初秋風 (紫 李鳥)
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 連絡船から望む初秋の海は午後の日差しに(きら)めいていた。酒井美輪子(さかいみわこ)は、絶望と失意の中で、一縷(いちる)の望みを託し、連絡船に乗った。

 

 連絡船を降りると、黒い夏帽子の(つば)を上げ、辺りを散策した。行き交う島の民は、顔に皺を刻み、茶褐色に()けていた。

 

 旅行鞄を提げた美輪子は、海に続く小径(こみち)を下りた。途中、小径を囲う木の柵に腰を置いて煙草を吸っている高校生風の三人の不良少年の前を横切ると、砂丘に腰を下ろした。

 

 波は穏やかだった。美輪子は海を見つめながら、峰岸豪(みねぎしつよし)のことを考えていた。――

 

 豪に初めて会ったのは、行きつけだという同僚に誘われて行ったパブだった。同僚数人と駄弁(だべ)っていると、後方でギターの弾語りが、美輪子の好きな歌を歌っていた。ゆっくり振向くと、そこには、目を閉じて語らうように歌いながらギターを爪弾(つまび)く男が、哀愁を漂わせていた。

 

 美輪子はその歌声に酔い()れた。美輪子は一人で通うようになり、やがて、豪と付合うようになった。

 

 豪がくれた合鍵を使うと、時間帯の違う豪のマンションに行き、週に一度の休日、掃除や洗濯、料理を作ってあげた。そして、食後にグラスを傾け、ほろ酔いになると流れのようにベッドで(くつろ)いだ。

 

 ひと月ほど過ぎたある日、美輪子は風邪を引いて会社を休んだ。薬で症状が治まると、豪を驚かそうと、チャイムを押さないで合鍵を使った。

 

 すると、そこにあったのは、綺麗に揃えられた黒いパンプスだった。……まさか、と思いながら、震える指で寝室のノブを回した。

 

 あっ!と心の中で発し、目を丸くした。ドアを開けたそこには、豪の裏切りが具体的な造形を成していた。息を呑んで後退りした美輪子の指先から食材の入ったスーパーの袋が滑り落ちて、ブシャっと音を立てた。途端、二つの顔が同時に向いた。――

 

 

 気がつくと、明かりのない部屋に街灯が漏れていた。壁に(もた)れた無気力な体は呼吸をする度に(わず)かに動いていた。豪の恋人のつもりでいた。……違ってた。じゃ、どうして、合鍵なんかくれたの?……こうなることを予測した上での刺激欲しさ?……くだらない男!会社に行く気も失せた。あのパブに誘った同僚にさえ腹が立った。

 

 翌朝、休む旨の電話をする気分にもなれず、郵送で有給休暇の通知をすると、美輪子は旅行鞄を手にした。行き先はどこでも良かった。……南の海にしよう。夏服しか詰めなかったし。美輪子はそう思いながら、新幹線の自由席の窓際に腰を下ろすと鞄を横に置いた。誰にも隣りに座って欲しくなかった。(もてあそ)ばれた、愚かな自分の顔を誰にも見られたくなかった。――

 

 博多で乗り換え、長崎で降りると駅前のビジネスホテルにチェックインした。窓辺に佇みながら、……この際だ、離島まで行ってみよう、と思った。気がつくと、水平線からのオレンジ色の夕日が海を染めていた。――テレビのニュースを見た。

 

 翌朝もまたテレビのニュースを見た。十時にチェックアウトすると、中華料理店で食事をしてから観光をした。午後、埠頭から連絡船に乗った。――そして、砂丘に腰を下ろしたのだった。

 

 海辺のホテルにチェックインすると客室(へや)から、炎える夕日を眺めた。夕日を浴びた哀れな顔がガラス窓に映っていた。――そしてまたテレビのニュースを見た。

 

 

 翌日、近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら新聞を捲った。――そこを出て、展望台まで上ろうとした時だった。

 

「ね、東京から来たと?おい達が観光案内ばしてやるけん」

 

 少年が二人、突然、背後からやって来て、美輪子の前に立ちはだかった。

 

「……いぇ、結構」

 

 美輪子は見上げると、迷惑そうな顔をして前を横切った。

 

「結構、って、よか、って意味ね?したら、手ばつなごうで」

 

 長身の()せた方が美輪子の右手を握った。

 

「ちょっと、何すんのよ!」

 

 美輪子は少年の手を振り払おうと力一杯に腕を引っ張った。

 

「案内してやるけん」

 

 小太りの方も手を握った。

 

「オイッ!何ばしとっとや!放さんか!」

 

 別の少年がそう怒鳴りながら後方から坂を駆けてきた。

 

「ヤバッ。おい、逃げようで」

 

 長身は美輪子から手を放すと、小太りに声をかけて一目散に逃げ去った。

 

「大丈夫ね?」

 

 顔を小麦色にした長髪の少年が優しく訊いた。

 

「……ええ。ありがとう」

 

 美輪子は痛そうに左手を擦った。

 

「……病院に行くね?」

 

 少年が心配そうに訊いた。

 

「大袈裟ね。大丈夫よ」

 

 美輪子は苦笑いした。

 

「……観光ですか?」

 

「……ええ。まあ」

 

「俺、田宮佑輔(たみやゆうすけ)って言います。この島で生まれ育ったジゲもんです。よかったら、この辺ば案内させてくれんですか」

 

 町おこしの一環のような少年の言回しが美輪子は可笑(おか)しかった。

 

「……じゃ、お願いします」

 

「ハイッ」

 

 白い歯を覗かせた佑輔は前に立つと、美輪子を誘導するかのようにゆっくりと坂を上った。

 

 小さな神社の木陰で涼を取りながら、そこから一望できる海の景色を堪能した。こういう、観光名所にないスポットはジゲもんならではだ。

 

「……学校はどうしたの?高校生でしょ?」

 

 十歳ほど離れた少年を弟のように扱った。

 

「たまに行っとる」

 

 そう言いながら、ジャージのパンツから煙草を出した。

 

「……煙草は体の成長を止めるのよ。二十歳から、と言うのは伊達(だて)酔狂(すいきょう)(かか)げてるわけじゃないの。ちゃんと理由があるのよ」

 

 いつの間にか保護者になっていた。

 

「……現在、理想的な体型を保っとるけん、これ以上成長せんちゃよか」

 

「それだけじゃないわ。体にだって良くない――」

 

「分った。明日からやめるけん」

 

 説教は聞きたくないと言わんばかりに、美輪子の話を遮った。

 

「……」

 

 

 

 観光マップに載ってない名所を佑輔に案内してもらうと、美輪子は礼を述べた。

 

「……明日も会いたか」

 

 佑輔がぽつりと言った。

 

「……」

 

「下の喫茶店で待っとっけん。……来るまで待っとるけん」

 

「……行けたら……ね」

 

 美輪子は曖昧(あいまい)な返事をした。

 

 

 美輪子はホテルに戻ると、夕刊を手にして部屋に入り、全国ニュースの時間に合せてテレビを点けた。



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 そう。美輪子はあの日、合鍵を返すために豪のアパートに戻った。チャイムの音にドアを開けた豪は(さげす)むような冷たい目で待ち構えていた。視線を下ろすと、先刻のパンプスはなかった。

 

「鍵を返しに来たわ」

 

「わざわざ持ってこなくても、そんな物、捨てればいいだろ。スペアなんて幾らでも作れるんだから」

 

 気怠(けだる)そうに吐いた。

 

「他にも女が居るように?」

 

「何、ごちゃごちゃ言ってんだよ。もう一寝入りするんだから帰ってくれよ」

 

 と背中を向けた。

 

「ちょっと、待ちなさいよ。遊びなら遊びでいいわよ。じゃ、どうして合鍵なんかくれたの」

 

 その言葉に、豪はゆっくりと振り向くと、

 

「あれぇ、あんたがさっき答えを言ったじゃん。他にも女が居るように、スペアは幾らでも作れるって」

 

 美輪子を蔑視(べっし)した。美輪子の自尊心は粉々に打ち砕かれた。豪が後ろを向いた瞬間、美輪子はシンクにある包丁を手にすると、豪の背中を目掛けた。ウッ!豪は短い(うな)り声と共に壁に(もた)れ掛かった。

 

 

 そのまま、放置して逃げて帰った。豪の生死は定かではない。新聞にもテレビにもそのニュースはなかった。……生きていてくれればいいが……。

 

①誰かが通報して、手術中。

 

②生きていて入院している。

 

③あのまま死んだが、まだ誰にも発見されていない。

 

④包丁には私の指紋がついている。部屋中に。だから、非公開で指名手配されている。

 

 美輪子は頭の中で可能性を箇条書きにしながら、どうか、②であってください、と祈った。だが、死んだ確率の方が高かった。

 

 だから、死ぬつもりで、ここまでやって来た。感情的になっていたあの時を後悔したが、後の祭りだ。……この先をどうするつもりだ?死ぬのか?東京に帰って豪の生死を確認して、自首するのか?美輪子は身の振り方に迷って、眠れなかった。

 

 

 

 ――海は穏やかだった。この凪に、この火照(ほて)った体を浸せばいい。そして、深きに徐々に沈めればいい。そう、簡単なことだ。美輪子はポシェットを首から外すとミュールを脱いだ。そして(なぎさ)へと歩いた。波が優しく爪先を撫でた。次は足首に。脹ら脛(ふくらはぎ)に。太腿(ふともも)に。腰に。胸元に――

 

 

 佑輔は一人、廃墟の〈海の家〉で干し烏賊(いか)を、燃やした流木の炎で(あぶ)りながら、酒と煙草を()んでいた。

 

 壊れた戸口からふと、外に目をやると、月光に輝く海辺に何やら動くモノがあった。佑輔は目を凝らしてそれを認めると、敏捷(びんしょう)に駆け出した。――波に漂う女を見た途端、あっ!と声を上げた。

 

 美輪子を抱き抱えると先刻まで座っていた廃墟の茣蓙(ござ)に置いた。そして、鼻を(つま)むと人工呼吸を試みた。柔らかい唇に触れながら、佑輔の鼓動は激しく音を立てていた。そして、薄いワンピースに露わになった乳房の真ん中あたりを両手で押した。――やがて、ウェッと、海水を吐いた。

 

 美輪子は咳込みながら身を起すと、鳩尾(みぞおち)を押さえながら背中を丸めた。佑輔は背中を擦ってやった。

 

「……あなたは」

 

 顔を上げた美輪子が佑輔を認めた。

 

「……よかった」

 

 佑輔が白い歯を見せた。

 

「……あなたが助けてくれたの?」

 

 美輪子は自分の体を抱き寄せながら、佑輔に確認した。

 

「あっ!」

 

 焦がした烏賊に気付いた佑輔が声を上げた。

 

「酒、飲む?」

 

 佑輔が一升瓶を手にした。ゆっくり美輪子が(うなず)くと、佑輔は残った紙コップの酒を飲み干して、それに酒を注いでやった。

 

「体が温まるばい」

 

 と、美輪子に差し出した。美輪子はそれを受け取ると、少し口に含んだ。

 

「イカ」

 

 裂いた烏賊を美輪子にやった。美輪子はそれを受け取ると酒の入った紙コップと交換した。佑輔はそれを飲むと、

 

「今夜はあんたのホテルに泊まるけん」

 

 と、決定権があるような物言いをした。

 

「……心配やけん」

 

 佑輔は真剣な目をしていた。

 

「……」

 

「心配せんちゃ、なんもせんけん」

 

 佑輔が(おど)けた表情をした。美輪子が安心したように微笑んだ。

 

「笑ってくれたばい」

 

 佑輔はそれが嬉しくて酒を(あお)った。

 

 

 

 客室に入ると、美輪子は慌ててデスクの上に置いてあった封書を引出しに仕舞った。

 

「……シャワーを浴びて来るわね。テレビでも見てて」

 

 美輪子はそう言い残すと着替えを手にした。

 

 佑輔は引出しを開けると、〈遺書〉と書かれた封書を確認した。窓辺に佇むと煙草を吸った。

 

 

 頭にバスタオルを巻いて浴室から出てきた美輪子は、

 

「ソファでいい?ベッド」

 

 と、窓辺の佑輔に訊いた。

 

「……ああ」

 

 佑輔はソファに横になった。

 

「おやすみ」

 

 美輪子は明かりを消した。

 

「……おやすみ」

 

 佑輔の小さな声がした。

 

 

 ――重苦しい空気が暫く続いたが、やがて美輪子は眠りに就いた。

 

 

 

 目を覚ますと、佑輔の姿はなく、書き置きがあった。

 

〈神社で13時に待つ。できればジーパンで。 佑輔〉



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 美輪子は窓辺から海を眺めながらテレビのニュースを聴いていた。

 

 ……この島には遠い東京の事件など届かないのかしら……。

 

 

 

 佑輔の家庭は複雑だった。母親は若い男を作り、家を出ていった。漁師だった父親も跡を追うように出稼ぎに行ったっきり帰ってこなかった。毎月の仕送りはあるものの現住所を示すものは無かった。残された祖父の伸治郎(しんじろう)が佑輔の面倒を見ていた。

 

「じいちゃん、したら、行ってくるけん」

 

 バイトをしていることになっている佑輔はバイクを引きながら家を出た。

 

「気ぃつけんばたい。バイクば飛ばさんごとな」

 

 昔ながらの船乗りの伸治郎は、網を修繕しながら小皺を刻んだ褐色の顔を向けた。

 

「分っとる」

 

 

 

 佑輔は、とあるアパートの一室のブザーを押すと、ドアを開けた厚化粧の中年女に腕を引っ張られた。――紙幣を手にした佑輔はその足で神社に向かった。

 

 

 ジーパンにTシャツで美輪子が神社に行くと、佑輔が煙草を吹かしていた。

 

「煙草、やめるんじゃなかったの?」

 

 美輪子が(とが)めた。

 

「明日からって言ったやかね」

 

 悪怯(わるび)れる様子もなく、佑輔が(うそぶ)いた。

 

「もう……」

 

 美輪子は半分諦めた。

 

「似合うやかね。おいたちと同級生んごとあるばい」

 

 美輪子の格好のことを言った。

 

「せめて、先輩ぐらいにしてよ。そのほうがまだ真実味があるわ」

 

「先輩、海岸ば周ろうで」

 

「えっ?」

 

「よかけん、早よう」

 

 美輪子の手を握った。

 

 

 ――浜辺の人家まで行くと、バイクが三台あった。

 

「チワァ」

 

 展望台に続く坂道で声をかけてきた、あの長身の少年が軒先から出てきた。

 

「どうも」

 

 小太りの方も一緒だった。美輪子が驚いていると、

 

「このあいだんとは、おいが仕掛けた芝居やったと。ごめん」

 

 佑輔が頭を下げた。

 

「……もう。グルだったのね」

 

 美輪子が呆れた顔をした。

 

「どうもすいませんでした」

 

 長身と小太りも謝った。

 

「……佑輔さんには助けてもらったから許してあげる」

 

「えっ、なんば助けたとや」

 

 長身の方が興味を示した。

 

「なんでんなか。転びそうになったけんで、体ば支えてやっただけたい」

 

 佑輔が面倒臭そうに話を作った。

 

「ついでに触ったとやなかとね」

 

 小太りが茶々を入れた。

 

「せからしかね。そげんことする訳なかたい。このかたに失礼やろ」

 

「あ、どうもすいません。私情が入って。しじょうのライセンスなんちゃって」

 

 小太りが頭を掻いた。

 

「いやらしかな、自分」

 

 長身が小太りに肘鉄を食らわした。

 

「そげん言わんちゃ。ほんのジョークたい」

 

 小太りが口を尖らした。

 

「あ、紹介するけん。ヒロシにミノル」

 

 佑輔の紹介に、長身のヒロシと小太りのミノルが頭を下げた。

 

「よろしく」

 

 美輪子も笑顔でお辞儀をした。

 

「したら、行こうで」

 

 佑輔はヘルメットを美輪子に被せてやった。

 

「前が見えない」

 

「あ、後ろ前ばい」

 

「わざとやったでしょ?」

 

「わざとじゃなか。顔が小さいけん、一回転したとやろ」

 

「ホントに?」

 

「嘘じゃなかって」

 

「よっ!ご両人、お熱いことで!」

 

 ヒロシとミノルが茶化した。

 

「なんが暑かや?飛ばしたら涼しくなるたい」

 

 佑輔は美輪子を後ろに乗せると、エンジンをふかした。

 

「ゴー!」

 

 佑輔が先頭を切るとヒロシとミノルが続いた。美輪子は佑輔に腕を回してしがみついた。

 

 

 美輪子には景色を堪能する余裕などなかった。その時、声が聞こえた。佑輔の声だった。

 

「何っ?」

 

“――あんたが好きだ!”

 

 美輪子にはそう聞こえた。

 

 ありがとう。こんなおばさんを好きになってくれて。……でも、私は人を殺したかもしれないのよ。……そうじゃなきゃいいけど。美輪子はそんなことを思いながら、佑輔に強くしがみついた。

 

 

 ――佑輔のバイクが徐行を始めた。降ろされたのは、松の木が群生した、白砂青松(はくしゃせいしょう)の絶景の海岸だった。

 

「わぁ~、ステキなとこ……」

 

 美輪子はミュールのままで渚に駆け出した。

 

「佑輔、あん人んことば悪う言うて、ごめん。初めてあん人に()うた日さ。おい達ん前ば通り過ぎて、砂丘に腰ば下ろして、なんか物思いに耽っとったあん人ば興味津々に見とったわいに、あがんオバサンのどこがよかと、って言うたやろ?おいの見間違いばい。わいが好きになるだけんことはある。……かわいか人や」

 

 そう言って、ヒロシが謝った。

 

「そげんたい。おいも同感ばい」

 

 ミノルも加勢した。

 

「……おいはただ、あん人が好きなだけたい。なんか知らんばってんが、一緒におると心が安らぐとさ」

 

 佑輔は煙草を吹かしながら、波打ち際で(たわむ)れる美輪子を見ていた。



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 帰途、二人と別れた佑輔は、空き地にバイクを()めると、近くのスナックに美輪子を誘った。――

 

「名前ば知りたか」

 

 酔いが回った佑輔は美輪子の横に座ると、体を寄せた。

 

「……ミワコ」

 

「……ミワちゃんか。ミワちゃん、なんか、一緒に歌おうで」

 

 美輪子の耳元に(ささや)いた。

 

「……何にする?」

 

 佑輔と目を合せた。

 

「なんばしようか」

 

「全然、その気ないでしょ?」

 

「あるさ。なんばしようか」

 

「ほら、やっぱり、歌う気ないじゃない」

 

「あるって」

 

「じゃ、何するの」

 

「何しよか」

 

「もう……」

 

「分った、分った。じゃ、おいが先に歌うけん、ミワちゃんもなんか歌って。したら、よかたい?」

 

「……ええ。分ったわ」

 

「……なんば歌うかな」

 

 佑輔はカラオケの本を右手で捲りながら、美輪子の肩に回した左手で、客の歌う歌のリズムをとっていた。

 

 

 佑輔の選曲したイントロを耳にした途端、美輪子の顔が曇った。初めて豪と会った時に、豪が歌っていた曲だった。佑輔はまだ若いのに、その歌を上手に歌い(こな)していた。

 

 美輪子は豪のことを思い出してしまった。……豪、生きているの?死んでしまったの?電話一本で確認できるのに、電話をするのが怖かった。その電話で私の将来が確定してしまう。今の私には電話をする勇気はない。そんなことを考えながら美輪子は顔を曇らせた。

 

「……どぎゃんしたと?」

 

 歌い終えた佑輔が心配そうに尋ねた。

 

「……ごめんね。帰ろ」

 

 

 

 店の前の誘蛾灯にふと、顔を上げると、無数の蛾が群がっていた。その瞬間、不意に、佑輔に唇を奪われた。あっと言う間だった。佑輔のキスは松脂とアルコールが混ざったような味がした。……それは、豪の味と似ていた。同じ銘柄の煙草を吸っているせいだろうか、と美輪子は思った。

 

「……あんたが好きだ」

 

 美輪子の耳元に囁いた。

 

「酔ってるの?……私が訳ありなのは分かるでしょ?だから、これ以上、深入りしないで」

 

「イヤだっ」

 

 佑輔は美輪子を力一杯抱きしめた。

 

 

 

 クーラーの効いたホテルのベッドに佑輔は汗ばんだ肉体を投げ出していた。気だるさにどっぷり浸かった体を横臥(おうが)した美輪子は、そんな佑輔のあどけない寝顔を見つめていた。――

 

 

 

 佑輔は久し振りに登校した。堂々と遅刻をすると、教室のドアをガラッ!と開けて、大きな音を立てた。

 

「生徒諸君、おはよう!気張って、学問ばしとるや?」

 

 佑輔が席に着くと、両隣りのヒロシとミノルが「ヨッ!」と歓迎の挨拶をした。教壇に立っている担任の増田が煙たい顔をしていた。

 

「……ウッホン。中川、次を読んで」

 

 佑輔を無視して咳払いをすると、増田は授業を続けた。佑輔の前の席の中川という女子が起立すると、佑輔がその子のスカートを捲った。

 

「キャッ!」

 

 中川が悲鳴を上げた。

 

「ハッハッハッ……」

 

 佑輔が大声で笑うとヒロシとミノルも笑った。

 

「……田宮、やめんか」

 

 増田が小さな声で注意した。

 

「センコー!今、なんか言ったや?」

 

 佑輔が啖呵(たんか)を切った。

 

「……いや」

 

 増田は眼鏡のフレームに指を置くと、俯いた。そんな佑輔を睨み付ける女子が居た。高島南美(たかしまみなみ)だった。

 

 

 南美は下校の佑輔を待ち伏せした。やがて、ヒロシとミノルを伴った佑輔が笑い声を立てながらやって来た。

 

「……田宮くん」

 

 南美が声をかけた。三人は振り向くと、

 

「したら、先に行っとるけん」

 

 ヒロシがミノルと歩きながら佑輔に言った。

 

「……ああ」

 

 佑輔は仕方なさそうに返事をすると、髪に手櫛を入れた。

 

「……最近、会ってくれんとね」

 

 南美は肩まで伸ばした髪を耳にかけた。

 

「……忙しかったけんさ」

 

 佑輔が嘯いた。

 

「今日、会ってくれんね」

 

「……」

 

「後で〈海の家〉で待っとるけん。ね?着替えたらすぐ行くけん。したらね」

 

 南美は佑輔の返事も聞かず駆け出した。

 

「……」

 

 佑輔は南美と付き合っていた。だが、美輪子と出会ってからは、一度もデートをしていなかった。佑輔はため息を吐くと、重い足を引きずった。

 

 

 

 廃墟の〈海の家〉に行くと、イエローのタンクトップに白いホットパンツの南美が手を振っていた。

 

「コーヒーば()うてきた。はい」

 

 佑輔に缶コーヒーを手渡すと、茣蓙に腰を下ろした。南美のその行為が佑輔は不愉快だった。

 

 ……その茣蓙は、ミワコを人工呼吸した時に使ったもんたい。気安く座るな!と、腹の中で怒鳴った。仕方なく、佑輔も腰を下ろした。

 

「今度の休み、映画ば観たか」

 

 佑輔に寄り添った。

 

「……」

 

 佑輔は缶コーヒーを飲みながら煙草を吸っていた。

 

「ボウリングもよかね」

 

「……」

 

「……なんね、黙りこくってからに」

 

 佑輔の顔を見た。佑輔は缶コーヒーを一気に飲み干すと、

 

「悪か。用事のあるけん」

 

 と、急いで腰を上げて歩き出した。

 

「佑輔っ!」

 

 佑輔は南美の呼びかけに振り向かなかった。南美は悔しそうに唇を噛んだ。

 

 

 

 佑輔がノックしたドアを開けた美輪子は微笑んでいた。佑輔は無言で美輪子を抱擁(ほうよう)した。

 

 

 翌朝、佑輔が客室を出てすぐ、ノックがあった。忘れ物でもしたのかと、美輪子はドアを開けた。違っていた。そこに居たのは、恐い顔をして睨み付けるセーラー服の少女だった。

 

「……どなた?」

 

「……佑輔を私から奪わんで!」

 

 南美は辛そうな顔でそう叫ぶと走り去った。

 

「……」

 

 美輪子は潮時だと思った。このまま佑輔と関係を続けたら、皆を不幸にする。

 

 

 チェックアウトすると、埠頭に向かった。が、海は時化(しけ)、台風の影響で欠航になっていた。仕方なく、埠頭近くの民宿に一泊することにした。

 

 雨は一段と激しさを増し、午後には風を伴った。やがて、暗雲に雷鳴が轟き、更にその激しさを増していた。美輪子は心細さの中で佑輔のことを想っていた。

 

 

 

 校門を出た佑輔は傘も差さず、走り出した。

 

「佑輔!」

 

 その声に振り返ると、佑輔を睨み付けるずぶ濡れの南美が居た。

 

「……あげなオバサンといやらしか!」

 

 美輪子のことを言っていた。

 

「……悪か」

 

 そうぽつりと言って、佑輔は駆け出した。頬伝う南美の涙は雨に流されていた。



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 帰宅した佑輔は急いで着替え、その足でホテルに向かった。――何度、ノックをしても返事がなかった。

 

 ……南美が余計なことを喋ったのか?

 

 午前中に引き払ったことをフロントで聞いた佑輔は、バイクを取りに戻ると埠頭に急いだ。

 

 ……この台風だ、必ず欠航してるはずだ。頼む、欠航していてくれ。佑輔は神に祈った。

 

 

 埠頭にバイクを乗り捨てると、暴風雨の中を歩き回った。

 

 ……どこに泊まっているんだ?佑輔は埠頭周辺の民宿で片っ端から尋ねることにした。――だが、三軒目にも居らず、一軒一軒訊くのがもどかしくなった佑輔は、軒を並べた民宿の窓に向って、

 

「ミワコーっ!」

 

 と、叫んだ。何事かと、それぞれの宿の客達が窓越しに覗いていた。

 

「ミワコーっ!」

 

 

 

 雨と風は、激しく窓ガラスを叩き付けていた。窓辺に(もた)れていた美輪子は、佑輔の声が聞こえたような気がした。

 

 ……佑輔を想うあまりの幻聴かしら?

 

「ミワコーっ!」

 

 いや!幻聴ではない。美輪子は反射的に窓から覗いた。そこに居たのは、誘蛾灯の下から見上げているずぶ濡れの佑輔だった。美輪子は急いで階段を下りると、玄関の引き戸を開け、佑輔に駆け寄った。そして、

 

「佑輔っ!」

 

 と、名を呼びながら抱きついた。

 

「……ミワコ……会えた」

 

 二人は雨に打たれながら接吻(くちづけ)をした。――美輪子はそこを引き払うと、佑輔のバイクに乗って、適当なホテルに入った。部屋に入るなり二人はシャワーを浴びた。

 

 

 ――ベッドに横たわる佑輔に美輪子は決別を示唆(しさ)した。

 

「……あなたは私にお母さんの面影を見てるんじゃないの?……私はあなたのお母さんじゃないの。あなたにはあの少女が釣り合うの。だから――」

 

 佑輔はその話をやめさせるかのように美輪子の唇を奪った。

 

「うっ」

 

「……それを決めるのは俺たい」

 

 美輪子を見つめながら佑輔が大人みたいな口を利いた。

 

「……俺も東京に行く。あんたと暮らしたか」

 

「……駄目よ。半年もすれば卒業じゃない」

 

「あんたがおらんごとなったら寂しか。耐えられん」

 

「親御さんが心配するわ」

 

「……じいちゃんと二人暮らしやけん」

 

 佑輔が悲しい顔をした。

 

「そしたらなおのこと、一人にさせちゃいけないわ」

 

「したら、どぎゃんしたらよかとか?あんたば失ったら生きる望みなんか無くなると」

 

「……私は……人を殺したかもしれないの」

 

「……えっ?」

 

「だから、関わらないほうがいいわ」

 

「……あんたが例え人殺しでもよか。あんたと一緒に暮らしたか」

 

「何を言ってるの?私なんかに関わっちゃ駄目」

 

「いやだ。あんたと一緒に行くけん」

 

「だったら、卒業してからでも遅くないじゃない」

 

「そげん先まで待ち切れん」

 

「……佑輔くん、おじいちゃんはどうするの?親代りに育ててくれた人でしょ?悲しませちゃ駄目」

 

「したら、どぎゃんしたらよかとか?」

 

「だから、来るとしても卒業してからにしなさい。電話番号を教えるから」

 

 それは、“熱い物は冷めやすい”という(ことわざ)もあるように、半年も経てば佑輔の気持ちも冷めるだろう、と考えた美輪子の方便だった。

 

「……卒業したら、本当に会ってくれると?」

 

「ええ、勿論よ。卒業したら、自分の将来を自由に選択できるでしょ?誰にも気兼ねすることなく自分の意思で行動できるわ」

 

「……分かった。卒業まで待つけん」

 

「その代わり、ちゃんと学校行かなきゃ駄目よ。卒業証書を持ってなきゃ会わないからね。分かった?」

 

「……分かった」

 

「じゃあ、指切り」

 

 美輪子は、仰向けの佑輔に小指を見せた。その指に佑輔が小指を絡めた。

 

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本呑ます。指切った。……約束だよ」

 

「……分かった」

 

「おじいちゃんを大切にね。分かった?」

 

「……分かった」

 

 美輪子は微笑みながら佑輔の頭を撫でてやった。

 

 

 

 翌朝は台風一過の晴天だった。美輪子は埠頭で海を眺めながら、連絡船を待っていた。

 

「あっ、そうだ。ちょっと行ってくるけん」

 

 佑輔は何やら思い付くと、バイクのエンジンをふかした。

 

「どこに行くの?」

 

 美輪子が心配そうな顔をした。

 

「じきに戻ってくるけん」

 

 佑輔はあどけない笑顔を向けると、バイクを走らせた。

 

 

 既に秋になっている裏山に登ると、佑輔は栗を拾った。数個の(いが)を剥くと、ジーパンのポケットに押し込んだ。佑輔はそれを、都会人の美輪子への、この島の土産(みやげ)にしたかった。

 

 ……おいとの思い出にしてほしか。そう思いながら、佑輔は急いで美輪子の待つ埠頭に引き返した。

 

 

 カーブに差し掛かった瞬間だった。濡れた落ち葉にスリップした佑輔のバイクは、カーブを曲がりきれずにガードレールに衝突した。バイクから投げ出された佑輔の体は生い茂る雑草の中に落下した。傍らには、ポケットから飛び出た栗が散乱していた。

 

「……ミワ……コ……」

 

 佑輔は、湿った草むらを這いながら美輪子の名を呼んだ。

 

 

 

 出港の汽笛(きてき)が鳴り響いていた。事故のことなど知る由もない美輪子は、見送りに来るはずの佑輔を、(はや)る気持ちで待っていた。

 

 

 

 

 

 (ほの)かな秋色の(かお)りを乗せた潮風が、美輪子の黒髪を(なび)かせていた。――

 

 

 

 

 

 

 

 

   完



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