TS転生幼女、精霊の大地にて躍進す (まほさん)
しおりを挟む

終わり、そして始まる
第一話 見知らぬ場所


 1

 

(なんで、なんで……!)

 激しい慟哭のごとき問いが叩きつけるように繰り返され。

 

(いやだ、まだ死にたくない!)

 心胆から湧き上がる熱望が胸を占め。

 

(どうして俺が、なんでこんな目にあうのが俺なんだよ)

 不条理への嘆きがこみ上げ。

 

(まだ生きていたい、くそ! くそ!)

 最後の瞬間まで湧き上がる生への執着に、意味のない悪態を吐き。

 

(俺よりも死んだほうがいいやつなんていっぱいいるんじゃないか!)

 無様で醜悪な心根を剥き出しにして、男は叫んでいた。

 

(こんなの、間違ってる、いやだ。俺は、俺は……!)

 意識が掻き消える刹那のときに、男は絞りだすように魂の声をあげる。

 

(父さん、母さん! 助けて……!)

 幼いときに死に別れた両親に、一心にすがった。

 その願いが届くことはなかった。

 

 

 

 雷礼央(いかづちれお)は死んだ。

 

 

 

 ゆっくりと、落ちていく。

 死を自覚した雷が朦朧とした意識でかろうじて知覚したのは、底のない場所に沈みいくような浮遊感だった。

 投げ出した手足に力は入らず、口も開かず、音も聞こえない。

 まぶたが閉じているのか、開いているのかも判別のつかないほどの暗闇の中を、雷はどこまでも沈んでいく。

 ろくに身動きの取れない不自由な体に、違和感はなかった。

 

 雷は交通事故で死んだのだ。

 

 体が動かせなくなって当然だろう。

 だが、だからこそ今この瞬間の自分の思考がひどく不思議だ。

 停止した脳で、どうしてこんなふうにあれこれと思念が続いているのだろうか。

 

 今にも掻き消えそうな形になりきれない曖昧な思考とはいえ、終わったはずのものが存在している。

 これは一体、なんなのだろう。まともに考えることができないおぼろげな頭で、しばし考える。――ああ、なるほど、これがいわゆる死後の世界というものか。

 雷はやっと結論を出した。

 

 どこにいるとも知れない、飲み込むような漆黒の闇。

 

 潰えた命の残り滓が、残りわずかな時間で見ている光景なのだろう。

 

 納得した雷は、ようやっと考えることをやめた。

 

 そうすると、ほんのわずかに残っていた自我もどんどんと閉ざされていく気がする。

 眠りにおちるように、雷は最後の残滓である自分を手放す。

 砂のように散らばっていく意識が、緩やかに鳴る心臓に似た音を聞く。雷を包み込むようにどこからか響いている。それに重なるように、止まったはずの自身の心臓が穏やかに鼓動を打つ気がした。

 

 2

 

 覚醒は唐突だった。

 もやがかかったような意識が一転、霧がさあっと晴れるようにはっきりする。

 

 見開いた目に飛び込んできたのは、視界の端まで見渡すかぎり乱立する木々であった。

 天幕のように頭上をおおう枝の隙間から届く月明かりに照らされた光景は、現代社会で生きていた雷には馴染みのない鬱蒼とした場所だ。

 ここは森か林なのだろう。雷はとまどいながらも瞬時に判断する。

 

 雷は気づけば見知らぬ異様な森の中、ひとり立ちつくしていた。

 

 一部の木は、緑の色が褪せて黄色く染まっている。夜の肌寒さと相まって、秋めいた空気を感じとった。

 ごつごつとした木の根が張った地面と木々は鮮やかな苔に覆われている。シダ科と思わせる渦巻状の芽の植物は雷の腰ほどまであり、あちこちに無造作に生い茂っていた。赤い実をつけた背の低い樹木や、木の根に這うように生える無数のきのこ。植生になどもともと詳しくないが、テレビ番組で見る日本の山野とははっきりと趣が違うのはひとめでわかった。

 なにより異様なのは、青白い花を咲かせほのかに輝く植物だ。洋燈(ランプ)を花にでもしたような花の内側に、光がともっていた。点々と咲きほころぶ花は、月明かりがわずかな夜でも、周囲の確認には事欠かないあかりになっている。こんな花の存在など、雷は聞いたことがない。

 

 言いようのない違和感が、雷の胸の中で生まれる。

 冷たい汗が流れ、雷は無意識のうちに唾を飲んでいた。

 

(俺はどうしてこんなところにいる? ここはどこだ?)

 

 未だ夢の中にいるのだと、すがるように強く願った。

 

(夢、わけのわからに場所にいる夢。これは夢なんだろう)

 

 明晰夢、という単語を雷の知識が告げてきて、この事態はそういうことなのだろうと雷は納得することができた。

 だが、これが夢なのだとしたら。

 

(どこからが、夢だ?)

 

 腹腔奥深くから湧き上がる吐き気に似たものを、雷は必死に飲み込む。

 

 

 思い返したくもない恐怖と絶望が雷の内側から溢れ出て精神を蝕み、矢も盾もたまらず叫び出したくなった。

 

 

 雷はとっさに腹をさすった。

 命がまたたくまに目減りしていくあの時、一秒、一瞬、激しく脈打つ鼓動のひとつひとつを、雷は克明に覚えている。

 

 最悪な想像を――腹に穴が開いている――したが、想像したような手応えはなかった。

 痛みもなにもなく、どうやら怪我がある様子はない。

 雷の人生において一度も袖を通したことのない詰襟の学生服めいたものをぐしゃりと皺になるほど鷲掴んだだけだった。

 安堵で深く息を吐いた。

 

(俺は……今、夢の中にいる)

 

 きっと、自分の体は今、眠っている最中なのだ。

 そう、あの事故もきっと夢。

 自分の精神安定の都合のいいことを言い聞かせるが、それを不可能にする残酷なまでの衝撃を思い出してしまった。心臓が怯えるように戦慄いている。

 

 雷の命が完全に途絶えたあの瞬間。

 社員旅行のために乗車したバスが、目的地である温泉旅館に向かう途中で、カーブが多い切り立った道路から転落する事故を起こした。

 窓ガラスから勢いよく放り出され、木の枝が深々と腹に突き刺さった。

 まるで百舌の速贄だった。

 

 即死できず、少しの間だけ彼には意識が残っていた。

 ショック状態のホルモンの過剰分泌のおかげか、あんな状態のわりに耐えきれないような痛みはなかった。

 だからこそ、痛みへの辛苦を吐くよりも、恨み辛みばかりをくどくどと胸の内で吐いていたとおもう。

 どうして自分がこんな目にあわなければならないんだという底のない闇に沈むような絶望感の生々しさを、夢だった、などと楽観的に切り捨てられない。

 

(だが、あれが夢じゃあきゃ、今、ここにいる俺は一体なんだっていうんだ?)

 

 困惑して身動きのとれない雷のそばを、塵のように小さな虫が、群れをなして飛びかっている。

 むっと鼻をついてむせ返るような土のにおいを含んだ粘ついた淀みを孕んだ風が、木々の間を割って通り過ぎ、雷の頬をじっとりとなでていく。

 黒い髪が、風におどるようにそよいだ。

 直後に雷は違和感を抱く。しかし、それは現状において些細な違いでしかなかったので、雷ははっきりとその違和感の原因を己の中に追求しなかった。

 

 3

 

 今、最も大事な自身の問題――自分は死んだのかどうか――に関して、どれほど考えても答えは得られず、ただ呆然とするだけで、なにも解決しない。

 この事態は雷がどれだけ悩んでも仕様のないことなのだと、やむを得ないが悟った。その件に関してあれこれと推測と予想をたてるのは、今のところは諦めた。

 

 直面している不自然さからは目をそらし、雷は夢だと言い聞かせる。

 そして、これはただじっとしていたところで終わらない夢なのだ。

 不意にこみ上げてきたつめたい切迫感が、雷をぼんやりさせるのを許さなかった。

 虫の知らせとも言えるかもしれない。

 

 何もしないでいるのは、よくない気がする。

 

 直感が胸を締めつけたため、自失していたのは僅かな間だった。

 ありもしない助けや救い、都合のいい終わりなんてどれだけ待っていたところで訪れてはくれない。

 雷はそれをよくわかっている。

 何もしないで何かを掴んだり、結果を出せたりするような、要領や運がいい人間じゃない。

 自分から努力して、動かなければならない。自分はそういう類の人間なのだ。

 

 夢の中の世界の優しさなんてなくて、現実世界と同様の不条理さがある異境にいるのだと、はっきりとした証拠もないが雷はふつふつと感じ取っていた。

 深く呼吸をする。うるさい心臓を鎮め、雷は自分の体を把握する。

 

 短い間で積もり重なった違和感を無視しきれなくなった。自身の姿や格好がどうにも気になる。そっと目の前にかざした手は、雷の記憶にあるものよりもずっとちいさい。

 

(子供の手だ)

 

 息を呑んで絶句する。

 地面の距離から目測できる視界の低さといい、体が縮んでいるのだと雷は理解した。

 髪をさわる。風になびいたときも、気になった。雷の髪型は短髪だ。しかし(くしけず)る手は腰まで流れていく。

 指ざわりのいい滑らかな黒髪だった。緑色の艶があり、不可思議な光沢のせいでよくできた作り物のように見えた。

 

(変なの、女みたいだ)

 

 ここまで伸ばした長髪の男は、なかなか見たことがない。

 衣服も、黒い学生服のようだと思ったが、子細が違う。

 服には白い縁取りがあり、そこにはうっすらと規則的な模様がある。

 それに服の上に細い布帯(ベルト)を巻いている。布帯(ベルト)には繊維の荒い布袋と長い棒が引っかかっていた。

 

(なんだ、これ?)

 

 まずは棒を手に取る。

 表面を綺麗に加工されている今の雷の腕の長さほどある木製の棒だ。

 持ち手があり、試しに片手で振ってみる。何か起こることを期待したわけではない無意識の動作だった。

 特に何も起こらず、雷はそんなものだろうと棒を戻した。手頃な棒があるととりあえず振り回してみたくなる少年心が、緊張感なく雷を突き動かし、その欲求のままなんの気なしに棒を振ったにすぎない。

 

 袋の中には青い液体で満たされた試験管が入っていた。この試験管はなんなのだろう、と疑問を浮かべることはなかった。逆に、それこそがおかしいと雷は感じた。奇妙な既知感に僅かに不快感をいだき、眉をひそめる。

 雷はこの試験管に見覚えがあり、そして知っている(・・・・・・)

 

(これ、もしかして回復薬(ポーション)か?)

 

 アクションゲームが苦手な雷が、やっとの思いでプレイしているゲームの回復アイテムに酷似していた。

 

 4

 

 いよいよもって夢の様相をていしてきた。

 記憶の中にあるそれらしい小道具を使い、非現実の中に精神を没入している。

 

 そう、おもいたかった。

 

 理屈を立てるのはなんとでもなるが、いやに現実味を帯びた五感がそれを否定してくる。

 全身の血が沸騰しているかのような、熱い音を聞く。恐怖の根源はいつだって自分の中にある。どれだけ心が否定しても、体は嘘をつけない。

 やけに激しい脈拍の熱に浮かされそうになる。そのまま意味もなく喚きたくなった。

 冷静さを保つために、雷は何度も自分に言い聞かせた。

 

 これは夢なのだ――と。

 

 気づいてはいけないことを明確に自覚してしまったら、雷はきっと正気ではいられない。

 身の内から這い出てくる嫌な予感を、必死に蓋で閉めて隠した。

 

 目の前にあるものを確認しよう。 

 少しでも建設的なことをして、気を紛らわせるのだ。

 

 雷は試験管を手に持った。子供の手にはやや余る細長い硝子管。木栓(コルク)で封がなされている。

 傾けた硝子管の中で、青い液体は水のようになめらかに流動する。

 雷は訝しみながら、しげしげとそれを眺める。

 見た目はまさにアイテムの説明欄で出てくる、アイコン通り。しかし、これは本当に自分の思うような回復薬(ポーション)なのか?

 

 飲んだり、肌につけたりして試してみようという気にはならない。

 好奇心と疑問のまま行動して失敗するのは、恐ろしい。夢であれば(・・・・・)、想像とは違う悪い結果が出ても問題はない。飲んでみたら毒で喉が灼けても、つけた瞬間肌が焼け爛れても、現実の雷礼央には一切無関係なはずだ。

 今、自分は夢の中にいるので問題などない。だが、雷は無警戒な行動をとれなかった。

 ずっと腹の奥ですくだまる恐怖が、雷が軽挙をしでかさないよう抑制する。

 

 それに、思った通りのものだとしたら、健常な体に使うのは惜しい。

 

 回復アイテムの名の通り、怪我を治せるものなのだったら、無駄に使うべきではないだろう。これから何が起こるのか分からないのだから。

 

(もし、怪我をしたら……そうだ、夢の中だって痛い思いをするのは嫌なんだ。嫌な夢を、自分が死んだ夢を見たばかりなんだ。これで、治せる。大事にしたほうがいい。これで、あんな怪我をしても治せるんだ。これは夢なんだから、そういうことなんだろう)

 

 雷は無意識のうちに衣服越しに腹をなでていた。

 現実感を伴った死んだ夢を見た直後、また別の夢の続きを見ている状態。

 動揺しながら辻褄の合う理由を頭の中で構築して納得する。そうしてやっと、雷は袋の確認を再開した。

 袋の中には同じ試験管が五本はいっている。他には、大きめの金色の硬貨が五枚。そして黒い表紙の小さな本が一冊。

 

(金貨……? 100ゴールド? ……なんだ、これ気持ち悪い!)

 

 硬貨に描いてある模様を認識した瞬間、雷は言いようのない気色の悪さを感じた。

 見たこともない数字だ。漢数字でもアラビア数字でもローマ数字でもない。

 なのに、雷はそれが数字であると理解し、意味を読み取れた。

 ぞっと全身の毛が逆立つ。反射的に硬貨を投げ捨てそうになったが、訳のわからない薄気味悪い出来事も夢だから仕方のないことなのだ、と呪文のように言い聞かせた。

 金額と共に描かれた通貨の単位も一瞬で把握できた。

 雷がプレイしているゲームの金の単位も、ゴールドだった。

 

(『精霊の贈り物』の夢でも見ているのか……?)

 

 100ゴールド硬貨が五枚。自分の所持金は500ゴールド。ゲーム開始直後の所持金はそのくらいだった気がする。

 おもえば、現在着ている衣服はゲームの初期装備に似ていた。

 回復魔法を使う神官(クレリック)の最下級装備だ。

 黒い詰襟の上下に、付加効果はないただの(ロッド)が武器。

 そして、長い黒髪の小さな体。 

 

(もしかして、ゲームのキャラになってる?)

 

 雷はそのことにようやく気づいた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 夢とつよく願う

 5

 

『精霊の贈り物』

 

 フリーシナリオを採用しているアクションRPGだ。剣と魔法の中世ファンタジー的世界観だが、かつて存在していた機械文明により、飛空挺やロボットなどの科学技術も出てくる。

 

 このゲームはプレイヤーの分身となる主人公のキャラメイクから始まる。

 性別、種族、体格、容姿、職業(ジョブ)、趣味、特技。マスクデータによりランダムで才能というものが勝手に設定されているが、これは通常、プレイヤーが弄れるものではない。

 性別と容姿をのぞき、他の項目は初期値とレベルアップのステータス上昇数値に関わってくる。

 

 ゲームでのグラフィックと性能を決める要素において、雷は回復と支援系の魔法職の少女を作った。身長の数値を最小にしたから、幼いといっていい外観だった。

 画面の中にいる子をずっと見ているのならば、どうせなら可愛い女の子がいいなど浮ついたことを思ってキャラメイクしたわけではない。苦手なアクション部分を少しでも楽にするために、結果的にそうなったのだ。

 

 まずは性別。初期から入手できる強い装備品の中に、女性限定で装備できるものがあったため、女性を選択。

 

 次に種族だ。

 人間をはじめとするファンタジーではよくある獣人、竜人、森精霊(エルフ)工小人(ドワーフ)などの選択肢に加え、この世界特有の種族である花人(はなびと)、ダヤン神族、ティタン神族が選択の候補にあがる。

 種族は見た目の土台を決めるだけでなく、主人公の能力値の成長値に関わってくる。

 例えば森精霊(エルフ)は魔力の数値が非常に優秀で、物理能力が弱い。竜人は物理攻撃や防御に関して優秀だが、敏捷さと魔力が低い、といった具合だ。

 このゲームは人間は外れ種族で、能力値の合計初期値と成長値が一番低いという情報がネットに上がっていた。よって雷は人間を真っ先に除外した。

 考えた結果、ティタン神族を選択する。森精霊(エルフ)ほどではないが魔力が優秀で、かつ物理系能力値が際立って低くないので、魔力特化の森精霊(エルフ)ほど打たれ弱くない。何より、この種族にすると、最序盤からレベルが高いキャラクターを仲間にすることが可能だと情報が記載してあった。苦労することなくサクサクとストーリーを進めたい雷は、この種族に決めた。

 

 体格に関して、雷は悩んだ。体高が低いほど当たり判定が小さくなり攻撃をくらいにくいという。しかし、いいことばかりではない。体格が小さいほど物理攻撃および防御の能力値の成長値は低くなる。少し考えたのち、攻撃が当たらなければ防御が低くても問題ない、魔力が高いのだから物理攻撃もさしていらないだろうと判断した。

 それにティタン神族の成長値ならば、体格による成長値が影響したところで、目が当てられないほど低くなるわけでない。付け加えて、後ほどに決めるジョブ構成や、ゲーム内の様々な行動で獲得できる技能(スキル)によって低くなりそうな能力値の挽回は可能だ。

 設定できる最小値にまで減らした。数値にして身長120センチメートル。小学一年生ほどの大きさだった。

 

 容姿にこだわりはないので、デフォルトのまま飛ばした。

 ティタン神族の特徴だという艶の部分が緑がかった黒い髪に、蒼い瞳。性別が女性なので、髪は長い。エルフのように耳が長く尖っているとか、獣人のように獣耳や尾があるとか、そういう特徴はなく、人間と変わらない見た目だ。

 

 次にジョブだ。

 ゲーム開始時から、二つの職業を選択できる。これによってキャラクターのおおまかな方向性が決まると言っていいだろう。

 選んだ職業に対応するスキルを習得できる。軽剣士(フェンサー)ならば〈小剣術〉・〈回避の心得〉。魔法使い(マージ)なら〈属性魔法〉・〈魔力操作〉といった具合だ。

 技能にはレベルがあるものと、そうでないものの二種類がある。

 ジョブを選ぶと、対応スキルがレベル5まで上がった状態で取得できる。

 雷は考えた結果、神官(クレリック)刻印騎士(ルーンナイト)の二つを選んだ。

 取得したスキルは〈神聖魔法Lv5〉〈棒術Lv5〉〈刻印魔法Lv5〉〈守りの心得〉の四つだ。

 神官(クレリック)という回復役を選んだのは、前にでてガンガン戦うよりも、NPCに戦闘を任せ、回復役を自分でやることで安定して戦闘を継続できると考えたからだ。

 刻印騎士(ルーンナイト)は魔法と物理の兼用職。騎士と名前がつくだけあって、物理の成長値に完全魔法職よりも色がつく。

 

 趣味は食べ歩き。

 ストーリーではフレーバーテキスト程度の要素だが、初期値とレベルアップ時に体力が加算される。

 

 最後は特技。特技に選んだスキルのスキルアップが早くなり、かつ技能の効果もあがる。レベルアップ時にも、物理攻撃系の特技であれば力が、魔法系の特技であれば魔力が、生産系であれば器用さが上がりやすくなる。

 雷は特技を〈神聖魔法〉にした。回復魔法の効果の上昇は、ゲーム下手にとって序盤から終盤までありがたい要素だと思ったからだ。

 

 そういった理由で作り上げた、少女のキャラクター。

 特に愛着はない。それどころか、ゲームに誘ってきた友人や、同じゲームをで遊んでいた会社の友人と協力プレイしたときに「なんでロリなんだ。ロリコンなの?」と語尾に括弧付きの笑いという文字でもついていそうな震えた声で言われて、いろいろと後悔していた。

 

 

 高い確率で、雷はこの姿になっている。

 その結論にいたった雷は咄嗟に股間を手を伸ばし確認する。あるべきものがそこにはなかった。

 

「うぇええええ!?」

 

 雷が見知らぬ場所で目覚めてから、この瞬間最も気が動転した。

 

 6

 

 緊張感と恐怖を打ち破るほどの喪失感に、雷は項垂れていた。

 糸を引っ張るようにきつく張り詰めていた体の力は抜けたが、抜けすぎて酷い脱力感に苛まれている。

 

「夢、夢、夢、これは夢……」

 

 思い詰めた眼差しは、暗く淀んでいる。

 熱病のように独り言を繰り返し、尋常ではないほど落ち込んだ。

 この喪失感を乗り越えるには、先ほどとは別の種類の気力を要した。

 

 雷はこめかみを抑え、深く息を吐く。

 幾度も深呼吸を繰り返し、少しだけうつろな瞳でようやく顔をあげた。

 

 袋の中にあった最後の物の確認だ。

 ポケットサイズの手帳のような黒い本を手に取る。表紙は革の装丁で立派だが、中身はぺらぺらしていて、とても薄い。

 表紙をめくると、例の如く初めて見る文字なのに理解ができる文字があった。

 書かれていたのは既視感のある項目と、数値だ。

 

(ゲームのステータスだ)

 雷は瞬時に理解した。

 

 雷礼央 種族Lv0【神官(クレリック)Lv0 刻印騎士(ルーンナイト)Lv0】

 

 記憶の中にあるゲームキャラと違うのは、レベルが全てリセットされていることだ。

 

 『精霊の贈り物』はレベルに関して癖のあるシステムになっていて、レベル1から始まるのではなく、0から開始する。

 そして複数就くことが可能なジョブレベルの合計値がそのキャラクターのレベルとなる。

 正しくは種族レベルといい、種族レベルが上がると種族固有の異能力(アビリティ)が増えたり、職業を複数取得可能になったり、種族固有の技能が解放される。

 ゲーム開始直後は職業の複数所持の要素を全て解放していないが、ゲームをすすめるごとに増えていき、最終的に5個までの職業を取得可能だ。

 

 雷は職業5個、全てに就くまでキャラを育てていたが、明らかに初期状態に戻っていた。

 

(ジョブが初期の2個だけになってやがる。最大まで解放してたんだけどな。ま、それを言ったら、装備だってもっと強くなって、所持金ももっと持ってる状態だったんだけどさ) 

 

 他の項目を眺める。

 魔力と魔法防御が高く、敏捷と精神と器用さが普通、攻撃力と防御力と体力がすこし低め。 

 詳しく覚えていないが、初期はこの程度の数値だった気がする。

 

 ひとつ、気になった。生命力を示すHPや魔法などの技を使用するためのMPと、体力を示すSPの項目がないのだ。

 怪我をしたとしても、肉体の損傷具合は、ゲームとは違って数値では表せないということなのだろうか。ゲームの表現で、死ぬ寸前の残りHP1で動きまわれるのは、一体何故だと議論に取り沙汰されることがある。得てして「作り物だから」の一言で解決できる事態だが、もしも「作り物ではなくなったとしたら」、仮にHP1のような状態になったとき、はたして雷は動き回れるのだろうか。

 

(考えたところで、無駄なのだよな。……なにせ、ここは夢の世界なんだから。そうだよな?)

 

 『ゲームの世界に似た血肉の通った世界』にいるわけでもないのだ。考える必要なんて、ない。

 雷はこれは益体もない推測だと、自らが陥るかもしれない事態の可能性の提示を頭の中からぬぐい捨てた。

 ともかく、この手帳の中には、そういった疑問点に答えをくれるような具体化した数は存在しない。

 HPがゼロのとき果たして本当に動けるのか? という謎は、身をもって解決することはできないらしい。

 仮に、それが可能であっても答えがわかってしまうような――それこそ腹部に貫通する大きな孔が開くような――目にあいたくはない。

 

 魔力の使用量も明文化できるものではなく、体力もそれに同じ。数字なんかに頼らず、個人の感覚に頼れということか。

 この不親切さ、実に夢らしいではないか。

 雷は強がりで鼻をならしてみせた。

 不明瞭でうやむやで、無茶苦茶で理路整然としない事象が起こっている。まさしく、これこそが、疑いもなく、夢だ。

 

 やけに強調しながら、雷は自分の考えを補強する。

 

 不安と願望と気づきたくない真実への恐怖心とのあやうい均衡を保ちながら、雷はゆっくりと自分と周囲を把握していく。

 本当は頭の片隅で、気づいていたのだ。認めたくなくて、目を逸らしているだけ。

 

 

 ここは、夢の中じゃない。

 

 

 

 雷礼央は死んだ。

 

 7

 

 雷はページをめくる。

 そこには所有スキルと、種族、ジョブ、スキルなどのレベルをあげることで習得する戦技(アーツ)に魔法、特異能力(アビリティ)が表示されていた。

 

 〈神聖魔法〉は《小回復(スモールヒール)》と、《浄水(クリーンウォーター)》。

 〈刻印(ルーン)魔法〉の《遅滞(スロウ)》と《停止(ストップ)》が書かれていた。

 

 神官(クレリック)は最初の職業選択時に確定で〈神聖魔法〉を習得し、〈棒術〉か〈槍術〉〈金属鎧装備〉のスキルを選べる。雷は適当に〈棒術〉を選んでいたため、〈棒術〉の《強打撃》の戦技が使用可能だ。

 

 刻印騎士(ルーンナイト)は〈刻印(ルーン)魔法〉を確定で習得し、〈守りの心得〉か〈盾術〉か〈騎乗術〉を選べる。

 雷が選んだ〈守りの心得〉は、スキルレベルがない技能なため、そこから派生する戦技や魔法はない。

 そのスキルを所持しているだけで、個人と仲間の防御力をあげるだけだ。ただ、その防御力を上昇させる効果は種族レベルが高いほど、性能がよくなっていたはずだ。

 

 初期設定直後のキャラクターの性能など、このようなものだろう。他に目を通すべきところは見当たらない。

 ざっと目を通した内容に、不満と不安をないまぜにした顔になる。

 頼りない、それが正直な感想だった。

 

(どうせ、夢なんだから残念がる必要なんてない)

 

 雷の中にある頑迷で冷静ぶった部分が、落ち込むなんて馬鹿らしいと強がっている。

 強い言葉で笑い捨てているその裏側で、心許ないと震えている自分がいる。

 

 こんな小さな体で、ゲームの中に現れるような魔物と出会ってしまったらどうすればいいのだろうか。

 こころの底からわき上がる畏れに、安堵をもたらしくてくれるものを、雷はもっていない。

 

 ため息をつき、手帳のような本を閉じて、袋にしまう。

 雷は改めて森の中を見渡した。

 

 このままじっとしても、埒が明かない。

 

 妙に湿気った空気は、息苦しいまでの不穏さを孕んでいるように感じた。

 自分以外の命の息吹を感じられはするが、それらはけっして雷を歓迎していない。

 枝木から飛び立つ鳥の羽ばたきに、ぎりぎりと硬いものをすり合わせるような獣の鳴き声が、否応がなしに雷の不安をかきたてる。

 夢の外側に、出なければならない。

 

(この森に、ずっといるべきじゃない)

 

 ここはずっと居たいようなところではなかった。

 さいわいにも、履いている靴は山歩きができそうなくらいに頑丈に見えた。 

 どこに向かえば森の終わりに行き着くのはわからないが、歩きださなければ出口にはたどりつかない。

 迎えなんて、きっとこない。

 だから、雷はひとりで歩きださなければならないのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 直視

 8

 

 なるべく草が生えていないところや、背丈が短いところを選んで歩く。

 木の根や、苔で滑りやすくなっている地面に足を取られて何度か転びそうになった。咄嗟に体の均衡を保ったり、手をついたりしながら転倒だけは免れた。

 どれだけ歩をすすめても、同じような景色が広がっているようにしかおもえなかった。

 

 途中、こういったときには歩いてきた場所の目印をつけたほうがいいと気づき、あわてて刃物代わりになりそうな先の鋭い石を見つけて拾い、樹皮になんとか傷をつけた。途中で石で傷を作る作業に疲れ、(ロッド)を叩きつけて枝を折る方法に切り替えた。

 

 最初からこうすればよかった。無駄な労力を払ってしまったかもしれない。

 

 雷は毒づいた。じんわりと汗ばみはじめた体は、乾きを訴えている。

 

 回復薬(ポーション)を飲むべきだろうかと悩む。

 とは言っても飲んだところで、二、三口分ぐらいのしか量しか入っていないだろう。この乾いた飢を満たしてくれるとは到底思えない。一方で、脱水症状は危険だと悩む。もったいないと出し惜しみして、苦しい状態をわざわざ耐える必要性はないのではないか?

 毒かもしれないと危険性を頭が弾き出すが、雷はその可能性は低いと判断した。そこから疑ったら、黒い手帳の件でさえ信じられなくなる。「これは『精霊の贈り物』の初期状態」という前提条件があると仮定しなければ、雷は現状に関してなにひとつ情報を持っていないことになる。そんな状態はとにかく恐ろしい。

 

 雷は、願望と現状から導き出した根拠をもとに、さまざまな事柄を秤にかけて自分が選ぶべき最善を考える。

 ゲーム開始直後に持っている回復薬(ポーション)は、効果が低く、安い。ひとつで50ゴールドだった。

 気軽に買えるものを勿体ぶってとっておくのは馬鹿らしい。

 

 取るに足らない量でも、ないよりはましだろう。迷ったすえ、袋の中にある回復薬(ポーション)に手をかけようとした。同時に、間近で草木の茂みが音をたてて動いた。どきりと強く胸が跳ねるが、すぐに落ち着く。茂みの揺らめきは低いところにある。何かが出てきたとしても、それは小さな動物だろう。

 

 かき分けて進んでこようとする何かから視線をそらさず、慎重に後退する。

 距離をとったとき、それは甲高く吠えながらあらわれた。聞いたことのある鳴き声だ。これは、犬だ。

 警戒していた雷は面食らって肩の力を抜く。出てきたのはチワワのような小型犬だった。

 獰猛に吠えたてるというよりも、虚勢を張るような甲高い声を向けられる。

 

「そういや、雑魚にこんなのいたっけな」

 

 ゲームの初期に出てくる魔物の姿に酷似していた。

 

 出てきたのが非現実的な生き物でなくてよかった。

 

 雷は強張った肩の力を抜いた。

 現実世界にもいそうなごわついた毛並みの黒い小犬は、確実に雷の中に油断を生んだ。

 リードに繋がれているわけではないのだから、野放しの犬は確かに危険だろう。

 だが、つぶらな目のまなじりを釣り上げている犬は、日本の路上で散歩中のチワワに吠えられているのと変わらないように思えた。

 

 短い四肢に力を入れて立ち奮わせ、小枝のようにとがった尻尾を天にむけている。

 剥き出しされた不揃いの牙はそこそこ鋭利だ、あれに噛まれたら痛いかもしれないと弛んだ気を引き締めなおすが、万全の警戒にいたらなかった。

 

 (ロッド)を振って追い払えるだろう。見てくれが覚えのある犬に近いせいで、安易で悠長な手段を雷に選ばせた。

 

 目の前にいる獣はひとに対して敵意を向ける好戦的な魔物。

 しかし、雷の意識は見た目の先入観から小犬としか捉えなかった。

 

 雷は浅い考えで(ロッド)を手にとり、強く振った。

 気が昂っていた犬の興奮はそれによって頂点に達する。鈍そうな短い脚からは考えられないほど俊敏な動きで跳躍し、雷に挑みかかったのだ。

 なさけない声の威嚇をしてくる小さい犬など、こちらが少し脅しかければすぐ逃げ出すとたかをくくっていた雷は、その突進のような噛みつきを避けられなかった。

 適当に振り回される(ロッド)の動きなどゆうゆうと掻い潜り、犬は雷の腕に深々と牙をたてる。

 

「く、いっ!」

 

 雷は苦鳴をあげた。

 噛まれた腕から犬を離そうと、反射的に(ロッド)を叩きつける。生き物を強く叩きつける感触というのは雷にとって初めての体験で、それは奇妙な感覚だった。だが、その感慨を抱く余裕などない。躊躇していては、こちらが一方的に痛い思いが続くだけだ。

 雷が力の限り(ロッド)で殴りつけても、犬は雷から逃げなかった。むしろ顎に力をこめて犬歯をますます深くめりこませた。

 

「いってえな! くっそっこの馬鹿犬!」

 

 悪態をつきながなら腕に力をいれて遠心力で振り回し、そこら中にある樹に犬を叩きつけた。小犬はしぶとく、つい先ほどまでは可愛げがあるように見えた目をおそろしげな狂乱にぎらつかせていた。

 

 動物の剥き出しの闘争心に気圧された雷は、一瞬痛みを忘れて息を飲んだ。

 たかだかちいさな犬一匹に相手に、雷は原生的な恐怖を抱き心が負けた。

 折れた心のまま、もう家に帰りたいと状況も忘れてほんのわずかに心を飛ばず。

 雷の動きが緩慢になったのを待っていたかのように、その隙を見逃さず噛み付いた犬が前脚で爪をたてる。

 その痛みは噛みつきの比ではなかった。

 

「……!」

 

 易々と皮膚を割いて肉の中にめりこんでいく。火がついたような激痛に、雷の頭の中は真っ白になる。

 

「うわああああ!」 

 

 いたい、いたい、いたい!

 この激痛から逃れるために、雷はがむしゃらに体を動かした。

 (ロッド)に渾身の力をこめて叩く。黒い小犬はなおも腕に顎の力のみでしがみつき、前脚で容赦なく雷の腕を引っ掻いた。その爪は、毛並み以上に黒く、やけに長かった。

 

「くっそ、くっそ、はなせ!」

 

 犬に負傷を与えているのは確かなはずだ。

 だが、それは小さな犬を殺すまでに至っていない。見た目通りの小さな犬ならば、とっくに死んでもおかしくないほど、痛めつけた。

 なのに、なおも目から闘士が消えず、生命力の低下など感じさせないほど頑健な顎の力をみせている。

 ただの犬ではないのだ。雷はやっとそれを理解した。

 これが、魔物なのだ。

 

(もっと強く殴らないと、強く、強く、強く)

 

 噛みつかれた腕は爪ですでに無残な有様だ。

 裂けた傷口が、黒い服に大きく濡らし、滴った血液が地面を真っ赤に染めている。

 

 大丈夫なのかよ、これ。はやく止血しないと。だがその前に、この犬をどうにかしなきゃならない。

 

 駆け巡る血潮が耳打つ。心がそれに急かされて、ろくに頭が働かない。

 最終的に雷が求めたもののは単純なものだった。

 

 

 今までよりもずっと強烈な一撃を。

 

 

 本気で打ち付けているのに、この犬をどうにもできない。

 ならば、渾身の力をも超えた力がほしい。

 今、自分が出せる限界を超えた力。

 

 都合のいい奇跡を願った雷は、不意に手帳に書かれていた戦技(アーツ)を思い出す。

 

 《強打撃》。低い技能レベルで習得する技だからそこまで強くはないが、技の名前からして(ロッド)をただ力任せに振るよりも大きなダメージを与えられるはずだ。

 発生の仕方などわからない。

 藁にすがるおもいで雷はとにかく念じた。

 

(強打撃、強打撃、強打撃、強打撃、強打撃、強打撃、強打撃!)

 

 祈りながら、力をこめる。(ロッド)を振り下ろす。

 雷の中から急に何かが抜けていく脱力感とともに、泡のような光が(ロッド)を握った手から伝わっていった。

 くらく意識を閉ざすような虚脱をこらえ、雷は眼下の犬に集中する。

 ちいさな水泡がはじけたような音を聞いた瞬間、犬に打ち付けた木製の棒から今までにない手応えを感じ取る。肉の中にある硬いものが軋み、砕ける鈍い音が(ロッド)ごしに伝わってきた。あらぬ方向に身を曲げた犬は、叩きつけられた衝撃に耐えきれず地に落ち、ほんの少しだけ泡を履いて痙攣した後、ぴくりとも動かなくなった。

 

 9

 

 きっと、戦技(アーツ)が発動した。その感動も抱く暇など、雷にはなかった。

 

 心臓がこわいくらいに早鐘を打っている。我が身に不審すら抱くほど、体が重くなった。腕を痛めつける原因から解放された安堵もそこそこに、雷は腕の痛みと疲労困憊にうめいた。

 

 やっと、小犬は死んだ。

 生き物を殺したことに後悔はない。もっと別の手段があったのではないかなんて、偽善ぶって考えてやれるほどの余裕は彼にはない。

 雷は、犬の命なんかよりも自分の身の方が大事なのだ。

 

 死体蹴りするような悪辣さはないものの、長い舌を出して血を吐いて死んだ犬に、生死の確認をすませたら雷は目をやることすらもなかった。むしろ、そんな余裕もないのだ。精神はすり減り、脱力して倒れ込みたいくらいに肉体は疲弊している。

 雷は息切れした呼吸を整える間もなく、今もなお血を流し続ける腕の治療を急ぐ。

 

(止血。その前に消毒。雑菌、洗い流さないと……。狂犬病とか大丈夫なのか?)

 

 不安と、事態への対処で焦り、まともに頭が働かない。

 犬に散々に噛みつかれ引っ掻かれた腕は、目をおおいたくなるくらいに酷い有様だった。

 

 早く手当てしなければならない。

 噛み傷よりも、爪で引っ掻かれた傷がより酷かった。

 自らの肉の断面など、はじめて目の当たりにした。 

 

 激痛でまなじりは涙でぬれた。

 病院になんて行けそうにない場所で、どうやってこの怪我を治療すればいいんだと雷は途方にくれそうになった。出血の量に気が遠くなる。このまま意識を飛ばしたら、見慣れた部屋のベッドで目を覚ませばいいのに。願いはすれど、雷は現実逃避に身を任せることはなかった。

 なにしろ絶望的痛みが気を引き戻すし、危機感はずっと彼の内側で警鐘をならしているのだから。

 

 洗い流せそうな水も近くにないし、とにかく止血しなければ。心臓よりも高い位置に腕をあげ、手でぎゅっと血管をおさえながら、傷口を抑える布をさがす。

 

 腰に下がった袋を見て、やっと回復薬(ポーション)の存在におもい至った。

 生活の中に馴染みのない道具を、雷の追い詰められた判断力はとっさの解決策として提示しなかった。

 この試験管の中にはいっている青い液体が、雷の怪我を治してくれるのだろうか。

 

 一縷の望みをかけて雷は試験管に手を伸ばした。

 歯で木栓(コルク )を軽く噛み、蓋を抜く。

 あまり中身が入っていない試験管の青い液体を傷口にかけると、さきほどの《強打撃》と同じように小さな光があふれ泡が軽快な音をたててはじける。

 

 ――果たして、奇跡は確かに起こった。

 じくじくと苛む痛みが、嘘のように軽減された。

 ちいさなシャボン玉がくっつきあったような光の泡が消えると、傷口が確認できた。

 

 噛み跡はしっかり消えた。犬が引っ掻いた赤い筋が未だ残っているが、ずいぶんと浅い傷跡になった。出血も止まっている。傷痕をさわると顔をしかめたくなる程度の疼きはあったが、つい先ほどまでの理性を奪っていくような痛みはない。

 どうすればいいのかと追い詰めれて判断能力を低下させていた雷は、ようやっと思慮を取り戻した。

 もう一本回復薬(ポーション)を使えば、傷は完全に塞がりそうだ。だが、雷は袋の中の試験管に目をやることはなかった。

 

(……回復魔法。《小回復(スモールヒール)》があったな)

 

 魔法の使用を頭に浮かべた瞬間、知らない文字と言葉で記された呪文がぽんと思い浮かぶ。最初からそれを呼吸するように知っていたように、「使える」という確信がなんだか奇妙で居心地が悪かった。

 これが本当に使えるのか。そして魔法という不思議な力が本当に使用が可能ならば、魔力が減るとはどのようなものなのか。それを確かめたほうがいい。

 

 雷はちいさく呪文を口にした。

 呼吸とともに、自分の中で何かが動いて形をつくる。しっかりとした形になると、それが抜けていく感覚があった。これが魔力なのだろう。例えるならば、一回の呼吸で息を多めに吐くようなものだった。深く息を吐き出したぶん、同じくらい吸い込まないと次の魔法が使えない気がする。言葉ではうまく説明できないが、これがいわゆる待ち時間(クールタイム)なのだろうと推察はできた。ゲームでは、連続して同じ《神聖魔法》を使えなかった。

 

 魔法が発動すると、回復薬とは別の色味の光を放ちながら、傷跡が瞬く間に消えていった。

 最初からそこに怪我などなかったように、腕はつるりとしている。犬に引き裂かれた血塗れの服の残骸だけが、負傷の深さを物語っていた。

 

 傷が消えたことに雷は深く重い息をはき、その場に腰を落として座り込んだ。

 安堵で最後の気力が緩み、もとより体力が残っていなかった体では立っていられなかった。

 その場で体をやすめると、不自然なほどに目減りした体力がゆっくりとだが回復していくのがわかった。

 

戦技(アーツ)はSP……スタミナを使ったよな。レベルが全く上がってない状態だと、一回使うのがやっとだったはずだ) 

 

 犬とのやりとりで確かに体力は使ったが、ふつうここまで肉体が困憊するものではないとおもう。《強打撃》を使った瞬間、失神寸前に体から力が抜けた。だから、この著しい消耗は戦技が原因なのだろう。

 

(ゲームではスタミナ0になっても戦技やダッシュが使えなくなっただけだが、現実じゃ0になったらまともに動ける気もまともに頭が働く気もしない)

 

 スタミナポイントのゲージは、体を激しく動かすような行動を取らなかければ、わりとすぐに回復する。通常攻撃を続けているだけでも、満タンになる。じっとして何もしていないとその回復速度はあがり、スタミナポイントの管理は楽だった。ゲームではそうだった。

 だが、この現実(・・)は違う。

 

(動き回りながら体力回復なんてできねえ。ちゃんと体を休めないと体が動かない)

 

 そんなところ現実に沿うようにしなくてもいいではないか、と雷はどくづく。

 自分にとって不利な条件が重なっていることに、雷は苛立ちを募らせた。

 雷は、ゲームでも最下級の魔物にたいして、通常攻撃を何発繰り出そうと屠れないほど、虚弱なのだ。

 敵を倒せる唯一の技は、現状のように身動きがとれなくなる危険性を孕んでいる。

 

(また、あの犬に会ったらどうする? 出会ったら即、《強打撃》を使って攻撃を喰らわないようにすればいいのか? だが、一匹だったならともかく、複数現れたらどうなる? 一回使ったら、まともに動けないものを使うのか? それよりも逃げるのに専念したほうがましか)

 

 雷は、次を考える。

 夢から覚めることを、もはや諦めていた。

 そんな自分に気づき、雷はわらった。

 

「は、ははは。はっ」

 

 雷はやっと認めた。

 これは、夢じゃない。

 物語で、夢と疑うできごとが起きた場合、痛みを与えてその成否を確かめる場面がある。たいては痛みを与えられても目が覚めず、現実だと理解するのがお約束だ。

 そのお約束通り、あんなにも激痛を与えられたというのに、雷の意識はちっとも現実へ浮上しなかった。

 

 これが夢ではなく、最初から現実だったからだ。

 

 そうとも、雷はとっくに知っていたのだ。

 バスから放り出され、何がおこったのかもわからないまま目まぐるしく視界が回転し、気づいたときには腹に太い枝が突き刺さっていた。それは命を奪う無情でぶかっこうな矛であった。

 あの一瞬の衝撃を、雷は鮮明に思い出すことができる。

 最後の瞬間まで世界を呪うように絶望していたあのとき。

 認めたくないから目を逸らしていただけで、あの事故で、己はもう死んでいた。

 

「俺は、本当に死んだんだな」

 

 独白にはわずかに涙がにじんでいた。

 

 10

 

 頭の隅で、雷はここは自分の知る世界ではなく、また夢でもないとおぼろげに理解していた。

 

 それでも最後の抵抗のように、目をつむり耳をふさぎ、その事実を目の当たりにすることを避けていた。必死に、細く突き当たりしかない道の可能性にばかりすがっていた。

 常識から完全に剥離した事象を目を背けることもできずに直視したとき、自分は無様に狂ったように泣き喚くと雷はおもっていた。

 

 しかしそうはならなかった。

 目覚めた当初、己の死を確定的に突きつけられることはなく、夢だと逃避できる余地があった。

 そして、ひとつずつ提示される夢ではないと証明する物証は、決定的な崩壊を与えるような急性さがなかった。目を背けたい真実は、ゆっくりと雷の思考の中に蓄えられていったのだ。

 そうやって徐々に与えられる事実は、雷の理性を致命的なほどではないが揺らした。平静を保てる程度に精神をじわりじわりと追い詰めていった。だが、それだけといえば、それだけだった。

 

 想像の中にいた自分よりも、拍子抜けするほどに雷は落ち着いていた。

 

 いっそのこと感情を欠壊させ泣きじゃくり、誰にぶつければいいのかわからない怒りを感情のまま叫べたらどれほど楽だろうとはおもう。 

 しかし、そのような無闇な真似はできない危険の晒された状況が、雷の冷静さをつなぎとめた。

 

 雷に残ったのは、なぜこうなったのだという強烈な疑念と、これは足掻いても仕方ない類なのだという諦観である。

 わからないことは多いが、とにかく今は、死にたくなければこの状況を受け入れて進むしかない。だれにも説明されていない、なにもわからない状況になっている不条理へ責めたて、攻撃的な感情をぶつけるのはとにかく後回しだ。

 

 あいにく、あれこれとおもい悩む暇はなかった。

 痛みだした頭に雷はちいさく舌打ちをする。気分もよくない。失血のせいなのか、脱水症状のせいなのか。どちらにしろよくない状態なのは確かだ。

 

 雷はためらわず試験管の中身を飲んだ。

 味見して喉をしめらすていどの水分を、それでも待ちかねていたように喉が嚥下する。薬は幸いなことに吐き出したいような味ではなく、鼻にくる漢方のような薬臭さはあったが、苦味はうすかった。

 

 もう一本。

 出し惜しみして、水分不足で倒れるのは愚の骨頂だ。

 

 深い傷を一瞬で癒してしまう魔法のような薬は、飲み物としても大分優秀だったようだ。

 失血して足りなくなった血液を、地球の物理法則ではありえない不思議な力で薬の力で補ったのか、はたまたコップ一杯分にもならない液体が体内の中で摩訶不思議な化学反応をおこしたのか、理由のわからぬ体調不良による気分の悪さがかなりましになった。

 

 頭の痛みもやわらぎだいぶ楽になった。雷は手をつきながらそろそろと立ち上がる。しっかりと足は大地を踏みしめる。歩くことは可能だ。だが、その安堵は束の間のものだ。この状態がいつまでもつかはわからない。

 

「進まなきゃならない」

 

 声にだして、己を励ます。

 今、自分を動かし助けられるのは、他のだれかではなく自分自身だけだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

獣道の先
第四話 辿る


 1

 

 ひとの気配を感じられない森から出るのはもちろんだが、水を見つけるのが第一の急務だった。

 喉の渇きは命にもかかわるものだ。己の生き汚さを知っている雷は、たとえ精魂尽き果てようと這ってでも進もうとする自分が容易に想像できた。苦しみながら、あるかわからない水を求めてさまよう空想の中の己は、その姿がちいさな子どもなだけにずいぶんと愚かしく切ない。

 想像しうるみじめな未来を迎えないためにも、雷は体が正常なうちにせめて水を見つけるか、高望みするのならばひとを見つけたかった。

 

 一心に活路を求めてさまよう雷は、同時に腑に落ちないものを抱えていた。

 この森は、ゲームの開始地点でも、物語がはじまる時間軸でもない。

 雷の記憶が正しければ、物語の開始地点は街に近い大きな道だった。春めいた空気を感じさせるピンク色の花びらのエフェクトが画面上で舞っており、時間帯は明るい昼だ。

 こんな秋に近い涼しげでさびしげな空気ではない。花を見失ったら最後、視界が効かなくなるような夜でもなかった。

 

 遭遇した黒い犬はゲーム世界に住む魔物で、雷はゲームのキャラクターの姿になりその能力を持ちえている。 

 この事実から、ゲームで描かれていた世界に準じた法則のある世界にいるのだとは判断できる。

 

 では、自分が画面越しに旅をした世界において、ここはどの位置にあたるのか。

 

 それがわからない。

 

 ゲーム内の森の光景なんて詳しく覚えていないし、画面越しに俯瞰的に見るのと主観として見るのとでは、様相が違うだろう。印象に残る特徴的な場所でなければ、どこそこだと勘付けることはできないだろう。

 

 ここがもし、ゲーム開始地点からほど遠い場所だとしたら、何故なのだろう。

 

 異世界に姿まで変えて生き返って、こんなどことも知れぬ場所にいるのはなぜなのか。それになんらかの理由があるのか。答えはだれも教えてはくれない。

 仮に、なんらかの意思を持つものが一度日本で死した雷を、この世界で蘇らせたのだとしよう。

 それは一体どうしてなのか? という疑問は、ゲームと同じ場所と時間帯であればある程度解決できたのだ。

 雷をまるきりゲームの主人公に見立てて、新たな世界でやり直しをせたとしたら、ひじょうに迷惑だが雷に物語の主人公のような活躍を期待しているということが可能性のひとつとして浮上する。

 

 誰とも知らない、雷をこのような目に合わせている存在に雷はどくづく。

 自分の知る物語をなぞるような場所に出ていたら、雷はこんなにも苦労はしなかったというのに。

 都市は目と鼻の先にあり、プレイキャラクターをコントローラーで移動したり、ダッシュやジャンプの基本動作、そして戦闘のチュートリアルを終わらせたら、すぐに安全な場所にむかうことができた。ゲームに似た知らない世界に飛ばされたとしても、こうであれば、こんな苦労と苦痛は味合わずにすんだ。

 

 しかし、どれほど嘆いても、雷の現状はそうではないのだ。

 

 機械仕掛けの神(デウスエクスマキナ)のような全てを都合よく物事を進める存在は欠如しており、こうやって雷が生きているのは、なにかの偶然が噛み合った奇跡の具象だからなのか?

 疑問符ばかりが頭をしめる。

 

 雷はため息をついた。これも、考え続けてもせんなきことなのだ。今はどうしようもないことに気を囚われているよりも、細心の注意をはらうべきだ。

 

 わからないことは恐ろしい。恐ろしさを埋めたいがために、あれこれと考えてしまうが、それはけっして現状から自らを助けだすものではない。

 いつ迫るともわからない危機に備えるためには、神がかった事象にうんうんと頭を悩ませるよりは気を引き締めるべきなのだ。そのほうがよほど建設的だ。

 

 流れる汗を手の甲でぬぐう。

 夜は、まだ長い。

 

 2

 

 さきほどよりもずっと足取りを気をつけ周囲に警戒し、雷はあるく。ときには草むらをかきわけ、ときにはあの小犬の姿をさきに見つけて息をひそめてやりすごした。自分が通った証として、草を結び、前に進む。枝を折るよりも体力を使わないし、音をたてないからこちらのほうが安全な手段だった。

 自分が枝を折った木や、傷をつけた木の場所には来ていないから、同じ場所をぐるぐるとまわっているわけではないとおもう。確実にどこかへとは向かっているのだ。

 

 回復薬(ポーション)を一本飲み、ひと息をついた。これがただの水であれば気休めにもならない少量の水分なのだが、妙な理屈ですっと体の渇きが癒える。これで、残りは一本だけになった。

 天を見上げた。木々の隙間から確認できる夜空には、天辺に月を見つけることができた。深夜であるが、緊張感で眠気はなく、依然目が冴えている。この張り詰めた意識が続けばいい。水を見つけるまでは、休みたくない。一度足を完全に止めたら、ふたたび動き出すのはなかなか難しいだろう。精神的にもそうだが、肉体的にも。回復薬(ポーション)だけで、水分補給が間に合うわけがないのだ。時間がたてばたつほど、限界は近づくだろう。

 

 不安にかられているさなか、細い獣道を見つけた。猪のような大きな獣のつくるものではない気がした。だが、あの黒い犬のようなちいさい生き物が通っていたにしては、しっかりと踏みしめられている。森を生活圏とするひとが作ったものであることが一番望ましいが、そのような都合のいい奇跡は望まないほうがいい。

 まだ出会っていない危険な生き物の通り道だった場合を考えると、手放しでは喜べないが、森に住む生き物ならば、水場の場所をわかっているはずだ。

 

 この獣道をたどって歩いたさきに、水があれば。

 希望をにじませて、道の先をみつめる。一心にそれを続けたあと、雷はかぶりをふった。

 ここで終わったはずの意識が再開してから、こうやって渇望して自分に都合のいい可能性にすがってばかりだ。

 そんな、運がいい結末など待っているはずがない。

 

 戒めのために、雷はいいふくめる。

 だってそうだろう。

 雷が願えば叶うような幸運の持ち主ならば、そもそも事故にあっていなかった。

 事故で死んでよくわからない場所で生き返ったことが幸運だというのならば、返す言葉もないが。

 

(死んで、そのまま終わるんじゃなくて。不幸中の幸でもこんな姿でも、生き返って良かったと思ってる自分がいるのは、確かだ。苦しくても、なにもかも終わってしまうよりは、ずっといい。でも、一番望むのは、本当に奇跡が起こるのなら、死にたくなかった。俺は、こんなわけのわからない姿じゃなくて、雷礼央として日本で生きていたかった)

 

 取り戻せない過去に、胸を焦がす。

 見知らぬ場所に放り出された、孤独と渇きに震える。目に熱いものがこみ上げてくるのは、ひとりきりの苦しみに耐えかねたからだ。

 意地を張ることすらできない、寂しさがあった。

 

(……ああ、会いたいな)

 

 日本に帰り、日常の中にいる親しい者たちに会いたい。郷愁が琴線をゆらし、雷は胸をおさえた。

 やっと、自分の死後に残されるみなのことをおもった。

 

 そうして気付くのだ。今まで自分のことばかりで、何一つ彼らのことを思わなかった。

 目覚めてからはその暇がなかったが、雷が思い返したのは、自らの命が尽きる瞬間だ。

 人間、追い詰められると本性が出るというが、今まで世話になった人への感謝を抱きながら死ぬという愁傷さは雷の中にはかけらもなく、我が身に降りかかった不幸への矛先のない怒りを燃やしながら意識を途絶えさせていた。

 

 常々いつか恩返しをしたいと思っていた世話になった施設の人や、家族のように育った親友のことをちらりとも考えなかった。

 自分を育ててくれた社会への感謝、世話になった人への感謝を忘れたことはないと思っていたが、綺麗事で塗装した上っ面をひっぺがしたあとに残るのは、自分本位で他者への思いやりに欠けた男だったというわけだ。

 

 幼い容姿に不釣り合いな、乾いた自嘲がもれた。

 

「悔いてる暇なんて、ないな」

 

 口にしたのは、耳に痛い事実から目をそむけるための言い訳ではない。

 

 もとより自覚はあったので、今更だったのだ。

 自分自身が思っていた以上に、雷礼央と言う人間は割とどうしようもない底辺の心根の持ち主だったという事実を、認識しなおしたにすぎない。

 雷はそんな愚かな自身を責めるでもなく、ただ漫然と受け入れた。

 呵責に耐えきれないまともな性格をしていたならば、こんな性根とっくに改めている。ようはもう手遅れだったのだ。 

 

「三つ子の魂百までっていうしな。変わるはずがないんだ」

 

 幼子の姿になっても、自分という人間が変われる気はしない。

 未だに自分のものとは思えないちいさな手を見て、雷はうつむいた。

 気落ちする材料ばかりで、前向きになって気持ちが上向くのはむずかしい。

 

 それでも前を向くのは、生きたいからだ。

 雷礼央という男が生きた二十三年間の歴史は、他人からしてみれば吹けば飛ぶようなものかもしれない。

 だが、雷だけはその時間と、時間をかけて築いたものは、今のどうしようもない自分自身の性格をふくめて大事なものなのだ。

 物心つくまえに両親を失い、施設にあずけられ何も持たないまま育ってきた。

 ひとつひとつ自らの努力で手に入れて形作ったもの、それを今の自分の意識の喪失ですべて失ってしまうのは、悔やんでも悔やみきれないほどに惜しいのだ。

 

 雷が人生をかけて手にしてきたものは、全てなくなってしまった。肉体もかりそめのもので、これを自分とおもうのはむずかしい。

 だが、今の雷には記憶がある。

 幼くして両親を失い施設育ちの苦労はあったが、そんな彼を支えてくれる友人や周囲の大人に恵まれていた。

 公立高校を卒業後、地元の飲料メーカーに無事就職。

 年齢相応の稼ぎをやりくりしながら、細々とした趣味を楽しみつつ安定した日々を送っていた。

 今までの人生の幸と不幸を天秤にかけたのならば、幸のほうに傾くと彼は自信を持って断言しただろう。

 そういう一生だった。その記憶の尊さは雷だけのものだ。

 そして、雷礼央としての二十三年の時間が築いた“内面”だ。二十三年の間に形成された性格。あまり賢くないなりに蓄えた知識。人格と知識に基づく今この瞬間鬱々と巡っている思考回路。それだって自分が生きて手に入れたものだ。

 今、この子供の自分が死ねば、その思い出という宝物と、雷礼央という存在すらなかったものになってしまう。

 それだけはぜったいに許せなかった。

 

 3

 

 目の前にぶらさげれた先の見えないわずかな希望。それを選び成功して無事延命できるか、失敗して絶望するかは自らの手に委ねられている。

 どうしようと迷って立ち止まるよりは、取り返しがつく段階で選択肢の正否を確認したほうがいい。

 雷は幸運を期待し、獣道をたどって進むことを決めた。

 

 草は踏み固めれれているため、足場に気を付ける必要がないのは、雷を幾分か楽にさせた。ぬめりのある苔は少なく、どこに木の根があるかもわからない草むらを歩くわけではないから、それ以外のことに気を払える。

 無論、いいことばかりではない。差し引きでいえば、マイナスであろう。獣道をつくった生き物と不用意な遭遇するのを避けるため、雷は今までいじょうに神経を過敏にさせなければならなかった。万に一つ、あの犬のような獣とおちあいたくない。耳を研ぎ澄まし、つねに前後の音を確認していた。

 

 怯えながら歩き続けると、かすかであるが水音を聞いた、気がした。

 雷は声を上げたい衝動を抑えるために唇をつよく引き結び、食い入るように音の方向を見つめた。

 擦り切れて追い詰めれた精神が幻聴を聞き取ったわけではない。雷はそう思いたかった。

 ただのおもい込みかもしれないという不審があった。わずかに抱いた期待が裏切られることが恐ろしくて、足取りはひどくゆっくりしたものとなる。

 

 雷はその直後、自分のその行動がいかに正しかったのかおもい知ることなる。

 音を消して恐る恐る向かった先には、先客がいた。

 水を見つけたと我を忘れ、喜び勇んで駆け寄っていたら無警戒にそれとはちあっていたはずだ。

 

 花の青白い光に照らし出されたのは、一本角を額に生やした二足歩行の魔物だった。

 空想の物語に、たいがい登場してくる怪物、ゴブリン。ゲームでも、序盤の雑魚敵として登場していた。

 画面越しに見る姿に比べ、それはとても恐ろしい見目だった。

 

 なにせ雷と変わらない身長がありながら、体の厚みは段違いだ。いっそ不格好なまでに二の腕と太腿の筋肉が発達している。あれに少し掴みかかられただけで、雷にはひとたまりもないだろう。

 瞼がうすく、むき出しに近いまるまるとした目がひどく不気味だ。汚れが目立つ赤茶けた皮膚の上に、獣の毛皮で作った防具をまとい、腰には武器をさげていた。見るからに物騒ないでたちだ。

 

 ゴブリンは一匹だけだ。だが、それでも雷の手におえそうにない。

 

(最悪だ……)

 

 ゴブリンのさきには、求め続けた水があった。岩場から少しずつ水が漏れている。湧水だ。湧き水は水溜りよりは大きいていどのちいさな泉を作っていた。

 水を求めてさまよい歩いていた雷の前に、やっと生き残れそうな希望が見えた。

 しかし、それを手に入れるには大きな難題が待ち構えていたのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 明日に向かって

 4

 

 雷が持っている選択肢はみっつ。

 諦めて他を探すか、ゴブリンがこの場から離れるのを待つか、あの魔物を倒すか。

 三番目は絶対にない。積極的な自殺と大差ないだろう。

 一番目か、二番目。再び水を探しあるいて体力を消耗することを考えると、二番目が好ましい。

 

 ゴブリンは、全く隠れきれていないが、雷と同じように身をひそめている、つもりらしい。何かを待っているようにじっとしていた。

 雷が見守る先で茂みが動き、鼠によく似た齧歯類があらわれた。鼠にしては大きく、まるで兎のようだ。

 頭の部分が赤く濡れている。光に照らされる赤は、生理的嫌悪が湧き上がる毒々しさがあった。雷は一瞬、それは血の色かと思った。だが、頭部を怪我しているのではなく、鼠に似た生き物は蛙のような粘膜の体皮を持ち、その体皮の色なのだと気づいた。

 

(ああ……序盤に、いたなあ。鼠の魔物)

 

 鼠の頭部には毒があり、頭突きされた場合確率で【毒】の状態異常になる。〈神聖魔法〉の技能(スキル)あげのために、毒に冒されるたびに《浄水(クリアウォーター)》を積極的に使っていた記憶がある。

 

 ゲーム序盤の記憶は曖昧だが、一匹一匹は犬よりは弱かった気がする。ただ、犬よりも数多く群れをなしていたので、下手をすると相手にするのが厄介だった。レベル0で仲間がいない状況で大量の鼠に出くわした場合、簡単に袋叩きになった。少しずつHPが削られていき、じり貧になる。仕様が易しいゲームですらそうなのだ。初戦でもさほど苦労せず倒せたはずの犬との苦戦を考えれば、この空想の世界が現実になった場所では、今はエンカウントしたくない魔物だ。

 

 赤い頭の鼠は、ゴブリンにすぐに気づき、臨戦態勢をとった。ゴブリンはその反応に自分の存在が気づかれたことに悟り、武器の棍棒を構え鼠に急ぎ襲いかかった。どうやら奇襲を狙っていたらしいことを雷は察した。

 

 鼠が鳴く。ちゅうちゅうなどいう可愛らしい擬音などでは表現できない、濁点をつけて勢いつけて吐き出すような鳴き声だった。

 がさがさと音をたてて毒鼠があらわれる。総計五匹の毒鼠は、あらわれるなりゴブリンに突進して頭突きをしかけた。

 ゴブリンはそれを棍棒で打ち返す。まるで暴投をものともしない巧みな強打者のごとき姿だ。三匹の毒鼠を見事退け、二匹の鼠の頭突きを足にくらったが、少しふらついくだけですぐに持ち直し、残りを足で蹴り付けた。

 

 不気味な相貌を得意げに歪ませて、五匹の毒鼠を見下ろす。

 ゴブリンは不揃いな歯が生えた口を大きく開け、一匹の鼠の胴体にかぶりついた。骨が砕け、血が飛び散り滴った。臓腑と肉を食い漁る音が、ほんの短い間だけのことなのに、雷の耳に生々しく焼きついて残る。

 

 短い食事を終えたゴブリンは、残った大きな鼠のしっぽを掴み、四匹の獲物を手に水場から去っていった。

 

 その背中を見送る雷は、静かな衝撃により驚きを隠せなかった。

 魔物たちによる弱肉強食があるのだ。

 ここは作られた世界ではないのだとまざまざと感じた。雷はここをゲームに似た世界と把握していたが、彼の中にあった想像よりもはるかに現実味をおびているのだと認識をあらたにした。 

 

 ゲームでは魔物間による争いなどなかった。プレイヤーの属するひと側に襲いかかる一蓮托生の存在だと思っていた。

 しかし、現実では魔物であっても生きるためには魔物同士で争うものらしい。 

 ふつうの獣とて、肉食獣は狩りを行うのだから、当然と言えば当然なのだ。彼らは生きているのだから、食事だって必要だろう。自分にとって空想の世界の生き物だったからといって、霞を食って生きているはずはないのだ。

 

 この光景に、雷が今までゲーム知識を前提にして抱いていた世界への印象と、この世界の現象の齟齬が少しだけ正された気がした。

 それに関して特に良し悪しがあるわけではないが、勘違いを続けているよりはましな結果だった。雷の無知が原因で、何か良からぬ事態を引き起こすこともあるかもしれない。

 雷はゆっくりと、この世界を知っていく。

 

 5

 

 待ち望んだ水だ。

 においをかぐ。当然だが、水道水のような塩素臭さなどはない。見慣れないくらいに澄んだ水で、岩場から細く滴る水を掌でためるとずいぶんと冷たかった。

 

 細菌とか寄生虫とか、考えたら負けだ。雷は居直った。ここでためらっていたら、ここまで歩き詰めだった努力は無と帰す。また驚異となる魔物や獣があらわれないとも限らない。さっさと水を飲み、試験管にもほんのわずかでもいいから水をためて、ここから少し離れよう。

 雷は毒を浄化する《浄水(クリアウォーター)》の準備をしてから、水に口をつけた。

 

 水だった。

 

 心底ほっとする。

 こくりと喉をならし、飲み込む。

 体がじんわりと水に満ちていくことに、泣きたくなるくらいの感動を覚えたのは初めてのことだった。ここは、その気になればいつだって水分を得られるような場所ではないのだ。

 掌をゆっくりと湿らせていく水は、熱中症寸前の朦朧とした意識で飲む水以上に、価値があるのだ。

 

 日本がどれほど恵まれているか。水資源がいかに大事かとテレビでもインターネットでもあれこれと聞いていたが、正直他人事だった。

 喧伝内容がいかに正しかったのかを、雷は骨身に染みるほど味わった。それによって心を改めるような性格をしてはいないが。

 

 掌にわずかにしかたまらないのが、もどかしかい。

 掌に一口分あつまるごとに、待ちわびたかのように飲む。

 とくに変な味がするようなこともなく、ミネラルウォーターのように飲みやすい水だ。

 回復薬(ポーション)に比べればじつに美味い。

 

 ここがゲーム世界を現実化したような場所ならば、環境汚染とはとおいはずだ。酸性雨など降らないだろうから、水も汚くならないのだろう。もしかしたら、日本の水よりもずっときれいかもしれない。

 雷は時間をかけて喉をうるおした。

 

 満足するまで水を飲み、空になった硝子管に水をいれる。

 岩から漏れ出る水は少量で、細い試験管ですらなかなかたまらない。

 周囲を警戒しつつするべきことを終えると、雷はその場から離れた。

 入れ替わるように、黒い小犬がきた。

 雷は犬の姿を認めるとあわてて身を藪の中に隠した。

 

 6

 

 チワワによく似た黒い犬は、ちいさな泉の水を舐めていた。舌が水をすくうたびに滴が水面を叩く音がする。

 さきほどのゴブリンではないが、奇襲という言葉が頭をよぎる。

 あちらは雷に気づいておらず、また犬が雷に気づいたらこちらに戦意がなくてもまた襲いかかってくるかもしれない。

 《強打撃》ならあの犬を倒せるだろう。その一撃では足りず、通常の打撃がいるかもしれないと考えるが、雷はHPという厳粛な数値がないことを逆に強みとした。

 

 それこそ残りHP1で動けるのか、という話だ。

 

 胴体の骨が折れるほどの負傷を受けかろうじて即死は免れても、まともに動くことは不可能なはずだ。

 血を見るのは気持ち悪いし、痛いのは純粋にいやだ。だが、雷は戦う選択肢に重きを置いた。

 

(きっと、今のままじゃだめだ。レベルアップが必要だ)

 

 この森からいつ出れるのかもわからない。

 それまでの間に魔物と戦うことになるだろう。生きるためには、強さが必要だ。

 さいわいなことに、雷にはわかりやすい目安がある。生命力も魔力も体力も数値になってくれなかったが、レベルという指標がある。ステータスもあるのだから、レベルアップすれば単純に身体能力があがるはずだ。その上昇した能力値は確実に雷の生存率をあげる。

 

 毒鼠の群れ五匹は、雷では相手にもならずに噛み殺される。そんな鼠をものともしないゴブリンには、あの棍棒でやすやすと殴り殺される。

 それが予想できるから、このまま逃げの一手で足踏みを続けるよりは、勝てる相手には積極的に仕掛けて、自らの糧にするべきだ。

 

 雷は極力音をたてないように棒を握った。

 動物というのは人間が思うよりもずっと俊敏で、完全な不意打ちはきっと難しい。

 そろそろと音を殺したつもりで忍び寄っても、きっと途中で気づかれる気がする。ならば、一気に距離をつめて思い切り殴る。

 

 草を踏み、土を踏み、枝を折った。

 音に気づいて振り返る黒い小犬。雷の姿を認めて、こぼれおちそうな丸い目に凶暴な光がともった瞬間、目があった気がした。

 過剰な攻撃性さえなければ、あどけない姿だ。懐いたらきっとかわいいだろう。こんな場所で孤独をいやしてくれる存在になったら、雷はちいさな命に依存してしまったかもしれない。

 けれどもお伽話のような都合のいいことは起きないのだ。

 だから、聞く人が聞けば残酷だと眉を潜めて糾弾すらしそうな行為を、雷は選ぶ。

 ただの犬と変わらぬ姿に、棒で打ち据えることにためらいはなかった。

 

(強打撃!) 

 

 頭蓋を割るように棒が小さな頭に減り込んだ。衝撃に眼球が飛び出る。視神経とつながった目が落ち、やがて重力に耐えきれず細い糸が切れて転がっていった。

 

(倒した)

 

 殺した。

 

 雷は膝をおる。棒を杖がわりに体を支えた。ひどい目眩がした。このまま体が横になったら、意識がきっと落ちてしまう。息を整えることだけを念頭におき、雷は必死に目を見開く。耳鳴りのように全身の血がざわめいている。どっと汗が噴き出て、灼けるように熱くなった全身を冷やした。

 

 こんな状態でここにいるのは危険だ。また犬や鼠、そしてゴブリンが来たら、雷など一瞬で殺される。

 雷が、手にかけたばかりの黒い犬のように。

 

(ゲームみたいに、SPが0になってもせめて歩ければいいのに)

 

 体力消費による急激な疲労により、ここがプログラミングによる四角四面の仕様によって形作られているわけではなく、雷の中の常識に近い法則があることがわかった。そして、雷の経験よりも体力の回復には多少融通がきくことも。

 痙攣するように手足が震えるが、これだけ消耗しているのに少しじっとするだけで再び動ける気がしてくる。最初の津波のような疲労感にさえ耐えれば、なんとか意識を保ち、すぐに動けるようになる。

 

(こんなところで、気絶してたまるか)

 

 雷は(ロッド)を支えにして、体を起こす。

 水場からはなれた。

 細い獣道を背にし、引きずるような動きで森を進んでいると、雷であればすっぽりと身を隠せそうな木のうろを見つけた。

 雷は杖をついて歩くこともやめて這うようにそのなかにおさまると、そろそろ寝ても大丈夫だとおもう間もなく、気絶するように眠りについた。

 

 7

 

 朝、試験管の中にあるわずかな水で喉を湿らせながら雷は手帳をひらいていた。

 犬を二匹倒した経験値で、レベルをあげられないか確認したのだ。

 ゲームでは、ジョブレベルの経験値は割り振り制だった。経験値を得ると勝手にレベルが上がるのではなく、戦闘やクエストで得た経験値を自分がレベルを上げたいジョブに割り振る。割り振った経験値の分、レベルがあがる。ゲームに歯応えを求める層に、このシステムは評価が高かった。自分の好きなタイミングでレベルを上げられるから、強くなりすぎない。

 

 ステータス画面で操作していたジョブレベルの経験値だが、その代わりをするのがこの手帳なのではと考えた。

 結果、雷は肩をおとすことになる。

 思ったとおり、レベルアップ操作自体はできそうだった。材質は紙に見えるくせに、割り振っていない経験値の数値をさわると、タブレットのドロップ操作のように経験値の移動ができる。

 レベルアップの仕様がわかり先行きが明るくはなった。しかし、レベルをあげるにはまだ足りない。

 

 レベル0のジョブをレベル1にするには、100の経験値が必要だ。

 昨日の戦果は、黒犬二匹で20の経験値。失神寸前になるまで疲れ果てたにしては、散々な数値だ。

 あれだけ苦労したのだから、犬一匹の経験値100でもいいだろう。いじけた感情が湧き上がり、雷は誰にともなく悪態をついた。

 

「ああ、くそ」

 

 あと八匹、犬を倒さないとレベルは上がらないらしい。

 緊張と警戒と恐怖で神経をすり減らし、あの疲労困憊とあと八回も戦うのは現実的ではない。

 万全の体調で戦える状態を維持する材料を、雷はもっていないのだ。

 水の調達の目処はついたが、食糧確保の問題もある。

 水を飲めばすぐには死なないが、栄養をとらなければ体は衰弱していく。

 

(最悪毒消の魔法を使いながら、その辺に生えてるもんを食わなきゃいけないわけか)

 

 雷は再び気落ちした。とんだサバイバル生活だ。

 森の出口を探す。

 昨夜ずいぶんと長いことあるいた。子どもの足だから距離は稼げていないかもしれないが、主観ではそうとう進んだ気がするのだ。

 しかし、これが逆走して森の奥まったところに向かっているのか、それとも森の終わりに向かっているのかそれがわからない。

 

 だれか答えを教えてほしい。痛切に願った。生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。

 

 このままだと、自分はどうなってしまうのか、それもまたわからない。どうすればいいというのだ。

 わからないことだらけだ。

 

 なにより、どうして自分がここにいるのか、知りたい。何か意味があるのか、なんらかの重い役目を託されたのか。それとも神のような存在の気まぐれで助けられたか遊ばれているだけで、こんな場所に放置されているだけなのか。

 大きな木のうろの中で、雷は膝を抱えた。 

 

(とにかく、今するべきことを考えろ)

 

 雷は己をさとす。

 膝に埋もれさせた顔をわずかに上げて、朝日をうけている森をみつめる。

 人の手などはいっていない原生林、見知らぬ植物に満ちておだやかに光り輝く緑の世界。幻想的な美しさを裏切る命の営みの過酷ささえなければ、絵画を見ているような気分にさせる。

 大自然のありふれた、けれども尊い美しさだった。しかし、そんなものに見惚れる余裕などない雷は、考えなければならない。

 

刻印(ルーン)魔法を使ってないな。使えるものは、がんがん使わないと。《遅滞(スロウ)》は武器に刻印(ルーン)を描くと、使用が可能になるんだよな。

 《停止(ストップ)》は魔法を使うと刻印(ルーン)が描いてある礫が飛んでいく。あー昨日これに気づけばよかったんだ。馬鹿だな俺、これを使えばもっと安全に犬を相手にできたじゃないか!)

 

 乱暴に頭を掻いた。結果的に辛勝したが、自分を把握していればもっと安全なやり方を選べたことに、雷は悔しがる。後悔先に立たずだ。

 この反省を活かし、これからは有用な手段はつかっていこう。

 

 〈刻印(ルーン)魔法〉のことを考えていると、頭の中に現在使用可能な《遅滞(スロウ)》と《停止(ストップ)》の魔法文字と読み方、効果や意味、知恵袋のような細かい成り立ちがごく自然に思い浮かぶ。この二つの魔法よりもレベルが上の魔法は、魔法文字だけは頭の中に浮かぶのだが、読みも意味もわからない。プレイヤーの知識としてはある程度知っているが、どうやらこの状態では使えないだろうな、というのは察した。知っていても、自らの身になっていない状態だ。

 

 スキルレベルが必要レベルに達していないのだ。

 不思議なことに、プレイヤーだった雷はゲーム世界に描かれた文字なんてうろ覚えだったのに、今では手本も見ずに記憶だけで正確に描ける自信がある。

 

 刻印(ルーン)の魔法文字は表意文字であり、その刻印を物質に刻むことからはじまる。

 〈神聖魔法〉のように魔力を用いて魔法を生成するのではなく、予め刻んだ刻印(ルーン)に魔力を注ぎ込むことで魔法が発動する。〈神聖魔法〉や〈属性魔法〉よりも手順を多く必要とするが、そのぶん便利なところもある。

 

 魔法文字には二種類ある。

 一度使用すると消えてしまうものと、恒常的につかえるものだ。

 

 恒常的に使用できる刻印(ルーン)は装備品に刻むことができる。たとえば《遅滞(スロウ)》ならば武器にその魔法を付加できる。魔法を使えなくても、その武器を装備していると攻撃したときに確率で追加攻撃が発生するのだ。

 〈刻印(ルーン)魔法〉を使用してその武器を使うと(相手の能力値によって失敗することもあるが)確実に魔法を発動させることができる。

 

 防具ならば、相手からの《遅滞(スロウ)》系の攻撃に対する抵抗力があがる。

 

 《停止(ストップ)》は一度使用すると消えてしまうもので、装備品には刻めない刻印(ルーン)だ。

 

 まずは《遅滞(スロウ)》を刻もう。

 そうは思えど、雷はそこからつまづく。刻印を武器にいれるにはどうすればいいのかわからない。

 可能とするものがあるならば、それはシステム操作の代替えとなる手帳だ。魔法欄を開き、《遅滞(スロウ)》の文字を叩く。しかし、何も起こらない。

 

(初期装備の(ロッド)刻印(ルーン)を刻めなかったけ? いや、そんなはずはなかった)

 

 武器ごとに刻印(ルーン)を刻める数が決まっている。

 最初期に手に入るどんなに弱い装備でも、一個くらいは刻印(ルーン)を込められた。

 

(もしかして、システムのボタンで解決じゃなくて自分で彫らなきゃいけないのか……?) 

 

 雷は結んだ唇を引きつらせた。この、魔法文字を描ける自信というのは、魔法文字を描くことも技能(スキル)のもたらす能力の範囲内だからなのだろうか。

 

(ここは念じるだけで解決するものだろ? そうだろ?)

 

 願いをこめながら雷は(ロッド)を握った。何も起こらなかった。

 嫌な予感が事実になりかけている。

 

(うわー。まじか。もしかして)

 

 雷はうろの中で《停止(ストップ)》の魔法を使った。使うつもりで、念をこめた。

 この魔法は、ゲームでは《停止(ストップ)》の刻印(ルーン)が描かれた礫があらわれ、敵に向かって飛んでいく。だが、周囲に一切変化はない。召喚されるように石が出てきてくれなかった。

 

(魔力でストップの効果を持つ石が勝手にあらわれてくれるわけじゃないのか? もしかして、ストップを使いたいなら自分で、石に、文字を描けと?)

 

 その不親切な仕様に気づいたとき、雷は気が遠くなった。

 

(うそだろ!? つっかえねえ!)

 

 頭を抱える。なんて手間がかかるのだろう。だいたい、彫刻刀もペンもインクもろくにないような場所で、どうやって刻印(ルーン)を刻めばいいといのだ。

 

(とりあえず、飯だ。腹がくちくなれば何かいい案が思い浮かぶかもしれない)

 

 覚悟を決めてうろから這い出る。

 食料を確保しつつレベルを上げて安全性をあげながら、森の出口を探る。

 森の出口を見つけるのが先か。はたまたレベルがあがるのが先か。

 

(先に森から出たいなあ……はあ) 

 

 雷は(ロッド)を片手に構え、森の中を分け入る。

 先がわからない不安を抱えながら雷はすすむ。それでも、生きることを諦めない蒼い瞳は力強く輝いていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レベルアップ
第六話 先行き


 1

 

 血のにおいがするぼろぼろの袖口を、体を休めたうろから遠いところで捨てた。

 今朝になって気づき、ぞっとした。においに引かれて夜のうちに獣が来なくてよかったと胸を撫で下ろした。

 片袖のない黒い服は、滑稽でみっともない。むっとする汗のにおいがずっと張り付いているし、文化人とはとても言えない格好だった。

 

 そんな雷を後ろ指さして笑うひとすらいない、深い森の中。

 格好など気にしなくていいのだが、恥や外聞を気にしなければならない場所だったら、どんなにましだったろう。そもそも、こんな場所に突然放り出されなければ、こんなひどい姿にならずにすんだ。

 

 雷は昨夜の泉にいた。

 脅威になりそうな生き物がいないことを確認し、雷は水を飲み、試験管にためる。こんな容量の少ない容れ物でもないよりはましだ。

 

(水筒でもあればいいんだけどなあ)

 

 胸中でぼやき、やるべきことを終えるとすぐに離れる。

 実りの秋というのは異世界でも通用するのか、食べられそうなものはいくつかあった。

 どんぐりや固い殻に覆われた木の実、まだ青いいがに覆われた栗。明るくなってからじっくりと探すと、見知ったものに似た、だが少しだけ違う見た目の山の幸がたやすく見つかった。

 まだ大きくなっていないが、山ぶどうもあった。まだ青い林檎が実っている中、わずかに赤く染まっている林檎。そのまま食べられるか期待して集めた、名前の知らない赤い実が小枝に連なっていたもの。

 

 これだけあるのだから、どれかひとつくらいは食べられるものがあるだろう。雷はあさはかに喜び、安堵した。

 

 きのこは初めから視野に入れていない。

 現実世界ですら知らないきのこを採ろうとは思わないのだから、未知の世界のきのこなど手を出したくはない。

 毒消の魔法があるとはいえ、わざわざ猛毒の可能性が高いものを口に含みたくない。

 

 くるみのように中が割ってたべれそうな木の実はともかく、どんぐりと栗に似たものは手を出しかねた。ぶどうと少し赤い林檎と泡のように連なった小さな赤い実の塊を布袋の中につめる。

 とりあえずの安全地帯に定めた木のうろにむかう。そこに身をひそめて、まずはぶどうをわずかに齧った。これが一番自分の知る食べられる物に似ている。

 

「……! ぶはっ」

 

 あまりの味のえぐさに、口から吐き出した。

 舌や粘膜に痺れを感じないから、即効性のある毒物ではなさそうだが、そうでなくても食べようという気持ちにならない味だ。

 甘みは一切なく、顔をしかめるほどのえぐさの中に、耐えがたい酸味がある。

 ぶどうを諦め林檎を口にしてみるが、似たようなものだった。まだ熟していないためか、味の青臭さと酸っぱさはさらに増している。

 

 最後に赤い実だ。

 粒々した小さな実をひとつだけ。恐る恐る口にいれる。

 

(……う!)

 

 耐え切れない味ではない。だが、強烈に酸っぱい。小指のさきほどにも満たない実が、アセロラやクランベリー、レモンを凌ぐ酸味を持っている。

 空腹の予兆はある。何か腹におさめたほうがいいと思う。毒でなければ、体力の維持のために食べておけ、と理性が雷に命じる。

 

 これ以外の食べ物を今のところ探せそうにない雷は、念のため毒消の《浄水(クリアウォーター)》魔法を自らの体にかけながら、泣く泣く食べ切った。

 現代の管理された果物の味がいかに偉大かを思い知り、痛切に帰りたくなった。

 

 2

 

 満たされない食事を終え、(ロッド)への加工に取り掛かる。といっても、その手段を考えるところからはじまる。

 

(赤い実の果汁でなんとかならないか?)

 

 赤い実をつぶすと、赤紫色の濃い汁がでる。それをつかって指で木の表面に描くのだ。ものは試しにと行ってみると、指の太い線でぶかっこうながら刻印(ルーン)を描くことができた。滲んだり、垂れて消えることはなくどういうわけか最初に書いたままに線が固定化している。魔法文字のもつ力か、技能のもつ力なのかもしれない。

 

 まあ、使えそうだ。と、技能(スキル)のもたらす感覚が雷に教えてくれる。だが、これが正しいわけではないような気がする言葉にならない違和感はあった。100点中30点くらい、そんな根拠のない評価がふわりと身内にわいてくる。

 

(正しい作法とか、書き順とか、描くためにつかうものとかがあるのか? まったくわからない)

 

 現時点で準備できるものはこれくらいなので、ないよりはましなのだと思って騙し騙し利用していこう。

 雷は《遅滞(スロウ)》と念じながら(ロッド)を振った。自分の中にあるものが、棒に向かって吸い出されていく感じがする。

 木に打ち付けてみた。

 変わりはない。動かない物を対象にしているのだから、当然の結果だ。だが、魔法が発動した手応えはある。

 

(なにか、効果を実証できるものはいないか?)

 

 雷は探すが、試しに使えそうなものは見当たらなかった。

 石を拾い、赤い実の汁で《停止(ストップ)》の刻印(ルーン)を描く。こちらは100点中50点。

 

(同じもので描いてるんだけどな。こっちのほうがまだまし、って気がする。なにがよくてなにが悪いんだ? 文字の正確性?)

 

 雷は頭をひねりながら、手ごろな石を拾い十個ほど刻印(ルーン)を描いた。

 描き終えた石をじっと見つめる。

 

(もしかして)

 

 ゲームでは、石は自動で命中していた。敵の抵抗により魔法に成功するかは別であったが、魔法が相手にぶつかるまで自動だったのだ。

 

(ストップ、ストップ、ストップ……!)

 

 発動せよとどれだけ気合をいれても、石はぴくりともしない。

 雷は脱力しながら石を一個つかみ、手のひらの上にのせた。

 

(ストップ……)

 

 何かに当てることは考えず、魔法を使うことだけを考えた。手のひらのなかから魔力が流れていく感覚がある。

 

(飛べ!)

 

 手の中にある石は、全く反応しない。

 

「まさか、自分で投げろ、と……?」

 

 雷は石の行き先がわかる程度の距離に、ぽすんと軽く放る。

 落とした先を探した時、石に描いた刻印(ルーン)は消えていた。魔法は無事発動したらしい。

 

「不便すぎるだろ」

 

 戦いの最中に、石を投げなくてはいけないのか。そうしなくては、魔法にならないというのか。近接戦になったら石なんて投げてる暇がないだろう。どうやって使いこなせというのだ。だいたい、戦いのときに石に描いている暇などないから、あらかじめ刻印(ルーン)を描いた石を用意しておく必要がある。それを運ぶのは誰だ? 自分だ。

 

 雷は袋の中に石を全ていれてみた。重量があり、ずっしりとくる。作りの荒そうな布がやぶけないか心配になる。

 服には衣嚢(ポケット)がついておらず、持ち運ぶには自分の手で持つか、袋にいれておくしかない。

 

(倒せそうな魔物を見つけたら、この石を投げて動きを止めて棒で殴る)

 

 《停止(ストップ)》の効果は《遅滞(スロウ)》で延長させることが可能なので、悪くない戦術だ。このふたつの魔法さえうまく使えば、昨日よりも安全に戦えるだろう。

 石さえ当たれば、の話だが。

 

(最悪、《遅滞(スロウ)》の効果だけを頼りにしよう。《停止(ストップ)》は運がよければ発動するものだと思っていれば、間違いがない)

 

 雷は作戦を決めて、動きだした。

 

(まず森の出口を見つけるのが一番だ。だが、長期戦になることも考えて、レベルをあげたい。勝てそうな魔物がいたら、こちらから仕掛けるぞ)

 

 3

 

 うろと水場を中心に周囲の探索を広めていった。

 魔物は鼠の群れと二匹で行動する黒い犬を見かけた。雷はそのたびに見つからないよう必死にやりすごした。

 草を結び、自分が通った跡を残していく。

 

 一度だけ一匹でいる犬を見つけたので、それを倒した。投げた《停止(ストップ)》の石は案の定狙いから外れた。頼りの《遅滞(スロウ)》は、狙い通り犬を緩慢にさせた。スローモーションのような動きになるのではなく、疲弊した状態で無理に動いているような速さだった。対処がしやすく、急所である頭部を何回も何回も殴るとやがてぐったりと動かなくなった。

 

 《遅滞(スロウ)》を発生させれば、戦技(アーツ)を使わずに黒い犬を倒せるのは嬉しい情報だ。めまいがするほどの極度の疲労というのは、日に何度も味わいたいものではない。時間経過で早く体力回復するとはいえ、足を止めるていどの休息では癒えない疲労を、蓄積している気がする。昨日も二度目の戦技(アーツ)の発動後の疲労は、一度目よりも重かった。二度、三度と使っていては、きっと倒れてしまう。

 

 朝と同じ食べ物を見つけ、やわらかそうな茂みに身を隠して昼食にする。水分は顔をしかめるほどのえぐみのある果汁で補った。舌がおかしくなりそうだが、何も腹にいれない状態での探索では、何かあったときの対処がむずかしい。

 午後の探索ではゲームで登場する薬草と毒消し草を見つけた。毒消し草のそばには香草に似た葉っぱが生えていたので、それを摘む。

 

 生野菜のように食えるかは謎だが、全く名称を知らない草木よりは安全性が高そうだ。

 一匹だけで動いている犬を二回見つけて、それを仕留める。レベルがあがるまで、あと半分だ。

 

 夕方になり、暗い森の中がよけいに暗くなり始めた。洋燈(ランプ)のような花があちこちで灯しはじめたので、雷はうろに戻って食事をする。

 薬草は苦いが、朝に食べた果物や赤い実よりもましだった。ピーマンやふきのとうのような苦味だ。これらの野菜や山菜を、雷は好んで食べなかったが、付き合いでの食事に出された時には渋々食べていた。香草は日本のハーブよりもいっそう匂いが強烈だ。だが、好みの問題ですみそうな香りのきつさだったので、雷はこれもまだましと思いながら飲み込んだ。毒消し草は口にした瞬間に舌や口内の粘膜に痛みと痺れが走ったので、すぐに吐き出す。

 

 すぐに《浄水(クリアウォーター)》の魔法をかける。口の違和感は消えた。

 毒消し草と名がついているが、きちんと手順を守って加工しなければ毒消し薬にはならないらしい。そのまま食べると、かえって毒になるのは、ある意味リアルだ。

 異世界に来た二日目は現状打破の手応えのないままに過ごした。

 

 

 

 三日目はより遠くの探索を心がけた。拠点になりそうな水場を探しながら、森の中をかき分け進んだ。

 そして、雷はやっと森を出る手がかりを得る。

 

 犬や鼠など勝てそうな魔物がいる方向と、頑張っても倒せそうにないやつらがいる方向がある。

 

 ゲームの設定を踏襲しているのならば、魔物が弱い方向はより人里に近い。

 

 フリーシナリオを採用している『精霊の贈り物』には時間経過が存在する。

 物語開始直後は再生歴……雷は詳しい年数は忘れたが、再生歴なんとか年春と表示される。

 物語の中核を成すメインシナリオや、世界観や登場人物を掘り下げるサブシナリオ、経験値やアイテム稼ぎのために請け負ったクエスト。これらをこなすごとに、イベントポイントという隠しステータスが増える。

 ポイントが貯まると夏へと移行する。

 

 それらを繰り返して時間を経過させると、出現する敵が強くなっていく。敵の強さはマップごとに固定されているのではなく、その時間経過によって決まるのだ。

 ゲーム的にはレベルが上がるプレイヤーに合わせているわけだが、世界観の設定としては世界の脅威が目覚めようとしているから強い魔物が頻繁に出没してくる、ということらしい。

 

 強い魔物は普段、人里離れた場所で暮らしている。暇つぶしのための気まぐれのようにひとを襲いに来たり、本能として人間を襲撃しにくることもあるが、そんなイレギュラーをのぞいて、住処で暮らしているのだ。

 ゲーム開始直後は、危険な魔物はダンジョンや森の深い位置に引っ込み、街道や人里付近には弱い魔物がいる時期だ。

 物語を進めると、そういった棲み分けがなくなり、都市の近くに以前見た雑魚敵もいるが、一緒にやたら強い魔物がいる、という事態となる。そして、人外未踏の奥地にはさらに強い魔物が彷徨うようになる。

 

 森をみた限り、レベル帯で棲み分けができているようだ。

 今はまだゲームの最終盤ではなく、平和な時期なのだ。これがいきなりゲーム終了直前の世界に放り出されていたら、雷などとっくに死んでいただろうから、それは予測がついてたことだった。

 

(強い魔物が出る場所は避けて、弱い魔物が出るあたりを突っ切ろう)

 

 前向きな目標ができ、雷は晴れやかな気分で眠れた。

 レベルも、あと一匹犬を倒したら上がるところまできた。

 状況は徐々に好転していた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 ようやく見え始めた希望

 4

 

 四日目、魔物が弱い方向を目指して歩く途中、青いスーパーボールを見つけた。

 いや、一瞬スーパーボールに空目しただけで、魔物だった。青い色のスライムだ。こどもの玩具のような生き物は、真球の姿をとったかと思えば、すぐに潰れたような姿になる。森の中で小さく跳ねるように移動している光景は、やっぱりスーパーボールだった。

 

 雷の持つ知識が確かなら、犬や鼠よりも弱い魔物だ。すかさずスライムに近づき、(ロッド)で殴った。水風船が弾けるような音がして、スライムはおどろくほど呆気なく割れた。

 

「弱……」

 

 予想以上の手応えのなさに、まじまじとスライムの残骸を見つめてしまった。

 透明な膜から、どろりと青い液体がこぼれている。中には石ころようなものが入っていた。これを魔核といい、魔物の心臓にあたる。魔物によっては美しい魔核を持っていて、そういった魔核を狩ってくる依頼(クエスト)もある。たしか、これがある生き物が魔物と呼ばれているはずだ。ゲーム内のモブが語る情報なので、あやふやな知識だった。

 

 雷は経験値が気になり、手帳をさっと開いた。

 今までの戦いで取得した経験値の合計は95になっていた。

 

(スライム一匹で経験値5……今の俺には、でかい!)

 

 犬と戦う労力とは比べ物にはならないくらい楽に倒せるのに、レベル0の雷にはひじょうに美味しい経験値になる。あと一匹倒せば、レベルアップが可能なのだ。

 

(スライムを見つけたら、倒そう)

 

 食べ物をや新たなる水場、森の出口を探しがてら、雷はスライムに対しても注意をはらった。

 スライムはスーパーボールに見えるくらいに小さく、背の高い草の上にいると見つけにくい。

 延々と歩き続け、その後、見つけたのはスライム一匹。犬はいたが、残念ながら群れで行動していた。複数いると、魔法をつかっても安全に対処できる自信がないから、そっとその場を離れた。

 スライムは、意気揚々と潰した。武器を使う必要性もなかった。

 

 その日、森の終わりは残念ながら見当たらなかったが、雷は希望を捨てなかった。

 魔物の中で、最弱の部類のスライムと会えたということは、きっと人の住処がより近づいてきているのだ。

 そして、念願のレベルアップが叶う。

 生きる残る可能性が高くなる。一歩づつ進む手応えを、雷は噛みしめた。

 

 5

 

 水場に近い仮宿にしている木のうろに戻らず、歩き回った先の場所にとどまることにした。ここから、遠い場所に戻るのも時間の無駄のように思えたのだ。きっと、出口は近い。そして、ようやくひとが住む場所に向かえるだろう。こんな魔物しかいない森からは、さっさとおさらばしてやる。

 渋い果汁を無理やり飲み込み、薬草を食べる。こんな食べれば食べるほどひもじくなる飯もきっと終わりだ。雷はそれだけで胸が熱くなった。

 

 まずい食事をしながら、雷は努力の成果を得るために、手帳を開いた。

 どきどきと期待で胸を膨らませながら、取得経験値をタップする。この経験値で、二つあるうちのどちらかがレベルを上げられる。

 今の段階ではどちらをあげても得られるものはほとんど変わりないので、とりあえず神官(クレリック)に経験値を分配した。 

 そうすると、そのページに描かれた文字が黒いインクが水に滲むように薄くなり、やがて消えた。そして、時間をおかずにあらたに筆記される。

 

(ファンタジーだなあ)

 

 ここがゲームに似た世界でなければ、ホラーじみた光景でもあった。現代日本で見たら、きっと恐怖で引きつっただろう。雷の神経は非現実に慣れてきていて、すこしだけ麻痺していた。

 

 雷礼央 種族Lv1【神官(クレリック)Lv1 刻印騎士(ルーンナイト)Lv0】

 

 レベルがあがり、能力値が上昇した。

 魔力と体力が2増えた。敏捷、精神、防御力が1上がり、攻撃力と器用さは上がらなかった。

 胸の中で膨らんだ喜びは、一瞬でしぼんだ。魔法系の構成をしている雷の能力値は、レベルがあがってもやはり頼りなく見えた。

 

(どっちの職業も物理と魔法の複合職なんだけどな……やっぱり体格がネックで攻撃力は上がりにくいのか? 命に関わる防御力が上がっただけでも、よかったと思うしかないな)

 

 攻撃魔法でも使えれば、ダメージソースの圧倒的足りなさを補ってあまりあったのだが。過去の自分がこんな目にあうなど一切予想するわけないから仕方ないとはいえ、攻撃系の魔法を使えるようにしておけばよかったと雷は後悔した。

 

 なにせ〈刻印(ルーン)魔法〉の使用には、まどろっこしい手順がいる。

 攻撃が主な〈属性魔法〉、支援(バフ)と攻撃が得意な〈秘術〉、攻撃と回復に支援(バフ)反支援(デバフ)と多彩な〈森林魔法〉。今作最強の魔法(バランスブレイク)と名高い〈精霊魔法〉。これらのどれかを習得していれば、状況はまだ楽だったろう。

 

(ないものねだりしていてもどうしようもない、か……覚えてない魔法も、アイテムやクエストで習得できるのかな? いや、今考えるべきはそこじゃないな)

 

 魔力が上がったから、魔法の効果もあがるだろうか。

 

(回復魔法はいざとなったときの命綱だからな。得意スキルにしているから、レベルも上がりやすいはずだし、回復量も多いはず……でも、性能が高くなるのなら、より高くなったほうがいい)

 

 雷は息を吐いた。

 

(ひとまずの、目標には到達した。あとは、もういっこの刻印騎士(ルーンナイト)をあげよう)

 

 職業レベルを1から2に上げるには、必要経験値が1000と一気に跳ね上がる。犬とスライムしか倒せない雷には、気が遠くなる数値だ。神官(クレリック)のレベルはしばらくこのままだろう。

 また、経験値を100ためる。刻印騎士(ルーンナイト)に経験値を割り振り、もう一度レベルアップすれば、今よりもより安全になるだろう。

 

(とりあえず明日は、ステータスの違いを実感するとするか。……1くらいの差だと、全く違いがわからないとかじゃあないよな……?)

 

 雷はレベルアップに喜びをいだいのも束の間に、不安を抱えながら目を閉じる。

 

(でも、そろそろ森の外に出れそうだし、そんなに心配にならなくてもいい、のか……?)

 

 人里についてしまえば、きっとステータスの優劣など気にしなくてもよくなるだろう。

 

(なら、そこまで気にしなくてもいい、か。まずは、森を出ることを考えて……)

 

 明日のことをつらつらと考えているうちに、一日中歩き回った疲労で雷は眠りに落ちていた。

 

 6

 

 五日目。戦うかどうかは別として、犬と鼠を満遍なく見つけていた気がしたが、犬の数が減ったように感じた。

 犬の代わりに、スライムが増えた。雷は、揚々とスライムを四匹潰した。三匹の群れになって襲い掛かられたが、攻撃の仕方はゲーム以上にお粗末だった。その場でぽんぽんと跳ねて、幼児が一生懸命投げたような勢いの体当たりしかできないのだ。通用しない攻撃を一生懸命に続けるその努力に喝采をおくりつつ、スライムには雷の貴重な経験値になってもらった。

 

 それが昼まえの出来事だった。

 相変わらずの進まない食事をとる。そして探索を開始して、一匹だけでいる犬をやっと見つけた。

 自分がどれだけ強くなったか試す好機だった。防御力を試す気は絶対にないが、体力の確認はできる。2、上がった体力とは一体どの程度の変化なのか。戦技(アーツ)を使った後の体力の消耗で確認したかった。

 

 まずは石を犬に向かって投げる。運良く命中した《停止(ストップ)》によって、犬は四肢を縛られたように止まった。

 頭の中にある説明書によると、対象の時間を止めているわけではない。使用者の魔力で力づくで対象を縛り付けてあるのだ。

 

「うっー! うっー!」

 

 だからこうやって声をあげることは可能だ。

 犬は牙を剥き出しにして唸っていた。我が身に何がおきたのかわからないが、突然あらわれた雷がその元凶と察することはできたのだろう。

 一切身動きがとれないことに焦った顔をしながらも、闘志は消えていなかった。その諦めない強靭な意志を刈り取る、無慈悲な戦技(アーツ)を雷は放った。

 犬は内臓が潰れて喀血し、死んだ。魔法のせいか、ぐったりと動かずに立ったまま死んでいる。かなり不気味な姿だった。

 

(うわ、気持ち悪い)

 

 戦技(アーツ)の直後、そんな慈悲もない残酷な感想をいだけるくらいに余裕がある。

 息が上がる疲労感に全身が重く感じるが、体が動かせなくなる極度の体力消費ではなかった。

 

(動ける……!)

 

 呼吸を整えながらになるが、歩くことは可能そうだ。

 無理をしねければならない状況ではないので今は休んでから動くが、何かあったときも以前よりも無茶がきくようになった。

 戦技(アーツ)を放ったあと、長い間隙だらけになる状況を回避できるのも嬉しい。

 

(もう一度レベルをあげて、体力が上がれば今の状態よりもさらに楽になるのか。何かあったときのために、早く上げておきたいな。ひとまずは、スライム潰しだ)

 

 スライムの比ではない速さで体当たり攻撃を数でしかけてくる毒鼠は、まだ相手にしたくない。複数の犬も、まだ怖い。とても楽に安全に倒せるスライムが、一番だ。

 

 7

 

 歩いていると、夕日の差込がやけに強い気がした。

 遠くを見ると、木々の生えない原っぱが見えた。

 雷は興奮で足を縺れさせながら、急ぎ足で前へ進む。

 

「道だ……」

 

 森の中に、道がある。

 草木を踏みしめただけの獣道なんかではない。

 アスファルトを見慣れた雷にはお粗末な舗装に見えたが、砂利を敷かれたそれはまごうことなく人為的に作られたものだった。

 前後を見渡しても、森はまだまだ先に続いているようだった。 

 しかし、この道さえ辿ればきっと森から抜け出すことができるのだ。

 じわりと涙が滲んだ。

 喜びと安堵で、泣くなんて雷に記憶において初めてのことだった。

 

 道を歩いていれば、誰かと出会えるかもしれない。

 

 この世界の言葉は、なぜか頭に擦り込まれている。それも、見聞きした記憶のない言語がむっつも。大陸西部語、大陸中央語、大陸東部後、大陸帝国語、大陸古代語、大陸交易語。ゲームの舞台となる世界のどんな場所に飛ばされていても、会話に苦労することはないだろう。

  

 ひとと会ったら、会話できる。そうおもうだけで嬉しかった。

 

 雷はずっとさみしさに耐えてきた。

 だれかのぬくもりに飢えていた。

 

 誰にも泣きつくことも相談することもできず、自問自答を繰り返し、励まし、戒め、ずっとひとりで彷徨い生きてきた。身につまされるおもいで、頑張ってきたのだ。

 雷の二十三年間の経験で、一番長い五日間だった。

 ひもじいおもいをしながら、とても食べ物とは思えないものを口にしなくてもきっとよくなる。

 人と出会える。

 世界にたったひとり取り残されてしまったような、耐えがたい孤独もこれで消えてくれるだろう。雷は人見知りが激しい性質で、ひとりが気楽な性分だったが、だからと言って他人と一切関わりあいたくないわけではないのだ。

 だいたい、人っ子ひとりいない場所など、雷には生きていくことが不可能だ。サバイバルの知識もなければ、それをやり遂げる気力もない。ここまで生きることができたのは、いつか人の住む場所に行くという希望があったからだ。

 ひとの営みがあり、その端っこにひっかかることで雷は人並みの生活ができるのだ。

 命の危険があるごつごつした冷たい地面の上での野宿ではなく、暖かい寝床で眠れるだろう。

 やっと生きるための足掛かりを掴めた手応えに、雷は胸にこみ上げてくるものを感じた。

 

 いまだに日本に未練がある。でも、帰れないことはわかっている。雷は、ここで生きるしかない。こんな姿でこんな場所で生きるのは嫌だと、悲嘆にくれて死ぬつもりなんて絶対にない。雷は前に進む。

 安定した生活の保証が欲しい。

 すくなくとも、まともな飯を食いたい。

 これからどうなるか、という不安は胸の中にまだある。

 自分がこれから先、どんなふうに過ごすのか。過ごせばいいのか。ふつうの生活ができるのか。わからないことが多すぎて、少し先のことの想像すらできない。

 しかし、それを上回る「少なとくとも今よりは絶対にましになる」という希望が、雷の足を動かしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

再会
第八話 怪しげな男たち


 1

 

 道を歩きながら、誰かとすれ違うことを期待した。

 夜道を照らすよう規則的に植えられた花が、道を遠くまで照らしている。夜であろうと、雷以外誰もいないことが否応なしに理解できた。

 

 雷は何度も夢想する。

 すこし先を歩いたら、きっとそこにはやさしいひとがいて、火を使い暖をとっている。雷の姿に見かねて同情し、その火を囲ませてくれるのだ。

 雷の五日間の経験を話したら、がんばったよくやったとねぎらってくれる。

 そうして明るい火にあたり、冷えた体を芯からあたためる。それは、どんなに幸せなことだろうか。

 

 結局雷が見つけることができたのは、青いスライムと緑色のスライムだった。

 期待はずれも甚だしい。

 雷は大きく肩を落とした。

 求めるものを延々と取り上げ続けられるのは、苦痛だ。

 いつ終わるとも知れぬ孤独がしくしくと心身を苛む。ひとと出会えるかもしれないという希望を下手に持ってしまっただけに、それが叶わないままでいるのは最初からそれがなかったときよりも辛いかもしれない。

 雷はどれほどたっても遭難者のままで、どこに行ったところで救われないまま。そんな後ろ向きな気持ちに駆り立てられる。

 

(でも、五日前よりは進んでる。道すがらにひとと会えなくても、この道の先は人が住む場所につながっているはずだ)

 

 言い聞かせて、暗い気持ちをむりに散らした。

 

 落ち込むのは後回しにして、見つけたスライムに集中した。

 道から少し離れたところに子供が落としたおもちゃのように転がっている。

 緑色のスライムは、青スライムと比べてどろっとしている。ホウ砂とのりで作れるおもちゃのやわらかいスライムのようだった。子供のころ、施設の友達といっしょに学校の自由研究であれと似たものを作った気がする。

 相変わらず青いスライムはスーパーボールのように跳ねていた。

 雷を見つけて積極的にぶつかってくる。昼頃までは嬉々として潰していたが、今の雷はいささか苛立っていた。八つ当たりのように青スライムを潰す。

 緑色のスライムは、歪な球をつくるところころと雷に向かって転がってきた。いっそ虫のふん転がしの方が勢いがいいだろう。雷にあたると、そのまま止まる。どうやら、それが攻撃手段であるらしい。

 

 これは生き物として、どうなのだろう。

 

 青スライムも大概だが、それ以上に生きていくのは困難ではなかろうか。

 スライムとはまったく関係のないひとの身であるが、その弱さには同情とことばにできない虚しさが沸いた。行き場のない怒りが少しだけ和らいだ。こんな知能があるのかもわからない単細胞生物も、生きることに必死なのだ。感心し、邪心がはらわれる心地がした。

 それとこれとは別で、レベルアップの経験値にはなってもらうのだけれど。

 足下に転がった緑スライムを潰す。手帳を見てみる。経験値は青スライムと変わらない。

 これで、経験値を四十稼いだ。

 

(ちょっとずつ、ちょっとずつだけど、ちゃんと前へ進んでる。だから、俺は大丈夫だ)

 

 雷は自身をなぐさめる。

 きっと、助かる。気休めではないはずなのだ。

 げんにこうやって人の痕跡を感じる道を進んでいる。

 諦めて立ち止まっても、誰も雷を助けてくれないのは、確かなのだ。だから、自らのために歩まなければならない。進むことを諦めて、緩慢な死を迎える勇気だってない。もとより、自分の命が何よりも惜しいのだから、諦める気なんて毛頭ない。

 あと少し進めば、雷は求めるものの一欠片くらいは手に入れられるかもしれない。

 

(腹が、減ったな……)

 

 道を見つけたことに興奮して、夕方から飯を食わずに歩き詰めだった。

 一度自覚したらこらえきれそうになかった。

 この孤独を癒したい。

 でも、今切実に欲しいのはおにぎりだろうか。

 

 2

 

 道から離れすぎないように森の中に分け入った。

 森はランプの花に照らされていて、相変わらず夜だと思えないほど明るい。

 ギラギラと光るネオンのような下品さのない穏やかな灯りは、森を幽玄にライトアップしている。

 

 光の下で薬草を見つけたので、苦味を我慢して嚥下した。

 どこにでも生えているやたら酸っぱい赤い実をむせそうになりながらも無理に飲み込む。

 食事とは決して言えない、その場凌ぎの生命維持をなんとか終えたので雷は道に戻る。

 

 今日はまだ眠る気になれない。

 もしかしたら、という思いが胸を突いてやまない。

 そこから一時間ほど歩き続けただろうか。

 夜空に溶けていく白い影を見つけた。

 

 ーー煙だ。

 

 理解した雷は反射的に駆けていた。

 息急ききって向かった先には大人の背丈ほどの石造りの塔と、犬小屋のような建物が建っていた。

 

(ああ、キャンプポイントだ!)

 

 ダンジョンやフィールドの休憩地点だ。

 神を祀るための地蔵のようなものが小屋に設置してあるはずだ。

 この地点でコマンドを入力すると、キャンプを行いHPやMPを回復したり、条件を満たしていればアイテムの生産をしたりできる。

 

 それを見つけた雷は足の勢いを弱め、ゆっくりと近づく。

 近づくにつれ、人の話し声が聞こえてきた。

 どっと息が詰まりそうなくらいの安堵が、涙になって込み上げてくる。

 

「あ、あの……!」

 

 使えるという感覚に乏しいこちらの言語ではなく、とっさに使い慣れた日本語ではなしかけていた。

 興奮と急激な運動で胸の動機が激しい。

 窮状を訴えて助けを求めたいのに言葉が喉の奥でつっかえて、なんといったのものかわからなかった。

 

 雷の呼びかけに気づいた男のふたりぐみが、いぶかしげな顔でこちらをみやる。

 薄茶色とも金髪ともいえない色味の薄い黄色っぽい髪色の西洋風の顔立ちをした男たちだった。

 日本人とは人種が全く違うとひとめでわかる大柄な体つきに、革鎧という見慣れぬ装いをまとっている。傍には物騒そうな剣や大きな槌という獲物がある。 

 

 これでようやっと助かるのだーーそう息をつくのも束の間、男たちのようすに雷は肌を爪で引っかかれるような不穏を感じとる。

 

 男のひとりが粘着質なものがからみつくようなにやけ顔を浮かべた。

 

「おや。こんなところに嬢ちゃんひとりでどうした? それにしてもひどい格好だな」

 

(大陸帝国語だ)

 

 聞いたこともない言葉なのに頭がそうだと即座に判断し、言葉の意味をなめらかに理解する。

 その異様な感覚に一瞬つよいめまいがしたが、足をしっかりと踏みしめてたえる。

 

「一緒にいた親とでもはぐれたか? 魔物か獣にでも襲われたのか、だいじょうぶか? そこは寒いだろう。こっちに来て火にあたるといい」

 

 ずっと待ち望んでいたはずの台詞であったが、雷は誘われるままそちらに行く気にはなれなかった。

 

 人見知りの気質が今さらになってでてきて気後したわけではなく、彼らの人相の悪さがどうにも不安になる。

 見た目だけで人となりを推し量るのは良くないと思うが、ランプの花と火の明るさに照らされた男たちの表情は、あまりお近づきになりたい類のものではない。

 

 街中で見かけるカツアゲでもしてきそうな質の悪そうな連中を、さらに悪辣にした下劣さが滲みでている。

 

 雷にかけた言葉だけなら聞こえがいいが、口に上らせた台詞と様相がまったく釣り合わず、善人ぶった態度が見るからに嘘くさい。

 騙す気がない詐欺の演技でも見ている気分だった。

 

(大陸帝国語ってことは、ここは帝国……?)

 

 帝国は、ゲーム舞台となる大陸の南東部に位置する。

 自分がいるのは帝国なのだろうかとざっくりと位置を把握したところに「いや、そうと限らない」とばかりにふわりと知識が落ちてくる。

 おもわず悲鳴をあげそうになった。

 頭の中に知らないはずの情報がはいっている気持ち悪さに、雷は顔をしかめた。

 ともかく突然降ってわいた知識によると、大陸帝国語は大陸の東部全域で使われている言語らしい。

 

(この言葉がこの地域の主要言語なら、ここは大陸の東側ってことだな。ここがどのへんかっていうのはそれ以上わからないな)

 

「ひとさらいから、にげてきた」

 

 雷は初めて使う舌の動きに戸惑いながら嘘をついた。

 たどたどしい言葉遣いになったのはわざとではない。久しぶりの他人との会話であったうえに初めて使う言語なせいで、流暢にはなせないのだ。

 

 『精霊の贈り物』では、子供が誘拐された痕跡をたどって違法な奴隷商に殴り込むクエストがあった。それ以外にも治安が悪い描写が多々あるし、雷が嘘の身の上を説明しても相手に違和感をもたせないだろうと判断した。

 

「ここは、どこだ……ですか?」

 

 男たちは面白そうに笑ったあと、「それは大変だったな」とうそぶいた。

 こんなところで子供がひとり彷徨っていた説得力がある嘘だったらしい。

 

「とんでもない目にあったんだな、つらかっただろう。こっちにくるといい」

 

 答えを教えてくれそうにない。

 

「ここはどこなんですか? はやくかえりたい」

 

 演技ではあったが、真実のおもいでもあったためか声に涙がにじんだ。

 

(帰りたい場所には帰れない。この世界には帰る場所なんてない)

 

「俺たちが家にかえしてやろう。今日はもう遅いから、休むといい」

 

 焦れた男のひとりが強引に雷の腕を掴んで火のそばによせようとする。雷は反射的にその手を振り払った。そのとき雷のまとう臭気でも飛んだのか「臭えな」と苛立ちまじりに男が舌打ちした。

 

「いつかかん、もりのなかをあるき……歩きづめだったから、あたりまえだ。で、このへんはどこなのかいい加減おしえて……教えてもらえませんか?」

 

 雷は接近してきた男から距離をとってたずねる。

 気弱なふりでもして男たちをなるべく逆なでしない態度をとるつもりだったが、男の腕を拒絶した時点で意味のないことだろう。 

 

 全身で警戒していることをしめす。

 眉根をよせ、幼い顔をできるだけ険しくする。 

 

「怖がるこたぁないぜ、お嬢ちゃん」

 

(無理に決まってんだろ)

 

「その、お嬢ちゃんてのはやめてもらえませんか。俺は男です」

 

 雷が不機嫌に言い放つと、男たちは虚をつかれた顔をしたあと目をあわせて嗤いあった。

 神経に直接やすりがけでもしてくるような、耳に障るわらいごえだった。

 屈辱で強く拳を握る。無駄な訴えであったろう。だが、男としての自意識が主張せずにはいられないのだ。見目が幼い少女であろうと、雷の心は男なのだから。

 

「何を警戒しているのかはあ知らねえが」

 

 いやににやついた様子で男がうそぶく。火にあたっていたもうひとりがじりじりと雷と距離を詰めてきていて、雷は一歩後ずさった。

 

「そんな見えすいた虚勢なんて張らなくても、大丈夫だぞ。なあ?」

 

 かたわらにいる男に同意をもとめて、もとめられたほうはしゃあしゃあと首肯する。

 

「質問に答えてくれないようなやつに……」

 

 雷は己の浅はかさを呪った。きちんと相手の様相をたしかめてから、行動にうつすべきであった。

 ここは住み慣れた日本ではない。

 

 どこぞの女が盗賊に犯され、その報復をしようとした男の無駄死にだとか。

 罪のない子供が質の悪い酔っ払いに殴り殺されて、恨み募らせた母親が差し違えただとか。

 

 ダークファンタジーの世界観を出したいがために、そんなエピソードをぶちこんでくる胸糞ゲーと似た世界なのだ。雷はこの世界の治安の悪さを念頭において、まずまっさきに話しかけるべきひとの安全性を見極めなければならなかったのだ。

 

 恐ろしいのはなにも魔物だけではない。身も守らなければならないのは、悲しいことに魔物からだけではない。

 

「大丈夫だっていわれて信用できるか!」

 

 雷は我が身を守るために脱兎のごとく逃げ出した。

  



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 暴力

 3

 

 視線をさえぎる茂みの中に体を突っ込んだ。

 枝や葉っぱに素肌を引っ掻かれながら右往左往走り抜け切った先で、これで一安心かと一瞬気を緩みかけた。すぐに背後から荒々しい足音が聞こえ、雷は血の気が引く。

 迷いなく自分のほうへ向かってきている。音をたてて茂みをとおるのは、かえって自分の痕跡を残してしまっただけなのかもしれない。

 

「くそ」

 

 吐き捨て、雷は息を整えるひまもないままふたたび走りだす。

 肌が粟立つ心地がする。頭の中が真っ白になる恐怖と限界まで引き絞られたような切迫感は、いじめっ子に追い立てられていたかつての記憶の比ではない。

 

 雷は森の中へ中へと道なき道を走りながら忙しくゲームのステータスに関しておもいだしていた。

 逃げた雷のことなど諦めればいいものを、男たちは追いかけてくる。

 早い段階で足音に気づいた初動と敏捷のステータスによる爆発的な瞬発力のおかげで、今のところかなり距離を取れているのが雷にとって救いだった。

 

(種族人間は、『精霊の贈り物』の中で一番のハズレ種族だった)

 

 メインシナリオで仲間にできるレイという少年の例外をのぞき、人間は成長値が格別に低い。

 彼らは人間にみえるし、雷のほうがステータス値が優れているはずなのだ。ゲーム通りのステータス格差が存在するのであれば、逃げ切るのはたやすいはず……レベルが同じならば、という注釈がつくが。

 

(さすがにレベル1なわけねえよな!) 

 

「おいおい、どこに行くんだよ嬢ちゃん! こんな夜に森を走り回ったら危ねえぞ。おい、待ちなあ!」

 

 男たちが、雷のすがたを視界に捉えるところまで追いついてきた。

 雷は振り返れなかった。そんな余裕など、ありはしなかった。

 

「怖え魔物に食われちまうかもしんねえぞ。魔物に食われるよりももっといい思いできるとこに連れていってやるから大人しくこっちにきなあ」

 

「ガキが好きなじじいに可愛がってもらえる店だぞ。きっと楽しいぜ」

 

(見た目未成年者を娼館に売り飛ばす気かよ! そうだと思ってたけどな!)

 

 男たちには遊びにすぎないのか、余裕のある様子で下品に哄笑していた。

 物騒な雰囲気の男たちのレベルが、1で止まっているとはとうてい思えない。

 

(レベルが上のやつに、勝てるとは思えねえ)

 

 なおかつ厄介なことにレベルアップでステータスが増加するのと他に、スキルレベルが10刻みごとにスキルに関連するステータス数値にプラス1される。

 たとえば〈剣術Lv10〉なら攻撃力に1。〈神聖魔法Lv20〉ならば魔力に2……というように。

 

 スキルは無制限に所有できるから、ゲームでは細々としたスキルを取得してステータスの底上げをしていた。『精霊の贈り物』はレベルがなかなか上がりにくく、戦力をあげるためにたとえ使わないスキルであろうととりあえず入手してスキルレベルを上げておくのが攻略のセオリーだった。

 

 ゲームから現実になったこの世界でスキルがどのように適用しているのかはわからないが「剣術などの主要スキルしか持っていない。スキルレベルのステータス反映もない」などと考えないほうがいい。

 この状況で楽観視などして状況を軽く見積もって行動するなど、愚の骨頂だ。

 

 男たちのステータスは、雷など手も足もでないと考えたほうがいいだろう。雷はステータスを底上げしてくれるようなスキルなど持たず、装備も貧弱な初期装備。そのうえそれもぼろぼろなのだ。

 まともにやりあって勝てる相手ではない。

 

(動くなら、スタミナが0になる前!)

 

 スタミナポイントのステータスバーが逐一確認できる状態であったならば、赤信号が灯っているくらいに残りの体力が限界に近い。

 SPが空になった瞬間、この鬼ごっこの勝敗は最悪の形で呆気なく決するだろう。

 あの極度の疲労状態におそわれたら、雷は歩くことすらままならなくなる。

 捉えられて、男たちによってろくでもない店に売られてしまう。

 

(人身売買なんてくそくらえだ)

 

 雷は本気で走っている。敏捷の数値自体はレベル差があっても、ティタン神族は敏捷が優秀な種族だからそう負けてはいないと思う。だが、足の長さがまったく違う。こちらが二歩足を出して必死に稼ぐ距離は、大柄の男である彼らならば一歩で詰められる。

 体力そのものの桁が違えば、消費している体力量も違うのだ。

 状況は雷が不利。

 

(逃げの一手でジリ貧になるよりは……!)

 

 視界のすみに毒消し草を見つける。

 雷はその草の存在をみとめると袋が破けない程度にいれておいた《停止(ストップ)》を描いた石を手に取り、立ち止まりながら素早く後ろを振り返る。

 

(少なくとも、魔力だけは確実に勝ってるはずだ)

 

 レベルやスキルの数で劣ることで、攻撃力や防御力、体力といった物理ステータスは男たちのほうが上だろう。

 しかしどれだけレベルの差があろうと、戦士系の男たちに魔力で負けているとは思えない。

 雷の初期魔力は、エルフなどには負けるとはいえひじょうに優秀なのだ。

 《停止(ストップ)》が当たりさえすれば、動きが止められる。これは願望などではない。ゲームでの予備知識から導きだせる結論だ。これが間違っていたら、雷にはもはや打つ手がない。

 

(当たれ!)

 

 一縷の望みをかけて投げた石は、放物線を描いて明後日のほうに飛んでいった。男たちが避ける動作をするまでもなかった。

 

(くっそ。だけど、石はまだある)

 

 雷は男たちに見えないようロッドに力を込めてへし折り、少なからず傷を作れそうな尖ったきっさきを作る。それを隠して次の行動にうつった。

 

「いきなりひとに石を投げるなんて危ねえなあ、お嬢ちゃん」

「あんまりやんちゃするようだったら、優しくしてもらえる店に連れてくまえに、お仕置きしてやらなきゃなるぞ」

 

 雷は毒消し草をいそぎむしり、噛み砕く。そくざに《浄水(クリアウォーター)》で体内の毒を消すが、口の中にいれておく以上、緩慢な舌の痺れは完全に切り離せそうにない。

 

 待ち時間(クールタイム)がおわるたび、雷は魔法をかけなおす。

 片手には石を持ち、片手には真っ二つに折った杖の片方を持つ。

 

「ようやく諦めたかい。いい子だ」

 

 立ち止まった雷に、もはや悪辣さを隠しもせずに男たちは近寄ってくる。

 

「相当臭えしだいぶ汚れてはいるがなかなか小綺麗なガキだな。いい拾いもんした。こりゃ、そこそこの額になりそうだ」 

「せいぜい変態じじいどものの腹の下で可愛がってもらうんだな、嬢ちゃん」

 

 ふうふうと荒い息継ぎに苦しむふりをしていた雷は、男のひとりが肩に手を置いた瞬間うごいた。

 男の顔面に噛み砕いた毒を勢いよく吹き付ける。

 驚いてすきを見せた男の顎に、雷は折ったロッドの切先を勢いよくぶつけるように突いた。

 

「でぇっ! なにしやがるこのクソガキぃ!」

 

 不揃いに折れたロッドで顎を突かれた男は、傷口を抑えながら苦鳴をあげた。

 がなりたてる男に怖気付くことなく、雷は石で殴るように《停止(ストップ)》の魔法をかける。直接ぶつけた石は確実に魔法を発動し、男をひとり足止めした。

 

「こんの、ガキ! こっちが優しくしてやってんのにいい気になりやがって!」

 

 仲間への突然の攻撃にもうひとりの男が怒りをあらわにした。

 雷はそれに気圧されることなく、男の足に水切り投げの要領で素早く《停止(ストップ)》の刻印石を投げる。

 今度こそ無事に男に当たり、雷は無駄口を叩かずに再び全速力で駆け出した。

 

「おい、こら待て! てんめえ、ぶっ殺してやる! なんで体が動かねえんだ!?」

「くっそ、まさか魔法か!? あんのガキ! おいこら逃げんな、まてこの!」

 

 背中に怒号が突き刺さる。

 雷は道から離れ、森の深いところに向かって駆けていった。

 

 4

 

(助けて)

 

 雷は無意識のうちに誰ともなしに懇願していた。

 胸の内に宿るのは益体もない逃避の言葉だった。

 なににおいても重要なのは差し迫った状況を解決する妙案を思いつくことなのに、雷の頭はなんの生産性もないことばかりめぐっている。

 

(だれか助けてくれ)

 

 思考は空回りするばかりで、自身を救済する方法はからっきし浮かばない。他力本願がとめどなくわきあがり、雷のなかをいっぱいに満たす。助けてという願いだけで雷という器は埋まりきり、痛切な願いはだれに受け止めてもらうことなくあふれこぼれおちていく。雷は、どうすればいいのか、もうわからなかった。

 

 雷の冷静さを奪う、あせらせるばかりの怒号が背後から追いつめてくる。

 足止めで距離を稼いだはずなのに、姿など見えていないのに男たちは雷のありかを正確に把握してみるみるうちに迫ってきていた。

 

(こんなの、こんなの嘘だ)

 

 雷は現実を否定してくてたまらなかった。

 

(どうして、どうして俺がこんなめに……! ちくしょう、畜生っ)

 

 無意味に現況を呪い、罵りをはいた。

 

(対象追うスキルか? 追跡、とかいうのがあった気がする。……けど、それがあってわかったところでどうしろっていんだよ!)

 

 雷は自身へ絶望が近づいていることに気づいた。

 死刑宣告を告げる死神の呼吸がすぐそこに聞こえてくるかのようだった。

 どれだけ姿を隠そうと雷を見つけ出す能力を男たちが持っていたら、雷が逃げ切る可能性など万に一つない。

 

 限界がくるまえに往生際わるく隠れられそうな木の窪に身をひそめ、雷は息を整える。

 

「もう、本当に、だれか助けてくれよぉ……」

 

 泣き言には真実涙がまじる。

 なにがいけなかったのだろう。

 原因もわからないまま、自分のものではない体でもう一度生きることをはじめた。

 自分は健気にもそれを受け入れたではないか。

 

 もし、神様なんてものがいるのならば。それが自分を見ているのならば、何が気に入らなくてこんな苦境に己を立たせるのか。

 

 説明もないまま放り出されても、不平を吐くだけで自暴自棄にもならずになんとか状況を飲み込んだ。

 生きることを決意した。身に余るような高望みもしていない。ごくあたりまえの生活の手段と場所をもとめていただけのに、その仕打ちがこれなのか。あんまりではないか。

 

 目的があって、何かの試練を与える存在がいるのならばその成果に対する報酬がほしい。

 報いがほしい。見返りが欲しかった。

 この辛くて耐え難いふしあわせを帳消しにするものがほしい。

 

(ゲームに似た世界。そこに生まれ変わっても、俺はきっと主人公じゃない。別の端役の、いてもいなくてもいい何かなんだ)

 

 プレイヤーにストレスを感じさせないためか、主人公が酷い目にあうことはそうそうなかった。シナリオにきちんと守られていた。

 シナリオの根幹が主人公自身が底辺で足掻きながら血の道を切り開いていくような話ではなく、突然の理不尽に見舞われたひとたちを救済したり手伝ったりしたりするよくあるヒロイックストーリーだった。

 

 何をしたってーー制作の予期していない変な遊び方でもしないかぎりーー主人公は常に安全な場所にいる。不幸なひとたちを俯瞰するだけで、ともに奈落に落ちるわけでもなく高みから手を差し出して救ってやるのが役目。

 画面によって隔てられているプレイヤーと同じように、主人公は世界の抱える悲しみからは壁一枚遮られた場所にいる傍観者。

 優れた能力をもち、大陸から姿を消してしまった高位の魔法を唯一使え、伝説級のアイテムをただひとり作ることができる。

 

 すごいすごいとあざといくらいに持ち上げられて、仲間から慕われて、周囲からは一目置かれて、その過剰な賛美はもはや食傷気味になるほどだった。

 

 囲まれて、守られて、それが『精霊の贈り物』の主人公だった。

 

 けれども、雷にはそんな無条件でそばにいてくれる仲間なんていない。

 無条件に味方がいて、世界に守られて、不幸から一歩引いたところで悠然と王道を歩んではいない。

 

(この世界の陰惨さをしめすための記号のひとつみたいなものなのか、俺は……)

 

 そんな可能性が頭をよぎると、泣きたくて泣きたくて仕方なかった。

 どこか別の場所に選ばれた誰かがいて、レッドカーペットでも敷かれたような道を歩いている。そこから見下されるのが、雷の役目。スポットライトなどあたることのない、たくさんいる不幸な端役のひとり。

 

 あるいは、世界の抱える過酷さを淡々と描写した風景画に描かれた、一片の存在にすぎないのかもしれない。

 

(しんどい、苦しい)

 

 苦しくて、辛い。

 誰かにこの窮状を訴えたい。

 声を聞き届けてほしい。

 

 煙を見つけたときのことを、思い返す。

 

 ひとを疑って、危ぶんで、恐れて、近づかなかったのが正しかったのか? ああ、きっとそうだったのだろう。そう、自分自身を罵ったとも。それを怠った自分がなんて愚かだと思った。見境いをなくしていた、判断能力を低下させていた。馬鹿だった。

 

 自分を責める言葉を思いつくかぎりぶつけていると、同時に言い訳がましい感情が胸の内で荒れる。

 

 身を切るようにひもじくて、ひもじさがいっそう惨めになるほど寒さが体に堪えた。孤独が心を膿み爛れさせ、なおのこと雷を苦しめた。

 雷は、ただ人恋しかっただけなのだ。ひとと会話したかった。ありきたりなぬくもりを求めた。それがいけなかったのか? たとえそうだとしたら、そんな非道がまかりとおっていいのか?

 

 あたりまえのことすら望めない世界なんて、いっそ滅んでしまえ。

 

 もしも、自分がこの世界を救う役割を担うために二度目の生を受けたとしても、こんな仕打ちをする世界を助けたいとは、決して思わない。

 

 雷は目に諦観を宿しつつも、涙を拭いて立ち上がる。

 体力はある程度回復した。

 

「逃げなきゃ……」

 

 言い聞かせるように呟き、木の虚から出る。

 諦めたくない、諦めきれない。だが、心のどこかで不可能を悟っている。

 

 走って、立ち止まり、また走って。

 繰り返しているうちに走れる距離は短くなり立ち止まる時間は長くなった。

 声は近づき、足音は大きくなる。

 

「顔は傷つけんなよ。売値が下がっちまう」

「うっせーな! このクソガキをぶっ殺さねえと気がすまねえんだよこっちは!」

 

 最後はあっけなく捕まった。

 毒で動きを鈍くすることを望み雷が傷つけてやった男は、頭に血を登らせていた。

 

「ほどほどにしとけよ。ここで殺したらここまで苦労して追いかけた苦労が水の泡だろうが」 

「くそっ。うっせえな!」

 

 男は疲労でまともに動けない雷の腹を蹴った。蹴られた衝撃で横倒れになった小さな体に、さらに容赦なく追撃を加える。

 

「がっ、はっ!」

 

 声にならない、苦しい息がこぼれた。

 

 それから腹を三度、強く打ちすえられた衝撃に、食道に酸っぱいものが一気に競り上がってきた。

 

 ろくなものをいれていない腹が、胃液と未消化の葉っぱや木の実をみっともなく吐き出す。

 立つことも体を支えて起き上がることもできず、雷は痙攣しながら吐き出し倒れ伏す。

 呼吸がうまくできない。全身が内側から灼けただれていくようだった。

 気道にはいりこむ酸味にむせる。息の仕方を忘れたように、がたがたと体だけがせわしなく震える。

 叫びたいくらいに鋭く下腹部が痛みを訴えていた。股座が濡れた感覚がして、失禁でもしたのかとこんな状況だというのに気になった。目に涙を浮かべた顔でぼんやりと下腹に目を向けると、黒いズボンをさらに濃くするように濡れていた。尿特有のアンモニア臭はせず、鉄臭いような気がした。

 

「あ、ああ」

 

 ちかちかと目がくらむ。

 

「やめろっつってんだろ!」

「黙れよ!」

 

 男は、制止も聞かずに雷に暴力を振るおうとする。

 

 おとなしくそれを受けたら、自分は死ぬだろうか。

 このままいっそ、死んでしまったら楽になるのだろうか。

 

「ーーあああああっ!」

 

 叫びが喉からほとばしった。

 

 自分がこんなにも哀れに思えたのは初めてだった。

 学校でいじめを受けていても、家族がいなくても、雷には仲間がいた。友人がいた。大好きな親友がいつも味方でいてくれた。帰りたい場所があり、自分はそこに帰ることができていた。

 

 幸せは、どんな苦境に陥っていても必ず雷のそばに寄り添っていてくれていた。

 

 けれども、今の雷はあまりにも惨めで可哀想だった。

 何もない。

 雷は、雷を支えてくれるものを何ももたない。

 帰る場所はない。帰れる場所がない。

 

 

 雷は、

 

「誰か、たすけて!」

 

 それでも、死にたくなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 初恋よりも衝撃

 こころの底からの叫びを、訴えを、悲しみを、聞いてくれるひとなんて誰もいない。

 喉が張り裂けんばかりの叫びは、無為に終わる。雷はそれを知っていた。だから、そのことに絶望なんかしたりしない。苦しくてしかたない痛みにひとり耐えながら、とめどなく大粒の涙をこぼす。

 

 もう一人の男が、憎悪で我を忘れた男を抑えていた。

 

 雷はそれを怯えた目で見上げていた。怒りをおさめるのを無力に待つ続けるしかない子供の姿だ。胃液で汚れた顔を己の命が損なわれるかもしれない恐怖で歪め、油断をさそう姿でびくびくと震えていた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 壊れたようにそれだけを繰り返す。

 もはや逆らう気力など消え失せ、糸の切れた操り人形にでもなったように威勢がない。

 

 雷は痛みにうめき、ただただ嘘の謝罪を繰り返しながら算段する。

 

 ひときわ惨めで、くたびれた野良犬のように命乞いをすれば、助かるだろうか。助かるのならば、ひとときひととしての尊厳やプライドなどかなぐり捨て、雷は泥でもすすってやろうと歯を食いしばった。

 命だけを惜しんで我が身を救いたい。

 雷は顔だけをあげ地面に腹這いになり、魔法と使う際に発生する光をできるだけ隠しながら魔法で腹部の治療をした。

 

(チャンスは絶対に掴む)

 

 一方的な暴力の恐怖に、完全に心が折れたと思わせなければならない。

 二度と男たちに逆らえない、従順な子供にならなければならない。そうなったと思い込ませなければならない。

 他者への暴力と強奪が日常となっているような男たちにとって、愚かだと感じるふるまいを封じこみ、必要とあらばただひたすら奴隷になってやる。

 そして、必ず逃げ出す機会を掴んでやる。

 

 助けなんて来ない。

 それはもう十分にわかっている。

 雷だけの力で、この困難を脱しなければならない。

 

(あれだけの衝撃を受けて、すぐに動けるとは思わないはずだ)

 

 頼みの綱だった回復魔法は想像以上に優秀で、雷を痛みから救ってくれた。

 おかげで内側から壊れるような尋常でない痛みは過ぎ去った。蹴られた衝撃によって己の体に何があったのか、不安を通り越して考えたくなくなるくらいの激痛だった。痛みが残っているのは事実であったから、苦しむ演技は容易だった。泣きじゃくっているせいで呼吸もむずかしいのだといわんばかりの喘鳴を不自然にならない程度にまぜる。

 

 宥めすかされ、男の怒りはいくぶんかおさまったらしく、ようやくもう一人に開放された。

 それでも完全には腹の虫がおさまらないらしく、うずくまる雷に追い打ちをかける。

 

「最初っから大人しくしときゃあいいんだよ!」

 

 顎に深いひっかき傷を作った男は、逆らうことのできない雷の髪を乱暴に引っ掴み頬を打ち据える。

 歯の奥から鋭い痺れが走って頭の奥を強く揺らした。意識が飛びかけたが、毛が音をたてて抜けるほどに掴まれた頭皮の痛みから我を取り戻す。 

 

「ぅぁあ……ごめんなさい、ごめんあしゃい……」

 

(くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ)

 

 屈辱にふるえる強靭な意思を押し隠す。男たちの気にさわりそうな憤りを外に出してはならない。

 虎視眈々と反撃を狙う殺意を、雷は必死に鎮める。

 

「顔はやめろっつてんのによー。あんまり顔が崩れると買い叩かれんぞ」

 

「ここまで薄汚れてたら誤差だろ、誤差」

 

 傷のある男は、涙と胃液でぐちゃぐちゃになった雷の顔を髪を引っ張りあおのかせて見せつける。殴られた頬は腫れ、ひどいありさまだった。口の中が切れて、唇の端から血がこぼれている。

 暴力に自失した愚かな子供の成れの果てだ。

 

「あーあ。売る前にちゃんと少しは見れる顔にしておけよ」

 

 呆れたようにもうひとりが言う。

 

「へいへい。とりあえずその前にあともっかいな」

 

「はーあ。マイナス1000ゴールド。まともななりなら1万で売れてたのによお。この貸しは高くつくぜ」

 

「元手がタダなんだから貸しもくそもねえだろ」

 

「お前ひとりで追いかけられなかっただろーが、何言ってんだ。このガキを見失わなかったのは俺のスキルのおかげだろ?」

 

 男たちの身勝手な会話を聞きながら、男の苛立ちの解消のために殴られる。

 

(ころしてやる)

 

 殴られることも、雷が意思のある存在などはなから頭にないそぶりで物のように扱うことも我慢ならなかった。

 思いが剣になるのならば、雷はためらわずその喉元に刃を突き立てていた。

 その熱い鉄のような怒りは、ついに雷の中だけにはおさまらずあふれて溢れてしまった。

 

「ん、だよ。その目はっ! 生意気なんだよ! 」

 

 憎しみの感情が雷の目にやどり、傷のある男はめざとくそれに気付いた。

 屈することなく反抗の意思を宿した雷に、男の消えかけた怒りの火がふたたび灯る。

 

「あー、もうやめろって」

 

 首を締め付けられながら、高く掲げられた。小さな体は、男の太い片腕だけで軽々と持ち上がる。

 息ができずに雷はただただあえぐ。男の手を無我夢中でかきむしると、それすらも気に障ったようで地面に叩きつけられた。

 

「げっ、うぅっ」

 

 落下の衝撃で、未だに落ち着いてない胃の中が再度かき回される。

 出る物もないのに何かがせりあがってきて、雷は咳き込みながら体液を吐いた。

 咳きひとつするだけで全身が痛くなる。治療の甲斐もないくらいの満身創痍に逆戻りだ。

 

 気道に吐瀉物が詰まらないように雷は必死で下を向いた。そのとき視界のはしで男の足が蹴りの予備動作にはいったのを捉える。

 

(避けたら不審がられるか)

 

 弱ったままだとおもわせるのと、このまま蹴りを受けて本当に弱るのはどちらが正解なのだろう。逡巡は一瞬。

 雷は反射的に避けたがる体を渾身の気力でもっておさえる。

 頭を両腕で抱え、体をまるめて急所を守る。背中を見せ、できるだけ弱い場所をかばった。

 

「ごめ、んあさい、ごめんっなさ、い。もう、しません」

 

 雷は必死であやまった。男の気がすみ、聞き入れられるまでとにかく口先だけでもそういうしかなかった。やがて雷は自分の判断が間違ったことを知った。男は、どれほど雷が謝罪しても一方的な暴力をとめなかった。雷の悲痛な反応を楽しみ笑い出す始末で、もう一人の男の手にも負えないようすだった。

 悲鳴がまじる。涙がまじる。なにかを吐き出す。血の味が胃から逆流してきて、力がはいらない。体をまるめることもできなくなった。なえた背中を踏みつけられた。

 くじけてなるものか、と自分を最後まで支え続けた物がぽっきりと折れてしまう凶行だった。

 

「もういいだろ、そのへんにしとけよー」

 

 足が地面に押し付けるように背中に踏みつけてきて、息ができない。

 意識が混濁してきた。

 全身が痙攣しはじめ、これはいよいよもって危ういのではとどこか他人事のように頭の隅でおもう。

 考えることが困難なほどに、感情を動かすのも難しいほどに、ただ痛いとか苦しいとか、そういったものに雷の内側は占められていた。まともな思考能力はどこか低いところに流れていって、もう自分のもとへかえってこれないような気さえ、した。

 

「たすけて」

 

 指先から、冷えていく。

 意地でも手放すまいと守っていた雷礼央という命が、自我が、体と同じように冷えていく気がした。冷えて凍ったまま二度ととけない塊となって、そのまま砕けてちってしまいそうな錯覚。

 それが恐ろしいと感じなくなるほど、雷はうつろになっていた。

 魔法で己の体を癒す意思さえ薄れ、なさけなく這いつくばる。

 ふがいない、と責める己の声もとおくなっていく。楽なほうにごろごろとおちていく。それでも、どこかで救われたいと願っている自分がしがみつくように助けをもとめて唇を動かしていた。

 

(むだなのにな)

 

 どれだけ祈っても、その声はだれにも届かない。

 諦めすらもわかない。だって、雷は最初から知っている。

 こうやって自分を傷つけるひとはいても、助けてくれるひとなんていない。

 親友だってひどく落ち込んだ雷に寄り添ってはくれはしたけれど、助けることはしなかった。できなかった。

 

(しってる、しってるんだ、俺は) 

 

 それでも、往生際のわるい自分がまだのこっていて、つぶやくのだ。

「たすけて」

 と。

 

 視界が半分ちぎれてしまったように黒くそまる。

 穴があいた風船のように自分の体からなにか抜けていって脱力する。

 ふ、と息を吐いたあとに肺が動くことをやめた。

 けたたましく鳴っていた心音が波がひくように遠ざかっていた。

 呼吸が止まる。

 懇願すらもでない。

 

「あー、もしかしてさすがに死ぬか?」

「なにやってんだよ、お前ぇ。時間を無駄にしただけじゃねえか」

 

(死にたくねえなあ)

 

 殺される怒りよりも、これで楽になるという安堵よりも、やっぱり惜しい気持ちが強かった。雷は、まだ生きていたい。

 

 だが、もう己の体は生きようとしていない。

 くやしいなあ、そんなことを最後に思いながら目をとじる。

 

 そのときーー

 

 ごう、と。突風よりも強烈に空気をつん裂く音が雷の耳を叩いたのだ。

 

 6

 

 死ぬなといっているように聞こえた。

 今更になって消え失せかけた命に追い縋られても雷としても困るというもの。

 けれどその声はいたく必死なような気がして、応えてやらなければいけない気にさせた。少しくらいならば踏ん張ってやってもいいか、というわずかな活力がわいた。

 なけなしの意識と気力を総動員して魔法を使う。

 そうすると、どこがどうましになったのかさえわからないが、それでも体の奥が少しはましになったきがした。

 重い瞼を開けながら、雷は声の主をさぐる。

 

 尋常ならざる裂帛の気合は、おおよそひとの喉から吐き出せるものではなかった。

 獣のような……それもとてつもなく大きく、異様な化け物の咆哮じみていた。

 音だけではち切れんばかりの激昂が逆巻いていて、青く燃える炎のような熱源をひめていた。下手にふれればただですまないとわからせる威圧に、雷を甚振っていた男たちは怯えを隠さずにただ息をのんだ。

 

 嵐のように空気をゆらしてあらわれたものは、意外なことに人の形をしていた。

 逆三関係の見事な均衡が取れた巨躯は、大柄な男たちをなお凌ぐ長身をほこっている。猛々しい怒りを隠さない男は人の姿をしてはいたが、怒りに打ち震える竜を幻視させる。 

 

 銀色の髪をかきあげ剥き出しにされた額や、首、顎には、ところどころ鱗が見える。

 よく焼けたひとの肌の上に鱗があるのはまったく奇異な姿には見えず、むしろその男には似つかわしい。かえって翼や角がないことのほうが不思議に感じるほど、怒りで殻をやぶり剥き出しにされた本質はひとではなく竜であった。

 

 皺の深い老いた男の顔は、怒りに猛り狂っていた。 

 

(竜人……)

 

 この大陸の西側に多くいる種族、竜人だった。

 雷がそう認識した次の瞬間、竜人の姿は消えていた。

 かろうじて影だけ見えた気がした。

 音も立てずに跳んで、こちらへと距離をつめる。

 

「死ねよ」

 

 端的に告げると残影だけを残したまま、男が持つとおもちゃのように見える安っぽく細い剣をふりはらう。

 雷を踏み抜く男が反応しきれないほど、飛び抜けて剽悍な一閃だった。

 

 あ、とおもったときには雷を散々苦しめた男の首が飛んでいた。

 

 頭上で血が吹き上がる。雨にふられるように雷は赤く濡れる。その生暖かさにそんな場合でもないのに、気持ち悪さがまさって顔をしかめてしまった。

 

 短い時間に殺し方を何回も考えた男の最期は、とにかくあっけないものだった。

 竜人は首のない男の体を蹴飛ばし、雷を自由にする。

 

「リックぅぅううう!?」

 

 仲間の突然の死に動転する男を気にもとめず、竜人は雷をそっと抱き起こす。壊れ物にでもふれるかのような慎重な手つきだった。たやすく男の首を掻き切れるくらいに見るからに力強い腕なのに、そこからは何かにすがるような弱々しい必死さを感じ取れる。

 

「なあ、大丈夫か? なあ、大丈夫だよなあ?」

 

 今にも泣きそうなふかく雷を案じる声であった。

 問いかけというよりも、懇願にちかい。そうであってくれと訴えている。

 骨張った大きな手を震えさせながら、男は回復薬をとりだして雷に飲ませた。

 

「頼む。飲んでくれ」

 

 舌に感じるのはかつて舐めた味だった。苦味の薄い、薬の味。それは生きるために必要であると本能が気づいたせいか、一滴残らずもとめたくなるような強烈な旨味に思えた。雷は力が入らない喉で懸命に嚥下する。回復薬が無事喉を通り過ぎていくと、男は安堵の息をこぼした。竜人は雷にゆっくりと回復薬を与える。二本目、三本目となれば、よりいっそうするりと喉を通っていった。

 

「ああ……」

 

 落ちてくる声と同時にちいさく熱いものが頬をやさしく叩いて、雷は竜人の男が涙をこぼしていることを知った。

 

 自分の涙と、吐き出した血と体液がまざった汚液にまみれ、土埃をかぶり、きわめつけに男の血のシャワーを浴びて散々に汚れた雷は、その涙のあたたかさだけは悪くないとおもえた。

 

 最初から死にたくなかった。

 だれかに求めれれて、案じられる命ならば、なおのこと手放すのは惜しい。

 

 いたわりにあふれた手が、雷の顔をゆっくりとなでる。硬い皮のごつごつした指がついた汚れをこすりおとしていく。

 歴戦を潜りぬけた老練の戦士の精悍な風貌が、幼い子どものようにぐしゃりとゆがんでいた。

 

「死ぬなよ、死なないでくれ……」

 

 四本目、五本目と与えられる。

 そうするとじくじくとした全身の痛みを自覚する。痛みに苦しむ段階を通りすぎて死に近づいていた体が息を吹き返して、感覚を取り戻していた。

 

 雷は耐え切れない痛みに獣のように低く唸った。悲鳴を殺し、《小回復(スモールヒール)》を自らに急ぎかける。それでも治癒は追いつかない。

 痛みから逃げるのを体が望む。身の内にを牙がついた虫が暴れまわっているようだった。すこしでも痛みを散らしたくてすぐそばにある手にすがり、爪をたてるほどに強く握った。男はその手を振り払うことなくしっかりと握りかえした。

 

 ぜえぜえと苦しく忙しない呼吸が繰り返される。

 

「いたい、いたい……」

 

「ごめん、ごめんな。回復薬は全部使っちまった。ごめん、ああ、くそ。もっと予備を持ってりゃよかった!」

 

 男の懺悔が雷の胸をうつ。

 

 少しずつではあるが己で治癒できるから大丈夫だといってやりたいのに、呼吸のあいまに「痛い」とうわごとがでる。

 つい口にしてしまうというよりは、聞き届けてほしくて言葉にしている。

 男に訴えたところでどうしようもない類のものだというのに。男にとって、責め立てるように聞こえるナイフに形を変えているかもしれないのに。

 それでも口にしてしまう自分は、ただたんに同情を引いているようだと心のすみで暗くわらった。痛くて苦しくてしかたない自分を、哀れんでほしい。雷の痛みに共感して、ただただやさしくしてほしい。

 短い間にもう十二分に男からほどこしを受けたというのに、ひとのぬくもりに飢えた雷の心はそれでも足りないらしい。

 砂糖いじょうに己をあまく満たすものに、味を占めてしまったらしい。

 瀕死で理性の堰が外れている。卑怯なやり口だともいっていい、やさしいものであればあるほど雷に心砕かないわけにはいかないだろう。

 幼いこどもの癇癪じみたひどくみっともないふるまいをしてでも、雷ではうけとめられないほどの暖かな情をささげられて安堵したい。傷ついて、切なくて、苦しくて、痛くて……それを雷の中から追いやってしまうほどの他者からあたえられる幸せを求めている。

 

「助ける、お前は絶対に俺が助ける。だから、死なないでくれ」

 

 竜人は並々ならぬ決意をたたえ、雷に誓う。

 それはその場しのぎの言葉だけの安っぽいものではなくて、心のそこから吐き出された男の真の願いに相違ない。

 

 痛みをいたずらに訴える喉が止まる。気道で不器用に息がひっくり返った。言葉が雷の頭を叩いた。心臓がざわめく。耳にとけた言葉を咀嚼した頭が、心臓が、人生で一度だって経験がないくらいに慌てふためいて困惑している。男の言葉は雷の体の中でとろけて、勢いのよすぎる血流にのって全身に運び、余すところなどない末端にまで隅々まで届き雷をみたしたのだ。驚愕はただちに歓喜にうつりかわる。痛みすら忘れて熱をおびる。熱は雷の中で暴れる。それは筆のようでもあり、雷を塗り替える、かきかえる。流れる血まで新しいものに変わっていく気がする。雷礼央を構成するひとつひとつを、雷礼央を彼たらしめていた何もかもを、その言葉ひとつでぐしゃぐしゃに壊されて新たに作り直されている気がする。

 まるでうちがわから全く違う生き物に変わっていくようだった。

 

 

 世界がひっくり返ったような衝撃。

 

 

 ずっとずっと、雷はあきらめていたのだ。

 あきらめることをやめるほどに、理解していたのだ。ずっと、ずっとずうっとだ。助けなんてこない。自分をどうにかできるのは、自分ひとりだけだと。言い聞かせして生きてきた。

 それなのに、この男は雷を助けるという。

 

 言葉だけではなく、本当に助けにきてくれた。

 

 もうどうしようもないくらいに打ちひしがれ、文字通り死にかけていた。

 

 知り合いなどいないはずの世界で、ただひとりぼっちで死ぬしかないのだと歯噛みしながら受け入れていた雷を、そうではないのだと掬い上げた。

 

 鈍く沈殿していた全ての色が鮮やかになった心地がした。

 くっきりと鮮明になり、匂いづくように艶やかに華やいだ。

 まばゆいくらいに煌めいて、それはため息がつくほどに美しい。

 

 目に見える世界が一変するような衝撃は、雷のなかで冷めない。

 今もなお心臓は荒ぶっている。

 

 冷静さを取り戻すために、雷は忘れていた息を吐く。

 痛みを体が思い出して、慌てて回復魔法をかけた。

 

「大丈夫、俺は大丈夫だから……回復魔法使えるから……」

 

 なんとかそれだけを告げた。

 

「ああ、そうか。そうだよな。……やっぱり……」

 

 老いた竜人は雷が治癒の手段をもっていることにひときわ安心して息を吐いた。

 雷は、ぼんやりと思う。

 このぬくもりが雷の見た目の幼さゆえに与えられたものならば、好きになれそうにないこの体も悪いものではないのかもしれない。

 求めてやまなかったものが雷の二十三年間の全てである雷礼央そのものにでなく、幼い女の子に与えられるものならば過去は惜しむものではなく打ち捨てていいものなのかもしれない。

 雷がずっとしがみついて守ろうとしていた物の根幹が揺れる、ひびがはいる。

 

「やっぱり、雷。お前雷礼央だろう?」

 

 突然名前をよばれて雷の時は止まった。

 

 そうだよな? と恐る恐るといったふうに竜人は確かめてくる。

 名前を呼ばれるなどおもってもみなかった雷は、目を見開き驚いた。

 

「あ、ああ。そうだよ、俺は、雷礼央、だ……」

 

 どうしてか声はふるえていた。

 

「まだ、誰かいると思ってたんだ。よかった……間に合ってよかった。お前が、生きていてくれてよかった……雷」

 

 捨ててもいいと壊れても問題ないと、なかば投げやりになったものごと強く抱きしめられた気がした。

 雷自身が惜しくないと切り捨てた物を拾われて、もう一度手の中に戻された気がした。

 

 それは二度と捨てられない雷の宝物になった。

 

(いたよ、なんで忘れてたんだ。一緒にゲームで遊んだあいつ、キャラが竜人のじいさんだった)

 

「旭日、太陽……」

 

 名前をよぶと、男はいっそう涙をこぼしながら大きく破顔したのだ。

 

「やっぱり、そうだった。よかった、よかった雷……」

 

 生きていてくれて、ありがとう。ちいさくそんな感謝が聞こえた。

 礼をいわなければならないのは自分なのに、何をいっているのだろうか。

 ずくずくと膿んで腐り落ちるように胸が痛んだ。

 雨のように涙がおちる。

 

 雷は生涯、口の中にはいりおちたほんのわずかな塩の味を忘れることはないだろう。

 

 

 

 

 

 藍色の空が朱色にそまりはじめていた。

 

 

 

 

 

 日の出の輝きは、闇を打ち払う。竜人の名前そのものだった。

 照す光を背中に受けて、旭日自身が輝いているように見えた。

 竜人の男は……旭日太陽という男は、雷を照らすまさしく光になった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

当面の目標
幕間 別れ


 社員旅行で乗っていたバスで事故が起きた。

 隣に座る女の子を庇ってから後の記憶がない。次に目がさめたのは病院で、旭日はドラマで見たことがあるような生命維持装置につながれていることに気づいた。

 かたわらでは妹と両親が泣いていて、必死に自分の名前を呼んでいた。

 呼びかけにこたえてやらなければと思う。

 思いはするのだがびっくりするほど体がいうことを聞かない。

 

 ごめんな。

 

 それがどういうことなのか旭日はあっさりと気付き、ただただ心の中で家族にあやまった。

 お兄ちゃん、なんて何年ぶりいらいに聞く呼称。三十もすぎたおばさんが、甘ったれたみたいな呼び方するなよ、なんて苦笑じみておもう。両親に似たとびきりの美人だったのは数年前までの話で、いまや年齢が顔に出たただのおばさんなんだぞ、と軽口を叩いてやりたい。

 ぐるぐると言葉がめぐるばかりで、唇はうまく動かなかったわけだが。 

 

 三十五年分の家族との思い出が胸の中にぶりかえる。

 それが幸せな記憶であればあるほど、家族に申し訳なかった。

 彼らは、泣くだろう。

 自分は、大切な家族を泣かせてしまうのだろう。

 

「ありがとう」

 

 あいしている、はなんとなくおかしい。

 両親と妹に告げるのは面映いせりふだ。この言葉だって、なんとかしぼり出したものだ。うっかりごめんなさいを遺言にしたら、家族だって後味が悪かろう。

 

 自分が結婚していて、嫁や子供がいれば愛しているの言葉がふさわしかっただろうが、あいにく旭日は独身だった。

 モデルじみた容姿抜群の父と母の間に生まれただけあって見た目でもてはやされたが、結婚したいと思える女性についぞ出会えることはなかった。

 

 出会おうとしないだけ、と義兄に言われたことを思いだす。

 耳に痛い言葉だった。

 会社の上司でもあり、同じバスに乗っていた。

 あのひとは果たして無事だろうか。

 

 助けた女の子は、無事だろうか。

 

 無事であってほしいと思う。そして、旭日が死んだことを気に病んでほしくないと思う。

 

 自分のような犠牲者はひとりでもすくないほうがいい。

 残された誰かが泣くのは、すくないほうが絶対にいい。

 

 もう、自分がこうやってものを考えていられる時間はすくないことに気づいた。

 体の境界線がわからなくなり、どろどろと全身が眠気の中にとけていく気がする。

 

 

 最後に、旭日は祈る。

 神様、もし本当にいるのなら、聞いてください。

 

 

 

 家族が、幸せになりますように。

 残してしまったひとたちの悲しみが、すこしでも早く終わりますように。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 差

 1

 

 目を覚ましたときいまだに森の中を彷徨っている感覚があって、壁と天井に囲まれていることに雷は一瞬気づかなかった。

 

(あー、ここは……?)

 

 雷は呆然として天井を眺める。

 いまだ夢の延長にいるのか、と訝しんだくらいだった。

 着の身着のままで寒さに震えて身を丸めて寝ていた日々とは違い、古ぼけくたびれてはいるが毛布に包まれている。

 

 そして雷が寝ているのは、ふつうのベッドでも布団でもなかった。

 かさかさとした感触のものの上にシーツが敷いてある。鼻をつくにおいは独特だった。これはもしかして中に詰まっているのは藁であろうかと雷は考えた。

 藁の寝床など現代人である雷には一切馴染みないが、文化をもつ人間らしい寝床に眠っている。それがまず雷には信じられなかった。都合が良すぎて、現実のほうが疑わしかったくらいだ。

 

 安っぽいなどという表現では済まされない古めかしい簡易の寝床であったが、寒空で着の身着のまま寝ていた五日間と比べると上等な寝具で、雷はこのうえなく幸せであった。

 

 天井を眺めたまま、まぶたをしばたく。一拍置いて、我が身に降りかかった災難をようやくおもい出した。

 

「ここ、どこだ?」

 

 反射的に疑問が口をついてでていた。

 

「俺が世話になってる村の空き家だよ」

 

 深みのある男の声が返ってきて、雷はすぐに声の発生源に首を向ける。

 

 ゲームのアバターの姿をした旭日が、雷が横になった寝床の脇にいた。

 剥き出しになった皮膚のところどころに鱗が見える大柄な竜人な姿だ。銀髪を大雑把に後ろになでつけた精悍な強面の顔立ちと相まって、一見すると野獣の如き剣呑な雰囲気がある。

 そんな見てくれには不釣り合いな窮屈に見える椅子に座り、腕を組みこちらをうかがっている。顔色がやや悪く、うっすらと隈が見えた。

 

 雷は無意識のうちに緊張で強張っていた体の力を抜く。ここがどこかはわからないが、旭日がそばにいるのならば大丈夫だろう。そんな根拠のない安心感があった。

 

(俺と同じようにここにいるってことは、こいつも、もしかしなくても死んだのか。こいつが死んで泣いてるやつがたくさんいるんだろうな……)

 

 不意に雷のなかによぎったのは彼と、彼の周囲に対する憐憫である。

 

 旭日太陽(あさいたいよう)は眉目秀麗な男だった。そして誰からも愛される男だった。

 長身で弛んだところのない引き締まった肢体。うらやましいくらいの長身。清潔感があって好感の持てる笑顔をたやさない。会社でも女性にもてていた。

 天は二物を与えずという言葉をかっ飛ばすような男だった。

 モデルみたいな両親を持つ、かなりの不動産を有する裕福な家の生まれ、らしい。そんな男が地方の小さな飲料企業に就職したのはわりと謎だ。

 雷よりも一回り年上で、性格は悪くなくひとあたりもいい。年長者の鷹揚さと少年のようなやんちゃさを持っていた。人見知りでわりと面倒なところがある雷ともプライベートで遊べるくらい仲良くなれるのだから、人格者といっていいだろう。

 

(ひととしての出来が違いすぎて、初対面のときはこんなに仲良くなるとは思ってなかったな)

 

 同じゲームをプレイしていると知り、フレンドコードを交換してネット上で協力プレイをするようになった。マルチプレイ用のダンジョンの強敵を倒したり、必要なアイテムを交換しあったり。

 最高レベルにまで育てた強キャラの旭日には、マルチ用の難易度の高いダンジョンでアイテム集めやレベリングをいろいろと手伝ってもらったものだ。

 

(下の名前を呼ぶとキレるんだよなー。ふざけてたまに呼んだりしてたが……命の恩人だしな。これからは、やめておこう)

 

 旭日は自身の下の名前を呼ばれるのを嫌っていた。上司ならば嫌そうな表情を見せつつもかろうじて対応するが、同僚であったならば、そうとう乱暴なあしらいをする。

 本当は陽太(それでも苗字と名前の字面の組み合わせが眩しいなと雷はおもう)と名付けられるはずだったらしいが、漢字を覚えたばかりの彼の幼い姉が出生届の意味もわからず「あ、太陽って字が逆になってる! なおしてあげよう!」という余計な親切心を起こした。書き直されたことに気づかないまま両親が出生届を提出し、旭日の名前は太陽となった次第らしい。

 

 気心知れているせいかついつい舐めた態度を取ってしまいがちだったが、命の恩人相手の逆鱗に触れるような真似は二度とすまいと雷は誓う。

 

「よ、おはよう。旭日……」

 

(いや、かけるべき言葉はそうじゃないだろう)

 

 開口一番にうっかりでてきたのは凡百な挨拶である。

 

「体調悪そうだけど、どうだ? あー、最初に言わなきゃいけないことが違うな、助けてくれてありがとう。本当に、助かった。俺は、お前に救われた。旭日に助けられたから、今、生きてる」

 

 仕切り直して改めて感謝を告げると胸がいっぱいになって、言いたいことのほとんどがつっかえてうまく喉から出てこなかった。

 形にできないものをそれでも伝えたくて、ベッドから急いでおりる。

 

 体に痛みはなく、しっかりと自分の足で立ち上がることができた。

 あれだけ酷く痛めつけられたのに、それを忘れたように体が動くのが不思議だ。ありがたくはあったが、不可解だ。魔法の効果? 回復薬の効能? それともゲームと同じようにきちんとした寝床を使うとHP0が一晩で治るのだろうか? もしそれが当然のようにまかりとおるのならばどのような理屈なのだろうかと雷は内心首をひねった。

 そんな不可解な事象の探究は、ともかく後回しだ。

 今の雷にはやらなければならないことがある。

 

 雷は万感をこめて、旭日の前で深く頭をさげた。

 

「……どういたしまして。つか、礼ならお前が寝落ちする前に散々きいたからな。もう十分だ」

 

 ため息のような安堵を滲ませた息を吐いてから、旭日は目尻の皺を深くさせながら笑む。そうすると、すこしだけ顔色がましになったように見えた。

 

「そうだったか? 散々っていわれるほど礼を言った記憶がほとんどない」

 

 男に奮われた理不尽な暴力によって身のうちから沸いた憎悪の感覚は鮮明に残っている。しかし、過ぎた暴力のせいで意識が朦朧としていたせいか仔細の記憶の前後はもはやあやふやだ。

 もうひとりの男は、気づけば姿がなかったことはかろうじて頭の隅に残っている。旭日に恐れをなして逃げたのだろう。

 そのときは男どころではなく、雷は自身の治療が急務だった。《小回復(スモールヒール)》を魔力のあるかぎりかけつづけた。

 それから、旭日に背負われたのまでは覚えている。

 

「あの様子じゃあ、仕方ないな。

 体は大丈夫か?」

「あんだけ痛かったのが嘘みたいに、違和感のあるところはないな。

 現実じゃ、ありえないだろ、こんなの」

 

 最後は不思議がるというよりは、不気味がる面持ちで雷は吐き捨てる。

 

「俺たちの当たり前だった現実とは違う現実だから、ありえちまうことなのかもな」

 

 対して旭日は、今までの自分たちの常識を覆す”ゲーム的”な現象を面白がっている節があった。

 たったそれだけの態度であったが、旭日はこの状況を雷よりも前向きに捉えていると感じた。

 すくなくとも、表面上は。

 

(俺と違って、こいつは家族がいるんだから未練は俺よりもあってもおかしくなさそうだけどな。家族仲は悪いっては聞いてないし、むしろ話聞く限り若干シスコンっぽいんだが)

 

 感じたまま、見た通りの振る舞いが全てとは限らないだろう。

 

 二十三年の人生によってひねくれた性格の悪さのせいで「死んだっていうのにずいぶんと楽しそうだな」と確実に空気を悪くする嫌味がごく自然に出そうになったのを、雷は慌てて飲み込んだ。

 

 2

 

 目を覚ました雷は、互いの置かれていた状況を旭日と話しあった。

 

 そんなわけないだろう! と言い合って話を混ぜ返す無駄な時間を過ごすことはなく、事故で死んだことを受け入れ、ここはゲームの世界に似た場所だと双方認識していることを確認した。

 

 雷の話は百舌の速贄の状態で意識を失ったことから始まり、死んだ自覚を持ったまま暗い水溜り落ちる夢を見たこと、その後あの森で五日間彷徨い続け、挙句にあの男たちに出会ってしまったことを伝えた。

 一方で旭日だが、あの事故ではなく病院に運ばれたのち、亡くなったらしい。

 死ぬ間際、奇跡のように少しだけ意識が戻ったという。家族に最期に会えて別れを告げられたことが不幸中の幸いだったと旭日は酷く落ち着いた様子で告げた。

 

「ずいぶんと、人間ができてるな。俺だったら、最後に仲のいいやつに会えたとしても、そんなふうには思えないな」

 

 雷は妬ましい気持ちを抱えつつも、素直に感心した。旭日が端的にかいつまんだ言葉からは自分が死んだことへの嘆きよりも、残された家族をおもうあたたかな情にあふれている。

 我が身を憐れむのではなく、残された家族の悲しみをあんじている。雷は己の突然の不幸を呪うばかりで、数少ない親しいひとたちのことなど一顧だにしなかった。

 

 自分はそういうやつなのだから仕方ないとおもうと同時に、こうも真逆でまざまざと自らと比べてしまう対象がいると、旭日はその名のとおりとりわけ輝いていて、反面、雷は我が身が薄ら汚れているように感じた。

 雷の中にある卑屈で矮小な劣等感を刺激されて、体の内側が冷えていく心地がした。ひととしての出来が違うのだから、比べることのほうが烏滸がましいのだと自らを戒める。今は、そんな感情に振り回されている場合ではないのだ。

 

「そりゃ、俺はその辺のやつらと比べものにならないくらいのいい男、だからな」

「いってろ」

 

 わざとらしく胸を張る旭日の肩を、雷は軽くこづいた。

  

「どこまで話したっけな。

 とりあえず、死んで目が覚めた後のことだ。お前と同じように森にいたが幸いすぐに人の生活圏に出れたな。そこからがわりかし大変だったんだ」

「勿体ぶらずにさくさく話しを進めろよ。一回死んで、そのうえまた死にかけた俺よりも大変だったわけじゃないだろ」

「いやあ、さすがにそこまでじゃねえな。

 俺が森を抜けてたどり着いたのは塀に囲まれた街でな、なにも考えずに意気揚々と門からはいろうとしたら文字通り門前払いされちまった。

 そのうえ、不審者扱いで捕まりかけた。ほんとまいっちまう」

 

 ゲームでは素通りできたが、現実に即しているとそうはならないらしい。旭日はからからと笑いながら告げる。

 

「その見た目じゃあなあ」

 

 雷はしげしげと旭日を眺めながらしたり顔で納得した。

 話を面白おかしく誇張しているわけではなく、真実味がある。

 

「そこは話を盛りすぎだろって疑ってくれよ。ひでぇやつ」

「お前の見た目じゃあ、日本人的考え方を持つ俺からしたら堅気には見えない。この世界の住人にしたって、悪人面に見えるんじゃないか」

「これでも往年の名優を参考にして作ったキャラなんだぞ。悪人面はないだろ」

 

 旭日はむっとする。

 

「参考にしたっていったって、ゲームであらかじめ用意されたパーツを使ってるだけなんだから、そのものになるわけじゃないだろ。参考にしたっていったって忠実なのは、髪型と髪の色ぐらいだけじゃないか? その名優さんは身長2メートル超えてるのか? 超えてないだろ?」

 

 旭日の言い分を、雷はすっぱりと退ける。

 

「旭日の性格が出てるから無表情にさえならなきゃ、顔はそこまで怖くないが、そのデカさは威圧感あんだろ。検問? 関所? そういうところで警戒されるのは当然な気がする」

「はーあ、ご意見ごもっとも。まあ、とにかく俺が言いたいのはだな、このあたりじゃあ俺みたいな竜人は珍しいから、余計警戒されるってことだ。

 雷、ここが大陸の東側って気づいていたか?」

「うん、それは一応。俺に絡んできた奴らが大陸帝国語使ってたしな。大陸の東部なんだろうっていうのはざっくりと把握してた」

 

 双神ダヤンと双神ティタン。

 この大陸の民に信仰される双子の男神である。

 ダヤンは大陸に住む人間とドワーフとエルフを創り、ティタンは獣人と竜人と花人を創ったとされる。

 基本的にダヤンの創った種族は東側に住み、ティタンの創った種族は西側に住んでいる。大陸中央は、それぞれの種族が混じり合って暮らしている。

 『精霊の贈り物』では、大陸の東側で竜人のNPCやモブは存在しない。それは、ゲームに似たこの現実の世界でもそうなのだろう。

 

「詳しいこと言うと大陸の、北東のほうだ。大陸東部の郡国(ぐんこく)。裏切れイグニスがいる国」

「イグニスって、バグ技のアイツか。ずいぶんと僻地にとばされたもんだ。本来のゲームスタート地点のコハンの街は、大陸の真ん中だろ」

 

 郡国と聞いてもぱっとおもい浮かばなかったが、有用なバグイベントを発生させられることでプレイヤーから愛されているイグニスの名を聞いて、その場所をすぐに把握する。

 ちなみにクエストノートに記される正しいイベント名は『裏切りのイグニス』である。

 

 郡国は大陸北東の端にあり、海に面していた。小都市国家が協力体制を結んでいる国、とだけ簡単な説明が作中ではされていた記憶がある。

 たくさんの都市国家があるらしいが実際にゲームでおとずれることができる街は、治安の悪いスラムみたいな街だけだった。それ以外はフィールドと、ミニクエストで使うちいさなダンジョンがいくつか点在するだけ。郡国はメインシナリオには一切関係のない地域で、ここに来なくてもクリアが可能な場所だった。それゆえにあまり作り込まれていない。

 

「俺が入ろうとして追い払われた街の名前は、小都市カサギっていうらしい」

「カサギなあ」

 

 初めて聞く名称だ。郡国の小都市カサギ。ゲームでは表現されることのなかった場所だった。

 そういったものまで、存在しているのだ。

 まあ、当然といえば当然なのだろう。ゲーム通りの村や街しかなかったら、あまりにも人口が少ないし、世界が狭すぎる。

 

「で、よくある異世界転生のセオリー通り大きな街に入ろうとしてカサギに入ろうとして追い出された俺は、この村にやってきたわけだ」

「ふうん。で、それから五日間ここにいたのか?」

 

 旭日はうなずく。

 

「村長に借りたこの空き家を拠点にして、村長から仕事を頼まれて森でゴブリン退治をしていたな。動物タイプの魔物は基本的に人里に来ねえけど、ゴブリンみたいな二足歩行の魔物は別なんだとよ。安全のために、定期的に近隣のゴブリンは間引いておきたいらしい。

 カサギみたいな大きな街にはいるにはな、金がいる。ゴブリン退治の成果給で金を稼いでんだ。

 村としては街のハンターに頼むよりは安くすんで、根なし草の俺は金を稼げる。ついでに、ある程度近隣のゴブリン退治に目処がついたら、都市を出入りするときに役立つ身分証明の但し書きを書いてもらえる約束になってる」

 

「生活力すごすぎる」

 

 五日間、長引けば長引くほど死に近づくサバイバルをしていた雷とは雲泥の差で、旭日はこれから生きていくことができそうな基盤を着々と築いていた。

 これもきっと、旭日のコミュニケーション能力の賜物だろう。一見して剣呑な顔立ちをしているのなんてものともせず、人の懐にはいって交渉する姿が目に浮かぶようだ。

 厳つい見た目のマイナスを、腕が立ち頼りになりそうというプラスの要素に変貌させ、村のまとめ役への売り込みに成功したに違いない。

 

「こんくらい普通だろ」

「これが普通だったら、俺は底辺だな。俺だったら、見た目が旭日と同じ条件の場合今頃失敗して膝抱えてやさぐれてぶつくさ言ってる」

「そんなことねえよっていう慰めが言えないぐらいに、容易に想像できるのがやばいな」

 

 旭日は先ほどのお返しのようにしたり顔で同意した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 これから

 3

 

 雷は記憶の彼方の中であったが、旭日はゲーム開始年が1218年春だとしっかりと覚えていた。

 時間経過の条件を満たすごとに1218年春・1218年夏・1218年秋・1218年冬と時間軸が進み、年を越す。ゲームの期間は1222年冬まである。

 

 雷は旭日との会話で、今の時間軸がゲームの開始時期よりも半年ほど早いということを知った。

 現在、再生歴1217年精霊の節88日であるらしい。

 まったく馴染みのない暦で、それが日本でいう何月あたりなのかすぐに把握できなかった。

 なんでもこの大陸における暦は創世の節七日間からはじまり、女神の節、精霊の節、世界樹の節、双神の節と呼ばれるものが四節続く。これは地球の一ヶ月に相当するもので、一つの節は90日にごとに区切られる。

 すなわちこの地の一年間は、367日となる。地球よりも二日だけ一年間が長い。

 しかし四年に一度だけ、創世の節の七日間がないという。この年を眠り年という。閏年のようなものなのだろうと雷は判断した。

 このことから、四年あわせて1461日となり、公転周期が地球とほぼ同じという結論が出る。

 

「どうしてこういう手合いって、地球と似たような時間の進み方になるんだろうな」

「お約束ってやつなんじゃねえの? まったく別物よりも、わかりやすくていいんじゃね?」

「ま、それもそうか」

 

 雷は深く考えることを放棄した。

 

「それにしても、精霊の節か……

 ゲームでは創世の節にあたる期間がなくて、春が女神の節、夏が精霊の節、秋が世界樹の節、冬が双神の節にあてはまると考えると、今は夏になるのか?

 日本みたいな四季ごとに一年間がおおまかに区切られてるって仮定すると、暦上では、まだ夏なのか。それにしたって涼しいな」

 

 森の中はすっかり秋めいた雰囲気であったことを思いだしながら、雷は意外そうにもらす。

 

「ここでは地球みたいな温暖化はないし、気候の変動の仕方も違うんじゃねえの? 大陸でも北のほうだし、冬が来るのも早いんだろう」

「ゲームの地理情報的にも、北半球っぽいもんな。南にいくごとに暖かい地域が多かったし」 

 

 旭日のもっともな推測に雷は納得する。環境汚染とは無縁そうな世界なのだから、夏が無駄に長いということはないのだろう。

 

「ともかくだ。俺は、ターニングポイントになる1218年の春……念の為に今年の冬が終わる前までには物語の始まるコハンの街に行こうとおもっている。

 これといって、やるべきことはない。だが、ここがゲーム通りに進む世界なら気にかかることはいろいろある。やってみたいこともな。

 差し当たって、大きな街に行って情報収集、旅路のための装備を整えて今以上に稼げる仕事に就いて路銀稼ぎを目標にしてる」

「こんな大陸の端からコハンに行くのか? わざわざそうするってことは、まさか最初のボス戦に参戦でもするつもりなのかよ」

 

 琥珀色の瞳は好奇心で輝いていて、自信と活力が見てとれる。旭日の様子から傍観のためだけに行くようではなかった。

 

 『精霊の贈り物』はフリーシナリオなので、ボス戦に参加しなくてもゲームの時間軸を進めることが可能。

 再序盤のコハンで発生するイベントは、単発ではなく続き物のメインクエスト。しかし全く関わらないままでいることも可能だ。時間経過させるポイントを加算させて夏に移行すると、NPCだけで最初のメインクエストを解決している。

 介入しなくても解決する事件に旭日は関わるつもりだと判断し、信じられない面持ちで雷はいう。

 

 雷は、世界を守るような行為をする義理も義務もないと、今後世界に起こるであろう悲劇を他人事のようにとらえていた。

 ゲーム主人公と同等の初期能力を持っているが、自分は世界を救う役割をもった大層な人物ではない。その役割を担う人物は、きっと他にいる。よって雷はストーリーをなぞって大陸各地のひとびとを助けようなどと一切考えていなかった。

 

「その、『まさか』のとおりだよ」

 

 旭日はひどく好戦的な笑みを浮かべた。まるで獲物を目の前にした熟練の狩人のごとしだ。

 

「せっかく日本ではありえないことができる世界に来たんだ。生きるためだけに、生きたくはない。

 今はレベル2しかないが、俺がおもっている通りの可能性をこの体が秘めているなら、それを遺憾無く発揮したい。

 そのための”場”が欲しい。そして、俺は自分が必要とする”場”があることを予め知っている。指を加えて傍観するようなつまらなねえ真似をするのはもったいないだろ」

 

 英雄譚に憧れる少年といよりは、飢えた獣にも似た凄みを声にひそませて告げる。

 それだけのことにただならぬ胆力がある。雷は冷や汗をにじませながらおもわず真顔で息を呑んだ。

 気圧されたのではない。

 

(うわ。クレイジーだ。馬鹿だ。調子のった挙句、ダウナー系の主人公のかませ犬にされそうな言動だ)

 

 暴言をうっかり口にしないように懸命に喉の奥に嚥下したのだ。

 

「くっそ真剣そうな顔の裏で俺のこと馬鹿にしてるだろ、雷」

「ひとの努力をあっさりと見破るなよな、旭日」

「お前のことだからやられ役っぽい台詞だな、ぐらいにおもってるだろ」

 

 どうやら、本音は隠しきれなかったらしい。

 胡乱な顔をむける旭日に、雷は愁傷そうな顔を貼り付けた。

 

「いや、そんなことはない。絶対にないな。

 うん、ご立派。俺はそこまで自分の可能性とやらを信じられないから、その前向きさと自信は心底尊敬する。嘘じゃないぞ。煽りでもないからな。

 お前はお前。俺は俺。考え方はひとそれぞれだ。旭日は旭日のやりたいように好きに生きればいい」

 

 そう言って、自分が言ったことだというのに何故か胸の奥でしこりが生まれた。唇を引き結び、うつくむ。口にしたことは、雷の嘘偽りのないおもいのはずなのに、後悔に似た胸苦しさを覚える。

 軽口のような応酬をしている旭日本人が、雷のことばを一切気にとめた様子がないのが、なぜか不安になる。

 旭日は雷との別離など、なんら痛痒を得ないことのだろう。突き放す台詞に対して、さも当然のように受け止めていた。雷はさきほどのやり取りをおもいかえし、勝手に傷ついた。傷ついたことに驚き、自分の身勝手さに吐き気がする。

 どうしてなのだろうか。

 この違和感はなんなんだ。なぜ、息苦しさがあるのか。

 その疑問を解きほぐすために、雷は自身の望みをまとめる。

 

「俺は今までと全く違う場所だからっていって、そんなふうには思えない」

 

 動揺のせいで、おもいがけず暗い声になる。

 

「これからはただ……ただ、普通の生活がしたい。

 ちゃんとした飯が食えて、暖かい寝床があって、清潔な服が着れて、風呂にはいれて、身の危険もない。そう言う生活がしたいよ」

 

 切実な、心の底からの願いであったはずだ。

 日本で死んで、二度と帰れないのならば、せめて傷つくことのない安寧な毎日を送りたい。

 明確な形にして、はたと気づく。その生き方は旭日が選んだものとは完全に剥離している。

 

 こうなると自らの望みを叶えるためには、互いの選んだ道の違いから、遠からず雷と旭日の人生は分たれるであろう。

 はっきりとそれを認識し、雷はうろたえた。

 いやだ、と全身が沸騰するような強い感情に脳がゆさぶられる気がした。

 激情の生まれる理由がわからず、雷は困惑する。 

 

(今、俺が頼れるのはこいつだけだ。

 同郷で、この世界で俺の名前を唯一知っていて、俺がほんとうはこんなガキじゃなくて、二十三歳の男だっていうことを理解してる。

 これから、この場所で出会うひとたちは俺を見た目相応に扱うんだろう。

 自分が、自分じゃないような扱いをされることに、俺はきっと我慢できない。

 耐えられない。耐えたとしても、ずっとムカつく気持ちを抱えたままになる。

 誰一人、本当の俺を知らない環境なんて、想像もできない。 

 なにより、今の俺がこいつから離れて、まともに生きていくことができるのか?

 俺は旭日から離れるのが不安なんだ。旭日と別れたあと、自分の面倒を見きれる展望がぜんぜんもてない。あのときみたいに、俺は自分の身を守ることもできないかもしれない。

 だから、いやなんだ。きっと。

 恐ろしいから、離れるのが、いやだ……)

 

 考えを突き詰めれば突き詰めるほど、自身の情けなさに落ち込んだため息がもれそうになる。

 

「雷……」

 

 憐れみを感じ取り、雷は慌てて顔をあげた。

 何かを言われるまえに、雷から口をひらいた。

 

「でも、確実に今の状況だと俺一人では無理だ。情けないくらいに確実に無理な自信がある。嫌だっていっても、しばらくは旭日と一緒にいさせてもらう。頼むから、見捨てないでくれよ。

 いや、見捨てられても、しがみついてついてくからな。一人で生きていけって今この状況でお前に放り出されたら、俺は死ぬ自信がある!」

 

 やや高さがある寝床から転げ落ちる勢いで、雷は懇願し、訴えた。

 

「お、おう」

 

 勢いに呑まれたかのように、旭日は引き気味に了承する。

 

「見捨てるなって言わなくても、そもそもお前を放り出すつもりはないんだから安心しろ。野垂れ死にでもしたら、化けてでてきそうだしな」

「いや、俺は化けてでるほど根性はない。それは保証する。ただ、死ぬまで延々と恨言は吐き連ねる。これに関しても自信はある。なにせ、実際俺は意識が消える瞬間まで悪態ばっか吐いてたからな」

「妙なところで自信持つのやめろよ。聞いてるこっちが恥ずかしくなる。

 お前、社会人になって五年もたってんだろ。もうちぃっとばかり大人の男になって、内実はどうあれ見た目と言動はそれっぽく取り繕えるようになろう、な?」

 

 雷は可哀想なものを見る目で旭日に説き伏せられる。屈辱ではあったが、旭日の口ぶりが軽い気が抜けたものであることに、雷は心底ほっとした。

 

 深刻な雰囲気のまま旭日の同情を引き、彼から雷のこれからを保証させるような約束をさせたくなかった。

 雷から頼まなくても、性善説の塊のような旭日は雷の生活の面倒を引き受けてくれただろう。けれども、あの流れで旭日のほうが言い出すのを待つのは、とても卑怯でずるい話の運び方だ。なにより、気持ち悪い。

 

(これからどうするのかっていう話の時、わざとらしく不安がって。何してんだよ俺。)

 

 とんだ察してちゃんだ。面倒なタイプの人間が使う手口である。

 そういったいやらしいやり口を使いそうになった自分があまりにも痛々しく、雷は猛省した。

 

 4

 

 四十ほどの女村長が持ってきた暖かいまともな食事をご馳走になり、えぐみや苦味のない薄味ながらも旨味のあるそれに泣きながら時間をかけてゆっくりと平らげた雷は、話を切り出した。

 

「世話になりっぱなしは嫌だし、お前が村から請け負ってる仕事、手伝う。レベルもあげたいしな。これから似たような連中に絡まれる可能性は、0じゃないだろ。レベルをあげて、逃げ足くらいは鍛えたい」

  

(旭日には借りっぱなしで、返し切れるか分からないが、すくなくとも少しづつ返す努力はするべきだろう。貰いっぱなしっては、人としてだめだしな)

 

 正直、あの恐ろしげなゴブリンと相対するのはごめんだが、だからといって何もしないわけにはいかなかった。

 そして、これからずっとスライムや犬などの小物しか相手取れないのも危険だった。

 時がたてばたつほど、大陸には恐ろしい魔物が徘徊するようになる。

 安全な街中にずっと引きこもってやりすごす……という手段で完全に身を守れるともおもえない。

 基本的に魔物が人里に襲いかかってこないといっても、例外の種類の魔物の襲撃はある。それは年を追うごとに大陸各地で増え、その犠牲者が出てくるのだ。作中では語られなかった名もなき被害者のひとりにはなりたくない。

 

 それでも、臆病な自分が真っ向から魔物を迎え撃つのははなから諦めている。旭日に語った言葉に偽りはなく、せめて身を守りながら逃げ切れるだけのレベルは欲しい。

 

 雷の申し出に、旭日はそれもそうだなと二つ返事で了承した。

 

「面倒を見るのことになんのは、別に気にすんなって。だが、ここが物騒なのは確かだから、鍛えておいたほうがいいのは同意する。今日明日は体を休めて、明後日から同行してくれ」

 

 方針が決まり、今日はとりあえず村の案内と住人と雷との顔あわせをすることとなった。

 

 

 旭日が世話になっているという村は、よく言えば牧歌的な、悪く言えばなにもない村だった。飲み込むような深い森の中に、ぽっかりと穴を開けたように村がある。物々しい木柵に囲われていて、三十件ほどの家がそのなかに詰め込むように立っていた。畑や放牧地が柵の外側にあり、そこでひとびとがせっせと仕事をしている。

 その中にある旭日が借り受けた一件の空き家は、作りでいえばプレハブ倉庫のようなものだ。

 屋根と壁にかこまれているだけましといった塩梅で、風呂はなく、トイレもなくもよおしたら村の公共トイレまで行かなかければならない。トイレにはスライムがいて、排泄物を処理するのだとか。

 土間造りの小さな台所はあったが、竈門という馴染みない調理器具と作業場がある簡素なものだ。家の中に仕切りはなく、ワンルームである。

 窓にカーテンはなく、ましてや窓ガラスなんてなく、木の板でできた窓の扉を開け閉めするだけのものだ。

 この空き家がひときわ貧相な作りというわけではなく、住人の数によって家の大きさは変わるが、大概は似たようなものだという。

 

 雷がもともと着ていた服はボロボロであったため、村の者から格安で売ってもらったという継ぎ接ぎの多い古着を着ている。村の幼児と大差ないいでたちで、雷は村を眺めていた。

 村の余所者の旭日の隣に立つ、さらに見慣れない雷に訝しむ視線や好奇の視線が突き刺さる。そういった者たちに旭日は鷹揚な笑みを向け、「森ではぐれていた友人の子どもだ」と屈託なく雷を紹介した。友人そのものだと紹介するには、見た目の年齢が離れてすぎていたのだから仕方ないが、ちょっとひっかかった。

 

 村の住人は二百人いかない規模。

 皆西洋風の顔立ちで、金髪や薄い色合いの茶髪が多い。灰色の髪や、白髪に近い旭日の銀髪とは似ても似つかないきらきらした銀髪もいた。

 雷のような黒髪はいない。

 大陸の東側は明るい色合いの髪色の人間や、エルフ、ドワーフが多く住む。中央は赤毛の人間を中心に東西にいるいろんな種族が混じり合ってくらす。濃い髪色は、西側に多く住む。ゲーム同様、大陸東では黒髪は珍しいようだ。

 

 人間の中に、ときおりエルフの姿もまじっている。耳の先が尖っていて、風景から浮き出るように際立って美しく目を引く。そんな彼らも被り物をして、慣れた手つきで農作業をしていた。案外、村の光景に馴染む……とは全く思えず、似合わないなと雷は半ば愕然としながらエルフたちを眺めた。

 

 

 村には職人のドワーフも住んでいるという。

 種族の違いによって仲が悪いということはなく、土地の利権で争うことはあっても、種族が原因で戦争が起きたことは大陸の歴史にはほとんど存在しない。少なくとも、雷の知るゲーム知識ではそうであった。

 人間もエルフも関係なく一緒に暮らしているのが当たり前の姿を見ると、知識通りだと思っていいのかもしれない。 

 

 ただ、大陸南東に位置する帝国は人間至上主義国家で、人間以外の種族は暮らしにくい。

 かつては大陸の四割ほどの領土を支配下においていたが、大陸では神の次に尊いとされる神族にまでその牙を向けたことで他国どころか自国民の怒りすら買い、大規模な反乱が発生し国の規模が全盛期よりも縮小している。

 帝国ではない地域で帝国語が使われている理由は、過去に帝国に支配されていた名残なのかな、とゆっくりと物事を考えられるようになったのでとるに足らないことを雷は推測できるようになった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

森の中の村
第十三話 暴食ネズミ


 1

 

 雷が目覚めた日は一緒にいたが、翌日旭日はゴブリンを狩るためにひとり森に向かった。

 毎日の山歩きはともかく、獲物を見つけるのに時間がかかり、なかなか大変だという。

 斥候職がいれば別なんだろうな、とぼやいていた。

 旭日曰く、

 

「スライムならかなり見つけられるんだがな。

 ゴブリンの住処はこのあたりの森のかなり奥地にあるらしいが、さすがに今のレベルじゃ群を潰すのは無理だし、村のほうも群そのものを潰すのまでは求めてねえから、村から日帰りできる距離のところで狩りや巡回してるゴブリンを見つけては倒してる」

 

 とのことだ。

 

 魔物を倒した後、特定地点に自動で復活するゲームと違い、現実世界だと日があるうちにせっせと歩いても目当ての魔物を見つけるのはなかなか難しいらしい。

 

 村に滞在するようになってから、一日で最大の成果はゴブリン六体、犬六匹。スライムはけっこうな数を見つけられるが、スライムは庶民の生活に根ざした有用な生物(排泄物の処理のほか、なんでも洗剤や石鹸かわりに使うらしい)なので、倒さずに袋につめて持って帰る。

 毒鼠は毒が怖いから、今まで戦わなかった。毒消し魔法を持っている雷ですら毒が怖いのだから、懸命な判断だとおもう。

 

 しかし、これからは違うと旭日は張り切っていた。

 旭日は雷が解毒できる《浄水(クリアウォーター)》を使えると知っていた。よって、これからは討伐対象に加えられると旭日は意気揚々としている。

 圧倒的な数の暴力によってゲームオーバーになった苦い記憶がある雷は、すこしだけげんなりした。これから旭日には世話になるのだし、負けた記憶があるから毒鼠はいやだとわがままなど言えるわけないから、できるだけおくびにも出さないよう努めたが。

 しかし旭日に訝しげな顔をされていたあたり、無駄な努力だったのかもしれない。

 

 2

 

 旭日が森に向かったあと、ゲームの記憶をまとめつつゆっくりとした時間を過ごそうかと思ったがそうは問屋がおろさなかった。

 雷の安寧をやぶったのは、女村長の亡き夫との一粒種である娘、マリィシアだ。

 マリィシアは十歳くらいの闊達そうな女の子だ。金髪碧眼で、ソバカスがある。

 彼女は外からあらかじめ声をかけるでもなく、前触れもなく扉を開けるや否や、小屋の土間に足を踏み入れた。

 

 仮に自分の家族が所有する物件だとしても、借家人に対する配慮はすべきだろうと雷は嫌悪感と驚きをまぜた忌避感を抱くが、世界単位で余所者である雷の常識などはなから通用しないのだから仕方ないという諦念によって、苛立ちを押し流した。

 

「暴食ネズミをつかまえるの手伝って」

 

 小屋の準備された藁ベットの上でぼうっとしていた雷に、マリィシアは一方的に自分の要望をのたまった。 

 

(暴食鼠? 名前からして普通の鼠とは違うのか? 魔物かなにかか?)

 

 名前からして、大量の食事をしそうな鼠だ。大きさももしかしたら通常の鼠などお話にならないくらい大きな恐ろしげな生き物かもしれない。

 

「暴食鼠って?」

 

 聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥というし、知ったかぶりをして大失態をするよりはと判断し、雷は疑問をすぐに口にした。

 そんなことも知らないの? と言いたげな馬鹿にする顔をして、マリィシアは意気揚々と説明してくれる。

 

「村で食べられる、大事なお肉よ。ご飯をあげればあげるほど食べて大きくなるの。でも、すばしっこくて、なかなか捕まらないのよ。村の外にある小屋にいるんだけど……話を聞くより見た方が早いわ。来て」

 

 有無をいわさずマリィシアは雷の手をつかみ、小屋の外へと連れ出した。

 とっさに振り解きたくなるが、乱暴な振る舞いを雷はこらえた。 

 これが現代日本であれば、押しの強い女が年齢問わず苦手な雷はのらりくらりとかわして逃げた。

 しかし、見知らぬ世界で悪目立ちする二人組が世話になっている村の、一番偉いひとの子供だ。子供の手伝い程度の細事であろうと、すこしでも恩を返しておくのが無難だと判断し、不満を飲み込む。

 

 拒否せず黙りこくってされるままになる。

 小屋の外には数人の子供たちがふたりを待っていた。

 

「早くいこうぜ。さっさとネズミを捕まえて、残った時間で遊びてえよ」

 

 やんちゃそうな少年が、不機嫌な表情で雷たちを急かす。マリィシアはそれを意にもかけず

「わかってるわよ」と強気に返事をした。

 

 旭日の身長よりも背の高い柵の外側に鼠小屋があるらしく、こどもたちにまじって村の居住区をおおう柵の外を目指す。

 雷が歩くのは、砂利で舗装されたわけでもなく、人の足で長年踏み固められることでできた道だ。

 その短い道のりのなか、簡単に名のりあう。村の外から来た雷に対する子供たちの態度は彼らなりに取り繕ってはいるが、明らかによそよそしい。

 雷に対する悪意とか嫌悪感があるのではなく異質になものに困惑し、どういった対応をすればいいのかはかりかねているようであった。雷のような外から来た子供を相手にするのは、彼らにとって初めての経験なのかもしれない。純朴でじつにかわいげのある反応だと雷は思う。

 

 いずれ去る身であっても、排斥の目を向けられるのは苦しいし、好奇心いっぱいに関わりにこられても面倒なので、彼らの距離感はちょうどよかった。

 雷にとっては比較的楽な関係性を作ることに成功した。ちなみに、マリィシアに関してはそこから除外する。

 

 小さな村であるが、村の出入り口には門番が控えている。その脇を賑やかにとおりすぎたあと、畦道を行きながら村を覆う木柵よりも背の低い柵に囲まれた建物に向かった。

 雷たちが借り受けている家よりも小さく、造りの荒い小屋というよりも荒屋と呼ぶのがふさわしい建物の前で立ち止まる。

 

「よくもまあ、中の鼠が逃げないな」

 

 小学生時代にあった鶏小屋と同じで、中にいる生き物の様子を外から見られるようにしてある。雷の知る鶏小屋は目の細かいワイヤーネットを使っていたが、こちらは切り揃えた板を大雑把に格子状にしたものだった。

 しかしよくよく中をうかがって見れば、雷が想像したものよりもずっと大きな姿をした生き物が数匹集まり積み重なるように固まっていた。暴食ネズミはうさぎくらいの体長で、それにあわせて尾が長い。かたまりの中から伸びている尾は、まるで木の枝のように硬そうだ。

 

「何いってんの。何もしなくてもご飯が出てくるのよ? 暴食ネズミが逃げるわけないじゃない」

 

 雷がそんなふうに思いもかけないことだったらしく、やけに不思議そうに少女がいう。それが彼女のなかのごくごく自然な常識なのだ。

 

「そういうものなのか……」

 

 大きな鼠に合わせた格子の檻であること以外にも、鼠が逃げ出さない確たる理由が存在した。食いしん坊な鼠は、雷が知る現代の生き物よりも怠惰で生命の危機感がなさそうだった。

 

 呼吸にあわせてわずかに動くいくつもある鼠のかたまりを見ながら、雷はすこしだけ遠くにおもいを馳せる。

 

(鼠、鼠かあ。鼠を食べるのか。もしかして、スープに入ってた肉って……ファンタジーだしな。しょうがない。仕方がない。鼠の肉がなんだっていうんだ。不味くなかったし、むしろ、美味かったし。餓死するよりは、いいな。問題ない)

 

 口にしたものは鶏の胸肉のようだった。哺乳類なぶんだけ、蛙肉よりはゲテモノの度合いが薄くてましだ。

 鼠の肉と聞くと、肉の管理の衛生度合いは気になる。

 だが飢餓の経験が、雷の食の垣根を広げさせた。

 雷の培った食文化が一切通用しない世界で、あれも嫌だこれもいやだなどと言ってはいられない。気にしたら負けだ。惨敗なのだ。深く考えてはならないのだ。

 不味くなければ、毒がなければ、ちゃんと調理されていれば……それでも虫食は想像するだけで吐き気がするが、鼠の肉でも調理してあれば許容範囲だと雷は間口が広くなった心でおおらかに受け入れた。

 成長ともいえるが、正しくは諦観かもしれない。腹が減っては戦ができぬどころか、生きることすらできないのだから。

 

 3

 

 雷たちが足を踏み入れると、それぞれ一塊になっていた鼠が髭や耳をわずかに反応させ、すぐに散開して小屋の中を走り周りはじめた。

 差し出される餌に甘んじている怠惰な鼠でも、命の危機には聡い。

 

 鼠の捕獲に集まった子供五人が荒屋にはいると、だいぶ窮屈だ。その足元を大きな鼠が弾丸が飛ぶように駆け回っている。

 二十を数えることができる大きな鼠が、我先にと逃げまどっている。

 小さな山が波をつくりうごめくような、ひしめくようなその様相は、見ていて気持ちが悪い。

 毒鼠を見つけたときの恐怖感とはまた別の忌避感が、雷の胸の奥を重くする。

 息が詰まるというか、息苦しくなるというか、森で遭難して犬を探して殺して回った経験を持っていても、怖気がたつ光景だ。少し前の雷なら、いや日本に住んでた雷ならば、情けない声をあげてなりふり構わず逃げていた。

 

 ごわついた毛の感触や、見た目通りに硬い尻尾が足元をかすめていく。布越しに触れてくるものであっても、生理的な嫌悪感で背筋に冷えたものがびりびりと走る。

  

「噛まれると痛いから、気をつけてね。まだ食べられる部分が少ないから、小ネズミは放っておいていいから。お腹は蹴らないで、頭を狙って!」

 

 雷の抱える不快感などどれほど訴えたところで一部たりとも理解できないであろう平然とした顔で、子供たちは鼠を狙って足を振っている。

 うすら気味の悪いおぞましい光景に一瞬愕然としたあと、何事もないような顔で鼠を相手取る子供たちを見て、雷は意識を切り替える。

 

 どうやら、この鼠は手や網を使って捕獲するのではなく、足で蹴り飛ばしたり踏んだりして動きをふうじてとらえるようだ。

 

(効率悪くないか?)

 

 おもいはすれど、少しの間滞在する部外者の身でしかない。これが本当にいいのかという考えがよぎっても素晴らしい代案が浮かべるわけでもないし、いわれるまま大人しく鼠を足で狙うのが賢い選択だ。

 あらかじめ教えられていたとおり、鼠は俊敏だった。小さな鼠の比率そのまま大きくしたような鼠は、その姿からは想像もつかない驚異的な跳躍を見せた。

 

(兎かよ)

 

 大きさもあって、雷はおどろきをにじませながらぼやく。

 動きそのものも早いし、この跳躍力で子供たちのゆるい蹴りをやすやすと躱している。

 気合いのはいった声とともに鼠を狙っているが、周りの子供たちの中に鼠に上手く足を当ててたものはまだいない。

 

「そのうち疲れて、動きがにぶくなるの。そうなると当てるのは簡単よ」

 

 雷の視線に気づいたマリィシアが得意げに教えてくれる。

 

「そうなるまえにさっさと捕まえて、俺は遊びたいんだよー」

 

 少年はうんざりしたように訴えた。

 

「それは、そうだけど。でも、暴食ネズミがそうなる前に捕まえるのは、難しいのよね」

 

 マリィシアは少年に同調しつつも、諦めたようにいった。

 

(ここは、ティタン神族の速さの見せ所だな)

 

 男二人と追いかけっこしたときは結局発揮できなかった素早さのステータスの、面目躍如といったところか。

 

 鼠はたしかに見た目を裏切る優れた俊敏性を持つが、雷は目で動きを追いながら蹴りを当てることが可能だと判断した。幾度も繰り広げた小犬との戦い(あるいは不意打ちによる撲殺)によって、雷は自らの運動能力を理解している。

 雷の筋肉がもたらす瞬発力であれば、さして苦労しない案件に思えた。

 

 雷は蹴りから跳躍で逃げた鼠を狙い、無言で蹴り上げる。思ったとおり、空中で逃げ場のない鼠はあっけないほど簡単に吹き飛んだ。

 ほかの鼠にぶつかって止まった鼠は、その後ぴくりともしない。

 

 大変だとことごとくこぼすとなりで、こともなげに鼠を蹴り飛ばした雷に、皆一様に目を丸くする。

 

「すごいわね」

「運がよかったんだろ。まぐれ当たり」

「運のよさついでにもっと鼠仕留めてー」

 

 ほうぼう好きに言ってくるのに適当に肯き、涼しい顔で雷は問う。

 

「あと、何匹捕まえればいいんだ?」

 

「えー、と。五匹かな」

 

 マリィシアが答えた。そして、慌てて強い口調で付け加える。

 

「お腹、蹴らないでね。内臓潰れるから。それと、できるだけ大きいネズミを狙って」

 

「あー、わかった。善処する」

 

 一番大きい的である胴体に当てるのは簡単だが、特定の部位指定となるとすこし難しい気がした。

 しかし、それが要望ならなるべく応えるべきである。

 雷は荒屋の床にひしめく鼠たちを見極めるように鋭い眼差しを向け、鼠を次々に蹴ったり踏み抜いたりした。

 

 4

 

 気絶していた鼠はそのまま、死んだ鼠は速やかに血抜きした。大きな鼠六匹をそれぞれ抱え、帰路についた。さっさと遊びたいと常々訴えていた少年は、とても機嫌がいい。

 皆すごいすごいとお世辞でもなく素直に褒めてくるものだから、捻くれている雷であってもおもはゆさで憎まれ口ひとつとて出せなくなった。勝手に紅潮する顔を隠すため、雷はうつむいて子供たちの絶賛をやり過ごす。

 

 ほぼほぼ無言になった雷は、一方的に話を聞いていた。

 暴食ネズミは草食で、よっぽど腹が減らない限り肉食はしない。野菜の切れ端や、毒のない山菜、豆、木の実などを食する。

 村で管理する鼠小屋はほかに三箇所あり、毎日日替わりで鼠を数匹捕まえ、決められた順番ごとに数件の家庭に肉が配られ鼠肉が食卓にのぼる。

 繁殖力が高く、三、四ヶ月ごとに雌は五、六匹の子供を産み、また生まれてきた鼠は三、四ヶ月でうさぎほどに大きくなる。

 

「暴食ネズミは食べれば食べるほど大きくなるから、あんまり大きくなりすぎないうちに捕まえて食べるの。犬くらい大きくなると、捕まえるのが危なくなるんだって」

「そんくらい大きくなったネズミなんて、見たことないけどな」

「おっきいネズミは、いつもお腹を空かせているから、お腹いっぱいになるためにお肉も食べるなるようになるらしいよ」

 

 昔、大きくなりすぎた暴食鼠が逃げ出して畑を荒らしたとか、畑の作物では我慢できなくなった鼠がひとを襲っただとか、大人たちからの伝聞をとりとめなく雷に教えてくれる。

 

 村を囲む柵の中にはいると、その後は各々の自宅に帰るために解散となった。

 雷は手にかかえた鼠を村長の家にまでとどける役目を仰せつかったので、すでに鼠を二匹を重そうにかかえているマリィシアとともに歩いている。

 

「今日はありがと。私はこれから肉の解体をするけれど、あなたはこのあとどうするの?」

 

 自ら肉を捌くという少女に雷は内心ぎょっとするが、専門の業者など村にいそうにもないのだから、それはそうだろうとすぐに納得する。血抜きなども慣れた様子であったし、この村の住人にとってはごくごく普通の慣れたことなのだ。

 すこし考えてから、雷はおずおずとためらいがちに申し出る。

 

「迷惑じゃなければ、鼠の解体作業、見させてもらえないか? 俺、動物の解体なんて、やったことがないんだ」

 

 今までとは違い、発泡トレーに包装された肉なんて買えないのだ。もしかしたら、自ら肉の解体をすることが必要な状況におちいるかもしれない。そうなった時のために、知識や経験は必要だ。

 森の中でサバイバルしていたときだって、獣の解体の知識があればすこしはましな食事にありつけたかもしれないと思い返せば、雷は必死になる。無知で苦しいひもじさを味わうのはもうごめんだった。

 

「ふーん。まあ、あなたくらい小さいと、そうよね。刃物なんて持たせてもらえないもの。別に、いいわよ。

 それなら家にはいって。エプロンも貸してあげるから」

 

 マリィシアは快く了承し、雷を家に招き入れた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話 スライムを集めたい

 5

 

 血抜きに、内臓抜き、毛皮を剥ぎ、肉を切り分ける。

 

 生き物を殺すことと、それを切り分けることには別種の覚悟が必要だった。前者は追い詰められた状況によって考える間もなく呆気なく雷の身に馴染んだが、後者には忍耐力がいった。

 雷は顔を青くさせながらマリィシアの作業を見学し、三体目の鼠は不器用な手つきで自ら解体した。

 当然のことながら血肉が通った物を触って自ら食える物にする作業は、見たり聞いたりするだけのときの嫌悪感を、遥かに凌ぐ。臭い、音、感触……それら全てに雷は鳥肌をたてながら耐え、最終的には「所詮こんなものか」と脂汗を滲ませつつも痩せ我慢を発揮できるようになった。

 

 鼠の解体のあと、少女から横柄に後片付けを命じられた。授業料とおもえば安いものである。

 抜き出した使わない内臓や血を決められた場所に捨てにいく。

 

 一通りの片付けが終わった雷に、マリィシアは当然のような顔をして青スライムを渡してきた。

 

「これ、どうしろって?」

 

 体を洗う石鹸代わりにスライムを使うという予備知識はあるが、皆目検討がつかず雷は少女にたずねる。

 

「どうするって、手を洗いたいでしょ?」

 

 マリィシアは何をいっているんだと言わんばかりだ。

 なおも不思議そうに雷をみすえながら、ちょっと間をおいたあと自らの手のひらの中で青いスライムを潰した。

 さらっとした液体に手を濡らしながら、手洗いの基本のように指を擦る。そうすると角質取りクリームでもつけているみたいに、ぼろぼろと手から白いものがでてくる。ところどころ赤いものもあり、それは手についた鼠の血だったのかもしれない。粗方手を擦り終えると、マリィシアはあらかじめ水で絞っておいた手巾で手をぬぐった。

 

「こうやって使うの。こんなことも知らないの? スライムで体を洗ったことないのかしら? 汚いわね」

 

 不潔だ、と攻撃的で嫌悪感のふくんだ視線を向けられる。

 

「誤解だ。手は洗う。スライムを使った手洗いが初めてなだけだ」

 

 雷が訴えると、疑わしそうな視線を返された。

 

 そして指導を受けながら解体に使った刃物の手入れをする。

 

 その後雷はスライムを洗剤代わりに使っての洗濯という初めての経験もした。

 

 桶に無抵抗な四匹の緑スライムをぶちこむ。そこに、二人が使ったエプロンを放り込みスライムの体液を擦り付けるように揉み、洗うのだ。

 スライムの体液に直接触れることに抵抗感は大きかったが、これも異世界の事情なのだと雷はそれをぐっと飲み込んだ。

 

 雷の子供の手の力で強く押し込むだけで皮が弾け、透明に近いどろっとした液体がぶわりと広がる。

 洗剤のように泡立ちはしないが、エプロンに飛び散った血でついた汚れがスライムの体液によって色が薄くなっていく。

 

 緑スライムの体液の原液は水のように繊維に溶け込みはせず、生地が濡れなかった。

 ゼラチンのようにぶよぶよとした弾力のある固形を保っている。

 スライムのその体液は服の汚れにくっつくと、汚れの色に染まりながら濁った塊になる。

 

 汚れが取れたら、最後に水ですすぎ洗いだ。

 

「冬は、なかなか乾かないから水を使わないの。服についた塊を手ではらって終わり。それでも、臭いとかひどい汚れとかは、落ちるのよ」

 

「へえ。それはいい」

 

 雷は心底感心した。

 これから装備を整えるとして、戦闘用の勝負服となると洗濯をして乾かしている間の着替えなど用意できるものではないだろう。衛生面が気になるようになった場合、緑スライムで水を使わずに洗ってすぐにまた着ればいいのだから、便利である。

 

 鼻先が近づくと、洗い上げたエプロンからほんのりとハッカに近い匂いがした。

 

 6

 

 雷は、過去を思い返す。

 慣れてしまっていてもときおり悪臭が鼻をついたし、ずっと身に纏っていたべたついた衣服は意識すると気持ちが悪かった。経験値稼ぎがてら体を綺麗にできたことを考えると、スライムを潰すだけだったのはずいぶんともったいないことをしていた。 

 

(スライムで身繕いできるって知っていたら、少しは気分がましな五日間になったんだろうか)

 

 村長の家での作業を終えた雷は、歩きながらとりとめのないことを考える。

 その背には、マリィシアから借りた蓋付きの背負い籠がある。ただでは借りられず、貸し賃を後払いすることになっている。籠の使用理由を村の付近でスライムを探しに行くと告げたところ、最低二匹のスライムねと笑顔で告げられ、雷の子供の両腕でなんとかかかえられる程度の大きさの籠を渡された。

 

(なるべく、多く見つけたいな。この籠いっぱい見つかればいいんだけど)

 

 昨日、丸一日着ていた服だし、体も洗っていない。じめりとした居心地の悪さが、雷についてまわっている。自身から淀んで濁ったものが漂っていそうで、心底嫌になる。それを気にするだけの余裕ができたと思えばいいことだが、だからといってこのままでいいわけがない。

 

 スライムの有用性を理解した雷は、ひとり村の外にでた。

 繕いだらけの服や、自らの体を丸洗いしたくなったのだ。

 

 叶うことならば風呂に入り、新しい着替えが欲しい。しかし現状では難しい。

 まず湯を沸かすだけでも、雷が想像するよりもずっと手間ひまがかかるのだ。

 村の近くを流れる川から水を運んでくるか井戸から水を汲み上げて、薪を使って湯を沸かす。湯沸かし器も蛇口もないこの村では、すべて人力だ。

 村にある井戸水を使うことからして、ただではない。桶二個分で、1ゴールド。旭日が金を払って小屋の中に水を用意していたから、雷は値段を知っていた。

 1ゴールドは日本円に換算するとどれだけの価値があるか雷にはまだ判然としないが、さすがに1ゴールド1円ではないと思う。最初の所持金が子供のお小遣いにもならない額ではお話にもならない。

 

 そして着替えに関しては、肝心の服屋が村にない。現状、新しい服が欲しい場合、村の住人との交渉から始まらなければならない。雷にはとてもではないが敷居が高すぎる。

 

 それらを踏まえると、雷が自分の持っている手段で衣食住の衣の快適さを得るには、スライムで丸洗して身綺麗にするしかないのだ。

 

 日本ではごく当たり前に享受できたことが、ここでは途方もない高望みだ。家に帰りたいと雷は嘆息する。嘆いたところで風呂に湯が沸くわけでもないので、雷は自らの足で動く。

 

(日が高くて時間があるし、自分で探したほうが早いな)

 

 何より、雷にはこれといって特にすることもない。

 

 旭日がゴブリン狩りついで見つけたスライムをもらえるとは限らないし、なにより一方的にもらってばかりでいるつもりなのは、よくない。たとえ本人が気にしていなくても、旭日に対してこれ以上図々しい振る舞いをするのは避けるべきだ。

 

(村の付近に出るのは一番弱いスライム、あとはせいぜいチワワみたいな犬か。毒鼠には気をつけよう)

 

 スライムなら問題はないが、攻撃手段となるロッドがないので犬に出会うのは怖い。毒鼠は数で襲い掛かられるのが怖いから、見つけたらすぐに逃げるしかない。

 

(スライムだけじゃなくて、使えそうな木の枝でもあったら拾って、石も用意したほうがいいな。明日は旭日と一緒に行動するわけだし。石に刻印(ルーン)を描くのにインクになる木の実も探して……。

 薬草も、あれば採っておいたほうがいいか。薬の調合ができないから今の俺にはただの草だけど、ここが現実に即しているなら、調合や錬金術スキルがなくてもなにかしら加工できるかもしれない。スキルがないと薬草が一切加工できない、なんてことはないだろう) 

 

 農作業をする村人たちを眺めながら通り過ぎ、農耕地と外を仕切る雷の目線ほどの高さの囲いを出る。囲いのすぐそばにまで森が来ていて、日の光が奥まで届かない木々の向こう側は昼であっても薄暗く見えた。

 

 つい先日まで、あの暗がりの森の中で彷徨っていたのだ。昼は木漏れ日を頼りに、夜はランプの花の光を慰みに。怖いところへひたすら誘い込むような鬱蒼とした木々を掻き分け、這いずった。

 それがようやっと遮るもののない日の光の下にいるのだから、感慨深い。これからの不安と、自身の知識が通用しない未知によって痼りのようにわだかまるものはあれど、胸の奥がすうと通りずいぶんと息をしやすい。

 こうやって生きていられるのも旭日のおかげだ。それを思うたびに感謝の念が沸く。死、そのものから助けてくれたこと。心が削られる日々から救いだしてくれたこと。絶望に折れた雷に再び希望を吹き込んでくれたこと。尽きることなく、あたたかなものが雷の中に生まれる。

 

(迷惑かけるだけなのは嫌だから、自分でできることは自分でする。返せるものがあれば、返す)

 

 雷は改めて決意をし、森に向き直る。

 

 森のほうぼうから固いものを強く叩く音がする。風を鋭く斬るように響き、余韻をのばしながら天にむかってほどけて消えていく。

 目をやれば体格のいい男たちが木の伐採をしていた。安全とは言い難い区域で山歩きするので、ひとの気配はすこしだけありがたい。

 

 本心を言えば、見知らぬ人間の存在……とくに成人男性というのはおそろしい。無意識のうちに体が強ばり、気を張り詰めて身構えてしまう。

 男ふたりに殺されかけた経験はまだ記憶に新しく、体の傷は癒えても、雷の心に残った傷はまだ消えていない。

 被害妄想だと理性でわかっていても、ことのほか我が身が惜しい雷は、もしかしたらと息を呑んでしまう。二度とあのような目に遭いたくないがために、無害であろう相手にも無闇に警戒した緊張状態におちいってしまう。

 

(もし、悪党じみた考えを持つ奴がいたとしても、だ。

 世間体を気にするまともなひとなら自分たちの住む場所で、あからさまに子供に無体を働くような馬鹿な真似はしないだろう)

 

 雷の身に降りかかった災難がこの村でふたたび降りかかる可能性はきっと低い。よって、今雷が抱く恐れは杞憂なのである。

 

 雷は自分自身に強く言い聞かせて巣食う焦りをなだめ、怯えるこころを懸命に殺した。

 

 7

 

 赤くてすっぱい木の実を採取し、薬草もむしった。折ったロッド代わりになりそうな手頃な枝はまだ見つからない。

 散策中、ありがたいことに小犬とも毒鼠ともでくわさずにすんだ。しかし、悲しいかなスライムともなかなか巡り会えなかった。いまのところ籠には緑二匹と青三匹のスライムがいるが、マリィシアに二匹渡すことを考えると、できればもっと数を確保しておきたい。

 雷は籠を背負い直す。背負った籠の中で生きたスライムがみじろぎしている。蓋があるから青スライムが飛び出すことはないが、背中でがさごそと動かれると落ち着かず、雷は重いためいきをついた。

 

 雷は周囲に気を払い、目を皿のようにして歩く。

 

 同じような光景が続き、ともすると方向感覚が失せそうな森だが、村側で木を伐採する音が聞こえるため、それにさえ気をつければ迷う心配はなかった。

 

 力強い音が続くと、ひときわ空気を震わすような破砕音が耳をつき、悲鳴じみた大きな音をたてて木が倒壊する。まるで親の仇を討つみたいに熱心に、あちこちから絶え間なく聞こえる。ゲームですらもそうそう聞かない物騒な環境音だ。

 

 木の伐採音が悲鳴のようだと思っていたら、本当にひとの悲鳴が聞こえてきたのは六匹目のスライムを見つけたときだった。

 

 脅威に瀕した切迫した若い男の大声。

 雷は反射的に発生源に振り向く。

 現段階では状況は不明。事故でもあったか、もしそうだとしたら怪我人も出たかもしれない。あるいは、本来ならばひとの営みにあまり近づかないはずの魔物でもでたか。

 状況を把握できない不安感で幼い顔を険しくさせながら、それでも雷は頭の中で算段する。

 

 誰か怪我人が出たようであれば魔法で回復して、村人に恩を売るのもいいかもしれない。

 どれだけこの村にいることになるかは分からないが、多少なりとも住人に貸をつくるのは悪くないはずだ。

 同時に考えるのは、見るからに子供の雷が一番簡単な癒しの魔法とはいえ〈神聖魔法〉を使って悪目立ちしないかということ。滞在中奇異の目を寄せられたり、これ幸いと安易な回復薬代わりにされるのは避けたい。雷の中には鷹揚な忍耐と、完全なる善意など存在しないのだから。

 

 これらのことを殊更短い時間で思考し、天秤にかけた。

 

(実際の状況がわからないことには、ここであれこれ考えても埒があかないな)

 

 出た答えは今ここで考えたところで無駄だから、結論を得てから臨機応変に対応する、という無難なもの。

 

 雷は何が起こったのだろうという好奇心と下心、そして警戒を抱いて悲鳴の聞こえた方向に慎重な足取りで向かう。

 

幼生妖樹(ラルバトレント)が混じってるぞ!」

 

 雷の耳をつんざいたのは、危機を知らせる怒声である。

 魔物の名前が聞こえて、雷は足を止めた。

 

(トレント、木のモンスターか。人里に近いってことは、一番弱くて小さいやつか?)

 

 瞬時に頭の中の記憶の箱から名称に重なる存在をひっぱりだす。

 ほっそりとした若木で、画面越しで見る限り低身長の雷のキャラより体高があったはずだ。この異世界に放り出されて、トレント系の魔物とは初めて遭遇する。

 

 心臓が早鐘のように耳を強く打つ。その音に焦らされながらも、ひたすら冷静になるよう雷は努める。できるだけ気配を殺したつもりで近づきながら、動揺が冷めない目で魔物の姿を視界におさめた。

 三人の男たちが慌てふためいて応戦しているのは、男たちとそう変わらぬ背丈の動き回る木だった。葉っぱのいくつかが黄色く染まり、周りの生えた変哲のない木々と同様に秋の化粧をはじめている。これがじっとしていたら、ただの木と誤認するだろう。雷だったら、動きだすまで魔物の木だなどとたぶん気付かない。

 

 幹の太さは、雷よりは太く成人男性より細い程度。葉を茂らせた枝は教鞭じみていて、容赦なく多方から攻め打ってくるのは遠目に見ても圧倒される。しかし、葉っぱが緩衝材になっているから、鋭くしなる枝そのものには直撃しにくそうだ。体の大きさに圧倒されるが、命が即座に危ぶまれるような敵には見えなかった。

 

 雷は記憶の底にある知識をひっぱりだす。

 一番弱いトレントはひたすら防御力が高く、それに比例して攻撃力は低め。そのうえ近距離の物理しか攻撃手段がないため、そこまで強い魔物ではなかった。傍目には確かになんとかなりそうな気もする。気がするだけで、雷の足は一歩たりとも動かなかったが。

 

 ーーゲームでは。

 幼生妖樹(ラルバトレント)は小犬よりもやや強い。しかし、毒鼠の数の暴力と毒付与よりは恐ろしくない。一体だけであれば、レベルが全くあがっていなくても時間をかけて対処が可能だった。ゲームでは雷のクリエイトしたキャラの攻撃力の低さと、相手の防御力の高さのせいでかなりの泥試合になった。ともあれ、序盤のほとんどの雑魚敵と同様に、仲間がいれば囲んであっという間に倒せる敵だった。

 

(だからといって、俺よりでかい奴に立ち向かうのは無理)  

 

 ゲームの初戦相手として苦労せずに勝った犬には、この現実となった異世界ではたいへん苦労させられた。こと実際の戦闘において、空想世界の遊びでそうであったからといって、現実で同じような手応えは期待しないほうがいい。

 

 村の男たちは、突然の出来事にいっときは驚愕したものの冷静な者が声を張り合げて対処を始めた。

 

「魔物だろうが所詮はただの木だ! きこりの敵じゃねえぞ!」

 

 魔物への本能的な恐ろしさで及び腰になっている者を蹴飛ばす勢いで檄を投げる。

 言い様強がりではないことを示すように、剛腕で斧を振るった。必殺の一撃というに相応しい痛打だった。

 幹の半分にまで一気に食い込み、妖樹の若木は悲鳴をあげるかのように激しく身をよじる。

 

 それを見守っていた男たちは、勝てない敵ではないとすぐに悟り、冷静さを取り戻した。

 

(俺が手を貸す必要性もなさそうだ)

 

 影からこっそり見ていた雷は、息を吐いた。

 様子見で正解だった。非力な雷が顔を突っ込んだところで逆に足を引っ張ることしかできないだろう。助けてやろうなど傲慢な考えで助けに出たって邪魔だと追い返されるか、かえって更なる悲劇を巻き起こすことになったかもしれない。

 ほとんど棒立ちになって竦んでいただけとも言えるが、沈黙は正解だった。

 

 木こりたちの山仕事で鍛えた巌のような瘤は伊達ではない。雷ではきっとああはならないはずだ。

 

 一人の男の勇気ある行動を皮切りに、樹の魔物はあっという間にのされてしまった。

 男たちが怯えていたのが馬鹿馬鹿しいくらいの、見事な圧勝である。

 

(強いな……というか逞しいといえばいいんだろうか。こんな訳のわからない生き物がいる世界で生活してるんだから普通の村人でも、当たり前に戦えるんだ。そりゃ、そうだよな)

 

 雷が『虚構の世界によく似た世界』と認識している場所で、全身全霊で彼らは生きていて、そして生き抜こうとしている。作りものではない、嘘偽りのない等身大の命のあり方だ。

 脅威に怯えながらも、死なないために全力で抗い、戦うのだ。雷はそれに力強い命の息吹を感じる。

 

(作りものじゃない。作り物じゃないってことはわかっていたんだけど、この世界の住人たちは俺が考える以上にずっと命のやり取りの中で生きているんだ。

 生きているんだ)

 

 『作られた枠』などない、ゲームの設定が作る『安全』のない場所で、ただの村人であっても利用できるものはなんでも利用しなかがら、自らのために自らの力で安穏を獲得しにいく。

 

 こんな些細な日常の中で命の危機に脅かされながらも、命は過去から続き、そしてこれからも続いていくのだろう。

 

 雷はそれがどうしてか恐ろしくおもえた。

 

 泣き笑いの表情を浮かべたあと、湿っぽいため息とともに手のひらで顔をおおった。

 

(ここが、俺にとって都合のいい世界じゃないってことは痛感済みなのにな。

 なんで、今更こんなことを思うんだか。

 頭のどこかで、縋ってたのかもしれない)

 

 自分にとって都合のいい奇跡が起こるなにがしかの存在による作為の余地。最初から薄かったそれが、更に雷の中で否定される。

 

 何者の意思など関係なく、自らが地に足ついて生きていることを疑わないひとたち。自らの生き様によって手に入れたもので、生き抜いている。そんな彼らを見ていると、自分は本当な特別な存在でなにかによって守られているかもしれないという最後の幻想を打ち砕かれる。気休めのお守りじみたものであっても恐々としながら抱えていた命の保証のようなものが、やっぱり意味がないものなのだとじわじわと理解させられる。

 

 だって、雷はそんな彼らに比べると、あまりにも薄っぺらい。特別な何かだとはとてもではないが思えない。

 

 なぜここにいるのだろう。なぜ、ここで自分の意識は続いているのだろう。

 

 いきなり世界で目覚めたときと同様に、命の有無にかかわらず、ある日突然意識ごと消えてしまってもおかしくないではないか。そんな疑念が浮かぶくらいに、雷の存在の根拠、原因、理由が曖昧で不明だ。

 

 この体はどこから来たのだ。意識がこの世界で目覚めると同時に、肉体が一から構成された? それともゲームで作った少女に似た誰かの体を乗っとったのか?

 

 わからない。

 わからない。

 何一つ、わからない。

 自分を確として形成してくれる安心材料を雷は持っていない。

 

(駄目だな。余裕があると、嫌なことばかり考える。今は駄目だ)

 

 そんなふうに、雷は暗いところに陥りそうな自らを宥める。

 

 今、考えたところでどうしようもないこと。

 かといって、いつ考えればいいのかもわからないけれど。

 




クラス<木こり(ランバージャック)>持ちには樹木系モンスターへの特攻効果があります。
似たような体格、腕力の他クラスの者が相手だと、もうちょっとトレント相手に苦戦します。
旭日はステータスが村人の比ではないので、クラス有利関係なく圧勝します。
雷はゲーム以上の時間をかけて単独辛勝できる確率が高いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

秤にかける
第十五話 森へ


 1

 

 籠代のスライムをマリィシアに渡し、身綺麗にしてすっきりしたその翌日。

 女村長宅からの朝食の差し入れに腹をくちくしたのち、雷と旭日は森に分け入った。

 二人は足の長さが違うため、旭日の慎重な歩調に合わせても、雷はやや早歩きになる。

 旭日の慎重さは突然の不意打ちを警戒してのものというよりも、魔物をうっかり見逃さないためのもののように見受けられ、余裕と落ち着きがある。同行者の存在と、ゴブリンと一人で対峙してきた男への安心感で、雷の気はどことなく緩む。

 

「村長の飯、何か特別な物がはいってるってわけじゃなさそうなのに、やたら美味いよな」

 

 主食は黒っぽい麦粥だが、以前食べたことがあるオートミールよりもずっと好みで食べやすい味だった。スープは塩気は薄いが野菜と肉のうまみが濃くきき丁度いい塩梅の味になっていて、飽きが来ない。正直おかわりをしたかった。殻をむいたナッツ系の実に軽く塩を振ったものも、シンプルに美味い。

 

 雷は緊張を抱きつつも、美味な食事がもたらす幸せの余韻に浸りながら言った。

 

「それな。なんかスキルが関係してるらしいぞ。『精霊の贈り物』にもあっただろ、料理スキル」

 

 雷の無駄口を咎めず、旭日は雑談に付き合う。

 

「そういえば、あったな。ゲームではステータス上げるドーピングに必須だった」

 

 『精霊の贈り物』は魔法によるバフとアイテムによるバフの重ねがけが可能なので、一定時間ステータスを増強してくれる料理は序盤から終盤まで重宝するのだ。

 攻略サイトでは料理スキルは縛りプレイなどの理由がなければ取得するように勧められる。スキルを使って料理を作っているうちに、スキルレベルは自然とぐんぐん上がる。プレイスタイルによっては一番最初にスキルレベルマックスになるときもあるという。そのぐらい頻繁に使用するスキルだった。

 

「ドーピング云々がなくても、この世界で生きるにも必須みたいだぞ。料理スキルがない状態で調理するとな、飯が不味いんだ」

 

 旭日はおもしがるように言う。

 

「ええ? なんだそれ」

 

 かつがれているのかとおもい、雷はあからさまに疑う胡乱な声をあげる。

 

「嘘だと思うか? ここでは常識みたいたぞ。個人の腕そのものの技量もさることながら、スキル持ちが料理すると精霊がなんやかんやして、飯が美味くなるし、ステータスが一時上昇する効果がつくらしい。ま、ステータスの上昇が精霊のおかげっていうのはゲームのフレーバーテキストと同じだな」

 

「はいそうですかと普通はいきなりは信じられないだろ。まあ、でもこんな非現実的な世界だしな。そういうことも起こるんだろうな。

 物理法則みたいなのじゃなくて、でたらめなゲーム法則に縛られてるみたいな感じなのか? スキルがないと飯を作っても不味くなるって、ちょっと理不尽すぎね?」

 

 旭日の丁寧な返答に、どうやら嘘ではないことを感じ取り、雷は疑問を口にする。

 

「そこは前提が違うんだよ。スキルがないと料理が不味くなるんじゃなくて、スキルがあるから、飯が美味くなる。

 普通の主婦くらいの腕じゃ、調味料と時間をどれだけ使っても、どうにもできないくらいに素材が美味くねーんだよ。

 肉や魚は普通なんだが、……むしろ美味いな。日干しの海水魚とか、釣りたての淡水魚とか。俺が焼いても普通に美味い。酒があったら最高にあう味だった。

 けど、野菜とか植物関係の味がいまいちなんだ。日本で食べてた野菜と比べて、かなり青臭くて苦味が強いぞ、一度雷も生野菜食べてみろよ。子供じゃなくても野菜が嫌いになる味をしてるから。

 それをどれだけでも食えそうな美味いもんにしちまうんだから、スキルっていうもんはすげーよ」

 

 旭日の説明に思い当たることがあった雷は納得する。

 

「森で食ったものの味が相当なもんだったけど、もしかしたら普通はスキルで料理しなきゃ食えないもんなのかな。山の中で人の手が入ってないせいだからと思ったんだけど」

 

「だと思うぜ。ふつうのきのこなんかも魔物由来じゃないやつを除くと、スキルなしが調理するとエグい味になるらしい」

 

「きのこなんて最高の出汁になるだろ。はあ、不思議だな。というか、魔物由来のきのこはスキルなしが調理しても美味い味になるのか?」

 

「らしいぞぉ?。純粋な植物系統の食べ物の味は自然で育った山菜だろうがひとの手で育てた野菜だろうが、そのまま食べると味が悪い。けど、食べられる植物系の魔物から採れるものとなると、味はいいらしい。まだ食える野菜の魔物に会ったことはないけど、いつか食べ比べしてみたいな」

 

 まだ実際に見たことのない未知の魔物に対して楽しそうに笑う旭日。

 

「魔物……魔物も食えるのか……」

 

(二足歩行の大根の魔物とか、躍る人参とか、回転するきのことか、いろいろいたな。そういえば、ドロップアイテムは野菜だったな。食べるのか、食べられるんだな。ゲームでは食材アイテムだったもんな。え、現実でも食べるのか。俺が食べるのか)

 

 未知の食の異文化にやっと慣れ始めている雷に対して、積極的といえばいいのか前向きといえばいいのかそういうものを食べることに躊躇いがない旭日。それにすこしだけ雷は遠い目になる。

 

 冷静になって考えれば、いや、冷静にならなくても魔物を食すことに抵抗はあるが。

 

(ま、美味くて毒がなければ問題ないな)

 

 鼠だって食べれるのだしと、飢餓に鍛えられたメンタルによってその抵抗を雷は押し流した。

 

 2

 

「そういや、飯食ったあとのステータス確認したことあるか?」

「いいや」

 

 問いかけに首を振ると、「せっかくだから手帳を確認してみろ」と旭日に促される。

 

「見ろって言われても、邪魔になると思ったから持ってきてない」

 

 告げると、旭日はにやりと笑い、得意げな顔になる。

 

「探してみろ、あるから」

「あるって、そんなわけ……ある」

 

 雷は訝しげな顔をしながら、刻印(ルーン)を描いた石を詰めた袋に手をやる。そうすると、袋の布越しに石ではない感触が指先に返ってきた。恐々と手を突っ込むと、絶対に家においてきたはずの黒い手帳があった。なんだこれは、と雷は汗を滲ませ驚愕する。

 

「ゲームでもある絶対に捨てられない重要アイテムみたいな扱いなんじゃねーかなって思う。俺も家に置いてきたはずの手帳があって一回びびったからな」

 

 旭日は戸惑う雷にけらけらと笑ってみせた。

 

「うわ。なんだこれ、怖……」

 

 表情を強張らせながら、雷は指先でつまむように黒表紙の手帳を取り出す。

 魔法が使えて魔物が出る世界で、原理のわからないことにとやかく言っても無駄なのかもしれないが、ないはずのものがあるというのは単純にぞっとする。

 

 ステータスを見るよう勧められたこともあり、雷は中を見る。

 

(あれ、経験値100溜まってるな。あ、体や服洗うのにスライム倒したからか)

 

 魔物を倒したというよりも日常生活のひとつであったから、経験値がはいるということが頭から抜け切っていた。

 ちょうどぴったりレベルアップできるだけの経験値がたまっていて、雷は思いがけず嬉しくなる。自身の迂闊で気付かなかっただけのことでもあるが、戦闘に始まるまえに気づいたのだから問題ないだろう。

 

 ステータスの攻撃力の数値の脇に括弧付きで1が加算されている。それを確かめつつ、刻印騎士(ルーンナイト)に100ポイントを割り振ってレベルを上げた。

 

「攻撃力が1だけ上がってたな。あと、レベルを上げられる状態になってたからレベルアップした」

 

 レベルアップによって魔力が3上昇し、それ以外の項目が全て1だけ上昇する。全項目が上がると気分がいい。雷は自然と得意げになる。

 

「へえ、どれどれ」

 

 旭日は巨体をまるくかがめて雷の持つ手帳をのぞきこむ。

 

「魔力がやたら高いな」

 

 感心されるように旭日はいうが、雷の気は重くなって否定的に肩をすくめる。

 

「むしろ目立って高いのが魔力だけなのがな」

 

「魔法系ならそんなもんだろ」

 

 不満げに顔を顰める雷に、慰めるでもなくごく当然のことのように旭日はいう。気にすることか? と旭日は不思議そうにしている。

 

「魔法系だからっていってもなあ、攻撃魔法が使えれば数値を活かせたんだろうけど」

 

 森で遭難している最中、何度となく思ったことをまた蒸し返して雷は嘆息した。支援系の魔法使いというのは、ゲームではいいが現実では扱いにくくなかろうか。

 

「お前も椎名さんみたいにサポート系だもんな。いいだろうが、回復系。RPGには必須じゃん。それに、攻撃魔法が必要ならこれから覚えればいいだろうし」 

 

「これから、そうだな覚えたいな。でも、どうやって覚えるんだろうな。ゲームでは魔法はアイテムやクエストで習得できたけど、この世界だと本で勉強すればいいのか、誰かに習うのか……」

 

 ゲームでは画面越しにコマンドひとつで解決できたことが、架空の世界が現実となった今では実際に努力しなければならない予感がして、雷は今から気が遠くなる。

 

「そこらへんの情報収集も追々していかねーとな。楽しみだ」

 

 肩が落ちている旭日と違って、わからないことを既知にしていくこと期待している旭日の声はやけに明るかった。

 

 3

 

 遭遇した黒い小犬の群れを、旭日はこともなげに蹴り殺した。

 傍目には足を振っただけのようにも見えるのに、耳障りなくらいに骨を盛大に粉砕させ容易く内臓を潰し、たちまちのうちに命を奪った。

 

「武器すら使ってない……」

 

 雷は目をまるめながらその光景を見つめていた。

 巨躯から放たれる理不尽な一蹴に、雷は引き気味になる。一匹相手に手こずっていた雷とは雲泥の差だ。いや、ここまでくるともはや比べるのすらおこがましい。

 

「剣を叩き落とすのよりも楽だし、(はえ)ーだろ」

 

 歯を見せて豪快に笑う旭日に、さすが物理において最高のスペックを持つ種族だと雷は感心する。

 旭日は火力特化で紙装甲の踊り子(ダンサー)職業(クラス)と生産職の鍛治士(ブラックスミス)を取得している。旭日の選んだ竜人種族は物理攻撃と防御、体力に優れた種族だ。踊り子(ダンサー)は種族持ち前の攻撃力の長所を更に活かし、なおかつ防御力を低下させるデメリットを竜人なら補って余りあるから相性がいい。

 

「頼もしい限りだ」

 

 雷は心胆がじわじわと灼かれる羨ましさに駆られながらも、旭日の実力に感心する。彼が味方だとおもえば、非常に心強いのは確かなのだ。

 

 森の中を進んでいると、今度は毒鼠にでくわした。滑り光る頭が赤い鼠は、暴食ネズミと同じぐらいの大きさだが動きはより早い。毒鼠は雷たちの姿を認めるやいなや、数で襲いかかってくる。

 雷は固唾を呑みながら身構えた。何があってもいいように、解毒魔法が即座に使えるように心構える。

 対して旭日は抜き払った剣をたずさえて悠々と鼠を迎え撃った。今まで毒を警戒して戦いを避け続け、毒鼠とは初戦であったはずだ。しかし旭日は慣れない相手でてこずるなどという無様を見せることはいっさいなく、的確に鼠を潰していく。

 

「意外とあっけねーもんだな」

 

 撃ち漏らした一匹に体当たりをされたが、旭日は微動だにせずそれも潰した。拍子抜けした表情で旭日は得物を鞘に戻す。

 

「旭日がレベルのわりに強すぎるんじゃないか」

 

 雷は念の為に解毒魔法をかけてやる。

 

「そりゃ、職業(クラス)構成と種族と才能ガチャ、かなり時間かけてキャラクリエイトしたからな。でも、俺が強すぎるってことはねーと思うぜ。竜人の物理特化はこんなもんだろ。

 ここらの魔物が弱すぎるだけだろ」

 

 鼻にかけることなく旭日はあっけらかんといってのけた。

 

「弱すぎって……いや、まあ。旭日にとってはそうなんだろうな」

 

 ここで僻んでも仕方ない。雷はため息をのみこむ。

 

「おーおー。自分がうっかり弱いキャラ作っちまったからって俺に僻むなよ」

「僻んでない。いや、僻んでるけど、気づいてても図星指すなよこういうのはさあ!」

 

 からかってくる旭日に雷はたまらず声を張り上げた。

 その直後、背後で草木をかき分ける音がした。

 

「おっと。雷が騒ぐから魔物に気付かれて奇襲かけにきたな」

「俺のせいかよ! くそ、悪かったな! てか、楽しそうにいうな!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話 役立たず

 4

 

 茂みをかきわけあらわれたのは、見慣れた黒い毛並みの小さな犬二匹であった。旭日は「雑魚かあ」と残念そうにぼやき、難なく撃破する。

 

 旭日は、道を再び進みはじめた。彼についていきながら、雷はその背を見つめる。

 

 僻むなといわれても、僻みたくなるのは仕方ないではなかろうか? 雷は自身の負の感情を正当化させて、旭日をおもいきり羨む。雷は旭日の筋骨隆々の肉体を苦い顔でひと睨みし、右腕をぐっと直角に折り曲げた。細くやわい腕がただ曲がっただけで、雷が望む力瘤などできるわけがない。現実を直視して、雷は気落ちする。

 

 あそこまでのでかい体が欲しいとはおもわないが(いっそでかすぎて日常生活が不便そうだ)、せめて成人男性の体躯があれば、現状よりもだいぶ苦労は減っていたと断言できる。

 見知らぬ者たちに子供扱いされて誘拐される危険性もないから、今よりもずっと我が身を守りやすかろう。それに、犬との初戦であそこまで苦労しなかったはずだ。小さな体は、人間相手には舐められやすくて危険で、魔物相手にはあまりにも非力で危険だ。いいところがない。

 なにより男性としての証の喪失が悲しい。唯一無二の分身の不在が、雷の胸に冷たい風を渦巻かせる。朝も夜も静かな股座がひどく寂しい。

 

 ないものねだりをしても意味はないので、雷は諦める。諦めたくもないのに不承不承諦めて、陰鬱とした雷とは真逆の溌溂とした生気に溢れた旭日の背を追う。

 

 ゴブリンとは未だ会えず。

 先日旭日がいっていたように、いざ魔物と遭遇しようと思うとなかなか見つからないもので、犬の群れと二回、毒鼠と一回出会って以降、スライムを何匹か見つけただけだった。往路で荷物を増やしたくないが、帰路で見つけられるとも限らないので、一応捕獲して旭日は自身のもつ布袋にスライムを放り込んだ。

 魔物が強くなる森の奥に進んでいるため、体が徐々に蝕まれるように緊張するが、変化がないとその張り詰めた気持ちが緩んで退屈の感情が顔を出してくる。

 なにより、頼もしい仲間いるのがいけない。己が無警戒に気を抜いてしまうのを旭日のせいにする。

 

「今はゴブリンをよく見かける泉に向かってるんだよな。今まで出会した魔物とゴブリン以外にこの森で何かでるのか? 人里から遠いところにでかい犬とそれとは別の狼っぽいのがいるのと、一番弱いトレントが村の近くにいるのは知ってるんだけどさ」

 

 などとついうっかり呑気に口を開いてしまう。

 

 森の中でさまよっているときに犬や狼を見つけ、慌てて引き返したのは雷の記憶に新しい。

 雷の問いに、先を歩いていた旭日が軽く振り向く。

 

「村の近くにレベルが低いうちだと経験値がうまい鏡兎がいるらしいぞ。警戒心が強くて、なかなか見つからねーけど。そこは、ゲームと同じだな。

 あと、猪とか猿の魔物がいたな。猪はいいぞお。持って帰ると村から大歓待される。牡丹鍋っぽいのがうまいし、酒も出た。この酒がこれまたうまい」

 

「猪……牡丹鍋……猪肉……鍋……

 いや、持って帰ったって、まさかまるまる一頭運んだのか? 大人になってたやつを? それとも瓜坊?」

 

 鉄火鍋にぐつぐつと野菜とともに煮えた猪肉の妄想が一瞬思考をさえぎったが、聞き捨てならない発言に我に帰る。雷が知るとおりの大きさの猪ならば、人力で運搬した労力をおもうと声もでない。

 

「そこそこでかいのを、肩に担いで帰った。さして苦でもなかったな」

 

 強がりでもなく気楽に言い放つものだから、雷はあらためて旭日の頑健な肉体をねめつけた。この男、本当に頑丈で力が強く、体力がある。その筋肉の半分とはいわないが4分の1よこせとねだりたい。

 

 無駄話をしているうちに、旭日が目指していた森の中の泉についた。

 雷が遭難中に使っていた泉よりも、ひとまわり小さいものだ。最近の戦いの痕跡によって木々が薙ぎ倒されていて、周囲はかなり開けている。

 

「最初、俺が〈刻印(ルーン)魔法〉の《停止(ストップ)》を使うから、成功失敗にかかわらずそれから動いてくれないか。あと、まだ命中率が低いから外れるとおもっておいてくれたほうが間違いがない」

 

 雷は最初から自信をすっぱりと捨てて、旭日に宣言する。

 

「わかった。しっかし、清々しい顔でずいぶん情けないこというなあ」

 

 旭日は苦笑いだ。

 

「事実だからな。〈刻印(ルーン)魔法〉、はっきりいってゲームよりも使いにくくなってる。なんでこんな仕様になったものだか」

 

 ぼやきながら、雷は旭日とともに茂みの陰に身をひそめる。すぐに対応できるようスライムのはいった袋はすこし離れた場所に草木で隠しておく。あとは、ゴブリンが現れるのをじっと待つだけだ。

 何度も仲間が交戦したとおぼしき場所を、ゴブリンが警戒するという場合はないのだろうかと雷は気にしたが、そういった不穏や危険をゴブリンが感じているかというと今のところ「否」であるらしい。

 泉にくるゴブリンの数がいなくなるとか、警戒を強めてこの泉にくるゴブリンがいるとかはないそうだ。

 

 よって、闇雲に探し回るよりはここで待つのがゴブリンを見つける確率が高い、というのが経験者旭日の言だ。

 

 黙ったまま、雷は掌の中で刻印(ルーン)を描いた石をもてあそぶ。

 これを投げて、ぶじ当たってくれればいいのだが。雷は忌々しげにちいさくため息をつく。

 〈神聖魔法〉と同じように、使うと決めた意思ひとつで発生するプロセスでいいだろうに。非常にまどろっこしい。

 

 魔法を使っているのに、他の技能が必要とされるのはこのうえなく理不尽だ。

 

 しばらくじっとして、ときおり毒鼠や小犬がおとずれる程度で、目当ての不在に待ちくたびれたころやっと獣道から物音が聞こえた。

 

 雷がはっとすると、不気味な肌色をした二足歩行のゴブリンが視線の先にいた。

 

(当たってくれよ!)

 

 力一杯の願掛けをして雷は手に持った石を投げた。

 

(《停止(ストップ)》!)

 

 放物線を描きながら雷の手から放たれた石は、無様に音をたてて泉に落ちる。

 騒々しくさざなみが広がる泉にはっとした顔でゴブリンはふりかえる。あわてて周囲を探るそぶりをみせたのは一瞬、即座に招かれざる客の存在に気づく。雷たちが身をひそませた薮にむかって、猛獣が唸るような警戒を見せたのだ。

  

 5

 

「え、なんだよ今のは?」

「命中率がクソ低い《停止(ストップ)》の魔法」

 

 胡乱なようすの旭日に、真剣な顔で雷は返す。

 数打てば当たると第二投の構えをした雷は、頭上からおちてきた爆笑に出鼻をおもいきり挫かれる。

 

「あっははははっはっは! おま! 先にいえよ! 魔法なのに手動で投げるとかおもしろすぎんだろーが! 」

 

 剣も抜かずに、旭日は大笑いだ。 

 

「あぁ? 言っただろうが!? だいたい笑ってる場合かよ!」

「いや、いってねーよ! 命中率が悪くて使いにくいってしかいってねーし!」

 

 焦る雷をよそに、よほど笑いのつぼに嵌ったのか旭日はヒィヒィと引きつった呼吸をしている。

 緊張感のない大男をよそめに、吹き出すような殺意をまとったゴブリンが棍棒を持って突進してくる。雷は心臓が圧迫される恐怖に、反射的に後ずさった。

  

「いやあ、笑った笑った」

 

 声は安穏としているのに、動きを目で捉えるのが困難なくらい旭日は機敏であった。

 雷を庇うように一歩前に踏み出し、瞬時に腰に下げた剣を抜き払う。白刃が閃いたのは、文字通り瞬きの間。呼吸すらできない間隙だ。首と胴は断ち切られ、別れ落ちる。吹き上がる血潮は勢いがよすぎで逆に作り物めいていた。最後に音をたてて首のない体が倒れた。

 

 雷は、凄技を目の当たりにして冷や汗を流しながら息をつく。

 

(やっぱ、ふざけてても強いよな。いや、強くて余裕があるからこんな状況でも馬鹿いってられるのか)

 

 だが安堵したのも束の間、耳障りな警鐘じみたゴブリンの鳴き声が聞こえてくる。聞こえてくる数からして、一体や二体ではない。

 仲間を探しているのか、はたまた仲間を呼んでいるのか。どちらにしろ良い予感がしなかった。

 

「ああ。ほらみろ、旭日が騒ぐから魔物が寄ってきた」

「おっしゃ。もしかして団体さんのおでましか? 雑魚でも腕がなるな!」

 

 雷は悪い顔でさきほど揶揄られた意趣返しをするが、旭日はまったく気にとめない。むしろ楽しげだった。

 

「皮肉ったんだからちょっとは気にしろよ!」

 

 相手にされない嫌味ほど悲しいものはない。

 雷のひっしの訴えもむなしく、現れたゴブリンに向かっていった旭日に右から左に流された。

 

「せいやっ!」

 

 威勢のいい掛け声をあげて、ゴブリンを一体切り捨てる。

 

 粗野な口ぶりとは裏腹に、踊り子(ダンサー)の所持スキル〈剣舞〉の効果なのかその剣戟は舞のような華麗さがある。

 剣を手繰る指先のひとつまで計算しつくしたように繊細に。

 踏み込むつま先の足運びは本人の賑やかさを裏切るように静謐に。

 振り切った剣を返す動きにいっさいの無駄なく、優雅な円を描く。

 ゴブリンを斬っているのではなく、宙に舞い踊る剣筋の通り道に、偶然邪魔な肉壁があっただけといわんばかりの動きだった。

 

 本来、通常攻撃は攻撃力という数値のみが物理攻撃に反映されるが、〈剣舞〉スキル持ちの通常攻撃は攻撃力の半分の数値に敏捷の数値を加算したものが反映される。攻撃力が高くても敏捷が異様に低いとただの死にスキルと化すが、そのような無様を冒すキャラメイクを旭日がするわけがない。

 

(制作者の意図としては、敏捷が高くて攻撃力が低い軽戦士向けのスキルとして設定したんだろうけど。

 でも、スキル取得に制限がないなら攻撃力と敏捷のステータスどっちも高くして〈剣舞〉スキル使うよな。そのほうが強いし)

 

 旭日がもう一体斬り倒したところで、ゴブリンが次々とあらわれる。あっという間に雷たちは四体のゴブリンに囲まれていた。

 おそろしく攻撃的な声をあげ、こちらを威嚇してくる。

 体長にあわない大盾を構えたゴブリンが旭日のまえに素早く陣取る。黒く鈍く輝く四角い盾は、石製のように見えた。発達した筋肉によって重そうな盾をものともせずに持ち運び、大盾で全身をすっぽりと覆い隠す。まるで動く黒い岩だ。並の攻撃ではびくともしなさそうな威容をほこっている。下手に剣で打ち付けたら、剣のほうが叩き折れてしまいそうだ。

 

 一番大きな体をした獣皮の服を着たものが細い枝を、石っぽい胸当てをつけたものは刃こぼれが目立つ剣を、革鎧をまとったものはいびつな弓を構えている。

 

 雷とやや離れたところにいる旭日と最接近しているのが盾持ち、その後方に剣を持ったゴブリン。弓使いが左手側に。雷よりも大きなゴブリンが右手側に。

 (タンク)役に、近・遠攻撃、指揮官の四体パーティだ。見るからに手強い相手だったが、雷は冷静だった。これがひとりで出くわしたものであったなら尻尾を巻いて遁走していたが、旭日の存在が雷の心を強くした。目の前に立つは一切動揺せず、四体のゴブリンに対峙してもものともしない豪胆さを見せつけている。これで雷にびくびくと怯えろというのが無理な話だ。気分は完全に虎の威を借る狐である。

 

「ギィ! ギュガグ!」

 

 息をつく暇なく細い枝をまるで指揮棒のように振り回して大きなゴブリンが喚くと、弓使いが矢を放った。

 それは回避行動をとるまでもなく、雷の下手な投石のごとく明後日の方向に放物線を描き、木にぶつかり弾かれて地に落ちる。

 

(うーん、ノーコン。それに、わざわざ姿を見せてから矢を射る必要性はあるのか? 自信のあらわれなのかもしれんが)

 

 存在は察知しても、攻撃が来る正確な方向がわからないのは驚異である。そのメリットを捨てて弓使いはどうして姿を見せてしまったのか。それに助かっているのは事実だが、首をひねりたくなるのが正直なところだ。

 すくなくとも最初に出くわしたゴブリンはそれが成功していたかはさておき、身を潜めて不意打ちを企む知能はあった。でも、隠れていないことに気づいていないあたり、種族全体の頭の出来がうかがいしれるのかもしれない。

 

(やっぱり、馬鹿なんだな) 

 

 適当に結論づけて、雷は行動にでる。

 知性の高低はともかく、数打てば当たるとばかりに射られるてはたまらない。それに、このまま旭日に任せきりでいたら、雷は戦闘にいっさい貢献せずに終わってしまう。雷はさまざまな焦りを持って、さきほど投げ損ねた石を今度こそという意気込みをこめて弓使いに投げた。

 だが残念なことにやる気とはうらはらに、刻印(ルーン)が書かれた魔力がこめられた石は、雷の狙いとはやや外れた方向に飛んでいく。

 

 弓使いゴブリンは横を通り過ぎて行った石を眺めたあと、雷に向き直り鼻でわらった。完全に雷を馬鹿にしている。

 初手の遠距離攻撃合戦、互いの致命的な命中力な低さであまりにも無様すぎる引き分けである。

 

 全く役に立たない雷を背後に庇いながら、旭日は早々に大盾持ちのゴブリンを攻略した。旭日は目の前にある大盾の上部をおもいきり蹴りつけると、バランスを崩して盾が浮く。旭日はその浮いた一瞬を見逃さず、わずかに天に向けて傾いた盾に片足をのせて、全体重をかけるように踏みつけた。

 勢いよくというには、ゆっくりと時間をかけてどこか情けなく聞こえる断末魔と、肉と骨が潰れるくぐもった音が大盾の下から漏れ聞こえた。

 潰されたゴブリンからしてみたら、全くおもいもよらない死因に違いあるまい。生半な剣など弾く頑丈で頼りになる岩盾が簡単にひっくり返されて、それによって押しつぶされてからの圧死である。何がおこったのかなど、わからないまま死んだだろう。

 

 盾によって視界から遮られていた剣ゴブリンの姿が間抜けなくらいにあらわになり、手に持った剣を振る間もなく旭日の一撃で地に沈む。

 二射目をつがえようとしていた弓持ちに、風を切る俊敏な踏み込みで距離を詰める。

 その間も雷は獣皮の服を来た大きなゴブリンに《停止(ストップ)》の魔法を試みたが、命中率という厳然たる数値を前にあえなく敗北した。なにひとつ戦いに貢献できていない雷をよそに、旭日は弓持ちの首を造作なく掻き切った。血飛沫をあげるゴブリンに視線をやることなく、身を翻し指揮役とおぼしき大柄なゴブリンの前に躍り出る。

 

 とん、と地に足がつくわざとらしい着地音。なにかの韻でも踏むかのように、ととん、と軽快な音を立ててさらに踏み込む。

 ゆらりと剣が孤を描く。

 それと同時にぽん、と景気良くゴブリンの首が飛んだ。

 

 6

 

 旭日は解体用の短剣で、耳を剥ぎ取り、心臓の位置にあるゴブリンの魔核を手早く取り除く。二足歩行のこの魔物はシルエットが人間の姿と近いこともあり、鼠を食肉にする過程よりもおどろおどろしく見るにたえない。

 

「ゲームみたいに、魔核だけぽろっと落ちないもんかな。他の部分はふわって消えればいいのに」

 

 雷は吐き気を堪えながら旭日の作業をおっかなびっくり見守っていた。不満を口にする雷の台詞に、時折えずきそうなものが混じる。旭日は耳障りな汚い音におもいきり顔を歪めた。

 

「雷、俺はつられゲロしたくねえから、絶対に吐くなよ。見るのいやならこっち向いてねーで後ろ警戒してろ」

 

 優しさなのか、ぼうっとしてないで周囲に気を払えという諫言なのか。

(まあ、こいつのことだから表向きちょっと口が悪いだけで、ほんとは優しさだろうな) 

 と旭日の言葉に関して早々に結論づけ、雷は情けなさを抱きつつ彼の言葉にこの場は甘えることにした。安全とは言えない場所で嘔吐するすほど気分を悪くしてもいられない。

 

 村に討伐証明として提出する部位を確保し、今日の探索は終了である。これ以上の成果を得ようとここで待っていては、帰るころには日が暮れてしまう。

 

「今日だけで七体も仕留めたからな。これまでで一番の成果だ」

 

 解体を終えた旭日は機嫌がいい。

 逆に、ほぼというか完全に空気だった雷の肩は重い。足を引っ張り荷物にならなかっただけましだが、ここまでなにもできないのは予想外だった。旭日だけで事足りるのは最初からわかっていたが、それにしたって酷い結果だ。

 旭日について歩いて無駄口を叩いていただけである。

 

 せめて解体でもできればよかったのだが、解体用の短剣は一本だけであり、手伝うに手伝えなかった。最後の面倒な汚れ仕事をやってやると自信を持っていえる胆力と実力があれば旭日の代わりに解体できたが、はっきり言って雷がたどたどしく刃物を使うよりも、最初から彼ひとりに任せたほうが早い。できないことを申し出ても逆に旭日の手間をかけさせるだけだろうから、雷は今日は何もいわなかった。

 

(可及的速やかにいろんなことに慣れて、できること増やしたい。これからは、解体くらいは手伝えるようにならなきゃ。今日は課題がいろいろ見えたな。はあ)

 

 内心でため息をつく。自らのふがいなさは、己をどれだけ責めてもたりない。

 

 いざというときに〈神聖魔法〉が使えるのは雷の強みだが、旭日が強すぎてこのあたりの雑魚では怪我をしないから無用の長物なのだ。

 せめて、〈刻印(ルーン)魔法〉の《遅滞(スロウ)》や《停止(ストップ)》を高い精度で使いこなせたら、と強くおもう。

 

(《遅滞(スロウ)》のために近距離攻撃当てにいくのは、逆に旭日の邪魔になりそうだから置いておくとして、《停止(ストップ)》はちゃんと使えなきゃだめだろ)

 

 手投げのあまりにも外れの多さの抱える問題を、早々に解決したい。

 

(〈投擲〉スキルを取得したら命中率があがるか?

 いや、〈投擲〉スキルを覚えるのもいいけど、パチンコはないかな。距離や、速度も手で投げるより、断然いいだろ。その場合は、〈狙撃〉スキルになるのか……? それとも弓スキル?)

 

 村に帰ったら、スリングで遊びそうな少年たちに聞いて探してみるのがいいかもしれない。

 それと、石に刻印(ルーン)を描くときの、違和感の解決方法も見つけなければ。

 

 今後についてあれこれと考えながら帰路につく途中、毒鼠にふたたび出くわした。

 鼠なら大丈夫だろう、と最初の戦いの経験で雷も旭日も気をやや抜いていたところがあった。毒の厄介ささえなければ、小犬よりも弱い魔物だ。

 数で襲ってくるしか芸がない、だが逆にいえば数で襲いかかる猛威を高確率にふるってくる。

 

 雷があ、とおもったときには、即座に数を把握できないほどの頭を赤く照らつかせた大きな鼠が、四方八方から押し寄せてきていた。

 旭日は毒の付着をおそれて、犬よりもよほど慎重に剣を使って鼠を絶命させる。一撃一撃は目にも止まらぬ速さで確実に一振りで鼠を殺すが、内心に焦りがあるのか乱れた心情をあらわすように剣筋はやや精細を欠いていた。

 

 特に武芸者というわけでもない素人の雷にすらわかる旭日の動きの落差に、ぞっとした。息をのみこんだのか、吐いたのか、はたまた止まったのか。一瞬迷子にでもなったかのような途方にくれた感覚に、怖さに怯えるだとかどうしようと混乱するだとかよりも先に、なぜか頭が急に冷えたのは確かだった。

 

 なにかあったら、解毒のための《浄水(クリーンウォーター)》をすぐに使えるように。

 

 その一念が強く胸の中にあった。やるべきことがわかっているのだから、見苦しく慌てる必要はない。それくらいできなければ、雷がここに立つ価値も意味もない。なにより、ぼうっとしているだけの雷が動転していいほど、圧されているわけでも危機なわけでもない。それくらいの状況の把握はできている。今は鼠が面倒なくらい湧いているから、旭日でも多少手をこまねいているだけだ。

 

 旭日では捌ききれなかった毒鼠が、雷に体当たりをしてきた。飯の材料になった暴食ネズミよりも鋭く早い攻撃的な動きだが、かたわらの旭日のみのこなしに比べれば、欠伸がでる程度のものだ。

 鼠の動きは不測の事態ではなく、想定の範囲内。雷は一瞬のうちに反撃するか回避するかをしっかりと判断し、反撃を選んだ。ここで逃げ回るよりも、魔物の一匹くらいは倒したいという意地が雷の中にあった。

 

 真正面から蹴りをいれる。肉食用の鼠よりもよほど固い感触で、致命傷となる一撃を与えた手応えがない。わずかに距離が離れる程度に後ろに飛んだだけで、衝撃によろめいてもすぐに体勢をととのえ立ち向かってくる。雷は冷静に対面する。一回の攻撃で駄目なら、もう一回攻撃すればいい。

 

 二回のレベルアップのおかげか、この毒鼠の動きなら翻弄されずに立ち回れる自信があった。

 

 飛びかかってきた赤い頭の鼠の鼻面を潰すように爪先をのめりこませると、何かが潰れる感触が返ってきた。同時に赤い毒の粘膜が、血潮を吹きあげるように飛散する。赤い飛沫は、血液よりも生臭い強烈な臭気をまとって迫ってくる。血が一気に冷えるような危機感が全身を突いた。脇に避けよう、と考える間もなく反射的に足に力がはいる。

 しかし、雷がよけてそれを旭日がくらったらどうする? 旭日は毒に十分に気を払い、鼠を仕留めていた。それができずに軽率に攻撃した雷のせいで、旭日がこのよくないものを浴びたらと考えると、雷の足は動けなくなった。

 

(それはだめだし、いやだ)

 

 迷っていたら、雷は赤い粘液に体を濡らしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七話 毒をくらわば〈毒耐性〉

 7

 

 赤い粘液はおどろくほど早く揮発して、雷の全身を包んだ。むせ返るような生臭さが鼻をつくのと同時に、四肢から力がぬけていく。毒の噴霧が気道にはいるや否や、触れた場所から粘膜が灼けていくようだった。ゆっくりと内側が焼かれていくような熱さは発熱に似て非なるもので、二日酔い確実の性質(たち)の悪い酩酊に近いようにおもえた。

 まったく動けなくなるものではない。支えもなく、自力で立っていることができる。猛烈な気分の悪さに上手く頭が働かないが、スタミナが底を尽きそうな疲労困憊状態よりかは、体に無理がききそうなので幾分かはましだった。かといって好き好んで耐えたいものではない。

 

(《浄水(クリーンウォーター)》!)

 

 雷はあわてて自身に解毒魔法をほどこす。

 実体のない水に不快なものを洗い落とされる感覚があった。ゆっくりとせせらぎのような水が全身を流れて、何処かにおちていく。

 体を蝕んでいた熱が急速に散り、靄がかかったような曖昧な思考回路が晴れる。

 ほんのわずかな間に、ぎょっとするくらいの脂汗をかいていた。全身には未だ倦怠感が残っていて、手で汗をぬぐうだけなのに、体がやや重く些細な動作が億劫だ。

 

「きっもちわる。ゲームのキャラはよくもまあこんな状態で動けるもんだよ」

 

 命を削りながら動かないと死ぬような状況だからか。だからあんなにも動き回れるか。雷は架空の存在にふかく敬意を抱く。作り物だからといってしまえばそれまでだし、むだな尊敬かもしれないが。

 

「大丈夫か雷? まさか毒喰らったのかよ」

 

 ほとんどの鼠を蹴散らし終えた旭日が、雷を案じてくる。

 

「すぐに魔法で解毒したから平気だ。酒飲みすぎた感じに似てて、めちゃくちゃ気持ち悪かったけどな。

 旭日は大丈夫か?」

 

 雷はおえ、とわざとらしく吐くふりをしておどけてから尋ねる。

 毒を撒き散らした鼠は、雷の蹴りで絶命していた。レベルアップと料理で攻撃力が上がったとはいえたかだか子供の蹴りの二発で死ぬのだから、ほんとうに犬よりも弱い。だが、あの不調にみまわれた状態で何匹にも襲いかかられたら、まさに袋のネズミだ。回復魔法を使う暇すらなく、逃げることすらできず袋叩きにあう。

 予想していたとおり、耐久力がいくら低かろうと犬よりも怖い。

 対峙する際、低レベルの今の自分たちはことさら慎重にならなければならない厄介な魔物だ。それをつくづくおもい知らされた。

 

「俺は毒攻撃されてないから問題ない。

 しかし毒喰らうとそんな感じになるんだな、悪酔いかよ」

 

 雷の問いかけに答えながら、旭日はあっさりと最後の鼠を斬り殺していた。

 

「うん、アルコール度数強い酒飲んで酔っ払うのを、凶悪にした感じだった。機会があったら旭日も毒くらってみろよ。命の危機とまではいかない、ただひらすら最悪な気分の悪さを味わえるから」

「いや、んな機会いらねーよ。それにふつうに命の危機だろ。鼠の毒くらったらHP減ってただろ」

「ここにはHPなんて項目ないし、大丈夫大丈夫」

 

 雷はからかうように笑ってみせた。

 

「全然大丈夫じゃねーよ。てか、冗談でも仲間を毒状態にさせようとすんなよな」

 

 旭日は軽くご立腹だ。

 

「ともかく、回復ちゃんとしとけよ。目に見えてわかる数値がねーから、はっきりと把握できないだけで、もしかしたら体に異常が残ってるかもしれないだろ」

「それもそうだな。解毒はしたけど、《小回復(スモールヒール)》もしとかないとな」

 

 念には念をいれるべきだろう。雷は回復魔法で自身を癒す。そうすると、体の怠さがましになった。

 数値で示されることのない目減りした生命力が、癒されたのだろうか。スタミナポイントが大幅に減ってから体力が徐々に回復していくのとはまた別の感覚だった。

 

 大事をとって少しだけ休憩をいれ、それから村へ向かう。毒鼠との一戦以降、魔物と出会うことなく無事に村に辿りついた。

 

 8

 

 村長の家に今日の成果を報告するさい、顔を合わせたマリィシアが口を開くなり「なんか、臭いわね。変に嫌な臭いがする」と暴言を吐いてきた。毒鼠の赤い飛沫は血液とは違うのか、服にほとんど残らず汚れにならなかったが、臭いがこびりついて残っていたらしい。

 雷は率直な罵倒に少し泣きたくなった。それが事実であるだけに、端的な言葉が余計に胸を抉る。雷も自身の体からただよって鼻をかすめる臭いに辟易していたのだ。

 

「ちょっときなさい」

 

 顔をおもいきり顰めた少女にぐいぐいと手を引かれ、理由がわからないのとは別に、その強引さに内心嫌だなと辟易しつつ雷は従った。

 

 村長の家は大きく、個別に部屋がある。寝室らしきその部屋に通されると、マリィシアは衣装棚を漁り服を取り出し、雷に渡してきた。

 

「これ着なさいよ、あげるわ。私が昔着てた服よ」

 

 長く使われて色褪せているが、大事に着古されていたことが伝わる子供服だった。継ぎ目のない地味な色合いのシャツとズボンの上下と、渋い暗色のポンチョのような上着だ。

 パステルカラーのいかにも女の子っぽい色ではないことは正直助かるが、マリィシアのような女の子が好んで着る色合いともおもえない。

 

「あ、ありがとう」

 

 昨日の朝あった子供たちも、雷と似たりよったりな服装だった。小綺麗な格好をしている子供は、今のところマリィシアしか見ていない。

 この村では継ぎ接ぎのボロ服でも金銭的価値が発生するのだから、古着とはいえ綺麗な状態の服は高価なものだと雷は察した。

 

「服の替えがないんでしょ? あたしにしっかり感謝しなさいよ、イカズチ」

 

 わざとらしく意気高にふるまうも、マリィシアはすぐに肩をすくめた。

 

「ま、アサヒがいつも働いてくれているお礼でもあるんだけどね。母さんも、アサヒの働きぶりには感謝してるって言ってたわ。ゴブリンを毎日着実に倒してくれるから、安心して暮らせるって」

 

 アサヒへの謝礼の気持ちを雷への物品として渡されるのは彼に引き目を感じるが、着替えは欲しいとおもっていたので遠慮せずにいただくことにした。

 

「正直、助かる。本当にありがとう」

「それ着て、今着ている服はしっかり洗って干しておきなさい」

「そうする。でも、それとは別に旭日にもさっきの言葉を言ってほしいな。あいつ、絶対喜ぶから」

「言ってもいいけど。……言ったあとの喜びかたがなんかその辺のおじさんくさくて、なんかヤなのよね」

 

 いいぶりからすると、一度感謝を告げたことがあるのだろう。

 しみじみとした言い方に多少の照れ隠しが混ざりつつも、うんざりした表情に嘘はなかった。雷はその様子にうっかり吹き出してしまう。

 

「なんだそれ」

「あの人、顔はこう……とっつきにくくて怖そうだけど、それでも年をとってても見た目が格好いいのに、中身が大分がさつさで外見を裏切ってるし、せっかくの格好よさをかなり損なってるわ。そのぶん、見た目の割りにかなり話しやすくて、人当たりがいいのは確かなんだけど。でも、やっぱりあの怖いくらいに整った顔をしておきながら、どこにでもいるおじさんみたいにしてると、もったいないなっておもうわ。

 アサヒって、黙ってれば、物語にでも出てきそうな威厳のあるおじいさんよね。黙ってれば」

 

 黙ってればと強調して、二度言った。

 

「イカズチも、そういうところはアサヒに似てるわ。よく見れば綺麗なのに、滲み出る性格のせいで髪が長いのに男の子に見えるときがある」

 

 男の子のようだといわれ、雷はほっとする。マリィシアとしたは褒めているつもりなど欠片もないだろうが、雷からしてみればどんな美辞麗句よりもうれしい。

 

「髪を切ったら、もっとちゃんと男に見えるようになるかな」

 

 雷は弾んだ声でマリィシアにたずねた。

 

「それは……そうね。見えるとおもうけど、髪を切ってしまうの? もったいないわね。黒い髪ってとても綺麗じゃない。あなたの髪、光があたると緑色の艶が輝いて神秘的にも見えるのよ。やめたほうがいいわ、絶対にやめたほうがいい。せっかくの綺麗な髪なのよ」

 

 雷のおもいつきは、マリィシアは賛同しかねるらしい。

 言葉を重ねて説得してくるが、雷はそれに首を横に振った。

 

「女の子っておもわれるだけで、危ないことが世の中にいろいろあるんだ。

 マリィシアも気をつけろ」

 

 雷が情感をたっぷりこめてしみじみと言うと、いろいろと察したのか雷の断髪をおもいとどまらせるのをやめた。

 上から下までとっくりと眺めると、マリィシアはなにかに納得してあきらめたようにため息をついた。

 

「まあ、そうね。自衛は必要よね……たしかに、切ったほうがいいかもしれないわ。その顔で、この人目を引く黒髪だものね。うん、もったいないけれど、それが正解かもしれないわ。

 それでも、切るのはちょっと待ったほうがいいわよ。せっかくなら、街で鬘屋に売るべきよ。お金になるわ。雷の黒髪は珍しいし、高く売れるんじゃないかしら」

 

「へえ、鬘屋」

 

 古典小説でも時折見かけた気がする。この世界にも、髪の売買はあるらしい。自力で金を稼ぐ手段など今の雷にはないから、いらないものが金になるのは助かる。

 

 着替えてから部屋を出ると、旭日は女村長から金を受け取っているところだった。

 

「どう。似合うでしょ。」

 

 自分のことのように得意げなマリィシアが、旭日と彼女の母親に貫頭衣姿の雷を披露する。

 

(髪が黒いから、この色味の服の組み合わせだと暗くて陰気そうなやつに見えないか)

 

 顔がいくら小綺麗に整っていても、内面というのは表情に出る。

 鏡がないから水面に映る顔立ちを確認したが、暗色系の色合いの服だと雷がつい浮かべてしまう気難しげな表情な表情と相まって、陰険さが増して見えたりしないだろうか。この服装が似合っているということは、なんだか余計に自身の根暗な性格が浮き彫りにされそうである。

 

 雷は訝しみ、旭日の眼差しから似たような感想を読み取ったが、

 

「おう、似合う似合う。見間違えた」

 

 彼は空気を読んで、雷の新しい衣装を手放しに褒めた。

 女性の意見を否定すると、あとが面倒になるので賢明な判断である。

 

 その後夕飯に誘われ、女村長と、その舅と姑、そしてマリィシアの四人家族の食卓のご相伴にあずかった。

 美味い飯に舌鼓をうてたのは最初だけで、老夫妻からは余所者を忌み嫌う棘のような嫌味をねちねちと刺されて途中から味を感じなくなった。余所者としては荒波たてるわけにもいかず、押し黙って聞き流す二人にかわり村長とマリィシアが親娘が倍にし言い返し、それに逆上した老夫妻の攻撃の矛先が親娘二人に向かうも言葉の暴虐に叩き返される。

 

 短い時間で四人の家族関係がわかる居心地の悪い食事だった。

 

 やれ「男を産めない役立たずの女腹だ」だとか「真面目な息子をたぶらかした毒婦」だの「村長面して偉ぶっている恥知らず」だとか、余所者である雷たちに聞かれているというのに外聞や体裁も考えずに悪様に罵る。

 こんな品性のない罵倒を身内にぶつけていた、と雷たちが言いふらす懸念を考えないのだろか。

 あるいは彼らは、雷たちのことを置物にしかおもっていないのかもしれない。口がないから、都合の悪いことを外では漏らさないなどと軽く見積もっている。ただただ一方的に自分たちが気分良く叩ける置物で、反撃されることなど露とも考えもしないのだろう。そんなふうに軽んじられるのは甚だ不快だった。

 

 雷自身のことは、まだ許せる。雷が役に立たない木偶の棒で愚図なのは悲しいかな今日の失態で確定的な事実だ。こんな自分が他の誰かから吹けば飛ぶような扱いをされるのはまあ仕方がない、と耐えられる。

 

 だが、旭日の存在がこんな下劣な口ぶりのやつらから下に見られているのは耐え難く、屈辱だ。

 

 それに自分たちに良くしてくれている女性たちが悪様に罵られるのは、気分がよくない。

 

 雷が苛立ちのまま考えなしに口を開く前に、気が強い女性陣が立板に水とばかりに叩きのめしていなければ、後先考えずに村の権力者一族に相当酷い言葉をぶつけていただろう。

 

 村長はゴミを見下し蔑む目で「その役立たず以下の能無しがなにをいっているのやら」とぴしゃりと痛烈に罵っていた。

 

「貴方たちがそうやって性格悪く嫁をいびるのが目に見えてわかっていたから、あの人は私を選ぶしかなかった。私にもあの人にも他に結ばれたいひとはいたけれど、村の今後を考えるとこうするのが一番だった」

 感情なく淡々とつげる様は、いっそ凄みがあった。不利益を覚悟して結婚を決断した女性の強さというものがふつふつと静かな威圧から感じ取れる。

 

「私が村長をしていることに文句があるのなら、村のまとめ役として私を後継者として指名した領主様にいいなさい」

 

「いい加減やめてくれない、おじいちゃん、おばあちゃん。だいたい、領主様からも全然信用されてなくて、一代飛ばされてひいおじいちゃんからお父さんに村長になってるんだから、なにを言っても黒爪犬の唸り声よ」

 

 負け犬の遠吠えと同じニュアンスの異世界の慣用句をつかって実に楽しげにマリィシアは二人に嫌味を言う。

 

 会話の一部のやりとりを切り取っただけでもこの有様で、始終こういった冷や冷やする舌戦を繰り返していたから雷たちは空気に徹する他なかった。

 雷や旭日がよく世話になっている女性たちが、家で一方的に嬲られいびられて泣きを見ているわけではないのは幸いかもしれない。針の筵に座らされるようなことさら居心地の悪い時間の中で、そんなほんのわずかな救いをみつけ、どこか見当違いのなぐさめとすることでなんとかやりすごした。

 

 9

 

 口の中にかきこんで腹におさめるだけの妙に疲れる食事を終え、二人は家路についた。

 マリィシアが見えなくなってから旭日がぼそりと告げた。

 

「その服、いかにもファンタジー世界の住人っぽくて似合ってるっちゃ似合ってるんだが、雷の陰気さが一割増しに見えるな」

「それな」

 

 雷は怒るでもなく、むしろ力強く同意した。

 

 聞いているほうの気が重くなる赤裸々な身内同士の会話は、とにかく聞かなかったことにした。

 小屋についたあとは夕飯時のことは何事もなかったようにまったく触れず、せっせと一日の汚れをおとした。

 体がさっぱりとすると気持ちがいい。

 洗濯も終え、とりあえず今夜のうちにやるべきことを終えた雷は、藁の寝床に体を横たえ大の字になった。

 

「ベッドで寝れるって幸せだ……」

 

 胸の中ではおさまりきれない幸せが、自然とうっとりとした声となってこぼれおちる。

 深く噛み締める雷の声に、旭日は吹き出した。

 

「何笑ってんだよ。失礼なやつだな」

 

 余人の耳目があることも忘れてすこし気を抜きすぎた自身の非を棚に上げ、雷はつい旭日を責めてしまった。

 

「悪い悪い」

 

 旭日は軽い調子で平謝りをした。雷も本気で怒っているわけではないので、真剣味のない謝罪をあっさりとうけいれる。

 

「まあ、いいけどな。そもそもこうやってベッドで寝れてるのは、旭日のおかげだし」

 

 一日森を歩いた疲労感ごと寝台に身を投げ出していると、会話していてもうとうとと眠くなってくる。雷は重く閉じそうになる瞼を気怠げに押し上げ、緩慢に体を起こした。どうやら雷の意思とは裏腹に、四肢はすっかりと眠る準備にはいっていたようで、眠気に逆らい指先ひとつ動かすのすら、かなり億劫だった。

 

「今日は疲れただろ」

 

 旭日は労りのこもったやわい声で雷に問う。 

 

「……それなりにな。

 でも、森の中でひとりで歩いていたときより、だいぶましだからたいしたことないな。

 あの時はどこまで歩けばいいのか、いつまで歩けばいいのか、なにをすればいいのか、どうすれば自分が助かるのか全然わからないからしんどかった。

 それに比べれば、帰れる場所があって、目的地とやるべきことはっきりしてるのは、楽だ」

 

 言葉にすると、過去の絶望と寂寥が身を食い破っていくような閉塞感が胸中にぶりかえした。

 自分の命がいっとう大事で、死にたくない一心で我が身を守ってきた。まずいものを吐き気をこらえて食べ切って、必死に乏しい知恵を絞って魔物と相対する(すべ)を考え戦ってなんとか生き残った。自分の位置の把握のために歩き回りながら試行錯誤して痕跡を残し、ひととして生きていける場所を懸命に探し回った。

 これからどうなってしまうんだというしくしくと精神を蝕み腐食させていく怖さと、だれにたいしてぶつければいいのかわからない理不尽への怒り、どうしてこんなことにという答えが返ってこない疑問、そんなものをひとりきりで抱えて、耐えて耐えて、ときにいろんなものを諦め、見ないふりをして、がむしゃらに進んだ。

 

 そんな自分に、よくやったと自分だけが褒めてやれる。誇らしいといってやれる。今、雷が生きのびているのは、過去の自分のがんばりがあるからなのだ。

 

 そしてその決死の努力が報われたのは、旭日がいてくれたからだ。あの日、旭日に出会わなければ、全てが愚か者の努力としてうたかたの水の泡にでもなっていたに違いない。

 

「だから」

 

 おもわず湿っぽい声が混じりそうになって、雷はぐ、とこみあげてくるものを一旦飲み込んだ。

 

「旭日には感謝してる。あの時よりはるかにましな環境にいられるのは旭日のおかげだ」

 

 できるだけさっぱりとした声音で、雷は告げる。しかし、一度は飲み込めたものがまた喉を突き上げて競り上がってきた。どんどんとこの語調はしどろもどろになっていく。

 

「それで、だ。感謝してるお前に対してちょっとは役には立ちたかったんだけど、全然なにもできなかったから……その、なんというかごめん」

 

 細い足を窮屈なくらいに折り曲げて、腕の中で膝を抱えて額をおしつけた。

 

「今日、俺は後ろにただ突っ立ってるだけで何もしていない」

 

 悔し涙がまじる声はちゃんとごまかせただろうか。

 

 暖かい飯を食べて、体を洗い、綺麗な服を着れる。闇雲にさまよっていたときに望んでいたことが叶った。直接的な命の危機から守ってくれた。すべてを投げ出そうしていた自暴自棄な自分を、生きている側に引き止めてくれた。なによりひとりきりの孤独から掬い上げてくれた。そうやって欲しいものを手に入れることができたのだから、恩返しくらいはしたかったのだ。それなのになにもできない自分が情けなかった。

 

「適材適所だろ、後衛に前に出てこられたほうが困るし、気にすんなよ」

 

 ちいさく苦笑する気配があって、それから旭日は雷になぐさめの言葉をかけた。

 

 彼の鷹揚さには雷は絶句する心地になる。

 旭日のことだからその場を穏当に切り抜ける嘘などではないのだろう。見返りを求めないやさしさが雷の繊細な部分を慰撫した。たまらず人目も憚らず泣きたくなるような切なさが胸に迫ってきて、雷は思わず首をふった。

 

「聖人かよ」

 

 平素とかわらぬ声を絞りだせたおもう。

 雷はわざとらしく軽い口調で続ける。

 

「俺だったら、嫌味のひとつくらい投げている」

 

 なんてことないようにふるまうことができた。冗談じみた軽口を叩くことで、露呈させてしまった泣き言をすこしは薄れさせられただろうか。

 

(本音を無理矢理飲み込ませて、許してやらなきゃいけないようなことはさせたくないんだ。

 俺のことに腹が立つなら、そう言っていいし、俺は言ってほしい。

 一方的に俺が利を得て救われて、旭日が損をしたり苛立ったりするのは、違うだろう)

 

「俺と雷とじゃ、ひととしてのできが違うからな」

 

 雷がとりつくろった軽口に、旭日はいつもと変わらぬ様子で応じた。

 

 それは本音なのかと問いただしたいような。不満があるならいってくれと詰りたいような。身勝手な不安が湧くが、食い下がるのは旭日に鬱陶しがられるだけかもしれないと雷はわだかまるものを嚥下する。

 

「違いない」

 

 小さく笑って(それが成功していたかは雷は自信がない)雷は同意した。

 

「いいたいことは言ったから、寝る。おやすみ」

 

 そっけなく告げて、雷は旭日のほうに目を向けないまま、毛布の中にくるまった。獣のようにぐるりと身を丸めて、ぎゅっと目をつぶる。

 

「ああ、おやすみ」

 

 森の中で、やけに明朗闊達に戦闘を楽しんでいた旭日とは打って変わって優しい声だった。

 それが、今の雷には少しだけ辛い。

 

 さきほどたった一瞬で眠りおちそうになったのだから、すぐに寝落ちるかとおもったが、胸苦しさが渦巻いて落ち着かず、結局あれこれと考えてしまう。

 

(体が子供になったからって、中身がいい大人の俺がなんにもできないってのは、悔しいな)

 

 なけなしの矜持がいちじるしく傷ついた。

 

(ほんとうに、まったく……くそ)

 

 自身を責める悪態ばかりが頭の中を巡って苛々する。

 

 義務感とか責任感だとかが、雷の中にあった。

 旭日に負担をかけ世話になる以上、最低限の仕事して何かしらの形で返すべきだという意識。それは保身にもつながっていて、彼に倦厭されて追いやられないようにするための処世術めいたものでもあった。

 

 そうでなければならない、今よりも低い場所に落ちないためにそうしなけらばならない、と自らに課したものが果たされないのは、雷の中に常に横たわる劣等感を異様に刺激する。目を閉じても、耳を塞いでも、自らの内側にいる負の塊からは、雷は逃げられない。

 

 本当に、自分はどうしようもないやつだと、毒づいた。

 

(どうしようもないやつなりに、頑張るしかないな。俺は、こうやつで、今更そうそう変われない。うん、俺はこういうやつなんだ。でも、旭日は優しいし、よっぽどの失態でも犯さないかぎり俺を見捨てたりしないだろう。俺だって、本当にろくでもないやつであるけど、そこまでの失敗をするほど、馬鹿じゃないはずだ)

 

 雷は深いところで泥の渦をまくような黒い感情を意識して切り替えて、建設的に今後のことを考えることにした。

 

 今日の一番の問題は、まず毒状態になったことだろう。

 毒にならないように立ち回るのが一番だが、もしなってしまったときのことを考える。

 

(めちゃくちゃ気持ち悪くて、周りのことも見れなかった。

 今回はなんともなかったけど、次似たような状況になったときに、俺が毒で動けないせいで、回復すべきやつに魔法をかけられないとなったらお話にならない。

 回復魔法しかまともにできないやつが、毒になってたからってそれをできないような状況になるのは問題だな)

 

 じゃあ、どうする? と雷は自身に問う。

 

 自分にできることをする。自分がすべきことをできる状態に保っておく。そうするためには?

 今回は毒の状態異常が問題であった。同じ過ちを繰り返さないためにはどうすればいい?

 

(〈毒耐性〉のスキルがあったよな。毒攻撃を全部くらわないようにするのが無理なら、最初から毒に強い体があればいいのか?)

 

 雷はぱっとひらめいた。

 ゲームでは毒状態に陥っていた時間の合計が一定をこすと、〈毒耐性〉のスキルを取得することができた。

 

(毒鼠の攻撃をわざと喰らうか……でも、なあ)

 

 毒鼠と戦うということは、旭日も一緒にいるということで、今日のような大群でもこないかぎり毒鼠など雷に近寄る間もなく倒してしまうだろう。不測の事態に陥ったときの、保険のようなスキルを入手するのは無理な気がした。

 

(毒消し草、そのまま食べると毒があったよな‥…

 あれ食べ続けたら、毒耐性がつくかな?)

 

 雷はおもいついて、ついで嫌なものを堪える顔になる。

 それでも、すぐに覚悟を決めた表情に変えた。

 

 毒状態の苦しみと、毒に侵され命が脅かされる恐怖、何もできない悔しさと無力感、同じようなことになった際に雷自身の無能のせいで今度こそ取り返しのつかないことになったらという不安感。

 それらを全て秤にかけた雷は、迷わなかった。

 

 自らの忍耐と我慢と努力でどうにかできるものならば一応試すだけ試してみたほうがいい。

 それが今後、自分が旭日と共に行動するうえで、必要なこころがけなのだと雷はつよくおもった。自分にとってだけ都合のいい楽なほうにだけ流されるなんて、あってはならない。 

 

(明日から、毒、食べよう)

 

 長期戦になっても、いざというときに必要とされるかもしれないものならば、手に入れるための気概を捨ててはならない。たとえ結果として実らなくても、その心がけだけは愚かで無能な自分をほんのすこしだけいいほうに変えてくれる、誇りになってくれるはずだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

自称美少女、他称も美少女
第十八話 村のきょうだいたち


 1

 

 旭日がゴブリン討伐の対価として受け取っているのは、無料の家の貸し出しと、食事。そしてゴブリン一体につき5ゴールドという報酬である。そして最終的には、村の代表人からの身分の保証を受けることになっている。スライムは5匹で1ゴールドで取引される。毒鼠や小犬に関しては、報酬は発生しない。

 

 これが、外部から戦闘の専門職を雇うとなると、だいたいゴブリン一体につき15ゴールドの報酬を用意しなければならないらしい。そのうちの5ゴールドは仲介している組織にいき、10ゴールドは直接討伐した者のものとなる。

 森の広範囲を見て周り獣を狩猟する狩人が、いつもよりも村に近い距離でゴブリンを見る異常に勘づいたら、外部の者に頼みどきだ。村の近くで木を伐採する木こりたちがゴブリンを目にするようになってからだと、遅いらしい。

 パーティーを組んでいる者たちに何日か滞在してもらい、短期決戦をかけて数を減らす。

 

 さて、その外部に依頼する戦闘職についてに関してである。

 

 ひとつは傭兵。現実世界にも太古からある職種だ。だが、この職種は人間同士の戦い専門なところがあり、魔物退治を依頼することはまずない。

 次に、狩猟士(ハンター)。ゲームでは主人公がこの仕事についていたため、耳に馴染みがある単語だ。魔物を討伐することを生業とし、金を稼ぐ。

 プレイヤー操る主人公は、狩猟士(ハンター)として狩猟士の酒場(ハンターズ・パブ)と呼ばれる酒場に出入りし、依頼を請けてゲームを進めていた。

 仲間との出会いの場でもあり、自分の好みやプレイスタイル、シナリオ進行の必要に応じて、各地にある酒場に待機しているNPCと入れ替えながら物語を進める。

 

 もうひとつは、冒険者。サブカルチャーの書籍などではよく目にするが、『精霊の贈り物』にはいなかった。

 

 これとは別に、民間だけではどうにもできなくなった場合、領地の兵士を頼る。この場合は村ではなく領主の負担として兵を出すが、かなりの危機的状況の大事でもないかぎり兵を送ってもらうことはないとのこと。

 

「冒険者なあ。民間の魔物を倒して金を稼ぐ仕事は、狩猟士(ハンター)だけじゃないんだな」

 

 村長が運んできてくれた飯を食べながら、雷は旭日から報酬についてはじまり冒険者と狩猟士(ハンター)に関しての話を聞いていた。

 

「ほとんど犯罪者崩れの魔物討伐専門の狩猟士(ハンター)と、魔物討伐にはじまり護衛から薬草の採取依頼、街の雑用まで何でも屋のそこそこお行儀のいい冒険者とわりと棲み分けているらしい」

 

 さきんじて人里についていた旭日は、雷よりも物を知っている。この世界の常識にまだまだ疎い雷は相槌を打ちながら聞いた。

 

「村に呼んで、滞在してもらって魔物を倒す場合は冒険者に頼むのが普通だそうだ。女の子をからかったりするような性質(たち)が悪いのはそれなりにいるが、組合のほうでがちがちに規律で縛られているから、失点とか制裁を恐れて取り返しのつかないようはハメを外すやつはいないんだと。

 狩猟士(ハンター)はそういう組織内部の規制がないみたいでな」

 

「冒険者には組合(ギルド)があって、狩猟士(ハンター)にはないんだっけか。

 社会的信用度は正社員と日雇いのフリーターくらいの違いがあるのかな?」

 

「話聞く限り、冒険者の上澄はともかく、派遣とフリーターくらいじゃねえか。村の人たちからしてみればどっちもどっちで、比較的冒険者のほうがまだまし、くらいの認識だったぞ」

 

「ふうん。名前は違おうと根っこはどっちも荒くれ者、みたいな見方なのかな。

 でも冒険者、いいよな。

 冒険者組合に登録すると、組合員として身分証がもらえるんだろ? 冒険者の身分証があれば、検問がある場所を通るのが楽になるなら、コハンを目指す俺たちにはうってつけだろ」

 

 狩猟士(ハンター)だと、そういう利点はないのだ。

 

「そうだな。組合が責任をもって為人を保証してくれるんだからありがたいもんだ。

 こういった小さい村が発行してくれる手形は、近くの街じゃあねえとあまり意味がない。けど、冒険者組合は大陸中にある組合の支部やら本部やらが組合員の後ろ盾になれってくれるから、どこに行っても通用する。あちこち移動したい俺たちにとっては、都合がいい」

 

 身分証明がないと、街の移動にかかる税が多くかかり、また調べるために時間もかかる。国家間の移動の際には査問が厳しくなる。あるいは出国できない可能性もあるそうだ。そういった金銭的な不利益や、煩雑な手続きを軽減できるのだから、冒険者を目指すのが断然いいのは自明の理だ。

 

「それじゃあ、この村を出たら、冒険者組合に登録するわけか」

「ここから大陸の中央までスムーズに旅するのなら、それが一番だからな。路銀も稼がないといけねーし。冒険者組合なら、金も稼げる。根無草から一応身分がある身に保証してもらえるわけだからな、一石二鳥だよ」

 

「でも、俺は見た目からして、登録を断られるな」

 

 雷は嘆息した。自ら危険に首を突っ込みたいわけではないが、身分証はほしい。

 

「だろうな。そこは諦めとけ」

 

 登録には必要年齢があるらしく、人間ならば十五歳から。人間の倍の年数をいきるドワーフは二十五歳から。

 一歳年を経るのに、人間よりもおおよそ十倍の月日をかけるエルフは六十歳前後から。

 

 個人差によるが、長寿種族だろうと人間だろうと、大陸の人間種というのは胎児からはじまり物心がつく五、六歳くらいまでは、同じくらいの速度で成長するらしい。

 

 エルフの六十歳は人間を基準に考えると姿形は十歳くらいの子供に見える。しかし下手をすると人間が生まれて寿命で死ぬまでの長い年月を余裕で生きているので、幼い見た目を裏切り大人顔負けに鍛えられている場合もあるのだ。

 傍目には華奢で繊細な細っそりとした肉体も人間に比べると実は頑健で、種族の特徴で魔力が高い者が多く優れた魔法を使う。そのため子供のエルフが冒険者登録をしても、一応問題ないという判断のようだ。

 

「実年齢は二十三だっていうのに、子供にしか見えないのがなあ。

 ティタン神族で、一応長命な種族だから、エルフと同じように見た目が子供でも大人扱いされてもよくないか?」

「神族と同じくらい成長速度の種族が、四十歳から登録可能っていうんだから、ルールからしてあと十三年は無理だろ」

 

 ちなみに、神族と呼ばれるものたちは人間の五倍の寿命があるとされる。竜人も五倍であり、獣人は人間よりやや長い程度でほとんど変わらない。花人という種族は花が咲いて散るがごとく短命で、三十歳くらいまでしか生きられない。

 

 2

 

 今日は森に向かう旭日を見送り、個人行動だ。

 昨日のことで、ついていったところで今の雷では役に立たないとはっきりした。すこしでも個人技能を洗練させてからではないと、昨日と同じことの繰り返しだ。旭日がそんな雷の体たらくを許しても、雷自身が許せない。

 

 役に立てる手立てを得るまで、これからひとりで動くつもりだ。

 

 まずは、目当てのスリングがあるかの確認をしたい。

 大人の男たちに話しかけるのはどうしてもいやで、当初の予定通りそういった玩具で遊びそうな年頃の少年たちを探した。朝の女性たちは忙しそうで、雷は話しかけるちょうどいいタイミングをはかれず見送った。折よくちょうどいい対象を見かけられなかったら、最後の頼みの綱はマリィシアである。

 

 村の中をふらふらとしてると、暴食ネズミを捕まえるときに一緒にいた少年を見つけた。しきりに遊びにいきたがっていたやんちゃで生意気そうな子である。弟妹とおぼしき雷よりも小さな男の子と女の子を連れていた。

 

「よ、これから家の手伝いか?」

 

 雷は村での数少ない顔見知りに声をかける。

 少年は背中に籠を背負い、二人の弟妹とともに村の外にある畑を目指しているところだった。

 

「よう。

 そうなんだよ。昨日家のスライムを使いきっちゃったからさ。こいつらの面倒みながら探しに行かなきゃならないんだよ。ひとりならいいんだけどさあ、見ての通りこいつらまでいるからあんまり柵から離れられないんだ」

 

 森の中にはいったほうが、スライムが早く見つかるのに。と、そんなふうに少年はぶつくさ不平を垂れ流していた。

 

「森の中にひとりではいれるのか。でも、危なくないか? 毒鼠とか、黒い犬とか」

 

赤頭鼠(レッドマウス)黒爪犬(ミニエッジドッグ)のことを言ってるなら大丈夫だよ。さすがにそいつらが出る奥のほうまではいかないし」

 

 いらぬ心配であったらしい。少年に言われ、スライムを集めるために森の浅いところを巡っていたときに、それらの魔物と出くわさなかったのをおもいだした。

 

「ヘスにい、このひとだぁれ?」

 

 女の子が少年の服の裾を引いて、雷を見上げてくる。

 

「まえ、教えただろ。蜜猪(シロップボア)を狩ってきたでかいじいさんがいるじゃないか。そいつが後から連れてやつだよ」

「雷だ」

 

 旭日が下の名前を名乗りたくないあまり苗字しか名乗っていないので、雷もそれに倣うことにしている。このあたりの平民には苗字がないらしく、上の名前ひとつだけしか名乗らなくても、おかしくおもわれることはない。

 

「きれえなおねえちゃん」

 

 と、目を輝かせて見つめてくるのは男の子。見た目で判断しないでほしい。悪気がないとはいえ苛っとするのだ。

 

「なんか性格わるそぉ」

 

 と、胡散臭そうな目を向けてくるのは女の子。ひとめで雷の本質を見抜かないでほしい。幼いのに見る目がありすぎて恐ろしさを感じてしまう。

 

 初対面でこちらを値踏みし、喧嘩を売る発言をしてくる小さな女の子に、雷はたじろぐしかない。これだから物怖じしない小さいこどもは苦手である。

 

「見た目に騙されると、痛い目にあうぞルクト。イカヅチはな、暴食ネズミをひと蹴りで殺しちまうくらい強いんだからな」

 

 少年は、わざとらしい声音ですごむ。

 

「ふわぁ、すごい」

 目をくるりとまるめて大袈裟なくらいおどろくルクトという男の子。

 

「えぇ、こわい」

 妹のほうは兄の後ろに隠れて、排斥の目を向けてくる。会ってろくに言葉も交わしてないのにここまで嫌われるのは初めての経験である。施設の年少の者に、一時間くらいで「あ、こいつはまともに相手してくれないやつだ」と見限られて嫌われた記録を大幅に上回った。

 

(どこの誰ともしれない馬の骨が私の兄に近づくな! って、威嚇する顔をしてるけど。別にとらないからな。妹ってこんなに嫉妬深い生きものなのかね)

 

「こわいひと、やだなぁ。はやくいこうよ、ヘスにい」

 

 雷にむける態度とは打って変わり、ヘス少年にはとりわけ甘えた顔をして童女は兄をうながした。

 

「あ、仕事に行く前にひとつ聞きたいことがあるんだけど、いいか?」

 

 雷はこちらを牽制する童女の存在を見ないふりをして、ヘス少年にたずねた。

 

「なに? さっさとスライム見つけて子守りから解放されたいんだけどさ」

 

「スリングショットってこのへんにないのか?」

 

「すりんぐ……? なにそれ?」

 

「弓みたいにこの弦の部分に石をひっかけて飛ばせるやつ。弓よりも小さい、玩具かな」

 

 正しくは、玩具の用途でもつかえる、だろうか。その気になればスリングショットで狩猟もできるのだから実用品だ。そして、雷が欲しいのは威力と飛距離がある実用品のほうだ。

 土の上に指で絵を描いて形状や用途の様子を伝えると、ヘス少年はううんと腕を組んでうなった。

 

「こういうの持ってるのって、狩人か、あとは可能性があるならエルフじゃないか」

 

「スリングで遊んだりしないんだ。的当てとかさ」

 

「そういう変なスキルが付きそうなおもちゃはさ、持たせてもらえないよ。うちは農民だし、ダヤン神様から農夫(ファーマー)運搬屋(ポーター)クラスの祝福が得られるまで、採集とか畑の手伝いとか荷運びばっかりさせられるんだ。ほんとは俺だって、剣とか振り回したいんだけなあ」

 

 ヘス少年はがっくりとうなだれた。

 

「へえ、御愁傷様。剣士(ソードファイター)にはなれないんだ」

 

(神様が祝福、なあ。ゲームでは条件がそろったら、システム的にクラスの取得が選択できたけど、ここではクラスを得るのは祝福されてるって考え方なのか。いかにも、って感じだな)

 

「本当はそっちのほうがいいよ。俺、三男だし、家を継いで畑もらえるってわけでもないのにさ。家にいる間は効率よく手伝わせるために、大人になってからの俺の人生完全に無視して農夫(ファーマー)運搬屋(ポーター)のクラスにさせられるんだぜ。やになるよ。

 運搬屋(ポーター)なら、運搬組合で将来働けるようになるだろって、父さんも母さんもいうけどさ、俺、ほんとは剣士(ソードファイター)の祝福をもらって冒険者になりたいのに」

 

「親に黙って、違うクラスの祝福を得ようとはおもわないんだ」

 

「そのためには、必要なスキルを身につけて、そのスキルをある程度まで育てなきゃダメだろ? そんな時間もらえないよ。家の仕事とか、こいつらの面倒押し付けられるから、ひとりで棒きれ振り回す暇もないんだから」

 

(スキルとかクラスとか、俺たちが知っているままの単語の意味でこの世界の常識で当然の現象の一部として、通用するんだよな。いかにもゲーム用語って感じなのに、ふしぎなかんじがする)

 

「さもあらん。真ん中は大変だな。

 大人になってから、自分の意思でクラスの選択しないのか?」

 

 雷の問いに、三人の兄妹は虚をつかれた顔になった。

 ついで、とんでもない馬鹿を聞いたとばかりに笑いだす。

 

「祝福は選べるもんじゃないだろ。なにいってんだよ」

「おねえちゃん、しらないの? クラスはえらべないんだよ?」

「あなたみたいな常識しらないおばかさんはじめてみたぁっ」

 

 どうやら、雷の口にした疑問はとんだ常識知らずのものであったらしい。

 

「本当に欲しいクラスがあったとしてもさ、どんなクラスであれ祝福を得る条件を満たしちゃったら、ダヤン神様からクラスを与えられちゃうんだぞ。そんなことも知らないのか?」

 

 ヘス少年はとりわけ呆れた顔である。

 

「あー、そういわれてみれば、そうだな。そういったあたりまえのことを知る前に、気づいたらクラスを得てたから、あたまからぬけてたわー」

 

 この世界の当たり前など全く知らずに非常識を踏み抜いてしまった雷は、あたふた内心をおさえこみ、棒読みでごまかした。

 

「おねえちゃん、もうダヤンしんさまから、クラスをもらってるの? すごぉい」

 

 ルクトは深く考えずに感心している。

 

「え、すごいな。もう祝福されてるのか、なんのクラスなんだ?」

 

 雷は迷い、正直に答えることにした。なにかあったら〈神聖魔法〉を有効利用して村の者には恩を売りたいと考えたし、知られても大きな損はないだろう。

 

神官(クレリック)だよ」

 

 ほんとうはふたつクラスを所持しているが、ひとつだけ答えた。

 主人公は特異な存在で、初期からクラスを二種類もっている。

 ほかの低レベルNPCたちは初期は一種類しかクラスをもっておらず、一個目のクラスレベルを10にまであげるという条件を満たすと、二個目のクラスを選択できるようになる。

 

 奇異におもわれるか嘘つき扱いされるだけだと判断し、雷は一種類のクラスしか教えなかったのだ。

 

神官(クレリック)、ってことは〈神聖魔法〉か。

 へえ、なるほど。魔法が苦手なやつでも、〈神聖魔法〉って覚えやすいっていうもんな」

 

 拍子抜けするくらいに、あっさりとした反応だった。

 

(覚えやすいのか。もしかして、俺が身構える必要ないくらい、魔法は珍しくないのかな)

 

「この村にも、神官(クレリック)僧侶(プリースト)はいるのか?」

「さすがにそのクラスの祝福持ちは、たまに来る神官様くらいしかこの村にはいないよ。でも〈神聖魔法〉のスキルを持ってるやつなら、村に二人、いるはずだよ。大きな怪我すると、咄嗟に覚えやすいらしいよな。雷も昔、ひどい怪我をして覚えたのか?」

 

 命を危ぶまれるどころか、命を落とす経験もしているし、文字通り九死に一生を得たのも記憶に新しいので、雷は遠い目をしながら。

 

「ああ、まあ、そうだな」

 

 歯切れ悪く頷いた。

 覚えた理由としては怪我と関係ないのだが(死んで生まれ変わったから魔法を獲得したから関係あるといえばあるかもしれないが)、肯定しておいたほうが話は通りやすいだろう。自身の来歴を伝えるさいに、他者に違和感を与えない原因があるというのは大事である。

 

「神官様がいってたけど、神官(クレリック)僧侶(プリースト)よりも戦士に近くて、体を動かすのが得意なんだって。

 暴食ネズミを捕まえるとき、イカヅチの動きがすごかったし、なんかそんな感じするよ。イカヅチさ、神官(クレリック)ならなにか武器を使えるのか?」

 

「〈棒術〉を、ちょっとだけ使える。かろうじて神官(クレリック)認定されるぎりぎりの腕前だ」

 

「へえ。いいなあ。それでもすごいじゃん。あとで、棒打ち合おうぜ!」

 

 「断れ!」という童女からの圧をうけるが、ここは社交辞令で応と返すのがもっとも無難だった。年端もいかない少女の機嫌を優先するより、話のわかるヘス少年の気分をよくしたほうがいい。

 

(けど、正直面倒だから避けたいんだよなあ)

 

「わかった。時間があるときにでもな」

 

 雷は、明言を避ける曖昧なこたえを返した。

 ヘス少年は雷の返事に破顔し、絶対だぞ、と念をおした。

 

「すりんぐとかいうやつの話をするなら、エルフのクロエのほうがいいよ。あいつ、ちょっと変わってるけど、ひとと話すのが好きだし。雷のいうこと時間作って聞いてくれるんじゃないか。クロスは、魔法とか錬金術とか以外に興味ないから難しいな。

 俺と同じ年の狩人見習いのローラは、多分忙しいから無理。今も、森で親父さんについて狩人の修行してるし」

 

 雷にクロエの家の特徴を教えると、ヘス少年はそろそろいくからと話を切り上げた。

 ちらちらと振り返って雷を気にする弟と、べったりとくっつく妹をつれてヘスは柵の外へと向かっていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九話 クロエ

 3

 

 家の場所は聞いたものの、いきなり見知らぬお宅訪問は敷居が高い。

 

 ヘスから勧められてクロエと話しに来たといきなり告げて、なんだそれはと言われて追い返されないだろうか。雷は余所者だし、関わり合いになりたくないと厄介がられてもおかしくない。

 不安を抱えながら、家の扉をノックする。

 

(緊張するな。まずマリィシアに話をとおしたほうが良かったか?)

 

 彼女になにか頼みごとをすると返礼が必要そうだと横着し、真っ直ぐにクロエの家にきてしまった。

 衣服の礼もしたいし、多少の面倒ごとを頼まれてもマリィシアに仲介を頼めばよかったと雷は今更になって後悔していた。

 しかし、もうノックまでしておいて後戻りはできない。

 扉の向こうから足音が聞こえ、すぐそこにひとの気配があった。

 

「はあい。だあれ? あら?」

 

 木製のドアを開けたのは、尖った耳が特徴的な少女だった。

 星を糸にしたような白金の髪をボブカットにしていて、二重瞼の目はキリッとしていて意思が強そうだった。白い肌は輝かんばかりに健康的で、生き生きとしている。それでいて、十代前半の少女特有の瑞々しい色香を仄かにかぐわせていた。

 

 彼女は村の子供たちのような継ぎ接ぎではなく、飛び抜けて垢抜けた格好をしている。緑を基調にして仕立てられた動き易そうな衣服で、少年のような腿丈のパンツルックに黒いタイツを合わせている。革のブーツも実用性だけでなく見た目にも拘って作られた可愛らしいものだ。

 その衣服は少女の存在感を更に際立たせ、ため息をつくような美しさに仕上げている。

 

(村の住人がモブなら、この子は名前ありのキャラクターみたいな存在感の違いが)

 

 生きている人をモブ扱いは酷いとおもうが、それくらい生き物としての輝きに差があった。雷などそこそこ見れる容姿をしているが、目の前の少女に比べれば木っ端に等しい。

 

 遠目には見たことはあったが、こうやって間近にエルフと会うのは初めてだった。

 視界に及ぼす暴力は、想像していた以上。圧倒してくる生命力をたたえたその碧眼に見つめられるだけで、雷は意識が飛びそうになる。

 

「あ、おは」

 

 雷は初対面の緊張を吹き飛ばしてくる美貌に気圧されながらも、なんとか挨拶をしようとした。

 

 なぜか少女は雷の顔を見るなり、来るのはわかっていたとでもいうようにしたり顔でうんうんとうなずく。

 こちらの挨拶が終わるのを待たず、彼女は一気にまくしたててくる。

 

「はじめまして。クロエよ。見てのとおり、美少女よ!」

 

 もみあげ部分にかかっている髪を、少女はわざとらしい仕草でかきあげた。

 

「あなたのことはうわさには聞いていたわ、このわたしにちゃんとあいさつにくるなんて、わかっているみたいね」

 

(なにを?)

 

「あ、はい。はじめまして、雷です」

 

 よくわからないまま頷いてしまった。

 

「わたしは、美少女!」

 

「あ、はい。そうですね」

 

「わたし、美少女っ!」

 

「とってもおきれいですね」

 

「せっかくわたしに会いにきてくれたんだもの。どうぞいらっしゃい、家にあがっていって。おしゃべりしましょうよ」

 

 少女は快く雷を歓迎して、手招いてくれた。

 

「お邪魔します」

 正直なところ今すぐ帰りたかった。

 滞りなく家に招きいれられたが、雷は腑に落ちない。

 

(これ、ちょっと変わっているっていうレベルですむか?)

 

 ヘスの足りなすぎる説明に物申したい雷だった。

 

「どうしたの。変な顔しちゃって。まあ、わたしが美少女だから気後するのは仕方がないとして」

 

「そうですね」

 

「安心して、あなたもとっても綺麗でかわいいわよ」

 

(見た目を褒められても嬉しくないんだよな)

 

「ありがとうございます」

 

 雷はクロエからの賞賛に、無表情で礼を告げた。

 

 雷は家のダイニングテーブルに案内される。

 家自体は村長宅よりもこじんまりと小さかったが、内装は同じくらい手が混んでいた。

 室内は何かの媒体で見たことがあるような、手作りの温かみのある部屋によく似ている。壁には色とりどりの糸で織られた壁掛け。ドライフラワーで作られたガーランド。

 棚の上には丁寧に使い込まれたことで味わいのある色になっているガラスのランプ。動物を模したかわいらしい木製の置物。

 ダイニングテーブルには生成り色のリネン。椅子にはざっくりとした生地で作られたクッション。

 土間の台所にある調味料入れらしき陶器は色とりどり。瓶詰めのジャムやピクルスが置かれているだけなのに、空間をぐっとおしゃれに見せる。

 

 雷は椅子に座らされ、少女は土間にある竈門で湯をわかしはじめた。

 

「あなた、運がいいわ。森で採ったハイルング草がいい具合に乾燥したものがあるのよ。美味しいお茶をご馳走してあげる」

 

 クロエは部屋の片隅にガーランドにつるしていた草の束を手に取る。

 

(実用品か。意識高い系のインテリアかと思った)

 

 クロエが手に取ったハイルング草とやらは、雷がせっせと採取した薬草と同じものだった。

 

「それ、薬草? お茶になるんだ」

 

 おもいがけずといった体で雷はこぼしていた。

 

「ハイルング草が薬草? ううん、薬草といえば、薬草かしら。心と体を落ち着ける効果があるっていうわね。クロスのおうちでは薬に使っているけれど、うちではお茶にしているわ」

 

「落ち着く……? 傷を治すみたいな効果ではない?」

 

 雷の疑問にクロエは小さくわらった。

 

「ハイルング草にはそういった薬効はないわ」

 

回復薬(ポーション)の材料になるのに?」

 

「あら、物知りね。確かにハイルング草は五級回復薬(ポーション)の材料だわ。綺麗なお水と、瑞々しいハイルング草。そして小さな試験管。錬成具を使って〈錬金術〉を加えれば、あっという間に五級回復薬(ポーション)のできあがり」

 

 クロエは歌うようにいう。

 

「あなた、どうやら中途半端に知識を(かじ)った初心者が陥りがちな勘違いをしているみたいだから、お湯が沸く前にちょっとした講釈をしてあげるわ。ほんとうは、こういった話はクロスのほうが得意なのだけれど」

 

 うつくしい(かんばせ)を得意げに笑ませ、クロエは雷の正面にすわる。

 

「この世には二種類の回復薬(ポーション)があるの。ひとつは大陸の外でも傷薬として使えるもの。適正の差はあるけれど、知識と技術を持っていればだれでも作れるわ。

 もうひとつはこの大陸でしか傷薬にならないもの。ハイルング草を〈錬金術〉で加工して作った魔法薬。精霊の力を使って、ハイルング草の成分を抽出した溶液に回復の効果を持たせたものよ。これの肝は精霊によって付加されたものであって、ハイルング草自体にそういった効能はないってことね。だから、大陸の精霊がいない場所だと、精霊の力が減退して治癒の効果がなくなるの」

 

 雷は興味深くうなずき、真面目に話を聞く。

 

「市場で多く売られていてみんながよく使っているのは、前者の回復薬(ポーション)が多いわ。使用する材料自体に効能があって、それを決められた手順で調合することでさらに治癒の効果が高い回復薬(ポーション)ができあがる。

 だから、錬金術で作る魔法薬の回復薬(ポーション)の材料も、薬効あるものを使っているんだろうとおもわれがちなのよね。

 あなたみたいに」

 

 クロエは茶目っけのある表情でウインクをして雷を指さした。

 

「へえ、すごくためになる話だった。クロエは物知りだな」

 

 ゲームでは「作り物の世界の話なのだからそういうもの」で深く考えず済ませていた事柄が、こうやって成り立ちが肉付けされていくのを聞くのはおもしろかった。

 〈調合〉スキルだろうと〈錬金術〉スキルだろうと、薬草と水を使って最下級の回復薬(ポーション)を作っていたが、空想世界が現実になったこの場所では〈調合〉スキルを使ってできる回復薬(ポーション)と、〈錬金術〉スキルを使ってできる回復薬(ポーション)は全く別物になるらしい。

 

「もちろん、わたしはあなたよりもずっと大人だもの。たくさんのことを知っているわ。わたしは九十六歳、あとすこしで百歳になるんだから」

 

 十三、四歳にしか見えない少女が、胸をはって三桁大台に近い年齢を自慢すると違和感が酷かった。

 

 湯が沸いたので、話を一旦切り上げる。

 少女がお茶を淹れる姿を眺めながら、雷は一昨日集めたハイルング草のことを考えていた。

 

(薬草、傷薬にならないな。せいぜい、乾燥してお茶の葉っぱか)

 

 雷は錬金術が使えないから、薬草だとおもって集めたものは最初の意図通りには使えそうにない。それは少し残念だったが、勘違いをここで正されたのはありがたいことだった。

 

(クラスのこともそうだけど、俺がそうとおもいこんでいるだけで、全く違うことがいろいろとあるんだろうな)

 

 当たり前だが、自分の知らないことがたくさんある。ゲームでの知識だけでは、この世界に完全に馴染み生きていけそうにない。残りの人生、この世界で生きていかなければならない以上、早く常識と役に立つ知識を身につけたいと雷は強くおもった。

 なにせ下手をすると、本来現代日本でいきるはずだった人生の五倍も生きることになる。

 成人した雷礼央としての記憶がある以上、世間知らずの限度を超えたふるまいはしたくない。妙に浮いたりせず、そつなく生きていきたいものだ。

 

 4

 

 出されたお茶は、生のまま葉っぱを喰らっていたころの面影をまったく感じ取れない爽やかな風味と旨味があった。

 

「美味しい」

 

 雷は一口飲んで、ほうっと息を吐いた。

 

「当然でしょう。わたしのような美少女が淹れてあげたのだから、美味しさもひとしおのはずよ」

 

「そうですね」

 

 確かにクロエは美少女なのだが、ことあるごとに主張されるとどうにもげんなりしてしまう。

 雷は何かが削られていくような疲労感をおぼえる。さっさとクロエとの会話を切り上げるために、雷は用件を告げて目的を果たすことにした。

 考えてみれば、スリングショットという品をこの世界の言葉に翻訳できるのだから、ないはずがないのだ。

 

「物知りなら知ってるかもしれないし、クロエに聞きたいことがあるんだけど、スリングショットって知らないか?」

 

 期待をこめて訊くが、クロエは首を横に振った。

 

「知らないわ」

 

「片手で持てるくらいの大きさの三叉の器具に、伸縮性のある弦を貼って、小さい弓みたいに使うんだけどやっぱり見たことないかな?」

 

 名前を知らないだけという可能性も考えて形状も伝えるのが、やはりクロエは知らないという。

 

「長くこの村で生きているけれど、そういったものは見たことないわね。ごめんね」

 

(このあたりだとスリングを使わないのか?

 この言語が大陸帝国語であることを考えて、帝国本国にならあるんだろうか)

 

 雷はわずかに肩をおとした。スリングが手に入りそうにないなら、やはり投擲を鍛えたほうが良さそうだ。

 

「でも、スリングショットというのはこのあたりにないけれど、ないなら作ればいいじゃない。

 ゴムは高いから弦に使うのは難しいとして、護謨鞭蔦(ラバーヴァイン)の蔓と、頑丈な木を使えば似たような機構のものは作れそうよ」

 

 クロエがこともなげにあっさりという。

 

「あ、それもそうか」

 

 目から鱗が落ちた気分だ。

 『精霊の贈り物』でレシピが存在しなかったからといって、作れないというわけがない。ここは現実なのだから、ゲームよりもずっと自由で、おもいつく限りの手段を試せる。

 

「木は、幼生妖樹(ラルバトレント)がいいんじゃないかしら。普通の材木よりもずっと丈夫だし、素材自体が強いから耐水や耐火性をあげる加工も、普通の木よりも少なくてすむわ」

 

「へえ。なあ、ラルバトレントは村の付近にいることは知ってるんだが、ラバーバインはこのあたりにいるのか? 見たことがないんだが」

 

 護謨鞭蔦(ラバーヴァイン)は植物の魔物だ。蔓を鞭のように使ってくる魔物で、ゴブリンよりも小さいが、ちょっとだけ強かった。丸い本体に幾重にも蔦が巻きついていて、その何本もある蔦で連続攻撃をしてくる。ゴブリンが一撃で10ダメージを与える攻撃するならば、護謨鞭蔦(ラバーヴァイン)は一撃で6ダメージを与える攻撃を二回仕掛けてくる。

 

「ゴブリンが根城にしている地帯よりも、ちょっとだけ森の奥にいるらしいの。でも、 護謨鞭蔦(ラバーヴァイン)の蔦なら、日用品として市場にたくさん出回っているから手に入れるのは比較的簡単よ。摩耗して弦がだめになっても、すぐに替わりを手に入れて交換できるわ。わたしのうちにもあるしね」

 

 そういってクロエは立ち上がり、仕切りの奥にむかうと紐よりも太めな茶色の蔦を持ってきた。

 

「これは既に加工してあるものよ。千切れにくくなって、丈夫になるの。護謨鞭蔦(ラバーヴァイン)の蔓そのまま使ってもいいでしょうけれど、どうせなら加工したものを購入したほうがいいわ」

 

 ぎゅっとひっぱると、蔦はゴムのように伸び、クロエが手の力を抜くともとの長さに戻った。

 

「今日という出会いを記念して、これはあなたにプレゼントしましょう」

 

 少女の懐の広い申し出に雷は目を見開きおどろきつつも、すぐに顔色を明るくした。

 

「本当に? ありがとう。」

 

「いいのよ。あなたの保護者である竜人がこのまえ振る舞ってくれた蜜猪(シロップボア)のお肉に比べたら、安いものよ。この蔓なんて街にいけば、すぐに手に入るわ」

 

 クロエは茶色の蔓を雷に渡し、さあと玄関に雷をうながす。

 

「では、いきましょう」

 

 まるででかけることを約束していたみたいに、クロエはごくごく自然な様子でのたまった。

 

「どこへ?」

 

 突然のことに呆気にとられるのは雷だ。話についていけない。

 

「もちろん、もう一つの材料である幼生妖樹(ラルバトレント)を狩猟しにいくのよ」

 

 なにをいっているの、とクロエに不思議そうな顔をされる。察しが悪い子ね、と苦笑されるがこれは果たして自分が悪いのだろかと雷は訝しんだ。

 

「いや、待ってくれ。材料になる幼生妖樹(ラルバトレント)が必要になるのはわかるんだが、森に倒しに行かなきゃいけないのか? 交渉とか購入とかで手に入るんじゃないか。それと、なんで当たり前のようにクロエも一緒にいくことになってるんだ?」

 

 雷の頭の中は、クロエについていけず疑問符でいっぱいだ。

 

「そんなの決まってるじゃない」

 

 クロエは眩しいくらいの晴れやかな笑みを浮かべる。

 

「わたしがとっても優しいすばらしい美少女だからよ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。