東京イカちゃん【トーキョーガール】 (放出系能力者)
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冷凍イカちゃん

 イカちゃんが目を覚ますと、そこには暗闇と瓦礫の山が広がっていた。

 

 通称『イカ』や『イカちゃん』と呼ばれるこの生物の正式名称はインクリングという。人間並みの知性を持ち、ヒトに近い形態を取ることもできるが、本来はイカによく似た姿をした軟体生物である。 

 

 つまり、人間ではない。彼らにとって人間とは大昔に絶滅した種族である。現代の文明はインクリングを始めとする『軟体生物群』によって築き上げられている。ここにいるイカちゃんもその一人であり、性別はメスのイカガールだった。

 

 イカちゃんは自分が置かれている状況を理解できずにいた。彼女はハイカラシティのとあるお嬢様学校に通う14歳の学生だった。その日は学校の課外実習で博物館に来ていたはずだった。目の前に広がる廃墟に見覚えなどあるはずがない。

 

 直近の記憶をさかのぼって確かめたところ、博物館の展示物を見ていたところまでは思い出せた。それは『ジャッジくんのコールドスリープマシン』だった。

 

 審判の猫ジャッジくんを乗せて悠久の時を越えたとされるオーパーツである。イカたちにも解析不能なオーバーテクノロジーであり、仕組みはよくわかっていない。

 

 貴重な歴史的資料だが、能天気なイカたちは基本的に享楽的で刹那的な考え方をすることが多いため、使い物にならない装置をありがたがるようなことはなく、展示コーナーの片隅におさわりフリー状態で放置されていた。

 

 見学に来たイカちゃんがこの装置のスイッチみたいなところを適当にカチャカチャ押したり中に入って遊んでいたそのとき、突如としてマシンは起動した。装置の中に閉じ込められてしまったイカちゃんはそのまま眠るように気絶してしまう。

 

 そして気がつけば、この真っ暗闇の廃墟にいたというわけだ。周囲には誰もいない。一緒に博物館に来ていた友達の姿もなかった。ただ闇だけが広がっている。

 

 イカちゃんは冷凍保存されて未来の世界に来てしまったのか。にわかには信じがたい現象に彼女は混乱しきっていた。

 

 むせかえるように淀んだ空気、星明りの一つもない空。巨大な洞窟の中にいるかのようだった。まるで世界中に自分一人しか存在しないかのような錯覚に囚われる。

 

 しかし、その孤独感はすぐに霧散することとなる。イカちゃんは暗闇の中に何者かの視線を感じ取った。それはリッター4K(スナイパーライフル)の射線に足を踏み入れてしまったかのような怖気を伴っていた。

 

 誰かがこちらを見ている。しかも、一人ではない。正確な数まではわからないが、複数の敵意ある視線を感じた。もしイカちゃんがバトル未経験のお嬢様イカだったなら恐怖に身がすくみ動けなくなっていたところだろう。

 

 だが、このイカちゃんはすぐさま反応することができた。実は親に内緒でナワバリバトルに勤しみ、行きずりの下賤なイカたちと体液をぶちまけ合うオープンペインターだった。

 

 ナワバリバトルとはイカたちが熱狂するスポーツ。彼らは縄張り意識が非常に強い生物であり、自分や仲間の体液で地面をマーキングすることに快感を覚える変態的特徴を持つ。敵味方のチームに分かれて縄張りを誇示するこのゲームが大好きなのだ。

 

 イカちゃんは生体情報として登録された『ギア』と『ブキ』を瞬時に起動し、自身の体液を用いて急速展開する。これらはナワバリバトルに不可欠な装備である。

 

 ギアは『アタマ』『フク』『クツ』の三種類からなる衣服の装備だ。それぞれに身体能力や武器の性能を高めるなど様々な効果があり、バトルを積むほどに肉体となじみ、使いやすくなっていく。

 

 イカちゃんの場合は『アイアンマスカレイド』『スクールカーデ』『スクールローファー』を登録していた。後者二つは普通に学校の制服だが、アタマ装備だけはゴツい溶接作業用のマスクである。

 

 これは親にバレないように顔を隠す目的で選んだものであり、この程度のイカれたギアコーデは若者たちからすればさして珍しくもない。

 

 そしてギアと対を成すもう一つの装備がブキである。インクリングは体内に体液を高密度圧縮できる『インク袋』を有し、これを多種多様なブキと接続することにより効率よく体外に射出することができる。

 

 イカちゃんが取り出したブキは『ハイドラント』だ。その名のごとくまるで消火栓を担いで来たかのようなボディはブキの中でもひときわ巨大。その雄姿にたがわぬ圧倒的な連射性能を誇る重量級スピナー(機関銃)である。

 

 イカちゃんは視界を確保できるように自身の体液を暗闇で発光する蛍光色に染め上げた。このようにイカたちは自在にインクの色を変化させることができる。

 

 ハイドラントが輝きを放ちながらロータリーを回転させる。大量のインクを内部で高速圧縮しているのだ。このチャージタイムが最も無防備な状態であるが、このブキの特徴を知らない敵たちは警戒して手を出してこない。

 

 そしてフルチャージが完了する。溜め込まれたインクが解き放たれた。無数の光の弾丸が宙を舞う。イカちゃんは照準もろくに定めず360度全方位に回し撃つ。

 

 まず何よりも敵の数と位置がわからなければ対処のしようがない。そのために蛍光弾をばら撒いて周囲を染め上げようとした。敵が被弾すればその位置を特定できる。

 

 これには闇に潜んでいた敵たちも焦りを隠せなかった。光弾の雨は避けられるものではなかった。速度もさることながらその密度が絶望的。あまりにも眩い光に目が焼かれ、弾幕の壁が迫り来る。

 

 確かに弾は敵に当たった。一条の光も差すことがないこの場所で長らく生きてきた襲撃者たちにとってその攻撃は目を潰すような恐ろしい攻撃だった。

 

 しかし当たってみてすぐにわかった。全然、痛くない。

 

 それもそのはず、このブキは軟体生物同士で戦うために開発された兵器であり、それ以外の生物にとっては強力な水鉄砲に過ぎないのだ。

 

 この地底世界を生き抜いてきた屈強な戦士たちにとって、イカちゃんの攻撃はどうというほどのこともなかった。スピナーの回転はやがて緩やかに減衰し、カラカラと音を立てて弾を出し尽くした。

 

「マ……マンメンミ~……」

 

 闇の中から這い出てきた潜伏者は一人や二人ではなかった。茫然と立ち尽くすイカちゃんを取り囲んでいく。

 

 その者たちはヒトにも似た姿をしていた。だが、明らかに人間と異なる点がある。サソリの尾のような巨大な器官が背部から生えていた。

 

 ここは『東京24区』の最深部。人々の記憶から忘れ去られ、廃棄された地底都市だった。

 

 

 * * *

 

 

 イカちゃんが襲われた理由はシンプルだ。食うための狩りだった。一巻の終わりだった。

 

 地底人たちは彼女の体にかじりつき、その味に驚く。めっちゃうまかった。イカちゃんはガチホショクされた。

 

 だが、インクリングは非常に生命力の強い生物である。ナワバリバトルにおいては肉体が爆発四散して汚い花火と化すことなど日常茶飯事だ。痛みもない。

 

 インクリングの細胞は敵対者の体液や水などを全身にかぶると急激な浸透圧現象を引き起こし、全身の水分を出し尽くして干からびる。だが、それでも死ぬことはない。

 

 体液と同質の培養液で満たされた『リスポーン装置』に入ればすぐに元通り復活できるし、これがない場合も時間はかかるが自力で肉体を再生できる。

 

 地底人はその再生力に目をつけた。一度に全部食って殺してしまうのではなく、欠損した部分を再生させてから死なない程度にまた食べる。

 

 イカちゃんは地底人の集落に監禁されてしまった。イカ形態になって檻から脱出しても奴らは敏感な嗅覚でイカちゃんを追い詰めた。

 

「うららー!」

 

「あんよがじょうず! あんよがじょうず!」

 

 イカちゃんはイカ語しか話せず、地底人たちの言葉はわからない。意思の疎通もままならなかった。

 

 いくら食われても痛くないとはいえ、精神的なショックはある。また当然ながら無限に再生できるわけでもなく、日に日にイカちゃんは弱っていった。

 

 食事は一日に一回与えられる謎の生肉のみ。イカちゃんが暮らしていた世界では脊椎動物は絶滅していたので、彼女にとってそれはまさに正体不明の物体である。

 

 しかし、食わなければ生きていけない。肉体の再生のためエネルギーを多く消耗していることもあり、吐き気を堪えて何とか食べた。家畜の気分だった。

 

 ただ、地底人の立場からすればイカちゃんに下にも置かない厚遇を与えているつもりだった。

 

 確かに少し体をかじり取ることもあるが、弱ってきたイカちゃんのために狩りをして肉を掻き集めた。彼らにとって狩りとは命がけの戦いである。

 

 この地底において彼らの食料は限られている。狩りの獲物とは、同族だった。地底都市にはいくつもの集落が存在し、互いに命と肉を狩り合う関係にある。

 

 肉を得ることは簡単ではない。地底人もまたイカちゃんと同じく凄まじい肉体の再生能力を持つため、できれば生け捕りにして死ぬまで肉をそぎ取られる。命尽きるまで肉の採取源となる。

 

 それも狩りがうまくいけばの話であり、大抵は死体さえ手に入らないこともざらだ。睨み合いで一日終わることもある。狩りに行って逆に狩られることもある。

 

 空腹をどうしても抑えきれなくなったときは、都市全体に植物の根のように張り巡らされた『ナァガラジ』の死骸を食べる。乾燥した土も同然の味しかしないが、わずかに飢えは満たされる。

 

 慢性的な飢餓が当たり前の状態であった彼らにとって、イカちゃんの味は衝撃的だった。涙が出るほどの美味。その味はイカちゃんをある種、神格化させるほどのものだった。

 

 多大な犠牲を払って手に入れた肉を惜しげもなく貢がれたイカちゃんは、言葉が通じずとも何となく彼らの誠意を感じ取っていた。

 

 牢獄の中で何もすることがないイカちゃんは、イカたちのソウルソング『シオカラ節』をよく口ずさんだ。それを聞いた地底人も真似して一緒に歌うこともあった。

 

 自分をこんな目に遭わせた地底人たちに憎しみはもちろんあったが、なるべく深く考えないようにしていた。現実逃避と言い換えてもいい。複雑に入り乱された感情は両者の間に奇妙な依存関係を生み出す。

 

 かつて彼女が他の誰かからこれほど必要とされたことがあっただろうか。ナワバリバトルでは未熟な腕でハイドラントというピーキーなブキを使いたがる彼女を疎ましく思うイカから心無い言葉をかけられたこともある。

 

 両親からは確かな愛情を感じ取れたが、それは裕福な暮らしの上にこそ成り立つ幸福だったのではないか。望むがままに与えられることを愛情と感じていただけに過ぎないのではないか。

 

 どちらにしても、今の彼女には両親もナワバリバトルをしてくれる友達もいない。この暗い檻の中が全てだった。

 

 それはストックホルム症候群とでも言うべき心理状態だったのかもしれない。その健康とは言い難い精神の均衡は、ついになるべくして崩れ去る。

 

 ある日を境にしてイカちゃんの体調は大きく悪化した。最初はただの腹痛だったが急激に重症化し、意識を失うほどの高熱に冒されるようになる。

 

 何らかの病気にかかったものと思われたが、治療に必要な医療設備はない。地底人たちの暮らしは原始的だった。

 

 身体を食われても平気だったイカちゃんも病気には抗えなかった。まるで肉体が内側から作り替わっていくかのような筆舌に尽くしがたい苦痛に襲われる。経験したこともない痛みに死を覚悟した。

 

 そして時を同じくして、イカちゃんが捕まっている村に大規模な襲撃があった。それは狩りレベルの小競り合いではなく、村同士の(いくさ)と呼ぶべき事態にまで発展する。

 

 イカちゃんの村はそれまでの無理な狩りがたたって大きく疲弊し、戦力が落ちた状態にあった。その弱り目を狙われたのである。

 

 両陣営ともに死傷者を出しながらも、次第に一方的な戦況になっていた。イカちゃんの村は敗北する。

 

 それまで檻の中で生活し続けてきたイカちゃんは、踏み込んできた敵に引きずり出された。戦禍により変わり果てた村を目撃する。なぜかここ数日の間に暗闇をハッキリと見通せるようになったイカちゃんの目は、つぶさにその光景を捉えていた。

 

 死体は食料として回収され、生け捕りにされた男は肉の採取源にされ、女は採取源兼性処理の道具とされる。そこに尊厳はなかった。おぞましい命の冒涜だった。

 

 しかし、それが彼らにとって脈々と受け継がれてきた種としての営みであり、紛うことなき自然の摂理であることを同時に理解する。

 

 勝利の美酒に酔うように削ぎ落した肉を食らう襲撃者たち。その肉と同じものを自分もこれまで食べていたことを理解した。その瞬間、イカちゃんの中で何かが壊れた。

 

 

 マ ン メ ン ミ

 

 

 イカちゃんは慟哭する。その叫びは怪物の産声だった。

 

 それから先のことは彼女自身、よく覚えていない。気がつけば、周囲は無数の破壊痕と死体が残された荒地と化していた。

 

 殺された者たちは全員が襲撃者だった。助かった村人たちはイカちゃんに身振り手振りで謝意を表した。

 

 だが、彼らの行動を見てもイカちゃんはなびかない。彼女は現実を受け入れたのだ。このどうにもならない圧倒的な現実の中、自分の力で生きていくためには何をすべきかを考え始めていた。

 

 イカちゃんは村人たちを殺さなかったが、心を許したわけではなかった。彼女はその足で村を去る。引き留めようとする村人たちに向けた殺気が確固たる決別の意思を示していた。

 

 まずはこの世界を知らなければならない。この暗闇の世界はどこまで続いているのか。その終わりを確かめなければならない。

 

 依然としてイカちゃんの体調は優れない。しかし、熱に浮かされながらも歩みを止めることはなかった。体を冒す熱以上に燃え滾る決意が彼女を突き動かす。

 

 その眼は、片方だけが血のように赤黒く染まっていた。

 

 

 * * *

 

 

 イカちゃんが地底で出会った種族は世間一般に『喰種(グール)』と呼ばれている。

 

 興奮すると両目が赤くなる『赫眼(かくがん)』を持ち、体外に触手のような器官『赫子(かぐね)』を形成して戦闘に用いる。その身体能力は人間の4倍から7倍とされ、主に人間を捕食する。

 

 彼らが生きる上で必要な栄養である『Rc細胞』は人間と喰種の肉からしか摂取できない。これこそが喰種のパワーの源である。

 

 この細胞同士が形成、定着、崩壊というサイクルを繰り返すことで、硬質性と流動性を併せ持つ強靭な赫子を作り上げる。また、全身に行き渡らせることで回復力や身体機能を底上げしている。

 

 その特徴は液状の筋肉と例えられる。安定した状態にあるときはコンパクトに体内に収納されているが、ひとたび活性化すれば様々な機能を有する戦闘器官へと変貌する。

 

 これがインクリングの軟体組織と構造的に酷似していた。彼らは瞬時に肉体をヒト型とイカ型に変形させることができる。また自身と同質の体液中であれば、体積を無視したかのようにわずかな液体中に全身を溶かし込むことができる。

 

 そしてインクリングが体内に『インク袋』を持つように、喰種もRc細胞を蓄積するための『赫包(かくほう)』という器官があった。喰種にとって第二の心臓とも言えるこの臓器は最も栄養価が高い。

 

 イカちゃんに獄中で与えられていた食事は、この貴重な赫包が惜しげもなく使われていた。知らず知らずのうちに大量のRc細胞を摂取していたのである。

 

 イカちゃんの体内に取り込まれたRc細胞は軟体組織と結びつき、その肉体そのものを大きく変質させつつあった。

 

 彼女は似て非なる存在へと急激な進化を遂げようとしていた。インクリングと喰種の『隻眼(ハーフ)』へと。

 

 はたして、この進化は偶然の産物なのだろうか。たまたま似たような特徴を持つ異種族間の細胞が奇跡のような確率で巡り合った結果なのか。その答えはコールドスリープマシンにあった。

 

 一匹の猫を乗せて一万年以上の時を漂流した箱舟である。その暴走に巻き込まれてしまったイカちゃんはどれだけの時を経たのか。

 

 一つの種族の栄華が終末を迎え、新たな種族の繁栄が始まる。それだけの時間があれば、漂流の果てに自分とどことなく似た異種族と出会うこともあり得る話なのかもしれない。

 

 



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成長イカちゃん

 
 チキシャン! チキシャン! チキシャカ チキシャン!
 
ヒメ「やっほー! ハイカラニュースの時間だよー!」
 
イイダ「突然ですが、ここで速報です。本日正午ごろ、ハイカラシティ博物館において都内在住の【イカちゃん・フレぼしゅうちゅう!】さんが展示物のコールドスリープマシンに閉じ込められる事故が発生しました」
 
イイダ「現在、レスキュー隊による懸命な救助活動が行われていますが、装置は強固に密閉されており、救出は困難なもようです」
 
イイダ「この一件により博物館側の展示物のずさんな管理体制が明らかとなりました。これにはジャッジくんからも『に゛っ!』という遺憾の声が寄せられています」
 
イイダ「ハイカラスクエアではガールの身を案じる多くのイカたちが集まり、『マンメンミ』『ナイス!』と言った励ましと支援絵の提供が多数行われています。以上、速報をお伝えしました」
 
ヒメ「じゃあ、今日も元気に~」

ヒメ&イイダ「「ぬりたく~る! テンタクル!」」

 


 

 喰種は人間を食らう。逆に言えば、それ以外のものは基本的に食べられない。体内の酵素の関係で消化不良を起こし体調を崩してしまう。栄養だけなら共食いでも補給できるが、喰種の味覚は人間を最もおいしく感じるようにできている。

 

 人間からすればたまったものではない。喰種は生態系の上位に立ち、人間を狩る立場にある。基礎的な戦闘能力からして別格の生物である。

 

 だが、人間は自然を克服する存在だ。生態系から外れた生物と言える。喰種から人間社会を守るため、あらゆる手段を講じてこれまで対抗してきた。ここ日本においては『喰種対策局(CCG)』と呼ばれる行政機関が存在する。

 

 対喰種戦のプロフェッショナルである捜査官たちは、ただ狩られるだけの存在ではない。個体としての力は及ばずとも、技術と、装備と、組織力によって逆に喰種を駆逐する。彼らは『白鳩(ハト)』の通称で喰種たちから恐れられている。

 

「第6班、ポイント17-Cに到着。異常なし。探索を続行する」

 

『了解』

  

 今宵、CCG本部から招集された多くの捜査官が『24区』の捜索に当たっていた。通称『モグラたたき』と呼ばれる定例調査である。

 

 東京は1区から23区に分けられ管轄されており、厳密に言えば24区という区画は存在しない。その実態は、地下に掘られた喰種の巣穴である。

 

 古くからこの地に棲みついてきた喰種たちは地下に巨大な巣穴を築き上げてきた。それは地上を追われ、行き場をなくした喰種たちの最後の砦だった。

 

 ただでさえ東京の地下は各種インフラのパイプラインや地下鉄道など複雑に入り組んでいる。喰種はその間を縫って、蟻のように巣を張り巡らせた。

 

 地盤沈下を起こさないのは『Rc細胞壁』という特殊な建材に支えられているからだ。それはまさに生きた壁であり、頑強かつ巧妙に周囲の風景に擬態して内部の構造を隠蔽している。

 

 これまでにCCGは幾度となくこの巣穴の調査を行っているが、いまだに全容を把握できてはいない。そのため定期的にこの地下道を“清掃”し、地道なルートの確認作業を重ねている。

 

「しっかし、もうかれこれ2時間近く潜ってるのに1匹も出てきませんね」

 

「そういうこともある」

 

 今回、臨時編成された6班のリーダーを務める久遠上等捜査官が答えた。班の人数は5人。上等2名、二等3名の編成である。

 

 喰種捜査官の階級は上から特等、準特等、上等、一等、二等、三等と分かれている。その指標は強さの違いと言い換えてもいい。例外もあるが、上の階級の人間ほど強いことは間違いない。

 

「連中にとってもここは住みにくい環境だ。ドブネズミみたいに群れているわけではない」

 

 他の班からも交戦したという情報は一件も入っておらず、いつもと比べれば静かな行軍だった。

 

「そんなもんスか」

 

 喰種は人間を食うこと以外、その暮らしぶりは人間とさほど変わらない生き物だ。多くの喰種たちはこの東京で、人間に成りすまして暮らしている。それが最も安全で楽だからだ。

 

 喰種にとっても、隠者のような世俗を捨てた生活は苦痛である。動物のように森に身を隠しながら人里を襲うような暮らしには堪えられない。

 

 東京はいい街だった。数え切れないほどの人々が互いに無関心なまま、すれ違いながら暮らしている。多少の変死体や自殺者が出ても目立たない。そんな土壌があった。

 

 CCGという脅威さえ除けば喰種にとってこれほど住みやすい場所はない。だから、地上でへまをしでかした喰種たちは最後の逃げ場所としてこの地下道にやってくる。

 

 白鳩の捜査によって正体を暴かれ、地上では生きていけなくなった者たちだ。

 

「要するに、ただの間抜けの集まりってことですよね。だからオレら新人捜査官も任務に組み込まれてるわけですし」

 

 モグラたたきで討伐される喰種の多くは危険度を表すレートにしてB~C帯に属する。これは三等捜査官であっても一対一で十分に対処可能なレベルの強さである。

 

「慢心するな。本当に間抜けなら正体が発覚した段階で処分されている。奴らはこちらの動きに感づいて逃げおおせるだけの頭があるということだ」

 

 久遠は新人の荒牧をたしなめた。荒牧二等捜査官。第一CCGアカデミージュニア出身の有望株である。今回集められた新人の中ではトップクラスの成績優秀者だ。

 

 6班の他2名の二等捜査官についても若輩ながら申し分ない実績がある。このようにモグラたたきは優秀な新人を対象とした実戦教育の場という側面も持ち合わせていた。

 

 本当に危険な喰種が出現する可能性が高い未調査エリアの探索はさすがに特等捜査官を筆頭とした最高戦力のチームが投じられ、新人は既に過去の調査でマッピングし終えたエリアの清掃任務に充てられる。とはいえ、危険がないわけではない。

 

「浅層でも過去にはAレートを超える喰種の出現が報告されている。さらに深い階層では……最も凶悪な個体である『赫者(かくじゃ)』の出現も確認されたことがある」

 

「赫者……」

 

 喰種同士の共食いを日常的に繰り返し、大量のRc細胞を取り込んだ喰種の中には稀に突然変異のように赫子が強化される個体が現れるという。

 

 喰種であっても共食いに対する忌避感はあり、滅多なことで起きることではないが、食料を満足に確保しにくい環境下では共食いが発生しやすいことがわかっている。

 

 赫者と化した喰種は赫子に全身を覆われ、鎧のように隙のない防備を固める。常軌を逸した破壊力と凶暴性に満ちている。

 

 かつて24捜査においてF-124地点で確認された赫者個体『隻眼の梟』はCCGの長い歴史においても類を見ないほど強力な喰種だった。そのレートは後に危険度最高位SSSに指定されている。

 

 今回の任務でそんな大災害が現れるとは思えないが、釘を刺す意味も込めて久遠は警告する。

 

「わかってますよ。油断なんかしません。相手がどんなに弱かろうと強かろうと、必ず全力で対処してみせます」

 

「……」

 

 荒牧の目をみれば、その言葉に嘘はないとわかった。久遠はこれまでにそれと同じような目を何度も見てきた。喰種に対する憎悪に満ちた瞳である。

 

 CCGが管理する捜査官の養成学校には毎年のように親を喰種に殺された孤児たちが入学編入してくる。荒牧もその一人だった。

 

 復讐を果たすため死に物狂いで勉強し、戦闘技術を磨き、彼らの多くは喰種捜査官となる。その気持ちは久遠にも共感できた。

 

 しかし、その憎悪の炎が燃え盛る期間は大抵の場合、若いうちだけだ。実際に捜査官となり、喰種を殺していくうちに現実を理解していく。

 

 復讐は何も生まない。ただ空しいだけだ。他人から言われれば知ったような口をきくなと憤ることを、ようやく自分の頭で理解できるようになる。

 

 炎が消え去り燃えカスだけが残ったような人間は山ほどいた。未来を担う若者に、そうはなってほしくないと久遠は切に願っている。

 

「本部から『クインケ』を支給されているだろう」

 

「はい」

 

「お前たちが捜査官である証とは、輝かしい階級や勲功ではない。『クインケの所持を許可された』。それが捜査官たるゆえんだ」

 

 クインケとは対喰種駆逐兵器である。全身が強固な耐久力を持つ喰種に通常の銃火器はほとんど通用しない。力で劣る人間が喰種と渡り合うためにはこの武器が要る。

 

 見た目はただのアタッシュケースにしか見えないが、Rc細胞技術の応用により生み出されたバイオテクノロジーの結晶である。

 

「それは都民を、同胞を、一人でも多くの命を守るために、我々が持つことの許された力だ。断じて私的な目的を果たすために与えられた力ではない」

 

「……はい」

 

 今はまだ、言葉で言って聞かせてもすんなりと飲み込むことは難しいだろう。失敗をしない人間はいない。経験を積むためには時間が必要だ。

 

 だから新人が一人前の捜査官となるその時まで、守ってやるのが上司の務めだ。

 

「はいはい、おしゃべりはそのくらいにしときなさいな。耳の良い喰種なら感づいて逃げられるかもしれないわよ」

 

 久遠のバディであるもう一人の上等捜査官が口を挟む。しかし、ここは既に探索済みエリアの行き止まりに位置していた。もし喰種がいたとすれば逃げ道はない。

 

 この先の一本道をまっすぐ進めば袋小路になっている。6班はそこを確認した後、引き返して別ルートの清掃に当たりながら本陣に戻る予定となっていた。

 

 荒牧たち新人三名は拍子抜けしていた。24(ニーヨン)捜査と言えば新人捜査官にとって功績を上げる格好の舞台であると同時に、高い殉職率で知られる過酷な任務である。

 

 だが、蓋を開けてみればどうということはなかった。指導教官たちは新人が気を抜かないように脅しをかけるため、任務の内容を過度に脚色していたのだろうと荒牧は内心で思っていた。

 

 喰種との戦闘が発生すれば死の危険が伴うことは捜査官にとって至極当然のことである。数字を恐れていては、この仕事は務まらない。辞退せずにこの任務を受けた時点で荒牧たちの覚悟は決まっていた。

 

 しかし、本当の覚悟とは。現実に死を目前としなければ、やすやすと固まるものではない。

 

「――!」

 

 それは一本道を進んでいた最中のことである。先頭を歩いていた久遠が立ち止まり、後続の班員を手で制した。

 

「アアアア――!」

 

 通路の奥から声が聞こえた。6班の全員に緊張が走る。喰種であることを疑う余地はなかった。すぐさま各々が手にしていたアタッシュケースを展開する。

 

 電気信号を受けて急速展開された兵器(クインケ)を構える。その材料は喰種から取り出された赫子だった。

 

 人間は喰種に対抗するための武器として、喰種が生来持つ武器である赫子を逆に利用したのである。

 

 喰種が個体によって千差万別の赫子を持つように、それから作り出されるクインケもまた多種多様である。荒牧が本部から支給されたクインケの銘は『ぼくさつ1号』だ。

 

 メイス状のBレート甲赫型クインケである。二等捜査官からはクインケの使用制限が大きく緩和されるため、これでも新人に与えられる武器としては優良な部類の性能である。

 

 しかし、不満がないわけではなかった。荒牧は久遠が持つクインケを見る。

 

 A+レート甲赫型『モチヅキ』。その形状は円錐形のヴァンプレイトが取り付けられた大型の騎槍である。

 

 甲赫型は最も優れた耐久性を誇るが、その代償として過大な重量を持つ。小型に設計された『ぼくさつ1号』はまだ扱いやすいが、久遠の騎槍状クインケは並の鍛え方ではまともに振るうこともできないだろう。

 

 上等捜査官の階級は伊達ではない。それに見合うだけの実力と装備だった。

 

「ハヒィイィイイイィ!」

 

 万全の戦闘態勢を整えた6班のもとに一匹の喰種が姿を見せた。何やら取り乱した様子で息を荒らげて走って来る。

 

「あっ、なんだオマエら……ハトオオオオオ!? ちくしょう! こんな時にふざけんなマジでサイアクだあああああ!!」

 

 喰種は待ち構える捜査官たちを見ても足を止めることはなかった。一本道の通路を全力疾走で駆けてくる。

 

 何か、様子がおかしい。久遠は警戒心を高めて隊列の先頭に立ち、槍を構える。それに合わせるように喰種の男は背中から赫子を形成した。

 

「この道は“直線”なんだああ! 直線はヤバイんだよおおお!! ジャマだどけええええ!!」

 

 喰種は錯乱しているのか意味不明な言葉を発しながら赫子を打ち込んで来る。迎え撃つように久遠は踏み込んだ。

 

 赫子とクインケがぶつかり合う。摩擦によって火花が生じる。丸みを帯びた鍔を持つ久遠の槍はうまく赫子の一撃を受け流していた。

 

「ぐぶぅ!」

 

 槍先が喰種の腹に突き刺さる。だが、喰種は血を吐きながらも笑みを浮かべた。

 

「死ねぇ! クソハトがああ!」

 

 腹を貫かれた程度ではまだ致命傷には至らない。喰種は突き刺さった槍を両手で抱え込み、久遠の武器を封じた。

 

 喰種は両手が使えずとも赫子を持っている。生きた触手であるこの武器は一つの形状に固定されたクインケと違い、意のままに動かすことが可能である。

 

 槍によって軌道を逸らされた赫子が、久遠の背後から回り込むように動きを変えた。

 

 しかし、彼に焦りはなかった。久遠は槍の持ち手に取りつけられたスイッチを押した。その瞬間、槍の形状が変化する。

 

「げばっ……!」

 

 それは傘だった。円錐状のヴァンプレイトは傘の骨が開くように一気に広がり、突き刺さった敵の傷口を押し広げる。一瞬にして喰種は上半身と下半身に二分されてしまった。

 

 モチヅキは攻守を使い分ける可変ギミックが組み込まれたクインケである。槍状態の時は刺殺に適し、傘状態の時は敵の攻撃を防ぐ盾となる。

 

 いかに生命力の高い喰種とて、身体を上下に引き裂かれれば生きてはいられない。勝負は決した。

 

「ごほっ、げほっ……ふひゃっ、ひゃははははは!」

 

 だが、喰種はすぐに絶命することはなかった。間もなく死ぬことが確定した命だが、頭を潰されでもしない限り幾ばくかの猶予は残されている。

 

「おまえらはおわりだ。ここでしぬんだよおおお。ひゃははは」

 

「死ぬのはテメェだ」

 

 荒牧は自分が持つクインケを振り上げる。しかし、とどめを刺そうとした荒牧を久遠が止める。

 

「お前は何かから逃げて来たのか? この先に何がいる?」

 

 この喰種のこれまでの行動や発言から予想した久遠だったが、その答えは既にわかっているようなものだ。

 

 ここには喰種しかいない。同種同士の戦いがあったと考えるのが自然だろう。死にゆく喰種の男は残された命を絞り出すように最後の言葉を告げた。

 

「にじゅ、う……よんくの、お、う……」

 

 そこで男は事切れた。

 

「24区の、何?」

 

「おう……王ってことか?」

 

 一つ断っておくことがあるとすれば、地下道に逃げ込んで来る喰種たちもこの巨大な迷宮の全容を知っているわけではない。

 

 先人が掘り進んだ遺跡を利用しているだけである。24区は喰種たちにとっても、半分以上がおとぎ話のような存在だった。

 

 この迷宮の地下深く、誰も足を踏み入れたことのないような闇の底に本当の24区はある。その国は『隻眼の王』に支配されている。

 

 この王がいかなる存在であるかは言い伝えによって異なり、はっきりとしたことはわかっていない。

 

 ただ、もしそんな喰種がいるとすればとてつもなく強大で、彼らにとって畏怖の対象である『隻眼』を持っているのかもしれない。

 

「増援は?」

 

「5班と4班がこちらに向かってるわ。でも、しばらくはかかるわよ」

 

 この場所は探索予定域の末端に位置している。すぐに他の班と連携が取れるような距離ではなかった。

 

 敵の戦力は未知数だ。『24区の王』とは捜査官たちにとって聞いたこともない存在である。死に損ないの喰種が苦し紛れについた嘘かもしれない。

 

 どのように行動すべきか判断に悩んでいた久遠は、ふと妙な風の流れを感じ取った。

 

 行き止まりであるはずの通路の奥に向かってわずかに空気が流れたような気がした。それは産毛の先で辛うじて察したか否かというほど微細な変化である。

 

 

「――伏せろ!」

 

 

 そこから先の行動は、久遠本人にしても何か明確な根拠があってのものではなかった。強いて言えば熟練の捜査官が身体に染み込ませた戦闘勘である。

 

 例えばガラス細工職人が焼き入れしたガラスの色を見て加工に最適な温度をコンマ1の誤差内で見分けるように、久遠は場に流れる空気の違いを感じ取った。

 

 クインケの傘を開き、隊列の先頭に立つ。その直後、猛烈な勢いで黒い雨が地面と平行に降りしきった。

 

 瞬時に『羽赫』の攻撃であることを理解する。このタイプの喰種の赫子は極めて揮発性の高いガス状となり、弾丸のようにRc細胞を遠距離まで射出してくる。

 

 その弱点はガス欠のしやすさだ。圧倒的な速度とリーチの長さを誇るが、すぐに体力を消耗して満足に戦えなくなる。赫子の中でも最高硬度を持つ甲赫のクインケは羽赫を迎え撃つ上で相性がいい。

 

 敵の弾が尽きるまで盾を張り続け耐え忍ぶ。それが対羽赫戦のセオリーだ。その常識が通用しない。

 

 雨の弾丸は一粒食らえば膝が笑い出すほどの衝撃となり、傘を通して久遠の全身を駆け抜けた。

 

 そして雨とは、水滴の粒が空から無数に降り注ぐ現象を指す言葉だ。一発や二発で済むはずがない。

 

「おお、お、おおおおおおああああ!!」

 

 久遠は全力で傘の盾を前方に押していた。一切の余剰なき全身全霊を込めて傘を押し込む。そうでもしなければ逆に押し込まれてしまう。

 

 傘を直撃した雨は地面に滴り落ち、周辺を真っ黒に塗りつぶしていく。飛沫は壁や天井に飛び散り、一分の塗り残しも見当たらないほどに染め上げる。

 

 普通、羽赫が発する弾丸は直撃した時点で破壊の結果だけを残して霧散してしまうものだ。Rc細胞の高速結合サイクルによって瞬間的に非常に高いエネルギーを生み出せるが、その組成は不安定となる。

 

 まるで冠水した道路の如く黒い液体となったRc細胞が足元を流れていく。だが、久遠はもはやそんなことに気を取られている余裕はなかった。

 

 モチヅキは最初の数秒を耐えた時点で壊れていた。弾丸は甲赫の盾を貫通し、何の抵抗もなく久遠の体に穴を空けていく。

 

 もはや盾にすらなっていない。後方の班員たちの無事を振り返って確認する余裕も残されてはいなかった。

 

 それは確認するまでもなく明白だった。とてもではないが、この雨粒の全てをちっぽけな傘の盾で防ぎきれるものではない。確実に被害は後方の全域に及んでいる。

 

 この通路は直線だ。身を隠す遮蔽物も存在しない。

 

 肉体の感覚はとうに消え去っていた。痛みさえなく、まさに冷たい雨に打たれているかのように寒気だけが広がっていく。

 

 意識が働いているのかも定かではない。降りしきる雨音の中で、久遠は壊れた傘を手に立ち続けていた。

 

 どれだけの時間が過ぎ去ったことだろう。それは一時の驟雨に過ぎなかったが、それを受ける当人たちにしてみれば途方もなく長い雨だった。

 

「う、う……」  

 

 雨が止む。すぐに汚水の中から身を起こすことができたのは荒牧だけだった。全身を負傷しながらも何とか一命を取り留めた荒牧は、ただ一人逃げも隠れもせず敵の猛攻を凌ぎ続けた男の背中を視界に収める。

 

「久遠さん!」

 

 それはあり得ない光景だった。敵の攻撃もそうだが、それを受けきってなお堪え抜いた久遠の姿に荒牧は驚嘆する。

 

 これが上等捜査官。かつてないほどの尊敬の念が荒牧の胸にこみ上げてくる。

 

 敵は恐ろしい強さを持った喰種に違いない。だが、荒牧には希望があった。久遠上等と共に戦えば、敵を倒せずとも応援が来るまでは何とか持ちこたえられるはずだ。

 

 そんな希望は、荒牧の目の前で音を立てて崩れ落ちた。久遠は糸が切れた人形のように倒れ伏した。

 

「……久遠さん?」

 

 久遠は死んでいた。死んだまま、立ち続けていた。なぜそんなことができたのか。彼の信念がそうさせたとしか説明できない。

 

 後ろに控えた後輩たちを、苦楽を共にした相棒を守らなければならない。その一心が死してなお彼を二本の脚で立たせていた。

 

「うそだ」

 

 その献身は決して無駄ではなかった。もし彼が早々に倒れてしまっていたなら荒牧の命はなかった。

 

 久遠は弾丸を防ぐ盾にはなれなかったが、弾の的にはなっていた。なかなか倒れない久遠を狙ってか、敵の照準(エイム)は久遠に集中していた。

 

「みんな、死んだ……?」

 

 その前提があった上で、荒牧はとても幸運だった。弾丸は彼の体に深い傷を残しているが、辛うじて致命傷には至っていない。

 

 他の捜査官は全員、流れ弾に当たって絶命していた。

 

「またお前たちは奪うのか……喰種(クズ)が……クズが、クズがクズがクズがああああ!!」

 

 憎悪を抑え込むことはできなかった。たとえ敵わない相手だろうと関係ない。戦闘など到底できるはずもない体で立ち上がり、クインケを手に咆哮する。

 

「あああああああ――あ?」

 

 怒りに燃え、天に向かって吠えた彼はしかし、そこで硬直した。

 

 天井に目があった。見間違うはずもない。その眼は直径が1メートルほどはあろうかという巨大さだった。

 

 いつからそこにあったのだろうか。そんな目玉が一対、黒墨の中に浮かび上がるようにして天井から生えていた。荒牧の胸中に渦巻いていた怒りは一瞬にして別の感情に置き換わる。

 

 これはなんだ。疑問で頭が埋め尽くされる。

 

 目玉の片方だけが出血しているかのように赤く染まっていた。それは荒牧もよく知っている。喰種が持つ『赫眼』だ。

 

 だが、自分が知っているそれと目の前のそれが結びつくことはない。あまりにもかけ離れ過ぎていた。無意識のうちに認めることを拒絶していた。

 

『ハニャ!』

 

 ソレは鳴き声のような音を発した。見た目に全くそぐわない、かわいらしい声だった。その直後、シャットダウンしかけていた荒牧の脳は、痛みによって強制的に再起動させられる。

 

「ぎいいいいいいいい!?」

 

 ずぶずぶと体が沈んでいく。まるで底なし沼だ。しかし床が沈下しているわけではなかった。床面全体に塗りたくられた墨の中に、身体が少しずつ溶かされている。

 

 足先からすりおろされるように地面に吸収されているとも言い換えられる。被弾した傷の痛みが吹き飛ぶほどの拷問だった。

 

 何よりも自分の肉体が徐々に消えていく恐怖に心が堪えられない。荒牧は、これがこの喰種の捕食スタイルであることに気づいた。

 

「たすけてくれえっ!!」

 

 それがわかったからと言って何の救いにもならない。反射的に口から飛び出た命乞いにも意味はない。無駄な抵抗を続けているのは荒牧だけで、他の死体は物言わぬまま静かにインクの中へ取り込まれていた。

 

 もうすぐ死ぬ。全身が溶かし食われるまでもなく、ある時点で生命活動に支障をきたすだけのダメージが発生するだろう。どうせなら痛みを感じる間もないくらい一瞬で殺してくれればいいものを。

 

 死んでおくべきだったと後悔する。運良く生き残ったことが最大の不幸だった。だが頭ではそう思っていても、言葉はいまだに助命を求めていた。

 

「だれか、たすけ……」

 

「はい、助けに来ました」

 

 誰かの声が聞こえた。それと同時に天井の目玉に数本の刃物が突き刺さる。

 

 死にかけの荒牧が目にしたのは一人の捜査官だ。増援が来たのかと思ったが、一人の姿しか見当たらない。

 

「おおっと、これは大物だ! バラしがいがあるぅー!」

 

 鈴屋辻造“三等”捜査官。その人物のことを荒牧は知っていた。嫌でも耳にする名だった。

 

 クインケのナイフが眼球に突き刺さった敵は、特に痛がる様子も見せなかった。潜水艦の浮上を思わせるように、ゆっくりとその全影があらわとなる。

 

 今まではインクの中から目玉だけを覗かせた状態だったのだ。厚さ数ミリの海から引き上げられた、その巨大な怪物の姿は。

 

 まさにイカだった。

 

「ありゃあ。ちょっとこれは、そうだね……お さ し み に しようかな!」

 

 対する人間は全く怯んでいなかった。

 

 



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号泣イカちゃん

コクリアがイカちゃんを収容しないのは勝手だ。けどそうなった場合、誰が代わりにイカちゃんの面倒を見ると思う?




 

 被害報告。

 

 久遠一久上等捜査官 殉職。

 

 木田公子上等捜査官 殉職。

 

 竹内憲明二等捜査官 殉職。

 

 加藤伸次二等捜査官 殉職。

 

 荒牧義信二等捜査官 両脚大腿部以下欠損の他、重軽傷多数。意識不明の重体。

 

 

 

「鈴屋辻造三等捜査官、殉職。彼の勇気ある行動を称え、二階級特進とする」

 

「お前、本当にそうなってもおかしくなかったんだから、少しはそこんところ自覚しときなさいよ」

 

「はいっ!」

 

「返事だけは大変よろしい……」

 

 モグラたたきから一夜が明け、ここは1区のCCG総本部。局内のカフェテリアに二人の男がいた。

 

 一人は色素の薄い髪をした小柄な少年で、中性的な整った容姿だが、顔や首などにいくつもの不気味な縫い痕が残されている。本人曰く、これはボディスティッチというファッションの一つである。

 

 彼の名は鈴屋辻造。そしてその隣の席に座る大柄の男は鈴屋のお目付け役(パートナー)である篠原幸紀特等捜査官だ。ダルマのようなひょうきんな顔をした中年男性である。

 

 鈴屋はいちごパフェを頬張り、篠原はのんびりコーヒーを飲んでいるが、さっきまで丸一日以上ろくな睡眠もとらず現場で捜査に当たっていた。今は交替して休憩中である。

 

 昨晩の24区捜査は予期せぬ異常事態の発生により大荒れとなった。これまでも予想を超える強力な喰種の出現により捜査官が命を落とすことは何件もあったが、今回はレベルが違う。

 

「新たな赫者化個体……それも完全体の発生は『骸拾い』以来か」

 

 遭遇した清掃6班は一人を除いて全員死亡。回収されたレコーダーの映像記録や、鈴屋の証言から当時の凄惨な状況が確認された。

 

 赫者は生まれつき有する赫包とは別にいくつものもタイプが異なる赫包を持つことがあり、普通の喰種のような明確な弱点というものは存在しない。規格外の怪物だ。

 

 映像に一瞬だけ捉えられた敵影は、まるで深海に潜むダイオウイカだった。その巨大な肉体全てが赫子で形成された鎧である。喰種の本体はその中に包み込まれ、守られている。

 

 その形状から識別個体名は『烏賊』と命名された。レートはSS。今後の被害拡大状況によっては最高レートSSS(トリプルエス)認定も危惧されている。

 

 現在、烏賊は逃走中である。24区捜査は依然として継続しており、目下この喰種の行方を追っているが、影も形も捉えられずにいる。

 

「シノハラさん、さすがにあれをやっつけるのは今のボクのクインケでは無理というものですよ。新しいクインケください」

 

「今回のお前の功績が認められて正式に『サソリ1/56』の完品携帯許可が出たぞ」

 

「それ今使ってるヤツですよね!? あのちっこいナイフ!」

 

「お前が倉庫からこっそり盗み出したヤツな」

 

 鈴屋少年が類まれなる戦闘能力を持っていることは確かだが、捜査官としてふさわしい人間性があるかと言われれば甚だ疑問が残るところだ。

 

 今回の捜査でも与えられた命令を無視して自分の班を離れ、単独行動した後に『烏賊』と接触している。

 

 結果的にそれが荒牧二等の命を救うことにつながり、烏賊の情報を持ち帰ることができたため今回は厳重注意で済まされていた。

 

「あの触手とねちょねちょを攻略するためには今の装備じゃ……絶対、エロいことになります」

 

「グロいことにしかならんと思うよ」

 

 新人に持たされる汎用小型クインケでSSレートの喰種に挑むというのは狂気の沙汰だ。棒切れ一本で熊を殺せと言われた方がまだ救いがある。

 

 SSレート討伐任務はCCGの最高戦力たる特等捜査官が数人がかりで対処することを想定している。そもそも新人が本気でこの戦いに加わろうと考えていること自体が頭おかしい。

 

 まずそんな喰種と遭遇して生きて帰って来られたことが奇跡と言えた。その点は対策会議でも散々話し合われていた。

 

 荒牧はもちろんのこと鈴屋についても、殺そうと思えばできたはずだ。だが、烏賊は鈴屋の登場後、まるで恐れをなしたかのように逃走している。

 

 黒い粘液の中を泳ぐように逃げ出したかと思えば、周囲一面に広がっていたその粘液が突如として気化し始め、視界を遮る煙幕となったと言う。

 

 遠距離から確実に弱らせた敵しか捕食対象としていない。鈴屋から不意打ちを受けた際、迷うことなく逃げの一手を取った。このことから極度に用心深く臆病な性格をした喰種ではないかと予想されている。

 

「ヤル気満々で来られるのも嫌だけど、こそこそ逃げ回られるのも厄介だねぇ」

 

「遭ってみて思った個人的な感想なんですけど」

 

「はいよ」

 

「ボクがあのイカちゃんを見つけたときは、なんか食事に夢中って感じだったんですよ。これオイシー! ハッピー! みたいな?」

 

「まあ、喰種ってそういうとこあるよね」

 

「もしかしたら人間食べたの初めてだったんじゃないかなって」

 

 鈴屋は気配を消していたので接近しても気づかれなかった。だが、ナイフを目に食らってもまだ眼中にない様子だったのだ。よほど食事がお気に召したのか、味わうように少しずつ食べているようだった。

 

 喰種の舌は人間の肉を最高の美味として捉えるようにできている。まさか生まれてこの方、人間を食べたことのない喰種がいるとは考えにくい。しかし、あながち鈴屋の見解は否定しきれないところがあった。

 

 この喰種がどこからやってきたのかという疑問は他の捜査官たちも一様に感じている。これほど強大な喰種がノーマークのまま、どのようにして成長していたというのか。

 

 捜査記録に残されている『24区の王』というワードから、この喰種の出自が地下深くにあったのではないかという仮説もあがっている。地下から上層に登るその過程で共食いを繰り返し、赫者化するに至ったのではないかと。

 

「もしそうだとすれば、奴はこれで人間の味を知ったことになる。気合入れてかからんとね」

 

 烏賊が発見されれば特等捜査官である篠原も前線に立つことになるだろう。試作段階だが、対赫者戦を見据えて開発された新兵器を渡されている。

 

 赫子に対抗するため赫子で作られたクインケが生み出されたように、赫者に対して有効な武器とは『赫者』である。クインケの開発技術は新たな時代を迎えようとしていた。

 

 

 * * *

 

 

「はぁ……どうすりゃいいんだ……」

 

 穏やかな午後の一幕。晴れ渡る空に似つかわしくない雰囲気を醸し出しながら男が一人歩いていた。

 

 彼の名は万丈数壱。鍛え上げられた屈強な肉体は体脂肪率10%。しかし喧嘩の勝率2%。痛いのと虫が苦手な24歳だ。

 

 一見してごく普通のチンピラだが、彼の正体は喰種である。赫眼や赫子を発現しなければ喰種も人間も見た目は変わらない。多くの喰種は人間に成りすましながら生活している。

 

「どうすれば……どうすればリゼさんに振り向いてもらえるんだ……」

 

 そして喰種も人間と同じく恋をする。万丈は最近この11区にやってきた新参の女喰種、神代リゼに首ったけだった。

 

 最初は憧れに近い感情だったのかもしれない。リゼはとんでもなく強い喰種だった。他を寄せ付けない圧倒的な強さに惹かれていた。

 

 喰種の中には大人になってもうまく赫子を出せない者がたまにいる。万丈もその一人だ。だから必死に強さを求めて体を鍛えてはいたが、喰種の強さとはやはり赫子あってのものである。

 

 リゼの強さと美しさ、そして周りに縛られない自由奔放な生き様は万丈の目に輝いて見えた。そんな尊敬や憧れが恋慕の情に結び付くまでそう時間はかからなかった。

 

 ただ、万丈以外の喰種から見るとリゼは自分勝手に他人の縄張りを踏み荒らして迷惑も考えず手あたり次第に人間を食い散らかす厄介者である。そんなリゼさんも素敵に見える万丈の目は曇っていた。恋は盲目である。

 

「ミャ~ン! ミャ~ン!」

 

 いかにしてリゼのハートを射止めるか、考えを巡らせながら歩いていた万丈は公園の茂みの方から猫の鳴き声がしていることに気づく。

 

「猫か。リゼさんは猫、好きだろうか」

 

 脳内で猫とたわむれるリゼの姿を想像した万丈はこれだ!と閃いたような顔をして茂みの方へと向かう。

 

 そして植木をかき分けて声のする場所にたどり着いた万丈が見たものは猫ではなかった。

 

「うおっ、お前は……!」

 

 そこにいたのは一人の子供だった。学校の女子生徒のような格好をしているが、何より目に留まるのは顔につけたマスクだろう。

 

 溶接作業時に使うような顔全体を覆う金属製マスクである。明らかに普段着のお供にチョイ足しするようなおしゃれではない。

 

 すぐに万丈は彼女が喰種だと察した。マスクは喰種にとって特別な意味を持つからだ。

 

 人間社会に紛れて生きる喰種は気軽に力をひけらかすことはできない。狩りの際は素性を隠すためにマスクをつけるのが一般的だ。

 

 それは単に顔を隠せればいいというものではなく、喰種としての誇りやアイデンティティを表す装身具でもある。一つの文化と言っていい。

 

 だから各々が個性的なデザインのマスクを用意したり、逆に所属を明確に表すため団体ごとに同じデザインのマスクを使うこともある。

 

 だが、マスクの使い時はやむを得ず喰種として戦う時のみだ。人目に付く場所でこんな格好をしていれば自分は喰種ですと宣伝しているようなものである。

 

 こんなところを捜査官(ハト)にでも見られれば、即職務質問からの任意同行という名の強制連行コンボを食らうことになる。

 

 万丈は念のため同胞かどうかにおいを確かめてみたところ、喰種特有の体臭を感じた。何やら色々なにおいが混じっている気がしたが、おそらく喰種だろうと断定する。

 

「何やってんだ。そんな格好して」

 

「ミャ~ン!」

 

 よく見れば少女は手の中に何かを持っているようだった。それは一杯のイカだった。

 

「なぜイカを……?」

 

 それはこの近くの鮮魚店で売られていたイカだった。商店街を歩いていた少女はその光景を見て凄まじいショックを受ける。思わず店主の目を盗み、イカをかっさらって来たのであった。

 

「もしかして、ペットか? 飼ってたイカが死んじまったのか?」

 

 イカを手に泣きじゃくる少女という光景を見て、それ以外に考えようがなかった。

 

「確かに、仲間の死ってのは悲しいもんだぜ。だが、いつまでも泣いてるわけにはいかねぇ」

 

 喰種はいつ捜査官の手によって屠られるとも知れない生活を送っている。昨日まで元気にしていた知り合いが次の日には惨殺されているような世界を生きている。

 

 それをペットのイカと同列に扱うのもひどい話だが、少女にしてみれば涙を流して悲しむほど辛い別れであったに違いないと万丈は同情した。

 

「よし、俺が墓を作ってやるよ」

 

 見た目はチンピラだが万丈は心優しい兄貴肌の喰種である。その人柄から強さを抜きに彼を慕う喰種も何人かいる。

 

 喰種の腕力でざくざく穴を掘った万丈は、公園の片隅にイカを埋葬した。東京湾で漁師さんが獲ったイカは11区の大地に包まれ安らかに弔われた。

 

 万丈は墓の前で手を合わせ、黙祷をささげる。人を殺して食う血も涙もない鬼だと世間から思われている喰種だが、命を尊ぶ感情がないわけではない。

 

 人間だって牛や豚を殺して食う。生き物は他の生き物を殺しながら生きている。喰種の場合はそれが人間であり、自分の意思でそれ以外の食べ物を選んで食べることができなかった。

 

 喰種は多かれ少なかれ自らの食性に悩み、葛藤しながら生きている。人を殺すことをためらい、自殺者の死体を探し回って食べる者もいる。

 

 この少女も、イカちゃんもまたそうだった。地底からの脱出は容易ではなく、何カ月もの時間がかかった。その道中で多くの喰種を食らった。

 

 それ以外に食べ物がなかったからだ。喰種の飢えは堪えがたい苦しみを伴い、凶暴化して人格が豹変する。

 

 空腹の限界に達したイカちゃんは我を忘れるほどの暴走状態となり、『イカ化』して地下道をさまよった。幸か不幸か、肉を求めて研ぎ澄まされた感覚がパンくずをたどるように地上への正しい道順を教えてくれた。

 

 このとき半喰種となっていた彼女は通常のインクリングとは肉体の作りが変化していた。インクリングならばできて当たり前のイカ化が正常にできなくなり、異常発達したインク袋(赫包)の暴走により赫者化してしまう。

 

 正気を失っていたイカちゃんだが、彼女自身その暴走に身をゆだねていたところがあった。全てはこの薄暗い地底を抜け出すまでの辛抱だと自分に言い聞かせていた。

 

 地上に出さえすれば、そこには自分のよく知るハイカラシティの日常が待っていると信じていた。何の確証もない予想でしかないが、そう信じることしかできなかった。

 

 そして、ついに地上に至る。そこは地底から続く延長線上の世界でしかないことを知る。この現代にインクリングという生物は存在しない。

 

 そのショックは計り知れなかった。生きる目的を見失いかけていた。もし喰種捜査官に見つかっていれば無抵抗のまま捕縛され、収容所(コクリア)送りとなって様々な研究の実験材料にされていただろう。

 

 しかし、イカちゃんは捜査官よりも先に喰種と出会う。作業を終えた万丈は墓前で手を合わせていた。彼の言動の意味はイカちゃんにとって理解できない部分がほとんどだ。しかし、伝わるものは確かにあった。

 

「お、ようやく泣き止んだみたいだな。お前この辺りじゃ見ない子供だが、どっから来たんだ?」

 

 万丈は話しかけたが、イカ語しか話せないイカちゃんとは会話にならなかった。

 

「もしかしてお前、外国人か? すまんが俺は学校出てなくてな……エーゴはわからねぇんだ」

 

 喰種はまともな戸籍を持っていない者が多く、学校に通えないことの方が普通だった。日本語からして、万丈は自分の名前しか書けない。

 

「リゼさんなら頭が良いからエーゴが話せるかもしれねぇ……って、お前なんだその体!? よく見りゃぐにゃぐにゃじゃねぇか!」

 

 インクリングには骨がない。全身ぷにゃぷにゃの軟体生物である。

 

「これは……エイヨウシッチョーだな。俺も子供の頃は肉だけじゃなくちゃんと骨まで食えと怒られたぜ。たぶん骨を食えば治るはずだ。……たぶんな……」

 

 かわいそうにろくな飯を食べていなかったのだろうと思い込んだ万丈は、この身元不明の子供喰種をとりあえず保護することにした。イカちゃんは万丈に手を引かれるまま、その後をついて行った。

 

 

 

 

 





万丈「俺の名前は万丈数壱だ。さあ、俺に続いて言ってみろ。バンジョウ!」

イカ「ハニャ? パンチョイミ?」

万丈「ちげーぜ! バンジョウ! バ!」

イカ「ピャ!」

万丈「ン!」

イカ「ンニュ!」

万丈「ジョ!」

イカ「チョ!」

万丈「ウ!」

イカ「ンニュ!」

万丈「バンジョウ!」

??「ムッシュ・バンジョイ!」

万丈「どちら様だァ!?」


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投入イカちゃん


もしも公園で泣いているイカちゃんが万丈以外に保護されていたら……


トーカの場合
「ニャーニャーうっさいんだよ!」ナデナデ♥

ヨモさんの場合
「……………」ナデナデ♥

真戸呉緒の場合
「お前はいい材料になりそうだ」ナデナデ♥

亜門鋼太郎の場合
「いいんだな!? 喰種でいいんだな!?」ナデナデ♥





 

 喰種には喰種の掟がある。欲望のままに人を殺して食らっていては、いずれ捜査官に目を付けられ殺される。警戒態勢が敷かれれば、その地域に住む全ての喰種が危険にさらされてしまう。

 

 適度な殺人頻度、食料の分配、狩場の管理。互いに助け合いながら生きていく上で必要なルールは存在する。

 

 1区から3区などはこのルールが緩く、弱い喰種は基本的に住むこともままならない弱肉強食の地域だ。それに比べればここ11区は規則こそ多いがそれなりに安全な地域である。

 

 11区を治めるリーダーはハギという名の喰種で、顔に大きな傷跡のある男だ。その傷を隠すようにフードを真深にかぶっていた。

 

「では今月の定例会を始める」

 

 ハギの招集を受けてこの地区の班長たちが集まっていた。その人数は全部で7人だ。その中には万丈の姿もあった。

 

 そしてリゼもこの場に呼び出されている。彼女はどこの班にも属せず、一匹狼を貫いていた。ハギは開口一番、リゼを問い詰める。

 

「リゼ、このひと月で何人喰った?」

 

「さあ、いくつだったかしら」

 

 リゼは目に余る大喰いだった。今月に入り、発覚しているだけでも4人。彼女による仕業と疑われる殺人は11件にも及んでいた。

 

 喰種の食事は本来、月に一人程度で事足りるものだ。リゼの食事は明らかに度を越えている。

 

 さらに悪びれる様子もなく他の喰種たちの『喰場』を荒らし、殺人現場の後片付けまでやらせている。いくつもの規則を平気で破っていた。

 

 この調子で食事が続けば捜査官が本腰を入れてくるのも時間の問題だった。そうなれば、他の喰種はさらに狩りがしにくくなる。

 

「新参者とはいえ、ここにはここのルールがある。守れないようなら他所へ行け」

 

「……ごめんなさい」

 

 リゼは表面上は反省しているように装っているが、ハギは全く彼女を信用していなかった。

 

 しかし、リゼの喰種としての強さは侮れないものがある。有事の際の戦力として手元に置いておきたいと思う一方で、懐柔できないようなら追放もやむ無しと考えていた。

 

「ハギさん、神代もまだここでの暮らしに慣れてないんスよ。幸い、まだ捜査官も動き出してないみたいだし、そこまで追い詰めなくても……」

 

 万丈がリゼをフォローするが、それによって議題の矛先は彼へと向けられる。

 

「万丈、最近お前が得体の知れない生きモンを飼い始めたと噂になってるぞ。喰種でも人間でもない何かを」

 

「いや、イカ子は悪い奴じゃ……」

 

「研究所から逃げ出したCCGの実験体とかいう話も聞く。とにかく今はリゼのせいで11区全体が危うい状況にある。目立つ行動は控えろ」

 

「す、すんません」

 

 CCGの喰種収容所に一度捕まった囚人が脱走できるはずはないので、根も葉もない噂であることは明白なのだが、そんな噂が立つほど怪しげに思われているということだろう。

 

 普段のハギならここまで重箱の隅を突くような注意をしてくることはないのだが、リゼの件で相当に気が立っているようだった。居心地の悪い雰囲気の中、会合は進行した。

 

 

 * * *

 

 

「万丈さん、帰り遅いね」

 

「リゼさんのとこに寄ってるんでしょ」

 

 ところ変わってここは万丈一味のアジトである。と言っても、住人が喰種である点を除けば至って普通のボロい借家である。

 

 一応はこの区の喰種まとめ役の一人である万丈のもとには、現在4人の子分がいた。イチミ、ジロ、サンテ、そしてイカ子の4名である。

 

 身寄りのないイカちゃんはあれから正式に万丈が引き取ることに決まった。仮の名前として万丈が『イカ子』と命名する。本人はともかく周囲からあんまりなネーミングセンスだと不評を集めたが、使われているうちに慣れたのか今ではすっかり定着している。

 

 相変わらず言葉は通じない。人間や喰種と、インクリングの発声器官の構造はかなり異なっているため、同じように発音することからして困難だった。

 

 しかし、身振り手振りや表情である程度のコミュニケーションは取れた。イカちゃんは洗濯と風呂に入ること以外は素直に皆の言うことを聞いていた。

 

 インクに潜るのならともかく、インクリングには好んで全身を真水に浸す習慣がない。風呂嫌いの猫のごとく逃げるイカちゃんをジロたちは捕まえようとしたが、ぬるぬる滑って捕獲できない。猫と言うよりはウナギだった。

 

 洗濯も駄目だ。(ギア)に染み込んだ体液が洗い流されると強化効果(ギアパワー)まで落ちてしまう。インクリングはお気に入りのギアほどクリーニングはしないものだ。だからずっと同じ服を着ていた。

 

 イカちゃんはその二つを除けば基本的に良い子である。今日も、他の三人と一緒に内職に励んでいる。

 

「今月の『在区費』もギリギリだったね……」

 

 11区には数々のルールがある。『他人の喰場を荒らさない』『ひと月に狩る人間の数はひとりまで』『喰場に喰種の痕跡を残さない』と色々だが、これらは他の区でも当たり前に敷かれている規則である。

 

 食事に気を遣うことは仕方がないが、この区にはそれ以外に重くのしかかるルールがあった。それが月の終わりに支払う『在区費』の存在だ。

 

 この区に住む喰種には一人当たり4万円、年48万円の支払い義務がある。これを多いと見るか、適切な額と見るかは立場によって異なるだろう。

 

 人間社会に潜む以上、喰種も経済活動と無縁ではいられない。身分証明、各種身体検査の偽装や殺人現場の証拠隠滅など、潜むからこそ必要となる経費は多額に上る。

 

 11区リーダーであるハギは慈善事業でこの区の管理を背負い込んでいるわけではなかった。徴収する在区費には必要最低限の経費に加えてもしもの時のプール金や彼個人の報酬も含まれている。

 

「まあ、リーダーの仕事もタダ働きじゃ大変だろうから仕方ないんだろうけどさ……経費の内訳がどうなってるのか教えてくれないところが、なんかね……」

 

 今はみんなで内職をやっている最中だった。真っ新な身分のある喰種が引き受けた仕事をさらに下請けする形で回してもらっている。

 

 小学校にも通っていないような喰種が働ける職場は限られていた。まず戸籍を持っていなければ申し込むことすらできない。必要書類に履歴書だけでなく喰種検査の診断書の同封が義務づけられている世の中だ。

 

 在区費の負担だけではなく、家賃や水道光熱費、食費も捻出しなければならない。人間だけしか食べられないので食費はかからない、というわけにはいかないのだ。

 

 普通の人間が生活しているように“見せかける”必要があった。喰種であると周辺住民に疑われるわけにはいかないのだ。出す必要のない家庭ゴミをわざわざ作って偽装工作もしなければならない。

 

 現在、万丈一味の全員分の在区費は月20万にもなる。イカちゃんが増えたことでさらに負担も増した。その大部分は万丈が工事現場の仕事で稼いでいる。

 

 そこの土建業の社長が喰種らしく、そのコネで雇ってもらえたようだ。このように喰種が事業主をやっている店や中小企業も存在するが、だからと言って安全に働けるとも限らない。摘発されれば芋づる式に職場の喰種が調べ上げられてしまう。

 

 多くの仕事は人と人とのつながりの上に成り立っている。1円でも金を稼ぐことは常にリスクと隣り合わせだ。

 

 喰種の中には人殺しのついでに家に上がり込み、金品を強盗していく者もいる。そちらの方が多数だろう。仕事をして稼ごうとするよりは遥かに楽に金が手に入る。

 

 だが、中には食事以外の目的で殺しをすべきではないと心に決めている喰種もいる。万丈もその一人だった。殺人という大罪を犯しながら何をいまさら躊躇するのかと笑われようと、心のどこかに線引きは必要だった。

 

 「このくらい許されるだろう」と、どこまでも妥協してしまえば、どこまでも深い悪へと際限なく落ちてしまう。他人から見れば滑稽だろうと守るべき基準を持たなくてはならない。

 

 その考えを他の皆も受け入れていた。だからこうしてみんなでちまちま内職の造花を作る作業も決して無駄ではないのだ。

 

「だあー! 目がしぱしぱしてきた……休憩しよう」

 

「もー、今日のノルマ終わらねぇって。ほらイカちゃんもまだ頑張ってるよ」

 

 イカちゃんは造花作りに集中していた。お嬢様だったイカちゃんだが、実はバイトの経験がある。漁船に乗って大量のシャケをシバキ回す過酷な肉体労働をハードスケジュールでこなしていた時期もあった。

 

 ただし、集中するときはひたすら集中するが、飽きたらすぐ寝てしまうのでいつも真面目というわけではない。そのあたりは一般的なインクリングと同じく熱しやすく冷めやすい性格をしている。

 

 休憩を訴えたジロはイカちゃんを抱き寄せて畳の上に寝転がる。まだその状態になっても造花を手放さないイカちゃんのほっぺにジロは頬ずりしている。

 

「あ゛ぁ゛~、このひんやりもちもち触感、癒される~」

 

「お前なぁ、ちょっと……そこ代われや」

 

「だめです。男子はおさわり禁止です。ねー、イカちゃん」

 

「マンメンミ」

 

 今でこそイカちゃんは万丈一味のペット的なポジションになりつつあるが、もともと万丈の傘下にいた三人組は当初、この奇妙な新入りに戸惑いを隠せなかった。とりあえず見た目は可愛くはあるが、喰種なのかどうかもわからない謎の生物である。

 

 しかし、万丈が連れて来た子なら大丈夫だろうという彼に対する信頼によってイカちゃんは受け入れられた。最初こそぎこちないやり取りしかできなかったが、今では万丈一味の一員として馴染んでいる。

 

「……しっ、誰か来たぞ」

 

 ジロたちがじゃれ合っていたそのとき、サンテが家に近づいてくる足音を聞き取った。喰種の感覚は総じて人間よりも鋭い。

 

 主に嗅覚が発達しており、個体差は大きいがその他の感覚に関しても鋭敏である。万丈の足音であればサンテがこのような注意を促す言い方はしない。

 

 それまでの緩んだ空気が一変し、イカちゃんを除く誰もがいつでも逃げ出せるように態勢を整えていた。常に人の目を警戒しながら生きる習慣が幼いころから染みついている彼らにとっては、もはや苦にも感じない反応だった。

 

 日中、この家を訪れてくる人間はあまりいない。いつものように居留守を決め込んでいると玄関の戸を叩く物音が聞こえてきた。

 

「おい、俺だ。落井だ。いるんだろ?」

 

 それは知った声だった。どうするかと三人組は顔を見合わせた後、イチミが玄関に向かう。

 

「……どうしたんスか、落井さん」

 

「ちょっと話があってな。邪魔するぜ」

 

 無遠慮に上がり込んできた男は、頭の禿げた中年喰種だった。汗ばんだランニングシャツ姿で清潔感はない。知り合いではあるがそれほど付き合いもない男だった。

 

 落井は1年ほど前に11区にやってきた。一時は万丈が世話を焼いていたのだが、そりが合わず別の班に移っていた。

 

 年上という理由だけですぐに偉そうにするし、働く気がまるでない。鬱屈した表情を隠そうともしない辛気臭い喰種だった。

 

 正直、関わり合いになりたくはなかったが、用件を聞かずに追い返すこともできない。居間に通してイチミとサンテが応対した。イカちゃんとジロは奥の部屋に控えている。

 

「実はな……俺はこの区を出て行こうと思ってる」

 

「はぁ……」

 

 別に珍しい話ではなかった。ハギのスタンスは来る者拒まず、去る者追わずだ。喰種が出て行けば在区費の収入は減るが、その分管理もしやすくなり区全体の食い扶持も増える。そんな管理体制が見え透いており、暮らしにくく感じている喰種は少なくなかった。

 

「別に在区費が払えなくなったわけじゃない。だが、ハギのやり方が気に食わねぇ。あいつは俺たちから集めた金で私腹を肥やして豪遊してるらしい」

 

 真偽のほどはともかくそういう噂を聞くことはあった。だが、誰もハギに逆らうことはできない。区のリーダーを任されるということは相応の強さを持つ喰種である。文句があるなら出ていくしかなかった。

 

「反吐が出るぜ。これが許せるか? お前らもそう思うだろ? 他の区の方がまだマシだ。俺は色々な区をまたいで来たからわかる。どうだ、俺と一緒にここを出て行かないか?」

  

 ハギの支配は確かに住みにくく感じるところはあるが、裏を返せば統治が行き届いている証でもある。リーダーがまともに機能していない区では喰種同士の衝突も横行し、ひどいところでは共食いまで発生することがあるという。

 

 規律がなければ喰種たちは縄張りである喰場の奪い合いを必ず起こす。それを調整するためにはトップに立ち、まとめ上げるリーダーは必要なのだ。捜査官たちの目を盗み、時には対抗措置を講じる手腕も求められる難しい立場だ。

 

 それを考えればまだ11区は、金さえ払えるなら弱い喰種でも安定して住むことができる地域である。

 

「すみませんが、俺らは万丈さんの子分なのでついて行くことはできません」

 

 11区の現状は別としても、落井の提案に乗る気はさらさらなかった。なぜわざわざこんな話をしに来たのか、落井の真意もわからない。何か裏があるような気がしてならなかった。

 

「ふん……万丈か。聞いた話じゃ、赫子も出せない“出来損ない”らしいな。まあ、そんな雑魚に付き従ってる時点でお前たちの程度も知れる。弱者は搾取されながらみじめに生きるしかないな」

 

「今、なんつったテメェ」

 

 イチミが怒りの声をあげた。自分たちが馬鹿にされるだけなら我慢できるが、万丈に対する侮辱は看過できなかった。

 

「なんだこの程度でキレるのか……最近の若者はまったく……」

 

「喧嘩売りに来たんなら最初からそう言えや、ハゲ」

 

「ハゲッ!? 俺はハゲてねぇ! ちょっと薄毛なだけだ!」

 

 激昂した落井はいきなり赫子を形成し、有無を言わさずイチミたちに叩きつけてきた。

 

「ぐぅっ! マジでドンパチやらかす気かよ……!」

 

 イチミとサンテは赫子を使って横殴りの一撃を何とか防御する。万丈と違い、彼らは赫子を使うことができた。戦闘力は普通に万丈より上だ。

 

「ほう、少しはやるようだな。だが所詮は世間知らずのガキだ。よく聞け、この世の全てには周期(サイクル)がある」

 

「な、なにを言っている」

 

「Rc細胞が『形成期』『定着期』『崩壊期』という周期を繰り返すことで力を発揮するように、全ての細胞に周期は存在する」

 

 それまでのうらぶれた中年男の様子は一変していた。竜の尾のように鋭い鱗で覆われた赫子を操るその姿には、戦士の風格が宿っていた。

 

「全ての細胞、つまりそれは……毛髪についても言えることだ」

 

 頭髪の数は一般的に10万本にも及ぶとされ、健康体でも一日のうちに100本近い数の毛が抜け落ちている。多いように感じるが、気づかないだけで抜けているのだ。

 

 抜けてはいるがそれ以上に他の髪が伸びてもいるため、頭髪全体の毛量は一定に保たれている。このように体毛には生え始めてから抜けるまでの周期が存在する。

 

 成長期、退行期、休止期を経て髪は毛根から抜け落ち、また新たに成長期を迎えた髪が生えてくる。しかし男性の場合、加齢とともに男性ホルモンの影響によってこの周期がどんどん短縮されてしまう。

 

 そのため髪が伸び始めた頃には休止期を迎えてしまい、毛が育ち切らないうちに抜け落ちてしまうのである。これが薄毛の原因である。

 

「ここまで話せばお前たちにもわかるだろう。つまり、俺の毛根はまだ死んではいない」

 

 単に周期が早まっているだけだ。髪が全く生えなくなったわけではない。まだ落井の頭には可能性が残されている。

 

「こいつ……まだ髪の話してる!」

 

「どうでもいいわ! このハゲが!」

 

 真剣に聞くべき話ではなかったことに気づいたイチミたち。浴びせられる罵声に落井の怒りは頂点に達した。

 

「一度ならず二度までも俺をハゲ呼ばわりしたな……許さねぇ……絶対許さねぇ……!」

 

 血走る赫眼を見開いて落井は赫子を繰り出した。イチミは逃げることなくあえて突撃することで威力が乗る前に敵の攻撃を封じにかかる。

 

「ぜつ!」

 

 腰のあたりから形成された落井の赫子。そのタイプは『鱗赫』である。その鱗は破壊力を最大限に引き出す構造を取り、一撃の威力に重きを置く。

 

 受け止めたイチミの赫子はヤスリに削り取られるように破損していた。しかし、落井の攻撃の手は止まる。サンテはその好機を見逃さなかった。

 

「ゆる!」

 

 隙を突いて振るわれたサンテの赫子だったが、それは落井の“二本目”の赫子で防がれた。複数の赫子を形成できる喰種もしばしば存在する。

 

 だが、そこで廊下の影に潜んでいたジロが飛び出した。戦闘が始まった当初から攻撃の機をうかがっていたのだ。

 

「あま!」

 

 そのジロの不意打ちも落井には通用しなかった。もとより敵が三人組での連携を得意とすることは知った上でここに来ている。

 

 落井は自分の赫子を支えにして宙に身をひるがえし、ジロの赫子をかわす。その俊敏な動きは明らかに戦い慣れた者の身のこなしだった。

 

 空中で体を回転させた落井は、まるで竜巻のように二本の赫子を振り回した。螺旋状の破壊痕が部屋中に刻まれていく。その渦中にいる三人組もただではすまず、弾き飛ばされる。

 

「家壊すんじゃねーよ!」

  

「こいつ意外に強いぞ!?」

 

「俺の武勇伝は散々聞かせてやっただろう。嘘だと思っていたのか?」

 

 落井はかつて捜査官とも戦った経験を持つ凶悪な喰種だった。『ポテトマッシャー』の異名を持ち、Aレートに指定されている。三人組が相手にするには少し厳しい敵だった。

 

「最初に俺が言った、この区を出ていくって話も本当だぜ。だがよ、今ちょっと金がなくてなぁ。パチンコですっちまったんだ。引っ越しするにも先立つモンが何かと要るだろ? この意味、わかるか?」

 

「……まさか、金が目的でここに来たのか?」

 

「今は大食い女のせいで人間を襲いにくい。警察連中が嗅ぎまわってるからな。だが、お前たちなら警察沙汰を心配する必要はない」

 

 喰種がCCGともつながりのある警察に被害届を出すわけにはいかない。強盗されたところで泣き寝入りするしかないだろう。

 

「おとなしく金を出せばさっきの暴言については水に流してやる。拒めばどうなるか、わかってるな?」

 

「……」

 

 落井は万丈一味があくせく働いていることを知っていた。彼らがたんまり貯蓄しているものとばかり思っている。ついでに言えばハゲ呼ばわりしたことを許す気は毛頭なく、金の在り処を吐かせた後は全員始末するつもりだった。

 

 実際は貯金などろくにない。戦闘が避けられないことは火を見るよりも明らかだった。三人組は顔を見合わせる。

 

 確かに一人一人の力では落井に及ばないが、彼らの強みは三人そろっての連携にある。万丈に留守を任された身として引き下がるわけにはいかなかった。

 

「いくぞ!」

「おう!」

「うん!」

「ハニャ!」

 

 返事がいつもより一人分多かった。ジロが奥に隠していたイカちゃんが出てきてしまったのだ。

 

「イカちゃん!?」

 

 何となく落井が敵であることはイカちゃんにもわかる。その小さな手からサッカーボール大の物体が投げ放たれた。

 

「なんだこりゃ」

 

 それは丸っこいフォルムをした緑色のロボットだった。ヒヨコのようにとてとてと歩き、落井の方へ近づいていく。ナワバリバトルにおける混戦時の強い味方、サブウェポンだ。

 

 イカたちが使うブキには『メイン』と『サブ』の構成が決められている。イカちゃんが使っている『ハイドラント』であれば、セットされているサブウェポンは『ロボットボム』だ。通称『ロボム』。

 

 手投げ爆弾の一種と考えてよい。着地点から一定範囲内に存在する敵の位置を察知し、地上を歩行して自動追尾した後、爆発する。

 

 言葉で説明するとすごそうだが、他に優秀な性能を持つボム系サブが多く存在するため、いまいちぱっとしない扱いを受けている。

 

 落井はよちよちと向かって来るロボムを赫子で叩き潰した。赫子の防御すら削り取る鱗赫の一撃を受けたロボムは床にめり込む。しかし、破壊したかに思われたその物体は傷一つない状態のまま起き上がった。

 

「な、なんだこの硬さは……」

 

 落井の脳裏にある噂が思い浮かぶ。赫子の扱いに長けた喰種の中には、赫子を肉体から分離した状態で操る者がいるという。

 

 分離型の赫子は決められた命令通りに行動する。これを使って強力な罠を張り巡らせる喰種もいると聞く。

 

 まさか目の前の物体がそれではないかと警戒を高めたが、既に遅かった。ロボムの目に位置するランプが赤く光り始め、それまでの鈍さが嘘に思えるほど俊敏な動きで落井に急接近していく。

 

 もともとのロボムの性能であればこれほど素早く動くことはできない。心なしか、そのセンサーランプの赤い輝きは喰種の赫眼を彷彿とさせた。

 

 半喰種化したイカちゃんの変化に影響を受けたのか、ブキやサブの性能も大きく変更されていた。通常であればあり得ないほど殺傷能力が高められている。ブキの構成情報に組み込まれた安全装置が完全に破壊されていた。

 

 その機械的なロボムの形状は喰種特有の赫子というより捜査官が使うクインケに近いフォルムをしていた。無意識の内に、落井は過去に戦った捜査官の記憶がよみがえり恐怖に囚われる。

 

「ひぃっ、く、くるな――」

 

 制止の声に応えるはずもない。ロボムは落井の懐に飛び込むと同時に爆発した。落井の体は手足の末端を残して木っ端微塵に破壊されていた。

 

 疑う余地もなく即死。ペースト状にされた肉片が黒墨のインクと混ざりあって爆散し、壁や床を破壊しながら死を彩るアートを描きあげていた。

 

「ス、スゲェ……イカちゃん、スゲェけど……い、家が……」

 

 家は万丈がこの後滅茶苦茶修繕した。

 

 






シアーハートロボッムに『弱点』はない……




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怪獣イカちゃん

 

 イカちゃんが万丈に拾われてから早数か月が経った。万丈は11区のリーダーとなっていた。

 

 前リーダーだったハギは死んだ。ハギの注意を無視したリゼの大量捕食によってCCGは11区の捜査体制を大幅に強化。これにより担当捜査官が本部より増員され、隠れ潜んでいた多くの喰種が駆除された。

 

 親しくしていた仲間を殺され、ハギは怒り心頭で原因を生み出したリゼを襲撃したが、返り討ちに遭って殺された。そのとき一緒にハギの側近たちも屠られてしまったので、11区における旧統治体制は完全に崩壊する。

 

 当のリゼはと言うと、我関せずとばかりに他区へ移住してしまった。そのとき万丈に新しいリーダーとなるよう薦めたのは彼女である。

 

 リゼからすれば、たまたまその場に居合わせた万丈に面倒を押し付けようとしただけのことだったが、万丈はこれをリゼから託された試練と受け止めた。

 

 はっきり言って今回の一件において誰が一番悪いかと言えばリゼであり、それは万丈も理解していた。しかし、人を喰わずにはいられないのが喰種のさがだ。普通の喰種であれば一人で腹が満たされるところ、リゼは十人もそれ以上も必要だった。

 

 惚れた男の弱みである。万丈はリゼをかばい、その期待に応えるべくリーダーという大役を引き受けた。

 

 歴代のリーダーたちと比べれば万丈は最弱の喰種だったが、ハギの統治に嫌気が差していた他の喰種はそれほど批判の声もあげなかった。他に名乗りをあげる者がいなかったという理由もある。

 

 今の11区の現状を考えれば貧乏くじと言わざるを得ない。何か事件を起こせばすぐに捜査官が飛んでくる警戒態勢が敷かれている。まともに狩りをすることもできない。

 

「いつまでこんな状況が続くんだ!」

 

「腹が減った……ニク……ニク……」

 

 既に多くの犠牲者が出ている。家族や友人を殺された喰種には復讐に駆られて捜査官に挑もうとする者もいた。万丈は必死に説得して彼らを押しとどめている。

 

 もともとこの地区の警備を担当している局員捜査官程度であればまだ何とかなる。彼らの装備はQバレットと呼ばれる赫子を溶かして作った銃弾だ。危険ではあるが、数人で袋叩きにすれば対処できる。

 

 だが、本部から派遣された喰種捜査官はキャリアも装備も別格だ。クインケの所持を許可された喰種の死刑執行人である。出遭えばまず助からない。

 

 仮に運よく倒すことができたとしても、そうなればこの地区の危険度はさらに高く設定され、もっと多くの捜査官が本部からやって来ることになる。警戒態勢の解除も先延ばしになる。息を潜めてほとぼりが冷めるのを待つしかなった。

 

「堪えてくれ! 今は堪え忍ぶしかない!」

 

 住処を捨てて他区へ移った喰種もたくさんいる。移住した喰種が新たに生活基盤を築き上げるまでには時間がかかる。他所には他所の喰場があり、流れ者は肩身の狭い思いをしなければならない。全ての喰種がリゼのように振舞えるわけではなかった。

 

 それでも今の11区よりはマシだ。今は一時的に他所に移り、警戒態勢が解かれれば戻って来ようと考えている者が多かった。残されたのは本当に行き場のない弱い喰種たちだけだ。

 

 現状ではハギが貯蔵していた食料を少しずつ配給しているが、その貯えも限界が見え始めていた。依然として捜査官たちが手を緩める気配はない。辛抱できなくなった喰種が顔を出すのを待っているのだ。

 

「もうこの区はおしまいだ。俺たちみんな殺されるんだ……」

 

「諦めるんじゃねぇ。何とかなる。何とかしてみせる」

 

 だが、万丈は希望を捨てず仲間を励まし続けた。時にはリーダーとして責任を取れと非難を受けることもあった。万丈に非はないとわかっていてもどこかに怒りをぶつけずにはいられない精神状態に追い込まれている。

 

 その非難に、万丈は頭を下げて謝った。それは力強く群れを率いる従来のリーダーの姿ではなかった。万丈は赫子も出せず、戦う力に欠けた喰種だ。

 

 だからこそ弱者の意見に寄り添い、同じ目線に立つことができた。同じ苦境を分かち合うことができた。いつしか信頼を集めた万丈は本当の意味で11区のリーダーとして認められるようになっていた。

 

 この世の終わりのような絶望感は漂っているが、こんなことは今までも喰種の歴史の中で幾度となく繰り返してきたことだ。喰種と人間の攻防は遥か昔から続いている。

 

 今に始まったことではない。何度駆逐されようと喰種は絶えず命をつないできた。過去にも乗り越えてきた試練である。今度もきっと乗り越えられる。そう信じて結束を高めた。その矢先のことだった。

 

「リーダー、大変だ! ハトと派手に戦ってる喰種がいる!」

 

「なんだと!?」

 

 それは自分たちの仲間ではなかった。どこからか現れた喰種たちが捜査官を相手に戦いを仕掛けているという。他所の区からやって来たことだけは間違いない。

 

 その喰種たちは全員が同じドクロのマスクをつけていた。何らかの集団を成しているものと思われるが、正体も目的も全くの不明だった。

 

 何にしてもやめさせなければならなかった。ここで鎮静化しかけてきた火種を再燃させられてはこれまでの苦労が水の泡となる。

 

 万丈は戦える者を引き連れて現場へ向かった。子供や非力な者たちは安全な場所に残してきた。その中にはイカちゃんも含まれている。

 

 イカちゃんが強力な赫子を使えることは聞いていた万丈だったが、彼にとってイカちゃんはまだ保護すべき子供だった。言葉も通じず、事情もわからないであろう少女を戦場に連れて行くわけにはいかない。

 

 現場へと急行した万丈たちは凄惨な光景を目の当たりにする。まるで人目をはばかることなく戦闘を繰り広げていた。

 

「何をやっている!? やめろ!」

 

 既に捜査官と思われる人間は息絶えていた。四肢を引き裂かれ、無惨に拷問された形跡がある。最大の敗因は数の差だろう。集まった喰種たちは捜査官一人に処理できる数を優に超えていた。

 

 ただし、喰種側も被害が出ていないわけではない。捜査官に殺された者が何人かいるようだった。だが、犠牲者の死を嘆く喰種は一人もいなかった。

 

 全く気にする様子もなく仲間の死体を放置している。その異様な光景に息をのむ万丈たちへ、ドクロマスクの集団の一人が言葉を投げかけた。

 

「11区の喰種か? 我々は『アオギリの樹』だ。お前たちを救いに来た。見ろ、憎きハトを殺してやったぞ。もう少し早く来れば無様な死にざまを見せてやれたのだがな」

 

「余計な世話だ! 一人や二人ハトを殺したところでそれが何になる!? 自分たちの首を絞めるだけだとわからねぇのか!」

 

「おお! なんということだ! 命を賭して戦った我々を責めるとは恩知らずにもほどがある。これは粛清する必要があるな……」

 

 『アオギリ』はケタケタと狂い笑う。彼らの標的は捜査官から万丈たちへと移っていた。人間も喰種も関係ない。逆らう者には容赦なく鉄槌を下す。

 

 その戦意を感じ取った万丈らは、これ以上話し合いの余地がないことを悟る。万丈は、この区のリーダーとして戦う道を選んだ。

 

 事態を終息させるにはアオギリの樹を黙らせる他にない。その数は多く、中には戦闘力の高い個体もいるだろう。正面からぶつかれば万丈たちも無事では済まない。

 

 それでもここで退くわけにはいかなかった。この狂人集団の言いなりになるわけにはいかない。後ろに残して来た者たちのためにも踏ん張らなければならない。

 

 雄たけびをあげて万丈らは突撃した。彼らはまだ『アオギリ』の全容を知らない。ここにいる構成員の数は、その氷山の一角に過ぎないことを。

 

 その幹部たちの強さが軒並みSレートを超えていることを。

 

 そしてもう一つ、万丈らが知り得ない情報がある。安全地帯に置いて来たはずのイカちゃんが外へと抜け出していた。

 

 出陣する万丈たちの様子にいつもと違う気配を感じたからだ。言葉はわからないが、わからないからこそわずかな雰囲気の違いに敏感だった。

 

 何かただならぬことが起きているのではないかと感じたイカちゃんは、血の臭いを頼りに万丈の後を追っていた。

 

 

 * * *

 

 

 戦闘はあっけなく終了した。11区の残りかすのような戦力では太刀打ちできず、万丈たちは敗北を喫した。アオギリの構成員は、ボスから喰種は殺すなと命令されていたため万丈らはまだ生かされていた。

 

「くそっ、このガキども……暴れやがって!」

 

 11区の戦力において最も奮闘した者は万丈一味の三人組だった。巧みな連携で敵を翻弄するも、戦局を覆すには至らず。苛立ったアオギリの戦闘員によりリンチを加えられようとしていた。それをかばうように万丈が身を乗り出す。

 

「ぐあっ!」

 

「万丈さん!」

 

 その仕打ちに敗者は黙して堪えるしかない。万丈はひたすらに己の弱さを恨んでいた。仲間の一人も守り切れない情けなさに、ただ憤っていた。

 

 蹴られながらうずくまる万丈のもとに一つの足音が近づいてくる。そこでリンチは終わった。恐る恐る顔を上げた万丈の目の前には一人の男が立っていた。

 

「遅ぇ。いつまで遊んでんだよ」

 

「す、すみませんボス……」

 

 まだ少年と呼べるくらいのあどけなさが残る男だったが、その殺気は刺すように剣呑だった。それまで息巻いていた戦闘員が皆、尻尾を丸めた犬のように押し黙る。

 

 万丈はこの男がアオギリのトップかと思ったが、彼は幹部の一人である。その名は霧島絢都と言った。

 

 霧島はまだCCGからマークされていない喰種であり、現段階ではレートも定まっていない。だが、それは彼が弱いからという理由では当然なかった。

 

 強い喰種ほど殺人に遊びが入り、現場に残した赫子の痕跡をたどられやすいものだが、彼の場合は他の喰種と比べれば殺し方が綺麗だった。

 

 万丈は痛む体を起こした。くちゃくちゃと“ガム”を噛みながら見下ろす霧島の前に這いつくばる。その体勢は土下座だった。

 

「そっちの目的は知らねぇが……盾突いたことは謝る! 俺はこの11区のリーダーだ! 全ての責任は俺にある! だから……他の奴らのことは見逃してやってくれ!」

 

 もう万丈にできることはこれしかなかった。決死の謝罪。それを見た霧島は片足をあげると万丈の後頭部を踏みつけ、思いっきり地面に叩きつけた。

 

「万丈さん!!」

 

「その弱さでリーダー? 笑わせんな。本当に仲間を助けたいんならくだらないかばい立てなんかせず、本当のリーダーがどこにいるか言え」

 

「お、おれが、リーダー、だ……」

 

 霧島の脚は徐々に踏みつける力を増し、万丈の頭蓋骨に圧力を加えていく。

 

「ほ、本当だ! その人がこの区のリーダーなんだ!」

 

「嘘じゃない!」

 

 万丈の仲間たちが声をあげた。その反応は万丈に責任を押し付けるためではなく、このままでは彼が殺されてしまうという焦りからくるものであることが表情からわかった。

 

「……マジで言ってんのか?」

 

 霧島は心底驚いたような顔をして足をどけた。しかし、だんだんとその表情は不機嫌そうに変わっていく。

 

「『アオギリ(オレら)』の目的を教えてやる」

 

 アオギリの樹の理念とは『強者による支配』である。強者とは喰種だ。全ての人間にその真理を知らしめるため行動する。逆らう者は力によって排除する。

 

 目下、最大の敵はCCGだ。ここさえ落とせばこの地は喰種の天下となる。もはや飢えに苦しむことはない喰種の楽園だ。人間にとっては地獄だろう。それがこの組織の“表向き”の目的だ。

 

 機は熟した。水面下で少しずつ強力な喰種たちを集めていた組織はついに動き始める。反乱の狼煙はこの11区であげられることとなった。まずはここを拠点とし、各地の喰種を仲間に引き入れながら隣接する区に進攻の手を広げていく計画である。

 

「む、無理だ……そんなことできるわけがない……」

 

「ああ、無理だろうな。お前らみたいなゴミどもじゃ」

 

 アオギリの樹が掲げる支配とは人間に対してのみ向けられるものではない。支配者は強者でなければならず、弱い喰種は支配の対象である。

 

 11区の喰種も組織に取り込む予定だった。最初から選択権はない。戦闘員として使えるだけの力がなければ雑用を与えられるだろう。それすら拒むようであれば命の保障はない。

 

 あまりにも偏った過激な思想だが、抑圧されてきた喰種たちにとっては輝かしく見えた。旧来の生温いやり方では現状を打破できない。幸福をつかみ取るためには犠牲が必要だと。

 

 霧島は万丈の首を掴み、引き上げた。親切ではない。片腕の力だけで92キロもある万丈の巨体をつるし上げる。

 

 優れた赫包を持つ喰種はそれだけ体内のRc濃度が高く、爆発的な身体能力を叩き出す。細身の肉体だろうと凄まじい膂力を発揮できる。

 

「俺はな、お前みたいな偽善野郎が死ぬほど嫌いなんだ。誰かのためとか、自分が犠牲になればとか考える奴ほど周りから見れば身勝手この上ない」

 

「ぐ、が、が」

 

「現実は。弱ければ奪われる。何も守れやしない。ただそれだけだ。弱者がどうあがいたところで無駄なんだよ。今のお前みたいになぁ!」

 

 霧島が力を込める。殺す気はないが死んでも構わないと思う程度には威力が込められた一撃が、万丈の体に突き刺さろうとしていた。

 

 

 

 

「パンチョイミィィィィィ!!」

 

 

 

 

 それは聞いたこともない奇妙な音だった。人間には発声不可能な鳴き声である。霧島が目を向けた先には巨大な武器を構える子供の姿があった。

 

 マスクをかぶっていることから喰種のようにも見えるが、所持している武器は一見してクインケを思わせる。喰種か、それともCCGの人間か判別がつかない。

 

 距離は30メートルほど離れていた。その位置から武器を構えて狙いをつけているということは遠距離攻撃が可能であると予想がつく。霧島は即座に万丈を捨て、赫子を発現させた。

 

 何とかここまでたどり着いたイカちゃんだったが、ズタボロにされた万丈の姿を見て思わず叫び声をあげてしまった。ハイドラントを撃つには長いチャージタイムが必要だ。フルチャージなら2秒以上もかかる。

 

 接近戦では圧倒的に不利なブキである。できれば距離の優位を保ちたいが、焦ってチャージタイムを削れば連続射撃時間がかなり落ちてしまう。

 

 万丈を盾にされなかった点は助かった。ナワバリバトルとは違ってここではフレンドリーファイアが起こり得る。もし盾にされていれば迂闊に撃てないところだった。

 

 あとはチャージタイムを稼いでギリギリまで敵を引き寄せる。半チャージで撃つなら的を正確に狙い撃つ射撃技術が求められる。イカちゃんはチャージしながら呼吸を整えた。

 

 次の瞬間、敵はイカちゃんの背後にいた。

 

「ピャ――!」

 

 そのトリックは至極単純である。敵の動きが速すぎてイカちゃんの目ではとらえきれなかった。そして気づいた時には霧島の攻撃は終わっていた。

 

 ばっさりと肩口から胸にかけて切り裂かれたイカちゃんは、体内のインクをぶちまけながら倒れ込んだ。ハイドラントが鈍い音を立てて地面を転がる。

 

「い、イカ子ォォォォ!!」

 

 霧島の赫子のタイプは『羽赫』である。両肩部から発現した赫子は翼のような形を取る。これは圧縮されたガス状Rc細胞の集合体であり、その細胞片を射出することで長射程の攻撃を可能とする。

 

 また、飛び道具として使うことだけが能ではない。その噴出の威力を利用して超高速の機動力を得る。喰種の高い身体能力がジェットエンジンのごとき推進力によりさらに加速される。

 

 空を駆けた霧島は一瞬にしてイカちゃんに接近し、すれ違いざまに攻撃を加えていた。イカちゃんの体は全身がどろどろに溶け出し、地表を流れていく。

 

「なんだこの生きものは……」

 

 クインケらしき武器を警戒して速攻で仕留めにかかった霧島だったが、まだ殺すつもりはなかった。しかし予想以上に脆く、うっかり殺してしまった。

 

 結局、その正体は喰種だったのかどうかも不明のままだ。霧島は後味の悪い気分を抱えながら、その場を立ち去ろうとした。そのときのことだった。

 

 ごぽごぽとインクが沸騰するように泡立ち始める。無数の気泡のように見えるそれは分裂し、増殖を始めた細胞だった。

 

 赫子が噴き出す。巨大なゲソが霧島に襲い掛かった。死んだかに思われた敵から放たれたこの攻撃を前にしても彼に動揺はなかった。

 

 同じようなことができるノロというアオギリの幹部を知っていたからだ。落ち着いて迫り来る触手をかわす。

 

 巨大かつ高速の一撃であったが、霧島のスピードであれば回避できないことはない。しかしその直後、矢継ぎ早に次の赫子が飛び出してくる。

 

 2本目の赫子もかわした。だが、間髪を容れずに3本目が来る。それもかわす。次が来る。かわす。次。

 

「コイツ……いったい何本の赫子を……!?」

 

 7本目にしてついに限界を迎える。霧島の体はいくつもの触手により拘束されてしまった。

 






アヤト「くっ、殺せ……」



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暴走イカちゃん

 

「イカ子ーッ!」

 

「万丈さん、危ないっス!」

 

 戦況は一変していた。誰がこんな事態を予測できただろうか。突如として出現した巨大なイカにより、アオギリの樹の幹部である霧島絢都は殺された。

 

 羽赫全体から見てもトップレベルの能力を持つ霧島だったが、怪物イカの赫子から逃れることはできなかった。総数10本の巨大赫子は赫者クラスとしても異常な物量だった。

 

 触手に捕まった霧島は捕食された。時間にしてわずか数秒の出来事である。残されたアオギリの構成員は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

 

 敵はいなくなったが、イカちゃんの赫者化は解除されなかった。完全に正気を失って暴走している。万丈の声も届かない。滅茶苦茶に触手を振り回し、街を破壊し始めていた。

 

「アヤトきゅん食べられちゃったの!? またひとり貴重な美男子が失われてしまったのね……」

 

 その様子を離れたビルの屋上から観察する者たちがいた。アオギリの樹の幹部たちだった。

 

 タタラ、エト、ノロ、ヤモリ、ニコ、瓶兄弟。霧島を除く総勢7名の幹部は、捜査官からすれば絶望に打ちひしがれるしかない強さを持つ凶悪な個体の集まりだった。

 

「エト、お前はあれをどう見る?」

 

「うん……触らぬ神に祟りなしってところかな」

 

 この事態は幹部連中からしても全くの想定外だった。この11区に攻め込んだ理由はリゼの足取りを追ってのことである。リゼが既にこの地を去ったことまでは把握しており、11区のリーダーが殺されていることも知っている。

 

 新たなリーダーがいるにしても、まさかここまで強大な喰種が残っているとは思いもよらなかった。イカの赫者は片目だけが赤く色付いた『隻眼』だった。

 

 その正体について今の段階で確かなことはわからないが、もしかすれば自分と同じような境遇の喰種なのかもしれないとエトは思った。

 

「撤退するぞ」

 

 まとめ役のタタラが声をかける。ここでイカの赫者と対決するメリットはない。正面からぶつかれば、どれだけの被害が出るかわからない。ようやく旗揚げした矢先に戦力を落とすわけにはいかなかった。

 

 たかが幹部一人のために弔い合戦を仕掛けるよりも、この状況をもっと有効に利用すべきだ。

 

「一雨、降りそうだな」

 

 空には黒々とした厚い雲がかかっている。タタラは殺された霧島のことを思う。霧島は年若いが、古参の幹部だ。アオギリが水面下で兵を集めていた時代から在籍していた。

 

 野良犬のように誰彼構わず吠えていた小僧でしかなかった霧島に教育を施したのはタタラだ。そんな仲間の死に感傷を抱く気持ちがないわけではない。だが、その感情を外に出すことはなかった。

 

 彼が失った仲間は霧島だけではない。幾多の戦いを経験し、幾多の死を目に焼き付けてきた。そのたびに心は欠け、物のような精神に成り下がっていく。彼らの精神は戦いの中でとうに擦り切れてしまっていた。

 

 喰種たちは人知れずその場を去っていく。今日という日をもって、この東京は新たな脅威の存在を知ることとなる。

 

 

 * * *

 

  

 レートSSS喰種『烏賊』出現。最初の発見から数か月、何の音沙汰もなかった怪物がついに動き出す。

 

 きっかけは11区にて複数の喰種により同時多発的に起こされた襲撃事件だった。その一報を受けて間もなく、立て続けに烏賊の出現が確認された。

 

 CCG本部は総力を挙げて対策チームを結成。烏賊駆逐作戦が展開されることとなる。だが、敵は彼らの想像を遥かに超えた怪物だった。

 

「『24区の王』……総議長殿は尋常ではなくこの喰種を警戒しておられたようだが、なるほど今となってはそれもうなずける」

 

 特等捜査官、田中丸望丸はヘリから敵影を眺めていた。それは巨大な赫子の塊だった。全長は推定40メートル。地下で遭遇したときよりも2倍以上の大きさになっている。

 

 これは狭い地下空間で行動しやすくするため、以前はあえて体を縮小していたものではないかと考えられている。つまり、今この状態が本来の大きさだったというわけだ。

 

 これまでに確認された喰種とは規模が違いすぎた。いかに赫者とはいえ、通常その赫子の鎧は身に纏う程度の大きさである。

 

 CCG総議長、和修常吉はかねてから烏賊の危険性を重く受け止め、自らの一存でレートを最高位のSSSに引き上げさせたほどだった。何としてでも駆逐せよと対策班は直々に厳命を受けている。

 

 現在は午後11時。ヘリから見下ろした地上の街並みは一切の明かりが消えた暗闇と化している。烏賊が吐き出した大量の墨によって周辺一帯が執拗に塗りつぶされていた。

 

 この墨の領域は数キロ圏内にも及び、今もなお烏賊の移動に伴って拡大し続けている。また、この体液からは高濃度のRc細胞が検出されている。烏賊はこの液で塗りたくられた場所なら水深を無視して自由自在に泳ぎ回ることができる。

 

 触れてもただちに人体に影響を及ぼすようなことはないが、粘着性があり足を取られる。ただ動きにくくなるだけだが、その一点が致命的に接近を困難にしていた。

 

「民間人の避難の進捗状況は?」

 

『現在、8割近くの避難誘導が完了しています』

 

 最優先されるべきは民間人の安全である。CCGは捜査官を可能な限り招集して住民の避難にかかる時間を稼ぐべく、包囲網を作り上げていた。

 

 捜査官が立ちはだかったところで烏賊の行く手を遮ることは無謀にも思えたが、この決死の作戦が功を奏し、烏賊の行動範囲を大きく制限することに成功していた。

 

 事前にプロファイリングされていた通り、烏賊の性格は非常に憶病であると思われる。クインケを構えた捜査官が見えると自分から接近しようとはせず、進路を変える。

 

 これにより人的な被害は驚くほど抑えられていた。また、被害地域の建造物は体液で塗りつぶされてしまったが、どういう原理か烏賊の巨体がその上を暴れ回ってもほとんど破壊は生じていなかった。そのため経済的な損失についても甚大と言えるほどの被害は発生していない。

 

「いったい何のために泳ぎまわっているのかね、このイカボーイは」

 

 烏賊の目的は判然としない。体液で塗りつぶす領域を拡大しながら当てもなくさまよっているようだった。実際に確たる目的はなく、正気を失って暴走しているだけではないかと考えられている。

 

 ひとまず作戦の第一段階である民間人の避難を終えるまでは下手に刺激せず、包囲網を維持して行動を制限し続ける予定だった。

 

『北部エリアにてトラブル発生! 局員捜査官がQバレットを使用。これに興奮したのか烏賊が包囲網を破りそうな勢いです!』

 

 上空からその様子は確認できた。それまではおとなしく泳ぎ回っていた烏賊が触手を振り回して建物を破壊し始めている。このままでは避難が完了していないエリアに突き進まれる危険があった。

 

「ンン……世話の焼けるボーイだ」

 

 田中丸は自身のクインケを展開した。その銘は『ハイアーマインド(高次精神次元)あるいは天使の羽ばたき(エンジェルビート)』。驚異のSSレートを誇る羽赫型クインケだ。

 

 その性能を一言で表すならビーム砲である。高威力かつ広範囲、そして長距離の攻撃を可能とするその威力はまさにSS級。

 

 一発撃つだけでも莫大なエネルギーを消耗するため、Rc溶液を蓄えた補給機が外付けされている。機動力を犠牲にしてでも徹底的にパワーを追求したロマン兵器である。

 

 田中丸はクインケを構えながら指揮官へ通信を入れた。今回、急遽現場指揮を任された対策Ⅱ課特等捜査官、丸手斎が応答する。

 

「丸手君、少々早いがフェイズ2へ移行しよう」

 

『確かに今の方向に進まれるのはまずい。よし、ハイパーマインドにて注意を引きつけ……』

 

「ハイアーーーーーー!!! マーーーーーーーーインド!!!」

 

 田中丸は叫ぶ。クインケの銘は所有者に決定権があり、慣例的には素材となった喰種の名前からとられることが多い。しかし、彼の場合は明らかに自らのネーミングセンスに基づくものだとわかる。

 

 それだけ思い入れのある武器なのだ。決してハイパーマインドなどと呼んでほしくはない。若干キレ気味で雄たけびをあげた田中丸のクインケが呼応するように火を噴いた。

 

『ピギャアアアアアア!!』

 

 曇った夜空を切り裂く一条の閃光が走る。直撃した烏賊が甲高い悲鳴をあげた。香ばしい焼きイカの臭気を放ちながらのたうち回る。

 

「やったか!?」

 

 確かに攻撃は届き、敵にダメージを与えることには成功した。だが、その傷は瞬く間に回復されてしまう。SSレートのクインケの一撃であっても単発では効果がない。

 

「一時退却だ、パイロットボーイ!」

 

 田中丸が指示を出すよりも早くヘリを操縦する隊員は急旋回を始めていた。巨大な烏賊の姿が消える。否、水面に潜ったのだ。

 

 インク中に潜ったまま10本の触手が伸びあがる。その先端に装備された10機のハイドラントが一斉にチャージタイムに入っていた。

 

 田中丸は使い切った補充機のアタッシュケースを新しいものに手早く交換する。クインケのエネルギー補充が完了するのと、烏賊のフルチャージが終わるタイミングは同時だった。

 

「羽ばたき、圧縮! 拡散!」

 

 田中丸はハイアーマインドのモードを近接戦対応型へと切り替えていた。射程が短くなる代わりに広範囲に衝撃波を拡散させ、ヘリを守る盾とする。

 

 そこへ烏賊の体液弾が殺到した。クインケによる衝撃波状の赫子は敵弾を打ち消すことに成功するも、それは瞬間的なものでしかなかった。

  

 イカ一体の体力を100としたときハイドラントのフルチャージショットの威力は秒間火力600に達する。10機の砲門から掃射された弾幕を前にして空飛ぶヘリは光る的でしかなかった。

 

 爆発し、空中分解するヘリ。その様子を眺めた田中丸はさすがに肝を冷やしていた。

 

 最初からヘリを乗り捨てることも視野に入れた作戦だった。ハイアーマインドによる衝撃波の展開も敵の目をヘリに引きつけ、その隙に脱出するためのデコイである。

 

 田中丸とパイロットの二人はパラシュートに揺られて地上へ降り立つ。漆黒の闇色に染め上げられた街並みは彼らのよく知る東京とはかけ離れた光景となっていた。

 

 ここは烏賊が吐き出したインクの領域内である。無事に着地を果たした田中丸たちだったが、インクの強力な粘着力によってネズミ捕りにかかったかのように身動きが取れない状態になっていた。

 

 自ら身をもって体験してなお、これが一匹の喰種によって作り出された光景だとはとても信じられない。しばらくの間その場に待機していた田中丸たちのもとに救援が到着した。

 

「すまんね、遅くなった」

 

 駆け付けたのは篠原幸紀、黒磐巌たち2名の特等捜査官である。彼らがインクの海上において行動を可能にしている理由は装備しているクインケにあった。

 

 対赫者戦対応型クインケ甲赫『アラタproto』である。赫者個体であった喰種『骸拾い』の赫包から作られた、これまでの常識を覆す“着るタイプ”のクインケだ。この日のためにCCGラボの尻を蹴り上げて急ごしらえさせ、なんとか2着を用意していた。

 

 全身を赫子の鎧で覆い尽くすことにより、防御力だけでなく筋力も大幅に増強されている。そのおかげで粘液の拘束を振り切って歩行することができていた。

 

「もっとも、あの烏賊には手も足も出せんがね」

 

「接近戦であれをどうにかするのは困難を極める」

 

 アラタを装着してなお、何とか歩行できる程度の機動力しか発揮できない。篠原と黒磐は超一級の実力と装備を持つ歴戦の捜査官だが、それでも質量の差が違いすぎた。近づけば触手の一振りで叩き潰されて終わるだろう。

 

「遠距離攻撃が可能な羽赫とて有効射程は限られている。まずその距離に近づくことが至難だな、ボーイ……ゴホッ!」

 

「望元さん、どこか負傷を!?」

 

「なに、かすり傷だ。しかし、我が愛機をもってしても全弾は防ぎきれなかった。これでは特等捜査官の名が泣くな……」

 

「いや、あの状況から生きて帰ってきただけで十分、人間辞めてますよ。まだまだ現役です」

 

 かすり傷とは言うが、田中丸は複数箇所を被弾している様子だった。手当てするためにもすぐに全員で撤退を開始した。

 

「確かに絶望的な状況に変わりはないんですがね、私は『隻眼の梟』戦に比べればいくらか気が楽に感じますよ」

 

 かつて出現した赫者個体である『梟』などは人間に対して明確な敵意を有し、その結果多くの捜査官が犠牲となった。殺し合いを前提とした戦いだった。

 

 だが今回は敵側から殺意を感じない。こちらから攻撃を仕掛ければ場当たり的に防御反応を取るが、それ以上の殺戮に及ぶことはなかった。むしろ戦闘を極力回避しているように見える。

 

 しかしだからと言ってこのまま放置しておくわけにはいかない。その存在自体が人間社会を脅かしている。和解する選択はあり得ないのだ。

 

 ひとまず今は撤退し、態勢と作戦を立て直す必要があった。インクの領域外へと向かう彼らの足元には、ぽたぽたと血の滴が残されていた。

 

 田中丸の傷から流れた血だった。その弾丸の威力により傷口は肉体を貫通している。止血処置を施したとはいえ、完全に出血を止めることはできなかった。

 

 広大なインクの海に垂らされた血の一滴は取るに足らない染みの一つのようにも見える。しかし、彼らはインクリングの習性を真に理解していたわけではなかった。

 

 隅々まで塗りつぶされた自らのナワバリに上書きされた、何者かの体液。イカちゃんは暴走状態にありながらも、その気配に本能レベルで気づきかけていた。

 

 

 



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追走イカちゃん

 

「まるで怪獣映画ですね、丸手さん」

 

「なら映画館で観たかった」

 

 前線から離れた対策局11区支部では現場の指揮を担当する捜査官たちが対応に追われていた。

 

 彼らは対策Ⅱ課と呼ばれ、特に大規模な任務にあたっては最前線で戦うⅠ課捜査官のため作戦の立案や指揮と言ったサポートを行う。CCGの中でも頭脳派のエリートが集まる部署である。

 

 裏方だからと言って戦闘の素人では務まらない。指揮能力のみならず実戦経験を含め、捜査指揮に関わる人間ともなれば相応の資質が要求される。

 

 今回の任務において急遽本部から十数名のⅡ課捜査官が11区へ派遣されているが、中でも特筆すべきは指揮官を務める丸手斎特等とその相方、馬淵活也一等だろう。

 

「ああ~、生きてるを実感んん~」

 

 馬淵は変態的な表情でいくつものモニター映像を同時解析していた。下級捜査官ながら、その突出した戦況の分析力と判断能力を買われ、丸手の右腕として重用されている。

 

 馬淵は烏賊の行動パターンを解析し、人員に的確な移動指示を与えることで包囲網を維持している。だが、それは烏賊の駆逐という当初の目的を果たす抜本的な解決法にはならない。

 

 これだけ派手に暴れ回れば消耗も激しく、赫者の活動時間もそう長くは続かないのではないかとも思った。弱り始めるまで待つ作戦も考えはした。

 

 だが、喰種にとって消耗することは腹を空かせることと同じだ。空腹を感じた烏賊がこのままおとなしく生け簀の中を回遊し続ける保証はどこにもない。

 

「民間人の避難、ほぼ9割近く完了しました」

 

「朗報だな。ついでに烏賊をぶち殺す方法も思いつけば言うことなしだ」

 

 田中丸特等の猛攻もむなしく、反撃にあってヘリは爆散。これを機に烏賊はヘリや戦闘機に警戒を払うようになり、遠方から飛行音がしただけで体液弾を発射してくるようになってしまった。

 

 これにより陸路からも空路からも敵へ接近することは格段に難しくなっている。

 

「だが、それだけ嫌がるってことは敵にとっても有効な攻撃なんだ。同族同士で潰し合うことが遺伝子に刻まれている奴らにとって、赫子こそ最も殺傷能力の高い武器となる」

 

 銃弾すら弾き返す皮膚を持つ喰種であっても、赫子による攻撃を受ければ容易に傷つく。互いのRc細胞が干渉し合い、毒素のように細胞の構成を蝕むからだ。

 

 だからこそクインケは喰種の脅威となる。だからこそ喰種はクインケの使い手たる捜査官を恐れる。しかし、果たしてこの現状を打破できる捜査官が存在するだろうか。丸手の脳裏には一人だけ心当たりがあった。

 

 それは全く根拠のない憶測でしかなく、普通に考えれば人間一人の力でどうにかできる事態ではないことは明白なのだが、その一方で“あの男ならば”という淡い期待を抱かずにはいられない。

 

「有馬はまだ来んのか!? いつまで地下に潜っているつもりだ!」

 

 最強の捜査官とは誰か。CCGに身を置く者の多くが、その問いに対し一人の男を思い浮かべるだろう。

 

 有馬貴将特等捜査官。死と隣り合わせの喰種捜査において不敗神話を持つ生ける伝説である。死神と称されるその戦闘力は、身内にすら畏怖の感情を想起させる。

 

 SSSレート喰種捜査を担当するS3班の隊長であり、本来であれば真っ先に現場へ急行しなければならない立場なのだが、到着が遅れていた。

 

 この遅れについては今回に限った話ではない。重要かつ危険度の高い任務に従事するS3班は本部を出払っていることが多く、緊急招集に応じることができない状況がこれまでにもあった。

 

 現在、S3班は24区の継続捜査に当たっており、すぐに地上へ戻ってこられる状態ではなかった。仕方のないこととはいえ、丸手は承服しかねる部分もあった。

 

 最近のS3班はかれこれ1か月以上も24区に潜り続けている。確かに烏賊が地下に潜伏している可能性も考えられるため、その捜索に意味がないとまでは言えない。

 

 だが、烏賊が発見された階層は地上に近い場所だった。赫者化を解いた本体が何食わぬ顔をして人間社会に溶け込んでいる可能性だってある。そしてもしそうだった場合、発生する被害の大きさは計り知れず、その懸念は現実のものとなってしまった。

 

 これまで膨大な時間を費やしても全容を掴み切れなかった地下の捜索に力を入れるより、今は地上の安全のため有事に備えておくべきではないか。丸手はそう進言していたのだが、聞き入れてはもらえなかった。

 

 S3班の人員は白日庭と呼ばれる和修家直轄の養成機関から輩出されている。実質的に彼らを動かしているのは和修の人間であり、CCGに多大な影響力を持つ和修家に一介の捜査官でしかない丸手が抗議することはできなかった。

 

「何かひっかかる……そこまでして地下にこだわる“別の事情”でもあったのか……?」

 

「丸手さん、大変です! 本部から緊急連絡です!」

 

 思索にふける猶予はない。本部から届けられた一報を聞き、丸手は思わず机を殴りつけていた。

 

 11区に隣接する9・10・12区の支局を大量の喰種が同時襲撃。その連携やマスクの統一性から何らかの組織を作っていることがうかがえる。

 

「このクソ忙しい時にッ! いや、だからこそか!」

 

 烏賊が巻き起こした騒ぎに便乗する形で戦力が手薄となった支局に殴り込んできたのだとわかる。あるいは、烏賊の出現自体がその組織の差し金によるものか。これだけ大規模な喰種組織の登場は『ピエロマスク』以来のことだった。全く得体が知れない。

 

 今、11区に集めた捜査官を応援に向かわせる余裕はない。ただでさえ人員不足で穴だらけの包囲網を何とかやりくりして抑え込んでいるのだ。人間側の陣営は窮地に立たされていた。

 

 

 * * *

 

 

「来てるな」

 

「ああ、気づかれてる」

 

 篠原、黒磐、田中丸、ヘリ操縦士の4名はインク領域からの撤退を試みていた。その最中にあった。

 

 烏賊が近づいてきている。偶然、進行方向が重なっただけかとも考え、遠回りをしてでも回避する道を取ったが、それでも後をついてきている。

 

「嗅覚だろうな。幸いなことにまだ完全に位置を特定されているわけではないが、このままでは……」 

 

 もし居場所が見つかれば逃げるすべはない。数十メートルもの巨体が泳ぐ速度に敵うはずがなかった。

 

「自分が、囮になります」

 

 そこで声をあげたのは操縦士だ。彼は黒磐に背負われ、運ばれていた。運良く大きな負傷は免れていたが、自分の足でインクの上を歩くことはできない。

 

「ここに私が残り、敵を引きつけます。その隙に撤退を」

 

 操縦士の顔は真っ青だった。ヘリから脱出した直後よりも青ざめているかもしれない。恐怖を感じないはずはない。それでも彼は自ら死地に残ることを決断する。

 

「確かに誰かが囮にでもならなければこの場を切り抜けるのは難しいだろう。しかし、その役は君ではない」

 

 操縦士の意見を田中丸が遮る。彼は負傷した自分こそがこの場に留まるべきだと考える。

 

 篠原と黒磐の両名はこれまでインク領域内で行動していたにも関わらず烏賊の追跡を受けていない。この異変は田中丸らと合流した後に始まっている。

 

 負傷した田中丸の血の臭いに烏賊が反応していると考えるのが自然だった。ならば、その元凶が囮となることが最も理にかなっている。しかし、その田中丸の主張に操縦士は反対する。

 

「だったら私が傷を作って同じだけの血を流せばいい! そうするべきです!」

 

「なぜ君はそこまでして……」

 

「私は、ただの航空隊員です。あなた方とは命の価値が違う……特等捜査官はこの街に暮らす人々の希望です。あなた方は生きなければならない」

 

 そう言って操縦士は震える声で笑う。自分は平気だと自分自身に言い聞かせるような笑い方だった。

 

「命に価値なんてない。価値なんて言葉で推し量れるものではないんだ」

 

 特等捜査官の三名は顔を見合わせた。命を賭す覚悟を決めた青年の言葉が、皮肉にも彼らの決心を固める。未来ある若者の命を犠牲にしてまで生き延びようと思う者はいなかった。

 

 操縦士の青年が特等捜査官に希望を抱いているように、彼らにもまた希望はある。その希望を守るために彼らはこの場所に立っている。

 

 その決意を感じ取った青年は泣いた。それは安堵の涙である。死なずに済むかもしれないという安堵感が押し寄せ、感情を抑えきれなかった。そして守られるだけの自分を恥じ、とめどなく涙を流し続けた。

 

「望元さん、頼みます」

 

「任せたまえ、ボーイ」

 

 田中丸は自分のクインケを篠原に託す。ヘリを乗り捨てたときでも手放さなかった武器だ。

 

「あなた以上にそのクインケを扱える者はない。あなたが持っておくべきです」

 

 しかし、篠原は躊躇していた。受け取れば田中丸に丸腰で烏賊の相手をさせることになる。かと言って、預からなければ結果が変わるというものでもない。

 

 SSレートのクインケは莫大な開発費と貴重な素材から作り出される。損失すれば喰種への対抗力を目に見える形で失うことになる。

 

「なに、私以上にマイエンジェルを使いこなせる捜査官がいつか現れるさ。次の世代を担うボーイがいるんだ」

 

 黒磐は一つ、力を込めて田中丸の背中を叩く。いつも多くを語らない彼が万感を込めて思いをぶつける。傷に響いた田中丸は少しむせながらも、その一撃をしかと受け止めた。

 

 時間はない。黒磐と篠原は仲間を残し、立ち去っていく。それを見届けた田中丸は、黒磐から持たされた予備のクインケを取り出して構える。

 

 レートCの尾赫クインケ『ツナギ・ハードタイプ』だ。対する喰種は見上げるような大きさの怪物である。地面に足を固定された上に、この剣一本で何ができるというのか。

 

「ンン、ボーイ。それでいい。悲劇は嫌いでね」

 

 烏賊は明らかに田中丸を目指して移動していた。血の跡をゆっくりと辿りながら近づいてくる。

 

 彼は不敵に笑う。誰が何と言おうと、最期の瞬間まで自分の生き様に悔いを残すことはないだろう。

 

 

「これにてハッピーエンッ!!!」

 

 

 獲物を発見し、触手を伸ばそうとした烏賊の横合いから眩い“雷撃”が突き刺さる。烏賊は痙攣し、触手を硬直させた。

 

『キュルルアアアア!?』

 

 田中丸は見た。来るはずもない救援者がそこにいる。眼鏡をかけた長身の男だ。新雪のごとく透き通った髪色は、何ものにも染まらない隔絶の象徴のようにも見える。

 

「有馬ボーイ……」

 

 その足元には花が咲いていた。否、花のように見えるそれはクインケの遠隔操作により作り出された赫子の足場である。

 

 黒い海の上に咲く、花の道。その両手に二振りのクインケを握り、死神は駆けた。

 



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決勝イカちゃん

 

 本部から連絡を受け、有馬の到着を知った篠原たちは置き去りにしてきた田中丸のもとへ戻った。その場所で繰り広げられる戦いを目にする。

 

「これは、なんという……」

 

「ここは有馬君に任せよう。我々がいても足手まといにしかならない」

 

 有馬貴将は数多くの逸話を残しているが、中でも話題に上るのは『隻眼の梟』討伐戦の活躍だ。篠原は実際にその現場を目撃している。

 

 特等を始めとして、あまりにも多くの捜査官が命を落とした戦いだった。多大な犠牲を払って与えた傷も、敵の驚異的な回復力の前には無意味だった。

 

 こんな化け物をどうやって倒せばいいのかと、誰しもが絶望していた。当時、二等捜査官だった少年が一騎討ちの末にその化け物を退散させるとは、誰が想像できただろう。

 

 死傷、重傷を負った上級捜査官のクインケを有馬は借り受け、使い潰しながら敵へと肉薄した。その日、初めて手にしたであろういくつもの武器を手足のように使いこなす。

 

 彼は戦闘の天才だった。その実力は、喰種の範疇を超えた巨大生物を前にして一歩も怯むことはなかった。

 

 インクの海を踏まないように作り出された足場は、クインケの能力である。制御範囲内であれば羽赫の細胞片を任意の地点に出現させることができるが、まず交戦中にこの遠隔操作を正確に起動させること自体が高い技術を要する。

 

 さらに赫子で足場を作りながらその上を移動するという使用法は、開発者であっても不可能と断言するだろう。このような戦い方が成立していることが、有馬の能力とクインケの性能の異常さを物語っている。

 

 クインケの銘はSSSレート羽赫『フクロウ』。隻眼の梟戦において有馬が切り落とした梟の赫包から作られたクインケである。

 

 戦闘に関して極力私情を挟まない性格をしている有馬だが、この武器には少なからず思い入れがある。本気で戦う時しか使わないと決めた武器だった。

 

 そして、このクインケを持ち出した戦いは今回が初めてとなる。『烏賊』は、有馬をしてフクロウを使わざるを得ないと見定めた敵だった。

 

『オゥスロリィ……』

 

 不気味な鳴き声をあげた烏賊が触手の先端から体液弾を放つ。ただの生身の人間である有馬が被弾すれば簡単に貫通するだけの威力が一発一発に込められている。

 

 ハイドラントの長いチャージタイムも、10機をフル稼働させたローテーション掃射により隙とならない。途切れなく弾幕の雨が降り注ぐ。

 

 対する有馬はフクロウを操作する。羽赫が最も得意とする赫子片の射出を行う。太刀型の長大な刀身を持つこのクインケは接近戦にも対応しているが、今回は遠距離攻撃に徹する構えだった。

 

 SSSレートのクインケともなればその攻撃威力、密度ともに凄まじい。赫子片にぶつかった体液弾は打ち負けて空中に散らばる。

 

 だが、一発の威力を比べればフクロウに分があっても手数は圧倒的に烏賊が勝っている。迫り来る何百発もの弾丸の群れを相殺することはできない。間をすり抜けるようにして体液弾が有馬に殺到する。

 

 その全てを有馬は回避していた。彼はやみくもにフクロウを振るっているわけではなかった。敵の攻撃を防ぎきれないことは承知している。全て計算尽くで赫子片を撃ち出していた。

 

 どの位置の弾を防ぎ、どの位置に来る弾を避けるのか、その全てを計算しながら戦っているのだ。もちろん、それと並行して足場の赫子も遠隔操作している。

 

 並外れた攻撃予測力により、体液弾一発一発の風切り音まで全て把握していた。一瞬たりとも足を止めることなく烏賊の周囲を疾走する。喰種捜査官の標準装備であるコートは穴だらけになっていたが、彼の体にはかすり傷さえついていなかった。

 

 そして、一発でも当たれば致命傷になり得る攻撃の嵐の中にいながら有馬の表情は何の感情も伴っていなかった。常に平常の精神状態。戦闘中であっても起伏はない。

 

 まるで機械。自分がクインケの付属物であるかのような戦い方だ。それは有馬だけに限った話ではない。喰種との戦いによって精神が擦り切れ、自分の存在意義を見失う捜査官は珍しくない。

 

 だがそういった捜査官たちはほとんどの場合、引退するか、ブレーキを踏みそこなった車のようにぽっくりと殉職するかのどちらかだ。その点だけが有馬とは違った。

 

 致命的なまでに後戻りできなくなった精神状態のまま、彼は全ての戦いを勝ち続けてきたのだ。

 

 烏賊の攻撃を避けながら、彼はフクロウとは別の手に携えたもう一つのクインケを構える。両手に全く別種のクインケを装備するこの戦闘法は『二刀流』と呼ばれ、数ある捜査官の中でも使い手は数人に留まる。

 

 彼が持ち込んだ二つ目のクインケはS+レートの羽赫『ナルカミ』だった。フクロウとは違い、この武器は常日頃から使い込んでいる。

 

 ライフル型の形状を持つその見た目の通り、これもまた遠距離攻撃を得意とする。放出された電撃が錯綜し、烏賊に食らい尽く。

 

『ピギャギャギャギャ!!』

 

 もし相手が“普通の”喰種であればフクロウ一本で事足りたかもしれない。破壊力を比べればナルカミよりフクロウの方が勝っている。

 

 しかし、既にフクロウの赫子片を烏賊に撃ち込んでいるが大して効いている様子はなかった。敵が巨大すぎるという理由もあるが、単純な物理攻撃が通じる相手ではないのだ。傷つけてもすぐに再生されてしまう。

 

 だから有馬はナルカミを持って来た。まるで電撃を放っているように見えるが、正確には『電撃状の赫子』である。これもRc細胞の変化形態の一つなのだ。

 

 電気のような性質を帯びながらも赫子であるこの攻撃は、喰種に対して強力な効果を発揮する。当たれば大きなダメージを負うことはもちろん、麻痺により全身が硬直し、致命的な隙を晒す。

 

 全身が水袋のような構造をしている烏賊にとって、この電撃は非常に有効だった。フクロウによる防御とナルカミによる攻撃により烏賊を翻弄する。

 

 だが、全て有馬の思い描く通りに事が運ぶわけではない。烏賊はハイドラントの掃射が効いていないとわかると、次の一手を繰り出す。

 

 触手をぶるりと震わせると、その吸盤から小さな何かが転がり落ちる。それはロボットボムだった。

 

 一つの吸盤から複数の爆弾が生み出される。それが全ての触手と触腕から投げ放たれる。大量のロボムが宙を舞った。

 

 てんでバラバラに放り投げられたロボムを有馬は難なく回避するが、その恐ろしさはロボムが着地した後に待っている。赤く目を光らせた自律歩行爆弾が追尾を開始する。

 

 有馬はロボムを迎撃するが、フクロウの攻撃力をもってしても弾き飛ばすだけで破壊するには至らなかった。ノミのような跳躍力で敵を目指して飛びかかってくる。

 

 ナルカミとフクロウを同時に使っても全てのロボムを阻むことはできない。あまりに数が多すぎた。そして、この攻撃の真の脅威とは捕捉した敵を巻き込む爆発にある。

 

 タイムリミットを迎えたロボムたちは一斉に爆発した。爆散するインクの威力は人ひとりを葬るには過剰すぎた。一体でさえその威力である。至近距離から何体分もの爆撃を受けた有馬はひとたまりもなかった。

 

 しかし、『何の対抗策も取っていなければ』という但し書きがつく。有馬は爆撃の寸前、背中に装備してきた“三本目”のクインケに持ち替えていた。

 

 S+レート甲赫『IXA』。全タイプ中最高硬度を持つ甲赫クインケの防御壁により怒涛の爆撃を防ぎきることができたものの、それと引き換えにIXAは壊れてしまった。

 

 有馬はIXAを放棄する。次のロボムの大量放出を同じ防御手段で乗り切ることはもうできない。

 

 有馬はロボムが一定時間経過しなければ、どんなに接近したり攻撃を加えても爆発しないことを見抜いていた。その仕様を突き、爆発の瞬間に接近を許さないよう立ち回るしかない。

 

 脳内で無数のシミュレートを繰り返す。それでも無傷で突破することは困難と言えた。何度も同じ攻撃を受ければ死ぬだろう。

 

 その答えに至っても有馬の心が揺らぐことはなかった。常に自分にできる最善手を選択し続けるだけだ。彼にとって全ての戦いは、日常の延長線上に過ぎなかった。

 

 ふと、そこで違和感に気づく。烏賊にしてみれば追撃を仕掛ける好機であるにもかかわらず、有馬を攻撃してくる様子がない。それどころかインクの中に触手まで沈み込ませて身を隠そうとしていた。

 

 実は、先ほどの一手は烏賊にとっても大きな消耗を強いられる攻撃だった。サブウェポンを使う際には大量のインクを消費すると同時に『インクロック』という制限が発生する。

 

 インクロック中はブキやサブの使用に必要なインク量が一切回復しない。インク袋の中にインクが溜まらない状態である。

 

 本来ならこれだけ大量のロボムを使用することは特別な条件下を除いて不可能であるが、イカちゃんはその制限を無視して強引にインク袋を酷使してしまった。

 

 その反動により多大なインクロック時間が発生していた。ロボムを使うどころかメインのブキを撃つことさえできない。だから一旦、姿をくらませようとしていた。

 

 烏賊の巨体は完全にインクの海へ潜り込む。水鏡のように液面は波風も立たない。そこへ有馬はナルカミを発射した。

 

 この電撃状の赫子は、射出された先にいる敵のRc細胞へと引き寄せられるように流れる誘導弾となる。

 

 落雷がジグザクの軌道を描くのは、本来であれば電気を通しにくい空気中を無理やりに進んで地面にたどり着こうとするからだ。通りやすい最短のルートを探しながら電気は流れる。ナルカミの場合、その終点は同質の細胞を持つ相手となる。

 

 これを回避することは容易ではない。潜伏した烏賊めがけて電撃がほとばしった。大量のRc細胞を有する烏賊の位置を正確に探し当てる。

 

 有馬の戦闘技術はこれ以上ないほどに洗練されていた。逃げ惑う烏賊を苛烈に攻め立てる。 

 だが、彼にできることはそこまでだった。

 

 どれだけ桁外れの技術があろうと、強力な武器があろうと、烏賊を駆逐するには至らない。その理由はただ一つ。体格の違いである。

 

 烏賊にとって最大の武器とは、その巨体だった。ただ大きいというそれだけのことで有馬の攻撃は通用しない。確かにダメージは与えているが、致命傷には程遠かった。

 

 いかに有馬が死力を尽くそうと、全長40メートルにも及ぶ怪物との体格差を覆すことはできないのだ。彼はそれを承知していた。では、何のために彼は戦っているのか。

 

 それは時間稼ぎだった。理由はいくつかある。一つは、田中丸特等らの救助のため。一つは、11区外で発生している喰種の集団決起のためである。烏賊の注意を自分に引きつけ、包囲網に割いている人員を11区外の対処に回すためだ。

 

 そして、彼が時間を稼ぐ必要があった最大の理由が今、天から静かに舞い降りる。

 

 一滴の雨粒が有馬の肌に触れた。雨脚は徐々に強くなる。事前に天気予報を確認していた有馬は、この時間帯に雨が降ることを知っていた。

 

『ピャアアアアア!!』

 

 烏賊は狂ったようにのたうち始めた。明らかに挙動に異変が現れている。インクリングは水が大の苦手だった。

 

 都市一帯を塗りつぶしていたインクの海が、ただの雨で少しずつ洗い流されていく。人間からすれば恵みの雨であり、烏賊にとっては堪えがたい環境の変化だった。

 

 半喰種となったイカちゃんは純粋なインクリングと比べれば水に強いが、それでも影響を無効化することはできない。巨大化した肉体が雨に打たれ、溶け出していく。

 

 窮地に陥った烏賊は逃走する。これまでとは違う、わずかな余裕もかなぐり捨てた必死の逃走である。だが、それを許す有馬ではない。

 

 有馬は烏賊を逃がさず捕捉し続けることに最大の注意を払っていた。この広大なインク領域内で敵を見失えばさすがに探し出すことは難しい。逃げ切られ、どこかに身を隠されてしまう可能性は高かった。

 

 だから危険を冒してでも烏賊と交戦する必要があった。雨が降るまで悠々と待つわけにはいかなかったのだ。

 

 それは烏賊が水に弱いということをあらかじめ知っておかなければ取れない作戦だ。Rc抑制剤もろくに効果がないような巨大怪獣相手に、誰がその弱点を予想できるだろう。

 

 有馬は知っていた。彼は、インクリングの半喰種がどのような体質を持ち、どのような攻撃が効果的であるかを既に知っている。

 

 彼は烏賊と“同種の存在”と、既に幾度もの戦闘を経験していた。

 

『プギュルルル……!』

 

 逃げ切れないことを悟ってか、烏賊は触手を振り上げ反撃に出る。雨を浴びたことによりその体格は半分ほどのサイズになっているが、それでも人間一人が太刀打ちできる大きさではない。

 

 有馬はナルカミを手放すと、両手でフクロウを握っていた。あえて二刀流を止めたことには意味がある。

 

 そもそもフクロウは羽赫でありながら近接戦にも対応できる太刀型のクインケだが、長大であるため有馬の筋力でも片手で振り回すには重すぎる。そのため、ナルカミと併用する際は遠隔操作と遠距離攻撃に限定した射撃武器として使っていた。

 

 両手を使った万全の構え。しかし迫り来る肉の塊に対して競り合えるとは到底思えない。圧殺される以外の未来はあり得ない。

 

 有馬の剣は、その自明の理さえも斬って捨てた。斬撃と同時に刀身から射出された数百にも及ぶ赫子片が放たれる。赫子の隊列からなる無数の刃は、三日月のような弧を描き一太刀に集約される。

 

 やみくもに赫子片を放てばできるという芸当ではない。壮絶なクインケ操術とフクロウの双方が噛み合ってこそ為しえた妙技。触手の一本が宙を舞った。

 

『ハニャア!?』

 

 何かの冗談としか思えない光景である。だが、それは偶然でもなければ奇跡でもない。続けざまに振るわれた二本目の触手も切り捨てられた。

 

 常に水を浴び続けている状態にある烏賊は再生力も格段に落ちていた。それでも普通の喰種とは比較にならない再生速度ではあるが、有馬の剣速には及ばない。

 

 一刀、また一刀と剣が閃くたびに触手が飛ぶ。烏賊は防戦一方に追い込まれていた。破壊をまき散らすはずの触手は自分を守るための盾にしかならない。

 

 その盾にも数に限りがある。ついに10本目の触手が切り裂かれる。手足を失った烏賊の胴体が無防備にさらされているかに見えた。

 

『マンメンミ……』

 

 しかし、そこで烏賊は予期せぬ行動を取る。一瞬、身体が膨れ上がったかと思うと勢いよく墨を吹いた。有馬は飛び散るインクを前に踏み込めず、ひとつ間を置く。その視線は上空へと向けられていた。

 

 烏賊は墨を地面に向けて噴射することでロケットのように空を飛んでいた。ふざけた光景だが、これはインクリングにとってはありふれた『スーパージャンプ』というテクニックである。この技で仲間のところへ移動したり、窮地から緊急脱出したりする。

 

 空を飛ばれては死神とて追うことはできない。だが、有馬は空を見つめたまま武器を構え続けていた。その眼は、戦いがまだ終わっていないことを確信している。

 

 烏賊は地面に対してほぼ垂直方向に飛んでいた。逃げる気があるのなら斜め上方へ向かって飛べばいいはずである。それなら放物線を描きながら遥か彼方まで逃げおおせることができたはずだ。有馬でもさすがに走って追いつくことはできない。

 

 真上に飛んでもいずれ勢いを失ってそのまま落ちてくるだけだ。いくら暴走状態にあるからと言って、果たしてそんな間抜けなことをこの土壇場でするだろうか。

 

 烏賊は確かに暴走していた。ほとんど意識がなく、本能のままに行動している状態である。雨に打たれ、有馬との戦闘により傷つき、極度の空腹に陥っていた。

 

 喰種の飢餓は理性を蝕む。むき出しの闘争本能に支配された烏賊は窮地に追いつめられることで最後の手段を行使するに至る。ブキ構成の三要素の一つ、『スペシャル』を発動しようとしていた。

 

 ブキは『メイン』『サブ』『スペシャル』の三つの構成からなる。スペシャルとは有体に言えば“必殺技”である。使用するには自分のナワバリを拡げなくてはならず、一試合につき数回程度しか使えない。

 

 だが、戦況を覆しうるだけの強力な技であることは間違いない。イカちゃんが装備するブキの場合、その構成は『ハイドラント』『ロボットボム』『スーパーチャクチ』となる。

 

 上空に位置するイカちゃんは既に技の発動モーションに入っていた。スーパーチャクチは、その場で素早く飛び上がってからの急速な着地の衝撃によりインクをまき散らす必殺技である。自分を中心として円状に攻撃範囲を展開し、その内部をインクで制圧する。

 

 そして赫者となったイカちゃんのスパチャは攻撃の規模も桁違いに改造されている。有馬はその技を知らずとも、自分に逃げ場がないことを経験と直感から悟っていた。

 

 迎え撃つ覚悟を決める。空っぽの自分にはそうする以外の選択肢がないことを知っていた。

 

 人は何かを成すために生まれてくる。有馬の場合はその目的を、最初から誰かに決められた人生だった。ただ与えられる命令に従うだけの生き方をしてきた。

 

 では、何かを望めば彼は今よりも幸福な人生を歩めただろうか。彼には、そう思えない。自分で決めた人生が必ずしも幸福であるとは限らない。

 

 たとえ選択の自由が与えられていたとしても自分の在り方を変えることはできなかっただろう。

 

 だが、それでも。たった一つだけ我がままを言わせてもらえば。

 

「ようやく、これで」

 

 最後の言葉をのみ込んだまま、彼は全身全霊をかけて集中する。地を打つ雨の一滴に至るまで、彼の研ぎ澄まされた感覚は全てを網羅していた。

 

 敵の接近を予測する。重力加速度を遥かに凌駕し、巨大な終末が空から降ってくる。それに合わせるように剣を振るった。

 

 その一太刀は、アーマー状態に入っていたイカちゃんに当たる。わずかにでも太刀筋が狂えばそこで弾かれていただろう。

 

 イカちゃんの落下の勢いが、自ら斬撃を胴体に食い込ませた。真っ二つに両断される。

 

 しかし、勢いは弱まらなかった。衝突、そして飛散する。着地点に咲いたミルククラウンは、波紋となり雨の街に押し寄せた。

 

 

 * * *

 

 

 烏賊駆逐戦およびアオギリの樹による襲撃は、CCGに大きな爪痕を残した。

 

 多くの捜査官が殉職した。そのほとんどはアオギリの樹の手によるものである。今回の騒動において最も凶悪な個体とされた烏賊だが、直接的に殺害された捜査官はわずか数名に留まった。

 

 だが、その数名の中に計り知れない損失が込められている。有馬貴将特等捜査官の死亡。その一報はCCGを震撼させた。

 

 彼の身を挺した功績がなければ今回の被害は未曽有の事態となっていただろう。単身で烏賊を相手取り、命と引き換えにこれを撃退した。そのおかげで11区に集まっていた捜査官を他区へ向かわせることができていた。

 

 現在、烏賊は生死不明である。死体はあがっていない。最後の落下攻撃を機に行方をくらませている。

 

 

 






抱え落ちしそうになってからスパチャの存在に気づく初心者あるある。


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妄想イカちゃん

 

「どこだよ、ここ……」

 

 霧島絢都が目を覚ますと、そこには見覚えのない街並みが広がっていた。

 

 自分がイカの怪物に食われたところまでは記憶がある。そこから先は意識が曖昧で、気がつけばこの場所に立っていた。

 

 普通の都市部の街並みのようにも感じるが、よく見るとどこか変だった。店の看板などは見たこともない言語が書かれている。

 

 電子看板に映し出された広告らしき映像は謎の生物が出演していた。最初はそういうCMなのだろうと思っていたが、人間は一切現れず、代わりにクラゲのような何かが頻繁に登場する。

 

 何よりもおかしいのは人の姿が全く見当たらないことだ。しばらく歩き回ってみたが、建物が立ち並ぶばかりで誰とも出会うことはなかった。

 

 ひとまず遠目からでも目立つ高い塔があったので、そこを目指して霧島は歩いた。やがて塔の入口にたどり着くと、そこでようやく人影を発見する。

 

 店のテラス席に男が腰かけていた。とにかく情報を得るために話しかけようとした霧島だったが、近づいて行くにつれ、その男に見覚えがあることに気づく。

 

「お前は……!」

 

 眼鏡をかけた白髪の男。出遭ったことはなくとも、喰種であればその顔を知る者は多い。最悪の捜査官だ。いったいどれだけの数の同胞がこの男の手によって葬られてきたことだろう。

 

 有馬貴将、その名は死の象徴だった。狙われたが最後、助かる道はない。その姿を見ただけで心を折られ、自ら投降する喰種もいるほどだった。

 

 しかし、霧島は逆に戦意を滾らせる。彼の母親は有馬に殺されていた。復讐心を抱くには十分すぎる理由がある。赤く目を血走らせた霧島は赫子を形成する。

 

 いつもであれば息をするかのごとく赫子を出せるはずだったが、彼の両肩部から噴き出したのはどろどろの液体だった。

 

「くそっ、何が起きてやがる!?」

 

 肩だけではない。赫眼を発現した両目からも液体がこぼれ出ていく。

 

「お前は、霧島、か?」

 

 有馬は霧島絢都との面識はない。だが、彼が愛用するクインケ『ナルカミ』の元となった喰種である霧島ヒカリのことはよく覚えていた。アヤトの容姿にヒカリの面影を見る。

 

 喰種の力がうまく使えない状態となった霧島だったが、それでも臆することなく有馬につかみかかる。有馬は全く抵抗しなかった。

 

 戦意どころか生気もない。有馬は死人も同然の目をしていた。その反応を見た霧島は怒りに駆られるよりも先に冷静さを取り戻す。まずは殺すより尋問すべきだと判断した。

 

「ここはどこだ!」

 

 有馬は素直に答えたが、それは霧島にとって信じられる内容ではなかった。ここは烏賊の腹の中だと言う。

 

 やはり食われたことは事実だった。では、この光景は何なのか。まさか烏賊の胃袋の中が街になっているはずはない。

 

「食物を吸収する過程で肉体に浸透した烏賊の特殊なRc細胞液が何らかの幻覚を見せているのかもしれない」

 

 もしかすると烏賊の記憶情報が逆に流れ込み、この光景を作り出しているのかもしれないと有馬は予想する。ヒトの記憶がニューロンを流れる電気信号によって表されるものと仮定すれば、Rc細胞の影響で自らの肉体が烏賊の脳神経とつながってしまったものと考えることもできる。

 

 だが、それは自分の存在が烏賊の一部となりかけている証拠である。有馬はじきに、完全に吸収されて存在そのものが消滅するだろうと考えていた。

 

「なんだよそれ……」

 

 にわかには信じがたい情報だったが、有馬が嘘を言っているようには見えなかった。全てを諦めた表情をしている。何もかもが終わったかのようだった。

 

「お前はそれでいいのかよ!」

 

 こうして考えることができるということは、まだ何か打つ手があるのではないか。霧島はそう簡単に自分の命を諦めることはできなかった。

 

「俺はもうこれ以上、生きたいとは思わない」

 

 有馬は目の前にいる霧島の存在が、実在するどこかの誰かであると確信を持てずにいた。もしかすると、この街のように幻覚によって作り出された虚像かもしれない。

 

 自分の記憶の一部が抽出され、他の情報と混ざりあうことによって生まれた夢の中のゴーストかもしれない。その可能性の方が高いだろう。

 

 ゆえに霧島の問いに答えることは、誰かとの会話というより自分の心を整理するための独白に近かった。

 

「この世界は見えない檻の中にある。本当の支配者が誰なのか、何も知らずに人々は生きている」

 

 霧島は有馬に問うた。母を殺した捜査官がどんな人間なのか、少なからず思うところがあった。有馬の口から語られる真実に耳を傾ける。

 

 CCGの実権を握る和修家が喰種の一族であること。有馬はその分家にあたり、喰種の血が混ざった『半人間』であること。

 

 喰種を狩る喰種対策局は、和修という喰種の傀儡だった。有馬もまたその傀儡の一部だ。半人間は長く生きられない。短い余命を和修に捧げる、ただそれだけのために作り出された道具だった。

 

「けど、もう終わったんだ」

 

 感情を排し、命令を遂行し続けてきた。おびだたしい数の命を摘み取ってきた。ようやくその作業から解放された有馬は安堵していた。

 

 喰種を殺すことは苦痛だった。誰かの命を奪い続ける自分が嫌でたまらなかった。だが、彼の存在理由は殺すことでしか証明できない。

 

 それを否定してしまえば今まで奪ってきた命は何だったのか。もはやただの過ちでは済まされない。積み上げられた命の山に何の意味もなくなってしまう気がした。

 

 だからいつしか、自分を殺す喰種が現れることを待ち望んでいた。自分の存在理由と矛盾することなく解放されるには、自分を上回る強さを持つ喰種が必要だった。

 

 そして彼は『アオギリの樹』を作った。この歪んだ世界をあるべき姿に戻したいと望むエトに協力し、彼は『隻眼の王』となる。いつか自分を殺す次の王、全ての喰種の希望が現れると信じていた。

 

 ようやく彼の願いは叶ったのだ。エトと約束した形とは違ってしまったが、もうこれ以上、生きる理由はない。このまま死を迎えることが自分の定めだと思っていた。

 

「そうかい。よくわかったよ。お前が殺す価値もない野郎だってことは」

 

 霧島は冷静に話を聞いていた。自分が所属していたアオギリの樹の創設者が目の前の男だという驚愕の事実に戸惑う気持ちもあった。

 

 最初こそ思わず頭に血が上ってしまったところはあったが、何を差し置いてでも復讐を果たしたいわけではなかった。そんな生き方しかできない喰種の末路がいかに悲惨か、彼はよく知っている。悪鬼と化した父親の最期を。

 

 許すつもりはないが、これから死ぬ人間を咎める気も起きない。興味が尽きた霧島は質問を変えた。

 

「お前が死ぬのは勝手だが、こっちはそれに付き合うつもりはない。生きてここから出る手段は、あるのか?」

 

「ある」

 

 望み薄だろうと思っていた回答があっさり返ってきたことに拍子抜けする。意外なことに有馬は具体的な脱出法を提示した。

 

 つまり、この状態からでも生き延びることができる可能性はまだ残されているのだ。

 

 有馬率いるS3班は地下24区にて、烏賊の捜索任務を執拗なまでに続けていた。行方をくらませた烏賊の捜索も理由の一つではあったが、これにはもっと重要な任務が別に含まれていた。

 

 S3班は24区の中層エリアにおいて烏賊と類似した別個体に遭遇する。すなわちインクリングの半喰種であった。

 

 それは烏賊のような巨体を持たなかったが、赫子や肉体の性質は非常に類似していた。同じような個体が複数体存在し、そのいくつかは捕縛して聴取している。

 

 驚くべきことにその正体は“元喰種”であることが判明する。もともと24区で暮らしていた喰種たちが烏賊に捕食された後の姿だった。

 

 烏賊は遠距離から獲物を弱らせて捕食に及ぶ場合が多かったが、中には生きたまま丸のみにしてしまうこともあった。その場合、捕食された後も完全に吸収されるまで数時間は意識が残ることがわかった。

 

 今、有馬が見ているものと同じ幻覚症状についても言及があった。彼らは皆、街の中央に位置するタワーに向かい、その内部へ足を踏み入れている。

 

 しかし、そこから先の証言は個人によって異なる。武器を与えられ戦わせられたとか、何者かの集団に襲われたなどと供述しているが、記憶に残っていない部分が多く本人たちもよく覚えていない様子だった。

 

 だが、不思議とその現象を全員が一貫して『マッチング』という単語で表現していた。覚えてはいなくとも、二度と味わいたくないおぞましい体験だったと語っている。

 

 そして、気がつけば変わり果てた姿となって地下道の片隅で意識を取り戻したらしい。肉体の変化後、烏賊の本体から生み落とされたものと考えられる。

 

 和修家『V』はこの新種の喰種について現段階における公表を控えている。CCGの本局もS3班の活動については何も把握していない。

 

「まあ、出る方法があるんなら何でもいい。もうこんなところに用はねぇ」

 

 烏賊に食われた喰種は生き延びる可能性はあっても、全く異なる生物に変貌させられてしまう。それでも霧島はその可能性に賭けることにした。

 

 必要な情報は得たと判断し、塔へと向かう。その途中で一度立ち止まり、振り返ることなく有馬に声をかけた。

 

「お前、そんなに自分のやってることが嫌だったんなら、何で自分でやめようとしなかったんだよ」

 

 有馬の生き様について、霧島はそこが疑問だった。小難しい理屈を並べて説明されたが、もっと簡潔に言える気がした。

 

「自分を殺す喰種を王として祀りあげることで世界に変革をもたらす、だっけ? まわりくど。やりたきゃ自分でやれよ」

 

「……俺にそんな資格は」

 

「『捜査官』だから? 『半人間』だから? 『空っぽ』だからできないってか?」

 

 残された限りある命。生まれ持った種族。与えられた使命。有馬が歩んできた人生やその葛藤の全てを霧島は理解できないし、しようとも思わない。そんな気遣いを向けるような関係ではない。

 

「やろうと思えばいつでも行動できたはずだ。お前は自分で決めたくなかっただけだろ」

 

「ことはそれほど単純な話ではない」

 

「単純さ。お前は人間と敵対する道を選びたくなかったんだ。そりゃそうだ。人を殺すより喰種を殺し続けた方が気に病まなくて済む」

 

 実際に有馬が隻眼の王としての地位を公にしてCCGやVと明確に対立していれば今よりも救いのある世の中になっていたかと言えば、まずそれはない。

 

 それよりは正体を隠してCCGを欺き、機が熟すまで待った方が利口だった。だがその結果、彼が最後まで自分の生き方を変えることができなかったことは事実だ。

 

 霧島は、そんな有馬の生き様を『ただ変化を望まなかっただけの選択』だと決めつける。人と喰種が殺し合うことのない世界を作りたいという有馬の願いも、霧島の目から見れば滑稽でしかなかった。

 

「そのくせよくもこれだけの数の喰種を殺しておいて、挙句の果てに『本当は殺したくなかった』だなんて泣き言を言えたもんだ」

 

 どれだけ道具になり切ろうと、どれだけ空っぽの人間性を気取ろうと、有馬には消し去ることのできない『自分』があった。それに気づかないふりをして、誰かに選択を委ねていただけだ。

 

 運命に抗うために作ったアオギリの樹さえも、エトがいなければ始まらなかった。いつも誰かが用意してくれた舞台の上で、彼は『有馬』という人間を演じ続けた。

 

 与えられたものだけを選び取り、そうする以外に仕方なかったと思い込む方が楽だろう。たとえそれが最善の方法であったとしても。

 

「お前の人生って何だったんだろうな」

 

 有馬は死を目前として霧島に本心を吐露した。侮蔑や罵倒を浴びせられることも覚悟していた。それだけのことをしてきた自覚はある。当然の報いだと思っている。だが、霧島の言葉は有馬にとって全く予想もしていないものだった。

 

「想像以上にくだらないヤツだったよ、有馬貴将」

 

 霧島に侮辱するつもりはなく、思ったことをありのままに伝えた。そう言い残して立ち去っていく。有馬は投げかけられた言葉を反芻していた。

 

 

 * * *

 

 

 それからどれだけの時間が経っただろうか。座り込んでいた有馬はゆっくりと立ち上がった。

 

 

 



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休養イカちゃん

 

 『13区のジェイソン』と呼ばれた喰種がいた。性格は残忍残虐。食うためではなく、遊ぶために人を殺す。人間どころか同族さえも獲物とし、いたぶり殺すことに快感を覚えるサディストだった。

 

 これがそこらの木っ端喰種なら捜査官に捕まって終いとなるところだが、そのレートはSに指定されている。コクリアからの脱走までやってのけた経歴を持つ。

 

 今ではヤモリと名乗り、多数の配下を従えている。その実力を買われ、アオギリの樹にスカウトされて幹部の一人となっていた。

 

「ンッフッフ……もう少しで終わるからねぇ」

 

 ヤモリの手元には様々な道具がそろえられていた。ペンチ、ハサミ、包丁、錐など。それら拷問に使う器具をメンテナンスしていた。

 

 その近くには頭に布袋をかぶせられた何者かが椅子に拘束されている。拷問の被害者であることは明白だった。目の前に置かれたバケツの中には“収穫”された指が山積みになっている。

 

 ヤモリはこの器具を手入れする時間が好きだった。

 

 本来、喰種の力があれば道具に頼らずとも他人を害する手段はいくらでもある。同じ喰種が相手であれば、ただの鉄製の刃では皮膚を傷つけることすらできないため、むしろあっても邪魔な代物だ。

 

 ヤモリは喰種を拷問にかける際、わざわざCCGから略奪した貴重なRc抑制剤を使ってターゲットを弱らせていた。彼にとって拷問とは、それだけの労力を払う価値のある趣味である。

 

 一つ一つ丁寧に血糊を拭き取り、磨き上げた器具たちをツールカートの上に整然と並べていく。彼にとってそれは、美しい音色を響かせるピアノの鍵盤に等しかった。

 

「ちょっと、ヤモリィ。少しは幹部会議に顔くらい出しなさいよ」

 

 最後の一本を並べ終えたところでプレイルームに一人の男が入って来る。趣味の時間を何よりも大事にするヤモリにとって、この部屋は神聖な場所だ。部下であろうと許可なく立ち入ることは許さない。

 

 にもかかわらず現れた男はニコというアオギリの幹部だった。ヤモリに惚れ込み、それだけの理由でアオギリに入ったオカマ喰種である。

 

 彼らアオギリの樹は現在、11区に本拠地を置き活動を続けていた。烏賊駆逐戦の騒動後、幹部を中心とする主力部隊が11区のCCG支局を制圧していた。各区の対応に追われていたCCGは態勢を立て直す間もなく防衛設備を明け渡す結果となった。

 

「あなた、最近はずっとこの部屋に入り浸ってるじゃない。そんなに新しいオモチャがお気に召したのかしら。ジェラスだわ」

 

「別に僕がいなくても大して変わらないでしょ。会議の内容はニコが教えてくれるし」

 

 今日の会議で話し合われた議題は、アオギリの樹に続いて新たに発足した喰種組織『イカイカ団』についてであった。

 

「イカイカ団て……ニコのネーミングセンス死んでない?」

 

「あたしがつけたんじゃないわよ! 向こうが自分からそう名乗ってるの」

 

 わずか三名で構成されたその集まりは組織と呼ぶには大げさだが、戦力は軽視できるものではなかった。

 

 『24区の王』イカコ、『白い死神』アリマ、『元アオギリ幹部』アヤトの三人は既存の喰種とは大きく生態が異なる新種として、これまでの長きにわたる人間対喰種の争いに一石を投じようとしている。

 

 とりわけ巨大極まりない赫者形態を有するイカコの実力の一端は、先の11区戦においてアオギリの樹も目撃していた。

 

 さらに最強の捜査官としてその名を知られた有馬貴将を食らい、殺すどころか種族ごと変化させて仲間にしてしまったという。

 

 イカイカ団はアオギリの樹との会談を打診し、それに応じてタタラが出向いていた。幹部の中でも一二を争う実力者と目される彼が敵地に単身で乗り込んでいた。

 

 そして今日、無事に帰還したタタラから幹部たちに会談の内容について説明が行われたのだった。

 

「ひとまず停戦協定を結んできたみたいだけど、近いうちに破られるでしょうね」

 

「交渉決裂ってわけ? タタラさんならその場しのぎの協定なんか結ばず始末をつけてきそうなものだけど」

 

「それだけ警戒してるってことでしょ。なにせ相手はあの有馬……姿かたちはかなり変わってたみたいだけど、間違いなく本人だったそうよ」

 

 タタラはイカイカ団をアオギリに引き入れるつもりで会談に臨んでいた。しかし、話し合いの結果は『停戦協定』で終わっている。両者の主張が交わることはなかったのだ。

 

「そのイカイカ団の方針だけど、これが面白いのよ。『人間と喰種の共存』らしいわ」

 

 ニコの突拍子もない発言に、ヤモリは目を丸くした。そして心底おかしそうに腹を抱えて笑う。

 

 その陰で、布袋をかぶせられた男がわずかに体を動かしたように見えた。

 

「傑作だ! 狼と羊の群れをどうやって仲良くさせるんだい?」

 

「向こうも色々と手を考えてるらしいけど、何にせよあたしらとは組織としての方向性が違いすぎるわね」

 

 アオギリの樹は人間と喰種の関係は支配によってしか平定できないと考える。これまでは人間が喰種を支配してきた。その既存の支配構造を力によって破壊することを第一の目的としていた。

 

 たとえこれまでになかったような画期的代案が提示されたとしても、もはや抑圧された喰種たちの怒りを止めることはできない。数百年もの間、溜め込まれ続けた憎悪の原動力は殺戮をもって鎮めることしかできないのだ。

 

「まあ、あたしはそういう敵同士が手を取り合うラブにあふれた未来もありっちゃありと思うわよ。できるかどうかは別として」

 

「無理に決まってるじゃん。誰か賛同する奴が一人でもいたの?」

 

「いないわね。でもそういえば、意外だったのはエトちゃんの反応よ」

 

 いつもは何か発言をするでもなく、ただ置物のように座っているだけの少女である。マスクはしていないが、全身を包帯でぐるぐる巻きにしている彼女の素性は幹部の中でも特に謎だった。

 

 だが今日に限ってはタタラの話が始まってからというものの不機嫌そうな気配がにじみ出ていたという。はっきりと何か不満を述べたわけではないが、ニコはその微妙な違いを感じ取っていた。オンナの勘である。

 

「ふーん」

 

 ヤモリは興味なさそうに相槌を打つ。その手には注射器が握られていた。喰種にとっては鼻が曲がるような異臭を放つその薬液はRc抑制剤だ。

 

 彼の意識は既にニコとの話ではなく、大好きな趣味の方へと傾いている。楽しい遊戯の時間が始まろうとしていた。

 

「さて、おまたせ。おくすりの時間だよ」

 

 頭をすっぽりと覆っていた袋が引きはがされる。中から出て来たのは白髪だった。その色とはちぐはぐな若い青年の表情は恐怖と狂気に歪んでいる。

 

「今日もいっぱいさんすうのお勉強しようね、カネキくん」

 

 

 * * *

 

 

 11区を塗りつぶした黒い海は雨に洗い流され、悪い夢のように一夜明ければ元の景観を取り戻していた。避難していた人々は元の生活に戻りつつある。

 

 現在、11区は表面上の平穏が保たれているが、その水面下ではアオギリの樹と本部の捜査官たちが鎬を削る激戦区となっている。もともと暮らしていた喰種たちが戻れる環境ではなかった。

 

 万丈をリーダーとする11区の喰種たちは何とか生き延びることができている。11区から逃げ出したあの夜、増員された捜査官に仲間を殺されながらも、全滅だけは免れていた。

 

 一刻も早く逃げなければならない状況の中、万丈一味だけは最後の仲間の救出に向かう。彼らはイカちゃんのもとへ駆けつけていた。不思議と粘液は彼らの移動を妨げなかった。

 

 赫者化が解け、気絶していたイカちゃんと見知らぬイカ2名を発見した万丈たちは、意識不明者を抱えてようやく逃走するに至る。もしあと少しでも救助が遅れていれば、イカちゃんたちはCCGかアオギリか、どちらかに見つかっていただろう。

 

 万丈らは居場所を転々としながら、現在は地下道を経由して比較的安全な地域である6区まで逃れてきていた。

 

「万丈さん! 来ました、ハトです!」

 

 その隠れ家に近づく複数の不穏な影。喰種の天敵と呼ぶべき人間たちが迫っていた。彼らは気配を隠すことなく堂々と現れる。

 

 それに対し、固唾をのんで待ち構える万丈たちだったが、逃げ出すことはなかった。彼らが来ることは事前に知らされている。

 

「CCG捜査官の平子丈だ」

 

 隊を率いているのは平子上等捜査官である。その他に三人いるが、彼らはかつて有馬が隊長を務めた0番隊と呼ばれるS3班のメンバーだった。

 



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熱唱イカちゃん

 平子はかつてはS3班に属し、有馬のパートナーとして手ほどきを受けている。有馬の願いを知る数少ない理解者だった。

 

 この場に集まった人間は皆、有馬の本心を打ち明けられ、それでもなお付き従うことを心に決めた者たちである。それはCCG、ひいては和修への反逆を意味している。

 

 平子は普通の人間だが、他の0番隊の面々は有馬と同じ『半人間』だった。有馬に忠誠を誓う0番隊は秘密裡にイカイカ団とコンタクトを取り、今日こうしてはせ参じた次第だった。

 

 烏賊駆逐戦の終息後、有馬の死体は発見されていなかった。烏賊に捕食されてしまえば骨すら残らないものと思われ、名目上は行方不明となっていたが、局内において死亡は確実視されていた。

 

 しかし0番隊はわずかな可能性を信じ、有馬の捜索を続けていた。それは死という現実を受け入れられない逃避の感情も多分に含まれてはいたが、無駄ではなかった。

 

 現実に、有馬が生きている可能性が浮上した。その真偽を見極めるべく、彼らはここへ来ている。当然、CCGの本局には黙って抜け出してきていた。

 

「見ての通り、クインケは持ってきていない。我々はただ事実をこの眼で確かめたいだけだ」

 

 事前にコンタクトを取りはしたが互いの立場上、非常に限られた情報のやり取りしかできなかった。一抹の不安を拭いきれずにいる中、隠れ家の奥から小さな人影が姿を現す。

 

 一目見てそれが人間ではないことがわかった。デフォルメされたキャラクターのような頭身、ゲソ状の髪、目の周りの黒い模様、身体は波間に漂うようにゆらゆらと揺れている。平子以外の0番隊は24区でこれと同種の喰種を既に目にしていた。

 

 見た目からして性別は判断できた。一人は長いゲソ髪を持つ女性型の喰種だ。学校の女子生徒のような格好をしていた。おどおどしている。

 

 男性型は二人いた。黒色の髪の喰種は、どこか斜に構えたような雰囲気で腕を組んで立っていた。警戒心を含んだ視線を平子たちに向けている。

 

 そしてもう一人。平子は、眼鏡をかけた白い髪を持つ喰種と目が合う。その何を映しているのかよくわからない瞳を見た平子は確信した。

 

「有馬さん」

 

 二人は互いに歩み寄るが、言葉を交わすことはなかった。有馬は以前のように話すことができなくなっている。しばしの沈黙が続く中、平子は静かにひざまずき有馬の体を抱きしめた。

 

 姿は大きく変わってしまったが確かに有馬は生きていた。平子にとっては、ただそれだけで救われたように感じた。表情こそ変わらなかったが、目頭に熱いものがこみ上げていた。

 

「有馬さん! 良かった、本当に良かった……!」

 

「今度ばかりはマジで心配しましたよ」

 

『すまない。迷惑をかけた』

 

 しゃべれないため有馬はノートに言葉を書いて意思を伝える。

 

『そしてこれから先も、どのような形であれお前たちには迷惑をかけるだろう。本当に未練はないか?』

 

 有馬は自分の意思で生きることを決めた。生きてやらなければならないことがあると思えた。人と喰種が殺し合うことのない世界を作るという目的があった。

 

 殺したくなかったからという消極的な理由ではなく、今度こそ自分の意思で、自分の手で願いを叶えると誓ったのだ。

 

 決められた台本通りの人生は終わった。この先は、有馬にも読むことはできない。多くの困難と失敗が待ち受けているだろう。それでも諦める必要はどこにもない。

 

 しかしそのあまりに壮大な目標は、彼一人の力だけで成し遂げられるものではなかった。人間も喰種も、いずれ多くの者たちを巻き込み、社会全体を動かさなければならないことだ。

 

 だからまずは最も信頼できる者たちに声をかけることにした。その上で、無理強いをするつもりはない。

 

「嫌ならここに来てません」

 

「当たり前じゃないですか。有馬さんがいるならどこにだってついて行きますよ」

 

 0番隊にとっては愚問だった。これまでの生活を捨て、全てを敵に回すこともいとわない覚悟があった。まだCCG内に身を置くこともできるが、いずれ決定的に決別するときが来る。

 

 和修の秘密を知る彼らをVは野放しにはしない。これまでの歴史の中でも和修に歯向かう者たちはいた。そしてその全てが世に知られることなく抹殺されている。あらゆる手段を講じて裏切り者を処分しようとするだろう。

 

 それを承知の上で彼らはここにいる。盲目的に有馬に従うだけではなく、彼らもまた歪められた真実の中で無意味に消えていく自分たちの存在に疑問を抱き、必死に生き足掻こうとしていた。

 

 その覚悟をこれ以上問いただすことはむしろ侮辱となるだろうと有馬は思い直した。平子に両脇を猫のように抱えられ、でろんとぶら下がった有馬は改めて皆に助力を乞う。

 

「いつまで抱っこしてるんですか、タケさん」

 

「なんか思った以上にぷにぷにで、つい……」

 

 0番隊が感動の再会を果たしているところに一人の喰種が近づく。面白いあごひげを生やしたいかつい顔の巨漢、万丈である。イカちゃんはその後ろにくっついて万丈のズボンの端を握っている。

 

「一応、この集まりのリーダーをやってる万丈だ」

 

「そうか。有馬さんを保護してくれたこと、感謝する」

 

「まあ成り行き上、助けただけだ。あのときはまさか、こんなことになるとは思わなかったからな」

 

 イカちゃんのついでに助けたイカがまさか自分たちの天敵だったとは思いもしなかった。しかし、捜査官だった頃の有馬と今の彼は違う。有馬は言葉がうまく話せないながらも、なんとか万丈たちに自分のやりたいことを伝えていた。

 

 万丈はその意思に共感を示した。彼らは生きるために人を殺すしかなかった。その上で共存を求めるなどおこがましいことかもしれないが、全ての喰種が人間との争いを望んでいるわけではない。

 

 ちなみにイカイカ団という団体名は万丈がつけた。それにOKを出した有馬も有馬だが。

 

「しかし悪いが、俺たちにできるのはここまでだ。お前たちに協力したいのはやまやまだが……」

 

「いや、十分すぎるほどやってくれた。今後のイカイカ団の活動は我々が引き継ぐ」

 

 万丈にはリーダーとしての責務がある。彼が引き連れる者たちは人間との共存という大きな目標よりも、明日の生活を気にかける普通の喰種たちだ。彼らを巻き込むわけにはいかない。戦力的にも万丈たちでは役に立たないという自覚があった。

 

 今の社会は人間を中心に動いている。喰種は駆逐されるべき害獣でしかない。これまでになかった新種の生物が共存を訴えたとてどこまで人々が耳を傾けてくれるかわからないが、その輪の中に在来の喰種が混ざっていれば世間はより厳しい目を向けてくるだろう。万丈は身を引くことに決めていた。

 

「俺はいつか、お前の夢見た世界が実現すると信じてるぜ、アリマ」

 

 万丈と有馬は握手を交わした。この手と手のように、種族を超えて分かり合える未来は必ずあると有馬も信じている。

 

「アヤト! イカ子のこと頼んだぜ」

 

 呼ばれた霧島絢都はうっとうしそうにそっぽを向く。相変わらず不愛想だったが、本当に嫌がっているわけではなかった。

 

 インクリング化したアヤトは当初、大きく変化した自分の肉体に戸惑ったものの、身長が縮んだこと以外はすぐに受け入れた。死んでもおかしくなかった状態から命だけは助かったのだから贅沢を言うつもりはなかった。身長のこと以外は。

 

 その身体能力にも順応しており、『赫子』と『ブキ』を融合させた新たな力も自分のものとしている。その強さはまだ途上にあり、これからも成長していくことだろう。

 

 もともとアヤトはイカイカ団に所属する気はさらさらなかった。すぐにでも出て行こうとしていた彼を引き留めたのは有馬だった。

 

 アヤトの言葉がなければ有馬は生きることを諦め、イカちゃんに吸収されていた。その礼を伝え、そしてアヤトにもイカイカ団に入ってもらえないか協力を申し出たのだった。

 

 頼まれたからと言ってすんなりと引き受けるような性格をしていないアヤトが了承するわけもなかったのだが、それを強引に押しとどめたのがイカちゃんである。

 

 有馬との戦いの後、気絶から目覚めたイカちゃんは自分の同族であるインクリングが他にもいることに気づき、それはそれは喜んだ。イカちゃん本人がインクリング化させたわけだが、無意識のうちにやったことであり自覚はなかった。

 

 大はしゃぎしていたイカちゃんだったが、アヤトがここを去ろうとしていることに気づいて一転、泣きわめいて引き留めたのだった。それだけ自分と同じ境遇の仲間に出会えたことが嬉しかったのだ。

 

 最終的にイカちゃんが赫者化しかけたためアヤトは逃げられず、執拗な有馬の勧誘もあってついに折れた。なし崩し的にイカイカ団に居続けることになる。

 

 しかし、態度こそ嫌々ながら従っているようだったが、それほど現状を嘆いているわけではない。ここを出て行ったからと言ってアヤトは他にやりたいこともなかった。

 

 以前の彼はアオギリの樹の思想に傾倒していたが、有馬から聞かされた世界の真実を知った今となっては執着もなくなっていた。毒を食らわば皿までと、アヤトはしばらくこの集まりに身を置くことにした。

 

「イカ子。もうそろそろお別れの時間だ」

 

「ミャ~ン……」

 

 イカちゃんは万丈のズボンを掴んだまま離れようとしなかった。

 

「お前がいなくなるのは俺もさびしいけど、自分で決めたことだろ?」

 

 イカちゃんは有馬から世界の現状について説明を受けていた。言葉が伝わらないイカちゃんに対し、有馬は絵などを使って根気強く説明した。まだ完全に理解したわけではないが、おおよその情勢はつかんでいる。

 

 その上でイカイカ団の一員となることを自分の意思で決めたのだった。ここで万丈たちと別れなければならないこともわかっていた。

 

「もう永遠に会えなくなるってわけじゃねぇ。同じ街に住んでるんだ。生きてりゃまたそのうち会えるさ」

 

「そうッスね。俺たちも、またイカ子と会える日を楽しみに待ってるよ」

 

 万丈一味は明るい表情でイカちゃんを送り出した。これ以上ぐずることはできないと、イカちゃんはようやく万丈のそばを離れる。

 

 そして、いきなり歌を歌い始めた。別れの思い出にと、イカちゃんは歌を贈ることにしたのだ。曲は『シオカラ節』である。

 

「よし、俺らも一緒に歌うか!」

 

 イカちゃんの口から紡がれる、ほにゃらかした不思議な抑揚が響き渡った。万丈たちに歌詞はさっぱりわからないが、皆がそのメロディーに合わせて思い思いに声を合わせた。

 

 インクリングにとってこの曲は、老若男女問わず聞けばテンションあがりまくりのソウルソングである。有馬はその衝動のままにキレキレのダンスを披露していた(顔は無表情)。

 

 アヤトは憮然としたままだったが体は正直だったのか、ゲソ髪だけはリズムに合わせてゆらゆらしていた。

 

 喰種、人間、インクリング。異なる種族であっても伝わる思いはある。いつの日か、この光景が当たり前のように受け入れられる世界を目指し、イカイカ団は新たな一歩を踏み出そうとしていた。

 

 

 * * *

 

 

 人間と喰種の争いの根底には種としての生態がある。人を喰わねば生きていけない喰種が人類の敵とされることは仕方がなかった。有馬たちは、その呪われた生態に終止符を打つ一手を探していた。

 

 その希望はインクリングにあった。インクリングの半喰種は人間を食べずとも他の食料から生きていくための栄養を得ることができた。

 

 イカたちは当然ながらもともと喰種のような食性を持っていない。Rc細胞に似た性質を持つインクについても、近似種の生物を捕食せずとも別の栄養素から体内で合成することができた。

 

 イカちゃんはこれまでずっと喰種や人間を食べており、人肉を美味と感じる味覚に変化してしまったことは確かだが、実は他の食べ物を食べることもできたのだ。地下では他に食料がなかったためやむを得ず、また地上では万丈らが人肉以外のものを食べさせなかったため気づいていなかった。

 

 有馬はこの発達した自己合成能力に活路があると見ていた。極論を言えばイカちゃんを使って全ての喰種をインクリング化するという一手も案としては検討していた。

 

 そこまで行かずとも、インクリングの生態情報を解析することでRc細胞の研究分野に大きな影響を与えることができるかもしれない。Rc細胞の人工培養などこれまでは不可能とされてきた技術に応用できるのではないか。

 

 いずれにしても、その道のりは険しい。人間と喰種の新しい関係を築くためには時間がかかる。それを阻止しようと動く者たちも多く存在する。

 

 仮に全ての問題が解決されたとしてもうまくいく保証はない。同じ人間同士であっても、ただ肌の色が違うというだけで差別は生まれる。異なる種族が共存することはそれを遥かに上回る困難を伴うだろう。

 

 それでも、何もせずただ見ているだけではこれまでと同じ歴史を繰り返すだけだ。変えるためには誰かが立ち上がらなければならない。

 

 イカイカ団の結成から5年の月日が流れた。そのわずかな期間のうちに東京は変わった。それは変革と言うより混沌と称するにふさわしい状態だった。

 



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最終イカちゃん

 

 有馬貴将はイカとして生まれ変わり5歳を迎えた。その種族は少々ややこしく、元半人間のインクリングである。人間と喰種とイカの血がどの程度混ざっているのか本人にもわからない。

 

「有馬さんと休日に外出するなんて久しぶりですね」

 

 ここは20区。有馬の隣を歩いている人間、いや『半喰種』の名は金木研と言う。元は人間でありながら、喰種の赫包を移植されてしまうという数奇な運命に巻き込まれた人物だった。

 

 その経歴もあって彼は有馬に出会う以前から人と喰種の共栄を望んでいた。今では志を同じくする同胞である。こうしてたまの休日に肩を並べて(と言うには少し体格差があり過ぎるが)街を散策するくらいに仲は良かった。

 

 有馬特等保安官ならびに金木一等保安官の両名は『東京保安員会(TSC)』に所属し、平和のために日々邁進している。

 

 かつてこの街の安全を守っていた喰種対策局(CCG)は解体された。今から3年前のことである。人類の歴史の分岐点と言うべき大事件が起きた。

 

 その当時、有馬たち『イカイカ団』は和修に支配されたこの国の闇を暴くべく暗躍していた。CCGの内部に丸手特等捜査官を始めとする多数の協力者を抱え込み、和修の実態を白日の下にさらそうとしていた。

 

 いかに強大な和修とて一国そのものに逆らうことはできない。有馬らは世論を味方につけようとした。和修の息がかかった日本のマスコミや政府組織に働きかけても効果は薄いと考え、国際問題として大々的な提起を計画する。

 

 対喰種政策において日本と親密な国際協定を結んでいたドイツはこの動きにいち早く反応し、CCGの実態究明を強く求める政府声明を発表した。和修常吉総議長はのらりくらりと答弁をかわしていたが、世論の逆風は確実に強まっていた。

 

 それでも黒と明らかにならない限り灰色は灰色のままだ。しらを切り通されれば和修の治世はまだ続くだろうと長期戦を覚悟していた有馬たちは、そこで思わぬ一手を受けることになる。

 

「ここの街並みも随分変わりましたね……」

 

 金木が目を向ける先には、高層ビルの間を縫うようにそり立つ肉壁があった。何かの合成映像としか思えないその光景が、今や東京の日常だった。

 

 巨大なイソンギンチャクのような形状をしたその物体は『レヴィアタン』と命名されている。

 

 地上に見えている部分は表層の一角にすぎず、張り巡らされた地下茎はどこまで続いているのか解明されていない。出現地は東京に集中しているが、地方でも同様の現象が確認されている。その規模は少しずつだが拡大傾向にあった。

 

 この怪物は和修によって作り出された。和修の始祖『ナーガラジャ』と呼ばれた喰種の成れの果てだった。

 

 その起源は大陸から渡ってきたとされ、歴史に断絶を生じさせるほどの被害をもたらした。その遺骸は今もなお24区の最深部に残されている。

 

 和修は、その遥か昔に終わりを迎えたはずの“竜”を現代に蘇らせようとしたのだ。元CCG研究員嘉納明博の手により、太古の血統を色濃く発現した神代リゼの赫包と24区から採取されたインクリングの細胞を融合させる禁忌の実験が行われた。

 

 彼らにとって現在の東京の惨状は、果たして成功だったのか失敗だったのか。逮捕されたVの構成員は支離滅裂な妄言を口にするばかりで実験の目的や経緯を知ることはできなかった。

 

 ただ後に、この実験を主導した人物は当時の和修家のトップである和修常吉ではなく、分家筋の末子に過ぎない旧多二福という捜査官だったことが判明している。旧多を含め中心人物たちはレヴィアタンの暴走に巻き込まれて死亡してしまったものと思われた。

 

 真相は闇の中に取り残されたまま、しかし人々は現実を受け止めて生きていくしなかい。

 

「ほにゃ~!」

 

 有馬と金木が街を歩いていると、路地裏からほにゃらかした声が聞こえてきた。二人のイカボーイが『カグネシューター』を撃ち合いながら飛び出してくる。

 

「こら! ナワバリバトルは所定の場所でしなきゃ迷惑条例違反だよ!」

 

 ボーイたちは道路の上もお構いなしにインクで塗りたくっている。インクは数分で気化してなくなるとはいえ、通行の妨げになっていることは事実だ。保安官として見過ごすことはできなかった。

 

「んみゃ~!」

 

「んみっ! んみっ!」

 

 だが、バトルに水を差されたボーイたちは悪びれるどころか苛立ちをあらわにしている。保安官の制服であるコートを着ていれば反応も違ったかもしれないが、今の金木たちは私服姿だった。

 

 金木は仕方なく保安官手帳を取り出そうとしていたが、そこでボーイたちの視線が有馬の方へ釘付けになっていることに気づく。制服を着ていずとも、そのイカが何者であるか彼らには心当たりがあったのだ。

 

 『東京ナワバリ大戦』を勝利に導いた伝説のチーム『イカイカ団』の活躍を知らないインクリングはいない。その一人、白い死神アリマがTSCの保安官となっていることも広く知られていた。

 

 有馬は特に威圧するわけでもなく、いつもの何を考えているのかよくわからない魚のような目を向けているだけだったが、それだけでボーイたちは恐れをなして逃げ出してしまった。

 

「まあ、非番だし……このくらいは大目に見ますか」

 

 インクリングの本能と言うべきか、このナワバリバトルはいくら取り締まってもきりがない状態だった。よほど悪質な場合でなければ違法性軽微として注意で済ますことが多い。

 

 今や、当たり前のようにインクリングの存在は世間に認知されている。『インクリング』という呼称についても正式に種族名として使われるようになった。

 

 これもレヴィアタンがもたらした被害の一つである。今でこそ活動が沈静化しているが、発生が確認された当初のレヴィアタンは活火山の噴火のように激しくインクをまき散らした。東京の空は、色とりどりのインクの濃霧で覆い尽くされていた。

 

 このインクを浴びたまま洗浄を怠ったり、霧状のインクを多量に吸い込むと人間も喰種も肉体に変化を及ぼす。徐々にインクリング化し始めるのだ。

 

 一度この症状が現れると治療する手立てはない。中途半端にインクリング化した状態は見るに堪えないおぞましい姿になってしまい多臓器不全などの合併症を引き起こすため、発症した者たちは自らインクを浴びて完全に種族を変えるしかなかった。

 

 しかし、完全なインクリングとなってしまえば健康上の問題はなく、見た目の愛らしさもあってそれほど抵抗もなく受け入れられるようになった。元は人間ということもあり、インクリングの権利に関する法整備も進められている。

 

 異種族だからという理由で排斥に力を入れるような余裕は、当時の情勢では考えられなかった。レヴィアタンという未知の怪物に、人間も喰種もインクリングも全ての種族が一丸となって対抗する必要を迫られていたのだ。

 

 インクの放出を日に日に増大させていくレヴィアタンを制し、その活動を鎮静化させるに至った激戦は、後に『東京ナワバリ大戦』と呼ばれた。これを機に、人間を中心として動いていた社会は大きな転換を迎える。

 

 全ての発端は和修という喰種の一族にあったが、その怪物を知らぬ間に育てていたのは盲目的に社会を信用していた人間たちでもあった。過去の遺恨を全て水に流すことはできずとも、本質を見ることなく喰種を否定するだけの悪しき慣習は変えていく必要がある。

 

 これにより人間と喰種による史上初の権利協定が結ばれることとなった。この新たな思想は大きな波となり、世界の各国に影響を与え始めている。

 

 皮肉にも人と喰種が手を取り合うきっかけとなったレヴィアタンは、今も活動を続けていた。定期的にインクを放出しているため、テレビや新聞では天気と一緒にインク予報まで伝えられるようなった。

 

 またレヴィアタンは以前よりインクの放出量が減った代わりに、『落とし児』と呼ばれる新たな脅威を生み出すようになった。

 

 その形はインクリングに似ているが、全身が鱗状の赫子で覆われた異質な姿をしている。知性はなく、攻撃的な行動を取り、動くものに襲い掛かり手あたり次第に捕食しようとする。

 

 定期的に大量発生する落とし児を処理することもTSCの仕事の一つだ。またそれ以外にもTSCの敵は数多く存在する。

 

 『アオギリの樹』や『ピエロマスク』など、人間に敵対する喰種の勢力は依然として存在していた。喰種至上主義者や復讐に駆られた者など、全ての喰種が人間との共存に賛同したわけではなかった。

 

 喰種だけではない。最近ではインクリングによって構成された『スキルドレン』というチームが暴れ回っている。ラクガキをアートと称して広大な範囲を塗りたくり、時には殺人などの重犯罪にも手を染めていた。

 

 そのためTSCは深刻な人員不足に陥っている。半喰種である金木が保安官になれたのもこのためだ。厳正な審査はあるが、TSCは人間に限らず保安官として多くの人材を受け入れていた。

 

 また、CCG時代から計画が進められていた『クインクス』部隊についても正式に稼働することが決定した。手術によって赫包を埋め込まれた“赫子を使える人間”である。

 

 今や“人間”“喰種”“インクリング”という言葉でひとくくりにする物の考え方はナンセンスと言われる時代となった。混血はそこかしこにあふれており、どこからどこまでが人間なのか定義すら曖昧になってきている。

 

 まさに混沌である。この未来は果たして有馬が思い描いた夢に近づいていると言えるのだろうか。彼自身にも自信はない。一つの課題をクリアすれば別の課題が現れる。終わりはない。わかっていることはただ、道半ばにあるということだけだ。

 

「ちょっと有馬さん! どこ行くんですか」

 

 物思いにふけりながら歩いていた有馬は目的地の前をうっかり通り過ぎようとしていた。貴重な休日を当てもない街歩きに費やしているわけではなく、ちゃんと行先は決まっていたのだ。

 

 そこは一軒の喫茶店だった。店の前には『あんていく』と書かれた看板が置かれている。二人が店に入ると、カウンターに立つ老店主が柔和な笑顔で迎えた。

 

「いらっしゃい、カネキくん、アリマくん」

 

「こんにちわ、芳村さん」

 

 店内にはそこそこの客足があり、繁盛しているようだった。マスターの芳村と、店員の古間が切り盛りしている。古間はセットに1時間かけた髪を撫でつけながら金木に声をかけた。

 

「せっかく来てくれたのに残念だったね。今日はトーカちゃんのシフトじゃないんだ」

 

「い、いや、別に残念では……」

 

「またまた。ところで、もうデートのお誘いくらいはしたのかい?」

 

「いや、だから別にそういう関係では……」

 

「まったくキミという奴は、しょうがないな。この20区の魔猿と呼ばれた古間円児が一肌脱ごうじゃないか。トーカちゃんには僕からよろしく伝えておくよ」

 

「やめてください……」

 

 捜査官になる以前はこの店で喰種としてのいろはを教え込まれた金木にとって、ここの店員は皆顔見知りである。つまり、この店の関係者は全員喰種だった。

 

 店長の芳村は見た目こそ優し気な老人だが、かつてはVに殺し屋として雇われていたほどの恐ろしい喰種である。この『あんていく』は長らく20区を取り仕切ってきた場所だった。今でもその立ち位置は変わらず、多くの喰種を取りまとめている。

 

 現在では法律が改正されたことにより正体を明かして店を営むことができるようになっている。そのせいで人間の常連客がみんないなくなってしまったことは芳村にとって残念だったが、代わりに新たな出会いがたくさんあった。

 

「ありゃみゃ~!」

 

 とてとてと店の奥から走ってきたイカガールが有馬に抱き着いた。いつも無表情の有馬だが、このときばかりは少しだけほっこりした顔になっていた。

 

 駆け寄ってきたインクリングはイカちゃんだった。今では、あんていくで店員として働いている。ちゃんとイカちゃん用にあつらえられた喫茶店の制服を着ていた。

 

 東京ナワバリ大戦の後、イカイカ団はその役目を終えた。チームは解散し、メンバーはそれぞれの道を歩み出している。

 

 イカちゃんの案内で有馬たちは席に通された。いつものブレンドを二つ注文する傍ら、金木は少し離れた席に座っている客に目が留まっていた。

 

「高槻先生も来ていらしたんですね」

 

 机に突っ伏していたイカガールが声をかけられて顔を上げた。手元に広げられた原稿用紙の上に、盛大によだれを垂らしている。

 

『おお、誰かと思えばカネキくんじゃないか。元王様も一緒かい』

 

 彼女は元半喰種のインクリングだが、喉に埋め込んだ人工声帯により人間に近い発音が可能だった。これはある種、楽器のようなもので習熟しないとここまでうまく話すことはできない。

 

 うすぼけた色をしていたガールの髪が虹色に発光し始める。

 

「うわ、何ですかそれ。目がチカチカします」

 

『ゲーミングエトちゃん』

 

 彼女の名は芳村エト。イカイカ団の中心メンバーである四人組の最後の一人だった。今は高槻泉のペンネームで小説家をやっている。

 

「そういえば深く聞いたことありませんでしたけど、高槻先生と有馬さんって昔からの知り合いだったんですか?」

 

『まぁね。今の関係に落ちついたのは11区掃討戦からだけど』

 

 イカイカ団が発足して間もない頃、11区を占拠していたアオギリの樹を駆逐すべくCCGは『11区掃討作戦』を決行した。当時、アオギリの幹部であるヤモリに拘束されていた金木にとってはあまり思い出したくない記憶だった。

 

 万全を期して本局から一個大隊規模の捜査官が送り込まれた。苦戦を強いられながらも順調に拠点の制圧を進めていたCCGだったが、そこに思わぬ強敵が現れる。

 

 トリプルSレート『隻眼の梟』だった。篠原、黒磐ら特等捜査官二名が対処に当たるも、このイレギュラーを相手にして圧倒されていた。

 

 しかし、何とかこれを退散させるに至る。正確には見逃されたと言えた。なぜか梟は戦闘を切り上げて帰って行ったのだ。時間稼ぎでもしているかのような戦いぶりだった。

 

 過去に梟との交戦経験を持つ篠原たちはその様子に違和感を覚える。果たして本当に10年前に戦ったフクロウと同一の個体だったのか、疑問が生まれていた。

 

 その疑問の答えはすぐに裏付けられることとなった。11区の掃討が完了し、捜査官たちが撤収を始めた頃に『二体目の梟』が遅れて登場したのだ。

 

 先ほどまで交戦していた個体とは二回り以上も体格が異なる怪物だった。10年の間に成長したのだ。この個体こそ篠原たちがかつて戦った本物の梟だった。

 

 絶望と言うしかない。死を覚悟し、それでもなお戦うことを決意した捜査官たちだったが、そこで予想だにせぬ助けが入ることになる。

 

 突如として現れたイカ三人組が篠原と黒磐の戦いに加勢した。戸惑いを隠せない捜査官たちだったが、窮地に立たされた彼らは藁にもすがる思いでこの共闘を受け入れた。

 

 そして激戦の末に隻眼の梟は討ち取られた。公式の記録上は、これがCCGとイカイカ団の最初の邂逅となっている。

 

『まあ、要するに私をダシにして人間の勢力に敵じゃないよアピールをしたっていう、マッチポンプなんだけどね』

 

「それサラッと言っちゃっていいんですか……?」

 

 隻眼の梟であるエトと有馬は最初から裏でつながっていたので、これは仕組まれた戦いだった。ただし、エトはわざと負けたわけではない。

 

 アオギリを離れて勝手に行動し始めた有馬に対し、エトは少なからず反感を持っていた。アオギリの樹はエトと有馬が立ち上げた集団だったが、秩序の破壊を最優先に考えるエトに対して有馬の思想は微妙に彼女とは着地点がズレていたのだ。

 

 操り人形だったはずの有馬はエトの手から放れてしまった。意思を持つオモチャなど必要ないと、エトは有馬たちを殺すつもりで11区におびき出した。

 

 結果的に全力を出してもエトは負けてしまったわけだが、それはそれで良いとも思っていた。『力による支配』こそアオギリの理念だ。弱者は強者に従うのみ。その原則を曲げるつもりはなかった。

 

 この時点で心のどこかでは有馬たちのやることに賭けてみたいと思ってはいたのだが、これまでにあまりにも多くのものを失いすぎていた彼女はその気持ちを素直に表すことができなかった。

 

『それでまあ、負けちゃったしもうどうでもいいかと思って自分からイカちゃんに食われに行ったってわけ』

 

 そこから吹っ切れたエトはインクリングに生まれ変わって第二の人生を歩き始める。以前の彼女であれば、こうして父親の店に顔を出すなんてことは到底考えられなかっただろう。

 

 彼女に付き従う形でアオギリの幹部であったノロもイカイカ団に加わった。実は今もこの喫茶店に来ている。仮面をつけた不気味な大男が、エトと同じテーブル席でラージサイズの特製コーヒーをすすっていた。

 

 アオギリの樹は多くの仲間を失った。有馬、エト、ノロ、アヤトと言った主要幹部の脱退、そして11区掃討戦で死亡したヤモリと数多くの構成員たち。

 

 その一方、11区掃討戦の裏で別動隊を率いてコクリア破りを成功させたタタラは、収容されていたSSレートの凶悪な喰種たちを野に解き放ち、アオギリの勢力を増強させている。

 

 タタラは有馬やエトとは袂を分かつ道を選んだ。現在もアオギリの樹は活動を続け、TSCと熾烈な抗争を繰り広げている。

 

『タタラっちの気持ちもわからないではないんだよ。なんだかんだ言って、あの頃の私はまだ引き返せるところにいた。タタラっちはそうではなかった。その差はほんの些細な違いでしかないけど、決定的な違いなんだ』

 

 復讐を果たすその日まで、タタラの胸中で燃え続ける憎悪の炎が消えることはない。彼と似たような境遇を持つ喰種は数え切れないほどいる。

 

 種族の壁を越えて協力し合う社会を作ろうと人々は努力しているが、その陰にはいまだに多くの遺恨が残されていた。差別、格差、排斥、迫害。種族平等の象徴たるTSCの内部においてでさえ軋轢は存在する。

 

 劇的な変革が起きたとはいえまだ数年の出来事である。人々の意識を変えるには世代をまたぐほどの長い時間が必要となるだろう。それもまた今を生きる者たちに与えられた大きな課題の一つである。

 

「そ、そういえばアヤトくんは今なにをしてるんでしょうか?」

 

 しんみりしてしまった空気をどうにかしようと金木が話題を変えた。有馬、エト、イカちゃんと往年のイカイカ団がそろい踏みだが、一人だけこの場にいないアヤトの動向が気になった。

 

「アヤトくんなら旅に出たよ」

 

 古間が言うには、アヤトはバイク趣味に目覚めたらしく、インクリング仕様に改造した愛車を乗り回して全国走破の旅に出かけているらしい。

 

「写真もあるよ」

 

 古間がスマホを見せた。アヤトはまめにツイッターを更新しているようだった。自慢の愛車や各地の絶景ポイント、ご当地グルメの画像がアップされている。

 

「そうなんだ、ふぅん、へぇ……」

 

 いっそのことネタとしてイジればこの淀んだ雰囲気も変わったのかもしれないが、仮にも東京を救った英雄に対してそんな扱いをしていいものだろうかという気遣いから金木は曖昧な相槌しか打てずにいた。

 

 一応、弁解しておくとアヤトの旅は地方への拡大を見せているレヴィアタンの生態調査も兼ねている。完全に遊び惚けているわけではない。

 

 東京に比べればまだ被害は少ないが地方にも落とし児の出現が多数確認されており、TSCの情報部と連携して調査活動に貢献していた。インクリングには特殊なインク感知能力があり、優れたアヤトの嗅覚はレヴィアタンの赫子の位置特定に一役買っていた。

 

「おみゃたしぇ~」

 

 金木が何とも言えない表情でツイッターを流し見ていると、イカちゃんがコーヒーを運んできた。そのままのテーブルの高さだと給仕しにくいので、専用の踏み台が用意されている。カップを並べ終えると一礼して戻って行った。

 

「……うん。やっぱりこの店のコーヒーが一番だ」

 

 金木は太鼓判を押した。このあんていくの新たな名物となった『イカスミブレンド』は、マスターの芳村とイカちゃんによって共同開発されている。

 

 コーヒーにイカちゃんのインクが混入しているのだ。実はこのインクを飲料として扱うという衝撃的発想が、今日における喰種の社会的地位確立の要となっていた。

 

 高濃度のRc細胞液であるインクは喰種の代替食糧として機能し得たのである。レヴィアタンのインクは肉体を作り替えてしまう特殊な毒素を含むため飲むことができないが、インクリングの出すインクであれば問題なく摂取できた。

 

 このインクの存在により、捕食者と被捕食者の関係にあった人間と喰種は生物としての枠組みを越えて手を取り合うことが可能となった。喰種は人を喰う必要がなくなったのだ。

 

 普通の喰種ではインクの原液を飲むと腹を壊してしまうため、1000倍希釈された飲料用Rc溶液が発売された。非常に安価で大量生産ができ、これにより食料問題は解決されたかに思われた。現に、この発明がなければ今の異種族混和社会が実現することはなかっただろう。

 

 しかし、喰種側は全面的にこの飲み物を受け入れたわけではなかった。舌に合わなかったのだ。飲めないことはないが、人肉とは比べ物にならない。喰種の味覚は人肉を喰らうことを至上の快楽と感じるようにできている。

 

 ひと月やふた月なら我慢できても、この先死ぬまで薄めたインクしか飲めないとなれば考えてしまう。人間も同じだが、栄養が足りれば食事が必要なくなるわけではない。

 

 喰種にとっては人間以上に食事に対するプライオリティが高い。インクの長期摂取による安全性を疑問視する声もあり、これを受け入れられなかった喰種も多かった。

 

 だが、TSCはいかなる事情があろうと人肉の違法所持を認めなかった。殺人を犯せば旧喰種対策法に基づき処罰される。裁判を挟む余地もなく、保安官の手により命をもって罪を償わされるのだ。

 

 喰種の社会的地位はようやく崖の端に手をかけた状態だった。取り締まりの手を緩めれば、人間と喰種はあっけなく元の関係に戻ってしまうだろう。断じて見逃すわけにはいかなかった。

 

 喰種が人権を認められるためにはインクを飲み続けるしかない。金木のように人を喰らうことに抵抗がある者にとってはありがたい話だったが、そのような喰種はごく少数だ。多くの喰種が食事にストレスを強いられる生活を送っている。

 

 そこで芳村が考案した取り組みが『イカスミブレンド』だった。コーヒーは人と喰種が共通して味を楽しめる数少ない嗜好品である。これをインク飲料の品質向上に役立てることはできないかと考えていた。

 

 当然ながら最初からうまくいったわけではない。ただ混ぜ合わせればいいというものではなかった。豆一つ取っても種類、産地、生産家など膨大な検証を重ね、焙煎の仕方、淹れ方、インク濃度や混合比を研究した。

 

 インクの味も採取された個体によって大きく差があることがわかってきた。あんていくではイカちゃんの良質なインクが100%使用されている(隠しメニューでエトブレンドも存在する)。

 

 こうして紆余曲折を経て新メニューが生み出された。どれだけ失敗を繰り返そうと少しも苦に感じなかった。まさに我が子のようにいつくしみ淹れた至極の一杯である。

 

「このコーヒーを淹れるたびにいつも思う。感謝しかないんだ」

 

 芳村もまた、有馬や金木と同じ夢を望んでいた喰種だった。しかし、どこかでその夢を諦めた喰種だった。今のような世の中になることなど想像もできなかった。

 

 

 

 その夢のような世界にあなたは生きている。その一杯は無量の感謝から作られた。

 

 どうか感じてほしい。この世界(あじ)は、きっと思っているほど悪いものではない。

 

 

 

『うーん、ダメだなぁ。キャッチコピーって考えるの難しいね。ノロさんどう思う?』

 

「……」

 

『うんうん、やっぱり長文よりパッと目につきやすいフレーズがいいかな。シンプルイズベスト』

 

 

 

 インクとコーヒー 奇跡のマッチング! 新登場イカスミブレンド!

 

 喫茶『あんていく』

 

 

 

 







イカスミブレンドを飲んだ月山の感想
「トレ!! ビアンッ!!!」



イカイカ団、使用ブキ一覧
イカコ【ハイドラント】
アヤト【マニューバー・ラビット】
アリマ【スクイックリン・IXA】他多数
エト【ヴァリアブルローラー・イン・ザ・シティ】



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