「ふんむ……」
彼、畠山は床に置かれたビニール袋数個とダンボール箱をしげしげ眺めながら、呟いた。袋の中は全てじゃがいもで満ちていた。芽が出始めるほど古いものはなかったが、あまりにも多い。一人暮らしのアパートメントには不釣り合いな芋の群れに、畠山は圧倒されていた。
「どーすっかなぁ、これ……」
何故こんなことになったのか。話は数日ほど前に遡る。
彼はその時、仕事帰りに立ち寄った居酒屋で深酒をしていた。家から歩いて数分のところにある、大衆居酒屋。そこに毎週金曜日の夜に立ち寄るのが彼の習慣だった。注文する内容も、多少のブレこそあれ、大体決まっていた。フライドポテトとビールをまず頼む。それを腹に収めてから、次は芋餅と焼酎芋焼酎を中心に、時折麦焼酎なんかも注文していた。その後は気分であれこれ内容は変わるのだが、それでもやや炭水化物が多かった。
要するに彼の好物は芋なのである。芋、芋、芋……三食芋でも構わないくらい、彼は芋を愛していた。
事件が起こったその日、以前の職場の後輩がたまたま店に居た。
「――って、畠山さんじゃないっすか! お久しぶりです!」
飯田というその後輩は、顔を真赤にしながら畠山の肩をばしばしと叩く。
「ん? おお、飯田かぁ! なっつかしいなー……何時ぶりだ? 三……四年か? ともかく久しぶりだな!」
酒を飲んで強気になっていた畠山はガハハと笑い飯田の肩をどんどこ叩いた。
「どうっすか、最近?」
飯田の言葉にとりとめもなく畠山は愚痴をこぼす。
畠山は仕事は出来た。人付き合いも無難か、上手い方だった。が、運が悪かった。
「あっちの方が報酬いいってんで移ったんだがなー……会社自体の業績が落ち気味なのよ。ボーナスでねーってさ」
彼はそう不満げに飯田にこぼし、がばりとグラスの芋焼酎を飲み干す。それからは立板に水のような具合で畠山は愚痴をこぼし続けた。
愚痴をこぼしながら、酒を飲み、飯を喰らい、飲み込んだ。飯田もそれに付き合うように同じペースで暴飲暴食を重ねた。愉快げな彼らは、誰にも止められない。そしてその結果、ひどい酔っぱらいが二人、出来上がる。終電はとっくに過ぎていて、彼らはそのまま畠山の家に泊まることとなった。
注意すべきことが、ひとつある。
金曜日の夜。畠山は買い物をしてから帰る。奇妙な習慣に思われるだろう。ナマモノは大丈夫なのか? 冷凍食品とかは? 疑問もごもっとも。しかし問題はなにもないのだ。
なぜなら、彼が金曜日に買うものはじゃがいも以外に無いのだから。故に、芋男爵と彼は一部界隈(主に居酒屋のバイトの間)で渾名されるほどだった。畠山はそのことを一切知らないが、もし知ったとしても怒らなかっただろう。むしろ「夢のようだ」と歓喜の声をあげたかもしれない。彼は彼の愛する芋を名前に冠することが出来るのなら、婿入りすら考えたことのある男だった。
さて、お気づきだろうが、こうして畠山は居酒屋にじゃがいもの袋を忘れて帰った。婿入りを考えるほど愛した芋を、店に忘れるとはこれ如何に? 仕方あるまい。酒とはそういうものである。
「畠山さん! 先日は失礼しました! これお詫びッス!」
それから二日後、飯田が畠山の家を訪れた。手からスーパーのビニール袋を下げ、九十度くらい身体を曲げて。
「いや、俺も飲みすぎたからなぁ……あー、いいっていいって」
畠山の静止を無視して飯田はビニール袋を無理やり手渡した。
「先輩、好きでしたよね、じゃがいも! インカのなんとかっつー高いヤツ買ってきたんで、ホント、受け取ってくださいって」
それからは「要らぬ」と「でもでも」の応酬が続いたが、結局畠山は折れた。普段買わない品種を味わえるとなれば、少なからず好奇心も沸くもので、結局食ってみたかったのだ。
「わかったわかった。もらう、もらうよ……。お前、その押しの強さを仕事でだな……」
飯田は畠山の言葉に「ざーっした!」と元気よく答え、帰っていった。
「まったく……」
畠山は飯田の背中を眺めながら呟いた。が、飯田に対する呆れの気持ちは既になくなっていた。
「どうやって食うかなぁ……」
既に彼の気持ちは芋へ。生きていきやすそうな性格をしている。
次の日。月曜日である。
その日の仕事終わりの時、その日は仕事が遅くなり、普段よりも遅い時間に道を歩いていた。その日の畠山は普段とは違うスーパーへと足を運んでいた。日曜日に受け取ったじゃがいもが存外旨かった為、買い足そうと思っていたのだ。
飯田から渡されたビニール袋を頼りに店へと赴き、閉店間際の中必死に探し出して見つけた芋。彼はそっと愛娘を撫でるかのような優しい手付きで芋を撫で、会計を済ませたのだった。
その店から歩いて帰る途中、居酒屋の前を通った。その折、畠山は忘れたじゃがいもの袋を店員から手渡された。
「あー……悪いね、店員サン……ども!」
畠山はぺこりと会釈し、袋を受け取る。不思議とその店員の笑顔がにやにやしていたようにも思えたが、畠山は無視して帰っていった。実のところ、「芋男爵が芋を忘れていった」という事態は居酒屋を少しばかり笑いの渦に包んでいたのだが、そんなことを畠山が知る由もない。
帰宅して、玄関の鍵を開ける。すると、一通の紙片がポストに入っていた。畠山の実家からの宅配便だった。
「食品、ねぇ……」
紙片に記載されたとおりに在宅の時間を告げて、その日はそのまま何事もなく終わった。
さらに翌日、火曜日。
その日の朝、部屋の前の廊下で煙草を吸っていると、お隣さんから声をかけられた。
「あのぅ……すみませぇん……」
口数の少なそうな、長い髪をした大学生がお隣さんだ。今まで何度かすれ違ったことこそあったが、畠山と大学生の間の接点はその程度だった。
「はぁ、どうかしました?」
畠山は喫煙を咎められると思い、煙草の火を消す。
「あ、いえ、実家から仕送りが届きまして……食べ物なんですけど、食いきれないんです」
畠山は眉間にシワを寄せる。
「なるほど、それで……?」
既に畠山の中にひとつの嫌な予感があった。
「頂いてもらえないかな、と……腐らせるよりもマシ、と思って……」
返礼なども不要だと大学生は付け足す。
「まぁ、構いませんが……ありがとうございます」
流石に何も返さないのも申し訳ないと思った畠山は、今日の帰りに酒でも買って返そうかと考えていた。
「いえ、こちらこそありがとうございます! えーっと、これなんですけど……」
じゃがいもだった。
流石の畠山も絶句していた。しかし受け取ると言った手前、断れなかった。
畠山はその日、残業をせずに急ぎ足で自宅に戻った。宅配の受け取りの為である。
実家から届いた荷物。じゃがいもだった。それも数キロはあるであろう。じゃがいもだった。
かくして冒頭に戻る。じゃがいもの前に絶望すら抱きそうになった畠山は、自らの頬をぺちりと叩く。
「まずは茹でて、ポテトサラダにでもするか。酢を多めに入れて――」
じゃがいもを愛し、じゃがいもに愛された男。畠山。これから先の摂取カロリーや如何に……。それは畠山さえ、知らなかった。
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蛙、家来、誘蛾灯
ぼさぼさの長髪を掻き上げながら、彼はベランダから外を見渡す。一面に真夜中が広がっていた。
彼は東京から辺鄙な地方へと引っ越してきた。彼は思わず故郷の夜を想起し、ため息をついてしまう。それもその筈、進学の為に選んだ場所とは言え、彼は都落ちも良いところだとさえ考えていた。
彼の成績は別に悪い訳では無い。むしろ偏差値で言うなら上位に入る。何故地方の国立大学に進学したのか? という問は彼にとって最悪の質問だった。
彼は自身の遍歴に苛立ちを改めて覚える。
「……ちっ」
思わず舌打ちをし、彼は指に挟んだ煙草を咥え、火を点ける。
浪人すること二回。全て東京大学を目指しての挑戦だった。それを彼は後悔していない。それについて尋ねられても平然と答えられる。日本最高峰の大学。それは誘蛾灯の様に彼を魅了していた。
しかし、二回目の浪人が決定した時、親から一言言われた。東大は諦めろ、と。
彼は激高し、逆上し、絶望した。十代の最後の時期を全て勉学に費やし、失敗し、尚諦めず、成功を望んだのに、それを諦めろと言われたのだ。無理もない。
親からの言葉に対して彼は数日もの間、向き合った。そして決めた。
「国立の医学部なら文句ねーだろ? 受かってやるよ」
彼の両親は怪訝な顔をしながらも、承諾した。
そして彼は大学を選び、そこひとつに目標を絞って勉学に励んで、合格したのだ。
両親は口々に彼を褒め称える。東京に残った友人も、東京から出た友人も、かつての恩師も、皆、彼を褒め称えた。しかし、彼は合格の通知に喜ぶそぶりさえ見せなかった。達成感すら抱けなかった。
結局、彼にとっては『東京大学』以外『大学』では無いのだ。学部云々の問題ではない。
ぐわぐわと蛙の鳴き声で、真夜中は満たされていた。
「医者、ねぇ……」
彼は煙草の煙を深く吸い込んで、長く吐き出した。
彼が医学部を目指すと宣言してから少し調べたことがある。それによって生まれた偏見が彼の中に満ち満ちているのだ。そしてその偏見は、他者からしてみれば明るいはずの未来に陰を落とし続けていた。
開業医でもなければお偉いさんに家来のようにひっついて、出世を目指す……という偏見。
「くっだらねぇ」
彼は外に持ち込んだ灰皿に、煙草を力任せに押し付けて呟いた。
「俺は……俺は……」
自分の人生を生きたかった。自分の力ひとつで成功したかった。彼は脳裏に浮かんだ言葉を繰り返す。
「……」
けれども、医学というのも悪くない、と思い始めていた。そもそものことを言ってしまえば「東大に生きたいから東大に行く」という以外の考えなど抱いていなかったのだから、学べさえすれば何でも良かったのだ。
暗記と暗記と暗記。彼はそれが嫌いではなかったし、知らない知識ばかりに晒される事も気持ちを昂ぶらせさえした
知識の獲得が彼にとっての生きる原動力だった。
「しゃーねえ、やるっきゃねえか……現場になんか興味ねえしな」
彼は担当教授との会話の中でひとつの筋道を見つけていた。大学院へ進学し、研究職を目指すという選択。大学進学で挫折して、初めて見つけた目標になりうるものだった。当然、彼は東京大学大学院へと進み、今までの失敗を巻き返そうと考えた。
結局、院だろうと研究職だろうと上司に媚びへつらうのは変わらないかもしれないと思いながらも、かつて目指した夢は諦められないのだ。
そうと決まれば、と彼は呟く。
「勉強、すっかな」
彼は灰皿を手にし、部屋へと戻った。
そして、真夜中にペンの走る音が微かに混じる。
知らない世界なので妄想過多
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洞穴(洞窟)、貧乏、時計屋
盆の暮れ、彼は田舎の実家に帰っていた。
古い日本家屋の裏手には管理が殆どされていない裏山がある。山菜や茸なども取れず、せいぜいが薪に使う木材が散らばるばかりの山。今となっては誰も立ち入らない。
そんな裏山に、彼は居た。
天蓋を覆い尽くす濃緑色の木の葉達の所為で、裏山は早朝だと言うのに暗い。
「暗いな……」
何故、ここに居るのか。彼がここで暮らしていた時でさえ、裏山には殆ど立ち入らなかった。せいぜい、麓を散歩した程度だったのに、どうしてか山頂を目指して歩くことになった。
「ちっ……めんどくさいモン見つけやがって……」
そう言って彼はズボンのポケットから一枚の紙片を取り出す。古びた紙片には、山を横から見たような絵が描かれ、その天辺をめがけてうねうねと線が引かれていた。その線の終点には、黒く塗りつぶした小さい丸があった。
彼は昨日の晩を思い出す。
盆に集まった家族達。彼の両親、彼の兄、兄の嫁、祖母……そしてひとりだけ原色のような元気を振りまく一人の男の子。彼の兄の息子。つまり、彼からすれば甥だ。
甥がやにわに叫びながら、彼にじゃれつく。
「おじさんおじさんおじさん!」
「おじさんじゃないし、一回で良い」
彼はぼうっと眺めていたテレビから視線を移して、甥の方を向いた。
「おじさん! これ! これ見て!」
聞く耳を持たないことに露骨に彼は肩を落としたが、甥は気にしない。甥は手にした紙片をぶんぶんと振り回しながら、見せる気も無いのに見ろと言う。
「あーはいはい、ちょっと貸して」
「やだ! 宝の地図だもん!」
見れば良いのか、羨ましがれば良いのか、彼は判然としない。隣に居る母に視線を送ると、彼女はくすりと笑った。
「あら、りょうちゃん。それなぁに?」
「宝の地図! ほーもつこで見つけたの!」
彼は「裏の蔵で見つけたのか」と甥の言葉を翻訳して納得する。
「へぇ、凄いねぇ。おばあちゃんにも見せて?」
甥は相手をしない彼よりも、ちやほやしてくれる祖母を選んだらしい。数歩の距離を器用にどたどた走って、祖母に抱きついたのだった。
その晩はそれで終わる筈だった。
甥が眠りについてから、彼は母に声をかけられる。
「ねえ、コウ」
母は甥が持っていた紙片を手にしながら、眉間にシワを寄せていた。
「何、母さん」
「これ、裏山の地図じゃない? ほら、ここ……麓の石積みじゃない?」
彼は「んー?」と言って、紙片を受け取る。
「あぁ、確かに……三本の石塔ってのは他に見ないしなぁ」
「でしょう? で、コウにお願いなんだけど……」
嫌な予感がした。
「行かない」
「そんなこと言わないでさぁ……そうだ、帰る時、ビール持ってって良いわよ」
彼は露骨に渋い顔をする。母に向ける表情ではない位、渋い顔だった。
「ウィスキーも良いわよ? 孫の安全には変えられないもの」
「酒はありがたいがねぇ……ま、わかったよ」
母はふふんと勝ち誇った笑みを浮かべて、言う。
「ありがとうねぇ。あ、でもりょうちゃんにバレないようにね? 探検したがってたから、危ない所が無いかどうかのチェックだけ、頼んだわよ?」
そして母は風呂場へと向かっていった。
「ばあさまに聞けばいいだろうに……」
彼の呟きを母は無視したのだった。
緩やかな傾斜を登りながら、三十分。頂上に着く。今までの道程に危険な箇所はなかった。
「ここにこんなのあったのか……」
彼の視線の先には薄汚れた洞穴だった。入り口には朽ちた木の柱があったが、厳重に封をされていたというよりも、何かを祀るかのようである。しめ縄や紙垂の類は見当たらなかったが、とうの昔に朽ちて消えたのかもしれない。
「ふんむ……罰当たりな気もするが……」
少し覗く程度なら問題あるまい、そう思って木柱の間を通って中を伺う。
「なんだ、浅いな……」
人口的に作られたかのような洞穴だった。奥行きはせいぜい数メートルで、天井は彼が屈んでようやく中に入れる程度。そして、穴の中心に、ひとつの台座があり、そこにそっと銀色のなにかが安置されていた。
「これは……?」
好奇心に駆られ、彼はそれを手に取る。懐中時計だった。
「古いが……多分、いいヤツだな、これは……」
時計屋でアルバイトした経験から、彼は判断を下す。
とてつもなく大きな力で穿たれたような小さな穴を除けば、外装の欠けもないし、経過した時間の長さを思わせる汚れ以外は綺麗なものだった。大きさの割に異様に重いことから、恐らく外装は純粋な銀で出来ているのだろう。時計の裏側には削られたような傷があるが『大正』という文字が刻まれていることが辛うじてわかった。
「んー……」
彼は悩みながらそっと時計を元の場所に戻す。
歴史的な価値があるかもしれないが、時計としてはもう使い物にならないように思われた。中の機構が壊れているだろうし、穴の所為で直すに直せない。実用目的からすればただのガラクタだった。
「まぁ、あいつには過ぎたおもちゃだろうが……そもそもがウチの山だからな」
彼はゆっくり踵を返し、山を下る。
彼の内心では、奇妙なロジックが組み上がりつつあった。
あの時計が何であれ、いずれ甥は山を継ぐ。そうなのであれば、甥があの時計を欲しがっても問題はない。未来から前借りするに過ぎないのだから。要らないのであれば、あそこにあのまま置いておけば良い。
そんなロジックだった。
山を下ると、甥とその両親は家を出ていた。近くのプールに遊びに行ったのだろう。
ふんと鼻を鳴らしながら縁側の前を通ると、祖母がのんびりと茶を啜っていた。気になった彼は、地図と時計について尋ねた。
「ばあさん、この地図、知ってる?」
祖母はのんびりとした動きで、彼から地図を受け取る。
「あぁ、じいさまがお前に書いたヤツじゃないか」
彼はまるで記憶に無いことを言われ、聞き返す。
「そうだったっけ? 俺は知らんぞ?」
穏やかに笑って茶を啜って、祖母は応じる。
「んー、セイの方だったかなぁ……?」
兄の名前が出たので、彼は皮肉っぽく笑う。
「じゃあ知らんわな。……それと、銀色の時計があったんだけど、それは?」
祖母が「どんな?」と聞いてきたので、彼は特徴を説明する。
「銀で出来てる、古い時計。なんかの穴があって、壊れてる。裏には『大正』って文字」
彼の説明で十分納得できたのだろう。祖母はくすくす笑い出す。
「死んだじいさまの、お守りだね、そりゃあ。……昔、戦争で撃たれた時に守ってくれたやつだそうでね。神様にお返しするって言ってたが、そうか、あそこにねぇ……」
しばしの間、両者の間に奇妙な空気が流れた。厳かなようで、懐かしいようで、過去からの不思議な贈り物に、困惑していたのだ。
「……これを、りょうが見つけたら、欲しがるかもしれん」
「くれてやってもいいと思うがねぇ」
死んだ爺様が兄に渡そうとしたのだろう。そしてその兄の息子が、時計を得ようとしている。彼はそう直感した。見つけたのは俺だと言って、かっぱらっても良いかもしれないが、それほど貧乏でもない。
「りょう次第、か……」
彼の言葉に、祖母は茶を啜ってから、のんびりと頷いた。
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沼、双子、軸・額
そこはある地方都市から数十キロ離れた林の中にある。林は双子の様にそっくりなシルエットのふたつの山に抱かれて、ひっそりと佇んでいた。
朝には霧が立ち込め、夜には暗闇にどっぷりと浸かる。辺りには民家も無く、畑さえ無い。だから、生活道路のような道さえ無く、文字通りの無人。せいぜいが数ヶ月に一度の送電鉄塔の保守点検に来る集団がいる程度の、現世から隔絶された世界だった。
そんな林に女がひとり、やってきた。
彼女は羽虫をぶんぶんと手で追い払いながら呟く。
「うっわぁ……ホント、なんで来ちゃったんだろ……」
彼女は背負ったリュックサックをガサガサ揺らしながら、林を進む。思わず呟いたのは孤独への恐怖を紛らわすためだった。
そもそも彼女がここに来た理由は曖昧な好奇心だ。
当初は山々の風景のスケッチのためだった。その為に自宅から車を一時間以上走らせ、車載した自転車に一時間も乗ってここまでやってきた。
そして、山々に抱かれた林を見つめながらスケッチブックに鉛筆を走らせている内に、彼女は魅了された。林の中を探検しようという冒険心を捨てて鉛筆を走らせることに集中できるほど、彼女は大人ではなかったのだ。
道無き道を進むと、俄に大地に傾斜がかかり始める。
「……ん、山に入っちゃったかな?」
スマートフォンに表示した周辺地図に記された等高線の感覚はまばらだった。が、上り坂には変わりない。
彼女は後ろを振り返り、前を向き、地図を見る。林に入ってから、暫く歩いていた。もう少し進めば林は森へと変わるだろう頃合い。加えて、林の入り口は遠く隠れて見えなくなっていた。
「さて、と……この辺にしとかないとかなー……」
彼女は今日、森へ入る事も山へ入るこ事も想定していなかった。それはつまり、下手に踏み入れば遭難の恐れがあるばかりではなく、死の危険にさえ近づくことだ。それを判断し、帰路に着くことを選べる程度には、彼女は賢い……のだが、地図にある文字に彼女は心を奪われた。
「……っと、なにこれ、沼……?」
地図には『沼』とだけ書かれていた。
彼女はリュックサックから下がる水筒に口を付け、ぼやく。
「もっとこう……あるでしょ、ナントカ沼とかさ……」
名前すらない、現象だけとも言える漠然とした表記。ひと目見たいと思ってしまったら、彼女は自分を止められない。
「んーと……一キロも無い、か……それくらいなら、うん」
登道から東にほんの少し逸れた場所、彼女の地点から一キロ。それだけ確認して、彼女は進み始めた。
木の根や落ち葉、枝、石ころ、岩、ぬかるみ……そんな諸々を踏み越えて、十数分。彼女はそこに到着した。
「わお……」
林の終わりは、すなわち沼の始まりだった。下草の生える場所などは無く、いきなり水面が広がっている。注意深く進んでいなかったら、そのまま落水してしまうと彼女が思ったほどだ。
彼女は近くの木に手をあてて、周囲を見渡す。晴れ渡った空に、雲ひとかけら、遮るものの無い陽光は、辺りをまざまざと照らし出している。
沼を囲むように林が広がり、奥の方には露出した地面が見える。水面からは葦のような直立する植物が乱立していて、そこから漣のように波紋が広がっている。微風を受けて、葦がわずかに揺れているのだろう。
彼女から見て右手奥側では水面自体が緑色に染まる箇所があるが、恐らく浮草の類だろう。彼女はすぐ目の前、足元を覗き込む。水は非常に澄んでいたが、底は見えない。恐怖を感じこそしないが、仄暗い印象はどうしても拭えなかった。
冒険の成果、宝物。そんな言葉が彼女の頭を過る。足元に注意を払いながら、そっとしゃがみ込む。
「けっこー綺麗じゃない?」
誰にともなく尋ねる。答えは当然帰ってこない。
暫くしゃがみこんで景色を楽しんでいると、対岸の林から何かがぬっと現れる。真っ白な牡鹿だった。思わず彼女は息を呑んで、鹿を見つめる。
辺りを警戒しているのだろう、きょろきょろと周囲を見回し、耳を細かく動かしていた。神聖にすら思われるそれは、厳かに首を下げて水面に口を付ける。そして、数秒も経つと彼は首を上げ、顔を震わせた。頭部から生えた角が、儀式を執り行うかのように空を切る。
彼女はそっとスマートフォンを構えようとした。衝動的に光景を切り取りたかったのだ。が、その気配を悟ったのか、牡鹿はさっと彼女の方向を見つめ、踵を返す。彼女が神秘の儀式を妨害したと錯覚するよりも早く、牡鹿は跳ねながら林へと消えていった。
彼女はそれから数分の間、呆然としていた。
神秘に見えたこと、それを邪魔したこと。美なるものに遭遇したこと、それから認識されたこと。出来事への偶然、必然。そんな思いが彼女の胸の中で巡り続ける。
立ち上がった彼女の胸の中で、思いはひとつの答えになって止まった。
写真を撮って額に飾る、という邪な思いは叶えられなかった。ならば、どうするか。彼女は呟く。
「描こう……」
果たして彼女に自然の美しさがどれほど描けるだろう? 彼女にさえ自信は無く、恐らく、世界の誰もが首を振ったかもしれない。
けれど、胸に抱いた光景を、ゆっくりと寝かせ、熟成させ、形を新たに与えることが、彼女には出来るのだ。その幸いに、彼女は誇りを抱いた。
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海、軍人、ハンモック
秋の暮のある日のことだ。その日は冬の匂いのする冷たい風が吹いていて、気温が低かった。冬の始まりだと呟く人も居そうな、そんな日。
浜辺にひとつ、ハンモックが揺れていた。日本の、それも涼しいどころか寒さすら覚える日にわざわざこんなものを使うのは伊達や酔狂を通り越して狂人のそれである。
無粋にも思えるほどの簡素な作りで、折りたたみ式。そんなハンモックに寝転がり、風の吹くままに揺れる男は器用にベースボールキャップを顔にかぶせている。流石に彼は時期に合った長袖長ズボンの出で立ちだが、やはり、奇妙にさえ思える。
ざぶんと一つ、波が鳴る。
男は眠っていた。
数時間に及ぶ行軍を終えて安息の地に到着した軍人の様に、眠っていた。
話は簡単だ。彼は恋人と喧嘩した。それだけ。
けれど、彼なりに色々思うところもあったのだろう。夜通し車を走らせて、わざわざ浜辺に来てカッコつけるだけの何かは、少なくとも。
彼とその元恋人との付き合いは十数年に渡る。
中学生に入ってしばらくすれば、緊張ばかりしていた筈の学生たちは当然めくるめく新しい出会いに心を沸き立たせる。浮足立った彼は、小学校の頃から面識のあった女性に声をかけた。そこから先はとんとん拍子。男女ともに緊張と興奮と、ちょっとした背伸びをして、新しい付き合いに憧れていたのだから。
そんな興奮の時期はすぐに終わった組み合わせが多いのは、言うまでもない。所詮友達の延長線で、卒業までの時期の埋め合わせに過ぎない彼ら、彼女らの半歩進んだ関係など、当然長続きする筈が無いのだ。
だが、男は違った。
なんのかんのと性格が合い、趣味も似ている二人。学力は男が一段劣っていたが、運動は彼が一歩勝る。元恋人は割におおらかな人種だったのか、学生生活中のあれこれとした問題を飲み込むかのように対処し、彼らの間に亀裂が生まれることもなかった。
そんな具合で、中学生活が終わり、高校生活が始まる。問題もあるにはあったが、いずれも男が頑張る形で決着が付いた。彼は粘り強かったし、あの手この手と策を講じて、幸運も味方していた。そして、高校を卒業し、大学にふたりして入学、卒業、就職……順風満帆だった。
ふたりが一緒に暮らし始めて、六年を過ぎた頃のある日のことだ。
「ねぇ、そろそろさ……」
女が楽しそうに、けれど緊張しながら彼に尋ねる。
「そろそろ……ん、そうだな、話さないとな」
男も重苦しい雰囲気をまといながら、彼女に答えた。
「けっこ――」
「別れよう」
沈黙がふたりに訪れた。
「……は? どういうこと?」
男はソファに深く座り直し、視線を窓の外へと向けていた。
「そのままの意味」
「いや、それがわからないって言ってるの」
男は口を開かず、窓の外を眺めたままだった。何を言おうか、必死に言葉を探るようでもあったし、相手の急所を突く為に時を見計らっているかのようでもあった。
「ねえ、そういうのやめてって言ったよね? 別に、別に! 本当にそう思ってるんなら、良い……けど……理由を聞かせてよ」
困惑と怒りで語勢が強くなった女をなだめるように、男は口を開く。
「……転職する」
「それで別れる必要なんて無い。そうでしょ? 引っ越すにしても、私だって転職すれば――」
男は首を振る。
「お前の職歴に傷が付く。それに、今の職場はイイトコだろう? そこをわざわざ……」
女も首を振った。
半ば意固地になりつつある彼女は、深呼吸をしてから言う。
「……知らない、そんなの。……なんで?」
「別に何があったワケじゃない。大学の……佐藤って覚えてるか? 俺と同じ学部でよく飲み歩いてた男」
女は眉間にシワを寄せる。すぐに思い当たる人物が居たのか、数秒と経たずに彼女は頷いた。
「そいつが、起業するらしい。で、俺に声がかかった」
「だからって別れるなんて……」
男は勤めて落ち着いた調子で、彼女を説き伏せる。
「場所は田舎。引っ越しは避けられないし、お前の職場の出先なんかも無い」
男は一息置いて、続ける。
「農業系のベンチャー。収入も落ちる。一緒に来るならお前もだ」
女は躊躇う様子を見せながら「でも」と言った。男は彼女の言葉を続けさせない為に少しだけ語気を荒らげる。
「お前の為を思って――」
「何がわかるって言うの!」
彼女は涙を流していた。
彼には、なんと言えばよいのかまるでわからなかった。
「……外行ってくる。しばらく戻らん」
「勝手にして」
そうして、今に至る。
ざぶんとひとつ、波が鳴る。
不意に、彼の眠るハンモックの傍らに女性がひとりやって来た。そして、おもむろに彼の背中に手をかけて、ハンモックをぐるりとひっくり返す。
「ってて……だ、誰……お前か」
恋人だった。
「GPS、忘れてるでしょ」
彼女は車を親指で示しながら言った。
「……あー、なるほど」
失せ物を探す為に着けたキーホルダーが仇になったか、と彼は内心つぶやく。
バツが悪そうに男は頭を掻いて、立ち上がる。
「……で、何?」
「浮気じゃ、ないんでしょ? 嘘はついてないんだよね?」
男は呆れた様に息をつき、女を見返す。
「まさか、それを聞きに――」
「答えて」
一際大きく息をついて、彼は応える。
「俺が女にモテないの、お前が一番知ってるだろうに……あぁ、全部本当」
女は彼の顔を見つめる。彼が嘘をついているのか、いないのか、それを見定めるように。
「あいつから誘われなかったら、指輪買ってたところだよ。信じてくれって」
くすりと女は微笑む。
「じゃ、おっけーです」
ちくりと男の胸が痛んだ。
「……別れる、ってことで良いのか?」
二度目の言葉は、一度目のそれよりもずっと重く、痛かった。
男の頬が、べちりと叩かれた。
「バカ」
男は彼女に叩かれた頬を撫でて、女を見返す。
「バカって……お前……」
「付いてくってこと、わかる?」
女は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「仕事もやめて、そっちで探す。調べたら同業種で面白そうなの私も見つけちゃったし」
男はため息をついて、女に尋ねる。
「収入、悪くなるぞ」
「私が頑張る。あんたも頑張る」
「仕事から戻るの、遅くなるぞ」
「気にしない。何だったら迎えに行く」
「新しい環境」
「あんただって同じ」
「子供、作るの遅くなるぞ」
「気にしない」
「虫、多いぞ」
「……がんばる」
男は言葉に困り、口を開けなくなる。
「あのねぇ、子供の事気にしてくれるんだったら、最後まで責任取りなさいよ」
「まぁ……なぁ……」
そうしてふたり黙り込んで、海を眺め始めた。
数分か、十数分か、しばらくして男は口を開く。
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野菜、男の子、写真屋
ある夏の日の真昼。
じりじりと身体を灼くような陽射しが降り注ぎ、それを遠慮なしに照り返すアスファルト。顔や背中を流れる汗が一層気分を悪くさせるような、そんな夏の日だった。空に雲は無く、蒼天は透き通るようでこそあったが、そうであればこそ、爽やかさからは程遠くすらある炎天下、彼はひとり道を歩いていた。
彼はある企業に提出する書類を郵便局に持っていった帰り道だった。
「――ちっ」
彼は小さく舌打ちをする。ネットで全てやり取りを終わらせられればと内心考えていた。
たかだか数百メートルも無い道のりであれども、彼が居るのは真夏の街。死の危険こそ転がっていないが、それでも不快な思いをしなくてはならない。彼はじっと地面を見つめて熱線を背中に受けながら、自宅へと歩くのだった。
歩いて歩いて、自宅の影が視界に見えた頃に、彼は視線を上げた。
「……ん?」
なんとなしに上げた視線の先には写真達があった。それらは硝子の向こう側にあってきらびやかさを思わせる額縁に飾られている。
「あぁ、写真屋だっけ――」
視線を少し右に動かすと、木製の扉にはクローズドの看板が下がっている。
「潰れて……はいないのかな?」
彼は視線をショーウィンドウの写真に戻す。そうして眺めている内に異様に日焼けした写真があることに気づいた。
そこにある写真の内、ふたつは七五三の写真だった。要するにめでたい写真。記念写真。こちらは色の抜けも殆ど無く、額縁も綺麗なものだった。最近撮影された写真なのだろう。
だが、もうひとつは些細な日常を切り取ったもので、しかも経過した年月が伺えない程色あせていた。その写真は引っこ抜かれたばかりのサツマイモか何かのように見える野菜を、満面の笑みで掲げる男の子の写真だった。そして、その写真は他の二枚に比べると遥かに色あせていて、ほとんど真っ白にさえなっている。
彼は鼻を鳴らして、その男の子の写真が過ごした年月に思わず思いを馳せていた。
コレほどまでに日焼けしているのだから数年程度は平気で経過していそうだとか、この子は今どこにいるのだろうかとか、そんな他愛ない事を考えながらも、胸の中には不思議と郷愁の思いが込み上げていた。
不意に、彼に後ろから声がかけられる。
「どうかしました?」
声の主の方にさっと彼は振り返る。四十代から五十代程の女性が佇んでいた。
「あ、いえ……いい写真だな、と……」
愉快げに彼女は笑って彼に言う。
「あはは、ありがとう」
彼女の発言の意図する所をゆっくりと考えて、彼は口を開く。
「あー、この写真は……あなたが?」
ゆっくりと女は頷き、男の子の写真を見つめた。
「これね、私が独立して最初の依頼で撮った写真なのよ。確か――」
ある小学校からの写真撮影の依頼。小学校との契約では一枚を展示しても構わないとのことで、そこで撮影できた渾身の一枚をずっと展示しているのだという。
話を聞いている内に、彼の胸中には驚きが込み上げ、その思いは次第に疑問へと変わっていった。
「えーっと……それ、結構遠くの学校じゃないですか?」
話の中に出てきた小学校に、彼は通っていたのだが、そこはここからだいぶ離れていたという点が疑問に思われた。彼は大学入学に際して一人暮らしを始めたのだが、ここは実家からは二十キロはゆうに離れているのだ。
「ん、そうだよ。……当時はまだ駆け出しだったから、少しは条件悪くても、ね」
彼女の口ぶりは、込み上げてくる懐かしさを堪えきれないかのようだった。
「なるほど……」
彼は思わず頷き、再び写真に向き直る。
誰か見知った顔でも居ないかと思いながらしげしげと写真を見ていくが、その細部はほとんど色あせ、主役である男の子も、人物が〝男である〟ということ以外わからない。
彼は積もり積もった疑問を彼女に尋ねる。
「この子が誰だかわかります?」
不思議そうに女は首をかしげる。
「ん? どうかした?」
「いえ、特には……。ただ、知ってるヤツかもなぁと思いまして」
女は「ふふっ」と小さく笑って「ごめんね」と言った。
「私も詳しいことは知らなくてね。流石に名前までは……一応、十年前だったハズだけど……」
「そう、ですかぁ……」
胸に湧いた疑問。その源泉に付いて考えると、単なる好奇心では無い何かが自分を突き動かしていることに彼は気づく。
その気付きと同時に、彼の脳裏にある思い出が蘇った。
小学校から少し離れたところにある畑での授業が何回かあったこと。そこに女性のカメラマンがいたこと。そして、収穫の時、自分の近くに誰かいた事。卒業アルバムに、同じ写真があったこと――。
彼が物思いに耽っているのを、女は楽しげに見つめながら口を開く。
「この子が誰であれ、幸せになってもらいたいと思ってるよ。この写真、学校からは意外と評判良くって。あれから暫くあの学校と付き合いがあったんだよ」
お陰で商売が軌道に乗ったのだ、とも彼女は付け加えた。
「――そ、そうですか」
彼はどこか気恥ずかしさを覚え、早々に会話を切り上げようとする。
「と、ともかく、失礼しました。お邪魔ですよね」
「ん? そんなことは無いけど……まぁ引き止めるのも良くないね」
彼は一度お辞儀をして、帰路につく。
と、背後から「あっ!」と何かに気づいた声があがり、その後、彼の背中に女が言葉を投げかけた。
「けいクン! 結婚式の写真は任せなー!」
男は足を止めて振り返る。そして、照れたような顔をしてお辞儀をもう一度したのだった。
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果樹、捨てる、過去帳
その霊園からは見渡す限りの果樹園が広がっている。晴れた秋空に薄く雲がたなびき、靄のように遠くが霞んでいた。標高が高いからか、風も無いのに涼しい。そんな日に、彼は火葬場に居た。
場内から女性が出てきた。彼女は少しだけ慌てた様子だったが、彼の数歩後ろで立ち止まり、深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「……始まるよ」
その言葉に、彼は加えた煙草を地面に捨てて、火を踏み消した。彼は小さく頷いてから、場内に入る。
火葬場は重い空気に包まれていたが、それでもなお、彼は涙を流していなかった。
職員が慇懃な口調であれこれ言って居たが、それらは彼の耳に入らなかった。彼の胸中には死んだ人物との思い出が蘇っていた。
ある喫茶店で一緒に過ごしていた相手、それが今から燃やされる人物だった。名前を田辺という。
「なんだ? これ」
彼は机に置かれた一冊の手帳を指差し、田辺に尋ねた。
「ん? 過去帳ってヤツ?」
彼は眉間にシワを寄せて、聞き返す。
「何だソレ。日記じゃないのか?」
田辺はけらけらと笑って説明する。
「死んだ一族の名前を書いてくノートみたいなもんよ。デスノートの逆?」
彼の背筋にぞくりと悪寒のようなものが走った。
「それ、絶対に持ち出すようなもんじゃないだろ……」
笑顔はそのままに、田辺は過去帳をぺらぺらと捲り始める。
「だろうねぇ――っとあったあった。ここ見てみ」
そう言って差し出した過去帳には悍ましさすら感じるひとつの事実が記されていた。
「見て良いのかよ……って、うっわ……」
彼は眉をひそめながらも好奇心に取り憑かれたように、過去帳に並んだ名前を見つめる。
「へーきへーき。で、どう思う?」
田辺は窓の外を見つめながら、こともなげに尋ねる。が、彼が握るアイスコーヒーのグラスは俄に揺れていた。
彼は困惑とも恐怖ともつかない感情に心臓が早鐘を打ち始めていたのを感じていた。
「……なんで皆、二十四歳で死んでんだよ……しかも――」
記された名前の下には享年が記されていた。そして、その人物がその当時の当主に対する続柄も。
「――しかも長男が、でしょ?」
恐る恐る彼は視線を上げた。その視線の先に居る田辺はつまらなさそうに窓の外を眺めている。が、田辺の視線はずっとずっと遠くを見つめているのではないかと彼は感じていた。
「……ああ」
田辺は煙草に火を点けて、一服する。そして灰皿に煙草を置いてからコーヒーを一口啜った。
「家系らしいよ? 長男が二十四歳で死ぬ。そういう家系」
始まりは江戸時代だったが、終わりはまだ無い。それを如実に過去帳が示していた。
「お前確か……長男だったよな」
田辺は「ん」と目を閉じて頷く。その仕草にはどこか優雅ささえ感じられた。
「今年で――」
「二十四」
ぞくりと彼の背中が震えた。彼には喫茶店の温度が下がったようにさえ、感じられた。
「これ、冗談とかじゃないんだよな……? タチが悪いぞ……」
彼は過去帳を閉じて、彼に突き返す。
「冗談だと思う? 放っておけば証明されるけど」
彼は頭を振った。否定の意を示すためでなく、露悪趣味にさえ思えた田辺の言葉自体を頭から振り払うために。
「いいかげんにしろ……!」
田辺は黙って彼の眼を見据えていた。
「もし、俺が死んだら、だ」
真に迫った田辺の言葉に、彼は黙り込む。
そして田辺は、突き返された過去帳を押し返していた。
「これを燃やすか、お祓いでもしてくれ。それで終わりになるのかは知らんが」
その言葉に彼は頷くことしかできなかった。
田辺の棺には、一冊の手帳が収められていた。それは田辺が彼に託した過去帳だった。
「これで終わりになるのかは知らんが、ね……」
ぼそりと呟くと、女が不思議そうにこちらを見た。その視線に気づいた彼は小さく首を振った。
不吉ささえ覚えるブザーの音が響き、鉄扉の向こう側からなにかの駆動音が聞こえ始める。その音を合図に、居合わせた人々は控室へと向かっていった。
控室に入った彼はテーブルの端へと腰掛け、茶をすする。そんな彼の視線の先には一冊の手帳があった。ただ置かれただけの一冊の手帳だが、見知った装丁のものだった。
「これ……」
彼は手帳を手に取り、開く。失礼でも何でも構わなかった。単に胸に込み上げてくる恐怖と不安を押さえ付けるためだけに彼は動いていた。
彼は混乱した。叫びながらこの場を離れたいとさえ感じていた。
「どうかしたかい?」
田辺の父が彼に尋ねる。その生者の言葉に彼は意識を取り戻したかのように、田辺の父に振り返る。
「い、いえ……なんでも……」
彼はそっと手にした手帳をテーブルに戻した。
それを見た田辺の父は、不思議そうに口を開いた。
「……過去帳? なんでこんなところに……」
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星影、歌う、宝船
午後三時。
その日の講義が終わり、遅めの昼食として俺は学食で具なしのラーメンを啜っていた。配膳のオバさんからプレートを受け取り、調味料を追加で入れて、着席し、さて食事……と箸を持つや否や、後ろから急に声をかけられた。
「星影って言葉、あるじゃん」
視線だけ上げて声の主を確かめる。英一だった。ヤツは机の反対側の椅子にどかりと腰掛ける。
「んだよ、急に」
付け加えるように、星座の星に普通の影の字だろ? と聞き返すと、ヤツは「そ」と小さく返事をする。
「で、それが?」
俺は箸を盆の上に置いて、水を一口含む。
「いや、別に」
「っつーか、お前、講義は?」
「サボり」
申し訳無さのかけらもなさそうな言葉に、俺は呆れたように「あのさぁ」と呟いた。
「だいじょーぶだいじょーぶ」
俺の続く言葉も聞かず、英一はへらへら笑って言った。
「何がだよ」
「次の講義はまだ一回しかサボってない。つまり、今回のサボりも含めて後二回サボれる予定」
「あのさ、成績とか気にしてないの? 課題出たりとかよ」
「別にぃ? もうね、ダブった時点で何も気にならなくなったね。あと、初回でその辺の説明も聞いてる。次の次で小テスト、後は最後の試験だけ。課題なんて無いからどーとでもなる」
それで良いのか、と聞き返す気にもならなかった。
「まぁ、三年生に上がれたキミにはわからんだろうねぇ」
「必修を落とした上に年次の単位も落としたお前が悪いんだろうが」
英一は俺の言葉に、返す言葉もないと苦笑いを浮かべた。
「あぁ、それでさ、星影? 意味わかる?」
「ん? 星の……光だっけ?」
「そうそう、せーかい。でさ、影なのに光ってのも変だろ? なんでだか知ってるか?」
同意を求められても困る。
「知らん。そういうモンなんだろ?」
俺はそう言って箸に手を伸ばす。が、英一は「それで良いのか法学部生よ」と真面目そうに言った。俺はヤツの言葉を無視して箸に手を付けようとすると、ヤツは俺を遮るように「聞き給え」と声色を作って言う。
「法学部生ってのはもっと論理的で、理屈っぽくならなきゃならん。そのポケットの中のポケット六法はなんのためにあるのかね。それ以前に、何が何でも論破してやろうという気概がだね、法学部生には必よ――」
英一は朗々と歌うように長口上を述べ始めるが、俺はそれを手のひらを振って遮った。
「ポケットに入らねえよ、ポケット六法」
心底驚いたというように、英一は目を見開く。
「そうなの? え、マジ? 文学部だから知らなかった」
「そうだよ。何ならカバン中入ってるから見るか?」
「いや、遠慮しとくわ」
俺は「そうかよ」と応じ、改めて箸に手を伸ばす。が、ヤツは更に俺に言葉をかけてくる。
「で、星影の件」
俺は溜息をつく。この際だからちゃんと聞いてやろうと思い、箸もプレートの上だ。
「はいはい。それで? 聞いたからには知ってんだろ?」
「いんや、全然。っていうかさ、お前、それ好きだよなぁ。いつも食ってるもんな。美味いの?」
話題がコロコロ変わるというのは楽しい時とそうでない時とがあるもので、今回の場合は後者だ。とっとと食事を始めたい。
「美味くはないな。不味くもないけど」
英一はふぅんと声を漏らす。
「飽きねぇ?」
「飽きる。だから調味料でどうにかする」
俺は顎をしゃくってラーメンを示す。すると、英一は眉間に皺を寄せて、丼を見つめていた。
「なんだよ。変か?」
「変……は変だな。おかしいだろ、これ。何入れてんだよ。なんか色々浮きすぎだろ」
「ん? あー、ラー油、醤油、酢、塩、胡椒、七味、ゴマ。今回はミスって塩入れすぎたから、そこの――」
給湯器を指で示す。
「――お湯も少し足したな」
一応、全部無料のものを使っているし、大量に使うようなこともしていない。ラー油は今回入れすぎてしまったのかもしれないが、その程度だ。文句を言われる筋合いは無いだろう。
「えぇ……調味料の宝船かよ……」
「その芸人崩れみたいな比喩やめときな」
英一は考え込むような素振りを少しだけ示し、小さく頷く。
「反省、だな」
「お前の反省はどうでもいいから、食っていい?」
英一はキョトンとした顔を浮かべる。
「俺、一回も『食うな』なんて言ってないぜ?」
法学部生らしい、理屈っぽいツッコミを入れようと思ったが、麺がダルダルになるくらいに時間がかかりそうなので、喉元まで出かかった言葉を引っ込めた。
「そうかよ」
「そうだとも。……さて、俺は帰るぜ」
「あいよ、じゃあな」
なんのために来たのだろう、と言う質問をしようかと思ったが、それもやめておく。
英一が立ち上がるのを見てから、俺は箸に手を付ける。少しばかり固まっている麺をほぐそうとスープの中に箸を突っ込むと――
「あぁ、そうだそうだ」
「今度は何?」
ヤツはへへと小さく笑う。
「醤油ラーメンにオリーブオイルって意外とあうらしいぜ?」
「ふぅん。それはどうも」
「じゃ、今度こそ帰るぜ。じゃーねー」
そう言って、ヤツは学食を出ていった。
ようやく食える。麺を箸でつまみ、持ち上げた瞬間、ふと思う。
「オリーブオイル……ねぇ」
立ち上がって、調味料がまとまって置かれているラックを見る。それっぽいものがなかったので、明日にでも家で試してみよう……。
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