逸話を挟みながらの会話であった。いかにも意味深長な飛竜の息吹はジュチに何も齎すことはなかった。少なくとも自覚できる限りにおいては。

 一方で単なる気のせい、思い込みと断じるにはあまりにも異様な感覚であり、それを傍から一部始終を見続けた少女が持つ感性(センス)も尋常のものではなかった。

 何かがあった、あるいは起こった。二人は何となく、しかしそう確信していた。

 

「まあ、分からないものは仕方がないか」

「そうだね。悪いことが起こった訳でも無さそうだし」

 

 が、そのまま悩み続けることなく二人はあっさりと悩みを振り捨てた。何時までも飯の種にならない物事にこだわっているほど彼らは暇ではない。辺土に生きる子どもは逞しいのだ。

 そのままどちらからでもなく視線を交わらせ、()()()だろうとなんとなく別れの空気を悟る。

 

「それじゃあ、今日はここまでかな」

「次は何時になるんだ?」

「ごめんね。ちょっとしばらくの間はこっちに来るのが難しいかも」

 

 闇エルフは人よりも長寿であるという。であれば少女の言うしばらくとは如何ほどの期間を指すのだろうか。そう考えながらもジュチに不満など無かった。

 

「そうか。達者でな」

「ありがとう。君もね」

 

 フィーネの言葉に頷きながらも、少年はこの出会いにそこそこ満足していた。願いである飛竜にこそ乗れなかったものの、実際に触れあうほどに近づき、言葉を交わし、良く分からないが多分何か意味があるのだろう吐息(ブレス)も貰った。

 草原に生きる一人の少年として一生の自慢話に出来る邂逅だ。これ以上を望むのは罰当たりだろう。例えこの先二度と会う機会がなくとも不満は無かった。

 

「今日はありがとう、ね」

「? 何の話だ」

「本当はね、君に会うのがとっても怖かったの。ジュチくんには本当に悪いことをしちゃったから…。謝らなくちゃっててそれだけは確かで、でも君に会って()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って…アハハ、ごめんね、おかしなことを言っているね私」

「…………」

 

 正直な話…。不注意から死にかけたと聞いて何も思わなかったと言えば嘘になるだろう。だが良くも悪くも単純な気質で切り替えの早い少年はもうそれほど気にしていなかった。

 

「あんまり気にするなよ。もう友達だろ」

「友達…」

「ああ。知ってるか、友達って大体のことは笑って許せるんだぜ?」

 

 ジュチの()()()とした笑み混じりの能天気な言葉に、妖精族の少女は信じられないという風に目を見開く。

 

嗚呼(ああ)、そうか。私たちは友達なんだ…」

 

 そうして万感の思いを込めた一息を吐いたあと、本当に嬉しそうに少女は微笑(わら)った。

 

「また…」

「?」

「また、会おうね?」

「ああ。その時はきっとスレンに乗せてくれよな」

「フフッ、その時のスレンの機嫌次第かな。でもきっと大丈夫だよ!」

「それじゃ期待しないで待つことにするよ」

「なんで!?」

 

 もちろんフィーネの言うきっと大丈夫はあまり当てにならないと悟りつつあるからだった。むー、と納得のいかなさそうな顔をするフィーネだったが、腑に落ちないと言いたげな顔はすぐに真剣なものに改まった。

 

「約束」

「?」

「また会うって約束しよう」

 

 ひどく真剣な顔でそう言いだしたフィーネに戸惑いつつも、その意気に押され頷く。

 

「分かった。約束だ」

 

 そう約するとうん、と少女は満足そうに頷いた。

 

「約束だから」

「?」

「これ、あげる」

 

 大事にしてね、と差し出されたそれを反射的に受け取る。手中に収まるそれを見ると鍔がなく、刃渡りは手のひらほどの手の込んだ細工が施された懐剣であった。

 懐剣の収まった鞘は艶のある黒い下地に金色の花弁と蔓草の意匠が施された見るも見事な逸品である。好奇心を抑えきれずに鞘から抜いた刀身には紋章めいた彫刻まで刻まれている。この紋章は所有者の身分を保証する意味もあるのだろう。

 

「おいおい、これは…」

 

 どう見てもあげるの一言で渡して良い代物ではない。名のある家門で代々受け継がれてきた家宝と言われても信じられる逸品だ。

 

「それは約束の証なの。これがあればきっとわたしたちはまた会える」

 

 歌うように少女は言った。

 

「この懐剣は私が持つ佩刀と対になっててね。ちょっとした仕掛けがあるんだ」

 

 と、腰元の帯に差した自らの佩刀を示す。

 

「ごめん、ちょっと血を貰うね」

()ッ…」

 

 有無を言わせる暇を与えず、ジュチの手を取った少女はその指を佩刀の刃の上に置き、少しだけ滑らせる。すぐに佩刀を鞘をしまうとジワリと滲んだ血を指で拭い、ジュチに渡した懐剣の刃に刻まれた紋章へと塗り込んだ。

 美しく彫刻された紋章が血の赤に汚れるが、何をすることもなくすぐに赤い汚れは消え去った。まるで刃が血を飲み込んだかのような光景に思わず自分の目を疑うジュチ。

 

「そして私も同じように…」

 

 今度は自らの指を懐剣で裂き、同じように血を自らの佩刀に吸わせるフィーネ。やはり少女の血もまた刀身へ吸い込まれるように消え去った。

 

「うん。これでこの子たちは私たちの血の味を覚えた」

「血の味を、覚える?」

 

 物騒な文句に疑問を投げかけるジュチ。

 

「見た方が早いかな。でもその前に…」

 

 フィーネは少しだけ祈るように手を組むと、何事かを呟いた。するとその嫋やかな手指に刻まれた傷が溶けるように消え去っていた。思わず自身の指を見ると同様に治癒している。

 

「水を司る《精霊(マナス)》にお願いしたの。私たちの傷を治してくださいって」

「そんなことも出来るのか…」

 

 ジュチが知る限り、巫術(ユルール)はこれほど容易く為せる技ではないはずだ。もっと深い祈りを、祈りを捧げるための時間が要るはず…。これは闇エルフが特別なのか、はたまたこの少女が特別なのかは分からない。分からないが、気にしないことにした。余計な詮索は趣味ではないのだ。

 

「それより、ゆっくり懐剣を鞘から抜いてみて」

「ああ」

 

 その言葉通りゆっくりと鞘から抜いた刃を見て瞠目する。わずかに反りの入った美しい刀身は自ずから微かな光を発していたのだ。太陽光の反射では絶対にありえない青白い光だった。

 

「私のも、ね?」

「同じ、だな」

 

 同様に青白い光を放つフィーネの佩刀と見比べる。二つの刀身に宿る光は全く同じものだった。

 

「私の佩刀は貴方が、貴方の懐剣は私が近づけばこの青白い光で互いが近づいたことを教えてくれる。そして剣の持ち主は互いがどの方角にいるか何となく分かるの。対の魔剣は惹かれ合うように生み出されたから」

 

 かつてマイグナスという()の短剣が闇エルフ達のかつての故郷で鍛えられたという。神代に鍛えられたかの剣は恐ろしい(オーク)が近づくと刀身を光らせて持ち主に危険を知らせる護り刀だった。この対の魔剣はマイグナスを鍛えた鍛冶師の流れを組む流派の門弟が鍛えたモノなのだ…。そう、妖精族の少女は魔剣の来歴を語った。

 

「こんな貴重なものを良いのか?」

「いいの。だって私たちは()()なんだから!」

 

 何故か胸を張って友達と言う言葉を強調して力説され、思わずその勢いに押されて懐剣を受けとってしまう。やけに押しが強くグイグイと迫ってくる振る舞いに近くないか? といきなり縮まった距離感に困惑するジュチである。

 しかし、と少年は思う。一度受け取ったものを突き返すのも失礼だろう。だが貰いっぱなしというのもどうなのか、とジュチの良心が訴えていた。お礼とそのお返しは人間関係の基本である。草原でもそれは例外ではない。

 とはいえ当然のことながらこの懐剣に匹敵するような代物をジュチは持ち合わせていなかった。この懐剣は最早身に着ける財宝と言っていい貴重品である。カザル族の天幕をひっくり返しても比較できるほどの逸品はそうないだろう。

 しばしお返しの中身について悩んでいたが、元々選択の余地はあまりなく、決心もすぐについた。

 

「ちょっと待っててくれ」

「?」

 

 と、首を捻る少女をその場に置いて、急いで丘を駆け上りエウェルのところまで戻る。目的はエウェルではなく、エウェルに装着した鞍から下げた雑嚢の中身である。雑嚢の中を漁ると、すぐにお目当てのものは見つかった。汚れないようにしっかりと包んでいるのも確認済みだ。

 雑嚢から取り出したのはバヤンの好意で間食(おやつ)代わりに渡された上等な燻製肉だった。

 

「じゃあ俺からも。お礼と言ったら本当になんだけど、これをやるよ」

「干し肉?」

「こんな物しかなくて悪いけどな。馬肉の一番良いところを使った燻製肉。ここら辺で採れる香草と一緒に燻してある。お隣の部族からも物々交換で求められるくらいには評判が良いんだぜ」

「大丈夫? 貴重品じゃないの?

 

 ジュチの繕い跡や汚れが目立つ騎馬の民の装束へ気遣いの籠った視線が向けられながらの発言であった。そこまで貧しく見られてるのかね、と内心で苦笑を漏らしつつ気にするなと声を張った。

 

「馬鹿、間違ってもそっちの懐剣ほどじゃないさ。せめてこれくらいは貰ってくれ」

「うーん。でも悪いよ」

「気にするなって。このまま何も返せない方がよっぽど―――」

 

 と、更に説得の言葉を重ねようとしたところで年若く食べ盛りのジュチのお腹がキュウ、と正直な音を鳴らす。あまりのみっともなさに今この時ばかりは黙っていて欲しかったと己の胃袋を恨みがましく思う。

 

「ほら、やっぱり!」

「いやいや。今のは気のせいだ、幻聴だ。良いから大人しく受け取るんだよ! 友達だろおらっ!」

「むむむ」

「何がむむむだ」

 

 と、気まずさを誤魔化す意図もあってか勢いに任せた漫才のようなやり取り。これをさらに何度か繰り返しつつ、ようやく話はまとまるのだった。

 

「じゃあ、この燻製肉はありがたく頂くの。でも代わりに私の聖餅(レンバス)を分けてあげるね!」

聖餅(レンバス)?」

「私たち妖精族だけが作れるとても日持ちのする薄焼き菓子だよ。私たちが育てる穀物とミル…が材料で…」

 

 と、一瞬だけ極端に聞き取りづらく、また語尾も尻すぼみとなった。が、すぐに次の言葉が紡がれる。

 

「とにかくこれはお母様から貰った最後の一枚だけど、私と一緒に半分こしよう?」

 

 そう言って少女は小さな腰袋から大きな葉っぱで包まれた件の聖餅(レンバス)を取り出す。見た目は淡いとび色に焼き固められた、薄く成形された焼き菓子のよう。葉っぱから取り出したそれをフィーネが割ると、中身は柔らかなクリーム色で、何らかの穀物粉を練って作られているようだが、ところどころに肉のような果実のような小さな粒が混ざっている。

 

「はい」

「…ああ、ありがとな」

「うん!」

 

 貰い過ぎという実感から一瞬差し出されたレンバスを受け取るのを躊躇ったが、ニコニコと太陽のように嬉しそうに笑う少女の笑顔に屈した。一方フィーネの方はやけに上機嫌な様子だった。少女に礼を告げ、渡されたレンバスを口にする。

 

「おっ?」

「えへへ、凄いでしょ?」

「凄いと言うか…なんだこれ、本当に食べ物なのか?」

 

 一口呑み込んだだけだと言うのに、身体の底から活力が湧いてくる感覚。先ほどまでの空きっ腹は消え失せ、しばらく走りっぱなしでも平気な気力体力が充填されていくような…。

 美味な食事を摂ればそれだけ気力は充実する。だがそれだけでは説明がつかないような、不思議な力が湧いてくる感覚だった。

 

「私たち妖精族の門外不出、秘伝の製法で作られる特別な焼き菓子だもん。一枚食べればそれだけで一日たっぷり歩けるくらい元気がつくの。妖精族以外の人は滅多に食べる機会が無いんだよ」

 

 えっへんと鼻高々に自慢する少女。しかし自慢するだけの効能を自身の身を持って体験中である。素直に感心し、大したものだと応じるのだった。

 

(残りはツェツェクへのお土産にするか)

 

 貰った半分ほどを平らげると、残りは義妹(ツェツェク)のために取っておくことにする。珍しいもの好きで、食い気も中々なツェツェクならきっと喜んでくれるだろう。フィーネに頼んでレンバスを包んでいた大きな葉っぱを貰い受けると、小さくなったレンバスを再び包みこみ懐にしまった。

 

「良いモノをありがとうな。義妹(いもうと)にもお土産代わりに分けてやることにするよ」

「うん。ジュチくんの家族が喜んでくれると嬉しいな」

 

 家族思い、という点において両者は共通している。何となくお互いにそのことを感じ取った少年と少女は互いを見、共感の笑みを交わし合った。

 

「それじゃああとは…。あとは…」

 

 この出会いを名残惜しむように、引き伸ばすために何かが無いかと指折り数えて考えるフィーネだが、自然と語尾は尻すぼみになる。もう二人の間で殊更に交わさなければならない事柄は無いと分かったからだった。

 

(何でだろうな…)

 

 その姿を見て、己のどこがこんなにも少女の琴線に触れたのか見当もつかない。だがこの危なっかしいが同じくらい魅力のある少女に好意を持たれているのはなんとも嬉しいような、くすぐったいような不思議な感覚だった。

 

「それじゃあ()()、な」

「!? うん、()()、ね!」

 

 別れを切り出すため、そして()の機会があることを確かめ合うために最後にもう一度再会を約する。すると少女はパッと笑顔を見せ、元気よく最後の言葉を告げた。

 

「ありがとう! ジュチくんに会えて良かった!」

 

 それを合図にフィーネは飛竜(スレン)に着けた騎乗帯に駆け乗ると、鋭く口笛を吹いた。

 むくり、と身を起こしたスレンが畳んだ翼を天に広げ、飛び立つ前準備として全身に力を溜めた。轟々と風が唸りを上げてスレンへ殺到して上昇気流となり、飛竜の巨躯を天へと飛ばす手助けとなる。この風は恐らくは《精霊(マナス)》の仕業だ。飛竜は火を操るだけではなく、飛翔の時にも風の《精霊(マナス)》の力を借りる魔獣なのだろう。

 

『―――』

 

 景気づけのように一声、鳴いた。グッと溜めた力を解放し、天へと飛び上がるスレン。そのまま力強く両の翼で天へ羽撃(はばた)き、更なる飛翔への力と為す。

 

「おお…!」

 

 飛翔に伴う突風がジュチの髪をぐしゃぐしゃにかき回すが、それも気にならないほどその雄偉な飛翔に見入っていた。なんという力強さ、なんという美しい姿だろう!

 そのまま天高く上昇し、やがて北の方角へ飛んでいく一人と一騎の姿が消えるまで、ジュチはジッと見つめ続けた。彼らが視界から飛び去った後も、しばらくの間はそのまま北へ視線を向け続けるほどに。

 

「きゅるる…」

 

 と、ジッと飛び去った飛竜を見送るジュチの耳元へ聞きなれた鳴き声が届く。

 

「うわ、お前いたのか」

 

 鳴き声のした方へ視線を向けると、お馴染みとなった火蜥蜴がジュチの肩を自らの定位置と主張するように収まっていた。少なくともフィーネと話していた間にはいなかった、はずだ。相変わらず正体がつかめない神出鬼没っぷりだった。

 

「そういえばお前のことを聞き忘れたな…」

「きゅー」

 

 しまった、と若干の後悔を滲む口調で呟く。この火蜥蜴が現れたきっかけも飛竜の襲撃だったから、もしかしたら何か関係があったのかもしれない。何か知っているか問い質す良い機会だったのだが、衝撃的な出来事が多すぎてすっかり頭から抜けていた。

 

「……お前、大きくなってないか? というか、それ翼か?」

「きゅう?」

 

 疑念に満ちた視線を向けられてもつぶらな瞳で首を傾げる火蜥蜴は中々可愛らしかったが、そんなあざとい仕草に騙されはしない。手のひらに乗る程度の大きさだったチビの蜥蜴が、二倍か三倍近く大きくなっている。そして背には小さく未熟だが、一対の翼のような器官まで…。聞こえてくる鳴き声も心なしか天幕一枚隔てたような音の遠さが薄れたように感じられる。

 

「……飛竜(スレン)?」

 

 思わずそう呟く程度には、奇妙な成長(?)を果たした火蜥蜴の姿は飛竜(スレン)に似ていた。まさか、という推測が頭の中で組み立てられるも、それを裏付ける根拠はない。

 

「まあ、いいか」

 

 行き過ぎそうになる推測と連想を打ち切り、一言だけ呟く。

 全ては()にフィーネたちと出会ったときに確かめればいい。彼女がこの珍獣にまつわる何かを知っている可能性はそれなりにありそうだし、よしんば知らずともそれはそれで話の種くらいにはなりそうだ。

 尤もジュチの思う()は近い未来、部族に忍び寄る災厄に追われる末に果たされることになるのだが、それを知らない少年は奇妙な宿縁を結んだ少女を思いながらその日を楽しみに待つのだった。

 



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闇エルフという種族

「~~♪ ~~♪」

 

 炎に照らされ、人影がゆらゆらと揺れる。舞踊と合わさって奏でられる歌唱は何処までも楽し気で軽やかだ。

 夜半、モージ一家の天幕の外に焚かれた篝火の回りをツェツェクがくるくると舞うようにステップを踏み、時にしなやかな動きで跳躍する。

 巫女(モージ)その後継(ツェツェク)が日々繰り広げる、良き《舞い手》になるための修行風景だった。

 

「良い踊りだな」

 

 と、傍からツェツェクが踊る様を眺め、無邪気に称賛するジュチ。しかし客観的に見てツェツェクの舞踊の技量はまだまだ拙いものだった。それはモージが要所で何度も叱責をするところから明らかだろう。

 踊りに没頭しすぎて足元の石ころに転びかける視野の狭さ。教えられた動作を習熟する前に独自の変化(アレンジ)を加える気儘さ。欠点を挙げればキリが無い。

 

「そら、足元の気がお留守だよ!! 手足の先まで気を入れて踊るんだ!」

「はぁいッ!」

 

 ()()()()()()、ジュチの言葉に頷く者は多いだろう。山盛りの欠点を加味してもなお満点の評価を上げたくなるような魅力がツェツェクの舞踊にはあった。

 先んじて語ったように失敗は多い。だが()()()()()()()()()()()天性の愛嬌をツェツェクは備えていた。何よりも目を奪われるのはその笑顔。どれほどモージからキツイ指導が入ろうと、失敗を繰り返そうと気にした様子もなくどこまでも天真爛漫にツェツェクは笑っている。その笑顔を見るだけで、傍で見ているジュチですら自然と気分が盛り上がってくるのだ。

 

(ツェツェクを見ていると、不思議と楽しくなってくる…。これが《舞い手》の資質ってやつなのかもな)

 

 技芸の本質とは詰まるところ()()()()()()()()()()ことに集約される。舞踏も例外ではない。舞踊の完成度を高めるのは少しでもその本質に近づくための手段に過ぎない。

 舞踏という技芸を通じて天神と精霊を楽しませ、力を借りやすくするのが《舞い手》の役目である。そして見る者を楽しませるという一点において、ツェツェクは技術ではなく天性の愛嬌でそれを為す卓越した資質を持っていた。

 

「良し。じゃあもう一度繰り返しだ」

「はーい!」

「返事は短くキリ良く!」

「はい!」

 

 尤も師匠であるモージはツェツェクの資質に胡坐をかくことを許さず、舞踏の技術や巫女の心得においても一流であれと厳しく指南していた。普段は末っ子に甘いモージだが、こと巫女としての修行となれば普段以上に厳しい面が顔を出す。

 しかしツェツェクもそんな厳しい指導にも音を上げることなく、それどころか楽しそうに修練を続け、グングンと成長していた。

 

(とはいえちょっと厳しすぎないか?)

 

 と、内心で首を傾げる。

 モージがツェツェクへ向ける指摘におかしなところは無いが、態度の節々から妙な焦りと言うか余裕のなさが感じられるというか…。よそ事に気を取られ、ツェツェクへの気遣いが薄れている気がする。幸い無邪気なツェツェクは気付いた様子はなさそうだが。

 そしてジュチにはモージの心を乱す原因の目星がついていた。

 というか、当事者だった。

 

(フィーネのこと、話したのはマズかったかな…)

 

 今日あったことは基本的に全てモージに話してある。

 ダブス湖沼で再会したフィーネやスレンのことも、彼女から贈られた魔剣についても。全てをだ。

 敢えてモージに隠し事をする理由は無かったし、下手に隠して後でバレたら考えるだに恐ろしいコトになるのは明白だ。ジュチも自分の命は惜しかった。

 しかし果たして何がモージの心をそこまでかき乱したと言うのか。

 その手掛かりを求め、ジュチはほんの数時間前に天幕でモージと交わしたやり取りの一部始終を思い出すのだった。

 

 ◇

 

 今日、再会した闇エルフの少女にまつわる一連の顛末を語った養い子を見て、モージは辛うじてため息を吐くのを堪えた。

 目の前の少年はモージにとっては生意気で手がかかる、しかしもう一人の養い子と同じくらい可愛い義息子だった。

 だが過日の飛竜襲撃という凶事に見舞われて以来、妙な騒動に巻き込まれる体質になってしまったようだった。

 少年が語る出来事は草原で長く命を繋いできたモージをして非常に稀と言い切れる、奇縁としか呼べないようなものだった。

 

「闇妖精の娘子と縁を結んだか…」

「ああ、良い奴だった。また会いたいな」

 

 果たして眼前の養い子は呟きの意味を理解しているのか。後ろ暗いことなどありませんとばかりに相槌を打つ能天気な顔を見れば、理解している気配はなさそうだ。堪え切れずついため息を吐くモージであった。

 

「レンバスに、魔剣。どちらも黒エルフの国と言えどちょっと見ない代物だよ」

 

 特にモージが注目したのはレンバスだ。かつて闇エルフの国を訪ねた時に耳にした風習に曰く、レンバスの貯蔵と授与は()()()()()()()()()()()であると言う。

 ジュチは聞き流したようだが、件の少女は母から貰ったと語ったらしい。

 そこに魔剣に刻まれた紋章…擬章化した山々と天を衝く大樹、そして星々から成る《天樹の国(シャンバラ)》の国章を重ね合わせれば、自然と少女の身分も推測が成り立つ。

 

(とんでもない縁を結んだものよ。果たして順縁となるか逆縁と化すか…)

 

 少年少女の無邪気なやり取りと笑って流すには想定される相手の身分が大物過ぎる。

 加えてモージが多少持つ闇エルフに関する知識も懸念を深めていた。

 ()()()()()()()()()。良くも、悪くも。

 良い方向へ転がれば家族への情愛や共同体への強い帰属意識となる。特に伴侶へ向ける愛は深く、一度契りを結べばけして裏切ることなく、一途に愛を抱き続ける良き伴侶となると言う。

 一方でその強い情愛が悪い方向に転ぶこともある。痴情のもつれはその典型例だろう。特に移り気な他種族との間で起こることが多いと言う。

 妖精族の恋心を弄んだ者の末路は大抵悲惨なものになる。想像も出来ないくらいに奇怪な、または度を越えて残酷な殺され方を指して『妖精の嫉妬を受ける』という慣用句があるくらいだ。

 

(自らの佩刀と対となる懐剣…それも魔剣を約束の証と差し出す辺り、意識してのことかは分からんが()()()()()()()かね)

 

 男女の契り、比翼連理の誓いと呼べば大袈裟すぎるか。

 だが決して軽視して良い出来事ではないのは確かだった。

 果たして闇妖精という種族において対の懐剣を与える行為がどれほどの意味を持つか……それは賢者と呼んでいい程智慧を蓄えたモージをして不明だった。

 善き方に転べば良い、だが悪い方に転べば果たして何が起こるか…。特にジュチの話から受ける闇妖精の少女(フィーネ)の印象はいささか思慮の足りない性格のように思える。不器用なくらいに誠実ではあるようだが…。

 

(万が一の仮定として、フィーネなる少女がジュチに惚れ込んだとする)

 

 サラリとジュチの男としての器量を低く見積もりつつ、思考を進める。

 

(こやつが、果たして()()()やれるか…?)

「???」

 

 厳しい視線で己を検分するモージに首を傾げている少年の姿から、否と判断を下す。この純朴だが少々鈍いところがある養い子が()()()()方面で器用に渡り切れるとは思えない。

 

(かと言ってジュチに言い聞かせて何とかなるものでも…。相手は()()闇エルフの娘子ぞ)

 

 この場合、問題になるのが相手の種族。というか闇エルフの生態だった。

 前述したように闇エルフの愛情は極めて深い…と言うよりも()()。相手に裏切られでもしない限り愛情は冷めず、何処までも一途に尽くす。仮に道具を使わず手足の爪を整えるよう伴侶が頼めば、躊躇わずに全ての指を口に含み、歯で爪を噛み切って整えるくらいに。

 そして闇エルフは一度伴侶と見定めた相手にはどこまでも真っ直ぐに恋情をぶつけ、例え拒絶されてもそう簡単に諦めることがないという。そもそも人間離れした美しさの彼ら彼女らに愛を告げられて拒絶できる者は多くないだろうが。

 一度闇エルフの異性と結ばれれば何時までも若く美しい上に決して愛が冷めない理想的な伴侶が手に入るのだ。もちろん浮気と刃傷沙汰が等号(イコール)で結ばれるという危険性は孕んでいたが。

 

(不思議と同族相手では相思相愛で丸く収まることが多いらしいが…。古き時代の山の上の王国では揉め事が絶えなかったと聞くからな。慎重に動かねば)

 

 今は《天樹の国(シャンバラ)》と呼ばれる山の上の王国はかつてはるか西方から移住してきた闇エルフと同地の先住民族である騎馬の民との血の交流の果てに生まれた国だ。その成立経緯はモージすら知らないが、闇エルフという種族の特性上成立当初は血の雨が降ることもしばしばあったらしい。

 尤も若い頃のモージが《天樹の国(シャンバラ)》を訪れた時にはそうした刃傷沙汰とは一切無縁に過ごせたから、恐らくは長い時間と血の混淆がそうしたもめ事を避ける智慧を生み出したのだろう。

 

(うむ。それに私の考え過ぎと言うこともありうる。例え懸念が当たったとしても王国の者たちとてそう易々と王女の我が儘を叶えはしまい。案ずるばかりではどの道も選べまい)

 

 と、自分でもあまり信じていない楽観的な考えを敢えて胸の内で言葉にしながら、将来訪れるかも分からない不安から目を逸らした。実際これ以上はモージの手が届く問題ではなかったし、精神衛生上でも見なかったことにしたかった。

 何はともあれ。

 

「ジュチよ」

「?」

女子(おなご)には誠実にな」

「ボケるにはまだ早いだろ。なんでいきなり訳の分からないことを言ってるんだ」

 

 スパーンと快音が鳴り響くと、少年はうめき声をあげて頭を抱えた。

 賢女の金言を一蹴した愚かな少年に容赦のない平手を食らわしたからだった。

 




2020/07/18 後書き削除


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妖精王女 前編

 

 フィーネ…アドルフィーネ・フレア・イン・ヴォルヴァは()()である。

 当代の妖精王ガンダールヴとその王妃の間に生まれた唯一の直系王族であり、順当にいけば次代の妖精女王となる高貴な身分。

 種族的に美形が多い闇エルフの中でも更に際立った美貌。

 闇エルフの王族でも特に血が濃い者にのみ発現する虹色の虹彩。

 そして何よりも精霊から絶対的な寵愛を受ける特異体質!

 彼女の父、実り豊かなる大君ガンダールヴ・フレイ・イン・フロージは国の内外に名を知られる為政者だ。国家の運営は邦長(クニオサ)が集まる賢人議会に任せ、自身はもっぱら国家の祭祀を司り、国を纏める権威の象徴として君臨する。これまで大過なくその治世を務めてきた名君である。

 そして国中の同胞の祈りを束ね、時に嵐を、時に流れ星を呼び寄せる戦略級の巫術師でもあった。かつて闇エルフの財と人を狙い攻めてきた草原の大勢力を()()()()()()ことで撃滅した逸話は武勇伝を超えた神話の域にある。

 だが青は藍より出でて藍より青し。

 闇エルフの王と王妃の間に生まれた待望の御子は生まれながらにして他と隔絶した素質の持ち主だった。

 人々が地に足を付けて暮らす現世(うつしよ)とは一線を画す精霊たちの幽世(かくりよ)を闇エルフは精霊界(アルフヘイム)と呼ぶ。遥か東方では幽冥界や根の国、西方においてはメーノーグやイデア界の名で知られる世界だ。

 闇エルフは人族よりも精霊界(アルフヘイム)に親しく、精霊の力を借りやすい巫術に優れた種族である。しかしその差は個々の技量次第でひっくり返ることは幾らでもあり、人族の達人と闇エルフの凡人を比べれば前者が勝る。

 だが闇エルフの中から極々稀に人族どころか闇エルフの天才ですら比較にならない()()が生まれることがある。天才、神童などという言葉では表現できない規格外。世界に愛された祝福の御子とでも呼ぶしかない化外の者。

 彼らは現世(うつしよ)幽世(かくりよ)、生まれながらに二つの世界と重なり合うように誕生する。巫術師が祈りを捧げて心を幽世(かくりよ)に近づけて精霊たちと意思を交わすのに対し、彼らは呼吸をするように重なり合う両界を見通し、ごく自然に精霊と同族のように言葉を交わす。

 両界の神子(みこ)

 闇エルフ達は彼らをそう呼ぶ。

 そして闇エルフの王女アドルフィーネは両界の神子(みこ)であった。

 

 ◇

 

 闇エルフは生殖能力が他の種族と比べて弱く、王夫婦は長らく子は恵まれなかった。しかし長年の冷めることなき夫婦愛の果てに子を授かる。名君の治世における唯一の不安材料だった世継ぎ問題を解決する待望の子は王国の民から祝福されて生まれついたのだ。

 男児ではないことは残念がられたものの、女子だからと虐げられる理由はない。安寧に包まれた揺り籠のような環境でアドルフィーネは大切に育てられた。

 だがすぐに異変は明らかなものとなる。

 幼子の一喜一憂に()()()()()のだ。

 ぐずれば嵐が巻き起こり、笑えば春風が吹きすさぶ。立って歩けば花々が咲く奇跡の御子。

 その数ある逸話から極まったものを一つ上げるならば、愛騎たる飛竜との出会いだろう。

 ポ-タラカ王宮の一画に設立された飛竜用厩舎にて。折あしく機嫌を損ねた飛竜(ドゥーク)が乗り手を振り落とし、周囲に敵意を剥き出しにした警戒体勢を取ったまさにその時。フィーネと彼女に仕える侍女達がたまたまその近くを行き会ったのだ。

 

「大きな音…」

「然様でございますね、姫様」

「何かあったのかな?」

 

 既に物心つき、幼いながら流暢に言葉を手繰る幼子は騒ぎの方向へスタスタと危機感のない足取りで近づいていく。

 

「姫様! この先で何が起きているか分かりません。向かってはなりませぬぞ」

「だから見に行くんだよ。起きていることを見定めなきゃ」

 

 慌てて後を追った年嵩の侍女は軽挙を慎むよう告げるが、馬耳東風とばかりにフィーネは聞き流す。この頃から既にお転婆の片鱗というか、自分の気持ちに正直な気性が顕れていた。

 殺気だった騒音の源へ足を進めることしばし、すぐに威嚇体勢の飛竜とそれを取り囲みながら手を出しあぐねている闇エルフ達の姿が在った。

 

「姫! 何故ここに…!?」

「こんにちは! 騒がしいので様子を見に来ました」

「は、は。そう言われましても、見ての通りとしか申し上げられませんが」

「そうみたいだね。今日のあの子は虫の居所が悪かったのかな?」

 

 漂う荒事の気配は明確だというのに、あっけらかんと挨拶する姫君へ先ほど飛竜(スレン)から振り捨てられた騎士は呆然と言葉を返す。

 スレンの回りには王宮の厩舎に努める者たちが取り囲み、各々荒ぶる飛竜を宥めようとしたり、抑え込む準備をしていた。

 

「あの子の名前は?」

「スレンです」

守護者(スレン)って言うんだ! 良い名前だね」

「は、はは…。姫様にそう言っていただければ奴も喜ぶでしょう。しかしここは危のうございます。姫様にはここからもうしばし離れ―――」

 

 と、職務意識に従い、苦笑交じりに危機意識の欠如した姫君へ苦言を呈そうとする騎士。だが騎士の言葉が耳に届くよりも先に恐ろしく迷いの無い足取りで飛竜(スレン)へと近づいていく。これには騎士も目を剥いたが、咎めるよりも先に普通なら無謀極まりない蛮勇をフィーネが示した。

 

「こら、スレン! こっちを見なさい!」

 

 気負いなく荒ぶる飛竜に近づくや、叱咤するようにスレンの名を呼び付けたのだ。自然スレンの注意はそちらに引かれ、ギョロリと強烈な視線が向けられる。同じくらい周囲の者たちからギョッとした目が向けられるが、そんなことは些事とばかりにフィーネには気にした様子もない。

 苛立ち混じりに咆哮を上げて小さなものを威嚇する飛竜。凶悪な気配を振りまいて睨め付ける視線と視線を合わせ、フィーネはただ一言。

 

()()!」

 

 悪いことをしたら叱らなきゃダメなんだよ、と。

 そんなささやかで押しつけがましい善意によって、少女は飛竜を威圧した。気負いなく、当然のように()()()()()()()()()()()()と。

 

『グ、ルルル…!』

 

 体格差で言えば十倍では効かない小さな矮躯に気圧されたようにスレンは一歩引いた。だが距離は変わらない。スレンが引いた分フィーネが踏み込んだからだ。

 

『――――――――』

 

 そのままたっぷり三、四呼吸分ほどの沈黙が続き、やがて強大なる飛竜は闇エルフの幼子に首を垂れた。精霊に近しい《魔獣》である飛竜には見えていたのだ、小さな幼子に付き従うように舞い踊る莫大な数の精霊たちが。

 無暗に抗い、その秘めた暴力が向けられれれば勝ち目はない。野生の本能を持ってスレンはそう判断し、闇エルフの姫君の軍門に下った。

 強大無比な飛竜が闇エルフの幼子に屈する。

 その余りに奇態な光景を多くの者が目撃し、悪い冗談でも見せられたかのように一種異様な空気が場に漂う。

 周囲から向けられる畏怖を込めた視線に訝しそうに首を傾げながら、やはり緊張感無く笑うフィーネ。彼女は大人しくなったスレンに近寄って自由にその巨体を撫で回しながら一人楽しそうにはしゃいでいた。

 この騒動の後、もしあそこで飛竜が牙を剥いたならばどうなっていたか、と声を荒げて叱る乳母にフィーネはむしろ不思議そうに返した。

 

「うーん。風の精霊さんにお願いして吹き飛ばすか、土の精霊さんに首根っこを押さえつけてもらうかかなぁ。王宮で大火事を起こしたり、水浸しにするのはダメだよね?」

 

 まるで当然のことのように返された常識を投げ捨てた台詞に教育係を務める乳母ベイラ・スキールニルは匙を投げかけた。なおベイラの娘であり、フィーネの乳姉妹アウラは無邪気にキャイキャイと囃し立て、母親にキツイ折檻を食らっていた。

 

「ベイラったら怒りんぼだねー」

「ねー」

 

 仲良く語尾を合わせてクスクスと笑う仲睦まじい少女達に、王宮の礼儀作法を今ばかりは忘れたベイラは深く深くため息を吐いた。

 そしてこの日の顛末は当然ベイラが仕える主たる国王夫妻に報告が上がり、王宮に激震が走った。

 

 ◇

 

 飛竜、王女(フィーネ)に屈服す。

 その報せは王宮を瞬く間に駆け巡り、多くの民は流石は我らの姫よと無邪気に褒め称え、一部の賢人達は恐ろしく深い渋面を作った。

 飛竜は《天樹の国》においてもある種特別な地位を占める《魔獣》である。

 王国の主な騎乗魔獣である地駆け竜(ガルディミムス)は食性が雑食で給餌調達に手間がかからず、繁殖能力が高く数を揃えやすい。調教も《魔獣》の中では比較的容易く、肉と卵は高山地帯において貴重な栄養源になるという極めて優良な畜獣だ。

 見た目は他の地域で伶盗龍(リンタオロン)、あるいはラプトルと呼ばれる双脚の走竜との類似性が認められる。

 そうした地駆け竜(ガルディミムス)の優れた特徴に対し、飛竜は概ね真逆の欠点を数多持つ。

 まず人為的な繁殖が極めて難しく、危険な飛竜の巣から卵を盗み取るところから始めねばならない。そして危険を冒して得た卵から孵る飛竜の幼体は半数程度。餌は幼体の初期を除けば絶え間なく獣肉を欲し、成長期には山羊や毛長牛を一日に二頭以上欲する大喰らい。そして極めて馴致が難しく、乗り手を選ぶ《魔獣》だ。

 だが一度乗りこなせば空を自由に翔け、《精霊(マナス)》由来の強大な暴力を振るい、時に一騎を以て一軍を打ち破ることすらある。

 そんな飛竜が編隊を組んだ部隊は、大祭司たる妖精王に並ぶ《天樹の国》の決戦兵器と呼ぶにふさわしい武威を秘める。

 故に飛竜乗りは王国の至宝であり、相応しい技量と見識、何よりも忠義を求められる。また飛竜自身が極端に乗り手を選ぶ性質であることから否応なく飛竜に実力を認めさせなければその背に乗ることすら叶わない超実力主義的な兵種でもある。

 そんな飛竜乗りであっても、ひと睨みで飛竜を屈服させるというのは次元が違うと言う他ない。

 極めて単純な事実として、幼子(フィーネ)が暴走すれば止められる者が誰もいないのだ。

 唯一振るう暴力にて匹敵しうる妖精王ガンダールヴとて、その隔絶した巫術師としての技量を振るうためには国を挙げた《祭り(ナーダム)》、すなわち民草達の祈りを束ねる儀式が必要となる。

 仮にフィーネが気紛れから、あるいは()()()()精霊(マナス)》にお願いごとをした結果が国家存亡級の災厄と成り得たとしよう。ガンダールヴ王が《祭り》を終え対抗呪術を手繰る頃には手遅れになっている可能性が極めて高い。

 妖精王女アドルフィーネ・フレア・イン・ヴォルヴァ。

 かつて神童と呼ばれた鬼子に周囲から向けられる感情は少しずつだが、無邪気な親愛から畏怖と忌避に変わりつつあった。

 無自覚に垂れ流すその威風は飛竜が首を垂れるほどに強大であり、既にある程度自覚的に力を使いこなしている気配すらある。幼く、気ままな気性は何処までも軽やかで自由な行動に繋がる。そんなフィーネの気性を微笑ましく思えるほどの余裕は王国の賢者達は持ち得なかった。

 幼い少女の気紛れで世界が左右されると言う事実に、王国に名だたる賢者たちが恥も外聞もなく恐怖したのだ。

 王と賢者達は寄り集まって議論を交わし、遂には一つの結論を出した。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 外向きの表現はもう少し穏当であったが、内実はまさにそのままであった。

 フィーネを教育する当代一流の才人達はその優れた見識とともに常日頃から少女を縛る言葉を教え込んだ。さながら獣を縛る枷、またはただ呪いのように。

 

「決して掟に背いてはならない」

「悪行を為す者は償わなければならない」

「掟に背く者は周囲に災厄を振りまく罪人である」

 

 教えそれ自体は行き過ぎとは言えないものだったが、その()()()()は偏執的ですらあった。

 幼い少女の柔らかな心に、強迫観念に至るまで徹底的に「良い子」であれと刻み付けたのだ。

 当然その行き過ぎた()()()()にフィーネの両親たる国王夫妻は猛反発したが、国政の実権は邦長(クニオサ)達の集いである賢人議会にあり、祭祀の担い手である王は実権に乏しい。

 それにガンダールヴ王も内心では分かっていたのだ。気性が気ままに過ぎるフィーネにはなにがしかの楔が必要だと。

 無理やり抑えつけるのではなく、人の側へと結びつけ共に歩んでいくための基点。国王夫妻は自らその楔にならんと愛娘(フィーネ)と多くの時間を過ごし、闇エルフらしい深く確かな親子の愛情を育んだ。

 そして乳母であるベイラ・スキールニルとその娘アウラ・スキールニルもまた家族のようにフィーネを愛した。

 フィーネがかつての天真爛漫さを幾らか失いながらも、快活さと粗忽さという人間味まで失わなかったのはひとえに彼女を育んだ()()たちの功績だったろう。

 かくしてどこか歪さを抱えた「良い子」としてフィーネは成長した。家族と国を愛し、誇りに思いながらも同時に「悪い子」であることを病的に忌避する歪みを抱えた「良い子」として。

 そんな彼女が一つの出会いをキッカケに変わっていく未来を、この時の彼女は知らなかった。

 



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妖精王女 中編

 全てのキッカケは一人の少女が病に倒れたことだった。

 アウラ・スキールニル。

 フィーネの乳姉妹であり、専属侍女であり、フィーネ言うところの()()()でもあった。

 闇エルフは概ね人族に比べて身体的に頑強な部類だが、逆に闇エルフ特有の病もまた存在する。《精霊》との親和性が高すぎ、身体と精神の調和が崩れることが原因で発症する奇病。

 

「《妖精のうたた寝》?」

「は…。罹る者の少ない、非常に稀な病ですな。原因は肉体ではなく精神に由来しまして、優れた巫術師が罹ることが多い。病とは言いますが、巫術師の宿痾である《精霊(マナス)》との付き合い方を間違えた末しばしば起こる事故のようなものです」

 

 《精霊(マナス)》との距離を測り違え、過剰に気に入られた結果として精神が《妖精界(アルフヘイム)》に引っ張られ、肉体を置き去りにしてしまう奇病。病状としては身体的な異常が一切ないままに目覚めることなく、やがて衰弱死するという難病である。

 

「しかしご安心を。稀な病ではありますが、治療薬は既に先人の手で生み出されております。ただ薬の源となる霊草を手に入れるためにちと時間がかかりますが…」

「それはどこ、ですか?」

「は…? いえ、《精霊の山(マナスル)》の岩壁に群生すると聞きます。あまりに岩壁が険しいため専門の岩戸登りでなければ採取は難しいとか。貴重な霊草であり、用いることも滅多になく、採取も難しいとあって扱った経験が無い者も多いのですが、どうかご安心を。師からしかと扱いを仕込まれておりまする。

 ああ、そういえば師から聞いたことがあります。数十年ほど前に国の外から来た騎馬の民の少女が、見事かの霊草を手に入れ、病に苦しむ部族の元へ持ち帰ったと。まこと称賛すべき勇気の持ち主でありましょうや」

 

 《精霊の山(マナスル)》。

 《天樹の国(シャンバラ)》を竜の上顎と下顎のように囲う大小二つの山脈。片割れである大山脈、竜骨山脈の一角を構成する大霊山だ。不思議と《精霊》が好んで集まる霊地であり、《精霊》由来の貴重な霊草や鉱石が採取できることで知られていた。

 

「霊草の名と、特徴を」

「名は高貴の白(アーデルヴァイス)。純白の花弁と、精霊が好み群がることが特徴と言えば特徴でしょうか」

「ありがとうございます」

 

 一通りの事情を王宮付きの医術師から聞き出すやいなや、フィーネは身を翻して自室へ向かう。部屋に辿り着くなり、服を収めている家具から外出するのに相応しい装束を引っ張り出し、自らの衣装を改めた。

 普段は侍女(アウラ)が甲斐甲斐しくその任を務めるのだが、病に倒れた今は自分自身でその手間をこなさなければならない。意外と周囲に置く者を選ぶ傾向にあるフィーネは、アウラ以外の侍女を近づけようとしなかった。

 服装を改め終えると、続けて身の回りの物を適当に広げた手巾(ハンカチ)にまとめて包む。手巾は《天樹の国》の名産品、絹を呪術師が一糸一糸を念と共に織り込んだもので、極めて薄いが破れにくく丈夫。折り畳めば小さく、広げれば畳まれた時の見た目から想像もつかないほど大きな一枚布が現れる。織り込まれた模様も美しく、実用にも鑑賞にも耐えられる逸品だった。

 そうしてまとめた手荷物を前に準備完了と頷く。なに、例え不足する物があっても現地調達すればいいのだ。食糧などはその最たるものだった。

 いっそ男前にそう割り切ると、駆け足で乗騎である飛竜(スレン)の元へ向かった。

 ポータラカ王宮の広い敷地を風のように駆け去っていく闇エルフの姫君の姿は当然王宮に出仕する者たちの目に留まった。ある者は微笑ましい顔で、ある者は戦々恐々とその後ろ姿を見送る。だが無関心な者だけは一人もいない。

 王族に生まれながら異様にフットワークの軽い少女は霊花の群生地である霊山《精霊の山(マナスル)》へ一路向かうべく行動を起こしたのだ。

 

「スレン、飛ぶよ! 《精霊の山(マナスル)》まで一直線に。全身全霊、最高速度で!」

 

 騎手たる少女の気合が入った号令に、むくりとその巨躯を起こしたスレンは気合に応じるように咆哮した。久方ぶりに満身の力を振り絞る機会とあって、どこか高揚と歓喜すら感じられる咆哮であった。

 

「ん、スレンも元気一杯。ならあとは私がアウラを助けるだけ!」

 

 乗騎の咆哮に応え、フィーネは力強く飛竜(スレン)の背を駆けのぼった。

 

「待て、フィーネ! お前が向かうことは罷りならん!! 今すぐスレンから降りよ!!」

 

 そしてまさに号令をかけ、飛び立たんとしたフィーネを大音声が押し留めた。その声の主は医術師からの報せとスレンの咆哮を耳にし、玉座からその足で駆け寄ってきた父王ガンダールヴであった。

 その大音声を耳にし、今まさにスレンが羽撃こうとしたのを制止する。不満気に唸るスレンを宥めながら、厳しい視線を向ける父王の方へ顔を向けた。

 

「行ってはならん」

「行きます」

「儂は行ってはならんと言ったぞ」

「私は行くと言いました」

 

 珍しく互いに一歩も引かない親子喧嘩に、離れた位置から王妃リーヴァがパンと手を鳴らす。睨みあう二人の()を打つようなタイミングで柏手を打ったのだ。強制的に二人の意識が発生源へと向けられ、視線を向けた先には、平時と変わらぬ様子で親子喧嘩を見遣る王妃の姿が在った。

 

「フィーネ、よくお父様のお話を聞きなさい。その上でまだ行くと言うのならば、ええ、私たちも()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 穏やかで人畜無害な笑みを浮かべ、静かな口調で諭す母の姿にフィーネは戦慄した。国王家の家庭内ヒエラルキーは母こそが最上位。それも第二位の父を大きく突き放しているのだ。

 今の発言も頭を冷やさなければお仕置きするし、逆らい続けるならばやっぱりお仕置きすると言う宣言だ。

 出来ない、とは思わない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()

 リーヴァは物理的な力に依らず人を従える力、王族の威厳とでも言うべき迫力が頭抜けていた。正直なところ国王である父よりもそうした威厳を持ち合わせているとすら思う。

 

「分かりました…」

 

 そんな母から制止され、大人しくスレンの背から降りてきた娘の姿に若干自身の威厳に疑問を抱きつつも飲み下したガンダールヴ王は改めてフィーネに軽挙妄動を慎むようその理由を説いた。

 そもそも闇エルフは情愛深い種族だ。家族も同然に親しい臣下を助けるのを止めるのも、フィーネが数少ない王族という身分だけではなく、そうしなければならない理由があった。

 件の霊草の群生地には飛竜の騎手にして両界の神子であるフィーネをして、危険と呼ばざるを得ない脅威が待ち受けているのだ。

 

「…………」

 

 そしてガンダールヴ王の懇々と諭すように語られたその理由を耳にし…。

 

(お父様の言葉は、正しい。()()()()()()()()()()……でも、それは)

 

 フィーネは聞き終えてから長い沈黙を挟み、何度か抗弁しようとする気配を見せたが、遂には父王の言葉を受け入れた。

 基本的にフィーネは「良い子」なのだ。妹分のアウラの危機に頭に血が上っていたが、王たる父や賢人議会からの命令を断ると言う選択肢を選ぶことはほとんど無い。

 ()()()()

 

「……お父様、私は霊草を…高貴の白(アーデルヴァイス)を探しに行きます」

「それはならんと既に言ったであろうが」

「はい。だから群生地(そこ)以外に生える高貴の白(アーデルヴァイス)を探しに行きます」

 

 霊花の群生地に()()()()()脅威故に、そこへ行くことは禁じられた。だが他の場所に生えた霊花を探すことまでは禁じられていない。

 その理屈にむ…、とガンダールヴ王は押し黙った。理屈だけで言うならばその通りだからだ。だがガンダールヴ王としては理屈はさておき可愛い娘を何日も外に出したくはなかった。

 親の愛情を抜きにしてもフィーネはいずれ《天樹の国》の王位を継ぐ一粒種なのだ。みだりに危険にさらす真似は望ましくない。

 

「どうか……私にアウラを助ける機会を下さい。だってお父様の言うことが本当なら、誰も《精霊の山(マナスル)》へ霊草を採りに行くことが出来ないのでしょう?」

 

 そう、涙を滲ませて懇願する娘の姿にガンダールヴ王の心がグラつく。

 闇エルフとしてアウラへ向ける深い情愛と掟に従うべしという刷り込みが反発し合い、フィーネを苛んでいることも分かり過ぎるくらいに分かる。ガンダールヴ王とてアウラのことを娘の妹分として身内のように思っているのだ。王として割り切り、切り捨てることは出来るが、それは決して心が痛まないということではない。

 

「別にそれくらいは構わないのではありませんか? 王よ」

 

 苦悩する父王にそう声をかけたのは、先ほどからニコニコとした笑顔を崩さない王妃リーヴァだった。ガンダールヴ王が憂慮の顔を見せようと、フィーネが荒ぶる気配を漏らそうと崩れない鉄壁の笑顔がその美貌に張り付けられている。

 

「それくらいとは無茶を言ってくれるな、王妃。フィーネはいずれ《天樹の国(シャンバラ)》を継ぐ我らの一粒種だぞ?」

「思いつめたこの子が《精霊の山(マナスル)》へ突撃するよりも余程良いと私は思いますけれど?」

 

 無茶を言う妻へ窘める気持ちを込めて王妃と呼びかけるが、対するリーヴァの笑顔は相変わらず僅かほども揺らぐ気配もない。

 むしろ不思議そうに首をかしげてさも当然であるかのように疑問を呈した。その疑問に馬鹿を言うなと返そうとして、逆に言葉を詰まることとなる。

 幼少から掟を遵守するようキツく教えを刻み込まれたフィーネ。だが果たして親しい者の命を危険に晒してまで掟を遵守するかと言えば、正直なところ全く分からない。更に本音を言えば、そんな機会は一生来なければいいとガンダールヴ王は心底願っていた。

 

「そうはならぬために今、決断が必要なのでは?」

 

 ガンダールヴ王の心の動きにするりと滑り込むように言葉を紡ぐ。その心の奥底を見透かされた言葉に、ガンダールヴ王は自身の敗北を悟った。悲しいかな、リーヴァ王妃の方がガンダールヴ王よりも余程王族として、親として器用にこなせる適性の持ち主なのだ。こうなればあとは王妃の手の上を上手く転がされる他はない。

 

「このまま押さえつけておかしな時に爆発されても困りますし。スレンが守るあの子に手を出せる者が早々現れるはずもなし。アウラが危険に冒されながら、ジッとしていられる性分ではない以上あまりきつく縛り付けては却って逆効果かと?」

 

 なおこの時王妃の想定とは全く別の形でフィーネに手を出す……というかフィーネから手を出される少年との出会いが待ち受けているのだが、当然そんな例外は想定しようもない。

 

「それに…」

「なんだ?」

「あの娘は私の子どもですよ?」

 

 クスクスと上品に笑う王妃。貴族的な優雅さと淑女の柔らかさを併せ持つ玲瓏な笑み。だが今ばかりはかつてお転婆を極めた我が儘な御令嬢の本性が微かに出来た笑みの罅割れから覗いていた。

 幼少期から散々に手を焼かされ、後始末をこなし、遂にはそこが良いのだと諦観と性癖の覚醒にまで至ったガンダールヴ王は溜息を吐いて、首を縦に振った。

 

「私の子でもあるのだがな…」

「ええ、だから一途なところと優しいところは本当にそっくりね?」

 

 最後のささやかな抵抗もまとめてさらわれ、ガンダールヴ王は降参した。肩を落とした愛すべき夫を背に、リーヴァはゆっくりとした足取りで愛娘に近づいていく。

 

「……行って、いいの?」

「聞いての通りよ。もちろん貴女の我が儘ばかりが通る訳ではないので、これから言うことをよくお聞きなさい?」

「うん、ありがとう! お母様!」

 

 元気一杯に返事を返す愛娘によろしい、と返す。なおその背後で何故あの眩しい笑顔が自分に向けられていないかと、父王が寂しげな気配を漂わせていた。

 

「まずこれを。母から贈る心ばかりの品物です」

「これは…聖餅(レンバス)?」

「王宮の穀物蔵から取り出してきた物よ。貴方とスレンが道中で狩りをこなす分も勘定に入れて……一〇日分と言ったところかしらね?」

 

 大事に食べなさい、と戒めるように告げる。実際聖餅(レンバス)はこれだけ食べても相当長い間食いつなげる栄養食だったから、とてもありがたい餞別だった。

 

「それを毎日キチンと食べて、尽きたら戻って来ること。約束よ?」

 

 言外に時間制限を設けられたが、フィーネはしっかりと頷いた。

 

「それともう一つ。国の外では決して貴方の身分を明かしてはならず、出来るなら言葉も交わしてはなりません。貴女は曲がりなりにも姫であり、私たちの大切な娘です。これも貴女の身を憂うからこそ忠言。しかと留めおくように」

「はい! でもどうしても人と会ったり話さなければいけない時はどうしたら…?」

「交わす言葉は少ない程、残す物はささやかな程良いと知りなさい。しかしそれ以上に順縁と逆縁を忘れないように。いずれの(えにし)も偉大なる精霊にも読み取れない、生を思いがけぬところへと転がしていく流れなのですから」

 

 どこか超然とした気配を湛えながら、囁くようにリーヴァは言葉を紡いだ。さながら予言を口にする巫女のように。

 それも当然。王妃リーヴァもまた方向性こそ違えど妖精王ガンダールヴに匹敵する術者だった。

 天眼(テンヌド)

 視えぬモノを視、知らぬモノを知り、時に未来の一端すらその手に掴むこの世ならざる世界を除く霊眼。

 王妃リーヴァは巫術以上に資質に左右される天眼(テンヌド)において、比類なき天稟の持ち主であった。

 

「少しだけ、視えました。貴女が目的を遂げられるかは分からないけれど、きっと貴女はこの旅で素敵な()()を得るでしょう」

 

 その天稟を知るフィーネにとって与えられた予言は天啓に等しい。きっとこの旅は無駄にならないと励まされた少女は力強く頷き、精一杯の親愛を込めて両親を順番に抱きしめる。

 頭を撫でる力強い掌の暖かさに、頬に口づけられた柔らかな唇の感触に感じた寂寥と慰めを振り切るように再びスレンの背へ飛び乗った。

 

「行こう、スレン!」

 

 今度こそ力強く飛び立ったスレンとともに、少女は空へと旅立った。

 



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妖精王女 後編

 

 飛竜(スレン)一騎を供に従え、ポータラカ王宮を飛び立ったフィーネ。

 聖餅(レンバス)を頼りに何日も食いつなぎ、当てもなく高貴の白(アーデルヴァイス)を探し求める旅が始まった。

 時に野生山羊(アルガリ)や羚羊、山脈熊をスレンとともに狩り、その肉を焼いて聖餅(レンバス)と共に口に押し込む日々が続く。

 使える調味料はたまたま立ち寄った岩塩鉱床で手に入れた塩だけという何とも野性的なものだが、生来の逞しさか妹分を思う一心かフィーネは味に文句を付けることは無かった。

 

「スレンは大雑把過ぎるの。口に出来るお肉が全部丸焦げとか…」

『グルゥ』

 

 とはいえ口に入る物がジャリジャリとした黒焦げばかりである日は流石にボヤキも混じる。

 そんなフィーネの愚痴に知るか、とばかりに喉を低く鳴らすスレンだった。

 他愛もない一幕を挟みながらも、日々は瞬く間に過ぎていき…。

 

「……見つからない」

 

 結論から言えば高貴の白(アーデルヴァイス)を探す空の旅は成果を得られずに終わった。

 王宮から飛び立った当初は、唯一の手掛かりである《精霊の山(マナスル)》へと竜首を向け、《精霊の山(マナスル)》に近い他の山脈に点在する断崖絶壁を知る限り飛び回り続けた。だが、見つからない。

 一通り目星をつけていた山脈を虱潰しに飛び回り終えると、後は竜骨山脈を徐々に南下しながら目を皿のようにして山肌を注視する当てのない日々が続く。

 どれ程の山脈を行き過ぎようと、どれほど眺めても精霊が群れ集うという白の花弁を見出だすことは出来なかった。

 これは無理もないことだ。そも高貴の白(アーデルヴァイス)は精霊が集う特別な霊地にしか咲かないからこそ霊草と呼ばれているのだ。

 頼りの《精霊(マナス)》に霊草の所在を訪ねても、予想はしていたが大した情報は得られなかった。

 彼らは概ねフィーネに対して友好的だが、それ以上に気紛れで無邪気であり実際的な情報を聞き出すのが難しいのだった。

 何時、何処で、誰が、何故、何を、どうやって…。こうした事柄を訪ねても大抵まともな答えが返ってくることは無い。疑問の意が返ってくるならまだマシで、大体の場合はそんなことよりも、と自分達の意志を押し付けてくることの方がはるかに多いのだ。

 頼りの聖餅(レンバス)は目に見えて減っていき、焦りと疲労がフィーネを蝕んでいた。食糧獲得のための狩りに使う時間が減り、探索に充てる時間を増やす。その分得られる食糧が減り、空腹に襲われたスレンの苛立ちが日増しに激しくなっていく。

 日々溜め込まれていく心身の負担を何とか宥めながら探索を続けるが、フィーネの気力もスレンの空腹も限界を迎えつつあった。

 

「ごめん、もう少し。もう少しだから…!」

『グル…』

 

 短く唸り声を上げて少女の声に応えを返す。だがその内心は応えほど従順ではなかった。

 限界だ、と飛竜は冷静に思考した。己も、少女も。

 一刻も早く空腹を満たす獲物を獲らなければならなかった。何よりも休息が必要だった。

 現に背に乗せた少女は言葉こそ力が籠っているが、目に見えて疲労が激しい。

 飛竜の背に乗るだけでも姿勢制御に体力を使う。ましてや何日も成果の上がらない無為な探索が続くとなれば気力も擦り切れるだろう。

 今も少女は背の騎乗鞍にしがみつくように身体を預けている。体力はとっくに使い果たし、残った気力で何とか今の状態を維持しているだけだ。

 

『…………』

 

 ここが引き際だろう、と沈黙の内にスレンは決断した。これ以上の無理は己にとっても、騎手の少女にとってもロクなことにならない。スレンにとって背の少女は逆らい難い強力な主人だったが、生き物である以上限界はあったし、主人のこともそれなりに気に入っていた。

 最強の主人、その第一の翼を務めるのも悪くは無い。スレンはそう思っていた。

 このまま無理と無茶を続けた果てに弱った少女の頸木を砕く機会が得られるかもしれないが、最早そのつもりは無い。

 ここまで思考を進め、ならばどうするのかという自問に、無理やりにでも狩りに移るほかないと自答を返す。

 近くにいる手頃な獲物ならば何でもいい。

 そう考えて眼下を見渡したスレンの視界に、山肌を駆ける山羊とそれに乗るちいさな()()()がたまたま目に入った。

 そしてオマケの外見が闇エルフと多少似ていようと、スレンにとっては知ったことではなかった。

 

 ◇

 

 山間に嘆きと慚愧に満ちた声が響く。

 

「ごめんなさい…! 本当にごめんなさい!」

 

 謝罪を繰り返すのは、乗騎の蛮行が起こした眼前の()()に顔を青ざめさせたフィーネだ。

 気力が擦り切れ果てて意識を失い、ただ鞍にしがみつくばかりとなったフィーネ。その揺蕩う意識を覚醒させたのはスレンが手繰る火精の爆裂の衝撃だった。

 尤も意識が鮮明になったのはギリギリもいいところ、生き汚く逃げ回る小賢しい獲物に業を煮やしたスレンがその巨躯で直接獲物を手にかけようとした寸前だったが。

 スレンが狙う獲物が、自身と同じ年頃の子どもであることに気づいた瞬間に血の気が引く音が聞こえた。咄嗟にスレンに強烈な風圧で無理やり金縛りをかけ、致命の一線だけは辛うじて離れた。

 だがそれは即死を免れたというだけでしかない。飛竜の爪に引っ掛けられた矮躯は望まぬ空中飛行を強制され、おもちゃのように大地に叩きつけられた。

 グチャ、ともビチャ、とも聞こえる生々しい血肉を打ち付けるおぞましい音が少女の耳に届く。

 

「あ、ああァ…」

 

 地に墜ちたスレンから勢いよく飛び降り、少年の元へ駆け寄ったフィーネは元から青白かった顔色をさらに青ざめさせた。

 誰がどう見ても少年は致命傷だ。

 少年の頭蓋骨は割れて鮮血が溢れ、手足の骨は壊れた人形のように無茶苦茶な方向に捻じれている。

 

「《精霊》にお願いすれば…! ダメ、これだけ壊れた人をどうにかするなんて…」

 

 如何に世界の理を司る《精霊》と言えども限界はある。少年の負傷は生命への干渉を得意とする水精でも癒しがたいほどの重傷だ。

 自分は無力だ、とこの世で最も万能に近い少女へこれ以上なく()()が叩きつけられる。

 例え両界の神子であろうと、過ぎ去った時を巻き戻すことも、零れ落ちた命を掬いあげることも出来はしない。

 ()()()()

 

「どう、すれば…! どうしよう!?」

 

 焦る。

 

「あ…!」

 

 そこで少女は一つの考えを思いついた。思いついてしまった。

 

「この人と、私が《血盟》を結べば…!」

 

 闇エルフが血盟獣(アンダ)と呼ぶ特別な騎獣が存在する。

 その特別性は騎獣個体ではなく、騎獣と乗り手の関係性にこそ由来する。

 互いの血を媒介にした邪法ギリギリの血の契約、文字通りの《血盟》。

 その《血盟》を騎獣と結ぶことで、騎手と騎獣の間に特別な結びつきが生まれるのだ。

 《血盟》を結ぶ恩恵は大きい。

 騎獣との意思疎通はまさに一心同体と呼べる領域にまで昇華され、遠く離れていても互いの存在を感じ取り、危機に陥った時に視覚や聴覚を共有することもあるという。

 加えて殊更に相性が良い組み合わせでは互いの種族が持つ特性の片鱗を得る事例も報告されている。

 《天樹の国》建国期の大王ケサルとその飛竜《荒々しきキャン》はそれぞれ飛竜が持つ力強き膂力と天を翔ける特別な感覚を、人類種が持つ智慧と巫術を手繰る技を互いに《血盟》を通じて得たという。

 この特別な結びつきを以て自身の特異性を少年と共有できれば…少年が精霊の加護を得られれば、あるいは少年の命を救うことが叶う()()()()()()

 

『ガギャアァァァッ!』

 

 だがその思い付きに否と反抗するように、スレンは咆哮した。賢き魔獣が示す反対の意には相応の理由があった。

 《血盟》によって得られるのは恩恵だけではない。

 互いの相性が悪ければ精神に悪影響が出ることはざらにある。更に契約者と死別した時には強烈な喪失感に襲われ残った片割れも後を追うように自殺する例すら報告されている。

 そして一度結んだ契約を解くのは極めて難しい。契約を結び年月を重ねるほど結びつきは強まり、解除は困難さを増していく。

 加えて言えば過去の契約者たちは常に一対一で《血盟》を結んでいる。一人の術者が二騎以上契約を結んで例は無い。

 フィーネは既に飛竜(スレン)と《血盟》を契約している。それはつまりこれからフィーネが為そうしているのは前人未到の領域であり、何があっても全くおかしくないと言うことだ。

 

『ガアアッ!』

 

 止めろ、とスレンは吼える。

 否、と少女は首を振った。

 

「ダメだよ、スレン。悪いことをしたら償わなくちゃ」

 

 例えそれが見ず知らずの少年を助けるために命を投げ捨てるが如き無謀だとしても。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「―――――――」

 

 フゥ、と覚悟を決めるように息を吐き出す。

 少女は躊躇(ためら)いを捨て、思い切りよく自らの手首を懐剣で切り裂き、溢れ出す鮮血を倒れ伏す少年へ振りかけた。

 

 ◇

 

 とても素敵な再会だったと、飛竜の背に乗って《天樹の国》への帰路に就く少女は思う。

 願わくば最初の出会いがもっと穏やかなものであれば誰はばかることなく喜べたという事実がただ一つの悔いだろうか。

 

「ジュチくん、元気だったね。本当に良かった…」

『ガアァ』

「アハ、もう私は気にしてないよ。ジュチくんも許すって言ってくれたもん」

 

 《血盟》の施術に血を使いすぎたことによる貧血と栄養失調が重なり、この数日は近くの岩宿を寝床に安静に過ごし、スレンが狩る獲物を口にしてひたすら体力回復に努めていた。

 そしてようやく少年の元へ向かうだけの体調を取り戻したのが丁度今日。《血盟》が伝える少年の存在感を頼りにスレンを飛ばし、すやすやと眠りこける彼を見た時の安堵感は言葉にならなかった。

 

「《血盟》も(イビツ)な形だけど安定しているみたいだし。スレンもジュチくんのことが気に入ったみたいだね?」

『グル、グオオォ…!』

 

 不服そうに咆哮するスレンへ向けてからかうようにクスクスと笑みをこぼす。

 《血盟》の施術はフィーネも予想していなかった形に、しかし予想よりも上首尾に終わった。

 掟ゆえに少年へその事実を告げることは出来なかったが、既にジュチはフィーネの《血盟獣(アンダ)》と成っている。そして両界の神子(フィーネ)飛竜(スレン)、二つの種族が持つ特性が少年(ジュチ)の中に息づいていることもフィーネは気付いていた。

 それゆえの《精霊(マナス)》の加護、そして飛竜の持つ生命力の恩恵によって辛うじてジュチの命を拾うことが出来たのだった。

 そしてジュチの方からフィーネへほぼ一方的に流れてくる()()の存在もまた。それはあやふやな思考であったり、記憶であったり、時にジュチの五感だったりした。闇エルフと騎馬の民という差異だけではない、とても異質な()()。子供とは思えないほどに大人びた思考の断片、王女として一流の教育を受けたフィーネすら知らない知識の欠片。

 まるで住んでいる世界が違うかのような異質さ。()()()()()()

 再会した当初から何となくジュチに感じていた親近感の源がソレだった。

 とはいえ少女の中で少年を特別な位置に置くことになったのはそれだけが理由ではない。

 

(お母様が言った通り、素敵な出会いをこの旅で得られました)

 

 母の天眼はこの縁を見通していたのだろうか、とぼんやりと考える。

 つい先ほどまで話していた元気で、皮肉屋で、そそっかしくて、でもとっても気持ちのいい男の子のことを思い起こす。

 アウラを案じるフィーネに共感を示してくれた。

 お詫びに来たと言うフィーネに、飛竜(スレン)に乗ってみたいと言って驚かされた。

 飛竜(スレン)に対して畏れを見せながらも真っ向から向き合っていた。

 なにより何を言えばと言葉に悩む少女を救い、同時にどうしようもなくその胸を貫いたのは少年の何気ない言葉だった。

 

「あんまり気にするなよ。もう友達だろ」

 

 この時無邪気に笑う少年の言葉が与えた少女の驚きはどれほどのものだったろう。

 フィーネは妹分(アウラ)を、乗騎(スレン)をお友達と呼ぶ。それは少女にとって胸を張って自慢できる()()で、きっとアウラとスレンも同じように思ってくれていると信じている。

 だがアウラからは身分ゆえに、スレンからは種族が違うゆえに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だから初めてだったのだ。

 裏表なく、何でもないことのように、異物である自分を友達だと呼んでくれる人に出会えたのは。

 

「フフ…アハハハハハハッ!」

 

 クスクスと密やかに、やがて堪え切れないように大声を上げてフィーネは笑った。無邪気な笑い声はスレンが起こす羽撃(はばた)きに紛れて風に散っていく。

 

「お友達だって」

 

 嬉しそうに、心底から幸福そうに。それでいて少しだけ危険な気配を滲ませて、そう少女は呟く。

 

「私のお友達。私()()のお友達。ふふ、ジュチくん。()()ジュチくん」

 

 歌うように少女は少年の名を舌で転がした。そこに込められた思いは酷く熱く、胸を疼かせる。

 一般的な意味での()()()に向ける感情としてはいささか以上に執着心の強いものだったが、少女自身は気付かず乗騎たるスレンはそこまで人類種の心の機微に通じていない。

 

「帰ったらお父様達からも叱られるだろうから、しばらくは会えないかな。アウラの病気も何とかしなきゃならないし…」

 

 強すぎる喜びに胸を焼かれながらも、同時に大好きな妹分を案じることも忘れない。フィーネも闇エルフの例に洩れず、深過ぎる愛の持ち主なのだ。

 

「でもそれが終わったら、きっと、ずっと…私と一緒にいてくれるはず。()()()()()()()()()()()()()

 

 お友達と一緒にいる、というのはフィーネにとって当たり前のことだ。ましてや少女にとって特別な、大事で愛しい()()()であれば最早疑問に思うことすら無い。

 フィーネと《血盟》を結んだ間柄であるジュチを《天樹の国》としてもそのままには出来ないという事情も少女の中で大義名分として後押ししていた。彼がフィーネに専属で仕える従者となることを受け入れてくれれば公私に渡ってずっと一緒にいられるのだ。

 

「何時か、きっと、()()…」

 

 彼と約束したのだ。再会すると。また会おうと。

 

「だから、()()()…」

 

 もう一度会おうね、という言葉は向かい風に散らされ、消えていくのだった。

 

 



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子殺しの《悪魔》

作中にて伝染病、感染症の描写がございますが、新型コロナウイルスと関連する意図は一切ございません。
上記の秒所をご不快に思われる方は閲覧の中止をお勧めいたします。


 

 それからしばらくの間、カザル族は平穏に過ごしていた。

 ジュチは族長家の天幕に赴いて朝から夕まで働きづめ、日が暮れる前にバヤンから渡された働き分の分け前を土産にツェツェク達のいる天幕へ帰る。モージとツェツェクは日々生きるために過ごしながら、《舞い手》としての技量を高めるため修行に精を出す。

 

「ケホッ…」

 

 始まりは族長家の末妹(トヤー)が零した小さな咳だった。

 

「どうした、何処か悪いのか?」

「んっ…。ちょっと喉が痛いの…ちょっとだけ」

 

 たまたまその場にいたジュチが心配そうに声をかけると、トヤーは何でもないと首を振った。その顔色を見ても病気らしき兆候はない。咳もたまたまかと流し、特に思うことはなかった。そのまま何事もなかったように仕事に戻ろうとするが、視界の隅で動いた異物に注意が向く。

 

「ん…?」

「クル……クアァァァァァ―!!」

 

 いつもはジュチの周囲で寝そべるばかりの火蜥蜴が珍しく()()()と体を起こし、ジュチめがけて大きな鳴き声に合わせて視界が真っ赤に染まるほど多くの火の粉を吹きかけてきた。

 

「熱っ…くないけど、いきなりなにすんだお前は!?」

 

 ジュチ以外の誰にも見えずほのかな熱を周囲に振りまいた幻想の炎は一瞬で掻き消え、余韻のような温もりだけが残った。突然の奇行に下手人を当然問い質すが、後に残るのはいつも通りのんびりとした様子の珍獣とジュチの大声に向けられた訝しそうな視線だけだ。

 相変わらず訳が分からん奴、と胸の内で呟きながら向けられる視線に何でもないと手を振る。そのまま言いつけられていた手仕事を再開し、その日はそれ以上何も起こらずに終わった。

 

「……おい、本当に大丈夫か?」

「どうだろ…大丈夫、かな?」

 

 だが日が経つに連れてトヤー以外の子ども達に似たような咳をするものが現れ始め、遂に今日トヤーが倒れたという知らせが部族の巫女であり医者であるモージの元へと届いたのだった。老女は報せを受けるや急ぎ族長家の天幕まで牝馬を駆けさせ、トヤーの元へと駆け付けた。

 

「これは…」

 

 そのまま横たわるトヤーの病状を診たモージが額に手を当て、絞り出すように見立てを告げた。

 

(やまい)だ…。この子は《子殺しの悪魔(アダ)》に取り憑かれてしまった」

 

 トヤーが倒れたという報せを聞いて集まった周囲の人だかりが()()()、とどよめく。それは悲嘆であり、警戒であり、憐憫だった。

 《子殺しの悪魔》と名付けられた病はその名の通り、子供が主に罹患しけして低くない致死率を誇る草原の病である。その忌み名を耳にした者たちがネガティブな空気を醸したのも当然であった。

 

「モージ、それは……本当なのかい?」

「ああ、残念ながらね。だがまだ気を落とすには早い、《悪魔》に憑りつかれた者が皆命を落とすわけじゃあない。尽くす手はまだまだあるんだ」

「……頼むよ、モージ。あんたしか頼れないんだ。私に出来ることなら何でも言っておくれ」

 

 沈痛な顔をして頭を下げるバヤンもこの時ばかりはいつもの豪放磊落さは影を潜めていた。その縋りつくような頼みにモージは胸を張って頷いた。

 

「もちろんだよ、バヤン。部族の子はみな私の子だ。決して諦めないさ」

「ありがとう、恩に着るよ…」

「辛気臭いねぇ、らしくもない。あんたはいつも通り胸を張って子どもの面倒を見ているだけでいい! 後のことは私に任せておきな」

 

 何でもないことのように胸を叩いて請け負うモージは流石部族の長老にして巫女を務める女傑に相応しい頼もしさがあった。とにかく堂々と胸を張って喋り、安心感を与える語り口なのだ。

 

「ひとまず私の天幕(ゲル)に戻って、取り急ぎ必要なものを取ってくるとしようかね。ジュチも手伝いに使わせてもらうよ。それと天幕(ゲル)をここのもっと近くに移したい。すぐに動ける若い衆を見繕っておいておくれ」

「ああ、任せておくれ。すぐに人を遣るとしよう」

「それじゃ、ジュチ、天幕まで急ぐよ」

「了解」

 

 モージの呼びかけに短く応えを返し、すぐに天幕の外に繋いである牝馬と大角(エウェル)の手綱を引いてモージの元へと連れていく。二人はそのまま鞍に跨ると天幕へ向けて乗騎を駆けさせ始めた。

 その疾走の中ジュチは一人静かに今回の一件に感じた違和感の源を探ろうと思考を回していた。

 

(病…()()()? 一体どこから来た?)

 

 ジュチが考えたのは感染経路だった。感染症が前触れもなく突然流行することはない、目立たず見落としてしまったのだとしても前兆となる()()があったはずだった。故に前世の知識がこの状況の訝しさを感じていた。ここしばらくカザル族と外部の人間の間に交流が持たれた記憶はない。数か月前に言葉を交わした他部族から持ち込まれ、この時まで潜伏していたと考えるのは奇妙に思える。

 

(いや、ボルジモルとのいざこざがあった…。でもアゼルは馬を分けたらすぐ離れたって言ってたよな?)

 

 それに他部族と緊張した状態のまま話し合う場面で馬から降りるとは考えにくい。警戒して互いに距離も取っていたのではないだろうか…。もちろん後でアゼルに確かめる必要はあるが、この考えが正しければ人から人へ感染したとは考えづらい。

 

「モージ、《子殺しの悪魔》ってどんな病なんだ?」

「お主…。良かろう、話してやろう」

 

 モージを乗せた牝馬と並走しながら手掛かりを求めて問いかけると、老女は若干の迷いを見せたあとに淡々と知識を与えてくれた。

 この病に罹った者は全身の倦怠感と微熱、食欲不振が長期的に続く。罹り始めは風邪に近い症状だが、徐々に空咳が多くなり、遂には吐血する。吐血に至るまで重症化すると治癒は困難となり、大体は死に至る。重症化するまでに自然治癒する者はモージの経験則では概ね七割程…。

 子殺しの忌み名は厳密に言えば子供に加えた老人や病人など体力の低い人間がかかりやすいのだが、真っ先に罹る子供が目立つためだ。

 

「厄介なのは病が広がる早さだ。気付けば病に憑りつかれた者と全く関わりの無い者さえ同じように憑りつかれていることがある」

「……治すにはどうすれば?」

「……養生することだ。精を付け、身体を休めるのが最も確実に快復が見込める」

 

 何故かやけに苦々しい顔をしたモージがジュチを見ていたのが印象に残った。少なからず違和感を感じたが、実際下手な民間療法に頼るよりもモージが言う通り養生する方がよほど快復には効果があるのは確かだろう。

 

(…病に罹った人間は出来るだけ隔離したいところだけど、出来るか? 大体何を根拠にどんな風に皆を動かす? 俺自身どれくらい効果があるかも分からないのに? 困ったら助け合うのが部族の掟で、誇りだ。病人の看病に物々交換、労働力の貸し出しとかのやり取りを断ち切るのはどうやっても起こるだろ)

 

 今回一人目の罹患者であるトヤーが暮らすのは当然族長ソルカン・シラが家長を務める天幕だ。まとめ役である族長の天幕だけあって、ジュチがいた期間だけでも多くの部族の者たちが顔を出していた。そこから感染が広がっていったと仮定すれば、最早誰が感染者予備群で誰がそうでないのか確かめようがない。

 特に厄介なのがこの病が()()()()()()()()と認識されていることだ。恐らく健康な大人は罹患しても症状が出ないだけで、保菌者(キャリア)として感染を広げてしまうことは十分に考えられる。

 

(…防ぐのは相当難しいぞ、これ。前世(二ホン)じゃどうやって対処してたんだ?)

 

 感染爆発(パンデミック)、ウイルス、隔離政策などなど無数の言葉が脳裏を過ぎるが、いずれの知識を追っても具体性に欠け、実効力は期待出来そうにない。

 

(クソ、前世なんてもの思い出したところで肝心な時につっかえねー! ああもう、ヤメだ。感染を止めるのは無理だ、諦めよう)

 

 かける労力の割に成果が期待できない。出来るかどうかも分からない最善策よりも対症療法程度でも良いのでやれることを一つでも多く考えて実行に移すべきだ。衛生観念、手洗い消毒、経口補水液など前世ではごくごく基本的な知識だが、やるかやらないかで同じ病気にかかった人でも回復の度合いに相当な差が出ていたはずである。《悪魔》退治の特効薬にはならなくともそれなりに有効なはずだ。

 だがその実行にあたって問題点も一つあった。

 

(俺がそれを口にして、誰が従ってくれる? 誰もいないだろうな。賭けてもいい…あ、ツェツェクがいたか)

 

 例外が一人いたが、この場合一人いたところで大差はない。

 命の懸かった問題なのだ。そうした反発や疑問を黙らせるほどの権威や説得力をジュチが持ち合わせているはずがない。

 そのとっかかりとして期待できそうなのは……モージぐらいだろう。止むを得ない、子どもは黙っていろとの叱責を覚悟で自分なりの考えを口にする。

 

「モージ!」

「なんだい?」

「……トヤーは倒れるまで元気そうだったけど、その数日前から頻繁に咳をしていた。多分咳が《子殺しの悪魔》のかかり始めに出る症状なんじゃないかな」

「……続けな」

「だから咳をしている子供には特に注意して、気付いたら仕事も休ませよう。兄弟がいたらそいつも同じようにするべきだと思う」

「ふ、む…」

 

 所詮は対症療法に過ぎないが、仕事で消費する体力を温存できる分多少は効果が見込めると考えられる。果たしてモージの反応は、と鞍の上で揺られながら器用に横目で様子をうかがうと逆にギョロリとしたおっかない視線が向けられた。

 

「それだけかい?」

「それ、だけ…?」

 

 病に対する祈祷・治療も司る巫女(モージ)の職分に対し、我ながらかなり踏み込んだ発言をしている自覚があるだけにその返しは予想外であった。

 

「いいかい、出し惜しみは無しだ。絞れる知恵があるなら、頭が割れるくらい絞り出しな」

「―――分かった」

 

 容赦なくお前を使い倒す、あるいは()()()()()()という端的なメッセージにジュチは一言、諾と返す。

 そして思いつくままにひたすら感染症対策に使えそうな知識を吐き出し続ける。それは二人が自らの天幕に辿り着き、驚くツェツェクを落ち着かせ、かき集めた物資一式を持って族長家の天幕へ取って返す道の半ばまで続いたのだった。

 



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霊験

 

 モージの言葉に応え、己が思い出した前世の知識を一通り吐き出し終えた後、少年の養母が零した言葉は疑問ではなく納得だった。

 

「なるほどね…まさかとは思っていたが、やはりあたしの子から天神(テヌン)寵児(いとしご)が出るとは驚くねぇ」

 

 それらは全て辺境遊牧部族の最底辺出身の少年(ジュチ)が知っているはずの無い様々な知識だったが、モージは訝るどころか納得したという風に頷いた。モージのような(かんなぎ)達の間で天神(テヌン)寵児(いとしご)とは一体どのように言い伝えられているのか興味が引かれるが、今はそんな場合ではないので脇に置いておく。

 

「……俺がデタラメを言っているって疑わないんだ?」

「ハッ! これだけ良く出来た大量の作り話を捻り出せる頭があんたにあったと考えるよりは、天神(テヌン)から天啓を与えられたと考えた方がまだ信じられるさね」

 

 モージらしい捻くれた物言いに苦笑いを返す。

 

天神(テヌン)から下された天啓が果たしてどれ程のものか期待させてもらうとしようか…と、言いたいがどの道いま聞いた話を全部そのまま行うことは出来ないし、その気もない。我らの流儀に合わせて使えそうなものを拾い集めるのが先だね」

「水も余裕はあるけど贅沢に使えるほどじゃないからね…」

「そういうことだね。あんたの話は理屈が通っているように聞こえるが、そもそも部族(うち)じゃやれそうにない手法も多い。参考になっても特効薬にはなりそうにないね」

 

 この辺境北辺の片隅と前世の(二ホン)ではそもそも治療のために用意できる環境が根本的に異なるのだ。

 水と安全はタダ、などという妄言が罷り通るほど清潔な水をたっぷりと使えた二ホンとは違って、ここは北方のシャンバル山脈。水場の近くに縄張りを抑えてはいるが、水汲みの手間などもあって贅沢に使い捨てられるほどではない。

 水を使った手洗いや清拭はそれなりに効果が見込めそうだが、子どもが倒れて働き手の減った一家が水汲みの量を倍にしろと言われても厳しいだろう。似たようなことは他に幾つも思い当たる。

 

「しばらくあんたは私の傍に付いて看病の手伝いだ。不明なことが出来れば分かるまで問い詰めるから覚悟してな」

「了解」

 

 だがむしろ厳しい見通しを語る老女傑の姿にこそジュチは頼もしさを覚える。前世の知識なぞあったところでジュチ自身は経験の浅い小僧に過ぎない。ジュチが頭を捻って絞り出した知識もいまいち効果に自信と実感が持てない生兵法だ。それらを神託、天啓と鵜呑みにすることなく目の前の現実に合わせて一つ一つかみ砕いて実行に移そうとする地に足の着いた姿勢こそジュチにとって尊敬に値した。

 

「それでジュチ、あんた自身はどうなんだ?」

「はい?」

「微熱と咳さ。ゾリグ達以外でトヤーと一番多く接した子どもは間違いなくあんただよ。とすれば次に《悪魔》に憑りつかれるのはあんたってことも十分にあり得る話さ」

「ん、今のところ自覚症状無し。とはいえモージの言う通り、俺も感染しているって考えて動いた方が良いかな。それに…」

 

 次の言葉は流石に躊躇いがちに口を出す。ジュチが感染しているならば、同じ天幕で寝食を共にしている二人も当然ジュチから感染している可能性が考えられる。

 

「モージとツェツェクも、多分もう…」

「だろうね。今は亡き我が師も過去皆を診る中で《悪魔》に憑かれ、一度倒れたことがある。今の私より若い時分だったから私が罹らないという道理は無いだろう」

 

 神妙な顔で静かに覚悟を語るモージ。その眼はただ真っ直ぐに前だけを見据えていた。惹きつけられるようにジュチの視線も前を向く。

 

「…………」

「気にすることはないさ。老いた者から逝くのが世の摂理…。その摂理を守るためにも《子殺しの悪魔》なんぞを好き勝手のさばらせてちゃいけないね」

 

 《悪魔(アダ)》なぞ私の手で張り倒してやるとモージは不敵に笑った。

 

「可哀そうだがツェツェクはしばらく天幕に一人で籠ってもらうことになるね。ジュチ、お前は欠かさず様子を見に行くんだよ」

「もちろん、任せてくれ」

 

 そう胸を叩いて請け負う。モージが子供たちの看病に手を取られて動けない以上、ツェツェクの面倒を見るのはジュチの仕事だった。とはいえモージの手伝いとの二足の草鞋となれば中々難しいだろう。バヤンにも頼るべきかもしれない。

 やがて族長家の天幕が近づいてくるにつれて天幕を出た時の人だかりに倍する人が集まっている光景が目に入った。

 

「……また人が増えているね」

「大方《悪魔》の話が広がったんだろう。気になって様子を見に来たってところだろうが…」

 

 邪魔だね、とだけ呟くとモージは人ごみに近づくや否や言葉通りに彼らを追い散らしにかかる。治療の邪魔だからさっさと自分の天幕に戻れと大声で怒鳴り始めたのだ。老女とは思えないとんでもない大喝だったが、《悪魔》来訪に動揺した人々の不安を鎮めるには一喝では足りなかった。

 しばらくの間モージと不安に駆られた部族の者達との間で押し問答が交わされたが、しばらく時間を使うとやがて人々は自らの天幕に向かって三々五々に散っていった。事の経緯と各家の天幕で《悪魔》に憑かれた者が出た時に取るべき行動について説明するだけならそれほど時間は必要ではなかったが、漠然とした不安に襲われた部族の皆が現実を受け入れるまでモージの大喝が再三繰り返されたのだった。

 

「まったく、一刻も早くトヤーの容態を診なければならんと言うのに…」

「皆の気持ちは分かるからなぁ…」

 

 頭痛をこらえるように額に手を当ててぼやくモージに苦笑を零すしかないジュチだった。明確な対処が出来ない漠然とした不安に襲われた時、人は縋りつく何かが欲しくなってしまうものだ。

 そしてツェツェクだが、モージとジュチがトヤーや新たに運び込まれてくる子供たちの看病をこなす間は族長家の天幕から少し離れた場所に再度設営された天幕で過ごすことになった。

 

「モージ、ジュチ…」

「ツェツェク、聞いての通りだ。《悪魔》に憑かれないよう、天幕に籠って大人しくしているんだ。いいね?」

「私も二人を手伝う」

『ダメだ。絶対にダメだ』

 

 と、二人で声を重ねてツェツェクの申し出を退ける。珍しく強い調子で声を荒げる二人にツェツェクはビクリと体を震わせた。

 

「でもジュチは…」

「ジュチは恐らくもう病に罹っている。倒れるまでの間ちょっとばかり働いてもらうだけさ」

「なら私も…」

「ダメだ、お前はもしかしたらまだ《悪魔》に憑かれていないかもしれない。それならじっと大人しく天幕で過ごしていた方が《悪魔》が見逃す見込みがある」

「でも…」

「頼むよ。聞き入れてくれ、ツェツェク」

 

 懇願するようにジュチが頼み込むと、ツェツェクは酷く苦しそうに胸を押さえて言葉を絞り出した。

 

「ジュチ…。でも、嫌だよ。私、二人と離れたくない…。ジュチも、これでお別れなんて嫌…」

「馬鹿言うな、俺が死ぬもんか。飛竜(ドゥーク)に襲われたって生きて戻ってきたんだ。《悪魔》程度へっちゃらさ」

呵々(カカ)…。なに、本人が言う通り悪運だけはあるやつさ。お前は自分の心配だけしておいで」

「うん…」

 

 ツェツェクは最後まで寂し気にしていたが、最後にはしっかりと頷いたのだった。

 

 ◇

 

 そして瞬く間に時間が過ぎ去っていく。日が経つにつれて仮設の救護所として増設した天幕に運び込まれる子どもの数は増えていった。

 

「今度はバト・バヤルのところの次男坊か…」

「すまないね。私たちももっと手伝えればいいんだが…」

「気にするでないよ、バヤン。皆も日々の仕事があるんだ。とはいえ人手はいくらあっても足りないからね…」

 

 二人が多忙を極めるのと反比例するようにツェツェクと顔を合わせる時間は減っていく。バヤンを筆頭に手の空いた大人が代わる代わる面倒を見、ジュチもまた一日に一度は必ず天幕に顔を出したがやはり寂しそうな顔を隠せない様子だった。その寂しげな様子に心を痛めながらも日々増える《悪魔》に憑かれた子供たちの介抱に少しずつ心の余裕が削れていく。

 

「きっつい…な」

「ここが踏ん張りどころだ…。皆懸命に《悪魔》に打ち勝とうと頑張っているよ」

 

 弱音を漏らす義息を叱咤するモージの声にも力が無い。だが不幸中の幸いと言うべきだろう。ジュチの知識とそれを生かすモージの智慧が組み合わさり、倒れた子供はいても未だに天に召された子供はいない。

 

「それにしてもお前だけは倒れる予兆もないね。これだけは私も驚きだ」

「俺が一番驚いているよ。何でだろうな?」

「さてね。天神(テヌン)の智慧は答えを教えてくれないのかい?」

()()、仰々しい名前ほど便利でも万能でもないんだよ。分からないことの方が多いし、()()()()のにもコツがいるし」

 

 二人して首を傾げているように何故かジュチだけは当初の予想を裏切って病に倒れることもなく、朝から晩までモージに付きっきりで子供たちの看病を手伝っていた。これには二人揃って疑問を覚えたが、すぐにそういうものだと受け容れた。たまたまこの病に対して耐性やら免疫やらがあったのだろうとジュチは考え、モージはごく稀だがそういう子どももいないわけではないと経験則からの受容だった。単に気にしている余裕がなかったとも言う。

 

「……それでも髪を持っていくのは勘弁してほしいけどな」

「小僧っこの髪なんぞが《悪魔》避けの御守りか。中々出世したじゃないか。その内生き神様として崇められる日が来るかもしれないねぇ」

「勘弁してくれよ。お陰で髪の長さはバラバラ、皮膚は引っ張られてヒリヒリするしで散々だ」

 

 モージの揶揄いにブスッとした顔で応えるジュチだが、ぼやくだけの理由はしっかりあった。

 《悪魔》が好む子どもでありながら平気の平左で働き続けるジュチに部族の皆は()()を見出だしたらしい。ジュチの髪の毛をもらって病状の恢復を祈る小さな輪っかを作っては自らの子の指にはめたり、袋に入れて持ち歩いたりとありがたい物扱いされていた。当初は困惑していたジュチだが気休めでも皆の気が晴れるのならと快くその求めに応じた。が、髪を切り取られる回数や向けられる祈りの切実さに途中から心が挫けそうになっていた。

 

「なに、人は意外と些細なことでも気持ちが救われるものさ。病と闘ううえで何よりも大事なのは気力だ。病に倒れた者だけではなく、周囲の者もね。そう考えればお前の髪にも確かな霊験が宿っているとも言える」

「……ま、効果があるなら良いけどさ」

 

 痛い思いをした元は取れてるのかね、と養母譲りの捻くれた口調で零すジュチだった。

 ちょっとした休憩時間に些細な軽口を交わし合い、せめてもの息抜きにしていた両者だが、飛び込んできた凶報に目を剥いた。

 

「モージ、ジュチ! ちょっとこっちに来てくれ…!」

「何事だい、騒々しい…!」

「ツェツェクが…!」

 

 耳に飛び込んできた名前に不吉な予感が()()()と背筋を奔る。最悪の予想が当たった、あるいは恐れていた事態が生じたと言うべきか。ジュチ達の元へ飛び込んできたのは、ツェツェクもまた《子殺しの悪魔》に憑りつかれたという最悪の知らせだった。

 



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賭けに張り込むモノ

 

 その凶報が二人にもたらしたのはやはり、という納得と何故、という疑問だった。ツェツェクが《悪魔》に憑かれたところまでは納得できる、だが何故倒れるまで誰も気付かなかったのか。

 

「モージ、ツェツェクは…!?」

「静かにおし。いま診ている」

 

 自分が一番可愛がっている義妹が倒れたと聞いて平静でいられないジュチが強い焦りの滲む声をかけるが、応じるモージの声もいつも以上に平静で固い。つまり普段の余裕が見られなかった。それだけ強烈な衝撃がモージを襲っていた。

 《悪魔》に罹患した子ども達の致死率は大よそ三割程だとモージは過去の経験から語った。だが同時に貧しい生活をしていたり、持病を抱えていれば最悪の数字は跳ね上がるという。その点で言えばツェツェクに限らずカザル族の子ども達は決して栄養状態が良好だったとは言えない。十分に起こりうる()()の予感がジュチの脳裏を過ぎった。

 

「……間違いない。この子も《悪魔》に憑りつかれておる。我が子が倒れるほど衰弱していたというのに見抜けなかったとは、この節穴が憎らしいわ…!」

『…………』

 

 血を吐くようなモージの言葉に周囲も軽々しく慰めをかけられない。モージと心情を共有するジュチは爪が掌に食い込むほど握りしめ、自責の念で頭が一杯になっていた。

 

(気づけたはずだ…! ツェツェクがこの病に罹りうることも、ツェツェクの性格上それを隠そうとすることも…!)

 

 子供たちの看病に駆け回る二人を見て、家族思いのツェツェクは恐らくこれ以上の負担をかけまいとしたのだろう。咳が出るようならすぐ伝えるようにと言いつけていたが、それを無視した。いや、言い出せなかった。この病の初期症状は軽い。これくらいなら我慢できると思ってしまったのかもしれない。

 だからもし気付けるとしたら自分だった。少なくとも最も子供たちの看病に追われるモージよりも顔を合わせる機会が多かったのだから。ツェツェクと一番繋がりを持ち、何を考えるか想像がつく自分こそが気が付くべきだったのに…!

 

「あまり己を責めるな、ジュチ」

「モージ…でも」

「戯け、十二の小僧が年長者の私を差し置いて己を責めるなど五十年早い」

 

 ポンと励ますように頭に手を置いてかけた不器用な慰めにもジュチは唇を引き結んだまま、自責の念を解くことは出来なかった。その姿を見て胸の内だけで嘆息する。

 

(あの夜語り合った()()()、あるいは現実となるやもしれんか…)

 

 叶うならば乗りたくなかったハイリスク・ハイリターンな賭けの内容をモージは思い返す。その賭けに負けた時、老女はツェツェクのみならず、ジュチも失うかもしれない。その事実を受け止めると酷く気の重い胸中へさらに憂鬱さが混じり、抑えきれないため息を吐き出すのだった。

 

 ◇

 

 数日前、ある夜の一幕。

 部族に《悪魔》が襲来し幾日か経ち、族長家の天幕でモージと族長ソルカン・シラの間で《悪魔》について話し合いがもたれていた。

 

「モージよ。《悪魔》退治に多大な働きをこなし続けていること、バヤンから聞いている。改めて感謝の意を示す。この通りだ」

「止しておくれ。巫女の務めを果たしているだけだ」

「だとしてもだ。出来ることがあれば何でも言ってほしい。叶う限り力を尽くす」

 

 《子殺しの悪魔》の名で知られているが、大人でもこの病に罹る事実をソルカン・シラも当然知っている。モージがそのリスクを呑んで誰よりも病に倒れた子供たちの近くに身を晒している勇気を称賛し、頭を下げずにはいられなかった。

 

「そこまで言うならば、まあ、男衆も精々こき使わせてもらおうかね」

「放牧に出している男衆を除いて残らず呼び戻しているところだ。力仕事ならば任せても良かろう」

「看病なぞは信用できんので任せられんがね。全く男どもの杜撰さと来たら…!」

「男達は外へ向かい、畜獣を肥やすのが生業。天地を相手にする仕事なれば細やかさは求められん。勘弁願いたい」

 

 捻くれた物言いに苦笑いの混じった言葉が返される。互いに視線を送り合った両者が同時にフ、と苦笑を漏らし合った。気を取り直すように表情を改めたソルカン・シラが、真面目な話題へと切り替える。

 

「族長として此度の《悪魔》退治の見立てを改めて聞きたい」

「悪くない…。いや、良くはないが思っていたよりもずっといい。南方亜大陸(エネトヘグ)の行商人から仕入れた黒砂糖と我らの牛酪(バター)、シャンバルの岩塩を適量混ぜて処方した薬膳湯が大分利いたね。量を使った分部族の貯えを随分と費やしてしまったが…」

 

 ジュチの意見を取り入れ、部族の貯えを惜しみなく使って作り上げたそれは身体の弱った子供でも飲みやすく、高カロリーかつ各種ミネラルと水分をまとめて補給できる高栄養食だった。バター茶とスポーツドリンクを組み合わせたような代物で、慢性的な栄養不足に陥っていたカザル族の子ども達には覿面に利いた。

 

「子らは明日の戦士であり、母だ。止むを得まい。だが《悪魔》に憑かれた子ども達は増え続けている。いまの貯えで病が収まるまで果たして持つか?」

「……ギリギリ。いや、足りまい。()()を行わねばならぬやもしれぬ」

巫術(ユルール)では何とかならぬか?」

「難しい。元々病の治癒は巫術(ユルール)の苦手な分野でね…。下手に(まじな)いをかければ悪化することすらある。怪我ならばお手の物なのだが」

「そうか……そう、か」

 

 フゥ、と二人は示し合わせたようにこの夜で最も重苦しいため息を漏らした。

 

「口惜しいことだ。もし我らがもっと豊かであれば、救える子らの数も増えただろうか?」

「恐らくは。だがそれは死児の齢を数えるのと同じことだよ」

「そう、なのだろうな。だがどうしても考えるのだ、他に手はなかったのだろうかとな」

 

 悔いるように自らの掌に目を落とすソルカン・シラ。掌から零れ落ちる命の数を数えているような視線に対面に座るモージも同じように視線を落とした。

 

「別の手も、無いでは無い…。だがそれは…」

 

 ほんの数日前までならば不可能と断じ、思考の隅にすら浮かばなかっただろう考え。だが誰もが予想していなかっただろう奇縁が微かな可能性を紡いだ。

 だがモージにとってその腹案は決して無条件で部族を救う福音などでは無かった。

 

「取る手があるならば聞いておきたい。如何なる風向きに皆を導くかはさておき、向かえる道先の数は多いほど良い」

「……良いだろう。どの道簡単に向かえる道行でもないからね」

「聞かせてもらおう」

 

 一言断りを入れてからモージが語り始める。《悪魔》退治の特効薬の存在、そしてそれを手に入れるまでに踏破せねばならない障碍の数々。そして最も困難な障害を乗り越えうるかもしれない、ささやかな可能性を。

 

「――――――。―――――――――、――――――」

「―――…。――、――――――――。――――」

「――、――――――…」

 

 詳細を聞いたソルカン・シラはしばらくの間、ジッと虚空を見つめたまま思索に耽る。少なくない時間が経ち、やがて一息ついて姿勢を崩した。リスクとリターンの釣り合いを考え、少なくともいまモージの提示した道先へ向かうわけにはいかないと納得したために。

 

「……なるほど、確かにモージの言う通りだ。失敗すればただ無為に人を失う結果に終わるか」

()()()その道を選ぶならば、ソルカン・シラよ。任に(あた)うのはジュチだけだ。奴だけが僅かな希望を掴めるかもしれん。だがそれは余りに険しい道行きだ。希望と言えば聞こえは良いが、余りにもか細い光だよ」

 

 故に軽々しくその道を選ぶべきではない、と忠告する。それこそ部族の宝、次期《舞い手》であるツェツェクが倒れ、瀕死であるような状況でもなければ…。加えて病に憑かれた者の数が増え続け、許容限界を超えるような状況にならなければ…。一か八かに挑まねばならない状況に陥らなければ、賭けるべきではないと。

 

「そもジュチだけでは難行に挑むことさえ叶わんだろう。旅慣れた同行者が要る。それも《天樹の国(シャンバラ)》までの旅路を知る者が望ましい…」

「モージよ、念のため聞くが貴女はどうだ? 一度とはいえかつてかの国を訪ねた貴方ならば」

「足萎えの老人に多くを期待するもんじゃない。今更山を幾つも越える道行きは私には荷が重いさね」

「確かにな」

 

 呆れたようにモージが言葉を返すと、応じるように苦笑いが一つ零れた。

 

「だが《天樹の国(シャンバラ)》へ向かった経験がある者など本当に僅かだ。存命なのはそれこそ私くらいだろう。やはり、難しいやもしれん…」

 

 そう否定的な見方を示されるが、幸か不幸かソルカン・シラには心当たりがあった。

 

「……当ては、ある。アゼルだ」

「アゼル? いや、そうか。アゼルは兄御にひと際可愛がられていたな」

「然り。モージ、かつての旅路、貴方とともに挑んだのは…」

「兄御だ。友好から程遠い闇エルフとも体当たりで通じ合う、我が兄ながら不思議な男だった。別れる時には心を通じ合わせ、昔からの同胞(はらから)のように馴染んでいた」

 

 今は亡き親族の面影を思い出し、懐かしさに僅かに心を和ませる二人だが、迫りくる現実がすぐに意識を引き戻す。

 

「我が父にしてアゼルの祖父。叔母御、貴方の兄でもある先代からアゼルは薫陶を受けて育った。奴で叶うかは分からぬが、奴が叶わぬならば他の誰も叶うまい」

「ならば向かうとすればアゼルと、ジュチの二人…。もう一人、誰かしら付けるか」

「厳しい。男手も決して足りているわけではない。部族の男衆を束ねる立場としては、余り長期の間二人の若者を他所に取られるのは辛い」

「ましてやその旅路が危険に満ちたものならば、かい?」

「……言いたくはないが、分の悪い賭けに張り込み過ぎる訳にはいかん」

「皮肉な話だ。恐らくは賭けに張り込んだ少額の財産を、最も重く感じるのはきっと我ら二人なのだろうな」

 

 二人は再びフゥと深くため息を吐き合った。それは賭けに失敗した時に失われる()()の重さ。それも部族の行く末を預かる者として、失われる命と親しい者として感じる重さから来る長いため息だった。

 

「……そのような賭けに踏み切ることが無ければ良いのだがなぁ」

「そのためにもまた明日から働かねばならん。ソルカン・シラよ、貴方もだ。男衆の引き締めは任せたぞ」

「なに、承知しているとも。こう見えて私はそういうのは大得意なのだよ、叔母御」

「ハ…! 失笑すら湧かぬほど知っているさ、我らが族長。戦士殺しのソルカン・シラよ」

「勘弁してくれんかね。若気の至りという奴だ、それは」

 

 若い頃のやんちゃを取り上げられたソルカン・シラの頬に苦笑いが浮かぶ。それを見たモージも皮肉気だが楽しそうな笑みを浮かべ、丁々発止とやり取りが続いた。わずかに緩んだ空気のまま、天幕の時は過ぎていく。

 

 ◇

 

 そしてこの夜のささやかな願いは成就することなく少年(ジュチ)青年(アゼル)ははるか北方、黒き妖精族(アールヴ)達が住まう《天樹の国(シャンバラ)》へ向こうこととなるのだった。

 



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永遠の花

(死にてぇ…)

 

 ツェツェクが《悪魔(アダ)》に憑かれた事実が明らかになって一晩が経ち、どん底まで落ち込んだ気分で起床したジュチ。

 目を覚ました少年を真っ先に迎えたのは目元に隈を浮かべながら眼光だけは爛々と輝かせるモージだった。正直寝起きに見たくないくらいには怖かった。

 

「ジュチよ、《精霊の山(マナスル)》へ向かえ」

「何言ってんだ。ボケたのか、モージ」

 

 間髪入れず返した暴言に応じて手が霞むほどの勢いで平手に(はた)かれ、ジュチの軽い頭はスパーンと快音を鳴らした。

 

「相変わらず礼儀の知らん小僧め…!」

「そっちこそ手の早さは前以上じゃないか」

「なにを…?」

「なんだよ…」

 

 にらみ合ってやや険悪なやり取りを交わす二人だが、どちらからともなく視線を外した。普段ならば冗談混じりに交わすやり取りであるが、大切な家族が倒れた二人は互いを気遣えるほど余裕がなかった。

 息を吐いて一緒に怒りも吐き出したモージが真剣な表情で語り掛ける。

 

「ツェツェクを助けるためだ」

「!? それを早く言ってくれ」

「言おうとしたところで貴様が話の腰を折ったんだ」

「う…」

 

 ここぞとばかりに睨みつけられて怯む。全くの正論であった。

 

「お前は《精霊の山(マナスル)》についてどれほど知っている?」

「《精霊の山(マナスル)》って言ったら…ちょっと待った、えーと……アレだろ?」

 

 ジュチが腰を上げて天幕の入り口にかかる毛氈(フェルト)を脇によけ、ひょいと指さした()()、ジュチらカザル族が縄張りとする大平原西部のほぼ全域からその雄姿を眺めることが出来る雄大な霊峰こそが《精霊の山(マナスル)》。すなわちシャンバル山脈最高峰に連なる大霊山である。

 当然成人も迎えていない少年が挑めるような代物ではない。登頂を踏むどころか、真夏に山壁を横断した者を勇者と呼んで称えるような特級の難所だ。

 

「《精霊の山(マナスル)》に登れとか死んで来いって言われてるようなもんだと思うんだけど」

「戯け、誰が()()と言った。私は()()()と言ったんだ」

「……ああ、なるほど。で、目的地は?」

 

 一呼吸分ほど時間をかけて微妙なニュアンスの違いを汲み取り、改めて問いかける。

 

「《天樹の国(シャンバラ)》…辺土の霊峰に根付いた闇エルフ達が住む山の上の王国だ。正確にはその端っこにある《精霊の山(マナスル)》だが」

「フィーネ達の…? 昔話で聞く、あの御伽の国か…」

「御伽噺などではない。大分誇張が入っている部分もあるが、語り部が語るのはれっきとした事実ばかりだよ。」

 

 この辺りに住む部族の子ども達は闇エルフ達についてまるで御伽噺のように昔語りを聞いて育つ。語り部たちが話す闇エルフは闇に潜んで獣を狩り、山から黒鉄(クロガネ)を掘り出す。気性は偏屈で血を好み、天神(テヌン)ではなく天に届くほど巨大な大樹に祈りを捧げるという。高山帯であるこの一帯に巨木と言えるほどの木は育たないから、最後の言い伝えは恐らく間違いだろうとジュチは勝手に思っている。

 《天樹の国(シャンバラ)》の住人であるフィーネにはもっと話を聞いておけば良かったなと今更ながらに思う。きっとためになっただろうし、何よりとても面白かったはずだ。

 

「昔から外部とほとんど交流のない国でねぇ。確か邦長(クニオサ)が各々の集落を治め、邦長(クニオサ)妖精王(フレイ・イン・フロージ)が緩やかに纏める形で国を率いていたはずだ。

 民の気質は閉鎖的で血統主義、おまけに余所者には警戒心が強い。だが奴らの礼儀を知る者には一定の待遇で応じるし、蓄えた智慧は私などよりもよほど深く広い。気に入らぬところ、反りが合わぬところも多いが、大した国であることは間違いない」

「モージはそこに行ったことがあるのか?」

 

 自分の目で見たことがあるような言葉に思わず問いかけると。

 

「若い頃に一度な」

 

 と何でもないことのように頷かれた。おお、と思わず感嘆の声が漏れ、好奇心がうずうずと疼き出す。

 騎馬民族というと根無し草のような自由に移動する漂流生活を想像するが、実際のところは決まった縄張りの群営地を季節ごとに巡る回遊生活と言った方が実態に近い。緑の絨毯が地平線の果てまで続く大草原であっても、其処に住む騎馬の民は意外なほど縄張り意識が強いためだった。さながらパズルのピースのように、縄張りの境界は曖昧に重なり合いながらもきっちりと区切られていた。

 故に騎馬の民は外部から思われているより行動範囲は限られる。そこに闇エルフの王国、天上に築かれた妖精達が暮らす御伽の国などという好奇心がくすぐられるワードを目の前に垂らされれば食いつくのは自然な成り行きだろう。今が非常時でなければ目を輝かせてモージから根掘り葉掘り聞きだしていたはずだ。

 

(《悪魔》さえいなければな…)

 

 これまでとは全く別の理由で《悪魔》に対して腹立ちを抱きながらも、胸に疼く好奇心をグッとこらえて己が取り組むべき事柄について問いかける。

 

「それじゃ俺は何をしてくればいいんだ?」

「《精霊の山(マナスル)》はその名の通り、精霊が好む特別な霊峰だ。そこでしか咲かないある花は《悪魔》退治に特効となる霊薬の材料になる。それを採取して来てもらいたい」

「……その花の名前と、特徴は?」

「花の名は永遠の花(ムンフ・ツェツェク)。闇エルフ達は高貴な白とも呼ぶらしい。一度見れば忘れられない純白の花弁を持つ、美しい花だ」

「ツェツェクと、同じ名前か…」

「逆さ。あの子の名は永遠の幸せを願って、あの花から取った。ま、あの子の名前自体はありふれたものだからこれまで由来を話す機会も無かったがね…」

「…………」

 

 フ…、と僅かな刹那、モージは過去に浸るような遠い目を見せた。ぶっきらぼうな態度に反して意外なほど愛情深い彼らの養母が見せた回顧の念にジュチは軽々しく相槌を打てず、ただ沈黙を守る。

 数瞬訪れた沈黙の後、(かぶり)を振ったモージが話を再開した。

 

「過去のことは良い。お前も聞きたいことがまだまだあるだろう?」

「……ああ。何故俺なんだ? 俺よりももっと旅慣れて、腕の立つ奴は幾らでもいるだろう。やっぱりフィーネが関係してくるのか」

「理由は二つある。一つ目、永遠の花(ムンフ・ツェツェク)はマナスルの極めて峻嶮な岩壁に根付く。私が知っている群生地ははっきり言って人が登れる代物じゃない」

 

 それではどうしようもないだろう、と普通ならば食って掛かるところだがジュチはピンときた。

 

「だから大角(エウェル)に乗れる俺なのか」

「その通り。本来なら私が行きたいところだが、皆を診る役目を疎かにするわけにはいかぬでな」

 

 山羊である大角(エウェル)が持つ登攀(とうはん)力は人間を大きく上回る。彼らは岩璧に僅かな罅や突起などの取っ掛かりがあれば、例え垂直に近い角度でも()()()と登り詰めてしまう達者なのだ。

 

大角(エウェル)ではないが、かつて私自身が相棒を頼りに岩壁を登り詰め、かの霊草を摘み取った。困難ではあるが、不可能ではない」

 

 頼りになる言葉によし、と手を握り意気を高めている少年。だがその燃えるような気合いに水を差すように、モージは冷静な声で続けた。

 

「二つ目、察しているようにお前が友誼を結んだフィーネなる妖精族の少女だ。はっきり言えばお前が彼女と縁が無ければこんな博打を打つことすら無かっただろう。勝ち目のない博打に張り込むほど馬鹿らしいことはない」

「と、いうと?」

「……あそこはとにかく閉鎖的で厄介なお国柄でねぇ」

 

 過去を思い返すような沈黙を挟んだ、心なしか苦い口調での呟きだった。

 

「どれくらい?」

「一概には言えんが……仮に何の伝手もないまま、国境へ向かえばたちまち囲まれて弓を向けられてもおかしくない。私も過去一度訪れたことがあるとはいえ大分昔のこと。伝手などとうに消えていようしな」

「どうしてそんなに外から来る奴らに厳しいんだ?」

「奴らは縄張りを見知らぬ輩がうろつくのを特に好まんのだよ。彼奴等が生み出す産物の多くは遠方からでも求める者が後を絶たぬ。黒鉄(クロガネ)造りの工芸品に絹、《魔獣》の馴致技術…まさに宝の山よ。加えて闇エルフ達は見目も良く、いつまでも若い。盗みたく、攫いたくなるのも頷けると言うものさ。

 欲望にそそのかされて悪心抱く者も一人や二人では済まん。奴ら自身がごまんと富を生む手腕に長けていながら内に籠りたがるのはそのせいだ。奴らとの交易はごく限られた者しか許されず、国内に足を踏み入れて無事で済む者は少ない」

「ダメじゃん」

「そこでお前がフィーネから授かった懐剣の出番だ」

「これが?」

 

 と、肌身離さず懐に忍ばせている懐剣に触れながら言う。

 

「ああ。この際だから話しておくが、フィーネは恐らく妖精王の系譜に連なる王族だ。それも現王直系の王女である可能性が高い」

「うっそだろモージ」

 

 あの天真爛漫で頭の中身が軽そうな少女が一国を代表する高貴な身分とは…。

 モージがいい加減なことを口にするとは思えないが、それでも信じがたい話だった。

 

(たわ)け。冗談でこんなことを言えるものか。念押しするが他の闇エルフ達がいる前で貴族の姫を相手に軽口を叩けば下手をすれば捕らえられるか矢を向けられてハリネズミになるぞ」

「……気を付けるよ」

 

 正直まだ信じられないものの、忠告はしっかり受け取ったことを示すために頷く。

 

「その懐剣に彫られた紋章は《天樹の国(シャンバラ)》の国章だ。お前があちらの貴族階級にある者と友誼を結んでいる証明となる。闇エルフ達に懐剣を見せればそう無下には扱われまい。

 奴らは排他的だが一度懐に潜り込めばまるで身内へ接するかのように手厚く遇する一面もある。其処から先は……もう臨機応変にとしか言いようがないね」

 

 ほへー、と感心したような声を漏らす呑気な養い子に不安を募らせるモージ。

 試すか、と心の内で決断し、いつもの何倍も厳めしく、威厳のある声を出した。

 

「ジュチよ、よく聞け」

 

 張り詰めた空気を纏うモージがそう切り出す。するとス…、と眦を鋭くしたジュチが応じるように身を正した。

 

「既に悟っているだろうが、この旅は決して楽なものではない。《精霊の山(マナスル)》へ辿り着くまでに数多の危険を掻い潜らねばならぬ。険しい山道は弱者を容赦なく振り落とすだろう、道中に潜む獣どもは狡猾だ。お前を千里付け狙い、隙を見せれば瞬きの間に命を落とすと思え」

 

 どこか脅すように、諭すように低い口調で旅路に潜む危険について語り聞かせていく。

 

「先ほども語ったように闇エルフ達は己の縄張りを侵す者に容赦がない。懐剣があるとはいえ、どれほど頼りになるかは実際に試さねば分からん。一手対応を間違えれば即ち身体に風穴が開くと心得よ。何よりも彼奴らは我ら騎馬の民すら上回る弓達者。加えて山岳の陰に潜み、谷を峰を縦横無尽に踏破する手練れ揃いよ。その縄張りで奴らを怒らせ、生きて帰った者はいないと聞く」

 

 長広舌を連ねて、闇エルフの脅威が語られる。老女の気性を考えれば恐らく多少の誇張はあれど、嘘はないだろう。間違いなく危険な旅路となる。

 不安と恐怖に凡庸な少年の心は揺れた。

 

「それでも、行くか」

 

 その揺れ動く心を見定めるかのように鋭く問いを発した。 

 いっそ諦めた方が良いのでは、と怯ませる厳しさを滲ませた問いかけに、

 

「ああ」

 

 少年は簡にして単、ただ一言の意思表示を持って応えた。

 恐怖がない訳がない、そして恐怖を乗り越える勇気の持ち主でもない凡庸な少年はそれでも諾と頷いたのだ。

 

「……そうか」

 

 それはどこか憂鬱さを含んだ声音での相槌だったが、モージはすぐに気を取り直して話を続けた。元より彼らに許される選択肢はそう多くなかった。

 

「ソルカン・シラと昨晩話を詰めた。悪魔に憑かれた子らは増え続け、遂にツェツェクまで倒れた。このままいけば早晩我らカザル族の幼子たちの多くは次の季節を迎えることが叶うまい」

 

 悲観的な予測を敢えて淡々と語るモージ。彼女と共に病床の子らの看病を続けていたジュチも薄々その不穏な未来に感づいていたから、部族の命運を背負う重圧は感じても驚きはない。

 

「最早一刻の猶予もない。旅装の準備と並行して道先案内人とするためアゼルを呼び出しているところだ。準備が整い次第、お前たちはマナスルへ迎え」

「何故アゼルなんだ? 他の奴らじゃダメなのか?」

 

 決してアゼルを厭うているわけではなく、時間短縮の意図を持ってかの《狩人》の位を持つ若者を呼び寄せる理由を問いかける。

 

「アゼルはかつて私とともに天樹の国(シャンバラ)へ赴いた先代族長から薫陶を受けて育った。自然、かの王国へ向かう旅路や闇エルフ達の風習に詳しい。奴の力が必ずやこの旅に必要になるだろう」

 

 老女の説明になるほどと頷く。住みつく地域に人種すらも違うのだから、文化や風習が異なるのは当然だろう。特に今しがた散々聞かされたように闇エルフは排他的で一筋縄ではいかない種族だという。

 間違いなく危険だ。そしておそらく頭で理解できる程度の危険など、現実として降りかかる困難の一端でしかないのだろう。そうと知りつつジュチは精々不敵に見えるようにニヤリと笑った。尤も幼い見た目もあって良く言って小生意気な悪ガキの笑みだったが。

 

「でも行くよ。なあに、飛竜に追われたって生きて帰れたんだ。闇エルフとやらの国の隅っこにお邪魔するくらいへっちゃらさ」

 

 飛竜に追われて生き残った悪運、天神(テヌン)の寵児として目覚めた実績に思春期特有の自意識過剰な思い込みが絡まり合ったから出来る大言壮語。だが偏屈な物言いから想像できないほど家族思いなモージを少しでも安心させるためという思いもまた嘘はなかった。

 義息を見て何となくその心情を悟った老女傑は嬉しさと微笑ましさ、不安を渾然一体に感じ取りながら何とも言えない苦笑を漏らした。

 

「本当ならば私が行ければ一番いいのだがな…」

 

 何気なくモージの口から零れ落ちた、やるせなさを感んじる力ない言葉に敢えて軽い口調で応じる。らしくない、といつも矍鑠として豪快でさえある老女へ語り掛けるように。

 

「おいおい、モージが幾ら見た目よりも元気だからって何でもかんでも自分でやってちゃ後が育たないって。聞いた皆が羨むような大冒険だ、若い俺らに譲ってくれよ。天神だって強欲の不徳でバチは当てないだろうからさ」

「こやつめ…大口を叩くものだ!」

 

 スパーンと再びの快音。

 ジュチは冗談めかして言ったが、実際モージは歳の割に矍鑠としているとはいえ高齢だ。山々を幾つも越えるような過酷な旅路に耐えられないだろう。モージ本人がそれを分かっているからこそ、義息の軽口に応じた平手も八つ当たりの意味を込めて強く、そして複雑な思いを込めて放たれたのだった。

 




 いつも本作を読んで頂きありがとうございます!
 ここ数日でこれまでとは別物のようにPV・お気に入り数など伸びており、後退しつつあった気力が充填しているのを実感中です。
 読者の皆さま、改めて感想・応援頂きまことにありがとうございます。
 ひとまず第一章にあたる《精霊の山》に赴き、霊草を摘み取る旅路の終わりまではプロットも出来上がっておりますので、そこまでは必ず辿り着きたいと思っております。現時点では全体の尺の大体7割くらいでしょうか。
 この旅路の中で前世知識以外はどこにでもいる少年(なお闇エルフの姫君により魔改造済み)は、自分の意思で『普通』から道を踏み外していく予定です。
 並行して別作品にも取り掛かっているので、執筆に時間がかかるかもしれませんが、気長にお待ちいただければ幸いです。

 また小説紹介サイト『まろでぃの徒然なる雑記@Web小説紹介』様にて本作を紹介頂きました。こちらでご紹介頂いたことが本作が日の目を見たおおきなきっかけかと推測しております。
 まろでぃ様、本作をご紹介いただきありがとうございました!

 それとこちらのハーメルン様にてタイトルについて変更の是非についてアンケート実施しております。よろしければご協力をお願いいたします。
 実は複数の方からタイトル変えた方が良いですよと言われまして。正直タイトルセンスに自信がないもので、ご協力いただけますと幸いです。

 以上、今後とも本作をよろしくお願い致します。


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前兆

 

 モージから果たすべき使命について聞かされたジュチは、残された時間の殆ど全てを旅の準備に充てた。モージが語る旅の道行きを必死に記憶にとどめ、ソルカン・シラが手配した旅装に加えて乏しい知識を精一杯振り絞りながらの準備を進める時間だった。

 そしてほんの少しの時間だけモージと共にツェツェクの見舞いにも顔を出した。

 

「ツェツェク…」

 

 発症初期の対処を何もできなかったこともあり、ツェツェクの容態は他の皆と同じかそれ以上に悪かった。ひどく衰弱し、息を荒げている義妹の弱々しい姿に胸を締め付けられる。

 思わず漏れた声に気づいたのか、ツェツェクはジュチを見て微かに微笑(わら)った。そしてそれ以上のことは出来ず、ジュチ達も今以上にツェツェクのためにしてやれることが無い。

 

「必ず、御山から薬草を持ち帰る。だから」

 

 死なないでくれ、と言葉にならない懇願を絞り出すように祈る。ツェツェクの手を握り、小さな背中を丸めるようにして祈るその姿をモージだけが見ていた。

 

「行くぞ」

「ああ…」

 

 重い声音による促しに応じ、天幕を出ていく。

 

「……アゼル。まだ戻ってこないな」

 

 ポツリと漏れた呟きが示すように、いま畜獣達を肥やすため放牧に出たアゼルを呼び戻すための伝令が複数騎放たれ、彼らを探しに出ていた。

 

「焦るな。元より放牧に出れば、当分の間連絡は望めんものだ。だが予め放牧は近場で済ませるようアゼルには伝えてある。伝令に出た者がアゼル達を見つけ出すまでさして時間もかからんはずだ」

 

 出来る準備を全て終え、ジリジリと焦るジュチを宥めながらも時間が経ち…。

 

「族長よ、いるか!?」

 

 そしてアゼルは予想よりも早く放牧から帰還した、ただし誰もが予想もしなかった特大の凶報を携えて。

 戻ってきたアゼルは族長家の天幕に飛び込み、ソルカン・シラと対面するなりカザル族と縄張りを隣接する雲雀(ボルジモル)族が攻めてきたと大声で告げたのだ。

 

「……なに? ボルジモルの連中がここを攻めてくる?」

「そうだ。確かにこの両の目で見た。《狩人》として俺は皆の指揮を執らねばならん」

 

 常に寡黙で精悍な顔を崩さないアゼルが焦りを滲ませた声で族長家の天幕に集まった皆へ告げる。アゼルとともに帰還した若者たちも、口々にアゼルの言葉に同意を示し、戦支度だと叫んだ。

 

「お前の言を疑うわけではないが、真実(まこと)か? 見間違いということはないのか」

「少なくとも彼奴等が武装した男達をまとめ、我らの縄張りを侵しているのは確かにこの目で見た。奴らに真意を問い質し、必要ならば応報の矢をくれてやらねばならん」

 

 少数ならばまだしも集団で武装して他所の部族の縄張りを駆け回るなど、最早宣戦布告とすら言えない蛮行である。敵対的な意思から来るものであることは明らかで、はっきり言えば喧嘩を売っている。

 

「我らが先んじて奴らを見つけられたのは本当に運が良かった。地の利も我らに味方したが彼奴らがこの営地まで辿り着くまでさして猶予もないだろう。放牧に出している畜群も略奪されていない保証はない。すぐに男達をまとめ迎え撃つべきだ」

「確かに、な。むう…奴らに一体何があったというのか」

 

 ソルカン・シラの呟きに同調するように周囲のざわめきも戸惑いの色が強い。確かにカザル族とボルジモル族は決して良好な関係とは言えず、少し前にはちょっとした揉め事も起きた。だがそれでも戦が起きるには前触れが無さすぎる。

 

「我らと奴らの間にそれほどの遺恨を持った覚えはないぞ…!」

 

 何かしらの大義名分を出して敵対部族に難癖を付け、時に周辺の諸部族を巻き込んで、言葉の殴り合いから始めるのがこの一帯における()()の戦争である。交渉の窓口を持つこともなくいきなり襲い掛かるというのは奇襲の優位を得られるため一見有効に見えるが、実際は戦争の結末が互いが互いを()()()()()()族滅させるしかないという崖っぷちに追い込むリスキーな選択だった。ソルカン・シラの困惑も当然と言える。

 もちろん周囲の皆と同じように驚きと焦りに襲われたジュチも苦々しく何故と呟いていた。

 

「なんでよりにもよってこんな時に―――……待てよ?」

 

 部族の子ども達の命運が本当にギリギリの瀬戸際にあると知っているジュチは苛立ちも露わに文句を吐き捨てようとしたが、ここで脳裏にもしやと閃きが走った。

 

(思い出せ)

 

 直近であったボルジモル族との関りと言えば、やはり過日の両部族の馬群が混じった一件が記憶に新しい。

 ボルジモル族とカザル族の馬群が混じった際に、両部族は警戒して遠方から話し合いながら、血を見ることなく馬群を過たず分けた、はずだ。これはアゼルから聞いた話だから確かである。

 ジュチの頭の中ではアゼルからこの話を聞いた時点で、既に終わったこととして片付けられていた。上手くアゼル達がコトを処理し、これ以上の揉め事に発展する可能性は低く、また目下最大の危機である《子殺しの悪魔(アダ)》が蔓延した感染源であるとも考え辛かったからだ。

 

(だけどもしそうじゃなかったとしたら?)

 

 もしも過去のジュチが疑ったように《悪魔》はボルジモル族の方から忍び寄ってきていて、ボルジモル族もカザル族同様に《悪魔》の脅威に晒されていたのならどうだろう。彼らはカザル族以上に貧しい部族だ。自然と備えは少なく、受ける被害も大きいだろう。

 そしてその推測を補強する知識がジュチの中にあった。

 

()()()()()()()! もしかして馬たちが《悪魔》の取り憑く媒介になってたのか!?)

 

 人畜共通感染症。人と畜獣の双方が感染し、互いに感染源となりうる病である。

 《悪魔》の感染源は人ではなく混ざり合った両部族の馬群だった。こう考えれば突然《悪魔》の蔓延が始まったことにも納得がいく。馬群は個々の家族ではなく、部族全体の馬たちをまとめた群れだ。放牧後にはそれぞれの持ち主たちの元へ戻されるから、そこから一気に部族全体へ広まったと考えられる。

 恐ろしく強引な仮説だがそうと考えれば辻褄が合ってしまうのだ。つまりは、

 

「《悪魔》に襲われて困窮したボルジモルの連中がやけっぱちになって俺たちを襲ってきた…?」

 

 下らない邪推と片付けるには、この草原の大地は物騒すぎる。面子や困窮、些細ないざこざ。あるいはもっと下らない、どうしようもない理由でも戦は起きる、起きてしまうのだ。この辺土に生きる者たちは実体験としてそれを知っていた。

 

「ジュチ、なにか思いついたことがあるなら言え」

「……分かった」

 

 悩まし気な顔を見咎められたのだろう。モージに問いかけられ、一呼吸分だけ迷うがすぐにこの思い付きを伝えることにきめる。この時点ではあくまで推測の段階だが、と前置きをした上で自らの考えをざっとだがモージへと伝えた。

 

「ふーむ…」

 

 ジュチの推測を聞かされるとその顔を険しく歪め、少しの間思案に耽るモージ。だがすぐに決心したように顔を上げると、部族の戦士たちへ矢継ぎ早に指示を出しているソルカン・シラへ近寄り、ボソボソと言葉を交わした。

 モージと顔を突き合わせて短いやりとりを終えたソルカン・シラの眼光が一瞬炯炯と危険な光を宿し、部族の皆に聞かせるように声を張った。

 

「皆よ、聞け! モージが言うに、ボルジモルの彼奴等もまた子らを《悪魔(アダ)》に憑りつかれたのだ! それ故に困窮し、我らの財産を奪い、我が物とするために奴らは弓矢を取ったのだろう!」

 

 困惑が渦巻く部族の者たちにソルカン・シラが語る言葉が少しずつ染み透っていく。全員の間で腑に落ちたような空気が共有され、次いで少しずつ怒りの気配が湧き出てくる。そしてソルカン・シラはそれを宥めるのではなく、煽り立てる方向へと更なる言葉を重ねていく。

 

「しかもだ、我らを襲う《悪魔》は過日の騒動でボルジモルの者どもから齎されたものである! 喜べ、復讐の機会を奴ら自らが差し出しに来たぞ! 天神(テヌン)も我らに微笑んだ、アゼル達がいち早く彼奴等に気づき、警告に現れたのもその顕れである!!」

 

 ジワジワと感情のボルテージが上昇していく。熱気が周囲に立ち込め、老いも若きも、男も女も怒りを込めて拳を握りしめた。

 

「馬に乗り弓矢を取れ、男達よ! 女たちは戦に備えよ! 急げ、時間はさほど無いぞ!」

 

 その瞬間、喚声が爆発した。応、と部族の老若男女全てがソルカン・シラの檄に応えて天へと拳を突き上げ、大声で咆哮したのだ。

 みな《悪魔》に憑りつかれた子供たちを見守る日々に鬱屈とした思いを貯めこんでいたのだろう。それを爆発させるキッカケを与えられた人々はいっそ狂騒と表現するのが適切なほどに荒れ狂っていた。

 

「モージ、あれは…!?」

「騒ぐな。皆に聞かせてはならぬ」

 

 だがジュチはその狂騒から取り残され、困惑の声を上げた。あくまで思い付きに過ぎない考えをさも確定した事実であるかのように演説でぶち上げられれば自然な反応だった。

 

「どの道戦は避けられぬ。ならば皆に()()を与え、存分に力を発揮させることこそ部族を導く者の務めだ」

「……」

 

 確かに、とモージの語る理屈に理性では理解を示す。何らかの行き違い、誤解ではないかと困惑と迷いを抱えたままでは弓矢を取る手は定まらないだろう。だがジュチのこねくり回した理屈が皆を戦に駆り立てるきっかけとなる事実にどうしても気後れしてしまう。結局のところ、前世でも今世でもジュチに戦争へ赴いた経験が無いための戸惑いだった。

 

「お前の知識を我らが良いように使っただけのこと。お前が責任を感じる所以は何一つとしてない。深く考えないことだ」

「……ああ」

 

 きっと()()()()()で悩む時点で草原の男からすれば異端なのだろう。だが少なくとも今すぐに迷いを振り捨てることは少年には出来なかった。

 そんな風に少年が懊悩を抱えている間も迫りくるボルジモル族の脅威への対処はノンストップで進んでいく。

 

「族長、俺が男衆を纏め奴らを迎え撃つ。貴方は他の者たちを纏めて戦場から遠ざかる指揮を―――」

「アゼルよ。生憎だがお前には別の役目がある」

「……いまなんと? 《狩人》たる俺に別の役目を果たせと言われたか?」

「然様。お前にしか果たせぬ役目だ。《悪魔》を討つための、部族の命運を賭けた役目だ」

 

 《狩人》とは部族全体の狩猟、戦争を指揮する地位を指す。いままさにその職責を果たすべき地位にあるアゼルへ別の仕事があると告げれば困惑と怒りを示すのは当然の成り行きだった。

 

「詳細はモージに聞くが良い。すまぬが《狩人》の役割はこのひと時は私が預からせてもらう」

「馬鹿な!? 如何に族長と言えどそのような無体な話があってたまるか!」

「お前の武勇を頼れぬのは痛手だが、最早奴らにかかずらっている時間さえ惜しいのだ。行け、アゼル。お前にしか果たせぬ使命がある。部族の子らの命運、お前に預けたぞ」

 

 声を荒げるアゼルにも怯むことなく淡々と言葉をかけ、目線でモージとジュチを示す。その視線の先を追ったアゼルは訝し気な気配を隠さないものの、敢えてそれ以上逆らおうとはしなかった。

 

「……それが族長の命ならば従おう。《狩人》の位を一時返上させて頂く」

「うむ。《狩人》の位、お前が戻ってくるまでの間は私が預からせてもらう」

 

 周囲が見る中で指揮権の移譲は恙なく完了した。突然の出来事に周囲も困惑が隠せないが、ソルカン・シラが指揮を執るならば大した混乱も起こらないだろう。

 

「ではボルジモルの一党の始末はお任せする。さして数は多くないようだが、どうかご油断なされぬよう」

「なに、雲雀を追い散らす程度、この老骨であってもどうにかこなせようさ」

 

 一見好々爺にしか見えないにこやかな笑みの中に一筋、危険な気配が混じる。それは部族きっての若武者が一瞬気圧されるほどに凶悪な殺気だった。

 

「……()()には無用の心配であったようだ。では俺は俺の仕事に取り掛からせて頂く」

「頼む」

 

 普通戦の直前に指揮権を移譲するなど混乱の種にしかならない。それを危惧したアゼルの忠告であったが、ソルカン・シラが返した無言の回答に思わず苦笑が滲んだ。流石は先代《狩人》、流石は部族一の勇者と。

 常識的に考えて当然の危惧だったが、ソルカン・シラに限っては話が別だ。部族の縄張りの地理も、男達を一個の軍へと纏め上げる器量も十分すぎるほどにある。

 なにせソルカン・シラは先年《狩人》の位を継承したアゼルよりもはるかに長くその地位に在り続け、周囲の脅威から部族を護り、時に打ち倒し続けた部族きっての勇者なのだから。

 後ろ髪惹かれる思いをきっぱりと振り切ると、アゼルは足早に部族の長老の元へと赴いた。

 

「モージ、俺が成すべき仕事について、どうかお聞かせ願いたい」

「よく戻って来た。お前の帰還を待ちわびていたよ」

 

 と、問いかけに応じたモージが素早く、しかし要点を射た説明を述べる。旅慣れない子どもを連れて精霊の山へ向かい、闇エルフとも交渉し、特別な霊草を採取して戻ってくるという大難事。普通ならば無謀だと切って捨てるのが当然の()()に対し。

 

「承知した」

 

 と、短く承諾の一言だけを返した。傍で聞いていたジュチがあっけにとられるほどの潔さだった。

 

「詳しく話を聞きたい」

 

 と、更にそのまま遅滞なくマナスル、《天樹の国(シャンバラ)》へ向かうにあたっての旅装や道程について問いかけ始める。流石は遠隔地への放牧で旅慣れた騎馬の民と言うべきか、ジュチはもちろんかつて《天樹の国(シャンバラ)》への旅を踏破した経験のあるモージが感心するほど的を射た問いかけばかりだった。

 

「……叶うならばもう少し時間が欲しかった、が。これも天神(テヌン)の思し召しであれば是非もないか」

 

 と、呟く。

 

「モージ、旅支度の用意に感謝する。ジュチよ、これから共に向かう旅路はお前が思う以上に困難な道程だ。生半な覚悟で進むことは能うまい、心変わりをするならば今この時をおいて他にはないぞ」

「知ってる。その上で言うぜ、絶対ヤだね!」

「……なるほど」

 

 それなりに圧をかけた問いかけに返された生意気な子供の虚勢にフ…、と笑いを零し。

 

「確かにこれは貴女の息子だな、モージ。随分と鼻っ柱が強い」

「どういう意味だい? ん? 言ってみな」

「ハハハ、部族一の賢者に俺如きの言葉など必要ないだろう?」

 

 ()()()()()笑う、つまりは一番おっかない状態のモージの怒りを平然と躱した。義母の恐ろしさを骨身で知る少年がアゼルすげえ、と素朴な尊敬を抱いた瞬間である。

 

「一度口から出した言葉を違える者を俺は男とは認めん。ジュチ、例えこの旅路がお前の身に余るものだとしても、最早弱音を吐くことは許されないと知れ」

「……応」

 

 だが先ほどの問いかけに倍する圧力をかけられ、応じる声も流石に緊張したものとなった。

 

「その上で旅路とは仲間同士助け合うものだ。俺の力が必要ならば言え、俺もまたお前が必要ならば声をかける」

「応!」

 

 そしてもちろん委縮したままでいるような可愛げをこの少年は持ち合わせていない。すぐに気を取り直すと、直前の返事と同じ言葉で、直前よりもずっと威勢よく応じるのだった。

 



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ありふれた日常

 

「全員は要らん、二刻の間に集められる者だけ集めよ! 遅れた者に獲物は残らんと良く言っておけ!!」

 

 アゼルからの急報を耳にしたソルカン・シラは話が終わるや否や部族長として全ての男たちへ向けて完全武装で族長家の天幕まで集まるように号令を発した。

 そして号令に対し即座に応じて戦の準備が恐ろしいほどの短時間で整ったのも彼らが騎馬民族たる由縁だったろう。家畜を追っていない時は獲物を追っていると言われるほどの狩猟好きである彼らは手元から弓矢と防具を手放すことはない。

 何より幸いだったのは連日の《悪魔》騒動で少なからず部族の男達が族長家の天幕を訪ねていたことだろう。戦の知らせは野火よりも早く男たちの間を駆け巡り、どこか喜びに似た怒りと戦意を爆発させた男達は嬉々として族長の元へ集い始める。

 自らの部族の縄張り内での迎撃戦という状況も最低限の準備だけで済むという方向で追い風となった。こうしてガチガチに硬化処理を施した革鎧を着込み、弓矢や湾刀、投槍を手にした二十騎余りの騎馬集団が刻限の内に族長(ソルカン・シラ)の指揮下に収まったのだった。

 もう少し待てば更に集まっただろうが、数よりも速度を重んじたソルカン・シラは纏まった数が集まるやすぐさまアゼルとともにボルジモル族の姿を見た若者を先頭に立て、疾風のように騎馬を駆けさせ始めた。

 

「ソルカン・シラは大丈夫かな?」

 

 風のように駆けていくその背中を見送ったジュチは思わず不安げに問いかけた。

 

「初陣も済ませていない子どもが族長を案じるなど十年早い」

 

 気遣いではなく呆れの籠ったアゼルの言葉に怒りよりも早く疑問が湧く。ジュチの知るソルカン・シラは時にバヤンと声を合わせて豪快に笑い、時に優しく頭を撫でる好々爺だ。アゼルの語る戦巧者とはイメージの乖離が激しい。

 

「族長はかつて一度の戦で二人射殺し、六人の戦士を撫で切りにした勇者だ。カザル族がこの辺りで広い縄張りを張っているのも、ソルカン・シラの勇名があるからこそ」

 

 部族間のいさかいが日常茶飯事の草原でも一人も敵を殺すことなく生涯を終える男は実のところそれなりにいる。それだけ必死に抵抗する人を殺すのは難しいし、同族(ニンゲン)を殺害することの忌避感は強い。

 それが一度の戦争だけで八人、部族一の勇者と呼ばれるのも納得の戦果だった。もしその恐ろしさに実感が湧かない場合はこう考えればいい、二十~三十人程度の小規模集団での戦争において敵方にソルカン・シラがいるだけで味方が少なくとも七、八人は()()()()()()()、と。そしてその犠牲の中に自分が入っていない保証などどこにもないのだ。

 果たしてそんな化け物率いる集団と正面からの殺し合いに臨みたいかと聞かれれば、もちろん否と答えるだろう。

 

「…………おっかねー。正直チビりそう」

 

 そうと腑に落ちれば途端に身も蓋もない感想が湧いてくる。開けっ広げな感情を隠さない呟きにアゼルは何とか吹き出すのをこらえた。

 

「そういう訳だ。お前はソルカン・シラを案じる余裕があるならば、旅路へ向かう自分のことを考えておけ」

「まあ、な」

 

 アゼルの言葉は全く正論だったので、ジュチもそれ以上無駄に戦争の行方を案じる思考は控えるのだった。

 

 ◇

 

 一面に草と青空が広がる草洋にも大小さまざまな起伏がある。その一つ、カザル族の縄張りにある中でひときわ高い丘の影となる場所にソルカン・シラと男衆の皆は乗騎とともに集まっていた。

 

「アゼルが言った通りか。やれやれ、面倒なことだ」

「数は我らと同数と言ったところか」

「我らの武勇を示すにはちと物足りんな。もう少し連れて来れば歯ごたえもあったのだが」

「ボルジモルの一党にそんな余力は無いだろう。元々奴らの縄張りは小さく、数も多いとは言えん」

 

 馬を降り、丘の上から顔だけを覗かせたソルカン・シラの眼下に騎馬一騎を先頭に時を惜しめとばかりの襲歩で駆ける騎兵の群れが映る。向かう先の方角には族長ソルカン・シラの天幕、カザル族の本拠地がある。いまそこは臨時の救護所としての役割も持っており、動かすことは出来ない。

 

「武装を整え、隊列を揃え、彼奴(きゃつ)ら何をするつもりなのやら」

「奴らの事情など知ったことではない。戦支度をして隊列を組み、先触れもないまま我が部族の縄張りに足を踏み入れて無事で帰れると思うのなら、その白痴の代価を教えねばならぬ」

 

 皮肉気に呟く男の言葉をソルカン・シラは短く切り捨てた。何かしらの事情はあるのだろう。ジュチが推測を立てたようにボルジモル族もまた病に襲われて困窮し、一か八かの賭けで略奪に動いたのかもしれない。はたまたよそ者からは想像もつかない理由でカザル族とは全く関わりなく移動しているのかもしれない。

 いずれにしても族長の地位を預かるソルカン・シラの選択は一つだ。皆殺(みなごろ)す、()()()()()()片を付ける。それ以外はない。ここから話し合いで解決を望むには、この西辺の大地は物騒すぎる。ロクなことになるまい。

 万が一ボルジモル族の行動に理と義があったとしても、ソルカン・シラはこう言うだろう。誤解されるような真似をした者が悪いと。

 

「だな」

「その言葉を待ってた」

「戦だ、戦」

 

 物騒な笑みを浮かべる男達が次々に同意の声を上げた。

 

「騒ぐな、戯け共が」

 

 すると一段声音が冷え込んだ族長が短く窘めた。血の気が人一倍多い男達だったが、ソルカン・シラに逆らう愚か者はいない。すぐに雑音は消え、風のそよぐ音が残った。

 

「で、奴らをどう料理する?」

「難しく考える必要は何一つ無い。待ち伏せ、逆撃を仕掛ければ良かろう」

「ふふん、逆襲を食らった奴らの顔が見物だわい。奴ら、ここで我らに襲い掛かられることなど考えもしていまい」

 

 ニヤリと凶悪に笑う男の言にも一理あった。

 奇襲をかける側の集団は奇襲をかけられることを意識しない。自らが攻める側、奪う側であるという意識がある。事実としてアゼルが偶然気付かなければこれほどまでに迅速に対応できなかっただろう。恐らくは部族が全滅することこそ無いだろうが、大きな痛手を受け、生き残りの者たちはボルジモルの一党と血で血を洗う復讐戦に明け暮れることになっただろう。

 

「此度の功績第一等はアゼル達に決まりだな」

「阿呆が。明日のことを語るのは生きて帰ってからしておけ」

「おお、怖や怖や…。冗談だ、そう睨まないでくれ、ソルカン・シラ」

 

 故にこの戦の勝因を上げるならアゼルの幸運であり、ひいてはカザル族の幸運であると言えた。

 いまやボルジモル族が持っていた奇襲の優位は消え失せ、逆に彼らを追い詰める劣位となった。ならば逆に奇襲の優位を握るカザル族が負ける道理は無い。

 

「ふむ」

 

 そして奴らに逆襲を仕掛けるまでに出来ることがあるとすれば、あとは士気の高揚くらいだろうか。ゾリ、と顎髭を撫でたソルカン・シラは皆を焚き付ける文句を頭の中で素早くまとめ終えると、ゆっくりと戦士たちに向き合った。

 

「さて、諸君。《悪魔》なぞに血族の子らをいいようにしてやられ、憤懣を溜めていたと見るが、如何(いかが)かな?」

 

 二コ、といっそ朗らかな笑顔で完全武装した騎兵の一団に語り掛けるソルカン・シラ。笑顔とは肉食獣が牙を剥く所作に似るという。いまソルカン・シラの貌に浮かぶのは()()()()()()

 

「結構、皆の目を見れば答えは分かる。諸君らに朗報だ、存分に()()()()()()的が向こうからやってきたぞ」

 

 好々爺じみた笑顔から一転、隻眼から眼光を炯炯と光らせる彼らの族長。その赤子も逃げ出す凶相に草原の男たちはそれぞれ無言で戦意、嚇怒、苛立ち、狂奔を示して準備は万端である、と応えた。

 結構、と再度頷き、ソルカン・シラはその右手に握った湾刀で目標を指して短く指示を出す。

 

「先頭を走る奴らの長は私の獲物とする。それ以外は好きに払え、虫を散らすように」

 

 応、と一言揃えて答える男達。その眼にはギラギラと戦意が輝いている。

 

「では諸君、皆殺しだ」

 

 いっそ酷薄なほどあっさりと、カザル族とボルジモル族の血で血を洗う戦の火蓋は切られた。十分に距離は近づいたと判断したソルカン・シラの合図でカザル族の戦士たちは眼下のボルジモル族の騎馬へ次々に矢を射かけたのが始まりとなった。

 そしてその結果は……一方が全滅し、他方は死者を出すことなく勝利を決めた。

 戦果の大半が奇襲を仕掛けた際の一斉射による射殺、一部が湾刀による斬殺である。ソルカン・シラは老いを感じさせない手並みであっという間に頭目の首を射抜き、その後混乱するボルジモル族の集団に抜剣突撃。ボルジモル族の男たちのことごとくを討ち取ったのだった。

 

「喜ぶには早いぞ、皆の衆よ。私が言ったことを忘れたか?」

 

 戦勝に沸く男たちにソルカン・シラがとぼけた顔で問いかける。心得たように野蛮な笑みを見せるのが半数、戸惑いを見せるのが半数と言ったところだ。前者は脂の乗った年頃が年が多く、後者はまだ経験の浅い若手が多かった。

 やれやれとため息を一つ吐き、ソルカン・シラはもう一度己の言葉を繰り返した。

 

()()()()()()()()

 

 ソルカン・シラは戦勝後間を置かずに殲滅した騎兵がやってきた方向へ物見を出してボルジモル族の居場所を特定した。戦に備えてだろう、ボルジモル族の者たちは部族纏めて天幕を畳み、家財を牛馬の背に乗せて逃げるように移動を続けていた。仮に先の襲撃が成功しても生き延びたカザル族から復讐戦を仕掛けられる危険性を考えれば、先んじて戦火を避けて避難しておくのは()()()選択だ。

 だがカザル族に幸運が味方し、先んじて奇襲を仕掛けボルジモル族の男衆が全滅した今となっては獲物が寄り集まってただの狙いやすい的でしかない。

 

「好都合だ。やはり我らに天神は微笑んだようだな」

 

 ソルカン・シラの言葉が真実であれば、その微笑みはきっと血に濡れた野蛮な笑みだろう。そう思わせるほどの凶悪な喜びに満ちていた。

 避難するボルジモル族と畜獣の塊を見つけ出した頃にはカザル族男衆のほぼ全員が集結しており、風のような速さで逆襲をかける。奇襲で全滅した戦力が向こうのほぼ全軍だったらしく、抵抗らしい抵抗に遭うこともなく速やかに決着は着いた。

 男達はボルジモル族の物資と畜獣を思う存分略奪し、奴隷に落とす者たちを除く部族全ての首を躊躇いなく刎ねた。亡骸の始末は大地に生きる禽獣達に任せ、奴隷に落ちた者達の手首に縄を打って引き連れながら悠々と乗騎に跨り帰還の途に就いた。

 

「では残りの仕事は任せたぞ。遅参した男どもは好きにコキ使え。戦に加われなかった分の埋め合わせ程度はしてもらわねばな」

「あいよ。任せな!」

 

 と、帰参した族長とその妻との間にこのようなやりとりがあり、戦火の後始末はバヤンに引き継がれた。

 女衆筆頭バヤンの指示で部族の者たちは次々に幾つかの集団に分けられ、ボルジモル族の遺産を回収するために次々と凄惨な虐殺の現場へ向かった。そしてハゲタカよりも貪欲に残された金目の物や役立つ物資、離散した畜獣を根こそぎ浚い尽くしていく。

 小なりとはいえ一つの部族そのものを奪い尽くしたに等しい戦利品はカザル族の懐を十分すぎるほど温めた。《悪魔》によって費やした貯えを補って余りある大戦果であった。カザル族の皆もこの時ばかりは純粋な喜びに沸いたのだった。

 

「逃げ去った者は無理に追わずとも良い。だが見かければ矢の的にしてやれ。良い見せしめとなろう」

 

 此処は草原であり、住まう者は皆騎馬民族だ。ボルジモル族も身一つ、馬一頭で逃げだしたような生き残りは僅かに出たが、彼らはカザル族を付け狙うどころか今年の冬を生き延びることが出来るかも怪しい。捨て置いても支障は無いとソルカン・シラは言い、皆もそれに従った。カザル族は勝利と戦果に十分満足しており、わざわざ逃げ去った特に旨味もない得物を追う勤勉さは持ち合わせていなかった。

 

「それと近隣の部族に使者を送り、事の経緯をよく伝えておけ。これからボルジモル族の縄張りは我らが仕切ることも併せてな」

 

 ボルジモル族が根拠地とした縄張りもまた恙なくカザル族に継承された。また一つ煌びやかな勝利を重ね、老齢にて更に武威を増したソルカン・シラに文句を付けられるほどの勢力がいなかったとも言う。

 

「これにて馬鹿どもが起こした騒ぎの始末もひと段落か。あとはアゼルとジュチの旅の道行きだけが気掛かりよな…」

 

 ソルカン・シラの記憶にないほどあっさりと進んだ戦後処理が終わったあと、老齢の武人はそう呟いた。3桁近い数の人を殺めたとは思えないあっさりとした呟き。

 だが一つ間違えれば、いまこの時の泣く者と笑う者の立場は逆転していただろう。それをよく理解しているが故にソルカン・シラの呟きは淡々としたものになった。この西方辺土の大地において、部族の興亡は驚くほどあっさりと起こりうる。今日の勝者となったカザル族も当然例外ではないのだ。

 

 ◇

 

 ここに一つの部族があっさりと滅びを迎え、後に残るのは亡骸と僅かな痕跡だけ。部族の滅びを知る者は少なく、騒ぐ者は血の匂いに惹かれてやってきた禽獣ばかり。残酷な一幕もまたこの西方辺土の大地で起こるありふれた日常風景であった。

 



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旅路、そして巨影

 

 天険竜骨山脈。

 ジュチ達カザル族が暮らす西方辺土に冠する大山脈である。精霊の山(マナスル)を始めとした超抜級の標高を誇る山々を幾つも擁し、騎馬の民が覇を競う大草原と南方亜大陸(エネトヘグ)を隔てる世界の壁とも称される。

 かつて大地の精霊と交信した古の呪術師が語るに、竜骨山脈の始まりは人がこの地に根付くはるか昔。かつて大陸として海洋を漂う大地が果てしない時間の中で少しずつ少しずつ動いていき、別の大陸とぶつかり合い、繋がり合った時に()()()()()()巨大な山塊が竜骨山脈の始まりだと言う。そして古き大陸は現地ではバーラト、竜骨山脈を隔てたこの辺りでは南方亜大陸(エネトヘグ)の名で知られている。

 南方亜大陸(エネトヘグ)に生きる民はその余りに偉大過ぎる威容から山脈そのものを神と崇め、祈りを捧げるとも聞く。それは生きる大地こそ竜骨山脈に隔てられているものの、山を聖地と崇めるジュチら草原の民にも共通する信仰だった。

 

「―――というのが、モージから聞いた竜骨山脈にまつわる伝承だな」

「中々興味深い。精霊と通じる呪術師ともなれば人が知らぬ、あるいは忘れ去った事物の一端にさえ触れうるということか…」

 

 騎馬と荷駄を乗せた駄獣を引き連れながら山道を行くアゼルとジュチが旅路の中、気を紛らわせるために交わした会話の一節であった。

 渺渺(びょうびょう)とした山々を風が吹き荒び、駆け抜けていく。季節は夏ながら山岳という地勢から吹き荒ぶ風は随分と肌寒かった。目に映るのは砂礫と岩石が大半で、緑と言えるモノは灌木やたまに水場の近くに小さな林が出来ている程度。そんな山肌の露出した道を二人は各々の騎馬に跨りゆっくりとだが、着実に歩を進めていく。

 

「エウェル、どうした。大丈夫か」

 

 二人の旅人と彼らが率いる数頭の畜獣達。その中で美しい三日月型の角を誇る大山羊の歩みが僅かに遅れていた。声をかけると道端に咲く小さいが鮮やかな青の花弁を鈴なりに連ねた美しい高山植物を興味深げに顔を近づけている姿がある。

 

「……おい、()()変なものを食うなよ?」

「あの食い意地の張った愚獣を引っ張ってこい。口で言って聞くようなタマか」

 

 呆れたように声をかけたジュチへ向けて冷厳な口調で指示が出される。ジュチもそれに大人しく従い、エウェルの元へと近づくとかけられた手綱を引っ張ってやや強引に前へと足を進ませ始めた。

 山羊の大角(エウェル)。ジュチの相棒であり、此度の霊草採取の旅に必要不可欠な『足』でもある。

 だが好奇心が旺盛と言うべきか、はたまた食い意地が張っていると言うべきか。物珍しいモノ、特に山羊が好んで食べる柔らかい植物を見つけるととりあえず近寄って匂いを嗅ぎ、大体の場合パクリと口にしてしまうのだ。

 

「よくアレに自分の命を任せられるな。今更ながらに不安になってきた」

「アレでも凄いところはあるんだよ。何てったってとんでもなく図太いから普通なら死にそうな時でも何でか死なない」

「……有用な力を持っていることは認める。モージが名を与えたのも理解できる。だがどうにも普段の振る舞いを見ていると腑に落ちない気分だ」

「分かるよ。俺もたまにあいつの尻を蹴飛ばしたくなるからな」

 

 そんな呑気な会話を交わしながら、ジュチはこれまでの旅路を思い出す。

 ソルカン・シラ率いる戦士たちが戦場へ向かう背中を見送り、最後の準備を大急ぎで済ませて部族の元を出立し、早数日が経った。

 《天樹の国(シャンバラ)》へ向かう道行きはまだ半ばといったところ。

 モージが語った通り、危険に事欠かない旅路だった。

 そして年長者であり、旅慣れた遊牧民であるアゼルに学ぶことの多い旅でもあった。

 

 ◇

 

「山は危険だ。人の世の掟ではなく、山の掟が支配する。努々(ゆめゆめ)気を付けて前へ進め」

 

 初めての教えは急ぎ準備を整え部族の元を出立したその日。アゼルの精悍だが不愛想な顔を更にしかめっ面に変えながらジュチにそう金言を与えた。

 そして折々の機会や危難に助言や手本を示し、ジュチに旅の心得を仕込み始めた。

 

「当然のことだが、足元には十分に気を付けろ。山岳踏破で足を挫けば地獄行きだぞ、比喩ではなくな」

 

 ある時は馬から降りて足場の悪い下り坂を下っていたところに転びかけたジュチの手を引いて姿勢を立て直しながら。

 

「山に慣れた者でも忘れがちなのが水だ。高く登るほど空気が冷え込んでいくから気付きにくいが、山を越える内にかなり汗をかく。だがすぐに汗は乾くから渇きに気付かず、いつの間にか身体が弱って倒れることもある。

 時間を置いて定期的に飲め。最初の内は俺が声をかけるからそれで適当な間隔を掴んでいけ。喉の渇きではなく、小刻みに水を飲む機会を作って慣れたら徐々に減らしていくのがコツだ」

 

 またある時は熟練者でも怠りがちな水分の補給について、革袋の水をがぶ飲みするジュチの頭をはたきながら、その心がけを説く。

 

「草原でもそうだが、山岳では殊更(ことさら)日中と夜間の寒暖差が激しい。衣服は多めに用意してきているな? 汗をかいたと思ったらすぐに着替えろ。そのままでは身体が冷えてすぐに弱る。逆に寒いと感じたらすぐに上から着込め。とにかく周りの空気に合わせてマメに服を変えて調節しろ」

 

 夜の寒さに震えるジュチへ足をすっぽりと覆う象足とたっぷりとした毛皮で出来た暖かい上着を差し出しながら寒暖の激しい山岳地帯の適応法を身を以て示した。

 

「雪目にも気を付けろ。アレにかかると何日かは足止めを食らう。そんな余裕は俺たちにはない」

「雪目ってアレか。雪の照り返しで目を傷める…。夏なのに雪目が起きるんだな」

「ああ。恐らくは天に近い分、太陽の光も強いのだろうな。それと毎日必ずこの塗り薬を目の下に塗り付ければ多少は眩しさも防げる。帽子や被り物を上手く使って目元に影を落とすのも忘れるな」

 

 昼の雲一つない炎天下、強く照り付ける日差しを受けて歩く中。懐から煤と蜜蝋を混ぜた塗り薬を取り出し、率先して自らの目の下に塗り付けながら目を傷めるのを防ぐ智慧を授けた。

 その姿を見たジュチは前世の記憶を刺激され、両目の下に黒い太線を引いた野球選手(?)なる人種の姿を想起した。

 特にアゼルが口を酸っぱくして注意したのが、山を汚すことが呼び寄せる危険についてだ。

 

「それと極力山々を汚す真似は控えろ。塵芥(ゴミ)の置き捨ては論外。道中で獲った獲物も綺麗に始末を付けるまでその場を離れてはならん。とんでもなく恐ろしいモノを呼び寄せるぞ」

「獲物を狙った狼とか? それとも獲物の恨みが幽霊になって襲い掛かってきたり」

 

 まるで幽霊でも語るような口調に茶化すように応じてみると、極めて真剣なしかめっ面での返答が返ってきた。

 

「いいや。山とは聖地。其処を汚せば一帯の部族の敵意を買うぞ。一度敵意を買えば周辺の部族に伝わるまで瞬く間だ。狼と人、どちらが恐ろしいかは分かるな?」

「……了解」

 

 極めて現実的かつ危険度の高い脅威に茶化す言葉も一瞬で萎える。世に様々な危険はあれど人間同士の諍いはその中でも特に危険なのはジュチも良く知っていた。間違っても茶化して軽視出来るような危険ではない。

 ジュチは教えを守り、塵芥(ゴミ)一つですら扱いには気を使った。

 

「アゼル、凄い! 野兎(トーライ)の首にドンピシャリだ!」

 

 時に山道の近くに出没した野兎や山鳥をアゼルが弓矢を以て見事な腕前で仕留め、快哉を叫ぶこともあった。大声で称賛の声を上げる少年に、アゼルも心なしか得意気に胸を張って見せた。

 仕留めた獲物の肉は旅のささやかな食事に華を添えたし、景色に代わり映えがなく険しい山道が続く道程では良い気晴らしだった。

 

「ここからは《天神の怒り》を避けるために当分はゆっくりと登っていく。焦れったく思うかもしれんが、神の怒りを避けるためだ。我慢しろ」

 

 時にはアゼルに教わるばかりではなく、ジュチが智慧を示す場面もあった。強烈な急傾斜をゆっくりと登りゆく道で示した智慧に思わずアゼルも素直に感心したものだ。

 

「《天神の怒り》?」

「天に近づきすぎた者に天神が下す罰と言われている。頭痛や吐き気、息切れが襲い掛かり、酷い者は死に至ることもある。罰を受ける者はその時々によってバラバラだが、高く山を登るほど怒りを向けられやすいと聞く」

 

 つまり高山病かと聞き慣れない言葉について問いかけたジュチは思った。確か前世でも高山病が天に近づきすぎた神の怒りとして恐れられた時代と地域があることをジュチは知っていた。そして実際は神の怒りでも何でもない、理屈として説明できる病であることもだ。

 

「それ知ってる。確かどんどん高いところに登っていくと空気も薄くなるから身体が慣れないと体調を崩すらしい。防ぐにはゆっくり山を登って体を慣らしていく必要があって……特に出発してから寝る時の高さが離れすぎていると起きた時にポックリ逝ってるなんてこともあるらしい。あんまり辛いなら低い場所に下って休んだら良くなることもあるとか」

「……空気が薄い? 空気に濃淡があるということか? そも誰からそんな話を聞いた?」

「モ、モージから聞いた」

 

 原因から対処法までサラリと披露した知識に相当に訝しい目を向けられたジュチだが、咄嗟に口から出た出まかせにそれなりの信憑性があったらしく、なるほどと頷かれた。この時代、この地域では人々が保有する知識というのは相当に個人差があるので、部族一の知恵者であるモージから聞いたと言えばそういうものかと納得する者が大半だ。

 後でモージに口止めしないとヤバイな、と思いつつも前世の知識は積極的に活用していくつもりである。なにせ持てる力も知識も活用してもなお帰ってこられるか危うい道行きなのだから。

 

「……なるほど。モージの秘蔵っ子という訳か」

 

 ジュチが部族の呪術師(モージ)義息(むすこ)という立場である事実から部族の長老直々に様々な教えを受けていると想像したのだろう。アゼルがジュチを見る目は旅の面倒を見る子供という認識にモージ直伝の知識の持ち主という情報が追加され、正の方向に傾いていた。ジュチの幼さへの不安は依然そのままだが、幼子故にと軽んじる空気は大分薄くなっている。

 実際はモージからそうした知識、技術の伝授を受けているのは義妹であるツェツェクの方だ。ただし《悪魔(アダ)》に憑かれた子ども達の看病をモージとともにこなすうちに老母から少なからず生きた知識の教授を受けており、この旅から生きて帰れば虚像に実態が追いつく日も来るかもしれない。

 

 ◇

 

 そんな道を歩けば危険に行き当たるような旅路を半ばまで無事に踏破出来た功績の大半はアゼルの物と言えただろう。

 アゼルはまだまだ幼く、危なっかしいジュチから目を離さずに手を差し伸べながら、辛抱強く教えを説き続けた。ジュチも良くその教えを学び、道半ばを過ぎるころにはまだまだ半人前と呼ばれるくらいには成長した。

 旅歩きの素人同然だったことを思えば長足の進歩だろう。

 特に少年の意外なしぶとさはアゼルも評価するところだった。普通ならとっくの昔に体力が尽きて根を上げているだろう調子で進む旅にも文句一つ漏らさずに付いてきたのがまず尋常ではない。

 アゼルの見立てでは同年代の子ども達と比べても飛び抜けて力が強い、足が速いということはない。だがとにかく体力や勘の鋭さは人一倍…いや、三倍はあるらしい。

 アゼルですら顔に出さないものの、強い疲労を感じる旅路なのだ。それに幼さの抜けない少年が付いてきているという事実は十分な異常事態だった。

 

(……こいつ、本当に人の子か? さもなければモージに(まじな)いでも教わったか…)

 

 疑問は尽きない。

 だがアゼルはさして気にしなかった。

 ジュチは本気で部族を、ツェツェクを助けようとしている。それだけは確かで、そこが揺るがなければ多少妖しげなところがあろうと気にしない逞しさ、または鈍感さをアゼルは備えていた。

 それに歩みを遅くすることなく強行軍を続けられるというのは、実際都合が良いのも確かだった。

 ならばなおさら気にする理由がない。

 もっと言えば言動の端々に能天気さが伺えるジュチを問い質しても、求めている答えが返ってくるか怪しいという所感も理由の一つだった。

 そんな風に幾つかの想定外を挟みながら、旅路は順調に進んでいたが、最も『死』に近づいたと言える一幕があった。

 

 恐ろしく強大で危険な、()()と二人はすれ違ったのだ。

 

 話は変わって、旅する中で遭遇しやすい脅威はやはり外敵による襲撃である。

 この旅路でも猛獣や追剥の類に襲われかけた数も一度や二度ではきかない。

 その度にアゼルが見事な弓射の腕前を披露し、あるいは気付かれる前に気付き先んじて逃げ出すことで窮地を脱していたのだが…。

 

「アゼル、エウェルが周りを警戒している。近くに何かいるみたいだ」

「……痕跡を大急ぎで消して先を急ぐぞ。エウェルの感覚は鋭い、常に様子には気を配れ。何かあったら知らせろ」

「了解。任せてくれ」

 

 襲い掛かる危機を潜り抜けるのに最も貢献したのがジュチ…というよりも相棒のエウェルだった。警戒心の強い山羊特有の危機察知能力で迫りくる危険を感じ取って騒ぎだし、連鎖的に少年が気付く、という形で意外な貢献をしていた。

 だがこの時二人の傍まで近づいていた危機は、一瞥も交わさない内から彼らに『死』を想起させる、ひと際恐ろしい代物だった。

 

(なんだ…? 首筋が、ひどく冷たいこの感じ…)

 

 ゾクゾクと首筋を走る寒気。まるで喉元に刃を突き付けられているような感覚だった。

 エウェルも同じ感覚を共有しているようで、さっきからしきりに不安そうに鳴き声を上げている。

 

「アゼル、急ごう。よく分からないけどなんかヤバイ…!」

「分かった。向こうの方に身を潜められそうな林がある。そこへ逃げ込むぞ」

「了解っ!」

 

 エウェルとジュチの様子から警戒心を引き上げたアゼルが、灌木と小さな樹木からなるささやかな木立を指し示し、一行は足を速めた。

 すぐに一行は小さな林の傍に到着し、怪しい気配が潜んでいないことを確認すると、大急ぎで畜獣達を木の覆いの中に隠していく。

 さして大きくない木立だが、馬から降り、人間と畜獣達が身を屈めればその姿を隠す覆いになってくれるだろう。

 

「よし、俺たちも…!」

「待て。雌羊が一頭がはぐれた。連れ戻してくる」

 

 闇エルフ達への貢物として引き連れていた、丸々と太った雌羊が一頭、彼らの誘導から逸れて山肌にポツンと佇んでいた。

 その距離は木立からは離れていない。すぐに連れ戻そうとアゼルが林から出ようとするのを腕につかまって押し留めた。

 

「ダメだ、アゼル。ジッとしていよう」

「すぐそこだ、ジュチ。まだ周囲に怪しい気配はない。連れ戻すのに時間はかけない」

「本当にダメだ、とにかくヤバイんだ。信じてくれ!」

「だが…」

 

 先ほどから背筋の寒さがどんどん増してきていた。これは、そう―――かつて飛竜(スレン)に得物として狙われた時の感覚に近い。

 ジュチは直感する。この寒気を発する怪物もまた、飛竜に近しい脅威であると。

 その直感を信じてアゼルを引きとどめ続ける。

 

 その刹那、巨大な影が二人の頭上を横切った。

 

 巨影が撒き散らす捕食者の気配、鋭く笛を吹き鳴らしたような甲高い鳴き声が二人の言い争いを中断させた。

 そして一瞬で山肌に孤立した雌羊をその鉤爪で捕らえると、身を翻して北の方へ飛び去っていく。

 身を捩る雌羊の抵抗をまるで無いものかのように扱う、凄まじい力強さを持つ《魔獣》であった。

 木立に視界を遮られ、その姿ははっきりと認識できない。

 だが少なくとも飛竜(ドゥーク)に匹敵するほどの巨体、雌羊を鷲掴んで飛翔するほどの力強い羽撃(はばた)きの主であることは確かだった。

 

「なんだ、アレは…。まさか、アレが噂に聞く飛竜(ドゥーク)か?」

「違う、あの影は飛竜(ドゥーク)じゃない…!?」

 

 では何か、との問いには答えられないが、あの影の輪郭は飛竜のソレとは決定的に異なっている!

 そして小声で声を交わし合う瞬間にもその巨影の主は遠ざかっていく。

 その雄偉な後ろ姿が完全に視界から消え去るまで、一行は林から出ようとしなかった。

 それほどの脅威から間一髪で九死に一生を掴んだ、危うい一幕だった。

 

「ジュチ…」

「ああ…」

「助かった。正直、よく止めてくれた。でなければ命を落としていたのは雌羊ではなく俺だったかもしれん」

「へへ…。アゼルにそう言われると悪い気はしないな」

 

 相手が自分よりもずっと幼い少年であっても真っ直ぐに礼を言えるアゼルの潔さはジュチも尊敬するところだった。

 照れ隠しか人差し指で鼻の下をこする少年に、感謝の念と若干の微笑ましさの籠った苦笑を向ける。

 危うく命を落としかけた一幕であったが、結果的にこの出来事がジュチとアゼルの結びつきを強めた。

 ジュチとアゼル、二人の立場に差はあったが、互いが互いを対等な旅の仲間として頼み始めるキッカケとなったのだった。

 ジュチはアゼルを不愛想だが頼りになる年長者として敬い、アゼルはジュチを生意気だが勘が良く根性のある弟分として目をかけるようになった。

 旅は続く。

 危険に溢れていても、苦行だけではない旅が。

 そしてさらに数日をかけて山々と草原に跨る道を歩み続けた二人は、《天樹の国(シャンバラ)》へ続く国境に辿り着いたのだった。

 



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国境

 

「ここが、闇エルフの王国(シャンバラ)の国境を示す境界か…」

「見れば分かるとモージは言っていたが、なるほど…間違えようがないな」

 

 アゼルが納得したように頷いているが、それくらい二人の眼前の光景はあり得なかった。

 切り立った崖と崖の間に挟まれた隘路を抜けた先に続く、人と獣によって踏み固められた山道。そこに青々とした葉を繁らせた立派な二本の大木が人間十人ほど並んで通れるほどの距離を開け、並び立っていた。加えてその根元には明らかに人の手による石が無数に積まれ、その光景が偶発的に生まれたのではないことを主張している。

 その威容にまるで鳥居のようだ、と言う感想がジュチの脳裏に過ぎった。天上の神々が降臨する聖地としての石塚(オボー)の存在に親しむ遊牧民(ジュチ)にとって、聖域の境界を区切る境界線の意味を持つ鳥居の概念は馴染みやすかった。

 

「これほど天高き峰に大樹が聳え立つとは…。これまでの道行きでは見られなかった光景だな」

 

 森林限界という奴か、とアゼルの言葉に頷く。地域差はあるが概ね高度が上がるほど高木は生育し辛くなっていき、一定の高度を超えると森林を形成しなくなるという。だがそんな常識を無視するかのように眼前の大木は生き生きとした様子で天に向かって枝葉を伸ばしている。

 現在二人がいる《天樹の国》国境がどれほどの高度になるかははっきりとは分からない。

 だがここ数日は精々背の低い灌木を見るくらいで、近辺の植生を考えれば眼前の巨木は明らかに異様だった。

 

「しかし心なしか周囲も暖かく感じられるのは気のせいか?」

「いや、気のせいじゃなさそうだ。()()()してみれば分かるけど、()()()ではっきり気温が違うぞ」

「……凄いな。闇エルフは精霊と親しい種族と聞くが、それが関係しているのだろうか」

「天上の楽園…。まんざらモージの吹かしじゃなかったんだな」

 

 並ぶ立つ双樹が示す境界線上を行ったり来たりしているジュチの言葉に、呆れと感嘆の混じった率直な感想がアゼルの口から零れる。似たような真似ならば恐らく巫術を使うモージでも出来るだろうが、国という規模で恒常的に維持しているとなれば必要な労力はけた外れに膨れ上がるだろう。

 恐らくは闇エルフの秘術が関係しているのだろう。一見地味だがその実凄まじい偉業だ。小規模な環境改変(テラフォーミング)とでも呼ぶべきだろうか。

 

「……ところでモージから聞いた国境を護る守護役の姿が見えんが」

「モージが入国したのは今より大分若い頃って話だからなぁ…。下手したら五十年は経ってそうだし、使われなくなって関を廃したとか?」

「いや、しかし…。ありえるか? 闇エルフは余所者への警戒心が強いのだろう。むざむざと警戒網に穴を開けると思うか?」

「山道を進む途中から追剥すら見かけなくなっただろ? あの馬鹿でかい《魔獣》のことも考えるともしかしたら最近は誰もこの道を使ってないんじゃないか。昔から道が険しい上に大人数で通るには向かないってことで使う奴は少なかったらしいし」

 

 実はもっと安全で利用する人の数が多い隊商向きの経路もあった。

 だが、その経路で辿り着く関所は今ジュチ達がいる位置よりももっと北寄りにあるのだという。

 そしてそちらは今よりもずっと大回りの道行きとなり、時間がかかりすぎる。

 故にかつてモージが利用したという山々を踏破する険しいが短い経路を二人は選択したのだった。

 

「お前の言いたいことも分かるが…。だが噂に聞く余所者嫌いの闇エルフが全くの無警戒でいるとも思えんぞ」

「だよなー」

 

 アゼルの懸念に尤もだと頷く。

 精霊と親しい闇エルフのことだ。例えば侵入者を察知するというような、なにがしかの秘術が仕掛けられていてもおかしくはない。

 

「……噂に聞く魔剣の様子はどうだ?」

「ん。しっかりフィーネの反応がある。北の方にいるみたいだ。どれくらい距離があるかは正直分からないな」

「元よりそういうものだと聞いている。致し方あるまい。それよりもいきなりアテが外れたな」

「ああ。ここで入国許可とフィーネへの取次を頼むつもりだったんだけどな…」

 

 このまま国境を侵せば不法入国だと捕らえられる恐れすらある。《天樹の国(シャンバラ)》についてモージや先代族長からの伝聞でしか知らない二人にはそれがどれくらい危険であるのか測ることも出来なかった。

 かといってこの場で何日も当てもなくとどまり続けることも出来ない。

 

「……止むを得ん。進もう」

「それしかないよな。初めに出会うのが物分かりのいい奴だと良いんだけど…」

「そこはもう天神(テヌン)に祈るほかあるまいよ」

「まあ、な」

 

 互いに視線を交わし、頷く。

 闇エルフに断りなく国境を侵す危険性を呑んだうえで、二人は進むことを選んだ。

 元より悠長にしていられる余裕など二人には、カザル族の幼子達にはなかった。

 

「……?」

「では行くぞ…どうした?」

 

 と、歩みを進めようと声をかけたところ、様子のおかしい弟分へ訝し気に問いかけた。

 懐から取り出した例の闇エルフ製の懐剣を握りしめながら、しきりに視線を周囲へと向けている。

 

「いや、なにか…こっちに来るっぽい?」

「なに?」

 

 なんとも頼りなく、あやふやな言葉に思わず問い返す。

 だが無視も出来ない。この少年の勘働きが優れていることをこれまでの旅路でアゼルはよく理解していた。

 

「ちょっと待ってくれ。ええと、確か…」

 

 ジュチはどこか緊張感のない様子で懐剣を鞘から抜き出し、その刀身に視線を落とす。

 釣られてアゼルも視線を遣ると、懐剣の刀身に目に映るかギリギリの、僅かな青白い光が宿っているのが見えた。

 

(これが例の魔剣とやらか)

 

 ジュチから伝え聞いていたものの、実際にその魔剣としての力を目にしたのは初めてである。

 そしてその魔剣に宿る力の話が確かならば―――、

 

「……フィーネだ。近くにいる、いや、近づいてきてる!」

「本当か? それが正しいなら僥倖だが」

「ああ、何となくあいつの気配を感じる。魔剣が教えてくれるのかな? かなり早い。多分飛竜(スレン)に乗ってこっちへ向かってきているんだと思う」

 

 かなり詳細な情報を矢継ぎ早に告げてくる弟分を見ると明確な根拠を示せないくせにかなり自信ありげな様子だ。

 目に見える証拠がないので、アゼルとしては疑いの念が強い。

 だが疑いはしても、一概に否定はしない。

 なにせこの少年は呪術師(モージ)の養い子という身の上に加えて《子殺しの悪魔(アダ)》にジュチだけが罹患しなかった()()の持ち主、更に魔剣の所持者なのだ。

 見た目は能天気なアホっぽい少年だが、その小さな体躯に蔵する霊力は自分が思う以上に強力なのではないかとアゼルは考え始めていた。

 

「そのフィーネという少女が近づいているというのは、確かなのだな?」

「ああ。上手く言えないけど、間違いない。アゼルも羊達を見ていて、動き出す前に向かう方向が分かることってないか? あの感覚が近い」

「覚えがあるな。ふむ、言葉に出来ない感覚を拾い集めて頭の中で組み立て、結論だけが出ているようなものか?」

「それだ! 流石アゼルだな、言葉にし辛い感覚を言葉に換えるのが上手い」

 

 なるほど、と頷く。

 とはいえその言葉に出来ない感覚を拾えるのは恐らくジュチや呪術師といった特異な人種だけなのだろうが…。

 

「……ならば、しばし待つとするか」

 

 結局はジュチの言葉に賭けるに決めた。

 こういう時に大事なのは言葉の主を信じられるか否か、なのだ。

 そしてアゼルはジュチをかなり高く評価していた。

 草原の男が持つ物差しは言葉ではなく行動を以てその主を測る。

 険しい旅路に泣き言を言わずに付いてきたことも、人一倍鋭い勘働きを以て命を救われたことも十分に頼りに出来る実績だった。

 

 ◇

 

 そして二人が国境を示す大木の傍に腰を落ち着けてから約二刻。

 北の方角から一騎の飛竜がその力強い羽撃(はばた)きとともに姿を現し、ゆっくりと高度を下げながらジュチ達の近くへと着陸したのだった。

 伝え聞く以上のに迫力に溢れた巨躯と圧倒的な生命力に流石のアゼルも顔を引き攣らせる。

 もし飛竜が二人を餌と見做せば抗う術はないと直感したが故のことだった。

 ジュチは隣でアゼルから漏れ出る動揺を感じながら、前回は自身も全く同じ反応を示したなと何となく懐かしさを感じる。

 飛竜(スレン)の雄大な気配に動揺ではなく親しみと懐かしさを感じるのが自身のことながら不可思議であった。

 と、二人が注視する飛竜の背から一人の少女が飛び降りてくる。

 

「ジュチくん、久しぶり! こっちもそっちも色々あったみたいだけど、また会えて本当に嬉しいの!」

 

 ニッコリと、太陽のような笑顔を浮かべながら。

 ほんの僅かな影を笑顔の片隅に残しながら。

 闇エルフの少女、フィーネと騎馬民族の少年ジュチは《天樹の国》で再会を果たしたのだった。

 



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一方その頃①

 過日、《天樹の国》にて。

 フィーネがジュチと別れ、《天樹の国》へと帰還し、少なくない日数が流れていた。

 

「暇なの…。何かしたいのに、出来ることが無いの…。贅沢だって分かってるけど。アウラのお見舞いとスレンの竜舎にはもう行ったし…」

 

 ダラーンと寝台に身を投げ出し、やり場のない感情を力のない言葉にこめて吐き出す。

 ここ数日、フィーネはそれくらいしか出来ることが無かった。

 フィーネは父であるガンダールヴ王から私室と一部の場所を除き自由に動くことは許さないと謹慎を受けていたのだ。

 無論その謹慎には理由がある。

 ある意味ではフィーネの自業自得であり、また必要なことでもあった。

 ポータラカ王宮へスレンとともに戻り、両親である国王夫妻へ帰還の挨拶を終えた後。フィーネは短い日数なりにその旅路の中で起きた様々な出来事を全て両親に語って聞かせた。

 霊草探索には成果が得られなかったことや自身の過失が引き起こした大きな過ち、そして過ちを償うために取った手段も含めて全てを。

 都合が悪いことを隠しておこうという考えをフィーネはそもそも思いつかなかった。フィーネは「良い子」であり、無暗に隠し事や嘘を言うのは悪いことだからだ。

 

「お父様もなんでか変に張り切ってたしなぁ…。ジュチくんを勝手に《血盟獣》にしたのは確かに良くないことだけど、でもそれは仕方がないことだったし…。それにそこに怒ってる感じでもなかったよね…。お母様は心配ないって仰っていたけれど」

 

 と、やることのないフィーネは暇つぶしも兼ねて、両親へ己のやらかしと旅路の顛末を報告した時のことを思い出し始めた。

 

 ◇

 

 スレンとともにポータラカ王宮へ帰還したフィーネは疲弊した身を王宮付きの女官達に丁寧に慰撫されながら、久しぶりに文明的な空間の中でゆっくりと休息を取った。

 両親である国王夫妻と直に顔を合わせたのは、王宮に帰還してから一昼夜が経った頃だった。

 国王夫妻は中々に多忙で一人娘と言えど即座に会話をするだけの時間が取れなかったと言うのがまず一つ。

 王宮に辿り着いたフィーネの疲労がかなり深かったのも大きい。正直なところ久しぶりに柔らかい寝台へ潜り込んだ瞬間に意識が落ちたくらいにはフィーネの疲労は蓄積していた。

 そうして休息と予定調整を兼ねた一昼夜が過ぎ、フィーネはようやく両親と顔を合わせて直に帰還の報告を届けられたのだった。

 当然、話題に上がったのはフィーネが向かったささやかな旅路についてである。

 実りは無くとも素敵な出会いがあったこの十数日について、フィーネは感情豊かに語った。

 あの時、ジュチを《血盟獣》として盟約を結んだこと、そして再会した時に互いを語り合い、()()()になったことを伝えると…ガンダールヴ王はなんとも形容しがたい形相をしていた。

 その形相を見て、何か誤解を与えたのかもと焦ったフィーネはジュチについて信頼できる素敵な男の子なのだと力説した。

 

「あの! あのね、ジュチくんは凄く思いやりがあって素敵な男の子なの。不器用で口が悪いけどね、とっても優しくて、思いやりがあって、飛竜(スレン)に向き合えるくらい勇気もあって、あの、とにかくね…」

「良いのよ、フィーネ。ゆっくりと考えて言葉にしてみなさい」

 

 気ばかり焦って思いに任せて言葉を続けるフィーネを止めたのは、全てを包み込むような柔らかい語調で紡がれたリーヴァ王妃の言葉だった。

 いつも優しい笑みを浮かべている母だが、この時の笑みはいつもより更に優し気で微笑ましく思われているような気配があった。

 その柔らかい言葉に気を取り直し、自分なりに纏めた思いを言葉にして語るフィーネ。

 

「うん…。ジュチくんは私の()()()お友達だから。お父様とお母様にもジュチくんのことを知って欲しいし、私のお友達として認めて欲しいな…って」

「あらあら、その子ととても仲良くなったのね、フィーネ」

「うん。私とジュチくんはすっごく仲良しさんなの!」

 

 頬を赤らめ、訥々と、だが精一杯の思いを込めて嬉しそうに()()について語る、目に入れても痛くないほど可愛いがっている()()

 その姿を見たガンダールヴ王の胸中で如何なる感情が巻き起こったかは定かではない。

 不思議なことにフィーネが言葉を重ねるほどにガンダールヴ王の額に刻まれた皺は深まることはあっても、薄れることは無かったのだが。

 対照的に母親であるリーヴァ王妃は娘に訪れた順縁にご満悦な様子であった。

 並み外れて優れた天眼(テンヌド)の持ち主である彼女は恋愛至上主義…というよりも運命論者なのだった。

 男女が結ばれるために身分よりも大事なものがあると信じているのだ。それが『縁』であり、闇エルフは一目惚れによって自らの運命の訪れを感じているのだと彼女は主張している。

 

「あらあら。これは思った以上に私たちの可愛い娘が()()()()()でいられる時間は短いかもしれませんね」

「何を馬鹿な…。たかだか一、二度言葉を交わしただけの関係だろう? いささか気が早すぎる話ではないか、リーヴァ」

 

 と、言いつつ口の端がヒクヒクと引き攣っているガンダールヴ王であった。

 無理もあるまい。

 男の陰すら無かった愛娘の傍に急に親し気な気配を感じる少年(それも余所者だ!)が現れたのだから。男親としてはついつい本能的な敵意を持ってもおかしくない状況である。

 その様子を見て可愛い人とリーヴァ王妃は吹き出すのを堪えながら、諭すように言葉を紡いだ。

 

「愛しい貴方、お忘れかしら? 闇エルフの女は、幾つであろうと『女』なのですよ。年齢(よわい)は関係ないのです」

「……ああ、()()()()()とも。愛しい妻よ。おかげさまで、はっきりとな」

 

 と、苦笑を込めて応じるガンダールヴ王は妻への愛情と在りし日の諦観を思い返していた。

 当事者たちだけが知る秘事であったが、国王夫妻の馴れ初めは、幼いリーヴァがガンダールヴに闇エルフらしく一目惚れしたことから始まる。そしてリーヴァが数多の恋敵達を蹴散らし、捕食にも似た求愛行動を重ねた果てにガンダールヴの心を射止めたのだ。

 国王夫妻という高貴な身分の筆頭である彼と彼女の夫婦関係は、政略と利害ではなく純粋な恋愛関係から始まったもの。

 それ故か未だに夫婦の仲はお熱い。こう見えてフィーネの弟妹を狙って日夜夫婦で共同作業に励んでいるのだ。闇エルフである二人の見た目はまだまだ若いので、仲睦まじいお似合いの夫婦だった。

 特に恐妻家でもない国王が側室、愛人を持たないのは中々珍しい事例である。尤も歴代の国王の大半が恋愛結婚ではなく、政略結婚であるという事実も影響していたのかもしれないが。

 閑話休題。

 

「それはそれとして、フィーネは謹慎だ。件の少年を《血盟獣》にしたのは流石にこのままという訳にはいかん。いかんが、下手に公表するのも憚られる。ましてやフィーネの口から洩れるなどもっての外だ」

「まあ、やむを得ないかと? フィーネもそうした機微を理解出来ていますまい」

 

 娘を愛する国王夫婦であったが、同時に娘の快活でやや間の抜けた面も熟知していた。このまま口止めしなければ、何の気なしにうっかり口を滑らせかねない。口止めしても万が一がありうるかもしれない。

 そしてこの話が広まればまたひと騒動起きることは十分考えられる。良くも悪くもフィーネは《天樹の国》に深く関わる者ほど無視できない、大きな存在なのだ。

 フィーネを制御できぬ災いと見るか、はたまた父の後を継ぐ女王にして大巫術師と見るかの判断は賢人議会の中でもまだ割れている。

 様々な意味で油断は出来ない。

 であれば、今回の家出騒動を口実に一人娘を隔離するのが親として出来る娘への配慮だった。

 

「良いな、フィーネ」

「ええと、はい」

 

 ガンダールヴ王の言葉にそのまま頷いている様子のフィーネ。王はそこに若干の不満を感じつつもそれを飲み下した。

 当世一流の賢者達を当て、教育を施してきたのだが、どうにもフィーネには政治的感覚が欠けていた。両界の神子という特殊な生まれが関係しているのか、感性が浮世離れしているのだ。恐らくは文字通り()()()()()()()()()()境遇に由来するのだろう。

 

(娘としては可愛く、素直な良い子なのだがなぁ…。良い子()()()のが珠に瑕だが。賢人議会の頑固爺どもめ、返す返すも王家の事情に(くちばし)を入れおって腹立たしいことこの上ないわ。フィーネに消えない瑕を刻んだのは生涯忘れんぞ!)

 

 と、内面は闇エルフらしい情愛と執念深さがとぐろを巻くガンダールヴ王である。

 国王である彼も無視できないのが賢人議会、《天樹の国》を統べる賢人たちの集いだった。

 《天樹の国》は妖精王(フレイ・イン・フロージ)を盟主とする緩やかな紐帯で纏まった共同体だ。その内面は決して一枚岩ではない。

 

(全てはフィーネを国の災いとなさせんがため…。理解はしている。でなければ娘を傷つける決定をむざむざと認めるものか! だがあの娘の父としてこれ以上の狼藉は許さん、絶対にだ)

 

 共同体への帰属意識が強く、国家という枠組みに反してまで自身の利益追求に走る輩が少ないのが救いだろう。だが内部での主導権争いは当然のようにあった。

 《天樹の国》の政務に置いて大きな影響力を発揮する賢人議会などはその縮図だろう。貴族階級にあたる邦長(クニオサ)達や政治・交易・工芸・医療・軍事等々その道に通じた識者らが集う賢人議会は《天樹の国》の実質的な意思決定機関だった。

 基本的に《天樹の国》の王家とは国家を纏める象徴であり、権力の担い手ではないのだ。普通は賢人議会が下した決定を追認する権威の象徴でしかない。当代随一の呪術師であるガンダールヴ王やリーヴァ王妃はその卓越した個人の実力から賢人議会の議員を含む民草から広く慕われ、政治力を得ている稀な例外なのだった。

 さておき、賢人議会にこの爆弾じみた報告をそのまま上げれば蜂の巣をつついたような騒ぎになるのは確実だろう。件の少年の処遇についても揉めるはずだ。

 であれば可愛い一粒種のためにもガンダールヴ王は意を通じた賢人たちに根回ししたりと、彼なりに娘のために動くつもりだった。

 

「父に任せよ。その少年の処遇も決して悪いようにはせぬ。しかしお前が軽々に動けば、父の邪魔となることもある。故に自室にて謹慎せよ、名目としては此度の出奔について反省のためとする。が、アウラとスレンに会うことまでは禁じまい。無論無暗に自室の外で長居することは許せんがな?」

 

 と、片目を瞑って娘に「分かるだろう?」と目配せをする。

 その茶目っ気のある仕草からかけられた言葉に自身への気遣いを感じ取り、フィーネは破顔した。

 国王として威厳を以て執務をこなし、厳しくも優しい父をフィーネは心から愛し、尊敬していた。

 ガンダールヴ王の言葉に嘘は無い。ただし件の少年の扱いについて、フィーネが望んでいるようにコトを運ぶとも明言はしなかった。

 

「分かりました。その……ありがとう、お父様」

 

 はにかむように笑い、父の気遣いに頭を下げる。

 するとガンダールヴ王は非常に機嫌を良くしながら愛娘の頭を撫でた。

 

「何を言う。父が娘を思い、助けるのは自然なこと。だがお前の気持ちは嬉しいぞ。フィーネ、我が愛しき娘よ」

「エへへ、私もお父様が大好きです」

「そうか! ハハハ、これはやる気が湧いてきたな。待っていろ、賢人議会の頑固者どもめをやっつけてきてやるとしよう」

 

 そんな微笑ましいようなそうでないような一幕を見て。

 リーヴァ王妃はクスクスと様々な思いを込めた笑いを零しながら、己はどうすべきかとリーヴァ王妃は吟味する。

 

「さて、さて…」

 

 常識的に考えるならば夫の奮闘と娘の謹慎を大人しく座して見守るのが正しいのだろう。

 だがどうにも天眼(テンヌド)が、己が霊的感性が疼くのだ。

 この先何か一波乱おこるだろう、と。

 そしてその時娘が思うようにさせた方が面白い…もとい、娘にとって良い方へ働くと。

 その結果、夫の奮闘は思い切り明後日の方向へ向かってしまうかもしれないが…なに、我が夫と娘ならば()()()()、と。

 家族への信頼と若干の悪戯心をもってリーヴァ王妃は事態の推移を見守ることとしたのだった。

 




お知らせ:タイトルを『遊牧少年、シャンバラを征く』へ変更致しました。シンプル・イズ・ベスト。

またアンケートにご協力いただきまして、皆さまありがとうございました。


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一方その頃②

 回想は終わり、フィーネは改めて自室に謹慎されている理由を思い出した。

 理は両親にあり、自らもそれに従うべきである。

 だからフィーネが今できる最善は自室で大人しく謹慎を受け容れることだ。

 納得しながらもやはり無力感から来るモヤモヤがフィーネの胸の内に留まり続ける。

 

「アウラ…」

 

 自分を慕ってくれる可愛い妹分の安否が心配だった。

 一応その身体は闇エルフが誇る優れた巫術師や医術師らによって保護され、寝たきりのままであっても一年程度は支障がないと聞いている。

 だが精神面は別だ。元より《精霊のうたた寝》とは精神が精霊界(アルフヘイム)に連れ去られる奇病であるのだから、より問題なのは肉体よりも精神である。

 精霊界(アルフヘイム)は時間の観念が捉え辛く、測り様がない。一日が過ぎたと思えば地上では百年が過ぎ去っており、逆に数十年遊び暮らしたと思えば半日も経過していないのだと妖精に連れ去られた闇エルフの伝説において語られる。

 であればもしかしたら《精霊のうたた寝》から帰還したアウラの精神は百年を過ごし老成したものへと変貌しているかもしれない。

 だがだからといって殊更にフィーネが出来ることはないし、それをすることを許されてもいなかった。

 

「ハァー…心配しても仕方がないって分かって入るけど」

 

 自分は両界の神子などと御大層な異名を抱く特別な存在だという。

 自分と他者が()()ことは生まれ落ちてからの十数年で理解出来ている。

 だが所詮は()()()()なのだとも、アウラの奇病に端を発する一連の顛末で理解していた。

 どれだけ大層な、それこそ国を揺るがす程の力を持っていようと決して万能でも無敵でもないのだと。

 その認識はフィーネを構成する自我の深い場所に実感を以て刻まれ、自己認識を揺るがしかねない楔となっていた。良くも悪くもここから顛末がどう転がるかにより、フィーネの精神が変貌するきっかけとなりうる状態だった。

 

「……気分転換にジュチくんの様子でも見てみようかなぁ」

 

 と、サラリと色々な意味でおかしな発言を零すお姫様。

 恐らくこの台詞を聞いたガンダールヴ王は何とも言えない表情で言葉に迷い、リーヴァ王妃はそれでこそ我が娘と無邪気に手を叩いて喜ぶだろう。

 

「《風精(シルフ)風精(シルフ)。どうか私に、貴方の(まなこ)を貸してくださいな》」

 

 ダランと寝台にうつ伏せになったまま自然と風精に祈り、意を通じる。

 フワリと室内に一陣の風が巻き起こり、クスクスという微かな笑い声とともに真っ直ぐに外目掛けて駆け抜けていく。

 目を瞑ったフィーネの視覚が一時的に風精のものと同調し、王宮を俯瞰的に把握しながら同時に随所で起きている出来事を事細かに見通せるようになる。

 その同調は恐ろしく精密かつ隠密に行われ、誰も気付くことが叶わない。今この時王宮から秘密という概念は失われた。

 だがフィーネの興味は王宮ではなくもっと南の方に、山と草原に跨る大地に生きる少年にあった。

 

「《私は見たい。あの子を見たい。対の魔剣の持ち主を、どうか探してくださいな》」

 

 寝台に持ち込んだ自らの佩刀を示し、風精へ目印となる気配を教え込む。

 ケラケラ、クスクスと楽しそうに笑う風精は承知したとばかりに軽やかに南へと飛び去って行く。

 その移動はまさしく風の如く軽く、しかし風よりもはるかに速い。

 

「うーん、やっぱり()()があると風精も迷いが無いね。それとももう何度もお願いして慣れたせいかな?」

 

 そう、ジュチを《血盟獣》としたフィーネがわざわざ対の魔剣の片割れを渡した真意はこのためにあった。

 即ち、いついかなる時であってもジュチの一挙一動を眺めたいというギリギリ乙女心とも言えなくもない執着心の発露として。

 同調した風精(シルフ)の感覚を通じて、ジュチを探すための目印としての役割を期待し、ジュチへ懐剣を渡したのだった。

 そしてこの巫術まで使った大胆不敵な覗きの所業は既に幾度となく行われていた。

 この事実を知れば生真面目なガンダールヴ王ならば卒倒し、娘を叱りつけるだろう。

 本来ならば対の懐剣は王家の一員が、自らが股肱の臣と恃む家臣へ下賜する信頼の証とでも言うべきもの。魔剣の持ち主達は互いの位置を何となくでも分かるのだから、安全管理上でも絶対にみだりに他者へ渡すべきものではない。

 対の懐剣を下賜された者は下賜した王族に専属で仕える直臣となり、国王ですら直に命令を下すことは叶わない。

 その特殊な立ち位置から多くの場合乳兄弟や長年苦楽を共にした家臣など一握りの者にしか与えられない特別な魔剣なのだ。

 王族に与えられる対の魔剣は常に一対。あくまで義務ではなく権利だから、ただ一度も魔剣を下賜することなく、生を終えた王族もいる。

 この者は自分の命を預けるのに寸毫の不足も無し。対の懐剣の下賜とは本来それほどに重い意味を持つものなのだ。

 

「でもジュチくんは私の《血盟獣》だし? ジュチくんが死んだら私もきっと酷いことになっちゃうし? (承諾どころか事情を話してもいないけど)ジュチくんが私とずっと一緒にいるのは決定事項だし? しょうがないよねー。うんうん、しょうがないしょうがない」

 

 鼻歌でも歌いそうなほど軽やかな語調で紡がれる楽し気な言葉。

 何とも母親から受け継いだ血筋を感じる発言だった。

 フィーネは間違いなく「良い子」だ。だがリーヴァ王妃やジュチの影響を受けてか、賢人議会の思惑通りに動く()()()「良い子」ではなくなりつつあった。 

 このフィーネの心の成長(?)がこれからの《天樹の国》の行き先に、果たしてどのように影響していくのか…それは今は誰にも分からなかった。

 だが今この時はそんな未来を思うこともなく、ひたすらに己が心を捕らえた少年を誰に知られることもなく熱心に覗き見る一人の少女がいるばかり。

 これでも多少自重はしているので、ジュチの様子を覗き見るのは退屈さと遣る瀬無さが極まった時と決めている。ジュチの様子を見るのは何日かぶりのことだった。

 

「あ、いたいた。いいよ、風精(シルフ)。そのまま…そのまま。わあ、ジュチくんだ。今日もジュチくんは格好いいなぁ」

 

 と、誰が聞いても贔屓目の過ぎる無邪気な感想を漏らすフィーネ。あばたもえくぼという言葉を思い出すほど少年に夢中な様子だった。

 その割に異性を覗き見るという後ろめたさが無いのは生来の快活さと粗忽さ、そして若干の無神経さ故だろう。

 善かれ悪かれ天然気質というか、フィーネは世間知らずで自分の欲求には素直な性格なのだ。何より本人に悪意が無いので悪いことをしているという自覚がないことも大きい。

 

「……あれ? 子どもが倒れてる、もしかして病気? あんなに人が集まって…まさか、あの娘がジュチくんの…?」

 

 だがこの時フィーネが同調した風精の視覚越しに捉えたのは、まさにジュチの義妹であるツェツェクが《子殺しの悪魔》に憑りつかれたその日の情景だった。

 部族を覆う暗い影のような重苦しい雰囲気、そして自分を激しく責めているだろう厳しい表情を浮かべるジュチを見て、つい少年の名を呟く。

 

「ジュチくん…」

 

 ()()()()、とやり場のない感情が言葉となって口を衝いて出そうになる。

 フィーネもまた妹分(アウラ)(やまい)に倒れている。少女の胸中にあったのは同情ではなく、共感だった。

 驚くほど自然にフィーネはジュチの気持ちに寄り添い、共感の深さを確信していた。

 だってアウラの病気について語った時に少年は言ったのだ。

 それは、辛いなと。

 彼はそう言ってくれたのだ!

 その言葉が嬉しかったから、その気持ちが分かるから、ジュチはフィーネの心を捉えて離さないのかもしれない。

 

「頑張れ…」

 

 ふと、抑えきれない心が言葉になってフィーネの口を衝いて出る。

 

「頑張れ…! 負けないで! 私も、絶対に負けないから!!」

 

 寝台にうつ伏せになった状態から立ち上がり、周囲を顧みず激励の声を飛ばす。

 突然上げた大声に隣室に控える侍女達が訝しむ気配が意識の端に引っかかったが、気にするほどの余裕はなく、ひたすらに思いを込めてジュチへ向けて叫ぶ。

 

「何も出来ないかもしれないけど、何が出来るかなんてわからないけど! 私が一緒だから!!」

 

 だから頑張って、と。

 その叫びはもちろんジュチに届かない。

 それでも今この時、フィーネは思いの丈を込めて叫びたかった。

 いまのフィーネに何が出来るわけでもない、何かすることを許されてすらいない。

 だがフィーネの心には、炎のように燃え立つ気持ちが湧き上がり、易々と鎮火することはなかった。 

 



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一方その頃③

 

 かくしてフィーネはジュチの苦境を知った。

 だからと言って何が出来る訳でもないが、ただ心の内に何かできることは無いのかと焦りと無力感にも似た感情が降り積もっていく。

 その反動のように、寝台でゴロゴロと横になってジュチを覗き見る時間が大きく増えた。

 傍から見れば自堕落を極めているか不貞腐れている様にしか見えないフィーネ。

 その姿に王家に仕える侍女たちは多かれ少なかれ苦言を呈したが、どこ吹く風と聞き流す。

 これまでの「良い子」のフィーネらしくない振る舞いに、侍女たちは眉をしかめつつも困惑するしかない。

 良かれ悪しかれフィーネの内心でジュチが占める割合が増えつつある証左だった。

 

「むむ…」

 

 そんなある日、転機が訪れる。

 

「ジュチくんが、《天樹の国(ここ)》に来る…?」

 

 人知れず呟く。

 風精を通じて確認したジュチらの動向からの推測だが、まず間違いないだろう。

 もっと正確にジュチ達の言葉や仕草を拾えればいいのだが、巫術と言えども万能ではない。

 遠方になるほど風精との同調は頻繁に切れ、視覚や聴覚の情報がキレギレとなることも多い。

 というよりも《天樹の国》からジュチ達カザル族の宿営地という遠方まで風精の同調を繋げるのは本来無理難題と言っていい絶技。

 そしてそんな絶技を可能にするのは世界広しと言えど両界の神子であるフィーネくらいなのだった。

 尤も肝心要の使い道に関してはひたすらにしょうもない、宝の持ち腐れとしか言えなかったが。

 とはいえそんな常識的なツッコミを出来る者は周囲におらず、フィーネはただその事実と向かい合う。

 

「私に、何が出来るんだろう…?」

 

 ジュチが《天樹の国》に来る。

 もちろん物見遊山で来るはずがない。

 部族の窮状を救うため、なにがしかの目的を持っての来訪のはずだ。

 

(助けてあげなきゃ!)

 

 というのが真っ先にフィーネの胸中で湧き上がった素直な気持ちだった。

 

(でもどうしよう…?)

 

 というのが次いで思い至った現実である。

 知っての通り、フィーネは無期限で謹慎中。

 当然自由に動くことなど出来るはずもない。

 仮にガンダールヴ王に願い出てもその理由を問い質されるだろう。

 その時、果たしてどう答えれば父を説得できるかフィーネには分からない。

 ただ馬鹿正直に答えてはきっと上手くいかないだろうという直感はきっちり働いていた。

 

「どうしよう…」

 

 何かをしてあげたいのにそれを許されていないという二律背反がまたしてもフィーネの中で困惑と負荷となってとぐろを巻いた。

 

「むむむ…」

 

 ゴロンと横たわった体勢から起き上がり、寝台の上で腕を組みながら眉を寄せたフィーネ。

 悩む。

 が、答えは出ない。

 フィーネは王女として一流の教育を受けてはいる。しかし所詮それは知識に過ぎない。

 年齢相応の経験知しかあくまで持たず、「良い子」であれとの呪縛が彼女を縛り付けている。

 これで妙案を出して動き出せという方が無理だ。

 普段ならば終わらない自問自答を続けただろう。

 だが今日は違った。

 外からフィーネの窮状に転機を与えられる人物が訪れたのだ。

 

「久しぶりね、フィーネ。会いたかったわ」

 

 フィーネの私室へ足を踏み入れた来客が来訪に驚きを示すフィーネへ軽やかに挨拶を放る。

 来訪者はクスクスと、いつもにこやかな笑顔を絶やさない美貌の王妃リーヴァだった。

 

「お母様…? どうしてここに」

「あら、母が娘に会いに来ることがそんなにおかしいかしら?」

 

 と、からかうように言葉を放るリーヴァ。

 歓迎されてないなんて悲しいわ、とわざとらしく目じりに指を添えて泣き真似をする母に困ったように笑うフィーネ。

 フィーネにとってリーヴァはもちろん愛すべき家族である。

 だがリーヴァは母になっても悪戯心を忘れない少女のような一面の持ち主でもあった。

 割と頻繁にささやかな悪戯や言葉遊びを仕掛けてくるし、年に一度くらいガンダールヴ王が血相を変える洒落にならない真似を仕出かしたりもする。

 それでも王宮内でリーヴァを悪く言う者が少ないのはその人徳(?)故だろうか。

 

「う、ううん…。おかしくない、…のかな?」

 

 普段ならば母の言う通りおかしくはないのだが、一応フィーネは謹慎中の身。

 生真面目な父ならば母へ頻繁に顔を出すのは体面上好ましくないと釘を刺しているだろう。

 そう思い至ったが故の困惑だった。

 そんな娘の困惑を見て取ったリーヴァはクスクスと笑い、

 

「貴女付きの侍女たちがね、最近の貴女の振る舞いを私の耳にまで届けに来たのよ。だから今日は貴方の様子を見たり、お話を聞こうと思ったの」

 

 と、裏事情をあっさり暴露する。

 やや咎める調子での言葉に、思い至る節のあるフィーネは自然と緊張で身体を強張らせた。

 流石にここ数日の寝台に横たわったままろくに動かない振る舞いが周囲の目にどう映るか思い至らないほど鈍感ではない。

 ただ周囲の視線よりもジュチの動向の方がはるかに優先順位が高かっただけだ。

 

(うんうん、フィーネは本当に素直ね。可愛い、可愛い私のフィーネ。ちょっと騙されやすいのが珠に瑕だけど…)

 

 リーヴァの言葉に納得を示し、頷いたフィーネ。

 後ろめたい隠し事があるためか、リーヴァが拍子抜けするほど素直に納得した様子だった。

 素直で可愛い愛娘に慈母のようでいて、若干の心配と悪戯心の混ざった視線を向ける。

 今の言葉に嘘は無いが、意図的に話さなかった部分もある。

 ()()()()()

 何かが起こる、あるいは何かが変わる。

 今日一日、どう動くかで恐らくは何某かの転機が訪れるだろう。

 そう天眼(テンヌド)が、リーヴァの持つ類稀な直感にも似た霊感が天啓を示したのだ。

 そして丁度フィーネ付きの侍女たちから件の報告を耳にしてこれだ、と直感した。

 だからこそ時間を作り、重い腰を上げてフィーネの私室まで足を運んだのだった。

 

「何か悩み事があるようね、フィーネ。察するに、貴方のお友達のことかしら?」

「!?」

 

 半ば当てずっぽうでのカマかけだったのだが、素直なフィーネは「なんで分かったの!?」と分かりやすく顔に出た。

 その素直過ぎる様子がおかしくて堪え切れずクスクスとした笑いが漏れる。

 

嗚呼(ああ)、本当に可愛いこと…)

 

 リーヴァは偽りなくフィーネを愛していた。

 もしフィーネを傷つける者がいれば、決してその存在を許すことは無いだろう。

 それはそれとして、愛娘の恋路 (と言うには当事者達は幼かったが)はリーヴァにとって大いに興味を惹かれる事柄だった。

 母として、そして野次馬根性を発揮した一人の女として。

 

「母に話してみなさい。大丈夫、きっと悪いようにはしないわ」

 

 そういわれて、フィーネはしばしの間迷った。

 誰にも話していない隠し事、果たして打ち明けるべきかと。

 

(でもお母様なら…)

 

 フィーネも良く知る通り、母リーヴァはいささか以上に型破りな性格の持ち主。

 そして天眼の素養も合わさって、ガンダールヴ王に降りかかった大小様々な苦境を打破する一助になったと聞く。

 もしかしたら己を縛る苦境も快刀乱麻に断ち切ってくれるかもしれない。

 

「あのね、お母様…」

 

 少しだけ迷った後、フィーネは期待と恐れの両方を抱きながら自らの胸中を母に打ち明けるのだった。

 

 ◇

 

「なるほど。そういうことだったのね…」

 

 一通りの事情を娘から聞き出したリーヴァは深く頷いた。

 そして母に事情を打ち明け、少しだけ心が軽くなったフィーネ。

 だがその心はやはりまだ迷いに揺れ口から零れる言葉は不安そうなものとなる。

 

「私、どうすればいいのかな? ジュチくんは友達だもん。困っているジュチくんを助けてあげたい。でも私は「良い子」だから、「良い子」じゃないといけないから、ジュチくんを助けられないの…」

「落ち着きなさい、フィーネ。本当に貴女が望む道は無いのかしら? 母と一緒によく考えてみましょう?」

 

 穏やかな声音でフィーネを落ち着かせながらも、リーヴァの心は半ば以上決まっていた。

 

(この子はいま、自由にさせるべき…。そのためにも、私の力を存分に振るいましょう。ええ、この子を縛る本当の鎖を引き千切るためにも)

 

 フィーネはいま、揺れている。

 これまでならば、するべきでないとされたことにはそもそも関心すら向けなかったはずだ。

 だがいまフィーネの胸中では「良い子」であるべきならばすべきでないことと、友達としてしてあげたいことが真っ向から反発しあっている。

 その天秤が不意に飛び込んできた嵐によってどちらの方に振れるのか…リーヴァは期待と不安の両方を抱いている。

 願わくば娘にとって良い方向へ向かいますように、と。

 

(賢人議会のお歴々はさぞやぎゃあぎゃあと騒ぐのでしょうけど…)

 

 リーヴァもまた情愛深き闇エルフの一人。

 賢人議会がフィーネに執拗なまでに刻み込んだ「良い子」であれという呪い。

 王妃として理性ではその必要性を理解を示していたが、感情面はとうに極大の悪感情へ振れている。

 

(()()()()()()。我が愛しき娘を傷つける者、尽く暗き地の底へ沈み、地虫の如く地を這えばいい)

 

 普段は賢妃として振る舞う彼女だが、その本質は自分の感情に骨の髄まで忠実な『女』なのだ。

 なにせ彼女は幼い頃の恋心を実現するために、数多の恋敵達を蹴落とし、数多の艱難を打ち破った末、ガンダールヴ王の心を射止めた女傑なのだから!

 

(まあ、なんとなくあの人が苦労しそうな気もするけど…)

 

 止むを得ない犠牲と考え、割を食ってもらうとしよう。

 もちろんリーヴァ自身も自らの手腕をもって愛する夫を助けるつもりだ。

 なに、夫とてフィーネが自らの呪縛を打ち破ることを歓迎こそすれ、落胆だけはしまい。そのための苦労も厭わないはずだ。

 

「フィーネ、いい?」

「はい、お母様」

 

 膝を折り、胸中の葛藤に苦しむ愛娘と視線の高さを合わせる。

 真っ直ぐにその瞳を見つめると、そこには迷いと苦しみがあった。

 

「一つだけ、聞かせて」

 

 と、恐ろしいくらいに真剣な眼差しで見つめられ、フィーネは息を呑んだ。

 

()()()、どうしたい?」

 

 その問いかけは、「良い子」でもなく王女でもない、フィーネという一人の女の子に向けられた問いかけだった。

 

「私、は…」

 

 母リーヴァの真剣過ぎる様子の問いかけに、フィーネもまた自分の心を見つめ直す。

 そしてその心の中にある真っ直ぐな思いを、出来るだけ飾らずに言葉にしようとする。

 

「助けたい。ジュチくんを助けてあげたいよ。でも…」

 

 その、でも…の先を察したリーヴァがその言葉を引き取る。

 

「ええ、分かるわ。貴方は迷っていいのかも分からないのね」

 

 「良い子」ならば当然私情を優先して動くべきではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 フィーネはそう、教え込まれて育ったのだ。

 ふざけるな、と。

 リーヴァは改めて愛娘の心に執拗に刻まれた呪いに嫌悪を抱いた。

 

「でも良いのよ、良いの。私が貴女の迷いを、決意を許します。貴女は、貴女が思うように動きなさい」

 

 フィーネに駆けられた呪縛に楔を穿つために。

 またフィーネの迷いを晴らすため、きっぱりと愛娘の思いを肯定する。

 

「良いの、かな? だって…」

「お友達を助けるのは素晴らしいこと。もちろん、だから何でもしていいという訳ではないけれど」

 

 最低限の一線を守る必要はあるが、私情とは誰しも持っていて然るべきもの。

 今のフィーネはそこを過剰に気にし過ぎている。

 付け加えればフィーネが陥っている自縄自縛とて、少しばかり悪知恵を働かせれば幾らでも抜け道はあるのだ。

 だというのにそうした抜け道を探すどころか、探すことを思い付きすらしない。いまのフィーネは心に刻まれた歪な道徳・規範に縛られるお人形だ。

 フィーネを縛る呪いの根っこは()()にある。 

 リーヴァはその根を断ち切りたい。

 しかし悔しいがリーヴァやガンダールヴ王の力だけではきっと叶わないという直感がある。

 

(……顔を見たこともない貴方に期待するのもお門違いでしょうけど。フィーネのお友達くん、貴方ならこの娘を縛る頸木を砕くことが叶うのかしら)

 

 リーヴァは天眼を以て変革の兆しを感じ取り、一抹の期待と不安を娘から伝え聞く騎馬の民の少年に抱いていた。果たしてかの少年の来訪が愛娘にどのような影響を及ぼすのかと。

 確信しているのはただ一つ、このままでは決してフィーネは変わらないだろうということだ。

 そしてリーヴァは情愛深くも果断な性格の持ち主。

 愛しい娘に自らの呪縛を破るための試練に挑む機会を与えたかった。

 

「ガンダールヴの妻として、フィーネ、貴方の謹慎を解きます。ここしばらく大人しくしていたのだからもう十分でしょう」

 

 だからリーヴァはフィーネに名分を与える。

 即ち、謹慎を解き、自由に動いてよいという名分を。

 この名分は所詮フィーネを「良い子」として縛る呪縛を緩めるだけで、砕くことは構わない。

 しかしかの少年と再会するための自由を与えられるには十分だった。

 

「あの人には私から伝えておきます。もちろん謹慎が解けてからも身を慎むことを忘れてはいけませんよ? さもなければすぐ謹慎の身に逆戻りですからね」

「お母様…。うん、ありがとう!」

 

 ガンダールヴ王がフィーネに謹慎を言い渡した名目は、あくまで王宮を騒がせたが故。

 別段フィーネが《天樹の国》の掟を破ったわけではない。

 また仮にジュチを殺しかけたこととその命を《血盟》を結ぶことで救ったことが公になっても、それを裁く法は無い。

 つまりフィーネの謹慎はガンダールヴが家長として家人に言いつけただけの、あくまで()()()()()なのである。謹慎と聞けば大袈裟に聞こえるが、たまたまフィーネが国王家という政治的にも大きな存在だったというだけで。

 よってその妻が夫の代理として謹慎の解除を申し渡すのも決して無い話ではない。

 この一帯では概ね男性が家長として強権を振るう。《天樹の国》でも例外ではなく、夫と妻の意見が分かれれば夫の意見が優先される傾向にある。

 だが国王夫妻は珍しく家庭内では(リーヴァ)の方が立場が強く、しかもガンダールヴ王は愛妻家だった。

 この件では夫と意見が分かれるかもしれないが、譲るつもりは無かったし、説得できる自信もあった。少しばかり手を回すのが早かっただけで、結果としては同じことに()()()()()()

 リーヴァは女傑らしい、涼やかだが凛とした戦意に満ちた表情を浮かべた。

 

(例の男の子がこの国に着いたら、スレンに乗って会いに行きなさい。だからそれまでは怪しまれないように大人しくしておくこと。いいわね?)

 

 と、こっそりと悪だくみを娘に耳打ちする。

 娘も心得たようにこっくりと頷き、真剣な表情で諾と返事をした。

 

「よろしい。流石は私の娘ね」

「うんっ!」

 

 ふんすっ、と意気軒昂な返事をしたフィーネを微笑ましく見やるリーヴァだった。

 そしてここで終われば美しい親子愛の一幕ということで幕を引けたのだろう。

 だがこの後に実に闇エルフらしい続きがあった。

 

「貴女のお友達を何時か、私とあの人にも紹介してね。そのためにもしっかりと捕まえておかないとダメよ?」

「捕まえる…?」

「ええ、年頃の男の子は移り気だもの。女の方がしっかりと手綱を取っておかないと、ふらりふらりと他所の女の方へ寄って行ってしまうの」

 

 ギリリ、と聞こえるか聞こえないかの境目を行く音量の歯ぎしり。かつての恋敵達を思い出したのか、これまでフィーネには見せたことのない冷ややかな目つきをしていた。

 だが良いだろう、許してやろう。所詮は敗者、私に膝を屈した負け犬ども。彼奴等を踏み拉いた果てに彼と結ばれたのだから、その過程を彩るスパイスと思えば寛大さを示す余地はある。

 だが今晩の寝台は騒がしく、熱の籠ったものになりそうだと、リーヴァの冷静な部分が脳裏で囁いた。フィーネは可愛いが、当然二人目は欲しいのだ。

 

「ジュチくんが、他の女の子に…?」

 

 そして母が母なら、娘も娘というべきか。

 まるで考えたこともなかったと疑問符のついた言葉が漏れる。そしてその一瞬後に、密閉されたはずの室内で轟々と風が吹き荒れた。

 フィーネの感情の昂ぶりに、精霊たちが呼応して騒いでいるのだ。

 心なしかその瞳からは光が失われ、吸い込まれるような暗い闇が蟠っていた。

 

「心を鎮めなさい、フィーネ。落ち着きのない女の子は嫌われるわよ」

「嫌われる…。はい、お母様」

 

 が、娘の癇癪もなんのその。

 その操縦法を心得た母が的確に窘めることで、その癇癪もすぐに収まった。

 

「良い? 長い私達の生で幸せを捕まえるために必要なのは勢いと決断よ。順縁を掴む機会は意外なほど多くないのだから。

 特にそばにいる男の人は重要ね。()()()()、と思ったら躊躇わずに行動に移りなさい」

「……ジュチくんが、その子? なのかな。どうやって判断したらいいの?」

 

 おやまあ、とうぶな娘に若干の呆れを覚える。

 リーヴァの見立てでは(カラダ)はとうに理解しているだろうに、頭の方が追いついていないらしい。

 

「そうね、一番わかりやすいのはやっぱり()()かしらね」

 

 と、やけに艶やかな、妖しい色気を秘めた仕草で下腹部―――子宮(コブクロ)の上を撫でる。

 かつてフィーネを孕んだ『女』を象徴する器官を撫でる仕草はなんとも妖艶だった。

 

「お腹の…そう、ココが熱くなって、その男の子をパクリと食べたくなったら間違いないわ」

 

 微かな妖艶さを秘めた手つきでキョトンとした様子の愛娘の下腹部にも手を添え、ゆっくりと撫でる。

 その感触に言い知れぬ妖しい気分と気持ちよさ、ゾクゾクとする熱っぽさを覚えたフィーネの顔が我知らず紅潮する。ジュチの明るい笑顔を思い出すと更に熱が高まった気がした。

 だがやはり頭では理解しがたいらしく、疑問の籠った声を投げた。

 

「食べる…?? でもジュチくんは食べられないよ?」

「もちろん例えよ。でもね、よく覚えておきなさい。女には男を逃がさないようにぎゅうっと抱きしめたくなったり、何処にも行けないように縛りつけておきたくなる時があるものなの」

「そう、なんだ…?」

「そうよ」

 

 林檎が大地に落ちるのは当然だ。

 それと同じ調子で当然のことのように束縛欲の籠った宣言を力強く言い切るリーヴァ。ガンダールヴ王の日々の苦労が偲ばれる。

 なんとも情愛が深すぎる闇エルフらしい宣言だったが、やはり幼いフィーネにはピンときていないようすだった。

 

「まあ、いまは良いわ。きっと躰で思い知るでしょう。私たち闇エルフの女は、子宮(ココ)で運命を感じ取る生き物なのだから」

 

 と、やけに意味深な視線を娘に向けながら、呟くリーヴァだった。

 

 ◇

 

 かくも生々しいやり取りを挟んだ一幕があったりしたものの。

 謹慎が解かれてからも自室で大人しく振る舞い、こっそりジュチの旅路を覗いてはハラハラドキドキ、一喜一憂するフィーネ。

 日々()()()近づいてくる気になるあの子にますます心を捕らわれながら、じっくりと機を待った。

 そしてついにジュチが《天樹の国》の国境を越えようとする日、準備万端とばかりにスレンの傍に待機していた。

 どこかウキウキとした様子の王女に様子を伺う声が王宮に仕える者たちからかけられる。

 その問いかけに久しぶりの遠翔けに行くと伝えれば、このところの謹慎の日々を知る者達は皆なるほどと頷いた。

 天真爛漫、お転婆な王女であれば謹慎の日々にも鬱憤が溜まっていよう。スレンとの遠翔けでそれが晴らせるならばまことに結構なことだった。

 そこで疑問は終わり、皆自分の仕事に戻っていく。

 咎められたり、それ以上追及されることもない。

 やはり母の助言に従ってよかった、と改めて母への尊敬の念を募らせるフィーネだった。

 そしてしばしの時間を経てついに、その時は来る。

 

「行こう、スレン! 全速力で、ジュチくんのところまで!」

 

 スレンもまた謹慎の日々に力を持て余していたのだろう。

 ジュチの名前が出たくだりで、若干複雑な感情が動いたようだが、主の指示に従って力強い咆哮を上げるとその両翼を羽撃(はばた)かせた。

 飛竜の力強い飛翔はフィーネをあっという間に王宮から国境まで運ぶ。

 やがて視界に見えてくるのは一群の家畜を引き攣れた二人の騎馬の民。

 片割れはもちろん、フィーネが再開を待ち望んだジュチであった。

 

「ジュチくんだ! スレン、急いで!」

 

 グルル、と唸るスレンはどこか呆れている様子だったが、最早それすら目に入らない。

 もう待ちきれない、と飛竜(スレン)が地に両脚を付けるやいなや背の鞍から軽やかな動きで飛び降りる。見事な着地を決めると、すぐに少年の元へと足を向かわせる。

 

「ジュチくん、久しぶり! こっちもそっちも色々あったみたいだけど、また会えて本当に嬉しいの!」

 

 そう、フィーネは満面の笑みを浮かべて、久しぶりの再会を寿いだ。

 本人も自覚しないほど僅かな、不安の影を心の片隅に宿しながら。

 



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使節

お待たせ致しました。
キリのいい所まで書き溜めたので、4話ほど隔日で放出します。
ある意味この小説の中で一番書きたかった場面なので、既に割と満足感が…。
さておき、お楽しみいただければ幸いです。


 

 《天樹の国》の国境にて。

 騎馬の民の少年ジュチと闇エルフの少女フィーネは再会を果たした。

 

「久しぶりだな、フィーネ。会えて嬉しいよ。こんなに早く会えるとは思って無かったけどな」

「エへへ、実は結構前から対の魔剣がこっちに近づいて来ているのは分かってたんだ。でも国境を越えて会いに行くのは許されてなかったから…。でもでも、ようやくジュチくんと会えて私も嬉しいの!」

 

 国境を越えて大した時間も経っていないというのに早すぎる再会。

 そこに疑問を覚えたジュチの挨拶にフィーネはさらりと嘘ではないが全てを語っているわけでもない答えを返す。

 風精との同調による覗き行為のことなどおくびにも出さず、さも対の魔剣による恩恵だと思わせる口ぶり。

 無意識の言動であるが、そこは狡猾な闇エルフの本能と言うべきか、実に自然な話しぶりであった。

 現にジュチは流石は巫術に長けた闇エルフ、そういうことも出来るのかと感心するばかり。

 アゼルはフィーネの口ぶりに若干の違和感を覚えたようだが、疑惑にまでは至らない。

 ただなんとなくだが、見た目通りの無邪気な少女ではないと直感した。

 

(ジュチからは単に友達と聞いていたが…)

 

 ジュチの一挙一動に視線を奪われているフィーネの様子を見ていると、()()()()には見えない。

 アゼル自身は色恋沙汰に疎く、そういう方面には鈍いのだが……何かフィーネの輝かしい程の笑顔の裏に何か()()()としたものが混ざっているように感じられるのだ。

 その感覚を裏付けるようにジュチの姿が少女の視界に入ってからは傍らのアゼルに意識が一片たりとも裂かれていない。

 さながら路傍の石と同じであるかのように扱っている。

 だがその根源は傲慢さからと言うより、単に意識の全てがある一点に注がれているからのように見受けられた。

 

(モージが言っていたことはこういうことか…)

 

 闇エルフは情が深い、と。 

 あくまで万が一の話だがとの前置きをした上で闇エルフの生態について色々と聞いていたが、どうやらモージの懸念が当たっていたらしい。

 ただしこれが吉と出るか凶と出るかはこれから話がどう転がるかによるだろう。

 

「ところでこの国境っていつも人を置いていないのか? ここに小さいけど関所があって入国の取次があるって聞いていたんだけど…」

「あ、ううん。いつもならそんなに多くは無いけど国境にも巡士はいるんだけどね。今はちょっと危険だから、もう少し奥の方に引っ込んでいるんだ」

「危険…?」

「後で話すよ。それよりもジュチくんは―――」

 

 少年との何でもないやり取りでも嬉しそうに楽しそうに会話を交わす見目麗しい少女。

 だが不思議と少年のことが羨ましくないのは少女が幼いからだけではないだろう。

 少年の未来に幸あれとアゼルは天神に静かに祈った。そしてそれ以上のことをする気はあまりなかった。少女の執着がこの旅路に影響を及ぼすようならまた話は別だが…。

 

「ジュチよ、再会を喜んでいるところに水を差すのは心苦しいが、お前の友を俺にも紹介してもらいたい。無骨な俺とて挨拶の一つも交せん無粋な輩にはなりたくないのだ」

 

 少年と少女がひとしきり互いに再会を喜び合い、言葉を交わし合ったと判断すると横からそっと声をかける。

 その穏やかな声にフィーネとの再会を喜んでいたジュチが我に返る。

 

「そうだった。ごめん、アゼル」

 

 と、素直に謝罪し。

 

「フィーネ、こっちはアゼル。同じ部族の男衆で、俺の兄貴分だ」

「初めまして、私はフィーネ。ジュチくんのお友達です」

 

 アゼルへ笑顔で如才なく声をかけるフィーネ。

 対し、アゼルはフィーネに向けて静かに一礼をすると、耳慣れぬ調子の挨拶の言葉を述べた、

 

「我らが出会う時、双つ星が輝く」

 

 それを聞いたフィーネはおや、という表情を浮かべた。

 闇エルフの古い流儀に則った正式な挨拶である。

 それも一介の旅人が使うようなことはほぼない、《天樹の国》と古くから交流のある隊商(キャラバン)の頭目や部族・国家の使節が述べるような正式なものだ。

 とはいえその仕草は洗練されたものとは言い難い。

 

「我らを相照らす星の導きに感謝を」

 

 闇エルフの少女は若干困惑を浮かべるも、曲がりなりにも一流の教育を受けた王女である。

 美しい所作とともに礼儀正しく形式に沿って挨拶を返した。

 アゼルも不慣れなりに淡々と返答を続ける。

 

「我らは流浪(カザル)の民の末裔、名はアゼルと申す。高く貴き峰に住まう山と星の娘にご挨拶申し上げる」

 

 ついで部族の名を耳にしたフィーネが今度は腑に落ちたと僅かに頷く。

 流浪(カザル)の民。

 その名は《天樹の国》にとっても決して無関係な名ではないのだ。

 とはいえその関係性もとうの昔に薄れ、今となっては仔細を知る者は一部の教養ある者くらいだった。

 

「シャンバラに座す実り豊かな大君(フレイ・イン・フロージ)の臣下、フィーネと申します。騎馬を駆る猛き一族の裔よ、この出会いに祝福があらんことを」

 

 尤もいまはそんな事情は関係は無い。

 フィーネは王女として叩き込まれた礼儀作法に則り、舞踊的な美しさすら伴った所作で優雅に挨拶を返した。

 

「祝福があらんことを」

 

 とアゼルも応じ、形式に沿った挨拶は完了した。

 傍らには突然始まった儀礼的なやり取りに目を丸くしたジュチ。

 少年の困惑を見て取ったアゼルが苦笑とともに今のやり取りについて説明する。

 

「闇エルフの流儀に則った口上だ。正式な使節として彼らの国へ赴く者は皆、こうして挨拶を交わしたという。

 とはいえフィーネ殿、我らの交流も絶えて久しい。ご無礼あるかもしれぬがどうかご容赦願いたい」

 

 と、実直に謝意を示すアゼル。

 《天樹の国》に関する知見と旅慣れた技能を見出だされたとはいえ、元来口が達者な方ではない。

 弱みを見せる、などと考えず素直に口に出す方がまだ良かろうとの考えからだった。

 

「正直に申し上げて、とても驚きました。しかしそれ以上に喜ばしい出会いです。古き同胞(はらから)に連なるお方」

「こちらこそ闇エルフの貴人に出会えて光栄だ。かの国で飛竜乗りと言えば例外なく当世一流の才人と聞く。機会あらばフィーネ殿と語らってみたいものだ…。無論、ジュチとともに」

「ええ、是非とも!」

 

 無骨ながら微笑を浮かべるアゼルと、満面の笑みを咲かせたフィーネ。

 二人の友好的だがどこか堅苦しいやり取りにジュチは分かりやすく疑問の意を示した。

 

「……なあなあ、何で二人ともそんなに持って回った話し方なんだ?」

 

 一応は気を遣ったのだろう、声を潜めた問いかけをアゼルに向ける。

 だがあまりにも直截な問いに気持ちは分かるが静かにしていろと身振りで示そうとする。

 

「フフッ」

 

 闇エルフの鋭い聴覚でそれを聞き取ったフィーネはジュチくんらしいなぁと、春風のようにふわりと笑みをこぼした。

 元よりこの肩が凝りそうなやり取り、フィーネとしても全く好みではない。

 出来ることとやりたいことは別の話だ。

 ましてやお友達であるジュチとの会話にそんなものを差し挟むのは無粋という他は無い。

 

「アゼル殿、実は私は今日飛竜との遠翔けでここに来ました。公人ではなく私人として。それに遠方より来られた友を歓待するのは闇妖精の一族にとってもこれ以上ない喜び。

 無論、容易ならざる事情をお持ちであることは察しております。必要ならば我らの王宮へご案内し、然るべき者へと取り次ぎましょう。

 しかしこの場においては私人、ジュチくんのお友達としてご助力差し上げたいと思うのですが、如何でしょう?」

「……ジュチとの友誼を利するようで正直なところ心苦しい。しかし我らには時間が無く、伝手も乏しい。フィーネ殿、貴方の申し出は願っても無いことだ。どうか我らにご助力願いたい」

 

 と、アゼルがさっと頭を下げ、フィーネが鷹揚に頷くとある種の合意が形成された空気が漂った。

 そこに再び空気も読まずに疑問の意を表明するジュチ。

 

「結局どういうことなの…?」

「この場にいる者の間では、多少の無礼は見逃してくれるということだ。もう自由に話して良いが、人目がある時は黙っていろよ。良いか、フリではないぞ? 必要になれば俺がお前を黙らせる。そこをよく覚えておけ」

 

 若干最後の辺りにドスを利かせた調子で少年を窘めつつ、その手綱を緩める許しを与えた。

 分かったような分からないような、隠し切れない困惑を浮かべた少年。

 前世においても本音と建前を使い分けるような会話術を用いる機会がほとんど無かったのだ。

 だが少年らしい切り替えの早さで、すぐに疑問を棚上げすることにした。

 

「分かった! つまり普通に喋っていいってことだな」

 

 その能天気な言葉に分かっていないなこれは、と眉を顰めるアゼルだが。

 

「そうだよー。だって私たちはお友達だもん! 変なところで堅苦しくする必要なんて無い無い!」

 

 と、当のフィーネがニコニコと笑顔でジュチの言葉を肯定した。

 《天樹の国》の貴人に連なる姫の意向に、吹けば飛ぶような弱小部族の一使節が逆らえるはずもない。

 ましてやこれから頼みごとをする立場であるならば猶更に。

 となればアゼルが言えるのはもう人目がある時は黙っておけとジュチに後でキツく言いつけるくらいのものだった。

 



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二律背反

 闇エルフの少女との再会は叶った。

 久しぶりに顔を合わせた彼女と挨拶を交わし、友誼を確かめ合い、ざっくばらんに話そうとの言葉も貰った。

 

「フィーネ、助けて欲しい。俺たちは部族を助けるために、《天樹の国》に来た。フィーネの助けが必要なんだ」

 

 となればジュチは早速本題に入る。

 世間話に花を咲かせるような余裕を持っていないし、回りくどい頼み方は騎馬の民の流儀ではない。

 元より小器用な性質でもないジュチに出来ることは、フィーネとの友誼に期待し、真っ直ぐにその助力を恃むことだけだ。

 

「うん、もちろん。何でも、は出来ないけど私が出来ることなら」

 

 そして頼み込まれたフィーネは何故か一瞬だけ身を震わせると、それ以上の遅滞なく諾と頷いた。

 その迷いの無さはいっそジュチが戸惑うくらいだ。

 

「……いいのか? まだ何も言っていないのに」

「いいの! お母様もお友達は助けるものだって言っているもん! 私だってジュチくんが困ってたら助けてあげたいって思っているんだよ? それに、()()助けが必要なんでしょう?」

「ありがとうな。世話になった分は絶対に返すから」

 

 この恩は必ず返さねばなるまい、と幼いなりに心へ誓いを刻む。

 友達とは対等なものだ。

 貸し借りを一方的に積み上げる関係は絶対にそうと呼ぶことはない。

 助けてもらうことを当然と思った瞬間に、フィーネとの間にある絆は消え失せる。

 それはジュチにとって忌むべきことで、そうなった時自分で自分を許せないだろう。

 

「エへへ、そういうことなら期待しちゃうからねー?」

「う゛…。お、男に二言はねぇ…!」

 

 上目遣いに悪戯っぽく笑い、サラリと言質を取りにかかるフィーネ。

 見栄を張ったジュチはその罠にあっさりと引っかかる。

 フィーネならばそう無茶は言うまいという多少の打算はあったが、まさか少女の胸中でそれ以上の感情が渦巻いていることは予想もしていない。

 少しずつ外堀が埋められていく弟分に微妙な視線を向けるアゼルだった。

 

「それで、ジュチくん達に何があったの?」

「ああ、実は…」

 

 ()()然々(しかじか)と。

 ジュチは言葉足らずだが朴訥な語り口で部族を襲う《子殺しの悪魔》とそれを退けるための霊草採取の任について語った。

 時折アゼルが補足を入れながらのたどたどしい語り口だったが、語り終えるのにそう時間はかからない。

 聞き手が聡明なフィーネで、アゼルの補足も的確だったから、理解が不足するということも無かった。

 だが気になったのは、話の途中から明らかにフィーネの顔色が悪くなったことだった。

 特に件の霊草が《精霊の山(マナスル)》の断崖絶壁に群生する白い花弁の花、永遠の花(ムンフ・ツェツェク)であることを聞いてからがその変化は顕著だった。

 

「……フィーネ?」

「あ、ううん。何でもない…ことも無い、かな?」

 

 その変化に疑問を覚え、どうかしたのかと意を込めて名を呼びかける。

 慌てたように何でもないと答えようとして失敗する。

 その優れない顔色と返答に()()があるのだ、とジュチも察する。

 フィーネはフゥー、と肺腑の空気を全て吐き出すように息を吐くと。

 

「……少しだけ、いま聞いた話について考えさせて」

 

 そう、真剣な表情で時間が欲しいと語るフィーネ。

 頼み込む立場であるジュチ達に否と言えるはずもない。ジュチはもちろん頷いた。

 

「………………………………………………………………………………」

 

 フィーネはジュチやスレンへ忙しなく視線を向けながら、唇を噛み占めるように沈思黙考を続ける。

 そうして長い、余りにも長い沈黙を挟んだ末に。

 

「……ごめんなさい、ジュチくん。私じゃ助けになれない…。ううん」

 

 目を伏せたまま、沈痛な仕草で拒絶の意図を込めて首を振る。

 いいや、それだけではなく―――。

 

「貴方達が《精霊の山(マナスル)》に行くと言うのなら、私は止めなきゃダメなの。ジュチくんの友達として」

 

 はっきりと、使命感すら湛えた決意を込めてジュチ達の任を阻むと答えた。

 

 ◇

 

 先ほどまでの穏やかな空気が一転し、ヒリつくような緊張感が場に満ちる。

 ジュチの視線に籠る感情が負の方向に傾きつつあることに気付きながらも、フィーネは毅然として胸を張った。

 自身の内側で暴れる感情を務めて無視しながら。

 

「……何でだ?」

 

 そして感情を抑えるための沈黙を一拍挟み。

 ジュチの口から漏れたのは、そんな当然の疑問だった。

 口調は何とか平静を取り繕えているものの、感情面はそうではない。

 むしろ今にも口を衝いて出そうな激情に頭が煮えつつあった。

 

「何でそんなことを言うんだ、フィーネ。分かるだろう、お前だって…!?」

「分かるよ! 分かり過ぎるくらいに分かる! 私もアウラが病に倒れて、もうずっと眠ったまま! このままだったらどうしようって気が気じゃない!! きっとジュチくんも同じでしょう!?」

 

 徐々に激するように言葉に籠る感情を荒げるジュチ。

 だがフィーネはそれ以上の感情を込めた悲鳴じみた言葉で応えた。

 ジュチもフィーネも鏡合わせのように義妹(ツェツェク)妹分(アウラ)が病で倒れている。

 お互いの気持ちがまるで自分のことのように分かるから、ジュチはまるでフィーネに裏切られたかのように衝撃を受けていた。

 

「それが分かるんなら…!?」

 

 何故だ、と最早怒りすら込めてフィーネを睨む。

 これが理不尽な八つ当たりだと頭の片隅で自覚しながらも、幼い少年は自制が利かなかった。

 

「落ち着け、ジュチ」

 

 故にそれを抑えるのは、部族の年長であり、兄貴分であるアゼルの役目だった。

 今にもフィーネに向けて詰め寄りそうなジュチの肩を掴み、その怒りを抑え込む。

 

「でもアゼル…!」

「俺は諦めろ、とは言っていない。事情を聞け、と言っている。それにお前の抱く怒りは必要か?」

 

 激した感情をアゼルにも向けると、氷のように冷静な声を返される。

 熱くなりすぎた頭に冷や水をかけられたジュチは我に返り、二人に向けて謝った。

 

「……ごめん。熱くなった」

「ううん、私こそごめんね」

 

 フィーネの言い方も直截に過ぎた。

 捉え方によっては協力できないどころか邪魔をするとも聞こえる。

 もちろんそれ以上にジュチが冷静さを欠いたことに責任があるが。

 

「ハァ…」

 

 と、思わずフィーネは深い深いため息を吐く。

 たっぷりとした憂鬱さの籠ったそれは、フィーネの複雑な心情をうかがわせるに十分だった。

 図らずもそれが全員の頭に冷静さを取り戻すための一拍の間となる。

 

「……私も、ジュチくんと同じ気持ちなの。本当に、そっくりそのまま。だって私が求める霊草も同じように《精霊の山(マナスル)》に生えているんだから」

「あの時言っていた霊草か」

「うん。多分だけど私が探していたものとジュチくんが求めているものは名前こそ違うけど同じ霊草だと思う」

 

 永遠の花(ムンフ・ツェツェク)、あるいは高貴な白(アーデルヴァイス)

 どちらも霊地である《精霊の山(マナスル)》の断崖絶壁でのみ群生する白い花弁の霊草である。

 ここまで特徴が一致していれば、確かにどちらの名も同じ霊草を指している可能性はある。

 

「……場所まで分かっているのに、フィーネが向かっていないってことは」

「もちろん理由はあるよ。私が《精霊の山(マナスル)》へ向かうのを諦める理由が」

「それは?」

 

 と、問われてフィーネは何故かチラリとスレンを見遣った。

 飛竜は恐ろしく強力な魔獣だ。竜骨山脈の生態系におけるほぼ頂点の地位にあると言っていい。

 だが例外もある。ある、あるのだ。

 飛竜と同格でありながら、明確に優位を取れる強大な《魔獣》が存在する。

 その名こそ―――。

 

「……大王鷲(ガルダ)が、ジュチくんの言う永遠の花の群生地に巣を構えたの」

大王鷲(ガルダ)?」

 

 聞き覚えのない名前に、ジュチは咄嗟に魔獣らしきその名を鸚鵡返しに問い返す。

 

「そう、大王鷲(ガルダ)。本当はここよりもっと南西の南方亜大陸(エネトヘグ)に生息する鷲に似た《魔獣》。草原で牛馬を鷲掴んで住処まで持ち帰る巨体の持ち主で、嵐を呼びこんで太陽を陰らせるくらい強力に風と水の精霊を従えているの」

 

 ジュチとアゼルの脳裏に《天樹の国》へ向かう旅路に垣間見た巨影が思い起こされる。

 あの巨大な影は雌羊の抵抗をものともせずに鷲掴み、悠々と天を飛翔していた。

 飛竜に匹敵すると言われても納得の出来る凶悪な存在感。

 恐らくはあれがそうなのだ、とジュチとアゼルの中で理解が腑に落ちた。

 

「別名は竜蛇殺し(パンナガーシャナ)。時に飛竜(ドゥーク)すら食い殺す、最悪の《魔獣》なの」

飛竜(ドゥーク)を…? おいおい、そんな化け物が―――」

 

 いるはずがない、と飛竜の強大さを知るジュチは反射的に否定しようとする。

 しかしフィーネの暗く落ち込んだ表情が万言よりも雄弁に真実なのだと語っていた。

 

「本当、なのか…。そんなとんでもない《魔獣》が存在するのか?」

 

 言葉だけでは大王鷲(ガルダ)の実像は掴めないが、飛竜(ドゥーク)を食い殺すという一事だけでその強大さは否が応でも理解できる。

 飛竜(ドゥーク)こそ竜骨山脈最強の生物。

 その認識は生涯覆ることは無いと思っていたのだが、それは誤りだったらしい。

 世界は広い、ということなのだろう。

 だがそれを実感するのがよりにもよって今この時でなくても良かっただろうにとつい天神を恨みがましく思ってしまう。

 

「本当はこんな北方に来ることなんて無いはずなの。でも、来た。来ちゃった。いま《精霊の山(マナスル)》の周辺は入山を禁止されているから誰も入れない。入ったら大王鷲(ガルダ)に捕まって食べられちゃうからね」

 

 だからこそ《精霊の山(マナスル)》に近いこの国境周辺の警戒も薄いのだという。

 ジュチは必死に頭を回し、抜け道や見落としが無いか一つ一つ潰していく。

 

「……巣を構えた群生地以外の別の場所は?」

「無いよ。散々探し回ったし、岩戸登りの人達にも確かめたから間違いない」

大王鷲(ガルダ)が巣を作る前に採取したものはないのか?」

「採取が難しい霊草だから基本的に必要な時だけ採ることになってるの。少なくとも《天樹の国》には備蓄は無いかな」

「代わりになるような霊草はどうだ? 」

「分からないけど、ジュチくん達の部族の人が罹っている病気も見ていないのに薬師の人も迂闊なことは言えないと思う。……私も考えられるだけ、考えたの。アウラを何とかして助けられないかって」

 

 ジュチの問いかけに一つ一つ首を振るフィーネに確かに、と頷く。

 何よりこの情の深い少女がジュチが咄嗟に考え衝く程度の見落としをするはずがない。

 考えられるだけ全ての可能性は潰し、その上で諦めるという選択肢を選んだはずだ。

 

「な、なら…」

「気持ちは分かるよ。私も同じだもん。でも…」

 

 それでも何とか言いつのろうとするジュチを押さえ、フィーネは言の葉を舌に乗せる。

 とても言いづらそうに、それでも言わなければならないのだと決意を込めて。

 

「諦めて、部族の元へ帰って。私、ジュチくんが死んじゃうところなんて見たくないよ…!」

 

 (まなじり)に涙さえ湛えてジュチへ懇願するフィーネ。

 そしてジュチはフィーネの涙混じりの懇願に、咄嗟に応える言葉を持たなかった。

 フィーネの言葉はどうしようもなく()()()

 そして前世の知識を持ち合わせているだけの少年が、この袋小路を快刀乱麻に立つ名案など思いつくはずもない。

 だからジュチは潔く諦め、大人しく部族の下へ帰路に就くべきだ。

 だがもちろん感情は全く逆を叫んでいた。

 部族の皆を、ツェツェクを見捨てるなと。

 選びようのない二律背反に、ジュチは追い込まれた。

 



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だからどうした

「諦めて、部族の元へ帰って。私、ジュチくんが死んじゃうところなんて見たくないよ…!」

 

 (まなじり)に涙さえ湛えてフィーネは少年へそう懇願した。

 そしてジュチは咄嗟に返す言葉を持ち得ず、二人の間に沈黙が落ちた。

 

「……………………」

 

 フィーネの言葉は正しい。どうしようもなく正しかった。

 少なくとも論理的に否定する言葉をジュチは持っていなかった。

 

「まだ、だ…。まだだ!」

 

 だが胸の内に湧いた諦めを無理やり振り切ろうとやけくそのように声を張り上げる。

 それは賭けですらない無謀で、だが諦める訳にはいかないという意地だけがジュチを突き動かす。

 

「そいつの留守を狙えばいい! よしんば出くわしても俺とエウェルなら逃げだして―――」

「ならジュチくんはスレンから逃げられるの!?」

「ッ―――!」

 

 己が名を呼ばれ、首をもたげたスレンが主の言葉に沿うようにジュチをギロリと睨む。

 それだけでジュチの背筋に氷柱が突っ込まれたような悪寒が走った。

 恐らく蛙が蛇に睨まれればこうなるのだろう。そんな場違いな感想が現実逃避した脳裏に走り抜ける。

 多少スレンと心を通わせようが、その暴威を現実に向けられた時ジュチは何処までも無力な少年に過ぎなかった。

 眼前に実体として在る原始的で圧倒的な恐怖。抗えない、抗いようがない彼我の力関係が無謀に挑もうとしたジュチの足を止めた。

 

「ジュチくんが挑もうとしているのは、スレンを殺せる魔獣なんだよ!? スレンから逃げ切ることも出来無いのに、大王鷲(ガルダ)に挑むなんて死にに行くだけ。私に友達を見殺しにしろってジュチくんは言うの!?」

 

 今度はフィーネが語気を荒れ狂わせ、ジュチへ向けて一歩詰め寄った。

 少女の感情の昂ぶりに精霊が呼応する。

 轟々と風が逆巻き、晴天に突如として暗雲が呼びこまれた。吹き付ける風が湿り気を帯びる。

 嵐の前兆だ。

 フィーネの感情が嵐を呼び込み始めているのだ。

 異様過ぎる雰囲気を醸し出す闇エルフの少女にアゼルが警戒と畏怖の視線を向けた。

 

「……ジュチくんがどんな思いか、どんなに大変な目に遭って《天樹の国》に来たか分かるよ。それでも、お願いだからこのまま引き返して。これ以上前に進めんでも、何もない。何も、出来ないの」

「…………」

 

 滾々と諭すようにかけられる言葉に返す言葉がなかった。故に沈黙で以て答える。

 こういう時、子供特有の全能感は全く湧いてこなかった。無謀で愚かな蛮行へ足を踏み出す勇気が湧いてくることはない。

 前世の影響か並みの大人よりも回る頭脳が少女の言葉が正しいと理解してしまう。そして一度理解してしまえば、死の恐怖が少年の足を縛る。

 一度飛竜に襲われた挙句に臨死体験まで経験しているだけに、背筋を凍らせる恐怖は限りなく実感を伴っていた。

 

「…………」

 

 声が出ない、思考が纏まらない。

 考え無しの放言ですら、やってやるという言葉は出てこない。

 

(どうしようもない、のか…。でも…。だけど俺に飛竜並みの化け物を何とかすることなんて…)

 

 己が身の程を客観的に見ることが出来る故に、思考は否定的な方向へ傾いていく。

 こんな時、前世の記憶―――転生とは決して無条件の祝福(ギフト)ではないのだと思い知らされる。

 ジュチに前世に関する確たる記憶はない。『知識』こそ豊富に思い浮かべることが出来る一方で『思い出』はほとんど引き継ぐことはできなかった。

 だがそれでも己の前世がどこにでもいるようなありふれた人間であったことは教えられずとも分かった。

 

(俺、は…。俺なんかじゃ、どうしようも…)

 

 どんなに努力しても成功に届かない領域があり、逆に殊更に努力をしなくてもそこそこの結果には辿り着くことが出来る。

 絶頂でも、どん底でもない平凡で中庸な人生(みち)を送ってきたのだろうと、記憶もないのに不思議と理解できる。

 限界を知っている、身の程を知っている、届かない場所があることを知っている。その記憶に残っていないはずの経験がジュチの魂に絡みつき、理性という名の言い訳を囁きかける。

 仕方ないことだと。

 命が危ないのだからと。

 助けに来た者が命を落としては本末転倒もいいところだと。

 

(こんなの、どうしようもないだろ…。俺じゃ、どうにも出来ない。どうにも出来ないことを無理やりやるなんて、ただの馬鹿だ。俺が失敗して、迷惑がかかるのは俺だけじゃないんだ…)

 

 理由を、自分を納得させる言い訳を胸の内で重ねていく。

 臓腑に濁った感情が積もるのを感じながら、心の天秤が片方に傾いていく。

 だから―――と、諦観と打算に塗れた賢しい前世(おのれ)が結論付ける。

 

 だからツェツェクを見捨てるのもやむを得n―――()()()()()()

 

 諦めと言う名の安楽に沈もうとした少年を踏み留めるものがあった。

 それは決して希望ではない、むしろ恐怖と呼ばれる感情(モノ)

 だが現実に打ちのめされた少年が拠って立つための最後の砦であった。

 

(ダメ、だ…。ダメだダメだダメだ! 絶対に、それだけは、ダメだ! ダメなんだ!!)

 

 声に出さず、魂で叫ぶ。

 諦観を踏み潰し、打算を投げ捨てる。

 醜くも理屈の通った正論を、頭の中で思い切り殴りつけた。

 

「……だから、どうした」

 

 最初は誰にも聞き取れないほどの小声で。

 

()()()()()()()!」

 

 続く叫びは山々に木霊するほどの大音声で。

 馬鹿馬鹿しいほど英雄的で、無謀と蛮勇に満ちた魔法の言葉を口にする。

 突然の叫びに目を見張る二人を他所に、ジュチはちっぽけな意地を貫くため、全力で自分を追い込んでいく。

 ビビッて腹が据わらないというのなら、言葉に出して無理やり決意を固めるしかないのだ。

 

「自分が馬鹿なのは分かってるんだ! 自分の身が可愛い臆病者だってことも知ってんだ!」

 

 フィーネの言葉に一切の誇張が含まれていないのだろう。

 真実、大王鷲は飛竜と同等以上の危険を持っていて、見つかれば、確実に……死ぬ。

 この状況で成功を望むのは、奇跡を望むことと等しい。

 

「死にたくなんてねえよ! デカい鳥に食われて終わりなんてそれこそ死んでも御免だ!」

 

 死ぬのは嫌だ、()()あの時のような思いをするのはまっぴらごめんだ。

 

「でもよ、しょうがねえだろうが!」

 

 かつて飛竜に襲われ、あの世に片足を突っ込んだ経験が、腹の底からそう思わせる。

 

「俺は、ツェツェクがいなくなることの方が、もっと、ずっと、おっかないんだ!!」

 

 それでもジュチは……己が死ぬより、家族(ツェツェク)が死ぬ方が遥かに恐ろしいのだと、気付いてしまった。

 

「上等だよクソッタレ! 大王鷲(ガルダ)なんて怖くねぇ、怖くねえぞバカヤロォォーー!」

 

 家族へ向ける情愛で持って恐怖を無理やり乗り越え、ブルブルと絶え間なく震える脚を押さえつけ、ヤケになった少年は天にも届けと蛮勇を叫んだ。

 フィーネの言葉は正しい。彼女が語る選択肢は安全で、犠牲の少ない、()()()道だ。

 だが、正しい道だけが目指す場所に辿り着けるわけではない。回り道をするからこそ出会える景色があるように、間違った道()()()()()辿り着ける場所だってあるはずだ。

 少年が進む道先はきっと都合のいい幸運など望めず、危険と困難が待ち受けるばかりなのだろう。

 それでも確かなことは一つあった。

 前世に目覚めた賢しい()()の少年はこの時、その賢しさを捨てて大馬鹿者(えいゆう)になるための一歩を踏み出した。

 



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お姫様の呪いを解く者は

 天に届けと叫んだジュチの蛮勇へ向かう決意は、当然この場にいる全ての者の耳に届いていた。

 フィーネ、アゼルは当然として、飛竜のスレンですら少年の叫びに危ういものを感じ、ジュチを注視している。

 

「……何を、言っているの? 私、全然分からないよ」

 

 一呼吸を置いて、震える声でフィーネは問いかける。

 高原で微かに木霊するジュチの叫びは、まだフィーネの鼓膜を僅かに振るわせている。

 大王鷲など怖くないと。これからとんでもない蛮行に挑んでやると少年は吼えた。

 

「ジュチくんは私が言うことを信じられないの? 嘘でも意地悪でも無いの。大王鷲は本当に恐ろしい《魔獣》で、縄張りに入ったら死んじゃうんだよ?」

「死ぬか―――いや、失敗するかはまだ決まった訳じゃない」

 

 フィーネの傷ついた声による問いかけへ反射的に鋭く切り返しながらも、ジュチは申し訳なさそうに目を伏せた。

 この後、フィーネに無茶を言うことを自覚していたからだった。間違った方向に決意を固め、()()()()()と開き直ったジュチだが、そのツケを友誼を盾にフィーネに押し付けようとすることへの罪悪感があった。

 

「もしかして、まだ諦めてないの…?」

「ああ。俺は永遠の花を摘みに行く」

「なら―――!」

 

 力づくでも止める、と意を決したフィーネの周囲で呼応した精霊が乱舞する。

 あとは少女の意思一つ示せば、()()()()()()()()()()()()()()()。たかだが草原に生きる少年へ向けるには余りにも過剰な程の力が。

 両界の神子たるフィーネの神威は、本来それほど埒外なのである。

 だがフィーネが自らの意を示すより一瞬早く、ジュチが動く。

 

「そのために力を貸してくれ、フィーネ、スレン。何でもする…()()()()()()()()。だから―――!」

 

 真っ直ぐに少女を見つめ、もう揺らぐことなく定まった決意を込めて、ただ懇願する。

 それは少女との友誼を恃んだ泣き落としだった。

 その様を見た誰かはみっともない、往生際が悪いと少年を蔑むのかもしれない。あるいは少女を困らせるだけだと冷ややかな怒りすら抱くのかもしれない。

 

(でもそんなの知らない、知ったことじゃない。俺は、ツェツェクを助ける。そのために何でもすると決めた。フィーネのことも…!)

 

 だがジュチはもう決めた、決めてしまった。正しい選択肢を投げ捨て、間違った道を進むことを。そしてその意志が揺らぐことはもう無い。天秤は一方に傾ききったのだ。

 この時の少年は見栄や保身を完全に捨て去っていた。部族のために、ツェツェクのために己が使い潰されることも当然良しとした。

 友誼一つを恃んで、無理無茶無謀を言い募ることに少女への罪悪感を抱いているが、今この時は己の胸中へ蓋をして厚顔無恥を貫くことを決める。

 せめて全てが無事に終わったら恩義に報いるため、宣言通りにフィーネに出来ること全てをしようと決める。恐らくそれは叶わないのだろうが、と感じる申し訳の無さを務めて無視しながら。

 ある意味、この時のジュチは無敵である。

 

「そんなの絶対おかしいよ!? 死ぬんだよ、死んじゃうの! 例え私とスレンが助けたって、大王鷲の一番近くで霊草を採るジュチくんが無事に済む保証なんてない! ツェツェクちゃんが助かってもジュチくんが死んじゃったら意味なんて無いんだよ! それに…!」

 

 荒れた感情を鎮める一拍の間を置き。

 今にも眦から零れ落ちそうな大粒の涙を湛えながらフィーネは静かに告げた。

 

「私だって……ジュチくんが死んだら悲しいよ。()()()()()()って思うと本当に胸が潰れてしまいそう」

「……ごめんな、フィーネ」

 

 必死にジュチを説得しようとするフィーネへ、罪悪感で胸を掻き毟られながら拒絶の意を示す。

 本当に、こんなロクデナシに涙まで流して引き止める価値などないだろうに何て心が優しい女の子なのだろうかとジュチは思う。

 モージは言った。女を泣かせる男はどんな理由があろうとロクデナシだと。

 きっとモージの言葉は正しかったのだろう、ジュチは彼女が誇れるような出来息子にはなれなかった。

 

「こんなのおかしい、絶対に間違ってる…。なんでジュチくんは間違った道を選ぼうとするの…? 私には分からないよ」

 

 「良い子」であれと偏執的に呪いを刻み込まれた少女にとってそれは当たり前のことだった。

 ジュチは正しい道を選ぶべきなのだ。そして何が正しいのかは一目瞭然ではないか…。

 

「ああ、本当に自分でもそう思うよ」

「だったら!?」

「出来ないこと、すべきでないことをしないことはきっと賢くて、正しいんだ。その逆を選ぶのはきっと馬鹿で、間違っているんだと俺も思う」

 

 その理を認めながら少年はでも、と続ける。

 

「俺はみんなを、ツェツェクを助けたい。その結果どうなるにしても。そうすることが正しいとか、やるべきとかそうじゃないとか……そういうのはもう考えないことにした。うん、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう、一種の開き直りですらある宣言をいっそ晴れ晴れとした顔で言い切った。 

 はっきり言えば無茶苦茶だ。

 ジュチの言うことに何一つ理屈は通らない。子どもの屁理屈、ただの意地と切って捨てられる戯言に過ぎない。

 傍らで二人の様子を見守っているアゼルも気持ちは分かれど擁護は出来ないという顔をしていた。それが当然の反応なのだ。

 

「間違っても、良い…?」

 

 だが今この一瞬、今この時に限ればこの上なく「良い子(フィーネ)」には()()()

 言霊という概念がある。

 言葉には霊的な力が宿り、現実の事象に影響を与えるという考え方だ。

 巫術師が精霊へ捧げる祈りの言葉はまさにそれだ。

 もちろんジュチは巫術師ではない。当然巫術も使えない。ジュチの言葉は精霊に聞き届けられることはない。

 だがこの時のジュチの言葉には、少女を縛る軛を砕く魔法の力が確かに宿っていた。ならば「良い子」であれと呪いを受けた少女にとって、少年は自らを捕らえる檻を打ち壊し、外の世界へ連れ出す魔法使いに他ならない。

 いま少女の中では世界がひっくり返るのに等しい価値観の変遷が起こっていた。

 

「良いの、かな? 本当に…」

 

 闇夜に惑う子供のようにフィーネは呟く。

 いまだにその矮躯を縛る呪いを振り切れるか確かめるように。

 

()()……間違えても良いのかな?」

 

 迷いは未だフィーネを縛っていた。

 己の深い部分に問いかけるような呟きがその証拠だ。

 しかし闇夜に射す一条の光を見つけたような希望もまた、呟きの端に滲んでいた。

 

「やっぱりフィーネも《精霊の山(マナスル)》に向かいたかったんだな」

 

 やはり、という納得を滲ませた呟きにフィーネは当然とばかりに語気を荒くして応じた。

 ジュチに怒ったというよりも、胸中で荒れ狂う感情のうねりが叫びとなって口から飛び出したのだった。

 

「そんなの当たり前だよ! 助けたい…。本当は私だって助けに行きたかった! アウラを、私の友達を!」

 

 「良い子」であれとの呪いに縛られ、従っていただけで本心ではフィーネだってアウラを助けるため《精霊の山(マナスル)》へ行きたいに決まっていた。

 ただ心の奥底に刻み込まれた呪いによって自制していただけで。

 だが今まさにその軛は罅割れ、そして更に罅が広がろうとしていた。

 

「そっか。そうだよな」

 

 うん、とジュチはフィーネの叫びに深い理解と共感を持って頷く。

 なにせジュチとフィーネは同じように家族を病魔に侵され、同じ気持ちを共有している同志でもあるのだから。

 

「俺も同じだ。だからさ、フィーネ。一緒に俺たちの家族を助けに行こう。多分滅茶苦茶怒られるし、ひょっとしたらぶん殴られたり、ぶっ殺されそうになるかもしれないけど―――その時はまあ、一緒に怒られようぜ? 最悪、全部俺が悪いってことにしてさ」

 

 あどけなく、それでいてどこか困ったように笑い、フィーネへ向けて手を差し出すジュチ。

 その少年の笑みに少女の柔らかく繊細な部分は撃ち抜かれた。

 心を揺さぶられ、脆い部分に柔らかく寄り添われ、一緒に行こうと手を差し伸べられたことがトドメとなったのだ。

 

(ぁ…)

 

 カァ、と頬が紅潮し、それ以上に子宮(ハラ)が熱を帯びる。

 同時に身を以て味わった感覚と母の言葉が結び付き、()()()()なのだと理解が実感へと至った。

 

嗚呼(ああ)、そうか。そうなんだね、お母様。()()が、お母様の言う運命なんだ…)

 

 フィーネがジュチを見つめる視線にこれまで以上に熱が帯びる。いまフィーネはジュチを永遠に独占したかったし、叶うなら彼の子どもを子宮(ハラ)に宿したくて堪らなかった。

 それはさながら肉食獣の子どもが幼体を脱し、()()()を求める段階まで一気に成熟したかのような変化だった。

 環境と時間に左右される肉体と違い、時に精神は外部からの刺激によって急速に大人びることがある。それほどの精神的変貌が少女の中で起こっていた。

 

「……うん。一緒に行こう、ジュチくん。ずっと、一緒に」

 

 闇エルフらしい家族への情愛と異性への恋心というも生易しい情念が、ついにフィーネの奥底に刻まれた呪いを振り切らせた。

 かくして無邪気な少女は消え失せ、幼くも立派な「女」がそこにいた。

 

(言質はもう、とっくの昔に貰っているんだからね? ジュチくん)

 

 本当に何でもすると、少年は言った。

 ならばその言葉の通り、「女」は少年に何でもしてもらうつもりだった。

 そしてその未来のためならば、大王鷲()()躊躇なく粉砕する決意である。それ以外の有象無象もまた。

 ガンダールヴ王が、リーヴァ王妃が、そしてジュチが望んだようにフィーネは変わった。果たしてそれが彼らにとって常に良いことか、というと疑問は残るのだが。

 

「我が真名はアドルフィーネ。アドルフィーネ・フレア・イン・ヴォルヴァ。我が背の君よ、どうか我が真名をお受け取りになられませ」

「なんだよ、突然」

 

 にっこりと笑っての格式ばった言葉に意味も分からず問い返すジュチ。

 だがフィーネは敢えて答えず、更に笑みを深めることで圧力を強めた。

 

「受け取って」

「えっと…」

「受け取るって言って?」

「その、どういう意味か…」

「何でもするって言ったよね?」

「……受け取る」

 

 笑顔から放射される強烈な圧力に屈したジュチは鸚鵡返しに言葉を繰り返した。

 途端にパアァッ、と笑顔がさらに明るさを増す。その笑みはさながら山間から太陽が顔を出したかのような美しさに等しい価値があると世人は評価するだろう。

 元が絶世の美少女であるから当然純朴な少年であるジュチにも効果は覿面である。

 メチャクチャに熱くなる頬を必死に抑えながら、何とか疑問を絞り出した。

 

「結局何だったんだ、今の?」

「うーん、敢えて言うなら宣戦布告…かな?」

 

 と、少女は半分だけ真意を答えた。

 宣戦布告と言えば宣戦布告だ。近い将来世にはびこるであろう、少年を巡る競争相手への。

 今の言葉は略式ながらも闇エルフの婚姻にまつわる一事を示す。闇エルフの夫婦は伴侶と真名=命を交換することで生涯の契りとするのである。

 もちろん今のやり取りで婚姻が成立したとは誰であっても認めないだろうが、少女にとっては意味あることだった。

 敢えて言うなら既に語った通り宣戦布告であり、少年への熱烈な求婚の申し出なのだった。

 




書き溜め分はこれにて放出完了となります。
お姫様の呪いが解かれ、普通の少年が英雄/大馬鹿へと道を踏み外すシーンは如何だったでしょうか(お姫様の方はある意味猛獣を檻から解き放つのに等しい結末となりましたが)。
感想・評価などいただけますと幸いです。


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指導者の資質

 

「一緒に行ってくれるんだな、フィーネ」

「うん! ジュチくん達だけじゃ危なっかしいし……それに、アウラだって私が助けるんだから!」

 

 改めての問いかけに力強く頷くフィーネ。

 尤も胸の前で小さな両の拳を握りしめながらふんすと鼻息荒く力を籠める姿は頼もしいというよりも可愛らしい。

 ジュチとしては見た目の問題もあって心情的にはフィーネよりも飛竜のスレンの方を頼りにしていた。

 本人の自己申告に依れば、フィーネはスレンをも御しうる巫術の達人らしいのだが、やはり見た目から受ける印象は大きいのだ。

 

「むー…」

 

 《血盟獣》の絆から何となくそのことを察したフィーネはプクーっと頬を膨らませると、ジュチをポカポカと叩く。

 下手に本気を出すとジュチが塵に還ってしまうので、それが彼女の妥協点だったのだ。もちろん効果はなく、むしろ可愛らしいという印象を補強する助けとしかなっていない。

 

「なんだよ?」

「ふーんだっ!」

 

 お姫様がご機嫌斜めなことを悟ったジュチは苦笑した。

 一見すると似た者同士の幼い男女による微笑ましい光景である。実際のところ両者の認識や心情において相当な隔たりがあるのだが…。

 

「話はまとまったようだな」

 

 と、そんな彼らにアゼルが声をかける。

 いつも通りの無表情。その内心は読み取れない。果たしてジュチが挑もうとしている無謀をどう思っているのかも分からなかった。

 もしかするとアゼルはジュチの愚行に反対しているかもしれないという可能性が脳裏を過ぎる。

 

「あー…っと、その、アゼル?」

 

 どう話を切り出したものかと迷う、何とも中途半端な呼びかけに。

 

「責める気なぞ無い。が、せめて年長に相談の一つもすべきと思うのは俺の思い上がりか?」

 

 アゼルは変わらず無表情のまま、だが心なしか少年へ向ける視線をジトリとしたものに変える。

 妙な表現だが、なんとも味のある無表情であった。尤も向けられた当人であるジュチにそんなことを思い浮かべる余裕はない。

 

「うん、っとさ…。えーと、あれだ、あの時の俺ってちょっと頭おかしくなっててさ―――」

「……冗談だ。そう慌てるな」

 

 何とか弁解しようとする少年を見遣り、フ…と微かに息を吐きながらその弁解を遮った。

 冗談と口にする割には変わらず無表情である。

 とはいえ心なしか青年が纏う雰囲気は緩んでいた。責める気がないというのは本心なのだろう。

 

「正直に言えば、俺は諦めるべきだと思った。相手は飛竜に匹敵する強大な《魔獣》。それもアテにしていた姫君と飛竜の助力は得られんのだからな」

 

 加えて言えば王国の姫君を唆し、入山が禁じられている霊山へ立ち入るおまけつきだ。闇エルフ達からすればいっそ大王鷲に食われてしまえと思われてもおかしくない所業であった。

 とはいえそれらの危険要素を勘案に入れてもアゼルが意見を変えることはない。部族の危機を救うことに比べれば遠い地の闇エルフの恨みを買う程度は呑み込むべき危険だった。

 

「いや、俺が言うのも何だけどさ。それが普通っていうか……逆だな、多分俺が凄い馬鹿なんだ」

「全く持ってその通りだ。お前は底抜けの愚か者だろう」

 

 と、ジュチの自虐を力強く肯定するアゼル。妙に自信ありげな雰囲気で断言され、密かに傷つくジュチである。

 いや、言われずとも自覚はしていたが何も力いっぱい言い切らなくても…と。

 

「だが、()()()()()お前は彼女を説き伏せ、本来立ち行かぬ道を抉じ開けられたのかもしれん。馬鹿の一念は時に岩を徹す。賢しい輩は先が見えるからこそ、わざわざ愚行に挑むことはないからな」

 

 それは俺には出来ないことだ、とアゼルは言う。

 

「お前は俺が出来ないことをしたのだ、ジュチ。これだけでお前が旅に付いてきた意味があった。お前の兄貴分として、俺はお前を誇りに思う」

 

 と、ぶっきらぼうにジュチの頭を撫でる。

 ガシガシと遠慮のない力強さで撫で回す手には、事態打開の糸口を切り開いた弟分への賞賛が籠っていた。

 

「だからこそ言っておく。これが無理無茶無謀な試みであることはもういい。俺も承知の上だ。ともに命を懸けることに異論などあるはずもない。

 だが例の群生地へ向かい、成功の光明すら見えなければ引き返す。命を懸けることと命を捨てることは一見似ているようで別の話だ。良いな?」

 

 そして撤退の判断はあくまで己が行うと言う。ジュチの無謀を肯定しながら、同時に一線を引くことも忘れない。

 この辺りアゼルは家族を救うことに囚われ、視野が狭くなっていた幼い二人と違って冷静だった。

 賭けるべき時は大胆に、そうでない時は慎重に。だが損切りの分岐点は常に考えるべし。

 指導者、頭目としての心得をよく弁えていた。

 幼い二人はもちろん、そこらの凡百な族長よりも()()()()()()()。本人の望みはさておき、アゼルならばソルカン・シラの後を継ぎ優秀な指導者になれるだろう。

 

「フィーネ殿もそれでよろしいか? うちのジュチの愚行に付き合わせておいて口にするのは憚られるが、頭目としてただ命を捨て去る真似を許すことは出来んのだ」

「ええ、どうぞご自由に。それに…心配は無用かと思いますよ?」

「と、言うと?」

 

 フィーネにも水を向けるとにこやかに頷かれる。

 ジュチに見せていた無邪気な少女らしさは薄れ、何とも大胆不敵に胸を張った。

 

「私がいるので」

 

 スレンが、ではなく己がと言い切った少女に白い眼を向けるジュチ。

 その身に秘める戦闘力を本人の申告ではなく外見から伺える範囲のものであろうと見積もっているからだった。この辺り、やはり直接的にその力を実感していないことと、精神的な距離感が近いことから実感が薄いのだ。

 

(だろうな…)

 

 だがアゼルはそんな短慮な愚か者と違い、先ほどの舌戦でフィーネの怒りが嵐の先触れを呼び込むのを見ていた。ただの余波で天変地異を引き起こすけた外れの力。

 間違ってもただ者ではない。人間はもちろん、闇エルフの基準においてさえ。そう確信できるほどの力。彼女のような存在が何人もいるのなら、《天樹の国》がこの地の覇者となっていない理由が説明できない。

 

「それは心強い。求めるものも、それを阻むものも互いに同じ。我らを苛む危機、ともに力を合わせて乗り越えよう。我らの未来に幸あらんことを」

「はい、みんなで一緒に頑張りましょう!」

 

 そうと確信しているからこそ、アゼルもまたにこやかに笑いを返し(ジュチは驚愕の視線を向けた)、一種の合意を形成するのだった。

 



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時間制限

 

 一行はともに《精霊の山》へ向かい、霊草を手に入れようと話はまとまった。

 が、そこで実行にあたっての問題が急浮上する。

 

「急ごう。遠乗りに行くと伝えているけど、あまり遅くなると私を連れ戻すために人が来ちゃう。そうなったら凄く厄介だから」

 

 と、己の身分故の時間制限の存在を伝えるフィーネ。

 色々と準備不足な状況であり問題も当然噴出してきたが、こんな事態になるなどこの場の誰も予想できなかったのだから、やむを得なかった。

 

「そうは言っても…。例の群生地まで近いのか? 何日もかかるならフィーネは一端出直すのもアリだと思うけど」

 

 確かに目的の地である《精霊の山》の威容はもう目前。ただし《精霊の山》は竜骨山脈でも屈指の大霊峰。あまりに巨大過ぎ、偉大過ぎて距離感が狂うのだ。地理にも詳しくないからここからどれ程の距離なのか本当に分からなかった。

 

「大丈夫。ジュチくん達が思うよりもずっと近いよ。群生地は《精霊の山》の麓に近い断崖絶壁。ここからなら馬で急いで…一日と半分くらいかな」

 

 なおいまの時刻は丁度昼を回った辺りである。まともに考えるとどんなに早くても目的地に着くのは明日以降だろう。

 

「時間切れまでに絶対間に合わないじゃねーか。まさかスレンに乗せてってもらう訳にもいかないし…どうする?」

 

 万が一スレンがその背を許してくれたとしても流石に3人と山羊1頭は過積載だろう。

 かといってあまり時間をかけていると闇エルフの捜索隊が組織されるだろう。次期女王候補筆頭の捜索となれば少なからず人手が割かれるだろうし、同行する不審者の扱いも厳しいものとなるに違いない。

 

「一日くらい帰らなくてもそんなに心配はされないと思うけど…。それ以上になると、マズイかな」

 

 普段からそこそこ奔放に過ごしているフィーネなので、遠乗りの時は帰りが遅くなるのもザラにあった。更に今回の遠乗りは謹慎が明けてから久しぶりのものということで、多少遅くなってもすぐには騒がれまい。

 だがそれでも何日も時間をかけていては、すぐに大規模な捜索隊が出されるだろう。

 

「うーん、本当はお馬さん達に負担がかかるからあんまりしたくないんだけど…しょうがないね」

 

 と、そうした事情を鑑みて難しい顔をするフィーネ。

 しばし悩んでいた様子だが止むを得ないと結論を出し、二人が乗騎とする二頭の駿馬を指して話を持ち掛けた。

 

「ジュチくん、アゼルさん。この子たちに巫術をかけてちょっと無理をしてもらおうと思います。ただ頑丈な子じゃないと途中で息絶えてしまうかも…。それでも大丈夫ですか?」

 

 現状の打破に向けた具体的な案だが、無視できない危険もある。だからこそ真剣な声音の問いかけにアゼルは騎馬の民の誇りを以て返答した。

 

「騎馬の民の友を侮らないで頂こう。この二騎は部族でも屈指の駿馬。旅路の中でも我らより逞しく歩き抜いた自慢の相棒だ。そして我らは馬上に生き、馬上に死す騎馬の民。どれ程の暴れ馬でも乗りこなして見せよう」

 

 馬とは騎馬民族にとって最も身近な畜獣であり、足であり、魂であり、友であった。その繋がりは闇エルフが考えるよりもはるかに深い。馬上に生き、馬上に死す。それは一欠けらの誇張も無い事実なのだ。

 我らが友ならば、と確信すらもってアゼルは堂々と答えた。

 

「存分に術をかければよろしい。彼らは期待以上の働きを我らに示してくれるだろう」

 

 その威風堂々とした答えに、フィーネは己がスレンに抱くのと同じ誇り(モノ)を感じて思わず頬が笑みの形に崩れる。

 

「それなら、遠慮なくやっちゃいますね。……アゼルさんとあの子達はとっても仲が良いのが私にも分かりました。私、そういう人は好きです」

 

 ニコリ、と無邪気に笑う闇妖精の姫に無骨な若者も僅かに動揺する。

 幼く、未だに完成しきっていない未成熟な美貌でありながら、既に絶世のと形容詞を付けても異論はほとんど出ないだろう。

 瑞々しい小麦色の肌に金糸の如き絹髪、虹色の虹彩を備えた神秘的な妖精族の美貌。

 普段の振る舞いは粗忽で快活、子どもらしいところが目立つが、外見だけなら傾国の美少女と呼んでも全く不足しない美しい姫君なのだ。外見は。

 

「あ、も、もちろん人として素敵だなって意味ですから! ジュチくんも誤解しないでね!」

「お、おう…」

 

 と、ここで自分の言動を自覚したのか慌てて弁明するフィーネ。

 一方ジュチもジュチで、フィーネがアゼルに向けた笑みと好意に思わず胸の内に()()()としたものが漂うのであった。

 それはさておき。

 

「それじゃあ、使()()ね」 

 

 改めて巫術を用いる前に軽く断りを入れる。

 問いかけられた青年と少年が各々頷きを返すのを見たフィーネは、両手を組んで精霊たちに祈りを捧げる。

 とはいえフィーネにとってはほんの少しだけ心を精霊界に近づけ、何時でも自分の傍にいる()()に語り掛けるだけのことであった。

 

「《水精の娘(ウンディーネ)水精の娘(ウンディーネ)。貴方の友が(こいねが)います。彼ら四つ足の朋友に、熱き血潮を滾らせて!》

 

 まず生命への干渉を最も得意とする水精に祈り、一時的に駿馬達の生命力を賦活させる。激烈な勢いで心臓に血が送り込まれ、力強い四肢に活力が漲っていく。

 いつもは力強くも穏やかな彼らが程よい興奮状態へと変わり、しきりに嘶いたり、蹄を大地に打ち付けている。

 そして更に。

 

「《風の精(シルフ)や、風の精(シルフ)。誰より自由で身軽な貴方。我らの背中に貴方の息吹をくださいな!》」

 

 風精に祈りを捧げる。

 彼らの背には常に追い風が吹き、その疾走を助けるだろう。

 

「《土精(ノーム)さん、土精(ノーム)さん。貴方のお傍にお邪魔します。騒ぐ彼らをどうか優しく受け止めて》」

 

 土精に祈りを捧げる。

 長い時間、全力疾走を続ければ駿馬と言えどその四肢は痛む。だが大地に潜む土精はその疾走を柔らかく受け入れ、四肢の負担を押さえてくれるはずだ。

 

「これで良し、と…」

 

 一通り駿馬達の疾走を助ける巫術を使い終わり、その効果を検分するフィーネ。

 じっくりと一頭一頭の様子を眺め、思った通りの結果となったことに満足し、頷く。

 

「凄いな…。いつもと全然迫力が違う。何かが乗り移ったみたいだ」

 

 荒々しくも力強い駿馬達の嘶きが全員の鼓膜を震わせる。

 いつも頼れる相棒達であったが、いまは更に迫力が十割増しだった。尋常な様子ではなく、一日に千里を駆ける駿馬であると言われても納得できそうな威容である。

 

「水精にお願いしていつもよりもーっと速く走れるように力をあげたの。その代わり走りきった後はいつもよりもずーっと疲れちゃうけどね?」

 

 えっへんと胸を張って自慢するフィーネ。

 実際自慢するだけのことはある極めて強力なご利益であったので素直にパチパチと拍手するジュチであった。

 

「あ、でもエウェルはどうしよう? あいつは群生地に着いてからが本番だからあんまり無理はさせたくないんだ」

「え? エウェルくんの力が必要なの?」

「ああ。群生地の断崖絶壁を登るためにあいつの力が必要なんだ」

「うーん…」

 

 腕を組んで頭を捻るフィーネ。

 

「スレンが運ぶのは……無理だよなぁ」

「うん、ダメだね。飛竜が背を許すのは自分が認めた相手だけだから」

 

 一縷の望みをかけて提案するもあっさり一蹴される。

 元より期待はしていなかったが、そうなるとジュチの頭では手詰まりであった。

 

「……………………」

 

 そうしてしばしの沈黙を挟んだ後。

 

「大丈夫! 私に良い考えがあるの!」

「なんでだろうな。急に不安になってきたぞ?」

 

 胸を張って自信満々に請け負うフィーネ。

 難題に対し力強く請け負う姿を見て、多分名案とか神算鬼謀の類ではなく力押しとか無理を通して道理を引っ込ませる類の()()()()なのだろうなと訳もなく思うジュチであった。

 



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精霊の力

 

「うははっ! 速っ、はっえーなオイ! なんだコレ!? すっげーぞアゼル!」

「口を開くな。舌を噛むぞ」

 

 のっけから異常な程興奮した様子ではしゃぐジュチと冷静に答えるアゼル。

 二人は今同じ駿馬に跨り、《精霊の山》へと続く街道を一直線に駆けていく途中であった。もう一頭は最低限の荷だけ乗せた空駒のまま走らせている。

 

(まあ、気持ちは分からんでもない)

 

 彼らが旅路の供とすることを許された乗騎は部族でも指折りの駿馬である。

 当然その足は速く、何より頑強だ。その事実を騎馬の民である二人は良く知っている。

 だが今二人が鞍に乗る乗騎は過去最高の速度を優に振り切って恐ろしい程の速度で軽々と街道を駆けている。

 その駆け様はまるで空を飛んでいるかのように軽々としたものだった。さらに鞍に乗る二人へ伝わる衝撃が驚くほど少ない。

 

(まるで馬に翼が生えているようだ。巫術とはこれほどの加護を馬たちに与えられるのか)

 

 ジュチがはしゃぐのも無理はない。駿馬はいつだって騎馬の民の心を擽る存在だ。それが巫術によって得た一時的なものであっても。

 対し、アゼルは興奮しつつも冷静にこれが軍勢単位でまとまって行使できるなら恐ろしい脅威だなとその価値を測っていた。

 

『ンフフ、喜んでくれたみたいで良かったぁ』

 

 駿馬に乗って大地を恐ろしい勢いで駆け抜ける二人の耳元へ囁くように声が届けられる。

 楽し気な調子の声の主はもちろんフィーネである。彼女が風精に頼んでその声を二人の耳元へ届けたのだ。 

 

「フィーネ! 巫術って凄いな、何と言うか本当に凄いな!」

 

 と、知能指数が低下した称賛の声を上げるジュチ。

 一方無邪気に凄い凄いと連呼されたフィーネも悪い気はしないらしく、なんとも楽し気に言葉を返した。

 

『エへへ、その子達がとっても頑張り屋さんだからってのもあるよ。精霊さん達にお願いしても結局頑張るのはお馬さんだからね。その子達もきっとジュチくん達を助けたいんだと思う』

「そっか…。ありがとな、もうちょっと頑張ってくれよな」

 

 フィーネの言葉を受け、そっと躍動する馬の身体を撫でるジュチ。心なしか馬が駆ける速度も上がった気がした。

 

「これなら思っていたよりずっと早く着けるな」

『ふふーん、凄いでしょ?』

「ああ、本当に凄い。神様精霊様フィーネ様だな」

 

 茶化した風だが本気で感心しているのは誰が見ても明らかだった。ますます機嫌を良くしたフィーネに、今度はアゼルが問いかける。

 

「ところでエウェルの様子は如何(いかが)か?」

 

 ジュチの相棒である山羊のエウェル。霊草採取にあたり障害となる断崖絶壁を踏破するために連れてきた特別な山羊だ。

 スレンに乗せる訳にも、自力で駆けさせるわけにもいかないエウェルは特別な…というか無茶苦茶な手段で運ばれていた。そのためエウェルの様子に気を遣っての言葉だった。

 

『んー、見た感じだと大丈夫だと思います。エウェルくんはあんまり物事を気にしないのんびり屋さんみたいで』

 

 ()()()を楽しんでいるみたいですよ、と続く言葉にアゼルは心配するだけ損だったかと溜息を吐いた。

 

「ほらなー。言ったろ、エウェルなら気にしないって」

「俺の杞憂だったことは認めよう。あれの能天気さは俺の予想を超えていたとな」

 

 呆れたように言葉を返し、アゼルは視線をはるか上空へと向ける。

 

『メエエェ…』

 

 そこにはどこかのんびりとした鳴き声を上げながら空を飛ぶエウェルの姿があった。見間違いや目の錯覚ではない、首にかけられた長縄でスレンと繋がれているものの()()()()()()()()山羊(エウェル)が空を飛んでいるのだ。

 真っ当な人間なら目を疑いたくなるような非常識な光景だった。

 

(つくづくデタラメな…)

 

 もちろんこのデタラメの種はエウェルではない。奴も度を越して図太い畜生ではあるが、空を飛ぶような神通力などあるはずがないのだ。

 

「にしてもすっごいよなー。山羊一頭とはいえ巫術で空に飛ばすなんて」

『土精に頼んでエウェルくんを軽くしてー、軽くなったエウェルくんを風精に運んでもらうの。簡単じゃないけど、難しくも無いって感じかなー』

 

 絶対に嘘か間違いか勘違いだろう、と確信するアゼル。

 彼もまた族長家に連なる男として比較的高度な教育を受けた身である。

 巫術は使えないものの、それがどういう代物で 常識的な範疇での限界がどれくらいかくらいは知っていた。その知識を物差しにするとフィーネは常識の通用しない化け物の類である。

 

(味方で良かった。今はそれだけで十分だろう)

 

 色々と桁外れの規格外だが、今は目的を同じとする仲間である。

 フィーネに対し恐れがないとは言わないが、そうと割り切ったアゼルは空気の緩んだ二人へ注意の一言を飛ばす。

 

「無駄話はそこまでだ。両手は振り落とされないために使え、そして舌を噛まぬように口は閉じておけ。フィーネ殿もこれ以上無用な会話は無しだ。よろしいか?」

「はーい…」

『怒られちゃったね』

「怒ったつもりはないのだがな…」

 

 年長者らしいアゼルの言葉に大人しく従う年少者二人。

 実際全力疾走中の駿馬から振り落とされないように体勢を維持するのは中々の難事である。いつもより驚くほど体にかかる衝撃が少ないとはいえ、気を抜けば馬上から転げ落ちたり舌を噛んでもおかしくなかった。

 

「日が沈むまでに距離を稼いでおきたい。ここからはさらに調子を上げていく。飛竜には無用な心配かと思うが、我らと離れずに飛んで欲しい」

『はい、大丈夫です。今よりもっと速く駆けさせてもスレンは着いていけますよ。その子達が無理をしていないかだけ気を付けてくださいね』

「それこそ心配ご無用。敢えて二人乗りにし、片方の駒には休ませながら駆けさせているのだ。調子が落ちれば大人しく片割れに乗り換えるさ」

 

 騎馬の民は騎乗が得意である。歩き出すより先に馬に乗ることを覚えるという。

 そして彼らは時に馬上で睡眠をとりながら何日も休みなしに馬を駆けさせ続ける超人技すら可能とする。

 とはいえ馬上で休める人と違い、馬は一日中駆け続けることは出来ない。そのため騎馬の民一人につき何頭も予備の馬を引き連れ、馬が疲労したらその都度乗り換えながら走り続けるのだ。今のアゼル達も同じ要領で二頭の馬を交互に乗り換えながら休みなく駆け続けていた。

 

「では行くぞ、兄弟」

 

 そう跨る駿馬に声をかけ、鞭を入れる。急げとの意を汲み取った駿馬は猛る意気に合わせてグングンと駆け足の速度を上げていく。

 

(いい速度だ。俺自身昂るものがある)

 

 際限なく上がっていく速度と駿馬の躍動にアゼルの血潮も熱くなるのを止めることが出来ない。

 結果から言えば、この日の夕暮れまでにアゼル達は普通なら急いでも一日と半ばかかると言われた道行きの半分以上を踏破したのだった。

 

 ◇

 

 そして夜半。 

 日が暮れるギリギリまで距離を稼いだ一行は、街道の片隅に即席の野営地を拵え、スレンに手伝ってもらい起こした焚火を囲んでいた。

 向かい風で冷えた体を焚火で温め、手には干し肉と乾酪にフィーネが提供した聖餅《レンバス》と侘しいながらもしっかり腹を満たせる食事が握られていた。

 

「今日はかなり進んだな」

「ああ、フィーネ殿のお陰だ」

「フフッ、みんなで頑張ったからです。私がしたのはあの子達へのささやかな手助けだけ。この距離を奔り切ったのも、ジュチくんとアゼルさんが彼らを乗りこなしたのもみんながいたから出来たことだから」

 

 話題は当然今日こなした強行軍のこと。

 常識で考えれば驚くほどの距離を稼いだ疾走であり、順調に進んでいることからその雰囲気は和やかなものである。

 

「では我らの功績には胸を張らせてもらうとしよう。だがやはりフィーネ殿の功績こそ大だろう。そこを認めてもらわねば我らも素直に受け取れないのでな」

「だよなー。やっぱり巫術ってすげーよ。俺、生まれてこの方馬に乗って走った距離とか覚えてないけどこんなに速く走れた覚えとかないぞ」

 

 アゼルの言葉にジュチが乗っかり、フィーネを褒め称える。ここまで明け透けに称賛された経験の少ないフィーネは思わずはにかんだ。

 

「そ、そうかなー。そうだったら嬉しいな」

「ああ。本当に助かった。この調子で進めば明日には《精霊の山》に着くんだよな?」

「うん。幸い群生地は《精霊の山》の比較的浅い位置にあるから」

「なら、勝負は明日だ」

「……頑張ろうね、ジュチくん。一緒に、霊草を」

「そうだな。一緒に永遠の花を持ち帰ろう」

 

 身分は天地ほど違えど、家族を救わんとする二人の心は同じである。

 互いに視線を送り、頷き合う。それだけで意は通じ合い、ともに決意を固めた。

 

「あ、そういえば」

 

 いままさに思い出したと不意にジュチが言葉を発した。

 

「前に会った時からフィーネに聞きたいことがあったんだ」

「私に? どうかしたの、ジュチくん」

 

 不思議そうな顔をするフィーネに実は、と返し。

 

「あのさ、フィーネなら()()()が見えるか?」

「キュクルルルゥ…」

 

 と、自身の右肩を定位置とする火蜥蜴を無造作につまみ上げ、よく見えるようにとフィーネに向けて差し出した。

 今までジュチ以外の誰の目にも映らない良く分からないナマモノ。

 視えないアゼルは当然訝し気な視線を向け、フィーネは……ひどく真剣な目つきでジュチが差し出す手中を見つめていた。

 スレンに襲われた日から常にジュチの傍らにいた正体不明の珍獣について、少年はようやく謎の鍵を握るだろう少女へ問いかける機会を得たのだった。

 



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マヌグレス

 

 正体不明の火蜥蜴。

 このナマモノはこれまでの旅路でももちろん憑き物よろしく、常にジュチの傍に潜んでいた。

 が、ジュチやアゼルが苦しんだ旅路も火蜥蜴には何の痛痒も感じなかったようで、いつもうつらうつら舟をこいでいたり、たまに火吹き芸をしては遊んでいた。

 そんな珍獣に構っている余裕はなく、面倒だったので半ば放置していたのだった。正直な話、この奇怪だが無害な珍生物は最早ジュチの日常風景の一部と化しており、この時たまたま思い出さなければこの先もずっと放置していただろう。

 

「クアアァ…!」

 

 久しぶりに自身に構ったと思えば、そのぞんざいな扱いに抗議するように火蜥蜴は鳴いた。

 だがその鳴き声は巫術師であるモージにすら届くことは無かった。故に当然フィーネはともかくアゼルが聞き届けることは出来ない。

 

「……分からん。なんの話をしているのだ、ジュチ?」

 

 と、ジュチが突き出した何も持たない手を見て疑問を問いかけるアゼル。部族の男達で見慣れた反応であったので敢えて流し、フィーネを真っ直ぐに見つめた。

 対し、両界の神子たる少女はジッと真剣な顔つきで突き出したジュチの手先に視線を送ると。

 

「……()()に、何かいるの?」

「間抜け面した火吹き蜥蜴が一匹。おまけに小さな羽が付いてる。ちょっとだけスレンに似てるな」

「…………」

 

 軽く返されたジュチの返答に沈黙を以て返す。

 フィーネですらジュチの語る火蜥蜴は見えていない。だがこれをただの戯言と流さないのは、フィー―ネの中で心当たりがあるからだった。

 過日、フィーネがジュチと結んだ《血盟》こそがそれだ。

 かつての仕儀でジュチが得た精霊の加護。フィーネの見立てではジュチは普通と比べて精霊の影響を殊更に受け易い特異体質へと変貌している。ある意味、精霊と親しい闇エルフに近づいたとも言える。

 

(精霊…? でも生き物の形を取るほどに強い力を持った精霊を私が見えないはずが…)

 

 モージはかつて精霊の姿を幽世に輝く無数の鬼火の如くと語った。

 それは決して間違いではないが、事実の全てではない。

 地、水、火、風。

 属性を同じくする精霊達が、彼らの好む聖地や御神体、霊媒を依代に群れ集い、一つの存在へ昇華する事例がある。

 斯くの如く群れ集った精霊群は時に獣の形を取るという。

 即ち、精霊獣(マヌグレス)である。

 

「その火蜥蜴くんとはどこで、どんな風に出会ったの?」

「……あー、前にスレンに襲われた後。目を覚ました時にはもういた。それからずっと憑りつかれてる。最初はもっと小さくて羽も無かったんだけど、あの時、スレンに()()を受けてから姿が変わった」

「そ、そうなんだ…」

 

 今となっては良き関係を結べているものの、出会いのきっかけとなった出来事自体は両者にとってなんとも気まずく口にし辛い形であったため、若干言葉が鈍くなった。

 

「スレン、貴方は何か知っているの?」

『グ、ルル…ガアアァッ…』

 

 スレンとの関わりから傍らで羽を休める飛竜へ言葉を向けると、一応は話を聞いていたのか何とも不明瞭な唸り声を返された。

 騎手であり、優れた巫術師であるフィーネにしか分からないその唸り声は、こう言っていた。

 

「スレンの、眷属…? だからスレンには視えたんだ。生まれたてで弱っちいから尻尾の殻を剥がすのを手伝ってやったって…スレン? もしかして知ってたのに私に黙ってたの?」

『グラァ』

「そんなこと言われても知らん? なんでスレンはそんな風に大雑把なの!?」

 

 スレンの雑な返答に憤慨するフィーネ。

 なおジュチはフィーネの憤慨する言葉を聞いて似た者主従だなと呑気な感想を覚えていた。

 

「もう! いいから知ってることを話して!」

『ガァ』

「……何も知らないなんて言われて通ると思う?」

『ガゥ、グルル…』

「生まれたばかりの精霊獣。それ以上は分からない、か…」

 

 傍から見ていればひとり芝居のように見えるやり取りを終え、沈思黙考するフィーネ。

 精霊獣(マヌグレス)

 それは精霊と親しい闇エルフ達にとっても出会うことすら稀な存在である。通常の精霊とは一線を画す霊威の持ち主であり、特定の土地に根付くことが多い彼らは時に住民から神と崇められることすらある。

 年中谷風が吹き荒れる大峡谷にはイヌワシを(かたど)る風の精霊獣が、はるか南方の活火山には火竜(サラマンドラ)の姿をした火の精霊獣が、湖底見えぬ大湖沼に多頭の水蛇(ヒュドラ)を形取った水の精霊獣が、ある霊山の洞穴には(いわお)の巨人たる土の精霊獣が長い眠りについていると闇エルフの伝説に伝わる。今挙げた精霊獣はあくまで一例であり、果たして世界に存在する精霊獣の数が如何ほどかは闇エルフにも見当がつかない。

 彼らは気紛れに霊威を振るい、恵みと災禍を振りまくという。一つ言えることは精霊獣とは世の巫術師であれば決して無視できない強大な存在であるということだ。

 

(なら、ジュチくんは数百年ぶりに現れた()()()()の初代…? まだ自覚は無いみたいだけど、もしかするともしかするかも…)

 

 精霊獣は土地や御神体に憑くことが多いが、極稀に人やその血筋に憑くことがある。当人の気質や霊媒としての資質を見込んだ精霊獣がその力を憑依者に貸し与えるのだ。

 彼らは精霊憑きと呼ばれ、普通の巫術師とは一線を画す奇跡を地上に顕現させる。その規模や事象は精霊の属性にも左右されるが、両界の神子たるフィーネに近い。

 はっきり言ってしまえば個人でありながら国家間の勢力争いに影響を与えるほどの超越者だ。

 精霊由来の超常的な異能を振るう彼らは国家の要人として活躍したり、自らを頂点とする新たな組織を立ち上げることが多い。

 現実の事象として力を振るう巫術が存在するこの世界において、その根幹である精霊を崇める宗教は教義や地域の東西を問わず広く存在する。

 そうした精霊を神と崇める者達にとって精霊憑きとは文字通りの意味で王権神授説の体現者であるのだ。さらに精霊獣が個人ではなくその血筋に憑けば、神聖不可避な神秘性を持った王朝が出来上がる。そうした事例、過去の歴史を遡ればそれなりの数が見つけられる。

 

(うん、()()()()()()()()()、精霊憑きはとっても凄い巫術師になれる。《天樹の国》にとっても精霊憑き(ジュチくん)を取り込むのは凄く大きい……王女(わたし)と婚姻を結ぶだけの十分な理由になり得る)

 

 と、脳裏で密かな皮算用を始めるフィーネ。

 ジュチと結ばれるためにあらゆる障害を粉砕する心積もりを既に固めていたが、やはりその障害は少ないほどいい。

 であれば今回の知らせはフィーネにとって慶事であり、同時にこの地方に存在する勢力間の均衡を激変させるきっかけとなりうる火種であった。

 

(でもちょっと羨ましいかも。私の場合、精霊獣は()()()憑かないし…)

 

 なおフィーネに関しては極めて特殊な例外である。精霊群が精霊獣と化すには群れ集う精霊の属性が一定以上偏る必要があるのだが、フィーネの場合あらゆる属性の莫大な数の精霊が集まり飽和して、結果としてどの属性にも偏らないという異常な状態となっていた。

 

「……フィーネ? どうなんだ? 考えは纏まったか」

「あ、うん。大丈夫だよ」

 

 長く続いた沈黙に焦れたのか、ジュチから声をかけられる。その呼びかけに頭の中で進められていた皮算用を止め、ジュチを安心させるために笑顔を返した。

 

「多分ね、その子はジュチくんに憑りついた精霊だと思う。キチンと意思を交わして、正しい手順を踏めばジュチくんもその子の力を借りて巫術師になれるよ」

 

 もっと言えば国家間の勢力均衡を揺るがす程の超越者と成り得る可能性も十分あったが、敢えてそこまでは口にしない。信憑性が薄いし、いきなりそんなことを言われてもジュチも困惑するだろう。

 

「へー、こいつが。……見えねー。俺とスレンにしか見えないのを除けばただのデカい火吹き蜥蜴だぜ」

「あはは、生まれたばかりみたいだから。それに色々あってまだ上手く力を使えないんだと思う」

 

 と、自身の推測を述べるフィーネ。

 

(キッカケは多分《血盟》を結んだこと。スレンが従える火精がジュチくんを気に入って、一部が憑りついたのかも。姿が見えないのは、まだ上手く現世(うつしよ)()()()()()()()()()ことが出来ていないから、かな? 生まれ方も大分普通じゃないし……今はそういうもの、と考えるしかなさそう)

 

 こう見えてフィーネは精霊に親しき闇エルフの王女。受けた教育は巫術においてこの世界の最先端と言っていい。その知識と両界の神子としての見識が現状から推測を立て、頭の中で整理されていた。

 もちろんその全ては語らない。巫術の知識が皆無に近いジュチに何かしら話してもかえって逆効果になると考えてのことだ。

 

「そんなもんか。ところでこいつとの付き合い方ってどうすればいいんだ?」

「うーん、そうだね…」

 

 そう問われ、返答に迷うフィーネ。

 精霊との付き合いには色々と危険も多いのだ。

 

「今は色々と立て込んでるから、あんまり迂闊に触れない方が良いんだけど。ひと段落して落ち着いたら…」

 

 熟練の巫術師であっても精霊との付き合い方を間違えれば、《妖精のうたたね》に罹ったアウラのように精神を精霊界に連れていかれる危険性がある。

 フィーネの推測では精霊憑きにも同種の危険性が、普通の巫術師以上の大きさで潜んでいるはずだ。

 

「名前を…うん、名前を付けてあげればいいと思う」

 

 ポツリ、とそう呟く。

 それは妖精王女の見識が導き出した簡にして要を得た、端的な答えであった。

 

「名前?」

「うん、多分その子に名前を付ければ今よりもずっと確かに現世(うつしよ)と結びつくことが出来るはず。そうなればジュチくんとスレンしか視えないなんてことも無くなるし、ジュチくんとの繋がりが強くなって力を借りやすくなるはずだよ」

「そっか。こいつの名前、か…」

 

 そう呟くと右手に摘まんだ火蜥蜴へと視線を向ける。そこには手の中でキュルキュル、クゥクゥと不服そうに鳴き声を上げる見慣れた珍獣の姿が在った。なんとなく尻尾に灯った小さな火が目に付く。

 

「お前に名前を付けるなら何がいい? って言っても分からないか?」

「キュウゥ…!」

 

 いいからさっさとこの手を放せと抗議の声を上げる火蜥蜴。

 

「悪い、悪い。まあ許せよ」

 

 と、一応は謝罪の声をかけていつもの定位置である自身の右肩に戻す。ようやく慣れた位置に戻った火蜥蜴はよくもやってくれたなと燃えない火の点いた尻尾でぺしぺしとジュチの横っ面をはたいた。

 

「ちょっ、やめ、やめろ馬鹿っ」

「キュケケケーッ!」

 

 火蜥蜴の尻尾に灯る火は現実に影響を及ぼさない。それを知るジュチではあったが、髪や目の近くに燃える火がぶつけられるというのは分かっていても心臓に悪い。

 そうと知ってか底意地の悪い鳴き声を上げながら横っ面をはたくのを止めようとしない火蜥蜴。何とは言わないが、こっちはこっちで似た者同士であった。

 

「てめ、この…、この野郎! そっちがその気ならこっちもなー」

 

 傍から見ていればフィーネとスレンのやり取り以上におかしな一人芝居である。唯一両者を視ることの出来るスレンもとっくの昔に無視を決め込んでいた。

 生暖かい視線を向けられながら、火蜥蜴の相手をしているジュチは何か思いついたのか同じくらい底意地が悪そうな顔を作り。

 

「お前なんかガルだ、小火(ガル)で十分だ。分かったかアホトカゲ!」

 

 そう即興で思いついたのであろう、明らかに適当な名付けを行った。

 恐らくは尻尾に灯った小さな火を由来としたのだろうが、ちょっとした嫌がらせとしてはあまりに軽率な行動であった。

 

「あっ…!?」

 

 と、切迫感の籠った叫びを上げるのはフィーネである。

 精霊獣の霊威と見かけの威厳は比例しない。極端な話、無害で小さな草食獣の姿をした精霊獣が地を揺るがすほどの霊威を持つことすらある。

 怒らせた精霊獣へ名付けという秘めた力を暴発させるきっかけを与えるのは、控えめに言っても愚かしいと言う他は無い。

 が、幸いと言うべきか。

 

「キュ…、キュウ? キュケーッ!」

 

 火蜥蜴は与えられた名に対し、やだねとばかりに火の点いた尻尾を振り回して拒絶の意を示した。この小さな生まれたばかりの精霊獣は、己が憑いた宿主からの名を拒否したのだ。

 

「なんだよ。もうちょっとまともな名前を寄越せって? ……まあ、小火(ガル)は適当だし弱そうだよな。分かった、もうちょっと考えるから今日は勘弁しろよ。お互い休戦だ、いいな?」

「キュー…」

 

 ジュチの宥める言葉に火蜥蜴は仕方ないな、という風にぺしんと一回だけ尻尾で肩の辺りを叩く。そのまま大人しく肩の上で丸くなったのだった。

 と、両者を見ることが出来ればなんとも気安いやり取りに見えただろう。

 だが一見気安いやり取りの内実の危うさを知るからこそ、声をかける少女がいた。いま少年は怒りに駆られた精霊獣に焼き殺される危険性がそれなりにあったのだ。

 

「……ジュチくん?」

 

 ()()()()と笑うフィーネである。

 見かけは嫋やかな美しい少女ながら、身に纏う雰囲気は激烈な怒りを宿したモージに近かった。

 

(やっべ…)

 

 具体的にどこがマズイとは理解できずとも、迫る身の危険だけははっきりと分かる。

 ジュチは反射的に腰を浮かして逃げ出そうと試みるも、恐ろしく自然な身動きで近寄ったフィーネにそっと動き出しを封じられる。

 

「ちょっとこれから精霊との付き合い方について()()しようか。大丈夫だよ、痛くしないから」

 

 何故話をするだけで痛くするとかしないとかに話が及ぶのか。

 思わず疑問を覚えたジュチだが、眼前の少女は迂闊に何かを言い出せるような雰囲気ではない。

 

「うんうん、ジュチくんは精霊についてあんまり知らないもんね。大丈夫だよ、私が()()()()巫術師としての心得から教えてあげるから」

 

 生来奔放だがある一面では非常に生真面目かつ熱心なのがフィーネという少女である。

 優しげな笑顔での申し出だが、彼女の言う()()()()が一から十まで漏れなく綿密にという意味であろうことをなんとなく悟ったジュチは思わずその顔を引き攣らせた。

 

(これは将来尻に敷かれそうだな…)

 

 と、その微笑ましいと言えなくもないその光景を見たアゼルは沈黙を守る。ただ胸の内では隠さずただ思ったままの感想を漏らすのだった。

 




 あらすじを大幅改稿しました。お時間あったらご意見下さると本当に幸いです。


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群生地

 

 一夜明け、地平線から太陽が顔を出す頃。

 ジュチら一行は既に支度を済ませ、それぞれの乗騎に跨り、地を空を進んでいた。

 昨日かなり酷使した駿馬達も一晩ゆっくりと休ませたお陰か、再び力強い疾走を見せていた。

 空を翔ける飛竜が先導し、少し遅れて駿馬達が続く。

 一行は残る道程を着々と消化していき…。

 そして太陽が中天に届く少し前。

 

「ここが《精霊の山(マナスル)》の麓…。俺たちの目的地か」

「うん。そして高貴の白(アーデルヴァイス)の群生地」

 

 誰一人欠けることなく、力を落とすことなく、《精霊の山》へたどり着いた。

 麓から仰ぎ見ればその威容はますます大きく、偉大に見えた。天を衝く山頂には雲がかかり、山体の全てを眺めることは叶わない。一定以上の高さより上は万年雪が積もり、白銀に輝いていた。

 

「こいつらはここまでだな」

「空から見れば如何な駿馬と言えど良い的だろうからな」

 

 駿馬達は近くの木立に繋ぎ、大王鷲の目に留まらないよう隠す。どれほどご利益があるかは分からないが、何もしないよりもずっといいだろう。

 優しく駿馬達に声をかけ、宥めながら隠し終えると一行は大王鷲(ガルダ)を警戒してかなり離れた位置から件の霊草の群生地を眺めた。

 

「あれが噂の霊草か…。聞いてた通り、真っ白だな」

 

 ジュチは山と草原の民が持つ飛び抜けた視力で、遠く離れた位置からでもそのはっきりとした純白を捉えていた。

 視界を占めるのは大霊山、《精霊の山》の一角。霊草、永遠の花《ムンフ・ツェツェク》の群生地。

 ほとんど垂直の角度で高くそびえ立つ断崖絶壁に彼らが目的とする純白の花弁を輝かせる霊草はあった。

 人間には到底登り詰められそうにない暗い色合いをした断崖絶壁。そのそこかしこに健気に白い花弁が咲き誇っている。

 狙い目は断崖絶壁から張り出した岩棚だろうか。多少面積が確保されている分、複数の花弁が集まっている割合が多いように見受けられる。

 

「さて、問題の大王鷲は…」

「もしかしてあれが巣かな?」

「どれだ?」

「あそこ。あの大きい岩棚のところ」

 

 言葉を交わしながら岩壁の各所を視線でなぞる。

 岩壁の一角、特に大きく張り出した岩棚の端から木枝や泥で出来たかなり大きな構造物の一部がせり出しているのが目に入った。

 しばらくの間そこを注視するも、噂に聞く巨体の陰すら視界に入らない。

 

大王鷲(ガルダ)は出かけているのかな。姿が見えないけど…」

「多分そうだと思う。近くに精霊が大きく動く気配は無いから」

「なら」

「うん」

 

 と、視線を交わし意見を一致するのを確認すると、阿吽の呼吸で頷き合う。

 

「今が好機だ。やっちまおう」

「賛成。アゼルさんもいいですよね」

 

 これから挑むのは一つ間違えればあっさりと命を落とす大難事。だが少年と少女は迷うことなく決断した。一線を越えたこの二人は幼さに見合わぬ度胸の持ち主となっていた。

 他方、同意を求める視線を向けられたアゼルは、応えるように頷きを返し。

 

「やろう。しかし段取りはどうする?」

「俺とエウェルが霊草採取。フィーネとスレンは…」

「私たちは巫術で身を隠しながら周囲を警戒する役で。ギリギリまで大王鷲に気付かれたくないから、出来るだけ刺激しないように隠れようと思うの」

「承知した。俺は出来るだけ近くで身を隠し、いざという時に大王鷲の気を引くとしよう。尤もただ人の身でどこまで叶うかは分からんが…」

 

 アゼルは部族でも指折りの弓取りだ。弓矢が届く位置にある獲物を逃すことがほぼ無いとびきりの腕利きである。

 それでも飛竜すら凌ぐという噂の大魔獣に対してどこまで効果があるかは怪しいところだった。そういう意味ではアゼルもまたその身にかかる危険度はジュチとそう大差はない。

 

「それじゃあ、二人とも頼む」

「承知した」

「うん、頑張ってね」

 

 三人がそれぞれの顔を見合わせ、頷く。

 一行が越えなければならない最大の試練がいま始まろうとしていた。

 

 ◇

 

 ジュチとエウェルとともに歩を進めたアゼルは、断崖絶壁に最も近い大岩が幾つも並ぶ辺りで足を止めた。ここの大岩ならば十分に人間が身を隠せるだろう。いざという時の援護のため、身を潜めるには悪くない場所だ。

 

「すまんが、俺はここまでだ。いざという時は出来る限り速く駆けつけるが、間に合わずとも恨むなよ」

「まさか。ここまで付き合わせて悪いと思ってるくらいさ」

「阿呆。お前の任ではなく、()()()任だ。俺もお前も等しく命を懸けることに何で遠慮が要るものか」

 

 うっかり漏らした失言に軽く頭を小突かれ、なるほど確かにと思わず苦笑する。

 ジュチの意図せぬ思い上がりを戒め、背負う責任を半分に分け、お前一人ではないと力づける。アゼルらしい、気遣いはあれど湿っぽくは無い、何とも気持ちのいい励ましだった。

 この旅路の中、良い兄貴分を持てたことはジュチにとって素直に誇れる財産であった。

 

「ありがとな、アゼル。……行って来る」

「ああ、そして戻ってこい」

 

 (おう)、とジュチは手を挙げて答えた。そのままエウェルを急かし、早足で歩を進める。

 最早ジュチの傍にいるのは相棒のエウェルだけ。頼りになりそうなフィーネとスレンは遠方で周囲を警戒しながら身を潜めている。

 フィーネだけでなく、大王鷲ら《魔獣》もまた精霊の動きに敏感なため、少しでも刺激するのを避けるためだった。巣の近くに他の強力な《魔獣》がいるという状況は、大王鷲が荒れ狂うに十分な刺激だ。荒ぶる《魔獣》の怒りはその余波だけでジュチとエウェルを殺すに余りある。

 

「あれが霊草、永遠の花(ムンフ・ツェツェク)か…」

 

 人間の足で断崖絶壁に近づけるギリギリの距離まで進み、上方を見上げる。首が痛くなりそうな高さの岩棚に、真っ白な美しい花弁が顔を覗かせていた。

 断崖絶壁の険しさを角度で言えばどこも60度は超えている。厳密な垂直ではないが、視覚的には聳え立つ壁と言って差し支えあるまい。

 そして比較的低い場所に生えている霊草でも、ジュチを軽く十人以上垂直に並べた以上の高さにありそうだ。

 

「さぁて、ここからはお前が頼りだぜ。相棒」

「メエエェ…」

 

 鞍と手綱を付け、エウェルに声をかけるといつも通りののんびりとした鳴き声が返される。

 いつもどおりの相棒の様子が少しだけ心強かった。

 

「落ちれば死ぬな。まあいつものことだけど」

 

 実のところ()()()()の岩壁ならエウェルの力があればさして問題ではない。山羊(エウェル)の蹄を引っかける出っ張りや隙間が無数にあるし、頑強な岩盤は体重をかけても小動ぎもしないだろう。

 これがひっかける凹凸のない一枚岩だったら流石にお手上げだったろうが、断崖絶壁それそのものは慎重に挑めばエウェルとジュチであれば踏破可能な障害だ。

 

「問題は大王鷲…」

 

 長引いて大王鷲が帰ってきたら恐らく死ぬ。

 下手に急いで断崖絶壁から滑落しても死ぬ。

 活路は大王鷲が戻って来る前に全てを恙なく終わらせるのみ。

 

「クソみたいな賭けだが、賭けられるだけ上等だな」

 

 若者らしい調子のいい発言というより単なる事実としての言葉が漏れる。全く持って言葉通りの状況なのだ。

 

「力を貸してくれよ、エウェル。今回は本当にお前だけが頼りなんだ」

 

 と、切実な願いを込めた相棒への呼びかけに。

 

「メー」

 

 当の相棒は変わらない調子である。思わず苦笑が一つ、漏れる。

 全く悲壮な決意を固める己がアホらしくなってくるようだった。だがきっとそれくらいがちょうどいい、とジュチは思った。

 元より悲壮な決意を固め、肩肘を張って死線に挑むなど騎馬の民の流儀ではないのだ。どれほどの困難、向かい風だろうと恬淡と笑って挑むべし。破れたならば潔く受け入れ、(ともがら)に後を託せばいい。

 乾いた死生観と(いさおし)を尊ぶ騎馬民族の気風はジュチの中にも根付いている。その気風に従い、ジュチは精々不敵に見えるように笑みを作り、エウェルに跨る。相棒に一声かけると心得たようにトン、と断崖絶壁に出来た小さな出っ張りに第一歩を乗せる。そのままエウェルは気負いなく少年を乗せたまま、絶壁を踏破する足を踏み出したのだった。

 



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まだ行けるはもう危ない

 完結までの書き溜めが完了いたしました。
 完結まで今話含めてあと8話となります。
 これから毎日朝6時投稿予定です。
 この物語の終わりまで、どうかお付き合いのほどよろしくお願いします。


 ジュチを背に乗せたエウェルはゆっくりと断崖絶壁に足をかけて登っていく。山羊の蹄はかなり柔軟に出来ており、地面に接する部位である二つに分かれた蹄…外蹄と内蹄の両方ががっちりと絶壁の出っ張りや割れ目を掴むことが出来るようになっている。

 更に自身の背に跨った幼子分の体重にも慣れたもの。ジュチが体重移動に気を使っていることもあり、登り詰める姿は遅くはあっても危うさは無い。

 それらの特性、特技を生かし、エウェルは傍目にはのんびりと、実際には慎重に確実に絶壁を伸ぼり詰めつつある。

 時に四肢を突っ張らせるような無茶な姿勢を取ったり、短く岩棚から岩棚へ跳躍するような大胆な動きを披露しながらもその挙動にはどこか安定感があるのだ。

 

「いいぞ、エウェル…。もう少し、もう少しだ」

 

 ジュチは焦る気持ちを押さえてひたすらゆるゆると登り詰めるエウェルの挙動に自らの動きを一体化させることに努める。

 エウェルの乗り手、との肩書きを持つジュチであったが、こうして実際に登り始めればジュチが出来ることはただただエウェルと呼吸を合わせるだけであった。それはジュチが未熟なのではなく、単に山羊が人間よりもはるかに登攀能力に優れているというだけなのだ。

 

「もうちょっと、もう少し…。よし。止まれ、エウェル」

 

 主観的には気が遠くなるような長い時間、実際にはかなり短い時間で一本目の永遠の花(ムンフ・ツェツェク)に辿り着いたジュチ。

 狂おしい程求めた霊草は今やジュチの手が届く場所で可憐な花弁をそっと咲かせていた。

 

「まずは一本。次にまた動いて一本…。焦るな」

 

 自戒を込めて呟く。ジュチは敢えて口にすることで自身の焦りを押さえていた。

 

「土をどかして根ごと掘り返す。それから布に包む。使えるのは片手だけだ。慎重に…」

 

 手順を口に出して確認し、背負った小さな荷袋に手を突っ込んで小さな匙に似た金属器を取り出す。そのまま慎重に匙で永遠の花を根っこから掘り返していく。岩棚に堆積した僅かな土砂をどかすのはすぐに済んだが、霊草の根は岩棚の隙間を割り砕いてその奥へ進んでおり、引っこ抜くのは慎重を期さねばならなかった。

 下手に力を込め過ぎて体勢を崩せば一巻の終わりなのだ。

 更に片手は体勢維持のために使わなければならなかったから、どうしても作業は遅々としたものとなった。だが少なくない時間を使うことでなんとか一本目の霊草の採取に成功した。

 

(これを、あと十二本分か…)

 

 部族のために十本、フィーネの妹分のために二本。気が遠くなるような工程だったが、ひたすら丁寧に素早くこなすしかジュチに道は無い。

 

(後悔はしない…けど、生きて帰れる気がしないな)

 

 改めて身に迫る実感が思わず胸の内で零れた。

 自身の死がフィーネに、そしてツェツェクに与える影響だけが心残りだった。二人ともジュチにはもったいないほど心優しい友達で、義妹なのだ。

 

「……次に行こう。悪いがまだまだ付き合ってもらうぞ、エウェル」

 

 まあ、死ぬときはエウェルも道連れなので、死出の旅路が寂しくなることだけは無いだろう。不思議とエウェルを巻き込むことにはあまり罪悪感が湧かなかった。エウェルに対して情が薄いというよりも、彼と築いた悪友のような腐れ縁のような関係から来るものだった。

 

 ◇

 

「……見ているだけで心臓に悪い」

 

 一方その頃。

 ジュチたちの働きを少し離れた大岩の群れに隠れて見守るアゼルはボソリと呟きを漏らした。

 それは断崖絶壁と言うアゼルには未知の環境で慎重に、時に大胆に崖を登り詰めていく一人と一匹を見守りながら浮かんだ偽りない心情だった。

 

(が、大したものだ。モージが奴を押したのは英断だったな)

 

 大岩の陰からハラハラとジュチたちの挑戦を見守っているアゼルは感心の声を漏らした。傍目にはフラフラ、ユラユラと危なっかしく合わさった体躯を揺らしながらも決して死の一線を越えることは無い。

 傍目からは死線の上で踊っているようにしか見えないが、本人たちからすればまた見え方が違うのだろう。よくよく見ればその挙動には大地に根が張ったような安定感があった。

 

(これならば霊草の採取それそのものは問題ないだろう。あとの問題点は大王鷲か…)

 

 残る唯一にして最大の懸念点はそれだった。

 

「頼むぞ、天神(テヌン)よ。我が弟分へせめてもの加護を与え給え…」

 

 アゼルは決して信心深くはない。

 窮地にて頼るべきはまず己の腕。そして友と仲間であるとの信条を掲げている。

 だが己の手が届かない領分に対しては天神に祈ることしか出来なかった。

 

 ◇

 

 他方、フィーネは遠方にて乗騎のスレンとともに風精らの助力を借りて姿を隠しながら、アゼルと同様にジュチの挑戦を見守っていた。

 

「わ、わ…。凄い…あれで落ちないんだ」

 

 とはいえその言葉に籠る感情はアゼルとは大分異なる。

 悲壮感は薄く、純粋に感心する思いが強い。

 

「流石エウェルくんだなぁ…。大地の精霊に好かれているだけのことはあるね」

『……』

 

 同意を求め、隣に静かに待機するスレンへ話を振ってみたのだが、あっさりと黙殺される。

 その反応にむー、と頬を膨らませるもいいもん勝手にするもんと言葉をつづけた。

 

「地精に好かれ、受け入れられる才能はピカ一だね。事象への干渉力は低そうだけど、その分地精の方がエウェルくんを助けてるみたい。多分いま地震いが起きてもエウェルくんだけは影響を受けないんだろうなぁ」

 

 ジュチも、モージですら知らない事実であったが、エウェルは地精に好かれる資質を持った特別な山羊であった。

 エウェル自身が能動的に地精に働きかけることがないため気付かれることが無かったが、その卓越した登攀能力は精霊由来のものだったのだ。エウェルが挑めば断崖絶壁だろうと大地に宿る精霊の助力によって平地で立つかのように安定して動き続けることが出来るだろう。

 《魔獣》とは種族ではなく、精霊と意思を交わしその力を借りる獣を指す。その意味ではエウェルもまた《魔獣》に連なる獣の一匹である。

 そして両界の神子たるフィーネは精霊を介してほとんどの《魔獣》と意思を交わし合うことが出来た。エウェルの名をジュチから聞く前から知っていたのは何と言うことは無い、エウェル自身からその名を聞いていたからなのだ。

 

「霊草採取はエウェルくんがいれば何とかなりそうだね。やっぱりガルダだけが心配かな」

 

 フィーネもまたアゼルと同じ結論に至り、周囲の警戒のため気を張り巡らせるのだった。

 

 ◇

 

(これで八本目…。幸運だな、あり得ないくらい幸運だ)

 

 ジュチは霊草の採取目標十二本の内、八本の採取に成功していた。

 朝から始めた霊草採取は長時間にわたり、太陽はとうに中天を超えて地平線に向けて傾きつつあった。まだ日が落ちるには早いが、そう遠くもない。そんな時間帯だ。

 

(……流石に限界か? 正直俺もかなり辛い。エウェルも限界が近いし)

 

 長時間集中を強いられる作業を続けてきたこともあり、強い疲労を覚えていた。霊草採取もそう何度も試せるものではない。得られた機会を逃さないよう欲張って休まずに続けて来たがそろそろ切り上げ時かもしれない。

 ここは一度引き下がり、また様子を見ながら

 そうしよう、と内心で決断したジュチを翻弄するかのようにふとある光景が目に映る。

 

「あれは…」

 

 既に何度も目にした霊草、ただし本数は定かではないが何本もまとまって群生している。今いる場所から更に上へと上がる必要があるが、採れれば一気に目標へ近づく。否、届くかもしれないが…。

 ジュチが見るところ、位置が悪い。エウェルと言えど重力を無視しているわけでも、道なき道を通れるわけではない。普通では分からない、通れるとは思えない道筋を断崖絶壁の中に見つけ出し、そこを過たずに通れるというだけのことだ。目的の岩棚まで、この場所から登り詰めるのは厳しいかもしれない…。

 

「エウェル、行けるか?」

「…メェェ」

 

 相棒に声をかけると、流石に疲弊した声が返ってきた。

 やはり長時間の無理が祟っているのか。しぶとさと図太さが売りの相棒もかなり疲弊した様子だ。

 だが行けるか、との問いにはキッチリと行ける、と答えていることはジュチにも分かった。

 

「これで最後だ。終わったらとっとと安全なところで休もう」

「メェ…メェェ…」

 

 ジュチの宥めるような言葉に仕方ないな、と言わんばかりの力ない返事。

 それを肯定と受け取ったジュチは悪いな、と一声をかけてからエウェルとの呼吸を合わせることに再び集中し始めた。

 あるいはこの場に老獪なモージがいれば忠告したかもしれない。

 まだ行けるはもう危ない、とは古今東西で通用する至言である。もう少し、あと少しと欲を掻くと痛い目を見る。

 少年が抱くのは欲というよりも願いであったが、訪れる結果に変わりはない。

 予期していた危険が、当然のように少年に襲い掛かろうとしていた。

 




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大王鷲

 念願の霊草、纏まって群生するそれにジュチが手をかけようとしたその時。

 

『――――――――ィィィ――――――――』

 

 切れ切れと、高い高い音の連なりが微かにジュチの耳に届く。

 そして岩壁に張り付くジュチを巨大な影が覆う。 

 

(なんの…)

 

 音だろうかと、その身にかかる異変へ思考を巡らせる刹那の時が過ぎ去り―――全てが怒涛のように動き出した。

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 今度はハッキリと、天を突き刺すような甲高い鳴き声が響き渡る。天空を飛翔する巨躯がその身を震わせて放つ大音声は地を揺らし、断崖に立つジュチ達の身体もまたビリビリと振動に揺れた。

 恐れていた《魔獣》が現れたのだ。

 

大王鷲(ガルダ)…!?」

 

 ジュチが呻く様に叫んだ名の通り、鳴き声の主はこの断崖の主たる巨大な鷲の如き《魔獣》に他ならない。

 その巨体が太陽を遮り作り出す影はジュチとエウェル程度、十組いようとすっぽりと覆って余りある巨大さだ。

 

(でっ、けぇ…!?)

 

 ジュチが空を見上げると晴天の下を悠々と翔ける巨躯の怪鳥がいた。

 広げた翼の大きさは果たして如何ほどか! 正確な目算は難しいが、飛竜の体躯にも負けない巨大さ。翼は太陽の光を受けて赤みを帯びた黄金色に輝き、油断なく地上を見据える瞳には確かな知性が宿っている。

 飛竜すら食い殺す大魔獣との触れ込みに負けていない、感嘆すら覚えそうな力強さだった。

 

(なんて…)

 

 美しく、力強いのか。

 思わず放心してしまいそうなほどその巨躯には美々しさと強壮さで満ちている。かつてスレンと触れ合った時にも感じた強大な《魔獣》特有の生命力を遠間からも脈々と感じ取れた。

 その大魔獣を無心に見つめていると、ふと視線が合った気がした。

 ゾクリ、と背筋に氷を突っ込まれたような悪寒が走る。ひどく無機質な、獲物ですらない排除すべき障害物と見定めているような()()。視線が合う、ただそれだけで死の恐怖がジュチを捕らえた。

 

(死…―――)

 

 一瞬、気が遠くなる。

 フワリとした浮遊感、気絶に伴う脱力が快感さえ伴う感覚へとジュチを誘う。そして死の淵へと文字通り転がり落ちていく―――、

 

『ジュチくん、しっかりして!』

 

 寸前に、風精を通じた叱咤がジュチの鼓膜を叩き、我に返らせた。

 窮地からジュチを救ったのはもちろんフィーネだった。何とか意識が薄れるのを押さえたジュチは再びしっかりとエウェルの鞍を握り、体勢を立て直した。

 

『大丈夫! 大王鷲(ガルダ)がジュチくんを襲うより私達が抑え込む方が早い! だからジュチくんは焦らずに逃げて!』

「分かった!」

 

 通じているかは分からないが、一声諾と返し、エウェルに合図して出来る限り駆け足で岩壁を下り始める。

 その直前、最後の土産とばかりに、手にかけていた霊草を強引に引き抜いて懐にしまった。

 

「急ぐが、焦らない…。急ぐが、焦らない…!」

 

 失敗は何時だって余裕がない時に生まれるものだ。

 こういう状況でこそ、落ち着いて動きべきだった。もちろんただ念じるだけで実践出来るなら世話はないが。

 それでも能う限り慎重にジュチとエウェルは少しずつ岩壁の段差から段差へ、岩棚から岩棚へ歩を進めていく。

 

「ジュチくんは…よし、大丈夫。下りられてる」

 

 その様をスレンに乗って天へと翔け上がり、見守るフィーネ。

 一瞥し、ひとまず離脱を始めた少年を確認すると、あとは一切の意識を眼前のガルダへと集中させた。

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 天を切り裂くような甲高い鳴き声を上げるガルダ。巨躯から放たれる音の波は風と衝撃を生み、天空を荒れ狂わせた。

 その双眸には同格の敵手たる飛竜(ドゥーク)を映し、並々ならぬ警戒を宿していた。

 

「貴方の縄張りに踏み込んで、ごめんなさい。でもこっちも譲れないの…! 押し通らせてもらいます!!」

 

 ガルダにとって眼前の飛竜は決して油断など出来ない強敵だ。

 だがガルダには勝算があった。ガルダは時にドゥークすら殺め、食らう。二つの種族は格で言えば同等、だが同時に両者の間には決定的な優劣があった。

 

RIRIRI(リリリ)―――……』

 

 再びの甲高い鳴き声。

 だがそれは肉声であると同時に、精霊界に揺蕩う風と水の精霊に呼びかける祈りでもあった。

 おや、なんだか楽しそうだぞと精霊がにわかにざわつき始めるのを、フィーネの精霊界を見通す霊眼が見ていた。

 呼びかけに答えた数多の風と水の精霊がこの場に呼び込まれ、嵐の前兆が現れ始めている。

 晴天の空へ不自然な程急速に黒雲が現れ、太陽の熱を遮り始めていた。

 

「やっぱり、一筋縄じゃいかないか…!」

 

 嵐…もう少し言えば嵐が呼び込む水と寒風こそがドゥークの弱点であった。

 ドゥークは小さな同類である蜥蜴や蛇と同じく行動に使用する熱量を自らが生み出すことが苦手な変温動物である。

 故に自らを動かす熱量の供給はかなりの量を外部からのものに頼っている。

 だがその場合、一つの疑問が生まれる。ドゥークほどの巨体を支える莫大な熱量、果たしてどこから生まれてくるのか。

 日光? いいや、その程度の熱では到底足りない。地熱? 残念ながら竜骨山脈に非火山帯であり、熱量の供給源と成り得ない。

 

「火の精よ。荒ぶる炎、怒れる吐息。貴方の朋たる私の友、スレンに宿り、荒ぶって!」

 

 その答えこそが精霊、火精(サラマンドラ)である。

 飛竜、ドゥークはその身に共生する火精から行動に必要な熱量を得るのだ。だが水精が優勢な場所では火精は働きを著しく弱めてしまう。そして寒風で体温が急激に下がれば、動きも自然と鈍らざるを得ない。

 そして同格の魔獣同士でその弱体化は致命的。

 故にガルダはドゥークにとって天敵に当たる《魔獣》なのだ。

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 急速に黒雲が生まれ、嵐の先駆けとなる雨が降り始める。それを見たガルダは勝ち誇るように天高く鳴いた。

 だが次の瞬間、ガルダの勝ち鬨は唐突に途切れることとなる。

 

「風精よ、水精よ。嵐に巻かれ、自由に遊ぶ貴方。ごめんなさい、此方(こなた)は貴方を拒絶する。

どうかそのまま彼方(かなた)の果てへ飛び去って!」

 

 精霊の力を借りる巫術において、二人の術者が相反する願いを精霊に届けた場合、彼我の干渉力が優劣を決める。平たく言えばより精霊に意志を届かせる=声が大きい方の願いが通るのだ。

 この場合、声の大きさとは単純な肉声の大小ではなく、どちらの術者が()()()()()()()()()で測られる。

 そしてこの現世に肉を持って生きる命において、精霊界に半身を置くフィーネよりも精霊と強く結びつく者はほぼいないと言い切っていい。まして彼らが巡り合う可能性などほとんどゼロだ。

 

KY()KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 故に当然フィーネとガルダの主導権争いの軍配はフィーネに上がった。空を覆う黒雲はまるで時を逆回しにするかのように消え去り、雲一つない晴天へとその姿を移り変える。

 何とか精霊に呼びかけ、彼方へと飛び去って行く精霊達を引き留めようとするガルダ。だがその努力は功を為すことなく、虚しく囀りが響き渡るのに留まった。

 

「スレン、後はお願い―――!」

『グ、ル…! グルゥウウウウウウウオオオオオォォ―――!!』

 

 主人の願いに応え、スレンが放つ大咆哮が《精霊の山》の山間に轟き渡る。

 宣戦布告とばかりにガルダへ向けて放たれた大咆哮は指向性を伴い、ビリビリとガルダの巨躯を揺さぶった。これ以上なく明確な敵対の意志に、ガルダの瞳にも強烈な戦意が宿った。

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 応じるようにガルダもまたスレンへ向けて大咆哮を返した。大風を起こし、スレンへ叩きつけるオマケ付きで。スレンも火と風の精霊に親しき《魔獣》、当然のように同規模の大風を起こし、風と風がぶつかり合う!

 轟々と暴風が吹き荒れ、その中心に飛翔するのは二匹の《魔獣》。

 片や、竜骨山脈の覇者とすら謳われる飛竜(ドゥーク)

 対するは格でその飛竜(ドゥーク)と肩を並べ、時に食い殺す大王鷲(ガルダ)

 

『―――――――――――…………』

 

 大咆哮と暴風を伴う敵意を交換した両者は、一転して静けさすら伴う睨み合いへ移行する。

 互いが互いを殺し得る強敵と認め合ったからであり、互いに円を描くように飛翔し合いながら僅かな隙を探り、一筋の優位を得るための試行錯誤である。

 ギチギチと、一本の太い繋がいまにも螺子(ネジ)切れる寸前のような緊張感が両者の間に満ちる。

 絶え間なく動き合い、探り合い、僅かでも有利な位置取りを得るための試行錯誤を続け…

 刹那、有るか無しかの()()()に似た間隙を空間が孕む。凶悪な殺意と敵意が空間すら歪めた。そう錯覚を覚える知覚困難な何かを二頭は感じ取る。

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

『グルゥウウウウウオオオオオォォ―――!!』

 

 その何かを好機と断じた二頭の《魔獣》は迷うことなく咆哮を上げ、激突した。

 




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死地の訪れ

 二頭の巨獣が暴風を手繰り、自身の眼前に球状へ収束させる。

 大きさはフィーネが抱え込める程度の代物、しかし収束された風が解放されれば人間数十人をまとめて吹き飛ばせる兇悪な威力を秘める。

 最強格の《魔獣》にのみ許された剥き出しの暴力の塊を、二頭は躊躇いなく解放し、射出する。

 

 (ゴウ)、と。

 

 ほとんど衝撃波と化した爆風が荒れ狂う。ぶつかり合う風弾は弾け合い、衝突点を爆心地として例外なく大地とそこにしがみつく矮小な生命を揺さぶった。

 その危険度はさながら風の爆弾。

 付近の大岩の陰に伏せた、最も影響の少ないはずのアゼルが身構え、大岩を掴んで身体を支えたと言えばどれほどデタラメな規模か分かるだろうか。

 ジュチとエウェルも例外ではなく、何とか断崖絶壁から引きはがされないように必死でしがみついて凌いでいた。ただの余波でこの有様、流石は竜骨山脈の覇者とそれに比肩する大魔獣の力比べだった。

 

『―――――――――――』

 

 互いを油断なく睨みつける両者、健在にして無傷。

 先ほどぶつけ合った小手先のそれではない、渾身の力を込めたぶつかり合い。

 飛竜(ドゥーク)大王鷲(ガルダ)、ともに風精に親しむ《魔獣》なればその力比べの結果はそのまま互いの格付けとなる。

 結果は見ての通り。即ち、互角。

 飛竜と大王鷲は同格の《魔獣》とされる評が事実と証明された形である。

 

「でも、こっちには私がいる。ね、スレン?」

『グラァ!』

 

 が、自分()こそが有利だとスレンの背でフィーネが誇った。

 応じるスレンも確かな実感を持って力強く吼えた。

 スレンこそ両界の神子たるフィーネの力を身をもって知る第一の眷属。肯定を意味する咆哮にも信頼があった。

 

(でも、やっぱり強い。流石はガルダ。お父様が私を引き留めるだけのことはある…)

 

 フィーネに油断はない。

 彼女は両界の神子という慮外の力を持つ超越者。単騎で天地を揺らし、国を亡ぼし得る怪物。だが彼女は戦士ではなく、その力を十全に扱う術を仕込まれていない。

 彼女がその『力』を最大限発揮することを畏れた賢人議会の意向でもあり、これまでのフィーネの人生でその過剰なまでの力が必要とされなかったからだった。

 そしてそのことはフィーネも自覚している。()()()()()、少女は一片も気を抜かず全力でガルダを迎え撃つ!

 

(油断は、しない…。一筋の傷もジュチくんに付けさせない。全力でガルダを抑え込む…!)

 

 敢えてフィーネは無暗にその身に秘める暴力を振るわない。慣れない真似をしても却って隙をさらし、ジュチを危険に晒すことを恐れるからこその判断だ。

 ガルダへ万に一つの勝ち目すら与えないために、戦闘そのものはスレンへ一任する。そしてフィーネ自身は敵手への妨害とスレンへの支援にその力の大半を割り振る。

 それがフィーネとスレンが立てたこの魔獣争いにおける戦術だった。

 

(いける…! やっぱり私がいる分スレンの方が圧倒的に有利!)

 

 そしてその戦術は当たった。

 暴風の爆裂をぶつけ合ったあと、熾烈な空中戦へ移行した両者。その形勢はあっという間にスレンの側へと傾いていく。

 スレンが操るのは風精だけでく、火精も含まれる。そして風精と火精は互いの働きを強め合う、相性が良い組み合わせだ。

 それを証明するようにスレンが繰り出す大火炎を風精が踊るように巻き込み、爆発的に火勢を増していく。蛇の如く自在に()()()()幾つもの火柱となって、縦横無尽にガルダへと襲い掛かる。

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 離れた位置にいるジュチにすら届く強烈な熱波。まして直接その身を劫火の蛇に炙られているガルダの苦しみは言うまでもあるまい。

 甲高く鳴くガルダの方向も劣勢を示すかのように苦し気だ。援けを求めるような咆哮が《精霊の山》に響き渡る。

 

「よぉし、このまま―――!」

 

 優勢を確信して一気呵成に押し切ってしまえ、と意気を高めるフィーネ。ガルダすら一蹴する強烈な巫術、フィーネの助力を受け、大幅な強化を得たからだった。それでもフィーネにはまだまだ余裕がある。

 勝機である水精を抑え込まれ、スレン以上に強力なフィーネが控えている。ガルダに最早勝ち目は無かった。

 そう、

 

 ()()()()()()()()()()()

 

 ガルダの鳴き声が聞こえる。

 

『――――――――ィィィ――――――――』

 

 途切れ途切れに、弱々しく…。弱々しく?

 否―――!

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 熾烈な空中戦を繰り広げるスレンとガルダの更に遥か上から、猛々しく戦意に満ちたもう一つの咆哮が急速に()()()()()のだ。

 

『「―――!?」』

 

 咄嗟に言葉を出すことも出来ず驚愕するフィーネとスレンの主従。

 勢いのままその巨体による体当たりを敢行する()()()()ガルダ。なりふり構わない捨て身の突撃をスレンは空中でなんとか身を捩り、躱すことに成功した。

 剛風を身に纏い、目と鼻の先ほどの距離を隔ててすれ違うガルダの姿に背筋が粟立つ。

 ガルダほどの巨体が落下の勢いを利用したそれが当たっていれば、飛竜のスレンですら地上に叩きつける激烈な威力となったろう。

 そして殆ど完璧な不意打ちには両界の神子たるフィーネも気付いてから迎撃するための時間が全く足りなかった。

 いま自分は死線の上で踊っていた事実を思い知り、()()()とフィーネの背筋に震えが走る。

 

(ガルダが、二頭―――!?)

 

 新たに現れたガルダは地上に激突する寸前でひらりと身を返し、恐ろしく滑らかな飛翔でスレンと対峙するもう一頭の下へと合流した。

 スレンと同格の魔獣が更にもう一頭。

 その合算される戦力はフィーネであっても決して楽観視できるほどではない。

 

()()()()()()()()()()!」

 

 遠く離れた位置から事態を見続けていたアゼルの叫びが端的に事態を言い当てていた。

 この断崖絶壁に巣を構えた大王鷲(ガルダ)は一頭だけではなかった。互いを伴侶と定めるつがいだったのだ。

 考えてみれば自然なこと。猛禽が巣を構える目的として子作りは想定して然るべきだった。そして子作りにはつがいが必要となる。

 先ほどの苦境を示す叫びも助けを求めるような、ではない。そのまま自らつがいに向けて助力を求める叫びだったのだ。

 

(マズイ…っ!)

 

 ()()()()()()戦力差の優劣で語るならばフィーネが優勢である。

 だが、至近距離にはフィーネ達の最大の弱み。一身上の都合により全力で守らなければならないジュチがいる。彼は断崖にしがみ付き、降りるどころか《魔獣》争いの余波から落下を免れるために必死だ。

 そして対峙する敵手はスレンと同格の魔獣、大王鷲(ガルダ)が二頭。縄張りを荒らされ、つがいを追い詰められた彼らはフィーネ達へ並々ならぬ敵意を向けている。彼らが繰り出す巫術の余波で脆弱な人間であるジュチは容易く死の淵を渡るだろう。

 彼を守りながら、二頭のガルダを撃退しなければならない。それは常人が手中の脆い卵を守りながら、何人もの暴漢を打ち倒すが如き難事である。

 これだけの悪条件が揃えば、両界の神子たるフィーネですら楽観視は出来なかった。

 短い生の中で初めて直面する苦境、死線にフィーネの顔が苦渋に歪んだ。

 




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ホムラ

 遥かなる蒼天の下、二頭の大王鷲(ガルダ)と一頭の飛竜(ドゥーク)が睨み合う。

 一体で地形すら変え得る大魔獣が三頭。この世の終わりかと見紛うような光景だ。

 スレンと強烈な眼光を輝かせて敵意を交換していた二頭のガルダ。一対のつがいである彼らが不意に山間に響き渡る鳴き声を上げる。すると乾いた空気が覆う晴天に、徐々に湿り気を帯びた風が吹き始めた。二頭のガルダが協力して嵐を呼び込もうと水精霊に働きかけ始めたのだ。

 

「……この程度で私を抑え込もうなんて―――!」

 

 もちろんフィーネがそのまま座して見ているはずがない。彼女もまた更に水精霊への干渉を強める。

 流石は両界の神子と言うべきか。強大な《魔獣》が二体がかりでもなお水精霊への干渉合戦はフィーネが優勢である。だが予期しない二頭目の出現による動揺と相まって、フィーネの余裕を著しく削っていたのも確かだった。

 

「しまっ……!?」

 

 その動揺がフィーネの隙を作った。

 フィーネとの水精霊への干渉合戦に素早く見切りをつけた一頭が最も巣に近い位置にいる邪魔者―――つまり、ジュチを排除にかかったのだ。

 もちろん巫術という間接的な手段ではなく、その強大な爪や嘴を用いた殺害という直接的なやり方で。

 ガルダはその巨体に反し、より小型の猛禽に近い敏捷さの持ち主だ。ジュチの元まで辿り着くまで数秒も必要としない。

 

「こん、のぉっ! お願い、風精(シルフ)!!」

 

 咄嗟に風精を呼び集め、作り上げた強烈な下降気流(ダウンバースト)をジュチに襲い掛かる片割れへと叩きつける。

 それはガルダすら地に叩き落とすほどに凶悪な代物であったが、今度は手が空いたもう一頭のガルダが水精霊の干渉を強めるとともにスレンへ猛然と襲い掛かる。

 応じたスレンが咆哮を上げて迎え撃つと、自然とそちらに意識が割かれる。すると下降気流(ダウンバースト)の制御が甘くなり、ジュチへ襲い掛かるガルダが対処する隙を与えてしまう。狙いの芯を外した下降気流をガルダは悠々と躱した。

 

(マ、ズイ…! 本当の、本当に、ジュチくんが危ない―――!)

 

 結局のところフィーネは王女であり、戦士ではない。正面からならば《天樹の国》の戦士を束にしても叩きのめせる怪物じみた異能者だが、戦場にあって同時に幾つもの事柄を臨機応変に対応できるほどの経験は積んでいなかった。その実戦経験の薄さが裏目に出た形だ。

 結果として、フィーネの援護も間に合わず、ジュチとガルダを遮るものはもう何もない。

 間に合わない…、実感としてそれを悟ったフィーネを絶望が襲う。

 

「ジュチくんっ!」

 

 フィーネの叫びは暗い未来を予期するかのように、悲痛さが強く滲んでいた。

 

 ◇

 

 ここが己の命の懸け時か、と。

 アゼルは透徹とした明瞭な思考の下、静かに覚悟を決めた。

 眼前で繰り広げられる人知を超えた大魔獣同士の激突。そして今まさに幼い命を散らされようとしている弟分の姿があった。

 この大激戦の中果たしてどれ程の働きを為しえるか、アゼル自身確証など無い。かの大魔獣の前ではどれほど腕の立つ勇者であろうと、全ては虚しく蹴散らされるだろう。

 それを知ってなお、死地に身を投じる者は愚かとしか言えまい。

 

()()()()()()。俺を愚か者と(そし)る賢者の戯言など、犬の糞ほどの価値もない)

 

 冷静に考えるならば、アゼルは一目散に逃げるべきなのだ。

 最早ジュチの目前にまでガルダは迫っている。命を救う手段がない、到底間に合わないだろう。出来て時間稼ぎが精々か。そしてそれすらも命懸け。

 だが状況の転び方次第で、ジュチが摘んだ霊草を収めた荷袋ならばまた時間を置けば回収の目もあるかもしれない。一度退いてから回収した霊草を部族まで持ち帰ればいい。ジュチの死は残念だが、必要な犠牲だったのだ…。

 

(あいつが繋いだ細い細い希望の糸、決して断たせん)

 

 が、そんな賢者の思案をアゼルは検討すらせず一蹴した。

 この場で最も死に近いのはジュチなのだ。

 ともに死線を潜る程度のことをやってのけねば、どうしてあの少年の兄貴分を名乗れようか!

 アゼルは冷静で、理知的で、腕の立つ()()()()である。そして草原の男は愚かしい選択と理解してなお、ともに命を懸けた仲間を見捨てることは無い。

 

「ジュチよ、逃げろ! そう長く引き付けることは出来んぞ!」

 

 隠れていた大岩の陰から身を晒し、立ち上がる。更に腹の底から大音声を張り上げ、ガルダの注意を引く。同時に背負った矢筒から矢を取り出し、弓弦につがえるとよく引いて(ひょう)と撃ち放った。

 柳の枝と畜獣の腱から作り上げた合成弓は強力な張力を遺憾なく発揮し、逆さまに天へ翔ける流星の如くガルダのいる上空へと矢を飛ばす。

 流石は部族屈指の弓取りと言うべきか、アゼルが放った矢はジュチへ襲い掛かるガルダの眼球を正確に射抜かんとしていた。

 如何にガルダと言えども、眼球を射抜かれれば相当な深手となる。アゼルが出来る数少ないガルダ相手でも有効な攻撃だった。

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 だがその一矢を儚い抵抗と嘲笑うかのように、ガルダは咆哮とともに周囲の風を無茶苦茶に荒れ狂わせた。デタラメな乱気流に飲まれた一矢はその軌道を狂わせ、ガルダの羽へ突き刺さるに留まった。

 その一撃もガルダの巨躯からすれば一本の針が浅く刺さったようなものだ。到底ガルダを押し留められるような痛手ではない。

 

(やはり、ダメか…! すまん、ジュチ。すまん、モージ。それにツェツェクよ。俺の無力を許せ…)

 

 だがせめて、一矢は報わんと二の矢を弓弦につがえる。

 ギリギリと音が鳴るほどに強く弦を引き絞り、ガルダが纏う風の乱気流を突き破らんと念じた渾身の矢。

 仮に上手くいけばそれこそガルダの逆襲に遭ったアゼルの命はあるまい。だがその価値はあろうと迷わずにアゼルは矢を握った指を放そうとした、その瞬間。

 

「―――なんだ、何が起こった!?」

 

 活火山の爆発に似た天を衝く劫火の柱が、突如としてジュチが張り付く断崖から噴き上がった。

 

 ◇

 

 今生で二度目の走馬燈がジュチの脳裏をグルグルと過ぎっていく。

 眼前に恐ろしくゆっくりと、しかし決して逃れられない『死』そのもの。ガルダの爪牙がジュチの矮躯に迫り来る

 目に映る全ての動きが鈍い。まるで粘つく水の中に閉じ込められたようだ。

 一秒を何十倍にも引き延ばす死の間際に発揮される集中力。逃れられない死の淵から何とかして抜け出すために与えられた刹那の久遠。

 

(ダメ、だ…。逃げられない)

 

 だがその与えられた時間を以てしてもどうしようもない、という厳然たる事実がジュチを襲う。

 当然の話だ。断崖絶壁になんとか張り付いている状態でガルダの襲撃を凌げるはずがない。一か八かで飛び降りるには高すぎる。死因が転落死に変わるだけのこと。

 

(せめて…)

 

 だが最後の抵抗として摘んだ霊草を収めた荷袋だけは無事に済ませねばならない、と後ろ向きな決意を固めるジュチ。

 こうなると、分かっていたのだ。途方もない困難に挑むと決めた時、自身の死は既に覚悟していた。後はその覚悟を実行に移すのみと。

 そんな、最後の抵抗に臨もうとしたとしたジュチの横っ面を、

 

「クアアアァ―ーー!」

 

 鳴き声を上げた火蜥蜴が唐突に引っぱたいた。

 ジュチの主観上限りなく静止した世界の中、火蜥蜴だけがいつも通りに動き、意志を交わさんとする。宿主に憑りつき、精神的に密接に結びつく精霊獣だからこそ出来る裏技だった。

 

(お前…)

 

 唐突にこちらの横っ面を引っぱたいたのは如何なるつもりなのか。

 叱咤激励か、それとも怒りの発露か。

 あるいは何かを伝えようとしているのか。

 そう言えばフィーネはこいつのことで何か言っていたような…。

 

(なんだっけ、か…)

 

 ぼんやりと、思考すら鈍ったままうっすらとした記憶をたどる。

 

(名前、そうだ。こいつの名前を付けてやらないと…)

 

 いずれこいつに名前を付けるべきだと、フィーネは言っていた。そうすればジュチも強力な巫術師となれるかもしれないと…。

 場違いに脳裏を過ぎった思考は、不意に一つの思い付きとなってグルグルと頭の中を巡り形どっていく。

 

(なんで、お前はあの時名前を撥ね除けた…?)

 

 小火(ガル)

 火蜥蜴の尾に灯るささやかでちっぽけな火から連想した名。

 それをこの精霊獣は拒絶した。

 何故だろうか?

 

(……ちっぽけで、弱々しい炎。小火(ガル)はそんな連想からの名前だ。気に入らない、だけじゃない。()()()()()()()()()、そう思ったか?)

 

 この火蜥蜴は何時だって傍若無人で、自由だった。地を這いながら周囲を見下ろすような奇妙な気位の高さがあった。やや性格の悪い、悪戯好きな一面もあったが…。

 こいつは元を辿れば飛竜(スレン)が従える火の精霊の中の一群だったという。飛竜の系譜に連なる幼き竜を形どった精霊獣だ。その出自を考えればその自尊心も頷ける。

 ジュチの持つ()()が気に入ったのだろうとフィーネは言っていた。言うなれば、見込まれたのだ。そして出会ってからこれまでずっと自分の傍で、その全てを見続けていた。

 その幼竜がいま、俺に賭けろ、と目で語り掛けてきている。

 こいつは間違っても仲間ではない。友でもないし、敵でもない。ただ隣り合い、いつの間にかジュチの右肩に居座っていたおかしな奴。

 だがまあ、嫌いではない。いつも右肩に居座るこの蜥蜴もどきを不思議と受け入れている自分がいることをジュチは知っていた。

 

(賭けばっかりだな、俺の人生…。まあいいさ、乗ってやる)

 

 苦笑を頬に刻み、その賭けに乗ることに決める。

 その奇妙な人ならざる隣人への贈り物ついでに最後の機会を預けてみるのも悪くはない。どの道このままでは末路が目に見えているという事情もあったが。

 どうだ、とばかりに問いかける視線を送ればまあいいだろう、とばかりにやけに人間臭く、偉そうな頷きが返される。普段は腹立たしい類の仕草だが、今は不思議と心強い。

 

(くれてやる…お前の名前、お前に相応しい名前を!)

 

 小火(ガル)などという適当で、弱そうな名前ではなく、その自信に見合うだけの名を。

 そして名を与えるのなら、その名に応えるだけの『力』を俺に示せ!

 

「お前が俺に憑りついて、俺の人生を楽しもうっていうのなら好きにしろ。その代わり家賃代わりにお前の『力』を貸しやがれ!」

 

 一拍の間を置き、少年は高らかにその『名』を叫ぶ。

 

「―――()()()!!」

 

 ホムラとは炎群(ホムラ)。火を二つ重ね、更に群れとする、荒々しく燃え盛る炎の姿そのものだ。

 何よりこの世界で前世を知るジュチだけが名付けられる、世界に一つだけの特別なナマエ。

 これ以上の名なぞ咄嗟に捻り出しようがない。なにか文句があるかと名付け子を睨みつけると、幼竜―――ホムラが呵々(カカ)と笑い、()()()()()()()

 

(アツ)っ! …く、ない?」

 

 ジュチとエウェルを包み込むように、守るように。さながら火山の噴火の如き勢いで劫火の柱が突如として《精霊の山》の断崖に顕現した。

 ジュチら主従には陽だまりの如き暖かさだけを与える火柱は、一方で迫りつつあったガルダが身を翻すほどの膨大な輻射熱を振り撒く。今までのような幻想の炎ではない、現世に実体として影響を及ぼす精霊の炎。

 

「お前の仕業なのか、ホムラ!?」

 

 ホムラが纏う不敵な気配がその問いに対する答えだ。

 今までジュチにだけ見えた幻想の幼竜は、名付けという通過儀礼を超えることでいま精霊獣として存在を確立した。名付けによって霊的な絆が強まり、ジュチという霊媒を通じて現世(うつしよ)とより密接に結びついたとも言える。

 本来精霊は幽世(かくりよ)、精霊界に存在する存在。幽世の存在である精霊が現世へ干渉するのは実は精霊にとっても簡単なことではない。

 世界を恙なく回していくことが精霊本来の役割。現世における自然現象の裏には全て幽世における精霊の存在が関わる。逆に言えばその範囲を逸脱して現世へ干渉するためには巫術師から捧げられる祈り、幽世と現世を繋ぐ『道』が必要となるのだ。

 精霊憑きが通常の巫術師と一線を画する尋常ならざる使い手ばかりなのは、霊媒である精霊憑きに精霊が直接()()()ことで、普通よりもはるかに短く広い『道』を繋げることが出来るからだった。精霊が現世干渉のため力を通す『道』が広く、距離が短い程精霊はより強力に、直接的にその力を振るえるのだ。

 

GU()RURURU(ルルル)…』

 

 竜の唸り、王者の吟声。

 幼竜の見た目にそぐわない深く、低い唸り声が漏れる。

 驚くジュチを横目に幼竜はふわりと少年の肩からその小さな翼を羽撃(はばた)かせ、天へ軽やかに舞い上がる。

 

 そして天を衝く火柱の全てが、幼竜に向かって収束した。

 

 少年が片手で掴めるほどの大きさだった小さな火蜥蜴は、全ての炎を吸い込むとたちまちにしてふくれあがり、ガルダと比肩するほどの巨躯へと急速に成長を遂げる。

 その姿は青く、蒼い炎で形作られた飛竜(ドゥーク)そのもの。

 飛竜(ドゥーク)大王鷲(ガルダ)すら凌ぐ巫術の使い手。()()()()()()というデタラメで出来た巨躯。その竜鱗は黒鉄(クロガネ)造りの甲冑をはるかに上回る強靭さを誇る。

 近い将来、世界にその名を轟かせる精霊憑き、ジュチが従える稀代の精霊獣。その息吹を以て一軍を跡形もなく焼き払うと称される、天変地異に等しい精霊の獣。

 精霊の炎を骨肉に、少年の勇気と飛竜の誇りを心の鋳型とした精霊獣(マヌグレス)、ホムラの顕身である。

 

GURARARARA(グララララ)―――……』

 

 てめえらよくもやってくれたな、と静かに憤怒の唸りを漏らすホムラ。

 その怒りはジュチを脅かしたガルダへと向けられていた。

 ジュチがホムラに心を許していたように、ホムラもまたジュチを気に入っていたのだ。その思いは《天樹の国》でフィーネと再会したジュチが一歩を踏み出し、無謀スレスレの勇気を見せた一幕を通して更に強くなった。

 やはり自分達の見込みは間違っていなかったのだ、と。あの一幕が無ければ幾ら気に入っていようとこうして手を貸そうと意志を示すことは無かった。かつては最強の魔獣、飛竜に付き添う火精の一群であるホムラは相応に誇り高かった。

 

KY()KYRE(キリィ)―――』

 

 ホムラの顕現体から零れ落ちる炎の欠片、それすらガルダが脅威に感じるほどの熱量を秘める。

 それでも最強格の《魔獣》としての誇り、食物連鎖の頂点に位置したが故の経験の薄さ―――即ち、絶対的な格上との戦闘経験の欠如がガルダから撤退という選択肢を奪った。

 咆哮を上げて自らを奮い立たせ、同時に精霊へ干渉しようとするガルダの片割れ。

 その咆哮が、唐突に途切れる。

 

『―――――――――――――――――』

 

 最早一言も無く。

 速やかに逝け、とホムラは太陽の表面温度を超える蒼い炎を手繰り、一瞬でガルダを焼き尽くした。

 後には灰すら残らない、夢か幻かと思わず目を疑うような光景。

 

KYREIEEEE(キリィイイイイィ)―――!!』

 

 その現実を否定するように、もう一頭のガルダは咆哮した。

 だがそのつがいも分かっていた。彼の片割れはもう、この世のどこにもいないのだ。そのまま跡形もなく焼き尽くされたつがいの復讐戦へ臨もうとする。

 その憎悪と殺意に応じ、同じ末路をくれてやろうとホムラが力を振るおうとする―――。

 

嗚呼(ああ)…」

 

 その直前に()()()、とした情念の籠った呟きがこの場にいる全ての者の耳へと届く。

 その呟きはホムラすら深い恐怖のどん底に叩き込む、言い知れぬ重圧が籠っていた。

 

「私って本当にダメな子だなぁ…」

 

 フィーネの自罰的な発言が、場の雰囲気を陰惨なものへ一気に塗り替える。

 いまやこの場の主人はフィーネであった。ただしその演目はそう、はるか西方でいう残酷劇(グラン・ギニョール)だろうか。

 

「うん、私が間違ってた。何の罪もないのに殺すのは可哀そうだなんて考えてガルダに手加減するなんて。おかげでジュチくんを危険に晒して…。私がダメだったんだ。私が悪い子…、私が、悪い…」

 

 ううん、と()()()と首を振り、ガルダを濁った暗い光を宿した両の双眸で睨みつけ。

 

()()()()()

 

 何の前触れもなく、ガルダが凄まじい勢いで地上へ叩きつけられる。

 自然落下ではありえない、まるで空から降ってきた見えない隕石に叩き落されたかのような急激な墜落。

 その正体はもちろんフィーネの巫術だ。

 星が万物を縛り付ける重力の楔、それを瞬間的に何百倍にも強めたのだ。ガルダ程の巨獣が突如自重の何十倍もの重さに襲われれば抗うことなど出来るはずもない。

 

「地に叩きつけられて死んでいけ、空の王者」

 

 天を舞っていたスレンが地上に戻り、その背からフィーネが下りた。

 地に伏し、縛り付けられたガルダと視線を合わせながら、それこそ万物を見下ろす絶対君主の如き冷徹な視線を向ける。

 ガルダにはフィーネを睨みつける以上の抗う術はなく…。凄惨な事件現場と化した《精霊の山》の断崖に、ベキベキとガルダの骨という骨が折れ砕ける甲高い音だけが鳴り響く。

 その巨体へ均等に駆けられる重圧が丁寧に丁寧に、肉片に至るまで押し潰し、後には原型の残らない肉塊だけが残るのだった。

 ホムラすら一歩分の距離を取ったその光景。それを見ていち早く動いた者がいる。

 

「ホムラ! 俺をフィーネの元へ!」

 

 ジュチである。

 本気かと視線で問いかける精霊獣にいいからさっさと俺を運べと罵倒する。不承不承頷いたホムラは断崖へ張り付くジュチの下へ炎で出来た橋を渡す。エウェルの鞍から飛び降り、その橋の上を渡れば、そこは燃え盛る炎で形作られたその巨躯は少年の肉体を焼くことなく、暖かく迎え入れた。精霊が生み出す炎は物理現象ではなく、精霊の意志が優先される。精霊獣が認めた宿主を害さないようにするのはさして難しくない。

 そのままホムラの背に乗り、フィーネのすぐ傍まで運んでもらう。ホムラが大地へ着地すると、もどかしげにその背から降りたジュチは迷わずにフィーネの元へと駆け寄った。

 

「フィーネ、無事か!?」

「ジュチくん…? ジュチくんだ。ああ、良かったぁ。ジュチくんが生きてるよぅ…」

 

 と、声をかけられたフィーネの暗く淀んだ瞳に光が戻る。

 そして近寄ったジュチに縋りつくようにしがみ付き、少年の暖かさを全身で感じる。そうしてようやく少年の生存を実感したのか、深い安堵の溜息を吐いた。

 

「おい、大丈夫なのか?」

「大丈夫って?」

「巫術師は精霊との付き合い方を間違えたら、物凄く心に影響があるんだろ。今のお前は明らかにおかしかったぞ?」

「あ、あぁー…。うん、大丈夫だよ! 全然平気! 平気ったら平気だから!」

 

 まさか貴方が死にそうなのを見て思わずブチ切れてガルダを虐殺してしまいました、などと乙女の矜持に懸けて言えるはずがない。

 既にガルダの虐殺現場を見せつけていたので手遅れと思わなくもないが、乙女的には大きな差があるのだ。多分。 

 

「本当か?」

「うん、大丈夫だよ。心配してくれてありがとね。ジュチくん」

「そうか」

 

 なおも心配そうに確認するジュチと視線を合わせてしっかりとお礼を言うフィーネ。

 その瞳にしっかりと正気が宿っているのを見た少年はうんと頷き。

 

「なら良かった」

 

 からり、とフィーネが一番好きな良く晴れた日のお日様のような笑顔を向けた。その笑顔を見たフィーネの胸はついドキドキと鼓動を速めてしまう。

 

嗚呼(ああ)…)

 

 強張った心が解きほぐれていくような感覚に思わず肩の力も緩み。先ほどと同じ言葉を、全く逆の感情を込めてフィーネは胸の内で呟いた。

 

「ジュチくんが無事で、本当に良かった…」

 

 そうして少年の無事を確認するように、再び安堵のため息を漏らしたのだった。

 

 

 




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旅の終わりに①

 完結まであと4話です。


 

 柔らかい日の光が顔に差し込み、優しく少年の覚醒を促した。

 意識がはっきりすると少年は閉じていた瞼を開き、その眼に雲一つない蒼天を映し出した。

 体を起こして周囲を見渡すと、そこは霊草の群生地からほど近い位置にある野原に作った簡易の営巣地のようだった。

 乱雑ながら寝床となる厚手の布が敷かれ、殆ど燃え尽きた焚火に熾火が燻っている。少し離れた場所には相棒のエウェルがのんびりと草を食んでいる姿が在った。

 

「俺は…」

 

 さて、どうして眠っていたのかと一人ごちる。

 眠りに落ちる直前の記憶が自分の中に全く見当たらなかったからだった。

 

「起きたか、ジュチ」

「アゼル。俺は…」

「お前はあの後倒れたのだ。フィーネ殿曰く、半人前の巫術師があれほど強力な精霊獣(マヌグレス)を従えたのだから当然のことだと言っていたぞ」

 

 心得たように経緯を話すアゼルにふんふんと頷く。

 ホムラはガルダを一蹴するほどデタラメな『力』の持ち主だ。それを何の危険もなく扱えるはずもないということなのだろう。

 と、ここであることに気付く。

 

「あ」

「どうした?」

「そのホムラ…精霊獣は?」

「……フ」

 

 既に定位置となった自身の右肩にホムラの姿はない。無論飛竜に等しいその巨躯の姿も周囲には見当たらない。

 それゆえの問いかけだったが、何故だか微笑とともに何とも生暖かい視線を向けられた。

 

「なんだよ…」

「なに。仲が良いなと、そう思っただけだ」

「どういう」

 

 ことだと、続けて問いかけようとしたジュチの眼前に()()()と尻尾が垂らされる。

 もちろん犯人は言うまでもない話題のあいつだった。

 

「はっはっはっ、なるほど。そういうことか」

 

 アゼルが生暖かい笑みを浮かべた意味を理解し、思わず乾いた笑いを上げる。

 そしてごく自然な仕草で頭を振り、いつの間にか頭の上に乗っかったホムラを地面へ振り落とすのだった。

 

「キュー…」

 

 地面に背中から落ち、寝っ転がったまま不満そうに鳴くホムラ。

 その姿はあの青く蒼い炎で形作られた巨大な飛竜のものではなく、見慣れた幼竜のそれ。その姿もふてぶてしさも変わりがないようでいっそ安心してしまう。

 

「相変わらず図太いようで安心したぞこの野郎。いっそ変わっていて欲しかった気もするけどな!」

「キュケーッ!」

 

 なんだ、文句があるのかと互いに険悪な視線で睨みあう。が、そこに悪意がないことだけは傍から見ているアゼルにも分かる。仲のいい兄弟喧嘩のような光景だった。

 

「はっ! いまのお前が凄もうと怖くないぜ! あのデカブツ姿に変身してから出直して来るんだな!」

「阿呆。軽率に相手を煽るな。ましてやガルダを苦も無く退けた精霊獣だぞ」

 

 スパコーン、と軽快な音を鳴らしてジュチの軽い頭を(はた)くアゼル。その一幕をいい気味だとばかりに忍び笑いを漏らすホムラ。

 さてはこいつら似た者同士だな、と思わず呆れた視線を向けるアゼルだった。

 

「フィーネ殿曰く、負担を抑えるためにその幼い姿となっているらしい。必要になればまたあの飛竜の姿へと変ずるだろうとのことだ」

「なるほどね。あ、そういえばアゼルもホムラも見えるようになったんだな」

「ホムラ? ああ、この精霊獣の名前か。いかなる由来なのだ。随分と耳慣れぬ響きだが」

「……あー、異国語で炎って意味。小火(ガル)よりも強そうな名前だろ」

「ほう。それもモージからの受け売りか」

「まあ、そんなもんだ」

 

 真顔で大嘘をつくのもそろそろ慣れてきた感があるジュチだった。帰ったらモージに口止めせねば、と改めて心の内で誓う。

 

「そう言えばフィーネは? スレンも見当たらないけど」

 

 話を変える意味も込めて姿が見えないフィーネの所在を訪ねる。最後の記憶は、ガルダに襲われ九死に一生を拾った自分を案じるフィーネの姿だ。あの様子では自分の元を離れないのではないか、と勝手に思っていたのだが…。

 

「フィーネ殿は霊草を手に、既に王宮へ戻っている。彼女も病を得た妹分がいる身だ。お前を案じていたが、病とは時間との勝負だからな。病人を癒す手立ては早く講じるに越したことは無い」

「そっか…」

 

 別れは告げられなかったか、と消沈するジュチ。割合義理堅い性分の少年は、ともに手を取り合って窮地を切り抜け、望む結果を掴んだ少女に別れを告げることも出来なかったことにへこんでいた。

 

「フィーネ殿も別れは告げなかったな。敢えて、かは知らんが」

「……そうだな。また会う機会もあるさ」

 

 別れは告げなかった。ならまだ俺たちは別れていない。つまりまた会おうという意思表示なのだとジュチは解釈した。

 

「気持ちに整理は付けたか? ならば話を進めるぞ」

「ああ。頼む」

「俺たちは無事霊草を手に入れた。フィーネ殿へ譲った分を含めても不足は無い。あとは部族の元へと帰るだけだ」

「……ああ」

 

 と、アゼルが荷袋から取り出したのは純白の花弁を持つ可憐な霊花。永遠の花(ムンフ・ツェツェク)、あるいは高貴の白(アーデルヴァイス)と呼ばれる悪魔払いの特効薬だ。

 一、二、三……十本。しっかりと要求数を満たしている。

 それをしっかりと自分の目で確かめたジュチも気が緩み、安堵の溜息を吐いた。この霊草を手に入れるために死ぬような思いで旅路と困難を超えてきたのだ。安堵するのも自然なことだろう。

 その姿を見てほんの僅かに笑みを浮かべたアゼルがぶっきらぼうながら真摯にジュチを労う。

 

「よくやった、ジュチ。これはお前の功績だ」

「馬鹿。()()の任務なんだから、功績も俺達二人の物だろ。アゼル自身が言ったことだぜ?」

「こやつめ…」

 

 口が減らない弟分にアゼルも苦笑を一つ返す。それを見たジュチも思わず笑う。純粋に明るく、楽し気な笑みだった。

 笑みを交わし合う相手に確かな絆を感じ取る。ともに命を懸け、ともに困難を乗り越えた。その経験が生み出す絆だった。

 

「話を戻す。我らの騎馬はすぐそこに繋いである。荷物も纏めた。国境付近に置いてきた雌羊達はそのままだ。元々闇エルフ達への土産として連れてきた者達だからな。フィーネ殿には闇エルフの方で自由にしてもらうよう伝えてある。

 何より帰り道は速度こそが肝要。足の遅いあれらを引き連れることに百害あって一利なしだ」

「分かった。俺もそれでいいと思う」

「うむ。ならばあとは朝餉を済ませ、出発するだけだ。とはいえあるのは干し肉とフィーネ殿から譲られた聖餅(レンバス)くらいだがな」

聖餅(レンバス)か。あれ、結構好きだな。まああれと干し肉だけってのは、ちょっとキツイけどさ」

「御馳走は部族の元へ帰ってからの楽しみにしておけ」

 

 気休めのつもりでかけた言葉だが、ボルジモル族の襲撃を退け、その財貨を思う存分略奪したカザル族の懐は十分暖かかった。故にアゼルとジュチの二人が揃った祝いの宴は中々豪勢なものとなるのだが、今は知り様のない未来の話である。

 とはいえ今は革袋に入った水と聖餅(レンバス)をもそもそと頬張るだけだ。見かけは侘しい食事だったが、聖餅(レンバス)は闇エルフの智慧と秘儀を集めた特別な携行食糧。一枚きっちり食べ切ったジュチの心身には力が漲り、帰路に就く気力も湧いてくる。

 

「では、行くか」

「うん。行こう」

 

 ジュチが覚醒してから会話に食事、出発までろくに時間をかけていない。

 アゼルも大役をこなしたジュチをもう少し労わってやりたい気持ちもある。だが霊草を手に入れても病に苦しむ部族の元へ届かなければ意味が無い。時間との勝負であり、急げるところは急ぐべきだった。

 ジュチもそれを分かっているから不満を言うことは無い。ただ頷き合い、互いを頼みに旅路へ向かうだけだ。

 が…、

 

『ぉ――――ぃ――――っ』

 

 はるか遠く、はるか上方から切れ切れに届く呼びかけに、その歩み出しは止められた。

 

『待って待ってぇー! まだ行かないでーっ!』

 

 突如明瞭に声が届く。その声の主はもちろんフィーネだ。風精による遠隔の通話だった。

 

「フィーネか! いまどこにいるんだ!?」

『いまスレンを急がせているところ! もうジュチくん達のところに着くの!』

 

 と、会話する間にも地平線から飛び出してきた巨大な《魔獣》の飛翔姿を視界にとらえる。飛竜のスレンと、背に乗ったフィーネの主従だった。相変わらず素晴らしい速度と威厳に満ちた飛翔だった。この分なら数分と経たずにジュチ達の元へ辿り着くだろう。

 思わず顔を見合わせたジュチとアゼルは、もちろんフィーネ達の到着を待つこととしたのだった。

 




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旅の終わりに②

 

 それから程なくしてジュチ達の近くへ着陸したスレンの背からフィーネが飛び降りる。

 そしてジュチの姿を認めると嬉しそうにその頬に笑みを浮かべ、よく懐いた大型犬さながらに勢いよく飛びきつき、遠慮なく抱擁を交わす。

 

「良かったぁ…。《天樹の国》を出る前に追いつけた」

「俺もフィーネと会えてよかったよ。王宮から急いで来てくれたんだな」

 

 フィーネの額にはまだ汗が引いていないし、少し離れた場所で羽を休めるスレンもよく見るといつもの余裕が無いように見える。

 ガルダを倒してからこれまでの時間を考えるとかなり急いで王宮の用事を済ませてきたのだろう。

 

「改めて礼を言わせてくれ。フィーネのお陰で俺達の部族を助ける目途が付いた。本当にありがとう」

 

 少しでも気持ちが伝われ、とお礼の言葉とともに頭を下げる。

 本来騎馬の民は誇り高く、易々とは頭を下げない。下げれば下げるだけ、その意味が軽くなると考えているからだ。

 だがこんな時、真摯に礼を言えないようではそちらの方が価値を下がる行いだとジュチは思う。

 そうしたジュチの振る舞いをフィーネは笑みとともに柔らかく押し留め、こちらの方こそと逆に礼を返した。

 

「ううん。お礼を言うのは私の方。ジュチくん達のお陰できっとアウラは助かる。後でお父様とお母様からすっごく怒られるだろうけど、それは怒られてから考えるの!」

 

 のど元過ぎれば熱さを忘れる、あるいは問題を先送りする現実逃避じみた発言。何とも逞しくなったものだと思わず苦笑する。あるいはジュチの図太さに影響を受けたのかもしれない。

 

「そっか。アウラ…、フィーネの家族を助けられて本当に良かった。それに、こうしてお別れを言うことも出来るしな」

「お別れ…?」

 

 ジュチの言葉を鸚鵡返しに返すフィーネ。何を言っているのかとばかりのキョトンとした顔だ。その顔を見たジュチは何となく腑に落ちないものを感じ取る。

 

「ああ。だって俺達はもう部族の元へ帰るからな。本当に世話になった。フィーネと出逢えたことはきっと俺の人生で一番の幸運だ」

「そんな…。人生で一番の幸運だなんて」

 

 まるで契りを交わす口上みたい、と聞こえるか聞こえないかギリギリの声量で呟く。頬を真っ赤に染め、愛の告白を受けたかのような反応にジュチも自分が迂闊なことを言ったのではないかと気づき始めていた。

 もしや自分はとんでもないことをしてしまったのでは…? という客観的に見れば、遅すぎる気付きに。

 

「でもまだお別れじゃないの。ここに来たのはお別れを言うためじゃなくて、ジュチくんとの約束を果たすためだから」

「約束?」

 

 本気で心当たりがないジュチはそっくりそのまま問い返した。

 その様子を見てジュチが本心から疑問に思っていると分かり、フィーネは頬を膨らませる。

 

「もうっ、ジュチくんの馬鹿! 今度会った時はきっとスレンに乗せてあげるって言ったのに!」

「あ…。あー、あれか」

 

 正直に言えば国境付近での再会からここまで怒涛の展開が続きすぎてすっかり忘れていた。それどころでは無かったとも言う。

 

「いや、でも」

「いまのジュチくんならスレンも拒まないよ。ね、スレン?」

『…………』

 

 問いかけられたスレンが返したのは沈黙。だが決して拒否では無かった。スレンならば意に添わぬことを強要されれば、例えフィーネが相手だろうと拒否するだろう。

 

「いいのか、スレン?」

『グル、ガァ』

「―――っしゃ!!」

 

 思わずジュチからも問うと、聞くなとばかりにぶっきらぼうな唸り声が返される。その反応からスレンの意を悟ったジュチは思わず拳を握り締めて天へ突き上げ、喜びを全身で表現した。

 私と話す時よりも喜んでる…? と一瞬あらぬ疑念を浮かべたフィーネが暗い視線をスレンに送る。スレンの生存本能が一瞬警鐘を鳴らしたが、幸い続くジュチの言葉にあっというまにお姫様は機嫌を治した。

 

「フィーネもありがとうな! すっげー嬉しいし、楽しみだ!」

「フフッ、背に乗せるだけじゃないよ。ジュチくん達の部族の元まで一気に送ってあげる。スレンなら陸路を行くよりもずっと速く着けるはずだよ」

「それは本当に助かる! あれ、でもそうなるとアゼルは…?」

「俺は構わん。陸路でゆっくりと戻るとするさ。エウェルや騎馬たちの世話もあるしな。スレン殿の背に乗って戻るというならば陸路よりも速いし、道中の危険もほとんど無いだろう。ありがたいくらいだ」

 

 弁えた様子で頷くアゼル。若干申し訳ない思いがないでもないが、アゼルが言う通りスレンとフィーネに頼った方がはるかに速いし、安全だ。時間との勝負であるジュチ達にとって非常にありがたい手助けだった。

 

「あ、アゼルさん。そのことで少しお話が…」

 

 ちょいちょいとアゼルを手招きし、ジュチには聞かれたくない雰囲気を示す。その意を汲んだアゼルは大人しくフィーネの傍に身を寄せ、少女の潜めた言葉に耳を傾ける。

 その様子にジュチも若干の疎外感を感じつつも大人しくその場で待機する。必要ならばアゼルから教えてくれるだろう。教えないということはきっとその必要が無いということなのだ。

 ひそひそ、こしょこしょとしばらくの間続けられた密談。

 やがてアゼルの手に紙片と小さな指輪を預けると、フィーネはひと仕事やりとげたという雰囲気だった。

 

「……何を話したのか聞いてもいいか?」

「いや、この場では聞かない方が良いだろう。次にお前に会えた時に俺が話す。お前もフィーネ殿には聞くな。余計な揉め事になるかもしれんからな」

「分かった」

 

 と、アゼルが言うので大人しく頷く。

 この頼れる兄貴分がこうも言うのなら、弟分としては大人しく従うだけだ。それくらいにはアゼルを信頼していた。

 そしてジュチへ最低限の荷物と、何よりも重要な霊草を包んだ包みが渡された。

 

「話は纏まったね。それじゃあ、行こう! ジュチくん、スレン!」

「ああっ! 頼むぜ、フィーネ、スレン!」

 

 フィーネが声をかけ、ジュチが応じて二人はスレンの背に掛けられた大型の鞍へと飛び乗った。

 スレンが畳んだ翼を広げ、アゼルが少年へ最後に声をかけた。

 

「頼むぞ、ジュチ。部族の皆へ、霊草を届けてくれ。それと土産話を期待しているぞ。飛竜の背に乗る草原の民など聞いたことも無いからな」

「分かった! 次に会った時、真っ先にアゼルに話すよ!」

 

 兄貴分とも一瞥視線を交わし、意を通じ合う。

 ニヤリと互いに不敵な笑みを交わし、それ以上は無粋と言葉は無かった。アゼルと築いた絆もまたこの旅路の中で得難い財産だった。

 

「スレン!」

 

 そして飛竜は飛ぶ。

 その両翼を羽撃(はばた)かせ、風精の力を借りてカザル族の天幕まで一直線に。

 

 ◇

 

 空の旅。その途上にて。

 

「うっひゃーっ! すっ! っげーっ! なーっ!」

 

 スレンの力を借り、天空を舞う経験にジュチは人生でも一番の興奮を得ていた。

 地上を離れてからここまでずっと凄い凄いと騒ぎ続け、フィーネが苦笑し、スレンが鬱陶し気な気配を醸し出すまでそれは続いた。

 しかしそれも無理はない。

 はるか天空から世界を見下ろす絶景。ぐるりと首を回せば視界の全てに広大で果てのない雄大な風景が広がっている。

 スレンの力強い飛翔は雲を突き抜け、眼下にはふわふわとした柔らかい真っ白い羊毛のような雲が連なっている。足を踏み出せばふわりと受け入れてくれそうで、身を任せたくなる誘惑と落下の恐怖が天秤で釣り合う。

 少し見上げれば広がるのは透き通るような蒼天。ただどこまでも純粋で果てのない蒼色に思わず意識が吸い込まれそうになる。

 天の神が見下ろす光景とはきっと()()を指すのだろう。

 

「凄い、な。雲の上に下りて遊んでみたいくらいだ」

「あはは。それは無理だよ。雲は結局霧の塊みたいなものだから、足を踏み出したら真っ逆さまに地面に叩きつけられちゃう」

「だよなー。でも出来たら最高に楽しそう」

「分かるよ! 私も初めてスレンに乗ってこの景色を見た時、同じことを思ったもん」

 

 ジュチも前世の知識からそれを知っていたが、一方で純朴でスレたところのない少年の感性がつい夢見がちな発言を零してしまった。

 フィーネも笑って無理だと否定しつつも、その気持ちには共感を示す。それほどに素晴らしい光景だった。

 

「なんかさ」

「どうしたの?」

「凄いよな、世界って。こんなに広くて、果てが無くて、何だってあるんだぜ」

「うん。分かるよ。だから私は()()が好き…。もしかしたら王宮よりも」

 

 と、応じるフィーネの声には少しだけ力が無かった。その声に少女が抱える孤独の欠片を感じ取り、少年は少女を抱く腕に力を籠める。

 

「きっとさ。世界に比べたら、精霊憑きとか、巫術師とか、魔獣とかみんなちっぽけなもんだよな。大した違いなんて無いんだ、きっと」

「……うん」

「だからさ。また会おうぜ、フィーネ。俺達は離れた場所で暮らしていても友達だ。()()()()()だ」

 

 ジュチもフィーネが高貴の身分だということはとうに理解している。本来なら互いの縁が交わらないほど身分に差があることもだ。

 それでも二人の間にある友情は変わらないと伝えるため、ジュチは不器用に言葉を紡いだ。

 

「……………………」

 

 沈黙が続く。

 少年はそれを、少女がきっと受け止めてくれたのだと信じた。

 が…。

 

(ジュチくん…。そんな、そんなに、私のことを―――)

 

 なお妖精族と交流する上で一点注意点がある。

 妖精族は寿命が人族よりも長い。よって普通よりも()()()()()といった言葉が、人族の感覚よりもはるかに重い意味を持つ。

 文字通りの意味と捉え、()()()()()()のだ。

 よって彼らの前で、軽々にそうした言葉を使ってはならない……のだが。

 

(告白…? もしかして私、告白されちゃった? ダメだよジュチくん。そんな、一生、ずっと、私のそばにいたいなんてぇ…)

 

 手遅れであった。

 どうしようもなく手遅れであった。

 頭の中を桃色の妄想が占める色々と手遅れな闇エルフの王女の誕生だった。

 

「ふ、わぁ…」

 

 一方、少女がただならぬ情動に襲われていることなど気付きもしない朴訥な少年は、何となく良いことを言った満足感から気が抜け、再びの眠気に襲われていた。

 一つ欠伸を零すと、次から次に欠伸の衝動が襲い掛かってくる。

 

「フフッ、眠いの?」

「ああ、正直かなり辛い」

 

 いつも以上に優しいフィーネの声につい見栄も忘れ、頷いてしまう。

 精霊獣を使役した反動か、肉体以上に精神が疲弊した感覚は一寝入りするだけでは到底解消出来ていなかった。

 

「それならいいよ、寝てて。最速で飛ばしてもまだ一日はかかるから」

 

 一日で《天樹の国》とカザル族の天幕の間にある距離を踏破するとはすさまじい話だが、その力強い翼で空を行く飛竜ならば可能なのだろう。

 

「いや、空の上で気を抜いて落ちる訳には」

「大丈夫! 落ちても私が助けるから!」

 

 それでも遠慮の意を示すが、返ってきたのは少女の力強い保証の声だ。

 

「……頼んだ」

 

 実際それが出来るだけの力量があることはこれまでの旅路の中で何度も見ている。少女のそそっかしさに若干の不安を覚えつつも、それ以上の信頼で頷くことに決めた

 

「……ありがとうね、ジュチくん。私もずっと、同じ気持ちだから」

 

 眠りに落ちる直前、風に巻かれて切れ切れとなったフィーネの呟きが聞こえた気がした。

 




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旅の終わりに③

 

 揺り起こされ、意識が覚醒する。

 遠慮のない力強い揺さぶりは、ジュチにある人物を思い起こさせた。

 

「何だよ、モージ。山羊の乳絞りの時間か?」

 

 寝ぼけ眼にぼんやりとした頭で、零れ落ちる呟き。

 自分で自分の呟きに違和感を覚え、それがぼんやりとした頭の中がハッキリするキッカケになった。

 勢いよく飛び起きて周囲を見渡すと、そこは見慣れたモージの天幕の中であり、いつも通り不愛想な顔をしたモージの姿が在った。

 

「……モージ? それじゃここは」

「ああ、私の天幕だ。よく戻って来た、ジュチ」

「戻って…」

 

 一瞬、自分が長い長い夢を見ていたのではないかと奇妙な感覚に襲われる。

 《天樹の国》への旅路という非日常と家族とともに暮らす天幕という日常が唐突に切り替わったからこその感覚だった。

 が、それもモージの言葉によって意識が現実に追いつく。

 

「―――ツェツェクは!? 霊草は間に合ったのか!? フィーネとスレンはまだいるのか!? あれからどうなったんだ!?」

 

 まず真っ先に何よりも気に掛けるツェツェクの名前が出る。ジュチにとって目に入れても痛くないくらいに可愛がっている家族だった。

 次いで、怒涛のような疑問が次から次へと口を衝いて出てくる。

 

「落ち着け、ジュチ。霊草は間に合った。流石悪魔払いの特効薬よ。ツェツェク達弱り切っていた者へ与えたが、効果は目を見張る程だ。それでも楽観は出来んが…」

 

 ジュチが旅に出ている間にツェツェクや他の病人達から死者が出る恐れは当然あった。そこに関する不安を払おうと、つい前のめりに聞いてしまう。

 切羽詰まった様子のジュチを、分かっている、安心しろと落ち着いた声音で宥めるモージ。

 恐らくは、というくだりで不安になったが、少なくともまだ最悪は訪れていない。

 自分は間に合ったのだという深い安堵がジュチの全身を包んだ。そのまま全身が弛緩し、毛皮を何枚も敷いた暖かい寝床へ倒れこむ。

 

「それなら、フィーネとスレンは?」

「……あの時は人生で一番焦ったかもしれん。やれやれ、お前からフィーネ殿達のことを聞いていなければこの老体もどんな醜態を晒したことやら」

 

 どことなく背筋が煤けたような雰囲気で一人ごちるモージ。その様子にあっ…、となんとなく察するジュチ。

 恐らくフィーネは急ぐことを優先するあまり、それこそカザル族の営巣地のど真ん中に飛竜(スレン)で直接降り立ったりしたのではないだろうか。

 もちろん飛竜を見たカザル族は大いに驚き、恐れただろう。とんでもない大恐慌になったと思われる。修羅場を潜り抜けて感覚がマヒしつつあるが、本来飛竜とはそれくらい恐ろしい《魔獣》なのだから。

 フィーネならやりそう、と負の方向に抱く信頼がなんとなくそんな考えを抱いた。

 

「フィーネ殿はお前と霊草を我らの元へ返すとすぐに《天樹の国》へ向けてとんぼ返りだ。ただ、言伝を一つ、預かっている」

「聞くよ」

「友に向けて、『また会いに来る』と」

「……そっか。それじゃ、楽しみに待つとするかな」

 

 言葉通り期待を込めて呟く少年。

 その楽し気な横顔を見たモージはひどくむっつりとした顔になった。

 

「それと時間がある時、フィーネ殿とのやり取りを洗い浚い吐け。これは頼みじゃない。命令だ。いいね?」

 

 と、これまでで一番ドスの聞いた声音でそう念を押される。

 

「いや、話すようなことは何も無いけど」

「それを決めるのは私だ。お前じゃあない」

「えー…」

「やかましい! 私とて好き好んで馬に蹴られる真似をしたいものか!!」

 

 頭ごなしに叱られ、不承不承とジュチは頷いた。

 その様子を見てモージは悟る。この少年、少女が抱いている感情を全く気付いていない。

 

(自覚なしか! この鈍感さには付ける薬もないわ!)

 

 その有様に思わず頭が痛くなる。

 あるいは今のうちにジュチを手放す心積もりを固めておかねばならないかもしれない。フィーネがジュチへ送る視線の熱を思い出したモージはそう思った。

 それくらいに少女が少年へ抱いている感情(モノ)は明らかだった。

 一度恋心を抱いた闇エルフを押し留めるなど、焚火に手を突っ込むのと同じくらい愚かしい。ましてやそれが《天樹の国》の王女となれば!

 だがそれはそれとして、一通りの事情は把握しておかねばならない。部族の首脳として、少年の養い親として心労は晴れなかった。

 

「…まあいい。まずはお前の診断も終わらせてしまうか。しばらくはそのままでいな」

 

 と、言うが早いかジュチの体温や脈拍、目や皮膚の色つやなどを検診にかかる。

 

「俺のことはいいから、ツェツェク達を」

 

 まるで病人のような扱いに抗議するジュチ。いま部族の病人達を診ているモージの時間以上に貴重なものなどないはずだ。

 

「皆の様子を診た後でお前の元へ来たんだ。良いから黙って私に従いな」

 

 言い募ればスパーンと快音を立てて頭が叩かれる。

 相変わらず手が出るのが早い老女傑だった。痛む頭を押さえながら、大人しく従うジュチ。

 

「……少しはお前の身を案じる私の気持ちも考えろ。ジュチ、お前はツェツェク達以上に危険な綱渡りをしてきたのだぞ」

「……まあ、な」

 

 襲い来る大王鷲(ガルダ)の脅威は記憶に新しい。

 どこかで一つボタンを掛け違えれば、今頃ジュチはここにいなかっただろう。

 

「特にお前が自ら望んで死の淵に突っ込んでいったことを聞いた時は随分と肝が冷えたわい。お前は老い先短い老体を虐めるのが趣味だったかね? 幼いころから知っているが、とんと気付かなかったよ」

 

 強い怒りを感じる皮肉にギクリとする。この口ぶりはまるで…。

 

「飛竜と同格の魔獣相手に大立ち回りをしてきたらしいな? 戯けめ、お前が生きて帰ってこれたのは本当にただ運と巡り合わせの賜物に過ぎんのだぞ」

 

 滾々と諭すように言葉を尽くすモージ。

 その説教にジュチはただ頭を下げるしかない。ジュチ自身飛び切り馬鹿な真似に挑んだことは自覚があるのだ。

 そうして少しの間、声を荒げることなく、それだけに居た堪れない説教が続き。

 

「……だが、よく成し遂げた。私の出来息子よ」

 

 最後の最後。聞こえるか、聞こえないかギリギリの声量でジュチを労う。ぶっきらぼうに少年の頭を撫でる手には、これまでの人生で一番のいたわりが籠っていた。

 聞き違いかと驚いてモージに視線を向けるが、その時には老女は立ち上がって天幕を出ていこうとしているところだった。

 

「後は私が果たすべき任だ。お前は静かに体を休めておけ」

「俺も手伝う」

「ならん。お前は大任を果たしたばかりで疲れている。足手まといにくれてやる仕事は無い」

 

 ツェツェクの看病を申し出るが、一蹴される。

 正直なところ、ジュチ自身全身に強くくもたれかかってくる倦怠感は自覚していた。今のまま無理に働けば恐らく細かい失敗を無数にやらかす自信がある。

 

「なら、ツェツェクの見舞いに…」

「それもダメだ。病は弱っている者を付け狙うもの。いまのお前は《悪魔》の格好の餌だ」

「俺なら大丈夫だって」

「そうかもしれんが、それを証明出来ない以上、許すわけにはいかん」

「分かってる。でも―――」

「ジュチ」

 

 なおを言い募ろうとしたジュチをきっぱりと押し留め。

 

「私を信じろ」

 

 ただ一言。

 ただそれだけを残してモージは天幕を去った。

 あとに残されたジュチは不承不承と、だが納得して頷く。

 

「勝手なことばっか言ってくれるぜ」

 

 老いた養い親の振る舞いに悪態をつく。

 だがその胸の内に巣食った不安は随分と軽くなっていた。

 

「……とっくの昔に信じているよ、モージ」

 

 モージは自分の言葉が持つ重みをよく知っている。そしてジュチもまたその事実を知っているからだった。

 



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遊牧少年、シャンバラを征く

 その日は曇天が視界を覆っていた。

 寒く、暗く、陰鬱な空気が部族の皆の間に蟠っていた。

 

 誰もが少女の死を悼んでいた。

 

 ジュチもまた、彼女の死に声を上げられず、ただ涙を流した。

 何故こうなったのか、と益体のことを考える。あるいはもっと自分が上手くやっていれば、と…。

 

「……………………」

 

 悪魔払いの霊草と言えども御伽噺に出てくる万能の妙薬ではない。薬効以上に身体が弱っていれば当然手遅れとなる。

 そうして間に合わなかった少女が一人、死んだ。

 分かっていたことだ。

 誰も彼もが救われるような都合の良いお話(メデタシメデタシ)があるはずがない。

 だが同時に何故だか人は自分にだけは不幸(ソレ)が降りかからないと信じている。

 

「ちはやぶる神よりいでし人の子の―――」

 

 カザル族の居留地にほど近い小高い山。南に面する斜面に少女の遺体は安置された。

 しっかりと衣装を整えられ、死化粧を施された少女の遺体の前に部族の巫女たるモージが佇む。老いた巫女は静かに、厳かに天上に座す最高神、輪廻転生を司る天神(テヌン)祝詞(のりと)を捧げていた。

 部族の巫女は祭儀を司る。死者の葬儀も当然その一つだ。

 

「罷るは神に帰るなりけり…」

 

 カザル族は小さな部族だ。

 部族の誰かが亡くなれば、叶う限り皆が葬儀に顔を出す。

 ジュチは沈鬱な顔でうつむく皆の隙間から整えられた遺体を見る。

 

「――――――――嗚呼(ああ)

 

 嘆声が零れ落ちる。

 まるで生きているようだった。

 ただ眠っているように見えた。

 少女の死に実感が湧かなかった。

 

「……皆よ、この子の魂は天に解き放たれた。あとはこの子の身体が地に還るのを待つだけだ」

 

 祝詞を唱え終えたモージが皆に声をかける。

 最後に名残惜しむように亡くなった少女へ声をかける者、野原の花を手向ける者、部族の者達の対応は様々だったが、やがてモージの呼びかけを皮切りに一人、また一人と居留地へと足を向けた。

 葬儀はこれでおしまいだった。

 叶う限り亡くなった者にとって馴染み深い御山の南斜面に身形を整えた遺体を安置し、葬儀を上げる。あとは野に生きる禽獣達に遺体を任せる風葬がカザル族の風習だった。

 

「ジュチ、お前も…」

「……もう少し、ここにいさせてくれ」

「……あまり遅くなるなよ」

 

 最後に残ったジュチにモージが声をかけるが、少年は力なく願いを伝えた。それを聞いた老女は少年の心境を慮り、最後に少年を案じる言葉をかけるとやがて姿を消した。

 

「……」

 

 フゥ、と息を吐き、少女の前で座り込む。

 その背は丸く、小さく、消え入りそうに見えた。

 そうしてただ一人残ったジュチに…。

 

「ジュチ」

 

 幼い少女の舌っ足らずな声がかけられる。

 

「……」

 

 その呼びかけに、ただ無言を貫く少年。

 まるでその幼い声が聞こえていないようだった。

 

「ねえ、ジュチ」

 

 柔らかくも、不思議と心に染み入る声。

 

「聞こえてる…?」

 

 少年が愛する家族の声だった。

 

「ねえ、私はここにいるよ」

 

 誰よりも、何よりも大事なツェツェクの声だった。

 

「……」

 

 少年はゆっくりと俯いた顔を上げ。

 

「……ツェツェク」

 

 少女の名を読んだ

 

「うん。私だよ、ジュチ」

 

 そうして少年の傍に少女は歩み寄った。

 

()()()、まるで生きているみたいだね」

「ああ。今にも起きて笑いかけてきそうだ」

 

 族長家の末娘、トヤー。

 ジュチの目の前で永遠の眠りに就く少女の名だ。

 誰からも愛された天真爛漫な少女だった。

 そして《子殺しの悪魔(アダ)》に真っ先に狙われ、倒れた少女だった。 

 ジュチにとっては大事な友達だった。

 

 ―――ツェツェクは、助かった。

 

 ジュチが持ち帰った霊草で、ツェツェク以外の子ども達も皆助かった。

 だがトヤーだけは助からなかった。

 

「……ジュチ」

「大丈夫だ。あいつらの方がずっと辛いのに、俺だけがしけた面をしてられないよな」

 

 族長家の四人兄弟姉妹(きょうだい)はもう四人ではない。

 四人で一つのようだった彼ら。

 一度声をかければ、途端に四つの反応が返ってくる仲のいい彼ら。

 一人が欠け、彼らは自分の身体の一部をもぎ取られた様に感じていることだろう。

 ジュチが抱く罪悪感など、彼らに比べればひどく些細でちっぽけなものだ。

 

「――――――――」

 

 それでも思うことはある。

 

(この世界は残酷だ)

 

 友達(トヤー)の死という現実を前に、心の底からそれを実感する。

 救いなんて無いのが当たり前。

 掬っても、掬っても、それでも手のひらから零れ落ちる大切な存在《モノ》がある。

 

(それでも…)

 

 そう、それでも。

 手を尽くせば時に報われることがある。

 救いは無くとも、報いはあるのだ。

 霊草によって命を拾った子ども達こそがその証明だった。

 ああ、確かにトヤーは助からなかった

 だがツェツェクは助かったのだ。

 その事実を良しとする、醜い自分に気付きながら、ジュチはそれを肯定する。

 

(なら、俺はそれでいい)

 

 この世界で生きていこう。

 愚かしく、間違え、道を踏み外し、失い―――それでもその歩みの先にきっと何かがあると信じて。

 少年は少しだけ汚れ、少しだけ大人に近づいた。

 割り切れないものを抱えたまま、それでも少年は生きていく。

 この竜骨山脈擁する西方辺土の大地に。

 かつて草原を統一し、世界の半ばを制した王朝によってシャンバラと呼ばれた地に。

 

「ジュチ?」

「……そろそろ行くか」

 

 と、心配そうに呼びかけるツェツェクに応え、強がりで作った笑みを返した。

 その笑みを空元気によるものと悟りながら、乗っかるようにツェツェクも笑みを返した。

 そうして静かに笑い合う二人の間に静寂が満ちる。

 それが唐突に破られた。

 

『―――ぉ―――ぃ――――!』

 

 切れ切れに途切れた、微かな声が少年の耳に届く。

 その声がする方向へ目を剥けると、こちら目掛けて驚くべき速度で近づく存在がある。天を翔ける巨獣、飛竜とその背を許された少女。

 その存在を感じ取るのは少年にとって簡単なことだ。

 なにせ近づいてくる者達とジュチはけして断ち切れない縁で結ばれているのだから。

 

「……フィーネにスレンか? 何しに来たんだ、一体」

 

 訝しむ。

 王女の身分にある者がそう腰が軽くていいはずがない。連続してカザル族の居留地を往復することが許されるとは思えないのだが…。

 ましてやフィーネは自分達とともに危ない橋を渡ったばかりなのだから。

 そう思案する間も、あっという間に距離を詰め、天空から飛竜が襲来する。

 飛竜の雄姿を初めて目にするツェツェクは当然身を竦ませた。

 

「大丈夫だ、ツェツェク。飛竜も、その背中に乗っている奴も、どっちも俺の友達だ」

「そうなの…? ジュチの友達は凄いね」

「ああ、どっちも凄い奴だぞ」

 

 片方は順当に、もう片方は想像の斜め上を行く方向で凄いのだ。

 言葉で説明できる気がしなかったので、そこら辺は大幅に端折ったが。

 そんな義兄妹達が呑気に言葉を交わす間にも、ズシンと地響きを立てて着地したスレンの背から小柄な影が身軽な動きで飛び降りてくる。

 

「ジュチくんっ!」

「フィーネ。久しぶり、というには早いか。今日はどうしたんだ?」

 

 少女の呼びかけに応じる少年の反応も、すっかり慣れたものだった。

 この数日で色々と常識外れな光景を何度となく体験していたので、目の前に飛竜が降り立つ程度ではもう少年が驚くことは無かった。

 

「それがね。あ―――」

 

 と、問いかけに応えようとしたその瞬間にジュチの横に立つツェツェクに視線が向けられる。ジュチと近しい空気を持つ少女を認め、フィーネの意識が一瞬でそちらに全て向けられた。

 

「わぁ、貴方がツェツェクちゃん? ジュチくんが自慢するだけあってとっても可愛いね! あ、でもアウラだって負けないくらい可愛いんだよ!」

 

 目を細めて慈しむようにツェツェクを見遣るフィーネ。裏表のない真っ直ぐな賞賛から流れるような妹自慢に繋がるのは実にフィーネらしかった。

 

「はいはい。機会があったら今度はそのアウラに会わせてくれよ。それで、どうしたんだ?」

 

 困惑するツェツェクをさりげなく背の方に隠しながら、フィーネの勢いを軽く流す。そして重ねて訪問の理由を問いかけた。

 一方少女はああそうだったと粗忽な呟きを漏らし、ジュチに向き直った。その間ツェツェクは目を白黒とするばかりで全く話に付いていけていない。

 

「ジュチくん、ごめんね。これから私と一緒に《天樹の国》に来て!」

 

 突然の言葉だった。

 

「は?」

 

 当然ジュチも困惑する。

 首を傾げ、お前は何を言っているんだと返した。

 

「このままだと大変なことになっちゃうの!」

「いや、大変って」

「お父様がすっごく怒ってて、ジュチくんを無理やりにでも連れて来いって!」

 

 中々剣呑な言葉に眉を顰めつつも、ある意味で腑に落ちる。

 愛する娘を危険に晒したどこぞの馬の骨に好感を抱く方が難しいだろう。ましてや相手が一国の王や王女ともなれば!

 となれば心配なのはアゼルだった。ジュチがカザル族の居留地へ戻ってから何日も経っていない。アゼルが《天樹の国》から無事出国出来ているかも危うかった。

 

「アゼルは無事か? いまどうなってる?」

「アゼルさんは大丈夫! お母様にお願いしてきたから。でもジュチくんが来ないとちょっとどうなるか分からないの!」

 

 ジュチの質問から微妙にズレた答えが返ってきたが、何となく状況はうかがい知れる。

 そしてその言葉を聞いて覚悟が決まった。

 どの道アゼルの安全にかかわることで引く気はないし、ジュチ自身が当事者であるなら猶更のことだ。

 

「分かった、行くよ。でもその前に事情を聞かせて―――」

「事情はスレンの背で説明するから早く!」

「早くってお前なぁ…。あー、もう。分かったよ! 散々世話になったもんな! 男としてここで逃げる訳にはいかないかぁ」

「さっすがジュチくん。話が早い!」

「一応言っておくけど相手がフィーネじゃなきゃ追い返しているからな?」

「そんなぁ。私だけ特別扱い何て…。エへへ」

 

 相手の無茶ぶりを咎める意味で出した言葉も、恋する乙女には逆効果だった。頬を真っ赤に染め、ニマニマと締まりのない笑みを浮かべるばかりだ。

 それでも可愛らしい、愛らしいという印象ばかり強まるのだから全く美形というのは得だった。

 そんな少女に溜息を一つ。

 それだけで何とか意識を切り替え、傍らの義妹へモージに向けた言伝を頼む。

 

「ごめんな、ツェツェク。またちょっと遠出してくる。モージには《天樹の国》での借りを返しに行くって伝えておいてくれ」

「ん…。ジュチ、早く帰ってきてね?」

「うん、きっとすぐ帰れるさ。アゼルも一緒にな」

 

 頷き合い、笑い合う。

 生まれたころから共に過ごした二人にはそれだけで十分なやり取りだ。

 

「行って来る」

「行ってらっしゃい」

 

 ツェツェクと笑顔で挨拶を交わすと、少年は少女に従い、スレンの背に飛び乗った。

 途端、スレンは力強く両翼を羽撃(はばた)かせる。

 巻き起こす風がツェツェクの髪をざわざわと揺らした。風に舞う風精の囁きを巫女見習いのツェツェクもまた感じとった。

 轟、と旋風が吹き荒れる。

 二人を乗せたスレンが飛び立つと、その力強い飛翔によってあっという間に遠ざかっていく。

 その姿を見送るツェツェクは、彼らの影が地平線の果てに消えるまで手を振り続けていた。

 

 少年の旅は終わらない。

 少女と紡いだ絆もまた終わることなく続く。

 いいや、少年と少女にとって()()()()こそが本当の旅の始まりだ。

 

 ―――そしてまた少年はシャンバラを征く。

 




 これにて本作は完結となります。
 様々な伏線を残しての完結となりますが、それらは何時か本作を再始動した時のため、残しておきたいと思います。
 また本作のテーマ、今後の活動予定などを後書きにて書いております。


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後書き

 このページは後書きとなります。
 同時刻に本作の最終話を投稿しております。
 最終話を読了していない方は、まずそちらをお読みください。


『英雄ってなんだろう?』

 

 この疑問が拙作のテーマを決めるにあたっての出発点となりました。

 

 英雄(ヒーロー)

 昨今、ラノベ界隈で非常によく出会う単語です。

 厨二心をくすぐるパワーワード筆頭ですね。魔王とか最強とかハーレムも強い。最近は追放やらザマァに押され気味なようですが、今後もタイトルで見かけなくなるということは無さそう。

 

 私も英雄という心惹かれるテーマを扱ってみたいと前々から思っていました。

 でも作者として小説の中で英雄を取り扱うなら、それがどういうものかを真面目に考えねばなりません。

 

 Q.英雄ってなんだろう?

 A.少なくとも前世の記憶や転生チートを持っているだけの主人公じゃないだろうなぁ。

 

 真っ先にこんな自問自答が出た辺り、我ながら捻くれてますね。

 

 なのでもう少し踏み込んで、英雄をどんな風に書きたいかと自問した結果、『普通の人でもキッカケがあればきっと英雄になれる』ことを書きたいと自答しました。

 使い古され、手垢のついたテーマですが、やはり自分はこういう主人公が泥臭く頑張って一皮剥けるタイプの小説が好きなんだと改めて自覚出来ました。

 

 本作の主人公、ジュチは遊牧生活に生きる普通の少年です。後天的に色々と特殊な体質や能力を獲得しますが、根っこはあくまで凡人です。

 身の丈に合わない大望も無いし、前世知識があっても生かしきれないし、良くも悪くも子どもっぽい性格です。

 凡人 (ガチ)。ヒロインと出会わなければ、世界の片隅で大人しく生きて死んでいくタイプです。

 あんまり英雄らしくないキャラですね。だからこそ彼を主人公に据えたんですが。

 

 そんな平凡な主人公があるキッカケを受けて英雄/大馬鹿へ一歩を踏み出す旅路を描いたのが本作です。

 

 そして凡人が英雄となるための条件を二つほど考えました。

 

『普通では無いこと』

『偉業を成し遂げたこと』

 

 腕っぷしや精神性は重要視しませんでした。

 むしろ読者の皆さんに共感してもらえるよう、出来るだけ普通の人柄に寄せることを考えていました。

 

 かくして本作のテーマである『普通の人でもキッカケがあればきっとヒーローになれる』ことを示すためにジュチは追い詰められます。

 

 愛する義妹が病に倒れます。放っておいたら死にます。でも病を治す薬草を採ろうとすれば十中八九自分が死にます。

 八方ふさがりですね。作者とかいう神様に悪態の一つや二つ吐いても許されるでしょう。

 

 それでもジュチは『だからどうした!』と叫び、英雄への一歩を踏み出します。

 普通だった少年が、普通であることを投げ捨てた瞬間です。

 

 でも普通であることを投げ捨てられたのは、ジュチが特別な人間だからではありません。彼に一歩を踏み出させたのは勇気ではなく、家族を失うことへの恐怖です。そしてこの恐怖もまた誰もが持っているのではないでしょうか。

 

 キッカケは何でもいい。でも一歩を踏み出すことだけは自分自身にしか出来ない。

 幸運や縁に助けられながらだとしても、外からの圧力に背を押された結果だったとしても、選んだのはジュチ自身です。それだけは他の誰のお陰でもない、ジュチだけの功績です。

 逆説的に一歩踏み出すことを選べれば、きっと誰でもヒーローになれるんじゃないでしょうか。なれるといいなぁ…(自分の体たらくを見ながら)。

 

 なので個人的な考えとして、拙作のハイライトはジュチ最大のチートである精霊獣ホムラ覚醒の場面ではなく、フィーネと相対して現実に打ちのめされながらも『だからどうした!』と叫ぶあのシーンだと思っています。

 正直あの場面が書いていて一番楽しかったですし。

 

 そうして一歩を踏み出し、普通という道を踏み外したジュチは、人や精霊との縁や幸運に助けられ、ガルダの撃退と霊草を採取することで部族を救うという偉業を成し遂げます。

 

 小さな英雄の誕生です。

 カザル族とヒロイン限定のローカルヒーローですが、きっとここまで読み進めた読者の皆様なら彼を英雄と認めてくれると勝手ながら期待しております。

 

 個人的には書きたいものを書き切ったので割と満足出来ました。これが初のオリジナル小説への挑戦でしたが、世界観やストーリーラインは苦労した分のクオリティにはなったかなと思っています。

 

 

 

 最後にこの物語を此処まで読み進めてくださった読者の皆様、そしてネットの片隅で埋もれていた拙作を拾い上げ、紹介して下さった方々へ最大の感謝を述べさせてください。

 

 皆様からの感想、ポイント評価、ブックマーク登録など諸々の応援が無ければ、この物語は終わりを迎えることが出来ず、どこかで筆を折っていたと思います。

 

 そうしたエタ―(半永久的な更新停止)を迎えることなく、ひとまず完結まで辿り着くことが出来ていまはホッとしています。

 

 ジュチとフィーネの紡ぐ旅路はここで一区切りです。

 

 続編も一応構想していますが、執筆するかは完全に未定となります。完結直後からの《天樹の国》でのゴタゴタを描くか、あるいは一気に時間を飛ばして青年編まで行ってしまうか。後者の場合は、恐らく舞台はもっと広がるのでしょうが、設定の整備が間に合っていないという現実が…。

 

 さておき、ここまで長々と繰り言に付き合って頂き、ありがとうございました。

 

 これからの執筆活動予定は未定です。

 ハーメルンでの連載中のSSを完結させるか、次回作に取り掛かるか。

 

 次回作はいくつか構想中ですが、案の一つとして昨今流行りの追放ものを書いてみたいという願望があったり。

 ストーリーラインはまだまだ全然ですが、タイトルだけは考え済みです。

 

 

 

 【どうして】幼馴染の美少女勇者を孕ませた農民はパーティーを追放され、後悔しているけどもう遅い【こうなった】

 

 

 

 『追放』も『もう遅い』もしっかりタイトルに入ってますから流行りの要素はバッチリ取り込めていますね!

 

 ……まあ、タイトル通りの一発ネタです。短編で一本上げるかもしれないくらいで認識頂ければ。

 

 読者の皆様におかれましては、またご縁がありましたらどうか一読しに立ち寄って頂ければ幸いです。

 改めて拙作をすべて読み切ってくださり、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恥ずかしながら、最後のお願いです。

 拙作を読んで感じたままの感想・評価を最後にいただけますと、物書きとしてこれ以上の幸せはありません。

 作者だって多くの読者に読まれたいし! 評価されたいし! 称賛されたいのです!!!

 というわけで、どうかよろしくお願いいたします!

 



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