【本編完結】幼女戦記 比翼幸福勲章 (海野波香)
しおりを挟む

第00話 講和

 帝国最高統帥会議に出席した首脳陣の興奮を前にすれば、ゼートゥーアのこらえたため息もこぼれかけるというものだった。講和条約とは名ばかりの挑発と暴言が積み重なり、軍部が文字通り命がけで掴み取った終戦の糸を断ち切ろうと、いや、導火線にしようとすらしている。

 あまりに合理でない。

 ふと、いつの間にやら己の懐刀となった少女軍人の顔が思い浮かんだ。無能を蔑み合理を貴ぶターニャ・フォン・デグレチャフがこの議会を見れば、切れ味の鋭い皮肉が機関銃のごとく放たれるだろう。あるいは戦争を知らない彼らのために機関銃そのものを披露するかもしれない。

 東部戦線の指揮を本来の司令に返し、遠路はるばる帝都へ戻ってきたものの、どうやら骨折り損で終わりそうだった。帰りがけにルーデルドルフの執務室から頂戴してきた葉巻は上等だったが、状況が上等ではない。ルーデルドルフの視線を気にせず三本ほど消費し、いかにこの連中を転覆させてやれば帝国を守れるかに考えを移しはじめたところで、会議室にどよめきが生じた。秘書の耳打ちを受けて、宮内尚書が発言したのだ。

 

「陛下のお言葉を賜りましたので、宮内省を預かる者としてこの場をお借りいたしまして……。たとい焔の熱さを向けあおうとも、のちに友となる国々なれば、共にあって永らえることを以て良しとせよ、と」

 

 ゼートゥーアは驚愕し、また己が驚愕している事実にも驚愕した。

 たとえ会議を開き、首脳陣が国家を動かしていようとも、帝国の権力は皇帝を頂点とする。国家の意思決定とその責任は皇帝が担うのだ。首脳陣が何を言おうと、皇帝が否とするなら、それが是になることはない。

 つまるところ、これは和平の成立を意味した。

 

「……であれば、陛下の御心に従い、終戦に向けて一致団結するのが臣民としての務めでしょうな。すでに提言いたしましたとおり、友好国イルドアを仲介としての和平は十分に可能な状況です。参謀本部としては講和に最大限の協力を申し出る次第ですが、皆様のお考えをお聞かせ願いたい」

 

 ゼートゥーアの発言に会議室は沈黙した。出席したそれぞれの困惑と苦悩が紫煙となって空気を濁らせている。

 最初に手を挙げたのは財務省だった。

 

「ざ、財務省としては、和平が結べるならそれに越したことはありません。しかし、賠償金を外すわけにはいきますまい。すでに帝国経済は国債に依存しているのですぞ」

「このようなことを軍部の人間として口にするのは心苦しいが、連邦は負けたのではない。勝っていないだけなのです。彼らに賠償金を請求すれば、当然反発を煽るでしょうな」

「ではどうするというのだね、ルーデルドルフ准将! そもそもは敗北を与えられない軍部の怠慢ではないのかね!」

「それは参謀本部への公式な非難声明と受け取ってよろしいのですかな? 我々帝国軍の精強と献身があってこそ、帝国は外敵から守られてきたのですぞ。それを打ち捨てるとあれば――」

 

 ここを限界と見た。

 ゼートゥーアは手を打ち鳴らした。ルーデルドルフも財務尚書も、他の首脳陣もゼートゥーアに目を向けている。もったいぶった咳払いをひとつ挟んで、ゼートゥーアは東部戦線から持ってきた書類を一束取り出した。

 

「これは軍の最高機密であり、筆者については現時点で回答いたしかねますが、終戦後の帝国経済についての開明的な論文が先日提出されました。私の専門からは外れると判断したため、後方参謀を介して国内の経済学者や資本家、信頼のおける有識者に査読を依頼した結果、彼らは論旨の妥当性と合理性を認め、賛意を表した署名まで残してくれました。こちらを」

 

 ゼートゥーアの手からひったくるように論文を掴んだ財務尚書は、読み進めるうちに目を見開き、汗を垂らし、手を震わせはじめた。署名者のなかには彼の恩師や健康上の理由から勇退した前財務尚書までいる。それらの人物が賛意を表するだけの内容が明快かつ端的な文章で示されているのだから、彼の取り乱しようもむべなるかな、とゼートゥーアは小さく頷いた。

 かくも恐ろしきはデグレチャフである。和平による経済効果の拡張、軍縮による労働力の増大、復興による雇用の増加、これらを適切に論じ、軍の組織構造も帝国法も引っ張り出して実現可能な提言にまとめる。才覚というよりは見識の功であろうか。

 ゼートゥーアはかの中佐を高く評価している。柔軟で、機転が利き、規律に忠実で、取り繕うのが大変にうまい。人手不足と年齢不足さえなければ総務部で行政参謀にあたらせてもよかっただろうとすら思っている。

 どこにあっても奮戦し、終戦への道をこじ開けた彼女のためにも、ここで勝負しなくてはならない。ゼートゥーアの覚悟は並大抵のものではなかった。

 

「いかがですかな、財務尚書殿」

「……可能だ」

 

 会議室に衝撃が走った。

 

「もちろん、財務省の内部システムと噛み合わない部分や、人員上の都合で実現が困難な部分もある。しかし……この論文は理屈が通っている。論拠もしっかりしている。終戦によって帝国経済が回復する一つの方策となりうる」

「それは結構。方々に自ら頭を下げて回ったかいがあるというもの」

 

 財政問題が解決した以上、あとは市民感情をどうするかが問題だ。しかし、幸いにして帝国の広告担当は無能とは程遠く、和平の方向に天秤が傾いたと見るや否や、市民を納得させるプロパガンダに全力を尽くすことを宣誓して見せた。

 かくして、帝国の和平方針は固まったのである。

 微妙な顔の首脳陣が三々五々に散るなか、ゼートゥーアはルーデルドルフと久しぶりに肩を並べていた。

 

「やはり、持つべきは有能な友人だな。葉巻のぶんは帳消しにしておいてやろう」

「有能な部下にも何か包んでやってくれ。あれはどうやら煙草を好まんらしい」

「ターニャ・フォン・デグレチャフか」

 

 ルーデルドルフが首を傾げた。

 

「妙なこともあったものだ。生粋の軍人、それも猛犬の類と思っていたが、首脳陣の馬鹿どもより先に終戦を考えていたとは」

「賭けてもいい、レルゲン大佐が悔しがる」

「レルゲンが?」

「あれはデグレチャフ中佐をさんざ化け物だと主張してきただろう。いやはや、化け物に救われる国とは」

 

 どちらともなくため息をつき、どちらともなく情けない笑いがこぼれた。

 帝国と同じように、軍の双璧も疲弊しきっていた。あるいはこの疲弊が、幼い少女に血みどろの重圧を背負わせるなどという狂気を導いたのかもしれない。だとすれば、ターニャ・フォン・デグレチャフは被害者ではないか。

 そこまで考えて、ゼートゥーアは頭を振った。

 

「ゼートゥーア。和平が成ったら俺は退役する」

「お前の口から退役などという単語が聞けるとは、明日は槍の雨が降るな」

「まあ聞け。若いころのボクサー気取りが祟ったようだ。脳に問題があると医者に言われた。悪くなると物忘れや判断ミスが増えるらしい」

「そうか。……そうか」

 

 軍大学時代は荒くれの大男と思って苦手意識と憧憬意識の両方を抱いていた親友が、どこか小さく、縮んで思えた。

 ゼートゥーアが柄にもなく背を叩いて笑んでみせると、ルーデルドルフは一瞬眉を上げたあと、吠えるような笑い声をあげた。

 

「お前に気を使わせるとは、俺も老いたものだな、ゼートゥーア。なに、気にすることはない。孫娘がこの戦争で夫を亡くしてな、勇ましいおじいさまと一緒に暮らせれば安心できるそうだ。可愛い盛りさ、俺自らいい男を見繕ってやってもいい」

「愛想を尽かされるなよ」

「馬鹿を言え。……参謀本部はお前に任せる。休みにでも顔を出せ」

「ああ。必ず行くさ」

 

 帝国の戦争が、終わろうとしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第01話 人事

「解体、でありますか」

 

 苦虫を噛み潰したような顔のレルゲン大佐を見上げながら、ターニャは考えを巡らせた。

 サラマンダー戦闘団、ひいては第二〇三航空魔導大隊が解体されるのは予想していた。かつての敵国に精鋭としての強烈な印象を植え付けたからだ。

 しかし、ターニャの予想では抑止力としてぎりぎりまで形式が保持されるはずで、それを前提に再就職の計画を立てていたのだ。浅慮による己の過ちを内心で責めるが、表情には出さない。ビジネスマンの基本だ。

 

「連邦との和平において、条件として戦闘団の解体が明記された。人気者だな」

「は、戦時のものとはいえ、他国においても能力を高く評価されることは小官としても喜ばしく思う次第であります」

「……そうか。戦闘団の各員は人事局による評価と個々人の希望を確認したうえで各所に異動となる。評価にあたっては貴官も同席せよ」

 

 承知の返事と敬礼をしながら、ターニャは事態がさほど悪くないことを理解しはじめた。兵の人事評価に同席するということは、後方勤務、デスクワークの実力を示す機会があるのだ。まさに千載一遇の好機。

 それに、別れを告げる部下への餞別と思えば、気分のいい仕事でもある。もう顔を合わせることはめったにないだろうが、それでも同じ国家、同じ組織に勤める”同僚”から悪意を向けられるのは健全な環境の構築とは言えない。

 しかし、日時を確認しようとしたところで、レルゲンが口を開いたことでターニャは出端をくじかれた。

 

「貴官がゼートゥーア閣下に提出した論文が、和平を推し進める決め手となったそうだ」

「論文といいますと……」

「まさか、見当がつかないほどの量を提出したのか!」

 

 図星だった。

 サラマンダー戦闘団結成より前、後方勤務を志願して参謀本部に呼び出された際のことだ。説得力を増すために、ターニャは書き溜めていた論文をまとめて提出した。能力を疑われてはかなわないから手も抜いていないし、剽窃もしていない。人員確保と教育を中心に、経済や外交まで手を伸ばした。お気に入りは激戦区の前線において軍法会議による処罰を実行することの戦局への影響を検討したものだった。

 レルゲンが大きくため息をついた。ターニャの見立てでは、彼は胃痛を患っている。やはり参謀本部は激務なのだろうか。胃を悪くしているのなら煙草もコーヒーもやめたほうがいいのではないかと思うが、レルゲンは今も葉巻を吸い、濃いめに淹れた深煎りのブラックを口にしている。

 

「まあ、いい。貴官の能力は高く評価されている。当初機密扱いだった執筆者も首脳陣には公開された。解体後は引っ張りだこだろう」

「それは、身に余る光栄であります」

「貴官の栄達を祈っておこう。……しかし」

 

 しかし、ときた。

 ターニャはお偉いさんの逆説接続詞が大嫌いだ。特によい内容のあとについたものは。

 レルゲンの目は冷たかったが、どこか迷っているようにも見えた。

 

「あれほど前線で活躍していた貴官が、そう、よりにもよって貴官が終戦を考えていたとは。何の狙いがあった?」

「……小官は」

 

 これは諮問なのだろうか。最後の最後まで気が抜けない。うまく笑えている自信がなかったが、それでもターニャは頬を緩めようと努力した。ビジネスマンの務めだ。

 

「小官は、国家に仕える人間として己の届く範囲で役目を果たした、それだけです」

 

 レルゲンはしばらくターニャを見つめて、何も言わず応接室を去っていった。

 

 何が何やらわからないが、ともかく解体だ。情報部の人間も借りて、残しておくと困るものは破棄または移動して保管、余剰備品は倉庫行き。方々から引き抜いた事務員の再就職にも手を回し、同じ階の課に挨拶し、書類を捌き。さらには第二〇三航空魔導大隊の面々が全員昇進したために、家族あてのお祝いの手紙、自らに届いたお祝いへの返礼もこなさねばならない。

 目が回るような多忙に、ターニャはうんざりしはじめていた。仕事とは多すぎても少なすぎてもいけないのだ。

 

「セレブリャコーフ大尉。うちの馬鹿どもは何をやっているんだ? 書類仕事の一つも手伝いに来ない」

「ええっと……第三中隊と第四中隊はラインで治安維持に出ています。ルーデルドルフ閣下からご通達がありました」

「ああ、そうだったな……第二中隊はどうした、ヴァイス大尉は」

「ゼートゥーア閣下のご指名で首脳陣の護衛です。継戦派の攻撃を防ぐとかなんとか。大佐殿も激励してらしたと思いますが……」

「確かに……。じゃあ、第一中隊は。貴官の管轄だろう」

「魔導新兵の教導にあたっています。その……大佐殿の指示で」

「わかっている、わかっている! そうだ、私が承諾し、私が指示した! こんな糞忙しくなるとは思っていなかったからな!」

 

 机に突っ伏すと、勢いで書類の束がひとつ崩れた。最悪だ。ため息すら出ない。ターニャは鈍痛のする己の頭に憐憫を向けながら、すっかり雑然としてしまった執務室を眺めるでもなく眺めた。

 なぜ事務員を送り出してしまったのだろう。終戦直後で憲兵隊も手は空いていないし、人手の借りようがない。

 

「た、大佐殿! 参謀本部から封書です!」

「あー……十中八九貴官にもかかわりのある話だ。寄越せ」

 

 レルゲンの名義で届いたそれは、元第二〇三航空魔導大隊の面々に関する人事会議の通知だった。資料を作るには十分な期間があるあたり、帝国が落ち着いたのか、レルゲンが有能なのか。

 ともかく、準備をする必要があった。

 

「セレブリャコーフ大尉。貴官の有能さは私もよく理解している」

「大佐殿……え、えへへ、光栄です」

「実際、貴官には世話になった。勇敢だが冷静、コーヒーを淹れさせれば一流、事務仕事でも有能。せんだって大尉に昇進したばかりではあるが、まだ上を目指せる」

 

 半ば本心だ。自身に忠実で有能、しかもおいしいコーヒーを淹れられる可愛い部下。ターニャにとって手放すのが惜しい人材だ。しかも、ターニャ手ずから育て上げたのだから、我が子を奪われるようなものだった。

 

「そんな、小官こそ大佐殿にはライン戦線のころから救われてばかりで……大佐殿がいらっしゃらなければ、私は帝国を見守る英霊の一人になっていました」

「私のことはいい。ともかく、大尉には適切な褒賞と適切な人事が提供されるべきだ。来月、人事会議に出席することになった。希望があれば今のうちに。多少強く推薦するのもやぶさかではない」

「あ、ありがとうございます! でも、その……」

 

 通達書から目を上げてセレブリャコーフを見ると、彼女は歓喜というよりは困惑の色に表情を染めていた。

 

「なんだ、言ってみろ」

「いえ、なんと言いますか……今後も大佐殿の副官として務めさせていただくわけにはいかないのでしょうか」

 

 ターニャの思考が固まった。

 つまり、この優秀な副官は、今回の人事で立身出世ではなくターニャの部下であることを望んでいるのだ。ある意味では間違いではないだろう。単独で上を目指すより、誰かの配下としてともに上るほうが安全だ。ましてや、その相手が確実な出世株であれば。

 しかし、セレブリャコーフの瞳から出世欲は微塵も感じられなかった。

 

「大佐殿は、その、少々鈍感でらっしゃるので、はっきり申し上げますが……私は他の誰でもなく、大佐殿にお仕えしたいんです!」

「な、なるほど」

 

 ターニャが気圧されて頷くと、セレブリャコーフは満足げに頷いて、書類仕事に戻った。その手際の良さたるや、手放したくないと思わせるには十分なものだ。ひょっとするとここで有能さを見せつけておこうという策なのかもしれない。

 しかし、情熱的な申し出だった。

 

「情熱的……いや、まさかな」

「大佐殿、何か?」

「あー、一応確認しておくが、セレブリャコーフ大尉。先ほどのそれは人事の希望であって、その、恋愛的な告白のそれではあるまいな?」

「へ? ……ふふ、大佐殿も年相応なところがあるんですね、安心しました」

「馬鹿、今日中にその山を片付けないと北方送りにするぞ」

 

 ターニャは自分の間抜けさに呆れて頭を振った。

 ターニャ・フォン・デグレチャフ、もうすぐ十四歳。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第02話 恐怖

 セレブリャコーフはレルゲンに引き抜かれ、少佐に昇進のうえ総務部に配属された。彼女は士官課程で参謀コースを取っていなかったが、人手不足は否めない。レルゲンの秘書という形でねじ込まれた。

 もちろん他の隊員も、士官学校の教官、国境警備隊の隊長など、順当に出世が決まった。上司であるターニャは鼻が高い。

 セレブリャコーフは珍しくぐずって反抗したものの、レルゲンと二人がかりでなだめすかし、納得させた。なぜかターニャとセレブリャコーフが文通をすることになったが、ターニャにとって筆を執るという行為は別段億劫ではない。

 そして、ターニャはいま、人事部にいる。

 

「次の方、どうぞ」

 

 部下の人事に関する意見具申の的確さと、人事部への理解の深さが評価された。軍縮に伴う失業者の増加に対応するため新設された相談室を任されたのだ。

 ターニャにとって人事は昔取った杵柄だ。なんなら前世の死因まで人事がらみなのだから笑えないが、なんにせよ人事は得意中の得意分野だった。

 軍人の多くはプライドが高い。その割に民間で働く能力は高くない。これはターニャが軍人を低く見ているのではなく、単に職業訓練を受ける機会が兵役によって損失されていたという事実、そして軍人という責任が重く激務の職業に従事してきたことがアイデンティティを構築するレベルのプライドを生む事実をのみ示す。

 よって、そのプライドを傷つけない程度に職業訓練、資格取得を推進する必要がある。これはターニャが論文で記した提言でもある。

 現在、急ピッチで新たな訓練校を準備しているが、和平条約が締結された以上、軍縮を凍結するわけにはいかない。そこで、ターニャが彼ら彼女らを一時的な公共事業へと回しているのだ。

 

「どうぞ、お座りください。ああ、敬礼は不要です。中央軍砲兵隊に籍を置いてらした、なるほど。適性テストでの物理学や数学の成績も非常に高いですね。当然、火薬の扱いにも慣れてらっしゃる……。どの職場でも引く手あまたですが、なかでも私からはこれらの募集を紹介できます。いかがですか? ええ、持ち帰ってご検討ください。疑問点がございましたらいつでも人事局雇用促進課へ」

 

 最初は面接の場にもかかわらず敬礼したり第二〇三航空魔導大隊を賛美したりする者が多く、ターニャも困惑したが、次第に慣れてきた。ターニャの私的な見解だが、人事とは高度な流れ作業なのだ。面接者の情報と人事の情報を組み合わせ、最適の箱に入れる。それだけだ。

 

「次の方、どうぞ」

 

 しかし、流れ作業に徹していたために油断ができた。

 発砲音。続いて、右肩に焼けるような感覚。

 

「――死ね、ラインの悪魔! ド・ルーゴ将軍に栄光あれ!」

 

 痛みに悶えたことが幸いして二射目、三射目は外れた。

 涙にぼやける視界の向こうで、女が笑っている。狂気的な三日月を口とし、目を血走らせ、復讐心と愛国心に震えている。

 恐ろしかった。ただただ、ターニャ・フォン・デグレチャフは恐怖を感じた。

 誰かが女を取り押さえるのを見ながら、鈍った感覚を総動員して、傷を止血した。前線で戦っていたころ、これほど痛みを感じたことがあっただろうか。どこかで冷静なターニャがアドレナリンによる痛覚の麻痺だと指摘したが、そんなことは聞いていなかった。

 なぜか、ターニャの脳裏に名も知らない義勇軍の小娘が浮かんだ。彼女も狂気的だった。戦っていた時、ターニャは彼女に感じるひりついた感覚を敵としての脅威判定によるものだと思い込んでいた。しかし、どうやらあれは恐怖だったらしい。

 恐怖。恐怖。恐怖。

 覚えまいとしてきた、殺した敵兵の顔が無数に浮かんでくる。ターニャを地獄へ引きずりおろそうと、ターニャを足場に地獄から抜け出そうとしているのだ。

 ターニャの胸の奥で、何かが折れる音がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第03話 孤軍

 名も知らない敵兵に撃たれる。

 名も知らない敵兵に刺される。

 名も知らない敵兵に殴られる。

 名も知らない敵兵に踏まれる。

 名も知らない敵兵に笑われる。

 それでも、死ぬことはできない。彼らを殺して生きているがために。

 許さないという一言がこだまする。

 まるで地獄が歓迎しているかのように、赤黒い沼がターニャを飲み込んでいく。

 そこに味方は誰もいない。

 

「――ッ!」

 

 飛び起きたターニャは、右肩の痛みに顔をしかめた。

 嫌な汗をかいている。シャワーを浴びたいが、傷を覆っているガーゼと包帯が濡れないようにしなくてはならない。

 

「糞、忌々しい……」

 

 先ほどまでの思い出したくもない地獄絵図は、夢だ。ターニャはもう二週間同じ夢を見続けている。

 下手人が単独犯と判明し、処刑されてなお、ターニャは恐怖を感じていた。ターニャも己の怯懦を認めたくはないが、それが事実だった。

 ぱさついたサンドイッチを牛乳で流し込んで朝食を済ませ、薬を飲む。最近は新聞もラジオも確認していない。怖いのだ。

 ベッドの上で膝を抱え、昨日の職場にあった些細な失敗たちを悔やんでいると、病院の時間になる。見てもらうのは肩の傷ではなく、心の傷だ。つまり、精神科だ。

 外に出ると、まだ秋口だというのにコートと帽子を纏ったターニャに不審な目を向ける者もいたが、ターニャはそれを無視して足早に病院へと向かった。

 待合室には様々な症状を抱えた人たちがいる。ターニャから見て”いかれた連中”だが、ここにいる以上自分もその一人だと思うと、ひどく気が重かった。それだけに、周りの目が怖く、誰とも会いたくなかった。

 

「大きく息を吸って……吐いて……なるほど。魔力の波長に乱れがありますね。職場ではどうですか?」

「その、なんと言いますか、誰を見ても憎まれているように思えて。仕事にも支障が出ているので、早く改善しないと」

「焦ってはいけません、デグレチャフさん。あなたが戦場で負った傷は浅くなかったのです。大丈夫、お薬をお出ししますから、ゆっくりと――」

「それに何の意味がある!」

 

 激昂したターニャは机を蹴ろうとしたが、短い両足が椅子をがたつかせるばかりだった。まるで子供の癇癪だ。医者に文句をつけるところなどまさにそのものだろう。ターニャは心の底から自分で自分が嫌になった。

 しかし、ゆっくりと回復するのでは意味がないとも思えた。すぐにでも仕事に復帰しなくては、これまで必死に頑張ってきた意味がない。アイデンティティが崩壊の危機にあって、ターニャは孤軍であり、奮闘する気力もなかった。

 もはやターニャに下せる決断は撤退のみだ。軍を辞するべく、震える手で上司であるゼートゥーアに傷痍退役を希望する旨を手紙に記した。もはや具申書とも呼べない、弱音を敬語で、悲鳴を建前で覆い隠した代物だった。

 返事を待ち、貯まりに貯まっていた休暇をベッドで浪費しながら過ごしていた。かつて自分を突き動かしていたのは、いったいなんであったのか。出世欲はもはや機能しない。功名心は別段持ち合わせていない。あるとすれば――

 

「……存在X、か」

 

 神を僭称する存在Xへの復讐。それはあるかもしれない。しかし、ある意味でターニャは平穏な生活を手に入れた。賭けはターニャの勝ちのはずだ。しかし、あまりに報われない勝ちだった。

 あるいは、襲撃犯が存在Xに教唆されたのだろうかとも考えた。ターニャにとって救いになりえたその可能性は調書に目を通した時点で潰えた。襲撃犯は帝国に潜伏したまま取り残された共和国の情報将校で、祖国への愛から自らの意思でターニャの暗殺を試みたのだ。存在Xが介入する余地はなかった。

 憎む気も起きない。かといって祈りを捧げる理由もない。

 そのように澱んだ気分で部屋にこもっていると、ゼートゥーアからの返事が電話の形で届いた。

 

「……はい、デグレチャフです」

「ゼートゥーアだ。この度は災難であった。私の責任であろう」

「いえ、閣下のせいでは」

「私のせいにしておけ、そのほうが楽になるのなら。貴官の状況は多少聞き及んでいる」

 

 ゼートゥーアの耳に届いたということは、軍部に知れ渡っているということだろう。ターニャの悲観的な予測はたちまち彼女自身を追いつめた。昨日食べたサンドイッチがこみ上げてくる。それでも、軍人としての意地がわずかなりとも残っていて、受話器は手放さなかった。

 

「無理をさせたくはない。異論のあるときのみ声を発せばよい。……貴官の進退についてだが、ひとまず籍を参謀本部に残したまま、企画部研究課の参謀室特任研究員とするのがよかろう。論文を書いて送るのが仕事だ。貴官の有能さは重々承知だが、急ぎの案件ではない。すでに受け取った論文で一生分のノルマは達成している。無論、いずれ復帰したならその時の希望で別の役職を用意できるだろう」

 

 上司に気を使わせている。その事実もまたターニャを苦しめた。まるで血管に鉛が流れているようだ。

 ゼートゥーアの言っていることは理解できた。自己評価はともかく、経歴からある程度の高待遇を認められるだけの成績は残している。職を失うよりははるかにありがたい。

 しかし、理屈が通っていようとも、厚意がターニャにのしかかっているのだ。

 

「生活に苦労しない程度の俸給も出る。傷病手当金、保険金も含め、こちらで手続きを済ませて書類を封書で郵送しよう。このことは軍の担当者が一人と、私以外誰も知らない。他に手配するものがあれば、今でも後日でも構わん、連絡してくれ」

「……閣下は」

 

 久しぶりに声を発した気がした。これほどか細い声が己の喉から出ているとはターニャには思えなかった。

 

「閣下は、なぜそこまでしてくださるのですか。……憐憫、ですか」

「そうではない、デグレチャフ大佐。これは帝国法と軍規に基づく事務処理、そして老人のつまらぬ罪悪感による八つ当たりだ。では、数日中に封書を送る。また会う日まで健やかであれ、大佐。貴官が守った帝国が健やかであるように」

 

 受話器を置く手は震えていた。

 ひどくみじめな気分で、しかし涙すら出なくて、ターニャはひたすらに苦しかった。ただ、ただ、苦しかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第04話 見舞

 ターニャから副官を奪ったことに多少の負い目を感じてはいたものの、レルゲンにとってセレブリャコーフ少佐は大変に使いやすい部下だった。

 総務部の仕事もすぐ覚え、自身の裁量内であれば即断即決かつ的確、何かあれば素早く報告、連絡、相談。ターニャの副官だったおかげか、不正を見抜く嗅覚も鋭く、憲兵室にも顔が利く。おまけに淹れるコーヒーが大変にうまい。

 午前の職務が十一時に片付いてしまったので、レルゲン直属である総務一課の面々は少し早い休憩を迎えていた。しかし、まだまだ物資の乏しい帝国でセレブリャコーフのコーヒーを飲めるのは、ここの長であるレルゲンの特権だ。

 

「デグレチャフが貴官を推す理由が見えてきた。これほどまでとは」

「恐縮です。……あの、閣下」

 

 レルゲンはまだ閣下と呼ばれることに慣れていない。准将も、参謀次長の役職も荷が重いようにすら感じる。とはいえ、ルーデルドルフとゼートゥーアの両者に肩を叩かれては、閣下と呼ばれるのを受け入れるしかない。

 

「なんだ、セレブリャコーフ少佐」

「その……閣下は最近、デグレチャフ大佐殿とお会いになられましたか?」

「いや、しばらく顔を見ていないな。人事部で騒動があって、企画部に異動になったと聞いているが」

「はい。でも……」

 

 セレブリャコーフは言い淀んだが、レルゲンが目で促すと続きを語り始めた。

 

「騒動の件はご存知ですか?」

「デグレチャフ大佐が襲撃され、負傷した話だな。奴も油断することがあるのかと驚いたが」

「はい、小官も正直驚きました。でもそれ以上に心配で、事情が事情ですから表立ってお見舞いにも行けず……」

「行けず?」

「手紙を書いたんです。約束通り」

 

 レルゲンは想起する。

 そういえば、駄々をこねるセレブリャコーフを説得するにあたって、デグレチャフとの文通を餌にしたのだったか。

 てっきり冷酷な化け物らしく住所を教えずにごまかすなどするかと思っていただけに、レルゲンにとって意外な展開だった。

 

「返事はあったのか」

「ありました。お見舞いも心配も不要だ、と」

「なら不要なのだろう」

「でも、字があまりに弱々しくて。それに、いつもなら人の心配をしていないで職務をこなせー、とか、見舞いに来る余裕があるなら仕事を増やせー、とか、それくらいのことは言いそうなのに」

「言いそうだな。書いてなかったのか」

 

 セレブリャコーフが頷くのを見て、レルゲンはしばし思案にふけった。手紙で口数が減るタイプならそれまでの話だ。重傷を負ったという話も聞いていない。しかし、この元副官が言うからには、何かしらの不自然があるのだろう。レルゲンはその程度にはセレブリャコーフを、そしてターニャを信用していた。

 しかし、何かしらの判断を下すには圧倒的に情報が不足している。いくら恐ろしくとも戦友は戦友であり、その副官だった人物に助けられている以上、間接的に恩義もある。

 

「いろいろ変なんです。企画部の研究課に配属になったはずなのに、大佐殿の席はないですし、寮はすでに退去なさってますし……それに、大隊の中で私にだけ引っ越しの連絡が来たんですが、新居の住所も不自然ですし、しかも、その」

「なんだ」

「情報部の友人に探ってもらったんですが、引っ越しの連絡は参謀本部、ゼートゥーア参謀総長閣下が手配なさっているんです」

 

 レルゲンは久しぶりに胃痛を覚えた。

 おまえは誰を探らせているんだ、とか、プライベートで情報部を動かすな、とか、情報部に伝手があるなら早く教えろ、とか、いろいろと言いたいことがあふれかえり、激流となった。しかし、レルゲンの口は濁流に乗せて岩も木も吐き出せるほどの広さも頑丈さも備えていないため、結局コーヒーを飲んでごまかすしかない。

 それに、奇妙なのも事実だった。ゼートゥーアが手配したのなら、参謀本部が何かしら噛んでいるはずだ。しかし、次長であるレルゲンにはその情報が来ていない。

 

「軍機でなければ伺いたいのですが、大佐殿が新しい極秘任務についてらっしゃるとか、そんな話だったりしますか……?」

「……いや、貴官だから正直に言うが、初めて耳にした。ゼートゥーア閣下からも何も聞いていないし、引っ越したこと自体知らなかった」

「そんな……」

 

 セレブリャコーフはひどく気落ちした様子だった。

 部下のケアをするのも上司の務めであることはレルゲンもよく理解していたが、どうにも適切な声かけが浮かばない。

 しばらく沈黙の中で思案した末、ようやく無難な言葉が見つかった。

 

「まあ、殺しても死なんようなやつだ。新たな戦場を探しに行ったのかもしれん」

「そう、ですね」

 

 この声かけはあまり効果的とは言えなかったようで、レルゲンは心中で彼女の元上司を恨んだ。

 いつも通りとまでは言わないまでも、落ち着いて仕事をする日常に戻ったかと思われた一週間後、セレブリャコーフが休暇を申請してきた。

 セレブリャコーフは優秀であり、彼女の希望を叶えるのはレルゲンにとっても悪い話ではない。しかし、いま総務部は人事再編の影響を受けて多忙を極めており、そうやすやすと休暇を与えるわけにはいかなかった。

 

「休暇、ね」

「はい。どうしても、大佐殿が心配で。住所がダミーでないことは判明しています」

「また情報部を動かしたのか」

「いえ、手紙が返ってきました。消印がその区のものです。内容に問題はないので、ご覧いただいて構いません」

 

 柔和な顔つきだが知性の切れ味は人一倍だ。レルゲンは彼女の評価を上方修正するとともに、差し出された手紙を確認した。

 消印は郊外の町のものだ。よく言えば長閑、悪く言えば何もない地域。人が住んでいる以上生活に困らない程度の環境はあるだろうし、レルゲンも余生を過ごすのに適した場所だとは思うが、幼女が住む場所ではない。

 字は確かにかつて読んだ論文のものと同じだ。しかし、レルゲンの知るターニャ・フォン・デグレチャフとはやや異なる印象を受けた。筆圧が弱く、線に乱れが見て取れる。短い内容も淡泊というより事務的で、定型文だけで形作られている。

 

「実は、第二〇三航空魔導大隊が解体された際、祝勝会を開いたのですが、大佐殿は乱痴気騒ぎに付き合いたくないとのことでおいでにならなくて。本当は大佐殿の送別会の予定だったんです。だから、みんな大佐殿にお礼を言いそびれたのを悔やんでいて」

 

 レルゲンには部下に感謝されるターニャ・フォン・デグレチャフが想像できなかったが、思い返せば人事会議ではすべての部下に的確かつ好意的な評価をし、その根拠となる資料まで用意していた。その書類が書き込まれたインクでずっしりとしていたのは、運ぶのを手伝わされたレルゲン自身よく知っている。

 レルゲンも彼女に言いそびれたことがある。彼女は帝国が最も忙しい時期に、いま最も暇な部署へ異動していった。少なくとも、レルゲンの目にはそう映った。これは裏切りであり、彼女の残酷な有能さに少なからず期待していたレルゲンには致命的な一撃だったのだ。

 それに、もし彼女が優雅な生活を送っているようなら、耳を引っ張ってでも書類仕事を手伝わせたいという欲があった。

 

「なるほど。事情は理解した」

「ありがとうございます!」

「しかし、休暇は認められない」

「ええっ、そんなあ」

「これは軍規に基づく判断だ。貴官は研修中であり、研修生は緊急時を除いて休暇申請を認められていない」

「これは緊急時です!」

「調子を崩した元上司のお見舞いに遠出する緊急時があるか、馬鹿者。デグレチャフの様子は私が確認してくる」

 

 セレブリャコーフの驚いた顔を見て、レルゲンは自分が何を口走ったか理解した。つまり、自分が”ターニャちゃん”のお見舞いにはるばる郊外まで行くと宣言したのだ。

 

「ああいや、しかし仕事が」

「いいと思います、閣下がお見舞い!」

「……は?」

 

 そして、どうやらセレブリャコーフのよくわからないスイッチを押したと見えて、レルゲンの制御から離れ、事態は加速し始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第05話 花束

 戦時中には想像すらしなかった牧歌的な風景がガラスの向こうに流れていく。車窓に風情を感じる日が再び来るとは、レルゲンには予想できなかった。

 行きがけに買ったベーグルサンドがなかなかに美味だったため、勢いで買ったチョコレートには手を付けずに済んだ。レルゲンも甘いものは好きだ。しかし、気分と財布が緩んだ結果マダムの押し売りに負けて高級メーカーのチョコレートを買いました、などとターニャに報告したら鼻で笑われるに違いないと、レルゲンは忍耐を選んだのだ。なぜだろう、ばれないという考えはなかった。

 そう、レルゲンは今、ターニャの新居に向かっている。

 いつぶりかわからないほど久しぶりに私服を着て、時代遅れの格好になっていやしないかと内心冷や汗をかきながら駅に向かった。何を緊張しているのやら、予定していた電車より四十五分も早く駅に着き、食事時に着くのは迷惑だろうと散策していたらこのありさまだ。

 

「なんとも、情けないものだな」

 

 レルゲンの膝には花束が載せられている。第二〇三航空魔導大隊の面々が一輪ずつ持ち寄ったものだ。前線で食品に使う保存術式がかけられているため、解除するまでは枯れることはない。うまい具合に四季の花々が揃っている。悩みに悩んで、レルゲンも一輪加えた。

 手持無沙汰で、しかし花束をいじるわけにもいかず、本を忘れたことを悔やみながら窓の向こうに目を向けていると、降車駅にたどり着いた。

 住所を見るに、どうやら駅からしばらく歩くらしく、レルゲンは花束を手にため息をついた。周りから見たらさぞ滑稽だろうが、幸いなことに人はいない。

 道中、車の一台もすれ違わなかったことに首を傾げながらも、レルゲンはその家を見つけた。ひどく小さな目立たない家で、小さくデグレチャフの表札がかかっている。

 ノッカーを叩くが、返事はない。

 

「あー、こんにちは。エーリッヒ・フォン・レルゲンだが、ターニャ・フォン・デグレチャフ殿はご在宅ですか」

 

 声をかけるが、やはり返事がない。

 無駄足だったかと引き返そうとした矢先、レルゲンの耳に物音が入った。椅子が倒れるような音だ。

 あの化け物に限ってまさかとは思うが、再び誰かに襲撃されている可能性もある。そうなればレルゲンとしても寝覚めが悪い。それに、居留守を使ったのなら文句の一つや二つ言う権利もあるはずだと考えた。

 レルゲンは扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。

 

「――大佐、何をしている!」

 

 室内の状況はレルゲンにとって驚愕と困惑だった。

 やつれた顔のターニャが、歯を食いしばって、己の心臓に包丁を向けているのだ。

 荷物を放り出して慌てて駆け寄ったレルゲンに反応も見せず、手の震えが包丁の切っ先に伝わり、シャツを開いて露になった胸に微細な切り傷を作っている。事情は分からないが、このままでは危険であることはたやすく理解できた。

 レルゲンは彼女を刺激しないよう、後ろから抱くようにして包丁を握る彼女の手を掴むと、ゆっくりとそれをほどいていった。あまりにか細く、また青白い手は、到底十三歳のそれとは思えず、老衰で他界した曾祖母を思わせた。

 包丁を取り上げて静かにテーブルへ置くと、ようやくターニャが口を開いた。

 

「……笑ってくださりますか。自害する度胸もない意気地なしと」

「馬鹿を言うな。傷が浅くてよかった」

「なにがよかったんですか。私は死ねなかった。訪ねてきた知人の顔を見るのが怖くて居留守を使う恥に、生き汚さを重ね塗りして」

 

 ぞっとするほど弱々しい声は、ほんの数か月前まで己を震え上がらせていた化け物のものとは到底思えなかった。

 よく見れば、金糸のようであった髪も艶がなく、肌は荒れ、骨が浮き出ている。部屋にはほとんどものがなく、空の缶詰と未開封の缶詰が一緒になって積み重ねられており、まともな生活を送っていないことは容易に想像できた。

 レルゲンはこのような人間を知っている。前線から帰ってきて傷痍退役した知人が同じように衰弱し、やがて川で見つかった。

 しかし、あのターニャ・フォン・デグレチャフが、ここまで弱るとは。

 転がっていた椅子を立て、ターニャを腰かけさせると、レルゲンは放り出した荷物を拾った。

 

「……貴官、チョコレートは好きか」

「ええ、はい、好きだった気がします」

「そうか。ここに来る途中、買ってきたのだが――」

 

 ターニャが突然笑い出したので、レルゲンはぎょっとして言葉を途切れさせた。快活な笑いではない。虚しさがこぼれたような、吐息に音がついた程度の笑いだ。

 

「どなたの命令でいらしたんですか。ゼートゥーア閣下ですか、ルーデルドルフ閣下ですか」

「いや、私の意思だ」

「閣下が私の見舞いにくるはずなど……ああ、遅れましたが昇進おめでとうございます、准将閣下」

「ああ、ありがとう。なんというかだな……」

 

 立っていてはどうにも話しづらいので、缶詰が入っていたであろう木箱を引っ張ってくると、レルゲンは埃を払ってそれに腰かけた。

 

「セレブリャコーフ少佐が調べてくれた」

「……あれは優秀すぎますから。私が去った後も活躍できているなら安心、いや、当たり前か」

「当たり前なことがあるものか。あの馬鹿者、貴官を恋しがって、情報部まで動かしたんだぞ」

 

 そうですか、と呟いたターニャは、少なくともレルゲンから見て、少し落ち着いたように見えた。

 冷静でありながら活力に満ちていた化け物が無性に懐かしく、思わずレルゲンは軽口を叩いた。

 

「まさか貴官が真っ先に戦場を離れるとはな。貴官は戦場でしか息ができんとばかり」

「……ようやく、息ができるはずなのに」

 

 ぽつりと漏らしたターニャの言葉にレルゲンが問い返すより早く、彼女は独白を続けた。

 

「戦争が終わるのを、ずっと待っていたのに。戦争を終わらせるために、たくさん、たくさん殺して、殺させて、殺されて、それでも笑っていたのに。ようやく、安全なのに。……息が、できないんです」

 

 レルゲンには理解ができず、頭が真っ白になった。

 あの戦闘狂が、戦争屋が、戦争が終わるのをずっと待っていたなどと、到底納得のいく話ではない。嘘をつくなと怒鳴り散らせればどんなによかっただろう。

 しかし、彼女は虚偽の独白をする余裕のある人間には見えない。その虚ろな瞳と悲痛な微笑みは、嘘ではないとレルゲンに確信させるのに十分な苦しみをたたえていた。

 

「貴官は……まさか貴官は、戦争を厭っていたのか?」

「殺し合いを好むほどの愚かな人間に見えていたのですね、デグレチャフという軍人は」

 

 是とも、否とも言えず、レルゲンは眉をひそめた。戦争狂の類だと思っていたのは事実だ。今も半信半疑ですらある。

 

「私は、孤児院で育ちました。ひどく貧しい施設でした。孤児院育ちの女が帝国で安定した生活を望めるのは、軍だけだったんです」

「生きるための志願か」

「はい」

「しかし、貴官は――」

 

 ターニャが困ったように眉を下げて、閣下、とレルゲンに呼び掛けた。

 

「私は書類上はともかく、実情として軍人ではありません。お前でも、貴様でも、お好きなように」

「あー、では、デグレチャフ、君は……」

 

 化け物と思っていた相手に君と呼びかけるのは何とも奇妙だったが、この苦しんでいる少女をお前と呼ぶのも、貴様と呼ぶのもしっくりこなかった。

 

「君は、はじめての戦場で銀翼突撃勲章を授与されたな」

 

 諮問じみてきたことを自覚して、不自然でない範囲で声を和らげながら、レルゲンはこの奇妙な対話を継続することにした。怖い物見たさの危険な勇気と、こみあげてくる不可思議な義務感、その両輪がレルゲンを走らせている。

 

「ああ……あれはまさに絶望でした。単独での観測任務中に、越境した敵魔導部隊と接敵したんです。撤退許可は出なかった。……わかりますか、閣下。退けば敵前逃亡で銃殺、進めば単独戦闘で自殺行為。私は、私はあそこで死んだんです」

 

 ターニャがむせたので、レルゲンは慌てて己の水筒を差し出した。ターニャは小さく礼を言うと、水を飲み、またむせた。

 健康状態に問題があるのは間違いない。それは心身の両方に及んでいる。生活環境も劣悪だ。何かしらの支援が必要だとレルゲンは判断したが、それを口にするのはいまではないともわかっていた。

 

「幸い、敵の練度は低く、戦力を逐次投入してくれたおかげで時間を稼ぐことができました」

「後学のために聞いておきたいんだが、どうやって脱したんだ」

「自爆です。防殻術式を展開し、死んだふりをして落下しました。敵前逃亡を問われない撤退はあれしか……あそこで死んでおけばよかった」

「よせ、デグレチャフ。賢明な判断だ。魔力量の多い君だからこその手段でもある」

「恐縮です。いまはその魔力量に苦しめられていますが」

 

 ターニャが指さした先に目を向けると、棚に薬局の印が捺された紙袋が置かれていた。

 

「一般的に、精神の疾患は魔力の同調と波を整える治療で小康状態まで持っていくことが可能であるそうです。しかし、私の魔力量では機械の容量が不足していて、その治療を受けることができなかった。……何もかもが、裏目に出ているように感じます」

 

 悲観的なことを言うなと諭したい気持ちもあったし、ともすれば、君は恵まれているなどと余計なことを口にしそうでもあった。軽挙妄動をぐっとこらえ、レルゲンは落としたままだった花束を拾った。

 

「これは、君の……いや、貴官の部下からだ」

「私の、部下」

「第二〇三航空魔導大隊解体の内示が出たあと、彼らは密かに貴官の送別会を計画していた。その面々が一輪ずつ持ち寄ったそうだ」

 

 レルゲンは彼女の手を取って花束を抱かせた。ひどくやつれたとはいえ、美しい彼女に花束はよく似合っていて、レルゲンは少しだけ落ち着いた気分になった。

 ターニャは花束に目を落として黙っていたが、しばらくしてぽつりとこぼした。

 

「彼らには悪いことをしました。私はいい上司ではなかった」

「……これは亡き母の受け売りだが」

 

 思い出す。

 レルゲンの父も、何かにつけて己を責め、周りに謝る癖があった。幼いころはそれを父の弱さと思って嫌悪すらしていたが、母はそうではなかった。しかし、母が口癖のように言い聞かせていた言葉がある。

 

「こういう時、ごめんなさいよりありがとうのほうが言う側も言われる側も幸せなんだそうだ」

「……閣下は、素敵なご母堂に愛されてお育ちになったのですね。だから、それほどまでにお優しい」

 

 自分は優しくなどないと悲鳴を上げたかった。自分が彼女を化け物だと蛇蝎の扱いをしていた過去を消すことができればどんなによいだろう。

 レルゲンは答え合わせのように記憶の海をかき分け、小さなターニャの姿を探した。そして、彼女の発言がいずれも早期終戦と後方勤務を望むものであったことを確認し、また苦しんだ。

 方便だと思っていた。より多くの敵を殺し、より長く戦争に浸るための。もし、一度でも言葉通り彼女の希望を受け入れていれば。過去を反実仮想しても意味はないが、それでも後悔が押し寄せてきた。

 合理性を重んじる帝国軍人のエーリッヒ・フォン・レルゲンとして、迅速かつ的確な行動が求められた。なにかしらの支援を検討しなくてはならない。

 

「病床にありながら長話に付き合ってくれたこと、感謝する」

「……いえ、醜態をさらしましたことをお詫び申し上げます」

「気にするな、と言いたいところだが……。君から副官を奪った借りを多少埋め合わせたと思っておこう」

 

 副官という言葉に反応したのか、花束を抱く手に力がこもった。刺激してしまっただろうか。レルゲンの内心に焦りが浮かんだ。

 

「セレブリャコーフ少佐には……」

「秘密にしたければ、うまく話しておくが」

「いえ、そうではなく。おこがましい話ではありますが、その、デグレチャフが謝っていたとお伝えいただければ。ここしばらく、手紙の返事ができていないので」

 

 承知の旨を示して、レルゲンは立ち上がった。テーブルに置いたままだった包丁は高い位置にある戸棚に片付ける。他にも何かすべきなのかもしれないが、何をすべきなのかは検討がつかなかった。

 ターニャは花束を抱いて、静かに涙を流していた。

 

「迷惑でなければ、また来る」

 

 思わず口をついて出た言葉にレルゲンは自ら困惑した。しかし、ターニャは不快感を示さず、小さく頷いた。

 

「ご迷惑でないのなら、お待ちしています」

 

 帰りの列車で、レルゲンの脳裏には花束に落ちた朝露のような雫と、ハンカチを渡さずに出てしまった後悔が渦巻いていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第06話 名誉

 ルーデルドルフの邸宅を訪問するのは、レルゲンにとって初めてのことだった。あの雄々しい男に似つかわしくない瀟洒な屋敷だ。庭師の腕がいいのだろう、紅葉が鮮やかだ。しかし、レルゲンの気分は晴れなかった。

 慢性外傷性脳症。表向きは勇退となっているルーデルドルフの退役理由だ。本人から聞かされたとき、レルゲンはまるで異なる世界の作り話のように思えた。

 使用人に案内されるまま庭の奥に向かうと、ルーデルドルフは庭の片隅で揺り椅子に腰かけて本を手にしていた。年季の入ったウッドテーブルにはコーヒーとビスケットが置かれている。

 

「ご無沙汰しております、閣下。この度は――」

「まあ座れ、レルゲン。立ったままコーヒーを飲むやつもおるまい」

 

 穏やかな声に驚きながらも、レルゲンは向かいの木椅子に腰かけた。この椅子も古いものだろう、丁寧に磨かれて深い飴色になっている。存外にものを大切にする趣味のようだとレルゲンは意外に思った。

 給仕に差し出されたカップを受け取る。いい豆を使っているようだ。

 しばらく、二人とも沈黙していた。どこかから鳥がさえずる。一陣の風が吹き抜け、落ち葉をざわめかせる。悪い空気ではない。

 

「ヒルデガルド、俺の孫娘だが、あれと暮らし始めて、己の世界がいかに偏っていたかを理解した。この俺が小説を読む日が来るとはな」

「小説、でありますか」

「貴様はどうだ、この手のものは。多少触れておくといい、デグレチャフと交流するいい話題になるだろう」

 

 要件はあらかじめ伝えていたとはいえ、このような形で彼女の名が出るとは思わず、レルゲンは驚いた。

 

「貴様より先にその件で俺を頼ってきた奴がいてな。デグレチャフの元副官で、いまは貴様の部下だ」

「セレブリャコーフが……」

「あれは伸びるな。ゼートゥーアではなく俺に相談してきたのも、おおかた貴様と同じ理由だ」

 

 上司であるゼートゥーアを疑うわけではないが、ターニャの引っ越しには彼が関わっている。直接問いただす前に情報を集めたいし、そもそも問いただすべきか、問いただしてよいことかを考える必要がある。

 しかし、検討の材料を揃えるにしても、ターニャの事情をあちこちに流布するわけにもいかない。

 

「……どうやら、デグレチャフのことをひどく誤解していたようです」

「そのようだな。誤解によって救われた帝国か。間抜けな響きだ」

 

 ルーデルドルフがぱたりと本を閉じた。表紙にはフランツ・カフカの名が刻まれている。レルゲンも名前だけは聞いたことがある作家だ。

 

「俺に似たのか、ヒルデガルドは聡くてな。それも優しさのある聡明さだ。ひどく叱られた。少女の一人も守れないなら帝国の名誉などお捨てになればよろしい、と」

「それは……果敢なお孫様でらっしゃいますね」

「そこも俺に似たのだろうな。……ふむ、ジョークのつもりだったのだが」

「ああ、いえ、その」

「よい。ゼートゥーアにも学生時代から散々言われた。俺にはジョークのセンスとバイオリンのセンスが欠如しているらしい」

 

 確かに、この男がバイオリンを奏でる様を想像するのはレルゲンにも困難だった。軍隊ラッパ以外の楽器が似合うとも思えない。

 ルーデルドルフは笑みを消して、話を続けた。

 

「ヒルデガルドの言葉はある意味で正しい。犠牲は必要だった。しかし、犠牲となるのは志願した者であるべきだった」

「……デグレチャフは志願兵です」

「国政が志願を強いたのだ。強制された志願など、徴兵となにが変わろうか。我々は幼子に出血を強いた。……許されることではなかろう」

 

 ルーデルドルフは懐から古びた紙束を取り出し、テーブルに投げた。顎で示されるままにレルゲンはそれを手に取り、記されている文言に目を通す。軍を非難する手紙であるようだ。

 

「帝国内の良識ある市民が起こした勇気ある行動だ。幼い少女を戦争の道具にするな、と」

「この日付は、戦時中のものでは」

「そうだ。すべて俺が握りつぶしていた。公開しては士気に関わる。他の省庁に届いた手紙も俺に従う者に処理させていた。なんということはない、帝国の名誉を傷つけていたのは俺自身だ」

「おやめください、閣下。閣下は帝国の名誉を守るため戦われたのです」

 

 ルーデルドルフは返事をせず、コーヒーを手に取った。ミルクと砂糖の香りがした。思えば、レルゲンはこの男が軍でコーヒーを飲んでいる姿を見たことがない。

 レルゲンの視線に気づいたのか、ルーデルドルフが片眉を上げた。

 

「隠していたが、苦いものが苦手でな。特にピーマンはいかん。これもヒルデガルドにはよく説教される」

「は、はあ」

「どこにでも秘密はある。明かされれば案外なんでもないものも多い。この件はゼートゥーアに直接聞いてみるといい。あいつは冷徹だが、冷酷ではない」

 

 正直、レルゲンにはゼートゥーアが冷酷な男に思えていた。言葉こそ穏やかだが、ゼートゥーアが私情を見せたことがあっただろうか。ターニャを上回る規律人間。それがレルゲンの抱くゼートゥーアに対する認識だった。

 

「……軍大学の卒業間近のことだったか。当時、まだ恋人だった俺の妻に迫った馬鹿がいてな。ぶん殴ってやった。だが、そいつは高官の息子だった。退学も覚悟したよ。そこを救ってくれたのがゼートゥーアだ。あらゆる伝手を駆使してその高官を失脚せしめた」

「……それは」

「すさまじい話だろう。あいつは無能を切って有能を拾っただけだと嘯いていたがな、俺が礼にと贈ったカフスを今も使っている。それに、妻が倒れた時、仕事を続けようとする俺を怒鳴りつけて病院に走らせたのもあいつだ」

 

 ここしばらく、レルゲンの中で様々な人物の像が修正されていく。それも正反対のものばかりだ。柔和なルーデルドルフ、人情家のゼートゥーア、そして戦争嫌いのターニャ。

 そして、レルゲン自身、変化があったことを自覚している。その最たるものがターニャ・デグレチャフに向け続けていた感情への後悔だ。

 ルーデルドルフはカップを空にすると、ビスケットを指先でつまんだ。

 

「問題は、デグレチャフを傷つけずにデグレチャフの幸福を回復する手段が思いつかないことだ。貴様とて思いついていれば相談になど来ないだろうがな」

「……ご高察のとおりです。小官の無見識を恥じるばかりであります」

「戦争で心を傷つけた少女を救う方策に心得があるほうが不気味というものだろう。ゼートゥーアとてそれは同じだ。誰か適任を見つけるのがよいだろうが、果たして、いるかどうか」

 

 花束を抱えて涙するあの少女がレルゲンの脳裏に浮かんだ。心強くも恐ろしい戦友があのような姿をさらしているなど、レルゲンには到底耐えられるものではない。加えて、言語化の困難な義務感と熱意が、レルゲンを突き動かした。

 レルゲンは起立した。

 

「小官が……小官が、彼女の助けとなります」

「……ほう。容易な任務ではないぞ。貴様が有能な軍人であれども、いや、だからこそ、困難を極める」

「承知の上です」

 

 ルーデルドルフはじっとレルゲンの目を見つめ、そして重々しく唸るように問いかけた。

 

「覚悟のほどは」

「帝国の、いや、小官の名誉にかけて」

「いいだろう。ゼートゥーアに一筆書いてやる。おい、悪いがペンと便箋を」

 

 使用人が屋敷へと向かうのを傍目に、レルゲンは大きく息を吸い、吐き出した。それはまるで、自らを換気するような心地だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第07話 助力

 大きな鞄を抱えて再び現れたレルゲンをどう受け入れたものかターニャはひどく迷ったが、ひとまずリビングに通した。荷物を預かろうと思ったが、衰えた腕ではとても受け取れない。客人に鞄を持たせたままという失態に胸が苦しくなった。

 レルゲンの訪問があること自体は手紙で知らされていた。到着も時間通りだ。何の荷物かターニャには見当もつかなかったが、それが大きな問題だとは思わなかった。レルゲンにはすでに醜態を見られている。これ以上評価が下がることもないだろう。これがセレブリャコーフであればターニャは断っていた。彼女の期待を裏切りたくない。

 しかし、目の前に座る男がやけにまっすぐな目をしていること、これはターニャにとって不可思議だった。軍人、それも権謀術数渦巻く参謀本部の人間の目ではないだろう。

 

「……それで、傷痍軍人の長期慰問とのことですが」

「ああ、私が君の担当だ。ゼートゥーア閣下に掛け合った。知った顔のほうがお互い都合がいいだろう」

 

 知っている、と頷いた。ゼートゥーアから電話があったのだ。ゼートゥーアからは、ターニャの現状に関する情報が広まったわけではないこと、セレブリャコーフとレルゲンが直訴しにきたことを聞いていた。

 

「解せません。閣下は多忙な身でらっしゃるはずです」

「こう言うと君は怒るかもしれないが……志願したのだ。総務部はセレブリャコーフ少佐に預けてきた」

 

 はあ、と呆れた声が出た。

 総務部は少佐程度に預けてよいものではないし、准将が軍から身を引いた隠遁大佐を訪ねてくるものでもないし、有能な将校が長期間不在にできるほど今の軍部は暇ではない。なにもかもが馬鹿げていて、自分は薬で朦朧として夢を見ているのかとも思った。

 ためしにターニャは頬をつねってみたが、レルゲンが訝しがる視線を向けているのに気づいて、手を下した。

 

「失礼。あまりにおかしな話なので、夢かとばかり」

「そうか。現実だ」

「そうですか。であればますます解せません。……私に気を割いている暇はないでしょう」

 

 ターニャは時計に目をやった。今から電車で引き返せば、ぎりぎり午後の業務が終わる前に帝都へと帰ることができるだろう。残業すれば今日の決済も片付くはずだ。

 そのことをレルゲンに伝えると、レルゲンは困ったように眉をひそめた。

 

「私が滞在するのは迷惑か?」

「いえ、そういうわけではありませんが、帝国のために……滞在?」

「二か月、君のそばで生活の手伝いをする。このあたりに借家があればよいのだが」

 

 目の前の彼が言っていることはなにもかも理解できず、理解できない言葉だからこそターニャの心中には別段不快感が湧かなかった。久しぶりに知人との対話、それも落ち着いた対話が成立したことで、ターニャの気分はいくらか和らいだ。

 とはいえ、人家もまばらなこの地域に、准将が住めるような借家があろうはずもない。

 

「土地の空きはいくらでもありましたが、借家はありません。借りる者がいませんから。……使っていない部屋があります。何もせずお戻りになるのも不都合でしょうから、もしご入用でしたらお使いください」

「いや、しかし、君は未婚だろう」

「私に女としての価値などありませんよ。部屋の掃除をしてきますから――」

「そんなことを言うな!」

 

 ターニャは立ち上がろうとして硬直した。声を荒らげたレルゲンに恐る恐る目をやると、レルゲンはひどく困惑している様子だった。

 何に困惑しているのだろうか。ターニャの卑屈さ、あるいは職務の奇妙さ。どちらもあり得そうだった。

 

「その、なんだ。君はまだ幼い。女性としての魅力はこれからいっそう醸造されるものだと、私はそのように思うし、そうであってほしいと願っているし、そうなるだろうと予想している。それだけの素養があると私は感じている。……声を荒らげてすまない。しかし、これは私の偽らざる本心であり――」

 

 不思議な気持ちだった。ターニャは自分が女であることを意識したことはなかったし、意識するつもりもなかったが、こうしてまっすぐに、不純な感情もなく、己の魅力を語られるのは、少しくすぐったい。

 頬を何かが伝うので、手の甲で拭うと、それが涙だと分かった。

 

「あああ、すまない、怖かったか、いまハンカチを……しまった、どこにやったか……」

「いえ、大丈夫です、大丈夫ですから」

「女性の大丈夫は大丈夫でないことを意味するそうだな、本当にすまない……ああ、あった」

 

 臆病なほど優しい手で涙を拭かれるのを感じながら、ターニャは小さく笑った。自分が笑い方を覚えていたことが意外でしょうがなかったが、どうやらまだ心の生きている部分があるようだ。

 慌てた様子で謝罪の言葉を繰り返すレルゲンは、かつて戦争を共に生き抜いたあの軍人とは思えないほど人間的だ。

 

「閣下は、御父上に似られたのですね」

「何の……ああ、君には話したのだったか」

「ええ、謝り癖の話を。私は本当に大丈夫です、閣下に怯えたわけではありません」

「しかし、涙が」

「久しぶりに感情が動くと、まずは涙から始まるようですね。……何のおもてなしもできませんし、たくさんご迷惑をおかけすると思いますが」

 

 レルゲンのぎこちない微笑みからは、憐憫も同情も感じなかった。ターニャはそれが嬉しかった。だから、ハンカチを握る彼の手に、己の骨ばった手を添えた。

 

「二か月、よろしくお願いいたします」

「……ああ、もちろんだ、デグレチャフ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第08話 風呂

 レルゲンが真っ先に実行したのは、ターニャを風呂に入れることだった。上等な浴室は使われた様子がなく、新築の綺麗な状態が保たれていた。レルゲンは手早く湯を沸かし、石鹸とタオルを棚から引っ張り出した。

 リビングルームの椅子に腰かけたままのターニャに声をかける。

 

「デグレチャフ、入浴の準備をしてくれ」

「……承知しました」

 

 しかし、その場でターニャがシャツのボタンに手をかけたので、レルゲンは慌てて止めに入った。

 

「待て、ここで脱ぐ気か」

「なにか、問題でしょうか」

「ああ、いや、確かに君の家だ、君の自由なのだが……」

 

 自分は何をしているのだろうか。レルゲンは混乱していた。子どもを風呂に入れることくらいなんということはないはずだ。しかし、戦場を共にした記憶が彼女を子ども扱いさせてくれない。

 つまり、レルゲンは彼女が自分の前で肌を晒すことに的外れな羞恥心を感じていた。

 だからといってターニャを手伝わないという選択肢はない。レルゲンは腹をくくって彼女を抱き上げた。

 

「ここで脱いでは体を冷やすぞ」

「閣下、自分で歩けます」

「私が甘やかしたいだけだ。いい浴室だな、あとで私も使わせてもらうがいいか?」

「それは、もちろんですが」

 

 すっかり表情が乏しくなったターニャだが、困惑しているのは間違いなかった。

 レルゲンはターニャの服を脱がせ、それを預かると、膝をかがめて彼女の目線に合わせた。

 

「下着はそこの籠へ入れておけ、着替えと取り換えておく。ああ、着替えの場所を聞いていなかったか」

「……寝室の衣装棚にあったと思います」

 

 どうやら長らく着替えていなかったようで、あいまいな回答だった。汚れ方からもそれは察することはできる。とても衛生的とは言えない。しかし、それを追及することはせず、レルゲンは話を続けた。

 

「ゆっくり汚れを落として、温まってこい。そうだな、一時間後に声をかける。途中で何かあれば、気兼ねなく呼べ。いいな?」

 

 ターニャがゆるゆると頷くのを確認して、レルゲンは浴室を出た。

 女性服の洗い物は勝手がわからない。ひとまず空いている籠にまとめ、のちほど帝都のセレブリャコーフに指南を仰ぐことを決めた。

 部屋の片づけもしたかったが、レルゲンは真っ先にやると決めていたことがある。

 

「……やはりか」

 

 薬局の紙袋に入っていた調薬明細書と、入っている薬を比較する。明らかに減りが少ない。

 ターニャの性格からして、自発的に服薬を拒否したわけではないだろう。しかし、服薬を忘れればそのぶん症状に苦しむことになり、回復も遅れる。このことは帝都の医師に直接確認した。

 一日二回、六錠。レルゲンはしっかりと頭に叩き込んだ。忘れず飲ませるようにしなくてはならない。

 薬を棚に戻すと、レルゲンは寝室に向かった。扉が開け放たれていたのですぐに分かった。

 ほとんどものがない寂しい寝室だったが、壁には花束がかけられていた。また、小さな机にはいくつかの書き込まれた便箋が積んであり、セレブリャコーフから送られた手紙と、それにあてた返信であろうことは想像できた。目を通すことはしなかった。

 あとで清潔なシーツに変えねばならないと思いながら、衣装棚から寝巻を取り出した。まだ日も沈んでいないが、ゆったりとした服は寝巻ぐらいのものだった。

 浴室の扉をノックする。

 

「デグレチャフ、着替えを持ってきた。入るぞ」

 

 返事の代わりに湿った咳が聞こえた。

 妙に嫌な予感がして、レルゲンが扉を引くと、ターニャは浴槽に凭れて激しく咳き込んでいた。ひどく水を飲んだのが容易に分かる。

 レルゲンは慌てて彼女を引き上げ、浴室の椅子に座らせた。

 

「どうしたデグレチャフ、大丈夫か」

「……申し訳ございません、閣下のお手をまた煩わせてしまいました」

「そんなことを気にしている場合か。痛むところはないか? どこも打っていないな?」

 

 ターニャの咳に声が混じり始めた。それが泣き声だと気づくまで、それほど時間はかからなかった。ひどくか細く、弱弱しい泣き声だ。

 なぜかはわからない。レルゲンはその泣き声に胸を締め付けられるようなつらさを感じた。

 

「あまりに、あまりにみじめだ、こんな……穢れて、傷だらけで、醜い姿を晒して……死んでしまいたかった……」

 

 レルゲンは息を呑んだ。

 あまりに、残酷なほど配慮に欠けていた。彼女の誇りを傷つけ、羞恥心に火をつけてしまったのだ。

 レルゲンは血が出そうなほど奥歯を食いしばった。数十分前の自分を殺してやりたかった。水に沈むべきなのは自分のほうだというのに。

 自分がひどく矛盾していることを自覚した。一方では子どもと思えないとしておきながら、もう一方では子ども扱いをして軽んじる。あまりに愚かで、あまりに邪悪だ。

 

「このみじめさとともに沈んでしまおうとしました。なのに……なのに、あなたの声が聞こえて。浅はかにも、死ぬことを諦めてしまった。私は、私は……」

「……デグレチャフ。私は君の誇りを傷つけ、恥をかかせ、屈辱を与えてしまった。この罪をどう償えばいいかわからない。しかし、いいことがひとつある」

 

 見上げてくるターニャと目が合って、レルゲンはこれまでにない緊張に襲われた。

 新品のバスタオルで彼女の体を包む。

 

「少なくとも、君は生きている」

「……はい、生きています」

「それは私にとって喜ばしいことだ。罪を償う機会があるかもしれない。君はどうだろうか、デグレチャフ」

 

 ターニャはまだ涙を流し、時折しゃくりあげていたが、ゆっくりと返事をした。

 

「わかりません。生きているのが喜ばしいかどうかは。しかし……しかし、閣下に罪がないことも、閣下が努力してくださったことも、理解しているつもりです」

「……そうか。落ち着いたら体を拭いて、着替えてきなさい。夕食の準備をしておく。準備とはいっても、缶詰を温めるくらいしかできないが」

 

 レルゲンは無力感に苛まれながら浴室を出た。しかし、敗北している暇はなかった。レルゲンは覚悟したのだ。必ずやターニャ・フォン・デグレチャフの幸福を回復すると。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第09話 食事

 何度己の無能を呪ったことかわからない。レルゲンは絆創膏だらけの指先を睨んだ。

 家事というものを完全に舐めていたのは間違いない。敵戦力を過小評価した結果、隊は損耗しつつある。しかし、まだ勝利を諦めたわけではない。

 幸いにして掃除と洗濯ははるか昔の記憶を呼び起こして試みることができた。女性ものの下着をどう洗えばよいものかわからず、恥を忍んでセレブリャコーフに電話をかけたこともあるが、少なくともターニャの衛生環境はいくぶん改善された。

 問題は料理だ。焼けば焦がし、茹でれば縮み、どうにも加減が難しい。味付けもわからない。少々、ひとつまみ、適量、すべて謎だった。

 教本を睨みつけながら炒め物に挑戦していたレルゲンを救ったのは、他でもないターニャだった。相変わらず表情は動かないが、口数は増えてきた。

 

「閣下、火が強すぎます」

「そうなのか?」

「中火で炒めるものを強火にしたところで早く火が通るわけではありません」

「そういうものなのか……」

 

 レルゲンは慌てて魔導コンロの火を弱めた。早く食べさせたいと思って焦っていたのだ。ターニャはそれを見て小さく頷くと、提言を続けた。

 

「はい。それから、味付けの際は味見をしながら微調整されるのがよろしいかと」

「味見、そうか、確かに。……しまった、塩を入れすぎたか」

 

 失敗の予感に胃が痛くなった。失敗した料理は責任を持ってレルゲンが片付けている。その場合、ターニャは缶詰のパイとスープを食べているが、それではレルゲンが来た意味がない。

 しかし、まだ救いの手はあるようだった。

 

「卵を増やしましょう。全体の量が増えて味が和らぎます」

「なるほど、そうしよう。君はひょっとして料理上手なのか?」

「孤児院では料理も当番制でした。火の扱いが許された数か月後には軍に入りましたが」

「そうか。経験は活きるものだな」

「閣下の経験も活きてらっしゃいますね。この料理はひょっとしてビヤホールのメニューでは」

 

 レルゲンが作っているのはツヴィーヴェル・フライシュ、牛肉と玉ねぎ、ジャガイモを炒めて溶き卵で閉じたものだ。安く、ボリュームがあるため、学生時代はしばしばこれを食べていた。

 なんとか形になったそれを皿によそり、テーブルに運んだ。レルゲンが自腹で購入した椅子に座る。安全のため、カトラリーは木製のものに買い替えた。

 

「いただきます」

「いただきます」

 

 ターニャの癖がうつったのだろう、レルゲンも食前食後に挨拶をするようになった。悪い気分はしなかった。

 成功らしい成功は初めてで、気分がよかった。ジャガイモも不揃いだし、牛肉も火が通りすぎているが、それでも食べられる味には仕上がった。心なしか、ターニャの顔色もいいように見える。

 しかし、しばらくするとターニャの手が進まなくなった。

 

「どうした、デグレチャフ」

「いえ……問題ありません」

「気にするな、言ってみろ。味付けが合わなかったのなら今後の参考にしたい。料理は君のほうがうまいからな」

 

 しかし、ターニャは答えない。先ほどまでよかった顔色も元に戻ってしまった。

 なおも回答を求めようとしたレルゲンは、ふと胃に重みを感じた。まだ三分の二ほどしか食べていないのに、満腹感がある。そこでようやく理解した。

 彼女はまだ十三歳の少女であり、成人男性が食べる量を平らげることなど物理的に不可能なのだ。レルゲンはすっかり失念していたこの事実に情けなくなった。

 

「そうか、卵を増やした分、量が多かったな」

「申し訳ありません。大丈夫です、完食できます」

「無理をするな、デグレチャフ。……これは、ある小説で読んだのだがな。食事とは栄養の補給だけでなく、充足感と幸福感のための娯楽でもあるそうだ。無理に行う娯楽などあるまい」

 

 ターニャは皿から顔を上げて、レルゲンの顔を見つめた。

 しばらく二人は沈黙していたが、ターニャが小さな笑い声をこぼしたことで、レルゲンは思わず驚きが顔に出た。

 

「いえ、失礼しました。その、閣下が小説を読まれるのが意外で」

「ルーデルドルフ閣下からおすすめいただいたのだ。その閣下はお孫様からおすすめされたそうだが」

「それも意外です。……ありがとうございます、レルゲン閣下」

 

 ターニャはカトラリーを置いて、レルゲンに深く頭を下げた。

 

「しばらく缶詰で飢えを満たしていましたが、味もわからず、吐き気をこらえながら嚥下するばかりの日々でした。次第に飢えも感じなくなって、このまま死ぬのだろうと……それがよいだろうとも、思っていました」

「それは……」

「しかし、閣下のぎこちなく不格好な料理は、味がします。それに、温かいです」

 

 顔を上げたターニャの頬は涙で濡れていた。ここしばらくの生活で、レルゲンは理解しつつあった。泣くという行為は今の彼女にとって最大限の感情表現なのだ。

 そして、彼女の感情が動いていることにレルゲンは喜びを感じていた。達成感とも安堵とも違う、ただの「嬉しい」がそこにあった。軍人になってなくしたと思っていたものだ。

 気づくと、レルゲンはターニャの頭を撫でていた。

 

「ターニャという少女が無邪気に笑えるその日を、必ず掴もう。戦争を一つ片づけた我々ならできるはずだ」

 

 涙の向こうで、ターニャがかすかに微笑んだ。

 

「プロポーズのようですね」

「な、なにを! ああ、いや、そういうわけでは」

「ジョークです、閣下」

 

 レルゲンは安堵し、そして彼女の発言を反芻し、驚愕した。ターニャがジョークを口にした。最低限の会話もままならなかったターニャが。

 この歓喜をどう表現すべきか、レルゲンは悩み、結局微笑みを返した。

 

「デグレチャフ、私は――」

「……もう、ターニャとは呼んでくださらないのですか?」

「それもジョークか?」

 

 ターニャは数秒沈黙して、当惑したような表情を浮かべた。

 

「自分でも自分がよくわからないのですが……どうやら、本心から出た言葉のようです。いや、閣下への甘えが出てしまったのでしょうね、お忘れください」

「……いや、確かに私は聞いたぞ。ターニャ」

 

 ちょっとした悪戯心、ちょっとした好奇心、そして多めのぬくもりを込めて、レルゲンはこの少女をターニャと呼ぶことに決めた。呼んでみれば案外なじむものだ。

 ターニャは不服そうな、恥ずかしそうな目をレルゲンに向けたが、それでも異を唱えることはしなかった。

 レルゲンは二人前を何とか腹に収め、ターニャと並んで皿を洗いながら、壁に掛けられたカレンダーに目をやった。帝都に帰還するまであと一週間。

 

「食後に食事の話をするのもなんだが、一週間後の夜は好きなものを食べてほしいと思う。なにか食べたいものはあるか?」

「一週間後……ああ、そうでしたね。閣下が帝都に帰還なさる日……」

 

 皿を拭くターニャの手が止まった。

 余計なことを口走ったかもしれない。レルゲンはかすかな焦りを覚えた。

 しかし、ここしばらくで学んだことがある。おっかなびっくり、腫物を触るような扱いでは、何もターニャのためになることはできないのだ。

 しばらくして、ターニャが口を開いた。

 

「食べたいものはありません。しかし……」

「なんだ?」

「その、もし近くを通るなどして、またいらっしゃる機会があれば、帝都の話をお聞かせ願えればと。……いえ、厚かましいことを口走りましたね」

 

 レルゲンは二人分の食器をすすぎながら、それに答えた。

 

「必ず来るとも。土産話には期待してくれて構わない」

「……ごめんなさい、いえ、ありがとうございます、閣下」

「エーリッヒ」

「は?」

「君は知らないかもしれないが、私のフルネームはエーリッヒ・フォン・レルゲンだ。レルゲンと呼び捨てるのは立場上難しいかもしれないが、エーリッヒと呼ぶ分には問題ない。これでおあいこだろう、ターニャ」

 

 ターニャはしばらくうつむいていたが、消え入るような声で返事をした。

 

「ありがとうございます、エーリッヒ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 職務

 レルゲンが帝都に戻る日がやってきた。ターニャの手伝いもあって、荷造りは迅速に終わり、汽車の時間まで微妙な空白ができてしまった。とはいえ、無駄でも退屈でもない。

 リビングルームでテーブルを挟んでいると、どちらともなく、昔話が始まった。

 

「士官学校時代を覚えているか、君が二号生の教育を任されていたころの」

「はい。当時は自分のことでいっぱいいっぱいでした」

「なるほど、張り詰めていたのはそれでか。士官学校で顔を合わせたことがあったが、正直、とんでもないやつだと思った」

「あの候補生には悪いことをしました」

 

 一か月前であれば、ターニャが謝意を口にするなど想像もつかなかっただろう。

 ターニャはどこか遠くを見つめていた。

 

「昔の私は少し、いや、かなり感情というものに無思慮でした。私にとって感情は計算に組み込む変数の一つでしかなかった」

「そうだな、私も当時はそう感じていた」

「こうして自らの心が根本から揺らいではじめて、感情としての感情に目を向けられるようになりました。皮肉なものです。私は、もう軍には戻れませんね」

「戻りたいか、ターニャ」

 

 少し黙って、ターニャは静かに否を示した。まだ顔色は悪く、痩せこけてもいたが、穏やかな表情だった。

 

「適材適所。世の理です」

「そうか。それがよいと思う」

「はい。……皆によろしくお伝えください」

「もちろんだ、ターニャ・フォン・デグレチャフはいまだ健在なりと伝えよう」

 

 くすくすと笑うターニャは、まるで年相応の少女のようだった。あるいはこちらが素だったのかもしれないとも思ったが、レルゲンには計り知れないことだ。

 レルゲンが思うに、かつての冷徹な”白銀”もターニャの姿ではあったのだろう。徹底した合理をのみ貴ぶその態度は、今ここにあって変化を迎えつつある。

 かつてのターニャは口ぶりから態度まで、仕事熱心な官僚そのものだった。帝国人の理想的な男性像を体現してすらいた。しかし、こうして触れ合ううちに、彼女が”デグレチャフ大佐”から”ターニャ”になっていくのがわかる。

 これは理屈ではない。レルゲンは漠然と、そのような感覚を抱いたのだ。

 

「君は変わったな」

「変わったと思います。少し寂しさを感じるほどに」

「私は今の君のほうが好きだ。可愛らしく思う」

 

 ターニャは不意打ちを食らったように目を見開いて、それから不満そうな視線をレルゲンに向けた。

 

「エーリッヒ、あなたは会う女性すべてに甘い言葉を投げかけてらっしゃるのでしょうね」

「そんなことはない!」

「奥様が嘆かれますよ」

「私は未婚だ!」

「未婚? あなたが? ……まあ、いろいろと納得ではありますが」

 

 今度はレルゲンが不満の視線を向ける番だった。

 ひとしきりからかいあって、ちょうどいい時間になった。出立だ。レルゲンは鞄を手に取り、しっかりとターニャの瞳を見つめた。

 

「また必ず来るから、それまでできるだけ健康にな」

「努力いたします」

「ああ、無理のない範囲で」

 

 ターニャを駅には連れていけない。レルゲンとは打ち解けたが、まだ人の集まる場所に対する忌避はあるだろう。

 奇妙な共同生活だった。しかし、妙に名残惜しく、傍らに立つターニャに目をやった。

 

「エーリッヒ、その……」

「なんだ」

 

 逡巡ののち、ターニャは視線を迷わせながらレルゲンの裾を指先でつまんだ。

 

「私は、待っています。食器も、椅子も、ベッドも、二人分です。だから……きっと、また来てくださいますね?」

 

 レルゲンは膝をつき、ターニャを抱きしめた。

 ひゅっ、と息を呑む音がして、よくないことをしたかとも思ったが、やや間があって、ターニャの細く短い腕がレルゲンの首に回された。

 

「必ず帰ってくる、ここに」

「……私は、どうしてしまったのでしょうか」

「私も不思議でならない。何が起こっているのか、答えを見つけておいてくれ」

「ご命令とあらば、承知いたしました。……汽車に遅れます、エーリッヒ」

 

 レルゲンは放り出した鞄を拾って、今度こそ家を出た。何か複雑怪奇な心理的変化が生じつつあると自覚しているが、今はそれを分析し検討する気分ではなかった。

 道中、レルゲンは何度も振り返った。ターニャはいつまでも家の前に立っていた。

 

 汽車の中で形式的な報告書をまとめながら、レルゲンはゼートゥーアとセレブリャコーフに何をどう伝えたものか悩んでいた。報告書にまとめながら思い返せば、すべて純粋な善意と親しみから為したこととはいえ、見方によっては少女性愛を疑われてもおかしくない。誤解は避けたかった。

 結局、答えが見つからないまま、レルゲンはゼートゥーアの執務室に到着してしまった。

 

「エーリッヒ・フォン・レルゲン准将、帰還いたしました。この度のご高配、心より感謝いたします」

「うむ、ご苦労。二度手間になる、セレブリャコーフ少佐が来てから報告を受けよう」

「承知いたしました」

 

 ゼートゥーアの表情は穏やかで、レルゲンにはまったく彼の考えが読めなかった。基本的にゼートゥーアが部下を叱責することはない。それはこれまでルーデルドルフの役目だった。とはいえども、ゼートゥーアの怒りを買いたくないのも事実だ。

 だからといって虚偽の報告をするつもりもない。偽る必要のあることは何もしていないのだ。

 レルゲンが思案を続けていると、おもむろにゼートゥーアが口を開いた。

 

「落ち着かんようだな」

「いえ、はい」

「先ほど、デグレチャフ大佐から電話があった。貴官に心から感謝していると。そして、貴官を二か月も拘束したことをお詫びすると。最後に、貴官の任務のために尽力してくれたすべての人々に礼を言いたいと。ずいぶんと懐かれたようだな、レルゲン准将」

「は、親交を深めることができました」

 

 ちょうどその時、セレブリャコーフ少佐が到着した。急いで来たのだろう、少し髪が乱れているし、汗までかいている。セレブリャコーフ少佐の敬礼に答礼し、小規模ながら重要な報告会が始まった。

 

「では、大佐殿は回復されたと」

「ああ、いくらかはよくなったと思う」

「なるほど。滞在期間を延ばすべきだったやもしれん」

「と仰ると」

「戦後が最も燻るように、回復したように見える時が一番危険なのだ、レルゲン准将」

「よし、もう一度行きましょう閣下。仕事は私が代行しておきますから! 決裁印はゼートゥーア閣下にお願いすればよろしいですか?」

 

 何やら話がおかしな方向に進んでいる。

 

「落ち着け、少佐。私とてターニャのことは心配だが、仕事は仕事だろう」

「……ターニャ?」

「あ、いや、デグレチャフ大佐の話だったな」

「准将閣下は、大佐殿のことをターニャと呼んでらっしゃるのですか!」

「まあ、その、なんだ。そう呼ぶことを許されたのは事実だ」

 

 セレブリャコーフが言葉になっていない歓声のような奇声を上げたので、レルゲンはげんなりした。完全なる失言だ。

 くつくつと含み笑いが聞こえて目を向けると、ゼートゥーアが肩を震わせていた。

 

「いや、すまんな、貴官が人情家であることは知っているつもりだったが、なかなかどうして、やり手だな。あのデグレチャフを誑し込むとは」

「そういうわけでは」

「わかっている。それほど親密な関係を構築できたのなら、貴官に任せて正解であった。セレブリャコーフ少佐ではあれに近すぎる。仮に私が行けば、今度は遠すぎる。適任であったな」

 

 ゼートゥーアは一人で何度か頷き、なにか納得したようなそぶりを見せた。何がこの男を得心させたのかレルゲンにはわからない。しかし、どうやらゼートゥーアは上機嫌のようだった。

 落ち着きを取り戻したセレブリャコーフの提案を受けて、三人はコーヒーを飲みながら今後の計画を検討することになった。やはりゼートゥーアの私物は上等で、これほどおいしいコーヒーを飲むのはいつぶりかわからないほどだ。

 

「ここ一か月の働きを見る限り、セレブリャコーフ少佐に総務部を預けるのは悪い選択ではないだろうと思うが、どうかね」

「小官も同様の意見です。少佐、預けていた間、何か問題はあったか」

「やはり、階級が下の新人が仕事を回していることに不満を抱かれる方もいました。それに私自身まだ経験不足です。どうしても効率は落ちるかと」

「ふむ。なにかいい案があれば聞かせてくれ」

「では、失礼して……。セレブリャコーフ少佐の能力は補佐として働いているときにこそ最大限発揮されると私は見立てています。総務部を預けても安心できる、階級も経験も備えた人員に心当たりがないわけではありません。その者をひとまず立て、補佐に少佐をつけて動かす。無難ではありますが、失敗は少ないかと」

 

 ゼートゥーアは黙って顎を撫でながら聞いていたが、頷くと、セレブリャコーフに目を向けた。

 

「セレブリャコーフ少佐、聞いてのとおりだ。貴官はこの計画をどう思う」

「賛同いたします。小官としても全力を尽くす所存です」

「結構。レルゲン准将、候補を見繕ってくれ。面接は私が行う。引継ぎが終わり次第、貴官はデグレチャフ大佐のもとへ向かいたまえ」

「承知しました。候補を検討するため、滞在期間を見積もっておきたいのですが、閣下はどの程度がよろしいとお考えでしょうか」

「ん、そうだな……」

 

 ゼートゥーアが執務机の上から書類を引っ張り出した。レルゲンからは内容が見えないが、どうやらその一枚がこれからを決定するようだ。

 

「デグレチャフの自宅から帝都まで二時間とかからんか。レルゲン准将、これは提案であり、強制はしないが……どうだろう、この際転居してしまうというのは」

「は……転居でありますか」

「参謀次長である准将が総務部で事務仕事をしていること自体が人事再編の皺寄せだった。それが解決した以上、貴官の業務上の時間拘束は大幅に減る。通勤時間が多少延びたところで、さしたる問題ではあるまい」

「恐れながら、それでは有事の対応が」

「戦後処理も進みつつある。これはまだ正式発表ではないが、近々連邦との親和条約も締結される手はずだ。ここで有事が生じるのなら、それは終戦を推し進めた私の致命的失敗を意味する。貴官が通勤してくる間くらいはこの老いぼれでも義務を果たすことができるだろう。なにか異議は?」

 

 異議のつけようはある。しかし、どうやらこれは決定事項のようだった。あっけにとられた様子のセレブリャコーフを放置して、レルゲンは一番の疑問をゼートゥーアに投げかけた。

 

「閣下はなぜそこまで彼女のことを重視してらっしゃるのです。僭越ながら申し上げますが、まだ彼女に利用価値を見出してらっしゃるのなら、それは――」

「准将」

 

 思わず熱くなっている自分がいることに気づいたレルゲンは、ゼートゥーアの静かな制止に逆らいたい気持ちを押し殺してなんとか従った。これ以上は今後の職務に支障をきたす。

 ゼートゥーアが何も考えずこのような振る舞いをするはずもなかった。レルゲンの知るゼートゥーアはかつてのターニャを上回る合理主義者だ。

 

「……失礼しました」

「構わん。有能な准将であれば理解していると思うが、これらの対応は帝国法、そして我々の軍規の範疇で、私が振るえる権力の内でのことだ。しかし、それを聞いているわけでもなかろう。……昔の話だ。私にも妻がいた」

 

 初耳だった。返事をするのも忘れて、レルゲンはゼートゥーアを見つめた。

 

「気立てのいい、奥ゆかしい、しかし芯のあるいい女だった。私はあれの強さに任せて、ひたすら仕事に打ちこんでいた。社交界での僻み妬みから守ってやるなど、考えもしなかった。……あれは心を病んだ。しかし、私がそばにいてやれるわけではない。実家に帰らせた」

 

 淡々と語るゼートゥーアは、表情が抜け落ちて、まるで人形のようだった。細かに走る皺は樹皮を思わせ、レルゲンは初めてゼートゥーアを老人だと感じた。

 

「家族の甲斐甲斐しい世話で、一時は回復した。それほど苦しんだにもかかわらず、あれは私のそばに戻ることを望み、私も受け入れてしまった。半年後、ひどく寒い冬の日だった。帰ると、ワイングラスを握って冷たくなっていた。空の薬瓶と、私にあてた詫びの手紙だけが残されていた」

 

 レルゲンはゼートゥーアを何も知らなかったと実感した。

 確かに、ゼートゥーアという男は敏腕で、冷徹だ。しかし、それは能力であって、人物ではない。かつてターニャが感情を変数として見ていたと口にしたように、レルゲンもまたゼートゥーアを国家の機能の一部か何かのように見ていた。

 そしてなにより、いまはターニャが心配だった。

 

「私は学んだのだ、准将、少佐。心を侮ってはならない。見えないからこそ、その傷を塞ぐことは困難だ。そして、傷を無視すれば、当然のように喪失が生じる。これは道徳の話ではない。我々が多少の労力を支払えば、救うべき命を救うことが可能になるという話だ。……さて、それでは仕事にかかってもらうとしよう。急ぎの仕事だ、よろしく頼む。セレブリャコーフ少佐、コーヒーをありがとう」

 

 なんともない表情でゼートゥーアが職務に戻ったので、レルゲンはセレブリャコーフを連れて退室した。二人ともレルゲンの執務室に着くまで無言だった。

 レルゲンが座るのも待たずに、セレブリャコーフは総務部の名簿をレルゲンに差し出した。レルゲンはそれを咎めず、手早く新たな総務部長の候補を選出した。

 

「閣下」

「なんだ、セレブリャコーフ少佐」

「大佐殿を、よろしくお願いします。あの方は私にとっても、ううん、私たちにとってもかけがえのない存在です」

 

 いつになく真剣な表情のセレブリャコーフに、レルゲンはしっかりと頷いてみせた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第11話 感情

 顔から火が出そうだった。

 鏡を見たターニャは、まるで自分が熱病患者のようだと感じた。耳が赤いところも、頬がこけているところも。”彼”のおかげで少し肉付きは戻ってきたが、それでもまだ健康的とは言えない見た目だった。

 なにより、正気ではなかった。この場合の正気でないとは、精神疾患を心無い言葉で表現するそれではない。

 男に裸を見られたからなんだというのだ。何の目的があって名前で呼ばせたのだ。それに、”彼”が出立する直前、自分はなにをした?

 感情の動きが少しずつ戻ってきたからこそ、これまでとは違う苦しさがターニャの胸を締め付けていた。黒歴史よりなおたちが悪い。なぜなら、いまこんなに恥じているにもかかわらず、”彼”と再会したら必ず同じことをするであろうと確信しているからだ。それも根拠のない確信を。

 

「……馬鹿馬鹿しい。思考ロジックまで十三歳の少女になったのか、私は」

 

 この考えに至ったきっかけも、なんということはない、”彼”の歯ブラシを間違って使ってしまったからというだけのことだ。なぜ自分は来るかもわからない人の歯ブラシを置いているのか、ターニャにはさっぱり見当もつかなかった。すっかり”彼”の”帰宅”を心待ちにしている自分がそこにいるばかりで、それがひどく滑稽に思えた。

 ”彼”は帝国准将、参謀本部に詰める軍の中枢だ。事実上の傷痍退役で隠遁生活を送っているターニャに構う時間などない。そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、ターニャは胸が詰まるような気分になった。

 そして、愚かにも(ターニャはこの行為を極めて愚かだと考えている)ターニャはいま自分の寝室を使っていない。”彼”が使っていた空き部屋の、”彼”が寝ていた折り畳みベッドで眠っているのだ。

 ”彼”が出発したとき、つまり、”彼”がターニャを優しく抱きしめたとき、その奇妙でくすぐったい感覚がいまのターニャを支えていた。そして、”彼”の匂いが残るベッドで眠ると、まるであの瞬間に戻ったようにすら思えるのだ。

 

「どうしてしまったんだ、私は……」

 

 ベッドでシーツにくるまりながら、ターニャは小さくため息をついた。頭の中に住んでいる冷静なターニャが、心的外傷からくる依存であるとか、吊り橋効果であるとか、説明をつけようとしていた。しかし、正しい説明をつけられるなら、この感情は解決するはずだ。そうターニャは考えていた。

 触れないようにしていた事実が少しずつ迫ってくる。ターニャとは、前世の記憶を持ってはいるが、十三歳の少女なのだという事実が。

 狭い家が広くなったように感じるのは、”彼”を前提として生活しているからだ。服薬のチェックシートを記入すると少し嬉しくなるのは、”彼”の言いつけを守ることができたからだ。苦しくなると”彼”の部屋に潜り込むのも、すべて一言で説明がつく。

 これまで感情をコストとしか見ていなかった自分がこんな状態になるとは思っていなかったし、本当であれば認めたくないところだが、事実は覆すことができない。

 

「エーリッヒ」

 

 恋だった。

 自分で自分が気持ち悪くすらある。ターニャはかつて男だった記憶を持っており、人格はそこから引き継がれているからだ。しかも、その過去を”彼”に、エーリッヒに知られたくないと怯えてすらいる。

 しかし、しかめ面ばかり見てきた彼のぎこちない微笑みを思い出すだけで、足元から這い寄る無力感も、首にまとわりつく希死念慮も、耐えることができた。

 悪夢も減った。見ることには見るし、悲鳴を上げて飛び起きることもあるが、毎朝絶望することはなくなった。

 ひどく安直な話だが、エーリッヒへの恋心と思い出がターニャの回復を支えつつあった。

 そして、多忙なエーリッヒを拘束することへの罪悪感を打ち消す理論武装もターニャの意思とは関係なく頭の中で勝手に進んでいた。回復のために必要であるなら、病人として頼るのは自然なことだ。これは医療行為だ。

 だから、ターニャは今夜もエーリッヒのベッドで眠った。こんなことはセレブリャコーフとの文通ではとても書けない。

 翌朝、郵便受けを確認したターニャは硬直した。参謀本部から手紙が届いていたのだ。

 中身を破かないように手で(まだ刃物を握るのは怖いのでレターナイフも鋏もしまってあった)開封すると、それはゼートゥーアからの連絡だった。エーリッヒは後任に仕事を引き継いで総務部の仕事を終わらせ、それと同時に転居することになったと書かれている。

 引っ越し先は、何度確認しても、このデグレチャフ宅だった。

 読み終わって、まだ実感がわかないうちに、ターニャは表札をどうすべきか考えながら、スライス済みのライ麦パンを取り出し、バターを塗り、サラミを乗せ、かぶりついた。もちろん味が悪いわけではないが、エーリッヒと一緒に食べる朝食のほうが気分が上がる。

 

「一緒に食べる朝食。……一緒に食べる……一緒に?」

 

 もう少し待てば、エーリッヒと食卓を囲む日々がやってくる。

 ようやく理解したターニャは頬をつねろうとして、自分が腑抜けた笑みを浮かべていることに気づいた。しかし、不快にはならなかった。腑抜けていることも、喜んでいることも事実だ。

 食事を済ませ、服薬し、チェックシートに記入して、カーテンを開いた。日差しが心地いいと感じたのは久しぶりだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第12話 生活

 数か月をともにするうちに、最初は些細なことで早鐘を打っていたターニャの心臓もいくらか落ち着いた。いってらっしゃいとおかえりなさいが板についたとも自負している。しかし、自分がいってきますのハグとただいまのハグをねだったのはあまりに愚かであり、それになんの躊躇いもなく応えるエーリッヒもどうかしているとターニャは憤慨する次第だった。

 

「それでは、行ってくる」

「いってらっしゃい、エーリッヒ」

「ああ」

 

 今日も結局ハグしてしまった。ターニャは自問する。なぜもっと遠慮深くならないのかと。しかし、それが当然であるかのように優しく抱きしめてくれる彼と、その温かさに文句のつけようがあるはずもなかった。そして、そのたびに訪れる胸の高鳴りが嘘であるはずもなかった。

 朝食の食器を片付け、軽く掃除をすると、日課になりつつあるストレッチをこなす。すっかり体力は衰え、関節もこわばってしまったが、年齢から言えばこれからが本番であり、これまでがおかしかったのだ。

 とはいえ、人は一度高みに上がると転げ落ちた先で満足するのは難しい。元通りとまではいかずとも、生活に不自由しない程度の身体能力はほしい。回復してくるといろいろな欲が出てくるものだ、とターニャは自分に呆れかえった。

 諸々の家事を済ませ、セレブリャコーフから届いた手紙への返信を封筒に収め、外出の準備をする。目的は郵便ポストだ。買い物もしたくはあるが、接客に耐えられるかターニャには自信がなかった。

 窓の外は雪化粧で染まっている。雪を見ると北方を思い出す。もはやターニャにとって懐かしい記憶ですらある。

 

「雪化粧、か。化粧……」

 

 化粧の経験など、銀翼突撃勲章を授与されたあとのプロパガンダ映像で塗りたくられた屈辱のほかにない。しかし、いずれは覚えねばならないだろうとも考えていた。

 さすがにそろそろ受け入れざるを得なかった。自分は正真正銘、女なのだ。

 そして、恐れていた事態がやってきた。自らの性別を自覚したのがきっかけとなったのか、初潮が来たのだ。世の女性がこれほどの苦難を抱えて生きていたとは、想像だにしなかった。ターニャは心の底からセレブリャコーフを尊敬した。

 慌てて状況を報告すると、エーリッヒはターニャよりさらに慌てふためき、椅子に足を引っかけて盛大に転び、医者を呼ぼうとまでした。そんな大事ではないと宥めたが、かえって叱られた。健康状態に影響が出る以上、心理的にどのような変化が生じるともわからない、相談はしておくべきだ、と。

 幸いにして、この世界は女性の軍人が珍しくないため、生理用品も質、量ともに充実している。セレブリャコーフが箱で送ってくれたものを装着すると、痛みも不快感も解消された。軍の科学力はこんなところにまで及んでいるのかと感嘆するとともに、どこぞのマッドサイエンティストを思い出して微妙な気持ちになった。

 今日の手紙にはその装備についての礼も書いてある。彼女の協力がなければ、ターニャは無謀にもキッチンペーパーでしばらくごまかそうとしていただろう。

 帰り道、白い世界のなかでなにか色のあるものが見えた気がして目をやると、小さな店のショーウィンドウに女性ものの洋服が飾られていた。戦後、合衆国や連合王国から流れ込んできた流行がここまで及んでいるようだ。

 戦時中の帝国で流行していた裾の長い地味な色のワンピースとは違い、ふわりと広がるスカートにはうるさくない程度に華やかな刺繍が施されている。合わせているタイトなシャツはフリル付き。柔らかそうな質感のコートも、帝国にはなかったものだ。

 気にならないと言えば嘘になる。

 しかし、店に入る勇気が出ず、結局そのまま帰宅した。

 本を開いてぼんやりしていると、電話のベルが鳴った。

 

「はい、デグレチャフです」

「寛いでいるところすまないな、ターニャ。私だ」

「お勤めご苦労様です。何かありましたか?」

 

 電話の向こうにいるエーリッヒは何事かを言いかけては言葉を濁し、どうしたものかと悩んでいるようだった。もしやなにか大きな問題が生じたのではないかと不安がこみ上げてきた矢先、聞き慣れた声がターニャの耳に届いた。

 

「ああもう、代わってください閣下! お久しぶりです、大佐殿。ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ少佐であります!」

「ッ……」

 

 喉からうまく声が出なかった。

 懐かしい顔が頭に浮かんで、自分が忘れられていなかったことを嬉しく感じ、そして挨拶を返したいと思った。手紙のやり取りもあったし、自然に話せると思っていた。

 いつぶりだろうか、ターニャの胸にみじめな気持ちがこみ上げてきた。

 しかし、ここで折れては、エーリッヒに恥をかかせることになると思った。それだけは絶対に嫌だ。だからターニャはかすかに残ったありったけの勇気を振り絞って、声を上げた。

 

「相変わらず声が大きいな、少佐」

「ふふ、大佐殿の声は穏やかになられましたね。先日お送りした装備の試験運用はお済みですか?」

「ああ、大事に使わせてもらっている。……ありがとう、少佐」

 

 ありがとう。ようやくこの一言が伝えられた。思い切ってみれば案外話せるもので、ターニャの気分はかなり晴れやかになった。

 

「いえいえ、本当はレルゲン閣下が気を回すべきところなんですけど……ちょっと、睨まないでください閣下、本当のことじゃないですか」

「上官を笑いの種にするとは……まったく、図太くなったな、セレブリャコーフ少佐」

「根性だけじゃなくておなか周りも少し図太くなりました。後方勤務って体が鈍りますね」

「もう出る前線もくぐる死線もない。喜ばしいことだよ、少佐。……後方勤務といえば、今は勤務時間のはずだが?」

「ご安心ください、先ほど午前の業務を片付けたところです。最近はレルゲン閣下がいきいきとしてらっしゃるので、総務部はみんな気合が入っていて。大佐殿のおかげです」

「は? 私の?」

「大佐殿はレルゲン閣下の活力源なんですよ! そうですよね、閣下?」

 

 ややあって、くぐもった声でエーリッヒが同意するのが聞こえて、ターニャの心臓が跳ね上がった。

 ここしばらく、ターニャの脳裏に介護疲れという単語がちらついていた。もし、エーリッヒに耐えきれない負担をかけていたら。そんな不安がひそかにこみ上げて、寝付けない夜もあったほどだ。

 だから、この会話が作りものでないのなら、間違いなく喜ばしいことだった。

 

「――殿、大佐殿、聞こえてますか?」

「ん、ああ、何の話だったか」

「今夜お邪魔してもよろしいかというお伺いの話です」

「それはもちろん……今夜? どこに?」

「ご自宅にです」

 

 あまりに急な話だった。

 断ることはできる。セレブリャコーフであれば残念がりはするが、次の機会まで待つだろう。しかし、歓迎したかった。かつての上司として、もしくは、ともに戦ってきた仲間として。

 受話器を持つ手の震えを筋力低下による疲労だと己に言い訳して、ターニャははっきりと返事をした。

 

「土産は期待しているからな、少佐」

「やったー! もちろんです、楽しみにしていてくださいね!」

「ああ、だから午後の業務も励め。彼に代わってくれ」

 

 勇気を出した分の消耗を補給したかった。一時も早くエーリッヒの声を聞かねばならない。

 数秒の間ももどかしく思いながら待つと、どこか心配そうな声色が聞こえてきた。

 

「大丈夫か、ターニャ」

「大丈夫、と答えるとますます心配なさるでしょうね。……緊張しているのは確かです。でも、会いたいのも確かですから」

「そうか。よし、夕食は豪華にしよう。揚げ物はどうだ?」

「それはやめてください、冬に家を失いたくありません」

「……まだ根に持っているのか」

「あと十年は」

 

 数週間前、エーリッヒは初めての揚げ物に挑戦し、危うく小火を起こしかけたのだ。あれほど大きな声で制止したのは、ターニャも久しぶりだった。

 少しだけ他愛もない話をして、夕食をセレブリャコーフが担当することが決まって、ターニャは来客に備えて片付けをするからと電話を切った。

 エーリッヒ以外と顔を合わせるのは久しぶりだ。緊張、不安、恐怖。いずれも、エーリッヒの声を聞いたおかげで小さく萎んだ。この程度なら今のターニャにも乗り越えられる。

 エーリッヒのために新調した姿見と向かい合う。かつての自信に満ちた”銀翼”はいない。狂気的な笑みとともに銃を携える”ラインの悪魔”もいない。髪を伸ばし、飾り気のない部屋着に身を包んだ”ターニャ”だけが見つめ返してくる。

 セレブリャコーフの来訪とエーリッヒの帰宅が待ち遠しかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第13話 友達

 セレブリャコーフは副官時代よりもさらに口数が増えたようで、ターニャは圧倒された。とはいえ、圧倒されているくらいのほうが話しやすかった。相槌を打っているだけでもコミュニケーションをとっているような気分になる。

 手際よくクリームシチューを用意するセレブリャコーフを見ていると、ターニャの胸中にわずかな悔しさが生じた。彼女はスレンダーだが女性らしい体つきで、話がうまく、料理の腕もいい。自らを女性であると認識したがために、自らが求める”女性らしさ”を全て備えているのを見せつけられた気がした。

 

「……少佐」

「どうしましたか、大佐殿。もうすぐニンジンに火が通りますよ」

「いや、その、なんだ……大佐殿というのはよしてくれ」

 

 様々な感情がシチューのように煮えた結果、よくわからないことを口走ってしまった。しかし、放った弾は弾倉に戻らない。ターニャは話を続けた。

 

「私はゼートゥーア閣下の恩情で書類上の役職を与えられてはいるが、実際は傷痍退役したようなものだ。軍人扱いを受けるのは、現役の方々に申し訳が立たん」

「なるほど……承知しました! では、その、私もターニャとお呼びしたいです!」

 

 セレブリャコーフが何を求めているのかターニャにはよくわからなかったが、デグレチャフと呼ばれるよりかはいい。承諾した。

 セレブリャコーフは感極まった様子で、お玉を握ったまま手を組み、その場でくるりと回ってみせた。シチューを飛び散らさないのも、体勢を崩さないのも、さすがは大戦を切り抜けた英雄といったところか。

 

「ありがとうございます、ターニャさん!」

「あ、ああ。この流れだと私も少佐と呼ぶわけにはいかないか。セレブリャコーフとヴィクトーリヤ、どちらがいい?」

「そうですね……親しい者はみんな、私をヴィーシャと呼んでいます」

 

 親しい、という言葉にターニャの中で少し躊躇が生まれた。彼女がターニャ・デグレチャフに敬意を向けてくれていることは重々承知している。しかし、それは”白銀”への敬意であって、”ターニャ”との関係には影響を与えないのではないか。

 彼女は微笑んだままターニャを見ている。

 この優秀な元副官が自分を騙して嘲るなど、あろうはずもない。妄想を追いやって、ターニャは覚悟を決めた。

 

「シチューを焦がすなよ、ヴィーシャ」

「……はい!」

 

 シャワーを浴びていたエーリッヒがちょうどこのタイミングで頭を拭きながら出てきて、鼻歌を奏でながらシチューを混ぜるヴィーシャに怪訝そうな視線を向けた。

 

「なにかあったのか、ターニャ」

「仕事仲間から友達にタグ付けを変更した、とでも言いましょうか」

「そうか。よかったな」

 

 エーリッヒの声は温かかった。ターニャの気分も温かかった。

 ヴィーシャお手製のシチューに舌鼓を打ったあと、土産にと用意してくれたとっておきのリンゴジュースで乾杯した。ターニャは子供の飲み物と思っていたが、濃厚かつのど越しもよく、エーリッヒが「宮廷のワインよりこちらのほうがいいな」と呟いたのに心から同意した。

 

「ターニャさん、髪を伸ばしたんですね」

「まあ、そうだな。その、変だろうか」

「そんなことありません、とてもよくお似合いですよ! そうですよね、閣下?」

「あ、ああ」

「だめですよ、閣下。ちゃんと言葉にしないと伝わらないんですから」

 

 エーリッヒが観念したようにグラスを置いて、いつものぎこちない笑みを浮かべた。

 

「言いそびれていたが、よく似合っているぞ、ターニャ。君は春の日差しよりなおきらめいている」

「……酔っているんですか」

「偽らざる本心だ」

「気障男。軟派者。女たらし。馬鹿」

「そ、そんなに怒ることはないだろう……」

 

 こらえきれないとばかりにヴィーシャが笑いはじめたので、二人そろって彼女に顔を向けた。

 

「ふふ、失礼しました。ターニャさんの照れると怒る癖、お変わりないですね」

「何を馬鹿なことを……」

「でも、嬉しいんですよね?」

 

 肯定すれば恥ずかしく、否定すれば嘘になる。ターニャは賢明な沈黙を選んだ。

 ターニャをからかって満足したのか、ヴィーシャはターゲットをエーリッヒに切り替えたようだ。

 

「今の閣下は私の父に似ているように思います。父もよく格好つけて母に甘い言葉を囁いては叱られてしょぼくれていますから」

「いや、それは貴官のご家族の話であって、私とターニャの話ではないだろう」

「でも、お似合いだと思いますよ?」

 

 ヴィーシャの口から飛び出したとんでもない言葉に、ターニャの表情筋は仕事を放棄した。

 お似合い。

 すっかりお花畑になってしまったターニャの脳内にその一言がこだまして、恥ずかしさでエーリッヒの顔が見れない。

 

「上官をからかうのはよせ、セレブリャコーフ少佐。貴官、その調子で帰りは大丈夫なのだろうな」

「大丈夫です、前線の任務で夜闇には慣れていますから!」

 

 その自信に満ちた顔は玄関の戸を押した瞬間に崩れ去った。激流のように空を横切る白が、黒の世界を塗り潰している。冷気による支配。すなわち、猛吹雪だ。

 

「たいさどのお」

「情けない声を出すな、ヴィーシャ。幸いにして先日ソファを購入したばかりだ。寝心地は悪いかもしれないが、前線よりましだろう。泊めてやってもよろしいですか、エーリッヒ」

「まあ、積もる話もあるだろう。いい機会だ、ゆっくりしていけ」

「お二方ともに声も内容も恩情に満ちています……」

 

 ヴィーシャがへなへなと崩れ落ちながら縋り付こうとしてきたので、ターニャはそれを避けつつ扉を閉ざした。極寒が吹き込んだらたまったものではない。

 やたら上機嫌なヴィーシャを浴室に押し込み、家主の責務として毛布とクッションで即席のベッドを用意してやるうちに、すっかり夜も更けてきた。ターニャは薬の副作用で一日眠い日と寝付けない日がある。今日は寝付けない日のようだ。ヴィーシャが来て脳が興奮しているのもあるだろう。

 客を放置して部屋に戻る気も起きず、椅子に腰かけて暖炉の火を見つめていると、部屋に戻ったはずのエーリッヒが声をかけてきた。

 

「寝付けないか」

「そのようです。先にお休みになってください、明日もお勤めがありますから」

「そんな顔の君をほったらかしにしてまで片付けるべき急務はない」

「……やはり酔ってらっしゃるのでは」

 

 ターニャは己の頬に手をやって表情を確かめようと試みたが、触ってわかるわけでもなかった。

 間違ったことだとはわかっている。しっかり仕事をこなしているエーリッヒが大好きだ。それでも、仕事より自分を優先してくれているような言葉を聞くと、ターニャは酩酊と錯覚するほどの嬉しさに襲われるのだ。

 エーリッヒは笑って二人分のマグカップとハーブティーのポットを用意すると、自分の椅子に腰かけた。

 

「表情が豊かになったな。前よりもずっと」

 

 エーリッヒが言う前には二つの意味がある。一つはターニャが精神疾患を患って心が瀕死であったころ。もう一つはターニャが”ラインの悪魔”であったころ。どちらもいい記憶ではない。しかし、いまのターニャはそれらに思いを馳せる程度の余裕を持っている。

 

「ありがとう、エーリッヒ」

「どうした」

「あなたのおかげで私は生きています。命も、心も」

 

 ターニャはエーリッヒに手を伸ばした。応えるように差し伸べられた手に指を絡ませる。少し骨ばって、ペンだこがあって、優しい手。

 この手が大好きだと、あなたが大好きだと、それを口にできたらどんなにいいだろう。しかし、断られたら、嫌われたら。そのような不安が年齢差と経歴という根拠のもとにこみあがり、切なくて、温かさを求めて彼の手を強く握った。

 

「君の手がこれほど柔らかいとは、戦時中の私は微塵も思わなかった」

「私もです。あなたの手がこれほど優しいとは」

 

 どちらともなく笑いがこぼれた。

 名残惜しくはあったが手を離し、マグカップを抱える。眠れない日、エーリッヒはうまく都合をつけてターニャに付き添ってくれる。それでも都合がつかなかった翌日にお土産として買ってきてくれたのがハーブティーだった。

 

「セレブリャコーフとはどうだ」

「友達になれたんでしょうか、たぶん。……正直、驚いています。彼女は”白銀”に憧れていたものとばかり」

「あれは視野が広いからな。ちゃんと両方見えていたのだろう」

 

 思い返せば、ターニャはヴィーシャから洋服をもらったことがあった。士官課程への推薦が通った直後のことだ。ひどくサイズオーバーだったが、嫌な気分ではなかった。あのとき、ヴィーシャは”白銀”ではなく”ターニャ”を見ていたのだろう。

 妙な照れがこみ上げてきて、隠すためにハーブティーを飲んだ。優しい味だった。

 

「心配でなかったと言えば嘘になる。しかし、君が望んだのなら、邪魔はすまいと決めた。セレブリャコーフ少佐には礼をしなければ」

「連名で何か贈りますか」

「それがいいだろう。私からとするよりもずっと喜ぶはずだ。なにか案はあるか?」

「案……職場ではどんなペンを使っていますか? 私の副官だったころは酒保で使い捨てを買っていましたが、そろそろいいものを使っていいころかと」

「今も安物を使っていたように思う。そうだな、そのほうが参謀としての箔もつくか。今度見繕って……」

 

 ここで二人は問題に気付いた。いいペンを買うには都心まで出なくてはならない。ターニャはだいぶ落ち着いてこそいるが、まだ駅に近寄ったことすらないのだ。

 エーリッヒは何も言わなかったが、表情に少しだけ後悔の影が差していた。余計なことを言ってターニャを傷つけたかもしれないと思っているのだろう。

 ターニャもまた後悔していた。後悔させるだけの過去、重篤な病による数々の失態をターニャは抱えている。そして、その過去は今も改善しているとは限らない。

 

「――あったまりました、シャワーありがとうございます! ……あれ、なにかありましたか?」

「ああ、いや、気にするなヴィーシャ。寝巻を貸せなくてすまんな、私のサイズでは到底入らんだろう」

「それは大丈夫ですが……そうだ! レルゲン閣下、今夜は私にターニャさんとの時間を譲っていただけませんか?」

 

 は? と純粋な困惑が二人の口から漏れた。

 

「ガールズトークです!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第14話 作戦

 ターニャが曖昧な承諾をするや否や、ヴィーシャはなおも困惑するエーリッヒを追い出してしまった。

 

「いいですか、閣下。聞き耳を立てても覗きをしてもいけませんよ。ここから先は乙女の花園なんですから」

 

 どこの鶴だとツッコミを入れたくなったが、伝わるわけもないのでターニャはぐっとこらえた。

 

「眠くなったら気にせず寝るんだぞ、ターニャ」

「承知しております。今夜はゆっくりお休みになってください」

「なにかあったら呼んでくれ、深夜でも早朝でも。おやすみ、ターニャ」

 

 エーリッヒが自然な流れでいつも通りおやすみのハグをしてくれたので、ターニャは急速に顔が熱くなった。

 ヴィーシャが見ている。かつて戦場を共にした副官の前で、好きな人にハグされて蕩けた顔をしている。

 

「ひ、人前ですよ」

「安眠のおまじないだ」

「いつから帝国は原始宗教に染まったのですか!」

「ほら、ちゃんと返してくれるまで解放しないぞ」

 

 諦めて腕を回すと、頭を優しく撫でられて、そして解放された。

 恥ずかしくて誰の顔も見ることができず、ターニャは俯きながらエーリッヒに就寝の挨拶をした。辱めを受けたような気もするが、取り乱すことではない。愚かにもターニャは自分が多幸感に敗北していることを理解し、それに屈服した。

 エーリッヒが寝室の扉を閉める音が聞こえても、まだしばらくターニャは顔の火照りと心臓の早鐘が収まらず、俯いたまま椅子に上がった。

 

「……吹雪も融かせそうですね」

「いっそ殺せ」

「だめです、ターニャさんには長生きしてもらわないと」

 

 冗談めかしてはいたが、ヴィーシャの言葉は真剣だった。

 経過を知っている者にとっては死を口にするターニャを見れば些細なことでも気が気でないだろう。悪いことを口にしたと思い、謝罪しようとしたが、ヴィーシャは笑顔のまま手でそれを制してきた。

 

「大丈夫です、わかってますから。気心の知れた私だからそういう言葉が出てきたと思えば光栄でもありますし、レルゲン閣下には内緒ということにしておきますね」

「ああ……ありがとう。ハーブティーは好きか?」

「普段は飲みませんが、夜にはいいですね。いただきます」

 

 ポットをヴィーシャのほうに押しやって、ターニャは少しぬるくなったハーブティーを口にした。

 会ってみれば、思っていたより自然体で話せるものだ。ヴィーシャの来訪がターニャに小さな勇気を与えてくれた。

 

「その、申し上げてよいものか悩んだのですが」

「言ってみろ」

「ペン、いただけるならとても嬉しいです」

 

 ヴィーシャが盗み聞きをするような人間でないことはターニャもよく理解している。そんなに大きい声で話していただろうか。思い返せば、エーリッヒはターニャが水を飲んで咳き込んでいるのを聞き取ってターニャを助けた。静かなリビングルームでの会話くらいは聞こえるかもしれない。二人暮らしでは気づけないことだった。

 

「しかし、選びに行くにも……」

「ターニャさんは、リハビリテーションという考え方をご存知ですか?」

「ああ、まあ、知ってはいる」

 

 極めて新しそうな言葉がヴィーシャの口から聞こえたことにターニャは少しだけ驚いた。語源はラテン語であるはずだし、医療現場で使われていてもおかしくはないが、この世界で耳にするのは初めてだ。

 リハビリテーション、つまりリハビリ。ターニャも考えないわけではない。エーリッヒの負担を減らすことができる程度には社会的動物としての人間に復帰したいと思う。

 しかし、可能なのだろうか。また逆戻りするのではないかという不安と、失敗して迷惑をかけるのではないかという怯えが、扉に閂をかけていた。

 

「もちろん、お医者様とご相談の上、ゆっくり進めるべきだと思います。治療に焦りは禁物ですから」

「同感だ」

「でも、最初の一歩を踏み出すきっかけはもうお持ちですよね」

「まあ、ペンを見に行くというのは確かに――」

「そうではなく。レルゲン閣下とデート、したいのでは?」

 

 デート。逢引。ランデブー。

 頭の中に住み着いている冷静なターニャが久しぶりに出しゃばってきて、ランデブーの語義は待ち合わせであってこのグループには適さないと指摘するが、それは重要ではない。

 この指摘は、ターニャがいかなる感情をエーリッヒに向けているか、ばれていることを意味している。

 

「なぜそれを……情報部か? それとも盗聴?」

「いや、見ればわかります。むしろばれないと思ってらっしゃったんですか、見せつけられているのかとばかり……」

 

 床を転げまわって悲鳴を上げたいくらいの恥ずかしさだったが、そんなことをすればエーリッヒを起こしてしまう。ターニャはこれまで培ってきた能力を総動員してこらえにこらえた。

 しかし、これは好機でもある。はじめて己の恋路を相談する相手ができたのだ。

 

「……私とデートなどしても、彼は楽しくなかろうよ」

「そんなことないと思いますよ? レルゲン閣下はターニャさんのことを大切にしてらっしゃいますし」

「そう、大切にしてくれている。だからこそ、私と買い物に行くのはデートではない。子守りだ」

 

 エーリッヒに子どもだと思われているかもしれない。それがターニャにとって一番の懸念事項であり、払拭できない不安であり、苦悩の種だ。

 ターニャは子どもである、この命題は真だ。もうすぐ終わる冬を越え、春が過ぎ去れば、ターニャは十四歳になる。十四歳はターニャから見ても子どもだ。

 もちろん、エーリッヒに大人の女性として見てもらいたいという気持ちはある。しかし、大人として見てほしいなどとせがむのは子どもそのものだ。

 

「レルゲン閣下はターニャさんのことを子どもとは思っていないと思いますよ」

「なぜそう言える」

「お風呂の話、すごく悔やんでました。思いっきりビンタして差し上げたんですが、貴官に叩かれても罪を償ったことにはならないってどんよりした声で仰ってましたよ。でもどうしたらいいかわからなくて、女性で副官だった貴官にだけ相談したんだ、と」

 

 様々なショックがターニャを襲って、思考が停止した。

 あの件でエーリッヒを苦悩させたのは間違いない。そして、一人で解決できないなら誰かに相談するよりほかなく、適任がヴィーシャしかいないのもわかる。しかし、かすかにみじめさが首をもたげる音がする。それとは別にヴィーシャが上官をビンタする軍人になってしまったことへの驚きもある。

 言われてみれば、最初の二か月よりも引っ越してきてからのほうが丁寧な気遣いになったように思う。最初の二か月はどちらかというとおっかなびっくり甘やかすような空気を感じたが、引っ越してきてからはターニャの意見を尊重したうえでできることをしてくれているのだ。

 しかし、だとすれば、引っかかるところもある。

 

「その、あれだ、ハグは完全な子ども扱いだろう。父親が娘にするそれだ」

「ターニャさんはデレデレでしたけど。私の前なのに胸元に顔をうずめて」

「う、うるさいぞ。……してくれるのは私が求めたからだ」

 

 幸福感と悲壮感がない交ぜになる。薬も症状もあって、昔ほど頭の回転がよくない。処理能力の不足で思考回路が焼け付きそうだった。

 

「うーん……レルゲン閣下、総務部を離れはしましたが、今も職員と付き合いはあって。ちょっとした話題になってるんです。引っ越して恋人と同棲してるって。もちろん、ターニャさんのことはばれていません。ゼートゥーア閣下が動いているので、情報部ではゼートゥーア閣下のお孫さんではないかなんて噂も」

「……それで」

「レルゲン閣下、否定なさらないんです。自覚してらっしゃるのかはわかりませんが」

「私の耳に入ったら傷つくとか、そんな理由ではないのか」

 

 自分がネガティブに振り切っているのはターニャも自覚している。しかし、勝手に期待して勝手に裏切られるなんて馬鹿な真似はしたくない。渡る勇気があるかはさておき、石橋は叩いて叩きすぎることはないのだ。

 

「よく、よーく考えてくださいね、ターニャさん。レルゲン閣下は帝国貴族です。終戦した今、他国も含め社交界ではとても評判なんです。その人との婚姻は政治的に価値がありますよね? するかしないかはともかく、他国の有力者を引き付けるカードにはなります。じゃあ、なんで恋人の噂を否定しないんですか?」

「それは……いまがカードの切り時でないからだろう」

「皇帝陛下にお目通りまでして政略結婚を断ってるのに?」

 

 今度こそターニャは硬直した。

 皇帝陛下。つまり、帝国の最高権力。王の王。その頂点に、拝謁してまで見合いを断った。何が起きているのかさっぱりだった。

 

「詳しく聞かせろ、すべての経緯を」

「終戦を決定したのが陛下の勅だったんです。そして和平工作の功で参謀本部の上層は謁見が許されました。ゼートゥーア閣下、ルーデルドルフ閣下、そしてレルゲン閣下。ゼートゥーア閣下が何を望まれたかはわかりませんが、ルーデルドルフ閣下は勇退を許され、レルゲン閣下は……」

 

 ヴィーシャは言葉を切って、悪戯な笑みを浮かべた。

 

「レルゲン閣下は、恋愛結婚のために政略から外れることのお許しをいただいたんです。副官として宮内尚書と一緒にその場に立ち会いましたから間違いありません」

 

 もうターニャの脳は限界だった。すっかり冷めたハーブティーを無意識に飲み干し、そこでようやく呼吸の感覚が戻ってくると、今度は一気に血流が燃え上がった。

 

「ターニャさんが口にした通り、子どもというのは大きなハンデです。若手とはいえレルゲン閣下も経歴分の年齢は重ねてらっしゃいますし、公表すれば口さがない連中も湧くでしょう。だから、レルゲン閣下も考えないようにしているんだと思います。もしくは、十分な年齢になるのを待っているのかも」

 

 光源氏計画。もはや記憶とも呼べない前世の断片的な高等教育の情報が朧げに浮かんだ。

 すべては憶測でしかない。しかし、ここまで聞いてしまえば、心は動き始めてしまう。

 

「待てますか?」

「……無理だ」

「デート、したいですか?」

「……したい」

「じゃあ、どうしますか?」

 

 冷静なターニャと燃え上がるターニャがせめぎあい、ターニャの頭をはちきれそうなほど稼働させ、そして答えを出した。

 

「早急に作戦が必要だ。立案に付き合ってくれるか、ヴィーシャ」

「喜んでお供します、ターニャさん」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第15話 治療

 診察室から出てきたターニャの顔色が明るかったので、エーリッヒは安堵とともに嬉しさを覚えた。いい傾向だろう。三食しっかり食べられるようになり、ふらつくこともだいぶ減った。骨の浮いていた体も華奢ながら年相応とは言える基準を満たしていたし、改めて見れば身長が伸びたようにも見える。

 穏やかな表情で長く伸びた艶のある金糸を靡かせる様は、帝都の社交界で花を咲かせる令嬢たちに決して劣らない。それどころか、エーリッヒにはターニャのほうがよっぽど素敵に思えていた。

 

「お待たせしました」

「お疲れ様だ、ターニャ。先生はなんと」

「順調に回復しているため、薬の量を減らしてみよう、と」

「それはいい報せだな」

「はい。それと、次の段階に進んでよい、と」

 

 次の段階、と反復すると、ターニャは頷いた。

 

「少しずつ、人目に触れる場所に出て慣らしていくのがよいようです」

「それは……そうか、そうか!」

「ええ。明日は駅までお見送りしますね」

 

 エーリッヒは嬉しさのあまり手を伸ばして抱き上げようとしたが、それは子ども扱いしていることになるのではと思い、躊躇して手を止めた。せっかく朗らかな笑顔を見せてくれているのに、それを曇らせるようなことはしたくなかった。

 そんなエーリッヒを見て、ターニャは首を傾げたあと、目を泳がせながらもエーリッヒに抱きついてきた。

 エーリッヒの記憶が確かならば、ターニャが自らエーリッヒに抱きついたのは初めてだ。信頼されていることへの嬉しさを込めて、改めてエーリッヒは彼女を抱き上げた。

 ひゃ、と可愛らしい声を上げて、慌てて口を押えるターニャは完全に年相応の少女だ。この素敵な人物から好意を向けられているのは、喜ばしくも心苦しい。

 エーリッヒとて馬鹿ではない。彼女の好意には気づいている。最初は支えを失ったターニャの助けになるならば、家族のないターニャが愛着を示す相手となれるならばと思っていた。しかし、それが恋慕であると気づいてしまった。

 問題は、エーリッヒもまた自分の内側に何か、親しみを超えたものを見つけてしまったことだ。それは日に日に膨れ上がり、エーリッヒの思考を圧迫しつつある。

 

「明日が楽しみだ」

 

 またこうして微笑み、彼女を期待させてしまっている。あるいは、エーリッヒ自身が何かを期待してすらいる。

 保護者としての役割だと自分に言い聞かせてはいたが、春めいて蕾も膨らみ始めた道をターニャと二人で手を繋ぎながら歩くことに、エーリッヒは間違いなく幸せを感じていた。

 愚かなことだと自分でもわかっていた。年齢差は覆せない。ゼートゥーアの妻が苦しんだように、ターニャを苦しませることになるのかもしれないと思うと、感じたことのない痛みに襲われる。

 それに、罪悪感もあった。これでは弱っているターニャにつけこんだようなものではないか。あまりに不誠実で、あまりにも邪悪だ。

 自分が浮かれているのも間違いない。この関係が持続するかもわからないのに、皇帝の前で恋愛結婚のために政略から逃れることを望み、それを許されて歓喜したのだ。

 エーリッヒは自分で自分がわからなくなりつつあった。ターニャに誠実であり続けながら彼女を傷つけず自らの希望を満たす、そんな夢のような話を妄想している。

 

「……エーリッヒ。あの、相談が」

「どうした?」

「もし、順調に社会へと復帰できたら……帝都で一緒に過ごす日を作っていただけませんか?」

 

 わかる。不安と期待が織り交ぜられたこの声色がはっきりと伝えてくれる。彼女は逢引を求めているのだ。

 応えてよいのだろうか。エーリッヒには正しさがわからなかった。

 道の小石に躓いて転びそうになったターニャを抱き留める。柔らかな笑顔で小さく感謝を述べる彼女に、エーリッヒへの疑念など微塵も感じない。

 あまりに純粋無垢な信頼が、エーリッヒを悩ませていた。

 

「……もちろん、お仕事が第一優先ですし、エーリッヒは立場のあるお方です。だから、これはただのわがままです。子どもの駄々でもあります」

 

 断る口実まで用意したつもりなのだろう。声の震えが隠しきれていないが、彼女の努力は確かににじみ出ていた。

 間違っているのかもしれないと思いながら、それでも、彼女の望みを、そして己の望みを叶える言葉を口にしてしまう。

 

「明日、近いうちに休暇を取る予定があるとゼートゥーア閣下にお伝えしておく」

「あ、ありがとうございます! ……楽しみです、とても」

 

 私もだ、と小さく返事をしながらも、胸が痛んだ。

 

 二人で朝食を食べ、二人で食器を片付け、服薬を確認する。ここまではいつも通りだ。

 朝からターニャが外出用の服に着替えているのが新鮮で、暇さえあれば彼女に視線が向いている自分がいる。きっと気味が悪いだろうと視線を外す努力をするが、あまり機能していない。

 姿見の前で帽子の位置を調整していたターニャが小さく首を傾げた。

 

「変、でしょうか」

「そんなことはないさ。よく似合っている」

 

 実際、よく似合っていた。金髪に白い帽子がよく映える。清潔なシャツに薄手のカーディガン、落ち着いた雰囲気のスカート。革靴は軍大学時代に履いていたものらしく、少しサイズが小さくなってきたらしい。

 今後、都心部まで出ることができるようになれば、服も靴も新調できる。

 

「新しい服がほしいか?」

「思ったことがないわけではありません。ただ、軍服以外を知らなかったものですから、自分で服を選ぶことができるかどうか、自信がないのが正直なところです」

「今日の装いは素人目にもいいものだとわかるが」

「ヴィーシャに教わりました」

 

 先日の”お泊り会”から、ターニャは少し雰囲気が変わった。

 何事においてもやや積極性が増し、特に思ったことを自分から伝える努力を感じる。自分ではできなかったことをあの副官が一晩でこなしたのかと思うと、エーリッヒは少しだけ情けなくなった。

 とはいえ、喜ばしい傾向ではある。昔とは違った意味でターニャの考えは読みづらい部分がある。エーリッヒはこれまで仕事一筋だった。女性慣れしていないのだ。だから、わかりやすいほうが接しやすくはある。加えて、ターニャからの好意がより明確になったのも、苦しいと思いつつ嬉しく思ってしまう。

 

「君さえよければ、帝都で過ごす日に服も新調するのはどうか」

「それは……よろしいのですか? 女性の服選びに付き合うなど、殿方には退屈でしかないと思いますが」

「私を退屈させない素敵なファッションショーにしてくれ。さ、そろそろ出よう」

 

 通院以外で二人そろって家を出るのは初めてかもしれなかった。エーリッヒは左手に鞄を持ち、右手をターニャと繋いでいる。駅までターニャの足では三十分。時間に余裕はある。

 

「すっかり暖かくなりましたね。数週間前までは雪も残っていたのに」

「春だな。これが過ぎ去れば夏で、君は十四歳だ」

「先は長いですね、気が遠くなるほどに」

 

 含みのある言い方だった。エーリッヒの自意識過剰でなければ、ターニャは大人になるまで、そして結婚適齢期になるまでの話をしている。

 うまい返事が思いつかず、エーリッヒは話題を変えることにした。

 

「こうして並んで歩くとわかるのだが、背が伸びたのではないか?」

「本当ですか!」

「そのように思う。今夜、柱で背を測ってやろう」

 

 ターニャは嬉しそうに頷いた。

 駅に着くと、列車を待つ乗客は数人しかいなかったが、それでもターニャの手には力がこもっていた。握り返すと、自覚したのか、こわばった表情が少しほぐれた。それでも手は離さなかった。

 ベンチに座る老婆から微笑ましげな視線を向けられているのに気づいて、エーリッヒは会釈をした。

 

「ターニャ、あちらのご婦人に手を振ってみなさい」

「は、はい」

 

 体を硬直寸前まで固めながら、ターニャは老婆に小さく手を振った。老婆は皺の深い顔に浮かべた笑みを濃くして、手を振り返してくれた。

 ターニャは安心したのか、それとも疲労が出たのか、繋いだ手から少し力が抜けていた。

 煙と騒音を引き連れて汽車がやってくると、まだ少し硬くはあったが、ターニャは笑顔でエーリッヒを見上げた。

 

「お見送り、できました」

「ああ、ありがとう。よく頑張ってくれた。仕事がはかどるな」

「どうかご無理なさらぬよう。……その、いってきますの挨拶は、ここでもしてくださるのでしょうか」

 

 エーリッヒは一瞬面食らった。乗客も見ている駅で抱き合うのは恥ずかしいのではないかと思っていたからだ。

 しかし、彼女の勇気と努力に応えるためにも、日々の習慣を持続することに決めた。

 膝をつき、ターニャの肩に腕を回し、後頭部にそっと手を添える。大事に、しかし少しだけ強めに。ターニャは壊れ物を扱うようにされるより、気持ちを体感するほうを好むとエーリッヒは日々の生活で学んだ。

 

「行ってくる、ターニャ」

「行ってらっしゃい、エーリッヒ」

 

 春の日差しに照らされたターニャはぬくもりに満ちていて、ずっと抱きしめていたくなった。

 発車ベルに急かされて、名残惜しさを感じながらも客車に乗る。車内で髭面の男がにやつきながらエーリッヒに声をかけた。

 

「朝からお熱いね、軍人さん。素敵な彼女さんじゃねえか」

「そう見えますか」

「おうさ。親子かとも思ったが、目を見りゃわかる。うちのかかあも若いころは……っと、おっさんと話してる暇あったら手え振ってやんな」

 

 エーリッヒが窓から手を振ると、ターニャは少し照れを見せながらも、手を振り返してくれた。

 

「いい彼女さんじゃねえか、あんたみてえな色男にはぴったりだ」

「恐縮です」

「……軍人さん、気持ちを伝えんなら早めにしときな。周りの目なんざ気にするもんじゃねえぜ」

 

 駅が遠くなってターニャが見えなくなったところで、髭面の男は声色を変えた。表情は相変わらずにやけていたが、態度は真剣だった。

 適当を言っているとも思えない。あまりに的確だからだ。

 

「あの子が可愛くてしょうがない、彼女だって見られんのも嬉しい、だが俺の彼女だっつって頷くにはつっかえるもんがある。そうだろ? 声と目でわかる」

「……貴様、何者だ」

 

 もしやターニャを狙って来たなんらかの刺客か。エーリッヒは念のため銃を抜く覚悟をした。とはいえ、男から悪意は感じないし、口にするのは助言のそれだ。

 正体がわからない、ただそれだけが不気味だった。

 

「いいか、軍人さん。いや、レルゲン准将閣下。世間体もなんも気にするもんじゃねえやな。惚れた晴れたってのは当人同士の話だ、よそ様が首い突っ込むってんなら片っ端から切り落としてやりゃあいい。閣下にゃあ心強い味方が山ほどいるだろうが、ええ?」

 

 男が懐に手を入れたので身構えたが、彼が取り出したのは板チョコだった。彼は豪快にかぶりついて、ちぇ、融けてやがらあと指をジャケットで拭った。

 

「いいか、好きあってんなら添い遂げろ。んでもって二人で幸せになるために持ってるカードはなんもかんも使い倒せ。……悪いね閣下、あの方にゃあ俺も小さくねえ借りがあるってもんだから、熱くなっちまった。俺がもっと早く駆けつけてりゃあ、あの方は撃たれずに済んだんだ」

 

 ようやくこの男の正体がわかった。エーリッヒは過去にこの男と顔を合わせている。ターニャが人事部で仕事をしていたとき、襲撃犯を取り押さえた軍人だ。面接の順番を待っているときに銃声を耳にして突入し、犯人確保の功を認められたものの、自ら辞去したと耳にしていた。

 

「心配すんな。俺あもう軍の人間と繋がりはねえし、ただの工場作業員さ。元軍人の名誉にかけて、吹聴はしねえ。その代わり、あんたはあの方と幸せになれ。あんたが他の女と結婚したなんて知ったら、俺あ全力で言いふらすぜ。……っと、そろそろか。ここらへんで。セレブリャコーフの嬢ちゃんによろしくな!」

 

 男は降りていった。

 エーリッヒの思考は渦巻いていた。しかし、少しだけ、流れが変わったようにも思えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第16話 味方

 セレブリャコーフ少佐の狂暴化はとどまることを知らない、そうエーリッヒは確信した。准将をどつきまわす少佐は古今東西彼女くらいしかいないだろう。ルーデルドルフに目撃されたら大変なことになる。おそらく、ヴィーシャではなく、エーリッヒが。

 

「前任の憲兵総監に見られるなんて! 閣下は大馬鹿者です、昔のターニャさんだったらこんなもんじゃ済ませませんでしたよ!」

「わかっている! 少佐、私の左腕はそちらには曲がらないんだ!」

「職務においては右手と頭が残っていれば結構です」

「いたた……まったく、昔のターニャが乗り移ったのではないか?」

「ターニャ・フォン・デグレチャフはいまだ健在なり。閣下が流布なさったんでしょうに」

 

 エーリッヒがずれた眼鏡を直して椅子に腰かけると、ヴィーシャは大きくため息をついた。

 

「なんでターニャさんはこの人に惚れてるんだろう……」

「そ、そんなに責めなくてもよいだろう。私は貴官の上司だぞ」

「プライベートの人間関係に軍規が介入するとでもお思いですか?」

「それはそうだが……」

 

 ヴィーシャは器用にエーリッヒ宛ての書類を目的ごとに分別しながら、憤懣やるかたないという様子でなおも説教を続けた。

 

「いいですか、私は本気で怒ってるんです。閣下は己の名誉にかけてターニャさんの助けになると宣誓されました。そして、私はターニャさんをよろしくお願いしますとお伝えして、それに了解なさっていましたよね。しかも、皇帝陛下からお許しまでもらって! どの! どの口が! 言い訳をするんですか!」

「言い訳ではない! 年齢差は必ず彼女を苦しめる。それに……弱っているときに助けとなったのが私だった、それだけの話だろう」

 

 帝国軍人であるエーリッヒが反応できない速さの衝撃と痛みで、エーリッヒは自分が頭を引っぱたかれたとわかった。

 

「本当はビンタして差し上げたいんですが、ターニャさんに心配をかけたくないので見えないところを選びました。感謝してくださいね。……弱っているときに助けとなった、それだけの話? 歴史的大馬鹿者! 命を救ってくれた人を愛する、それの何が悪いんですか!」

「弱みにつけ込んだようなもので――」

 

 もう一発食らった。

 

「勝手な罪悪感で人の好意を踏みにじるなら、一生誰も助けないで生きればよかったじゃないですか!」

「ッ……」

 

 あの温和で柔和で楽天的なヴィクトーリヤ・セレブリャコーフ少佐からこれほどまでに辛辣な言葉が飛んでくることに驚きつつも、そのすべてがエーリッヒの胸を穿っていた。

 年齢差も、罪悪感も、結局はエーリッヒが独りよがりに抱えている杞憂なのだ。だのに、エーリッヒは正しさを探して、そこにたどり着きつつあった。

 

「ターニャさんは、確かに深い傷を負って苦しんでらっしゃいました。今もまだお辛いのでしょう。でも、あの方は弱くありません」

「ゼートゥーア閣下が語ってくださった話を忘れたのか」

「レルゲン閣下は歴史に学ぶことができる程度には賢明な方だと思っていました。ご自分でお守りになればいいじゃありませんか。周りにも協力を仰いで。少なくとも、私は全力でお手伝いしますよ。ターニャさんのために」

 

 目から鱗が落ちる思いだった。

 あまりにも馬鹿げた話だが、エーリッヒは自分がどうにかするという考えを忘れていた。いかにしてターニャが傷つかない状況にするかは考えていたし、いかにして自分がターニャを傷つけないようにするかも考えていたが、自分が何かしらの改善に尽力することを失念していたのだ。

 そして、その無力で愚かなエーリッヒは、味方がいることも気づいていなかった。

 言い訳をするなら、これは兵を動かす参謀の職業病だ。もちろん、常に後方の味方はいるし、連携もとる。しかし、前線で働く者のために力を尽くすのが役目であって、自ら銃を取ることはすべきでない。誰かに背中を預けた経験もほとんどないし、なんなら味方を味方として見たこともほとんどない。

 エーリッヒはルーデルドルフの言葉を思い出した。己の世界の偏り。

 

「今朝の時点で閣下の確認と決済印が必要だと上がってきた書類はこれですべてです。片付いたら、作戦会議ですからね。私は今から総務次長に部長の補佐を任せて、ゼートゥーア閣下にお時間をいただけるか伺ってきますから」

 

 ひどく情けない気分で、エーリッヒは謝罪の言葉を口にしようとした。

 

「セレブリャコーフ少佐、その」

「閣下に謝り癖があることはターニャさんから手紙で聞いていますが、謝る相手は心得てくださいね」

「……ああ、もちろんだ」

 

 ヴィーシャは頷くと、エーリッヒの執務室を後にした。

 現実逃避気味にヴィーシャの成長を考える。ターニャの副官時代にこれほど苛烈な人物だったとは思えないし、総務部での副官としての働きも有能ではあったが攻撃的ではなかった。

 きっと、ヴィーシャは心の底からターニャを大事に思っているのだろう。英雄、上司、そんな役柄としてではなく、ターニャという人物を。

 覚悟が足りなかった。エーリッヒは決済印を捺しながら、深く強く後悔した。そして、改めて、ターニャに誠実であろうと誓った。

 

 ゼートゥーアが腹を抱えて大笑いしているのは初めて見た。この男がここまで強く感情を表現することがあるとは。エーリッヒが困惑していると、ゼートゥーアは目頭を拭いながらエーリッヒに向きなおった。

 

「いやあ、傑作傑作。セレブリャコーフ少佐が帝国史の教科書に載る際はこのエピソードは外せんだろうな。かつての上司を幸せにしろと今の上司を殴りつけ、その愚痴を軍のトップに垂れる。ことデグレチャフ大佐がらみの話では、セレブリャコーフ少佐が軍を動かしていると言ってもいい」

「小官の不徳の致すところであります……」

「うむ、存分に反省したまえ。妻の話をしたのは貴官に逃げる言い訳を与えるためではないことをよく理解するように。……それで、いつ求婚するのだね」

 

 口調は真面目ぶっていたが、ゼートゥーアは確実にエーリッヒをからかっていた。ここしばらく情報部を中心に広まりはじめた”鉄壁のゼートゥーア”の二つ名を背負う男とは思えない。婿をおちょくる舅のようだ。いや、むしろ宴席でしか会わない親類か。

 しかし、彼の言葉が正しいこともエーリッヒは理解していた。一つ屋根の下で暮らしている、おそらく好きあっている、覚悟もできた。

 

「――恐れながら申し上げます、閣下」

「うむ、聞かせてくれセレブリャコーフ少佐。こと恋愛においては我々男二人よりも貴官のほうが優秀と見た」

「恐縮です。おそらく、求婚はまだ早いかと」

 

 ヴィーシャの言葉にエーリッヒはかすかな不安を覚えた。もしや、ターニャにふさわしいか己が見極めると言い出すのではないか、と。

 しかし、ヴィーシャの意見は至極真っ当に思えるものだった。

 

「あの方はすぐに結婚するより、ちゃんと恋人として付き合いたいと思ってらっしゃるのではないでしょうか。楽しめる、意味のあるステップを飛ばすことをよしとはしないでしょうから」

「なるほど。だそうだ、レルゲン准将。時代は変わったものだ。ルーデルドルフが恋人と密会するたびにどれだけ私が隠蔽工作で奔走したか。今からでも請求書を出そうかと思うくらいだ」

 

 その後、本来の職務についていくつか確認をし、短い会議が終わった。

 退室の間際、エーリッヒはゼートゥーアに呼び止められた。

 

「これは命令ではないが、デグレチャフ大佐の幸福が成ることを私も願っている」

「は、身命を賭してあたります」

「それではいかん」

「不足でありましょうか」

「過剰なのだ。心意気は十分だが、貴官が幸せでなければデグレチャフ大佐は幸せでない。わかるな? 手を抜けと言っているのではないぞ」

「……ご高配に心より感謝いたします。身に余る光栄です」

 

 ゼートゥーアの表情はひどく穏やかだった。日向ぼっこをする老人を思わせた。あるいは、戦争という日陰から日向に帰ってきたのだろうか。

 

「妻が他界した後、一人になった私に養子を取らないかという話があった。後継者の育成だ。利発で礼儀正しい青年だった。断らざるを得なかった。受ければ彼を大切にしてしまう。年の離れた友人として文通を続けた。貴官より少し年下だったな。前線で兵站を担当していたが、砲撃を受けた。……故人に重ねて見られるのは不快か、准将」

「いえ、そんなことは」

「ないか。貴官は人情家だな。それなら、いずれ私に初孫を抱かせてくれることを楽しみにするとしよう。まだしばらくはこの椅子で努めねばなるまい」

 

 奇妙な気持ちになりながら、レルゲンはゼートゥーアの執務室を辞去した。ゼートゥーアに信頼されているのだろうか。ゼートゥーアが多弁になったのはルーデルドルフが軍を去ったからだろうか。ターニャは今の彼を見てどう思うだろうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第17話 関係

 身長は一四六センチだった。軍の健康診断を受けた日から三センチも伸びている。これは明確な成長であり、進歩だった。

 にもかかわらず、ターニャは歓喜できなかった。帰宅してからエーリッヒは落ち着かない様子だ。仕事で問題があったわけではない、心配はいらないと口にするが、目は泳ぐし汗を拭いてばかりいる。

 そして、決心したと言わんばかりに息を吐いた。少し怖かった。

 

「ターニャ、話がある。座ってくれ」

 

 向かい合って、また沈黙が続いた。よほど言いづらいことなのだろう、ずっと眼鏡を拭いている。エーリッヒは困ると眼鏡を拭く癖があるのだ。ターニャはそれをよく承知していた。しかし、彼の思案を邪魔するのもよくないと判断して、静かに待った。

 

「……私は、君に謝らねばならない」

 

 血が抜けていくように体温が下がっていくのを感じた。

 何かが終わる。終わってしまう。

 

「君の気持ちには気づいていた。好いてくれているのだろうと思う。それが親愛ではないこともわかる。しかし――」

「待って、ください」

 

 ターニャは頑張って笑顔を作ろうとした。頬を和らげて、眉を緩めて。しかし、力を抜くと涙がこぼれてきて、それがひどく情けなかった。

 この日が来るとわかっていたはずなのに。

 

「せめて、伝えさせてください。……あなたが好きです」

 

 膝の上に置いた手を強く握った。

 

「今この瞬間も私を傷つけまいと尽力してくださる優しさも」

 

 この関係が始まったのは、包丁で己が胸を突こうとするターニャを彼が止めてくれたときだった。あの日から、ターニャは彼のもとで変化し、今の姿に至った。

 

「仕事熱心でどんなことにも手を抜かない真面目さも」

 

 初めて会ったときからずっと彼は職務に忠実だった。ターニャの世話をすると宣言して一緒に暮らしはじめてからも、彼はあらゆることに努力を向けていた。

 

「ちょっとおっちょこちょいで勢いが勝ってしまうところも」

 

 ターニャが初潮を迎えた朝、彼は大いに慌てふためいていた。もちろん、ターニャを心配してくれてのことで、とても嬉しかったが、つい笑ってしまった。

 

「私と一緒に暮らすというだけの理由で何も言わないのに禁煙してくれたことも」

 

 帝国軍人の倣いで彼も喫煙者だったが、次第に彼の軍服から煙草の匂いが抜けていくことで、禁煙していることに気づいた。いい機会だから、となんでもないようにそれを認めた。尊敬するとともに、胸が高鳴った。

 

「笑顔のぎこちなさも」

 

 表情筋が機能していないのか、彼の笑みはぎこちなかった。一緒に暮らすうちに和らいだが、ターニャはぎこちない笑みも、穏やかな笑みも好きだった。

 

「あなたのいいところ、悪いところ、かっこいいところ、情けないところ、全部好きです」

 

 もう涙が止まらないのは仕方がないと思った。最後の時間をしゃくりあげて過ごしたくないと思って、言葉を紡ぐことと、呼吸することに専念した。怖くて仕方がなかったが、彼から目をそらすことだけはしなかった。それほどまでに彼が、エーリッヒ・フォン・レルゲンが好きだった。

 

「あなたは、私にぬくもりをくれた。冷たい歯車だった私がこうして人間をできているのは、あなたがいたからです。ありがとう、ございました。あ、あなたの、健康を……ずっと、想っていますから……」

 

 ああ、だめだった。

 結局、最後は声にならなかった。ターニャは悔しかった。己の弱さが憎かった。好きな人に最後の笑顔を見せられない、これほど悔しいことがあろうか。

 彼が椅子から立ち上がった。世界から色が消える、そんな音がした。

 

「――早合点で泣かないでくれ、馬鹿者」

 

 突如としてぬくもりに包まれて、ひゅ、とターニャの喉から情けない音が出た。

 少し乱暴なくらい強く抱きしめる手。それが幻覚でないことを、エーリッヒの声が示した。

 

「君が好きだ。努力家なところも、勤勉なところも、甘え上手なところも、照れ屋なところも、抱え込みがちなところも、口が悪いところも、大きな瞳も。知らなかった君を知るたびに、愛おしさが増していった。正直に言う、かつて私は君が怖かった。今、君を知った私は、君に恋をしている」

 

 きっとこれは夢だ。

 わかっていながら、ターニャは頬をつねらなかった。せめてもう少し、あとで絶望するとしても、浸っていたかったのだ。

 

「なかなか伝えられなかったのは、年の差で君に苦労をかけるのではないか、病で弱った君につけ込んだのではないかと杞憂したためだ。しかし、覚悟した。いかなる艱難辛苦も、君となら乗り越えられる」

 

 この先を聞いたら戻れなくなる。わかっているはずなのに、ターニャは耳を傾けていた。

 

「愛している、ターニャ」

 

 見上げれば、彼の顔がすぐそばにあった。困っていて、悩んでいて、しかし一生懸命で、真剣な表情だった。見つめるのが怖くて、逃げ出すことはできなくて、ターニャは背伸びをした。

 硬い唇だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第18話 女子

 二人の関係に大きな変化が生じたかというと、そういうわけではなかった。出勤の見送りと出迎えの際に軽いキスをする習慣が加わったことと、眠れない夜にターニャがエーリッヒのベッドに潜り込むようになったことを除けば、大方今まで通りだった。

 ターニャも恋人生活を楽しみたくはあったが、世の恋人が何をするかなどという知識は持ち合わせていない。

 

「それで、私を頼ったと」

「そうだ、ヴィーシャ。有能な貴官なら、なにかいい知恵を持っているだろう」

 

 非番と聞いて呼びつけたヴィーシャは泊まりの用意を済ませて飛んできた。ここしばらくの報告をすると、にこにこしたりうんざりしたり、表情筋が忙しそうだった。その豊かさを自分とエーリッヒに分けてもらいたいほどだ。

 

「うーん、まあ、いいですけど……そうだ、条件が」

「何でも言ってくれ」

「呼び捨てにしていいですか?」

「は?」

「恋に悩む可愛い乙女仲間です、親しみを込めてターニャとお呼びさせていただきます。あ、もちろんここは軍ではありませんから、貴官ではなくあなたとか、お前とか、君とか、お好きなように」

 

 奇妙な注文だったが、それくらいなら安いものだった。

 

「まあ、好きにしろ。それで、ヴィーシャ。君が思う恋人関係とはどういうものだ? 忌憚なき意見を聞かせてほしい」

「では遠慮なく。もう十分恋人関係というか、見ていて胸やけするレベルの熱々ぶりです」

「恋人になる前とほとんど変わらんのにか?」

「恋人になる前からイチャイチャしてらしたわけですから、当たり前かと。外出中はほとんどずっと手を繋いで、一日に三回も抱きしめあって、一緒に料理して一緒に食事して一緒に……」

「あーもういい、いかに自分が恥ずかしいことをしていたかよくわかった」

 

 なるほど、恋は盲目。

 

「そこにほとんど毎日駅前でキスまでして」

「わかったと言っているだろう! まったく、貴官……じゃない、君はずいぶんと遠慮がなくなったな」

「もちろん、ターニャのことは尊敬していますよ? でも、乙女街道では私が先任ですから!」

 

 ターニャは頭を抱えてため息をついた。追い出さないと今日は一日この調子だろう。しかし、呼びつけた以上帰らせるわけにもいかない。

 ターニャはヴィーシャが手土産に持ってきたブラウニーを一切れつまんで、思った以上の濃厚さに慌てて牛乳を飲んだ。おいしくはあるが、強い。ヴィーシャと同じだ。

 

「それで、婚前交渉はもうお済みですか?」

 

 ターニャは盛大に牛乳を噴き出した。

 

「わっ、大丈夫ですか? ハンカチです、どうぞ」

「ああ、ありがとう……じゃない!」

「すごい、いまどきイルドア人でもそんなノリツッコミしませんよ」

「この……」

 

 顔を拭いたハンカチでそのまま机の牛乳も拭き取って突き返すと、ヴィーシャは微妙な笑いを浮かべながらそれを受け取った。

 

「ターニャは本当に穏和さを獲得されましたね。昔だったら私はもう死んでいたのでは?」

「……君が死ねば帝国が困る。それだけだ」

「そうですね、ターニャのおかげで仕事は休暇をもらえるくらい順調です、ありがとうございます。それで、婚前交渉はもうしたんですか?」

「続けるのか、その話を」

 

 女子会というものはこんなに明け透けに性の話をするのか、とターニャは恐怖した。もう顔も覚えていないが、前世で女子会のためにおいしくておしゃれなお店を探していると頼ってきた事務員がいたような気がする。彼女たちもこんな話をしていたのだろうか。素直に怖い。

 

「実際のところ、結婚するまでそういう行為はしないという建前は残っていますが、先の大戦で完全に有名無実となったようにも思います。だって、出立する兵士が恋人だったら、帰ってくるかもわからないのにそんな建前に従うわけがないですよ」

「まあ、それはそうだが、今は平時だろう。というか、まだ昼食も食べていないのにこんな話をするのか」

 

 食後よりいいじゃないですか、と嘯くヴィーシャがあの第二〇三航空魔導大隊の副官だったなど、到底想像もつかない。

 激動の時代にしたってもっとまともな変化を期待していただけに、ターニャはひどく脱力した。変化というより、変だ。

 

「食事と言えば、駅から来る途中おいしそうな匂いがして」

「ああ、そういえばあのあたりに食堂があったな。この辺鄙な土地で、よく商売が成立するものだ」

「経験上、ああいうお店って地元の人に愛されているから続くんですよ。つまり、おいしいんです」

「……それで?」

 

 だいたい予想はついていたが、続きを促した。

 

「食べに行きましょう! ターニャの奢りで!」

「行かないし奢らない。……飯時の食堂など、混みあっているに決まっているだろう」

 

 朝の駅から一人で帰るのも、夕方の駅まで一人で迎えに行くのも、もう十分慣れてきた。毎日のようにベンチで日向ぼっこしている老婆とも挨拶を交わすくらいにはなった。しかし、まだその段階だ。

 食事客の雑然とした会話と一瞬飛んでくる好奇の視線、それらを無視して席につき、声を張り上げて注文を伝え、人目を気にせず食事しなければならない。越えるべきハードルの多さにめまいがする。

 

「そろそろ閣下からデートのお誘いが来そうだと思いますけど、対策はお済みですか?」

「……それは、確かに十分とは言えない。しかし、無理をすれば彼に迷惑がかかる」

「それはもちろんです。だから、今であれば私と一緒に食堂で練習できますよ」

 

 魅力的な提案ではあった。

 ターニャも考えてはいる。帝都で一緒に過ごす時間を楽しいものにしたい。そのためには人ごみや接客に慣れる必要がある。それに、はぐれた場合自分で行動しなくてはならない。ただ待つだけの女にはなりたくなかった。

 悩みに悩み、唸りに唸って、ようやく決意が成立。

 

「その……頼ってもいいのか?」

「ああ、これはレルゲン閣下が撃墜されるわけだ……」

「ヴィーシャ?」

「お任せください。ヴィーシャはずっとあなたの副官で、乙女街道の先輩ですから!」

 

 促されるままに外出の準備をしていると、乙女街道の先輩様からご指摘が入った。

 

「白いシャツがお好きなんですか?」

「ああ、まあ、清潔感があるからな」

 

 エーリッヒに着替えさせられたあの日を思い出すたびに、清潔を徹底しようと誓った。その結果が同じサイズの白いシャツばかり並んだ衣装棚だ。

 前世の記憶が正しければ、世に天才と呼ばれる成功者の中には同じ服をいくつも買って悩むコストをカットしている者がいた。ターニャは服を選ぶセンスがないことの言い訳にこの記憶を使っていた。

 

「戦時中、休暇はどのような格好で過ごしてらしたのか、伺っても?」

「常に軍服だったな。いや、寝ているときはちゃんとパジャマだった」

「パジャマと軍服以外です」

「……入浴時は裸だ」

「つまり、私服はお持ちでなかった」

 

 これは磨きがいがあります、と呟いたヴィーシャが妙に怖くて、ターニャは後ずさりした。

 

「大衆食堂は狭いので、気を付けないと普通のレストランより汚れやすいんです。それに、緊張すると食べこぼしがあるかもしれませんし、できれば汚れの目立たない服を選びたかったんですが……」

「だ、大丈夫だ、気を付ければよいのだろう」

「これはリハビリテーションでもありますから、考えることはできるだけ減らしたいんです。紙エプロンがありそうな店構えでもなかったし、持参したほうがいいかな。用意してくるので、狭い空間での活動を前提とした装備を選んでいてください」

 

 状況が変われど、ヴィーシャが有能なことは間違いなかった。

 今回の食事には適していないらしい白のシャツを着る。最近、少し胸がきつい気がして、成長期を予期せずに何枚も同じ服を買った昔の自分が少し恨めしかった。

 心なしか大きくなった胸に手を当てる。エーリッヒは大きいほうが好きなのだろうか。

 婚前交渉。

 考えが急速に不健全な方向に進んでいることに気づいて、ターニャは慌ててシャツのボタンを閉めた。耳まで真っ赤になっているであろうことは顔の熱さで容易に分かった。

 汚れが目立たない色と指定されていたが、迷彩やベージュというわけにもいかないだろう。そもそもそんな色の服は持っていない。悩んだ末、紺のスカートを選んだ。スカートにも色々種類があるらしいが、ターニャはその名称を知らない。

 

「白のシャツに、紺のスカートか。靴下とローファーを合わせれば女学生だな……何を言っているんだ、私は」

 

 馬鹿げていると思いながらも黒の靴下を履いた。鏡台の前でくるりと回ると、なかなか悪くないように思える。髪はまとめたほうがいいだろうか。

 

「わあ、可愛い! 似合ってますよ、ターニャ!」

「ふふ、そうか? まあ、そうかもしれない……いつから見ていた?」

 

 完全に浮かれていた自分に気づいて、それをヴィーシャに見られたことをひどく恥ずかしく思った。まったく気づかなかった。ターニャが備えていた軍人としての嗅覚はすっかり鈍ってしまったらしい。

 

「一回転からです。それより、いいものを持ってきました。ちょっと動かないでくださいね」

 

 ヴィーシャはターニャの首に手を回すと、シャツの襟をいじり、最後に首元で何かを結んだ。

 

「はい、いいですよ。どうですか?」

 

 鏡に映っていたのは、ネクタイの代わりに紐のようなリボンを着けたターニャだった。飾り気のない黒のリボンが白のシャツを引き締めて、落ち着いた大人に見える。

 ターニャは、自分が可愛いのではないかと思い始めた。

 

「ヴィーシャ、その……」

「どうしましたか?」

「エーリッヒが帰ってくるまで、借りていてもいいか? 彼に見せたくて……」

 

 ヴィーシャはぽかんとしたあと、嬉しくてたまらないといった具合で頬を緩めた。

 

「もとから差し上げるつもりで持ってきたんです。あとで着け方を教えて差し上げますね。髪まとめちゃいますから、座ってください」

「……ありがとう、ヴィーシャ。その……なんというか……君が友達でよかったと思う」

 

 髪に取りかかったヴィーシャの顔は見えないが、ターニャは彼女がいま笑顔であると確信していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第19話 飯屋

「も、もう少しだけ待ってくれ。深呼吸、深呼吸するから……」

「このくだりもう三回目ですよ、ターニャ」

「これで最後だから!」

 

 完全に駄々をこねる子どもであることは自覚していたが、それでも緊張には勝てない。店の引き戸から少し離れたところでターニャはヴィーシャの裾をつまんで引き留めていた。

 思い返せば、この世界での人生においてターニャは大衆食堂を含む飯屋の類に行ったことがない。外で食事をとったのはせいぜい静かで落ち着いた軽食喫茶くらいだ。興味本位でビアホールを覗いたこともあるが、騒々しさと酒臭さに参って早々に退散した。

 つまり、ターニャの華々しい飯屋デビューが近づいている。

 

「やればできるやればできるやればできる。……よし、前進だ」

「はい、行きましょう!」

 

 店先のボードを確認する。今日のおすすめはフリカデッレ、肉団子だ。肉団子に外れはないだろうと判断したターニャは、フリカデッレのセットを注文すると決めた。今のうちに注文を頭の中で復唱していればつっかえることはないはずだ。

 ヴィーシャが戸を引くと、店内から熱気と騒音があふれ出してきた。人ごみとはこんなものだったか。ひどく雑然としている。エントロピーの増大が著しい。ターニャは自分が気圧されていると気づいた。

 

「いらっしゃい!」

「こんにちは、二人です。テーブル席空いてますか?」

「ちょっと待ってな。おい、じじいども! 可愛い嬢ちゃん二人にテーブル席空けてやんな!」

 

 食事中だった客たちが次々に席を立つ。会計を済ませて出る準備をする客、カウンターに皿を置いて立ち食いする客、店の隅の木箱に腰かけてパンを頬張る客。

 ヴィーシャは笑顔で彼らに挨拶し、礼を言い、手を振っている。ここで固まっているのはヴィーシャの友達としてよろしくない。ターニャは決死の覚悟で口を開いた。

 

「あ、ありがとうございます」

「おや……お前さん、去年の夏あたりに越してきた……なんつったか……」

「た、ターニャ・デグレチャフです」

「おお、そうだ、ターニャちゃん! うちの婆さんが世話になってるなあ。ほら、駅でいっつも日向ぼっこしてる」

「えっと……ああ、マダム・シュトラウスですか。私こそ、いつもお世話になっていて……」

「はっは、あの婆がマダムか、そりゃいいや! おい親父、このフロイラインたちのぶんもチップ置いとくからな! んじゃ、失礼するぜ。今度あの男前な旦那さんの話聞かせてくれよな」

 

 なんと返せばいいものか悩んでターニャが曖昧な笑みを向けると、ちょうど店の主がテーブルを拭きに来た。

 

「ウド、よその幼妻口説いてる暇があったらさっさと席空けやがれ。ったく……気を悪くしないでくれよ。久しぶりに越してきた若い人が大変にお似合いで熱々な夫婦だってんで、みんなお友達になりたがってんのさ。俺はティモ・ハイツマン。ここらで一番の料理人だ」

「そりゃここらに飯屋は親父んとこしかねえからなあ」

「うるせえ、さっさとそのでけえケツ、おっと失礼、大きな尻をどけねえか」

 

 なにがなにやらわからないが、どうやら歓迎されているようだった。

 日本の記憶が残っているターニャとしては、賑やかな厚意が息苦しくすらある。それに、善意で話しかけてくれる人たちの言葉に怯えるのはあまりにみじめだ。しかし、前世を言い訳にするのは今を生きる中で得たすべてに失礼だとも思う。だから、無理をしない範囲で歩み寄る覚悟をした。

 

「その、お店のいい匂いで前から気になっていたんですが、なかなか入る機会がなくて。明るい雰囲気のお店でよかった」

「そりゃ嬉しいね、今後ともご贔屓に。おーいお連れの嬢ちゃん、席空いたぞ」

「ありがとうございます! やー、いいお店ですね。こういう食堂ってもっと狭くてこじんまりしてる印象があったんですけど」

「土地が余りに余ってるからなあ、先々代が馬鹿みてえにでかい店立てちまって。戦争が終わってからはおかげさまで満員御礼だがよ。さて、お飲み物は?」

 

 失念していた。飲み物を考えていなかった。店頭のメニューすら確認していない。

 

「私は炭酸水で。ターニャはオレンジジュースとハーブティーどちらがいいですか?」

「あ……オレンジジュースで」

 

 ヴィーシャに救われた。ターニャが目で謝ると、気にするなと言わんばかりの微笑が返ってきた。

 

「炭酸水とオレンジジュースね。食べ物は?」

「マウルタッシェと、レバーケーゼと、ブロートで」

「うちのレバーケーゼはレバー多めだけど大丈夫か?」

「多いほうが好きです!」

「そりゃいいや。ターニャちゃんは?」

 

 ヴィーシャの流暢なやり取りに圧倒されている場合ではなかった。正念場だ。

 

「ふ、フリカデッレをお願いします」

「フリカデッレか。大人の一人前は結構多いからな……半皿にするか? 食い終わって足りなきゃもう半皿持ってくるよ」

「えっと、その、はい、それでお願いします。ありがとうございます」

「なに、礼を言われるほどの手間でもねえさ。パンはつけるかい?」

「じゃあ、ブロートを」

「了解。飲み物が炭酸水とオレンジジュース、そっちの嬢ちゃんがマウルタッシェ、レバーケーゼ、ブロート。ターニャちゃんがフリカデッレとブロートね。すぐできるから待ってな」

 

 頷いてお礼を言うと、店主は手を振って厨房に消えた。

 大勝利だ。ターニャは達成感と緊張の糸が切れた脱力感で一気にぐったりした。しかし、店内でため息をついたりうなだれるのもよろしくない。やればできるの暗示が少し役立っていた。

 

「楽しみですね、ターニャ!」

「ヴィーシャは元気だな……それに人と喋るのもうまいし、笑顔が溌溂としている……私は羨ましくてならん……」

「でも、喋りや笑顔があってもなくても彼がターニャを愛しているのは変わりませんよ?」

「え、エーリッヒを引き合いに出すのは卑怯だぞ」

 

 卑怯なんてものはありません、とご機嫌な様子のヴィーシャを見て、ターニャは部下の教育を間違ったのではないかと思い始めた。卑怯な行為など存在しないという活動方針は確かにターニャが打ち立てたものだが、それは軍事行動における考え方であって、日常生活で友人をおちょくるときに使うことは前提としていない。

 ヴィーシャにからかわれてため息をつくと、思ったより自分が疲労していないことに気づいた。それほど苦しくも辛くもないし、緊張してもいない。依然として騒がしい店内にいるにもかかわらず、周りの目を気にして怯えていない。まだこの空気に親しみを感じることはできないが、居心地が悪いとまでは思わなかった。

 

「どうですか、ターニャ」

 

 何とは言わないが、ヴィーシャが何を聞きたいのかはわかる。やってみれば案外いけるものだった。思っていたより自分は回復しているのかもしれない。ターニャの気分はいつになく晴れやかだった。

 

「いいと思う」

「それは……よかったです!」

「ああ。なんというか、その、誘ってくれてありがとう、ヴィーシャ」

 

 ヴィーシャが自分を大切に、大事に扱ってくれていることはターニャも感じている。それはもしかすると対等な友人関係ではないのかもしれないが、ターニャはみじめにはならなかった。これから対等になることもできるし、ヴィーシャが困ったときに助けることもできる。

 手伝いらしい若い女の子が運んできた飲み物をヴィーシャが受け取った。ジュースが果実のうまみに満ちているのは、この世界のいいところのひとつだ。

 オレンジジュースを味わいながら、ターニャは呟いた。

 

「いい友達を持って幸せだよ、私は」

「あ……あー!」

「なんだ、人を指さすな」

「幸せって、いま幸せって!」

「ああ、まあ、そんなことも言った気がするが」

「だめですよ、先に閣下に言ってあげないと!」

「先も何もないだろう……ちゃんと彼にも言うさ」

「ターニャ」

 

 ヴィーシャが腕を伸ばして自分の両頬に手を添えたので、ターニャはびっくりしながら彼女の目を見た。

 ヴィーシャの目はとても真剣だった。

 

「ターニャ。お願いですから、しっかりと閣下に今の言葉を言ってあげてください。言われるまでもないと思いますが、閣下はターニャが幸せになるために身命を賭して奮闘してきました。もしターニャが幸せなら、それを伝えるんです。それが報いるということなんじゃないでしょうか」

 

 ヴィーシャの言葉はターニャの心にしっかりと刺さった。それは知らない間に膨らんでいた驕りという風船を割り、ターニャの胸に新たな風を吹きいれた。

 

「そうだな、その通りだ。ありがとう、ヴィーシャ。彼が帰ってきたら必ず伝える」

「はい!」

 

 ヴィーシャの手はそっとターニャの頬を撫でてから、彼女の膝の上に戻った。

 不思議な気分だった。前世を含めればターニャのほうが年上のはずなのに、今のヴィーシャは姉のようだ。かつての副官であり、今の姉であり、そして交際相手の部下でもある。あまりに複雑だ。

 

「それはそれとして、私もターニャと友達になれて幸せです。ああ、演算宝珠の録画機能が民間に出回ればなあ」

「出回ったところで何に使うんだ、あんなもの」

「それはもちろん、ターニャと彼の愛に満ちた日々を撮影して、結婚式でですね……」

「冗談じゃない、恥ずかしくて埋まりたくなる」

 

 テーブルに崩れ落ちそうになったが、店主が料理を運んできたのでターニャは椅子に座りなおした。店主の手が大きなトレイから次々に皿を下ろしていく。予想していた倍の量がテーブルに現れ、最初はあったはずの完食する自信が目減りしていった。

 

「ちらっと聞こえたが、ターニャちゃんは結婚式まだなのかい」

「はい、その……」

 

 事情を説明するわけにもいかず、かといってちょうどいい嘘を思いつくほど頭は回らず、口ごもると、ヴィーシャが助け舟を出してくれた。

 

「彼は私の上司なんですけど、いまちょうど繁忙期で。私もなんとか休暇をもぎ取って遊びに来たんですよ」

「ほう、そいつは大変だ。なんつったって戦後だからなあ、忙しいのはどこも同じか」

 

 何の仕事か聞かないあたり気の利く店主なのだな、とターニャは他人事のようにぼんやりしていた。とはいえ、軍服で出勤するエーリッヒを見かけたことがあれば職業は容易に分かる。

 

「それに、やっぱり女の子は婚約期間も楽しみたいものですから。ね、ターニャ」

「え、あ、うん。そうだな」

「はっは、そいつは昔から変わらんな。俺も若いころ女房に言われたもんだ。んじゃごゆっくり」

「どうもー」

 

 いずれはターニャもヴィーシャのように自然な会話ができるようになるのだろうか。イメージは浮かばなかったが、ヴィーシャの振る舞いから学べるものは学ぼうという心構えはある。

 しかし、今はそれより食事だった。熱々のフリカデッレから漂う食欲を誘う香りに負けて、ターニャのおなかが小さく鳴いた。

 

「いただきましょうか」

「ああ。いただきます」

 

 フリカデッレにかぶりつく。舌を火傷しそうな熱さだったが、予想をはるかに上回るおいしさに手が止まらない。肉汁とスパイスが口の中を支配している。

 完食できずに残りはヴィーシャに任せたが、自信を持っておいしいと断言できる店だ。近いうちにエーリッヒと来よう、そう思っている自分に気づいたターニャは、もう外出への恐怖を感じていなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第20話 感謝

 食べ過ぎで少し苦しさを感じながらヴィーシャと二人でお茶を飲んでいると、エーリッヒの帰りの汽車の時間が近づいてきた。

 

「そろそろエーリッヒを出迎えに行く。ヴィーシャ、今夜は泊まっていくのか?」

「うーん、最初はそのつもりだったんですけど……閣下とターニャがお戻りになったら帰りますね」

「なら一緒に駅に行くか?」

「おかえりなさいのハグとキスを私の目の前でなさるんですか?」

 

 それは確かにと頷いて、ターニャは一人で家を出た。

 頭の中で色々と文面をこねくり回し、どうしたらエーリッヒに今の気持ちを伝えられるか模索する。これはなかなかに困難な課題だ。

 悩んでいるうちに駅に着いた。この時間はほとんどいつもターニャ一人だ。朝は老婆が座っているベンチに腰かけ、懐中時計を取り出す。汽車が到着するまであと三分もない。途端に緊張してきた。

 最大限の喜びと感謝を伝える言葉。なにかあるだろうか。こういうとき、頭の回転が遅くなったことを悔しく思ってならなかった。

 下手な美辞麗句ではかえって上滑りする。エーリッヒは軍でおべっかに慣れているだろう。では、もっと詩的な言葉? ターニャにはそのセンスがない。それははっきりと自覚している。なんといってもまだ感情を自覚して一年経っていないのだ。

 答えが見つからないうちに汽車が到着してしまった。

 

「ただいま、ターニャ」

「おかえりなさい。その、聞いてほしいことがあって」

 

 エーリッヒは少し疲れた顔だったが、いつも通り頷いて、続きを促してくれた。

 大きく息を吸う。正念場だ。

 

「わ、私! 幸せです!」

「ターニャ……」

「ごめんなさい、もっと早くに言うべきでした。あなたのおかげで、私はとても、とても幸せです」

「そうか……そうか」

 

 突如、ターニャの視界が暗くなった。それが軍服の色で、自分が抱き寄せられたとわかったときにはもう脱出困難なほどしっかりと抱きしめられていた。

 ターニャの頬に温かい雫が滴った。エーリッヒは泣いているのだろうか。

 少し遅かったかもしれない。しかし、伝えることができてターニャはとても嬉しかった。これもまたターニャの幸せを構築する一要素だった。

 

「ありがとう、ターニャ、ありがとう」

「お礼を言うのは私です。ずっと頑張ってくださったのに、面と向かってお伝えするのがこんなに遅くなって」

「遅いなどとは思わん。ターニャ、これから君をさらなる幸福の高みへと連れていくと誓う。いや、一緒に行こう。その高みへ」

 

 ターニャを決して放さんとばかりに抱きしめる彼の手がたまらなく愛おしかった。ターニャは彼の胸に顔を埋めながら、心からの返事を伝えた。

 

「はい。あなたとなら、喜んで」

 

 抱き合っていたのはほんの数分だと思っていたのに、お互い落ち着いてから懐中時計を開くと汽車の到着から三十分も経っていた。街灯のない帰り道はすっかり暗くなっている。

 家にヴィーシャを残してきたことを話すと、エーリッヒはターニャを抱き上げて早歩きで帰路についた。暗い夜道を歩けばターニャは躓きかねないし、歩くのも遅い。不快にはならなかった。

 ヴィーシャはソファでうとうとしていた。どうやらお茶の片づけは済ませてくれたようで、テーブルが片付いている。

 

「ヴィーシャ。……ヴィーシャ!」

「はっ、ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ中尉、帰投いたしました! ……あれ?」

「何を寝ぼけている、少佐」

「ああ、お戻りになったんですね。准将閣下、ちょっとお渡しするものがあるのでこちらに。えっと、この袋かな……あ、ターニャはあっち向いててくださいね。大丈夫、やましいことじゃありませんから」

 

 なにを渡すのかはわからないが、ひとまずターニャはヴィーシャの言葉を信用して壁と睨めっこを始めた。

 

「これは……貴様、正気か?」

「閣下もご用意がないでしょう? いざというとき困ったことになりますよ、置いておかないと」

「だからといって、その、まだ早いのではないか」

「いつ使うかはお任せしますし、すぐに使い切る数ではありませんが、閣下のこだわりで女の子に恥をかかせないでくださいね。わかりましたか?」

「……まあ、貴官のおせっかいに感謝して、受け取っておくことにする」

「それがよろしいでしょうね。それじゃあ、しまってきてください。見えるところに置いておくものでもありませんから。……一応伺いますけど、使い方わかりますよね?」

「さすがにわかる、馬鹿にするな。もうこちらを向いていいぞ、ターニャ」

 

 何の会話をしていたのかさっぱりだ。

 女の子に恥をかかせないためのもので、使い捨てで、隠しておくものらしいが、ターニャはなにもぴんと来なかった。まだ女の子歴が浅い。

 エーリッヒが小箱を手に部屋へと消えるのを目で追いながら、ターニャはヴィーシャに問いかけた。

 

「何を渡したのか聞いてはだめか?」

「こればかりはお教えできません。レルゲン閣下にも名誉がありますから。とはいえ、じきにばれるとは思いますけど……」

「名誉にかかわるものなのか」

「はい。そして、お二人の幸せと健康を支える大事なものです。本当はさすがに気まずいんですが、どうやら閣下は用意してらっしゃらないみたいですし、ターニャも考えてすらいないようでしたので、出しゃばってしまいました」

 

 少し考えたが、やはりわからない。しかし、ターニャとエーリッヒを害するものではないだろう。ターニャは頭を振って、感謝の言葉を口にした。

 どこか急いだ様子で帰っていったヴィーシャを玄関で見送った。

 

「セレブリャコーフは帰ったか」

「はい。……お疲れのご様子ですね」

「いや、さほど疲労はない。セレブリャコーフに振り回されただけだ。食事にしよう、今日は帰りがけにうまそうなものを見つけて買ってきたんだ」

 

 エーリッヒが鞄から取り出した包みにはフリカデッレが入っていた。それも大人三人分はある。なんとも奇遇な巡りあわせに思わず微妙な笑いがこぼれた。

 

「てっきりセレブリャコーフが泊まっていくと思っていた。明らかに多いが……どうした?」

「いえ、フリカデッレに縁があるもので。少し長い話になりますから、食べながらでよろしいですか?」

「もちろんだ」

 

 ヴィーシャと二人で食事に行ったことを話すと、エーリッヒは驚き、そして嬉しそうにターニャを褒める言葉を口にした。ターニャからすれば連れ出してくれたヴィーシャのおかげで、自分の努力など些細なものに思えたが、エーリッヒにとってはそうではないようだった。

 

「そうか、それでフリカデッレを。今度、そこで夕食にしよう」

「エーリッヒには少し大衆的すぎるのでは」

「私は少し前までビヤホールの常連だった男だ。それほど違いはないさ。……残りのフリカデッレは明日にしよう」

「そうですね。ごちそうさまでした」

「ごちそうさま」

 

 食器を片付ける。ヴィーシャのある言葉がまだ脳裏から離れなかった。それどころか、こうしてエーリッヒのそばにいると、ますますそれが大きくなった。

 

「あの、エーリッヒ」

「どうした?」

「駅で話したことと関連するのですが……とてもお礼がしたい気分なんです」

 

 エーリッヒは最後の食器を棚にしまって、ターニャに目を向けた。

 

「それは嬉しく思うが……」

「だから、その。今夜、お部屋に行ってもよろしいでしょうか」

 

 ひどく気まずい沈黙が流れた。

 ターニャも断られるだろうとは思っているし、それで傷つくこともない。しかし、期待していないと言えば嘘になる。

 妙な汗が背中ににじんだ。

 

「それは、つまり、そういうことなのか」

「……婚前交渉ははしたないとお思いでしょうか」

「建前として、理解してはいる」

 

 エーリッヒが大きくため息をついた。

 どうやらなしのようだと気持ちを切り替えかけたところで、エーリッヒが笑った。

 

「ああ、いや、すまん。セレブリャコーフに感謝すべきか叱責すべきかわからなくなっただけだ。こういうときにかけるべき言葉を持ち合わせていないが……君がそれを望んでくれるなら、そうしよう。私もそうしたいと思う」

「本当に?」

「ああ」

「無理をしていませんか?」

「恥ずかしくなるからそれ以上はやめてくれ」

 

 ターニャはしばらくエーリッヒを見上げていたが、ひどく恥ずかしくなって、顔を背けた。少ししたらもっと近くで見ることになるはずなのに、どうにも視線を戻せない。

 

「……シャワー、先にどうぞ」

「あ、ああ。ありがとう」

 

 まったく悪い気分ではないが、緊張とむずがゆさで体の動かし方を忘れそうだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第21話 肉体

【警告】今回は強めの性的婉曲表現に満ちています。飛ばしても問題ないように続きを用意いたしました。お好きな方だけお楽しみくだされば幸い。


 バスローブ一枚の姿で、ターニャは扉をノックした。

 緊張。不安。期待。そして、自分でも恥ずかしいが、興奮。

 

「入ってくれ」

「失礼します」

 

 扉を引くと、部屋は薄暗かった。枕元の小さな電灯が唯一の光源だ。その中で、エーリッヒはベッドに腰かけていた。変な感想だとターニャも自覚しているが、彼はバスローブが様になっていた。

 部屋に入って、扉を閉めて、そこからどうすればいいかわからず、ターニャは立ち尽くした。こんなことは初めてだ。知識にもない。見当もつかない。

 

「おいで、ターニャ」

 

 いつになく甘い声がターニャの胸を高鳴らせた。言われるがままにそばへ寄り、彼の腕に包まれる。

 まだシャワーの湿度が残っていて、いつもより唇が柔らかかった。

 

「もっと強く、抱きしめてください」

 

 返事の代わりに力が増した。

 

「もっと」

 

 少し苦しい。自分でも馬鹿げたことだが、ねだっているのは自分なのに、求められている気がして心地よかった。

 

「もっと」

 

 本格的に頭がだめになったらしく、苦しさで息が荒くなるほどに気分が昂る。

 バスローブがはだけて、ターニャの肉体にかすかな光が差した。

 ターニャは自分の年齢と経歴が恨めしかった。こんなに幼く、そして傷だらけの醜い体で、エーリッヒに何ができようか。

 

「何を考えているかわかるから、先回りして答えるが……君の体にも私は愛おしさを感じている」

「……小児性愛?」

「違う。いや、もはや否定できないが。君の傷痕にこうして口づけできるのは、私の特権だろう?」

 

 エーリッヒの唇が触れただけで、身体中のいたるところが熱くなった。

 自覚したつもりだった。しかし、それを上回る勢いで、女性という自身の性質にターニャの思考は塗りつぶされていった。

 

「君はもう子を成せる体だが、あらゆる意味でまだその準備ができていない。だから、これを使わせてくれ」

 

 エーリッヒがベッドの脇に置かれた棚から取り出したのは、小さな包みだった。薄く、小さく、まるで個包装の菓子を思わせる見た目だ。エーリッヒの指先がそれを開き、中身を取り出す。その用途を聞いて、ターニャは使用に同意した。

 

「君がこれを知らない様子で安心した」

「知識としては、ありますが。あなたはお使いになったことがあるのですね」

「いや……若いころの話だ」

「ふけつ」

「その時のおかげで君を傷つけずに済む」

「……ただのわがままですが、私が最初でありたかったです」

 

 エーリッヒが女性にとって魅力的であることはターニャも身をもって体感している。過去に嫉妬していたらきりがない。しかし、今だけは彼を困らせたかった。

 

「それはすまなかった。どうしたら許してくれる?」

 

 ターニャはエーリッヒの唇をついばんだ。

 

「いっぱい愛してくれたら、許してさしあげます」




年齢を考えるとあまりに倒錯的であることは承知の上ですが、これが創作物であり、異なる世界の話であり、二人が本心から望んでいる行為であることを重々お含みおきいただければと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第22話 期待

 意識が覚醒して最初にターニャが知覚したのは、全身の疲労と痛みだった。

 ゆっくりと起き上がって、大きなあくびをする。とても長い眠りだったような気がした。そして、身体中がきしむにも関わらず、穏やかな幸福感が残っていた。

 肌に擦れるシーツが心地よい。二度寝してしまおうかとも思ったところで、異変に気が付いた。

 

「裸?」

 

 眠気が消し飛び、記憶が帰ってきた。甘く爛れた記憶。

 エーリッヒの瞳に映り込む乱れた自分の姿が蘇って、頭を抱えてベッドの上を転がった。

 

「何をしているんだ私は! 十四歳、いや、まだ十三歳だぞ……エーリッヒが逮捕される……いや、違法ではない、違法ではないが、帝国法で言及されていないのは合法だからではなく言うまでもないからだ! あああ、馬鹿、私は馬鹿だ……」

 

 ベッドからエーリッヒの匂いと情事の残り香を感じるのも、恥ずかしさと申し訳なさを助長していた。

 エーリッヒが無理をしているわけではないことは体で理解したが、それを浅はかにも喜んでいた昨晩の自分が恥ずかしくてしょうがない。ターニャは悶え苦しみ、呻き、悲鳴を上げ、そこでようやくカーテンの外がやたら明るいことに気が付いた。

 時計に目をやる。もうすぐ十二時だ。

 

「ああもう、なんてことだ……私は一応まだ帝国軍の大佐だぞ……」

 

 あまり空腹感はないが、食べねば体が動かないこともターニャは承知している。シャワーを浴び、服を着て食事をとったら、全力で掃除と洗濯と換気をすることに決めた。

 リビングルームに出ると、書置きが残してあった。エーリッヒの字で間違いない。ターニャはそれを手に取った。

 

 

 

 おはよう、ターニャ。ひどく疲れさせてしまったようだから、眠っている君を起こさず出勤することにした。

 夕飯になにか買って帰るから、用意はいらない。もちろんフリカデッレ以外を選ぶ。楽しみにしていてくれ。

 君のそばにいて、君を愛することができて、私はとても幸せだ。もし君が同じように思っていてくれるなら、これほど嬉しいことはない。

 それでは、行ってくる。

 

 

 

 紙面上にインクで記された文字だというのに、容易に彼の声で再生される。ターニャは自分に呆れながらも、頭の中に響く声はかき消そうとしなかった。

 こうして期待していたことが実現していくと、さらなる欲が湧いてくる。

 かつては慶事への興奮に目を付けたブライダル業界のマーケティングだと鼻で笑っていたウェディングドレスへの憧れも、いまはよくわかる。自分の背に合うドレスがあるのか、ターニャはそれが不安でならない。

 多忙な帝国軍人の妻、そう、妻として彼のためにできることを増やしたいとも思う。はるか昔、結婚は社会制度への屈服だと馬鹿にしていたような気がするが、はっきりとは思い出せない。思い出さないほうがよさそうだ。

 ターニャの目下最大の不安は、自分に育児ができるのかということだった。

 シャワーの水滴が伝うおなかを見つめる。ここから生まれてくる我が子に、親としてよい接し方ができるだろうか。自分のように屈曲することなく、健やかに育つ環境を構築できるだろうか。

 

「……浮かれているな」

 

 シャワーの温度を下げ、頭を冷やす。

 まだ恋人でしかない。婚約とすればエーリッヒは何かしらの発表をせねばならず、ターニャの存在が明るみに出る。それに、ターニャには家族がいない。帝国貴族の婚約には家族の同意が必要になる。

 これから家族になる人との関係を示すのに既存の家族が要求されるシステムは根本から間違っていると思いつつも、それが成立している現状を変えられるわけではなく、恋人と称すべき関係が続いた。

 恋人生活はとても楽しく、そして幸せだ。しかし、昨晩を経てターニャはそろそろ次の段階に進みたくなった。

 もちろん、エーリッヒの意思を尊重して、時期はゆっくり検討する。結婚しないという考えは持ち合わせていない。エーリッヒへの厚かましい信頼がそれを支持していることをターニャは自覚していたが、あえて修正しようとは思わなかった。

 曇った鏡を手で拭う。

 傷痕だらけの、幼い、幸せそうな笑みをたたえた少女がターニャを見つめ返していた。

 

「変わったな、ターニャ。ああ、変わったよ、ターニャ」

 

 かつて、ターニャは日本で働くサラリーマンだった。感情をコストとして計算する乾燥した冷酷な生き物だった。誰かを愛したことがなかった。男だった。

 すべてが取るに足らない過去として記憶の隅に片付けられていく。

 ターニャにはひどく悩んだ時期があった。問題の争点は、前世の話をエーリッヒにすべきか否かだ。悩んでいるうちに前世の価値、意味、重み、そういったものがどんどん薄れていって、気にしなければ思い出さないほどになりつつある。

 存在Xの精神汚染によるものかとも疑ったが、存在Xが語りかけてくることはない。それに、これが精神汚染であるのなら、歓迎してもいいとすら思っている。もちろん、思考を操作され介入されるのは大嫌いだ。しかし、この変化がなければ、いまの幸福はなかった。天秤にかけてぎりぎり好意的な感情が勝ったのだ。

 体を拭き、着替えてキッチンに立つ。どうやらエーリッヒが忙しい中肉団子スープを用意してくれたようだ。ターニャはそれを温めなおし、パンとともに昼食とした。

 

「ごちそうさまでした」

 

 食器を片付けながら、午後の時間が洗濯と掃除で消し飛ぶことを再確認した。少し気が滅入るが、身から出た錆だ。

 いつもならシーツはまとめて洗うが、さすがに放置するわけにもいかず、一枚だけ洗濯桶に放り込んで裸足で踏む。そのまま服や下着もやっつけた。不思議なことに洗濯機はないが乾燥機はある。思えば軍でも洗濯機を見かけたことはなかった。水を大量に要求する機械より水を排出する機械のほうが作りやすいのだろうか。答えは分からないが、便利ではあった。

 だいぶ板についてきた掃除も手早く済ませ、時計を確認する。出迎えの時間だ。ターニャは着替えて駅へと向かった。

 心なしか転ぶことも減ったし、歩くのも早くなったような気がする。気分がよかった。

 汽車から降りたエーリッヒに飛びつく。

 

「おかえりなさい」

「ただいま」

 

 この瞬間を一日ずっと期待していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第23話 盛夏

 郊外であればあるいはと淡い期待も寄せたが、どこであっても帝国の夏は暑いようだった。ターニャのまだ幼い体は将校寮の冷房を欲していたが、それをねだるほど強欲でも惰弱でもない。前線で戦っていたころの知恵を総動員して可能な限りの快適と健康を確保した。

 悪いとは思っていつつも、汗ばんで額に張り付いた前髪をそっと除けて眠っているエーリッヒの額に口づけを落とすのが幸せだった。軍人の倣いで眠れるときにしっかり眠るエーリッヒは、ターニャが少し触れた程度では目を覚まさない。それだけ信頼されているとも言えるだろう。

 毎日の薬が減って慢性的な眠気が薄くなってきたターニャは、だいぶ早起きができるようになった。彼の腕からそっと抜け出し、シャワーを浴びて、地元の服飾店で購入した半袖のシャツと短いスカートに着替え、郵便受けの確認をする。時刻は五時。もう十五分もすればエーリッヒが起きてくるだろう。

 新聞と郵便物をテーブルに置いて、小さい音でラジオを点け、朝食の準備をする。

 

「今朝の発表。帝国中央大学は合衆国との交換留学を認める方針。成立すれば戦後初の学生渡航者となり、学内では応募が殺到との報」

「殺到か。越えるべき壁は言語だけではないというのに、暢気なのか熱意があるのか」

 

 帝国中央大学は大陸でも最大級の総合大学だ。ターニャも一度は憧れたが、情報を集めていくうちに学閥のプライドをかけた醜い争いが見えてきたために興味を失った。大学では学問に勤しみたいのであって、権力争いやいじめに首を突っ込みたくはない。

 ザワークラウトと腸詰めのコンソメスープを手早く仕上げる。軍需品の固形コンソメが市場に出回りはじめたことで料理が幾分楽になった。

 スープがひと煮立ちするまでの間にパンをケースから出してスライスし、バターとチーズを棚から出しておく。ターニャは一度迂闊にもバターをしまい忘れて、バターが油の塊だと再確認させられた。

 

「帝都周辺の天気予報。一日を通して晴天。風も弱く、例年以上の猛暑となる予想。外出の際は日差しに注意し、こまめな水分補給を」

「さらに暑くなるとは。午前中に家事を済ませてしまうとするか……しまった、トマトを切らした」

 

 スープを火からおろす。取り分けるのは食べる直前だ。この暑さでは冷たいスープを飲みたいとも思うし、帝国の朝食は冷たい傾向にあるが、この家では夏バテせず乗り切るために温かいスープで朝を始めることにしている。

 もう一品ほしい気がして、ターニャはピクルスを大きめに刻んでおいた。近所の食堂に二人で行った際、エーリッヒが特に気に入っていたのがこのピクルスだ。それを聞いて喜んだ店主が快く一瓶譲ってくれた。

 このような感情に基づいた経済行為もまた数字によってモデル化できるということは前世の記憶から知ってはいるものの、それは経済行為の話であって、当事者としての気分のよさという極めて主観的な感覚はターニャの知るモデルに含まれていない。悪い気はしなかった。

 

「――おはよう、ターニャ」

「おはようございます、エーリッヒ。朝食の準備はできていますから、顔を洗ってきてくださいね」

「ああ、ありがとう」

 

 寝起きにもかかわらずいつもと変わらない凛々しさのエーリッヒにタオルを手渡す。これぞできる妻。ターニャは自分が誇らしく、少しむずがゆかった。

 仮に、これがわずかでも無理をしてのことであれば続かないのが人間の性であり、そのようにして破局するカップルがいるという話も”乙女街道の先輩”や最近知り合った彼女の友人から聞いている。実際、その友人女史は無理が祟って二度の失敗を経験しているとかなんとか。しかし、ターニャの理性、いや、ようやく育ってきた自分への信頼がその可能性を否定している。

 

「今日も暑くなりそうだな」

「例年以上の猛暑だそうです。日よけと水分補給が必須だと」

「そうか。家の中も暑くなるだろうから、体には気をつけなさい」

「はい、あなたも」

 

 あなた、という言葉に特別な意味を持たせる日が来るとは、あらゆる意味でターニャは予想していなかったし、当然想像すらしなかった。

 スープを取り分ける。ターニャが料理を担当しはじめたころ、エーリッヒは常に心配そうな顔をしていた。ターニャの腕前に不安があるのではなく、ターニャの身長で火や刃物を扱うことを危険視していたのだ。めまいやふらつきが減って、医師のお墨付きがあって、ようやくターニャはエーリッヒからナイフを扱う許可を得られた。

 

「いつもありがとう。よし、いただこうか」

「はい。いただきます」

「いただきます」

 

 パンとスープと漬物のシンプルな食事だ。もう少し凝ることもできると思うが、エーリッヒが「これがいい」と言ってくれたので、ターニャはこのスタイルを貫くことにした。「これでいい」でないところがミソだ。

 昔のターニャは何かを食べているエーリッヒの姿が想像できなかった。帝国軍人にありがちなコーヒーと葉巻で動いているイメージだ。そのイメージはしっかりと覆された。パンを片手に新聞を読む姿は実に様になっていて、ターニャは毎朝眼福な思いだった。

 

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさま。今日もうまい食事をありがとう」

「どういたしまして。何か面白いニュースはありましたか?」

 

 新聞を器用に片手で畳んだエーリッヒは、一瞬考えるそぶりを見せて、新聞を開きなおした。

 

「何面だったか……あった。ルーデルドルフ閣下のお孫さんがご婚約だそうだ」

「この方が? 落ち着いたお綺麗なご令嬢に見えますね」

 

 新聞の写真には、がちがちに緊張した若手官僚の隣ではにかむいかにも令嬢といった具合の美人が映っていた。

 

「それが、ルーデルドルフ閣下曰く大変に勇ましい方なのだとか」

「あの閣下が仰るなら相当ですが、なにか勇ましさを発揮するような事態が?」

「これは軍機だが、ピーマンを残すとお説教を食らうそうだ」

 

 あの大男がフォークでピーマンをこっそりよけて食べている姿を想像する。なんとも笑いがこみ上げてくる光景だった。

 エーリッヒは苦手な食べ物がほとんどない。強いて言えば糧食に入っている味のない堅焼きのビスケットくらいか。あれは前線でこそ嗜好品だが、家で食べたいものではない。

 

「君宛ての荷物が届いていたぞ。本か?」

「書物に分類されるとは思いますが、一般的に指すところの本ではないかと」

「ほう、気になる言い方だな」

「下着のカタログです」

「なるほど、失礼した」

「ご趣味がわからないので夜にでも一緒に見ていただこうかと思ったのですが、ご迷惑でしょうか」

 

 エーリッヒは言葉に詰まった様子だったが、結局は頷いた。

 おしゃれは足元と下着からとはヴィーシャの言だ。足元はともかく、下着がおしゃれとはどういうことかと質問すると、「意中の人にだけ見せる姿だからこそ力を入れるべき」と力説された。であれば、エーリッヒ以外に見せることもないのだから、彼に選ぶのを手伝ってもらうのが早い。

 先日、ヴィーシャを伴って近所の小さな服飾店に挑戦した際、採寸を担当した中年の女性に指摘されたのだ。そろそろ胸の下着も着用すべきだと。

 何が楽しくて出血もしていないのに日がな一日胸を圧迫せねばならないのかとうんざりしたが、着用しないと短期的にも長期的にも問題が生じると知って血の気が引いた。世の女性を尊敬する気持ちがますます高まる。

 

「一つ聞きたいことがあるんだが、いいか?」

「はい、なんでしょう」

「川は好きか?」

 

 不思議な質問に皿を拭く手が止まった。

 鍋を洗うエーリッヒを見上げると、そこはかとなく緊張しているようにも見えた。しかし、理由を問いただすほどのことでもない。

 

「自分で行ったことはありませんが、車窓に見た記憶を掘り返せばいい景色だったように思います」

「そうか。ありがとう」

「どういたしまして……?」

 

 特に説明はなかったが、エーリッヒの表情が明るいので、ターニャは気にしないことにした。

 帽子を被り、手提げかばんを持ち、財布を入れて、外出の準備は整った。エーリッヒと手を繋いで駅に向かう。玄関の扉を開けた途端襲い来る熱気は、まさに夏だ。

 夏に入ってターニャは手を繋いでいいものかと悩んだ。手汗でエーリッヒを不快にするのではないかと思ったのだ。しかし、繋ぎたいのも事実で、ターニャは素直に打ち明けることにした。エーリッヒも同じことを考えていた。結局いまも繋いでいる。

 

「すさまじい暑さだな……」

「そうですね……お仕事中、お気を付けて」

「ああ、君もな……」

 

 帝国は長い歴史を誇り、それと同じだけ帝国軍も積み重ねたものがある。当然建物も古く、新築の寮のほうがよっぽど涼しいのだ。冷房を置こうという話もあったようだが、予算が確保できず立ち消えになった。

 コーヒーをリッター単位で消費する帝国軍人が脱水症状になることはまずないし、そう簡単に暑さで参るほど惰弱でもないが、それでも暑いものは暑い。

 ハグとキスを交わし、汽車が豆粒になるのを見送って、ターニャは道を引き返した。直帰ではない。夕食の食材やそろそろ切れそうな諸々を補充するのだ。

 この地域一帯の補給を担う生活雑貨店とも多少は馴染んできたように思う。ターニャにとって大きな進歩だ。

 

「あらあおはようターニャちゃん、今日もえらい暑いわねえ。レモン水飲む?」

「ありがとうございます、ご馳走になります」

「本当にターニャちゃんはお行儀がよくて、うちの娘にも見習わせたいもんだわ。はい、どうぞ」

 

 レモンを絞ってほんのわずかな塩を融かしただけのぬるい水だが、これが夏はとてもおいしいことを知った。この地域の家庭の味らしく、子どもはこれを飲んで育つそうだ。

 感謝の言葉とともにコップを返すと、事実上のボスである店主夫人は笑みをさらに深めた。

 

「うちの娘がターニャちゃんくらいのころは生意気で生意気で、私の拳骨が痛くなるくらいだったわよ。なのにうちの人ったら甘やかしてばっかり。ねえ、聞いてるの、あんたー!」

「はいはいはい、ここら一帯に空襲警報みたいな声張り上げて、まったく。お前が叱ってばかりだから俺が慰めてたんじゃないか」

「子育てってのはね、ガラス細工作ってんじゃないのよ。ターニャちゃんも覚えておきなさいね、男親って胸張ってばかりでこっちが言わなきゃ説教もしないんだから」

「夫婦で助け合ってこその子育て、ですね」

 

 なんとか無難な言葉をひねり出すと、しかめ面で店主を睨んでいた夫人が再び笑顔になった。

 

「あらあーいいこと言うわね! ターニャちゃんならいい母親になれるわよ。でもちょっと早いかしら」

「ターニャちゃん、いまいくつだい」

「今月末で十四歳です」

「ちょっとあんた、女性に年を訊くもんじゃないわよ。でも、そうねえ、十三歳はまだちょっと早いかもしれないけど……でも、大事なのは自分たちよ、自分たち」

 

 声も体も大きい夫人だが、彼女の言葉は正しいように思えた。

 買い物を済ませたターニャはもらった飴を舐めながら帰路についた。結婚やら子育てやら、次から次に考えが浮かんでくる。とはいえ、人生を左右する重要なことを暑さに汗を垂らしながら検討するのもよろしくない。

 ターニャの誕生日が近いが、それをエーリッヒに伝えたことはない。去年は彼の誕生日を聞き損ねたせいでお祝いできなかったのだ。それに、もとより誕生日のお祝いをする習慣を持ち合わせていなかった。

 家事を済ませ、ラジオを聞きながらありもので昼食を済ませる。戦後になってニュース以外のラジオ番組も増えてきた。

 

「――いやあ、私の娘も婚約者がようやく帰ってきたというのでね、とうとう結婚を許さざるをえなくなって。ところがここにきて式場が満杯ときた。結婚式を相席ってわけにもいきません。これも一つの戦争ですなあ。そんなところで曲のリクエストが入りました。本日五曲目のナンバーをどうぞ」

「口が達者なものだ……式場が満杯、か」

 

 戦争が始まるから挙式というのはどうにも悲壮だが、戦争が終わったから挙式となると俄然明るくなる。とはいえ、この需要に合わせて式場ばかり立ててものちのち経営に響くだろう。

 ターニャが抱える懸念事項の一つに結婚式がある。ヴィーシャから聞く限りでは、帝国の結婚式は教会で挙げるのが一般的らしい。ターニャは存在Xへの憎悪こそなくしたものの、和解したわけでもないし、なにか声をかけられたわけでもない。一生に一度の思い出を教会で作るのも違う気がしていた。

 とはいえ、エーリッヒに相談するのも気が早いというものだ。あまり先のことを言って彼を困らせるのは本意ではない。どうにも暑さでやられたようで、ターニャは先のことばかり考えていた。

 考えるのはやめよう、でももう少し。そんなことをしているうちにうとうとし、瞼が重くなり、こくりこくりと頭が落ち。

 

「――ターニャ、ターニャ」

「ん……」

「ほら、起きなさい、夕飯の支度が整ったぞ」

 

 水から浮くような感覚とともに意識が戻ってくる。ホワイトソースとチーズの匂い、そしてエーリッヒの匂いがターニャを眠りから引っ張り出した。

 

「おはようございます……今何時ですか」

「二十時を少し過ぎたところだ」

「にじゅう……二十時!?」

 

 ターニャが飛び起きると、窓の外は真っ暗だった。虫の声すら聞こえる。完全に夏の夜だ。

 

「ごめんなさいエーリッヒ、いつの間に寝たのかさっぱり……」

「気にするな。駅に着いても誰もいないから肝を冷やしたが、ぐっすり寝ていて安心した。体調はどうだ?」

「少し頭痛が。水分不足かもしれません」

 

 エーリッヒからレモン水を受け取って飲み干すと、かすかに感じていた頭痛が和らいだ気がした。

 失態だ。出迎えにも行かず、夕食の支度もせず、惰眠をむさぼっていたとは。朝は非の付け所がない妻ができていたぶん、ターニャは落差でダメージを受けた。

 くしゃりと頭を撫でる手が、そのまま頬へと流れる。先ほどまで厨房に立っていたのだろう、いろいろなにおいが混ざっていた。

 

「そんな顔をしないでくれ。ほら、ただいま」

「……おかえりなさい、エーリッヒ」

 

 へこんだ気分を埋めるように、いつもより長めのキスをした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第24話 免罪

【警告】今回も強めの性的婉曲表現が含まれています。展開の都合でどうしても外せない部分であり、読み手を選ぶ形となってしまうことをお詫び申し上げます。性描写が苦手な方には閲覧を中止いただきたく存じます。


 帝国風グラタンを二人で完食した後、エーリッヒから差し出された写真と地図にターニャは目を瞬かせた。

 

「旅行、ですか」

「そうだ。暑い日が続くからな、少し涼みに行こう」

 

 確かに写真の中に広がる風景は涼むのに最適そうだった。木々は高く深く生い茂り、流れる川の向こうには小さく滝も見える。川原も綺麗そうだ。

 

「休暇はいただいてきた。小さいところだが貸別荘も予約してある」

「しかし、よろしいのでしょうか」

「何がだ?」

「その、うまく言えないのですが……」

 

 妙な杞憂が胸をもやつかせて、素直に喜びを示すことができないのが悔しかった。

 ターニャが凶弾を身に受けてもうすぐ一年になる。時折うっすらとだが悪夢を見ることもあり、仕事で疲れているであろうエーリッヒが相手をしてくれる。それがありがたくもあり、申し訳なくもあり、ここしばらくは少しだけ無理に気分を上げていた。

 多くを得た。しかし、強さを失った。どうして強いまま多くを得られなかったのか。

 

「大切な人の誕生日だ」

「ご存知だったんですね。お伝えするのを忘れていました」

「スケジュール帳にしっかりとメモしておいたからな」

 

 胸が痛んだ。

 去年のターニャはエーリッヒの誕生日を知らなかった。まだただの同居人だったころだから無理もない。しかし、見出した輝きを自分でくすませたような虚しさがあった。ターニャの気分を絡めとらんとしているのは、忘れたと思っていたみじめさだ。

 

「もちろん、君の調子に合わせる。家でゆっくり過ごしてもいい」

「……ごめんなさい、気を使わせてしまって」

 

 エーリッヒの観察眼であれば、ターニャの顔色や口ぶりから不調を読み取るだろう。しかし、朝から張りきったツケが回ってきたようで、ターニャはうまく取り繕えなかった。

 優しく髪を撫でてくれるエーリッヒの手が愛おしいのは変わらない。しかし、根拠のない不安が囁くのだ。その手を受け入れる資格はあるのかと。

 

「ターニャ」

「はい」

「思っていることを片っ端から言葉にしてみなさい。うまく表現できなくても、繋がらなくてもいい」

 

 視線を上げられなかったが、エーリッヒが穏やかな表情を見せようとしてくれていることは声でわかる。報いねばならない。ターニャはいつの間にか浅くなっていた呼吸をなんとか改善して、ゆっくりと口を開いた。

 

「杞憂が、とめどなくこみ上げてきて。……あなたが私を大事にしてくださっているのはわかっているつもりです。だからこそ、私はそれを受け入れることが許される存在なのか、自信が持てなくて。私は”ラインの悪魔”です。過去は変わらない」

 

 ターニャは笑おうとして、笑い方を思い出せなかった。

 

「私は、弱いですね」

 

 これ以上言うことが思いつかなくて、ターニャは再び俯いた。泣いてしまいそうだ。

 一瞬間があって、ターニャの視界が急に広がった。エーリッヒの腕がターニャを抱き上げている。エーリッヒはそのまま自分の寝室へとターニャを運んだ。

 

「私は医師ではないから、正しい対応を知っているわけではない。もちろん、それを模索する努力は怠らない。現状で私ができる、そしてしたい対応を選ぶが、傷つけてしまったらすまない」

 

 着替えることもせず、エーリッヒはターニャをベッドに寝かせた。そして、ターニャが何も言わないうちにエーリッヒも横になると、ターニャを抱き寄せて背に手を当てた。

 

「君の過去を全面的に肯定することはしない。そして、君の杞憂は君のものであって、私が口出ししたところで根本的な解決を見ることはないともわかっている。だから、言いたいことを言いたいように口にするが……私が君を求めている。許されるも許されないもない」

 

 優しくも真剣な声にターニャはただただ耳を傾けた。

 それはきっと免罪符だった。泡沫であるかもしれないし、児戯であるかもしれない。それでも、ターニャにとっては光明だ。

 

「私は今から君を苦しめる。すべてを私のせいにしてしまえ。この瞬間から君は囚われの身だ。もし逃げたければ、これが最後のチャンスだぞ」

 

 言葉とは裏腹に、あまりに丁寧で繊細な指先がターニャの髪を解き、シャツのボタンを一つ一つ外していった。

 

「君の弱さは私のせいだ」

 

 首筋に接吻が落とされる。ターニャは抵抗しなかった。抵抗できるはずもなかった。

 

「君の苦しさは私のせいだ」

 

 スカートのホックを外され、太ももを擽るように指先が躍った。その焼けるような感覚にターニャは小さな悲鳴を上げた。

 

「君の辛さは私のせいだ」

 

 熱がターニャを裂いた。ターニャの頬を涙が伝った。

 いくら彼の唇を啄んでも、ターニャの喉からこみ上げる泣き声は収まらなかった。声を上げるたび、熱を感じるたび、胸中を濁らせていた何かが吐き出されていった。

 あまりに幸せな免罪符だった。

 

 翌朝、ターニャは乾ききったグラタン皿にこびりついたチーズを削ぎ落しながら、テーブルに置かれたままの写真に思いを馳せていた。

 遠出をしてもよいか、医師に相談する必要がある。昨日一日だけでもターニャはひどく不安定だった。しばらくはエーリッヒに与えられた免罪符で暗雲と戦うことができそうだが、せっかくの旅行で暗い顔をしたくないし、エーリッヒにも楽しんでもらいたい。

 ひとまず次の非番にヴィーシャを呼んで相談しようと決めたターニャは、異臭を放つホワイトソースの空き缶に取りかかる覚悟を決めた。これが片付いたら大量の洗濯物と戦わねばならない。やることがあるほうがずっと気が楽だった。




当然の話ではありますが、現実での医療の観点からこの行為が正しいと主張する気は毛頭ありませんことをご理解いただければと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第25話 対策

 エーリッヒから見て、ターニャは再び翳りはじめていた。心配をかけないようにしているのか、表向きは明るく振舞っている。近隣住民とのコミュニケーションも問題なく成立しているし、食事量も変わらない。しかし、咄嗟の反応が鈍くなり、些細な失敗が増えた。

 表立って心配すればターニャを傷つけかねないが、黙っていれば無理が祟るのもそう遠い話ではない。難しい問題だった。以前のように衰弱してしまうのではないかという焦りもある。エーリッヒは帝都の懇意にしている医者と地元の医者の両方に相談したが、適切な対応は個々人で異なるらしく、答えは見えなかった。

 

「レルゲン閣下、今朝時点の決裁書類は以上です」

「ああ、ご苦労。セレブリャコーフ少佐、このあと少し空けられるか」

「はい、問題なく」

 

 空けてあるのは分かっているが、業務時間内であることは事実だ。形式上の確認を済ませ、執務室の鍵を閉めた。

 

「状況は変わらず、ですか」

「ああ。……医師に言わせれば、むしろ今までの回復が早すぎたくらいだそうだ。あの事件が起きた日が近い以上、揺り戻しは覚悟すべきだと」

 

 エーリッヒの執務室に重苦しい空気が流れた。コーヒーを飲む気にもなれず、水を喉に流し込む。今朝の大雨が涼しさを運んでくれるかとも思ったが、期待外れの蒸し暑さが脳を締め付けている。

 

「ままならんな。自分の矮小さを痛感する」

「閣下の努力がこれまでターニャを支えてきたのも事実です」

「……貴官に叱られると思っていた」

「八つ当たりはしません。私はターニャの副官ですから。それに、力不足なのは私も同じです」

 

 落ち込んでいても状況は打開されない。エーリッヒも頭では理解しているが、歯がゆさにため息が漏れる。

 エーリッヒが見てきた限り、ターニャは何かやることがあったほうが楽なようだった。精力的に家事をこなすことができる原動力にはそれも含まれているのかもしれない。

 何もしない時間、特に眠気に襲われているときの弱々しさは顕著なもので、営みの有無にかかわらずターニャとエーリッヒはほぼ毎晩同衾していた。

 

「先日、月のものが始まったときの話だ。彼女は自分の寝室で就寝した。深夜、悲鳴を聞いて駆け込むと、ベッドの上で右肩を押さえていた。……やはり、傷は深いらしい」

「健康な人間ですら嫌な記憶の時期は気が滅入ります。ターニャにとってはなおさらかと……」

 

 どうせ悩むなら動くべきだ。エーリッヒは己の頬を張って気合を入れると、引き出しから白紙を何枚か取り出した。

 

「状況を整理しよう。一年前、ターニャは共和国の愛国者に銃撃され、それをきっかけに戦争で積み重なった感情が爆発した。他者への恐怖心、殺してきた敵兵や殺させてきた部下への罪悪感が主だろう」

 

 時系列で図式化していく。

 ヴィーシャは使い捨てのペンを胸ポケットから取り出して、エーリッヒの書いた図に書き加えていった。

 

「銃撃の記憶を消すことも好転させることも不可能です。これについては風化を待つほかありませんね。恐怖心はどうでしょうか」

「地元の商店にも一人で出入りするようになった。内実はともかく、コミュニケーションが取れる程度には落ち着いているようだ。しかし、初対面の人間と接してどうなるかはまだわからんな」

「なるほど。では、罪悪感は」

「判明している中ではこれが一番大きいと思われる。初めて彼女を訪問した際に彼女が口にした話とも一致する部分がある」

 

 罪悪感に傍線が引かれる。

 おそらく、戦争でターニャも気づかないうちに積み重なった罪悪感だけでなく、ターニャが感情を自覚してから芽生え、育った罪悪感もあるだろう。一番とりかかりやすいのはこれかもしれない。

 エーリッヒがこの仮説をヴィーシャに投げると、彼女も同意した。

 

「加えて、ターニャは仕事を振り分けるのは得意でしたが、誰かに頼る様子は昔からほとんど見られませんでした。慣れないことをすれば誰でも疲れます。それに、頼ってばかりでは申し訳なく感じるでしょうし、自分の能力や信頼関係に疑念が生じてプライドが傷つくこともあるかと」

「ターニャが心の底から傷ついているときに口にする言葉がある。”みじめ”だ。言葉通りに受け取るなら、彼女の傷はプライドと結びついている」

 

 もしかして、とヴィーシャはペンを動かし始めた。

 

「ターニャの傷はおおまかにわけて二つあるのではないでしょうか」

「聞かせてくれ」

「銃撃をきっかけに生じた恐怖心とプライドは直接結びつかない気がするんです。どちらかというと、恐怖心に支配されている自分と長く過ごしたことによるものなのでは、と」

「なるほど、傷が傷を呼んだわけか。難しいな、これは」

 

 紙面に目を落とす。

 過去の記憶を相対的に軽くすることで風化させる。これは長期的な計画になる。

 かかる負担を減らすことで傷が開く機会を減らす。こちらは今日から実行できるだろう。ここにおける負担とは、肉体的なものよりむしろ精神的なものだ。

 

「ターニャが無理をしない範囲で彼女を頼る、この方針で行こうと思う」

「そうですね、それがよろしいと思います。……話は変わりますが、誕生日の件はどうなさるおつもりですか?」

 

 医師からは旅行を決定するのはもう少し後でいいだろうと言われている。貸別荘のオーナーにも再度連絡を取り、仕事の都合でまだ確定できないことを伝え、了承してもらった。問題はエーリッヒがターニャに「貸別荘の予約を取った」と伝えてしまったことだ。無理をして行くと言い出しかねないし、それを否定すれば罪悪感が深まるだろう。

 喜ばせるつもりが首を絞めている。難しい状況だが、エーリッヒは諦めていなかった。

 

「もう少し様子を見るが、旅行を取りやめるとは言わないつもりだ」

「了解しました。水着選びを手伝ってほしいと手紙をいただいているので、近々休暇を取ってご自宅に伺いますね」

「ああ、よろしく頼む。……ところで、厄介な事態になったが、もう貴官の耳にも入っているか」

 

 ヴィーシャは苦々しげな表情で頷いた。

 エーリッヒとヴィーシャが交際関係にある。そのような噂が軍部に広まりつつあるのだ。エーリッヒは後方を支える若き参謀次長。ヴィーシャは”暴虐的で冷酷な幼いエース”を陰日向に支え続けた実力者。その二人がしばしば執務室にこもり、揃ってゼートゥーアを訪ね、同じ汽車に乗っている姿を見た者もいる。

 見当違いも甚だしいが、噂を真に受けている者も少なくない。

 

「発信源は特定できたか」

「個人が流布したものではなく、複数の職員から同時期に広まりはじめています。初めて伺った際に泊めていただいたのが決定打になったようです。……私の失態です、申し訳ございません」

「気にするな。とはいえ、何かしらの解決を見ねばなるまい」

「難しいですね。婚約というわけにもいきませんし」

 

 ターニャもエーリッヒも帝国貴族であり、ましてや帝国軍大佐と准将の婚約だ。公式に会見を開くことになるだろう。それはターニャにとってたやすい状況ではない。

 今のところ、ゼートゥーアの権力によってターニャの情報は秘匿されている。今回はこの秘匿が仇となった。

 

「情報……秘匿……うむ。手がないわけではないが、ターニャが持ち直すまでは動きようがないな」

「これについては閣下が家でしっかりご相談されるのがよろしいかと」

「相談か」

「はい。場合によっては関係にひびを入れかねない話です。黙っているほうがよっぽど危険ですよ」

「……貴官に相談してよかった」

 

 ヴィーシャは呆れたようにため息をついた。

 

「そういうことを口にするから余計に誤解されるのでは」

「なんとも、ままならないな」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第26話 両頬

 積み重なったカタログにターニャは目を回していた。水色、桃色、若葉色、色とりどりの布切れが肌色を気持ち程度に隠している。この状況を目にしたらエーリッヒの頬がひきつるだろうことは容易に想像できた。

 それだけでなく、大変に姦しく喧しい喧嘩が目の前で繰り広げられているのだから、もう始末に負えない。

 

「わかってないわねヴィーシャは。いいかしら、水着ってのはそれ一枚なの。最終防壁なの。あと一手指せば崩せるって期待と緊張感が男を興奮させんの! ビキニ以外の選択肢はないわ!」

「それはバインバインボインボインわがままセクシー徹甲榴弾術式のエーリャだからでしょ! ターニャは蠱惑的でどこか危うげな美少女なの、隠してこその色気なの! ワンピースでしょワンピース!」

「はあ? この子がワンピースタイプの水着で泳いでるとこ想像してみなさいよ! どう見たって幼年学校の体育でしょうが! そっかー、ヴィーシャったら連邦にいたころから変わってないもんねー、仕方ないかー!」

「へえーそういうこと言うんですかー! 何が砲兵隊の観測員ですか、そんな節穴でよくその嘘が通りますねー!」

 

 ものすごくうるさくて、ありえないほど下らない。

 いま、この家には三人の淑女だけがいた。旅行の準備として水着を選びたいターニャ。水着選びの手伝いを頼まれたヴィーシャ。ヴィーシャだけに任せておけないと首を突っ込んできたエーリャ。

 エーリャ、エレーナ・アントノーヴナ・カトゥリスカヤはヴィーシャの幼馴染だ。連邦から一緒に亡命してきた仲だという。帝国軍の情報将校で、ゼートゥーアの配下であり、ターニャが軍を去る際の諸々を担当した人物でもあった。快活で物怖じしない振る舞いはターニャを後ずさりさせるほどだったが、第一印象とは裏腹に踏み込みすぎない思慮深さの持ち主であるとわかって交流が始まった。

 優秀なはずなのにたかが水着の話で今にも取っ組み合いを始めそうな二人を放置して、ターニャは一番近いところに置かれたカタログを手に取った。

 水着の種類を教わっているところまではよかったのだが、ビキニとワンピースのどちらが似合いそうか聞いたらこの様だ。ターニャが火をつけた気もするが、もう手に負える状況ではない。

 ターニャとしては傷痕を隠すためにも露出の少ないものがよかったが、子供っぽく見られるのも嬉しくない。いま見ているカタログのワンピースなど、前世で幼いころ目にしたスクール水着そのものだ。それは勘弁願いたい。

 

「こうなったら、やることは一つね」

「そうね、それしかない」

「おい、暴れるのはいいが人の家を荒らすなよ」

「暴れません。けど、ターニャにお願いしたいことが」

 

 妙に嫌な予感がして、カタログのページをめくる手が止まった。

 

「着せ替え勝負よ、ターニャ!」

「は?」

「外出の準備をお願いします、ターニャ。カタログほどの種類はありませんけど、こういうのはやっぱり着てみたほうがわかりやすいですから」

「おい、私はマネキンじゃないんだぞ」

「そりゃもちろんわかってるわよ。だから等価交換。全員でお互いの水着選び!」

 

 なにが等価交換なのかターニャにはわからなかったが、ターニャが想像するところの”女性らしい遊び”におおむね一致する。面白いかはともかく一度経験してみるのもいいだろう。知らないまま評価すべきではない。

 ターニャはカタログをテーブルに投げた。

 

「先に片付けだ。時間と体力が消し飛ぶのは目に見えている」

「やったー、私ターニャちゃんのこと好きよ!」

「鬱陶しい、くっつくな」

 

 軽く香水でもつけているのか、椅子に座るターニャの横から抱きついてきたエーリャはほのかにクランベリーの香りがした。これが女性の嗜みというやつだろうか。しかし、まだ十三歳のターニャが香水の匂いを振りまいてもませているだけだ。少し悔しくなった。

 さすがは情報将校、隠滅は得意と見えて、片付けの手際はターニャやヴィーシャを容易に上回る。ヴィーシャは料理の達人、エーリャは掃除の名人。ヴィーシャの料理技術はエーリャ由来だとターニャは聞いている。つまりエーリャが一番の有力株だ。

 しかしこの中で一番結婚に近いと目されているのはターニャなのだから、乙女街道とやらの実績は能力と比例するものではないらしかった。

 

「帽子よし、財布よし、水筒よし、懐中時計よし、火の始末よし」

 

 失態を防ぐために、ターニャは指差し確認を導入した。情けなくはあるが、迷惑をかけるよりはいい。

 

「施錠よし。手早く済ませるぞ」

「おっし、燃えてきたわ!」

「燃えるな。暑苦しい」

 

 エーリャという女はどうにも落ち着きがなく、またこの片田舎が物珍しいようで、花を摘んでターニャの髪に挿し、虫を掴んでヴィーシャを追いかけ、蛇を見つけて飛びあがった。

 

「あれ、エーリャって蛇だめなんだっけ」

「いや、ほら、毒があるじゃない? それに絡みつかれたら終わりそうだし。あと鱗がなんか、うん。それだけよ、それだけ」

「あの蛇、ケーニッヒ大尉に似てないか?」

「確かに……細い目と賢そうな動きがそっくりですね」

 

 草むらに消えていく蛇を見送っていると、エーリャが疲労に満ちたため息をついた。

 

「ケーニッヒ大尉って髪の長いあいつ? 第二〇三航空魔導大隊の中隊長から士官学校の教官になった」

「そう、そのケーニッヒ大尉だ」

「あいつ苦手なのよね、プライド高い偏屈な堅物って感じで」

「ああ見えて結構お調子者よ、彼。笑い上戸だし」

「え、ヴィーシャってあいつと付き合ってんの?」

「そうなのか、ヴィーシャ?」

「ないない、ないですよ。大隊のメンバーで一番女性の扱い下手だったもの。グランツ中尉が引くくらい」

「私の知らないところで何をやっていたんだ貴様らは……知っているところでやられるよりはましだが。ちなみに、誰が一番まともだったんだ?」

「うーん、ノイマン大尉でしょうか。先週会ったときもいい感じでしたし」

「はあー? 急に香水借りに来たのってまさかそれ? ヴィーシャの裏切り者!」

「結婚するなら早く報告しろ、祝電の文面を考える時間がほしいからな」

 

 思いもよらないところで慶事の気配がするものだった。重量級レスラーのような体格で穏和な性格のライナー・ノイマンはターニャも嫌いではない。場と程度を弁えており、気が利き、扱いやすい部下だった。

 第二〇三航空魔導大隊の面々から受け取った花束はいまも飾ってある。まだ会う勇気はないが、いつかは。

 

 服飾店の女店主は商売上手と見えて、「最近若い子が増えたから仕入れといたのよ」と様々な水着を出してくれた。

 

「ヴィーシャあんた前はどんなん着てたっけ、ショーパンのやつ?」

「そう、エーリャに選んでもらった紺色に蝶の。あれ着てたらすごい勢いで声かけられたんだけど」

「そりゃそうでしょ、似合ってるし露出多いし。でも今年はやめたほうがいいかも。あんた後方に回ってからくびれなくなったし。運動してんの?」

「え、えへへ……ターニャはどれがエーリャに似合うと思いますか?」

 

 急に話を振られて面食らいながらも、ターニャは胸を張ってポーズをとるエーリャを見上げた。

 ヴィーシャがたびたび口にする通りの”わがままボディ”で、癖っ毛がふわりとした赤髪ショートと輝く瞳が快活な印象を後押ししている。背も高い。

 なんでも似合う気がして、選ぶのが難しかった。

 

「選ぶ基準がわからん。似合う、似合わないという線引きはあまりに漠然としていないか?」

「それもそうね。うーん……たとえば私の場合、左の二の腕にでっかい傷痕があるから、それを見せるかどうかで分けられるかな」

 

 シャツの袖をまくってみせたエーリャの左腕には、確かに肩から肘近くまで一筋の切り傷が刻まれていた。痛々しくも勇ましいそれは軍人の勲章とでも言うべきだが、見る者によっては彼女の美しさを損ねていると指摘するだろう。

 なんの恐れもなく平然と傷を見せたエーリャに驚くと、表情に出たのか、エーリャが不敵な笑みを浮かべた。

 

「こういうのはね、誰かが先陣切らなきゃいけないわけ。このメンバーじゃ私が一番お姉さんだから私の仕事。それに、あんたら二人が名誉の負傷を吹聴する人間じゃないってのもわかってるし」

「気にしないでくださいターニャ。エーリャは昔からちょっと考えが痛いというか、かっこつけなんです」

 

 自身の怯懦にターニャが情けなくなる間も与えずに喧嘩を始めた二人を見上げて、ターニャは少しだけ勇気が湧いた。前世がどうであろうと、また階級や戦績がどうであろうと、この場ではターニャが最年少なのだ。乙女街道の先輩たちに指南を受けることを恥と思うべきではない。

 

「……安直に考えるならこの袖のあるやつだが、それでは腰が隠れて強みを活かせないか。いや、待てよ? あるいは……」

 

 ターニャが手に取ったのは布面積の少ないビキニだ。それも胸部分の中央を紐で編み上げてあるものを選んだ。

 

「あえて傷痕を見せるのも手、なのか?」

「ほほう、その意図は。このエーリャが採点して進ぜよう」

「そのキャラなに?」

「ヴィーシャは競泳水着でも見てなさいよ。それで?」

「今は戦後で、戦い抜いた人間の勇ましさが賛美される。それなら傷は隠すより見せ方を工夫すべきだろう。この編み上げは露出と勇ましさのバランスがいい、気がする。……どうだ?」

「なるほどなるほど。すごいわねターニャちゃん、今季の流行を読んだうえで私に合った水着を選んでくれたわけでしょ? もうばっちりじゃん!」

 

 エーリャの満面の笑みは眩しくすらあり、活発な美人とはこういう人のことを言うんだな、とターニャはどこか他人事のように思った。

 エーリャは水着を手に試着室へと向かった。ようやく静けさが戻り、店内放送の古ぼけたラジオと奥の部屋で丈直しをするミシンの駆動音がよく聞こえる。

 

「どうですか、ターニャ」

「ああ、まあ、悪くないはずだ」

「もしお疲れでなければ、私の水着も選んでいただければと」

「それは構わないが……私のセンスでいいのか? 本当に?」

「はい、もちろんです!」

 

 この笑顔をふいにするわけにもいかず、ターニャはヴィーシャの体をじっくりと観察した。

 今までは女性の体をじっくり観察することを避けてきた。その点に関してはまだ前世の感覚が残っているようで、セクハラを疑われるリスクを減らしたかったのだ。

 ヴィーシャの魅力といえば青く澄んだ瞳であるとターニャは思っている。であれば、注目が顔に向くよう水着はシンプルなほうがよいのかもしれない。

 また、体つきはエーリャにこそ劣るものの、とりたてて貧相というほどではない。どれを着ても似合わないということはないだろう。

 カタログの情報と謳い文句を加味して、ターニャは候補を絞り込もうとした。しかし、いまいちぴんと来ない。

 これも勉強だ。ターニャは素直に状況を報告することにした。

 

「ヴィーシャの綺麗な瞳に視線を向けるには、水着はシンプルで落ち着いたものがよいのではないかと考えたのだが……ほどよい体つきだからどれも着こなせる気がしてな。候補が絞り込めん」

「おお、なるほど。ありがとうございます! そうですね、それなら組み合わせの相性も加味していただけると助かります」

 

 組み合わせ、とターニャが呟くと、ヴィーシャは頷いて、二着の水着を手に取った。

 

「たとえば、この黒のチューブトップ型は露出が多めで、かつ大人の雰囲気があります。泳いだり運動するよりもビーチでのんびりする人向きですね。一方、この若葉色のハイネックビキニは露出が少なく、若々しさがあります。動くのにも適した構造です」

「なるほど。一緒に行動するには雰囲気も活動目的も噛み合わない」

「おっしゃる通りです。もちろん、最終的には着たいものを着るので合わないこともあります。でも、どうせ一緒に買いに来ているのですから、ね?」

 

 理屈が通っていた。ターニャとともに軍で戦ってきただけあって、ターニャにとってわかりやすい説明をするのに慣れている。意味のない仮定ではあるが、もしターニャが今も軍に残っていたら絶対にヴィーシャを手放さなかっただろう。

 ターニャが感心に浸っていたそのとき、ごきげんな様子でエーリャが試着室から戻ってきた。

 

「ただいまー」

「あれ、水着は?」

「サイズも雰囲気もばっちり! せーのでお披露目したいからいったん脱いで預けてきた。で、ヴィーシャのはどんな感じ?」

 

 ヴィーシャが状況を説明すると、エーリャは満足そうに頷いた。

 

「我が弟子ヴィーシャよ、成長したではないか」

「ちょっと、勝手に入門させないでよ」

「すでに破門したわ、ふはは」

「なにをやっているんだ、なにを……ほら、選んだぞ」

 

 ターニャがヴィーシャのために選んだのは、腰回りがミニスカートになっているビキニだ。白の下地に小さな青い薔薇を散らした生地は派手すぎず、地味すぎずでほどよいとターニャは見立てた。

 エーリャが「くびれが消えた」と指摘していたことを考えたとき、腹回りをへこませるよりは腰回りを膨らませるほうが容易に思えた。そこでスカートだ。

 動きやすいこの水着であれば活発なエーリャと一緒に活動できる。あとはヴィーシャの好みかどうかだ。

 

「可愛い! 持ってないタイプの水着です」

「あんた童顔の割に乙女系の選ばないもんね」

「好みから外れるなら、選びなおすが……」

「いいえ、私はこれがいいです! サイズ違いあるか聞いてきますね!」

 

 水着を抱えて小走りでヴィーシャが奥に消えると、ターニャはエーリャと二人きりだ。ターニャにとってエーリャは友達の友達で、まだ二人きりで話す機会は少ない。妙な気まずさでターニャは落ち着かなかった。

 

「あいつが帰ってきたら、私らでターニャちゃんの水着選ぶからね。なんかご注文があればどうぞ?」

「あー……前線にそこそこ長くいたから、どうにも傷痕が多くて」

 

 ヴィーシャがいなくなった途端口下手になったのを訝しがられていないか、ターニャは不安だった。エーリャがそのような人物ではないことは分かりつつあったが、それでも根拠のない不安はこみ上がり、ますます舌を縛る。

 

「なるほどね。誰にも見られたくない? それとも、彼には見られてもいい?」

「エーリッヒになら見られてもいいと思う。ただ、その、醜い姿でそばにいて彼に恥をかかせたくない……おかしなことを言っているな、すまん」

「いやいや、愛する人の名誉を傷つけることはしたくないって大体の人は思うもんだし。……ちょっと本音で独り言なんだけどさ」

 

 エーリャは水着が入っていた空き箱に腰かけた。

 

「私さ。”白銀”ってやべえやつなんだろうなって思ってた」

「それは……そうだろうな」

「ああ、独り言だから相槌とか気にしないでいいわよ。うちの閣下のお気に入りで、天然なくせして意外と勝気なヴィーシャが『大切な人』って言うくらいだから。でもまあ、なんか、普通の女の子じゃん? ちょっと妬ましいぐらいに」

 

 ターニャは彼女の目がひどく虚ろなことに気が付いた。

 策謀渦巻く情報部で将校となり、親しい友人にすら身分を秘匿してきた亡命者の女性軍人。彼女の苦労は計り知れなかった。

 ターニャは自分が苦労していないと考える気は毛頭ない。しかし、自分だけが苦労しているわけでもない。それで自分の苦労が消えるわけでもないが、事実を認識しているかどうかで状況は変わりうる。

 

「幸せになんなさいよー、ターニャちゃん。こんなぽっと出の怪しい女に言われることじゃないけどさ。あいつにも幸せになってほしいっつのに、気づいてんだか気づいてないんだか」

「……独り言に返事をするのは不躾かもしれないし、ひどく甘ったれたことを口走るが」

 

 かつてヴィーシャがそうしてくれたように、ターニャも彼女の両頬に手を添えて目を見つめた。

 

「貴様がそれを望むように、セレブリャコーフ少佐も貴様の幸福を望んでいる。貴様はまだ諦めることを許されていない。私が許していない」

「……なるほど、これが”白銀”ってわけね。なかなかおっかないじゃない。それで、ご命令は?」

 

 間抜けな話だが、ターニャは何も続きを考えていなかった。まさかこのような返しが来るとは思っていなかったのだ。軽率に人の人生に干渉して能力不足に苦しんでいるのだからまさに自業自得だが、ここで諦めたくはなかった。

 

「友達」

「は?」

「私と、友達に」

「それは……命令になるの?」

「いや……お願いに分類されるのではないか?」

 

 二人で首を傾げた。

 間違ったかとターニャが気まずさを覚えていると、エーリャは声を上げて笑いはじめた。愉快そうに笑う女だ。彼女はターニャの手を取って引き寄せると、そのままターニャを己の膝の上に無理やり抱きあげた。

 

「あーもう、おっかしい。なに、これまで私たちって知人止まりだったわけ? へこむなー」

「そんなに笑うならもう知らん、おろせ」

「やーだ。私は友達にわがまま言って困らせんのが趣味なの。ヴィーシャに自慢してやるんだから」

 

 エーリャはとても愉快な様子で、ここまで笑ってくれるならとターニャは状況を甘受した。友達のためだ。

 なぜ唐突にこのような行動に出たか分かった気がした。鏡に映ったかつての自分にどこか似ていたのだ。所詮は我が身可愛さの延長線上にある自己満足。

 

「あーっ、ずるい!」

「ふふん、ターニャは私の友達だもんねー」

「ヴィーシャが先任だ。ほら、満足したならおろせ。私の水着をさっさと選んで帰るぞ」

 

 悪い気分ではない。




帝国の水着事情や水泳事情はさっぱりさっぱりであり、ほとんどが捏造であることをご理解ください。加えて、ここに書いてある水着選びがまったくの嘘っぱちであることも。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第27話 経済

「これは……さすがに露出が多すぎるのでは?」

「うーん、確かに。可愛くはあるんだけどなあ……あ、じゃあ上になんか羽織るとか」

「水着の上に羽織るの? なんか海難事故で救助されて震える人みたいにならない?」

「いや何よそのたとえ。ヴィーシャ、あんた軍服のジャケット持ってきてたでしょ。ちょっと貸しなさい。……あ、いいじゃん! ありよあり!」

「ジャケットの下がビキニだぞ、性犯罪者に見られるのは勘弁だ」

「大丈夫、鏡見てみなさいよ。いけるいける」

 

 促されて渋々鏡に向き合ったターニャは、エーリャのセンスがずば抜けて鋭いことを認めざるをえなかった。

 サイドを紐で結んだ黄色の三角ビキニに夏物の軍用ジャケットを羽織ると、活発な印象はそのままに露出が減り、恥ずかしくない程度におしゃれだ。ジャケットを脱げば泳げるし、陸に上がっている間だけ着ていればいい。

 

「どう?」

「……まあ、悪くない」

「そんなこと言っちゃって、お目目きらきらよ? 水場でジャケットか……ちょっとオーバーサイズのほうが可愛いのよね、ターニャちゃんの場合。なんかいいのあるかしら」

「レインコートとかどう? 前開きの」

「あー、スリッカーだっけ。いいんじゃない、なんなら中で着替えられるし。ちょっと私見てくる。今何時?」

 

 ターニャは鞄から懐中時計を取って開いた。家を出たのは十三時。それから二時間半経って、今は十五時半だ。

 

「十五時半を少し過ぎたな」

「思ったより時間あるわね。ターニャちゃん、あとでヴィーシャに髪切ってもらえば? うまい人が毛先整えるだけでも結構違うもんよ?」

 

 ここ一年、ターニャは自分で髪を切っていた。鋏を扱えるようになるまでは伸ばし放題の髪を束ねて誤魔化していたが、今は自分で邪魔にならない程度に長いままに整えている。しかし、当然手が回らないところも多い。

 人に切ってもらわなかった理由は至極単純で、身動きの取れない状態で刃物を向けられるのが怖かったからだ。

 

「……ヴィーシャ、頼めるか?」

「もちろんです、お任せください!」

「よし決まり。そしたらレインコートめぼしいの持ってくるから、ちょっと休憩してなさいよ。人前で着たり脱いだりって意外と疲れるし」

「ああ、身を以て実感した」

 

 すっかり占領してしまった試着室の丸椅子に腰かけて、ターニャは店主が差し入れてくれた水を手に取った。店内でも暑いことに変わりはないのだ。水着で帰りたいくらいだが、ターニャの倫理観と羞恥心がそれを拒否していた。

 ターニャは帝国がもっと閉鎖的な伝統主義の文化を保持する国家だと思い込んでいた。まさかこれほど女性ものの水着が充実しているとは。

 そのことをヴィーシャに打ち明けると、彼女はくすくすと笑った。

 

「そうですね、五十年前までは短いスカートを穿いているだけで後ろ指をさされる社会だったと聞いています。でも、魔導師を主として女性軍人が増えたことで空気が入れ替わって」

「なるほど、同じ義務を負うなら同じ権利があって然るべき、というわけか。道理だ」

「私も連邦にいたころの印象を少し引きずっていたので、最初は驚きました。それに、連邦で水着になる機会なんてありませんし」

 

 帝国から北東に位置するルーシー連邦の広大な領土は、名のある詩人をして「雪に守られ、雪に攻められる大地」と言わしめるほどだ。泳ぐ機会などそうありはしないだろう。

 ターニャがエーリッヒと行く予定の旅行先は森林三州誓約同盟にほど近い山麓で、写真を見ただけでも涼しさが伝わってくるほどだ。大戦前は避暑地として富裕層の一部に人気があったらしいが、航空機の発達で関心が海に向いている今は穴場だという。

 そういえば、ヴィーシャとエーリャがどこで泳ぐのかは聞いていなかった。

 

「君らはどこに行く予定なんだ。海か?」

「南に鉄道で一時間ほど行ったあたりに湖があって、ちょっとした観光地になってるんです。ご飯もおいしいし、宿も安いし、何より帝都から乗り換えなしで行くことができるので、評判がいいんですよ」

「それはいいな。仕事に支障が出ない程度に楽しんできたまえ」

「満喫して参ります!」

 

 仕事に支障が出ない程度にの下りをわざとすっぽかされたが、嬉しそうなヴィーシャを前にすると余計なことを何度も口にするのも違う気がしてきて、ターニャは鼻を鳴らすだけにとどめた。

 ターニャから見て、ヴィーシャとエーリャはまさに気の置けない仲そのものだ。間の抜けた冗談を口にしたり下らないことでいがみあったりするヴィーシャは初めて目にした。エーリャもそんなヴィーシャに対して遠慮なしにきついことを言う。

 思い返せば、これまでターニャに友達らしい友達はいなかった。社会に人間性を疑われないように多少の付き合いがある知り合いを用意はしていたが、それらに”親しみ”を感じたことはない。それを寂しいと思ったこともなかった。

 つまり、ターニャが友達を、ひいては人との縁を求めるようになったのは、精神的に弱体化したためだ。ターニャはそのように自己分析している。

 

「持ってきたわよー」

 

 試着室のラックをレインコートが占領した。子ども用のレインコートは在庫が少なかったのか、さほど枚数はない。さっそくヴィーシャが一着手に取って広げた。

 

「おお、こうして見るとレインコートも侮れないなあ。でも、軍のよりちょっと重い?」

「あれは軍用品、それも前線での装備だからな。そのぶん、民生品のほうがおしゃれではあるが……どうした、ヴィーシャ」

 

 ヴィーシャがレインコートを手にしたまま固まっている。

 

「いえ、ターニャの口からおしゃれという言葉が出たことに嬉しくなって、つい」

「……似合わない言葉なのは自覚している」

「やっぱり恋愛って人を変えるのよね。成長よ、成長。ほら立って、好きな色のやつ着てみなさいな」

 

 ターニャは促されるままに積まれたレインコートに手を伸ばし、落ち着いたカーキ色のものを引っ張り出した。

 羽織ってみると、脛まで隠れる丈と形のしっかりした襟が合わさって、トレンチコートを思わせる。ここに水着を合わせるのだから、完全に露出狂のそれだ。鏡に映ったターニャが頬を引きつらせている。

 

「いやあ、それは……ないわね」

「ないね」

「ああ、ないな。襟はなし、丈も短いやつがいいだろう」

「んー、レインコートってやっぱ目的は雨よけだから、長いのばっかなのよね。何着かあった気がするけど……これとか」

 

 エーリャから受け取ったものに着替える。

 紺色の長袖で、身長の低いターニャでも見方によっては膝丈と言える程度の丈だ。雨の中でも扱いやすいようにか、白い縁取りがされており、ボタンも青系統の蛍光色。悪くはなさそうだが、どこかしっくりこない。

 

「……どうだろうか」

「その溜めが答えみたいなもんよね、うん。わかる、なんか、うん」

「足りないというよりは、多い?」

「そうね、そんな感じ」

「あれだ、地味な部分と主張の激しい部分があってうるさい。実用的ではあるのだろうな」

「それだわ、完全にそれ。んー、次は……あ、これいいんじゃない?」

 

 三着目は白だ。

 腰丈より少し長く、本来はズボンと合わせるのだろう。確認してみれば、上下セットの上だけが納品ミスで残ったものらしい。

 裾にはゴムが入っていて、前ボタンを閉めてもシルエットが野暮ったくならない。フードもついている。レインコートというよりパーカーのような見た目だった。

 帝国の服装事情と一致した装いとはとても言えないが、ターニャから見て水着との相性は抜群に思える。

 鏡の奥で少女がはにかんでいる。長く伸びた金髪を肩に流し、白いレインコートの隙間からは黄色のビキニが覗いている。ターニャが小首を傾げると、鏡の少女も同じ動きをした。

 

「どう思う、ヴィーシャ」

「決まりじゃない?」

「そうね。ほらお姫様、帰っておいでー」

 

 突然抱き上げられたことにターニャは目で抗議したが、一人で鏡に映った自分を楽しんでいた恥ずかしさがあって言葉は出なかった。

 

「んじゃ、私とヴィーシャも着替えてくるからちょっと待っててね」

「わかった。しかし、着替えてどうするんだ?」

「そりゃもう、決意表明よ。来年は三人で遊びに行くぞー、ってね」

「私も行くのか」

 

 言外に「行っていいのか」と問いかけると、「もちろん」と視線が返ってきた。二人で泳ぎに行くという話を聞いて羨ましく思いはしたが、長い付き合いの二人に混ざって遊びに行っても邪魔なのではと思って黙っていたのだ。

 

「ここでターニャちゃんをハブにする私たちじゃないし。そうでしょ、ヴィーシャ?」

「私は戦争が終わったら真っ先にお誘いするつもりだったんです。思ったより忙しくなっちゃいましたけど、絶対に非番はもぎ取りますから!」

「……まあ、その意気だ。サービス出勤、サービス残業など唾棄すべき慣習だからな」

 

 悪態をついたが、これが照れ隠しなのは二人とも理解しているようだった。

 

「そうだ、いいこと考えました!」

「いい、ターニャちゃん……この手の話でヴィーシャがいいこと考えたって言い出したらだいたいヤバい」

「来年は三組で合同デート、どうでしょう!」

「ほらヤバい」

「わ、私は初デートもまだなんだぞ! 他人にデートを目撃される瞬間を想像しただけでも頭をぶち抜きたくなるのに、友達と一緒に? 正気か?」

「それにあんたも私もまだ相手いないし。……いないわよね? いたらコンビ解消よ、解消」

 

 エーリャの詰問に答えずにこにこしているヴィーシャがひどく恐ろしかった。これほどネジの外れたやつだとは思っていなかったのだ。

 女店主を驚かせるのも忍びなくて、ターニャは今にも噛みつきそうなエーリャの口を両手で押さえた。

 

「そ、それで、川遊びにはあと何が必要なんだ?」

「そうですね……」

 

 ヴィーシャが列挙する品々を復唱するうちにエーリャも落ち着いた様子で、店内からおすすめの品を見つけてきてくれた。水遊びの先輩二人が言うのだからいいだろうと思って、ターニャはそれらをすべて購入することに決めた。

 ところが、会計の段になって財布を取り出す手をエーリャに掴まれた。

 

「はい、そこまでー。ヴィーシャ、半分でいい?」

「もう少し出してもいいよ、出世したし」

「憎たらしい顔するわね本当に。いいわよ半分で、私も手当出たから」

「おい、なんのつもりだ」

 

 ターニャの要求を無視して、エーリャとヴィーシャが会計を済ませてしまった。

 ターニャは今のところゼートゥーアの恩情によって生じた俸給に手を付けていないが、それとは別に蓄えがあるし、「蓄えはできるだけ手を付けず老後に残しておきなさい」とエーリッヒが生活費を負担してくれている。

 不服を申し立てようとターニャは二人を睨みつけた。

 

「私は別に恵まれる立場ではないぞ」

「あのねえ、友達に恵むも恵まれるもないの。これは着せ替え付き合わせたお礼。友達って言ってもそこにはちゃーんと経済が成立してるわけ。数字じゃない経済がね」

 

 そこが偏ると続かないもんよ、などと口にして笑うエーリャにこれ以上抗議するのは無駄だろう。それに、ターニャは友達関係というものに対する理解を持ち合わせていない。否定するにも根拠がないのだ。

 古ぼけた手持ち金庫に二人から受け取った代金を納めて、女店主がターニャに笑みを向けた。

 

「まあまあ、いいお友達ね。ありがたく受け取っておきなさいな、こういうときは断るより別の形で返したほうがお互い幸せになるのよ?」

「しかし、マダム……」

 

 ターニャも頭では理解できるが、このシステムにまだ馴染んでいなかった。傷つくほどではないが、どうにも気持ちがよくない。

 ターニャは借りを作るのが昔から好きではなかった。最近曖昧になってきたが、前世でもできるだけ避けていたように思う。それは関係の主導権を奪われることによる損失を恐れてのことだ。しかし、いつの間にか「借りを作ることを回避する」という習慣だけが残り、損失が発生するか否かは考慮に入れなくなっていた。

 改めて考える。二人に借りを作るのは嫌なことだろうか。避けるべきことだろうか。

 ターニャはようやく、感謝の言葉を口にできた。 

 

「その……ありがとう」

「……ヴィーシャが言ってたこと、かんっぜんに理解したわ」

「すごいよね、破壊力」

「どうした?」

「ああ、うん、どういたしまして。んじゃ、帰って散髪式といきますか。ご店主、いい品をどうもー!」

「ええ、今後ともご贔屓に。また来てね、ターニャちゃん」

 

 ターニャも店主に挨拶をして、三人は帰路についた。

 時刻は十六時半。日が傾きはじめたとはいえまだ暑い。道中、三人でアイスを買った。ヴィーシャはヘーゼルナッツ、エーリャはレモン。店番の青年におすすめされて、ターニャは新作だというクヴァルク味にした。クヴァルクがなにかわからなかったが、淡泊なチーズ味だ。

 

「どうよ、新作」

「なかなかいけるな」

「一口頂戴、一口あげるから」

「嫌だ、貴様の一口は絶対に大きい」

「ひどーい、そんなことないわよねヴィーシャ!」

「この間、一口でクネーデル食べて火傷してました」

「すごくどうでもいい告げ口しやがってからに……」

「一口だけだぞ、ほら」

「ターニャちゃん大好き! 本当だ、いけるわね」

「ターニャ、私のも一口食べますか?」

「ああ、ありがとうヴィーシャ」

 

 なるほど、経済だ。

 結局すべてのアイスを三分の一ずつ食べたのに、一つのアイスをすべて食べるより気分がいい。複数の味を楽しめた、それ以上の意味がそこにはあった。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第28話 手中

 エーリッヒは昔、ゼートゥーアの執務室に呼び出されるのが少し怖かった。ゼートゥーアは部下に怒鳴ったり暴力を振るったりはしない。静かに失敗を指摘し、適切な改善案を提示できなければ遅かれ早かれ仕事の引継ぎを始めることになる。そうやって左遷される高級将校を何人も見てきた。

 左遷が怖いというより、それをたやすく為すだけの力を持つゼートゥーアが怖いのだ。もし彼が野心家であったなら、帝国はとうに滅んでいただろう。野心のない人間でもきっかけ次第で暴走を始めることはある。自分が引き金を引いてしまったら。そう思うと、エーリッヒはどうにも妙な汗をかいて仕方がなかった。

 ところがどうだ、ゼートゥーアという老人は敏腕さと聡明さをそのままに、すっかり日向へと戻ってきたではないか。

 

「後進の育成、でありますか」

「左様。私も永遠の命を持っているわけではない。また、仮にそんなおとぎ話が実現されるとしてもそれを望むべきではない」

 

 言われてみれば当然の話だ。しかし、誰もゼートゥーアが軍を去ることを前提に動いている者などいなかった。多くの者にとってゼートゥーアとは帝国軍の中枢に存在する機能なのだ。

 渡された経歴書に目を落とす。写真の男はどこか不敵な表情だ。南方派遣軍の軍団長を務めた将軍らしい。

 

「ルーペルト・フォン・ロメール少将。若さの割には優れた経歴ではありますが……」

「ああ、ぱっとしない。能力が高すぎた」

 

 よく確認すると、戦局の芳しくない戦線ばかり任され、そのことごとくを抑え、ときには打破すらしている。にもかかわらず戦闘詳報での評価は「大勢を左右するものではなかった」として低い。そのまま少将までのし上がってきた。

 

「上が無能だと下が困るものだ。彼のような逸材を便利屋で終わらせるほど帝国の人員はだぶついていない。そこにあるとおり、参謀課程での成績も群を抜いている。人望もある」

 

 ロメールは戦争が終わってすぐにゼートゥーアの推薦で軍大学の参謀課程に編入されている。

 どうやら彼が次代の帝国を守ることになるようだった。

 

「実務能力次第ではありますが、それ以外の部分では小官も彼であれば妥当であると判断いたします」

「うむ。それで、貴官の今後だが……さすがに無理が出てきたようだ。いくつか無視できない陳情も届いている」

「小官の能力不足を恥じるばかりであります」

「貴官が優秀であることは理解している。しかし、人事とは能力のみを見るものではない。かの大佐から提出された論文のなかに、なかなか興味深い提言を見つけてな」

 

 ゼートゥーアが引き出しから取り出した論文は、確かにターニャが書いたものだった。題は「労働環境の構築における能率と生活の相関」だ。要旨にゼートゥーアが記したと見られる傍線が残されている。

 ワークライフバランス。そのまま取れば仕事と生活の均衡だろうか。

 

「かの大佐が調査したところによると、私生活に問題が生じる激務はかえって能率を下げるそうだ。私生活を含めて労働力として運用することこそが組織全体の長期的な稼働率を高める、と。どう思う」

「考えたこともありませんでしたが、理屈は通っているように思います」

「同感だ。レルゲン准将、引継ぎの準備をしておいてくれたまえ」

「は……は?」

 

 エーリッヒは癖で承知の旨を口にして敬礼し、そこで異常事態に気が付いた。

 ゼートゥーアは自分の任を解くと言ったのだ。

 さあっとエーリッヒの脳天から足元へと寒気が抜けていった。左遷だろうか。自分は何か間違えただろうか。

 

「ああ、心配には及ばん。貴官が危惧しているようなことではない。貴官により適任で、ぜひとも任せたい仕事があるだけだ。それに、年単位で先の話でもある」

「詳細を伺ってもよろしいでしょうか」

「もちろんだ。在郷軍人学校の話は聞いているかね」

「書類上の情報は把握しております」

 

 在郷軍人学校は現在帝国が人事再編と軍縮の一環として急ピッチで進めている計画だ。在郷軍人に効率的な技能訓練と資格取得の場を与え、同時に継続的な訓練を行い予備兵力の質を維持するための機関。ターニャの論文が草案の一端を担っており、ゼートゥーアが推し進めた。

 

「理事長をルーデルドルフに任せようと考えていたが、断られた。そこで貴官だ」

「小官が、在郷軍人学校の理事長でありますか」

「これはまだ計画段階の話だが、担うことになるであろう業務や決定済みの人事をまとめておいた。持ち帰って確認したまえ」

「感謝いたします。……帯出してよろしいのですか?」

 

 見せるべき相手がいるであろう、とゼートゥーアは事もなげに答えた。

 内容を考えるに本来は軍機であり、それをターニャに見せるために持ち帰らせている。前の話と結びつけて考えるなら、それが長期的にエーリッヒの能率を上げると判断したのだろう。ただの私情で規律違反を犯す男ではない。

 エーリッヒの頭の中で一つの仮説が組み上がった。ターニャが論文を提出したのはサラマンダー戦闘団編成直前のことだ。もしゼートゥーアがその時点から能率と生活環境の相関を考慮して計画を練っていたとしたら、ターニャをエーリッヒに支援させたのにもそこと関係する意図があったのではないか。ターニャを中心としているがためにエーリッヒもヴィーシャもより一層職務に励んでいる。

 すべてがゼートゥーアの掌の上であるかのような感覚がエーリッヒを襲った。

 もちろん、彼の言葉に明確な嘘があったとは思わない。妻の話も、養子縁組の話も事実なのだろう。しかし、それとは別に徹底した合理が帝国を支え、帝国を動かし、帝国を見ている。

 ゼートゥーアは日向に帰ってきたのではない。日陰を征服し終わって、日向に手を伸ばしただけだ。

 

「どうした、レルゲン准将」

「……閣下の深謀遠慮には敬服する次第であります」

「なに、国家に仕える人間として己の届く範囲で役目を果たした、それだけだ」

 

 どこかで聞いた言葉だった。

 

 退出を許されて自らの執務室に戻る途中、エーリッヒは声をかけられて立ち止まった。人事部の次長を務めるベート中佐だ。あまりいい思い出のある相手ではなかった。

 人事部にいたころ、エーリッヒをライバルと目して競ってきた男だ。彼は人事部での栄達を争っているつもりだったようだが、エーリッヒは作戦局に抜擢された。

 エーリッヒは手にしていたペンを胸ポケットに収めて、彼と向き合った。

 

「やあ、レルゲン。いや、准将閣下とお呼びしなくてはならないね。忙しくしているようじゃないか」

「ベート中佐も多忙の身は変わらんだろう。人事部の激務には何かしらの改善が必要だとゼートゥーア閣下も仰せだ」

「それはありがたい。何分、僕程度ではゼートゥーア閣下にお目通りも不可能に近いからね。准将閣下が羨ましいよ」

 

 あらためておめでとう、などと口にして微笑むベート中佐は温厚な中年男性そのものだが、彼の手の者がエーリッヒの身辺を探っていると報告が入ることはそう珍しくない。また、最近はヴィーシャの周囲にも見え隠れしていると彼女と親しい情報部の人間から聞いている。

 ベート中佐は無能ではない。エーリッヒを失脚させれば帝国の損失となることも、それをゼートゥーアが許さないことも理解しているだろう。ただ、ライバルであるはずの相手が自分の上位者ではなく、ただの人間であることを確認したいのだ。同僚だったころ、食堂でそんな話を聞かされた。誰々も所詮は人間だ、しかしそれが僕には喜ばしく思う、と。

 

「ところで、君のとても疑わしい噂を耳にしてね。友人の風聞だと喜んで飛びつけば、ひどいことを言われているものだからその連中を叱りつけたんだが……」

 

 もちろん嘘ではないのだろう。自らの配下にわざと噂話をさせ、通りすがりのふりをして叱責する。人事評価で優遇されると信じてやまない配下はそれに喜んで従う。一切の忖度がない人事評価を提出し、配下には色を付けたようなことをほのめかす。

 その手口は諜報員から情報部へ、情報部からゼートゥーアへと届いている。ベート中佐はゼートゥーアの帝国軍改編に含まれていない。

 

「それは手間をかけた。感謝する」

「いやいや、君と僕の仲だろう。それに准将閣下が軽々しく中佐程度に礼を言うものではないよ。ご苦労の一言でいいのさ。ああ、でも、どんな噂かは耳に入れておこうと思う」

 

 気を悪くしないでくれよ、と前置きして、ベート中佐は隠しきれない愉悦とともにその言葉を発した。

 

「君が愛人のセレブリャコーフ少佐と結託して白銀のデグレチャフを脅し、無理な人事を呑ませてからデグレチャフを殺した、なんて噂がね。いやあ、馬鹿げた話だよ。信じている奴はもっと馬鹿だ。確かにセレブリャコーフ少佐は参謀課程も修了していないし、デグレチャフも見た奴がいないけど――」

 

 エーリッヒは思いきりベート中佐の頬を殴りつけた。

 呼吸を荒げないよう、表情を変えないよう、ひたすらに気を静める。はらわたが煮えくり返る心地だ。しかし、いまここで感情を見せれば、ベート中佐の思うつぼだとわかっている。

 

「まず、デグレチャフ大佐は貴様の上位者だ。呼び捨てにしてよい相手ではない。次に、セレブリャコーフ少佐の人事は正当な評価の結果として人事部の提案をもとにゼートゥーア閣下と私が協議して決定したものであり、士官学校や軍大学の経歴についても承知の上だ。最後に――」

 

 立ち上がろうとしたベート中佐の右脛を踏み抜く。くぐもった悲鳴が誰もいない廊下にこだました。

 

「貴様が噂を語らせた三人の配下のうち、ベルツ少尉は私に従っている。……とはいえ、貴様を放逐することは考えていない」

「ふ、ふふ、やっぱり友達っていいものだね。君は優しいなあ」

「これは人事部時代の付き合いによるものではない。貴様が退役するにはまだ人事部は忙しいだろうとゼートゥーア閣下が人事部長と協議された結果だ」

 

 すべて事実だ。人事部長との協議にはエーリッヒも立ち会った。ベルツ少尉は参謀次長としてエーリッヒに与えられた諜報員であり、ヴィーシャとの関係についての噂が広まりはじめてからはそれを追わせていた。

 痛みに引きつりながらも、ベート中佐は穏やかな笑みを浮かべていた。思い返せば、エーリッヒはこの男が笑み以外を浮かべている姿を知らない。

 

「君はすごいなあ。やっぱり勝てないんだね、僕は。そんな君だから好きになったのかなあ。うん、そうだと思う」

「私は貴様が嫌いではなかった。しかし、好きにはなれなかった」

「そうなんだよ、君は僕のことを好きになってくれない。じゃあ、嫌われたほうが楽だなあって思った。そのほうが未練が残らないでしょ?」

 

 鳥肌が立った。

 エーリッヒの解釈が正しければ、ベート中佐はエーリッヒに恋慕していたのだ。

 その気持ちが罪に問われないことを、エーリッヒはよく知っている。また、こらえがたいものであることも。しかし、それで迷惑をかけられてはたまったものではないし、組織に害をなすならば切り捨てるのも当然だ。

 悲鳴を聞きつけたのか、憲兵が駆け寄ってきた。

 

「ご無事ですか、准将閣下」

「ああ。ベート中佐は錯乱状態にある。”安全で一人になれる場所”に連れていってやれ。それから、ゼートゥーア閣下にこのペンをお届けしろ。レルゲンからだと言えば伝わる」

「はっ」

 

 ベート中佐の妄言を録音したペンはゼートゥーアの手に渡り、同時にベート中佐の人生はゼートゥーアが握った。エーリッヒはベート中佐が連行されるのを確認して、これといった感傷が生じていないことに少し驚きながらも自らの執務室へと向かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第29話 団欒

 エーリッヒは帰りが遅くなったことを悔やみながら汽車を降りた。朝の時点で間違いなく遅れると分かっている日はターニャにそれを伝え、家で出迎えてくれるよう頼んでいる。暗い中で一人待たせ続けるのは様々な意味で不安だし、申し訳ない。しかし、今日のように急に仕事が入ってきて夕方までもつれ込むと連絡する暇もない。暗くなったら自己判断で戻ってもらうようにしている。それもひどく申し訳ない。

 懐中時計は二〇時を示している。戦時中は日付が変わるぎりぎりに片付いてそのまま椅子で仮眠をとることもあったが、戦後処理も落ち着いてきた今では遅くなってもこれくらいだ。加えて、ターニャの「上が休まないと下はますます休めない」という指摘を胸に刻んで、可能な限り定められた勤務時間内で片付けるようにしていた。

 暗い夜道を一人で帰るなどエーリッヒにとってはどうということもない。それはニュートラルであり、ターニャと一緒に帰ることができればプラスになる。そのプラスは仕事での疲労というマイナスを打ち消してくれる。

 いつも通り窓が明るいことに安心し、いつもと違って賑やかな我が家に違和感を覚えながらもエーリッヒは玄関の扉を引いた。

 

「――だろう、あのジャガイモは戦訓であって笑い話では……エーリッヒ! おかえりなさい!」

「ああ、ただいま」

 

 ターニャを抱き上げ、接吻を交わす。ようやく帰ってきたと思うと、一日がひどく長かったような気がした。

 

「相変わらずお熱いですね、胸焼けしそう」

「ちょっとヴィーシャ、あんたその糞度胸どっかにしまっときなさいよ。お邪魔しております、レルゲン閣下」

「留守番ご苦労、セレブリャコーフ少佐、カトゥリスカヤ中尉」

 

 二人の訪問があると知ったエーリッヒは、交通手段や到着時刻などを噂にならないよう工夫することを条件に宿泊の許可を出していた。最近気を使っているのか、ヴィーシャが泊まっていってくれないとターニャが少し寂しそうにしていたのだ。

 すでに夕飯の準備は整っているらしく、様々な調味料が複雑に織りなす香りがエーリッヒの食欲を高まらせた。

 

「閣下、お気づきですか?」

「何がだ?」

「ターニャちゃんの艶やかな御髪にご注目ください、これは男性の責務でありますよ閣下」

 

 エーリッヒは言われた通りに抱き上げたままのターニャを観察した。なるほど、大きな変化だ。長く伸びた金髪を編んで一本にまとめ、後ろに流している。隠れていた耳やうなじが露わになった姿は実に涼しげで、かつ可愛らしい。

 

「髪を整えてもらったのか、ターニャ」

「はい。……どうでしょうか」

「綺麗だ、よく似合っている。それに涼しそうだ」

 

 ターニャはひどく恥ずかしそうにしながらもはにかんだ。

 

「毛先を整えて軽く漉きました。髪型も自宅で一人でできるものを何通りかお教えしてあります」

「それは手間をかけたな、少佐。買い物も含め、貴官らには随分と世話になったようだ。先日の式典でいただいた連邦のワインがあるが……貴官ら、いける口か?」

「喜んでお供いたします、閣下!」

「小官も同じく!」

「結構」

 

 きゃいきゃいと嬉しそうに食事の支度を進める二人を見て満足していると、小さくエーリッヒを呼ぶ声があった。ターニャが腕の中で心なしか不服そうにしている。

 

「私もご相伴に預かりたく思います」

「しかし……」

「年齢の問題は自覚しています。一口で結構です。……だめでしょうか」

 

 この卑怯なほど可愛いおねだりに逆らえるはずもなく、かつての狡猾な”白銀”を思い出しながらエーリッヒは小さくため息をついた。

 

「一口だけだぞ」

「ありがとうございます、エーリッヒ。大好きです!」

「ああ、まあ、もちろん私もだが……」

 

 成長したものだ。エーリッヒはもうひとつため息をついて、ターニャを椅子に下ろした。

 今日は夜まで調子がよさそうにしている。明日になって反動が来ないか不安だが、それを口にするのもいい手とは言えないだろう。

 

「だめですよ閣下、ちゃんと最後まで言葉にしないと」

「ヴィーシャの言う通りです、そのような濁し方は女性を不安にさせますよ」

「そうなのか、ターニャ?」

「もちろん、あなたのことを信じています。でも……言ってくれたほうが嬉しいのも事実です」

「そうか。……私も大好きだ、ターニャ」

 

 にやつきながら拍手するヴィーシャと、それに呆れつつも続いて拍手するエーリャを静かに睨んだ。つまみに秘蔵のサラミを出そうかと思っていたが、彼女らには不要だ。

 しかし、ターニャが嬉しそうにしているのは二人が促してくれたおかげでもある。上官であるエーリッヒを私的な場所で揶揄するのを増長だと叱りつけるほど狭量でもない。

 

「――エーリッヒは許すかもしれないが、私にそのような恩情を期待しているのならお門違いもいいところだぞ、貴様ら」

 

 囁くような、しかし臓腑を凍えさせる声が二人を貫いた。余波を浴びただけのエーリッヒですらひやりとするほどだ。ただの凄みではない。実力を知っているからこそ、その重圧をひしひしと感じる。

 爛々と輝く一対の緑眼が不心得者たちを射竦めている。懐かしくも恐ろしい、”デグレチャフ大佐”がそこにいた。

 

「は、はい、失礼しました!」

「敬礼の相手が違うだろう、それでも軍人か!」

「は! レルゲン閣下、身の程を弁えぬ言動をお詫び申し上げます!」

 

 遠回しに「弛んでいる」と指摘されたような気がした。しかし、エーリッヒはその考えを一度取りやめ、ターニャの様子を確認した。これまで散々勘違いで彼女を追いつめてきたのだ。私的な人間関係においても、勝手な思い込みで動くべきではない。

 ターニャはエーリッヒにだけ見えるように向きなおり、少し困ったように眉を下げていた。

 

「……まあ、家でくらい寛ぎたいのは私も同じだ。恋人の友人にからかわれた程度で気分を害するわけでもないが、その態度を外に持ち出さないように」

「承知しました、恩情に感謝いたします!」

「勘弁してくれ、自宅でまで敬礼が飛び交うのはごめんだ……」

 

 この混沌を生み出した元凶であるターニャがくすくすと笑いはじめたので、全員の視線が彼女に集まった。

 

「照れ隠しのつもりでしたが、私もまだまだやろうと思えばやれるものですね」

「やれるどころの話ではない、肝が冷えたぞ」

「暑そうでらしたので。エーリッヒが許すなら私も許す、二人とも楽に」

 

 エーリャがうなだれて膝に手をついた。疲労困憊を絵で示したそのままだ。ヴィーシャはまだ平気な方と見えて、苦笑いを浮かべながらエーリャの肩に手を置いた。

 

「……ひゃー、一瞬本当に怖かった。切れ味抜群。ヴィーシャってこの状態のターニャちゃんと過ごしてたわけ?」

「うん、まあ。でも、あのころのターニャだって可愛かったからなあ」

「何を以て可愛いと形容するのか知らんが、私は可愛げのない上官だったぞ」

「そんなことありません。パンケーキパトロール、楽しかったですよ?」

 

 パンケーキパトロール。

 意味のわからない言葉に困惑してエーリッヒがターニャを見ると、ターニャは恥ずかしいような、懐かしいような、満更でもないような、しかし確かに笑みであろう表情を浮かべていた。

 

「いい思い出ではある。……巡察任務と称してヴィーシャと二人で期間限定のパンケーキやアイスを食べに行ったことがありまして」

「それは……楽しかっただろうな」

「ここが私的な空間であるからこそのお返事ですが、軍務の中で最も楽しい時間でした」

 

 皆が彼女を”白銀”もしくは”ラインの悪魔”と畏怖していたころにそのような微笑ましい活動をしていたとは、エーリッヒには到底思いもよらなかった。

 これはまだまだ未発掘の鉱脈がありそうだと判断したエーリッヒは、棚から赤ワインのボトルと人数分のグラスを取り出した。酒が入れば舌の回りもよくなるだろう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第30話 美酒

「確かに唐突な高高度落下訓練の申請があったと耳にしたし、連絡不備であの”白銀”を砲撃したと知ったときは胃が破れるかと思ったが……航空機を使ってまでアイスクリームが作りたかったのか?」

「作りたかったのではありません、食べたかったのです。アイスクリームパーラーが移動にならなければ実行には移しませんでした」

 

 昔の失態を掘り返されて恥ずかしかったのか、むくれているターニャの頬はうっすらと赤みを帯びている。羞恥だけではなく、酒が彼女を火照らせているのだ。

 連邦産の上質な赤ワイン、それも戦前の一番上等なボトル。過去に例を見ないほどの当たり年だったと連邦の高官は語っていた。その前評判に恥じない美酒だ。大人三人でその見事さをひとしきり賛美して、ようやくへそを曲げた様子でそっぽを向くターニャに気づき、慌てて彼女の取り分を献上した。

 

「あのときは一段と大隊のみんなが団結していましたね。なんとしても少佐殿にアイスクリームをお届けするのだーって当時中尉だったヴァイスが盛り上がっちゃって」

「へえ、あの真面目馬鹿がねえ。愛され系上司だったんじゃんターニャちゃん」

「ヴァイス少佐か。前々からどこかで顔を見たと思って首を傾げていたが、ようやく思い出した。彼は私が贔屓にしていたビアホールの常連だ」

 

 意外なところで縁があるものですね、と驚いた様子のターニャに首肯して、エーリッヒは喋り通しの口をワインで湿らせた。

 

「ヴァイス少佐といえばやっぱりマインネーン事件ですね。中隊長のみんなには悪いけど、笑っちゃったなあ」

「なにそれ、もったいぶらないでさっさと喋りなさいよ」

「……ああ、思い出した。訓練中に脇腹が痛くなるほど笑う日が来るとは思わなかったな」

「ちょっと、聞かせなさいってば!」

 

 ターニャとヴィーシャが悪戯げな表情で目配せしているところを見るに、どうやらかの大隊秘蔵の話らしかった。

 エーリッヒがヴィーシャの空いたグラスにワインを注いでやると、彼女は会釈して、ようやくマインネーン事件の真相を語りはじめた。

 

「雪山での耐久訓練のあと、予定より早く目標が達成されたのでマインネーンで休憩を取ったんです」

「マインネーンか。風光明媚な温泉地だと耳にしている。食事も美味だそうだな」

「まさにその通りです、素敵な休憩でした! でも、温泉に入っていた中隊長組がご機嫌になってしまって」

「え、まさか覗きとか?」

 

 だったらまだよかったんだけど、とグラスを口に運んだヴィーシャは思い出し笑いでむせかけていた。ターニャも笑いをこらえきれない様子だ。

 

「筋肉勝負を始めたんです」

「は?」

「馬鹿どもが馬鹿筋肉を見せ合う馬鹿遊びだ。何の役にも立たん知識だから一時間後までには忘れたほうがいい。さもなくばうなされる」

「そう、そんな感じです。それだけならよかったんですけど……ポージングで張り切りすぎたヴァイス少佐がのぼせてしまって。筋肉勝負で盛り上がっていたせいで女湯にいた私しか周りに人がいなくて」

 

 想像してしまったのか、エーリャが陥落した。笑いに肩が震えている。

 エーリッヒは誇りにかけてこらえていたが、それももう長くはもちそうになかった。

 

「ノイマン大尉が助け起こしている間にケーニッヒ大尉が救援を呼びに来て、大事にならないようにと私はターニャに状況を報告しに行ったんです。それで、ターニャがお説教をすると怖い顔をして、どうなるのかなって冷や冷やしながら戻ったら、全裸でソファに寝かされたヴァイス少佐を半裸の二人が囲んでいて」

「ひ、ひどい絵面だな」

「私たちも同じことを思って、完全にお怒りモードのターニャが声をかけたんです。そしたら……」

 

 ターニャが笑いの限界を迎えたようで、崩れ落ちて膝を叩きはじめた。

 

「二人がきゃーって女の子みたいな悲鳴を上げて。それで飛び起きたヴァイス少佐が、もっと大きな声できゃーって」

 

 話を聞くそのままに想像してしまったことを後悔しながら、エーリッヒはむせてひりつく喉にワインを流し込んだ。ひどくおぞましく、そして冒涜的だ。

 

「もう怒るどころじゃなくって。ターニャは笑いすぎて息ができなくなるし、中隊長組は恐慌状態で謝ったり絶望したりうるさいし、挙句の果てに騒動を聞きつけて飛んできたグランツ中尉が混乱して、俺も脱いだほうがいいですか、って」

「ああもう馬鹿が隊伍をなしてる……負けたわヴィーシャ、私が間違ってた。面白いわあいつら」

「中隊長組で一番伝説を残しているのはヴァイス少佐だな。あれは常識人の自己暗示で自分に箍をはめているようだ」

 

 実はエーリッヒもヴァイスが堅物の類ではないことを知っている。エーリッヒがたまにターニャへの土産でチョコレートを買う菓子店のマダムが、「最近ヴァイスくんが来ないと思ったら、あの子出世して国境に行ったのねえ」と嘆いていたのだ。年上に可愛がられるタイプらしかった。

 おかわりを注ごうとして、エーリッヒはボトルが空になったことに気づいた。四人でワインを一本空けるなどあっという間だが、片付いてしまうともっと味わって飲めばよかったなどと下らない後悔も湧いてくる。とはいえ、楽しく飲めたのはいいことだ。

 

「あら、とうとう飲み干しちゃった……大変な美酒をどうもです、閣下」

「なに、友好の証として受け取った酒は友好の場で飲むのがいいとわかりきっている。だいぶ夜も更けてきたな……ターニャ、そろそろ眠くないか?」

 

 そうですね、と小さく頷いたターニャは酔いか眠気か蕩けるような眼をしていて、共に過ごす夜を彷彿とさせるものがあった。もうすぐ十四歳になる少女に何を考えているのかと恥ずかしくなるが、日ごろの行いを思えば当然のことでもある。

 妙な居心地の悪さを感じているエーリッヒをよそにターニャは椅子を降りると、エーリッヒに両手を伸ばして抱き上げることを求めた。

 

「安眠のおまじないを頂戴したく」

「もちろんだ。ほら……おやすみ」

「ん……」

 

 だいぶ酔っていると見えて、ターニャはエーリッヒの唇を何度も啄み、舌を絡ませるよう求め、去り際にエーリッヒの左耳を甘噛みしていった。

 

「安眠できそうです、ご寵愛に感謝いたします。おやすみなさい、エーリッヒ」

「……ああ。歯を磨いてから寝るんだぞ」

 

 振り向かずとも、生温かい視線の矢が背中に刺さっている。どの顔をして上官だと名乗ればいいのかわからない。

 エーリッヒはターニャが寝室の扉を閉めるまで見送って、それからようやく腹をくくった。

 

「あー……だいぶ酔っていたようだな」

「いや無理があるでしょ……完全にアピールしていきましたよ、自分のだから手を出すなよって」

「まあ、そういう意図がないわけではなさそうだが」

「満更でもないみたいな顔しよってからに、腹立つー……あ、申し訳ありません閣下」

「構わん、もうこの場には酔っ払いがいるだけだ」

 

 エーリッヒは棚から追加のワインを取り出した。それほどいい品ではないが、どうせ酔った舌では違いは判らない。

 二人の分と自分の分で三つのグラスにたっぷり注いで、改めて乾杯をした。

 

「まあでも、安心したわ。お似合いだし、ちゃんと愛し合ってるし」

「そうだな、良好な関係だ。……関係といえば、噂の件は片付いたぞ」

「ベート中佐で確定? 准将を相手取った割には思ってたより小物が釣れたわね。裏はなかったの?」

「私への私怨だった。証言の録音はゼートゥーア閣下にお渡しして、本人は拘留中だ」

「なるほど。まあお疲れさま、閣下もヴィーシャも……ヴィーシャ? どうしたのよあんた」

 

 エーリッヒが目を向けると、ヴィーシャは大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。慌てた様子でエーリャがハンカチを差し出すと、それを受け取ってさらに大泣きした。

 

「私が、私が副官なのに! 盗られたあ!」

「人聞きの悪い……」

「ちょっと閣下黙ってて。ほら、明日真っ赤な目でターニャちゃんとおはようございますってするわけいかないでしょ?」

 

 ヴィーシャは頷いて、エーリャのハンカチで思いきり鼻をかんだ。

 エーリャの頬は引きつっていたが、それでも友情を優先したようで、優しい声でヴィーシャを慰め続けた。

 

「よしよし。大丈夫、閣下がだめな夫になったら私らでかっさらっちゃおうよ。湖畔に赤い屋根の小さな家でも建ててさ、三人で仲良く暮らすわけ。楽しそうじゃない?」

「うん……」

「じゃあ、それを実現する機会が訪れるまでは二人の幸せを応援しよう。ヴィーシャが大切な人の幸せを想える子だって、私はちゃーんと知ってるんだから」

「うん……」

「よし、約束ね。じゃあ閣下に謝って、そしたら寝ちゃおっか」

「うん……申し訳ありませんでした、閣下」

「ああ、確かに謝罪を受け取った」

 

 思ったより酒が回っていたのか、いつになく幼い様子のヴィーシャは促されるままにソファへと向かい、じきに寝息を立てはじめた。

 エーリャは彼女が寝付いたことを確認して、ジャケットをかけてやると、椅子に戻ってワインを煽った。そこはかとなく表情に疲労が見られた。

 

「罪作りな子って言えばいいのかしらね」

「少佐がターニャに向けている感情はそういったものなのか?」

「それ最高にデリカシーのない質問よ、閣下。……尊敬できて、有能で、真面目で、自分を大事にしてくれる。ヴィーシャの条件を満たしちゃったのよ、ターニャちゃんは」

 

 条件。

 エーリャは勝手に棚をあさってチーズを引っ張り出すと、ナイフで切り分けて、エーリッヒに突き出した。

 

「盗み食いの共犯者にだったら続きを話してあげる」

「……いいだろう」

 

 エーリッヒはチーズを受け取った。上司としての義務感や、今後の関係を構築する上での不安、それだけではなく下世話な好奇心もある。

 

「後戻りはできないし、させないからね」

 

 いよいよ夜が更けてきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第31話 家臣

 エーリャはチーズをかじり、ワインを一気に飲み干して、空けたグラスを置いた。力強く下ろしたように見えるのに、テーブルとぶつかったグラスはほとんど音を立てない。器用なものだ、とエーリッヒは奇妙な感心を抱いた。

 

「まあ、調べりゃわかる話なんだけどさ。皇帝が頂点にいたころのルーシーで、セレブリャコーフ家っつったらものを知ってる奴はだいたい頭下げるくらいの旧家なのよ」

「ああ、その話はある程度把握している。皇帝に仕えていたからこそ、連邦の樹立を待たずに亡命してきたのだったな。しかし、帝国貴族としての爵位は辞去したとも聞いている」

 

 話が早くて助かるわ、とエーリャが肩をすくめた。

 少しぶっきらぼうだが快活で陽気、そんな女性だとエーリッヒは彼女を認識していたが、どうやらそれも彼女を構成する一面にすぎなかったらしい。少しも酔いを見せない醒めた顔でチーズを口に放り込んでいる。

 

「セレブリャコーフ家は家臣の血筋なのよ」

「家臣」

「そ。国なんか重要じゃないわけ。心から従える相手に尽くしてきたの。連邦の馬鹿どもは主君じゃない。でも、ライヒの頂におわす陛下も忠誠の対象たりえなかった」

「……少佐にとってターニャは主君なのか」

「そうなんじゃない? ヴィーシャが褒めた上司ってターニャちゃんだけだし。心当たりあるでしょ」

 

 思い返すまでもなく、エーリッヒには無数の心当たりがあった。

 上官を殴り、罵声を飛ばし、参謀総長にすら平然と不平をこぼす。前線から帰ってきたことによる気の緩み、もしくは大切な上官であり戦友であったターニャの身を案じるあまりの暴走、そのように考えていた。

 

「ヴィーシャは優秀だから、表向きは一応ちゃんと取り繕ってる。でもそれはターニャちゃんに迷惑をかけないため。……想像だけどね。今の全部嘘だったら面白くないかしら」

 

 けらけらと笑ってみせて手酌でグラスを満たしたエーリャは、それを再び一気に飲み干した。

 虫が鳴いている。夜風がかすかに窓を揺らす。ヴィーシャが言葉にならない寝言を呻いている。

 

「ま、閣下はだいぶ信頼されてるみたいだけど」

「そう、なのか」

「うわー、無自覚なわけ? やっぱりターニャちゃん攫ってくほうがいいかも。信頼してない相手に説教したりわがまま言ったりしないでしょ。ヴィーシャは特にそう」

「……貴様と少佐の信頼関係も厚いようだな」

 

 まあね。その一言は得意げでもあり、どこか切なげでもあった。

 ターニャと過ごすようになってから言葉や表情に含まれる情緒に敏感になった、そうエーリッヒは自己分析している。悪いことではない。しかし、この能力は余計なことを考えるきっかけになる。

 

「長い付き合いだとは聞いているが、ただ長いわけではなくよき理解者でもあるようだ」

「過分な評価をどうも。ヴィーシャの幸せを願ってるって点だけは友達として誇れるかしらねー」

 

 幸せという言葉はエーリッヒにとって今や最上位の重要性を帯びていた。それゆえに、豪快なラッパ飲みをはじめたエーリャがひどく淡泊な口ぶりで幸せを語ったことに些細な違和感を覚えてしまった。

 他人が幸せをどう扱うかなど、エーリッヒにとってはあずかり知らぬ話だ。しかし、ターニャを中心とした複雑な人間関係が網となって、エーリッヒの胸中から言葉を引き上げた。

 

「彼女の幸せに自ら寄与する予定はないのか」

「踏み込んでくるじゃない、閣下。私たちってそんなに深い仲だった?」

「それは……そうだな。失礼した」

「いいわよ、おいしいワイン飲ませてもらったし。……似たもの夫婦ね、あんたたち」

 

 空のボトルを静かに置いたエーリャが、エーリッヒを睨みつけた。とはいえ、表情は自然で敵意を微塵も感じさせない。

 

「お酒の勢いで暴露話するけどさ、昼間、ターニャちゃんに叱られたのよ。なんだっけね……」

 

 エーリャは復唱するように、説教の内容を口にした。

 貴様がそれを望むように、セレブリャコーフ少佐も貴様の幸福を望んでいる。貴様はまだ諦めることを許されていない。私が許していない。

 それは”白銀”らしい口ぶりであり、”ターニャ”らしい口ぶりでもある。重なるとは思えなかった両者の像が結びついたことにエーリッヒは驚きと喜びを覚えた。

 

「妻は幸せになれって言うし、夫は幸せにしろって言うし。あんたらご夫妻と一緒にいるとあてられるわね」

「おすそ分けと言ってくれ」

「ものは言いようってわけ? それなら、受け取っとこうかしら」

 

 エーリャは立ち上がると確かな足取りでソファに向かい、眠るヴィーシャのそばに膝をついた。

 エーリッヒからは見えないが、きっとヴィーシャの寝顔を見ているのだろう。それがはっきりとわかるほど、エーリャは穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「――チーズの棚にプレゼントがあるから、朝までに目を通しておいて」

「プレゼント?」

「さて、ぐっすり寝て明日に備えなきゃ。付き合ってくれてありがとね、閣下」

 

 エーリャは人差し指を唇に添えて「静かに」と口だけで伝えると、絨毯の上に横になった。

 

「……口をゆすぐくらいしたらどうだ」

「ぐーぐーすやすや、営業時間外でーす」

 

 わざとらしい冗談に不可解さを覚えたが、エーリャはこれ以上答える気はないようだった。

 エーリッヒはテーブルの上を片付け、言われた通りチーズが入っていた棚を開いた。入っていたのは、手のひらに収まる小ささの紙切れ。暗号化されている内容を解読すると、そこには驚愕すべき内容が記されていた。

 帝国貴族の名門にして帝国を構成する領邦のひとつを担うアスカニエン家、その当主であるアルブレヒト2世がターニャを己の家に迎え入れようと動いている。ターニャの母がアスカニエン家の傍系にあたると社交界に噂を流しはじめているのだ。

 狙いはわからないでもない。先の大戦で名を上げた英雄、しかも戦後しばらく表舞台に顔を出していない少女だ。婿を取らせ、アスカニエン家を継がせれば軍部とのつながりもできる。アルブレヒト2世は老齢だが子がいない。

 気づくと、エーリッヒは紙切れを握りつぶしていた。あまりに呪わしい。戦争が終わってなお、ターニャ・デグレチャフを駒として指さんと伸びる手がある。

 ひどく不愉快だ。

 

 早朝、大人三人は慌ただしく家を出る準備をしていた。

 

「エーリャ、私のジャケット知らない?」

「畳んで鞄の中。ヘアブラシ借りるわよ」

「タオル、ここに置いておくぞ」

「すみません閣下、助かります。ターニャちゃんはまだお休み中ですか?」

「四時だからな、もう二時間は寝ているだろう。様子を見てくる。一本後の汽車に乗るから、貴官らは先に出ていてくれ」

 

 二人の返事を背にエーリッヒはターニャの寝室へと向かった。

 昔より少し物が増えた部屋は、主の性格に似てか、よく整頓されている。術式をかけなおしたらしい花束は壁へ。本は作者別タイトル順に本棚へ。髪飾りは鏡台へ。

 暑さで寝苦しかったのか、白のパジャマが少しはだけている。エーリッヒは額に貼りついた金髪を指先で静かに払った。

 

「……お早いですね」

「すまない、起こしてしまったか」

 

 いいえ、と首を横に振って、ターニャはエーリッヒへと両腕を伸ばした。

 抱き上げてベッドに腰かけ、膝に乗せる。健康な生活で前より少し重くなったが、それを口にするほど馬鹿なエーリッヒでもない。

 

「体調はどうだ」

「少し寝不足ですが、それ以外は万事好調です。……何かありましたか? 少し浮かない顔でした」

「そうだな。今夜、帰ってきたらいくつか相談したいことがある」

「承知しました。あの二人はもう?」

「ああ、先に出てもらった」

 

 では、もう少しだけ。

 そう口にして、ターニャがエーリッヒの胸板に頭を預けた。

 寝息が聞こえはじめるまで、そう時間はかからなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第32話 訪問

 書類の束を手に座るターニャは、小さくない困惑を抱えていた。

 三つの相談のうち、最初の一つは問題なく片付いた。エーリッヒが参謀次長を外れ在郷軍人学校の理事長となる話だ。新規プロジェクトではあるが、複数の省庁が噛んでいる。空中分解してエーリッヒのキャリアに傷がつくことはないだろうとターニャは読んだ。

 二つ目も驚きはしたが、申し訳なさが勝った。ヴィーシャとエーリッヒにまとわりついたよからぬ噂の話だ。できれば判明した時点で教えてほしかったと思う一方、片付いたいまだから安心して聞ける気持ちもある。なにより、ヴィーシャとエーリッヒの関係が壊れなかったことにターニャは安心した。

 しかし、最後の相談にどう答えるのが正しいのか、ターニャにはわからなかった。

 

「アスカニエン家が、ですか」

「ああ。君の母上が傍系にあたると囁かせ、否定しないことによって広めているようだ」

 

 それだけであれば根も葉もない噂とはねのけることができたかもしれない。それだけであれば。

 ターニャが目を落とした先にあるのはアイリカ・ヴェルフという女性の背景と儚げな笑顔の写真だ。

 ヴェルフ家の始祖はアスカニエン家の庶子であり、時にはヴェルフ家の子がアスカニエン家を継ぐこともあったほどに良好な関係を築いていた。しかし、人の欲は消えないものだ。アスカニエン家に男児が生まれなかったことでヴェルフ家は都合のいい跡継ぎを立てようと、アイリカに見合いを迫った。

 しかし、アイリカには好いた男がいたらしく、蒸発。家の者が捜索に当たっていたものの、見つかったのは病に崩れた死体だけだった。

 時期も、状況も、そして容姿も。すべてが一致している。

 

「この情報は間違いないのですか」

「おおよそ信じてよいだろう。宮内尚書が約束してくれた」

「なるほど。では収集は宮内省の情報機関が」

「明言こそしなかったが、間違いない」

 

 もう一度なるほどと呟いて、ターニャは写真を見つめた。

 似ている。金髪も、大きな一対の緑眼も、丸顔も。しかし、写真からでも伝わってくるほどの諦念と悲哀の入り混じった静けさを似ているとは思いたくなかった。

 

「わざわざお伝えくださったということは、ただの政治ゲームではないのでしょうね」

「私も最初はそう思っていたのだが、どうやらことは単純ではないらしい。この書類と一緒に宮内尚書が渡してきたものがある。アスカニエン家アルブレヒト二世からの手紙だ」

 

 封蝋には開けた痕跡がない。エーリッヒもまだ目を通していないとのことだ。

 ターニャは爪先で封を破った。

 そこにはただ一枚、招待状が入っていた。アスカニエン家の家紋がわざわざ専用のインクで手書きされたそれを偽造するのは困難であり、示すだけで最上位の身分証明として機能する。たかが大佐に送り付けてよいものではない。

 裏返すと、流れるような筆で一言記されている。

 

「ご夫妻で。……どこで情報が洩れたと思いますか」

「わからん。しかし、そろそろ耳聡い者には知られつつあるだろう」

 

 ターニャは頷いた。

 いくら郊外に引っ越したとはいえ、郵便物や買い物で名はわかる。加えて地元住民との交流が増え、来客も少なくない。到底隠遁とは言えない。ターニャ自身、少しずつ社会に復帰する努力をしているところだ。多少怖くはあるが、それ自体は忌避するほどではない。

 しかし、それと招待に何の関係があるのだろうか。

 

「私を手に入れたいだけなら招待するのは私だけでいいはず。……結婚させる相手がすでに決まっていて、そのためにエーリッヒが邪魔であり、”話し合い”で解決しようとしている可能性は?」

「ないわけではないだろう。噂を拡散しているのも牽制と根回しを兼ねているのかもしれん。しかし……」

「ええ」

 

 確証がない。

 数多の誤解を経て、二人は誓いにも似た約束を結んだ。それは「得られる確証から目を背けない」というそれだけのことで、しかし、二人にとっては大切な約束だった。

 アスカニエン家の老いた当主が何を考えているかはわからない。憶測ばかりで語って解決するほどたやすい事態なら悩んでいない。であれば、乗り込むしかないだろう。

 ターニャが招待を受ける意を述べると、エーリッヒは頷いた。

 

 いくら参謀次長が多忙で責任のある仕事だと言えど、帝国有数の名門に招待を受けたとあれば休む名目として申し分ない。この貴重な一日を家で過ごすことができればどんなによかったかとも思いつつ、ターニャはエーリッヒとともに迎えの車の後部座席に腰かけていた。

 礼服は帝国軍の制服しか持ち合わせていない。久しぶりの制服は少し息苦しく、あちこちの丈が足りなくなっていた。

 少なからず緊張している。銃での戦いよりも言葉での戦いのほうが得意だと自負してはいたが、その自信が膝の震えをかき消してくれるわけではない。

 無言で差し出されたエーリッヒの手を握る。ともに戦うこの人が温かな手をしている、それがターニャにとって何よりの力だった。

 運転手の気遣いかそれとも命令があったのか、道中で飲み物やら軽食やらあれこれ買い与えられた。ターニャはアイスティーを一口飲んだが、砂糖をたっぷり入れた帝国式のアイスティーが苦手だったことを思い出す羽目になった。

 三時間ほど走っただろうか。

 

「到着いたしました。玄関前までお運びいたしますので、もうしばらくご辛抱ください」

 

 大きな門を潜り、手入れのされた庭園を抜け、博物館のような重厚で歴史を感じる本邸へとたどり着いた。

 ここからが勝負だ。

 素人目にも上等とわかるお仕着せを身に纏った召使に案内され、二人は屋敷の奥へと進んだ。

 通されたのは応接間ではなく、寝室のようだった。枯れ木のような老人がベッドの上でこちらに目を向けている。手は節くれだって痣が目立ち、右目は光を失って久しいようだ。しかし、ターニャと同じ大粒の緑眼が左目に光っている。

 

「ターニャ・フォン・デグレチャフ、並びにエーリッヒ・フォン・レルゲン、ご招待に預かり参上いたしました」

「ああ……来てくれたね。儂がこの家を預かるアルブレヒト二世だ。すまない、もう少し近くへ。この目では顔が見えん」

 

 ベッドのそばまで歩み寄ると、アルブレヒト二世は震える手をターニャに伸ばし、宙を彷徨わせ、再びかけ布団の上へ落とした。

 あまりに弱々しく、今にも朽ち果てそうだ。

 アルブレヒト二世の儚い笑顔は写真で見たアイリカ・ヴェルフに似ていて、ターニャは少し胸が苦しくなった。

 

「驚かせてしまっただろう。それに、儂を疑わしく思いもしただろう。それなのに来てくれた……向こうでアイリカに自慢できる」

「閣下、恐れながら伺います。私の母がアイリカ・ヴェルフであると、どのような根拠から確信なさったのですか」

「ああ、その話もするつもりだ。しかし、先に断言せねばならんことがある。儂は君たち二人の仲を引き裂くつもりはない」

 

 主目的であった疑問が解消されたことで、かえって妙な緊張が生じた。

 背中にじわりと汗がにじむ。

 

「本当はゆっくり話したかったが、この肺がなかなかにわがままでね。いや、もう少し長生きしたいと思う儂のほうがわがままなのかもしれん」

「そのようなことをおっしゃいますな、閣下」

「君、エーリッヒ・フォン・レルゲンだね。妻の敵かもしれない相手に同情を向けてはいけない。君の目は心底私を心配している」

 

 とはいえ、そのような君だから結ばれたのだろうね。

 吐息交じりのしゃがれた声は嬉しそうでも、悲しそうでもあった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第33話 威光

 ターニャは老人から差し出された小さなフォトフレームを受け取った。色あせているが、それは間違いなく健康だったころのアルブレヒト二世と、幸せだったころのアイリカ・ヴェルフだ。

 

「アイリカはいい子だった。勉強熱心で、献身的で、少し夢見がちで。時々やんちゃもしたものだ。家庭教師から逃げて自分の足でこの屋敷まで来た時は驚いた。君はアイリカによく似ている」

「私は……私には閣下の仰ることを正しく理解するだけの情報がありません」

 

 名前も顔も知らなかった人物が自分の母親だなどと言われても、ターニャには納得も実感も生じなかった。ターニャがこの世界で記憶した最初の情報は流動食のまずさで、その流動食は教会を兼ねた孤児院の釜で作られた。

 アルブレヒト二世は少し悲しそうに、そうか、とだけ呟いた。

 

「私は孤児院で育ちました。そして、平和を勝ち取った今に至るまで、親族であると名乗り出てきた人間はいませんでした。もし私が閣下と同じ血を引く者であるのなら、私の人生に介入するのが余りに遅いのではありませんか」

「……そうだね、私もそう思う。君がアイリカの子、つまり儂の孫であるとわかったのは――」

「孫?」

 

 エーリッヒの口から疑問の音とともについて出た言葉は、ターニャにとっても不可思議だった。

 話を遮られたにもかかわらず、アルブレヒト二世は朗らかな表情だった。幼き頃の彼が悪戯心に満ちた少年だったであろうことが手に取るようにわかる笑みで、アルブレヒト二世は言葉を続けた。

 

「そう、孫だ。アイリカは儂の実子だよ。彼女の母ツェツィーリアはすでに潰えたある貴族家の末裔でね、周囲に担がれて私を篭絡しようとした。しかし、それはあまりに悲しい話だ。なんとか彼女を救ってやりたかった。守れたのは生まれたばかりのアイリカだけだったが……」

 

 社交界をなめていた。この短い物語で何人が不幸になったのかターニャには想像も及ばない。より深く世界を見てきたであろうエーリッヒを見上げると、首元に汗がにじんでいるのが見えた。

 

「アイリカを使ってなおもツェツィーリアの尊厳を冒そうとする者たちがいた。アイリカを守るため、ヴェルフ家の子とした。しかし、そのやり取りを見て与しやすしと思ったのだろうね。ヴェルフ家はアスカニエン家を乗っ取ろうと、食いつぶそうとした」

「しかし、閣下はご健在です」

「ああ、そうとも。私が生き恥を晒している陰にはいくつかの悲劇と英雄譚があるが……彼らの秘められた名誉に光を当てるのは今ではあるまい」

 

 アルブレヒト二世が咳き込んだ。エーリッヒが水差しを手に取り、満たされたグラスを受け取ってターニャが手渡すと、アルブレヒト二世はゆっくりとそれを口にした。

 

「ありがとう、ままならんものだ。さて、なぜ気づいたか、なぜ遅れたかだが……本当は何も知らず幸せに生きてほしいと思っていた。しかし、儂が動かねばならない理由が生じた。エーリッヒ、そう呼ばせてもらうが、その棚の上から二番目、題のない灰色の本を取ってくれるかね」

 

 エーリッヒは一瞬躊躇を見せたが、指示に従った。分厚い革表紙の本だ。金銀の箔押しは剥がれかけ、何かしらの宝玉が埋まっていたであろう台座も空洞。しかし、荘厳ではあった。

 本を受け取って開いたアルブレヒト二世は、枝のような指でページをめくった。しゃがれた声が歌うように唱えるそれは、どうやら家系図を表した詩のようだ。今となっては忘れられた古き血筋すらも編み込まれたその詩は帝国の、いや、大陸の歴史そのものだった。

 

「――ああ、これだ。君も見覚えがある名前だね、エーリッヒ」

「……ヴェート」

 

 ターニャもつい先日聞いたばかりの名だ。エーリッヒとヴィーシャの関係を噂させていたヴェート中佐を殴り飛ばした話はターニャにとっても痛快だった。

 しかし、アルブレヒト二世の指が示す樹を辿ると、ヴェートの名とアスカニエンの名が同じ祖につながっている。

 

「君たちが尽力してくれたおかげで戦争が終わった、それは喜ばしいことだ。しかし、宮廷の連中は軍という一括りでしか見ていないんだよ。エーリッヒ、君が懲らしめた男は儂の派閥の末席を汚していた。同じ軍人、片方は一代貴族でもう片方は末端とはいえ貴族の血だ」

「お待ちください、閣下。閣下は彼を処断なさるおつもりですか」

 

 焦りから言い募ろうとしたターニャを手で制して、アルブレヒト二世は話し続けた。

 

「二つの道があった。その子をアスカニエン家に迎え入れ、婿としてエーリッヒ、そう、君を迎え入れる道。もう一つは、アスカニエンの家名を陛下にお返しし、最後のわがままとして君たちの平和を陛下にお約束いただく道」

 

 理解が追い付かなかった。

 どちらの道をとってもこの老人に得することがない。ヴェルフ家から守るためと理由をつけてもエーリッヒを婿とする意味がないし、後者に至っては意味が分からない。ターニャの混乱は深まるばかりだった。

 それはエーリッヒも同じと見えて、静かに、しかしはっきりと問いかけた。

 

「お教えください、閣下。そこには何の目的があるのですか」

「目的、そうだね、それを話していなかった。孫娘に幸せになってほしい、それだけだ。アイリカの死体に会った後、陛下にお伺いを立ててね。アイリカの子が見つかったら、儂はその子の幸せにすべてを費やすと、そうお約束したんだよ」

 

 帝国の頂点に立つ男を出した以上、嘘ではないはずだ。しかし、ターニャは納得できなかった。この枯れ木を引き裂けばどれほどの蟲が這い出てくるのか、わかったものではない。きっと陰謀に満ちている。そうでなければ貴族などやっていられるものではない。

 ターニャの疑念が伝わったのか、アルブレヒト二世は小さく息を吐いた。

 

「信用できんだろうね、わかるとも。君は聡明だ。たとえ皇帝陛下が保証しようと、神託が下ろうと、確かであるかどうかを考えることができる子なのだろう」

 

 肯定はできない。不敬にあたるからだ。ターニャは沈黙で応えた。

 しかし、その沈黙はたやすく崩された。

 

「神託があった」

「そんな」

「嘘ではない。君がいま帝都から離れた片田舎にいること、心に深い苦しみを抱えていたこと、愛する者と共に過ごしていること……神はすべてを示したうえで、私に告げた。君を速やかにアスカニエン家へと戻らせ、その恋人――エーリッヒ、君を処分しろと」

 

 脳が脈打つ。

 ターニャは目の前の老人を絞め殺そうと手を上げた。存在Xの干渉を許してはならない、”あれ”の邪魔は決して受けない。その澱んだ熱がターニャに殺意をもたらした。

 しかし、かすかに残った冷静さが「アスカニエン家アルブレヒト二世を殺めて、それからどうするのだ」と囁いた。その囁きは躊躇となり、躊躇は隙となり、エーリッヒがターニャを捕まえた。

 エーリッヒがターニャの手を掴まなければ、ターニャはベッドに飛び乗り、馬乗りになり、アルブレヒト二世の首をへし折っていただろう。

 

「落ち着け、ターニャ!」

「放してください……!」

「ああ、軽率だったね……すまない。もう少しだけ話を聞いてほしい」

 

 これ以上聞く意味もないように思えた。あの存在Xに唆された者がターニャに善意を向けるはずもないからだ。

 しかし、エーリッヒがいる以上、この場で対処できるわけでもない。ターニャはひとまず手を下ろし、二人に非礼を詫びた。

 

「ありがとう。さて、神託の話だったね。私は怒鳴りつけてやったんだ。私は皇帝陛下にお仕えする身であって神の奴隷になった覚えはない、と」

「……は?」

「つまり、君たちについての情報だけ掠め取って命令は無視したわけだよ。痛快だった。今でも夢に見るほどだ」

 

 くすくすと笑う老人はまさにターニャが妄想する悪辣な貴族のそれだったが、細められた目は童心を忘れていなかった。

 限られたサンプル数ではあるが、ターニャが見てきた範囲では存在Xの言葉に逆らった者はいなかった。無神論者だった技師をすら敬虔な信徒に作り変えてしまうその力に、この吹けば飛びそうな老人が抗ったのだろうか。

 

「極東、秋津島皇国では多くの神が信仰されていると聞く。そしてそれは神が恐ろしいものであるがゆえの畏怖であるとも。恐ろしさにしろ、素晴らしさにしろ、示され、納得したからこその信仰がある。ただ恭順を促されて従うのは信仰ではない、思考を停止した隷従だ。……拙い私論だがね」

 

 ターニャの喉からは言葉が出ず、代わりに頷くことで同意を示した。

 アルブレヒト二世は崩れかけの骨董品にすら見えるというのに、彼の思想は帝国で十三年近くを過ごしてきたターニャにとって開明的に思えた。

 

「恐れながら、閣下のお立場でそのようなお考えを口になさるのは――」

「そうだねエーリッヒ、よくないことだ。曲解すれば陛下のご威光を疑うとも取れる。しかし、これであれば納得に値するのではないかな?」

「……あらぬ疑いの目をお向けしたこと、お詫び申し上げます」

 

 ターニャはようやくこの老人がある程度の事実を口にしていること、そしてどうやら自分の祖父であるらしいことを受け入れた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第34話 孫娘

 ターニャはまだ多くの疑問を抱えている。なかでも重要なのが、この老人を動かしている理由、根拠、そういった原動力だ。

 

「なぜ閣下は我々にご厚情をお向けくださるのですか」

「おや、理由が必要かね? 大事な娘の忘れ形見に幸せになってもらいたい、それでは不十分だと?」

「閣下の人徳を疑うわけではありません。しかし……帝国有数の名門はそれほど軽いものなのでしょうか」

 

 ターニャはそれほど帝国貴族の社交界や政界に詳しいわけではない。首を突っ込む機会がなかったし、そうしようとも思わなかったからだ。それでも、常識の範疇として、アスカニエン家の名が軽くないことはわかる。

 質問の続きをエーリッヒが引き継いでくれた。

 

「名高きアスカニエン家は帝国の二大派閥に謳われる社交界の偉大な筆頭であると、そのお噂は軍にまで届いております。陛下とお約束なさった、そこに疑いを挟む余地はありません。しかし、閣下をお慕いする皆々様が納得なさるでしょうか」

「なるほど、もっともな話だ。しかしね、これは儂のわがままだ。陛下がお許しくださった駄々だ。儂に従う者であればなおのこと文句など言わせんよ。最後くらい権力を無駄遣いしてもよかろう」

 

 理屈と言えるかもわからない主張だが、矛盾はなく、すべてが真実かすべてが嘘か、それしかありえない。

 ターニャはなおも言い募ろうと口を開いた。しかし、何を言えば化けの皮を剥ぐことができるのかがわからない。結局のところ、ターニャを動かしているのは漠然とした不安と不信感なのだ。そして、それは理性的とは言えない。

 

「納得の材料があればよいのだが……そうだ、ではこうしよう。決めた。取引だ」

「取引、ですか」

「左様。儂は君たちの今後に帝国の政治が関与しないことを約束する。その対価として儂が要求するのは三つ」

 

 枯れ枝が三本、窓からの日差しを遮った。

 

「一つ目、儂が死ぬまでの間、アスカニエン家の名を出さないこと。二つ目、自らすすんで帝国の政界に歩み寄らないこと。三つ目……」

 

 逡巡があった。

 老人のまだ光を灯している片目がターニャを見つめている。視線は髪をなぞり、瞳を経て、エーリッヒと繋がれた手へと落ちた。

 

「一度でいい。儂を祖父と呼んでくれないか」

 

 エーリッヒが何かを問いかけようとしたのを感じて、ターニャは小さく彼の手を引いた。

 乾ききった声から感じるものがあった。悲哀。絶望。苦痛。そして、その中に仄かな光、すなわち、愛情が宿っている。

 裏があるかもしれない。それでも、ターニャは彼を信じた。信じたいと強く思った。ベッドにゆっくりと歩み寄り、力なく置かれた皺だらけの手に小さな手を重ねた。

 

「あなたの深い愛情に感謝します、おじいさま」

「ああ……ああ、ありがとう……」

「あなたの孫娘、ターニャは幸せに生きております。世界一素敵な伴侶を得ました」

「そうか……」

 

 エーリッヒの手に力がこもった。思えば最初に愛おしさを感じはじめたのはこの手だ。ペンだこと傷を感じる、しかし優しく温かい手。

 

「心強く魅力的な友人に囲まれて過ごしています」

「そうか、そうか……」

 

 ヴィーシャから贈られたタイとブローチが少し温かく感じる。一番付き合いの長い友達。昔は手のかかる部下で、いつの間にか大事な副官で、今では姉のような存在だ。

 

「今日、おじいさまとお会いすることができました」

 

 もはや声もなく、アルブレヒト二世という男は涙に崩れていた。

 

「私は近いうちに姓が変わります。アスカニエンを名乗ることも、ヴェルフを名乗ることもありません。この身に流れる貴き血の価値を弁えることもないでしょう。それでも、私はおじいさまの孫です」

「君、君は……」

 

 しっかりと目を見て、ターニャは”祖父”に”お願い”をした。

 

「ターニャとお呼びください」

「ああ、そうだね、そうだ、ターニャ……ああ、なんともみっともない姿を見せたものだ。エーリッヒ、本当はね、君に厳しいことを言うつもりだったんだよ。だのに、情けない話だ。……儂の孫娘だ、大事にしてくれるね?」

「は、全力を賭して」

 

 エーリッヒの敬礼を見るアルブレヒト二世の姿は穏やかで、帝国の政界を牛耳る派閥の長には見えなかった。まだ涙が頬を伝っているが、それでも彼は貴族らしく鷹揚に頷いてみせた。それが指導者の貫禄なのだろう。

 

「結構。……残しておいた体力のほとんどを使ってしまった。そろそろ眠ることにしよう。運転手には帰りを任せてあるが、伝えれば昼食に相応しい店へ案内してくれるだろう。……さ、もうおかえり」

 

 ターニャはもう一度祖父の手を握って、会釈をした。

 彼が祖父であると心から受け入れたわけではない。脳内会議の冷静なターニャが抱える疑念は消えていない。しかし、その疑念や不信感は彼の涙に勝らない。

 結局のところ、絆されたのだ。

 

「さようなら、おじいさま。お会いできてよかった」

「さようなら、ターニャ。エーリッヒ、ターニャをよろしく頼むよ」

「承知しました。あなたの孫娘は必ず幸せであり続けます」

 

 エーリッヒに手を引かれて、ターニャは祖父の寝室を退出した。

 部屋の前で待機していた家令と思しき老齢の男性に案内されて玄関へ向かい、来る時と同じ車の後部座席に並んで乗った。

 この人々もアルブレヒト二世と、そしてアイリカと過ごしてきたのだろうか。

 挨拶を済ませ、車が走り出した。

 

「……すまない、ターニャ。今日はあまり役に立てなかった」

「いえ。気を使ってくださったのでしょう?」

 

 もしアルブレヒト二世が貴族として政治上の目的を持って動いていたとしたら、帝国軍准将であるエーリッヒは下手な発言ができない。また、アルブレヒト二世が心からターニャという孫娘との団欒を望んでいるのなら、それを邪魔すべきではない。

 お見通しだと小さく笑んでやると、エーリッヒは大きく息を吐いた。

 

「ひどく肝が冷えたぞ。……落ち着いたら腹が減ってきた。何か買って帰るか?」

「そうですね……」

 

 ターニャは車の窓を開けて、外を見た。

 帝都からは離れているが、アスカニエン家の威光により栄えているいい都市だ。街並みに品がある。

 雑踏のにぎやかさ。郊外とは違う、街の匂い。

 

「食べていきませんか?」

「それは、しかし……」

「大丈夫です。なんだか、そんな気分なんです」

 

 エーリッヒは少し悩むようなそぶりを見せたが、頷いた。そこには心配の色だけではなく、確かに喜びがあって、それがターニャにはたまらなく嬉しかった。

 心配されているという昏い独占欲も、回復と成長をともに喜んでくれるという明るい独占欲も、どのみち愛の一つに違いはない。ターニャは改めて己の五臓六腑に染み込んだ愛という毒を自覚した。

 

「失礼、運転手。お聞きのとおりです。ターニャ、なにか要望は?」

「おいしいところであれば、どこでも。……いえ、やっぱり一つ。個室のあるお店でお願いします」

「個室?」

「はい。私という人物について、お話しなくてはならないことがあります」

 

 ターニャは覚悟を決めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第35話 前世

 黒い壁にかけられた灯りが暖色の光を慎ましやかに拡げている。耳をすませばテーブル席の賑やかさが聞こえるような気もするが、彼らの会話までは聞こえない。万事がほどよく整ったレストランの個室にターニャはいた。

 自分で思っていたよりは落ち着いている。この日が来るとはわかっていたが、もっと慌てると予想していたのだ。もしくは、もっと恐れると。

 銀のナイフをカレイのソテーに入れる、その手は震えていない。

 

「……それで、話ですが」

「ああ。食べ終わってからでも構わんが、今か?」

「はい、そのほうが楽なので」

 

 それでもさすがに最初の一言を発するのは緊張する。経験上、始めてしまえば早いのだ。それは”両方の”経験が示している。

 ターニャはナイフとフォークを置いた。

 

「私には、今とは異なる人生の記憶があります」

「今とは異なる、人生……それは君自身の記憶なのか」

「はい。私の……男性として生き、殺された私の前世です」

 

 エーリッヒは口に運ぼうとしていたグラスを静かに置いた。眼鏡の奥で瞼が閉じ、再び開かれる。疑念の色はない。不思議なことに、困惑の色も薄い。

 

「今より未来の話です。それも、こことは異なる分岐を選んだ世界……言うなれば、別の次元でしょうか。前世の私はそこに生きていました。かつての私と同様、冷酷さと冷徹さによって順調に仕事を進めていき、恨みを買い、殺されました」

 

 この人生では生き延びましたが、と嘯いてみせすらする。エーリッヒは笑わなかった。しかし、誠実で真剣な表情は崩れなかった。

 思い返せば、前回も今回も似たような形で命を狙われている。前回も今回も上司の命令に従って行動した結果だ。もちろん、人の神経を逆撫でする振る舞いが合理的でなかったことをターニャは自覚したが。

 

「神を名乗る存在が私をこの世界へと転生させました。私の信仰心のなさに怒り、弱者として苦境に立たせれば回心するであろうと。結果はご覧のとおりです。私は信仰心も抱かず、ターニャとして新たな人生を歩み……ここでカレイを食べている」

「……なるほど」

 

 エーリッヒの眉間に皺が寄るのを見てしまい、ターニャは思わず俯いた。

 視野がぐっと狭くなっていく奇妙な感覚。軍人はこれを”戦死の予兆”と呼ぶ。ターニャはこの現象を敗北と死の可能性にたどり着くだけの条件を認識してしまった結果生じる緊張と説明できるが、予兆にせよ緊張にせよ危険を感じているのは事実だ。

 話すべきではなかったのかもしれない。しかし、話さねば誠実ではない。その不誠実にターニャの心は耐えられない。

 ターニャの頭に衝撃と痛みが走った。

 顔を起こすと、エーリッヒが握りこぶしをさすっていた。

 

「君は石頭だな……。ターニャ、そういうことはもっと早く言ってくれ。何かあったらどうするつもりだったんだ」

「どうする、とは」

「神、いや、何者かわからんが、それは明らかに人智を超越した存在なのだろう。それはいい、変えられることではない。しかし、それが悪意を持って干渉してくる可能性があるのだから、もっと早くに対策をするべきだった」

「いえ、あの、エーリッヒ」

「どうした」

「私は……私は男だったとお伝えしたはずですが」

「それで? ああ、なるほど、話が見えた。頭を出しなさい、もう一発拳骨を落とす権利が私にはある」

 

 ターニャはそれを甘んじて受け入れた。先ほどよりも重い衝撃がターニャの頭蓋に響いた。

 エーリッヒはうんざりした顔で自分の手首を押さえると、ため息をついた。しかし、それは不快感や怒りの籠ったものではなく、どちらかというと呆れを思わせた。

 

「君の前世とやらがその何者かに植え付けられた偽の記憶でないと誰が証明できる?」

「それは……そうですが、私の人格形成はその記憶によってなされていて」

「ならそれでいいだろう。私もゲーテにかぶれて勉学に励んだ時期がある。創られたものに影響されたのは同じだ」

「違います」

「違わん」

「違います!」

 

 ターニャは初めて、怒りを込めてエーリッヒを睨んだ。

 思えばターニャは今まで喧嘩というものをしたことがなかった。せいぜいがシューゲル技師と見解の相違で怒鳴りあいになったくらいだが、あれは命の危機を感じての主張であり、怒りなど覚える暇はなかった。

 初めて喧嘩をする相手が自分の愛する人で、しかもその理由が自分を思いやってくれるからとは、何ともわがままな話ではないか。

 

「私もさすがに怒るときは怒るぞ、ターニャ」

「私も怒っています。……あの記憶だって、確かに私なんです」

「そうだろうな」

「あの前世があったから私は知識と経験を活かし、生き残ることができました」

「さもありなん」

「どうして、そんな顔をなさるのですか。まるで、どうでもいいと言いたげな顔を」

「どうでもいいからだ」

 

 断言したエーリッヒに、ターニャは言い返せなかった。怒り、苦しみ、それを怒涛の如く追いやってなお足りない、悲しみ。その感情の根源は「理解してくれない」というあまりに幼稚なものだ。理解している。自覚している。それでも。

 

「私からすれば、小さいころ君が見た長い夢の話をされているのとさほど変わらない。夢の内容を聞く分には興味深いだろうが、なぜその夢を私が咎めねばならない」

「それは……」

「当ててやろう。君は恐れていたな? この話をすれば私が不快になる、いや、君を嫌いになると。その根拠は何だ?」

 

 ターニャは手の甲が白くなるほど膝の上の両手を握りしめた。

 思う以上にエーリッヒはターニャの不安を理解していて、思う以上にエーリッヒはターニャの前世に無関心だった。

 根拠。根拠などわかりきっている。転生した先の世界で前世を明かせば不気味がられることなど、多くの物語で――

 

「あ……」

 

 そう、物語。誰かが考えた架空のお話で、架空の人々が架空の感情を扱っていた。ターニャはそれに自分を投影していたのだ。目の前の大切な人より、物語を信じ込んでいたのだ。

 ひどく情けなかった。視界がぐにゃりと歪んで、頬を温かいものが伝っていって、自分が泣き出したことに気づいた。嗚咽が漏れるまではあっという間だ。

 今日は涙をぬぐう優しい手がなかった。

 

「私は思っていたより君の信用を勝ち得ていなかったようだな」

「ちが、ちがうんです」

「何も違わん。……なぜどうでもいいかをもう少し詳しく語ろう。疑うに値しないからだ。君が真面目な話をするのなら、それは君にとって真面目な内容だろう。それを疑う理由が私にはない」

「……ごめんなさい」

「それは何についての謝罪だ」

「あなたを、信じなかったことです。ずっと、言いたくて、怖くて」

 

 大きなため息が聞こえた。

 ややあって、彼の手が少し乱暴にターニャの頭を撫でた。髪を崩す指先の力強さは初めて感じるもので、驚きと温かさにターニャの涙が止まった。

 

「私も謝ろう。すまない、きつい言葉で君をいじめてしまった。許してくれるか?」

「はい、許していただけるのなら」

「もちろんだ。そして、はっきりと伝えておく。君がどのような記憶を持っていようと、どのような過去を抱えていようと、私はその記憶や過去によって構築された今の君を愛している」

 

 それはすべてを肯定する言葉だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第36話 超越

 ようやく落ち着いた様子で食事を再開することができた。エーリッヒからすればよき日以外の何でもない。ターニャが自分から外で過ごすことを望み、しかもずっと隠してきた秘密を明かしてくれたのだ。

 とはいえ、ターニャが抱えてきた”過去”はどうやら軽い気持ちで流すわけにもいかないようだった。記憶が事実であろうとなかろうと、神を名乗る何者かがターニャに干渉したことは間違いない。人の記憶を人格に影響するレベルで書き換えるなど、人智を超越している。

 この一点において、たちの悪い夢だと笑うこともできなくなる。アルブレヒト二世が口にした”神託”と結びつくことでその超越者が実在することが示されつつある。まだ明確ではない。しかし、もはや否定するのには証明を要求される段階に来ている。

 しかし、焦ったところで何が変わるわけでもない。

 

「そろそろデザートが来るころか。君のは確か、マスカットのトルテだったな」

「はい、目にも爽やかで夏にはいいかな、と。あなたのはロー、ローテ……」

「ローテグリュッツェ。噛まずに言えたのは今が初めてだ」

「実は見たこともなくて。どんな味ですか?」

「どんな味……うまいのは確かだが、説明するとなると難しいな。食べてみるか?」

「よろしいのですか?」

「もちろん」

「嬉しいです。では、トルテもお分けしますね」

「ありがとう。お、来たようだ」

 

 ノックに応答すると、給仕が静かに戸を引き、デザートをテーブルに置いて去っていった。よく訓練されているのだろう、見事な重心移動にエーリッヒは感嘆した。

 正直なところ、この高級感あふれる店構えにはまだ少し馴染めていない。エーリッヒの実家はさほど裕福ではなかった。まだ今年で二十九歳のエーリッヒがこういった上等な店で食事をとる機会はほぼなかったと言っていい。

 そうはいってもおいしいものがおいしくなくなるわけではない。風格に圧倒されて味がわからなくなるようなメンタリティであれば軍務が務まるはずもない。エーリッヒはよく冷えたローテグリュッツェにバニラソースを回しかけ、スプーンを入れた。

 

「名前からわかってはいましたが、赤いですね」

「カラント、ベリー、チェリー。夏の赤が結集しているからな」

 

 一口分を掬い取って口に運ぼうとすると、ターニャの視線が刺さった。

 エーリッヒが目をやると、期待とかすかな羞恥が頬にうっすらと紅を差している。スプーンを動かせば目が動く。

 期待を理解して、エーリッヒはスプーンを差し出した。

 

「ほら」

「ん……おいしいですね! 酸味がしっかりしていて、でも甘味が華やかで、それをバニラが包み込んでいて」

「気に入ったのならよかった。ついてるぞ」

 

 ターニャの口元に残ったバニラソースを指先で拭って、癖でそのまま舐めとった。野生の木の実で作ったローテグリュッツェはエーリッヒが小さいころ口にした唯一の甘味で、バニラソースを使うのはお祝いの日だけだった。

 しかし、そんな思い出とは関係なく、恋人の口元についたソースを拭って舐めるという自分の挙動にエーリッヒは硬直した。いつぞやターニャに「気障男。軟派者。女たらし。馬鹿」と怒られたのを思い出す。

 ターニャは茹で上がったように顔を真っ赤にしていたが、ゆっくりフォークを手に取り、トルテを一口大に切って載せた。

 

「あ、あーんしてください」

 

 エーリッヒが口を開くと、わざと唇を掠めるようにしてトルテが侵入してきた。止まりかけの思考が舌からの報告を受け、「爽やかな酸味があってうまい」という認識だけが残った。

 ターニャがエーリッヒの口へと指を伸ばしたが、テーブルに阻まれて届かない。

 

「あの、ついているので……もう少しこちらに……」

「あ、ああ」

 

 促されるままにエーリッヒはテーブルに手をついてターニャの側へと身を乗り出した。

 ターニャの小さな手は口を通り越して耳へと届き、そのまま頭を押さえ、そしてターニャの柔らかい唇がトルテの欠片を奪っていった。ほのかにローテグリュッツェの果実が香っている。

 座りなおしたターニャは赤く染まった頬もそのままに、小さく笑みを見せた。

 

「おいしい、です」

「……ああ、おいしいな」

 

 恥ずかしさに腹の底がむずがゆくなるような感覚で固まっていると、給仕が食後の飲み物を運んできた。エーリッヒはできるだけ平常を装い、二人分のコーヒーを運んできた給仕に礼を伝えた。

 普段は気分次第で砂糖を入れることもあるが、頭を落ち着かせなくてはならない。

 いい豆を使っているのが立ち上がる香りだけでもわかる。口に運べばバランスのいい苦味と酸味が舌に残った甘さを押し流し、コクとともにより濃厚な香りが抜けていく。豆だけでなく淹れる者も上等のようだった。

 コーヒーにやたらうるさいターニャも満足したようで、小さく頷いている。男性だった記憶を持っていると聞いたからこそ、どうにも微笑ましく思えた。

 

「それで……話の続きだが、その神を自称する超越的な何かは何と名乗っている?」

「神とだけ。私は存在Xと仮称しています」

「なるほど、ではそう呼ぶことにしよう。その存在Xが明確に干渉した場面はどのようなもので、どのような状況だったか。聞かせてくれ」

 

 ターニャは苦々しげに口を曲げたが、コーヒーカップをソーサーに置いて指を組み、語りはじめた。

 

「最初の遭遇についてはお話したので、その後、つまりターニャとして見聞きしたことを。私以外への干渉を確認したのは工廠主任技師のドクトル・シューゲルが最初です。実現の困難な開発に助力し、彼を信徒にしました」

「ふむ……そのエピソードだけを切り取れば好意的とも読み取れるが、危険なことに変わりはないか」

「はい。加えて、開発された演算宝珠エレニウム九五式は神への祈りを捧げないと機能しません」

 

 九五式についてはエーリッヒも調べたことがある。あの”白銀”が使う専用品だと噂になっていたのだ。もしそれが彼女の強さの源なら、他の魔導師にも普及させることで戦力の大幅な向上が望めると考えたのはエーリッヒだけではない。

 しかし、いま話を聞く限りでは、その装備は呪われている。

 

「ある種の条件付けを狙ったのでしょうね。祈りを捧げると力が生じ、力によって危機を打破する。さらに、明確ではありませんが、信仰心を増幅させる精神汚染が生じているとも感じました」

「それは……神というより悪魔だ」

 

 エーリッヒの頭に浮かんだのはウェーバーの魔弾の射手だ。もしくはゲーテのファウストでもいい。力を与え、心を奪おうとする。おぞましいやり口だった。

 

「同感です。次に干渉を確認したのは連合王国の部隊に混ざっていた魔導師、装備から見ておそらく協商連合の残党でした。条約違反のトレンチガン、それも不自然なほどの高火力で、私のみを狙っていました」

「高火力のトレンチガン。それも存在Xによるものだろうか」

「その可能性は高いかと。ヴィーシャの加勢があって打破、自爆を確認しました」

 

 指を組んだことで隠れてはいるが、ターニャの手がかすかに震えている。存在Xへの恐怖、その力を得た敵兵への恐怖、死への恐怖。彼女が無視して蓄積していったそれが爆発したことで、今の傷がある。

 エーリッヒが手を彼女の手に重ねると、ターニャは頷いて、小さく息を吐いた。

 

「ありがとうございます。……最後に確認したのは、連邦戦で遭遇した多国籍部隊の女性魔導師です。おそらく、私とさほど歳は変わらなかった」

「……私が言うべきではないのだろうが、おぞましいな。年端もいかない少女を尖兵にするなど」

「ええ。奴は強力でした。光学術式で建築物を焼き切るほどの火力、九五式を限界まで働かせて振り切れない速度、そして額を撃ち抜いても死なない異常な生命力。とても神の御業とは言えない。冒涜的です」

 

 エーリッヒは頷いて同意を示した。

 神を僭称する何者かが介入し続けた戦争。終結こそしたものの、多くの命が失われた。この戦争が存在Xの望み通りであったなら、それは神のすることではない。少なくとも、信仰には値しない。

 ここまで考えて、エーリッヒはおぞましい可能性に辿り着いた。

 協商連合の越境が戦争の火蓋を切った。調査の結果、越境の原因は領土問題の解決を叫ぶ市民感情であると判断された。しかし、本当にそれだけだろうか。そもそもこの戦争がターニャを苦しめるためだけに用意された舞台、もしくは作品だとすれば――。

 

「エーリッヒ、大丈夫ですか? 顔色が悪いです」

「……ああ、いや。さすがにぞっとした」

 

 心配の色を浮かべるターニャに微笑んでみせて、エーリッヒは思考を切り替えることにした。どのみち証拠はない。であれば、最大限の警戒をするだけだ。

 幸いにして帝国では宗教者の権力が小さい。無神論者も少なくないほどだ。エーリッヒも軍人の倣いとして神に戦勝を祈ったことはあるが、具体的に神のことを考えたことはなかったし、興味もなかった。

 

「秋津島皇国では一千万近くの神を崇拝していると本で読んだことがあるが、あの類ではないのか?」

「ああ……確かに、ありえます。かの島国で神と呼ばれているなかには、帝国で言うところの妖精や英霊も含みますから」

「詳しいな」

「前世の記憶では異なる道を辿った秋津島皇国に生きていました。……そうだ、秋津島皇国に旅行に行ったら私の記憶を証明できるのでは」

「馬鹿、危険な神に目をつけられているのかもしれないのにその総本山に行く気か」

 

 どうにも話がずれてきた。

 とはいえ、ターニャが落ち着いた様子でトルテにフォークを入れているのを見ると、心が安らぐ。ターニャ自身が存在Xへこれといった感情を抱いていないようだ。対策を考えたくはあるが、神を名乗ることができるほどの相手に策を練ったところで役に立つかは怪しい。

 

「結局のところ、災害だと思うしかないのでしょうね」

「まあ……そうなるか。結婚式は教会でないところで挙げよう」

 

 ターニャの手が跳ねてトルテに載っていたマスカットがテーブルに落ちた。

 

「結婚式」

「あ、ああ。その……もし君が承諾してくれるのなら、そろそろ動き出そうと思っていた」

 

 ヴィーシャの言葉を思い出す。恋人としての時間を楽しみたいだろう、と。しかし、エーリッヒの感情も理性も結婚を求めていた。

 そして、エーリッヒは失敗を自覚した。明らかにその流れではない。もっと適切な瞬間があったはずだ。素敵な、一生の思い出となる、最高の求婚をしたかった。

 ターニャのつぶらな瞳から涙がこぼれはじめたことで、エーリッヒの胸はひどく締め付けられた。

 

「すまない、君を傷つけるつもりは……いや、これは言い訳か」

「違う、違うんです……私、嬉しくて」

 

 拭っても拭っても止まらない涙で袖を濡らしながら、それでもターニャは笑顔だった。あまりに安直な話だが、その様子だけでエーリッヒは救われた気分になる。

 

「もちろん、私は――」

「待ってくれ。その、返事はもう少し後で。情けない話だが……サイズがわからなくて指輪を買っていなかった」

 

 今度こそ笑いがはじけた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第37話 川辺

 流れゆく車窓のながめに鼻歌の一つも奏でれば、レールと車輪の合いの手が心地よい。たたん、たたん。

 

「ごきげんだな、ターニャ」

「ええ、もちろんです」

 

 膝に置いた麦わら帽はエーリャから、空色のワンピースはヴィーシャからの誕生日プレゼントだ。そして、それらに身を包んだターニャは、川べりの避暑地へと向かっている。

 医師の許可を得て、ターニャは誕生日を川遊びに費やすことに決めた。今日は九月の二十三日。夏はほとんど終わってしまったが、その残滓が今日も天高くから照り付けている。

 森林三州誓約同盟、ターニャの前世では国名をスイスとしていた美しき高原が近づくにつれて、風が涼しさを帯びていく。

 

「よろしかったのですか、三日もお休みを取って」

「無理をしなかったと言えば嘘になるが、無理をすれば休める程度ではある」

「それは……ありがとうございます、私のために無理をしてくださって」

 

 ごめんなさいよりありがとうございます。初めてエーリッヒが訪ねてきたときに教えてくれたことだ。ターニャはこの言葉をとても大切に思っている。

 自惚れたことを口にするのは気恥ずかしいが、それでも少し照れ臭そうに笑みを返してくれるエーリッヒを見ることができるのなら安いものだ。

 草々が波打つ高原を抜けていく。

 コンパートメントの棚には三日分の荷物が置いてある。もちろん川遊びの道具も。サンダル、虫よけ、タオル、そして水着。人生初の水遊び、それも恋人と誕生日に。夢でも見ているかのようだった。

 

「貸別荘に着いたら荷物を置いて、昼食を買ってから川に向かおう。水に入るのなら軽い食事のほうがいいか」

「なにか地元の名物はありますか?」

「そうだな……確かシュバイネハクセがうまかった」

「豚の脚のローストですか。それのサンドイッチがあればよさそうですね」

「ああ、探してみよう」

 

 荷物を手に降車し、貸別荘からの迎えの車に乗り換える。運転手の男性は陽気かつ礼節を弁えた好人物で、これから向かう別荘にも期待が持てた。

 運転手曰く、例年はこの時期になるともう水が冷たくて川遊びどころではないが、珍しく残暑の厳しいこの年はまだ入れるとのこと。

 道中で運転手おすすめの店に寄り、サンドイッチとレモンティーを購入。観光地ゆえかターニャには少し高く思えたが、エーリッヒは表情を変えずに会計を済ませていた。

 そして、別荘に到着。

 中に入るとほどよい涼しさに包まれた。気を利かせて冷房を運転させておいてくれたのだ。

 

「落ち着いた雰囲気ですね。調度品も品があって」

「そうだな。川までは歩いて行けるようだが、少し休んでからにするか?」

「悩みますね。今何時でしょうか」

「十一時だ。昼食には少し早いな」

「それなら、ピクニックにしませんか? 川辺でお昼です」

「それはいいな、そうしよう」

 

 旅行鞄から水遊びの荷物を取り出し、施錠して出発した。帝都にほど近い自宅と違って風に熱気が少なく、心地よい。自然を残して舗装された道を下っていくと、じきに水音が聞こえ始めた。たまらずターニャは駆け出した。

 

「――すごい」

 

 木々に囲まれた川が岩に切られて白波を立てている。

 空気が澄んでいるとはこのことを言うのだろうか。見るものすべて、聞く音すべてが透明だ。

 今ならわかる。人はこの自然に神秘を見出したのだ。呑まれる、あるいは圧倒される、その感覚を理解できた。否、それは理解ではない。実感しているのだ。

 ふいに吹き抜けた風が、ターニャの帽子を攫っていった。

 

「おっと。危なかったな」

 

 いつの間にか追いついていたエーリッヒが帽子を掴み、ターニャの頭に載せた。少しも気配に気づかなかったのは景色に見惚れていたからだろうか。少し恥ずかしかった。

 

「ありがとうございます、エーリッヒ」

「気に入ったか」

 

 返事の代わりにターニャは彼の腰へ手を回した。

 

「来てよかったです」

「満足するのが早いぞ」

「いいえ、言わせてください。……”ここ”に来てよかった」

 

 そうか、と答えてエーリッヒはターニャを抱き上げた。

 

「もっと喜んでもらうぞ。テントを設営する、手伝ってくれ」

「はい、お任せください」

 

 貸別荘のオーナーから借りたテントを手早く張り、荷物を置いて、二人は昼食にした。シュバイネハクセのサンドイッチは豚肉の皮がぱりぱりと心地よい食感で、味も焼き加減も抜群だ。

 前世にこのようなシーンはなかった。すべてが新鮮で、すべてが色づいている。

 

「ごちそうさまでした」

「ああ、ごちそうさまでした。着替えるか?」

「はい。楽しみにしていてください」

「もちろんだ」

 

 ターニャはテントに入り、水着に着替えた。

 黄色のビキニ。サイドの紐を結んで繋げたデザインは乙女街道の先輩であるエーリャとヴィーシャにも「似合う」と絶賛された。

 そしてその上にパーカー風の白いレインコート。

 普段より高めの位置で結わえてポニーテールにした髪を整え、完成。出撃準備よし。

 ターニャはターゲット――エーリッヒに向けて進発した。

 

「お待たせしました」

「ああ、いや、待っては……」

 

 岩に腰かけていたエーリッヒが目を見開いている。しかし、負の感情を表しているわけではないようだとターニャは判断した。

 レインコートの裾を押さえていた手を放し、その場でくるりと回ってみせる。

 

「感想を頂戴したく」

「えー、ああ、その……驚いた。なんというか、大胆だな。いや、もちろん悪いと言っているわけではない。それから……」

「それから?」

 

 エーリッヒは少し黙って、首の後ろを掻いて、目を泳がせて、それからようやく降参した。

 

「世界一可愛いぞ、ターニャ」

「ありがとうございます、エーリッヒ」

 

 シンプルな男性用水着に着替えたエーリッヒと手を繋いだまま、ターニャはゆっくりと川の流れに踏み込んだ。冷たいが、凍えるほどではない。水遊びを感じるにはちょうどよさそうだ。

 そして、ひどく間の抜けた話ではあるが、ターニャは気づいた。

 

「ぜ、絶対に手を放さないでください。絶対ですからね」

「ああ、わかっているとも」

 

 泳いだことがない。

 これは何の冗談でもなく、泳ぐ機会が一度もなかったのだ。最後に泳いだのは前世の高校三年生の体育。はるか昔の記憶だ。当然体も覚えていない。

 エーリッヒの苦笑を感じながらも、水面から目を離すことができない。人間は水深十センチでも溺死しうるのだ。気が抜けない。

 

「そんなに体を強張らせているとかえって沈みやすくなるぞ」

「強張りたくて強張っているわけではありません!」

「確かに。もう少し水の中を歩いてみるか」

 

 ほとんどエーリッヒにくっつくような形で川を進み、ターニャの腰ほどの水深までやってきた。一周回って気分が落ち着いてきたようにも感じる。水に慣れてきたのだ。

 とん、と川底を蹴ってみると、体が水中にゆるりと浮き上がり、そしてゆるりと落ちていく。透き通った水面の向こうに自分がいる。悪い表情ではない。

 何度か水中の感覚を確かめて、ターニャは居心地の良さを理解しはじめた。

 

「ちょっとだけ泳いでみます」

「ああ、両手を掴んでおくからまずは浮いてみなさい」

「はい。……いきます!」

 

 手を握ったまま足を上げ、目を閉じて水流に身を任せる。一瞬沈みかけて慌てたが、エーリッヒの助言を思い出し、息が続くまで体の力を抜いてみることにした。

 水の中は賑やかで、こもった音を立てて川が鳴いている。どんな景色が広がっているのか気になって瞼を上げた。

 岩肌に光の糸が連なって泳いでいる。とどまることのない変化が輝き、同じ形はどこにもない。それを包み込む水の世界は、どこかターニャの瞳に近い緑色をしていた。

 感嘆の声を漏らそうとして口から大きな気泡が漏れる。ターニャは慌てて足をつけ、顔を上げた。

 

「けほっ」

「大丈夫か?」

「はい、ありがとうございます。水の中、とてもきれいでした」

「そうか、それはよかった」

 

 それから一時間も水の中にいただろうか。少し疲れと寒さを感じて、二人はテントへ上がった。肩を並べて座り、二人で一枚のタオルを羽織る。温かい。さらに暖を求めてエーリッヒにすり寄ると、胸に視線を感じた。

 見上げた時にはもう顔をそらしていたが、かえって見ていた事実を強調している。

 

「気になりますか?」

「ん、ああ、よく似合っていると思うが」

「ありがとうございます。では――」

 

 エーリッヒの手を取って、水着の紐に彼の指をかける。手が強張っているのを感じた。

 

「この紐を引けば、解けますよ」

「……外だぞ」

「外ですね」

 

 ターニャはエーリッヒの頭を抱き寄せ、耳に口を当てた。エーリッヒが身じろぎするが、構わず言葉を発する。

 

「あなたで温めてほしいです」

 

 指が、紐を解いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第38話 祝誕

 卵、砂糖、薄力粉、生クリーム、牛乳を混ぜ、バターを塗った型に流す。このとき、粗めの濾し器で濾すことができればより望ましい。何度かテーブルの上で落とすようにして空気を抜く。洗ったクランベリーを並べる。予熱しておいたオーブンへ。

 クランベリー・クラフティが焼き上がるまであと三十分前後。

 エーリッヒは額の汗を拭おうとして、手が汚れていることを思い出した。

 手を洗いながら思い返す。ジャガイモの皮もまともに向けなかった男が、恋人のためにケーキを焼くようになった。二年前の自分からすれば信じがたいことだろう。

 川から戻ってきてシャワーを浴びたあと、ターニャはすぐに眠ってしまった。初めての遊泳だけが疲労の原因ではない。

 洗い物を済ませ、ラジオをかけてソファに腰を下ろす。

 

「――本日最後のお便り。ラジオネーム包み鰊さんから。『コンスタンツ放送局のみなさん、パーソナリティのドクトル・ヘーブラー、こんにちは。いつも職場で楽しく聞かせていただいています。終戦からしばらく経って、私の職場であるライン川観光組合事務所にも活気が戻ってきました。とはいえ盛況だったライン滝もそろそろオフシーズン。せっかくなので休暇に趣味の日帰り観光をしたいと思っています。この秋おすすめの観光地をご紹介いただければ幸いです』とのことです」

 

 一度も噛むことなくすらすらと読み上げるのはまさに熟練の技といったところか。エーリッヒは仄かに眠気を感じたが、明日以降の参考になると思ってラジオに耳を傾けた。

 

「観光組合の職員さんに観光案内をするのはなかなか勇気がいりますなあ。そう、包み鰊さんがおっしゃる通りいよいよ秋ですが、マイナウ島の庭園では花々と紅葉が出迎えてくれることでしょう。それに最高のワインも。ええ、私はボーデン・ワインが大好きですとも」

 

 マイナウ島はライン川に連なるボーデン湖に浮かぶ島だ。花の島とも呼ばれるように、島全域が庭園として整備されている。エーリッヒは学生時代に誘われたことがあったが、運悪く風邪を引いて行き損ねた。それ以来忙しさで近づいてすらいない。

 選択肢としてはありだろう。エーリッヒは頭の中でメモをした。

 

「これは先週発表されたばかりなのですが、このコンスタンツから北のヴァインハイムまでを観光街道として帝国観光局が指定しました。今後は夢想街道と呼称されるそうです。包み鰊さん、お仕事が増えそうですね。はたしてお休みは取れるでしょうか」

 

 放送局の職員と思しき笑い声が背景に入った。

 残り二日の休みで街道周辺のすべてを覗いている暇はないが、見どころは多い。戦時中は立ち入りが禁止された黒の森も解放されているし、帝国の名城を眺めることもできる。

 

「ここで観光情報。メーアスブルクの新城で帝国が誇る美大生たちが卒業制作展を開催中です。コンスタンツ放送局にお問い合わせいただければ入場券とポストカードのセットがお得に入手できますよ。そんなところで本日もお別れのお時間がやってまいりました。コンスタンツ放送局からお送りしたのはドクトル・ヘーブラー。また来週お会いしましょう」

 

 番組の継ぎ目となる交通情報が始まった。

 明日か明後日に必ず行きたいのがギンゲンという都市だ。ここはテディベア発祥の地で、それとなく話したところターニャも興味を示していた。

 残りの候補についてはターニャと相談して決めるのがよいだろうと考えながら、エーリッヒはオーブンの様子を見に行った。

 

「おっと……もう大丈夫そうだ」

 

 自宅のものより少し火が強いらしく、十分火が通っていた。ミトンをはめてクラフティを取り出す。カスタードの甘い香りがどっと押し寄せてきた。

 これがお祝いの主役だ。蝋燭も十四本用意してある。

 誕生祝いは誕生日当日の夜にするのが伝統的だが、明日は遠出になる。料理をしている暇がない。話し合った結果、前日である九月二十三日にお祝いをしようと決まった。

 貸別荘のオーナーに頼んで買っておいてもらった食事を並べ、グラスとワインを用意し、燭台に火を灯す。準備は完璧。時刻は一八時半。エーリッヒはターニャを起こしに寝室へと向かった。

 

「ターニャ、食事の準備が……起きていたか。おはよう」

「おはようございます、エーリッヒ」

 

 ベッドに腰かけていたターニャはまだ眠気が残っているようで、あくびの涙が睫毛を濡らしていた。

 両手を伸ばしたターニャに催促されるままに抱き上げ、頬に口づけを落とす。

 

「一日早いが、お祝いをしよう」

「はい。嬉しいです、とても」

 

 リビングルームに連れていくと、ターニャが小さく歓声を上げた。

 ターニャから聞いた話では、誕生日のお祝いをするのは初めてだという。帝国では自ら企画して招待状を送るのが誕生祝いの形で、性格的にも環境的にもターニャがそれを実行することはなかっただろう。だから、これが初めてのお祝いだ。

 ターニャを椅子に座らせ、クラフティの蝋燭に火を点ける。

 

「明日十四歳になる君に祝福を。おめでとう、ターニャ」

「ありがとうございます。早く大きくなりたいもどかしさもありますが、こうして過ごす時間を大切にしたくもあり、なんとも難しいです」

「なんとも君らしい感想だ。さ、蝋燭の火を」

 

 ターニャが息を吹きかけて十四本の蝋燭を消した。

 料理はどれも美味で、ワインも好みに合ういい品だった。クラフティはまだ少し温かかったが、ターニャはおいしいと喜んでいた。静かな空間だが、寂しさはない。お互いのこれまでを語らい、これからしたいことを考えた。

 総務部の引継ぎも片付き、この冬からエーリッヒは在郷軍人学校の理事長としての仕事も始まる。ますます残業が増え、今日のように休暇をもぎ取るのも当分は不可能になるだろう。だからこそ、この三日間を大事にしたいと思っていた。

 

「明日だが、君さえよければプレゼントを買いに行きたい。テディベアはどうだろうか」

「テディベア……考えたこともありませんでしたが、素敵ですね。よろしいのですか?」

「もちろんだ。この州に有名なテディベアブランドの本店がある。その店を覗いて、そのあとは時間次第で見に行く場所を決めよう」

 

 頷いて感謝の言葉を口にするターニャは活力に満ちていて、健康が戻りつつあることを実感させた。

 

 翌朝、二人は鉄道で北上しギンゲンへ向かった。

 ギンゲンにはテディベアで知られるシュタイフの本店がある。街角にもテディベアのちょっとした像があったり、テディベアを模した看板があったり、なかなかに愛くるしい町だ。

 店舗には少なくない数の客がいたが、それ以上に多くのテディベアが陳列されていた。大きさ、形、色、毛の長さ、多種多様な熊の軍勢にエーリッヒが圧倒されるのも仕方のないことだ。

 

「テディベアと一口に言ってもいろいろあるのだな……」

「そうですね、目移りしてしまいます」

 

 二人して心細さにきょろきょろしていると、女性店員が案内のパンフレットを手に声をかけてくれた。

 定番の選び方は生産された年によるものらしく、生まれた年や結婚した年のものを買う客が多いらしい。生まれ年のワインのようなものだろう。ターニャの場合はファーストベア――初めて手にするテディベアであることを考えて、生まれた年のテディベアを見せてもらうことになった。

 

「なるほど。少しは絞り込めたか」

 

 エーリッヒが漠然と棚を眺めていると、ターニャが一体の白いテディベアを手に取った。毛の長さからか全体的に丸い雰囲気だ。

 白いテディベアを抱えてみたり、撫でてみたりしているターニャはすっかり頬が緩んでいて、気に入ったと一目でわかる。

 

「気に入ったか?」

「……はい。この子がいいです」

 

 エーリッヒは頷いて、店員に声をかけた。

 リボンを用意している間に名前を考えることになったが、ここで行き詰まった。二人ともこの手のネーミングセンスがない。しかし、一生ものの新しい家族に下手な名前を付けるわけにはいかない。

 白を意味するヴァイスだと昔の部下と被る、牛乳を意味するミルヒでは紛らわしい……。しばらく悩んで、ターニャがぽつりとつぶやいた。

 

「モチ」

「モチ?」

「あ、その、秋津島の伝統食です。米を蒸して搗いたもので、年始のお祝いとして好んで食べられています」

「なるほど。モチ、モチか。いいのではないか?」

 

 首にリボンを巻かれた白いテディベアはモチと名付けられ、ターニャにとって二人目の家族となった。

 会計を済ませ、箱を受け取る。ここで収納していくこともできたが、ターニャは抱いて連れていくことを選んだ。今日は白いシャツに胸下からの若葉色のスカート(ジャンパースカートというらしい)で、抱かれたモチが映えていた。

 随分と気に入ったようで、柔らかな体毛に顔を埋めている。

 

「転ばないように」

「はい。ありがとうございます、エーリッヒ」

「ああ。誕生日おめでとう」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第39話 報道

 ベゴニア、トレニア、ゼフィランサス。現代日本で生きた記憶のあるターニャにとっては花の名前など怪しげな呪文にしか思えなかったが、一年ほど前に興味を持ちはじめた。かつての部下たちが花束をくれたからだ。

 花の島、マイナウ島で過ごす昼下がりは穏やかな心地よさをもたらしてくれた。庭園を管理する庭師の老人も人当たりがよく、彼からプレゼントされた赤いダリアをターニャは帽子のリボンに挿している。

 熱帯の空気を感じさせる蝶の館では指先に青い蝶が止まる奇跡に驚き、クリーム色の漆喰が可愛らしい宮殿では結婚式に感嘆と祝福の拍手を送った。

 木々の紅葉は鮮やかで、夕陽にも似たグラデーションが風に歌いながら空と大地の境目を彩る様を、きっと人は秋と呼ぶのだろう。

 ターニャ、十四歳。庭園のベンチに愛する人と並んで腰かけ、自然の美しさを知った。

 

「なかなか見事なものだ。これほどの庭園はそう見れないだろう」

「そうですね。圧倒される、とも違いますが……しみじみと美しさを感じさせられました」

「なかなかに的確だな。……十六時半か。そろそろ冷えてくる、戻るとしよう」

「土産物屋に寄ってもよろしいでしょうか」

「ああ、すっかり忘れていた。そうだな」

 

 ヴィーシャやエーリャはもちろん、お世話になっている近隣住民にもちょっとしたものを配りたい。日ごろから世話になりっぱなしだからだ。

 やはり定番は消えものだろうか、個包装のものがあればなおいいなどと悩ませながら時代を感じさせるレンガ造りの土産物屋に入った。花の島の土産物屋らしさを意識しているのか、嫌味でない程度に花の香りが広がっている。

 しかし、タイミングの悪いことに立て込んでいるようだった。会計のカウンター近くで手帳とペンを手に店員と話し込んでいる男がいる。カメラマンも連れているところを見るに記者の可能性が高い。

 

「――なるほど、ではこの季節を逃せば次は春まで待たねばならないわけですね。ありがとうございます。最後にお写真をよろしいでしょうか。はい、そうです、笑ってー……」

 

 店員の緊張した笑みをカメラに収めて、記者は二言三言礼を口にすると、出入り口へ――つまり、ターニャとエーリッヒのいるほうへ進もうとした。

 そして記者はターニャに気づいた。

 

「もしや……ラインの悪魔、ターニャ・デグレチャフでは」

 

 好奇の視線に手が強張り、すっと背中を冷たいものが這う。膝の力が抜けそうになるのをこらえると視界が不安定になり、かすかに吐き気もあった。

 エーリッヒが前に出て庇おうとしたが、記者は巧みにそれをかわして矢継ぎ早に言葉を放った。

 

「連合王国から来ました、アトラス通信のアンドリュー・タネンバウム特派員です。五分ほどお時間をいただきたいのですが」

「失礼、急いでいるので」

「五分です、五分。それともなにか特殊作戦中なのでしょうか。終戦から一年と少ししか経っていない今、ラインにほど近いこの花の島にラインの悪魔と恐れられた軍人がいらっしゃるのですから」

 

 エーリッヒの反論よりも早くカメラのフラッシュがターニャの目を焼いた。

 アトラス通信なる報道機関がどの程度誠実なのかわからない以上、ここで逃げることはできない。難癖をつけられただけだが、まだ安定したとは言えない国際情勢に不安要素を投げ込むのは賢明ではないだろう。

 心臓が脈打っている。奥歯をぐっと噛んで、ターニャははらわたに染み込もうとした濁りを吐息として吐き出した。

 

「……大丈夫です、エーリッヒ。それで、ミスタ・タネンバウム。私の独占取材は安くありませんよ?」

「ええ、それはもちろんです! それで、さっそくお伺いしたいのですが、この一年間表舞台から姿を消してらっしゃいましたね。ミス・デグレチャフは――」

「フラウ・レルゲンとお呼びいただければ幸いです。正式な発表はまだですが」

 

 エーリッヒにしなだれかかって腕を絡ませる。戦いのための示威行為が半分、安心を求めての補給が半分だ。

 そんなターニャにもう一度フラッシュが焚かれる。

 

「なるほど、それは失礼しました。では、この一年間はその準備で?」

「ええ。今日も式場の下見に」

「それはそれは、おめでとうございます。しかし、前線で活躍なさったフラウ・レルゲンがご結婚となると、内外から様々な声が上がったのでは? 特にダキアや共和国、それに連邦からも」

 

 記者が言いたいことはターニャにもよくわかる。ターニャの幸福はかつての敵国からは祝福されないだろう。自分の家族、友人、恋人、同胞を殺した”悪魔”を祝福できる者などそういはしまい。

 だからこそ、ターニャははっきりと答えた。

 

「私は平和を求めて多くを殺しました。だからこそ、誰よりも私は平和に殉ずる義務があります。この平和と幸福を捨てるのは死者への冒涜です。……などと堅苦しいことを申しましたが、結局のところ、平和の中で幸せを掴んだというだけの話です。祝福していただけますか?」

 

 記者はあっけにとられたような顔をしていたが、はっとして頷いた。

 

「もちろんです、フラウ・レルゲン。わが社はレルゲンご夫妻の幸福を心よりお祝い申し上げます」

「ありがとうございます。……そろそろ五分ですね」

「あ、最後にご主人にも――」

 

 エーリッヒは記者に手のひらを突きつけて拒否を示した。

 

「私はまだ参謀本部に所属しているので、民間の取材にはお答えしかねます。ご理解いただけますね?」

「あー、承知しました。では、最後にもう一枚」

 

 エーリッヒのしかめ面をほぐして、ターニャは写真を受け入れた。

 一仕事終えた達成感、それも戦闘を乗り越えて詳報を書き上げたときの安心交じりのそれが、肩にのしかかった重しを片付けていく。

 

「それで、お礼のほうですが……もし何かご要望があれば」

「私からお願いしてもいいですか、エーリッヒ」

「ん、ああ。君の取材だからな」

「ありがとうございます。では、写真を現像したら送っていただけますか? 記念に取っておきたいので」

「ええ、それくらいでしたらいくらでも!」

 

 さすがに住所を伝えるのは気が引けて、エーリッヒが帰りに立ち寄れる帝都の郵便局に謝礼の小切手と一緒に送ってもらうことになった。送り先や日時、掲載される紙面などを確認し、エーリッヒが問題ないと頷く。

 

「いやあ、意外です。私は大戦時に共和国で従軍記者をやっていたので、正直先ほどまでとても緊張していたんですが……風聞だけで人はわからないものですね」

「褒め言葉と受け取ってもよろしいのでしょうか?」

「そうしていただけると。それでは、失礼します」

 

 今度こそ記者が立ち去るのを確認して、ターニャは大きく息を吐いた。おそらくなにもミスはない。切っても痛くないカードだけを切って場を凌いだ。

 勝利。

 膝から力が抜けて崩れ落ちそうになった体をエーリッヒが抱き上げた。

 

「お疲れ様だ、ターニャ。苦労をかけてすまん」

「いえ、エーリッヒのようにお立場のある方が報道機関を相手取るのが難しいことは承知しておりますから」

「それでも、だ。私は君の夫だからな」

 

 守りたいのは当たり前だ。

 その言葉が嬉しくて、ターニャはエーリッヒの首筋に顔を埋めた。

 連合王国の報道に先回りされないためにも、早急に動く必要がある。正式に入籍を発表するのがよいだろう。そのためには帝都に出て役所で手続きをしなくてはならない。

 エーリッヒが休みを取っている今が好機だ。

 

「エーリッヒ、お願いがあります」

「言ってごらん」

「明日、帝都に行きませんか。入籍の手続きをしましょう」

 

 一瞬の無言を経て、エーリッヒが答えた。

 

「先に指輪を見るが、構わないか?」

「もちろんです」

 

 こうして、ターニャはいよいよ帝都に戻る。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第40話 帝都

 ターニャも帝都の空気はよく知っているつもりだったが、記憶にあるそれより一回りか二回り明るさを増している。朝から男たちが肩を組んでジョッキで乾杯している。行きかう人々の洋服は共和国の流行を取り入れて軽やかかつ華々しい。頭の中で桂米朝が笑う。喧しゅうてやってまいります、その道中の陽気なこと。

 記憶が鮮明に蘇っていく。あの喫茶店でウーガと言葉を交わした。あの街角でヴィーシャとパンケーキを食べた。あの市場で迷子を連れて途方に暮れた。

 

「大丈夫か?」

「はい。悪くありません」

 

 世界はしっかりと色づいている。

 昨晩二人で計画を練り、まずは約束通り洋服を新調することにした。秋物のワンピースを二着。シャツやスカート、カーディガンなどを何点か。冬に備えてコートも新調し、店主のご厚意でまとめて郵送してもらえることになった。

 試着や採寸を繰り返している間に昼食の時間になり、会計を済ませて飯屋に入った。ここも記憶に残っている。

 運ばれてきたアイスバインにナイフを入れるとほろほろ崩れていく。間違いなく本物の豚肉だ。戦時中に訪れたときは代用肉のまずさに震えたのをはっきりと覚えている。あれは食べ物ではない。

 

「昔、ここでデデ肉を食べましたね」

「ああ……あったな、そんなことも。私はてっきり君がデデ肉を敵兵に見立てているのかと思って、その晩はうなされた」

「私は楽しく話せたことが嬉しくてなかなか寝付けなかったのを覚えています」

 

 二人で笑いあいながら食事が進む。

 エーリッヒがまだ”レルゲン閣下”だったころ、ターニャがまだ”白銀”だったころ、二人はお互いに誤解を向けあいながらも幾度となく席を共にした。”レルゲン閣下”は”白銀”のコーヒーの好みを覚えていたし、”白銀”は昇進など関係なく”レルゲン閣下”と楽しい時間を過ごせることを喜んでいた。

 軍人時代が過酷でなかったと言えば嘘になる。しかし、ターニャが思い返す限りでは、人間関係に関して悪いことはそれほどなかった。ゼートゥーアにもらったぶどうジュースはおいしかった。パレードで群衆に阻まれたときルーデルドルフは肩車を提案してくれた。ウーガからはコーヒー豆やチョコレートがよく届いた。礼儀を弁えた、しかし愉快な部下たちとともに過ごした。

 窓に目をやれば、遠くにかつての職場が見える。

 

「少し、懐かしいです」

「覗いていくか?」

「……いえ、今はまだ。どうせなら指輪をはめて行きたいです」

 

 茶化して誤魔化したが、少し怖いのも本当だ。かつてのように冷徹な雰囲気を纏うのはきっと難しい。強気の言葉も咄嗟には出なくなってきた。”日本人の男”も”デグレチャフ”も薄れつつある。かつての部下たちと顔を合わせた時にどう振舞えばいいのか、まだわからない。

 しかし、用を足しに行ったエーリッヒより先に店を出ると、偶然にも知った顔と出くわした。

 

「大佐殿、デグレチャフ大佐殿では?」

「ケーニッヒ、ノイマン」

 

 第二〇三航空魔導大隊時代に肩を並べて戦った中隊長たちだ。何度言っても長い髪を切ることだけはしなかったケーニッヒ。体も心も胃袋も大きいノイマン。

 緊張より懐かしさが勝り、自然と口が動いた。

 

「まだ髪を伸ばしているのか、ケーニッヒ。ノイマンは少し痩せたのではないか?」

「はは、大佐殿もお元気そうで。しばらくお見かけしませんでしたが、もしや特殊作戦で国外に?」

「よせよケーニッヒ、軍機だったらどうする」

「あー、まあ、いずれ耳に入ると思うが……今は主婦をやっている」

 

 二人の表情が固まった。

 この二人が何を考えているか、おおよそ予想はつく。軍部で用いられるあらゆる隠語や暗号から主婦という言葉を探しているのだろう。

 からかい半分で言葉を続ける。

 

「ちょうど今日入籍の手続きに行くところでな。貴官らにとっては残念かもしれないが、デグレチャフの姓を名乗ることはなくなる」

 

 先に立ち直ったのはノイマンだった。

 

「お、お相手は……」

「ちょうどいい、紹介することにしよう」

 

 ちょうど店から出てきたエーリッヒに腕を絡ませると、ケーニッヒが目を見開いた。この男が目を丸くするのを初めて見たかもしれない。

 エーリッヒは怪訝そうな顔をしていたが、冷や汗をにじませながら敬礼している二人を見て理解したのか、小さく頷いた。

 

「よい、楽にしろ。確か、あの大隊の……」

「は、元中隊長、ヴィリバルト・ケーニッヒ大尉であります!」

「同じく、ライナー・ノイマン大尉であります!」

「帝国軍参謀次長、エーリッヒ・フォン・レルゲン准将だ」

「そして私がその妻だ。フラウ・レルゲンと呼んでくれたまえ」

 

 ターニャが悪戯げなウィンクを飛ばすと、ケーニッヒとノイマンは顔を見合わせた。彼らの”大佐殿”像に結びつかないのだろう。今日はパステルグリーンのワンピースに白いハットを合わせている。ますます”白銀”らしさがない。

 今なら伝えられる気がして、ターニャは小さく息を吸った。

 

「ケーニッヒ、ノイマン。伝えるのが遅くなったが、昇進おめでとう。それから、花束をありがとう」

「大佐殿……」

「フラウ・レルゲンだ、ケーニッヒ。会う機会があれば、他の連中にも伝えてくれ」

 

 ややあって、ノイマンが己の胸に拳を当てて微笑んだ。

 

「承知しました、フラウ・レルゲン。幸せになられたと聞けば皆も喜びます」

「ヴァイスが泣いて喜びますよ。お任せください、フラウ・レルゲン」

 

 最後に二人と握手を交わして、ターニャとエーリッヒは店を後にした。悪い気分ではない。少し緊張で汗をかいたが、それ以上に嬉しさが胸を高鳴らせている。

 いい部下を持ったな、とエーリッヒが呟いて、ターニャは頷いた。己の幸せを喜んでくれることがどれだけ温かいか。だからこそ、ターニャは彼らの幸せを喜びたい。

 

「ゼートゥーア閣下にも直接お礼に伺いたいです。もちろん、ルーデルドルフ閣下にも」

「ゼートゥーア閣下はお忙しいかもしれないが、ルーデルドルフ閣下にはお招きいただいている。今度手紙を送ってみよう」

「お招き……結婚式、どうしましょうか」

 

 帝国の結婚式は基本的に戸籍局で行うが、会場を選びたければ出張を依頼することもできる。より取り見取りだ。しかし、これまでを考えると教会を選びたくはない。

 また、招待客についても考える必要があるだろう。ターニャも招きたい人は多いが、人数を考えなくては会場を選ぶのも難しい。

 

「計画を練らねばならないな。帰ったら招待する相手をリストアップしよう」

「それがよさそうですね。会場のあてはありますか?」

「ないでもない。ふむ、資料を取り寄せたほうがいいかもしれん。いや、婚姻届を出すときに相談したほうが早いか」

 

 こうして先を考えている時間がとても楽しかった。そして、未来への期待に胸を膨らませることができるようになったのはターニャ自身の努力でもあり、周りが支えてくれたおかげでもある。

 宝飾店には昨日連絡を済ませてあったため、スムーズに案内された。それぞれの客に担当者が付くらしく、店内では数組の客が店員の案内を受けている。ショーケースに並ぶ指輪たちが煌めいていて、ちょっとした星空だ。ターニャの頭の中で余計な考えが動きはじめた。そういえば、この世界にトールキンの作品はあるのだろうか。

 

「結婚指輪にも色々あるんですね」

「プラチナはもちろん、シルバーやゴールドも取り揃えておりますよ。昨今はダイヤモンドが人気ですが、誕生石を選ばれる方も少なくありません。婚約指輪もご覧になりますか?」

 

 ターニャは今知ったが、帝国では婚約指輪を右手の薬指に、結婚指輪を左手の薬指にはめるのが一般的らしく、婚約指輪ははめて帰ることになった。

 背が低く痩せていることもあって七号でもまだ緩く、かといって五号の品は少ない。七号を調整してもらうのがよいだろうと決まり、あとはデザインだ。凝ったものよりはシンプルに品よくまとまったものをいくつか出してもらい、納得のいく指輪を選んだ。サイズが不安要素だったが、ターニャが今後成長してサイズが合わなくなったらこの店で調整してもらえるらしい。

 安心して会計を済ませ、名入れを頼んだ。

 そのとき、扉が砕かれた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第41話 誘拐

 ターニャはこの音を長らく耳にしていなかった。大気を砕く破裂音、そして一瞬の後にやってくる破砕音。悲鳴と警報がそこに続く。

 どこか現実味のない世界で、覆面の男たちが宝飾店に侵入してくる。仮面舞踏会を思わせる下品な煌びやかさで表情を隠しているが、纏った不穏な空気は顔を見ずとも感じ取ることができるほどだ。手に構えているのはトレンチガンだろうか。ショーケースが割れて透明が飛び散った。煌めいているのに、美しくない。

 

「――伏せろターニャ、伏せるんだ!」

 

 言葉と同時に伸ばされた腕がターニャを押し倒した。

 警報器が撃ち砕かれ、悲鳴と罵声のみが残る。

 強盗だ。

 状況を理解した瞬間、脳天から足元へと寒気が抜けていった。かすかに残った冷静さが指摘する。その震えは怯懦だ。かつて戦場の空を駆けた兵士が悪漢の数人に怯えるとは。

 右肩が疼く。

 野太い怒号が響き、ターニャの近くのショーケースを銃床で叩き割った。革のグローブが不躾に宝石を、指輪を、首飾りを掴み取っていく。

 一人の男がターニャに銃口を突き付けた。

 

「立て。人質だ」

「貴様、そんなことをして――」

 

 ターニャをかばおうとしたエーリッヒの肩を男が蹴り飛ばした。そのまま身動きが取れないよう背中を踏みつけ、銃口はターニャに向けたまま一瞬もぶれない。すべての動きが早く、手慣れている。

 

「立て」

 

 膝は震えているが、思考は回っている。ターニャはゆっくりと立ち上がりつつ隙を伺った。

 怯えている場合ではない。

 店内の”敵”は四人。当然店外にも見張りがいるはずだ。見える範囲では全員トレンチガンを手に持っている。装備も練度も素人のそれではない。しかし、強盗が多発しているというニュースは入っていないはずだ。

 何かを叫ぼうとしたエーリッヒの喉を”敵”の一人が強く蹴りつけた。

 不自然だ。明らかに攻撃が集中している。まるでエーリッヒとターニャが何者かわかっているような立ち回り。

 

撤収(Retrage)!」

 

 ダキア語。

 パズルのピースがはまっていく感覚に、先ほどまでとは違う震えがターニャを襲った。しかし、導き出した回答と脱出の可能性をエーリッヒに伝える前に、抱えあげられたターニャは店外へと運び出されてしまった。

 ターニャを後部座席に放り込み、車が急発進する。

 

「へっ、小娘一人さらって一生遊んで暮らせるたあ、ちょろいもんだ。明日にはシギショアラで酒片手に女侍らせて最高の夜ってか。たまんねえな……糞みてえな戦争が終わって万々歳だぜ」

 

 運転手はターニャがダキア語を理解していることに気づいていないのか、夢見心地の興奮を乗せて独り言をまき散らしている。情報源としてこの上なく有用だろう。

 しばらく聞いていたが、この男はダキア軍にいたらしく、かつて第二〇三航空魔導大隊が壊滅させた軍勢の一人だったようだ。

 

「どんな化け物かと思えば、呆けたガキじゃねえか。帝国のお貴族様ってのは変わった趣味してるぜ。まあ、雇い主にケチつけるほど馬鹿じゃねえけど」

 

 聞いているだけでどんどん状況が判明してくる。

 誘拐を命じたのは帝国貴族。実行犯のダキア人は彼らに雇われており、一生遊んで暮らせる褒美を約束した。

 目的地はわからないが、ハンドルの動きと速度メーターから算出したルートを帝国の地図に落とし込むと、北上していまはオラニエンブルクにいるようだ。

 場所は分かった。脱出せねばならない。しかし、ターニャの体では猛スピードで走る車から飛び降りれば命がないだろう。演算宝珠がない以上、魔導師としての力も使うことができない。

 逃げる機会がないまま車が停まり、ターニャは後部座席から引き下ろされた。降りるやいなや、待機していたらしき男がターニャの髪を掴んで引き寄せる。痛みに呻き声が漏れた。

 

「歩け。声を発するな。抵抗すれば耳を落とす」

 

 促されるまま建物に入る。放棄された別荘のようだ。窓ガラスは割れ、板で塞いである。扉のほとんどが封じられている。内部で逃げ回るのはうまくいかないかもしれない。

 ターニャは平和ボケしていた自分が情けなくてならなかった。ナイフの一振りも持っていない。

 なによりエーリッヒが心配だった。ひどく痛めつけられていたし、出血もしていた。彼は責任感の塊のような男だ。病院で手当てを受けるより先に何かしらの動きを取っているかもしれない。

 ターニャが頭を最大限働かせていると、男が一枚の扉を引いた。

 

「入れ」

 

 逃走が成功する可能性は限りなく低い。男の手には拳銃が握られている。ターニャは足が速いほうではない。

 次の機会を決して逃さないと誓いながら、指示通り部屋に入った。

 

「――あら? 相部屋を希望した憶えはなくてよ?」

 

 先客がいた。

 肩まで伸びた艶やかなブルネットが美しさを醸し出している。凛とした美しさと華やかな可愛らしさが同居したその女性を、ターニャは写真で見たことがあった。

 

「……フラウ・ルーデルドルフ?」

 

 ヒルデガルド・ルーデルドルフ。かつてターニャの上司であったクルト・フォン・ルーデルドルフの孫娘だ。後ろ手に縛られ、廃屋同然の部屋に放り込まれてなお、彼女の瞳は力強く輝いていた。

 

「残念ね、もっと素敵な形でご挨拶したかったのに。そちらのあなた、お茶を淹れてくださらない?」

「……拘束しろ、とだけ命令を受けている」

「できる男は命令以上に働くものですのに。ターニャさん、こちらへ。囚われの姫君などという似合わない役柄に退屈していたところです」

 

 男に背中を強く押され、半ば転げるような形でターニャは部屋に入った。足がもつれて床に倒れる。その体に手がかけられ、腕を縄で縛られた。

 部屋の窓は板で覆われ、しっかりと釘が打たれている。扉は一つ。暖炉はない。

 ターニャをヒルデガルドの隣に置いて、男は扉の前に立った。

 

「おとなしくしていろ」

 

 ターニャは状況を分析しはじめた。

 男の装備は拳銃。ナイフも持っていると思っていいだろう。部屋の壁は厚く、多少の物音であれば漏れない可能性が高い。問題は両手の拘束。僥倖なのは足を縛られなかったこと。

 ここまでわかっていることとして、この連中は元軍人だが、誘拐に関しては素人であるという点があげられる。ましてや、誘拐の対象の脅威判定をまともに行っていない。

 ターニャは声を潜めてヒルデガルドに話しかけた。

 

「……フラウ・ルーデルドルフ」

「ヒルダと」

「それでは、ヒルダ。どの程度把握してらっしゃいますか?」

「確認したのは六人。最初にいたのが三人。そこの男が一人。あとから足音がいくつか。電話で二度見張りが交代しました」

 

 六人、それも陸戦に慣れた大人の男。相手取るのは困難を極めるだろう。

 待つべきか、動くべきか。

 

「連中の目的については」

「未確認です。ちょうどいいですから、聞いてみましょう。……よろしいかしら、そちらの殿方」

 

 見張りは視線だけをこちらに向けた。

 

「私たちを攫った目的をまだ伺っていませんわね。事情如何では自発的に協力することもやぶさかではなくてよ?」

「……貴様らは人質だ。それ以上の意味はない」

「人質を取った理由を教えてくださらないかしら。身代金?」

 

 男は答えない。

 ターニャが把握している限りでは、彼らの雇用主は金銭に困っていない。誘拐された二人の共通点はさほど多くないだろう。ターニャは全力で頭を働かせた。

 いまさらダキアが国家として動くメリットはない。帝国に反抗するなら共和国や連邦との戦争中にすり寄ったほうが容易だったはずだ。占領された敗戦国の軍人がまともな職にありつけるはずもない。とすれば、ただの雇われだ。

 ヒルダはルーデルドルフの弱点。ターニャはエーリッヒの弱点。つまり、帝国軍の中枢が抱えるウィークポイントがここに揃っている。

 しかし、ターニャとエーリッヒの関係についての確定情報はほとんど出回っていない。記者の取材を受けたのは昨日の話だ。そこから情報を得たとしても計画に至るまでが早すぎる。

 となれば、情報を入手できる立場の人間が首謀者だ。軍部が動いていればエーリャやその仲間、ゼートゥーアが反応できる。軍の外部で金と影響力を持ち、軍の弱みを握ることに意味を見出せるのは財政界の人間。帝国においては、貴族だ。

 

「……あの貴族は貴様らを使い捨てにするぞ、ダキア人」

 

 男が目を細めた。

 

「社交の席で所詮弱小の敗戦国と嘲っていたのを私は知っている。何を語ったかは知らないが、それに従うのは得策ではない。貴様らは処分される」

「何を言い出すかと思えば。俺が小娘の脅しに屈するように見えるか?」

 

 返事をした。つまり、思うところがある。

 ターニャの脳が唸りを上げた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第42話 脱走

 ターニャは心臓の悲鳴を悟られないように呼吸を整えた。手の震えも、背筋を伝う汗も、今は忘れねばならない。

 彼らの雇い主が何者なのかは特定できていない。目的についても確定情報ではない。手札は少ないが、これ以上引ける山札もなさそうだ。だとすれば、ブラフと読みあい、それしかない。

 エーリッヒのもとに戻る。ヒルダを解放する。作戦目標を絞ったうえで、行動を開始した。

 

「これは脅しではない。私は交渉をしている」

「交渉? 俺とお前が? 俺に何の益がある」

 

 男は鼻で笑ったが、それでも反応はしている。

 ここで一枚目のカードを切る。

 

「私たちをここから連れ出せば、罪から逃れつつ奪った宝飾品を持ち逃げできる」

「馬鹿馬鹿しい。お前たちを拘束しているだけで大金が入る。リスクを冒す意味があるか?」

「そこで始まりに戻るわけだ、ダキア人。貴様らを使い捨てるつもりの帝国貴族が報酬を用意しているとでも?」

 

 沈黙。話にならないという反応ではない。むしろ、吟味している。心が揺れている。

 慎重に、かつ大胆に。

 かつての”上司に信頼されている有能な人事”としての技術を駆使して、ターニャは言葉を編んだ。

 

「単純な話だ。勝ちのない賭けに乗る義理があるのか? ツェペシュは侵略者の甘言を信じたか?」

「……随分とダキアに詳しいな」

「ミハイ・エミネスクのファンだ。できれば戦争以外の形でオラシュチエ山脈を見たかった」

 

 当然嘘だ。ダキアの詩人を知ったのは暗号解読のため。地形を知ったのも侵攻作戦を確実なものにするため。しかし、こちらに興味を持たせる手としては悪くないだろうとターニャの経験が訴えている。

 男は扉を一瞥してから、壁に背を預けてターニャに続きを促した。交渉のテーブルが成立した瞬間だ。

 しかし、ターニャが一人で延々と話せば黙っているヒルダに意識が向いてしまう。打ち合わせをする隙はないが、ヒルダのアドリブ力に期待するしかない。ターニャが視線を向けると、ヒルダは頷いて話を引き継いだ。

 

「すでに確定している罪状は殺人、強盗、誘拐ですわね。お分かりのとおり、逮捕されれば処刑は免れ得ないでしょう。しかし、情報提供と私たちへの協力を条件に警察へ便宜を図ることは可能でしてよ?」

「軍部の口利きで手を緩める警察か。帝国というのはずいぶん腐敗した国家らしいな」

 

 ここで挑発に乗れば交渉がご破算になる。裏を返せば、この挑発は彼にとって安全確認だ。ここで危険がないことを示したい。

 ターニャはいつでも介入できるよう考えを巡らせながら、ヒルダと男の会話を見守った。

 

「それだけ軍が精強であるということですわ。そして、それは私たち二人の価値が想定されているよりも重いという事実も示しています。選択肢は二つに一つ。私たちを解放して利益を得るか、私たちを拘束して死を得るか」

 

 なかなか巧みな弁舌だった。もっともらしい根拠を引っ張り出して説得力をつけ、選択肢を絞ることで思考を囲う。ルーデルドルフ家の庭訓だろうか。

 どうやら男の中にあった雇用主への義理は打ち砕かれたらしく、彼は扉を静かに開いて廊下を確認した。

 

「……十人で来た。四人やられて、残りは俺を含め六人。加えて上のお目付けが三人。俺の仲間は説得に応じるが、お目付け役は頷かないだろう」

「お仲間も助けたいとお思いかしら」

「気持ちだけはな。あいつらも元はダキア軍人だ、自分の尻くらい自分で拭けるだろうよ」

 

 ダキア人の男は壁から離れ、ターニャとヒルダを立たせた。

 

「拘束は解かない。不審なそぶりを見せたら即座にこの部屋に逆戻りだ」

「結構。行きましょう、ヒルダ」

「ええ」

 

 立って並ぶと、ターニャよりヒルダのほうがいくぶん背が高い。目算では百六十センチほどある。身長など何の役に立つわけでもないが、今は心強い。

 床板の古びた廊下を進む。大きく軋むたびに気づかれたのではないかと不安になるが、歩みを止めるわけにはいかないだろう。

 

「一度しか言わん、よく聞け。俺はお前たちを他の拠点に移送するようリービッヒ男爵から直接指示を受けた。だから俺はお前たちを運ぶ」

 

 ターニャは頷きながら、頭の中で情報を整理していた。

 リービッヒ男爵は帝国の財政に携わる貴族だ。しかし、主流派ではない。ターニャが以前財務省の会議に出席したとき、リービッヒ男爵の席はなかった。

 また、リービッヒ男爵はアスカニエン派にも属していない。ターニャの頭には祖父から譲り受けた帝国貴族名鑑の樹が叩き込まれている。

 ヒルダの頭の中でも構造が見えたようで、穴を埋めるように男へと質問を投げた。

 

「首謀者はリービッヒ男爵で間違いないのかしら?」

「知らんし、知っていても言わん」

「男爵と一対一で話したことは?」

「奥の部屋の直通回線で指示を受けたことがある」

「その相手が本人である証拠は?」

「……帝国の女はみんなこうなのか? ほら、これだ」

 

 ヒルダはダキア人の男が懐から取り出した封筒を受け取った。彼女がターニャにも見えるように開いてくれたので、一緒に内容を確認する。家名は明記されていないが、便箋の透かしにリービッヒ男爵家の紋章が入っている。

 末尾に確認し次第燃やすようにと書かれている。雇用主としての信頼の欠如がこのような危険を生む。ターニャにとっては嬉しい誤算だ。

 

「そいつはくれてやる。どうせなら身内でやりあってくれたほうが俺としても気分がいい」

「あら、いい趣味ですわね。無事解決したらスポーツ観戦のチケットでもご用意しようかしら」

 

 男は肩をすくめて、玄関の扉を押した。

 強い日差しに目がくらむ。光に慣れると、ダキア人の若い男が駆け寄ってくるのが見えた。

 

「コドレアヌ、何をしてるんだ? そいつらは閉じ込めておけって言われただろう」

「つい先ほど次の指示があった。拠点を特定されたらしい。別の隠れ家に大至急移送しろと」

「それは……わかった。シュミット、車を回してくれ! 連中は来るのか?」

 

 シュミットと呼ばれた頬に傷のある男が頷いて、車へと駆けていった。

 ここまでは順調だ。脱出まであと一歩。ターニャはできるだけ沈痛そうな表情を維持した。

 

「いや。上は連中のなかに密偵がいると考えている。俺たちだけで動く。ムトゥとディニク、ロシュもまだ奥にいる、連中に悟られないように連れてきてくれ」

「任せろ。捕虜から目を離すなよ?」

「お前に言われるまでもない」

 

 若いダキア人が建物に入っていくのを確認して、ターニャは小さく息を吐いた。脱出は目前だ。

 日差しのもとで見てわかったが、ヒルダの深緑色のワンピースは血で濡れていた。彼女が怪我をしているようには見えない。ターニャの視線に気づいたのか、ヒルダが困ったように眉を曲げた。

 

「夫の血です。私が攫われたときに撃たれて」

「……命の無事をお祈り申し上げます」

「ありがとう、そうですわね」

 

 強い。

 ターニャはヒルダの瞳が微塵も揺らがないことに驚かされた。匂い立ちそうなほどの血を、それも愛する人の血を浴びて、平然と振舞っている。内心ではどんな苦しみを抱えているのだろう。

 ターニャは覚悟を決めた。この若く凛々しき夫人を無事に送り届けねばならない。

 建物の前に寄せられた車に乗ろうとしたとき、扉が勢いよく開かれる音がした。

 

「そうはさせんぞ、ダキア人め」

 

 三人の帝国人が拳銃を構えている。どうやら脱出計画があっさりとばれてしまったようだった。

 ここまで一緒に来た見張りのダキア人――コドレアヌと呼ばれた男がゆっくりと振り向いた。

 

「俺はこいつらを移送するよう貴様らの上司から命令を受けている」

「我々の耳にそのような話は入っていない」

「あのお方は貴様ら帝国人の中に密偵がいるとお考えだ」

「馬鹿げたことをほざくな!」

 

 コドレアヌは意に介さず車のドアを開いた。

 

「乗れ。シュミット、すぐに南へ――」

 

 コドレアヌの指示を割って銃声が響いた。帝国人が彼を撃ったのだ。コドレアヌが何かを口にしようとして、代わりに血液があふれ出た。

 

「……ヒルダ、走って!」

 

 ターニャは倒れゆくコドレアヌの体を盾にするようにして車の脇を抜け、市街地を目指して進んだ。後方から罵声と怒号が聞こえる。運転手を含む他のダキア人はコドレアヌを撃った帝国人を許さないだろう。十分な足止めになる。

 すべて計画通りだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第43話 到達

 コスモスの鉢を飛び越え、犬に吠えられ、熟れたトマトを踏み抜いて、ターニャはヒルダとともに市街地を駆けていた。追手は二人。蹴り上げた小石が脛を切った感触に表情を歪める余裕もなく、太陽へ――南へ。

 いくら衰えたと言えども、元軍人として舗装された道を走る程度のことは大した苦痛ではない。しかし、問題もある。腕を縛られたままのこと。スカートを穿いていること。ヒルダを連れていること。

 ヒルダに合わせて走れば追手が怖い。ターニャの全力で走ればヒルダがついてこれない。初めて一緒に行動する相手の余裕を考えながら、限界ぎりぎりを攻めねばならないのだ。

 ターニャには明確な勝算があった。巡視の憲兵を見つけて名乗るだけでいい。捜査網に自ら飛び込めば向こうから見つけてくれるだろう。土地勘はないが、都市の区画から巡視ルートは予想できる。

 

「ヒルダ、曲がります! 右!」

 

 表情に苦悶の色が浮かび始めたヒルダに指示を飛ばして、大通りへ入る。

 曲がる直前、追手の放った銃弾がターニャを穿った。右肩から痛みと熱が爆発し、それに従って世界の色が冷たくなっていく。ターニャは必死に悲鳴を押し殺した。

 シーンがフラッシュバックする。人事局の清潔な一室、狂ったような笑い声、にじむ世界。

 今度は折れない。

 曲がり角の壁に背を預けて、ターニャは大きく息を吸った。

 

「……ヒルダ、役所がゴールです。憲兵室から連絡を取ってください」

「だめですターニャ、あなたを置いていくものですか!」

「大丈夫。私にも帰る場所が、愛している人がいます。……行って!」

 

 ヒルダは一瞬の迷いを乗り越え、頷いて、役所の時計塔に向かって走っていった。

 これで捜査網はオラニエンブルクへと絞り込まれる。一瞬の会話でヒルダには呼吸を整えさせた。ターニャがしっかりと足止めをすれば間に合うはずだ。街中で発砲したことも、それがターニャに命中したことも想定外だったが、まだ計画は修正の範囲内だ。

 左手でリボンタイをほどく。小石を拾う。リボンタイの両端を左手にしっかりと握り、小石を挟んで回転させる。

 ターニャはゆっくりと引き返し、追手に姿を晒した。

 

「いたぞ、あそこだ!」

「……喚き散らしてくれるおかげで狙いがつけやすい」

 

 つい先ほどの発砲で市民が道をあけている。

 ひょうと空気を切ってターニャの投石が追手の腕を撃った。銃を取り落とした間抜けを罵倒しながら後続が前進するが、当然速度が落ちる。

 紐のような投石器で礫を撃つ投石兵は帝政ローマの時代にはすでに存在していた。古くさいやり方だが、非力な少女の体には適している。

 二射目で先頭の膝に命中させる。これで二十秒は稼ぐことができた。

 

「ふざけやがって、クソガキ……!」

 

 喚きながら近づいてきた騒がしい顔に最後の一投が一直線のデッドボール。

 二十八秒。十分だ。

 ターニャを捕えようと伸びる手に抗うふりをしながら、ターニャは再度囚われの身になった。

 二人の追手はがなり、怒鳴り、騒ぎながらも道を引き返し、ターニャを車へと放り込んだ。ターニャの右肩に血がにじんでいようとお構いなしだ。痛みに涙がにじむ。

 

「おい、こいつ殺しちゃダメなのかよ」

「閣下は生かしておけとよ」

「ちっ……多少痛めつけるくらいはかまわねえよな?」

「もう撃ったからな、傷の一つも二つも大差ないだろ。おい、聞いてるだろ小娘。こいつが可愛がってくれるとよ」

 

 嘲るような視線に反応を示すことはしない。怯えれば増長させ、反発すれば怒りを買う。無反応で白けさせるのが効果的だとターニャは判断した。

 小石を踏んで車体が揺れるたびに右肩が疼く。

 ターニャの”牢獄”まではあっという間だった。最初に到着した時より乱暴に車から降ろされる。どうやらダキア人たちはいないようだ。コドレアヌの血痕だけが彼らの存在を語っている。

 帝国人は三人。今ターニャの周りにいる男たちで全員だ。そのうち二人が門の前で見張りに残り、車内でターニャに苛立ちを向けていた男に髪を掴まれながら屋敷の中へと進んだ。

 

「いいか、クソガキ。てめえが何様かは知らねえが、閣下が攫って隠せって仰るから生かしてやってんだ。だがよ、ダキア人がやっちまったってことにすればてめえはもういなくなる。そうなりたくなきゃ、せいぜい俺を楽しませるんだな」

 

 男の下卑たまなざしにターニャの頬がひきつった。

 想定していた中でも最悪のパターンだ。この男はターニャを醜い情欲で汚すことで不愉快さを解消しようとしている。

 傷を負うのはいい。罵倒されるのも構わない。しかし、ターニャの肌に触れていい男は一人だけだ。

 男はターニャを掴んだまま大きな扉を蹴り開けた。電話や紙の束が机に置かれている。ここが彼らの司令部だろうか。男はターニャを部屋の隅へと突き飛ばし、電話をかけはじめた。

 

「……くそ、繋がらねえ」

 

 震えていた。

 もはや忘れ去っていた感覚だ。這いよる寒気と吐き気が視界を揺さぶり、こみ上げる熱と怒りが臓腑を融かす。これを最初に感じたのはノルデンの空だった。

 吐息が音を伴って燃え上がり、やがてそれは笑いとなる。脳から命令を発する。頬を吊り上げろ。目を見開け。

 演じろ。

 

「ああ……まったく。実に愉快。雑兵ににも満たない暴徒が数匹、それで私を檻に入れたつもりとは。及ばぬ鯉の滝登りとはまさにこのこと」

 

 男が振り返り、ターニャを見て目を見開いた。こげ茶色の眼に笑う”悪魔”が写っている。

 それでいい。

 

「小娘が、何を」

「手ずからお招きいただいたというのに、どうやらお忘れのご様子だ。僭越ながら名乗らせていただきましょう。帝国軍大佐、魔導師兵ターニャ・フォン・デグレチャフ。識別コードは――」

 

 開戦。

 

「白銀」

 

 ターニャの頭突きが男の姿勢を崩した。よろめかせただけだが、その隙で十分だ。重心の崩れた木偶ほど転がしやすいものもない。ターニャの蹴りが軸足の膝を折り、そのまま倒れた男の喉を踏み抜いた。

 声を発することは許さない。殺さないぎりぎりを見極めてターニャは声帯に圧をかけた。

 男が苦悶の表情でターニャの足を掴もうと藻掻く。呼吸がままならない状態で万全の力を発揮できる人間はいない。これはターニャが軍人時代に「お前は非力だから」と学ばされた技だった。

 

「おやすみ、ぼうや」

 

 一分と経たず男は動かなくなった。頸動脈の圧迫と呼吸困難による気絶。

 ターニャは崩れ落ちて壁にもたれた。無理に力を籠めたせいで右肩の傷が焼けるように痛む。視界もぼやけはじめている。限界が近かった。

 ターニャは虚空に息を吐いた。それは”白銀”への弔いだ。

 足音が近づいている。抵抗しなくてはならない。しかし、ターニャの脚は動かず、ターニャの腕は上がらなかった。

 誰かが怒鳴り散らしている。音はしっかりと届いているのに、言葉として聞き取れなかった。それはまるで雑音を聞き取る労力を脳が拒絶しているかのようで、ターニャの意識はその拒絶に同調している。聞き取る意味はない。

 ターニャの喉を掴む手があった。持ち上げられて浮いた小さな体の重さがターニャの首を痛めつける。呼吸の苦しさがますます視界を締め付けた。

 しかし、まだ終われない。ターニャは帰ると誓った。だから、もう顔もぼやけた男を睨みつけて、唾を吐いた。

 もう声は出ない。しかし、ターニャは彼の名を呼んだ。

 

「――私の妻を放せ」

 

 発砲音。

 拘束が緩み、落下したターニャの体を彼が抱き留めた。その温かさは夢ではなく、ゆえに掠れた声がもう一度名を呼んだ。

 

「……エーリッヒ」

「すまない、遅くなった」

 

 血と砂の匂いがした。それ以上に、大好きなエーリッヒの匂いがした。ターニャはにじむ視界の中で、確かにエーリッヒ・フォン・レルゲンの顔を見た。

 眼鏡に罅が入っている。額を切ったのか、血が乾いて貼りついている。髪も崩れている。この世で一番格好いいと、ターニャはそう感じた。

 ターニャの手を縛っていた紐が切られ、腕を伸ばそうとして右肩に痛みが走った。

 

「痛むか」

 

 その言葉があまりに優しく、ターニャの眦から涙が伝った。緊張が切れたのだ。

 屋敷の入り口からたくさんの足音が近づいてくる。

 ターニャは涙をぬぐうエーリッヒの指に震える手を添えた。

 

「指輪、はめてください」

 

 痛みを無視して、ターニャは右手を掲げた。血に濡れている。臆病なほど丁寧にそれを握った彼の手も傷だらけだ。

 二人で悩み、選んだ婚約の輝きが右手の薬指に収まり、エーリッヒがその上に口づけを落とした。

 

「攫われた君を迎えに来るのにこれほど遅刻する情けない私だが……それでも、結婚してくれるか」

「喜んで」

 

 乾いた唇どうしが重なるのを感じながら、ターニャは意識を手放した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第44話 入院

 林檎の皮がとぐろを巻いている。フルーツナイフの扱いも慣れたものだ、とエーリッヒは己の手に感慨深さを抱いた。

 突入部隊と入れ替わりでエーリッヒとターニャは帝都の大病院に搬送された。エーリッヒは自分の足で歩ける程度には軽傷だったが、打撲や骨折だけでなく内臓にも負荷がかかっており、結局入院する羽目になった。退院してすぐにゼートゥーアから労いの言葉をかけられたが、あれは明らかに「気を抜きすぎだ」と叱責している。

 自分で切った林檎をひとかけら手に取って齧る。酸味が強い。窓の外は真っ暗だ。ターニャの強い希望によって、面会時間を過ぎた夜にエーリッヒはターニャを見舞っている。医師は渋い顔をしたが、精神科に通院していることを鑑みて黙認された。

 

「林檎、ひとつください」

「ああ、ほら。……だいぶ顔色がよくなったな」

 

 林檎を持つ両手からはすでに包帯が外れている。明日は肩の傷を抜糸する予定だ。経過は順調、退院も近い。幸いにしてと言うべきか、精神的にも安定しているようだ。

 過去に撃たれたときと同じ部位に傷を負ったと聞いたときはまたターニャが悪夢に苦しむのではないかと心臓が止まりそうになったものだが、その様子はない。病院食に眉を顰めながらも落ち着いて過ごしている。

 だからこそ、エーリッヒは今日持ち帰ってきた情報をターニャに伝えてよいものか悩んでいた。

 

「何かお悩みのご様子ですね、エーリッヒ」

 

 ターニャの声に意識を引き戻す。いつの間にか林檎がドレスを脱ぎ捨てていた。

 フルーツナイフと林檎の皿を棚に置き、新調した眼鏡をぐいと上げる。

 

「君が気絶させた男を含め、口が利ける状態の者から調書が取り終わった。そこで妙な話が出てな」

「妙な話」

「ああ。リービッヒ男爵は今回の計画について、配下にこう語ったそうだ」

 

 我々には神の加護がある、と。

 ターニャの瞳から甘さが消えた。不快感、忌避感、わずかに恐怖もあるだろう。エーリッヒも最初にこの話を聞いたときは同じような感情を抱いた。しかし、この話はこれで終わりではない。

 

「その言葉を真に受けた連合王国の通信社が情報提供を迫られて頷いてしまった結果、今回の事件につながったそうだ。今は大使館を通じて折衝をしているが、正式に謝罪と賠償があるだろう」

「迫られた、というのは間違いないのですか」

「自発的な協力はなかったと主張している。リービッヒ男爵の手勢が脅迫まがいのことをしたのも間違いないようだ。……問題はここからで、我々にとっては安心材料にもなる情報がある。神の話は男爵の出まかせだったらしい」

 

 きょとりと目を丸くしたターニャが、話を理解して大きくため息をついた。そう、最悪の事態を覚悟したにもかかわらずその覚悟は見当違いだったのだ。妙な脱力感が病室を支配した。

 最大の問題はここからだ。

 

「リービッヒ男爵の息子が妙なことを言っていてな。……己の父には神罰が下った、神の名を騙って神が見守る者に手を出した、と」

「……なるほど。それも出まかせということは?」

「わからん。ただ……これをシューゲル氏から託されてな」

 

 エーリッヒは軍服の懐から手紙を取り出した。繊細で神経質な文字がターニャの名を記している。どこで耳にしたのか、姓は「レルゲン」だ。

 ターニャは逡巡を見せたが、それを受け取って開き、目を通した。

 

「……かの技師は本当に、敬虔な方だ」

「彼は何と?」

「私が神を憎もうとも、神は私を憎まないそうですよ」

 

 ターニャは鼻を鳴らしてエーリッヒに手紙を突き返した。

 目を通してみればなるほど、長い手紙のほとんどが神を賛美する言葉で埋まっている。ターニャにとって意味を持つ部分を抜粋すればこうだ。

 リービッヒ男爵の息子、ゲオルクはシューゲル技師と同時刻に同じ内容の声を聞き、それは神のものであった。神を騙り、神にとって重要な役割を担っているターニャを危険にさらしたリービッヒ男爵には神罰が下る。神はターニャを見ているが、自らターニャに近づくことはない。

 ターニャが小さく首を横に振った。

 

「仮に彼らがそのような声を聞いたとして、そこにかの存在の干渉があったことは証明のしようがありません。疑うことも信じることもできない」

「そうだな。しかし、一応覚えておいたほうがいいだろう。シューゲル技師は過去にも干渉を受けたのだったな?」

「ええ、演算宝珠の件で。もうしばらく様子を見ましょう、男爵に何か超自然的な現象が生じれば少なくともその力だけは信じられる」

 

 エーリッヒは頷いて、手紙を懐にしまいなおした。

 林檎をひとかけら皿から取る。どうにも自分一人だと料理をするのが億劫で、最近は見舞いがてら食事を済ませてしまっていた。ターニャには内緒にしている。

 ターニャが呆れたような目つきでエーリッヒを見上げた。

 

「エーリッヒ、最近ここで軽食をつまんで帰っていますが、家ではちゃんと食事をとっていますか?」

「あー、まあ」

「本当に?」

「……食べる人がいないとどうにもな」

「外食でもいいですから、ちゃんと食べてください。体が資本ですよ。エーリッヒも傷を負ったのですから、しっかり食べてしっかり元気になっていただかないと――」

 

 長い説教になる気配を感じて、エーリッヒは慌てて話題を逸らした。

 

「ああ、今日は食べて帰る。ところで、その箱は誰かの見舞いか?」

 

 林檎の皿を置いた棚の隅に小さな木箱が置かれている。焼き印もサインも特にない。エーリッヒが指でそれを指し示すと、ターニャが眉を上げてベッドから身を起こした。

 

「……いえ、心当たりがありません」

 

 にわかに緊張が空気を引き締めた。

 ターニャもエーリッヒも狙われる理由がある身だと思い知らされたばかりだ。気づかぬうちに置かれていたとなればますます警戒が高まる。

 一瞬悩んでから、エーリッヒはその箱を揺らさないようにそっと棚から降ろして膝に乗せた。

 そのとき、奇妙なことが起きた。触れていない上面に罅が入り、蓋だけが崩れたと思えば、次の瞬間には蓋だった木片が光になって消えてしまったのだ。

 エーリッヒは息を呑んだが、なんとか声を上げずにこらえた。

 

「……これは」

 

 箱の中には一体のくるみ割り人形が入っているだけだ。

 ベッドから身を乗り出したターニャが、手を伸ばしてくるみ割り人形を掴んだ。

 

「馬鹿な」

「……これはなんだ?」

 

 ターニャは目を見開いている。感情が爆発寸前だ。手も震え、汗がにじんで頬を湿らせているほどに。

 ややあって、ターニャは平坦な声でその人形の由縁、もしくは因縁を語った。

 

「以前、これと同じくるみ割り人形を持っていました。存在Xがこれを通して接触してきたことがあって……」

「そのときはどうした」

「最初は破壊しました。しかし、目を離すと修復されていて、結局箱にしまって棚に収めたのを覚えています。そのあといつの間にか箱ごと姿を消していて」

 

 箱とはまさかこれか、とエーリッヒが膝の上の木箱を指して問いかけると、ターニャは曖昧に頷いた。

 よく見ると、箱の底に紙切れが一枚残っている。エーリッヒはそれを拾い上げた。

 

「……Deus lo vult、神はそれを望まれる」

 

 まさか、本当に神だとでもいうのか。

 エーリッヒが不気味さと不可解さに表情を引きつらせていると、ターニャが小さく笑いをこぼした。

 

「まあ、いいでしょう」

「何がだ」

「いえ、ちょっとした気づきを得ただけです。不躾にも覗き見されているのは腹立たしいですが、害をなさないうちは放っておこうか、と」

 

 意外なほど穏やかな声だった。

 ターニャは苦み走った、しかし幾分柔らかな微笑を浮かべながら、くるみ割り人形を小さな手で握っている。その顔をぴんと指で弾いて、ターニャは肩をすくめ、そして痛みに少しだけ顔をしかめた。

 

「明日が抜糸だ、あまり肩を動かすな」

「すみません。……まあ、言ってみればこれは停戦合意ですよ。駐在の大使が伝統工芸品というのもなかなか風情があります」

「随分と心境の変化があったようだな」

 

 ターニャがエーリッヒを見上げて、困ったように笑った。

 

「馬鹿げた話ですが……奴がいなければ、あなたには出会えなかった。ほら、哀れな小悪党だって一つの指輪を葬るのに役立ったでしょう?」

「トールキンか。……シューゲル技師が聞いたらさぞ怒るだろうな、信仰の対象を小悪党呼ばわりだ」

「そういう意味ではあなたが無宗教者でよかったです」

 

 余計なことを言いそうになってエーリッヒは言葉を飲み込んだ。

 エーリッヒにとっての聖女は目の前で笑っている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第45話 計画

 机いっぱいにパンフレットをぶちまけて、ターニャ・フォン・レルゲンは頭を抱えていた。十月もそろそろ半ば。式場選びは依然難航している。

 第二〇三航空魔導大隊の面々をはじめとして、親交のあった人々にはひとまず全員招待状を送ることに決めた。エーリッヒも人事や総務で活動してきた都合上呼びたい相手は少なくない。そう考えるとかなり大きな式場を押さえたい。

 問題は戦後需要でどこも予約が満杯であることだ。今年中に挙げるならもう豪華で壮大な大式場しか残っていない。

 

「宮殿、城、島……」

 

 婚姻届を提出した際に押し付けられた大量の資料に掲載されている名だたる”戦場”、その中央を堂々と闊歩する勇気がターニャにはなかった。あるいは気恥ずかしさかもしれない。

 さらに悪いことには、ルーデルドルフから封書が届いている。ある提案がそこには記されていて、断るためには相応の式場を選ばねばならない。

 提案というのは、軍大学の大講堂で挙式をしないかという話だ。

 式典にも使われる大講堂には教会のそれとも見劣りしない立派なパイプオルガンが据え付けられており、確かに式場足りうる。しかし、そのような前例はないし、学生たちに噂されることを考えると体中がかゆくなる。

 もっといい場所をもう押さえてしまいました、と返すしかない。しかし、もっといい場所などあるのか。

 ターニャは体を起こして椅子から飛び降り、ソファのクッションに座るモチの腹へと顔を埋めた。

 

「だーめだ、なにも思いつかん。頭が煮えている……」

 

 白くてふわふわでつぶらな瞳のモチはこのレルゲン家の守護獣だ。”存在X”から送られた大使の監視も任せている。

 そんなモチも言葉を持つわけではなく、頬ずりしたところで妙案をもたらしてくれるわけではない。

 ターニャも断ることができないと薄々理解してはいる。ルーデルドルフは孫娘であるヒルダを無事に脱出されたことへの礼として申し出ている。それを断るのは失礼にあたるだろう。

 軍大学の卒業式は覚えている。卒業生から来賓まで、完全な統制のもとに執り行われた式の美しさには当時のターニャも不覚ながら少し心を動かされた。あのころ、ターニャは”白銀”だった。

 腰に硬いものが当たって手に取る。引っ張り出してきた銀翼突撃勲章だ。

 

「モチ・レルゲン。勇敢にして偉大なる貴官を称えて、この銀翼突撃勲章を授与する。……何をやっているんだ、私は……」

 

 ターニャはため息をついて身を起こし、ソファに座りなおした。近いうちに勲章をつけて人事部に出向く必要があるのだ。結婚を事由に名誉除隊となる。

 命の危険と隣り合わせ、常に何かしらの痛みや苦しみと戦い、前線に出れば食事すら楽しめない。そんな職場だったが、微塵も愛着がないと言えば嘘になるだろう。

 しかし、ターニャの背にはもう銀翼がない。”デグレチャフ大佐”への弔いも済ませた。

 結局のところ、軍大学で式を挙げることに抵抗を覚える最大の理由は、もはや軍人ではない自分がそこに立ってよいのかという後ろめたさだ。

 

「……あとは相談だな」

 

 今夜の自分に思考を丸投げして、ターニャは時計を見上げた。時刻は十一時。今日は外食にすると決めている。昨日の帰りに偶然行き会った食堂の店主が「ノイヤーワインが入ったから、明日からたまねぎのタルトを出す」と教えてくれたのだ。これを逃す手はない。

 モチの頭を一度撫でて、ターニャは立ち上がり、外出の準備をした。

 

 外は少し肌寒く、しかしコートを着るにはまだ温かい。ターニャはストールを整え、ずり落ちそうになった鞄を戻した。食事が楽しみだ。

 そろそろ馴染みの客になりはじめたターニャは店の前のボードにたまねぎのタルトが記されていることをしっかり確認して、なんら気負うことなく店の戸を引いた。

 

「いらっしゃい! おう、ターニャちゃんか」

「こんにちは、今日は一人です」

 

 カウンター席に座り、たまねぎのタルトと炭酸水を注文。席はかなり埋まっていたが、木箱に座っている客がいないだけ空いているほうだ。

 運ばれてくるのを待っていると、手伝いに来ている若い女性が声をかけてきた。百貨店の店主夫妻の一人娘、ハンナだ。

 

「やっほーターニャ、今日は旦那さんいないんだ」

「仕事だ、休みをもらった分書類が溜まっていてな。ハンナは午前で上がりか?」

「うん、今まかないのタルトをオーブンに突っ込んできたとこ。ね、結婚式の話聞かせてよ」

 

 どこから情報が洩れたのか、ここしばらく会う人会う人みな口をそろえて結婚式の話をする。店中の客が耳をそばだてている気配に苦笑いをこぼしながら、ターニャは頷いた。

 

「料理が来たらな」

「やったね! いやあ、うちの母さんがそわそわしちゃってさ。結婚式でエスコート役は誰がするのかしらーって」

「あ……」

「えっ、考えてなかったの?」

 

 完全に盲点だった。

 一般的に帝国の結婚式で新婦のエスコートをするのは実父だ。しかし、ターニャは己の実父など顔も知らないし、会おうと思ったこともない。

 困ったことになった。ターニャは頭を抱えたかったが、ここは食事処だ。

 

「実家に誰かできそうな人いないの?」

「付き合いがあるのは老齢の祖父だけだ……」

「むむ、じゃあ旦那さんの上司とか?」

「彼以上に多忙な方だ、ご出席いただけるかすらもわからん」

「えーっと、あれだ、引退した先輩とか!」

「引退……そうか、それだ!」

 

 妙案に世界が明るくなった。

 つまり、式場を押さえてもらうついでにエスコート役もルーデルドルフに頼んでしまうのだ。威厳や体格、地位を考えると適任だろう。

 ターニャはハンナの手を取った。

 

「感謝する、ハンナ。帰ったらルーデルドルフ閣下に手紙を出すことにした」

「あー、よくわかんないけど、あてがあるならよかった!」

 

 お互いに意味もなく握手を続けていると、店主がトレイを手に厨房から出てきた。

 

「おいハンナ、このタルトはお前のか」

「あ、親方。うん、ありがとー」

「ったく、自分のまかないくらい自分で取りに来いっつうんだ。たまねぎのタルトと炭酸水、お待ち」

 

 焼きたてのタルトからは湯気が立ち上っていて、見るからにおいしそうだ。香りもいい。フォークを入れれば、チーズとたまねぎの汁がどろりとあふれ出た。

 頬張れば幸せの味が広がる。たまらない一瞬だ。

 

「それで、エスコート役は誰に決まったんだ?」

 

 あつあつのタルトで口が埋まっていたターニャの代わりに、ほうれん草とベーコンをつついていたハンナが店主の問いかけに答えた。

 

「なんだっけ、ルーデルドルフさん? 引退した人なんだってー」

「引退したルーデルドルフって言やあお前、ルーデルドルフ元帥じゃねえか」

「ルーデルドルフ閣下は元帥位を有する上級大将ですよ。……そうではなくて。よくご存じですね、店主」

「そりゃあ護国の将だからなあ、地方紙ですら載るってもんだ。しっかし、そのお偉い、なんだ、上級大将? その方を引っ張り出せるたあ、エーリッヒのやつも立派なもんだ」

 

 頷きながら厨房へ戻っていく店主を見送って、ターニャは次の一口をフォークで切り分けた。

 大々的に主張したわけでもなく、秘匿に秘匿を重ねたわけでもなく、聞かれれば答える程度の関係が成立してターニャとエーリッヒの職業はこの地域の人々に知られつつある。それでも変わらず、ターニャは”幼妻のターニャちゃん”で、エーリッヒは”働き者で愛妻家のエーリッヒ”だ。居心地がいい。

 ターニャはカウンターから小皿を取り、隣で調子はずれの鼻歌を奏でながらほうれん草のタルトをつつくハンナに切り分けたたまねぎのタルトを差し出した。

 

「少し食べるか?」

「いいの? ターニャ優しいから好きー。父さんと母さんが気に入るわけだよ、お行儀いいし親切だし可愛いし」

「そうなのか?」

「うん。ターニャくらい素敵ないい子だと、エーリッヒさんみたいな人じゃないと釣り合わないよね、うん。お似合いなんだなあ」

「昔なら謙遜しているところだが、私も最近は釣り合っている自信を持てるようになった」

 

 素敵じゃん、と笑ってハンナが食事を終え、手を振って厨房へと消えた。まかないの皿を洗って退勤するのだろう。

 ハンナも含めお世話になっている地元の人々も招待しようか悩んだが、「服を用意するのが大変だから、お土産話だけで」とあらかじめ断りをもらっていた。ただ、ターニャにはちょっとした計画がある。結婚式の後、この店に料理を手伝ってもらってパーティーをやるのだ。

 ぎっしりと詰まった頭の中の予定表に心を躍らせながら、ターニャは炭酸水のグラスを口元に運んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第46話 純白

 直属の上司に背中を叩かれても、エーリッヒの緊張はほぐれなかった。軍大学はエーリッヒにとっても母校だ。卒業生として講演を頼まれたこともある。その歴史に私人として踏み入ることへの不安と緊張で汗を拭う手が止まらない。

 

「やれやれ、まったく。随分と緊張しているな、准将」

「……お知恵をお借りしたいのですが、閣下はどのように式を迎えられたのですか」

「さて、どうであったかな。時代も規模も異なる、参考にはなるまい。それより、あまり力まんほうがいい。せっかく仕立てたスーツに皺が寄る」

 

 エーリッヒは慌てて握りこぶしを解き、袖を整えた。きらりと光るのは赤のカフスボタン。エレニウム製だが、演算宝珠としての加工がなされているわけではない。帝国軍人が好むある種のゲン担ぎだ。

 情けないことに結婚式の服装関連を失念していた間抜けな新郎のエーリッヒを見かねて、ゼートゥーアをはじめとする”先輩”方が手を貸してくれたのだ。彼らの助力を得るまでエーリッヒは帝国の結婚式でスーツを着るという事実すら知らなかった。

 仕立屋は先任の総務部長に紹介してもらった。アクセサリー類はゼートゥーアから借りた。仕事の皺寄せはロメール少将が不平をこぼしながらも請け負ってくれた。一番世話になっているのは鉄道部のウーガ大佐で、式次の相談に乗ってくれたし、彼の妻はいまターニャの着付けを請け負っている。

 言ってみればこの結婚式は帝国軍の総力を挙げての式典だ。

 

「どうしてこうなったのか、という顔をしているな」

「……あまりに大きな規模になったことへの驚きはあります」

「帝国軍参謀次長、そして終戦の立役者でもあるエースオブエース。その二人の結婚に興味を持たない帝国人がどれほどいると思う。至極当然な流れだ」

 

 逃げたい現実ではあるが、事実だった。招待状を出した翌日にはその十倍の問い合わせが届き、それを捌いているうちに膨らみきった招待客は軍大学の大講堂を埋め尽くしてなお余る。その中には陸軍の礼装である灰色のメスドレスだけではなく、白に金糸――海軍の礼装まで混じっていた。

 さらには宮廷からアスカニエン家アルブレヒト二世の名代まで出席している。この講堂を爆破でもされれば帝国は滅亡だ。その可能性に言及したゼートゥーアが護衛を手配したが、気を利かせたらしく、元サラマンダー戦闘団の所属であったり、ライン帰りであったり、いずれもターニャに恩義のある顔ぶれで、名簿に目を通したターニャは硬直していた。

 

「覚悟を決めたまえよ。あと一時間もすれば貴官らは聖壇の前だ。そのあとはオープンカーで帝都を一周。ふむ、市民と握手する時間を設けてもよかったか」

「これはもはや国の催しでは……」

「いまさらだな、レルゲン准将。”あれ”を受け取った時点でこの式は国を挙げての式典だ」

 

 ”あれ”とは、今回の司式者を担当する典礼省長官が携えてきた品だ。皇帝にしか触れることを許されていない印が捺された便箋とともに専用の馬車で運ばれてきた皇室の宝。

 

「恋愛結婚の許しを陛下に請う、その意味を理解したかね、准将」

「いや、しかし……」

 

 エーリッヒは机に置かれた便箋に目をやった。「世に結ばれる許しを請うておきながら、結ばれる用意が整わぬ、これを世が良しとする由はなし」と流れるような字で記されている。皇帝が署名以外の形で書いた文字を見るのはエーリッヒも初めてだった。

 この結婚式でターニャが戴くのは、ながらく使われていなかった皇室のティアラだ。

 

「靴もよし、タイもよし、眼鏡もよし。うむ、万全と言っていいだろう。まだ時間はある、花嫁の様子を見てくるといい」

「はっ、ご厚意に感謝いたします」

「なに、花嫁の父親役はルーデルドルフの奴に取られたからな。いい意趣返しになった。いい式にしたまえよ、レルゲン」

 

 エーリッヒは控室を出ていったゼートゥーアに敬礼しながら、彼が初めて己のことを呼び捨てたことに気づいた。

 

「ありがとうございます」

 

 ゼートゥーアは背を向けたままひらりと手を振った。

 今や、エーリッヒもターニャも孤軍ではない。かつてヴィーシャがエーリッヒを叱りつけたように、無数の仲間が二人を囲んでいる。この戦に負けはない。

 エーリッヒは乾いた口を水で潤し、もう一度鏡で身嗜みを確認して、花嫁の控室に向かった。

 扉を押すまでもなく、賑やかな話し声が漏れ出ている。少しだけ妙な気後れがあって、躊躇しながらエーリッヒは汚れてもいない眼鏡を拭いた。

 勇気を出してノックをする。

 

「私だ。入ってもいいか」

 

 ややあって、許可が下りた。

 エーリッヒの手が扉を押す。ふわりと花の香りが漂っている。

 

「エーリッヒ」

 

 呼ぶ声の先に目をやれば、純白が立っていた。

 露わになった肩には傷痕が残り、こぼれそうな瞳は少し潤み、笑顔は緊張でぎこちなく、そのすべてが愛おしく、ゆえにエーリッヒはこの光景を形容する言葉を持たなかった。

 エーリッヒは花嫁の前で片膝をつき、その手を取って口づけを落とした。

 

「綺麗だ、ターニャ。世界で一番、君が綺麗だ」

「ありがとうございます、エーリッヒ。あなたも素敵です。いつにもまして凛々しくて」

 

 ターニャの手がエーリッヒの頬に触れた。

 お互いが目を合わせて、笑みを交わす。抱きしめて気持ちを伝えたいが、今はだめだと理解していた。衣装を乱してはいけない。

 

「ほらほら、フラウ・レルゲン、お化粧が崩れますよ。まだ少しかかりますから、閣下は進行の確認でもしてきてくださいまし」

「フラウ・ウーガ、助力に感謝する。……私もここにいてはだめか?」

「だめです、ええ、だめですとも。ここから先は入場した後のお楽しみなんですから」

 

 ウーガ夫人に追い出されながら、エーリッヒはもう一度ターニャを目に焼き付けた。エーリッヒ・フォン・レルゲンはこれからこの人と式を挙げるのだ。

 ターニャの控室を出て、手持無沙汰になったエーリッヒは教室の戸を引いた。今日は”式典”で休校になっているため、学生はいない。しかし、学生のほとんどが見学に来るという。それどころか、軍内部でも「急を要する調査」のために軍大学附属図書館を利用する旨が記された休暇申請の書類が大量に提出されているとすら聞いた。

 空っぽの教室で机に腰かける。

 エーリッヒは幼少期に両親と死別した。そして、貧しさの中で学問を求め、軍人になった。軍大学時代は充実していたが、なまじ成績がよかったために参謀本部で実績を積み、その中で神経をすり減らし、いつの間にか無味乾燥な世界を見ていた。

 気づかないうちに、世界は色鮮やかだった。

 

「――ここにいたか」

 

 声をかけられて振り向くと、懐かしい顔が薄っすらと悪戯な笑みを浮かべていた。ヴィルジニオ・カランドロ。イルドアで奔走していた終戦の立役者だ。長らく文通を続けていたが、顔を合わせるのは調印式以来だろうか。

 ヴィルジニオはエーリッヒの隣に腰を下ろし、教壇へと目をやった。

 

「歴史を感じる。いい大学だ」

「光栄だ。……招待に応じてくれたことを嬉しく思う」

「よせ、世界を救った仲だろう。……ま、ダチの浮かれたツラ見に来たってのもある」

「それが素か?」

「まあな。愉快で陽気なイルドア人ってわけさ」

 

 からからと笑ってみせるヴィルジニオからはほのかに酒精の気配がする。どうやら一杯ひっかけてきたらしい。国外の客を招くか考えた時、エーリッヒが真っ先に思い当たったのがこの男だ。誰よりも終戦の利益に聡かった。

 礼服を着崩しているが、それも様になっている。首筋に情事の痕を残しているのを見るに、引っかけてきたのは酒だけではないようだ。

 

「丸くなったな、エーリッヒ」

「そうだろうか。そうかもしれない」

「ああ、そうともさ。このお祭り騒ぎが帝国のそれだってんなら、イルドアも当面は安泰。いいこと尽くしってわけだ」

「そうであってほしいものだ」

「まったくだ。なんだったかな……ああ、花嫁の準備ができたんだったか。行こうぜ」

 

 エーリッヒは友に頷いて、大講堂前の割り当てられた待機所に向かった。

 廊下を進むうちに賑やかなざわめきが近づいている。エーリッヒの胸に緊張が帰ってきた。皇帝に謁見した時ですらこれほど強張りはしなかった。

 気を抜けばブリキ人形になりそうな膝を叱咤して歩いていると、先を行くヴィルジニオが呆れたように鼻を鳴らした。

 

「ガッチガチだな。足音が不規則になってるぞ。それじゃ様にならんだろ」

「……緊張で吐きそうだ。いい知恵はないか?」

「情けねえでやんの、ったく。花嫁のことだけ考えてろ。なんなら今夜どんな抱き方するか考えてたっていい。ああ、俺には言わなくていいからな」

 

 軽薄な物言いだが、そのおかげでエーリッヒはターニャの姿を想起することに集中できた。

 これまで多くの場面を彼女と過ごしてきた。初めて顔を合わせたのは教練学校で二号生に”指導”を行っていたときか。それから食事で偶然顔を合わせたり、作戦の指示を与えたり、縁が深まっていった。

 終戦後、ヴィーシャの代わりに花束を携えて訪問したのが始まりだ。ひどく憔悴した彼女に対して、エーリッヒは哀れみでも怒りでもなく、ある種の使命感にも似た感情を抱いた。今思い返せば、あれは恩返しだったのかもしれない。エーリッヒは彼女のおかげで終戦に辿り着いたことを理解していたにもかかわらず、感謝の言葉を伝え損ねたのだ。

 そばで過ごすうちに、感情は柔らかく、甘く、優しく染まっていった。そこには幸せがあった。やがてそれは言語化され、愛の形で二人を結び付けた。揺らがず、砕けず、途切れず、ここまで進んできた。

 これが始まりだ。

 

「んじゃ、しっかりやれよ」

「ああ。……ありがとう、ヴィルジニオ」

 

 ヴィルジニオは手早く礼服を整えて、真面目な顔をして出席者の波に消えていった。

 それから二十分も待機所にいただろうか。新郎入場の合図が送られ、エーリッヒは大講堂に用意された聖壇へと確かな足取りで進んだ。

 パイプオルガンが荘厳な調べを奏でている。

 

「――新婦入場。皆様、ご起立ください」

 

 花道の向こうから、エーリッヒの愛が歩いてくる。ヴェールの向こうにうっすらと見える笑みからは緊張が抜けているようだ。煌めく金髪の上で光を受けているティアラが彼女の美しさを引き立てている。

 世界が静かだった。入場曲も耳に入らず、ただ彼女の足音だけが聞こえていた。

 帝国のある偉大な作曲家が、自らの交響曲で冒頭に四つの音を入れた。弟子がその音の意味について問うと、彼はこう答えた。運命はこのように扉を叩くのだ、と。

 であれば、この足音はきっとエーリッヒにとっての交響曲だ。

 エスコート役のルーデルドルフがターニャをエーリッヒに引き渡し、新郎新婦が聖壇の前に並んだ。

 ターニャの希望で聖歌斉唱と聖書朗読は省かれたが、代わりに典礼長官の提案でこの国を終戦へと運んだ言葉を結婚式用に整えて唱えることとなった。

 

「たとい焔の熱さを向けあおうとも、のちに夫婦となる二人なれば、共にあって永らえることを以て良しとせよ」

 

 参列者が口々に復唱する。

 帝国の、大陸の平和が表面化した一つの形だ。

 

「新郎エーリッヒ。あなたはここにいる新婦ターニャを、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも、妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」

「誓います」

「新婦ターニャ、あなたはここにいる新郎エーリッヒを、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも、妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」

「誓います」

 

 典礼長官が小さく頷いた。

 

「今日という素晴らしい日におふたりは比翼となりました。今日という日を忘れず、これからどんな困難もふたりで乗り越え、幸福をわかちあい、二人の幸福を最上位の勲章とすることを誓いますか?」

 

 合図もなく、目も合わせず、声が重なる。

 

「誓います」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第47話 戦友

 久しぶりに見る顔ぶれが揃いも揃って浮かれた様子で笑っている。上官であった”デグレチャフ大佐”であれば呆れたり叱り飛ばしたりしただろうが、”レルゲン夫人”にそのような考えはなかった。

 やはり持つべきは優秀な副官というわけで、ヴィーシャが帝都のいい店を押さえておいてくれたおかげで元第二〇三航空魔導大隊の魔導師たち――通称二〇三組が集まることができた。”式典”に参加した帰りで全員が軍の礼服を着用していることも相まって、ターニャの胸中には懐かしさがこみ上げている。

 一時間後にはエーリッヒが迎えに来る。それまでは大隊水入らずというわけだ。ワンピースにカーディガンの私服に着替えてかつての部下たちに囲まれているのは奇妙な気分だったが、それもまた一興。

 すでに酔いが回りはじめたヴァイスは笑っているのか、それとも泣いているのか。同じ卓を囲んだ他の面々がおかわりを欲して席を立った今、ターニャは酔っ払いの相手をせざるをえなかった。

 

「おお、大佐殿が、大佐殿がまるでいたいけな少女のようにはにかんで……」

「私はもともと少女だが、ヴァイス?」

「私は、私は今日という日を忘れません! 大隊の記憶とともに、我が魂に刻み込みましょう!」

「飲みすぎだぞ」

「仕方ありませんよ、大佐殿……じゃなかった、フラウ・レルゲン」

 

 振り返ると、グランツ大尉がジョッキを手に肩をすくめていた。かつては少々頼りない部分もあったこの青年も共に戦う中で成長し、今やライン周辺の治安維持に務めるヴァイスの有能な副官として一目置かれる存在だ。軍大学での講演を依頼されたこともあるとターニャは聞いている。

 

「ヴァイス少佐は昔からずっと悩んでたんです。フラウ・レルゲンが幸せになるには、そもそもフラウ・レルゲンの幸せとは、それ以前に幸せとは、って感じで」

「……なるほど?」

「だからまあ、感無量ってやつです。もちろん、俺たちも嬉しいですよ! あんな怖かった……あ、いや、違くて」

「構わん。自分がどう見えていたかくらい、多少は理解しているさ」

 

 特にグランツは”大佐殿”の恐怖を最も強く感じていた節がある。雪中行軍中の雪崩で窒息しかけたグランツを蹴り飛ばして蘇生して以来、大隊の面々はターニャの強さに盲信的になった。ある意味ではターニャが一番目をかけていた部下でもある。

 ターニャが空いたままの席を指して促すと、グランツはやや強張った笑みを浮かべながらそこに座った。

 

「どうだ、グランツ。平和な帝国は」

「なんていうか、こう、むず痒いです。でも、これを手に入れるために戦ってたんだなって思うと、些細なことも嬉しく思えて」

「そうだな。……ようやくだ。ようやく息ができる」

 

 いびきをかきはじめたヴァイスに目をやる。胸に輝くバッヂは第二〇三航空魔導大隊の部隊章だ。今はもう存在しない部隊のものを身につけるのは本来軍規違反で、以前開けなかった送別会の名目で今日だけ黙認するとゼートゥーアに仄めかされた。

 何もかもが片付いた。そして、これが始まりなのだろうと思うと、ターニャは無性に嬉しく、そして少しだけ寂しかった。

 

「なんか懐かしいです。すげえ懐かしい」

「昔を懐かしむ歳でもないだろう。……まあ、わからんでもない」

 

 シナモンの効いたホットワインをちびちびと飲みながら、ターニャは静かに目を閉じた。

 賑やかだ。思い出話に花を咲かせる者がいる。腕相撲で盛り上がる卓がある。何度目かもわからない乾杯も聞こえる。かつてとは大違いだ。しかし、本質は何も変わらない。

 一年前、ターニャは彼らと顔を合わせることに恐怖を覚えた。しかし、もうその傷は癒えている。

 ターニャは立ち上がり、机に上がった。

 

「――諸君」

 

 気づいたヴィーシャが駆け寄ってきて、隣に立つ。

 

「大隊長より、訓示!」

 

 ヴァイスも目を覚まし、隊員たちが起立する。

 

「……我々は、勝利した。勝利して、希求し続けたこの幸福を勝ち取った。なんと甘美なものか。幸福を蒸留して一本のボトルに収めれば、誰しもが酔う美酒になるだろうな。生憎、私は未成年だが」

 

 くすくすと笑い声が伝搬する。口笛を吹いたのはノイマンだろうか。

 

「諸君らの表情を見るに、諸君らもまた幸福を手にしたと判断するし、そうであってほしいとも願っている。幸福の形は人それぞれだ。平和、結婚、仕事、資産、友情、うまい食事と酒……ああ、出産と育児という幸福を手にした者は申し出るように。参考意見がほしい」

 

 笑いと動揺のどよめきが心地よい。幼い上官が子どもについて言及したことに混乱している顔もある。

 

「諸君らにずっと言いたいことがあった」

 

 ターニャは大切な戦友たちへと微笑みかけた。ひどく照れくさいが、そうしたいと思い、また、そうすべきだとも感じたからだ。

 

「花束を、ありがとう」

 

 彼らから受け取った花束は今もターニャの部屋に飾られている。

 この一言を伝える、それだけのことにひどく曲がりくねった長い道を歩いてきた。そして、ようやくターニャはこの言葉を彼らに返す。

 

「諸君らは私の宝だ。諸君らのおかげで私は幸福を手にした。ありがとう。大好きだ。ありがとう!」

 

 窓も割れんばかりの歓声にターニャの鼓膜が悲鳴を上げた。一瞬にして興奮した酔っ払いたちが押し寄せ、ターニャの体を持ち上げ、胴上げが始まった。

 

「万歳! 大佐殿万歳! フラウ・レルゲン万歳!」

 

 急な事態にターニャは内臓が縮こまるような心地だったが、唱和する声があまりに嬉しそうで、だから怒ることを諦めた。

 ターニャはずっと上官だった。彼らが盛り上がっている輪に入れば楽しむものも楽しめないだろうと身を引いて、”よい上司”であろうとし続けてきた。だから、こうして彼らと触れ合う機会がどれだけあっただろうか。

 天井が近づき、遠のき、近づき、遠のき、歓声に頭が揺れる。そして、降ろされたと思えば今度は揉みくちゃだ。

 

「ああ、うん、ありがとう。いや、肩はこっていないから揉まんでいい。おい、どさくさに紛れて頭を撫でるな。肩車? 遠慮しておく。子どもの名付け親? そうだな、最初はヴィーシャに頼もう。次があるのかって、それは、その……おい、頭を撫でるなと言っただろう」

 

 解放されたころにはすっかりくたくたで、まるで古漬けのピクルスにでもなったようだった。場はますます盛り上がって、店の酒を全て空にする勢いすら感じる。今日の会計はターニャが持つつもりだったが、大隊時代の積立金が残っているとかなんとか理由をつけられて支払いを拒否された。

 ヴィーシャに髪を任せて、服の皺を整える。もうすぐ迎えが来る頃合いだった。

 

「素敵な式でしたね、ターニャ」

「ああ、本当に」

「歴史資料として結婚式の映像が残されたのは帝国史上初だそうですよ」

「そうか……映像?」

 

 ターニャは振り返ろうとして頭を押さえられた。髪のセットが崩れるらしい。

 

「撮影しました。ゼートゥーア閣下とロメール閣下の指示で」

「……その、なんだ。複製はあるか」

「もちろんです、ちゃんと後日お渡しします。……はい、できましたよ。どこから見ても世界一可愛いです」

 

 ターニャは椅子から降りて、ヴィーシャが差し出した手鏡で服も髪も乱れがないことを確認した。

 

「大丈夫そうだ。ありがとう、ヴィーシャ」

「どういたしまして。あ、車のエンジン音。お迎えみたいですね」

「ああ。……また遊びに来てくれるな?」

「もちろん。私たちは友達ですから」

 

 ターニャはヴィーシャと抱擁を交わして、戦友たちに手を振って、店の戸を押し開けた。

 冷たい夜風が火照った頬を撫でていく。今夜は星が綺麗だ。手を伸ばせば届きそうな気すらして、ターニャは掌を空にかざした。

 

「――届くか?」

「いいえ、今はまだ」

 

 いつの間にか隣にいたエーリッヒが、同じように手を伸ばしている。眼鏡のレンズが星光を受けて煌めいた。

 

「私もまだ届かん」

「いずれ届きます。私たちは戦争をひとつ終わらせたのですから」

「そうだな。……さ、帰ろう」

 

 ターニャは頷いて、星より愛しい彼の手を掴んだ。




次回、エピローグ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

 育児というやつに慣れる日が来るのかはわからないが、少なくともエーリッヒ・フォン・レルゲンにとっては今日ではないらしい。愛娘を叱りつける妻を宥めるべく、エーリッヒは書斎から居間へと向かった。

 

「――先月も母さんは教えたぞ、ラウラ。人形で遊んだらちゃんと箱に帰らせてあげる、約束したはずだな」

「でも、テオが一緒に遊ぼうって言うから!」

「弟が一緒に遊ぼうと言ったからそちらに行く、それは偉い。いい子だ、ラウラ。しかし、そんないい子のラウラならお片付けのことだって覚えていてよいはずだが?」

 

 エーリッヒが二人の前に姿を現したときには、今年で六歳になろうとしているラウラの涙腺が決壊寸前だった。父として足踏みしているわけにもいかず、エーリッヒは娘を抱き上げた。

 母譲りの大きな緑眼が助けを求めてエーリッヒを見上げている。とはいえ、説教モードの妻に屁理屈を捏ねられるほどエーリッヒは器用でも豪胆でもない。

 

「ほら、大丈夫だラウラ。別に母さんはお前が憎くて怒っているのではない」

「でも、お母さん怖いもん」

「おや、ラウラが初めての吹雪に怖がったとき、絵本を読んでくれたのは誰だったか忘れたのか?」

 

 背中を優しく叩いて落ち着かせてやると、ラウラは頷いて、涙声でターニャに謝った。

 

「お片付けしなくてごめんなさい、お母さん」

「次からはできると期待しておく。謝れて偉いぞ、ラウラ」

 

 エーリッヒは開いた扉の隙間からちらりと金色の髪が覗いたのに気づき、手招きをした。怯えた表情でおずおずと居間に入ってたのはテオバルト、今年で四歳になる男の子。髪を伸ばしたがるために昔のターニャとよく似ているが、琥珀色の虹彩はエーリッヒと同じだ。

 甘やかしすぎたのか、どうにもテオバルトは臆病に育って、すでに半泣きだった。

 

「お説教?」

「いや、もう終わったよ。ラウラ、テオと遊んでおいで。父さんは母さんとお仕事の話をするから」

「今夜はご本読んでくれる?」

「もちろん。さ、行っておいで」

 

 ラウラを下ろしてやると、二人は小さく手を振ってから、手を繋いで居間を出ていった。

 大きく息を吐いたターニャの肩を抱く。家を空けてばかりのエーリッヒは育児の大部分をターニャに任せざるをえず、それゆえにできる範囲では全力で彼女を支え、また主体的に動きたいと考えている。しかし、初めての試みには困難と失敗がつきものだ。

 

「二人目で少しは慣れるかと思いましたが、どうにも。今日はあなたがいてくださって助かりました」

「休みの日くらいはちゃんと務めを果たしたいのでな」

「お休み、そう、お休みなのですから、本当はゆっくりしていただきたいのに」

 

 謝罪の言葉を口にしようとした唇をそっと塞ぐ。

 

「内務省と在郷軍人学校の連携も安定しはじめた。この夏は休暇を取って家族旅行にでも行こう」

「それはいい報せです。ありがとう、エーリッヒ」

 

 胸にしなだれかかってきた妻を抱き寄せ、もう一度、今度はしっかりと唇を啄む。甘い吐息がふわりとエーリッヒの脳に沁みこんだ。

 ターニャもこの春を終えた三か月後には二十歳の誕生日を迎える。今や二児の母だ。三人目は育児が安定するまで待とうと約束したが、それがいつになるのかは二人にもわからない。

 ターニャがエーリッヒの首筋に歯を立てた。

 

「……ターニャ、まだ日も暮れていないぞ」

「最後にしたの、半年前です」

「だめだ。ラウラとテオに見られたらそれこそあの子たちのためにならない」

 

 ターニャはエーリッヒの首筋から顔を上げ、そのまま胸板へ顔を埋めた。

 

「……贅沢な悩みですが、少しだけ寂しくて」

 

 これを言われて黙って突き放すエーリッヒではない。ターニャを抱きしめて髪を撫でながら、エーリッヒは頭の中でスケジュールを確認した。来週末は二連休を取ることができそうだ。

 エーリッヒももちろん我が子たちは大切で、愛おしく思っている。しかし、エーリッヒはターニャの夫であり、妻を蔑ろにするつもりもない。よって、二連休を妻に捧げるくらいのことはしたいと思うし、すべきだとも考える。

 

「来週末は二人で過ごそう。帝都で映画を見て、あとは……そろそろ新しい服と靴もほしいころだな」

「よろしいのですか?」

「ああ。子どもたちを預かってもらうようにルーデルドルフ閣下に頼んでおこう」

「ありがとうございます。今度何かお礼をご用意しないと」

 

 決まりだ。来週末は夫婦水入らずの時間を確保することになった。身を起こしたターニャが唇を欲するのを受け入れる。

 孫娘が嫁に行くや否や何かにつけてターニャとエーリッヒを招いていたルーデルドルフも今やすっかり”クルトおじいさま”で、レルゲン家を含め親交の深い家の子はしばしばルーデルドルフ家の邸宅を別荘代わりにしている。

 親族のいないターニャとエーリッヒにとって、これまで紡いできた縁が最大にして最強の支えだ。ルーデルドルフは言うに及ばず、ウーガの娘が姉のように振舞ってくれるおかげでラウラにもお手本ができ、両親が教えるまでもなく下の子への気の使い方を理解しつつある。テオバルトは誕生日におしゃれなメッセージカード付きでブリキの車をくれたロメールに憧れているし、ゼートゥーアとの文通も始めた。感謝の念ばかりが増していく。

 玄関の扉が開く音が聞こえて、エーリッヒとターニャは慌てて絡み合った体を解いた。すっかり笑顔になってどたどたと駆けてくる二人を迎え入れる。もっと小さいころはエーリッヒも片手に一人で二人とも抱き上げられたが、そろそろ限界だ。

 

「見て、おっきい蛙捕まえた!」

「ラウラの見つけた蛇のほうがおっきかったもん!」

 

 泥だらけのテオバルトが両手で掴んでいるのはヒキガエルだ。ラウラが地団駄を踏んで悔しがっているところを見るに、テオバルトが一人で捕まえたらしい。危険がないと見るや問題ない範囲で好き勝手する性格は母親に似たのだろうとエーリッヒは確信している。

 

「立派な獲物だな、テオ」

「ラウラも蛇見つけた! 危ないから触らなかったの!」

「ちゃんと危ないものがわかって偉いぞ、ラウラ」

 

 エーリッヒが二人の頭を撫でると、二人はエーリッヒに抱きつこうとした。しかし、泥だらけで、しかもヒキガエルをホールドしている。

 間から手を伸ばしたターニャがヒキガエルを救出しつつ二人を一時停止させた。

 

「先に父さんとシャワーを浴びてきなさい、蛙は母さんが見ておくから」

「はーい!」

 

 べたべたに濡れた二人の手を握って、エーリッヒは目でターニャに感謝を伝えた。できるだけ長く入っていれば、ターニャが料理をしている間に子どもたちがウロチョロせずに済む。

 浴室にタオルと着替えの籠があることを確認して、エーリッヒは二人の服を脱がせた。

 ラウラはもう一人で髪を洗えるようになったが、テオバルトはまだ目を開けてしまう癖が直らない。目を閉じたまま何かを扱うのがまだ不安のようだ。エーリッヒは丁寧に二人を洗い、シャワーで泡を流した。

 

「つめたーい!」

「口を閉じていなさい、苦いのが入るぞ」

 

 二人とも水遊びが好きだ。悪い癖がつかないよう、風呂を遊び場にしていいのは入浴時だけと約束をしている。今年の夏は川に連れていってやりたい。

 汚れと泡を流し終わって体を拭いていると、エーリッヒを見上げていたテオバルトがぽつりと呟いた。

 

「お父さん、肩の傷がお母さんとお揃い。あ、でも反対?」

 

 テオバルトが見ているのは、エーリッヒの左肩に刻まれた銃撃の痕だ。誘拐されたターニャを救出する際に負った傷で、応援と一緒に突入すればいいものを気が急いて先行した結果受けた情けない一撃だが、ターニャは少し呆れつつも内心気に入っているようだった。

 

「お母さんがかっこいい軍人さんだったって本当?」

「本当だ。ルーデルドルフ閣下から聞いたのか?」

「ううん、ロメールおじさまから」

「ロメール閣下だ、テオ。そうだな……」

 

 タオルで二人をぐるぐる巻きにしながらエーリッヒは思案を巡らせた。ターニャは自ら進んで過去を語ることはしないが、秘匿しているわけでもない。だからといって好き放題喋っていいわけでもない。

 二人に清潔な服を着せて、エーリッヒは考えを固めた。やはり本人に聞くのが一番いい。

 

「ターニャに直接聞いてみなさい」

「お母さん、怒らない?」

「大丈夫だ。万が一怒ったら、そのときは父さんが謝る」

「じゃあ、聞く!」

 

 競い合うように浴室を飛び出した二人を追いかけて、エーリッヒは居間へと向かった。今夜の食卓では昔話が繰り広げられることになるだろう。愛する子どもたちに両腕を引かれて困ったように笑うターニャは誰よりも美しく、だからこそエーリッヒの記憶に残る”白銀”も、”ラインの悪魔”も、色あせることはない。




完結いたしました。毎度いっぱいのお運びに厚く御礼申し上げます。
今後は不定期に番外編を書いていきます。蛇に足を描き足す行いをお許しください。

2020/08/06追記
あとがきが書けたので、よろしければどうぞ。
https://note.com/oceantide/n/n6cd6b93c0598


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

補01話 若者

 傘を打つ雨垂れに踊る心もなく、ただゼートゥーアは道を歩いていた。終戦から年月が経ち、人々の賑わいは帝都の中枢を温めている。この地区にはそれがない。賑わってはならない地だ。

 共同墓地。

 ゼートゥーアを目にして慌てて立ち上がろうとした管理人を手で制止する。管理人は右脚が義足で、頬にも大きな傷がある。退役軍人だろう。

 募金箱にそれなりの額をねじ込んで、ゼートゥーアは目的の墓へと向かった。よく手入れされた墓地はさながら公園のようで、晴れた日には散歩する市民も目にすることができる。

 ふと膝に痛みを感じて立ち止まった。ゼートゥーアももう老人だ。旧友に付き合ってやんちゃを続けてきたツケが回ってきたようで、節々の痛みや体の重みを無視できない。

 ハンス・フォン・ゼートゥーアも時間に勝利する策は持たないのだ。

 とはいえ、立ち止まるわけにはいかない。その誓いを立てた墓の前で、ゼートゥーアは静かにその名を呼んだ。

 

「――オスカー」

 

 オスカー・アイクラー。本来であれば、ゼートゥーアの姓を継いだかもしれない青年である。そして、彼の体には密かに貴き血が流れていた。皇帝の庶子だ。

 終戦ののち、休みには必ずここを訪れていた。祈るわけでもなく、謝るわけでもなく、嘆くわけでもなく。ただ、この墓を前に立ち尽くす、ひどく非生産的で非合理的な行為は、いつの間にか習慣として成立したのだ。

 そして、これこそが、皇帝に対してゼートゥーアが請い願った許しだった。一度は養子にとまで言われた子を戦に送り出し、死なせた。その墓に参る許しを求めたのだ。

 皇帝とゼートゥーアの間に生じた密かな罪を、ゼートゥーアは償うことができない。あくまでオスカーは庶子であり、補給隊の兵士でしかなかった。彼の戦死に特別な意味を持たせることは許されない。

 墓碑に記された文言を指でなぞる。

 

「死ぬまで剣を放さなかった者のみが成功する」

 

 ヴォルテールの格言だ。ゼートゥーアが彼に与えた忠告の中で最も気に入った様子の一言を、死に刻んでほしいと遺書にまで書き残していた。

 なるほど、諦めなかった者にしか成功はないだろう。そういった者たちが奮戦した結果が今の平和をもたらしている。では、諦めなかった者はおしなべて成功するのか。

 オスカーは諦めなかった。軍人として功を成して、その上で改めてゼートゥーアの姓を継ぎたいと笑い、そのまま死んだ。

 この墓の下に眠っているのは右腕だけだ。砲弾が直撃し、吹き飛ばされた右腕は、それでも小銃を放さなかったと報告を受けている。

 戦時中は参謀次長として、現在は参謀総長として、ゼートゥーアは多くの軍人から諦めを奪い、努力を強いてきた。成功なきままこの世を去った者はどれだけいるだろうか。

 こうして後悔を感じることができるのも平和を勝ち取ったからだ。それはよく理解している。

 ゼートゥーアは懐から時計を取り出し、時刻を確認した。今日はルーデルドルフと約束がある。

 

「――ゼートゥーア閣下?」

 

 たどたどしい声に名を呼ばれて、ゼートゥーアはゆっくりと振り返り、思わず息を呑んだ。

 少し癖のある金髪を一房に結いまとめた幼き子。かつて己の懐刀であったその者は、深い傷に苦しみ、そして幸せを掴んだ。誰よりも強く、ゆえに誰よりも弱かった軍人、または少女。

 デグレチャフ、と応えかけて、己の耄碌に呆れがこみ上げる。彼女はもうその姓ではないし、彼女はもう大人だ。それに、この声は高くか細いが、少年のそれだろう。だから、ここにいるのは彼女の息子、テオバルト・レルゲンに他ならない。

 

「誰かの墓参りかな、テオバルト」

「いいえ、その、迷子です」

 

 言葉にして実感が湧いてしまったのか、雨に濡れた少年は途端に涙をあふれさせた。今年で三歳になると聞いているが、見た目にもわかる弱々しさは年齢に見合わない利発さの代償か。

 ゼートゥーアはテオバルトを抱き上げた。生憎と育児の経験がないため、できるだけ早く親元に返したい。

 

「そう泣くものではない、テオバルト。君は確か、ロメールに憧れているのではなかったかな?」

「はい。でも、僕は弱いです」

「では、強くならねばならん」

「戦争がなくても、弱くてはだめですか?」

 

 そうだ、と答えようとしたが、その回答に自信が持てなかった。

 彼の言う通り、戦争は終わった。であれば、弱者であっても幸せに生きることができる社会を構築することこそが望ましいのだろう。しかし、ゼートゥーアは強さによって幸せを勝ち取る生き方しか知らない。どちらにしても説得力のある答えが思いつかないのだ。

 涙に喉を詰まらせながらも、テオバルトの主張は続いた。

 

「母さんに言われたんです。強くなるために弱さを捨ててはいけない、って。でも、強くなったら弱くなくなります」

「なるほど」

「ゼートゥーア閣下やロメールおじさまみたいに強くなったら、弱くなくなりますか?」

 

 あの生意気な若造が”おじさま”と呼ばれていることに愉快さを覚えつつも、ゼートゥーアはひとつの答えを導き出した。

 

「強さ、弱さはすなわち良さ、悪さではない。悪い強さもあるし、良い弱さもある。テオバルト、君の母上は君の弱さを良い弱さだと考えたのではないかな」

「なぜですか」

「ふむ。君は自分のどんなところが弱いと思うかね」

 

 もうだいぶテオバルトは泣き止んでいたが、涙と雨で顔が濡れている。先に拭いてやればよかったかと後悔しながらも、ゼートゥーアは対話を続けた。

 

「えっと……泣き虫なところ、怖がりなところ、あと、トマトが食べれないところ?」

「一番泣いたのはどんな時だったかな?」

「姉さんが転んで、おひざから血がいっぱい出ていた時です。とっても痛そうでした」

 

 ゼートゥーアはこの少年に興味深さを感じはじめていた。受け答えは極めて明瞭であり、三歳児のそれとは思えない。よい教育を施すであろう両親のことを思えば順当なのかもしれないが、それ以上に本人の素質を感じるのだ。

 人の痛みに泣く者は軍人に向かない。隣の仲間が吹き飛ばされても撃ち続ける無神経さが求められる世界だ。平和な時代ではこの少年のような者こそ輝くのだろうか。

 

「自分の痛みでもないのに泣くのは、確かに弱さかもしれん」

「はい」

「しかし、他人の傷に思いやれるのは良い弱さであろう。それに、人間は自分より慌てふためいている者が近くにいるだけで冷静になれるものだ」

 

 テオバルトは理解しきれていないようだったが、小さく頷いた。

 思い返せば、オスカーも他者の苦しみに悩むことのできる男だった。もちろん、テオバルトはオスカーではない。それはよく理解しているが、テオバルトの父であるエーリッヒもまた人情家だったことを考えると、ゼートゥーアはこの手の人間を好ましく思うのかもしれない。

 墓地を出ると、見慣れた女性が真剣な表情で管理人に何事かを問いかけていた。

 

「――ええ、そうです、長い金髪を首元で結わえた男の子。ああ、やはり見ましたか。ありがとうございます、もし行き違いになったら……」

「尋ね人はこの子かね、フラウ・レルゲン」

「閣下? ……テオバルト!」

 

 雨水を蹴散らして駆け寄ってきたターニャにテオバルトを渡すと、彼女はテオバルトを抱きしめた。子を想う母の表情だ。軍人時代の彼女からは想像もできない。

 

「無事でよかった」

「ごめんなさい、母さん、ごめんなさい」

「いや、目を離した私が悪い。……ありがとうございます、ゼートゥーア閣下」

「年寄りのおしゃべりに付き合ってもらっただけだ、気にすることはない。なかなか将来有望な少年ではないか」

 

 ターニャは驚いたように小さく眉を上げたが、微笑んで頷いた。

 

「自慢の息子です」

「であろうとも。送ろう、車を待たせている」

「それは……ありがとうございます。ルーデルドルフ閣下の邸宅にお邪魔する途中でした」

「おや、そうか。実は私も奴に呼ばれている」

 

 手間が省けたな、とゼートゥーアは笑った。

 少しだけ体が軽い気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

補02話 聖夜

まだギリギリクリスマスだと言い張らせてください。


 帝国で最も重要な歳時に直面して、ターニャは幸せと戸惑いの狭間にいた。すなわち、クリスマスへの熱量を肌で感じていた。

 クリスマス当日のみならず、アドベントと呼ばれる4週間の盛り上がりときたらすさまじく、ちょっと買い物に出るだけで圧倒されるほどだ。開戦直前の輝きにも似ているが、刺々しさがない分心地がいい。ターニャにとっては戦後初めて落ち着いて迎えるクリスマスということもあって、ターニャ自身が昂ぶりを感じていた。

 満員の客車から降り、乗客と防寒着で圧迫された頭をリセットするために帝都の空気を吸う。屋台のアーモンドやホットワインの香りが混ざって幸福の味がした。浮かれているのを自覚する。しかし、恥ずかしくはなかった。行きかう人々がみな浮かれているからだ。

 

「ターニャ! こっちですよ、こっち!」

 

 中でもいっとう浮かれ顔のヴィーシャが大声でターニャを呼んでいる。広場のベンチを丸々1つ占領して、ご機嫌な様子だ。呆れながらも笑みをこらえきれず、ターニャは早歩きで彼女のもとに向かった。

 すでに買い物をしてきたようで、湯気の立ちのぼるマグを手にしている。差し出された一杯を受け取り、一口。蜂蜜と林檎、それにシナモン。

 ベンチで買い物袋を抱えて不貞腐れた顔のエーリャがヴィーシャとターニャの顔を交互に見てため息をついた。

 

「ヴィーシャ、あんた新婚呼んでんじゃないわよ」

「そう拗ねた顔をしなくてもいいだろう、エーリャ。私が頼んだんだ。彼が退勤して迎えに来るまであと2時間はある」

「彼って言い方がなおムカつくのよね……三人称単数の男性代名詞が特定の人物を指す環境、すべて妬ましい」

「あれ、彼氏できたんじゃなかったの?」

 

 ヴィーシャの心ない一撃を受けてエーリャが盛大な舌打ちをした。

 

「二股野郎のことなんか覚えてないわね。本当に股を2つにしてやろうかと思ったのは覚えてるけど」

「うわあ……まあ、ほら、クリスマスくらい明るく!」

「はいはい、脳みそイルミネーションで幸せですねえ。んで、ターニャちゃんはなんか買いたいものあるの? 早めに動かないとそろそろ品切れで閉じる屋台とかあるし」

「あー……クリスマスらしいもの」

「クリスマスらしくないものが売ってるクリスマスマーケットって何よ。とりあえず職人市でも漁る? 掘り出し物のアクセサリーとかあるかもしれないし」

 

 人ごみではぐれないようにと手を引かれながらターニャは二人の案内についていった。

 帝都のクリスマスマーケットには数百の屋台が出店している。香水やカンテラにはじまり、射的、輪投げといったターニャも知る遊戯もあるし、見習い職人がこの日のために仕上げた習作も並ぶ。この話をヴィーシャから聞いたときはターニャの口からも感嘆と期待で声が漏れた。

 そして、予想をはるか超えていくきらめき。

 雑踏を抜け、マーケットにつながる広場への視界が開けた瞬間、ターニャの世界は色とりどりの光に彩られた。家々の壁や窓にはオーナメントが飾られている。きっと手作りであろうそれは、それぞれの家庭で作り方を受け継いできた、お祝いの結晶だ。

 そして、何よりも華やかなのがはるか見上げるもみの木と、その頂に輝く星。30mはあるとエーリャが自慢げに語るのを聞き流して、ターニャはただただクリスマスツリーを見上げていた。

 目に見えるもの、耳に聞こえるものすべてが祝うに値する。握った二人の手から伝わる温かさも。

 

「見事なもんでしょ」

「……ああ。素敵だ」

「しっかり見ときなさいよね。子ども連れてくるようになったらクリスマスツリーどころじゃないわよ、きっと」

「ま、まだ先の話だろう、それは」

「エーリャは子育ての講義するより先に彼氏の見つけ方教わったほうがいいんじゃない?」

「なにをー! このー!」

 

 笑いが弾けた。

 それから、三人はプレッツェルとグリューワインを買って、職人市へ向かった。燭台やカトラリーのような高級日用品からアクセサリー類、変わり種だと木彫りの面などもある。エーリャがサンタクロースの面を買ってターニャに被せようとしてくるのを回避しながら、ターニャは屋台の行列を見渡した。

 

「なにか買いますか? プレゼントとか」

「買いたいが、何を買えばいいのかわからん」

「うーん。ターニャが選んだものならなんでも喜ぶと思いますけど」

「まあ、それは、うん。だが、どうせなら一番嬉しいものをだな」

「プレゼントは私、ってやつやればいいんじゃない? リボンでぐるぐる巻きになって」

「馬鹿を言え。あ、これはいいな」

 

 店主の許可を得てターニャが手に取ったのはネクタイピンだ。立場のある男性社会人、特にタイを締めて仕事にあたる必要があるポジションではこういった細やかなアクセサリーがステータスになる。ターニャにとっても様々な意味で馴染み深いアイテムだ。

 ターニャは明かりに照らしてその作品をよく観察した。帝国ではあまり見かけない素材で作られている。蜂蜜とコーヒーが絡まったような、半透明の甘く柔らかな色合い。

 

「ご店主、これは鼈甲ですか?」

「お目が高いですね! そう、本鼈甲です。うちの妻が極東の生まれでしてね、そいつは妻の弟が作ったもんなんですが、なかなかいい仕上がりでしょう?」

「ええ、傷ひとつない見事な加工ですね。……ヴィーシャ、どう思う?」

 

 ヴィーシャに手渡すと、矯めつ眇めつしてから首を傾げた。

 

「いい品なんだろうとは思うんですが……素材に馴染みがないせいでピンときてなくて。ごめんなさい」

「まあそちらのお姉さんの仰るとおりだ。ネクタイピンってやつは仕事場での彩だからなあ、鼈甲は相性が悪いかもしれんなあ」

 

 ターニャは苦笑をこぼす店主にネクタイピンを返そうとしたが、ふいにエーリャが耳打ちした。

 

「ターニャちゃん、それ買ったほうがいいかも」

「ほう」

「外務省、最近秋津島皇国のこと結構気にしてるのよ。向こうも悪い気はしないみたい」

「なるほど。向こうの要人と面会する機会が」

「そゆこと」

 

 ターニャが購入することを告げると、店主は目を丸くしたが、すぐに笑顔で包装してくれた。

 いい買い物をした。ターニャはクリスマスカラーのラッピングと金色のリボンを手袋の指先でなぞった。

 それから射的小屋を荒らしたり、輪投げを荒らしたり、大人げない楽しみ方をして、3人は荷物を抱えてツリー前の広場に帰ってきた。時刻は19時半。そろそろ夕食のために人々が家に帰る頃合いだ。

 帝国ではクリスマスをそれぞれの家庭で迎える。燭台のろうそくに火をともし、ワインを開け、七面鳥を切り分け、穏やかな時間を過ごすのだ。だから、そろそろ解散ということになる。

 

「二人とも今夜は家で過ごすのか?」

「んー、私はそこらで飲んで朝を迎えるつもり」

「え、うち来ないの? 父さんも母さんもそのつもりで準備してると思うけど」

「いやいや、さすがに私も遠慮するわよ」

「遠慮無用! 久しぶりに我が家のブラマンジェ食べたくない?」

「うぐぐ……まあ、そこまで言うなら」

「ああ、そうだ。これを持っていけ」

 

 ターニャはポーチから包みを2つ取り出して、二人に押し付けた。

 

「ハーブティーだ。私がブレンドした。この間、うちで飲んだときに気に入ったようだったから小分けしておいた」

「わあ……ありがとうございます!」

「洒落たクリスマスプレゼントじゃん、ありがとね。んじゃ、私たちからも」

 

 エーリャが差し出した紙袋を受け取って、促されるままに開封した。透明のパッケージにいくつか拳ほどの大きさの球が入っている。薄緑や桃色など淡く優しい色で、見た目から表面がざらついていることが分かった。

 桃色の球を取り出して匂いを嗅いでみる。見た目通りの桃と、奥にかすかながら柑橘類の香りだ。

 

「食べ物……ではなさそうだが」

「まあうん、食べ物ではないわよ。入浴剤」

「入浴剤。……ああ、温泉の匂いの!」

「それジジイが使うやつ。こっからさらに冷え込むし、二人で仲良くお風呂でも入ればいいんじゃない?」

 

 当たり前のように一緒に入浴していることを前提として話が進んでいることに恥ずかしさを覚えつつ、それが事実であるために否定もできず、ターニャはただ礼を言って紙袋を抱えることしかできなかった。

 そんなターニャを見て微笑ましげな表情を浮かべた二人は、代わる代わるターニャの頭を撫で、そして「メリークリスマス」と言い残して雑踏へと消えていった。

 ベンチに腰掛け、懐中時計を取り出す。約束の時間まであと15分ほど。

 結婚式からそれほど月日が経っていないこともあって、道行く人々のなかにはターニャを見て足を止める姿もある。母親に手を引かれた少女がターニャを指さした。

 

「あー! 花嫁さんだ!」

「ニーナ、人様を指さすんじゃありません。ごめんなさいね」

「いえ。こんばんは、ニーナ」

 

 ターニャが話しかけると、少女はぱあっと表情を輝かせた。

 

「こんばんは! あのね、今年はサンタさんがブローチをくれるの! 銀の翼のやつ!」

「銀の翼?」

「うん、花嫁さんは銀の翼で戦ったから白銀なんでしょう? だから、女の子はみんな銀の翼がほしいの」

 

 予想外の場所で予想外の事実を知った。

 ターニャは背筋がこそばゆくなるのを感じた。それ以上に、己の過去が商業的価値を持っている現状の背後にかつての上司が一口噛んでいるであろうという確信と、彼の手腕がいまだ衰えないことへのある種の安心が浮かんだ。ゼートゥーア宛てにクリスマスカードは送ったが、近々挨拶に伺ったほうがよいだろう。

 

「花嫁さんはサンタさんに何をお願いしたの? 赤ちゃん?」

「あか……」

「こら、ニーナ!」

 

 回答に窮していると、ちょうど待ち人が到着した。

 

「すまないターニャ、少し待たせたか」

「いえ、この子が相手をしてくれたのであっという間でした。……ニーナ、少し内緒話をしよう」

「なあに?」

「内緒だぞ? ……私の銀翼は戦っているうちにくたびれて、壊れてしまったんだ。でも、彼が一緒にいてくれるから飛べる。だから、もしそのブローチを失くしてしまっても心配することはない。もちろん、大事にするんだぞ?」

 

 わかったな、と念を押すと、少女は感動したようにこくこくと頷いた。

 何度も手を振る親子を見送って、ターニャはようやくエーリッヒに向かい合った。仕事でくたびれてはいるが、いつも通りの最高に格好いい夫だ。インクとコーヒーの匂いがする。

 

「お待たせしました」

「ああ、いや、楽しそうでよかった。どうだ、帝都のクリスマスは」

「率直に言って、感動しました。きらきらしています」

「そうか。そうだな、きらきらだ」

 

 笑いあって、ハグをして、軽く唇を触れあわせる。

 エーリッヒの指がターニャの髪を撫でた。いつもと違う、少し引っ張られるような感触。

 

「よし、できた」

「私の髪が何か?」

「いや、いつも以上に綺麗だ。その髪を束ねるのにふさわしい品を仕立ててもらった」

 

 どうやら髪留めをつけてくれたようだった。

 とても嬉しいが、どうしたって後頭部についたものを自分で見ることはできない。それに、少しセットが下手だった。そんなところも愛おしく思える。

 

「エーリッヒ、ありがとうございます。家についたら改めて着けてもよろしいですか? どんな品をいただいたのか目でも楽しみたくて」

「ん、ああ、そうか! いや、確かにそうだ。すまない」

「大丈夫です、もちろん嬉しいですから。帰りましょうか、七面鳥が我が家で待っています」

 

 少し傾いたポニーテールのまま、ターニャはエーリッヒの手を引いた。

 

「メリークリスマス、エーリッヒ」

「ああ、メリークリスマス、ターニャ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。