獣の目 (ひとなつ)
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キイチゴ

 どうか見つかりませんように。

 動物は冬を越え春を迎えるために穴を掘り、木の実をいっぱいにためておくのだ。雪解け水が土にしんと伝わり、首筋にそっと這わせる。毛深い獣たちは、彼女の上で足を止める。どうか見つかりませんように。あの夏、わたしが埋めたものを彼女が見つけませんように。春を焦がれるこの気持ちと、焦るような気持ちのせめぎあい。ああ、今すぐに、土を掘り返し、そこにそれがあるのか確かめたい。けれど、確かめたが最期、きっと彼女は知るだろう。すぐ近くにそれがあったことを。舞っていく土の隙間から、あいつの目を不思議なほど感じてしまうのだろう。

 わたしはそれを求めている。土の下に眠るあいつに顔を寄せ、目を伏せる。息苦しい。息苦しいのはきっと、お前の方なのに。獣は唐突に顔を上げ、わたしをじっと睨みつけた。雪解け水でぐしゃぐしゃになった土をかき混ぜる。獣は翻して行ってしまった……。わたしは着膨れした体を右腕で抱いた。見ているのに、見られている。わたしは獣の目でお前を見る。そしてお前の目でわたしを見る。お前は、じいとわたしを見上げる。獣はあいつを見下ろす。わたしは、それを見ている。

 見ている。見ている。見られている……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「納涼大会ね」

「客も集まるし銭も集まる。桜に紫陽花、鬼の腕……これだけやった後のイベントごとはやっぱりそれくらいやらないとね」

「季節は廻ってくるってか」

「なによ。悪意があるわねその言い方」

「なあんにも。いつものことだろ」

「ありきたりだって言いたいの?」

「どこをどう解釈したらそんな回りくどい皮肉になんだよ」

 

 夏になって夜も寝付けなくなれば、霊夢がそんなことを思いつくなんてわかりきっていた。予定調和とまでは言わないが、そう、ありきたり。季節が廻れば春には春の、夏には夏の、恒例行事みたいなものがある。人間はそれが好きだ。わたしも好きだ。霊夢もきっと好きだ。夜の闇に浮かぶ炎の明るさを覚えて、いつの日かその明るさが胸を刺すとしても。

 わかってるよなんて、野暮なことは言わないさ。だって、ぐだぐだ、もう夏かよなんて文句を言いたいから。

 

 蝉がジジッと短く囁いた。ああ、ほら……霊夢が目を閉じた。瞼の感触。目を開けたときの、目玉の奇妙な動き。指先にかかる、睫毛。最近、こればっかりだ。考えてしまう。触っていないのに、まるで触っているような感覚に襲われるのだ。

 

「蝉だ」

 

 霊夢は心なしか声を弾ませた。

 

「あれ、霊夢蝉なんて好きだったか?」

「蝉は嫌い」瞬間、蝉の死骸が頭に浮かんだ。

「……じゃ、どうしたんだよ」

「夏が好きなのよ。暑いけど、楽しいことがいっぱいあるでしょ」

「へえ、わたしは冬の方が好きだと思ってたな」

「今だけよ。冬は嫌い。寒いから。夏も……」

「暑いから」

「そ。暑いから、嫌い」

「言ってることが無茶苦茶だ」

「そうかしら。魔理沙は冬、嫌いでしょ」

「嫌いなのは寒いの。冬は好きだぜ」

「夏も?」

「うん……夏も。そうだな」

 

 そう言いながら、まるでわたしたちが正反対のことを言っていると気付いたときのおかしさったらない。わたしたちはいつも逆を見ている。だが霊夢が冬は嫌いでしょ、と言って見せたときのすこし得意げな顔は気に入った。わたしたちはお互いを誤解している。誤解して、べつに正すつもりもない。

 

「ま、楽しいことがあればいつだっていいわよ。ということで、魔理沙も手伝ってね」

「えー……」

 

 一応嫌がっておくが、どうせ手伝う破目になる。反応もそこそこにして目を逸らしておく。霊夢はにまにまと笑って無理にわたしの顔を覗き込んだ。「決まり!」

 落ち着かない気分に、髪の毛を左指に弄ぶ。この髪ときたら、ひねくれものなのでもういくら弄り回したって変わりやしないのだ。「ねーえ」突然、首筋に熱源が押し付けられ、思わず声が上がりそうになる。舌を噛んだ。血の濃厚な銅のような味が広がる。息を荒げる。わたしはこの時間が台風のように通り過ぎるのを身を固くして待った。霊夢が、わたしの髪の毛を一束とって身体にもたれているのだ。

 

「結ぶか切るかしたらどう。暑苦しいわ」

「霊夢だって……」

「あんたのふわふわの髪と一緒にしないでよ。冬はいいけど、夏は嫌いなのよ」

「自分勝手な奴だよ。離れろよ」

「切ったら、離れてあげる」

「……逆じゃないか」

「ふふっ、へりくつねえ」

「屁理屈はお前だよ」

 

 立ち上がって勝手知ったる他人の家であるように、箪笥を漁った。触れられていた首元が熱を帯びて抉るようにびりびりする。

 わかりやすい場所にそれはあった。霊夢がそれを見て、僅かに動揺したようだった。わたしは、部屋の陰で鋏を構えて髪の毛にあてた。

 

「どうする?」

「……冗談でしょ」霊夢は慎重に言った。立て籠り犯に言うように。思わず、噴き出した。

「当たり前だぜ。あんまりべたつくなよ。暑いから」

「……なあんだ、びっくり、した」

 

 霊夢はわざとらしく明るく言った。そんなに鬼気迫っていただろうか。そこまでしたつもりもないし、冗談に見えるように努めたつもりだった。わたしの勘違いかもしれないが、霊夢は妙に目を泳がした。

 鋏を箪笥に片づけている間のこいつの目線がじくじくと突き刺さる。たまにある。霊夢の無責任なところ。わたしが予想のいくつか上に行き、首を捻った途端に霊夢は保守的になるのだ。しかし、それを保守的と決めつけていいものだろうか。違うと思う。たまに、こいつは最低な目をしている。わたしが従うままになるふり、それを望んでいる。

 

「ね、結んであげようか」

 

 いつもの調子で霊夢が言った。

 

「珍しいこともあるもんだな」

「なに、素直じゃないのね」

「はいはい。やってください」

「特別なんだからね」

 

 部屋の隅に移動して、わたしはまるくなって座った。霊夢はその後ろに膝立ちする。外は日照りだというのに、部屋の中はむんと熱気が篭っているだけで、神からも視界を塞いだように静かだった。

 

「痛いところはありますか」

「全体的に痛い。もっとやさしくしてくれよ」

「はあい」

「痛っ」

 

 霊夢の湿った手にかさついたわたしの髪が絡みつく。金色のやさぐれた髪は、何処となく人形に植えつけられた人工の髪を連想する。こんな髪質じゃ、仕方ないのだろうか。他人の髪を触る時の微かな遠慮が、むず痒い。

 ひとつにまとめ上げ、丁寧に紐で縛ると、これ見よがしに霊夢はわたしの頭を叩いた。染み付いた習性で不機嫌なふりをして、霊夢を見上げた。

 

「もっとやさしくってんだ」

「優しいでしょ」

 

 霊夢はなんのためらいもなしにそう言った。昔からこいつにはそういうところがあって、わたしはなんとなくそれに決して逆らえなかった。目を見つめたら、有無を言わせず従わせるような不思議な引力のようだったのだ。

 

「やさしかったよ……」

 

 仕方なしにわたしはそう言った。実際、文句を垂れる程痛くなんてなかった。あんなに優しく扱っているんだから、すこしくらい引っ張るよな感覚があっても気にしない。霊夢は女の子だ……。こんな生産性のない会話を幾度となく繰り返しておきながら、わたしの髪の毛を触るのは慎重なんだから。

 そういう時、わたしはちょっぴり嬉しかったのだ。実は。だが、照れてうんとかすんとか、そんな程度の返事で誤魔化すのが精一杯だった。目を逸らして俯く。

 

「あら、赤い」

 

 霊夢が短兵急に言った。わたしはさっと頬まで熱くなって急いで奴の方を向いた。自分のことを見ていたような気がしたのだ。

 

「なにが」

 

 ぶっきらぼうにそう返すと、霊夢は既にわたしを見ていて笑った。そして、不自然なほどぷいと顔を外に向けた。

 

「うん、キイチゴかな。あれ」

 

 たしかに霊夢の向いた方向には赤い実がいくつか見えていた。わたしはなんだ、と拍子抜けした。「どうだろうな、近くで見ないと……」突き刺さる視線に、わたしは振り返る。まとめられた髪の毛が遅れて従った。霊夢が、わたしを見ていた。

 

 



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混濁

 数日経って納涼大会の準備が始まった頃、霊夢はわたしをこき使うことにしか興味がないようで、納涼大会の準備を手伝わせた。元来、わたしは霊夢と居れば楽しいとわかっていて、しかしどういうわけかそういう癖がついてしまったのか、どうやったって、こき使われる。

 準備が捗ってくると人の出入りも激しくなるから、わたしはそっとその場を抜け出した。自分が居なくなっても何も言われなくなった頃がちょうどよい。

 納涼大会の当日には、人里の一部でも出店があるらしい。花火も上がるというので、ほとんど祭りじゃないか、とわたしは思っていた。神社でやるんだし。だが、それは口には出さなかった。霊夢の節操のないところはいつものことだ。

 人里で甘酒を買った後、木に登り忙しない人々を眺めた。汗で張り付いた前髪。開襟シャツの第一ボタン。手に持った生暖かい甘酒に、生暖かい風が掠めていく。わたし一人だけが役不足で、下の者たちには姿さえ気づかれていないようだ。

 

「あ、魔理沙さん!」

 

 下界で見覚えのある顔が手を振った。小鈴だ。どういうわけか、子供たちは比較的わたしの姿に気が付くのだ。そう思うと声を掛けてきた小鈴のふっくらした笑顔がより幼く見える。

 

「よ。元気そうだな」

「元気なんかじゃないわ。あつい!」

「おいおい、今その言葉を叫ぶなよ。涼しそうな格好してるんだから」

 

 小鈴は衣替えもきちんとしていて、シースルーのふんわりとした袖に腕を通している。いつもと違う髪型に彼女は頬を染めていた。わたしの方はといえば、いつもの真っ黒なワンピースに作業着のようなエプロン、魔女の三角帽子である。昼間は暑苦しくて、誰もわたしと目を合わせようとしない。

 

「納涼大会、魔理沙さんも行きますか」

「おう。食えるだけ食うよ」

「タダなんかじゃないですよ」小鈴が笑う。

「阿求は?」

「あの子はこういうの、行きませんから」

「前は来たじゃないか」

「前は前。それに、今暑さでバテちゃってるのよ。無理しちゃって」

「そうか。残念だが仕方ないな」

「そうだ魔理沙さん、今度向日葵畑に連れてって欲しいの。お願い!」

「別にいいけど……」

 

 阿求は? と聞こうとしたところで、言い淀んだ。答えが薄っすら見えたのである。それに気づいたような小鈴は、変な目をしていた。女が見せる、奥の見えない笑みが垣間見えた気がした。小鈴はぐるりと目を回す。

 

「阿求は……行かない」

「……そうか、なら、予定空けとくよ。詳しい日にちは後日」

「やったー!魔理沙さんに相談してよかったわ」

 

 純粋な喜びに薄く張る氷のような脆さが、背筋を煽った。小鈴にとっては、無意識に行われたことだろうが、女が見ればそれは別の意味も生まれる。

 

「ま、納涼大会当日は楽しんでってくれ。わたしもすこし手伝ったよ。……阿求によろしく」

「はあい」

 

 小鈴がくすくす笑った。わたしは手を振って別れる。小鈴のような子でも、きちんとああいう目をするのだ。知らなかった。軽蔑とも違う、優越感と独占欲の目。皮肉なことに、親しみと嫌悪は近いところにある。阿求は竹を割ったような性格をしているので、そういうことには無縁かもしれないが。

 わたしこそ表には出さないが、一人の人間にアンビバレントな感情が揺れる。どちらも正しいなんてことはない。どちらも正しくないのだ。だが、わたしたちはどちらかを肯定することでしか生きていけない。

 

「祭りなんて、もう少し後のことかと思ってたけどな」

 

 空は青く、見上げた瞼を塞ぐように汗を垂らす。痛みに、目を閉じた。「あ」

 

「祭りじゃ、ないか」

 

 誰ともなしに言った呟きに、通りがかりの男が不思議そうな顔をしていた。

 ほら、気づかないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いいですか、手を離さないで。そのまま目を開いて。

 わたしは言われた通りに目を開いて、蝉の声を遠くに聞いた。

 

「何も変わらん」

「そう簡単に変わるものじゃないわ。それに、貴方はやる気があるのですか」

 

 柔らかく制されて、手に持っていた壺を青娥に手渡す。わたしは最近になって、不老長寿の研究のためにこいつのところに通っていた。弟子になると言えば驚くほど簡単に許してくれたのだ。そもそも、このインチキ修行に付き合ってやってるだけ褒めてもらいたい。本物の不老長寿の修行というやつをお目にかかりたいというのに、青娥がいつもわたしにさせるのはパチモンの本に載っているパチモンの方法である。

 それを真面目にやっているのはちゃんちゃらおかしくて、どうにもやる気はない。

 

「うん、やる気はないな……」

「では何故道教なんですか」

「不老長寿への手段か」

「ええ」

「別に。仏教でも不老長寿が目指せるのならそれでもよかったかもしれない。だが、あれはめんどくさいだろ」

「愛、ですか?」

「はあ?」

「あれは愛を嫌う宗教なのですよ。そう言うとイメージと違うかもしれませんが、愛だって、執着心でしょう? それは苦になりますから、いけないことなのですよ。かの先人たちだって、親や子への愛を捨てられていませんけどね。魔理沙も、愛が捨てられないのではなくて?」

「そんな難しいことじゃないよ。ただ、お前の方が自由に見えただけ」

「ふふ、素直じゃないんだからあ」

「馬鹿だな!」

 

 青娥はわたしよりうんと年上のくせに、この手の話題が大好きだった。うざがって構うと、余計に嬉しそうにするのでめんどくさいのだ。

 

「もうお前から教わることなんてなんにもないぜ。ああ、時間の無駄」

「もー、嘘よ嘘。純情なのね」

「……お前にその手の話題が豊富なことを鑑みて聞くが」

「貴方よりはね」

「……好きと、嫌いが同時に現れる時、どっちの感情が本物なんだ?」

 

 こんなことをこいつに聞くのは間違っているとわかっていたが、どうしても聞きたくなった。青娥はわたしの質問に目を丸くして、思った以上に真面目な顔をした。口元に僅かな微笑みを見せる。

 女というのが、青娥のようなものばかりだったら世の中は大変だ。しかしながら、案外、こいつの厭なところというのは、女の誰しもが持っている。青娥は自分のそういうところをわかっているだけ、ましなのかもしれない。

 

「魔理沙は、どっちかが本物で、どっちかが偽物だと思うのね」

「だって、そうじゃないと……」

「そう。そうじゃないと、この感情を口になんて出せないから。けど、本当はわかっているわよね」

 

 青娥の凍ったような蒼い目は、ぼんやりと遠くを見ている。霊夢の目と、似ている。瞬きした瞬間に、目の裏に映るあいつの目はまるでわたしなんて見えていないように、微かに笑って、それでもわたしを離さない。射貫くような目。内側を抉られる、見透かされる感覚。しどと下半身が重くなる。

 わたしはあいつが嫌い。あいつは、最低なのだ。わたしが前に行こうとすると、その手を縋るように掴んでくる。「ね、お願い……どうかなりそうなの」一緒にいて。「お願い」痺れるような声が頭に響いて、わたしは頭を振った。

 

「そんなの、どっちも偽物」

 

 



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 みーんみんみんみんみーんみんみん……。

 

 博麗神社への石段を登りながら、後ろを振り返る。ちらほらと納涼大会の幟が見えるようになっていた。手の甲で汗を拭い、唾を飲み込む。吸い込めば吸い込むほど苦しさを増していくのに、酸素を欲しがって口は塞がらない。

 

「まりさあー!」

「おーん」

「早く!」

「バカ!」

 

 上から元気な声を出しているのは勿論霊夢である。わたしを見つけて持っていた荷物を押し付けると、自分だけふらふらと飛んで行ってしまった。「ばかれいむ……」お頭と口の神経が繋がっていたなら、本当はこんな無駄なぼやきは出てこない。それでも出てくるんだから、わたしは口から生まれてきたのだ。

 ダンボール箱に入ったがらくたを抱え直し、もう一度足を上げた。まっくろくろすけが這って進んでいく。どろどろになった下着がもうなんなのか分からない。思い切ってスカートを持ち上げ、頭と腕を通して脱ぎ捨てる。フリルの白ワンピース一枚で、階段を駆け上がった。「それでね……あの子、なんて言ったと思う?」「死ね!」「ばか」最後の一段を上り切ったところで、頭がようやくすっとしてきた。同時に、わたしを振り向いた目がよっつなことに、思わずわたしはその場にダンボール箱を盾に座り込んだ。

 

「魔理沙?」

「おうおう涼しそうですねい……」

 

 ひんやりと、右肩が濡れた。首を後ろに回してみる。「わっ!」

 萃香の、顔だけが浮かんでいた。

 

「はしたないわよ、魔理沙」

「いいだろが、どんな格好しようとさ」

「ならなんで恥ずかしがってんのよ」

萃香(こいつ)がいるとは思わなんだな」

「えー、霊夢には見られていいわけ?」

 

 痛いところを突いてくる厭な鬼だ。誰もいないと思ってこんな格好をしたのは確かに悪かったが、これ以上何も言わないでほしい。渋々立ち上がり、ダンボール箱を持ち上げて建物に運んだ。荷物を下ろし、賽銭箱に寄りかかる。

 膝を立てて目を閉じ、視線が散るのを待つ。「無視だねえ、霊夢さん」「ほっときなさいよ」ちらと目を開けると、萃香は興味が失せたらしい。安心してもう一度目を閉じようとしたところで、熱っぽい視線に気が付く。自然と、首が動いてしまう。思ってもみなかった真っ直ぐな衝撃は、わたしをどぎまぎさせた。目が泳いで、顔を逸らした。同時に、汗が噴き出してくる。

 霊夢……。どうして、気が付いていないふりをしないといけないんだ。ただ、きっとあいつは自分があんな穿つ様な目をしていると気付いていない。だから、わたしは気づいていないふりをしなければならないのだ。

 

「昔さあ、あったよ」

 

 唐突に、萃香が口を開いた。

 

「ある日、気が付いてしまうんだよ」

 

 なんの話をしているのだろうか。フリルを握りしめ、萃香のだらけた顔を眺めた。お陰で、熱が引いてきた。霊夢を盗み見ると、奴も呆けた顔をしている。

 萃香は自前の酒を飲み、目を蕩けさせた。

 

「暴れ馬が通り過ぎるのを皆が待っている間、気が付いた奴がいるんだよ」

「何に?」どちらともなしに聞いた。

「さあね。あいつは死んだ」

「……」

「暴れ馬に轢かれて死んだんだよ。あいつは正気だった。狂ったと言ってもいいけど……」酒を飲む。「気が付かない方がいいこともあるぜ?」

 

 冗談らしく、萃香が言った。その目がほんの少し揺れた。「納涼大会、いつ?」わたしたちは顔を見合わせて、霊夢が「三日後」と短く教えた。「ふうん。楽しみだね」

 

「霊夢、客集めはやめといた方がいい。怒られちゃうよ」

「……わかってるわよ。どうもありがとう」

「じゃ、三日後また来るよ」

「ええ」

 

 萃香が居なくなった後、しばらくその場は静かだった。太ももが汗で湿っている。霊夢は、わたしが運んできたダンボール箱を眺めた。

 

「準備、手伝ってくれる?」

 

 わたしは顔を上げた。「ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼い頃、わたしはよく勝手に親父の部屋に忍び込んでは本を読んだ。今に部屋の扉が開くかもしれないという焦燥感というのは、ある種の快感となって現れる。

 幼いわたしは締め切っていた窓を開け、部屋の隅にある床板をめくった。親父は明らかにそこに“隠す”という目的であるものを入れていた。わたしはそこから一つ掬い上げる。見た目にはなんの変哲もない本だったが、中身をすこし見れば幼いわたしでもわかる程在り来たりな春画だった。じりじりする。誰かが窓の外からわたしを覗くかもしれないし、いきなり扉が開くかもしれない。なのに、頁を捲る指先は驚くほどのろまだった。わたしはもがいている。早く。早くはやく。急かすたび、息が乱れた。紙面では女たちが下品な格好でこちらを上目に見ている。

 片手が着物に擦れる。わたしは思わぬ波に目を見張った。

 そこでわたしはハッとした。気配とともに、外から物音がしたのだ。

 

「ひっ……」

 

 おそるおそる窓の外に目を向けると、汚らしい男がわたしを見ていた。じっと乾いた眼をする。瞬きをした瞬間、男が近づいてきそうで、瞬きができない。なのに、焼き付いている……。瞬きした次の瞬間が。

 

「お嬢ちゃん、誰だって家じゃそういう猥褻物を見るよなあ」

 

 男は一々癪な言い方をした。幼いわたしはなにも言えないどころか、片手を不自然に突っ張らして動けなかった。頭の中で、ワイセツブツ……という言葉がおそろしい速さで駆け巡っていた。

 反応のないわたしに、男はつまらなそうに鼻を鳴らす。それから、着物をずらして粗末なものを取り出した。わたしは絶句した。黒くて、気味の悪い筋。男の一部であるのに、男が握っていないとろくに自由になれないようだった。

 

「便所に幼女を連れ込んでさ、見たことあるかって聞くんだよ。お父さんのなら、見たことある、って答える。俺はさ、言うんだよ……親父のと比べて、どんな感じ? 触ったことはある? ってな。ひひひいっ……どうだ、これ。お父さんのは見たことあるかな? ちょいと違うか、ほら、これ、親父のはいつもだらんとしてんだろう」

 

 男の息は臭い。当然、男はいくらか離れた場所でわたしを舐める様に見ている。だが、わたしは全身が気持ち悪くて仕方ないのだ。

 男はにやにやと笑った。こんなの、卑猥だ。破廉恥だ。わたしは何か言おうとしたが、言えなかった。汚らしい……変態だ、と頭に浮かぶ言葉が全部自分に返ってくるようだったのだ。言いたくなかった。言葉にすれば、口が汚れてしまう。

 

「お嬢ちゃん、こっちにおいでよ。もっと近くで見てごらん。そういえば、お嬢ちゃん、霧雨のとこの、女の子、だったかなあ」

 

 その話が出た途端、わたしの頭に激しく血が上った。我に返ったと言うべきか、とんでもない怒りがわいてその感情だけでわたしは走った。足を踏み鳴らし、今すぐにあの顔面を蹴りたくる。蹴るんだ。一目散に男のいる窓へ駆けつけ、持っていた春画を男に投げつけると、しかしなかなか声が出てこない。

 

「糞野郎がっ……!」

 

 窓を勢いよく閉め、息を切らす間に、磨りガラスの向こうから「へへへっ……」と声を聞いた。虫唾が走る。あんな奴と、おんなじなんて……最悪だ。

 

 男の猥褻物を見せつけられるという機会は、里を見回せばいくらか簡単に得られる。決して大人たちの前には現さないが、それが汚らしい男だったり、未成熟の男子だったり、幅広くいる。わたしが陥った事態も大して珍しくもないが、大抵の場合、二度目が訪れた時……嫌悪感が同族嫌悪に似ている。見ているのか、見せつけているのか分からなくなる瞬間がくるのである。

 

 

 

 

 



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 博麗神社への人の出入りが激しくなり、わたしは霊夢の寝室に忍び込んでは昼間から蒲団を敷いて眠った。ほんのすこし障子を開けておいて、風を取りこむ以外は蒸し暑くて目を閉じている間は眠れたもんじゃないと思うのだが、これが不思議なことにしばらく経つと眠ってしまう。

 外で話し声がするのは、案外いい。汗を掻いて蒲団を湿らすと、妙な浮つきが生まれる。起きたあとに、中途半場な姿勢で蒲団をじっと見るのだ。霊夢はたまにそんなわたしを見つけては同じ調子で怒鳴った。ただでさえ暑苦しいのに、汗をそこで掻かないでちょうだい――おかしいほどいつも通りだ。

 その時の霊夢の額に張り付いた前髪を盗み見て、悪い気がする。ふと目を覚ました時の、夢から醒めた感覚が香ってくるのは罪じゃないかと思う。

 その日も、わたしは霊夢の寝室に堂々と忍び込んで蒲団を敷いた。あわよくば、わたしは期待していた。霊夢が、寝ているわたしをじっと見るのを。最近、神社の庭先に見えるキイチゴを見るたびに変な気を起こすのだ。

 わたしはじっと待った。霊夢か、もしくは本当に眠ってしまえる機会を。むんとする部屋でもんもんとしていると、やがてはっとした。寝ぼけ眼で辺りを見回し、とんと動かなくなった体が眠ってしまっていたことを示している。どうやら、寝ていたらしい。

 時間を無駄にした。今日も空しいことをやっておいて、と寝返りを打とうとして違和感に気づいた。全身が何かにがっちりと押さえられているのだ。わたしは焦った。明らかに、後ろに誰かいる。腹のあたりに巻き付いた腕がここからでも確認できる。細くて、真っ白な腕。つるんとした見た目に似合わず力強い。

 

「れ……」

 

 名前を呼ぼうとしたところで、躊躇った。急激に襲ってきたのは、浮遊感。血がどくどくと唸っては止まない。汗の流れる得体の知れなさと、絡みついた足が生々しい。

 しばらく動けないらしい。猛烈に自分の知らない奥の方で恐ろしいほど、痺れて、動けない。

 

「ねーえ」

 

 いきなり耳元で囁かれ、背中が疼いた。

 

「寝てる?」

 

 わたしは急いで目を閉じた。どうして、声を掛けられた次の行動がそれだったのかわからない。声は確かに霊夢だった。いつも真っ直ぐに向けられる目が、遠慮なく全身を駆け巡る。

 

「寝てるの?」

 

 ふいに、体が軽くなった。顔に細かな髪の毛が降ってくる。瞼にそれを感じつつ、あり得ないほど息を止めていた。視線というのは、感じてしまう。

 つまらない言葉のやり取りが、すべて布石に思える。霊夢は時々、最低な目をしている……。

 肩にひどく重たいものが乗っかり、代わりに唇を控えめに何かが突いた。それは、わたしの勘違いかと思うほど何も感じなかった。実際、何もなかったのかもしれない。今すぐに目を開けて、確かめたかった。でも、出来ない。

 

「……おやすみ、魔理沙」

 

 気配が遠くなっていく。

 何をされたのか、もしくは何もされなかったのか、わたしは判断に困った。すべて、わからなくなった。

 

「……おやすみは、英語で何て言うか知ってるか」

 

 思わず口を開いた。同時に目を開いて、廊下の方を見た。霊夢が白い顔でぼんやりと浮かんでいた。表情の見えない奴は、静かに目を逸らした。

 霊夢が散々同じ調子で怒鳴ってきた意味が分かったような気がする。わざとだったのだ。そう思うと、わたしは何もかもこいつの思うようになっているんじゃないかと期待してしまう。そう、期待。いつもわたしは霊夢に各所から聞いてきた噂を教えてやる。弾幕ごっこをせがむ。図々しく晩飯をいただく。その何もかもを合わせても足りないくらい、ふとした瞬間にこいつの後ろを従順に歩く。目を細めて、霊夢が狼狽するのをじっと見ながら、実はまともに立ってられない。

 

「知らない」

「……ぐんない」

「ぐんない?」

「そう。いい夢を、って意味だ」

「へえ……」

 

 霊夢は興味が無さそうに相づちを打った。

 

「ぐんない、魔理沙」

 

 微かに口角が上がった。そのときの霊夢の目ったらない。わたしは、冷ややかに見つめられ、僅かに熱を上げる。そして、こいつを、最低な目で見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の裏側まで見渡せる向日葵。

 小鈴は暑さも感じさせないような天真爛漫な笑顔で歓声を上げた。大きな背丈の向日葵に見え隠れしては、わたしを心配させた。空は青く、抜けるように高い入道雲がすぐそこに見える。まだ夏ではないと思っていたのに、また夏が廻ってきた。

 ざらつく葉を頬や剥き出しの腕に感じる。小鈴は落ちていた葉っぱを拾い、神妙な顔をした。

 

「阿求……ひどいと思わない?」

「なんでだ」

「もう、夏になるのよ。なのに、夏らしいことの一つもしないなんて。わたし、おばあちゃんになっちゃうわ」

「そりゃ、阿求の感覚でいった方が同じことの繰り返し。おばあちゃんにだってすぐなるさ」

「ねえ……」

 

 小鈴は恨めしそうにこちらを睨んだ。それから、葉っぱを睨みつけてその緑を恨んだ。若さの象徴だ。「そんなに阿求と行きたいなら、そう言えよ」やはり、睨まれる。わかってる。そんな簡単なことじゃない。

 

「ね、魔理沙さん……。わたし、阿求のこと、なんでも知ってるのよ」

「へえ。例えば、どんなこと」

「大人のふりをしてるけど、見た目相応にごっこ遊びが好きなところ。意外とねちっこい。本当は、後悔してる。やりたいことも、いっぱいある。山本屋の餡子パイが好き。……わたしのこと、好き」

「……ふうん」

 

 わたしは目を逸らした。小鈴は目を赤くしたが、決して泣きはしなかった。だが、泣いた方がましだったろう。「わたし、おばあちゃんになっちゃうわ……」繰り返し言ってみせたのは、本当に小鈴の中で焦りが増殖していったのだろう。

 おばあちゃんになんて、すぐにはならない。今わたしたちにとって一番遠い存在だ。しかしながら、恐ろしい勢いで変わっていくものの多さに戸惑い、恐れている。

 

「阿求なんて嫌い」

「そんなこと……」

 

 宥めようとして、口を閉ざす。

 

「魔理沙さんは、霊夢さんのこと好きですか」

 

 とんでもない質問だ。甘えたふりをして、小鈴はとんでもない奴だ。泣き顔の片隅に、くすくすと、女の顔が笑いだした。自分の中で熱が回り続けている。「この葉っぱ、持って帰ってやろう」小鈴は生命力に溢れる折れた葉を大事に布に包む。「……好きなのね」

 小鈴が、元気を取り戻して笑った。

 

「お前の好きとは比べ物にならん。思い知れよ」

「ふふふふ……」

 

 けれど、知っている。それは、大きさなどではない。小鈴が女として友人を恋のように嫉妬したり、自分の物のように感情を振り回すのとは違う。

 わたしは、あいつが欲しい。

 

 

 

 

 



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背後

 祭りの日の昼間は序章だと思う。

 遅く起きたわたしは身だしなみを整え、人里までひとっ飛びした。人里の奴らも浮足立って、ふと吹いた生暖かい風が夢のように感じる。涼しささえ感じて、帽子を深く被った。いくつかの店を冷かし、道中の地蔵にさっき買った甘酒を供える。信仰心はないというのに、意味もなく手を合わせるのは都合がいいだろうか。

 博麗神社に向かう道で、既に出店があった。店を出すのも霊夢にいくらかの場所代を払う決まりになっているはずだが、こんなところまで店があるのをあいつは知っているのだろうか。知らないだろうな。あいつは爪が甘いから。いくらでも厭な場面に出くわしているのに、何も世の中の暗さを知らないような顔をすることが出来るのは、わたしはすこし怖い。もっと完璧さを求めてもいいのに。

 そこでりんご飴を買い、納涼大会の参加者たちの波に乗る。参道に入ると、客は一気に溢れ出す。

 

「霊夢なら奥にいると思うよ」

 

 藪から棒に横から声がした。「……萃香」

 

「霊夢に会いに来たんだろう?」

「わたしは祭りを楽しみに来たんだよ。あいつに会うのもいいけど、そんなの宴会でいい」

「宴会と祭りは違う。霊夢はさ、客として楽しむ目も知った方がいいと思うよ」

「本人に言ってやれよ。親切で言ってんならさ」

「親切う?」

 

 萃香はおかしそうに笑った。萃香がいるのはただの立ち飲み屋で、奴は鬼であることを象徴する角を隠しもせずに堂々と居座っていた。なんとなく持っていたりんご飴を仕方なく舐め、辺りを見回した。誰かと連れ立った少女たちの姿がちらつく。

 普通の女の子のように嬉しそうに笑うあいつの顔が思い浮かんだ。

 

「……霊夢はどこだって?」

 

 萃香はやたらに嬉しそうにした。

 

「ほら……あっちだよ」

 

 わざわざ、指をさした。指先の方向は祭りの喧騒とは離れている。わたしは怪訝に思って、萃香を振り返った。奴は予想していたように含み笑いをする。

 

「男だよ」

「男?」

「一緒にいるのはさ」

 

 男だよ。

 思わず、顔を顰めてしまう。何か言いたげな顔を無視してそうか、と頷く。萃香がわたしたちに何を期待しているのかはわからないが、ろくでもないことだ。そう、いつか、気づくという……何か。何かを期待して。

 奥に進み、霊夢を探した。わたしは敷かれた道を歩くだけ。そうしたら、霊夢がいるだけ。そうだ。そうなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 細い道を奥に見て、引き返せば良かったのだ。普段、わたしたちがお茶を飲んだり下らない話をする縁側が見えた。引き寄せられるようにあの、赤い実が目に入る。キイチゴ。あの一点を見て、確信めいたことを思った。

 そうだ。これ以上進んだら、やめられなくなる。何を。きっと、口に出す言葉を選ぶ行為をやめられなくなる。そうして、齟齬のある言葉に裏を見て嘘を吐くのが上手くなる。好意と嫌悪を同時に感じながら、そのどちらかだけを声にして迫られる。ねえ、どっちも……見せてよ。

 キイチゴを茎から千切り、半分に割る。中に虫が居ないのを確かめて口に含んだ。ろくに美味しいと感じないのに、次に手を伸ばしたくなるのは何故だろう。

 呟く。

 

「……あまい」

 

 既にあたりは暗くなっていた。ここ数日準備してきた灯りが人々を照らし出している。すこし喧騒から離れただけで蝉の出遅れた奴らの声がくぐもって聞こえた。わたしは進んだ。……良ければ、調査しますけど……いえ、お代は……お気持ちをいただくこともありますけど、それはご厚意です。正式なお祈りだとか、そういうんならきちんとした商売になりますから、きっちりいただきますけど……。いつもより高音。頭に映像が浮かぶ。一歩踏み出したその時、ちらつく。

 霊夢が上目に男を見た。正面からあの黒目を見つめる。

 前に出そうになった足をすんでのところで止めた。

 建物の影に隠れ、耳を澄ましてみる。どうせなら、みんなの前で依頼してくれてもいいのよ、だって、その方が名前が売れるでしょう……なんて厭な奴。上がる息を抑えて、どうしようもなく笑ってしまう。

 冗談よ、冗談。こういうことは秘密も守りましょう。それで、ご依頼?……そうですか。承りました。ぜひ納涼大会も楽しんでいってね。わたしはそろそろと顔を出した。

 男は、霊夢の自分に向けられた手のひらをじっと見ていた。真っ白な肌、夜の片隅に立つ少女。首を傾げ、笑う。ああ、あいつは何も見てなんかいないのに。男は霊夢の目を見て、顔を赤くしたように見える。暗闇に紛れて、祭りの日の不思議な魔力が漂っているように思う。男は、霊夢の手を取った。

 指を添わせ、重ねようとする。霊夢は戸惑って一歩下がる。男は一歩進む。下がる。やわらかな足が震える様にずれていく。霊夢は慣れていない押しに弱く、何度も瞬きを繰り返した。耳が赤く染まり、そこにかかった髪を払う。動揺して呂律がうまく回っていない。わたしは、薄く笑った。

 

「なあ……どっちも、見せてくれよ」

 

 絡んだ指を離し、霊夢の手のひらに人差し指を滑らせた。ねえ……見せてよ。

 

 ――その時、けたたましい歓声が上がった。

 

 気が付くと、わたしは壁にかじりつくようにして向こう側の二人を見ていたのだった。

 二人も歓声に驚いて、明るい場所を眺めている。そうだ。わたしは……ただ、見ていた。男は霊夢の様子を窺って、強引に抱き寄せた。そうして、それは突如としてわたしの前に現れた。遥か自分の奥の方で、熱源を突き上げる。生々しい、女の、霊夢の、やわらかい感覚。熱さ。あいつの嫌がることをして、触れた肩に顔を寄せる感覚。男は、霊夢を懸命に見つめた。でも、こいつなんか見てない。わたしは、その目で霊夢を見る。霊夢は、奥に見える納涼大会の灯りを恨めし気に見つめる。わたしは見る。見る。見る。

 霊夢の目が、こちらを見て、うろたえた。「ま……」

 わたしは、激しく嫌悪したのだ。あの男の見ている物を、すべて見ているようで……それ以上に、見ているようで。頭の中で、地団駄を踏み、男を蹴り上げ、それで痛む足をひたすらに釘に刺す。嫌だ。嫌だ。何もかも、偽物であって欲しいのに、全部全部本物だ。霊夢を超えたい気持ちも、霊夢を好きな気持ちも、霊夢に酷いことをしたいと思う気持ちも、霊夢に最低な目で見られたい気持ちも、この気持ち全部最低だと思う気持ちも、それら全部を本当だと思う気持ちも、ぐちゃぐちゃになって、結局、全部偽物になる。

 

「霊夢!」

 

 やけくそに、なんとか叫んだ。

 この場合、なんて言うのが正解なんだ。本当は、男の方に何か言うのが正解なんだろうな。でも、わたしはただ気まずい顔で霊夢の名前を叫ぶので精一杯だったんだ。

 男は、影から現れたわたしに驚いて咄嗟に走り出した。

 霊夢が、赤くした顔でわたしを見た。その目が、獣の目に似ている。さっきまで怯えていたのに、未熟さを持って、手を伸ばしたくなる魅惑を引き寄せる。わたしの手を取り、腕を体に回した。きついほどに。「ああ……」

 

「魔理沙、わたし、わたし……」

「うん……」

「ねえ……」

 

 霊夢が耳元で囁いた。

 

「最悪ね」

 

 何がそうなのか、こいつは言わなかった。ただ、わたしは霊夢の目を見た。霊夢はわたしの答えに注目しているようだった。わたしは口を開きかけ、それから口を閉じた。そうして、こいつの唇を舐めてやった。霊夢は満足そうに舌を出す。もう、動揺なんて見せない。

 嫌悪と、激しい好意。混ざり合って、それが焦りと似ている。快感と同じ。結局、わたしはどちらも口にしなかった。歩く度に、振り返ってわたしの姿を確認するこいつの後ろを、歩いていく。

 振り返るたびに、わたしは、あいつの目を見る。

 

 

 

 

 

 

 



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