やはり俺のゾンビ・サバイバル生活はまちがっている。 (砂粒)
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1. I love you baby
──それはゆったりと始まった。
メディアで報道され始めたのは、人が人を喰らい始める奇病が世界各地で発生している様子だった。詳しくはわからないが、"発症者"に噛まれると"感染"し、皮膚が腐り、脳が壊れ、次第に人を襲い始めるという。
誰が最初に言い始めたか、連中は「ゾンビ」と呼称されるようになっていた。
「怖いね……お兄ちゃん」
「そうだな……」
そんな会話をしたのが懐かしい。あの時はまだ、事の深刻さを理解していなかったのだ。いや、していたとしても、どうしようもできなかっただろう。一市民に何ができる? それも、右も左も分からない高校生の自分が……己の無力さを察していたからこそ、理解すること、考えることを拒んだのかもしれない。
今となっては全てが間違っていたように思える。
感染が流行する中で、世界はパニックに陥った。人々は疑心暗鬼になり、攻撃的になり、分断された。多くが物資の独占や利権の保全に走った。協調という言葉を誰もが忘れていくうちに、大規模な政治運動や無理のある掃討作戦、我慢の限界を迎えた民衆の暴動が世界各地で勃発した。堂々たる町々が黒煙に包まれていく中で、国連の安全保障理事会は道を示せないまま機能を失った。厳重に警戒していた筈の重要な機関で次々と「ゾンビ・パニック」が発生し、事態は収拾がつかなくなっていた。
世界は終わったのだ。
日本列島。俺の住む土地でも、例に違わず。政府や自治体といったものは、文字通り死んだ。政府の記者会見場をゾンビが襲い、現場が大パニックに陥るのを家族全員テレビで見守ったのが覚えている最後だ。その後、日に日に、電力や水道、通信など社会インフラが壊れ、情報は流れなくなり、流通や賃金、行政といったものは意味を失っていった。現代社会の特権が一つ、また一つと消えていく中で、ここは原始的な社会に戻りつつあった。いや、それよりなお悪いだろう。ゾンビが我が物顔で通りを歩いているおかげで、おちおちと外にも出かけられないのだから……
人々が実際にどう暮らしているのか、もはや俺にはわからない。
通信手段が全て遮断され、通りがゾンビで溢れているのを窓から見た時、もはや頼りになるのは「自分たち」だけだとようやく悟った。比企谷家は有り合わせの物資で敷地にバリケードを築き、その後は一歩も外に出ていない。俺と小町、両親の四人、猫のカマクラさえも。俺たちは家の中で、固まって、ただ静かに、世界の終焉を過ごしていた。
あれからどれくらい経っただろう。長い時が流れたようにも、意外と短かったようにも思う。けれど……
けれど、今日こそは。
俺は、覚悟を決めなければならないと感じていた。
顔を上げると、横になっている家族が目に入った。少しでも体力を削らないように、動かずにいるのだ。そばには、最後のカロリイ・メイト(ハニー味)のパッケージが破られて捨てられている。
食糧は底を尽いた。もはや一日も保ちそうにない。
「……俺が」
「八幡! やめろ……」
俺の声に、親父が厳しく反応した。
この問題は、すでに何度も家族間で話し合われていた。
食糧を調達しに、外に出かける……
危険なのは承知している。だが、このままでは飢えて死ぬということも、みんなわかってる。事態を少しでも改善するための議案だったが、家族会議は毎回行き詰まりで終わっていた。俺は何度も調達しに行くべきだと主張したが、両親が厳しく反対した。ゾンビが街中に溢れている。比企谷家の周りは数が少ない方かもしれない。だが多いかもしれない。何しろ情報がまるで取れず、住宅地は視界も悪い。確かなのは危険に溢れているということだけ。
両親は、俺がむざむざとゾンビに食い破られることを良しとはしなかった。俺たちがひきこもってから、近隣で悲鳴が聞こえたのも一度や二度ではない。「それ」は確かに存在する。テレビの向こうの話ではないのだ。
「何回も言っただろう! 行くな! 俺たちは、人間として、尊厳を保って……死を選ぶべきだ」
「八幡。仮に何か見つけても、悪あがきにしかならないと、わかっているでしょう? ここまできたら、潔く、諦めることにしない?」
親父は、部屋の片隅を指差した。そこにはドアの取っ手に括り付けられた紐があった。実は俺は一度自殺を試みたが、その時は小町の猛反対により断念していた。その紐は、それ以降触られていない。しかし、飢えて頭がおかしくなるくらいなら、その前に死を選ぶという選択肢は、依然として残されていた。
親父と母は、ゾンビに食い破られるくらいなら、もしくは、世の法・人の掟を破るくらいなら、高潔な死を望むという論調を崩さなかった。自分たちだけでなく、俺や小町が、これ以上めちゃくちゃな目に遭うことを懸念しているのは明らかだった。
家族もそろそろ"潮時"だと察しているだろう。これまで一家心中の踏ん切りはつかなかったが、その時はきっと……
「俺は……」
ずたずたと、足音が聞こえる。小町がカマクラを撫でるのをやめて、俺の正面に立った。
「小町……」
「お兄ちゃん……私もお母さんたちの意見に賛成だよ」
小町の状態は悪い。シャワーも浴びれず、充分な食事もできていない。髪はボサボサで、少し痩せた。持ち前の明るさも鳴りを潜め、一言も発しない日もあった。こうなる前にはよく見られた兄妹感ののほほんとしたやりとりも、あまりなされなくなった。それでも家族の和を乱したりはしない。小町は俺を見上げ、うるんだ目で訴えている。行くな、と。
「小町……絶対に、お前を死なせはしない」
その言葉は空虚に響いた。だが、紛れもなく、俺の本心から絞り出した言葉だった。小町を死なせたくない。いや、"見たくない"のか。ともかく、その気持ちだけが、俺を支えている。
小町だけは、何としても……限界を迎えたこの状況で、その感情がだんだん強くなっていく。
だが、俺が外に出たいのは、食糧調達が必要だから、という差し迫った理由だけでもなかった。正直、よこしまな気持ちが含まれていることも、自覚していた。認めたくはないが……
「まだ……」
会いたい奴らが、いる。
世界の終わりに、そばにいてほしい奴らが……
きっと会えないだろう。食糧をどこかで調達したら、すぐに家に戻る。その過程で、あいつらに会えるなんてありえない……だが、わかっていても、もし、一縷の望みがあるのなら──…
「まだ、俺は──…!」
笑い声が、聞こえた気がした。俺は正面を向き直す。小町が、優しい眼差しで俺を見ていた。
「わかったよ、お兄ちゃん。小町、もう止めない。その代わり、私も行くから」
その流れは、予測していた。
俺は小町の頭に手を置いた。
「だめだ。ここに残っててほしい」
「お兄ちゃんを一人で行かせるわけ──「やめろ」
俺は、小町の口に人差し指を押し当てた。小町が硬直する。
「すぐに帰る。待っててくれ」
有無を言わさぬ雰囲気を感じたのか、小町は目を伏せて頷いた。正直、もっと反対されると思ったので、言いくるめるための材料を頭の中でこねくり回していたのだが、必要なかったらしい。まあ小町がいくら行くと言っても、俺より親父が許さないだろうが……
「もう、何も言わないよ……でも一つ約束して」
「なんだ?」
「帰ってきて。絶対」
ああ……
俺は、こういうこと、言われたかったんだろうな。
胸が満たされるのを感じる。
「安心しろ。死んでも帰ってきてやる」
「うん。お願い」
「いや突っ込むところだろ。死んだらゾンビになってるかもしれねえってことだぞ」
「いいよ、別に。それに、どうせ食べられるならお兄ちゃんに食べられたいかな……はは、これ、小町的にポイント高いね……」
「お前それ普段なら多分めちゃくちゃ気持ち悪いこと言ってるってわかると思うわ……」
きっと、限界なんだろう。栄養失調で、頭もまわらない。自棄になりそうなところを、小町はよく抑えている。小町には、見習うところしかないな……
「もう……冗談だよ! 絶・対! 死なないでね! 死んだら許さないから! 地獄の果てまで怒りにいくから」
「せめて天国に行かせてくれ。……まあ、すぐに戻ってくるが、小町も絶対に死ぬんじゃねえぞ。何かあったらちゃんと隠れろよ。決めたことを守って──…」
ここまで俺たちのやりとりを黙って眺めていた親父が、慌て始めた。
「ま、待て! 俺たちはまだ承諾してないぞ……!」
「親父……頼む。生涯の頼みだ」
「ぐっ……!」
親父が狼狽えていると、母が諦めたように目を細め、親父の肩に手を掛けた。それから俺を見て、優しく微笑む。
「成長したわね、八幡。あなたの決意がそこまで固いなら、私たちには止められないわ……でも小町と同じだけど、約束。生きて帰ってきなさい」
「ああ、わかってる」
小町と母が折れるのを見て、親父もようやく折れたようだ。歯を強く噛みながら、何かを堪えるように力強くウンウンと頷いている。とうとう、俺は家族の許しを得たらしい。ようやく、旅立てる。まあすぐ戻ってくる予定なんだが……
俺は休校以来一度も着ていなかった制服に身を包んだ。なんとなく、身が引き締まる思いがしたからだ。玄関に向かい、靴を履く。固く靴紐を結び、金属バットを装備する。もしゾンビが襲ってきた時のために。俺なんかに抵抗できるかわからないが、それでもないよりはマシだろう……
背後に、家族の気配を感じる。
「八幡……お前は、俺の誇りだ」
「何も見つからなくても、すぐにでも、帰ってきていいんだからね」
少し、目頭が熱くなった。
「ちっ。あのさ、死亡フラグ立てるようなこと言わないでくんね? つーか普通に恥ずかしいんだが……余計帰り辛くなるだろ……だがまあ、俺も……一度しか言わねーぞ……その、ありがとう」
「ははは。八幡がそんなに照れてるのを見るのは、久しぶりだな……本当に……」
「うるせぇ。じゃあもう行くから」
まず覗き穴から慎重に玄関の外の様子を見て、ゾンビがいないことを確認する。扉を開けると、外の空気が入り込んでくる。足が竦む。だが、力強く一歩目を踏み出す。俺は覚悟を決めなければならないのだ。
ぽすん。背中に、熱を感じる。小町だ。耳元で「月がのぼったら、お兄ちゃんを探しに行くから」と囁かれた。俺は振り返り、返事の代わりに小町の頭を撫でる。
「お兄ちゃん! 私、私──…」
「おう。愛してるぜ、小町」
言いたいことだけ言って、もう振り返らない。背を向け、扉を閉める。
すすり泣く声が聞こえた気がした。
バットを握る力が強くなる。
深呼吸をして、外の空気を感じる。
わかってる。
世界は、終わったのだ。
この先に待っているのは、辛く、険しい道。
だが、簡単に死ぬわけにはいかない。
待っている奴らがいるから。
比企谷八幡、覚悟完了──…
1. I love you baby
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2. WARNING!
世界はゾンビ・パニックにより終焉を迎えた。
その間、俺・比企谷八幡は、運命を受け入れるかの如く家族と引きこもっていた。
しかし忍び寄る飢えの危機に、ついに立ち上がることを決意する。そして物資の調達のため、それまで避けてきた、外の世界へと足を踏み出すこととなるのだが──…
「曇ってるな……」
鈍色の空。雨が降り出しそうな気配がするが、今のところは大丈夫らしい。人間社会の崩壊をあざ笑うかのように、鳥たちは自由に空を飛んでいる。俺にも翼があれば色々捗るだろうに、なんて馬鹿らしいことを考えた。
──まだ一体も、遭遇していない。
「なんだよ、意外と余裕じゃねえか……」
我が家を離れ、自転車で道々を進む。見渡すと、火事で燃えたようなアパート、壊されたフェンス、崩壊した建物が目立つ。だが、意外と目に見えた"違和感"は少数で、以前と変わらない建物も多い。俺たちみたいに引きこもって過ごしている人々もいるのだろうか。その気配は感じないが。
ひとまずゾンビがいないのにはホッとするが、人っ子一人見かけないというのも、やはり薄気味悪い。他人に煩わされない! 孤独歓迎! って気分にはイマイチなれない。ゾンビはこの辺りを離れたのだろうか? だとしたら、「餌」の匂いが薄まったという線も考えられるのでは? いずれにせよ、短絡的な結論は出せない。俺はずっと引きこもっていて、情報は遮断されていた。外の世界はわからないことだらけだ。
油断できないことは確かだが、安堵の言葉を一つ口にすると、ガチガチに固くなっていた体がやわらかくなった気がする。緊張も少しほぐれた。
最短ルートで地元のコンビニに到着する。やはり人の気配はない。
「大丈夫だろうな……」
少し離れた場所に自転車を止めて、周囲に目を光らせながら、恥ずかしくなるほどゆっくりと歩みを進めた。風が道路の塵を吹き上げる音にすらびくりと体が反応する。途中何度も振り返って警戒したが杞憂に終わった。さっさと事を進めるべきだろう。
コンビニに入ると、半ば予想していたことだが、何もなかった。ありとあらゆる商品は棚から消えていた。手入れされていない店内は埃っぽく、広告や値札だけが虚しく残っている。その光景はあまりにも淋しかった。ひきこもっていたので想像の域を出ないが、放棄されたあとは掠奪されたのだろう。何かに使えるかもしれないと、持てるものは全て持っていかれたに違いない。食糧や生理用品だけでなく、雑誌や文具なんかも跡形もなく消えていた。
「ちっ。どうするかね……」
世界がめちゃくちゃになっているのだと、改めて気付かされる。
孤独だ。そう感じた。
「とにかく何か見つけないとな……」
俺はコンビニを離れることにした。物資は何もないようだし、こんな薄気味悪い場所にいつまでもいたくない。
では、スーパーはどうだろう? コンビニとは規模が違う。流石に何かしらあるかもしれない。せめて加工食品の一つくらいは……
俺はここから近いスーパーに自転車を走らせた。
寂寥感ただよう住宅街を進み、五分もかからず目的地に到達する。千葉のローカル・スーパー。やはり人の気配はない。俺は自転車から降りて、バットを握りしめ、今度は確かな足取りで近付く。
ガラス張りの出入り口に近付くと、やはり閉鎖されていた。自動ドアが反応するはずもないが、手動で開こうとしても無駄だった。ロックがかかっている。どうにかして開かないものか……?
そこで、俺は違和感に気が付いた。
「なんだ? 人か? いや、まさか……」
出入り口のそば。ガラスの向こう側、暗がりに人が倒れている。ぴくりとも動いていない。よく見ると、皮膚が剥がれているようにも見える。うつ伏せで、よく顔は見えな──…その時、それがピクリと動いた。
俺は凍りついた。
倒れていたそれが、もそりもそりと動き始めた。かなり不自然に。胴体を曲げ、膝をついたまま、腕を使わず上体を起こし、それからのろりと足を――…
「うおおおっ……!!?」
俺は絶叫し、腰を抜かし、尻餅をついた。
気力を振り絞りすぐ体勢を立て直す。震える体でバットを構え、「それ」と直面する。「それ」が顔をこちらに向けている。俺を認識している──…!
はっきりとわかる。皮膚は腐り落ち、変色した筋肉と、骨のような突起も見え隠れする。目玉には黒い部分は見えず、全て白目だったが、その顔貌は俺を捉えて離さない。間違いない! 俺は確信を持った。
「これが──…!」
これが、ゾンビ──…!
初めて見るわけではない。自宅の二階の窓から、通りにそいつらが見えたことはある。その時も寒気で震えたが、まじまじと見たわけではなかった。だが、今回は細部まではっきりと見える。恐ろしい容貌。これが元は人間だったとは。吐き気を催すが、堪える。危機的状況下で分泌されるホルモンが、恐れの機能をコントロールしようとしているのだ。
ゾンビと俺の間はガラスで隔たれている。どうくる? ガラスを突き破ってくるのか? そんなことになったら逃げきれるのか? なら今すぐ、振り返らず全力で逃げるべきなんじゃないか──…?
俺はハッとした。よく見たら、ゾンビは一体ではない。奥の暗がりにも数体いるのが見えた。次々に起き上がってきて、俺を認識する。
そいつらは、一斉に走り出した。
こちらに向かって、一直線に。
「うわあああああああああ!!!!」
頭が真っ白になり、俺は一目散に駆けだした。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ……!?
自転車の元まで辿りつき、思い切りハンドルを掴み取る。
後ろを振り返ると、ゾンビはいない。その光景に、俺は安堵のため息を漏らした。
ゾンビたちは、スーパーの出入り口のガラスを、突き破れていなかった。俺を認識してはいるようだが、体をガラスに無造作にぶつけているだけだ。力がそれほどないのか、割れる気配がない。詳しくないが、防犯や事故防止のために強化されたガラスかもしれない。何にせよ好ましいことだ。
奴らはここまで来れない。つまり俺を食い殺すこともない……
「な、なんだよ……」
今になってようやく、汗がどくどくと流れているのを自覚した。
ゾンビが急に現実感のある存在に変わった。頭でわかっているのと実際に対峙するのは違うものだと痛感する。警戒度をさらに高めなければ。ゾンビはスーパーに閉じ込められた連中だけではないはずだ。気付いてないだけでそこらにいるかもしれない。ゾンビが何に反応するのかわからないが、大声を出したのはまずかったかもしれない。俺は周囲を再度見渡して、何も来ていないことを確認した。
「クソッ! 情けねえ……!」
自分に憤る。なんてザマだ。ビビりすぎだ。こんなんじゃゾンビに抵抗するどころの話ではない。あのガラスがなければ、目を瞑ってバットをぶんぶんと振り回す余裕もないうちに、わけもわからず俺は食い破られ死んでいただろう……惨めな最期を想像し、震える。しっかりしろ、俺。小町の顔を思い出せ。よし、よし。落ち着いてきた。俺クラスのエリートお兄ちゃんともなると、妹との約束を果たせず息絶えることは沽券に関わる。
冷静に考えれば悪いことは一つも起きていない。まだ。それに。
あのスーパーには物資がある。
きっと店員だか警備会社だかがこのスーパーを放棄する際に、ゾンビを閉じ込める形になったのだろう。大量の物資も残して。幸いなことに、物量でガラスが突き破られるほどゾンビの数がいたわけでもないようだ。だが、仮に俺がここでガラスを破って物資を調達しようものなら、棚に手を伸ばす前にゾンビが俺に手を伸ばす。そんなリスクは犯せない。
それでも、このスーパーのことは覚えておこう。今後何かわかるかもしれない。例えば、もしゾンビに寿命があれば、ここもいつかは探索できる。ゾンビに対処できるようになれば、このスーパーは宝の山だ。
……まあ、そもそもゾンビに対処できるのか、というのが疑わしいが。対処できる人間がいるなら、このスーパーからもとっくに物資はなくなっているだろう。少なくとも地元の奴には発見されてるだろうから。
「結局どうすればいいんだ……」
俺はなんとなく察し始めていた。
掠奪できるところは既に掠奪されきっており、物資の残っているところはいわくつき、ということを。
大型の商業施設や、繁華街は想像しただけで危険だ……通信が崩壊する前、自衛隊や警察や消防などが、大規模な掃討作戦を行うだとか報道されていた。その後はよくわからないが、この町の静かな様子を見ると、あまり功を奏したとは思えない。もしかしたら人間のコミュニティが存在するかもしれないが、ゾンビのバーゲンセールということも大いにありうる。何があるか知れない。リスクが高すぎる。
どこへ行く?
俺の頭には、"あいつら"の顔が浮かんでいた。
「総武高……」
振り切るようにあいつらの顔を頭から消し去る。学校なんて……きっと何もない。
世界が終わっていく過程で、当然学校も休校になっていた。誰もあそこには近寄らないだろう……
とは言え、ここで無意味に時を過ごすのはよくない。俺には時間がない。夜を迎えれば、街灯もない町で危険度は格段に増すだろう。暗闇の中では食糧を探すのも難しくなるはずだ。小町も不穏なことを言っていたし、とっとと帰らなけらばならない。休んでいる時間はないのだ。
とにかくしらみつぶしに探してみよう……なにか、なにかあるかもしれない。
俺はスーパーを惜しみつつ、自転車に跨った。次は少し先のスーパーに行ってみよう。その過程で、ドラッグストアやチェーン店もチェックしなければ……
焦燥感に駆られながら、俺はペダルを踏み出した。
2. WARNING!
キキィ……
そんな考えで住宅街を進んでいた俺は、一分も経たずブレーキをかけることとなった。
明らかに様子の変な風景を横切ったことに気付いたからだ。
来た道を少しだけ戻り、何の変哲もない交差点の真ん中に自転車を止め、右を見る。
ああ、やっぱりおかしい。
道路が封鎖されている……
一際目を引くのが、大型のトラック。そのトラックが道を塞ぐように駐車してあった。本棚やら冷蔵庫やらもそこかしこに配置され、テープや紐で丁度いい感じに固定してあり、壁の役割を果たしている。車の下の隙間はタイヤやコンクリートのブロックで塞がれている。他に隙間があれば尖った木材が外側に突き出すように固定されていて、先端が赤黒く染まっている。はっきり見えるわけじゃないが、トラックの上には梯子や、物干し竿に刃物を括り付けた急造の武器(槍のつもりだろうか?)も置かれているようだ。まあ、完全にバリケードって感じだ。
これの意味するところは……
「まさか、人がいるのか……?」
これはきっと、内側に人が暮らしてるってことのはずだ。胸が鳴る。人の気配に興奮するとは俺にしては珍しい。だが、同時に敬遠したい気分にもなった。関わってもロクでもないことが待っているような気がした。
少し、迷う。
接触するべきか?
物資を分けてもらえるとは思えない。そこまで期待するべきではないだろう。だが何か、有益な情報の一つくらいはもらえるかもしれない……
そんな俺の思考は雑にかき消された。
先に向こうが接触してきたからだ。
「何者だ!」
俺はハッとして声の主を探すが、見当たらない。
「ここだここ。屋根の上だ!」
ようやく声の主を認識した。左側の二階建ての民家の屋上に、男がいる。ゾンビじゃない。生きた男だ。中年で、険しい顔つきをしている。警戒されているのは当たり前。だが、生きている人間をようやく認識できて、変な話だが少しだけ……救われた気分になった。まだ、暮らしていかれる人たちがいる。ゾンビ・サバイバル生活を営んでいる連中がいるのだと……
「何者だと訊いてるんだ!」
「すっ……すいません」
俺は、事情をかいつまんで説明した。
家族でずっと引きこもっていたこと。食糧が尽きたこと。何か探しに外出していること……
中年の男は険しい顔つきを崩さない。
「はぁん。そうか、それは気の毒だったな、坊主。俺らもギリギリなんだ。まあ、頑張れよ」
案の定……といった反応だった。取り付く島もない。まあ、そりゃそうだ。何の関わりもない人間に、分けてやる物資なんかない……ってことだろ。その気持ちはわかる。俺だってその立場だったらそうするだろう……それでも流石に落胆した。
俺には……俺たちには、もう時間が残されていないんだ……!
「何か……何か情報だけでもいいんです! 何かありませんか!」
「はぁ。知らねえよ情報なんか。近所のスーパーは食いモンがたくさんあるみたいだぜ。まあ、ゾンビも棲み付いてるがね。運が良けりゃ最後のメシにありつけるかもなぁ。坊主も奴らの腹の中に収まるだろうが」
くそっ。それはさっき思い知ったっつうの!
駄目だ。まったく気を許してくれる気配がない。取引できるような手段もない。ここは退くべきか……?
だが、こんなふうに集落(と言っていいのか?)が構築されている場所があるなら、探せば他にお人好しの集落があるかもしれない。物資を分けてくれるような親切な人たちのいる集落が。そちらを探してみるべきか……?
俺は中年に背を向けた。この集落は諦めよう。
惜しみながらもペダルを漕ごうとした、その時。
「ま、待って! 止めて! その人、あたしの友達なんです!」
!?
友達……!?
いや、誰だよ!?
俺は思わず振り返る。
その女は、バリケードのトラックの上に立っていた。
髪はぼさぼさで、服もボロボロだったが……
それは確かに、
折本かおり……
俺が昔恋をした女。
俺が昔、自分の理想を押し付けた女。
本質を見誤ることの代償を、知らしめてくれた女。
折本かおりが、トラックの上から俺をじっと見つめていた。
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3. So Lucky We Are
物資探しの最中に見つけた、謎の集落。
見張りの男のよそ者を寄せ付けない態度に、落胆する俺、比企谷八幡。
そこに突如現れたのは、折本かおりという女だった。
並々ならぬ因縁を持つその相手は、昔憧れた姿とは少し変わって、煤けた雰囲気を纏っているようにも見えた──…
「折本……」
「久しぶりだね、比企谷。少し髪、伸びた?」
3. So Lucky We Are
「そっちも伸びたんじゃないか」
「あはは、お互いさまだよね~……」
折本がけらけらと笑ってる。
折本かおり。中学時代の同級生。海浜総合高校所属。最後に会ったのは、バレンタイン・イベントの時。海浜総合高校の生徒会のイノベーティブでクリエイティビティ溢れる面々と連れ立って現れたことをよく覚えている。そういえばあのあと割とすぐゾンビのごたごたが本格化したんだよなぁ。あのへんで色々と歯車が狂った感がある。まあ、俺の人生もともと狂いがちでしたけどね。
顔馴染みと思わぬ再会を果たして、不思議とホッとした気分になる。知ってる奴とこうしてまた話したりするというのは……
「それで、昔のよしみで俺を助けてくれるってわけか?」
俺の言葉に、折本は目をぱちくりさせて固まった。
「……なんだよ?」
「いや?」
折本は一転、何か思いついたようにニヤついている。
「まさかあの比企谷がそういうこと言ってくるとはね……変わったと思ってたけど、また一つ変わったんじゃない?」
「うるせえよ。なんなら、まだ二段階くらい変化を残してるまである」
「は?」
「い、いや……何でもねえわ」
「何それ。ウケる」
折本は眉尻を下げてくすくすと笑う。
俺はその笑い方に不自然さを感じていた。いや、こいつの自然な状態なんてあまり知らないが、中学時代はそれなりに観察した身分でもある……その俺から言わせてもらえば、折本の笑い方は少し違和感がある、ように思う。どこか慎ましやかというか……流石に失礼か。
まあ……ゾンビの出現は誰にとっても険しい経験だった。誰であれ少なからず変化を強いられたはずだ。違和感があって当たり前か。こいつからしたら、俺もそう見えているのかもしれないし。それ、ある。マジである。不自然に見える事柄も、エビデンスに基づいてロジカルシンキングを心掛ければ大抵のことについて納得できる。
「おい、折本の嬢ちゃん。嬢ちゃんの顔馴染みだからって、こいつに食わすもんはねえぞ」
「わかってますって。別にいいでしょ、少し話すくらい」
中年が、折本に釘を刺した。俺の気分も水を差された。
流石に諦めていたが、やはり折本の縁では、食糧を分けてはもらえないらしい。仕方ないか。住人の友達が現れるたびに優しくしてたら、集落も保たないだろうしな……俺が友達かどうかは別として。
気分が急速に萎えていくのを感じる。どうやら、あまり希望に満ちた再会にはならなさそうだった。やはり別の──…
「……およ?」
突如。折本が素っ頓狂な声を出して、俺の後ろに視線を移した。中年も眉を潜めてそれを追う。
俺も慌てて思考をかき消して、何事かと振り返る。
ぎょっとして、凍り付いた。
交差点の曲がり角から、ひたひたと歩いてくるゾンビの姿が見えたからだ。
「一体か……」
折本の意外と落ち着いた声音とは逆に、俺は「ヒッ……」という呻き声を隠せなかった。嘘だろ、こんな時に、みたいな。
ゾンビはガクガクと不自然な動きを繰り返しながら、首はしっかりこちらに向けている。まだ数十メートルは距離があるが、俺はすっかり余裕を失ってしまった。スーパー・マーケットではゾンビは走っていた。このゾンビにも走ってこられたら……? 冷や汗が顔を伝う。折本との再会で少しばかり落ち着いた気がした俺の心が、一瞬にして、恐怖に塗り替えられる。
「おいおい、勘弁してくれよな。
中年が俺を責め立てる。反論はできない。注意していたとは言え、俺に反応して現れた可能性は十分ある。というかそれしか考えられませんね……しかし、中年のそのトゲのあるやれやれ声のおかげで、むしろ俺は正気に戻された。そうだ。俺の責任なら、対処しなければ……
ごくりと喉が鳴る。震えながらもなんとか腕を動かして、バットの先をゾンビに向ける。ゾンビは一体しか見えない。たかだか一体くらいなら、なんとか倒せるのでは?
「ふー……」
息を整え、ゾンビと対峙する。俺はバッターボックスに立った野球選手のように体を傾けてバットを構えた。問題ない。しっかり見て、反応すれば、やれるはずだ。こいよ。フルスイングで吹っ飛ばしてやる……
ゾンビが、あと五メートルというところまで迫る……近付いてくるにつれ、ゾンビの顔もよく見えるようになる。皮膚はところどころ剥がれて、色も変色していたが……それでも、人間によく似ていた。
そうだ、元は人間だったのだ……
俺は、足が竦んでしまった。
それどころか金縛りにあったかのように体が動かない。頭が真っ白になる。
まずい。
食われる……
本能がそれを察するのと同時に、ゾンビの首が弾け飛んだ。体液が少し体にかかる。首を飛ばされたゾンビの体が、俺の前に崩れるように倒れこむ。俺は愕然としながらも、目の前で起こったことを頭の中で処理する。
斜め後方から飛んできた石つぶてが、ゾンビの頭に直撃して、吹っ飛ばしたのだ。
「……一発命中。やりぃ!」
振り返ると、折本が、スリングショットのようなものを持っていた。俺と目が合うと、きゃるるんとウインクする。ようやく物事を理解する。
俺は、折本に助けられたのだ。
全身から、力が抜ける。
魂まで、抜けていきそうなほど……
「折本、てめえ、なんで助けた? あのガキを食わせてやってれば、的が動かなくなるから狙いやすいだろうが」
「あたしの友達ですよ。見殺しにしたら夢に出てきそうじゃないですか」
中年は折本を責め立てた。折本が何か言い返している。
俺はまだ、足がガクガクと震えていた。
「情けねえ。そんなんでよく外ほっつき歩けたな」
返す言葉がございません……
「ちっ。一体だけだといいんだがな」
中年の男が、俺を睨みつける。
「おいガキ、てめぇ、どっかの回し者じゃねえだろうな?」
「え、いや……」
「それはないですよ。比企谷はあたしが保証します」
中年の疑念の声に狼狽えると、即座に折本が俺を庇った。
それにしても、回し者、だと? それはどういう──…
「比企谷! そこ、はっきり言って危ないから、こっちにきなよ。はしご降ろしてあげるから」
「……マジか」
折本が、トラックの上にあったはしごを外側に立てかけて、手招きする。俺は予想外の対応に面食らい、その様子を呆然と眺める。
「ちょっと。はやく登ってよ。またゾンビ来たらどうすんの?」
「お、おう……」
中年は訝しんでいたが、意外にも止めなかった。俺は中年の胡乱な視線を感じながら、はしごに足をかける。集落にお邪魔していいのか逡巡したが、とりあえず流れに身を任せることにした。まだ先ほどの光景が頭から離れない。そのせいで、思考が鈍くなっている。
「嬢ちゃん、どういうつもりだ?」
「いいでしょ、友達なんだから話すくらい! ちょっと通すだけ。すぐ帰ってもらいますから……」
「ちっ……ケツの青いクソガキどもが。なんかあったらわかってるよな?」
中年が凄んだが、折本は愛想笑いで適当に流した。
なんか、折本が優しい……
いや、そんなに悪い奴じゃないのは知ってるし、ここ最近はそれなりに接触もあった関係だ。それでも仲睦まじい間柄とはとても言えないわけだし、正直、追い返されてもおかしくないはずだが……折本の誘いにどういう意図があるのか、俺には読めなかった。
俺は釈然としないながらもトラックの上に立つ。そこからの景色で、ようやく集落の中を認識できた。
なるほどな。そうなっているのか……
このバリケードは、トラックの上部にそれなりのスペースがある。ゾンビを追い返すための道具も準備されている。ただの壁の役割だけでなく、有事の際にはここから防衛できるように考えられているのだろう。そして、この場所と同じようなバリケードが、数区画先の道路にも"建造"されていた。この分だと、この辺りの区画の道路も四方八方バリケードで封鎖して、住居など建物の敷地の隙間もどうにか塞いで、"ミニ集落"を作り上げているのだろう。元祖ウォール街流だな。地域の住民の協力が不可欠のはずだが、よくやったものだ。実際、比企谷家の周りではそういう動きはなかったわけだし……
俺と折本は内側のはしごを降り、区画を歩いていく。
折本は先ほどのことがあっても平静を崩していない。慣れているのだろうか。俺は未だに心臓バクバクなのに。そして、俺は一体どこへ案内されているのだろう……
辺りには人の姿もちらほらと見える。急に世界に戻ってきた感じがした。居住者たちは俺たちを無遠慮に睨めつけて、地面にペッと唾を吐きながら、「なんだあいつ」「ゾンビみてえな目しやがって」などと好き放題言ってくれている。うるせえよ。いや、俺みたいな不審者が周りをチラチラ見てたらそんな反応もされるか。とは言えなんか無駄に殺気立ってて怖いんだよな……本能的に目を逸らしてしまう。
折本はそんな奴らにも笑顔で軽く手を振っていた。昔よく見た折本の癖だ。中学時代の俺には効果抜群だったそれも、ここの連中には効果はいまひとつらしい……ああ、俺みたいなのが隣にいるせいでしたね。
居住者が何をしているのか気になり、やはり少しチラ見するが、道に出ている人間は大したことは何もしていないように見える。居住者同士でただ雑談してたり、カードかなんかで遊んでたり、思い思いに過ごしているようだ。"仕事"なんかはないんだろうか。なにか、作物を育てたりとか……まあ、農地なんてないけれど。それでも住宅街ならプランターの一つや二つはあるだろう。終末世界ではみな何を生業にしているのだろうか。政府や会社がなくなってもコミュニティを維持するなら何かしら骨を折る必要があるはずだ。個人的には、食糧に繋がる有益な情報が欲しいが、軽々しく詮索する余裕はない。さっきの今で、どっと疲れていた。俺は実際には何もしていないのだが。
集落の中を観察していると、あえて壊されたような民家も見かける。おそらく建材をバリケードなんかに流用しているのだろう。色々な工夫が見て取れた。それを見るだけでも参考にはなる。
「お礼」
折本が、ふいに俺に声をかけた。顔をこちらに向け、指で髪をくるくるしながら、半目で俺をじとーっと見ている。そういえば、まだ、助けてもらった礼をしていなかったな……
「お礼、聞いてないんだけど」
「すまん、マジで助かった。それに、悪かったな、手間をかけて……差し出せるものがあればいいんだが、あいにく持ち合わせがない」
「へへへ……いいよ」
なんだその含みのある笑い方は……少し、不穏な空気を感じた。
「てか、感心してる?」
「ん? ああ……凄かったな。お前のスリングショットの腕前……」
「え? うん。まあね~。これでも数週間、修羅場をくぐり抜けてきた身だからさ……あ、そうそう知ってる? ゾンビは心臓を貫いても意味がないんだよ。その代わり、頭をやったら一撃。結構強い力じゃないと倒せないけど……」
「凄いな、折本は」
心の底からそう思った。
「そうかな? あたしも最初は比企谷みたいにビビってばかりだったけどね。そんなもんじゃん、ふつー? てか、なんであたしが比企谷励ましてんだろ……ウケるわこの状況」
「珍しく同意見だ……だが、その……本当に感謝してる。お前がいなきゃ死んでた」
折本は俺の顔を見て、ふっとため息をつくように微笑み、小さな拳で俺の肩をちょこんと小突く。
「てか、あたしの言った感心ってのはそういう意味じゃなくて。さっきからなんかキョロキョロしてんじゃん? ここの様子になんか感心してんのかなって。どうなん?」
「まあ……そうかもな。こんなガッツリ封鎖していたら、ゾンビも容易に手は出せないんじゃないか」
「どうかな、ヤバかった時もたくさんあったしね……それに、そんなにいいもんじゃないよ、こんなところ……最悪だ」
「ん?」
折本の科白の後半部分、声が小さくて正確に聞き取れなかったが、明らかにこの場所をディスったよな?
なんだろう。気になるが、あまり突っ込みすぎるのも怖い気がする。女子が小声で何かを言う時には、食い下がらない方が身のためだ(俺調べ)。
まあ、ありがちなアレか。外の世界は危険に満ち、物資は限られている。強いられる共同生活と狭いコミュニティ……どう考えてもストレスが溜まる。想像するだけでうんざりする。そう考えると、信頼できる人間(俺の場合、家族)で固まっていたというのはある意味では正解なのかもしれないな。
「他に知り合いいないのか?」
何の気なしに折本に問いかけたが、すぐに後悔することになった。
「いない。親も友達も死んだし。一人でふらついてたらここに行き着いただけ」
「……」
絶句した。
折本はさらりと言ったが、その内容は……想像を絶するに余りある。
わかっては、いた。俺は家族とずっと引きこもってた。情報が遮断されていたからか、家族からも友人が死んだとかそういう話は聞かない。だが、外の世界にはそういう喪失がありふれていることはわかってはいた。想像はしていた。理解はしていた。していたはずだが……俺は拳を強く握りしめる。
「すまん。軽率だったな……」
「気ぃ遣ってくれるんだ。やさしーじゃん」
「本当に悪かった……」
開示されていない情報に触れることは、常にリスクが伴う。何の気なしに言った一言が相手を傷つけることは珍しくない。それを俺は経験則で知っていたはずなのに、地雷を踏み抜いてしまった。いつもなら、軽々しく相手のプライベートには触れたりしない。長く世間から隔絶されてたせいなのか、さっきの今で浮ついていたせいなのか、心のブレーキが効かなかったらしい。
あまりかける言葉が見つからない。一歩先を歩く折本の背中が、遠く見えた。
もしかしたら……
もしかしたら、ここで折本に会えたことは、とても幸運なことなのかもしれなかった。
もしかしたら……
もしかしたら、あいつらは、とっくに……
「……比企谷?」
「……すまん、めまいだ。あんまり食べてないからな……」
強がった。頭の中に、ガンガンと、嫌な予感だけがぶつかる。
あまり良い態度ではない。親も友達も失った折本の前で、
とん。
額に熱を感じる。折本の指が俺の額を、とん、と優しく突いたようだ。
俯いていた俺の顔が上がる。視線の先には折本の目。思わず、身震いがした。まるで、籠の中の虫を観察するような眼差しで俺を見ていたからだ。なんだ、この感覚。よくない話が、待っている気がする。
「比企谷の考えてること、何となくわかるよ」
「なん、だと?」
「それに、比企谷が困ってること、助けてあげられるかもしれない」
「……それって」
折本は、蠱惑的な笑みを浮かべた。どきりとして、固まる。そんな俺の様子を見て、折本はますます笑みを深め、ちろりと、舌を出した。
初めて見るその表情に、俺は、目が離せなかった。
冷たい風が、俺の体を撫でた気がした。
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