DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉― (オンドゥル大使)
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第一章「星は流れ、深紅は宵闇に翻る…」(前編)
第一話「摩天楼を駆ける」


 月影に隠れて星を仰ぐ。

 

 私は、そうして生きてきた。多分、これからもそう。

 

 だから、とても眩しい。

 

 あの日、子供の頃に見た黄色道――月明りの道標を、私は何度も反芻する。

 

 夜は暗いのが怖くて、いつでも怯えて生きてきた私にとって、それだけが寄る辺だった。

 

 でも、それはもう訪れない。

 

 この空に月もなければ星は偽りだ。

 

 星々の瞬く夜空は、いつしか流れゆく人の命の営みへと変化していた。

 

 今日もまた、星が流れる。

 

 それは誰かの命が散った証。

 

 そして……私が摘んだ命の灯火。

 

 罪の丘で私達は生き続ける。替え難い業を抱きながら、夜空に見捨てられ、星の輝きから追放されたこの大地で。

 

 そんな罪の丘を、私は裸足で駆け出していた。

 

 足の裏で踏み締める砂利の感触。皮膚が潰れて血が滴る。

 

 私は死神と呼ばれている。

 

 罪の丘から来る赤い影である私は、永劫に月明りと星空から見放され、そして知るのだ。

 

 私がまだ、所詮は未熟な死神に過ぎなかった事を。

 

 死神はヒトの命を吸いながらでしか生きられない事を。

 

 今宵もまた、暗礁の夜空の下を、死神である私は進む。

 

 どこまでも頼る術のない、夜を纏いつかせて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 摩天楼が放つのは光の柱。

 

 屹立した都市部の灯火は闇に生きる者達を暴く。

 

 逃げに徹する男は、何てツイてない、と歯噛みしていた。

 

 途中まではうまく行っていたのだ。だが、それでも慢心がなかったと言えば嘘になろう。

 

「止まれ! 既に包囲されている!」

 

 止まれと言われて止まる者が居るものか。ビルの屋上を駆け抜け、跳躍し、息を切らした男はやがてテナント募集の看板の裏で呼吸を整えていた。

 

「……こんな事になるなんて、思いもしない……」

 

 その時である。ヘリの羽音が不意に空域を煽り、風圧と共に投光器の光が男を照らし出す。

 

 手を翳し、ヘリから投げられる拡声器の言葉に男は舌打ちを漏らしていた。

 

『逃げられないぞ! SV802……!』

 

 因縁の名前のように自分のメシエコードが紡がれる。相手は対契約者特化型の部門だ。

 

 当然の事ながら武装の携帯を許可されている。ヘリより覗いたガトリング砲の銃口に男が声を漏らすよりも先に、銃声が劈いていた。

 

 轟音が響き、男の躯体を無数の弾丸が貫いた――と相手は確信しただろう。

 

 しかし、ここまで来ればもう仕方ない。隠し立てしたところで、全て無為だ。

 

 身体の内側から青白い光が放射される。ランセルノプト放射光の輝きを帯び、男はその眼差しをヘリへと注ぐ。

 

「……ガトリングの弾丸を、空間で止めた……」

 

 直後、降り注がせるイメージを伴わせると、空間で静止していた弾丸が一斉にヘリへと反射する。

 

 跳ね返ってきた銃弾の応酬にヘリから火の手が上がり、瞬く間に燃え広がったそれが宵闇の街に映える。

 

 ヘリが操縦不能に陥り、回転しながら墜落していくのを目にしてから、男はまずテナント募集の看板に手を翳す。

 

 すると、固定されているボルトが次々と解けて行き、やがて看板が浮かび上がっていた。その看板に乗る形で男は闇夜を駆け抜ける。

 

 さしもの警察でも浮遊した相手を捕捉するのは難しいだろう。

 

 テナントの看板はまるで風に漂う木の葉のように、ゆっくりと対面のビルへと到達し、男は陰に隠れてようやく呼吸を整えていた。

 

「……クソッ! こんなはずじゃ……」

 

 手が甘かったのは認めよう。しかし、ここまでの仕打ちを受けるとは思いも寄らない。

 

「内通者が居たのか。あるいは最初から……」

 

 ぼやきつつ、男は声を発する。

 

「1575+1762は3337……3337+5697は……」

 

『――契約の対価は計算か。面倒な対価を背負ったものだな』

 

 不意打ち気味に発せられた声に男は警戒を走らせる。

 

 蝙蝠が飛翔し、飛び立って行く以外、誰もいないかに思われた。気のせいか、と嘆息をついて振り返ったその時、視界に大写しになったのは少女の影である。

 

 黒髪を鮮烈な赤いリボンで一つ結びに括り、顔の下半分を黒いマスクで覆っている。身なりは表地が血のような赤のレインコートを纏っていた。

 

「赤ずきん……? どこの国の……」

 

 問い質しつつ、光の放射を感知し、能力を行使する。

 

 ビルの屋上に転がっていたネジが浮かび上がり、磁石のように一斉に少女へと殺到していた。

 

 それを少女は袖口より取り出した武器で叩き落す。

 

「……ナイフ、いや、クナイか……」

 

 少女はクナイを逆手に握り締め、男へと肉薄していた。その身体能力はやはり、少女のそれではない。

 

「……契約者ッ!」

 

 赤ずきんの少女のクナイが肩口へと突き刺さりかけて、男は再び能力を実行する。

 

 クナイが中空で固定され、そこから動かない。

 

「隙だらけだぞ!」

 

 懐より取り出した拳銃の引き金を絞ろうとして、少女はもう片方の袖口よりクナイを投擲していた。

 

 そのクナイが僅かに肩口を掠めるがただの掠り傷。エージェントはこの程度では沈まない。

 

「……死ねぇっ!」

 

 しかし、引き金にかけた指がどうしてだか動かなかった。目を凝らすと、細い銀糸が纏わりつき、拳銃を掴んだ手を締め上げている。

 

 クナイを投げた時に絡み付けさせたのだろう。剥がそうともがく男に、少女は固定されていたクナイを払っていた。

 

 胸元を掻っ切られるが、それでも無事だ。

 

 何よりも攻撃力があまりにも足りていない。

 

「……そんな武器で……」

 

 直後、傷口が熱くなる。まさか、致命傷を受けたのか、と錯覚したその時には少女は背後へと回り込み、ワイヤーで男の首元を締め上げていた。

 

 呼吸困難に陥る前に、クナイの柄頭で手の甲へと一撃がくわえられ、痛みに呻く。男は胸元をさする。

 

 血は少し出ているが、しかし全く致命傷ではない。問題のない程度の傷であるはずなのに……。

 

「……傷が、いや身体が、火のように熱く……」

 

 体温が上昇する。傷を触媒として、何かの能力が行使されているのは間違いない。

 

 その証拠に少女は青白い契約者の光――ランセルノプト放射光を纏い、その瞳は赤く染まっている。

 

「……交渉に用いたパスコードを言え」

 

 声の質は幼い。だが有無を言わせぬ論調に男は足掻いていた。

 

「し、知らない! どこの諜報員だ……!」

 

「質問しているのはこちらだ」

 

 クナイの刃が首筋に当てられる。冷たい刃の感触にひっ、と短く悲鳴を上げ、男は白状していた。

 

「わ、分かった! 言うとも! ……パスコードは――」

 

 



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第ニ話「宵闇を貫く」

 厄日だな、と感じる。

 

「……車検に出したばっかりなのに」

 

 車の中でそうぼやいたのは青いスーツをびしっと着こなした女であった。日系の血筋の黒髪だが、瞳は蒼い。

 

『課長。SV802は旧市街地へと逃げ込みました。有する能力は“鉄の操作”だと思われます』

 

「ヘリを墜落させておいて……。それでようやく能力を露見、か。遅すぎやしない?」

 

 新市街地では墜落したヘリへと野次馬と報道関係者が集まっている。程よいスケープゴートにはなってくれているが、それでも人死にがあったのだ。穏やかな気持ちではいられない。

 

「観測所の判定は?」

 

『観測霊を飛ばして計測中。SV802は契約能力を続けざまに行使……。追跡中ですが、リアルタイム情報を送信しますね』

 

 車のナビに送られてきた情報は電線を触媒とする観測霊の放つソナーのような役割を自動更新で関知する。

 

 観測霊を使用すれば、契約者の居所はたちどころに知れるはずなのだが、やはりと言うべきか、そこまでの信用度ではない。

 

 そもそも、この街では技術が二手も三手も遅れている。

 

「東京の外事四課はもっと目覚ましい活躍と聞いている。観測所の使用するドールも、もっと高精度だと」

 

『【地獄門】のある連中と一緒にされちゃ堪ったもんじゃないでしょう、お互いに。この街は契約者事件では事足りてます。……トーキョーの、諜報員と契約者の跳梁跋扈とは比べたくもないでしょう』

 

「日本は契約者先進国、か……」

 

 呟いた声を、上司が聞き咎める。

 

『ミシュア・ロンド課長。すぐに現場に急行したまえ。我らニューヨーク市警七課の面目躍如だ』

 

「……了解。せいぜい死なないように頑張ります」

 

 やる気のない自分の声に上司は窘める。

 

『……各国諜報員の動きが活発になっている。気の緩みは死に直結するぞ』

 

「受け止めておきますよ。貴重な年長者の……忠言としてね」

 

 ハンドルを切り、車を走らせる。しかし辿り着いたところで時すでに遅しだろう。契約者同士の戦いは一秒を争う。少しでも後れを取ればその時点で読み負けているようなものなのだ。

 

「……せめて、少しは合理的な契約者である事を、祈るばかりね……」

 

 契約者は証拠が残るような下手な殺しはしない――それは契約者の性質が常に「合理的な思考」であるとされているからだ。

 

 合理的に考えるのならば、殺人鬼の契約者は居ないし、劇場型の契約者も存在しない。彼らにとって、自身の痕跡を残す事と、そして正体の露見は何よりも下策であるはずなのだ。

 

 契約能力はしかし、人智の及ばぬ強力なものばかり。どれほどに防衛網を敷いたところで、どの策も嘲笑われているかのように意味をなくす。

 

「……SV802、鉄の操作か。拳銃も効かなさそうね」

 

 こういう時に警察官と言う身分はとても無力なのだと感じる。一人で戦車にも匹敵する能力を持つ契約者相手に、拳銃一丁で立ち向かわなければならない。

 

 猛獣相手に素手で殴りかかれと言われているようなものだ。

 

 どれもこれも、現実的な対策だとは思えない。

 

 それでも、この街は回っている――ニューヨーク。かつての栄華を築いた光の都はしかし、ほとんどの店舗は夜の営業を行う事はない。

 

 それもこれも、五年前に発生した南米の事件が端を発している。

 

 そこいらに蹲るホームレス達が白い息を吐いて今宵の寒さに凍える。

 

 今日は少し冷えるが、それでも人間の耐えられない気温ではない。

 

 それなのに、彼らが凍えているように感じるのは、ただ単にひもじいからだけではなく、恐れもあるのだろう。

 

 ――契約者に遭遇し、死ぬかもしれない恐怖との隣り合わせ。

 

 ニューヨーク市民はだが、誰もが感じているはずだ。ミシュアはサイドミラーに映る星空を眺める。

 

 偽りの星、月明りのない宵闇。

 

 この空が支配を築いてから、もう十年が経つ。

 

 本物の星空は奪われ、夜は黒よりも暗い暗闇に覆われている。

 

「……それもこれも契約者、そしてゲート、か」

 

 ミシュアは渋滞が起こっている事に気づき、道の先を見据える。

 

 霧が燻り、クラクションを鳴らす車が立ち往生している。

 

「……ゲートがまた開いたのね」

 

 だが東京の【地獄門】や、南米の【天国門】のような大規模ゲートではない。

 

 それらのゲートを、まるで縮小したように巻き起こる怪現象を、ニューヨーク市民はこう呼んでいた。

 

 ――【煉獄門(デモンズ・ゲート)】、と。

 

「こちらロンド。【煉獄門】の発生を確認。これじゃ現場への急行は難しい」

 

『こっちでも観測しました。どうやら今夜は三ヵ所で、ゲートの発生が確認されたみたいで……』

 

【煉獄門】が発生すれば、それだけで物流も、そして人の波も滞る。今はしかし、少しは職務から解放されるか、とミシュアは嘆息をついていた。

 

『……あの、疲れてます?』

 

「ちょっとね。連日契約者関連の事件が起きていれば、それなりに」

 

『お察ししますよ。技術研では対契約者装備の拡充を急いでいるとか』

 

「今さら、な感じもするけれどね。とは言え少しは仕事が楽になるのなら、それに越した事はないけれどでも……」

 

 ミシュアはゲートを睨み、そして口にする。

 

「……契約者。あなた達は、何なの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男はパスコードを教えればそこまでだと思っていた。

 

 相手もどこかの諜報員だ。それなりに立ち振る舞いは理解しているはず。自分を生かして泳がし、その結果利益を得る――契約者ならば判断すべき合理的な思考回路だ。

 

 しかし、と男は胸元を改めてさする。

 

 それに肩の傷も、今はまるで先ほどの熱が嘘のように痛みも熱もない。

 

 だが手の甲を砕かれたのは痛手になったようで、それだけが今の自分の感覚証明であった。

 

 と、その時、少女が振り返る。

 

 その瞳に宿ったのは、侮蔑の眼差しであった。少女は男を蹴りつけ、その手で顔を引っ掴む。

 

 少女の握力とは思えない、怨嗟の籠った膂力に男は呻いていた。

 

「な、何をする……! やめろ……! 俺を殺せば、ブツは手に入らないぞ……!」

 

『その通りだ! 紅(ホォン)、やめろ! まだ利用価値がある!』

 

「……お前らに生きていく価値はない……」

 

 言い捨てた少女が憎悪の瞳で睨み上げ、ランセルノプト放射光の青い輝きが網膜に焼き付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「現着、遅いですよ」

 

 声にした金髪の優男にミシュアは肩を竦める。

 

「ゲートを迂回した手間。早いくらいよ。……状況は?」

 

 鑑識が既に現場検証に入っている中で、部下は応じる。

 

「殺されたのはSV802の契約者……こちらの追跡していた者と一致します。ですが、死に様が……」

 

 ミシュアも顔をしかめる。周囲には異臭が立ち込めており、生き物の死んだ臭いにしてはどこか奇怪であった。

 

「……人間の焼ける臭いだ」

 

 だがSV802の契約者には目立った外傷はなし。それどころか、出血も止まっている。

 

 しかし、鑑識は冷徹な判定を下していた。

 

「……内臓を内側からやられていますね。まるで電子レンジで焼き焦がしたみたいに、中身だけを……」

 

 現場の隅で吐いている鑑識も居る。それほどまでに鮮烈であった。

 

 大きく見開かれたまま、硬直した身体。投げ出された四肢。即死に近いのだろうが、それでもこの人を内側から焼き殺す残忍さは、間違いなくあの契約者であろう。

 

「MA401……煉獄の契約者……」

 

 その因縁の名前が紡ぎ出される。ミシュアは遺体を眺めた後に、また逃がした、と悔恨を噛み締めていた。

 

「……一体お前は、この街のどこに居ると言うの……。MA401……」

 



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第三話「秒針を刻む」

 はい、と扉を開けるなり、飛び込んできた人影に胡乱そうに視線を流す。

 

「……遅かったね。また朝までバイト?」

 

「ホント、それ……。眠い……」

 

 欠伸を噛み殺した同居人に、夜都は訝しげに返していた。

 

「……また契約者が出たらしいよ。危ないから夜のバイトはやめたら?」

 

「うーん、そうもいかないんだなぁ、これが。店長のお気に入りだからさ」

 

 大きく伸びをした相手へと、夜都はコーヒーメーカーを起動させる。抽出されるコーヒーの芳香におっ、と期待の声が飛ぶ。

 

「ヤトのコーヒーは美味しいからねー。いつも仕事の後の楽しみにしてるんだから」

 

 はぁ、とため息混じりに夜都はパグの絵が描かれたマグカップへと黒い液体を注ぎ込む。苦み走ったコーヒーが同居人の好物だ。マグカップを差し出すと、ありがと、と同居人はありがたく受け取る。

 

「仕事の後の一杯ってヤツ! 格別ぅー!」

 

「お酒飲めないクセに……」

 

 自分の分のコーヒーをデスクに置く。手狭なアパートの一室は挟み込む形のデスクと、ロフトのベッドで占められており、ベッドの下には資料用の本棚が敷き詰められていた。

 

 雑誌が散乱しており、足の踏み場もない中で、同居人は胡坐を掻いてこちらの作業を見やる。

 

「まぁーた、やってんの? 小説の続き」

 

「……だってこれ書かないと落ち着かないし……」

 

「可愛いのに、もったいなーい!」

 

 その時、不意に抱き着かれ夜都は当惑していた。硬直した夜都へと、同居人は悪ふざけする。

 

「ちょ、ちょっと……のしかかって来ないで……。重いんだってば」

 

「ちょっ……! レディに失礼してくれるじゃないの!」

 

「……レディだと思われたければ、もっときっちりすれば? この街で夜のバイトは危ないよ。学費稼ぎにしちゃ、大学、行ってないんでしょ?」

 

「いいんだって、大学は道楽なんだから」

 

 ひらひらと手を振る相手に、夜都は呆れ返る。

 

「アリス。あなたのブログ、一応昨日だけで千五百件のアクセス。……面白いのかなぁ。契約者の追跡レポートって」

 

「ま、お国柄によっては重要書類に近いからねー。あたしの道楽の一つでも、見る価値はあるんじゃない?」

 

「……この仕事も危ないよ。いつ、契約者が飛んでくるか分からないんだから」

 

「こんなボロアパートに来る? ……そいつは笑えるわ」

 

 コーヒーを呷ったアリスはそのままベッドへと足を運び、身体を投げ出して布団を被っていた。

 

「ちょっと寝るわー。ヤト、明日も決まった時間に起きるから起こしてねー」

 

 一秒と経たずに寝息が漏れ聞こえて夜都は呆れ返る。

 

「……勝手だなぁ。ブログのアクセス数が伸びているからって、油断はならないのに……」

 

 自分のコーヒーをちょびちょびと飲みながら、夜都は小説を書き留める。

 

 ストーリーはシンプルなものだ。

 

 世界から爪弾きにされた死神の少女が、少しずつ世界へと回帰していくメインプロットを、こうやってパソコンに記す。

 

 暗闇の中で投影されてくるパソコンのブルーライトを浴びながら、夜都も欠伸を漏らしていた。

 

「……もう、寝よ……」

 

 着込んだタートルネックの服から軽装のパジャマに着替え、夜都は二段ベッドの下へと潜り込んでいた。

 

「……ねー、ヤト」

 

「……何。まだ起きていたの?」

 

「いんや、あんたのさー、小説。何か寂しいよね」

 

「寂しい? どこが」

 

「どこがって……全部よ、全部。死神の女の子、最後にはどうなっちゃうの? このまま世界から追放されたっきり?」

 

「……言わない。ネタバレだし」

 

「別にネタバラシしたっていいじゃないの。あんたの小説、翻訳して載せてるのあたしだし」

 

 ブログの片隅に貼られたリンクから、自分の小説は読めるようになっている。ただ閲覧数は芳しくはない。せいぜい、日に十五人が関の山であった。

 

「……感謝はしている。でも、やっぱり結末は教えられないよ」

 

「それってどんでん返しがあるって事?」

 

「……かも。多分」

 

「何よー、分かんないんだったら構想だけでも。ね?」

 

「……知らない」

 

 横になるとアリスはへそを曲げたようだ。

 

「……あっそ。まぁいいけれどねー。こうやって美味しいコーヒーを淹れてくれるのが同居の条件だしー。それは満たしてくれてるんだから」

 

 今度こそアリスは寝入ったらしい。不貞寝か、と夜都はほとほとアリスの図太さに感心する。

 

「……あの子は……最後にどうなっちゃうんだろう。分かんないな、まだ私には……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ニューヨーク新市街地の表通りに面しているパン屋は、夫婦で営まれており、それなりに評判はいいものの客足はからっきし、という有り様だった。

 

 だから、なのか、それとも、別の要因なのかは自分でも判然としないが、夜都はここでモーニングを注文するのが日課になっている。

 

「えっと……モーニングで……」

 

「おっ、ヤトちゃん。今日も可愛いねー」

 

 店主の囃し立てる声に夜都は被った帽子を傾けて顔を隠す。

 

「からかわないでくださいよぉ……もうっ……」

 

「そうよ、あんた。ヤトはこの街に慣れて来たって言ってもまだ二か月なんだから。嫌な思い出を作ってあげるもんじゃないでしょ」

 

 応じたのは店主の妻であった。彼女はいつも自分の味方に立ってくれる。

 

「いいじゃないか、ヤトちゃん、勿体ないだろ。ちまっこくて鈍くさいの、日本人って感じだぜ」

 

「それって褒めてないですよね……」

 

 あはは、と笑い声が上がり、店主は焼き上がったホットドッグをトレイに載せる。

 

「はいよ、いつものモーニング。ホットドッグとオジサン自慢のコーヒーセット、お待ちぃ!」

 

 ぺこりと頭を下げ、勘定してから夜都は店舗に面した公園へと足を進める。

 

 公園の中央にあるイチョウの樹の下が自分のお気に入りのスポットであった。

 

「いただきまーす……」

 

 ホットドッグを頬張りながら、夜都は一緒に購入した朝刊を捲ろうとして、背中合わせで新聞に視線を落としているサラリーマン風の男の声を聴いていた。

 

「今日の朝刊はかなりいい感じだ。昨日の騒動の欠片もない。ゲートに関するニュースも、それに契約者に関しての報道も一切が封じられている。報道管制が生きている分、トーキョーよりかはマシだな」

 

 僅かに一瞥を向ける。

 

 銀髪のサラリーマン風の若い男は朝刊を読みつつ、ふんふんと鼻歌を口ずさんでいた。

 

「だが音楽に関しちゃ、こっちが一流だ」

 

 サラリーマン風の男は小さな音楽端末を握り締め、節を取っている。

 

 夜都はコーヒーに口をつけつつ、朝刊のニュースに目を留めていた。

 

「……やっぱり契約者が居たんだ……」

 

 不自然な報道内容のほとんどは契約者の情報のカモフラージュであろう。アリスの書くブログとは正反対のクリーンな内容はどこか薄めたコーヒーのように味気ない。

 

 意図的に真実を秘匿し、そして都合のいい事実のみを湾曲させる。

 

 ニューヨーク新市街地では、車通りも穏やかで早朝の時間帯であるためか、ジョギングをする人間も数多い。通勤するサラリーマンの風体も珍しくはなく、決してこの街が衰えたわけではないのだと物語る。

 

 しかし、と夜都はニューヨーク新市街地のど真ん中に居座る鎮魂の石碑を視界に留めていた。

 

 先の南米での数千人規模の大戦争――天国戦争においての犠牲者の慰霊碑である。

 

「……やだな。契約者なんて、居ないほうがいいに決まっているのに……」

 

 この新市街地においても嫌でも突きつけられる。その存在感、この世界の流れを変えてしまった契約者がこの街にも跳梁跋扈する。

 

 夜になれば彼らの領域だ。

 

 偽りの星空の浮かぶ虚飾の宵闇を彼らは駆け抜ける。

 

 自分達が三文役者だとも知らないまま、踊り続ける道化であろう。

 

「……っと、約束の時間帯だ。先方がお待ちかね」

 

 背後にいたサラリーマンの風体の男が立ち上がり、朝刊を置いて歩み去っていく。

 

 その後ろ姿を眺めてから、夜都は静かに置かれたままの朝刊を掠めていた。

 

 丸められた朝刊にピン止めされているのは鍵である。その鍵の下に記事に直接メモ書きされていた。

 

「……今度はしくじるなよ、か。勝手な事を言うのね……」

 

 トレイを店に返し、夜都は記された鍵のコインロッカーを目指す。セミロングの黒髪を風が煽り、僅かに涼しい。タートルネックの首筋を確かめてから、夜都は目的のコインロッカーに訪れていた。

 

 鍵を開け、中に入っているクリーニングの施された制服と、そして学生証を確認する。

 

 そのままトイレで着替え、切り取られた地図を見やっていた。

 

「……少し、急がなくっちゃ……」

 

 駆け足で夜都は路面電車に乗り込み、そのまま新市街地を抜けていく。一番奥の席に座り込むと、先に座っていた女性が声にしていた。

 

「……あら、ちょっと電波悪い」

 

 携帯電話を翳しつつ、電波を探す女性と入れ替わりで自分の隣に座ってきたのは紫色のテディベアを抱えた少女だ。

 

 ゴスロリ衣装に身を包んだ赤い髪の少女はそっと女性が置いて行った端末を差し出す。

 

「……首尾は?」

 

「今のところ微妙。敵は光のないところにいる」

 

「ふぅん。……調子は?」

 

「悪くはない」

 

 問いかけて端末を受け取り、夜都は路面電車を降りていた。切り取られた地図で示された地点にあったのはハイスクールだ。

 

 数名の生徒に紛れ夜都は何でもないかのように学校へと潜り込む。

 

 制服を着込んでいるので自分を怪しむ者はいない。目立つとすれば日系人であるくらいであろう。

 

 夜都はまず職員室に出向き、学生証を片手に教員と向かい合っていた。

 

「ああ、話にあった留学生の。……えっと、名前は……」

 

「鷺坂夜都です。英語はこの通り」

 

「うん、喋れるんならそれに越した事はない。にしたって、この時期に編入とは。運があるんだかないんだか」

 

 教員の背中に続く夜都は尋ねていた。

 

「何かあったんですか?」

 

「……いや、ね。ちょっと問題のある生徒が居るんだ。彼女の噂が現実味を帯びて来たって言うのが目下悩みの種かな」

 

「……噂?」

 

「それはクラスメイトに聞いてくれないか。こっちからは言い辛い」

 

 教員が入ると、生徒達のざわめきが収まる。夜都を認めて囁きが交わされた。

 

「……誰? 日本人……?」

 

「今日からこのクラスに編入する事になった」

 

「鷺坂夜都です。よろしくお願いします」

 

 にこやかに自己紹介した夜都へと教員は空いている席を探す。

 

「えっと……じゃあ、ヤトは、レミーの隣でいいかな」

 

 レミーと呼ばれた少女はびくりと肩を震わせる。

 

 夜都は歩みを進め、隣の席につく。

 

「よろしくね、レミー……だっけ?」

 

「……よろしく」

 

 巻き毛の茶髪を持つレミーは視線を落としたまま呟く。

 

「よし、じゃあ今日の授業だが……」

 

 授業が始まり、夜都は何でもないかのようにノートを開いていた。

 

 レミーはしかしどこか怯えたようにじっとしている。視界の隅に捉えながら、夜都は教員の言葉を耳にしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇねぇ、ヤトは、日本から来たの?」

 

 クラスメイトの問いかけに夜都は笑顔で応じる。

 

「うん、語学留学で……」

 

「へぇ、じゃあトーキョーから来たの? あの……【地獄門】のある?」

 

 話題は自ずとそれに集約される。日本に関する話題と言えば、核が落ちた北海道と【地獄門】のある東京のどちらかだ。関心事はどこに行っても同じである。

 

「まぁ、出身地はちょっとずれるんだけれど」

 

「……ねぇ、【地獄門】って本当にその……対価を払えば何でも叶うって……」

 

「噂だよ。私だってよく知らないし……」

 

「そうよ。日本人だからってみんな、契約者じゃないんだから」

 

「契約者……」

 

 ぴくり、と隣に座って黙りこくっていたレミーが肩を震わせる。夜都へとクラスメイトは囁きかける。

 

「……ちょっと、行こ」

 

「えっ、でも私はここでも……」

 

「まずいんだって、あの子……。ここじゃ言えないけれどヤバい道を辿っているとか」

 

「ヤバい道……?」

 

 廊下へと連れ出され、クラスメイト達はめいめいに言いやる。

 

「……レミーの父親、契約者だって」

 

 思わぬ言葉に夜都は目を見開く。

 

「そんな馬鹿な事って……」

 

「マジ、本人が言っていたんだよ。自分で、パパは契約者だって」

 

「……契約者の……娘?」

 

「そうみたい。まぁ、私達もそれを信じたわけじゃないんだけれど、あの子の周りで不可解な事が最近起こっていてさ。……父親が憑いているんじゃないかってもっぱらの噂」

 

「契約者って死んでもこの世に残るんでしょ? だから娘を守るために……」

 

「……死んでも娘を守るって? そんな事……」

 

「分かんないよ。だって契約者だもん。そりゃ、私達だって全くの無関係貫けるわけじゃないけれどさ、それでも日本よりかはマシ」

 

「そうそう、あと南米もね。消えちゃったって言うけれど……」

 

 夜都は教室の掲示板に貼られている世界地図を自ずと視野に入れていた。

 

 南米を中心に巨大な円が描かれている。書かれているのは「【天国門】」の文字。

 

 そして日本の東京にも、「【地獄門】」の文字が躍っている。

 

「……レミーが契約者かもしれないって噂もあるんだ。だって契約者って心がないんでしょ?」

 

「ピッタリじゃない。あの子、笑いもしなければ泣きもしないもの」

 

 顎でしゃくったクラスメイトに夜都は当惑の眼差しをレミーへと送る。彼女は視線を落としたまま、沈痛に顔を伏せている。

 

 何か罰でも受けているかのような印象ではあった。

 

「ヤト、ヤバいから関わらないほうがいいよ。隣になっちゃったのは不運だけれどさ」

 

「私らから先生に言おうか? いくらなんでもヤトが可哀想」

 

 クラスメイトの気遣いは、同時にレミーを責め立てる言葉の刃だ。夜都はやんわりと遠慮していた。

 

「いいよ、別に大丈夫。私もちょっと……気にはなるし」

 

「関わんないほうがいいよ。あの子、本当に契約者だったらヤト、殺されちゃう」

 

「ないないってば! 契約者がハイスクールに通う?」

 

「まぁ、それもそうだけれど……。契約者がわざわざ学生演じる意味なんてないもんね」

 

 言葉を濁したクラスメイトを振り切って夜都はチャイムが鳴ったのを聞いていた。席へと戻り、レミーへと窺う声を発する。

 

「……大変だね。何か色々と聞いた」

 

「話しかけないで。……私のパパは契約者なんだよ」

 

 低く、どこか怨嗟さえも浮かばせた声音であったが、夜都は微笑む。

 

「……お父さんが契約者なら、みんなを遠ざけちゃうって事?」

 

「分かんないかな……不幸になるんだよ。私に関わると」

 

 膝の上の拳をぎゅっと握り締めたレミーに、夜都は首をひねっていた。

 

「……でも、お父さんが契約者でも、レミーは関係ないでしょ?」

 

「関係なくないよ。……ヤト、だっけ。あんた、死んじゃうよ。多分今日の放課後にも」

 

 その宣告に最も怯えているのは、どうやら彼女自身のようであった。

 

 戦慄いた瞳に夜都はノートを取り出し、シャーペンで書きつける。

 

 ――じゃあ試してみない? と。

 

「……どういう」

 

 ――契約者の親が居ても、別に関係ないよ、と続け、レミーの手首に巻かれているミサンガに振れる。

 

「……やめて……。憐みなんて……」

 

 これ以上は彼女自身も耐えられないか。夜都はノートを引っ込め、入って来た教員へと目線を移動させる。

 

 とは言え、契約者の憑き物か、と夜都は思案する。

 

 事実か否かは別として、興味はあった。

 

 



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第一章「星は流れ、深紅は宵闇に翻る…」(後編)
第四話「敵意を翻す」


「レミー! 一緒に帰っていい?」

 

 呼び止めた夜都へと群衆の視線が突き刺さる。レミーはどこか暗い瞳でこちらを睨んでいた。

 

「……言ったわよね? 警告はした」

 

「だから……関係ないってば。それに、私がどうにもならなければ、レミーの誤解も解けるでしょ?」

 

「……何の意味もないわ、そんなの。私は契約者の娘よ」

 

「だから! そんなのって別にいいじゃない。せっかく隣の席になったんだから」

 

 手を払って笑った夜都に、レミーは目を見開いて歯軋りする。

 

 その途端、辻風が発生した。レミーを中心地として風が舞い上がり、不意に中天に現れたのは照明設備である。

 

 あるはずのない物質が校庭の中空に浮かび上がり、その照明が次々と夜都の周囲へと突き刺さる。

 

 夜都は驚愕して固まっていたが、それはレミー自身がもっとであった。

 

「……やっぱり私、呪われてるんだ……」

 

「レミー……そんな事……」

 

 手を伸ばしかけてレミーは拒絶する。

 

「来ないでぇっ!」

 

 放たれた声と共に照明設備の一部が青白く輝く。そこから吹き上げられた旋風に晒された瞬間、レミーは駆け出していた。

 

「ま、待って!」

 

 しかしレミーの背中は離れていく。すぐさまその背中は群衆の中に掻き消え、夜都は手を彷徨わせていた。

 

「……ね、言ったでしょ。あの子、絶対にヤバい」

 

「怖い……契約者がクラスにいるなんて……」

 

 追いついてきたクラスメイト達が震えながら現場を目にする。教員が生徒達を散らす中で、夜都は駆け出していた。

 

「あっ! ちょっと待って!」

 

 制止の声を振り切り、夜都はハイスクールを抜けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やっぱり私、化け物なんだ……」

 

 呟いたレミーは路面電車に乗り込み、奥歯を噛み締める。

 

 自分の父親の怨念でも取り憑いているに違いない。そうだとしか思えない現象が立て続けに起こっている。

 

 路面電車の乗客の大半が降りたその時、面を伏せるレミーへと言葉が投げられていた。

 

「……レミー・フリード、ですね?」

 

 大人の男の声にレミーは顔を上げる。金髪の白人青年と屈強な黒スーツの男がそれに付き従っていた。

 

「……例の?」

 

「間違いない。確保」

 

 レミーの手を黒スーツが強く引く。抵抗しようとして、レミーは大きく路面電車が傾いだのを感じていた。

 

 周囲を見やると辻風が纏いつき、黒スーツの手元を引き裂く。

 

 鮮血が迸り、血飛沫が顔にかかる。

 

 レミーは耳を塞いで叫んでいた。

 

 途端、辻風が激しくなり、レミーを中心軸として発生する。

 

「……怪現象……いや、これは……」

 

 黒スーツの忌々しげな声音に金髪の青年が前に歩み出る。

 

「待って! 落ち着いて! ……僕らは敵じゃない。シャミア・フリードから、遺言を預かって来たんです」

 

 その名前にレミーはハッと目を見開く。

 

「……パパの名前を……何で……」

 

 辻風が静まり、青年はようやくと言った様子で嘆息をついていた。

 

「フリード氏は僕達の上司でした。その彼が、あなたを引き取って欲しいと、遺言を遺したのですよ。……敵対する契約者から守って欲しいとも」

 

「契約者……本当にパパは、契約者だったの?」

 

 しまった、とでも言うように青年は後頭部を掻く。

 

「……極秘でしたね。ひとまず降りましょう。そこから話しても?」

 

 路面電車はブレーキをかけている。青年らが運賃を払い、降りた先はニューヨーク旧市街地であった。

 

「……旧市街地……」

 

「この大都会、ニューヨークの裏の顔……。同時に、契約者の巣窟にもなっている。危険区画には違いないのですが、話すのにはここがいい。結論から言います。お父様は契約者でした」

 

 やっぱりとも、ましてや諦観も浮かべやしない。それは恐らく、間違いのない情報ではあったからだ。しかし他人から言われるのでは重みが違う。

 

「……契約者だって言うの、嘘じゃなかったんだ……」

 

「フリード氏は契約者として、あなたを取り残す事に最後まで悔恨を漏らしていらっしゃいました。だから、我々が保護します。さぁ、こっちに……」

 

 手首を握られそうになって、青年はハッと手を離す。

 

「……何だ? 熱い……」

 

 発せられた言葉の意味が分からず、レミーは呆然とする。その時、不意に声が劈いていた。

 

『そいつらは敵だ! 逃げろ!』

 

 どこから、と空を仰ぎ見たレミーは青空を抜けていく蝙蝠の羽根を視界に留め、考えるよりも先に駆け出していた。

 

「ま、待て!」

 

 青年が舌打ちし、顎をしゃくる。

 

 黒スーツの身体が青白く輝き、その瞳が赤く煌めいた。

 

 相手が地面に手をつけた直後、地面が鳴動した。

 

 ただの地震じゃない。この異能の現象は、契約者の能力だ。

 

 よろめいたレミーは容易く転げてしまう。黒スーツがゆっくりと歩み寄ってくるのを、レミーは解けた靴紐を睨んでぐっと顔を伏せようとした。

 

 その時である。

 

「レミー! こっちに来て!」

 

 現れた影にレミーは唖然とする。

 

「……何で。ヤト……」

 

「その人達、ヤバいよ! だからこっちへ!」

 

 手を引かれ、レミーは夜都と共に裏路地を回る。路地にはホームレスと怪しい男達で溢れ返っており、どう考えても表向きではない。

 

 だと言うのに、何故夜都はここに居るのか。まさか、自分を追ってここまで来たと言うのか。

 

 その手を振り解き、足を止める。

 

 呼吸を整え、レミーは言い放っていた。

 

「いい加減にして! ……私の事は、放っておいて……!」

 

 精一杯に突き放したつもりであった。しかし、夜都は頭を振る。

 

「……出来ないよ」

 

「何で! 今日会ったばかりでしょ!」

 

「……確かに他人かもしれないけれどでも、お隣になったんだからさ。見過ごせない……それじゃ、駄目かな……?」

 

「見過ごせないって……。私のパパは……本当に契約者だったんだよ! ……クラスメイト達の言う通り、化け物なんだよ……だから、私なんてどうなったって……」

 

「でも、レミーはまだ死にたくないって顔をしてるよ」

 

 その言葉にハッとして面を上げる。

 

 夜都は真っ直ぐな眼差しでこちらを窺っていた。

 

「……どうなったっていいなんて、そんな事、言っちゃ駄目だよ。最後まで諦めないでおこ? そうしないと、レミーの意思がなくなっちゃう」

 

「……私の意思なんて……今さらだよ。パパが契約者だって、今の人達が言ってた。……多分、本当なんだと思う。……だから」

 

「だから、レミーの事も契約者だと思って放っておけって? ……ゴメン、私には出来ない。だって、レミーの手は、とてもあったかいもの。契約者だとは思えない」

 

 手を握り返してきた夜都に、レミーは当惑する。

 

 どうして、こんなにもあたたかな掌の少女が自分へと手を差し伸べてくれるのだろう。自分には何もない。相手を恐れさせる以外に何も……。

 

 その時、不意打ち気味にきゅう、と腹の虫が鳴った。

 

 どうやら夜都のほうらしく、彼女は力なく笑う。

 

「……お腹空いちゃった。旧市街地に私のお気に入りの場所があるの。行ってもいい?」

 

「……どうとでも。私は、どうせ契約者の娘なんだし……お腹なんて」

 

 その言葉とは裏腹にレミーの胃も空腹を訴えていた。赤面すると夜都は頷く。

 

「うん、まずは腹ごしらえしよっ! そうすれば、怖い事も忘れられるし!」

 

 夜都に手を引かれ、レミーは旧市街地を走り抜けていく。

 

 どこか朽ちた建築物ばかり立ち並ぶ旧市街地はニューヨーク市民からしてみても「なかった事にしたい場所」、「見ないようにしている暗部」であった。

 

 だからか、どこか足取りの危うい者達や、今日の寝食ですら分からないような浮浪者が彷徨う。

 

 そんな中を夜都は慣れた様子で路地をいくつか折れ、現れたのは……。

 

「……露店?」

 

「そっ。おじさん、いつものくれる?」

 

 夜都は不愛想な髭面の店員へと呼びかけ、彼の手からバケットを受け取る。

 

「今日は二人分」

 

 ブイの字を示した夜都に髭面の店員はこちらへと視線をくれた後に、バケットをもう一つ追加する。

 

「ありがと」

 

「……毎度」

 

 支払いを済ませ、夜都が向かったのは廃ビルであった。明らかにまともではないビルであったが、床が軋むだけで倒壊の恐れはなさそうだ。

 

 夜都は二階層へと踏み込み、鍵をかけた扉の暗証番号を合わせ開いていた。

 

「……すごい。綺麗にしてある」

 

「もしもの時のセーフハウス。本当は新市街地に家があるんだけれど、こっちにもね」

 

「……何者なの? 普通の神経なら旧市街地に、小娘一人で過ごそうなんて思わない……」

 

「あー、それはホラ、私、あのお店のバケット好きなんだ。はい、レミーの分」

 

 差し出されたバケットから漂う香ばしい匂いにレミーは手を伸ばし、噛り付いていた。

 

「美味しいでしょ? 私の自慢なの」

 

 夜都は窓の傍でコーヒーメーカーを起動させる。抽出を開始したコーヒーメーカーから苦み走ったコーヒーの芳香が部屋に満ちる。

 

「……不思議な生活をしてるんだね、あなたは……」

 

「夜都でいいよ。私もレミーって呼んでるし」

 

 どこかくすぐったそうに口にした夜都にレミーはうろたえ気味に応じる。

 

「その……ヤトは、どうして旧市街地に?」

 

「まぁ、秘密の一個や二個を持っておいたほうが人生、豊かじゃない? そういう事」

 

「……不思議な人」

 

 いや、とレミーは齧りかけのバケットへと視線を落とす。

 

「私も、か……。他の子達からしてみれば、異端なんだろうね。いい意味じゃないけれど」

 

「……契約者の、お父さんが居たのは、本当だったんだね」

 

「……うん。でも、パパは、契約者だなんて一回も言わなかった」

 

「じゃあ、何で?」

 

 夜都はマグカップにコーヒーを注ぐ。

 

「……おいしそう……」

 

「美味しいよ? 私、コーヒーを淹れるのだけは上手なんだ」

 

 自慢げに言うものだからレミーは思わず笑ってしまう。それを目にして夜都は安堵したようであった。

 

「……笑えるじゃない。だったら、契約者じゃないと思うな」

 

「……パパはね、仕事柄留守にする事が多かったの。でも、私、見ちゃったんだ。パパの出迎えに行った時……あの日も、旧市街地のすぐ傍で……」

 

 思い返すだけで胸元が辛く苦しい。言葉を切ったレミーに夜都がコーヒーを差し出す。それを受け取って、温かさに呼吸を整えて言葉を継ぐ。

 

「……パパが、青い光を纏って、誰かを……あれは多分、殺していたんだと思う。その後すぐに、相手は動かなくなっちゃったから」

 

「見間違えとかじゃ……」

 

 レミーは頭を振る。見間違えならばどれほどによかったか。

 

「その日から、私はパパを、契約者として観察したの。そうしたら、パパの書斎から……契約者に関する資料が出てきた。普通の商社マンだと思っていたのに……パパは、私を裏切っていたの。ずっと……ずっと……!」

 

 怒りでも情けなさでもない。

 

 これは単純に、恨みつらみなのだろう。実の娘にさえも明かせない秘密を抱えた父親などまともなはずもない。

 

「……レミーのお母さんは?」

 

「……病気なの。物心ついた時からずっと、病院に居る。難病なんだって。治るかどうかなんて賭けのレベルだって、お医者様が言っていたのを聞いたわ。それくらいの病気に晒されてるんだもの。パパだけが……寄る辺だったのに……」

 

 その寄る辺にも裏切られた。

 

 嘘と虚飾。

 

 そんなもので自分は飾り立てられていた。父親の付随物として。今もまた狙われている。その感情がこみ上げて来て、レミーはしゃくり上げる。

 

「……それで、契約者の娘だって?」

 

「……だって、もう裏切られるのは嫌なの。だったら最初からみんなを裏切って、遠ざけたほうがいい。誰も信じたくないの……!」

 

 信じて嫌な目を見るくらいなら最初から誰も信用しないほうがいい。

 

 そんな自分の感情が堰を切ったように、涙として頬を伝う。その熱いものを、夜都は指先で拭っていた。

 

「……レミーは契約者の娘なんかじゃないよ。きっと、心がある人間」

 

「……でもパパは……! 私に言えない事をずっと抱えていた。少しくらい分け与えてくれたっていいのに……。実の……娘なのに……っ!」

 

「……でもレミーは、だからと言って投げていいわけじゃないと思う。レミーのお父さんが何かを隠していたのは本当かも知れない。でもそれだけじゃないでしょ? お父さんとの、悪い記憶だけじゃないはず。だってそうじゃないと、親子の縁なんて……」

 

 流れゆく涙が指先へと落ちる。夜都の淹れてくれたコーヒーを口に含むと、甘さが口中に広がっていた。

 

「……おいしい」

 

「……私のオリジナルブレンド。その人にピッタリのコーヒーを淹れられるよ?」

 

 悪戯っぽく笑う夜都にレミーは口にしていた。

 

「……一度、家に戻りたい」

 

「……危ないよ。少しの間、ここを使っていいから……」

 

「ううん……それでも、向かい合わないといけないんだと思う。私が……本当に利用だけされていたのか、分からないもの」

 

「レミー……」

 

 その時、抗い難い疲労感が襲いかかってきた。

 

 きっとずっと張り詰めていたからその疲れがどっと出たのだろう。眠気にレミーはそっとコーヒーを置き、夜都へと身体を預けていた。

 

「……何だか疲れちゃった。もう……誰にも裏切られたくないよ……」

 

「大丈夫。大丈夫だから。今はゆっくり休んで」

 

 夜都の柔らかな声に抱かれながら、レミーは瞼を閉じていた。

 



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第五話「常闇を覗く」

 部屋を出て暗証番号を振り、ドアをロックする。

 

 追跡されていない事を確認し、夜都は旧市街地に点在する空地へと足を進めていた。

 

 煤けたような風が吹き抜ける中で、時計を気にするサラリーマン風の銀髪の男が新聞を広げている。

 

 その男と背中合わせに座ると、相手はわざとらしく声にしていた。

 

「……今日の夕刊は酷いもんだ。新市街地で起こった事はやっぱり何一つ書かれていない。マスメディアが法であった時代は終わろうとしているな」

 

 嘆かわしい、と肩を竦めた男に夜都は口を開く。

 

「……あの二人は」

 

「契約者だ。他の組織のな。どうやら熱心にああいう手合いを追う人間は居ないらしい。写真機を持って出歩くような人間も珍しくなったもんだ」

 

「……能力」

 

「一人は任意の地形を鳴動させる能力。まぁ、ミニ地震って奴だ。もう一人は分からない。金髪のほうはしかし、結構目聡いみたいだぞ?」

 

 夜都は視線を旧市街地に流す。黄昏の夕陽を反射する窓辺に青白いぼやけたような像が結ばれていた。

 

「……観測霊」

 

「追っては来ている。そう逃げ切れると思わないほうがいい。……にしても、毎度の事ながらうまく潜入する。まるで本当に日本から来ましたって言う風体は得意技だな」

 

「……敵の位置関係と見つかるまでの試算」

 

「時間はないぞ。さっさとあのクラスメイトを殺してでも情報を奪うか、それか拷問でもして聞き出すといい。君の能力なら、お手の物のはずだ」

 

「……レミー自身も何かと疑念がある。もしかしたら、彼女も……」

 

「それを明瞭にするのは君の仕事だ。当てにしているよ」

 

 時計を見やり、男は立ち上がる。その背中を目線で追ってから、夜都は戻る道中、浮浪者の不自然な動きを察知していた。

 

 駆け足気味に廃ビルに戻り、ドアロックを開けてレミーを起こす。

 

 眠気まなこを擦ったレミーに夜都は言いやっていた。

 

「……追って来ている。時間がない」

 

 息を詰まらせたレミーに夜都はしっ、と唇の前で指を立てる。

 

「……静かに」

 

 廃ビルの廊下を踏み締める音が響く。レミーは呼吸を殺しているが、それでも見つかるのは時間の問題だろう。

 

 夜都はこっちへ、と促していた。

 

 廃ビルの裏側には予め張っておいた逃げ道がある。梯子を伝い、レミーを逃がしつつ夜都は近づきつつある気配を感じ取っていた。

 

 夕陽を反射する梯子に青白い像がぼうと浮かぶ。

 

 目を細め、夜都はレミーが降り切ったのを確認して梯子を慣れた様子で伝い降りる。

 

「……どこへ逃げれば……」

 

「任せて。旧市街地なら何とか逃げ切れると思う……。問題なのは、こっちじゃ相手も手加減をしてこないって事」

 

 その事実にレミーは目を戦慄かせる。

 

「……殺される……」

 

「大丈夫だから。まずは相手を撒けばどうにでもなるはず」

 

 手を引こうとしてレミーが思い立ったかのように立ち尽くす。

 

「……家が……家にはパパの重要書類が……」

 

「……既に家は荒らされていると思うけれど……」

 

「それだけじゃないわ! ……思い出の品があるの」

 

 レミーは肩を震わせる。夜都は暫時沈黙を挟んだ後に、首肯していた。

 

「……じゃあ、一旦家まで戻るけれど、危険は……」

 

「分かっている。でも、パパとの思い出まで……捨てたくない……」

 

 夜都はレミーの住所を聞き出す。旧市街地から一旦抜ける以上、必ず阻止してくるはずだ。

 

「レミー。思い出の品って、何なの?」

 

「……私が行かないと分からないと思う。パパが、昔……東京で買ってきてくれた小さな鉱石なの。それがとても綺麗で……いつも眺めていた」

 

「……分かった。けど、時間は……ないみたい」

 

 夜都は廃ビルを駆け下りてくる気配を感じ取る。恐らくは黒スーツか、金髪の青年かどちらかの契約者。

 

「急ごう」

 

 頷いたレミーを伴って道沿いに出たところで、黒スーツとかち合う。

 

 無言のまま、黒スーツがその手でレミーを捕えようとしたのを、夜都は腰に提げていた水筒を投擲していた。

 

 相手から青白い輝きが放たれたと思った瞬間、水筒が内側から膨れ上がり、鳴動して炸裂する。

 

 内部に収まっていた高温の蒸気が噴出し、僅かな目晦ましを手伝った。

 

 その隙に夜都はレミーを新市街地の通りへと導こうと、いくつも裏路地を折れ曲がる。このニューヨークの路地は複雑怪奇に入り組んでおり、土地勘がなければすぐに迷うはずだ。

 

 ある意味では想定通り、相手はこちらを見失ったらしい。

 

 新市街地に出たところで、レミーが息を荒立たせる。

 

「こ……ここまで来れば……」

 

「駄目、一応路面電車を目指そう。さすがにそこまで追っては来られないと思うけれど、でも……」

 

 最悪はどこまで想定したところで仕方がないが、逃げ切れるとは思わないほうがよさそうであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜空を観測する巨大な望遠鏡設備にいつだって圧倒される。

 

 青いスーツをびしっと着込んだミシュアは、ふぅんと仰ぎ見ていた。

 

「……偽りの星空を観測する、場所」

 

「ロンド課長。視察の日ではなかったはずですけれど?」

 

 豊かなブロンドの髪をかき上げた美女はけだるげに口にする。ミシュアはフッと微笑んでいた。

 

「視察以外で来てはいけない?」

 

「……公安が来るのをいい顔をする研究員ばかりじゃないわ」

 

「……山里観測長。トーキョーに比べて、ここのドール達は随分と……」

 

 ミシュアが周囲に点在するカプセルへと視線を投じる。中には禿頭の人間が入っており、彼らの脳波を拾い上げ、観測所から契約者の動きを炙り出す。

 

 それこそが観測所の役目であり、ドールの使役する観測霊と呼ばれる存在が常時、このニューヨーク市街を見据えている。

 

「……大人しい? それとも、忙しそうに見える?」

 

「……ドールの感情は分からない」

 

「あたし達も分からないわよ。どうにも、このニューヨーク市は東京とは勝手が違ってね。こっちにはこっちのルールがある。ここじゃ話もなんだわ。喫煙所に行っていい?」

 

「……やめたんじゃなかったの?」

 

「ちょっと自分へのご褒美。ここ最近、詰めっきりだから。どうにも疲労が溜まっていけないのよ」

 

「……忙しいのはどこも同じ、か」

 

「ドールだろうが、人間だろうが、ね。観測霊を飛ばしてはいるけれど、東京の観測所とはまるでここのドール達は別種。ま、【地獄門】があるってのも大きいんだろうけれど」

 

 東京に屹立する【地獄門】の壁を、ミシュアは思い返す。あれはまるで、世界の断絶であった。

 

 漆黒の壁によってこの世界は均衡と偽りの平穏を謳歌している。

 

 それがいつ崩れるのか、誰にも分からないのに。

 

「……南米じゃ、天国戦争の時にたくさんの契約の星が流れた。東京も同じにならないとは限らない」

 

「それはそうと、コーヒー。熱いのと冷たいの、どっちがいい? 奢るわよ」

 

 自販機の前で立ち止まった相手にミシュアは微笑みかける。

 

「……知ってるでしょ。私は」

 

「極度の猫舌。熱いのは駄目だったわね、っと」

 

 冷たい缶コーヒーを投げられ、ミシュアはベンチに座り込む。山里は煙草に火をつけて紫煙をたゆたわせていた。

 

「……ニューヨーク市警は目聡いのね。ここ一時間の報告をしてないのに来るなんて」

 

「……キャリアだけは一級品。あと勘も」

 

「女豹みたい、って言われない? 事件に飛びつき過ぎると、痛いしっぺ返しを食らうわよ?」

 

 その言葉でミシュアは反省しつつも確信する。

 

「……契約者の動きがあったのね」

 

「契約の星は三つ。まだ断定は出来ないし、大体いっつも、事が終わってからしか、どの契約者が動いたのかは特定出来ない」

 

「……歯がゆいわね」

 

「とは言え、契約者がこの新市街地で戦闘行為を実行しているのは確か。……逮捕しないでいいの?」

 

「契約者相手には発砲を許されているわ」

 

 缶コーヒーを振ったミシュアに山里は大仰に肩を竦める。

 

「おお、怖い。これだから、アメリカの方々は」

 

「……日本のほうが危ないって聞くけれど? トーキョーに契約者が集まって、日夜殺し合いだって」

 

「どこもかしこも、安全な場所はこの世界にはなくなったわね。諜報機関が幅を利かせて、各国の警察はそれに付き従うだけになっている」

 

「……この間の、契約者殺し」

 

「MA401の活動を確認。それとSV802ね。殺されたのはSV802、フリードという名前を使っていたわ。鉄を操る能力は無敵そうなのにね」

 

「その……フリードの身辺を洗っていると興味深い証言が得られた。彼には娘が居たと」

 

「その娘を追って、昼間っから契約者が? ……随分と物騒になったわね、新市街地も」

 

 煙草の煙い吐息を吹きながら頭を振る山里に、ミシュアは確信めいた口調で言いやる。

 

「……恐らくはその娘が、鍵」

 

「そこまで調べは尽くしたけれど、そこから先に閲覧権限がかかった、か」

 

 先回りする山里の論調にミシュアは苦笑していた。

 

「……知っているでしょう? 上層部は必死に契約者関連の情報を秘匿したがっている。新市街地での戦闘も、【煉獄門】が絡めばそちらの対処に追われるし……契約者を追っかけ回すのだって命がけ。……本当に、給料に見合わない仕事、選んじゃったな……」

 

「泣き言? らしくないのね」

 

「……職場じゃ、青の跳ね馬って言われているけれど、馬だってたまには休みますよーだ」

 

 はは、と山里が笑ったところで他の研究員が声をかける。

 

「主任、観測霊による契約者の捕捉、完了しました……っと、公安の課長……?」

 

「失礼している。私はこれより職務に戻ります。主任、また、出来れば職務外で」

 

 山里は特に気にしていないのか、気楽に手を振る。

 

「じゃあね。お互いに長生き出来るように」

 

 その別れ言葉に、何それ、と失笑する。

 

「……老い先短いのは、この仕事ならば当然、か」

 

 さて、とスーツの襟元を正し、ミシュアは携帯電話を取り出す。

 

「状況を報せて。契約者を捕捉したはず」

 

『課長? ……ビンゴですよ、タイミング。今、観測所から、二人分の契約者の補足情報が入って……。そのうちの一人が――』

 

 思わぬ名前にミシュアは立ち止まっていた。

 

「……MA401? まさか、契約者殺しが……」

 

『らしいです。それと、これ、まだ未確定の情報なんですがちょっと気になる観測結果が送られてきまして。……三人分の契約者のスペクトル反応と時をほぼ同じくして、不可思議な星が輝きました。恐らくこれは……』

 

 紡がれた言葉に、ミシュアは震撼していた。

 

「……急ぐ。このままじゃ、新市街地が……戦場になる」

 

 車のキーを開けエンジンを始動させてから、ミシュアは呟いていた。

 

「……間に合ってよ」

 

 



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第六話「贖いを演じる」

 逃げ切れたと思った。

 

 少なくとも、契約者が攻撃出来る範囲ではないと。

 

 しかし、アパートの自宅に入った途端、鼻をついた刺激臭にレミーは後ずさりする。

 

「……パパとの思い出が……」

 

 火をつけられたのはそう時間が経っていない。しかし、火の手がキッチンから回り始めていた。

 

 困惑する自分に夜都は問いかける。

 

「……どの辺りにあるの?」

 

「あっ……私の部屋の、机の中……」

 

 言うが早いか、夜都は炎の中に踏み出していた。思いも寄らぬ行動にレミーは声を上げる。

 

「危ないよ! ヤト……!」

 

「危なくっても! ……レミーの大事な宝物なんでしょ!」

 

 その言葉にレミーは胸を衝かれた思いであった。自分の事なんて誰も気にも留めていないと思い込んでいた。

 

 皆が皆、知らない振りを貫くであろうと。

 

 ――契約者の娘、異端の人間だ。

 

 だから石を投げられようが、心ない言葉が交わされようが、仕方ないのだと。諦観の向こう側に全てを置いて来ていた。

 

 しかし、夜都は……。そんな自分にも価値があると言うのか。どうしようもない、怪物に過ぎないであろう、自分に。

 

「……ヤト……っ!」

 

 声にした途端、夜都は大きく紅蓮の火の中央で片手を上げていた。

 

「レミー! これ?」

 

 その手に掴まれていたのは青白い鉱石であった。レミーは頷き、夜都へと駆け出そうとする。

 

「ヤト……っ! 私を、一人にしないで! お願いだから……あなたまで行ってしまわないで!」

 

 熱を帯びた言葉にレミーは火炎へと踏み込もうとして、不意に開いた背後の扉に振り返っていた。

 

「……契約者……」

 

「……探したぞ。手間をかけさせる」

 

 金髪の青年が青白い光を帯びて、瞳孔を赤く煌めかせる。その手に掴まれていた木片が光を吸収し、内側から再構築されていく。

 

 ただの木片であったそれが直後には拳銃になっていた。

 

 銃口が夜都へと向けられる。レミーは思わず叫んでいた。

 

「ヤト! 避けて!」

 

 返答を待たずして銃声が劈く。続けざまに銃撃され、炎の向こう側の夜都の影が消えていく。

 

 レミーは心の奥底から震えていた。

 

 自分のせいで、夜都は死んでしまった。こんな形で、友達を失ってしまった。

 

「ほら、来るんだ」

 

 手首を掴まれ、無理やり火の手の上がる部屋から連れ出される。

 

「いやぁっ! ヤトぉっ!」

 

 喚いた自分の首筋へと手刀が見舞われる。意識が没していく中で、視界の隅に辻風が瞬いていた。

 

「……またか。そろそろ近いな」

 

 どういう意味なのか、問い質す前に暗闇に視界が閉ざされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 既に消防隊が駆けつけていた新市街地のアパートを、ミシュアは仰ぎ見る。

 

 全焼したアパートを消防隊員が行き来する中でミシュアは問いかける。

 

「生存者は?」

 

「酷いもんですよ、中は。幸いにして入居者は全員、出かけていましたが……」

 

 言葉を濁す辺り、この火災も人的なものなのだと言う確証があったのだろう。ミシュアは現場に入るなり、火災現場特有の異臭に眉をひそめる。

 

「か、課長! ……早いですって!」

 

 遅れてきた茶髪の青年は赤いジャケットに袖を通し、周辺を見渡す。

 

「うーわ……こりゃひでぇ……。やっぱり契約者の仕業ですかね……」

 

「火を点けるだけならば一般人でも出来る。問題は、お前の言っていた観測結果との示し合せだ。照合するのは、この星で?」

 

 観測所から送られてきたメシエコードを見せると、部下は首肯する。

 

「それですね……。しかし、マジに新市街地を戦場にしたいのかよ、連中……」

 

「契約者に倫理観は通用しない。いつ遭遇するか分からないのよ。銃は取れるようにしておきなさい。カッコつけの赤ジャケットだけじゃなく、ね」

 

 肩を叩いてやると、部下はあっ、と間抜けな声を上げる。

 

「……すいません。携行忘れてました」

 

「そんなだから、昇進に恵まれないんだ。ジャン、ここだけ、変じゃない?」

 

 呼びかけられた部下――ジャンはこちらの指差した個所を注視する。

 

「……本当だ。何かここだけ……焼け残ったんですかね?」

 

 不自然に一区画だけ焼け残っている。ミシュアは歩み寄り、デスクを探っていた。

 

「……普通のデスクね。引き出しにも……何もない」

 

「じゃあ何にもないんじゃないですか? ただ偶然に焼け残っただけで」

 

「……契約者との現場において、偶然はあり得ない。何か必然的な理由があってそうなっている。……おかしい、ここ、焼け残ったのなら、こんなに綺麗なはずがない」

 

 引き出しの中には何もない。まるで予め、抜き取られていたかのように。

 

「……ジャン。ここの入居者を探って。もしかしたら、何かあるかもしれない」

 

「了解です。……しかし、急いで追わなくってもいいんですかね? 例のフリードの娘とやら。今頃、契約者に捕まってでもいれば……」

 

 最悪の想定だが浮かべないわけにもいかない。ミシュアは首肯してから、目線で急かす。

 

「……でも出来るだけ、一つ一つ解きほぐさないと。見落としが一番に怖いから、ね……」

 

 踵を返したミシュアは野次馬の中にテディベアを抱えた少女が居るのを発見していた。

 

 紫色のテディベアは嫌でも目を引く。他にも群衆が居るが、どこか浮いたように存在している彼女を注視していると、ジャンから声が飛んだ。

 

「課長、行きましょう。……心配です」

 

「……そうね、今は……」

 

 視線を据え直すと、既にその少女は消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 首筋に鈍い痛みを感じて、レミーは身を起こす。固いベッドの上で起き上がったのを感じ取り、ハッと周囲を見渡した途端、声が飛んできていた。

 

「厄介じゃないか。いつあんな悪い友達を作ったんだい? フリードの娘」

 

 金髪の男は視界の隅でコイントスをしていた。何回か取り落としながら、七回連続で成功し、コインを忌々しげに壁へと投げつける。

 

「……つまらないだろ? コイントスを連続して七回も成功させなきゃならない。だが、こればっかりは仕方ない。僕の、契約の対価なんだからね」

 

 黒スーツはジョッキに生卵を流し込み、それを丸呑みしていた。その渋い面持ちを歪め、ようやく飲み込む。

 

「……お互いに大変なんだ。契約者はこういう、精神的呪縛に悩まされなくっちゃいけない。彼は生卵を飲み込む事。……なかなかにクレイジーだろ? まぁ、日本人はこれを白米に乗せて食べるって言うんだから、さらにぶっ飛んでる」

 

 金髪の青年は笑いかけてから、ふっと表情を消し去る。まるで最初から感情など持ち合わせてはいないかのように。

 

「……フリードが言っていた。自分には娘が居ると。それが、鍵だとも。君はフリード……父親から鍵を預かっているはずだ。それを教えて欲しい」

 

「鍵……そんなの、預かって……」

 

「嘘はいけないなぁ。無自覚なはずもないんだよ? フリードは何かしらの形で、ゲート内物質を資料として圧縮していた。それを娘である君にだけは明かしていたはずなんだ」

 

 その言葉繰りにレミーはハッと青白い鉱石を思い出す。まさか、あれが、と硬直したのを青年は感知する。

 

「あるんだね? 心当たりが」

 

 頭を振るが青年は近づいてくる。その手に握っているレンガが青白い光に包まれ、次の瞬間には鞭に変わっていた。

 

「……契約者……」

 

「物質の変換だ。掌サイズなら何にでも出来る。これを、もっと痛いのにしてもいい」

 

 鞭がしなり、激しい音を立てる。レミーは慌てて扉を探すが、それをまるで児戯だとでも言うように青年は悠然と見つめる。

 

「逃げるのかい? いいよ、その扉、開けてみても」

 

 胡乱なものを感じつつもレミーは唯一の逃げ道に向けて駆け出していた。扉を開けた途端、足元が消失した感覚に襲われる。

 

 鳴動した床が波打ち、レミーの足を取っていた。無様に転がったレミーを青年は嘲る。

 

「彼の契約能力は地面の鳴動。ほら、逃げるなら今だよ? 立ち上がって、頑張ってさ」

 

 何度も立ち上がろうとして、その度に前につんのめる。足場がうまく使えない感覚に歯噛みしていると、青年は哄笑を上げていた。

 

「いいね! その悔しそうな顔! ……ここまで苦労したんだ。せいぜい楽しませてくれよ」

 

「いや……っ、来ないでぇっ!」

 

「死ぬのは怖いかい? その恐怖こそが、僕らの数少ない愉悦なんだ」

 

 鞭を握り締めた手が振るい上げられる。激痛を予感して、レミーは不意に視界に入った水筒へと目を留めていた。

 

 投げ込まれた水筒が内側から膨れ上がり、水蒸気を噴き上げる。

 

 相手がうろたえた一瞬の隙であった。

 

 レミーは床を踏み締め地下室から駆け上がり、周囲へと視線を配る。

 

「……また、旧市街地……」

 

 どこへ行けばいいのか、まるで分からない。それでも逃げ出していた。走って、走って、息が切れるまで走ってから、呼吸を整える。

 

 ――分かってる。逃げ切れるなんて思っちゃいない。

 

「……私は……こんな事になるくらいなら、誰か一人くらい……欲しかった。友達が……」

 

「――ここに居るよ」

 

 不意打ち気味の声に面を上げたレミーは、旧市街地に佇む夜都を目にしていた。

 

 だが、まさか、そんな、と戦慄く。

 

「ヤトは……撃たれて死んだはず……」

 

「大丈夫だった。危なかったけれど」

 

 何でもない事のように笑いかけてきた夜都へと、レミーは抱き着いていた。相手も想定外であったのか、その手を彷徨わせている。

 

「れ、レミー。大げさだってば」

 

「大げさじゃない! ……よかった、まだ、生きていてくれて……」

 

 感極まった自分の背中に、夜都は静かに手を回し、ゆっくりと撫でる。

 

「大丈夫……大丈夫だよ……レミー」

 

「ヤトぉっ! 私、もう嫌なの! みんな、消えて行っちゃう……。私の前から……っ!」

 

「大丈夫だから。レミー、行こう。二人なら、逃げ切れるから」

 

 力強く手を引いてくれる、夜都の温かさは本物であった。偽りではない、飾りでもない、本物の人間の手。

 

 旧市街地を夜都は熟知しているようであった。

 

 二人を撒いたのを確認してから、夜都は口を開く。

 

「何とか撒いたみたい。……レミー、これ。借りっ放しだった」

 

「それって……パパの……」

 

「思い出でしょ? レミーとお父さんの」

 

 青白い鉱石を握り締める。だがどれだけ悔いたところで、石は冷たいままだ。冷たいだけの、もう醒めてしまった思い出――醒めた夢。

 

「……ヤト。あいつらはこれを狙っている……。私は、ヤトになら任せられる……。私は多分、どこまで行っても逃げ切れないから。追い詰められる前に……ヤトの手で捨てて」

 

「でも、それじゃレミーが――!」

 

「私は! ……誰も理解者なんて居ないと思っていた。契約者の娘、異端の存在なんだって。……でも、ヤトの手、とてもあたたかかった。人間の手だよ。私に必要だったのは、契約者の娘の烙印じゃなくって、きっとそういう、困った時に応えてくれる誰かだったんだと思う……」

 

 契約者の娘だからと言って驕っていたわけではない。ただ単純に、みんなと一緒ではないのが隔たりであった。怖かったのだ。他と違う自分を持て余して、そして壁を作って。

 

 だが自分の心の一部を誰かに託す事が出来る。そうなのだと、実感出来た。

 

 夜都ならばきっと、自分よりも正しく、この思い出を使ってくれるだろう。

 

「……ヤトだけなんだ……」

 

「……分かった。でも、レミーが犠牲になる事はないよ。一緒に逃げよ? どこまででもいい。きっと、どこだっていいはずだから」

 

 そうまで言ってくれる人間はこれまでいなかった。クラスメイトは遠巻きに眺めるばかりで、自分の苦しみの一端を背負ってくれるなど。

 

「……もっと早く、ヤトに出会いたかった……。契約者の娘としてじゃなくて、ただの女の子として……」

 

 夜都の手に自分の手を重ねる。持っているべきは、夜都のほうだ。

 

 夜都は鉱石を握り締め、どこか悔恨のように口にする。

 

「……契約者は人間じゃない。奴らは、人間の皮を被った殺人マシーン。他人の事なんて考えずに嘘を平気でつき、誰かを陥れる事に罪悪感なんて覚えやしない。ただの破壊者、ただの人でなし」

 

「……ヤト?」

 

「……ゴメン。ちょっと思うところがあっただけ。ああいう契約者ばっかりじゃ、嫌だねって思って」

 

「あ、うん……。何だか今のヤト、ちょっと怖かった。……心の奥底から、契約者を憎んでいるみたいで……」

 

 膝を抱え込み、レミーは孤独に肩を震わせる。その肩に夜都はそっと触れ合ってくれた。

 

 やはり傍に居てくれる。居なくなりはしない。その手を握り返し、レミーは咽び泣いていた。

 

 誰かが傍に居てくれるだけでこんなにも心強い。きっと自分は、そういう友達を見つけ出したくって。でもその術を知らなかったのだろう。

 

 契約者の娘、異端者としてあり続けるほうが楽だから。安きに流れ、そして突き当りまで来てしまった。もう、どん底だ。

 

「……どうして、ヒトは幸福のままじゃ居られないんだろうね……」

 

「……幸福だけ感じ取っている人間が居るとすれば、それはもう、人間じゃないよ。みんな、孤独と寂しさの板挟みなんだ。そんな中で、誰かと触れ合う事だけでしか、きっと癒せないんだと思う。……どんな絶望の時にあっても」

 

「ヤト……怖いよ……。ヤトも、居なくなっちゃいそうで……」

 

「……私は居なくならないよ。レミーの傍に居るから」

 

 それでも仮初めの言葉に聞こえてしまう。もう誰かを信じ続ける事も疲れた。夜都だけを信じて終わりにしたい。

 

「……ヤト。私、契約者の娘で、一個だけよかったと思う。ヤトと出会えた」

 

「……レミーが契約者の娘じゃなくっても、私達、友達だったと思う」

 

 微笑んだ夜都は立ち上がり、旧市街地の裏路地を見据える。

 

「……契約者はどこまでも追ってくる。行こう、レミー。私達が、友達で居られるために」

 

 差しのべられた手をレミーは重ねる。

 

「うん……。どうか、思い出が……駄目になっちゃわない前に……」

 

 二人で駆け出す。旧市街地の河川敷を目安に、夜都は進んでいるようであった。何処をどう行けば新市街地に出られるのかを夜都は知っている。ならば、この手も、足もヤトに任せれば、安全のはずであった。

 

 そう思っていた刹那に、夜都が口にする。

 

「……網にかかった」

 

 その言葉に全身が不意に硬直する。口を呆然と開け、レミーは後ずさっていた。しゃがみ込んだレミーを他所に夜都が歩んでいく。

 

 その背中に呼びかけようとしても声がまるで出ない。呼吸と大差ない息が漏れ、夜都が遠ざかっていく。

 

 横合いを通り抜けていくのは追って来ていた青年達だ。

 

 彼らは自分へと目もくれず、夜都の背中へと追い縋っていく。

 

「……ヤトぉ……っ。何をしたの……?」

 

 魂が縛り付けられたかのように身体の自由が利かない。永劫にここに置いてけぼりを食らうのだろうか。

 

 不安が脳裏を掠めた瞬間、内奥から何かが弾けていた。

 

 辻風が舞い上がり、自分を中心軸にしていくつも発生する。こちらへと手を差し伸べようとしていた浮浪者がその牙にかかり、一人また一人と切り裂かれていく。

 

 辻風はまるで自分を守護するかのように吹き込んでいるようだ。

 

 レミーは頭を押え込んで悲鳴を上げる。

 

 胴体を割られた浮浪者の血潮が噴き上がり、レミーは夜都の背中を求めて駆け出していた。

 



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第七話「流星を仰ぐ」

 旧市街地の河川敷に降り立ち、ポシェットに入れていた赤いレインコートを翻した。リボンで髪を結ってから、すぐに鉱石を太陽に翳す。

 

 暮れかけた空に透かした鉱石はしかし、何の反応も示さない。

 

「……追いついたぞ」

 

 振り返ると青年と黒スーツの契約者がこちらを見据える。

 

「驚いたな。お前のような若い諜報員……いいや、契約者が居たなんて。フリードを殺したのは、お前だな?」

 

「だったら、どうだと言う」

 

 切り捨てたように問い返すと、視界の隅でレミーが戦慄いていた。頭を押さえ、彼女は震撼する。

 

「……嘘、でしょ……。ヤトが、契約者……? パパを殺したって……」

 

「言ったでしょう。契約者は、嘘つきだって」

 

 それが引き金となったのか、レミーの瞳から不意に正常な輝きが失せ、辻風が周囲を舞い散る。

 

 青年が木片を掴み取り、ランセルノプト放射光で物質変換する。

 

 その銃口がレミーへと向きかけて、夜都は咄嗟に庇っていた。

 

 その背筋へと風圧の刃がかかる。切り捨てられた感覚に、夜都は倒れ伏していた。

 

「残念だな。そのフリードの娘は人間じゃない。無自覚のモラトリアムだ。元々、その力の制御をするための物質こそが、お前の持つ鉱石。だが精神的不調を来たして覚醒が近くなっていた。モラトリアムとして覚醒した後に待っているのは十中八九ドール。感謝するとも。ドールになるのには、精神的に追い込まれる必要があった。後はMEでその娘の脳内を解析すればいい。フリードの隠していた資料は娘の脳内にある。だが自我があったままでは面倒なのでね。廃人にするつもりだったんだが手間が省けたよ。分かるか? 元々、お前がその娘をどうこうしようが手遅れだった」

 

 青年は哄笑を上げ、銃弾をその身体に向けて追い討ちする。小さな身体が跳ね上がり、終わった、とレミーへと歩み寄った。

 

「さぁ、フリードの娘。モラトリアムになったんだ。晴れて契約者の娘としては相応しい。ご覧、君を裏切った憐れな契約者の末路を」

 

 レミーの瞳より涙が伝い落ちる。青年はそのこめかみに拳銃を向けていた。

 

「来てもらおうか。なに、苦しみはない。ドールになるんだからね。感情も、苦難も何もかもを消し去って、ただの道具になるんだ。……しかし、弱い契約者だったな。逃げ足ばっかりが早くて――」

 

『残念。紅のレインコートは彼女が纏っている間のみ、防弾効果を発揮するんだ』

 

 ハッと響き渡った声の方向に目をやる。

 

『ビックリした?』

 

 高架下でこちらを見据える蝙蝠に呆然としたのも一瞬、死体があった場所に視線を投じた青年は消え去った遺骸に瞠目する。

 

 黒スーツがランセルノプト放射光を輝かせたその時、夜都は躍り上がっていた。

 

 軽業師を思わせる挙動で黒スーツの発生させた地面の鳴動を回避し、その背後へと回り込む。

 

 その手が黒スーツの首筋を引っ掴んだ瞬間、絶叫が劈いた。

 

 黒スーツの耳と目から赤黒い体液が滴る。

 

 ランセルノプト放射光を帯びた夜都は赤い眼を煌めかせ、青年を睨み据えた。

 

「なっ……一撃……? クソがっ!」

 

 両手に木片を握り締め、物質変換で拳銃に変える。

 

 矢継ぎ早に引き金を引き絞り、銃弾がその頭部を捉え、仰け反った。命中の感触を覚えた青年に対し、夜都は僅かに後ずさったが、そのまま何でもなかったかのように踏み込む。

 

 銃弾が融け落ち、煙を棚引かせていた。

 

「……銃が効かない? 何なんだ、お前は!」

 

「……ただの契約者」

 

 応じた夜都はその袖口からクナイを取り出し、そのまま青年へと投げ放つ。青年は地面に手をつけ、物質変換で防御壁を作り上げた。

 

 だが、その鋼鉄の防御壁へと突き立ったクナイがランセルノプト放射光に包まれた途端、青年は覚えず、と言った様子で後ずさっていた。

 

 その手が焼け爛れている。

 

「……これは……」

 

 夜都が歩み出る。青年はレミーを引っ掴み、その首筋に物質変換させた拳銃をナイフに変えて、翻していた。

 

「く、来るな! こいつがどうなっても……!」

 

 僅かに足を止めた夜都に青年は笑みを浮かべ、片手の物質をじりじりとライフルに変換する。

 

 その引き金が絞られたかに思われた瞬間、無音で辻風が生じ青年の手にあったライフルを切り裂いていた。

 

「……こ、この、モラトリアムがぁっ!」

 

 拳銃が一射され、レミーの胸元を射抜く。

 

 それとほぼ同時に、夜都はクナイにワイヤーを巻き付け、そのまま青年へと投擲する。

 

 青年の手首に引っかかった瞬間、彼は手首を握り締め、ランセルノプト放射光で手首から先を木片に変えていた。

 

 根元から引き裂かれた手首が落下し、青年は弱々しい足取りのまま逃げ出していた。

 

 夜都はワイヤーを引き戻し、レミーを窺う。

 

「……や、ヤト……。ヤトは私の……」

 

「……契約者は嘘をついても良心の呵責がない」

 

 その眼差しから光が失せ、涙が一粒、伝い落ちる。

 

 事切れたレミーを抱え、夜都は面を伏せていた。

 

「……残酷だな、相変わらず」

 

 合流してきた銀髪の男が時計を気にしながら声にする。

 

「――紅。分かっていたんだろう? その子がモラトリアムであった事を。どうしてすぐに殺さなかった?」

 

「……モラトリアムじゃない。彼女は私の……友達」

 

「ひたすらに残酷だね、君は。どうせドールに堕ちるんだ。だったら、もっと冷酷になってやればよかったのに。君は最悪の思い出を彼女に与えて、それで死なせたんだ」

 

 黙りこくる自分に紫色のテディベアを抱えた少女が現場に入り、蝙蝠が舞い遊ぶ。

 

『よせ、グレイ。まだ任務中だぞ』

 

「ブルック。ずっと見てたんならもうちょっとマシな事に出来たはずだが? どっちにせよ、組織は別方向からのアプローチで娘の脳内にあったと言う資料は確保済み。二手三手、上だったってわけだ」

 

『その少女がモラトリアムかどうかは賭けだった。覚醒するかどうかも。ガーネット、逃げた契約者の位置は?』

 

 光を触媒とした観測霊を用い、少女――ガーネットは捕捉する。

 

「……遠くには行っていない」

 

「……止めを刺す」

 

「贖罪のつもりかい? 彼女の死に際に、素直になれなかった自分への」

 

「……契約者はそんな事に足を取られやしない」

 

 言い捨てて、逃亡した契約者の足跡を追い始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 激痛に呻きつつ、青年は呼吸を整えようとする。

 

 物質変換で自分の手を無機物にするのは苦肉の策であったが、それでも逃げる事に必死だった。

 

「……組織に連絡を取らなければ……あの契約者は危険過ぎる……」

 

 任務失敗の負い目を感じつつ、今も滴る鮮血を視界に入れた青年はしゃがみ込んでいた。

 

 何回も能力を使用した。対価を支払わなければならない、という強迫観念が襲いかかり、こんな時なのにコイントスを始める。

 

 しかし片手のせいか、うまくいかない。

 

「くそっ! ……逃げなくてはいけないのに」

 

 その時、足音が耳朶を打つ。振り返ると、鮮血を追ってきた煉獄の契約者にコイントスを中断して逃げおおせようとする。

 

 旧市街地の工事現場へと逃げ込み、その足がもつれて鉄板の上で無様に転がる。

 

 相手が踏み込んだ瞬間、全ての決着はついていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現場に急行したその時には既に全てが決した後であった。

 

 旧市街地で死に絶えた契約者二名と、そして焼失したアパートの住人であった少女。

 

 銃弾で胸を射抜かれ、ほぼ即死であったと思われる。

 

 ジャンが車に背中を預け、ふぅと嘆息をつく。

 

「……後味の悪い事件ですね」

 

「ええ、結局手がかりである契約者は死亡。先日のSV802の娘も……。一体何があったのか見当もつかない」

 

 だが、と遺体の状態の報告書にミシュアは目を通す。

 

「……遺体の手に青い鉱石が握られていたと」

 

「誰かが死んだ彼女に握らせたんでしょうか? それが何かの手がかりには……?」

 

 ミシュアは頭を振る。

 

「……いや、指紋も何も検出されなかった。何の変哲もない石だったみたいね。でも、何か意味があるかのように少女は握っていた。何かが、あの石にはあったのかもしれない。それこそ、彼女だけの思い出が……」

 

「思い出、ですか。しかし契約者はそんな事も関係なく、死体だけを積み上げる。やるせないですよ、こういうの」

 

「……そうね。やるせない。何か、救われるものがあれば、よかったのにね……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーっ、ヤト。また書いてんの? よく飽きないわねぇ」

 

 アリスがどうやらバイトから帰って来たらしい。夜都はパソコンから視線を外さずに応じていた。

 

「……続き、思いついたから」

 

「で、結局死神の女の子はどうなっちゃうの?」

 

「……そこは未定、っと……」

 

 エンターキーを押してそこまでで切り上げると、コーヒーメーカーの抽出を始める。

 

 アリスは椅子に腰かけ、ふぅと息をついていた。

 

「ヤトの小説、完成するのはいつになる事か」

 

 アリスはパソコンを覗き込み、進捗を確認する。

 

「……死神の女の子はまた、同じような境遇の女の子の命を摘んだんだ。悲しいね、このストーリー。だって罪の丘から勇気を出して外に出た死神の女の子は、出会う相手の命を奪っちゃう。遭遇するのはどれも可哀想な女の子ばっかり。ヤトさぁ、こういう話を書いていると嫌になんない?」

 

「物語は物語だからね」

 

「それはまた、クールな事で」

 

 抽出を終えたコーヒーをマグカップに注ぐ。漂う芳しい香りにアリスは頷き、マグカップを受け取っていた。

 

「……契約者の事件、またあったんだってさ。旧市街地でドンパチ。いやー、怖いわね。でもま、ブログのネタにはなるか」

 

「アリスだって、残酷じゃない。契約者の事件にはすぐに飛びつく」

 

「そりゃあ、メシの種だし。そこはほら、割り切っていかないと」

 

「割り切って、ね。どこも私と変わらないと思うけれど」

 

 その時インターフォンが鳴る。アリスが手を振ったので、夜都は代わりに出ていた。

 

「はい」

 

「旧市街地であった事件に関して、話を聞きたいと思っていまして……」

 

 赤いジャケットに袖を通したどこか軽い調子の警官に夜都は応じる。

 

「……私はこっちに来たばっかりで」

 

「あ、旅行者の方でしたか? 失礼ですが、身分証を」

 

 夜都は身分証を差し出し、相手へと了承を取る。

 

 同行している女の警官がぐっと切り込んできた。

 

「ご協力ありがとうございます。新市街地のハイスクールの女生徒が犠牲になったので」

 

「……それは。お悔やみ申し上げます……」

 

「いえ、見たところあなたも同年代のようですが、何か聞いていませんか?」

 

「いえ、現地の方とは交流もないもので……」

 

「そうですか。では失礼します」

 

 夜都はその背中を見送ってから、扉を閉める。

 

 401号室の扉が、静かな音を立てて閉ざされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

第一章 了

 



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第二章「扉叩く者は、恩讐の悪路を辿る…」(前編)
第八話「扉を潜る」


 また、命を刈った。

 

 刈り取る度に、私の鎌は研ぎ澄まされていく。

 

 罪の丘を登っていたころは、そんな事はなかった。なまくらの刃を持て余していたのに、今は白銀と血の赤に染まるこの鎌が憎い。命を刈り取る忌々しい刃。

 

 ここから居なくなれば、と思ったのはそんな折であった。

 

 旅の先は今のところ見えない。月光の降り注ぐ道を探し求めているのに、天に広がるのは星空ばかり。

 

 また、星が流れる。

 

 死神の自分は、鎌を担いだまま星空の泉へと到達していた。

 

 どうしよう、と周囲を見渡す。泉を渡るのには船が必要だ。

 

 しかし、船は見られない。漕ぎ手もない。

 

 泉の先には深淵の森が広がっている。誰かを傷つけてしまうくらいならば、誰も傷つけないところに来ようと思って、ようやく到達した場所。

 

 だが、船の渡し手も居なければ、導き手も居ない。

 

 その場にへたり込む。裸足で歩くのも随分と疲れた。

 

 疲弊し切った息を吐くと、不意に静謐の泉から顔を出したのは、金色に輝くイルカである。

 

 ――どうしたの? 泉を渡りたいのかい?

 

 死神の身ではあるけれど、金色のイルカは初めて見る。少しだけ当惑しながら、膝を抱え頷く。

 

 ――だったら、僕の背中に乗るといいよ。

 

 イルカは旋回し、背中を差し出すが、私は躊躇った。

 

 ――駄目。鎌の重さであなたが沈んでしまう。

 

 ――そんな事はない。僕はこれでも泳ぎが自慢なんだ。鎌がどれだけ重くてもへっちゃらさ。

 

 でも、と私は困惑する。

 

 ――私の鎌は命を吸い過ぎた。ヒトの命の重さに、あなたはきっと耐えられない。森に着くまでに溺死してしまう。

 

 こちらの言葉振りにイルカはへんと胸を反らす。

 

 ――そんな事にはならないよ。でも……君は森に行きたいんだね? 分かっているのかい? あの森には、何も居ないよ? 誰もいない、漆黒の森だ。深淵の森の孤独に、人間が耐えられるとは思えない。

 

 それに関しては、と私は応じていた。

 

 ――大丈夫。……だって独りは、慣れているから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『えー、それではこれより、ニューヨーク新市街地のツアーを開始します。進行をつとめさせていただきます、高橋と申します。さて、こちら、ご覧ください。新市街地と言えば、そう、これ。先の南米における天国戦争の慰霊タワーが建っております。光の摩天楼と呼ばれるこちらの建築物は地上250メートル。ニューヨーク新市街地を象徴する建物となっております。その楼閣の中にはツアー客が日夜押し寄せ、一度は経済的に倒れかけたこのアメリカを支える屋台骨として、新市街地のシンボルとなっているようですね。さて、次の見所ですが……』

 

「ねぇ、あなた、珍しいわね? 日本人?」

 

 観光バスが揺れる。隣に座った金髪の少女の問いかけに少しうろたえながら答える。

 

「うん……この時期だけれど、一応観ておきたくって」

 

「新都を? 変わり映えはしないと思うけれど。……それより、さ。本当なのかしら、あの話」

 

 ぐんと顔を近づけられ、その好奇心旺盛な碧眼が揺れる。こちらも声を潜めていた。

 

「……ゲートを、見せてもらえるって言う……」

 

「そう、それ。【煉獄門】でしょ? 私、トーキョーの【地獄門】を観て来たのよ」

 

「それは……どうだった?」

 

 ふふっ、と相手は悪戯っぽく微笑む。

 

「何てことはない、真っ黒で大きな壁。特に怪奇現象には見舞われなかったわ。ちょっとがっくし」

 

「そう、なんだ……。でもゲートも観光スケジュールの中に入れるのって、思い切っていると言うか、この旅行会社だけだよね」

 

「秘密プランって言うの? 日頃のご愛顧に感謝して、とか言ってさ。メールで当選が送られて来た時には嘘だと思ったけれど、でも、本当っぽいよわね。ほら、一番奥の席に……」

 

 バスの一番奥の席を目線で窺う。

 

 座っているのは赤い長髪の女と、黒服が二人。全員サングラスをつけており、どう見ても怪しいオーラを纏っている。他の観光客も気になるのか、全員囁き合っているのが見られた。

 

「……やっぱし、あれ、諜報員? それとも例の……契約者?」

 

 他の噂話をするのと同じような調子に、どうかな、と返す。

 

「……本当に観光客かもしれないし……」

 

「……ふぅん。あなた、事ここに至っても本当にこの旅行会社、安全だと思う?」

 

「それは……信じるしかないとは思うけれど」

 

「信用出来るのかどうかって結構難しいかもよ? あ、名乗っていなかったわね。私、シャルロット。あなたは?」

 

「あ、……鷺坂夜都って言うの」

 

「へぇー、ヤトねぇ。上手いのね、英語」

 

「結構勉強した」

 

 えへへ、と照れたように笑うとシャルロットはいい事ね、と頷く。

 

「日本人ってただでさえ珍しいから、でも気を付けたほうがいいわよ? トーキョーの関係者とか思われたら、攫われちゃうかも」

 

 まさか、と夜都は声にする。

 

「そこまで野蛮?」

 

「分からないわ。ニューヨーク新市街地は初めて来るし、それにゲートって言うのもね。本当に例のゲートと同じなのか……」

 

「違うゲートがあるの?」

 

「……これ、噂なんだけれど……」

 

 さっきからやたらと噂が好きだな、と思いつつも夜都は首肯する。

 

「ゲートの中では何かを対価にして何かを得られるって聞く。それを狙って各国の契約者が跳梁跋扈しているって」

 

「じゃあ、あまり安全とは言えないって事?」

 

「そうね。少なくともこの旅行プラン、怪しいところだらけよ。本当にゲートに入るんだとすれば、一応は条約違反のはずなんだけれどな……」

 

 顎に手を添えて考える仕草をするシャルロットに夜都は時計に視線を落としていた。銀色の時計は正常に稼働しており、今のところ変化はない。

 

 そもそも、と夜都はここに来るまでの事を思い返していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「旅行? この時期に?」

 

 アリスがブログを更新してから切り出すと、彼女は目を見開いていた。

 

 夜都はコーヒーメーカーを抽出しながら、うんと頷く。

 

「ハイスクールの行事で」

 

「大変ねー、ま、若人は今のうちに遊んどきなさいよ。大学生になると余裕、なくなるから」

 

「……アリスは大学、行ってないでしょ」

 

「しーっ、そういう事言わない」

 

 誰に対しての配慮なのかは不明のまま、夜都はマグカップにコーヒーを注ぐ。黒々とした液体から芳しい香りが運ばれ狭い部屋を満たした。

 

 アリスは鼻をすんすんとさせ、満足げに頷く。

 

「うん、やっぱり、ヤトのコーヒーって飲む前からおいしそー! 早くちょうだいって!」

 

「焦らないでよ。……それで、二日ほど泊まるから、コーヒーは……」

 

「あー、いいって別に。あんたがコーヒーを決まった時間に淹れるって言うの、半分冗談の条件だし。それにハイスクールの行事なら、恨み言は言えないわよ」

 

 手を払ったアリスへとマグカップを差し出す。彼女は早速口に運び、ブログの記事へと目線をくれる。

 

「でも、気を付けなさいよ。どこまで行くのか知らないけれど、各国は威信をかけて、ゲートの解明を急いでいるから」

 

「それってオカルト掲示板の受け売りでしょ。アリス、そんなの載せていいの? ジャーナリズムがどうとかこうとか、普段はうるさいのに」

 

 コーヒーを口に含みつつ、夜都も自分のパソコンの前に腰を下ろす。アリスは、失敬なとむくれた。

 

「あたしはこれでも厳正な審査に基づいて、きっちりとした情報を掲載しているつもりよ? オカルト板の噂話には惑わされないわ」

 

「……それ、そのままコピペしたでしょ?」

 

 アリスは咄嗟にパソコンを手で覆い隠すが、もう遅い。夜都はため息をついていた。

 

「……普段危ないから不確定な情報を載せないって言っているの、アリスじゃない」

 

「それはあれよ……! 契約者関連の情報なら、ここを閲覧している人もいるかもって思った話」

 

「ゲートの話でしょ? 同じじゃないの?」

 

「ゲートに関しちゃ、こっちとあっちじゃ勝手が違うからね。【煉獄門】関連の情報って結構アクセス数いいのよ? あっちじゃ、【地獄門】を潜るだけで審査審査の限り。でもこっちじゃ、偶発的にそこいらで出現するから、ゲートの出現情報を掲載するだけで、ありがたがられるってわけ」

 

「……勝手な言い分」

 

 そう言いやってキーを打つ自分にアリスは後ろからばっと抱き着く。思いも寄らぬ行動に夜都はうろたえていた。

 

「危ないでしょ! コーヒーこぼしちゃう」

 

「……ねぇ、ヤトー。あんた、またこの小説の続き、書いてるの?」

 

「……まぁね」

 

 こちらが取り着くしまもなかったせいだろう。アリスはどこか不遜そうに口にしていた。

 

「それってさ、結局ハッピーエンドになるの? 死神の女の子はどうなっちゃうの? 最近翻訳した奴だと、遭遇する女の子の命を、みんな刈ってしまう事に嫌になった死神の子は、誰の目も届かない、漆黒の森に入っちゃうのよね? ……そこで救いはあるの?」

 

「教えないっ。勝手な事言い過ぎ」

 

「へそ曲げないでよー。ヤトってばさ、もうちょいオシャレすれば? 何て言うか、芋っぽいって言うか……」

 

 黒のタートルネックにセミロングの黒髪はそこまで地味に見えるだろうか。夜都は唇を尖らせて抗議する。

 

「……オシャレとか、ガラじゃないよ」

 

「そうやってさー、決めつけってよくないと思うのよねー。でもま、あたしはあたしのヤトが急に変わっちゃったらショックだろうけれどさ」

 

「……誰が誰のヤトだって?」

 

「マグカップ洗っておいてねー。あたしゃ寝るわ」

 

 アリスはロフトの上に昇って早速高いびきを掻く。夜都は嘆息をついて小説の続きを練っていた。

 

「……森に入った死神は、どうするのだろう。これまでたくさんの命を吸ってきた鎌は、重過ぎてきっと、イルカが渡してくれる前にその命まで摘んでしまう。それに彼女はきっと……耐えられない。せっかく辿り着いた一人になれる場所に行くのに、誰かの犠牲を伴ってしまう。……我ながら救いのないお話」

 

 そうぼやいて夜都はパソコンをスリープモードに移行させ、自分もベッドに入りかけて二段ベッドから声を聞く。

 

「……ヤトー。でも帰ってきたら、コーヒーを淹れてね。とびっきりに美味しいの」

 

「……何、寂しいんじゃないの」

 

「違うってば。……いや、違わないか。ヤトー、あんまし遠くに行かないでね」

 

「何それ。ハイスクールの旅行だってば」

 

 笑い話にしようとして、アリスがもう寝入っているのに気づく。

 

「……ホント、身勝手……」

 

 



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第九話「只中を踏む」

 いつも通り、モーニングを注文すると、店主は早速気づく。

 

「おっ、ヤトちゃん、今日はいつもと持っている物が違うね?」

 

「あっ、ちょっと旅行に行くんです。ハイスクールの」

 

「へぇー、いいね。私も若い頃には旅行をたくさんしたものさ。でもまー、天国戦争以来は渡航も制限されちゃって寂しいけれどね」

 

「あんた、余計な口を挟んでいないで。ヤト、いつものホットドック、これ食べて、元気で行っておいで」

 

「ありがとう。いただきます」

 

 いつもの公園に向かう途中ですれ違う人々を見渡しながら、夜都はトレイを手にベンチに座り込んでいた。

 

「今日の朝刊は最悪だ。天気予報くらいしかまともに読めるものはないな。あとはコミックか。こりゃーいい! 爆笑って奴だ!」

 

「要件は」

 

「そう急かすなよ。ゲートに入るって噂の小旅行、楽しんでくるといい」

 

「例のブツを」

 

「ほれ。しかし紹介料も含め、馬鹿にならないんだ。頼むからゲートで消息不明ってのはやめてくれよ。契約者はそうでなくともゲートに捕えられかねない」

 

 差し出されたのは銀色の腕時計だ。巻かれている今回の旅行プランの概要書類を開き、夜都は一瞥だけ寄越してグレイへと同じサイズの地図を代わりに差し出す。相手はそれを受け取り、ふとこぼしていた。

 

「契約者はゲートに入るのなら、やはり願うのか? 消えてしまった者を……それこそ死者の再起でも」

 

「お喋りは」

 

「分かっている。ニューヨークは今日も晴れだ。雲一つない」

 

 中天を指差されると、蝙蝠が一羽、ニューヨーク新市街地を舞っていた。それを視認し、夜都はホットドックを頬張る。

 

「それ、好きだな。モーニングはいっつもそれだ」

 

「安定しているから」

 

「その答えも淡白だな。もっと色気づくといい。そうじゃないとエージェントなんてやっていられない」

 

「合理的じゃない」

 

「それも言えてる」

 

 コーヒーを飲み干して夜都は歩み去ろうとして、待て、と呼び止められる。

 

「他のエージェントの眼がどこにあるか分からない」

 

「それでも、だ。ガーネットと会って来い。彼女、それなりに心配しているようだった」

 

「心配? ドールでしょう」

 

「だからさ。分からない事は全部ゲートのせいだ。もしかしたら何かを感じ取っているのかも」

 

「分からない事は全部ゲートのせい……ね」

 

 呟き夜都はトレイを返して新市街地を突き進む路面電車に乗り込んでいた。

 

 路面電車はかつて、このニューヨークを縦横無尽に走っていた地下鉄の代わりを担っている。この街はしかし生まれ変わらなければならなかった。そうでなければ天国戦争の苦渋を今も背負っている事だろう。

 

 変容を含めるのもまた、常である。

 

 この世界では、最も信頼出来るとすれば変化。

 

 変化だけが、どこへなりと行ったとしてもまだ人の世足りえるのだと思える所作だ。

 

「……変化をしない契約者は、だから異物なんだ」

 

 路面電車を既定のスポットで降りると、裏路地に繋がる戸口で屋台を開いている少女に出くわす。赤茶けた髪を二つ結びにしたゴスロリの影は僅かに面を伏せっており、眼前に立つまでこちらを認識していないようであった。

 

 窺って見ると、胸の前で裁縫をしている。紫色のテディベアを抱えながら、完成するか分からない何かを組んでいるようであった。

 

「……何を作っているの?」

 

「……分からない」

 

 それはそうだろうな、と夜都は感じる。ドールに自律感情はない。自我がないのだから、プログラムされた行動を反芻するしかない。彼女の場合は「仕事」以外の時間をこうして裁縫に費やすように誰かに仕組まれているのだろう。

 

 その誰かも、まさか彼女がこの世の果てまできっと裁縫を続けるとは思っても見ないのだろうが。

 

「……ドールの直感を信じたい。占いを」

 

 一ドルを払うと、ガーネットは裁縫の手を止め、伏せ気味の眼差しのまま、静かに口にする。

 

「……紅(ホォン)は扉で大事なものに出会う」

 

「大事なものって言うのは?」

 

「……それ以上は分からない。ただ、今回の任務……簡単だと思わないほうがいい」

 

「……胸に留めておくよ」

 

 応じるとガーネットは裁縫に戻っていた。こうして彼女は代わり映えのしない日常を過ごす。ドールには眠りも必要ないと聞く。だから、未来永劫、ガーネットは変化のない日々を過ごすのであろう。

 

「……美点があるとすれば、この世が滅びたって、彼女達はきっと、何も変化を覚えないのか……」

 

 それを美点と呼ぶかは微妙であったが、それでもそうだと思わないとやるせなかった。

 

 さて、と夜都は今回の旅行パンフレットを確認する。その足は自然と旧市街地にあるセーフハウスへと向かっていた。

 

 いつもの屋台でバケットを買い、暗証番号を入れて部屋の定位置につくなり、コーヒーメーカーを抽出させる。

 

「……【煉獄門】の観光……世界最初の、か。売れ込みはゲートの中に入ってみませんか……馬鹿馬鹿しい」

 

 よくこんな旅行プランが通ったものだ、と考えていると、パンフレットの裏側にURLが記載されている。

 

 夜都はここまで持ってきていた小型パソコンを起動させ、有線でインターネットに入る。すぐさま別窓を開き、プライベートネットワークを構築する。

 

 検索窓にURLを打ち込むと、何重にも偽装された旅行会社の真の顔が見えてくる。

 

 コーヒーの抽出が終わったのでマグカップに注ぎ、口に含みつつ声にする。

 

「……驚いた。運営会社はPANDORAと噛んでいるなんて」

 

【地獄門】と【天国門】、そして契約者の発見を嚆矢として発足された世界組織、通称『PANDORA』。様々な条約を締結させ、無理やりに世界を動かそうとしている相手が旅行会社のバックに居る。その時点で胡散臭さを感じていたが、それでもまさか組織に察知されるほどの迂闊さだとも思えない。

 

 となれば、この情報は……。

 

「ブラフか……あるいはわざと分かるようにしてある。契約者を釣るために……」

 

 各国の契約者が釣られてくれれば、芋づる式に【煉獄門】を狙っている組織の諜報員とその情報を手にする事が出来る。問題なのは、契約者がそうそう簡単に紛れ込めるかどうかだが、自分が差し向けられたほどだ。同じように考えている組織の一つや二つはあるだろう。

 

 夜都はコーヒーを飲み干してから、情報をダウンロードしてから回線を焼き切られる前にLANケーブルを引き抜く。

 

 物理的に遮断されているとは言え、安心は出来ない。契約者の能力は電脳世界くらいわけないだろう。

 

 問題なのは、この旅行プランで遭遇するであろう契約者の存在。

 

「……組織は私に消せと言っているのか。あるいは……」

 

 別の可能性を夜都は棄却し、小型パソコンを鞄に入れて旅行会社の提示した集合場所へと歩み出していた。

 

 



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第十話「狂乱を見据える」

『ゆっくりと手を上げてください。そう、ゆっくりと』

 

「嫌ね、これ。何で旅行なのに二時間に一回も手荷物検査を?」

 

 シャルロットの嫌悪に塗れた面持ちに夜都は応じていた。

 

「……紛れ込んでいるんじゃないかな。何人か」

 

「……契約者? まさか、あり得ないでしょう。だって契約者は化け物だって。人間の振りなんて出来ないわよ」

 

 そうかもしれないが、そうでないかもしれない。

 

 夜都は手荷物検査を受けながら二三対応する。

 

「荷物はこれだけ? 着替えと、粉末コーヒーと、小型パソコン」

 

 パソコンを手に取ったスタッフに、ちょっと、と声を飛ばしたのはシャルロットだ。

 

「プライバシーでしょ! パソコンなんて!」

 

「……分かってますよ。ちょっと何か仕込まれてやしないかと思っただけです。パソコンの大きさでも破壊活動は可能ですからね」

 

「……何それ。爆弾でも精製しているって言いたいの?」

 

「シャルロット、もういいから。……すいません、何か、問題ありましたか?」

 

「……いや、ないが」

 

 どこか不服そうに応じたスタッフにシャルロットは吐き捨てる。

 

「何よ。あなたが契約者だったら死んでいたわね、奴ら」

 

 そのコメントには笑うしかない。

 

「誤解が解けてよかった」

 

「誤解も何も……招いておいてこの扱い? 詐欺よ、詐欺!」

 

 そう言いやるのも仕方ないのかもしれない。二時間に一回も手荷物検査をするのはどう考えても異常だが、これから先に赴く場所の事を考えるのならばよっぽど正常だ。

 

「……ねぇ、契約者が居るとして、尻尾を出すかな」

 

「出さないんじゃない? だって契約者でしょ? この旅行プランに潜入した時点で、別の存在だと思うべきよ」

 

「……かもね。こういうのに参加する時点で、おかしいのだって思う」

 

「そもそも、実在するのかは疑問だけれどね。各国で能力を行使するそういう存在。本当だとすれば、トーキョーは相当に危ないはずよ?」

 

「でも実際、【地獄門】付近では頻繁に殺人やら何やらって言う……」

 

「噂でしょ。ゴシップよ」

 

『ご苦労様でしたー! バスにご乗車ください!』

 

 拡声器で案内するスタッフにシャルロットは嘆息をつく。

 

「……やってられないわよ、これ」

 

「本当、そうだと思う」

 

 この身分を含めて、やっていられないと言う思いはある。しかし、今さらぼやいたって仕方ないのだ。

 

 再び座席に座ったシャルロットは苦言を呈していた。

 

「お尻が痛くなっちゃう」

 

「結構乗ったと思うけれど……」

 

「行先は不明のミステリーツアー……物は言いようよね」

 

「新市街地の面目上、どこかは明かせないんじゃないかな。後で一般人が巻き込まれたら困るし」

 

「……私達も立派な一般人なんですけれど……」

 

「私達は望んでこの旅行に参加したんだから。自己責任かも」

 

 その結論にシャルロットはため息をついていた。

 

「あー嫌だ嫌だ。ゲートに興味を持ったから言って死にたいわけじゃないのに」

 

「……それも、自己責任かもね」

 

 夜都はつい数十分前から景色も望めなくなっている事に気づく。窓にフィルターが入っている。普通の人間なら気づかない。大方、手荷物検査の時に仕込んだのだろう。偽装の景色を映す窓辺で夜都は呟いていた。

 

「……そろそろ近いのかな」

 

「……【煉獄門】に関して、私も調べて来たわ。ニューヨーク新市街地に発生する不確定要素。どこに存在し、いつ現れるのか、何もかも不明のゲート。物理法則は役に立たず、全ての現象はトーキョーの【地獄門】や南米の【天国門】のように異常を来たすとも」

 

「詳しいんだね」

 

「ちょっとばかし詳しくないと、怖いもの見たさだけでは来られないわよ」

 

 肩を竦めたシャルロットに、そういうものか、と夜都は納得する。

 

「……他の国からしてみれば、【煉獄門】ってそう映るか……」

 

「あなた、日本人でしょ? この国は初めてじゃ?」

 

 こんなところでぼろは出さない。夜都は用意しておいた文言を使う。

 

「私も調べたの。それに、友達がニューヨークに居て。だからリアルタイムで知っているんだ。【煉獄門】に関しても、現地の人って案外ドライって言うか、またか、くらいの気持ちみたい」

 

 半分は自分の経験だが。シャルロットは特別に疑う事もなく、それを飲み込む。

 

「ああ、そうだとも聞くわね。私も下調べはしてきたつもりだけれど、こんなザマになるとは思わなかったわ」

 

 頬杖をついたシャルロットはバスガイドを務めるスタッフを睨んでいた。先ほどから彼は映像資料を見せている。

 

『こちら、【煉獄門】の発生を我々が独自に、観測したものとなっております。ご覧ください。【煉獄門】は濃霧のように突然に出現し、そしていつの間にか消滅する。これに関して、様々な有識者が意見を交わしてきましたが、最もこの現象に近いものを説明するのに、彼らはトーキョーの四季を連想したそうです。ニッポンでは、春夏秋冬が存在し、これらの温度、湿度、そして季節ごとに咲く花々がある。彼らの間では、【地獄門】が安定域に達しているのは四季の関係もあると言われており――』

 

「馬鹿馬鹿しい。じゃあ何ですぐに現れて消えるのかって話よ」

 

「……ニューヨークがそこまで高温多湿だとも思えないけれど」

 

「だから、あの論理は飛躍しているの。そもそも、じゃあゲートが現れているって言う事は、ゲートでしか観測出来ない現象もあるって事じゃない。なのに観測機一つ飛ばさないなんて可笑しいでしょうに」

 

「あのー、質問いいですか?」

 

 挙手した自分にシャルロットも目を見開いている。スタッフは少しうろたえつつも、自分の名前を座席と照合させた。

 

『えーっと……日本からお越しヤト・サギサカさんですね。質問ですか、えっと……分からないところでもありましたか?』

 

「何で観測機を飛ばさないんですか? そうすればもっと有意義に情報を集められるのに」

 

「ちょ、ちょっと! 目立つ真似を……!」

 

『なるほど。いい質問です。確かに観測機を飛ばせばもしかすると【地獄門】の解析にも一役買うかもしれない。ですが、観測機は記録上、全て迎撃されているようです』

 

「迎撃……まるでゲートの中に、何か居るみたいな言い草ですけれど……」

 

『サギサカさん、英語がお上手ですね。その通り。有識者は【煉獄門】の中に、何かが存在していると規定しています。だからこそ、ゲートはその時々に位相を変えるのではないか、と』

 

「……ゲートの中に、何かが居る? そんな理論……」

 

『飛躍していますか? ですが、そう考えるとより自然なのです。何かは我々には想像もつかない法則性で動いている。そう、生活しているのです。前置きとしてそう思っておけば、ゲートの不規則性を際立たせる事が出来る』

 

「……それはあなたの考えですか?」

 

『まさか。聞きかじりですよ』

 

 それで質疑応答は終わったが、シャルロットが肘で突く。

 

「……度胸あるのね。一応はゲートってどの国からしてみても機密だから、あまり詮索が過ぎると危ないわよ」

 

「知りたがりは嫌われる?」

 

「この場合は勘繰りだけれど。でも、これで分かったのはこのツアー、ただの裏ツアーじゃないって事ね。ある程度ゲートの有識者と繋がっている。……これ、実験なのかも」

 

「実験って……?」

 

 シャルロットは真面目な面持ちで言いやる。

 

「ゲートに人間を近づけさせて……そういう臨床実験。つまりは私達はモルモットってわけ」

 

 想定していない答えではなかったが、夜都はもっともらしく頷く。

 

「……気づかなかった」

 

「でもそうだとすれば、もっと厄介なのは、誰が、この実験を仕切っているのか、ね。米国だとしても角が立つし、他の国ならさらに」

 

「……管理している国を露見させる結果になるって事?」

 

「物分りはいいじゃない。【煉獄門】を実質的にどの国が牛耳っているのか、ともすれば分かるかもね」

 

 その時、バスが停車する。緩やかなカーブを描き、目的地に着いたようであった。

 

『はい、では目的地に到着しました。皆さん、指示に従って降りてください』

 

 不承気味に降りていく旅客の中には、シャルロットが怪しいと踏んだ三人組もいる。今のところ、何かが起こる気配もないが、夜都は周辺地域の把握に努めていた。

 

 拓けた景色に、目印になるものも見られない平地。ニューヨーク新市街地の中ならどこへなりと、慰霊タワーが発見出来るはずだが、どうしてなのだか見つからない。

 

「……慰霊タワーが見えない。どういう位置関係なわけ?」

 

 勘付いたシャルロットに夜都は推論を述べる。

 

「……高台に来ているのかもしれない。あるいはすごく低い位置か」

 

「新市街地の地図は頭に入っているはずよ? ……なのに、この場所、まるで見当がつかないわ」

 

「……もしかすると、これ自体が」

 

 赴く言葉の先を、シャルロットは息を呑んで継いでいた。

 

「……契約者の能力……」

 

 あり得ない話ではない。位置関係を誤認させる契約者が張っていてもおかしくはなかった。

 

 だがスタッフはこちらの疑念など関係なしに拡声器で指示を飛ばす。

 

『はい! 皆さん、よく訪れてくださいました! ここが、次なるゲートの出現位置と目されております』

 

「……ゲートの出現位置を予測している? そんな事って……」

 

「分からない。さっきの答えの推論が正しいのなら、ゲートは生き物かもしれないって……」

 

「暴論よ。推測の域を出ないわ」

 

 スタッフは全員の名簿を確認し、目線で促すと青白い光を帯びた扉が出現していた。

 

「……ランセルノプト放射光……」

 

 シャルロットが息を呑む。確実に契約者が存在しているが、視界の中には察知出来ない。

 

『さぁ、この扉を潜って、ゲートまで行きましょう!』

 

 スタッフの導く声に、不意に悲鳴が劈いた。

 

 視線を投じると先ほどの黒スーツと同行していた女性がサングラスを外し、髪を乱れさせている。こめかみを押さえて後ずさった女性にスタッフ達が対応する。

 

「どうされましたか?」

 

「ご気分でも?」

 

「来ないでぇっ! ……何なの、あんた達……。そんな風にして、私を視ないでぇっ!」

 

 錯乱している様子の女性へとスタッフが手を貸そうとして、その瞳が赤く輝いていた。

 

 途端、スタッフの腕が肩口から切り裂かれる。鮮血が迸り、ごとんと腕が落とされていた。

 

 呻くスタッフと恐慌に駆られた旅客達を制するように、拡声器のスタッフが声を発する。

 

『お静かに! 大丈夫です、これはまだ、想定内ですから』

 

 その言葉に訝しんでいた夜都は、逃げ出そうとした女性を目で追っていた。女性が逃げ切る前にスタッフの一人がその背中に圧し掛かって押え込む。もがく女性にスタッフ達は拘束具をつけていた。

 

『お騒がせしてすいません。契約者の中にはゲートに呼応する者もいると聞きます。まさか参加者の方の中に契約者が居るとは……』

 

 困惑の声音であったが、先ほどの想定内という言葉と矛盾する。何か、このスタッフ達はひた隠しにしているのが窺えた。

 

『ですが、もう大丈夫です。さぁ、扉をどうぞ。怖がる事はありません』

 

 一人、また一人とランセルノプト放射光を放つ扉を潜っていく。

 

 シャルロットはどこかおっかなびっくりにその扉を潜り抜け、夜都は背中に続いていた。

 

 大写しになったのは打って変った機械設備の整った研究施設である。まさか屋内に出るとは思いも寄らなかった夜都は観察の目を走らせていた。

 

 



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第十一話「愚鈍を弄する」

『……はい、皆さん、入られましたね。先ほどの女性の同行者のお二方……いいのですか?』

 

「構わん。……しかし、危険だとは思わないのだな。我々も契約者かもしれないぞ?」

 

 どすの利いた声にスタッフは、おお怖いとおどける。

 

『ですが参加者の方々は皆さん、同意書にサインされていますので。どのようなトラブルがあっても、強行する、と』

 

「……それはその通りだが」

 

『それに、契約者だからと言って差別はしません。このツアーに参加してくださっている時点で、等しくお客様です』

 

 どこで切り取ったのか分からない、欺瞞に満ちた答えであったが黒服達は黙りこくるしかないらしい。確かに、契約者でも関係ないと言われてしまえば立つ瀬もないだろう。

 

『まずはスキャンを受けていただきます。これは【煉獄門】に実際に赴いていただく前の、一次審査だと思っていただければ』

 

 並び立った銀色の椅子にシャルロットは露骨に嫌悪感を示す。

 

「……嫌ね、疑っているみたいで」

 

『一応はこれで脳内検査を通過した方のみが、【煉獄門】へと入場していただきます』

 

 夜都は促されるままに座り込み、ヘッドセットを付けられて脳内検査とやらを受ける。

 

 いくつかの極彩色の景色が拡散したかと思うと、直後には弾け、というイメージを数回に分けてパターンを変化させられる。それを三分ほどこなした後にヘッドセットが上げられていた。

 

 気が付けば、銀色の椅子に座っていた参加者は五人ほど減っている。

 

 どのような審査基準であったのかは不明だが、彼らは相応しくなかったらしい。

 

『……はい。では残った方々はこちらにどうぞ』

 

 今度は契約者の能力の扉ではなく、機械の扉を潜り奥へと移送されていく。

 

 それぞれの扉を潜る度に何かが作動しているのが察知出来た。

 

「……何かしら、これ。CT? それともMRI?」

 

「……どれでもないんじゃないかなとは思うけれど」

 

 ゲート内に由来する技術なのだとすれば自分には分かるはずもない。

 

 まるで製品のようにベルトコンベアーで運び込まれた先にあったのは、狭苦しい部屋の数々であった。

 

 最低限のプライベートのみを重視した、監獄のような部屋が連なっている。

 

『皆さんにはここに寝泊まりしていただきます。旅行プラン通りに今のところ進んでおりますのでご心配なく。ゲートの出現を関知し次第、ご案内しますので』

 

 にこやかに応じるスタッフに黒スーツ達が噛み付く。

 

「おい、これじゃまるで囚人じゃないか。高い旅費を出しておいてこんな扱いはないんじゃないのか」

 

『今回の主目的は、ゲートへの来訪にありますので。最も適切な宿泊施設を選んだ次第でございます。通常のホテルでは対応しきれない事も、ここならば』

 

 先ほどのように発狂されてしまえば普通の宿泊施設ならばどうしようもないだろう。それが契約者ならばなおさらだ。

 

「……あまりにも酷いな。聞くが、本当にゲートは見られるんだろうな?」

 

『そこに関しては徹底しておりますので。ゲートにはご案内しますよ。この三日間で』

 

 スタッフの対応に嘘が見られる様子はないが、しかしどこか取り着くしまのなさそうな返答である。

 

 黒スーツ達は諦めたのか、舌打ちを滲ませて部屋へと入っていった。

 

 他の参加者も同じだ。それぞれにあてがわれた部屋に入り、これで一日目が終了であろう。

 

『では皆様、よい夢を』

 

 スタッフが退場してから、シャルロットがこちらに囁きかける。

 

「……あのスタッフ、怪しいわ。だって普通、契約者が仲間を殺しかけるのを見たら少しくらいは恐怖するはずよ」

 

「あるいは、そういうのはあり得るとして、進めているのか……」

 

「あり得るですって? 目の前で契約者が現れたのよ? ……この休憩室自体、何があるのか分かったものじゃないわ」

 

「でも……もうここはどこかの研究所のように思える。逃げるのには多分、結構な労力を使いそうだけれど」

 

 そもそも契約者の能力で繋がれた空間だ。本当に新市街地の中かどうかも疑わしい。

 

 こちらの冷静さにシャルロットは僅かに苛立ったようである。

 

「……冷静なのね。こんなの異常だって言うのに」

 

「……元々ゲートに入りたがっている時点で、みんな異常だとは思うけれど。スタッフの言う通り、確かに同意書に目を通した上での参加だから、何かトラブルが少しくらいあったって文句は言えない」

 

「それが契約者による暗殺であっても、か……。おっかないところに来たものよ」

 

 シャルロットは額に手をやって嘆息をつく。

 

「……疲れたのなら寝るといいよ」

 

「そうするわ。……でも、ヤト。明日があるかどうかも分からないのに、落ち着いて寝られるかしら?」

 

 明日があるかどうかも、か。その不安に夜都は少しだけ微笑んでいた。

 

「……少なくとも、ここにいる参加者分は、命が長引いたと思っていいと考えているけれど」

 

 こちらの返答にシャルロットはふぅんとどこか得心する。

 

「前向きなんだか、後ろ向きなんだか。でも、ちょっと気が楽になったわ。ありがとう、ヤト」

 

「どういたしまして。特に役立った覚えはないけれど」

 

「いいえ。一人でもまともそうなのが居るだけで、安心するわ。他は信じられないけれど、あなたは信じてもいいかもしれない」

 

 おやすみ、と手が振られ夜都も振り返す。

 

 さて、と夜都は早速部屋に入るなり、寝所周りを精査していた。

 

 ベッドの下、換気扇、エアコンの中、水道の蛇口、個室トイレの裏側――と盗聴器や盗撮を考慮するが、どれも見られない。

 

 本当のプライベートスペースは、まともなベッドがあるだけのこの狭い個室くらいなものか。

 

 それ以外はスタッフが常駐し、彼らの目に晒され続ける。

 

 夜都はここまで来た道筋を反芻していた。

 

 扉は十数個。何を調べていたのかは不明だが、契約者かどうかを精査していたのならば、これが役に立ったか、と首筋に貼っておいたセロファンを意識する。

 

 グレイ曰く、契約者である事を遮断する術であると言う。

 

「……本当かどうかまでは分からないけれど」

 

 それに、脳内を見通したあの機械も謎と言えば謎だ。単純に不都合な人間を消すための目隠しであったのか。あるいは、あの機械に意味があったのかは結局のところ分からない。

 

 だが、このゲートを観に行くと言う旅行プランそのものが、どこか狂気の沙汰であるのはそろそろ理解する頃合いだろう。

他の参加者も契約者か、それに類するエージェントの可能性が高い。

だが見分ける術はないように思われた。

契約者同士でも、相手が能力を使い対価を支払っているところを直に見でもしない限り断定は出来ない。それでもかなり甘い判定だ。

 

 もし参加者全員が契約者なのだとすれば、始末するのは今しかない。

 

 個室でなおかつ、プライベートの守られた空間ならば暗殺しても疑われる心配は少ないだろう。

 

 夜都は壁に背中をつけ、じっと窺っていたが、それらしい気配もなければ呻き声も聞こえない。

 

「……一日目に脱落したのは、あの女の契約者と、それに目隠しの時に排除された五人……」

 

 それにしても、スタッフの胆の据わり具合はシャルロットに言われるまでもなく異常である。

 

 常人ならば契約者を見るだけで怯えるに違いないのに、彼らはどちらかと言うと慣れている様子でさえもあった。

 

「……この旅行プラン、主催者が何者なのか……」

 

 持ち込んだ小型パソコンを繋げようとして、やはりと言うべきか、回線が存在しない事を関知する。

 

 夜都は小型パソコンと粉末コーヒーを抱えて個室を出ていた。

 

 回線が見つかれば御の字。見つからなくても、少しでもこの旅行の主催者が見えればいい。そう思って廊下を彷徨う。

 

 人通りのまるでない研究所の通路は薄暗く、消灯時間は過ぎているのが窺えた。

 

 そんな中で、夜都はまだ明かりの点いているブロックを発見する。足音を殺し、歩み寄ると白衣のスタッフが何やら画板に描きつけているようであった。

 

 注視していると、不意に振り向いた女性スタッフと目がかち合う。夜都は弱々しげに微笑んでいた。

 

「目が冴えちゃって……」

 

「あら? もしかして今回の旅行プランの方?」

 

 歩み寄ってきた女性スタッフの小脇に挟んだ画板には緻密なニューヨーク市街地の景観が描かれている。

 

「……どうすればいいんですかね。スタッフの方も見かけないし……」

 

 こちらの言葉に女性スタッフは嘆息をついていた。

 

「……彼らはここの所属じゃないんです。だから身勝手に部屋を貸すなって言ったのに」

 

 むくれた女性はどこか子供っぽく、不服そうにぼやいていた。

 

「そもそも【煉獄門】の旅行プランって、おかしいでしょうに。私は、反対したんですけれどね」

 

「……あの、すいません。興味半分で来ちゃって……」

 

「……別に参加者を咎めているわけじゃないんですよ。主催者側に問題があるって言うか」

 

 ここに来て主催者の情報が得られるか、と夜都は尋ねていた。

 

「……あの、ここってどこなんですか? 契約者の力で連れて来られたみたいで……」

 

「あー……それは言えないんですよ。守秘義務で……」

 

「あっ、それはすいません……。困らせちゃって……」

 

「ううん、いいんです。……日系ですか? 英語、上手なんですね」

 

「留学生で。でも……様変わりしたって言われた割には、ニューヨークは平和なんですね。ちょっとだけ新市街地を観ましたけれど」

 

「ああ、あれはでも……張りぼてのようなものですよ。南米の天国戦争以来、アメリカには国籍や出身を失った契約者……契約難民が押し寄せて来ていますから。彼らの処理に上は頭を悩ませているみたいです。無下にしようにも一国の兵装レベルの力を持つ契約者を、出来れば穏便に済ませたいみたいで……」

 

「……大変なんですね。私、来る途中で初めて契約者を見ちゃって……」

 

「……やっぱり、紛れ込んでいるでしょうね。それは分かっていたのです。でも、強硬手段に出る主催者側とは、対立しっ放しで……」

 

 疲弊し切った声を漏らす女性に、夜都は微笑んでいた。

 

「お疲れ様です。……確かに変と言えば変なんですよね。ゲートの中が見たいなんて」

 

「興味の範疇ならばいいとは思います。でも、それを旅行プランにして、食い物にするってのが問題外なだけで。興味は誰にも止められないし、好奇心はある意味では毒でも、人間は求めずにいられない……禁断の果実でも……」

 

 そこまで口にして話し過ぎたと感じたのだろう。ハッとした女性は、しゅんと項垂れる。左耳から垂れた短冊のようなピアスがゆらりと揺れた。

 

「ごめんなさい……っ! 主任から話し過ぎるなって言われているのに……」

 

 ここだ、と夜都はその意図を捉えていた。

 

「主任……? やっぱりここは研究所なんですか?」

 

 あっ、と口元を噤んだ女性は、もう遅いか、と頭を振る。

 

「いえ、いえ……その……」

 

「何かの研究所なら……私達はやっぱり、モルモットって事ですか?」

 

 問い詰める論調であったせいだろう。女性は視線を流し、こちらと目を合わせようよしない。

 

「……その……何て言うのか、あの……」

 

「……言えないんですよね。すいません、問い質すような言い方をして」

 

「いえっ……あの……っ! ……私も本当はよくないって思っているんです。貴女達に隠し事をしたまま、その……研究対象とするのは……。だって、私も人間ですし……」

 

「負い目があると? ……でも望んでゲートに関わりたがったのは、私達ですよ?」

 

「それは、……違うと思うんです。立場さえ違えば、私も貴女達と同じだと思いますし……やっぱり、好奇心を捨てられませんよ。人間なんですから」

 

「……人間だから、ですか」

 

 契約者である自分には縁遠い話だ。そう思いながらも口にせず、女性へと声を振りかける。

 

「あの……言いませんから安心してください。密告とかを心配している風なので……」

 

「あっ、そうしてもらえるとその……ありがたいです、はい……。でも、間違えないで欲しいのは、私達は決して、貴女達を軽んじて、こんな事をしているわけじゃないってのを……」

 

「ああ、分かっています。それは。だって、同じ人間同士、助け合いですからね」

 

 微笑みかけると女性はどこか安堵したように息をつく。

 

「よかった……。あ、いえ……っ、これは密告がどうとかじゃなくって……!」

 

「分かってますよ。誰だって、こんな得体の知れない旅につく人間を、信じられないでしょうし」

 

「……ご理解いただけてうれしいです。あの……よければ、お名前を聞かせてもらえますか?」

 

「ああ、夜都です。鷺坂夜都。日本の留学生です」

 

「ヤト……。不思議な響きですね。何だか、とても優しそうな名前……」

 

「そんな事はないですよ」

 

 曖昧に笑うと女性も名乗っていた。

 

「私は、メイ。メイ・リメンバー。ここの研究員の一人です。あの……私の存在は……」

 

「ああ、知らない振り、ですよね?」

 

 唇の前でそっと指を立てると、メイも同じように唇を閉ざして悪戯っぽく微笑む。

 

「ナイショ、ですよね。何だか嬉しい……今回のゲートの旅客の方々、もしかしたら契約者が紛れているかもって聞いていたので……。怖くって……」

 

「ああ、だから絵を?」

 

 彼女が小脇に挟んだ画板を指摘すると、メイは頬を紅潮させてぼそぼそと呟く。

 

「あの……これもナイショで……お願い出来ますか? ……主任はいい顔をしなくって……」

 

「あ、すいません。何だか失礼な事を言っちゃったみたいで……」

 

 遠慮がちなこちらの声音に、メイは、いえ、と応じる。

 

「こっちの勝手な都合ですから。……でも、これだけは捨てられないんです。可笑しいですよね……研究者のクセに……」

 

「いえ、素敵だと思いますよ」

 

 その言葉にメイは駆け込んで、ふふっと笑う。

 

「……不思議な方ですね。貴女は、何だかなんでも話せてしまえそう……っ!」

 

 まるで少女のようにころころと笑うものだから、こちらもどこか遠慮なく話せてしまう。

 

 不思議な引力だ、と夜都は感じていた。

 

「いえ……。私もその……好奇心に負けただけですから」

 

「大丈夫ですっ! 私も好奇心でこの仕事に就いていますし、誰も責められませんから。……あの、一つだけ言ってもいいですか?」

 

「あ、はい。どうぞ」

 

「……明日……二日目に気を付けてください。それだけです」

 

 どこか意味深に放たれた声を最後に、彼女は道を折れ曲がっていった。夜都はもう少し探りを入れる必要がありそうだ、とメイが行ってしまってから、先ほどの部屋へと入る。

 

 ジオラマが並んでおり、それを彼女は描いていたらしい。

 

「……これは、ニューヨーク新市街地のジオラマ? ……赤い印が付いているのがゲートの出現場所か」

 

 ところどころに赤い印が見受けられる。

 

 ゲートの出現場所だと断定は出来ないが、それでも覚えておく価値はありそうだ。そう思い、夜都は踵を返していた。

 

 道はほぼ一巡。

 

 曲がり角がいくつかあるが、ほとんどの廊下は閉ざされており、この時間帯のせいか、メイ以外の研究員ともすれ違わない。

 

 夜都は回線が通っているであろう柱に手を当て、呼吸と共に青白い光を棚引かせる。

 

「……これでオーケー……」

 

 その時、不意打ち気味に視線を感じ、夜都は振り返っていた。

 

 駆け込んで気配を探るが、人影は見当たらない。

 

「……気のせい……だと思いたいけれど」

 

 この研究所では何が起こってもおかしくはない。そう思えて来ていた。

 



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第二章「扉叩く者は、恩讐の悪路を辿る…」(後編)
第十二話「喰らい合いを統べる」


『皆さん、朝礼です。朝のラジオ体操を行います』

 

 思わぬ声で眠りを覚まされ、夜都はハッとベッドから起き上がる。枕元には昨日飲みかけていたコーヒーと、昨晩開いていたワードファイルがそのままに明かりが点いている。

 

 夜都は静かに小型パソコンを閉じ、コーヒーを飲み干していた。少し苦み走っているが、眠気覚ましにはこの程度でいい。

 

 部屋から出るなり、旅客達が文句を垂れていた。

 

「……あ、ヤト。信じられる? あのスタッフ、私達を叩き起こして……」

 

 拡声器を持ったスタッフの声に眠りを覚まされた人々が不平不満を言いつける。それをどこか涼しげに相手は応じていた。

 

『重要連絡があるからです。昨日、この研究室で皆さんと行動を共にしていたスズキさんが消息を絶たれました。誰も見ていませんか?』

 

 スズキ、と言う名前に、全員が顔を見合わせる中で、黒スーツが大声を出していた。

 

「相棒をどこへやった!」

 

 掴みかかる勢いでスタッフへと詰め寄った黒スーツに、他のスタッフが制する。

 

「落ち着いてください、ニシキドさん」

 

「ここは我々が対処します。ですが、皆さんの昨日の行動記録を聞きたいのです」

 

「事情聴取ではないか! それよりも相方はどこへ行ったんだと聞いているんだ!」

 

 声を張り上げた黒スーツにシャルロットは声を潜めていた。

 

「……あの成りでスズキとニシキド? ……合わない名前ねぇ。偽名かも」

 

 恐らくその通りであろう。夜都は黒スーツを仔細に観察するが、契約者らしい挙動はない。むしろ、昨日最も疑われるべきなのは彼だ。

 

 何せ同行していた女性契約者をこの旅行スタッフに押さえられている。そこで怒声を発してもおかしくはなかったのに、どうして昨日怒らずに今、怒りを露にしているのか。

 

 理由があるはず、と勘繰った夜都の思考を先回りしたかのように拡声器のスタッフが声にする。

 

『それは聞かれては困る事があるからですか? ニシキドさん』

 

「……ゲートの調査に関する依頼書だ。ここでの監査権は自分にある」

 

 差し出された依頼書らしき紙をスタッフ達が見るなり、その顔を蒼白にさせる。シャルロットも、驚愕に顔を塗り固めていた。

 

「……驚いた。正式な命令書ですって?」

 

「それもゲート調査の……。一国が動いていたって事か」

 

 だがどこだ? 日本か、それとも他の組織が……? 思案を浮かべた夜都にスタッフの代表である拡声器のスタッフが落ち着き払って声にする。

 

『強制権なんてありませんよ。ここはどこの国の利権でも動かないんですから』

 

「……馬鹿な事を! ここは米国であろう!」

 

『答える義務、あるんですか? あなた、同意書にサインしましたよね? あの時点で、どこの諜報員であろうと、強制権なんてないんですよ。それはあなた自身が決めた事です』

 

「……それは形式だ」

 

『形式だと仰るのなら、その依頼書も形式ですよね? 答えるのは旅行プランに反します』

 

「……何だか雲行きが怪しくなったわね……」

 

 シャルロットの懸念に黒スーツは怒り心頭の様子で拳を固めたが、やがて踵を返していた。

 

『……どこへ行かれるので?』

 

「……わたしはこのゲートに関する調査を依頼されている。ここが米国の研究施設であるのは疑いようのない事実だ。だから調査する」

 

『ご勝手に。しかし、スズキさんに関する話をしてもらってからでいいでしょうか? 旅の仲間が消えたんです。皆さん、知りたがっているはず』

 

 全員分の視線を感じたのだろう。ニシキドは手を払っていた。

 

「……知らん。だが隣の部屋であった。それに奴も……調査官であったからな。それなりの仕事への責務はあったはず」

 

『そうですか。では、我々も知らぬ存ぜぬを通しますね。それでおあいこです』

 

 その言葉に何も言えないのだろう。ニシキドは苦渋に奥歯を噛み締め、それから全てを投げ打つように背中を向けていた。

 

「……それこそ、勝手にしろ、だ」

 

 歩み出したニシキドを止める者はいない。どうやら彼らは昨日今日で三人ともばらけてしまったらしい。

 

『皆さん、すいません、早朝から。ですが原因を究明しなければならなかったので強硬手段を取らせてもらいました』

 

 言い繕うスタッフにシャルロットは胡乱そうに眉をひそめ、こちらへと声を振る。

 

「……ねぇ、おかしくない? 昨日の契約者もそう。まるで狙い澄ましたみたいに……」

 

「そうも見える……。でも、だからと言って短絡的に結び付けるのは……」

 

 だが、目隠しされていた間に五人も消えていた。不都合な人間を運営側が消していると思われても仕方あるまい。

 

『さぁ、皆さん! 今日のプランを説明しますね。三十分後に再集合でお願いします。それからゲートをお見せしましょう。楽しみにしていてください』

 

 めいめいに散っていく中でシャルロットが肩を突いていた。

 

「……ヤト、時間、いい?」

 

「うん。大丈夫だけれど」

 

「そう、なら……」

 

 促されて研究所の中でも人目の付きにくい廊下の曲がり角へと案内される。

 

「……怪しいところだらけで信じろってのが無理なんだけれど、あなたはどう思うの?」

 

「……どうって。あの黒服二人は……危なさそうだけれど」

 

「危ないで済むと思う? スズキとか言う、片割れ、多分もう死んでいると思うわ」

 

「何でそう言い切れるの?」

 

「だって、朝一番から行方をくらますなんて異常じゃない。それに、この研究所に探りを入れるつもりなら多分、連中黙っていないと思うわ」

 

「連中……あの旅行スタッフ達……?」

 

「グルだと思う。この研究所に居る人間と」

 

「誰かと会ったの?」

 

「いいえ……でも確信があるわ。きっとこの研究所に勤めている連中はまともじゃない。先の目隠しもあった。その時に何人か消えていたのには気づいた?」

 

 夜都はわざとらしく目を見開く。

 

「……考えもしなかった」

 

「そう……。でも、数を確認したらやっぱりそうなのよ。五人ほど居なくなっているわ……。ねぇ、ヤト。ヤバい事に首を突っ込んだのはお互い様だけれど、ここは協力しない? 何とかして、この旅行を生き延びるの」

 

「……何とかって……と言うか、ゲートを観て帰るだけでしょ?」

 

「……本当に、ゲートを観た人間を、そのまま帰すと思う?」

 

 それは、と返事に窮した夜都にシャルロットは強い論調で断言する。

 

「絶対に、無事に帰す気なんてないわ。この研究所の物々しさがそれを克明に物語っている。何かがあるのよ、ここには。そして私達は、集められた研究資料ってわけ」

 

「……それは、実はモルモットは私達だったって事?」

 

 シャルロットは無言で頷く。夜都からしてみれば、昨日には到達していた理論であったが、ここでは初めて思いついたように装う。

 

「……じゃあ、ここから逃げる手段は……」

 

「今のところないわね。……一応、部屋を物色したのよ。でも、何にもない。外に繋がる窓も。換気扇も、空調設備も、どれもこれも、外の空気をまるで感じないの」

 

「……閉じ込められてるって言うの?」

 

「……それだけならいいんだけれど。相手の想定が私達全員の観察なのだとすれば、もう始まっているのよ。最初にリタイアしたのはあの赤髪の契約者。ここへと繋がる扉に反応して、半狂乱に陥った」

 

「うん。……あの人は、どうなったんだろう」

 

「始末されたか、あるいは重要な研究に使われているのかも。いずれにせよ、ここで一人脱落。そして次は目隠しの試験。その時にも五人、居なくなった。その五人の共通項は今のところ不明だけれど、でも好転はしていないでしょうね。きっと、その五人はその時点で、ふるいにかけられていた」

 

「基準は? 基準がないのなら、私達だって脱落していたかもしれない」

 

「……それは多分だけれど、本心からゲートを観たいと思っているか、じゃないかしら? 私はそう思っているし、きっとあなたもでしょう?」

 

「それは……確かにその通り」

 

「曖昧な基準かもだけれど、あの時点で疑念を持っていた人間を排除するのに働いたとすれば? 目隠しの時点で、私達は耳も目も塞がれていた。狂ったのが五人居ても気づけやしないわ」

 

「……つまり、みんなゲートの手前で狂ってしまったか、大きな疑念を抱いていた……。それを旅行スタッフは読み取って、排除していたと?」

 

 考え過ぎ、という体を示すが、シャルロットの声音は真剣であった。

 

「でも……それくらいは構えていたのだと思う。だってゲートよ? 諜報機関が喉から手が出るほど欲しい情報を、一般人に差し出すと思う? ……ともすれば、一国の重大機密。私達みたいな旅行者が得られると思ったのが、そもそもの間違いかもしれない」

 

「……最初から、スタッフには客を帰す気はない……と?」

 

 その推論にはさすがに難色を示したのか、シャルロットの表情が翳る。

 

「……いえ、そこまでは。だって旅行プランに沿っているし、今のところおかしいのは消えた六人と、そして黒服の片割れだけ。パンフレット通り、バスツアーの翌日からのゲート検分……何もおかしくないと言えばその通りなんだけれど、それ自体が……」

 

「どこかしら異常に思える、とも」

 

 先回りして応じた夜都にシャルロットは頭を振るっていた。

 

「……正直、分からないわ。ゲートを見せてもらえるにせよ、そうでないにせよ、私達は最終日まで生きていられるのか。それとも皆殺しにしてでもゲートの秘密を抱えて戻りたい、誰かさんが居るのかって事もね」

 

 夜都は心拍数を一ミリも乱れさせずに顎に手を添えていた。

 

「……まさか、契約者が他にも……?」

 

「……その可能性は高いって事よ。だから、ヤト。ここでは協定を結ばない? 生きて帰るまで、お互いに隠し事はなしにするの」

 

 魅力的な提案に思えたが、既にこちらは昨夜の研究員の事がある。一方的な交渉になりそうだと、その方向性を弄っていた。

 

「……でも特に隠し事なんてないよ」

 

「一つでいいのよ。お互いに休憩時間に一つずつ、発見した事を教え合いましょう。そうすれば隠し事はなしになる。もちろん、どうしてこのツアーに参加したのかなんて無粋な事までは聞かない。あくまでも生き残るための方策よ」

 

 ある一面ではまともな交渉に思えるが、夜都は条件を提示していた。

 

「じゃあ、もう一つ。これまで通りの法則性なら、ゲートを狙っている連中が居て、その人達が犠牲になっている。……これから先も、もしかしたら犠牲は出るかもしれない。あのニシキドとか言う黒服はそうでなくとも危なかった」

 

「ええ……スズキとかの二の舞になりかねない感じだったわよね……。でも、そうだとすれば一つの推論が成り立つわ」

 

「それは……?」

 

 そこでシャルロットは周囲へと警戒を走らせ、やがて一つだけ口にしていた。

 

「……ここから先は休憩時間の時にしましょう。三十分後に部屋から出てこないと怪しまれる」

 

 首肯し、夜都はシャルロットと共に部屋へと戻っていた。しかし、彼女は部屋に入る直前まで不安げな面持ちである。

 

「……ヤト。戻る前に一個だけ。契約者が居るとして……あなたはどう思う? こんな……一般人まで手にかけるような相手を、どう考えているの? ……私は怖い……」

 

 怯えるシャルロットに夜都は、そうだね、と同調していた。

 

「……きっとロクでもない、最悪の連中には違いないよ」

 

 そう口にしてから扉を閉め、夜都は小型パソコンから有線LANケーブルを壁に突き刺していた。

 

 ランセルノプト放射光を放ち、夜都は壁を睨む。

 

「……そうだとも。最悪な連中同士の喰い合いだ。契約者は、所詮は人でなしなんだから」

 

 



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第十三話「異形を射抜く」

 再び扉を潜るとは思わず、夜都を含め、全員が驚愕していた。

 

『では皆さん、この扉を潜ってください。ご安心を。外に出るだけです』

 

「……外に出るだけでこの物々しさ? ……冗談じゃないわよ」

 

 スタッフ達が今朝と違うのはライフルを携行している点だ。やはり契約者が数名潜り込んでいるのは間違いない。だが、ライフル程度で契約者を止められるものか。

 

「さぁ、どうぞー。扉を潜ってくださいー」

 

 にこやかに応じるその手には対人ライフル。誰が穏やかな心地で潜れるものか。皆がびくつく中で、夜都とシャルロットは扉の向こうに聳え立つ暗闇の塔を眺めていた。

 

「あれ……もしかして新市街地の慰霊タワー?」

 

 シャルロットの震えた声に夜都は、多分、と頷く。

 

「でも……反転している……?」

 

 それだけではない。濃霧が押し包み、一メートル先でさえも判然としない。歩みを止めた旅客達は、全員一か所に集まっていた。拡声器のスタッフが手をひらひらと翻す。

 

『ここがゲートの門前となります。皆さま、よくご覧ください』

 

「よくって言われても……何も見えないに等しいじゃない」

 

 遠くに望める慰霊タワーらしい物体以外、距離感をはかる術はない。そもそも、それが慰霊タワーなのかも今は不明だ。それらしいと言うだけで、もしかすると完全に別の空間かもしれない。

 

「……新市街地かも分からないのか」

 

 呟いた夜都に、スタッフは晴れやかな声を発する。

 

『ゲート門前は通常ならば警察によって封鎖されているか、突発的な発生に誰も対応出来ません。【煉獄門】は、どこに現れ、どうやって消失し続けているのかも未だに謎なのです。だからこそ、こうやってツアーが組まれたわけなのですが』

 

「……おい、あれ……」

 

 旅客の一人が指差した先にあったのは漆黒の何かであった。

 

「……何なの……」

 

 目を凝らし、その姿が判明したその時、夜都は声を張っていた。

 

「危ない……伏せろ!」

 

 その声が弾けたのと、ガトリング砲の火線が舞ったのは同時であっただろう。夜都は反射的にシャルロットを地面に伏せさせ、銃撃を回避したが、他の者はそうもいかなかったらしい。

 

 何名かが凶弾を前に倒れ、血溜まりが広がる中で、シャルロットが悲鳴を上げる。

 

「何なの! 一体何が起こったの!」

 

「……分からないが……移動砲台だ……。ガトリング砲を撃ちながらこっちへと向かってくる」

 

 先ほど目にしたのはガトリングの砲塔だけであったが、どこかその砲座はよろよろとしている。完全に固定されていないのか、それともそうやって全員を巻き込むつもりか。いずれにせよ、この濃霧の中で逃げ切るのは難しそうだ。

 

 夜都は腰を抜かしているスタッフの一人へと駆け寄り、その手にある対人ライフルを掻っ攫っていた。

 

「な、何を……!」

 

「死ぬよりかはマシ!」

 

 下腹部に比重を置き、脚を固めて一射する。反動は思ったよりも軽い。その火線が砲身へと叩き込まれたが相手は全く気圧された様子もない。

 

 こちらへと反撃の火線が跳ね上がる。夜都はスタッフを蹴飛ばし、相手を火線から引き剥がしていた。武装しているとは言え、その及び腰から鑑みて素人同然だ。

 

 ここで死なれてしまえば、自分達はゲートより戻る術を知らない。

 

 夜都は腰だめに構えたライフルの銃身を携え、照準を砲身に向けていた。続けざまの火線が舞う中で、砲座が僅かに傾ぐ。

 

 夜都は即座に接近しようとして駆け出したが、途端に濃霧が晴れる。

 

 不意に拓けた視界の中に大写しになった砲台の正体に夜都は絶句していた。

 

「……何が……」

 

 立ち上がりかけたシャルロットを夜都は咄嗟に庇う。

 

「……見ちゃいけない……!」

 

 ガトリングの砲身が中天を仰ぎ見る。

 

 その姿は、上半身を砲座に変えられた男の代物であった。不格好に四肢のついた砲台がよろよろとその足で歩き出す。

 

『撃ってください! ゲートからの迎撃かもしれない』

 

 スタッフの号令で他のスタッフが対人ライフルを一斉に構え、迷いなく銃撃を浴びせかけていた。

 

 四方八方からの一斉砲火を受け、血潮を撒き散らしてガトリング砲台となった男がよろめき、人間の赤い血を噴き出してから突っ伏していた。

 

 その姿がランセルノプト放射光に包まれ、青白い光を棚引かせて風と共に変身が解けていく。

 

 全身を射抜かれた男の正体は今朝の黒スーツのようであった。しかし、全員がこの現象を解せず呆然とする。

 

 スタッフは咄嗟に駆け回り、旅客達を保護しようとする。

 

 だが数名は直撃を受けたはず。夜都はあえてシャルロットの目を塞いでいた。

 

「何……何が起こったの……?」

 

「……とても惨い事が……」

 

『皆さん、落ち着いてください。ゲート付近では不可思議な現象が起きる事もあります。これもその一因かもしれません。ああ、写真はご遠慮を。これはさすがに……写してはいけない……』

 

 僅かに口ごもった形のスタッフに夜都は周囲へと視線を走らせる。

 

 それぞれガトリングの一射を避けられなかった旅客の脈を確かめ、首を横に振っていた。

 

『……そうですか。ひとまず皆さん、ここは一度退却しましょう。ゲートの戸口が晴れた今、ここに居たって仕方ありませんし』

 

 晴れた一角はやはりと言うべきか、新市街地であった。遠くに映った反転したような闇の塔は慰霊タワーであったらしい。

 

 しかし周辺に人目はなく、誰かが観ていたようでもない。

 

 恐らくゲート出現に際して封鎖線が敷かれたのだろう。そこいらに耳目がないのは今だけはありがたい。

 

 夜都はそのまま、スタッフの用意した契約者の扉を潜る際、シャルロットへと耳打ちする。

 

「……たくさん、人が死んだ」

 

 その言葉に彼女は震撼した様子であった。無理もない。先ほどまで一緒であった人間が死ぬのは衝撃的であろう。

 

「……ヤト? ヤトは……怪我は……?」

 

「してない。でも……このままツアーが持つかどうかはまるで分からない。そう、……本当に……」

 

 研究所へと戻っていたが、やはりと言うべきか、皆が押し黙り重い沈黙が降り立っている。

 

 沈殿した空気を払おうと、拡声器を持つスタッフが声を張っていた。

 

『皆さん! ……惜しい方々を亡くしました。ですが、同意書にサインされましたよね? 被害は全て各々の自己責任だと。そもそもゲートに踏み込むのです。少しくらいは危険なくらいがスリルがあるでしょう?』

 

 その問いかけに夜都はつかつかと歩み寄り、スタッフの肩を掴んでいた。

 

『……さ、サギサカさん? 何を――』

 

「黙っていろ。スリルだと? 汚らわしい。お前達は無辜の民を殺して喜んでいるのか? 死んだのは誰も彼もが覚悟出来ていたわけじゃないんだぞ。だと言うのに、それを自己責任で流すか」

 

 こちらの手に自ずと力が籠っていたせいだろう。ひっと短く悲鳴を漏らしたスタッフに夜都は我に返っていた。

 

「……そんな言葉で片付けるもんじゃない」

 

 今さら取り繕ったところで遅いかもしれないが、そう捨て台詞を吐いてシャルロットの下へと戻っていく。

 

 彼女はやはりと言うべきか、自分の行動に瞠目していた。

 

「……あなた、一体……」

 

「いや、あまりにもシャレにならない台詞だったから……。みんながみんな、死ぬ準備が出来ているわけじゃない」

 

「それは……」

 

 言葉を詰まらせたシャルロットが鎮痛に面を伏せる。

 

 スタッフは持ち直し、声に翳りを見せながらも案内する。

 

『……休憩時間に入りましょう。ちょっと長めに取ります。次のツアー内容に関して議論を進めてから、アナウンスしますので』

 

 拡声器のスタッフは他の者も伴わせて引き返していく。その後ろ姿を眺めていると、シャルロットは提案していた。

 

「……部屋に戻りましょう。その前に……ヤト」

 

 休憩時間に一つの発見を、との前約束であったが、今はそんな場合でもないような気もする。

 

 しかし、彼女は律儀に約束を守り、他に誰の目もないのを確認してから口火を切っていた。

 

「……あんな事になるなんて……」

 

「……酷いもんだ」

 

「ヤト? 何か変よ、あなた……。別人みたいに……」

 

「いや、ちょっと動転している。だからかも」

 

「……そう。そうよね、だってあんなの……。ゲートを前にして、何が起こったって言うの?」

 

「……人間が武器に変えられていた。多分、被害者はニシキドと名乗っていた黒服だと思う」

 

 こちらの言葉にシャルロットは目を見開いてから、やがて額に手をやっていた。

 

「……そんな馬鹿な事が……いえ、ここは【煉獄門】の存在するゲート……それくらいは起こってもおかしくはないわね……」

 

「……妨害なのか、それともゲート関連の現象なのかは分からない」

 

「妨害って……【煉獄門】に入るの妨害していたって?」

 

「……タイミング的には、その可能性が高いとは思う。でも、それにしては迂闊な面も多い」

 

「……人間を砲台に変える……そんな芸当、とかは言わないわ。だって契約者なら何でも……可能なんでしょう? 分からないけれど」

 

「……契約者ならば、どれほどの残酷な真似にも手を染めると思う」

 

 人間を砲台へと「変換」したのか。それとも別の能力かは分からない。断定は出来ないが、確実に言えるのはこの参加者の中に契約者が居る事であろう。

 

 そうでなければ、黒スーツをあんな風にする必要性はない。

 

 今朝の時点で、あの黒スーツは何か疑念を持っていた。ともすれば、何か不都合な事実に抵触したのかもしれない。

 

「……ヤト? 何か、眉間に皺を寄せて……何を考えているの? お願いだから教えて。黙り込まないで」

 

「ああ、ゴメン。……いや、もし……参加者の中に契約者が居るとすれば、そいつはここまで息を殺して参加していたって事になる。だとすれば、スタッフとグルか、とも思ったんだけれどでも、あの攻撃はかなりの確率でスタッフにも危害が及ぶ危険があった」

 

「……スタッフとその契約者は顔見知りじゃないって?」

 

「……かなりの確率で言えるのは、ここで切ってしまえるほどには、関係性は希薄だと思う」

 

「……なるほどね。じゃああの……拡声器のスタッフも知らずにあそこへと案内したって?」

 

「……そもそも空間跳躍の契約者が少なくとも運営側に一人は居る。その関連かも」

 

「契約者同士なら、手は組むかもって事よね?」

 

 だがそれも可能性に過ぎない。

 

 契約者同士で利害が一致したとして、ではあそこまでの残虐性に衝き動かされるであろうか。

 

 ともすれば全滅していたかもしれない予感に今さら背筋が凍る思いだ。

 

「……でも、契約者……本当に居たのね。半信半疑だったけれど」

 

「そっちだって、推論には述べていた」

 

「噂話程度よ。本当に居るなんて思いもしない」

 

 確かに一般人の知る契約者の概念はその程度だろう。居るのか居ないのかも判然としない相手。この世界に確かに存在しているのに、人類とは異質な勢力であろう。

 

「……黒服を砲台にした契約者が、参加者の誰かだとは思う」

 

「……スタッフの可能性も、捨てたわけじゃないのよね?」

 

「そうだけれど、でも……だったらもっと安全な場所に居ればよかった」

 

 そう、あの場に居合わせるのは「合理的」ではない。

 

「でもそう思うと……昨日の契約者の女は? あの人の能力が、人を銃に変えちゃう能力だった、とか?」

 

「いや、あの契約者は多分、何かを斬る能力だと思う」

 

 契約者の能力は原則一つだけだ。

 

 だからまるで別方向の能力を保持する事は出来ないし、それに類する情報は今のところない。

 

「……難しいわね。誰かがそうなのだろうけれどでも、断定も出来ない」

 

「このままじゃ魔女狩りになっちゃう。……その前に、さっきの新市街地で逃げるべきだったかも」

 

 そういう面では自分も冷静ではなかった。突然の襲撃にうろたえていたのだろう。

 

 まさかあのような形で強襲されるなんて思いも寄らない。

 

「確かに……。じゃあヤト。こう決めましょう。次に扉を抜けて、外に出た時には……」

 

 シャルロットの瞳に映った覚悟に夜都は頷いていた。

 

「うん。逃げよう。このツアーを続けるのは単純に危険だ」

 

「……そう、よね。よかった! ヤトが、契約者じゃなくって……。契約者相手にこんな話をしたら、消されちゃうかも」

 

 肩を竦めて平静を装っているが、その実は恐怖しているのはよく分かる。契約者同士の戦いに一般人は巻き込まれるべきではない。

 

「……とにかく、次のゲートを観に行く機会だと思う。その時に、スタッフを振り切って逃げる」

 

「そうね。もうこの際、貴重な体験がとか言っている場合でもないもの。命あっての、だからね」

 

 その点で認識は同じらしい。夜都は頷きかけて、こちらを窺っている気配を感じ取っていた。

 

「……シャルロット。ちょっと待っていて」

 

「……ヤト?」



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第十四話「邪悪を闊歩する」

 駆け出した夜都は相手が逃げおおせる前に追いつき、その手を掴み取る。

 

 ひっと短く悲鳴を上げた人影が振り返っていた。

 

 涙を堪えた形の面持ちに、夜都は毒気を抜かれた気分になる。

 

「……メイ?」

 

「あっ、その……っ。どう言えばいいのか……」

 

「研究者であるはず。……スタッフとまさか共謀してこちらの動向を……」

 

「ちっ……違います……! 私はその……単純に怖くて。貴女達が死んじゃうんじゃないかって……」

 

「死んでしまう……。契約者の事を知っているのなら教えて。この研究所の事も」

 

「……主任に怒られちゃう」

 

「今はこっちの命がかかっている。そっちの都合は知った事じゃない」

 

 切り捨てた言い分にメイはどこかしゅんとして声にしていた。

 

「……主任は言っていたんです。契約者同士の戦闘になる。観測しておけって」

 

「……ゲートに近づけば、黒服が攻撃してくると知っていた」

 

「そうじゃなく! ……私も詳しくは知らないんです。ただ、観察は怠るなって言われているのでその……貴女を見かけたから、じっと機会を窺っていて……」

 

「……偶然だと?」

 

「だって! あんなの知るわけないじゃないですか! 主任から聞かされて、びっくりしちゃって……! ……まさか本当にただの旅行客をゲートに近づけさせるなんて……!」

 

「……私達がゲートに近づく前に、何があったの」

 

 有無を言わせぬ論調であったせいだろう。メイは静かな語り口で言いやっていた。

 

「……今朝、一人、行方不明になりましたよね? 確かスズキさん」

 

 メイの小脇には画板が挟まれており、何かの絵が描かれているのを目に留める。

 

「あ、そう……。でも、それが何か……」

 

「あの三人は契約者でした。それは分かり切っているんです。某国の契約者が、三人して乗り込んで来ているって」

 

「……殺したの」

 

「ち、違……っ! そんなわけないじゃないですか! 人殺しなんて……!」

 

「契約者は人間じゃない」

 

 断定の口調に彼女は訝しげにこちらへと問いかける。

 

「あの……私に何で構うんですか? ただの参加者でしょう? このツアーの」

 

「それはこちらの台詞でもある。一体何が起こっているの? まずはこの研究所。何を観察しているのか教えて」

 

「……それは間違いなく、ゲートですよ。【煉獄門】を観測しているんです。でも、他の事……たとえば契約者に関してもここが一任していて……。米国の管理の要だと言われています」

 

「……この施設が契約者調査の第一線だと?」

 

「多分、この国じゃ一番進んでいるんじゃないでしょうか。トーキョーほどではありませんけれどでも、そうでなくともアメリカは南米での天国戦争で一手も二手も遅れているんです。少しは強硬姿勢なのも分かってくださいよ……」

 

「……そのためにゲートへと一般人を連れ込もうとした」

 

「契約者を連れ込むための方便だと思うんです。推測ですけれどでも……確定的なのは、参加者の半分以上は契約者……」

 

 その言葉に関しては夜都も僅かに狼狽したが、すぐに持ち直して問い質す。

 

「……その確証は?」

 

「だから、推測です……っ。スタッフも、全く怖がっていないところを見るに、諜報機関に精通している相手か、軍事関係者だと思います」

 

「……スタッフと研究所は共謀しているんじゃ?」

 

「それは誤解で……! どちらかと言うと主任が勝手に……! ……それはいいんです。私には、どうしようもない事ですから。でも、疑って欲しくない……っ!」

 

 瞳を潤ませるメイに夜都は警戒を怠らずに話題を変える。

 

「……半分が契約者だとしても、もう半分は一般人かもしれない。ここの連中も、あのスタッフもただの人間を巻き込んでいる」

 

「……どうしてそこまで他人を気にかけるんですか。自分も死ぬかもしれないのに……」

 

「……ゲートに触れようとしたのは単純な好奇心……そう言っていた」

 

「あ、それは……」

 

「だが好奇心に殺されるのが人間。だからと言ってむざむざ死んでいくのを、見ていられない」

 

 こちらの言い草にメイは分からない、と頭を振る。

 

「……貴女が何をそんなに怒っていて、何にそこまで気を尖らせているのか……」

 

「分からなくっていい。少なくとも、私はこのまま死ぬ気がないだけ」

 

 睨み上げるとメイはびくついたようであった。夜都は身を翻し、シャルロットの待つ場所へと戻っていく。

 

 彼女は律儀にも座り込んで待っていた。

 

「……遅い」

 

「ゴメン。でも……ここももう危ない。次の機会があるのなら、その時に逃げよう。そうしないと……こんな予感は当たって欲しくないんだけれど、一生逃げられないような気がする。みんな、ここに囚われたまま……」

 

 夜都の言葉に彼女は憔悴したように頷いていた。

 

「……そうよね。こんな場所で……死にたくはないもの」

 

 シャルロットを部屋まで送り届けてから、夜都は独自に動いていた。

 

 どうにも彼女は心配しているようであるが、このままゲートへの情報収集がご破算になるのは任務としてはまずい。夜都は廊下をいくつか折れ曲がり、他の人間の気配を探ったが、やはりと言うべきか静まり返っている。

 

「……スタッフ達はどこへ行った?」

 

 契約者の扉の力で移動したのか。それとも、別の場所への抜け道があるのだろうか。夜都は昨日、回線を探った壁へと手をつけていた。

 

 瞳を赤い輝きが満たし、青白い燐光を帯びる。

 

 壁ががらりと崩れ、内側から露出したのは通信回線である。夜都は持ち運んでいた小型パソコンを繋ぎ、すぐさまネットワークに介入していた。

 

「……研究資料、あるいはそれに類する何かがあれば……」

 

 だが、送られてくる情報はどこか剣呑なものばかりであった。浮かび上がっては消えていくウィンドウを目にして夜都は分析する。

 

「……主任研究員の名前を……出ないか。だとすれば研究員の名簿を……」

 

 その時、不意に後頭部に冷たい銃口の感触を察知する。

 

「動かないでください。何者です? あなたは……」

 

 誰だ、と夜都は手を上げて身体を硬直させる。声音に聞き覚えはない。

 

「……ここはどうなっている。研究所にしては人が居なさすぎる。それに、こうも静まり返っているのはまるで……もう事が終わったかのように……」

 

「黙りなさい。どうして探りを入れるのです。どこの組織の所属なのですか」

 

 その段になって、夜都は異常を感知していた。どこか、相手の声の調子がおかしい。何か変声機でも使っているのか、と勘繰っていると、その引き金に指をかけられた感触に、夜都は身を翻しざまに蹴り払っていた。

 

 姿勢を崩した相手が仰向けに転がる。

 

 袖口よりクナイを引き出し、夜都は反射的に放っていた。

 

 クナイは想定通りに相手の肩口へと突き刺さる。

 

 その姿を大写しにした夜都は瞠目していた。

 

「……何なんだ、その姿……」

 

「が……がぁ……っ……」

 

 声をくぐもらせているようなのは当然である。

 

 相手は、人間でありながら、顔面を拡声器と融合させられていた。顔のパーツが拡声器に点在し、ぎょろりとその眼球がこちらを見据える。

 

 夜都はクナイを引き戻す。ワイヤーで繋がれたそれが相手の動きを制し、もう一方の手から放ったワイヤーの網がその首筋を締め上げる。

 

 ぐがっ、と鈍い悲鳴を上げた相手の背筋へと膝をつけ、行動を制限していた。

 

「……その顔は……」

 

「……わ、我々は……滞りなく運営をこなさなければならない……。それこそが、我々の……」

 

「……誰にやられた? 言え」

 

 拡声器に繋がった視神経をこちらへと向けた男は歪に折れ曲がった唇で声を紡ぐ。

 

「お……恐ろしい、相手だった……。契約者、とは……あんなに……」

 

「契約者? バスで発狂したあの女か?」

 

「ち、違う……。私達は……」

 

 その時、背筋を粟立たせる殺気に夜都は身を横っ飛びさせていた。

 

 拡声器と融合していた男の背中へと空気の大剣が打ち下ろされる。鮮血が舞い、空気圧の刃がそのまま背骨を砕き散らせていた。

 

「……お前は……バスの時の女契約者か」

 

 だが、その顔がまるで異なっている。その相貌は、先のゲートにて、自分が対人ライフルを奪い取った女スタッフのものであった。

 

「……いけませんね。あなた。我々の邪魔をする……」

 

「どういう事だ。変装が得意なのか」

 

「答える口はない」

 

 相手の眼光が赤く染まる。ランセルノプト放射光の輝きを棚引かせて手が振るい落とされていた。

 

 空気圧の刃が圧縮し、瞬時に直上から叩き込まれていた。

 

 床が捲れ上がり、粉塵が舞う。その中で女は駆け回り、夜都を捉えようとその手を払う。

 

 夜都はワイヤーを手繰り、壁を蹴って空気の刃を回避しつつ、粉塵の向こう側からクナイを放っていた。

 

 一本、二本と投擲したクナイのうち、一本が相手へと突き刺さったのを感知する。夜都は青白い瞬きを帯びて能力を行使していた。

 

 女が喉の奥から絶叫する。

 

 粉塵の中心地で絶叫の形に口を開いたまま、女は事切れていた。

 

 夜都はクナイを引き戻し、相手の顔面を掴む。

 

「……マスクじゃない。これは生身だ。それに、身体も……。別人じゃないか、これは」

 

 変装の名手であったのか。それとも、他の契約者による能力か。女と、そして拡声器と顔を合体させられたスタッフへと注視する。

 

 恐らく拡声器のほうは仕切っていたスタッフであろう。

 

 しかし、こうなってくると本当に分からなくなる。

 

「……誰が本丸だ? どの人間も決定的ではなかった……いや、決定的な誰かなんて最初から居なかったと言うのか……」

 

 呟いた夜都は声を聞き届けていた。

 

『サギサカさーん! いらっしゃらないのですかー?』

 

 まさか、とその声音を耳にする。

 

「……拡声器のスタッフは死んだはず……」

 

 だがこの声は間違いなくそのスタッフだ。怪しまれてもまずい、と夜都は部屋へと引き返す。二人分の死体はどうしたって見つかるだろう。だが今は、合流し損ねて怪しまれるよりかはマシである。

 

「……すいません。ちょっと散策していて……」

 

『気を付けてくださいねー。研究所で行方不明になっても誰も探せませんので』

 

 対面して夜都は確信する。

 

 拡声器のスタッフは確かに殺した。だが参加者を引き連れるこのスタッフは確かに先ほどまでと同じスタッフに映る。

 

 ――どちらかが偽物でどちらかが本物……。

 

 夜都はシャルロットへと視線を流す。彼女は不安げに目を伏せていた。

 

「……ヤト。どこへ行っていたの? 危ないんじゃ……」

 

「次の休憩時間までに話しておきたい事が出来た」

 

「何? 言っておくけれど、何だかもう、次のツアーで終わりみたいよ?」

 

「……どういう……」

 

『計画の前倒しをする事にしたんですよー。ゲートにはご案内いたします。その代わり、三日目はない、という事です』

 

「……二日半で切り上げるって?」

 

『同意書に書かれていましたよね? 予告のない計画変更もあり得るって』

 

 拡声器のスタッフはファイルを手にそれを振る。夜都は下手に噛み付いても自分の身が危ういと頷いていた。

 

「……分かった。でも、本当にゲートに?」

 

『ゲートに行くツアーなのですから。本来は今朝に回るはずであったゲートですが、再出現しましたのでそちらへと移送します。こちらへ』

 

 ランセルノプト放射光の扉が現れる。夜都は袖口をぎゅっと引いたシャルロットを目線を合わせていた。

 

「……ヤト……」

 

「分かってる。……でも行かない理由もない」

 

 夜都は小型パソコンを抱えたままだ。しかしここで後ずさるのは不自然に映るだろう。

 

 シャルロットと共に扉の向こうへと赴く。

 

 

 



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第十五話「おぞましさを目にする」

 先のツアーと同じ、濃霧に押し包まれた空間に出た夜都は周辺地域の把握に努めていた。

 

「……分かる範囲の地理的なものは……」

 

「あれ……さっきはもっと近かった……」

 

 シャルロットの指差すほうには慰霊タワーがある。先ほどと同じく白黒反転したような形だが、それでも遠ざかっているのが窺えた。

 

「……新市街地中心部よりかなり離れている……」

 

『さて。皆さん、集まられましたか? ではゲートに向かいましょう。先ほどはゲート側から邪魔が入りましたが、今度は大丈夫だと思いますよ』

 

「……質問。スタッフが減っているけれど?」

 

 夜都の挙手に拡声器のスタッフが応じる。

 

『……あまりたくさんで来ると、門の中の存在を刺激しかねないので。今度は携行武器も最低限で来る事にしたのです』

 

「……門の中の存在」

 

 口中に繰り返してから、夜都は濃霧の中心地へとゆっくりと歩んでいく集団を眺めていた。

 

 参加者は先の黒スーツと女性、それに目隠しの時に減った五人を計算してもかなり減った。今朝のゲート前での戦闘で散った人間は未確認だが、三人以上は死んだはずだ。

 

 元の参加者の人数も分からない。だから、ここで下手に勘繰ったところで時間の無駄だ。

 

 今は、少しでも真実に肉薄したい。そのためならば残酷でも前に行こう。

 

「……ねぇ、ヤト。あまり早足にならないで。危ないわ」

 

「……でも、この先にゲートがあるのなら……」

 

 しかし一寸先さえも怪しい濃霧に、先ほどから皮膚に張り付く僅かな湿気。雨が降る直前のようなコンクリートのにおい。どれもこれも異常事態のはずだが、異常とも思えない。

 

 ここが本当にゲート内部に近いのか、それともまだ戸口なのかも不明。

 

 夜都は歩み進んでいる途中、その爪先が何かを蹴っていた。

 

「……何……?」

 

 転がった対象を目にしてシャルロットが悲鳴を上げる。

 

「……人間の腕……」

 

 夜都は屈んでそれを確かめる。腕には違いないが、血がほとんど止まっている。それに、この腕は……と夜都は記憶を探っていた。

 

 どこかで見た腕だ。しかしどこで……と冷静になる自分とは裏腹に参加者は次々と恐慌に駆られていく。

 

「何なんだ、これ!」

 

 彼らのほうへと視線を寄越す。視界の先には崩落した地面が広がっていた。砂礫に足を取られて数名がよろめく。

 

『気を付けてください。それはゲートに近い証です』

 

「……ゲートに近い……」

 

「や、ヤト……。私、もう……」

 

 腰を抜かしたシャルロットに夜都は手を貸す。

 

「大丈夫? 手を……」

 

「ゴメン……。もうこれ以上……進める気が……」

 

「何のために来たの? ……一応はゲートの片鱗でも拝んでおかないと」

 

 何よりも自分の任務に反する。夜都は周囲を見渡し、シャルロットを任せられる人間を探したが、スタッフの誰も彼もがこの濃霧にうろたえている。

 

 ここに入る事に躊躇していないのは、あの拡声器のスタッフだけ……。

 

 目線で確かめつつ、夜都は女性スタッフへとシャルロットを預けていた。

 

「……この人をお願いします。ここから先には行かせないで」

 

「ヤト! ……ヤトは、行くの……?」

 

「……見定めないといけない」

 

 ここまで来たのだ。むざむざと逃げ帰って堪るか。夜都は歩み出し、他の先行メンバーの顔を覗き込もうとして最早その視界でさえも危うい事に気づく。

 

 どこから敵がどう迫って来ても咄嗟に対応出来るか……。

 

 夜都は姿勢を沈め、周辺の音に気を配る。

 

「……銃撃音がない。襲撃は……ないか。だがここから先がゲートだと言うのならば……」

 

 今朝のように異形の存在が襲って来てもおかしくはない。夜都はこの視界ならばと、静かに手の中にクナイを携えていた。

 

 瞬時の判断で読み負ければお終いだ。ワイヤーの強度を確かめ、すぐに伸長出来るように調整する。

 

 小型パソコンを携え、夜都はゲートの濃霧の中で静かに起動させる。

 

 手元で何文字か打っていると、不意に悲鳴が劈いた。

 

「……一人。いや、二人……」

 

 男の悲鳴に女の断末魔。どれもこれも、雑多で解読し切れない。それでも、夜都は小型パソコンで文字を打っていた。落ち着いて、そして手順を踏み――。

 

「――それが対価ですか。難儀な事ですね」

 

 分かっている。こんな音しか頼りのない中で、姿勢を沈めてタイピングしていれば格好の的だと。しかし、夜都は逆にこの状況を利用していた。

 

 この期に仕掛けてくるとすれば、それは自分と同じ、音を頼りにした戦力に違いない。

 

 相手の攻撃が舞う前に夜都はクナイを放っていた。

 

 投擲した先に居た相手へとランセルノプト放射光を漂わせ、能力を行使する。

 

 絶叫に倒れた相手に、夜都は歩み寄り、僅かに瞼を伏せる。

 

「……シャルロットを任せた女性スタッフ……」

 

 では彼女はどこへ。そう視線を巡らせようとした夜都は、首裏に感じた直感にクナイを奔らせる。

 

 火花が散り、互いに引き離されていた。舌打ちが滲み、相手が飛び退ったのを感じ取る。

 

 夜都は相手を睨み、それからポシェットに入れている赤いレインコートを解き放っていた。

 

 頭より被り、赤い衣を身に纏う。

 

 その姿に忌々しげな声が放たれていた。

 

「……ニューヨークの赤ずきん……。そう、やっぱり、信じたくなかったけれど契約者だったの。でも、それはお互い様みたいね。一撃で死んでくれたら、よかったのだけれど」

 

 ランセルノプト放射光を放ちながら、ナイフを携えた相手は妖艶に口にする。

 

「……何故、こんな真似に出る。――シャルロット」

 

 その言葉にシャルロットは哄笑を上げる。

 

「何言ってるの? 分からない? 合理的に考えなさい。ゲートに最も接近出来る機会に他の人間が居るのは迷惑でしょう」

 

 夜都は拡声器を持ったスタッフが歩み寄ってくるのを感じ取る。彼は、シャルロットの手にしたナイフへと触れていた。

 

 目が赤く輝き、ランセルノプト放射光を帯びたナイフがまるで粘土のように変形し、次の瞬間には拳銃へと変異している。

 

「……やはり契約者……」

 

『私の元になったスタッフはどうしたんですかね。ネズミが嗅ぎ回っているんで始末するように命じておいたのですが……この様子だと仕損じましたか』

 

「……お前は運営側のスタッフじゃないな。契約者か」

 

『だとすればどうします?』

 

「どうもこうもない。お遊戯は終わりだ」

 

 夜都は両手にクナイを携え、スタッフへと投擲する。相手が動じる様子もなく、その射線をシャルロットの持つ拳銃が的確に撃ち落としていた。

 

 即座に引き込み、ワイヤーで描かれた円がそのままシャルロットの手首へとかかる。

 

 シャルロットはワイヤーに口づけをしていた。

 

 その途端、強化されているはずのワイヤーがバラバラに解ける。

 

「……物質の分子分解」

 

「そう、それが私の……能力ッ!」

 

 拳銃より銃弾が速射される。弾丸にも青白い輝きが纏いついており、直撃すれば恐らく防弾効果があるとは言え、コートは貫通するだろう。

 

 夜都はその攻撃にあえて回避行動を取らず、頭部を仰け反らせた。

 

「獲った!」

 

 着弾した弾丸はシャルロットの能力を引き写し、コートを分解させていく。だが夜都は冷静に分析していた。

 

「……私の能力ならば、弾ける」

 

「……まさか……」

 

 驚愕に塗り固められた彼女へと、夜都は銃弾を落下させていた。

 

「……同じ分子分解? でも、この能力は貴重なはず。そうそう同じ能力者が居るはずもないッ!」

 

「だと言うのならば、もう一度撃ってこい」

 

「冷静に成り下がって!」

 

 狙いを澄ませたシャルロットはしかし、直後に銃を取り落とす。その手首から白い煙が棚引き、彼女は悶絶していた。

 

「何、これ……。あ、熱い……。さっきワイヤーのかかった部位が……」

 

『これは興味深い。ワイヤーの接触部位がみみず腫れを起こしている。それに、これは……生き物の焼ける独特の臭い。なるほど、ニューヨークの赤ずきん。その契約能力は、恐らく……』

 

「冷静になってないでッ! 何とかしてよぉっ! これ、上ってくる……!」

 

『それもそうでしょうね。彼女の能力は常に、高いほうへと上る。血液の循環に乗せれば一発でしょう。それとも、ある程度なら熱を残してもおけるのでしょうか。数々の契約者を葬ってきた、その名に相応しい凶悪な能力です』

 

「お喋りは、過ぎれば毒になる」

 

 夜都はクナイをスタッフに向けて放つ。相手は拡声器を翳して防御していたが、直後には拡声器は爆発四散する。

 

「……熱を通した物体の破壊力の増強。その力、まさに……」

 

 白熱したクナイを目にしたスタッフに夜都は肉薄し、その頭蓋を掴んでいた。

 

「――死ね」

 

 絶叫が迸る。その喉元と耳、眼球から赤黒い体液が噴き上がり、ばたりと倒れる。

 

「……嘘、やられちゃったの……? ねぇ! 起き上がってよ! あんたの能力なら!」

 

「シャルロット。……残念だった」

 

 クナイを投げる。その肩口へと突き刺さった激痛に彼女は呻き逃げ切ろうとする。その背後へと追い縋り、せめて一撃に、と手を翳したところで、夜都は不意に背中に迫った殺気に飛び退っていた。

 

 起き上がったスタッフがその手で先ほどまで夜都の居た空間を引っ掻く。

 

「……惜しい」

 

「……何故生きている」

 

 ぐずぐずに顔が融けているが、そもそも生きているはずがない。自分の能力は二度目のあるタイプの能力ではないはずだ。

 

「……おぞましい能力だ。物質の内側の体温でさえも利用して、内部から体熱上昇し、臓腑を焼く……。単純だが、それゆえに万能性が高い。銃弾は命中する瞬間に鉄の融点を迎え、溶解して落ちる。……なるほど。何故、この契約難民の数多いニューヨークで、生き永らえているのか、よく分かりましたよ。この身でもってね」

 

 ランセルノプト放射光を漂わせ、スタッフは自身の形状を変異させる。

 

 砕いたはずの脳髄を何度か頭を振って巻き戻し、ばらばらに焼け爛れた顔面を再生させる。

 

「……物質の再構築。いや、この場合は正常な部位との融合」

 

「……正解。やられた個所は、ほらこの通り」

 

 スタッフ――否、既にその顔は変容している。



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第十六話「道標を照らす」

 その顔は何の冗談なのだか、狼のマスクであった。仮面を纏い、相手は焼け爛れた足を晒す。

 

「……これでは足が使い物になりませんね」

 

「……人狼」

 

「赤ずきんを食べたのは狼でしょう? なら、この顔が相応しい」

 

 相手はファイルを翳し、そこへとペンでささっと描きつける。その挙動に夜都は言葉を詰まらせていた。

 

「……お前の正体は……」

 

「そういう、野暮な事は言うもんじゃない」

 

「ねぇ! 生きているんならさっさと再構築して! 正常な場所と交換出来るんでしょう? だったら、早く!」

 

「ああ、しかしもう血液の中に赤ずきんの能力は入ってしまっている。私のように自身の体温を利用されて焼き殺されたのならどうとでもなるのですが、血液の流れで上ってくる能力までは排除出来ないですね」

 

「な、何を言って……。あんたの能力は無敵だって……! 生存率百パーセントでしょう!」

 

 その言葉に人狼はノンノンと指を振る。

 

「それは私一人の話。チームメイトまでは面倒を看られませんよ。しかし、困りましたね、これは。貴女の中に入った能力は未だに彼女の支配下にある。取り出そうとすれば、私がその熱のコントロールを引き受けてしまう」

 

「いいからッ! さっさと解いて! このままじゃ、脳に上って――!」

 

「ああ、それなら大丈夫。案外、この死に方は最初こそ苦しいですが、なに、一瞬ですよ」

 

「嫌だ……っ! 嫌、嫌ァ……ッ! そんな死に方したくない! だってここはゲートで……叶うのでしょう? 何でも……だったら、叶えて……ッ!」

 

 その瞬間、シャルロットの脳幹に熱が到達したのだろう。彼女は絶叫して事切れていた。その顔面から体液が滴るのを、人狼は、おお怖い、と舌を出しておどける。

 

「こんな形相で死ぬのは御免ですね。しかし、赤ずきんに手を出した代償は恐ろしい。内側から熱で焼かれて死ぬなんて」

 

「……シャルロットは最初から契約者だった。いや、彼女だけじゃない。運営も、研究所の人間も、グルだったのか」

 

「それは誤解ですよ。少なくとも研究所に居た人間は皆、友好的でした。まぁ、ほとんど使わせていただきましたが」

 

 人狼がぱちんと指を鳴らすと、濃霧の向こう側から数人の人影がのっそりと顔を出す。

 

 彼らは一様に手にしていたはずの武器と融合し、ライフルを頭蓋に歪な形状で突き出されている。

 

「……残酷な事をするのだな」

 

「残酷? それは可笑しな話をしますね。契約者は合理的に思考するものです。武器を使えるのならば、その行使の機会を窺うまで」

 

 人狼は彼らを仔細に観察し、スケッチを始める。

 

 それがスタートの合図であったかのように頭部を銃座にされた人々がそれぞれに武器を掃射していた。

 

 夜都は躍り上がり、ワイヤーで絡め取っては能力に身を委ねる。

 

 咆哮のような声が上がり、断末魔が次々と濃霧を満たしていく。

 

「……やりますね。彼ら、一応はそこそこ自我はあるんですよ? なのにまるで慈悲の欠片もない。一瞬だ、貴女の判断は。それが素晴らしい。銃撃網が舞う前に、既に勝負は決している。……頭数をせっかく揃えたのに。苦労したんですよ? こうやってくっ付けるのにも芸術性が必要でしてね」

 

「……契約者が芸術などと口にするな」

 

 ワイヤーが舞うが、人狼にかかる前にその身代わりとして参加者の成れの果てがかかる。

 

 迷いは浮かべない。

 

 すぐさま体温の中心部を関知し、血管の中に熱を入れ込み、脳幹へと一瞬で上らせる。

 

 眼前で散った人間の体液がマスクに散るが、それでも人狼はうろたえもしない。

 

「……やるぅ!」

 

 口笛さえも浮かべた相手に夜都は歯噛みし、クナイを逆手に握り締め、銃座の人間の肩を足掛かりに跳躍する。交錯させた一閃をまたしても身代わりが受け、血潮が迸る。

 

 自分と人狼の間で命を散らせた人影に、夜都は反射的に飛び退っていた。

 

「私は……これでも芸術性を重視しているんです。だって、そうじゃないとこの対価は物足りない。私の対価はこうやって、自身の感性を活かして融合させた対象物をスケッチする事。粘土でも練るみたいな感覚なんですよ、これ。どうとでも自由に出来る」

 

 銃座の人間同士がくっつき合い、頭部を三つ垂らした歪な人体が完成する。

 

 その口元から漏れた吐息と共に、三つの頭が地獄の番犬さながらに鎌首をもたげる。

 

 途端、銃撃が浴びせかけられ、夜都はコートを翻して弾き返しつつクナイを投げていた。

 

 銃座の番犬の頭部を狙ったが、僅かに狙いは逸れてその腕に突き刺さる。

 

 しかし、融合の効果は思いのほか強い。三人分の大人の膂力を引き移した六本足の異形が力任せにこちらを引きつける。

 

 その突き出した銃身が狙い澄まそうとしたが、その時には既にこちらの距離だ。

 

 掴み上げ、夜都は吐き捨てるように口にする。

 

「……吐き気がする。お前のような、人間を人間とも思わない、契約者の所業は」

 

 三人分のノイズ混じりの断末魔が貫き、夜都は遺骸へと一瞥をくれる。

 

「……赤ずきんでも慈悲はあるのですか?」

 

 試すような物言いに、夜都は白熱化したクナイを投擲する。相手はペンを突き上げてクナイを弾いたが、クナイに籠らせた熱量でペンが溶解している。

 

「……さすが」

 

 その声が弾ける前に夜都は地を蹴って懐へと潜り込んでいる。

 

 掌底を浴びせかけて、夜都は、ぐん、と何かが通過したのを感じていた。

 

 思いも寄らぬ速度で傍らへと行き過ぎる、それは――。

 

「……巨大な……魚影……」

 

 濃霧の向こう側で、明らかにスケール感を無視した巨大な魚の影が通過していく。攻撃を中断し、魅入られていた夜都を振り払い、人狼はランセルノプト放射光を棚引かせ、死した人体を練り上げて自らの躯体とする。

 

「ここの勝負はお預けにしましょう。……ニューヨークの赤ずきん」

 

 背中に人間の身体を負い、人間の腕を用いて人狼は四つ足となり駆け抜けていく。その速度にはさすがに追いつけず、夜都は濃霧の中で彷徨う。

 

「……ここがどこなのかも分からない。それに……限界か……」

 

 膝を折る。あまりにも自分の限界を無視した戦いをし過ぎた。夜都は周辺を漂う真っ黒な魚影に終わりを予感していた。

 

 異形の群れが浮かぶ中で自分は息絶えるのか。

 

 そう感じたその瞬間、濃霧を引き裂く黄金の輝きを感じて振り仰ぐ。

 

「……金色の……イルカ……?」

 

 中天を遊泳していく黄金のイルカは、何かを指し示すかのようにその内側から低く遠い呻り声を漏らす。

 

「……ついて来いって……?」

 

 夜都はよろめきながらも、自身の携行していた小型パソコンを片手に、一寸先さえも見えない濃霧を歩き出していた。

 

 黄金のイルカは羅針盤のように一方向を示し、霧を突っ切っていく。その姿は、まるで――。

 

「……月明りの……道標……」

 

 その時、不意にイルカの内側から眩い輝きが放たれていた。何だ、と思う間もなく、霧はイルカを中心軸に消え去り、夜都は出し抜けに視界に入った新市街地の一角で沈黙していた。

 

「……新市街地の……それほど遠い場所でもない」

 

 これまで来た道筋を反芻する。ゲートの戸口であったのか、それとも本当にゲートの中の内部に入っていたのかはまるで分からない。

 

 分からないが、ただ一つだけ――ハッキリしているのは。

 

「……あの人狼の契約者とは……決着を付けなければならない」

 

 その確信だけは、茫漠とした胸の中にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モーニングを注文すると店主が明るく口にする。

 

「おー、ヤトちゃん久しぶりだねぇ。旅行、楽しかったかい?」

 

「えっと……それがその……諸々あって結局中断しちゃって……」

 

「おや、そうかい。あんた! ヤトにデレデレしてないで手伝ってちょうだいよ!」

 

「あー、はいはい。まったく、うちのはこれだから。しかしそれは災難だったねぇ。旅行がご破算になるのはまぁ、私の若い頃も結構あったが、ありゃ辛いもんだよ」

 

 夜都は愛想笑いを浮かべてホットドッグとコーヒーをトレイに乗せ、公園のベンチに座り込む。

 

「……今日の朝刊には何も載っていない。相変わらず情報封鎖だけは一級品って奴だ。しかし……それでも誤魔化し切れないものもあるようだな」

 

「時計、返しておく」

 

「いいレコードは録れたか? 言っておくが、組織はそれなりのリターンがなければ僕達だって切り捨てるぞ?」

 

 銀時計の内部構造は自分に明かされていないが、ゲートに入った際の戦闘記録は入力されているはずだ。当然、自分の心拍数や脈拍も。

 

 ――あの時何があったのかも。

 

 もしかしたら時計には記録されているのかもしれないが、定かではない。

 

「それなら結構。他を見つけるまで」

 

「ドライには成り切れないね、こちとら。ただ、分かった事は、君の発見された場所には遺体もなければ血の痕もなかった。死骸は全部、ゲートが向こう側に持って行ったようだな」

 

「……【煉獄門】の事を、私達は結局、何も知らない」

 

「組織も内々で済ませようと躍起さ。だが、いずれにせよ、結果だけがこの世に残る。トーキョーの【地獄門】関連も最近ちょっときな臭い。どうにも、腕利きのエージェントが投入されたと聞くが、それも定かじゃなくってね。組織の中でも足並みは揃ってないようだ」

 

 いずれにしたところで、自分は一度、ゲートに触れたつもりであった。だが、この手が何もない空虚を掻いたのかもしれない。まだ、その結論は出ない。

 

「今日はすぐに齧り付かないんだな、ホットドッグ、冷めるぞ?」

 

「……たまには食欲のない時もある」

 

 そう言いつつ久しぶりの店主の御手製は格別であった。夜都はホットドッグを平らげてコーヒーを呷る。

 

 グレイは肩を竦めていた。

 

「……よく言うよ。だが、それくらいタフでいてくれたほうが助かる。僕達は後方支援しか出来ないからね。そうだろ? ブルック」

 

『同意だが、紅。本当に何があったのか、組織に報告するつもりはないのか?』

 

「……ゲートでは不可思議な現象が起こるのが常のはず。報告しようにも出来ない」

 

 直上の木々に留まった蝙蝠が首を傾げる。

 

『……隠し立てはためにならないぞ。だが、そう言われてしまえば言及も出来ない。ゲートで何があったのかは後々、組織の介入が入るだろう』

 

「やれやれ……。僕らは当面のところはこの街の契約者相手に立ち回りか」

 

『【煉獄門】の関連情報は相手が持つ。その条件で俺達はせいぜい、任務に就かせてもらうとしよう』

 

「了解……。だが、紅。これは年長者なりの忠告だが、長いものには巻かれたほうがいい。あまり一人で先走り過ぎると、自分を見失うぞ」

 

「……私は勝手に動く。他のも勝手に動けばいい」

 

「スタンドプレーは相変わらずか。まぁ、下手に馴れ合うよりかはいい」

 

 グレイは新聞を畳んで時計を気にして歩き出す。頭上のブルックが声を発していた。

 

『紅。お前は次の任務を待て。俺は組織に今回の件を問い質す。どうにもお前が死にかけたくらいだ。気にかかる事がないわけじゃないんだろう?』

 

 人狼の契約者を思い返し、夜都は目を伏せる。

 

「……別に期待していない」

 

『それでも、だよ。たまには大人に任せておけ』

 

 蝙蝠が飛び去っていく。夜都はトレイを返し、新市街地を抜けて自宅へと向かっていた。

 

「……たった三日間。それでも……この街は、何かを覆い隠している。それは充分に窺えた」

 

 ゲートと隣り合わせの街。表層だけを取り繕う言い訳のビル群。

 

 夜都はアパートの階段を駆け上がり、チャイムを鳴らしていた。

 

 はい、と出たアリスはこちらを認めるなり、目を見開く。

 

「あ、あの……」

 

 声を発する前にアリスが抱き着いてくる。その挙動に夜都は目を白黒させる。

 

「あ、アリス……?」

 

「馬鹿ヤト! ……本当にどこかに居なくなっちゃったかと思ったじゃない……」

 

「……馬鹿ってのは余計」

 

「あ、ゴメン……。でも、ちょっと不安になっていたのは、マジな話」

 

「それは何で?」

 

 呆れ気味に部屋に入り、鞄を下ろす。アリスはベッドにもたれかかって不服そうに頬をむくれさせる。

 

「いや……何か新市街地のど真ん中でさー、警察が張ってて、何でって後々店長に聞いたら、大規模なゲートが発生したんだってさ。それで当面はバイトは休み。……お陰様で暇を持て余していたところに、あんたが帰って来たってわけ。……ホント、心細かったんだから」

 

「分かったから。アリス、抱き着かないで。暑いよ」

 

 小型パソコンを開いた夜都にアリスはすぐ傍でふぅんと訳知り顔になる。

 

「……また書いたんだ、続き」

 

「うん……。実はね、金色のイルカは死んじゃう予定だったの」

 

「そりゃまぁ、救いようのない話で」

 

「でも……何だか気持ちが変わっちゃって。金色のイルカは少しの間だけ、死神の女の子の話し相手になる感じになるっぽい」

 

「へぇー、ちょっとは救いがあるじゃない。イルカ次第だけれどね」

 

 夜都は慣れた仕草でパソコンの起動中に立ち上がり、コーヒーメーカーで抽出する。

 

「おっ! 久しぶりの夜都の特製!」

 

「……もうっ、調子いいんだから。自分でも淹れられるでしょ?」

 

「いんやっ! 夜都の淹れてくれたほうが美味しいっ!」

 

 断言するアリスに、夜都は嘆息をつきつつお互いのマグカップへと注ぐ。芳しい香りに少しだけ、緊張を解きほぐされる。

 

 アリスは香りを楽しみつつ、口に含んで、うんと頷く。

 

「やっぱり、ヤトのがいい。格別ぅーっ!」

 

「……それでね、アリス」

 

「無視かいな」

 

「……イルカのキャラクターがまだ思い浮かんでいる途中なの。ちょっと相談してもいい?」

 

「あら、珍しい。その創作に関しては、自分の意見が絶対なんじゃなかったの?」

 

 そのつもりであった。それに、この小説自体――。

 

「……うん。でも、ちょっとは幸福なほうが、死神の女の子も救われると思うの」

 

「ちょっとは幸福、ね。ねぇねぇ、じゃあさ。黄金のイルカはとんでもなくムードメーカーで、色んなギャグを教えるの! 死神の子はそれで笑う事を覚えるってのはどう?」

 

「……いいけれど、ギャグ次第」

 

 お互いに意見を交わしながら、夜都はこの狭い部屋で満たされていくのを感じていた。

 

 死神の少女は、少しだけあの日失った道を、見出したのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

第二章 了

 



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第三章「野良猫は、血の足跡を宿して…」(前編)
第十七話「地獄を征く」


 ――少しの間だけ、話をしよう。

 

 君の孤独が癒えるまで。そう口にした金色のイルカは、様々な話を語って聞かせてくれていた。

 

 この漆黒の森に入ろうとするのは、何も自分だけではなかったらしい。

 

 この世界に絶望した者、生きる価値を見失った者、あるいは独りでいたいと願った者……。

 

 彼らに対して金色のイルカは常に希望を説いてきたと言う。

 

 ――絶望なんてするもんじゃないよ。まだまだこの世は捨てたものじゃないさ。もう一度、身を翻してごらん。きっと明日が見えるはずだよ。

 

 ――生きる価値なんて誰かに見出されるものじゃないだろう? 自分で見出すものさ。心に語りかければきっと、見えてくるものもあるはずさ。

 

 ――独りでいたいのかい? だが君が思うよりもずっと、独りは辛いと思うな。この漆黒の森に入れば、誰も確かに君を害する事は出来ないだろう。だが同時に、君は誰も害する事も出来なくなる。人は互いに傷つけ合って、それでもなお生きていくんだ。

 

 それらの言葉が虚飾、あるいは嘘くさく思えるのは、やはり私が辿ってきたこれまでにあるのだろう。

 

 死神の鎌は命を刈り取る。

 

 それこそ容赦なく、何の躊躇いもなしに。

 

 触れるだけで死に至る毒と同じく、死神の宿命として、出会う人間を不幸にしてしまう。それならば独りで生きていくほうが、と感じてこの森に来たのだが、案外この世の最果てにもお喋りは居たものだ。

 

 金色のイルカは胸を反らし、これまで出会ってきた人間達の話を自分に聞かせる。

 

 別段、それで自分の決心が変わるわけでもない。しかし、彼からしてみれば、森に入る人間に聞かせる最後の言葉なのだろう。

 

 その声音は自然と熱を帯びていたし、何よりも情に溢れていた。

 

 ――漆黒の森に入れば、君は多分、もう二度と俗世と交われないだろう。それは死神を自称する君からしてみれば幸いかもしれない。だが、孤独は君を苛む。どこかで限界が来る。その時に、漆黒の森は何も反響しない。そう、響かないんだ、この森には。断末魔も、悲鳴も、何もかもを吸い込んでしまう。

 

 それでも構わない、と私は言いやる。イルカの言葉は確かに希望に満ちているが、それは自分の足を止める要因にはなり得ないだろう。

 

 少しの間、話をさせてくれ。

 

 そう彼は言った。

 

 自分はそれに従った。

 

 その一事に尽きる。

 

 だがその話に、私は意見を述べていた。

 

 ――じゃあ、あなたの言ったその人間達は幸福なの? と。

 

 彼らは皆、生きる喜びを再認識したのか。本当に漆黒の森に入らずして、そのまま家路についたとでも言うのか。この世の残酷さを全て忘れて、もう一度生きてみようと思えたのか。

 

 詰問に、イルカは押し黙る。

 

 ――僕はね、傲慢ではないつもりだよ。そこから先は君達の領域だとも。

 

 でもそれは、と私は口にする。

 

 ――それは最も残酷なのと、何が違う?

 

 希望をちらつかせて、彼らは本当にそれに手を伸ばせるのか。本当に希望だけを信じ込んで生きていられるか。生きる事に、疑問や疑心を抱かずして、では真っ当だとでも言うのか。

 

 矢継ぎ早の質問にイルカは困惑したようである。

 

 ――それは……分からない。だが死ぬよりかはいいはずだよ。

 

 でも、私は死神。命を摘む事でのみ、価値を見出せる。

 

 そんな存在にあなたは、こう言っているのだ。

 

 殺す以外にも、生き方はあるはずだと。

 

 だがそれは、何よりも……私と言う存在そのものへの否定の言葉に聞こえていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紫煙をたゆたわせ、ガタイのいい男は机の上に煙草を押し付ける。

 

「……なぁ、あんた。確かに羽振りはいいが、それでも得心がいかねぇ。何だって、俺達みたいな人間に、ここまで便宜を図る?」

 

 男の視線の先に居たのはサングラスをかけた淑女であった。慎ましやかな黒い衣装に髪をサイドで結んでいる。

 

 女は机を囲むごろつき達を見渡していた。

 

 正面の男の部下が拳銃をちらつかせ、お互いに視線を配る。

 

 机の上には小切手が置かれており、メモとして「いくらでもご自由に」と優雅な筆致で書かれていた。

 

「……先にも言いましたが、契約難民の確保は急務なのです。それはアメリカだけではない、全世界で可及的速やかに行われるべきと言われています。ご存知でしょう? 天国戦争の末路を」

 

「ああ、そりゃあ知っているさ。南米がごっそり消えちまったあの戦争だろ? ……契約者とか言う、異常能力者共が殺し合って、そんで塵一つ残らなかったって言うおぞましい戦争だ。南米の【天国門】からもたらされる収益がそんだけ魅力的だったって事だろうが」

 

「我々の組織も、それを買っています。こうやってあなた方の手元にあるあれに関しても、同等の価値があると」

 

「価値、ねぇ……。俺らは所詮、ならず者だからよ。分からないと言えば分からないし、どうでもいいと言えばどうでもいい。……ただな、領分は守ってもらうぜ、女狐さんよ。ここの区画は俺達の住み処だ。それを争うって言うんなら、あんたは敵だよ」

 

「ですから、合意の上でサインし、そして好きな額で交渉していただきたいのです。我々は平和主義者ですので」

 

 女の紡ぐ言葉に男はケッと毒づく。

 

「……平和主義者ねぇ……。ゲートが現れてから久しく聞かなかった言葉だぜ。だが、満額つぎ込まれても、それでも痛くも痒くもねぇってその澄ました表情……気に入らないとだけは言わせてもらおう」

 

 男の吹き出した煙い息が女の顔にかかる。しかし女は眉一つ跳ねさせない。

 

「……ゲート関連の情報に関しては、各国が鎬を削っています。それなのに、後れを取るわけにはいかないのです。どうか、サインと額の提示を。それで事は済むはずでしょう?」

 

「ここまで舐めた態度取っても怒りも、ましてや交渉決裂だとか言い出さない辺り、あんた……例のドールって奴か? いや、ドールならこんな交渉条件、そもそも持ち出さないか。連中、感情がねぇんだもんな。だがあんた……一応はべっぴんだって言っておくぜ。こんな片田舎に連れ込まれるのはもったいないほどにな」

 

「恐縮です。ではサインを」

 

 男が脇の部下に目配せする。部下は首肯し、女へと引き金を引き絞っていた。

 

 銃声が二回、劈き女はそのまま倒れる。

 

「悪いね、べっぴんさんよ。こんだけの額を積まれりゃ誰だって警戒する。もっと他の……PANDORAとかに情報を売ったほうが有意義そうだ。あんたの死は無駄にはしねぇよ」

 

「――それは交渉決裂、と判断していいのだろうか」

 

 まさか、と男が目を見開いた瞬間、女は跳ね上がるように佇み、部下の心臓へと腕を突き入れていた。

 

 その身体が青白い燐光に棚引き、次の瞬間には女は心臓を掴み取り、血を噴き出す臓器を引き出している。

 

「な……何だ……それ」

 

「とんだジョークですよ」

 

 ぷしゅっ、と心臓が鷲掴みにされ押し潰される。飛び散った鮮血に慄いた男を他所にもう一人の部下が女へと飛び込んでいた。

 

 その手にはナイフが握られている。

 

 腰だめに体重をかけた一撃に女は倒れるかに思われたが、部下が声を震撼させる。

 

「……腕が……貫通した……?」

 

「正しくはあなたが私を通り抜けたのですよ」

 

 女が青白い光をなびかせたまま、部下の首筋に指を這わせる。その指先が不意に頸動脈に入り、引っ掻いた刹那には部下の首からまるでスプリンクラーのように血潮が舞っていた。男は恐れ戦いて後ずさりつつ、女の眼がサングラスの向こう側で赤く煌めいたのを確かに目にする。

 

「……まさか、てめぇも契約者……」

 

「どうなさいますか? 交渉を続けるか、やめるか」

 

 ひぃ、と悲鳴を上げて男は外へと飛び出す。女から逃げおおせれば、後はどうとでもなる、と感じていた彼はこちらへと歩んでくる人影を視界に入れる。

 

 少年であった。

 

 どこか虚ろな瞳の少年は、帽子を目深に被り、その手に握り締めたダーツの矢を投擲する。

 

「ば、馬鹿にしやがって……! ダーツの矢で人が殺せるかよ!」

 

 懐に入れた拳銃を抜きかけて、男は拳銃が手を滑り落ちたのを感じ取っていた。

 

 青白い光に押し包まれ、その手が何もない空を掻く。

 

 背後へと振り向けば、女が地面に手をつけ、そこから発せられた光を自分へと伝導させていた。

 

「な、何だこりゃあ……! 何も掴めねぇ……ッ!」

 

「……ダーツで人が死ぬわけない、って言ったね」

 

 少年の放ったダーツがそのまま男の体内へと潜り込む。その瞬間、激痛に男は悶えていた。

 

「……がぁ……っ! 身体の中にぃ……ッ!」

 

 異物が体内に入り、臓器を引き裂いた。その感覚と共にかっ血する。女はゆっくりと歩み寄り、男の肩へと手を置いていた。

 

「ブツの場所を教えてもらいましょうか」

 

「……ば、化け物共が……! 何の目的だ!」

 

「それを知る権利はあなたにはない」

 

 冷たく切り捨てた声音と、正面から迫る少年の脅威に男は居場所を吐いていた。

 

「わ、分かった! 言うとも! ……ブツの場所は南地区のホテルだ! 581号室!」

 

「……よろしい」

 

 女が手を離す。青白い光が失せ、少年は脇を通り抜けていた。

 

 ぜいぜいと呼吸を荒立たせ、びっしょりと掻いた汗を拭って、男は充分に離れた距離で、奥歯を噛み締めて振り返っていた。

 

「馬鹿が!」

 

 もう一丁の拳銃を照準しようとしたその時に、視界に入ったのはダーツである。まさか、と戦慄く前にダーツの矢はそのまま額へと突き刺さり、ずぶり、と頭蓋へと潜り込む。

 

 音もなく、男はそのまま仰向けに倒れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ジェッツ、スプレー缶を」

 

 その言葉に少年――ジェッツは手持ちのスプレー缶を差し出していた。

 

「やるせないな……」

 

 そう言いつつ、赤いスプレーで壁一面へと落書きを施す。描かれていく抽象的な図柄にジェッツは問いかけていた。

 

「ジキル。この行動の意味は?」

 

「意味なんてないさ。これは私の、契約の対価だからね」

 

 缶一本分を使い切って描いたのは、大仰な悪魔の抽象画である。無論、どうだっていいわけではない。その時々に脳裏に浮かんでくるテーマがある。

 

 しかし、そのテーマの一貫性のなさと、そして「スプレー缶を使い切らなければならない」という制約は隠密を厳とするエージェントには致命的だ。

 

 絶対に現場証拠が残るこの対価は、自分達の仕事には向いていない。

 

 女――ジキルはそう胸中に独りごち、スプレー缶を投げ捨てていた。ジェッツはダーツを手に周囲を警戒する。

 

「もう敵は」

 

「いない。あの三人限りだろう。あまり時間もかけられないはず。さっさと南区画のホテルとやらに赴こう」

 

「了解。……ダーツで人は殺せない、か」

 

 どこか自嘲じみて発したジェッツの声音にジキルは目線を振り向けていた。

 

「能力を使ってやるまでもなかったな。見せてやればよかったかもしれない。ジェッツ、あなたの能力は危険だからね」

 

「他人の事を言える? 物質透過なんてえげつない能力のクセに」

 

「それもそうだ。まぁ、ひとまずは彼らが最後の抵抗……」

 

 その時、廃屋から飛び出してきたのは男達である。全員が全員、殺気立っており、恐らくは先ほどの男の部下であったのだろうと推測される。

 

「……契約者か。何の目的でここに来た!」

 

「目的? ……そんなものを問うてどうする? まさか我々より先んじられるとでも?」

 

「街を荒らされると面倒なんでな! 死んでもらうぜ!」

 

 アサルトライフルの銃口が向けられ、ジキルはほとほと呆れたように額に手をやる。

 

「……人間は人殺しが好きで困る。ジェッツ」

 

「はいはい。……高くつくよ」

 

「構わない。人数は……八人か。一斉にやれるだろう」

 

「簡単に言わないでよ」

 

 ジェッツがその両手にダーツを握り締める。思わぬ挙動だったのだろう。男達が高笑いを上げていた。

 

「馬鹿か! ダーツで人が殺せるかよ!」

 

「……だ、そうだ。どうにもそちらの能力は締まらないな。初見だと舐められてしまう」

 

「嫌だね、ホント。でもま、そのほうがありがたい。避けられるよりかは」

 

 ランセルノプト放射光を帯びて、ジェッツは赤く眼を煌めかせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 物質透過で扉を内側からこじ開け、ジキルは一室へと入る。

 

 ベッドの上で一人の女性が毛布を被ったまま呪詛のような声を吐いていた。こちらに気づくと、その瞳が怯えに揺れる。

 

「……誰……? ――ああ、そう。私を確保しに来たのね。そっちの小さい子がジェッツ、あなたがジキル」

 

 赤く眼をぎらつかせた女の眼光にジキルは怯えを宿す事もなく、真正面からその眼差しを捉える。

 

「……常時発動型の能力か。厄介だな」

 

「……そうとも思っていない。当たり前よね。契約者に、他人を慮る機能はない」

 

「話が早くってとても助かる。ここに来る道中、服が汚れてしまった」

 

「……さっきの大きな動乱は、そっちのジェッツの能力なのね。あんなに派手に殺さなくってもいいのに」

 

 その言葉振りにジェッツは帽子を目深に被っていた。

 

「……別に。見せつける気なんてなかった」

 

「そちらの都合は聞いておこう。それに、我々の都合も」

 

 ジキルの言葉振りに女性は目を細める。

 

「……私みたいなのってたくさん居るのね。あの天国戦争の生き残り……」

 

「能力を行使しないでいい場所へと案内しよう。ジェッツ」

 

 ジェッツがその手に握り締めたのは赤いヘッドフォンだ。それを女性の頭にかけさせると、女性は驚愕に目を見開いていた。

 

「……不思議。こんな道具があるのね」

 

 女性の周囲からランセルノプト放射光が凪いでいく。これまで、常に発動し続けていた能力がこの道具によって相殺されたのだ。

 

「……こちらの手を読まれ過ぎるのも困る。これより、あなたは私達の保護下に入ってもらう。改めて名乗ろう。彼はジェッツ。私はジキル。契約者の精鋭集団、ズヴィズダーだ」

 

 宣言したジキルに女性は瞳を伏せる。

 

「……やっぱり。私の行方なんてその程度よね。ようやく地獄が終わったと思ったのに」

 

「それはすまないが、これだけは言っておく。――地獄は、始まったばかりだと」

 

 



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第十八話「不明を紡ぐ」

 想定外の事は起こるものだ、と口火を切ったのはグレイのほうからであった。

 

 夜都はいつものモーニングを頬張りながら視線を流す。

 

「……今日の朝刊は最悪だな。三流ゴシップにばかりかまけて。だが、コミックの出来は最良だ」

 

「どういう意味」

 

「……組織はとある港町でごろつきに任せていた契約難民を奪取された。これは失態だと、上のほうがお怒りらしい」

 

「契約難民……」

 

「知っているだろう? 先の天国戦争で南米から流れ着いた、国籍も、ましてや帰るべき祖国も奪われた者達……契約者の成れの果てだ。せっかく天国戦争に従事したって言うのに、彼らの待っていたのは祖国からの裏切りと、そして永劫消える事のない追っ手からの恐怖。皮肉なもんだ。天国戦争では英雄の働きをしても、終わってみれば残飯以下の扱いを受ける」

 

『グレイ。その情報筋が確かなら、契約難民が一人、奪われたと?』

 

 頭上の止まり木より声が振りかけられる。グレイは朝刊を捲りつつ、何でもないかのように応じていた。

 

「そうだ。それも国家が後々、威信をかけて取り戻したいレベルの契約者だった……と言われている。詳しい話は僕にも降りてこないんだ。相当、上はなかった事にしたいらしいがそうもいかなくなった。……紅(ホォン)、それにブルック。近いうちにニューヨークが戦場になる。その時に用意出来る事はしておけとのお達しだ」

 

「……死んでも自己責任だと?」

 

「そこまで人でなしではないと信じたいが……案外その程度の認識なのかもしれない。任務が回って来ればこれに送る」

 

 煙草のパッケージが差し出される。夜都はそれを受け取ってからコーヒーに口をつけていた。

 

「……契約難民。この国が向かい合わなければならない、政策問題か」

 

「彼らの処遇をどうするのかはこの国にあるようでない。今や各国諜報機関はトーキョーの【地獄門】にかかりっきりだ。この国にあるのは、彼らの飯の種を確保するだけの懐の深さだろうが、やはりと言うべきか、それは厳しい内情がある。だからこそ、僕らのような木っ端エージェントに話が回ってくる。ある意味では万々歳。ある意味じゃ、これ以上とない悪手だ」

 

「……一流のエージェントは皆、トーキョーに?」

 

「それも詳しい事は言えないとの事で。まぁそれもそうだろうね。どこにどれだけ組織が注力しているのかなんて明かせるわけがない」

 

 秘密主義の組織らしいやり口だ、と夜都は感じてからコーヒーを呷っていた。グレイは時計を気にして立ち上がる。

 

「……もし、この街が戦場になっても冷酷になれるように……いや、この指示は野暮か。契約者に、そんな情はない」

 

 グレイが充分に離れてから夜都はパッケージを開く。中に入っていたのはメモとポケベルであった。

 

 ほとんど玩具に近いが、だからこそ逆探知の可能性は低い。

 

『紅。お前は少しだけ警戒をしておけ。前回の【煉獄門】関連もある。思いも寄らない契約者が接触してくる可能性だってあるんだ』

 

「分かってる。でも、組織は何を考えて? だって契約難民は、ほとんど旧市街地に集まっているようなもの。今さら重宝するという事は、その契約者……」

 

『詮索はお勧めしないな。お前のやれる事は敵性契約者の排除と、そして不用意な接触は危険だと断ずる事だ』

 

 要はいつも通り、人間の尊厳は捨ててただ魂を刈り取る死神に徹しろという事なのだろう。

 

 夜都はトレイを返し間際にブルックへと言いやる。

 

「言われるまでもない」

 

 蝙蝠が飛び立ち、遠くの空を目指す。

 

「おーっ、ヤトちゃん! 今日も可愛いね!」

 

「もうっ、あんたは! ヤトも迷惑だよねぇ?」

 

「め、迷惑なんて……そんな事ないですよ……。私なんかによくしてもらって……あ、モーニング、今日も美味しかったです」

 

「お! そりゃあよかった! ヤトちゃんくらい素直な子ばっかりだといいんだが……最近、調子が狂うってもんでねぇ……」

 

 店主の困り顔に夜都は問いかける。

 

「……何かあったんですか?」

 

「いや、まぁ……客を無下には出来ないんだが……。ちょっと身なりがね、あれな女のお客さんが居て……。ヤトちゃんと同じモーニングを頼んでくれるんだが……どうにも」

 

「あんた! お客さんの選り好みはしない! だろう」

 

「まぁ、うちのがこれだからあまり大きな声じゃ言えないんだが……怪しくってね。いつもヘッドフォンをしていて、不愛想だし……」

 

「あんた! 口よりも手を動かす!」

 

「あー、はいはい。そういうわけなんだ。ま、素直が一番って事だな!」

 

 店主の言葉繰りに夜都は探りを入れていた。

 

「……もしかして、今、その辺に居ます?」

 

「いや、ヤトちゃんにクレーマーの処理まではやらせられないよ。……いやまぁ、クレーマーでもないんだけれどね」

 

 手を振る店主に手を振り返してから、夜都は周辺にそれらしい影を探していた。案外すぐに見つかったのは赤いヘッドフォンをしている女性である。

 

 店主が僅かに言葉を濁したのは見ればよく分かる。

 

 痩せぎすの身体に、ぼろきれのような服装は浮浪者と見紛うだろう。しかし、不自然に感じたのは女性に近づいた途端に感じた芳香であった。

 

「……香水の匂い……」

 

 清涼感のある香りはまるでその第一印象とは正反対だ。柑橘系の香りだと感じた夜都は、それとなく歩み寄り、そっと声をかける。

 

「あのー、もしかしてあなたも、ここのモーニングが好きなんですか?」

 

 ヘッドフォンで声を遮断しているかに思われたが、女性はこちらに気づき向き直る。

 

 その段になって、どこか及び腰に女性は後ずさる。

 

「……こんな近くまで近づくなんて……」

 

 心の奥底から驚愕している様子の女性に夜都は微笑みかける。

 

「あの……何かおかしいですかね……」

 

 困惑して頬を掻いていると、女性はその手に握り締めたホットドッグを凝視する。

 

「……あの話は本当だったんだ……。本当に……分からないのね」

 

「あのぉ……大丈夫ですか?」

 

「あ、うん……大丈夫……。こうやって誰かと喋るのもその……久しぶりで……。何だか変な心地。こんなの私の人生にはもう……訪れないんだと思っていたから……」

 

 どこか憔悴した様子の女性に夜都は愛想よく近づく。

 

「ここのコーヒー、私も大好きなんですよ。美味しいですよね」

 

「美味しい……。ああ、うん。そっか……美味しいってこんな感じなんだ……」

 

 まるで言葉の一つ一つが欠如しているかのような女性に夜都は話を振っていた。

 

「私、最近ニューヨークに来たばっかりで。だから、この新市街地で分かりやすいところに美味しいお店があって、ラッキーだなぁって」

 

「ああ、あなたもそうなのね……。私もこの新市街地はこの数日で訪れたばっかりだけれど……思ったよりも発展しているのね。あんな戦いがあった後だから、アメリカはもう駄目になっちゃったんだと思ってた……」

 

「……確かに戦争はありましたけれど、でもそれは市民には関係ないですよ。南米はでも……消えちゃいましたけれどね」

 

 軽い調子で笑いかけた夜都に女性はどこか、表情を決めかねているようであった。

 

「……不思議な感じ。何だかあなた、私を見ても怯えないのね」

 

「怯える要素がないですよ。私は鷺坂夜都。日本から来ました」

 

 手を差し出すと女性はホットドッグを片手にどこか困惑して、やがてトレイに乗っている紙ナプキンで手を拭いていた。

 

「その……私、汚いから……」

 

「気にしませんよ。何だか、こうやって不意に同じモーニングを頼む人が現れて、ちょっと運命かも」

 

「運命……。そっか。運命って、こんな単純なものでもいいんだ……。ありがとう。えっと……サギサカ……」

 

「夜都でいいですよ。異国で出会った人だからでも、こっちは何て呼べばいいか……」

 

「ヤト、ね……。英語が上手いのね。私は……シーク。シーク・リューミュラ」

 

「シークさん……でいいですか?」

 

「あ、うん。大丈夫……。すごく久しぶり……。こうやって他人と……普通に喋れるなんて……」

 

 シークはその特徴的なネコ耳のヘッドフォンを持ち直し、握手に応じる。

 

「……ユニークなデザインですね。ネコ耳ヘッドフォン」

 

「あ、うん。……御守りみたいなものかな。これがあれば、私は真っ当になれるって……」

 

「誰かからの贈り物ですか?」

 

「贈り物……なのかな。分かんないけれどでも……これがあるから、私は平気。多分、何でもない……」

 

 どこか不安定な論調だが、夜都はあえて言及せずに尋ねる。

 

「シークさんは、新市街地は見て回りましたか?」

 

「あ、いや……まだ来たばっかりで……」

 

「じゃあその、私でよければご案内します! ……あ、ちょっと出過ぎちゃいましたかね?」

 

 微笑んだ夜都へと、シークはどこかやつれた頬で笑みを形作ろうとする。

 

「……ううん。何だか……他人の事が分からないのは……これだけ充実していたんだなって……そう思っただけ。ヤトの案内、楽しみかも……」

 

「じゃあ、行きましょうか。あ、でもまずは……」

 

 トレイを指差した夜都にシークは不器用に頷く。

 

「うん……。モーニングを食べてから、ね……」

 

 



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第十九話「前触れを歩む」

 

 事件の説明に入る前に、と前置かれてミシュアは上官の目線の先を追う。

 

 喪服を思わせる黒い衣服の女性と、それに不釣り合いな背丈の低い少年が連れ合っていた。少年はこちらの視線に対し、帽子を目深に被る。

 

「……お二方は?」

 

「事件の追及に当たってくださる専門家だ。ここ最近、契約難民絡みの事件も多い。少しでも手があったほうがいいだろうという上の判断でね」

 

 喪服の女性が歩み寄り、手を差し出す。

 

「ヨハンソンです。こっちはジョシュア」

 

「ミシュア・ロンドです。こちらのほうで課長を務めさせていただいております」

 

「へぇ、新市街地の。それは誉れでしょう。ニューヨーク市警となればそれなりに花形かと」

 

「いえ、そこまで……。それに近年は【煉獄門】関連の不明事件も多いので、そこまで成果は……」

 

「いえ、それでも凄まじい検挙率だとは思いますよ。元々、ゲート関連の事件に関しては迷宮入りが当たり前なんです。それを突き止め、そして犯人まで捜し当てるとは、称賛に値しますよ」

 

 少しこそばゆくなってしまうが、ミシュアはその評価を額面通りに受け取らなかった。

 

 視界の隅でジョシュアなる少年が帽子のつばをつまみ、ヨハンソンへと言葉を投げる。

 

「……本題を」

 

「……そうだ。本題に入りましょう。今回の一件に関して、我々の口から語る事は実は少ないんです。協力者程度ですから」

 

 ミシュアは上官へと目線を振り向けていた。ヨハンソンがその名を紡ぐ。

 

「――レインマン。それも通称ですよね? ニューヨーク市警の上官がコードネームを使うとは」

 

「対契約者犯罪における処世術だよ。して、ロンド課長。君には彼らと共に、一連の旧市街地における殺しを追って欲しい」

 

「旧市街地の……? あそこは管轄外ですよ」

 

「だが、同じニューヨークの地平には違いないのだ。我々が如何に門外漢だと言っても聞かない連中も居てね。そういう相手のための動きだと思ってくれていい」

 

「……犯人を挙げる事は早急な問題ではない、と?」

 

 胡乱そうに眉根を寄せたミシュアにヨハンソンが額へと指をやる。

 

「シワ、寄ってますよ。せっかくのかわいい顔なのに勿体ない」

 

 ハッとして後ずさったミシュアにヨハンソンは愛想よく微笑む。

 

「失礼。あまりにも真剣そうに考えていらっしゃるので。ですが、我々はいつでも協力姿勢に移れます。あなたの手足として、ね」

 

「……手足なんて、思う事はありません。ですが、こちらの流儀は守ってもらおうかと――」

 

「すんません! 遅れました!」

 

 飛び込んできた赤ジャケットの男に全員が注視する。

 

「……ジャン。もう三十分も遅れているぞ。今さら遅刻の言い訳なんて……」

 

「違うんすよ! ……殺しです。旧市街地付近でまた。今度は水死体だってんで、調べを尽くそうとしたんですが……現地警察です」

 

 潜んだような声音に、何が起こったのかを憶測するのは難しくはなかった。

 

「……まさか、またあの連中が……!」

 

 因縁を含んだ声にヨハンソンがこちらを窺う。

 

「現地警察? ……ニューヨーク市警はこっちじゃないんですか?」

 

「……お恥ずかしい限りですが、こちらの流儀が暴走した結果です。それに関しては後々話しますので……」

 

 濁した形のミシュアにヨハンソンとジョシュアは互いに顔を見合わせる。ジャンがこちらに歩み寄って囁いていた。

 

「……何なんですか、この二人……」

 

「今回の事件の専門家、らしい。旧市街地での連続殺人事件に関して、少しは検知を持っているとの事だ」

 

「……専門家? 正直、下手な専門家なら居てもらわないほうが……」

 

 ジャンの非礼にレインマンが咳払いする。

 

「……すまないね、お二方。礼節のなっていない部下で」

 

「いえ、構いません。ねぇ、ジョシュア」

 

「……やる事は一つ」

 

「その通り。やる事は一つ。どうせなら、ハッキリさせましょう。旧市街地での事件、何者が絡んでいるのかを」

 

 自信を持って口にされたのでミシュアは若干うろたえてしまう。それほどまでに事件に精通しているのは、逆にどうなのかと。

 

 ――よくよく考えれば名前以外はほとんど分からない相手。あまり信を置き過ぎないほうがいいだろう。

 

「では旧市街地に案内します。ジャン、彼を頼む」

 

「はい。えっと……」

 

「ジョシュアだ。よろしく頼む」

 

「あ、はい……ジャンです……。あの……本当に大丈夫なんですよね? マジに子供にしか見えないんですけれど」

 

 耳打ちされてミシュアは肩へと手を置く。

 

「分からん。お前の判断で情報は与えろ」

 

「マジですか……。まぁとにかく……ちょっと刺激的な現場に遭遇するかもしれないので、その……」

 

「平気だよ。人死には見慣れている」

 

「……あ、そう……。じゃあその、引率するんで……」

 

「子供扱いしないで欲しい」

 

 断じる論調にジャンがたじたじになる。ミシュアはそれを横目にくすくすと笑うヨハンソンに言葉を振っていた。

 

「……ああいう事はよくあって?」

 

「ええ、まぁ。通過儀礼のようなものです。ですが、どのような現場でもやはりと言うべきか、検知がまずは優先される。ジョシュアは子供の外見ですが、あまり油断なさらぬよう」

 

「……肝に銘じておきましょう」

 

 覆面パトカーへと入りかけて、あ、とヨハンソンは付け加える。

 

「一つ、いいですか? 買い物なのですが」

 

「買い物? ……まぁ何でも」

 

 ヨハンソンは一つ、指を立てていた。

 

「スプレー缶をいくつか。お願いします」

 

 



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第二十話「街並みを紐解く」

 

 シークを連れ立ってまずは新市街地の中心地へと路面電車で向かっていた。

 

 彼女は人々の行き交う往来を、まるで生まれて初めて目にしたかのように瞳を輝かせる。

 

「……そんなにニューヨークの雑多な群衆は珍しいですか?」

 

「あ、……うん。こうやって普通の人達の中に埋もれるのは……もう何年振りなのか分からないから。何だかちょっとだけ新鮮かもしれない」

 

 夜都は路面電車の運転席に一瞥をくれる。

 

「こうやって路面電車が発達して、かつての地下鉄が意味を成さなくなったのもここ五年みたいだから。南米がなくなってからですね」

 

 天国戦争と呼ばれる戦乱が終息してもう五年。南米の【天国門】を中心として、一地帯が完全に「消滅」した。伝え聞くばかりの知識だが、この大陸の地続きに人類にとっての不干渉領域があるのは奇妙なものだ。

 

 しかしその噂話をシークはどこか瞳を落として声にする。

 

「……うん。あれは辛かった。……契約者……あ、一部で囁かれている噂なんだけれど、そういう超能力者が居て、彼らが各国の威信をかけて……殺し合いをしたって……」

 

 まるで見て来たかのように言いやるシークに夜都は疑問を呈していた。

 

「……まぁ、そのあおりがまともに南米に来ちゃったって感じなんですかね。私、まだ来たばっかりだから、ガイドブック以上の事は分からなくって……」

 

「……うん。間違ってはいないよ。でも……本当はもっと……深刻なのかもね……。この街も、この平穏も……何もかも……。いびつで、それでいて複雑なバランスで成り立っている。今にも壊れそうなのに、その脆さを強みに変えて……」

 

 どこか訳知り顔のシークに夜都は笑いかけていた。

 

「……そういう街なんですかね。でも、だからこそ、留学しようって気になったのかも……。日本に居たら絶対に分からない事が、ここにはあるんです。それは間違いなく……」

 

「日本……。トーキョーにも、同じようなゲートがあるって聞く……。日本人はどう過ごしているの……? よければ教えて欲しい……」

 

「そうですね……。あんまし変わんないですよ。確かに、ゲート関連で日常は激変しましたけれどでも、首都に住んでいる人間は相変わらずと言うか、ゲートがあるって言うのも含めて日常として捉えている節があって……」

 

 こちらの話をじっと聞き入るシークに夜都は言葉を切って目線を向ける。彼女は目が合うなり、顔を伏せていた。

 

「……ごめんなさい。他人の話をこうやってよく聞くの……とても久しぶりだったから……変な表情になっていたかもしれない……」

 

「いや、そういうわけじゃ……。でも、日本は様変わりしませんよ。こっちのほうが分かりやすいかな。ゲートがあるからって言って、じゃあ生活圏に影響があるかって言うと、そういう話でもないですから」

 

「……こっちのゲートは……【煉獄門】だって聞く……。どこに現れるのかはまるで不明だって……」

 

「私も驚いたんですけれど、こっちの人達って、【煉獄門】の出現に慣れているんですね。この先、ゲート出現につき行き止まり、みたいな看板って初めて見たからカルチャーショックだったなぁ……」

 

 微笑んだ夜都にシークもまるで併せるように不器用に笑う。

 

「……私、ここに来るまでちょっと……色々あって……。だから他人を信じる事には……億劫になっていたの……。でも、何だか安心……したかも。こうやって誰かと話すと、思ったより……私の思っていた……最悪って、そうでもなかったのかもって言う……希望かな……」

 

「希望……ですか。ちょっとそこまで大層な内容を話せているのかは謎ですけれどね」

 

 路面電車が止まり、夜都は新市街地の中心地へと足を進めていた。

 

 しかしシークはどこか怯えたようにその足を止めている。

 

「……どうしました?」

 

「……人が多いから……」

 

「人通りは、苦手なんですか?」

 

「……分からない。……ただ、怖い……」

 

 震え出すシークに夜都は勘定を払わず、そのまま路面電車の行先を示す。

 

「じゃあ中心街に行くのはやめますか? そのほうがいいんなら……」

 

「……いいの? 私、ワガママを言っているのに……」

 

 どこか引け目を感じているらしいシークに夜都は笑いかける。

 

「いいですよ。今日は暇なので、ちょっとニューヨークの街並みを見物しましょう。私もそんなに多くはないんですけれどね」

 

「……ヤト。ヤトは何だか……これまで会ってきた人達とは、違う気がする……。何て言うのか、私は……分からないけれど……」

 

 路面電車がまた走り出す。夜都は窓辺から市街地を示していた。

 

「あっちが本当の旧市街地ですね。……ちょっと治安が悪いですけれど、行ってみますか?」

 

「……ヤト、でも危ないのは……」

 

「ちょっとした冒険心ですよ。……駄目とは言われてませんし」

 

 その言葉にシークは呼吸を深くつき、やがて首肯していた。

 

「……うん。ヤトの行きたいところに、行きたい……」

 

「じゃあ旧市街地に向かいましょうか。結構乗る事にはなりますけれど……」

 

 その時、路面電車が止まる。もう停留所に辿り着いたのか、と思ったその時、乗り込んできた三人組の男達の纏う気配に夜都は緊張を走らせていた。

 

 物々しい黒服の男達がこちらを認めるなり、顎でしゃくり早足で歩み寄ってくる。

 

「……シークさん。ちょっと――無茶をします!」

 

「……ヤト?」

 

 短く悲鳴を上げたシークの手を引いて夜都は路面電車から飛び降りる。その直後に銃声が弾けていた。

 

 シークの手はか細く、弱々しい。こちらが強く手を引くと易々と引っ張り込める。

 

「何なの……! ヤト……」

 

「このニューヨークは危ない街でもあるんです! ……ああいうのがたまに居るってのは聞いてはいましたけれど……!」

 

「……何なの、彼らは……。もしかして、私を追って……?」

 

 疑問に足を止めかけたシークに夜都は声を投げていた。

 

「今は! 言う事を聞いてください! 旧市街地の地理なら、ちょっとは!」

 

 駆け出すと銃声が木霊する。相手はやり口からどこかの国の諜報部か。それにしたところで杜撰な証拠隠滅の方法に辟易する。

 

 恐らくはシークを狙っての攻撃。だが、契約者を使うでもない、ただの屈強な男達による襲撃など本来夜都は回避するまでもなかったが、相手をある程度泳がせたほうが探りを入れる余裕も出来る。

 

 何よりも、シークを伴ったままでは逃げおおせるのも難しい。

 

 まずは自分の巣穴の中に相手を陥れる事だ。夜都はいくつか角を曲がり、そうして旧市街地の拓けた空間へと出ていた。

 

 息を切らせると、シークはこちらの想定以上に消耗しており、今にも倒れ込みそうである。

 

「大丈夫ですか?」

 

「あ、……うん……。走ったのも……久しぶりだから……」

 

 呼吸が乱れている。それだけではない。彼女はどこか、まるで歩く事さえも久方振りのような感覚があった。

 

 夜都は周囲を素早く見渡す。

 

 今のところ、先ほどの黒服の一人でも追いついてきた様子はない。

 

「……こっちへ」

 

 手招き、夜都は自身のセーフハウスへと呼び込んでいた。暗証番号を打ち込み、ロックを解除してシークを部屋の中に引き入れる。

 

「……旧市街地に……家?」

 

「もしもの事があったら、ってこっちの友達に頼んでおいたセーフハウスなんです。……今のニューヨークでは何が起こってもおかしくないからって……。分からないものですね。まさか役に立っちゃうなんて……」

 

 夜都は素早く備え付けの小型パソコンの電源を入れ、コーヒーメーカーの抽出を始める。部屋に満ちたコーヒーの芳香にシークは不思議そうな顔をする。

 

「……この匂い……」

 

「コーヒーは……お嫌いでは、ないですよね?」

 

「……ああ、これ、コーヒーなんだ……。すごく、久しぶりな気がする……。誰かの……匂いのする部屋って言うのは……」

 

 どこか浮世離れしたシークを店主が気味悪がっていたのも当然と言える。彼女は全ての事柄をまるで初めて目にするかのように驚いている。

 

「今マグカップを用意しますね。……でも、シークさん、旧市街地に来るのも初めてですか? ……私も一度、この部屋を見に来たくらいでよくは分からないんですが、どうにも物件を探してくれた友人曰く、今のニューヨークはどうなっても自己責任だって言われちゃって……」

 

 困惑したように笑うと、シークは不器用な笑みを湛えていた。

 

「……それは……分かるかも……。今のこの街は……どこかおかしい……。何かが……まるで起こっているみたいに……」

 

「……分かりますよ。ああいう……黒服みたいなのが居ると、ああ安全じゃないってこういう意味かって……」

 

 顔を見合わせて互いに笑うと、少しだけ打ち解けたような気がしたが、今考えるべきは先ほどの黒服の目的であろう。

 

 明らかにシークを狙った強襲はどこかの組織同士の争いだと見るべきだ。

 

 マグカップを差し出すと、浮かび上がる湯気にシークは当惑する。

 

「……熱い……」

 

「そりゃそうですよ。淹れたてですから」

 

 口に含むと、シークは猫がそうするかのように舌を出す。

 

「……飲めない……」

 

「猫舌ですか? シークさん、ネコ耳だから」

 

 どこか調子よく口にすると、ああ、と彼女はネコ耳のヘッドフォンを気に掛ける。

 

「……これ、別に自分で選んだわけじゃないの……。でも、これは御守りだから。……お陰で真っ当でいられるって……」

 

 ともすれば黒服の目的はそのヘッドフォンか。しかし無理やり聞き出すにしてもシークは言葉少なだ。セーフハウスが見つかる事はないだろうが、夜都は策を講じていた。

 

「……もう追ってこないかも。ちょっと見てきますね」

 

 歩み出ようとするとシークが袖を引いて頭を振る。

 

「……危ない。ああいう連中は命なんて頓着しない……」

 

「……そこまで無法地帯じゃないと思いますけれど……。でも、気を付けてきますから」

 

 扉を開け、暗証番号を打ち込んでロックしてから夜都は一足飛びに窓辺から飛び降りる。

 

 黒服達は散り散りになって旧市街地を探し回っているようであった。路地に身を隠しながら、夜都はその様子を窺う。

 

「……契約者にしては動きが素人くさい。それに、彼女を狙うにしてはあまりにも……目立っている。合理的じゃない」

 

 夜都はそう判じて路地裏を駆け抜ける。黒服達の通信網が僅かに耳に入った。

 

「……はい。パッケージの確保は失敗……。大丈夫です、追跡出来ています……。滞りなく……」

 

「パッケージ……。やはり確保が目的か。……さて、顔を見られたな。どうするか……」

 

 殺すのは一瞬だが、少しだけ情報が欲しい。夜都は早速、グレイへとメッセージを打診していた。

 

 暗号化したパスコードを打ち込み、グレイへと命じる。

 

『……紅。あの女は何者だ? どうして匿っている?』

 

 直上の電線に留まった蝙蝠姿に夜都は目線も振り向けずに応じる。

 

「……結果論に過ぎない。だが、どこかの諜報部が動いているのは間違いなさそうだ。……契約者にしては、動きにキレがないが……」

 

『……確かに契約者の動きなら、もっと手早いな。グレイに暗号化コードを送信したな? ……これから先、ゲート関連のごたごたが起こる事を想定しての命令書のはずだ。あまり逸ると……』

 

「だが使わなければ意味もない。あるだけなら、道具の意味も」

 

『……確かにその通りだが、我々とて暇ではない。【煉獄門】関連の情報には耳をそばだてているのは組織だけではないと思え』

 

「……忠告か。らしくもない」

 

『忠告じゃない。現実的な理論だ。お前に死なれて芋づる式に俺達まで狙われては堪らん』

 

「……なるほど。合理的な判断だ」

 

 蝙蝠が飛び立つ。シークを守るのはあくまでも自分の判断に委ねる、と言うわけか。自分達は最小限の干渉しか行わないと。

 

「……いいとも。それでも、私は実行する」

 

 程なくして送信されてきたメッセージ番号に夜都はメモを参照する。

 

「敵対組織の可能性と戦闘への移行の準備を、か。……いつでもやれるようにはしてある」

 

 番号を送信し、夜都は黒服達が観測霊を用いていない事に勘付く。

 

 すぐ傍に屹立するガーネットの操る光の観測霊に彼らは気に留めた様子もない。この時点で契約者の線は薄れた。

 

 観測霊が光をジャンプして夜都の傍らに降り立つ。

 

「……諜報部か」

 

 観測霊の応じるのは相手の目的の不明さであった。

 

「……契約者じゃない。だが、明らかに彼女を狙っているのは間違いないんだ。だったら、少しの気の緩みも許されない」

 

 光の観測霊は静かに薄れていく。

 

 ガーネットもこの一件に関して深追いはしないつもりか。

 

 この時点で、頼りに出来るのは少なくなってくる。夜都は相手の動向を読み取りつつ、すり足で路地裏を抜けていく。

 

 迷路のようにくねる旧市街地の裏通りを巡り、夜都は黒服の動きがまるでこの街に関しての情報を得ていない事に気づいていた。

 

「……旧市街地の情報を持っていない。なら……」

 

 ――やれるか。

 

 そう思ってクナイを手の中に掴んだ瞬間であった。

 

 パトカーのサイレン音が響き、夜都は身体を硬直させる。黒服達は予め決めておいた逃げ道があったのだろう。

 

 三々五々に散った相手を追うのは旨味がない。夜都は入って来たパトカーを一瞥し、すぐにセーフハウスと続く道順を辿っていた。

 



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第三章「野良猫は、血の足跡を宿して…」(中編)
第二十一話「秩序を講じる」


 後部座席で地図を読み込むヨハンソンを、ミシュアはミラー越しに窺っていた。

 

「……旧市街地の地図はあまり当てにはなりませんよ。誰も、この混沌とした街を見ない事にしたいんです」

 

「それは分かりますよ。誰だって暗部を覗きたくはない。ですが、これも仕事に必要ですので」

 

 にこやかに応じた喪服の淑女にミシュアは少し毒気を抜かれた気持ちであった。契約者との一進一退の攻防や、そもそも【煉獄門】関連についての進捗が遅々として進んでいない現状を憂えば、畢竟、腐りもする。しかし、彼女はこちらの胸中などどこ吹く風と言う顔で地図を穴が開くほどに注視していた。

 

「……窓の外を見たほうがまだ情報になると思いますけれど」

 

「ご忠告感謝します。……なるほど、確かに。窓の外のほうがよっぽどですね。パトランプを。事件です」

 

 思わぬ提言にミシュアが困惑していると、不意に道を横切った影があった。明らかに堅気ではない黒服姿に、反射的にミシュアはサイレンを鳴らす。

 

 相手は逃げ去って行ったが、ミシュアは拳銃を確かめて外に出ようとしていた。

 

「……ここでお待ちください。ジャン、怪しい者達が居る……。旧市街地の……」

 

「ここは三丁目ですね」

 

「……三丁目だ。黒服の諜報員らしき男が道を横切っただけだが……偶然とも思えん」

 

『課長。どうやらビンゴみたいですよ。……少年君がさっきから窓の外をそわそわと。動きがあるのは間違いなさそうです』

 

 これは織り込み済みの事象か。あるいは彼女を招いた事によって起きた案件か。いずれにせよ、ミシュアは拳銃の安全装置を外し、静かに壁沿いを駆けていた。

 

「……相手は諜報員か……それとも契約者か……」

 

『星のスペクトル反応は送られてきていません。今のところは、ですが』

 

 パトカーのサイレンに反応して逃げたという事はやましい事がある反証になる。いや、旧市街地では誰しも警官など相手にしたくはないか、と思い直して、ミシュアは無線に吹き込んでいた。

 

「……やはり、旧市街地の殺しに関係が?」

 

『分かりませんよ。ただ、現着までに時間があるにも関わらず、ここでってのが気になりますね。俺は……少年君を見張っています。課長はそちらの女性を』

 

「ああ。ヨハンソンさ――」

 

 絶句したのは彼女がパトカーから降りていたからだ。制止の声を出そうとして、ミシュアはこちらに勘付いた黒服に身を潜める。銃声が劈き、ヨハンソンを狙っていた。

 

「逃げて!」

 

 咄嗟に叫んだ瞬間、ヨハンソンは指を振る。途端にその姿は青白い燐光に包まれていた。まさか、と息を呑んだミシュアは黒服達の銃弾がヨハンソンを通過しているのを確かに目にする。

 

 ヨハンソンの瞳が赤く煌めき、いくつかの火線が咲いたがどれもこれも彼女の身体を突き抜けていくばかりだ。

 

「……契約者……」

 

「レディロンド。あなたは隠れておいたほうがいい。ここは私がお相手しましょう。見たところ、特に武装のない、諜報員風情でしょうが」

 

 黒服達が異国の言葉を吐き、銃弾を絞ったが頭蓋を撃ち抜いたはずの正確な照準は、契約能力の行使によって無効化される。

 

「……物質透過……。物理エネルギーの無効化……」

 

「そこまで珍しい能力でないつもりなんですがね。これを見るとみんな恐れるから困る」

 

 黒服の一人が化け物め、と吼えたのが分かった。異国の言葉でもそれだけはハッキリとしていた。

 

 ヨハンソンは地面に手をつく。その瞬間、壁に使っている建築物にまでランセルノプト放射光の青白い光が伝播し、預けていた体重を透過する。よろめいたミシュアはヨハンソンのアイサインに瞬時の判断を下す。

 

 ――彼女の能力は物質透過。ならば。

 

 壁越しに黒服へと照準し、矢継ぎ早に一射する。

 

 その弾丸がいくつかの壁を通過し、黒服の一人の肩口へと突き刺さっていた。よろめいた相手は散り散りになり、旧市街地に逃げ込んでいく。

 

「……ジャン。彼女らは契約者だ」

 

『……こっちでも確認済みですよ。少年君、車から出ないで……!』

 

『これでも僕は君よりも十は長く生きているんだけれどね』

 

 ジョシュアと名乗った少年の声が無線越しに聞こえると同時に、ジャンの手を離れたのが察知出来た。

 

 車に戻ろうとしてヨハンソンに呼び止められる。

 

「レディロンド。ジェッツの判断には彼の意思が関係しています。そちらを尊重していただきたい」

 

「……どういう……ジェッツ……?」

 

「……失礼。我々、偽名を使っておりました」

 

 何の悪びれもなく言われたものだから、ミシュアは困惑して言葉を失う。ヨハンソンを名乗っていた女は恭しく首を垂れる。

 

「私の名前はジキル。無論、これもコードネームですが」

 

「コードネーム……。まさかどこかの諜報部の……!」

 

 銃口を向ける。その行動にジキルと名乗り直した女は肩を竦めていた。

 

「……その対応は困る」

 

「どういう意図がある? あなた達は何者なんだ」

 

「我々は契約者集団、ズヴィズダー。この国で発生する契約難民に関する事件を追うために、祖国より遣わされたエージェントです」

 

「祖国……どこの国の!」

 

 その時、出し抜けに響いたのはこの場に似つかわしくない、日本の祭囃子であった。誰が、と追及する前にジキルは胸元から携帯電話を取り出す。

 

「失敬。私だ」

 

『ジキル。黒服を追いたい。物質透過で相手への最短距離を』

 

「了解。透過範囲は?」

 

『一丁目北東部から三丁目の南西にかけて。半径五十メートルほど。こちら風向きは北風、弱風。標的の足を奪う』

 

「承知した。……まったく、人遣いが荒い」

 

 ジキルは青白い光を棚引かせ、そのまま地面に手をつける。すると旧市街地の大部分の建築物が透過能力の虜に陥り、ランセルノプト放射光を内奥より滾らせていた。

 

「……こんな広範囲の契約能力の行使……」

 

『ジキル。標的を確認。膝を撃ち抜く』

 

 何が起こったのか。それを追及する前に男の呻き声が耳朶を打つ。どうやら壁の向こうで黒服の誰かが足を取られたらしい。思わぬ挙動と立ち振る舞いに仰天するミシュアを他所に、ジキルはこちらへと歩み寄る。

 

 構え直し、警戒を走らせたこちらに彼女は一瞥も向けずに後部座席に買い込んでいたスプレー缶を取り出して振っていた。何をするつもりなのかと固唾を呑んで見ている間に、ジキルは壁へとスプレー缶を吹き付け、抽象画を描き始めていた。

 

「……それは?」

 

「失礼、馴染みのない方には申し訳ないのですが、これは対価でしてね」

 

「対価……という事はやはり、あなたは……」

 

「ええ、契約者ですよ。言ったでしょうに。まぁ、一言二言で信じないほうがいいのは慎重でよろしいのですが」

 

 ジキルはスプレー缶を消費するのに余念がなく、こちらへと振り向きもしない。ミシュアは拳銃を一旦は下げ、ジャンへと無線を繋いでいた。

 

「……ジャン。そちらはどうなっている」

 

『どうもこうも……少年君の手から放ったダーツが……何かこう、ビュンって! すげぇ速度に加速して……どっかに突き刺さりましたよ』

 

「……それがジョシュア……いや、ジェッツ氏の能力か」

 

「ええ、ジェッツの能力は投げた物体の超加速化。彼は好んでダーツを用いますが、何でもいいんですけれどね」

 

 スプレー缶がようやく尽きる。それをからからと音を立てて確認してから、ようやくジキルは振り向いていた。

 

「……さて、対価は支払い終えました。質問には答えましょう、レディロンド」

 

 壁に描かれたのは天使を模したかのような抽象画だ。何かテーマでもあるのだろうか。

 

「一つ、あなた方はどこの国の諜報機関なのか」

 

「……名乗りましたよね? ズヴィズダーだと」

 

「それは国家を名乗った事にはならない」

 

 手厳しい、とジキルは肩を竦め、旧市街地の向こう側を見据える。

 

「それは私に聞くよりも、あちらに聞いたほうが早いのでは? ちょうど一人、足をやりましたので」

 

 指し示され、ミシュアは警戒を張り詰めつつ、路地を駆け込んでいた。

 

 裏路地の一角で足を貫かれた形の黒服が呻いている。どれほどの速度のダーツが撃ち込まれたのかはまるで分からない。膝より下の筋肉を完全に引き裂かれており、血溜まりが広がっている。

 

 ミシュアは拳銃をその背に突きつけ、詰問する。

 

「……どこの国の諜報部か」

 

「……お、教えるかよ……」

 

「黙秘するのは勝手だが、この国ではそのような有り様でいつまでも居られるとは思うな。直に旧市街地の人間も集まってくる。その時に命があるとは思わない事だ」

 

 こちらの脅しに黒服は歯噛みして応じていた。

 

「……米国特殊諜報部……」

 

 紡がれたその名称にまさか、とミシュアは慄く。

 

「この国の? ……だがならばこちらから逃げる意味が分からない。協力を仰げばいいのに……」

 

「協力だと? ……ニューヨークの連中は皆、【煉獄門】に魂を持って行かれた人間ばかりだ。誰が信用出来るものか」

 

 なるほど。内々の裏切りも加味すればニューヨーク市警すら敵に回すと。だが、そうなってくるとより疑問なのはジキル達の所在であった。

 

 この国の諜報部が管轄している案件に対し、明らかな敵意を持っている彼らは一体、何者であるのか。

 

 その疑問に応じるかのようにゆっくりと歩み寄ってきたジキルは口元に優雅な笑みを浮かべている。

 

「何か、分かりましたか?」

 

「……この国も信用ならないという事が」

 

「それは結構。まずは自分の足場を疑う事です。……が、さてどうします? この旧市街地に赴いたのは、国家の威信をかけた重大事項ではなく、頻発している殺人事件の究明のはず」

 

「……分かっています。すぐにでも、現地警察がやってくるかもしれない。この男を確保します。手を」

 

「了解しました。レディロンド」

 

「……茶化さないでいただきたい」

 

 黒服の武器をチェックし、その拳銃と無線に用いていたイヤホンをミシュアは手にしていた。

 

 今も通信網が飛び交い、情報が錯綜する。

 

『……こちらP1、パッケージの確保に失敗したとの事だが、応答を求む。相手の規模と組織の推測を述べて欲しい』

 

『こちら、B3、……対象は旧市街地へと逃げ込んだ模様。このまま作戦続行の是非を仰ぎたい』

 

「……集団が動いている……? それも、結構な規模で……?」

 

 だが旧市街地で動けるのはたかが知れているはず。そう考えると、この黒服達は恐らく実行部隊だ。

 

 いわば使い捨ての駒か。警察から逃げなければならないのは、嗅ぎ回っている事を悟られないためと、組織の構成員を割らせないため。

 

「……にしても、何を目的に……」

 

「レディロンド。それは回答が出来る」

 

 ジキルの言葉振りにミシュアは胡乱そうな眼を向けつつ、通信機を懐に入れていた。

 

「……答えていただいても? 何のために、あなた方は動いているのかを」

 

「それは交換条件次第ですね。現地警察とは何です? この殺人事件とやら、ただの殺しに片付けるのには難しいようですが?」

 

 どうやらこちらの手の内も明かさなければならないらしい。ミシュアは嘆息をついて、黒服へと肩を貸していた。

 

「手伝いますよ」

 

 ジキルが手を貸そうとするのを、黒服が恐れ戦く。

 

「……結構です。これくらいは自分で出来ますので」

 

「契約者に手伝われたくない?」

 

 くすくすと笑うジキルに訝しげな視線を流しつつ、ミシュアは車の後部座席に黒服を乗せていた。

 

 ジキルが窺う眼差しを送るので、助手席を顎でしゃくると、彼女はようやく乗り込んでくる。

 

「……まずは現地警察とやらから。ニューヨーク市警は一枚岩ではないのですか?」

 

「……旧市街地は契約難民で溢れています。内情までは不明ですが、恐らくは南米の天国戦争に従軍したとされる難民の数は旧市街地の半数を超えるとされており、それらの起こす事件をニューヨーク市警はいちいち解決するような暇はありません。これは単純に、マンパワーの差だと言えます」

 

「つまるところ、新市街地の事件だけでもいっぱいいっぱいなのに、旧市街地までは見ていられないと?」

 

 癪な言い回しだが首肯するしかない。

 

「……そこで元々、旧市街地に住んでいた人々の中でも、腕に覚えのある人間達が作り上げたのが自警団……つまり、現地警察、と我々が渾名する存在です。しかし、彼らもまた、旧市街地に拘泥する市民には違いありせん。中には元警察官のキャリアを持つ人間も居るとの報告がありますが、だからと言って市民を裁いていい理由にはならない……。現地警察と言うのはそういう……厄介者の事を総称してもいるのです。私刑同然のやり口で契約難民を恫喝する者も居ると聞きます。だから、警戒しなければならない」

 

「なるほど。敵は各国の契約者や諜報員だけではなく、元々の市民も含まれているわけですか」

 

「……市民同士の衝突を避けるのが鉄則ではあるのですが、如何せん、そこまで手は回りません。そうでなくとも、表では連日、【煉獄門】がランダムに出現し続けている……。この状況でどう足掻いたところで、旧市街地の事件は後回しにせざるを得ないのですが、それでも死体が上がればパフォーマンスでもニューヨーク市警は動かなければならない。それが連続殺人ならば、なおの事」

 

「状況が見えてきましたよ。要は、市民同士の暴走を止めるべく奔走するあなた方が、しかし各国の威信をかけた諜報合戦に巻き込まれてもいる。にっちもさっちも行かないところに、まさかの連続殺人。そりゃ、猫の手も借りたくもなる……そこで我々へとお達しがかかったわけですか」

 

 認識は早いが、まだ不完全でもある。

 

「……現地警察を取り締まれないのは単純にニューヨーク市警が嘗められているのもあるのですが、しかし、今回のような殺人事件だと、誰が、どのような方法で、と言うのは愚問でもあるのです。契約者絡みの犯行なら、何でもありですから」

 

「現地警察がジャッジする前に、こちらで判定を下さなければ一方的なリンチになりかねない……。大変ですね、なかなかに」

 

「だからこそ、早急に現場に向かわなければならない。……これより、現着を急ぎますが、よろしいですね?」

 

「ああ、そんな事を。私達の目的と利害が一致しない可能性を汲んでの事ですよね? 無論、構いませんよ。私達も決して、そちらの都合などお構いなしに、と言うわけでもありませんから」

 

 思わぬ返答、と一瞬だけ感じていたが、要はあちらの危機にこちらも一蓮托生になるリスクを背負わせるのならば、こちらがちょっと譲歩したくらいでは釣り銭が返ってくるぐらいだという判断だろう。

 

 要領よく、自分達を利用する腹積もりなのは明白であったが、それでもミシュアは割り切ってアクセルをかけていた。

 

「……向かいます」

 

「どうぞ。しかし、ニューヨークの街並みも壮観ですね。旧市街地――かつての大都市の表通りがこうして裏方に回る事になるとは」

 

 その視線の先にあったのはニューヨークを象徴するシンボルビルであった。旧市街地は廃れたとは言え、それでもかつての栄華を覗かせる。それを見ないように蓋をしているのは身勝手な理論に映るに違いない。

 

 苦渋なる選択に、ミシュアは歯噛みして無線に吹き込む。

 

「……天文部に報告を。観測霊で探りを入れます」

 

「それはこちらへの配慮ですか? 別に構わないのに」

 

「いえ……契約者絡みの事件とこの殺人事件、どこで点と点が繋がらないとも限りません。観測霊で同時に捜査したほうが、ともすれば早くに決着がつくかも」

 

「なるほど。……面白いですね、レディロンド。合理的な判断です」

 

 まるでそれ自体を嘲笑するかのような響きに、ミシュアはハンドルを切っていた。

 

 



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第二十二話「鬼札を探る」

 旧市街地を無数の水路が貫いている。その地下槽からにじり寄ってくる気配に、ガーネットの光の観測霊が再び現れ、そして忠告する。

 

「……分かっている。警察が出てきて、そして契約者を放った……。この時点で疑うべきはニューヨーク市警の癒着だが、それにしては動きが杜撰に映る。――そうだろう?」

 

 夜都の眼差しが路地に入って来た黒服へと向けられる。首筋に絡み付いたワイヤーに呻き声を漏らす黒服へと夜都は尋ねていた。

 

「……誰の命令だ」

 

「……い、言うと思ったのか……。契約者が……」

 

「ならここで殺す。それ以外の望まぬ回答でも同じだ」

 

 こちらの声音に迷いがなかったせいだろう。黒服は僅かな躊躇を滲ませつつも、その喉より声を発していた。

 

「……米国の一諜報機関だ。それ以外は言えるものか」

 

「……ここに耳はない。心配するな。他の組織に情報を流す事はない」

 

 嘘だ。上空ではブルックが張っているし、今この場でもガーネットの観測霊が尋問に付き合っている。

 

 ――契約者は平気で嘘をつける。その打算に気づけないのが悪いのだ。

 

 黒服は目を戦慄かせ、やがて論調を震わせる。

 

「……米国の中央諜報部は、ニューヨークで連日起こっている【煉獄門】関連の情報に睨みを利かせている。それは内外とて同じ事。外交目的での情報の取捨選択は常に行われている。例外ではないのは、ニューヨークの警官が連れていた契約者も同じはずだ」

 

「……煮え切らないな。ハッキリと言え」

 

 絡めたワイヤーをきつく絞める。相手はうろたえ気味に口にしていた。

 

「……聞いているはずだ、そちらも諜報機関だと言うのならば……ある契約者の確保。それが急務に行われた。……外国人部隊、ズヴィズダー……連中が手に入れた南米の遺物を。【天国門】戦争で重宝された、ある意味では国家の威信をかけてでも手に入れるべき鍵だ」

 

「……鍵……それが彼女だと?」

 

「……どうやって能力を封じているのかは分からない。あの目立ったヘッドフォンかもしれないが、確定情報は一つもない。ごろつきの囲っていたはずの女契約者がどのような経路を経て、この街へと連れ込まれたのは不明だが、我が方は可及的速やかに手に入れるべきと、判断した……」

 

 契約者を擁する諜報機関同士の軋轢か。だが、それにしては対契約者相手に普通の人間を使うのは馬鹿げている。

 

「……何か意味があるんだな? 普通の人間でなくてはならない、意味でも」

 

「……か、勘がいいと……長生き出来ないぞ……。それでも、か……?」

 

「どうせ長引くとは思っちゃいない」

 

 今すぐに能力を行使してもよかったが、情報を得ないで殺すのは下策だ。声音に殺意が混じったのを感じ取ったのか、黒服は口調を逸らせる。

 

「……あの契約者……、メシエコードSS581は特別だ。だから中央は欲しがっているのさ、あいつの能力だけは他の誰にも真似出来ない……! 酷似する能力も存在しない今、トーキョーの【地獄門】の攻防戦に要るんだよ……。だから、我々が率先して手に入れようとしている、国力の復活のために……」

 

「……米国は経済的にも、世界情勢としても求心力を失って久しい。PANDORA法と言う形骸化した権力は持ち合わせていても、かつての権力国家としては失墜したも同じ……。そんな国を再興させるだけの力を持っているとでも? 一契約者が」

 

「く、国を復権させるのは、何も力だけじゃない……。それがうまく運用できる見通しならば、兵力にこだわる意味もない……!」

 

「……なるほど。その口ぶりから察するに、SS581は戦闘用の契約能力ではないな? 外交において優位に立てるだけの能力か」

 

「……もういいだろう! 解放してくれ!」

 

 喚きに、夜都は静かにワイヤーを緩めていた。

 

「ああ、……解放してやる」

 

 相手が脱力した瞬間、青白い輝きを放ち、能力を実行する。

 

 黒服の喉元から絶叫が迸り、やがてぐったりと項垂れていた。

 

 ワイヤーを外し、死骸を捨ててから、夜都は上空に位置するブルックの声を聞く。

 

『今の話し方じゃ、SS581はその単体だけでも意味がある契約者だと踏んだ。だが得心がいかないのは、その契約者集団……ズヴィズダーは何故、その契約者を放ったのか、だ。自分達の下に繋いでおくのが一番に思えるが』

 

「……それが困難になったか。あるいはこういう諜報機関がどれくらい動き出すのかを見る、試金石としたか」

 

『各国の競争を加速させ、その隙に乗じて一番の利益を掻っ攫う、か。その契約者を求めて動き出す諜報機関の人間を炙り出す意味もあったのかもな』

 

 こうして自分達の動きが活発になるのもまた、ズヴィズダーの目論見通りだとすれば、戦いさえも下策という事になる。

 

 しかし、今は情報を一つでも拾い集めるしかない。

 

 夜都は光の観測霊へと声を投げる。

 

「……こいつらの動きがあったら教えてくれ」

 

 ぼう、と観測霊が薄らいでいく。夜都はセーフハウスへと戻り、暗証番号を打ち込んで扉を開けていた。

 

 室内では、シークがマグカップへと視線を落としたままじっとしている。

 

「……何か……あったの……?」

 

「警察……が動いているみたいです。事件かも」

 

「……まさか。危ない連中が……」

 

「分かりません。でも、ここなら安全ですよ。すぐに見つかるようには出来ていませんし、旧市街地でも指折りの隠れ蓑になります」

 

 こちらの言葉にシークは疲弊した面持ちを伏せるのみであった。

 

 夜都はその隣へと腰を下ろし、顔を覗き込む。

 

「……何か、あったんですか?」

 

「……悪い予感がするの。……とても悪い予感が……。でも、多分それは的中する……。恐らくは……最悪の形で……」

 

「あの、私は所詮、留学生ですけれどでも……相談には乗れます。何があったのか、教えてはもらえませんか……?」

 

「駄目……っ! 言えばあなたを巻き込んでしまう……。普通の人間は……巻き込まれて欲しくない……これ以上は……」

 

 頭を振るシークから無理やり情報を聞き出すのは難しそうだ。それよりも、と夜都は先ほど始末した黒服の発した言葉を己の中で反芻する。

 

 ――SS581、切り札となる契約者……。

 

 それがもし、シークだとして国家が欲するほどの契約者とは如何なるものなのだろうか。まだあの黒服達の動きは前哨戦に過ぎないのかもしれない。

 

 本当の戦いの激化が起こる前に、事を内々で処理したいのが窺える。

 

 ゆえにこその、諜報員の使用であったのか。契約者を用いれば早々に決着がつくものの、それを望んでいない可能性もある。

 

 それに、天国戦争の従軍契約者の引き渡しと言えば、PANDORA法に抵触するであろう。どこかの国が国力だけでそれを強行突破すれば、ただでさえ意味を成していないPANDORA法はただちに無力化する。

 

 現状、東京の【地獄門】関連の権威を確約するPANDORA法は今なくなっては困る縛りのはず。だからこそ、死んでも問題のない人間だけを使って試しているのか。

 

「……ヤト……?」

 

「あっ、ごめんなさい……考え事をしていて……」

 

 勘繰られたか、と感じた夜都にシークは不安げな眼差しを落とす。

 

「……不思議な感じなの。前までなら、こんな事ってなかったのに……。沈黙なんて、何だか替え難い宝物みたいで……。私にとっての沈黙も、静寂も、この世には存在していなかった……この手に契約者としての力が手に入ってから、ずっと……」

 

「その、話なら聞きますよ。何でもない、一個人として……」

 

 ここまで譲歩しても渋るならば、別の方法論で外堀を埋めるべきか、と感じていた夜都に、シークは不器用な笑みを向けていた。

 

「……ヤトも不思議……。私に近づいてくる人はみんな……打算以外はなかったのに……。じゃあ、一つだけ……お願いがあるの……」

 

「お願い、ですか……。応えられる範囲なら……」

 

 シークは一呼吸置いてから、ゆっくりと口にしていた。

 

「……私を、ゲートへと連れて行って欲しい……」

 

 



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第二十三話「不可能を論じる」

 

 ミシュアはまず現場の責任者を探していた。

 

 既に青い腕章の現地警察がうろついている中で、ニューヨーク市警が介入するのは難しそうであったが、それでも、だ。現地警察の者達がこちらへと詰め寄ってくる。

 

「……ニューヨーク市警の。何で今さらに」

 

「連続殺人事件について、話があります。責任者と面通しさせてください」

 

「初動が何もかも遅い連中に教える事は一つもない。デカ長だってそう言うに決まっている」

 

「そのデカ長とやらに話を聞きたいのです。どうか」

 

「……よく分かんない連中だな。女二人に……それに、今追いついてきたのはガキと若い刑事か。お前ら、現場を荒らしに来たんじゃないだろうな」

 

「まさか。我々はあくまでも、事件についての話と真相究明に……」

 

「そう言うは勝手だが、役にも立たないのに立たれても邪魔なんでね。デカ長だっておまえらみたいなのと関わるなんて時間の浪費だと……」

 

「いいから、通してもらえませんか? レディロンドも困っている」

 

 歩み出たジキルに現地警察の男は明らかに不満を募らせる。

 

「……何だ、てめぇ……。俺達の捜査にケチをつける気か?」

 

「聞けば、犬猿の仲だと言うのは分かりました。ですが、それとこれとはまた、別の話。我々にも任務があるので、早々に対処出来る事はすぐにでも終わらせて欲しいのが本音なのです」

 

「……すぐにでも終わらせるだと? 旧市街地の事件を嘗めてんのか。ここいらの一帯は! 俺達の管轄なんだよ!」

 

「ですが、聞いた話ではそれも身勝手な理屈でしょう? 何なら、本当に捜査権限があるのかも怪しい」

 

「……黙って聞いてりゃ……」

 

 にわかに殺気立った相手にミシュアは割って入っていた。

 

「……すいません。彼女はまだ、この街の流儀を分かっていないのです。ですが、現場責任者とは顔を合わせたい。それだけは確かな事で……」

 

 譲歩したこちらの物言いに、男は鼻を鳴らす。

 

「……デカ長! ニューヨークの花形の連中です」

 

 呼びつけられたのは肥満体の男であった。青い腕章と、群青色のスーツは警官然とはしているが、その実、瞳に潜んだ野心を抑えられていない。

 

「……デカ長と呼ぶなって言ってんだろ。ごろつきと同じに思われちまう。……失礼、旧市街地を統括する、リッターです」

 

「ミシュア・ロンドです。ニューヨーク市警の……」

 

 握手の手を差し出したが、相手は無視して水路へと目線を配る。

 

「時間がもったいない。本題に入りましょう。……水死体が上がりました。つい数時間前の事です。旧市街地の事件だってんで、我々が回りましたがね、表の連中はいつも遅いくせに手柄だけ取って行こうとするから困る」

 

 言外にここでの干渉を論じられているようであったが、ミシュアはそのまま促していた。

 

「……水死体の状態は?」

 

「ま、その名の通り、溺死ですな。変なところは一個もないんですが、それが逆に際立つ。一応、身柄は洗っておきましたが、身分証はなし。その代わり、いくつかの証拠品を発見しました。被害者の遺留品ですが……」

 

 リッターが顎で示した先にブルーシートの上に挙げられた証拠品が陳列されていた。ミシュアは屈み込んで白い手袋をはめる。

 

「……これは……財布ですか……? ですが、この重さは……」

 

 濁したミシュアにリッターは首肯する。

 

「ええ。まるで鉄みたいに溶接されている上に、物体の形状も財布とは思えない。一応試してみましたが、ハンマーでも砕けませんよ、それ」

 

 こちらが現着するのがやはり遅かったか。ある程度の遺留品は既に調べを尽くされた後らしい。

 

「……どれもこれも……異常に重たいですね。だからと言って中身があるわけじゃない」

 

「ホトケにも奇妙な点が数多いのです。第一に、死因が妙だ。溺死って言うからには、誰かが溺れさせた形跡やら、もがいた跡があるはずなんですが、それもない。まるで……そう、錘がそのまま水に沈んだかのように……」

 

 怪事件の様相を呈してきた感覚に、こちらが口を開く前にジキルが尋ねていた。

 

「……被害者が契約者であった可能性は?」

 

「……失礼。身分は」

 

「彼女も我々と同じです。情報を」

 

 ミシュアの補足にリッターは怪訝そうにしながらも口を開いていた。

 

「そりゃ、考えましたがね。自分を重くする契約者だとか、あるいは持ち物を鉄にするだとか言うのも……。ですが、こっちには観測霊も、ましてや受動霊媒も居ませんので。分析不足ってものがあります。星の観測も出来やしないのに契約者の仕業だと判断するのは早計ですし、何よりもそれだと何でもありだ。まずは普通の殺しの線で疑っていますよ」

 

「だが明らかにおかしい。開かない財布に、持ち物は全て鉄のように堅い。この時点で、契約者同士による殺し合いを加味すべきなのでは?」

 

 ジキルの問いかけにリッターは年長者としての矜持か、声に僅かな翳りを混じらせていた。

 

「……これでも長年、旧市街地の殺しは見て来ているんです。普通の殺しじゃない事くらいは百も承知。ですがね、まずは普通の殺しを疑う事から始めなければ、飛躍した理論で推理し始めると正しいものも見えてこない。契約者関連ならば、だからと言ってそちらにお株があるわけでもないでしょう。ここは旧市街地だ。あんたらの見ている世界とは違う」

 

「……重々、承知しています。しかし、この殺しだけではないでしょう? 関連する殺人に、法則性は?」

 

 リッターは強い顎鬚をさすりながら、懐からメモ帳を取り出す。

 

「最初の殺しは今月の頭……電線に引っかかっていた死骸を発見した事から端を発していますね。そんな場所まで誰が昇って死体を取りつけたのか、その証明に至る前に次の殺しが起きました。今度は建物の壁に埋め込まれていましたよ。最初は死体だとも思われていなかったようなのですが、検視すると明らかに人間で……そして三度目の殺しが一週間前……。全身に金属を含んだ変死体が路上で見つかりました。その死因も明確には捜査中……まぁそこであなた方の耳に入ったのでしょうな」

 

 ニューヨーク市警が管轄を決めたのは三度目の殺しからだ。それまでは関知さえもしていなかった。

 

「……所見では、どれもこれも異常な死に方に思えます。契約者絡みを疑っても……」

 

「確かに、何らおかしくはない。この街は、そうでなくともはぐれ契約者共の巣窟です。そいつらの能力が暴走して、殺し合いに発展している、と見るのも。しかし、それは表向きの見方でしょう」

 

「……どういう……」

 

 リッターはメモを閉じ、こちらへと向き直る。

 

「旧市街地に住んでいるのなら、ここに息づいている契約難民達は、そんな些細な事で殺しなんてしませんよ。何よりも……合理性に欠けている。怨恨で人殺しなんてもってのほかですし、自分達が疑われるような異常犯罪なんて手を染めません。彼らはそうでなくとも、恐れている。我々のような普通の人間に、自分達の存在が露見するのを。こう言うと語弊があるかもしれませんが、契約難民は平和主義なんです、基本的に。常軌を逸した殺し方なんて滅多にしませんよ。彼らは、人類をどのような動物よりも恐れている。だからこの旧市街地じゃ、殺しらしい殺しなんてやるのは大概、表の連中です。ここに住んでいるのなら、流儀がある」

 

「流儀……それが合理性に欠ける殺しはしない、ですか」

 

 ジキルの言葉にリッターは、まぁ、と頷く。

 

「契約者の考えなんて分かりゃしませんけれどね、その実は。ですが、国のお上がやってのける殺しに比べれば随分と大人しいもんです。彼らの生き方はとても静かで、それでいて穏やかだ。恐慌も、ましてや疑いの目が向けられる事も望んじゃいない。彼らはね、静かに生きて、そして誰にも看取られなくとも、静かに死んでいきたいのですよ。植物のように、静謐の内にね」

 

 リッターは煙草のパッケージを取り出し、箱の底を叩いてくわえる。紫煙をたゆたわせるリッターに対して、ミシュアは沈黙していた。契約者の在り方に関して、口を挟める事は少ない。だが彼らが穏やか、という観点には正直なところ、疑問もある。

 

「……お話の通りなのだとすれば、この事件は外から入って来た人間の仕業だと?」

 

 煙い息を吹き、リッターは首肯する。

 

「そうだと考えるのが自然なような気がしますがね。契約者は確かに人でなしですが、享楽で殺しはしませんよ。それだけは絶対です」

 

 自分達よりも契約者に精通している人間の言葉だ。信じるには値するだろう。

 

「……ですが、外部の人間の犯行だとすると追及は難しい……」

 

「仰る通り。これが外部犯のものだと断定は出来ませんが、その可能性が濃い以上は、やはりと言うべきか、こちらでの捜査も進めづらい。そこいらの新顔を問い詰めてもいいんですがね」

 

「それは……捜査に問題があります」

 

 私刑を容認してしまえば自分達の意味がない。リッターは何か種が割れたかのように肩を竦める。

 

「……冗談ですよ。さすがにニューヨーク市警の花形を前にそれは言わない」

 

 どこまでが冗談なのか。それさえも判じられぬまま、ミシュアは口にしていた。

 

「……契約者にも人権はあります。如何に凶暴とは言え」

 

「それはその通りでしょうな。問題なのは、この殺しが契約者によるものなのか、それとも旧市街地の契約難民の立場を悪くするためのものなのか、……いずれにせよ、断言は出来ませんがある程度は方向性を留める事です」

 

 分かっている。この事件が契約者の犯行なのか、それとも別の猟奇殺人なのかを判定しなければ自分達は読み負ける。

 

「……一つ、いいですかね?」

 

 ジャンの問いかけにリッターはどこか不承気に応じる。

 

「どうぞ」

 

「あの……被害者が契約者っていう線は? だから、他の契約者との戦闘で死んでしまった、という方向性は……ないんでしょうかね?」

 

 確かに死に様の異様さを鑑みるのならばそれも考慮の内には上がる。リッターは渋い顔をして頷いていた。

 

「なるほど、それもあり得ます。ですが、星が……」

 

「……天文部の観測を本当の情報として得られるのは我々のほう。旧市街地にまで天文部は情報を寄越さない」

 

 そのラグが問題なのだろう。天文部の契約の星の観測は事実情報として自分達に与えられるが、現地警察はほとんどゲリラだ。彼らに与えられる情報は限られている。

 

 この埋めようのない差をどうするか、と思案を浮かべていたミシュアにジキルが声にしていた。

 

「……この犯行、簡単には解けそうにないと私は思います。どうでしょう? ここは現地警察とニューヨーク市警の分別なく、共闘するのは」

 

 思わぬ言葉にリッターとミシュアは二人して目を見開いていた。

 

「何を馬鹿な……」

 

「おや、馬鹿なものですか? 合理的に判断するのならば、お互いの強みを活かすべきです。現地警察は旧市街地の状況を常に共有出来る上に速度の面でも上だ。ニューヨーク市警は天文部の星のスペクトルと、それに契約者の確定情報を得られる。どちらにも損はないように思えますが……」

 

「あのな……実際やるのと机上の空論ってのは違うんだよ」

 

 苛立ちを募らせたリッターにミシュアはジキルへと声を潜ませていた。

 

「……今日までの溝は大きい。そんな簡単に行くのなら苦労はしない」

 

「ですが、私から言わせてもらえば、お二方とも肩肘を張り過ぎている。私とジェッツはあくまでも専門家として迎えられた。遠回りをするために捜査に入っているわけではありません」

 

「それは……確かにその通りですが……」

 

「それに、守りたいのはお二方とも、このニューヨークと言う街の治安。ならば旧市街地も新市街地の事件も手を取り合って――」

 

「馬鹿馬鹿しい。ロンド課長、どうにも分からぬ者を入れたようですな」

 

「おや、何故?」

 

 首を傾げたジキルにミシュアは諦観に顔を伏せていた。

 

「……理論上は、そうでしょう。ですが、人間、何も合理性だけで動いているわけではないのです。手を取り合う……言葉で言うのは確かに素晴らしいのかもしれない。ですが、旧市街地を任せられてきた彼らにもプライドがあります。それは私達も同じ。新市街地に警官のライセンスを持たぬ人間を入れるわけにはいかない」

 

「……雁字搦めですね。お互いのプライドに拘泥している」

 

「どうとでも。いずれにしたところで、ここで捜査情報の共有は行うべきでしょう。リッターさん。旧市街地で起こる情報の提供を――」

 

「さっきまではそのつもりだったんですがね、正直に言わせてもらいますよ。――断る。そっちに任せちゃいられない」

 

「……それは入れ込み過ぎ、と言いたいのですか」

 

「分かっておられるではないですか。そうですよ、旧市街地はこう言っちゃ悪いが、我々の領分だ。それを勝手に掻っ攫って、それで手柄はそっちの総取り? 冗談じゃない。おれ達は何のために、この契約者の危険との隣り合わせの街を守っていると思っているんだ。好事家で済ませて欲しくないんですよ。こっちにはこっちのプライドってもんがある」

 

「ですがそのプライドで解決出来る事件を未解決に導くのはおかしい」

 

「……あんた。さっきから言葉が過ぎるぞ。何なんだ、スーツも着ないでニューヨーク市警の警官ってのは常識知らずって認識でいいんですかね」

 

「……彼女は協力者です。オブザーバーとしての役割を果たしていただいて……」

 

「余計な勘繰りはやめていただきたい。我々は遊びでやっているわけじゃないですけれどね」

 

「私達もそれは同じのつもりなんですが……。まぁ、協力関係に疑問符があるんなら、やめておくのも手ではあります。未解決で終わる可能性もありますが」

 

「……何を」

 

 掴みかかろうとしたリッターをミシュアは制していた。

 

「……失礼を。彼女達は一応は協力者ですので」

 

「……どの分野の専門家だってんですかね。まぁ、ここはロンド課長の顔を立てますよ。ただね、言っとくと我々のやり口に余計な言葉を挟んでいただきたくはない。契約者の殺し口は分かっている。それはそっち以上に」

 

「ええ、無論承知しております。だからこそ、今回の協力体制を求めていて……」

 

「こっちもやぶさかじゃなかったつもりなんですがね。考えが変わった。やるんなら、せめて天文部の星のスペクトル情報を持ってきてくださいよ。そうじゃないと対等ですらない」

 

 条件を引き上げられたわけだ。ミシュアは歯噛みしながらも、こちらに落ち度があったと認識する。

 

「……承知しました」

 

 踵を返そうとしたミシュアの背中をリッターは呼び止める。

 

「ああ、それともう一つ。……契約者とは付き合わないほうがいいですよ。連中の思考回路は破綻している。何があっても契約者は敵だ。それ以外にない」

 

 まさかジキルとジェッツがその契約者だとは言えまい。無言を是としてミシュアは車へと戻っていた。

 

 

 



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第三章「野良猫は、血の足跡を宿して…」(後編)
第二十四話「不穏を誘う」


 項垂れるミシュアにジキルが助手席で窺う。

 

「レディロンド、余計な事を言ってしまいましたか?」

 

「正直に言えば。……ですがいずれ出ていたであろう膿です。ここはハッキリさせるか、ハッキリさせないかを明言したほうが、これから先にはよかったかもしれない」

 

「前向きなんですね。嫌いじゃない」

 

 ジキルの楽観視にミシュアは言葉を振っていた。

 

「……何でわざわざあんな敵に回すような言い草を? もっと冷静な方かと思っていましたけれど……」

 

「失敬。さすがにあなた方が我慢しているのは見ているに忍びない。それに……リッター氏は契約者を恨んでいる風であった。そんな相手のご機嫌を取るのはあなたらしくない」

 

「私らしいって……。そんなの、分かるわけがないでしょうに」

 

「それもその通り。ですが、人間が人間らしく生きられないのなら、それはまずもって間違っていると思うべきです」

 

 ジキルの言葉振りには迷いがない。それほどまでに我慢しているように映ったのだろうか。ミシュアは無線を繋ぎ、報告する。

 

「こちらロンド。レインマンに繋いでいただきたい」

 

 暫くのコール音の後、レインマンが重々しい声を発していた。

 

『首尾は?』

 

「芳しくはありません。疑いを濃くしてしまいました」

 

『現場状況自体は契約者の殺しの線が濃厚だと聞いていたが、それでも、か』

 

「契約者犯罪なら、旧市街地を牛耳っている現地警察の手を離れるのは本望ではないと……。まぁ、考えれば当然の帰結ではあるんですが。このまま静観を決め込むのも我々らしくありません。如何しますか?」

 

 詰めた声音にレインマンは予め用意していたような言葉を返す。

 

『現地警察に対して、我々は天文部の情報と、それに最新のゲート情報を掌握している。彼らは所詮、旧市街地で吼えるしか出来ない弱者だ。こちらである程度の渡りは用意する。何が必要か』

 

「……あちらの要求では、天文部の星のスペクトル情報……」

 

『それは国家機密に抵触する。そんな簡単には渡せないな』

 

「……返事は分かっているんです。でも、それしかないような気がして……」

 

 目頭を揉んだミシュアにジキルが助け船を出していた。

 

「レインマン。私達の優先任務を先に掲げてもよろしいでしょうか? 無論、レディロンドの事件も協力します。それで交換条件と言うのは?」

 

「……交換条件? いや、そもそもあなた方が何故、この地を踏んだのか……」

 

「……言っていませんでしたね。我らズヴィズダーはとある契約者の追跡調査を行ってもいたのです。その道中で警察と突き当たるのは必定。先んじて協力体制を敷いておいたほうが円滑に進むとの上の判断で」

 

 まさか最初から、目的の遂行のために自分達は利用されていたのか。その疑念の眼差しに、ジキルは手を払う。

 

「……勘繰らないでくださいよ。我々とて通常の任務もあるのです。ですが、ニューヨーク新市街地でなければ観測し得ないケースもあった」

 

「……その契約者と言うのは……」

 

「SS581、コードネームはシーク。天国戦争に従軍した経験を持つ契約者です」

 

 思わぬ言葉が出てきてミシュアは硬直する。

 

「……天国戦争の? まさか、契約難民……」

 

「いえ、その能力の特殊性から、流れ流れてとあるマフィア組織に匿われているところを我々が確保しました。現状、能力は封じられているはずですよ」

 

「……何故、断言出来るのです」

 

「彼女に渡しましたから。その能力を封印する、ゲート由来の道具を」

 

 何でもない事のように言ってのけるが、国家重要機密に抵触する。

 

「……あなた方は何をしたいのです。その契約者を追い込みたいのか、それとも内政干渉を……」

 

「いやね、そこまで難しい事をするつもりはないんですよ。ただ、私達がやるべきなのは契約者の可能性の追求。SS581に関しても内々で追うつもりであったのですがあなた方との協力なしでは追えないと思いましてね。なら、ギブ&テイク、でしょう? こちらを手伝ってもらうのなら、まずはこっちから譲歩しないと」

 

 呆れた、と言うのが正しい。

 

 しかし同時にどこまでも利己的、否、合理的だ。

 

 やるのならばとことんな上に、自分達を都合のいい駒として利用する。利用価値のある人間は最大限にまでその力を引き上げる。どれもこれも、契約者らしいメンタルと言えばそこまでなのだろう。

 

「……幻滅しましたか?」

 

「……少しだけ。ですがそこまで話してくださったという事は同時にこうも思える。……裏切りはない、と」

 

「どうですかね。契約者は平気で嘘をつく。良心の呵責なんてなしに」

 

「そう言ってのける時点で、あなたは裏切らないでしょう」

 

 ミシュアは車を出していた。ジキルの声がかかる。

 

「……どこへ行かれるので?」

 

「天文部に知り合いがいるので、彼女への訪問を。そうしないと現地警察との交渉が遠ざかる一方です」

 

「なるほど。なら、ついでの用事で申し訳ないのですが、新市街地に向かってもらえますか?」

 

 ジキルの取り出した懐中時計にミシュアは怪訝そうにする。

 

「……何が」

 

「そろそろ網にかかる頃合いです。彼女は苦しみ続け、そして寄る辺としているゲート由来の道具の時間切れを恐れているはず。向かうべきは、対価さえ払えば願いの叶う場所」

 

「……ゲートに? ジャン、【煉獄門】の出現は?」

 

『待ってください……。新市街の一区画に小型のゲートが発生中。現在、区画整理と称して封鎖していますが……』

 

「お膳立ては整っているわけです。どうしますか? 解決に向かっている事件と、遠回りのばかりの事件。どちらを優先すべきなのかは任せますが」

 

 そう言いつつも、畢竟、やれる事は限られてくる。ミシュアはハンドルを切り、新市街地に向かっていた。

 

「ジャン、新市街地のゲートへと向かう。管轄に話は通しておけ」

 

『了解ですが……いいんですか? ……契約者は、ゲートには……』

 

「迷信の可能性もある。何よりも、辿り着かなくてはまるで意味がないからな」

 

 ――契約者はゲートで見えるはずのないものを見る。あるいは何かが起こるとも。

 

 どれも噂話程度だが、それでも自分達は二人も契約者を擁している。このまま破滅へと向かうのか。それは分からないが、ハッキリしている事があるとすれば。

 

「……契約者の力の暴走だけは、阻止しなければならないはず」

 

 旧市街地を駆け抜けた一陣の疾風に任せ、アクセルを踏み込んでいた。

 



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第二十五話「心を暴く」

「……ヤト。そろそろ、新市街地だね……」

 

「……本当によかったんですか? だって、ゲートなんて……」

 

「頼ったって仕方ないと思われるかもしれないけれどでも、私達にとっては何よりの寄る辺なの。……あの天国戦争で、生き地獄を味わった……。でもだからこそ、ゲートの奇跡は誰よりも信じている……」

 

 憔悴した様子のシークに夜都は下手な事は言えないな、と思いつつも視界の端でガーネットの光の観測霊を目にしていた。

 

 追跡は厳にしてある。見失うという事はあるまい。

 

 前回のようにゲート内で不可思議な現象に足を取られる事も。

 

 だが、シークの身柄だけは別だ。彼女は一体、何を頼りにしているのか。それとも、何も頼っていないのか。

 

 その眼差しが暗く沈んでいるのを見かねて夜都は声をかけていた。

 

「……シークさん。もし……ゲートに行っても何も起こらなかったら……旧市街地のあのセーフハウスを使って、一緒に過ごしませんか?」

 

 その問いかけにシークは心底驚いたように目を見開く。

 

「……一緒……に?」

 

「はい。私……これでも家事は出来るんです。シークさん、今のままじゃ何かと困るでしょうし、暫くは私達の共同生活という事で」

 

 笑いかけた自分を、シークは驚愕の眼差しで注視し、やがて声にする。

 

「……不思議。本当に、不思議で仕方ないの。ヤト……あなたからは嘘の感じを全く覚えない……。これまで私は……嘘と、そして偽りばかりを感じてきた……。死んでしまえばいいんだと思っても……許されない身分だった……。いいように利用されて……そして、捨てられる時は呆気なくって……。私を……気味が悪いんだと、みんなが言う……。だったら、居なくなった方がマシに決まっている……」

 

「そんな事……。シークさんはだって、そんな人じゃないですよ」

 

「……どうして言い切れるの? 今日会ったばっかりじゃないの……」

 

「それは……同じモーニングを頼んでいたから……とかじゃ、駄目ですかね……?」

 

 頬を掻いた夜都に、シークはぷっと吹き出す。それから、ああ、と天上を仰いでいた。

 

「……久しぶりに……ちょっと笑えた……。これが……可笑しいって事なんだ。……生まれた時から、こんな感情、持ち合わせていなかったような気がする……」

 

「シークさん、ゲートはでも、周辺警戒している警官隊が居ます。突破には少し……強硬策が必要かもしれません」

 

 分かっているのか、という問いかけにシークは静かに首肯していた。

 

「……ちょっとの危険はつきものだと思っているし……私はゲートに縋っている……。忘れられないのよ……あの日、ゲートで失ったものを追い求めて、それで対価さえ払えば、もう一度手に出来るって……。笑えるでしょう?」

 

 疲れ切ったシークの瞳に夜都は簡単に返事が出来なかった。

 

 路面電車が揺れる。

 

 夕映え空に染まりかけたニューヨーク新市街地は輝きを誇っているが、そのうちに狂気を秘めた街並みだ。

 

「……行きましょう」

 

 降りた先にあったのは「通行止め」の看板である。

 

 当然、表通りから行けるわけがない。夜都は新市街地の裏路地へと割り込み、そのまま走り込んでいた。

 

 ゲート出現は時間との勝負だ。

 

 それに、そこいらで張っている警官の眼を掻い潜らなければならない。

 

 非常用階段を駆け上り、マンションの裏手から別のマンションの棟へと渡り、ゲート出現位置を目指す。

 

 暮れかけた空を蝙蝠が飛んでいた。

 

「……そろそろのはず……」

 

「ヤト……怖いよ……」

 

「大丈夫です。私が居ますから……」

 

 手を引いて夜都は通りに近い屋根へと舞い降りていた。それほどの身体能力がなくっても飛び降りられる高さだ。夜都はシークの軽い身体を抱え、家屋の裏へと回っていた。

 

 にわかに霧が出てくる。

 

 この感覚は、と夜都が鋭敏に神経を尖らせようとした、その時であった。

 

 唐突にシークがヘッドフォンを押さえて蹲る。喉の奥から漏れた呻きに動揺していると、彼女の瞳が赤く染まっていく。

 

 まさか、と夜都は震撼していた。

 

 ヘッドフォンの側面が高速回転し、やがてぶつり、と音を立てて円環状の物体が割れる。

 

 その途端、シークの身体は青白い光に押し包まれていた。

 

 見知った光に、夜都は硬直する。

 

「……そう。やっぱり……そうなのね。私に……理解者なんて現れるはずもなかった……」

 

「シークさん……」

 

「演技は止めて、夜都。いいえ、組織のエージェントね。コードネームは、紅。能力は……熱の操作」

 

 まさかそこまで露見するとは思わず、一歩後ずさった夜都にシークはせせら笑う。

 

「ほら……やっぱり……! あなたも同じ……連中と……。私の事を気味が悪いと思うんでしょう? ……あれだけ利用して……どれだけの人間の心を暴いてきたと思っているの……? それなのに……みんな、みんな、みんな、みんな……! 私の前から消えてなくなった……! あの天国戦争で……! 契約者は……嘘つきね……ヤト……」

 

「……あなたは……」

 

 その頬を涙が伝う。夜都はここに来て最早隠し立ては不要と、クナイを手に掴んでいた。

 

「……それで私を殺す……? ……いいわ、殺して……。私はもう……利用するのも、されるのも疲れたの……。この能力……常時発動型でね……。人混みに行くと、色んな人の思考が入ってくる。色んな言語で、色んな人間の雑多な感情が、私の中に……押し入ってくるの……。それで自我が押し潰されそうになってしまう……。だから私は、天国戦争に徴用された……。ヒトの本質を見抜くこの能力は要人警護や、色んな人間の裏を掻くのに使われたわ……。そのうち……誰も信じられなくなった……。だってみんな……言っている事とやっている事がまるで違う……。人類なんてそんなものなんだって諦められればどれほどによかったか……。私は……天国戦争で殉死するのを心に望んでいた。……でもね、死ねなかった。死に損ねたの……。あんな……土壇場みたいな戦場だったのに、誰も私を殺してはくれなかった……。それどころかこっちに来ないか、って……。この能力は有用だから……どの組織も欲しがった……」

 

「……シークさん……」

 

「私の名前を気安く呼ばないで……!」

 

 赤く眼をぎらつかせたシークは全ての存在を侮蔑する眼差しでこちらを睨む。

 

「……ヤト。あなたは何を隠しているのかしら……。その心根の底まで……見せてちょうだい……!」

 

 その瞳が見開かれた瞬間、夜都は反射的にワイヤーを放っていた。

 

 分かっている。相手に攻撃手段はない。自分の動きを読む事も出来まいと。

 

 だが、シークは最低限の身のこなしでワイヤーの網を避け、こちらへと直進してきた。

 

 駆け抜け様に頭部を引っ掴んで一撃――そのつもりであった夜都は僅かに狼狽する。

 

 その心の隙を突き、シークは自分の手を掻い潜る。思いのほか戦い慣れしているその挙動に夜都は瞠目していた。

 

「……これが、天国戦争の生き残りか……」

 

「ヤトぉ……。あなた、面白い秘密を飼っているのね。これは知られたら動揺するかしら? ……妹さんがいるのね。たった一人の。その子、そんな場所に居させて、本当に大丈夫だと思っているの?」

 

 その挑発に夜都は殺気を剥き出しにして襲いかかっていた。クナイを投擲し、シークの肩口を狙う。無論、相手には狙いは分かっているはずだ。

 

 よろめくようなステップで避け、次の一手を打とうとする前に夜都は大地を蹴りつけて跳躍し、直上から三本のクナイを投げていた。

 

 地面に至るや否や、それぞれのクナイに繋げたワイヤーがピンと張られ、結界陣を形成する。

 

 その結界の中に入ったが最後だ。

 

 シークは避ける術もない。

 

 夜都はランセルノプト放射光を棚引かせ、能力を行使しようとして、ふと背筋が粟立ったのを関知する。

 

 飛び退った瞬間、先ほどまで身体のあった空間を何かが加速して突き抜けていた。

 

「これはこれは。……早速我々の任務の役に立ってくれた事、喜ぶべきなのでしょうか」

 

「……ジキルとジェッツ。これが目的だったの」

 

「それはかかればの話。このニューヨークを舞う契約者を一匹でも狩れれば御の字だったのですが、上物がかかりましたね」

 



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第二十六話「邂逅を恨む」

 

 霧の向こうからゆっくりとやってくる相手に、夜都は赤いレインコートを纏っていた。

 

 黒いマスクを上げ、クナイを構える。

 

 相手は喪服の淑女であった。

 

 サイドテールの淑女はゆったりと、こちらを認めるなり、フッと笑みを浮かべる。

 

「……まさかニューヨークの赤ずきん。ミス401MA、最上の契約者ではないですか」

 

「……ここで殺す」

 

「殺気も一流だ。だからこそ、潰し甲斐があるというもの」

 

 途端、濃霧の向こう側から何かが投擲される。射線を読んで回避しようとして、それらが青白い光を帯びて超加速する。

 

 咄嗟にレインコートで庇ったが、それでも一部が剥離した。

 

「……物体の加速射撃」

 

「そう! そして私の能力は……!」

 

 喪服の女がランセルノプト放射光を身に纏い、手を地面につける。

 

 その瞬間、足が泥に取られたように身動きが取れなくなった。地面のコンクリートが水のように溶け、その中へとずぶずぶと足が潜り込んでいく。

 

「……物質透過か」

 

「逸るものじゃありませんよ、ミス401MA。戦いは愉しもうじゃありませんか!」

 

「悪いがそんな場合など……ない!」

 

 同じ物質に手をつけているのならばこちらの能力も有効射程のはず。

 

 そう感じて手を潜り込ませた瞬間、ふっと喪服の女から能力が消え失せ、相手はそこでゆっくりと後退する。

 

「……嫌な予感がしたので能力を切りました。正解だったようですね」

 

 相手の靴越しでは熱源操作の能力は実行出来ない。せめて肉体かあるいは触媒となる物質を介さなければ。

 

 夜都はワイヤーを近くの建築物へと纏いつかせる。熱源操作の能力をフルに使い、再び物質として硬質化したコンクリートを溶解させていた。

 

 その挙動に相手が指を鳴らす。

 

「なるほど! 謎の多い能力でしたがある程度は読めてきましたよ。コンクリートがそういう風に融解するという事は物質の融点に達している。熱を操る能力と見ました」

 

 これ以上能力を晒す旨味はない。夜都はワイヤーを絡め標的を見据えていた。

 

 喪服の女へとクナイを迷いなく伸ばし、そのまま締め上げようとして、空間をダーツが掻っ切る。

 

 超加速を得たダーツは銃弾を遥かに超える威力だ。如何にレインコートに防弾仕様が施されているとは言え、いくつかは貫通する。

 

 夜都は地面に舞い降りるのは危険だと、次なる足場を見出そうとして、シークの声を聞く。

 

「……東の角度、建築物を伝ってあなた達の後ろに回る」

 

 舌打ちを滲ませたその時には、喪服の女が近場の建築物に触れていた。

 

 建物がランセルノプト放射光を伝導し、かかりかけたワイヤーが透過する。

 

 無様に地面を転がった夜都へと、すかさずダーツが飛んでくる。身を反転させて回避しつつ、次手を、と紡ぎかけてシークの声が耳朶を打っていた。

 

「……そのまま地面を駆け抜ける。一度地面を透過させて足を取ればいい」

 

「了解。優秀な協力者で助かりますよ」

 

 喪服の女の透過能力に晒され、夜都は再び、ずぶずぶと落ちる感覚に囚われていた。

 

「さて……これで逃げ場はない。SS581は優秀だ。あなたの手を一から十まで教えてくれる。こんな状況下で勝てるとでも?」

 

 歯噛みした夜都は背後へと振り返っていた。

 

 シークは青白い光をなびかせ、赤い瞳でこちらを見据える。

 

 その眼差しはまるで深淵に通じているかのようであった。

 

「……ここで死ぬか、それとも組織の内情を吐くか。合理的に判断しなさい。ミス401MA」

 

 シークが踏み込む。夜都は一拍、深く瞑目してから、その瞳を開いていた。

 

「……またしても地面を融解させて? そんなもので勝てるものかと――」

 

 だが、標的は喪服の女ではない。

 

 背後に迫っていたシークであった。結界陣に踏み込んでいた彼女へと能力を行使する。絶叫が迸り、シークが膝から崩れ落ちる。

 

「……まさか。あり得ない、心を読む契約者だぞ……こんなミスを犯すはずが……」

 

 僅かな動揺の隙を見逃さず、夜都はクナイを投擲していた。繋がれたワイヤーに伝導するイメージを伴わせる。

 

「――とどめだ」

 

 熱源操作を血管内に注ぎ込むイメージを額に弾けさせたが、そのワイヤーをダーツが引き裂く。中断された攻撃に頓着せず、夜都は地面から跳躍し、クナイを数本投げて牽制していた。

 

 喪服の女が舌打ちして撤退する。ダーツの契約者も攻撃の手を緩めたのを感じ取った。これでゲート内に存在するのは、自分とシークだけとなった。

 

 夜都は静かに歩み寄る。

 

 死の足音そのもののように。

 

 シークはまだ意識があった。その喉から声が漏れる。

 

「……わざと……手加減したのね……ヤト……」

 

「……最初から私を陥れるつもりだったのか」

 

「……契約者は他人を騙す事に長けている。どう思ってもらってもいいわ」

 

 シークが身に纏う青白い輝きをそのままに夜都を見据える。その瞳が不意に翳っていた。

 

「……そう……あなた、とても辛い戦いを……しているのね……。でも、どうして……? あなたの傷を掘り起こした私を、一撃で殺してもよかったはず……」

 

「そちらこそ、何故わざと結界陣に入った? 罠を張っていてもお前の能力ならば分かったはず」

 

 その問いかけに無粋だとでも言うように、シークは頭を振っていた。

 

「……分からない。合理的なはずなのに、成り切れなかったのかもしれない……。物言わぬ戦闘マシーンに……もう、誰にも嘘はつきたくなかったのかも……」

 

「……お前の能力は諜報向きだろう。各国が狙うわけだ」

 

「そう、ね……生きていてもどうせ……誰かの道具にされるだけの人生なのよ……。ヤト、お願いがあるの……。せめて、一撃で……苦しませずに殺して……」

 

 その懇願に夜都は目線を逸らしていた。

 

「……勘違いをしている。私が都合よく、お前を殺してやるとでも思ったか。最も惨い方法で死なせてやる……」

 

 こちらの返答にシークは、フッと笑みを浮かべていた。

 

「……嘘が下手なのね、ヤト……」

 

 ランセルノプト放射光を帯び、夜都はシークの後頭部に触れていた。

 

 伝導した熱が脳幹を射抜く。

 

 シークはまるで眠るように、事切れていた。

 

 その遺骸を地に伏せさせる。濃霧の燻るゲートの中を、夜都は身を翻していた。

 

 ――ここに、もう用はない。

 

 あるいは、とも思う。

 

 シークは本当に、対価を払って何かを取り戻すつもりだったのだろうか。だとすれば、その行為は……。

 

「……自分の暴いてきた他者の秘密を抱えたまま死ぬのに、必要な贖いであったのかもしれない……」

 

 いずれにせよ、もう過ぎた事だ。夜都はガーネットの光の観測霊を視界に入れ、最短ルートでのこの場からの撤退をはかっていた。

 

【煉獄門】を抜けるなり、空を舞うブルックの声がかかる。

 

『……紅。お前、分かっていてだったのか?』

 

「……確証はなかった。それだけだ」

 

『……組織に対してあまり噛み付くなよ。あれを生かして差し出すのが最上だったはずだ。どうしてそうしなかった?』

 

「……死んだほうが楽そうだったからだ。どうせあのままの精神状態ならば近いうちに自壊する。そうなる前に、殺すかどうかの判断が要った」

 

『信用はするがな。しかし、この貸しは大きいぞ』

 

「どうとでも。私は……もう何でもない」

 

 ワイヤーで摩天楼を伝い、夜都は宵闇に溶けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミシュアは【煉獄門】から撤退するジキル達を認めた瞬間、別の影が躍り上がったのを目にしていた。赤い影が翻り、新市街地を抜けていく。

 

「あれは……まさかMA401……?」

 

「……少しばかり舐めていた、というわけですよ。このざまです」

 

 肩を竦めたジキルとジェッツは互いに顔を見合わせ、笑みを交わし合う。

 

「……あなた方はMA401が出現する事を予期していたのか」

 

「……何者かが関連しているとは思っていましたがね。まさかこのニューヨークを舞う赤ずきんが関与しているとは、さすがに」

 

 その言葉振りが本当かどうかはさておき、今は……と歩み出ようとしたミシュアをジキルは止めていた。

 

「やめたほうがいい。ゲートに取り込まれる」

 

「ですが……今ならばMA401に関する重要な証拠を手に入れられるかも……!」

 

「逸らないでいいと思いますよ。彼女はまた現れる。遠からず、我々の目の前に、ね」

 

 どこか確信めいた声音にミシュアは霧散する【煉獄門】をじっと見据えるしかなかった。

 

「……ゲート消失。世は事もなし、ですか」

 

 ジャンの声にミシュアは身を翻す。

 

「……行くぞ。まだ私達にはやる事が残っている。……このニューヨークで、起こりかけている何かを……解き明かさなくっては……」

 

「そのほうがいい。まだ地獄は始まったばかりなのですから」

 

 その言葉が今はやけに耳についていた。

 

 ――そう、地獄は始まったばかりだ。

 

 



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第二十七話「道筋を辿る」

 

「今日の朝刊はなかなかにスリリングだな。有名俳優の不倫騒動だと。まぁ、追うのも楽しいのかねぇ」

 

 背中合わせで呟いたグレイに、夜都はモーニングのコーヒーを口に運ぶ。

 

「……用向きは」

 

「……あの契約者……SS581の処遇に関しては最善を尽くした、と上に報告しておいた。まぁ、そうでなくともズヴィズダーなる契約者集団が動いていたと言う。そいつらに先んじられた時点で、消すべきだったともね」

 

「……感謝したほうがいいの」

 

「どっちでも。いずれにしたって、長生きは出来なかった契約者だったみたいだ」

 

 新聞を捲りつつ、グレイは冷淡に告げる。夜都は目線を振り向けずに問いかけていた。

 

「……死んだほうがよかったとでも?」

 

「そこまでは。だが、世の中にはもう利用するのもされるのもうんざりって言う人間は往々にしているものさ。案外、それだったのかもしれない。心を読む契約能力なんて、確かにないほうがいいに決まっている。各国諜報機関の追い回しは一度、白紙に戻ったわけだ」

 

 シークが死んだ事で諜報機関同士の牽制は一度意味がなくなった。

 

 それでもこの街ではまだ続いている。

 

 ――契約者同士の、血で血を洗う殺し合いが。

 

 シークが一人死んだところで、何かが好転するわけでもない。だが、彼女は自分の死でもって、それ以上の悪化を防いだ。

 

 もし彼女の身柄を誰かが手に入れていれば、それこそ諜報合戦が激化していた可能性はある。

 

『……紅。何か思うところでもあるのか』

 

「……別にない。契約者は、死んで幸せなくらいに思ったほうがいい」

 

 にべもなく返答し、夜都はグレイが立ち去ったのを見計らってからトレイを返しに向かっていた。

 

 すると店主はそこいらを見渡している。

 

「……あの……どうしたんですか?」

 

「ああ、ヤトちゃん。それがね……あの人、今日は来てないなーって」

 

「あの人……」

 

「この間言っていた、みすぼらしい恰好の女のお客さんさ。あんたってば、一目惚れも大概にしなよ」

 

「おお、怖い。……ま、気にはなっていたんだ。いくら背格好がどうとは言え、うちのモーニングを愛用してくれていたお客さんに、死なれたら寝覚めが悪いだろ?」

 

「死なれたら、何て縁起でもない。やっぱり見惚れていたんじゃないか」

 

「ああいう陰のある女のお客さんって気になっちゃうんだよ。……あ、ゴメンね、ヤトちゃん。身勝手な事を言って」

 

「いえ……私もその……このお店のモーニング大好きですから……。出来れば、気の合う仲間と……食べたかったなぁ、って」

 

「ヤトちゃんは学校があるだろ? これから先いくらでも気の合う友人は出来るさ」

 

 店主の笑顔に見送られて、夜都はシークの座っていたベンチへと歩み寄る。

 

 彼女の居た証拠さえも、一片も残っていない。

 

 だが、確かに、彼女は生きていた。

 

 不器用ながらに、もう一度だけ、生を謳歌しようともがいていたのだ。

 

 それを嗤う事なんて出来ない。

 

「……シークさん。この街は残酷ですね。私からまた一つ、人間らしいものを奪っていく……」

 

 夜都はコップに注いだコーヒーを置いて、踵を返す。

 

 冷徹なだけの雑多な街並みへと、その足は向いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

第三章 了

 



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第四章「決別の閃光は、愛憎の翼とともに…」(前編)
第二十八話「名前を問う」


 

 漆黒の森に入ろう。

 

 そう口火を切ったものだから、金色のイルカは仰天していた。

 

 ――どうしてだい? 森に入ったら、戻って来られないかもしれないんだよ?

 

 でも私はそのために来た。やっぱり森の前でこうやって話して時間を潰していても仕方ないだろうと。

 

 イルカは難しい顔をした後に、じゃあ、と提案する。

 

 ――僕と一緒に入ろう。そうじゃないとこれはおかしいじゃないか。ここまで話を聞いてくれたのに相手が身勝手に進むなんて。

 

 そんなものだろうか。私は元々、話をしてくれと頼んだ覚えもない。

 

 ただ、お喋り好きなイルカの四方山話に付き合っていただけだ。もしかしたら、根底には漆黒の森に入るべきか、という迷いがあったのかもしれない。

 

 だが、それを吹っ切ったのは何よりもイルカの話す者達の悲惨なる結末であった。

 

 誰もが困惑を抱え、誰もが迷いを振り切れないまま森に入り、そして帰らぬ人となった。

 

 だから、私には好都合だと思えたのだ。

 

 もう誰も、鎌にかけなくても済む。それが彼との話で保障された。

 

 無論、彼にはそんなつもりは毛頭ないだろう。自分を引き留めるための話で不幸になるなんて思いも寄らないに違いない。

 

 イルカは漆黒の森への入り方をレクチャーする。

 

 ――森には主が居るんだ。

 

 これまでのイルカの論調とは違う、重々しい声音に私は反応する。

 

 今までそんな話は彼の口からはされなかった。

 

 ――僕とその主は……ちょっと決裂していてね。こじれた仲なんだ。だから、僕は案内人は出来るが、森への永住権だとか、あるいは主の説得だとかは期待しないで欲しい。彼女は変わり者なんだ。

 

 彼女、と言われて私は足を止める。

 

 ――ああ、言っていなかったね。漆黒の森の主。それは長い長い時間を生きてきた、孤独の魔女。太陽の光を必要としない、殉黒の女性。彼女が支配しているんだ。漆黒の森には、既に彼女と言う先人が居るわけさ。これは君を出来れば引き合わせたくなかったのもある。

 

 どうして、と私が問うと、イルカは当惑していた。

 

 ――だって、森の魔女はとても、とても好きなんだ。孤独の最果てに居るかのような……悲しい眼をした人間がね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『いいか? 紅(ホォン)。今回の相手は組織の裏切り者だ。すぐにでも処理しろ』

 

 摩天楼をワイヤーで伝いつつ駆け抜ける夜都へと、ブルックの声がかかる。電線を媒介する受動霊媒の青白い光を視野に入れつつ、夜都は一足飛びで躍り上がり、赤いレインコートを翻しながら急降下する。

 

 逃げに徹している相手の車上に降り立ち、夜都はランセルノプト放射光を帯びていた。

 

 ボンネットへと熱伝導を行い、車を急停止させる。黒煙を上げつつ、逃走用車両から這い出た相手に、夜都はクナイを突きつけていた。

 

「……組織は裏切り者を決して許さない」

 

 切っ先に長身の男が震撼する。そのサングラスの奥で戦慄いた眼差しに、ここで終わる程度か、と予感した、その時であった。

 

「……お前の力を見せてやれ、契約者」

 

 振り返ると同時に肌を粟立たせたのは殺気。

 

 膨れ上がった熱量が黄昏色の輝きを帯びて瞬間、視界を埋め尽くしていた。

 

 黒い外套を身に纏った少女が相貌を上げる。太陽の恵みを知らないかのような白磁の肌に、赤い瞳が煌めいた。

 

 青白い輝きを纏った指先にエネルギーの凝縮体が流転し、夜都が離脱を決めたその直後には、陽電子の砲撃がレインコートを貫いていた。

 

 あまりの熱量にぐずぐずに融けたレインコートは防御にもならない。

 

 発射された攻撃に対して回避も儘ならず、夜都の姿は橋から落下し、そのまま河へと没していた。

 

 汚れた河川の中で、夜都は咄嗟に伸ばしたワイヤーを手掛かりに何とか流れに逆らう。

 

 引っ張り込んだワイヤーの膂力で河川敷に上がったが、それでも肩口を焼いた光条に歯噛みする。

 

 追撃の挙動に入ろうとして、夜都は橋を無数の車が固め始めたのを目にしていた。

 

 恐らく予備の逃走部隊であろう。相手の目論見通りに事が運んだという証明に、夜都は舌打ちを漏らす。

 

「……してやられた……」

 

 どの車に乗ったのかまでは分からない。だが、自分はここで確実に、失態を晒した事だけは確かであった。

 

 そのやり場のない怒りに、夜都は拳を固め、壁を殴りつけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「契約者の身辺警護をつけて正解だったでしょう? ムッシュ」

 

 そう口にされて、長身の男は神経質にネクタイを締めていた。

 

「……まぁな。だが、あんな契約者が追ってくるなんて思いも寄らない。……あれが例の?」

 

 問いかけると運転手はミラー越しに微笑む。

 

「ええ。ニューヨークの赤ずきん。煉獄の契約者です」

 

「冗談じゃない。わたしはME技術の一部を貴君の企業に売ろうとしていただけだ。それも正当な手続きで」

 

「ですが、それが組織には癇に障ったのでしょう。彼らのネットワークはかなり手広い。このニューヨークだけではないと、判断すべきでしょうね」

 

「……まさか、PANDORAか?」

 

 詰めた声音に運転手は、まさか、と笑う。

 

「PANDORAはほとんど形骸化している。彼らが動くのは、所詮は後の祭りというもの。契約者を顎で使っているのは、恐らくは別組織でしょう」

 

 安堵の息をつき、男はそれにしても、と隣に座っている少女に目配せする。外套の少女は面を伏せたまま、こちらを一顧だにしない。

 

「……気味が悪いな。契約者と言うのは、往々にして」

 

「何がお気に召しませんでしたか? 能力は折り紙つきですよ。その契約者……LG891はね」

 

「手から陽電子砲を放つなんて間違いなく人間ではないのは分かる。その強さも、な。だが、こんなものが隣に座っているなど……怖気が走る」

 

「我慢してください。彼女らはビジネスと、そして己の生存権のために我々にその能力を売ってくれているのです」

 

 朗らかに笑う運転手は契約者の事を自分よりも幾分か知っているようであった。それにしても、と額に手をやる。

 

「……どこから情報が露見した? そこからの洗い出しのはずだ」

 

「案外、筒抜けなのかもしれません。どこぞに契約者かドールでも配置して、御社の中身は全て、とでも」

 

「それこそ気味が悪いと言う話だ。何でもお見通しの存在だと。……神でもあるまいに」

 

「あるいは、その神の座すら彼らは掌握しようとしているのかもしれない」

 

 おぞましい事実だ、と男は背筋を凍らせる。

 

「……しかし、それにしたって契約者と言うのは便利に尽きる。使ってみて初めて分かったが、自由意思がないのか?」

 

「自由意思がないのはドールですよ。彼女らは契約者。契約者は常に合理的に判断する。事の次第に関して、感情論を差し挟む余地はない」

 

「……情にほだされない、完璧な殺戮機械か」

 

「そう言うものでもありません。現にオーダーに見合った価格帯であったはずでしょう?」

 

「……まぁな。契約者はこの額で買えるのか」

 

「今回だけの特別料金ですよ。契約者の値段は本来、そんな簡単には判定出来ない」

 

 運転手は静かに新市街地を抜け、旧市街地へと道を折れていた。

 

「……歯がゆいな。組織から逃げるのに高跳びも出来んとは」

 

「空の上なんて格好の的ですよ。船もそうだ。契約者一人でも追撃されれば逆に逃げ場がない。ほとぼりが冷めるまで、ここは静観が望ましいでしょう」

 

 旧市街地は浮浪者がそこいらで歩いており、身なりの整っている自分とは大違いであった。

 

「……少しの間とは言え、掃き溜めに住む事になるとは……」

 

「まだマシでしょう。墓の下がお望みですか?」

 

「……まさか。まだ死ねんよ」

 

 その時、不意に車が急停車する。何かあったのか、と辺りを見渡すと、コートを着込んだ見上げんばかりの大男と、それとは対照的な小娘がこちらを見据えている。

 

 少女のほうは奈落へと続いているかのような瞳をしており、服装はぶかぶかのベージュのコートを羽織っていた。

 

「……この二人は……」

 

「追加プランですよ。LG891だけでは心もとない、と思いまして。契約者とドールです。ドールについての説明は……要りませんよね?」

 

「……受動霊媒か。別段、初めて見るわけではないが……」

 

「ドールの名前はエミリー。この大男はスチュアート。二人ともビジネスにおいては腕利きですよ」

 

 スチュアートと呼ばれた大男は顔もフルフェイスで覆っているため、全く表情が読めない。エミリーはその黒髪をおさげにしている。東洋人風の顔立ちだが、ドールに国籍などあるものか。

 

「……わたしはただ単純に、組織の追っ手から逃げおおせたいだけだ。追加プランだと……聞いていないぞ」

 

「おや、そうですか。でしたら、元々の金額通りなら、LG981はここまでのはずですが? それとも、契約者の守りもなく、この旧市街地で生き残れるとでも?」

 

 やられた、と感じる。陽電子砲の契約者の強みを自分はもう知ってしまった。それどころか、これだけでは足りないと思っていたところに別働隊の契約者とドール。渡りに船とはこの事としか言いようがないが、それでも代償は払わなければならないだろう。

 

「……いくらだ」

 

「一億」

 

 断言された論調に男は絶句する。

 

「ふ、ふざけるな! 契約者とドールに一億など……!」

 

「何を勘違いを? 一人につき一億ですよ」

 

 思わぬ提示金額に男は正気なのか、と目線を振り向ける。運転手は読めない笑みで応じていた。

 

「それくらいの価値のある人選です」

 

「……待て、待ってくれ……。三億で……では生き延びられなかったら意味がないだろうに。破格が過ぎる」

 

「それはお互い様でしょう? この三名で生き残れなかったら、それこそ破格が過ぎるというもの。それくらいの一流エージェントですよ」

 

 分かっている。元々は組織から逃げて企業に横流しをしようとした自業自得。そこに損得勘定を持ち出したところで、結局は集約されるのは金の話になってくる。

 

「……この陽電子砲の契約者の実力は分かった。だが、他二名は得心がいかん。それほどに強いのか」

 

「能力をお見せする事は出来ません。旧市街地はそうでなくとも契約難民の溜まり場だ。少しでも能力を見せれば、すぐにどこかへと情報が漏れる。彼らはあくまでも、あなたに絶対の忠誠を誓っている。そう言う風に出来ているのです」

 

 運転手の言葉繰り通りならば、これ以上とない待遇に違いない。だが、契約者とドールを信じて、ならば身の破滅を免れるのか、と言えばそれは確証のない。

 

「……いいんですか? あなたを追ってきたのはニューヨークの赤ずきん。彼女は絶対に、獲物を取り逃がさない。一度でも目を付けられればそこまでなのです」

 

「……まさか。あの契約者は死んだんじゃ……」

 

「あの程度でやられるタマなら、今頃この街で一二を争う契約者と呼ばれているはずがありませんよ。絶対に追撃が来ます。その時に、死なないように保険を掛ける。彼らは最適のはずです。あなたは絶対に死なない」

 

 運転手の言葉に滲む自信に、男は三者三様へと目線を振っていた。スチュアートは手袋に覆われた手を差し出す。恐れていると、運転手は促していた。

 

「握手ですよ。あなたを守ると彼は誓っている」

 

「……契約者と握手なんて……」

 

「ですが、あなたの命はこの三名に握られたも同義。今さら握手の一つや二つ、減るもんじゃないでしょう?」

 

 確かに言われればその通り。男はおっかなびっくりにスチュアートの手を取り、軽く握り返していた。

 

 エミリーへと視線を流すが、彼女の眼にはまるで最初から自分など映っていないかのようであった。

 

「……ドールの扱いなんて……」

 

「ご心配なく。既にプログラムされてあります。要求される動作は確実に」

 

 男は二人を見比べ、やがて後部座席に腰を下ろそうとして、隣に座る少女に慄く。

 

「……逃げ場がないのはここも同じじゃないか……」

 

「組織が切ったのはあの赤ずきんのカードです。彼女さえ殺せば、組織からの追撃は一旦はやむでしょう。あなたが生き永らえるリミットがあるとすれば、それはこの三名が赤ずきんを殺すまでの時間に他ならない」

 

 男は額に浮かんだ汗を拭い、三名へと視線を振る。

 

「……信用、出来るんだろうな?」

 

「ご安心を。仕事に関しては一級品ですよ。それに、あなたはいい買い物をした。我が企業へと情報を流してくださったのは賢い判断だ。我々は契約者の価値を高く見ている。それはあの凄惨を極めたとされる天国戦争において、契約者の兵士の可能性にいち早く気づき、ビジネスとして成り立たせた実績を鑑みてくれればいい」

 

 ――要は死の商人だろうに。

 

 しかし男は今さら、そんな抗弁さえも許される領域ではない事を思い知る。

 

「……衣食住は」

 

「彼らが保証してくれます」

 

「……あんたはもう現れないのか?」

 

「あまり顔を合わせるとこちらも狙われてしまう。最低限度で行きましょう」

 

 契約者二人と、ドール一体と暫くは寝食を共にしろと言うのか。無理だと言い捨ててもよかったが、それは即ち自分の死だ。

 

 言葉を信じるのなら、あの赤ずきんの契約者に狙われた時点で命がないのだと言う。それならば少し我慢するくらいでいい。今はせめて細く長く……。

 

「……分かった。だが……せめて全員の能力を知っておきたいのだが……」

 

「書面でも能力を明かすのは契約者にとっての弱点になります。LG891の能力だけでは不満ですか?」

 

「……正直に言えば。陽電子砲を撃つなんて目立つ能力だ。いくら攻撃力が高くても……」

 

「それならば、ご心配には及びません。彼女の能力は正確に言うのならば、陽電子砲を撃つ、ではないのですから」

 

 まさか、あの攻撃さえも本来の能力の一部に過ぎないとでも言うのか。改めて恐ろしい相手の隣にいたのだと、男は震撼する。

 

「……わたしは契約者でない。その落差はどうする? 彼らは……それこそ怜悧に、合理的に居られるかもしれないが、わたしはそうではないのだぞ」

 

「それも、杞憂というものです。案外、契約者との生活はストレスの少ないものになりますよ」

 

 この運転手と会話したところで覆るものはなさそうだ。男は三人を見渡し、そういえば、と車上の少女へと言葉を振り向けていた。

 

「こちらの……名前を聞いていなかったが……」

 

「ああ、彼女の。名前は――」

 

 



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第二十九話「悲しみを手繰る」

 

 包帯姿でドアの前に立つなり、アリスは目を見開いていた。

 

「……どうしたの? 怪我?」

 

「階段から落ちた」

 

「何それ。ベッタベタじゃん」

 

 こちらを指差して笑うアリスを他所に、夜都はまだ不自由な右肩から下を動かそうとする。

 

 肩を射抜かれた形で生き延びられたのは、熱源操作の能力で火傷と裂傷を防げたからだ。そうでなければ今頃、右腕の肩より下を切除していたかもしれない。

 

 こちらの深刻さに対して、アリスはどうやらブログの記事を更新しているらしい。夜都はコーヒーメーカーを抽出させ、マグカップを用意しかけてアリスに制されていた。

 

「いいってば。さすがに怪我人を動かせないよ」

 

「……でも、同居の条件だし」

 

「だから、それって半分ジョークだってば」

 

 アリスが慣れない仕草でコーヒーを沸かそうとする。その間に夜都はアリスの書いていた記事を覗き見ていた。

 

「……何これ。【煉獄門】の記事って……」

 

「いいでしょー、それ。またアクセス稼いじゃう」

 

「……あまり踏み込み過ぎると危ないよ。そうじゃなくっても、毎日のように新市街地じゃゲートがランダムに発生している。揉み消そうって思っている連中が多いのはアリスでも分かるでしょ?」

 

「……何よ、その言い草。心配してるのか馬鹿にしてるのかどっちよ?」

 

「……両方」

 

 その時、不意にアリスが夜都へと抱き着く。いつもの事だが僅かに怪我が痛んだ。

 

「……結構、酷い怪我なの?」

 

「……まぁまぁかな」

 

「何をやっていたらこんな怪我するのよ」

 

「だから学業だって。階段から落ちて……」

 

「そんなベタなの誰が信じるかっての」

 

「……自分は真実味のない記事ばっかり書いているくせに」

 

「何をー。あんたねぇ、あたしの記事はジャーナリズムに則って――!」

 

「でもほとんどゴシップでしょ。ゲート……東京の【地獄門】にみんなかまけているから、ニューヨークの【煉獄門】なんて話半分だって」

 

「……まぁ、かもね。って言うか、そうだからまだ本格的な闘争は起きていないんだろうし。トーキョーはマジにヤバいって、あっちに行っている友達からメール来てたわ。毎晩契約者が出てきて殺し合っているとか」

 

「噂でしょ」

 

「でももっともらしいじゃない。……えーっと、これ、どうするんだっけ?」

 

 アリスはコーヒーメーカーの操作方法が分からないのか、右往左往している。夜都は嘆息をついて片手で操作を手伝う。

 

「……こうしてこうでしょ。注ぐくらいは出来るわよね?」

 

「バッカにしてくれちゃってー。……でもなー、ヤトの淹れてくれたコーヒーじゃないの、寂しいかも」

 

「何それ。別に私のじゃなくっても死にはしないでしょ」

 

「いんや! あたしは死ぬね!」

 

「どういう自信なんだか……」

 

 ようやくマグカップに注がれたコーヒーの放つ芳香に、夜都は帰って来られた幸運を噛み締めていた。

 

 ――あの契約者……。

 

 夜都は焼き付いた陽電子砲を放つ契約者の相貌を思い返す。太陽から見放されたかのような白磁の肌を持つ少女であった。しかし、指差すだけであれほどの威力を誇る攻撃手段があるとなれば接近戦は危険だろうか。

 

 いや、不意を突ければあるいは、と思案していた夜都へとアリスは言葉を投げる。

 

「……ねー、ヤト。あんたの小説、さ。物悲しい感じになっちゃっているわね」

 

 昨日更新したばかりだ。夜都は自分のパソコンを引き寄せ、続きを書いていた。片手でタイピング速度は鈍るが、それでも書けないわけではない。

 

「そう? ……元々イルカとの話し相手なんて想定してなかったから」

 

「漆黒の森にイルカと一緒に行って……でもポジティブシンキングなイルカとは意見が割れちゃうんだ? 何だかどっちにも肩入れしづらいかな。死神の子は、もう自分は一人でいいって思ってるんでしょ?」

 

「だから、この森に来たんだろうけれどね」

 

「……それが悲しいって言ってるの。あんたさー、ただでさえ根暗っぽく見られるカッコしてるのに、こんなの書いてるってばれたらそりゃドン引きだわ」

 

「……アリスに言われたくない。三流ゴシップ記者」

 

「だーかーら! これは一応裏取り出来てるんだって! それに、こういうのでも見る人がいるから、ブログ収入が成り立っているわけだし」

 

 どの国もゲート関連の情報ならば素人でも欲しいレベルだろう。殊に【煉獄門】に関してのレポートは纏める人間が少ない。ニューヨークでゲートが頻発しているのも、こうやって書き留めなければ誰にも認識されないだろう。

 

 それほどまでに米国は落ち延びた。

 

 先の天国戦争において、アメリカの求心力は地に堕ち、さらに言えば契約難民の流入を抑え込めてもいない現状の議会に国民は愛想を尽かしている。

 

 ただでさえ、狭苦しいこの街に、もう一つの人間が棲んでいるとなれば、誰もが心穏やかではないだろう。

 

 それでもこの街での生活を選択せざる得ない人間だけが、新市街地に居を構えているのが今のアメリカである。

 

 かつての栄華を誇った都は消え去り、契約者との隣り合わせのリスクばかりが際立っている。それでも東京よりかはマシと思っている人間も多いのが事実だが、日本はまだ情報統制が万全だ。この街のように、一歩踏み出せば契約者が闊歩するほどではない。

 

 それだけ各国の諜報機関は神経を尖らせている。

 

【地獄門】に魅入られたように契約者も、諜報員達も次々と人員を搾り出していく。あの極東の島国にまだ見ぬ叡智の財宝でもあるとでも言うのか。

 

 アリスは抱き着いたまま、こちらの小説の進み具合を観察する。

 

「……あんたの、さ。救いのある終わり方にはならないの?」

 

「分かんない。書いていても、こうしたほうがいいってのは、自分次第だし」

 

「だったらさ、こうしない? 死神の女の子は、金銀財宝を漆黒の森で見つけ出すのよ。それも誰の手垢もついてない奴!」

 

 思わぬアリスの提言に夜都は渋面を作る。

 

「……何か、やだ」

 

「どうしてよ? お金さえあれば少なくとも表面上はハッピーじゃない? あ、そうだ。その金色のイルカもお金を捻出してくれる役割にして――」

 

「やだ。それって何て言うか……リアリティがない」

 

「……死神を出している奴が言うかね、それ」

 

 ずずっとコーヒーを啜るアリスに、夜都は次の展開を書き出していた。

 

 だが、と手を止める。

 

「……アリス。本当に、お金さえあれば、何でも大丈夫だとか思ってる?」

 

「うーん……まぁ大抵の事はどうにかなるんじゃない? そういうものよ、貨幣経済ってのは」

 

「……でも世の中の人達は、お金よりも大事なものがあるって言いたがるよね」

 

 こちらの物言いにアリスは訳知り顔になって問いかける。

 

「ははーん。さてはヤトってば、愛とか友情とか、あるいは無償の慈愛とか信じているタイプ?」

 

「……信じてないよ。アリスだって家賃が折半じゃないと嫌でしょ?」

 

「そういうけち臭い話じゃなくってさ。大きい話、世界に愛さえあればどうにかなるって考えているの? って聞いてるわけ」

 

 馬鹿馬鹿しい、と夜都は一蹴する。

 

「……そんなわけないじゃない」

 

「そっ。そんなわけない。愛さえあればみんな平和なら、【地獄門】も【天国門】も、ましてや【煉獄門】なんてものに手出しなんてしないっての。みんな、結局は利権欲しさよ。金のなる木に、じゃあ金がならないって分かったら、そりゃ撤退するでしょ。それと同じ。金がなっている間は、最後の最後まで搾り取るのが、人間のやり口でしょ」

 

 どこかその言葉尻には諦観さえも窺える。人間、金さえあれば何でもやってしまえるとでも言っているかのような。

 

「……でもそれって悲しいよ」

 

「あんたの話よかマシ」

 

「……そうかなぁ」

 

 小首を傾げた夜都は小説の続きを綴る。死神の少女はこのまま漆黒の森へと入り、そして何を見出すのか。

 

 続きは、まだ自分でも分からない。

 

 



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第三十話「暗雲を睨む」

「おーっ、ヤトちゃん、おはよう……」

 

 欠伸を噛み殺した店主に夜都は声音で窺う。

 

「あの……何かあったんですか?」

 

「いやね、昨日何だか騒ぎがあったみたいで。ブリッジのほうかな。まぁ、結構大きなものだったようでね。救急車だとか、パトカーが右往左往していて……」

 

「要は寝不足だって話だよ、ヤト。あんた、お客さんの前で欠伸なんてしない」

 

「へいへい、ヤトちゃん、今日もいつもので?」

 

「はい! ……でも最近、物騒ですよね。嫌だなぁ……」

 

「まぁ、この新市街地も決して治安のいいわけじゃないからね。お上がこっちで起こる事は保証するけれど、旧市街地は自己責任って言っているだけで」

 

「この街の治安のよかった頃なんてもう五年も前さ。その頃には、旧市街地がニューヨークだっただけれどね」

 

「……もう、本来のニューヨークを、誰も知らないんですよね……」

 

「何、沈んでいるんだい。いつものヤトちゃんの可愛いところを見せてくれよ。はい! ホットドッグもう一個サービス!」

 

「わぁっ……! ありがとうございます!」

 

「うんうん。ヤトちゃんはそうじゃないと」

 

「あんた! ヤトにちょっかい出してないでさっさと手を動かす」

 

 頭を下げて、夜都は公園のベンチへと腰を下ろしていた。背中合わせのグレイが新聞を捲りながら声にする。

 

「……今日の朝刊はイマイチだな。ジョークもなければ、スパイスにも欠けている。いつも通りなのはコミックくらいだ」

 

「……昨日の契約者に関しての継続情報」

 

「そう焦るなって。あれだけの規模だ。特定するのは難しくはない。問題なのはもっと別なところにある」

 

「別……仕損じたのがそこまでまずいって言いたいの」

 

「どこの組織でも上の考える事は同じらしい。現場の負担は度外視してでも、殺し損ねた男の身柄は獲れ、との事だ。それくらいまずい技術が流出したらしい。ま、例の如く詳しくは教えてもらえないわけだが」

 

「……要は取り返せばいい。裏切り者の男と、それに契約者の命を奪って……」

 

『そうは上手くいくかどうかも、少し雲行きが怪しくなってきたぞ、紅』

 

 止まり木からの声に夜都は仰ぎ見もせずに応じる。

 

「何か問題でも?」

 

『とある企業が裏切り者の男へと契約者を斡旋した。これはある意味ではイレギュラーだ。俺達の粛清を、どうやら阻止したいらしい』

 

「そこまで生き意地汚くもなれるかね。僕には理解出来ない」

 

 そもそも組織から追われる要因を作ったのは男のほうだろうに。それなのに今さら命が惜しいと言うのは身勝手な論法と言うほかない。

 

「……遣わされる契約者は?」

 

『まだ調査中だが、紅、お前の肩を射抜いた契約者もいる。あまり油断はしない事だ』

 

 じくり、と肩口が痛む。陽電子砲の契約者は結局、追い込めていない。どこで遭遇するかも分からない以上、警戒を強めるしかない。

 

「……それくらいは分かっている。問題なのは、情報不足で読み負ける事」

 

「確かに、芋女の言う通り。情報戦で負ければ一気に形勢は逆転しかねない。その辺は抜かりないんだろうな? ブルック」

 

『ガーネットが観測霊を飛ばしている。相手は旧市街地に逃げ込んだと言う情報を得ているからな』

 

「旧市街地、か。……契約難民の巣窟だ。案外、男は契約者の機嫌を損ねて死ぬんじゃないか?」

 

『それはないだろう。契約者は合理的だ。意に沿わぬ殺しはしても、衝動的な殺人は決して犯さない』

 

「合理的判断、ねぇ……。だが、男がどれほどの額を提示したかにもよる。契約者にとってそれがまるで規格外の安さだった場合は、裏切りも視野に入るんじゃないのか?」

 

「……斡旋してきた企業の情報が欲しい」

 

『どうする気だ』

 

「潜入して契約者を始末する」

 

 言い放った夜都にグレイは口笛を吹いて囃し立てる。

 

「僕達のエースは違うねぇ。可能なのか、ブルック」

 

『……危険が過ぎる、と思うがな。金を積んだ程度で契約者を売る企業だ。どのような罠が迫っているのかも分からない』

 

「だが、恐れていては前には進めない。だろう?」

 

 ブルックはグレイの言葉に二の句を継げないようであった。夜都は迷いなく言いやる。

 

「……情報さえくれればいつでも潜入してみせる。それくらいはやるとも」

 

「……だとさ。やる気があるんだ、やらせればいい」

 

 グレイは朝刊を眺めつつ、時計を気にし始めていた。あまり長居するとこちらの動きも割れかねない。相手から攻めてくる事はないとは思うが、契約者の集団と言うのならば、こちらを潰しにかかる可能性もあり得る。夜都は前回、罠にかけようとしてきた契約者を思い返していた。

 

 契約者は合理的だ。

 

 ゆえに勝てると判定した戦いで撤退する事はない。

 

 負けない事こそが契約者同士での戦いの鉄則なのだ。

 

『……一度、俺と紅で旧市街地へと潜入する。その後で、企業に入り込むかどうかは決めたい。敵の能力は強大だ。嘗めてかかれば潰されるのはこちらかもしれない』

 

「そいつは慎重な事で。あまり巻き込まないでくれよ。契約者同士の戦闘になんて、入り込みたくもない」

 

 グレイは時計に視線を落として歩み去る。夜都はホットドッグを頬張り、ブルックの声を聞いていた。

 

『……紅。傷は癒えていないのだろう? 無理はさせたくない』

 

「契約者にしてはらしくない考えだ」

 

『違うとも。契約者だからこそだ。勝てない勝負に持ち込もうとする味方を止める義務くらいはある』

 

 それもまた合理的判断だろう。

 

 今の夜都では陽電子砲の契約者と渡り合って勝算があるとは思えないに違いない。契約者ならば勝てる時に確実に勝利する。それこそが契約者らしい戦い方だろう。

 

「……旧市街地に向かう」

 

『待て、紅。俺も同行する。……いつものようにこっちを撒くんじゃないぞ』

 

 飛び立って行く蝙蝠を視野に入れ、夜都はトレイを返し、路面電車へと乗り込んでいた。

 

「……契約者同士の戦いに、非合理的な感情は不必要、か」

 

 呟いた夜都は垂れ込めた曇天を仰いでいた。

 

 



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第四章「決別の閃光は、愛憎の翼とともに…」(中編)
第三十一話「協定を結ぶ」


 

「――以上だ。昨日の契約者騒動に関しては分かっている事は少ない」

 

 そう結んだレインマンにミシュアは提言していた。

 

「では継続捜査は打ち切れと?」

 

「判定の危ない事件に部下を関わらせたくはない、と言っているんだ。バックには巨大企業が見え隠れする。それに、君がご執心の契約者の星のスペクトルが観測された。……前回の事と言い、あまり無茶をするもんじゃない」

 

「それは……」

 

「それはその通りでしょう。レディロンド。命はいくつもあるものじゃないんですから」

 

 執務室備え付けのアンティークを眺めつつ、ジキルは声にする。彼女とその相棒であるジェッツはアンティークの調度品を観察する。

 

 その有り様がどう見ても契約者のそれには思えず、ミシュアは当惑する。

 

「……口を挟まないでいただきたい」

 

「ですが、一蓮托生です。私達はこの国で成すべき事を遂行するまで祖国にも帰れない。ここでの事件の解決は急務ですから」

 

「……それは皮肉ですか」

 

「いえ、事実のみを。第一、あなた達を皮肉ってどうするのですか。前回の失態は明らかに私達二人のもの。あなた達は現地警察との軋轢もある。案外この国での捜査は上手くいかない事も分かった」

 

「それを祖国とやらに報告しますか」

 

「いえ、その気分でもない」

 

 応じたジキルはアンティーク品を見つめつつ、鼻歌を漏らす。

 

「……ぼくから言わせればね、君らの戦いは少しばかり迂闊だとは思うな」

 

 まさかジェッツが口火を切るとも思っておらず、ミシュアは目を白黒させる。

 

「迂闊……ですか」

 

「契約者相手の装備も貧弱が過ぎる。もし、本当に契約者と会敵したらどうするつもりだい? ……その辺がイマイチだと思うけれど」

 

「ジェッツ。正直さは時に毒となる」

 

「これは忠告だよ、ミシュア。このままじゃ契約者どころか、一企業の力さえも抑えられない」

 

 まさかのジェッツの厳しい声音にミシュアは言葉をなくす。

 

 レインマンが咳払いを発し、話題を変える。

 

「……昨日の活動契約者に関しては確かジャンが今、天文部に問い質しているところだったな」

 

「あ……はい。メシエコードが割れれば、ある程度の追跡は可能かと」

 

「だが企業が契約者を擁するようになれば、それこそ警察の権威は地に堕ちる。ただでさえ契約難民絡みの事件は解決の日の目を見ていない。見通しもつかない中でどれほどの検挙率を上げられるのか。市民は見ていないようでよく見ているとも。【煉獄門】関連にしてもそうだ。わたし達が未熟である事はニューヨークの市民には知れ渡っていると思ったほうがいい」

 

 レインマンの声音は重い。ミシュアは執務室を後にしていた。

 

 どっと疲れを感じ、嘆息を漏らしたところでジキルがひょいと顔を出す。

 

「……疲れていますか?」

 

「……それなりに。第一、あなた方は帰らなくって本当にいいんですか? ……例の契約者は死んだのでしょう?」

 

「確かにこの国の警察機関に潜り込むための方便でしたがね。気にもなるのですよ。契約者の能力で殺される旧市街地の者達。現地警察に任せたくないのはよく分かりますし」

 

 ジキルはデスクにつき、煙草のパッケージを発見する。

 

「意外ですね。吸うんですか?」

 

「いえ……これは友人が……」

 

「なるほど。友達想いなのですね、レディロンドは」

 

 その言葉振りはどこか嘲りが混じっているようで、ミシュアは眉根を寄せる。

 

「……あの、用がないのならこの案件には関わらないでください。その祖国とやらも望んでいないのでは?」

 

「これは手厳しい。……しかし、私達も暇を持て余していると上からお叱りが入る。だから出来るだけ無能ではないように気取らなければならない」

 

「それもこれも、ジキル、そっちの応対が遅いからだ。いつまでも安穏としているから、相手に先を越される」

 

「……手厳しい」

 

 肩を竦めたジキルにミシュアは問いかけていた。

 

「あの……MA401と、あなた達は戦ったんですよね? ならば、その能力は……」

 

「言っておきますが、諜報機関が警察に情報を簡単に流すとお思いで?」

 

 それもその通り。こちらで手を焼いているからと言って、諜報員から情報を聞き出そうなど虫が良過ぎる。

 

「……少し調子に乗りました。すいません」

 

「いえ、構いませんよ。まぁ、本当なら教えてもいいんですが、秘匿情報の一つに抵触しましてね。教えたいのに教えられない。歯がゆいものですよ」

 

 本当にそう思っているのかどうかは不明だが、少なくとも彼らはMA401と戦っている。いつかは共同戦線を張るかもしれないのだ。その時に足手まといになりたくない。

 

「……いえ、教えられない事があるのはお互い様ですから」

 

「ニューヨーク市警は優秀だとは思いますよ。我々よりかはずっと。だが……この街を蠢動する連中はその上を行く。あまり容易く喋り過ぎないほうがいい。寡黙なほうがよっぽど長生き出来る」

 

「その論点じゃ、君も長生き出来なさそうだ」

 

 思わぬジェッツの声音にジキルは呵々大笑と笑う。

 

「違いありませんね! ……いや、失敬、レディロンド。そこまで驚かれると」

 

「あっ、いや……その……」

 

「可笑しかったですか? 契約者が大笑いするなんて」

 

「いえ、その……」

 

 まごつくミシュアにジキルは見通した声を発する。

 

「契約者は人間の感情を失った存在。人間のように笑う事もなければ泣く事もない、と。それが通説でしたね」

 

「……失礼を」

 

「構いません。契約者と言うだけで化け物扱いされる事も儘あります。私達もね、契約者になってもユーモアを失わずに済んでいるのはどうしてなのだか、よく分からないのですよ。そういう風に出来ているとしか言いようがない」

 

 彼らでもその感情を持て余していると言うのか。ミシュアは瞠目した後に、煙草のパッケージを弄ぶジキルへと言葉を振っていた。

 

「……契約者はでも、一般的には感情のない、まるで冷徹な機械のようなのだと思われているはずです」

 

「そのようですね。それもこれも、天国戦争でまるで人間らしくない、本当の殺戮マシーンのように振る舞った契約者が多かったせいだと思うのですが、彼らだって別に、全く感情のない存在でもなかったと思いますよ。ただ、その戦場では、そういう風に振る舞ってでもいない限り、人間らしく扱われなかっただけの話で」

 

「……天国戦争の話を?」

 

「いえ、直接には。噂話程度しか流れては来ませんよ。ただ……戦争に従事した契約者達が旧市街地に流れ込んでいると聞いて、少しだけ、ホッとしたのもあるのです」

 

「……ホッとした?」

 

「彼らは祖国からも、あるいは世界から爪弾きにされた存在。そういうどん詰まりでも、一応は縋るものの一つや二つはあるのだな、と思いましてね」

 

 契約難民は国籍も軍歴も、何もかもを剥奪された存在。当然、人間として扱う権利もない。だが旧市街地では、市民権はなくとも人間としては扱っている。それは現地警察のスタンスを見ても明らかだったのだろう。

 

 外から来た人間にとってしてみれば、絶妙なバランスで成り立っているこの街こそがいびつに見えるのかもしれない。

 

「……【煉獄門】に、契約難民……。決して豊かとはいえない国家です。いつかは歯止めが来るのは、この国に住んでいる人間ならば誰しも思ってはいる事……」

 

「ですが今、破滅が来るとは思っても見ないでしょう? そういう国民性ですよ。まぁ、トーキョーじゃ、【地獄門】のすぐ近くにだって人は住んでいると言うじゃないですか。案外、適応力と言う点では契約者よりそこいらの人間のほうが図太いのかもしれない」

 

 図太さ。褒められているのか貶されているのか分からず、困惑していたところで駆け込んできた影に全員が注目する。

 

「課長! ヤバいってのが……あれ……お邪魔でした?」

 

 硬直したジャンにミシュアはため息をつく。

 

「何でもない。……どうだった?」

 

「ビンゴっすよ! MA401の微弱スペクトル反応! それと……これ、あまり彼らの前では……」

 

「よいですよ。聞かぬ振りをしておきましょう」

 

 背を向けたジキルとジェッツにジャンは憚りながら声を潜める。

 

「……当局の追っていた特A級の契約者……LG891の活動も観測されました。こいつの反応はじつに半年ぶりって言うんで、天文部はてんやわんやですよ……」

 

「そんなに危険な契約者なのか?」

 

「……能力の全容は分かっていません。ですが、一部の資料にはその力だけでビルを割るほどだとか、他の契約者なんて足元にも及ばないほどだとか……」

 

「……噂だろう」

 

「裏が取れない噂でもないんですってば! ……現にLG891と戦闘したであろう、ほとんどの契約者は直後に星が流れています。相当に強いって事ですよ」

 

「一つ、いいですかね、ミスター」

 

 ジキルの問いかけにジャンはびくりと肩を震わせる。

 

「な、何ですか……。ズヴィズダーに渡せる情報なんて……」

 

「いえ、我々もそろそろ身の振り方を極めなければならない。そういう点で言えば、ある意味では無頼漢ですらもある。レディロンド、私達はあなた達と協力体制を敷いているはず。ならば」

 

「……情報共有、ですか」

 

「いけませんか?」

 

 ミシュアはLG891の契約者の情報の優先度を瞬時に概算する。何者かも分からない契約者を、精鋭部隊であるこの二人が欲しているのだとすれば、その帰結する先は多くもない。

 

「……戦力に数えるとでも?」

 

「まさか! 相手は契約者ですよ!」

 

 逸ったジャンの言葉にミシュアは睨んでいた。委縮した彼へとジキルは微笑みをかける。

 

「まぁ、間違いではない認識ですよね。確かに契約者相手に、戦力拡充なんて馬鹿げている。それに、私達は祖国の情報をあまりにもあなた達に話していない。これではフェアではないとも」

 

「分かっているのならば……」

 

「ですが、祖国の情報は渡せません。これは絶対でもあるのですよ。どこの諜報機関かを明かせば、遠からず私達も始末されるでしょう。口の軽い契約者を、わざわざ残しておく必要性はないでしょうから」

 

 そう断じてしまえる精神性もそうだが、彼女の能力特性上、まさか戦いを欲しているのかとさえも勘繰ってしまう。

 

 契約者は殺戮機械――その前提に立つのならば、別段おかしな話でもない。

 

 だが、ミシュアはそうとも思えないでいた。それはジキル達が決して人間離れした精神でない事にも由来していたのだろう。

 

「……分かりました。我々の情報をある程度までは明かしましょう」

 

「課長! みすみす……!」

 

「言いたい事は分かる。だが、これは私の決定だ」

 

 詰めた声音にジャンは息を呑む。

 

「……知りませんよ。って、門外漢を決め込めるような身分でもないんですよねぇ……せめてお供させてくださいよ。俺、課長の部下でしょ」

 

 その眼差しに宿った光にミシュアは首肯していた。

 

「……頼りにはしている」

 

「結構。では、話していただきましょうか。どういう事が今、起こっているのか」

 

 ジャンは少し困惑しながらも、掻い摘んで口を開いていた。

 

「……要は、昨日の騒ぎは元々仕組まれていたんじゃないかって話なんですよ。LG891もそうですけれど、微弱検出されたMA401の反応も。もしかしたら、敵対するように何者かが誘導していたって言う……」

 

「それは天文部の判断?」

 

「いえ……これは俺の憶測です。天文部は、LG891の反応が半年ぶりだって言うんでてんてこ舞いですよ。それほどまでに、ヤバい奴なのは確定みたいで」

 

 ミシュアは顎に手を添えて考えを纏めようとする。新たな契約者は、しかし何故今になって活動を再開したのか。

 

「……素人考えで、よろしいですか?」

 

 挙手したジキルにミシュアは促す。

 

「では。……恐らくそのLG891、何者かに雇われている可能性があると思います」

 

 思わぬ提言に二人して絶句する。

 

「……どうしてそう思うのですか」

 

「潜伏している契約者と言うのは、能力を限りなく使わないようにしているのですよ。それは星のスペクトルで活動が露になってしまいますからね。出来るだけ隠密に、なおかつ、しかもLG891の能力は派手と来ているのならば、そのミスターだがミスなのだか分からないなにがしは、昨日まで能力を封殺されていたと考えるべきです。あるいは不用意には使えない、そういう面倒な能力の可能性もある」

 

「……天文部の言うのには、LG891の能力はあまり限定的とは言えないようです。痕跡が残りやすいとも」

 

 ジャンの補足にミシュアはある憶測を述べていた。

 

「……強過ぎる契約者はその力を封じている……。これは一般見識ですか?」

 

「どうでしょうかね。ジェッツ、あなたはどう思います?」

 

 全員の視線がジェッツに集まる中で、彼はルービックキューブを弄び、視線を落としたまま応じる。

 

「そうとも限らないんじゃない。だって、ジキル、君は隠そうともしない」

 

「それは任務ですからね」

 

「……契約者はでも、合理的に判断を下す。その時々に使う必要のない能力を露見させはしない……。つまり、限りなくその力を絞っていた契約者が活動再開したのには、裏があるとお思いで?」

 

「そう考えなければ半年間の沈黙の答えは出ないでしょう」

 

 ミシュアは中空に視線を投じる。何か、見落としてはいないだろうか、何か決定的なものが食い違ってはいないだろうか。

 

 堂々巡りの思考に、打ち止めをかけたのはジェッツの一言だ。

 

「そんなに気になるんなら、探りを入れればいいだろうに」

 

「探りって……でも少年君? どの企業が契約者を買収しているかなんてどうやって探るんです?」

 

 ジャンの疑問ももっともだ。しかしジェッツは何でもない事のように言い放つ。

 

「目立つ能力なら、一人で諜報と隠密を両方やっているのは絶対にない。他の契約者から芋づる式に探り当てる」

 

「……なるほど。LG891を探すよりも、その契約者と行動を共にしている何者かを追えば……もしかしたら……」

 

「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ! そんな簡単に同行者って見つかるものなんですか? それなら何で、LG891はこれまで姿を隠せていたんです?」

 

「それも簡単な事ではないですか、ミスター。昨日中に、状況が変わった、と見れば。昨日までは確かに、LG891は契約者として単独であったのでしょうが、昨日付でチームによる連携へと移った」

 

「根拠は? それがないと話にならない」

 

 断じたミシュアにジキルは、これは憶測ですが、と前置く。

 

「能力を使った事、それそのものにリスクが高いとすれば? 派手な能力だと判定されているのなら、余計にです。能力を使えば追い込まれてしまう。だがそうとはならない。星は流れていない。しかも……恐らく交戦したのはあのニューヨークの赤ずきんであるミス401MAだ。あの契約者と正面を切って戦ったのに、まだ命があるという事は、強力な契約者であるのは疑いようのない事実。しかし、あの契約者が仕損じて、では一日も二日も命があるとは思えない。絶対に追撃が来る。そう考えれば……」

 

 ハッと、ミシュアは勘付いていた。

 

「……追うのはLG891の行方よりも、MA401の抹殺対象……」

 

 頷いたジキルにジャンは右往左往していた。

 

「えっと……でもMA401は今の今までその尻尾さえも掴ませない契約者ですよ? 相手が悪過ぎるんじゃ……」

 

「だがMA401が関わった案件は全て、未解決、あるいは迷宮入り……。それはある意味ではこうとも言える。――確実にケリをつけるタイプの契約者だとも」

 

 ジキルの分析の鋭さにミシュアは思わず探りを入れていた。

 

「……どこでMA401のやり方を知ったのですか」

 

「噂ですよ、噂」

 

 かわされたのを感じつつ、ミシュアは推測を並べ立てる。

 

「……確実にケリをつけるのなら……それこそLG891の星が流れないのはおかしい。どこかで強襲がある。近いうちに、LG891とMA401が戦うとも」

 

「そしてその戦いの舞台は自然と旧市街地になるのでしょうね。何せ、LG891は能力特性上、派手に立ち回りたくはないはずだ」

 

 ならば、とミシュアは立ち上がっていた。

 

 ここで時間を潰しているのも惜しい。

 

「……行きましょう」

 

「おや? 同行してもいいので?」

 

 どこかわざとらしいジキルの言葉振りにミシュアは嘆息をつく。

 

「……協力者でしょう。それに、契約者のメンタリティは欲しいところでもあります」

 

「課長? でもそれって、部長が許すかどうかは……」

 

「いちいち聞いていても始まらない。事が起これば報告すればいい」

 

 強気な自分の発言にジキルは口笛を吹く。

 

「さすが。ニューヨーク市警の花形なだけはある」

 

「茶化さないでいただきたい。それに、どうせこの考えた方だと……」

 

「ええ、懸念事項は分かりますよ。また、現地警察とかち合わなければいけなくなる」

 

 こちらの認識を読んだジキルにミシュアは早速出向こうと踵を返しかけて、おっと、とジキルの声に阻まれる。

 

「……何です?」

 

「その前に一杯だけ。コーヒーをいただけますか? 頭の体操をしたいので」

 

「……構いませんが、私はホットコーヒーは飲みませんよ」

 

「ならばアイスで一つ、いや、二つかな」

 

 ジェッツはふんと鼻を鳴らしていた。

 

「……要らぬ世話だ」

 

「まぁそう言わずに。ここから先、どう転ぶのかはまるで分からない。まずはレディロンドの手腕を見せていただきましょうか。私達がそこで動くのかは、それ以降の話」

 

 どうとでもなる、と言いたげだ。ミシュアは壁に背中を預けていると、ジャンが声を潜めてくる。

 

「あの……マジにヤバいんじゃ? 勝手に出歩かせていいんですか? 相手は偽名も使っていましたし、そもそも信用ないんじゃないですか?」

 

「信用がないのはお互い様だろう。今は一ミリでもいい。進展が欲しい」

 

「……言いますね、課長。お供しますよ。どっちにしたって、一台の車に契約者二人は重いでしょう」

 

 ジャンが車の鍵を手繰ってジェッツに話しかける。

 

「じゃ、コーヒー飲んだら行きましょうか。少年君」

 

「……子供扱いしないでくれないか。ぼくはこれでも、君らより十年は長く生きている」

 

「へいへい。それってやっぱし、対価って奴?」

 

「……君らには関係のない話だ」

 

 まだジェッツはこちらに信を置いていない様子だ。だからと言って、ジキルがこちらを完璧に信じているわけでもないだろう。

 

 彼女はコーヒーを呷り、さて、と立ち上がっていた。

 

「……では、始めましょうか。野良犬狩りを」

 

 



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第三十二話「接触を講じる」

 

 旧市街地のセーフハウスに入るなり、夜都は窓際に反射する光を触媒にした青白い観測霊を目にしていた。

 

「……ガーネット。敵の位置は?」

 

 観測霊が震える。まだ不明との事であった。

 

「……足で稼ぐしかないか」

 

 だが旧市街地はここのところ、妙に浮き足立っている。前回の戦いの途中より、何かが並行して起こっているのが窺えた。

 

 お陰で自警団気取りの一般人が棍棒や拳銃で武装している。

 

 厄介な事この上ないが、ただの人間だと自分から明かしているようなものだ。契約者ならそんなもので武装する必要性はない。

 

 夜都は屋台へと歩み出てバケットを買おうとして、横合いから延びてきた手に目線を振り向ける。

 

 黒い外套を纏った少女であった。

 

 全身を覆う漆黒のそれはまるで影をそのまま引き写したかのようでさえある。

 

 パン屋の主人はしかし分け隔てなくバケットを売りつけていた。この旧市街地で下手に差別すれば命を取られかねない。

 

 夜都は自分の分のバケットを受け取り、食べ歩きをする少女へと言葉を投げていた。

 

「美味しいですよね、ここのバケット」

 

 少女は視線を僅かに向けたがそれ以上の反応はない。その手まで薄い手袋で覆われている。垣間見える白磁の肌は太陽の光を知らないように薄らぐ。

 

「……旧市街地は危ないですよ。多分……他所の人ですよね……?」

 

「……そちらこそ現地人には見えない」

 

 ようやく応じた少女の声は切り詰めたかのように冷たい。しかし、夜都は務めて微笑んでいた。

 

「留学生なんです。この辺、一応は知っていて……案内しましょうか?」

 

「……いい。外国人なら、下手な事はしないほうがいい。命を落とす」

 

「それ、よく聞きました。警句なんですかね……。でも旧市街地って昔はこっちが本当のニューヨークだったって」

 

「そんな話、誰に聞いたの。観光客の来るところじゃない。さっさと表に戻ったほうがいい」

 

 断じる論調ではあったが、こちらを煩わしく思っている風ではない。夜都はバケットを抱えつつ、少女の背に続く。

 

「……でも、いい人ばっかりで。今のところ不自由はしていないんです。案外、悪くない場所なのかもしれませんね、ここも」

 

 その言葉に少女の足が止まる。夜都も合わせて足を止め、振り向いた少女の相貌を目にしていた。

 

 透明感のある白磁の肌に、緑色の瞳が射る光を灯す。

 

「……興味本位でこっちに踏み込まないほうがいい。旧市街地はただでさえ契約者が多い。下手に首を突っ込むと、本当に死んじゃうよ」

 

 今度こそ突き放したつもりだったのだろう。しかし、夜都は表情をやわらげさせる。

 

「……心配してくださってるんですね。その……ありがとうございます」

 

 こちらの謝辞に相手は調子を崩されたかのように視線を逸らす。

 

「……別に。ただ、死ぬんなら迷惑のかからない場所で死んでって言ってるの。旧市街地は多分、ここ二、三日は一番危ない。だからもし帰る場所があるのなら帰っておいたほうがいい。死体の中に見知った顔がいると、調子が狂う」

 

 最大限の警告のつもりだったのだろう。再び歩き始めた少女に、夜都はついて行く。

 

「……何、着いて来ないで」

 

「いえ、その……そんなに危ないって言うのなら、あなたもそうじゃないんですか? だって、旧市街地が怖いのは知ってますから……。確か、契約難民とかが居るって……」

 

「噂でしょ。そんなものよりよっぽど怖いのが居るよ。だからとっとと失せて。正直なところ迷惑」

 

「迷惑……ですか。でも、同じお店のバケットを買ったんです。ちょっとだけお話しませんか? ……その、帰り辛い事情がありまして……」

 

 少女は睨む眼を寄越しながら問いかける。

 

「何、家出でもしているの?」

 

「……まぁ、みたいなもので……」

 

 頬を掻く夜都に少女はふと、空き地を指差す。夜都は頷いて歩調を合わせていた。

 

「……変わり者ってどこでも居るんだね。私みたいなのに話しかけないほうが、どう考えたっていいでしょ」

 

「まぁ、よく言われます。でも、そんなに変ですかね? だって、この旧市街地は……」

 

 少女は周囲を彷徨い歩く浮浪者を視野に入れていた。確かに彼らの待遇から言えば、少女の纏っている服飾はそこまで異質でもない。

 

「……木を隠すなら、のつもりだったのに……」

 

「あの……あなたはでも私とそんなに歳、変わらないですよね? 何か事情でも?」

 

「何にもない。放っておいて」

 

 ベンチに座り込んだ少女の隣に、夜都は座り込む。少女は目に見えて不愉快そうな面持ちを返していた。

 

「……何。外国人って図太いね。普通ここまで言ったら分かるでしょ」

 

「それもよく言われます。……でも、バケットを外で食べるのは私の趣味みたいなものですから。ちょうどいいかなって……」

 

「……変わってる。って言うか、変な人だね、あんた。本当なら旧市街地の人間になんて声をかけないのも普通なのに」

 

「旧市街地の人っぽくないからかな……。多分、違いますよね……?」

 

「……まぁそうだけれどさ」

 

「旧市街地の……古びた街並みを見るのが好きで……それにマッチするんですよ、このバケットの香ばしさが」

 

「へぇ、偏屈」

 

「……かもしれませんね。でもバケットが美味しいのはその通りでしょう?」

 

 掲げてみせた夜都に少女は顎をしゃくる。

 

「……怪我してでも?」

 

「あ、はい……階段から落ちちゃって……。鈍くさいって言われます」

 

 照れた声音の夜都に少女はぷっと吹き出す。

 

「何それ。馬鹿みたいじゃない」

 

「あっ……笑うんですね、そうやって……」

 

 相手からしてみれば思わぬ感情であったのだろう。ハッとした様子の少女は、自分の頬をさすっていた。

 

「……私、笑えるんだ……」

 

「当たり前じゃないですか。笑えない人なんて居ませんよ」

 

 バケットを頬張る夜都へと、少女はじっと注視する。その眼差しに夜都は当惑していた。

 

「な、何ですか……?」

 

「いや、喋るのも久しぶりだったから、ちょっと意外かも。そういう、人間らしい事って、もう二度とないんだって思っていたのもあるし……」

 

「……何だか私が変みたいじゃないですか」

 

「それは間違いない。あんた、何なの? 旧市街地の、しかもこんなに怪しい人間に話しかけるなんてどうかしている」

 

「どうかって……でも私達、同じお店でバケットを買ったんです。きっと、全く趣味が合わないってほどじゃないと思いますけれど……」

 

「あのお店のバケット、そこそこ美味しい……」

 

「ですよね。私、あのお店の作るパンが大好きで……」

 

 その時、不意に視線がかち合い、少女はフッと儚げに微笑む。

 

「……妙な縁もあったもの。他人と話すのはやめておけって、あれほど言われていたのに……」

 

「……私はそうは思いませんけれど……」

 

「そうかもね。あんた、変だけれど面白い。屁理屈だとか、そういう事をこねない人間は、久しぶりかもしれない」

 

「……私、そんなに性格悪そうに見えます?」

 

「分かんないよ、人間なんて。一皮剥いたらみんな化け物だ」

 

 そう告げた少女はバケットを口に含むと、むせていた。夜都はさっと水筒を翳す。

 

「コーヒー、持ち歩いているんです? どうぞ」

 

「……ゴメン」

 

「何で謝るんですか?」

 

「……迷惑って言ったのに、迷惑かけているのはこっちになった」

 

 その言葉繰りに夜都は吹き出してしまう。

 

「何ですか、それ。……こういうの、お互い様って言うんですかね」

 

「……分からない。でも、コーヒーは美味しかった」

 

 突き返された水筒を手に夜都は立ち上がった少女を仰ぎ見ていた。

 

「一旦、戻らないと。クライアントがうるさいし」

 

「……社会人なんですか?」

 

「一応はね。……ねぇ、言っておくけれど。もう一回、私を見かけてももう……喋りかけないほうがいい。そっちのほうが……うん、いいに決まっている」

 

 その言葉に返答する前に少女は駆け出していた。夜都は空き地の一角に佇む針葉樹に留まったブルックへと声を振る。

 

「……追跡」

 

『分かっているとも。しかし、紅。お前はいつでも、強引にでもああやって近づくな。少しは良心の呵責はないのか?』

 

「……契約者にそんなものは必要ない」

 

『そうだろうな。追うとも。……だが、話しぶりを聞いている限りじゃ、本当に昨日の奴なのか?』

 

「間違いない。……白い肌に、緑色の瞳……。陽電子砲の契約者だ」

 

『そこまで確信していて、あそこまで初対面を装えるのが俺には分からんよ』

 

「……どうだっていい。とっとと追わないと本当に逃す」

 

『了解』

 

 蝙蝠の翼が飛び立つ。夜都はバケットを頬張りつつ、肩口を貫いた痛みに顔をしかめていた。

 

 別段、恨んでいるわけでもない。

 

 あんな顔をする契約者である事に、ましてや良心の呵責なんて――。

 

「……契約者は、だって人間じゃない。殺戮機械がたまに見せる温情に、いちいち感情を揺さぶられるのもまた、馬鹿馬鹿しいでしょうに」

 

 



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第三十三話「戦域を走る」

「遅かったな……ロット」

 

 そう呼ばれた少女は黒衣に包まれていた。せせこましい旧市街地の一室で男はベッドの上で項垂れている。

 

「……食糧を買ってきた」

 

「誰かに見られていないだろうな?」

 

 ロットは先ほど邂逅した少女の事を思い返していたが、報告するまでもないと応じる。

 

「……いや、誰とも」

 

「……本当だろうな。まぁ、契約者に嘘をつく機能もついてやしないだろう。しかし、バケットか。喉が渇くな……」

 

「水ならいくらでもある。それに、携行食も」

 

「そういう問題じゃないんだよ。……お前らは本当にそうだな。誰かに命じられるままに戦い、そして殺しを平然とする。……あの企業が金で雇っただけの殺人マシーンだ。本当に……こんな事にさえならなければお前らなんて一生無縁だっただろうに」

 

 吐き捨てるように男は言ってからバケットを噛み締める。ロットは部屋の隅でじっとしているもう一人の契約者に問いかけていた。

 

「……他に接触は?」

 

「……ない」

 

 フルフェイスの黒ヘルメットを被っている大男の風貌はそれだけで目立つ。さすがの旧市街地とは言え、彼に立ち歩かせればここはすぐさま露見してしまうだろう。

 

 その傍らには少女ドールが佇んでおり、彼女は僅かに視線を翳らせていた。

 

「……車が二台、旧市街地に入って来た」

 

「……潰しておくか」

 

「待て、スチュアート、エミリー。お前らはここに居ろ」

 

 男の命令に二人は立ち止まる。

 

「……脅威は排除する約束のはず」

 

「分からないのか? 目立つんだよ、お前ら二人とも。それなら、ロットに任せたほうがいい。エミリーは観測霊でロットの支援を――」

 

「必要ない。観測霊は飛ばすな。私の行動を誰に見咎められるのも御免だ」

 

 断じた論調に男は口を噤む。

 

 ロットはスチュアートへと声を振っていた。

 

「……あんたの能力は対契約者用だ。一般人に使ってもさほど価値はない」

 

「……分からんぞ。向かってくるのは、契約者かもしれない」

 

「判断は私が下す。抹殺すべきなら、初手で潰せばいいだけだ」

 

 こちらの声音に男が声を差し挟む。

 

「ま、待て! 判定をするのはわたしだ! 主人を間違えるんじゃないぞ、スチュアートにエミリー! ロット、お前も、あまり分を弁えない言葉を吐かない事だな。それ以上は越権行為だ」

 

 そう言われてしまえば、相手の事を慮っての言葉も吐けなくなる。いや、そもそも契約者に慮る、なんて機能はなかったか。

 

「……承知した。だがまずは出端を挫く。一般人であろうとも関係ない。エミリー、乗っているのは?」

 

「……前を行くのは女が二人。後ろは男が二人」

 

 あまりに粗い判定だが、それは彼女の観測霊がそもそも諜報向きではない事に由来する。霊媒とは言え、万能とは言えない。

 

「四人か。……広域射程で迎え撃つ。それでいいだろう」

 

「……待て、ロット。お前の能力はただでさえ目立つ。昨日の契約者だって死んだかどうかまでは分からないんだ。むざむざ晒す事もないだろうに」

 

「ではどうしろと? ここが見つかるリスクを負ってまで、何もしないのか」

 

「……違う、ああクソッ……! こいつらは融通が利かなくって困る……! これだから契約者ビジネスなんてうまく行かないんだ……!」

 

 ロットはベッドの上で悪態をつく男を見据えながら、次の手を打つとすればどうするかを思案していた。

 

 旧市街地に入ってくる余所者は往々にして面倒な相手だとクライアントからは教え込まれている。それに自分の所感でも、目につかないような相手は厄介だと告げていた。

 

 その時、不意に先ほどの少女の笑顔が脳裏を過ぎる。

 

 ロットはその像に頭を振って棄却した。

 

 ――あれはただの少女だ。だが……何だこの違和感は……。

 

 決めあぐねた胸中に男が命じる。

 

「……よし、分かった。ロット、お前はまず侵入者の足止めをしろ」

 

「殺さないでいいのか」

 

「……だから、物騒なんだよ、お前らは……。……殺してやればまた足がつく。能力を最低限に使って車を止めるくらい造作もないだろう」

 

「……その程度のオーダーでいいのなら」

 

「ああ、構わん。スチュアート、それにエミリーはこの部屋に居ろよ? ……わたしを守る者が居なくなる……」

 

「……了解した」

 

 重々しい声音でスチュアートが応じる。ロットは部屋を出る前に男へと尋ねる。

 

「……もし抵抗してきた場合は? それこそ契約者の可能性」

 

「……なら躊躇うな。すぐに殺せ」

 

 そうと規定されたならば迷う事はない。ロットは部屋を出る際に全ての感情を冷たく押し殺し、残ったのはただの契約者としての命令だと処理していた。

 

 廃ビルの屋上に上り、風になびく観測霊を目にする。エミリーの観測霊がそこいらで燻る黒煙に纏いつき、旧市街地を見下ろしていた。

 

「……煙を触媒にする観測霊……。精度は微妙だけれど、この街なら……」

 

 ロットは旧市街地の狭い車道を抜けてくる二台の車体を見据える。乗っている人間の素性までは不明だが、これ以上クライアントの気分を損ねるわけにもいかない。

 

「……悪くは思わないでね」

 

 指の間に電磁を纏いつかせる。黄金の電磁波が形状を成し、次の瞬間、解き放たれようとして不意に前方を行く車が停車する。

 

「……勘付かれた?」

 

 まさか。そんなはずはない。このまま発射しようとして、助手席から降りた喪服の女がこちらを仰ぎ見る。

 

 その瞳に映っているはずのない距離なのに、相手はこちらを正確に捉えているのが窺えた。

 

「……何故。見えるはずが……」

 

 その時、ロットは電線を伝う青白い霊媒を視野に入れる。

 

 ――やられた、と確信したその時には、喪服の女は車両の広域無線を使って呼びかけていた。

 

『……ここで抵抗すれば、敵対勢力と判断し、排除する』

 

「……天文部とか言う連中の観測霊か。昨日目立ち過ぎたのが仇になったな」

 

 電線を伝う観測霊をロットは八つ当たりのように散らしていた。ランセルノプト放射光を帯び、指先から発したプラズマを照射し、電線を断ち切る。

 

『……それがそちらの契約の能力か』

 

「……来るのならば来い。……私は逃げも隠れもしない」

 

 喪服の女は顎をしゃくる。

 

 運転席から出てきた黒髪の女はその手にライフルを握っていた。

 

 舌打ちを滲ませてロットは電気の塊を放射しながら身を仰け反らせる。途端、一射された銃弾が眉間の付近を跳ねていた。

 

 相手には躊躇がない。そこから導き出されるのは対立組織の諜報員だが、ここまで目立つ真似をするとも思えない。

 

「……一手誤ったか」

 

 苦々しく口走り、ロットは靴裏に能力を纏わせる。その瞬間、壁へと吸着し、その身が落下を免れた。

 

「……私の能力を目立つだけの陽電子砲使いだと思っているのなら、お前らの負けだ……!」

 

 ロットは発した力の残滓を感覚する。地を跳ね回り、加速した能力の獣は牙を研いで黒髪の女へと飛びかかっていた。

 

 それを喪服の女が突き飛ばし、青白いランセルノプト放射光を纏う。噛み砕いたかに思われた一撃は思わぬ帰結を迎えた。

 

 能力の牙がその首筋を掻っ切らんと迫ったのに、相手の肉体を一閃がすり抜ける。

 

「……すり抜けた? ……いや、物質透過か!」

 

 しかし二度目が通用する相手でもないのだろう。後ろの車両に乗っていた少年が歩み出てその手にダーツを番えたのが能力を通して「視える」。

 

 ロットは慌てて壁を蹴りつけ駆け抜けていた。

 

 直後、ダーツが空間を奔り、空気の膜を引き裂いてビルを貫通していた。

 

 思わぬ連撃にロットは歯噛みする。

 

「……物質透過と質量の加速能力を持つ契約者集団……! 例のズヴィズダーとやらか!」

 

 提携している企業の上役から予め聞いていた抹殺リストの中に入っている契約者達だ。

 

 まさかこんなにも早くに遭遇するとは思いも寄らない。ロットは突き抜けて行ったダーツの一つへと、能力の指先をかけていた。

 

「……でも、――捉えた!」

 

 その刹那には空間を抜けて行ったダーツの一つがロットの手へと手繰り寄せられていく。

 

 携えてみれば、ほとんど重さもないただのダーツ。だが、超加速を得る事で弾丸以上の威力を誇っている。

 

「こんなもので死んだらネタにもならない。……返すよ」

 

 ダーツを投擲し返す。

 

 相手の少年契約者はダーツを感覚し、回避の動きに入ろうとするが、その直前にロットは能力を行使する。

 

 急加速に入った自分の得物を捉えた少年は心臓を貫かれ、絶命するはずであったが、それを阻んだのは赤ジャケットの男であった。

 

 咄嗟に少年を抱えて飛び退く。その背中にダーツがかかり、鮮血が舞った。

 

 ――仕留め損ねた。

 

 その感覚にロットは壁を跳躍し、別のビルの壁面へとその身を翻させる。相手からは見えない位置で駆け抜け、瞬間的に発生したランセルノプト放射光の網を目にしていた。

 

「……透過能力の全力行使……。こんな射程を持つなんて、化け物じゃないか」

 

 だが自分を捕えるのには一拍遅かった。その射程から逃れたロットは靴裏に能力を纏いつかせ、弾かれるかのように空間を抜けていく。

 

 完全に相手の能力の外に出たのを関知してから、ロットは舌打ちを漏らす。

 

「……クライアントから剥がされた……!」

 

 相手の目論見は達成されたわけだ。しかし、ロットは同時に一矢報いる事も出来たと感覚する。

 

「……悪いけれど、やられっ放しなのは性に合わないんだ。私は絶対にその首を取ってみせる」

 

 ロットは地上へと降り立ち、そのまま抜けようとして衝動的な感覚に襲われた。

 

 歯ぎしりをしてフードを取る。

 

 差し込んできた太陽光にロットは皮膚を焼かれるのを感じてその場に膝を負っていた。

 

「……この体質で、この対価は……辛いね……」

 

 皮膚が赤らんでいく。それだけではない。全身から立ち上る高温に身を焼かれる思いであった。高熱に晒され、そのままよろめいたロットはふと何者かに抱き留められてハッとする。

 

「……誰……ってさっきの」

 

 自分を抱き留めたのは先ほど出会った少女であった。まさかまだ旧市街地に居たとは思いも寄らず驚愕に目を見開いたロットに少女は歩み寄る。

 

「……あの、大丈夫ですか? 皮膚が……焼けて……」

 

 硝煙を棚引かせる皮膚は一般的には珍しいのだろう。ロットは何でもないかのように、ああ、と応じていた。

 

「……体質なんだ。生まれつき太陽の光に弱い……」

 

「じゃあ……早く逃げ切らないと! ……ここじゃもろに太陽を浴びてしまいますよ!」

 

「……いや、いいんだ。これで、だってこれは……」

 

 対価だから、と言う前にロットの意識は闇に没していた。

 

 久方振りの能力の連続行使だ。当然、対価も久しぶり。思ったよりも自分の対価は重い。

 

 予め分かっていても、ロットは抗い難い苦痛に意識を閉ざしていた。

 

 



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第三十四話「暗礁と対峙する」

 

「……相手は契約者だった」

 

 不意にエミリーが声にするものだから男は狼狽したらしい。

 

 らしい、と言うのはスチュアートには観測する術がないからだ。自分はフルフェイスのメットで視野を閉ざしている。

 

 常の暗闇はしかし慣れていた。

 

 ある程度の状況は把握出来るし、相手の顔色一つくらいは声音から理解出来る。

 

「……何だって? それは本当なのか?」

 

「……落ち着いて欲しい。我々はクライアントよりあなたを守るように仰せつかった」

 

「……お前らの約束なんて知った事か。とっとと殺しに行け! それがお前らに出来る事だろうに……!」

 

「それは先ほどの命令に矛盾するが?」

 

 スチュアートの問いかけに男は奥歯を噛み締めたようであったが、やがて持ち直す。

 

「……命令は順次更新される。そんな事も分からんのか! これだから、契約者は融通が利かない……」

 

 そこまで言われてしまえば命令を執行しに行くしかない。スチュアートは最終判断を問いかけていた。

 

「……本当に殺しに行っても?」

 

「くどいぞ。いいか? 絶対に殺せ。わたしに指先一つでもかかればお終いなのだからな」

 

 スチュアートは首肯一つして部屋を出る。エミリーはその後に続いていた。

 

「……いいのか。殺しに行くんだぞ」

 

「でも、スチュアートは私の指示がないと、目が見えないでしょう」

 

 その通りだ。戦闘において何故エミリーと同時投入されたのかと言えば、彼女の指示がなければ自分はネズミ一匹殺せないだろう。

 

「……優秀なサポートを頼む」

 

「任せて。まずはこの廃ビルを出る」

 

 スチュアートは大通りで立ち往生している四人を感覚する。

 

 身動きから考えて内訳は成人男性一人に女が二人、子供が一人。

 

 だが油断は出来ない。ロットが即時合流してこない時点で、これは緊急事態なのだ。

 

「……契約者だな」

 

「……そちらもそのようで」

 

「喪服の女。それに子供が契約者。索敵を厳にする」

 

 スチュアートの脳裏に描き出されたのはフレームアートの人体図だ。エミリーの観測霊は煙を触媒とする。

 

 今回の場合は車の排気ガスに霊媒を与え、契約者を察知する。

 

 スチュアートは能力を行使するイメージを伴わせる。

 

 途端、世界が闇に沈んだ。

 

 外の世界が完全なる漆黒に沈殿したのを関知し、スチュアートは相手へと言葉を振る。

 

「……視えないだろう? これが完全なる闇の世界だ。まぁこの声も、お前らには聞こえていないのだろうが」

 

 歩み寄ろうとしてその足が地面にずぶずぶと沈んでいく。

 

「喪服の女が契約能力を行使。次いで子供の射撃が来る」

 

 エミリーの先読み通りにスチュアートは二人へとさらなる能力の底上げを行っていた。

 

 ああ、と呻きが漏れる。

 

「これ、は……」

 

「感覚阻害。五感の支配が俺の能力だ。今は視覚と聴覚を奪っていたが、三半規管を麻痺させた。これで立ってもいられまい」

 

 よろめいたのが気配だけでも伝わる。スチュアートはそのまま単純なパワーだけでコンクリート固めにされた足場を砕いていた。

 

「……つまらん能力だな。物質透過か。相手の隙を突くのには最適だが、視えなければ何も出来ないだろう?」

 

 四人とも既に能力の虜。スチュアートはゆっくりとした足取りで近づき、喪服の女の首根っこを締め上げた。

 

 その痛みに相手がランセルノプト放射光を帯びたのが伝わる。

 

 指先を透過し、滑り落ちた喪服の女は自分の背に立っているエミリーへと狙いを定めたようであった。

 

「……よくやる。視覚も聴覚も奪われて、それでもエミリーが鍵だと判定したか。その判断力と決断能力、見事だと言っておくが」

 

 喪服の女がエミリーへと指がかかる前に転げ落ちる。

 

「足の神経を奪った。これでお前は、もう立てない」

 

「……だが、喋れるようにはなった。それに耳も……。どうやら支配出来る数には限りがあるようだな」

 

「……よく回る舌だな。確かに俺の能力は対象を取るタイプの能力だ。無自覚に振り撒くタイプではない。よって正確無比に振るうためには、相手を絞らなければならない。だからお前らの行動は正解だとも。……人間の身でよくやる」

 

 背後に迫っていたライフルの銃口をスチュアートは握り締める。一射された銃弾がヘルメットを叩いていた。

 

「……この女も、契約者か?」

 

「彼女は警官だ。契約者は私とジェッツだけ。それにしたって、かなり精度が粗いじゃないか。今の一瞬で全員を絡め取っていたはずの能力なのに、レディロンドと私に対しては甘くなった」

 

「……俺の対価はこれだからな」

 

 かつん、とスチュアートはヘルメットを指差す。

 

「常時、俺は対価を払い続けている。自身の視野の阻害こそが俺の対価。だがこれは前払い型と言う奴らしくてな。こうやって既に払っていれば、何度でも、それこそ際限なく能力を使用出来る」

 

「……へぇ。だが、契約者を一人も殺せやしない。感覚を奪うだけでは……」

 

「確かに俺の能力だけでは普通の人間も殺せんさ。だが、俺には人並み外れた筋力がある。これでお前らを絞め殺してくれる」

 

「……野蛮な。契約者の風上にも置けない」

 

「どうとでも。どうせ俺達契約者なんて人でなしだ」

 

 ライフルを握った女警官を絞め殺そうとして、喪服の女の契約能力のせいか、その手が対象を取り損ねる。

 

「……面倒な能力だな」

 

「それはどうも。しかし……もうそろそろ三分経ったか?」

 

「三分? 何の時間だ?」

 

 喪服の女が視えていないにもかかわらず、にやりと笑ったのが伝わった。

 

「――作戦の実行だよ。ジェッツ。聞こえてなくても分かっているな? 三分間のオペレーションの阻止は、私達にとってはスタンドプレーの合図となる」

 

 その声が発せられた瞬間、膨れ上がった殺気にスチュアートは咄嗟に防御の姿勢を取る。

 

 少年の契約者が物体を指の間に挟み、にわかに立ち上がったのが伝わった。

 

「……馬鹿め。この距離では味方に命中するぞ」

 

「そうはならない。私達はこれでも、連携は密なんでね」

 

 放射された喪服の女の物質透過がこの場にいる自分以外の全員にかかる。広域射程はこのためか、と勘付いたその時には、少年の投げた物体がスチュアートの腹部にめり込んでいた。

 

 着弾の感覚に筋肉を増幅させ、弾き返そうとする。

 

 並の弾丸ならば容易く跳ね返す自分の躯体をしかし、少年の持つ物体は加速を得て貫いていた。

 

 臓腑を射抜かれスチュアートは血反吐を吐く。

 

「……物質の超加速……」

 

「……聞こえるようになった。ジキル、居るかい? 居ると思ってやったんだけれど」

 

「ああ、居るとも。しかし、案外しぶといな、ヘルメットの契約者。一撃で沈むと思ったんだが」

 

 その言葉通り、スチュアートは地面に拳をついて血管を収縮させる。出血を最小限に抑え、せり上がってくる血流を留めた。

 

「……筋肉ダルマめ。一撃じゃ駄目だ、ジェッツ。もう一回、やるぞ」

 

「分かったよ。ただ……まだ眼が見えないんだ。音に頼っての投擲になる。一応は能力を行使してくれよ」

 

「分かっているさ」

 

 物質透過によってずぶずぶと足を取られる。スチュアートは膂力を最大減に活かし、吼え立てて少年の首を押さえようとしたが、その時には既に第二射が実行されていた。

 

 脚の筋繊維を正確無比に狙い澄ます一撃に膝を折る。

 

 次いで恐らくは頭蓋を狙った一打はしかし、ヘルメットが弾いていた。

 

「……厄介なメットだな。思ったよりも堅い」

 

 スチュアートの能力が遊離してきたせいか、相手方の声が漏れ聞こえる。

 

「……音が……耳が戻った……?」

 

「どうやら感覚阻害、自分の集中力に依存するらしいな。平時はそのドールによる自らへの極度の集中で成り立っているんだろうが、それもここまで来ればお終いだ。種の割れたマジシャンはご退場だよ」

 

 喪服の女へと振り返ろうとして、ジェッツと呼ばれた少年が次なる一手を番えたのを関知する。

 

 このままでは敗退する。

 

 それは自分達の存在証明に関わる一事だ、とスチュアートはヘルメットを無理やり引き剥がしていた。

 

 久方振りの外気に触れた皮膚が痛みを訴えかけるが、それさえも今は些事。

 

「……メットを、……取っただと」

 

「……俺の対価は前払い型だった。だが、久しぶりにこうやっていざ目にしてみれば……滑稽だな、世界と言うのは」

 

 瞼を開き、この場に射竦められている全員を注視する。

 

 どれもこれも、一撃でくびり殺せそうなほどにか弱い者達だ。スチュアートは満身から雄叫びを放ち、獣の如くまずは女性警官へと腕を伸ばしていた。

 

 この女性は契約者でない事は既に承知している。

 

 確実に殺せる相手から殺していけば職業としての契約者は成り立つ。

 

 その首根っこにかかった腕に対し、指先がふっと地面に陥没する。

 

 女警官を絞め殺したはずの力が分散し、地面へと縫い止められていた。

 

 喪服の女の能力がまだ有効なのだ。

 

「……貴様ァッ!」

 

「ジェッツ! レディロンド!」

 

 名を呼んだ喪服の女に即座に対応したのはジェッツのほうだ。正確無比な投擲がスチュアートの肩口へと突き刺さる。血が噴き出したが、この程度ならば止血は必要ない。

 

 筋肉だけで出血を留め、スチュアートはジェッツへと飛びかかる。

 

 相手の武装はダーツであった。

 

「……種が割れたのは……どっちかな」

 

 ダーツが飛んでくるのだと分かれば弾道を予測すればいい。今の今までどうして心臓を射抜いて来なかったのかと言えば、それは自信のなさに裏打ちされているはず。

 

 ――眼が見えない状態では、心臓は正確に撃ち抜けない。

 

 その確信にスチュアートはランセルノプト放射光を帯びて能力を再び行使する。

 

 ジェッツが感覚阻害に膝をつき、その手からダーツを取り落とす。

 

 これで相手の攻撃手は潰したはず。

 

 スチュアートはそのまま、反撃の術をなくしたジェッツへとにじり寄っていた。

 

「……子供だからと言って、容赦はせん。契約者からな。油断は命取りだ」

 

 掲げた腕に力を籠め、一撃で臓腑を叩き伏せんとしたその時であった。

 

 後頭部に久しく感じていなかった冷たい感触が据えられる。

 

 何だ、と振り向く前に、声が発せられていた。

 

「――そうね、本当に。契約者相手に油断は命取り」

 

 女警官がその手に握り締めたライフルの引き金を絞る。

 

 攻勢に移る前に、スチュアートの頭蓋をライフルの一射が貫いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やれやれ、お互いに無茶をする」

 

 ジキルが力なく微笑み、ミシュアは今しがた射殺した大男の契約者を見下ろしていた。

 

「……正当防衛、片付くかしらね」

 

「証人が居ますから。大丈夫ですよ、レディロンド。しかし、よくもまぁ臆さずに撃てたものだ」

 

「……危険に晒されている人間を放っては置けませんから」

 

「契約者ですよ?」

 

「……それでも協定関係にあります」

 

 自分に言い訳するかのように言いやってミシュアは全員の怪我の具合を看る。

 

 幸いにしてジキル以外は軽傷だ。ジャンは、頭を抱えたままきょろきょろと周囲を見渡す。

 

「……終わったんですか?」

 

「終わった。……でも、ドールが居るわね」

 

 ジキルはドールの少女へと話しかける。

 

「そちらもエージェントで?」

 

「……スチュアートとはチームだった。それだけ」

 

「冷淡だな。じゃあもう彼はどうでもいいと?」

 

「……そこから先はプログラムされていない」

 

「なるほど。本当に彼の眼だったわけだ。じゃあ、本丸へと案内は出来るかな?」

 

「ジキル、さすがに無理が……」

 

 しかし少女ドールは特に躊躇せず、こっち、と指差す。

 

 その挙動に仰天しているとジキルは何でもない事のように肩を竦める。

 

「……契約者も受動霊媒も同じと言えば同じ。とても合理的なのですよ、レディロンド」

 

「……肝に銘じておきます」

 

 少女ドールに導かれ、自分達は廃ビルへと歩を進めていく。

 

「ときに……どこに雇われたのかな」

 

「……すごい大きな力を持つ企業。それ以上は知らない」

 

 ジキルはドール相手にまるで対等以上に接している。その様子に瞠目しているとジェッツが声を発していた。

 

「……ジキルはああいうのが好きだから。特に、欠陥品は大好きなんだろうね」

 

「ちょ、ちょっと! お二方! 対価をお忘れですよ!」

 

 後部座席からスプレー缶を持ってきたジャンにジキルは嘆息をつく。

 

「……何をやっているのですか。受動霊媒でもし、私達の対価がばれたらどうするんです? わざと我慢しているんですよ」

 

 ハッと今さら己の迂闊さを呪ったジャンからスプレー缶を引っ手繰り、ジキルは対価の抽象画を描き始める。

 

「……まぁこの対価も慣れたもので。前払い出来ればどれほどに楽か」

 

 今回のモチーフはどこか暗い色調だ。毎回別モチーフを持ってくるようにしているのかもしれない。

 

 それこそ飽きないためか。それとも、彼女の契約の対価はランダムな気難しさを持つのか。

 

 いずれにせよ、自分は職務を全うするだけ。

 

 拳銃をいつでも取り出せるようにして、ミシュアは構えていた。

 

「……そう身構えずとも。先の戦いで少なくとも二人の契約者を下しました。これ以上はないと思いたいですね」

 

「……でも、予想外は起こるもの」

 

「その通り」

 

 ジキルは少女ドールの道案内の先に、いやに小奇麗な一室を視野に入れる。

 

「あそこ」

 

 指差されたからと言って罠とも限らない。

 

 ミシュアはジキルと目配せし、ジャンへと声を振っていた。

 

「……私とジキルで引きつける。もし逃げ出したら、ジェッツに……」

 

「その辺は心得ているよ。精密狙撃で相手の足を取る」

 

 首肯し、自分とジキルは扉へと駆け寄っていた。

 

 両隣に位置取り、互いに数を数える。

 

 スリーカウントでドアを蹴破り、押し入った瞬間であった。

 

「動くな! 両手を頭の上に……?」

 

「……誰も居ませんね」

 

 まさか、とミシュアはさっと部屋から後退し罠の可能性を鑑みるが、ジキルは部屋の中で仔細に観察する。

 

「何をやっているんです! もし罠なら毒殺でも……」

 

「いや、そこまで器用な雇い主ではないようですよ。先ほどまでの生活痕があります。どうやら……窓から逃げられたようですね」

 

 窓伝いに突き出たベランダ越しに逃げおおせたのか。

 

 ミシュアは覚えず拳を握り締める。

 

「……もう少し早ければ……!」

 

「ここは仕方ないとしましょう。……して、どうしますか、そこのお嬢さん。私達の任務はあなた方の抹殺も辞さない考えだ。ここでどう振る舞うかはあなたの一生に関わりますが」

 

「……どっちでもいい。役目は果たした」

 

「……役目……それは先ほどの契約者の誘導か」

 

「そう。スチュアートの眼である事が私の役目。なら、それを満了した私はもう、どう動いていいのかも分からない」

 

「なるほど、なるほど。それはいじらしい。では命令しましょう。――あなたは私達のドールとして仕えなさい」

 

 思わぬ命令にミシュアは面食らう。しかし、少女ドールは何でもないように首肯していた。

 

「……分かった」

 

「よろしい。では名前は? それくらいはあるでしょう?」

 

「エミリー」

 

「ちょ、ちょっと! 分かっているんですか? 元々は敵のドールで……」

 

「今も観測霊を飛ばしているかもしれませんね」

 

「だったら……!」

 

「しかし、遊ばせておくのももったいない。もしもの時には人質にも使えるかもしれません。まぁしかし、ドールですから。人質としての価値は低そうですが」

 

 どこか達観した様子のジキルに反対意見を求めようとしてミシュアはジャンへと振り向いていた。

 

 唐突な問いに彼はまごつく。

 

「お、俺……? えーっと……ありなんじゃないかなとは、思いますけれど……」

 

「それはどうして。客観的な証拠を」

 

「えー……。だって行き場をなくしたんでしょう? ……そりゃ、契約者もドールも見た目通りじゃないですけれどでも……可哀想じゃないですか」

 

「……契約者に人間の考えは通用しないのはよく分かっているはずだ」

 

「でも! ……今まであの大男と組んでいたって言っても、それは命令かもしれないじゃないですか。ドールはMEでいくらでも命令を書き換えられるって言います。……不本意だったのかも」

 

「不本意、か。……そんな感情、契約者にもドールにも、あるのかどうかは……」

 

 分かっている。まるで不明なのだ。しかし、ここで使える戦力を使わずに相手に返すのもまた忍びない。

 

 何よりも、ミシュアには、先ほどまでの大男の契約者のサポートをしていたドールを信用出来ないでいた。敵の敵は味方、のような人間的な理論がまかり通るとも思えない。なにせ、相手は人間ではないのだ。

 

「……ジキル。もしもの時には迷わず撃たせていただきます」

 

「どうぞ。レディロンド、それくらいのほうがあなたらしい」

 

 称賛なのか貶められているのか分からない評価を受けつつ、ミシュアはエミリーを睨んでいた。

 

 少女ドールは奈落へと続いているかのような瞳を伏せている。

 

 その奈落に引っ張られそうな気がして、ミシュアは視線を逸らしていた。

 

「……彼女らを雇った相手を追い込みましょう。こちらへと攻撃の意図のある契約者を仕向けてきた。この時点で、身柄は確保すべきです」

 

「それはそうでしょうね。死んでいてもおかしくはなかった。公務執行妨害ですか? それとも、殺人罪?」

 

 どこかおどけた様子のジキルにジェッツが帽子を目深に被る。

 

「あまりふざけるなよ、ジキル。相手がまだ居るかもしれないんだから」

 

「それは確かに。先んじてこちらの足を止めに来た最初の契約者は死んだかどうかも分かりませんしね。それに現地警察の動きも気にかかる」

 

「……これだけの騒ぎを起こして現地警察が黙っているとも思えません。動きを抑えられる前に、ある一定まで調べは尽くす」

 

「そのほうがあなたらしい。では、エミリー。同行していた契約者の行方が分かりますか?」

 

「……煙のないところに居る」

 

「霊媒が煙と言うのはどこかやり辛いですね。ある一定環境下ではないと観測霊の精度が落ちる」

 

「……では最初に我々を察知したのは? 車から煙なんて出ていなかった」

 

「恐らくは排気ガスでしょう。どのレベルまでかは分かりませんが、彼女は車の排気ガスに観測霊を飛ばしてこちらの動きを掌握した。そうですね?」

 

 その問いかけにエミリーは首肯する。排気ガス程度から、浮浪者の焚火まで、様々なものに煙は宿る。

 

 しかし、どこまでの探知範囲なのかは試してみない事にはハッキリしないだろう。

 

「……いずれにしたって、ここに居ても仕方なさそうですね。もう雇い主は消えたって事に……」

 

「だが煙のように消えたわけではありますまい。ジェッツ、何か感じませんか?」

 

「……強迫観念か。この雇い主はどうにも怖気付いていたように思える。証拠になるのは彼らの扱い方だ。契約者を一回に二人投入、しかし、帰って来なければ自然と迎撃されたのだと理解出来るはず。その時点であまり頭の出来はよくない。本当なら自分の護衛に一人くらいは残しておくべきだ。だが、強い恐怖心があったのだろう。自分の身よりも、敵の殲滅を厳とした理由……それはもしかすれば、契約者の斡旋ビジネスに関わっているのかもしれない」

 

「……契約者ビジネス……」

 

 呆然と呟いたミシュアにジキルは顎に手を添えて思案する。

 

「……だとすれば、それこそ警察の管轄では? 契約者ビジネスに関して無知と言うわけでもないでしょう?」

 

 ジキルの視線にミシュアは頷いていた。

 

「……【煉獄門】の存在するこのニューヨークでは、天国戦争以降、契約者をSPや護衛に据えたビジネスが横行しました。ですが、それらは全て、PANDORA法に違反しているのです。見つかれば即座に、企業は解体されるはず……」

 

「あまり旨味のあるビジネスでもない、と?」

 

「旨味どころか。契約者ビジネスはどれもこれも穴だらけですよ。自分達の言う事を忠実に聞くかどうかは怪しい契約者を人材として扱うのは、それこそ普通の人間のPMCに比べて三倍以上の手間と時間がかかるんです。それに、契約者の能力の完全把握だけでも一年はかかるとされています。あまりに……」

 

「割に合わない、と」

 

 結んだジキルにミシュアは部屋を散策する。雇い主の決定的な証拠でも見つかればまだよかったのだが、痕跡もほとんど残っていない。

 

 人一人分が居た、という事実はあるのに、それがどういう人間だったのか、というのは推測でしか語れない。

 

「……しかし、契約者ビジネスは存在している。そうでなければ契約者は組まないし群れない。それは何よりも私達が理解しています」

 

 誰よりも当てになる証言だ。ジキルとジェッツは互いに頷き合う。

 

「今回の相手は契約者ビジネスに胡坐を掻いて……それでうまく取り入ろうとしていたのでしょう。しかし、契約者の使い方はまるで素人です。星のスペクトルで明らかになっているLG891だけじゃない、他の契約者に関しても、雇い主に全投げするのは無理がある」

 

「……契約者側としてもデメリットが存在する以上、この憶測は成り立たない。しかし、契約者ビジネス関係者でなければ、こんな使い方も同時にしないと分かる。……まるで禅問答だ」

 

「さっさと捕まえて聞き出せればいいのですが……そろそろ現地警察も動き出します。留まっていても益はないと」

 

「それはその通り。ではレディロンド、行きましょうか」

 

 身を翻したジキルにジェッツが続く。

 

「……当てはあるのですか?」

 

「……あまり言いたくはないのですがね。合理的ではなくって。ですが……勘というものは働く。戦地を渡り歩けば常に」

 

 なるほど。勘か。しかし今の暗中模索の中ではそれなりに光を放つ感覚だろう。

 

「……当てにしています」

 

「それはどうも」

 

 会釈したジキルにミシュアは並び立ち、部屋を後にしていた。

 

 



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第三十五話「過去と再会する」

 

『……あれは、感覚阻害の契約者か。だが、助かるな。その隙に俺は潜り込める』

 

 ブルックはフルフェイスの契約者の出てきたビルへと入り、翼を広げてその一室へと潜入を果たす。

 

「……何なんだ、あいつら。契約者のクセに……」

 

『それは俺達への侮辱か?』

 

 不意打ち気味の声に部屋の隅で蹲っていた男が驚愕して周囲を見渡す。

 

「だ、誰だ……まさか、敵対勢力の契約者……」

 

『お前が雇い主だな? ……ちょっと待て……お前、もしかしてクォーツか?』

 

 びくついた男の面持ちに問いかけると、彼はハッとして声を振り向けていた。

 

「その声……もしかして、ブルックなのか……。どこに居るんだ……?」

 

『ここだ、ここ』

 

 蝙蝠の姿から声を発したものだからクォーツは腰を抜かしていた。拳銃を携え、相手は声を震わせる。

 

「こ、蝙蝠……?」

 

『俺の契約能力でね。動物に憑依出来る』

 

「契約能力……。まさか、お前、契約者に成ってしまったのか? ……どうして……」

 

『どうして、か。その問いはお互い様だ。どうして契約者を使役している? 昔のお前は、そんなんじゃなかっただろう? 何があった?』

 

 こちらの問いにクォーツは口を噤む。

 

「……旧知の仲でも言えない事がある。それに、お前、何でここに?」

 

『この街の秩序を乱す人間は排除される。……契約者ビジネスに関わっているとなれば穏やかな死は選べないぞ』

 

「……それが答え、か。だがな、ブルック。もう昔とは違うんだよ。この国は、天国戦争を経て、全くの別種へと成り替わってしまった。わたしも、随分と回り道をしてね。元々ただの人材斡旋会社であった企業が、契約者の身柄まで扱うようになった……そのうねりに異を唱える事も出来ずに……」

 

『クォーツ……お前……』

 

「賢くない生き方なのは分かっている。だが、ブルック、こうするしかないんだ! わたしにはもう、道がない! 分かっているはずだ。国家が大きく舵を切った時に、個人の意思などまるで無意味であるという事を!」

 

『……それで組織の情報の持ち逃げか。企業の継続のために』

 

「……分かってくれとは言わないさ。だが、契約者に呑まれていく恐怖を、わたしはひしひしと感じているんだ。この国はいずれ、契約者をまるで消耗品のように使うだろう。そんな時に、身を守る術のない人間は真っ先に淘汰される。意味くらいは分かるだろう? 使う側になるか使われる側になるかの違いさ」

 

『……昔、同じ道を辿ろうとしたとは思えないな』

 

「天国戦争で変わってしまった。この国の価値観も、世界での立ち位置も。契約者なんてものに頼らなくてはいけないんだ。そうでなければ切り捨てられてしまう」

 

『……弱者の側にならないため、か。しかしその道は破滅だぞ?』

 

 ブルックの声音にクォーツは顔面を覆う。

 

「……ああ、分かっているとも。それとも、お前と一緒に、企業を興したあの頃に戻れたらいいのかもな。何にも知らないで、これからのアメリカンドリームを夢見ていた、あの愚鈍な頃に……。だが、もう戻れないんだ。戦争があった! そのせいで契約者の価値観は変わってしまった。人間の価値も、な。だからわたしは、それでも人間で居るために、契約者を使う道を選んだんだ。人でなしでも、最後の最後に人間であればいい、と」

 

『クォーツ、お前は……』

 

「ブルック。契約者の合理的判断でわたしを裁きに来たと言うのなら、それで構わない。だがもし……! 一分でもあの時の……昔のお前だって言うのなら、ここで見逃してくれないか? この国は転換期を迎える。それはそう遠くないはずだ! その時に、勝利者の目線をお前と見たいんだ! だからそのために……今は、ここで逃げさせて欲しい……」

 

『……組織を甘く見るな。お前の掻っ攫った情報は時に、命よりも重い』

 

「それも分かっている……。契約者ビジネスに手を染めた報いだとも。だが……人間の情というものをもう信じられなくなってしまったんだ。周りは皆、合理的に生きているのさ。それが在るべき姿のように。だがわたしには……それがどうしても分からない。契約者の合理性と人間の合理性はまるで違うところにあるはずなのに……このままじゃみんなが……契約者に成り果ててしまいそうで……」

 

 項垂れたクォーツにブルックは暫時、言葉を失っていた。

 

 かつての同朋。かつての盟友をここでどう裁けばいいのか。平時の自分ならば、彼を追い込む言葉の一つや二つは軽く弄していただろう。

 

 だが、旧友と再会してまで契約者の冷徹さに呑まれていいのか。それが正しい事なのか。

 

『……今、戦闘をしている契約者とドールから、お前の情報は割れるのか?』

 

「……ブルック? まさか」

 

『勘違いをするな。これは合理的判断だ。お前の身柄を抑えるために、警察まで動き出そうとしている。組織として見れば、お前がここに居たと言う証拠さえも残したくはない。……逃げるぞ。ついて来い』

 

 羽ばたいたブルックにクォーツは力ない足取りで追従する。

 

『……我ながら馬鹿をやっている、か。それも分かっていての判断なのだから、笑えもしないさ』

 

 今は、自分の衝動に従うしかない。

 

 それが如何に契約者の合理性からは外れた行動原理であろうとも。

 

 



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第三十六話「出会いを呪う」

 

 ハッと目を醒ましたロットは身体に巻かれた包帯を視界に入れていた。

 

「これは……」

 

「あっ、まだ起きないほうがいいですよ。酷い症状でしたから」

 

 見渡すと、旧市街地の一部屋らしい寂れた室内に、少女が佇んでコーヒーメーカーを抽出していた。

 

 芳しいコーヒーの香りが鼻孔に運ばれてきて、これがようやく夢でも幻でもないと気づく。

 

「……私は、生きているの……」

 

「驚きましたよ。陽を浴びると、あんな風になっちゃうなんて……」

 

 ああ、とロットは包帯の下の皮膚を感覚していた。

 

「……生まれつきの体質なんだ。太陽の光に弱くって……」

 

「だからそんなに肌が白いんですね。それに、黒い外套も」

 

「……でも、これは仕方ないんだ。本当なら夜にだけ行動すれば済む話なんだろうけれど……」

 

 企業は自分の能力に対して、対価の支払いの過酷さを加味し、評定を下した。

 

 対価と能力の釣り合いの悪い契約者は失格の烙印を押される。自分は、その中でもまだマシな部類ではあったが、それでも失格者であった。

 

 契約者としての弱点を露呈させれば、そこまででお終いの能力。

 

 如何に強力な陽電子砲を操れるとは言え、それでも弱点のほうが強いのなら意味がない。

 

「……どうぞ。コーヒーしかないですけれど」

 

 微笑んだ少女からロットはマグカップを受け取る。温かいコーヒーに視線を落とし、ふと呟いていた。

 

「……何で助けたんだ。あのまま放っておいたら……死ねたのに」

 

「そういう風には見えませんでしたから。それに、死んじゃったらお終いですよ。……どれだけ過酷な運命でも、死んじゃったら……」

 

 どこか暗さを漂わせた少女の声音にロットはコーヒーを啜る。苦々しさの中に酸味が垣間見えた。

 

「……私は何度も……何度も失敗してきた。だから、もう失敗は許されなかったのに……」

 

「あの、私程度じゃ、その……何の事なのか窺う事も出来ませんけれど……。大変な事をされているのだけは分かります。手助けに……なれればいいとは思うんですが」

 

「何でそんな事を。理由がない」

 

「……理由のない助けは、してはいけませんか?」

 

 その問いかけにロットは眼を見開いていた。この少女は本気で言っているのか。自分のような人でなしの存在に、理由もなく手を差し伸べると。

 

「……そんな事をしたって得にもならない。合理的じゃない」

 

「いいじゃないですか。合理的じゃなくっても。……たまたま同じバケットを美味しいと思っただけの間柄でも、手助けしちゃ、駄目なんですか?」

 

 そうだ。自分と少女は所詮その程度の間柄でしかない。なのに、何故なのか。

 

 この時、その言葉に灯った何かに、僅かながら失ったはずの心が惹かれたのは。

 

「……そんな変わった人間、初めて見た」

 

「やっぱり……変わっていますかね……」

 

 頬を掻いて困惑する少女にロットはコーヒーを飲み干す。思ったよりも喉に通り易い液体にロットは息をついていた。

 

「……もし、疲弊しているのならここで休んでいくといいと思います。それに、外はまだ陽が高い。あなたの体質なら、日が暮れてからでも」

 

「どうして、そこまで他者に尽くせるの? それが分からない。私なんて、そこら辺で死んでいても問題なかった」

 

「そんな事……! 誰だって、死んだらお終いですよ……!」

 

 少女の声には熱が籠っていた。どうして、自分のようなただの殺戮兵器を助け出したのだろう。少しだけ興味が湧いて、ロットは問いかける。

 

「……私がもし、すごい人でなしで、殺しも厭わなかったらどうするの? 他者の命なんて踏みつけにして、それで成り立っているような人間だったら」

 

 少女はうーんと思案した後、ぱっと微笑んでいた。

 

「じゃあその時に考えます。私は……たとえ相手が人でなしでも、やっぱり見捨てられないですから」

 

「……変わってる」

 

「それはそうかもしれません。だって、旧市街地のバケットが好きなんて」

 

「でもそれはお互い様、か。こうやって誰かに頼るなんて事、久しぶりに思い出した」

 

 それに、とロットは付け加える。

 

「バケットが好きなのも、変わり者の証かも」

 

 ふっと笑いが漏れる。こんな風に穏やかな時間を過ごすなんてのはともすれば一生ないと思っていた。

 

 だからこそ、この少女の優しさにそのまま甘えてもいいのだろうか、と考えてしまう。

 

 自分はあくまでも、引き絞られた弓矢。敵を射抜くためだけに存在する一本の武器に過ぎない。

 

「……ねぇ、もし……どうしても誰かに依存しなければいけないとして、じゃあどう生きるのが正しいのだと思う? ……誰かを頼りにしないと生きていけないとして」

 

 どうしてこんな問いを重ねたのか自分でも不明瞭であった。

 

 だが、契約者は一人で生きて行けるようでそうではない。殊に契約者ビジネスにおいて、クライアントと雇われの関係は絶対だ。自分は彼らの都合のいい武装として成り立つしかない。

 

 少女は少し考える仕草をして、やっぱり、と声にする。

 

「……どんな人間でも、それでも他者は必要なんだと思いますよ。それが人でなしであれそうでないとしても。……私も、誰かに頼りにされたいですし」

 

「それならば今遂行されている。私は、……あなたを……そういえば名前は……」

 

「あ、夜都です。鷺坂夜都……留学生です」

 

「そうか。……私はロット。ヤト、やっぱり変わっている。名前も含めて」

 

「もうっ……それってどういう意味ですか?」

 

 少しだけむくれた夜都にロットはぷっと吹き出す。夜都も合わせて笑い声を上げていた。

 

 こうやって人間の真似事をするなんて思いも寄らない。

 

 自分は契約者として、人殺し以外では真っ当にはなれないと思っていただけに。

 

「……そう言えば……」

 

「どうかしました?」

 

「……役目があった。一度……旧市街地の一角に戻らないといけない」

 

「……でも、まだ太陽が……」

 

 その懸念は分かるが、ロットは外套を目深に被っていた。

 

「これは仕事みたいなものだから。一応は確認しないと」

 

 クライアントの要請には応答しなければならない。如何に契約者の考え方を分かっていない相手とはいえ、護衛対象だ。

 

 ロットは窓の外にくゆる、浮浪者達の焚いている黒煙を眺めていた。

 

 黒煙の中から青白い観測霊がこちらを見据えている。

 

「……スチュアートがやられた」

 

 もたらされた情報に夜都が当惑している間にもロットは立ち上がり、扉を抜けようとして夜都に手首を掴まれる。

 

「……離して」

 

「離せませんよ。だって……っ! もう他人じゃないでしょう?」

 

 他人じゃない。そんな事を、他者に言わせたのは生まれて初めてであった。

 

「……ついて来ないほうがいい」

 

「それでも……っ。私、見知った人を見殺しにするのは嫌なんです」

 

 強情な少女だ。しかし、ここで振り切るのもどこか気後れしてロットは太陽光を浴びないように外套を袖口まで纏う。

 

「……言っておくけれど、いい事は何もない」

 

「……それでもいいですよ。ロットさんの……少しでも支えになるのなら」

 

 どうして夜都はここまでしてくれるのだろう。その不明瞭な感覚には狼狽しつつ、ロットは歩み出していた。

 

 僅かに皮膚が疼く。それでも対価を払っているよりかはマシだ。

 

 斜陽の差し始めた旧市街地は浮浪者達の溜まり場であった。青い腕章を付けた者達が彼らを統率している。

 

「……あれは」

 

「現地警察ですね……。旧市街地の荒れくれ者達を纏め上げる……自警団みたいなもので」

 

「……じゃあ顔を合わさないほうがいいね」

 

 しかし、このまま現地警察とも、ましてや敵の契約者とも出会わず、護衛対象まで戻れるだろうか。

 

 能力を使えばすぐにでも駆けつけられるが、夜都の前で契約能力を使いたくはない。

 

 そこいらの煙を触媒にしたエミリーの観測霊が自分へと最短ルートを導かせる。

 

 このまま向かえれば、と思った瞬間であった。

 

『――どこへ行く、LG891』

 

 不意打ち気味の自分の名称にロットは振り返り様に能力を行使する。

 

 その対象となったのは一匹の野良犬であった。

 

 野良犬の体躯から電磁が跳ね上がり、瞬時にその肉体を焼き尽くす。

 

 夜都は驚愕に目を見開いて硬直しているが、ロットは既に戦闘形態に入っていた。

 

「……契約者か」

 

『クライアント相手に随分と手荒いじゃないか』

 

 まさか、とロットは息を呑む。今度は電柱に留まったカラスが声にしていた。

 

「……クライアント……お前も……契約者……?」

 

『契約者ビジネスで最も得を得ようと思えば、それなりに契約者に精通している必要がある。雇い主が契約者でも何らおかしくはあるまい?』

 

 立ち尽くしている夜都を庇うようにロットは前に歩み出ていた。

 

 それを目にしてクライアントの男はほうと感嘆する。

 

『少し見ない間にどうしてだか人間らしくなったじゃないか、LG891。それとも、君の中身はそういう風だったかな?』

 

「……黙れ。どういうつもりで追って来ている」

 

『なに、知っての通りだ。スチュアートが死んだ。だから君まで死んだんじゃないかと思ってね。こうして追跡してきたわけだが、案外しぶといじゃないか。あの釣り合いの悪い対価で自滅したのだと思ったとも』

 

「……悪いが、あの程度では死ねないのでね」

 

『それは結構な事で。しかし、LG891。君がやるべきは護衛対象の完全警護だ。そこいらの少女にうつつを抜かす事ではない』

 

「……彼女は関係ない」

 

『それはどうかな? それにその是非を決めるのは君ではない。我々は契約者ビジネスを通して、君達の精神の動きを観測してきた。ある者は殺人に意義を見出し、ある者は契約対価の存在に意味を見出した。ゆえに――契約者は人間ではない。ヒトの皮を被った殺戮機械だ。それがこの数年間で下した結論だよ。君が如何に人間らしく振舞おうとも、ヒトでない存在をどう規定するかね』

 

「黙れッ!」

 

 指の間に挟んだ磁力の球体を放つ。カラスは羽ばたいて回避するが、その背筋へと追撃した球体によって背骨を打ち砕かれていた。

 

 弱々しく鳴いたカラスが墜落し、やったかと息をついたその時であった。

 

『……LG891。能力は磁場のコントロール。それは時には磁力の存在しない場所への介在も可能になる。さらに言えば、相手へと磁力を付与し、回避不能な攻撃を放つ事も。とても応用の効く能力だが、対価が釣り合わない。よって君の契約者としての脅威判定はC止まりだ。もっとも、これでも高評価なのだね』

 

「どこだ……どこへ行って……」

 

 周囲を見渡したロットは走り抜けるドブネズミを目にしていた。

 

 まさか、あんな小さな生物に? と当惑した直後には磁力操作の能力で電磁波を叩き込んでいる。

 

 ドブネズミの足を奪ったが、横合いで項垂れていた浮浪者が不意に立ち上がる。

 

「……人間にも憑依出来るのか……」

 

『さて、どうするかね。LG891、このままやっても益はないと思うが。それとも、これ以上戦って力の差を再認識するか?』

 

「……そんなつもりなど……ない!」

 

 片手に電磁を充填させる。光の瞬きを凝縮させ、ロットは相手を狙い澄ます。

 

 浮浪者に憑依した相手は余裕を崩さない。射程も精度も不明だが、誰にでも憑依出来るのだとすればそれは厄介だ。このまま長期戦に持ち込めば、自分の力を晒してしまう。

 

 ゆえにこそ決着のために一撃を――。

 

 陽電子砲を溜め込み、ロットは一射していた。

 

 輝きを帯びた光軸が浮浪者を貫き蒸発させる。

 

 これで終わったか、と安堵しかけてロットは不意に急停車してきた一台の車両を目にしていた。

 

 後部座席を蹴って現れたのは、今しがた戦っていたはずのクライアントである。

 

 どういう事なのか、と目を戦慄かせていると相手は何でもない事のように言いやる。

 

「どうやら誤解していた様子。我が契約能力は憑依だが、自意識を保ったまま憑依が出来る。つまり、無防備な肉体と言う最も危うい綱渡りをしなくってもいいのさ。さぁ、まだやるか?」

 

 ロットは膝を折る。

 

 ――勝てない。

 

 それが明瞭に分かってしまった。戦力としての差だけではない。相手は自分達のような奴隷の扱い方を心得ている。

 

 決して届かない絶望を味わわせてこそ意味があるのだと。

 

「終わりか。では、最後の最後に。任務失敗の憂き目は払ってもらう」

 

 クライアントの身体が青白い光に包まれていく。その瞳が赤く輝いた瞬間、思考が同調し、ロットは意識が闇に沈んだのを関知していた。

 

 ――ああ、終わる。

 

 そう思って意識を手離そうとしたロットは、完全に憑依されているにしてはまだ残存している意識に違和感を覚える。

 

 瞼を開くと、クライアントの肩口にクナイが突き刺さっていた。

 

「誰が……」

 

 しかもその武器には見覚えがある。

 

 昨夜、陽電子砲を直撃させた相手の武装。そして――ニューヨークの赤ずきんの得物。

 

「……まさか。あり得ん、どうして今の今までLG891は気づかなかった……!」

 

「……下種な能力ほどよく口が回る。そうして無数の契約者を騙してきたのか。言葉を弄し、彼らの居場所と理想を逆手にとって」

 

 その論調の冷たさは先ほどまでの夜都とは一線を画している。ロットは振り仰いだ夜都の瞳に奈落のような暗闇が浮かんでいるのを認識していた。

 

「……ヤト」

 

「対抗組織の契約者! ニューヨークの赤ずきんとまさか相見えるとは! これも僥倖か! その肉体、もらい受ける!」

 

 再びクライアントがランセルノプト放射光を帯び、憑依を実行しようとするが夜都はクナイと接続されているワイヤーを引っ張り込んでいた。

 

 それだけで相手が転倒し、憑依能力をし損ねる。

 

 夜都は躍り上がって相手の背中を押え込み、その手首を捩じ上げていた。

 

 クライアントが呻き声を上げる。

 

「い、痛いぃ……っ! 貴様、何のつもりで……。LG891は敵のはず! なら、こちらに味方してもいいだろうに」

 

「……それは合理的な思考とやらか」

 

「そ、そうだとも! 合理的に考えればこちらの味方をするのが筋だ! そうだ! あんな不完全な契約者ではなく、こっちで専属契約者として雇われないか? 金ならいくらでも出す!」

 

 夜都がこちらを一瞥する。彼女は一呼吸置いた後、静かに応じていた。

 

「……それもそうだ。益のないほうには契約者は動かない。この場合、組織の情報を持ち逃げした男も押さえられる上に、強力な契約者を抹殺出来る。これほどまでにない、好条件だろう」

 

「そ、そうだろう? なら――!」

 

 その瞬間、夜都は相手の手首をひねり上げ、そのまま捩じ切っていた。血飛沫の舞う中で、彼女はクライアントの後頭部を地面に擦り付ける。

 

「……合理的に、か。お前らのその言葉を聞く度に――反吐が出そうだ」

 

 夜都の身体が青白い輝きを帯びた刹那、クライアントの喉から絶叫が迸り、その身体が息絶える。

 

 夜都は死骸を一瞥し、こちらと対峙していた。ロットは呆然と問いかける。

 

「……騙していたのか」

 

「……知らなくっていい事もある」

 

「でも……っ! だからって……!」

 

「……話しても分かり合えないだろう」

 

「それは……確かにその通りだったのかもしれない。……でも、私は……初めて……」

 

 心を許した。それが最悪の過ちであったかのように、夜都は歩み去っていく。

 

「……殺せ。殺せ! ニューヨークの赤ずきん! せめて殺して行け!」

 

「……戦闘の意思のない相手を殺すような下種に生まれたつもりはない」

 

 それが決定的な隔たりのように、夜都は言い捨てる。

 

 ロットは振り返って指を番えていた。

 

 夜都は振り返らない。その背へと照準しようとして、ロットは涙ぐんでいた。

 

 手を下ろし、夜都の背が雑踏に消えたのを視認してから慟哭する。

 

「何で……何でなんだ! ヤト……! 契約者じゃなければ……こんな思いを……しなくって済んだのに……。契約者として出会わなければ……!」

 

「――そうだと、本気で思っているのですか?」

 

 問いかけにロットはハッと面を上げ、振り返る。

 

 息絶えたはずのクライアントに歩み寄ったのは柔らかな慈愛の微笑みを湛えた女性だった。

 

「……誰……」

 

「ヤトも困る。殺し損ねるなんて」

 

「……何を言って……」

 

「この契約者ですよ。まさか憑依で……こんな小さな生き物に死ぬ直前になっちゃうんですもの」

 

 女性が捕まえていたのはドブネズミであった。その喉から声が漏れる。

 

『……やめろぉ……何者なんだ……』

 

「……生きて」

 

『ね? 何度殺そうとしたって、この契約者は死にませんよ。それより、どうです? こんな男に雇われるよりも、有益にその生を使ってみませんか?』

 

「……何を言って……まさか……契約者!」

 

 指を番えると女性はどこか物悲しげに笑みを浮かべる。

 

「……そうだとしたら?」

 

「……殺す。もう……嫌なんだ。誰かを信じるのも……誰かを信じられなくなるのも……」

 

「じゃあ、私と一緒に来ませんか? そうすれば見えるはずです。新世界が」

 

「新世界……だって」

 

 フッと笑みを浮かべながら、女性の肉体がランセルノプト放射光に包み込まれ、ドブネズミに憑依していたクライアントの躯体を吸収していく。

 

 その肉が、まるで沈み込むかのように女性の掌で波打ち、やがて影も形もなくなっていた。

 

「……何だ、その能力は……」

 

「教えてもいいですけれど……条件が一つ」

 

 女性はスケッチを始めていた。そのペンが鋭く奔り、ネズミを描き上げる。

 

「条件……」

 

「――赤ずきんを、食べてしまいたくは、ないですか?」

 

 その陶酔したような色を含む瞳が、獣の形に収縮したのが伝わった。

 

 



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第四章「決別の閃光は、愛憎の翼とともに…」(後編)
第三十七話「因果を手繰る」


 夜都は予め決めておいた合流地点にて、グレイが頭を抱えているのを視界に入れていた。

 

 彼にしては珍しい挙動である。

 

「……何か」

 

「ブルックが裏切った」

 

 まさか、と戦慄く視界の中でグレイはいつもの調子を取り戻そうとベンチに座り込む。彼の背中合わせで夜都は問いかけていた。

 

「……何かの間違いじゃ……」

 

「組織の目を掻い潜って護衛されていたターゲットと逃げ出したとの事だ。これは確定情報でもある」

 

「……まさか、ブルックが? 契約者のはず……」

 

「合理的判断とやらが信用出来ない事もあるって言いたいのか。いずれにしたって……ブルックは秘密を知り過ぎている。……やれるな?」

 

「……早計かもしれない」

 

「組織は判断をとっとと下せと言っている。殺すなら一任するとも」

 

 いずれにせよ、自分が手を下す羽目になるのか。ならば、と夜都は引き受けていた。

 

「……請け負おう。報酬は」

 

「僕らのチームの失点だ。そんなものはない。……まぁせいぜい、組織からの新しい契約者の斡旋か」

 

「……やっている事は今回のターゲットと組織も変わらない」

 

「どこに耳があるか分からないんだ。余計な事を言って寿命を縮めない事だね」

 

「……当ては? ブルックは動物に憑依出来る契約者。逃げようと思えばどこまででも逃げられる」

 

「安心するといい。あんなでも組織のサーバーに依存している。組織は常に彼を監視しているのさ。……まぁ、だからあんな物言いなのかもしれないが」

 

「……動物に憑依しているがゆえに、人間の思考回路を行うのには足りない」

 

「その通り。だから組織も高を括っていたんだろうが……。経路はきっちり追えている。言うのならたった一言だ、紅。やるのか、やらないのか」

 

 突きつけられた選択肢に夜都は問いかけていた。

 

「……こんな事をしたって何にもならないかもしれない」

 

「消極的だな。裏切り者には死を。それが組織のルールだろう。それを誰よりも理解して……僕らに言っていたのはブルックだ。そんな張本人が裏切ったって言うんなら、穏やかじゃないのも分かる」

 

「……裏切り者には死を……」

 

 では自分の行動も、そうなのだろうか。それとも分かっていて組織は見過ごしているのか。

 

 自分は常に、他でもない、自分自身を偽っていると言うのに。

 

 ロットも、まさか裏切られるとは思いも寄らなかった面持ちであった。

 

 あの絶望の表情が焼き付いて離れない。

 

 信じていたものに裏切られたと言う、奈落の瞳が。

 

「……決めろ、紅。やるのなら早くしろ。僕はこれでも根回しに忙しい……」

 

 時計を気にしだしたグレイに夜都は告げていた。

 

「……追跡する。場所を」

 

「それはやる、という言葉だと思っていいんだな? ……もう旧市街地を抜けている。新市街地の立ち入り禁止区域に向かっているようだ」

 

「……【煉獄門】の?」

 

「何か当てでもあるのか……あるいはターゲットのほうか……それは分からないが、どっちにせよこれは好都合だ。秘密裏に始末出来る」

 

 夜都は一つ頷き、立ち上がっていた。

 

 その背にグレイは振り向かずに問いかける。

 

「……裏切りは常だとは言え、まさかこっちが泥を被る羽目になるなんてな。なぁこういう時、どういう気分なんだ? 僕は契約者じゃないから分からない。……本当に、裏切られたって言う気分なんだが……」

 

「……私にはもう、身についた所作だ」

 

 もうそうすると決めた。

 

 ――ブルックを殺す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タクシーを拾ったクォーツの指定したのは立ち入り禁止区域であった。

 

 まさか、とブルックは彼の腕の中で声にする。

 

『危険だぞ、クォーツ。ゲートの中でなら組織の追っ手も纏いつきやすい』

 

「……いや、その分、こちらの手も発動しやすい。……スチュアートの信号は途切れたままだが、もう一体はまだ生きている。これは……奇跡的だと思うべきだ。ドールを媒介にして、今の状況を伝えた。あれは優秀なドールだ。煙に向かって口元で指示しただけだが、きっと来る。LG891でお前とわたしを追ってくる敵を迎撃する」

 

『……陽電子砲の契約者か。あれはしかし、お前の……』

 

「鬼札だとも。だがそれしかないんだ……ブルック。わたしは……少しだけ安堵しているんだ。わたしの味方なんて社内にも居なかった。みんながみんな、わたしの裏にある利権を見ていた。契約者ビジネスを、さ。だが、お前と……再会して分かったんだ。お前はいつだって……わたしを見てくれていた。他の利権なんて結びつかない、わたしという個人だ。それが替え難い……親友の証だったのだと、今は思うんだよ」

 

『……よせ、クォーツ。どうせ敵うはずのない相手だ。俺だって無様なんだよ。お前を見て、それで思い出してしまった。愚かにも、人間であった頃の自分を……』

 

「それは懐かしいじゃないか。なぁ、聞かせてくれよ。お前は……どんな世界を生きて来たんだ? ……わたしは後悔してばっかりだったよ。契約者ビジネスを始めた時も、会社からお前が何も言わずに去ってしまった時も……。何でこう、うまくいかないんだろうな。人間、もっとうまくいってもいいはずなのに……。何かを得ようとすると、何かを手離す。そんな風に……不器用に育ってしまった」

 

『……クォーツ。お前はだが、情報さえ返せば組織は便宜を図ってくれる。……ヤバいのは俺のほうだ。追撃のはずなのに、お前を逃がそうとしている。大罪だろうさ。組織は俺のほうを優先して追ってくる』

 

「……じゃあ何で逃げない? わたしを見捨てるくらい……」

 

『……逃走の幇助をした時点で同罪だ。それに……どこかで見ていたのかもしれない。昔の自分が、その後どういう人生を辿ったのかという……結果を』

 

「……あの頃のわたしとお前は、理想ばかりを追い求めていたからな。契約者に対してのスタンスもそうだ。いずれ新しいビジネスモデルになるって……お前も言ってくれていたのに……。なぁ、あの日の約束は……幻だったのか?」

 

『まさか。覚えているとも。……いずれ、天国戦争が終われば、新しいビジネスの時代だと、そう豪語していた若い俺達を……』

 

 そう、世の中の仕組みもろくに知らずに言い放っていた。今にして思えば、全て若さゆえの過ちなのだ。契約者に成り果て、そして世界の広さを知った自分はもう、理想に殉じる事は出来なかった。

 

 ――ならば現実に生きていく。

 

 そうと決めてクォーツに何も言わずに別れたはずなのに。こんなところで温情を出して自分は間違える。

 

 きっと殺しに来るのはニューヨークの赤ずきん。煉獄の契約者であろう。

 

 紅から逃れる術を自分は知らない。如何に彼女のサポートをしているとは言え、攻めて来られればこれほどに弱々しいものもない。

 

「……ブルック。戻らないか、もう一度。……あの頃みたいに無鉄砲じゃないが、それでも……。わたし達は親友だったはずだ。だったなら、どれほど時が経ったって……」

 

『悪いが、合理的に判断してお前の目論見は失敗する。こうやって逃げていても、真綿で首を絞められるような感覚を味わっているんだ。お前が【煉獄門】に行くって言い出した時から、もう終わりが近いのが見え始めていてな』

 

「……なら何で今すぐわたしを殺さない。たとえ動物の契約者だって、殺しくらいは出来るだろうに」

 

 沈黙を是とする。

 

 分かっている。殺したくないのだ。

 

 こんな馬鹿げた「仕出かし」はきっと学生以来だろう。

 

 ――クォーツと共に学び、そして起業したあの時はこの世の何もかもが手に入った気分だった。だが、世界は思ったよりもいびつで、そして俺達に唾を吐く。

 

『……俺も馬鹿だって話だ』

 

「ブルック……。ありがとう。ここでいい、運転手。今の会話は忘れてくれ」

 

 MEを用いて運転手の記憶を削除し、クォーツは駆け出し始める。

 

 ――それは新市街地の者達にとっての爆心地。

 

 五年前に最初の【煉獄門】が発生した、未だに濃霧の煙る禁断の土地。

 

「……まるで暗闇の森だな。何も見えない……」

 

『ここはもうゲートそのものだ。現実にあり得ない事が起こっても何ら不思議じゃない』

 

「ゲート、か。……ブルック。起業した時、二人で血判を押したの覚えているか。馬鹿げた友情の証さ」

 

『……ああ、覚えているとも。あんなもの、何の意味もなかった』

 

「形骸上の代物ではあった。でもあれがあったから……わたしは……」

 

 その時、不意にブルックは気配を感じてクォーツの腕から飛び出す。果たして、ゲートの中に乱反射したのは青白い観測霊の眼差しであった。

 

『……こちらを見つけた……』

 

「……ブルック? 一体どうしたんだ、何が――」

 

「動くな」

 

 その背筋に切り込むような声音にブルックは背筋を凍らせていた。

 

 クォーツの背後に佇むのは、赤いレインコートの死神――。

 

『紅。俺を……殺しに来たんだな』

 

 



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第三十八話「居場所を見出す」

「分かっているのなら話が早い。何故裏切ったのか、なんて事も聞かない。まずはこの男から、血祭りに上げる」

 

 ワイヤーが首元に引っかかり、クォーツは仰け反る。それをブルックは捻じ曲がった信号機に留まりつつ、声を発していた。

 

『……紅。確かにお前には裏切り者の死を命じた。それも、仕方ないだろう。彼は裏切った。だから組織は……』

 

「……ブルック……?」

 

 ブルックは心に決めた言葉を口にしていた。

 

『……だから、裏切り者の始末は一人で清算がつく。――俺を殺せ、紅。それでチャラになるはずだ』

 

「……馬鹿げた事を。そんな結果を組織が納得するか」

 

 そう、そんな生ぬるい結果が通用する組織ではないのは自分がよく知っている。それでも、ブルックは親友を裏切る事は出来なかった。

 

『……俺はどうなってもいい。クォーツは見逃してやってくれ。彼も被害者なんだ』

 

「……ブルック、お前……」

 

「合理的な判断じゃないぞ、ブルック」

 

 紅の怜悧な声音にブルックは面を伏せていた。

 

 そう、契約者らしい合理的な判断ではない。

 

 ここにあるのはただの情にほだされた情けない理論だ。自分は、本来ならばクォーツを早々に始末し、このミッションを終わらせるべきであった。

 

 だが、彼の生存に心を動かされたのは嘘ではない。

 

『……契約者は何があっても……眉一つ動かさずに相手を始末出来るんだと、そう思っていたよ』

 

「……ブルック。それがお前の結論ならば、私はお前とこの男を両方殺す。それでようやくチャラになる」

 

 紅の言葉のほうが筋も通っている。ここで駄々をこねているのは自分のほうだ。

 

『……紅、それでも俺は――』

 

 声にしかけて、紅の背後で何かが瞬いたのを視認する。

 

『危ない! 避けろ、紅!』

 

 その声を察知した紅が回避行動に移ったのと、クォーツの脇腹を陽電子砲が射抜いたのは同時であった。

 

 まさか、と見開かれた瞳にブルックが叫ぶ。

 

『クォーツ!』

 

「……この力は……LG891……?」

 

 臓腑から血潮を撒き散らして、クォーツが倒れ伏す。

 

 その身へと接近しかけて正確無比な陽電子砲の光条が遮っていた。

 

『……契約者か……』

 

「……来たのか。来なければ、死ぬ事もないのに」

 

 どこか紅の声音には平時の調子ではないものが宿っている。彼女の眼が、霧に煙る禁断区域を歩み寄ってくる黒衣の少女に向けられていた。

 

「……ヤト。……いいや、MA401、煉獄の契約者! 私の目的は! 護衛対象を守り通す事!」

 

「……なら何故、私ごと貫いた。それでは達成出来まい」

 

「確実な方法を取るからだ。契約者は合理的に判断する」

 

 陽電子砲の契約者はどこか昂揚した声音で紅を挑発する。その言葉繰りに紅は眉を跳ねさせていた。

 

「……何か、違うな……」

 

「違おうとも! もう賽は投げられたんだ!」

 

 指が番えられ、光の砲撃が一射される。紅はワイヤーで構造物を手繰り寄せ、そのまま跳躍して直上を取っていた。

 

 ワイヤーが舞い敵の契約者の腕を絡め取る。

 

 ランセルノプト放射光を帯びた相手はしかし、それに慌てるでもなく、腕を引き寄せていた。

 

 途端、紅の側が膂力に引っ張り込まれ、地面に突っ伏す。

 

「……これは……地面に磁力を付与して……」

 

「そちらのワイヤーに磁力を付与し! そして地面と引き合わせた! これでお前は這い蹲ったまま、死ぬ!」

 

 再び陽電子砲がチャージされる中で紅は繋がったワイヤーに青白い光を棚引かせる。

 

 紅の必殺の一撃が決まったかに思われたが、相手はそれを難なくかわしていた。

 

「……何故。通用しない……?」

 

「熱を操る能力! 聞いたとも、それは確かに無敵かもしれない。だが接触点に点在する熱をこちらで誘導してやれば、簡単に逃がす事が出来る。さらに言えば、その熱を逆に利用し、砲撃のエネルギーに転化する事も!」

 

 真っ直ぐに構えられた一撃に紅はクナイを投擲していた。さしもの相手でも刃を相手に回避以外の行動に出る事は出来ないと判断してだろう。

 

 だが、クナイは着弾の前に相手から跳ね返る。

 

 まるでクナイそのものが弾かれたかのようであった。

 

「……斥力でクナイを弾き飛ばした……」

 

「お前の操る武装が何であれ、物質である以上、私の能力からは逃れられない。私はどんな物体でも磁力を付与出来る! ならば、これに勝る能力はない!」

 

 紅は逃れようともがくが、相手の射程に完全に入ってしまっている。彼女に出来るのは武器の投擲とワイヤーに伝う炎熱での攻撃だけだ。

 

 しかしその両方が封じられてしまえば、紅の勝ち目はない。

 

 歯噛みした紅に相手は笑みを浮かべる。

 

「……これが絶望だ。分かるか? 友愛をちらつかせられて、それで裏切られると言うのがどういう事なのか。私は……生まれて初めて誰かを守りたいと思えた。そんな一瞬だったのに! ……お前が踏みにじったんだ、その心を! 契約者の中に沸いた情を! お前はその汚い足で、無茶苦茶に踏みにじった! 私の心だ!」

 

「……契約者が心を語るな」

 

「黙れ!」

 

 光条が照射され、紅を貫かんと迫る。紅はワイヤーを新たに投げて逃走をはかったが、敵の磁力のほうが上だ。

 

 這い蹲った姿勢のまま、紅は動けない。

 

「ざまぁないな、ニューヨークの赤ずきん! ……私の心に唾を吐いた。それを最大減に後悔しながら死んで行け!」

 

 縫い止められた形の紅を狙い澄ました光に、確実なる死を予感したブルックへと声が放たれる。

 

「……ブルック……」

 

『クォーツ……! 待っていろ、組織の医療技術なら……!』

 

「……もう、いい。ここまでがわたしだった……。だがお前は違う。……あの少女契約者が、今の仲間か……。羨ましいな……この世の果てまで追いかけてくれる人間が、お前には居るじゃないか……」

 

『クォーツ……俺はまた、友情をないがしろに……』

 

 出血は止め処ない。助かる道はないだろう。絶望視したブルックにクォーツは声に最後の張りを漲らせる。

 

「……だったら、一分でも後悔してくれているのなら……頼む……。もうわたしのような……友情に裏切られた人間を、生み出さないでくれ……! それが望みだ……」

 

『クォーツ……』

 

「死ねぇっ!」

 

 相手の契約者の声が劈く。

 

 ブルックは紅を見るなり、彼女のメッセージに気づいていた。

 

『……そういう事か。紅! 援護に入る!』

 

 ブルックが羽ばたくなり、相手の契約者は舌打ちを漏らしていた。

 

「二人に増えたところで、ただの憑依型の契約者なんて!」

 

『……俺は間違いを犯した。だが、友の言葉が気づかせてくれたんだ。……契約者でも、やり直せるって事を』

 

 ブルックの視界が捉えたのは紅の熱放射が辿っていた道筋であった。

 

 遠赤外線を入れられる蝙蝠の視野ならば紅の目論見にも勘付ける。ブルックはすぐさま相手の契約者の上方を通過し、その背後へと降り立っていた。

 

「……後ろから。そんな小手先が通用するとでも!」

 

『……ああ、確かに小手先ならば通用しないだろうさ。だが、やるじゃないか、紅。彼女の能力は熱が高いところから低いところに推移する法則から逃れる事が出来る。熱を一ヵ所に留め、そこから再度、熱放射をする事も。無駄じゃなかったな、クナイの投擲は』

 

 相手が弾き返したクナイはワイヤーで繋がれ背後に落ちていた。そのワイヤーで形作られた円弧が無造作に敵の足元にかかっている。

 

 瞬間、それを関知した相手が振り返り様に砲撃しようとして、紅のランセルノプト放射光が煌めいた。

 

 直後、絶叫が迸り、相手の契約者は昏倒する。

 

「……まさか、私の能力で弾かれたクナイがどこかに落ちる事も、その落ちた武器を仲間が有効利用する事も……計算づくだったって、言うのか……」

 

 紅はクナイを携え相手の首筋に冷たい切っ先を向ける。

 

「……ロット。どうして私を追ってきた。追わなければ、死なずに済んだ」

 

「……追わなければ? ……確かにその通りかもしれない。でも、……ヤト。追わなければ一生後悔する。そういう背中だったんだよ、そっちのはさ」

 

 ――追わなければ一生後悔する背中。

 

 その言葉をブルックも噛み締める。

 

『……紅。その契約者を殺せば、今回の任務は完遂だ。情報の出どころも抑えたところだろう。……組織は俺と言う裏切り者には制裁を下すだろうが、お前らに迷惑がかかる事はない』

 

「……ブルック。私はお前の背中も、追わなければきっと、後悔する背中だと、思っていた」

 

『……紅? それはどういう……』

 

「皆まで言わせるな」

 

 紅の手が相手の契約者の後頭部にかかる。脳幹を焼き切って確実に王手をかけるつもりだろう。

 

「……言い残したい事は」

 

「……可笑しな事を言う。契約者は合理的に判断する。今際の言葉なんて一番に非合理だろうに」

 

「そうか……。そうだな……」

 

 今度は悲鳴も出さず、紅は相手の契約者を始末していた。その冷たく研ぎ澄まされた瞳にブルックは何も言えなくなってしまう。

 

『……情にほだされたのは事実だ』

 

「契約者はそんな事はしない。言えば組織も理解する」

 

『……笑える話さ。お前達にヘマをするなよと年長者を気取っておきながら、一番のヘマをするなんてな。……紅。俺を殺せ。そうすればお前達への追及もなくなる』

 

 その言葉に暫時向かい合った紅はしかし、手を下さなかった。

 

『……何故だ』

 

「……殺す理由がないからだ。ブルック、償うのなら、自分で償え。誰かの贖いなんて当てにするな」

 

 ブルックはその言葉に絶句する。

 

『……紅、お前は、まさか……』

 

「――変わり者、ですよねぇ」

 

 不意に耳朶を打った声に警戒する前に、仕留めた契約者の身体が引っ張り込まれていく。

 

 紅がそれを押さえるよりも素早く、ゲートの中に入って来たのは頭部が狼の女であった。

 

『……何者だ』

 

「……メイ・リメンバー……」

 

 どこか因縁めいてその名を紡ぎ出した紅に、メイと呼ばれた人狼の女は返答する。

 

「覚えてもらえて光栄なんですが、今はちょっと彼女に用がありまして」

 

 首根っこを押え込んだ相手の契約者はしかし既に事切れている。今さら何の用が、と窺っていたこちらに対し、人狼の契約者はランセルノプト放射光を帯びる。

 

『……来るぞ!』

 

「身構えなくっても大丈夫ですよ。私が用のあるのは、この子だけですから」

 

 直後、少女契約者の身体が収縮し、波打ったかと思うと肉体がぶよぶよに融け、そのまま掌より人狼の契約者に吸収されてしまう。

 

 相手は満足げに声に艶を持たせた。

 

「……ご馳走様。美味しかったですよぉ……最上のスパイスですね。復讐心と言うのは」

 

「……ロットを駆り立てたのは、お前だな」

 

「失敬な。彼女の純粋な気持ちを代弁しただけです。そうしないと一生後悔するって、ね」

 

 瞬間、膨れ上がった紅の殺気の波にブルックは身を凍らせる。

 

 投擲されたクナイが人狼の契約者に突き刺さりかけて、それが不意に反転し、弾き返されていた。

 

「……斥力……まさか」

 

「私、まだヤトと戦うのには弱いと思うんです。この対価も何気に手間がかかりますし」

 

 そう言いながら人狼はスケッチを重ねている。紅は歯噛みして相手を睨み上げた。

 

「……殺す。今、ここで……」

 

「怖い顔しないでください、ヤト。それとも……今は紅と呼んだほうが、いいですか?」

 

 袖口からクナイを引き出し、紅の躯体が駆け抜ける。跳躍し、加速し、そのクナイの切っ先を白熱化させて相手の首筋を掻っ切らんとした一撃を、人狼の契約者は振り翳したナイフで防衛していた。

 

 ナイフが超振動し紅の膂力を上回って弾かれ合う。

 

「……それは、シャルロットの能力のはずだ」

 

「ま、これじゃ戦えなからって今、ところどころ集めてるんですよ。色んな契約者の能力を。どうです? このコレクションに加わる気はないですか?」

 

 相手の提言に紅は心底侮蔑する響きを伴わせる。

 

「断る。殺して奪うのみだ」

 

「やっぱり! 理想通りの答えですね! ヤト。……まぁ、貴女とはいずれ決着をつけるので、簡単に軍門に下られるとそれはそれでつまらないのですが」

 

「……お前の能力は危険だ。ここで、打ち倒す」

 

「出来ますか? ここはゲート。何が起こっても不思議じゃない空間。そんなところで、私と決着? そんな事をする前に、今は急く事があるのでは?」

 

 紅は歯噛みして身を翻す。

 

 人狼の契約者は濃霧の中に笑い声を響かせながら溶けていく。それをブルックは見据えてから、クォーツへと声を弾かせる。

 

『クォーツ……。俺は、目の前で友を失うのか。……自分から背中を向けておいて』

 

 息絶えたクォーツの遺骸を一瞥し、紅は問いかけていた。

 

「……後悔しているのか」

 

『……まさか。それは俺の言葉じゃないはずだ。何よりも……契約者は合理的に判断する。過去の判断にいちいち逡巡するのなら、それは契約者じゃないはずだ』

 

「だが、お前はそうやって友人のために……涙を流せるんだな」

 

 ブルックは蝙蝠の身を伝う水滴を感じ取っていた。

 

『……馬鹿な。契約者が泣くなんてあるものか……!』

 

 強い論調で断じた自分に紅はそれ以上の言葉を重ねなかった。

 

「……私はもう行く。お前は戻るのか、進むのかは自分で決めろ」

 

 その言葉通り、紅は自分とクォーツだけにしてくれた。

 

『……クォーツ。俺の胸に、一つ傷をつけてくれてありがとう。……これでただの人でなしでなく、俺はブルックとして、居場所を選べる』

 

 それが友への最後の言葉。友情に捧げる、最後の口上。

 

 ブルックは飛び立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……今日の朝刊は最高の出来だな。一端に旧市街地の事件に切り込んでまぁ」

 

 グレイの評を背中に受けながら夜都はホットドックを頬張る。

 

「……首尾は」

 

「上々、って言うのは何かと可笑しな話でね。まぁ持ち逃げされた情報は帰って来たし、その情報網を操っていた張本人は抹消された。これ以上ない幕切れさ」

 

 夜都はしかし、それでも腑に落ちないものを感じていた。

 

 あの局面――メイ・リメンバーと再会したのはきっと、何者かの意図がある。

 

 そうでなければゲートでの再会などあって堪るものか。

 

「……私はまだ清算しなければならないものはありそうだ」

 

「そりゃどうぞご勝手に。……ま、一つ言えるとすれば、僕は戻って来られるとは思っても見なかったよ。ブルック」

 

 止まり木へとかけられた言葉にブルックは応じる。

 

『俺もだ。どうやら今回、組織は温情を与えてくれたらしい』

 

「組織に温情、ねぇ。まぁ今回限りの気紛れだと思うしかないな。それくらい、組織は甘くはない。次はないぞ、ブルック」

 

『肝に銘じておこう。それと……紅』

 

 淡白に返すものだから元の調子に戻ったのばかり思っていた夜都は不意に呼ばれて反応する。

 

「……何」

 

『……すまなかった。そして、ありがとう。……蝙蝠になってから、他人に礼を言ったのは初めてかもしれない』

 

「おいおい、気持ち悪いなぁ、もう……。自分に似合わない事を言っていないで、とっとと次の仕事に入ろうじゃないか」

 

『……ああ、そうだな。グレイ、紅。……ここにはいないがガーネットも。――次の任務だ』

 

 その言葉振りの変わらなさに夜都はコーヒーに口をつける。

 

 きっと変わらない日々にも意味があったのかもしれない。

 

 ――蝙蝠の契約者は、何を思うのか。

 

 そんな事、多分余人には、窺えるわけもないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ノックしてから相手が出るまで三十秒。

 

 夜都は頭を掻きながら顔を出したアリスに、はにかんで声を発しようとして、先に抱き留められていた。

 

「ちょ……! アリス? ここ、玄関先――」

 

「馬鹿ヤト! 何心配させてんのよ! 帰って来ないから……もう二度と、会えないかと思ったじゃない」

 

「会えないかもって……ちょっと連絡しなかった程度で……」

 

「それでもよ! ……親友が音もなく居なくなるってのは、気分がいいものじゃないでしょ」

 

「……親友……」

 

「何よ、ぼんやりしちゃって。あんたはルームメイトである以上に、あたしにとっちゃ無二の親友。だから部屋貸してんだからね」

 

 そっか、と夜都はこぼす。

 

「……友達って、そういうもんなんだ」

 

 こちらの答えに、アリスは怪訝そうにする。

 

「ヤト? ……もしかして何かあった?」

 

 その眼差しに夜都は、ううん、と首を振る。

 

「……友達って……いつの間にか成っているものなんだね」

 

「なぁーに呆けた事言ってんの、この子は! ……あんたのコーヒー、楽しみにしてるんだから」

 

 身を翻したアリスの背中に、見知った部屋。

 

 夜都はまだ完治していない片腕のギプスへと一度視線を落としてから、そっと呟いていた。

 

「――ただいま」

 

 

 

 

 

 

 

第四章 了

 

 



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第五章「紛い物は、陰惨なる結末を描いて…」(前編)
第三十九話「彼方を歩む」


 ――あら? あなたが死神?

 

 開口一番、漆黒の森の魔女は問いかけていた。

 

 私は金色のイルカと共に魔女へと傅く。彼女は麗しいかんばせと、常に微笑みを浮かべた余裕を崩さないまま、私達を見下ろす。

 

 ――謙虚な事ですこと。わたくし相手に、顔を伏せる術を知っているなんて。

 

 イルカの教えてくれた事だ。魔女は気に食わない事が少しでもあると相手を飴細工に変えてしまうのだと。

 

 私は死神だからそんなものにかかるかどうかも分からないけれどでも、機嫌を損ねるのは嫌だった。

 

 せっかくこの漆黒の森で棲まわせてもらうのだ。せめて、関係性はフラットにしたい。

 

 ――死神の割には綺麗な顔をしているのね。もっと残忍な眼をしているのだと思った。

 

 いえいえ、魔女様。私はとても残酷なのです。

 

 私は何人も手にかけてきました。もう数えるのも馬鹿馬鹿しいほどに。その中には、確かに、意義のある友情もあったのです。

 

 でも、月明りが差すとどうしても駄目で……自分を抑えられなくなるのです。

 

 ――ふぅん。だから月も星も、何もかもが見離したこの森に来たと言うわけ。死神にしては綺麗なものが嫌いなのね。

 

 綺麗なものには全て背を向けてきました。私は綺麗なものや、美徳にはことごとく愛想を尽かされて来たので。

 

 でも、と一つだけ口にしていた。

 

 私はもう、命の綺麗さを、首筋を辿る鮮血の眩しさを。頬に落ちた濡れた髪を、もう感じる事はないのでしょうか。

 

 そう尋ねると愚問ね、と魔女は応じる。

 

 ――貴女はもう綺麗には成れないのよ。この穢れた森の中で、獣達に塗れ、美しさとは正反対の醜い者達と共に踊るだけなの。このわたくしのように。

 

 でもあなたはとても美しいではありませんか。

 

 こちらの返答に当たり前でしょうに、と魔女は鼻を鳴らす。

 

 ――醜い者達を束ねるのには、美しくなければならない。覚えておきなさい。気高さとは、美しさの上に立つのよ。

 

 矜持を語った森の魔女はうねった木々の玉座より私達を見下ろし、カモシカのような麗しき四肢を投げ出し、そして泥のような侮蔑を吐くのだった。

 

 ――でも、そうね。貴女、とても悲しい眼をしているのね。とても……美しい者達から眼を背けたとは思えない、まだ純粋を湛えた、水晶の瞳を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 追い込んだ獲物はそれほどの敵とも思えない。

 

 元々、逃げる相手を追うのはさほど難しい事でもなかった。新市街地を抜けていく相手を先回りし、紅(ホォン)はブルックの声を聞いていた。

 

『紅、敵の契約者の能力はまだ不明だ。油断をするなよ』

 

「そんな事、言われるまでもない」

 

 投げたワイヤーの網にかかった敵影へと降り立ち、紅はその背中へと声を投げる。

 

「……もう逃げられない。組織に追われて、この街から逃げおおせると思えない事だ」

 

 紅はクナイを逆手に握り締め、相手へと飛びかかる。それを弾き返したのは敵の銃剣であった。

 

 跳ね上がった相手の挙動に、まだ生にしがみつく執着を感じる。

 

 紅の首筋を掻っ切らんと迫った一閃をクナイを引き上げて防御し、その異様な相貌に目線を向けていた。

 

 縫い目の浮かんだ皮膚、それに死んだ魚のような濁った瞳。

 

「……ニューヨークの赤ずきん。おれを殺すために来たか」

 

「組織からの抹殺指令を受けたからに過ぎない。お前だからと言う特別なものもない」

 

「……そういう淡白なのも、契約者らしくていい」

 

『紅! 時間をかけるな! 能力の発動前にケリをつけろ!』

 

 空よりかけられた声に、言われるまでもないと感じつつ紅はクナイで相手の胸元を斬りつける。

 

 どこか人間味を失ったかのような青白い皮膚をしている男より、鮮血が滴る。

 

 切断面を触媒にして、紅は能力を行使していた。

 

 熱操作で薄皮一枚の傷を致命傷のように錯覚させる。思い通り、呻いて膝を折った男へと止めとばかりに紅は駆け抜けていた。

 

 その頸動脈を裂いて確定なる死を。そう断じた一撃が奔る前に、男の身体が青白い燐光に包まれる。

 

「……能力の行使前に、潰す」

 

 こちらの速度に比べれば相手の能力発動は随分と遅い。このまま押し切る、と覚悟を決めた紅は不意に発生した濃霧を感じ取っていた。

 

 いつの間に霧が、と視線を僅かに外した瞬間、男の姿が濃霧に溶ける。

 

「……目晦ましなんて」

 

「目晦ましではない」

 

 断じた論調に紅は声の方向にクナイを投擲するが、何もない空を裂くばかりであった。

 

「……消えた?」

 

 だがそんなはずがない。それに、自分から離れたのならばすぐさま察知出来るはずだ。だと言うのに、妙な感覚が付き纏う。

 

 次第に深くなっていく霧の中で紅は濃い人影を見出す。

 

 そこか、とワイヤーを投げて絡め取るが、直後に人影は消え去っていた。

 

 しかし質量を捉えた感覚は居残っている。

 

「……どこへ」

 

 逃げ切るための能力とも思えない。紅は周囲の気配に神経を尖らせたが、それでも先ほどの男の姿が視界に入らない。

 

「……この霧は何だ。まるで……」

 

「――そう、この霧はゲートだ」

 

 不意打ち気味に背後から発せられた声に振り返り様に一閃を交わす。しかし、男の姿はない。

 

「ニューヨークの赤ずきん。MA401、お前も知っているはずだ。ゲートの中では、通常考えられないような事も起こる。こうして理解出来ない事象でも」

 

「何を言っている。お前はここまで追い込まれて、そして情けなくも能力を行使した。その時点で、お前に勝ち目はない」

 

「勝ち目はない、か。確かにおれの能力は、お前の能力の足元にも及ばないだろう。それほどに、おれは欠陥品だ。契約者としても、な。だが、こうやってお前を永遠の輪廻の中に落とし込む事は出来る」

 

 霧の至るところから男の声が反響する。どこに相手が居るのか、把握する事も難しくなってきた。

 

 紅は即時の決着を望み、相手の気配の察知を目指すが、それでも感じるのは徐々に曖昧になっていく気配だ。

 

 おかしい、と思い始めたのは数秒前になら明確に感じられた相手の気配が、この濃霧の中に溶け込んでいる事だ。

 

 ――どこにでも居るし、どこにも居ない。

 

 脳裏に浮かんだ考えに、馬鹿なと一蹴する。

 

 ここは新市街地の一角。どこまで逃げおおせても百メートル圏内に相手が居るのなら、容易く決着をつけられるはず。

 

 しかし紅は、男の気配が凝結し、黒々とした影になっていくのを目にしていた。凝った影そのものの男に、紅はクナイを逆手に構える。

 

「……そこか」

 

 駆け出したのは能力の掴めなさに翻弄されている部分も大きいからだ。だから絡め取られる前にこの謎の空間を脱する。

 

 身を沈め、風を切って疾風となって紅は凝った影の首筋を切り裂いた。

 

 だが、影にはまるで手応えがない。首がころんと落ち、確殺を感じ取った直後にはまたしても濃霧の只中に佇んでいる。

 

 紅は周囲を取り囲む男の気配に狼狽していた。

 

 影が次々と屹立し、それぞれに声を響かせる。

 

「お前はどこまでもおれを殺せない」

 

「永遠に、このゲートから出る手段はない」

 

「ここはゲートだ。通常起こらない事が起こる」

 

 反響する声音に紅は両手を交差し、次なる一手に備える。相手が自分を殺しに来るとしても確実に射程に入らざるを得ないはず。ならば、懐に潜り込んできた刹那に熱操作を叩き込めばいい。

 

 そう感じていた紅は真正面から漂ってきた男の影に掴みかかっていた。

 

 瞬時に熱放射で脳幹を焼くが、それでも相手の気配は途切れない。それどころか、時間が経つにつれて増えていく。

 

 殺し切れない相手の増加に紅は息を詰めて周囲を見渡す。

 

 黒々とした影が一つ、二つ――。

 

 数えていくうちにも増えていく。

 

「……この能力は……」

 

「分からないのか、MA401。ここはゲート。現象に理由はない」

 

「馬鹿げた事を。ゲートに入った覚えはない」

 

 ふふっ、とせせら笑う声が幾重にも聞こえてくる。

 

「それが、間違いなのだよ。……おれの契約能力は、疑似ゲートを生み出す事。それはこういう事態に陥る事を、完全に理解しての行動だった」

 

「疑似ゲート……? だがゲートではないのなら、突破は可能なはず」

 

「MA401、もうそろそろ分かり始めて来ているんじゃないのか? ここから逃げる事も、ましてやおれを倒す事も出来やしない。ここはゲートだ。いくら偽物とは言え、ゲートから逃げる術を契約者は多くは知らないはず」

 

「お前の能力の延長線なら、契約者を殺せばいいはず」

 

「分かっていないな。これは奥の手なんだ。……おれ自身、どうやってこの能力を切るのか、まるで見当がつかない。だから、一度として契約能力を行使しなかった。おれの対価はこのゲートを生み出した以上、この空間に捕えられる事。そして、逃げる術はおれでさえも知らない。つまり、お前はおれの中で永劫に彷徨う」

 

「……契約者の能力なら、解除方法はある。本体を潰せばいい」

 

「はて、本体とは。ではお前には分かるのか? ――おれの本体が」

 

 いくつもの影が佇み、地表から生み出されていく。それぞれがランセルノプト放射光を帯びた相手の契約者であるのならば、全て潰せば終わりであろうか。

 

 あるいは、と紅は考えてしまう。

 

 相手の言う通り、本当に終わりがない――無間地獄の中に、自分は追い込まれてしまったのか。

 

 追撃するはずの相手の罠にかかったなどという馬鹿な話もない。

 

 紅はゆっくりと歩み寄ってくる影へと疾走し、その頭部を引っ掴んだが、直後にぼろぼろと崩れていく。

 

「泥人形……?」

 

 凝視したその時には人形は崩れ落ちている。紅は構え直して周囲を確認していた。

 

 濃霧でほとんど視界は遮られた形の中で、形状をまともに帯びない泥人形の影が嗤う。

 

 ケタケタと声が反響する中で紅はどの対象を攻撃すべきか惑ってしまう。

 

「……構わないとも。いくらでも攻撃するといい。どうせ、このゲートの中ではおれも自分を制御出来ない。何が起こってもおかしくはないのが、ゲートだ」

 

「……それは本物のゲートの話だ。契約者の真似事じゃない」

 

 紅は駆け抜けて手近な相手の首根っこを押え込んだ。熱放射で焼き切るが、相手はまたしても泥人形だ。

 

 ぼろり、と頭部が砕けて泥がぐずぐずに融ける。

 

「……どうやら本当に分かっていないようだな。ここに至った以上、お前もおれも、この地獄より逃れる術はない。おれも自分が分からないし、お前はもっとだ。もっとこの地獄を味わうがいい」

 

「……無敵な能力だとでも言うのか」

 

 その言葉に周囲で揺れる泥人形が肩を揺らして嗤う。

 

「可笑しな事を言うな。契約者なら分かっているだろう? 無敵などない。だが、これを無敵と呼ぶのならば、そうなのかもしれない。おれにはもう、元に戻る事は出来ないが、これで負けはなくなった。ならば、勝利すべきはおれのほうだ」

 

 からからと泥人形達が嘲笑する。

 

 紅は舌打ちを滲ませ、相手へと最接近してその心臓にクナイを突き込む。だが手応えが人のそれではない。

 

 またしても、対象は泥人形。

 

 ぼろぼろと崩れていく相手に紅は歯噛みして背後に迫っていた気配にクナイを払う。

 

 今度こそ、と期待したが首筋にクナイを突き込まれた姿勢のまま、泥人形は銃剣を大きく振るい上げる。

 

 紅は熱操作で泥人形を突き飛ばし、弾き返す勢いで相手の手首から先を掻っ切る。

 

 だがそれも致命傷ではない。

 

「……どれもこれも……偽物か」

 

「違うな。どれも本物だ。このゲートの中に、本物も偽物もない。ただおれの能力はことごとくを巻き込む。お前だけじゃないとも。このゲートに干渉する、全てだ。さぁ、どうする。仲間の救援でも待つか」

 

「救援。冗談を」

 

 誰も信じちゃいない。誰も当てにしていない。

 

 紅はクナイを構え直し、泥人形達に向かい合う。

 

「――最後の一つになるまで、殺し尽くせばいい」

 

 その言葉と共に、地を蹴っていた。

 

 



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第四十話「敵対者を見る」

 天文部が騒がしいのは珍しいな、とミシュアはどこか他人事のように感じていた。

 

「スペクトル反応増大! 星のメシエコードはMG673、これまで未確認の契約者です!」

 

「測定急いで! ……新市街地に発生した【煉獄門】とは異なるゲートらしき空間の算出も!」

 

「現状、疑似ゲートらしき空間の観測は不可能! 観測霊を何体か飛ばしていますが、どれもこれも……」

 

 濁した研究員に山里は舌打ちを漏らす。

 

「……受動霊媒でさえも取り込む……何て言う能力だって言うの……」

 

 望遠カメラに映し出されたのは半径五十メートルを覆う半球状の濃霧であった。唐突に新市街地に現れたその区域を警官達が閉ざしていく。

 

 迂回した車両より覗いた市民が写真を撮る中で、疑似ゲートの内側が青白く胎動する。

 

 まるで鼓動のような色調を湛えて。

 

「……一度観測霊を戻してやったほうがいいかもしれないわね。モニターを続けておいて。私は……公安に報告するから」

 

 そう言って踵を返した山里に訪問していたミシュアは呆気に取られていた。

 

「……その、大丈夫なの? 任せて……」

 

「ちょっとは危ないけれどでも、今のままじゃどっちにせよ時間の無駄。なら少しでも手がかりを得る方法を選ぶ。……ミシュアに……思わぬ来客ね」

 

 山里が顎をしゃくる。その先には自分に連れられてやってきたジキルとジェッツがにこやかに手を振っていた。

 

「……彼女らは協力者。機密性は保たれている」

 

「本当に? ……どちらにせよ、ここまで来た時点で機密も何もないけれどね。説明、いい?」

 

「それよりも、これ」

 

 手渡した煙草のパッケージに山里は頷いて休憩所へと向かっていた。

 

 一度落ち着いたほうがいい、と思って差し出したパッケージであったが、彼女は煙草に火も点けずに本題に入る。

 

「……つい三十分前に観測された契約者……MG673、これまでの能力行使は発見されず、過去のデータもない。……完全に新しい契約者ではないけれど過去の観測データがないのなら、特定は難しそうね」

 

「能力は? あれはまるで……」

 

 濁したミシュアに山里は言葉を継ぐ。

 

「そう、あれはどう見てもゲート。でも……一契約者がゲートを生むとは考えづらい。ならば、あれは疑似ゲートと想定すべきでしょうね」

 

「疑似ゲート……。そんな強力な能力が……」

 

「強いかどうかはともかくとして……解析不能な領域が多過ぎるのよ。これじゃ、突破口も見当たらない」

 

 その段になってようやく、煙草に火を点ける気になったらしい。紫煙をたゆたわせた山里は深呼吸して、やがて声を発する。

 

「……状況的に不明な部分が大き過ぎる。それに、契約者は意味のない行動はしない。だからあれは、意味のある行為だと思うべきなのよ」

 

「……契約者同士の戦闘で、発動させた……とでも?」

 

 山里は首肯し、ジキルへと視線を流す。彼女は見解を示さない。あくまで門外漢だとでも言うのだろうか。

 

「……契約者の考え方なんて分からないけれどね。それでも、この能力は強過ぎる。あまりにも強大な能力は対価も当然大きくなるのが必然とも言えるのだけれど……特定が全く通用しない相手に対して、この考えも詮無いような気がしてね」

 

「……疲れてる?」

 

「少し。……いいえ、強がったって仕方ないかもね。疑似ゲートの契約者なんて今まで居なかった。だからこれはレアケースでもある。……各国諜報機関はこの事態を静観し、あえての契約者の投入も考えてくるかもしれない。ある意味じゃ、ゲートを持ち帰る絶好のチャンス。これがもし、たった一人の契約者によるものなのだとすれば、その契約者の身柄はイコールゲートの秘密そのものよ。……星がまた、流れるわね」

 

 各国諜報機関がこの事態を予見しているとは思えない。だが、それでももしたった一人がゲートを生み出したのだとすれば、これは画期的だろう。

 

 その一人を解析すれば未だに燻る【天国門】関連の情報や東京の【地獄門】に関して抜きん出る好機なのだ。

 

「……あくまでもここで見出すのはチャンス、か。何だかそれも……」

 

「人間らしくはないのかもしれないけれどでも、それくらい、ゲートって言うのはわけ分からなくって、そしてみんなが欲しがっている。調査の遅れている国家からしてみれば、この疑似ゲート発生の大元を押さえるだけで大国とも交渉出来る。……今から身構えておいたほうがいいわよ。絶対に何かが動く」

 

 確信めいた声音にミシュアは嘆息をつく。

 

「……このニューヨークだけで収まる事態じゃない、か」

 

「どの国がどういう風に解決に導くつもりかまでは分からないけれどでも、遠からずどこかの諜報機関は動くでしょうね。あるいは解決なんてする必要性はないか」

 

「……ゲートを生み出す契約者を生け捕りにすればいい。手段は問わない……」

 

「それが本音なのかもね」

 

 だが、そうだとすれば余計に厄介だ。

 

 このニューヨークを守護する人間として黙って見過ごす事は出来ない。

 

「……捜査に戻らないと」

 

「大丈夫なの? こんな事態、誰も想定していないでしょ。……警察内でも混乱があるはず。あれを、ゲートだと断定すれば、それはそれで……」

 

「面倒事を背負い込むのは慣れているから。それに……何かを知りたくもある」

 

 ジキル達はあえて目線を合わせようとはしなかった。山里は、そっかと呟き、天文部の研究室へと戻っていく。

 

「そろそろ戻らないと。……死なない程度にお互い頑張りましょう」

 

「そうね、死なない程度に……。でも、何が起こっているのか、私は知りたい。そして解決の手段があるのなら……」

 

「あまり背負わないほうがいいわよ? ただでさえストレスなんだから」

 

 山里の背中を見送ってから、ミシュアは口火を切っていた。

 

「……分かっていたんですか」

 

「いいえ、レディロンド。我々でも未確認の情報でした。MG763……マークの対象にも上がっていない」

 

「では……ズヴィズダーはどう動くつもりで?」

 

「どうもこうも、先ほどのレディが言っていた通り。各国諜報機関はこの好機を逃さない。もしあれが本当に疑似ゲートなのだとすれば、ゲートを持ち帰れる絶好のチャンス。当然、ニューヨークが視界に入っている誰もが動き出す。それを阻止するのが、あなたの役目でしょう?」

 

 言われるまでもない。ミシュアは携帯を取り出していた。

 

「……ジャンに過去の解析資料を捜索させています。それに、警官隊による疑似ゲートの封鎖も。あれに一般人が巻き込まれてはならない」

 

「それは同意。ですが、あまり張り詰めないほうがいい。我々にだってあれが何なのか、結局のところ分からない。……まぁ分からないから探るんでしょうが」

 

 頬を掻いたジキルにジェッツが提言する。

 

「結局のところ、さ。ぼくらはこうやって遠巻きに見つめるしか出来ない。それを言ってしまえばいいのに」

 

「……この国に入っていても、ですか」

 

「勘違いをしないで欲しいのは、元々ぼくらの目的であった契約者の追跡は終わっている。ここに居るのは次の任務を待っての事でしかない。だから警察勢力に与するわけでもなければ、他の組織の陰謀を阻止するいわれもない」

 

 ジェッツの言葉は冷淡だが正論だ。彼女らにこの事態の収束を任せるのはおかしい。何よりもお門違いのはず。

 

 ミシュアは拳を握り締め、携帯へと声を吹き込んでいた。

 

「……ジャン。そっちはどうなっている」

 

『どうもこうも……。あれがゲートだって言うんですか? ……普段見る【煉獄門】と言われてみればそっくりですが……中で雷でも鳴っているみたいに青白い光が明滅して……。それにたった五十メートルしかない。あんな局地的な【煉獄門】は今までありませんよ』

 

 つまり【煉獄門】ではないとも言えず、かといってゲート関連の対処はニューヨーク市警にはマニュアルとしても存在しない。

 

「市民の流入の封鎖。何よりも一般人が紛れ込まないように気を付けろ。……それと、これは言っても仕方ないのかもしれないが、契約者の動きにも注意をしておけ」

 

『……って言われても、俺一人じゃ契約者相手にだと逃げるしかないんですが……』

 

「いざと言う時は逃げてもいい。今は監視を厳にしろ。何が起こるのかまるで分からないんだ」

 

 通話を切り、ミシュアはジキル達に向き合う。

 

「……どうしますか。ズヴィズダーとして見れば、干渉したいのが本音のはず」

 

「どうしましょうかねぇ。レディロンド、誤解しているかもしれませんが、別にゲート関連の相手だからと言って、じゃあ後も先もなく特攻させられるのが我々契約者でもないのです。当局は契約者を高く買っている。ここで失われるくらいなら、もう少し細く長く、と言うのが」

 

 ジキルは自販機で缶コーヒーを購入し、ジェッツにも分け与える。ジェッツは無言でプルタブを開けていた。

 

「ですが……あなた達は諜報機関のはずだ」

 

「ですが同時に、命が惜しいのも事実。ゲートの核心に触れるかもと言うだけでは我々は実行力を持たない。今のところ祖国からの命令もない。ここは静観が正しいでしょう」

 

 思わぬ言葉振りに絶句するミシュアにジェッツは言いやる。

 

「……他の組織も思ったよりも動かないとは思う。ぼくらが動けないんだ。この局面で動くとすれば、契約者の命を軽視した人間か、あるいは何としてもゲートの秘密を手に入れたい、ただの欲望の塊に過ぎない」

 

「……それが合理的だと?」

 

「合理的でも何でもない。事実なんだ。ゲートに意義を見出すのなら、それこそエージェントを延々を送り込めばいい。そうしないのは何故か。簡単な話、リスクが高いんだ。わざわざそんな事をしてまで手に入れるべきなのがゲートだとも思われていない。トーキョーの【地獄門】クラスでも表立った戦いはないはず。それなのに、ニューヨークの街に散発的に出現するゲートもどきに、わざわざ諜報員を送り込むとも思えない」

 

「……それはつまり、この局面で動くのは愚か者だとでも?」

 

「お国柄ですよ、レディロンド。ここで動くかどうかも一つの分水嶺。しかしあまり急いた動きをすれば他の諜報機関に出し抜かれる」

 

 案外、各国は落ち着いているのかもしれない。一契約者の生み出したゲートへの関心は、こちらの計算よりも小さいのか。

 

「……しかし全くの無関心と言うわけでもないでしょう」

 

「それはその通り。出来る事ならば無傷で欲しいのが本音でしょうね。しかし、ゲートなら……あれがゲートならば、という仮定に立ってですが、少しの犠牲も厭わないのも事実。ですが一昼夜は動かないでしょう。それくらいゲートに関して言えば不明なんです。我々は、思ったよりも何も持っていないに等しい。ここで手札を切るかどうかは、単純にその上の手腕による。……何としてもゲートが欲しいと言うのなら、行動は限られてきますが」

 

 ジキルは缶コーヒーを呷り、一呼吸つく。

 

「……何かが起きる。でもそれを、誰も予測も制御も出来ない」

 

「【天国門】の時のように急に不可侵領域に堕ちる可能性だってある。兵士を送り込むのは得策とは思えない」

 

 そうだ、【天国門】の例を挙げれば、闇雲に飛び込むのは危うい賭け。ミシュアは浮き足立っているのはむしろ、自分達のような人類のほうか、と僅かに自制していた。

 

 彼らは合理的だ。合理的がゆえに、【天国門】のような過ちを二度も三度も犯すはずがない。勝てる時に勝利し、敗北が濃厚になれば静観を決め込む。

 

 それが契約者、それが彼らの思考回路。

 

 分かっているはずだった。だが案外目の前にすればその判断も分からなくなってしまう。

 

「……では我々も天文部からの報告を待つしか……」

 

「そうしかありませんねぇ。物質透過であの一帯を沈下させてもいいのですが、何が起こるのか分からない。それがゲートですから」

 

 ジキルならばそれくらいは容易なのだろう。だが勝手な行動は祖国からも制されているはずだ。

 

「……ところで、前回接収した彼女は……」

 

「ああ、ついて来ていますよ、エミリーは。ミスターに同行しているはずですが」

 

「……彼女の観測霊で濃霧の中を見る事は……」

 

「危険行為でしょうねぇ。天文部の観測霊が帰って来ないのに彼女の観測霊を飛ばすのはやめさせておきたい」

 

 前回の戦いの後、ドールであるエミリーの身柄はニューヨーク市警が預かり、主にジキルが教育している。彼女は本当に命令以外の事はプログラムされていないようで、特に古巣には関心もないのか、こちらの指示には従順であった。

 

「……私、最低ですね」

 

「どうしたんです、急に」

 

「いえ、ドールなら……エミリーなら大丈夫かもしれないと思ってしまった」

 

「別に普通じゃないんですか。分からない事を一刻も早く解明するのには、観測霊は有効です」

 

「でも……彼女の人権を踏みにじってしまった……」

 

 無論、この言葉も見当違いもいいところ。エミリーはドールだ。そうだと規定されればどうとでも動くし、こちらを敵とプログラミングされれば敵にもなる。

 

 ドールとはそういう代物であるし、ある程度は理解しているが、身内に居るのは初めてだ。少し、持て余しているのかもしれない。

 

「人権とは……。我々契約者には馴染みの薄い言葉だ」

 

 ジキルの嘲笑にミシュアはため息を混じらせていた。

 

「笑わないでくださいよ……。私だって、それなりに考えて行動しているんですから」

 

「重々、承知していますよ。しかし、天文部に問い質しても居所だけではなく、能力の実態も不明とは。まったく、恐れ入る。この国は、ただでさえ契約難民を抱えた破綻国家だ。あのゲートが本物だとすれば、PANDORAが黙っていませんよ」

 

 契約者、それにゲートに関する高次権限を握る組織、PANDORA。その実態は不明でありながらも、警察上層部に取り行っているのは間違いない。

 

 何回かそれらしい諜報員を目にした事がある。

 

 ミシュアは、それこそ厄介だと髪をかき上げていた。

 

「……PANDORAの連中が嗅ぎ回っていたら……」

 

「あるいは、もう嗅ぎつけた後かもしれませんね」

 

 最悪の事態に転がりつつある。だが諦観してもいられない。今は一手でも打てる手は打っておくべきだ。

 

 頬を叩き、よしと気持ちを切り替える。

 

「……ここでめそめそしていたって何にもならないんですから」

 

「レディロンド、あなたのスタンスとしてはそれはいい。何よりも……ちょっと契約者っぽくって」

 

 その言葉にはミシュアは眉をひそめていた。

 

「契約者っぽいって……」

 

「合理的な思考の切り替えですよ。我々に近い」

 

「……馬鹿にされている風では、なさそうですけれど」

 

「まさか。褒めているんです。ここまで割り切れるのもまた、才能だと」

 

「……やっぱり、馬鹿にしています?」

 

 尋ねてジキルは小さく微笑んだ。

 

「しかし、一つ……気を付けていただきたい。この状況、誰が敵に転がっても何らおかしくはない。信じるのは自分だけにしておくべきです」

 

「それはあなたでさえも、信じるな、という事?」

 

 こちらの逆質問にジキルは肩を竦める。

 

「参りますが、その通り。親しいものほど裏切りを警戒したほうがいい」

 

「言っておきますけれど、私、それほど他人を信じていないんです。ですけれど、一つ……。同業者には背中を任せます」

 

 それは自分の譲れぬ矜持のようなものだ。前時代的だと笑われても仕方なかったが、ジキルはいやはやと感服さえもしてみせる。

 

「……やはり思った通り。あなたは強い」

 

「……今度はおだてたって」

 

「だから、ありのままを言っているのですよ。さて、お喋りはここまでにしておきましょう。ジェッツが痺れを切らしていそうだ。ミスターには申し訳ないことをしている」

 

 ジキルは立ち上がるなり、天文部から踵を返す。ミシュアも山里の仕事ぶりを拝見しておきたかったが、邪魔になるだけならば仕方ないだろう。

 

「……何よりも、今は自分の仕事を、か」

 

 独りごちてミシュアはスーツの襟元を正していた。

 

 



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第四十一話「気圧されを知る」

「紅が敵契約者の手に落ちた? 馬鹿な」

 

 信じられない心地で口にしたグレイに止まり木のブルックは冷淡に応じる。

 

『しかし事実だ。お前も見ただろう? ニューヨーク新市街地に突如として発生した極地ゲート、あの中に……紅は閉じ込められた』

 

 ブルックの確信めいた声音にグレイは新聞記事に視線を落としつつもどこか悔恨を噛み締めるように舌打ちする。

 

「……どうするんだ。僕らの中じゃ、あの芋女は切り込み隊長だぞ。あいつがアタッカーになっているから、僕らの安全が保障されている」

 

『……グレイ。こんな時に紅の身の危険ではなく、自分の保身を案ずるのか』

 

「……契約者にだけは言われたくはないな。それも前回、裏切りの直前にまで至った奴に……」

 

 互いに睨み合いのような沈黙が降り立ったが、不意にガーネットが口を挟む。

 

「……駄目。追跡は無理」

 

『そう、か。……ガーネットの観測霊ならば、少しでも光源があれば追跡が可能だと思ったんだが……』

 

「光さえも吸収するって? ……ますます性質に負えないな、契約者って言うのは。第一、追い縋って無策に戦ったのは紅の落ち度だ。僕達は関係ない」

 

『そう、関係ないとも。だが、ニューヨーク新市街地を預かっている手前、動かないわけにもいかない』

 

「……助けろって? 契約者を?」

 

 心底侮蔑の宿った論調にブルックはどこか諦観を浮かべていた。

 

『……忘れるな。俺達はこれでもチームだ。互いの背中は互いが一番よく知っている。その首の裏でさえも』

 

 ブルックの説得にグレイはふんと鼻を鳴らす。

 

「その首裏を掻かれれば、都合の悪いのはお前らだろうに」

 

『……グレイ。紅があの中に居るのは確定なんだ。俺達が動くしか、あの契約者を潰す術はない』

 

「どうやって? ……まさか一般人が契約者を殺せるとでも?」

 

 それに、とグレイはガーネットへと視線を流す。ドールの少女は紫のテディベアを抱えて読めない奈落の瞳を落としていた。

 

「……こっちの受動霊媒が役に立たない以上、これ以降の追跡は諦めるべきだ。どっちにしたってよくは転がらない」

 

『……紅を見捨てると言うのか』

 

「逆だろう、ブルック。逆の立場なら、紅は僕達を見捨てている。そうじゃないのか?」

 

 図星をつかれてブルックは声を詰まらせた様子であった。グレイは新聞記事に視線を走らせつつ、煮え切らない己の感情を持て余す。

 

「……紅は絶対に、僕達の味方にはつかない。チームだから、こっちについているだけだ。そうだとも、偶然の賜物だとも。もし……少しでもスタンスが違えば、あの芋女は僕達を殺す。それこそ無慈悲に。それが分かっているはずだ、ブルック」

 

 貧乏ゆすりを始めたグレイにブルックは声を投じる。

 

『……だがアタッカーを欠いた俺達は当然の事ながら、第一線を外されるぞ。全員が都合のいいポジションに収まれるとは思わない事だ。失策を一手でも踏んだチームは、それこそどんな場所に左遷されるのか想像もつかない。それはお前も分かっているだろう、グレイ』

 

 思わぬ言い草にグレイは新聞を畳んでいた。

 

「……何だ、お前らしくもない。脅迫のつもりか?」

 

『まさか。これはお願いだよ。……一度でいい。義理も、ましてや計算も必要ない。あいつを助けてみないか』

 

「……それはお前の都合だ。お前は前回、殺されずに済んだから義理を返したいだけだろう。……僕は一度だって失敗をしていない。それなのに、どうして危ない橋を渡らなければならないんだ」

 

 確かに、ここで紅を助けて欲しいと言うのは半ば自分勝手な願いなのかもしれない。しかし、ブルックは諦めなかった。

 

『……どっちにしたって、お前にしても悪い話じゃないと思うが? ……諜報員の身で契約者を救援したとなれば組織の評価は上がる』

 

 グレイは忌々しげに止まり木を睨み上げていた。

 

「……やはり、お前ら契約者は悪辣の芽だな。それが合理的な思考とやらか?」

 

『……みたいなものだ』

 

 あえて断言しなかったブルックにグレイは時計を気にする。腕時計のネジを三回引き、彼は言い捨てていた。

 

 ブルックにもその意味は分かる。

 

 彼は常に監視が付けられており、その監視網の一つが腕時計の盗聴器であった。三回引くのはプライベートの合図。

 

『……グレイ』

 

「勘違いをするなよ、ブルック。僕は、勝てる算段があるだろうから乗ったんだ。それに……ここいらで組織の評価を得ておくのはこちらとしても急務でね。お前が抜けそうになった責任を追われかけている。僕は無関係だと装うのに、アタッカーを補助すると言う名目は欲しい」

 

 何だかんだと大義名分を掲げたが結局は協力してくれるという事なのだろう。

 

『……すまないな』

 

「らしくない事を言うな、ブルック。契約者だろう」

 

『そうだった……。ガーネット、お前はどうする』

 

「ドールに聞いたって――」

 

「私は……紅を援護する」

 

 思わぬ挙動であったのだろう。グレイが目を見開いて硬直している。

 

「……ドールが自分の意思を……」

 

 紅がどのような関係を彼女と築いていたのかは分からない。分からないが、協力者は一人でも多いほうがいい。

 

『……分かった。お前は観測霊を飛ばして紅の状況を把握して欲しい。あの疑似ゲート……外からの干渉を一切受けないのかどうかも不明だ。あまり深追いはするなよ。あれもまたゲートなのだとすれば、何が起こっても不思議はない』

 

「……了解」

 

「……気味が悪いな。契約者とドールが一緒になって同じ契約者を救おうとするなんて……」

 

『奇縁もあったものだという事だろう。……しかし、ゲートへの対応策は限られている。俺が入ってもいいが、戻れる保証はない』

 

「冗談言うなよ、ブルック。ここでお前にまで消息を絶たれたら、僕はこうだ」

 

 首を掻っ切る真似をしたグレイにブルックは慎重に声にしていた。

 

『……俺達は思ったよりも追い込まれているのかもしれない。アタッカーが紅しかいないのがここでは痛手だな。あいつに切り込みを任せていたツケか』

 

 グレイは時計を気にする。恐らくプライベートモードに出来る時間は限られているのだろう。あまり長話もしていられない。

 

 ブルックは現状の展望を打ち明けていた。

 

『……俺が潜入も難しい。それに組織からは、あまり関わるなとも言われている。……前回の裏切りに近い真似が裏目に出たな』

 

「僕のほうにも厳命が来ている。深追いはするな、と。……あれも一種のゲートならなおさらだろうね。ゲートは魂を弄び、見えないはずのものまで見える。……噂がどこまで本当かは不明だが、関わってろくな目に遭わないのだけは事実だろうさ」

 

 グレイも消極的だ。ここで動くとすれば、自分しかないか、とブルックは覚悟を決める。

 

『……紅が危険なのなら、俺達でどうにかするしかない』

 

「……っとそろそろ時間だ。遅れちまう」

 

 グレイは偽装の動きに入る。どうやらプライベートタイムは終了らしい。ブルックはしかし、新市街地に出現した疑似ゲートに関する権限は与えられていなかった。

 

『……サーバーにアクセスしても駄目か。あの疑似ゲートを、しかしこのまま放置はしておけないな』

 

 蝙蝠の身体で飛び立ち、ブルックは新市街地の中心にほど近い場所が封鎖線を張られているのを上空より俯瞰する。

 

 警官隊も数は少なくはないが配置されており、強硬策に出ないとも限らない一触即発の空気が窺える。

 

『……疑似ゲートには痛手を負った国とは言え、興味津々というわけか。【天国門】から何も学んでいないな』

 

 しかし、とブルックは飛行しつつ思案する。半球状に取られた疑似ゲートの内奥は青白く胎動しており、何かが生まれ落ちようとしているかのようでさえもある。

 

『契約者のランセルノプト放射光……。たった一人がこれを起こしたって言うのか? ……しかしそれにしてはあまりにも……』

 

 分かっている。契約者は合理的に判断する。

 

 彼らは闇に行き、闇に死ぬ運命。

 

 それは自分も含めてだが、光の当たるところに生きられるとは思っていない。だからこそ、目立った行動を取ると言うのは結果論とは言え、契約者の行動理念に反している。

 

『……俺達とは別種の契約者なのか。それともこれは、何かの罠だとでも言うのか……。いずれにしたところで、紅を急かしたのは俺だ。なら、ケジメはつけるとも』

 

 ブルックはゲートのギリギリ直上を滑空する。新市街地に頻発する【煉獄門】のそれと見た目上は変わらないが、それでも何か奇妙なものをブルックは感じていた。

 

『……【煉獄門】にしては、時間、だな。継続時間が段違いだ。あれは大概、三時間以上の発生は見られないのに、これは昨日の夜からずっと……。やはり別のゲートだと思うしかないのか……』

 

 その時である。

 

 不意に視界が赤く明滅する。分かっている。ここから先は「踏み込み過ぎ」だ。

 

 ブルックは風に身を流し、疑似ゲートから離れる。あまりに真実に肉薄し過ぎれば、組織からの追っ手が飛ぶ。

 

 自分達は首輪を付けられているも同じなのだ。

 

 それはグレイだけではない。自分も、紅も、それにガーネットもである。

 

『……俺達に自由なんてない。……皮肉なもんだ。グレイの言っていた事を笑えないな。一度でも裏切りの兆候が見えれば、組織は首輪をきつく締める。俺の場合は、特に、か。だが俺は紅には借りがある。……あいつが死ぬのを黙って見ていられるか』

 

 しかしこちらの意図に反して手がかりはない。

 

 どうにかして疑似ゲートには入り込まなければならないが、手札が薄い。

 

 歯噛みしたブルックはその時、乗り入れた警察車両の中から出てきた人影を凝視する。

 

『……奴ら、確か紅と交戦した契約者集団じゃないのか……。どうして警察と……』

 

 喪服の女と少年が警官らしき者達へと視線を流している。ブルックは一呼吸置いて考えを纏めていた。

 

『……ともすれば……使えるか……?』

 

 



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第四十二話「疲弊を踏み越える」

「――そろそろ疲れて来たんじゃないのか」

 

 また屹立した泥人形を焼き殺し、紅は呼吸を詰めさせる。

 

「……誰が」

 

「諦めるといい。この疑似ゲートの中ではお前はどれほど健闘したところで、何にもならない。……まぁおれも何にもならないんだがな。この疑似ゲートはおれの命と直結している。即ち能力を封じられるイコール死だ。これほどに理不尽な対価もあるまい」

 

「……いいのか。弱点を言ってしまって」

 

「構わないとも。どうせ、外からでは絶対に開けられないんだ。なら、お前の最後の生き意地の汚さをこうして見届けてから死んでやるとも」

 

 またしても浮かび上がった影に紅は飛びつき、熱操作で脳幹を焼き切るが、やはりと言うべきか、本体ではない。

 

 と言うよりも、本体など存在するのか。

 

 相手の言い草では、この濃霧の疑似ゲートそのものが契約能力であり、相手そのものと言えるらしい。

 

 ならば、殺すとすればゲートを破壊するしかないのだが、ゲートの破壊など現状持ち合わせている情報と戦力では到底及びつきそうにもない。

 

 何よりも、自分の能力は「熱源の自在操作」だ。それ以上でも以下でもない。

 

 ゲートを破壊するのには攻撃力が足りず、突破する手立てはない。

 

 この濃霧がまさに難攻不落の要塞。相手の契約者は発動した時点で相打ちに持っていく腹積もりであったと考えられる。

 

 だが、疑似ゲートの能力を発揮する契約者など他に例がない。

 

 この契約者はどうしてそれを今の今まで発動せずに済んだのか。あるいは、発動しても自分で発動後の対処を理解出来ているのか。

 

 紅はそこにこそ攻略の糸口があるのだと信じていた。

 

 疑似ゲートを生み出すのだと、理解しているのならば、疑似ゲートを閉ざす術もあるはず。しかし、こうして泥人形を生み出し続け、自分を疲弊させて絶望させるのには理由がある。その理由さえ掴めば、相手の首筋を掻っ切れるのに、蓄積された疲れが、何よりも重く圧し掛かる空気が、肺に滞留する。

 

 毒ではない。しかしながら、変わらぬ風景に、変わらぬ敵。どれだけ破壊しても立ち上がってくる人形――。

 

 疲労しないと言うのが無理な話だ。

 

 紅は頭を巡らせようとした。この局面で諦めとそして重たい疲れに足を取られればそこまで。

 

 戦って、勝ち得るのに思考だけは閉ざしてはならない。

 

 紅は勝ち筋を見出そうと駆け抜けクナイで泥人形の丹田を打ち抜く。そのまま投げ捨て振り返り様のワイヤーで首を刈っていた。

 

 それでも一向に減る気配のない亡者達。

 

 泥人形の動きは鈍い。攻撃に特化しているとはまるで思えない。むしろ、彼らはただ一点――こちらの体力の底を待っているかのようであった。

 

 だが攻撃力がまるでないわけでもなく、その腕は並大抵以上の膂力を誇る。

 

 少しでも油断すれば数に呑まれてしまうだろう。紅はクナイを逆手に握り直し、周囲へと視線を配る。

 

 地の底のような呻き声を上げて泥人形達が自分へと追い縋ろうとする。

 

 紅は駆け抜けて一閃を浴びせ、さらに返す刀で泥人形の頭蓋を叩き割っていた。

 

 打撃は有効。刺突も、斬撃も意味はある。

 

 問題なのはそれでも尽きぬ相手の戦力。

 

 どれが致命的なダメージなのか、どれがまるで手応えがないのかの区別がつかない。弱い攻撃で朽ちる場合もあれば、強めの攻撃でも倒れない事もある。

 

 判断が付けづらいのだ。

 

 こうすれば最小限度の動きで勝てる、というビジョンが浮かばない。

 

 逆に言えば派手に立ち回っても、地味に動いてもどちらに転べば正答なのかが見えないのは、やたらに精神をすり減らす。

 

 自分の行動如何で疑似ゲートが閉じるとも思えず、紅は呼吸に疲れを滲ませていた。

 

「……もう不可能だ。ここで打ち止めにするがいい、ニューヨークの赤ずきん。お前はよくやったさ。おれでさえもこの状況では相手が力尽きるまでの試算を並べる事も出来ない。だが、ここまで耐え凌いだのは恐らく、お前くらいなものだろう。おれの……勝利だ」

 

「ふざけるな。まだ何も……決しちゃいない」

 

 しかし永劫に現れ続ける泥人形相手にいたずらに消耗戦を続けても何の益もないのは事実。相手の心臓部さえも見えない中で、どうやって勝ち得ればいいのか、全くの不明。

 

「……何なら、呼ぶといい、お前のお仲間でも。まぁ、来たところで取り込んでやるがな」

 

「……何を言っている。契約者に、仲間なんていない」

 

 冷たく切り捨てた紅はよろよろと動き始めた泥人形へとワイヤーで繋げたクナイを投擲する。相手の額へと突き刺さったそれをそのまま横薙ぎに払い、肩を並べている泥人形達を一掃していた。

 

 しかしそれでも足りない。

 

 精製能力が段違いなのだ。

 

 一体倒れれば、次の瞬間には三体現れている。

 

 こんな状態で勝ちに繋がる要素が見えない。勝利が……遠のいていく。

 

 紅は萎えそうな意識に奥歯を強く噛み締めて耐えた。ここで膝を折ってどうする。こんなところで死ぬために、自分は今まで戦ってきたわけではない。そうだろうに。

 

 泥人形の腕が伸びる。その手が自分の肩に触れた瞬間にランセルノプト放射光を帯び、熱放射でその手を融解させる。

 

 そのまま連鎖的に一体は破壊出来るものの、人海戦術に出られれば自分の能力の底が見えてくる。

 

「もう、知れているぞ、お前の能力……。熱を操るのだな。それも熱エネルギーの原則を破って。高熱をそのままの状態で維持し、相手へと理想的な部位に放射、あるいは留める事が出来る……。なるほど、暗殺にはもってこいの能力だ。だが、派手なパワー型ではない。ゆえに、数の圧倒には押し負ける。それが必定というもの」

 

「……うるさい。黙っていろ。どうせゲートが閉じればお前の負けだ」

 

「ゲートが閉じれば? それは確かにそうだろうさ。だが……その時が果たして訪れるかな? おれの能力が終焉するとすれば、それはこの疑似ゲートを買い付けようとPANDORAか、あるいは他の諜報機関がゲート内物質で反作用を起こさせようとでもする時だろう。さて、その時までお前は生き永らえているか? あるいは生きていたとしても、そいつらを相手取って勝てる体力が残っているとでも?」

 

「……お喋りだな。契約者らしくない」

 

 その言葉に相手は暫時、沈黙を挟んでいた。

 

「……かもしれない。おれは、契約能力を行使している間は、契約者ではなくなるのかもな。ゲートそのものになっているんだ。そりゃ、ちょっとは人間味も出てくるさ」

 

「人間味? ……笑わせる。こんな異形の能力を使っておいて人間味なんて。……その冗談はどこから出てくるんだ?」

 

 問いかけた紅に相手は余裕の声を漏らす。

 

「話し相手が欲しいのだろう? ……分かるとも。こうやってもう何時間だ? 何時間も無言で戦闘行為なんて出来るはずもない。しかも、周りの景色は移り変らないんだ。何もない虚無に向けて刃を振るっているに等しい状況は、お前の精神を苛むだろう。いつ発狂してもいい。その時には我が能力が、お前を押し潰した勝利の時だ」

 

「……馬鹿馬鹿しい。契約者は一時の勝利に陶酔しない」

 

 しかし、まずいのは事実。このままじわじわと押し負ければ、単純に消耗だけで根負けしてしまいそうだ。

 

 ここは自我をしっかりと保ち――と思ったところで、不意に眩暈が訪れる。

 

 疲れだけではない。この空間では疲労の蓄積も何倍もの速度で訪れる。

 

 せめて時計を持ってくるのだったと後悔する。

 

 何時間、何十時間か。

 

 もう分からない。自分で時間を判定する術が全く存在しない。

 

 しかし、末路は見えている。

 

 自分が打ち死ぬか、相手が能力ごと消滅するかのどちらか。

 

 疑似ゲートを消失させる術はまるで考え付かない。と言うよりも、考えを放棄している。

 

 なにせ相手はゲートだ。ゲートの内側では何が起こってもおかしくはないし、何が起こってもそれはゲート内だから、という一事に集約される。

 

 疑似ゲートの中でも同じとは限らないが、ゲートの情報は極秘管理されており、自分達のような現場のエージェントにもたらされる事はない。

 

 ゆえに、ここで切り抜ける方法を自分は知らない。ゲートに関して、少しは知ったつもりであったが、潜入した時も結局、何が起こったのか分からなかった。

 

 ならば、契約者の能力の範疇にあるゲートならば余計にであろう。

 

 何が起こるのか分からない。そして、何をもって終わりなのかも。

 

 ――だが。

 

「……私はお前を破壊する。そうでしか、生き残れないのならば……私はゲートだって壊してみせよう」

 

「息巻くじゃないか、一契約者風情が。壊せるのか? ゲートを破壊出来たケースは存在しない。そうだとも。お前は一生、この地獄を見るのさ」

 

 紅は身を沈め、泥人形達を睨み据える。

 

 どこかで、一生はないだろう、と思っていた。

 

 何故なら、それを知覚する時にはもう、どちらかの死は確定しているであろうから。

 

 



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第四十三話「燼滅を煽る」

 

「物騒な街だな、ここは」

 

 そうこぼした男は仕立てのいいスーツを着こなし、新市街地を眺めていた。

 

「【煉獄門】が現れてからこの先……ニューヨークもかつての栄華を忘れ、最早ただの狂乱の都に成り下がったか……」

 

 諦観を浮かべたその声音に運転手は応じる。

 

「そうでもないですよ。ここはトーキョーとは一味違います。契約難民……かつての天国戦争で従軍した者達が控えていますので、各国諜報機関も目を光らせている。そこいらに居るかもしれない原石を探してでしょうね」

 

「そこいらに契約者が? ……ならばより物騒だと、判断せざる得ないな」

 

「新市街地にはほとんど居ませんよ。居るのは旧市街地です」

 

 怜悧な眼鏡のブリッジを上げて男は口にする。

 

「……かつての表舞台、ニューヨークの看板が、今や見る影もなし、か。なかなかに風刺が効く……」

 

「ですが、現地住民は【煉獄門】の出現にはもう慣れているようです。ちょっと迂回すればいいだけの、事故みたいなものだと」

 

 その論調に男は自嘲する。

 

「事故、か。ゲートを事故だと判定出来れば、どれほどに楽か。そんな日和見だから、天国戦争では痛手を負った」

 

「言って、ニューヨーク市民は天国戦争をまるで遠くの出来事のように感じています。あれだけ国力を増員した戦争を、なかったかのように」

 

「それは国民性かな」

 

「いいえ、ただ単純に……冷淡なだけでしょうね。みんなが無関心を決め込めば、それはなかった事になる」

 

「……極東の島国で少しばかり空気を味わったが、あれに近いのか。わたしもどうかと思うよ。【地獄門】……そして計画を円滑に進めるうえで、道化を演じるのはね」

 

「あっちでは外事四課でしたか」

 

「スケープゴートにはなっている。隠れ蓑にはもってこいだ。この身体に流れる、極東民族の血を、少しは役に立ったと評価出来そうだよ」

 

「それは何よりで。――ミスターエリック西島」

 

 名を呼ばれ、エリック西島は窓の外から運転手に視線を投じていた。

 

「何かな?」

 

「いえ、あなたは父上より【地獄門】の計画を任されている。とても誉れ高いのだと思っております」

 

「何だ、急に。褒めても何も出やしないぞ」

 

「ですが……【地獄門】を巡って契約者同士の戦闘は激化し、それはこのニューヨークでも然り。ゲートがあるから、契約者なんてものが跳梁跋扈する」

 

「……何だ、反ゲート主義者か? 言の葉でゲートは閉じんよ」

 

 どれだけ言葉を弄したところでゲートは歴然とした現実としてそこに「在る」のだから、ゲートを閉ざすのは人間の叡智に他ならない。

 

「シュレーダー博士が日本に現着したのがつい数日前と聞きます。それまで各国の研究機関を点々とされていたとか」

 

「あの変わり者の博士は拠点を据えてやると案外仕事をしてくれるものだが、ゲートの痕跡は各地に散らばっている。当然、そのデータもね。実数データを持ち込むのに世界一周の旅に出なければならなかったのはPANDORAとしては懐の痛い話ではあった」

 

 だが、シュレーダー博士の生み出すゲート内物質の構造を目にしたがあれは画期的だ。

 

 博士曰く、南米で一部の契約者が持ち合わせていた契約能力を特化させる物質と同等だと聞くが、それは定かではない。

 

 南米の戦争は誰一人として生き証人は居ないはずだ。それほどまでに凄惨を極めた戦場であった。エージェント達が送り込まれ、それぞれに殺し合いを行う、爛れた場所であったとも。

 

 呪われた地でどれほどの星が流れたのか、今は知る由もない。

 

 だがあの南米戦争を皮切りにして契約者というものへの見方は大きく変わったと言ってもいいだろう。

 

 契約者という、不明な存在を「有効利用」する術をある意味では心得たのだ。

 

「……契約者は人間ではない。人の皮を被った殺戮機械だ。彼らは平然と嘘をつき、他人を陥れる事に良心の呵責など覚えない。南米のデータを洗い出せば出すほどに、これは確かなのだと思い知らされる。まぁあのマッドサイエンティストは結果さえよければいいんだ。研究施設と金を与えてやれば、後はどうにでも転がってくれる。わたしが求めているのはその先……契約者が消滅し、人類が新たなる次元へと到達した先の未来だ。人間は知らなければならない。新時代の到来を。その時に、契約者と言う旧世紀の遺物をどう排除するのかが重要でしかない。……偽りの星空が消えれば、月も戻ってくる。宇宙に衛星も飛ばせる。確実に人類の生活基盤は五十年規模で上塗りされるだろう。それほどまでに、人類対契約者は必要な構図なんだ。……今はまだ、どちらも理解していないようだがね」

 

「人は人、契約者は契約者、ですか」

 

「そうなのだと規定したほうが精神衛生上いい。誰もが契約者に成り得る危機感のある時代に、次世代を芽吹かせられるものか。契約者は一匹残らず駆逐する。それがわたしと……そしてPANDORAの決定だ」

 

「……その時には、いい身分に成らせてもらえるのでしょうかね」

 

「君は随分と弁の立つようだが、言っておく。口達者なだけではこれから先の時代、生きてはいけない。やるのなら実力行使だ」

 

「――なるほど、胆に銘じて、おきましょうか……ねッ!」

 

 運転手が不意にハンドルを切り、車両を急停車させる。横滑りになった車両の中で運転手の身体より立ち昇ったランセルノプト放射光にエリック西島は落ち着き払って応じていた。

 

「……契約者か」

 

「聞き捨てならないな、エリック西島。契約者を駆逐する? ……させるものか」

 

「どこの手の者だ? UB001の擁する例の契約者集団か? それとも、他国の?」

 

「……答える義務など……ないッ!」

 

 赤く煌めいた瞳がエリック西島を捉える。直後、バックミラーが輝きその鏡の中に入っていた車両部位が吹き飛んでいた。エリック西島は後部座席から道路へと転がり、辛うじてその攻撃を回避する。

 

「……鏡に映した空間の粉砕能力……」

 

 運転手は後部座席の消滅した車両を停車させ、ゆっくりと歩み寄ってくる。エリック西島は拳銃を構えていた。

 

 運転手は手鏡を翳し、ランセルノプト放射光を浴びせる。

 

 空間が鳴動し、直後に巨大な音を立てて吹き飛ばされていく。地面が捲れ上がり粉塵が舞う中でエリック西島は照準していた。

 

「……手鏡でもやれるのか。だが、あまりに杜撰だな。殺すのならもっと早くにすべきだった」

 

「PANDORAの狗が、偉そうに講釈垂れるんじゃないぞ」

 

「なるほど。ならば君は、その狗以下だ」

 

 銃撃された運転手は手鏡を突き出す。

 

 銃弾が鏡に突き刺さり、その肩口を射抜いていた。

 

「悪いが、対契約者戦闘は慣れていてね。極東国家ではまともにやり合わないだけだ。一対一ならば分はあるのだよ」

 

「何を言っている……。言っておくが、反射するものならば何でもこの能力の適応内だ。このサイドミラーも……地面に落ちたガラス片でも……!」

 

 ランセルノプト放射光の青白い燐光が周囲で乱反射する。一斉に掃射されれば逃げ場はないだろう。

 

 しかし、エリック西島は落ち着き払い、時計に視線を落としていた。

 

「……ふむ。一分だな」

 

「何を――」

 

 その瞬間、撃ち込まれた弾丸が明滅する。体内で瞬き始めた弾頭に運転手が目を向けた直後、弾痕から体内がぶくぶくと肉腫を伴って膨れ上がり、弾け飛んでいた。

 

 鮮血が迸り、エリック西島は首肯する。

 

「ゲート由来の弾丸でね。契約者の能力行使時のランセルノプト放射光に反応し、そして体内から弾け飛ぶ。人間相手にはただの弾丸だが、契約者にとってこれは如何に毒なのか、分かるだろう?」

 

「ぎ、ぎざまぁぁっ! あぶ、あぶぶぶぶぼぁ……っ!」

 

 半身を吹き飛ばされても相手は健在だ。エリック西島は冷笑混じりに拍手する。

 

「さすがは契約者だ。PANDORAの重鎮たるわたしを暗殺しようとするだけはある。それなりに意地はありそうだな」

 

 だが、とエリック西島は相手を冷たく見据える。

 

「対価と言う精神的強迫観念に駆られた亜種人類は醜いだけだ。見たところ対価は言語能力の退行だな。文化的に成り下がった人間の枠を自ら外す、愚かな行動だな」

 

「あぶ……っ、ぶばばぁあ――!」

 

 冷徹にその銃口が据えられ、一発、二発とその体躯に撃ち込まれる。内奥よりランセルノプト放射光を誘発させ、炸裂弾が効果を発揮していた。

 

 四散した契約者相手にPANDORAの特殊兵装に身を固めた護衛部隊がようやく合流する。

 

「遅いぞ。何があった」

 

「……すいません。この契約者に出し抜かれました。完全に我々のコードを物にしていて……」

 

「言い訳は結構。やれるならばやる。やれないのならばやれない。この二つだ」

 

「……疑似ゲートは開いたままです。我々の介入を拒む性質を持つようで……」

 

「東京の【地獄門】とも、南米の【天国門】とも異なると?」

 

「……性質としては同じのはずなのですが、一契約者の発現せしめたこの疑似ゲート……謎な部分も多く……」

 

「御託はいい。突破出来るのか、出来ないのか」

 

 では、と護衛員が声にする。

 

「……並大抵の物質は外側からの攻撃を無効化します。やはり……ゲート由来の物質でなければ……」

 

「なるほど。シュレーダー博士の発明品があったな? あれを使う」

 

「まさか……黄金の流星を? 危険過ぎます、あれは……下手をすればこの新市街地を吹き飛ばして――」

 

「聞こえなかったのか? 使うと言ったんだ。ならば使用準備をすべきだろう。現地の人間は犠牲になったところで仕方あるまい。彼らも巡り合わせが悪かった。それだけなんだ」

 

 そう、巡り合わせが悪かっただけ。そうだと規定し、切り捨てるべきなのが選ばれし優勢種とそうでない者との違い。

 

 元々、契約者殲滅を掲げている自分達PANDORAからしてみれば、一国が消滅しても駆け引きがやりやすくなるだけだ。それほどの重要な因子にはならないだろう。

 

「……了承しました。黄金の流星を、では出来るだけ早く……」

 

 護衛員が離れていく。エリック西島は時計を見やり、新市街地へと向かっていく新たな車両に乗り込んでいた。

 

 乗り合わせるなり、相手の首筋にコードリーダーを合わせる。こちらの認証コード通りの人間のプライベートデータが参照され、エリック西島は銃を仕舞っていた。

 

「……我々の認識不足でした」

 

「いや、いい。どうあっても契約者達は足掻いてくる。ならば、眼前で摘むのもまた、生き残るべき人類種の資格だとも」

 

 それにしても、とエリック西島は視野に入り始めた浮浪者達を眺める。

 

「……いやにホームレスが多いな、この街は」

 

「元々多かったんです。それが契約難民問題で、表面化したようで」

 

「東京もこれを辿るか。……いや、あれは【地獄門】だ。もっと悲惨な末路を迎えるに違いない」

 

「お忙しい中での訪問です。市長はお望みでしょう」

 

「どうかな。案外、PANDORAの遣いなど煩わしいだけかもしれない」

 

 とは言え、とエリック西島は息をついていた。

 

「……悲しいものだな。街一つ消えるのに、その事を誰も知らないとは」

 

 



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第五章「紛い物は、陰惨なる結末を描いて…」(後編)
第四十四話「憶測を佇む」


 

 ふと、現場周辺に目線を振り向けたジキルにミシュアは疑問視していた。

 

「あの……何か?」

 

「……珍しい形の観測霊が」

 

「観測霊……っ!」

 

 慌てて拳銃に手をかけようとしてジキルが制していた。

 

「普通の人間には見えませんよ。契約者にしか見えない……暗号のようなもので。ですがこの暗号は……面白いな」

 

「面白い? どういう……」

 

「あのニューヨークの赤ずきんが、疑似ゲートの中に居るようです」

 

 その言葉にミシュアは眼を戦慄かせる。

 

「まさか! だってあれの星のスペクトルは……!」

 

「あるいは、疑似ゲートの中に居ると観測出来ないか……。確定情報のようですよ。あちら側の組織の有する、受動霊媒の仕業です。我々にだけ……事実を伝えようとしている」

 

「……あちら側に裏切り者が?」

 

「いえ、と言うよりも……。なるほど、こちらを利用する腹積もりですか。観測霊とその言の葉を拾えるのは我々契約者のみ。それもこの局面で周辺地域に居るのが私とジェッツだと分かっていての情報漏えい……。高みの見物、と言いたいわけですか」

 

 仰ぎ見たジキルに釣られてミシュアも空を仰ぐが、一匹の蝙蝠が飛び立っていくだけであった。

 

「……つまり、我々に動いて欲しい、と……MA401の組織は思っていると?」

 

「組織立った行動とはどうも思えないのですが……しかし、こうして伝えてくるところを見るに、期待はしているようですね。よろしい。協力しましょう」

 

「ちょ、ちょっと! ……身勝手な真似は……」

 

「ですが、どうです、これは」

 

 ジキルの視線の先にあったのは封鎖された道の奥に佇む半球状の結界――濃霧の奥を青白く胎動させる疑似ゲートであった。

 

 ここに到達するまでだけで数回の身元確認が必要だったが、ジキルの同行でうまく切り抜けられた。

 

「……恐らくもう、PANDORAは動き出している」

 

「そうですね。構成員らしき者達を見かけました。ああ、視線は向けないように。我々はあくまで、愚行を演じるとしましょう。現場警察が愚直にも向かってきた、という体裁が相応しい」

 

 視線を振り向けようとしてミシュアは慌てて疑似ゲートを見据える。

 

「……契約者ですか」

 

「いいえ、PANDORAのような徹底的な組織に契約者は少ないでしょうね。居たとしても、PANDORAに好印象は持っていないはず。それでも心配要りませんよ。契約者らしき殺気は見受けられません」

 

 その言葉がいつになく頼もしかったのは、やはり契約者同士の戦闘となれば自信がないからだろう。拳銃一丁で対戦車ほどの強さを誇る相手にどう足掻くと言うのか。

 

 安堵半分、警戒半分でミシュアは疑似ゲートに視線を注ぐ。

 

「……こんなの、どう突破して……」

 

「あまり物事の表面だけで判定しないほうがいい。疑似ゲートと聞いていましたが、思ったよりも契約者寄りだ。ゲートの無慈悲さに比べれば随分と人間臭い」

 

「人間臭い……?」

 

 当惑しているとジキルは一礼する。

 

「失礼、……この言い種はどうにもよくないですね。ですが……この契約者はミス401MAを巻き込んで……自爆したようなものです。極めて非合理的な行動であったと言えるでしょう」

 

「何でそこまで分かるんですか?」

 

「……契約者だから。それは理由になりませんか?」

 

 問いかけたジキルの眼にミシュアは首を傾げる。

 

「はぁ? ……なるわけないじゃないですか」

 

「では失敬して。……先ほど観測霊から得た情報です。ミス401MAは勝負をかけている、とも」

 

「勝負を……かけている?」

 

「有り体に言えば勝てないはずの自滅に巻き込まれておいてまだ勝とうとしている……これは吸収された観測霊から得た情報ですが」

 

「吸収? それは天文部の?」

 

「ええ。この疑似ゲートは観測霊を巻き込んでいる……。近づき過ぎると、磁石のように巻き付いてしまうようですね。観測霊は元の形状を失い、ただただ情報のみを垂れ流す存在と成り果てる……。この疑似ゲートの特性ですね。観測霊は天文部に情報を返そうとするのですが、それがうまくいかず、エラーの繰り返しとなる。これではまるでいたちごっこだ。天文部がお手上げになるわけです。疑似ゲートが観測霊を吸い込んでいる。ですが、彼らの放つ客観情報を我々契約者は得る事が出来る。まぁ、この距離にならなければ、ですが」

 

「……あの、俺達にはその、観測霊も見えないんですよね。だったら、結局この事態をどうこうするのって……」

 

 ジャンの濁した声音にジキルは断言する。

 

「ええ。契約者の協力は不可欠。ですが、どうします? ……401MAのお仲間達に手を貸すか、あるいはここでの状況はあくまでも我が方のみの物とするか。どちらに転ぶとしても、疑似ゲートの消滅のためには奔走しなければならない」

 

「……MA401と……手を組む……」

 

「形としてはそうなりますが、どうしますか? 天文部の観測霊ではこの疑似ゲートの特性上、優位は打てませんが、エミリーと401MAの仲間である観測霊を組み合わせれば、可能かもしれません」

 

 付き従っているエミリーは相変わらず読めない瞳を浮かべたまま、すっと指差す。

 

「あそこに観測霊」

 

 ハッとミシュアは警戒に入るが、そうだ意味がないのだった。自分達常人には、観測霊は目視出来ない。それだけに留まらず、現状を的確に把握するのにはジキル達以外の契約者の協力が不可欠であろう。

 

 下手に意地を張ったところで仕方あるまい。

 

「……手を組む、とは言いません。利用しましょう」

 

「それぐらいの気概でいいと思いますよ。何せ、相手もこちらを利用する腹積もりだ。どちらが最終的に得をするのかは置いておくとして、ここでは一手の過ちも惜しい」

 

「本気ですか、課長。相手は得体の知れない、契約者なんですよ」

 

「おや、その論法だとミスター。我々も、ですが」

 

 ジキルの返答にジャンは言葉を彷徨わせる。ミシュアは嘆息一つで余計な感情を打ち切っていた。

 

「契約者であろうがなかろうが、この疑似ゲートを相手にすれば、国家間の取引すらあり得る……。ここでは他の諜報機関に先んじられないように、我々ニューヨーク市警は動かなくってはいけない。それが使命でしょう?」

 

 ジャンはどこか不承気にそれを受け止めていた。

 

「……ですが、相手は観測霊以外を飛ばしても来ない。フェアじゃないですよ」

 

「そうでもない。観測霊の性質さえ分かれば、これから先の戦いでいくらでも巻き返せます。ここは、一旦の停戦協定で済むのなら、長い目で見れば」

 

 ジキルの物言いには余裕が窺える。彼女は本気でそう思っている事だろう。そこに契約者特有の合理的判断が合わされば、疑う余地はない。

 

「……相手の観測霊は、何と?」

 

「自分の誘導に従って行動するように、と。あちらの持ち得る情報との共有もはかられていますが、どうしますか? エミリーに情報の共有をさせるかさせないかはあなたの判断です、レディロンド」

 

 ここでは迷ったほうが読み負ける。ミシュアは早急に判断を下していた。

 

「……構いません。どうせほとんど分かっちゃいないんです。天文部の観測霊もエラーを弾き出しているとなれば、我々の指針は一つ……」

 

「疑似ゲートを発生させている契約者の排除と、ゲートの消滅、ですね……。では応じるとしましょうか。エミリー」

 

 ジキルが顎をしゃくるとエミリーは手を払う。そこから観測霊が放たれたのかもしれないが、自分達には何も見えない。

 

「……この疑似ゲート、煙の類に近いから、私の観測霊でも干渉出来る……」

 

「そうですか。ですが、ここは相手が動いてからにしましょう。初手で誤ればそこまでです」

 

 あくまでも相手の手札の誘発を狙うか。ある意味ではジキルらしい手腕だ。

 

 エミリーは首肯し、瞬きもせずに疑似ゲートへと首を巡らせる。

 

「……当てになるんですか? 受動霊媒でしょう?」

 

「ミスター。あなたは少しばかりは契約者を……我々を信じて欲しい。あまりにも逸脱した行動を取るのはイレギュラーです。契約者の行動理念は合理的であるかないか。その点で言えば、ここで策を弄するのは合理的なのです。何せ、目の前に疑似ゲートがある。ここまで肉薄した時点で、他の組織を上回っている。ですが、油断なさらぬよう。各国諜報機関が動き出すとすれば、まさしく今。他の組織の動きは思っているよりも迅速だと想定したほうがよろしい」

 

「……こちらの警戒を潜り抜けて、敵はやってくると?」

 

 ミシュアの問いかけにジキルは頭を振る。

 

「敵、かどうかも微妙ですがね。少なくとも401MAのお仲間は手を組む所存のようですし、ここは慎重に行きましょう。味方だと言われれば、ではその通り、と言うわけでもございませんし」

 

 味方を騙って情報網に近づかれるよりかは、敵だと断じた相手だとしても手が割れているほうがやりやすい、か。

 

 MA401とその仲間は確かに驚異的だが、現時点で手を組もうとしているのならそれには乗っかるべき。

 

 ジキルの合理的判断能力はここで光る。

 

 平時では敵であったとしても、こちらへと好条件を持ちかけてくるのならば最大限に利用し、それから判断を決める。通常の人間ならばしがらみや因縁でそうだとは言えないところを、契約者ならばその場その場の最も効率的な道を選び取れる。

 

 ――ある意味では、とても戦いに適した人種……。

 

 それが契約者なのだとすれば、先の天国戦争での徴用もある意味では頷ける。問題なのは、一時的とは言え、仇敵と手を組むと言う精神的なもの。

 

 そう、それは所詮、一市民に過ぎない自分の個人的な感情だ。そんなものに振り回されて、大局を見失うわけにはいかない。

 

 だが合理性を突き詰めれば、それは契約者と変わらないのではないか。

 

「……共闘を申し出ましょう。そうでなければ、我々だけの叡智では……」

 

 ここは素直に認めるしかなかった。自分は無力、そしてただの人間では解き明かせない叡智の塊が、こうして屹立している。

 

 ならば、外道と罵られようとも、彼らと手を結ぶ。

 

 ジキルは指を弾き、声を跳ねさせた。

 

「スマートな判断です。レディロンド、まるで契約者のように」

 

 その言葉には胡乱そうな眼差しを流すと、ジキルは咳払いする。

 

「……失敬。言葉が過ぎました」

 

「いいけれどさ、とっととしないと、この疑似ゲート、ヤバいんじゃないかな」

 

 ジャンに連れられた形のジェッツの言葉にミシュアはそういえば、と思い返す。

 

「……ジェッツ……の攻撃でゲート内部へと押し進むのは……」

 

「無理だね。やれたとして、もしそれで取り返しのつかない事になるのなら、ぼくはやらないよ」

 

 ジェッツの声音は冷たいが、どこかで諦観を漂わせていた。

 

 自分がどうこうしても結局のところは、意味がないとでも言うように。

 

「……でも別に武器を投げる事はないのでは……?」

 

 ジャンの発した言葉に全員の視線が集まる。彼は、あ、いや、と手を振っていた。

 

「少年君の能力なら……疑似ゲートの皮膜を突っ切って、中を観測出来るんじゃないですか……って思っただけで……。すいません、素人考えで……」

 

 平謝りするジャンにジェッツは、いや、と手元のダーツに視線を落とす。

 

「確かに。元々はダーツの攻撃性能に重点を置いているからこそ、この使い方しかしないが、君の言う通りかもしれない。ジキル」

 

「ええ、それならば今からでも用意出来るでしょう。レディロンド、投げても壊れない程度のカメラを、用意出来ますか?」

 

 尋ねられてミシュアは呆気に取られてしまう。

 

「えっと……どういう……」

 

「ぼくの契約能力は、投げた物質の加速。でも別に、今は誰を殺すでもないし、よくよく考えればダーツにこだわっているのは攻撃性能を熟知しているのと、慣れているからだけだ。今は疑似ゲートの渦のような皮膜さえ破れればいい」

 

「まぁ、つまるところはダーツじゃなくってもいい。それなら、疑似ゲートの渦を突破する速度でカメラを打ち込み、そこからリアルタイム情報を読み込む。そうすれば、中がどうなっているのか分かるはずです」

 

「……突破出来るんですか? 疑似ゲートを……」

 

「やってみないとそれは。でもやる価値はある」

 

 帽子を目深に被ったジェッツにジキルが首肯する。

 

「やってみましょう。価値ある一手のはずです」

 

 二人して言うのならば止める理由はない。ミシュアは警察無線を取っていた。

 

「……ロンドです。至急、用意していただきたいものが……」

 

 



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第四十五話「勝利者を問う」

 

『動いたな。後は中で紅が生きているかどうかの賭けになるが……』

 

 ブルックは傍らで反射板に手をつけているガーネットを見やる。ガーネットの受動霊媒は光を触媒とする。だが疑似ゲート内部には光の屈折角があるかどうかも不明。

 

 ならば、その前段階で立ち往生している契約者に見つけてもらうのが早い。

 

 相手が強硬派ならばどう出るか分からなかったが、ガーネットは小さくこぼす。

 

「……相手のドール……前に紅を追っていたのと同じ」

 

『レールガンの契約者の、か。クォーツの遺したドールが、こういう形で役に立つとは……』

 

 己の不実にブルックは歯噛みしつつも順調に推移しかけているのを感じていた。

 

『……紅は生きている。そう思って行動したほうがいいが……もう十二時間……か。そろそろ常人ならば限界だな』

 

 そもそも常人の尺度を持ち込むのも間違いであるが、自分達の連携は紅をアタッカーとする事で輝く。だからこそこんな形で弱点を露呈するとは思いも寄らない。

 

「……紅の心拍も、ランセルノプト放射光も分からない。あのゲートの中じゃ、何も見えない……」

 

『……ガーネットの観測霊ではここまでか。だが、しかし、少し驚いたぞ。グレイは投げたのに、お前は付き合ってくれるとはな』

 

「……別に。ただ命令に従っているだけ」

 

 それも言われてしまえばその通りだ。このチームは自分を司令台にして動いている。だから自分が命じてしまえばそこまでなのだと。

 

 しかし、ガーネットも天文部の観測霊と同様に、疑似ゲートに巻き込まれる可能性はあった。その危険性を説く前に、彼女は行動していた。

 

 別に断る道もあったと言うのに。

 

 ――あるいは、ガーネットも何か……紅の行方に思うところでもあるのだろうか。

 

 それはさすがに直接聞くのは憚られて、ブルックは話題を逸らしていた。

 

『……グレイはしかし、来なかったな……』

 

 それも当たり前か。彼にそこまでする義理はない。組織の命令も降りない以上、これは身勝手な行動だ。

 

 だから責を負うのは自分だけでいい。ガーネットに関してはドールであるという事で放免されるだろう。

 

 自分が、その責任を一手に負えば――。

 

「何をやっているんだ。ブルック」

 

 不意に背後から声をかけられ、ブルックは振り返る。グレイが夕刊を片手に歩み寄ってきていた。

 

『……来てくれたのか……』

 

 想定外に声にすると、彼は何でもないように返答する。

 

「……組織が紅と言う契約者に関して、便宜をはかるとの方針だ。身勝手な行動が目立つが、疑似ゲートの中に居るという事は生き残れればその契約者の能力やゲートの詳細を知る事になる。その時に手綱は握りたいのだと」

 

 嘆息を漏らしたグレイは、自分達の佇むラジオ塔の屋上を眺めていた。

 

「……こんなところからわざわざ? ……馬鹿げている」

 

『……グレイ。お前にはそこまでの義務はない。別に断っても……』

 

「冗談。あの芋女がそう簡単にくたばるわけないだろ。……僕だけ手柄を取り損ねるのは流儀にもとる。……協力しようじゃないか。どうせ、手が要るところだろう?」

 

 夕刊を肩に担ぎ、彼は問いかける。ブルックは疑似ゲートへと視線を戻し、言いやっていた。

 

『……その、すまな――』

 

「契約者らしくない事を言うんじゃない。合理的に判断しての行動のはずだ。僕だって少しはそのおこぼれに与りたい」

 

 彼の真意はそれだけではないのは分かり切っていたが、ブルックは言及しなかった。

 

『……しかし、まさかこちらを追って来ている連中とかち合うとはな』

 

 双眼鏡を覗き込んだグレイは、ほうと息を漏らす。

 

「喪服の女と帽子の少年……契約者だな。紅と戦ったって言う」

 

『報告書には目を通した。喪服のほうが物質透過能力、子供のほうが投擲物質の加速だ。……どちらも厄介な契約者だが、敵に回さなければいい』

 

「……物は考え方だな。しかし、敵に回さないほうがいい、は同意。物質透過なんてされたら、僕らじゃ勝てない」

 

『だが物質透過でもゲートには入れないらしい。まぁよくよく考えればその通りか。その程度の能力でゲートを籠絡出来れば、今頃【煉獄門】も相手の手の内だろう』

 

「あるいは制限付きか……いずれにせよ、異常な光景だな。可視化出来るほどの濃度の疑似ゲートに、手をこまねく受動霊媒か……」

 

『入れないんだ。まるで逆巻くように渦を成している。あの暴風に巻き込まれれば、観測霊を呑まれてしまう』

 

「……まぁ観測霊は一般人には見えないが。それにしたって異常な光景だな。警官隊が固めてはいるが、どこかの国の諜報部隊が攻め込めば終わりの布陣だ。あまりお勧めは出来ないぞ」

 

 分かっている。切り込むのにはあまりにも足りない。しかし、だからと言って何もしないのはもっと我慢ならない。

 

『……俺は紅に一個借りがある。だからこうやっているだけだ。グレイ、お前はそうじゃないはず。命令だから、と言う理由ならば後々で棄却出来る。別段、ここで退いても……』

 

「冗談。ここで色々と恩を売っておけば組織に対して優位に立ち回れる。一人だけ優等生気取るなよ、ブルック。組織はここに来てどう僕らが動くのかも評価の軸にしているはずだ。なら、せいぜいうまく駆け回るのみさ」

 

 どうやらこちらの不安は杞憂であったらしい。いや、これも強がりめいてはいるが。

 

『……疑似ゲートにはしかし、観測霊を吸収する能力があるらしい。深くは切り込めないぞ』

 

「だったら、せいぜい僕達のやれる事は、他の連中を動かすくらいだろう。契約者があの疑似ゲート相手にどう動くのかを先回りして予見するしかない」

 

『……既に警察と同行している契約者集団とは連絡を取った。だが……後はこちらの想定通りに動いてくれるかの賭けだな』

 

 そう、賭けでしかない。それも分の悪いギャンブルだ。相手が自分達の思っている通りに動いてくれるかの期待など。

 

 グレイはふんと鼻を鳴らす。

 

「契約者でも神頼みか」

 

『何を言っている。契約者は神なんて信じちゃいない』

 

「合理的じゃないからだろう? ……冗談くらい通用しろよ」

 

 ブルックは飛翔し、再び疑似ゲートへと接近を試みようとしていた。

 

『……俺は相手方の動きを仔細に分析する。グレイ、お前が来たんならガーネットへの指示は任せるぞ。相手も受動霊媒を持っている。こちらの働きかけには積極的に応じてくれるはずだ』

 

「了解。しかし、まさか共闘なんて羽目になるなんてね。紅は分からない事ばかり起こす」

 

 それは自分も同意であったが、ブルックは言葉を振りかける。

 

『……恐らくはそろそろ精神力的にも体力的にも限界のはずだ。紅が生きているかどうかも賭けに等しい。ゆえに、一手でも打てる手は打っておく。それが適切のはずだからな』

 

「あの芋女が簡単にくたばるとも思えないがね。ま、そこんところは任せておくよ。僕はガーネットからもたらされる情報をさばけばいい、そうだな?」

 

 ブルックは首肯し疑似ゲートへと飛び立って行く。

 

 相変わらず青白く胎動する疑似ゲートは観測霊を巻きつかせて離さない。渦の中心点に向けて観測霊が集約され、それぞれの命令系統を乱されている。

 

『……疑似ゲート相手に、観測霊による情報収集は無意味。それに、外からの干渉に意味があるのかも。ともすれば弾丸も徹さない鉄壁か。あるいは生物のように柔い壁なのか……それも判然としないが……いずれにせよ、急ぐべきだろう。あの契約者集団が次手に移る前に……。いや、待て。何だあれは……』

 

 ブルックの視野に大写しになったのはこちらへと猪突する装甲車の群れであった。それぞれに乗り込んだ者達は全員、手練れであるのは気配から窺える。

 

『……まさか、PANDORAか? こうも早く動くとはな……。いや、あるいは想定内でもあるか。このアメリカは奴らの縄張りだ。ある意味では、秒読みでもあった。しかしまずいぞ……。PANDORAは対ゲート物質ならお手の物のはず。攻略するのは俺達よりも圧倒的に速い……。この疑似ゲートの勝利者はまさか、PANDORA連中になると言うのか……』

 

 胸に過った疑念を掻き消すように、ブルックは逆巻く疑似ゲートの直上を飛び回っていた。

 



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第四十六話「不合理を超える」

「……死んだか?」

 

 泥人形が屹立する。紅は近づいてくるそれに対し、息を切らせ、呼吸を詰めていた。

 

 ほとんど挙動せず、その場に立ち竦んだまま相手の接近を許す自分に対し、疑似ゲートの契約者の声が響き渡る。

 

「諦めるのなら、潔いほうがいい。そのほうが随分と合理的だ」

 

「……ふざけるな。私は、ここでは死ねない」

 

 泥人形が腕を振るい上げた刹那、振るったクナイで相手の腕を根元から掻っ切る。積極的な応戦に出るのにはしかし、もう身体が限界を迎えていた。

 

 見渡した視界の中には泥人形は十体以上。それでも何か、効果的な戦術を講じるだけの頭もほとんど残っていない。

 

 時間感覚の失せた濃霧の中で、紅はもう駆け抜けるだけの体力も残されていなかった。

 

 だからせめて接近し、攻撃してくる相手への応戦のみが自分の耐久力を見越した戦術だ。

 

 しかしそれではあまりにも手数が足りない。

 

 如何に緩慢な動きとは言え、相手は十体以上。それも契約能力によって生み出された存在ならば、こちらも能力を振るうしかない。

 

 だが性根尽き果てた自分に、どこまで抵抗の意思があるだろうか。

 

 闇雲に刃を振るうのは無駄であると判定したのが、かなり前のように感じる。

 

 応戦の刃のみをしかし、振るい落とすのはそれも難儀だ。相手は一体でも欠ければ即座に精製される。減らない敵を相手取って勝てるような能力ではない。

 

 無限の持久力を誇っているわけもなく、紅は呼気を張り詰めさせていた。

 

 敵対する相手への攻撃は最小限に。それでいて相手の弱点を心得た一撃を。

 

 分かっている。もう手なんてほとんど残されていない。それどころか悪化する一方だ。だが戦局の悪化を理由にして逃げに徹するのもまた体力の無駄。

 

 この疑似ゲートからは逃げ出せない。そもそもゲートから出る手段なんて確立されていないのに、どうやってこの能力を突破すると言うのだ。

 

 手段もなく、ましてや展望もない。

 

 かと言って状況は悪くなる一方。

 

 手を打たなければならないのに、この濃霧では観測霊の一つも見られない。恐らく外部からの干渉は限りなく不可能なのだろう。

 

「そろそろ参ったとでも言えばいいのに。強情な契約者だ。体力も精神力も限界だろう。泥人形はお前の四肢を引き千切るくらいのパワーはある。死ぬ時はそれほど苦痛はないはずだが?」

 

「……ふざけるな。まだ……死ねない」

 

「死ねない? 死にたくないでも、死ぬわけにはいかないでもなく? 誰かに依拠する理由をでっち上げるのでもなければ、合理的判定を無視した感情論に持ち込むわけでもない。お前が言っているのは先ほどからちぐはぐだ。死ねない、と言うのは感情論と理性を天秤にかけた結果に訪れるような言葉だ。何かのために死ねない、何かを達成するまでは死ねない、とでも言うように。理由合っての言葉のはず。それは何故だ? 契約者の言うような言葉ではない」

 

「黙っていろ……。お喋りの寿命は短いぞ」

 

「短い? 可笑しな事を言う。もう何時間もこの能力を行使している。どうやら一度発動すれば自力で切れないと言う対価は大きかったらしい。何せ、対価は命だからな。契約能力としては最上もいいところだろう。制御も出来なければ、発動時のパターンも取れない不完全な代物だがね。それでもこのニューヨークを舞う赤ずきん一人を巻き添えに出来ただけでも、かなりの戦果か。さぁ、次はどの手に出る? どうやったところで、疑似ゲートを観測霊は突破出来ない。お前の仲間を頼ろうにも、誰もこのゲートの中には入れないんだ。そしてお前は死ぬ。揺るぎない。諦めて、泥人形に身を預けろ。そうそう惨い死に様にはならないはずだ」

 

「……私は誰も信じちゃいない……」

 

「確かに。契約者ならば誰かを信じると言う回路が不明だ。それは合理的ではない。何者かの意図を頼るのも、ましてや思考を慮るなど、最も正反対の位置にある思考回路であろう。……ならば何故、諦めない? それがこの場では最も効率がよく、そして合理性に満ちた判断のはずだ。これ以上の力の浪費も、ましてやこちらとの勝負も意味がないのは分かっているのだろう? なのに、何故――まだ立ち上がる?」

 

 こちらを見据えた泥人形達に紅はその瞳を赤く輝かせる。身に帯びたランセルノプト放射光を棚引かせ、泥人形の腕を斬り払った。

 

 ――そうだ。誰も信じていないのなら、何故まだ足掻く? 何故、まだ立ち向かう? 

 

「……それでも私は……」

 

「不合理を捨て、そして契約者としての合理性に走ったほうが楽だと言うのに、可笑しな契約者だ。何時間も観て来たが、ここまで非合理に走る契約者は居ないだろう。一体何が、そこまで駆り立てる? 言っておくが、疑似ゲートの外で人々が手をこまねているなど幻想だぞ? 誰も、この疑似ゲートには頓着していないかもしれない。それどころか、破壊を企てている可能性だってある。分かるか? お前はこのゲートと心中するかもしれない。だと言うのに、まだ何を信じる? 何を寄る辺にするって言うんだ?」

 

 ――ああ、そうだ。

 

「……誰も信じないほうがいい。誰かを信じたって、自分を託したって……結局、この世は一人きり。この世の最果てのようなこの場所で、私は……独りで死んでいく」

 

「そうだ。だから諦めればいい。その臓腑を引き千切って噛み締め、そして啜ってやろう。それが似合いの結末のはずだ」

 

 諦めればいい。そうなのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。

 

 疑似ゲートの中で、この契約者の捨て身の能力と共に死んでいく。それが自分の運命。帰結する場所……。

 

 ……でもそんなの――。

 

「……私の終わりじゃ、ない」

 

 泥人形へと紅は青白い燐光を帯びて駆け抜けていた。

 

 クナイを前に振り翳す。

 

 泥人形の顔面に亀裂が走り、五体が同時に頭部を砕かれて地に伏す。しかしすぐに代わりが補填されていた。

 

 これがこのゲートの理。

 

 これが相手の契約者の、能力。

 

 膝を折ってもいい。諦めたって、誰も文句は言いやしない。

 

 それでも……。

 

「私は、私に……失望したくない」

 

「失望? 契約者からは縁遠い感情だ。誰かに頼らないのならばそれは自分だってそうだろう? 欺き、欺瞞の中に自分を置く。それが契約者だ。必要とあれば自我さえも騙し切る。それが契約者だろう?」

 

「そうかもしれない。……いや、きっと、そうなのだろう。だが、私は……単純な話だ。ここで膝を折って、お前に負けて……それで終わる私自身が、許せない……!」

 

 睨み上げた紅の眼差しに天より声が投げられる。

 

「愚かな。契約者らしく、合理的に自分の命まで判定すれば楽だと言うのに」

 

「……その通りなのだろうな。だが、私に在るのはたった一つの命そのもの。だったら、この命に唾を吐くような真似だけは、決してしない。それは私がここに居る理由でもある」

 

 クナイを構え、泥人形達と向かい合う。相手の契約者の声が絶対者の響きを伴わせる。

 

「それは破滅の道だ。どちらにせよ、お前は死ぬしかない。これはもう決定事項だ。ゲートの奇跡に頼るか? それとも、この場で、起こるかどうかも分からない、偶然の積み重ねに何かを見るか?」

 

「……黙れ。私は、私自身だけを決して、裏切らないだけの話だ」

 

「ならば死ぬがいい。疑似ゲートを破る術はない。我がこの能力は無敵だ」

 

 その瞬間、紅は何かがゲートの濃霧を破って泥人形の眼前に転がり落ちたのを目にしていた。

 

 それは球体のカメラである。

 

 ケーブルが外から繋がれており、ハッとして飛び退った紅は次の瞬間、燐光を帯びたダーツが殺到したのを関知していた。

 

「……まさか、外からの介入? お前の、仲間か……?」

 

 信じられない論調の相手に紅はどちらとも言わない。恐らくこのダーツの攻撃は以前会敵した契約者の能力だろう。しかしクナイを交差させ、泥人形を見据えた自分に相手は恐れ戦いたのを感じた。

 

「……こんな、限りなくゼロに近い勝算を、お前は見ていたと言うのか……。それは合理的ではない」

 

「……合理的じゃないかもしれない。だがこの世に、奇跡はきっと、あるのだろうな」

 

 身を沈めて駆け抜け、転がってきたカメラの繋がる先へと紅は能力を行使していた。

 

「……カメラを焼くのか……?」

 

「違う」

 

 カメラは融解させない。ただ、この道が有効ならば、徹底的に利用してやる。その心持ちで放った能力の実行に際し、泥人形が背後へと迫る。

 

 振り返り様に一閃を放ち、紅はうろたえ気味な相手の声を聞いていた。

 

「あ、あり得ない! 勝算の少ないほうへと流れる契約者など……! そんなものはあり得ないはずだ!」

 

「……何を動揺している? 身体を失い、命を失う覚悟を持った契約者のそれではない。お前のその恐れこそ、契約者の合理性からは最も縁遠い代物のはずだ」

 

 言い当てられた不実か、あるいは虚勢か、相手は声を張り上げる。

 

「馬鹿な! 恐れだと? そんなものは存在しない! そうだとも……恐れてなどいないさ。ただ……あり得ない事をする契約者が、あまりにも愚かしいだけだ! 愚か者を、平常心では見られないものでね!」

 

 しかし相手の動揺は泥人形達を鈍らせる。泥人形の足先が溶け、その腕からは明らかに膂力が失われていく。

 

 この疑似ゲートは相手の契約者の精神に連動している。

 

 紅は天上を仰ぎ見ていた。

 

「……どうした? 愚かしければ殺すといい。簡単なはずだ。そんな事も出来ないのか? ――それとも、もうそんな勇気も湧かないか? それは契約者としての死と同義だ」

 

 こちらの挑発に相手は声を上ずらせる。

 

「な、何を嘗めた事を……! その身に刻ませてやる! その愚かしさ、契約者としての間違いを! ……どうした! 何故、泥人形達が思うように動かない……ッ!」

 

「……契約者の能力はその素質以上に相手との読み合いの途上にある。お前の契約対価は命のみかと思っていたが、そうでもないようだな。契約者としての精神的な死、それこそが対価であった」

 

「馬鹿な! 精神の屈服だと? ……そんなもの、訪れるはずが……!」

 

 だがその声音に反して泥人形達は次々と瓦解していく。契約能力を制御出来ていないのが、青白く明滅する濃霧から窺えた。

 

「……なら、お前を道連れにする。それくらいは可能なはずだ。戦意喪失だとしても、それくらいは……ッ!」

 

 確かにその程度ならば最後の一滴を絞り尽くせば可能だろう。紅は息を詰め、疑似ゲートの外へと視野を移す。

 

「どうした? ……やはり仲間を当てにするか! それは契約者ではない!」

 

「……私は誰も当てにはしない。だが、戦いに使えるなら有効利用するまでだ」

 

 既に手は放った。後は発動するかどうかは運任せ。

 

 紅はクナイを携える。泥人形達が最後の抵抗とでも言うように再構築され、呻き声を上げながら近づいてくる。

 

 ――あとは、我慢比べか。

 

 胸中に呟き、紅は駆け抜けていた。

 

 



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第四十七話「信頼を問う」

「映像! 来ました! ……これは……確認された契約者はMA401だけ……? それと無数の泥の……人形か、これ……」

 

 要領を得ないジャンの論調にミシュアはカメラから送られてくる映像を見据えていた。

 

 衝撃吸収材を施し、球体型のカメラならばジェッツの能力でも加速途上で崩壊はしない――そう見込んでの作戦だったが、どうやら功を奏したらしい。

 

 目論見通り、疑似ゲートの中へと潜り込んだカメラは蠢く亡者のような泥人形を映し出していた。

 

「……疑似ゲートの契約者は……?」

 

「確認出来ません……よね? ……どういう事なんだ、これ。契約者が居ないのに、能力だけ発動し続けているとでも……?」

 

 あり得ない、と言う語調にミシュアは、いえ、と判断を保留にする。

 

「……あり得ないなんて事もないのかもしれない。契約者に関しては分からない事のほうが多いんだから。……でも、じゃあ十二時間以上も、MA401は……戦って……?」

 

「それって不自然じゃ……」

 

「いえ、何も不自然ではないのでしょう。この契約能力がもし、発動そのものが対価だとすれば」

 

 ジキルの助言にミシュアは目を向ける。彼女は明滅する疑似ゲートを眺めていた。

 

「発動そのものが対価……? そんな事は……」

 

「おや、あり得ない事なんてないと言ったのはレディロンド、あなたでしょう? ……まぁ信じられないのも分かりますが、契約者は合理的な存在ですので。相手を倒すために、自分の身さえも尽くし切る。それこそが契約者としての在り方としては真っ当だ」

 

「……自分の死さえも、計算内だって言うんですか……」

 

 震撼するジャンにジェッツが何でもないように言いやる。

 

「それが契約者だからね。命一つに頓着していれば合理的な思考に支障を来たすと言うのなら、合理性の欠片もない肉体は捨てる……なるほど、実に合理的な判断だ」

 

「命さえも……捨てる……」

 

「どうなさいますか。中に居るのはミス401MAだけだと分かった。ならば、突入やこのゲートそのものの破壊に、頓着は必要ないと判じますが」

 

「……確かに。このまま天文部の観測霊を囚われたままなら、私達が状況を変えるべきなのでしょう。ですが、我々にはこの疑似ゲートの叡智を超えるのには……」

 

「ジェッツのダーツでも壊し切れなった。いや、壊してもその先から蘇る。そういう契約能力なのでしょうね。疑似ゲートの存在そのものが、能力の発動上限なしと言う状況を生み出している」

 

「……どうするんです。物質透過で……」

 

「無理ですよ。物質透過でも、それだけは分かる。疑似ゲートに下手に踏み入れば、この観測霊達と同じ帰結を辿ります。契約者でも同じでしょう。それに、もし中に捕らわれれば? それこそ下策だ」

 

「……課長。カメラをMA401が包んで……何をしているんだ……?」

 

 映像を観測するジャンはMA401がカメラを引っ掴んだのを目にして疑問符を浮かべている。その時、青白い燐光が棚引いていた。

 

「……カメラをやられる……!」

 

「いや、そうでもないようだ……。どういうつもりか知らないが、こちらの契機はあちらの好機もであった様子。やられましたね。有線カメラを入れたがゆえに……相手に勘付かれたか」

 

 ジキルは空を仰ぎ見ている。ミシュアも目を向けたが、曇天を飛び立って行く蝙蝠が視界を横切っただけだ。

 

「……どういう……」

 

「――そこまで」

 

 不意にかかった声と向けられた銃口にジャンが息を詰まらせる。ジキルはゆっくりと振り返り、自分は突きつけられた殺気に中てられていた。

 

「……あなた達は……」

 

 装甲服を着込んだ部隊を率いるのは神経質そうな眼鏡の男性であった。ブリッジを上げ、彼は声にする。

 

「PANDORAのエリック西島です。PANDORA法により、この疑似ゲートを我々がこれより管轄する」

 

「何を馬鹿な……! 俺達から掻っ攫うって言うんですか!」

 

「現地警察ではこれ以上は無力でしょう。カメラを入れたのはよくやりました。お陰で壊しても大して意味のないものしか入っていない事が分かった。これで我々のゲート反物質をぶつけてやれば、【煉獄門】のダミーに過ぎないこれは容易く瓦解する」

 

 エリック西島の冷たい論調にミシュアは食いかかっていた。

 

「ま、待ってください! 中には特一級の契約者が……!」

 

「なら余計に手っ取り早い。ニューヨーク市警の皆さまはあれに相当煮え湯を呑まされたと聞いています。余分な契約者に、余計なゲート。破壊するのに支障はない」

 

 そうだと断じた論調にミシュアは言葉をなくしていた。それ以外を規定しないエリック西島は部下の持つジュラルミンケースを顎でしゃくる。

 

 開かれたそこに内包されているのは、巨大なスタンガンを思わせる機械であった。

 

「ゲートを処置します。退いてください」

 

「……出来ません。我々は……ニューヨーク市警はそれでも、ここを管轄する義務が……!」

 

「ですが、何も出来ないでしょう? 後は我々に任せていただきたい。疑似ゲートのデータは既に算出済みです。何の気兼ねも要りません」

 

 いつの間に、と思う前に装甲服の部下達が進軍しかけてそれをジャンが押し留める。

 

「ちょっ……ちょっと、ちょっと! いくらPANDORAだからって、そういうのはないんじゃないですか! 越権行為ですよ!」

 

「越権だと言うのなら、そこを退いてください。PANDORA法に基づき、ゲートを処置するだけです」

 

「ですが……! ここには我々の追ってきた契約者が……MA401が居るのです! 彼女との決着がこんな風でいいはずがない!」

 

「……あなたのような仕事熱心は困る。割り切っていただきたい。契約者との戦いは一方的でなくてはならないのだと。そうでなければ彼らは戦車よりも強靭な能力を誇る。我ら一市民は、彼らと渡り合うためには叡智でもって対処するしかない。分かりますか? フェアプレイなんてものはないのですよ」

 

「ですが……! ここまで追い込んで……!」

 

「その気持ちも分からないでもないですがね。そういうしがらみを消すために我々は居るのです。トーキョーの【地獄門】だけでも相当に面倒なのにこれ以上面倒事を増やさないでもらいましょう。さぁ、処置を――」

 

 歩み出ようとしたエリック西島を制したのはジキルであった。微笑みかけた彼女へと侮蔑の眼差しが向けられる。

 

「……契約者だな?」

 

「おや、ばれますか」

 

「……ニューヨーク市警は何をしていらっしゃるので? 契約者と手を組むなど。言語道断としか言いようのない。彼らとの生存競争において、ゲートは強い意味を持つのです。だからこそ、この疑似ゲートの行方を各国諜報機関が追おうとしている。我々は他の国家がこの力を有する前に排除する義務があります。決して他国に渡してはいけないのです。だと言うのに……他の国家の契約者を前線に置くなど、考えられない。制御出来ない契約者など邪魔なだけです」

 

「おや、随分と毛嫌いされているものだ。しかし、レディロンドの論調が今は正しい。あなた方は後からやってきて全部を掻っ攫おうとしている。それは違うと感じる」

 

「……契約者らしい、合理的な判断とやらか? 汚らわしい……ッ!」

 

「退くのはあなた方のほうですよ、PANDORAの。何故ならばこれより先は私達の領分ですから」

 

 ジェッツが前に出る。

 

「少年君……」

 

「何度も言わせないでくれ。ぼくのほうが年上だ。それに、だからこそ分かる。契約者なんてゴミ以下にしか思っていないくせに、権利だけを主張すると言うのは。PANDORAとやらがどれほど高尚な組織であっても、彼女らを邪魔するのは違うよ」

 

 エリック西島は心底愛想の尽き果てたとでも言うようにミシュアを睨む。

 

「……まさか契約者と徒党を組むとは。それでも警察ですか、あなたは」

 

「……失礼ながら、彼らにも理由と流儀がある。それに、私には彼らのほうが真っ当な事を言っているように見えます」

 

「……PANDORA相手に喧嘩を売るのはお勧めしません。合衆国に住んでいるのならば、余計に」

 

 脅迫と来たか。ミシュアはしかし拳をぎゅっと握り締めて耐え忍ぶ。

 

「……どうとでも」

 

 これは見方によれば宣戦布告かもしれない。しかしエリック西島は強硬策には入れないのか、装置を手にした部下へと一瞥を寄越す。

 

「……三時間だけ、待ちましょう。確かに我々も義を通すべきであった。しかし、これは急務だ。他国がもし、軍事力をもって対処すればニューヨーク新市街地が戦場になりますよ? その時にせいぜい、対応に追われる事ですね」

 

 エリック西島が踵を返したのに対応して、武装した部下達も下がっていく。

 

 ようやく緊張を解いたミシュアがよろめきかけてジキルに抱き留められる。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……ええ、ちょっと……」

 

「PANDORAのやり方は変わらないね。どこの国でもまるで自分勝手だ」

 

 ジェッツの言葉にジャンは目を丸くする。

 

「少年君、奴らと面識が……?」

 

「他の国でもそれなりに諜報活動をするのなら大なり小なりPANDORAとはかち合う。まぁ、あまり相手にしたくない連中ではあるんだけれど。……だから何度も言わせないでくれ。ぼくのほうが年上だって」

 

「……いずれにしたところで、PANDORAがきっちりと上層部に渡りとつけるのはそう時間はかからないでしょう。三時間と言っていましたが、正式に辞令が降りれば一時間でもやってくる……。一刻も早く、この事態の解明に急がなくっては……」

 

 ミシュアは映像へと視線を投じる。しかし、カメラを通して得られるのは泥人形相手にまるで体力の加減を知らずに飛び込んでいくMA401の姿であった。

 

「……どうして彼女は……諦めないの……」

 

「分かりませんよ、彼女に関しては。我々へもまるで契約者とは思えない振る舞いをしたほどです。しかし、一つだけ分かるのは……彼女にも仲間が居る。やられましたね、連絡を繋ぐのには充分な時間があった」

 

「連絡……? でも無線も、観測霊も通用しない疑似ゲートに……」

 

「だから、彼女でしか出来ない方法でしょう。触媒が一個でも外から繋がれば可能だった」

 

 どこかしてやられたとでも言うようなジキルの口調にミシュアは疑問符を挟んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『グレイ、聞こえているな? 今しがた、紅から通達があった』

 

『通達? こちらから見た限り何もないが……』

 

 当惑するグレイにブルックは自分の視野で捉えた情報を伝える。

 

『俺が蝙蝠の身体でよかった……。可視光線以外も俺は見える。紅の熱放射による赤外線の投影。それによってゲート内部の情報を俺は得られた。パターンは俺にしか見えない。他の観測霊ではどう足掻いても不可能だろう。……あの契約者は、気づいていた様子だったが……』

 

 喪服の女契約者は勘付いていたようであったが、今はそれよりも次手を打つ事だ。ブルックは正確に紅の伝達情報を口伝する。

 

『……疑似ゲートの契約者の対価は自らの命と、そして制御不能な空間である事。つまり契約者本体は存在しない。……紅は体力の限界まで戦うとの事だが、もうそれはとうに過ぎているはずだ。加えてPANDORAも動き出している。あまり時間はない。グレイ、紅を手助けするのならば、一手さえも誤れない。――疑似ゲートを破壊する。それしか方法はなさそうだ』

 

『だが疑似ゲートの契約者は存在しないのだろう? そうだとすると契約者本体を殺害しての能力の中断は不可能なんじゃ……?』

 

『いや、紅はそれに関しても追加情報をくれた。正確には本体は死んだんじゃない。あの疑似ゲートに成り変わったんだ。ランセルノプト放射光を雷雲のように放っているのは契約能力の行使に他ならない。つまり、あの疑似ゲートの破壊はそのまま契約能力を行使する対象の破壊に相当する』

 

『じゃあどうするって? ……荒っぽいがミサイルでも打ち込むって言うのか? PANDORAを掻い潜るのにはそれくらいしか思い浮かばないぞ』

 

 グレイの言う通りだ。現状、強硬策にも出られるPANDORAを先んじるのにはそれを上回る大胆な策が必要となる。

 

『……ミサイルを打ち込めとまでは言わないが、それに近い覚悟は要るのかもしれないな』

 

 紅を救い出すのには生半可な作戦では駄目だ。何よりも紅の伝達した赤外線の波長パターンからそれほど時間はないのだと分かる。

 

『……あの芋女がどれだけ契約者だからって言っても、ミサイルに耐えられるとは思えない。確かに疑似ゲートはこの世から消えるかもしれないが……。もっとスマートな作戦を用意するべきだ』

 

『何だ、グレイ。心配しているのか?』

 

『心配? 何を言っているんだ、ブルック。僕らのアタッカーは紅だけだ。このまま死んでしまうのをここで見ているのを、組織は監視しているはず。僕達の進退に関わるんだぞ』

 

 確かにこのまま紅を見殺しにすれば、恐らく次はないだろう。そんな先の事まで考えられるとも思えないが。

 

『……グレイ。俺が実行する。策をくれ。お前はこのチームでは頭脳担当だろう?』

 

『身勝手言うなよ、クソッ……。ガーネット、観測霊は?』

 

『……紅の心拍数も脳波も受信出来ない……。変わらないまま』

 

『……だそうだ。ブルック、確かに芋女の能力なら、お前に赤外線で情報を伝えられるだろう。だがそれで何だと言う? ……あいつ自身が太刀打ち出来る策を用意出来ないのならば同じ事だ。僕達に出来る事は少ない。疑似ゲートをどうやって解除すると言う……』

 

『……ん? 待て、グレイ。今、何と言った?』

 

 問い返すと通信の先でグレイは狼狽する。

 

『え? 何だって?』

 

『何と言った、と聞いているんだ』

 

『何って……太刀打ち出来る策を用意出来ないのならって言う……』

 

『その後だ! 何と言った?』

 

 こちらの問いかけにグレイは戸惑い気味に応じる。

 

『……疑似ゲートをどうやって解除すると言う……』

 

『そうだ、紅は疑似ゲートを破壊する方法じゃない。解除する方法を俺に与えたんだ。……何でこんな簡単な事に気づけなかった……』

 

『お、おい! どういう意味なんだよ、ブルック』

 

『……疑似ゲートの契約者を、俺達は自然と排除する方策を考えていた。今までのように力任せに。しかし、そうでもないんだ。事ここに至ってあまりに遅いかもしれないが、方策が見えた』

 

 こちらの言葉にグレイはまさかと尋ね返す。

 

『おい、おかしくなったんじゃないだろうな? 方策が見えたって? ……聞くが、それは実現可能なのか? 自棄になったわけじゃ……』

 

『自棄になってなんていないさ。紅の能力を俺達は知っている。熱の自在操作……それは熱力学の法則さえも打ち破る。疑似ゲートの中は密閉状態。ならあいつの策はようやく完遂されようとしている。それを俺達に伝える術だけがなかったが、今回、あの警官と一緒に居る契約者が文字通り風穴を作ってくれたわけだ』

 

『……自棄になったわけでもおかしくなったわけでもなく……本心で言っているんだな? なら分かるように言ってくれよ。僕にはさっぱりで……』

 

 ブルックは空高く飛翔し、疑似ゲートを改めて見据える。青白く胎動する半球形の濃霧はあれそのものが契約者――その情報が確かならば紅の狙いがようやく見えてくる。

 

『人間が自身の熱によって自壊し、消滅しないのは何故か……。それを考えれば自ずと答えは限られる。紅はゲートと言う特殊状況下の体内において、臨界値を示そうとしているんだ』

 

『……生物学なら、僕はからっきしだが……』

 

『そうじゃない。もっと単純な事だった。あの疑似ゲートは契約者そのものなのだとすれば、熱応力によって崩壊もするはずだ。紅は恐らく、それを試している。密閉された完全なる空間だと言うのならば、熱はどこに逃げる? 逃げ場所を失った熱ももしかすると、渦巻く観測霊のようにあの疑似ゲートに蓄積されるのだとすれば……?』

 

『ちょ、ちょっと待ってくれ! ブルック。だとすれば、あの芋女……まさか……』

 

 息を呑んだグレイにブルックは言いやる。

 

『……紅は自らの命を引き換えにしてでも、あの疑似ゲートを解除するつもりだ。能力の行使は契約者の死によって全面解除されると言う法則に則るのならば、契約者を狙って……』

 

 そう、法則性も何もかも不明なゲートに対しての行動よりも、彼女がやったのは「見えている敵への応対」だ。あの疑似ゲートが契約者の能力によるものであるのだと疑わないのなら、その策は実行可能であるが……。

 

『……危険過ぎる。一歩間違えれば自分まで死ぬぞ……』

 

 震撼したグレイの言葉にブルックは首肯する。

 

『……ああ。紅は自滅するつもりか……? それはしかし、契約者としての合理性に反している……。契約者はどのような状況下でも、己の生存と任務の実行を主とするはずだ。なのに何故、こんな捨て身の策を思いつける……? 紅、お前は本当に……』

 

 その答えを紡ぐ前にブルックは不意打ち気味の殺気を感じ取っていた。

 

 超加速した燐光を纏うダーツを半身になってかわし、対空迎撃を関知する。

 

 

 舌打ちを滲ませ、ブルックは通信に声を放っていた。

 

『……勘付かれた、か。さすがにゲートの上を滑空し過ぎた。相手も俺が契約者なのだと……確信してはいないのかもしれないが、出来ればイレギュラーは排除したいに違いない。グレイ、一旦そちらに戻る。紅の策が有効なのだとすれば、疑似ゲート相手に何が起こるのかまるで未知数だ。近くに居るほうが危ない』

 

 ブルックは追い縋ってくるダーツを風に任せて身をかわしつつ、忌々しげに口走っていた。

 

『……紅。お前は何を……信じているんだ……』

 

 



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第四十八話「対価を払う」

「そろそろ終わりだな」

 

 告げられた言葉に紅は泥人形に突き立った刃が刃毀れしたのを感じていた。そのまま泥人形の手が力任せに払われ、地面を滑る。

 

「……ここまでよくやったさ。この能力相手に立ち回るとは、思いも寄らなかったよ。だが、それも終わり。この完璧な空間において、お前は邪魔でしかない。我が能力は無敵だ」

 

 紅は咳き込みながら天上を見据える。濃霧でまるで一寸先さえも窺えない白の闇に閉ざされた空間。それがこの疑似ゲート。しかし、それは「本物の」ゲートとは違う。

 

「……私は本物の【煉獄門】に入った事がある」

 

「何かの自慢か? それとも誇示か? いずれにせよ、そんな経験があったところで……」

 

「だから、分かる。本当に物理法則の狂った空間に投げ込まれるよりも、まだここには……希望の一つが取り残されているのだと。あの場所は異様だったが、ここは違う。ここは所詮はお前の作り上げた疑似的なゲートに似た密閉空間だ。お前の言葉が聞こえるのがその証拠」

 

「……だから何だと言う。言っておくが、ここに居る絶対者としてのこちらに、干渉する術はない。人格は取りこぼされた残りカスだ。疑似ゲートを適切に運用するための」

 

 その言葉に、やはり、と紅は冷笑を浮かべていた。

 

「……何故、嗤える……? 狂ったのか」

 

「いや……私の無謀な策が、ある意味では功を奏したのだと、確信したんだ。ここはお前の契約能力の中。契約者の能力を解除する術は共通して一つ。契約者本人の死でしかない」

 

「……馬鹿な。もうこの世に居ない相手を、殺す術など……」

 

「いや、契約者はこの世に居るから、契約能力を行使出来る。それを私はよく知っている。あの世に行ってまで契約能力を行使出来る相手は存在しないのだと。……だからこの疑似ゲートを構成するのは凡庸な物質でしかない。本物の【煉獄門】では物理法則も、時間の流れも意味を成さないのかもしれないが、ここならば出来る。私の能力を、ゆっくり……じわじわと行使する事が……」

 

 紅の体表をランセルノプト放射光が纏いつく。それに対し泥人形達が手を振るい上げて咆哮した。

 

「熱を操る程度の能力で何を!」

 

「……そうだ。熱を操る程度の能力。しかし私の能力はただ一つ……熱力学の法則を打ち破る事が出来る。熱は常に高いほうから低いほうへ……という法則を。熱量を一定に留め、相手へとそれを放つ……。今回は密閉空間だからうまく行ったが、本来はうまくはいかない。それは人間の体内に対してこの策を弄するのはまるで不可能だからだ。熱の蓄積なんて。でもここは疑似ゲート、そして契約者の能力そのものだ。なら、この作戦は可能だった」

 

「何を……何を言っているんだ! この契約者風情が!」

 

 紅の瞳が赤く輝く。

 

 その瞬間、ぴしり、と空間に亀裂が走った。相手の契約者は狼狽する。

 

「これは……疑似ゲートが……臨界点を迎えて……」

 

「そんな事はお前からしてみればあり得ないのだろう。お前はこの疑似ゲートを本来の【煉獄門】と同義だと考えていた。だが実際には……限りある人体に近い代物であった。物理法則は適応され、閾値を超えた熱を与えられた疑似ゲートは熱応力によってゆっくりと、破裂していく。その数値が不明だったが……何時間も勘付かれる事なく、ある一定の熱を与え続ければ到達可能だった」

 

「……まさか。この疑似ゲートで最初から、戦い続ける気なんてなく……!」

 

「当たり前だろう。こんな場所で死ぬまで戦ってなんていられるか。閾値を超えた熱を逃がそうと思えば、どこかでこの疑似ゲートを開くしかない。しかし、お前はこうも言った。この疑似ゲートは最早制御不能であると。ならば、定義付けられたこの空間そのものに対して、緩やかな熱をくれてやれば、やがて崩壊が訪れる……」

 

「そんな……そんな遠大な真似、ただの一契約者が出来るはずが……! いつまで熱を与え続ければいいのか分からない策ではないか!」

 

「……だが成功する見込みはあった」

 

 こちらの強気な言葉に比して疑似ゲートの内側から次々と泡沫の割れる音が響き渡る。やがて崩壊の途上を辿る空間は有限だ。有限であると、そう定義したのは契約者と言う存在そのもの。

 

 ここがもし、本当にゲートの中なら、こんな無謀な事は出来ないが、相手はこうも言った。

 

 これこそが契約能力なのだと。

 

「……死んでまで契約能力を行使する事は出来ない。これは契約者なら誰でも知っている事だ」

 

「貴様ぁ……ッ!」

 

 泥人形達の躯体に青白い光が宿り、一斉に加速度をかけて向かってくる。紅はクナイを逆手に握り締めたが、最早ほとんど刃の冴えはない。こうやって相手に向かい合っているだけでも意識が途切れそうだ。

 

 それでも、ようやく見えた勝利の軌跡。

 

 ならば無駄にするわけにはいかない。

 

 紅は雄叫びを上げて泥人形へと刃を軋らせる。しかし最期の時を感じ取った相手は容赦を知らない。泥人形が切り裂かれながらこちらの肉体を吹き飛ばす。大仰に咳き込んだ紅は肋骨がいくつかやられたのを感じ呻いたが、そのような隙さえも与えてくれない。

 

 即座に直上で拳を固めた泥人形へと浴びせ蹴りを与えて飛び退ろうとして、既に体力は限界を迎えているのだと悟る。

 

 姿勢を崩した自分へと泥人形が羽交い絞めを加えてくる。薄れゆく意識の中で紅はぴしり、と疑似ゲートが今にも砕け落ちそうなのを感じていた。

 

 相手も終わりを直感すればこその強硬策なのだろう。

 

 だがここで折れるわけにはいかない。ここで潰えるわけには、いかないのだ。

 

「……死ぬのはお前だけだ……」

 

 自身の体表から熱を放射し泥人形の肉体の融点へと達する。ぼろぼろと砕け落ちた泥人形から逃げ延びようとしたが、既に背後に回っていた泥人形に頭部ごと押え込まれる。

 

「負ける……ものか……。そうだとも、たとえお前の思い通りに……この疑似ゲートが崩壊しようとも……。勝利者なんて存在しない! 死ぬのは貴様も同じだ! MA401!」

 

 泥人形の膂力によって意識が遥か彼方へと遠ざけられていく。

 

 今だけは、意識の手綱を手離すわけにはいかないと言うのに、それでも指先から遊離していく感覚に、これが、と紅は直感する。

 

 ――ああ、ここが、これが死か。

 

 そうだと認めてしまえば容易いもので、紅は自我を消失点の向こう側に置いて行っていた。

 

 網膜の裏で赤い影が明滅する。今際の際に見る幻影か、と紅は感じていたが、その像があまりにも明瞭なものだから、ハッと脳細胞の一滴で見据える。

 

 振り返った赤ずきんの相貌が、笑みに歪んでいた。

 

 ――じゃあ私が、もらっていいよね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……死んだか」

 

 MA401の肉体が虚脱する。

 

 彼はしかし相手の思惑通りに疑似ゲートが崩壊の途上にあるのを感じ取っていた。まさかこんな策に気づけないとは、と意識の内奥で歯噛みしたが、もう心配は要らない。勝利者は決した。

 

「……貴様の負けだ、MA401……契約者としての勝利者は、こちらのほう――」

 

「――じゃあ、この身体は、私がもらうね」

 

「……MA401? ……いや、違う。お前は……誰だ?」

 

 からからと笑うMA401の肉体の内側から、何かが視線を向ける。

 

 ランセルノプト放射光の輝きがひときわ強く煌めき、その瞳が赤い光を湛えた瞬間、全てが決していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……時間です。退いていただきたい」

 

 エリック西島の通達にミシュア達は奥歯を噛み締めていた。

 

 ――結局、何も出来なかったのか。

 

 そう感じた途端、ジキルが歩み出る。

 

「……まだこの戦いは終わっていない。そうでしょう?」

 

「契約者は黙っていてもらいたい。あなた方に対しては発砲も許可されている」

 

「これは怖い。しかし我々は協力関係です。そちらの銃弾はニューヨーク市警に向けられたものだと判定出来る」

 

「……そんな事……」

 

 息を呑んだミシュアにジキルはウインクする。

 

「……本気で言っているのか。PANDORA法に照らしても契約者との戦闘におけるイレギュラーは認可されている。何が起ころうと、それは戦闘行為の途上でしかない」

 

「そこまで傲慢に成り果てますか?」

 

「……口にするだけ無駄だ。疑似ゲート破壊装置を」

 

「……いえ、それが……」

 

 顎をしゃくって強行させようとしたエリック西島に部下が当惑した様子で機器を調整する。

 

「……どうした?」

 

「……疑似ゲートを……正しい形で捉えられません……。あれを!」

 

 部下が指差した方向へと全員が目を向ける。逆巻いていた疾風が流転し、明らかに風向きが変わったのが一般人である自分にも分かる。

 

「……観測霊までも……」

 

 ジキルが絶句する。観測霊がどうなったのか、問い質す前にエリック西島が手を払っていた。

 

「ええい! 何をしている! せっかくのゲートだ、我々が確保するのが第一条件のはず!」

 

「しかし、疑似ゲートは観測出来ません……。形象崩壊していきます!」

 

「形象崩壊……? MA401か!」

 

 忌々しげに放たれた言葉と共に、ガラスの砕ける音に似た音響が鳴り響き、疑似ゲートが頂点からゆっくりとほどけていく。

 

 青白い胎動の光を薄らげさせ、空気中へと溶けていくのが分かった。

 

「……疑似ゲートが……崩壊した……?」

 

「そんな事が……。まさか……!」

 

 エリック西島が部下へと目配せするが、部下は頭を振る。

 

「……星が流れたようです。疑似ゲートの契約者の死亡を確認……」

 

「……MA401は……」

 

 砕け落ちていく疑似ゲートの中心地で、一体の泥人形が屹立している。成人男性の身の丈の三倍はあるであろう巨躯を誇る泥人形が背の低い人影を掴んでいた。

 

「……あれが、契約者殺し……?」

 

 ジャンの問いかけのような語調に応えられないまま、泥人形が不意にこちらへと振り返る。

 

 ミシュアは息を呑んでいた。

 

「……泥人形の頭が……」

 

 融け落ちている。そのくぼみが風船のように膨れ上がり、ぱちんと軽い音を立てて頭蓋が砕け散っていた。

 

 泥人形が横たわる中で、赤ずきんの契約者のみが佇む。

 

「……総員、照準! MA401だな……?」

 

 エリック西島の号令にPANDORAの機動隊員達がアサルトライフルを構えるが、その瞬間、全員が同じタイミングで銃を取り落としていた。

 

「これは……熱い……」

 

 銃に接触していた地点がみみず腫れを起こしている。しかし相手は装甲服に身を包んだ機動隊員だ。そんな相手に、一瞬で高精度な能力の行使を行ったと言うのか。

 

 慄く視界の中でミシュアは、伏せ気味のその立ち姿へと拳銃を向けていた。

 

 誰もが固唾を呑む中で、ミシュアだけがニューヨークの赤ずきんと向き合う。

 

「……動くな。お前は……」

 

 その瞬間、僅かに垣間見えた唇が呼吸を紡ぐ。

 

 その言葉にハッとしたその僅かな隙を突いて、赤ずきんは逃げ出していた。

 

 ワイヤーを伸ばし建築物を足掛かりにして逃亡する。

 

「逃がすな! 包囲しろ!」

 

「し、しかし……武器を持てる者は一人も……」

 

 PANDORAの武装戦闘員でさえも無力化するだけの力。それに対しエリック西島は悪態をついていた。

 

「クソッ! ……重要な契約者を逃がした。この責は負っていただきますよ、ニューヨーク市警の」

 

 それを呆然と聞いていたミシュアへとジキルが肩を叩く。ようやく我に帰り、言葉を反芻していた。

 

「……今は……今はって、どういう……」

 

「レディロンド? 大丈夫ですか?」

 

 慮るジキルにミシュアは頭を振る。

 

「……いえ、大丈夫ではないのかもしれない。MA401、お前はまた……私達から逃げおおせた。この絶望の途上にあっても。一体何が、契約者であるはずの……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 建築物を飛び越え、ようやくPANDORAの追っ手を撒いたその後ろ姿にブルックは声を投げる。

 

『……やれやれ、冷や冷やさせるなよ、紅。今回ばかりはやられたと思ったぞ?』

 

 しかし彼女は振り返らない。それに対して怪訝そうに言葉を重ねる。

 

『紅? 今回は確かに相手が悪かったが……何かあったのか?』

 

 その時になってようやく、紅は驚愕の面持ちでブルックへと振り向く。その瞳がこちらの姿を捉えた時、彼女は意外そうに声にしていた。

 

「……ブルック? 私は……」

 

『熱膨張を応用してのゲートの破壊なんて思い浮かぶかよ。まぁそれもこれもあれが偽物のゲートだから成し得た業なんだろうが……』

 

「偽物のゲート……。でも、私は……もう一度会えた。……また、あの時と同じ……」

 

『……紅? 何を言っている? 意識が混濁しているのか?』

 

「……何でもない。長時間戦い過ぎた。休暇をもらう」

 

『……それは勝手だが、組織への報告書の提出義務がある。やれるんだろうな?』

 

「心配しなくっていい。私は……どうせ逃げられないんだと、分かった」

 

 紅は赤ずきんのコートを折り畳んで仕舞い、ワイヤーで地面へと降り立つ。その背中へとブルックは再三の言葉を放っていた。

 

『……グレイも! ガーネットも心配していた! ……それは忘れるな。俺もだ、紅』

 

 紅は片手を上げ、確かに応じたようであったが、それが伝わったかまでは分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝入っているアリスに配慮して部屋へと音もなく戻った夜都は、まずコーヒーメーカーの抽出から始める。

 

 すると高いびきを掻いていたアリスが不意に目を醒ましていた。

 

「……ヤト?」

 

「……ただいま」

 

「……あんたさぁ、何やってたの? 新市街地ではえらい被害でさ。何か、今までとは違うゲートが出て来たって言う情報が飛び交っていて……」

 

「何でもないから。ちょっと寝させて。寝不足なの……」

 

 こちらの言葉にアリスはそれ以上を重ねず、ふんと鼻息を漏らす。

 

「……まぁいいけれどね。いつも通りの時間に、コーヒーが飲めるんなら」

 

 きっと問い質したいに違いないのだが、自分の声が切迫していたせいだろう。アリスはロフトの二段ベッドで毛布を被りながら手を差し出す。

 

 そのあたたかな手へと夜都は触れてようやく、ああ生きている、と実感していた。

 

「……ねぇ、ヤトー。あんまし遠くに行かないでね」

 

「何それ。どこにも行かないよ。……ううん、違うな。私はきっと、どこにも行けない。……あの日から、ずっと……」

 

「ヤト?」

 

「何でもない。はい、アリスのコーヒー」

 

 差し出したマグカップにアリスは怪訝そうにしながらもコーヒーを啜り、それから口にしていた。

 

「……うん、いつも通りの味。ちょっと安心したわ。もしかしたらよく分かんない事に巻き込まれているのかもって、ガラにもなく心配していたから」

 

「アリスらしくない。本当に……ガラにもない事を言う……」

 

 呟いた夜都は自分の分のマグカップを掴み、コーヒーを口に含んでふと、こぼしていた。

 

「……私のコーヒーって、こんなに……味がなかったっけ……」

 

 それとも、と夜都は目を伏せる。

 

「……ああ、払ったんだ。――対価を」

 

 

 

 

 

 

第五章 了

 



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第六章「紅柘榴の幻像はたまゆらに漂う…」(前編)
第四十九話「戦域を奔る」


 ――ああ、魔女様。あなたに聞いて欲しい事があるのです。

 

 恭しく口にした自分に魔女は人間の骸で作り上げた樹の上で首を傾げる。

 

 ――あら、何かしら。この漆黒の森が嫌になった?

 

 いいえ、と私は否定する。むしろとても心地いいくらいだ。ここに居るのは、自分と魔女と、そして黄金のイルカだけ。

 

 それ以外はとても静謐に守られていて、そしてとても穏やかな時間が流れている。

 

 だから、とても邪魔なのだ。

 

 ――魔女様。あなたはどれほどの命を摘んだのです?

 

 ――そんな事を教えて何になって? ああ、でも死神なら、気にはなるのかしら。

 

 魔女はとてもずる賢くそして警戒心が強い。

 

 一度として、骸の樹の上から降りては来ないのだ。彼女は絶対者のように、骸の樹から命令する。その声はどこか、眠りに誘われるように耳触りがいい。

 

 はい、と私はわざとらしく応じる。

 

 ――魔女様も、世を追われて?

 

 ――勘違いをしないで、世俗の死神。貴女のような低俗な存在じゃないの。わたくしは自分からこの世を絶った。それは必要ないからなのよ。

 

 その言葉を私は深く問いかける。

 

 ――必要ない、とは?

 

 魔女は艶やかな指遣いで煙管を掲げる。ぼやけたような炎を浮かび上がらせ、紫煙をたゆたわせていた。

 

 魔女はどこかため息混じりに口にしていた。

 

 ――わたくしには伴侶も要らない。友人も、ましてや理解者なんて。だから同じように肩を並べようとする者は皆、葬った。それは邪魔だからなのよ。わたくしの目線に立とうなど傲慢の一言。

 

 ですが、と私は言ってのける。

 

 ――金色のイルカは、あなたの事をよく知っていると。

 

 ――でもあのイルカだって人間じゃない。ただのよく喋る、他人の真似事だけが上手い紛い物。いい事を教えてあげる、死神の子よ。あのイルカはとても狡猾だけれど、それでも一つだけ、弱点がある。

 

 それをまさに聞き出そうとしていたのだ。

 

 私はわざと愚鈍を演じる。弱点? と首さえも傾げる。

 

 ――ええ、そうよ。……彼は、あまりにも人を知り過ぎた。だから、逃れられない。わたくしとも貴女とも違う。彼だけは、俗世の鎖に囚われたまま。そう……ヒトであろうと願った憐れな動物は、同じ動物によって裏切られた。彼を殺す術は、その立派な鎌ではないのよ。彼を殺すのは、『名前』。

 

 ようやくそれを聞き出せる。私は恐れさえも抱いた様子を演じつつ、その一つを聞かなければならない。

 

 そうでなければ――私は彼を、殺せないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この子の名前はガーネット」

 

 そう口にした少女は紫色のテディベアを掲げていた。

 

「まだ持っているの? そろそろ縮れて来たんじゃない?」

 

「そんな事ないよ、ママ。この子、まだまだ私と一緒に居たいって言ってる!」

 

「でも、お手入れの方法くらいは覚えておかないと。ほら、こうして針に糸を通して……」

 

「いやっ……! 針なんて可哀想!」

 

 テディベアを抱えて部屋の中を駆け回る娘と妻に、深い安堵を覚えながら、そっと諌める。

 

「……あんまりママを困らせるんじゃないよ。確かにその子、ちょっとぼろくなってきたんじゃないか?」

 

「ボロイなんて酷い事を言うのね! パパは!」

 

 娘からの糾弾についつい後頭部を掻いて弱ってしまう。

 

「参ったな……。でも愛着があるのはいい事だが、きっちり面倒も看てあげなければ。貸しなさい。魔法をかけてあげよう」

 

 その言葉に赤茶けた髪を二つ結びで揺らす少女は跳ね回る。

 

「やった! パパの魔法!」

 

「うんうん。……魔法をかけてあげる時には優しく囁くんだ。大丈夫、大丈夫だよって……」

 

 テディベアを抱えて、そっとその背中を三回叩く。そうしているうちに娘は飛び込んできていた。

 

「おいおい……魔法がかけられないじゃないか」

 

「ううん! いいの! パパの魔法、あたしにもかけて!」

 

「これはお人形さんだけにしかかけられないんだ」

 

「じゃあ、あたし、お人形さんになる! ガーネットと同じ、テディベアがいいなー!」

 

「やれやれ……。お転婆に育ってしまったね」

 

「笑い事じゃありませんよ、もうっ。言い出すと聞かないのはあなた譲りなんですから」

 

 妻もそう言いながら微笑ましい光景に口元を緩めている。

 

 そう、ずっとこんな時間が続けばいいのに。そう考えてモーニングコーヒーに口をつけようとしたその時、不意に彼は娘へと視線を振っていた。

 

 ――自分が娘だと思っていた少女の相貌が影に塗りたくられている。

 

 狼狽して立ち上がったその時には、振り返った妻の顔も黒く消し去らされていた。ノイズが走り、彼女らの声を掻き消す。

 

 頭部を押さえて後ずさった彼は、呼吸を荒立たせていた。

 

「どうしたの、あなた」

 

「パパー、どうしたのー?」

 

「……違う。何だこれは……こんなものが……。わたしは……何なんだ、この光景に……」

 

 逃げ出そうとしてぷつっと景色が途切れる。

 

 今の今まで家族団欒の家だと信じていた場所は、冷たい風の逆巻くビルの屋上であった。

 

 彼は、ああ、と噛み締める。

 

「……対価か」

 

 呟くと、ようやく現実味を帯びてきたニューヨークの夜景に通信域から声がかけられた。

 

『……いつものか。今回は長かったな』

 

「少しの間、醜い様子を見せて悪かった。今はもう何ともない」

 

『……お前の対価、傍から見ているほうがきついよ。……それ、かつての思い出なんだろう?』

 

「いや、どうだろうな……。本当にあった事なのか、あるいはこの脳細胞が生み出している都合のいい幻覚なのか、それは定かじゃないんだ。ただ――契約者は夢を見ない。だからこれは、わたしの追い求める、幻像なのかもしれないな」

 

『夢じゃなく、形のない幻想か。契約者らしい感傷だな』

 

「感傷も契約者っぽくないさ。……ターゲットは?」

 

 尋ねると、観測霊がビルを這い回る。鉄を触媒にした観測霊はこのニューヨーク新市街地において、追跡に適していた。

 

『……現在、南に逃走中。よくやるもんだ。お前から逃れようなんて。対価は払ったんだ。いつもの、使えるな?』

 

「ああ、滞りはない。……行くぞ」

 

 そう口にすると共に、彼は青白い燐光を帯びる。全身を押し包む光を纏い、その躯体がビルの谷間を駆け抜けていた。

 

 光を棚引かせ、彼の肉体が何倍にも引き上げられた加速度を携えてビルからビルへ、車両から車両へと、亡者のように薄らいだ身体が転移していく。

 

『……肉体重量の軽減による瞬間加速……。かなり強力な能力だが、対価があまりにも不釣り合いじゃないか。契約者らしくない幻影に囚われるなんて』

 

「そこまでじゃないさ」

 

 そう応じてターゲットの車両を見据える。車両のボンネットを蹴り上げ、一気に直上へと躍り上がっていた。

 

「追いついたぞ」

 

『よくやった。そのまま後部座席に居るターゲットを抹殺。それで事足りる……いや、待て……。何だ、このノイズは……。迫って来るぞ! “B8”! 契約者だ!』

 

 コードネームを呼ばれ、彼――B8はニューヨークのビルの谷間を潜り抜け、ワイヤーを巧みに操ってこちらへと迫って来る相手を車両の上で待ち構えていた。

 

「……契約者……」

 

『こいつは……。気を付けろ、相手はあの、ニューヨークの赤ずきんだ』

 

 詰めた声音と何度も聞かされてきた渾名に、B8は姿勢を沈め、ゆったりと相手と対峙する。ワイヤーを手繰り寄せ、そのまま武装を投擲してきた赤い影にB8は半身になってそれをかわし、迫り来る敵へと契約能力を行使する。

 

 即座に身体が半透明になり、自重を軽減させて風のようにビル街を飛び交い、中空でニューヨークの赤ずきんと交錯する。

 

 真正面に捉えた相手は思ったよりも年若い。

 

 少女の相貌に大写しになったB8はそのまま加速を実行しようとして、絡み付こうとしたワイヤーを関知する。

 

 肉体重量をさらにマイナスさせ、相手の射程を潜り抜けようとしたが、その時には敵が手を伸ばしていた。

 

 ――必殺の間合い、と瞬間的に察知したB8はその手を掴み上げ、そのまま捻り落とそうとして、ランセルノプト放射光を相手は帯びる。

 

 契約能力行使の前に、B8は自重をさらに軽減させ、音もなく車両の背の上に載っていた。

 

 ニューヨークの赤ずきんはしかし、ここで逃すつもりはないらしい。

 

 トラックの荷台に飛び乗り、相手はクナイを逆手に握り締める。

 

「……契約者なら、すぐにでも決着を、か……。分かりやすくっていい」

 

 構えたB8に相手は跳躍していた。しかしその程度の速度ならば、切り抜けるほどでもない。

 

 肉体の比重をさらに差し引き、ほとんど重さのない次元に達した身体が超加速する。

 

 思いも寄らぬ速度であったのだろう。燐光を纏いつかせて背面に迫った自分に対して、赤ずきんとやらの速度は劣っていた。

 

 そのまま首の骨を折ってやろうと首根っこを引っ掴んだが、直後に発したランセルノプト放射光の輝きに習い性の身体が飛び退る。

 

 これまで数多の契約者を下してきたが、この契約者は触れるだけでも危険。

 

 そうなのだと判ずれば、後は戦い方も手慣れている。

 

 走行する車両に佇んだ自分に、相手はワイヤーを操ってクナイを叩き込もうとするが、その射線は既に読めている。

 

 駆け抜ける速度で跳躍し、すぐさま加速度をかける。

 

 重さがないのなら、速度は自由自在だ。

 

 まるで無重力のように浮き上がった肉体が下降の加速度を引き受ける。しかし、身体にかかる負荷はほとんど感じない。

 

 重力さえも振り切れるだけの速度を誇る能力を発揮し、B8は赤ずきんの眼前に立ち現れていた。

 

 相手は即座にクナイで斬り払うがその一閃を避けるまでもなく、手首を掴み上げる。

 

「……未熟な契約者だな。この程度のスピードと技量で、わたしに敵うとでも思っていたか」

 

 重量を軽減していても、肉体自体の強さは健在。このままへし折ってやろうと腕を引き上げたところで、イヤホンから通信が放たれる。

 

『……B8、ここまでだ。ターゲットが勘付いてルートから外れた。今回は赤ずきんの相手よりもターゲットを優先しろ』

 

 その命令にB8は逡巡さえも浮かべず、赤ずきんを蹴りつけて後退する。そのまま車両へと背中から着地し、キッと睨み上げて言いやる。

 

「……命拾いしたな」

 

 今は頓着している間も惜しい。

 

 再び加速に入り、風さえも味方につけてB8はオーダーを聞き届ける。

 

『……ターゲットは新市街地の東へと入った。……これはちょっと厄介だぞ。相手はどうやら赤ずきんの側の組織のバックアップを受けているらしい。安全圏まで向かおうとしている』

 

「そんな暇を取らせない。一瞬で始末する」

 

 そうと断じたB8はまるで弾丸のように瞬間加速を己にかける。車両の一部を足掛かりにし、標識を蹴って新市街地を抜けていく速度はそうなのだと引き絞られた矢の如く。

 

 相手の心の臓へと突き立てられる時以外を求めていない、戦闘兵器としての自己を確立し、B8は辛うじて、こちらの作戦範囲内に収まっている目標車両を視野に入れていた。

 

「……まだ間に合うな。このまま後部座席を貫いて、一気に決める」

 

 武装はない。だが、B8には誰よりも速い肉体と、そして重量を限りなくゼロに出来る能力がある。

 

 暗殺と偵察、どちらも得意とするこの力と性質は他のエージェントの追随を簡単に許さない。

 

 身を沈め、標的車両までおよそ百メートル以内。これならば有効射程だ。

 

 自分は相手を射抜く弓矢。そうなのだと規定して、B8が加速に入りかけた、その時であった。

 

 次々に視界へと入るニューヨークの夜景を恐るべき速度で突き抜けていく観測霊を目にする。

 

 こちら側の観測霊ではないな、と感じたB8は顎をしゃくっていた。

 

 友軍の観測霊が波打ち、相手の観測霊を遮断する。

 

「悪く思うな。こちらは十数体の観測霊を持っている。ただ一体の観測霊で、わたし達に勝とうなど……」

 

 そこまで口にしてから、B8は弾け飛んだ鮮烈なイメージに眩暈を覚えていた。

 

 ――パパの魔法!

 

 イメージが脳内で脈打ち、B8は膝を折る。

 

 その一瞬の隙が明暗を分けていた。

 

 標的車両が道を折れ、完全に捕捉範囲外へと離れていく。再び追おうとしたが、どうしてなのだか、追跡の気概が起きない。

 

 何よりも、今、脳内でスパークした幻像がまだ視界の中で燻っている。

 

「……何が……赤ずきんの側の、観測霊に、何かが……」

 

『B8? どうした? 異常があるのならば報告しろ。……幸いにして、まだ枝は生きている。今宵を見失っても勝機はある。今は退き上げろ。相手も攻撃してくる気配がないのならば余計にな』

 

「……ニューヨークの赤ずきん……口ほどにもない。問題なのは……奴の、受動霊媒だ……。わたしの対価に干渉した」

 

『お前の対価に? ……おい、幻想にこだわり過ぎると……』

 

「分かっている。囚われる奴を何人も見てきたとも」

 

 深呼吸し、幻想を振り払う。

 

 やはり相手の観測霊に何かがあるのか、B8は撤退する赤ずきんの観測霊の行方を眼で追っていた。

 

「……わたしの過去に関係があるのか……? あの幻想の中に居たのは……娘と、妻と……テディベア……紫色の……」

 

 しかし今は頓着している場合でもない。

 

 何よりも標的を逃したのだ。今次作戦は失敗である。

 

 B8は質量を変位させ、風の中に己を流し込んでいた。

 

 ランセルノプト放射光を散らしながら、肉体が掻き消えていく。

 

 直後には、その姿は影も形もなかった。

 

 



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第五十話「光を追う」

「……朝刊は退屈だな。いい報せも少ない。せっかく、身を切る思いであの疑似ゲートの契約者を葬ったって言うのに、労いもないとはあんまりじゃないか?」

 

「……余計な感傷は要らない」

 

「そうかね。おっ、だがコミックは相変わらずの出来じゃないか。朝刊の中で安心して観られるのはこれくらいなもんだ」

 

 夜都はコーヒーに砂糖を入れる。それをグレイは目に留めていた。

 

「珍しいな、芋女。コーヒーはブラック派じゃなかったのか? シュガーを入れているところなんて初めて見たぞ?」

 

「……いいから。続けて」

 

「はいよ。護衛対象は組織の重鎮。だが対立する諜報機関より命を狙われている。今のところは無事だが、昨夜は危なかった。移送途中に仕掛けてくる契約者が居るなんてな。しかも結構な鳴物入りだ。相手は手強かっただろう?」

 

 夜都は甘ったるく加工したコーヒーを流し込みながら、昨夜の戦闘を思い返す。

 

 こちらの手数を遥かに上回る戦闘術は単純に場数が違うのだと歴然と突きつけられた気分だった。

 

 だが能力自体はまるでシンプルであった事を反芻するに、ただの契約者でもなさそうだ。

 

「……あんな能力なのに、攻撃を流し込む隙を全く与えてくれなかった……」

 

『それは何も紅(ホォン)の強さが足りなかったからでもなさそうだぞ、二人とも』

 

 止まり木より聞こえてくるブルックの報告にグレイは新聞紙に視線を落としたまま尋ねる。

 

「凄腕か? 久しぶりだな、そいつは」

 

『経歴を参照した。メシエコード、LL563。コードネームはB8』

 

「B8? メシエコードと名前が大差ないじゃないか。本当に実在するんだろうな、そいつ」

 

『ああ、組織のサーバーで確認済みだ。何よりもそいつの経歴がな。……天国戦争の生き残りらしい』

 

「……おい、そいつは……!」

 

 平静を装っていたはずのグレイは止まり木を仰ぎ、覚えず舌打ちする。

 

『……そうだ。組織はかなりの手練れに追われている相手を護衛しろと言って来ている。しかも今回、報酬は五倍に上乗せだ』

 

「……死ねって言っているようなものじゃないか。組織は僕らが前回の疑似ゲートを収束させた事を、快く思っていないのか?」

 

『組織からしてみれば誰が収束させたかではなく、終わった事は終わった事なのだろうよ。……俺達のチームにそこまで無茶な命令が下るのはもうないと思っていたが……甘かったみたいだな』

 

「ああ、大甘だよ、ブルック。芋女の飲んでいるコーヒーよりも甘いんじゃないか?」

 

「……それはいい。能力は? やはり超加速……」

 

『能力は物質質量の低減による限定的な加速だ。自分しか軽く出来ず、しかも加速だって目視出来ないほどに速いと言うわけでもない。……だがそれでも奴は、天国戦争を生き残った……それはつまり、能力の使い方が他の諜報員とはかけ離れていると思ったほうがいい』

 

「……天国戦争。この国じゃ話題にするなって言うほうが無茶な話だ。契約難民問題だって解決出来ていない。新市街地は見かけばかり綺麗だが、旧市街地は酷いもんだってのに……」

 

 歯噛みしたグレイは何かしら一家言あるようであったが、そこで言葉を仕舞った。

 

「……私にそいつを消せと?」

 

『可能ならばそうして欲しい。不可能ならばせめて護衛対象を守り切って欲しいとの事なんだが……その護衛するお歴々もどこに居るのか、俺も明かされていないんだ。サーバーに潜り込んだが、全部遮断された……』

 

「おい、ブルック。それじゃ、僕らは、いつ現れるのかも知れない護衛対象に、いつ降りても分からない任務を続けろって? ……そいつはなかなかに無茶だぞ……」

 

『分かっている。幸いにして、ガーネットが昨日の車を捕捉している。今も観測霊を飛ばしているはずだ。……撤退しろとは言ったんだがな』

 

「ガーネットは、まだ裏路地に?」

 

『居るはずだ。何だ、紅。何か彼女に用でも?』

 

「いや……別に。ただ、観測霊を追う術を持っている相手なら気を付けたほうがいい。相手は思ったよりも速く、こちらに辿り着く」

 

『それには同意だが……お前も危ないと言えばそうなんだぞ。新市街地を出歩いていて、遭遇しないとも限らない』

 

「私は平気。ガーネットに会ってくる」

 

 立ち上がろうとした夜都にグレイが忠告する。

 

「……あまり肩入れするな。ガーネットだってプロだ。観測霊を飛ばすのだって、命令だからやっている。僕達と同じさ。命令に忠実なほうが好かれるだろう?」

 

 新聞紙を捲るグレイの淡白な声音に夜都は言いやっていた。

 

「……前回の礼も言えていない……」

 

「律儀だな。相手はドールだぞ?」

 

「……それでも」

 

 夜都はトレイを返し、身を翻しかけて店主に呼び止められる。

 

「ああ、ヤトちゃん。珍しいね、シュガーを頼むなんて。いつもブラックだっただろう?」

 

「あんた! ヤトに話しかけている暇があったら手を動かす! ……でも、急にどうしたんだい?」

 

「……ちょっと好みが変わっちゃって。あの……変ですか?」

 

「いんや。その頃合いならちょっとばかし可愛げのあったほうがいい。まぁ、ヤトちゃんはそうじゃなくっても可愛いんだけれどね」

 

 微笑んだ店主に夜都は笑みを返して会釈する。

 

 店主は肩をつつかれていた。そんな様子を見ながら、ふとこぼす。

 

「……仲いいんだなぁ」

 

 いや、これが当たり前、これは当然の感情なのだろう。

 

 しかし、疑似ゲートの契約者との戦闘の後から明らかな変質がある。夜都は自分の掌へと視線を落とし、あの戦いを反芻する。

 

 確かに、相手を倒したはずなのにその感触が薄い。そして何よりも――自らの変容に戸惑っていた。

 

 こういう時にはガーネットの占いを受けるのがいい。

 

 彼女はドールだが、占いに関してはそれなりだ。夜都は新市街地の路面電車に飛び乗り、旧市街地へと向かう途中で人垣を発見する。

 

 思わず降りて周囲を見渡し、夜都は囁かれる声を聞いていた。

 

「……殺しだって。また旧市街地で……」

 

「またかよ……何でも被害者は全員……浮浪者だってのは……」

 

 警察が目張りを付けて鑑識をしているのが窺えた。夜都は人だかりを抜けて、徒歩で旧市街地に入る。

 

 もうここは彼らの領域だと言うのに。それでも新市街地の者達は勘違いをしている。

 

 このニューヨークが自分達、「普通」の人間の物なのだと。

 

「……旧市街地でまともに生きた事がないから、そんな戯れ言が言える……」

 

 夜都はガーネットの張っているはずの占いの区域に誰も居ないのを目にする。思わず駆け寄り周囲を確認するが、やはりと言うべきかガーネットの姿はない。

 

「……一手遅れた……」

 

 そう悔恨を口にして夜都は視界の隅にたゆたう観測霊を目に留める。まるで炎のように燻る観測霊の残滓に夜都が手を伸ばした途端、観測霊が光を触媒にして跳ねた。

 

「……ついて来いって?」

 

 そう言っているのが何故だか分かる。観測霊は肯定も否定もせずに、そのまま光の合間を跳ね回る。

 

 ガーネットの観測霊なのは明らかであったが、彼女自身にこのような意識はないはずだ。

 

 ――ドールに意思は存在しない。何かをしようと言う感情も、ましてや誰かを導こうなんて……。

 

 だがどうしてなのだろうか。

 

 今は、その光一つを寄る辺にして、夜都は歩み出していた。

 

 



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第五十一話「生存をかける」

 赤いスポーツカーの前で待ち合わせだと言われて、B8はかしこまったスーツを着込んでいた。

 

 その事前情報通り、赤い豹を思わせる躯体のスポーツカーを背に、伊達男と少女が佇んでいる。

 

「来たな、B8。相変わらずスーツの趣味が悪いな」

 

「そちらこそ。スポーツカーなんて目立つ物を所有するな。相手に気取られる」

 

「それは契約者としての合理性に反するからか?」

 

 どこかおどけて言ってのけた伊達男にB8は仕立てだけはいいスーツの襟元を正す。

 

「……指令は?」

 

「変わらず、さ。俺達には相変わらず、標的を追えって言うだけの。だが、対象を見失った形の俺達はお手上げさ。……本当ならな」

 

 B8は伊達男の隣で目を伏せる少女へと視線を流す。

 

「……悪い癖だ。また別のドールか」

 

「ドールは消耗品だ。同じものを使えばすぐさま察知される。前回のよりも精度がいいのをあてがわれてもらっている。それなりに期待はされているって事さ」

 

 少女ドールは黒い短髪にドレスをあしらわれていた。伊達男の趣味なのか、大きめの青いリボンを付けている。

 

「……違うドールだとこちらも困る」

 

「本音は違うだろう、B8。幻影の中に似た女の子でも見つけるか?」

 

「いや、あの子は……」

 

 そこで口を噤む。自分の対価は決して他人には理解されないだろう。そう感じて、話す事の無意味さにいつも嫌気が差すのだ。

 

「……余分な話はいい。本題に入れ」

 

「ああ、このドールが昨日の追尾してきた相手側のドールの観測霊を捕まえた。今、ごろつきを遣わせているが、相手は観測霊を失ったエラー状態。すぐに見つかるだろうさ」

 

 煙草を取り出し、火を点けようとした姿勢にB8は手を翳す。

 

「……この子に煙草はよくない」

 

「……相変わらずの非合理性だな、B8。だがお前の言う事なら従おう。あっちで吸ってくるよ」

 

 脇をすり抜ける際、伊達男は口走る。

 

「しかし、結局お前の対価ってのは何なんだ? 長い事付き合ってはいるが、幻想の家族が見えるって事以外は教えてはくれないんだな」

 

「……教える義務もない」

 

「それはその通りだ。何よりも、弱点にもなりかねない。対価を払っている間はあの天国戦争を生き抜いた凄腕の契約者でもほとんど無力。そこを押さえられれば、簡単に制圧されるだろう。……まぁ今のところ、その弱点に辿りつけた契約者を、俺は知らないがね」

 

「……本題に入るのなら早くしろ。でなければわたしは……」

 

「分かっているとも。一本だけ吸ってくる」

 

 一服を吹かす伊達男を遠巻きに眺め、B8は少女ドールを見やる。

 

 彼女の瞳に生気はない。まるで鏡のように、あるべきものを反射するだけ。そう、ただの現象。ただの人形でしかない。

 

「……人形になりたい、か……」

 

 記憶の片隅に浮かぶのは、幻想の家族の中に確かな像を結ぶ少女であった。紫色のテディベアに、赤茶けた髪の少女が微笑む。その相貌がどうしてなのだろう。対価を払っている時には明瞭なのに、今はどうやっても思い出せない。

 

「……いや、だから対価なのか……」

 

 普段思い出せるようには出来ていない。だから、これは自分にとっての唯一の弱点であり、唯一の対価。

 

 契約者が克服出来ないとすれば、それはこの世で対価のみだ。他はどうとでもなる。どれほどの精神的な負荷のかかる任務であろうとも、心を押し殺し、合理的であろうとするのならばそれは達成不可能な目的ではない。

 

 だが対価だけは別だ。

 

 能力の行使後に圧し掛かる精神的な呪縛。これから逃れる術を契約者は知らない。

 

 自分達は圧倒的に不利なのだ。

 

 対価と言う行動に、支配されている。

 

 己の存在意義でさえも――。

 

「待たせたな。……どうだ、このドール。結構可愛いだろ?」

 

「……使えれば問題ない」

 

「そういう擦れたスタンス、嫌いじゃないとも。さて……一服の最中に入った情報だ。どうにも標的は昼の間にはもう動き始めているらしい。ニューヨーク新市街地でいつまでも陣取っていると危ういって事くらいは分かったようだな」

 

「……任務に支障がない範囲で行動する」

 

「分かっているよ。観測霊を」

 

 その言葉で鉄材を触媒にして浮かび上がった青白い幻影は次々とニューヨーク新市街地を駆け抜けていく。

 

「……観測霊でターゲットを探すのか」

 

「いや、探すのはこっちで補足しているドールだ」

 

 思わぬ言葉繰りにB8は疑問符を挟む。

 

「……エラー中のドールをどうすると言うんだ」

 

「こちら側に引きずり込む。ごろつき共がそろそろ出くわすはずだ。連絡が来ればその直後には、その身柄を押さえる」

 

「……ドールを人質にしたところであのニューヨークの赤ずきんが動くとは思えない」

 

「かもな。だが、相手の規模は割れている。僅か数名程度の少数精鋭だ。ともすれば一人でも欠ければ厄介だと相手から思わぬ行動をしてくるかもしれない」

 

「……切り崩しか。いつもの手だな」

 

「分かっているだろう? 俺達は決して敗北しないし、下手な動きなんてもっとしない。相手が下手を打つのを待つ。それが俺達だろう?」

 

 承知しているとも。こちらはじっと座して待つスタンスだ。それはこれまでもそうであったし、これからもそうであろう。

 

「……しかし、ごろつき共なんかに任せて大丈夫か? 纏めて殺されてしまえば……」

 

「そうなれば、連絡を一定時間絶つ事になる。その場合、こちらの観測霊がごろつきの気配を察知して追跡すれば、いずれにせよ相手は詰みだ。それに、ごろつき程度の命なんて捨て駒だよ」

 

 伊達男の姿勢は変わらない。相手の動きよりも先走って手を打てば、逆効果に回りかねないのだと理解している。

 

 常に後手でありながら、最善手を模索する。

 

 それは自分達が結成されてからずっとであった。

 

「B8、いつでもやれるようにしておくといい。それでも俺の言う事は聞いてもらうが」

 

「……逸るな、出る時はこちらの命令を待て、だろう。その辺りは承服済みだ」

 

 しかし、とB8は蠢く観測霊の数を視野に入れるなり、眉根を寄せる。

 

「……この街は観測霊がそうでなくとも多い。常に、どこかで見られている感覚だ」

 

「警察組織の天文部とやらの観測霊も居るんだろうさ。そいつらはだがトーキョーほどじゃないって聞く。ジャパンの技術を流用しているが、【地獄門】と隣り合わせの連中に比べれば日和見なほうさ。あっちじゃ、契約者の存在そのものが極秘とされている。一般市民は契約者を知らず、そして蠢動する殺意にすら気づかない。おめでたい限りだよ、日本人はね」

 

「……契約者同士の抗争に巻き込まれて死ぬのは割を食うだけ、か」

 

「B8、かち合ったらとっとと殺してくれよ。そうでなくとも眼があるって言うのなら、証拠は残すべきじゃない」

 

 それは既に理解している。

 

 何よりも、自分には経験則がある。

 

「……天国戦争の修羅場に比べればなんて事はない。この街も平穏を貪っている」

 

「それ、あんまし詳細は聞かない事にしているんだが、やっぱりヤバかったのか? あの契約者同士の殺し合いが繰り広げられた、今世紀最大の戦場は」

 

 B8は脳裏に浮かんだビジョンを振り払う。

 

 鮮血が迸り、契約者を葬るビジョンを。

 

 相手も身分は同じなのだろうとは思う。しかし、ただ自分と相手を隔てたのは運気だ。能力や、その時々の運勢で自分は生き延び相手は死ぬ。それだけのシンプルな答えに集約される。

 

「……契約者は合理的に判断する。その都度の判定基準は揺るがない。相手よりも自分に利があるのなら、それを貫き通すまでだ」

 

「B8、相変わらず心強い言葉だ。お前と組めて、俺は運がいいんだろうな」

 

 肩をポンと叩いた伊達男にB8はそうなのだろうか、と思索を浮かべる。

 

 ――自分は、運のいい側なのだろうか。ともすれば、あの戦争で死んだほうが、よっぽど運がよかったのでは……。

 

 そこまで考えて、詮無い事だと打ち切っていた。

 

 



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第五十二話「心を持て余す」

 

 映写機がからからと回るのを何度か聞いてから、ミシュアは、次と促していた。

 

 すると暗幕の中に映像が投影され、問題の映像が流される。

 

 渦巻く半球型の疑似ゲートが内側から風船のように破裂し、青白い燐光をまるで心拍のように弱らせながら消滅していく映像――先刻の「重要資料」である。

 

 ミシュアは何度目か分からないそれを再生させてから、目頭を揉んでいた。

 

「……やっぱり、分からない……。どうやってMA401は……あの疑似ゲートを破壊したの……」

 

「考えても、底のない答えと言うのはあるものですよ」

 

 映写室に入って来たジキルがアイスコーヒーを差し出す。苦み走ったブラックを口に含んでから、ミシュアは、でもと抗弁を浮かべていた。

 

「底がないからって考えるのをやめていいわけじゃないでしょう。PANDORAが動いたんです。ともすれば、あの疑似ゲート一つで、ニューヨーク新市街地がなくなるかも知れなかった……」

 

「それはその通りかもしれませんね。PANDORAは強硬策を明らかに取ろうとしていた。エリック西島なる重要人物がその証……。ですが、結果としてMA401の謎の能力によって疑似ゲートは破壊され、そしてPANDORA側も大した成果は得られなかった……それが結果論なのでは?」

 

「……でも、あれは疑似的とは言え、ゲートそのものでした。だから、あれを解除すると言うのは……」

 

「ゲートをどうこうする、という帰結に繋がりかねない、ですか」

 

 言葉の穂を継いで彼女はコーヒーを啜る。同行していたエミリーは大人しくその横に付き従っていた。

 

 やはりドールなのだろうか。そう言えばドールに関して、自分はあまりに見地が乏しい。天文部の操るドールと、エミリーは何が違うのだろう。

 

 彼らはカプセルに入れられ、自律行動を押え込まれているが、山里によればそれは決して苦痛ではないのだと聞いた事がある。

 

 それくらい、ドールは自分で考え、自分の意思で実行する意思がないのだと言える。

 

 だからエミリーは元々の責務から解放され、こうして自分達と行動する事に何の疑問も持たないはずなのであるが……。

 

「……あの、彼女をこの先、どうするつもりなんです?」

 

「エミリーを、ですか? ……まぁ、ドールは放っておけば何の行動も起こしません。自分から生命維持に必要な様々な事も出来やしないのです。いや、出来ないと言うよりかはしなくっていいと考える、と言ったほうが正しいかもしれません」

 

「……それは、合理的ではないから?」

 

「契約者の合理性と、ドールの合理性はまるで別のところにあると言ってもいいでしょうが、彼女らの目線に立つのならば、そうですね……しても仕方ない、と言ったところでしょうね」

 

「しても、仕方ない……?」

 

「ドールの身分で行動しても、心が一ミリでも動く事はないし、生きていても、何かを劇的に変えられる事はない。確かに、彼女らには私達にはない力があります。観測霊と言う……。しかしだからと言って、それを最大に行使してまで、では何を望むと言うのか。ドールとはつまり、そういう存在なのですよ。契約者は力を使って得られるリターンを計算出来ますが、ドールはリターンよりもデメリットを考えてしまう。そんな事をしてまで得られるものがないのなら、動く事もない。ある意味では契約者の合理性をさらに突き詰めた存在と言えましょう。彼らにはないのですよ。欲しい物も、してみたい事も、未来永劫、ね」

 

「……未来永劫、生きていく事に気力がない……」

 

 だが唐突にそんな存在が現れた、というのはどこか不自然だ。だが記録上、ドールと契約者はゲート出現に際して、ほぼ同時期に発見されたと言われている。

 

「……ゲートとは何なのか……。私達の街に出没する【煉獄門】は、何のためのゲートなのか……」

 

 再び映像に視線を戻す。疑似ゲートは契約者の能力に過ぎなかった。だから外部からの干渉が僅かながら可能であったし、MA401の能力による破壊も成立した。

 

 しかし、では本物のゲートはどうなのか。

 

【煉獄門】を観測する研究機関はどれも保留にしている。

 

 ゲートの中で何が起こり、そして何が発生しているのか。それは誰にも分からないし、解明もしようがない。

 

「……ゲートの中では物理法則は役に立たず、全ての時は不連続に繋がっている……それが【地獄門】や【天国門】への各国の見解です。そうは言っても何も分かっていないに等しい。だから我々のようなエージェントが遣わされる」

 

「……それでも、分からないんですよね……誰も……」

 

「PANDORAでさえも【煉獄門】を持て余しているのかもしれません。だから契約難民問題も解消しない」

 

 コーヒーを呷ったジキルの言葉にそういえば、とミシュアは携帯を開いていた。

 

「ジャン。旧市街地の契約者殺しの件の進展は……」

 

『それが……また現地警察に先回りされちゃってもう封鎖線を敷かれています……。立ち回りが違い過ぎますって……』

 

『弱音を吐くなよ。ジャン、君がちょっとランチを取ってからにしようとレストランに寄ったのが悪い』

 

『少年君! 裏切るんすか! ハンバーガーセットを奢ったでしょ!』

 

『それとこれとは別』

 

 電話先から聞こえてくる部下の迂闊さにミシュアは頭痛を覚えつつも、現地警察が動いていると言う事態を鑑みる。

 

「……やっぱり旧市街地で起こっている事件は、連続性があるとしか……」

 

『あっ、それだけじゃないんです。課長、何だか妙な連中がうろついていて……』

 

 声を潜めたジャンにミシュアは問い質す。

 

「……妙、とは?」

 

『旧市街地でもあまり見ないタイプのごろつきですよ。怪しいからって職務質問も出来ないんですが、ここに来る途中に何名か……』

 

 何かが水面下で動き始めているのか。ミシュアは、警戒を怠るな、と吹き込んでいた。

 

「先んじた真似をされれば、詰むのはこちらだ」

 

『分かってますって。……少年君も、もうちょっと協力してくれないっすか? 契約者集団なんでしょう?』

 

『ぼくは必要な時に戦うだけだ。それに、君だってそうじゃないと困るはずだけれど? 契約者を引き連れているなんて』

 

『あっ、コラそういうの言うなってば! ……まぁともかく、こっちも相当にヤバいですって……。前回の疑似ゲートの資料、あれも無理やり部長に言って持って来させましたけれど、課長がそこまで奔走する事、ないんじゃないんですか? だってこっちも被害者ですし……』

 

「警察官になった時に、そんな目線は捨てている。私達は被害者ではなく、明らかなる害意を持つ者達へと対抗しなくてはいけない。そうだろう」

 

 有無を言わせぬ口調だったせいか、ジャンはまごつく。

 

『……そりゃ、理想はそうですけれど……現実はそうもいかないですよ。契約者相手に、俺達は明らかに無力なんですから』

 

「それは……そうなのかもしれないが……」

 

 今度はこちらが意気消沈する番であった。契約者相手には自分達は無力。それを全く噛み締めないわけでもない。見ないようにしていても、歴然たる事実として屹立するのだ。

 

 彼ら相手に何が出来るのか。彼ら相手に、何をもって解決とするのか。

 

 答えは出ないままだ。

 

 自分の声が沈んだせいか、ジャンは無理やり話題を盛り立てようとする。

 

『で、でも! 課長はいつだってマジじゃないですか! ……俺、そういう課長だから部下やってんのもありますし……課長なら絶対、MA401も追い込めますって!』

 

 ジャンなりの不器用な励ましにミシュアは笑いかける。

 

「……そうか。相当参っているように映っているようだな。よっし!」

 

 頬を叩いたせいで通話先のジャンがびくついたのが伝わる。

 

『か、課長?』

 

「いや、らしくなかった。ジャン、お前は現地警察を押さえておいてくれ。傍から見ても明らかな越権行為なら取り締まれる。何よりも……契約者が次々と死んでいるのは気にかかる。その事実に、どうして彼らが介入するのか。情報が欲しい。出来ればリアルタイムで」

 

『……お供しますよ。俺はこっちで見渡しておきますんで、課長はゆっくり休んでいてください。今は、前回の疑似ゲート案件も落ち着いていませんし』

 

「そうだな。……私なりに出来る事をしたい。ジャン、ついて来てくれるか?」

 

『……言ったっしょ? お供しますって。伊達や酔狂で課長の下にはつきませんよ。青の跳ね馬らしくない』

 

「それ、今の私に言うか? ……まぁいい。減らず口の叩けるうちにはまだ見込みがある。ジャン、そっちは頼んだ。私は、部長からPANDORAへの渡りをつけてみる」

 

『……危な……とかは言えませんよね。焚きつけておいて。いや、頑張ってください。俺も少年君と調査を進めますんで』

 

『何度も言わせないでくれ。君よりも年上だ、ぼくは』

 

 と、その時携帯をジキルが引っ手繰り、声にしていた。

 

「ジェッツ。そこから見えている物だけが真実じゃないかもしれない。気を付けてくれ。それに、エミリーの観測霊を飛ばしておいた。これでもしもの時には連絡を」

 

「あっ、何をするんです! ……すまない、ちょっと取られていた」

 

『いえ、いいですけれど……。そいつ、当てになるんですか? だって元々の任務はもう遂行したんでしょう? ……あんまし少年君の前じゃ言わないですけれど、本国から帰国命令とか出てないんですか? それとも、先の疑似ゲートの件で継続捜査だとか……』

 

『お喋りだな、君は』

 

 いつの間にか近づかれていたのか、通話先でノイズと共にジャンが大仰に驚いたのが伝わる。

 

「ジャン? ……まったく何をやってくれているんだ……」

 

『いえ、すいません……。ったく、近づくんなら声の一つでも……あ! こっちはしっかり仕事しますんで! じゃあ失敬します!』

 

 ぶつり、と通話が切られてミシュアは眉根を寄せる。

 

「……忙しないな」

 

「失礼、レディロンド。ついつい話に割り込んでしまった」

 

 微笑んで反省の色も見せないジキルにミシュアは言い含ませていた。

 

「……私の態度次第なら、協力姿勢に一家言ありますよ?」

 

「すいません、一応、観測霊を飛ばした事は言っておかなければと思いまして」

 

「観測霊……」

 

 エミリーが飛ばしている観測霊は煙を触媒とすると言う。ちょうどジキルの淹れたホットコーヒーの湯気が外気の漏れる通気口付近へと置かれていた。

 

 観測霊に関しては分からない事のほうが多い。

 

 こうやって目の前で飛ばされたと言われても、まるでさっぱりだ。

 

「……私は疑似ゲート案件に関して、上層部に掛け合ってみます」

 

「話にありましたね。ですが、可能なのですか? PANDORAとの蜜月次第では、あなたの身も危うい」

 

「ご心配なく。自分の身は自分で守りますので」

 

「……強いお人だ」

 

 どこか感服したように息をついたジキルはその喪服のベールを下げる。

 

「私は、ではエミリーと共に周辺警戒にでも出ましょうか。もちろん、警察署から許可なく出たりはしませんよ? あなた達との協力体制は守りたいですからね」

 

 どこか虚飾めいて聞こえて、ミシュアは嘆息を漏らす。

 

「……あまり困らせないでくださいよ」

 

「それは心得ています。……ああ、レディロンド。一つだけ、いいですか?」

 

 立ち去り際に声にされてミシュアは振り返る。ジキルは唇の前で指を立ててから、静かに尋ねる。

 

「ミス401MA……煉獄の契約者を、目の当たりにした感想をお聞きしていなかった」

 

 ミシュアは暫時押し黙る。ニューヨークの赤ずきん、契約者殺し、そして煉獄の契約者……数多の逸話と死の気配を纏った契約者の実像を前にして、自分は……と掌に視線を落とす。

 

「……不思議でした。いえ、もちろん、思ったよりもその姿が幼かったのもあるのですが……私は彼女と……出会えば殺し合うのだと思い込んでいた。それはきっと、心の奥底のほうで。でも突きつけた銃口を、私はどこか躊躇ってしまった。あのまま撃ち込む事も出来たのに、牽制射撃も出来ないまま……」

 

「それは悔恨ですか?」

 

「いえ……っ、そういうのとは別の……。何とも言えない気持ちに支配された感じです。可笑しいですよね。私は、あの契約者を、場合によっては射殺するのだと規定してきたのに、いざ目の前にして何も出来なかった……」

 

「いえ、可笑しくはありませんとも。それがきっと、レディロンド。あなたが人間である証明でしょう」

 

「……それは合理的でないと言う意味ですか」

 

 合理的な契約者ならば、あの時に撃てていた。千載一遇のチャンスだったのに。

 

 ――でも撃てなかった。それが全てだ。

 

 ジキルは馬鹿にするわけでもまして迂闊さを嗤うわけでもなかった。

 

「いいえ、私達に持たぬ物を持てている。誇るべきです、あなたは。その心を、失わないように」

 

 まるで自分はその資格を永劫失ってしまったかのように。

 

 その言葉を潮にして彼女はエミリーと共に立ち去っていた。

 

 



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第五十三話「邂逅を手繰る」

 

 ……彷徨う心。砕けたはずの宵闇の中に、映し出されるのはくすんだ赤――。

 

 ガーネットは胸の奥底に焚かれた言葉の残滓に、ふと視線を上げる。

 

 少しずつ雨が降り始めたニューヨーク旧市街地にて、自分は無数の男達と向かい合っていた。

 

 男達が何かを口にしながらこちらへとずいと歩み寄ってくる。

 

 殺されるか、あるいはもっと惨い真似をされるか。

 

 案外、静かな湖面のように澄み渡った感情は波紋さえも浮かべない。

 

 たゆたう幻影の湖は、いつも静寂のはずだったが、この時ばかりは劈くような声が響き渡っていた。

 

「――伏せなってば!」

 

 その声と共に飛び込んできたのは光の眩惑。閃光弾が投げ込まれた事に気づいた時には、男達は散り散りになっていた。

 

 拳銃を突き出した形の人影が彼らを威嚇する。目を潰された男達は命乞いをするが、人影は迷いなく銃声を響かせる。

 

 男達が悲鳴を上げながら逃げ去っていくのを、その人物は息を切らして目にしていた。

 

 僅かに震えている肩。何度も上下する白い肌。

 

「……ったく、やってらんないわ。……最近、旧市街地が物騒だからってネタ探しに来たらこんなのに出くわすなんてね。大丈夫? あんた……名前は?」

 

 名前、と自分は抱えていた紫色のテディベアを意識した。

 

「あー、まだ目ぇ見えてないのかな? いや、閃光弾を叩き込まなかったらあんたも危なかったからね? それは分かって。まー、あたしもちょっと強硬手段に出たのは謝るけれどさー」

 

 どこか謝るのも面倒そうに声にする人物の声にようやく相手が女性なのだと悟る。

 

「……私はガーネット」

 

 目は確かに見えていない。だが元々、目で見るようには出来ていないのだ。今は、実像のあやふやな観測霊を触媒にして、「彼女」の姿を目にしている。

 

 観測霊のもたらす結果はどれもエラー、エラー、エラーの連続……。

 

 昨夜の戦闘からずっとそうだ。だから自分の観測霊の残滓を求めていつもの場所から移動したと言うのに、こんな事に巻き込まれるなんて思いも寄らない。

 

 だが、静謐の湖は波打ちもしない。

 

 胸の中にある漆黒の森はざわめきさえも上げなかった。

 

 その時、自分の額へと彼女は触れる。

 

「んー、熱はないみたいだけれど、何か眼に生気がないって言うか……。まぁ、そういうものなのかもね。いや、あたしも正当防衛だからね? 変な言いがかりはやめてよ? えーっと、ガーネットだっけ? いい名前だね。赤茶けた髪にぴったり」

 

 彼女が笑ったのが伝わる。屈託のない笑顔に自分は面持ちを上げる。

 

「……あなたは」

 

「あたし? あたしは正義のヒーロー! ……って言おうと思ったけれど、旧市街地ってあんまし入った事ないから、ちょっと困ってるのよ。いやー、こんなところ人の住む場所じゃないわ。こっちで生きている人には嫌な感じだろうけれど」

 

 ようやく網膜の映し出す光が回復してくる。

 

 金髪を一つに結ったホットパンツの活動的なスタイルの女性は、その赤い眼鏡のブリッジを自慢げに上げていた。

 

 ふふん、と鼻を鳴らし、女性は名乗る。

 

「では、名乗りと行かせてもらいましょうか。あたしはアリス。聞いて驚きなさい! いずれ一流のジャーナリストになる女の名前だかんね!」

 

「……アリス……」

 

 こちらの反芻にアリスと名乗った女性は狼狽する。

 

「あっ、まさか滑っちゃった? あちゃー、あの子と違ってあんた、分かりにくいから……。まーでも、可愛い子は大好きだけれどねー。それにあの子と違って、衣裳にはこだわりあるみたいだし。うんうん! ゴスロリはやっぱりいいわよねー!」

 

 どうしてなのだろうか。自分はほとんど反応していないのに、アリスは満足げに頷いて、こちらを検分する。

 

「……にしても旧市街地で一人? ……あ、もしかしてあたしのジャーナリストとしての腕を買って、わざと網にかかった? いやー、困っちゃうな、マジに!」

 

「……アリス……」

 

「そーっ、アリス! まぁ、これでも一応、大学生やってんの。ほとんどバイト漬けだから同居人には訝しまれているけれど、これでも大学じゃ首席なのよ? ビビったか、このぅ!」

 

 肘で突かれても自分がさしたる反応を示さなかったせいだろう。アリスは今度こそ、真正面で向かい合って訝しげに眉根を寄せる。

 

「……ちょっと待って。まさかあの閃光弾、まずい物質でも入ってた? いや、ないない、それはないはずよ。きっちりとした情報筋から手に入れた物だもん。一応、相手のURLと住所も控えに……あれ? サイトが消えてる……」

 

 携帯を見つめて浮き沈みする感情を持て余しているアリスに対して、自分は問いかけていた。

 

「……アリスは、何をしているの」

 

「ん? まー、ネタ探し? ……最近、マジに物騒だからさ。自分の足で稼がなくっちゃと思ってね。たまにゃ旧市街地にも入りますよ、このあたしもね」

 

 自分の前髪をさすって遊んでいるアリスにガーネットは小首を傾げていた。

 

「……ネタ、って……?」

 

「おっ、気になる? でもまーここじゃちぃとまずいかなー。ちょっと移動しない? 新市街地まで行ける直通ルートがあるし。そこまで行けば、さっきの大げさな集団も追って来ないでしょ」

 

 ぎゅっと手を引くアリスの衝動的な動きに自分の胸の内にある静謐の湖に僅かながら波紋が宿る。

 

 それは久方振りの、感傷と呼べるものであった。

 

「……私は……」

 

「何やってんの、鈍くさいわねぇ。あんた、まるでうちの同居人のヤトみたい」

 

「……ヤト?」

 

「うんそう。いっつもさー、野暮ったい黒のタートルネックに黒髪の、こぉーんな! 陰気な顔をした女の子! で、あたしの一番の友達かな」

 

「……トモダチ……」

 

「そっ、友達。とても美味しいコーヒーを淹れてくれるの」

 

 いつの間にかアリスの言うがままに、自分は歩み出していた。彼女は鼻歌を口ずさみながら悠然と踏み出す。

 

 その歩みにてらいも、ましてや澱みもない。

 

 どこまでも自信に満ち溢れた、表に生きる人間の歩みだ。

 

「路面電車に乗れば一発よ。さぁとっととこんな危ない区画からオサラバしましょ!」

 

「……おさらば……どこへ?」

 

「どこへでも行けるでしょ? あんたには立派な足がついているじゃない。あ、でももうちょっと肉付きがある方があたしゃ好みかなー。ヤトも痩せぽっちでチビだけれどさー、あの子抱き心地だけはいいからねー。……まぁそれに、そうしていないと最近は特に、どっか言っちゃいそうでね。あの子らしいっちゃらしいんだけれど」

 

「……ヤトとアリスは……トモダチ……」

 

「そうそう。あっ、運賃はあたしが払うわ。あんたは黙ってついて来る! こんなところに女子一人で居るもんじゃないって! ……ってあたしが言えないか!」

 

 アリスはころころと表情を変える。それが不思議で、自分はその面持ちを凝視していた。

 

 その視線に気づいたのか、路面電車の隣の席に座ったアリスは負けじと睨み返してきた。

 

「……よくよく見れば、お人形さんみたいね、あんた。まぁそのテディベアも何か飾り付けめいているし……何なの、これ」

 

「これ……これは、ガーネット……」

 

「それはあんたでしょ、バカチン」

 

 ぴしっ、とデコピンされ自分は熱に疼く額を押さえる。アリスはどこか呆れたように頬杖をついていた。

 

「ガーネット、あんた、もうちょっと着飾ったほうがいいよ。そのテディベアも、紫って気味が悪いし……。そうだ! 新市街地に行ったらブティック巡りしましょ! うんうん! それがいい! だって素材がいいからさー、きっと並み以上……ううん! もっと特上に行けるはず!」

 

 アリスの言葉繰りはよく分からないが自信に溢れているのだけは明瞭だ。自分はそのポテンシャルに気圧されっ放しである。テディベアの手を引っ張り、アリスへと見せつけてから、首を傾げさせる。

 

「……アリスは、何……?」

 

「何って……あたしゃただのジャーナリストのタマゴよ。まー、契約者とゲート専門な部分はあるけれどね。それでも、ただの、一個人に過ぎないわ。怪しい組織やら何やら、このニューヨークにはうようよ居るけれどね」

 

 微笑んだ彼女は自分を見据え、言いやっていた。

 

「あんたも、何かありそうだけれどでも、特に聞かない事にするわ。それはヤトにも守っている事だし」

 

 路面電車が揺れる。自分はアリスの言葉を反芻しながら、その結論を鑑みていた。

 

 ――エラー状態のままだが、そこいらをうろつくよりかは安全そうだ。

 

 そうは思うが判断材料はない。だって、自分はとっくの昔から、人形なのだから。

 

 



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第六章「紅柘榴の幻像はたまゆらに漂う…」(後編)
第五十四話「幻像をすがる」


 

「受動霊媒に、判定材料はない」

 

 口にした言葉に対して伊達男は旧市街地を眺めつつハンドルを切る。

 

「それはどんなドールでも、か?」

 

「ああ、そのはずだ。だからこそ、受動霊媒と呼ばれている。彼らが能動的になる事はあり得ない。それほどまでに、ドールと契約者はかけ離れている。契約者は合理性に反すれば、それは実行しないが、ドールは最初からだ。最初から、判定材料は存在しない。動く事そのものに関して、意味がないと考えているんだ」

 

「天国戦争でいくつものドールを見てきたクチか」

 

 B8は後部座席に乗り合わせた少女ドールをバックミラー越しに見やる。彼女は瞳を伏せ、その鏡面のような眼差しを投じていた。

 

「天国戦争ではドールは主に索敵、そして情報収集のために用いられた。ゆえに、消耗品であったとされている。……わたしの居た部隊でもそうだった。ドールを相手に情報を集める以外の選択肢は存在せず、そして彼らは得てしてドールを居ないもののように扱う。観測霊を飛ばすためだけの代物であり、それ以上は誰も求めていない」

 

「もったいないな。見た目だけなら上玉も居ただろうに」

 

「……契約者に、そういう思考回路は皆無なのさ」

 

 ドールを慰めものにするような契約者は居なかった。それは合理性に反するからだ。

 

 ドールはドールであり、契約者は契約者。それは明瞭に分けられており、誰もその領分を侵す事は儘ならぬ。

 

 それはこの旧市街地でも同じのようで、そこいらをふらつく浮浪者の中には明らかに人間でない者も見受けられた。

 

 何せ、彼らはこちらの操る観測霊をちらちらを覗くのだ。それが契約者である証なのだが、今日の寝食さえも満足でない彼らにはわざわざ干渉するのも意味がないのだろう。

 

「……契約難民。まさかこれほどとはな」

 

「さっきから俺の車をちらちらと見ているな。そんなに珍しいか? 一応は一級品のスポーツカーではあるが」

 

 一般的な人間からしてみれば、観測霊を見ているのだと言う観点は存在しないか。

 

 B8は分かり合えないものだ、と結論付けて周囲を見張る。

 

「……契約難民も、能力がつかえないわけではないはずだ。それなのに、我々に取り入るわけでも、ましてや現地で何か行動を起こすわけでもないのは、それが合理的ではないからだろう」

 

「確かにここに居る連中みんなが契約難民だって言うんなら、デモの一つくらいは起こせば政府転覆くらいは出来そうなのにな。それはしない、か」

 

「合理的じゃない。たとえ政府転覆が出来たとしてもその先、誰が導く? 契約者は自ら指示者になる事はない」

 

「誰かを率いるのも合理性に反する、か。なかなかに契約者も生きづらそうだ」

 

「実際、生きやすい世の中ではないがね。……待て。観測霊が動いた」

 

 車両が止まる。こちらを窺う伊達男に、B8は言ってのける。

 

「……この感じ、昨日の観測霊の持ち主が近くに居るな……」

 

「降りるか? ドンパチやるのは嫌いじゃない」

 

「ここは待て。わたしが探る」

 

「やれるのか? 敵が見えるって言うんなら……」

 

 車を降りたB8は行き過ぎる路面電車を視野に入れていた。

 

「……ドールが自分から逃げるわけはない、か。放ったはずのごろつきがきっちり作用しているのならば……」

 

 路面電車が道を遮った瞬間、先ほどまでそこに居なかった人物が佇む。

 

 静かに赤いレインコートをはためかせる人影にB8は息を呑む。

 

「……被害が出ない場所まで。ニューヨークの赤ずきんだ」

 

「まさか……! こんなところで遭遇だと! クソッ、一括で買ったんだぞ、この車……!」

 

 徐行運転する伊達男に比して、B8は落ち着き払っていた。

 

「どうした? お前もあのドールを追っているクチか?」

 

「……こちらのドールに何をした」

 

「何も。少し観測霊を阻害してやった程度だ。しかし……お前の傍にも観測霊が居るな。あのドールがもしもの時の安全装置として置いていた、別の観測霊か」

 

 赤ずきんの傍で観測霊が燃え立つ。しかしこちら側にも観測霊は囚われている。ハッキングを受ける前に分離したか。いずれにせよ、赤ずきん側の観測霊さえ奪ってしまえば相手に捕捉の機会はなくなる。

 

 B8は姿勢を沈める。身体がランセルノプト放射光に押し包まれ、直後には質量を希釈化させて加速に入っていた。

 

 眼前に迫った自分へと赤ずきんの契約者がクナイを振るい落とす。弾き返す勢いで放ったのは手刀であった。

 

「……素手で……!」

 

「嘗めるな、ニューヨークの赤ずきん。超加速さえ使えばただの手刀でも刃と化す」

 

 しかしあまり接近戦はよくないな、と直感的に悟る。蹴り上げて相手をよろめかせ、B8は躍り上がっていた。

 

 その躯体へとワイヤーが伸ばされ、捉えようとするが両手を翼のように広げさらに高空へと飛翔する。

 

 ワイヤーの反発力を利用し、B8は飛び上がって舞い降りる。

 

 着地するなり肉体をさらに希釈化させ、B8は駆け抜ける。クナイが頭部を射抜く軌道を描いたが、貫いたそれを確かめつつも握り締める。

 

「希釈化した身体は物質攻撃を無効化する。それでも、やるか?」

 

「……無論だ」

 

 相手の身体も青白い光を帯び、能力を行使しようとする。B8はワイヤーを指先で弾き、身体の軸から外す。

 

 纏った輝きをそのままにワイヤーが電柱に纏いつき、そのままコンクリートの柱を融解させていた。

 

「……なるほど。熱の融点を操るのか、あるいは熱そのものを……。だがいずれにせよ、お前みたいな契約者は天国戦争じゃごまんと居たさ。何百人と見たクチだ。今さら驚きもせんよ」

 

 質量を限りなく低減させ、B8は跳躍していた。手刀をそのまま赤ずきんへと打ち下ろす。相手は半身になってかわしたが常人の回避速度ならばこちらの返す刀の手刀までは避けられまい。

 

 その眼前に迫った一撃を、相手はクナイを翳してずらす。

 

 弾かれ合い、互いに距離を取った形となった。

 

 クナイを確かめた赤ずきんは、刃毀れを確認し、舌打ちと共に投げ捨てていた。

 

「ただの手刀が武器になる。それが超加速だ。さらに肉体の質量を低減、そして存在の希釈化……通常の物理攻撃はわたしには効かんとも。それでも、やるかね」

 

 赤ずきんは短く息を吐き、こちらへと駆け抜ける。

 

 恐らくは接近は相手の望むところ。だが、それでも太刀筋は見え透いている。ワイヤーを投擲した相手の挙動にB8は跳ね上がり、そのまま飛び膝蹴りを赤ずきんの頭部へと打ち込もうとしてハッと背筋が粟立ったのを感じ取る。

 

 咄嗟に地面に手をつき自身の軌道を変える。

 

 地を這って気配を殺したワイヤーが蛇のように鎌首をもたげ、先ほどまでのB8の軌道上に出現していた。

 

 中空で絡まり合い、能力を行使させる。

 

 スパークしたランセルノプト放射光に、なるほど、とB8は納得する。

 

「……嘗めているのはお互い様だったか。しかし、解せないな。あのドールを何故守ろうとする? それは契約者の合理性に反するのではないのか?」

 

「……私は何かを守るなんてお題目は掲げない。殺すべき相手を殺すだけだ」

 

「……なるほど、合理的ではある」

 

 しかし、とB8は臨戦体制を解いていた。こちらから殺気が凪いだのを感じ取った相手が次手に移る前に、B8は横滑りしてきたスポーツカーのボンネットの上に乗り上げていた。

 

「だが合理的がゆえに、ここでの勝負は預けよう。負ける気はしないが勝てる気もしないのでね」

 

「……待て……」

 

 ワイヤーが追撃するが急発進した伊達男のスポーツカーの速度に相手は追いつけない。伊達男は口笛を吹かしていた。

 

「あそこまで挑発するかね、普通。それも合理的じゃないんじゃないのか?」

 

「乗せてやればいくらでも乗ってくる。……また追って来るぞ」

 

「確信か? どっちにせよ、明瞭な敵意って奴だけは分かるとも。……しかし戦っているところを直に見たのは久しぶりだな。……そろそろヤバいんじゃなかったのか?」

 

「ああ。……来たな。幻影だ」

 

 景色がぐにゃりと歪んでくる。対価を払う時だ。

 

 幻想の中に入ろうとする自分へと伊達男は静かに口にしていた。

 

「安全運転は心がけるとも。ゆっくりと夢の淵へと、入っていくといい」

 

「……ああ、そうさせてもらう……」

 

 直後には、意識は遠のき、目の前で駆け回る少女を視野に入れていた。

 

 ――ああ、ここが、と木目造りのチェアに腰かけ、自分は息をつく。

 

「あなた、仕事続きじゃない? 大丈夫?」

 

「ああ、大丈夫だよ。それより心配をかけさせた。……悪いと思っている。この子とも遊んであげていないな、最近は」

 

「出張で忙しいんだから。無理はしないでいいわよ」

 

 そう言ってくれる妻の声に半ば甘えつつも、自分は少女へと歩み寄っていた。

 

 少女は習い始めた裁縫を試し、テディベアの足首を直している。

 

「上手になったじゃないか。これはパパの魔法は要らないかな」

 

「いーやっ! パパの魔法じゃなきゃ直らないの!」

 

「分かったから。ぽこぽこと殴るのはやめてくれよ」

 

 少女はむくれて裁縫を行う。どこか危なっかしい手つきに戦々恐々としていると、やはりと言うべきか、針で指を刺したらしい。

 

 血の玉が滲み出したその指先へと絆創膏を巻こうとして、少女は首を振る。

 

「いいっ! パパの魔法で直してもらうんだもん!」

 

 どこか意固地な声音はもしかすると反抗期の始まりかなともさえ思わされる。少女は指先を自分で舐めてから、また針仕事を始める。

 

「……一人でもやるんだって聞かないんですもの。……あなたも少しは遊んであげて」

 

「ああ、それは分かっているんだが……なぁ、ガーネットは何て言っているんだ?」

 

 テディベア――ガーネットを慮ると、少女は笑顔を咲かせた。

 

「あのねー、ガーネットは私に直してもらうのがいいんだって! パパの魔法がなくっても……多分、平気……」

 

「嘘は駄目だな。……しょうがない。来なさい。ガーネットと一緒にパパの魔法にかけてあげよう」

 

「やった! パパの魔法っ!」

 

 抱き着いてきた娘のぬくもりを感じ取り、自分は魔法をかけるイメージを伴わせる。

 

 そう、物心ついた時から、どうしてなのだか分かっている「魔法」。誰かを抱き締める時に、こうして抱き締めれば、きっと思いは伝わるのだと知っている。

 

「パパの魔法……あったかいね……」

 

「ガーネットを直してあげよう。足首のところだったね」

 

 ほつれた糸へと触れてやると、その瞬間、糸が巻き戻ったように縫合され、テディベアの足が修復される。

 

 少女は呆然としていたが、やがて大輪の笑みを咲かせてくれていた。

 

「パパの魔法! すっごい!」

 

「こんなの、魔法でも何でもないさ。ちょっとだけ得意なんだよ」

 

「でも、私にとっては魔法っ! パパだけがつかえるんだよね?」

 

「ああ、パパだけが、この魔法を――」

 

 そこで不意に言葉を詰まらせる。この魔法……月明りの光を思わせる輝きを、つい先ほど、自分は知っていたのではないのか。

 

 唐突に網膜の裏で焼き付いたのはいくつもの人影とそして……青白い輝きを灯らせる存在達であった。

 

 頭痛を覚え、蹲った自分へと少女は窺う。

 

「パパ? ママ! パパが……!」

 

「まぁ、どうしたの? ……どこか悪いの……?」

 

「いや、違う……何で、この場所にまで……」

 

 網膜の裏で明滅する「彼ら」はこの世界には干渉出来ないはずなのに。それなのに今は明瞭に像を結んでいる。

 

 彼らは――契約者。

 

 そして自分の、魔法そのものも……。

 

「この力は……契約能力……?」

 

 だがそんなはずがない。自分の力は、虐殺のためにあるこんな力などでは。

 

 よろめいた瞬間にフラッシュバックしたのは彼方の戦争の記憶であった。

 

 紅蓮の炎の中をランセルノプト放射光を滾らせた殺戮兵達が踏み進む。

 

 蹂躙の記憶が視界を埋め尽くし、彼らの能力を相手に、自分は走り抜けていた。これはかつての戦場の記憶。凄惨を極めた、契約者同士の喰らい合い。

 

 空間を引き裂く刃を掻い潜り、自分は質量希釈と超加速で肉薄していた。

 

 その人影の首の骨を折ろうとして、ハッと気づく。

 

「……お前は……」

 

 もう遅い。実行された攻撃に、頸部を打ち砕かれていたのは――幻想の中で目にする妻の形相であった。

 

 叫びと共にB8は現実へと引き戻される。

 

 酷く動悸が早い。それでいて、背中にはじっとりと汗が滲んでいる。

 

「ど、どうした? お前らしくもない。……対価を払っていたんだろう?」

 

「ああ、そうだ、ここは……」

 

 ニューヨーク旧市街地を行き過ぎる車内で、B8は先ほどの幻想を反芻する。

 

 こんな事は、今まで起こり得なかった。しかし、どうしてなのだか、対価の中に映り込んだ天国戦争の末路は、これまで以上に、どうしてなのだかリアルだ。

 

「……まるで、こちらが本当の対価だとでも言うように……」

 

「……大丈夫か? 具合が悪いのなら、作戦の見合わせも検討するが……」

 

「いや、問題ない。……戦闘機械に、そのような事は些末なはずだ」

 

 そう、些末なのだと、自分に言い聞かせなければ、この時ばかりは幻像を振り払えなかった。

 

 



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第五十五話「戦地を睨む」

 

『逃がしたのは失態だぞ、紅』

 

 ブルックの声が頭上よりかかり、夜都は赤いレインコートを翻させてポケットに仕舞っていた。

 

「……相手は天国戦争の生き残りだ。仕損じる事もあり得る」

 

『そうであっては困るんだ。……ガーネットの動きが奇妙に映る。先ほど、俺が捕捉した時……あいつはお前の表向きの顔を知る連れと一緒に居た』

 

 その言葉に夜都は瞠目して振り仰ぐ。

 

「……アリスと? 何で……」

 

『こっちにも分からん。だが分からんなりに考えが及ぶとすれば、それはお前の連れが踏み入ってはならない場所に踏み入って来たのではないか、という懸念だ』

 

 アリスが、裏側に精通してきた? 冗談にも等しいが契約者とゲートを追っている以上、あり得ないと棄却も出来ない。

 

『……どうする? 紅。お前の顔が割れている以上、ガーネットと直接会ってどうにかすると言う手段は難しくなった。しかし、敵も相当な使い手を忍ばせてくるじゃないか』

 

「……何か新情報でも?」

 

『組織のサーバーに繋ぐとあいつはすぐに出てきた。天国戦争の生き残り、B8、その手腕も。……そして契約対価でさえもな』

 

 どこか声に翳りを見せたブルックに夜都は、どうせロクでもないのだろう、と察する。

 

「……契約者の対価なんて、どれも大した情報じゃない」

 

『いや、俺達からしてみればそれこそ、千載一遇の好機がその対価なんだ。B8は“夢”を見ると言う』

 

 その言葉振りに夜都はすぐさま否定する。

 

「……契約者は夢なんて見ない」

 

『そういう原理的な夢ではなく、そうだな……これは一般的には妄想の類だろう。数分間の虚脱状態における幻視を確認した、と奴の所属していたチームから割れている。つまり、その数分間のみ……』

 

「……奴は無防備になる……」

 

 赴くところを理解した夜都にブルックは指令する。

 

『……紅。契約対価を払っている最中に狙う事は……』

 

「……難しいと思う。契約者同士ならば特に」

 

 戦闘中に対価を払わなければならない、強制引き落とし型の対価でない限りは、支払いを引き延ばす事は可能だ。

 

 ゆえに、B8を正面切って倒すのならば、対価の発動中に狙うのは「自分では」難しいだろう。

 

『……やはりそうか。ならば作戦をBプランに移行させる』

 

「ブルック。その“夢”とやらは、どういう代物なんだ?」

 

『気になるか、やはり』

 

「……契約者は夢なんて見ないからだ。だからこそ、それでも夢と言い張るのならばそれなりに関係があるのだろう。B8……あの男の過去と……」

 

『……追跡しながらにしよう。ここで悠長に喋っていても、ガーネットを抑えられれば終わりだ』

 

「……確かにその通り」

 

 今の自分達はそうでなくとも下策を打っている。ガーネットを連れ戻し、自分はB8との決着を。早期にケリをつけなければ禍根を残す。

 

 しかし、と夜都は周囲を見渡していた。

 

 浮浪者達がゆらりとした足取りで集まってくる。先の戦闘を見られたのだ。契約者相手に、今はホームレスに堕ちた身でも感じるものがあるのかもしれない。

 

「……契約難民……」

 

 彼らの一人が声を放とうとした、その時であった。

 

 サイレンの音が鳴り響き、パトカーが横付けに停車する。契約難民達は我先にと散って行ったが、彼らの背中をパトカーより現れた女性警官は追うでもない。

 

 自分へと真っ先に駆け寄って声をかけていた。

 

「……大丈夫? こんなところ、一人で来るもんじゃないわ」

 

 青いスーツをびしっと着込んだ女性警官は懐へと手を入れる。その動作だけで浮浪者達が離れて行った。

 

「……警察組織だって、こういう時には役に立つものね」

 

 ブルックが音もなく飛翔し、電線に掴まって遠ざかる。自分はその視野を意識しつつ、女性警官相手にうろたえる。

 

「あの……あなたは……?」

 

「ニューヨーク市警の警官よ。名前はミシュア・ロンド。……それよりも、何でこんな場所に? ここは旧市街地よ?」

 

 詰問に夜都は首を引っ込めて縮こまりかけて、ミシュアと名乗った相手の疑問符を聞いていた。

 

「あら? もしかして……どこかで会った事、ある?」

 

「……いえ、その……。ないと思いますけれど……。私、日本の留学生で……」

 

 そこでミシュアがあー! と声を張り上げる。まずい、正体が露見したか、と構えた夜都に比して放たれた言葉は意想外であった。

 

「……この間の事件の……。ほら、覚えていない? 話を聞いていないかって、部屋の前まで行って……」

 

 その時に顔を合わせただろうか。自分はあまり印象にはなかった。

 

「……いえ、そんな事……ありましたか?」

 

「うんうん、あったよ、あった。このご時世に日本人の留学生だもの。間違いない。……えっと、じゃあ何で、この旧市街地に? あなた、確か新市街地のアパートに居たわよね?」

 

 住居まで割れているとなれば自分は猫を被るしかない。夜都は人畜無害な留学生を演じていた。

 

「……あの、よく分からなくって……。ちょっと遠出するだけのつもりだったんですけれどでも、路面電車の行先とか、知らないから……」

 

「あー、確かに。路面電車で寝過ごせばここまで来ちゃうか……。でもそうなると、余計に元の場所に戻るのは難しいわよね。乗っていく? 今なら、何とかなるし」

 

 パトカーを示され夜都はやんわりと断っていた。

 

「いえ、そこまでしていただくのは……」

 

「でも危ないし……女の子一人でしょ? 旧市街地は……浮浪者がね。さっきみたいに囲まれたらお終いよ? そうじゃなくっても、ここいらは頭の痛くなる案件が……。あー、そうだった……。私もその頭の痛い案件に来たんだったわ……」

 

 額を押さえるミシュアに夜都はそっと窺う。

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

「いや、心配していただくのはありがたいんだけれどでも、ここは、ね! 大人なんだからしっかりしないと! ……でも、ちょっとすぐには送れないかな。ここで用事があるの。パトカーの中で待っていてくれる? そうすれば終わるから」

 

 一秒たりとも無駄には出来ない。そうでなくとも、ガーネットの行方は分からないのだ。アリスの目撃証言もある。このまま時間を浪費したくはない。

 

「いえ、大丈夫ですから……っ。路面電車に乗れば、そんなに難しくは――」

 

 そこまで口にしたところで不意に視界に入って来た一団にミシュアが振り返ってこちらを庇う。

 

「……離れないで。現地警察……」

 

 どこか因縁めいた声音にミシュアはつかつかと歩み寄り、水色の腕章をしている集団へと声を投げていた。

 

「ミシュア・ロンド。リッター刑事を頼みたい」

 

「デカ長を……? おい、この女、何者……」

 

「何だ、誰かと思えば、いつかのニューヨーク市警の花形さんじゃありませんか。何の御用で?」

 

「……例の案件で来ました。噂の限りではまだ殺しは続いていると」

 

 リッターと呼ばれた肥満体の男は鋭い眼差しでこちらを睨む。

 

「……民間人が居るようですが」

 

「彼女は日本の留学生。迷い込んだみたいなので保護しています」

 

「保護、ね。旧市街地を信じていないのなら、そもそも干渉せず、が基本のような気もしますが」

 

「信は置きたいのです。しかし事実として、それは難しい状況になっている」

 

 リッターは葉巻をくわえて火を点ける。煙い吐息を吹き付け、彼はこぼしていた。

 

「またホトケです。例の……と言えばいいでしょうが」

 

「何か進展は?」

 

「……保護しているそのお嬢さんが邪魔ですな」

 

 ミシュアは一瞥を振り向けた後に、パトカーへと顎をしゃくっていた。

 

「今は、不本意かもしれないけれど、あそこに居てくれる? すぐに新市街地に送るから……」

 

「あ、はい……。じゃあ、その、待っていますね……」

 

 夜都はパトカーの後部座席へと乗り込む。瞬時に視線を走らせ、無線機へと張り付いた観測霊を目にしていた。

 

 観測霊そのものはあのリッターなる男の煙草から出現し、そのまま煙の行方を辿ってパトカーまで至っている。

 

 自分の身柄を知られるのは単純に旨味がない。

 

 夜都は観測霊がこちらを察知する前にパトカーから駆け出していた。

 

 幸いにしてミシュアもリッターも気づいた様子はない。今ならば、と見知った道順を辿り、夜都はセーフハウスへと逃げ込んでいた。

 

 コーヒーを抽出させながら、次手を講じる。

 

「……どう考えても、これは好転してない。このままじゃ、あの契約者を倒す手立ては失われてしまう」

 

 黒々とした液体にシュガーを三本入れ、夜都は口を付けていた。

 

 敵対契約者ならば早々に排除すべきだ。ブルックの論調ならば、契約者同士の正面を切った戦いよりも、遠距離からの騙し討ちのほうが性に合っていると思われる。

 

「……ともすればグレイは汚れ仕事に就くか。だがどちらにせよ、あの契約者……B8ともう一度真正面から戦わなければならない」

 

 その時、勝てるのか。まだ算段はついていないが、全くの好条件に恵まれていないわけでもない。

 

 相手の弱点はある程度露見している。

 

 このまま力比べではなく、一発でも攻撃が届けば、逆転の芽は残っているだろう。

 

 夜都はコーヒーを呷り、セーフハウスの外を眺めていた。

 

 旧市街地で浮浪者達が一定のリズムで生活を刻む中で、先ほどのリッターと同じ、水色の腕章の者達が調べを尽くしている。

 

「……あれが、件の現地警察と言う奴か」

 

 案外、旧市街地で出くわした事はない。彼らは自警団のようなものなのだが、そのやり口に非合法的なものが見られるため、ニューヨーク市警とは反目しているはずだ。

 

 だと言うのに、何故ミシュアはその頭目らしき男と会ったのか。不明な点は数多いが、何よりもあまり出歩けない事が痛い。

 

 今頃、ガーネットが何をしているのかはまるで掴めない。ともすれば、アリスに情報を流しているのかもしれない。

 

 そう考えると落ち着かず、夜都は窓から鉄骨を伝って飛び降りていた。

 

 音もなく着地し、旧市街地の裏通りから、新市街地を目指す。

 

「……戦場になるとすれば新市街地、か……」

 

 胸中に紡いだ言葉に、苦々しいな、と感じていた。

 

 



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第五十六話「縁を紡ぐ」

 

「うーん……やっぱし、こっちじゃない?」

 

 掲げてみせた衣裳をガーネットは何の文句も言わず着こなしてみせる。充分に着せ替え人形の素質があるそのかんばせに、アリスは手を打っていた。

 

「ヤト以上……ううん、かなりのポテンシャルの持ち主ね……。侮れないわねぇー、旧市街地! こんな美少女を抱えているなんて!」

 

 どこか眼差しを虚空に投げているガーネットへと、次、次、と衣裳を着せていく。ガーネットは何も文句を言うでもない。

 

 ただ淡々と着替えていくその姿に、アリスはふと手を止めていた。

 

「……そういえば、そのテディベアは手離さないのね。着替えは拒まないのに」

 

「……これは、大事なものだから」

 

「大事、ねぇ。誰かの思い出の品? 何で熊なのに紫色なの?」

 

 問いかけに白いワンピースを纏ったガーネットは小首を傾げる。

 

「……何でなのかは、分からない……」

 

「ふぅん、不思議な縁もあるものね。何だか、あんたって……どことなくヤトと似てるわ。ヤトも時々、すっごい遠くを見ている時があるの。そういう時に、あたしはちょっと怖くなっちゃうんだけれどね」

 

「……怖い?」

 

「うん、怖い。ここから居なくなっちゃうんじゃないかって恐怖。ヤトってばただでさえ鈍くさそうな感じだから連れ去られでもしないのかって不安でねー」

 

「……ヤト……」

 

 大きめの麦わら帽子を被せてやると、よろめきつつも姿勢を正したガーネットにアリスは抱き着いていた。

 

「可愛い……っ! ガーネット、あんた原石よ! 名前通りね! 儚げな美少女って言うの、かなり合ってるわ。でも……本当に儚過ぎて、居なくなっちゃいそうなのも、ね。あたしはちょっとだけ不安かな」

 

「……不安。不安は……分からない」

 

「かもね。じゃあお会計しようか」

 

 ガーネットは散乱した衣服にうろたえたようであった。

 

「……どれを着ればいいの」

 

「どれで、好きなように。ぜーんぶ買ってあげるから。これでも、お金あるんだからね」

 

 カードで支払いを済ませたアリスに、ガーネットは試着室でまだ鏡に向かって視線を投じていた。

 

「あら、悩んじゃって。そんなにセンス良かった?」

 

「……どれがいいのか、分からない」

 

「どれでもいいのよ。好きな服を着て、好きなように生きていけるのが、このニューヨークのいいところなんだから。あんたはあんたに似合う服を自分で見つけ出すの。……そりゃ、最初のゴスロリ服も捨てたもんじゃないけれど、でも……あんたこれで意外に明るい服が似合うわ。赤茶けた髪の毛のお陰かしらね。いい色だと思う」

 

 髪を撫でたアリスにガーネットは手を添わせる。

 

「……いい、色……」

 

「うん、いい色。きっと神様が与えてくれたのね。その美貌に、見合うような髪の毛の色を」

 

 ガーネットはどこか自分の行動をなぞるようにサイドテールにした髪をさする。ツインテールでも充分に似合ってはいたが、少しばかり冒険させるのもいいだろうという判断だ。

 

「……神様……」

 

「そっ。さぁ、行こっか。服はしばらくはそのワンピースでいいわよね? シンプルだけれど似合っているし。……あっ、でもそのテディベアは手離さないんだ? 何で?」

 

「……分からない」

 

「んー、まぁいっか! 自分でも分かんないこだわりってあるでしょ。さぁ、ブティックを出たらそこからが戦場よ!」

 

「……戦場」

 

「そっ、乙女の、ね」

 

 ウインクしたこちらに対し、ガーネットの表情変化は乏しい。アリスは向き合って、その頬っぺたを引っ張っていた。

 

「こうやって……にんまりと笑えない? 笑えると……きっといい事が起きると思うんだけれどなー」

 

「にんまり……」

 

「そっ! にんまり! 人って不思議よねー。笑うと何でも取れちゃう。それが厄介な憑き物であったとしてもねー。……ヤトも、そうかな。たまに笑ってくれるの。そうしている間だけは、ヤトもここから出て行かないって思えるし」

 

 アリスは自販機でカフェオレを購入し、ガーネットへと放る。缶をじっと見つめるその瞳に、アリスは自分のコーラを開けつつ言いやる。

 

「……ねぇ、ガーネット。あんた、何だか嫌な事でもあったの? それとも、ヤバい事に巻き込まれてる? 一般人が旧市街地をうろつくなんて、普通じゃないって」

 

「……私は……」

 

 答えを彷徨わせている様子のガーネットに問い詰める気にもなれず、アリスはその手を引いていた。

 

 ガーネットは静かにカフェオレを口に含む。

 

「……甘い」

 

「世の中カフェオレみたいに甘ったるく出来ていればねー、そう難しくはないんだけれど、でもそうも言っていられないし? あたしゃ、こうやって足で稼いで飯の種を探すわけ。契約者やゲート関連の情報はこうした地道な活動で入手するの。……もちろん、顔見知りの情報通とかも頼ったりするけれどでも、基本的には一人かな。バイトがない時にはこうやってニューヨークを歩き回るのが趣味なんだ」

 

 こちらの歩みにガーネットは何も言わずについて来る。とことこと、どこかぎこちない歩調にアリスは合わせていた。

 

「ねぇ、ガーネット。このニューヨークはね、危ないんだってさ。まぁ、これも又聞きの情報に過ぎないんだけれど……近々ヤバい大ごとが起こるって、関連筋じゃ有名。この間の疑似ゲート事件の時に、何か上のほうの治安組織が動いたとかって、みんな及び腰になってる。もうこんな街は御免だ、こんなところに居たくないって。……でもあたし、それは出来ないんだ。だってせっかく、真実に肉薄出来そうなんだもの。なら、最後まで手を伸ばす。それがジャーナリズムでしょ?」

 

 問いかけたこちらにガーネットは分かっていない風な表情を返す。

 

「……分からない」

 

「……ま、分かんないほうがいいかもね。下手に物わかりがいいと、何でもかんでもやる前に諦めたりとかさ。コーヒーを飲む前に味を決めつけちゃう人間っているもんだから。やるんなら最後まで飲めって言うのに」

 

 ガーネットはちびちびとカフェオレを口に運んでいる。

 

 アリスは視界の端に屋台を目に留め、ガーネットへと言いやって駆け出す。

 

「アイスの屋台出てるじゃない。こうしちゃいられない! 買って来るから待っててね!」

 

 屋台でまずはチョコレートを注文し、ガーネットへと視線をやったその時であった。

 

「ガーネット! あんた、何が欲しい――」

 

 その言葉を吐き切る前に、小銭を取り落とす。

 

「――見つけたぞ。ドールめ。手こずらせる」

 

 スポーツカーの後部座席から歩み出た男にガーネットは腕を掴まれる。アリスは考えるよりも先に身体が動いていた。

 

「何してんのよ!」

 

 飛び掛かり、拳を見舞うが相手は軽く身をかわす。しかしその程度では終わらない。

 

 即座に地面に落とさせた炸裂弾が光を放射し、相手の眼を眩惑させる。

 

「ガーネット! 走るわよ!」

 

 手を引かれガーネットと共に新市街地を駆け出す。相手が追おうとしたのが伝わったが、すぐにスポーツカーへと乗り込み、こちらを運転手の男が睨んでいた。

 

「……やっば。あいつらどう考えてもカタギじゃないでしょ……。ガーネット、あんた本当に、何で……」

 

 問いかけはしかし、直後に霧散する。

 

 スポーツカーの運転席より覗いた拳銃を目にしたアリスは咄嗟に身を伏せていた。

 

 銃声が劈き、新市街地を恐慌に染める。

 

 舌打ち混じりにアリスは鞄の中を探っていた。

 

「……何なの。何でもアリってわけ? ……じゃあこっちも……容赦しないんだから、ねっ!」

 

 投擲したのは護身用の衝撃弾頭だ。信管を抜かれれば五秒以内に炸裂し、対象の相手の聴覚を完全に奪う。

 

 ただの手榴弾と違うのは非殺傷性である事。そして自分の持っている奥の手の、ゲート内物質を使った武装である事だろう。

 

「ガーネット! 走って! あの衝撃弾は強烈だから、車程度じゃ防げないし! ……それに今なら逃げ切れるかも!」

 

 淡い希望が浮かび上がりかけたその時、大写しになったのはいつの間に追いついていたのか、先ほど後部座席に乗り込んだはずの男であった。

 

「……いつの間に……」

 

「邪魔だ」

 

 言い捨てられると共に首筋へと手刀が見舞われる。昏倒の手順を心得ている力量にアリスは意識が闇に没しかけて、最後の足掻きのようにそのズボンの裾を強く握り締める。

 

「……あんた、ねぇ……。何やってんのか……分かってんの……?」

 

「まだ意識があるか。一般人にしては図太いな」

 

「一般、人……。馬鹿ぁ、言ってんじゃないわよ……! 確かにガーネットはねぇ……何考えてんだか分かんないし、それに危なっかしいところもある……。でもね、その心の中じゃきっと、叫んでる! 泣いてるのよ! ……あんたらみたいなのには……分かんないかもしれないけれど……っ!」

 

「分からないな。人形の感情など」

 

 断じた論調にアリスは奥歯を噛み締め、直後には男の向こう脛に噛み付いていた。

 

 思わぬ行動だったのだろう。

 

 男がたじろいだ様子を見せる。

 

「……貴様……」

 

「……どう、分かった……? 人間、やれば出来るって……」

 

 そこから先を掻き消すように鳩尾へと蹴りが見舞われる。

 

 激痛と共に落ちてく意識に、身を委ねようとした、その時であった。

 

 赤いレインコートの影を、確かに見たのは。

 

「……赤い、影……」

 



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第五十七話「残滓を追う」

 

 急転直下のワイヤーによる一撃をB8は感知してステップを踏んで後退する。

 

 初動を誤ったか、と紅は舌打ちを滲ませてからガーネットを引き込んだ相手と対峙する。

 

 傍で気を失っているアリスを一瞥し、その手の中にクナイを携えていた。

 

「……MA401……」

 

「……こちらのドールを返してもらう」

 

「……どうかな? もう、このドールは使い物にはならんかもしれないぞ」

 

「ここでお前を抹殺すれば使える。それは揺るぎない」

 

「……なるほど。契約者らしい判断だ」

 

 紅は地を蹴って駆け出す。B8は滑り込んできたスポーツカーにガーネットを乗せ、そのまま自分へと突っ込んで来ていた。

 

 互いの腕が交差し、紅は接触の一瞬を狙い、攻撃を見舞おうとしてB8がこちらを蹴って距離を取る。

 

 質量希釈により即座に射程から逃れた相手に紅はクナイを投げていた。

 

 ランセルノプト放射光を帯びたB8の断ずるような手刀によりクナイは弾き飛ばされ電柱に突き刺さる。

 

「無駄だと言った。そしてわたしを倒す事は出来ない。MA401、お前の能力では」

 

「……何度も言わせるな。ここで、殺す」

 

 ハッとB8は勘付き、質量希釈でスーツの肩口から先を引き裂いていた。その瞬間に能力が実行される。

 

 ワイヤーの一部を巻き込み、スーツに引っかかっていた地点を利用しての攻撃は失敗に終わったらしい。

 

 舌打ちを滲ませた紅にB8は赤く眼を煌めかせて応じる。

 

「……今のはいい一手だった。敵ながら褒めてやる。だが、二度目はない。南米でもそうだった。いい一手を奇跡的に打ってくる相手は存在する。その一打で決まる時も。だが、大抵の場合、運はわたしに味方してくれるらしい。だからこそ、今日まで生き残れた。あの凄惨な戦争を体験してなお、わたしはここに立っている。その明暗を分けたのは、運だ」

 

「……運なんて、契約者らしくない事を言う」

 

「だが今の勝敗を分けたのは運以外の何者でもない。残念だったな、MA401、お前の攻撃はもう、わたしには通用しない」

 

「……ここから先に行けば、分かる話だ」

 

 ワイヤーを巻き込んでクナイを手元に戻し、再び逆手に構えた紅に、B8は、いいや、と声にする。

 

「……もうその機会も訪れまい」

 

 スポーツカーの運転席より銃撃が連鎖する。紅はコートの表面で弾き返したが、その一瞬の隙が仇となっていた。

 

「……もう会う事はあるまい。煉獄の契約者。このドールからお前達の組織とやらの情報を洗い出せばそこまでだ。我々の任務は完遂される。追う側が追われる側になるとは。愚かしいな、お前も」

 

「……黙れ」

 

 ワイヤーを投げ放つがその時には既にスターターを巻き起こしたスポーツカーはその場から完全に逃げ切っていた。

 

 車両に追い縋るほどの足を今は持っていない。

 

『……逃げられたな。どう清算をつけるつもりだ? 紅。ガーネットの持つ情報は俺達のアキレス腱でもある』

 

 直上からのブルックの声音に紅は忌々しげに応じる。

 

「……追いついて殺す。それでチャラだろう」

 

『そううまくはいくのか? B8……お前があれほどに真剣に立ち回っても防戦一方の相手は初めて見るとも。それほどにヤバいのなら、俺達はもうこの任務から撤退する。他のチームに任せて新しいドールを支給してもらえばいい。それでこの一件は終わりのはずだ』

 

「……任務失敗になる。奴らの保護している対象を追い込み切れていない……」

 

『それに関してはグレイが便宜をはかってくれたらしい。別働隊による追い込みで今回はお鉢が回ってくる事もなさそうだ。分かるか? 俺達は連中に負けたんだ。その上でドールを奪われた。これ以上ない、撤退戦だよ』

 

「……負けていない」

 

 ちら、と先の戦闘に巻き込まれなかったアリスを視野に入れる。

 

 彼女の身の安全を最優先にすれば自分の株は下がってしまう。だから、アリスには頓着さえも向けなかった。

 

 歩み出そうとした刹那、その手が地面を爪弾く。

 

「……何で……。あんた達が、ガーネットの生き方なんて決められるのよ……」

 

 気が付いていたのか。硬直した紅の足元へとアリスの執念が掴む。

 

 その指先に込められていた怨嗟の強さに、紅は振り解けずにいた。

 

「……あの子は……そりゃ不器用かもしれないけれどでも……何であんた達みたいなろくでなしが、居場所を奪おうって言うのよ……。契約者なんて、大嫌い……っ。あんた達なんて……地獄に堕ちちゃえ……」

 

 涙ぐんだその声音に紅は目を伏せる。

 

 ――契約者は人間じゃない。

 

 その言葉を思い返し、そっと言葉をかける。

 

「……それでいい。契約者は、そうじゃなくってもろくでなしばかりだ。そいつらに期待する必要はない。……いつだって正しいよ、アリスは」

 

「……あんた、その声……」

 

 言葉が確信を持つ前に、紅は熱操作の能力で気絶させる。

 

『……よかったのか? 何なら組織のMEで記憶を……』

 

「そこまでする必要はない。それに……ガーネットの件も、退くつもりはない」

 

 譲らない強情さにブルックは慮る。

 

『……言っておくがガーネットは共に死線を潜り抜けた経歴が長いとは言え、ドールだ。ドールはMEによる記憶流入で簡単に裏切る。それに、関連付けの記憶を失えば自壊もしてしまう。……俺達が並みの仲間意識を持って踏み入れば踏み入るほどに、傷つくのはお互い様だぞ』

 

 そう、ガーネットは所詮、ドール。その現実だけは覆しようがない。

 

 ――それでも、ここで撤退するのは、と傍らでまだ燻る観測霊の炎を目にする。

 

「……まだ燃え盛っている。まだ……ガーネットは諦めていない。なら、私達が退くのは違うだろう」

 

『……ただの観測霊の残りカスだ。ガーネットに感情なんてものはないんだ、紅。俺達契約者と同じように……ドールは人間の合理性をさらに突き詰めた存在。だから計算高く裏切り、そして並み居る契約者よりも、もっと冷酷に裏切る時には裏切る。俺達の事なんて次に目にすれば覚えていないかもしれないんだぞ……。それでも、か?』

 

「それでもだ」

 

 躊躇はない。何よりも、ガーネットの魂の残片がここにまだ燻っているのなら。自分をこの場所へと導いたと言うのならば、まだ望みはあるはずだ。

 

『……待て。グレイか。……分かった。紅、グレイより暗号通信がサーバー越しに通達された。組織はそれを受理、一度グレイと合流しろ』

 

「……追うのに時間を取られるのは意味がない」

 

『それでも、だ。……どうやらグレイは何か相手に関する、決定的な事を調べ上げたらしい。聞く価値はある』

 

 敵の契約者に関する情報。それは一つでも多ければ勝算に繋がるに違いない。

 

 紅は首肯し、飛翔したブルックを目で追う。

 

『合流場所は暗号通信で教える。今は……そこのお前の表の顔として必要な嬢ちゃんから、少しでも離れる事じゃないのか』

 

 アリスを巻き込む事は出来ない。

 

 紅は新市街地の片隅で起こった事件に警察が介入してくるのも時間の問題だと感じていた。

 

「……別ルートから合流する」

 

 ワイヤーを伸ばし、ビルの谷間を抜ける。

 

 今は、一手でも勝てる算段があるのなら。

 

 



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第五十八話「追憶を損なう」

 

「おい、そいつ気味が悪い……」

 

 伊達男の声にB8は回収したドールが自らの頬をつねり、口元を引っ張っているのを視野に入れる。

 

「……笑顔の真似か……? そんな事をするドールも居るんだな。だが、ドールなんて所詮、MEで記憶を操作して改ざんして、人格を替えてやればいい。こちらの好みにな。自我が邪魔しない分、契約者よりも使い勝手はいい」

 

 伊達男は本気でそう思っているのだろう。

 

 しかしB8は彼女がそれだけのドールだとはどうに思えなかった。

 

「……どこかで……会った事があるか?」

 

「おい、B8。ドール相手に色気なんざ……」

 

「違う、わたしの……何かに関係があるような……」

 

 その時、不意に意識がぼやける。いつもの対価か、とB8は背もたれに体重を預ける。

 

「おい、対価か? なら言えよ。出来るだけ静かに運転するからな」

 

「……すまない。では……幻像の中に、潜っていくとしようか……」

 

 その時、隣に座った赤髪のドールがぎゅっと袖を引っ張る。それを関知しつつ、意識は薄らぎ、次の瞬間には大写しになったのは同じ髪色の娘の笑顔であった。

 

 ハッと面を上げ、月明りの差し込む寝室で今、自分は娘を寝かしつけているのだと体感する。

 

「……パパ?」

 

「うん? どうしたんだい?」

 

「んーん! 何でもない! ……でも、最近のパパ、変なんだもん。ガーネットもそう思うよね?」

 

 彼女の語りかけたのは紫色のテディベアだ。どこかで見た気が、と意識を割いていると部屋を覗き込んできたのは妻である。

 

「あら? まだ眠っていないの? ■■■。駄目じゃない。いい子にしないと」

 

 どうしてなのだろう。娘の名前と思しき部分だけ、ノイズが走る。

 

「でも、ママ。パパってば変なんだもん。最近は魔法も使ってくれないし……」

 

「パパの魔法は特別なのよ。いつでも使えるわけじゃないの」

 

 妻が月明りの差す娘の額をさする。それだけで彼女は安堵したように目をしばたたかせる。

 

「……ほら、寝なさい。眠いんでしょう?」

 

「……眠くないもん……っ」

 

「パパを困らせないで。あなた、明日から出張なのよね?」

 

「ああ、そうなんだ。わたしも、ようやく栄転が決まってね。明日から南米に――」

 

 そこまで口にして、自分は硬直する。

 

「どうしたの? あなた」

 

「パパー、何ー?」

 

 疑問を呈する二人に対して、自分は凍りついていた。継ぐ言葉を口にしようとして、何故だか嫌な汗が背筋を伝い落ちる。

 

 目を瞑れば、脳内で像を結ぶのは赤い眼をぎらつかせる青白い輝きを誇る怪物達。

 

 ――契約者……。

 

 しかし、何故。

 

 この幻像には関係がないはず。いや、そもそもこれは幻像なのか? 幻像がこんなに……すぐ傍にあるかのように振る舞えるか? 本当に捨て去った過去のように、明瞭に像を結ぶのか?

 

「パパー。魔法を使ってー。ガーネットが、見たいって言ってる」

 

「駄目よ、■■■。パパを困らせるもんじゃありません」

 

 諌める妻に対して、自分は動悸が収まらなくなっていた。早鐘を打つ心臓に、後ずさった途端、座っていた木造の椅子が転げる。

 

 怪訝そうにこちらを見つめる二人に、必死に手を伸ばそうとして自分は青白い光に包まれていた。

 

「……ランセルノプト放射光……」

 

 だが何故。

 

 これは対価のはずだ。

 

 対価の空間の中で、能力を使えるわけがない。

 

 だと言うのに、恩讐のように纏いつくこの感覚は。怨嗟の声のように自分を手離さないこのうすら寒さは。

 

 振り返る衝動に駆られ、仰ぎ見た月明りが一瞬にして赤く染まる。

 

 赤い三日月が浮かぶ空が反転し、自分の身体はジャングルの奥深くに位置していた。

 

「……これは……」

 

「しっ。何をうろたえている? B8、らしくないぞ」

 

 作戦の前線基地だと言う事を思い返すと共に、自分がどこに居るのかを思い知っていた。

 

「……ここは、南米だ……【天国門】が……」

 

「どうした? B8、お前はアタックの要なんだ。頼むから敵相手にうろたえないでくれよ」

 

「……敵……」

 

「そう、敵だ。来るぞ。……あいつら、カモだな。作戦区域に入った連中を抹殺する。油断するなよ……推測メシエコードを観測。……驚いたな。UB001のチームか」

 

 見た事のない機械で仲間が算出するのは戦場に割って入ったチームのメシエコードだ。高速で浮き彫りになる相手の姿を支えているのは樹の上に位置する少年兵であった。

 

 虚ろな瞳が、敵兵を見据える。

 

 青白い亡霊が地面を這い、敵の足元を通過する。

 

「……契約者が五名。……アンノウンが一名」

 

「よし、アンノウンから殺せ。B8、やれるな?」

 

 問いかけられて自分は戸惑う感情とは裏腹に駆け出していた。

 

 ランセルノプト放射光を身に纏い、瞬間的に質量を希釈。加速を開始させる。

 

 敵は背中合わせに陣取ったが何もかもが遅い。

 

 ドールが目したアンノウンは一人のアジア系男性であった。エメラルドの髪色を持つ女と連携を組んでいるが、あまりにもその動きは契約者らしくない。

 

 ――情を捨てきれていないな。

 

 瞬時に判断し、質量のない亡者のような腕がその男の首を絞める。

 

「黒(ヘイ)! ……この契約者……質量希釈の!」

 

 どうやらそれなりに自分は知れ渡っているらしい。締め上げた男は契約能力一つ使う事はない。

 

「……驚いたな、こんな内地に。ただの、人間か?」

 

 呟いた直後には相手のナイフが奔っている。常人ならば手首から先が落ちているが、瞬時に質量を消し去ったお陰で難を逃れた。

 

 距離を稼ぎ、次なる一手を打とうとしたところでその肩口にワイヤーが絡まっているのを感覚する。

 

 ハッと危機意識が鎌首をもたげたその時には、ワイヤーの膂力で巻き上げられ、距離を一挙に詰めた男が大写しになっていた。

 

 その手には逆手に握ったナイフがある。

 

 心臓を射抜いたかに思われた一撃であったが、自分は奥歯を噛み締める。

 

「……残念だったな」

 

 相手も馬鹿ではない。即座に飛び退り、ナイフをワイヤーに繋げて頸動脈を掻っ切ろうとする。

 

「……二手、三手を常に備えた戦い振り……。そして黒髪の、アジア系の男……。そうか、お前が音に聞く、黒の死神か」

 

「……だったなら、お前はここで死ぬ。例外はない」

 

 冷酷に徹した声音であったが、自分は喉の奥から笑い声を発する。

 

「……だが、一撃で殺し切れなかったのならば、残念だと言わざるを得ない。それとも、わたし相手に……契約能力を使うまでもないか。UB001」

 

「……そうね。あなたじゃ何度繰り返したって、黒は殺せないもの。今の手だって、何十回と見たわ。それ以上を求めていないのね。戦場に赴いている割には」

 

「……わたしは安全帯で戦っていたいのでね。契約者ならば当然だろう? 死地に自ら赴くのは合理性を廃している。勝てる戦場以外で戦うのは契約者ではない」

 

「……呆れた。契約者の悪い側面を煮詰めたみたいな、そういう相手なのね」

 

「……アンバー。俺が殺す。……白(パイ)を前に出そうとするなよ。別働隊が動いている可能性がある」

 

 殺気を剥き出しにした黒と呼ばれる男にアンバーと言うらしい女は落ち着き払って応じる。

 

「ここで決着はつかないと思うわ。相手の能力は質量希釈とそれによる加速。でも、本当はそうじゃない。気づいていないみたいね、その本当の能力を。自分でも封じているのかしら、MEでも使って」

 

「……挑発だけが上手い女だ。契約者は勝負がつかないのならば戦いはしない」

 

「そうね。黒、ここは退きましょう。どうやらここはハズレの戦線みたいだし。まんまと追い込まれたはいいけれどでも、お仲間はどう?」

 

 パチン、といつの間にか肉薄していた琥珀色の瞳の女が指を爪弾く。

 

 その瞬間、後方に位置していた部隊から断末魔が上がっていた。

 

 まさか、と振り返った自分の愚に琥珀色の女は邪悪に笑う。

 

「言ったでしょう? 決着はつかないって。ただ、後続部隊はちょっとだけ面倒だから潰させてはもらったわ」

 

 琥珀色の瞳が赤く煌めく。契約能力の行使にB8は凍りついていた。

 

「……後続部隊の位置取りはわたしでさえも知らない……」

 

「案外、それほど複雑な配置じゃなかったわ。あなたを前に立たせて他の部隊員はその時間稼ぎに乗じて撤退しつつも、こちらを蹂躙。……なかなかに人間らしい、非効率的な作戦だったし」

 

「……非効率」

 

「そっ、非効率。人間なんてそんなものでしょう? それとも、他に信じるものでもあったと言うのかしら」

 

 彼らは、否、知っている限りでは同朋達は、そこまで不義理ではなかったはずだ。しかし琥珀の眼の女は全てを悟ったように目を伏せる。

 

「……ひた隠しにされていたのね。あなただけアタッカーだとおだてられて、その限りある対価を支払って」

 

「……限りある対価……? わたしの対価は戦闘時に損耗しない。知った風な口を……」

 

「では知っていると言えば? 時間のあっちからこっちまで、私は見て来たのだもの。少しは……温情もあるのよ。契約者としてね」

 

「……馬鹿馬鹿しい。契約者が温情を吐くか」

 

「……そう。あなたはその対価が、誰かに与えられたものだとは知らないのね。MEによる記憶流入。偽りの対価を払い続ける事で、まるで特攻する爆弾のように相手へと際限なく投げ込まれる。その度に生き残るから、爆撃機を意味する“B”の呼称で呼ばれる」

 

 まるで自分の全てを知ったかのような論調にB8は肌を粟立たせる。

 

 このような感覚は初めてだが、精神干渉系の能力の可能性もある。こうして見ている景色が嘘偽りで、相手にとって都合のいい「幻像」である線も――。

 

「……幻像……?」

 

 そこでふと我に帰る。

 

「……ここはどこだ? わたしの……対価の世界か……? だがこんな幻像は今まで見た事がなかったはず。……あの月明りの木造の部屋で……娘と共に……」

 

「それは本当の記憶? でもだとすれば、あなたはその時既に――契約者だった」

 

 目の奥で明滅するのは青白い光。亡者の輝き。ランセルノプト放射光の色彩。

 

 だがまさか。自分は、否、この記憶は本当に、自分自身のものであるのか。

 

 疑った事などなかった。だが幻像のその先があったなど、今まで自分は一度として体感していない。

 

 ここはどこだ? その疑念に琥珀の瞳に薄緑色の髪をなびかせた女は応じる。

 

「ここは南米よ。【天国門】の真っただ中。そしてあなたは、組織の契約者。……可哀想に。仲間達と一緒に死んだほうがまだマシって顔をしているわ」

 

「天国戦争……。わたしは……そうだ。わたしの名前はB8。組織の一級のエージェント……。黒の死神、それに琥珀の女。お前達を殺せば……」

 

「だから、それはもう終わった事なのよ。あなたは天国戦争を生き抜いた。でも、同朋は皆死んだわ。私が先回りして殺した」

 

 断定口調にB8は膝を折る。

 

 どうして。自分の能力で負けた事など一度もなかったはずなのに。

 

「……読み負けた……」

 

「いいえ。よくやったほうよ。それとも、元の時間に一度戻る? あなたを利用する男に気を付けて。それと……娘さんを泣かせるものじゃないわ」

 

 囁きかけてきた女の挙動でようやく気づく。

 

 女と自分以外、時間が静止していた。

 

 黄昏色に染まった時間停止の中で自分は愚かにも周囲を見渡す。

 

「……何が起こって……」

 

「これはあなたの記憶に植え付けておく安全装置。あなたがいつかは……失ったはずの物に気づけた時に……後悔しない選択をするように。ここでは敵とは言え、契約者同士だもの。出会った事には意味があるはず」

 

「……何を。わたしは情けをかけられるいわれはない!」

 

 断じて質量希釈に入ろうとしてその肩へと女はそっと手を置く。

 

「それ、あんまり使わないほうがいいわ。限界が迫っている。あなたの対価は幻像を見る事じゃない。その契約能力はあなたをすり減らす」

 

「何を!」

 

 振り払った刹那には女は既に射程から離れている。

 

 全く読み切れない能力に翻弄されつつも、B8は最善策を模索していた。

 

 ――援軍は望めない。ならばどう動くのが最善か。

 

 夜のにおい。星が今日も流れゆく流転の夜空。ジャングルの鬱蒼とした濃厚なる芳香が鼻孔をつく。蒸したような空気が吹き付け、背筋に汗を滲ませる。

 

 B8は姿勢を沈め、女を睨み据えていた。

 

「……それでも戦わざるを得ないのね」

 

「……わたしは契約者だ。合理的に判断する。お前の言葉には、合理性がない」

 

「そう。でもいつかは分かる時が、来るといいのにね……」

 

 寂しそうに語った女へと質量希釈で一気に迫る。超加速でその首を手刀で刎ねる――そこまで脳裏に描けてから、不意打ち気味に女のビジョンが消え去る。

 

 全てが暗礁の闇の中に消失してから、B8は空を仰ぐ。

 

 流れていく星空。流星雨が南米の空を満たす。

 

 ――今日も契約者の命は流れていく。

 

 呆然と立ち尽くしたB8は空白の只中で声が響き渡ったのを聞いていた。

 

「パパ!」

 

 駆け寄ってきた赤髪の娘を抱き留める。

 

「ぎゅーっとしてね! 約束だよ!」

 

「……約束……だが、わたしは……」

 

 その手は血濡れに塗れている。こんな手で娘を抱けるものか。こんな人でなしで、どううやって娘を救えると言うのだ。

 

「……わたしは……」

 

「あなた」

 

 面を上げると妻が柔らかな慈愛の微笑みでこちらを見つめている。その眼差しを直視出来ずに、B8は顔を背けていた。

 

「……知っていたのか。君は」

 

「……契約者だって関係ないじゃない。だってあなたには、心があるもの」

 

「契約者は人間じゃない。理性的に物事を判定し、そして合理的に判断する。血筋でさえも無駄だと感じたのならば、それを清算するのも迷いなどない」

 

 その指先が娘の頬を撫でる。くすぐったそうにする娘の首筋へと、その手はかかっていた。

 

 ぐっ、と力を込めるだけでか弱い少女の身でしかない首の骨は折れてしまいそうになる。

 

 喉の奥から声が漏れていた。

 

「……パパ、何で……」

 

「パパは、想ってくれるほどの人間じゃなかったんだ。契約者だった。だから……」

 

 その時、ふと娘の手にあるテディベアが視界に入る。どこかで見たテディベア。どこかで見た、優しい嘘。

 

 その時になってようやく、娘の面持ちが露になる。

 

 直後、B8の喉から叫びが迸り、現実との境界線を溶かしていた。

 

「おい! どうした? B8。夢に浸っている時に声をかけると危ないかと思ってさっきから黙っていたが……悪夢でも見たか?」

 

 伊達男の声にB8は額へと手をやって粗い呼吸をつく。

 

「……ああ。酷い悪夢だ……」

 

「お前がそこまで言うのは珍しいな。もうすぐターゲットに追いつく。その時には能力の温存はやめて、一気に叩くぞ」

 

「ああ、一気に……」

 

 ――あなたの契約対価は違う。

 

 どうしてなのだろう。平時は幻像の言葉など聞き留めもしないのに。この時ばかりは、どこかで躊躇が生まれたのは。

 

 あの凄惨な天国戦争で会敵した相手。琥珀の瞳の女契約者と、そして黒の死神――。

 

 彼らと戦った記憶が蘇ったのは初めての事になる。だがそれこそが引き金とでも言うようにB8に疑念を抱かせていた。このままミッションを遂行する事こそが意義があるのだと信じて来んでいた脳内に切り込む何か。

 

 幻像が現実に割り入ってくる事などこれまでなかった。

 

 しかし、アンバーと名乗った女は。メシエコード、UB001の名称を持つ琥珀色は。

 

 自分の対価を「違う」と評した。

 

 それは何も意味のない事のように思えない。契約者は嘘つきだが、意味のない戯れの嘘はつかない。それは合理的な判断を阻害する。

 

 だから、アンバーの言っていた事実と自分の幻像の変化を符合させるに、何かが起ころうとしているはずなのだ。

 

 だが、それが何なのかまでは……。

 

「――来た。奴さん、こんな時まで車移動とはいいご身分だ。俺達が諦めたんだとばかり思っているんだろうさ。それに、お前の能力ならあの煉獄の契約者も退けられる。それはそこに座っているドールが証明だろう。相手のドールを籠絡するなんて、お前もやるじゃないか。さすがは天国戦争の生き残りだな」

 

 そう称賛を受けても、何もいい事のように思えない。

 

 自分が生き残ったのは結果論だ。

 

 時を操る契約者の気紛れであったのかもしれない。あるいは、この未来を見越しての判断か。

 

 B8は顔を覆い、やがて意を決してフロントミラーの向こう側を睨んだ。

 

 ここから質量希釈で車両をすり抜けて相手へと肉薄。

 

 出来るか、ではない。

 

 やるしかないのだ。

 

「……わたしは契約者だ。対価を恐れて戦わないのは合理性に反する」

 

 能力を行使しかけて、ふと袖を引かれる。

 

 見やると、赤髪のドールがこちらと目を合わせずに袖を引いていた。その瞳に映るものは虚無だとしか思えないのに、どうしてなのか、彼女の持つ紫色のテディベアにいつもの幻像がだぶる。

 

 頭痛を覚えたその瞬間には、B8は蹲っていた。

 

「おい? どうした? 何か精神的な攻撃でも……」

 

「いや、これは……。これは対価のはず。わたしにとっては何の意味も持たない、幻像だ。ただの……嘘偽りの記憶のはずなのに。夢のような……」

 

「……私はずっと待っている」

 

 ドールの紡いだ言葉にB8は目を見開く。

 

 そして、彼女の相貌が夢の中で目にする娘の幻と、一致していた。

 

「……マリナ?」

 

 問いかけた自分に対して、ドールは頷く。

 

「おい、何やってるんだ。相手は離れていく。こっちだってスピードには限度ってもんがあるんだ。さっさと能力を――」

 

 伊達男の口上が響いている間にも、B8はドールと目線を合わせていた。

 

 柘榴の赤を宿した瞳が薄く揺らいでいる。

 

「……お前は……真里菜……わたしの……娘……?」

 

「おい、幻像に縛られるな、B8。お前の任務はここで相手の組織の高官を潰す事だ。幻像に縋るなんてらしくないだろうに」

 

「……だが、この子はわたしの子だ……」

 

 間違いない。確信がある。いや、これまでも、幾度となくその面持ちを見てきたはずなのに。どうして今、それが確証へと変化したのか。

 

 時を巡る女の運命のいたずらか。あるいはここで気づくように仕組まれていたのか。

 

 ドールの身へと堕ちた娘と、B8は再会を果たしていた。

 

 ――だがこんな形――。

 

 B8は覚えず視線を背ける。

 

 娘はいつの間にかドールへと成り下がり、そして自分は南米の戦争で人殺しを重ねてきた諜報員。

 

 誰がこんな運命にしろと願ったのだ。誰が、こんな宿縁に縛られてくれと願ったのだ。

 

「B8! 感傷もいい加減にしろ! ここでの任務を忘れるな!」

 

 伊達男の怒声にB8は振り返り様に質量希釈で加速の手刀を見舞おうとして、それを助手席に座ったドールの観測霊に阻止されていた。

 

「……何を」

 

「ここまでか……」

 

 伊達男の舌打ちが滲む。彼の手にあった小型機械に視線を吸い寄せられ、次の瞬間には眩惑によろめいていた。

 

「……これは……」

 

「MEだ。お前の対価は、確かによく見る幻像じゃない。……これは重要機密だったんだがな。お前自身には教えるなと固く言われて来たんだが、本人が自覚すれば仕方ない。お前の対価は質量希釈に伴う、存在そのものの消滅だ。緩やかに進行するが、確実にその時は訪れる。それまではせいぜい消耗品として使わせてもらっていたんだが……ここで頭打ちが来るとは思わなかったよ。まさか、MEによる記憶の書き換えの齟齬に自力で気づくとは。だが、それは契約者には不必要な代物だ」

 

 車が急カーブし、横付けされる。後部座席のB8は低く呻いていたが、伊達男が運転席から出るなり、その首根っこへと機械を押し当てる。

 

「……せいぜい、ニューヨークの赤ずきんと相討ちでもしてしてくれよ。そうじゃないと割に合わなくってね。それにしたって、本当に居たなんて思いも寄らない。B8の娘、真里菜。まさかドールの身に堕ちているとは。だが、お前も邪魔だ。ここで……」

 

 伊達男が懐から取り出そうとした拳銃をB8は加速で弾き返す。荒い呼吸をついてB8はドールの少女を抱えて飛び退っていた。

 

 それに対し、伊達男が手を押さえて歯噛みする。

 

「……言っておくが! 戻れないぞ……そんな事をしても……。お前の質量希釈の対価はもう取り返しのつかないところまで行っている! 俺達に逆らうな。このまま契約者として、名誉ある死を選べ」

 

「……名誉ある、死……? 違う、わたしは……だってもう一度、娘に会えた。ならば、この命は……娘のために使わせてもらう」

 

 真里菜を抱き締める手に力を込める。

 

 伊達男は顎をしゃくり、使役するドールの観測霊を飛ばしていた。自分か真里菜かどちらでもいい、観測霊を取り憑かせる気だろう。だがそうはいかない。

 

「……質量希釈、再加速」

 

 コンクリートを蹴りつけ、質量希釈に身を任せてB8は躍り上がっていた。すぐさま廃ビルの屋上に至った身体を風が煽る。

 

 観測霊の速度で追って来られるほど、自分はやわに出来てはいない。

 

 伊達男は叫んでいた。

 

「……なぁ、B8。俺達も長い縁じゃないか。だって言うのに……お前はもう、亡骸を抱き締めて眠るって言うのか? 契約者として、合理的に、いつものように判断しろよ。ドールに、心は宿らない。そのお前の娘の似姿をしたドールは、ただ娘であった、という結果論のみに集約された人形だ。もうお前の幻像の中の娘のように振る舞う事もなければ、お前を父親だと、そう信じて慕ってくれる事もない。虚しいだけだぞ、B8……!」

 

「……だがわたしは……何度も幻像の中で、この子に救われてきた。ならば今度は、わたしがこの子を救う番だ……」

 

 その言葉尻に迷いがなかったせいか、伊達男は悪態をつく。

 

「ああ、クソッ……。俺達、いいチームだっただろうに……」

 

「……ああ、いい相棒だったと、思っている……」

 

 だがそれも全て、こうして決裂してしまえば、簡単に崩れる砂上の理論であった事が浮き彫りになっていた。

 

 伊達男はドールと契約者を「遣う」事に何の躊躇いもない。

 

 真里菜は、このままなら敵対組織のドールとして廃人になるまで追い込まれ、そして捨てられるだろう。

 

 そんな事は自分の残りカスのような欺瞞の心でも、耐えられそうになかった。

 

「……わたしの対価が間もなく支払われると言うのならば、余計に、だ。真里菜と過ごしたい……」

 

「……B8、言っておくが、ここでの裏切りは組織によって斬り捨てられるのと同義だ。組織はお前の情報を売る。それはニューヨークの赤ずきんに、だ」

 

 来ると言うのか。あの災厄の赤装束の契約者が。

 

 だが、それもよかろう、とB8は感じていた。

 

「……最後の障害になるのならば、構わない。殺すまでだ」

 

「……そこまで冷徹に判定出来るのに、俺とはもう組めないって言うのか……」

 

 契約者としての判断基準は揺るぎない。だが、それでも、もう組織の言う通りに動く気はさらさらなかった。

 

 この手にある。抱きかかえた体温を感覚する。

 

 真里菜の瞳は薄暗く、そして虚ろであったが、しかし、今はそれでもいい。ここにある娘まで裏切って、自分を欺きたくはない。

 

「……わたしはもう、誰の指図も受けない」

 

「後悔するぞ、B8。……いや、もう後悔している。俺は、お前に、この街に来させるべきじゃなかったとも」

 

 そうだ。それならば真里菜と出会う事も、契約者としての緩やかなる死にも気づく事はなかっただろう。

 

 特一級のエージェントとして、誉れある死を選べたはずだ。

 

 だが、B8の心はもう決まり切っていた。

 

「……わたしを追える者は、もう居ない」

 

 質量希釈を用いて風の中に溶け込む。

 

 加速して摩天楼を飛び回った自分を、もう追跡出来る存在など、どこにも居るはずがなかった。

 

 



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第五十九話「星霜を追う」

「……以上だ。何か質問はあるか?」

 

 打ち明けられたガーネットの過去に、紅は言葉を失う。ブルックも絶句しているようであった。

 

『……まさか。運命のいたずらにも程があるだろう? ガーネットの、実の父親だと言うのか。あの契約者が』

 

「確定した事実だ。組織からはガーネットがもし、相手へと離反した場合、即座に始末しろと厳命が下っている。ガーネットはこれまで、数多の苦難を乗り越えてきた特上のドールだ。あれを手離すのは惜しいが、相手に利用されるのよりかは遥かにマシだろうさ」

 

「……ガーネットの意思はどうなる」

 

 返した言葉にグレイは肩を竦める。

 

「ドールに自由意思なんてあると思うのか? 紅。プログラムされた事を着実に守るだけの、受動霊媒だ。心をとうの昔に失っているガーネットを殺す事には躊躇うな。ただ単にそういうカタチをしたものを破棄するんだと思え」

 

 グレイの言葉には淀みがない。それこそが組織の決定なのだろう。

 

 ――知り過ぎたドールは消せ。自由意思なんてドールには介在しない。

 

「……なるほど。合理的だ」

 

『だが、紅……。今回の場合、あまりにも偶然が過ぎる。組織は分かっていて、ガーネットを配備したんじゃないのか?』

 

「あんまり勘繰るなよ、ブルック。賢しい契約者は嫌われるぞ」

 

 踏み込み過ぎるな。ここが分水嶺だ、とグレイは告げている。

 

 ガーネットを生かすか、殺すか。それらの意思決定権はもう自分達にはない。

 

「……僕だって、今回に関しちゃ、悲劇だとは思っている。だが組織に反すれば僕らは消される。軽く思っちゃいないんだ、それくらい。ガーネットは紅、それにブルック、僕らの事をあまりにも知り過ぎている。これ以上の情報は与えて損する事はあっても得する事はないんだ。このニューヨークで【煉獄門】を張り続けるのなら、切り時くらいは覚えておいたほうがいい。使い物にならないドールは破壊しろ。それだけだ」

 

 断じた論調にブルックが渋る。

 

『……だが今も……ガーネットは俺達に示し続けている。燃え盛る観測霊が、その証……』

 

 紅は傍らに視線を振り向ける。ガーネットの観測霊の一部が今もまだ自分と共にあるのは、理由があるはずだ。

 

 グレイは舌打ちを滲ませていた。

 

「……見えないってのはこういう時に腹が立つ。だが観測霊が聞いているって言うんなら、話は早いはずだ。もう覆せなところまで来ているんだよ。ガーネット、僕には観測霊は見えないが、聞いているのなら覚悟を決めてくれ。君はもう、死ぬしか道はない」

 

 残酷であるのは百も承知であろう。だが、その決定は自分達より遥かに高次元の意思決定で決められたものだ。現場で動くエージェントにこれ以上の譲歩はない。

 

 ――要は、呑むか呑まないか。

 

 ガーネット自身に問いかけている分、まだ人道的だと組織は思っているはずであろう。

 

 しかし紅は、静かに歩み出していた。

 

『どこへ行く? 紅』

 

「……ガーネットが呼んでいる。私に、来いと」

 

「芋女。やめておけ。自分の手でガーネットを始末する覚悟も持ち合わせていないのなら、場を掻き乱すだけだ。それに、お前はB8に勝てなかった。奴の対価は質量希釈に伴う、存在そのものの消滅。放っておいても自滅する契約者だ。別段、リスクを踏んで殺す事もない。ここでの議論は、ガーネットを殺せるのか、それだけだ」

 

「……会って決める」

 

「話し合いなんて無駄だと思うがな。ガーネットはB8が実の父親である事を覚えてるのかいないのかも分からない。それに、B8自身も、だ。もし……万に一つも、その記憶が戻ったとして、じゃあガーネットを保護するかどうかは分からないんだぞ。自分へと繋がる明らかな弱点だ。合理的に判断すれば、排除しても何らおかしくはない」

 

 そう、合理的に判断するのなら、B8が自身の弱点をいつまでも保持しておくはずもあるまい。

 

 ガーネットは既に命の危機にあるか、あるいはもう廃棄寸前まで追い込まれているかの二つに一つだろう。

 

 だが、紅は傍らで未だに燻るガーネットの光の観測霊を視野に入れていた。

 

「……まだ私達を見限ったわけじゃない」

 

「ドールだ。どう捉えていても不思議じゃないし、MEを使われれば強制的な記憶置換もあり得る。僕達と一緒に戦っていたなんて、ガーネットは思う間もなく、相手の手中に収まるだろうさ」

 

『……紅。残念だが、俺もある程度まではグレイと同意見だ。それに、相手が悪過ぎる。お前でも勝てなかった契約者だ。無策で飛び込む事もないだろう』

 

「……勝てればいい。勝てば文句はないはずだ」

 

「大きく出ているが、勝算もない。これまで負け戦を繰り返してきた契約者の言葉とも思えないな。……客観的な事象を基にして言えば、天国戦争の生き残りの契約者なんて真正面から相手にするのはどうかしている。それとももう命が要らないのか?」

 

「……どうとでも捉えるといい。私は、行く」

 

 ガーネットの観測霊が道を指し示し続けている。彼女の灯火が生きているという事は、諦めていい言い訳にはならない。

 

 覚悟を決めたその背中へと、グレイの言葉がかかる。

 

「……殺すのなら、下手な情は抱くなよ。ドールなんて生きながらにして、死んでいるようなものだ。契約者以上に、何の期待も持つんじゃない。ただの人形なんだからな」

 

 確かにグレイの言葉も分かる。

 

 ただの人間からすれば、どちらも化け物に違いない。情を抱くなんて、あり得るはずもないのだが……。

 

『……待て、紅。行くのならば同行する。お前だけじゃ、どうにも危なっかしい』

 

 止まり木から飛び立ったブルックに一瞥を振り向け、紅は街並みを駆け抜けていた。

 

 ワイヤーでビルからビルへと飛び移り、視界を切り抜け、ガーネットの呼び声一つを信じて跳躍する。

 

「……ガーネットは、私達を信じている……」

 

 その言の葉を一つ胸に抱き、紅は観測霊の導きに委ねていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰も追ってくるまい、と思っていたが、案外に自分も甘いな、とB8は自嘲する。

 

「……本来ならば、弱点に当たる。契約者として事を続けるのならば、わたしはお前を殺すべきなのだろう」

 

 しかし、とB8は旧市街地の一角にあつらえた廃ビルの一室で頭を振っていた。

 

 埃の被ったソファに身を委ねた真里菜はだが、自分の事など見えていないかのように虚ろな眼差しを投げている。

 

 その瞳へと自分は問いかけていた。

 

「……真里菜。馬鹿に映るだろう? わたしは、約束一つ、守れやしなかったよ……」

 

 南米から必ず帰ってくると、そう約束して旅立ったと言うのに、こんな街中のどん詰まりで再会するなんて思いも寄らない。

 

 その手へと自分の手を重ねようとして、B8は躊躇っていた。

 

「……真里菜の指は、昔から変わらないね。あの幻像の景色のままだ。わたしにねだったそのテディベアも……変わらないのだね」

 

 何度も自分が見繕った紫色のテディベアを、真里菜は手離さない。それは恐らくドールとして刻まれた記憶であろう。

 

「真里菜」としての存在理由ではないはずだ。

 

 だが自分は、その意味を問い質していた。

 

「……わたしを、覚えていてくれたのか?」

 

「……分からない」

 

 ドールらしい答え。ドールとしか思えない応答。

 

 無機質で、そして人間味なんて一分も存在しない、ただの受動霊媒。

 

 それでもB8は真里菜を抱き留めていた。

 

「……何年も、あの幻像を見る度に、わたしは後悔していた。何で手離してしまったのかと……。あれを対価だと、信じて疑わなかったのは、もう得られないのだと感じていたからだ。だが、こうして出会えた……」

 

 しかしこんな束の間の安息も長続きするはずもない。組織は自分を消すべくして追ってくるであろうし、それは真里菜をドールとして使っていたニューヨークの赤ずきんを擁する組織も同じはずだ。

 

 機密情報を持つドールを、闇雲に放つはずもない。

 

「……だが、どうすればいい? わたしはもう、お前を永遠に失うか、それか自分の契約者としての矜持を失うかのどちらかしかない。……思えば、南米で出会ったあの琥珀色の瞳の女はこの再会を見透かしていたのかもな……」

 

 最悪の形での再会。もう手離すまいと思っていても、刻限はやってくる。無情にもその足音は近づいているのが分かる。

 

 B8はテディベアのほつれに気づいていた。

 

 そっとほつれ目に手を乗せ、幻像でやっていたように修復する。

 

「……魔法なのだと、お前は言ってくれていたね。だが、これも契約能力だった……。わたしの存在を薄めて、特定の存在を濃くするだけの……自己犠牲に過ぎなかったんだ」

 

 テディベアのほつれ目が消失し、修復されたそれを真里菜へと差し出す。

 

 彼女は、やはりと言うべきか奈落へと繋がっているような眼差しのまま、まともな返答も寄越さない。

 

「……本当に、ドールになってしまったんだね、真里菜……。だが、パパは今のお前を守ろう。それだけが、わたしに出来る数少ない贖罪のはずなのだから」

 

 もう自分は契約者として人を殺し過ぎた。今さらまともに戻ろうなんて思っちゃいない。

 

 それにまともぶったところで、何になろう。

 

「……契約者は人間ではない。人の皮を被った殺戮マシーンだ……。その事実だけは消せないんだよ、真里菜……。だから、わたしは……」

 

 しかしどうした事か。

 

 こうして娘を前にして、まだ終わりたくない、消えたくないと言う思いが胸の中から湧き上がってくる。

 

 とっくに枯れたのだと思い込んでいた感情が堰を切ったように、今は真里菜のために吹き出していた。

 

 ――この子を守りたい。

 

 それがただの人間の持つ愛情のそれであるのか、あるいは契約者の持つ使命感の残りカスなのかは判然としない。

 

 だが、今は、とB8は振り向いていた。

 

 そこに佇むのは、真紅の死神。この街を舞う、悪魔――。

 

「……思ったよりも早かったじゃないか」

 

「……ガーネットを返してもらう」

 

「返す? ……てっきり抹殺指令が下されたのだと、思い込んでいたが」

 

「……まだ彼女からは諦めが見えない。ならば私は、それに応じる」

 

 その証のように、死神の傍で燃え盛っていたのは観測霊であった。

 

 真里菜の一側面が相手の側にある。

 

 それだけで許し難い業のように、B8の胸の中で燃え上がったのは怒りである。灼熱の怒りで拳を固め、B8は呟いていた。

 

「……それは数時間前の真里菜の意思の残滓だ。今の真里菜は、わたしと共にある」

 

「……ガーネット。どうしてほとんど抵抗しなかった。この男に、何を見ていたんだ」

 

「問いに答える必要なんて――」

 

「……動くと思ったから」

 

 不意に紡がれた言葉にB8は驚愕の面持ちを向ける。真里菜は沈んだ瞳のままで、声にしていた。

 

「……心が、もう一度動くと思ったから」

 

「……真里菜?」

 

「……そうか。どうだったんだ?」

 

 死神の問いかけに真里菜はゆっくりと頭を振っていた。

 

「分からなくなった。……何も、分からなくなってしまった」

 

 その独白に一呼吸、飲み込むように相手は挟んでから――戦闘態勢に入っていた。

 

 身を沈め、殺戮の構えに移る相手にB8も応じるように手刀を携える。

 

「……真里菜には指一本触れさせない」

 

「……契約者ならば合理的なほうがいい」

 

「そのはずだ。勝てない相手に何度も歯向かうか。煉獄の契約者よ」

 

「……勝てないとは、限らない」

 

「それは合理的とは呼ばない。ただの無謀だ」

 

 互いにじり、と次の動作への準備を済ませる。死神は、ナイフを逆手に携え相対していた。

 

「……無謀でもいい。私は、ガーネットの意思を尊重する」

 

「……変わった契約者も居たものだ。真里菜はドールだぞ」

 

「なら……余計に手離せないとも」

 



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第六十話「夢幻を浴びる」

 ワイヤーが敵意を帯びて伸びる。その包囲陣を抜けるのは、質量希釈による加速であった。

 

 一瞬で肉薄し、真正面から手刀を叩き込もうとして、ナイフに塞がれる。

 

 火花が一瞬だけ散り、両者の視界を眩惑したのも束の間、直後の動作へと移るのは素早い。

 

 足払いを行った死神にB8は跳躍していた。

 

 超接近戦において、跳躍は死を意味する行動だ。

 

 だが自分の能力ならば、次手を突破出来る。

 

 すかさず放たれたナイフがB8の頭部を射抜いたが、物理的効力も、ましてや契約能力も発揮させない。

 

「……存在希釈。わたしの肉体に、物理的な打撃は与えられない」

 

 無論、これは諸刃の剣だ。存在そのものを希釈させれば、物理法則を超える能力発揮が可能な側面、自分自身の命を縮めているも同義。

 

 ――しかし、辿り着いた。

 

 潜り込んだのは相手の懐。完全なる意想外の動きに敵が対応する前に、B8はその手刀を薙ぎ払っていた。

 

 狙うのは頸動脈。一発で終わらせる――。

 

 首筋へと手刀が入り込む。存在希釈を用いて首の皮膚を貫通し、血管そのものを引き裂かんとした手刀はしかし、次の瞬間には激痛に襲われていた。

 

「……何が……わたしの手が……」

 

 潜り込ませた指の第二関節から先が溶断されている。だが、いつの間に。どのような手を使って――。

 

 そのような一瞬の逡巡が明暗を分ける。

 

 首筋へとかけられたワイヤーが絞め上がり、引っ掴もうとして指がない事に気づいて歯噛みした直後、臓腑を焼かれる高熱が放たれていた。

 

 断末魔の叫びが喉から迸り、B8は膝を折る。

 

 その際、死神の首筋が視界に入っていた。

 

「……そうか。血管を熱で覆って、わたしの攻撃の際に、血管そのものを熱ワイヤーとして……」

 

 だがそのような戦略、思いついても実行出来るはずもない。

 

 一瞬の判断が分かれ目だ。自分が頸動脈を狙うと分からなければ、自らの弱点を自分の能力で焼く事にもなりかねない。

 

 それでも、確信があったのだろう。

 

 死神は告げる。

 

「……お前は南米の天国戦争の生き残りだ。早々に決着をつける手段を選んでくるのは分かっていた」

 

「……なるほど。わたしが優れたエージェントなのだと、確信していたから、狙いを逸らさなかった……」

 

 死神は自分のある意味では経歴も込みにして上回ったのだ。

 

 B8は倒れ伏した身体を起こそうとするが、その瞬間、全身が青白いランセルノプト放射光に包まれていた。

 

 粒子となり、身体が溶けていく。

 

「……ああ、終わりが来たらしい。わたしの対価だ」

 

 この世に死体となって留まる事さえも許されない。

 

 対価の時だ。

 

 自分は世に在った証明すらも残されず、消え去る。

 

 不思議と恐れはない。だが、とB8は真里菜へと視線を据えていた。

 

「……真里菜。わたしは……駄目な父親であったな……」

 

 その言葉に真里菜は否定も肯定もしない。ただ、当然のように彼女は口にする。

 

「……私の名前はガーネット」

 

 もう、自分の知っている娘でもないのだ。最後の最後に突きつけられた現実に、B8はああと目を伏せる。

 

「そうだったな……。そうであったのだ……。わたしは……まだ夢を見ている。お前と一緒の、幻像を……」

 

 幻像の中の真里菜はいつだって無邪気に笑っている。月明りの差し込む家屋で、紫色のテディベアを撫でて。

 

「……せめて、夢を見させてくれ。わたしの、最後の夢を……」

 

「契約者は夢なんて見ない」

 

 死神の断じる論調にB8は瞼を下ろす。

 

「……そう、だな……契約者は、きっと終わりに至るまで、夢なんて見やしないのだろう。だが、せめて、幻に生きさせてくれ……」

 

 掴もうとすれば消えていく蜃気楼であったとしても。

 

 B8は最後の一滴になるまで真里菜へと目を向けていた。

 

 その瞳から、一筋の涙が伝い落ちる。

 

 誰に手向けるための涙であろうか。それはきっと、誰にも分からない。

 

「……さよなら。真里菜」

 

「……さよなら。パパ……」

 

 これはともすれば自分に都合のいい言葉だったのかもしれない。本当に真里菜――ガーネットの言葉であったのかは判然としない。

 

 だが判然としなくともいい。

 

「これはいい夢だ……」

 

 それだけはきっと、確かであろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くそっ! B8と連絡が途絶えた! 本部から増援を回してもらう必要があるな……こんな中途半端で終われるか!」

 

 伊達男は車を路肩に停めたまま、本部へと繋がる番号をコールしていたが、直後に出たのは自分の担当者とは違う人物であった。

 

『……やぁ。その感じだと契約者に逃げられておかんむり、かな?』

 

「……誰だ、貴様は」

 

『心配しなくとも契約者じゃない。それにしたって、僕らの仕事はいつだって、振り回されるものだ。契約者にも、上役にも。納得いかない事だらけだよ』

 

「……俺の上の担当者はどうした?」

 

『そんな質問か? もっと重要な事があるだろう? 任務失敗をB8の暴走に棚上げするのに必死なのは伝わるが……正直ダサいぞ?』

 

「うるさい……! 俺はなぁ……まだ終われないんだよ! 何なんだ、貴様は!」

 

 その時、助手席に座っていたドールが不意に指差す。

 

 指し示した方向へと目線を振り向けた瞬間、乾いた破裂音が響いていた。

 

 伊達男は胸元をさする。そのスーツが瞬く間に血の赤に汚れていった。

 

「……まさか。俺の事を組織が切った……?」

 

『案外、うまく立ち回れないのはお互い様みたいだ。契約者の後始末って言うのはいつもこう……うまく行かないな』

 

 通話口から漏れ聞こえる声を聞きながら伊達男が車にもたれかかるようにして倒れる。

 

 ドールは何もしない。

 

 指し示した行動のまま、やがてゆっくりと沈黙していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『今回の一件、相手側の組織とのある程度の譲歩、と言う形での決着だ』

 

 ブルックのもたらした情報に夜都はモーニングを食べながら背後のグレイの言葉を聞く。

 

「……やるせないな。ターゲットにされていた組織の高官が割を食ったとは言え、僕らだって腕利きのエージェントに一時的とは言え目を付けられた。あのままなら、全滅だってあり得たんだぞ」

 

『組織の決定は変わらない。どうにも、B8の消滅そのものがある程度意図されていた可能性さえもある。俺達には悪く思うな、だと』

 

「悪く思うな、か。……現場を見ていない証だな」

 

 嘆息をついたグレイは新聞記事を注視する。

 

「……今日の朝刊も最悪だ。コミックも……ブラックジョークが過ぎる」

 

「B8に関しては、これ以上は」

 

『ああ、踏み込むな、とのお達しだ。南米の天国戦争の情報に抵触する恐れがある。……お互いの事を思うのならば、ここで手打ちにしろ、とも』

 

「何だそれ。僕らは踊らされただけか」

 

 グレイのぼやきも分かる。しかし、夜都は問い返していた。

 

「……ガーネットは?」

 

『ガーネットに関しては継続的に任務を続行。俺達のチームとして組み込んでくれたままらしい。一時的に相手のバグを噛まされた可能性はあるが、MEによる記憶改ざんも見られない以上、放置が一番だとも』

 

「……芋女。ガーネットは本当に、今のままでいいと言っていたのか?」

 

 グレイの詰問に夜都は応じる。

 

「……ガーネットは……もう元の名前として生きる事を選んでいない。彼女の選択だ」

 

「選択、か。……ドールに選択権なんて」

 

 だが実際に現状の継続を選び取ったのはガーネットの意思である。

 

 無論、ドールに意思なんて介在しない、と言い切ってしまえばそこまでだが。

 

『いずれにせよ、今回の討伐はよくやってくれた。紅にグレイ、近々、報酬があるかもしれない』

 

「……どっちでもいい」

 

「僕も。正直、この街で生きるのには、障害が多くって仕方がない」

 

『……そうだな。俺達は、この街で生きていくしか、ないのだから』

 

 その言葉を潮にしてグレイは時間を気にして立ち上がっていた。夜都はブルックより振りかけられた言葉を聞く。

 

『……しかし、紅。あの娘はどうにかならないのか? あれからずっと……ガーネットの下に通っている……』

 

「アリスの事は言わないで欲しい。私にもよく分からない」

 

 こちらの返答に、ブルックは忠言を寄越す。

 

『……最悪の場合はお前が始末する事になる。それは分かっているな?』

 

 分かっていなくては、今まで同居なんて出来るはずもない。夜都は迷いなく応じていた。

 

「……もしもの時には覚悟はしている」

 

『……そうか。ならば安心だ。……時に、紅。お前に付き従っていたガーネットの観測霊、あれは彼女の無意識だったのか、それとも俺達を……仲間だと思っての……』

 

「契約者らしからぬ問いかけだ」

 

『……いや、そうだったな。妙な事を言うもんでもない。次も頼むぞ』

 

 蝙蝠が飛び立って行く空を眺め、夜都はトレイを店に返し、アパートへと帰路についていた。

 

 扉を開けるなり、白いワンピースを着せられたガーネットを鉢合わせになる。

 

「おっ、ヤトじゃん。今日は何、サボり?」

 

「……アリスだって学校でしょ」

 

「いーの、いーの。今日は子猫ちゃんの着せ替えに奔走するんだから!」

 

「……子猫ちゃん?」

 

「この子の事。ガーネットって言うんだってさ。何かあんたよりも物分かりがいいから、あたし気に入っちゃって」

 

「……知らないよ。他所の子でしょ。親御さんに叱られても」

 

「大丈夫だもんねー? 子猫ちゃん」

 

 こくり、とガーネットが頷く。

 

 まさかこんな近くまでガーネットが来ているなんて思いも寄らない。しかし、夜都はいつものようにパソコンを開いていた。

 

 物語の続きを紡ごうとして、アリスの視線を感じる。

 

「……何。見ないで」

 

「いやー、ヤトってばさ。いつもの野暮ったいタートルネックなんてやめて、この子みたいに着飾る気、ない? 素材はいいと思うんだけれどなー」

 

「……いいよ。私はこれが過ごしやすいの」

 

「出た。あんたのそういうところ。よくないよ? 変化を許容しないと。ねー? 子猫ちゃん。今日はさー、三つ編みにしてあげる! ……あっ、そのテディベア、預かろうか? 邪魔でしょ?」

 

 アリスが手を伸ばすとガーネットは引き離して首をゆっくりと横に振っていた。

 

「……いい。これは、私だから」

 

「……ふぅん。よく分かんないけれど大事なのね。誰からもらったの?」

 

「……大切な、人」

 

 アリスはもう関心もないようでガーネットの長い赤髪を弄っている。

 

 夜都はそれを横目にしつつ、キーを打っていた。

 

「……ねぇ、アリス。この後、実はイルカを殺そうと思っていたんだけれど」

 

「そりゃまた、救いのない話で」

 

「でも……もしかしたら魔女とイルカにも……居るのかもね。忘れられない、大切な人が」

 

「何? それがキーパーソンになるの?」

 

「……かも」

 

 呟き、夜都は物語の続きへと踏み込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六章 了

 



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