どうあがいてもBADEND (宮下)
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どうあがいてもBADEND

走って、走って、走って──。

 

逃れられぬと解っていても、恐怖は身体を突き動かす。

 

背後から聞こえるのは石畳をクッキーのように砕き、巨大な身体を引きずる音。

何が追い掛けて来ているのかはよく知っている。

“ソレ”を見てしまえば、自分が耐えきれず、生きることを諦めてしまうのも知っていた。

 

あと数メートルで地下の避難通路に繋がる入口だ。そこへ入ることができたなら、追手を撒くことができる筈だ。

 

「あっ──」

 

気の緩みが出てしまったのか、脚をもつれさせて地面に転がる。

瞬時に悟る。もうダメだ、逃げられない。

身体の震えは抑えられず、しかし確かめないことも恐ろしくて私は上を見上げた。

 

見えたのは赤と黒。

家よりも大きく、幾千もの眼球を甲殻に生やした巨大なムカデの姿。

それが身体をくねらせ、血を求めて私に猛スピードで迫っていた。

悲鳴をあげる間もない。

 

私はまた、いくつもの眼に見つめられながら──、

 

胴と、脚を、

 

 

 

 

 

何かよく分からないけれど、現代社会と言い表せる場所で生きていた記憶がある。

決まりごとは多かった。けれど決して、日々命の危険があるような環境ではなかった。

美味しい食べ物は知り尽くせない程に存在したし、漫画アニメゲームと娯楽にも困らなかった。

 

私はその世界の記憶を持っていることが、酷く残酷に感じた。

 

私が今、生きているこの場所。

それを記憶に当て嵌めて呼ぶのなら“ダークファンタジー”が適切かもしれない。

 

『私』はどうやら複数人いる。

解りやすいのはホムンクルスか。男と女が性行為をして生まれる子供ではなく、怪しげな道具とよく分からない物体から生まれた存在。

 

生きている『私』が駄目になると、次の『私』が起きる。

 

自慢ではないが『私』はとても可愛かった。

 

綺麗な黄金の髪に、紫色の大きな目。均衡のとれたスラッとした、でも柔らかい身体。ただ、前世の記憶は男だった。

 

話が逸れたが、『私』は人からも狙われ易い。

通りすがりに路地に連れ込まれた『私』もいれば、薬を盛られて監禁された『私』もいる。そういった場合、『私』の身体は私の意識に関係なく自害を選んでしまう。私も男に犯されるのはゴメンであるから、勇気と関係なく自害を選ぶのはもしかしたら都合が良いのかもしれない。

 

舌を噛み切る感触も、首をガラス片で掻き切る感触も、自分の首をへし折る感触も無ければの話なのだが。

 

そして『私』の記憶は全て目覚めた私に引き継がれる。

 

私は目覚める度に夢であればよかったのにと世界を恨み、

誰も居ない辺境の廃墟で、『私』に課せられた目的は何かと問うのだ。

 

問題はこれだ。

『私』を造ったのが誰なのかも、何のために『私』が造られ続けているのかも解らない。

 

『私』について解っているのは、生命活動が停止すると次の『私』に意識が引き継がれること。

『私』が囚われの身になり、強く拒絶反応を示すと身体が勝手に自害を選ぶこと。

『私』を生んでいるナニカに触れようとすると『私』は死ぬこと。

 

そう、『私』を生んでいるのは奇怪な生物なのだ。

見た目は、アメフラシが近いだろうか。

色は赤と紫のまだら模様。絶えず胎動しているけれど、反応は示さず移動する様子もない。

『私』はコイツの皮膚から排出されている。

 

もしかしたらコレが母親なのかもしれないが、それはあまりにも嫌だ。

見ていて鳥肌が止まらないものが生みの親とは笑い話にもならない。

 

辺境の廃墟には人が生活した痕跡がある。

割れた食器、崩れ去った木製の家具の残骸、変色して読めなくなった本だった紙切れ。

 

しかしある部屋を覗けば、台の上に立つと自動で服を仕立て着せてくれる機械。レバーを引けば固くて不味いが腹の足しになる固形食が包装されて出てくる機械。その他、原理不明だが役に立つ機械が今も動いている。

 

材料を補充している様子もなく、何か粒子レベルで凄い高度なことをしているハイテク機械か『私』には一切解らない魔術を使った魔道具だろう。とにかく、理解出来ないものだ。

 

私は服を来て、固形食を齧り、あまりの不味さに嘔吐いたが水を飲んで流し込んだ後、姿見の前に立つ。

 

服は何度かした後に変わる。

今回『私』に着せられたのは白と水色のいかにもファンタジーなドレスと下へ行くほど布が透けているフード付きのケープ。

重力などお構い無しに広がる3層のスカートを見て苦笑い。

ただ、見た目麗しいので何度かポーズを取ったりしてみて個人的に楽しむ。

 

ああ、『私』について解っていることがもうひとつあった。

 

『私』は生まれてから2日もすると、この廃墟の中にいると死んでしまうのだ。それも、身体が激痛に苛まれながらどろどろに溶けて。

 

 

 

 

 

私は固形食をポケットに詰め込んで、廃墟を出た。

固形食の味は最悪だが、食べると2、3日はお腹が減らないし身体も問題なく動かせる。

ただ、包装を不用意に破くと服に臭いがついてしまうため気をつけなければいけない。

吐瀉物のような臭いがする服を来て歩くのは嫌だ。

 

人からすれば酷い臭いなのに、凶悪な生物を寄せ付けてしまうのもあって危険物極まりない。

 

ああ、この世界を“ダークファンタジー”たらしめる生物を紹介していなかった。

人々は奴らを『神』やら『神の子』と呼んでいる。どう見ても魔物の類いではあるのだが、人の手には負えず何奴も此奴も凶悪で災厄を振りまく部分は正に『神』かもしれない。

 

先日『私』を殺したのも『神』の一体。

『私』が確認しているだけで数十種類はいるので人類が滅んでいないことに感服だ。

 

奴らはどこに行っても何かが居て、『私』の平穏を壊してしまう。

何度も挫け、今尚立ち直れてはいないが『私』は何かをしなければいけないのだろう。

 

一体何をすれば『私』は解放されるのか。

それさえ解らないまま、アテもなく放浪するしかないのが今の『私』の現状だ。

 

 

 

 

 

私が廃墟を立ってから半年。

海沿いの小さな港町で、教会に入り孤児院を手伝いながらひっそりと生活をしていた。

 

『神』がアレなのに何を信仰しているのだと思うだろうが、教会は過去の偉人。要するに“神殺しの英雄たち”を信仰する宗教団体だ。

現在信仰を受けている英雄は6人。

私が身を寄せている教会では『山穿ちのカルネージ』なる野蛮人を信仰している。

 

伝わる逸話は酷く物騒で、親や友人から恋人まで殺している殺人鬼。とにかく力を求めておりその過程で『山を喰む巨獣』なる大猪の神を討ったとか。その時の傷で死に、死後教会によって英雄認定されていた。

 

小山と同じ大きさの猪を殺す人の形をした化物を信仰する教会だが、教えの方も物騒だ。

 

曰く、「隣人が死ぬのは神が世を荒らすからである。隣人が死んだのなら神を殺せ」「隣人を害したのなら神に同じことをしろ」「力は何よりも尊く、それを邪魔するものは例え親でも許すな」等々。頭がおかしい。

 

しかし強くなりたいと願う人からは人気がある宗派である。世の中分からないものだ。

 

さて、私の方の現状だがようやく子供たちに受け入れられてきたところだ。私の見た目が10代半ばであることから親しみ易いと思ったのだが、最初は近寄ってこなかった。

 

「せんせぇ!」

 

奉仕活動から帰ってきた子供たちが私を呼ぶ。

孤児院には私と牧師の成人2人と5人の子供たちがいる。

牧師は50後半の女性。この教会の一番偉い人だ。

私の役割は子供に読み書きやら色々と教えたり、孤児院の維持のために家事を行うこと。

子供は朝早くに私の授業を聞き、昼間から夕方までは街で仕事をする。賃金は半分は孤児院に入り、半分は個別に貯金される。数年後には奉仕先で働いたり、貯めたお金で独り立ちするのだ。

 

「今日はわたしが1番?」

「そうですよ。夕飯の支度を手伝ってくれますか?」

 

私は誰かが帰ってくるまでは基本的に炊事以外の家事をしていることが多い。それが解ってか、最近子供たちの間では誰が早く帰れるか競走しているようだ。

 

鍋に野菜と調味料を入れて煮込み、パンを焼いていれば続々と子供たちが帰ってくる。

厨房は決して広くはないため、手伝いはひとりだ。

日も暮れて、天井からぶら下げたランタンの明かりをつけた所で牧師が杖を突きながら姿を現す。

 

「全員揃っては……、いないようですねぇ」

 

彼女はゆっくりと部屋を見渡し、大きくため息をついた。

 

孤児院には1人問題児がいる。

名前はエリオット。11歳の少年だ。

彼は奉仕活動をサボって、悪ガキ集団と行動を共にしていることが多い。

朝に帰ってくることも度々あり、牧師も強く咎めない状況だ。

そもそも信仰対象が自由奔放で人に指図を受けない存在であるため、立場的に言いづらいのもあるかもしれない。

 

「……先に食べましょうかねぇ。お嬢さん、配膳を頼みますよ」

 

牧師にそう言われ、私は手伝ってくれていた少女と共に料理をよそい分けてテーブルへと運ぶ。

ああ、誰も『私』を固有名詞で呼ばないのは私に名前が無いからだ。前世の名は男性のものだし、上手く発音できなかったため、名無しで通している。

 

「過去の英雄と、人類の行末に祈って」

 

牧師に合わせて皆が祈りを捧げると食事が始まる。

特に作法はなく、子供たちは仕事の内容を話したり世間話をしながら料理を口に運んだ。

 

「せんせぇ……。エリオット、今日も帰ってこないのかな?」

「大丈夫ですよリア。エリオットは今、自分が何をしたいのか探しているんです。私たちは彼が答えを出すまで待ってあげなければ」

 

食事に手をつけず、不安気に話しかけてきたのは今年10歳になるリアだ。

エリオットが悪ガキ集団に入るまでは孤児の中でも仲が良く、同じ仕事場にも行っていたらしい。

 

「いつ答えが出るの?」

「さて。明日かもしれませんし、死ぬまで見つからないかもしれません。私も、これだと言い切れるものがまだ見つかりませんので」

「せんせぇも、探してるの……?」

「はい、私も長い間探し続けています。今は貴方たちの世話をすることに満足していますが、本当にそれで良いのか毎日悩んでいますから」

 

『私』が安息に過ごせる場所は多くない。

利用し利用される関係か、誰とも関わらず生きることがほとんどだ。

 

名無しの少女をワケも聞かず、容姿に関係した見返りを求めずに置いてくれる。それがあまりにも、この世界では難しい。

 

皆、生きるのに必死だった。

裕福な国や街もあるが、それはホンのひと握りで、

 

そいつらは、犠牲の上にその生活を手にしている。

 

同じ人間を家畜だと言って『私』に見せてきた奴がいた。

笑いながら『私』を使って人を騙し、脅し、富を得る奴がいた。

快楽のままに力を振り撒き、『私』を手に入れようとした奴がいた。

 

いつの間にか私は、『私』よりも力のない人間しか信じられなくなっていた。

 

「──せんせぇ、どうしたの? お顔が怖くなってるよ……?」

「すみません。少し嫌なことを思い出して。リアやエリオットのせいではありませんよ」

 

作り慣れた笑顔で返すと、リアはホッとして食事を始める。

そんな時、食堂のドアが乱暴に開かれた。

 

「……ちっ」

 

入ってきたのはエリオットだ。

視線を集めたのを感じると舌打ちをし、そのまま黙って厨房の方へ向かい残っていたパンを掴んで口に入れる。

 

先程まで賑やかだった食堂は静まり返っていた。

 

「──おかえり。エリオット。今日も奉仕活動をしないで何処かへ行っていたようですねぇ」

「うるせぇよババア。俺が何をしてても関係ないだろ」

「貴方もあと3年で此処を出るのですよ。貴方を保護する者として、巣立つ先を導かねばなりません」

「じゃあ教えてやる。俺は裏組織と繋がりができたんだ、あと1年もすれば入れてくれるって話になってる。これで満足か」

 

港町には犯罪組織があることが多い。

国から国へ、珍しいものや禁止されているものを流す中継役をするのだ。

当然、恨みも買えば組織内でのいざこざも多い。

 

「今度、ボスが直々に話してくれるってことにもなったぜ。仕事を任せてくれるってな。だからもうあのクソ親父の店には行かねぇって伝えといてくれ」

 

牧師はそれを聞いて押し黙ってしまい、そのまま誰も口を開かなくなる。

沈黙を嫌ったのか、エリオットは再び舌打ちをして、明日の朝食用に焼いてあったパンを掴むと寝室の方へ下がって行った。

 

足音が消えると、ぽつりぽつりと子供たちが話し始める。

そこにはエリオットを責めるような声も馬鹿にするような声もなく、ただ、家族を心配する子供たちの声があった。

 

 

 

 

 

「入りますよ」

 

今の彼に言葉を伝えられるのは部外者であり、彼と同じ立場である『私』だけだろう。

 

「……名無し女が何の用だよ」

「少し話をと思いまして。私は君とほとんど話をしていないことに気づいたものですから」

「はぁ? 意味わかんねぇ。リアとでも話してればいいだろ」

 

エリオットは部屋で本を読んでいた。

彼の部屋には本が多い。

冒険譚、技術書、図鑑、伝記。教会に寄付された本の半数がこの部屋にあった。

 

「本が好きなのですか?」

「別に。暇つぶしには丁度良いから読んでるだけだ」

「なるほど」

「用がないなら出てってくれよ」

「いくつか聞きたいことがあって。それに答えていただけたら部屋に戻ります」

 

エリオットは舌打ちをして、面倒くさそうに頭を掻き毟る。

 

「何が聞きたいんだよ」

「さっき言っていた裏組織の話、どこまで本当なのでしょうか」

「俺が嘘をついてるって?」

「いえ、確認ですよ。もし本当なら、私や牧師様、リアも無関係でいられなくなるかもしれませんから」

 

先程までずっと私の方を見ていなかったエリオットが、初めて私と目を合わせる。

 

「は? どういうことだよ。俺の問題だろ」

「組織というものはとにかく裏切り者を出したくないのです。『私』も関わったことがあるのですが、新入りは幹部に逆らわないよう親しい人や家族が人質にされることは当たり前。そして、それがない人間は使い捨てのコマにされることが多々有ります」

「……」

「また、身元の不確かな子供……。孤児のように、探す親のいない子供は危険な魔術の実験体として使われることもあります。必要なら、生きたまま人間でなくなった少年の話をしましょう」

「いや、話さなくて、いい……」

 

私の話す話がやけに真実味を帯びていたからか、エリオットは唾を飲み込み聞き入っていた。

残念ながら、全て『私』の見た真実だ。

 

「私も半年ほどこの町で暮らしていますが、危険な場所には立ち入らないようにしています。教会というのは噂話も集まる場所ですから、組織の悪い話も入ってきます」

「だったら、どうしろってんだよ……」

 

エリオットは涙をこらえて私を睨んでいた。

きっと、彼は掴みかけていると思っていたのだろう。今進んでいるこの道が、自分の成功に繋がると信じていた。

 

どうしてエリオットが裏組織に関わり始めたのかは、この数ヶ月で何となく把握している。

 

彼は手先が不器用だった。飲み込みが悪く、感情的だった。

簡単な事だと言われた仕事が、妹のように思っていたリアにできて、自分にはできなかった。

何をやっても上手くいかない。人よりも劣っていて、特別なことが何もない。

 

だから、上辺だけを見る関係の友人たちとの悪戯にハマった。

同じことをしていれば、それが成功しても失敗しても喜ぶ環境に溺れていった。

甘い言葉に、思考を放棄していった。

 

彼には今、誇れるものがなかった。

 

「考えて下さい。何が大切で、何をしたいのか」

「……お前もババアと同じことを言うのかよ。……俺が! 何も考えてないってか!」

 

エリオットは自分が思う以上の声が出たことに驚き、口元を押さえる。

彼と話をすると他の子供たちや牧師には言ってあるので、誰かが部屋に入ってくるようなことはない。

 

「では聞かせてください。エリオット、貴方が1番大切に思っているものはなんですか?」

「……わかんねぇよ。父さんも母さんも船が沈んで死んだ。婆ちゃんも俺が小さい頃に病気で死んだ。ババアもリアも、あと3年すりゃ赤の他人だ」

「孤児院のみんなが大切なんですか?」

「……大切に決まってる」

 

エリオットは溢れていた涙を服の袖で拭う。

 

「1人になった俺にできた家族なんだ。けど、俺はここに必要ない」

「どうしてそう思いましたか?」

「何もできねぇんだ。ババアはあんなだけど魔術も使えるし町のみんなに人気だ。リアは器用だし明るくていつも褒められてる。俺は物は壊しちまうし、力も強くない」

 

劣等感に押し潰されそうになっていた。

親を亡くし、自分だけを見てくれる存在を見失った。

 

「どうして俺はこんななんだ……。もし頭が良ければ教会の手伝いだってできたのに。英雄みたいになれたら、みんなに、褒めて貰えるのに……」

 

11歳の少年は顔を覆って下を向く。

私に彼の気持ちを正確に読み取ることはできない。彼と同じ状況になったことがないから。

こうすれば上手くいく、といった解決策を示すこともできない。『私』も彼と同じく迷い、苦しみ、逃げ続けているから。

 

だからこれはほんの気休めになればと思っての提案だ。

アテもなく彷徨い、死から逃げ続ける『私』を受け入れてくれたこの家族たちへ、せめてもの恩返しとして。

 

「それでは、明日から私の手伝いをしながら探してみましょう。貴方が出来ることを、みんなが喜んでくれることを」

「そんな、いまさら──」

「私が脅したことにしましょう。貴方は私に逆らえず、仕方なく言うことを聞いている。それでどうでしょう?」

「お前……」

「失敗したら私が責任を取りましょう。間違えたなら注意し、何が正しいのか伝えましょう。一応、保護者で先生らしいですから」

 

エリオットは顔を上げていた。

涙は乾いている。

 

「……お願いします」

 

彼は、変わろうとしていた。

 

 

 

 

 

エリオットと話をした翌日から、私は彼に役割を押し付け続けた。

私とて元来今日で要領がよかった訳ではない。家事など慣れだ。

 

朝早くの朝食の準備、その後に行う授業の準備。授業は補佐をさせ、子供たちが奉仕に出るのを見送った後は孤児院を掃除し、洗濯をしてから買い出しへ行き、その後教会を手伝う。

私は必要以上に人目を引くため、顔を隠してだがエリオットはそうでない。訪れた老人たちに話し相手にされ、しばらく拘束される。

教会では日に3度、牧師が祈りを捧げる。

子供たちの授業中に1度。これは牧師のみで行い、正午に1度、昼過ぎに1度だ。私とエリオットが手伝うのは朝以外の2回である。

 

手伝いと言っても、誘導と、祈祷中に外に立て札をする程度で後は時間外で世間話に付き合うくらいだ。

最後の祈りを捧げ終われば教会の清掃を行い、孤児院に帰り洗濯物を取り込むなどの、残った家事を行う。

 

激務ではないが丸1日動きっぱなしだ。

エリオットは疲れ切って直ぐに寝室に向かう。

 

そうして数日。食事の時間も同じに戻れば、少しだが他の子供も会話もするようになった。

といっても、大半はリアがエリオットに話しかけて皆を巻き込むのだが、彼は満更でもなさそうだった。

 

歳も近く、同時期に孤児院に預けられた2人だ。

どんな形にしろ、意識しあうのは当然の事だったのかもしれない。

 

そしてある日、

 

 

「エリオット、てめぇ……」

 

孤児院の庭で洗濯物を干していると、顔を腫らした少年が訪れてきた。

左手は添え木をされ、首へ結んだ布に吊られている。

 

「てめぇ、なんでボスのとこに顔出さなかった! おかげで俺は殴られて腕折られて散々だ。どうしてくれるんだ、あぁ?」

「あ、えっと……」

 

エリオットは詰め寄られて口ごもってしまう。

相手の少年は18歳くらいだろうか。身体も大きく、エリオットと頭2つ分身長が離れていた。

敷地内であるため、顔を隠していなかったが私はエリオットと少年の間に割って入る。

 

「申し訳ありませんがエリオットには罰を与えています。1人での外出を許していません。それで、エリオットが何か問題がでも?」

「何だてめ、え……」

 

少年は私の顔を見ると、怒りで顰めていた顔を下卑たにやけ面へと変える。

 

「コイツが約束を破ったせいで俺はこんな怪我になるまで殴られたんだ。責任を取ってもらわねぇと気が済まねぇ」

 

少年は舌なめずりをして、

 

「まぁ、俺はエリオットじゃなくて姉ちゃんが代わりに責任を取ってくれても構わねぇんだけどなぁ……!」

 

そう言って、私の方に腕を伸ばしてきた。

私は一歩下がって腕を躱し、淡々とした口調で告げる。

 

「それでは明日、教会にいらして下さい。当教会の牧師様は治癒の魔術もお手の物としておりますので、直ぐに腫れは失くなるでしょう。折れた腕も無理をしなければ問題ない程度にはなると思いますので」

「それじゃあ俺の気が収まらねぇんだよ」

 

少年は力強い踏み込んできて、折れていない方の手で私の手を掴み上げる。

怪我人だというのに随分と強い力だ。ひ弱な私には振りほどくこともできない。

 

「決めた。姉ちゃんには俺と一緒に来てもらう。俺が使った後にボスに差し出す。その澄ました顔を歪ませてやるよ」

「教会の人間に手を出しますか……」

「この町じゃ組織のが上だ」

 

私の腕を掴む力は更に強くなり、痛みで身体が硬直する。

今回はここまでか。

背筋が凍るように冷えていく。

 

また自分が消えて失くなってしまう、あの感覚を味合わなければならないのか。

何処へ行っても長くは生きられないこの身は世界から拒絶されているのかもしれない。しかし、無理もないと思っている自分がいるのも確かだ。

『私』がまともな人間でないことは私が1番よく解っている。

 

 

「先生を離せ! クソ野郎!」

 

 

ゴン、という鈍い音。

私を掴んでいた少年の手から力が抜け、そのまま地面に崩れ落ちて行く。

 

その後ろには、息を荒くし、血の着いた角材を持ったエリオットが立っていた。

 

「ハァ……ハァ……っ!」

 

倒れた少年に目を向ければ、頭を押さえて蹲っているが意識はあるようだ。

 

「エリオット」

 

エリオットは再び角材を振り上げていた。

私は落ち着かせるため、普段通りの声色で名前を呼んだ。

 

「こいつはここで殺さないと絶対に仕返しに来る。俺じゃなくてリアや、先生が狙われるかもしれない」

「殺しても同じことです。この方の親が、友人が、貴方を許さないでしょう。その人達も貴方や貴方の周りの人を傷付けようとする」

「じゃあどうしたらいいんだ!」

 

エリオットは持っていた角材を地面に投げつける。

 

「そうですね。では、町を出ましょうか」

「え……?」

「人の暮らす地は此処だけではありません。静かに暮らすも、より栄えた町へ行くも自分次第です」

 

町から町への移動はそう簡単な話ではない。しかしこの町で生きづらさを感じ怯え過ごすよりは建設的な行動かもしれない。

 

「おいおいおいおい……! 俺にこんなことしておいて、無事に逃げ出せると思ってんのかぁ? あぁ?」

 

少年は頭をふらつきながらも立ち上がり、エリオットを睨み付ける。

 

「こっちが優しくしてやったらつけあがりやがって。決めた、テメェは殺して女は犯す」

 

エリオットは角材を拾おうと駆け出すが、少年が腹を思い切りつま先で蹴り上げた。

身体が宙に浮き、苦悶の声を上げながらエリオットは地面に転がる。

 

少年は覚束無い足取りでゆっくりと腹部を押さえて呻くエリオットに近づき、馬乗りになって──、

 

 

──容赦なく、拳を顔に叩き付けた。

 

 

白いものが血と共にエリオットの口から飛び出す。

歯が折れ、口の中を切ったのだ。

 

少年はそれを見て下劣に笑い、再び顔に拳を振り下ろす。

エリオットは腕で顔を覆い身を守る。

 

「止めなさい!」

 

私は声を上げるが、少年は止まらない。

しかし片手では埒が明かないと判断したのか、傍に落ちていた拳大の石を手に取る。

それをエリオットの頭目掛けて叩き付けた。

鈍い音と甲高い悲鳴、地面に飛ぶ血飛沫。

幸いにも頭には当たっていなかったが、ガードした腕が本来曲がらぬ位置で曲がり、肉も一部削れていた。

 

「おい、何やってるんだお前ら!」

 

私が口元を押さえ何も出来ないでいると、背後から男性の声がした。

振り返ると、今日会う約束をしていたエリオットの奉公先だった職場の棟梁がこちらへ駆けてくるのが見える。

 

再び石を握り込んだ少年の腕を掴み、エリオットから引き剥がすと地面へ引き倒す。

 

「ガキの喧嘩にしちゃやり過ぎだ。おい、お前──」

 

少年は分が悪いと見たのか、何度も転けそうになりながら走り去って行く。

棟梁は頭を掻きながら、エリオットの方を見て表情を歪めた。

 

「ひでぇな。嬢ちゃん、牧師様呼んできな。坊主は俺が中に運んどいてやるよ」

「……すみません、お願いします」

 

私は顔を伏せて教会のある方へと歩き出す。

 

 

ああ、どうしてこうなのか。

私は散々偉そうに言葉を並べていたのに、我が身可愛さで止めに入ることも出来なかった。

 

もし運良く人が現れなければエリオットは殺されていた。

少年は私に背を向けていたのに、私の足は後ろへ下がっていった。

 

私は、私のためにしか行動できない。

 

 

 

 

 

「もう、大丈夫です」

 

牧師の魔術により、エリオットの傷は完全に塞がった。

腕に傷跡は残ったが、骨も元通り繋がり動かすのにも問題は無い。

 

牧師は疲れた様子で椅子に腰かける。

眠るエリオットを前に、私は立ったまま動けなかった。

 

「それにしても随分と危ない仲間と遊んでいたみたいですねぇ……。少し、警戒しなければ」

「牧師様、今後ですが……」

「彼等は報復してきますよ」

 

牧師は細い目で私を見ながら、ハッキリと断言した。

 

「残念ながら、彼等はそういう組織です。自分たちは仲間を平気で傷付けますが、他人に傷付けられれば必ずやり返してきます。他の支部に連絡を取らねばなりませんねぇ……。子供と若い女性ひとりを保護して欲しいと」

「それでは、牧師様は」

「私はこの町を守るために教会を開いていますから。そのために教会は魔術を伝えているんですよ」

 

知っている。

教会とは、人を神から守る組織だ。

 

この町で最も強い人間はというと、見た目からは考えられぬが目の前の老婆である。

教会に身を置き、魔術を修め派遣されてきた。

 

それは、彼女がいればこの街の人間の多くを逃がせると教会が判断したからである。

 

「……ばあちゃん」

 

ベッドの上から聞こえるか細い声。

 

「どうしましたか?」

「……ごめん」

 

力ない、震えた声だった。

 

「迷惑ばっかかけて、ホントに……ごめん」

「……そうですねぇ。エリオット、貴方にはとことん手を焼かされます」

 

牧師はいつも通り、穏やかな声で答える。

 

「それがどうしたのですか。好きでやっていることです、貴方が気に病むことはありません。……ただ、ひとつ我儘を言うのなら」

 

牧師はエリオットの頭を優しく撫でる。

エリオットは鼻をすすりながらも、牧師と目を合わせた。

 

「強く生きなさい。いつか、誰かを助けられるように」

 

 

 

 

 

翌日から子供たちの奉仕活動は休止となった。

朝、奉仕活動へは行かず牧師と共に教会へ行きその手伝いをし、可能な限り全員で行動していた。

5日も経てば遠くの町の支部が受け入れ可能との返答を受け、旅の準備を始める。魔術でのやり取りとは便利なものだ。

私としてはネットワークさえあれば、と思わないこともないのだが。

 

 

リアが姿を消したのは、移動を共にする商隊のアテが見つかった日だった。

 

 

信用出来る人々に協力を要請し、捜索を続けること丸2日。

路地に倒れるリアを見つけたのは私だった。

 

息はある。

大きな怪我もしていない。

 

ただ、衣服はボロボロに。他人の体液に塗れ、秘部から血を流し、衰弱して生気を失っているのみである。

 

 

「…………せん、せぇ?」

 

リアは焦点のあわない目で私を見て、

 

「わたし、もう、しにたい」

 

そう、言った。

 

リア背負って、孤児院へと連れ帰る。

疲れ切って眠る彼女を子供に見られないよう牧師の部屋へと運び、治療を願う。

 

人が憎いと思ったのは何度目の事だろう。

どうしてこの身には復讐できるだけの力と気概がないのか。

 

そしてふと、ドアの隙間から部屋を覗く誰かと目が合い、目線が切れると同時に、駆け出す足音が聞こえた。

 

 

エリオットが姿を消した。

リアは言葉を発さず、笑わなくなった。

 

 

悪いことは続くもので、アテにしていた商隊は予定を変更。

何でも乗る筈の船が沈んでしまったらしく、陸路で別の町を目指すことにしたのだとか。

 

私はリアの看病をしながら、孤児院に引きこもる生活を続けていた。

幼い彼女はどんな地獄を味わって来たというのか、暗闇を怖がり、口に物を入れると吐き気を催し、ふとした拍子に過呼吸を引き起こす。

そして声もあげずに涙を流し、私の服を強く掴むのだ。

 

罰が下れば良い。

あの化け物共が神だというのなら、この少女を苦しめた人間達を裁いてみせろ。そう考える日もあった。

 

そしてある日、教会の鐘が鳴る。

リアは首を傾げた。生まれてこの方、教会の鐘が鳴っているのを耳にしたことは無い。何の音かも分かっていなかった。

 

 

私は何度も耳にしている。

教会が鐘を鳴らすのは神が現れた時だ。

 

 

それは海を割って町へと近付いてきていた。

目を凝らせば、半透明な巨体がそこに見える。

 

クラゲをイメージするのが良いだろう。

大きさを過去の友人に分かりやすく説明するのなら、国一番の電波塔サイズといった所だろうか。

孤児院は高台にあるため、窓からでもその姿が良く見える。

 

奴が浮かび上がって起きた津波で港が飲み込まれるのも良く見えた。

 

 

牧師が子供たちを頼むと言い残し、下町の方へと向かう。

私はリアを抱き上げると、子供たちを先導して孤児院を出た。

 

町は悲鳴と怒号が飛び交い、皆が我先にと逃げる準備をしている。

 

「無事か嬢ちゃんたち! 俺たちの使ってる馬車がある、そいつで逃げるぞ!」

 

先日世話になった棟梁の申し出に礼を言い、移動を開始する。

人の声に混じって、海の方からは轟音が絶え間なく続いていた。

 

牧師の扱う魔術による壁を神が叩き壊し、その先にある建物を破壊する。

まるで気球のように空に浮かび、獲物を喰らうために触手を地上へと伸ばしているのだ。

 

この町には別の宗派の教会も存在する。牧師以外にも聖職者はいるのだ。

その1人が強力な魔術の準備を終え、雷の大槍を神へと放つ。

 

槍は見事に貫通し、神はその巨体を地上に堕とす。

それを総員がかりで作り出した魔術による壁で受け止めた。

 

それを見た人々が歓声を上げる。

こうも容易く殺せる存在であれば人間はもっと繁栄している。私はそれを正しく理解できてしまっていた。

 

神は自らの身体を弾けさせ、無数に分裂し町中に飛び散った。

その勢いは激しく、目の前にいた棟梁にも1匹、その身体が覆いかぶさった。

 

「なんだ、ご、あ……?」

 

触れた部分がどろりと溶け、混ざっていく。

ものの数秒で人間の形は無くなり、赤黒く染まったクラゲが宙に浮いているのみである。

 

今度こそ、町は悲鳴で一色となった。

 

この神は私も初見であり、どういった行動を取るのかは今見た通りのものしか分からない。

海から現れ、宙に浮き、魔術による攻撃によって分裂し、触れた生き物を溶かして喰らう。

 

降り注ぐクラゲは近くの人間、馬車の馬までも喰らい赤く染っていく。

 

「建物の中へ!」

 

私はできる限りの声で叫んだ。

屋根や道に触れているクラゲが何もしていないのを見ると、肉以外には興味を示していないように感じた。

人骨、それと持ち主を失った服が吐き出されたことからも、建物に避難するのが有効だと考えた。

 

子供たちを連れ、他数名の傍にいた人たちと近くの民家に入り扉を塞いで窓を閉める。

皆、突如やってきた災厄に頭を抱え涙を零していた。

冷静なのは私と、心を閉ざしてしまったリアくらいのものである。

 

どうしたら生き残ることが出来る?

神の行動原理は様々で一概にこれだと決めつけることはできない。あのクラゲが餌を求めて陸へ上がってきたのか、それともなにか別の目的があってそのついでに人を襲っているのか。それすらも不明だ。

 

家の中で声を押し殺したままどれだけの時間が経ったのか。

数分のようにも思えるし、数時間のようにも感じた。避難前と違うのは、耳を塞ぎたくなる程に多かった悲鳴が止んだこと。

 

「助かった、のか……?」

 

誰かがそう言った。

場の空気が弛緩し始める中、私はリアを子供たちに任せて立ち上がる。

 

「まだ気を抜かないで下さい。もしあの生物が退いたのであれば誰かがそれを伝えて回る筈です。他の方たちも隠れ、息を潜めているのかもしれません。ここはもうしばらく様子を見ましょう」

 

周囲から大きな溜息と、啜り泣く声が聞こえる。

誰も唐突に訪れた命の危機を受け入れたくはない。もしかしたら危機は去ったのかと、希望を抱いて日常に戻りたくなるのは痛い程に解る。

だがそれでは自分を護れないのだ。そうして『私』は死を経験してきた。

 

「なぁ、あんた教会の人じゃないかい? 何度か見たことがあるよ」

 

子供を抱いていた女性が私を見て口を開く。

 

「助けておくれよ。せめて、この子だけでもどうにかならないかい……?」

「……私には戦う力がありません。ですが、生き残る可能性が高い行動をお伝えすることはできます。共に手を取り、生き延びましょう。絶対に」

 

更に待つことしばらく。

空腹を感じ、民家にあったものを拝借して分け合い、更に時間が過ぎるのを待つ。

 

そして、外から声が聞こえた。

 

聞こえたのは喧騒。

雄叫び、悲鳴。戦う声だ。

 

何故今になって。

私は必死に想像を掻き立てる。

 

何処かで準備を整えていて、攻勢に出たのか。

それとも、ヤケになって飛び出した者たちがいたのか。

 

しかしその喧騒の中に、知った声を見つける。

 

「エリ……、オット……?」

 

ここ数日、一切声を出さなかったリアが反応を見せた。

エリオットが生きている。孤児院の面々の名を呼び探している。

 

その事に子供たちも反応を見せ、口々に私にどうすれば良いのかと問いかける。

周りを見れば、人々が何かを期待する様に私を見ていた。

 

「……各々、先端が広く長さのある物を探して下さい。小さい個体相手であれば、振り回すことで凌ぐ程度はできるかもしれません」

 

木の棒だったり、箒だったり。役に立つかは怪しいが何も持たないよりはマシだ。

私はリアを抱き上げる必要があったため、何も持つことが出来なかったが。

 

共に避難していた男性2人が勢いよくドアを開けた。

 

広がっていたのは地獄絵図だ。

 

白骨死体。身体の一部を溶かされ息絶えた死体。何かが弾けたような跡。むせ返るほどの血の匂い。

 

私が目を向けたのは下町の方だ。

協会の人間が戦っているのなら魔術の光や音が伝わってくる筈。

 

しかし、そこには巨大な紅いクラゲが浮いているだけだった。

 

よく見ると分裂した個体が次第に集まっていくのが見える。どれも赤く、食事を終えた後のようだ。

大きさは現れた当初の半分程しかないが、それでも人の身ではどうしようもない大きさである。

 

「こっちだ! 向こうから来てるぞ!」

 

声のした方を見ると、斧を持った男性が手を大きく振っていた。

反対側を見れば、まだ半透明なクラゲがゆっくりとこちらへ、宙を漂ってきている。

 

子供を先に行かせ、私も後を追う。

リアは先程反応を見せたものの、今は無気力な状態へと戻ってしまいとても走って逃げられる様子ではない。

 

とはいえ、『私』の身体は決して強くない。

足は遅く辛うじて距離を保てる程度。疲れで追いつかれるのも時間の問題といえる。

リアを置いていけば逃げることはできるかもしれないが、そんなことは出来ない。

半年の付き合いとはいえ、『私』に純粋に懐き人並みの生活をくれた大切な子だ。『私』のようなナニカとは違って、1度切りの生を必死に生きている子供なのだ。私が自分の都合で死なせるなど、絶対にあってはならない。

 

「あ────」

 

坂道を登っていたが、足がもつれて転けてしまう。

気づいた子供たちが必死に私を呼ぶ声が聞こえるが、酸素の足りない脳では夢でも見ているかのように遠くのことに感じられた。

 

「……リア、お願いします。貴女だけでも、逃げてください」

 

私は一緒に倒れ込んでしまったリアを揺すってそう告げたが、彼女からの返事はない。

 

視界の端にクラゲが見える。

もう、距離はない。

 

「い……よ……、せ……ぇ」

「……え?」

 

リアが、言葉を発したが私は上手く聞き取れず、間抜けにも聞き返してしまう。

 

「いい、よ。わたしを、置いてって……せんせぇ……」

 

1匹のクラゲが、リアの胴へと足を延ばした。

 

笑ってしまう。

もし体当たりでもすれば救えた可能性はゼロではなかっただろうに。

私は動けず。

 

目の前で、幼い少女がドロドロに解けて死んでいくのを見ていることしか出来なかった。

 

あぁ────、

 

どうして、この子が悲劇に見舞われなければならなかったのだ。

 

そして、先行して走っていった者達が向かった方からも悲鳴が上がる。

相手は宙に浮けるのであれば、町を走る人間達を上から追い越すなど造作もなかったのだろう。

他の子供たちは、大人に囮にされて溶かされてしまった。

 

私は、リアが喰われたことで逃げ出せた。

 

どうしても、死ぬのは、怖かった。

 

 

 

 

 

何処へ向かえば良いのかも分からない。

しかし、守るべき対象(あしでまとい)たちがいなくなったことで皮肉にも動きやすくなり、クラゲの襲来をやり過ごすことができていた。

 

そんな時、喧騒の下へと辿り着いた。

家屋の物陰に隠れ、息を潜めて様子を伺う。

 

やはりというか、集まっていたのは組織の人間たちだ。

皆が武器を持ち赤いクラゲを狩っていたのだ。

 

そして、その中にエリオットの姿もあった。

 

「おいガキ、孤児院のお仲間はもう生きちゃいねぇさ。分かったら大声で叫ぶのは止めろ、耳が痛くて適わねぇよ」

「……次同じことを言ったら殺す」

「おー、怖い怖い」

 

何故エリオットが組織の人間といるのだ。

この数日の内に一体何があった?

 

「エリオット」

 

大きな曲刀を持った男が姿を表すと、巫山戯ていた男がそそくさと逃げていく。

 

「……ボス」

「他人行儀だな。血の繋がりがあると言っただろう」

「父さんからは何も聞かなかった」

「アイツは綺麗事が好きだったからな。子供に汚い自分を見せるのが嫌だったんだろう」

 

目を逸らすエリオットに、組織のボスは笑いかける。

 

「随分と嫌われたものだ。復讐の機会は与えてやっただろう」

「そんなんじゃ誰も喜ばねぇんだよ……。リアも、ばあちゃんも、先生も」

「お前は俺の後継者だ。教会がどうなっていようが、約束は守れ」

 

組織のボスはエリオットから視線を外すと指示を出し始める。

どうやら無事だった船があるらしく、それで町を脱出するらしい。

 

クラゲは一定以上の衝撃を与えると分裂するようだが、赤いものは弾けて死ぬ。とも言っていた。

まさか早々に神殺しの方法を見つけるとは私も予想外である。

 

船に詰んだ大砲で下町に浮く大クラゲを撃てば殺すことも出来るのではないだろうか。

 

淡い希望さえ抱いたが、相手は神と呼ばれる存在である。

獣でもなく、化物でもなく、神と呼ばれる存在。

 

その存在が何故、自身を害する存在を排除しないと考えてしまったのか。

 

大クラゲが触手を振り上げ、こちらへ向かって叩きつけるのが見えたのが今回の『私』の最後の記憶である。

 

 

 

 

 

神の出現情報記録。

日時。人歴976年5月。

被害状況。港町『ポートレリア』壊滅。住民3422名以上が死亡。

生存者18名。教会によって保護。

出現した神の特徴が記録と一致しなかったため新種と判定。

命名『海宙に浮く多手』

傘状の頭部と長い触手に別れた半透明の身体を持ち、自信に触れた生物の肉を溶かして吸収する。

また攻撃を加えた際に分裂したとの証言から、4類の特定法則生物に分類。

 

現在未討伐。一刻も早く、この神が人の世から消えることを願う。




反応が良さそうなら続くかもしれません。


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