埋没殿のサイレントリッチ (ジェームズ・リッチマン)
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序章 埋没せし栄華
塔の国にて


*ズルズル……*


「天使様、泣いてる」

 

 塔の根元にへばりつくように位置する貧民街。

 誰にも目を向けられることのないその片隅で、薄汚れた少女が彫像を見上げていた。

 

 バビロニア歴32年、アーティマ・ログセンドロン作。

 “世界を支える者”。

 

 天高くそびえる塔の帝国、バビロニアの根元に存在する巨大な柱にあしらわれた古い作品であった。

 大人十人でも囲みきれないほどの石柱の表面に、白亜の天使たちが並んでいる。

 天使らの由来は今の時代において定かでない。非常に古い時代の作品であるが故に。

 

「おい、行くぞレヴィ。いつもより遠くで水汲みしなきゃいけないんだ。急がないと」

「うん」

 

 学のない貧民たちにとっても興味はない。大事なのは今日の飲み水である。

 その彫像のうちの一体がここ数百年流したことのない赤錆びた涙を流していても、その意味に気付くこともない。

 

 

 

「運べ運べ! 肉が腐るぞ! 日頃の鍛錬の成果を見せろ! さっさと運べ!」

 

 同時刻。

 塔の下層にある運搬道にて、騎士団らが魔物の枝肉を担いでいる。

 今朝方、塔の外に跋扈する魔狼の群れを討伐し、手に入れたものであった。

 

「ラハン団長。何故魔狼などを運ばせるのですか?」

 

 大量の肉を運び出す騎士達に檄を飛ばしていた大男に、おそるおそる尋ねる者がいた。

 

「ルジャか。傷は大丈夫なのか」

「見た目ほど大したことはありません。ポーションも使いましたから。……それよりも、あれです」

「ああ」

「魔狼の肉は、貧民でも食えたもんじゃないでしょう。悪い虫がいる。それを上に運ぶなんて……あいつら、何かやらかしたんですか?」

「しごいているわけじゃない。王命さ」

 

 王命、その言葉に副団長のルジャは肩を震わせた。

 

「……眇の狂王。ですか」

「その呼び方はやめろ。聞こえたら事だ。……大方、ペットにくれてやる餌なのだろうさ。蛮族を引き連れていた頃よりはずっといい」

「……かも、しれませんね」

 

 騎士団は命令に絶対だ。

 逆らえば命はない。彼らが数ヶ月前に外から引き連れた蛮族らと同じ末路を辿るのは間違いないだろう。

 いや、あるいは見せしめのためにより酷い死が待っているのかもしれなかった。

 

「……せめて、馬車が使えたら良かったんですが。魔狼とはいえ、担いで登っていくのは大変ですよ」

 

 ルジャは所々ひび割れた石畳の街道を見て、眉根を寄せた。

 かつては整然と連なり美しく見えていたであろう石畳。

 

 バビロニア歴74年、イスクゥル作。

 “緑の道”。

 シンプルながら見栄え良く、量産にも耐久にも秀でた実用的な芸術であった。

 しかし今やその石畳の道も所々が荒れており、昔ほどの美しさはない。轍のいくつかにも損耗があるせいで、しばらく前から馬車を走らせることもできずにいた。

 

「じきに修理が入るさ。じきに……」

 

 一部の水道がどこかで破損しているなどの報告が上がっていることも、騎士団長のラハンは知っていた。下層の公共事業は急務である。

 だが、ここしばらくはその手が入る気配もない。

 人々は今の暮らしに不満と不安を抱えていたが、口を噤んでいる。粛清を恐れているのだ。

 そして粛清を恐れているのは、屈強なラハンも同じだった。

 

 誰もが口を閉ざしたまま、最下層のどこかに流失する水を見過ごしていた。

 

 

 

「どうしてです!? 僕らはあれほど練習したのに……!」

「悪く思わないでくれ、エバンス……歌唱団そのものが危機に瀕しているんだ」

「けど、だからって……! 僕らベルジェンス歌唱団は、三百年以上やってきたんでしょう!?」

 

 塔の中層に存在するとある劇団の本拠地では、甲高い怒鳴り声が響いていた。

 女のように高く艶のある声は、歌でなくともその魅力を失わない。しかしエバンスの声には、普段はかけらも見られない焦りと怒りが露わにされていた。

 

「……ああ。ベルジェンス歌唱団は昔からずっと、降臨祭のステージを任されてきた。我々の箔だ。誇りもある。……だが、眇の狂王が降臨祭から歌劇を無くせと仰ったのだ」

「そ、んな……」

 

 エバンスは顔を蒼白にし、言葉に詰まった。

 あまりにも理不尽な話であったが、それでも怒りより先に恐怖が勝る。バビロニアの狂王とは、それだけの支配力を持っていた。

 

「我々などまだマシな方さ。旅芸人などもう何百人も処刑されているのは知っているだろう。狂王は……芸術を嫌っておいでなのだ。いいや、無関心と言うべきか。とにかく、そのようなものに金を使うなどと、そう考えておられる」

「……僕らが積み上げてきたものが、無駄だと?」

 

 エバンスの声は震えていた。

 

「王に言わせれば、そうなのだろう」

「……酷い」

「エバンス。あまり王に反する言葉を口にするな。私は、お前に死んで欲しくない」

 

 劇団長の老人は、目に涙を湛えるエバンスの頭を優しく撫でた。

 

 貧民街の男娼から始まり、その美しさと声の透明感を買われて酒場の歌手に。そして歌唱団に拾われ、バビロニア随一の歌姫となった奇跡の少年エバンス。

 彼の人生はどん底から始まり、これからさらなる絶頂を迎えようとしていた。その矢先に出くわしたのがこの禁令である。

 

「いつか……またいつか、大舞台で歌えるさ」

「……」

 

 エバンスは堪らず舞台に駆け上がり、観客のいない暗闇に向かって歌い始めた。

 世界を震わせるような透き通った声。女神のような艶やかな響き。

 

 照明のない劇場の最奥を見上げる彼の目からは、とめどなく涙が溢れている。

 

「……悔しいさ。私もな」

 

 劇団長は心を共振させる物悲しい歌声から目を背け、舞台袖に飾られた古びた彫像を見つめることしかできなかった。

 

 バビロニア歴390年、コバック・ブルーストン作。

 “無名”。

 長年、華やかな舞台を片隅で彩ってきた抽象芸術。

 添え物としての密やかな美。名も無き芸術の一つであった。

 

 

 

「なぜ、処刑など!」

 

 バビロニアの上層で、一人の令嬢が声を荒げている。

 

「パトレイシアお嬢様。既に決められたことでございます」

「狂王の独断でしょう!?」

「今や、かの王を止められる者などおりませぬ。そしてお嬢様、声を抑えてくださいませ」

「私達が声を上げずして、誰が諌めるというのです!」

 

 その令嬢は若く、美貌も心も活力に満ちていた。

 何より彼女はこの上層部の住民であるにも関わらず、下層の民を憂うだけの道徳を持つ稀有な感性を持ち合わせていた。

 

「狂王の……ノールの暴政を止めねばなりません。このままでは民が疲弊し、バビロニアは根元から滅びてしまいます」

「しかしパトレイシアお嬢様。ノール陛下の手腕によってバビロニアの勢力圏が大幅に拡大されたのは事実でございます。貴族の多くはその旨味を甘受しておりますれば……お嬢様が旗印になったとて、ノール陛下の足下は小揺らぎもしないかと」

「……既に、その足下が不当に処刑され続けているのですよ。ここ三日で、どれほど多くの民が処刑されたことか」

「三百人ほどでございましょうか」

 

 眇の狂王ノールの暴政は、バビロニアの全てを震撼させていた。

 かつては民衆の娯楽ですらあった広場での公開処刑は、今や浮かれて見に行く者はいない。

 潔白を訴える者が発する心の底よりの断末魔は、娯楽とするにはあまりにも凄惨に過ぎ、そして他人事とするには距離が近過ぎた。

 

 毎日のように転がる首と胴体。血の溜まり。

 探せばそこには、知り合いの一人も見つかるかもしれない。

 明日は我が身かと思えば、誰もその光景を直視などできなかった。

 

「……いくらノールが王として優秀だとしても、あんまりです」

 

 狂王の地盤は頑強だった。

 その力と恐怖は建国以来最高であることを、人々は僅かにも疑っていない。

 

 百年続く近隣諸国との戦争に勝利し、蛮族を滅ぼし、竜の巣食う山を征伐した。たったの一代で多くの偉業を成し遂げた。

 狂王は恐ろしかったが、手腕は神のごときそれであった。

 

 バビロニアは世界最大の国として君臨し、今や逆らう外敵も、恐るべきものも何一つ存在しない。

 

「……まさか、あのリチャードまで処刑されてしまうだなんて」

「……」

 

 “精霊姫”パトレイシア。彼女の執務机の上には小さな珊瑚の彫像が置かれている。

 

 バビロニア歴439年、ペイチー・ビーシーズ作。

 “愛の水底”。

 この世ならざる世界のどこかにあるという、人魚が暮らす世界を象ったと云われる芸術作品であった。

 

 

 

 

 

「リチャード。褒美だ。貴様には死をくれてやろう」

 

 黄金の玉座の上で、小柄な男が底冷えする声を上げた。

 男の飛び出しかけた双眸は左右ともに外側を向き、絶え間なくギョロギョロと動いている。

 

「だが……」

 

 左目よりも一回り大きな赤みがかった目玉が、節くれだった手の中にある小さな彫刻を睨みつけた。

 

 バビロニア歴695年。リチャード作。

 “苔生した壁”。

 

「貴様が作ったというこのくだらない石ころに免じて、そうさな……特別に、死に方は選ばせてやろうか」

 

 狂王ノールはその醜悪な顔を更に歪め、嗤った。

 

「人に死を想起させる“死の芸術家リチャード”……貴様には相応しい褒美であろう?」

 

 小柄な身体。不釣り合いに大きな頭部。そして異形の目。

 亜人種よりも遥かに醜悪なその王は、しかし他のどのような賢者よりも高い知能を持ち、そして他のどの魔物よりも恐ろしい人間であった。

 

 バビロニアの最上に存在する玉座の間には多くの大臣が連なっていたが、誰もが一様に口を噤んでいる。彼らは王の許しなく口を開いたものがどうなるかを知っていた。

 ここで唯一音を出すことを許されているのは、王自身と、その背後で身体を丸めるようにして眠りこける一匹のドラゴンのみ。

 

「さあ、褒美(死に方)を選ばせてやるぞ。何がいい? 発言を許す。言え。さあ、言え」

 

 黄金の玉座より、黄金の十七階段を下り、別珍の絨毯が敷かれたそこに跪いているのは、痩せこけた男である。

 

 彫刻家リチャード。

 彼は死を宣告した狂王を前にして、未だにその無関心そうな表情を崩していない。

 

「ああ……貴様は声を出せぬのだったか? よいよい。なればこれを使うが良い」

 

 そう言って、王は一本の短剣を放り投げた。

 オリハルコンで出来た至宝の短剣である。リチャードは目の前に転がった短剣を掴み取ると、刃に指を沿わせて切れ味を確認している。

 

 当然、それは筆記具の類ではない。

 

「さあ、彫刻が好きなのだろう? クカカカカ。であれば、それを使って、」

 

 狂王が嗤い、全てを言い切る前には既に、リチャードは短剣を己の腕に突き立てていた。

 

 玉座の間にひしめく大臣たちが息を飲む。

 ふわりと漂う血の香にドラゴンが鼻をひくつかせる。

 狂王ノールは、大きなギョロ目の動きを僅かに停止させた。

 

 リチャードが動かす短剣の動きに躊躇はなかった。

 ザクザクと己の皮膚を切り、決して短くはないであろう言葉を刻んでいた。

 

 顔は苦痛に歪められていない。短く“斬首”と書くわけでもない。

 彼は淡々と、己の腕に文字を掻き続けている。

 

 やがて彫り終えると、彼は自身の血だらけになった腕の表面をぬぐい取り、横に向けて見せた。

 

 そこに刻まれた美しい文字の羅列に、狂王ノールは目を剥いた。

 

 

 

 “死の底にて餓え死にしたく存じます”

 

 

 それはバビロニアにおいて、最も恐ろしい死に方の一つとして考えられているものであった。

 

 

 




――おお、ミミルドルスよ! 長大なる地中の迷神よ!
――モルドへ去り逝く哀れな魂たちを、どうか一口に呑み干し給え!


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リチャードの処刑

 “死の底”。

 それは天高く聳え立つバビロニアの地下深くまで続く、旧時代の坑道である。

 

 バビロニアの基礎として岩盤まで無数の大穴が穿たれた際、膨大な規模の鉱脈群が発見されたのが始まりであったという。

 鉱脈は各地から集められた奴隷たちによって採掘され、バビロニアに莫大な富をもたらした。

 

 しかし劣悪な労働環境に無茶な採掘計画は、同時代の事業と比べても遥かに多い死者を生み出した。

 崩落と火災が起こらない日はなく、水没や生き埋めの被害に遭った使い捨ての作業者達は救助されることもない。

 労働資源は物として消費され続け、やがて長大な坑道内には作業者たちのアンデッドが犇めくようになり、不死者の数と勢いは幾度もの討伐計画をもってしても押し返せないものとなった。

 

 やがて、坑道は資源が枯れるのを待たずして、厳重に封鎖されることとなる。

 古来より封印され続けてきた不死者の巣窟。

 それこそが、バビロニアの直下に広がる“死の底”であった。

 

 

 

 バビロニア最下層の貧民窟より、磨耗した古い石階段を降り、六つの施錠された鉄門をくぐり抜けた先に、その大穴はあった。

 

 かつてそこにあったらしい作業者搬入用の昇降機は大昔に取り払われ、今は漆黒の穴がそこに広がるばかりである。

 直径は40メートルほどもあるだろうか。

 万が一にも不死者が這い上がれぬよう縁には滑らかな石材が使われ、目に見える限りではほぼ垂直であるように見えた。

 

 落ちれば、縄や鍵を使ったところで容易には上がれるものではない。文字通りの深淵。

 

「うっ……なんと、おぞましい瘴気……!」

 

 何より、大穴より立ち上る濃厚な死の気配。

 下へ降りるまでもなく肌で理解できる不吉な気配は、未だに死の底で不死者が蠢いている証であろう。

 どこまで続くかも知れない大穴を無事に降りていけたとして、下で待つのはおぞましい不死者達による歓迎だ。

 死体は清められることなく、魂は浄化されることもない。

 

 処刑の見届け人として来た大神官は、自身でも初めて目にする死の底の恐ろしさに身震いした。

 

「クカ、クカカカカカッ! この底で餓死をしたいとは、いや、実に面白い。果たして、餓死などしている時間があるだろうかなぁ? ん? クカカカカカッ……」

 

 今宵、死の底にて異例の処刑が行われる。

 

 罪人はリチャード。その罪は“騒乱罪”。

 死を想起させる作品を意図して作ったことが罪であるという。

 

 見届け人は王自身と大神官、親衛隊、その他大勢である。

 顔ぶれは様々だが、誰もがその顔を蒼白にしていた。

 

 

 

 王による処刑は珍しくない。見せしめのように殺すことなど日に何度かあっても不思議ではなかった。

 しかし今回処刑されるリチャードという男はバビロニアでも有名な芸術家の一人であり、彼の作品は高い評価を得ていたし、貴族階級の中でも愛好家は大勢いた。いわゆる成功者の一人だったのだ。

 そんなリチャードが、取ってつけたような罪によって殺される。名も顔も知らない相手ならばまだしも、有名人が何の予兆も無しに死罪を宣告されるというのは、上流階級の者達であっても身近で、恐ろしい出来事であった。

 

 しかし、その当人はさほど恐れていないように見える。

 

「フン……」

 

 眇の狂王ノールにとって、この期に及んでも恐怖に歪まないリチャードの澄まし顔は面白くなかった。

 

「ただ岩盤に打ち付けられて死ぬのも、亡者に食われて死ぬのもつまらんな。望みの通り、餓死をして貰わねば困る」

 

 背の小さな王は枯れ枝のような指を鳴らし、親衛隊の一人に道具を用意させた。

 

 長いロープと、一本のステッキである。

 

「ロープを使って下に降りるがいい。亡者に襲われたならば、ステッキでも振り回して抗うがよかろう。クカカカカカ……せいぜい暗闇の中、亡者に齧り殺されぬよう励むといい」

 

 ノールは邪悪に嗤い、下からリチャードの顔を覗き込んだ。

 しかしそこに映る表情はやはり、何もない。

 

「つまらん。やれ」

「ハッ!」

 

 リチャードの体が縛られる。

 細い体は右腕以外がきつく拘束され、抜け出すことを禁じられた。

 

 右手にはステッキ。石突きには鉄を用いているようだったが、武器として扱うにはあまりにも頼りない。

 

 こうして、リチャードの処刑は整った。

 

「……かの罪人、リチャードの魂に安らぎがあらんことを」

 

 大神官の嘯きと共に、彼は大穴へと送られたのだった。

 

 

 

 岩にぶつけて殺してしまわぬよう、ゆっくりとロープが伸ばされる。

 リチャードは暴れることもなく、粛々と下降しているようだった。

 

 三人がかりでロープを送る処刑人たちは、早くこの胸糞悪い仕事に終わりが来ることを祈っている。

 作業は10分続いていた。

 

「!」

 

 ある時、ロープが急激に軽くなる感触があった。

 切れたのだ。

 

 同時に、深い大穴の底から何かがぶつかり合うような音と、この世のものとは思えないナニカの叫び声が響いてきた。

 

「ひ、引き上げろ! 亡者を釣り出しては危険だ!」

 

 引き上げたロープはリチャードがいた直前のところで荒々しく切断されていた。

 大穴からはまだ、ぶつかり合う音が鳴り響いている。

 

 死の底にはやはり、なにかがいた。数百年の時を経ても、何かが住み着いているのだ。

 

「……つまらん」

 

 ノールはリチャードから押収した彫像を大穴に放り捨てると、やがて全ての興味を失ったような顔で階段を登り始めた。

 

 

 

 こうして、リチャードの処刑は完了したのであった。

 

 大穴の底ではまだ、物音が響いている。

 



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ありきたりな終幕

 深い闇の底で、鈍い音を立てて骨が砕け散った。

 脊椎の破片は岩肌を転げ、埃被った地面に落ちて沈黙する。

 

「……」

 

 鋭い爪と牙を持つアンデッド、スケルトンハウンドである。

 彼は永らく出会うことのなかった生者に襲いかかったが、リチャードのステッキによって返り討ちにあったのだ。

 

 もちろん、右腕以外を縛られた状態で無傷とはいかない。リチャードの方も手傷を負っていた。

 しかし幸いというべきか、体に巻かれた頑丈なロープが守りとなって、致命的な傷を負うことはなかった。

 スケルトンハウンドの切れ味のいい爪牙によっていい塩梅にロープが千切れたおかげで、体は自由に動かせるようにもなった。

 

 リチャードは彫刻家である。

 それ以前は軍属であったし、墓守としての経験もある。アンデッドとの戦いには慣れていたのだ。スケルトンハウンドとの戦いは久しぶりだったが、彼の慣れた対処はブランクを感じさせるものではない。

 狂王ノールにとっても、この展開は見通せなかったに違いない。

 

 直近の脅威は排除した。体は自由だ。千切れているがロープもある。

 

 ならばどうするか? 

 

 まともな人間ならば、様々な工夫を凝らして死の底からの脱出をくわだてるだろう。

 

 しかしリチャードは、それを良しとしなかった。

 彼は自ら死の底での死を望んでからずっと、この時を待っていたのである。

 

「!」

 

 しばらく静かにしていると、上から何か硬質な物が落ちてきた。

 拳大の石か何かであろうか。それはリチャードの足下に転がっているようだ。

 

 穴の上で鉄扉が閉まる音が聞こえる。

 明かりが消え、死の底に真の暗闇が訪れる。

 常人ならば発狂しかねない負の暗闇。

 

 リチャードはそこで……微笑んだ。

 

 

 “死の底に入れるとは……私は幸運だ”

 

 

 彼は死の芸術家。死を想起させる作品作りに魅せられた男。

 彼はもとより、死の底で生涯を終えるつもりだったのだ。

 バビロニアのどこよりもずっと、濃密な死の気配の漂うここで、新たな“着想”を得るために。

 己の生涯最期の傑作を、静かなここで作り上げるために。

 

 

 

 リチャードは千切れたロープの破片に、ステッキの石突きから散った火花で火を灯した。

 ぐらぐら揺れる不安定な灯りが唯一の光源だった。

 

「……」

 

 足下に落ちてきたものが何だったのかを見てみると、それは自分が仕上げた作品であったようだ。

 ノールが大穴に捨てたのだろう。粗雑な扱いをされたが、材料そのものが頑強であったのと、作りが繊細ではなかったのが幸いしたのか、驚くべきことに目立った破損は無かった。

 

 “苔生した壁”。

 立方体の小さな作品であり、リチャードにとっては近年でも珍しく会心の出来と言えるものであった。

 

 ノールはこの作品を見て、リチャードの処刑を決定したのである。

 そう考えると、リチャードにとってこの作品は、己の死のきっかけであると言えるのだろう。

 

 そう思うとリチャードは不思議と仕上げきったその作品が愛おしく思え、まじまじと見つめてしまった。

 完成した作品にはあまり思い入れを残さないタイプの作家ではあったのだが。

 

「……!」

 

 骨の足音が聞こえた。

 リチャードはステッキを手に、そちらに燃えたロープをかざす。

 

 暗がりの中からぬっと現れた白い影。

 それは極々一般的なアンデッド、スケルトンであった。

 

 よく耳をすませてみれば、足音は一つだけではない。

 坑道は果てしなく続いており、その先から続々と気配が近づいているのだ。

 

 

 大昔の力あるバビロニアでさえ、武力制圧しきれなかったアンデッドの巣窟、死の底。

 

「……」

 

 リチャードは自分に歩み寄る死の足音に耳をそばだて、味わった。

 自分自身の生の終焉。凄惨な終わり。弔われることのない死の底での永遠……。

 

 ……待ち望んでいた終わりのはずだった。

 甘美な死の実感が得られるはずであった。

 

 

 “……陳腐だ”

 

 

 だが、違う。それはリチャードが求めていたものではない。

 死の底でならば己が追求し続けた死の恐怖を手に入れられると思っていたが、どうにも違う。

 

 朝霧に煙った戦場を彷徨うゾンビウォリアーの一団を見たときほどの衝撃でしかない。

 それはつまり、彼にとって……地上世界でもありふれているような、極々普通の、陳腐な恐怖でしかなかったのだ。

 

 

 “奥に行けば、あるだろうか?”

 

 

 ならばまだ死ぬわけにはいかない。

 死の恐怖を、その真髄を啜る時までは、無駄な死を得たくない。

 

 リチャードはステッキを巧みに操り、スケルトンの群れへと飛びかかっていった。

 

 

 

 

 死闘は長く続いた。

 リチャードはアンデッドとの戦闘に慣れていたが、それでも百体に近い個体を相手取るのは無謀であったらしい。

 

 近くのアンデッドは全て排除したが、リチャードは既に満身創痍である。

 スケルトンソルジャーが突き立てた切れ味の悪い鉄剣は左足に刺さり、出血を強いた。今はロープできつく縛って止血しているが、もう走ることはできないだろうし、強力なアンデッドが来ればなすすべも無くなるに違いない。

 

 リチャードは結局、死の底の奥に行くことはできなかった。

 求めていた死の恐怖を味わうこともなかったし、緩やかに死にゆく今でさえ、得られる心境にはない。

 

 これが絶望であれは死の恐怖を高めるために一役買ったのかもしれないが、リチャードが今感じているのは失望に近かった。

 普遍的で陳腐な死。それが己に向けられた、相応のものなのだと。

 

 彼はあたりに散らばる人骨を組み上げてロープで要所を縛り、椅子を作り上げた。

 背凭れと肘掛のある、豪奢だが悪趣味な骨の椅子。

 彼はそこに腰を落とし、静かな鼻息をついて、手元に残された己の作品を眺め……やがて火を消して、目を閉じた。

 

 

 静寂な死の底。

 穏やかに流れる、死までのひと時。

 

 足音が近づいてくる。

 

 正面で僅かに立ち止まる。

 

 そして、胸元を貫く錆びた鉄剣。

 

 肺に溢れ、満たされてゆく血。

 

 心なきアンデッドが執拗に3回目の刺突を突き立てたあたりで、リチャードはその意識を闇の中に落とした。

 

 

 



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没落の日

 

 スラムの天蓋を支える石柱。天辺に据えられた天使像が、赤い涙を流している。

 立ち昇る煤や埃で薄汚れた彫像の、それでも一際どす黒く染まった赤錆の涙が頰を伝い、中性的な喉をなぞる。

 

「我々の世界には数多くの神がいます。大地の迷える神ミミルドルス……天海と大海を泳ぐ巨大なる神ノーレ・ノーストル……教会は聖なる神フルクシエルのみを信仰せよと言いますがこれは間違いです。我々は教会に騙されているのですよ」

 

 孤児院に左遷された老神父は、今日も孤児たちに異端の自論を押し付けている。

 子供たちは反論や不真面目な態度が癇癪じみた体罰となって返ってくることを知っていたし、真面目そうに説教を聞いていればパンとスープにありつけるので、無駄口は叩かない。

 

「地中で死を遂げた者はミミルドルスに呑まれ、地底世界に堕とされます。海中で死を遂げた者はノーレ・ノーストルに食われ、水底の雪となって消え去ります。なので、我々人間が清らかな世界へと至るならば、地上と空の間でこそ……」

 

 陶酔して語る神父をよそに、退屈そうな少女は塔を支える天使像を見上げた。

 

「悲しそう……」

 

 天使が流す赤錆の涙はとめどなく溢れ出し、それは柱のずっと下にまで伸びている。

 柱の表面を走る細かなひび割れに染み入る涙は、少女の目には赤色の稲妻のようにも映った。

 

 

 

 そして。

 

 バビロニアの巨塔全体に、かつてない大きな破裂音が響き渡った。

 

「なんだ?」

「外かな」

 

 それは子供にとっては雷雨に轟く雷のようでもあり、

 

「誰のヘマだ」

「またあの見習いだろう」

 

 学のある者にとっては錬金術師が生み出した火薬の吠える音にも似ていたし、

 

「うるさい工事ねえ」

「連中はやり方が雑なんだ」

 

 多くの民にとっては近くで住居の撤去を行う解体音のようでもあったし、

 

「どこだ? 誰がやったんだ」

「火事にならないといいが……」

 

 職人にとっては窯が破裂するような音にも聞こえたという。

 

 さて、それは何の音であったのか。

 思い浮かべるものの差こそあれ、重大なことは、この巨大なバビロニアにいる全ての人間がその音を耳にしていたということである。

 

「……柱が砕ける音だと?」

 

 音の来歴を唯一正しく言い当てたのは、音源から最も遠く離れた最上部の玉座にいる王、ノールであった。

 

 

 

 音が響く。

 

「ちょっとこれ……」

 

 何度も何度も。

 

「おかしいわよ、こんなの……」

「何が起こっているの?」

 

 バビロニアに雷が降り注いでいるかのように、何度も何度も響き続ける。

 だがこの世に存在するかもしれない神々はその塔に雷を落としてはいなかったし、空は晴れ渡っていた。

 

 では何故、塔の全てを取り巻くようにこんな音が響き渡っているのか? 

 

「あ……」

 

 貧民街にパラパラと、煤けた白亜の雨が降り注いだ。

 赤い涙を流していた天使像が砕け落ち、その中に滞留していた赤錆の水が溢れ……そのわずかな、しかし均衡を崩すには充分な破損が、全ての破局の始まりだった。

 

「空が落ちてくる……」

 

 栄華を極めた塔の崩落が始まった。

 

 

 

 揺れる。傾く。悲鳴。

 そして体験したことのない長い浮遊感。

 衝撃。悲鳴。そして再びの揺れ……。

 

 バビロニアは根元から崩壊を始めていた。

 1段目が自重に耐えきれず圧壊し、落ち、2段目もしばらく耐えた後に圧壊し……破局は留まること無く繰り返された。

 

 それはまるで、世界の終わりを見ているかのような光景であった。

 

「どうなっているの!?」

「誰かきてくれ! 脚が動かないんだ!」

「か、傾いている! 掴まれ!」

「助けて!」

「潰され……あッ」

「押すな!」

「飛び降りるしかない!」

「塔が……塔が、バビロニアが崩壊しているのか!?」

 

 比類なき繁栄を極めてきた巨塔の国、バビロニア。

 いつか神々の世界にまで至るであろうと畏れられてきたその国は、たった一日のうちに滅び、地図から姿を消したという。

 

 

 

「嫌だ! 劇団長、一緒に逃げてください!」

「エバンス、私はもう動けない……ああ、重いな。懐かしい。この吊り下げの仕掛けを最後にいじったのは何十年も前だったか……」

「嫌だよ……早く、ううっ……」

「エバンス、泣くな……お前が泣くのを見ると、私まで泣けてきてしまう……」

「団長、僕は貴方がいないと……」

「情けないことを言うんじゃない、エバンス……お前はもう、立派な大人だろう」

 

 歴史ある劇場は瓦礫の中に飲み込まれ、劇団長は圧死した。

 歌姫と名高かった少年エバンスもまた大道具に頭部を強打され、即死した。

 

 

 

「民の救助を急げ!」

「ダメです! 揺れがあまりにも……!」

「大階段に人が殺到しています! 何人も押し合いで死んでるぞ!」

 

 塔の崩落において、常勝を誇る騎士団はあまりに無力であった。

 彼らは崩落も、民の恐慌を抑えることもできなかった。

 

「ラハン団長! あんたも逃げるんだ!」

「ルジャ……だが! ここにいる民を見過ごすわけには!」

「見りゃわかるだろ、街はもう無理だ! 自分のことだけを考えろ!」

 

 バビロニアのためによく訓練された騎士団であったが、その最期は統率も取れず、無力な民を押し退けて逃げる者も多かったという。

 

「俺は……俺は……!」

「……馬鹿野郎! ラハン、俺は先に行くぞ!」

「あっ……おい!」

「お前はいつだってそう……あっ、やばッ」

 

 副団長のルジャは崩れた床から滑落し、複数の内臓を破裂させて即死した。

 団長のラハンは一人の民も救助できなかった。彼は瓦礫を持ち上げようと蹲っている間に、崩壊した上層より落ちてきた鉄柵に首を落とされて即死した。

 

 

 

「そんな、こんなことって」

 

 貴族街は世界に影響力を持つ者が何千、何万人もいたが、彼らもまた一人残らず犠牲者となった。

 上層部で暮らす彼らが圧死することは少なかったが、バビロニアの高さが生む落下の衝撃に耐えられる者はいなかった。

 

「……バビロニアが、沈んでいる……」

 

 精霊姫パトレイシアは、大窓から望める外の景色を見て、気が遠くなった。

 

 バビロニアは最下層より崩れつつあったが、それだけに留まらない。

 周辺一帯の地面を巻き込むように、地中に向かって崩落しているのが見えたのだ。

 

 円形に一定間隔で基礎を穿たれた岩盤が、崩落の衝撃によってくり抜かれたのであろう。

 それと共に、地下深くに張り巡らされた無計画な坑道が受け皿となり、バビロニア全体を飲み込もうとしているのだ。

 

 たとえ落下から生き延びたとしても、地の底で生きながらえたとしても、そこにあるのは死の底と繋がった魔窟。

 這い上がれる可能性など……微塵もない。

 

「……なぜ、こんなことに」

 

 パトレイシアは上層にまで響いてくる民の悲鳴を聴きながら、落下と瓦礫の圧力によってすり潰され、死亡した。

 

 

 

「ぐふッ……三人、か。我が体躯であれば上々であろう? クカ、クカカカカ……」

「はぁ、はぁ……! 狂王ノール! 俺はな、お前のことが前から気に入らなかったんだ……!」

 

 玉座の間では、人と人との争いが繰り広げられていた。

 バビロニアの頂上にあってももはや死は避けられぬと知った時、親衛隊の何人かが選んだのは……暴虐の限りを尽くしていた王に対する反逆だった。

 

 だが予想外だったのは、小さな体のノールが手練れの親衛隊を三人も返り討ちにしたことである。

 狂王は未来を読んでいたかのような動きで三人を殺し……それでも多勢に無勢、胸に剣を突き立てられたのだ。

 

「へへへ……あんたのその顔、見たかったぜ……!」

 

 ノールは玉座ごと心臓を貫かれ、しばらく苦しんで……やがて沈黙した。

 王を殺した男は、親衛隊長のグリムであった。彼はノールの下で虐殺を楽しんでいたが、それと同じくらいノールの横暴さを憎んでもいたのだろう。

 すでにバビロニアは崩壊を待つばかりで、己の死も間際に迫っていたが、それでもグリムの顔は喜悦に染まっていた。

 

「若造が……」

「……あ?」

 

 カタリと、仕掛けが動く音がする。

 それは黄金の玉座に仕込まれた、王のみぞ知る魔導鍵。

 

「ゥルルルル」

 

 狂王のペットたるドラゴンの枷を解除する仕掛けであった。

 

「嘘、だろ」

 

 振り上げられた竜の巨腕を見上げながら、その言葉を最後に、グリムの命は掻き消された。

 

 ドラゴンはそれから玉座の間を暴れまわり、生き残った親衛隊や大臣を皆殺しにし、最後には落下の衝撃と倒れかかった黄金の柱によって首をへし折られて死んだ。

 

「……」

 

 狂王ノールはその光景をどこか冷めた目で見つめたまま、息を引き取った。

 

 

 

 こうしてバビロニアは滅び、地上から姿を消した。

 六百年以上の歴史は唐突に終わり、その最期は様々な伝説となって語り継がれることとなる。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 そして、長い長い時を経て。

 

 深い深い死の底で。

 

 リチャードは目を覚ました。

 

 



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第1章 リッチのリチャード
リチャードの覚醒


「職人に語る口なし。手を動かせ。」
 ――戴工神コンベイ


 リチャード。

 

 死を題材とした数々の作品を生み出し、バビロニアの人々に強い衝撃を与えた彫刻家。

 

 彼は意欲的に作品作りに没頭し、妻子を設けることもなく五十の半ばでその生涯を閉じた。

 

 

 

 リチャードはやけに醒めた頭で、そのようなことを考えていた。

 

 “死の底で、アンデッドに殺されたはずだが”

 

 見回すと、そこは洞窟のようであった。

 壁面には削られた痕跡がある。リチャードは採掘など知らなかったが、掘り跡から見てここが人工的に作られた坑道であることを悟った。

 

 ここは死の底であろう。辺りを漂うアンデッドの気配からしてそれは間違いない。

 

 しかし、アンデッド? 

 それに気付いた時、リチャードは納得した。

 

 “そうか、アンデッドか”

 

 自分の手を見れば、そこにあるのは白骨化した己の手。

 周囲の坑道も、灯りが無いにも関わらず昼間のようにはっきりと暗視できる。不死者の気配にどことなく危機感を覚えないのも考えればおかしな話だ。

 

 リチャードは死に、そして不死者になったのである。

 それも、知性あるアンデッド。魔法と死霊術に特化した高位不死者。バビロニアにおいては特級の討伐対象である、リッチに。

 

 “死の直前に杖を持っていたせいだろうか”

 

 リチャードは目覚めてから、ステッキを手にしていた。

 古びてどこか木目の痩せた、簡素な杖である。リッチは杖などで魔法を操るアンデッドなので、それは不自然ではない。

 しかしリチャードは生前に魔法など使った経験などなかったし、魔力とは縁の無い生涯を送ってきた。リッチと言われてもピンとこないのが現実である。

 

 痩せた杖。そして、ボロボロに劣化した罪人のローブ。どちらも年季を感じさせる。

 

 “あれから、何年が経ったのか”

 

 身に付けていた物品の劣化は凄まじかった。一年や二年ではない。

 罪人のローブの生地の傷みからして、数十年は経過しているだろうか。

 

 “アンデッド化にかかる時間は個体差がある。これは遅い方と見るべきだろうか”

 

 リチャードはアンデッドの専門家でもある。

 彼は彫刻家となる前は墓守を務めていたこともあり、アンデッドの習性や生態には詳しかった。作品作りの一環として個人的に調べていた時期もあったので、知識量は神殿務めの神官よりも豊富だった。

 

 “……そんなことはどうでもいいか”

 

 分析すれば考えはいくらでも浮かぶ。考察のやり甲斐はあった。

 だがリチャードは一旦自分の思考を取りやめて、骨製の椅子に深く腰を下ろし、うな垂れた。

 その姿は、彼が剣を突き立てられて事切れた姿にも似ていた。

 

 “つまらない死に方だった”

 

 今、彼は心底落ち込んでいた。

 自分の死に様があまりにも普通だったからである。

 

 死。それは一生のうちに一度しか訪れない終わり。

 リチャードにとっては最大のテーマであり、長年追い求め続けていただけに特別な憧れを抱いていた瞬間でもあった。

 

 彼はその生涯で様々な死を見送り続け、それらを作品に込めてきた。

 孤児院で餓死してゆく子供、軍幕の中で治療されながら息を引き取る騎士、蘇ったアンデッドに組み付かれて噛み殺される墓守、処刑される罪なき人々……。

 死は身近であった。それだけに、死は避けられないという思いは強かったが、その質に関しては人一倍のこだわりを持っていた。

 

 故にリチャードは死の底での終わりを望んだのである。

 狂王ノールから死罪を言い渡され、その死に様を褒美とされた時は思わず笑みを浮かべそうになったほどだった。

 

 しかし現実に死の底へ降りてみれば、そこはただ瘴気が強いだけの洞窟でしかない。墓守時代の集団埋葬地と何ら変わらない現実が、無秩序に地中を蛇行しているだけ。ただ危険なだけの地下空間に過ぎなかったのだ。

 おとぎ話に夢を見ていたのだろう。言い伝えられる死の底とは、リチャードにとって大したものではなかったのである。

 

 “がっかりだ。まさか何の着想も得られないとは……”

 

 死を垣間見た時、人は何かを見るのだという。

 瀕死の重傷から復帰した戦場帰りの騎士たちは、昏睡中の不思議な体験について語ることがある。臨死体験というものだ。

 リチャードも自身の体を使って臨死体験を目論んだことは多々あったが、残念なことに未だにそれと呼べるような鮮やかな体験は味わったことがない。時折その時の心境をテーマに作品作りすることもあったが、受け取り側の反応はともかく、自身の手応えは微妙なところであった。

 

 スランプだったのだ。

 その行き詰まりを打破する何かを、最期の最期に答えだけでも垣間見たかったのだ。結局のところ、何も無かったのだが。

 

 “アンデッドになっても、生は続く。生とは、自我だ”

 

 足元に転がっていた立方体の彫刻を拾い上げる。

 王に捨てられた作品、“苔生した壁”。

 

 “自我が続く以上、不死者になろうが何も変わりはしない。私の生は終わらず、未だ緩慢に続いている”

 

 人々はアンデッドを忌避するが、リチャードにとって不死者はそのような対象ではない。

 生の向こう側に存在するもうひとつの生。あるいは死の節目を曖昧にする、生寄りの蛇足。そのような意識が強かった。

 

 “……作品作りを始めよう。新たな着想は得られなかったが、温めていたテーマはまだ残っている。寿命が無いのであれば、これからは腰を据えて作業ができそうだ”

 

 幸い、手元には杖がある。金属の石突きを使えば脆い壁を彫って作品が作れるだろう。

 あるいは大昔の奴隷が残した工具を見つけ出せば、より作業は楽になるはずだ。

 

 リチャードは気分を入れ替え、作品作りに相応しい壁面を探すことにした。

 

 “……しかし、アンデッドが多い。さすがは死の底と言うべきか”

 

 坑道を進んでいくと、何体ものスケルトンとすれ違う。

 アンデッドと化した今のリチャードは襲われることはなく、移動は快適だ。それでも意思のないスケルトンが雑に歩くせいで、ガチャガチャと骨をぶつけてくるのは煩わしかったが。

 

 “この先からは、特に強い瘴気を感じるな”

 

 瘴気。それはアンデッドに不可欠な負のエネルギーであろうか。

 瘴気の濃い場所はアンデッドにとって心地の良いもので、リチャードも進む先から漂うその気配を悪くは思わなかった。

 

 しかし。

 

 “……”

 

 何らかの事故によって崩落したらしい広大な広間に出た時、リチャードは思わず歯軋りした。

 一際負の気配が強いその広場には、多種多様なアンデッドの群れがひしめき合い、ガチャガチャグチャグチャと煩わしい音を引っ切り無しに奏でていたのである。

 強い瘴気に誘われた不死者が群がっているのだろう。

 そこにある不死者はどうにも比較的新鮮そうな気配を漂わせていたが、リチャードにはそんなことはどうでもよかった。

 

 “うるさい”

 

 リチャードは騒々しい空間が大の苦手だったのである。

 

 結局、彼は静かな場所を求めて道を引き返してゆくのだった。

 

 

 



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不死者の感性

 

 アンデッドは生者の気配や負の魔力に惹かれて動く。

 ほぼ全てのアンデッドに自我と呼べるものはなく、その動きは初心者が作ったゴーレムのように単調だ。

 全てのアンデッドが一定の秩序じみた習性に従って動くので、自然とアンデッドたちの群れが形成される

 

 リチャードはそんなアンデッドの群れから距離を取るようにして、作品の製作に取り掛かったのだった。

 

 死の底はかつて採掘場だったので、劣化はひどかったがいくつかの採掘道具は難なく見つかった。

 道具と材料さえあれば作品作りに困ることはない。

 リチャードは行き止まりの空間に広がる平らな壁面を拠点とし、そこに錆びついたノミを突き立てた。

 

 坑道を採掘する音が小さく地底に響く。

 何百年ぶりの採掘の音を思い出せる不死者はもう、ここには一人も残っていない。奴隷だった頃に嫌という程聞き続けた音だったが、磨耗しきった魂ではその意味を受け取ることもできなかった。ある意味で、それは幸せだったのかもしれないが。

 

 

 

 作業は三日三晩、あるいは十数日と続いた。

 アンデッドに休息や睡眠は必要ない。リチャードは作品作りに都合の良い身体に最初こそ感動していたが、壁面を掘っていくうちに違和感を蓄積させていった。

 

 やがてその違和感が無視できないほど大きく膨れ上がった時、ようやくリチャードの手は止まった。壁面の巨大彫刻が八割型の完成を見た時である。

 

 “これは、人間だった頃の死想に過ぎない”

 

 作品の前でしばらく感じ入って、リチャードはそう結論づけた。

 

 “人間だった頃の私の感性ならば、これにある程度の死を感じていたかもしれない。だが今の、アンデッドたる私の感性は、目の前のこれに焦燥を感じない”

 

 それは不死者になったことによる感覚の差異。

 人間であった頃とは異なる死生観が発現したことによる、作品の不成立。

 

 死想。メメントモリ。そういった作品の要は、死を記憶させること。

 見る者に強く死の印象を刻みつけることこそが重要なのだ。

 

 だが今リチャードが掘り上げた壁面の作品には、それがない。

 もちろん出来栄えは良いはずだった。しかしそれはリチャードが人間だった頃に温めていたテーマを緻密に再現してみせたものに過ぎず、だというのにリチャード自身に感銘を与えることはできなかった。

 

 “これでは駄目だ”

 

 リチャードは悩んだ。

 人間であった頃の感性が通用しないとなれば、今の自分は一からテーマを手探りしなければならなくなる。

 人間の価値観を捨て、アンデッドの価値観を模索しなければならない。大きな方針の転換が必要だった。新たなテーマは心躍る響を持っていたが、億劫に感じたのも事実である。

 

 しかし、リチャードはひたむきで、根気強かった。

 

 “模索するしかない”

 

 もはや自分は人間ではない。

 人間だった頃の感性のほとんどは不協和を起こし、不死者としての感性だけが残っている。

 

 “ならば、不死者の感性で作るだけだ”

 

 それは一度死んだ者のための芸術。

 死せる者に死を想わせるという、前人未踏の新たなテーマだ。

 

 “死んだ甲斐があったかもしれない”

 

 リチャードは失敗作が刻まれた行き止まりに背を向け、新たな行き止まりを探すことにした。

 一つの場所に固執する必要などない。

 幸い、壁なら幾らでもあるのだから。

 

 

 

 それから、リチャードは自身の“アンデッドの感性”を震わせる作品作りに没頭した。

 最初は手探りだ。覚えのあるモチーフを彫って並べたり、記憶にある物事を抽象化して自身の心の波を注意深く監視することもあった。

 

 “アンデッドは不死者だ”

 

 アンデッドに寿命はない。それ故に何十年でも何百年でも地下を彷徨うし、それはエルフを上回る不死性を感じさせる。

 骨だけになっても動き回り、理性なく生者に襲いかかる姿はありきたりな恐怖の象徴だ。

 

 “だが、アンデッドにも終わりはある”

 

 それでもアンデッドは完全無欠の不死ではない。

 聖水の一杯で、身体を全壊させることで、灰に還るほどの炎で。アンデッドはその偽りの生を容易く終えてしまう。

 それは不死者というよりも、生にしがみつく老人のようですらある。

 

 “アンデッドは死を恐れないが、それは自分の死を考えるだけの自我がないせいだ。磨耗した魂では、死を恐れることもできないのだ”

 

 テーマが固まるにつれ、ノミを打つ手に力が篭る。

 作品が形作られるにつれ、無感情だった壁面にアンデッドの本能をざわめかせるような恐怖が形成されてゆく。

 

 “見えてきた”

 

 不死者は恐ろしい。

 だが、不死者にも恐ろしいものはある。

 リチャードは自身の異形の感性に従い、作品を仕上げていった。

 

 

 

 やがて、一体のスケルトンが行き止まりの道へと迷い込んできた。

 ケタケタと顎を鳴らしながら、ふらふらと坑道を歩く不死者。比較的損耗の少ない真新しい白骨にリチャードは首を傾げたが、些細な疑問よりも気になるのはスケルトンの反応だ。

 

 スケルトンは観察するリチャードを無視して、行き止まりの部屋にたどり着く。

 そしてスケルトンは、自我のない眼窩で壁面を見た。

 

 視界に広がるのは、抽象的なレリーフ。

 骨らしい部品を基本のパターンに、壁一面に広げ、外側にいくにつれて崩れてゆく。

 入り口からは密集した骨しか見えないが、部屋に踏み入った瞬間にその“崩壊”が視野いっぱいに広がる構図であった。

 

 スケルトンは部屋に踏み入った瞬間に足を止めた。

 壁を見上げ、そこに広がる不死と、果てにある終わりを前にして、確かにその個体は固まったのである。

 

 不死者は思考しない。あるのは生者への恨みだけ。そう考えられてきた。

 

 だが実際は、そうではなかったのだ。

 不死者には不死者の感性があり、価値観がある。あまりにも希薄で、生者とは異なっていたために人間が気付かなかっただけなのだ。

 

 やがてスケルトンは何かに怯え、何かから逃げるかのように、足早に部屋を出ていった。

 急ぐ後ろ姿はまるで、いやそれこそまさに、どうにか死から逃れようと足掻く生者のようであった。

 

 “生者も不死者も変わらない”

 

 終焉は、死は、おそろしい。それは、アンデッドも同じだった。

 

 “ならば、私の芸術は通用する”

 

 死を記憶せよ。そのテーマが通じると確信するや、リチャードは再びノミを握りしめて歩き出した。

 再び作品を作るために。より、不死者の心を揺るがす芸術を作るために。

 

 瘴気に溢れる死の底で、彫刻の音が響き渡る……。

 

 

 

 



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意欲の再燃

 リチャードは最下層地区の孤児院で生まれた。

 親はいない。自身のルーツを気にしていた時期もあったが、同じ孤児院の子供たちも似たような境遇であることを知ってからは気に留まることも無くなっていった。

 

 不確かな親の存在よりも、当時の幼いリチャードにとって重要なのはその日の飢えの凌ぎ方であった。

 彼のいた孤児院は決して善意で運営されていたわけではなく、幼い子供たちに労働を課すための施設である。

 彼らの扱いは奴隷よりも粗雑だ。小金を稼いでくればそれは儲けになるし、死んだら死んだで口減らしになるという院長の思惑は子供の目にも見え透いたものであった。

 死ぬ間際になれば、病気になった子供を街角に立たせ、物乞いをさせる。そしていくら小金を恵まれようとも、そうなった子供が救われることはなかった。

 自分と数年間を共にした親友が冷たくなって集団墓地に棄てられた時、リチャードは孤児院から脱することを決意したのである。

 

 

 

 リチャードは十二歳の頃になって、軍に志願する。

 院長は自分の支配から手駒が剥がれてゆくことに難色を示したが、周辺諸国との多面戦争のために常に志願兵を欲していたバビロニアの軍部はリチャードの入隊を許可した。

 

 こうしてリチャードは劣悪な孤児院から脱出できたのだが、軍での扱いも決して生易しいものではなかった。

 まだまだ幼く、栄養不足のために戦力足り得ないリチャードは、衛生兵団付きの雑用として働かされることになったのである。

 

 衛生兵団と言えば聞こえは悪くなさそうだが、リチャードに割り当てられたその実態は汚物の処理であった。

 駐屯地に山積する糞尿の始末、死体の片付け、血糊に汚れた武装の整備。

 舞い込むのはありとあらゆる汚れ仕事ばかりであり、それらが全て厄介な仕事の押し付けであったことは、当時のリチャードにも理解できた。

 それでもリチャードは、脱走することも不満をこぼすこともなく仕事にあたった。

 幸いと呼ぶべきかは難しいところだが、孤児院の劣悪な環境も似たようなものだったために、常人には獲得し得ない耐性を持ち合わせていたのである。

 むしろ飢えと病を放置される孤児院よりは、汚物と向き合ってさえいれば人並みの衣食住が許される軍の中の方が、遥かに居心地はマシだったのだ。

 

 

 

 十四歳の頃、寡黙なリチャードの活躍が執刀団(しっとうだん)の目に留まった。

 

 執刀団は重篤患者の緊急処置を専門とする衛生兵団のひとつであり、荒っぽい外科手術や前線に向かう兵士を“動けるようにする”ことに定評のある部署であった。

 任地は専ら最前線。敵よりも味方に恐れられるその部署の長が、黙々と汚物と向き合うリチャードの胆力を偶然に見かけたのだそうである。

 

 リチャードは職務の内容に興味はなかったが、給金が増えるという一点だけで転属を快諾することとなる。

 

 そして、この執刀団での活動こそが、後々のリチャードの死生観により大きな影響を及ぼすことになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 “……”

 

 リチャードは不死者の群れが蠢く大空洞まで足を運んでいた。

 常ならば騒々しさに自ら避けていた場所だったが、ふと気が向いてやってきたのである。

 

 そこで見かけたのは、見覚えのある石像。

 両目から血のような赤錆の涙を流す天使の彫像が、彼の足下に転がっている。

 

 リチャードは自分よりも大きな天使像の裏面に回り込み、べったりと赤黒く染まりきったそこを見て、思案する。

 

 “最下層の作品だ。世界を支える者……何故ここに? いや、この様子だと……”

 

 大空洞を見上げれば、そこには所々破断した魔金柱や、黄金色の建材が垣間見える。

 そして、坑道と呼ぶには明らかに巨大すぎる縦穴。

 

 導き出される結論は、信じがたい事だが一つであった。

 

 “バビロニアが崩れたとでもいうのか”

 

 滅びることのない巨塔の大国が滅びる。それは、長年バビロニアで過ごしてきたリチャードを素直に驚かせるものであった。

 

 “……なるほど。涙腺が柱まで繋がっていたのか。遠目からはわからない造りだな。内部の空洞に蓄積した錆び水が、ここから流出していたと。なるほど……さすがは巨匠の仕事だ。面白い工夫を施す”

 

 孤児院にいた頃、リチャードも何度となく像を見上げたものだった。

 それが今や、崩落によって手の届く場所でじっくりと観察できる。

 物悲しい時の流れを感じさせるが、古の巨匠の仕事を間近で見られる機会などそうはない。

 彼はしばらく、瓦礫の周囲で作品探しに没頭した。

 

「グァ、ァアアアアア……」

 

 白亜の石片を探し回っていたリチャードだったが、少し離れた場所からうめき声が聞こえてきた。

 

 小高い黄金の丘に立っていたのは、赤っぽい豪奢な儀礼服を身に纏った白骨死体。

 それは折れ曲がって鎌のように成り果てた長剣を手に、辺りを見回している。やがてそれは所在なさげにうろつくスケルトンを見つけると、静かに歩み寄っていった。

 

 そして、鎌持ちのアンデッドはスケルトンに斬りかかった。

 袈裟斬りにされたスケルトンは胴の半ばまで剣に切り砕かれ、悶える。よく目を凝らしてみれば、スケルトンから溢れ出る負のエネルギーを鎌持ちのアンデッドが吸収しているようだった。

 

 同族のアンデッドから力を奪う。

 それは決して珍しい現象ではない。アンデッドの格に大きな差があれば、連中は感慨もなく共食いをする存在なのだ。

 

 “グリムリーパー。珍しいな。高位のアンデッドだ”

 

 それは執刀団に所属していた頃、遠目に見ることもあったアンデッドだ。

 何人もの騎士がその鎌の餌食となり、救えなかった者が多かったのを覚えている。

 

 このまま目をつけられれば、リチャードもその犠牲となるだろう。

 彼は厄介ごとは嫌だったので、あくまでも他人事でその場から離れることにした。

 

 結局、リチャードは再び入り乱れる坑道へ戻ることになった。

 しかし、大空洞に足を運んだのも気まぐれでしかない。リチャードは崩落したバビロニアにも、さまよう危険なグリムリーパーにも大して思うところは残っていない。

 

 彼の内にあるのは、少しだけ再燃した創作意欲。ただそれだけである。

 

 “アーティマ・ログセンドロン。近くで見ると荒さは目立つが、やはり力強い造形だ”

 

 リチャードの頭にあるのは、天使像の纏う力強い神秘性。自分とは別方向の芸術。それへの惜しみない賞賛と、湧き溢れる意欲だ。

 

 “それにあのギミック。意図したものかはわからないが、良いな。やはり彼には遊び心がある”

 

 坑道の奥までやってくると、次第に壁面にリチャードの作品が見えてくる。

 彼が様々な場所で作り上げた、死想の芸術作品たちである。

 複雑な坑道の各所に配置されたそれらは、辺りをさまようアンデッドたちを悶えさせていた。

 

 アンデッドに心はないとされているが、そんな彼らがリチャードの作品から逃げるように振舞っているのである。

 それが各所にあるものだから、リチャードの工房が近付くにつれて坑道内では、アンデッドが苦しみ続けているようにも見えた。

 

 “作ろう。更なる作品を。より、不死者の心を揺さぶるような作品を”

 

 前評判無しに作品に反応する不死者たちは、リチャードにとって非常に都合の良い“鑑賞者”であった。

 生前は的外れに高騰し続ける自分の作品を、それを求める人々の長々しい賞賛を冷めた目でしか見れなかったリチャードだが、今はそれなりに観衆の存在をありがたく思っている。

 彼の創作活動は奇妙なことに、死後になってより生き生きと輝いていたのだった。

 

 

 



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レヴナントのレヴィ

 一人の小柄なアンデッドが、狭い坑道内をさまよい歩いている。

 肌は青ざめ、各所が黒く変色している。

 今や艶の失われた長めの黒髪と、ボロ切れ同然の薄汚れたワンピースにだけ、微かに少女だった頃の面影を残している。ただそれだけの、ありきたりな不死者であった。

 

 スケルトンやゾンビとは異なり、生前の肉体をある程度残すタイプのアンデッドである。死霊術師によって操られやすく、不死者のヒエラルキーにおいては最下部に位置する存在。

 死の自覚を得る前に命を失った者が変ずることの多いその不死者を、人は“レヴナント”と呼んでいた。

 

 肉体を持ってはいるが、血は通っていない。魔力によって状態を保持し、動かしているだけの、肉人形のようなものである。

 生前の未練や執着、復讐心によって行動すると言われているが、彼女はまだ幼い少女だ。生前同様に非力であり、もしも彼女が復讐の対象を見つけたとしても、その無念を晴らすことは難しいであろう。そもそも復讐の相手が存在するかも怪しいのではあるが。

 

「ぁー、ぁああー、あー……」

 

 何故さまよい歩くのか。

 何を探しているのか。

 自分は一体何者なのか。

 

 レヴナントがそれを自覚することはない。

 低級アンデッドの自我は極めて希薄であり、生者に襲いかかること以外には行動指針を持たない。

 レヴナントは死霊術師(ネクロマンサー)の道具として操る他に使い道はないとまで言われる種族だからだ。

 

「あー……ぁー……」

 

 だから、彼女の徘徊は何の意味も持たないはずだった。

 そのはずだったのだが。

 

「……」

 

 とある坑道の入り口前で、彼女の足がぴたりと止まった。

 目線は分かれ道の片方に注がれたまま、じっと動かない。

 

 濁りかけた瞳が、穴の奥に潜む影をぼんやり見据える。

 そこにあるのは穏やかな気配。本能的に落ち着き、癒され、満たされる場所。

 

 認識した瞬間、少女はその穴へと歩みを進めた。

 進むごとに微かな予感が確かなものとなる、平穏への確信。もう二度とさまよう必要のない、自分だけの住処のような安心感がそこにある。

 

「……あ、ぁ、あ……?」

 

 違和感。だが、歩みは止まらない。鈍い判断力と緩やかな下りの傾斜がそのまま、大部屋の中へと彼女を誘ってゆく。

 そして部屋に出て、視界に全容が広がった。

 壁面いっぱいに緻密に彫られた、異様な芸術作品が。

 

「あ……ぁっ……」

 

 死。

 穏やかな時間の周りを取り囲むように広がる、闇のような死がそこにあった。

 不死者の心をざわめかせる滅びの造型は、とても直視できるものではない。終わりを一度経験したからこそ理解できる、終わりのさらに次に訪れる真なる終焉。

 

 それはまるで、決して崩れるはずのない柱が崩壊するかのような絶望感。

 大地のような天井が世界を押し潰しにかかり、急に足元が崩れ落ち、地下の果ての果てへと吸い込まれるような錯覚。

 

 いいや。

 果たしてその感覚は、錯覚だったのだろうか? 

 

 

 ──レヴィ、伏せろ! 

 

 

 兄代わりだった頼り甲斐のある少年は、自分の目の前で血溜まりになって死んだ。

 伏せていた自分は奇跡的に生きていたが、次の瞬間には地獄のような地下へと放り出され……。

 

 

「私……死んじゃった……」

 

 彼女はついに、生前の記憶を取り戻した。

 生前の名はレヴィ。最下層の孤児院に身を寄せる孤児であり、享年は8歳であった。その死は全身を縦穴の壁面に打ち付けることによる内臓の破裂であり、外傷は多かったものの、苦しみそのものは一瞬であった。

 

「死んじゃったよ……」

 

 もはや涙の流せない彼女は、縋るように壁面の彫刻を見つめるしかなかった。

 穏やかな中央のモチーフ。そこにはたしかに、自分の心の拠り所のような何かがある気がしたから。

 

「どこ……?」

 

 だが、この作品のテーマは不死者の心をかき乱すことにこそある。

 たとえ視界の中央に心を寄せようとも、周囲を取り囲む不穏なモチーフが心の休息を許さない。

 逃げ場のない焦燥の具現。

 

 

 製作再開歴4年、リチャード作。

 “必滅の孤島”。

 

 

「みんな、どこ……?」

 

 レヴィは作品から逃げるようにして、坑道の道を引き返してゆく。

 彼女は自身の内に湧き上がった感情が作品によってもたらされたことに気付いていなかったが、本能が避けたのだ。

 

「やだ……怖いよ……!」

 

 それは不死者としての本能であり、安全に飛びつく幼子の心理。彼女は坑道内で出くわす不気味な彫像から逃れるように、ほとんど最短距離で駆け抜けてゆく。

 

「みんなぁ……!」

 

 やがて、レヴィは大空洞へとたどり着いた。

 バビロニアが崩壊し、地中に呑まれた中心地点。

 

 巨大な空洞は天高くまで続き、その中央にはバビロニアの頑強な最上層部だけが小さな塔のようにそそり立っている。

 大空洞には多種多様なアンデッドがさまよい歩いており、見た目には恐ろしい空間だ。

 しかし今の不死者であるレヴィにとって、それは自分の孤独を紛らわしてくれそうな暖かさを感じさせる景色だった。

 

「いっぱい、いる……!」

 

 レヴィは折れた片足を庇うようにして、それでも必死に駆け出した。

 自分の心の内に巣食う恐怖が和らぐのであれば、白骨でも爛れた肌でも良かった。少なくとも今のレヴィは確かにそう考えていたのである。

 

「誰か……! あの、誰か……!」

 

 うごめく不死者。意思なくうごめく亡者の群れ。

 レヴィはそれらに嫌悪感を抱くことはなかったが、声をかけても反応が返ることはない。

 そこにいる人々が、確かに自分と同じ同胞であるにも関わらず。

 

「ぐキャッ……」

「……え?」

 

 不安げに辺りを見回していたその時、レヴィの足下に生首が転がってきた。

 脳が半壊したゾンビの首である。レヴィはそのグロテスクな生首そのものに嫌悪感を抱くことはなかったが、人混みの向こう側に見えたそれを見た時、恐怖を覚えた。

 

 

「……カカ、カカカカ」

 

 グリムリーパー。鎌のように折れ曲がった長剣を手にした、上級アンデッド。

 貴族の装いに身を包んだその白骨は、辺りにうごめく亡者たちの首を乱暴に刎ね続けている。

 そう、まるで遊びのように。

 

「い……嫌……!」

「……」

 

 グリムリーパーは声に反応した。あるいは、怯える少女の気配を察知した。

 グリムリーパーは同族であろうとも容赦なく狩り殺す、凶悪な不死者である。

 そして生前の彼は、あろうことかグリムリーパーと同様に嗜虐的なものであり……その相性は、極めて合致していた。

 

「カカカカ! カカカカカカ!」

「やぁっ!?」

 

 グリムリーパーが自分に狙いを定めたことを悟り、レヴィはすぐさま逃げ始めた。

 思い出すのは生前の記憶。通りかかった貴族に遊びとして矢を射かけられた時の恐怖。必死に避けた年上の女の子が“不敬”とされて殺された時のおぞましい想い出。

 

「助けて……助けてお兄ちゃん……!」

 

 グリムリーパーは辺りの亡者を壊しながら追ってくる。

 狩りを楽しむかのように顎を鳴らし、ゆっくりと追い詰めてくる。

 

 グリムリーパーに自我は無い。それでも生前の残虐性だけは、しっかりと骨にまで染み付いていたのだ。

 

「はぁ、はぁ……!」

 

 レヴィは足が遅かった。

 転落時に折れた足のせいで、思ったように進めないのだ。

 

 どうにか坑道まで戻ってはこれたものの、グリムリーパーは既にそこまできている。種族差もあるし、子供と大人の歩幅では元より勝ち目がなかったのだ。

 

「あっ……ぐ、ぅあ……」

 

 レヴィは石に躓いた。

 埃かぶった地面に倒れ、無防備な姿が晒される。

 

「ごめ……なさ……」

 

 薄暗い坑道を這い、逃げる。

 貴族を見てはならない。見たとしても、頭はできるだけ低く下げなくてはならない。でなければ殺されてしまう。

 

 レヴィは小さな命乞いをしながら、服を雑巾のように汚しながら逃げる。

 グリムリーパーはその姿を見て満足そうに歩みを緩めていたが、レヴィにはそれが許しを与える姿には見えなかった。

 

「カカ……カ……」

 

 やがて、グリムリーパーが立ち止まった。

 恐ろしげに振り上げていた剣がピタリと止まり、威嚇するように打ち鳴らされていた顎が閉ざされる。

 

「……?」

 

 レヴィは思わず自分の背後を見上げた。

 

 そこには、どこか不気味な彫像がひっそりと闇の中に立っていて。

 

「ァ……ァアアアアアッ!?」

 

 グリムリーパーはそれをじっと見つめてしばらくして、叫び声をあげた。

 そのまま彼は来た道を引き返し、逃げ去って行く。レヴィを追い立てる狩など、既に彼の頭にはないように見えた。

 

「……これが……怖かったの……?」

 

 レヴィが不思議そうに、不安そうに見上げる石像。

 それはドラゴンの頭を持つ、奇妙な人型の彫像であった。

 

 確かに言われてみれば恐ろしいかもしれないが、じっと見ても……少なくともレヴィにとっては、叫び声をあげるようなほどでは無いように見える。

 

 

 製作再開歴11年、リチャード作。

 “暴君”。

 

 数ある魔物を象った作品のひとつであった。

 



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単調な子守唄

 

 レヴナントのレヴィは、それから入り組んだ坑道を中心に動くようになった。

 人気なく不気味な坑道は大空洞と比べるとあまりに殺風景であったが、再び恐ろしいグリムリーパーに遭遇したらと考えると、戻る気にはなれなかったのである。

 

 飢えも乾きもなく、折れている足も痛まない。心臓は鼓動を失い、熱はなく、呼吸も必要としない。

 自分の身体が、神父の説教に聞くアンデッドのそれであることはなんとなくわかっていたが、彼女自身はそれに特別な忌避感を抱くことはなかった。

 それは彼女が慈聖神を信仰していなかったということもあるし、もう二度と飢えや渇きに苦しまなくても良いという身体は生きる上で都合が良かったからであろう。

 

 坑道内で、レヴィは何度か不死者たちと遭遇することがあった。

 グリムリーパーのこともあったために最初こそ驚き逃げていた彼女だったが、出会うアンデッドのほとんどはスケルトンかゾンビであり、会話どころかレヴィの存在すら認識できていないように見える。

 そのことに気付いてからは、レヴィも彼らを特別避けることはせず、たまにそっと跡をつけては観察するようになった。

 

 坑道をさまようアンデッドたちは、時折奇妙な動きを見せることがある。

 彼らは時折立ち止まり、苦しむように頭を押さえて悶え、逃げるように道を引き返してゆくのだ。

 

 苦しむ姿を見せる際には必ず、彼らの前に彫像やレリーフが存在する。

 

 不恰好な坑道内には、アンデッドを苦しませる芸術品で溢れていたのである。

 

「……怖い」

 

 レヴィも時折、足を止めてそれをじっと見つめることがある。

 アンデッドが本能的に嫌うその芸術作品のほとんどは、レヴィにとっても恐ろしいと思えてしまうものであり、中には数秒と直視できないようなものまであった。

 反面、いくら観察してみても、どの角度から眺めても一切の恐ろしさを感じない作品と出会うこともあるのだが、レヴィの他のアンデッドがそれを極度に恐れる場面に遭遇したことも多い。

 そのことからレヴィは、アンデッドによって好き嫌いが違うのだろうと考えた。グリムリーパーが自分を無視して逃げ去っていったのもそういうことなのだろうと納得しているし、そのことが間違っていないという確信もあった。

 

「……私、これからずっとここにいられるのかな」

 

 不死者は飢えない。呼吸も必要ない。

 水汲みも、説教も、労働もない。レヴィの現状は、孤児院にいた頃よりもずっと穏やかだった。

 皮肉な話だが、彼女は死後になってようやく落ち着いた時間を過ごせるようになったのだ。

 

 それでも坑道の作品をゆったりと見て回っているうちに、考えてしまうのだ。

 今の自分の穏やかな時間は、果たしていつ終わってしまうのだろうかと。

 

 形あるものはいずれ必ず壊れ、崩れてゆく。

 レヴィはアンデッドとして二度目の生を受け、不死者となったが、しかし不死者であっても永遠の存在ではない。

 恐ろしい作品たちはそのことを淡々と語り、突きつけてくる。

 

 事実、グリムリーパーのような凶暴なアンデッドに襲われてしまえば、レヴィの終わりはすぐにでもやってくるだろう。

 レヴィは自身の終わりが恐ろしかった。

 

「お兄ちゃん……」

 

 死が恐ろしい。そして、今の孤独も同じくらい恐ろしい。

 自分の人恋しさは不死者たちと触れ合うことで癒される予感があったし、大空洞にひしめく彼らの中からはもしかすると兄が見つかるかもしれない。

 だが大空洞にはグリムリーパーがいる。自分が死ぬのは恐ろしい……。

 

 レヴィは何日も何日も、死の芸術たちが語る終焉を聞かされながら、孤独と戦っていたのである。

 

 

 

「……?」

 

 ある日、レヴィは見慣れないアンデッドを見かけた。

 スケルトンやゾンビとは違う、不安定な歩き方をしないアンデッド。

 杖をつき、罪人のローブを着込んだ奇妙な白骨。

 

 最初こそその珍しいアンデッドを警戒し遠目に見つめるだけだったが、やがて長い孤独に負けて決心したのか、レヴィは一度だけ強く頷くと、そのリッチのあとを追いかけることにした。

 

 リッチは坑道を歩き、時折立ち止まる。

 他のアンデッドとは違い、彼は作品の前で立ち止まることがない。

 彼は常に何もない壁面や岩の塊の前などで静止する癖があった。

 そしてそれを様々な角度から観察したり、撫でたり、揺らそうと掴んだりする。

 一言も言葉を発さない静かなアンデッドだったが、レヴィにはその寡黙な姿に確かな知性を垣間見ていた。

 

 やがて、リッチは傍に杖を静かに置くと、ローブの懐から一本のノミと、小さな槌を取り出した。

 

 そして何度か岩の塊の表面をノミでなぞった後。

 彼は岩に刃物を突き立て、作品作りを開始した。

 

「あっ」

 

 その姿は間違いなく、芸術家か職人のそれ。

 レヴィは目の前にいるリッチが坑道の不気味な芸術品の主人であることに気づくと、思わず声をあげてしまった。

 

「あ……」

 

 レヴィの漏らした声を聞き取ったのだろう。リッチは……リチャードは振り向いた。

 彼は岩陰にひっそりと半身を隠したレヴィをしばらく見つめた。その間彼は何も言葉を発することなく、ただ思案するようにじっと沈黙しているのだった。

 

「あ、あの……私、レヴィっていいます……」

 

 レヴィは何をどう言い訳すればいいのかも分からず、とりあえず名乗った。

 リチャードはそれに対して、自分の歯列の前に人差し指を立てることで応えた。

 

「え……」

 

 シー。静かに。黙れ。

 リチャードがそうジェスチャーで示すと、レヴィは口を噤んだ。

 しばらくレヴィが両手で口を覆っていたが、やがてリチャードは満足したように一度だけ大きく頷いて、再びノミを握りしめた。

 

 そして槌を振るい、岩を削る。

 狭い坑道に破砕音が反響し、一定間隔で小気味よく続いていく。

 

 その無機質な、しかし人の手により生み出された音の連続は、岩を削るということ以上の意味を持っていない。

 だがレヴィにとってその音は、自分以外の誰かの日常がすぐそこにあることの証明であり、不思議と心が落ち着く鼓動のようにも感じられた。

 

「……」

 

 レヴィは行き止まりで彫刻作業を続けるリチャードを視界の片隅に留めながら、しばらくは穏やかな心地で作業音を聴き続けていたのだった。

 

 

 



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第2章 レイスのパトレイシア
静かな安楽椅子


「揺蕩う魔を法にて律する。元来、そこに信仰などは要らぬのだ。」
 ――法神アトラマハトラ


 バビロニアは崩れ落ち、地中深くに埋没した。

 今やその原型のほとんどは瓦礫の中に消え、残された面影は、かつて雲を貫いていた最上層部の一部のみとなっている。

 

 黄金や霊銀、希少な資材たちを組み合わせた、華美極まる斜塔。

 内部にいた者たちは落下の衝撃と内装の倒壊による死を免れなかったが、塔上層部の外壁に施された綺羅びやかな悪趣味だけは今この時も尚、生き残っている。

 

 バビロニア歴606年、タロイフ・レイヅ設計。

 “不滅の宮殿”。

 

 

 

「……」

 

 レヴィは足下に転がっていた大腿骨を拾い上げ、胸の前に掻き抱いて、遠くに聳える埋没殿を見上げた。

 大穴から覗く空は瘴気に阻まれ見えないが、暗闇の中でもレヴナントの暗視は問題なくその斜塔を見通せる。

 陽が当たっていないにも関わらずギラギラと煌めく塔の名残。生前には一度も見ることのなかった、確かに美しいものであるはずなのだが。

 

「……こわい」

 

 キラキラと光る黄金を見ると、どうしても貴族という存在が連想されてしまう。

 貴族はレヴィにとって、間違いなく天敵とも呼べる存在。

 

 レヴィは日課の骨集めをする時も、なるべく塔には近づかないように気を付けていた。

 

 

 

 リチャードと出会ってから、レヴィの生活はほんの少しだけ変化した。

 

 大きな変化は無かった。

 リチャードがあまりにも無口であったがために。

 

“うるさい”

 

 人恋しさの故に、レヴィは何度かリチャードとの会話を試みていた。

 だが作業中に帰ってくるのは決まって、黙っていろとのジェスチャーである。

 音を煩わしく思っているその仕草や、彫刻の最中に考え込む様子は間違いなく理性ある人間そのものであったから、レヴィも彼が“人間”であることは疑っていなかったのだが、リチャードはレヴィとの会話を求めなかった。

 

 しかし、リチャードが“うるさい”と表現するにも声を出さないのは、何か喋れない理由があるのだろう。そう考えると、レヴィは“少しくらい良いじゃない”と拗ねるのも自分勝手なような気がしていた。

 

 作業中の会話はきっぱりと断られる。

 だがリチャードが作業をしておらず、椅子に座っている間などは、レヴィが言葉を出しても遮ることはない。

 

 それでもリチャードの方からは言葉が返ってこないので、“会話”というには一方通行に過ぎたのだが、独り言でも自分の言葉を聞いてくれる理性的な存在が、レヴィには確かに心の支えになっていた。

 

 リチャードが椅子に座ってぼんやりしている時、レヴィはそこから少し離れた場所で、ぼそぼそと話をする。

 自分の名前。怖いアンデッドに追いかけられたこと。ここに居たいということ。

 リチャードはジェスチャーを返すにも極めて寡黙だったが、“ここに居たい”という言葉には頷いていた。

 レヴィも知らない大人と話す経験や社交性などは成熟していなかったし、子供らしく甘えたりねだったりする習慣はなかったので、それ以上のコミュニケーションは求めなかった。

 

 二人の距離感はそのようなものである。

 

 リチャードは無関心に近く、レヴィも少し離れた場所でひっそりとしているだけ。

 それでもレヴィはアンデッドを遠ざける芸術を作るリチャードのそばにいることが安全なのだと知っていたし、愛想は皆無だが“人間”であろう彼を見失うことは怖かった。

 早い話がレヴィはリチャードに依存していたのだ。

 

 そしてレヴィは、自分よりも上の立場の存在のために働かなければならないという考え方を持っていた。

 

 

 

「あ、あの。これ……」

 

 ある日、リチャードが芸術製作のための道具集めに勤しんでいると、少し離れた場所に骨を抱えたレヴィが立っていた。

 彼女の抱きかかえるいくつかの骨はリチャードが拾った覚えのない不健康そうな子供の白骨であり、それは彼女が自分で用立てたものであることがうかがえた。

 

「最近、ずっと……貴方が拾ってるの、見てたので……あの、だから集めてきたんです……」

 

 無言で見つめてくるリチャードは決して怒っても呆れてもいなかったが、自発的な行動に自信を持てなかったレヴィは勝手に窄んでいった。

 リチャードはその姿を見て、特に彼女を慰めようだとか、褒めようだとかは考えなかったが、レヴィが手にしていた骨には価値を感じた。

 

“あちらに置け”

 

 リチャードは無言で、部屋の片隅に積まれた細い骨の山を指差した。

 レヴィは指さされた先とリチャードの間で何度か視線をさまよわせると、急に表情を明るくさせて、頷いた。

 

 こうしてリチャードは作品制作の助手を入手し、レヴィは少しだけ安心できたのだった。

 

 

 

 レヴィはそれから、精力的にリチャードの手伝いをこなしている。

 相変わらずリチャードは寡黙で、助手になっても作業中に喋れば“うるさい”のジェスチャーが返ってくることに変化はなかったのだが、それでもレヴィは充実した日々を過ごしていた。

 

 自分のやっていることは小間使いに過ぎなかったが、自分がひろってきたそれらを使い、リチャードはこの世のものとは思えない綺麗なものや、恐ろしいものを作ってみせる。

 単調な自分の働きが芸術作品へと昇華する一連の流れは、レヴィにとって体験したことのない、何か崇高な達成感が得られるものだった。

 

 次は何を拾ってこよう? 次は何を作るんだろう?

 大空洞の埋没殿付近はまだ怖くて踏み入ることができなかったが、目的を手に入れたレヴィの散策は、少しずつ新たな場所を開拓していくのだった。

 

 

 

 レヴィが探索から戻ってきた。

 ここしばらく、リチャードは山積みになった骨から大きめの大腿骨を指差して“これ”と言うので、彼女の仕事は専ら大腿骨集めが主になっていた。

 近場の材料はほとんど綺麗に掃除してしまったので見つからなくなったが、広い地下にはまだまだ無数の骨が散らばっている。少し散策範囲を広げれば、見つけ出すことは容易であった。

 

「も、戻りました……」

 

 リチャードがいる場所は、一緒にいる時間が増えてからなんとなくわかるようになった。

 それは彼の体から漏れ出る強大な魔力が原因なのだが、レヴィはまだそれを知らない。

 

「あ……はい、これ……持ってきました……?」

 

 リチャードはいつもの資材部屋の奥にいた。が、いつもと少しだけ様子が違う。

 彼はレヴィの姿を見るや、珍しく“こっちにこい”手招きをしてきたのだ。

 

 彼はおずおずと近づいたレヴィから大腿骨を受け取ると、それを傍らにあった造りかけの空き部分に差し込み、縛り付け、位置を調節し……そして、完成させた。

 

 それは白骨製の、子供用の椅子だった。

 

“これ”

 

 リチャードが椅子を指差し。

 

“お前”

 

 次にレヴィを指差した。

 そして、頷く。それだけで、レヴィが意味を汲み取るには十分だった。

 

「あ……ありがとう。ありがとうございますっ」

 

 レヴィは思わず笑みをこぼして、おそるおそる人骨の椅子に腰かけた。

 それは人間の価値観で言えば明らかに悪趣味な家具であったが、レヴィは自分用に設えられた座り心地の良いそれを、大いに気に入っていた。

 

 ゆったりとした背もたれ。貴族のような肘掛け。

 感触こそ硬質で、悪趣味でもあったが、レヴィは自分専用のその椅子にすぐさま愛着を持った。

 

 リチャードはすっぽりと椅子に収まったレヴィを見て、その椅子に目立ったガタつきや軋む音が出ないことを確認すると、レヴィの様子よりは椅子の出来栄えに満足したように一度だけ頷いて、再び作業へと戻っていくのだった。

 

 今日も死の底に、作業の音が鳴り響く……。

 

 

 



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通りすがりのお嬢さん

 座り心地の良い椅子を作ってもらった。

 ただそれだけのことだったが、たったそれだけのことはレヴィの原動力となった。

 働きにはそれに対して真っ当な、あるいはそれ以上の報酬が支払われる。そのような経験はレヴィの生前にも、その知識にもなかったことだったからだ。

 もはやレヴィはリチャードを疑うこともなく、生前の神父に対するそれ以上に素直に従っていた。

 

「……?」

 

 ある日、土管の連なる下水道跡地を歩いていたレヴィは、遠くの方から旋律が響いてくることに気が付いた。

 

 それは歌であった。文明を感じさせる、孤独を薄れさせる芸術の一つ。

 たしかにそのはずだったのだが、遠くから微かに聞こえてくる旋律はあまりにも恐ろしく、物悲しい。

 距離も遠いために歌声の意味なども拾いきれなかったが、レヴィはその声がどうしても好きになれなかったので、道を引き返して行くことに決めた。

 

 その道中で、彼女は偶然、それを見つけたのだった。

 

「わ、ぁ……」

 

 倒壊した家屋の内装が散乱する荒野。

 レヴィはその荒野の上に、ぼんやりと仄かに光り、浮かび上がる人影を見た。

 

 それは、美しい若い女であろう。

 細い身体つきと、滑らかな長い髪。

 そして話でしか聞いたことのないような、見るからに高そうなドレス。

 

 レヴィは貧民街から出たことのない少女であったが、確信した。

 その青白い華美な人影が、腰より下が煙のように薄ぼけていようとも、間違いなく貴族で、きっとお姫様という存在に違いないのだと。

 

「綺麗……」

 

 レヴィは暗がりの中に浮かぶ貴族令嬢の幽体に、ぼーっと見とれた。

 貴族令嬢は眠気まなこのようなぼんやりとした面持ちのままゆったりと宙を過ぎ行き、やがて魔金柱の合間にすっと消えて、それきり見えなくなってしまった。

 

「ぁ……」

 

 残るのは、近辺では珍しくもない人魂やスケルトンばかり。

 

「あっ」

 

 そしてレヴィは、未だ託されたおつかいをこなしていないことに気付き、慌てて探索を再開するのだった。

 

 

 

 それからレヴィは、探索のたびに荒野へ赴く事が多くなった。

 荒野には大きな燭台が何本も突き立っており、時折さまようウィスプがそれに宿って妖しい明かりを灯している。

 そんな荒野の上を、例の美しい貴族令嬢が通りかかるのだ。

 目にする機会はそう多くなかったが、貴族街の面影を残す瓦礫の上に浮かぶ美しい彼女の姿を見かけると、レヴィはなぜか満たされるような気分になれた。

 

 美しく着飾った女性への憧れ。生前に果たす事の叶わなかったそんな感情を、刺激していたのかもしれない。

 

「なに考えてるんだろ……」

 

 今日も貴族令嬢は、どこかへふわりと流れていった。

 

 

 

 

 リチャードは壁面を削りながら、悩んでいた。

 彫刻を施せる地下空間に際限はなく、自らの習作をそこに刻むことはいつまででも可能であったのだが、ここにきてひとつの壁にぶつかっていた。

 

 “やはり限界がある”

 

 細かな細工を刻もうとノミに小さな力を込めたが……しかし、壁面は意志とは別に、大雑把な砕け方をする。

 彫刻を施す岩石の質が良くない。それこそ、リチャードが直面した問題なのであった。

 

 最初こそテーマに悩むことは多かったが、いくつか作り、観衆の反応を見ることでおおよその方向性は掴んでいる。

 しかしここにきて材料の質という、非常に現実的な問題が露出した。

 生前も材料の調達に苦心することは多かったが、まさかアンデッドに変容した後も同じことで頭を悩ませるとは、リチャードも思っていなかった。

 

 とはいえ、解決策はある。

 簡単なことだ。材料は取りに行けばいい。

 

 “問題は、危険なことだな”

 

 大空洞の中心にそびえ立つ斜塔。

 バビロニアの唯一の面影が残る悪趣味な塔の周辺でならば、良質な素材はいくらでも手に入るだろう。

 上層は建築資材からして高級品を扱っているのだから、それを独占する貴族がいない今となっては、習作でも手慰みでも使いたい放題である。

 

 しかし塔の周辺にはあからさまにアンデッドが多く、遠目から見ても危険な個体が多かった。何より塔の内部から溢れる不吉な瘴気。内部は更に上位のアンデッドで満たされているに違いない。

 

 ひとまず、大空洞。その比較的安全な場所で、それなりの素材を入手したいところではある。だがそれも完全無欠に安全ということはない。活発に動き回るグリムリーパーが厄介だった。

 

 “さすがにレヴィにやらせるのは可哀想だ”

 

 リチャードは無愛想だが、ちょっと前から自分の周りをうろつくレヴナントの存在については、そこそこ憎からず思っていた。

 最初こそ不用意に作業の邪魔をすることもあったが、今はそのようなこともない。むしろ立体作品のための素材集めを積極的に引き受けてくれるほどだった。

 また、彼女を引き連れて作品への反応を見ることは、己のテーマの選定にそれなりの指針を示してくれるので、そういった意味でも貴重な人材である。

 彼女を粗雑に使い潰すことは憚られた。

 

「ただい……あっ」

 

 考え事をしているうちに、レヴィが戻ってきたらしい。

 レヴィはノミを手にしたリチャードを見て作業中だと思ったようだが、リチャードの方は脆い石材と向き合う気持ちが萎えていたところだったので、ノミを置いた。

 するとレヴィはぱっと顔を明るくするのだが、その反応はそれはそれで、芸術家のリチャードとしては複雑なところである。

 

「あの、これ。これ拾いました。置いておきますね」

 

 今や大腿骨も多く手に入るようになった。

 近頃はレヴィも目利きができるようになったのか、良質な素材を選り好みしているようにも見える。

 今日持ち帰ったのは、いかにも苦労したことのなさそうな滑らかな質感の貴族の骨である。愛嬌のない骨だが、組み合わせる分には使い勝手が良く、便利な骨だった。

 

「あと、えと。それと。……今日は、綺麗な女の人を見ました」

 

 綺麗な女の人。

 リチャードは芸術家なだけに、綺麗と言われれば気にもなる。

 しかもアンデッドの言う綺麗だ。その感覚にも興味があった。

 

「お貴族様で、ドレスがふわふわで、とっても綺麗で……でも、幽霊だったんです」

 

 貴族の霊。ドレス。全体像がはっきりとしており、綺麗とわかる程度には顔も見える。

 それは通常のゴーストではあり得ないし、もちろんウィスプなどでもない。

 であればその幽体は、おそらくはレイスの一種なのではないだろうかと、リチャードはあたりをつけた。

 

 “そういえば、まだ幽体アンデッドについては詳しくないな”

 

 坑道内はスケルトンやゾンビ系統が多く、霊の類は少ない。

 バビロニアが崩れた際に大空洞が生まれ、多くはその吹き抜けを好んでいるものと思われた。

 

 なのでリチャードは未だほとんど、霊からの反応を見ていない。

 自分の作品はアンデッドにも通用するが、幽体にまで影響が及ぶかどうかは未検証であった。

 

 “興味深い”

 

 ゴーストやウィスプの反応は読み取り難いが、表情や身体のあるレイスならば反応もわかりやすいだろうか。

 彼は黙々とそう考えていくと、次第に自身の中で創作意欲が膨れていくのが自覚できた。

 

 悔やまれるのは、ただただ材料不足である。

 

 



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現地の視察

 

 リチャードは14歳の頃になり、執刀団に転属した。

 当時の執刀団団長であり、仲間内からも“人を人と思っていない”と恐れられていたデイビット直々の引き抜きということもあり、話も異動そのものも早かった。

 

 執刀団は前線での活動を主とする医師団であり、業務は致命傷を負った患者の応急処置である。

 当時のバビロニアはまだ各所に戦地らしい戦地が多方面にあり、執刀団は各地を転々とすることが多かった。

 リチャードは医術の心得など欠片もなかったために困惑することは無数にあったが、混沌とした戦場と次々に運び込まれる患者を相手に次々と言われるがままできることをこなしている間に、すぐに慣れてしまった。

 汚物の処理に眉一つ動かすことなく従事することと医療にどのような関係があるのかとリチャードは最初こそ疑問であったが、やってみれば確かに、そういった躊躇を持つ者では務まらない仕事だと納得する。

 

 死体を運ぶ。こぼれた内臓を腹に戻す。下痢と嘔吐が止まらない患者の汚物を一晩中交換し続ける。

 運び込まれた死にかけの兵士が死にかけだったら治すし、ただのゾンビであればそのまま作業のようにトドメを刺す。

 執刀団は、何をするにも汚物や血に塗れる職場であったのだ。

 

 団長のデイビットは、新入りのリチャードをよく危険な現場に同行させた。

 戦線がほんの少し後退するせいで天幕をひきずって逃げたことも一度や二度ではない。攻め込んできた斥候達を執刀団が直々に返り討ちにすることだってあった。

 デイビット曰く、戦場に立ってみなければ戦いの傷は理解できないとのことである。結局のところ即戦力をさっさと育てたかったのだろうが、間違ったことは言っていなかったのだと、リチャードは当時から納得している。

 事実、その強さがなければ外の世界においては、自分の身を守ることもできないのだから。

 

 

 

「わぁ」

 

 リチャードが緩やかに杖を振り、綺麗に一本の鎖骨だけを吹き飛ばした。

 たったの一本。それだけで襲いかかってきたスケルトンバーサーカーの片腕はだらりと下がり、古びた手斧が瓦礫の上に落ちる。

 その隙を見逃さず、リチャードはもう一度杖を素早く薙ぎ払う。

 下がった腕側から放たれた一撃はガードされることもなく綺麗に首へ叩き込まれ、へし折った。

 スケルトンバーサーカーは完全に沈黙し、静寂が訪れる。

 

「すごい……」

 

 レヴィは一連の戦闘を、ただじっと眺めているしかなかった。

 念の為に胸の前で短刀を構えていたが、全く出る幕が無いことに驚きを隠せずにいる。

 

「職人さん、とっても強い……」

 

 リチャードはレヴィの言葉に反応を返すことなく、淡々とスケルトンバーサーカーの頭蓋を踏み砕いて、傍にあった手斧を拾い上げる。

 

「あ、はい……」

 

 杖の木材に軽く刃を流してみて切れ味を見た後、すぐにそれをレヴィへ渡した。

 “持て”とのことだろう。今日のレヴィはリチャードの案内役として張り切っていたのだが、蓋を開けてみれば荷物持ちである。

 

 既にレヴィの荷物ベルトには、様々な道具類が縛り付けられていた。

 

 

 

 良い材料が欲しい。工具も欲しい。レイスも気になる。

 そうと決まれば、リチャードが坑道に留まる理由は無かった。

 

 元々、リチャードは屋内一箇所でじっと作業するタイプではない。

 着想を得るために常に人が忌み嫌うような場所を探して回り、積極的に観察する気概を持つ芸術家である。

 自ら死の底を目指して入り込むような男が、手の届く場所にある最良を妥協するはずもなかったのだ。

 

 リチャードが出発する旨をレヴィに伝えようとした時は、言葉が無いこともあってやや伝達に難があったが、“最悪子供がいなくとも問題ないか”と淡々と坑道を歩き去るうちにその意図も伝わったようで、途中からはレヴィの先導で道なき道を進むようになった。

 

 そしてレヴィがいつもより後ろのリチャードを気にして歩いているために不意の遭遇をしてしまったのが、先程のスケルトンバーサーカーなのであった。

 

“静かに”

 

 リチャードは歯列の前に指を立て、馴染みのジェスチャーをしてみせた。

 レヴィもそれに応じて、黙って首を縦に振る。

 

 下級アンデッドの多くは感覚を鈍らせているが、音にはそこそこ敏感な種類が多い。

 今のスケルトンバーサーカーもその一種であり、何かが慌てたり逃げようとする足音を感知すると攻撃的になる性質を持っていた。

 

 リチャードが執刀団として戦場を駆け回っていた頃は、遺棄された死体がアンデッドとなって第三勢力を築くケースがあり、赴任した戦場によっては執刀団がその露払いを任されることも多かった。

 人を殺す経験自体はリチャードにはあまりなかったが、アンデッドを作業的に“潰す”経験はおそらく、軍人以上にあるだろう。

 

“先にいけ”

 

 周囲の警戒を済ませたリチャードは、再びレヴィに先導させた。

 再び攻撃的なアンデッドが現れてもリチャードがなんとかしてくれるだろう。そんな信頼感もあり、レヴィは無用な恐れを抱くこともなく、慣れた道を進んでゆくのだった。

 

 

 

 二人はしばらく歩き通して、燭台の荒野に辿り着いた。

 傍では崩落した際に縦向きになって落ちてきた魔金の柱が林立しており、独特の地形を作っている。

 

 瓦礫の荒野に突き立った燭台には所々にウィスプがとまっているため、ある種幻想的な光景とも言えなくはなかった。

 

「ここで、たまにお貴族様が通るんです。……今は、いないですけど」

 

 レヴィが空を指差しながら、以前通ったであろう軌跡をなぞっている。

 レイスの移動に何らかの周期があるのだろう。リチャードは手早くそう結論付けると、周囲を見回した。

 

 ゴースト、ウィスプが多い地域である。燭台を好むためにウィスプが滞留し、瓦礫に交じる屋内の廃材や家具に想いを引きずったゴーストが漂っているのだろうか。

 アンデッドの多くは大空洞の中央に聳え立つ斜塔を目指す者が多いのだが、ここは例外的に生まれた場所なのであろう。

 

 レイスは幽体系のアンデッドの中ではかなり上位に属する種族だ。

 リチャードもレイスを間近で見たことはほとんどないが、習性として自分と同じ幽体種族のいる空間を好むことは知識として知っていた。

 定期的にこの荒野にやってくるというのも、おかしな話ではない。

 

「……どうしますか……?」

 

 これからの方針について、レヴィが訊ねた。

 

“ここに留まる”

 

 リチャードは語らなかったが、その指が地面を指差したのを見て、ひとまずここにいるというニュアンスはレヴィにも伝わった。

 

“それと……これを探すように”

 

「……?」

 

 レヴィはリチャードがここで何をするのか。具体的にどれほどいるのか。

 ただの一つもわかっていなかったが、諾々と従うことには慣れていたので、今もまた同じように頷いた。

 

 唯一彼女にとって気がかりなのは坑道に置き去りにしてあるお気に入りの安楽椅子である。

 リチャードはここで何かをするようなので、少しの間座れなくなるのが残念。レヴィの抱く感情はその程度のものだ。

 

 しかしこの時のレヴィはまだ知らなかった。

 

“さて、腰を据えて作業するか”

 

 これから数十日の間、彼がここでの作業に没頭することを……。

 

 



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佇む花嫁

 

 

 バビロニアで暮らす貴族を始めとする上流階級は、その名の通り上層部に居を構えている。

 使われている家財や建築材料も当然、質の高いものだ。貧民が生涯目にすることのない素材は非常に多い。

 

 それらは死の底の大空洞の外側に多く飛散しているようだ。

 高所から落下するうちに、遠くまで飛ばされたのだろう。

 

 今や多くのアンデッドたちは崩れた高級素材には目もくれず、光指す地上に至ることのない塔を目指して蠢いている。

 

“偽白亜”

 

 一方でリチャードは、塔を目指す亡者とは対象的に地面ばかりを見つめていた。

 罪人のローブを着込んで荒野に這いつくばるその姿は、ともすれば届くことのない空に両手を伸ばすスケルトンよりも惨めに見えるかもしれない。

 

 “蛋白乾石”

 

 リチャードはここ数日、ずっと瓦礫の山と向き合っていた。

 無造作に散らばった瓦礫の中から貴重な石材を見つけては、それを擦り切れかけた小袋に放り込んで、仕分けている。

 一つ一つはサイズの小さすぎる、一つの作品として使えないものばかりであるが、製作における発想は手持ちの資材によって左右されることも多い。リチャードは見つかるものを片っ端から拾い集め、そして分類し続けていた。

 

 その作業は当然ながら、レヴィにも割り振られていた。

 彼女は石の種類も名前もほとんどわからないので、特徴の目立つものを教えられ、それを探すように命じられている。

 

「……職人さん、まだやるの?」

 

 “やる”

 

 レヴィが何度訊ねても答えは変わらない。帰ってくるのは決まって、いつもより気持ち大きめの首肯であった。

 

 横暴ではない。乱暴でも、意地悪でもない。

 しかしレヴィは、リチャードの本質が極めて頑固な自分勝手であることは、なんとなく察しつつあるのだった。

 

 

 

 六日目。

 リチャードは燭台の荒野を探し回っているうちに、小高い瓦礫に埋もれていた石柱を発見した。

 その石柱は一本物であり、かつ滑らかな材質でできていた。

 

 元々はどこかの施設で使われていた装飾用の柱だったのかもしれない。表面には縦の溝が等間隔にあしらわれているのみであり、他者の作品ではないことから、加工することにも躊躇は必要なかった。

 

“素晴らしい。私が求めていたものに適している”

 

 折れてはいるが、慎ましい立像を一体分仕上げるには十分が長さと幅がある。

 上手く切り出せば、端材で幾つかの置物は作れるかもしれない。

 

“取り掛かろう”

 

 

 

 材料を見つけた後の行動は早かった。

 まずは僅かに斜めに生えていた石柱をまっすぐに整えるところからだ。

 そもそも石柱が斜めに配置されていることなどほとんどありえないので、リチャードとしてはそこから傾いたモチーフを見出してみたくもあったが、土台が不安定である以上は放置できる問題でもない。

 多少の惜しさもあったが、彼はロープと複数の支柱を用いて石柱をまっすぐに立て直し、掘った根本を瓦礫で埋め直し、砂利を注ぎ、叩いて固める。まともに直立するようになるまでは2日も要した。

 

 その作業を興味津々に見ていたレヴィにどうにか“似たようなものを見つけろ”と指示を飛ばしてから、切り出しを始める。

 錆びた鉄剣で罫書き、魔力を込めた針を慎重に穿ち、少しずつ穴を開けてゆく。

 墓守だった頃の経験はリチャードに石工としての基礎を学ばせた。

 彼は迷いなく石に錆びた針を突き立て、少しずつではあるが大雑把な切り出しを進めていった。

 

“……あれは”

 

 やがていつ割れてもおかしくないほどにまで針を突き立てた時、遠くから青白く輝く幽体が飛んでくるのが見えた。

 海月じみたドレス姿に、引っ掛かりの一つもなさそうな長い髪。そして非常に端正な女の顔。

 シルエットは仄かに霧がかっていたが、それでも遠目にわかるほどの美しさ。

 レヴィがひと目で貴族令嬢だと決めつけたのも頷ける美貌を、たしかにその霊は持っていた。

 

 ひと目見れば肌でわかる。

 あれが、レヴィの言っていたレイスなのだろう。

 

 高い場所をゆらゆらと飛んでいるレイスは、リチャードを一瞥することもなく通り過ぎていった。

 リチャードはその姿を最後まで見送ってから……再び、作業に戻る。

 

 力強く打ち込まれた一本の針は、石柱の不要部を綺麗に切り取った。

 

 

 

 大雑把な切り出しが終わった後、本格的な彫像製作が始まる。

 リチャードはノミと鎚を手に、廃材を組んで縛った脚立に座り、作業を続けている。

 アンデッドのまばらな広い荒野に鎚と石が砕ける音だけが響き渡る。

 音に文句を言い募る者はいない。飛び散る破片が狭い場所で反響することもない。石材はとても素直な削れ具合で、構想がそのまま再現できる。

 誰も邪魔しない静寂な荒野の中で、リチャードは久しぶりに快適な作業を楽しんでいた。

 

 作業中の物音を嫌うことを知っているレヴィは、順調に作業を進めるリチャードを遠目に眺めている。

 作業が始まれば、終わるまではほぼ会話することもできない。物音を立てることもいい顔をされない。

 なので非常に退屈な時間になるのだが、レヴィは作業に没頭するリチャードを眺めているだけの時間も嫌いではなかった。

 

 無から有が生み出される過程。

 無意味なものが強い意味を持ってゆくその光景は、生き物のいないこの地底世界において、救いに似た何かを感じているからだ。

 

 もちろんリチャードの生み出す芸術はいつ見ても恐ろしいし、じっと眺めていたいものではない。

 快か不快で言うなら、きっと不快に属する作品ばかりではあるのだが。

 

 だとしても、彼の作り出すものでは決して虚無ではないし、単純に負と呼べるものとも違う気がするのだ。

 

 レヴィは、リチャードが作り続ける芸術が自分の考え方を少し変えたように、この世界でさまよい続ける亡者たちがどう変わってゆくのか、どう反応するのかが気になっていた。

 

 

 

 リチャードの一体目の彫像が完成した。

 滑らかな石材を大胆に用いた、ヴェールを被った花嫁の立像である。

 一見すると美しい彫像である。しかしよく目をこらせばヴェールの下に潜むシルエットは生者ではないそれであり、誓うように組まれた手は若者と呼ぶにはあまりにもやせ細っている。

 彫像が仕上がった時、レヴィは不気味さのあまりに乾ききったはずの喉を鳴らしてしまうほどだった。

 

 

 製作再開歴12年、リチャード作。

 

 “不履行”。

 

 

 

 燭台の荒野に立つ、一人の花嫁。

 

 ウィスプの一体が、遠目に見えるその美しさと、周囲に並び立つ燭台に誘われてやってきた。

 

 思考能力のほとんどが失われたウィスプであったが、それは本能的に彫像の近くの燭台に宿り、火を灯す。

 青白い輝きが、彫像を下から仄かにライトアップした。

 

 そして、彫像の“顔”が変化する。

 ヴェールで覆われ隠されていたその表情が、明かりによって僅かな陰影を浮き彫りにしたのである。

 

 布越しに潜んでいたのは、大きく口を開いた女の頭蓋。

 怨嗟を叫ぶ人ならざる誰かの慟哭。

 

 ウィスプはそれを感じ取った瞬間、一際大きく燃え上がり、揺れ、そのまま燭台を抜け出して飛び去っていった。

 

 

 

 

“やはり、幽体でも反応はあるか”

 

 工具を石で研ぎつつ観察していたリチャードは、ウィスプの反応に確かな手応えを感じ取っていた。

 

 



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一人だけの慟哭

 人は死を恐れる。

 同様に、アンデッドも本能の奥底では終わりを恐れている。

 

 それはリチャードが立てた仮説であり、大きく間違ってはいないと、彼自身も考えている。

 しかし、死や終わりを恐れるが故に、そこから逃げようとするのもまた当然の反応であった。

 

「……幽霊、逃げちゃうね」

 

 ふわりふわりと燭台から逃げ去ってゆくウィスプを見上げ、レヴィは退屈そうに零した。

 立像の完成から二日。それ以降、立像に反応するウィスプは多かったが、それらは一箇所に留まらず、即座に逃げてゆくばかり。

 今や立像は、ただの魔除けとしてしか機能していなかった。

 

 “なるほど、こうなるのか”

 

 リチャードが計算に入れられなかったのは、幽体系アンデッドの身軽さであった。

 

 

 

 リチャードはアンデッドの退治については長じていたが、おびき寄せたり封じ込めたりといった対処法には詳しくない。

 集中して考えればそれまで積み上げたノウハウから思い浮かぶ可能性もあっただろうが、リチャードはそのようなことに思考を割く男ではなかった。

 

 ウィスプは立像に近づいて即座に離れてゆくばかりでそれ以上の進展はなかったし、高く飛ぶレイスは立像を無視し、ウィスプの集う場所を通り過ぎてゆくだけ。

 ウィスプが立像の周りの燭台に灯り続けているならば、それに近付くレイスが立像を目にして反応する……ということもできたかもしれないが、今のところウィスプを一箇所に留める方法が見つかっていない。

 

 なので、リチャードはレイスをどうにかすることを早々に諦めた。

 彫刻については一切の妥協をしない彼だが、それ以外の工夫は即座に切り捨てる潔さを持っていた。

 

「……他の所で、作業するんですか?」

 

 レヴィの言葉にリチャードは頷いた。

 彼は完成させた作品についてはさほど愛着を持たないが故に、さっさと次の作品作りに取り掛かりたいらしい。

 既にレヴィの手伝いによって、燭台の荒野に他にも石柱が存在することがわかっている。

 反応する可能性の低いレイスの観察に時間を費やすよりは、一つでも多くの作品を手掛けたいというのが彼の本音だった。

 

「……私、まだここにいてもいいですか?」

 

 だがレヴィの方は、どうしてもレイスが気になるらしい。

 死の底でも滅多に見られない人らしい姿のアンデッドに親近感でも湧いているのだろうか。リチャードは首を捻ったが、特にレヴィを無理矢理連れ回す理由もなかったので、すぐに頷いた。

 リチャードにとって、レヴィは他人である。作業の手伝いを買って出るので助手のような扱いをすることもあるが、邪魔をしない限りには基本的に彼女の意志を尊重している。

 

 “これを”

 

 とはいえ、相手は子供だ。

 リチャードにも少なからず、子供の手助けをしようという考えはあった。

 

「これは……?」

 

 リチャードはレヴィに一本のメイスを差し出していた。

 短めで、子供のレヴィでも扱いやすいサイズ。飾り気の少ない、手作りのものだった。

 

 リチャードは実際にメイスを振って見せ、扱い方を教えた。

 振り回す。叩きつける。足元に転がる頭蓋骨を砕いて見せれば、レヴィはそれが護身用の武器であることを察した。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 レヴィは武器を扱ったことなどないし、坑道のスケルトンを倒した事さえない。

 リチャードもそれを知っているだろうが、それでもメイスを渡したということは、この燭台の荒野がそれなりに危険であってもおかしくないということなのだろう。

 

 護身用の武器を渡すと、リチャードはすぐさま歩き去っていった。

 花嫁の像の傍に取り残されるのは、レヴィ一人。

 

「……」

 

 レヴィは花嫁の像を見上げ、そこに映る僅かな不気味さに身震いし、それとともに一抹の寂しさも感じ取った。

 

 奇妙な感覚だったのだが、この花嫁の像は恐ろしくもあるのだが、それと同じくらい同情の念も湧いてくるのだ。

 一人寂しく荒野に佇み、近付くウィスプからもすぐさま逃げられる花嫁。もしもレヴィまでもがここを離れてしまえば、花嫁像は真の意味でひとりぼっちになってしまう。

 

「せっかく作ってもらったのに、嫌だよね……」

 

 レヴィは初めて目にする緻密な石像に対し、等身大の感情を抱いていた。

 

 

 

 それから、レヴィは石像の周りにさらなる燭台を立てるようになった。

 燭台の荒野には各所に金色の燭台が突き刺さっており、探そうと思えばレヴィでもほとんど労せず拾うことができる。

 

 燭台にはウィスプが宿る。ならば、石像の周りにもっと燭台を並べれば、ウィスプが像を見てくれるのではないか。そう思っての行動であった。

 

 が、そもそもウィスプは石像を感じ取った瞬間に離れてしまうので、燭台の数が増えたからといってその行動が変わることはない。レヴィは数日間ほど燭台集めに奔走してみたが、その結果は渋いものであった。

 

「どうして、立ち止まって見てくれないんだろう」

 

 虚空に慟哭を上げる、ひとりぼっちの花嫁。

 悲しそうにしている孤独なそれを見ていると、レヴィはどうしても他人事のようには思えず、心をかき乱されてしまうのだった。

 

 あるいは、自分が感じ取ったものを共有できる相手を無意識のうちに求めていたのかもしれない。

 

 

 

 レヴィはそれからも、石像を良く見せようと奔走していた。

 石像についた砂埃を丁寧に払ったり、燭台を磨いたりもした。レヴィの身に纏うボロ切れのワンピースは更に裾が短くなっていったが、それを気にする者は本人を含めて誰もいなかった。

 

 燭台は磨けば鈍く金色に輝くものもあれば、真っ暗が銀色に様変わりするものなど様々で、宝石や丁寧な研磨を施した金属に縁のなかったレヴィにとってその作業はそこそこ楽しいものであった。

 

 しかしどれだけ調度品が増えても、磨いても、ウィスプが特別動きを変える様子はない。

 

 諦める時が近づいている。

 レヴィは声には出さなかったが、そろそろリチャードのもとへ行くべきだと考え始めていた。

 

 そんな時だった。

 

「あっ」

 

 ぽつりと、空から雫が垂れてくる。

 それはバビロニアに居た頃はほとんど浴びることのなかった雨。

 雨足は緩やかに増し、宙に漂うウィスプの動きがにわかに激しくなり始めた。

 

「……そっか、火だから」

 

 ウィスプは雨に弱かった。今はまだ雨足も弱いために消えることはないが、激しく降ればたちまちウィスプは消滅するだろう。

 

「……なら、屋根を作れば……?」

 

 屋根を作り、ウィスプが雨宿りできる場所を作る。

 そこに、燭台と石像があれば……ウィスプはずっと、そこにとどまってくれるのではないか。

 

 レヴィが閃いたその瞬間、雨足は途絶えた。

 

「……むぅ」

 

 どうやら通り雨か、薄い雨雲であったらしい。

 ウィスプの動きも普段通りに戻り、どう見ても雨宿りを必要としているようには見えない。

 

 しかし、レヴィは雨宿りできる場所を作るというアイデアはさほど悪くないように思えた。

 ならば、屋根になるものを見つけてこよう。これは名案かもしれない。そう思い、立ち上がった。

 

 その時。

 

 大空洞の中央に立つ斜塔、その頂上から、ドラゴンの咆哮が轟いた。

 

「……!」

 

 怒りに満ちたドラゴンの咆哮。

 全ての生命を萎縮させる、絶対強者の雄叫び。

 それは大空洞の中で何度も反響し、地下空間全体を震わせるものだった。

 

 レヴィはドラゴンの声など知らなかったが、即座に理解した。

 その声は、自分を殺せる者の叫びであるのだと。

 

 そしておそるおそる塔を見上げれば、幽かに見える。

 遠目からでもわかる、大きく広げられたボロボロの双翼が。

 

 塔の頂上で死んだドラゴンもまた、アンデッドと化していたのだ。

 

 



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魂の奥底にまで響くもの

 

 反響を続ける恐ろしい咆哮。

 その劈きはどこかの壁面をわずかに崩し、地底に石の破片がぱらぱらと舞い落ちた。

 レヴィはその音を聞いて咄嗟に頭を抱え、縮こまる。

 が、崩落とまではいかないらしく、落ちてきたのも砂つぶ同然の小さなものだったようだ。彼女は安堵したが、事態はそれだけで終わることはなかった。

 

「! ウィスプが……集まってきた?」

 

 先ほどまで雨を嫌がっているだけのウィスプが、こぞって燭台に集まり灯っていた。

 青白い炎は不規則に揺れ、それはレヴィの目に怯えているように見えた。

 

「……あの声が、怖かったんだ」

 

 ウィスプは恐れていた。というよりは、避けていたのだろう。

 

 アンデッドと化したドラゴンの一種ドラゴンゾンビ。

 それは生前より持ち合わせていた魔法耐性に加え、死霊系の捕食者でもある。特にウィスプなどはドラゴンゾンビがブレスを使うための燃料となるため、格好の捕食の対象なのであった。

 ウィスプ達はそれを知ってか知らずか、燭台に化けてやり過ごそうとしているのである。

 

 そして、ドラゴンを恐れているのはウィスプだけではない。

 

 空中をさまよっていた煙のようなゴーストたちも瓦礫の中に埋まろうとしているし、遠目に見えるスケルトンも塔から離れるように動いていた。

 

「……みんな、怖がってる」

 

 塔の上のドラゴンが咆哮を上げてから、地底全体がざわめいている。

 特に大空洞の中央部、アンデッドが密集する場所などは顕著であり、遠く離れているはずのレヴィにもその騒がしさは伝わってきた。

 

 誰かの叫び声が甲高く響き、狼の枯れた遠吠えが絶え間なく連なる。

 

 レヴィはしばらく、アンデッドたちの不吉な合唱を静かに聴き続けていた。

 

 

 

「……あれ……」

 

 やがて、遠くから蠢く何かが近づいてくる。

 

 本来であれば、レヴィはそれを察した時点で逃げるべきだったのだろう。

 逃げなかったのは彼女が咄嗟に行動できるだけの判断力が足りなかったのもあるし、状況の変化に幼い心がついていけなかったということもある。

 ともあれ、レヴィは動かなかった。それが現実であった。

 

「やだ……うそ、あれって」

 

 遠目に見える赤い衣。

 バビロニア王直属の親衛隊の豪奢な騎士装束を着た白骨の男。

 彼が手にするのは、ククリ刀のように折れ曲がった、鎌のような長剣。

 

 レヴィはその姿に見覚えがあった。

 忘れるはずもない。それは死後のレヴィにとって最も大きな脅威であり、具体的に存在し続ける恐怖のひとつなのだから。

 

 近接戦闘に秀でた凶悪なアンデッド。死神と揶揄される、無差別な殺意の権化。

 グリムリーパーだ。

 

「……どうしよう」

 

 グリムリーパーは、レヴィに近い方角を目指して走っていた。

 だがレヴィを目的に走っているというわけではなく、やや方向がズレている。彼は獲物を追いかけるというよりは、塔から逃げるように夢中で駆けているようだった。

 見方によっては、その逃げ姿は滑稽ですらある。

 

 自分を狙っているわけではないということはレヴィにもわかった。

 しかしあのグリムリーパーが正気に戻った時。そうなった時に近くにレヴィがいたならば、彼は容赦なく斬りかかってくるだろう。

 

「逃げなきゃ……」

 

 レヴィは自分とグリムリーパーの間に花嫁の立像を挟み、隠れた。そのまま立像の陰に身を隠したまま逃げようという魂胆である。

 グリムリーパーは既に近くまで来ており、走る速さも落ち着きを見せ始めた。こうなれば、いつ襲いかかられてもおかしくはない。

 

「あ……」

 

 レヴィが縋るように立像に隠れた時、彼女は自分のすぐそばで青白く発光するものを見つけた。

 

 カーテンのように揺らめく青白い霊体のスカート。

 流れるような美しい長髪。

 

「……お貴族様」

 

 気がつけば、花嫁の立像のすぐそばにレイスが佇んでいた。

 ウィスプの火が灯る煌びやかな燭台に囲まれて、美しいレイスは花嫁と向き合っている。

 

 表情は動かず、相変わらず感情を読み取ることはできないが、それまで無意味な回遊を続けていたレイスが立ち止まっているということは、彼女が立像に何らかの気持ちを抱いたということなのだろう。

 

「カカ……カカカカ……」

「あ……」

 

 白骨の頭蓋が、歯を打ち鳴らす。

 楽器のようでもあり、甲高い笑い声でもあるその音を聞いて、レヴィは自分の身体が更に青褪めた心地になった。

 

 先程まで何かに怯えていた様子だったグリムリーパーがうっそりと身体を揺すり、正気を取り戻している。

 グリムリーパーはゆらりと辺りを見回し……自然と、立像に目が止まる。辺りには他に何も無いのだから、それは自然なことであった。

 

 レヴィの小さな身体は立像の陰に隠れている。

 グリムリーパーの側からは完全な死角になっており、その姿は完全に見えないはずであった。

 

「……カカカ」

 

 だが、レヴィは知らなかった。

 グリムリーパーは生物や魔物が発する魔力を見ることができるアンデッドであり、その感知能力は極めて高い。それは逃げた後に残存する微かな魔力の痕跡を辿れるほどだと言われ、一度発見されれば迎え討つ他に手立てはないとまで評される。

 執拗に狙った獲物を追いかけ、命を刈り取る者。故に、それは死神(グリムリーパー)と呼ばれ、恐れられているのだ。

 

 グリムリーパーに多少の遮蔽物など意味を成さない。

 

「カカ、カカ、カカカカ」

 

 グリムリーパーが歩いてくる。

 遮蔽物たる花嫁の立像も多少はグリムリーパーの魂の琴線に触れたようだったが、それは以前のドラゴンの岩石像ほど劇的な効果を発さなかったようで、彼は構わずに近づき続ける。

 

 段々と大きくなる足音に、レヴィは小さく縮めた身体を更に縮こまらせた。

 

 グリムリーパーは立像の陰から身を乗り出し、ついにレヴィをその視界に収めた。

 彼は嘲笑うように顎を打ち鳴らすと、嗜虐的に、ゆっくりと剣を振り上げる。

 

「やだ……助けて、職人さん……お兄ちゃん……だれか……」

 

 レヴィはメイスを持っている。

 しかし、つい最近教えられたはずの使い方は咄嗟に思い浮かばない。

 そもそも今の彼女は、自分がその手に武器を持っていることすら忘れていたのかもしれない。

 

 彼女の頭の中を占有するのは、自分の二度目の終わりであった。

 

 

 

『“レッサー・フレア”』

 

 涼やかな声。

 目を強く瞑ったレヴィの瞼の上から、強いオレンジの輝きが瞬いた。

 同時に感じる強い熱と、瓦礫を吹き飛ばすほどの風。

 

「ガァアアアッ」

「え……」

 

 呆然と目を開ければ、そこには全身から黒い煙を吐き出したグリムリーパーがいた。

 豪奢な服を煤けさせたグリムリーパーは驚いた様子で一気に距離を取り、獣のように歯を打ち鳴らして威嚇した。

 

「な、なにが……」

『事情など知りません。知りませんが』

 

 凛とした声につられ、レヴィは彫像を見上げた。

 そこにはレイスが浮かんでいる。彼女はそれまで動くことのなかった超然とした無表情を崩し、凄みのある怒気を浮かべ、グリムリーパーを睨んでいた。

 

『幼子を襲っても良い法など、あって良いはずもありません』

 

 レイス。それは魔法の扱いに秀でた幽体アンデッド。

 

 そして、彼女の生前の名はパトレイシア。

 数々の魔法を修めた故に“精霊姫”と称された、ハーフエルフの宮廷魔法士であった。

 

 

 



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守るべき物事

 

 

 そこは暗闇。なにも見えず、ただ闇だけが漠然と続くだけの広大な空間。

 闇の中には所々に点々と蝋燭よりも儚い灯りが灯っていたが、存在するものといえばそれだけだ。他には何もない。

 前後も上下も曖昧な、鳥籠のような闇の中で、パトレイシアは長い間ずっと彷徨い続けていた。

 

 虚無の闇。そこは常人であれば数時間もあれば発狂するような場所であったに違いない。

 それでも彼女が我を失わずにいたのは、彼女が既に思考のほとんどを失っていたこともあるが、僅かに残った自我の奥底で抗い続けていたからであろうか。

 

 埋没殿の血の染みのひとつに成り果て、レイスと化して、人としての思考は大きく削がれていた。

 だが、彼女は諦めていなかった。僅かな自我は闇の中にあっても尚、何かを見出そうと目を伏せることなく、膝を付かなかった。

 

 何年も。何十年も。闇の中で……。

 

 

 

 その果てに見つけたのは、灯りの集う場所。

 燭台に灯り、身を震わせる死者。その中央に佇む悲嘆に暮れた花嫁。

 

 パトレイシアは闇の中に取り残されたその花嫁を見た瞬間、己の魂が強く震えるのを自覚した。

 恐怖。悲しみ。怒り。人だった頃の持ち合わせていたさまざまな情念に火がつき、連鎖的に様々な想いが呼び覚まされてゆく。

 

 身体や本能はその恐怖の象徴から目を背けろと叫んでいたが、パトレイシアの奥底に残っていた幽かな魂はそれを無理やり押し留めた。

 パトレイシアは彫像と向き合い、打ち寄せる感情の波を浴び続けることを選んだのだ。

 

 そして、やがて闇に囚われていた世界に色がつき、鮮やかになる。

 

 そこは燭台が並び立つ瓦礫の荒野。闇の向こうにようやく見えたものは、闇とそう変わらぬ惨憺たる現実でしかない。

 

「助けて……!」

 

 それでも助けを求める声が聞こえた。

 鳥籠の中で悲鳴を聞くことしかできなかった生前とは違う。

 今この時はまだ、伸ばせばその手が届くのだ。

 

『“レッサーフレア”』

 

 彼女は迫り来る死神の顔に向けて、容赦のない火球を叩きつけたのだった。

 

 

 

 煤けたグリムリーパーは跳び退き、距離を置いた。

 致命傷ではないが、火はほぼ全てのアンデッドの弱点だ。自我が希薄であっても、危険を避けるだけの戦闘センスを彼は持ち合わせていた。

 

 グリムリーパーは宙に浮かぶレイスを見た。

 レイスはレヴナントの前に立ちふさがり、魔力の渦巻く手をグリムリーパーに差し向けている。グリムリーパーの操る刀剣には魔力がこもっているので幽体を傷付けることも可能だったが、高く飛ばれては成す術がない。上空から魔法を連発されれば厳しい戦いになるだろう。

 

『……ッ』

 

 連発がそう何度もできれば、だが。

 

 パトレイシアは自分の内在魔力が酷く希薄であることに気付いていた。

 一発のレッサーフレアを放っただけで酷く消耗している。まるで魔法を学びたての子供のような魔力量であった。

 もう一発でも放てば高く飛ぶことも難しくなるだろう。そして、その一発でグリムリーパーを仕留める自信が彼女にはなかった。

 

「ギシッ……」

 

 だが、グリムリーパーは身を引いた。

 空を飛んで一方的な攻撃ができる相手を前に苦戦を悟ったのだろう。

 彼は悔しそうな歯軋りを鳴らすと、あっけなくどこかへと走り去っていくのだった。

 

「……」

 

 遠ざかり、グリムリーパーが見えなくなると、レヴィは思わずその場にへたり込んでしまった。

 容赦なく迫り来る死の恐怖。それは一度死んだからといって慣れるものではないようだ。

 

『大丈夫ですか。怪我は、していませんか』

「あ……」

 

 泣きそうな顔のレヴィの前に、レイスのパトレイシアが舞い降りる。

 幽体である彼女はレヴィに触れることは叶わなかったが、嫋やかな手は優しげにレヴィの頰に添わされている。

 

『恐ろしい思いをしたのでしょう。辛い思いをされたのでしょう。けど……安心して。私がいます。私が守ります。今度は、必ず……』

「……お貴族様」

『パトレイシア』

 

 パトレイシアは穏やかに微笑み、レヴィの頭を撫でた。

 

『私のことは、どうかパトレイシアと呼んでください』

「……パトレイシアさん」

『はい。パトレイシアです。貴女の名前は?』

「……レヴィ」

『良い名前ですね』

 

 パトレイシアは笑い、それにつられてレヴィも微笑んだ。

 レヴィは自分の母を知らなかったが、彼女と話す時はとても満たされた心地になれたのであった。

 

 

 

 しばらくして二人が落ち着くと、パトレイシアは自身の置かれた状況を見つめ直した。

 

 辺りは荒野だが、散らばる瓦礫の一つ一つには人工物の名残があり、量は極めて膨大であった。

 そして遠くに聳え立つそれを見上げれば、理解は早かった。

 

『……バビロニア……そして、死の底……そう。やはり、そうなってしまったのね』

 

 空をさまようゴーストや、燭台から離れていくウィスプたち。

 それら全てはきっと、バビロニアで暮らしていた住民たちなのだろう。

 

『本当に、根元から滅んでしまっただなんて……』

 

 パトレイシアは良家に生まれたが、妾のエルフとの間に設けられた子であった。

 ハーフエルフはその種族柄、人間よりも長命である。パトレイシア自身は非常に優秀であり、バビロニアの民に献身する精神性さえ持ち合わせていたのだが、長命な者が影響力を持つことは禁じられているために政治闘争からは遠ざけられていた。

 それでも「実務であれば」と研鑽を積み宮廷魔法士となったのだから、彼女の不屈さは相当なものである。

 

 だが狂王ノールの統治下にあって、バビロニアの民が抱える不安と恐怖はパトレイシアにはどうすることもできなかった。

 宮廷魔法士も所詮は一介の兵に過ぎない。神輿にすらならないパトレイシアは、このままノールの恐怖政治の中で鬱屈とした気持ちを抱え続けるのだろうと諦めていた。

 

 それが、まさかバビロニアの崩壊という形で終焉を迎えるとは。

 

 ノールの統治下も散々であったが、王ごと国が滅んでは元も子もない。

 確かに、ノールを排するには殺すしかないと考える者は多かっただろうが……。

 

『まさか、ね……』

「? パトレイシアさん、どうしたの?」

『いいえ、なんでもありませんわ』

 

 バビロニアの崩壊。それは果たして偶然だったのか、人為的なものだったのか。

 死んだ今となっては無意味な思索かもしれないが、それはパトレイシアにとって捨て去れる疑問ではなかった。

 

「こっち……多分ですけど……」

 

 今、パトレイシアはレヴィの先導で移動している最中であった。

 レヴィは口数が少なく、また口下手でもあったので、説明は曖昧なところがあったが、彼女が言うには恩人の一人であるのだという。

 

 パトレイシアはレヴィがアンデッドのレヴナントであることは一目見て看破している。

 レヴナントがこうして明確な自我を持って動けていることが疑問であったが、そう考えるとレイスである自分の存在にも謎が生まれる。

 

 死の底特有の現象なのか、ネクロマンサーの影響なのか。

 移動中、様々な仮説を思い浮かべていたパトレイシアであったが、レヴィが目的地に着いた時、その答えは明らかになった。

 

「しー……」

 

 レヴィが口の前に指を立て、パトレイシアに沈黙を促す。

 

 遠目に見える瓦礫の丘では、一体のリッチが石柱と向き合っていた。

 

 罪人のローブ。手にしたノミとハンマー。

 こちらを一顧だにすることもなく、黙々と続けられる作業。

 

 そして、石柱に刻まれつつある、心をざわつかせる恐ろしい芸術作品。

 

『……リチャード』

 

 そのアンデッドの肉体に人としての面影はなかったし、パトレイシア自身も面識はない。

 だが、パトレイシアはそのアンデッドがリチャードという男であることを確信できた。

 

 パトレイシアが小さく言葉を零したからであろうか。

 丘の上のリチャードがこちらに顔を向け、歯列の前に指を立てていた。

 

 “静かに”

 

 一度注意を促すと、リチャードは再びハンマーを振るい始めた。

 

 

 燭台の荒野に作業音が響き渡る……。

 

 

 

 



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意思の疎通を

『もし』

 

 リチャードが作品を仕上げると、それを見計らっていたように、レイスのパトレイシアが前に出た。

 作品とリチャードの間に強引に入り込む彼女は、丸二日も待たされたせいもあって少々不機嫌そうである。

 

 それもこれも全てリチャードが作業中の会話を嫌う性質のせいなのだが、そういった特殊な機微については長い待ち時間の中でレヴィからたっぷりと教わっているので、問い詰めるつもりはない。

 生前は有名人ではあったので、人となりもなんとなくは知っている。

 しかしそれはそれとして、目の前にいながら人を待たせるのもどうなのだと言う気持ちが拭いきれないのは、一般的な感性を持つパトレイシアの仕方ない感情であった。

 

『お訊ねします。あなたは、リチャードですね?』

 

 レヴィは彼の名を知らなかったようだが、まず間違いではないだろう。

 実際、リチャードは間髪入れずに頷いた。

 

『私はパトレイシア……いえ、家名などは何の意味もありませんね。ただのパトレイシアです。……まずはお礼を。貴方の作品が齎した力のおかげで、私は亡者の闇を脱することが叶いました。ありがとうございます』

 

 パトレイシアは貴族然とした礼を見せ、後ろで見守っていたレヴィはその姿に感銘を受けたのか、目を輝かせた。リチャードは特に反応を示していない。

 

『……まさか処刑されたはずの貴方と、死後こうして言葉を交わせるようになるなんて。私は貴方の作品に強い感銘を受けていました。できれば生前にお会いすることができれば良かったのですが……』

 

 パトレイシアがそこまで言って、リチャードはようやく反応を見せた。

 しかしそれは好意的なものではない。軽く額を抑えて俯くような、頭痛でも堪えていそうな格好である。

 

「……職人さん、長い話は好きじゃないんです」

『え……えぇ、ですが……まだ挨拶もほとんど』

「ほら、“帰る”って……」

『……』

 

 レヴィが指し示す通り、リチャードは作品を仕上げたので帰り支度を始めていた。

 彼は貴族らの好むような長い挨拶など、言葉のやり取りを億劫に感じる性格だったのだ。

 

『……沈黙の煙草を自ら吸った男。人嫌いは噂通りだったのね』

「?」

『なんでもないわ。……彼は戻るのでしょう? 私たちも行きましょうか』

「うん」

 

 こうして三人のアンデッドは荒野を去ってゆくのだった。

 

 

 製作再開歴12年、リチャード作。

 

 “故郷の義父”。

 

 老人は鍬を杖代わりに立ち尽くし、どこか遠くを見据えたまま、誰かとの再会を待ち続けているかのようである。

 しかし、彼はそう長くはない。再会と終わり、どちらが先にやってくるかは、その背景を知らずとも、明白であるかのよう。

 

 荒野にはいくつかの立像が立てられ、それらは別れを惜しむことなく、去りゆくアンデッドを見送るのだった。

 

 

 

 

 レヴィはすぐさまパトレイシアに懐いた。

 温和で優しく、いざという時には身を呈して守ってくれる綺麗な存在。それは貴族を恐れていたレヴィであっても心を許すには充分な素養だったのだろう。

 パトレイシアも子供に対する愛は深く、幽体であるために実際に触れることはできなかったが、レヴィをよく可愛がった。

 言葉を交わし合う二人が気安く語らう仲になるまでは、二日もかからなかった。それでもレヴィは無口なリチャードに対して尊敬する気持ちは失っていないし、蔑ろにするような様子もない。

 パトレイシアは、レヴィが良くできた子供なのだと思っている。

 

『……ここが、坑道』

「作品がいっぱいあります。たまに、あの……スケルトンもいたりします。けど怖くはないです。奥の方に、私達のお家があるので、そこに行きましょう」

 

 大空洞から離れた壁面。そこに、リチャードらが拠点とする坑道への入り口の一つがあった。

 探せば坑道への入り口は無数に存在するのだが、崩落の煽りや行き来の不便がない場所というと、その一つだけになるらしい。

 

 バビロニア初期から存在し、奴隷によって拡張され続けた鉱脈群。

 その坑道は無数に分岐し、上へ下へと無秩序に広がっている。

 彼らが長年かけて穿ち続けた坑道が、今バビロニアの民らを死の底へと封じている。それはパトレイシアにとってあまり直視したくない現実であったが、きっと周辺諸国の人間であれば“因果応報”とでも言うのだろう。想像に難くないことであった。

 

 坑道内は手狭だが、肉を失ったリチャードやパトレイシアにとってはどうということもなかったし、小さなレヴィは元より頭を打ちそうになることもなく歩ける。

 坑道の中でもかつてはトロッコを用いていた主要運搬道であったのか、広い部分は横並びになることもできそうだった。

 

『……リチャードの作品』

 

 そして、坑道内には各所に彫り物が配置されていた。

 それらは行き止まりや平坦な壁面であれば所構わず配置されており、そのどれもが無意識に見てしまうと思わず目を剥いてしまうような迫力と恐怖を持っていた。

 

「……怖いですよね」

『ええ……とても』

 

 時折、迷い込んだスケルトンが坑道内を苦しそうに行き来している。

 作品のもたらす恐怖が彼らの霞みきった魂を震わせているのだろう。

 

「でも、私ここの、作品……あの……結構好きです。はい……」

 

 リチャードの作品は、処刑される前やその後なども、驚くべき高額で取引されるようなものばかりであった。

 彼の生み出す作品はどれも心に強い衝撃を与えるため、人によっては呪われているなどと言い出すこともあったという。

 しかしそれだけに他にない魅力を持っていた彼の作品は、とりわけ貴族の間では蒐集品としての人気が高かった。

 パトレイシアも芸術品を好んでいたので、小さな置き物を一つだけ買ったことがある。存命の芸術家の作品としては法外な価格だったので、当時は酷く驚かされたものであった。

 

『レヴィも、彼の作品を見て……目が覚めたのよね』

「はい。……怖いけど、なんか、すごかった……あっ。後でそこに案内します」

『ありがとう、楽しみだわ』

 

 

 

 やがてリチャードはいつもの大部屋に戻ってきた。作りかけの壁面レリーフと、骨製の椅子の置かれた部屋である。

 明らかに人骨を用いて作られたそれを見たとき、パトレイシアは思いの外それに嫌悪感を示さない自分に驚いていた。それを横目に見たレヴィは、パトレイシアが自分用の椅子を欲しがっているのではないかと思い込んでいたが、もちろんそんなことはない。

 

 リチャードは自分の椅子に座り……沈黙した。

 彼は彫るでも研ぐでもない時は、そうしてじっと考え事に没頭するのである。

 ただ、考え事をしている時には話しかけても怒ることはない。

 

 ……という話は、すでにレヴィから聞いている。

 パトレイシアは落ち着いたこの時を狙い、再び会話を試みることにした。

 

 だが、リチャードは持って回る会話を好まない。

 なので今回はパトレイシアも、率直に切り出すことにした。

 

『リチャードさん。お願いがあります』

「……」

 

 リチャードは無言で、ゆっくりと顔を上げた。

 

『どうか、死を想わせる貴方の作品で……アンデッドと化した人々に、心を取り戻させてはもらえないでしょうか』

 

 パトレイシアの目は本気だ。

 

『私は貴方の作品によって目覚めた。ならば、他の人々も目覚めるはず。……教会の関係者が聞けば異端審問にでもかけられるような試みでしょうが、効果は私やレヴィさんで実証されていますし、教会は文字通り瓦解しました。……人々を救うために、どうか。リチャードさん。お願いできないでしょうか』

 

 死を想わせる作品による、人間性の再確認。

 アンデッドから人間への再帰。パトレイシアは、どうしてもそれを成し遂げたかった。

 

 だがリチャードは首を縦に振ろうとしない。とはいえ、横に振ろうともしなかった。

 良いとも悪いとも語らない彼に、パトレイシアの不安だけが募る。

 

 たっぷり数十秒の間を開けて、彼は右手を動かした。

 宙をなぞるように四角く描き、何かを塗りつぶすような仕草をしてみせる。

 

「職人さん、書くもの欲しいって」

『! 書くもの。筆記具ですね、わかりました! いえ、ここにあるかどうかは……いえ、とにかく探してきます!』

 

 リチャードは何かを伝えたがっている。それを知ったパトレイシアは、すぐさま筆記具になり得るものを探しに飛び去った。

 残されたレヴィは不思議そうに首を捻っている。

 

「……職人さん。壁に彫って書くのじゃ、だめなんですか」

 

 リチャードは無言で首を横に振った。

 面倒な書き方はしたくないし、書き味の良いものが欲しかったのである。

 

 何より、彼は必要がなければ筆談さえもしたくはないのだ。

 見つからなければ見つからないでも構わないというのが、リチャードの本音ではある。

 

 数十分後、筆記具を見つけたまでは良かったが、物に触れられないため手ぶらで帰ってきたパトレイシアは涙目でレヴィの助力を願った。

 

 

 



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第3章 スケルトンソルジャーのルゥジアル
二人の仕事


「触らぬ神に祟りなしだが、義を見てせざるは勇無きなりとも云う。剣を振るうのは、常に勇ある者にこそ相応しい。」
 ――刀装神ガシュカダル


 “私は貴女の理想や展望に興味がない。”

 

 

 それが、リチャードが初めて彼女らに見せた言語化された意思表示であった。

 木片にタールじみた染料で書かれたそれを見て、パトレイシアは眉をひそめた。

 レヴィは文字を読めなかったが、その羅列が美しく整っていることに感動していた。

 

 

 “しかし、作品は作る。”

 

 “もしも私の作品を必要としているのであれば、材料と工具を用意してもらおう。”

 

 “私が仕上げた後、作品をどうするかは勝手にすれば良い。”

 

 

 素っ気ない言葉であったが、彼は決して後ろ向きではない。

 リチャードは元々、こういった話を進めることを前提に考えてレイスを、パトレイシアを目覚めさせる彫像を製作したのだ。

 

 空を自由に飛び回り、透過すらできるレイス。

 空から見下ろせる幽体アンデッドの協力さえあれば、大空洞の各所に散らばる材料や工具の捜索が飛躍的に楽になるはずだ。

 

 ノミも消耗品だし、研ぐのも何十本も纏めてやらなければ面倒だ。

 材料も多ければ多いほど良い。リチャードは自分の製作環境を整えたかった。上手くすれば、生前よりも恵まれた環境で没頭できるかもしれない。

 

「……パトレイシアさんが探して、私が拾い集めて……職人さんが作る、ってことですか」

『そうよ。……ごめんなさいね。私が物を動かせたら良かったのだけれど』

「ううん。お手伝いします。私も……あの、職人さんの作ったもの、見たいから……」

 

 二人に異存は無かった。

 役目はそれぞれが自分のやりたい事と合致していたし、意欲もある。

 それぞれの目的や理想は多少異なっていたのかもしれないが、三人の望みは概ね同じである。

 

 兎にも角にも、リチャードの作品製作のために。

 こうして芸術の復興運動は死の底より、本格的に始動したのだった。

 

 

 

 リチャードはそれからしばらく、坑道内でじっと考え込んだり、荒っぽい岩壁を前に彫刻を施したりといった、つまりはいつも通りの日々を過ごした。

 彫り味は荒野にあった滑らかな石柱とは比べものにならなかったが、それでもリチャードは度々坑道内の壁面と向き合っている。

 

 パトレイシアは彼が何を考えているのか興味を抱くことが多かったが、聞いても教えてはくれないだろうし、ただ彼を煩わせるだけに終わるだろう。なので、パトレイシアはほとんどの時間をレヴィと共に過ごしていた。

 

『そう。そこにこちらの紐を通して……ええ、上手ですよ』

「……上手?」

『ええ、とっても上手。素敵な荷物入れになりそうですよ』

 

 探し物はパトレイシアが行い、実際の取得と運搬はレヴィの役目になる。

 そうなると必要になるのは物を多く運ぶための道具であり、パトレイシアはまずその製作作業に着手した。

 とはいえパトレイシアも職人ではないので、詳しくはない。精々が刺繍の真似事か、練金薬の初歩程度である。それでも何も知らないレヴィに指示出しすることはできたので、簡単な肩下げ鞄を作ることはできた。

 

「わぁ……色々、持ち運べそう……パトレイシアさん、ありがとう」

『ふふ、どういたしまして』

 

 パトレイシアが指示を出し、レヴィが動く。

 元々レヴィは人の指示に従うことに慣れていたので、教えればすぐに物事を覚えたし、意欲的に実践した。

 

 石の簡単な見分け方や、工具の名前。パトレイシアも専門的な知識はないものの非常に博識であったので、人並み以上の疑問には答えられた。

 

「……パトレイシアさんって、エルフなんですか」

『はい、ハーフエルフです。人族と精霊族……エルフの間に生まれた種族ですね。レヴィさんやリチャードさんのような人間を、人族と呼びます。……って、そのくらいは知ってますか』

「職人さん、リチャードっていう名前なんですね……」

『ええ』

 

 レヴィは貧民街の出身であったため、リチャードの名は知らなかった。

 芸術作品を広める情報誌などが下層に広まらない以上、それは当然のことだったのだろう。

 

『リチャードは生前、とても有名な彫刻家でした。彼の創り出す作品はどれも刺激的で、貴族達は誰もが大金をはたいて買い求めたものです。稀代の天才と称しても、何ら劣らぬ芸術家だったのですよ』

「……やっぱりすごい人だったんだ」

『ええ。こうしてレヴィさんや私が自我を取り戻せたのも、彼の作品のおかげですから。間違いなく、すごいお人です』

「じが……って、なに?」

 

 レヴィの言葉に、パトレイシアはどう伝えたものかと少しだけ悩んだ。

 顎に指を当て、虚空を見やって、やがて答えが決まったのか、小さく頷いた。

 

『自分が……他の何者でもない、間違いなく自分がここにいるのだと。そう、自分で思えることを、自我と呼ぶ……のではないでしょうか』

 

 パトレイシアの言葉に、レヴィはいまいち飲み込めていないように首を傾げていた。

 

『ごめんなさいね。私、よく説明するのが下手だと言われるんです』

 

 パトレイシアは苦笑いを浮かべ、レヴィはそれにつられるように微笑んだ。

 

 

 

 二人の宝探しは順調に進んでいる。

 レイスの斥候は特にレヴィの安全確保において多大な効果を発揮し、凶暴なアンデッドと鉢合わせる危険はほぼ皆無である。

 レヴィもほぼトラウマになりかけているグリムリーパーと遭遇することが無くなったおかげか、大空洞を散策する意欲は高かった。

 

 彫刻に適した材料探しは、レヴィの持ち運びにも限界があるので大きな物の運搬はできなかったが、置き物サイズの材料はいくつも入手している。

 リチャードもそれを使って何個か作品を仕上げているので、役には立っているのだろう。

 

 二人のアンデッドは会話をしながら歩き、目ぼしいものを拾い集め、帰り、たまにリチャードの作業風景を眺める。

 そんな穏やかな日々が続いていた。

 

 

 

『……ドラゴンの咆哮が』

 

 ある雨の日。大空洞に再び、ドラゴンの咆哮が鳴り響いた。

 パトレイシアとレヴィが探索中のことである。レヴィは悍ましい大声量に身を竦ませ、パトレイシアも本能的な恐怖に表情を強張らせた。

 

「怖い……」

『大丈夫です。大丈夫ですよ』

 

 他の自我無きアンデッド達も、圧倒的な強者の咆哮に反応し、騒いでいる。

 

 塔の内部がどうなっているのかはわからないが、遠くからでも分かるくらいけたたましい音が響いているので、おそらく内部のアンデッドも恐慌し、暴れているのだろう。

 

 見上げれば、塔の頂点には翼の破れたドラゴンの影が見える。

 

『……あれさえいなければ、もっと行動範囲も広がるのですが』

 

 埋没殿の高所に君臨するドラゴンゾンビ。

 それは縦穴から抜け出したいパトレイシアにとって、非常に厄介な存在であった。

 

 ドラゴンゾンビはレイスにさえ通じる攻撃手段を持っており、リーチも長い。上を取られているのでレイスの浮遊能力も利点にならない。

 大空洞において、そのドラゴンゾンビは全ての幽体アンデッドの天敵である。

 

 本来ならばもっと高く飛んで探し物をしたいが、あまり高く上がればドラゴンを刺激することになるかもしれない。一度ドラゴンゾンビが動き出してしまえば、終わりだ。

 できることならば討伐したいところだったが、今のパトレイシアではそれも難しいだろう。

 

『……もっと高位の魔法が使えれば良かったのですが』

 

 精霊姫パトレイシア。生前の彼女は宮廷魔法士として、様々な魔物と戦ってきた。

 

 しかしレイスとなった今の彼女には、どういうわけか初歩的な魔法しか扱えない。

 いざという時にはレヴィを守らなくてはならない彼女にとって、それは致命的な弱体化であった。

 

「あの、あのっ……パトレイシアさんっ」

『え、あ、はい。なんでしょう……ッ、これは』

 

 レヴィの呼びかけに気付き、そして同じく異常を感じ取った。

 

「何か……こっちに来る」

『……レヴィさん、誘導します。ここから少し離れましょう』

 

 大空洞の上層を支配するドラゴンゾンビと、その咆哮。

 それはただ響き渡るだけでなく、地下全体に大きな波紋を生み出すものでもあった。

 

 



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魔物の脅威

 

 リチャードが執刀団に入って、数年が経過した。

 激務ではあったが軍属として食事は満足できるだけの量が与えられたので、17歳にもなった彼は身体的能力的なハンデも埋まり、常人並の体格に恵まれた。

 そうなると団長のデイビットはより危険な戦場にもリチャードを連れて回るようになり、彼はそこで様々な経験を積むこととなる。

 

 そもそも、バビロニアで生まれた者はそうそう塔の外に出ることがない。

 彼らの暮らしは塔に齎される富によって支えられて、下層の平民であっても塔内で人生が完結することさえ珍しくなかった。

 例外は商人であったり、塔の外で戦わなければならない軍など限られた者たちばかりである。

 

 よく言われる話で、バビロニアで暮らす者は外に憧れ、塔外で暮らす者はバビロニアに憧れるのだという。

 バビロニアは大陸において最も発展した都市であったので、バビロニアに憧れるというのはわかりやすい。逆にバビロニアの住人が外の世界に憧れるのは、広大な土地で自由に暮らせるからだという。

 リチャードも貧民の出身だったので、鬱屈とした暮らしから抜け出したい思いで、塔の外に憧れたことは多い。

 

 だが、いざ執刀団の一員として外に出てみれば、厳しい現実が待っていた。

 

 無秩序な治安。どこにでも現れる強大な魔物。

 それは高く堅牢な塔の中に居たのでは知ることのできない脅威であり、リチャードの幻想を壊すには充分な現実であった。

 人と人の争いの場に魔物の群れが乱入した時などは、悪夢の類かと疑いもしたものである。

 

 人間の争いならばまだそれなりに行儀や作法もあったが、魔物にはそれが無い。彼らは非戦闘員だろうが命乞いをしようが構わず全員を殺しにかかる。

 死闘の末に天幕を襲撃してきた魔狼を斃し、感情の読めない目を覗き込んだ時、リチャードはそれでもまだ、死体が恐ろしかったのだ。

 

 

 

 坑道の中にまで、魔狼の遠吠えが聞こえてくる。

 

 大空洞に魔狼、今はアンデッドと化しスケルトンハウンドとなったそれらが現れたのは、三日前のことである。

 

 大空洞の瓦礫を捜索していたレヴィとパトレイシアの二人は塔よりドラゴンの咆哮を聞き、それに呼応するようにして溢れ出したスケルトンハウンドの群れを確認した。

 

 スケルトンハウンドは人間系のアンデッドに対して非常に敵対的であり、遠目でも何体ものアンデッドが殺されたのをパトレイシアは見たという。

 

『恐ろしい数です。どこから大空洞に入り込んできたのか……崩落に巻き込まれたのか……ともかく、相手にできる数ではないのは確かです』

 

 スケルトンハウンドは単体であればさほどの脅威ではない。

 しかし群れになると、途端に生前の頃の集団戦法を思い出したかのように統率が生まれ、手強くなる。

 リチャードは昔の経験から嫌というほどそれを知っていたので、鞄いっぱいに物資を持ち帰れずに落ち込むレヴィに対し、珍しく励ますように手を振っていた。

 

『私も魔法を扱えますが……どういうわけか、この姿になってからは力が制限されているように感じます。上級どころか、中級の呪文でさえまともに発動しないのです。レイスならば、もう少し扱えても良いはずなのですが……』

 

 パトレイシアの魔法はあてにできなかった。

 初級呪文でも多少の牽制にはなるだろうが、彼女の自己申告によれば魔力量が圧倒的に少なく、多用ができないらしい。使い過ぎれば浮遊することも難しくなるので、一部のアンデッドに無防備な姿を晒すことになってしまう。

 

 当然ながらリチャードも魔法は使えないし、スケルトンハウンドの集団に挑む無謀さは誰よりも知っていたので、戦力にはならない。

 

「……私がメイスで……」

 

 パトレイシアはレヴィの頭をそっと撫でた。

 

 三人はそれぞれが独自の役割を持つバランスの良い徒党であったが、現状、圧倒的なまでに戦力が不足していた。

 

 

 

 スケルトンハウンドの対策は急務である。

 なにせ彼らは魔物であり、人間と同じ死生観がないため、リチャードの作品は魔除けにならない。

 今はまだ塔の近くを彷徨っているらしいが、坑道内にまで入り込まれれば一気に危険になるだろう。

 

 リチャードは作業に集中したかったが、身の危険が迫っているとなれば準備くらいはする。

 何より、外から醜い遠吠えが坑道内に響いてくる環境は、リチャードにとって許しがたいものであった。

 

「これを設置するんですね……」

 

 リチャードはひとまず、柵を量産した。

 石でも木でもなんでも構わない。廃材から適当なものを見繕って探し出せば相応の仕上がりにはなったので、それを邪魔にならない程度の位置に並べてゆく。

 

 地面には人の足は入らないが、犬の足が引っかかる程度の穴をいくつも穿ち、罠とした。スケルトンハウンドがその上を勢いよく走れば、勝手にはまり込んで足を折るという代物だ。

 レヴィはその説明を聞いておそるおそる穴に自分の足を這わせたが、話の通り人間であれば大丈夫そうだったので、大袈裟なくらいほっとしていた。

 

 

 

『リチャードさん。貴方は動物の恐る作品などは作らないのですか?』

 

 ある日、パトレイシアはリチャードにそう訊ねてみた。あるいは、彼の力でスケルトンハウンドを撃退できないものかと考えたのだろう。

 すると彼は面倒臭そうに木片と煤インクを用意して、こう答えた。

 

 

 “私は人の死生観しかわからないし、人の死生観にしか興味がない。”

 

 

 そして次に書いたのは、パトレイシアでもぐうの音が出ない正論であった。

 

 

 “そもそも魔物が正気に戻ったところで、何が変わるわけでもない。”

 

 

 パトレイシアはそれから数日、大袈裟なくらい凹んでいたという。

 

 

 

 レヴィは坑道内に開閉式の柵を設置する日々の中で、浮かない顔をすることが多かった。

 のろのろと作業をしてはため息をこぼし、またのろのろと作業をしては落ち着かない様子で唸ったりといった具合である。

 

『どうされました? レヴィさん。何か悩み事でもあるのでしょうか』

 

 最近まで自分の知性が失われたのではないかと本気で悩んでいたパトレイシアだったが、今では自己解決したのか普段通りの調査に戻っている。

 レヴィは寄り添ってきたパトレイシアに打ち明けるべきか少しだけ悩んだが、このまま黙っていてもさらに悩み続けるだけなのは間違いなかったので、思い切って打ち明けることにした。

 

「……私、お兄ちゃんがいたんです」

『お兄様……レヴィさんの?』

「はい。孤児院の……ほんとのお兄ちゃんじゃないけど、お兄ちゃん……」

 

 思い起こされるのは、貧しく辛い日々。今やその時の苦しみや焦燥に囚われることも悩まされることもないが、あの時に触れ合った兄の優しさは本物で、掛け替えのないものであった。

 

「お兄ちゃんも、アンデッドになってるのかな……もしそうなら、魔物に殺されちゃうんじゃないかって……私、ずっと心配で……」

『……レヴィさん』

 

 もしかすると、身内もアンデッドになっているかもしれない。

 アンデッドは終わりではない。リチャードの作品によって強い衝撃を受ければ、自我を取り戻すことは証明された。

 

 しかし、アンデッドのまま殺されてしまえば。

 その時、復活できる見込みは絶望的になってしまうだろう。

 

 レヴィの兄がアンデッドと化しているかどうかも定かではないが、もしもそうだとしたら残酷な話である。

 パトレイシアとしては、どうにか彼女の力になりたかった。

 

『……少し、考えてみましょう。それに、リチャードさんにも相談すべきですね』

「職人さん、怒らないかな」

『大丈夫です』

 

 パトレイシアは安心させるように微笑んだ。

 

『子供は、少しくらいわがままを言っても良いのです』

 

 

 



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見えざる経験と位

 

 

 “スケルトンハウンドを退治できるなら既にやっている。”

 

 

 パトレイシアがリチャードに頼み込んだ際、帰って来た返答がそれであった。

 しかしリチャードは寡黙だし彫刻にしか興味がないが、スケルトンハウンドの存在自体は誰よりも厄介だと考えている。決して面倒だとも思っていないしやる気がないわけではない。単純に足踏みせざるを得ない状況なのだ。

 

 

 “レヴィの兄が心配なのは理解した。しかし、それにはスケルトンハウンドを討伐する必要がある。”

『はい』

 “私はおそらくリッチではあるが、魔法は扱えない。レイスであるそちらも使用に制限があるのだろう。”

『ええ、私も数発が限度です。使い過ぎれば飛行能力を失いますし、そもそも素早く地上を動き回るスケルトンハウンドに追いつけません』

 

 純粋に対峙し戦うことは難しい。

 スケルトンハウンドの群れは膨大で、危険だ。

 それでもパトレイシアは、ここ数日ずっと外の様子を観察し続けて、あることを発見していた。何も無策でリチャードを頼りに来たわけではない。

 

『なので、討伐の専門家を引き入れたいと考えています。スケルトンハウンドを討伐できる騎士達を、我々の味方につけるのですよ』

 

 

 

 大空洞の荒地を駆け回るスケルトンハウンドの群れ。

 彼らは無防備なスケルトンやゾンビを襲撃し、時に殺し、時に喰らった。

 このままでは大空洞のアンデッドはスケルトンハウンドのみとなってしまうだろう。人族であればそのような結末も考えするだろうが、アンデッドの目線に立てばそういうわけにもいかない。

 

 それはリチャードたち三人以外のアンデッドにとっても、同じことであった。

 

「ガァッ」

 

 スケルトンハウンドが顎を大きく開き、鋭く伸びた牙を向けて飛び込んでくる。

 魔力で強化された牙はスケルトンの硬質な骨すら容易く砕き割るほど。突き立てられれば命はない。

 

「コカカカ」

 

 だが、そのスケルトンは迫り来る牙をよく観察し、冷静に対処した。

 古びたカイトシールドを斜めに構え、スケルトンハウンドの突進を受け流し……すれ違いざまに右手のショートソードで背骨をたたきおる。

 

 一瞬の攻防。しかし鮮やかな手際。

 素人目に見ても、それは素人のスケルトンにできる技ではない。

 

「コカカカ、コカカッ」

 

 盾と剣を持ったスケルトンは、撤退を繰り返しながら戦い続ける。

 スケルトンハウンドを叩き割り、砕き、受け流し、終わりなき戦いに身を投じる。

 その姿はまるで、アンデッドとなった民を死後も守り続ける騎士のようであった。

 

『いえ……あの盾。間違いなく……』

 

 カイトシールドに刻まれた塔の紋様。バビロニアで正式採用されているもので間違いない。

 大空洞で時折見られる、スケルトンハウンドと人型アンデッドの戦い。魔狼の群れに対して同等以上に戦い抜く見事な剣技。

 パトレイシアが目をつけたのは、そんな一人のスケルトンソルジャーであった。

 

 

 

『そのスケルトンソルジャーを味方につければ、スケルトンハウンドを討伐することは可能なはずです。討伐しきれなくとも、私達の身の安全は盤石になるでしょう』

 

 パトレイシアの狙いは、接近戦に秀でたアンデッドの一人を味方にすることだ。

 単純な近接戦闘専門のアンデッドを仲間に入れる。それさえできれば恐れることは何もない。

 

『それに、未だ大空洞のどこかを彷徨い歩くグリムリーパーの存在も無視できません。遠からず、手練れの護衛は必要となることでしょう』

 

 パトレイシアの言葉に、リチャードも考え込んだ。

 接近戦に秀でたアンデッドの確保。言われてみれば、あるに越したことはない。かもしれない。

 

『だから……作っていただけませんか。アンデッドの兵士を呼び覚ますような、そんな芸術作品を』

 

 不死者の兵に向けた作品。その一言で、リチャードは席を立った。

 頭に浮かんだのは曖昧な造形。しかし、それは刻一刻と変化し、劣化する。ただちに形にしなければ失われてしまうものだ。

 

 リチャードは返事もせず、近くにあった木製のブロックを平坦な作業台の上に運び出し、削り出した。

 大きさは大型犬ほど。仕上がりもきっとそれに近くなるだろう。石とは違い、持ち運ぶことも難しくはない。

 

『……上手くいきそうですね』

 

 黙々と作業を始めたリチャードの姿を見て、パトレイシアはそう零した。

 

 “うるさい”

 

 そしてすぐに怒られた。

 リチャードは作業が始まると、非常に短気になるのである。

 

 

 

 坑道内の罠はレヴィの活躍もあり、順調に設置が進んでいる。

 既に効果を発揮した罠も多く、ちょっとした小穴に足を引っ掛け、その際に折れたことで行動不能になるアンデッドもちらほらと現れ出した。

 

「ギュイギュイ……」

「うええ……」

 

 それが今レヴィの前にいる虫型アンデッド。

 人間の頭骨をヤドカリの殻のように扱う、小型の不死者。

 スカルベと呼ばれる魔物であった。

 

「気持ち悪い……」

 

 スカルベは坑道の入り口付近に開けられたスネアトラップに細い脚を引っ掛け、折れてしまったらしい。

 数本の脚が折れてしまうと背負った頭蓋骨の重さに耐えきれないらしく、罠の付近で無力そうに蠢いているのであった。

 

 レヴィも生前はよく虫を捕まえて食べていたが、スカルベから醸し出される不気味な存在感や、頭蓋骨を宿とする生態がアンデッドの身ではどうしても強い忌避感が生まれるらしく、どうにも強い不快感が拭えない。

 

 本来ならこのようなスカルベは全て無視したいのだが、この虫は既にそこそこの数が罠に引っかかっているようで、有り体に言って邪魔になっていた。

 スカルベのせいでスケルトンハウンドがかからないとなれば、笑い話にもならない。

 

「うぅ……えいっ」

 

 なので、最近のレヴィはよくこうして、罠にかかったスカルベたちをメイスで叩き砕いている。

 完全に動かなくなるまで叩き潰し、終わったらさっさと穴から残骸を回収して、遠くに捨てる。そんな作業の繰り返しだ。

 簡単にできるしパトレイシアの魔法を使うほどではないので、この作業は現状、レヴィの専門である。

 

 簡単ではあるが不快な害虫退治なのであまり気は進まなかったが、誰かがやらねば仕方がない。

 それにこの作業を繰り返していくうちに、レヴィは自分の調子が少しつずつ良くなっている気がしていた。

 

「ふぅ……最初の頃より、体がよく動くようになってきた……かも?」

 

 体力が上がり、

 失われたはずの筋力が僅かに強まり、

 岩肌に誤って身体をぶつけても問題ない程度に頑強になり、

 ほんの少しだけ、周囲から取り込める瘴気の量が増えて、快適になった。

 

 それは小さな小さな違和感で、微かな変化だ。

 しかし繰り返し積み上げてゆくことで、これから大きな変化へと至るかもしれない。

 

 レヴィはその可能性については少しも考えてはいなかったが、彼女の退屈な習慣は確かに、地道な努力として積み重ねられていくのだった。

 

 

 

 



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死体を踏みつけて

 

 リチャードは木彫りの途中で作業を中断し、坑道の外に出た。

 向かう先はスケルトンハウンドの吠え声が響く場所。足場の悪い道をステッキを使いつつ進めば、数時間程度でたどり着けた。

 

 崩れた大階層の地盤が小高い崖となるそこは、見晴らしが良い。

 リチャードは眼下に広がる景色の中に、絶えず蠢く白い群れを見つけた。

 

 群れ、襲いかかるスケルトンハウンド。

 そして、対するは盾と剣を構えたスケルトンソルジャー。

 スケルトンソルジャーは見事な動きで相手の攻撃をいなしつつ、堅実な退却戦を繰り広げている。

 荒れた足場を利用して多対一を避け、攻撃の際には仕留めを焦らず、牽制に重きを置いている。

 

 盾の使いこなしを見て、リチャードはすぐさまそれが王国騎士団のものであることを看破した。

 

 王国に敵対するものから民を守る、バビロニアの誇り高き兵士。

 しかしその実態は塔の外に送り出される侵略の戦士であり、守る為の盾ではなく、攻める為の剣であった。

 

 リチャードも執刀団にいた頃は、彼ら騎士団と行動を共にすることは多かった。

 彼らは身なりこそ常に白銀に煌めいていたが、団に所属する者のほとんどは平民か貧民あがりの粗暴な男たちである。バビロニアが塔の外の危険地域に送り出す者は一部を除けばほとんどが貧しい者たちばかりで、それは騎士団であっても例外はなかった。

 それでも騎士団という名が、白銀の鎧の誇りが、出世への微かな希望が、粗暴な男達を辛うじて騎士団として纏めている。

 多くの騎士は夢を見ながら死んでゆく。塔の墓地にすら帰ることなく、戦場に遺棄された。

 

 そしてリチャードは、そうした無念の騎士のアンデッドを、何体も討伐したことがある。

 晩年、執刀団団長のデイビットは語っていた。

 

 “俺たちが治してやらなくても、連中は勝手に起き上がって戦い続けるんだからやるせねえよな。不死者になって戦ったところで、名誉は得られないってのによ。”

 

 

 

 リチャードは工房に戻り、再び木彫りと向き合っていた。

 思い出すのは執刀団にいた頃の日々と、そこで出会った騎士団の顔ぶれだ。

 

 騎士団の多くは死ぬ。

 死んでもほとんどの遺体は回収されない。

 死して屍となり戦い続ける。それもまた良い事とされていた。遺体を塔に運び上げるのは金がかかり、集団埋葬地に入れることにも金がかかったからだ。なので貧乏な騎士達のほとんどは死体を戦場に置き去りにされることを望んだ。そう自ら望む事が騎士道である。そういった風習や空気は、数百年前より完成されていた。

 

 しかしリチャードは知っている。

 死んだとしても故郷に帰りたいと語った、男たちの泣き姿を。

 終末治療に当たっていた自分になけなしの金を握らせ、故郷での埋葬を願った余命幾ばくもない若者たちを。

 

 死して尚、騎士たらん。

 だが、そうは思わない騎士もいる。

 

 スケルトンハウンドの群れに立ち向かうあのスケルトンソルジャーは、防戦を繰り返していた。

 自我の稀薄なアンデッドだ。無意識的なものであろう。

 だがその無意識は、アンデッドの何気ない行動に表出する。

 

 その剣技は長年の研鑽。その専守防衛は微かに残された理念。

 強く、しかし盲目的な勇猛さに縋ることのない柔軟な騎士。

 

 カイトシールドに描かれていた塔の数は旗なしの三。

 それは、副団長に匹敵する手練れの騎士の証であった。

 

 “……騒々しい”

 

 戦闘音もさることながら、遠くから甲高い歌声まで響いてくるのが不愉快だったので、リチャードは早々に場を後にした。

 

 

 

 きめの細かい泥岩が見つかり、ノミのいくつかは切れ味を取り戻すことができた。質の良い刃物は、何年後でもその本来の切れ味を取り戻せる。

 鋭い刃は木材を美しく削ることを可能にし、リチャードの彫刻の幅を大きく広げた。

 

 石材では表現できなかった緻密な細かさを再現できる。

 毛皮を、布地を、老いた肌を、歴史を語る目元の皺を。

 

 やがて作業も終盤に近づくと、通りかかったレヴィがその作業をじっと見るようになり、同じようにしてパトレイシアも引き込まれた。

 小さく削り、羽根箒で木屑を払う地道な繰り返し。だがそれによって生み出されるものは、どうしてかアンデッドたちの目を惹きつけてやまない。

 

 仕上がった作品は、騎士の像。

 歳の若い騎士であり、階級も低い。男はボロボロになった装備を着込み、俯いていた。

 彼は足場の悪い場所に立っているように見える。だが、目を凝らせばそれは足場ではなく、人であることがわかる。

 

 若き騎士は、アンデッドと化したかつての仲間を踏み砕いていた。

 階級は高い。それが若者とどのような関係なのかはわからない。

 事実なのは、それが騎士の実態であるということだろう。

 

 

 製作再開歴13年、リチャード作。

 

 “遠征”。

 

 

 

『……リチャードさんは昔、塔の外で軍として活動していたことがあります』

 

 仕上がった木彫を見ながら、パトレイシアが語る。

 リチャードはこの場にいない。彼は作品を仕上げると後は興味を無くしたように出て行き、今はまた別の何かを削っているらしい。

 音からして、罠の増強を図っているようだった。

 

『騎士は煌びやかに見えるでしょうが……実態は過酷なものだそうですよ。終わらない戦い、どこまでも続く戦線……塔の外の世界は、恐ろしいのです』

 

 パトレイシアは目の前の木彫を見て感じ入るものがあったようだが、レヴィは不思議そうに首を捻っている。

 塔の外や騎士のあり方は、彼女にはあまり伝わらなかったようだ。

 

『ふふ、難しい話をしてしまいました。ごめんなさいね、レヴィさん』

「……ううん」

 

 レヴィにとって騎士とは遠い世界の存在であり、身近にあったこともない、空想上に近い職業であった。

 あるいはそうした貧民と距離を置くことこそが、長年に渡って騎士団の幻想を下層民に見せていたのかもしれない。

 

『削られて重さは減ったでしょうが……レヴィさん、持てますか? 無理なら運び込んで来たように……』

「大丈夫です」

 

 レヴィは仕上がった木彫を持ち、胸の前に抱え上げた。

 

『だ、大丈夫なのですか』

 

 あまりにも軽々と持ったものだから、パトレイシアは感心するよりは先にレヴィの身体が心配になってしまう。

 対するレヴィはどうということもなさそうに首肯する。無理をしているようには見えなかった。

 

『でしたら、良いのですが。……ふむ……』

 

 時が経つにつれ、レヴィの体力は上がっているように、パトレイシアは感じている。

 しかし自分の方は魔力もほとんど上がらず、かつて使えた魔法を取り戻せる感覚もない。

 

 アンデッドは共食いをすることで、相手の負の力を取り込める。

 レヴィは日頃から罠にかかったスカルベを仕留めているので、それによって力が増しているのではないか。パトレイシアはそんな仮説を立て始めていた。

 仮説だが、日に日にその説が有力であるような気がしてならない。

 

 アンデッドを倒せば倒すほどに強くなれる。

 だとすれば、レイスである自分もより強くなれるはずだ。

 

 しかし、強くなるためにはアンデッドを倒さなければならない。

 生前の頃ならば危険な魔物相手なので躊躇など無かっただろう。だが今は自分もアンデッドであり、アンデッドが自我を取り戻せることを知ってしまった。

 

 戦える力は欲しい。いつかそんな日が来るからだ。

 しかし、ここにいるアンデッドはかつてのバビロニアの民だ。それをどれだけ倒せば、力が得られるというのだろう。

 

 パトレイシアは苦悩することが増えた。

 

 

 

 



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ルゥジアルとルジャ

『ルゥジアル。祖国の誇りを忘れるなよ』

 

 彼の祖父はそう言い残して亡くなった。

 祖父はバビロニア出身でない他国の人間で、普段は理知的で温厚でもあったのだが、バビロニアに併呑された恨みについては人一倍根強かった。

 ルゥジアルはそんな祖父の薫陶を受け、恨み話を聞かされて育っていった。

 

『ルジャ。おじいちゃんの話はもう聞かなくていいんだ。父さんたちはもうバビロニアの人間だ。バビロニアのために生きていかなきゃいけないんだぞ』

 

 祖父が亡くなると、家の方針は変わった。

 それまでバビロニアに思うところのあった家風はなりを潜め、バビロニアに迎合する父親の意見に染まったのである。

 実際、家族としては常に息の詰まるような思いをして過ごすよりも、周囲の環境に順応した方が暮らしやすかったので、父の意見はすぐに取り入れられることとなる。

 

『それと、ルゥジアル。……ルゥジアルというのは、おじいちゃんがつけてくれた名前だがな。お前の名前はバビロニアでは少し、異国風に過ぎるのだそうだ。ただでさえ俺たちは、他よりも肌が浅黒い。その上、名前までともなると……これからお前が生きていく中で、そうした理由で風当たりが強くなるのは……俺としても、少し辛い』

 

 父の目は心底哀れんでいるようだったのを、ルゥジアルは覚えている。

 

『これから人に名乗る時は、ルジャと名乗るようにしなさい。きっとその名こそが、ルジャ。お前を悪霊から守ってくれる』

 

 こうして、ルゥジアルはルジャとして過ごすことになる。

 

 バビロニアにやってきた流民より生まれた、バビロニア生まれの子。

 この国では珍しくない、被差別民の一人であった。

 

 

 

 ルジャは騎士となった。

 父は彼を塔内の職に就かせたかったようだが、幼少の頃より祖父に鍛えられたために突出していた剣術の腕前が、ルジャを自然と戦いの道へと誘った。

 家族はルジャの身を心配したが、若きルジャは白銀の鎧に憧れていたので、喜んで騎士の道へと進んで行く。

 その道は彼が思っていた以上に険しいものだったが、それ以上に恵まれた技術と培われた能力が、彼を幾多の戦場から帰還させ、栄誉を授けた。

 

 ルジャが騎士団の副団長となっても危険な任務は続いたが、一歩一歩と前に、上に進んでいる実感はあった。

 狂王の下では時に胸糞悪い任務を命じられることもあったが、自分の名前のように受け入れてしまえば嚙み殺すことはできる。不満はあるが。

 だから、そうしてのらりくらりとやり続けていくはずだったのだ。

 

 時に妥協し、時に歯を食いしばって。

 その先に僅かずつの成功があれば、ルジャはいくらでも苦労を受け入れられたのだ。

 

 

 

「カッ」

 

 スケルトンソルジャーの鉄剣が、襲い来るスケルトンハウンドの喉を貫いた。

 細かな骨片が飛び散り、辺りから気配が消える。

 束の間の戦いは終結した。

 スケルトンソルジャーは近くに敵性存在がいないことを確認すると、再びのろのろと歩き始める。そこに意識はなく、漠然と染み付いた“巡回すべきだ”という本能があるだけだった。

 

 散発的な戦いは長く続いていた。

 彼の剣は既に切れ味を失い、盾は数多の突進を受けてひしゃげていた。

 

 剣はもはや限界で、あと数回も酷使すれば中程から折れてしまうだろう。

 盾はまだ持ち堪えるだろうが、剣無くしてはそれも飾りでしかない。

 

 それでも、スケルトンソルジャーは戦いをやめようとはしない。

 アンデッドの性質が、襲い来るものを迎撃しろと囁いている。

 囁かれるがままに従い、戦う。それこそが戦士。それこそが兵士なのだと。

 

「……」

 

 スケルトンソルジャーは巡回の最中、奇妙なオブジェに遭遇した。

 襲いかからないので敵ではない。殺すべき生者でもない。

 気にかけるべき存在ではないはずだったが、それでもスケルトンソルジャーは足を止めた。

 

 かつての仲間に剣を突き立てる、騎士の木彫を前にして。

 

 

 

 ルジャは明るく、人当たりもよかった。それが彼の処世術だった。

 彼は肌が浅黒かったので、寡黙なだけでは肌の印象だけを相手に与えてしまうことを知っていた。だからこそ、彼は積極的に人と話し、絆を結んだ。

 とはいえそんな社交性も元来あったもののようで、苦労した覚えはない。ただ漠然とそうすべきだろうという考えでやっていたことだったので、腹黒い計算もなかった。

 

 だからルジャは騎士団の中でも特に人望が厚かったし、多くの者から好かれていた。

 ルジャも気の良い仲間たちとの時間を好んでいたので、遠征では長い時を彼らと過ごすうちに、次第に家族に近い関係を育んでいった。

 

 だからこそ、仲間の死は人一倍辛かった。

 闇の眷属に襲われた際、仲間が五人死んだ。いずれもルジャにとっては弟のような男たちで、頭はよくなかったが楽しい者達だった。

 

 闇の眷属に襲われ死んだ人間は、ほとんどがアンデッドとなって蘇り、生者に襲いかかるのだという。

 アンデッドそのものとは何度も戦ってきたので、ルジャにもわかる。

 しかし、見知った連中がアンデッドになることなどは、想像したことさえなかった。

 

『ルジャ』

『……嘘だろ?』

『いいか。辛くとも、やらなければならないんだ』

 

 率先して動いたのは、団長のラハンだった。

 彼はいつも以上に強張った顔のまま大剣を握り、かつての仲間の遺体の側に立ち、構えている。

 

『誰かがやらなければ、ならないことなんだ』

『やめ……!』

 

 

 

 それが雨の日の記憶。

 塔の外の過酷さを知った遠征の出来事。

 初めて人を斬り殺してから久々に吐いた、憂鬱な日のあらまし。

 

「……死んじまったのか」

 

 スケルトンソルジャーは、仲間に剣を突き立てる男の無感情な目を見ながら、ぽつりと呟いた。

 木彫は語らず、スケルトンソルジャーを見ようともしない。だがその作品はどうにも自分に、何かを伝えたがっているような気がしてならなかった。

 

「……」

 

 スケルトンソルジャーは自身の身体を見下ろし、両手に握った装備を他人事のように眺め、特に慌てるようなこともなく……ただただ、悟った。

 

 己の死。バビロニアが崩壊したあの日。

 逃げようとした自分は崩落に巻き込まれ、驚く間に死んだ。

 祈る間も無く、抗う暇もない。理不尽で唐突な、ただただ無味乾燥な死であった。自分の最期は仲間に介錯されるか魔物に食い殺されるものかと思っていたので、場違いな思いではあったが、落胆を隠せない。

 

「バビロニアと運命を共にするって柄でもなかったんだけどな」

 

 彼はバビロニアに迎合したが、特別好きな国というわけでもない。

 ただ生まれた場所だったからバビロニアにいるだけだし、生きていく上で向いていたから騎士団に入ったのだ。

 

 バビロニアには恨みも恩も感じていない。祖父の薫陶も時折受けた差別も、彼はそれほど引きずっていない。

 だというのにバビロニアの崩壊などというものに巻き込まれ、死んでしまった。巻き込みやがってという文句もあるし、自分なんかを巻き込んでもなという呑気な思いが綯い交ぜになっている。

 

「……誰か、仲間がいれば殺してもらうってのが、騎士団の常道ではあるんだけどな……」

 

 木彫の近くには、文字の書かれた木片が落ちていた。

 綺麗な文字が刻まれたそれは、周囲の瓦礫を見ても特に真新しい。

 

 “杭を辿った坑道にて待つ”

 

 見回せば近くには斜めに不恰好に生えた杭が打ち込まれており、それは遠目の間隔で、点々と続いているようだった。

 

「……殺してもらえる感じでもねえのかな、これは。……まぁ、死にたくはねえから、良いんだけどよ」

 

 スケルトンソルジャーのルジャは杭を辿ろうと歩き出し、その去り際、一度だけ木彫を見直した。

 

「……悪趣味すぎるだろ、これ」

 

 ルジャは以前酒場で聞いたことのある死体ばかりをモチーフにした悪趣味な芸術家の噂話を思い出しながら、杭の目印を追って歩き始めたのであった。

 

 



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通りすがりの主犯

 

 木彫より続く目印の杭は、時折不恰好に傾きながらも、しっかりとルジャの歩みを導いていた。

 道中、ルジャは遠目に見えるバビロニアの斜塔を見上げてうめき声を上げたり、物陰から現れたスケルトンに驚いたりもしたが、これといったトラブルに見舞われることはなかった。

 

「……まさか、この距離でアンデッドと出くわしても敵対してこねえとは……俺、本当にアンデッドになっちまったんだな」

 

 かつて不倶戴天の種族であったアンデッドと遭遇しても襲われない。

 人間ならばジワジワと肺を蝕むであろう辺りの瘴気を心地良く感じる。

 どれだけ歩いても疲労や飢えに苛まれない。

 

 まだルジャは己がアンデッドになったことを自覚して数時間ほどしか経っていなかったが、自身の異常性を理解しある程度咀嚼するには充分であった。

 

「ここは……」

 

 やがてルジャは壁面付近までやってくると、足場の悪い丘を登り始めた。

 道しるべの杭は続き、ぽっかりと空いた不恰好な坑道まで続いている。

 その近くは多少足場が整備されているのか、歩きやすい。誰かの手が入っているのはすぐにわかった。

 

 そして何より、道沿いに獣用らしき杭罠が仕掛けられている。

 アンデッドが罠を作る知性があるのかどうかはルジャも知らないが、話ができそうな雰囲気は感じ取れた。

 

「お……」

 

 ルジャが坑道に入ってすぐのところで、一人のアンデッドが床に穴を作っていた。

 それは罪人のローブを着込んだ白骨のアンデッドで、ハンマーとノミのようなものを使い、獣用のスネアトラップを掘っているらしかった。

 

 その作業アンデッドはわずかに声を上げたルジャをちらりと見やると、特に何も言うことも身振りをすることもせず、作業に戻る。

 ルジャはその機械的な動きに“こんなアンデッドもいるんだな”といった理解を示し、彼もまた特に言葉を交わせそうな気もしなかったので、通り過ぎていった。

 

 これが、ルジャとリチャードの初対面である。

 

 

 

「なーんだこりゃ」

 

 坑道を進んでいくと、流石に内部には杭がなかった。

 目印はなく迷路のように続く坑道であったが、内部は数多の芸術作品で満たされていた。

 しかもそのどれもが何か恐ろしい雰囲氣をまとっており、ルジャとしては気が気でない。坑道内ですれ違うゾンビやスケルトンも苦悶するような様子を見せており、そんな姿もまた不気味さに拍車をかけていた。

 

 敵対的な相手と遭遇しているわけではなかったが、行き止まりの壁面に刻まれた彫刻はルジャの本能をざわめかせる。背中を鋭いつららで抉られるような衝撃が、何度も何度も道行く先に待ち受けている。

 

 彼は自然と盾と剣を構え、そろそろと歩くようになっていた。

 

「……」

 

 ある程度進んだ先で、彼は気配を感じ取った。

 スケルトンやゾンビとも違う、どこか規則的な動き。不安定ではない、しっかりとした足音。

 それはぺたぺたと石の上を踏みながら、静かに近付きつつある。

 

 ある程度近づいたところで不意打ちしてもよかったが、敵とは限らない。なのでルジャは、盾を構えた状態で曲がり角へと身を曝け出した。

 

「わっ……!?」

 

 そこにいたのは少女のゾンビであった。

 正確にはレヴナントだが、ルジャには見分けが付いていない。

 

 それでも目の前にいるアンデッドが普通のゾンビでないことは、リアクションを見ればすぐにわかる。

 驚いた顔。尻餅をつく人間的な反応。何より、子供だ。

 

「やれやれ」

 

 盾を構えるのが馬鹿らしくなり、ルジャは体の緊張を解いた。

 しゃがみこんで、少女に目線を合わせる。

 表情などはもう作れないが、それでも声色だけはしっかりと意識して、なるべく怖がらせないように。

 

「やあ、嬢ちゃん。俺はルジャってんだ。……こんなナリしてちゃ無理かもしんねーけど、悪いモンじゃねえから安心してくれ。で……とりあえず、話だけでも聞いてもらえねえかな?」

 

 ルジャがそう訊くと、少女、レヴィは少しだけ間をあけてから頷いた。

 

 その反応を見て、ルジャはようやく話の通じる相手に出会えたと安堵した。

 実際はもっと手前に話の通じる相手がいたのだが、それに気付くのはもう少し後のことである。

 

 

 

 レヴィはルジャを伴って、いつもの広間にやってきた。

 そこには骨製の椅子と廃材で作られたテーブルが配置されており、壁面に積まれた資材や道具類などから、生活感が漂っている。

 ルジャはそれらの用途に見当がつかなかったが、人らしい営みがあることを知って大きく安堵した。

 

『ついにいらっしゃいましたか』

「うわっ」

 

 少しして、入り口から幽体アンデッドが入ってきた。パトレイシアである。

 青白く光るレイスは騎士団にとって対抗手段の少ない恐ろしい相手だったので、つい身体が強張ってしまう。

 パトレイシアは驚くルジャを見て少し意外そうにしていたが、すぐに貴族然とした笑みを浮かべた。

 

『はじめまして、新たに目覚められたお方。私はレイスのパトレイシアと申します。こちらは……既に自己紹介はしてきたかしら? 彼女は……おそらくレヴナントのレヴィさん』

「お、おう。ご丁寧な……悪いが俺に儀礼とかは期待しないでくれ。……第六征伐騎士団副団長、ルゥジアルです。……かしこまった挨拶なんてこんなもんしか知らないからな。あ、気軽にルジャって呼んでもらえると助かるよ」

『ルジャさんですね。ええ、私もただのパトレイシアです。気軽に接していただけると幸いですわ』

 

 パトレイシアはそう言うが、そのドレス姿や見るからに高貴そうな振る舞いは明らかに貴族らしいそれだ。

 とはいえ、お互いにアンデッドである。もはやかつての身分に何の価値もないことは、ここまでの道中で理解している。

 

 バビロニアは、滅んだのだ。

 

「……なあ。生き残りは、いるのかな」

 

 それは今この場で言うことだったのか。

 しかしルジャは、とにかく最初に、そう聞いておかずにはいられなかった。

 

「いや……馬鹿な質問だったな。気にしないでくれ」

 

 レヴィとパトレイシアの表情は暗い。つまりは、そういうことなのだろう。

 

 

 

 ルジャは椅子を勧められ、ひとまず話を聞かされることになった。

 バビロニアのこと。そしてこの地下のこと。

 

 死の底に陥没し、崩壊したバビロニア。

 大空洞、斜塔、坑道。様々な地形から成り、無数のアンデッドがひしめく巨大な地下空間。

 

『もはやここにバビロニアは存在しません。私はこの地下全域を……埋没殿と呼んでいます』

「……ハハッ。世界一高い塔の王国が、一気に地下になっちまったわけかい」

『ええ……古代に行われていた採鉱、取水……長年のそれらによって作られた空洞が、バビロニアを地の底に沈めた……そういうことなのでしょう』

「奴隷にやらせてたんだっけな、地下の採掘。自業自得だよな……巻き込まれた身としてはたまったもんじゃねえが」

 

 バビロニアの地下に広がる死の底は、塔で暮らす民にとって恐怖の象徴だ。死の底に絡めた怪談は子供を脅すには格好のもので、その存在自体はほぼ誰もが知っているだろう。当然、ルジャもレヴィも知っていた。

 

『地下には多くのアンデッドがいます。我々もそこに沈み込んで、瘴気に蝕まれアンデッドと化しました。こうなった以上、私達は現状を受け入れる他ありません。納得がいかなくとも、理不尽でも』

「まぁ、そうだな」

『受け入れてしまえば、アンデッドは寝食も要らないので気楽ではあるのですが……現在、そう呑気にしていられない事情がありまして。実を言うと、ルジャさんに覚醒していただいたのもそれに絡んでいるのですが』

「おいおいちょっと待ってくれよ。覚醒ってのはなんなんだ? 言われてみればアンデッドの俺らがこうして人間らしく話しているのも変な話だよな」

『ええ、ですのでそれについて、できればご本人から説明があればいいのですが……』

 

 パトレイシアはいつのまにか部屋に入り込んできたリチャードを横目に見る。

 彼は無言で部屋に入ってきては、いくつかの木片を部屋の片隅に放り投げる。そして代わりに道具の何本かを手にするとさっさと出て行ってしまった。

 

『……きっと駄目そうなので、私の方から説明させていただきますね』

「お、おう? そうか……」

 

 こうして、ルジャは坑道に棲むアンデッドの一員となったのである。

 

 

 

 



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第4章 グールのベーグル
暗い鍋の片隅で


「陽の下で生きるなど、なんと恐ろしいことでございましょうか。なぜ自らその身を炎に晒すのですか?」
 ――遮光神タバカニオル


 

 スケルトンソルジャーのルジャは、極めて優秀な剣士であった。

 

 当初手にしていた剣は既に限界で、新たな装備に取り替える必要はあったが、そこからはまさに鬼神の如くである。

 彼は坑道付近にやってきたスケルトンハウンドたちを素早く斬り伏せ、盾で叩き壊す。その動きは覚醒前よりもずっと機敏かつ正確で、二体以上のスケルトンハウンドを相手にしても一切の傷を負わない程であった。

 

「よせよ。骨だけで重さのない連中だぜ? 牙や爪が鋭かろうが、盾持ちの俺が負けるわけないじゃんかよ」

 

 パトレイシアとレヴィに褒められた際、彼はそう言って照れ臭そうにしていた。

 特にレヴィは心の底から尊敬の眼差しを送ってくるものだから、ルジャとしては満更でもない様子である。

 

 こうして、スケルトンハウンドの脅威は排除されたのだった。

 もちろん全てのスケルトンハウンドを討伐できたわけではないし、まだ敵対的となり得るアンデッドたちは死の底に多く彷徨っている。

 今後も度々、ルジャの剣技が必要とされる場面は出てくるだろう。

 しかしひとまずのところは、リチャードが遠吠えの煩わしさから解放されたので、区切りがついた形と言えるだろうか。

 

「それにしても、まさかこの罪人のローブを着たリッチが、恐ろしい彫刻の数々を作った本人だったとはな……」

 

 部屋の片隅で剣を研ぐリチャードを横目に、ルジャは複雑そうな視線を送っている。既に眼球は無かったが。

 

『死想の彫刻家リチャード。この方の作品無くして、私達の覚醒は成りませんでした。……まあ、こうした姿を見ると意外に思われるかもしれませんが』

 

 リチャードはルジャと言葉を交わしていない。未だ寡黙に、己の作業と向き合うばかりである。

 明るい調子で話しかけようと、全くの無反応なのだ。人の良さと話術でこれまで人間関係を円滑に築き上げてきたルジャにとっては、まさに異世界の存在であった。

 

 何度かコミュニケーションを試みても無視され続けたので落ち込んでいた彼だったが、ある日坑道内で剣を佩いて歩いていると、急にリチャードに剣を奪われたことがあった。

 そのままどこか怒った様子のリチャードはルジャの剣を研ぎ直し、素晴らしい切れ味に仕上がったそれを突き返し、去っていった。

 一連の行動の間ルジャは呆気に取られていたが、今思い返してみてもよくわからない出来事である。

 

『職人として、切れ味の悪そうな刃物を見るのが許せなかったのでしょう。よく刃物や工具をまとめて研いでいますよ。レヴィさんの分も』

「はぁ……武器の手入れは、俺も下手じゃないはずなんだけどなぁ……」

『リチャードさんの手入れはいかがでしたか?』

「めっちゃ切れる……」

『ふふふ』

 

 無口で色々と読めないリチャードであったが、彼を含め、坑道の住民とは仲良くやれている。

 ルジャは早くも、仲間として受け入れられていたのだった。

 

 

 

 レヴィにとって、ルジャは優しく面白い大人である。

 パトレイシアが一緒にいて安らぐ、母性のあるシスターのような大人だとすれば、ルジャはより身近で、一緒にいて楽しい兄のような大人であった。

 

「おお、力持ちだなレヴィ。よーし、じゃあこっちのは俺が持ってやるよ。一緒に帰ろうか」

「う、うん。ありがとう……ございます」

「ははは、良いって良いって」

 

 レヴィは外の探索に出かける際は、ルジャも護衛につくことが多い。

 彼もスケルトンとはいえ物体に干渉できる実体があるので、荷物持ちにもなれる。これはパトレイシアにはない利点であった。

 二人掛かりであればより重く大きな材料を坑道内に運び入れることも可能なので、リチャードの作品作りの幅も意図せず広がっている。リチャードは礼も言わないし喜びも表現しなかったが、新たにルジャのための椅子を作り上げたので、レヴィはリチャードはとても喜んでいることを知っていた。

 

「……しかし本当、レヴィ。お前さん見た目の割に、力あるよな。俺と同じように物を持てるって、すげえことだぞ」

「う、うん。パトレイシアさんからも、そう言われました……」

「ああ……やっぱりか」

 

 ルジャは少し前にパトレイシアから伝えられていた話を思い出した。

 聞かされた時はあまり信じていなかったが、ここ数日の自身の変化と、何よりレヴィの変化を目の当たりにすれば、真実味は無視できないものになってくる。

 

「そうだな……一度、パトレイシアさんに言ってみるか。あの人もあの人で、最近ずっと見回りばかりだし。レヴィの兄ちゃんだっけ。その事も聞いておきたいもんな?」

「! うんっ」

 

 スケルトンハウンドの脅威をねじ伏せ、行動範囲が広がった。

 そうすることで得られる物も増えたが、同時に新たな問題も視界に入るようになったのである。

 

 

 

『なるほど……やはり、レヴィさんの力も増えていましたか』

 

 椅子とテーブルの並んだ大部屋で、アンデッド達が会議を開いている。

 この空間はすっかり、彼等の憩いの場として活用されていた。リチャードとしても話し声が響く空間が一箇所に纏まっている分には都合が良かったので、日々密かに居住性を改善しているのだが、まだ三人はそのことに気付いていない。

 

「俺の力も増えてたぜ。いつもより少し速く動けるし、剣の威力も上がった。筋肉なんて無いのに、さすがにおかしな話だよな」

「お、重いものを持てるので……便利です」

『確定ですね。私たちは他のアンデッドを倒すことによって力を増しているのでしょう。レヴィさんは罠にかかったスカルベを、ルジャさんは坑道周辺のスケルトンハウンドを倒すことによって力を増しているのだと思います』

 

 ある種のアンデッドは同族を斃し、負の力を奪う。そうして強大になったアンデッドが群れを率い、大きな災いを齎す。バビロニアの周辺諸国でも長年煩わされていた問題であり、古戦場では強大なアンデッドが徘徊するのも珍しくは無い。

 二人の強化は、そうした現象の一環なのであろう。パトレイシアはそう結論付けた。

 

「じゃあなんだ、これからもアンデッドを討伐していけば、より強くなれるってわけか」

「……」

 

 レヴィは押し黙った。何かに気付いたのだろう。

 

『ええ、ルジャさんの言う通りです。……しかし、ルジャさん。力のために人由来のアンデッドを、貴方は倒せますか?』

「何言ってるんだ? そんなの……」

 

 当たり前のことである。少なくとも、ルジャが騎士団にいた頃はそうだった。

 しかし今ここにいるのは自分を含め、眠りから目覚めたアンデッドたちであり、外を彷徨い歩いているのもまた、かつての自分と変わらないアンデッドなのだ。

 

 彼等もまた、自分と同じように目覚めるかもしれない。

 そんな存在を、力のために斃せるのか? 

 

「お兄ちゃん……」

 

 もしかすると、そこには自分の大切な人が混ざっているかもしれないのに。

 

「……そうだな。無闇に倒すのはダメだ。やるとしても動物や魔物系。そうすべきなんだな? パトレイシアさん」

『はい……今のところは、そう考えています』

 

 今のところは。その言葉にルジャは引っ掛かりを覚えたが、近くにはレヴィもいたので深く追及はしなかった。

 

『……ですが、ご存知の通り。この埋没殿には心なくアンデッドを倒して回る存在がいます』

「ああ……例のグリムリーパーか」

『はい。彼を始めとするそうした凶暴なアンデッドを放置することは、非常に危険です。私達が望む望まないに関わらず、いつかは……あのグリムリーパーと闘うことも覚悟しなければならないでしょう』

 

 レヴィやパトレイシアと共に探索した際、ルジャも件のグリムリーパーを遠目に見たことがある。

 それは親衛隊の服を纏った白骨死体であり。折れ曲がった長剣を武器としていた。だがその外見的な特徴以上に……グリムリーパーは凶暴で、凶悪であった。

 

 見境なくアンデッドたちを狩り殺しては、可笑しそうにケタケタと笑っている。虐殺を楽しんでいるかのような反応は、見ていて気持ちのいいものではない。

 たとえあのアンデッドが正気を取り戻したところで、友好的な関係を築けるとは思えない。そう直感的に悟らせるほどの禍々しさを放っていたのだ。

 そしてグリムリーパーは虐殺を繰り返すごとに、どんどん動きを速く、力強いものへと昇華させている。

 このまま彼の虐殺を許しては、遠からず手に負えない怪物となって牙を剥くことになるだろう。

 

 パトレイシアはそれに対抗するため、最終手段として自分たちを強くする必要があるかもしれない。そう考えていた。

 全てのアンデッドがグリムリーパーに狩り殺されるくらいなら、こちらから……。まだ口には出さないが、密かに抱えている最終手段である。ルジャはなんとなくそれを察していたが、やはり気は進まないので、口には出さなかった。

 

『……ああ、そうでした。他にも皆さんに伝えておくべきことがあったのです』

 

 淀んだ流れを変えるように、パトレイシアは別の話題を切り出した。

 

『私も魔物に詳しいわけではありません。一度、ルジャさんに見てもらう必要があるのですが……見回っている時に、奇妙な死体を発見したのです』

「奇妙な死体? ってのは、なんなんだい」

「みんな死体……」

 

 レヴィの言葉にクスリと微笑んで、しかしパトレイシアはすぐに真面目な顔を作った。

 

『ここから離れた外周部で、スケルトロールの死骸を発見しました。……バビロニアやその近郊に生息していなかったはずの、巨人種のアンデッドです。奇妙だとは思われませんか』

 

 

 



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蚯蚓の腹

 

 スケルトロールは、人間よりも大きな体躯を持つ魔物を由来とするアンデッドである。

 巨人種と呼ばれる幾つかの魔物は太く頑強な骨格を持ち、そのため死後も遺骸が残りやすく、比較的発生しやすい種族である。

 人間から発生するスケルトンよりも単純に大きいため、比較した場合の力は強い。しかし行動原理はスケルトン以上に簡素であり、簡単な罠や陽動で動きを制限できるために脅威度はさほどでもない。

 骨系のアンデッドに共通することだが、ゾンビなど肉体を持つ不死者よりも遥かに軽く、毒も持たないため、与し易いというのが一般的な認識であろうか。

 

『こちらがそのスケルトロールです。既に破損し、死んでいますが……』

 

 パトレイシアの案内によって、坑道の不死者たちは件の場所へと足を運んできた。

 そこにはリチャードの姿もある。彼もまた、見慣れないアンデッドの存在に興味を示しているのだろう。

 

 果たして大空洞の片隅に打ち捨てられていたその骨は、間違いなくスケルトロールであるようだった。

 ルジャは遠征中に何度も戦ったことがあるし、リチャードも似たような理由で駆除に従事した経験がある。

 既に遺骸は脚と胴体部分が大きく砕け散っていたが、大きな頭蓋、長い腕の骨を見れば、それが人間よりもずっと巨大な種族であろうことは間違いない。

 

「ああ、間違いない。スケルトロールだ。死んで骨になっただけじゃあねえな。だとしたら骨の表面にこんな傷はつかねえ」

 

 骨がただの死体か、スケルトン系アンデッドかを見分ける方法は簡単である。足の骨を見れば良いだけだ。

 足の裏の骨に無数の擦り傷があれば、それは間違いなく骨系のアンデッドと言えるだろう。

 アンデッドは瘴気を取り込むことで僅かずつ自身の損耗を回復させるが、歩行のために使われる足の裏は常に多少の傷が残るので、討伐の証明とするにも広く使われていた時代もあったという。

 

「……バビロニアに、トロールを飼うような物好きがいた……ってわけじゃあねえだろうな」

『はい。仮にいたとしても……きっとその骨は、その時代のものではありません』

「……まだ真新しい、のか?」

 

 スケルトロールの死骸を検分していくうちに、それが比較的新しいものであることがわかった。

 古い骨であれば独特の劣化や年季が表面に現れるものだが、ここに散らばったものは比較的若いスケルトロールであるように見える。

 少なくとも、一年以内に発生したものであろうか。

 

「……バビロニアが崩落してから、もう何十年も経っているんだろ? なんだってここにトロールのアンデッドがいるんだ?」

「トロール……怖い……」

 

 レヴィがリチャードのローブにしがみつくが、リチャードはそれを鬱陶しそうに振りほどいた。

 どこか淋しげな顔をするレヴィをよそに、リチャードもまた辺りに散乱した骨を検分する。散らばった外側にある骨を観察したり、中央の骨をステッキで叩いたり、その地面を突いてみたりと、ルジャとは異なる作法で調べているようだった。

 

「リチャードさん。何かわかったかい?」

 

 ルジャに訊かれ、リチャードは迷わず指を立てた。

 しかし口の前に立てるいつもの“うるさい”とは違う。彼の指は、真上を指し示しているようだ。

 

『……はい。リチャードさんの仰るとおり、スケルトロールは上から落下してきたものと思われます』

「上……ああ。滑落して、それでこんなに派手に砕け散ったのか。足を滑らせでもしたのかねぇ。でっけえ穴だろうに、間抜けな奴だ」

 

 ここは大空洞の壁際だ。真上は穴の縁であり、そこから滑落したと考えれば、骨が散乱するのも無理はない。

 足や腰から落下し、砕けた。パトレイシアもリチャードも、そのような予想を立てている。

 

『スケルトロールは知能が高いアンデッドではありません。なので、不意の滑落で死ぬことはあるでしょう。ですが、少々おかしいとは思いませんか』

「……どういうことですか?」

「何かおかしいのか?」

『はい。死の底を始めとする埋没殿には瘴気が満ちているので、アンデッドが生まれてくるのは当然です。しかし大空洞の上、地上の世界では瘴気もそれほどではないはず。スケルトロールが発生し得ないとは言い切れませんが、生まれにくい環境ではあるはずなのです』

 

 パトレイシアは青白い指先で、近くの壁面を指し示した。

 そこには縦に変色した水痕があり、ずっと上まで続いている。

 

『……私の仮説はこうです。洞窟に棲んでいたトロールが死に、アンデッドとなり、洞窟と繋がっていた坑道を通り……ここへ落ちた』

「坑道だって?」

『この壁面の水痕を見るに、壁の上には大きな穴が空いているのでしょう。それも、水が流れるような穴です。そう……降った雨が内部を通り、ここまで至るような』

「……! この上にある穴が、地上へ繋がっているってことか!?」

 

 ルジャは目をこらし、壁面の上部を見上げた。

 しかし上は濃い瘴気に覆われ、はっきりとは見えない。

 だが壁を伝う色濃い水の軌跡はそこに刻まれている。鉱物による影響か、赤っぽい変色も見られる。ただ外から流れ込んできた水と考えるには、少し奇妙だ。

 

『仮説です。私の浮遊でも、上の様子を見ることはできません。……ドラゴンを刺激するわけにもいかなかったので。しかし、この上に地上へと至る坑道が存在する可能性は高いと考えています』

「……上手くいけば、その入口から外に出られる……か?」

 

 崩落した地底から、ツルハシ一本で地上までの道を掘り抜く。それはとても現実的ではない話なので、ルジャは極力脱出を考えないようにしていた。

 しかし、途中に出口があるならばどうだろうか。上手く足場を組むなり、そこまでのはしごをかけるなりすればあるいは。

 

「……外、出られるの?」

 

 レヴィはいつもと同じ曇天を見上げ、呟いた。

 

 彼らは皆、アンデッドだ。

 瘴気で満ちたこの地下世界は居心地が良いし、負の力が途切れることもないので衰弱死することもない。

 

 だが、人間だった頃に培われた価値観が。自然や人との関わりの記憶が。

 彼らをどうしようもなく、地上の世界に惹きつけてやまない。

 

『……脱出も、容易ではないでしょう。仮に脱出口が壁面上部にあったとして、ドラゴンの妨害が予想されます。大空洞のほぼ中央上部に居座るドラゴンがブレスを吹き付ければ、たとえ距離があったとしてもその影響は無視できません』

「足場を組んでも落とされちまうな……クソッ、眇の狂王め。ドラゴンなんぞペットにしやがって」

 

 狂王ノールが囚えたドラゴンをペットとして飼っているという話は有名であった。

 時折バビロニアに轟く竜の鳴き声は、多くの民を震えさせたものである。

 

「……とにかく、外からのお客さんがくるかもしれねえ。そう考えておけってことだよな? パトレイシアさん」

『はい。埋没殿は常に閉鎖され続けているだけではない……去る者はいないかわりに、来る者はいる。そう考えておくべきでしょう。』

 

 今はまだ、スケルトロールの死体で済んでいる。

 しかし、他のアンデッドが生きたままやってくることもあるだろう。

 

 あるいは、アンデッドではない生者が訪れることも……。

 

 

 

 

 

 

 

「ここが“成功の財宝窟”か……皆、マスクは外すなよ」

「わかってますって、隊長。ちゃんと中にハーブも詰めてありますよ」

「スケルトンもゾンビも取る必要はない。お宝だけいただいたら、サクッと退散しましょうや」

 

 地下に埋没し、世界図から消え去ったバビロニア。

 

 長大なる地底の迷神ミミルドルスは、地底で死せる者を食らうという。

 

「モルドの恵みに感謝して」

「感謝して。……さ、出発しましょう」

「おっしゃー、掘るぜェー」

 

 地下に横たわる無限の蚯蚓は、己の体内に異なる土の世界を持っている。

 

 そこは土の中に置き去りにされ、葬られた者たちが集まる場所。

 

 埋没殿の不死者は未だ知らない。

 自分たちが既に、バビロニアの存在しなかった異世界に迷い込んでいることを。

 

 

 



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象牙の小さな塔

 レヴィは空を見上げていた。

 分厚い瘴気の層に阻まれ、何も見えない大空洞の遥か上部。

 

 そこに青空はなく、太陽も見えない。

 しかし時間の経過とともに明暗は移ろい、時には雨も降る。

 つまりその果てには、空や太陽が存在するのだ。

 

 レヴィは塔から出たことはないし、貧民街の外の世界も知らない。

 だがバビロニアの下層は幅広く作られており、その全てが天井に覆われているわけでもない。空を見る機会は度々あった。

 

 貧民街に楽しい思い出はほとんどない。

 それでも、レヴィは見知らぬ世界を恋しく思い始めていた。

 地底の暮らしの中でさまざまな創作物やバビロニアの痕跡を見ていくうちに、人らしい刺激を受けたのだろう。

 

 彼女は既に死んでいる。

 しかしその精神は、決して幼い子供のままというわけではない。

 

 

 

 リチャードは骨製の椅子に腰掛け、瞑想していた。

 そうして、もう三日にもなるだろうか。

 置物のように静かな彼だが、眠っているわけではなく、意識は常にはっきりしている。

 

 彼が向き合っているのは、壁に立てかけられた一本の大きな象牙だ。

 なんらかの象の魔物から採取されたものであろう。長さは4メートルほどで、重さは大人二人分近くあるように思われた。

 

 それはかつて上層部で暮らしていた貴族のものらしく、表面の皮は可能な限り削った上で、内部の滑らかな白は宝石のように磨かれていた。

 リチャードはその牙を持っていた魔物がどれほどの大きさかは知らなかったが、少なくともベヒーモスに近い巨躯であったのだろうと予想している。

 

 象牙を見つけたのは空から哨戒を続けていたパトレイシアだった。

 それを聞いたレヴィとルジャが現地に赴き、二人で協力して拾ってきたのである。

 

 リチャードはかつて極めて有名で、腕の良い彫刻家であったが、それでもここまで巨大な象牙を見たことはなかった。

 小さなものであれば何度も扱った経験がある。

 暖かで生物みを秘めた白色は人の骨を強く想起させたので、安直な髑髏のモチーフを表現するにはうってつけだったし、何より材料の希少性故に一個あたりの売値を高くできた。

 リチャードに商売気はなかったが、材料費を工面するためには時にそうした金策も必要だった。しかしそうした現実的な問題を差し置いても、象牙特有の木と金属の狭間にあるような彫り心地は格別であったので、妥協していたわけでもない。

 むしろこうして巨大な象牙を目の前にして、リチャードはかつてないほどに悩んでいる。

 

 象牙は太く長いほどに価値を増す。

 そして、貴族は己の財力を誇示するために、巨大な象牙ならばなるべくそのままの形で磨きあげ、彫り物を施さずにいることが多かった。

 結果として彫刻材として巨大な象牙が出回ることはなく、外皮を削っただけの状態で保管されていることが多かった。

 リチャードの目の前に立てかけられたこれも、長年死蔵されてきた逸品であったのだろう。

 

『初めて見たときは、私も驚いたものです』

 

 沈黙するリチャードの横から、青白く輝くパトレイシアがふわりと顔を出した。

 

『上層の高位貴族であっても、これほどの象牙はなかなか持っていないでしょう。話に聞いたこともありません。きっと、何代にも渡って受け継がれてきた家宝だったのかも』

 

 象牙は高所から崩落に巻き込まれたにもかかわらず、損耗はなかった。

 しかし考えてもみれば、それは巨大な魔物が己の唯一の武器として振り回し、叩きつけてきた生体素材だ。

 落下の衝撃に耐えたのはある意味で当然だったのかもしれない。

 

『……現存するのは家宝ばかり、というのはなんとも遣る瀬無い話ですが……それがバビロニアの人々を覚醒させる作品へと昇華させるならば、きっと持ち主の方も本望でしょう』

 

 パトレイシアはそう言うが、リチャードは静かに首を傾げた。

 貴族がそのような殊勝なことを言う人間ばかりでないことを、彼は知っていたからだ。

 当然元貴族であるパトレイシアもそのことは承知の上だったようで、苦笑いしている。

 

『建前ですよ、建前。亡くなった方々を悼む気持ちも嘘ではありませんが、それだけでは我々の身動きも取れませんからね。使えるものは、なんでも使っていかねばなりません』

 

 リチャードは筆談で返さなかったが、その意図を支持するように頷いた。

 

『……これからも作品に利用できそうな物品は、可能な限りこちらへ送り届けます。我々にとって、リチャードさんの作品こそが全ての鍵なのですから』

 

 口元は微笑んでいたが、パトレイシアの目は真剣そのものだ。

 言葉に秘められた決意は、相応の硬度を秘めているのだろう。

 

 埋没殿からの不死者の解放。あるいは救済。

 リチャードはそうしたパトレイシアの目標にさほど興味は持たなかったが、人間らしく高みを目指すパトレイシア自身の精神性には多少の関心があった。

 

 死しても尚、人間らしく足掻くことをやめないアンデッド。

 生前と同じものに固執する自分自身には見られない彼女の変化は、ひょっとするとリチャードの新たなテーマとなり得るかもしれなかったからだ。

 

『……それでは、私はこれにて。作業前に失礼しました』

 

 闇の底を見るようなリチャードの眼差しに、パトレイシアは不可解な寒気を覚えたのか、そのまま部屋を去っていった。

 残されたリチャードはレイスが去った際の微かな魔力の残光をぼんやりと見つめ、そしてすぐに再び象牙と向き合った。

 

 そして、また瞑想が始まる。

 

 槌の音はなく、石を砕く響きもない。

 ここ数日の坑道はとても静かで、穏やかな時間が流れていた。

 

 

 

 



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ベーグルのようなもの

 

 ルジャの哨戒は、パトレイシアと手分けをする範囲で行われている。

 

 パトレイシアの役割が持ち前の身軽さを活かした遠方への斥候だとすれば、ルジャの役割は常に近場に潜ませておく懐刀だ。

 レヴィもリチャードも戦力としておくには不安がある現状、ルジャをあまり遠くで活動させるわけにはいかない。

 スケルトンハウンドの討伐には一定の目処がついているものの、危険なアンデッドは他にも存在するのだ。

 彼の役割は、坑道付近の警備に重点が置かれていた。

 

 また、坑道付近ということで彼にはもう一つ別の、パトレイシアから提案された仕事がある。

 それこそ彼ら自我を持つアンデッドにとって重要なことであり、ルジャにとっても人間らしい尊厳を感じる、やり甲斐のある仕事であった。

 

「これで……どうだ? 効いてる……よな?」

 

 ルジャは一つの彫刻を片手に掴んだ状態で、一体のアンデッドと向き合っていた。

 相手は地底に無数に存在する普遍的なスケルトンの一体である。

 彼はそれに向けて彫刻作品を翳し、反応を窺っていた。

 

 

 一見するとそれは木製の球体であるようだが、よくよく目を凝らせば複雑に絡み合う骨の集合体であることがわかる。

 人体の様々な骨を組み合わせた不気味な球体。がっちりと組まれた骨の合間合間からは中心部が覗けるだろう。

 仄暗いそこに挟むのは、未だ生々しく体組織を残した人の顔。

 骨の檻に閉ざされた表情は、はっきりとは確認できない。

 

 製作再開歴14年、リチャード作。

 

 “集団墓地”。

 

 

「カカカカ……」

 

 作品を翳されたスケルトンは見るからに怯え、怖がっている。

 盾の代わりに作品を構えるルジャから離れるようによろめき、緩やかな瓦礫の斜面を引き返そうとしていた。

 

 ルジャがこの作品をアンデッドたちに向けてから、およそ7体目である。

 それまでのアンデッドはどうにも反応が鈍かったのだが、今こうして狙いをつけているスケルトンは特に反応が顕著であった。

 

 もしかするとこの個体であれば。

 そう思ったルジャがより積極的に作品を近づかせるのは、真っ当な心理と言えた。

 

「カ……カカカカッ!」

「うおっ!?」

 

 だが追い詰められ続けたその時、スケルトンが突然暴れ始めた。

 作品を押し付けるルジャに向かって飛びかかり、攻撃を始めたのである。

 

「なっ、なんだ!? 自我が……いや、敵対しちまってるのか!」

 

 同じアンデッドとはいえ、スケルトンやゾンビは無防備ではない。

 彼らは同族が相手でも、過度な接触や衝撃を加えれば反撃をする本能を持っていた。

 

 そのため彼らを拘束して作品の満ちる坑道内へ強引に運び込むことはできなかったし、それ故に新たなアンデッドの覚醒は困難を極めていた。

 

「くそっ……すまねえ!」

 

 ルジャは右手の鉄剣でスケルトンの頭蓋を粉砕し、討伐した。

 襲いかかってきたのはただのスケルトンで、人間だった頃は褒められた行いであっただろう。

 だが今ルジャの胸に去来するのは大きな虚しさと後味の悪さばかりで、とても成果を誇れるようなものではない。

 

 騎士として敵国の兵を討つことはいくらでもある。

 しかし、自国の民を殺した経験は、無かった。

 

「……はぁ。そうか。無理矢理作品を見せつけるのも、ダメってことかよ」

 

 どうやら作品による覚醒は、そう一筋縄にはいかないらしい。

 作品のテーマがよりその個人の心に合致し、精神を掴んでその場に留め置かない限りには、逃げられてしまう。それを無理に矯正する行いは、相手を凶暴化させる。

 長年坑道内を彷徨う自我無きアンデッドたちが目覚めないのも、似たようなことなのだろう。

 

 実験の結果は後味の悪いものに終わったが、しかし報告できることは増えた。

 ルジャは気を重くしながらも、近場に置いた盾を拾い上げ、坑道に帰還することにした。

 

 その時である。

 

「……ん? ゾンビ……か?」

 

 大空洞の壁面に沿って歩いていると、ルジャの目に一体の人型がとまった。

 それは遠くの砂礫の丘に立ち、ふらふらと両腕を前に伸ばしながら歩いているように見える。

 その仕草はよく目にするゾンビに酷似していた。

 

 だが、近づくにつれてそのゾンビが、少々奇妙なものであることに気付く。

 

「なんか……刺さってるのか?」

 

 遠くからでははっきりと見えなかったが、そのゾンビは丘の上から一歩も踏み出せていない。

 両腕を前に向け、両足もばたつかせているが、身体は少しも前進できていなかった。

 

 その頭部を長い棒状のものが貫き、壁面に縫い付けられていたが故に。

 

「うええ……なーんだこりゃ……」

 

 それは頭部を槍で貫かれ、磔にされたアンデッドであった。

 全身はぴったりと見慣れない服に覆われ、頭部も頑強な丸いマスクに包まれて顔は判別できない。

 だが顔面の中心を貫く槍がマスクのガラス部分を貫き、内部からドス黒い血で染め上げている。だというのに蠢き、低いうめき声を上げているのだ。アンデッドであることに疑いようはなかった。

 

「なんつーか……ベーグルみてえだな」

 

 頑丈であろうマスクは中央から槍に貫かれ、その衝撃で沈み込んでいる。それはまるで出来の悪いベーグルのように滑稽だった。

 

「しかし、一体誰がこんなことを? そこらのアンデッドがこんな器用な仕留め方をするとは思えねえが」

 

 見た目は滑稽だが、そのアンデッドがこうなるまでの状況がルジャには推測しきれなかった。

 武器を扱うアンデッドは数あれど、大抵は同じものを使いまわそうとする。槍で貫いたならば、引き抜いて再利用するのが普通のはずだ。

 ところがこのベーグルじみたアンデッドは、槍が突き立てられたまま放置されている。

 それはまるで身動きできないようにその場に封じられているようで、そのような処置を施すアンデッドはいない。

 

 何より。

 

「……服が、そう古いもんじゃねえよな」

 

 ベーグルが身に纏う服は、数十年の間放置されているものであるようには見えなかった。

 手袋も、長靴もそうだ。改めて観察すれば彼の顔面を貫いている槍だって、そう古びたものではない。

 

「……それに、これは」

 

 そしてルジャは、ベーグルの肩口にドス黒い傷を発見した。

 犬歯が深く突き刺さった特徴的な噛み跡。狼とも違う、小さな口による痕跡。

 

「……ヴァンパイアだ」

 

 埋没殿の片隅に捨て置かれた串刺しのアンデッド。

 それはただのゾンビではない。レヴナントでもない。

 

 彼はヴァンパイアに噛まれ、眷属とされたグールだったのだ。

 

 



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地下世界の敵と味方

 

『全身を覆い尽くし、外気に触れさせない……防護服、なのだと思われます』

「やっぱりそうか」

 

 明くる日、坑道の面々がベーグルのもとに集められ、全員で現場の検分と意識の共有が行われることになった。

 以前のスケルトロールの死骸も記憶には新しいが、今回はあらゆる意味で事の大きさが違う。

 それは、今まさに彼らの目の前で蠢くグールが示していた。

 

『……首元に文字が書かれています。一部の形は異なりますが、読みは……おそらく“スミス032”、でしょうか。何らかの団体か、製造番号か、チームの所属を示すものでしょうね』

 

 グールは青白く光るパトレイシアに両腕を振り回すが、それが彼女を傷つけることはない。グールは幽体を傷つけるだけの魔力を持たないためだ。

 なので、パトレイシアは安全にベーグルの装備や人相を検分できた。

 

『瘴気か、それに類する過酷な環境内で活動するための装備なのだと思います。しかし、肩の咬み傷を見るに……ええ、グールにされています。間違いなく』

「やっぱりか」

 

 ルジャは無意識に剣を強く握りしめていた。

 グール。それはバビロニアでも何度か発生する脅威であったが故に。

 対して、レヴィはよくわからない風に首を傾けていた。

 

『ヴァンパイアに噛まれ、負の力を注ぎ込まれた人間はグールとなります。……レヴィさんは、ヴァンパイアはご存知ですか?』

「うん。……血を吸うの」

『はい、よくご存知ですね。……ヴァンパイアはほとんど人間と変わらない見た目を持ったアンデッドです。知能を持ち、人間と遜色なく対話できるのも特徴ですね。何よりも、他のアンデッドとは違い、独自の系譜を持つことでも知られています』

 

 ヴァンパイアはアンデッドの中では異色の存在だ。

 まず、ヴァンパイアはほとんど自然発生しない。というよりも、その発生原因が定かでない。

 一説には真祖と呼ばれる最初のヴァンパイアが死者より発現することで、そこからヴァンパイアの眷属が作り出されることにより広まるなどと言われることもある。

 他には魔法によって人間が真祖のヴァンパイアへと変貌する、などといった説や、そもそも真祖は魔物であり、人間がそれに噛まれることでヴァンパイアになるなど様々だ。

 確かな説は未だに確定していないが、間違いないのは自然発生することがほとんど見られないという点であろう。

 

『バビロニアが崩壊し、埋没殿が生まれ……人々は多数のアンデッドに成り果てました。しかし、やはりそこにはヴァンパイアの姿はほとんどありません』

「だが、ここにグールがいる。ヴァンパイアが人間を噛んだ証拠だ」

『はい。まぁ、もともとバビロニアにヴァンパイアが潜伏していた可能性もありますが……だとすれば長期間吸血できずに死に絶えているはずです。なので、このヴァンパイアは外からやってきた存在なのでしょう。そしてこのグールもまた、同じように』

 

 見慣れない真新しい防護服。

 埋没殿にいるはずのないヴァンパイアの痕跡。

 それらは間違いなく、埋没殿の外からやってきた存在であることを示していた。

 

『装備からして、埋没殿の存在を知った上で調査か……バビロニアの遺品を取りにきたのでしょう。……金品はあちこちにありますから、欲目が出るのも無理はありません』

「滅んだ大国の財宝を取り放題、か。まぁ気持ちはわかるな……だがヴァンパイアはどういうことだ?」

『……ヴァンパイアも系譜は違えど、瘴気を好みます。推論でしかありませんが、もしヴァンパイアが地下に巣食っているのだとすれば、埋没殿そのものの住環境に惹かれたのかもしれませんね』

 

 ヴァンパイアは陽の光を嫌い、瘴気を好む。

 その点、常に分厚い瘴気によって陽光が阻まれる埋没殿はヴァンパイアにとっては最高の環境だ。

 吸血対象たる人間が少ないというデメリットもあるが、こうして金目当ての訪ね人が多くいるのであれば、それも無視できるかもしれない。

 

「……ヴァンパイアって、悪い人……なんですよね?」

 

 レヴィはおそるおそる訊ねた。

 

 子供にとって、ヴァンパイアは有名な存在だ。夜闇に紛れて生者の血を啜るそれは夜更かしする子供を怖がらせるのに最適だったし、何よりバビロニアでも発生しうる事から身近な脅威として認識されていたのだった。

 

『悪い人、ですか……そうですね……』

 

 脅威である。しかし、既にアンデッドとなった自分たちにとってはどうだろうか。

 生身を持つレヴナントのレヴィですら、鮮血は通っていない。ヴァンパイアに吸血される心配はないだろう。

 ヴァンパイアに襲われる直接的な理由は無いように思われた。

 

 しかしヴァンパイアは人を襲う。現に、この防護服の人間は肩を噛まれている。

 彼は墓荒らしだ。褒められたものではない。だが人間である。

 

『……人間を襲う以上は、悪い人。かもしれませんね』

 

 結局、パトレイシアはそう答えるしかなかった。

 人間だった頃の価値観をなぞっただけの、経験の延長線上にある理念。既にアンデッドとなった自分がその結論を出すことに何の意味があるのかと自問したくなるが、レヴィの手前それは押さえ込んだ。

 

「このベーグル君は、きっと仲間の手で仕留められたんだろうな。吸血鬼に噛まれ、グールになって……んで、槍で頭を一突きって感じだな。鼻と目を巻き込んで串刺しにされ、無力化されたと判断され放置ってとこか」

 

 他にも仲間はいたのだろう。

 ベーグルは仲間の手によって現状のように縫い付けられたのは間違いない。

 そこから始末されなかったのは、仲間の温情か。憐憫か。

 

「なあリチャードさん。このベーグル君から話を聞ければ、外の話もわかると思うんだが……あー、目の潰されたアンデッドでも作品鑑賞ができたりとかは……しねえよな、うん」

 

 リチャードは無言で首を振っていた。

 視覚かそれに類するものがなければ感銘の与えようは無い。頭部を潰されたグールを呼び覚ますことは難しいだろう。

 

「……他にも人、いるのかな……」

『可能性は高いですね。会えれば地上の情報が得られるかもしれませんよ』

「……もう、死んでるのに……優しくしてもらえるかな」

 

 その言葉に思わず思考が止まる。

 

 自分たちは既にアンデッドだ。対する向こうは人間。

 意思の疎通は出来ても、果たして友好的な関係を築けるかどうか。

 

 相手は墓荒らしだ。アンデッドの王国と渡りをつけにきた親善大使ではない。

 そう考えた時、パトレイシアもルジャも、先行きは極めて辛いような気がしてならなかった。

 

 ヴァンパイアは人の血を啜り、時にグールとする。極めて危険で敵対的なアンデッドだ。

 しかしそのヴァンパイアがいなければ、ここにいるベーグルは人間としての倫理観を振るい、地底に害を及ぼしていた可能性もある。

 

 彼らの槍は滑稽なことに自らの顔に突き立てられているが、それは紛れもなく持ち込まれた類の武器である。

 

 次に彼らと出会った時、それが自分たちに向けられない保証などはどこにも存在しない。

 

 

 

 



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魅惑の黄金

 

 その大穴は、ある日突然現れた。

 

 晴れた日のことである。

 なんの前触れもなく、名もなき荒野を大きな揺れが襲ったのだ。

 

 揺れは遠く離れたモルドの集落にまで届き、被害を与えたという。

 揺れとともに天より微かに降り注ぐ土塊は、ミミルドルスが何かを呑み込んだ証と云われる。

 各地に住まう人々は、どのようなものが呑まれたのかを調べるため、一際揺れた荒野を目指した。

 

 そして人々は目にしたのである。

 誰も見たことのないような、禍々しい瘴気を放つ大穴を。

 

 多くの人は不死者の呻き声が木霊する大穴を恐れたが、スミスの隠し武器庫より瘴気除けの装備を探り当てていた冒険者の一団は、危険を承知で前人未到のそこへと挑んでいった。

 大穴を目指した冒険者たちを「命知らずの愚か者」と人々は嘲笑ったが、数日後に帰還した彼等が誇らしげに持ち帰ったそれを見て、誰もが笑うのをやめた。

 

 それは麻袋いっぱいの金貨。

 それは精巧に作られた貴金属の水差し。

 それはドワーフの剣にも劣らぬ切れ味の豪奢なナイフ。

 

 不死者に溢れる恐ろしき大穴は、金銀が眠る宝の山であったのだ。

 

 もちろん、還らぬ者もいた。最初の一度でさえ、生き残ったのは半数に満たない冒険者たちであった。

 しかし艶やかに煌めく金貨の山は、不吉な暗がりさえも黄金色に眩ませ、見えなくした。

 一生のうちに稼げないほどの財貨の輝きは人の命を軽くさせ、多くの人々を無謀な冒険へと挑ませる。

 

 やがて数年もしないうちに、人々は大穴に名前をつけた。

 

 財宝の眠る浅くも複雑な洞窟群を“成功の財宝窟”と。

 

 未だ手付かずの場所に深入りしようとして還らぬ者が後を絶たない深部を“忍耐の採掘場”と。

 

 そして、分厚い瘴気の向こう側に微かに見える、大穴の中央に鎮座する一際絢爛な神殿。

 誰も立ち入ることのできないそれを、辺りから響き続ける不死者の叫び声とあわせ、“憎しみの埋没殿”と呼んだ。

 

 

 

 多くの人間が大穴を目指した。

 一度財貨を得て戻ってきた男たちも、惹かれるように大穴へ戻った。

 

 死者の恨みが宿った金貨は人の目を曇らせる。

 醜い心を増長させ、勇み足を誘い、生者を穴へと引き込んでゆく。

 

 近隣都市は大穴を暴くための採掘準備都市として発展した。

 荒野を目指す人間を食らうため、多くの魔物もまたその付近に出没するようになった。

 ゴールドラッシュは人も人ならざる者も全てを大穴へと誘い込み、成功の財宝窟は生者と死者で溢れかえることとなる。

 

 だが財貨を巡る生者同士の骨肉の争いは止まることなく続き、やがてその争いが近隣都市内にまで広まると、アンデッドの数が増え過ぎたこともあって、成功の財宝窟を目指す者たちの足はだんだんと遠のいていった。

 より奪いやすい場所から奪う。盗掘者たちのシンプルな行動理念は危険な大穴よりも、既に財宝を掘り当てた都市の内部に向けられたのである。

 

 今や大穴を目指す人々の数は格段に減少した。

 しかし最盛期に財宝窟に乗り込んだ盗掘者に紛れ、居心地の良い瘴気に満ちたそこを住処と定めた一族がいた。

 彼等は今もなお上層の財宝窟に住み着き、時折やってくる盗掘者たちを襲っている。

 

 ヴァンパイア。

 人の血を啜り、己の眷属とする恐ろしき不死者。

 

 吸血鬼は数十日ぶりに訪れた採掘団を察知するや、血に渇いた狂気を暴走させ、暗く入り組んだ洞窟内で彼等を追い立てた。

 理性を失ったヴァンパイアの襲撃により、採掘団は壊滅。

 三人は肩と首を噛まれてグールにされ、残った二人のうちの一人も足を踏み外して埋没殿の底の染みとなった。

 

 生き残ったのはただ一人だけ。

 

 恐ろしきヴァンパイアから逃げ回るうちに大穴の底まで迷い込んだ若い採掘者。

 不死者の蠢く広大な大空洞にて、グールと成り果てたかつての仲間を槍で貫いた彼女は、己の死を悟らざるを得なかった。

 

「ミイラ取りが、なんとやらだねぇ……」

 

 食料も、水も、生きる気力も底をついた。

 数日前までは手つかずの金銀財宝が詰め込まれていた背嚢も、命にのしかかる重さを馬鹿馬鹿しく思い、全て捨ててしまった。

 

 残るものは何もない。

 

 飢えて死ぬか、不死者に殺されるか。

 彼女は死の底の片隅で、そのどちらかになるかを心の中で賭けて過ごしていた。

 

 一枚だけポケットに残しておいた呪われた金貨を弾き、表か裏を占い続ける。

 静かに死を待つだけの僅かなひと時。

 

 やがて彼女を目指すような足音が洞窟の方から響いてくる。

 手の甲に乗るコインは表を示していた。

 

「いよいよか……」

 

 武器はナイフのみ。だが、抗う気力も体力も残っていなかった。

 彼女はぼんやりと霞む眼差しを、近付いてくる小さな人影に向けていた。

 

「……ベーグルさんの知り合い?」

 

 血色の悪い不死者の少女は、蹲る採掘者の前でそう呟いた。

 

 なんじゃそりゃ。

 採掘者の意識は遠のき、やがて気を失った。

 

 

 

「……運ぼう」

 

 レヴィはそれを持ち帰ることにした。

 

 

 



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速やかな救いの手

 

 リチャードが執刀団に所属して10年ほど経った頃。

 彼はその時既に執刀団でも名高い人物として頼られ、また同じくらい恐れられていた。

 

 常に団長のデイビットの横で彼を補佐し、あらゆる苦難が待ち受ける現場にも同行する命知らず。

 弓矢や魔法が飛び交う戦場の中を無感情な顔で踏破し、死にかけの兵士を治療し、あるいは将校の遺体を回収する彼の姿は、感情など持たない人形であるかのようにも見えたという。

 

 リチャードは妻子を持たなかった。

 理由は語らず、また聞かれることもなかった。

 当時のリチャードの給金は妻子を持ち中層に家を構えることさえ難しくはなかったが、既にその時のリチャードは、己の職務を通じて惹かれるものがあったので、豊かな生活には興味がなかったのである。

 

 

 

 そんな時、団長のデイビットがある日突然、死んだ。

 なんということはない。近隣の戦場跡でいつものように不死者退治をしていたところ、あまりにも運の悪いことに首なし騎士のデュラハンに遭遇してしまったのだ。

 

 魔法を弾く強力な呪いを身に纏う、接近戦では最強とも語られるアンデッド。

 普通であれば遠目に見かけた時点で大きく避けるべきアンデッドだが、小高い丘の裏で待ち伏せていたかのように佇んでいたデュラハンの存在に、不運にも斥候は誰一人気付けなかった。

 

 不意に遭遇した代償は執刀団の半壊。

 呪いの剣を腹に突き立てられたデイビットはそれでもどうにか持ち前の聖水爆弾によってデュラハンを追い払い、それ以上の被害拡大を防いだが、呪いの剣を受けた時点で彼の死は確定していた。

 

 死の間際、彼はリチャードに語った。

 

『遺書がある。読んでおけ……』

 

 今際の際、彼が残せた言葉はそれだけだった。

 ただそれだけを地に溺れた声でどうにか吐き出して、“死なない男”とまだ呼ばれた彼は、あっけなく死んだのである。

 

 リチャードは微かに震える手で彼の脈と呼吸が消えたのを確認すると、デイビットから何度も教わった通りに、彼の頸椎を砕き、頭蓋を砕き、適切な処置をした。

 

『……なぜそんなことができるんだ』

 

 他にも生き残っていた誰かが、執刀団として模範的な行動を示したリチャードに対し、呆然と、非難するような声で呟いた。

 リチャードは言った。

 

『慣れればできる』

 

 デイビットが教えた時と同じように。

 

 

 

 

「……脚が折れてる。服越しに触ってみた感じ、腫れてるだろうな。どこかから落ちて、そのまま無茶して動いてた感じだ」

 

 坑道の中はにわかに騒々しくなっていた。

 ある日レヴィが運び込んで来た荷物が全ての原因である。

 

 それは彫刻用の素材でも不死者でもない、生きた人間。

 未だ壁際に縫い止められているベーグルと同じ防護服を着た、若い女性のようであった。

 

 突然の拾い物に、当然ながらルジャとパトレイシアは慌てた。

 生きた人間と接触できるとは、さすがの二人もほとんど予想していなかったためである。

 しかし目の前にある半死半生のそれは紛れもない本物の人間だ。

 新鮮な情報源である以上、死なせるわけにはいかない。二人はどうにか女性の救命を行おうと、慌ただしく動き回っている。

 

『水が必要です。人間は水なしでは生きてゆけません。しかし、埋没殿に溜まる水は瘴気を含んだ毒を持ち、同じく空の霧を抜けた雨も有害でしょう。……私の魔法を使えば、少量ですが水を作れます。それをどうにか飲ませたいのですが』

 

 飲み水は用意できる。

 パトレイシアは基礎的な水魔法を扱えるからだ。

 ただ、水が用意できてもそれを安全に飲ませることは難しかった。

 

「マスクを外せないのか?」

『……短時間であれば問題はないでしょう。息を止めてもらい、袋詰めした水を防護服の中に収納し、服の中で飲んでもらえば……しかし、僅かでも瘴気を吸い込んで、果たして問題ないものか……』

 

 防護服の女は弱り切っていた。

 生きてはいる。しかし呼吸は荒く意識も朦朧としており、今もこうして不死者が取り囲んでいるというのに驚いた顔のひとつも見せていない。

 そんな状態では受け答えもできず、息を止めておけとも言えない。

 弱った状態で荒くした息で瘴気を吸えばどうなるか。

 やってみないとわからないことではあるが、人の生き死にがかかっている以上、軽率な行動は難しかった。

 

「あ……」

 

 臨時的な救護室となった部屋には、いつの間にかリチャードの姿もあった。

 先程から騒がしくしていたので、坑道のどこにいても気配は伝わっていたことだろう。レヴィはそのことに気づくと少しだけばつが悪そうにしたが、リチャードは構わず防護服の女性に近づき、片膝をついた。

 

『リチャードさん……?』

 

 リチャードは防護服の生地を確認するように撫で、摘み……それだけやって、部屋を去っていった。

 

「……なぁパトレイシアさん。部屋の瘴気を一時的に追い払うことはできないのか? 炎とかで、こう」

『瘴気を……ええ、できなくはありません。炎は瘴気を変質させ、完全に消滅はできませんが大きく無害化はできます。ただ、それには部屋を可能な限り密室に近くしなければならず……何より空気が薄くなります』

「ぐ、それは、参ったな。……なんとか水を飲ませてやりたいが」

 

 女性は脱水の兆候を示していた。水筒らしきものは背中側に備え付けられていたが、既にそれも空になっている。

 何日間地下をさまよっていたのかはわからないが、彼女は既に限界だった。

 

「はぁ、はぁ……」

「お姉さん……」

 

 レヴィは渇きに喘ぐ彼女の苦しみ方を知っていた。

 その辛さも、その先に待つ死の距離もなんとなくわかっている。

 レヴィはただ手を握り、励ましてやることしかできない。

 

『あ、リチャードさん……?』

 

 そんな中、リチャードが部屋に戻ってきた。

 彼はその手に皮袋といくつかの道具を持っていた。

 リチャードはそのまま道具を女性の傍にばら撒いて座ると、すぐさま木片に文字を書き記した。

 

 

 “この皮袋に水を満たせ。”

 

『! ……わかりました。すぐに!』

 

 指示を受け、考えるよりも先にパトレイシアが動いた。

 リチャードが広げた皮袋の中に魔法で水を注ぎ込み、あっという間に満たしてゆく。

 

 水でいっぱいになった皮袋の口を窄め、僅かに水と中に残った空気を吐き出す。そうして水だけになった皮袋を、リチャードはルジャに手渡した。口をしっかりと閉じさせるようなジェスチャーをしてみせたので、ルジャは何度も頷いた。

 

 次にリチャードは木製の細い管のようなものを取り出して、袋の口に紐で取り付ける。紐をきつく縛り、袋と管を一体化させると、それはストローのついた袋のような姿になった。

 

「おおそうか、これで! ……これでどう飲ませるんだ?」

 

 ストローのついた飲み物。しかしその後がわからない。

 防護服を外せない以上はどうしようもないとルジャは考えていた。

 

 だがリチャードの手法は至って簡単だった。

 手に錐を持った彼は、女性の防護服の鎖骨あたりをブスリと刺したのだ。

 

『ええっ』

 

 すぐさまそこに管を突っ込み、先端を口元に導いてゆく。

 

「……!」

 

 女性が縋るような表情でそれを咥えたのを見るや、リチャードは手持ちから松脂のようなものを取り出して、穴の空いた防護服の隙間をペタペタと埋めてゆく。

 

「なんとまぁ……そういうやり方かぁ」

『なるほど……』

 

 穴を開けてストローを刺し、水を飲ませる。

 それは実に単純な救命措置であった。

 

「……良かった」

 

 力なく、しかし一口ずつ貪欲に水を飲み始めた女性を見て、レヴィはほっと表情を崩した。

 

 

 

 

 



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蠕動する世界

 

 朦朧とした意識が僅かずつ覚醒してゆく。

 渇きに苦しみながら死ぬ筈だった自分が、どうにかその死を免れる感覚。

 飢えは渇きと同列にされがちだが、いざ直面してみると全くの別物であると、ネリダはぼんやりと思った。

 飢えと渇きでは苦しみの早さがまるで違う。もちろん今もまだ空腹で死にそうな倦怠感を味わっているが、少なくともすぐに死ぬことはないだろう。

 

「……」

 

 自己分析している間に、ネリダはようやく自身の置かれた状況に目を向けた。

 寝ぼけていた半眼はようやく辺りを観察し、探る。

 

 仰向けに横たわるネリダのすぐそばには、少女がいた。

 

「……起きた?」

 

 少女は血色が悪かった。青ざめた肌色に、死んだ眼。血の滲む爪。

 心配そうにこちらの顔を覗き込む姿には人間味があったが、それは見るからにゾンビやグールに近い姿をしていた。

 

「……!」

 

 仕留めなければ。そう思ったが、身体は動かない。全身は鉛のように重く、上体を起こすには自分の持てる力を総動員する必要がありそうだった。

 その労力は、目の前の無力そうなアンデッドに対抗するよりもずっと困難であるように、ネリダには思われた。

 

「?」

 

 すぐさま起きるのは諦めた。しかしよく見れば、アンデッドの少女は皮袋を抱えている。それはどうやら管に繋がれ、自分の防護服と繋げられているようである。

 

「あ……水です。これ……」

 

 喋った。しかも、おそらく自分に水を与えている。

 

 アンデッドが敵対的でない? 自分を助けた? 

 ネリダは訳がわからなかったが、防護服の中から自分の口元に伸びる管を見つけ、一口飲んだ。

 

 腐ったような味はしない。極々普通の、水の味がする。

 

「……ここは?」

 

 ネリダは目の前にいるそれが無害であると仮定して、会話を試みることにした。

 グールにされた仲間を槍で仕留めた時、既に自分は地獄行きだと悟っている。

 奇想天外な状況の一つや二つ、受け入れる覚悟はできていた。

 

 

 

『ご無事でなによりです』

「仲間を……いや、グールをやったのもあんただろう。大変だったな」

 

 覚悟はできていたが、わらわらと多種多様なアンデッドたちが集まってくるとは思わなかった。

 ネリダは自分の寝台を取り囲む骨やら幽霊やらに、さすがにどう対応したものかと悩んだ。

 

「……ここは、どこなんだ?」

『ここは埋没殿。地底に沈み、滅んだバビロニアが眠る死の底です』

 

 答えたのは美しい幽霊だった。

 青白く発光する、この世のものとは思えない美貌を持つ精霊族の令嬢。

 ネリダは高貴そうな彼女に見惚れそうになったが、語られた言葉には落胆を隠せなかった。

 

「……大穴の底か」

 

 救助されたのならばあるいは地上か、とも考えたが、そう上手くはいかないらしい。

 

「あんたたちは? アンデッドだよな……」

「見ての通りだ。おっと、だがあんたに害を加えるつもりはない。だからそう緊張はしないでくれよな」

「……」

 

 ゾンビらしき少女や美しい幽霊はともかく、明らかに白骨体である男の姿は、本能的な恐怖を感じさせる。

 だからであろうか。それを分かった上で、ルジャは相手の緊張を解こうと普段以上に明るく振舞っている。

 

「俺の名前はルジャ。こっちの綺麗なお人はパトレイシアさん。んで、さっきまであんたの世話をしてたのがレヴィだ」

「……自我があるのか」

「あー、その話をすると結構長くなるというか、難しい話になってくる。ひとまず俺たちはあんたの敵じゃないってことを覚えておいてほしい」

「ああ……わかった」

 

 不死者の考えなど理解できる気がしなかったので、ネリダは素直に頷いた。

 

「私はネリダ。ドルシア採掘団の……最後の生き残りさ」

「ネリダさんな。わかった、ネリダって呼ばせてもらうよ」

「好きにしておくれ。……どうせ、私はもう長くないんだろ?」

 

 ネリダは自嘲するように笑い、自分を取り囲む不死者たちを眺めた。

 三人は顔を見合わせ、沈黙している。

 

「わかってるさ。何年もやってきたんだからね……この地下じゃ食料は絶対に見つからない。それに、このマスクに詰め込んである薬草だって、そう長く効果を発揮するわけじゃない……」

 

 ネリダはマスクの中で咳をして、ため息をつく。

 防護服のガラス越しに見える彼女の目元は、毒の影響のためか黒く変色しかけていた。

 

「水をくれたんだよね。ありがとう……私にできるお礼なんて少しもないけれど、聞きたいことがあれば言ってくれ。最近の街の馬鹿話くらいだったら、聞かせてやれるからさ」

 

 

 

 坑道のアンデッドたちは防護服の女、ネリダを救助した。

 しかしそれも一時的なものでしかない。

 埋没殿には例外なく生者の食料となり得るものが存在せず、たとえパトレイシアの水魔法で渇きを防ぐことはできても、飢えに対してはどうすることもできなかったためだ。

 そして防護服に仕込まれた解毒用の薬草フィルタもまた、効力に時間制限がある。当然ながら埋没殿にそれらの薬草は自生していない。

 アンデッドたちはそれぞれ頭を悩ませ解決法を模索していたが、彼女を助ける手立てを見つけ出すことはできなかった。

 

「ごめんなさい、お姉さん……」

「はは、お姉さんか。ありがとう、レヴィだっけ。あんた、優しいね」

 

 ネリダは自身を取り囲む不死者たちの素性など知らなかったが、彼らが悪でないことはなんとなくわかった。

 悪ならば今こうして、痛ましそうな顔を作ったりもしないだろう。

 

『……ネリダさん。いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか』

「ああ、なんでも聞いておくれ。話し相手になってくれるなら、私も嬉しいよ」

『ありがとうございます。……ネリダさんは、このバビロニアが埋没してからどれほどの時間が経っているか、ご存知でしょうか?』

「……バビロニアっていうのは? 建物か何かかい?」

『……いえ、国です。正確には巨大な塔の国です』

「ああ、そういうことか」

 

 大国であるバビロニアを知らない。そんな反応にパトレイシアとルジャは訝しんだが、ネリダは彼らが困惑する理由に思い当たるところがあった。

 

「あんたたちはひょっとすると、バビロニアって国で生きてた人たちなのかな?」

『……はい。……バビロニアが通じないとなると、一体どれほどの時間が……』

「ああ、そうじゃないんだ。多分あんたたちは思い違いをしているよ。……手っ取り早く説明すると、今あんたたちがいるこの世界は、そのバビロニアって国があった世界とは少し違うんだ」

 

 アンデッドたちは顔を見合わせて沈黙した。

 

「この世界は、モルド。生き埋めにされた奴らが、地底の巨大なミミズに呑まれてたどり着く世界。ここじゃあ場所も時間もぐねぐねと捻れてるから、元いた時代を知る相手を探すことも難しいって言われてるよ。……普通は一人や二人がぽつぽつと迷い込むもんだが、どうやらあんたたちはバビロニアっていう国ごと迷い込んできちまったらしい。珍しいもんだね」

 

 レヴィはネリダの語った話の中に、なんとなく覚えているフレーズを思い出した。

 

「地中の大きなミミズ……ミミルドルス……」

「そうだ。私は元々モルドで生まれ育ったから知ってるけど、あんたら迷い人の世界でも信仰されてた神様なんだろう?」

 

 それは大地を司る迷いの神。

 大洋を司る巨影神ノーレ・ノーストルと対をなす地中の怪物。

 

「ここはミミルドルスの腹の中さ」

 

 

 



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ネリダの言葉

 

 ネリダは仰向けに寝転んだまま、ただ会話だけを求めた。

 彼女は食事を求めず、他の要求も助命も一切口にすることはなかった。

 

「大穴ができたのは、さあどうだかね。百年も前じゃないが、私が生まれるよりは前だったのは間違いない。ある日大きな揺れが起きて、空から土くれがパラパラと降って……気がつくと荒野の真ん中には、あんたらの国が迷い込んでいたのさ」

 

 喋るごとに水を一口含み、潤す。会話をするのに不便はしなかった。

 

「最初は恐ろしい地形が生まれたと大騒ぎだったらしい。瘴気のせいで近づくことも容易じゃないんだ。魔境扱いされていたよ。……最初の命知らずが、大穴から金銀財宝を持ち帰ってくるまではね」

 

 ネリダの話によれば、大穴の付近にはいくつかの小さな出入り口があるのだという。

 アリの巣の断面のように各所に存在するその小さな穴は、古き坑道の跡なのだろうと考えられていた。

 事実、その穴もまた坑道や地下水道の名残であるのだろう。それは大穴の壁面に続くものもあれば、かなり下の方にまで続くものもある。

 

 大穴の地上付近、いわゆる“成功の財宝窟”は比較的整備されており、バビロニア時代の遺構も生きている。

 中には家族の隠れ家のような地下室もあるらしく、それはネリダたち採掘師にとって最大の目当てであった。

 

 そしてごく稀に、大穴の中層にまで続く通路が存在する。

 それは死の底に近い採掘用の坑道であり、“忍耐の地下坑道”と呼ばれていた。

 目立つ場所に金銀財宝などは見られないが、崩落の際に紛れ込んだ金目のものが手付かずで転がっている場合もある。

 ただし瘴気が強すぎるためにアンデッドも多く、採掘師にとっては忍耐の地下坑道こそが魔境であると呼ばれているらしかった。

 

「けど、それより下の……ずっと叫び声やうめき声が聞こえてくる“憎しみの埋没殿”よりは、安全だと言われていた。私はこうして、落ちちゃったけどね」

『……グールですか』

「ああ」

 

 防護服の中でネリダの顔が歪む。

 

「忍耐の地下坑道で、ヴァンパイアに出くわした。長年私らを恐れさせてきた、血に飢えた厄介な奴だった。昔調子に乗って視察に来たお貴族様か何かだと言われてるが、今となっちゃただの獣だ。瓦礫の中に潜んでいた奴は、犬のように四つ足で飛び跳ねながら、休憩中の私たちを襲撃した。ほとんどが殺されたり、噛まれたりした。……私たちは、どうすることもできずに逃げた……」

 

 武装はあった。遠くから安全にアンデッドを仕留められる長い槍だ。

 しかし近距離から突然襲われた時、その武装はあまりにも取り回しが悪く、腰のナイフを抜き放つ頃には吸血鬼の膂力が数人を屠っていた。

 

「無我夢中で逃げて、地面があるかもわからない場所へ飛び降りて、それがこのザマさ。……一緒に逃げた仲間の一人もグールになって、それで……」

 

 震える手で管を掴み、水を飲む。

 熱量はないが、腹は膨れた気がした。

 

「……あのヴァンパイアは、血に飢えている。私たちが見つけた時も、坑道のゾンビの腐った血を啜っているみたいだった。賢いヴァンパイアだとか言われてるけど、きっとあいつにはもう理性なんてない。……きっとレヴィ、あんたも見つかれば、あいつに殺されるだろうよ。気を付けなよ」

 

 不死者の血さえ啜るほどの飢え。

 レヴィはあまりにも恐ろしいヴァンパイアの姿を想像し、身震いした。

 

『地上は。地上には人の営みがあるのですか』

「ええ? ああ、そりゃあもちろんあるとも……あんたらのような喋るアンデッドなんてほとんど知らないけどね……」

『国などもあるのですか?』

「さあ、国? どうだろうね、昔は……フンボルト城だとか、色々あったっていうけど……地上に出たいのかい? パトレイシアさん、だっけね」

『はい』

 

 パトレイシアは真面目な表情で頷いた。

 

『我々はどうにか地上へ出る方法を探しています。ネリダさん、あなたやそのお仲間がやってこられたように……どこかにある坑道を使って、この埋没殿から脱出したいのです』

「……はは。石を投げ落としても音のしない、底なしと呼ばれた大穴から、地上へ、か……」

 

 ネリダは力なく笑った。

 

「……私はもう、地上へ戻れない」

『……』

「足もこんなだ。仲間も……見捨てて、殺してしまった。こんな私でも、自警団の話も来ていたのさ。でも、酒場で連中が楽しそうに大盤振る舞いするのを見て、それに憧れて……」

 

 ネリダは次第に、取り留めもない自身の半生を語り始めた。

 ぽつぽつと、繋がりなく。パトレイシアやルジャはその意味や感情的な繋がりもわからないことが多かったが、それでも口を挟まずに黙っていた。

 ネリダを取り囲む不死者には、彼女が次第に命を失いつつあることに気付いていたのである。

 

「ああ……なぁ、お願いがあるんだ。レヴィ、ほら、これを」

「……はい」

 

 ネリダは懐から一枚の金貨を取り出し、レヴィの手に握らせた。

 

「拾い物で悪いね。けど、お願い。それしかないんだ。それをあげるから……もしもあんたが地上に出ることがあれば……モルドゥナのワイアームってお人に、伝えてもらえないかな」

 

 咳き込み。

 薬草で満たされたマスクの中に血が混じり、鉄の香りが漂う。

 

「ごめんなさい、ネリダは貴方を愛してます……って……」

「……」

 

 レヴィはネリダを手を包み込むように握りしめ、頷いた。

 彼女はモルドゥナもワイアームも、それらが何を示すのかも知らなかったが、言葉だけは心に刻み込んだ。

 

「あと……私、アンデッドはやだな。もしも私が死んだら……な、お願い。綺麗に始末して、灰にしておくれよ」

「……死んじゃう」

「お願い」

 

 死んでも、埋没殿に満ちる瘴気の中にあれば骸は速やかにアンデッドになり得るだろう。

 しかしネリダはそれを望まないという。

 

「……ありがとう」

 

 ネリダは感謝の言葉を述べた。

 何に対してかとレヴィたちが振り向くと、後ろには木札を手にしたリチャードの姿があった。

 

 彼は札に簡潔な肯定の言葉を書き記し、それをネリダに見せていたのだった。

 パトレイシアはリチャードに意味ありげな目を向けている。作品の力があれば彼女を再び生かすこともできるのにと。

 だがリチャードは無言で首を横に振るだけで、取り合わなかった。

 

 血の混じった咳が続く。

 風の掠れたような呼吸が響く。

 

 不死者たちは死にゆくネリダに寄り添い、見守り続けている。

 

「……私だけ、囲まれたまま死ねるなんて……ズルいよなぁ……でも、許して……」

 

 やがてネリダは何度か咳き込み、疲れたように眠り……その最中に、呼吸することをやめた。

 

『……亡くなられました』

 

 体の表面に揺らいでいた魔力の流れが途絶えたのを、パトレイシアとリチャードだけが知覚できた。

 

 リチャードは、もう動くことのないネリダと、手をさすり続けるレヴィの背中を眺めていたが、そう時間も経たないうちにすぐさま道具を拾い上げ、部屋を去っていった。

 

 

 “意欲が湧いた”

 

 不死者になって初めて垣間見ることになった、生者の死。

 命が終わる間際の魔力の揺らぎは、彼に新たなインスピレーションを与えたのだった。

 

 



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第5章 バンシーのエバンス
花の咲かない場所


「この原石を授けましょう。磨くかどうかはあなた次第です。」
 ――技神ミス・キルン


 

 ネリダは死に、坑道から再び生者の気配が失われた。

 彼女の魂はゴーストとなることもなく、死体も遺言通りに適切な処理を施され、なけなしの燃料とともに火葬された。

 

 死体の処理は主にルジャによって行われ、その工程はレヴィに見せることはなかった。

 レヴィは燃料となる木片を集め、リチャードは見知らぬうちに石組みの竃を作り上げていた。

 

 分担作業による火葬は1日で終わり、残ったものは防護服だけという有様だ。

 

「……もう、会えないんですね」

『……はい。彼女はきっと天に召されたのでしょう』

 

 見上げれば分厚い瘴気が壁のように空を覆っている。

 焼き上げたわずかな煙は、果たしてあの暗がりの中を通り抜けられたのだろうか。

 レヴィにはどうしてもそのようなイメージが湧かず、燃え残った煤を見て俯くばかりだった。

 

 

 

「なあ、リチャードさん」

 

 ルジャはリチャードがこれから作業に戻ることを知っていた。

 彼はネリダの死後、思いついたように作業に没頭することが多かった。今日火葬用の竃を組んだのはその休憩か気晴らしなのだろう。それはわかっていたが、彼と話すならば今しかないと、ルジャはどうしてかそのように考えていた。

 

「俺、外で騎士さんをやってたからよ。仲間をアンデッドにしないように、そのな。今日みたいに頭や背骨を砕いたりすることって、結構あったんだ」

 

 リチャードは立ち止まり、相槌を打つこともなく聞いているようだった。

 

「俺、どうしてもそれが苦手でさ。副団長になってからもその仕事だけはいつも吐きそうになるんだよ。すげえ辛くてさ」

 

 ルジャは自分の手を広げてみた。

 白骨の手。傷も肉もない、不死者の手。

 

「けど今日あのネリダさんの始末をした時……俺、なんとも思わなかったんだよ」

 

 頭を砕き、背骨を折り、あるいは他のさまざまなアンデッドに転ずることを防ぐように、さまざまな加工を施す。

 それは不死者を生み出さないための洗練された技術であったが、苦手とする者は多い。

 

 だが今回、ルジャは何も感じなかった。

 単純に潰して、終わり。それだけ。それだけだったが故に、今の彼は恐怖している。

 

「リチャードさん。俺たちはやっぱり人間じゃあないんだな」

 

 その言葉にリチャードは返答しなかった。

 メモ書きを見せることもジェスチャーすることもなく、彼はただ無言で去っていった。

 

「……はは。まぁ、見りゃわかるよな」

 

 

 

 ネリダの墓は火葬に用いた竃をさらに石組みで封じ、その中に作られた。

 墓標はパトレイシア監修の下レヴィによって刻まれ、それは坑道の前にひっそりと佇んでいる。

 

 彼女のために捧げるための花は、埋没殿に存在しなかった。

 

 

 

『……ネリダさんの話から、地上に人の営みがあることが判明しました。ここがバビロニア無き世界であることには驚きましたが、それは些細なことです。むしろバビロニアに恨みを持つ周辺諸国が存在しない分、地上の進出には有利かもしれませんね』

 

 調度品の増えた坑道の会議室にて。

 パトレイシアはこれからの行動指針をより明確なものにしようと提案し、ここに皆を呼び集めた。

 リチャードは作業に没頭しているために来なかったが、それは今に始まったことではない。

 

「地上か。……ネリダさんが落ちてきたルートを使えば、少なくとも不可能は無いように思えてくるな。脚を折る程度で済む高さってえと、きっとそう難しいものでもないはずだ。で、横穴を見つけてそこから地上に出る。前まではただの推測だったが、確定したのはデカいよな」

『はい。彼女からはドラゴンの話題も出なかったので、遭遇することのないルートなのだと思います。ドラゴンゾンビをやり過ごせるならば……きっといけます。地上に』

 

 忍耐の地下坑道へと続く横穴を見つけること。

 それさえできれば、あとは道なりだ。迷ったとしても水も食料も必要のない不死者であれば、時間をかけて根気だけでクリアできるだろう。

 とはいえ新たな問題もある。

 

「ヴァンパイア……怖い、です」

「ああ……それは、悩ましいところだよな」

 

 忍耐の地下坑道には飢えたヴァンパイアが潜んでいるという。

 理性を失ったヴァンパイアは腐肉であろうと牙を突き立てる制御不可能の獣だ。アンデッド達を味方とは認識しないだろうし、何よりレヴィが襲われる可能性は高い。

 

『ヴァンパイアは極めて強力なアンデッドです。今のルジャさんでも勝てるかどうか……』

「だよなぁ。てことは、鍛えるしかないなぁ」

『はい。私はそのように考えています』

「え、マジでそうなのか」

『至って大マジですよ』

 

 坑道内に潜んでいるならば遭遇する危険性は高い。となれば、真正面から対抗することも考えなくてはならないだろう。

 

『そのために地下の不死者を討伐することも、念頭に入れるべきでしょうね。もちろん、襲いかかってくる相手や魔物の類に絞るべきではありますけど』

「……私もやります」

『はい。レヴィさんにも罠にかかったスカルベを駆除していただければ何よりです。まだ大空洞からはスケルトンハウンドの遠吠えが聞こえてきますから、警戒は大事ですよ』

 

 今の所、より多くのアンデッドを討伐しているのはルジャだ。

 既に彼の力や剣技は生前の頃に匹敵し、日々哨戒の範囲を広げている。

 レヴィもスカルベ駆除によって身体能力を上げており、より重いものを持ち上げられるようになっていた。

 パトレイシアもたまにはぐれたスケルトンハウンドに対してレッサーフレアを用いているが、攻撃のためには浮遊力を犠牲にすることもあるせいで、研鑽は極めてスローペースだった。

 リチャードは特に何もしていない。

 

「外に出たら……ネリダさんの伝言。伝えたいな……」

 

 レヴィは手の中の金貨をいじり、ぼそりと呟いた。

 

 今際の際、ネリダから託された伝言。

 その意味は誰にもわからないが、それが軽い言葉でなかったことはわかっている。

 

 もちろん地上に行くのは簡単なことではない。

 やらなければならないこと、対処すべき相手。問題は様々だ。

 それでもやるべきことは見えてきた。それは彼らにとって、確かな光だった。

 

「……よし。それじゃあいつも通り外の探索、行ってくるか!」

「わ、私もいきます!」

『私も横穴の捜索に出かけましょう。レヴィさん、お気をつけて。ルジャさん、よろしくお願いしますね』

「おう、まかせてくれ」

 

 

 



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才能の開花

 

 

 リチャードの上司であり育て親でもあった、執刀団団長デイビット。

 彼は死後、速やかにバビロニアへと送られ、団とともに帰郷した。

 執刀団は長を失ったが、それは組織の崩壊を意味しない。長が死ねばその次が成り上がり、長を継ぐために。

 

 デイビットは妻子を持っていない。遺体を出迎えたのも彼の甥らしき男で、彼としてもあまり縁は深くないらしく、無言の帰還に対して悲しみも怒りもしなかった。

 彼の葬式は親類のみで行われ、そこに執刀団の人間が招かれることはなく、当然リチャードも参列しなかった。

 

 デイビットとリチャードの関係は、死を境に切れたかに思われた。

 

 だが数ヶ月もしたある日、リチャードの下に手紙が届く。

 それはデイビットの従兄弟にあたる人物からのもので、どうやら遺書にリチャードにまつわる文言があったのだという。

 デイビットは今際の際に遺書を見ろと言ったが、いざ閲覧を希望しても遺書は親類以外は不用意に見ることができなかったので、リチャードとしてもそれは初耳であった。

 

 

 

『リチャード、職に困った時はクラウスを頼れ。遺書にはそう書いてあったのだ。実を言うと、今の今までリチャードが誰なのか分からなくてね。声をかけるのが遅くなってすまなかった』

 

 呼び出し人はクラウスという初老の男であった。

 目元にデイビットの血筋らしい怜悧さを湛えた彼は、バビロニアの共同墓地を管理する墓守であるのだという。

 

 墓場の管理はアンデッドの発生を未然に防ぐためにも重要であり、単なる店の警備人と違い素人なら誰でもなれる職ではない。

 その点リチャードはアンデッドに対する作法に精通していたし、寡黙な人柄は墓勤めをするには都合が良かった。

 

 デイビットは密かに案じていたのだろう。

 自分とともに無茶な戦場を飛び回る、優秀で寡黙なリチャードの身を。

 できることならばバビロニアの墓地で安全に。生前ならば間違っても口にする事はなかっただろう言葉であるが、リチャードはどうにも、デイビットがそのように考えていたように思えてならない。

 

 これは厚意なのだろう。

 であれば、断るのも悪いように思う。

 リチャードも特別やりがいを感じて執刀団にいたわけでもない。これを機に別の職についてみるのも良いかと考えた。

 

『そうか、やってくれるか。私も歳なので、君のような若者が来てくれるのは助かるよ』

 

 動機は軽かったが、それでもリチャードは墓守になることを決めた。

 

『仕事は色々ある。墓地の見回り、清掃、納棺、……時にはアンデッドを退治することもあるし、やむなく神官の真似事をやらされることだってある』

 

 仕事内容はそのほとんどが未知だ。

 門外漢のリチャードにとって、それらは難しいのか簡単なのかもわからない。

 

『そうだ、仕事のひとつに墓石に名を刻むというものもある。石に罫書きした通りに文字を彫ってゆくのだが……まぁこれは向き不向きがある。丁度ここに石があるから、君の才能がどれほどのものかを見せてもらえるかな』

 

 だがその日。墓守となったその日こそが、リチャードにとって大きな転換点であったことは間違いない。

 

 きっかけは些細。

 見出されたのは偶然。

 

 戯れに差し出された工具を握り、硬質な石に鏨を突き立てたその瞬間。

 リチャードは石を叩く感触に運命的な何かを察し。

 バビロニアの人々が知るところの彫刻家リチャードとしての人生が、始まったのである。

 

 

 

 

「……」

 

 リチャードは坑道の前に立ち、ネリダの墓を眺めていた。

 そこに刻まれた名は、レヴィが手ずから彫りあげたもの。

 かつてリチャードが初めて工具を使った時とは比べものにならない、不恰好な墓標であった。

 

 入念に焼かれて灰にされ、不出来な墓標を立てられ、誰が花を手向けることもない。

 その上雨の日は瘴気混じりの雨に晒されるとくれば、それはバビロニアでも最下等の集団埋葬地にも匹敵しかねない墓場である。

 

 リチャードはそんな哀れな墓の前に、一輪の白い花を横たえた。

 それは象牙の端材を削り出して作った、白い花弁。水をやらずとも決して枯れる事はなく、瘴気を浴びても萎れることのない美しい造花。

 そして、置いてみればたしかに、それが完成形である。

 

 拙くとも打ち立てられた墓標。そこに捧げられる可憐な花。

 やはり墓前には、花があるべきなのだ。たとえそれが疎遠を示す造花であろうとも。

 

 リチャードは人知れず満足そうに頷いて、墓標の凹凸に積もりかけた埃を払った。

 こうした細々とした部分が気になってしまうのが、やはり職業病の一種なのだろう。リチャードは教会がらみの死生観には興味がなかったが、死体すら見えない墓に関しては人一倍のこだわりのようなものを持っているらしかった。

 

「……」

 

 そんな中、どこかから音楽が響き渡ってきた。

 意味のある音階。音楽。

 それは大空洞のどこか遠くから響く歌声であり、数年前よりことあるごとに鳴り響く独唱であった。

 

 その歌声が響き渡ると決まって中央の塔は騒々しくなり、やがて亡者の呻きや叫び声に汚され、歌声は聞こえなくなる。

 レヴィやパトレイシアはその不思議な歌声に対して長らく興味を抱いているが、リチャードの場合は特にそのようなこともない。

 

 “うるさい”

 

 歌声だろうがなんだろうが、リチャードにとって自分の意図せぬものは全てが雑音だ。

 亡者の合唱により聞こえなくなる前の美しいらしい音色でさえ、彼にとっては煩わしいノイズでしかなかった。

 

 彼は途端に不機嫌になって、坑道内へと身を翻してゆく。

 そうして再び、工具を手にとって作業を始めるのだろう。

 

 

 

 大空洞に歌声が響く。

 

 ここ最近、その甲高い女の歌声は、大きく聞こえるようになっていた。

 

 

 



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魂の嘆き

「やっちまった」

 

 大空洞を哨戒中のルジャは、一人骨の丘の上で呟いた。

 今の彼はレヴィもパトレイシアも連れ立っていなかったが、果たしてそれは良かったのか、悪かったのか。

 

「見てる……よな? あー、見てるなこれは」

 

 彼は未踏の地を彷徨いつつ、資材のありそうな場所を見繕っていた。

 可能であればそこを坑道以外の遠征拠点とし、行動範囲を広げたくもあったからだ。

 食料も睡眠も必要とはしないルジャであったが、見つけたものを集積できる倉庫のようなものがあると何かと便利だし、敵対的なアンデッドから身を隠す手段も欲しかった。

 

 なので、今日は単独行動をしていたのだ。

 

「ケタタタタ」

 

 そんな彼の姿を、遠くから見つめるアンデッドがいた。

 鎌のように折れ曲がったロングソードを手にした、近衛服のアンデッド。

 レヴィやパトレイシアからさんざん気をつけろと言われていたグリムリーパーである。

 

「さて、参ったな」

 

 グリムリーパーはルジャの姿を認めると、ゆったりと余裕を持って歩み寄ってきた。

 右手に握った折れ曲がった剣をひらひらと見せつけながら、酔っ払いのような足取りで上機嫌そうに近付きつつある。

 走ろうとはしない。あくまでもまだゆらりと歩き、狩を楽しもうという動きだ。

 

 逃げることはできない。坑道に戻れば他の皆を危険に晒す。

 ならば立ち向かうしかないか。といえばそちらもかなり難しく、ルジャは遠目に見えるアンデッドとの勝率は低いように思えた。

 

 グリムリーパーもスケルトンソルジャーもアンデッドだが、決定的に種族が違う。

 種族とは強さの格を示す大まかな指標だ。歴戦のネズミが決して生まれたてのドラゴンには勝てないように、生まれ持つ格の差はあまりにも大きい。

 少なくともルジャはそう考えている。

 

「可能な限り引き離すかね」

 

 結果として、ルジャはゆったりとその場を離れることに決めた。

 逃げ切れるとは考えていない。ただ、少しでも坑道から距離を取ろうとはした。そうすれば自分が殺された後も、少しは坑道も安全になるかもしれなかったから。

 

「おうそうだ、こっちにこいよ」

 

 ルジャはゆっくりと歩きながら、時折盾と剣を打ち鳴らし、グリムリーパーを誘導する。

 頭の中ではいかにしてこの最凶のアンデッドと戦うかを考えているが、グリムリーパーの纏う魔力は基本的に神秘を知覚できないルジャであっても察せられるほどに濃密で、恐ろしい。

 騎士の頃の盾も持ってはいるが、それがどこまで相手の攻撃を耐えるかはわからない。

 

「それでもまあ、やってみるしかないんだが……!」

 

 障害物の多い場所までやってくると、ルジャはようやく剣士らしい構えを取った。

 グリムリーパーはそれを見てつまらなそうに一度だけ顎を鳴らすと……彼もまた剣を構えた。

 

 グリムリーパーは残虐だ。

 目の前にいるルジャを獲物としか認識していない。

 だがルジャは毅然と構え、逃げ出そうとはせず立ち向かおうと剣を取っている。

 

 グリムリーパーの楽しみは一方的な狩だ。

 決して戦士同士の崇高な決闘などではない。

 

「グカカカッ!」

 

 先に動き出したのはグリムリーパーだ。

 彼はそれまでの弛緩した動きを裏切るように、機敏に踏み込んで曲がった剣を振り切った。

 

「っぶね」

 

 ルジャは咄嗟に身を引いて避けていた。元々最初は様子見だったのだが、今の一撃は想定よりも明らかに速い。

 何より、対人に特化した剣であった。

 

「クソ、これだから憲兵は嫌いなんだ!」

 

 ぼやきながらも、盾使いながら打ち合って行く。

 しかし僅かに曲がった刀身は盾に思わぬ角度からの衝撃を与え、思うように受け流せない。

 ルジャは早くも押し込まれる形で後退を始めた。

 

 そもそも、ルジャは騎士であったがその仕事のほとんどは人外を相手とする闘いであった。

 敵国の兵たちとやりあうことも幾度かはあったが、ルジャが騎士として活躍していた頃は既に諸外国との情勢も決まりきっていたので、仕事内容は専ら魔物退治か、盗賊狩りである。

 

 対するグリムリーパーは近衛の服を着ている。

 これは国内の治安を維持するための完全な対人特化の職であり、その点において制圧力はルジャを上回る。そこにグリムリーパーとしての膂力が加われば、ルジャが最初から生存を諦めるのも無理はない。

 

 しかしそれでも。

 

「俺はな……死にたいわけじゃねえんだよッ!」

「グゴッ」

 

 脚力を乗せた前蹴りがグリムリーパーの体勢を崩し、距離を作る。

 その間にルジャは近くの高い瓦礫を引き倒し、ぶつけた。

 

 ルジャは既に死んだ。しかし二度目の死を恐れるだけの人間性はある。

 アンデッドとして堕ちた事実は外聞は良くないし教会が見れば激怒するだろうが、それでもルジャは、人生は生きてこそであると考えている。

 そのためならば騎士としてそぐわない汚い戦法だって、いくらでも使うのだ。

 

「喧嘩剣術は不得手かい? エリートさんよぉっ!」

「カカカカッ……!」

 

 ルジャは盾と剣を併用するが、周囲の障害物を使うのも上手かった。

 蹴り技は経験によって最適に飛んでくるし、投げるものは目くらましレベルではない、アンデッドに対しても効果のある悪辣なラインナップばかりだ。

 彼は純粋な剣術一本でも相当に手練れであったが、何より力を発揮するのはその総合的な戦闘力にあった。

 

「お、こいつは敵対的なやつか! よしきた、いけ!」

「グモォオオ」

 

 専守防衛。防御に徹し、撤退を続ける。

 その最中に見つけたものはたとえアンデッドであっても利用する。

 崩れた階段の遺構を昇り立つ、バーサクゾンビを押し倒してぶつける。

 グリムリーパーにはそれさえ一刀の下に斬り伏せられる時間稼ぎにしかならなかったが、それでもグリムリーパーを怒らせるには十分効果を発揮していた。

 冷静を失ったグリムリーパーは動きが荒くなり、どんどん距離を離されて行く。一歩踏みとどまって冷静になるという行動に出ないのが、アンデッドの特徴のひとつであった。

 そういった点において、ルジャは明らかにグリムリーパーを凌駕し、翻弄さえできていた。

 

「あーでも、やべえ……」

 

 しかし、結局のところは時間稼ぎだ。

 今ルジャは物陰に隠れてはいるが、苛立たしげに顎を打ち鳴らすグリムリーパーは彼の隠れ潜む場所に大まかな見当をつけている。

 グリムリーパーには魔力の痕跡を追うことのできる優れた嗅覚が備わっているのだ。

 一時は翻弄し距離を稼げても、完全に逃げ果せることはルジャでも難しかった。

 

 何より、単純に接近戦において勝ち目が薄すぎる。

 何度かルジャも致命傷を与えようと奮戦はしたのだが、グリムリーパーの持つ剣術の前では一矢報いることも難しかった。せいぜいが嫌がらせである。

 対するルジャといえば、剣も盾も摩耗している。リチャードが見れば黙って装備を奪って研ぎ始める程度にはオンボロだった。

 

 備えは全く万全ではない。

 それでもグリムリーパーは着実に近付いてくる。

 

 やがてその曲がった剣は、ルジャの首を刈り取るだろう。

 

 いよいよ覚悟するべきか。

 ケタケタと鳴り響く顎の音を聞きながら、ルジャは静かに死を悟りつつあった。

 

 

『──ああ、愛しき白鳥よ 入江に浮かぶまばゆき妖精よ』

 

 その時、歌が聞こえた。

 女の声。美しく響き渡る、愛の歌。

 

『──あなたは水を弾いて空へと消えた ひとつの羽根さえ残すことなく』

 

 ルジャは呆然と空を見上げ、音源を探る。だが、歌声はあらゆる物や地面にぶつかって反響し続け、出どころがわからない。

 

 いや、それよりも。

 その歌声は美しかったが、ルジャの心に強い衝撃を与えていた。

 それは聞いたこともない曲であったが、不思議と歌い手の心が自分の中に染み入るかのようだったのだ。

 

「グ……ガァアアアア!」

 

 同じ感覚を、グリムリーパーも味わっていた。

 彼は天を見上げ、どこかもわからない音源に向かって吠え、苛立たしげに走り去って行く。

 

 先ほどまで追い詰めていたルジャを気にかける様子もない。

 それほどまでに心を、感情を上塗りするような歌であったのだ。

 

『──どうかここへ戻ってきて 私も空へ連れて行って……』

 

 物悲しいフレーズを最後に、歌は終わった。

 残されたのは大きな悲しみと、喪失感。

 

 しばらくの間ルジャは、歌の最中から他のアンデッド達が騒いでいたことにも気付かず、ただただ心を奪われていた。

 

「……この感じ……」

 

 自分の掌を見て、白骨のそれを握りしめる。

 今はちゃんとそこにある、自分自身の主導権。それが曖昧になり、奪われ、ひとつの意思によって掌握されるかのような感覚。

 

「似てた、な……」

 

 その歌声は、リチャードの作品に通ずるものがあった。

 

 

 



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曰くのなさそうな魔剣

『それはバンシーと呼ばれるアンデッドですね』

 

 ルジャが話を持ち帰ると、パトレイシアはすぐさま疑問に答えた。

 謎の歌声。その正体について、彼女はほぼ確信に近いものを抱いているらしい。

 

『バンシーにも様々な種類がありますが、共通するのは泣き声や嘆き声によって他者の精神を乱す……声にまつわる能力を持っています。ルジャさんが聞いた声は、まず間違いなくバンシーかと。似た魔物にはセイレーンもいますが、埋没殿に生息しているとは思えません』

「バンシーってので間違いないのか」

『はい。幽体か実体かはわかりませんけどね。肉体を持つ者もいれば、持たない者もいますので』

 

 バンシーは声によって他者を害するアンデッドだ。

 その声は概ね悲嘆や悲鳴であり、生前の無念が声となっていると伝えられている。

 負の感情が込められた声は、至近距離で聞いた場合は絶命することさえあるという。

 

『ですがバンシーの動きはそれほど早くありません。また、声にしても近くで聞かなければほとんど影響がないと言われています。幽体であれば対処は難しいですが……私の魔法は通じますからね。あまり脅威ではないというのが、私の率直な意見です』

 

 荒れ狂うグリムリーパーの気をそらし、多くのアンデッドたちをざわつかせる歌声。ルジャとしては大きな脅威かと思えたのだが、パトレイシアは違うようだ。

 

「んー……気にしすぎだったか」

『たまに歌らしき声が響いてきてましたから、おそらくいるのではないかとは思っていました。気にするほどの相手ではないと思いますよ』

「……かなり、心にくる歌だったんだけどな」

 

 ルジャはその時の歌声を思い出すように、天井を見上げた。

 パトレイシアはその様子に未だ納得いかないものがあると見て、少し考えた。

 

『……リチャードさんの作品のように、不死者の心を揺らす歌。そう言われると、気にはなります。とはいえ、バンシーが他のアンデッドを操るような力はなかったと思うのですが』

「ああ。けどあの時は……ん?」

 

 話し込んでいると、通路からリチャードがぬらりと姿を現した。

 彼は無言で剣を差し出している。

 

「あっ、いやぁリチャードさんありがとう。悪いな、乱暴な扱いしちゃって。研ぐの大変だっただろう」

 

 リチャードは頷いている。実際に研ぐのは大変だったのだろう。

 しかし不満そうにはしていない。研ぐことそのものは嫌いではないらしかった。

 

 また、リチャードは剣の手入れのためだけに来たわけではなかった。

 

「ん? なんだこれ」

 

 リチャードはルジャにもう一本の剣を渡した。

 無骨なショートソードである。飾り気なく、刀身が暗い気配を帯びたような、それでも平凡な刃物であった。

 

『それは……リチャードさん、魔剣ではないですか』

「魔剣!?」

『刃物の部分が、純度は低いですが確かに……間違いありません。幽体にも傷をつけられる、魔剣です』

 

 パトレイシアとしては恐ろしい武器である。

 それはグリムリーパーなどの斬撃と同じように、彼女を殺し得る道具なのだから。

 

 リチャードはそんな魔剣をルジャに押し付けると、懐から木片を取り出し、見せた。

 

 “それでバンシーを始末してくれ。あれは非常にうるさい。”

 

 どうやら彼は遠くからも声を響かせるバンシーの存在がいたくお気に召さなかったらしい。

 彼はそれだけ伝えると、再び坑道の奥へと引っ込んでいった。

 

『……バンシーは脅威というわけでもないのですけどね。むしろ、歌の力を検証するために覚醒を促そうと思っていたのですが……』

「や、やべえ……本物の魔剣だ……どうしよう、俺魔剣士じゃん!」

『……どうしてそんなに嬉しそうなんですか、ルジャさん……』

「だって魔剣士だぜ!?」

 

 パトレイシアは自分を殺し得る剣を手に大喜びするルジャの姿を、とても複雑そうに見つめていたのであった。

 

 

 

 幽体アンデッドを殺す武器、魔剣。どうやらそれはレヴィが拾ってきたものらしい。

 ルジャは魔剣を手にしばらく少年のように浮かれていたのだが、その姿を見たレヴィがぽつりと“あの時の柵だ……”とこぼしたのがきっかけである。

 

「ん? なんだレヴィ、柵って」

「えと、あれです」

 

 レヴィは廃材置き場に積み上げられたものの、黒い鉄柵を指差していた。

 それは元々貴族街に存在した門の一部であったのだろうか。槍のように鋭い上部を持つ、見事な作りの金属である。だがそれは大きくひしゃげており、かつてのように貴族の館を守る用途は果たせないように見える。

 

「リチャードさん、その柵の壊れかけの部分を切り取って、刃物にしてました。ルジャさんのそれ、多分同じやつですよね……」

 

 ルジャが無言で魔剣を柵に並べてみると、なるほど。確かに材質は同じである。太さもそこから削り出したものに違いあるまい。

 

 貴族の住まいを守る堅牢な魔法金属の柵。

 それがルジャの振り回していた魔剣の正体だったのだ。

 

「……柵かよぉ……」

 

 彫刻家リチャード手製の魔剣と言えば聞こえも良いかもしれないが、貴族街の廃材から作り出した刃物というのはなんとも、ルジャの男心には響かなかったらしい。

 

 レヴィは落ち込むルジャを不思議そうに眺めていた。

 

 



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へし折れた舞台

 

 

 グリムリーパーの脅威はルジャ一人だけでは逃げることもできない。

 そのため、探索は再びパトレイシア、ルジャ、レヴィの三人で行われることになった。

 最悪グリムリーパーに発見されても、パトレイシアが斥候に回っていれば逃げ切ることは可能だ。ルジャやレヴィが発見された場合でも、空から魔法による援護があれば生存率は上がるはず。

 そんな目論見もあり、三人は大空洞の長期探索に乗り出したのである。

 リチャードは坑道で作業という名の留守番だ。

 

 目的地は、バンシーの住処。

 はっきりした場所についてはまだわかっていないが、おおよその場所はルジャが知っている。再びそこへ足を運び、バンシーの実態をより深く把握しようというのが今回の試みであった。

 

『皆さんは好きな歌などはありますか?』

 

 レヴィも加わっていることもあってか、道中の会話は明るいものが多かった。パトレイシアもルジャも、その点においては人並み以上の気遣いができた。

 

「俺は最近の曲は知らなかったなー……隊のおっさん連中は覚えようともしないし、古い軍歌ばかりだったよ」

「私は……か、数え歌とか。あと聖歌を……」

「へえ、聖歌! そいつはすごいな! 俺も昔習ったんだけど忘れちまったなぁー」

「こ、孤児院だったので……」

 

 歌は身近にあるものだ。

 記憶媒体がなくとも、人は音楽を求めるもの。軍属であれば勇猛な軍歌を聞く機会は増えるだろうし、教会にとっても聖歌の響く聖堂はある種最低限のステイタスとなる。

 何十曲も正確に覚えられる時代ではなかったが、それでも各々の生活の中には歌や音楽が根ざしていた。

 

「パトレイシアさんはどうなんだ? 貴族だと何かこう、豪華な音楽を聴くような機会にも恵まれるんじゃないのか?」

『はい、そうですね……立場上、多くありました。どこにいっても見たことのあるお抱えの演奏家がいるので、目新しいかというとそうでもないですけどね。良くも悪くも、形式を大事にした音楽が多かったので』

「ありゃ、それは俺には合わないかもな」

『ふふ、かもしれません』

 

 宮廷音楽と安い酒場の歌とでは楽しみ方も大きく異なる。

 ルジャも立場上、たまに仰々しい音楽を畏まった姿勢で聴くこともあったが、あまり彼の肌には合わなかった。

 

「あの、ルジャさん」

「ん? なんだレヴィ」

「これから会う、あ、お会いするバンシーって、どんな歌を歌っていたんですか?」

「……あー」

 

 その時のことを思い出し、ルジャは空を見上げた。

 息がつまるような煙色の空。

 

「愛の歌。いや、悲恋の歌だったのかな。宮廷音楽ではないし、酒場でやるようなもんでもねぇ……そうだな、あれは多分、劇団か何かの曲なんじゃねえかな」

「劇団……?」

『大きな舞台の上で、大勢の観客の前で行われる歌劇ですよ。中層には、そういった施設もいくつかあったはずです。レヴィさんやルジャさんでも、もちろん私でも一緒に楽しめると思いますよ』

 

 とはいえ劇団の公演などは貧民の手に届くものではない。だからこそ施設は中層にあったし、入場料もそれ相応であった。

 

『いわば……吟遊詩人の歌に近いもの、と言えばいいでしょうか』

「ああ、それが近いよな。俺が死ぬ数年間は酒場からほとんど姿を消しちまったから、ほとんど聴けなかったけどよ」

 

 バビロニアの晩年、吟遊詩人の多くは広場や酒場から姿を消した。

 彼らは狂王ノールの政策によって捕縛され、多くが処刑されていたのである。

 

 今となっては過ぎた話だ。しかしパトレイシアは当時の鬱屈とした市街を思い浮かべ、表情を暗くした。

 

「パトレイシアさん……?」

『ああ、なんでもありません。いきましょう』

 

 バビロニア人全ての恐怖であった狂王ノール。

 彼もまた、塔の崩落と共に死んだことに疑いはない。

 彼もまた自分たちのように、不死者となって地底を彷徨っているのだろうか。

 だとすれば、その種族は。

 そう考えた時、パトレイシアはノールが凡庸なスケルトンやゴーストであってほしいと願うと共に、ノールがその程度の枠に収まらないであろうこともなんとなく感じていたのだった。

 

 

 

 歌が聞こえてきた。

 美しくか細い、乙女の歌声だ。それは遠くからでも三人の耳に届き、それがバンシーの歌声であることに疑いの余地はなかった。

 

「綺麗……」

 

 初めて耳にする繊細な歌はレヴィを虜にした。

 

「そうそう、この歌声だ。俺が前に聞いたのもこのバンシーだったよ」

『……なるほど』

 

 寂しげな旋律。心に染み入る声。確かにその歌は、ルジャが言っていたように心を揺るがすものだった。

 しかしパトレイシアが言った、バンシーの歌声にそれほどの力がないというのもまた事実であり、本来ならばこれほど見事な歌を響かせられるアンデッドではないはずなのだ。

 普通のバンシーは金切り声をあげるか、泣き声を上げ続けるか。概ねそのどちらかのはず。

 ということはこのバンシーは、よほど生前の歌が上手かったか。

 

「あ……ここから登れます」

「お? 本当だ」

 

 バンシーの歌声が響く場所は住宅の遺構の面影が残るエリアだ。

 壁面や柱が多く、廃墟のような趣があるため、場所によっては通行止めが多く、上手く通り抜けるには移動を工夫する必要がある。

 そんな中、レヴィは抜け道を探すのが得意だった。

 

 三人はレヴィを先頭に、歌声の響く場所を目指して進んでゆく。

 近付くにつれて歌はより憂いを帯び、先頭をゆくレヴィはその言葉の意味さえわからないのに、とても悲しい気持ちになっていた。

 

「あ……」

 

 やがて三人が瓦礫の階段を登った時、それは見えた。

 

 かつては巨大な柱であったのだろう。今はへし折れたその円形の断面に、一人の乙女が立っていた。

 首元で切りそろえられた癖のない髪。起伏のない細身の体。

 青白く輝くその乙女は小高い円柱舞台の上に立ち、世界に歌声を響かせている。

 

 憂いを帯びた目からはとめどなく涙が溢れ、歌声は悲しみに歪み……その想いは、三人の精神を強く揺さぶるものであった。

 

「う、ぁう……」

『こ……れは……! 一旦、退却しましょう!』

「ああ! レヴィ、立てるか!? いや運んでやる、ここから離れよう!」

 

 障害物に反射することなく直接投げかけられるその歌声は、決して大音声であるわけでもないというのに、頭がひび割れるような苦痛を三人に齎した。

 悲しみが形となって頭の中に出現し、乱暴に跳ね回るような痛み。訓練を受けた騎士でも実体を持たないゴーストでも耐え難い衝撃。

 

 再び物陰に隠れることで苦痛は収まったが、課題ができてしまった。

 あるいは厄介な相手であれば、ルジャの魔剣でさっさと排除すべきとも考えていたのであるが。

 

『これは……想定外ですね』

 

 何よりパトレイシアは、その歌声に聞き覚えがあり、あの幸薄い姿の乙女に見覚えがあった。

 

 奇跡の少年エバンス。

 

 貴族社会でも大いに話題となった、歌劇世界の新星。

 そんな少年が悲しみを纏うアンデッドとしてこの地下世界で泣き叫び続けていた事実に、パトレイシアは遣る瀬無い気持ちを隠せなかった。

 

 

 

 



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芸術性の違い

 

 

 大空洞の岸壁に、ベーグルという名の採掘者が槍で縫い付けられている。

 顔面を貫くようにして縫い止められたその男は、しかし近くに動くものの気配を察知すると、暴れ始める習性があった。

 彼はすでに真っ当な人間ではない。ヴァンパイアによって隷属されたグールなのだ。

 

 リチャードは作業をひと段落させると、ベーグルの封じられたそこへ足を運んでいた。

 罪人のローブがそよ風に小さくはためき、やがてしとしとと降り始めた雨に濡れる。

 雨が降り始めると、決まって塔の上のドラゴンゾンビが咆哮を上げる。

 大声量に埋没殿は騒めき、グールもまた本能的に両腕を振り回し、暴れ始める。

 

 やがて通り雨だったらしいそれが降り止むと、途端に音は弱まり、グールの癇癪も鳴りを潜める。単純なものだ。

 

 リチャードはベーグルの貫かれた顔面を観察したが、その奥に見えたのは鼻から目にかけてを豪快に陥没させられた、実のところ男か女かもわからないベーグルのような顔だ。

 目がやられたのではリチャードの作品を見ることもできず、そうなればリチャードの作品はあまりにも無意味であった。

 

 事実、声を出さないリチャードの存在など、ベーグルには一切感知できないのだろう。

 彼の世界に自分はおらず、これからも交わることはない。

 

 “グール、か”

 

 リチャードはグールに詳しくない。

 というよりも、ヴァンパイアに詳しくなかった。

 執刀団にいた頃も、墓守だった頃も、遭遇したことがなかった故に。

 

 ヴァンパイアは都市部にて人間社会に寄生することを好むアンデッドだ。その生態は不死者の中でも特殊なもので、数も少ない。

 だがこうしてグールを観察してみても、ゾンビとの違いはさほどないように見える。

 目新しさは、無かった。

 

 無かったのだが。

 

 “……”

 

 リチャードはローブの懐から、一本の細い水筒を取り出した。

 アンデッドに水分は必要ない。それでも何故、リチャードがそのようなものを持っていたのか。

 

 恐らく、興味本位だったのだろう。

 あるいは、素材として何らかの利用価値があると考えたのか。

 ともあれ、リチャードはその水筒の栓を抜き、中身の一部をベーグルの周囲に振り撒いた。

 

「グガッ、グガッ!」

 

 反応は、劇的だった。

 普通の雨には乱雑に暴れるだけ。しかし、今水筒より撒き散らした水には強く反応する。

 

 振り撒いた後もそうだ。水滴の音だけならばまだしも、その後もずっと、滴り落ちたそれに対して執着するように暴れている。

 

 “反応はある。やはり、眷属として集める本能があるのか。”

 

 リチャードが水筒に収めていたもの。それは、人間の血液だった。

 ネリダの死後、遺体から抜き出したものである。火葬をするのに水分が邪魔だったので、リチャードはネリダの血抜きをして、それを甕に移していたのだ。

 

 何より、血液は顔料にもなる。死をテーマとした作品作りをするにあたって、リチャードは何年も前から欲しがっていた素材だった。

 実際にこの血液はつい最近仕上がった象牙の彫り物に、その溝に擦り込むようにして使っている。撒いたのはその余りの一部だ。

 

 “仮にこの血液をグールに渡したとして、奴はそれをどうするのか。自分で啜るのか。それとも、己の主人に届けようとするのか。”

 

 やがて、遠くの方から騒々しい気配が近づいてくる。

 見やれば、坑道に向けていつもの三人が戻ってきているようだった。

 

 リチャードは無事に戻ってきた三人を見て、自分もステッキをつきながら戻る事にした。

 作業が終わったので、人の話でも聞こうかと思ったのである。

 

 ルジャがバンシーを始末できたかどうかも気になったので。

 もっとも、あまり期待はしていないのだが。

 

 

 

『奇跡の少年エバンス、というのをご存知でしょうか』

 

 リチャードは自分の期待が早々に崩れ去るのを予感した。

 名前だけならどこかで聞いたことがあったし、なんとなくその人名が今回のバンシーと結びついたからだ。

 

「あーまあ、見たことはないけど、隊でも有名だったぜ。歌の凄い上手いっていう、天才の」

「わ、私は知らないです」

『今回私たちが見つけたバンシー。あれは、そのエバンスさんで間違いありません』

「はあ?」

 

 ルジャが素っ頓狂な声を上げた。

 

「どう見ても女だったが。いや、エバンスって奴が女みたいだって話は聞いてたけど」

『元々は孤児で、男娼として見込みがあると引き取られた方のようですね。そのまま教育を施されるうち、歌の才能を見出され、そちらの仕事を受けていくうち……劇団でも指折りの歌手になったとか』

 

 とにかくその少年は話題性があった。

 孤児出身、男娼、酒場の歌手、そして舞台へ。本に書かれるような彼の人生の軌跡は、それだけで歌以上のドラマを持っていた。

 事実その麗しい見た目と細く高い歌唱力は本物であったので、彼がバビロニアの話題を独占することも一度や二度ではない。ともすればそれは、リチャードよりもずっと名高いものであった。

 製作者の顔など気にもしない彫刻芸術より、人前に立って歌う美人に惹かれるのは当然のことではあったが。

 

「孤児……だった人、なんですか」

 

 レヴィはぼそりと呟いた。

 立場の違いはあれ、自分の境遇と比べずにはいられないのかもしれない。

 

「しかし、なるほどな。そりゃあれだけ見た目が良けりゃ男娼に売られるだろうよ。男でも女でも、物好きな買い手はいくらでもいる。そんな中で歌でやっていけたのがすげぇよ」

『だからこそ奇跡なのでしょう。人は、奇跡が好きですから』

 

 だが、そんなサクセスストーリーも唐突に終わった。

 バビロニアが崩壊し、全国民が瓦礫に潰されたのだ。そこに奇跡はなかった。

 

『彼の歌を身近で聞いて、感じました。あの歌声は非常に強力なものです。きっと、いえ、必ずや我々の力になると思います』

「ああ、確かにそうだよな。あの歌声だけでアンデッド達が心を揺さぶられていた。俺たちもだ。……一応、歌とか音楽も芸術だろ? リチャードさんはそこのところ、どう思う?」

 

 リチャードは無言だが、実に面倒臭そうな緩慢な動きでルジャに向き直った。

 

「ほら、同じ芸術家としてさ。何か気にならないかなーと」

 “……”

 

 リチャードは無言で木片に文字を書き記し、それを見せた。

 

 “私がこの世で嫌悪しているものが三つある。”

 

 美しい文字の羅列。ルジャはなんとなく踏んではならないものを踏み抜いたことを察した。

 

 “音と、声と、芸術を語る連中だ”

 

 

 

 



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粘土の塊

 

 創作物を作者自らが説明することほど滑稽なものはない。

 少なくともリチャードはそう思っている。

 

 仮に馬を再現しようと誰かが粘土を捏ねたとする。

 出来上がったものを他人に見せ、その他人が“これはなんの生き物だろう”と首を捻り、馬が思い浮かばなかった。

 だとすれば、馬を再現しようという創作者の目論見は失敗だと言えるだろう。

 

 題材に馬とでも名付ければ伝わるかもしれないが、たったの一言でもそれは説明だ。

 創作者の場外からヒントを与えているに等しい。リチャードはそれもあまり好きではなかった。

 

 完全な創作物とは、説明も題名も無しに本旨を伝えることだ。

 ただ作品を与え、感情を揺さぶる。伝える。創作の意図を発現させる。

 それは創作者の迷走や独り善がりとは切っても切れない思想であったが、リチャードは比類なき才能があったために、そのような考えを貫くことが出来ていた。

 

 しかし、リチャードが完璧な創作物を作れたとしても、受け取り手にも良し悪しはある。

 結局のところ、感受性とは繊細な感覚であり、個人差が大きかった。

 バビロニアでリチャードの芸術性が認められても尚、“わかっていない者”の存在は、あまりにも多い。

 

 “リチャードさん、この作品は一体何なんですか? ”

 

 “素晴らしい作品ですね! まさに死神という感じです! ”

 

 “深いですね……静けさの中にも、なんというか……”

 

 

 賛賞。ではあったのだろう。リチャードもそれは知っている。

 だがその賛賞を投げかけられることはリチャードにとって一番の苦痛であり、聞くに耐えないものであった。

 

 的外れな評価。

 節穴の目。

 話題にしたいだけの人間。

 投資のためだけに無意味に釣り上がる作品の価値。

 

 リチャードは名を高めるごとに、そのような苦難に多く直面する。

 人が近づき、リチャードとの関わりを、言葉を求める。酷いものは無様な次回作の題材を投げかける。

 

 そのような状況が数年も続けば、リチャードはすっかり他人が嫌いになっていた。

 人との関わりも、言葉も、賛辞も、何もかもがうんざりだった。

 

 彼は思う。

 

 美しさを表現できない者は、美しいものを形容すべきではないのだ。

 

 つまり、口を噤むべきである。

 

 

 リチャードは己に文才がないことを知っている。

 物事をあるがままに形容できないことを知っている。

 

 言葉など不要。

 

 故に、彼は自ら沈黙の煙草を吸い、喉を潰したのである。

 

 それ以来、彼のアトリエはほどほどに静かになった。

 

 

 

 

 坑道の荒々しい壁面と向き合って、暫し過去に想いを馳せていた。

 リチャードは自身の白骨化した喉を撫で、若かりし日の衝動を振り返る。

 

 自ら声を捨て、人との関わりを大きく制限した。それは今にしても英断であったと、リチャードは考えている。

 元々寡黙であったこともある。人との会話は好きではなかった。それよりはずっと、自分の創作意欲と対話していた方が良い。

 

 リチャードは地上に興味がない。

 パトレイシアは地上への進出に並々ならぬ執念を燃やしているようだが、リチャードにとってそこが元いた世界でも、バビロニアの無きミミルドルスの腹の中であっても、さして違いはなかった。

 

 あるいは喧しい連中がいない分、この地底での暮らしの方が恵まれているかもしれない。

 

 新しいテーマと出会ってからというもの、意欲は高い。

 このまま穏やかな日々が続けば良いとさえ思う。

 

 気ままに彫り続け、世界との関わりを閉ざす。

 なんと素晴らしい。

 

「リチャードさん……」

 

 声に振り向くと、そこにはレヴィがいた。

 リチャードを遠慮がちに見つめ、主張を隠すように離れて立っている。

 

 彼女は他者だ。

 リチャードにとっては他人であり、この地底に蔓延るアンデッドの一人に過ぎない。

 

 しかし、ただのアンデッドでもない。

 彼女は自分の作品に共感した第一の受け取り手であった。

 

 時折うるさいこともあるが……少なくとも、自分の作品に対して無駄口は叩かないし、概ね静かだ。

 何より、助手として製作の協力をしてくれる。

 

 バビロニア時代の口を挟むパトロンよりもずっと良い。

 

「あの……私たち……ごめんなさい」

 

 レヴィは繋がりの見えない言葉を呟くと、頭を下げて去っていった。

 何を言ってるのかはさっぱりだが、しかし言いたいことはなんとなくわかる。

 先程ルジャの言葉を最後に機嫌を損ねて席を立ったことについて、気を揉んでいたのだろう。リチャードにもそれくらいの人の機微は理解できる。

 つまり、レヴィは不貞腐れたリチャードの機嫌を取ろうとしていたのである。

 

 自分には他者と相容れない価値観がある。

 譲れないしこれからも譲ることはないだろう。

 

 だが、何の価値観も形成されていない子供相手にその全てが通じるとも思ってはいない。

 子供がそう思ったのなら、子供の中ではそうなのだ。

 

 

 “……作るか。”

 

 

 リチャードは音楽が好きではない。歌も特別良いと思ったことがない。

 それはリチャードに、音に纏わる才能や教養がないからだ。

 

 反対に、自分の作り出す彫刻芸術に興味のない者や、受け取り方のわからない者もいるだろう。

 

 それでも自分の生み出す作品は、素人の作る粘土細工よりは万人に“伝わる”ものだと自負している。

 それが歌手だろうが娼婦だろうが関係ない。

 

 受け取り手に作品を見るための目が備わっているならば充分だ。

 

 

 “黙らせてやろう。”

 

 

 もとより、遠くから響く歌声は煩わしかった。

 パトレイシア達の目論見に興味はないが、平穏のためならば仕方ない。

 バンシーが息を呑む作品を作ってやる。

 

 

 坑道内に、鎚の音が響き始めた。

 

 

 



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一呼吸

 

 

 エバンスの人生は、よく奇跡と称される。

 それは彼の歩んできた人生が、最底辺からある一つの頂点に上り詰めるに至るまでの過程が劇的であり、その成功譚がおとぎ話じみていたからだ。

 

 彼は下層の孤児院に棄てられていた。

 親はわかっていない。他の子供達と同じように、ただ籠の中に入れられ、夜明け前の孤児院の門前に置き去りにされていたのだ。

 しかし孤児院にとってそれも珍しいことではない。

 エバンスは他の子供達と同じように育てられ、教育を受ける。

 

 孤児院故に慈聖神の教義について学ぶことは多かったが、彼に施された教育は孤児院の中でも比較的上等な部類であったと言える。

 とりわけその教会では聖歌に力が入れられていたため、歌に対する教育の熱は高かった。

 幼い子供達によるそこそこ質の高い合唱はその地区でも評判であり、よく寄付金が集まったのだ。

 

 エバンスは歌が好きであった。

 彼は初めて歌に触れた時から、歌の虜になっていた。

 エバンスは普段から弱気で、子供達の中でもよく虐められているような少年ではあったが、歌を歌っている時だけは何者よりも自在に己を表現することができ、言葉以上のものを他者に伝えることができた。

 

 彼が優しい歌を歌えば粗暴な年長者でさえ心を穏やかにし、悲しい歌を歌えば無感情な女の子も静かに涙を流す。

 神々しい聖歌を歌えば孤児院の偉い人たちも感じ入ったようにため息をつき、ともすれば聴衆は神の気配を感じることさえあったという。

 

 今まで歌を聞いた人々は感動してくれた。褒められることが多かった。

 だからエバンスは自分が貴族に引き取られるかもしれないという話を聞いた時、今よりも高らかに歌える場所に連れて行かれるのだと思っていたのだ。

 だから神父から“次はこの歌を歌って、自分を売り込むんだよ”と提案された時にはいつも以上に力を入れたし、歌う前も後も言われた通りに観衆へ微笑みかけたりなどもした。

 

 だが彼に用意されたのは、彼が歌ったのは、艶やかな情愛の歌。

 あどけない無垢な少年が奏でるその艶めかしい歌は、特に一部の貴族を熱狂させた。

 

 あるいは普通の流行歌であればまた違う道にも進めていたのかもしれない。

 だが教会はあえて、その艶やかな歌をエバンスに歌わせたのだ。

 

 孤児院は聖歌隊だけでなく、裏職業の斡旋にも力を入れていた。

 孤児院は見目麗しい者が育つと、それを貴族や店に売り払う稼業も行なっていたのである。

 

 10歳の頃のエバンスは儚げな少女らしい顔立ちと、か細く美しい声を持っていた。

 あどけない子供達が立ち並び合唱する中でも、彼の可愛らしさは特に目立っており、すぐさまお偉方の目に止まる。

 贅に飽食した貴族達の中には物好きがいる。美しければ女よりも男を好むような輩も珍しくはない。

 

 欲深い教会側もその嗜好を熟知していた。

 その嗜好は時に単なる歌よりも多くの金を動かすことを、彼らは知っていた。

 

 なんということはない。

 感情を揺さぶる歌があるのであれば、より金になる感情を揺さぶってやれば良い。

 

 感性の濁った者達はそう考えていただけのこと。

 

 だからエバンスは歌ではなく、男娼として売られることになったのだ。

 

 

 

『──貴方は私に寄り添ってくれた 笑いかけて励ましてくれた』

 

 へし折れた石柱の舞台の上に、物悲しい歌声が響く。

 

『──私を優しく抱きしめてくれた 家族だと言って愛してくれた』

 

 壇上で歌い、涙を流すのは一体のアンデッド。

 嘆き続ける悲鳴の亡者、バンシー。

 

『──でも貴方はもう居ない 二度と帰ってきてはくれない』

 

 その姿はエバンスが死んだ18歳の時のまま。

 彼が年齢を重ねるにつれて、歌声と顔立ちの変化を危ぶむ声はあったが、結局その歳になってもまだ、エバンスを構築する奇跡は少しの翳りを見せることもなかった。

 そして彼の歌声も顔立ちは、もはやこれ以上変化することはない。

 

 エバンスの時は止まったのだ。

 

『──家にも酒場にも貴方はいない 広場にも公園にも、二人で出かけた花の丘にも……』

 

 その歌は彼の所属していた団で初めて習った、物悲しい歌の一つ。

 劇の合間に歌われる死別の曲。孤児院や娼館にいた頃ならば決して歌うことのなかったであろう、エバンスにとっては特別な曲。

 

 しかし、もはやこの地の底には、それを教えてくれた人々はいない。

 彼を鬱屈とした世界から引き上げてくれた親代わりの劇団長も、優しくしてくれた団員も、誰もいない。

 エバンスが待ち望んでいた、晴れ舞台も。

 

『──帰ってはこないの……』

 

 悲しみの曲が終わる。

 重苦しい余韻が、舞台の周囲を押し潰す。

 

 石柱を取り囲んでいたアンデッドたちは、苦しそうに身をよじらせ、うめき声をあげていた。

 

 

 

 “うるさい”

 

 そんな石柱のステージの上に、一人のアンデッドがよじ登ってくる。

 罪人のローブを身に纏った彼は歌が終わるのを見計らって物陰から身を乗り出し、バンシーの前にやってきた。

 

『ぁあ……ぁあああ……』

 

 一定の距離まで近づけば、バンシーは金切り声をあげる。

 その絶叫は魂を消し飛ばすに充分な威力を持っており、それは至近距離であれば魔力の多いリッチであっても例外ではない。

 

 だがリチャードは恐れることなくバンシーの壇上までやってきて、淡々と背中に担いだそれを床に置いた。

 距離はあるので絶叫を受けても即死することはないが、バンシーの習性を知る常人であれば正気とは思えない無防備さであろう。

 

『ァ──』

 

 バンシーが大きく口を開く。

 絶叫がくる。

 

 しかしそれよりも早くリチャードは荷物を覆う包みをほどき、中身を露わにする。

 

『──』

 

 バンシーはそれを目にした一瞬、息を飲んだ。

 

 そして、その息を飲む一瞬の間に、既にリチャードは去っていったのである。

 

 

 

 

 



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たったひとりのための舞台

 

 リチャードは去り、エバンスは再び壇上に取り残された。

 

 舞台に上り込む侵入者は消えた。しかし、エバンスの視界には今までと異なるものが置かれている。

 

 中空の石像。

 硬質な見た目に反して空洞が多く軽量なその像は、金属のように滑らかな灰色を呈している。

 それは背の低い小さな子供が直立しているというシンプルなもので、子供は小道具を持っておらず、質素な服を着ているのみだ。

 

 エバンスにとってそれは、ただの石像に過ぎなかった。

 視界に現れた時は一瞬だけ心が揺らいだ気もしたが、彼はすぐさまバンシーとしての反応に意識を落とし、気にすることをやめた。

 

 やめたので、彼は再び歌い始める。

 知らず知らず、子供の石像と向き合うように。

 

 

『──森の奥へといらっしゃい 撒かれたどんぐりのしるべを辿り 狭い道を進んでおいで……』

 

 子供を怖がらせる劇の挿入歌を歌い始めたその時、バンシーは目の前の石像から気配を感じた。

 恐怖するように震える感覚。しかし、当然石像がひとりでに震えているわけではない。

 バンシーの甲高い歌声により、中空の石像が共鳴しているだけに過ぎない。

 

 そうとわかれば、ただの自然な現象である。

 バンシーはそこに邪魔者の気配がないと知ると、再び歌いだす。

 

『──枝を折ってはいけないよ 虫を踏んではいけないよ 君は森のお客様 自然を荒らせば返してやらない……』

 

 歌い続けるうちに、再び中空の子供像が共鳴する。

 歌声が像の内部で反響し、うめき声のような響きとなって旋律の邪魔をする。

 

『──ァアアアアアッ!』

 

 バンシーはそのノイズが酷く気に障り、歌の最中に絶叫をあげた。

 負の力を帯びた金切り声は近くを彷徨っていたゴーストを八つ裂きにし、霧散させる。

 

 だが、子供像は砕けない。

 いくら歌声を上げようとも、叫ぼうとも、稀少な灰霊石によって作られたそれは極めて頑強であり、焼き上げた後は金属並みの粘り強い硬度を持っているのだ。

 

 いくら絶叫を浴びせても恐れも狂いもしない子供に、いつしかバンシーの意識が縫い止められる。

 通常、アンデッドが意識を留めることのない無機質な物体に対し、意識が集中する。

 

 

 直立する子供。

 痩せ細り貧しい子供だ。彼は両手を握り締め、わずかに上を向いた顔は笑顔を浮かべている。

 

 拳と首筋に力の入った笑顔。

 普通の子供は、そのように笑わない。

 そのような笑い顔は、大人から強要されることでしか作れないのだ。

 

 彼の薄べったい胸には、抉れた穴が広がっている。

 

 

 

 ──さあエバンス、この歌を歌って

 

 ──低い声を出すなと言っているだろう

 

 ──あの方を愉しませなければ食事は抜きよ

 

 ──歌などいいから、来なさい

 

 

『……ぁあ……』

 

 いつしかバンシーは、尽きることのない涙の中にかつての感情を取り戻していた。

 自分の存在価値を見失いかけ、自らを殺すことばかりを考えていた日々と薄暗い記憶。

 

 それはエバンスにとって、崩落するあの日よりもずっと強く心に刻まれた深い傷跡であり、その溝は少しなぞるだけで不愉快な音を響かせた。

 

 好きな歌を歌えなかった日々。

 客に媚びることだけを強要され、パンを横取りされた孤児院での暮らしよりもずっと自由の無かった、娼館での記憶。

 

 それは過去の記憶だ。

 エバンスはそれから紆余曲折あって地獄から抜け出せたし、再び歌を好きになれた。

 

 人々から奇跡と称されるくらいには歌の世界に名前は響いたし、過去のことは過去のことである。

 エバンスはベルジェンス歌唱団の歌姫となり、そこで出会った人々とは家族と呼べる絆を結べた。

 

『……劇団長……みんな……』

 

 しかしそれすらも。

 バビロニアが地響きを上げながら沈んだあの日に、全てが失われてしまった。

 

 親代わりの劇団長はエバンスの目の前で死に、彼自身も何か強く衝撃によって意識を失ったのを覚えている。

 崩れゆく劇場の中では、みんなの悲鳴がよく響いていた。

 

 具体的に何があったのか、原因は何なのかはエバンスにはわからない。

 だがその日、自分の全てが終わったことを、彼は知っている。

 

『……死んじゃった……舞台も崩れちゃった……』

 

 エバンスは泣いた。自分の手が半透明なこともどうでもよくなる程の悲しみに包まれていた。

 しかし喪失感に苛まれる最中に、かつて劇団長に言われた言葉を思い出す。

 

 

 ──エバンス、泣くな……お前が泣くのを見ると、私まで泣けてきてしまう……

 

 

 常々、劇団長は言っていた。

 お前の歌は人の心を動かすから、明るい曲が似合うのだと。

 

『──さあ、ともに唱おう 盃を持ち、薄めたエールを飲みながら……』

 

 それはいつか酒場で歌っていた曲。

 粗暴な兵士達や労働者が好んでいた、明るい曲。多い時は1日に何度もリクエストされた、人気の流行歌。

 

『──塩を舐めればそれでいいのさ 明日はもっと美味い飯が食える 明日の俺たちはもっと幸せだ』

 

 エバンスは泣き笑いで、その歌を歌った。

 空は暗く、景色は瓦礫ばかり。世界が終わってしまったかのような誰もいないへし折れた石柱の舞台で、エバンスは高らかに歌った。

 

 周囲のアンデッド達は明るい旋律に空を見上げ、暫し呆然としていた。

 あるいは、数十年ぶりに聴く懐かしい歌に、彼らの中の何かがざわめいていたのだろうか。

 

『──だから今はもう一杯だけ、ともに飲んで唱おうか……』

 

 明るい歌を歌い終えると、静寂が戻ってくる。

 昔のように拍手は響かない。生者は誰もおらず、エバンスの舞台を見ているのは物言わぬ石像だけであった。

 

 

 ──パチ、パチパチ

 

 

 否。拍手はあった。

 

『え……』

 

 瓦礫の物陰の向こうから、小さく控えめな拍手が響いている。

 エバンスがそこに目を向けると、物陰からは粗末な服を着た少女が遠慮がちに現れた。

 

 レヴィは小さく戸惑うように拍手しながら、しかしエバンスには近づき過ぎないように、ひっそりと顔を向けている。

 

「あ、あの……その……」

 

 顔色は悪い。その少女がアンデッドの属する何かであろうことは、エバンスにもわかる。

 しかし彼女はアンデッドにしては人間臭い照れを見せながら、たどたどしくこちらを見ている。

 

「……最後の歌……と、とても。とっても、良かったです。……あの、だから……拍手……」

 

 レヴィは最後まで言い終える前に、エバンスは再び涙を流していた。

 

「あ、あのっ……!?」

 

 だがそれは嘆きの涙ではない。世界を怨む負の涙ではなかった。

 

 エバンスはしばらくの間その場にぺたりと座り込み、決して不愉快ではない泣き声をその場に響かせるのであった。

 

 

 

 



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希望と絶望

 

 

『良かったです。何事もなくて』

 

 巨大な瓦礫の岩陰で、パトレイシアとルジャが待機している。

 遠くではバンシーのエバンスと、突如泣き始めた彼をどうにか宥めようと慌てているレヴィの姿があった。

 

 レヴィとパトレイシアとルジャの三人は、ここしばらくバンシーのいるエリアを中心に捜索を続けていた。

 リチャードが設置した石像の効果を確認するための巡回である。

 

 もちろんそのためだけに遠くまで遠征するのは効率が悪いので、物拾いなども兼ねている。

 物資や人物など、対象は様々だ。そこにはレヴィの兄も含まれている。

 

 レヴィの兄は既に自我なきゴーストに変じているか、霧散しているかは未だわからない。パトレイシアもルジャも個人の捜索は絶望的だと思っている。

 きっとレヴィも、内心では諦めかけているのかもしれない。近頃の元気の無さそうな彼女からは、兄に対する希望が失われつつあるように見えた。

 

「こっちに来てください。坑道に……そこでいつも、みんな一緒にいるので」

『……うん。まだ、よくわからないけど……わかったよ。ありがとう。……あ、僕の名前はエバンス。君は……?』

「れ、レヴィです。よろしく……」

 

 だからなのか、レヴィは一人で悲しそうに歌うエバンスについて、特に気にかけているようだった。

 こうして彼が自我を取り戻し、表情はかなり明るくなったように見える。

 

 エバンスは年齢に対して見れば幼い顔立ちと小柄な体格の青年だ。きっと生まれ育ちの栄養状態などが良くなかったのだろう。

 だからエバンスとレヴィが並んで歩いている姿を見ると、まるで歳の近い兄弟のように見えた。

 

『ルジャさんも、その魔剣を使うことにならずに済んで良かったですね?』

「へ。まぁな」

 

 ルジャはリチャードから貰った魔剣を手にしていた。

 いざという時、バンシーが脅威になり得たら。その時はこの魔剣で、始末をつけるつもりだったのだ。

 

「けど、魔剣って言っても相手は……人間だ。アンデッドだけどよ。元々は人間で……助けられるかもしれない奴なんだ。だったら使わずに済むのが、一番だろ?」

『その割には、いただいた時はご機嫌のようでしたが』

「そりゃあれだよ。パトレイシアさんにはわからないかもしれないが、男のロマンってやつさ」

 

 ルジャが軽口を叩く間にも、レヴィとエバンスはこちらに向かって歩いているようだった。

 バンシーは幽体であるが種族として浮くことができず、歩行も非常に遅いので、歩みはゆっくりしたものだ。

 

「帰り道は時間がかかりそうだが、ま。急ぐものでもないし、ゆっくり帰るか」

『ええ。新たな住人と、交わすべき言葉も多いでしょうから』

 

 物陰から現れたルジャに、エバンスが大袈裟なほど驚く。

 宙を浮いて綺麗な挨拶をしてみせたパトレイシアには目を瞬かせ、なぜか同じ女性風な挨拶を返している。

 ルジャは新たな仲間の変わった癖に笑い、レヴィは数歩離れた場所でひっそりと笑っている。

 彼らの笑い声は、薄暗い坑道が更に賑やかになるような、早くもそんな予感を感じさせた。

 

 かくしてバンシーの悲しげな歌声は途絶えた。

 へし折れた石柱のステージにはもう当分の間、他の誰かが登る予定もないだろう。

 

 バンシーの声に悩まされ続けてきたゾンビたちは、不意に訪れた平穏について考えるだけの思考力を持っていなかったが、中には美しい歌が聴けなくなって首を捻る個体もあったのかもしれない。

 

 ステージに残されたのは一体の子供像。

 

 

 製作再開歴15年、リチャード作。

 

 “餓鬼”。

 

 

 石像は人が去った後もずっと、そこで両手を握り締めているのだろう。

 

 

 

 

 

「……クカカカ……」

 

 玉座の上で、一体の骸が蠢いた。

 その姿は判然としない。ドーム状の天蓋は空からの薄明かりを遮り、室内を暗闇にしていたからだ。

 

「死しても尚……玉座の上、か。誰もこの座面に囚われることを、望まなんだか」

 

 骸は胸元を貫く錆びついた剣を掴み、徐ろに抜き取った。

 骨だけの身体は血を流すこともなく、難なく剣を背後の座面から抜き放たれ、ぞんざいに捨てられた。

 

 既に床を覆っていた赤絨毯は色褪せ、埃被っている。

 玉座の間はそこら中が壊れ、倒壊し、少なくない瓦礫に埋もれていた。

 

 それでも十数段の階段の上に据えられた玉座は無事で、まだまだ椅子としての体を保っている。

 玉座で眠り続けていた彼を含め、全てはあの時のまま、何も変わらない。

 

「ならば、再び我が君臨せねばならぬよなぁ。愚民を従え、次こそは。完全なる国を、作らねばならぬよなぁ」

 

 所々が砕けた天蓋から、光が漏れる。

 光はわずかに玉座を照らし、彼の姿を暴いた。

 

 それは、異形。

 肥大化した頭蓋骨は、特に額部分が大きく膨らむように歪んでおり、眼窩の大きさも左右不釣り合いであった。歪んだ頭蓋に合わせて作られた金の王冠は未だに彼の頭部を斜めに飾り、輝いている。

 

 眇の狂王ノール。

 

 彼は目覚めた瞬間、アンデッドの最高位と謳われる支配種族として覚醒していた。

 数多のアンデッドを操り支配する、不死者の王。

 ノーライフキングとして。

 

「今ここに、バビロニアの再誕を宣言する」

 

 ノーライフキングの言葉に呼応するように、腐れ果てたドラゴンが咆哮を上げた。

 

 

 

 



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第6章 ヴァンパイアのパイル
水と油


「ガミ〜! なんでも良いから食べるガミ〜!」
 ――蛮神ガミガミガイダル


 

 リチャードはクラウスのもとへやって来て、墓守となった。

 

 墓守の仕事として、リチャードは主に墓碑の銘を刻むことを任されることとなった。

 これはリチャードがやってきた初日に見出された才能である。思いつきでやらされた彫り物の出来栄えが美しかったため、すぐに任されることになったのだ。

 

 墓碑の彫刻を専門とする石工も長く霊園に勤めていたが、リチャードの刻む文字はそれよりもずっと整然としており、何より出来が早い。

 この刻む作業はとにかく時間がかかるので、客側は何日も待たされることが珍しくなく、実際クラウスの霊園では墓石の完成を待つ家族が多かった。

 そのため、リチャードの彫刻の才能は歓迎され、遺憾無く発揮された。初心者とはいえあまりにも緻密な彫り具合であったので、クラウスが試しに花の紋様を刻ませてみれば、それも文句のつけようのない出来栄えになる。

 

『天賦の才というやつかな。リチャードさん、あなたが来てくれて良かった』

 

 こうして、リチャードは墓守として、主に墓碑を刻む石工としての仕事に精を出すことになったのである。

 

 

 

 墓守の仕事は執刀団と比べればかなり穏やかなもので、忙しくなることもほとんどない。彫刻の作業も慣れれば慣れるほどに必要な時間が少なくなってゆくので、リチャードは暇を持て余すようになった。

 緩やかな日々は、寡黙なリチャードを思慮深くさせてゆく。特に、死について考えることが多くなった。

 

 リチャードはそれまでの人生で、数々の人間の生と、死を見てきた。

 孤児院で暮らす子供。祈る人々。

 治療される人。治療の甲斐なく死に絶える人。

 戦場を駆ける騎士。魔物にやられる兵士。

 そして死んで、墓石の下で眠る亡骸。それに涙する人々。

 

 リチャードにとって不思議だったのは、墓場にたどり着いた遺体がもたらす精神的な作用だ。

 霊園に辿り着く遺体というのは死から随分と時間が経っているはずなのに、その死を目撃したであろう人たちは、数日経って再び故人の死を思い出し、涙する。

 あるいは墓石の前に訪れた人が、数年ぶりの死を想い、泣き崩れることもある。

 リチャードはそれまで、死はその直後こそが最も鮮烈で強烈なのだと思っていた。凶暴な魔物によって撒き散らされる血漿の広さこそが、死の大きさなのだとも、漠然と思い込んでいた。

 だが死とは、思い起こされることがあるらしい。死を目にした時の強い感情の揺れは、ふとした拍子に再燃するのだと。

 

 こうして墓守として勤めているうちに、死に対する想いが変化している。また、自分が見聞きしてきた様々な人の死について、考えることが増えた。

 

 死とは何か。死を想うとは。

 

 リチャードはその日、運搬に失敗して角のかけた墓石を譲ってもらった。

 どうにかうまい具合に削って整えられるならそれで良し。あるいは好きに削っても構わないと。

 

 彼はその日始めて、自由な彫刻に着手した。

 それがリチャードの始まり。死想の彫刻家リチャードとしての、第一歩。

 

『……これは、なんと……恐ろしい、のだろうか』

 

 彼の第一の作品を目にした時、クラウスは戦慄した。

 同時に、確かに予感したのだ。このリチャードという寡黙な男は、間違いなくこの方面で大成するのだと。

 

 

 

 

 

『……お墓、あるんですね』

 

 エバンスは坑道の入り口にある墓石を見て、瞠目した。

 そこについさっき摘んだばかりのような、美しい白い花が供えられていたので。

 

「ああ。そうだな、あれは墓だ。人間の……それについても、エバンスには色々と話しておくことが多い。最初だしな」

『そうですね。ここでの暮らし方、埋没殿に多く潜む危険なもの……そして、私達の目的についても。少し長くなるでしょうが、しっかりと話し合っておく必要があるでしょう』

 

 ルジャは全身白骨のスケルトンソルジャーだが、不思議とその姿を見ても恐ろしくは感じない。

 喋り声も気さくで、どことなく兄貴分のように頼りたくなる男だ。

 

 パトレイシアは見るからに貴族然としたハーフエルフで、エバンスには少し畏れ多い。それでも親身であろうとする丁寧さや優しさは、言葉や仕草の節々には現れている。

 

「……椅子、作ってもらわなきゃ」

 

 そして三人の後ろを歩いているのは、レヴナントらしき少女のレヴィ。

 彼女は少々物静かだが純朴で、無垢な子供である。

 他二人も優しく親しげであったが、エバンスは初対面でのこともあり、彼女には最も心を許していた。

 

『レヴィちゃん、椅子って何かな?』

 

 エバンスが腰を屈めて目線を合わせるように訊くと、彼女はその問いを待っていたように顔を綻ばせた。

 

「えっと、リチャードさんの。彫刻の職人さんが、私達の分の椅子を作ってくれるんです。とっても座り心地が良くて、しっかりした椅子」

『へえ、職人さんもいるんだ……あ、ひょっとしてあの墓石も、そのリチャードさんっていう人が?』

「はい。リチャードさん、なんでも作れるんです」

『リチャード……あれ、彫刻家のリチャードって……』

 

 その名は有名だ。エバンスも人と話す機会は多かったので、もちろん耳にしたことはある。

 

「ああ、そのリチャードさんで合ってるぜ。……まぁ、ちょっと……いや、大分変わった爺さんではあるが……」

『ルジャさん。リチャードさんは50歳ほどであったかと』

「えっ、そんなもんなの? 意外だな……けどまぁ、もう何年もここにいるみたいだし、爺さんってのも間違いではないだろう」

『そんなことを言っては私はお婆さんになってしまいますよ』

「……パトレイシアさんは、俺の中ではいつまでもお嬢様だぜ」

『あら、正しい返し方を学んでいただけたようですね。嬉しいです』

 

 耳をすませれば、坑道の中からは断続的に石を砕く音が聞こえてくる。

 採掘にしては細やかで、ただ叩いているだけにしては鋭い音。

 

『……僕、歌しかできませんけど……皆さんと仲良くなれるように頑張ります!』

 

 エバンスから見て、彼ら三人はとても良い人間であるように思えた。

 聞けば、自分を目覚めさせてくれたのも彼らあってのことらしい。

 だからエバンスは彼らの善性を疑っていなかったし、リチャードとも仲良くやっていける気がしたのだ。

 

 彼はバンシー特有の不自由な足でのろのろと坑道を走ってゆき、入ってすぐそこで地面に細い穴を開けているアンデッドを見つけると、息を吸った。

 

『あ、あの。はじめまして! 僕はエバンスといいます! これから……』

 “うるさい”

『えっ、あ、あの……』

 

 そのアンデッドは歯列の前に指を立て、苛立たしげにエバンスを見ている。

 

『よ、よろしく……お願いします……』

 

 リチャードは返事を返すことなく、作業を続けるのだった。

 

 

 



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静寂への想い

 

 エバンスも前もって注意は受けていた。

 リチャードは会話を嫌い、話しかけられることを嫌がると。

 作業中は特に顕著で、機嫌を損ねてはならないと。

 

 しかし相手は恩人でもあり、自分を救ってくれたらしい本人でもあるのだ。エバンスはそれまで培ってきた倫理観から、初対面で挨拶をするのは当然だと考えていた。誰も彼を責めることはできないだろう。

 

『まさか、あれほど会話を嫌っていたなんて……』

 

 エバンスは落ち込んだ。

 リチャードの無愛想な態度に思うところもあったが、単純に自分が失敗したことについて気を落としていた。

 

「すまねえエバンス。俺たちももう少し詳しく伝えておくべきだったよ。本当に悪かった。だからな? あまりそう、思いつめないでくれよ」

『そうです。私たちの不備でした。ごめんなさい。……まぁ、それはそれとしても、リチャードさんの対応も極端だとは思いますけど』

「本当にもう完全に偏屈な爺さんじゃねえか。気にするなよ、爺さんの癇癪だと思っておけ」

『はぁ……僕、これから大丈夫なのでしょうか……』

 

 エバンスは弱気だった。そして、バンシーになってしまったせいなのか、ただでさえ気弱で泣き癖のあった性格が、さらに極まってしまったかのように思える。

 

 しかし実際のところ、リチャードが音を嫌うということはエバンスにとって難しい問題を抱えていた。

 彼は歌を好み、歌を歌って生きてきた。自身の歌には自信があり、歌うことこそが自己の証明であったのだ。

 正気を取り戻したことは嬉しい。だが、リチャードの近くで歌うことは、この調子だとかなり厳しいだろう。

 

「……エバンスさんの歌、良かったな」

 

 レヴィは墓前の造花についた汚れを拭きながら、静かにそう零した。

 たった一曲だけであったが、レヴィはエバンスの歌に心動かされたのである。リチャードの作る作品も魅力があったが、常に深いテーマを見ていると心が疲弊してしまう。

 その点、エバンスの歌は癒しでもあり、シンプルに楽しい気分になれる。歌は娯楽として優れていたのだ。

 

『……ありがとう、レヴィちゃん。……でも、リチャードさんが歌を好きじゃないなら、この近くで歌うのは難しいよね』

「ん……リチャードさん、音が嫌いだから……」

『……しかし、自分の芸術のためだけに他の芸術を排斥するなど、あんまりでしょう。私は彫刻も歌も演劇も絵画も、それぞれ等しく保護されるべきだと思っています』

 

 パトレイシアは少し怒っていた。

 もちろんリチャードに対しては並々ならぬ恩も感じているが、芸術に貴賎はない。生前は様々な芸術に触れていたこともあり、今回の事情についてはエバンス以上に重く見ているようだった。

 

「しかしパトレイシアさんよ。リチャードさんはほとんどの時間を作業に費やしてるだろ? 言っちゃあれだが、あの人、頷いてくれるかねえ」

『直談判してきます』

「えぇ……」

 

 そう言って、パトレイシアは坑道の中へと飛んでいってしまった。

 

『だ、大丈夫なのでしょうか……』

「あー……さぁなぁ。パトレイシアさん、リチャードさんとはよく衝突するからなぁ。お互い、嫌っているわけではないんだろうが」

 

 

 

 パトレイシアは作業中のリチャードの前に降り立った。

 リチャードは視界を掠める青白い光を見て一度だけ顔を向けたが、すぐに床の穴あけ作業に戻る。

 

『話があります。今以上に効率よく外敵を遠ざけるための提案です。床に地道な穴を開けるよりも、場合によっては効果が見込めるかもしれませんよ。それに、今後リチャードさんを騒音で煩わせる機会が減るかもしれません』

 

 リチャードは率直な話を好む。

 そして内容が作業の効率などに関わるのであれば、聞かないこともない。彼はうっそりと顔を上げ、話の続きを促した。

 

『ありがとうございます。提案というのは、エバンスさんや私たちのための無響室。作っていただけないか、ということです』

「……」

 

 無響室。リチャードはそれを知らなかった。首を傾げる。

 

『無響室というのは、音が響かない部屋のことです。反響室の逆とでも言いましょうか。何十年も前になりますが、魔導研究の際、様々な魔石の発する微細なノイズ音を聞き取るために開発されました。研究目的でしか使われない施設だったので、リチャードさんもご存知でないかもしれません』

 

 バビロニアには様々な施設が備わっているが、上層の専門的な施設ともなると一般人は近づくこともできないので、立ち入る機会はないだろう。

 

『その無響室の中では、音がほとんど漏れなくなります。騒音が出なくもなります。私たちが内部で会話するのも良いですし、エバンスさんが歌を練習するのにも良い。リチャードさんが静かに瞑想したければ、そういった使いみちもあるでしょう。構造について私も詳しくはありませんが、原理は知っています。リチャードさんであれば似たような施設を作ることも、不可能ではないかと』

 

 挙げたメリットの何かしらを気に入ったのかもしれない。リチャードは少しだけ楽しむように続きを促した。

 

『特にエバンスさんの歌は、アンデッドに対しても何らかの作用があります。私はそれを検証すべきだと考えています。どういった歌をアンデッドが好むのか、あるいは嫌うのか。私たちを観客として、実験体として、それを一通り調べてみるべきです。これは安全な場所で行いたいので、無響室でなくとも防音室は欲しいところですね』

 

 本音を言えば防音室で十分なのだが、なんとなくパトレイシアは無響室の方がリチャードにとっては好みそうだと考えた。

 実際、リチャードは無響室に惹かれているようだ。話を聞いている間も、何かを考えている様子である。

 

『エバンスさんの歌が広範囲に効果を及ぼせるのであれば、探索が楽になります。あるいは防護柵無しにスケルトンハウンドを追い払うこともできるかもしれません。音楽は、動物や魔物に対しても効果がありますからね。腕の良いバードはその証明と言えるでしょう』

 

 リチャードは頷いた。

 そして立ち上がると、懐から木片を取り出し、そこにサラサラと文字を書き記した。

 この時点で既に、パトレイシアは勝利を確信していた。

 

 “無響室について詳しく教えてほしい。”

 

 どうやら交渉はうまくいったようだ。

 

『ええ、喜んで。きっと気に入っていただけますわ』

 

 



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綿状の素材

 無響室を作る事が決定した。

 それはエバンスを中心に据えた施設増設計画であったが、話はパトレイシアとリチャードが決めた時点で実質確定は揺るぎないものであった。

 

『無響室っていうのは使ったことがないですけど、自由に歌える場所ができるのなら楽しみです』

 

 エバンスは自分の歌に何か期待される事は嫌いではなかったし、設備を整えると聞けば胸は躍った。

 

「はぁ……」

 

 レヴィは彼の屈託のない笑みを不思議そうに見つめている。

 

『な、何かな? レヴィちゃん』

「エバンスさんって、女の子じゃないんですか……?」

『はい……僕は男だよ。公演の客寄せとか、そういうこともあって今みたいなヒラヒラな服を着ることは多いけど、わざとだから』

「お洋服、かわいいです」

『うーん……ありがとう!』

 

 死の直前、エバンスは着る予定のなかった舞台衣装を身に付けていた。

 幸か不幸か、そのようなこともあって今のエバンスは歌姫に相応しい姿なのだが、今後常にこの姿でいなければならないのかと思うと、エバンスとしては複雑な気持ちであった。

 

 

 

『まず、無響室に必要なものですが……とにかく大量の綿状のものが必要になります』

「わたじょう……?」

 

 施設の建設が決定し、まずやるべきは資材集めであった。

 いつもの広場に全員が集まり、パトレイシアの話を聞いている。今日は珍しくリチャードも聞くだけの姿勢で着席していた。

 

『綿、発泡体、とにかくそのような軽くて中空の素材ですね。海綿などでも代用できるかもしれませんが……それらが音を消すための主素材となります。壁がもたらす音の反響を最小限とするには、それらが不可欠です』

「綿ってことはつまり木綿とか、そこらへんの綿だよな? ……あるかなぁ」

『埋没殿は崩壊や経年劣化、瘴気の影響により大変物が傷みやすくなっていますからね……なので、普通の綿を得ることは難しいでしょう』

 

 レヴィの着用しているボロ切れも大概限界がきているし、頑丈に作られているはずのリチャードの罪人のローブもまた草臥れている。柔らかな綿が瓦礫の下敷きになっていないとして、無事かどうかは疑問だ。

 

『なので代用品を用意します。ここ埋没殿では一般的な資源は壊滅的ではありますが……骨蜘蛛の糸を集めれば、きっと代用品になってくれるはず』

「骨蜘蛛って、時々坑道の中をうろちょろしてるスカルベのことか?」

『はい。坑道にいるということは、どこかに骨虫スカルベの巣があるはず。そこにはスカルベが営巣のために吐き出す骨蜘蛛の糸が溜まっているはずですよ』

「巣……うう、気持ち悪い……」

 

 骨蜘蛛の糸は、主成分を石や骨とする細い糸状の鉱物繊維だ。

 脆く決して頑丈なわけではないが、綿や発泡体の代用としては使えないこともないだろう。

 

『もう一つが布。テーブルクロスほどの大きくて薄手の布が必要になります。発泡体を包み、纏めて塊にするためのものです』

「布ねぇ……薄ければなんでもいいのか?」

『薄ければ薄いほど良いです』

「つまり、あれか。たまに空を飛んでるやつ」

『はい。布を被って飛び回る幽体、クロスゴーストを倒して入手します。これも数を倒さなければなりません……なのでダメそうなら、他から布を調達することも視野に入れねばなりません』

 

 クロスゴーストは布を被って飛び回るゴーストだ。

 獲物を見つけると上から覆いかぶさって首を締めようとする悪霊だが、現時点で首を締められることが致命傷となる人物はここにはいない。布を掴んで辺りに叩きつければ勝手に霧散するか、布を残して逃げて行くだろう。

 

『それ以外の材料としては、針金か……角材、木材が必要ですね。布に詰めた発泡体を、楔の形に形成、壁面などに設置する時に使います』

 

 吸音効果のある楔を敷き詰め、部屋から発せられる音を跳ね返すことなく吸収する。それが吸音室の仕組みだ。

 

『もちろん部屋自体に防音効果がなければ無意味なので、まず先にそういった作業をリチャードさんにはやっていただくことになりますが……』

 

 リチャードは大きく頷いている。彼はいつも以上に乗り気だった。

 

「じゃあ俺は蜘蛛の巣探しと、機会があれば他の素材集めってとこか」

「わ、私も頑張ります」

『……僕はどうすればいいでしょうか?』

『エバンスさんもルジャさんと一緒の探索に行かれると良いでしょう。護衛が必要ですし、エバンスさんであれば突発的に現れたゴーストにも対抗できるかもしれません。お願いしますね』

『は、はい』

『それと、もし蜘蛛の巣が見つからないようであればスカルベそのものの骨でも構いません。焼いて砕けば、多少は素材になるかもしれませんから』

 

 こうして、大まかな方針が決定した。

 とはいえ無響室を作るにも相当な労力が必要だし、パトレイシアは材料が簡単に集まるとも思ってはいなかった。

 最低限、無響室の原型となる防音室がリチャードによって作られればそれで良し。それさえ出来れば、ひとまずの目標は達成できるからだ。

 

 “私も資材集めに参加する。”

『え? あ、はい。しかしリチャードさんには、部屋を……』

 “すぐに終わらせる。”

 

 しかし彼女にとって予想外だったのは、誰よりもリチャードがやる気に満ち溢れていたことであろう。

 

 “完全に音のない世界というものを、体験しなければならない。”

 

 リチャードは音の芸術には興味がなかった。

 しかし、完全な無音。完全な静寂には、並々ならぬ興味がある。

 

 彼は一番に広間を飛び出し、早速仕事に取り掛かった。

 部屋に残された彼らは顔を見合わせ、苦笑している。

 

「……まぁ、ああいうお人だよ。やるって時には誰よりも集中して仕事する、大真面目な職人さんだ」

『なるほど……僕の周りにも似たような大道具さんがいたので、わかるかもしれません』

 

 もちろんその大道具担当の職人にしてもリチャードほど偏屈ではないだろうが。

 そんな頑固職人たちでさえ、今はもうこの世にいない。ふとそんなことを再確認するたび、エバンスはまた寂しい気持ちになってしまう。

 

「……さあ、行こうぜ! 道中は俺が護衛するから、何か見つけたら言ってくれよな」

『はい!』

「あ、わ、私も護衛……やります。はい」

「いやいや、レヴィは無茶しなくて良いんだぜ」

 

 そうして三人も一緒になって探索へ赴いた。

 パトレイシアは一人残された部屋で、静かに瞑目する。

 

『……この採取作業の中でいくらか敵性アンデッドを倒せば、私たちの戦力は僅かながらも増強されるはず。スカルベ退治とクロスゴースト退治……一歩一歩、埋没殿の脅威を取り払っていかなくては』

 

 無響室の製作は長い目で見れば役立つだろう。

 しかしパトレイシアは、それよりも先にアンデッドの掃除が必要だと考えていた。

 

 以前、ルジャはグリムリーパーと遭遇した時、防戦一方の闘いを強いられたという。ルジャは武芸の心得を持つ唯一のまともな戦力だ。

 また同じ場面になった際、グリムリーパーになすすべなく敗北したのでは困る。彼自身も己の弱さを痛感していたが、そうであればなんとしてでも強くなってもらわねばならないのだ。

 

『……さて。人にやらせるだけでなく、私も頑張らなくちゃ』

 

 こうして、本格的な無響室の製作が始まった。

 

 



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獣の哨戒

 

 無響室製作のための素材集めが始まった。

 必要なものは大きな布に発泡体。理想的な素材は考えの上では挙げられるが、閉鎖的な埋没殿では贅沢も言えない。妥協ありきの素材集めである。

 

 スカルベの群生地を追っていけば、発泡体の主原料となる彼らの巣は簡単に見つかった。

 人間の頭蓋骨を仮宿として蠢くスカルベたちは当然ながら人間の死体を好む。それなりに体が大きいこともあって、巣は遠目からでも目立っていた。

 

 灰色の埃に包まれた窪地がそれであろう。近くにいるスカルベを入念に砕いて回れば、掃討には一時間もかからなかった。

 

「結構量があるんだな。何回か往復することになりそうだ」

 

 ルジャは大袋いっぱいに詰め込まれた石綿を見て、満足そうに頷いた。

 袋をいっぱいにしても重さはさほどでもないが、何かしらの容器に入れなければちょっとした空気の流れで飛ばされる。運び甲斐のない荷物であるが、大袋を使っても何往復もする必要があるらしい。

 

『うわ、巣穴の底で何か小さいのが蠢いてる……』

「ひっ……あ、あまり深くまで取るのはやめませんか」

「……小さな虫入りじゃかえってうるさくなりそうだ。そうしようか」

 

 レヴィたちはアンデッドを見てもなぜか生理的嫌悪は浮かばないが、不思議なことにスカルベに対してはおぞましさを感じる。

 人間の頭蓋骨を依り代とする不吉な生態は、アンデッドにとって天敵にも当たるのかもしれない。

 

 

 

 パトレイシアは単独で哨戒にあたり、危険な外敵の偵察に力を入れていた。

 道中では通りすがりのクロスゴーストなどを魔法で撃ち払い、大きな布材を回収することも忘れない。

 彼女は魔物を倒し続けるうちに、わずかではあるが霊体で物体に干渉できるようになったのだ。

 

『……やはり、倒せば倒すほど強くなる。使える魔法も、思い出すように増えていく……』

 

 最初はレッサー・フレアしか扱えなかった彼女も、今ではそれなりの中級魔法まで放てるようになった。

 魔力の底も引き上げられ、今では何十発撃っても飛行能力に差し支えはない。

 喜ばしい変化ではあるが、これは同時にパトレイシアの危機感をざわつかせる傾向でもあった。

 

『アンデッドが共食いで力を高めるのは既知だったけど……岩壁に槍を突き立てたネリダさんの膂力は、説明がしにくいわね。体格も筋力も平凡なそれ。彼女は戦士でもないのに、それだけの力があった……』

 

 他の生物を殺せば殺すほど強くなれるのではないか、という仮説。

 それが、最近のパトレイシアの中に芽生えた疑念だった。

 グリムリーパーが他者を殺して負の力を吸収するのはわかる。しかし、レヴィのようなレヴナントがスカルベを駆除して強大な力を得るというのは聞いたことがない。

 

 いよいよもって、ここが単なる地底ではない異世界であることが現実じみてきた。

 そして世界の構造の変容は、パトレイシアに一つの懸念を齎した。

 

 いや、それは懸念ではない。まず間違いなく現実であろう、憂慮だ。

 

『……アンデッドの同族殺しで力がつくなら、人間同士の殺し合いでも当然、力はつくわよね』

 

 殺せば殺すほど力が蓄えられる世界。

 それは穏やかな統治を目論む為政者にとって、悪夢のような世界の仕組みだ。

 それはつまり、暴力こそが正義であるというある種の真理を、どうしようもなく補強してしまう仕組みだからだ。

 まず間違いなく、世界は荒れるだろう。

 

『埋没殿の外は、大丈夫なのかしら……』

 

 大きな布を掴んだパトレイシアは、ぼんやりと光る瘴気の空にため息を零した。

 

 

 

 

 リチャードは部屋の拡張に精を出していた。

 広間を更に大きく削りあげ、無響室の基礎を作るためである。

 

 部屋は最初は拡張性を重視して円形に近かったが、その角を深く彫り込むことで今は四角い空間が出来上がっている。

 縦にも深く掘り下げられており、広間は一回りも二回りも大きく見えた。

 

 “……”

 

 リチャードは部屋の中心で工具を打ち合わせ、金属音を鳴らした。

 後は岩壁にぶつかり、戻ってくる。岩に囲まれたこの地下室は音が良く響き、一度なにかがなり出せば、後は数秒も世界に居座り続けるだろう。煩わしい響きだが、リチャードにとっては聞き慣れたものだ。とはいえ、意味の薄い残響音を聞くのが好きかというとそんなことはない。

 

 真の静寂は、この跳ね返り続ける騒音が消えるのだという。

 まるで屋外のようだが、そこには風の音も虫の声もない。

 その世界を、リチャードは見たかった。空間が生み出す静寂の妙を、体験してみたかった。

 

 リチャードは何度か金属音を打ち鳴らし、その響きをなんとなく覚えると、やがて坑道の外へ出て、空を見上げた。

 

 埋没殿。今は曇って見えないが、向こう側には豪奢な塔の名残が聳えている。

 長年暮らし続けた塔であったが、あそこには今自分が求めてやまない無響室もあったのだろう。構造や材料を聞く限りでは崩壊で跡形もなく潰れてしまったことだろうが、きっと今でもあの塔には無響室の残滓が残されているのだ。

 

 リチャードは政治に興味はないが、素直に凄いと思った。

 死しても尚、自分の知らない世界はあまりに多い。

 人は一生学ぶものだとクラウスも話していたが、まさにその通りだ。

 

 

 

 鈍く曇った空の上のどこかで、カチカチと金物がぶつかり合うような音が聞こえた。

 

 リチャードは不意に響いたその音の発生源を見上げたが、遠くには霧がかる外壁が見えるだけ。

 

 普通なら気にもしない些細な音だったが、リチャードは嫌な予感がして、そのまま静かに体を地面に横たえた。

 うつ伏せになった死体そのもののリチャードだが、彼の内心は至って真面目である。

 

「ゥロロロロロ……」

 

 虫のように壁にへばりつき、歩く。そんな異形の怪物が現れた。

 

「ロロロロロロ……コカカカッ」

 

 おおよそ人間。病的に色白。服はなく、全裸。だというのに手足には傷らしい傷もない不可解な容姿だった。

 顔は醜く灼け爛れ、目は白濁し、何も映していない。

 灼け爛れて皮膚を持たない口が開くと、そこにあるのは異様に長い犬歯だ。

 怪物は剥き出しの歯を見せつけるように顎を開き、甲高い異音を立てる。

 

 怪物は音を辺りに振りまくと、やがて同じように壁を伝って去っていった。

 

 “……”

 

 リチャードは怪物が去った後もしばらく、その場に伏せたまま動かなかった。

 

 

 



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新たなる脅威

 

 資材集めは大成功に終わった。

 スカルベの巣材は埋没殿の各所に点在しており、集めようと思えば無尽蔵に手に入る。一度に大袋を何個も持てないのが最大の難点らしい難点だと、ルジャは上機嫌に語った。

 

 クロスゴーストから得られる大きな布も、パトレイシアを中心に簡単に入手できた。幽体アンデッドのほぼ頂点と言って過言ではないレイスの手にかかれば、最下級の幽体を数仕留めることは難儀でもない。

 ルジャたちに同行していたエバンスの活躍もあって、布は何枚でも入手できるほどだった。

 

 エバンスは魔法も剣術も扱えないが、魔力を乗せた声を出すことで指向性のある音響攻撃を放つことができる。

 彼が少しばかり息を整え、空を舞うゴーストに向かって高らかな声を上げるだけで、面白いくらい簡単に敵が墜落するのだ。

 

 道中、危険らしい危険もなかったので、全ては上手くいっているかのように思われた。

 何もかも順調にいくのだと。

 

 

 “ヴァンパイアらしき魔物がいた。”

 

 

 帰ってきた坑道でリチャードがそのような木札を見せてきた時、そんな幻想は砕け散った。

 

 

 

 リチャードは寡黙である。

 その寡黙さといえば、達筆である癖に文章を認める事すらなかなかしないほどの筋金入りだ。

 そんな彼が元々は床だったらしき大きな板材に長い文章を書いて待っていたので、坑道の住民たちは驚いたものである。

 だが衝撃はその内容ほどではない。

 パトレイシアはリチャードの文章を読み込んで、思わず爪を噛みそうになった。

 

 

 “体躯は人間。肌は青ざめ、傷はない。顔だけが酸を被ったように灼け爛れており、おそらく目は潰れ、犬歯だけが鋭く発達している。外套蝙蝠のように響かせる音を発し、周囲を認識しているようだった。”

 

 

 リチャードはヴァンパイアを見たことがない。彼は不死者の討伐に関してはそれなりの経験があったが、都市部に隠れ潜むタイプのヴァンパイアは専門外なのだ。

 だから観察した情報を可能な限り正しくまとめ、確認を取ろうとしているのだろう。見つけた時間、場所、他にも長々と、リチャードは自分が見た怪物について事細かに書き連ねていた。

 

 そしてリチャードの集めた情報はまさに、ヴァンパイアそのものであった。

 どういうことか分からず顔色を見回すレヴィのよそに、パトレイシアは端正な顔を歪めている。

 

『……傷のない肌は、再生能力を持つ種族の特徴です。長い年月を生きているのに、それを感じさせない不気味なほど綺麗な容貌……加えて、発達した犬歯。最悪ですね……ヴァンパイアで間違いありません』

「そんなに最悪なのか」

『最悪です。何が最悪かというと、私たちにヴァンパイアを殺す手段がないということです』

「嘘だろ?」

『本当です』

 

 ヴァンパイアは驚異的な再生能力を持っている。

 その再生能力はといえば、首を華麗に断ち切られたとしても体や首が独立して動き続け、再びくっつけば即座に再生するほど。それはルジャの剣術が効かないことを意味している。

 

 同じく魔法も効果が薄い。効かないことはないが、その尋常ならざる回復力の前では火で炙ったところで数秒しか時間を稼げないだろう。パトレイシアの魔法も焼け石に水だ。

 

 何より、単純に力が強い。

 ヴァンパイアは強靭な防護服の上から人の肩を噛み砕く咬合力を持ち、虫のように壁に張り付いて動き回るだけの四肢の力がある。

 先程はルジャの剣が当たる前提で話したが、そもそも大人しく当たってくれるかはかなり疑問だ。凡庸なスケルトンソルジャーなど、盾の上から殴り殺せるだけの力があるのは間違いない。

 

『ええとね、レヴィちゃん。リチャードさんはヴァンパイアを見つけたと書いているんだ。真っ白な体で……』

 

 ふと見れば、文字を読めないレヴィのためにエバンスが説明しているところだった。

 パトレイシアは自分の気が回らなくなっていることに気付いてげんなりしたが、それでもやはり脳裏に生み出されるヴァンパイアの脅威は無視できない。

 

『……おそらく、ネリダさんやベーグルを襲った昔のヴァンパイア……なのだと思います。本来ヴァンパイアは理性的な精神を持つアンデッドですが、長く吸血できなかったために想像を絶する渇きに苛まれ……きっと長い間、死ぬよりも大変な苦痛に見舞われたのだと思います。そのせいで自我と理性を失い、獣となり果ててしまった。吸血鬼から堕ちた荒ぶる獣、俗に言う人狼というものです』

 

 人狼とはただの狼人間ではない。不死性を兼ね備えた理性なき恐るべき殺戮者だ。

 あるのは己を慰めるためだけの破壊衝動と、血を浴びたいという逃れ得ぬ欲求のみ。交渉は通じず、おそらく出会えばそのまま襲いかかってくる手合いだろう。

 

 そんな恐ろしい怪物が、ついに埋没殿の中へとやってきた。

 レヴィとエバンスは震えた。

 

「なぁ、殺す手段がないって……弱点はないのか?」

『強いて言えばリチャードさんの作る彫刻ならばというところですが……目が見えない相手に通用するとは思いませんね』

「あ」

『顔が灼け爛れているのは、きっと慈聖神か光輝神の祝福を受けた聖水を顔にかけられたのでしょう。だからその部分だけが自然治癒せず、そのままになっている。……だから蝙蝠のように、音を使って周囲を認識している……のだと思います』

 

 外套蝙蝠は大型の蝙蝠型の魔物で、その名の通り外套のように大きな翼を持っている。

 耳と翼を広げてカチカチと音を鳴らし、暗闇に潜む動物や人間を奇襲する。完全な闇の中でも襲撃してくる厄介な魔物であり、闇の中でカチカチと音がなったらすぐに伏せるべきというのは、昔からの兵士の知恵であった。伏せることで音波に姿を気取られにくくし、襲われなくなるのだという。ルジャも遠征の経験から、それだけは知っていた。

 

『この埋没殿に聖水はありません。というより、あったらあったでアンデッドの私たちにとってはそちらの方が脅威です。彫刻により自我を取り戻すこともできない。剣でも魔法でも望みは薄い……』

 

 口から出るのはあまりにも後ろ向きな言葉ばかりだ。

 

「……パトレイシアさん。どうするの?」

 

 レヴィは何か打開策を期待するような困り顔だったが、現実は非情である。

 

『……どうすることも、できませんね。時の流れに期待し、やがてグリムリーパーやドラゴンゾンビとかち合い、潰し合うことを期待するしか……』

 

 願わくば脅威同士で潰しあってもらいたい。

 でなければ、脅威が増えるだけである。

 

 



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火にかけられた鍋

 

 埋没殿に潜む不死者たち。

 かつて栄華を誇ったバビロニアの残骸は、ミミルドルスの腹の中で今も尚辛うじて巨塔の一部を遺している。

 

「跪け」

 

 塔の最上階、玉座の間。

 色褪せた十三階段の上、今も尚そこに鎮座する不動の玉座には、バビロニアが没落する以前と変わらぬ者がそこにいた。

 

 眇の狂王ノール。

 今は莫大な魔力を湛えるノーライフキングとして、生前より引き継いだ異形の白骨の身となっている。

 だが不死者になった彼は、己の理性と自我を失うことはなかった。

 知能あるアンデッドならば生前の記憶を引き継ぐことも珍しくはない。それが智謀に長けたノールであったならば、当然ですらある。

 

 今、ノールの前には一体のスケルトンが跪いていた。

 スケルトンには暗い不吉な靄が纏わりつき、スケルトンの動きを完全に掌握している。

 

 これこそがノーライフキングと呼ばれる至上のアンデッドが持つ能力。下等なアンデッドを己の意のままに操る、人間にとっては災厄でしかない王の力。

 

 スケルトンはまるで自我を持つ従順な家臣であるかのように頭を垂れ……やがてその頚椎が剣に砕かれ、不死者としての生を終えた。

 

「我が糧となることを許そう」

 

 剣を振り下ろしたのは他ならぬノーライフキング、狂王ノールだ。

 彼は己の力を気まぐれに試しているうちに、他者を滅ぼすことで力が増幅することを学んでいた。

 ノーライフキングとしてのアンデッド支配の能力は、距離や対象の力量によって左右される。発現したその時でさえ強力無比な効果ではあったが、ノールはそれよりも更に上の力を望んでいた。

 

「我は遍くを支配し、再び国を興す。人間も、不死者も、世界に蔓延る魑魅魍魎も、全てをこの玉座の前で跪かせてやる。不死なる絶対君主による永遠の統治。クカカカ……貴様もその礎となるのだ。嬉しかろう? ん?」

 

 異形の頭蓋骨はケタケタと嗤い、その正面に跪く新たなスケルトンは、暗い靄の中で恭しく頷いた。

 

 玉座の間には、ノールとの謁見を望まされた者の列が連なる。

 それはノールの糧として選ばれた者たちの葬列。

 絶対支配者の緩慢な死刑執行を待つ、バビロニアの民であった者たちの最期の旅路。

 

 ノールはかつての民であった不死者たちを、一人一人を丹念に、ゆっくりと処刑してゆく。

 破砕された骨が砕かれ、玉座の間に骨片が満ちてゆく。

 

 ノーライフキングは力を貪ることに夢中だ。少なくとも、今はまだ。

 

「グォオオ……」

 

 玉座の背後では、腐肉を纏ったドラゴンゾンビが微睡んでいる。

 今はまだ……。

 

 

 

 

 塔の外、埋没殿の荒野では、一人のアンデッドが当て所もなく彷徨っている。

 かつて親衛隊の儀礼服として鮮やかだった赤は今や色褪せ、手にしたオリハルコンの長剣は鎌のように曲がり、歪んでいる。

 

 その男はグリムと呼ばれ、狂王ノールのもとで親衛隊を務めていた。

 昔は女を魅了してやまなかった美男子としての顔も、今は白骨と成り果てている。

 だが彼が生前より鍛え続けてきた天性の剣技は、未だ少しの錆を見せることもなく斬れ味を保っていた。

 

「カカカカ……!」

 

 グリムリーパーは魂を喰らう。

 生者であろうと死者であろうと関係ない。彼は全てのものに終焉を齎すために、その歪んだ剣を振るっていた。

 

 グリムリーパーとしての苛烈な攻撃性。

 そして生前より持ち合わせていた、あらゆるものを斬り殺したいという残虐性。

 その二つが噛み合った現在の彼は、埋没殿の広大な荒地における無二の強者たらしめていた。

 

 彼に自我はない。残っているのは純粋な害意と悪意。しかしその単純にして醜悪な本能こそが、地中に呑み込まれたこの世界において悲劇的なほどに合致している。

 

 グリムリーパーは力を喰らい、獲物を求め続ける。

 まるで、いずれ対峙することになる強者に備えるかのように……。

 

 

 

 

 埋没殿の縦穴の壁面に、白い人影が蠢いている。

 それは一見すると全裸の男であるが、彼の爛れた顔と剥き出しの牙を見た時、それを単なる変質者と認めることはできないだろう。

 

 かつて貴族であったその男がこの地へやってきたのは、ただの視察のためであった。

 無尽蔵に財宝が湧き出てくる埋没殿。その完全なる掌握のために、対アンデッドとして無難であった長槍を持たせた私兵を引き連れ、バビロニアの遺構群へと踏み込んだのだ。

 

 しかし運の悪いことに、彼らは強力なアンデッドに襲われた。

 埋没殿が発する負の力に惹かれてどこかからやってきて住み着いたらしきヴァンパイアと遭遇してしまったのである。

 

 強大な力を前に長槍部隊は壊滅。人々は殺されるかグールと化し、悲鳴だけを遺して散り散りになった。

 長槍部隊は奮闘したのだが、咄嗟に逃げることもできずに真っ先に噛み付かれた貴族を救い出すことはできなかった。

 

 それから何年もの月日が流れ、その時の被害者であった貴族の男は今、こうして壁を這うように蠢いている。

 そこにはかつての傲慢さも、嫌々ながら受けていた高等教育の名残もない。

 長きに渡る鮮血への飢餓感は理性を壊し、飢えた獣としての本能だけを遺して蒸発した。

 

 在りし日の名はパイル。

 今は名もなき盲目のヴァンパイアである。

 

「コカカ……カカカカカカ……」

 

 やがてパイルは壁の下方向に何かを感じ取り、その身をカサカサと素早く動かした。

 盲目の彼にはもはや何も見えないが、彼の真下には間違いなく、何かがいて、蠢いている。

 

 動くもの。それは獲物だ。

 

「グァアアアアアッ!」

 

 瞬間、パイルは獣のような咆哮をあげてそれに喰らい付いた。

 振りかざした手は壁面をハンマーのように砕き、僅かに抵抗したらしい獲物も相当な力持ちではあったが、ヴァンパイアとしての比類なき膂力を遮るには値しない。

 

 パイルが襲いかかったのは、壁際に槍で縫い止められていた憐れなグールであった。

 それは以前にパイル自身が噛み殺してグールとした相手であったが、今の彼にはそんなことすらわからない。

 

 あるのは衝動。それだけだ。

 

「ゥロロロロ……」

 

 やがてそのグールは無茶苦茶に引き裂かれ、腐肉を噛み砕かれ、原型を留めない血のシミとなって消えた。

 隷属化した無力なグールさえ、そうとは気付かずに屠る暴君。

 

 理性なきヴァンパイアは獣のように辺りを見回し音を発すると、やがて緩慢な動きで、再び壁を登りはじめた。

 次なる獲物を探すために。

 

 

 

 

 不死者で満ちた埋没殿は、僅かずつではあるが、煮詰まり始めていた。

 やがてドロドロに固まり始めたスープは、自ずとその中身を顕にすることだろう。

 

 不死者は数多いが、無限ではないのだ。

 

 

 



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自分のための歌

 坑道に棲むリチャードたちは、その活動範囲をすっかり狭めていた。

 ヴァンパイアが発見されたことに加え、今まで壁際で串刺しにされたまま放置されていたベーグルがある日無残な姿で発見されたことが、一番の理由である。

 

 付近にヴァンパイアがいる。しかも、定期的に動き回っているらしい。

 対抗策を持ち合わせていない彼らは、自然と洞穴暮らしを余儀なくされたのだ。

 

 とはいえ、彼らはアンデッド。食の必要はなく、水も空気も睡眠も排泄とも無縁の身だ。

 坑道の入り口を廃材で塞いでも、自衛し続けることは可能であった。

 

「いっそこのまま地上まで穴掘っていった方が楽かもなぁ。道具だってあるし、時間も腐るほどある」

『穴掘りですか……僕も協力できたら良いんですけど、この体じゃ無理ですね……』

「冗談だよ、冗談。気にするなよエバンス。俺らみたいな素人が掘り進めても、途中で崩落して死ぬのがオチさ。伊達に昔から死の底だなんて呼ばれてねえわけだ」

 

 今、この場にパトレイシアはいない。

 彼女だけは宙に浮かぶことができ、目のないヴァンパイアに襲われる危険性がほぼないことが理由であった。

 エバンスは幽体だが空を飛べないので、魔力を帯びたヴァンパイアの攻撃に晒される危険があり、外出を控えている。

 近頃のルジャとエバンスは、すっかり会議の間でだらだらと会話するだけになりつつあった。

 

「本当は、パトレイシアさんみたいな人はここでじっとして、参謀をやってるのがお似合いなんだよな。それがやむなく斥候やらされて……人材不足で参っちまうよ、ほんと」

『パトレイシアさん、頭が良さそうですからね。凄いと思います』

「ああ。困った時はなんでもあの人に聞くといいよ。俺は学がないからな。何も考えずに体を動かしてるのが一番良い」

 

 実はルジャも機転は利く方なのだが、自分よりも優秀な人間がいるならば判断はそちら任せにすべきだと考えている。

 

『人材不足……あの。僕を正気に戻したように、他の人……たとえばこの坑道にいるスケルトンの方々を戻したりは、しないのですか』

「あー……まぁ気になるか。実を言うと、まだはっきりとはわかってねえんだ」

 

 ルジャは骨椅子の背もたれを軋ませ、天井を仰いだ。

 

「この坑道をうろついてるのは、ほぼ全てが大昔に死の底で奴隷をやってたアンデッドらしいんだ。リチャードさんの作品は物によっては人の意識を正気に戻すけど、なんつうのかな。古い人たちも怖がりはするんだが、戻るところまではいかないんだよな」

『怖がりはする……でも、自我は戻らない。……昔の人々だからでしょうか』

「可能性は色々あるから、なんともな。パトレイシアさんが言うには、作品の内容が綺麗にヒットしなかっただとか、既に呼び戻せるだけの自我が摩耗し、無くなっているだとか……」

『……時間とともに自我を失って、二度と人としての意識を取り戻せなくなるのだとしたら……大変ですよね』

「そうだな。時間をかけすぎたアンデッドは殺すしかなくなる。……救う手立てがあるのにな。パトレイシアさんにとって、それはつらいだろうな」

 

 かつてのバビロニアの民を救いたい。パトレイシアのその想いは、ルジャもよくわかっている。

 だから彼女が今現在、身動きもろくに取れない状況を歯痒く感じているのも理解しているつもりだ。

 その上で何もできないのだから、遣る瀬無いものだ。

 

「あの、すみません。ルジャさん、エバンスさん」

 

 二人が頭をひねっていると、入り口からレヴィが顔を出していた。

 

「おお、どうした?」

「ちょっと、来てもらえますか」

 

 どことなく彼女の顔は嬉しそうだ。

 

「ひとまず防音室ができたので、見て欲しいそうです」

 

 

 

 リチャードはここしばらく、無響室作りのために尽力していた。

 元々彼はバビロニアの民の救済には興味がなかったので、当然とも言える。

 

 そして今日、手先がそれなりに器用なレヴィを助手として働かせた甲斐もあり、無響室の前段階とも呼ぶべき防音室が出来たのだった。

 

「お、すっげえ。部屋じゃん」

『うわぁ……!』

 

 彼らが踏み込んだ大広間は、それまでの四角いだけの無機質な空間から一変していた。

 部屋の全面には中空素材が敷き詰められ、その上で木材による層が空気の隔たりを作っている。

 今までの石だらけの部屋ではない、上下四方を板張りにした人間味のある空間が仕上がっていた。

 

「あとはまた石綿をつけて、布で形を作った石綿の楔を貼り付けていきます。こんな風に……」

「お、それが完成図か。絵上手いなレヴィ……ああいや、これリチャードさんのか。ふうん……へえ、なんかギザギザしてて、面白い部屋になりそうだな」

『凄いなぁ……こういう風にできてるんだ……』

「入り口は、このドアで蓋をします」

 

 レヴィが傍から持ち上げたのは、分厚い木製の扉だ。

 石綿をふんだんに使ってあるので、体積ほど重くはない。縁にはタールのような黒っぽいものが塗布してあり、それがパッキンのような役目を果たすらしかった。

 

「このドアをはめ込んで、ここを動かすと閉まります。そうやって閉じないと、音が漏れちゃうらしいです」

「はー、普通の扉ってわけにはいかねえんだな」

「はい……それで、あの。エバンスさんに、防音室で声を出してみて欲しいんです」

『僕に?』

「リチャードさんが、試す必要があるって言ってました。現時点で音がどれほど軽減できるのかって」

「あの人音のことになるとうるさいからな」

 

 ルジャの言葉にくすりと笑い、エバンスは胸に手を当てた。

 

『……ありがとうございます、レヴィちゃん。歌えることもそうだけど、みんなのために役立てるのが一番嬉しいよ。その役目、しっかりと果たさせてもらうね』

「はい!」

『ところで、リチャードさんは……? ここにはいないみたいだけど……』

「リチャードさんは今資材置き場に行ってます。まだ作業がたくさんあるみたいなので」

 

 とはいえ、防音室は使ってもいいらしい。

 リチャードに礼を言わずに使うのは少しだけ気が咎めたが、しばらく歌っていなかったこともあり、エバンスは逸る気持ちで部屋な中央へと進んだ。

 

「じゃ、締めるぞ。聞こえないかもしれないから、時間が経ったらこっちから開けるからな。壁抜けできるなら頑張って出てくれてもいいが」

『はい』

 

 扉が壁に嵌め込まれ、空間を密閉する。

 灯りも換気もない部屋は人間にとってあまり上等な空間ではないが、ここにいるのは一人のアンデッドだ。気にするのはあくまで音だけでいい。

 

『……ふふ』

 

 エバンスは一人きりになった空間で、久々に歌声を上げ始めた。

 

 

 

 



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屠殺の決意

 

 防音室の効果は実証された。

 入り口の機密性が高いこともあってか、音漏れは非常に少ない。エバンスが部屋の中で歌っていても、ドア越しではほとんど聞こえないほどであった。

 ここから楔型の吸音体を設置してゆくことで無響室へとなるのだが、それにはまだ物資が足りない。なので最後の調達はルジャとパトレイシアが請け負い、エバンスとレヴィは防音室で歌声の効果を実感することになった。

 

 エバンスにとってはライフワークであり、レヴィにとっては貴重な娯楽である。

 

 

 

 エバンスの歌は密かに対ヴァンパイアの切り札として期待されている。

 目の見えないヴァンパイアに通じるものがあるとすれば、それはもう音しかなかったためである。剣で戦えない以上、残り少ない手札を見ればすぐに浮かぶ発想だ。

 

 エバンス自身も己の歌が重要となり得ることは知っている。

 こうしてレヴィの前で試し試し歌うのも、常に真剣だ。

 

 生前の歌。明るい歌。暗い歌。エバンスは様々な歌を知っているが、レヴィはどの歌も楽しそうに聞いている。

 どうやら魔力を込めずに歌う分にはどの歌もほとんど効果はなく、感情を激しく揺さぶることもなかったようだ。

 

 逆に魔力を込めた歌は、劇的な変化が見られる。

 明るい歌であれば感動が増し、暗い歌ならば気分が沈み込むのだという。そのためにエバンスは二つの種類の歌を交互に歌う必要があった。

 

「エバンスさん、歌……すごい、上手いですね」

『ふふ、ありがとう。……これから激しめの曲にするから、ダメそうだったら言ってね?』

 

 そして魔力をより多く乗せた、刺激的な曲。

 乱暴な曲調と絶え間なく響く声は、防音室をビリビリと震わせる。

 真正面で聞くレヴィは思わず耳を塞ぎ、蹲ってしまうほどの威力が秘められていた。

 

 歌はすぐに取りやめられ、エバンスは狼狽えた。

 

『ご、ごめんね! 痛かったかな……』

「大丈夫です……びっくりしちゃって」

『……どんな感じだったかな。動ける? それとも、嫌な感じがするだけ?』

「ええと……なんだか、ズンってきて……奥の方までくるみたいな感じで……それと、全身が驚いちゃったみたいで、こう……」

 

 説明は要領の得ないものだったが、どうやらエバンスが強い魔力を乗せた歌であれば、レヴナントを圧倒するだけの力が秘められているようだ。

 あとは乗せる魔力の量と選曲などを吟味する必要があるだろう。

 

「おーい、開けるぞー」

 

 そして部屋にルジャがやってきた。

 

「最後の歌、結構音が漏れてたわ。それだけ伝えにきたぜ」

『そ、そうですか……ありがとうございます。ご迷惑を』

「ああ、気にすることはねーって。実験だしな」

 

 どうやら本気の歌声は防音室を突き抜けるほどのものだったようだ。

 パトレイシアは最初に防音室だけでも問題ないという目論見を立てていたが、現状を考慮するにどうもそれだけでは足りないらしい。

 

 エバンスのより効果的な歌を模索するには、無響室を作る必要があるらしかった。

 

 

 

 

 リチャードは無響室のための吸音楔を量産していた。

 彼は最も手先が器用であったし、精度は無響室の質に直結するので、本人も納得の上での作業である。

 しかし吸音楔に必要なスカルベの巣材は常に枯渇状態で、苦肉の策として似たような発泡体として様々なものがつめこまれている。

 特に焼いて脆くさせたスケルトロールの骨などは適しており、砕いて使えばそこそこの効果が見込めそうである。

 

 どうやら最近は魔物系アンデッドの数が増えているらしい。

 パトレイシアはその原因が、坑道を塞いでいたヴァンパイアがこちら側へ移動してきたためだと考えているようだ。

 

 リチャードとしては材料が増える分には構わない程度の気持ちでいるが、より流入が悪化すれば坑道にまで闖入者が現れるかもしれない。

 魔物由来のアンデッドは特に騒がしいものが多いので、スケルトロール程度で留まるのが理想だが、こればかりは運だろう。

 

『リチャードさん』

 

 楔を作っていると、パトレイシアがやってきた。

 彼女は定期的に哨戒に出ては、大きな布材を持ってくる。坑道のメンバーの中でも最も精力的に働くアンデッドの一人だ。

 

『折り入ってお願いしたいことがあるのですが、よろしいですか』

 

 リチャードは無言で頷いた。

 

『……率直に申し上げます。坑道内の意思無きアンデッドたちを、全て破壊しませんか』

 

 それはリチャードにとってもやや驚くほどの提案だった。

 無反応をどう思ったのか、パトレイシアは慌てて“レヴィさんたちのことではありませんよ”と付け加えた。当然リチャードもそのくらいのことはわかっている。

 

『理由はいくつかありますが、まず彼らが完全な無害ではないことです。彼らは物音を立てて歩くので、バリケードがあるとはいえ、音が外にまで聞こえてきます。それをヴァンパイアに察知されたくない』

 

 尤もな理由である。未だ自我を取り戻さないスケルトンたちは、現状最も不注意な音源と言えた。

 

『そして区切りをつけるためです。私はリチャードさんの作品には力があることを疑っていませんが、古いアンデッドである彼らにはそれが通じない。自我を取り戻すのは困難であり……ならば、我々は力の糧とするべきでは、ないかと……』

 

 坑道の野良アンデッドたちはリチャードの作品を恐れる素振りを見せるが、それだけだ。彼らは自我を芽生えさせることなく、今日にまで至っている。リチャードとしても多種多様な作品を作ってきたが、最近ではパトレイシアの意見に合意する方向に考えを変えていた。

 

 なので、リチャードは特に逡巡するまでもなく、木片に返事を書き記した。

 

 

 “破壊したあとの骨は素材に使うので、一箇所に集めておいてほしい。”

 

『……ありがとうございます。ええ、どうせならば有効活用しましょう』

 

 パトレイシアもリチャードならば忌避感はないだろうと思っていたので、これは予定調和だった。

 きっとルジャも賛成してくれるだろうが、少しでも葛藤する相手のためを思えば、あらかじめ賛成票の数を増やして後押ししておくべきであろう。

 特にレヴィなどは、心を痛めるかもしれなかったから。

 

『ルジャさんに綺麗に壊していただくのが一番ですね。後でお願いしてみます』

 

 戦力は少しでもルジャに集中させる。

 何より、彼にはまだまだ忌避感が残っているので、今からでも少しずつ意識を変えてしまいたい。

 

 そうでなければ、きっと間に合わなくなる。

 

 パトレイシアは埋没殿の各所に存在する不死者たちが目減りしている事を、なんとなく察していたのだった。

 

 

 



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空に浮かぶ幽かな影

 坑道を彷徨う古きアンデッド達に意思はない。

 自発的に襲いかかってくることもないが、手出しをすれば反撃するだけの本能はあるので、ルジャは彼らに関わることをしなかった。それは好奇心旺盛なレヴィでも同じだろう。

 つまり、日常的に常に一線を引いた付き合いをしていたのだ。情も移らないし、同時代の人間ではないと思えば躊躇はいらなかった。むしろ、長年囚われ続けた魂を解放してやろうと前向きになれる程度には、その行いは救いであったのかもしれない。

 

「安らかに眠ってくれ」

 

 背後から頭蓋を砕き、一撃でアンデッドとしての生を終わらせる。

 その場に崩れ落ちる胴体はルジャが受け止め、一連の流れに無駄な物音は皆無。

 

 ルジャはここしばらく、パトレイシアから打診された坑道内での不死者討伐に奔走していた。

 彼は元々軍人だ。仕事となればドライにもなれるし、今回は事情も理解できるものではあったし、やれと言われれば否とは言わなかった。

 

 それでも自責するような顔をしていたパトレイシアに対し、ルジャは言った。

 

「パトレイシアさん。一人で抱え込む必要なんて無いんだぜ」

 

 スケルトンソルジャーがレイスを口説いて何になるわけでもなかったが、その言葉にパトレイシアは励まされたようだった。

 

『ありがとうございます。さすが、我らがバビロニアの騎士様ですね』

 

 しかしルジャはなんとなくその返し方が“脈なし”であるとわかる。

 さすがは長きを生きる精霊族の貴族。純朴な村娘とは違い、男の媚びや優しさに少しも靡かない。

 

「俺もそこそこモテてたんだけどなー、この顔じゃなー」

 

 ぶつくさ言いつつ、ルジャは哀れなスケルトン達を駆除してゆく。

 彼らの生い立ちにはなるべく、意識を向けないようにしながら……。

 

 

 

 

「ここに引っかけるんですね」

 

 レヴィの問いかけにリチャードは頷いた。レヴィは指示通りに動き、自身で判断せず他人に委ねる癖があった。

 自発的に動けない。受動的。後ろ向きな言葉で形容することは容易いが、指示通りにしか動けない存在は希少であり、有用性も高い。

 少なくともリチャードは自身の考えに従って忠実に作業できるレヴィの労働性を評価していた。その関係性はまさしくアンデッドの支配者たるリッチと配下のレヴナントそのものであったが、実際に種族としての力が両者の間で働いているのかは謎である。

 

「これもこっちに……次は横向きに……」

 

 防音室にはさらに手が加えられ、ついに吸音楔が取り付けられる段階にまで至った。

 最初は廃材を組んで作った脚立を使って天井に、次に壁を埋めるように楔が取り付けられてゆく。

 それもかなりの数を設置しなければならないために重労働であるが、一番手をかけたのは間違いなく床であろう。

 

 現在、床は網状の細い鉱物で作られている。

 音は当然、床に対しても反射するので、それを防ぐために網状の床にする必要があった。網の向こう側には当然防音と楔が施されている。

 

 人が乗っても壊れない網を製作するのは無響室製作において最も困難な分野であった。

 なにせその網は重量のあるものが乗っても壊れないことは当然として、軋む音さえたててはならないのだ。金属ワイヤーを張り詰めるように設置してもうまくはいかず、素材選びからして難航し続けた。

 

 解決したのはパトレイシアの錬金術だ。

 彼女は専門外だと不満そうにしていたが、以前にエバンスのために用意した石像と同様の素材を用いることで形成が容易な剛体を生み出せることは知っていたので、どうにかそれを採用できたのだ。

 限界まで肉抜きされた奇怪な模様のプレートは、型によって量産されたもの。それが壁際から一枚ずつ差し込まれ、組み合わされることによって床を作っている。自重によって床は平坦ではなく、緩やかに窪んでしまってはいるが、それぞれのプレートは繋ぎを注入し焼き付けてあるため、軋むことはない。

 あまりにも重いものに対しては無力だが、数人が乗る分には小ゆるぎもしない施工となった。

 

 完成が近づくにつれ、静寂が深まってゆく。少なくともリチャードはそう感じていた。

 感覚の目を閉ざせば、まるで何もない青空に浮かんでいるかのような錯覚すら覚える。吸音楔の効果だろうか、作業のために壁際にいるレヴィの声さえ幽かであった。

 

 まだ入り口を塞いではいない。もし完成し、入り口を閉じたならばどうなるのだろう。

 無音の空間。真の静寂。リチャードは楽しみであった。

 

 

 

 

「ルォオオ……コカカカカカ」

『……』

 

 パトレイシアは哨戒中、壁を這う奇妙な人影を見つけた。

 甲高い音を発して這い回る影。焼けただれた顔、剥き出しの口、鋭い牙。それは紛れもなく、リチャードから伝え聞いていたヴァンパイアそのものだった。

 

 見れば見るほど、それは獣じみていた。ともすればこの埋没殿にいたスケルトンハウンドの方が、社会性を持つだけまだ人じみているかもしれない。

 このヴァンパイアにはそれすらない。彼は自身の眷属の区別さえ無くし、音を立てるもの全てに見境なく襲いかかる獣へと堕ちたのだ。

 

 幸い、レイスに実体はない。

 ヴァンパイアほどの魔力があればその攻撃はレイスの体すら引き裂くだろうが、このヴァンパイアは盲目であり、聴覚に頼っている。

 実体の無いレイスを察知できなければ攻撃しようもないので、パトレイシアは冷静に彼を観察することができた。

 

 もはや身分を示す持ち物は何も無い。しかし肉体はそのまま。

 背景を類推することは難しかったが、それでもかなりの年月、ヴァンパイアとして過ごしてきたのは間違いなさそうだ。

 

 ある程度観察して、パトレイシアは道を引き返してゆく。

 これ以上は何も情報を見込めないだろうし、自分の仕事は哨戒だけではなかったからだ。

 パトレイシアは今や様々な仕事を掛け持ちし、慌ただしく埋没殿を駆け回っている。時間は無駄にはできない。

 

「コカカカカカ……」

 

 飛び去ってゆくパトレイシア。

 その手には今日の戦果である、クロスゴーストの薄布が握られている。

 

 パトレイシアが飛び去った後、ヴァンパイアは空中でわずかに音を反射してきた布の幻影を追うように、爛れた顔を向け続けていた。

 

 

 



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終わりのない世界

 

 

 時は二十年近く遡り、埋没殿がミミルドルスに呑まれて間もない時代のことである。

 

 突如荒野に現れた大穴は、その濃密な瘴気によって、すぐさま一帯の生態系を混乱させた。

 無数に張り巡らされた坑道、尽きることなく湧き続ける不死者の群れ。

 人ばかりでなく魔物ですら恐れる魔境の出現に、種族間の争いすら止まるほどであったという。

 

 しかし時が経つにつれ、人はその大穴に無数の財宝が眠っていることを嗅ぎつける。

 洗練された遺構、世界の全てが集約されたかの如き莫大な富。大穴がもたらす脅威は依然変わることはなかったが、それでも命懸けの冒険の末に目も眩む財宝があるならば、人はどこまでも愚かになれるのであった。

 

 パイルの家は、そうした危険を顧みない冒険心によって築かれた富を元手に貴族位を得た、紛う事なき成り上がりである。

 不死者に対して一方的優位に立てる長槍と、スミスの隠し武器庫より見つけ出した強靭な防護服のセットが、彼ら探窟団の成功の秘訣であった。

 

 パイルは年若い男で、嫡男でもなかったが、その家柄故に出世欲と名誉欲は高く、自ら進んで坑道に踏み入るだけの精神力があった。

 彼は財宝さえ見つけ出せれば生まれの順序など容易く覆せることを知っていたし、腕っ節の強い自分が兄弟の誰よりも探索に優れていることを疑っていなかった。

 

 実際、パイルの指揮する長槍部隊は損耗率も低く、探索ごとに挙げる成果も目覚ましい。

 当時から今日まで続く、“不死者には長槍と聖水”の定石や戦法を盤石なものとしたのは、彼の活躍も関わっているだろう。

 

 危険そうな場所にはまず囮の奴隷を突っ込ませる。

 遭遇した不死者に対しては必ず二人以上で対処する。

 負の瘴気に呑まれそうになった死に損ないは私兵であっても容赦なくトドメを刺し、アンデッド化する前に迅速に処理する。

 

 パイルの判断は時に残酷だが、しかし的確ではあった。

 本人は腕っぷしが強いだけで武の心得があったわけではないが、運用は秀でている。だからこそ勝ち馬となり得ていたし、兵もよくパイルに従っていたのである。

 

 その時までは。

 

 

 

 ある日、パイルは奇妙な不死者に噛まれた。

 力強く、素早く、青白い肌の不死者であった。

 

 遭遇したことに気付いた瞬間には、既にパイル自身が真っ先に噛み付かれ、うめき声をあげていた。

 それからは、死闘である。部隊は突如現れた謎のアンデッドと闘い、多数の犠牲を出しつつもどうにか撃退する。

 その不死者が常識外の治癒能力と膂力を備えたアンデッド、ヴァンパイアであることに気付いたのは、敵が逃げ去り、一息つけたからのことである。

 

 多くの兵は爪や打撃によって殺されたが、唯一パイルだけが噛まれていた。

 彼は真っ先に襲われ、肩を噛み砕かれた後は壁際に背を預け、息を整えている。なぜ生きているのかわからないほど血を流したし、深手を負っていた。だというのにパイルは己が段々と痛みを感じなくなりつつあることに気付くと、自分自身が恐ろしかった。

 

 パイルはアンデッドになりかけていた。

 それがヴァンパイアなのか、グールなのかはわからない。どちらにせよ、それが人間としての自分の終わりであることには変わらない。

 

 パイルの暮らす町は埋没殿の富によって栄えていたが、それ故にアンデッドは不倶戴天の敵である。彼らのほとんどはアンデッドによって家族を失い、アンデッドによって友を失っていたからだ。

 そして彼らは皆、アンデッドを殺すことに長けている。もしもパイルが人外であることがバレたならば、生きてはいられないだろう。

 

 “パイル様”

 

 蒼白な顔のパイルは、生き残った隊長に声をかけられた。

 彼は心配そうな顔でパイルを見ている。その手には、煤けた金属製のコップが握られていた。

 

 ああ、そうだ。喉が渇いている。

 どうにかしてこの男を騙し、人間の振りをしなくては。

 そして、この喉の渇きを潤さなければならない。

 

 パイルが薄く笑みを浮かべた時、向き合った隊長は見た。

 彼の口の中に、鋭く伸びた牙が潜んでいるのを。

 

 “これも、あんたがしつこく言い聞かせた規則ですぜ”

 

 コップの中身がぶちまけられる。

 顔にかけられ、熱さと、鋭い痛みが襲う。

 視界は瞬く間に白く濁り、自分のものとは思えない絶叫が発せられ、狭い坑道の中で何度も反響する。

 

 “四人で突き殺せ! ”

 

 誰も足の折れた勝ち馬に用はない。

 

 “もっと聖水をかけろ! 銀の武器を構えろ! ”

 

 誰も人望によって集まったわけではない。

 

 “ダメだ! 力が強すぎて……”

 “こいつ、グールじゃないぞ! ”

 

 パイルはただただ、痛みから逃げるように暴れ、走り、叫び続けた。

 既に彼の目は何も映すことはなく、喉の中まで焼けている。

 人らしい言葉を出すこともできず、目で見て意思疎通を図ることもできない。

 

 気がつけば彼は坑道のどこか隅の方でうずくまっており、近くには誰もいなかった。

 自分の率いていた部隊がどうなったかなどわからないし、今や興味もない。

 

 彼はただただ暗闇の中で孤独で、喉が渇いていた。

 

 

 

 パイルが人らしい自我を喪うのに長い時間はかからなかった。

 なにも見えない世界と、人間に襲われることへの恐怖。そして癒されることのない飢えと渇き。

 人ならば数日もそうしていれば発狂する前に静かに行儀よく死ぬが、パイルはヴァンパイアだ。渇いても死ぬことはなく、ただただ終わりのない苦しみだけが続いてゆく。

 

 彼は己が血に飢えていることを自覚していたが、もはや味わってきた苦しみはただその場しのぎの血で贖えるものではなく、苦しみから永遠に解き放ってくれる安寧の死をこそ望んでいた。

 

 もはや世界に希望などない。

 全てを終わりにしてほしい。

 

 だがパイルの望みは叶わない。叶わないまま、時だけが過ぎ、苦しみだけが続いてゆく。

 

 そうして彼は、自我を失った。

 

 

 

「……ゥロロロロ」

 

 彼は今、音を追っている。

 宙に向けて放った音波。そこで微かに跳ね返ってきた、空を飛ぶ布の塊のようなものの存在。

 パトレイシアが片手間で採取してしまった、薄い布。

 

 動くもの。追いかけ、壊し、牙を刺すべき存在がそこにある。

 思考はない。彼はただ本能に従い、反射として動くだけ。

 

 パイルは何も考えなかったし、何も感じることはない。

 彼は無感情なままに、パトレイシアが入り込んでいった坑道の入り口へと近づいてゆく。

 

「ロロロロロ……コカカカ……」

 

 狭い坑道の中に、不気味なクリック音が鳴り響いた。

 

 



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おびき出せ

 独特の甲高い音は、坑道の中で反響し、よく聞こえた。

 音は小さかったが、聞き慣れない音は不思議と目立つものだ。

 

「……」

「……」

 

 リチャードの真似をしたわけではないが、ルジャは指を立て、皆に沈黙を促した。

 それまでぼそぼそと会話していたレヴィも口を噤み、表情を強張らせている。

 

『……』

 

 エバンスは辺りを見回し、反応を窺った。

 大部屋にはリチャードを除いた四人がおり、それぞれ休憩がてらの雑談を交わしていた。そんな彼らから笑みが消え、重い沈黙が訪れている。

 

 

 ──コカカカ

 

 

 小さな音が響き渡る。音は、先ほどよりも近い。すぐそこではないが、遠くはない。少なくとも、坑道の中に入り込んでいる……。

 

『……!』

 

 その時点で、パトレイシアは己の失態を悟った。

 こうして雑談に興じているきっかけは先ほど見かけたヴァンパイアの報告のためであった。そこからすぐに、坑道まで追跡されたのは偶然ではあるまい。ならば何故……そう考えた時に、片手間で持ち合わせていた布材が思い浮かぶ。

 

 ヴァンパイアは音で空間を把握する。

 宙に浮かぶ布が、わずかに反響を歪ませていたのだとすれば……それは紛れもなく自分の責任だ。

 

 パトレイシアは人一倍多く働き、考えを巡らせていた。肉体はないが精神は疲れる。そんな弛みが失態に繋がった……そう考えられたとしても、自分の行動によって仲間を危機に晒していることには違いない。

 彼女はわずかに唇を噛むと、速やかに覚悟を決めた。

 表明は小声だ。

 

『……私の声で誘導し、坑道の外へと連れ出します』

 

 危険だ。ルジャはそう言いたげに首を振ったが、パトレイシアは頑固だった。

 この場で最も安全に囮になれるのは、宙に浮かべる己をおいて他にはいない。

 ヴァンパイアには霊体を傷付ける力があるが、うまく立ち回れば避けることも適うだろう。

 

『皆さんはここでお待ちください。くれぐれも、お静かに……』

 

 三人は誰もがパトレイシアを引き止めていたが、彼女は貴族らしい礼を見せると、すぐさま大部屋を飛び去っていった。

 

 

 

 坑道は長く、入り組んでいる。音も複雑に反響するはずだ。

 しかしヴァンパイアのパイルは長く洞窟生活を続けていたためか、音の捕捉は手慣れている。彼は甲高い音を振りまきながら、壁にぶつかることもなくそろりそろりと地を這い、獣のように進んでいた。

 

 パトレイシアは坑道の大通りに彼の存在を見つけると、覚悟はしていたが身体が竦むような思いがした。

 逃げ場はなく、目の前には己を殺し得る獣が着実に近づいている。恐ろしくないわけがない。

 

 仮に自分の全盛期、肉体を持っていた頃であっても苦戦するか、殺されるだろう。

 だが幸いにも、このヴァンパイアには視力がなかった。

 

 パトレイシアは異音を鳴らすヴァンパイアの真横を通り過ぎ、背後に回った。

 やはり幽体を捉えてはいない。それならば囮の役目は果たせるだろう。

 

 背後から更に奥、入り口側へと移動する。やるべきは誘導。音や声で、ヴァンパイアを導かねばならない。

 

『こちらです』

 

 パトレイシアは声を出した。途端、ヴァンパイアが立ち上がる。

 

 不気味な動きだった。手足を獣のように動かし歩いていた者が、唐突に人間のように立ち上がったのだから。

 しかし振り向いた時の醜く爛れた顔はやはり、獣そのもの。

 

「カカカカッ」

『え』

 

 一瞬のことである。声に反応したヴァンパイアが立ち上がり、振り向き、そのまま跳躍し、爪を振り抜いた。

 大振りな一撃。着地と同時に振りかざされる凶刃。

 

 魔力を帯びたその攻撃は、パトレイシアが回避する暇もないほどに洗練されたものであった。

 

『……!』

 

 魔力による攻撃は霊体を傷付ける。パトレイシアの胸部には三本の深い裂傷が刻まれ、霊子が血のように溢れていた。

 長らく感じることのなかった激しい痛みに、パトレイシアは思わず呻きかける。声を出さなかったのは、彼女が持つ強靭な精神力故であろう。

 

「コカカカ……」

 

 距離はあった。背後からだった。だというのに、反応できない速度で距離を詰められ、一撃を与えられた。パトレイシアは傷ついた胸を押さえながら、ふらふらと入り口側へと漂ってゆく。

 

 ヴァンパイアの攻撃は反応的なものだった。即座に反応し飛びかかる野生の魔物のそれだ。止まったまま誘引しては命がいくつあっても足りない。

 

 動きながら誘き寄せなくてはならない。今度は、攻撃を喰らわぬように。

 

『そう、こちらですよ……!』

 

 再び声に反応し、ヴァンパイアが飛びかかる。音の発生源を立体的に捕捉し、飛びかかり、爪を突き立てる。

 今度は動きながらであったので、どうにか直撃を食らうことはなく回避できた。

 

 それでも、無傷ではない。最初の一撃で相当の魔力が持っていかれたせいか、退避の動きも鈍っていたようだ。

 パトレイシアのスカートの端が刻まれ、霊体に更なる傷がつけられている。

 

 霊体にとっては衣服さえ己の一部だ。傷付けられれば魔力が漏れ、本体に影響する。

 本来ならば傷でもなんでもない服の損傷でしかない当たりが、着実に自分を蝕む傷となっている。その事実にパトレイシアは歯噛み、死の直前に乗馬服でも着込んでいればと現実逃避したくなった。

 

 だが二度にわたる声の誘導は効果があったのか、ヴァンパイアに“位置を変える音源”としての意識を植え付けることには成功した。

 ヴァンパイアは既に入り口へ警戒を示し、奥へ踏み入る様子もない。

 

 このまま外へ追い出せば、どうにか……。

 

「カカカカッ、カカカカッ」

 

 だが、パイルの挙動は彼女の期待を裏切った。

 彼は闇雲に辺りへ爪を振るい、無差別な攻撃を繰り出し始めたのだ。

 

『な、痛ッ……!』

 

 それは見えざる者であり不死者であるが故の、短絡的かつ獣じみた破壊。

 暴れ、壊す。それにより身じろいだ獲物を暴き出し、仕留めるための狩猟本能。

 

 実際、彼の無差別な爪刃はパトレイシアの腹を擦り、呻き声を引き出した。

 獲物がそこにいる。ならば更に暴れれば、より確実に仕留められる。

 

 パイルは奇声をあげながら両手を振り回し、見えざる何かを襲い続けた。

 手応えはない。何を攻撃しているのかもわかってはいない。

 それでも彼の猛攻は、着実にパトレイシアの身を引き裂いてゆく。

 

 

 

『──ライカールが沈み、闇夜が登る 暮れた世界がやってきた』

 

 その時、歌声が聞こえた。

 坑道の奥、ヴァンパイアの背後から。

 

『──我らの時間の始まりだ さあ剣を取れ 狩りを始めよう』

『いけ、ません……』

 

 美しい歌声。不吉な歌。

 

 ヴァンパイアは自分の足元から呻き声がするのもわかっていたが、一際大きく響き始めた歌声に誘われ、走りだした。

 

『──闇夜は我らの領分だ』

 

 エバンスは暗闇の奥からやってくる四足歩行の足音を睨んでいた。

 

 

 



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虚無

 

 

 エバンスは荒事に向いていない。

 バンシーは物理的に干渉できない幽体であるし、機動性に欠けた種族である。それが探索においても度々を足を引っ張っていたのはわかっている。

 

 役立てるものがあるとすれば、生前の頃よりも更に力を伴うようになった歌声だけだ。

 レヴィと共に防音室で検証を重ね、不死者に影響するメロディや歌詞についてある程度理解が深まったのは幸運であろう。

 

 自分が皆の役に立てるのは今しかない。

 そう思い、彼は坑道の奥より歌声を響かせた。

 

 歌の内容は劇中歌。

 暗く恐ろしげな旋律に闇夜の礼讃を乗せた、不届きもの達の登場曲。

 それは人間としての理性を取り戻したレヴィ達にとってはどこか重苦しい歌でありながら、感じさせる不気味さが不死者としての感性を惹きつける魔力を備えていた。

 

「来た……」

 

 歌が始まってすぐ、パトレイシアを襲っていたヴァンパイアはその動きを止め、坑道内に身を翻した。

 明らかに歌によって誘引されており、遠くから響く足音からは急ぐ気配も感じられる。

 

「くそっ……俺が囮になれないなんて……」

「……」

 

 レヴィとルジャは己の無力に歯噛みしつつも、部屋の片隅で置物のようにじっとしていることしかできなかった。

 

「コカカカッ」

 

 歌に惹かれた色白の獣が姿を見せる。

 溶けた顔と剥き出しの牙。恐ろしい姿にエバンスは声色を乱しそうになったが、プロとしての矜持故か、歌を止めることはない。

 今、歌をやめるわけにはいかない。パトレイシアは坑道になくてはならない人だ。

 彼女を守るためならば、自分が犠牲になることも……。

 

 ヴァンパイアが迫り来る。

 灼けて濁った目がエバンスを捉え、跳躍する。

 

 そのまま音源に向かって、魔力を帯びた爪が振るわれ……。

 

 

 

 “うるさい”

 

 横合いから、小言の刻まれた鋭い鉄杭がヴァンパイアの側頭部を貫いた。

 

『えっ……!?』

 

 エバンスは瞠目した。

 気がつけば目の前にはリチャードが立ち、ヴァンパイアを槍で貫いたまま壁に縫い付けている。

 彼が手にしているのは魔金属製の頑強な鉄柵。それを鋭く削り出しただけの無骨な槍だ。

 

「キィイイイァアアアッ!」

 

 ヴァンパイアが悲鳴をあげる。

 人外の膂力は獣じみた本気の抵抗も相まって、リチャードの力ではすぐさま押し返されそうになる。

 

「すまねえリチャードさん! 俺も加勢するッ!」

 

 そこに機を窺っていたルジャが飛び込み、魔剣を突き立てる。

 同素材でできた魔剣はルジャの成長した腕力もあり、ヴァンパイアの心臓を背部の壁面ごと穿ってみせた。

 

「キィイイイ! ガァアアッ!」

「死ね! いや死んでるか! じゃあもう一度死ね!」

 

 剣を捩り、傷口を広げる。殴りつける。もう一本の剣で腕を貫く。

 ルジャはリチャードと共に抑え込むが、それでもヴァンパイアに弱る気配は見られない。

 急所を複数貫かれても暴れ続けるヴァンパイアに、次第に二人が力負けしそうになる。

 

『どう、どうすれば……』

 

 このままではいずれ押し返される。

 そんな光景を見ていることしかできなかったエバンスが、リチャードの首に巻かれた襤褸生地のスカーフを見つけた。

 

 普段スカーフなど身につけない彼が纏うそれには、先程書き殴ったばかりの荒々しい文字が書かれている。

 

 

 “無響室に誘え”

 

 

『……! 任せてください!』

 

 リチャードに何か考えがある。

 理由を考えるよりも先に、エバンスは動き出した。

 

 歩みの遅いバンシーの身体。それでも彼は必死に動き、無響室に急ぐ。

 

 

『──新たな月の彼方より 暗い影が忍び寄る』

 

 闇夜の歌はヴァンパイアの魂を揺さぶり、誘引する。

 間近で杭や剣を突き立てる邪魔者のことなどすぐさま忘却させ、抗いがたい魅力によって行動が上書きされる。

 

『──長い夜を楽しもう 合わせた手だけが観える温もり』

 

 やがてヴァンパイアが拘束を跳ね返し、雄叫びをあげて自由となる。

 リチャードとルジャは乱雑に弾き飛ばされ、壁面に身体を打ち付けた。

 

 そしてヴァンパイアはそこで、トドメを刺そうとはしない。

 見えざる彼にとって、最も耳障りでいて惹かれるものは、坑道の奥から響いているから。

 

 エバンスの声がする方へ、ヴァンパイアが走ってゆく。

 

 なぜこうも執着するのか、それは音を追いかける彼ですらわかっていない。

 

 貴族であった頃の栄華の片鱗がその歌声から感じられていたのか。

 見えざる世界で唯一己の心に与えられる安らぎがその旋律にあったからなのか。

 

 答えはパイル自身にもわからなかった。

 

 

「コカカカッ」

 

 歌が止んだ。洞窟は真っ直ぐ続いている。遮蔽物はなく、獲物も立っていない。

 

 歌が止んでしまった。歌声の主が、消えてしまった。

 

 一体どこにいる? あの蠱惑的な音律はどこへいった? 

 

 焦燥に駆られたヴァンパイアは己のすぐ傍にいたバンシーを素通りし、そのまま直進する。

 何もない直線通路を突き進む。

 

 そして、そこへ躍り出たのだ。

 

「コカカカ……コカカ……」

 

 何の音も響かない、静寂の空間へ。

 

「……!」

 

 背後からレヴィがやってきて、入り口を楔の扉で封じ込め、それは完成する。

 ヴァンパイアは背後で起こったそんなことにも気づかないほど、困惑の只中に取り残されていた。

 

 ヴァンパイアのパイルにとって、音が全てであった。

 周りのものは全て音によって捉えられ、音によって色がつく。

 

 だが、今の彼には音が視えない。

 周囲にクリック音を振り撒いても何も返ってこない。

 それはまるで、静寂の青空の中に自分だけが浮かんでいるかのような感覚であった。

 

 彼は事実として、決して広くはない密室にいる。

 しかしパイルの感覚は、どこまでも無限に続く広い空間に投げ出されている錯覚を覚えていた。

 

 何もない。どこまでも虚無だけが続く真の闇。

 

「……ゥルルル……」

 

 やがてパイルは静かにその身を網の地面に横たえ、沈黙した。

 

 

 生者のいない洞窟とは違った、より静かなる完成された世界。

 終わることのなかった自分の苦しみがたどり着いた、何も無い場所。

 

 そこには物陰に潜むこちらを狙う何かも、追うべき何かもいない。

 

 そうして、パイルはただ穏やかな心地で、静かに活動を停止した。

 

 

 



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沈黙せよ、静寂たれ

 

 

 レヴィが無響室の扉を嵌め込み、数十秒が経過した。

 内部の様子はわからない。暴れているのかも、奇声をあげているのかも、無響室の消音能力は全ての気配を遮断しているが故に。

 だが数分が経っても何も起こらない様子を見るに、上手くはいったようである。

 

「音でしか世界を見れなかった不死者が、音を喪って……世界の終わりでも悟ったのかね」

 

 ルジャはひび割れた身体を庇いながら、よろよろとレヴィの横に並んだ。

 

『恐ろしい、魔物のようなアンデッドでしたね……けど僕は、なんだかあの人のことが……少し、哀れに思えました』

 

 エバンスに怪我はないが、命を賭けた歌の誘引で相当に気疲れしているらしい。彼は通路の壁に寄り添ってへたり込んでいる。

 

『皆様……ヴァンパイアは……』

「パトレイシアさん……!」

 

 スカートの裾を引きずるようにやってきたのは、全身から炎のように揺らめく霊子を溢れさせた満身創痍のパトレイシアだ。

 おびき寄せる間、何度もヴァンパイアの攻撃に晒されていた彼女は今もなお危険な状態にある。

 

「休んでください……無理したら、駄目です……」

『ですが、ですが私のせいで』

「お願いします……」

 

 泣きそうな顔のレヴィに見上げられ、パトレイシアは言葉に詰まった。

 自責の念はある。しかし、それは目の前の少女の気持ちを蔑ろにした自己満足ではないか。そう思うと、パトレイシアは少しだけ目がさめる気持ちになれた。

 

「俺からも頼む。今は……俺もそうだが、少し休みたい」

 

 ルジャが閉ざされた無響室の扉を見つめ、肩を落とした。

 あの向こうがどうなっているのかは気になるが、気にしたところでどうにかできる力はもう、自分たちに残されていない。

 

『……念のため、無響室から離れて休みましょう。なるべく静かに、音を立てないように……今はまだ……』

 

 たった一体のヴァンパイアによる気まぐれな襲撃。

 それによって半壊した自分たちのねぐら。気落ちする部分はあまりにも大きいがそれでもまだ、彼らは生きている。

 少なくともあの哀れなヴァンパイアのように獣じみた存在に堕ちることなく正気を保ち、人間らしくいられている。

 

 そんな考えを慰めに、彼らは坑道の片隅でひっそりと休息をとるのだった。

 

 

 

「……」

 

 リチャードは一人、閉ざされたまま動きのない無響室の扉の前に立ち竦んでいる。

 内部の様子はわからない。まるで扉越しに、この世界とは隔絶した別の世界があるかのように未知である。

 

 音で獲物を捉えるヴァンパイアを無響室に閉じ込めるのは、ある種の賭けであった。

 リチャードが自分なりの考えで、無響室をある種の死を想起させるものと解釈していたことが功を奏したのかもしれないし、また別の要因でヴァンパイアを封じ込めたのかもしれない。

 

 上手くいったのであれば、それは素晴らしいことだ。

 あのカチカチのうるさい不死者が黙っていてくれるのであればそれ以上のことはない。

 

 しかし、であればこそ尚更に、惜しい気持ちも強い。

 目の見えない不死者に沈黙を齎す真の静寂。今やそれを開け放つこともできなくなってしまったのだから。

 

 リチャードは彼なりにヴァンパイアを嫌悪していたが、その点において無響室の中のヴァンパイアを羨ましく思う。

 

 

 “再び造りたいものだが、今は身体を直すべきか”

 

 

 ヴァンパイアの抵抗により、リチャードもその白骨の身体に傷を負っている。瘴気の濃い埋没殿であれば自然治癒も早いだろうが、しばらく作業できないのは退屈で、辛いものだ。

 

 

 “音による芸術、か”

 

 

 造形による美とは異なる、時間と響きの芸術。

 静けさを好むリチャードにとってそれは受け入れがたいものであったが、今回の一件では静寂や歌声により大きく左右されるものが多いことも判明した。

 自らの手で掘り下げたい分野には思えなかったが、彼は部分的にはそんな美のあり方にも、一定か一抹ほどの理解を示そうと思えたのであった。

 

 

 



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第7章 デュラハンのラハン
出発の日


「順従謙黙、百依百順。忠義は美徳、そして最上に愚かな気質である。貴様らがそうであるように。」
 ――伏衆神クーア


 

 

 無響室にヴァンパイアが閉じ込められ、数日が経過しても尚、そこから出てくる気配は見られない。

 また再び音を立てればどうなるかはわからなかったので、内部の様子を確認することはできず、不用意に物音を立てるわけにもいかない。

 

 そのため、坑道に棲まう理性的なアンデッド一同は居を移すことに決めた。

 

『皆様のおかげで、どうにか復調することが叶いました。このお礼は必ず……』

「おいおい、パトレイシアさん。その話はもういいって。謝られるのも勘弁してくれよ」

『……しかし』

「な、レヴィ? お前さんもそう思うよな?」

 

 ルジャがレヴィに訊くと、彼女はパトレイシアの顔色を気にしながら遠慮がちに頷いた。

 

「パトレイシアさんは献身っつーか、自己犠牲がすぎるんだよ。大変だったり辛かったりするならもっと俺たちを頼ってくれていいし、寄りかかってくれ」

『僕らも一緒に頑張りますから。あまり無茶はしないでください』

『……皆さん……ありがとうございます』

 

 ヴァンパイアとの死闘を経て、四人の絆はより深まったらしい。

 四人というのは当然、レヴィ、パトレイシア、ルジャ、エバンスのことである。

 

 リチャードはそれに含まれていない。

 彼は今も会話を聞き流しつつ、坑道より持ち出された工具類を研ぎ直している真っ最中である。

 

 坑道から拠点を引き払うのは五人の総意だ。

 音を立てれば再び目覚めるかもしれないヴァンパイアの潜む坑道内で再び日常を送ろうと考える者はいない。既に坑道内での製作活動に慣れきったリチャードであっても、それは同じだった。

 しかしそれですっぱりと諦めて次に切り替えられるほどリチャードも柔軟ではない。惜しい気持ちはあるし、環境を変える面倒臭さに辟易している部分はかなり大きい。

 率直に言えば、彼は今ふて腐れていた。他人に当たってもどうしようもないことなので不機嫌さを表に出すことはないが、その落胆はレヴィを始め坑道の住人たちにはしっかりと伝わっている。

 

『……まずは、新たな拠点を探さねばなりません。我々は屋根も寝食も必要ない不死者ではありますが、精神性は人間に近いですからね』

 

 リチャードの機嫌を宥める意味でも、自分たちの心の安寧を作る意味でも、新たな拠点は必要だ。

 

『なので提案をさせていただきたいのですが……次の拠点は埋没殿の中心……バビロニアの斜塔に構えるというのはどうでしょう』

「えっ……」

 

 提案を聞いて肩を震わせたのはレヴィだ。

 口には出さないが、エバンスもあまり気乗りする様子ではない。

 

「パトレイシアさんの考えは悪くないと思うぜ。前はスケルトンハウンドも多かったが今はほとんど見ないし、エバンスの歌があれば不死者を遠ざけて戦わずに進むことも難しくはない。俺も、まぁ最初の頃よりは強くなったしな」

 

 ルジャは提案に賛成の立場だ。

 実際に現状の彼らは時を経て力を高めているし、エバンスという様々な力を持つ歌によって大勢のアンデッドを相手取っても切り抜けるだけの切り札もある。

 幸い、今は埋没殿は斜塔の袂に群がる不死者も少なく、切り込むのであれば今が最上であるようにも思われた。

 

 何より、外壁の坑道も安全なわけではないことが判明したのが大きい。

 ヴァンパイアのような外からやってくるアンデッドに襲撃される恐れはあるし、長年の収集活動によって近辺の資材も枯渇した。

 

 “形が現存している塔の内部であれば、優れた素材も多く得られるだろう。”

 

 そしてリチャードが賛成の立場に立っている。

 彼は口数も少なく、鶴の一声というほど声を上げることもないのだが、彼の意向は不思議と採用されやすかった。

 

「り、リチャードさんがそう言うなら、はい……」

『僕も頑張ります。……僕の歌に皆さんの安全がかかっていると思うと、責任が大きくてちょっと怖いですけど……』

『満員の大ホールで歌うようなものです。あまり緊張なさらず』

『いえ、あの……僕も決して舞台で緊張しないわけではないですよ……?』

「へー、そういうもんか」

『そうですよ……ルジャさん。いざという時は、守ってくださいね?』

「……はぁ。エバンスが女の子だったらなぁ」

『僕にそんなこと言われても……そもそも、お互いアンデッドじゃないですか……』

『はいはい。皆さん、馬鹿をやっていないで出発しましょう。私が安全な道を見つけて先導しますから、心を切り替えてください』

 

 目的地は埋没殿の中心にして本体であるバビロニアの斜塔。

 その頂上にはドラゴンゾンビがいると思われ、その他は一切が不明。

 

 しかし多くの資材が眠っていることは確実であり、上手く拠点化できれば坑道以上に堅牢な塒を確保できるだろう。

 

「……あっ、ごめんなさい。パトレイシアさん、少し待っててもらえますか」

『? はい、忘れ物でしょうか? 大丈夫ですよ』

 

 レヴィは慌てた坑道前まで引き返していき……入り口側に安置されたネリダの墓の前で、祈りを捧げた。

 

 その様子を見たパトレイシアたちは互いに顔を見合わせ、不気味に忘れかけていた習慣を目覚めたように思い出すと、彼らもまたレヴィに倣い、同じように墓前で祈りを捧げた。

 

 リチャードはその様子を遠目から眺めるだけで、祈りはしなかった。

 墓石を丁重に扱う彼らの姿を見て、不死者の感性についてまた一つ理解を深めたことに満足するばかりである。

 

 

 



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抗議のための遺構

 

 天に向かって幾度となく増改築を繰り返されてきたバビロニアだが、その増築は極めて綿密な計画を下地として行われてきた。

 今でこそ倒壊し無残な姿を晒しているバビロニアの残骸であるが、当時の建築技術の粋を集めた巨塔の威容は凄まじいものであり、遠くからも望める長大な姿は、強大な国の象徴として畏敬の念を集めていた。

 高くとも10階建てがせいぜいの世界における話である。現在傾きつつも未だ現存するバビロニアの名残に過ぎないものが、それでもモルド有数の高層建築物であると言えば、技術力の高さが伝わるであろうか。

 

 とはいえ、バビロニアの全てが完全な計画や計算の上で建てられたものではない。

 中には時の権力者により、頑強な魔金柱の耐荷重性にもたれ掛かるような、無遠慮な増築が施されることもしばしばであった。

 とりわけ中層から高層の狭間辺りで見られたそういった遺構は、時代の移り変わりによって封じられたり、庭園とされるか万年倉庫の扱いを受けるなど、衆目に晒されないように隠されてきた。

 

 今や隠されてきた遺構のほとんどは崩れ去り、影も形も見られない。

 

「わぁ……」

『これは……珍しいですね。このような古い文字の壁画がバビロニアに残されていたとは』

 

 だがレヴィ達の目の前には、崩れ去ったが故に露出した壁画の一部が横たわっている。

 それはちょっとした館ほどの大きさでありながら、一枚の頑強な素材によって作られた壁画であるらしい。角の部分は損耗しているものの、菱形状になって大地に突き刺さったそれは、見慣れぬ文字を彼らに晒している。

 

「でっかい壁画だな。下手くそな絵だけど、文字もあるか。なんだろうなぁ、地形と……軍略図に見えるが」

『大きいです……』

『これは、そうですね。軍略図なのでしょう。文字は……どうやら、古い時代にあった出兵の記録みたいです』

「出兵の記録? どうしてそんなもんを壁画に残しておくんだ?」

『読む限りでは、アールバルド家がライカリオル平野における戦いに赴いた際、ラフマン家が助力せず陣を動かさなかったことに対する抗議や……えー、罵詈雑言のようなものが記されていますね』

 

 内容は告発に近いものであるらしい。

 これほど大きな壁画に図と共に残している辺り、当時のアールバルド家の怒りが相当なものであったことが窺える。

 

「そんなもんをここまでデカデカと残しておくかぁ……こいつの重みで塔が崩れたんだとしたら、死んでも死に切れねぇぞ……」

『死んでますけどね、僕たち……』

 

 このように、初めて踏み入る埋没殿中央付近の平野には、それまでに見かけなかった遺構が数多く点在しているのであった。

 それなりに凶暴なアンデッドも徘徊しているし多少の危険もあるが、今のところは安全に、塔に向けての歩みを進められている。

 

 リチャードはステッキの石突きで壁画の表面を軽く叩き、それが彫刻の材料とするにはやや硬度が高すぎることを知ると、一度だけ壁画に目を向けて、すぐに興味を失った。

 

 

 バビロニア歴366年、リッケルス・アールバルド作。

 “ライカリオル戦役の真実”。

 結局のところ、この告発が世論に受け入れられたのかどうかは定かでない。

 しかし、この巨大かつ頑強に過ぎる壁画を壊すことも運び出すこともできずに困っていた者がいたことだけは、おそらく事実だったのだろう。

 

 

 

「あっ、また来ました」

「はいよ」

 

 バーサクゾンビは動体を見つけると、狂ったように襲いかかる不死者である。

 通常のゾンビであっても頭部に損傷を負ったりすることで変容することもあるという。

 今ルジャたちに襲いかかってきたその一体も、後天的なバーサクゾンビなのかもしれない。

 

「ほっ」

「ガァッ」

 

 突き出された腕を盾で弾き返し、魔剣によって頭部を突き崩す。

 シンプルな動作であったが一連の流れは極めて速く、エバンスの目には一瞬のうちに行われたものであるかに思えた。

 

 バーサクゾンビは崩れ落ち、機能を停止する。

 塔を目指す道中は、それなりに襲撃者が多かった。

 

「一体だけか」

『……はい。もう安全です。しかしこの先で奇妙なスケルトンの集団がひとかたまりになっています。念のためそちらを迂回すべきでしょう』

「直線で一気に、ってわけにはいかないか」

 

 パトレイシアの斥候とルジャの露払いは極めて順調に機能した。

 会敵の危険を可能な限り減らし、やむを得ない場合はルジャが仕留める。彼らは多少遠回りではあるものの、着実に目的地へと近付いている。

 

「リチャードさん。あの、拾ってきました。材料……」

 

 回り道。時々採取を挟みながら。

 それでも睡眠も疲れも知らない不死者たちの行軍は人間のそれより遥かに早い。

 周辺にはグリムリーパーなどの危険なアンデッドも確認できないこともあって、今のところはトラブルらしいトラブルもなかった。

 

「なぁ、パトレイシアさん。塔についたらまずはどうするんだ?」

『はい。まずは拠点作りになるでしょう。不死者の徘徊が少なく、崩落の危険のなさそうな隅の方に瓦礫で軽い砦を組んでおきます。あるいは、入った後に塔の入り口を封鎖するのも良いでしょう』

「封鎖……」

『塔が安全ならば塔の中に篭ります。外が安全ならば塔を封鎖し出入りを堰き止めます。今のところわかっている限りではグリムリーパーが最も危ないので、それをどうにか私たちとは違う場所に封印できればベストですね。理性のない不死者であれば、しっかりと固めた壁をわざわざ崩すこともないはずです』

 

 グリムリーパーを避ける最上の手段は、一切知覚範囲に入らないことだ。

 もしも塔によってグリムリーパーを遮ることができれば、安全はより一層確かなものとなるだろう。他のまだ見ぬ危険な不死者に対しても同じことだ。

 

『今はエバンスさんがいるので、グリムリーパーに発見されても多少は抵抗できます。討伐はわかりませんが、逃げるだけならば可能でしょう。その間に資材でバリケードや砦を構築し、安全を確保します。こちらから進んで討伐に乗り出すのは、それからですね』

「なるほど、了解だ。ま、俺も命は惜しいからな」

『リチャードさんの作業場も、その時に作っていけたらと思います』

 

 リチャードは頷いた。

 

 未だ危険の多い埋没殿である。グリムリーパーも脅威として潜んでいることは間違いないが、今の彼らにはいくつかの備えがあったので、過度な怯えは抱いていない。

 

 特に、レヴィが今背中に背負っている大きな石像。

 竜を模したその石像は、グリムリーパーを遠ざけるための奥の手である。

 

「じゃ、行くか」

『はい。では、こちらに進んでください』

 

 不死者たちが休憩とも言えない軽い休憩を終え、再び歩き出す。

 

 塔の袂まで、あと少し。

 

 

 



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地に堕ちた天空大門

 

 塔に近づくにつれて、奇妙なアンデッドの一団を目にすることが多くなった。

 それらはここまでの道中でもいくつか見られたものだが、明らかに目にする頻度が増えている。

 

「……動きがない。不気味だな」

『ええ。近づいても特に反応がありません。しかし、間違いなく群れている。……異様です』

 

 スケルトンの集団がいる。

 彼らは十体ほどの人数で人まとまりになっており、不活性のまま一箇所で固まっていた。

 動く様子はない。だが、二足で直立しており死んでいるわけでもない。

 通常、意思のないアンデッド達のほとんどは無意味に動き回るものだ。立ち止まることも多いが、閉所でもないのに常にじっとしていることなどほとんどあり得ないと言えた。

 

『スケルトンにこのような習性があるなど、初耳ですが……』

 

 無害だが不気味。そのような一団を見かけることが多くなった。

 

 

 

 迂回は多い。中央に近づくにつれて行軍の軌跡は複雑さを増す。

 それでも誰一人欠けず遅れることなく移動し続けることがでたのは、全員がアンデッドであるが故。

 生身を持った人間であればそうはいかなかっただろう。

 

「……おっきい」

 

 いよいよ斜塔の真下までやってきた時、首を大きく仰け反らせたレヴィは、ただただそう呟く他なかった。

 

 バビロニアの斜塔。残るは先細った豪奢な上層部のみである。

 だというのに、そびえ立つ高さ、巨大さはそれが廃墟であることを少しも感じさせない。あるいは、外壁に石材を多く利用した中層以下が崩れ去ったことにより、かつて以上の神々しさを湛えているのだろうか。

 

「すげぇな……改めて……」

『はい……』

 

 真下から全容を見上げる経験は、ルジャにはあった。

 しかし彼が騎士だった頃は裾の広い最下層が邪魔で、建物の切れ間から一部分を見上げるのが常である。こうして全体を捉える経験は少ない。

 エバンスは外に出たことすらなかったので、衝撃はルジャ以上だ。

 

 リチャードは塔を見上げ、その細部に目を凝らし……そしてすぐにやめた。

 上層部の華美な外壁がさほど趣味に合わなかったのもあるし、日差しの向きによって表情を変えるらしい塔表面のレリーフが埋没殿において一切の表情を消し去っているのがあまりにも無惨で、直視できなかったというのもある。

 

 理解されないだけならばよくあることだ。

 しかし正しく飾られることなく佇む他ないというのは、間違いなく酷であろう。

 

『入り口は……あちらでしょうね。さあ、皆様。向かいましょうか』

 

 薄暗い地下坑道で過ごしてから何年にもなる。

 しかし彼らはこの日、ようやくバビロニアへと戻ってきた。

 

 塔に踏み入った者たちを察してか、それともきまぐれか。

 頂上に臥せるドラゴンゾンビが低い唸り声をあげていた。

 

 

 

 斜塔最下部には巨大な門があり、そこが主な入り口をして使われているらしい。

 目を凝らせば窓や銃眼などの小さな入口はいくらでもあるのだが、船が通れそうなほどに特に巨大な入り口には、長年に渡って踏み固められてきた道が出来上がっているようだった。

 

 かつては竜騎兵の発着門としても使われてきたバビロニア空中大門。黄金に輝く巨大な空門は綺羅びやかな竜騎兵を蒼天へと送り出す、バビロニアでも有数の軍事基地であった。

 それは今や地下の最下層にまで埋没し、歩行アンデッド達の気安い通路と化している。崩落の影響もあり、門をくぐり抜けてすぐの大広間には昔の華美な内装は見る影もなかった。

 

「……広い」

 

 シャンデリアは微塵に砕け、繊細なタイルの床は砂となった。

 それでも、未だ塔の内部は広かった。他国の人間では製法を思い浮かべることすらできない巨大な柱は健在で、今もまだ上へと伸びている。

 倒壊したとはいえ斜塔として残っているので当然ではあるのだが、原型が残っていることにルジャは改めて息を呑む心地であった。

 

 見上げれば威容は健在だ。しかし、一度視線を下ろせばその感動も薄れてゆく。

 

『……当然ではありますが、酷い有様ですね』

 

 塔内部は、外の瓦礫の山と左程変わらない。

 むしろ壁があることで山が崩れにくくなっているのか、より起伏のある障害物で満ち満ちているようだった。

 上の階から落ちてきたらしい家財も多く、少し見回せば十メートル近い小山の連なる場所さえある。

 

「思ってたよりアンデッドが少ないのは好都合だが、ひでえな」

『大変ですね……僕も、歩くのに手間取りそう』

「……あっ、キラキラしてるの見つけた」

 

 周辺に危険なアンデッドもいないためか、各々が好き勝手に見て回る。離れすぎないように最低限で留めてはいるが、誰しも初めて踏み入る空間に興味津々だ。

 そんな中で、パトレイシアだけは塔内部の空間について冷静に分析していた。

 

『やはり空中回廊は重みに耐えきれなかった……空中大門より上ということは、大階段で上がっていくのが一番ですけど……さて……』

 

 近付いてみて感じたのは、塔入口の想像以上の巨大さだった。

 当初は瓦礫によって入り口を塞ぐなり制限する算段を立てていたが、空中大門はあまりにも大きすぎる。そのためパトレイシアは一旦計画を変更し、塔の内部にて適当な狭い区間を塞ぎ、要塞化することを検討し始めている。

 通路はいくつ存在するか。どれほどの資材と労力で塞げるか。塞いだ後の危険は。

 特に上層部の内部構造などはほぼパトレイシアしか知らないのだ。彼女は今まで以上の責務を感じながら、必死に頭を働かせている。

 

『……! 皆さん』

 

 そんな中、パトレイシアの視界にリチャードの姿が入り込んだ。

 彼はステッキをどこかへ差し向け、じっとある一点を示している。

 

 パトレイシアの呼び声に全員が反応し、同じくリチャードの示した方向へと注意を飛ばす。

 

「あれは……一体なんだ……?」

『スケルトン……のように見えますが……』

『……一旦隠れましょう。これは……』

 

 ステッキで示された場所。塔の上部へと続いてゆく、傾いた大階段。

 遠く離れたそこには、八体ほどのスケルトンが群れとなって降りてくる姿があった。

 

『これは……何か、作為を感じます。無視できない、何らかの作為を……』

 

 一糸乱れず階段を降りてくるスケルトンたち。

 彼らは武器を手にしているわけでもなく、リチャードたちに気付いた風でもない。

 

 しかし彼らは一様に何らかの“荷物”をその手に抱えているのだった。

 

 



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支配者の命令

 

 スケルトンの集団は荷物を抱えていた。

 それは大きな革袋であったり、木箱であったり。種類は様々だが、中身がそれなりに嵩張っていることはそれらのサイズから明らかだ。

 

 彼らは大荷物を担ぎ、リチャードらの近くを通りかかる。その際、ジャラジャラと金属が擦れ合うような音と、何かが落ちる音がした。

 

 その硬く澄んだ音に人一倍強く反応したのは、レヴィだった。

 床に硬貨がぶつかって跳ねる音。貧民たちにとって否応なく反応せざるを得ない、魅惑の音であった。

 

「……運んでいたのは、宝物ってことか?」

 

 スケルトンたちは床に落ちた金貨を一瞥することもなく、塔の外へ歩き去っていった。レヴィは残された金貨へとおそるおそる近付き、拾い上げる。

 

「金貨……」

 

 それは紛れもなく金貨であった。縁に損耗はあるものの、カロン金貨と同じ貨幣価値を持ち、金資源として扱うこともできるバビロニア金貨。

 

『レヴィさん、手を離してください。その金貨は呪われています』

「!」

 

 パトレイシアが注意するのと同時に、金貨から黒い靄が立ち上る。

 手放したレヴィはどうにかその靄を受けずに済んだ。

 

『金貨に宿っている呪い……あれは、誘引の類でしょう。持ち主を惹きつけ、誘う力。宝物の近くで亡くなった人間の執念は、時として小さな貨幣にさえ宿ります。さほど危険はないはずですが、持っていると金貨に対する愛着が病的なまでに深まったり、金銭欲が深まるとも言われます。この埋没殿でそういった欲があったところで問題にはならないでしょうけど、気をつけてくださいね』

「……はい。ごめんなさい」

 

 思えば金貨が落ちた瞬間に目が向いたのも、体がすぐさま金貨の方へ惹かれたのも、貨幣に宿る呪いのせいだったのかもしれない。

 レヴィは浅ましい自分が少し恥ずかしくなって、地に落ちた金貨から数歩遠ざかった。

 

『でも、どうしてあんな宝物を運んでたんでしょう。僕はスケルトンがそのようなことをするなんて、初めて聞きますけど……』

「俺もだな。……いや、使役されてれば話は別だ。スケルトンはアンデッドの中でも特別使役しやすい連中だろ? ちょっとした死霊術師が命じてやれば、荷物運びをするくらいのことはできるはずだ」

 

 ルジャは遠征中、何度かそのような死霊術師と遭遇したことがある。

 伏衆神クーアの加護を授かった者はテイムの力を持ち、小動物や魔物を操ることができる。特にスケルトンはある程度融通の効く人型でありながら、自我も薄く操作がしやすいためによく使われていた。

 戦場跡や古戦場から死体を盗み出す不届き者を討伐するのもまた、ルジャたち騎士団の仕事である。

 

『……死霊術師が、斜塔内に存在する宝物を集めようとしている……? いえ。そのようなことがあるのでしょうか……』

 

 リチャードは呪われた金貨に近付き、躊躇なく拾い上げた。レヴィはその仕草に小さく声を漏らしたが、リチャードの種族は莫大な魔力を持つリッチである。金貨に宿る些末な呪いにかかることはない。

 リチャードは金貨を様々な角度から見回して、やがてそれを遠くに放り投げた。

 

「あ……」

 

 金貨は大きな放物線を描き、遠く離れた床に落ちる。

 甲高い音が響き、遠くで蠢く気配。

 

「お? あれは……」

 

 しばらくして、金貨の落ちたであろう場所から一体のスケルトンが歩いてきた。

 そのスケルトンは一枚の金貨を持ち、先程の集団と同じように塔の外に向かっているらしい。

 

「ここにいるアンデッドの全員が、死霊術師に操られてるのか……?」

『いえ。ありえません。考えはしましたが、死霊術師といえどこれほどの数を操ることなどできないはず。ましてここは埋没殿の中央。瘴気の無い安全な外部から不死者を使役するには、あまりにも距離が離れすぎています』

 

 死霊術師が不死者を操り、宝物を運ばせる。それは非常に賢い手段のように思えるが、実現させるのは非常に難しい。相当な訓練を積んだ死霊術師が湯水のように魔力をひねり出せば、一体だけならば操ることも可能かもしれないが、それでは先程の集団の説明がつかない。

 

 だが、スケルトンは間違いなく誰かに操られているはずなのだ。

 それは一体誰に? 

 

 彼らが頭を悩ませていたその最中、異変は起こった。

 

 

 

 ──聞け、バビロニアの下民共よ

 

 

 

 塔に、声が響いた。

 嗄れた老人の声。しかし魂を震わせるような、力強い波動を湛える命令。

 

『ひっ……』

「ぐ、おっ……」

『……!』

 

 たったの一言の誰かの声が響き、それだけで彼らは立ちすくんだ。

 エバンスは身を掻き抱いて縮こまり、ルジャは大きくよろけ、パトレイシアは身体に影響を及ぼさないまでも、響き渡る声に大きく目を見開いた。

 

 リチャードはその声に聞き覚えがあった。懐かしくも、ほんの少しの間聞いただけの声。粘ついた悪意の中に強い意志を感じさせる、覇気に満ち溢れた男の声。

 

『……ああ、そういうこと。そういうことなのですか、“眇の狂王”……!』

 

 塔の内部に犇めく不死者達が声とともに姿勢を正し、待機する。

 その姿は死霊術師の指令を受けたようでいて、大きく異なる。

 

 

 ──宝物を探し、集めよ。宝物を掲げ、(坑道)に投げ入れよ

 

 

 声に導かれるようにして動き出す不死者たち。

 それまで意志なくふらつくだけだった集団は目的を持って稼働を始め、床の上に乱雑に散らばった財宝をかき集めてゆく。

 そして両手をいっぱいにした者から歩きだし、外に向かって進んでゆくのだ。

 それだけが自分の存在目的であるかのように。

 

 

 ──外の人間を誘い込め

 

 ──餌を与え、近づけよ

 

 ──そして人が集まったならば

 

 ──我がバビロニアの栄華が、再びやってくる

 

 

 声が響く先は塔の真上。

 リチャードは天井を見上げ、かつて自分が跪いた玉座の光景を思い返した。

 

 きっとそこに、彼がいるのだろう。

 自分の作品に憤り、死罪を与えた狂王が。

 死の底へと突き落とし、それをじっと観察していたであろう暴君が。

 

 リチャードは懐から立方体の彫刻を取り出し、それを眺めた。

 生前に作り上げた、良作のひとつ。己の死のきっかけにして、真上から響く声の主とも関わりのある芸術品。

 

『不特定多数のアンデッドを強制的に操り、動かす……! そのような種族は多くありません! 間違いない……これは不死者の王(ノーライフキング)による能力……! そして、この声の主は……バビロニア最期の暴君、“眇の狂王”ノール!』

 

 不死者の頂点に君臨する支配種族、ノーライフキング。

 それは不死者に満ちた埋没殿においてはまさに王と呼ぶにふさわしい存在だ。

 かつて王であったノールがその座に収まるのも、ある意味当然だったのかもしれない。

 

 だがパトレイシアにとってノールとは暴君であり、決して相容れない悪の象徴であった。

 

 彼の手によって何人の民が首を断たれ、いくつの芸術作品が破棄されてきたことか。

 バビロニアの支配領域は急速に拡大されたが、善政とは決して言えない彼の統治下において、民は誰もが苦しみ、怯えていた。

 

 そんな時代を、死しても尚取り戻し、再現しようというのか。

 パトレイシアは歯噛みし、空を睨む。

 

「あ、ああ……!」

 

 その傍らに、“声”の力に苦しみ蹲る少女がいることも気付かずに。

 

 



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入国審査

 

 ある男が、決死の思いで綱渡りしていた。

 元々盗賊だった彼は曲芸じみた動きに慣れていたし、斜めとはいえそこそこしっかりと張られたロープを伝って進んでゆくことなど容易いものだと考えていたのである。

 

 実際、長い長い綱渡りは上手くいった。

 しかしその極めて長い綱が、何故伸びていたのかは考えもしなかった。

 

 巨万の富が眠るという巨大な埋没殿。

 ある日、その外縁部に突如現れた大きな錨と、それに結ばれたロープ。

 

 錆びた大錨は深々と岩地に食い込み、ロープはどんよりと煙る瘴気の雲の中へと続いていた。

 錨を発見したのはとある採掘団。斥候を任されたのが、彼である。

 

 もしもロープが埋没殿の未探索地域へと続いているのであれば、それは大きな財産となって返ってくるかもしれない。

 もはや財宝が枯れたかに思われた埋没殿の、手つかずの部分を漁れるかもしれない。

 

 明日の命も知らない盗掘団にとって、そのロープを手繰らぬわけにはいかなかった。

 

 斥候の男がたどり着いた先は、埋没殿の中心部。

 埋没した塔の最上部であった。

 それを見た時までは良かったのだ。

 

「ケケケケケ」

「嘘、だろ……ッ」

 

 豪奢な塔の最上部、砕けた天蓋に降り立ったその瞬間。

 物陰に潜んでいたアンデッドに引きずり込まれた時になってようやく、彼はこのロープが罠であることを理解した。

 

 

 

「――人はいくらでも夢を見る。己に都合の良い夢をな」

 

 力強いアンデットたちによって体を拘束されたまま、運ばれる。

 彼はこの埋没殿の知識などなかったが、そこが玉座の間であることは理解できた。

 

「三枚の手札のうち、一枚が不自然に迫り出しているならば、人は警戒する。罠だろうと。だが、差し出された十枚のうちの一枚が迫り出している時、不思議と人はそれに夢や希望を見出そうとする。愚かなことに飛びつくのだ。そのあからさまな罠に」

 

 黄金の柱。

 十三階段。

 そしてその頂点、黄金の玉座に座る小さな異形の影。

 

 それが放つ気配はあまりにも禍々しく、恐ろしい。

 

「クカカカ……ようこそ、地上の人間よ。我がバビロニアの財をくすねる罪深き愚者よ。我が名はノール。バビロニアの至高帝、ノールである」

 

 子供のような矮躯。

 化け物のように歪んだ頭蓋骨。

 左右非対称の醜い眼窩。

 

 男は異形の不死者を前にして、そこから発せられる莫大な魔力を波を感じ取って、ただ体を震わせることしかできなかった。

 

「この大空洞に時折生きた人間が現れることは知っていた。その奇妙な装備で瘴気を防いでいることもな……クカカ、いや実に興味深い……」

「あ、あ、あなたは……一体……」

「カカカカ……何故貴様が我に問いかける?」

「え、あっ、がッ」

 

 ノールが緩慢な動きで手を上げた。

 すると男のする側に控えていたスケルトンが、男を階段に押し付けた。

 

「い、痛い! 痛い痛い……や、やめてくれ……!」

 

 人外の力によって段差の上に押さえつけられた男は苦悶の声をあげる。

 ノールは男が苦しむ様をじっと眺めていた。

 

「実を言えばこうしてやってきたのは貴様が初めてではないのだ……わかるか? 前例はある。今後も続く……貴様の命には微塵も価値などない」

「はぁ、はぁ……」

 

 拘束が弱まり、男はわずかに顔を上げられるようになった。

 そこにいるのは玉座に腰掛ける恐ろしい異形。逆らおうなどという気持ちは、もう残っていない。

 

「さて、いくつか訊ねようか……まず。貴様は盗掘者だな?」

「……はい。盗掘……採掘者……です」

「錨を辿って来たな。貴様の徒党は何人規模だ?」

「徒党……俺らの、チームは……三十人以上……います……」

「ほう? それは規模が大きいか。最近、貴様らの仕事は増えたか?」

「え……はい……洞窟の中に宝が現れたって、採掘者は盛り上がっていて……それで……」

「カカカカ……」

 

 ノールが嗤う。面白そうに。しばらく顎が打ち鳴らされた後、ノールは飽きたように静まった。

 

「……それで? 今この大空洞には同業者が多いか?」

「は、はい。多い……と、思います……俺は、昔の時の事は知らないけど、十数年ぶりの勢いだって話で……色々な人が街に戻ってきて……」

「……そうか、そうか。であるか、であるか」

 

 ノールはおもむろに玉座から立ち上がり、男の目の前にどかりと座り込んだ。

 

 至近距離でマスク越しの男の目を見つめ、ケタケタと笑い声をあげる。

 

「のう、愚かな罪人よ。国とは、民あってこそのものだとは思わぬか?」

「え……は、はい」

「民とは国力そのものよ。民あってこそ富は生まれ、家が建ち、剣が打たれ、道が敷かれ、兵を養える……ああだがしかし、それ故に民とは国に牙を剥き得る存在なのだ……為政者は常に民の牙が己に向かぬよう、頭を悩まさなければならない……」

 

 大きさの違う眼窩の向こう側が、赤い輝きを灯す。

 

「飴と鞭が必要なのだ。飴で民を呼び込み、鞭で抵抗の気を削ぎ落とす……我はその鞭の扱いをうまくやってのけたぞ? 国は巨大に膨れ上がり、民は我に逆らうことをやめた……周辺諸国は全て滅ぶか傀儡と化し、バビロニアの長い影に怯え続ける日々よ……クカカカ……連中が最後の望みと放った流言をばらまく害鳥共も、我が手ずから羽根をむしり取ってやったわ」

「……」

「まぁ、それも民あればの話。生憎と今は、民がおらぬのだ。鞭の前に飴をやらねばならぬ……目も眩むような、甘美な飴を」

 

 ノールが握った拳をゆっくりと開き、その中にあった三枚の金貨を男の前に落とす。

 それは呪われていたが、紛れもなく金貨だ。

 男はそれに見覚えがある。

 最近になってこの埋没殿でよく見るようになった、価値の高い……。

 

「ま、まさか……まさかそんな……さ、最近増えている宝っていうのは……!」

「クカカカ……クカカカ……!」

 

 震える男の様子を見て、ノールが嗤う。

 

「のう、わかるだろう? 我がバビロニアには多くの民が必要なのだ。何百人も。何千人も。何万人でも。再び我が国を興すためには、周辺国を圧倒するだけの力がいるのだ……これはな、そのための甘い夢よ。クカカカ……カカカ……!」

「ど、どうするつもりなんだ! お前は……俺たちを……!」

「案ずるな、我がバビロニアの民よ」

「違う! 俺はこんな……!」

「いいや、貴様はバビロニアの民。これから“そうなる”」

 

 重い足音が響く。

 男の真後ろに、大きな影が現れた。

 

「ひっ……」

 

 男は不吉な気配に震え、振り向いた。

 

 そこに立っていたのは首なしの騎士。

 全身に呪いの靄を立ち上らせる、最悪のアンデッドの一種。

 悪名高き、首なしのデュラハン。

 

「クカカカ……おめでとう。貴様はバビロニア周辺の近況報告の功が認められ、我が国の民として認められた」

「やめろ! やめてくれっ! 頼む、俺を生かしてくれれば、もっと……!」

「貴様に永遠をくれてやろう。我が国と共に歩む、不死の永遠を!」

 

 デュラハンが呪いの剣を振りかざす。

 押さえつけられた男はただ、命が尽きるまでの僅かな間、ほんの少し暴れることしかできなかった。

 

 



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人頭税納税義務

 

 塔に響く王の声は消え、静寂が訪れた。

 すると不死者たちの身にのしかかっていた重圧が解け、体に自由が戻る。

 

「……今のは……ああ、くそ、操られそうになっていたのか、俺は……」

 

 ルジャは未だ頭蓋に残響する声を振り切るように頭を叩くと、周囲を見回した。

 そこには身体を掻き抱いて震えるエバンスと、天を見上げて恨めしそうに歯噛みしているパトレイシアの姿がある。

 リチャードは普段通りで、特に苦しむ様子もない。同じ骨の身でありながら先程の“声”による負荷を感じていないのは、種族の差であろうか。

 

 見ればエバンスも酷く怯えているだけで、決して操られているようではない。

 自分達の中で最も強く声の影響を受けたのは己かもしれないと、ルジャは少しだけ生まれの差を苦く思った。

 

『今の声は、かつてバビロニアの頂点に君臨していた狂王ノールのもの……そして、ええ、わかりました。この塔の内部や周辺にいた奇妙な徒党を組んでいたアンデッドたちは、既にノールの支配下にあったのでしょう。……意思さえ奪って操るだなんて。奴の悪辣さは、今も変わらない……』

 

 パトレイシアは種族としての魔力の適性から、今の“声”に秘められた力を正確に理解していた。

 声に秘められた性質は“支配”。ノーライフキングのアンデッドを統べる特性を純粋に利用したただけの、それ故に強力なものである。

 

「……待て。レヴィはどこだ?」

 

 ルジャは自分が操られかけていたことを自覚していた。

 その感覚は、同時に自分よりも弱い種族であるレヴナントに対する危機感へと繋がった。

 

 辺りを見回しても、レヴィがいない。

 ついさっきまでそこにいたはずの彼女が、消えている。

 

『レヴィさん!?』

『あれっ、いない……!?』

 

 遅れて二人も気がついた。

 元々口数が少なく、人の後ろを歩くタイプだったせいもあり、いつ消えたのかも定かでない。

 

「操られたんだ……今の声にッ……ノールに!」

 

 ルジャが瓦礫の丘を駆け登り、周囲を見回す。

 声によって操られた亡者たちは隊列を組んでどこかへ歩きだしたり、その場で置物のように待機している。レヴィの姿はない。

 

「レヴィーッ!」

 

 声を上げても返事はない。命令を受けたアンデッドたちは反応を示すことなく、粛々と与えられたタスクをこなしていく。

 その光景を目の当たりにして、パトレイシアはハッと冷静さを取り戻した。

 

『……不死者としての反射より、命令が優先されている……? で、あれば……』

『パ、パトレイシアさん! ど、どうしましょう。レヴィさんは、どうすれば……』

『……』

 

 先程まではパトレイシア自身も慌てていたが、自分よりも慌てた様子のルジャとエバンスを見て己を客観視できた。

 すると更に状況が、これからすべきことが鮮明に見えてくる。

 

 リチャードがステッキの石突で鳴らす硬質な音で、パトレイシアは思考の海から引き上げられた。

 寡黙に過ぎる彼を見れば、彼は今でさえ何も語ってはくれないが、パトレイシアにはこう言っているように見えた。

 

 “考えるのはお前の役目だろう”と。

 

『……エバンスさん。“せせらぎ”の二番、出だしから。歌ってください』

『え、“ラ”……そ、そんな場合ですか?』

『いいから。出だしだけでいいので』

 

 エバンスはその時、レイスの真剣な眼差しの中に真摯な光を見た気がした。

 そして歌えという短い言葉。それは混乱しているとはいえ、彼を突き動かすのに十分な起爆剤だった。

 

『“――古い柱の溝の中 今日も故郷の音がする 遠い記憶の奥底で 朝陽に煌めく川のせせらぎ”……――』

 

 エバンスは歌った。聞く者の心を穏やかにするその歌を。

 静かな旋律は響き渡り、すぐに止んだ。しかしそれだけで、皆の心を平坦に戻すには十分であったらしい。

 

 ルジャは歌が止んでようやく、自分が無意味に盾と剣を構えていたことに気がついた。

 

「……すまねえ。独断行動するところだった」

『落ち着かれましたか、二人とも』

『はい。……自分の歌ですが、なんとか』

『良い歌でした。穏やかで、私の思い入れが……いいえ、今はそれより、作戦について説明をしなければなりませんね』

 

 パトレイシアは無意味な咳払いを挟み、語り始める。

 

『レヴィさんは今、ノールによって操られています。塔に響き渡ったあの声に抵抗できなかったのでしょう……レヴナントは、特に死霊術師に操作されやすい種族ですから』

「どこに行っちまったんだ……姿が見えなかった」

『周囲にいなければ、二つにひとつでしょう。つまり、塔の外に出たか、塔の上に登ったか』

 

 それはどちらにせよ芳しくない動きであった。

 塔の外には危険なアンデッドであるグリムリーパーが徘徊しているし、塔の上にはわかっているだけでも狂王ノールやドラゴンゾンビがいる。

 

 グリムリーパーに遭遇すれば、レヴィは呆気なく殺されるだろう。

 上に登れば何があるかわかったものではない。

 

『ですが、悩む必要はありません。おそらくレヴィさんは、塔の上に向かったのだと思われますから』

「な、わかるのか。一体どうして」

『今動いているアンデッド達から推測するに、ではありますが。ほら、スケルトンたちは宝物を運び出しに外へ向かっていますが、ゾンビなどは塔の上に向かっています』

 

 人間には数メートルも見渡せないであろう闇の中、パトレイシアは遠方を指し示す。

 塔の上へと続く階段は、行く者と来る者が律儀に左右の道を使い分けている。

 注視するとそれは彼女の言う通り、スケルトンは出口を目指しているし、その他のアンデッドは上を目指しているように見えた。

 

『きっと、役割を分けているのでしょう。場所、役目、それらを種族単位で分担させ、効率よく動かそうとしているのです。レヴナントたちも上を目指しているので、おそらくレヴィさんもそちらに。あの王は悪辣ですが、恐ろしいほどに論理的ですから』

「……上、か」

『う、上に何があるのでしょうか……』

『きっとろくなことではないでしょう。……私にはわかります』

 

 絶対権力による支配。それは力によって成し遂げられる。

 ならば、ノールは必ずその手段を模索するだろう。嫌悪するが故に、パトレイシアは彼の取る行動が手に取るようにわかった。

 

 この世界(モルド)においては同族でさえも、殺せば力の糧となる。

 スケルトンソルジャーならば身体能力が上昇するし、レイスならば魔力総量が増加する。

 であれば、ノーライフキングなら?

 それがわかった時、ノールは何をする?

 

 決まっている。

 

『彼は殺そうとしているのです』

 

 殺す。大勢殺す。

 己の支配を盤石にするために、とにかく己の手で不死者たちを殺そうとする。

 

 そして人を誘い込む。宝を各地にばら撒いて、人を呼び込む。それも殺す。

 

 彼は間違いなく力をつけようとする。誰も逆らえないほど絶対的な力を。

 数え切れないほどの屍を盤石の基礎として、次こそは絶対に崩れ落ちない牙城を打ち立てる。

 

『……レヴィさんの身に、危険が及んでいます』

「……」

 

 リチャードは天井を見上げた。

 そこには、不死者でも見通しきれないほどの深い闇が広がっている。

 

 



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忠実なる下僕

 

 一行は埋没殿の斜塔を登ることに決めた。

 ノールの声によって操られたレヴィを助け出すために、一刻も早く追いつかなくてはならない。

 

『“レイ・ストライク”』

 

 パトレイシアが空中から光弾を放ち、道を遮るアンデッド達を排除してゆく。

 彼らは財宝を手にしたスケルトンであり、ノールの命令を受けて“餌撒き”にゆく一団であった。

 パトレイシアは彼らへの攻撃を躊躇しなかった。進行方向を遮っていたこともあるし、彼らが結果的に外の人間たちへの害となるため、という理屈もある。

 だが何よりも、パトレイシアは少しでも力を付けなければならない焦燥に駆られていた。

 

『……さあ、道は拓きました! お早く! ルジャさんも加勢を!』

「ああ、任せろ!」

 

 敵を()せば、力を得られる。ノールがその仕組みを利用している以上、もはや状況は予断を許さない。

 弱者は必ずしも罪ではないが、ここは弱者に厳しい世界だ。レヴィが操られた時、ルジャもようやく覚悟を決めた。

 

 レヴィを取り戻すには、可能な限り、殺さねばならないのだと。

 

『キャァアアアアアッ!』

 

 宙を舞うゴーストの群れに、エバンスが悲鳴を放つ。

 強力な魔力を含んだ叫びはゴーストの隊列を中心から霧散させ、彼ら全てを容易く吹き飛ばした。

 少し遅れて、ゴーストたちがいた場所から琥珀のネックレスが落ちてくる。幽体アンデッドたちもまた、スケルトンと同様にノールの声の影響を受けている。エバンスに少しの躊躇もなかったわけではないが、己の歌に無垢な感銘を受け、褒めてくれたレヴィと天秤にかけるほどのものではない。

 

 坑道よりやってきた人の意志を持つアンデッド達。

 彼らは塔の大階段を駆け上がり、上を目指す。物静かな、それでも人一倍人間らしさのあった少女を取り戻すために。

 

 パトレイシアが遠距離の敵を魔法で打ち抜き、ルジャが近距離から切り捨て、エバンスが空のゴーストを散らし、リチャードは床に落ちた年代物の装飾品を拾い上げて細工を観察する。

 皆一丸となって、かつてのバビロニアの遺構を走り抜けてゆく。

 

「ああ、剣を振るう度に力がみなぎってきやがる……くっそぉ!」

 

 三体のスケルトンと一体のゾンビをまとめて薙ぎ払い、ルジャが吠える。

 

「俺はこんなことのために騎士になったわけじゃねえんだぞ!」

 

 かつて民だったものを引き裂くごとに、ルジャの剣技は際限なく冴え渡ってゆく。

 もはや人間だった頃の力は過去のものとなり、魔物の如き膂力が彼の剛剣を巧みに操っていた。

 

『! 皆さん、あちらにレヴィさんが!』

 

 空を飛ぶパトレイシアは先んじて目標の人影を発見した。

 塔の頂上を目指して歩いてゆくゾンビの群衆に紛れ、一際遅い足並みで歩いてゆく小柄なレヴナントの姿を。

 

「う、あう、ぁ……」

 

 レヴィは頭を抑えながら、ふらふらと身体を揺らして歩いていた。

 一団よりも何歩分も遅れ、足並みは揃っていない。その姿は、ノールからの命令に抗っているかのようにも見える。

 

「レヴィ!」

 

 場所はかつての貴族街。魔金属を用いた堅牢な遺構が多く現存する、バビロニア最大の居住区だ。

 しかし脆い石や木材の装飾は全て壊れて剥がれ落ち、残るは住宅の骨格ばかり。

 

 その合間をアンデッドたちが列を作り、玉座を目指し足を引きずる。

 ルジャはレヴィの後ろ姿を見つけ、駆け寄った。

 

『危ない!』

「!」

 

 パトレイシアの警告が間に合った。

 

 ルジャの頭上より振り下ろされた大剣の一撃は、辛うじてルジャの頭蓋を割ること無く、彼の目の前で石畳を砕くだけに留まった。

 

「な……!?」

 

 貴族街に響く破壊音。

 骨だけの家屋の上より舞い降りたのは、騎士の鎧を身にまとった大柄な鎧姿。

 

『首が、ない……!?』

 

 エバンスは突然の闖入者の姿に戦慄した。

 それがあまりにも禍々しい気配を纏っていたこともそうであるし、何よりも鎧騎士には、首から上にあるべき頭が無かったのだ。

 

『まさか……あれは、デュラハン!?』

 

 パトレイシアはそのアンデッドを知っていた。

 極めて強力な呪いによって成り立つ凶兆の不死者。

 首なし騎士のデュラハンである。

 

「てめぇ……」

 

 そして首が無くとも、目の前に立ちふさがる鎧に刻まれた年季と印を見たルジャにだけは、彼が何者かが理解できた。

 

「ラハン……! てめぇ、死んだ後までお偉いさんの命令を守ってやがるのかよ……!?」

 

 それはルジャのかつての旧友であり、騎士団長のラハンその人だったのである。

 

 



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脳無し

 

 ラハン。第六征伐騎士団団長。

 大剣を棒切れのように軽々と扱う彼の剣術は、その恵まれた体格によってオーガと真正面から競り合えるほどの爆発力を持っている。

 

 屈強な肉体。日々の地道な鍛錬をこなす強い精神力。

 当時のラハンはまだ年若かったが、団の中でも突出した彼の武勇は、すぐさま長へと成り上がるに十分なものであったと言える。

 

 ルジャが第六征伐騎士団に配属された時、ラハンは既に雲の上の人物だった。

 鍛錬場で素振りしているだけでもはっきりと分かる音の違い。誰よりも真面目に職務に励む姿勢。団長の名を背負うにあたって十分な素質を持っているのはひと目で理解できる。

 

 が、ラハンは決して人望ある団長というわけではなかった。

 むしろラハンの団内での評価は高いというよりは侮られているくらいだろう。

 彼の剛健や真面目さは本物だったが、度々陰で笑われているのをルジャは目にしている。

 

 ラハンは団員から“脳無し”と呼ばれていた。

 鍛錬はこなす。命令も守る。外へ遠征に出れば戦果も上げる。

 しかしラハンはそれ以外ことはからきしであり、部下たちと世間話をすることもほとんどない男であった。

 軽く町での話題を投げかけられても、ラハンは困ったような顔でうろたえるだけで、すぐに答えに窮してしまう。軽い冗談や軽口も通じず、ユーモアセンスも皆無と言っても良い。不思議なことに仕事にいくら忠実であっても、有能な大男にケチがあればそれを目ざとく見つけて貶すのが人間の醜さというもので、ラハンがそれを知っていても尚注意できない人柄なこともあってか、陰口を叩く気風は留まることなく広がり続けていたのだ。

 ルジャはその空気感は嫌いだった。団員の軽挙さもそうだが、何も言い返せず野放しにしているラハンにも呆れてしまう。なぜ強いくせに何も言ってやらないのか。

 

 ルジャが副団長となった際には“規律が乱れすぎる”という理屈で抑え込んだが、それ以降もラハンを侮る空気が完全に消えることはなかった。

 

 

 

 ルジャにとって、ラハンは友人ではない。ラハンはユーモアに欠ける男で、それはルジャがいても変わることはなかった。

 だが、ラハンにとって最も親しい団員はルジャであったのだろう。

 ある時、慣れない酒場についてきて、案の定誰とも話さず酒と食事だけをひっそりと楽しむことになった時、ラハンは隣の席のルジャに零した言葉がある。

 

 

 ――ありがとうな、ルジャ。いつも迷惑をかけている

 

 

 不器用で無愛想な男である。融通はきかないし人望もない。外だけ見れば立派なものだが、内から見れば悪いとこばかりが目につく典型のような男だ。

 

 それでも、人の心がないわけではない。

 

 酒を一杯だけ飲んだラハンは、ほんの僅かに涙ぐんだ目でテーブルを見つめていた。

 ルジャはそんな彼に目を向けないようにして、冗談めかすように笑う。

 

 

 ――ほんとだよ。真面目過ぎる団長さんの世話は大変だぜ、全く

 

 

 

 何もかもが遠い日の思い出だ。

 オレンジ色のランプの光と陰と、列を成す銀色の照り返しと、嘲笑と、横一文字に結んだ口と、丘陵を吹き抜ける風と、……喧嘩別れのような最後でさえも。

 

 

 

「脳無しって言われて、悔しかったんだろうが。てめぇは」

 

 ルジャが黒い魔剣を構える。

 対するデュラハンはそれよりも長く幅広の大剣を片手に握り、ゆらりと距離を詰める。

 

 ラハンに意志はなかった。

 デュラハンそのものは魔力に対する耐性の高いアンデッドだったが、彼は完全にノールの声に支配されていた。忠実すぎる融通の効かない騎士団長は、王命にほんの少しも抗うことさえできず、手駒と成り果てたのである。

 

「本物の脳無しになってどうするんだよ」

 

 ルジャは前に出た。

 エバンスとパトレイシアに下がるように手早く支持を飛ばし、一人で闘う旨を告げている。

 

 スケルトンソルジャーとデュラハン。それはあまりにも無謀な闘いであった。

 

『ルジャさん!』

「皆は先に言ってレヴィを頼む。こいつは俺の……ダチみたいなもんだ。俺が相手しなくちゃならねえ奴なんだ」

 

 魔法を駆使するパトレイシアは相性が悪い。エバンスの音響攻撃も効かないわけではないだろうが、動きの鈍いバンシーはすぐさま狩られるだろう。リチャードは既に道を大きく迂回し、距離を取っている最中だった。

 

「そう、それでいい。俺が時間を稼ぐ……」

『ルジャさん……!』

「良いからいけエバンス、レヴィに追いつけ! あの子を殺すな! あの子は……!」

 

 デュラハンが跳ねるように動き、剛剣が振り下ろされる。ルジャは咄嗟に受け止め、重厚な剣に似つかわしくない高速の二撃目、三撃目も防いでゆく。

 

「国民を守るのが、俺の役目だ! さっさと行けぇッ!」

『……!』

『エバンスさん、お早く!』

 

 エバンスは最後まで葛藤していたが、必死な様子のパトレイシアに促されて戦場を後にした。残されたのはルジャとラハンのみ。

 呪いを帯びた不吉な大剣は人間だった頃よりも遥かに速く力強い振りで、その防御をする度にルジャの腕の骨は悲鳴をあげた。

 

「く……てめ、ラハン……やっぱつええよお前……!」

 

 それでもルジャは、今までに何体ものアンデッドを殺している。

 今やルジャの内に秘められた力はスケルトンソルジャーの枠に留まることはなく、防ぐだけならばほぼ対等に渡り合えるほどであった。

 とはいえ、防戦一方であることに変わりはない。リチャードが作った魔剣ではなく普通の剣であれば二合目で剣ごと斬り殺されていただろう。今こうしてラハンをその場に縫い付けていられるのは、軽い奇跡と言っても良かった

 

「ははは……! 俺、お前とこんなに長く打ったの、初めてかもな……ッ!」

『ゴ、ゴゴゴ』

「お前と渡り合えるほどの力を身につけて、うちらのお姫様を救い出すための盾にさえなれる! しかも手には魔剣ときたもんだ! なあ、俺は死んでから一体いくつの夢が叶っちまったんだろうなぁ!?」

 

 騎士団の流派にはない粗暴な蹴り上げが、ラハンの重鎧を僅かに打ち上げ、距離を広げる。それでもダメージは皆無に等しい。ただ距離をわずかばかり稼ぎ、闘いの仕切り直しをしたにすぎない。

 

 だが既に何十も、何百も剣を交わした。長期戦によって、魔剣はともかくルジャの白骨の身体の方に早くもガタが現れている。

 対するデュラハンは鎧に傷こそあれど無傷。動きが鈍った様子もない。デュラハンを覆う黒い呪いのオーラが、あらゆるダメージを軽減しているようであった。

 

 仕切り直しだが、状況は最初とは比べ物にならないほど悪い。

 

「……殺してやれなくて悪かったな、ラハン」

 

 デュラハンが再び剣を振り上げ、煌めく刃がルジャの頭蓋へ振り下ろされた。

 

 



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騎士の夢

 

 誰よりも先に走り出したリチャードは、ステッキで道を遮るアンデッド達を打ち据えながら大通りを駆け抜けてゆく。

 エバンスとパトレイシアはそれを追う形だが、リチャードの打撃は頚や腰を効率よく破壊するもので、ほとんど足を止めることなく走り続けている。

 いつもは作業に耽って動くことのないリチャードが闘う姿に、エバンスは内心で驚いていた。

 

『次の大階段はあちらです……! エバンスさん、ついてきてください!』

『……ルジャさんは!?』

『……今は、彼の意志を尊重すべきです!』

 

 一対一でデュラハンを倒す。それはあまりにも非現実的な試みだ。

 呪いを大きく軽減できるアンデッドの身であっても、そもそも種族としての差が大きい。何よりデュラハンは鎧と一体になったアンデッドであり、首も存在しないために弱点が少ないのだ。

 リチャードの作った魔剣は頑強だが、相手の鎧も相応だ。デュラハンの強力な呪いが付与されているともなれば容易く打ち破れるものでもないだろう。どう思い返しても、ルジャの攻め手は皆無であった。

 だからこそ、パトレイシアも咄嗟に諦めたのだ。絶対に勝てない相手を前にしては、決断も早くならざるを得ない。

 

『ルジャさんが時間を稼いでいる間に、我々は一刻も早くレヴィさんに追いつくべきです。それがあの方の望みでした! 殿の想いを無駄にしてはなりません!』

『……わかり、ました……!』

 

 ルジャはよく喋る男だった。明るく、剽軽で、しかし人が不愉快になるような軽挙には出ない。きっと坑道にいた誰よりも場を和ませることに長じていたに違いない。最も付き合いの短かったエバンスにもそれがわかるほどには。

 

 だがパトレイシアの表情を見れば、現状がそう簡単なものでないこともわかる。

 

『僕が一番足を引っ張っている……僕が悩んでちゃ駄目なんだ……!』

 

 バンシーが最も鈍足であり、チームの重しとなっている。その己が判断を鈍らせていてはいけない。彼は思考を入れ替え、パトレイシアの影を追った。

 

『! リチャードさん、そちらではありません! 階段はあちらで……!?』

 

 その時、リチャードが急な動きを見せた。

 階段めがけて大通りを走っていたのが突然、横道に逸れたのである。

 パトレイシアは声をかけるがリチャードは聞く耳を持たないし返す言葉もない。

 

『何故……』

 

 だが耄碌したわけでもない。リチャードは何を考えているかわからないが、限りなく無駄を嫌う人物だ。パトレイシアはその場に滞空し、思考した。

 

『パ、パトレイシアさん! どうしますか!』

『……!』

 

 エバンスの声に反応するように、リチャードがステッキで階段を指し示した。

 

 “向こう”。目的地はあそこだ。しかし、彼自身は道を逸れたまま戻ろうとしない。前に現れた何体かのゾンビを相手に戦い、押し通ろうとしている。

 

 リチャードはこの先に、何らかの目的があって進んでいるのだ。

 

『お待ちを……』

 

 この先にあるものは。パトレイシアが過去の記憶を掘り下げていくと、さほど時間をかけずに思い当たるものがあった。

 

『まさか、いえ。あれしかない。……エバンスさん、階段へ! 私達は先を急ぎます!』

『はい!』

 

 リチャードはきっと“それ”を狙っているに違いない。

 どのようにやってのけるかは不明だ。徒労に終わることだってあり得る。だが、パトレイシアは彼の冷静な判断を尊敬し、自分もそれに賭けることに決めた。

 

 リチャードはなんとかしてみせるはず。ならば、自分達は自分達の役目を果たすべきだ。

 

 

 

 リチャードは貴族街で暮らしたことはないが、いくつかの施設を訪れたことはある。

 特に芸術に関係する場所には最低一度は訪れているし、今向かっている場所はかつての仕事の関係上もあり、そこそこ縁のある施設だったのだ。

 

 半壊した大きな扉の壊れかけの方を蹴り破り、リチャードが踏み入る。

 高い天井からは崩れた穴から微かな光が入り込み、内部を微かに照らしている。人間には見えない闇の中のわずかな光の帯が、リチャードの目には確かに見えた。

 

 足元には無数のガラス片が散らばり、倒れ込んだ燭台や石柱が散らばっている。リチャードはそれらを避けて、前へ前へと進んでゆく。

 

 広大な空間の最奥部に、それはあった。

 破局的な崩壊に巻き込まれてもなお、半分ほどの形を起こした美麗な芸術品。

 

 人々の祈りの場、聖堂に相応しい偉容をもつ神の偶像が、そこに立っている。

 

 慈聖神フルクシエルを信仰する神殿はバビロニア内に数多くあるが、ここは貴族街だけあって像にかけられた費用も膨大だったらしい。

 埃被ったフルクシエルの微笑みは壊れかけてもなお、リチャードに向けられている。

 肌を突くように感じるピリピリした空気は、破局後の長い年月であっても損耗しきることのなかった深い信仰の証。

 

 その手には、不死者だからこそわかる危険な清浄さの込められた儀礼剣が、掲げられたままの姿でそこに納まっていた。

 

 

 傷を癒やす慈聖神信仰は古くより続き、安寧を願う人々の医療として深く根付いてきた。

 平民よりも長く生きることを望む貴族外の人間にとっても、その恩恵は決して無視できるものではなかったのである。

 

 バビロニア歴332年、エアリス作。

 “光剣を掲げる慈聖神”。

 

 それはかつて信仰のための尊き芸術であったが、今のリチャードにとって必要なものは石像の右手に握られた儀礼剣であった。

 

「……!」

 

 リチャードは床に落ちて砕け散ったシャンデリアから小さな燭台の絡まった鎖を探し出すと、それを拾い上げ、振り回しながら像に投げた。

 

 不安定な重心を揺らしながら飛んだ鎖は、石像が伸ばす右腕に絡みつき、手首を二周する頃には燭台がぶつかって、軽やかな破砕音を立てる。

 フルクシエルの右腕が砕かれて、地に落ちたのである。

 

 リチャードはすぐさまその剣に近付き、拾い上げようとした。

 だがわずかに剣の柄に触れようとしたその一瞬で、薬指の骨が脆く砕けて砂へと変わる。儀礼剣に込められた信仰は未だに強く残されており、それがアンデッドたるリチャードの手を焼いたのだ。

 

「……」

 

 少しだけ驚いたが、リチャードの中に確信がうまれた。これならばいける。

 

 リチャードはフルクシエルの右手ごと、儀礼剣をシャンデリアの鎖を縛り付けて、しっかりと固定した。

 彼はそのまま罰当たりにも床を引きずるようにして剣をカラカラと引っ張りながら、来た道を引き返してゆく。

 

 音は聞こえる。鋼と鋼がぶつかりあう戦いの音。かつて自分でも見たことのある戦場の聲。

 執刀団の人間として、その当事者として只中にいたことも珍しくはない。

 

 だからこそリチャードには、その音に向けて物を放り投げることにも覚えがあった。剣を括り付けた鎖を振り回し、勢いをつけ……投げ放つ。

 

 不死者達を殺めることで増し続けていた身体能力は、通常の人間では成し得ない大距離の投擲を可能とした。

 

 

 

「――……」

 

 だからその刃の煌めきは、ルジャの目にも届いた。

 今にも振り下ろされようとしているデュラハンの凶剣の後ろより迫る、いわば聖剣とも呼ぶべき代物が。

 

「う、ぉおおおおッ!」

『ッ!』

 

 ルジャは咄嗟に飛び上がり、左手で聖剣を掴み取った。そのまま振り下ろし、デュラハンの大剣を迎撃する。

 

『グァアアアッ!?』

 

 その効果は、絶大だった。

 信仰を纏う聖剣はデュラハンの呪いを一瞬で切り払い、闇の性質を帯びる大剣と相手の腕ごと切り裂いてみせたのだ。

 

「は……ありがてえ、なぁ……! 聖剣まで、握れるなんてよ……!」

 

 代償は、ほんの一瞬だけ柄を握り込んだルジャの左腕だ。

 アンデッドを滅ぼす聖剣の力は当然ルジャにも作用し、ほんの一撃だけで肩から先が砂へと変じてしまった。

 

 だが得られたものは大きい。デュラハンは自身の根幹でもある呪いが斬られたことで慌てふためいており、大きな隙を晒している。

 

 悩む時間も、理由も無かった。

 

「なあラハン! 一緒にいこうぜッ!」

『……――』

 

 デュラハンに眼は無い。

 

 だが彼は視た。

 

 目の前の色黒な男が、気さくでいつも自分を支えてくれた男が。

 

 残った右腕に聖剣を握り、それを己の胸元に突き刺すその光景を。

 

『ァア……』

 

 呪いが砕け散る。

 不死者としての今回が引き裂かれ、意識が遠のいてゆく。

 

 それはルジャも同じだった。彼もまた、強く握り込み過ぎた右腕から崩壊を始め、それは胴体から頭部にまで伝播しつつある。

 

 黒い靄の掛かり続けていた思考がほんの僅かに晴れ、その微かな自我で、ラハンは安堵していた。

 

 

 自分は物事を考えられる頭のない脳無しの愚図であったが。

 

 ルジャが一緒だと言うのであれば、きっとそこで間違いないのだろう。

 

『ル、ジャ……』

 

 呪いの晴れた白銀の鎧が膝を付き、次第に艶のない砂となって崩れ落ちる。

 大きな砂山の前には既に、それよりも小さな塵の山が積もっていた。

 

「……」

 

 リチャードが大通りのそこへ戻ってきた時には、まだ僅かな清浄さを残す儀礼剣だけが、そこに横たわっていた。

 戦場の音は、もう聞こえない。

 

 



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第8章 ノーライフキングのノール
抑止力のパイ


「全ては螺旋を描き、進み続けるのです。その後ろに、あらゆるものを置き去りにして……。」
 ――時律神スパロトル


 大階段を登り次の階層に出た時、パトレイシアは遠目に現存している昇降塔を確認した。

 ロープを用いて上下に移動する昇降塔はバビロニアの各地に存在し、資材を効率よく運搬するために使われている。そのほとんどは崩落と共に瓦礫となってしまったが、貴族街のものともなれば造りも頑強だったらしい。

 パトレイシアは昇降塔の入り口付近に青く燃える楔を射出し打ち込み、目印とした。

 

『エバンスさん! 幽体アンデッドを倒しながら向こうの昇降塔へ! 他は私が受け持ちます!』

『はい!』

 

 道のりは険しい。行く先々で操られた不死者たちが道を阻んでいるし、邪魔だからと攻撃すれば反撃を行ってくる。

 だがパトレイシアとエバンスの両者にとって、数多い雑兵は敵ではなかった。

 

『“アトラ・フレミガロ”』

 

 紫電が空を駆け、錆びた剣を持ったスケルトンの群れに吸い込まれるように着弾。骨片が爆ぜる。

 たった一発とはいえ、上空から放たれる中級雷魔法は剣士にとっては致命的な攻撃だ。レイスとしての適性もあり、雷は群れの十数体を破砕するまで誘爆し続けた。

 

『“アトラ・プロミネンス”!』

 

 息つく間もなく次に放たれたのは火炎の上級魔法。

 蛇のようにうねる業火が前衛の欠けた敵陣を食い破り、内部から炸裂。不死者の群れを灰へと変える。

 

 斃すたびに力は増してゆく。力を増すたびに魔力は回復し、次の魔法を扱う下地が整ってしまう。

 

『歪んでいる』

 

 同族を殺せば殺すたびに際限なく力は強くなる。

 既にパトレイシアの魔法の力量は肉体を持っていた頃を上回っていた。以前は使えなかった高度な魔法も取り戻したことで、パトレイシアはいよいよレイスらしい悪辣な魔法霊になりつつある。彼女はそこに活路を見出したが、決して気持ちのいいものではない。

 

『キャァアアアアッ!』

 

 エバンスの絶叫が地上の脆弱なスケルトンごと、空のゴーストたちを吹き消してゆく。

 魔法での対処が面倒な相手は全てエバンスがなんとかしてくれる。他のは自分の魔法でどうにでもなる。隙のない布陣だ。快進撃である。かつての臣民に手を下しているという罪の意識さえなければ。

 

『塔はここですね! ……パトレイシアさん! どうしましょう、中に昇降機がないんですが!』

 

 昇降塔に辿り着いたエバンスは、その内部にリフトがないことに気が付いた。

 塔そのものは無事であったが、ロープを用いた昇降機本体は衝撃と経年劣化に耐えられなかったのだろう。

 

『問題ありません。“カースバインド”』

『うわっ』

 

 パトレイシアの手から伸びたのは暗く不吉な煙を発する魔法の鎖。

 それがエバンスの華奢な身体に何重にも巻きつき、幽体を堅く拘束する。

 

『ゴーストなどの幽体を捕縛するための魔法です。このまま私が上へと引き上げていきますね』

『す、すごいですね』

『上級魔法ですから。先ほどの戦いの中で使えるようになったのです。前世では使い道もなかったのですが……覚えておいて良かった。これで昇降塔から先回りできます』

 

 昇降塔を使えば階段よりも早く上層階を目指せる。

 徒歩で上へ向かっているレヴィを待ち伏せることも可能になるだろう。

 ひとまず時間的な余裕は生まれたと考えても良さそうだった。

 

『……ルジャさん、大丈夫でしょうか』

 

 長く単調な縦穴を移動する中、エバンスが呟いた。

 

『祈る……ほかに、ありません。剣士同士の戦いともなれば、きっと既に決着はついているでしょう』

『そういうもの……なんでしょうね』

 

 最後にリチャードが機転を利かせたのは間違いない。だが、それがあってもデュラハンを倒せるかどうかは怪しい。

 二人はなるべく楽観的に祈る以外、できることはなかった。

 

『着きます』

 

 沈黙も僅かに、昇降塔の最奥にたどり着く。

 横穴から外に出ると、景色は先ほどまでいた貴族街よりもずっと絢爛さを増しているように見えた。

 

 少し離れた大通りにはアンデッドたちの行列がゆっくりと歩みを進めている。

 

 行先は、王族の居住区へと続く大階段。

 狂王ノールが待ち受ける処刑台。

 

『エバンスさん、ここで不死者たちを止めましょう! レヴィさんを止める必要はありますが、彼らをノールに殺させるわけにはいきません!』

『はい!』

 

 エバンスが不死者たちを声によって仕留めていくのを確認してから、パトレイシアには今しがた登った昇降塔の内側に手を差し向けた。

 

『“アイシング・モール”』

 

 強大な氷結魔術が円筒状の内部を走り、螺旋状の氷塊を作りながら下ってゆく。

 最下層まで着弾すると、残されたのは極めて足場の狭い螺旋階段だ。運良くリチャードが気付けば、ここから登って近道できるだろう。

 

『……!』

 

 消費魔力は多い。我が身を削るレイスとしての魔法行使は無理をするほどに不調が直接滲み出てくる。

 それでも取り返すあてはいくらでもある。

 不死者を倒せばそれだけでいくらでも回復が可能だ。斃すべき不死者は視界を埋め尽くさんばかりなのだから。

 

『歪んでいる……!』

 

 ノールは正しい。力を得るならば、まさにこの埋没殿での同族殺しは最善とも言える。

 外界進出の足掛けとしてはこれ以上ない策だ。

 

 パトレイシアはそれを嫌悪している。

 だが同時に、対抗するために同じ手法を真似ている。これは明らかな矛盾だ。

 

『“アトラ・プロミネンス”!』

 

 それでも、犠牲を最小限に留めるためにはこれしかない。

 自分の手で斃し、糧とするしかない。

 

 パトレイシアは険しい形相で魔法を放ち、その身に積み重なる力を嫌悪し続けた。

 

 

 



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オーディエンス

 

 

 貴族街の片隅にあるルジャとラハンの遺骨の成れの果て。

 それは灰に近い物質となり、二つの小さな山として密やかに積もっていた。

 

 神聖な力によって浄化されたスケルトン系アンデッドの遺骸。

 一見すると凡庸な堆積物にしか見えないそれを、リチャードは一目で“死体”だと見抜いた。

 生前は執刀団として活動していたリチャードにとって、それは見慣れた部類の遺骨だったから。

 

「……」

 

 屈み込み、小さな方の遺骨の山に手を触れ、隙間だらけの骨の合間よりサラサラと落とす。

 ルジャは大柄ではなかったが、健康な骨格の男であった。日々鍛錬を怠らず、歪んだ骨の少ない模範的な兵士らしい骨であったと言えるだろう。

 

 それも今や微塵になり、影も形もない。

 だが、それも全て織り込み済みだったのだろう。すぐ近くには神聖な気配に満ちた聖剣が転がっており、未だリチャードにとっても辛い波動を放っているのがわかる。

 

 わかった上で、ルジャはその剣を手に取ったのだろう。

 そして彼は聖剣によってデュラハンを打ち倒してみせた。これは偉業だ。

 長く執刀団で活動していたリチャードですら、デュラハンが討伐された光景を直接見たことはなかったのだから。

 

 リチャードはしばらくルジャの遺骨に触れて沈黙した後、すぐに立ち上がった。

 その手にはルジャが使ったであろう黒い魔剣が握られている。

 貴族街の柵から作り出した手製の魔剣。不格好ではあるが、切れ味は本物だ。

 

 そうして、リチャードは立ち去った。

 残されたものは名もなき遺灰のみ。だが、ここには雨が落ちることもなく、風が吹くこともない。

 

 二人がこの世に存在した名残はまだしばらくの間、この場所に留まっているのだろう。

 

 

 

 道を進んでゆくと、不死者たちの残骸が目につく。魔法を放った跡や強い音圧によって砕けたものなど。この階層で争い事を起こす存在などそう多くはないはずだ。目印にして跡を辿っていくのは簡単であった。

 時々行く手を遮ってくる邪魔なアンデッドは魔剣で頚椎を砕けばすぐに無力化できる。

 その歩みに迷いは無かった。

 

「……」

 

 次の階層へと続く大階段を登りつつ、振り返る。

 広がる景色は薄暗く、骨格をむき出しにした街に明かりは灯っていない。

 どこまでも広がる廃墟。うごめく影は不死者だけ。

 

 それでも、ここはまだマシだ。落下の衝撃と塔の重さに押しつぶされた下層は文字通り形も残っていない。廃墟としての寂びがあるだけ、まだ恵まれているのだろう。

 

 階段を登りきり、更に歩いてゆけば、二人の痕跡は昇降塔まで続いていた。

 道中の魔法痕は進むほどに激しくなっており、パトレイシアが派手に不死者を蹴散らしていたことが伺える。おそらくエバンスも一緒にやっていたのだろう。真新しく崩れ落ちた建材の跡からして、きっと凄まじい叫びを披露したに違いない。リチャードは騒がしい声を聞かずに済んだことに心底ほっとした。

 

 昇降塔の円筒状の内壁には、氷の螺旋階段がへばりついている。パトレイシアの魔法によって作られたものだろう。煌めく冷気が遥か上から重く降り注いでくるが、氷の階段は溶ける気配もない。足場としては申し分ないだろう。

 

 リチャードは階段に足を置き、魔剣を杖代わりにしながら登った。

 焦ることはしない。彼は焦燥や軽挙が取り返しのつかない終わりを呼び寄せることを知っている。

 

「……」

 

 それでも、少しだけ立ち止まり、考え直した。

 レヴィ。数少ない理解者の少女。凡庸な閲覧者の一人でしかないことは確かだが、この世界において一人というのは実に貴重だ。

 

 そう思い直すと、リチャードは手にした魔剣の重みもあり、急ぐことにした。

 螺旋階段を壊さないよう慎重に、それでもできるだけ急いで駆け上がる。

 

 頂上までたどり着き、昇降塔の外に出る。

 貴族街居住区。そこは既にアンデッドの行列が立ち並び、玉座の間へと向かう渋滞が目に見えていた。

 多くのアンデッドたちは意志なきうめき声をあげ、整然と並び、己を殺す一撃を賜りにいくためだけに歩いている。

 

 その数は無尽蔵。手探りで特定の個人を見つけ出すにはあまりにも難しい。

 昇降塔での移動は階段を使うよりもずっと近道であったはずだが、追いついたのか追い抜かしたのかは不明だ。

 

「……」

 

 しかし、数が多い。そして基本的に戦意がなく、誰もが一方向を向いている。

 

 それは、リチャードにとって好都合な状況であった。

 

 ここには自分を邪魔する者は誰もいない。

 ならば、ここでこそ始めるべきだろう。

 

 リチャードは列を成す不死者の傍らに建っていた、辛うじて崩壊を免れたらしい外壁までやってきて、その表面に魔剣の切っ先を突き立てる。

 魔金属の鋭利な刃は脆い壁を想像通りに削り、溝を成す。悪くない彫り味に、リチャードは心の奥底で笑みを浮かべた。

 

 さあ、作業を始めよう。

 辺りに人は多いが、誰も煩わしく話すこともない。

 たとえ煩わしい客人が現れたとしても、それは作品が仕上がった時だけだ。

 

 塔の上部に、槌の音が鳴り響く。

 

 

 



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芸術の壁

 

 黒き魔剣に魔力を込める。

 ルジャ唯一の遺品は今、リッチの持つ莫大な魔力の流入を受け、淡い青色を纏っていた。

 単純な切れ味だけで見るならば、その剣はスケルトンソルジャーが振るうものよりも鋭い。

 周囲にはゾンビを中心とする不死者の群れ。一度剣を振るえば、脆い肉体を持つアンデッドなど数体纏めて膾切りにできるだろう。

 

 しかし響くのは槌の音。

 広く頑強な壁面に魔剣を押し当て、柄をハンマーで叩く音だけが、廃墟の町並みに木霊する。

 

 

 “良い切れ味だ。”

 

 

 リチャードは魔剣を鏨に壁を削っていた。

 彫り込む図案はこれまで培った不死者への理解。

 アンデッドのための死想芸術(メメント・モリ)

 

 他者が死んだ。人間が死んだ。名もなき化け物が死んだ。仲間が死んだ。

 抵抗する者、託す者、物言わぬ者、誇り高き者。

 

 人だった頃と変わらない。多くの者は死に、この世から去っていく。

 

 ここは土の中の異世界(モルド)だとネリダ(人間)は語った。

 ミミルドルスの腹の中。生き埋めにされた者の果ての果て。

 

 ならばその先は?

 ここでの死の先にも、更なる次があるのだろうか。

 

 リチャードはなんとなくだがわかっている。

 ここより先はないのだと。

 

 

 “何もかもがいつか、必ず死ぬ。”

 

 

 悲観でもない。諦観でもない。それは感情の介在することのない概念である。

 しかし奇妙なほど感情と結び付けられることの多い摂理だ。

 

 だが、本来死と感情は無縁なものだ。

 リチャードの作品は往々にして見るものに“恐怖”を齎すが、それは作品そのものの本質ではない。恐怖がそのまま死であるということではないのだ。

 

 血まみれの裸婦を彫れば恐ろしさは表現できるかもしれない。題材として“死”という名をつけても頷かれるかもしれない。

 だがリチャードは、作品の中から意図的な感情を排することによって、見る者に自然そのままの無垢な死を伝えることこそが至上であると考えていた。

 

 未だ、リチャードの作品はその次元には到達していない。

 似たような作品を仕上げたことはあっても、受け取り手は極々限られていた。

 

「ァ……ウグァ……」

「ガァ……」

「ォオァアアア……」

 

 だが、今この時、リチャードが通りの壁面に刻み込んだ作品には、強い“死想”が宿りつつある。

 無味乾燥な死。生の滅び。それを曖昧なモチーフだけで表現するための技術と素養は、長年の不死者としての暮らしの中で育まれてきた。

 

 通りを歩むゾンビたちの呻きの色が変わる。

 引きずるような歩みが遅くなり、整然としていたはずの行軍が乱れ始める。

 

 壁面に現れ始めた山地のようにも見えるレリーフ。

 それを視界に入れたゾンビたちは僅かに反応し、進むことを躊躇う。

 

 反応は作品が完成に近づくにつれて強まった。

 歩みが遅かっただけの行軍は、壁面を避けるように大きく歪み。

 やがてゾンビたちは頭を抱え、苦しみ出し。

 それは数分もしないうちに、来た道を引き返す個体が現れるまでになっていた。

 

「タスケ……タス……ケ……ゥァアア……」

「イヤ……イタイ……」

「オチル……コワイ……ダレカ……」

 

 ゾンビたちの呻きが言葉となる。

 頭を抱える彼らは壁面から逃げるように逆流し、やがてその流れは膨大な量の行軍を押し返すにまで至った。

 

 理性を取り戻しかけた者はいるが、完全に人としての理性に覚醒した者はいない。

 引き返す道があったからだろうし、あるいはノーライフキングによって操られているせいかもしれない。

 それでもリチャードの作品は大きな効力を発揮し、玉座を目指す人の歩みを完全に変えたのだ。

 

 その時だった。

 

 

 ――どうやら我らの領土に反乱分子が混じっているようだ。

 

 

 空から声が響いた。

 大きくはない。だが、どこまでも突き抜けるような存在感のある声だ。

 

 声はリチャードの身体をも貫き、魂を揺るがす。

 だが強靭な魔力を持つリッチとしての魂は支配を受けず、意識を遠ざけるにも至らなかった。

 

 

 ――バビロニアの民よ。再び動け。列を、我が法を乱すな。

 

 

 支配者による絶対命令。それは埋没殿の斜塔全域に響き渡り、弱き不死者を再起動させる。

 やってきた道を苦しみながら引き返そうとするゾンビたちは、再びの命令によって列を作り直す。

 そしてまた玉座へと向かって歩み……。

 

「ァアアア……ダシテ……」

「イ……ヤダ……」

「クルシイ……オモイ……」

 

 再び、作品によって苛まれる。

 

 ノーライフキングの命令は有効だった。自我を取り戻しかけた不死者たち全てを洗脳し、再び操るほどに。

 だがリチャードの作品はそこにある。通らねばならぬ道に鎮座するその芸術は、何度でも洗脳の靄を晴らすほどの鮮烈さを持っていたのである。

 

 

 製作再開歴18年、リチャード作。

 

 “旅路”。

 

 

 自分の作品がそれなりの効果を発揮したことを見届けて、リチャードはそこそこ満足そうに頷いた。

 物言わぬ観衆は反応こそすれ、無駄口を叩かない。彼にとっては素晴らしい、まさに理想的な観衆に近いこともある。出来は会心に近いと言っても良いだろう。

 

 

 “……さて。”

 

 

 作品はバビロニアの民を足止めしてくれるだろう。

 であれば、ここはもう問題ない。後は先に進み、パトレイシアに追いつくばかり。

 そしてレヴィを見つけ、引き止めなければならない。

 

 リチャードにとってレヴィは助手であり、貴重な観衆の一人だ。

 そして彼女はもはや他人でもない。

 

 彼に友人と呼べる者は少なかったが、地下世界で自我を取り戻して十八年。レヴィとはそれほど長い付き合いになっている。リチャードの生前でも、それほど長く付き合った相手は数えるほどしかいない。

 それに。

 

 

 “無駄に殺されるのは目覚めが悪い。”

 

 

 リチャードから見て、ただ力を獲得するためだけに行われるノールの“屠殺”は、あまり面白いものではなかった。

 殺して力を得る。それは良い。だが、埋没殿のアンデッド達は邪魔者も多いが、それぞれが作品の閲覧者でもあるのだ。

 生前は故郷を同じくするバビロニアの民。彼らの感性を根絶やしにするのはあまりにも惜しい。

 

 

 “助け出そう。”

 

 

 リチャードは罪人のローブを翻し、先へと進んだ。

 

 遥か遠い先からは、バンシーの泣き声が微かに響いている……。

 

 



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一人目ではない革命家

『“アトラ・カダル・アクレイシア”』

 

 銀色の波動が薄く引き伸ばされ、宙を駆ける。

 平地から150cmの高さで発動したそれは、射程にある存在を鋭く切り裂く魔法の斬撃だ。

 

 敵や味方を選別できる類のものではない。

 しかし、レヴィの背丈を知るパトレイシアはこの魔法によって彼女の身が傷つくことがないとわかっている。

 

 結果生まれるのは頭部を切断された不死者の群れ。

 アンデッドとして生まれ変わっても尚受け継いだ弱点を両断され、遺骸は力なく地面に倒れ込んでゆく。

 ほぼ万全な状態で残った胴体は後続の不死者たちの歩みを阻害し、行く手を阻んだ。

 

『パトレイシアさん……』

『大丈夫です』

 

 もう何百体の不死者を倒したかわからない。

 パトレイシアの魔法の力は既に人の領域になく、レイスという種族に収まるものですらなくなっていた。

 終わることのない不死者の葬送。パトレイシアはその処理について、考えることを放棄しつつある。

 

『! レヴィさん……!』

 

 そんな最中に、目的の彼女の姿を見た。

 虚ろな目をした少女がおぼつかない足取りで歩き、こちらに近づいている。

 

 不死者を何体も斃している間、パトレイシア達の中では“既に先に玉座に到着しているのではないか”という疑念に苛まれていた。

 だがそれは杞憂だった。レヴィはまだ殺されていない。

 

『レヴィさん! お気を確かに!』

 

 パトレイシアが不死者の群れに並ぶレヴィのもとに飛び込み、華奢な肩を掴んだ。

 莫大な魔力量は霊体をより確かなものに変え、既にパトレイシアは自らの意志で実体を持つことを可能としている。

 掴み、揺さぶる。だがレヴィの返事はない。

 

『あっ……』

 

 それどころか、強引に身を捩って抜け出されてしまった。

 いくらパトレイシアが実体化の力を高めていようとも、強化されたレヴナントの抵抗を妨げるほどではなかったのだろう。

 

『レヴィちゃん! ダメだよ、そっちに行ったら……!』

『止まってください!』

 

 レヴナントは使役されるアンデッドである。

 支配者の最たるものであるノーライフキングとの相性は最悪であり、下された命令はそう容易く遮ることはできなかった。

 

「ぁあ……あぁあー……」

『レヴィさん……!』

 

 不死者の本能で動き、止まることのないレヴィ。

 もはや立ち止まらせるためには拘束する他に手段はない。パトレイシアは素早くそう判断した。

 

 四肢を凍てつかせれば動きを封じることは容易だろう。それから岩石でも何でも使えばひとまず無力化はできるはずだ。決して難しいことではない。

 

 しかし、それをいたいけな少女相手に。

 そう考えた時、パトレイシアはどうしても魔法を放つことができなかった。

 

 

 

『──さあ、ともに唱おう 盃を持ち、薄めたエールを飲みながら……』

 

 階段を登るレヴィの背に向けて、エバンスがささやかな歌声を響かせた。

 それは引き裂く力を持つバンシーの乱暴な絶叫とは程遠い、理性的で、文化的な歌である。

 

『──塩を舐めればそれでいいのさ 明日はもっと美味い飯が食える 明日の俺たちはもっと幸せだ』

 

 少なくとも劇場に響き渡るような、聴く者を感動に打ち震わせる類の曲ではない。

 華美な服に身を包む貴族達の間で流行した、国を代表する曲でもない。

 

『──だから今はもう一杯だけ、ともに飲んで唱おうか 今の幸せは明日に無いから 明日をより良くするために 今を泣かずにいるために……』

 

 エバンスは歌という芸術に携わる人間であり、その歌によって魂を揺さぶる力はリチャードと通じるものこそあったが、決定的に違う部分がある。

 それはリチャードが彫刻によって芸術を生み出す創造者であることに対し、エバンスはあくまで既に存在する曲を発信する表現者であるという点だ。

 

 エバンスは曲を作り出すことはできない。あくまでも自分が持ち合わせている曲を表現する芸術家だ。

 だからエバンスは今歌うべき最適な歌を知らない。操られたレヴィを引き止めるための最適な歌などわからない。

 

 だから彼はこの曲を歌ったのだ。

 かつてレヴィが聞いてくれて、拍手してくれた貧民街の流行歌を。

 それから事ある度に遠慮がちにリクエストしてくれた、きっと彼女のお気に入りであるはずのこの歌を。

 

 それ以外に引き止めるための手段()は知らない。

 エバンスにとっては一か八かの賭けだった。

 

「――……あ、ぁあ……あ……?」

『……レヴィちゃん!』

「エバンス……さん……?」

 

 だがレヴィは歩みを止めた。

 立ち止まり、虚ろだった目に微かな光を取り戻し、振り向いた。

 何があったのかと不安そうに呆けているが、人間らしい表情を見て、エバンスは胸にこみ上げてくる感情を堪えきれなかった。

 

『良かった……!』

「……エバンスさん、どうしたんですか……?」

『大丈夫だよ、もう大丈夫! 良かった、無事で……!』

 

 幽体の身体ではレヴィの肉体に干渉できないことを承知で、エバンスは彼女の頭をそっと抱え込む。

 チリチリと肌に触れる幽体のこそばゆい感触にレヴィは擽ったそうに目を細めた。

 

「……泣かないでください、エバンスさん」

『うん、ごめんね……でも本当に良かったよ……!』

 

 レヴィは未だに何が起きているか理解していなかったが、安心感に表情を綻ばせた。

 

『……ご無事で何よりです、レヴィさん』

 

 結局、パトレイシアは力になれなかった。

 洗脳されたレヴィの心を取り戻したのはエバンスの歌声で、魔法による力ではなかったのだ。

 自分が役に立てなかったのは少し悔しくもあったが、レヴィが救われたことは素直に喜ばしい。

 

 しかし、まだ終わってはいない。パトレイシアは実体化した身体でレヴィを抱きしめられるほど悠長な思いは抱けない。

 

 ノーライフキングはいつでも指令を下せるのだ。

 その気になればまたレヴィを操ることもできるだろう。そうなれば再び洗脳され、エバンスの歌が必要になる。エバンスが近くにいなければそれこそ次は力づくで拘束しなければならなくなる。

 

『……ノールを、討たなければ』

『! ……パトレイシア、さん?』

 

 パトレイシアの視界に映るのは、人間性を取り戻した大切な二人の臣民。

 そして床に散らばる無数の不死者。かつてとバビロニアの民であり、己で手を下した犠牲者たち。

 

 既にパトレイシアは数え切れないほどの不死者を滅ぼした。

 もはや立ち止まることはできない。多くの犠牲の上に手にした力を、せめて正しく振るわなければならない。

 

 平和的では決して無い。

 かつて夢想した血の流れない革命は、幻想であった。

 

『私はノールを殺します。ノールを殺し、この地に平穏を取り戻してみせます』

 

 それを成すための力は既に手中にある。

 

 思いがけず手にしてしまったのか。

 それとも、心のどこかでその力をずっと求め続けていたのか。

 

『……必ず成し遂げます』

 

 パトレイシアは己の内心を深く追及することをやめた。

 



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絶対王政

 

 玉座の間へと続く道は左右を堅牢な砦によって固められ、往来する者を威圧している。

 銅色の城壁。無数の銃眼。千人の反乱者が一斉に押し入ろうとも容易く押しつぶすことのできるエストッカ城塞は、バビロニアの絶対王政を象徴する不滅の建築物であった。

 

 今やその城塞も、自らの重みによって半分以上が崩れ落ちている。

 銃眼から通りを監視する兵士も弓兵もいない。不気味な静けさは最奥の暗闇まで続いている。

 

『パトレイシアさん!』

 

 悲鳴にも似たエバンスの叫びを背に受けて、パトレイシアは玉座の間を目指す。

 目的は狂王ノールの抹殺。再び“声”がレヴィの自我を奪う前に殺さなければならない。

 

 多少の冷静さを欠いていることは承知の上。

 それでもパトレイシアは、今こそ実行に移すべきだと決断したのだ。

 

 

 

 ゴーレムが牽く馬車の中からでしか見ることのなかった正門をくぐり抜け、王城を突き進む。

 朽ちたカーペットの最も華美な紋様をなぞるようにして直進すれば、目的地はそう遠いものではない。

 今や謁見の手続きや待ち時間も必要なく、風通しの良いそこへ到達するのは難しくなかった。

 

『……ノール……!』

 

 来客を全面的に歓迎するかのように開かれていた巨大な門の向こう側。

 黄金の十三階段の上に佇む玉座には、かつてと同じように王が君臨している。

 

 肉と皮がなくとも一目でわかる歪んだ頭蓋。

 そして禍々しいノーライフキングとしての気配に、無言で先手を撃つというパトレイシアの目論見は無意識のうちに挫けてしまった。

 

「クカカ。そうか、ネズミは人間ではなかったか……クカカカカカ……」

 

 バビロニアの王、眇の狂王ノール。

 小柄な遺骸はパトレイシアを一瞥したきり顔を背け、黄金の玉座から動かぬまま節くれだった己の指先を眺めている。

 

「知性を残したアンデッドが他にいることは考えないでもなかったが、そうか。人間ではなかったか」

『……ノール・ジグラッド・イングローズ。貴方の暴政は今日終わる』

「いや? その姿に変わり果てずとも……どの道ハーフエルフを人間とは呼ばぬか。クカカカ……」

『……!』

 

 パトレイシアの美しい表情に皺が寄り、レイスとしての莫大な魔力が吹き荒れる。

 術に変換したい純粋な魔力が嵐に匹敵する風を生み、埃を散らす。人の身では宮廷魔法士でも成し得ない力であった。

 

「カカカ……いや、しかし……パトレイシア・アロフ・イングローズ。貴様も、この我も。今となってはその血筋に意味など無くなった。ここにあるのは骨と、魂だけの亡者ばかりよ。……貴様は何故ここにいる?」

 

 ノールの眼窩の奥が妖しく光り、パトレイシアの魂が硬直する。

 射抜かれたような痛みが胸に走る。

 

 ――ノーライフキングの支配。

 

 その直撃に抗うには、甚大な苦痛を必要とした。

 

「ほう?」

 

 パトレイシアは支配から抗った。

 首を振り、毅然とノールを睨み、自らの意志で口を開く。

 

『……私は、貴方を殺しに来ました。貴方は……貴方は死しても尚、バビロニアの民を苦しめている! 人々の尊厳を踏み躙っている! この世界に再び粛清を齎そうとしている! 私は許さない……今度こそ、絶対に!』

「支配を防ぐか……なるほど。不死者であってもか。……クカ、クカカカ……」

 

 ノールの硬い指先が玉座の肘掛けを叩く。

 

「だが……パトレイシア。鳥籠の中の愚かな叔母上よ。貴様から迸るその力は……クカカ、果たしてどうやって手に入れたものなのか。のう? クカカカッ……!」

『……!』

「ぁあ、だが正しい。それは正しいのだパトレイシアよ。支配とは力あってこそのもの。力なき支配に価値など無い。弱きことだけは、為政者にあってはならぬのだ。このバビロニアは根腐れによって無様に滅び去ったが、力による支配それだけは、滅ぶその瞬間まで履き違えることはなかった……僅かとは言え、我と貴様には同じ血が流れている。嬉しいぞ? パトレイシアよ。クカカカ……」

『黙れ! 私はッ……これ以上、貴様の殺戮をッ……!』

「死に損なった死者が正しく死んだだけであろうが。我と同じく“糧”とした身でありながら、何をほざく?」

『――』

 

 パトレイシアは右手を掲げ、怒りの中で噴き出した魔力を纏め上げた。

 

『“レイ・エクスプロージョン!”』

 

 無属性の爆破魔法。

 対象に爆破を浴びせるシンプルな魔法であったが、注ぎ込んだ魔力は上級魔法を凌駕するほどの規模であった。

 

 シンプルな魔法故に、出力は入力に比例する。

 玉座の頂点で炸裂した魔力は玉座の間全体を軋ませ、積年の塵や誇りを全て吹き飛ばした。

 

「そう、力でこそ支配は成り立つ」

 

 煙る玉座から、ノールの平坦な声が聞こえる。

 まるで一切通じていないかのような、無感情な声。

 パトレイシアは敵の想定を超える硬さに戦慄せざるを得なかった。

 

「我が王位を継承するに至ったのも、それよ。結局のところ、道は己で切り開く他に術は無いのだ」

 

 煙の晴れた先に、ノールはいた。

 金の玉座の周辺は微塵に砕けていたが、ノールの周囲だけは全くの無傷。

 パトレイシアはその結果が、ノールが身に纏う人智を越えた魔力による防御膜であることを悟った。

 

 そして直感する。

 ノールの保有する力は既に、パトレイシアでは覆しようもない規模に達しているのだと。

 

「パトレイシア、貴様は甘い。貴様は国の定めに唯々諾々と従い、ハーフエルフである己を“アロフ”の籠に自ら閉じ込めた。為政者であることを棄て、ひとつの杖となることを受け入れた。……惰弱な女よ。だから“こうなる”。“こうなっている”。半端者め。その程度の覚悟で我を殺せるとでも思ったか。我を見くびっているのか。クズが」

『ッ……』

 

 歪んだ眼窩が不吉に輝く。声に怒気が籠もる。

 パトレイシアはノールの放つ覇気を前に、完全に萎縮していた。

 

「我は肉親の手により毒のスープを飲まされ、五日間の悪夢より這い上がったその時から決めているのだ。王になると。絶対に揺るがぬ王となり、この世を捻じ伏せると。……なんだそのザマは? それが玉座を狙う者の覚悟か? “民だった者”の全てを砕いて礎にしてやる程度の覚悟もできずに、我に立ちはだかったつもりでいるのか!?」

『そ、そん、な……!』

 

 恐怖。生前も感じていた狂王の恐ろしさに、思わず目を背けてしまう。

 

 パトレイシアが目を背けた、カーペットの外側。

 そこには微塵に砕かれた白骨と肉片が混じり合い、灰色の絨毯と化していた。

 

「死しても尚、我はノールである! 偉大なるバビロニアの王である! 我は再び踏み潰してやるぞ! 絶対なる力をもって、世界を捻じ伏せてやる! そして今度こそ刻むのだ! 我がいた証を! この世の全てを踏み均した絶対の王である証をッ!」

 

 ノールは吠える。

 魂の限りに叫ぶ。

 

 バビロニアによる世界の支配。王の遂行を宣言する。

 

 生前は道半ばで途絶えた己の覇道を、不死の身にて再び歩むために。

 

 



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嘆き

 殺さなければ。

 

 パトレイシアの中に残った思考はそれだけだった。

 恐怖は当然あったが、魔法士としての経験がただ立ち竦むことの愚かさをその魂に焼き付けていたのか、ノールの威圧に屈することはなかった。

 

『“マギ・ロウタス”!』

 

 パトレイシアの足元に魔力が蓮の花を形成され、勢いよく回り始める。周囲で眠れる魔素を目覚めさせ、術者の魔法行使を補助するものだ。

 相手が同技術を扱う魔法使いであれば逆利用される戦法だったが、パトレイシアはノールが魔法使いでないことを知っている。

 

『“アトラ・メイルザミア”!』

「補助魔法に防御構築魔法。なんともまぁ消極的な戦術よ」

『!』

 

 ノールは魔法を扱えない。それは正しい。

 だが知識として無いわけではない。彼は己に扱えないとわかっていても尚、魔法については学んでいた。

 

「宮廷魔法士が聞いて呆れるわ。クカカカカ……やれ」

 

 指をさして、その一言だけだった。

 

 たったそれだけで、ノールの背後より蠢いた影は鎌首をもたげ、即座にパトレイシアへと襲いかかってきた。

 悲鳴すら上がらない衝撃。霊体にすら及ぼされる激痛。

 

「避けたか。しぶとい奴よな」

『……ドラゴン、ゾンビ……!』

 

 魔法障壁を一撃で突き破ったのは、玉座の背後で臥せていた巨大な竜の骸であった。

 黒く爛れた顎先には霊体化したパトレイシアの右腕が咥えられ……それは今まさに、彼女の目の前で噛み砕かれた。

 

 防御をものともしないドラゴンという種としての暴力。

 幽体に干渉できる圧倒的な魔力。

 そしてそのドラゴンゾンビがノールに忠実に従っているという事実。

 

「生きていた頃は枷を無しには手のつけられん馬鹿な奴だったが、死してようやくペットらしくなった。これもノーライフキングとしての力を極めた恩恵よ」

 

 虚ろな眼窩の腐れ果てた竜が、パトレイシアの生み出した蓮の花に食らいつく。

 濁ったよだれを滴らせながら魔法の蓮の葉を喰らい尽くすと、ドラゴンはじっとパトレイシアを見つめた。

 

「さて、次はどうする? ん? 攻撃魔法でも唱えてみるか? どんな手を打つ?」

 

 勝てない。

 パトレイシアの中では既に、戦うという選択肢は残っていなかった。

 

 事前準備が足りなさすぎたのだ。

 やるならばノールが目覚める前に、ドラゴンゾンビを操れるようになるよりも先に力をつけるべきだった。

 自我を得た瞬間から無慈悲に民を殺して回り、レイスとしての力を蓄積し続ける他に手立てはなかったのだ。

 

 時既に遅し。

 逃走経路は咄嗟に脳裏に浮かんだが、パトレイシアには逃げ切れる気もしなかった。

 

『やめてください!』

 

 玉座の間に声が響いた。

 パトレイシアのものではない、女性のように高い青年の声だ。

 

「……他にもいたか」

『パトレイシアさんに手を出さないでください……!』

『エバンスさん!』

 

 階段を登りきったエバンスは、一部始終を見て状況を察していた。

 深く考えるまでもない。かつての狂王が再び力を振るい、人を傷つけているということだろう。

 それはエバンスのすぐ後ろにいるレヴィからも明らかだった。

 

「エバンス。ああ、“あのエバンス”か……」

『もしこれ以上パトレイシアさんを傷付けるのであれば、僕は全力で叫びます』

「やれ」

『え——』

 

 間髪入れなかった。

 躊躇も交渉の余地もない。

 

 ノールが機械的に発した命令はドラゴンゾンビの巨躯を動かし、一瞬でエバンスの胴体に食らいついていた。

 

『ガッ……!?』

『そんな、やめて!』

「本気で叫ぶ。つまりはバンシー。音の速さで人を殺める化け物も、人並みに初動を躊躇すればこの程度よな。仮に叫べたとして、我が傷を負ったとも思えぬが」

 

 ドラゴンゾンビに噛み付かれたエバンスが、ノールのすぐ近くにまで運ばれる。

 エバンスは既に体から霊子を散らし、重体であることが伺えた。

 

「や、やめ……エバンスさん……!」

「そこのもう一人は……雑魚か。後で我が直々に処刑してやろう。……さて、どうするパトレイシアよ。貴様の働き如何では、こやつの死に方を選ばせてやっても良いが?」

『ぁ、ああああっ……!』

 

 腐臭の漂うドラゴンゾンビの顎が、少しずつエバンスの矮躯を押しつぶす。

 幽体に食い込む竜牙の激痛は凄まじく、エバンスは叫びたくとも腹に力が入らなかった。

 

『私に……私にどうしろというのです!? ノール!』

「抵抗することなく我が支配を受けよ。貴様の力はそれなりにあるし、幽体は便利だ。使い道はいくらでもある……我が支配を受けるのであれば、この小僧を楽に死なせてやっても構わんぞ?」

 

 それは選択肢のない交渉だった。

 ノールは元より生かすつもりはない。苦しみが付随するか、奴隷に成り果てるかの違いばかりだ。特にエバンスなどは殺すことは確定している。

 

「下等な芸術家を生かすつもりはない。当然こやつもな? カカカカ……助命は許さぬ。さあ、選べパトレイシア。どうする? ん?」

『歌、を……!』

 

 それでもまだ、エバンスの目は死んでいない。

 彼はすぐ近くのノールを睨みつけ、荒い吐息と共に声を発していた。

 

『歌は、芸術は、止められは、しません……! 劇団長も、言っていた……誰かが殺しても、焼き捨てても、良いものは絶対に、受け継がれるんだ……!』

「……」

『けど、悪いものは続かない……滅びるんだ、いつか必ず……!』

「死刑」

『——』

 

 ドラゴンゾンビの顎が勢いよく閉ざされる。

 

 エバンスの体はその一撃で散り散りになり、煙のように呆気なく消えた。

 

「……え……」

『ぁあ……!』

 

 一瞬のことだった。レヴィは何があったのかも理解できず、パトレイシアも目に涙を浮かべる以上のことはできない。

 

「歌。詩。劇。くだらぬ。芸術などくだらぬ。政治を妨げる最たるものよ。国賊どもが流布するそれらに一体何の価値がある?」

「——いやぁあああああっ!」

 

 レヴィの叫び声が玉座の間に木霊する。

 

 

 

 

 

 “……うるさい。”

 

 

 玉座の間へと続く大階段の下で、リチャードは反響する嘆きを聞き取った。

 

 



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眇の狂王ノール

 エバンスが殺された。

 レヴィの目の前で。

 

 パトレイシアがレヴィにとって母のような存在であるとするならば、温厚で優しかったエバンスはレヴィにとっての兄や姉のような存在であった。

 楽しい歌を聞かせてくれて、何かと気にかけてくれる人。

 

 それがドラゴンゾンビに噛み砕かれ、消え去った。

 大切な人が目の前で喪われた衝撃に、レヴィはただ悲鳴をあげることしかできない。

 

「さあパトレイシア、交渉内容の変更だ。さっさと選べ。支配を受けるか、そのうるさいガキを惨たらしく殺すか」

『この……このような幼子にまで! 手を下すと言うのですか!? それが為政者たるあなたのやり方なのですか!?』

「そうだが? こんなものはただの手段よ。目的ではない」

 

 ノールが指を立て、そこに瘴気を集める。

 禍々しい黒い球体は一瞬にして破局的な力を増し、赤黒い雷光を迸らせた。

 

「貴様を駒にすれば多少は統治が楽になる。新たなるバビロニアの建国に貢献できるのだ。理解できるだろう? ん?」

『……私が支配を受ければ、レヴィさんを生かすと?』

「誰が生かすと言った? 楽に殺してやるだけだ。勘違いするなよパトレイシア。我はそこのガキに生かす価値など認めていない」

『……!』

 

 ノールは絶対的な有利を確信している。事実、パトレイシアがどう足掻いたところでノールやドラゴンゾンビには太刀打ちできないだろう。

 生殺与奪も主導権も全てはノールが握っているのだ。これは決して交渉などではない。

 

 パトレイシアにできるのはもはや、レヴィを楽に死なせてやるか、苦しませて死なせてしまうかの選択だけなのだ。

 

「パ、パトレイシア、さん……!」

 

 恐怖に染まった目がパトレイシアに向けられる。

 パトレイシアは彼女を救えない。縋られたとしても触れることさえ叶わない。

 ならばいっそのこと、ノールの支配を受けて苦痛のない終わりを願うしか……。

 

「はぁ、またネズミが来たのか」

 

 ノールが呆れた声を出す。

 少し間を開けてパトレイシアも気が付いた。

 

 一歩一歩と、このような状況下にも関わらずゆったりとした歩みが玉座の間に近づいていることを。

 

 いったい誰なのか。

 その神経質そうな静かな足音は、パトレイシアとレヴィには親しみがある。知らないのはノールただ一人。

 

「果たして今度はどのような──」

 

 ノールは見た。

 そして、思わず玉座の背もたれから前のめりになる。

 

 扉の奥からやって来たのは、一人の骸骨。

 拘束用の無骨なベルトを各所にあしらった罪人のローブを着込み、歪んだ黒い魔剣を手にした物静かなリッチ。

 

「……リチャードさん!」

 

 ノールはその男を知っていた。

 骸骨と成り果ててもどうしてか一瞬でわかった。その男は、かつで自分が処刑したはずのリチャードであると。

 

「……死の底から蘇ったか、貴様も」

 

 ノールの重苦しい言葉に、リチャードは言葉を返さない。

 言葉を発さないことはノールも理解している。それを不敬であるとは思わないが、焦ったさは募る。

 

『ルジャさんは……』

 

 パトレイシアはリチャードが握る剣の意味を察していた。

 ルジャという言葉に、リチャードは魔剣に掛けた指で二回柄を叩く仕草で返す。ルジャは死に、これだけが残ったのだと。

 

 だがルジャを悼む暇はない。

 彼らの目の前には、今にも全ての不死者を打ち壊そうと目論むノーライフキングがいるのだから。

 

「死想の彫刻家リチャード……ふむ、リッチとなったか。死に取り憑かれた貴様が死霊術師となるのは納得がいく……が。その剣は、どういうつもりだ? よもやその程度の武器で、」

 

 ノールが言い切る前に、魔剣は音を立てて床に転がった。

 リチャードは一瞬も躊躇することなく、己の武器を手放したのである。

 

「……ハ。殊勝なことよ」

 

 ノールが嗤う。

 

「その褒美として、貴様も我が直々に……」

 

 その嗤いは、リチャードが懐より取り出した品を見て凍り付いた。

 

「……どういうつもりだ?」

 

 リチャードが取り出したのは、生前に作り上げた作品の一つ。

 ノールにも献上された傑作の一つである、一見すると立方体の塊でしかない彫刻だ。

 

 “苔むした壁”。

 

 ノールの明晰な頭脳はもちろん、それを覚えている。

 その作品をきっかけにリチャードを処刑にかけたこともだ。

 

「くだらぬ芸術だ。貴様は何を知った風でいる」

「……」

「その外側にあしらった煉瓦はバビロニア最初期の組み方。王家の建築にのみ許された様式。それが破損している。貴様の作品の揶揄するところは、我ら支配者への侮辱である。これが許されるとでも思ったのか?」

「……」

「バビロニアは崩れぬ。内側の腐食した魔金柱も馬鹿馬鹿しい。我の統治に間違いなどない。塔が崩れ去ったのは、先代までの怠慢の累積に過ぎん。我はもっと上手くやれる。今度は一から積み上げるのだ」

「……」

 

 ノールは饒舌に語り出した。

 ただただリチャードを見据え、熱を増したように。まるでリチャードの沈黙と、差し出された四角い彫刻を罵るように。

 

「土台を固める。強化に幾重にも、水にも風にも侵されぬよう堅牢に。我は不死者である。ノーライフキングのノールである。永遠の命だ。我は滅びない。故にこそ永遠の国と永遠の支配が成り立つのだ」

「……」

「永遠はある。不死はある! 馬鹿め! 我は滅びぬぞ! 絶対に滅びてなるものか! 百年でも千年でも、バビロニアは続くのだ! 終わらないのだ!」

「……」

「何故否定する!? 朽ち果てないものはないだと!? くだらぬ哲学だ! 永遠になり損ねた連中が斜に構えているだけの戯言だ! それ以上……それ以上我を侮辱するな!」

 

 ノールがひとりでに激昂する。

 指先の魔力球を掲げ、リチャードを威嚇する。

 

 だがリチャードは動じない。

 そもそも、リチャードは死に恐怖を感じていない。

 

 ただ彼は作品を見せているだけ。

 魔力球を叩きつけられれば死ぬことは理解しているが、それはリチャードにとって重要なことではないのだ。

 

 重要なのは、ただ目の前で喚く王に作品を見せてやることのみ。

 

「何故恐れない! 何故終わるなどと!」

 

 リチャードは狂王ノールが“苔むした壁”を正しく理解できる優れた鑑賞者であることを知っている。

 他の者は誰もその作品の真意に近づくこともできず、死を想うことができなかった。

 理解できたのはノールだけ。理解できたからこそ、リチャードを処刑したのだ。

 

 おそらくはこの作品が示唆する“滅び”を受け入れることができなかったから。

 

 だが、リチャードが死んでも作品は消えない。

 作品によってもたらされた衝撃や感情は無かったことにはならない。

 

 それは今再びリチャードを葬ったところで、決して覆らないのだ。

 ノールが己の内に“滅び”の未来を夢想した時点で、絶対に。

 

「いつかは必ず滅びるなど……ありえてたまるものか……!」

 

 ノールは認めたくなかった。

 自らの存在が消え去ることを。己の打ち立てるものが風化することを。

 

 だから強く、誰よりも強く願い、実行に移してきた。

 他の全てを犠牲に、不変の国を作るために尽力した。

 

 だがリチャードの作品は語るのだ。

 たとえ国が数千年生きようとも、必ずいつか全ては無味乾燥なものとなって消えゆく定めなのだと。

 

 苔むした壁の最奥にある無機質で平らな面は、全ての果ての虚無を意味していた。

 

「み、見たくない! 見たくないぞ、我は! 来るな、近づけるなぁ!」

 

 ノールは錯乱した。

 魔力球は集中を保てず霧散し、彼は玉座の傍に置かれていた細剣を掴み取ると、それを遠くから振り回してリチャードを牽制している。

 

 だがリチャードは入り口に立ったまま動いていない。

 ノールがただ一人、幻影でも相手にするかのように暴れているだけである。

 

 パトレイシアとレヴィはその奇妙な光景を見て、意味はわからなかったが、どこか言い知れない恐怖を感じていた。

 

「死にたくない! 我は消えたくない!」

 

 狼狽え喚くノールの背後で、ドラゴンゾンビも同じように苦しんでいる。

 支配者のノールと共有した魂は狂った苦悩さえも分かち合う。

 

 根源的な死への恐怖。滅び行く原初の畏れ。

 ノールの明晰な頭脳が導き出す鮮明な恐怖は増幅され続け、両者をどこまでも深い狂乱に陥れた。

 

「グオ、ァ、グァアアアアアッ!」

 

 やがて、ドラゴンゾンビの魂が限界を迎えた。

 混乱の最中にあるノールはドラゴンゾンビの支配を保ちきれず、ドラゴンゾンビもまた極度の恐怖によって自我を取り戻したのだ。

 

 穴だらけの翼が天蓋を超えて大きく広がり、腐った顎から咆哮が響き渡る。

 

「きゃあっ……!」

『レヴィさん! “レイ・プロテクション”! この盾から出ないで!』

 

 力の限りを尽くした咆哮に、塔が揺れる。

 崩れかけた天蓋から石が降り注ぐ。

 パトレイシアは残った片腕から防御魔法を展開し、レヴィの身を守るので精一杯だった。

 

「ああ、崩れる? また、我が国が……! 終わる……!?」

「ゥルルルルル……」

 

 歪んだ頭蓋を抱えて苦悩するノールの頭上から、顎を開いた腐竜の顔が迫る。

 ノールは捕食者たるドラゴンゾンビの鋭い牙を見ても尚、それさえ霞む恐怖に取り憑かれたまま……。

 

「終わりたくなど……」

 

 無慈悲に顎が閉じ、ノールは呆気なく噛み砕かれた。

 

 

 



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遺ったもの

 

 ドラゴンゾンビが腐った吐息を漏らし、わずかに開いた口から粉々になった人骨が散らばり落ちる。

 かつてバビロニアの狂王と恐れられたノールの最期はあまりにも呆気なく、子飼いの竜に噛み殺されるという哀れなものであった。

 

『ノールが死んだ……支配が、解けている……!』

 

 最も大きな脅威が去ったはずである。王の打倒は悲願だった。

 しかし、パトレイシアはドラゴンゾンビから放たれる禍々しい魔力を感じ取ってしまった。

 

 精神を操るノールは死に、枷は解かれ、その上ノールを殺したことによって莫大な力を獲得したドラゴンゾンビ。

 

「ォオオオオオッ!」

 

 天に向かって吼えるその威容は、新たな暴君の誕生に他ならなかったのである。

 

『レヴィさん、リチャードさん、階下に……!』

 

 ドラゴンゾンビが尻尾を振るい、薙ぎ払う。

 ほとんど骨を剥き出しにした尻尾による殴打は玉座の間の堅牢な壁を大きく半円状に抉り、崩壊させた。

 

「きゃっ……! い、入り口、が……」

『……しまった』

 

 ドーム状の天蓋が崩れ落ち、入り口の門を塞ぐ。重厚な壁面はレヴィの強化された筋力であっても持ち上げることは叶わず、ビクともしない。

 

 ドラゴンゾンビは空に吠え、暴れていた。

 穴だらけの翼を広げ、口から黒い煙のようなブレスを漏らし、猛り狂っている。

 

 だがその怒りはレヴィやパトレイシアなどに向けられたものではない。

 己を縛り付けていたこの玉座の間そのものに向けられているかのようであった。

 

 少なくとも、ドラゴンゾンビの吠える様を観察していたリチャードにはそう見えた。

 

『他の脱出口を……床! 床を魔剣で突き崩せば……いや、この部屋の強度は高すぎる……そう簡単にはできない……!?』

 

 だがドラゴンゾンビに直接狙われていなくとも、その怒りの片鱗に煽られた瞬間に終わりはやってくる。

 ドラゴンゾンビは狂ったように壁を、主に黄金の柱を執拗に殴りつけ、ブレスを浴びせていたが、崩壊に巻き込まれれば殺されるのと何ら変わりはない。

 

『“アトラ・トランプル”……くっ、駄目。もう私が、残されていない……!』

 

 パトレイシアは腕を捥がれた上に、高度な魔法を乱発しすぎた。

 今の彼女の力はレイスとして覚醒した当初と同じかそれ以下にまで落ち込んでいる。重厚な玉座の間の瓦礫を消し飛ばすほどの力が残されていない。あと数発の魔法を使えば、高度を保つことすらままならない状態であった。

 

「えいっ……う、硬、い……」

 

 レヴィもルジャが遺した魔剣を拾い上げて掘削を試みるが、床も壁も分厚く頑丈で、彼らの力による脱出は上手くいかない。

 そうする間にも怒り狂うドラゴンゾンビは長い首を振り回し、瘴気のブレスをあちこちに振り撒いている。

 

『! あれは、鎖……どこへ……いえ、もしや、あれを使えば!?』

 

 窮地の最中、パトレイシアは崩落寸前の穴だらけの壁の向こう側に、外へと続く鎖が伸びているのを見つけた。

 大きく頑丈な鎖である。魔法によって伸縮し、目的のものを縛り続けるというバビロニアに伝わる神器。

 それは遠く瘴気で霞む果てにまで続いているかのように見えた。

 

『レヴィさん! この鎖です! この鎖に捕まって! これを伝っていけば、地上へと戻れるはず!』

「地上……!?」

『きっとノールによって伸ばされた物です! ドラゴンゾンビによって玉座の間そのものが崩壊する前に、さあ!』

 

 パトレイシアが残りわずかな力を振り絞り、レヴィを落石から庇いながら鎖へと導く。

 レヴィは身体が千切れつつあるパトレイシアを横目に見ながらも、彼女の必死な声に従った。

 

 鎖は大きく、長い。しがみつけば問題なく伝っていけるだろう。

 レヴィは空の向こう側へ階段のように続いてゆく鎖に触れ、その冷たさに心細さを感じ、振り向いた。

 

 パトレイシアは輪郭を崩し、ウィスプのように淡くゆらめいている。

 

『決して立ち止まらないで。あなたは地上に出て、自由になって』

「パトレイシアさん、リチャードさん……!」

 

 リチャードもパトレイシアのすぐ後ろに立っていた。

 彼にしては珍しく、真っ直ぐにレヴィの顔を見据えているようだった。

 

『ハーフエルフの私はかつて人に恋し、人を愛し、子を育む夢を見ました。……結局恋や愛は叶いませんでしたが、わずかな時間でもあなたを育むことができて、良かったです』

「やだ、一緒に……!」

『もう私は高度を保てないのです。力も残りわずか……レヴィさん、共に行けないのが残念です』

 

 パトレイシアは揺らめく身体でレヴィの抱きしめるように腕を回し、撫でた。

 幽体のその仕草に感触は無かったが、レヴィは確かに暖かさを感じた。

 

『……さあ、行って! 地上に出て、人として生きて! 幸せになって! 私たち、みんなの分まで!』

 

 レヴィは唇を噛み、涙を流し、力強く頷いて……鎖の上を進んでいった。

 振り返ることはない。彼女はいつだって素直で、従順に従うから。

 

 だが今振り返らないのはきっと、上位者に従うレヴナントとしての習性ではない。

 レヴィがこれまで培ってきた心の強さに他ならないのだと、パトレイシアは確信している。

 

「グァァアアアアアッ! ォォオオオオッ!」

 

 瘴気の雲の向こう側にレヴィの姿が消え、埋没殿の玉座の間にはドラゴンゾンビと二人のアンデッドだけが残された。

 

 ドラゴンゾンビは未だ壁に向かって爪牙を振るい、積年の怨みをぶつけている。

 

『……リチャードさんも、レヴィさんを追っていくべきです』

 

 ぽつりとパトレイシアが零すと、リチャードはただ無言で首を横に振った。

 

『……何故です? このまま私とともにドラゴンゾンビに殺されるくらいなら、あなたも……』

 

 リチャードはただ、歯列の前に指を立てた。

 “静かに”。いや、“それ以上は言うな”とでも言っているのか。

 

 そんなやりとりをした直後に、鎖を繋ぎとめていた壁が竜の頭突きによって崩壊した。

 鎖の端は埋没殿から分かたれ、遠い端に向かって消えてゆく。

 

 レヴィが去って、それなりの時間は経った。終端まではたどり着けているかもしれない。

 それに彼女の力は強い。しがみついていれば、鎖から振るい落とされる心配もないだろう。

 

 ともあれ、リチャードが外へ抜け出す手段は瓦礫とともに崩れ去った。

 パトレイシアはそのことを気に病むように俯いていたが、リチャードは少しも気にしていないかのように歩んでいる。

 

『リチャードさん……何を……』

 

 リチャードは暴れるドラゴンゾンビの足元から、一組の骨を拾い上げた。

 それはドラゴンゾンビの顎門に噛み殺されたノールの大腿骨。食い残しであろう。

 

 リチャードは両手にその骨を握ると、おもむろに強く打ち付けた。

 

 大腿骨が打ち鳴らされ、乾いた音が響き渡る。

 

 人骨の音。気に障る人間の強い残り香。

 ドラゴンゾンビの殺意に満ちた虚ろな眼窩が、リチャードに向けられる。

 

 一瞬の静寂。

 絶対強者に睨みつけられたことによる絶大なる恐怖。まさに死の瞬間。

 

 しかしリチャードは首を傾げた。

 確かに恐ろしいが、極致ではない。

 

 人智を超えた竜に狙われても尚、それはリチャードの追い求める死想とは少し方向性が違っているようだった。

 

 なによりも。

 

 “不完全だ。”

 

 大腿骨を崩壊した壁の向こう側へと放り投げてやれば、ドラゴンゾンビはそれにつられて大きく跳躍した。

 巨翼をはためかせ、首を伸ばし、投げられた骨に食らいつかんとする姿は、まるで飼い慣らされた犬のよう。

 

 そうしてドラゴンゾンビは玉座の間からその巨体を投げ出して……飛ぶことも出来ずに、落ちていった。

 

「──ォォオオオオッ!」

 

 忌々しい人間の残り香を追いかけた彼は、朽ち果てた翼をバタつかせながら、それがもはや風を掴むことはないことをようやく知って、絶望の咆哮を上げる。

 

『……なんと、まぁ……』

 

 そして長い長い落下の時間の後、巨大な何かが硬い地面の上で盛大に砕け散って、地の底を揺らす音を最後に、竜の鳴き声は聞こえなくなったのだった。

 

 埋没殿に静けさが戻ってくると、リチャードは呆然としているパトレイシアの隣で満足そうに頷いた。

 

『……ふふ、あははっ。本当に、あなたは……すごい人です。リチャードさん』

 

 地上に戻る手立ての一つが失われた。

 大切な仲間が散っていった。

 

 それでも、世界を脅かしかけた王は滅び、大穴の空を阻む竜も消え去った。

 何よりも。

 

『……レヴィさん。あなたの旅路が、幸福なものでありますように……』

 

 たったひとつだけの大切な子供を、地上に送り出せたことが、パトレイシアには誇らしく、嬉しかった。

 パトレイシアは少しずつ魔力の欠片となって散ってゆく己の姿を眺め、穏やかに微笑んだ。

 

 魔力の多くを失ったレイスの死が迫っている。

 だが、気分は悪くない。

 

『リチャードさん。ありがとうございました。あなたと出会えて、私はとても幸福でした』

「……」

『目覚めさせてくれてありがとう。人として生かしてくれて、ありがとう。そして……さようなら』

 

 パトレイシアは最期にリチャードの身体を優しく抱擁すると、やがて仄かな光を残して消えていった。

 

「……」

 

 残されたのはリチャード一人。

 

 彼は瘴気に覆われた空を見上げ、しばらくぼんやりと眺めた後……持ち合わせた工具を取り出して、瓦礫と向き合った。

 硬く、大きく、重く、ほとんど削れない瓦礫の山。入り口を見出すには長い長い時間がかかるだろう。

 

 しかしリチャードには時間がある。

 彼は根気強いアンデッドだ。

 

 いつか必ず、遠からず、その場から抜け出せることだろう。

 

 

 

 埋没殿に、槌の音が鳴り響く……。

 

 いつもより高い場所で、大きな音で。

 

 

 

「……さよなら、リチャードさん。パトレイシアさん……」

 

 鎖の果てにたどり着いたレヴィだけが、微かに響く穏やかな作業音を聴いていた。

 



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最終章 レヴナントのレヴィ
埋没殿のサイレントリッチ


「……。」
 ――リチャード


「──だから今はもう一杯だけ、ともに飲んで唱おうか 今の幸せは明日に無いから 明日をより良くするために 今を泣かずにいるために……」

 

 モルドゥナの活気付いた街中を、一人の少女が歩いている。

 彼女は誰も連れ添わず、異国風の厚ぼったい衣装に身を包み、嗅ぎなれない香水の匂いを纏い、聞きなれない歌を小さく口ずさんでいた。

 

 だが、そんな彼女もこの街では特別浮いているというわけでもない。

 金銀財宝を算出する神秘の大穴の噂を聞きつけて遠方の土地よりやってくる者は数知れないからだ。

 少し前までは坑道に新たな財宝が次々に見つかったこともあり、近頃は特に賑わいを増している。

 誰も少女一人を気にする者はいない。それが腰に剣をぶら下げているともなれば、無防備な獲物として狙いをつけるのも面倒だ。

 一部の者は布地から覗く血の気の引いた肌色に気味の悪さを感じたが、抱かれる違和感もその程度である。

 

「ワイアームさんの家は……ここ、かな」

 

 少女はここに至るまで、何度も人を頼ってきた。

 手掛かりはあまりにも少なく、中には罠に陥れようとした悪人もいたが、幸運にも幾人かの親切と出会い、ようやくたどり着いたのである。

 

「はーい?」

 

 古びたドアノッカーを鳴らしてしばらくすると、一人の壮年の男が玄関を開けた。

 男は扉の前に立っていたのが見知らぬ少女だったためか、怪訝そうに目を細めている。

 

「あの。ワイアームさんのお宅でしょうか」

「ワイアームは俺だが……」

「え、あ、そう、なんですか。良かった……あなたが……」

 

 少女は心の底から安堵したようだったが、ワイアームにはその理由がわからない。

 少女はしばらく感じ入ったように胸を押さえていたが、ワイアームが要件を尋ねようとした寸前でようやく荷物の中を漁り、中から物を取り出した。

 小さな革製の袋である。

 

「あの、ワイアームさんにお届けものです」

「……何も頼んでないぞ」

「いえ、あの、ネリダさんからです」

「!」

 

 その人名を少女が口にした瞬間、ワイアームの目の色が変わった。

 彼は少女の手から皮袋を引っ手繰るように取り上げると、その中身を慌ただしく取り出した。

 

 中に収められていたのは一枚の金貨。

 それもただの金貨ではない。大穴から産出される、非常に純度の高い金貨であった。

 

「ネリダさんは……亡くなった……そうです。私は、あの。ネリダさんの最期の言葉とそれを、届けるように言われた、ので……」

「……ネリダは、なんと言っていたんだい?」

 

 金貨を持つ手は震えている。

 

「……“ごめんなさい、ネリダは貴方を愛してます”……と」

「……そうか。そうなのか、ネリダ」

 

 ワイアームは金貨を見ながら、涙を流していた。

 彼の目に欲の輝きは灯っていない。手にした金貨も、失われたものと比べればちっぽけであるかのように。

 

「ネリダさんは火葬され、丁重に埋葬されています。埋没殿の、片隅に……」

「……ありがとう。本当に、ありがとう。ネリダの言葉を伝えてくれて……」

「いえ。私も、頼まれたので。……それでは」

「ま、待ってくれないか。何か、お礼をさせてくれ」

 

 足早に立ち去ろうとした少女を呼び止めるが、彼女は少しだけ立ち止まって軽く会釈をすると、それ以上言葉を交わそうとはせず、そのまま人混みの中に消えてしまった。

 

 ワイアームは思わず少女の姿を探しに歩き回ったのだが、それでも少女が見つかることはなかったという。

 

 

 

 

 

 コーン、コーンと音が鳴る。

 

 埋没殿の地の底で、石を彫る音が木霊する。

 

「クケケケ、カカカカッ」

 

 そんな音に誘われて、一体のグリムリーパーがやってきた。

 地底を彷徨う歩く災厄。人から恐れられた忌むべき死神。

 

 上機嫌に顎を鳴らす彼は、音の鳴る方に誘われるように進んで行く。

 歩くほどに音は強まり、その先には確かな誰かの気配を感じさせた。

 

 獲物の予感にグリムリーパーは再び顎を打ち鳴らして、足早に進み……。

 

「カカカ、カ、カ……」

 

 洞窟を進んだ曲がり角で、禍々しい竜骨の彫像に出くわした。

 

「ギェエエエッ!」

 

 グリムリーパーは歯ぎしりの悲鳴をあげ、狂乱しながら道を引き返してゆく。

 なりふり構わない彼の逃走は、グリムリーパーの脅威に怯える探索者達が見ていたとすれば目を疑うような光景であっただろう。

 

 

 “……うるさい。”

 

 

 煩わしい悲鳴に、少しだけ作業音が止まった。

 

 しかしすぐさま気を取り直したように、再び心地よいリズムが戻ってくる。

 

 

 

 そうして今日も埋没殿に、槌の音が鳴り響く。

 

 

 




おわり


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