カンナギ (百瀬頼人)
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第一章 梨華とリタの出会い
#1 山の上の神社


私は赤田梨華。自然あふれるこの街で巫女として働いている。

 

趣味はソフトボールと、休日の寺社仏閣巡り。

 

…ここ最近は偶然知り合った同業者に会いに行くのもちょっとした楽しみになっている。

 

 

 

その同業者と知り合うきっかけになったのは、姉が偶然見つけた雑誌のコラムだった。

 

 

 

???)梨華、ちょっとこれ見てよ。

 

梨華)何?

 

私は夢中で見ていたスマホから目を話して振り返った。

 

???)これ。神社の紹介コラムがここに載ってる。

 

梨華)どこの?

 

???)えっと、音…子…猫…?何て読むのかしら。

 

梨華)あ、ここに「ねこねこ」って書いてる。

 

???)あ、本当ね。音子猫神社か…。

 

梨華)場所は…北の方ね。こんなところまで行ったことないなぁ。

 

???)今度のオフの日に行ってみたら?

 

梨華)そうね。ありがとうお姉ちゃん。

 

 

 

それから数日後、私は赤色の軽四で音子猫神社へと向かった。

 

風景が北に行くにつれて少しずつ緑に支配されていく。人気も少なくなってきてちょっと不安になってきた。

 

梨華)(この先ってもう山しかないのよね…こんなところに神社なんかあるのかな。)

 

しかし、目的地はこの方向で間違いない。ここはカーナビを信じて進むしかない。

 

 

 

しばらく進むと、小高い山の登山口に行きついた。道は細く未舗装で車が入ることは出来そうにない。

 

梨華)(ここからは歩きになりそうね。それにしてもそこそこ高い山ね。どれくらい歩くことになるんだろう…)

 

 

 

登山道ですれ違う人の姿は一切なかった。しかし、荒れ果てていない所を見ると定期的に誰かが利用しているようだ。

 

この先が神社だとすれば、必然的に神社に住む神職や関係者の可能性が利用している可能性が高い。

 

一縷の希望に駆けながら私は山道を登り続けた。

 

 

 

数十分ほど登ると、石段が見えてきた。石段の先には微かに鳥居らしきものも見える。

 

梨華)(良かった…とりあえず音子猫神社に着いたようね。どんな感じなのかな。)

 

息を切らしながら石段を登りきると、突然木々に遮られていた風景が開けた。陽の光が飛び込んできて眩しさに思わず目を瞑ってしまった。

 

 

 

そっと目を開けると、鳥居の先の風景が飛び込んできた。

 

小さな本殿に社務所。境内には至る所に落ちてきた青葉が積み重なっている。

 

…山道でもそうだったけど、この境内にも人の気配が感じられない。

 

不気味さを感じつつも、意を決して中に入ることにした。

 

 

 

鳥居には「音子猫神社」と書かれている。

 

目的地であることを再確認し、鳥居に一礼してから私はゆっくりと境内に入った。

 

 

 

続く



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#2 初めての出会い

境内は思った以上にこじんまりとしており、その中に人の気配は感じられなかった。

 

 

 

手水場からは冷たく澄んだ水が絶えず流れていた。恐らく近くの湧水を使っているのだろう。手と口を清めて拝殿に向かう。

 

 

 

拝殿前の参道の両側には狛犬が待ち構えていた。

 

…いや待て。これ犬じゃない、猫だ。

 

「音子猫神社」の名前に関係あるのだろうか?

 

 

 

拝殿でお参りを済ませた後、社務所に向かう。

 

恐らく売店として機能していたであろうスペースにも人はいない。

 

 

 

梨華)(ここまで人気を感じられない神社も珍しいわね…どうやら人はいないようだし、帰りましょうか。)

 

そう思い踵を返して帰ろうとしたその時だった。

 

???)あ…

 

一人の女性が鳥居をくぐって入ってきた。両手には大きな買い物袋を提げている。

 

???)もしかして…こちらに参拝を?

 

梨華)あ、はい。

 

???)…ありがとうございます!山道を登るのは大変だったでしょう。少し休んで行ってください。

 

梨華)は、はぁ…

 

私は女性に引っ張られるように拝殿の奥に通された。

 

 

 

奥の部屋は彼女の居住スペースになっていた。ここにも猫に関する物が沢山飾られている。

 

???)お待たせしました。リンゴジュースしかなかったので…どうぞ。

 

梨華)ありがとうございます。

 

リンゴジュースを一口飲んだのを確認して向こうが話を切り出してきた。

 

 

 

???)突然で申し訳ありませんが、お名前を教えていただけますか?

 

梨華)一体またどうして?

 

???)この神社、見て分かるように経済が火の車なんですよ。

 

梨華)参拝客が来てそうな気配が無いですからね。

 

???)こう言う状況なので、副業でライターやナレーターのお仕事をしてるんです。神社に来てくださった方からお話を聞いて記事を書こうかと。

 

梨華)そうなんですか。私の名前は赤田梨華です。この町で巫女をしているんです。

 

???)赤田梨華さんですね。職業は巫女…え!?巫女ですか?

 

梨華)はい。巫女です。

 

???)これも何かの縁なのですかね…あ、申し遅れました。私は音子猫神社の巫女の音崎リタと申します。少しの間お時間宜しくお願いします。

 

梨華)はい、こちらこそよろしくお願いします。

 

 

 

リタ)まず初めに、こちらの神社に来るきっかけを教えていただけますか?

 

梨華)姉が偶然、雑誌のコラムでこの神社を見つけたんです。

 

リタ)雑誌ですか…ちょっと前にお話を聞いたフリーのライターさんが書いたのかな?

 

梨華)私、空き時間を見つけてはこの町の寺社を巡っているんです。そう言った事情を知っていたからこそ姉もすぐに教えてくれたんでしょうね。

 

リタ)なるほど…私としてもこの神社に興味を持ってくれるだけで非常にありがたいです。

 

 

 

リタ)次に、この神社を参拝した時の率直な感想をお願いします。

 

梨華)こじんまりとしているな…と思いました。ただ、設備等は一般的な神社と比較しても遜色ない感じなので、かつてそれなりの参拝者がいたんじゃないかと思いました。

 

リタ)…流石巫女さんですね。確かにこの神社はかつて「沢山の猫が住む神社」としてそれなりの人気を誇っていたと言います。しかし、山間部の過疎化もあって少しずつ人の足が遠のいていって…今じゃ猫も人も全くいなくなってしました。

 

 

 

梨華)ちょっとこちらから質問しても良いですか?

 

リタ)何でしょう?

 

梨華)ここで働いている人ってリタさんだけなんですか?

 

リタ)神職ですか…私以外だと梅岡さんと柊君がいます。

 

梨華)今お二人は…

 

リタ)梅岡さんは先月ここでのお仕事中に転んで足を骨折してしまって…今は治療中です。

 

梨華)では柊さんは?

 

リタ)柊君はまだ見習いなんです。いずれ神主になる予定なんですがまだ大学を卒業していないので週末だけお手伝いをしてくれています。

 

梨華)その他に働いてる方はいないんですか・

 

リタ)いないですね。両親は数年前に亡くなってしまって、私の兄と姉が後を継ぐ予定だったんですが、二人とも神社に全く興味が無くて…

 

梨華)リタさんが仕方なく継いだという感じですね。

 

リタ)はい…

 

 

 

リタ)最後に一つ、これは私からのお願いなんですが…この神社を宣伝していただけませんでしょうか?

 

梨華)構いませんよ。どういった方法で宣伝しましょう?

 

リタ)もう何でもいいですよ。SNSとかでも構いません。

 

梨華)でしたらツブヤイターにしましょうか。

 

リタ)ツブヤイターですか。ファンの人数はどれくらいなんですか?

 

梨華)そうですね…ちゃんと確認はしてませんが数万人はいますよ。俗に言うインフルエンサーって奴ですね。

 

リタ)数万…これは期待できそうですね。

 

梨華)「今日は久しぶりに寺社巡りで、音子猫神社に行きました。参拝客がほとんどいないので自然豊かな風景を撮影するにはもってこいのスポットです。素敵な巫女さんが皆さんを待ってますよ。」こんな感じで良いですかね?

 

リタ)ありがとうございます。

 

 

 

リタ)そう言えば、梨華さんが働いている神社ってどこにあるんですか?

 

梨華)「赤田神社」で調べてみて下さい。すぐに分かりますよ。

 

リタ)分かりました。取材にご協力下さってありがとうございます。

 

梨華)こちらこそありがとうございました。

 

続く



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第二章 赤田神社への取材旅行
#3 赤田神社の神楽巫女


その日の夜、私は「赤田神社」について調べてみることにしました。

 

「赤田神社は平安時代に貴族の手によって創建された由緒ある神社です。」

 

リタ)平安時代ってことは、少なくとも1000年は前ってことか。

 

「この神社にはアメノウズメが祀られており、芸能関係者がこの神社に参拝する姿がよく目撃されています。」

 

リタ)アメノウズメ…天の岩戸の辺りに出てくる神様ね。

 

「また、この神社には創建当初から脈々と受け継がれてきた『神楽巫女』と呼ばれる特別な巫女が存在します。」

 

リタ)神楽巫女…?

 

「神楽巫女は年に数回奉納される降神巫を再現した神楽を舞うことだけを職務として与えられた巫女で、現在は赤田梨華さんがその大役を務めています。」

 

リタ)…あ!!

 

 

 

そこには間違いなく、赤田梨華と書かれていました。私が今日話を伺ったあの人の名前が…

 

 

 

私はすぐに、ツブヤイターのDMで梨華さんとコンタクトを取りました。

 

「こんばんわ、夜分遅くに申し訳ありません。音崎です。本日は取材にご協力頂き誠にありがとうございます。」

 

しばらくすると、梨華さんから返事が来ました。

 

「遅くまでご苦労さまです。ご用件は何でしょうか?」

 

「先ほど赤田神社について調べていたのですが、さらに詳しく取材したくなってしまいました。取材は問題ないでしょうか?」

 

「いつでも構いませんよ。宜しければお迎えに参りましょうか?」

 

「ありがとうございます。非常に助かります。それでは、明日お願いいたします。」

 

「明日ですね。了解致しました。」

 

 

 

梨華さんとの会話が終わると、私はすぐに柊君に電話をかけました。

 

柊)もしもし。

 

リタ)あ、柊君?明日なんだけど、私用事が出来たから神社の留守番お願いしてもいいかな?

 

柊)明日はいないんですね。分かりました。

 

リタ)ありがとう。明日は頼むよ!

 

柊)はい。

 

 

 

リタ)さて…私も準備して、早く寝よう。

 

その日は明日にワクワクしながらお布団でゆっくりと眠りました。

 

 

 

翌日、空は抜けるような青空が広がっていました。絶好の取材日和です。

 

リタ)ん~!いい天気。とりあえず柊君が来るのを待ってようかな。

 

私は軽く朝食を食べてから柊君が来るのを待ちました。

 

 

 

しばらく待っていると、ツブヤイターのDMに梨華さんからメッセージが届きました。

 

「おはようございます。良い天気になってくれてよかったですね。もうそろそろ到着するのですが…準備は大丈夫ですか?」

 

「今日はこの前お話した柊君が神社のお手伝いに来ることになってるんです。柊君にお留守番を任せているので、柊君が来るまでは離れられません。」

 

「でしたら、柊さんが来るまで少しそちらで一緒にお待ちしてもよろしいですか?」

 

「どうぞどうぞ。そんなに時間はかからないと思いますので。」

 

「了解です。」

 

 

 

この会話からしばらくして、梨華さんがやってきました。

 

梨華)おはようございます。柊さんはまだ到着されていないようですね。

 

リタ)そうですね。

 

梨華)では、少し待たせてもらいますね。

 

 

 

続く



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#4 青巫女の夢

梨華さんを部屋に通してしばらく待ちましたが、柊君が来る気配は一切ありません。

 

梨華)…遅いですね柊さん。

 

リタ)そうですね。バスでここまで来るんですが、バスが遅れているのかもしれませんね。

 

梨華)自家用車とか無いんですか?

 

リタ)私はここで暮らしてますから基本的に必要ないですし、柊君は免許を取ってないですし…

 

梨華)そうですか…

 

 

 

…気まずい。非常に気まずい。

 

こうも話が弾まないと流石に気まずく感じてしまいます。

 

 

 

梨華)あ、昨日話を聞いてて少し気になったことがあったんですけど…聞いても良いですか?

 

リタ)何でしょうか?

 

梨華)昨日のお話で「仕方なく継いだ」という点に否定しませんでしたよね。

 

リタ)はい。実際仕方なく継いだので。

 

梨華)…もしかして、何か夢を諦めたんじゃないですか?

 

リタ)…

 

 

 

「大きくなったらね、歌手になりたいんだ!」

 

「そっか。リタならきっとなれるよ。」

 

「ありがとう…私頑張るね!」

 

 

 

梨華)…大丈夫ですか?

 

リタ)あ、すみません。ちょっと昔の事を思い出してしまいました…

 

梨華)やっぱり夢を諦めたんですね?

 

リタ)…はい。

 

 

 

梨華)声優?

 

リタ)はい。私は声優になりたかったんです。

 

梨華)声優って結構難しいと聞きますけど…

 

リタ)はい。実際かなり難しいです。声の演技だけじゃないですからね。今は歌やダンスも出来ないといけませんし…

 

梨華)多彩な才能が要求されるんですね。

 

リタ)…もともと歌が好きで、歌を生業に出来ればと思っていたんです。歌だけならば歌手で良かったんでしょうが…私は声優を目指して養成学校に通っていました。そんな矢先に…

 

梨華)親御さんが亡くなられたんですね。

 

リタ)…悔しかったです。もう兄や姉は社会に飛び出してたので、この神社に戻ってくるなんてことは考えられませんでした。まだ進路に悩んでいた私の悩める時間が無くなってしまったんです。

 

梨華)…

 

リタ)養成学校を中退するとき、一緒に頑張ってきた仲間に背中を押してもらえたんですけど…悔しすぎて泣きながら帰ってきたことしか覚えていません。

 

梨華)…

 

リタ)そんな夢が諦めきれないからこそ、ナレーターの副業をしているのかもしれませんね。

 

 

 

しんみりした空気を割くように誰かが障子を開いて入ってきました。

 

柊)おはようございます。ちょっとバスが遅れてしまいまして…あれ?

 

リタ)あ、柊君おはよう!

 

柊)どうしたんですリタさん…涙なんか流して。

 

リタ)え…?

 

私は知らない間に泣いていました。

 

柊)泣かないでください。辛いことは僕でも良いんで話してください。

 

リタ)いや…違うの!大丈夫。昔話を梨華さんにしていたら…その、昔の事を思い出しちゃって…

 

柊)梨華さん…?

 

 

 

梨華)柊さん、初めまして。赤田梨華です。今日はリタさんの方からうちの神社の取材の申し込みがあったのでお迎えに上がったんです。

 

柊)そう言う事でしたか。リタさんを宜しくお願いします。

 

梨華)はい、良い記事が書けるよう全力でアピールさせていただきますね。それでは行きましょうか。

 

リタ)はい…

 

 

 

柊)(リタさんが涙を流すなんて…何があったんだ?)

 

続く



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#5 神楽巫女の宿命

梨華さんの運転する車内は、妙な静けさに包まれていました。

 

リタ)すみません。先ほどは取り乱してしまって…

 

梨華)いえいえ。夢を違う形で追いかけているって言うのは素晴らしいことだと思いますよ。私なんか夢すら追いかけられなかったんで。

 

リタ)え?どうしてですか?

 

 

 

梨華)私が、赤田神社の神楽巫女だと言うのはご存知ですよね?

 

リタ)はい。昨夜調べて知りました。

 

梨華)神楽巫女は創建当初から脈々と受け継がれてきたのもご存知ですよね?

 

リタ)はい。

 

梨華)…赤田家は貴族の出身ながら、巫としてこの神社で働き続けた家系なんですよ。勿論私もその系譜を受け継ぐ存在です。この呪縛から逃れることはできません。

 

リタ)…

 

梨華)私の母も、祖母も、みんなこの神社で神楽巫女を若い時からずっと務めてきたんです。リタさんの夢を追う余裕がある生活とは訳が違うんですよ。

 

リタ)…そうですよね。

 

梨華)でも、それがマイナスかと言われたら…そうでもないんですよね。

 

リタ)え?

 

 

 

梨華)私には姉がいます。姉とは神楽巫女の継承を巡って日々切磋琢磨してきたライバルでした。

 

リタ)はぁ…

 

梨華)結局、姉は神楽巫女にはなれませんでした。それ以降は小さい頃から打ち込んでいたソフトボールに集中するようになって…今は日本のエース格と呼ばれるまでになったんですよ。

 

リタ)日本のエース格ですか…と言う事は国際大会とかにも?

 

梨華)何度も出場してます。今度の東京五輪にも呼ばれるかもしれませんね。

 

リタ)凄い…

 

 

 

梨華)そんな日本を背負って立つような姉ですけど、神楽の奉納の際には必ず巫女として私の傍にいてくれるんですよ。

 

リタ)そんなに忙しいのに何で…

 

梨華)…神楽巫女はあなたの思った以上に恐ろしい仕事なんですよ。

 

リタ)…え?

 

梨華)確かに神楽巫女の仕事は年に数回しかありません。私もほとんどが休日みたいなものです。しかし、年に数回しか出番がありませんから準備は念入りにしないといけない訳です。

 

リタ)確かにそうですよね。

 

梨華)神楽は「降神巫」と呼ばれる古来の神降ろしの儀式を再現したものです。その舞を正確に再現する必要があります。

 

リタ)ほぉ…

 

梨華)舞は左右の回転を連続で繰り返す必要があります。ものすごく体力が必要です。私でも練習の際に何度か倒れたことがあるくらいです。

 

リタ)…

 

梨華)そんな状態になるのを姉は修行の際に身を持って体感しているんです。だからこそ、緊急事態に備えて姉は神楽を見守ることを続けているんですよ。

 

リタ)なるほど…

 

 

 

梨華)あ、着きましたよ。ここが赤田神社です。

 

私は、眼前に広がる大きな神社に圧倒されてしまいました。

 

リタ)これが1000年続く神社ですか…

 

梨華)そうです。ここが私の職場ですよ。

 

続く



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#6 フリーライター音崎リタの神社探訪

リタ)いやぁ…それにしても、大きな神社ですね。

 

梨華)このあたりでは知らない人はほとんどないんじゃないですかね。

 

リタ)そうでしょうね…私は知りませんでしたけど。

 

梨華)この際、詳しく知って欲しいですね。良い記事、期待してますよ!

 

リタ)…ご期待に沿えるかどうかわかりませんが、頑張ってみますね。

 

 

 

鳥居をくぐると、そこにはこれまでに見たことが無いような空間が広がっていました。大きな参道と大きな拝殿、さらにさまざまな施設が至る所にちりばめられていました。

 

リタ)この空間だけ、雅な平安時代が残ってるような…そんな感じに見えますね。

 

梨華)初めて来る人はこの風景に一回びっくりされますね。この鳥居をくぐってすぐの場所で写真を撮られる方は沢山居ます。

 

リタ)そうなんですか…

 

 

 

梨華)では、改めてこの神社をご紹介させていただきますね。ここ赤田神社は平安中期…約1000年ほど前に、貴族出身の神官である「赤田家」が主導して建立された神社です。

 

リタ)ふむふむ…

 

梨華)以後赤田家は主に巫や神主としてこの神社を守り続け、1000年経った今もこの町のシンボル的存在として町の皆様に親しまれています。

 

リタ)ほおほお…

 

梨華)こちらで祀っているのは「アメノウズメ」です。アメノウズメはご存知ですよね?

 

リタ)はい。天岩戸の場面で大活躍したんですよね。

 

梨華)アメノウズメは芸能の神様なので、この町でドラマや映画の撮影が行われる際には、芸能人の方が参拝されることもあるんですよ。

 

リタ)そんなに有名な神社なんですか。私も一度は素敵でイケメンな芸能人の方に会ってみたいですね…

 

 

 

しばらく参道を進むと、大きな建物が目の前に見えてきました。

 

梨華)見てくださいよこの拝殿!

 

リタ)歴史を感じますね…

 

梨華)この拝殿は建立から幾度となく災害や火事の影響を受けており、今の拝殿は終戦後に建てられたものです。

 

リタ)と言う事は…築75年ですか。凄く風格があって素敵ですね。

 

梨華)ありがとうございます。

 

 

 

梨華)本殿は基本的に非公開なんですが、リタさんには特別に近くまでご案内させていただきますね。

 

リタ)え!?良いんですか?ありがとうございます!!

 

梨華)今回だけですからね?

 

リタ)ちゃんと写真に納めさせてもらいますね。

 

しばらく歩いていると、小さな社が見えてきました。

 

リタ)これが本殿ですか。

 

梨華)はい。この本殿は遷宮が行われているため、本殿のスペースが二つ分用意されています。

 

リタ)遷宮ですか。うちの神社にそんな余裕はないですね…

 

梨華)大きな神社では結構聞きますけど小規模の神社ではあまり聞かないかもしれませんね。

 

 

 

リタ)ちょっと疲れてきました…歩きっぱなしで足が棒になっちゃいそうです…

 

梨華)少し休憩しましょうか。茶屋が境内の中にあるのでそこに行きましょう。

 

続く



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#7 梨華の昔話

梨華さんに連れられて、私は小さな茶屋までやってきました。

 

梨華)この茶屋は祖母が神楽巫女だった昭和の初めごろからあるお店なんです。当時の建物は拝殿と共に戦火に焼けてしまいましたが、本殿修復から数年後に再建されました。

 

リタ)こちらも歴史の長い建物なんですね…

 

 

 

梨華さんの説明に感心していると、一人のおばあさんがこちらに近づいてきました。

 

???)いらっしゃい。注文は…おや、誰かと思えば梨華ちゃんじゃないの。久しぶりだねぇ。

 

梨華)そう言えば…お久しぶりです。

 

???)お隣はお友達かい?

 

梨華)この神社を取材しに来てる記者の方です。

 

???)ほぉ…そうかいそうかい。お名前はなんて言うのかね?

 

リタ)音崎リタです。普段は音子猫神社で巫女をしているのですが、今回はライターとしてこちらで取材させていただいてます。

 

???)音崎さんだね?あたしは志賀清美だよ。

 

リタ)志賀さんですね。こちらでどれくらい働いてるんですか?

 

志賀)そうだねぇ…梨華ちゃんのお母さんが神楽巫女になったくらいかねぇ…

 

梨華)ってことは40年くらいね。

 

リタ)40年!!色々と面白い話が聞けそうですね。

 

梨華)あまり恥ずかしいこと聞かないでくださいね…

 

 

 

志賀)そう言えば注文がまだだったね。何が食べたいんだい?

 

リタ)ここのおすすめをお願いします。

 

梨華)私はいつもので。

 

志賀)はいよ。ちょっと待って頂戴ね。

 

志賀さんは注文を受けて奥に下がっていきました。

 

リタ)梨華さんと志賀さんの付き合いってどれくらいになるんですか?

 

梨華)そうねぇ…もう物心ついたときにはここのお世話になっていたわね。姉と母と一緒に神楽巫女の修行が終わった後にここでおやつを食べてたんです。

 

リタ)微笑ましい情景が目に浮かんできます。

 

志賀)お待たせ。音崎さんにはお団子セットね。梨華ちゃんはいつもの羊羹とサイダーね。

 

リタ)ありがとうございます。

 

志賀)音崎さんはあたしのお話を聞きたいんだよね?

 

リタ)はい。是非梨華さんの小さい頃のエピソード何かを教えてもらえますか?

 

志賀)いいよいいよ。

 

 

 

リタ)小さい頃の梨華さんってどんな感じの子だったのですか?

 

志賀)そうだねぇ…とっても負けず嫌いな女の子だったかね。美華ちゃんと神楽巫女の後継者を巡って争ってたからねぇ…

 

リタ)お姉さんとの神楽巫女での争いは梨華さんから聞きましたけど…負けず嫌いだったんですか。

 

志賀)ある日、いつものように修行終わりでここに来たんだけどべそをかいてたもんだから「何かあったのかい?」って聞いたら、「お母さんがお姉ちゃんばっかり褒める~!!」ってまた泣き出しちゃって大変だったよ。

 

リタ)あーもう可愛すぎませんかそれ!!

 

梨華)覚えてますよそれ…今思い返すととっても恥ずかしいですね…

 

続く



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#8 姉の登場

私と志賀さんが梨華さんの昔話で大盛り上がりしていると、梨華さんの電話に着信が入ってきました。

 

梨華)もしもし…あ、お姉ちゃんか。…うん、今はお茶屋さんにいる。…うん。ここで待ってるから早く来てね。…うん、はーい。

 

リタ)どちらからの電話ですか?

 

梨華)姉がリタさんに会いたいそうなので、しばらくここで待ってましょうか。

 

志賀)美華ちゃんが来るのかい?

 

梨華)そうです。

 

志賀)しばらく顔を見てなかったから色々話が聞きたいねぇ…

 

 

 

10分ほど待っていると、遠くからこちらにやってくる人影の中に少し背の高い女性の姿が見えてきました。

 

梨華)あ、来ました。こっちこっち!!

 

梨華さんが手を振ると、向こうもそれに気づいて小走りで近づいてきました。

 

???)いやぁお待たせ。思った以上に時間かかっちゃったけど…待った?

 

梨華)いや、それほどでもないよ。

 

???)そっか。

 

志賀)いや~美華ちゃん、久しぶりだねぇ。

 

???)あ、志賀のおばちゃん!お久しぶりです。元気にしてましたか?

 

志賀)あたしはいつでも元気だよ。

 

???)それは良かったです。

 

 

 

リタ)あの…

 

梨華)あ、お姉ちゃん。こちらがリタさん。

 

リタ)音崎リタです。宜しくお願いします。

 

梨華)で、こちらが私の姉です。

 

美華)赤田美華です。妹が大変お世話になってると聞きましてご挨拶に参りました。

 

リタ)そんな…とんでもないですよ。逆に私がお世話になりっぱなしなくらいです。

 

美華)そうでしたか。もし何か困りごとがありましたら、いくらでも梨華に頼ってくださいね。

 

リタ)あ、ありがとうございます。

 

梨華)ちょっとお姉ちゃん…あんまりハードル上げないでよ。

 

 

 

志賀)美華ちゃんも何か食べていくかい?

 

美華)とりあえず冷たい麦茶を下さい。暑くて汗かいちゃったので…

 

志賀)はいよ。

 

志賀さんはまた奥に下がっていきました。

 

リタ)そう言えば、梨華さんと美華さんは何歳差の姉妹なんですか?

 

梨華)1歳差よ。

 

リタ)年子なんですね。私は兄・姉共に5歳くらい差があったので、完全に上下の関係みたいなのが出来ていたんですが、お二人は歳の差がほとんどないのでフランクに接している感じがしますね。

 

美華)そう言われればそうね。

 

梨華)やっぱりお互いが神楽巫女を巡って切磋琢磨したからかな?

 

美華)それもあるかもしれないわね。

 

 

 

志賀)はいよ。麦茶持ってきたよ。

 

美華)ありがとうございます。

 

リタ)先ほどから志賀さんに梨華さんの小さい頃のお話を伺っていたんですが、美華さんの印象に残っているお話ってありますか?

 

美華)そうねぇ…やっぱりソフトボールを一緒にやってた頃の話かな…

 

リタ)詳しくお聞かせください。

 

続く



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#9 梨華の昔話 その2

美華)私と梨華は中学・高校・大学とずっと同じチームでソフトボールをしてたの。私が投手で梨華が捕手。

 

リタ)バッテリーって奴ですね。

 

美華)私も梨華も最初は思うように投げたり打ったりできなかったんだけど、それぞれ制球とスローイングを中心に磨き続けたら、いつの間にか日本代表に選ばれるくらいになっちゃってたのよね。

 

梨華)私は鉄砲肩の赤田って呼ばれてたんですよ。

 

リタ)姉妹揃って代表ですか…努力って凄いんですね。

 

 

 

美華)高校・大学と進むうちに、私も梨華もプロをだんだんと意識するようになってきたんです。

 

リタ)やっぱりプロって憧れの存在ですよね。

 

美華)ただ…梨華はもう既に次期神楽巫女に指名されていたのよね…

 

リタ)あー…

 

梨華)ものすごく悩みました。お姉ちゃんと続けていきたい気持ちもあったんですけど、1000年続く神楽巫女を断絶させてしまうのもどうかと思って…

 

リタ)…

 

美華)結局梨華は大学卒業と同時にソフトボールから完全に離れることにしたのよ。

 

梨華)本当はもっと続けたかったんですけどね。

 

リタ)…

 

美華)ただ選手としてのキャリアは終わったけど、梨華はずっと裏方として私を支えてくれているのよ。

 

リタ)裏方ですか?

 

 

 

美華)私が試合に登板する前日に、必ず投球練習に付き合ってくれるんです。

 

梨華)一番長く投球を受け続けてきたので、玉の走りとか制球で調子が見えてくるんですよ。

 

美華)梨華のアドバイスは結構当たってて、良し悪しが試合にきっちり出てくるんですよ。

 

リタ)凄い観察眼ですね。

 

梨華)いつも神楽が行われる日はお姉ちゃんが私のそばにいてくれるように、私はお姉ちゃんに寄り添えるようにしているんです。

 

リタ)…何だか感動しちゃいました。姉妹がお互いに支え合っている様子が本当に羨ましいです…私の兄や姉は私を支えてくれることなんかないので…

 

美華)…でしたら、今以上に梨華を頼ってください。

 

リタ)…え?

 

美華)梨華は神楽巫女の継承の為に、私以上に色々な知識を吸収し続けています。その知識はあなたの手助けに必ずなってくれる筈です。梨華にとっても親交を持った仲間を持つことが一つの大きな支えになる筈ですし…

 

梨華)…そうね。私としてもあなたのような存在がそばにいてくれるのは大きな糧になると思っているわ。これからも…仲良くしてもらえないかしら?

 

リタ)…分かりました。たまにでいいのでうちの神社にも来てください。梅岡さんや柊君と一緒にお迎えしますので…

 

 

 

その後もいろんな話に花が咲き、いつの間にか夕暮れ時になっていました。

 

リタ)いやぁ…本当に今日はありがとうございました。

 

梨華)良い記事、書けそうですか?

 

リタ)これだけ良いお話を聞かせてもらった以上、下手な記事は書けませんからね。腕によりをかけて頑張らせていただきます!

 

美華)楽しみにしておきますね。

 

梨華)あ、あともう一つ。ちょっとしたサプライズと言うか…プレゼントがあるんですけど良いですか?

 

リタ)何でしょうか?

 

 

 

梨華)音子猫神社に、うちの巫を二名ほど派遣させていただきますね。

 

リタ)…え?

 

梨華)私が宣伝したことで、今後多くの参拝客が来ることが考えられるので、うちの若い巫を助っ人としてお貸しいたします。

 

リタ)そんな…良いんですか?

 

美華)梨華と母が相談して決めたことだそうなので、遠慮なく。

 

リタ)…最後まで本当にありがとうございます。今度うちに来てください。梅岡さんも怪我が治って戻ってくると思うので…

 

梨華)その際には何かお土産を持って向かいますね。

 

リタ)本日は本当にありがとうございました。

 

梨華・美華)ありがとうございました。

 

続く



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#10 あれからのやりとり

「今日は貴重なお時間を頂きありがとうございました。」

 

「こちらも昔のことを思い出すことが出来てとても有意義な時間を過ごすことが出来ました。ありがとうございます。」

 

「最後にお話しいただいた『巫の派遣』についてですが、どのような方が来るのかご紹介いただけますか?」

 

「今回の派遣では、赤田神社から男女各一名、合計二人の巫を派遣します。」

 

「男性と女性が一人ずつですね。」

 

「男性の方は小原さんと言います。小原さんは赤田神社の中でもピカ一の力自慢です。梅岡さんの穴を埋める活躍が期待できると思います。」

 

「確かに梅岡さんも最近『体力に衰えを感じるようになってきた』と言っていたので、力仕事が出来る方が加わってくれるのはありがたいですね。」

 

「趣味で釣りを嗜んでいるので、釣果を神社に提供してくれるかもしれません。赤田神社でも幾度となく美味しいお魚を提供してくれました。」

 

「お魚…私はあまり食べないのですが、梅岡さんや柊君が食べてくれるかもしれませんね。」

 

 

 

「女性の方は斎藤さんと言います。斎藤さんは赤田神社の中でも一番の知識量を誇る『歩く辞書』です。」

 

「歩く辞書ですか…」

 

「その知識量は私以上なので、困ったときは多くの神職が斎藤さんを頼るくらいです。」

 

「そんなに大事な方をお借りしても良いんですか?」

 

「本来ならばお貸ししたくない人材です。ですが、リタさんは右も左も分からない状態だと思いますので、今回音子猫神社への派遣を決意しました。」

 

「そこまでお気遣いいただけるなんて…本当にありがとうございます。」

 

 

 

「あと、一つお伺いしたいのですが…」

 

「何でしょうか?」

 

「梅岡さんのお怪我はいつごろに回復する予定でしょうか?」

 

「そうですね…来週には戻ってくると伺っています。」

 

「なるほど…来週ですね。時間に余裕が出来ましたら、快気祝いを兼ねてそちらにお邪魔しますね。」

 

「梅岡さんも梨華さんにお会いしたいそうなので、来ていただけるのはとてもありがたいです。」

 

 

 

こう会話したはは良いものの…お互いの予定がうまく合わず、気が付けば取材から一か月が経過していた。

 

どちらかの予定が空いたかと思ったら、どちらかの予定が埋まっている状態がもう何回も続いていた。

 

ここまで綺麗にすれ違い続けるのも結構珍しいんじゃないだろうか?

 

流石に今回は予定が空いているだろう…そう思いながらツブヤイターのDMを開いた。

 

 

 

「こんにちは。明日は予定が無いのでお伺いできそうなのですがそちらはいかがでしょうか?」

 

…なかなか返事が返ってこない。今回も駄目なのか…?

 

「そうですね…明日は特に用事はありませんよ。」

 

やっとだ。やっと見たかった文章が見られた。私は人知れずガッツポーズをしていた。

 

「了解です。それでは明日、そちらにお伺いいたしますね。」

 

「分かりました。明日、お待ちしております。」

 

 

 

梨華)良かったぁ…

 

続く



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#11 皆で和菓子パーティー

翌日、久しぶりに軽四を転がして音子猫神社に向かう山道までやってきた。

 

前回来た時とは違い、駐車場に車が数台止まっているのが見えた。確実に参拝客が来ている。私の宣伝の効果が出ているようだ。

 

 

 

山道を登って境内に入ると、ちらほらと参拝客が見えた。夏の風景を写真に収めたり、社務所でお御籤を引いているようだ。

 

つい一か月前までは人影すら感じられなかった神社に活気が戻った様子を見まわしてると、一人の老紳士がこちらに近づいてきた。

 

巫の装束を身に着けている。どうやら梅岡さんのようだ。

 

梅岡)これはこれは…ようこそおいでくださいました。私、梅岡と申します。リタさんからあなた様の事はお伺いしておりますので…どうぞこちらへ。

 

梅岡さんに促され、私は拝殿の奥に通された。

 

 

 

梅岡)暫くしましたらリタさんが来ますので、それまでこちらでも飲んでお待ちください。

 

梅岡さんに出されたリンゴジュースを飲んで待っていると、程なくしてリタさんが入ってきた。

 

リタ)お久しぶりです。

 

梨華)なかなか予定が合わず、申し訳ありません。

 

リタ)いえいえ…こちらも参拝客が増えて今まで以上に忙しくなったので…

 

 

 

梨華)リタさん、先日約束したように梅岡さんの快気祝いとして、赤田神社の茶屋から和菓子の詰め合わせをお持ちしました。

 

 

【挿絵表示】

 

 

リタ)あ、ありがとうございます!梅岡さん、良かったですね。

 

梅岡)いやはや、お恥ずかしい限りですな。こんなお若い方に心配されてしまうとは…

 

リタ)もう、梅岡さんも素直じゃないですね。普通に喜べばいいのに…

 

梅岡)それもそうですな。ありがたく頂きましょう。

 

梨華)どうせならば大人数で楽しくお話しながら頂きましょうよ。

 

リタ)そうですね。梅岡さん、小原さんと斎藤さん…あと柊君も呼んできてもらえますか?

 

梅岡)分かりました。暫くお待ちください。

 

 

 

10分後、音子猫神社の神職が一堂に会した。

 

柊)和菓子ですか。丁度小腹が空いてきてたのでありがたいです。

 

小原)赤田神社のお茶屋さんの和菓子はどれも絶品ですからね。期待していてくださいね。

 

斎藤)あそこの和菓子は他の神職の方も手土産にするくらいです。皆さんも満足して頂ける筈です。

 

梅岡)それは楽しみですな。

 

梨華)お待たせしました。赤田神社御用達の玉露です。和菓子と一緒にどうぞ。

 

梅岡)ほぉ…玉露ですか。良いものを使われてますな。

 

リタ)さあさあ、皆さん美味しく頂きましょう!!

 

 

 

梅岡)いやぁ…上品な味で美味ですなぁ…

 

小原)久しぶりに食べましたけどやはりいつ食べても美味しいですね。

 

斎藤)甘味がくどすぎず、上品なのが良いですよね。

 

リタ)あれ?これは何ですか?…堅焼き煎餅?

 

リタさんが、とある和菓子に反応したのを私は見逃さなかった。

 

続く



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#12 八ツ橋論争

リタ)あれ?これは何ですか?…堅焼き煎餅?

 

リタさんが食いついた和菓子。それは…

 

斎藤)八ツ橋ですよ。

 

リタ)え?八ツ橋?

 

斎藤)はい。八ツ橋です。

 

 

 

リタ)八ツ橋ってもっとこう…何と言うか、その…三角形でもちもちした感じの和菓子ではありませんでしたっけ?

 

確かに目の前にある八ツ橋は三角形でももちもちした感じでもない。堅焼き煎餅のような物だ。

 

斎藤)間違いなく八ツ橋です。

 

リタ)え?どういうことなんですか?梅岡さ〜ん(´;ω;`)

 

 

 

梅岡)リタさん。斎藤さんの仰る通り、これは八ツ橋で間違いありませんぞ。

 

リタ)何で…何で八ツ橋なんですか?訳が分からないよぉ(´;ω;`)

 

リタさんは完全に混乱していた。

 

 

 

梨華)リタさん。落ち着いて…信じられないかも知れませんが、これは間違いなく八ツ橋なんですよ。

 

リタ)じゃあ、あの三角形でもちもちのやつは何なんですか?

 

斎藤)あれは「生八ツ橋」です。

 

リタ)生八ツ橋…?

 

 

 

梨華)八ツ橋の由来は諸説あるのですが、その由来の一つとされているのが「八橋検校」です。

 

リタ)八橋検校?

 

斎藤)八橋検校は江戸時代に三味線や琴の名手として活躍した人物です。彼が箏曲の基礎を作り出したとされており、今では箏曲で一般的になっている平調子を作り出したのも彼だと言われています。

 

リタ)凄い方なんですね。私は琴なんか触ったことが無いので知りませんでした。

 

梨華)八ツ橋はそんな八橋検校の死後、彼を偲んで作られた和菓子と言われており、その形は八橋検校の得意としていた琴の形になっている…と言うのが八橋検校説です。

 

リタ)と言うことは他にも?

 

 

 

斎藤)リタさんは「伊勢物語」はご存知ですか?

 

リタ)伊勢物語…学生の頃に東下りを習った覚えはありますけど…

 

斎藤)伊勢物語は「在原業平」らしき人物を主人公とする歌物語です。その中でも特に有名なのが…第9段の「東下り」です。

 

リタ)あ、東下り…

 

斎藤)この東下りでは主人公が京を離れ、東国に旅に出ます。旅先で詠まれた歌がかの有名なのが「杜若(燕子花)の折句」です。

 

梨華)唐衣 着つつなれにし つましあらば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ ですね。

 

斎藤)この短歌は古今和歌集にも掲載された有名な一首です。作者が在原業平であることから、伊勢物語の主人公を在原業平とする説が有力とされているんですね。

 

リタ)ここまでは分かりましたが、これが八ツ橋とどう繋がるんですか?

 

斎藤)この「杜若の折句」が詠まれたとされているのが、三河の八橋。現在の愛知県知立市八橋町とされています。この八橋から名がつけられたのが伊勢物語説です。

 

リタ)そうなんですか。斎藤さんは何でも知ってるんですね。

 

斎藤)当然です。赤田神社の歩く辞書と呼ばれてるんですから。

 

続く



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第X章 柊有真の日常
番外編 縁日の夜


こんにちわ。こんばんわ。いつもの百瀬です。

先日リタさんが投稿した夏祭りのシチュエーションボイスとback numberの「わたがし」を使用してアイデアロールを行った結果、一発でクリティカルを引いたようで…

約1時間ほどで一気に書き上げました。その後少し加筆修正の末公開となりました。

今回は柊君が主役です。三人のお姉さん(リタ・梨華・美華)に振り回される様をご覧ください。

文末に柊君のキャラ設定とかも描いておきますのでご参考程度に。


柊)…縁日ですか?

 

リタ)そう!赤田神社で縁日があるらしいの。柊君も行く?

 

柊)そうですね…リタさん以外に行く方は?

 

リタ)梅岡さんはここのお留守番で残るし、小原さんは釣りに行くって言ってたし、斎藤さんは他の用事があるんだって。

 

柊)なるほど…

 

リタ)どうする?

 

柊)楽しそうなのでついていきます。

 

リタ)ありがとう!一緒に楽しもうね!

 

柊)はぁ…

 

 

 

数日後、僕はリタさんと一緒に赤田神社に向かいました。名前は聞いたことはありますが…ここに来るのは初めてです。

 

柊)やはり大きな神社なだけあって、縁日の規模も大きいですね。

 

リタ)そうね。屋台も沢山出てて目移りしちゃうなぁ…

 

柊)とりあえず待ち合わせしているんで梨華さんが来るまで我慢してくださいよ。

 

リタ)そうね。早く色んなもの食べたいなぁ…

 

柊)大丈夫かな今日…

 

 

 

神社の鳥居前でしばらく待っていると、梨華さんがもう一人女性と一緒にこちらにやってきました。

 

梨華)お待たせしました。今日は赤田神社の縁日にご参加ありがとうございます。

 

リタ)お誘いありがとうございます。今日は柊君もつれてきました。

 

美華)柊君?

 

梨華)お姉ちゃん、こちらが柊さん。音子猫神社の神主見習いよ。

 

柊)柊有真です。宜しくお願いします。

 

美華)へぇ…神主見習いかぁ。大変でしょうけど頑張ってね。

 

柊)ありがとうございます。

 

梨華)で、こちらが私の姉です。

 

美華)赤田美華です。今日はよろしくね。

 

リタ)挨拶はこれくらいにして行きましょうよ!さっきからおいしそうなにおいでお腹が鳴りっぱなしなんですよ~!!

 

梨華)そうね。リタさんのお腹を満たすためにも行きましょうか。

 

 

 

僕達はしばらくそぞろ歩きに興じました。

 

ふらっと寄った金魚すくいの屋台では梨華さんが金魚すくいの才能を発揮し、射的の屋台では美華さんが抜群のコントロールで猫のぬいぐるみを捉え、リタさんにプレゼントしていました。

 

色んなものを食べたがるリタさんはたこ焼き・箸巻き・かき氷にチョコバナナと屋台をはしごしてご満悦そうでした。

 

僕はリタさんや梨華さんが笑顔で楽しそうにしているのを見ているだけで満足でした。

 

 

 

楽しい時間はあっという間に過ぎ、縁日も終わりが近づいてきました。

 

リタ)いや~もう食べられません…お腹いっぱいです。

 

梨華)満足してもらえたようで何よりです。

 

美華)そろそろ縁日も終わりですね。

 

柊)リタさんも僕もとっても楽しめました。今日はありがとうございました。

 

リタ)…ちょっと待って。今日柊君何もしてないんじゃない?

 

柊)いえ…そんなことありませんよ?

 

梨華)折角の縁日で何もせず帰るなんて許されると思ってるんですか?

 

柊)僕だってたこ焼き食べたじゃないですか!

 

美華)リタさん、まだお時間に余裕…ありますよね?

 

リタ)はい。大丈夫ですよ。

 

柊)え?ちょっと?

 

梨華)二次会行くわよ!

 

美華・リタ)よっしゃー!行くぞー!

 

柊)ちょっと!?明日大学に行かないといけないんですけど!?

 

リタ)大丈夫大丈夫!時間はまだまだあるから!

 

柊)何でこうなるのー!!

 

 

 

僕は三人に引っ張られるように居酒屋にやってきました。

 

柊)そんな…今日はこのまま解散だと思ったのに…

 

リタ)大丈夫。ここまで予定通りだから。

 

柊)そんな…

 

梨華)とりあえず何飲みます?

 

柊)…烏龍茶で。

 

美華)清酒にしようかな?

 

リタ)私も!

 

柊)え、リタさん?お酒飲めないんじゃないでしたっけ?

 

リタ)いーのいーの。今日くらい羽目外しても!

 

柊)えぇ…

 

梨華)私は本当に飲めないからサイダーで。

 

 

 

各々の飲み物が運ばれてきて、二次会が始まってしまいました。

 

リタ)あー!!久しぶりのお酒美味しい!

 

柊)リタさん…そんなに急に飲んだらまずいですよ…

 

美華)そうよ。あまり一気に行き過ぎると後が大変なんだから…

 

梨華)こう言うのは楽しみながら行かないと…

 

 

 

三十分後、お酒を飲んでいた二人は完全に出来上がりました。

 

美華)リタさーん…お酒が残ってるならとっくり下さいよー…

 

リタ)もう飲んじゃいましたよーへへへ…

 

柊)やっぱり酔っぱらうんじゃないですか…

 

梨華)私はお酒飲まないから分からないけど…なんだか楽しそうね。

 

柊)そうですね。

 

 

 

梨華)そう言えば前々から気になっていたんですけど、柊さんとリタさんってどういったご関係なんですか?

 

柊)お互いの母が姉妹同士なので…従姉弟なんですよ。

 

梨華)従姉弟だったんですか。へぇ…

 

柊)…今ちょっとよからぬことを考えませんでした?

 

梨華)いやまぁ…法律上は柊さんとリタさんは結婚できる関係なんで…そう言う展開になったとしたらどうするのかな…ってね。

 

柊)いや結婚しませんよ!?リタさんはリタさんが掴んだ幸せを大事にして欲しいので…

 

梨華)へぇ…良いこと言うんですね。

 

 

 

それからさらに三十分ほどすると、飲んだくれコンビは完全に酔いつぶれて寝てしまいました。

 

柊)完全に寝ちゃいましたね。

 

梨華)もうこうなったら面倒だから二次会はお開きにしましょうか。

 

柊)そうですね。そろそろ帰りましょう。

 

 

 

梨華)お姉ちゃん!起きて!

 

美華)ん…何?

 

梨華)もう終わりだから。帰るよ。

 

美華)うん…

 

梨華)歩ける?

 

美華)うん…歩ける…

 

梨華)私はリタさんを送ってから帰るからね。

 

美華)うん…

 

 

 

柊)リタさん、もう終わりですから帰りますよ!

 

リタ)あ~落ちる…落ちちゃうから駄目だって~

 

柊)何言ってるんですか。早く帰らないと梅岡さんも心配するんですからね!

 

リタ)梅おかかさんなんて人知りませんよ~誰ですか~?

 

梨華)これ相当酔っぱらってるわね…とりあえず引きずってでも車まで連れて行ってくれる?

 

柊)分かりました。

 

 

 

中々言う事を聞かないリタさんを何とか車に乗せて音子猫神社へと向かいました。

 

 

 

柊)リタさん!着きましたよ!歩けますか?

 

リタ)有真~おんぶ~…

 

柊)無茶言わないでくださいよ!この山道をリタさんを背負って登るなんて無理ですよ!

 

リタ)じゃあ抱っこでも良いから~

 

柊)そう言う問題じゃないんですって!

 

梨華)もう…分かりました。私が抱えて連れて行くんで。柊さんは車で待っててもらえますか?

 

リタ)やった~。

 

柊)分かりました。

 

 

 

山道を何とか登って神社まで行くと、梅岡さんがリタさんの帰りを今か今かと待ち構えていました。

 

梅岡)梨華さん、大丈夫ですか?

 

梨華)何とか…とりあえずリタさんをお連れしましたので。

 

梅岡)ありがとうございます。リタさんがご迷惑をおかけしませんでしたか?

 

梨華)終始楽しそうでしたよ。酔っぱらってからはちょっと大変でしたけど…

 

リタ)酔っぱらってないも~ん!

 

梅岡)そうでしたか…それは良かった。とりあえずお酒の飲みすぎに関しては明日注意しておきますので。

 

梨華)お願いします。

 

 

 

僕はしばらく梨華さんの車で梨華さんが戻ってくるのを待っていました。

 

時刻が次第に遅くなっていくのを見ていると気が気じゃありませんでした。

 

大体30分くらい待っていると、梨華さんが戻ってきました。

 

梨華)いやぁ…リタさんを抱えて登山って下手したら降神巫の練習よりきついかも…

 

柊)お疲れのところ申し訳ないんですが、明日は講義があるので急ぎで送っていただけませんか?流石にバスももう走ってないと思うので。

 

梨華)了解。ちょっと飛ばしていくからね。

 

 

 

梨華さんの協力もあって、何とか家に帰ってくることが出来ました。

 

柊)今日はありがとうございました。とても楽しかったです。

 

梨華)また機会があったら、是非赤田神社にお越しくださいね。

 

柊)はい。梨華さんもこの後お気をつけて。

 

梨華)ありがとうね。おやすみなさい。

 

 

 

それから数日後…

 

リタ)柊君。

 

柊)何ですか?

 

リタ)私の知らない間に新しいネコチャのぬいぐるみが増えてるんだけど、何でこんなものがあるの?

 

柊)えぇ…忘れちゃったんですか?縁日で美華さんがくれた奴じゃないですか。

 

リタ)ごめん…全然覚えてない。

 

 

 

リタさんはこの後、梅岡さんに徹底的に絞られていました。しばらくお酒を飲むことは無いでしょう。

 

終わり




キャラクター紹介のコーナー

柊有真(ひいらぎ あるま)
音子猫神社の神主の後継者になるべく、現在大学で勉強中の21歳。
音崎リタとは従姉弟の関係。
人付き合いはあまり得意ではないが、音崎リタの誘いには結構乗ってくる。
今後登場予定の???と???は学部違いの同期である。


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第三章 この町で髪を切る最善の方法
#13 青巫女の悩み


その後もしばらく話が盛り上がり、持ってきた和菓子の詰め合わせは全て皆のお腹の中に消えていった。

 

梅岡)リタさん、どの和菓子も美味しかったですなぁ…

 

リタ)そうですね。甘味を美味しく頂いたので、このあとの業務も頑張りましょう!

 

程なくして和菓子パーティーはお開きとなり、リタさん以外はそれぞれの持ち場に戻っていった。

 

 

 

梨華)さて、私もそろそろ帰りましょうかね。

 

リタ)あ、ちょっと待ってください!

 

梨華)どうしました?まだなにかお話したいことがあったり?

 

リタ)最近ちょっと悩んでることがあって…

 

梨華)悩みですか…

 

 

 

リタ)最近、梨華さんの宣伝のおかげで参拝客が本当にたくさん来てくださっているのですが…参拝客が増えたことで困ったことが起きてるんですよ。

 

梨華)困ったことですか。

 

リタ)それは…

 

梨華)それは…?

 

リタ)美容に時間が割けないことなんです。

 

梨華)あー…

 

 

 

リタ)これまで私が一人でやってた買い出しとかは、戻ってきた梅岡さんや助っ人の小原さんに頼めるので問題ないんですけど、美容は自分自身が出かけないといけないのでどうしても時間を割けないんですよ。

 

梨華)分かりますよ。忙しいとそういった部分って蔑ろになりがちですよね。

 

リタ)今は美容院に行く時間が特にもったいなく感じてまして…

 

梨華)美容院ですか…あ、でしたら私の知り合いにスピードとクオリティに自信ありの理容師がいるんですけど、紹介しましょうか?

 

リタ)え?そんな素晴らしい方がいるんですか?ぜひ教えて下さい!

 

梨華)その方は…

 

 

 

数日後、お時間を頂いて梨華さんに教えていただいた理容師が働いているお店に梨華さんと一緒に向かいました。

 

リタ)ここですか…

 

梨華)そうです。

 

店前には「BARBER J」と店名が書かれていました。

 

リタ)…本当に大丈夫なんですよね?

 

梨華)心配しなくても大丈夫ですよ。

 

梨華さんに促され、私達はお店の中に入りました。

 

 

 

???)いらっしゃい…お、梨華じゃないか。久しぶり。

 

梨華)久しぶり、J。

 

店は意外にもこじんまりとしていました。椅子一つに店員一人。私のよく行く美容院よりも規模の小さなお店でした。

 

梨華)J、新しい友達を連れてきたんだけど…なる早でお願いできないかしら?

 

J)良いよ。それで…あんたがお友達かな?

 

リタ)あ、はい。宜しくお願いします。

 

J)そんなに畏まらなくても良いよ。とりあえず座って。

 

リタ)はい…

 

店員さんに促されて私は椅子に座りました。

 

 

 

梨華)しばらくしたら戻ってくるから。

 

リタ)分かりました。

 

梨華さんはそのまま買い出しに向かいました。

 

続く



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#14 Jの半生

J)さて、梨華も行っちゃったみたいだし…早速始めようか。どんな髪型にしたいんだい?

 

リタ)そうですね…とりあえず髪の長さを短くしてほしいです。

 

J)セミロングで良いかな?

 

リタ)はい。

 

J)了解。とりあえず髪を洗うからちょっと待ってて。

 

 

 

洗髪の準備をしている間、梨華さんに「J」と呼ばれた店員さんの様子をつぶさに観察していました。

 

見た感じは20代後半くらい。紫っぽい髪色のツインテールがとてもよく目につきました。

 

J)ん?私の顔に何かついてる?

 

リタ)あ、いえ…そういう訳では…

 

J)何だか色々と探りを入れようとしてるみたいだし、答えられることなら答えてあげるよ。

 

 

 

洗髪が終わり髪を乾かすタイミングで質問を切り出してみました。

 

リタ)えっと…それじゃあまずは、何で「J」と呼ばれてるんですか?

 

J)名前が長ったらしくてね。私は「ジャクリーン・マーダー」って名前なんだけどさ。「ジャクリーンさん」とか言われてもまどろっこしいだろ?だからみんな私の事を「J」って呼んでるのさ。

 

リタ)ジャクリーン・マーダーですか…確かに長いですね。

 

J)だろ?

 

リタ)…と言う事は、ご出身は海外と言う事ですかね?

 

J)そう。私はポーランド生まれイギリス育ちだよ。

 

リタ)ポーランドからイギリスに移住したんですか?

 

J)そう。私がまだ子供の時さ。

 

 

 

J)生まれたのはワルシャワだったんだけど、親が仕事でちょっとへましちゃったらしくてね。夜逃げ同然でリバプールに引っ越したのさ。

 

リタ)ほぉ…

 

J)それからリバプールで理容師として生計を立ててたんだ。私もその後を継いで働いてたよ。

 

リタ)そこから日本に来るきっかけって何だったんですか。

 

J)イチローって知ってるだろ?彼に心を鷲掴みにされたんだ。

 

リタ)イチロー選手ですか?

 

 

 

J)イギリスはサッカーが盛んだ。野球をやる奴はあまりいないんだ。

 

リタ)確かにイギリスに野球のイメージはありませんね。

 

J)ただ、リバプールで知り合った野球好きのお客さんに勧められてネットでイチローの試合を見たんだ。そしたらもう鷲掴みよ。

 

リタ)まぁ…あんなプレー見せられたら誰だって魅了されますよね。

 

J)そう言うのを見てしまうと、「日本って凄い人がたくさんいるんじゃないか?」って思うようになって、日本そのものに強い興味を覚えたのさ。

 

リタ)なるほど。

 

 

 

J)それからしばらくお金を貯めて日本に渡る準備をした。親にはかなり強く反発されたけど、私の意志が揺らぐことなんか微塵もなかったよ。

 

リタ)一度引き込まれると戻れないタイプなんですね。

 

J)そして日本に来たのが数年前って所だな。

 

リタ)それからどうやって梨華さんとお知り合いになったんですか?

 

J)そうだな…

 

続く



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#15 梨華との接点

髪を乾かす作業が終わり、手際よくカットの作業に入っていきました。

 

 

【挿絵表示】

 

 

J)イチローの影響で日本を好きになった私は、日本に行きたいという気持ちが募りすぎて最終的に「日本で暮らしたい」と感じるようになっていったんだ。

 

リタ)結構思い切りましたね。

 

J)そのためにはどうしても言葉の壁が立ちはだかってしまう。そこでまずは日本語を勉強することから始めたんだ。

 

リタ)日本語は難しかったんじゃないですか?

 

J)確かに難しかった。ただ、そんな難しい日本語を丁寧に教えてくれたのが梨華だったんだ。

 

リタ)ここで梨華さんが出てくるんですね。

 

 

 

J)私が昔生活していた下宿に梨華が居たんだ。

 

リタ)と言う事は、梨華さんとは大学時代から…

 

J)そうだな。私の方が年上なんだけど、学年は梨華の方が一年上だったから年下の先輩だった。変な気分だったよ。

 

リタ)アハハ…

 

 

 

J)梨華や他の下宿人の協力もあって日本語能力検定のN1を取ることが出来たんだ。ちなみにN1は一番レベルが高い。言い換えれば1級って所だろうか。

 

リタ)凄い…んですかね。

 

J)聞いた話だとN1を取れるのは3割くらいらしい。3割となると結構難しい方なんじゃないか?

 

リタ)そうですね。合格率30%は確かに難しいかもしれません。

 

J)それが出来たのも、周りに教えてくれる日本人が沢山居てくれたからなんだ。

 

リタ)夢を叶えられてよかったですね。

 

J)全くだよ。

 

 

 

リタ)そう言えば…Jさんはこうやって理容師として働いてますけど、理容師になるには理容師の資格が必要だったんじゃないですか?

 

J)そうなんだよ…それはそれで大変だったんだ。大学で日本語を覚えて卒業した後すぐに理容学校に通って資格を取ったんだ。

 

リタ)と言う事は結局この生活になるまで何年かかったんですか?

 

J)5年はかかってるね。

 

リタ)努力されたんですね…

 

 

 

 

J)さて…こんな感じでどうかな?

 

鏡には、さっぱりとした髪型になった私が映っていました。

 

J)30分くらいでまとめてみたけど…これじゃあ長すぎか?

 

リタ)いえいえ。これで大丈夫ですよ。

 

J)そりゃよかった…お。丁度梨華が戻ってきたみたいだ。この素敵な髪型…梨華に見せてあげなよ。

 

リタ)そうですね。

 

 

 

梨華)良い感じになってるじゃない。

 

リタ)Jさん凄いです。退屈しないように話しかけてくる人って結構多いんですけど、大体うっとうしい感じになるじゃないですか。Jさんの話は軽快で邪魔にならないんですよ。

 

梨華)そうね。Jの話術は確かに凄いわ。

 

J)そう言ってもらえるとこっちとしても嬉しいよ。

 

梨華)J、突然のお願いだったけど聞いてくれてありがとうね。

 

J)良いってことよ。梨華も今度はお客としてきてくれよ。

 

梨華)ええ、そうするわ。

 

 

 

J)よし、次のお客が来る前にちゃちゃっと片付けるか…ん?着信だ。誰からだろう…

 

 

J)Hello … Oh, teacher.

 

 

J)I'm fine.

 

 

J)I'm sorry. I'm not going back there. I remember that time…

 

 

J)I will continue to do my best in Japan, so please come visit us once. I'm sure the teacher will like it too.

 

 

J)see you soon.

 

 

J)よし、片付けますか。

 

続く



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第X章 斎藤敏恵の日常
番外編 休日の理容室


こんにちわ。こんばんわ。いつもの百瀬です。

今回は斎藤さんとの番外編です。リタさんと柊君が縁日を楽しんでいたあの日、斎藤さんが何をしていたかが分かる回となっています。

前回同様、キャラの説明を軽く書いておきますので参考までに。

それでは物語をお楽しみください。


~これは、リタさんと柊君が縁日を楽しんでいる頃のお話~

 

 

 

斎藤)はぁ…今頃リタさんと柊さんは縁日に行って楽しんでるんだろうなぁ…

 

私はbarberJの前で小さくため息をついていました。

 

斎藤)私も早いうちにここで散髪してもらって、今日は思いっきり縁日を楽しむ予定だったのに…何で他の日に休暇が取れないんだろう。

 

私が愚痴をぶつぶつと呟いていると、店内からその様子を見ていたJさんが出てきました。

 

J)どうした?そこで立ち尽くして…

 

斎藤)あ、すみません。予約していたのに待たせてしまって…

 

J)それは別に構わないんだけどさ。何か悩みでもあるのかな?と思ってさ。

 

斎藤)いや…別に悩みって程の事でもないので気にしないでください。

 

J)そうか?なら良いんだけど…

 

 

 

斎藤)それじゃあよろしくお願いします。

 

J)よーし、迅速丁寧にやらせてもらうよ。

 

いつも通り、Jさんが手際よく作業を始めました。

 

J)すっかり季節も秋になってきたね。私はどうも日本の夏が苦手でね。

 

斎藤)イギリスってそれほど暑くないんですよね。

 

J)リバプールは夏になっても、少なくとも夏日にはならないからね。

 

斎藤)なるほど…

 

J)だから秋になるとちょっとほっとするのさ。

 

 

 

斎藤)Jさんにとって秋と言えばどんなものを思い浮かべますか?

 

J)そうだな…やっぱりハロウィンかな?

 

斎藤)ハロウィンは確かケルト民族が発祥でしたよね。

 

J)そう。ケルトの人たちの伝統が今や世界中でこんなに親しまれているって凄いよな。

 

斎藤)日本も最近ハロウィンの文化がかなり広まってきていますけど、あれはどうなんですかね?

 

J)日本のハロウィンか。あれは駄目だな。

 

斎藤)…やっぱりだめですか。

 

J)まるでなって無い。

 

斎藤)完全否定ですね。

 

J)当たり前だろ!ハロウィンはな、楽しむためにあるんだ。人様に迷惑を掛けるためのイベントじゃあないんだ。それにあくまでもハロウィンの主役は子供であって、大人がしゃしゃり出る必要なんか無い!

 

斎藤)Jさん…一回落ち着いてください。怒りながら作業されたらこっちの髪型が大変なことになりそうなので…

 

J)あ…済まん。つい感情的になってしまったな。この話はまた後にしよう。

 

 

 

斎藤)さっきの続きなんですけど、Jさんはイギリスにいるときにハロウィンに参加していたと思うんですけど、どんな仮装をしていたんですか?

 

J)仮装か…私は魔女一択だったな。

 

斎藤)魔女ですか。

 

J)それしか仮装の衣装が無かったんだ。毎年同じ衣装でハロウィンのお菓子を貰いに行ってたよ。

 

斎藤)そうなんですね…

 

J)…ん?どうした?そんなに私の仮装が意外だったか?

 

斎藤)いえ…気にしないでください。

 

 

 

J)よし。こんな感じでどうだ?

 

斎藤)Jさんは毎回全然時間がかからないのに本当にクオリティ高いですよね。

 

J)そりゃあ、イギリス仕込みの理容師テクニックのたまものよ。

 

斎藤)毎度ありがとうございます。次来た時もお願いしますね。

 

J)あぁ。

 

 

 

J)さて…今日の予約も全部終わったし、この時間だと飛び込みのお客さんもいないだろう。もう片付けてゆっくりしますかね…

 

そう思い立ち、店じまいの準備を始めようとした矢先に携帯の着信音が鳴り始めた。

 

J)…またか。

 

ちょっと躊躇いながら電話に出た。

 

 

 

J)Hello.

 

???)I'm sorry I called again even though I called before.

 

J)I don't mind… what's wrong?

 

???)You really don't want to come back, right?

 

J)Didn't you say that last time? I will continue to do my best in Japan.

 

???)Why don't you want to go back?

 

J) I'm afraid to go back there. The trauma is about to come back.

 

???)I see… Then, it seems useless to say any more from me. Good luck, Jacqueline.

 

J)Thank you.

 

 

 

J)ハロウィンか…あの時以来だな…

 

私はゆっくりと理容椅子に腰かけて、ゆっくりと目を閉じた。

 

続く




キャラクター紹介のコーナー

斎藤敏恵(さいとうとしえ)
赤田梨華も認める「赤田神社の歩く辞書」。
抜群の知識量を誇り、多くの神職から絶大な信頼を得ている。
その知識量を買われて現在は音子猫神社に出向している。
交友関係がとても狭いのが最近の悩みで、顔が広い梨華に相談しているらしい。


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第X章 ジャクリーン・マーダーの過去
番外編 理容師の過去


こんにちわ。こんばんわ。いつもの百瀬です。

番外編が続いてしまいました。

案が思いついたのは良いものの、一話にしてしまうのは面白くないなと思いまして…

前回の番外編は斎藤さんの番外編でした。今回はJの番外編です。

今回もキャラ説明が書いてありますのでご参考程度に。

それではどうぞ。


先に謝っておかないといけないことがある。

 

私がこれまでお客さんに話してきた半生は、ほとんど嘘だ。

 

今から話すことを、仮にお客さんに話したりしたら…間違いなくお客さんが減ってしまうからね。

 

ほら、日本には「嘘も方便」ってことわざがあるだろ?

 

そう言う事だよ。

 

あと、全編英語だと読みたくなくなるだろ?

 

だから、一応翻訳しておいたよ。

 

 

 

私は、物心ついた時から孤独だった。

 

親の愛情も顔も知らなかった。

 

そんな私が、こうやって理容師として日本で働くまでの「本当の半生」をここで話そうと思う。

 

 

 

さっきも言ったように、私は親の顔を一切知らない。気が付いたら多くの子供たちと一緒に暮らしていた。

 

私が暮らしていたのは「ストロベリーフィールド」というリバプールでも有名な孤児院だった。

 

この孤児院で、私は先生や同じ境遇の子供たちと一緒に平和で幸せな生活を送っていた。

 

 

 

幸せな時間はすぐに過ぎていき、私は高校生になった。

 

この孤児院には里親が現れるか高等教育を修了すると、独り立ちすると言う暗黙のルールがある。

 

私ももうそろそろ社会に出るために準備をしようかと言うときに…あいつがやってきたんだ。

 

 

 

先生)あら…テイラーさん。またうちの子を受け入れに?

 

テイラー)まぁ…そう言った感じですな。

 

テイラーさんはその名の通り、アパレル業界で成功して財を成したこの町でも有名な富豪だった。

 

そんなテイラーさんは慈善活動の一環としてストロベリーフィールドの孤児を受け入れて社会に送り出す手助けをしているという話は先生から何回か聞いていた。

 

 

 

先生)今回はどの子を受け入れてくれるのですか?

 

テイラーさんはまるで品定めでもするかのように、私や他の子達を見回していった。

 

そして、私を指さして先生に尋ねた。

 

テイラー)この子はもうそろそろ高校を出るくらいの年齢なんじゃないか?

 

先生)そうですね。受け入れていただけるのですか?

 

テイラー)高校卒業となれば就職が近い。うちの会社の社員として呼び込むためにも是非受け入れさせてもらうよ。

 

先生)そうですか。ありがとうございます。

 

 

 

こうして、私はテイラーさんの里子として孤児院を出ることとなった。

 

…なのに。現実って本当に残酷だった。

 

 

 

テイラー)今日からここが君の部屋だ。ちょっと手狭かもしれないが我慢してくれないか?

 

私はテイラーさんに家を案内されて、最後に自分の部屋として紹介された部屋の前までやってきていた。

 

富豪と言うだけあって、部屋も装飾も豪華絢爛で…まるで昔から読んできたおとぎ話の世界のようだった。

 

きっとこの部屋もそんな風に違いない。そう胸を躍らせながら扉を開けた…

 

 

 

…そこに見えたのは、少し薄汚れた壁紙と、部屋の端に無機質に配置された四つの二段ベッドだけだった。

 

一応テーブルもあるが、かなり使い込まれていて古ぼけて見えた。

 

テイラー)今この部屋しかない物でね。申し訳ないんだがここでしばらく生活してくれないかい?

 

…そうだよね。こんなところが私の部屋な訳ないよね。そう私は言い聞かせた。

 

 

 

しばらく部屋で待っていると、食事の時間になった。家族と一緒に食事をとれると思ってダイニングに行くと…

 

姉)お父様、知らない方が部屋にいらっしゃいますわよ?

 

妹)お姉様、この薄汚い服は間違いなく孤児ですわよ。

 

母)こら!止めなさい。本人を前にそんなこと言うんじゃありません!

 

 

 

あれ?私って迎えられてないのかな?おかしいな。テイラーさんってこんな優しくない所だなんて聞いてないんだけどな…

 

私は戸惑った。どうしていいか分からずにそこに立ち尽くしていると、背後から手を引っ張られた。私は成す術なく部屋を出ていくしかなかった。

 

 

 

???)何やってんのよあなた。あなたがこんなところにいちゃいけないじゃない。

 

ジャクリーン)あなたは?

 

???)私はヨーコ。あなた、ストロベリーフィールドから来たんでしょ?

 

ジャクリーン)まぁ…そうだけど。

 

ヨーコ)なら、とりあえず部屋に戻っておいた方が良いわ。事情は後で説明するから。

 

 

 

私は、状況に戸惑いながら部屋に戻った。

 

しばらくするとヨーコが部屋に戻ってきた。

 

ヨーコ)今、何が何だかわからないって感じじゃないかしら?

 

ジャクリーン)まぁ…

 

ヨーコ)多分、ストロベリーフィールドでは「テイラー家は慈善活動の一環で…」とか言う事を聞かされてきたと思う。でもね、そんなこと一切ないから。

 

ジャクリーン)え…

 

ヨーコ)私達孤児は「奉仕者」としてテイラー一家に仕える存在なのよ。

 

ジャクリーン)そんな事…許されるの?

 

ヨーコ)建前は「孤児を受け入れて社会に旅立つための手助けをする」ってものだけど、ここを生きて出られる人は…恐らくいないわ。私達でさえ今を生きるので精一杯。誰かが命を落とせば次の犠牲者がやってくるだけ…ここは死刑を待つ囚人が集まる拘置所のような物なのよ。

 

ジャクリーン)…

 

 

 

信じられなかった。

 

こんな腐った世界があって良いのか…

 

私は、生きることすら許されないのか…

 

来て早々、泣きそうになっていた。

 

 

 

ヨーコ)とりあえず、明日から奉仕者としての仕事を与えられると思うわ。今のうちに準備をしましょう。

 

ジャクリーン)いやだ。

 

ヨーコ)わがまま言わないでよ。誰かが反逆するだけで、私達8人が全員罰を受けるのよ?

 

ジャクリーン)…8人?

 

ヨーコ)そう、8人。ストロベリーフィールドから8人も生贄が出てるのよ。当然ストロベリーフィールドはこの事実を知らないわ。あなた、私達と一緒に野垂れ死にしたくはないでしょ?言う事に従って。

 

ジャクリーン)何とかならないのか?

 

ヨーコ)…ないことは無いわ。でも、今はそのタイミングじゃないのよ。とりあえず今は奉仕者を演じて。お願いだから…

 

この切実な言葉を聞いて、ヨーコや他の人たちも懸命に戦っていることを感じ取った。

 

ジャクリーン)…分かった。私は入って間もない。とりあえず教えて。そして…機が来たら私が全てを告発する。

 

ヨーコ)了解。とりあえず動きやすい服を準備するわね。

 

 

 

私は、テイラー家に隷属する奉仕者となった。

 

私に課せられた仕事は多岐にわたった。メイドとはそう言う宿命なのかもしれない。

 

ただ、不慣れな私はことあるごとに失敗を繰り返した。

 

その度に、私は食事にありつけず苦しい思いをし続けてきた。

 

テイラー家はこうして孤児を使い潰し続けていたのだとヨーコは教えてくれた。

 

ヨーコは奉仕者の中で一番の年長で、色んなことを知っていた。

 

ただ、色々知っているが故に最近は危険な仕事を任されることが多くなってきていると言う。

 

ヨーコの命にも危機が迫っている。早いうちに何とかしないといけないとはやる心を抑えて奉仕を続けた。

 

 

 

そして、1年が経過した。

 

流石の私も、1年が経つと手際も良くなってきていた。

 

しかし、それ以上に重くのしかかってきたのが食事だった。

 

三食提供こそされるが、粗末な食材ばかりで腹の足しになるようなものではなかった。

 

それでも、何とか食べてエネルギーに変えていくしかなかった。

 

時にはへまをして食事を与えてもらえなかった子に分けてあげることもあった。

 

それが自分の首を絞めることになるとは分かっていたが、どうしても放っておくことが出来なかった。

 

 

 

さらに半年が経った。そしてようやく…そのチャンスがやってきた。

 

 

 

ヨーコ)今日はテイラー家が全員個別に外出するわ。帰ってくるのは二時間後よ。その間に誰かに告発することになる訳だけど…あなたはどうするの?

 

ジャクリーン)そうだな。とりあえずストロベリーフィールドに行ってみる。

 

ヨーコ)それでどうにかなるの?

 

ジャクリーン)大丈夫。奉仕者が団結して一つの証拠を準備してある。

 

ヨーコ)証拠?

 

ジャクリーン)これを見たら分かるって…ほら。

 

 

 

手筈通り、私はテイラー家の留守を見計らってテイラー宅を抜け出した。

 

そして、ヨーコに伝えた通りストロベリーフィールドへと向かった。

 

 

 

ジャクリーン)先生。お元気でしたか?

 

先生)…ジャクリーン。戻ってきたの?

 

ジャクリーン)いえ。戻ってきたわけではありませんよ。ちょっとこれを聞いて欲しくてね。

 

私は懐に忍ばせていたボイスレコーダーを取り出した。

 

このボイスレコーダーは奉仕者が定期的に手に入れる僅かな給金をかき集めて購入した「みんなの思いの結晶」だ。

 

 

 

ボイスレコーダーを再生すると、テイラー家の本当の顔がそこに浮かび上がってきた。

 

テイラー)おい!皿洗いにいつまで時間をかけているんだ!もっと早くしてくれ!

 

テイラー)廊下に埃が残っているじゃないか!もう一度やり直し!

 

テイラー)そんなこともできないのか!今日の食事は無しだ!

 

 

 

先生)これは…

 

ジャクリーン)先生、私達はテイラーさんに騙されていたんですよ。

 

先生)どう言う事?

 

ジャクリーン)テイラー家は「孤児を受け入れて社会に送り出す手助けをしている」と豪語していたと思います。でも実際は、メイドのような仕事をしています。

 

先生)メイド…?

 

ジャクリーン)多岐にわたる仕事を多数押し付けられ、少しでもミスをすれば食事すらとることが出来ません。その食事も満足にお腹を満たせるほどのものではありませんし、彼らの生活環境と比較するとお世辞にも良い環境とは言えない場所で集団生活をしています。

 

先生)そんな…

 

ジャクリーン)そのせいか多くの孤児がテイラー家で命を落とし、その度に私のような新たな犠牲者が里子として連れていかれているんですよ。

 

先生)…

 

ジャクリーン)確かに私達は親の愛を受けなかった孤児です。でもそれが人権を与えられない理由にはならないですよね?

 

先生)…そうね。里親になっている以上、保護責任はあるわ。だから死人が出ていると言う事は保護責任者の責任放棄に他ならないわね。

 

ジャクリーン)今からこの音声を警察と新聞社に公表します。ストロベリーフィールドからも強くプッシュしてもらえませんか?

 

先生)分かったわ。あなたの声が無かったらこれ以上の犠牲者が出ていたかもしれないわ。

 

ジャクリーン)ありがとうございます。

 

 

 

その頃、テイラー家では一悶着が起こっていた。

 

テイラー)何?ジャクリーンがいない?

 

ヨーコ)申し訳ございません旦那様。私が目を離したすきに…

 

テイラー)今すぐ連れ戻して来い!それから…お前たちの食事は無しだ。良いな?

 

ヨーコ)(何してんのよ…みんな帰ってきちゃったじゃない。)

 

テイラーさんの怒号がダイニングに響き渡っていたその時だった。荘厳な呼び鈴の音が玄関の方から聞こえてきた。

 

 

 

テイラー)何でしょう。今取り込み中なのですが…

 

警察官)警察です。先ほどこちらのお宅の関係者の方から通報を受けまして…

 

テイラー)通報?何のことでしょう。

 

警察官)児童虐待が行われているとのことですので…事情をお聞かせ願えませんでしょうか?

 

テイラー)はて…何のことやらさっぱりですな。

 

 

 

ジャクリーン)よくもまぁそんな風にしら切れるもんだなぁおい。

 

テイラー)…ジャクリーン!?

 

ジャクリーン)残念だけど、証拠はこのボイスレコーダーできっちり録らせてもらってるからね。言い逃れ…できないから。

 

テイラー)くそっ…

 

ジャクリーン)地獄に落ちなよ。

 

テイラー)…

 

 

 

その後テイラーさんは虐待の疑いで逮捕された。テイラーさんの逮捕を受け、本業のアパレルブランドの業績も一気に傾き、最終的に倒産するに至った。

 

私の告発が…一つの闇を破壊したのだ。

 

 

 

その後、私は新たな里親の下で理容師としての技術を身に着けた。

 

しかし、イギリスで暮らしたいと言う思いは完全に消え去っていた。この町に居続けるといつまでもあの1年半の記憶がよみがえってきてしまいそうな気がしていたからだ。

 

そんな時に出会ったのが…イチローって訳。

 

 

 

そこからの話は皆にも話した通りだ。日本は平和で暮らしやすい場所だ。

 

 

 

…どうやらいつのまにか寝てしまっていたらしい。気が付くと30分が経っていた。

 

J)うえぇ…寝てたな。早く片付けないと。

 

そう思っているとまた電話がかかってきた。見たことない番号からだ。

 

 

 

J)Hello.

 

Yoko)Do you remember me?

 

J)Yoko? Is it Yoko?

 

Yoko)that's right. It looks fine and above all.

 

J)What happened suddenly?

 

Yoko)After asking the teacher that you are doing your best in Japan… suddenly I want to hear your voice.

 

J)Ah, I'm doing well and happy. How about that?

 

Yoko)Now I'm back in Strawberry Fields and teaching everyone.

 

J)Yoko is also doing her best. Let's do our best not to regret each other.

 

Yoko)I can't lose to Jacqueline either. If you have time, I want you to come to Strawberry Field.

 

J)…Yup. Do you get it. I wish I had time.

 

 

 

電話を切った後、あの時の嫌な思い出とストロベリーフィールドにいた頃の幸せな思い出を交互に思い返していた。

 

J)たまには帰るのも…悪くないかな。

 

終わり




キャラクター紹介のコーナー

ジャクリーン・マーダー
イギリスからやってきた謎多き理容師。
色んな苦労を重ねてやっと今の生活を手に入れてきた…らしい。
ちなみに名前や職業などからジャックザリッパーを疑っている人がいるかもしれないが、全く関係ないとのこと。
考えすぎは良くない。(戒め)


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第四章 可憐で強靭な二輪の花
#16 ステージに咲く一輪の花


夏の気配を残しながら、名残惜しそうに去っていく9月のある日…

 

ツブヤイターのDMにメッセージが届いていました。

 

 

 

「こんばんわ。日に日に暑さが和らいでいよいよ秋って感じがしていましたね。九度申し訳ないのですが、明日はご予定ございませんか?」

 

「そうですね…明日はとりあえず斎藤さん以外全員来てくれるので大丈夫です。」

 

「そうですか。それでは明日、あなたに会わせてあげたい人がいるので…また朝にお迎えに上がりますね。」

 

「分かりました。」

 

 

 

そして次の日…

 

梨華)おはようございます。それでは行きましょうか。

 

リタ)はい。梅岡さん、後はおねがいしますね。

 

梅岡)はいはい。帰ってから土産話でも聞かせてくださいな。

 

 

 

音子猫神社から梨華さんの車で数十分。

 

車は都市部の閑静な住宅街にやってきていました。

 

リタ)ここにその方はいらっしゃるんですか?

 

梨華)そうね。このあたりの人は大体知ってると思うわ。

 

リタ)と言う事は…結構な有名人だったりして?

 

梨華)そうね。有名人であることには間違いないわね。

 

リタ)どんな人なんだろう…

 

 

 

梨華)着いたわ。ここよ。

 

車を降りて外に出ると…そこには立派な一軒家がありました。

 

リタ)このあたりって結構お金持ちの人が多いイメージなんですけど…

 

梨華)確かにここら辺はセレブな人が多いわね。

 

リタ)こんな場所に住める人と知り合いって…梨華さんどれだけ顔が広いんですか。

 

梨華)顔が広いと言うよりは、大学の後輩がここまでの有名人になったと言うべきなのよね。私も流石にここまでの人物になるとは全く予想してなかったわよ。

 

リタ)そうなんですか…ますますどんな人か気になりますね。

 

 

 

入り口である門のすぐ近くには「向日」と書かれた表札が掲げられていました。

 

リタ)向日…聞いたことない名字ですね。

 

梨華)でもその顔は絶対に見たことがある筈よ。

 

リタ)本当ですかね?

 

梨華)私が嘘を言ってるように見える?

 

梨華さんは試すように私にそう言いかけると、門のすぐ近くにあった呼び鈴を押しました。

 

 

 

「ピンポーン」と音が鳴ってからしばらくすると、インターホン越しに声が聞こえてきました。

 

???)どちら様でしょうか?

 

梨華)私よ。

 

???)あ、先輩!お待ちしてました。中にどうぞ。

 

通話が切れた後、すぐに門が開きました。

 

梨華)さぁさぁ、中に入りましょ。

 

リタ)はい…

 

どんな人が中にいるのか…緊張と期待でワクワクしながら中に入りました。

 

 

 

中は外の豪華さをあまり感じさせない空間が広がっていました。

 

リタ)…これ本当にさっきの外観の家ですか?

 

梨華)私も最初はそう思ったわ。内装がそれほど凝ってないのよね…

 

二人でボソボソと呟いていると、奥の方から家の主がやってきました。

 

???)先輩、大丈夫ですか?

 

 

【挿絵表示】

 

 

続く



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#17 売れっ子アイドルに休日を

???)先輩、大丈夫ですか?

 

中々入ってこない私達を心配したのか…緑髪の少女がわざわざ玄関までやってきました。

 

梨華)あ、ごめんね。ちょっと与太話をしていただけだから。

 

???)とりあえず立ち話も何なんで、中にどうぞ。

 

 

 

リビングには四人掛けの大きなテーブルが中央に鎮座しており、その周辺にも生活感が溢れる家具やインテリアが配置されていました。

 

???)飲み物を持ってくるのでしばらくかけて待っててください。

 

そう言うと少女は、リビングの奥の方にある扉の向こうに消えていきました。

 

リタ)梨華さん…あの子が私に紹介したいって子ですか?

 

梨華)そうよ。あの子は向日 葵(むかい あおい)。今日本で最も注目を集めているとも言われているアイドルユニット「flower」のリーダーよ。

 

リタ)…え?

 

 

 

葵)お待たせしました。綾鷹しかなかったので…

 

リタ)え~!?

 

葵)うわぁ!びっくりしたぁ…どうしたんです?

 

リタ)flower…flowerって…梨華さん、あなた何者ですか?

 

梨華)ただのしがない神楽巫女だけど?

 

リタ)信じられません…こんな有名人が目の前にいるなんて…

 

葵)先輩が私の事紹介してくれてみたいですね。改めまして…向日 葵です。

 

リタ)あ、あの…その…どうも…

 

梨華)何テンパってるのよ…

 

リタ)いやいや。テレビを見ない私でも知ってる有名人ですよ?そりゃあ緊張もしますよ!

 

葵)そこまで畏まらないでくださいよ。私だって舞台の外ではただの人間なんですから。

 

リタ)そうですけど…

 

 

 

私はとりあえず葵さんが持ってきてくれた綾鷹を飲んで落ち着くことにしました。

 

葵)で…先輩、今日の用件は何ですか?

 

梨華)葵って今日完全にオフなのよね?

 

葵)そうですね。他のメンバーもそれぞれの用事で出かけてますよ。

 

梨華)それじゃあ…久しぶりに色々楽しみましょう。ここ最近ライブで全国回ってたって聞いたのよ。それが終わってやっとできた時間くらい、思い切り羽を伸ばすのに使わないと。

 

葵)…そうですね。ありがとうございます。

 

梨華)それじゃあ…早速だけどちょっと行きたい所があるからそこに行きましょうか。

 

 

 

私達は葵さんを引き連れて、ドライブを始めました。

 

葵)そう言えば…先輩が連れて来た方のお名前をまだ聞いてませんでしたね。

 

梨華)彼女は音崎リタさん。この町の山の方で私と同じように神社の巫女として働いているわ。

 

リタ)音崎です…よろしくお願いします…

 

葵)はい。宜しくお願いします。

 

私は緊張のあまり、ほとんど声が出ませんでした。

 

続く



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#18 パンケーキと閃光の舞姫

葵)最初はどこに行くんですか?

 

梨華)まずは…ここ最近オープンしたばかりのパンケーキ専門店に行くわよ。人気すぎて長蛇の列が出来るって噂だから…テイクアウトの予約をしてあるわ。

 

葵)そんなに人気だと期待しちゃうなぁ…

 

 

 

梨華さんと葵さんが楽しそうに談笑している中、私は後部座席で完全に固まっていました。

 

今芸能人と一緒に車に乗っていると言う事実を脳が全然受け入れてくれないのです。

 

葵)…先輩、リタさんが固まってますよ。

 

梨華)大丈夫?あなたがこの前の赤田神社の取材の時に、「素敵な芸能人に会いたい」って言ってたから葵ちゃんに話を付けたのに…

 

リタ)はい…大丈夫です…

 

葵)全然大丈夫そうに見えないんですけど…

 

梨華)はぁ…とりあえず目的地に向かうわ。リタさんへの対応はついてからにしましょう。

 

 

 

車を走らせること約10分。車は目的地に到着し、ゆっくりと止まりました。

 

梨華)はーい着いたよ。リタさん大丈夫?

 

リタ)何とか…

 

梨華)私とリタさんでパンケーキを受け取ってくるから葵ちゃんは待ってて。

 

葵)はい。パンケーキ…楽しみだなぁ…

 

 

 

梨華さんが運転席を降りると、私の席の方まで移動してきました。

 

私はこの時もずっと固まったままうつむいていました。

 

 

 

梨華)大丈夫ですか?

 

リタ)吐きそうです。

 

梨華)吐かないでくださいよ…

 

リタ)もうこの場にいるのがもうしんどすぎます…

 

梨華)…とりあえず外の空気でも吸って落ち着いてください。

 

リタ)はい…

 

私は梨華さんに促されて車を降りました。

 

 

 

リタ)ここがおすすめのパンケーキ専門店ですか。

 

梨華)そうです。最近できたばっかりなのにもう若い女性がたくさん集まるくらいには人気になってて…

 

リタ)何が女性を惹きつけるんでしょうね?

 

梨華)やはり「映え」が良いんだと思いますよ。私はあまりそう言うのは気にしないんですけど。

 

リタ)「映え」ですか…

 

 

 

店の外には十人程度のお客さんが列を作って待っていました。人気を感じさせてくれる行列に私はパンケーキの味を密かに期待してしまいました。

 

梨華さんと一緒に店内に入ると、店内の座席は女性客が美味しそうなパンケーキを目の前にとても楽しそうな雰囲気でした。

 

所々に男性の姿も見受けられましたが、若干居心地が悪そうな感じがとても印象深く見えました。

 

 

 

梨華)すみません。テイクアウトの予約を受け取りに来ました。

 

店員)いらっしゃいませ。少々お待ちいただけますでしょうか。

 

梨華)リタさん、ちょっと待ってましょうか。

 

リタ)はい。

 

 

 

入り口近くの待合椅子に座ってしばらく待っていると、先ほどの店員さんが袋を手にやってきました。

 

店員)お待たせいたしました。プレーン3つでお間違いないでしょうか?

 

梨華)はい。ありがとうございます。

 

店員)ありがとうございました。いってらっしゃいませ。

 

私達は店員さんの爽やかな挨拶に押されながら店を後にしました。

 

 

 

梨華)さて、とりあえず葵ちゃんの家に戻って一緒に食べましょうか。

 

リタ)そうですね。

 

そう会話しているその時でした。

 

梨華)リタさん危ない!

 

リタ)…え?

 

私は真横から走って来る男性に全く気付いていませんでした。

 

リタ)うわっ!?

 

 

 

私は走ってきた男性ともろに衝突し、手に提げていた鞄が衝撃で飛ばされてしまいました。

 

梨華)大丈夫ですか?

 

リタ)何とか…

 

そう言いながら辺りに散らばってしまったものを拾い集めようとしたその刹那、背後の気配に一瞬気付きました。

 

私はその時、梨華さんが一緒に手伝って拾ってくれるものだと思って少しだけ振り返って声をかけようとしました。

 

しかし、そこにいたのは先ほどぶつかってきた男性でした。

 

 

 

男性は私を信じられないくらい強く突き飛ばすと、散らばっていた荷物の中から財布だけを拾い上げて一目散に走りだしました。

 

梨華)あ、ちょっ…ドロボー!!

 

 

 

葵)(え?泥棒?)

 

その声は、車の中で待ち続けていた私にも届いていました。

 

慌てて背後を振り返ると、突き飛ばされて転んでいるリタさんと逃げていく男だけが見えました。

 

私はすぐにあいつを捕まえようと、車を飛び出しました。

 

梨華さんの「行っちゃ駄目!!」という叫びが微かに聞こえました。でも、そんなこと言ってられません。

 

友達が危害を加えられてて黙ってられる訳ないじゃないですか。

 

私は、周りの目など気にせずに男を追いかけながら叫びました。

 

葵)待てコラ泥棒!逃げんな!

 

 

 

どれくらい追いかけたでしょうか?少なくとも2ブロックくらいは追いかけた気がします。

 

流石に私も限界でした。周りの人に聞こえるように叫び続けていましたが、突然のことに呆気にとられて誰も加勢してくれませんでしたし、私の事を知っている人はただただ写真や動画を撮って動こうとしてくれませんでした。

 

このまま逃げられちゃうのかな…と諦めそうになった時に、救世主が見えたんです。

 

青いフードのパーカーを着た救世主が。

 

 

 

葵)エネさん!こいつ捕まえてください!

 

続く



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#19 青色のフードの戦乙女

私はただ昼飯を買いにコンビニに来ただけなんだ。

 

野菜サラダと、二個のおにぎり。あとは500mlの野菜ジュースとサラダチキン。

 

一応体を動かしたりもしてるし、ジャンクフードばかり食うわけにもいかないしな。

 

 

 

さて、帰って飯でも食って配信の準備でもするかね…

 

そう思って帰ろうとしてたんだ。

 

遠くから、「待てコラ泥棒!逃げんな!」って声が聞こえてきたんだ。

 

 

 

なーんか嫌な予感がしたんだよね。

 

でも帰る方向は声が聞こえてきた方だし…

 

何も起こりませんように…と祈りながら私は帰ろうとしたんだ。

 

 

 

そして、声の聞こえた辺りを通ったんだ。

 

…思った通りだった。

 

葵が男を追いかけてた。どうやら一悶着あったらしい。

 

 

 

葵)エネさん!こいつ捕まえてください!

 

やれやれ…しゃーない。

 

後輩が困ってるんだ。助けない訳にはいかんわな。

 

 

 

葵)ハァ…ハァ…

 

葵は長いこと追いかけていたようで、完全に息が上がってしまっていた。

 

???)しゃーねぇーな。かかってこいやクソ男がぁ…

 

葵)お願いします!!

 

 

 

男は「どけっ!!」と私に怒鳴ってきた。

 

???)どけるかよぉ…お前、何して葵に追いかけられてるんだぁ?

 

男は私の質問に答えず、「どけっつってんだろ!!」とさらに怒鳴ってきた。

 

???)だからさぁ…どかねぇっつってんだろ!てめぇが何したか知らねぇけど、どう考えてもどいて結果が良くなる訳ねぇんだっての。

 

男は「くそっ…」と呟きながら、ズボンのポケットの中にしまっていた小さなナイフを取り出してさらに怒鳴り散らした。

 

「どかないとぶっ殺すぞ!!」

 

 

 

???)おいおい…物騒だな。

 

私は目の前に迫って来る男に対し、構えて相手が来るのを待った。

 

手に持っていたナイフで私の胸元を狙って…いたけど、流石に隙がありすぎる。

 

私は突き出してきた手を掴み、がら空きの腹部に膝蹴りをかました。

 

???)女だからって、弱いとでも思ったのか?えぇ?

 

私は腕を掴んだまま、思い切り一本背負いをかけた。

 

 

 

男は成す術なく地面に叩きつけられた。

 

叩きつけられた痛みで完全に動けなくなっていた。

 

 

 

葵)ありがとうございます…

 

葵が追い付いた。

 

???)何の為に追いかけていたんだ?

 

葵)この人、リタさんの財布を盗んで逃げていたんです。

 

???)そうか。

 

倒れている男のすぐ近くには、長財布が転がっていた。どうやらこれを持って逃げていたようだ。全く…しょうもない男だ。

 

葵)あ、これですよ。

 

???)良かったな。

 

 

 

暫くすると、赤い車とパトカーがほぼ同時にやってきた。

 

赤い車からは梨華が降りてきた。

 

続く



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#20 混沌のパンケーキパーティーへ

梨華)葵ちゃん大丈夫!?

 

葵を見つけた私は、車から飛び降りて近くに駆け寄った。

 

葵)大丈夫ですよ。エネさんが助太刀してくれたんで…

 

葵が指差す方を見ると…ものすごく見覚えのある女性が警察官に泥棒を引き渡しているのが見えた。

 

 

 

???)お勤めご苦労様です。…はい、私が捕まえました。…奴が盗んだ物品は恐らく無事だと思います。

 

警察官)ご協力ありがとうございます。

 

???)いえいえ。

 

 

 

警察官が引き上げたのを見届けてから、女性の下に近づく。

 

梨華)あんた…何やってんのよ。

 

???)お…?もしかしなくても梨華さんじゃないですか。

 

間違いない。このすっとぼけたような返答をするのは一人しかいない。大学の1学年後輩の榎本詩音(えのもとことね)だ。

 

梨華)何であんたが捕まえてるのよ。

 

詩音)そりゃあ…ねぇ…葵ちゃんが「捕まえろ」とか言ったらねぇ…捕まえないといけないでしょ。

 

葵)先輩、偶然通りかかったのを私が見つけたんです。それで捕まえてもらおうと…

 

梨華)そう…葵ちゃんはとりあえず車に戻ってて、詩音はこっちに来なさい。

 

 

 

私は詩音をとっ捕まえて、逃げないようにガードしながら人の輪から少し外れたところまで連れて行った。

 

梨華)あんたねぇ…人助けしたいのは分かるのよ。

 

詩音)それはどうも。

 

梨華)でもあんたは一応格闘技の訓練を受けているんだから。下手にやると人が死にかねないのもちゃんと分かってるのよね?

 

詩音)関節技がメインの格闘技で人が死ぬかね?

 

梨華)死ぬ時は死ぬのよ!

 

詩音)…へいへい。理解してるよ。私はあのアホ面のどてっぱらに膝蹴りかまして、ひるんだところで間合い詰めてから背負い投げしただけだから心配すんなって。

 

梨華)そう…これまでみたいにチョークスリーパーで気絶させるような野蛮なことはしなくなったのね。

 

詩音)おいおい…それじゃあ私がチョークスリーパーばっかりかけてる野蛮な女みたいじゃないか。私がチョークスリーパー掛けたのは一回だけだぞ。

 

梨華)一回でも死にかけたのは問題なの!

 

詩音)タップが弱すぎてだね…

 

梨華)関係ない!!

 

詩音)…すみませんでした。

 

 

 

その頃、車の中ではリタさんが何とか起き上がって外で言い合っている二人の様子を見守っていました。

 

リタ)あの二人何してるんですか?

 

葵)さぁね。いつもみたいに喧嘩してるんじゃない?

 

リタ)それは構わないんですけど…あの方ももしかして梨華さんのお知り合いとかなんですか?

 

葵)あれは榎本詩音…まぁ、一般的には「閃光の舞姫」って言った方が分かるかな?

 

リタ)あ、知ってますよ!FPSを中心に異次元の強さを誇るユーキャス配信者じゃないですか!

 

葵)先輩とは同期で、私もそのよしみでたまーにですけど配信にお呼ばれしてるんですよ。

 

リタ)え!?そうなんですか!?

 

葵)自慢じゃないですけど、一応ゲーム大好きなんで…

 

リタ)梨華さんの周辺、凄い人しかいませんね…

 

 

 

外では相変わらず会話が続いていました。

 

梨華)とりあえず今回はありがとうね。私の友人の財布をひったくる不届き者を捕まえてくれて…

 

詩音)感謝の印は一割な。

 

梨華)それは遺失物でしょうが!

 

詩音)いって~な!叩くことねぇだろ!!

 

梨華)変なボケかまさないで頂戴!

 

詩音)いつものジョークじゃねぇか。何でそんなにカリカリすんだよ。

 

梨華)…でしたら感謝の印を差し上げます。

 

詩音)お?何々?

 

梨華)先ほど、人気のパンケーキ専門店でパンケーキのテイクアウトを受け取っています。それを一緒に頂くと言うのでどうでしょう?

 

詩音)最近テレビでやってた奴か?あそこに行きたかったんだけど、顔バレしたくなかったから助かったよ。それじゃあ早速あんたの家で…

 

梨華)いいえ。詩音の家に行ってそちらで頂きます。

 

詩音)はぁ!?おまっ…そりゃないぞ!

 

梨華)ただでさえ芸能人を連れているのにうちでパーティーなんか開けるわけないじゃないの。

 

詩音)いや、そうだけどさ…もっと他にあるだろ…

 

梨華)でしたら他の案を出してみなさい。

 

詩音)う~…

 

梨華)出ないんじゃないですか?

 

詩音)…仕方ねぇな。これで貸し一つな?

 

梨華)お礼の印に貸し借りなんかありませんよ。

 

詩音)くそぉ…

 

 

 

暫く言い争う様子が窓の外から見えていましたが、話し合いが終わったのか、車に近いづいてくるのが見えました。

 

リタ)どうやら終わったみたいですよ。

 

葵)…いやな予感がするね。多分今日のパーティーはカオスになりそうだ。

 

リタ)…え?

 

 

 

梨華)ごめんね二人とも待たせちゃって。

 

葵)大丈夫ですよ。話はつきましたか?

 

梨華)詩音が家を快く貸してくれるそうだからそこでパンケーキを頂きましょうか♪

 

リタ)詩音さんありがとうございます!

 

詩音)おい待て!私は快諾なんて…いでででで!!

 

梨華)何 か 言 い ま し た ?

 

詩音)…いいえ。

 

梨華)じゃあ出発するわよ!

 

リタ)…

 

私はその時、何とも言えない恐怖を感じました。

 

何とも言えない空気と四人の乗客を乗せて、赤い車は「閃光の舞姫」が住む家へと一直線に走り始めました。

 

続く



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#21 スイーツパラダイス

車で移動すること十数分…車は一軒の家の前に止まりました。

 

詩音)よ~し着いたぞ。ここが私の家さ。かっこいいだろ?

 

家の外装はいたって普通のものでした。

 

リタ)かっこ…良いのかな?

 

葵)普通ですよね。

 

梨華)うちの方が立派だと思うわ。

 

詩音)おいおい…そんなこと言ってると中に入れてやんねーからな?

 

リタ)え…いや…その…立派ですよ!かっこいいです!!

 

詩音)だろ?

 

この時の詩音さんの顔はちょっと得意げでした。

 

 

 

中もいたって普通の家でした。これ以上に形容のしようがありません。

 

詩音)あ~そう言えばあいつ今頃寝てるんだったな…あまり大きな音出さないでやってくれよな。今の時間に起こされると絶対不機嫌だからさ。

 

梨華)そっか…今寝てるのね。

 

リタ)どなたかご一緒に暮らしているのですか?

 

詩音)うちの兄貴が寝てるのさ。あいつ…たまに訳の分かんない物に没頭して徹夜とかするからさ…ちゃんとライフサイクルくらい私に合わせて欲しいんだけどなぁ…

 

葵)そのあたり大変ですよね。

 

詩音)まぁ、週変わりだし問題ないだろ。次の週は多分私と同じサイクルで動いてくれると思うから。

 

 

 

大きな音を出さないように注意しながら私達はリビングに何とかたどり着きました。

 

詩音)食器とか準備するから、荷物でも置いてゆっくりしといてくれ。

 

そう言うと、詩音さんはキッチンの方に行ってしまいました。

 

リタ)いやぁ…それにしても今日はなんだか色々ありすぎて頭がごちゃごちゃになっちゃいそうですよ…

 

梨華)そうね。

 

葵)私とパンケーキ屋さんに向かった時はあんなにガッチガチだったのに、ちょっとほぐれてきていますもんね。

 

リタ)色々ありすぎてそれどころじゃない状態になっちゃったからね…

 

梨華)リタさんって結構緊張することが多いんじゃない?

 

リタ)まぁ…あまり人と接することが無いもので、どうしたらいいか分からなくなっちゃうことはありますね。

 

 

 

詩音)お?何だ湿っぽい話しやがってさぁ…大丈夫か?

 

リタ)大丈夫ですよ。

 

詩音)そっか…食器もってきたから食べようか。

 

 

 

リビングに置かれた四枚の白い皿の上には、おいしそうなパンケーキが盛り付けられていました。

 

ちょっとだけ詩音さんのパンケーキは少なかったですが…

 

リタ)良いんですか?パンケーキ少ないように見えますが。

 

詩音)良いんだ。私は普段から身体を鍛えてるんだ。だからあんまりたくさん食べると…

 

リタ)体作りに響いちゃうってことですね。

 

詩音)あぁ。

 

葵)私も詩音先輩の通ってるジムで体験トレーニングを受けたことがありますけど、本当に鬼のようなメニューでギブアップしちゃいました。

 

リタ)そんなにですか!?

 

梨華)見た目によらずストイックなのよね。

 

詩音)見た目によらず…ってどういうことだよ。

 

梨華)…ごめんなさい。

 

 

 

約30分ほどでパンケーキはお腹の中に消えてしまいました。

 

詩音)噂通りの美味さだな!ほっぺが落ちそうだったよ。

 

梨華)本当ね。女性が飛びつくのも納得だわ。

 

葵)SNSでこのパンケーキをおすすめしなくちゃ!!

 

リタ)今日は本当にありがとうございました。とってもおいしかったです。

 

 

 

詩音)…そう言えば今日はこの後配信の予定だったな。

 

梨華)そうなの…じゃあここでお別れね。

 

リタ)今日は助けてくれたり、面白い話を聞かせてくれたり…本当にありがとうございました。

 

詩音)良いんだ良いんだ。また会えた時…そん時はよろしくな。

 

 

 

詩音さんの家を辞去して葵さんの家に向かいました。

 

葵)久しぶりに詩音さんに会いましたけど、いつも通りでしたね。

 

梨華)そうね。いつも通り元気溌剌だったわね。

 

リタ)なんだかんだで楽しい日になりました。ありがとうございました。

 

 

 

梨華)次はどこに行く?

 

葵)じゃあ…洋服を見に行きたいです!!

 

リタ)このあたりだとショッピングモールですかね。

 

梨華)じゃあショッピングモールに向かうわね。

 

続く



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#22 flower集結!

なんやかんやあった一日もようやく終わりが近づいてきました。

 

私達はそれ以降も色んな所を巡り、葵さんの家に帰ってくるころには日は完全に沈んでいました。

 

葵)ただいま~

 

梨華)いやぁ…本当に大変だったけど楽しかったわね。

 

リタ)本当ですよ。でも何だか有意義な時間でしたね。

 

 

 

リビングに入ると、朝来た時にはいなかった住人が葵さんの帰りを待ち構えていました。

 

???)葵、お帰り。

 

葵)遅くなっちゃってごめんね。

 

???)あらあら~梨華さんとご一緒だったんですね~。

 

梨華)葵さんをお借りしていました。おかげで色々と楽しい一日になりましたよ。

 

???)で、そっちのあなたは誰?

 

リタ)あ、あの…

 

梨華)私の友達の音崎リタさんよ。葵ちゃんに会わせてあげたくてね。

 

???)なるほどね。今璃子さんが晩御飯作ってくれたところだから食べる?

 

リタ)良いんですか?

 

???)是非食べて行ってくださいな。

 

梨華)じゃぁ…お言葉に甘えましょうか。

 

 

 

夕食の準備が進む中、私は葵さんに尋ねました。

 

リタ)葵さん…flowerについては柊君から聞いていたんですが、流石に詳しいことを知らないので教えてくれませんか?

 

葵)良いですよ。

 

 

 

葵)flowerは私をリーダーとして活動する四人組のアイドルユニットです。

 

リタ)それは知ってますよ。

 

葵)メンバーはリーダーの私 向日 葵(むかい あおい)、オレンジにピンクのメッシュの髪の今治 美香(いまち みか)、赤髪ロングの十和田 璃子(とわだ りこ)、青髪ボブの日向 夏(ひなた なつ)の四人です。私は葵ちゃん、美香ちゃんはいまちー、璃子さんはそのまま璃子さん、夏ちゃんはなっちゃんって呼ばれることが多いですね。

 

リタ)ふむふむ…

 

葵)普段は歌って踊るアイドルなんですけど、コンサートとかではバンド形態で演奏をすることもあるんですよ。

 

リタ)バンドもやってるんですね。

 

葵)私がギターボーカル、いまちーがベース、璃子さんがドラム、なっちゃんがキーボードです。

 

リタ)え!?優しそうな璃子さんがドラムなんですか?

 

葵)結構激しいビートもそつなくこなしてくれるんですよ。

 

 

 

リタ)今のメンバーの方とはどうやって出会ったんですか?

 

葵)…話せば長くなっちゃうんだよなぁ。要点だけで良いかな?

 

リタ)それでも問題ないですよ。

 

葵)みんな一回音楽で挫折してるんだよね。私は音楽と安定した仕事を天秤にかけてるし、いまちーはデビュー間近のバンドを追い出されてるし…

 

リタ)追い出されるって…何があったんですか…

 

美香)もう思い出したくないからそれ以上掘り下げないで!

 

葵)…だって。

 

 

 

葵)璃子さんはダンスが得意じゃなくて結構苦労していたし、なっちゃんはピアニストを目指してたけど跳ね返されたりしてて結構大変だったみたいだよ?

 

リタ)どんな人にも苦労はあると思いますけど…特に苦労した四人が集まったんですね。

 

葵)だからこそ、今こうやって笑っていられるのが本当に嬉しいんですよ。

 

 

 

いつもより人数の多い夕食はいつも以上に大盛り上がりでした。

 

夏)葵ちゃんおかわり!

 

美香)なぁ…それくらい自分で持ってこれるだろうが…

 

夏)いいじゃん近いんだし!

 

美香)…ったくこんなんだからガキだって言われんだよ。

 

夏)子供じゃないもん!ちっちゃいけど大人だもん!!

 

葵)はいはい。それくらいにしとこう?お客さんもいるんだし。

 

 

 

 

リタ)…いつもこんな感じなんですか?

 

葵)まぁ笑いは絶えないよね。

 

璃子)辛気臭いよりはましですよ~。

 

リタ)そうですけど…なんかいつも大体一人でご飯を食べてるので…こう言うのに慣れなくて。

 

梨華)たまにはこれくらいしっちゃかめっちゃかの方が楽しいでしょ?

 

リタ)…そうですね。

 

 

 

私と梨華さんはおいしい夕食をいただいて家を後にしました。

 

リタ)こうやって一つ屋根の下ってのも良いですね。

 

梨華)でしょ?あそこに行くと大体「明日も頑張ろう!」ってなれるから良いわね。

 

リタ)ちょっとお願いしたら快くサインまで貰っちゃいましたし…家に飾って柊君に自慢しようと思います。

 

梨華)楽しんでもらえてよかったわ。

 

最初こんな有名人に会えるなんて…とガッチガチになっていましたが、最後は人の温かさに久しぶりに触れることが出来て心がとってもほっこりしました。

 

何だか一緒にいられる「家族」が欲しくなった一日でした。

 

続く



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第X章 向日 葵のルーティーン
番外編 向日 葵のルーティン


テレビでも動画サイトでも人気のアイドルの朝は早い…

 

その中でも私、向日 葵は誰よりも一番早く起きる。

 

 

 

毎朝の日課は、赤田神社までのジョギングだ。

 

往復でおよそ3kmほどの道のりをゆっくりと流していく。

 

その道すがら、近所の人や熱心なファンに声をかけられることもある。

 

 

 

朝の赤田神社には大抵梨華さんがいる。

 

赤田神社で梨華さんとちょっとばかり談笑するのがいつものお決まりだ。

 

 

 

葵)梨華さん、おはようございます!

 

梨華)あら、今日も来たのね。

 

葵)はい!

 

 

 

ちょっとした与太話の後、30分かけて家まで帰ってもまだ他のメンバーが起きていないことが多い。

 

葵)はぁ…やっぱり起きてないのかぁ…

 

ちょっとため息をついてから、門に手をかける。

 

カチッと小さな音を立てて、鍵は開いた。

 

 

 

家に帰ってから最初にやること…それは当然汗を洗い流す事だ。

 

シャワーを浴びている最中に誰かが起きてくるのがいつもの流れ。大抵今治美香か十和田璃子のどちらかだ。

 

美香の場合は私が朝ご飯を作る。璃子さんの場合は璃子さんが朝ご飯を作ってくれる。

 

その間もなっちゃんは爆睡していることが多い。

 

 

 

朝ご飯の場でみんなの今日の予定を確認することが多い。

 

個人での仕事、グループでの仕事、オフ…パターンは様々だ。

 

葵)今日、皆の予定はどんな感じなの?

 

美香)私は雑誌のスチール撮影。終わったらそのままここに戻ってくるよ。

 

璃子)私はテレビ番組の収録にお呼ばれしました~。ドラムも叩く予定ですよ~。

 

葵)なっちゃんは?

 

美香)夏はオフらしい。だからユーキャスでのんびり配信でもするんじゃないかな?

 

葵)私は…なんだっけ?

 

璃子)え~?大丈夫ですか~?

 

美香)今日はボイトレに行くって言ってたろ…

 

葵)あ、そうだったね…

 

 

 

予定が共有出来たら、それぞれ現場へと向かって行く。

 

デビューした当初はグループでの仕事がメインだったが、現在は個人の仕事もそれなりに入ってくるようになった。

 

最近だといまちーがドラマのちょっとした役に起用されたとか…いまちーが演技なんかできるんだろうか?(失礼) ちょっと気になる…

 

 

 

仕事が終わる頃には大体夕方になっていることが多い。早い時はお昼で終わることもあるが、それはかなり稀だ。

 

葵)ただいま~。

 

美香)おぉ、お疲れ。

 

璃子)お疲れ様です~。

 

夏)お疲れ!!

 

 

 

葵)今日どうだった?

 

美香)良いのが撮れたよ。雑誌は来月発売らしいから、もう予約しちゃったよ。

 

璃子)良いドラム見せることが出来ました~。放送…楽しみにしててくださいね~?

 

葵)なっちゃんの配信はどうだった?

 

夏)即興でピアノ弾いてた! やっぱりピアノは良いよね!

 

葵)そっか…みんな今日はお疲れ様。

 

 

 

晩御飯は毎日ワイワイ大盛り上がり。

 

特に出演番組が放送された日は、皆で鑑賞会になる。

 

 

 

葵)これ、この前の収録じゃない?

 

美香)夏が撮れ高作ったやつかな?

 

璃子)見てるだけで辛そうでしたよ~あのわさび寿司…

 

夏)あれ以降お寿司がちょっと怖いんだよ…

 

 

 

美香)おい!私の良い所切られてんじゃねえか!

 

葵)被せたボケも丸々お蔵入りじゃん…

 

夏)めちゃくちゃウケてたエピソードが入ってないよ!?

 

璃子)私、喋ってるところがほとんどないですね~。何ででしょうか?

 

 

 

璃子)いや~、テレビの世界で働くスタッフさんは凄いですね~。

 

夏)ちゃんと面白かった!

 

美香)やっぱり素材って大事だな。

 

葵)私達も、音って素材を存分に生かしていい歌を歌わないとね!

 

 

 

こんな風に、なんやかんやで一日は終わっていく。

 

毎日、「今日も楽しかったな…」と思えるように生きるのが私の一つの目標だ。

 

また明日も、私が一番最初に起きて…ジョギングをするところから始まるだろう。

 

おやすみ。

 

おわり




キャラクター紹介のコーナー

向日 葵(むかい あおい)

日本中で知らない人はほとんどいない(らしい)アイドルグループ「flower」のリーダー。

アーティスト・動画配信者・マルチタレントと多彩な才能をいかんなく発揮しており、ファンも非常に多い(らしい)。

ちなみにシェアハウスの門は、家の中からじゃないと開けられないらしい。あれ…なんで誰も起きていない状態でm…



葵)…知らなくていいこともあるんじゃないですか?


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第X章 小原健司と赤田梨華の夢
番外編 小原健司の夢


小原健司、27歳。 職業、巫。

 

 

 

赤田神社の神職の中でも随一の力自慢で、多くの神職の憧れの的である。

 

実家も赤田神社ほどではないが由緒のある神社で、家系の男子が代々宮司を務めてきた歴史を持っている。

 

現在は音崎リタを支えるべく、斎藤敏恵と共に音子猫神社に出向している。

 

趣味は魚釣りで、釣果を度々神社に実家や赤田神社に奉納している。

 

今回は、そんな彼の「もう一つの趣味」のお話…

 

 

 

9月某日、絶好の晴天。

 

彼は、町はずれの小さな野球場に来ていた。

 

小原)カーッ!昼間から飲むビールは最高だ!!

 

既に何杯か飲んでいるようで顔が少し赤くなっている。

 

 

 

この町の野球場は両翼が100mにも満たないような小さな球場だ。収容人数もさほど多くないため、プロ野球の地方試合はおろかファームの試合でも使われていない。

 

ここではもっぱらアマチュア野球…特に高校野球や大学野球の会場として使われている。

 

 

 

そんな小さな球場がここ最近盛り上がりを見せている。

 

地元のソフトボールチーム「ブロッサムズ」の目覚ましい活躍が注目されているからだ。

 

「ブロッサムズ」は、つい数年前まではソフトボールのプロリーグでもトップクラスの弱小チームと呼ばれていた。

 

そんなブロッサムズを救ったのが…日本代表にも選ばれた赤田美華の入団だった。

 

 

 

入団一年目から先発投手の大黒柱の座を掴むと、連戦連勝し一気にチームをムードを盛り上げてくれた。

 

さらに野手としても才能は高く、遊撃手として試合に出ればファインプレーは当たり前。打てば確実に得点を稼いできてくれる。

 

今やチームに無くてはならない存在になっていた。

 

 

 

美華の大活躍でブロッサムズの注目度は急上昇。美華の先発登板する試合のチケットは争奪戦になるレベルだった。

 

 

 

そんなチケット争奪戦を勝ち抜いて、彼はビールを飲んでいるのである。

 

ビールと言うガソリンが良い感じに温まってきたその時だった。

 

???)あれ?小原さん?

 

背後から聞き覚えのある声がした。

 

振り返ってみると…そこにいたのは赤田梨華だった。

 

 

 

小原)あれ?梨華ちゃん?何でこんな所に…?

 

梨華)何でって…試合を見に来たからに決まってるじゃないの。それよりも小原さんこんな昼間からお酒飲んでるの?

 

小原)良いじゃないのよたまの休みなんだからさぁ…

 

梨華)飲むのは勝手にしてもらっても良いけど、試合が終わるまでに潰れないでよ?今日はお姉ちゃんの先発登板の日なんだから…

 

小原)分かってるよ。

 

 

 

小原)それにしても…梨華ちゃんはここに来るの久しぶりなんじゃないの?

 

梨華)…そうね。大学4年の全国大会をかけた試合がこの球場の最後の試合だったわ。

 

小原)俺も見てたよ…忘れはしないね、あの試合は…

 

 

 

 

 

俺が赤田神社に来たのは4年前。大学を卒業したばかりの俺は右も左もわからないまま神職として社会に飛び出していった。

 

その頃赤田姉妹はまだ大学生だった。

 

二人と初めて出会ったのは、赤田神社で働き始めてすぐの頃だった。

 

今でも十分に美しい二人だけど、その当時は今よりもっと若さが溢れる素敵な女性だった。

 

 

 

~4年前~

 

梨華)あら、あなた…見かけない巫さんね。もしかして新入りさん?

 

小原)あ、はい!小原健司です!

 

梨華)小原さんね…私は赤田梨華、宜しくね。

 

小原)よろしくお願いします!

 

 

 

若いながらもしっかりとした人だな…と言う第一印象だった。

 

「お姉ちゃんと一緒に神楽巫女の修行をしているの。」

 

赤田神社の長い歴史を支える神楽巫女の存在は大学在学中から噂には聞いていた。その当事者がこんなにも近くにいる…そう思うだけで少しだけ身が引き締まる思いだった。

 

 

 

神社で色んな仕事をしているうちに、赤田姉妹とは結構な頻度で出会っていた。

 

今思えば、神様が「積極的に交流させよう」と画策していたのかもしれない。

 

 

 

働き始めてから数か月後、仕事にもある程度慣れてきた俺は力仕事を多く任されるようになっていた。

 

パワーにだけは自信があったので、こういう適材適所の仕事を貰えたのはとても嬉しかった。

 

次第に同期や先輩の神職からも一目置かれるようになっていった。

 

 

 

神社は基本的に年中無休だが、赤田神社は福利厚生がしっかりしている。働いている神職が多いからだろうか…

 

ある日、俺は休暇を使って球場に足を運んでいた。母校の大学の野球部の公式戦があるという噂を聞きつけていたからだ。

 

開始時間よりも若干早く着いた俺は、球場内で練習しているであろう後輩達の様子を見ようと少し足早にゲートをくぐって中に入った。

 

 

 

暗い入口を抜けると、一気に視界が開ける。スタンドから見える景色は…野球の練習ではなく、別の何かが撤収しようとしている所だった。

 

辺りを見回すと、小さなフェンスをいくつも抱えながらベンチ裏へと下がっていくユニフォーム姿の女性が何人か見えた。

 

小原)(フェンス…ソフトボールかな?)

 

また他の人は、オレンジ色のベースを抱えていた。どうやらソフトボールの試合か何かが行われていたようだ。

 

 

 

まだ野球部の部員が来ていないところを見ると、試合開始はもう少し後になりそうだ。早く来すぎたかな…とちょっと困っていると、一塁側のダグアウトでクールダウンのキャッチボールをしているバッテリーの姿がほんの少しだけ見えた。

 

…見覚えのある顔だった。

 

 

 

次の日、昼休みに梨華を捕まえた。ちょっと話がしたかったからだ。

 

梨華)何ですか?お話とは…

 

小原)昨日、大学の後輩が出てる野球の試合を見に行ったんだ。

 

梨華)小原さんは野球がお好きなんですか?

 

小原)まぁね。小学生の頃からやってたからね。

 

梨華)そうでしたか。それで、その話を何故私に?

 

小原)それが…

 

 

 

梨華)私に似た人を見た…ですか?

 

小原)あぁ。俺が球場に着いた時なんだが…おそらくソフトボールの試合か何かが終わった所だったんだ。

 

梨華)…

 

小原)一塁のダグアウトでクールダウンのキャッチボールをしていたあのバッテリー、もしかして梨華ちゃんとお姉さんなんじゃないかな…って思ったんだけど。

 

梨華)…そうです。私です。

 

小原)…そっか。すごく楽しそうだったから、なんだか微笑ましくなっちゃったよ。

 

梨華)…え?

 

小原)この神社、創建してから1000年ほど経ってるんだよね?

 

梨華)まぁ…そうですけど。

 

小原)そんな歴史のある神社の「神楽巫女」なんて大層な役職を担うかもしれないような女の子だからさ、生活も厳しく苦しいのかな?って勝手に思っちゃってたんだよね。

 

梨華)…

 

小原)でも勘違いだったみたいだよ。「ごく普通の女の子」で良かった。

 

梨華)…

 

 

 

梨華)…あの。

 

小原)ん?どうした?

 

梨華)その…小原さんの守備位置は…

 

小原)キャッチャーだけど。

 

梨華)…キャッチャですか?

 

小原)そうだけど…どうした?

 

梨華)よければ…守備のコツとか…教えてくれませんか?

 

小原)え!?俺で良いの?

 

梨華)はい。小原さんのがっしりとした足腰…並みのキャッチャーじゃない気がするんですよ。

 

小原)…へぇ、凄いじゃん。何でわかるの?

 

梨華)まぁ…何となく…ですかね…

 

小原)良いよ。俺で良ければ。

 

梨華)本当ですか!?ありがとうございます!!

 

 

 

この時、天からその様子を見ていた神様は密かにガッツポーズをしていたことだろう。

 

捕手と言う共通点から俺と梨華ちゃんの繋がりはより深いものになっていった…

 

 

 

…小原さん!小原さん!!

 

 

 

小原)…ん?

 

梨華)小原さん!どうしたのよ?

 

小原)いや…ちょっと考え事をしていて…

 

梨華)お酒が入って眠くなったんじゃないの?

 

小原)あはは…そうかも。

 

梨華)ほら、試合が始まるわ。

 

 

 

グラウンド上では、今まさにプレートアンパイアのプレイボールのコールがかかろうとしていた。

 

続く



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番外編  赤田梨華の夢

試合は順調に進み、終盤に差し掛かっていた。

 

両チームの先発が好投する投手戦となったこの試合が動いたのは5回裏だった。

 

ブロッサムズの四番打者の会心の当たりはフェンスを越えるソロホームランとなった。

 

0行進が続く試合に風穴を開ける一発に美華の顔にも笑顔が浮かんだ。

 

 

 

梨華)1点あればお姉ちゃんなら何とかしてくれる…

 

小原)そうかな?「野球は筋書きのないドラマ」って言葉があるじゃないか。

 

梨華)そうだけど…お姉ちゃんなら絶対に抑えてくれる…

 

小原)まるであの時の試合と同じだな。

 

梨華)え…?

 

小原)この世に「絶対」は存在しない。あの時はそう思ったよ…

 

 

 

~3年前~

 

小原)そうそう…送球への移行が楽になるだろ?

 

梨華)本当だ…

 

小原)ソフトの盗塁は難易度が高い。投球より前にリードを取ると離塁でアウトになる。その為、盗塁する際には投球と同時にリードを取って球種を見計らって走ってくる。

 

梨華)そうですね。

 

小原)だからキャッチャーは、捕球後にすぐにベースカバーに入る選手にきっちり牽制できるよう準備する必要がある訳だ。

 

梨華)なるほど…

 

小原)梨華ちゃんは肩が非常に良いから、このポジション移行をもっと突き詰めればトップクラスのキャッチャーになれるはずだ。

 

梨華)勉強になります!

 

 

 

梨華は俺の指導によって、ずば抜けた牽制技術を手に入れた。

 

持ち前の肩力は抜群で、僕が教えるまでもないほどだった。

 

そんな良い肩を活かせるように、ひたすら捕球から投球動作への移行を梨華に叩き込んでいった。

 

 

 

その結果はすぐに表れた。

 

指導を始めてからしばらく経過したある日。練習試合を見て欲しいと例の球場に呼び出された。

 

そこで見たのは牽制でランナーを刺しまくる梨華の姿だった。

 

盗塁を試みるランナーだけではなく、塁に戻ろうとするランナーもかなりの数を刺せるようになっていた。

 

俺の指導が上手くハマったことを確信した瞬間だった。

 

 

 

それ以降、梨華はチームに欠かせない存在となっていった。

 

守れば抜群の守備力で相手チームを圧倒し、打てばシュアで破壊力のある打球を飛ばす。

 

バッテリーを組んでいた美華との相性も抜群。

 

まさに、向かうところ敵なし…最強のコンビだった。

 

 

 

…小原さん!

 

小原)…あ、ごめんごめん。試合はどうなってる?

 

梨華)お姉ちゃんが…

 

小原)どうした?

 

 

 

試合は6回表。ここまで完璧に抑えてきていた美華が徐々に捕まり始めていた。

 

何とか2人打ち取ったものの、2,3塁のピンチ。

 

ここでブロッサムズの監督が動いた。

 

「ブロッサムズ、選手の交代をお知らせいたします。」

 

 

 

美華をマウンドから下して二番手の投手を投入した。美華はそのまま遊撃の守備に回った。

 

ピンチの場面でマウンドに上がる投手のプレッシャーは計り知れない。

 

同じようにマスクをかぶってきた俺にも、梨華にもその緊張感は伝わっていた。

 

 

 

梨華)あっ…その球は…

 

梨華が小さく呟いたその時だった。

 

 

 

金属バットから快音が鳴り響く。

 

打球は左中間を深く破る当たりとなった。

 

二人が生還し逆転。ブロッサムズは一気に不利な展開になってしまった。

 

 

 

小原)だから言ったろ…「野球は筋書きのないドラマ」だって。

 

梨華)…

 

小原)あの時と全く同じ展開だな…

 

 

 

赤田姉妹のキャリアはその後も順風満帆だった。

 

大学3年生になると、二人は揃って大学日本代表に選出された。

 

国際大会と言う大舞台でも、二人の技術は完全に通用していた。

 

並みいる強打者を相手に三振の山を築き上げる美華、快速自慢のランナーをいとも簡単に刺してしまう梨華。

 

二人はプロ選手の有望株として、大きく注目されていった。

 

…しかし、時間と言う物は時に残酷な答えを出すこともあるのだ。

 

 

 

~1年前~

 

ある日の仕事終わり。いつものように着替えを済ませ、荷物をもって帰ろうかと言う時だった。

 

小原)(…ん?)

 

誰かがすすり泣いているような声が微かに聞こえた。

 

小原)(誰が泣いているんだ…?)

 

その声を頼りに探していると…誰にも見つからないような建物の陰で、梨華が泣いていた。

 

 

 

小原)梨華ちゃん…どうしたの?

 

梨華)小原さん…

 

梨華の目には涙が浮かんでいた。相当悲しいことがあったようだ。

 

小原)話…聞こうか?

 

梨華は小さくうなずいた。

 

 

 

小原)…神楽巫女に選ばれた?

 

梨華)そうなの。お母様が…「私を後継者にする」って…

 

小原)凄いじゃないか。この神社の歴史を担うんだろ?とても名誉なことじゃないのか?

 

梨華)そうだけど…ソフトボール…

 

小原)あっ…そうか。

 

 

 

赤田姉妹はもう既に全国区の選手となっていた。当然、姉妹揃ってプロの世界に飛び込んでいくだろうと誰もが確信していた筈だ。

 

しかし、赤田神社には「神楽巫女」と言う伝統がある。1000年も続いてきた伝統はそう簡単に破れる訳じゃない。

 

梨華は俺の指導を吸収して、自らの素材を活かした抜群の選手になっていった。

 

だからこそ、神楽巫女に選ばれたこと…いや、選ばれてしまったことがとても悔しかったのだろう。

 

 

 

梨華)嫌だよ…諦めたくない…もっとお姉ちゃんと一緒にソフトボールをやりたい…

 

 

 

俺は悲しむ梨華の姿を見て、こう切り出した。

 

 

 

小原)梨華ちゃん。俺が何で梨華ちゃんに指導したか…分かる?

 

梨華)何でって…?

 

小原)俺も、梨華ちゃんみたいに夢を諦めたからなんだ。

 

梨華)…どういうこと?

 

小原)全部話すよ。

 

 

 

俺が野球を始めたのは小学生の頃だった。パワー馬鹿で、打球をかっ飛ばしたり、鋭い送球をする事しか能の無い選手だった。

 

そんな俺がキャッチャーをやるきっかけとなったのは、チームメンバーが足りなくて万年代打だった俺が急遽キャッチャーをやることになったある試合からだった。

 

その試合で、俺は散々な守備を見せてしまった。そんな俺の守備を見た監督が言った一言が運命を変えた。

 

「守備はまだまだだけど、凄い肩を持っているじゃないか。」

 

 

 

その言葉に、俺は思った。

 

「もしかしたら…肩で活躍できるかもしれない」と…

 

それ以降、俺は一流のキャッチャーを目指して練習を積んでいった。

 

 

 

キャッチャーは肩で飯が食えるほど楽な仕事じゃない。投手とのコミュニケーションも必要だったし、フレーミングやインサイドワークも重要なポイントだ。

 

経験値0の俺は、研究を積み重ねた。必死になって色んなものを吸収しようとした。

 

書籍や映像から取り入れた知識を実戦で生かそうともがき続けた。

 

気が付いたら、日が暮れるほど真っ暗になるまで練習していたこともあった。

 

 

 

地道に、愚直にやり続けた結果…俺はとりあえず一人前のキャッチャーになることは出来た。

 

しかし、このままではただの「キャッチャー」であり、「一流のキャッチャー」ではなかった。

 

そこで次に極めたのが牽制の技術だった。

 

 

 

抜群の肩を活かして牽制を極めた。結果として、鉄砲肩のキャッチャーが完成したのだ。

 

中学時代はまさに無双状態だった。走るランナーをことごとく刺してチームに貢献した。

 

しかし、高校に入ると流石にそれだけでは通用しなくなってくる。

 

そこで次に磨いたのが打撃だった。

 

 

 

打てて守れる捕手。どのキャッチャーも憧れる理想形だ。

 

俺が常に努力を惜しまず高みを目指した結果、チームの士気も上がり大会でも上位に入るようになっていった。

 

流石に甲子園とは縁が無かったが、いくらかはプロからも注目されるほどにはなっていった。

 

 

 

しかし、俺の実家は神社だ。いつかは家業を継がないといけないかもしれない。

 

そう言う事態に備えて、大学進学を選んだ。

 

 

 

大学でも俺は注目され続ける存在だった。常にライバルがいる状態と言うプレッシャーは尋常じゃない。

 

それでも監督の期待に応え続けた。チームの勝利にも貢献し続けた。

 

プロも狙えるんじゃないかと思っていた大学3年生の夏だった。

 

 

 

俺の肩が悲鳴を上げた。

 

 

 

全治1年ほど…4年の秋リーグまで絶望だった。

 

 

 

1年何もできない状態は流石に体力が衰えてしまう。リハビリできたとしてもリーグに間に合うとは到底思えない。

 

…俺は野球を諦めた。

 

 

 

梨華)…そうだったんですね。

 

小原)夢を諦めてしまうと、何をしたから良いのか分からなくなっちゃってね。

 

梨華)…

 

小原)でも、自分が培ってきた技術は誰かに伝えることはできるだろ?

 

梨華)…

 

小原)俺は、叶えられなかった夢を梨華ちゃんに託したんだ。

 

梨華)…

 

小原)梨華ちゃんも夢を諦めることになってしまった。ならば、誰かにその技術を伝えるとか…誰かの夢に寄り添う事が出来るんじゃないかな?

 

梨華)…

 

小原)…梨華ちゃん?

 

 

 

梨華)そうですね。私が叶えられなかった夢は…お姉ちゃんに託すことにします。

 

小原)…それで良いんじゃないかな?

 

梨華)はい。でも…最後まで夢は追いかけますよ。

 

小原)?

 

梨華)今度全国大会をかけた試合があって…これに勝てれば全国の舞台に行けるかもしれなくて…この全国大会を私の花道にしようと思ってて。

 

小原)…分かった。その試合、絶対見に行くよ。

 

 

 

…小原さ~ん。寝てませんよね?

 

小原)…おっと。大丈夫だよ。試合は?

 

梨華)7回の裏。2アウトでランナー1塁。…今お姉ちゃんが打席に立ってる。

 

小原)…本当に、偶然じゃないかってくらいあの試合と同じだ。

 

梨華)…そうね。私のこの球場での最後の試合よね。

 

 

 

1年前、それは赤田梨華にとって最後になるかもしれない大事な試合だった。

 

2-1と1点リードされた7回裏。2アウトと後が無い状況で梨華が打席に立った。

 

ランナーは1塁にいる。一発があれば逆転サヨナラと言う場面だ…

 

 

 

小原)1球目は何だった?

 

梨華)アウトローのチェンジアップ。空振りした。

 

 

 

小原)2球目は?

 

梨華)インハイのライズボールが外れてボール…

 

 

 

小原)3球目が…

 

梨華)真ん中低めのカーブ。私はそれを打った。

 

 

 

球場に鋭い打球音が響いた。

 

とっさに音の方向に目をやる。

 

綺麗なフォロースルーで打球の行方を見守る美華の目線は、遥か遠くを見つめていた。

 

 

 

梨華)行け!!行け!!届け!!

 

 

 

打球は左翼フェンス際に飛び込んでいった。

 

 

 

球場は割れんばかりの歓声に包まれた。

 

打球の行方を見守っていた美華もゆっくりとダイヤモンドを回る。

 

背中越しに高らかと突き上げた拳まで、梨華と全く一緒だった。

 

 

 

小原)参ったな…やっぱり赤田美華は最高のソフトボール選手だよ。

 

梨華)…そうね。私の一番の自慢だわ。

 

 

 

ホームベース上で、今日のヒロインが手荒な歓迎を受けている。

 

 

 

俺の夢は、一人のソフトボール選手の夢を育てた。

 

彼女の夢は、親愛なる姉の夢を今も育てている。

 

小原)今日は良い休日になったな。

 

梨華)…そうね。

 

 

 

終わり



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第五章 青巫女、猫を飼う。
#23 再び生まれいずる悩み


混沌のパンケーキパーティーから半月ほど経ったある日、私は突然リタさんに呼ばれて音子猫神社に来ていた。

 

梨華)それで…要件と言うのは?

 

リタ)実はですね…

 

梨華)何でしょう…

 

リタ)猫を飼いたいんです。

 

梨華)…猫ですか?

 

 

 

リタ)先日、葵さんのお宅にお邪魔したときに、ああやって一緒に同じ時間を過ごす仲間や家族って本当に素晴らしい物なんだなって感じたんです。

 

梨華)なるほど…

 

リタ)梨華さんも知っての通り、私の周りには家族がいないんですよ。両親は既に亡くなってますし、兄と姉は連絡すらよこしてくれません。

 

梨華)神職の梅岡さんや柊君は夜になったら帰っちゃいますもんね。

 

リタ)そうなんですよ。そうなった時、私は何に縋って生きればいいのかな…って思って。

 

梨華)今現状ですと…猫のぬいぐるみくらいですか?

 

リタ)そうです。猫のぬいぐるみしかいないんですよ。そんなのあまりにも悲しいじゃないですか。

 

梨華)そうですね。

 

リタ)それに、この音子猫神社は元々猫が沢山いた神社なんですよ。私があの時ほどではないですけど猫を飼う事で更に参拝客を集めることが出来るんじゃないかな…って思ったんです。

 

 

 

梨華)そうですね…分かりました。うちのお姉ちゃんがお世話になっているペットショップがあるんでそこに行きましょう。そこならきっと可愛い子に会えますよ。

 

リタ)本当ですか!?ありがとうございます!

 

 

 

思い立ったが吉日と言う事で、私はリタさんを連れてそのペットショップへと向かうことにした。

 

町の外れにポツンと立つペットショップはひょっとしたら見逃してしまうのではないか…と思うくらいに町の風景に同化していた。

 

梨華)ここです。

 

リタ)ペットショップ…円谷?

 

梨華)そこは動物…お店からしたら商品ですかね。商品にもとっても優しいお店なんですよ。

 

リタ)と言いますと?

 

梨華)ここは商品を展示してないんですよ。お客さんの要望をヒアリングした上で、ブリーダーさんの方から直接商品を提供してもらって販売しているらしいんですよ。

 

リタ)珍しいですね。

 

梨華)そうすることで、展示によって動物たちにストレスを与えない…とか言う話をしていましたね。また、ペットの飼育に真摯に向き合ってくれる方に直接販売することで飼育放棄を避ける目的もあるって言ってました。

 

 

 

店内に入ると、確かに犬や猫の姿は一つもないちょっと殺風景な空間が広がっていました。

 

???)いらっしゃいませ!ようこそ!

 

梨華)久しぶりね円華ちゃん。

 

???)あ、赤田さんですか?お久しぶりです~。ユニちゃんお元気にされてますか?

 

梨華)元気すぎて困っちゃうくらいよ。

 

???)そうですか。良かったです!

 

 

 

リタ)あ、あの…

 

梨華)あ、今日はこっちのリタさんが猫を飼いたいらしいからヒアリングして欲しいのよ。

 

???)は~い、分かりました。こちらにどうぞ!

 

 

 

私は店内の片隅に設営された応接スペースに通されました。

 

???)まずはお名前よろしいでしょうか?

 

リタ)はい。音崎リタです。

 

???)音崎さんですね?本日ヒアリング担当させていただきます円谷円華(つぶらやまどか)と申します。宜しくお願いします!

 

リタ)はい…

 

円谷)音崎さんは猫を飼いたいとのことですが…希望品種とかございますか?

 

リタ)えっと…

 

私は神社で大事にモフモフしている猫のぬいぐるみをかばんから引っ張り出して円谷さんに見せました。

 

リタ)このぬいぐるみの子みたいな猫っていますか?

 

円谷)え~っと…この色だと…シャムですかね?

 

リタ)シャム…

 

円谷)はい!間違いないと思います。シャムはタイ原産の猫ちゃんですね。タイの旧国名がシャムなんですよ。

 

リタ)そうなんですか…

 

円谷)品種はシャムで…性別のご要望はございますか?

 

リタ)この子はオスなんですよ。でも女の子に間違われちゃうくらい可愛いんで、可愛いオス…とかいますかね?

 

円谷)なるほど…結構難易度の高い注文ですが頑張って探してみますね。

 

リタ)ありがとうございます。

 

 

 

円谷)と言う事でここまでをまとめますと…シャムのオスで可愛い子…ですね?

 

リタ)はい。間違いありません。

 

円谷)承りました!見つかり次第ご連絡いたします。本日はありがとうございました。

 

リタ)ありがとうございました。

 

 

 

続く



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#24 三毛猫のホームズ

円谷さんとのヒアリングからおよそ半月が経ちました。

 

私の記憶から少しずつ猫の事が薄れて行っていたその時、円谷さんから電話がかかってきたのです。

 

 

 

円谷)どうも~円谷です~。お元気でしょうか?

 

リタ)あ、どうも。

 

円谷)ご希望のシャム猫、準備が出来ましたのでお迎えに来てあげてください。

 

リタ)分かりました。

 

 

 

私はすぐに梨華さんを呼び出し、ペットショップ円谷に向かいました。

 

 

 

円谷)お待たせ致しました。注文通りの可愛いシャム猫ですよ~。

 

リタ)あぁぁ~可愛い~!!

 

私の目の前にいたのは、ちっちゃくてもふもふな猫でした。

 

梨華)ちっちゃい猫ってかわいいのよね。

 

円谷)そうですよね。やっぱりどんな動物でも赤ちゃんとか子供って可愛いんですよ。

 

リタ)まずい…めちゃくちゃイチャイチャしたい…本物のネコチャ…デュフフ…

 

梨華)猫中毒でちょっと気持ち悪いオタクみたいになっちゃってますよ…

 

円谷)猫でここまで壊れる人、なかなか見ないですね…

 

リタ)お姉さんと一緒に帰ろうネコ―?

 

円谷)ネコ―?って何です?

 

梨華)さぁ…

 

 

~それから30分後~

 

 

円谷)…落ち着きました?

 

リタ)はい、何とか…

 

梨華)猫を車に乗せようとしただけなのにケージの奪い合いで30分も費やすとは…

 

円谷)ああいうのは猫にとってストレスになっちゃうかもしれないんで気を付けて下さいね?

 

リタ)はい…

 

 

 

円谷)それではここからは、猫のアフターケアに関するお話ですので…ちゃんと聞いておいてくださいね。

 

リタ)はい。

 

円谷)当店の隣が動物病院となっています。こちらの病院は当店と提携しているので、困ったことがありましたらいつでも相談しに行ってください。

 

リタ)ほうほう…

 

梨華)ちなみにここの病院に私の後輩がいるわ。

 

リタ)え!?ここも梨華さんと関連があるんですか?

 

梨華)関連があるからユニを飼うときもわざわざここを選んだのよ。

 

リタ)なるほど…

 

円谷)今からでも行ってみてはどうでしょうか。

 

リタ)そうですね。行ってみますね。

 

 

 

円谷さんの言う通り、隣には「赤川動物病院」の看板が掲げられた立派な建物がありました。

 

扉を開けて中に入ろうとしたその瞬間、突然三毛猫が私の方に向かって飛び掛かってきました。

 

リタ)んんんんんん!?!?!?

 

猫はしばらく私の顔に貼りついた後、どこかへと逃げて行きました。

 

 

 

???)ホームズ?ホームズ!!どこ行ったのよ全く…

 

 

 

猫がどこかに行ったすぐ後くらいに、誰かが追いかけるように出てきました。

 

 

 

???)あ…

 

 

 

続く



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#25 飼い主の卵と獣医の卵

???)あ…

 

あまりに突然の事に呆然と立ち尽くす私を見つけたその人は、ちょっと言葉に詰まりながらこう聞いてきました。

 

???)あの…ホームズを見ませんでしたか?

 

 

 

梨華)ホームズなら円華ちゃんの所じゃないかしら?

 

???)あれ?…先輩じゃないですか!!

 

梨華)そうよ。あなたの先輩よ。

 

???)どうしてこんな所に?

 

梨華)それは後で説明するから、今はホームズを捕まえなさいよ…

 

???)あ、そうでした…ありがとうございます!!

 

そう言うと、「ホームズ!!」と叫びながらその人は飛び出していきました。

 

 

 

リタ)あの子が後輩なんですか?

 

梨華)そう、彼女は「赤川さくら」。赤川動物病院の「獣医の卵」って所ね。

 

リタ)医学って難しいんですよね…確か大学は6年だった筈…

 

梨華)さくらちゃんは今も獣医学生で、あと2年で卒業だったかな…?

 

リタ)まだ2年もあるんですね…

 

 

 

暫く待合室で彼女が戻っているのを待っていると、奥から男性が出てきました。

 

???)おや、梨華ちゃんじゃないか。ユニちゃんに何かあったのかな?

 

梨華)いえいえ…あの子は元気過ぎるくらいで困ってるんですよ。

 

???)ハッハッハ…そうか。元気ならば問題ないね。

 

梨華)今日来たのは、こっちのリタさんが猫を飼うことになったんでここにお邪魔してるんですよ。

 

リタ)音崎リタです。宜しくお願いします。

 

???)音崎さんね。私はここの院長の赤川二郎です。

 

リタ)赤川先生ですね。

 

二郎)やだなぁ先生だなんて呼ばないで欲しいよ…普通に「二郎さん」で良いって。

 

梨華)この人、何故か「先生」って呼ばれるのが嫌みたいでね…

 

リタ)そうなんですか…失礼しました。

 

二郎)礼儀の正しい子だね。

 

リタ)ありがとうございます。

 

 

 

二郎)そう言えば…さっきさくらが慌てて飛び出していったけど、何があったんだろうね?

 

梨華)ホームズが脱走したみたいで…あ、戻ってきました。

 

梨華さんの声を聴いて窓の外に目をやると、さくらさんが三毛猫を捕まえて戻ってくる所でした。

 

相当抵抗されたようで、さくらさんは肩で息をしているようでした。

 

 

 

さくら)もう!何で逃げるのよ!!

 

二郎)どうしたんださくら…

 

さくら)ノミ取り薬使おうとしたら、突然暴れたのよ…これまでそんな事しなかったのに…

 

二郎)ホームズだって気に入らないことくらいあるだろうさ。そう言う動物の「心」に寄り添うのが獣医の一番大事なことだから…忘れないように。

 

さくら)分かってる…

 

 

 

さくら)先輩、先ほどはありがとうございました。ホームズは円華さんの膝の上でのんびりしていました。

 

梨華)それならよかったじゃない。

 

さくら)連れ戻そうとしたらめちゃくちゃ抵抗されましたけどね…

 

リタ)大変ですね…

 

 

 

さくら)それで今日はどういった御用で…?

 

梨華)さっきお父さんの方にも言ったんだけど、リタさんが猫を飼うことになってね…

 

リタ)私がリタさんです。

 

さくら)そうだったんですね。で、円華さんからここを紹介されたと…

 

リタ)はい。

 

さくら)と言う事は…梨華さんの事ですし、その猫とホームズを仲良しにしようと思ってますね?

 

梨華)理解が早くて助かるわ。と言う事で…さくらちゃんをお借りして良いですかね?二郎先生?

 

二郎)構わないよ。あと、先生はやめて欲しいなぁ…

 

梨華)ありがとうございます。じゃあ行きましょうかリタさん。

 

リタ)あ、はい…

 

続く



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#26 ネコと和解せよ

梨華)出発するわよ。

 

私とさくらさん、それからケージに入ったヤマダとホームズを載せた自動車はゆっくりと赤川動物病院を離れて行きました。

 

二郎)気を付けるんだよ。

 

二郎さんが見送ってくれたようで、背後で手を振っている様子がサイドミラーにちらっと見えていました。

 

 

 

梨華)まず私の家に寄ってもいいかしら?うちのユニも連れて行こうと思ってるのよ。

 

リタ)良いんじゃないですか?お友達はいっぱいいた方が良いでしょうしね。

 

さくら)…

 

何てことない会話が続く中、さくらさんは何故かずっと黙っていました。

 

 

 

リタ)さくらさん?大丈夫ですか?

 

さくら)…大丈夫。

 

リタ)さっきから元気がないじゃないですか。どうしたんですか?

 

さくら)…

 

 

 

梨華)さくらちゃん、何か困ってるならちゃんと言った方が良いわよ?二郎さんにも言えないようなことなんじゃないの?

 

さくら)…笑わないでもらえますか?

 

梨華)勿論よ。

 

さくら)…分かりました。

 

そう小さく消え入りそうな声で呟くと、悩み事を話してくれました。

 

 

 

さくら)私は獣医師を志して今勉強をしているのはお二人ともご存知ですよね?

 

梨華)勿論。

 

リタ)梨華さんが教えてくれましたから。

 

さくら)獣医としての知識や技量に関しては勉強して覚えていけばいいのでどうとでもなるんですけど…ちょっと困っていることがありまして…

 

梨華)それってさっきのあれ?

 

さくら)そうです…動物の「心」に寄り添う事が出来てないんですよ。

 

 

 

さくら)ホームズは私が獣医師を志し始めた頃からずっと一緒に暮らしてきた猫なんです。

 

リタ)そうなんですね。

 

さくら)もう四年もいるのに、私とホームズが心を通わせることが出来ないなんて…獣医師としての技量を持ち合わせていても…人として駄目なんじゃないかなって…

 

そう言うと、さくらさんは泣き始めてしまいました。

 

 

 

梨華)…さくらちゃんの言いたいことは分かるわ。これから動物との触れ合いを生業にしようって人が、動物と心を通わせられないのは結構しんどいかもしれない。

 

さくら)…そうですよね。

 

梨華)ならば、今日心を通わせる練習をしましょうよ。

 

リタ)そうですよ。私だって町で猫を見かけて、近づいたら100%逃げられるんですから…一緒に猫と仲良くなりましょうよ。

 

さくら)…良いんですか?

 

梨華)ホームズのあの嫌がり方を見て、あんまり上手くいってないんだろうな…って思ったもの。

 

さくら)…

 

梨華)だから、本当はリタさんとユニを触れ合わせようと思ってたけどさくらちゃんにも声をかけたのよ。

 

さくら)…そうだったんですか。ありがとうございます。先輩にはずっと迷惑ばっかりかけちゃって…

 

梨華)良いのよ。困った時くらいは頼りなさいよ。

 

さくら)はい…

 

 

 

それからしばらくして、車は大きな一軒家の前に止まりました。

 

梨華)さぁ、着いた。ここが私の実家よ。

 

リタ)いやぁ…大きいですね…

 

さくら)私も初めて見ましたよ…

 

梨華)多分今はだれもいないから…ちょっと中に上がっていく?

 

リタ)良いんですか?

 

梨華)大丈夫よ。

 

さくら)ちょっと気になるんで、中を見せて下さい!!

 

梨華)OK。じゃあついてきて。

 

私とさくらさんは梨華さんに導かれて赤田家の中に入っていきました。

 

続く



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#27 ロシアンブルーのユニ

赤田家の内部は、葵さんたちが暮らしていたシェアハウスよりも落ち着いた雰囲気がありました。

 

リタ)この家に暮らしているのって…

 

梨華)私とお姉ちゃんだけなんだよね。母さんは赤田神社にいるし、父さんは大学のすぐ近くにある下宿にいるから…

 

さくら)あの下宿って、教授の持ち家なんですよね?

 

梨華)そうそう。

 

リタ)あの、教授とは…?

 

梨華)父さんは大学で機械工学を教えてるの。詩音の専攻が確か機械工学だったはず…

 

さくら)そうですそうです!教授はずっと「あいつはe-Sportsにしか興味がないのか?」ってぼやいてました。

 

リタ)学生の頃からゲーマーだったんですね…

 

 

 

リビングに通されると、梨華さんが一杯の緑茶を出してくれました。

 

梨華)ちょっとユニを探してくるから待ってて…

 

そう言うと梨華さんは、「ユニ~?」と声をかけながら二階に上がっていきました。

 

 

 

所在なく部屋を見渡していると…

 

部屋の一角に沢山のメダルやトロフィー、さらにユニフォームやグローブが置いてありました。

 

リタ)あ、あれって…

 

さくら)先輩がやっていたソフトボールの奴ですね。

 

リタ)話には聞いていましたけど、ここまで凄いとは…

 

さくら)日本代表のユニフォームとかそう簡単に見られるものじゃないですからね。

 

私はただ「凄いなぁ…」としか言えませんでした。

 

 

 

暫くすると、梨華さんが青い毛色の猫を抱えて戻ってきました。

 

梨華)お姉ちゃんの部屋で溶けてたけど、声を掛けたらすぐ来てくれたわ。

 

さくら)相変わらず元気そうで何よりですね。

 

 

 

梨華)リタさん、ちょっと抱っこしてみます?

 

リタ)え!?暴れたりしませんか?

 

さくら)これが全く暴れないんですよ。ここまで人間慣れしている猫ってそんなにいないと思いますよ。

 

リタ)そうですか…?じゃあ…

 

 

 

梨華さんから受け取った猫は、私の膝の上で動くことなくのんびりとしていました。

 

背中や頭をなでてあげると、気持ちよさそうに「ニャ~」と鳴いて…まるで喜んでいるようでした。

 

 

 

リタ)この子…本当に猫ですか?

 

梨華)猫に決まってるじゃないですか。急にどうしました?

 

リタ)いや…本当に私が猫を見つけて近寄って行っても、確実に逃げられるか敵意を向けられるかのどっちかなんですよ。

 

梨華)この子に警戒心が無さすぎるって言うのが要因の一つかもしれませんけど…ヤマダを受け取るときに、推しのアイドルについに出会うことのできたオタクみたいになっていたのも良くない部分だと思うんですよね。

 

さくら)何ですかそれ…

 

梨華)簡単に言うと…デュフっていたというか…

 

さくら)…それは駄目ですよ。警戒もしたくなりますって。

 

リタ)…申し訳ありません。

 

 

 

梨華)そろそろ音子猫神社に行きましょうか。車の中でホームズとヤマダが待ってるでしょうし。

 

リタ)そうですね。ユニちゃんも梨華さんにお返ししますね。

 

さくら)音子猫神社なんて初めて聞きましたけど…そこが梨華さんの実家と言うことで…?

 

リタ)そうです。名前にも「猫」が入っているので分かると思いますけど、元々猫が沢山住み着いていたんですよ。

 

さくら)猫好きにはたまらないじゃないですか…

 

リタ)今は猫もいなくなっちゃって寂しい場所になっちゃったんですよね。そこで!ヤマダを飼おうってなったんです。

 

さくら)なるほど…ホームズやユニが仲良くなってくれたらいいですね。

 

 

 

ユニもすんなりとゲージに収まり、三人と三匹を乗せた車は一路音子猫神社に向かって走り始めました。

 

続く



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#28 ようこそ我が家へ

長い石段を登り、視界がぱっと開けると…そこにはいつもと同じ音子猫神社の境内が広がっていました。

 

梨華)あれ以降、参拝客の足も全然減ってないですね。

 

リタ)そうなんですよ。どうもちょこちょこSNSとかで話題に取り上げてくれている人が居るみたいで、それなりにお客様が来てくれているんですよ。

 

さくら)…本当に素敵な所ですね。ロケーションも抜群ですし、なんとなく「ふるさと」と言うか…「実家」というか。そんな安心感があるような気がします。

 

リタ)そうですか?ありがとうございます。

 

 

 

リタさんに連れられて社務所の方に向かっていると…社務所からちょうど出てきた梅岡さんと鉢合わせました。

 

梅岡)おや…リタさん、戻ってたんですね。

 

リタ)はい、梨華さんとさくらさんも連れてきちゃいました。

 

さくら)あ…赤川動物病院の赤川さくらです。よろしくお願いします。

 

梅岡)ほぉ…梨華さんはともかく、さくらさんはどういったご用件で?

 

さくら)簡単に言いますと、リタさんが飼う猫の飼育についての教授とついでにお友達作りもしようと言うことで…

 

梅岡)ほぉ…猫ですか。

 

 

 

梅岡)この神社はかつて猫が沢山いた…と言う話は恐らく聞いていますでしょう。

 

さくら)はい。

 

梅岡)管理はリタさんのご両親が丁寧にされていました。

 

さくら)大変だったでしょうね…

 

梅岡)しかし…

 

さくら)しかし?

 

梅岡)数年ほど前に、ご両親が相次いで亡くなられて…

 

さくら)あぁ…

 

梅岡)管理の手立てが付かないということで、地域の方々に引き取ってもらったんです。

 

さくら)そうでしたか…

 

梅岡)リタさんがこの神社の巫女になってからは、猫のいない寂しい神社になっていたのです。

 

 

 

さくら)リタさん、猫はこの神社の一つの「売り」だったということですよね?

 

リタ)そうですね。

 

さくら)でしたら、ヤマダちゃんもしっかり大事に飼ってあげないといけないですよ!!俄然やる気が出てきました!!

 

梨華)いつになく気合入ってるわね…

 

さくら)当たり前ですよ!!これでも医者の卵です!!「動物の心に寄り添う」為なら、いくらでも頑張れますから!!

 

梅岡)頼もしいですな。リタさん、さくらさんのお話はしっかり聞いておいたほうがよろしいですよ。

 

リタ)そうですね。

 

 

 

それから小一時間ほど、さくらさんに飼育のいろはを事細かに教えてもらいました。

 

その間、ヤマダ・ユニ・ホームズの三匹はケージから出して部屋の中を自由に行動させることにしました。

 

三匹はまさに「借りてきた猫」状態で、しばらく戸惑ったかのように全く動きませんでした。

 

しかし、しばらくすると慣れてきたのか部屋の中をウロウロして色んなものを観察しているようでした。

 

時折、ユニが梨華さんの膝の上にやってきたりホームズがさくらさんにすり寄ってきたりしていましたが…

 

ヤマダだけは部屋に興味津々なのか、ずっと部屋をきょろきょろと見渡しては色んな所を探検していました。

 

 

 

さくら)ヤマダちゃん、もしかしたらこの部屋が気に入ったのかもしれませんね。

 

梨華)私やさくらちゃんに興味を示さないあたり、かなりのお気に入りのようね。

 

リタ)そうなんですか?

 

さくら)当の本人に聞けるわけではありませんけど…恐らくここがテリトリーなんだと分かっているのかもしれませんね。

 

リタ)そっかぁ…良かったぁ…

 

 

 

ユニもホームズも、ヤマダと一緒に過ごしている間は敵意などを一切向けることなくとてもおとなしかったので、今後他の猫と交流する際も安心してみていられるのではないか?とさくらさんも太鼓判を押していました。

 

 

 

梨華)今日はお疲れさまでした。ヤマダちゃんはしばらく過度に構いすぎないようにした方が良いと思うわ。ただ、しつけはちゃんとしておかないとね。

 

リタ)そうですね。

 

さくら)何か困った時は、円谷さんや私を頼ってくださいね。

 

リタ)分かりました。

 

 

 

ユニとホームズがゲージに入るタイミングで、ヤマダが何回もニャーニャーと鳴いていました。

 

まるで、お別れしたくないかのようでした。

 

 

 

梅岡)小さくて可愛いですな。

 

リタ)そうですね。

 

梅岡)これからしっかりと世話をして、この子にとっても参拝客にとっても楽しい生活になるように頑張っていきましょう。

 

リタ)はい!!

 

 

 

こうして音子猫神社にあたらな仲間が増え、楽しくも騒がしい日常が始まろうとしていました。

 

続く



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第X章 榎本詩音の貴重なオフ
番外編 私と兄貴の日曜日


日曜日。

 

多くの人が休日になるこの日。

 

基本的に定休日の無い私も、たまにオフを作ってゆっくりすることがある。

 

 

 

今日は、丁度そんな日曜日だ。

 

いつもより少し遅く起きて、予定を確認する。

 

当然何もない。とても良い事だ。

 

 

 

詩音)どうしよっかな~

 

ぼんやりとした頭をちょっと働かせて何をするか考える。

 

 

 

詩音)そう言えば…

 

私は、ふと思い立って隣の部屋に向かった。

 

 

 

隣の部屋では、1つ年上の兄貴が寝ている。

 

兄貴も仕事が休みで完全に休日モードだ。

 

 

 

詩音)なぁ、兄貴…起きてるか?

 

???)…何?

 

詩音)最近洋服買ってなかったよな?

 

???)…そうだった気がする。

 

詩音)今日暇だろ?私も予定無いしさ、一緒に服を買いに行かないか?

 

???)…うん。良いよ。

 

詩音)OK…とりあえず朝飯作っておくな。

 

???)おぅ…

 

 

 

30分ほどかけて、簡単な朝食を作る。

 

それを食べながら待っていると、兄貴が眠そうな顔をしながらやってきた。

 

 

 

詩音)冷める前に食べな。

 

???)ありがとう。

 

 

 

兄貴はモソモソと朝飯を食べていた。

 

 

 

詩音)片づけとくよ。

 

???)ん。

 

詩音)兄貴はとりあえず着替えな。

 

???)ん。

 

 

 

兄貴は部屋に戻って洋服に着替えてきた。

 

 

 

詩音)兄貴…その服何日連続で着てるんだよ…

 

???)今日出そうと思ってたんだけどなぁ…

 

詩音)まぁいいや。とりあえず洋服探しに行くか。

 

???)おう。

 

 

 

私が出かけるときは、必ず帽子と伊達眼鏡を装備するようにしている。

 

 

 

???)なぁ、ヤミさん…

 

詩音)何だよ。

 

???)顔出ししてないのに何で変装してるんだよ。

 

詩音)いつ顔バレするか分かんねぇだろ?だから常に対策しとかないと…

 

???)そういうもんなのかねぇ…

 

詩音)そういうもんさ。私の知り合いの顔出ししてない配信者も、外出先でバレたらしいからな…

 

???)よほど特徴的な声だったのか?

 

詩音)そんな所だな。

 

 

 

そんなこんなで、洋服屋に到着した。

 

 

 

???)…

 

詩音)兄貴?大丈夫か?

 

???)…あんなに寝たのに眠いかもしれん。

 

詩音)やっぱりか…どうする?

 

???)とりあえずついていくよ。チョイスは任せるよ。

 

詩音)はぁ…しょうがねぇな。

 

 

 

私の後ろで眠そうにしている兄貴をとりあえず放置して、兄貴に合いそうな服を探す。

 

兄貴は紫が大好きだ。紫色の洋服を優先的に選んでいく。

 

 

 

???)…

 

詩音)起きてるか~?

 

???)起きてるよ…

 

詩音)こんな感じでどうだ?

 

 

 

見繕った服を兄貴に渡す。

 

 

 

???)ん~…洋服は全く分からんからこれで良いや…

 

詩音)そうか。なら、これを買ってきな。

 

???)いつも助かる…ありがとうな。

 

 

 

会計を済ませて、兄貴は大きな袋を持って戻ってきた。

 

 

 

???)他にどこか行きたいところは無いか?

 

詩音)そうだな…もう少しだけ買い物に付き合ってくれないか?

 

???)良いけど、どこに行くんだ?

 

詩音)いや…まぁ、とりあえずついて来てくれれば良いからさ。

 

???)…まぁいいや。付き合ってあげるよ。

 

詩音)ありがとう。

 

 

 

私は、何軒か店を回って欲しかった物を買っていった。

 

 

 

???)それにしても結構な量買うんだな。

 

詩音)配信者仲間にちょっとしたサプライズを考えていたんだ。今度会う時にこっそり渡そうと思ってな。

 

???)誕生日とかか?

 

詩音)いや、周年が近いんだ。

 

???)なるほどな…

 

詩音)あいつが欲しがってそうなものをある程度調べておいたから…それを探していたって訳。

 

???)そうか…喜んでもらえたらいいな。

 

 

 

結局、私が買ったものは全て兄貴が持ってくれた。

 

詩音)重くないか?

 

???)大丈夫。

 

詩音)そっか…

 

 

 

…普段からそこまで会話はないとはいえ、この状況は結構気まずい。

 

 

 

詩音)兄貴、最近仕事の調子はどうなんだ?

 

???)ぼちぼちってところかな。大きなアクシデントとかも起こってないし。

 

詩音)そりゃ良かった。私も兄貴がいないとちょっと寂しいしな。

 

???)…何だよ急に。

 

詩音)良いだろ?私は兄貴の妹なんだからさ、たまには甘えたって…

 

???)そんな柄じゃないだろ。たまに僕のことを呼び捨てで呼んでいる癖に。

 

詩音)結構昔のことじゃん…なんでそんなこと覚えてるの?

 

???)悪いな。僕は忘れられない性分なんでね。

 

 

 

???)そういえば、この前梨華と会ったって言ってたよな。何してたんだ?

 

詩音)梨華さんと葵ちゃんと…あともう一人がうちに来て、パンケーキを食べてたんだ。

 

???)ちょっと騒がしいなとは思っていたけど、そういうことか…もう一人っていうのは?

 

詩音)梨華さんが最近知り合ったって言ってたな。名前は確か…音崎…とか言ってたかな。

 

???)音崎…聞いたことないな。多分大学にそんな人は居なかったはずだ。

 

詩音)兄貴は知らないのか。この街の山手の方の神社の巫女さんらしい。

 

???)…知らないな。

 

詩音)情報通の兄貴が知らないって相当だな。

 

???)さすがに情報収集を疎かにしていたかもしれないな…また梨華に会いに行くか…

 

詩音)その方が良いかもな。

 

 

 

そんなこんなで、大体1時間くらい色んな店を回っていって買い物は終了した。

 

 

 

詩音)兄貴、助かったよ。ありがとな。

 

???)おう。

 

 

 

時計を見ると、時刻は丁度正午を回ったくらいだった。

 

まだ半分もある。どうしたもんか…

 

兄貴は部屋に戻ると、ガッツリと趣味に没頭していた。この感じだとしばらくは部屋を出てくる感じはなさそうだ。

 

詩音)とりあえず昼ご飯でも作るか…

 

そう呟くと、私は台所に向かっていった。

 

続く



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第X章 ありがとう
繧「繝ェ繧ャ繝医え


8月15日。今年もこの日がやってきた。

 

私は、この日になると…あの時の事を思い出す。

 

 

 

それは、大学2年の夏休み直前の事だった。

 

私-湯田遥は、夏休みをどう過ごそうか迷っていた。

 

 

 

学生時代の夏休みほど有意義で楽しい時間は無い。

 

人間は若ければ若いほど時間の流れが穏やかに感じるらしい。

 

この長期間の休暇をどれだけ楽しめるか…私は若干の眠気に負けながらずっと考えていた。

 

「あんまり眠れなかったんじゃないの?」

 

学食のテーブルに向かい合わせで座っている高橋刹那が心配そうに顔を覗き込んできた。

 

「…目がこうなっちゃってからさ、夏はずっとこんな感じ。夏以外はこうならないんだけどね。」

 

 

 

私の片目は眼帯で隠されている。

 

目が悪くなってしまったわけではないのだが、中二病をこじらせ続けているわけでもない。

 

純粋に「生活の邪魔」になってしまっているのだ。

 

 

 

きっかけは中学生の時だった。

 

私の大好きな美術の授業で静物画を描いていた時のことだった。

 

私の左目の景色がぼやけていくのを感じた。

 

霞んだ景色は数分もしないうちに全く見えなくなってしまった。

 

 

 

怖かった。

 

とても怖かった。

 

 

 

すぐに病院で診察を受けたが、原因は「不明」だった。

 

 

 

原因は分からなかったが、通常の治療で様子を見ることになった。

 

治療を続けていると、徐々に視界が回復してきた。

 

しかし…その景色は様子がおかしかった。

 

 

 

景色に「色」が無かったのだ。

 

見えるものは全て白と黒で構成された…まるで過去に閉じ込められたかのような風景が広がっていた。

 

意図せず片目だけ色盲になってしまった私は、左目を封じ込めて全てを無かったことにした。

 

 

 

人は変化に敏感だ。そして、その変化を忌避する傾向にある。

 

私が孤立するのに時間はかからなかった。

 

そんな状態で中学を卒業し高校に進学した私の前に現れたのが刹那だった。

 

 

 

「その眼帯…どうしたの?」

 

「ちょっと目を怪我しちゃってね…今は見えないんだよ。」

 

「そっか…大変じゃない?」

 

「そうでもないよ。慣れちゃったし。」

 

「ふーん…」

 

 

 

最初に言葉を交わした感触は全く良くなかった。

 

(もう二度と会話なんかしないんだろうなぁ…)

 

そう思っていた。

 

 

 

暫く同じクラスで同じ時間を過ごすうちに、刹那も孤独であることに気付いた。

 

気になって仕方なかった。

 

 

 

「ねぇ、それって…」

 

「聖書だけど?」

 

「聖書ってことは…クリスチャンなの?」

 

「違う。」

 

「じゃあ何で…」

 

「宗教って面白いと思わない?」

 

「…え?」

 

「宗教って形の無いものに縋って自己満足しているだけなんだよ?」

 

「…」

 

「私はそんな人間の不思議な行動にすごく興味があるの。だから宗教の研究がしてみたいな…って思ってて。」

 

「…」

 

 

 

思った以上に変わった子だった。

 

宗教を「自己満足」と割り切るその言動に、私はますます興味を抱いてしまった。

 

(この子は絶対面白い子だ…)

 

私の直感がそう言っていた。

 

 

 

それから私と刹那は孤独な者同士、強い絆で結ばれていった。

 

周りのクラスメートは不気味なまでに仲の良い私達をますます避けるようになっていった。

 

でも、私も刹那も唯一無二の友人を得ることが出来たことが一番嬉しくて、そんなこと一切気にしていなかった。

 

 

 

そして今に至る。同じ大学に合格した私達は、同じ下宿で暮らしている。

 

そして昼休みは学食で落ち合うのがいつものルーティンだ。

 

 

 

「…遥ちゃん!!」

 

ふいに大きな声が聞こえて目が覚めた。どうやら寝てしまっていたようだ。

 

向かいに座っている刹那がちょっとだけ怒っていた。

 

 

 

「あぁ…ごめんごめん。」

 

「もう…今日は夏休みどうするかについて話すつもりだったんでしょ?」

 

「そうだけど…刹那はどうする?」

 

 

 

「街の寺社仏閣についてのレポートを出さなきゃいけないんだけど、赤田神社はもう出しちゃったし…どこを調査しようか迷っているのよ。」

 

「このあたりだと赤田神社が一番大きいもんなぁ…山の奥の方に神社があるって聞いたことがあるけど、あそこに行くには車があった方が良いと思うよ。」

 

「…免許持ってないんだけど。」

 

「そっか…」

 

 

 

「遥ちゃんはどうなの?」

 

「私は…いつもと一緒。風景画の課題が出たよ。」

 

「良いわよね芸術学科は。少なくとも論文を出す必要が無いんだもの。」

 

「そんなこと言うなよ…風景を探すだけじゃない。画材は何にするかとか、何で描くかとか…そう言うのを色々考えなくちゃいけないから想像以上に大変なんだぞ?」

 

「遥ちゃんはいつもデッサンと色鉛筆でしょ?画材に関しては悩む余地はないと思うけど。」

 

「…」

 

 

 

全くもってその通りだ。

 

悩む余地なんざ1mmもない。

 

私が悩んでいるのは、「どこを描くか」だった。

 

どうせならば誰も選ばないような所をチョイスしたい…そう思っていた。

 

ただ、思い当たるような場所が全く出てこなかった。

 

 

 

…しばらく頭の中の情報を引っ掻き回して探していると、一つの結論が浮かび上がってきた。

 

 

 

「…そうだ。私のばあちゃんの故郷に行ってみない?」

 

「遥ちゃんのおばあさんの故郷…?」

 

「そうそう。あそこには確か歴史のある神社があった筈なんだよね…あと、田舎って言うのはなかなか絵の題材にはしてこないと思うし…良いんじゃないかな?」

 

「…」

 

暫く刹那は黙り込んでいた。考えているのだろうか?

 

「良いわね。それ採用!!」

 

 

 

それから一週間後。

 

私と刹那は、電車に揺られて田舎へと向かっていた。

 

 

 

「最寄りから二駅って、結構近いのね。」

 

「近いことには近いんだけど…二駅も離れると立派な田舎なんだよね…」

 

「そうね。周りが田んぼばっかりになってきちゃった。」

 

「私にとってはなんてことない風景だけど…刹那はこういうのってあまり見かけないのかな?」

 

「そうね…おぢばで天理に行ったことがあるからこういうのは体験したことがあるわ。」

 

「おぢばって…天理教の?」

 

「そう。私のお母さんが天理教なの。私は無宗教なんだけど…『一回行ってみたら?』って言われて行ったことがあるの。」

 

「なるほどね…それで、どうだった?」

 

「案外楽しいわよ。おぢばは天理教徒以外も受け入れてくれるし、子供同士の絆とか…そういった輪を広げることができるから。」

 

「へぇ…よかったじゃん。」

 

 

 

こんな感じで他愛もない会話をしながら、電車は田舎へとひた走っていった。

 

 

 

目的地に着き、電車を降りると…そこはまさに、絵に描いたような田舎の風景だった。多分「少年時代」をかければそれなりの風情が得られそうな風景だ。

 

 

 

「いやぁ~!!着いた着いた。」

 

「本当に綺麗な場所ね。」

 

「私が小さいころから全然変わってないよ。」

 

「そう言えば…ここに来るのは久しぶりって言ってたわよね?」

 

「そうなんだよ…どうしても忙しくって、中学卒業の前に行ったっきりでね…」

 

「5,6年くらいは来てないのね。」

 

「ばあちゃん、ボケてないかな…」

 

「行く前に電話した時はちゃんと会話できてたんでしょ?」

 

「まぁね…」

 

「それなら大丈夫よ。流石にすぐにおかしくなることはないでしょうし…」

 

 

 

こんな感じで他愛もない会話をしながら、私達は家へと向かっていった。

 

 

 

「ここがばあちゃんの家だよ。」

 

「立派ね…」

 

「早速入ろうか。」

 

「うん。」

 

 

 

玄関前の呼び鈴を押す。

 

暫く待っていると、扉がガラガラと開いた。

 

 

 

「あぁ、ハルちゃん。いらっしゃい。」

 

「ばあちゃん、久しぶり。元気にしてた?」

 

「ばあちゃんはいつでも元気さ。」

 

「そりゃ良かった…」

 

 

 

「そっちは友達の子かい?」

 

「そう。私の大学の同期の子。」

 

「高橋刹那です。暫くお世話になります。」

 

「礼儀のいい子だねぇ…何て呼べばいいかね?」

 

「刹那と呼んでください。」

 

「う~ん…セッちゃんでええかね?」

 

「あ…はい。」

 

ちょっと怪訝な顔をした刹那を見ていると、思わず笑いそうになってしまった。

 

 

 

中に通されて、麦茶を一杯もらってから刹那が突然切り出した。

 

 

 

「すみません。ちょっとお伺いしても宜しいでしょうか?」

 

「何だい?」

 

「遥ちゃんから、この辺りに歴史のある神社があると聞いているんですが…どちらにありますかね?」

 

「あぁ~…どこだったかねぇ…」

 

 

 

「ばあちゃん…覚えてないならほかの人に聞くから、無理しなくてもいいよ?」

 

「あ、思い出した。駅から…確か10分くらい歩けばあるはずだよ。」

 

「そこまで遠くないですね…ありがとうございます。」

 

「役に立ったんなら嬉しいよ。」

 

 

 

刹那はばあちゃんから話を聞くと、すぐに出かける準備を始めた。

 

「え?もう行くの?」

 

「当たり前でしょ?私は課題をやる為に遥ちゃんについてきたんだから…」

 

「そっか…何かあったらちゃんと連絡してね?」

 

「大丈夫よ。携帯だって持ってるんだし…」

 

 

 

「外、熱いだろうからお茶でも持っていきな。」

 

話を聞いていたばあちゃんがペットボトルに冷たい麦茶を入れて刹那に手渡していた。

 

「あ、ありがとうございます。助かります。」

 

「気をつけて行ってくるんだよ~」

 

「は~い!」

 

 

 

刹那が外に出かけた後、ばあちゃんは私に声をかけた。

 

「ハルちゃん、セッちゃんが帰ってくるまでにおいしいものでも準備しておこうじゃないか。」

 

「お…?ということは…あれを作るってこと?」

 

「そうそう。手伝ってくれるね?」

 

「もちろん!!」

 

 

 

こうして、私はばあちゃんと二人で夕食の準備を始めた。

 

ばあちゃんの得意料理…それは「オムライス」だ。

 

ばあちゃんは若い頃、洋食屋でウエイトレスとして働いていたことがあった。そのお店でまかないを作ってくれていたシェフに教えてもらったという「たんぽぽオムライス」がばあちゃんの十八番なのだ。

 

「たんぽぽオムライス」は普通のオムライスとは大きく違う点がある。それは、プレーンオムレツを切ってチキンライスを包む点だ。

 

そのため、中がふわふわのプレーンオムレツを作れないとおいしさに大きな差ができてしまうのだ。

 

 

 

「オムレツを作るのって本当に難しいもんだよ。多分だけど、ハルちゃんにはまだ作れないと思うね。」

 

「そ…そんなことないって!!」

 

玉ねぎのみじん切りを準備していた私は思わず大きな声で反論してしまった。

 

「じゃあ…作ってみるかい?」

 

 

 

大失敗した。

 

「ほ~ら言ったじゃないか。」

 

「…」

 

卵が完全に焦げてしまった。

 

「まぁ…料理は失敗しても食べられればどうにかなるもんさ。気にしなくていいよ。」

 

「ごめんね…」

 

「だから気にせんでええ。さっきも言ったがオムレツは本当に難しいもんなのさ。私だって何回も失敗してるんだから…」

 

「でも…」

 

「大丈夫。その失敗が次の成功を生むんだよ。」

 

「…うん。」

 

 

 

一方その頃…

 

「ここがその神社…良い…すっごく良い…!!」

 

刹那は神社に到着していた。

 

「佇まいと言い、趣と言い…すっごく風情を感じる!!」

 

ここだけ聞いていると何だかオタクみたいだ。(実際オタクなんだけど。)

 

 

 

本人に後から聞いた話によると、境内も歴史を感じさせながらも常に新しい雰囲気を醸し出していたらしい。

 

風景を見ていないからさっぱり分からないのだが、とにかく凄いってことなんだろう。

 

 

 

刹那は暫く中を探索した後、すぐ近くにいた神職に声をかけた。

 

「すみません。」

 

「はい、どうされましたか?」

 

「実は…」

 

刹那が事情を説明すると、神職は社務所にいると言う神主の所まで案内してくれた。

 

 

 

「はぁ…それでうちの神社を…」

 

「はい。良ければご案内していただけませんか?」

 

「分かりました。では参りましょうか…」

 

 

 

その後、刹那は神主の案内で神社を隅から隅まで案内してもらったそうだ。

 

 

 

「ありがとうございました。凄く参考になりました。」

 

「お役に立てて何よりです…」

 

 

 

(これでレポートが書ける…)

 

刹那はウキウキしながら家へと帰っていった。

 

 

 

「ただいまー。」

 

「あ、丁度刹那ちゃんが帰ってきた。」

 

「セッちゃんお帰り。どうだったかね?」

 

「素晴らしすぎました。神社そのものの歴史やこの町との密接な繋がり…色々と知ることができました。」

 

「そうかいそうかい…そりゃあ良かったよ。今ちょうど晩御飯が出来た所だから食べるかい?」

 

「はい…もうお腹ぺっこぺこなんで頂きます。」

 

 

 

「うわぁ…おいしそうなオムライス…」

 

「私の自信作さ。」

 

「あれ?遥ちゃんのそれって…」

 

「…焦がしちゃった。アハハ…」

 

「あ、遥ちゃんが失敗したやつなのね…」

 

「まぁ、自分で作ったやつだし…自分で食べようかなってね…」

 

「失敗してもおいしかったらそれはそれでありだと思うからいいんじゃないかな?」

 

「そうだね…」

 

 

 

ばあちゃんのオムライスに、刹那は大絶賛だった。

 

私の作ったオムライスは、ほんのちょっとだけ苦かった。でも、それもまた良い調味料な気がしてきた。

 

 

 

「さ~て、ご飯も食べたし…お風呂でも入るかい?」

 

「ここのお風呂、ゆったり広々で落ち着くよ~。」

 

「もう今日は色々歩き回ってへとへとなので、ありがたく頂きますね。」

 

 

 

と言う訳で…私と刹那は一緒に入浴することになった。

 

下宿の風呂場は一つしかないので、基本的に誰かと一緒に風呂に入ることはなかった。

 

同性なので、一緒に風呂に入ること自体変なことじゃ無い訳ではあるが…それでも何だか不思議な感覚だった。

 

 

 

「あ~…もう溶けちゃいそう…」

 

刹那は相当疲れていたようで、浴槽内で溶けかかっていた。

 

「そのまま沈まないでよ?うちのじいちゃんは一回沈んだんだからさ…」

 

「怖いこと言わないでよ。」

 

「アハハ…ごめんね脅かすようなこと言っちゃって。」

 

 

 

「…ねぇ遥ちゃん。」

 

「何?」

 

「…その、どうなの?」

 

「どうって…何が?」

 

「その…恋人とかさ、いるの?」

 

「…え?何急に。」

 

「いや…こういう場所ってさ、こういう話をした方が盛り上がるかなって…」

 

「やだなぁもぉ~…いるように見える?」

 

「…見えない。」

 

「待ってそれはストレートに言わないで欲しかったな。」

 

「ごめんごめん…」

 

 

 

「そういう刹那ちゃんは彼氏とかいるの?」

 

「…彼氏ってほどじゃないけど、同じ学部の別の学科にちょっと仲良くなれそうな人がいるの。」

 

「誰々?教えてよ…」

 

「それはね…h」

 

「これこれ!!はよ上がらんと二人とも茹でダコになってまうよ!!」

 

せっかくの恋バナ(みたいなもの)はばあちゃんの声にかき消されてしまった。

 

 

 

お風呂から上がると、二組の布団が綺麗に敷かれていた。

 

「私が布団敷いておいたから、ここでゆっくり寝なさいな。」

 

「何から何までありがとうございます。」

 

「さぁさぁ、もう遅いんだし早く寝るんだよ。」

 

「ばあちゃんは早寝早起きしないとすっごく怒るから寝た方がいいよ。」

 

「そうなんだ…じゃあゆっくり休ませてもらいますね。」

 

 

 

こうして、二人並んで布団で眠った。

 

 

 

しかし、夢が私を眠らせてくれなかった。

 

 

 

ぼんやりと見えてきた風景は、いつも見る風景だった。

 

(まただ…)

 

 

 

その風景はいつも夜だった。昼だったことは一度もなかった。

 

私は誰かに手を引かれて走っている。その「誰か」の顔は一度も見えたことがなかった。

 

私の隣には同じ人に手を引かれているもう一人の少女が見える。その顔もよく見えない。

 

ただ、顔の見えない二人には明らかに「焦り」の表情だけが見えた。

 

 

 

辺りにも沢山の人がいるが、どの人も一様に顔は見えない。

 

ただ、どの人も明らかに慌てふためいている。

 

何かに怯え、逃げ惑っているようだった。

 

 

 

次第にその理由がはっきりとしてくる。

 

辺りの家々は赤い炎に包まれているのだ。

 

そして、逃げ惑う人々の頭には「頭巾」があった。

 

 

 

流石にこれだけ見えると私にも分かる。

 

これは「空襲」の風景だと…

 

恐らく私達も空襲から逃れ、防空壕にでも行こうとしているのだろう。

 

でも、必ずその道中で私は何かに躓いて転んでしまうのだ。

 

 

 

転んだことによって握っていた手がほどけてしまう。

 

「誰か」は私の手を再び掴もうとこちらに駆け寄ってくるのだが…

 

ふと、空を見上げて…見えない顔に「恐怖」の表情を浮かべながら私を置き去りにして逃げてしまうのだ。

 

 

 

「待って!置いて行かないで!!」

 

そう叫んでも、止まることはない。

 

そんな私も、空を見上げる。

 

 

 

空には「ヒュー」と甲高い音を立てながら、街を焼き払おうとする焼夷弾が沢山浮かんでいる。

 

そんな焼夷弾が、私の真上へと落ちようとしているのだ。

 

体は金縛りに遭ったかのように全く動かない。

 

その音は次第に近づいてくる。

 

(逃げないと…)

 

そう思っても、1mmも体は動いてくれない。

 

音が近づく。

 

私にはどうしようもできない。

 

 

 

何で…何で…嫌だ!死にたくない!こんなことで死にたくない!嫌だ嫌だ嫌だ!!!

 

 

 

「うわぁぁぁ!!!」

 

私は大声をあげながら飛び起きた。

 

「はぁ…はぁ…はぁ…」

 

着ていたパジャマは汗でびっしょりと濡れていた。

 

 

 

「…だいじょうぶ?」

 

私の大声にびっくりしたのか、隣で寝ていた刹那が起きてしまったようだ。

 

「うん…大丈夫。問題ない…」

 

「あせ…かいてるじゃん…きがえたほうがいいよ…」

 

「分かってる。すぐに着替えるから。刹那はとりあえず寝た方が良いんじゃないかな。」

 

「うん…ねる…」

 

そう言うと、刹那は再び眠りについた。

 

 

 

(何なんだろうこの夢…毎回毎回同じ夢だし…しかも夏だけって…)

 

私は、冴えてしまった目をこすりながらずっと考えることしかできなかった。

 

 

 

そして、朝が来た。

 

私は当然眠れなかった。

 

「おはよう…ってあれ?大丈夫?何だか明らかにぐったりしてるけど…」

 

「大丈夫じゃない。今日も寝られなかった。」

 

「え、今日も?」

 

「うん。今日『も』だよ。」

 

「…ちょっと待ってて。おばあさんに言ってくる。」

 

 

 

暫く待っていると、ばあちゃんがやってきた。

 

「ハルちゃん…本当に大丈夫かい?」

 

「う~ん…大丈夫じゃないかな…」

 

「そうだよね…」

 

刹那も遠巻きに心配そうな顔で見つめていた。

 

「とりあえず…何が原因でこういう状態になっているのか教えてくれるかい?」

 

 

 

私はばあちゃんにこうなった経緯を伝えた。

 

「なるほどねぇ…」

 

ばあちゃんはしばらく沈黙した後、私にこう聞いてきた。

 

「ハルちゃんが何で『遥』って名前になったか、ハルちゃんは知ってるかい?」

 

「いや…聞いたことない。」

 

「実はハルちゃんに『遥』って名前を付けたのは私なのさ。」

 

「え…ばあちゃんだったの?」

 

「そうさ。」

 

「また何で『遥』なの?」

 

「それはね…私の妹の名前なのさ。」

 

 

 

私はばあちゃんに妹がいるなんて一度も聞いたことがなかった。恐らく、思い出したくない事を含んでいるかもしれないと直感で感じた。

 

「…その妹さんってもしかして、戦争とかそういうので亡くしてたりしない?」

 

「…そうだよ。」

 

 

 

---私は生まれた時から、この町に住んでいたわけじゃないのさ。ハルちゃんと同じように街の方で暮らしていたんだよ。でも…戦争がだんだん酷くなってくると、「疎開」しなさいってことになってね…私はこの町に逃げてきたのさ。

 

でも、それでも米英は攻撃の手を緩めてくれなかった。いろんな街に焼夷弾を落として回ったのさ。

 

この町の近くも次々とやられていった。いつここに来るかわからない。とても怖かったさ…

 

そしてあの日、空襲警報が鳴った時。「ついに来たか」と誰もが思ったろうね。

 

私と妹と母さんが一緒になって防空壕に逃げて行ったのさ。この時、父さんには赤紙が出ていてもう街にはいなかったんだ。

 

三人が手をつないで逃げていたその時…妹が転んでね。母さんが助けに行こうとしたんだけど、真上には沢山焼夷弾が落ちてきていて、助けに行ったら自分の命すら危ないって判断したんだろうね…母さんは妹を置き去りにして逃げたのさ。

 

「母さん!置いてかないで!助けて!!」って声がかすかに聞こえていたけど、全部大きな爆発音にかき消されていったよ…

 

空襲が終わった後、妹が転んだ場所まで戻ってみると…もう妹は真っ黒になってて…母さんと私は二人して泣きながら「ごめんね遥」って謝ったよ…---

 

 

 

「…」

 

「そう言うことがあったんですか。」

 

「あぁ。ハルちゃんの話を聞いて思い出したんだよ。」

 

「…」

 

 

 

この時、私の頭の中には尋常じゃないくらいのアイデアが沸き上がっていた。

 

これだ…これを絵として形に残さないといけないと確信していた。

 

ただ、今不眠状態の私が絵にエネルギーを割いてしまうと間違いなく倒れてしまうだろう。

 

でも、今このチャンスを逃すとおそらくアイデアはピタッと止まってしまうかもしれない。

 

どうすれば良い?

 

私は必死に考えた。

 

 

 

 

「遥ちゃん?」

 

「ばあちゃん。ちょっと準備して欲しいものがあるんだけど…」

 

「ちょっと待って。この状態で絵を描くつもりなの!?」

 

「そうだけど…」

 

「止めた方が良いと思うわ。今の状態でハイクオリティの作品が作れるとは思えないわ。」

 

「そうだけど、これを逃したらもう二度とチャンスが来ないような気がするの。」

 

「そんなの絶対駄目よ!命を粗末にするのだけは許さない…」

 

「セッちゃんの言うとおりだと思うね。無理はしない方が良い。」

 

「…じゃあ私のカバンにある薬を持ってきて。」

 

「薬って…何の薬?」

 

「ただの睡眠薬。今は睡眠をとってとりあえず体力を回復させる。私が寝ている間に刹那は画材の準備をお願い。」

 

「…分かったわ。無理だと思ったら絶対に止めるのよ。良い?」

 

「うん。」

 

「ばあちゃん、お昼ご飯の準備だけお願いね。」

 

「任せな。」

 

 

 

私はとりあえず眠ることにした。

 

悪夢は一日で一度しか見ない。それはばあちゃんの話を聞いて上での勝手な想像だけど、あの夢の時点で…私が「死んだ」ことになってるからだと思う。

 

実際いつもの生活に於いても、後味の悪い夢が頭からこびりついて離れない間だけ眠れなくなっているだけで、気が付いたら寝落ちしてしまっているとがほとんどだった。

 

そう考えている間にも…少しずつ睡眠薬が効いてきたようで…じわじわと視界がぼやけてきた。

 

「縺ゅ↑縺溘?隱ー?」

 

その時、言葉のようで言葉じゃないような何かが微かに聞こえたような気がした。

 

でも、もう私には眠りに抗う力は残っていなかった。

 

 

 

「遘√r隕九▽縺代※繧医?」

 

「縺薙%縺ォ縺?k縺九i縲」

 

「縺壹▲縺ィ蠕?▲縺ヲ繧九°繧峨?」

 

 

 

 

 

 

どれくらい経っただろうか。

 

私は深い海の底のように安定した眠りから浮き上がるようにして現実に帰ってきた。

 

 

 

「あ、おばあさん!遥ちゃんが起きました!」

 

 

 

「よく眠れたかい?」

 

「何とか…どれくらい経った?」

 

「6時間は経ってるね…」

 

「ってことは…」

 

「丁度お昼くらいだね。」

 

「なら良いや。刹那ちゃん、絵の準備は?」

 

「ばっちりだよ。イーゼルにスケッチブックもセットしてあるし、鉛筆と色鉛筆もばっちり。あとは…構図とかを考えてもらうくらいだね。」

 

「ありがとう。ばあちゃんの方は?」

 

「おいしい料理、ちゃんと準備できてるよ。セッちゃんも一生懸命手伝ってくれたよ。」

 

「そっか…ありがとうね。じゃあ食べよっか。」

 

 

 

三人でおいしい昼食をとったら、いよいよ絵画制作の時間だ。

 

 

 

広い庭にイーゼルと画材が準備されていた。

 

「う~ん…どこに合わせるかなぁ…」

 

私は画角をじっくりと検討した。

 

そして、一つ気になるものを見つけた。

 

庭に一本だけ植えられている大きな木だ。

 

 

 

「ねぇ、ばあちゃん。」

 

「何だい?」

 

「この木っていつこの庭に植えられたの?」

 

「そうだねぇ…確か戦争が終わってすぐ位だった気がするねぇ…あの頃は小さな苗木だったけど、今となっちゃここまで立派に育ってくれて…私にとっては人生を共に歩んできたような、そんな木なんだよ。」

 

「なるほどね…刹那、この木陰に椅子を持ってきてくれる?」

 

 

 

木陰に置かれた大きな椅子にはばあちゃんが座っている。

 

「私を描いてくれるのかい?」

 

「うん。」

 

「何だか嬉しいねぇ…」

 

「良い絵にするから…」

 

 

 

私は、絵を描く瞬間だけ眼帯を外すことにしている。

 

色を失った左目には右目に見えない景色が見えているからだ。

 

その景色は、どうも白黒の写真に写っているような古い景色のようだった。

 

この絵のテイストがばあちゃんととてもマッチしそうだった。

 

 

 

右半分に色鉛筆で色のある風景を描いていく。

 

その時、言葉のようで言葉じゃないような言葉が聞こえてきた。

 

 

 

「縺ュ縺??∬◇縺薙∴縺ヲ繧?」

 

 

 

その声に、私は思わず周りを見渡してしまった。

 

「どうしたんだい?」

 

「いや…何でもない。」

 

 

 

「縺薙▲縺。縺?繧」

 

 

 

声のする方を向いてみると…

 

左目の方だけに、小さな少女の姿が見えた。

 

 

 

これまで、左目の景色には一切人の姿は見えていなかった。

 

(これってもしかして…)

 

そう思った私は、少女に手招きをした。

 

 

 

「え…?遥ちゃん?何してるの?」

 

「気にしないで。」

 

「…さすがに無理があるよ。」

 

「出来た絵を見たら分かるから。」

 

 

 

そして、真っ白な左半分に着手した。

 

鉛筆だけで絵を描き上げるデッサンだ。

 

さっき寝たからか、思った以上に進みが良い。

 

1時間もしないうちに完成した。

 

 

 

「よし。こんなもんかな?」

 

「見せてくれない?」

 

「私にも見せとくれ。」

 

 

 

右半分に描いたのは椅子に座ったばあちゃんの絵だ。

 

左半部に描いたのは少女の絵だ。

 

この二人は手を繋いでいる。

 

見る人によって色んなメッセージ性を感じてもらえるであろう作品になった。

 

 

 

「これ…」

 

ばあちゃんは言葉が詰まっていた。

 

「遥じゃないか…」

 

 

 

「え?遥って…おばあさんの妹さん…ってことですか?」

 

「そうだよ…凄いよハルちゃん。」

 

 

 

「やっぱりそうだったんだ。」

 

「一体どういうことなの?」

 

「私の左目にだけ、女の子が見えたんだ。これまで左目の景色に人の姿なんか一回も見えなかったんだ。」

 

「それって…」

 

「間違いなく、ばあちゃんの亡き妹…遥さんだと思う。」

 

「じゃあ手招きしていたのは…」

 

「一緒に描きたかったからさ。」

 

「なるほどね…」

 

 

 

絵を見たばあちゃんは、ずっと涙を流していた。

 

「ありがとう…本当にありがとうね…」

 

少女も絵に釘付けになっていた。

 

「…」

 

 

 

暫く何も言わずに絵を見ていた少女は、私の方を見て微笑んでこう言った。

 

「繧「繝ェ繧ャ繝医え」

 

言葉のようで言葉じゃないような言葉だったが、私には何を言ってるのかがとてもよく分かった。

 

その口の動きは、間違いなく「ありがとう」だった。

 

 

 

満面の笑みを浮かべながら、少女が駆けていく。

 

私も手を振って見送った。

 

空はやけに真っ青で、馬鹿みたいに綺麗だった。

 

 

続く



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