幻想郷一般男子の日常 (Jr.)
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7月28日

 ――暑い。

 今年の夏は、まさに夏らしい夏だ。太陽がここぞとばかりに自分の存在を全力で主張している。セミたちも、短い己の一生を精一杯燃やし尽くそうとでもいうのか、右から左から、まさに時雨の如く鳴き声を浴びせかけてくる。岩に染み入る、なんて風情のあるものではなくて、ひたすらうるさい。

 そんな中を、背負子(しょいこ)を背負って、長々とした神社の石段を登っていく、というのは、これはちょっとした修行というか、苦行めいたものがある。

 周囲をうっそうとした樹木に覆われているので、かなりの部分が日陰になっているのが救いだが、それでもやっぱり蒸し暑いし、大量に汗もかく。途中で休憩をはさみたいぐらいだが、時間の都合があるのでそういうわけにもいかない。ほとんど朦朧としながらひたすら足を動かし、大きな石鳥居の下にたどり着いた時には、正直ほっとした。

 ざっと見渡す。境内には人の姿はない。まあ、神社などというものは、祭りや何かの行事でもない限り、閑散としているのが普通だ。鳥居からまっすぐ石畳が続いて、右手に御水屋、正面に拝殿があって、左手に社務所兼住居がある。

 ごめんください、と社務所の入り口で声をかけると、しばらくしてから、巫女装束の女性が現れた。

 彼女の名前は博麗霊夢。ここ「博麗神社」のたった一人の巫女であり、また宮司でもある。

 「お久しぶり――ずいぶん暑そうね」微笑みながら言う。

 「おかげさまで、ここまで夏を満喫してきたよ…涼しそうでいいね」

 「朝のうちに境内の掃除を済ませてから、家の中に避難していたもの。ちょっと待っててね、冷たい麦茶を持ってきてあげるから」

 しばらくしてから、よく冷えた麦茶と水まんじゅう、それと救急箱を持って戻ってきた。ありがたく麦茶をいただいてから、救急箱を開けて、中身を点検する。特に減っているものはない。この2か月間、無事息災であったらしい。

 言うのが遅くなったが、俺の名前は河野涼平。薬の行商を商売にしている。傷薬や風邪薬といった常備薬をそろえた救急箱を各家庭に置いてもらって、何か月かに一度そのお宅を訪問、薬が減っていたら、使ったものとして、その分だけ代金をいただく。で、減った分はまた新しく薬を補充する。そういう仕事だ。お客さんの要望に応じて、例えば、「最近疲れが取れない」と言われたとしたら、新しく強壮剤を置いていく、というようなこともする。お客様がいたって健康で、訪問してみたものの全く薬が減っていないような場合は(今回の博麗神社のように)、売り上げはゼロ、ということになる。健康なのは喜ぶべきことだが、商売としてはあまりありがたくない。

 「特に何事もなかったようでなにより。それじゃ、お祓いをお願いしようかな」

 「…あら、もう行くの?もう少しゆっくりしていったらいいのに」

 「そうしたいのはやまやまだけど、今日中に回っておきたいお客さんがまだ残ってるんだ」

 「…そう。暑い中大変ね。どうぞ、上がって」

 霊夢の後について、拝殿へと向かう。外の暑さが嘘のように、建物の中は空気がひんやりとしている。本当に、できることならもう少し休んでいきたいところだ。

 拝殿に着くと、板敷きに正座して、軽く首を垂れる。そこへ霊夢が、大幣をかざして、ゆっくりと何度か左右に振る。それでお祓い完了だ。祝詞も何もない、ごく簡単な儀式だが、これが霊験あらたかなのだという。年に一度このお祓いを受ければ、その年いっぱいは、悪鬼悪霊の類は寄せ付けないのだ、と、これは幻想郷の住民であれば誰もが口にするし、また実体験として理解していることでもある。妖怪や妖精たちと人間が共存しているここ幻想郷では、人間が妖怪に襲われるようなことは日常的にあるが、そういった目に遭う者たちは、必ずなにがしかの穢れ――他人には言えないような、後ろ暗いなにか――をその身に抱えているのだ。穢れは神社で祓ってもらえるが、祓ってもらうそばから、また新たに穢れをため込んでしまうような人間もいる。そうした人間は、残念ながら、幻想郷の安全保障ルールの対象外、ということだ。

 玉串料を納めてから、また玄関へと戻る。お金なんていいのに、いやこういうことはきちんとしないと、といったやりとりも以前はあったが、面倒くさくなったのだろう、最近は霊夢の方でも素直に受け取ってくれるようになった。

 さて帰ろうとしたところで、

 「…あ、そうだ、ちょっと待っててね」

 思い出したように言って、霊夢が小走りに廊下を駆けていく。少し経って戻ってきたときには、

 「ああ、お客さんってお前のことだったのか。久しぶりだな」

 見慣れた金髪の少女の姿が、霊夢の隣にあった。

 彼女の名前は霧雨魔理沙。霊夢とよく一緒にいる、本人曰く「いたって普通の魔法使い」、らしい。

 「魔理沙、よかったら、涼平のことを送って行ってくれない?」

 「ああ、いいぜ」

 それは大変助かる。またあの石段を下りなければならないのか、と、内心くじけかかっていたところだ。

 

 魔理沙愛用の魔法の箒に二人でまたがる。

 「またね、涼平」

 「うん、それじゃまた、二か月後ぐらいに」

 霊夢と互いに手を振ると、

 「よし、それじゃ行くぞ。振り落とされないように、しっかりつかまってろよ!」

 魔理沙の威勢のいい声とともに、俺たち二人を乗せた箒は、勢いよく空へと駆け上がった。

 あっという間に空高くに達する。歩くよりもはるかに速いし、建物等の障害物を無視して、目的地まで最短距離で向かえるし、何より涼しい。空を飛べるというのは本当に便利なものだ。

 人里の大通り付近で下ろしてもらう。

 「ありがとう魔理沙。助かったよ」

 「どういたしまして。今日はこの辺を回るのか?」

 「そう。予定だと、あと4件かな」

 「だったら、私も付き合うぜ」

 ますますありがたい。空を飛んできたおかげで、だいぶ時間も節約できたことだし、全部回り終わったら、あんみつでもご馳走してあげよう。

 ということで、魔理沙と一緒に、本日の残りのお得意様を訪問していく。蒸し暑いのは相変わらずだが、魔理沙のおかげでだいぶマシだ。

 今、魔理沙が右手に持っているのは、「ミニ八卦炉」というマジックアイテムだ。熱や炎を生成する道具で、火力を調節することで、調理用の炎を出したり、最大火力にすれば、山一つ吹き飛ばせるぐらいの、猛烈な熱エネルギーの塊を放出したりできるらしい。便利かつ危険な代物だが、そうした用途とは別に、このミニ八卦炉にはもう一つ、「送風機能」もついている。簡単に言えば、携帯型の小型扇風機のようなもので、よく冷えた風を周囲に送り出してくれる。俺のような暑がりには、まさに夢のようなアイテムだ。俺のような思いをしている人間は多いだろうし、厄介な火力はともかく、送風機能だけに限定したものを、道具屋で売り出したら、間違いなく大ヒットするんじゃないか、と、以前魔理沙に言ったことがあるが、「一点ものだからこそ希少価値があるんだぜ」と、一言のもとに笑い飛ばされてしまった。俺が夏を快適に過ごせる日は、まだ当分来そうもない。

 

 おかげさまで、当初の予定よりも30分以上早く仕事を切り上げることができた。

 「魔理沙、何か甘いものでもご馳走しようか?」

 「やった!」

 ということで、近くの甘味処へ入る。大通りに面した、割と人気の店だが、もう夕方ということもあってか、店内は空いていた。魔理沙はフルーツ蜜豆を、俺はかき氷を注文する。店員が持ってきてくれた冷たいお茶を一口含んで、文字通りほっと一息。今日も一日無事に終わった。

 「魔理沙、今日はありがとう。本当に助かったよ」

 「いいっていいって。私も楽しかったし」

 本当に、人里を歩いているときの魔理沙は楽しそうだった。好奇心に満ちた顔で、物珍しそうにあたりをきょろきょろと見回していた。日常的にこのあたりを歩き回っている俺には、ごくありふれた風景なのだが、

 「人里に来るのは久しぶりなのかい?」

 「それほどでもないけど。でもまあ、うーん、1か月ぶりぐらいかな?」

 まあ、そんな気はした。どうやら、また魔法の研究に熱中していたらしい。

 魔理沙が住んでいるのは人里ではなく、ちょっと離れた「魔法の森」と呼ばれる森の中だ。じめじめとして薄暗く、人間にとっては有害な植物なども多く生息しているため、普通の人間は、住むことはおろか、足を踏み入れることも稀なのだが、魔法使いにとっては、そういう環境がかえって適している、のだそうである。その森の中ほどにある小さな家の中で、魔理沙は常日頃、魔法の研究に取り組んでいる。様々な薬品を抽出したり合成したり、あるいは、そうした薬品の原料を求めて、森の中を歩き回ったり…そうして気が付いたら、森の中から何日も出ていない、というようなことも珍しくないらしい。研究熱心なのは良いことだが、本当に集中しているときは、食事も睡眠も忘れて実験にのめりこむそうだから、ちょっと考え物だとも思う。久しぶりに魔理沙の家を訪ねたら、睡眠不足と栄養失調で干からびていた、なんてことがないように祈りたい。

 運ばれてきたフルーツ蜜豆を、魔理沙は幸福そのものといった表情で口に運んでいる。可愛らしい少女の笑顔を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。魔理沙は喜怒哀楽が表情に出やすいタイプなので、見ていて飽きない。

 「本当においしそうに食べるねえ」

 「ああ、まともな食べ物にありついたのは久しぶりだからな」

 …だから、そういうことを平然と口にするのはやめてほしい。

 「…最近は、どんなものを食べてたんだい?」

 「ん?ああ、大丈夫大丈夫。ちゃんと食べられる野草とか木の実を選んで食べてるから。魔法の森も、この時期はずいぶんいろんな物が成ってるんだぜ。中にはちゃんとした味のやつもあるし」

 あんまり大丈夫なようには聞こえない。この魔法使いの少女の辞書には、「調理する」とか「健康に気を遣う」といった項目は載っていないのだろうか。まあ、魔法の森の植生については、人間の中では魔理沙が一番詳しいのだろうし、見たところも健康そのものだから、無用の心配なのかもしれないが…

 「近いうちに、魔理沙のところへ寄らせてもらってもいいかな?」

 「お?そういえば、この前来てもらってから、けっこう経つか。

  いいぜ。ちょうど研究が一段落して、今は休憩の時期だし」

 何か、美味しくて、元気が出るようなものを、手土産に持って行ってあげよう。

 

 永遠亭まで送ってやる、と魔理沙が言ってくれたので、ありがたくお受けする。夏の日もだいぶ傾いて、夕日が幻想郷一帯を橙色に染め上げている。魔理沙と二人、魔法の箒に乗って、空の上から眺める景色は、実に美しい。明日もいい天気になりそうだ。

 



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閑話休題1

 永遠亭について説明しておこうと思う。

 人里離れた「迷いの竹林」、その中ほどにある大きなお屋敷が「永遠亭」だ。

 とまあ、言葉で表せばたったこれだけのことだが、しかし、人里の人間で永遠亭の存在を知っている者は、おそらくほぼいないだろう。竹林の中にある、と言ったところで、普通の人間にはまずたどり着けないからだ。永遠亭を取り巻いている竹林は、「迷いの竹林」というだけあって、竹の成長が早く、常に林内部の様相を変えてしまうため、何かわかりやすい目印でも用意しておかなければ、とても歩けたものではない。加えて、永遠亭の主人である蓬莱山輝夜(ほうらいさんかぐや)様と八意永琳(やごころえいりん)様がかつて仕掛けた術のおかげで、普通の人間にはどうやっても永遠亭にたどり着くことはできず、竹林の中をさまよい歩くことになる。最悪の場合は、迷ったまま人里への帰り道もわからなくなってしまい、遭難することだってあり得る(実際、以前は不幸な村人の死体がたまに見つかったそうだ)。俺は永遠亭と人里を普通に行き来しているが、これは、八意師匠から、竹林で迷わない特別な方法を教えてもらっているからだ。

 永遠亭は、元々は、文字通りの「隠れ家」だった。輝夜姫様と八意師匠が、外部から隠れ住むために、「迷いの竹林」の中に住居を定め、その上に、絶対に人目につかないように、厳重に目くらましの術をかけたのだ。そうして長い時間が過ぎたのだが、およそ3年前、ちょっとした誤解から、幻想郷全体を巻き込んでの異変が起こった。「永夜異変」と呼ばれるもので、簡単に言えば、いつまでも夜が明けなかった、という事件だ。この原因となったのが、輝夜姫様や八意師匠といった永遠亭に住む人々で、この異変は、結局、霊夢や魔理沙たちの手で解決されることになった。その際のやり取りで、もう隠れ住む理由はないのだ、ということが明らかになり、永遠亭と人里との交流が、少しずつだが始まって、現在に至る、ということになる。

 ちなみに、「永夜異変」があった、というのは、普通の人たちは全く知らない。「なんだか夜がいつもよりも長い気がするな」と感じていた人もいるかな、その程度の話だ。俺にしても、永遠亭に弟子入りしてから、異変については初めて知った。それにしたところで、簡単な概略を教えてもらったというだけで、詳しい事情については、今もってまったくわからない。まあ、霊夢にしろ八意師匠にしろ、積極的に話したがらないものを、無理に聞き出そうとも思わない。知らない方がいい、という事柄も、世の中には多分あるのだ。

 その永遠亭で、俺は住み込みで薬師の修行をしている。

 

 俺が永遠亭に入門することになったのは、およそ3年前、「永夜異変」が終わって少し経った頃のことだ。

 「すごく優秀らしい薬師の先生がいるんだけど、涼平、弟子入りしてみない?」

 霊夢にそう言われて、八意師匠に紹介してもらったのだ。

 俺の家は代々続く薬売りで、俺も父親に付いて、子供の頃から薬については勉強してきた。霊夢と知り合ったのも、父親が博麗神社に薬の行商に行くのにくっついて行っているうちに、自然と仲良くなったのだ。

 そんなわけで、父親と二人、八意師匠と話してみたのだが、弟子入りを決意するのに時間はかからなかった。少し話をしてみただけでも、八意師匠の薬学知識が桁外れであることが理解できたからだ。師匠と輝夜姫様はもともと月の人間で、理由あって幻想郷に移り住んだということらしいが、月の文明は幻想郷よりもはるかに進歩しているのだそうで、その中でも八意師匠は「月の頭脳」と称せられるほどに、優れた知力の持ち主なのだ――とまあ、これは一緒に生活するうちに知ったことだが。ともかくも、師匠の薬学についての造詣の深さに、当初弟子入りについて消極的だった父親も、がぜん乗り気になり、俺自身の気持ちは言うまでもなく、無事住み込みの弟子入りとあいなったというわけだ。

 以来3年、つくづくと八意師匠の偉大さを痛感する日々が続いている。一生かかったところで、追いつくことなど到底出来そうもないが、それでもできる限りのことはやろうとは思っている。文字通り「微力を尽くす」といったところだ。

 

 永遠亭に住んでいるのは、俺以外には、輝夜姫様、八意師匠、鈴仙さん、てゐさん、以上の4人だ。

 永遠亭の主人である蓬莱山輝夜様は、なんと、昔話のあの「かぐや姫」その人だ。光る竹から生まれた絶世の美女で、時の帝から求婚されるも拒絶し、月の都へ帰って行った、…はずなのだが、実際はなぜか地上に残って、永遠亭で俺達と一緒に暮らしている。伝えられる通り、輝くばかりの美しさを持った女性で、言葉遣いや挙措もおっとりと、まさに「お姫様」といった感じだ。俺はこういった方とは話したことなどまるでなかったので、永遠亭に来て最初に会った時には、戸惑いと緊張とで大変だったのを覚えているが、輝夜姫様の方ではまるで屈託なく、いたって普通に話しかけてくれたので、いくらもかからずに、自然にふるまえるようになった。

 姫様は、普段は暇を持て余している風で、筆をふるって書や絵を描いたり、笛や琴を奏でてみたり、時には邸内を隅々まで掃除してみたり、様々にその日その日を過ごしている。

 

 八意永琳様は、医学薬学においては俺の師匠で、また永遠亭を実質的に運営している。日頃は薬の研究をしていることが多いが、これもまあ輝夜姫様と同様、ほとんど趣味というか暇つぶしのようなものなのだろう。前にも書いたが、医学薬学についての師匠の知識は、驚嘆すべきほどに広く、また深い。俺にとっては、遥かに仰ぎ見る、巨大な山、といった存在だ。

 

 鈴仙(れいせん)・優曇華院(うどんげいん)・イナバさんは、俺と同じく八意師匠の弟子で、俺にとっては姉弟子にあたる。

 元は月に住む兎で、軍隊に所属する兵士だったが、ある時、「地球軍が月に攻めてくる」という噂を聞いて(誤報だったらしいが)、脱走して幻想郷にやってきたのだという。そして、迷いの竹林でうろうろしているところを、運良くてゐさんに出会って、永遠亭に連れてきてもらった。これが今から数十年前。以来今まで、ずっと師匠のそばで生活してきた。なので、医学薬学については俺よりも相当詳しく、実際のところは、俺は、八意師匠よりも、鈴仙さんから教えてもらうことの方が多かったりする。

 性格は明るく、しっかり者で、若干おっちょこちょい。俺にとっては、頼りになるお姉さん、といった感じだ。

 ちなみに、元・月のウサギ、とはいうものの、特徴的な長い兎耳が生えていることを除けば、鈴仙さんの外見はほとんど人間と変わらない。月のウサギは、皆鈴仙さんのような、人間に近い姿をしているのだ、と、八意師匠が言っていた。ウサギがそうだとすると、他の動物、たとえば犬や猫なども、月では人間のような姿で、服を着て二本足で歩いているのだろうか、とその時質問したら、師匠と鈴仙さんに変な目で見られてしまった。「変なこと考えるのねえ」と言われたのだが、果たしてそうだろうか。

 

 鈴仙さんは月のウサギだが、因幡(いなば)てゐさんは、地球生まれの化け兎だ。もともと普通のウサギだったのが、長生きできるよう健康に気を使っているうちに、あまりに長生きしすぎたため、いつしか妖怪化した、と、以前自分で言っていた。どのぐらい長生きかと言えば、それこそ神代の昔から生きているそうで、神話の「大国主命(おおくにぬしのみこと)と因幡の白兎」に登場する「因幡の白兎」とは、すなわちてゐさんのことであるらしい。そこまでいくと、もはや「長生き」で済ませていいようなものではない気がする。鈴仙さんと同じく、てゐさんも、「化け兎」とは言いながら、兎耳と尻尾があること以外は、普通の人間と見た目は変わらない。

 

 こうした人たちに囲まれて、俺は永遠亭で内弟子生活を送っている。

 内弟子、とは言っても、待遇としてはかなり恵まれている。炊事洗濯や掃除といった、雑用を課されることもなく(とはいえ、甘えすぎるのも気が引けるので、自分から申し出て手伝わせてもらっている)、医学薬学の勉強にしても、強制されることは全くない。ただし、師匠や鈴仙さんの方から教えてくれるということもないので、知りたいことがあれば自分から積極的に尋ねなければならない。質問すれば、師匠も鈴仙さんも、懇切丁寧に教えてくれる。天気がいい日に俺がやっている、人里のお客さん回りは、師匠から命じられたものだが、これにしても、「将来独立した時に、自分のお客を確保できるように」という、師匠の気遣いのたまものだ。師匠、姫様、てゐさん、鈴仙さん、皆さん親切にしてくれて、本当に感謝しかない。

 入門してから3年、まだまだ学ぶことは多い。

 



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7月29日

 「そういえば、こないだの話って、結局どうなったんですか?」

 「こないだの話?」

 「ほら、この前話してたじゃないですか。人里の、医者の先生の話」

 「ああ、あれね。ふふーん、知りたい?」

 いたずらっぽく、鈴仙さんは俺の顔を覗き込んできた。午前中の仕事を終えて、鈴仙さんと2人、居間でお昼を食べながらの会話である。

 昨日は綺麗な夕焼けだったにもかかわらず、今朝起きてみたら、外では雨が降っていた。晴れていれば魔理沙のところへ行こうかと思っていたのだが、仕方ない、予定を変更して、鈴仙さんと薬の調合・補充をすることにした。晴れた日は薬の行商、雨だったら永遠亭で調剤・補充、というのが、俺と鈴仙さんの日課だ。

 さて、「こないだの話」の内容だが、簡単に言えば、鈴仙さんが、人里の医者から結婚を申し込まれた、という話だ。

 

 俺と鈴仙さんは、人里を薬の行商をして歩いているが、扱っているのは胃薬や傷薬といった常備薬で、お客さんはもっぱら一般家庭が対象だ。医者は販売の対象外で、だから、鈴仙さんも言われた時は驚いたらしい。そりゃそうだろう。全然知らない相手から、突然結婚を申し込まれたら、誰だって驚く。

 いつも回っているお客さんから、その医者の先生に話が行ったらしい。薬に詳しい、しっかり者の娘さんがいるが、先生の嫁にどうか、とか、たぶんそんな感じだったんだろうと思う。医者の先生の方でも、人里で何度か鈴仙さんを見かけたことがあって、また、他の人からも話を聞いていたらしく、「鈴仙さんの方でよろしければ、ぜひ」ということになったのだそうだ。鈴仙さんが人間ではなくて月の兎だ、ということは、もちろん承知の上だ。

 

 「断ったわよ、もちろん」

 お茶を一口すすってから、鈴仙さんは言った。

 「全然知らない人に『結婚してください』って言われて、『はいわかりました』なんて言えるわけないじゃない」

 「『結婚を前提としたお付き合い』ってのがあるじゃないですか。最初はよく知らない相手でも、付き合っていくうちに好きになる、ってこともあると思うんですけど」

 「うーん…」

 「相手のお医者さんも、評判のいい人なんでしょう?」

 「なに?涼平君は、私にお嫁に行ってもらいたいの?」

 「そんなわけないじゃないですか」

 「まあ、悪い気はしないけどね…」

 少し考えるようにしてから、

 「やっぱり、人間は人間と結婚するべきよ」

 「そういうもんですか」

 「寿命が違いすぎるでしょ」

 鈴仙さんの見た目は俺と同じぐらいだが、実際ははるかに長く生きているらしい。月人は、地球の人間よりも、格段に寿命が長いのだそうだ。

 ちなみに、八意師匠と輝夜姫様は、ともに不老不死だ。「蓬莱の薬」という特別な薬を服用した結果そうなったということで、長命な月人の中でも、あの2人は特別ということらしい。

 「もし私が人間と結婚したとして、相手の方がずっと先に年を取って死んじゃうでしょ。一方で、私は若いままでピンピンしてるわけよ。たぶん相当つらいわよ、それって」

 「…ああ、なるほど。言われてみればその通りかもしれませんねえ」

 「でしょ」

 鈴仙さんが、湯飲みにお茶を継ぎ足してくれた。

 「おとぎ話とかで、たまにあるじゃない、妖精とか天女とか、ずっと長生きな相手と、人間が、愛しあって結ばれるってやつ。2人は幸せに暮らしました、めでたしめでたしって。あれって、ずいぶん勝手な話だと思うのよね。後に残される方のことを全然考えてないじゃない。人間が幸せならそれでいいのかって思うわ」

 「異種族間の結婚っていうのは、やっぱり難しいですかね」

 「絶対に無理とは言わないけどね。けど、やっぱり相当な覚悟が必要だと思うわ。命がけの恋、とかかしらね。寝ても覚めても相手のことばかり思い続ける、あるいは、全てを投げうっても後悔しない、そういうレベルの話なんじゃない。

 愛する人は確実に自分よりも早く死ぬ、自分の子供や孫だって自分よりも先に年老いて死ぬ、自分は若くて健康なままで、それを見守っていかなきゃならない。そういう未来に耐えられるかどうかってことよね、きっと」

 なんだか、予想外に重い話になってきた。まあ、幻想郷にいる限り、鈴仙さんが結婚することはないだろう、ということだ。そのうち月に帰って、幸せな家庭を築いたりするのだろうか…うん?

 「いや、別にそうとは限らないんじゃないですか」

 「ん?どういうこと?」

 「人間と結婚したら、子供や孫も自分より先に死ぬ、ってところですよ。

 それってつまり、生まれる子供は人間だから、月の兎である鈴仙さんより寿命が短い、ってことでしょ?でも、そうとは限らないじゃないですか。たぶん、人間じゃなくて、人間と月の兎のハーフ、半人半妖になるんじゃないですか。だとしたら、寿命だって、人間よりも相当長くなるんじゃ」

 「…ああ、言われてみれば。半人半妖か、そうね。妖夢とか、慧音先生みたいになるのか」

 人間と妖怪の混血である「半人半妖」と呼ばれるような存在も、少数ではあるが、幻想郷にはいる。俺が知っているのだと、寺子屋で先生をやっている上白沢慧音さんとか、剣士の魂魄妖夢さんとかがそうだ。2人とも、相当長命だと聞いた。

 「というか、そもそも、月の兎と人間との間に、子供ってできるものなんですか」

 「どうなんだろう…」

 「鈴仙さんの知り合いの月の兎で、地球の人間と結婚した人っていないんですか」

 「うーん…」

 「なかなか面白い話をしているわね」

 いきなり声を掛けられたのでびっくりした。居間の入り口のところで、八意師匠が、楽しそうにこちらを見ていた。

 「ごめんなさいね。驚かせるつもりはなかったのだけれど」

 「いや、別にいいですけど…」

 「実際に試してみればいいじゃない」

 「…は?」

 「優曇華、あなたと涼平君で、2人の間に子供ができるかどうか試してみなさい」

 「……はあああああ?!?!」

 自分でも驚くぐらいの大声が出た。何を言ってるんだこの人は。

 「冗談よ」

 「タチの悪い冗談はやめてください…」

 「半分は本気よ」

 「あのですね…」

 「考えてみたこともなかったのよ。月人と地上の人間の間に生まれる子供ね、ふうん…」

 興味深そうに、師匠は考え込んでいる。新たな研究対象が見つかったのは喜ばしいことかもしれないが、愛弟子を実験材料に選ぶのはやめてほしい。

 鈴仙さんが静かだな、と思ってそちらを見てみると、

 「…………」

 顔中真っ赤にして、硬直していた。熱病で全身真っ赤になった患者、というのを写真で見たことがあるが、目の前の鈴仙さんは、たぶんそれよりもなお赤い顔をしているのではあるまいか。

 「…あ、あの、鈴仙さん?」

 恐る恐る声を掛けてみたら、目だけを動かしてこちらを見た。次の瞬間、急に立ち上がると、鈴仙さんはものすごい勢いで居間から駆け出していった。

 「可愛いわねえ、本当」

 師匠は余裕の笑みを浮かべているが、正直、笑い事ではない気がする。

 

 結局、その日の午後は鈴仙さんは姿を見せず、おかげで、残りの仕事は俺一人で片づける羽目になった。師匠の冗談は被害が大きすぎる。

 夕食の時にも、鈴仙さんは現れなかった。

 「師匠、ちゃんとフォローお願いしますよ」

 「はいはい」

 軽く受け流されたようだが、まあ、師匠に任せておけば、たぶん大丈夫だろう。姫様は不思議そうに、てゐさんは興味津々といった顔で、俺のことを見ていたが、わざわざ説明する気にもなれない。

 

 翌朝、顔を合わせた時の鈴仙さんは、まだ幾分ぎこちなさがあるような気もしたが、とりあえず普通だった。

 



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7月31日

 魔法の森に入るには、事前に入念な準備が必要だ。

 まず、首や顔、腕など、衣服で覆われていない箇所には、まんべんなく虫除け薬を塗る。有害な花粉や鱗粉などを吸い込まないように、口元をマスクで覆う。手には厚手の革手袋をはめる。少なくともこれだけのことをしてからでないと、普通の人間が魔法の森に入るのはお勧めしない。別にそんなことをしなくても、普通に森の中を歩き回れた、という人もいるだろうが、それは運が良かっただけだ。一歩間違えれば、毒虫に刺され、木のトゲや鋭い葉で怪我をし、毒キノコに触れて掌がただれる、といった惨状になりかねない。命が惜しければ、油断はしないことだ。

 森の中は、昼間でもあまり日が差さずに薄暗い。木や草が茂りに茂って、日光を遮っているからだ。真夏の強烈な日差しを遮断してくれるのはありがたいようだが、熱までは遮断してはくれず、むしろ地面から蒸発した水分が森の中にこもって、じめじめと蒸し暑く、気持ち悪い。マスクに帽子に手袋といった重装備をしていればなおさらだ。やはり、まともな人間が長居するような場所ではない。

 そんな魔法の森の中ほどに、霧雨魔法店はある。

 

 石造りの小ぢんまりとした家の前に、「霧雨魔法店」という小さな木の看板が、地面に刺さっている。店、とはいうものの、商売する気がないことは明らかだ。なにしろこんな場所では人が寄り付くはずもないし、そもそも店主である魔理沙が、魔法の材料採取のために、しょっちゅう留守にするので、いつ営業しているのかも定かではない。俺はもう何度もここに来ているが、店にお客が来ているのを見たことは一度もない。

 木製のドアについているノッカーを鳴らすと、「はーい」と小さな声が聞こえ、どたどたと足音がして、ものすごい勢いでドアが開いた。

 「ようこそ霧雨魔法店へ!待ちかねたぜ!」

 弾んだ声と満面の笑顔は、ここまでの気が滅入るような道中への最高の報酬だ。暑さも疲れも一瞬で吹き飛んだ気がする。

 「暑い中大変だったろう。さあさあ、入って入って」

 引っ張り込まれるようにして家の中に入る。魔法だか結界だかで、常に快適な温度に保たれているここは、扉一枚隔てた外界とはまるで別世界だ。

 居間に案内されて、椅子に座って一息つく。出されたお茶をすすって、あらためてぐるっと見回してみる。なんだか落ち着かない。

 「うん?涼平、どうした?」

 「いや、えらくきれいに片付いてるなと思って…」

 薬の巡回で、もう何度もここには来ているが、こんなにすっきりしているのを見たのはたぶん初めてだ。いつもは、雑多なものが至る所に転がり、床は文字通り足の踏み場もなく、テーブルの上は本が山積みで、部屋全体がとにかく埃っぽい、といった感じなのだが、今日は、まるで訪ねる家を間違えたかと思うほどに、きれいに整頓されて、掃除も行き届いている。

 「そりゃあ、お客さんが来るって分かってれば、私だって掃除ぐらいするさ。一昨日、朝から晩までかかって片づけたんだぜ」

 なるほど、今までは、連絡もしないで、他のお客を回ったついでに訪問していたのがまずかったらしい。一言声をかけるだけで、快適な生活空間が出現するのなら、安いものだ。なるべく心がけることにしよう。

 

 訪ねてきた第一の目的である、薬箱の中身を点検する。いつものことだが、傷薬と栄養剤がだいぶ減っている。霊夢のところでは特に薬箱で減っているものはなかったので、最近は異変も特に起こっていないはずだが、魔理沙のように、日常的に森に採集に出かけたり、魔法の実験をしたりしていると、ちょっとした怪我が多くなってしまうのは、仕方ないことなのだろう。減った分の薬を補充しておく。

 「それと、魔理沙、これは、最近師匠が作った栄養ドリンク。サービスで置いておくから、試しに飲んでみてよ。で、あとで感想を聞かせてくれると嬉しい」

 「お、有難くいただくぜ。永琳にお礼言っといてくれよな」

 魔理沙が栄養不足で倒れる心配は、たぶんこれでずいぶん減ったと思う。こんな心配をしなくてすむよう、普通の規則正しい生活を心がけてもらえるのが一番いいのだけれど。

 「それから、はいこれ、お土産」

 「おお、悪いな。開けていいか?」

 「どうぞ」

 紙袋から中身を取り出した魔理沙は、なぜか変な顔をして考え込んでしまった。

 「……」

 「どうかした?クッキーは嫌いじゃなかったと思ったけど」

 「うん、嫌いじゃない。むしろ好きだ。けどなあ。クッキーか、そうか…」

 どうしたのだろう。だいぶ貧しい食生活を送っているようだったから、何か美味しくて栄養のあるものを、と思って買ってきたのだが。ドライフルーツ入りで、けっこう評判は良かったはずだ。

 ちょっと待っててくれな、と言って、魔理沙はキッチンへと歩いて行った。そして、お盆に乗せて持ってきたものは、

 「魔理沙、それってもしかして…」

 「昨日、クッキーを焼いてみたんだよ」

 まさかかぶってしまうとは思わなかった。変な偶然もあったものだ。そりゃまあ魔理沙も妙な顔をするはずだ。

 「一昨日、部屋を整理してたら、前にアリスに教えてもらったクッキーの作り方のメモが出てきたんだよ。でまあ、ちょうどいい機会だし、作ってみたんだけど…どうする?食べる?」

 もちろん、喜んでいただくに決まっている。せっかく魔理沙が作ってくれたのだ。材料だって、わざわざ買い出しに行ってくれたのだろう。好意を無駄にするわけがない。1枚取って食べてみる。

 「……」

 「どうだ?」

 「…うん…」

 「美味いか?」

 「…うん…うん、美味い。美味しいよこれ」

 「本当か?!」

 「本当だよ。美味しいよこのクッキー」

 「やった!」

 椅子から飛び上がらんばかりに、魔理沙は大はしゃぎしている。よっぽど嬉しかったのだろう。まあ、普段は料理なんてあまりしたことないだろうし。

 魔理沙の作ったクッキーは、上手にできたかと言われれば、正直、ちょっと首をかしげてしまう。形は不揃いでいびつだし、ちょっと焦げているし、硬い。しかし、食べてみると、少し焦げているせいで程よく香ばしいし、硬いのも、いい感じに歯ごたえがあって、意外と美味しい。こういうクッキーは初めて食べた。お茶とよく合う。

 「いやあ、自分でも食べてみたんだけど、美味いかどうか、自信が持てなかったんだよな。アリスのクッキーとは全然違うのができちゃったから、けっこう不安だった。口に合ってよかったよ」

 アリスさんというのは、この魔法の森に住んでいるという魔法使いだ。魔法以外に、料理や裁縫といった、家庭的な技術にも秀でているらしい。俺は本人には会ったことはないが、アリスさんが焼いたというクッキーは、以前魔理沙の家に来た時にごちそうになったことがある。文句なしに美味しかった。

 「今度、アリスに、ちゃんとお菓子の作り方を教わってみようかな。そしたら、涼平、また味見してくれな?」

 望むところだ。魔理沙が研究熱心なのはよく知っている。これからどのようにお菓子作りの腕が上がっていくのか、楽しみだ。

 

 クッキーをお供に、魔理沙お手製のハーブ茶を飲みながら、いろいろ話をする。今日はもう他のお客さんは全部回り終わったので、時間を気にしなくても大丈夫だ。

 話の内容は、魔理沙は最近研究している魔法の話、俺の方は、最近師匠が作った薬の話が多い。医学薬学の話と魔法研究の話は、割と重なり合う部分も多く、異なる分野ゆえの新鮮な刺激などもあって、話していて大変興味深い。

 魔法と科学がどう違うのかといえば、物理法則が通用するか否か、ということになる。例えて言うと、1+1の答えが2であるなら、それは科学であり、もし1+1が100になってしまうのなら、それは科学ではなくて魔法だ。外の世界では、科学が万能で、魔法は既に存在していないそうだが、この幻想郷では、科学も魔法も共存している。科学と同じように、魔法も体系化されて、日々研究が行われており、名高い魔法使いも何人もいる。

 魔法と科学が似て非なるものだというわかりやすい例を、一つ挙げてみようと思う。俺が行商で常に持ち歩いている商品として、火傷の薬がある。数種類の薬草を植物油と合わせて軟膏状にしたものだが、これと全く同じ材料で魔理沙に作らせると、火傷の薬ではなくて、魔法の炎が出来上がるのだ。見た目は緑がかった灰色の粘土といった感じのものだが、これを掌に載せて何度か揉むと、青白い炎が立ち上る。握りこぶしぐらいの大きさのそれは、「魔法の炎」というだけあって、触ってみても熱くないし、雨が降っても風が吹いても消えないという優れものだ。夜中に出歩く時の明かりとして重宝する。霧雨魔法店の主力商品の一つで、こういったものを道具屋に販売することで、魔理沙は収入を得ている。

 こういった感じで、「材料からの製品の精製」「仮定→実験→検証」という過程をたどるのは同じでも、魔理沙と俺とではやっていることは全く異なり、だからこそ、話していて面白い。

 

 気が付いたら、もう日が暮れかけていた。魔法の森は日が差さないとは言っても、さすがに朝昼晩の違いぐらいは、明るさでわかる。魔理沙と話していると、時間の経つのが本当に早い。

 「永遠亭まで送っていく」と魔理沙が言ってくれたが、丁重に辞退する。いつも厚意に甘えてばかりというわけにもいかないし、暗い森の中を、少女に送ってもらうというのは(魔理沙は強力な魔法使いだとはいえ)、ちょっと気が引ける。

 「いやあ、今日は本当に楽しかったよ。ありがとう。客が来るってのは、やっぱりいいもんだな」

 半分は薬売りの仕事で来たのだし、そんなに礼を言われるほどのことでもないが、考えてみると、人跡まれな森の中で、毎日一人きりで魔法の研究にいそしんでいるのだ。明るく活発なのが魔理沙の特徴で、弱音を吐いたところなどは今まで見たこともないが、人恋しくなるようなことも、たまにはあるのかもしれない。

 「また来るよ」

 「うん、またな涼平!」

 互いに手を振りあって、霧雨魔法店を後にする。しばらく行ったところで、ふと振り返ると、玄関先に、魔理沙がまだ立ってこちらを見ていた。俺に気が付いたのか、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、手を振っている。いかにも魔理沙らしい。こちらも飛び跳ねながら手を振り返す。

 永遠亭まではけっこうな距離があるが、今日はずいぶんと楽しい気分で歩けそうだ。

 



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閑話休題2

 霧雨魔理沙という少女について。

 以前も言ったと思うが、自称「普通の魔法使い」。金髪、青い目、白い肌。俺より3歳下、霊夢より1歳下の17歳。小柄な体格で、性格は明朗活発、好奇心旺盛で人懐っこい。

 俺と魔理沙が知り合ったのは、今から4年前ぐらいになるだろうか。幻想郷一帯が赤い霧に包まれるという、通称「紅霧異変」の後ぐらいだったと思う。久しぶりに博麗神社に行ったら、霊夢の他にもう1人、見慣れない金髪の女の子がいて、すぐに仲良くなった、とか、そんな感じだった気がする。「霊夢の友達なら、私の友達だ。よろしく!」と言われたのが、強く印象に残っている。

 

 魔理沙は、元々は普通の女の子だった。「霧雨道具店」という、人里ではかなり大きな道具屋の一人娘で、可愛がられて大切に育てられた、のだそうだ。その普通の女の子が、どうして魔法使いになったのかと言えば、ちゃんときっかけがあって、子供の頃、魔法の森の入り口のあたりで遊んでいたら、「魔法の師匠」に声を掛けられたのだ。

 魔法の森のすぐ近くに「香霖堂」という道具屋がある。店主の森近霖之助さんは、以前霧雨道具店で働いていたそうで、魔理沙とも仲が良い。子供の頃の魔理沙は、よく香霖堂に遊びに行っていて、すぐ近くの魔法の森へも、探検に出かけていたのだという。危ないから奥には行かないように、と、霖之助さんからきつく言われていて、実際、森の入り口付近を散策してみる、といった程度だったようだが、それでも、普通の人間なら好んで立ち入りはしない薄気味悪い森の中に、大喜びで出かけていくあたり、昔から行動力と好奇心は旺盛だったのだろう。

 さて、「魔法の師匠」に最初に声を掛けられた時、さすがの魔理沙も、かなり警戒したらしい。まともな人間ではないことが一目でわかったからだ。なにしろ、足が無くて、背中に羽が生えていて、ふわふわと空中に浮いている、という姿だったらしいから、これで警戒しない人間はさすがにどうかしている。「魅魔」と名乗ったその相手は、しかし、話をしてみると大変親しみやすく、魔理沙はすぐに友達になった。求めに応じて見せてくれる魔法の数々が、まるで夢のように美しかった、と、懐かしそうに魔理沙が話してくれたことがある。その後、魔理沙が魔法の森に出かけて行って、大声で名前を呼ぶと、魅魔はどこからともなく現れて、魔理沙の遊び相手になってくれたそうだ。

 そんなことが何か月か続いて、ある日突然、「もう香霖堂へ遊びに行ってはいけない」と、魔理沙は父親から告げられることになる。魔法の森の中で、大切な一人娘が、得体のしれない妖怪と日々戯れている、と聞いていた親からすれば(魅魔のことを、魔理沙は無邪気に両親に話して聞かせていたらしい)、心配になってしまうのも無理はないと思う。もちろん、「はいわかりました」とは魔理沙は言わない。勝気な子だし、魔理沙にしてみれば、そんなに親を心配させるようなことは一切していない。普通に友達と遊んでいただけなのだ。「これからも遊びに行く」「駄目だ」と、父親と大喧嘩をした後、魔理沙はトイレに駆け込んでカギをかけて、閉じこもってしまった。ドアを叩いても声を掛けても、一向に反応がないので、父親はとりあえず放っておくことにした。そのうち出てくるだろう、と思ったのだろうが、そうはならず、魔理沙はトイレの窓から外に出て、魔法の森まで逃げていってしまった。子供なのに、大した決断力と行動力だ。

 魔法の森で魅魔を呼び出して、魔理沙は事情を話した。魅魔に会えなくなるのは嫌だ、もっとずっと一緒にいたい、と言うと、「それじゃあ、私と一緒に来るかい?」と魅魔は言った。うん、と魔理沙はうなずき、こうして、魔法使いの弟子が誕生した。

 恐怖や不安は一切感じなかった、と魔理沙は言う。わからずやの父親(まあ、当時の魔理沙にとってはその通りだろう)への反発もあったし、なにより、魅魔と同じような魔法を使えるようになりたい、という探求心は抑えがたかったのだ。一緒に来るかい、と魅魔に言われた時には、飛び上がるほど嬉しかったそうだ。

 その後、魅魔に連れられて魔理沙は魔法の森の奥へと入っていき、やがて到着した何とも不思議な空間で、魅魔と一緒に魔法の修行に励んだ。魅魔は「魔界」と言っていたらしい。魔法の修行に一番向いている場所、なのだそうだ。実際、魔理沙の魔法の腕前は、見る見るうちに上達していった。「魔法の才能がある、って、魅魔様に何度も褒められた」と、魔理沙が自慢げに話していた。まあ、実際に才能はあったのだろうし、話を聞く限りでは、魔理沙は「褒めれば伸びるタイプ」だというのを、魅魔がよくわかっていたんじゃないかという気もする。魅魔と一緒に魔界で過ごした日々は、魔理沙にとって、大変充実した、忘れがたい時間であったようだ。

 時が過ぎ、もう立派に一人前の魔法使いだ、との、魅魔のお墨付きをもらって、魔理沙と魅魔は魔法の森に戻ってきた。それからしばらくは、2人で、魔法の森にある魅魔の家で暮らしたそうだ。その家というのが今の「霧雨魔法店」で、つまり、あそこはもともと魅魔が住んでいたのを、魔理沙が譲り受けたような形になる。およそ半年ぐらい、魔理沙と一緒に魔法の森で生活してから、ある日突然、魅魔はいなくなった。「ちょっと出かけてくるから、留守番を頼む」と言って出掛けたきり、いまだに戻ってこないという。いったいどこへ行ったのか、皆目見当もつかないが、魔理沙は、魅魔がそのうち帰ってくると信じている。「魅魔様が帰ってくるまでに、宿題を完成させるんだ」とよく口にしている。宿題というのは、「賢者の石」というマジックアイテムを作り上げることらしいが、話を聞いている限り、完成までの道のりはまだ遠そうだ。

 

 ところで、大事な一人娘がいなくなった霧雨道具店では、当然ながら大騒ぎになった。香霖堂に真っ先に問い合わせが来たが、霖之助さんは「知らない」と答えたそうだ。その後、魔法の森や人里でもできる限り手を尽くして捜索が行われたが、見つかるはずもなく、行方不明、ということであきらめざるを得なくなったようだ。

 知らない、とは答えたが、本当は霖之助さんは事情を承知していたんじゃないか、と魔理沙は言うし、俺もそう思う。魅魔のこともよく知っていて、魔理沙を預けても大丈夫だ、との信頼があって、見て見ぬふりをしてくれた、といったところじゃないだろうか。そうじゃなかったら、自分のよく知っている子供が、妖怪と頻繁に一緒にいるのを知って、放っておいたりはしないだろう。魔理沙がいないときに、霖之助さんと魅魔で何か話し合った、というようなことも、もしかしたらあったのかもしれない。

 

 魅魔がいなくなって、魔法の森で一人で暮らし始めてしばらく経ったころ、人里で、「霧雨道具店」の使用人と魔理沙がばったり出くわした。魔理沙の方で気づいて声を掛けたそうだが、行方不明、とばかり思っていた主人の娘の姿を見て、相手はびっくりした。すぐさま霧雨道具店に一緒に行き、久しぶりの親子の対面となったのだが、感動の再会とはいかず、また大喧嘩をして、魔理沙は店を飛び出し、それ以来現在に至るまで、一切何の交渉もないらしい。親の方では「家に戻ってきて商売を手伝ってほしい」と言うし、魔理沙は魔理沙で「これからも魔法の森で研究を続けるんだ」と言うしで、終始平行線だったようで、まあ、仕方ないのかな、という感じだ。「家出中の不良娘だ」と、時々魔理沙は自分で笑ったりするが、実家への拒絶感情というのも別にないようで、俺が霧雨道具店のうわさ話などを話すと、けっこう面白そうに耳を傾けてくれる。相変わらず霧雨道具店は繁盛していて、魔理沙の両親も元気でやっているようだ。

 



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8月3日

 妖怪の山、と呼ばれる山がある。

 文字通り、天狗や河童といった、様々な妖怪たちが住んでいる山だ。妖怪たちは閉鎖的な社会を構成していて、自分たちと異なる存在(例えば人間)が山に立ち入ろうとすると、集団で排除しようとする。なので、長い間、人間が足を踏み入れることのない地域だった。

 数年前に、少し様子が変わった。山の頂上に、突如として大きな湖と神社が出現したのだ。もともと外の世界にあった神社と湖を、神様の力で、時空を越えて移動させてきた、らしい。神様の力ってすげえな。

 さて、異分子の侵入には極めて敏感に反応するのが妖怪の山だ。すぐさま排除しようと、多くの妖怪が神社に殺到したらしいが、なんと、全て撃退されたという話だ。ほんとすごいな、ここの神様。

 その後、妖怪の山の代表と神社の間で話し合いが持たれ、山の妖怪たちと神社は共存していくことになった。妖怪たちの信仰を得て、神社はおおいに栄えることとなった――だけならいいのだが、どうもその後、霊夢たちとひと悶着あったらしい。詳しい内容はよくわからないが、とにかくそれも無事解決されて、以後現在に至る、というのが、妖怪の山の上にある「守矢神社」にまつわる物語だ。

 妖怪の山の頂上付近にある神社、ということで、里の人間にとっては、存在は知っていても、ほとんど縁のない場所、だったのだが、2年前ぐらいになるだろうか、突然ロープウェーが整備された。これで、ふもとから神社まで、安全かつ手軽に参拝できるようになったわけだ。山の妖怪たちとの約束で、参拝する人間には危害を加えないということになっているそうで、人里で積極的に布教活動を行っていることもあり、最近では、人間の参拝客も増えてきているようだ。

 つまり、薬の行商にも行けるようになってしまったというわけだ。やれやれ。

 

 ロープウェーは、30分に1回の割合で、ふもとと神社の間を往復している。自動運転で、所要時間は10分弱といったところだ。途中、山の上から人里を見下ろすことができる。普段はなかなか見ることができない風景は、新鮮で面白い。今日は、乗っているのは俺1人だ。

 頂上に着いて、乗り場から出ると、すぐ石畳の参道がある。短い階段を上り、大きな石鳥居をくぐれば、守矢神社の境内が広がっている。正面に立派な拝殿、右手に社務所兼住宅。建物は、こう言っては何だが、博麗神社よりも数段豪華だ。相当な年代物でもあるようで、見るからに威厳が備わっている。元の世界では、大変由緒のある神社だったそうだが、なるほどという感じだ。

 境内には、何人かの天狗と…東風谷(こちや)早苗さんがいた。

 「…わあっ、涼平さん?!」

 それまで天狗と話していた早苗さんだが、俺に気づくなり、ものすごい勢いで駆け寄ってきた。というか、突撃してきた。勢い余ってぶつかりかねない。

 「お久しぶりです!お元気そうですね!」

 「…あ、はい」

 「いろいろお話したいことがあるんですよ!」

 つくづく元気な子だ。夏バテなんて言葉は知らないんじゃないか、と思ってしまうほどに、全身活力にあふれている。

 

 東風谷早苗さんは、今年で確か17歳。ここ守矢神社のただ1人の巫女で(風祝(かぜはふり)というらしい)、また宮司を兼ねる。立場としては、霊夢によく似ている。巫女としての能力は確かなもので、悪霊や災いを祓う力を持つ。霊夢や魔理沙が言うのだから、たぶん間違いないのだと思う。人里で信仰を集めつつある、というのも、早苗さんの力があってのことだ。

 性格は、明朗活発、好奇心旺盛で、人懐っこい。魔理沙を全方面で5割増しにしたような性格、と言っておけば、そんなに間違っていないと思う。

 

 ちょっと待っててくださいね、と言って、早苗さんは、社務所へ走っていった。何かまた賑やかなことになりそうな気がする。というか、まずは薬箱のチェックをさせてもらいたいのだが。

 日陰に入って待っていると、

 「こんにちは、お久しぶりですね」

 天狗の1人に声を掛けられた。

 「こんにちは。ああ、ええと…」

 「射命丸文(しゃめいまるあや)と申します。以前、永遠亭に取材をお願いした時に、お目にかかったと思いますが」

 言われて、何となく思い出した。いつだったか、仕事が終わって永遠亭に帰る途中で、竹林の入り口で、鈴仙さんが誰かと話しているのに出会ったが、その時の相手がこの射命丸さんだった気がする。永遠亭の取材をさせてくれという話で、鈴仙さんと2人で、断るのにずいぶん苦労した。その時もらった名刺には確か「文々。(ぶんぶんまる)新聞 記者 射命丸文」とか書いてあったか。

 「どうですか、その後。だいぶ日が経ちましたが、改めて取材を受けてくれたりはしませんかね」

 「いや、俺に言われても…ただの薬売りだし」

 「できれば一言お口添えいただけるとありがたいのですがね。真実だけを伝えますし、永遠亭の皆様に迷惑がかかるようなことは一切ありませんので」

 営業スマイルで、立て板に水とばかりに話しかけてくる。心の底が見えない、こういう相手は、正直苦手だ。たぶん悪意はないのだとは思うが…

 

 射命丸さんは、天狗の中でも、情報収集を担当している、とのことだ。人里や妖怪たちの間を日々飛び回って、様々な情報を見聞していて、そのついでに(なのかどうかはわからないが)「文々。新聞」なるものを不定期で発行している。最近は、この新聞を人里でもたまに見かけるようになった。俺も読んだことがあるが、その印象だと、「真実だけを伝えます」というのは、どうも信じがたい。

 ちなみに「天狗」とは言っても、射命丸さんの外見は人間とほぼ一緒だ。仕事のできそうな、カッコいいお姉さん、といった感じで、昔話に出てくるような、「鼻が高くて、真っ赤でいかつい顔をしている」というようなものを想像すると、たぶん裏切られる。

 

 「お待たせしました!」と言って、早苗さんは、何やら黒いカードのようなものを差し出した。

 「ええと、これは…?」

 「携帯電話です!スマートフォンって言います。略してスマホですね。これがあれば、家の外にいても電話が掛けられるんですよ!」

 「ほほう…」

 「山の河童さんたちにお願いして、作ってもらったんです!」

 最近は、この守矢神社を発信源として、幻想郷の産業革命が進行中だともっぱらの噂だが(原子力発電所ができた、とか霊夢が言っていた)、どうやらこのスマホというのも、その1つの現れであるらしい。

 早苗さんにスマホの使い方を教わる。それほど難しいものでもないようだ。

 「試しに掛けてみますね」

 そう言って、早苗さんが自分のスマホを操作すると、俺の方の着信音が鳴った。画面には「東風谷早苗」と表示されている。

 「もしもし、聞こえますか?」

 「はい、聞こえます…目の前に相手がいるのに、電話で話すというのは、なんだか変な感じだな」

 そうですね、と、早苗さんは楽しげに笑った。

 射命丸さんとも電話番号を交換した。その場の雰囲気で何となく応じたのだが、考えてみると、これはやめておいた方が良かったかもしれない。後でまた取材申し込みの電話とか来るんじゃないか。

 射命丸さんは、今日はこのスマホの取材に来たらしい。すでに妖怪の山の河童と天狗たちには相当行き渡っているそうで、近い将来、人里にも浸透するだろう、ということだった。

 「いつでもどこでも相手と連絡が取れる。これは一つの革命ですよ」

 射命丸さんは実に興味深げだ。確かに大きな社会変化なのかもしれないが、いいことばかりでもないような気がする。仕事の呼び出しが増えたり、とか。

 「それはまあ、その通りですよ、ええ」

 射命丸さんの言葉には実感がこもっていた。携帯電話の良い面とそうでもない面、どちらも現在進行形で体験中なのだと思う。

 参拝客の皆さんに、1台ずつ配ろうと思うんです、と、早苗さんは拳を握りしめた。「文々。新聞」にも記事が載るのだろうし、人里にスマホが定着するのにさほど時間はかからないかもしれない。ついでに、守矢神社への参拝客も増えることだろう。

 

 早速帰って記事を書く、と、射命丸さんは飛び去っていった。俺と早苗さんは社務所へ行く。ちょっと待っててくださいね、と、早苗さんは小走りに廊下を駆けていき、薬箱と神奈子さんを連れて戻ってきた。

 「久しぶりだな、薬屋」

 「ご無沙汰してます」

 「早苗の婿に来る気になったか」

 毎回来るたびにこれを言われる。ほとんど挨拶みたいなものだ。なんだかもう、返事する気にもなれない。早苗さんも、「お婿さんに来てくれる気になりましたか?!」とか、合わせなくていいから。

 「可愛い嫁と、この立派な神社が手に入るんだぞ。別に薬屋を続けても構わないのだし、いいじゃないか」

 「そうですよ、涼平さん!」

 俺にできるのは、笑ってごまかすことだけだ。まったく、どこまでが冗談なんだこの人たちは。

 

 背の高い、凛々しい大人の女性、といった風貌の八坂神奈子さんは、人間ではなくて、ここ守矢神社の主祭神の1柱だ。本来、神様は人間には見えないものなのだが、幻想郷では外の世界と違って、妖怪や妖精が人間と共存しているのだし、まあ、神様が人間と同じ世界で普通に暮らしてもいいか、ということになったらしい。守矢神社に参拝に来ると、神奈子さんや、もう1柱の主祭神である洩矢諏訪子さんが応対してくれることがある。神様と間近で触れ合える神社、というのも、相当珍しいんじゃないか。

 ちなみに、神奈子さんは戦神で、諏訪子さんは祟り神なのだそうだ。2柱とも普段は気さくで温厚だが、もし怒らせたりしたらただでは済まないと思う。なにしろ、先に述べたように、山の妖怪たちの攻撃をすべて退けてみせた神様たちなのだから。

 戦神に祟り神、という、いささか物騒な肩書きの主祭神を祭る守矢神社だが、「無病息災」「恋愛成就」といった普通の願いも受け付けている。どれほどの効果があるのか、ちょっと気になる。

 そういえば、博麗神社の主祭神は、いったいどんな神様なんだろう…

 

 薬箱の中身が減っていないことを確認して、さて、帰ることにする。

 「えーっ?!もう帰っちゃうんですかあ?!」

 「他にもまだ回らなくちゃいけないお客さんが残ってるから」

 「むう、いつもそうやって…。わかりました。また来てくださいね!」

 ばいばい、と手を振って、守矢神社を後にする。ロープウェーに乗り込んで、座席に腰を下ろしたら、どっと疲れが出た。この神社に出入りするには、相当なエネルギーが必要だ。

 ふもとについて歩き出したら、スマホの着信音が鳴った。早苗さんからだ。

 「涼平さん涼平さん!うっかり伝え忘れてたことがあって…」

 スマホ通信用の電波は、現在すべて守矢神社から発信しているのだが、まだ幻想郷全域には届いていなくて、神社から離れたところだと通話ができないそうだ。永遠亭も、今のところ電波の範囲外らしい。

 「近いうちに、博麗神社にも電波の発信基地を置いてもらえるように、お願いしようと思うんです。そうすれば、幻想郷のかなりの部分で通話できるようになると思うんですけど」

 まあ、幻想郷の利益になりそうなことではあるし、あののんきな博麗の巫女なら反対もしないだろう。博麗神社からなら、永遠亭にも多分電波が届くんじゃないだろうか。博麗神社でもスマホを配布したらいいんじゃないか、と思い付きで言ってみたら、早苗さんはたいそう乗り気だった。

 なんだかんだ話しているうちに、突然通話が途切れた。電波の圏外に出たらしい。スマホをしまって、何か妙な雰囲気を感じて周りを見回すと、通行人や近くの店員さんたちが、変なものを見るような顔で俺のことを見ていた。なるほど、スマホを知らない人たちからすれば、変なものを握りしめて、何か笑いながら一人で話している人間というのは、相当奇妙なものに見えたことだろう。

 顔見知りの1人に、何をやっていたのか聞かれたので、スマホのことを説明したら、周囲にちょっとした人だかりができた。明日あたり、守矢神社は、スマホを求める人たちで賑わったりするかもしれない。

 



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閑話休題3

 俺が早苗さんに異常になつかれている件について、弁解させてもらいたいと思う。

 といっても、特に複雑な経緯があるわけでもなく、出会った最初に早苗さんの好感度が最大値を記録して、そこから特に下がっていない、というだけの話なのだが。

 

 新しいお客さんを紹介してあげるから、と霊夢に言われて、博麗神社で会ったのが、早苗さんとの初対面だ。時期的には、守矢神社が幻想郷にやってきて間もなくの頃だったと思う。

 初めて会った時の早苗さんの印象は、おとなしい人だな、というものだった。会話は普通にするのだが、あまり自分から話すことはなく、聞かれたことにだけ答える感じだ。

 「私が山の神社で会った時は、もっと元気が良かったわ」

 と霊夢に言われた時も、早苗さんは困ったような顔でただ笑っていた。

 外の世界から幻想郷に迷い込んできた人たちに、「外の世界ではどんな生活をしていたんですか」と尋ねるのは、ある種の定型文のようなものだ。なので、俺が早苗さんにそう聞いたのも、特に意味があるわけでもなかったのだが、

 「…私、元いた世界では、いらない子だったんですよ」

 予想外に重たい答えが返ってきた。

 

 生まれつき、早苗さんには特別な力が備わっていた。それはつまり、「八坂神奈子」「守矢諏訪子」という守矢神社の主祭神2柱を、実体として認識できる、という能力だ。早苗さんの一族は、長い間守矢神社の神職を務めてきたが、神と交信できるような力を持った当主というのは、数えるほどしかいなかったらしい。早苗さんの両親も、神職を生業とするだけの、ごく普通の人間だった。幼い我が子が、自分たちには見えない何かと言葉を交わしているのを見た時には、おそらく相当驚いたと思うが、よくよく話を聞いてみた結果、これは歓迎するべきことだ、という結論に至った。神の言葉を伝える奇跡の子、として、早苗さんは大事に育てられたそうだ。

 ところが、成長するにつれて、状況が変わってきた。

 中学校に入学する頃には、早苗さんは、頻繁にいじめられるようになったのだという。

 普通の人間と異なる、というのは、憧れの的となることも多い一方で、妬み嫉みの対象ともなりやすい。よくある話だが、ただ、この場合に深刻だったのは、早苗さんをいじめた相手に、苛烈な報復が加えられたということだった。報復したのは神奈子さんと諏訪子さんだ。

 2柱にとっては、自分たちの意思を理解できる早苗さんは、数百年ぶりに生まれた、何物にも代えがたい大切な存在であり、それを傷つける相手を許すことはできなかったのだと思う。ただ、2柱は強大な力を持った神で、しかも軍神と祟り神だ。神様が「ちょっと人間を懲らしめるつもりで」したことでも、人間にとってみれば深刻な被害を引き起こすことになった。

 被害に遭ったのがみな子供だった、というのも問題だった。「たかが子供のやったことなのに」という非難の声は大きかったという。むろん、普通の人間には神の姿など見えはしないのだから、早苗さんのせいだ、というのは立証できはしないのだが、被害に遭ったのが皆早苗さんをいじめていた子供ばかりだということ、そして、早苗さんには不思議な力があるという幼い頃からの噂、これらが合わさって、災害の原因は神社の娘にある、というのは、ほぼ既成事実のようになってしまっていた。

 沸き起こる周囲からの非難、そして娘の将来を悲観して、思い悩んだ末、ある夜、両親は、早苗さんを殺そうとした。

 その時のことは、早苗さんはよく覚えていないのだそうだ。夜眠っている時、急に喉を強く締め付けられた。息苦しい数瞬の後、周囲で何かすさまじい暴風のような音が聞こえ、早苗さんが呼吸を整えて周囲を見回した時には、全てが終わっていた。早苗さんの両親は、その夜から姿を消した。巫女を殺めようとした罰当たりな人間たちが、神の怒りに触れたのだ。

 ほどなくして、守矢神社を幻想郷入りさせるための準備が進められることになった。提案したのは神奈子さんらしい。恐ろしい化け物の住む呪われた神社という評判が広まり、守矢神社への信仰は急速に衰えつつあった。信仰の強さを存在の源とする神にとって、もはや外の世界にいるのは困難となっていたのだ。早苗さんも、粛々と準備を進めた。ここにはもう自分の居場所はないのだ、と思い知ったからだ。

 

 語り終えて、早苗さんは口を閉じた。俺と霊夢も、黙って視線を交わす。

 「どうですか」

 ややあってから、早苗さんに尋ねられた。

 「どうですか、と言われてもなあ、うーん…」

 「別に、驚かないんですね」

 「まあ、割と普通の話だし」

 早苗さんの方が驚いた顔をしたので、説明することにする。

 「いや、いじめとかじゃなくてね。その原因の話だけど。

 神とか悪魔とか、魔法とか超能力とか、幻想郷だと、別に驚くようなことでもないんだよ、そういうの。

 人里で暮らしてるのは、ほとんどが俺みたいにごく普通の人間だけど、『何か人並外れた特殊な力を持った生物が幻想郷にはたくさんいる』というのは、常識としてみんな知ってるから」

 「……」

 「ええと、東風谷早苗さん、だっけ?

 ようこそ幻想郷へ。俺が代表者みたいな顔して言うのも変だけど。

 なんか、いろいろあったみたいだけど、ここでは安心して暮らしていいんじゃないかな、たぶん。霊夢がよく言ってるよな。ほら、幻想郷は…」

 「幻想郷は全てを受け入れる」

 ゆっくりと霊夢は言った。

 「守矢神社、だっけ?外の世界にいられなくなるようなことをしでかしたのなら、それはまあ、あなたの神様は強力なんだと思うわ。

 でもね、安心して。同じぐらいの強大な力を持った存在が、この幻想郷にはたくさんいるのよ。

 強力で厄介な妖怪たちが、時々面倒ごとを巻き起こしても、幻想郷は、平穏無事に今まで続いてきた。だから、きっと今度も大丈夫。

 外の世界でそうだったように、もしこの幻想郷でもあなたの神様が暴れるようだったら、私や魔理沙がまた懲らしめてあげる。私たちじゃダメだったとしても、他の誰かが、きっとなんとかしてくれるから。

 あなたが普通の人間と違う能力を持っているのなら、むしろ積極的に使ってみせるといいわ。珍しがられることはあっても、怖がられることはないはずよ」

 「…あの…」

 「とりあえず、普通に生活してみればいいんじゃないかしら。何か不都合が起きたら、言ってくれれば、相談に乗るわよ」

 「…はい…はい」

 消え入るような声で言って、次の瞬間、早苗さんは泣き出した。大粒の涙が頬を伝って、スカートに滴り落ちる。泣きじゃくる早苗さんを、俺と霊夢は黙って見ていた。

 

 そしてまあ、現在の早苗さんが出来上がるわけだ。

 今まで押さえつけられていたのが、自由に生活できるようになって、よっぽど嬉しかったんじゃないだろうか。会うたびごとに、早苗さんは元気になっていった。初めて会った時のしおらしさが、今となっては嘘みたいだ。霊夢や魔理沙とも仲良くなって、一緒に異変解決に出かけたりしているらしい。充実した毎日を送れているらしいのは結構だが、「妖怪退治って楽しいですね!」とか元気いっぱいに言ってるのは、さすがにどうなんだろう。

 最初に会った時の印象で、俺のことは「すごく良い人」と早苗さんに認識されてしまったようで、以来、妙になつかれている。普通に話を聞いて、当たり前の感想を言っただけなんだけどな。まあ、落ち込んだ人が立ち直るきっかけになれたのなら、嬉しいことだ。早苗さんがどんな風に伝えたのか、神奈子さんや諏訪子さんに会うたびに「婿に来い」と言われるのは、正直何とかしてほしいが…



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8月14日

 夜中にスマホが鳴ったのでびっくりした。知らない番号だ。

 「…もしもし?」

 「涼平?」

 「…ああ、霊夢か。こんばんは」

 「こんばんは。よく私だってわかったわね」

 言われてみるとその通りだ。そんなに特徴的な声というわけでもないのに、よく霊夢だってわかったな俺。いや、そんなことよりも、今俺は永遠亭にいるのに、こうやって霊夢とスマホで話ができているというのはつまり、

 「スマホの発信基地の工事が終わったみたいだね」

 「ええ。昨日今日と、河童たちがたくさん来て、なんだかいろいろやっていったわ。納屋に大きな機械を置いていって、後ろに大きなアンテナを据え付けていったのかな。

 本当に電波が届くようになったのか、試しに掛けてみたんだけど、どう、ちゃんと聞こえる?」

 「ああ、大丈夫。綺麗に聞こえてるよ。そっちはどう?」

 「うん、私の方も大丈夫」

 それはよかった。しかし、「基地」とか言うから、もっと大掛かりな工事なのかと思ったら、意外と短期間で済むんだな。

 「…」

 「…」

 「……」

 「……」

 「…霊夢?」

 「なに?」

 「いや、急に黙っちゃったから、いるのかどうかと思って」

 「私があまり話さないのは、いつものことだと思うけど」

 「うーん、まあ、その通りなんだけど…」

 のんきでおとなしいのが霊夢の性格だ。俺と神社で一緒にいる時も、特に何を話すというわけでもなく、縁側でお茶を飲みながら日向ぼっこをしている、というようなことがよくあって、俺もそれで窮屈を感じることもなかったのだが、

 「やっぱり、実際に会ってるのと、電話越しに話してるのじゃ、感じが違うな。黙ってちゃ間が持たない」

 「私はそうでもないけど」

 「そう?」

 「電話のすぐむこうに涼平がいるんだって想像するとね、なんだか落ち着くのよ」

 「…ちょっと試してみる」

 すぐそばに霊夢がいる、と、目を閉じて想像してみる…うん、なるほど、別に黙っていても大丈夫かもしれない。いやでも、

 「いや、せっかく電話を掛けてきてくれたんだから、何か話そうよ」

 そうね、と、霊夢の笑い声が聞こえてきた。

 「博麗神社でも、スマホを配ることにしたの?」

 「うん、私は別に構わないんだけどね。今、スマホを欲しがってる人がずいぶんたくさんいるらしくて。生産が追い付いていないらしいわ。だから、配るのは、たぶんもう少し先かな」

 「へえ…」

 「でも、何個かは置いていってもらったから。永遠亭の分、取りに来たら?」

 「ああ…じゃあ、鈴仙さんとてゐさん、師匠と姫様、四人分取っておいてもらおうかな。近いうちに取りに行くから」

 「うん、わかった」

 「……」

 「……」

 ヤバい、話題が尽きた。霊夢と電話で話すのなんて、久しぶりすぎて、どうも調子が狂うな。子供の頃は、けっこう普通に電話してた気がするけど。話題、何か話題を…ああ、でも、別に話すことが無かったら、電話を切ればいいのか、などと考えていると、

 「今夜は月が綺麗よ」

 「へえ、そうなんだ」

 「たぶんね」

 「…たぶん?」

 「今いるところからだと、窓がないからよくわからないの」

 「あのな…」

 「ちょっと確かめてみるわね」

 …まあ、霊夢なりに、頑張って話題を提供してくれたのだろう。電話の向こうで、霊夢が移動している気配がする。ついでに、俺の方でも外に出てみようか。

 「あら、本当にきれいな月」

 「本当だ」

 「あら、涼平も外に出てきたの?」

 「月が綺麗だ、って教えてくれる巫女さんがいたもんでね」

 霊夢の楽しそうな笑い声が聞こえた。

 満天の星空に、中空に浮かぶ青白い月。満月ではないけれど、神秘的な輝きで、なかなか良いものだ。夜の空を意識的に見るのなんて、考えてみたら初めてのことかもしれないな。

 「涼平のところからは、どんなお月様が見える?」

 「…間違いなく、霊夢が見てるのと同じだと思うけど」

 「そうなの?」

 本気で言っているのか冗談なのか、霊夢は昔からこういうところがある。

 「永遠亭のお姫様なら、こういう月を見て、さらさらと3つ4つぐらい、即座に歌を詠んでみせるんでしょうね」

 「ああ、そうかも」

 「涼平は、何か一首思い浮かんだりしない?」

 「名月や」

 「うん」

 「名月や…駄目だ、何も思い浮かばない。霊夢は?」

 「私もダメね」

 「神職は、和歌なんかの古典教養も豊かなものなんじゃないの?」

 「私はあんまり教わらなかったかな、そういうの」

 「ふうん…」

 「こうして月を見ていると、なんだか、永夜異変を思い出すわ」

 「ああ…、そういえば、今まで詳しい話を聞いたことがなかったけど、よかったら聞かせてくれないかな、永夜異変」

 「いいわよ。でも、ちょっと待ってね」

 「どうかした?」

 「家の中に入るから。外は、虫がいて大変」

 「…ごめん、気が付かなかった。永遠亭には、虫なんて寄ってこないから」

 「うらやましいわね」

 その夜、初めて永夜異変の様子を教えてもらった。かなり大変な事件だったと思うのだが、霊夢が話すと、いたってのんびりしたものに思えてしまうのが、なんだかおかしい。永遠亭で一緒に暮らしている人たちの、現在とは違う一面がいろいろと知れたのが面白かった。姫様ってそんなに力持ちなんだな。見た目は本当に深窓のお姫様という感じなんだけど。

 話しているうちに、何か変な音がするようになったので、スマホを見てみると、そろそろ電池が切れそうだ。気が付かなかったけど、ずいぶん長く話してたんだな。

 「霊夢、ごめん、そろそろスマホの電池がなくなりそうだ」

 「あら、そう」

 「霊夢の方は大丈夫?」

 「私は、電源につないで話してるから」

 なるほど、そういう手があるのか。勉強になった。

 電話してくれてありがとう、楽しかった、と言ったところで、ちょうど電池がなくなった。スマホを片手に、部屋に戻ろうとしたら、すぐ近くに鈴仙さんがいたのでびっくりした。

 「やーい、驚いた」

 「そりゃまあびっくりしますって…いつからいたんですか」

 「30分前ぐらいかな」

 「ずっとそこで話を聞いてたんですか」

 「勝手に聞こえてきたのよ。夜中に廊下で電話なんかする方が悪いと思うわ」

 「それはまあ、その通りかもしれませんが…」

 「私たちのことを話してたでしょう?」

 「ああ…永夜異変の時のことを、霊夢に教えてもらってました」

 「本人たちのすぐそばで、噂話をするのは、どうかと思うわ」

 「すみません」

 「さっきまで、師匠と姫様もここにいたのよ」

 「うわあ…」

 「私が呼んできたんだけど」

 「なにやってくれてるんですか…」

 「スマホ、だっけ?それで話してるところは初めて見るし、あんなに楽しそうにしてる涼平君を見るのは初めてだったから」

 えらく恥ずかしいところを見られてしまった。今後は気を付けないといけない。師匠と姫様にも、明日の朝謝った方がいいかもしれないな。

 近いうちに、鈴仙さんたちの分のスマホももらってきます、と言ったら、鈴仙さんは興味深そうな顔をしていた。

 



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8月20日

 一緒にお昼を食べよう、という電話が、昨日の夜、魔理沙から掛かってきた。スマホを持ってから、いろいろと珍しい話が来るようになったな。お昼ごろに、霧の湖で待ち合わせだそうだ。

 

 「霧の湖」というのは、妖怪の山のふもとにある湖の名前だ。その名の通り、昼間は一面に霧が立ち込めていて、見通しが全然きかない。妖怪たちの住処になっている、というような噂があって、普通の人間はあまり近寄ったりはしないのだが、中には、好んで訪れる釣り人などもいたりするらしい。

 俺が来た時も、やはり霧が濃くて、魔理沙がどこにいるのかさっぱりわからない。こういう時、スマホというのは本当に便利だなと感じる。

 魔理沙に電話すると、ほどなくして、白い霧の向こうから、箒に乗ってやってきた。そのすぐ後ろから、誰かもう一人、やはり空を飛んでこっちに向かっている。

 「よう、涼平、はるばるご苦労さん」

 「お誘いいただきありがとう。ええと、そちらにいるのは…?」

 「チルノだ。氷の妖精。涼平は、会うのは初めてか?」

 チルノ、と紹介されたその妖精は、背丈は、人間の子供ぐらい。水色の髪に水色の服、背中に、何か大きな結晶のような形の羽(なんだと思う、たぶん)があって、宙に浮いて、不思議そうに俺のことを見ている。

 「…お前がお昼ごはんか?」

 なんだか物騒なことを言われた気がする。

 「魔理沙、あたい、人間は食べないよ?」

 「ああ…、いや、『お昼ご飯が待ってる』とは言ったけどな…。違う違う、お昼ご飯は別にある。こいつは、河野涼平。私の友達だ」

 「おー、そうか。りょーへい、あたいはチルノ!よろしくな!」

 よろしく、と、俺もあいさつする。妖精に会うのは初めてだが、元気な子だな。見ていて気持ちがいい。

 

 チルノと魔理沙は、以前からの友達らしい。

 「最初は、異変解決の時に会ったんだけどな。その後、この辺に来ると、時々会う。どこに住んでるのかわからないから、私から訪ねて行ったりはしないんだけど、チルノの方が寄ってくるんだよな。で、『あたいと勝負だ!』って」

 「絶対魔理沙に勝って、ぎゃふんって言わせてやるんだ!」

 「おう、頑張れよ。

 昨日も、紅魔館に本を借りに行った帰りに出くわしてな。軽くひねってやったんだけど、『もう一回勝負しろ!』って、聞かなくてさ。もう夕方だったし、明日勝負してやるってことにしたんだ。今日も、今まで戦ってたんだぜ」

 遠くの方で何か爆発するような音が聞こえていた気がしたが、あれが多分そうだったんだろう。戦い、とは言うけれど、魔理沙にとってはスポーツみたいなものなんだろうな。いい汗かいた、みたいな顔をして、満足そうだ。

 

 魔理沙持参のシートを広げて、昼食にする。箒にくくり付けていたバスケットから魔理沙はサンドイッチや飲み物を取り出しているが、ずいぶん量が多いな。まさか魔理沙一人でこれだけ食べるのか?…ああ、チルノの分もあるのか。いや、それにしても、

 「魔理沙、他にも誰か来るの?」

 「ん?いや、その予定はないけど、どうした?」

 「ずいぶん量が多くないか、そのサンドイッチ」

 「いや、三人分だから、こんなもんじゃないのか」

 「…え?」

 「…え?」

 魔理沙と顔を見合わせる。何かが決定的に食い違っているらしい。

 「…俺の分もあるの?」

 「もちろん。昨日電話でそう言っただろう?」

 「言われてないけど」

 「あれ?」

 「お昼を一緒に食べよう、としか聞いてないな。だから、俺は自分の弁当を持ってきたんだけど」

 「そうだったか?」

 しばし無言。なんだか気まずい感じだ。

 「あー、まあ、あれだ、作りすぎた分は、持って帰って、私が食べることにするか。晩ご飯作る手間が省けたな」

 「いただきます」

 「いや、無理して食べてくれなくても…」

 「いただきます。お願いだから、いただかせてください」

 「そ、そうか…うん、だったら」

 俺の記憶にある限り、魔理沙が手料理をふるまってくれるというのは、今回が初めてだ。いや、この前のクッキーがあるから、二回目か…でも、普通は、お菓子なんかは「手料理」とは言わないから…ええい、とにかく、きわめて貴重な機会だ。無駄にするわけにはいかない。

 サンドイッチ、というのは、ご存じの通り、パンに具を挟むだけの、ごく簡単な料理だが、今日魔理沙が作ってきてくれたのは、サラダとかゆで卵とか、具にもそれなりに手間暇がかかっている。料理なんてほとんどしたことがないだろうに、頑張ったな魔理沙。味だって、普通においしい。

 「おいしいね、このサンドイッチ」

 「うん、自分でもよくできたと思う」

 魔理沙は満足そうだ。

 「この前のクッキーの出来があんまりよくなかったからさ、、アリスに、上手な作り方を教えてもらいに行ったんだよ。その時に、サンドイッチの作り方も教えてもらったんで、今日は、ちょうどいい機会だと思って、作ってきたんだ」

 魔理沙にとって魔法の師匠が魅魔なら、料理の師匠はアリスさんになるのだろうか。今後とも魔理沙をよろしく導いてください、と、心の中で祈っておこう。

 チルノも、魔理沙のサンドイッチを頬張っている。小さい体に似合わず、大した食べっぷりだ。というか妖精も食事ってするんだな。

 「別に、何も食べなくても死にはしないけど、食事しちゃダメってことはないらしいぜ。味もちゃんとわかるらしい。

 どうだチルノ、美味いかそれ?」

 「うん、美味い!魔理沙、料理上手だな!」

 「おー、正直な感想ありがとう。ほらほら、もっと食べろ」

 妖精というのは、自然そのものだと聞いた。光の妖精、風の妖精、いろいろいるらしいが、いずれも自然が、人間に似た形をとったものだそうだ。光や風がそうであるように、妖精にも、寿命というものはない。食べなくても眠らなくても、ずっと平気で生きられるし、たとえ消滅するようなことがあっても、すぐまたどこかで生まれ変わる。そんな風な、一種神秘的な生き物だと今まで認識していたのだけれど、こうやって実際間近で見てみると、ずいぶんと人間らしいところもあるんだな。

 せっかくなので、俺が持ってきた弁当も提供することにする。おにぎりが3個なので、ちょうど一人一つずつだ。

 「……」

 おにぎりを一口かじったところで、魔理沙は変な顔をして固まってしまった。無言で俺の方を見る。なんだなんだ?

 「ちょっと聞きたいんだが、このおにぎり、誰が作ったんだ?」

 「今日は、てゐさんだったと思うけど…」

 「だと思った」

 魔理沙がおにぎりを差し出して見せた。白いご飯の真ん中に、何か緑色の具が見える。あー、たぶんこれは…

 「…わさび?」

 「大当たり」

 魔理沙はうっすら涙目だ。なんというか、お気の毒さま、と言うしかないな。

 てゐさんのいたずら好きは有名だ。それはもういろいろと趣向を凝らして、思いもよらないような方向から、意表を突いた悪戯を仕掛けてくる。たいがい被害に遭うのは鈴仙さんだが、他の人間が標的になることもたまにある。今回は、運悪く、魔理沙に流れ弾が当たったらしい。

 ちなみに、俺のおにぎりの具は梅干しで、チルノは、具なしの塩おにぎりだった。

 

 魔理沙のワサビおにぎりは回収するとして、それ以外のおにぎりとサンドイッチは、三人で綺麗に平らげた。俺もだいぶ腹いっぱいになったが、それ以上に、チルノがよく食べたと思う。にもかかわらず、チルノはごく平然とした表情をしている。あれだけ食べたものは、その小さな体のどこに消えたのか、妖精の体の仕組みというのはいったいどうなっているのか、なんだか興味がわいたが、果たして、調べてわかるものなんだろうか。

 チルノと魔理沙は、午後も引き続き対決するらしい。先に行って待ってる、と言って、チルノは元気よく霧の向こうに飛び立っていった。

 「妖精って、本当に元気だな」

 「あいつらは、たぶん『疲れる』って言葉を知らないんだと思うぜ」

 笑いながら、魔理沙はハーブ茶を口に運んだ。

 「魔理沙、今日はありがとう」

 「ああ、こちらこそ。サンドイッチ、喜んでもらえて良かったよ」

 「うん、美味しかった」

 嬉しそうな笑みが魔理沙の顔に広がった。

 「いやあ、自分が作ったものが褒められるってのは、本当に嬉しいもんだな。

 涼平は、正直なのがいいよな。お世辞とか言わないもんな」

 割とありふれた性格だと思うが、まあ、魔理沙が喜んでくれるのなら、別にいいか。

 氷の妖精が飛んで行ってしまったので、暑さがぶり返してきた。すかさず、魔理沙はミニ八卦炉を作動させる。ひんやりとした空気が流れ出して、お昼を食べたばかりということもあり、ヤバい、午後の勤労意欲が失われてしまいそうだ。

 20分後、魔理沙に手を振って、酷暑の中、午後の仕事に出かけるには、けっこうな精神的努力が必要だった。

 

 ちなみに、夜、永遠亭に帰ってから確認してみたら、鈴仙さんもワサビ入りおにぎりに当たったらしい。ご愁傷さまです。

 



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9月1日

 両手を大きく上げて、思い切り伸びをする。見上げる空は、今日も抜けるように青い。今日から9月だが、真夏の太陽は昨日までと何も変わりがなく、今日も蒸し暑くなりそうだ。

 スマホで時間を確認する。7時55分。いよいよだな、と、気合を入れる。正直なところ、不安も結構大きいのだけれど。

 もう一度、永遠亭の入り口に掲げられた看板を確認する。大きな一枚板でできているそれには、輝夜姫様の直筆で、次のように記されている。

 

   八意診療所

   診療日 月・水・金

   診療時間 8時~12時

 

 八意診療所、本日より診療開始だ。

 

 事の始まりは、半月ほど前に俺に掛かってきた、射命丸さんからの電話だ。

 永遠亭の取材をさせてほしい、という、予想通りの電話で、八意師匠に話をつないだのだが、二つ返事でOKしてしまったのは驚いた。てっきり、断るものだとばかり思っていたのだけれど。

 その翌々日が取材日だった。射命丸さんのインタビューに、師匠が答える形で、俺と鈴仙さん、てゐさんも同席していた。無駄のない質問や、テキパキと写真を撮影する姿を見て、さすがプロの新聞記者だ、と、心中ひそかに感心していたのだが、取材もそろそろ終わりという頃になって、

 「それから、来月の初めから、人里の人たち向けに、永遠亭で診療を始めようと思うから、そのことも、しっかり記事に書いておいてね」

 ほんのついでのような口ぶりで師匠が言ったのにはびっくりした。射命丸さんと鈴仙さんも驚いたようで、てゐさんだけが、面白そうな顔をしている。

 

 「私たちも、幻想郷で普通に暮らしていこう、そう思ったのよ」

 射命丸さんが帰った後で、師匠がそう説明してくれた。

 長きにわたって、永遠亭は、幻想郷にありながら、誰にも知られることのない存在だった。人目を忍ぶだけの理由があったのだが、3年前の永夜異変の際に、もはやその理由がないことが明らかになった。以来ずっと、幻想郷と永遠亭の関わりについて、師匠と輝夜姫様は考え続けていたのだという。

 今までと変わらずに、外との交わりを閉じて暮らしていくことも、一つの選択肢ではあった。しかし、少しずつ、幻想郷との交流を広げていく中で、幻想郷の住民として普通に生きていこう、という結論に至ったらしい。俺と鈴仙さんが行っている、人里での薬の販売、さらには、俺が永遠亭に内弟子として入ったことも、永遠亭と幻想郷の今後の関わりを考える上でのテストケース、ということだったようだ。

 つまり、俺が何かとんでもないヘマをやらかしていたら、現在の幻想郷と関わるのは時期尚早と判断されて、再び永遠亭が歴史の闇へと消え去っていた、というようなこともあり得た、ということだ。

 知らずに背負っていた責任の重大性に気づいて、本気で背筋が寒くなる。どうにか師匠の期待を裏切らずに済んだらしいのは、本当にとんでもない僥倖だったんじゃないだろうか。

 

 診療開始日は9月1日、診療時間は当面午前中のみ、ということが決定事項として伝えられたので、俺達はそれに向けて準備をしていくことになった。診療所としての体裁を整えたり、薬販売の訪問の際に診療開始のお知らせを配ったりといったことだが、

 「ああそれと、涼平君、優曇華、週3日の診療日のうち1日は、あなたたち2人に担当してもらうから」

 師匠がまたサラッととんでもないことを言い出した。事前に相談するのを忘れるのは、天才肌の人間にありがちな欠点、などとのんきに構えてる場合じゃない。今なんて言った?

 「…俺と鈴仙さんの2人で、患者を診るんですか?」

 「ええ、その通りよ」

 「鈴仙さんはともかく、俺は薬が専門で、治療なんてしたことがないんですが」

 「でも、永遠亭に来てから今まで、いろいろ勉強したわよね?

 大丈夫、私が保証してあげる。あなたはもう十分、医療行為を行うだけの知識と技術を備えているわ。足りないのは経験だけよ。

 迷ったり、わからないことがあったら、いつでも相談しなさい。いいわね?」

 はい、と返事はしたものの、「本当に俺なんかで大丈夫なんだろうか」という思いは消えない。鈴仙さんは、と見ると、こちらは意外と平然としていた。

 

 そして今日、9月1日、八意診療所の開所日であり、俺と鈴仙さんの医者としての初仕事の日でもある。どうにも落ち着かず、診療所の前をウロウロしていたら、入口から鈴仙さんが顔を見せた。

 「中に入って待ってなさいよ」

 「いや、何かやってないと、不安で不安で…」

 「医者が動揺しててどうするのよ。落ち着きなさい。患者さんが見たら、不安になっちゃうでしょ。とにかく中に入って」

 頭ではわかっているんだけどなあ。促されて、診療所に戻る。

 診療所は、永遠亭の離れを模様替えしたものだ。建物を仕切りで二つに分けて、入口を入ってすぐ待合室、隣が診療室になっている。待合室は、長椅子を2つ置いただけだし、診療室も、椅子や机・薬品棚など、最低限のものを用意しただけだが、まあ、おいおい充実していくのだと思う。医院の規模としてはごく小さなもので、患者が7~8人も来ればいっぱいになってしまうだろう。入院設備などもないので、重篤な患者などは、人里の医院に処置をお願いすることになる。「八意医院」ではなくて「診療所」という名称を選んだのは、理由がないことではない。

 あくまで、現在の医療体制の補助を務めよう、というのが、師匠たちの考えだ。なにしろ、薬を飲んで不老不死になる、なんていうのを千年も前に成し遂げてしまうような人たちだ。普通の病気であれば、ほぼ治療できてしまうのだろうし、人間の寿命を月人並みに延ばす、というようなことすら、可能かもしれない。しかし、そうしたことは、師匠たちはするつもりがないようだ。「幻想郷で普通に暮らしていこう」と師匠は言った。つまり、医療においても、特別なものではなく、現在行われているのと同じレベルを提供しよう、ということだ。正しい選択だと思う。

 

 「鈴仙さんは、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか」

 思い切って聞いてみることにした。8時を過ぎたが、まだ患者さんの姿はない。

 「どうして、って言われても、ねえ。慌てる理由が無いし」

 「今まで、患者を診察した経験ってあるんですか?」

 「涼平君はないの?」

 本当に不思議そうな顔で言われると、言葉に詰まるな。たぶんない、と思いますが…

 「たとえば、薬の販売の仕事で、お客さんの家に行くわよね。そこで、『最近、なんだか体がだるい』と言われたとしたら、涼平君ならどうするの?顔色を見たり、触診したり、他に自覚症状がないか尋ねたりして、自分の知識に照らし合わせて、病名や症状名を類推したりするんじゃないの?そうして、効果のありそうな薬を選んであげたり、場合によってはお医者さんにかかるようにアドバイスしたり。私はそうしてるんだけど」

 「それは…まあ、そうですね。俺も一緒です」

 「だったら、何も緊張することないじゃない。今までもこれからも、することなんて、ほとんど同じよ、きっと。

 私たちが今までやっていたのは、薬の訪問販売だけど、考えてみたら、半分はお医者さんの往診みたいなものね。今までは特定のお客さんばかり診ていたけれど、これからは、いろんな患者さんが診療所にやってくるかもしれない。それぐらいじゃないのかな、違うところって。

 手術が必要な患者さんなんかは、まあ、大変だろうけど、そういうのは、たぶん師匠がやってくれるわ。私たちは、できることだけをやればいいと思う。涼平君も、ちょっとした怪我や、骨折の治療ぐらいは、できるわよね?」

 「…鈴仙さん」

 「なに?」

 「ありがとうございます。すごく落ち着きました」

 「よろしい」

 いたずらっぽい笑顔を見ていると、なんだか涙が出そうだ。鈴仙さんが姉弟子にいてくれた幸運を、心の底から感謝したい。

 考えてみれば、というか、考えるまでもなく。ここ永遠亭には、幻想郷随一の医学の権威と言って良い八意師匠がいて、その師匠に付いて何十年も一緒にやってきた鈴仙さんがいるのだ。俺なんてオマケみたいなものだ。理論だけではなく実践の機会を与えようという、師匠の心遣いに感謝して、できる限りのことはやらないといけない。不安におびえてる場合じゃない。よし、頑張ろう。

 

 いちおう断っておくが、薬剤師が医療行為をしてはならない、というような決まりは、幻想郷にはない。というか、そもそも、医者や薬剤師を名乗るための資格制度というものが存在しない。極端なことを言うなら、昨日まで和菓子屋をやっていた人間が、今日から医者を名乗って商売替えする、というようなことだって、できなくはない。とはいえ、そう広くもない幻想郷のこと、知識もないのに医者や薬師を名乗ったところで、間違いなくすぐバレる。現在人里で開業している医院や薬屋は、外の世界でそうした職業についていた人が幻想郷に流れてきたか、先祖代々幻想郷で医者や薬師を続けているか、あるいは俺のように、師匠に弟子入りして、一人前になってから独立したか、のどれかのはずだ。

 

 さて、頑張ろう、と気合を入れたのはいいのだが、

 「…来ませんね、患者さん」

 「そうねえ」

 もうすぐ9時になろうというのに、診療所のドアが開く気配はまるでない。

 まあ、人里からは少し離れているし、今までは永遠亭の存在はまるで知られていなかったのだし、たいていの人はかかりつけの医者がすでにいるだろうし。新しく診療所ができたからといって、大賑わいになる、といったものでもないだろうが、それにしても暇だ。

 姫様たちが永遠亭の周囲に施していた目くらましの術は、すでに解除されている。竹林の入り口に案内板も設置した。薬の販売で訪問したお客さんには、略地図付きの案内を配って説明したし、文々。新聞でも、大きく取り上げてもらったんだけどなあ。

 永遠亭の特集記事が載った文々。新聞を、もう一度眺めていると、ようやく誰かが歩いてくる音が聞こえた。さて、記念すべき患者さん第一号はどんな人だろう、と、期待と不安交じりで待っていると、

 「こんにちはー!開院おめでとうございます!!」

 入ってきたのは、早苗さんと射命丸さんだった。

 「ああ、こんにちは…確認だけど、患者として来たんじゃ、ないよね?」

 「はい、私はいたって元気です!

 永遠亭の皆さんが、新しく診療所を始めるって新聞記事を見たので、お祝いに来ました!」

 「…ああ、そう、ありがとう…射命丸さんは、今日も取材ですか」

 「はい、おっしゃるとおり。

 新しく病院ができた、という程度なら、普通は記事にしたりはしないのですけれどね。長きにわたって神秘のヴェールに包まれてきた永遠亭が、新たに幻想郷との交流を始めようとしている、となれば、また話は違いますので。

 八意先生には、電話で取材許可をいただいています。本日は、どうぞよろしくお願いします…患者さんの姿は、まだ見えないようですね」

 「ええ、まあ…とりあえず、こちらへどうぞ」

 診察室へ2人を案内する。久しぶり、と、鈴仙さんと早苗さんは嬉しそうに挨拶していた。そういえば、この2人は知り合いだったな。一緒に異変を解決した、と、鈴仙さんが以前話していた。

 「おや、新聞、ちゃんと読んでいただけたようですね」

 射命丸さんは、机の上の文々。新聞に気が付いたらしい。

 「ええ。いい記事にしていただいて、ありがとうございます。師匠と姫様も、褒めてましたよ」

 「おやおや、過分なお言葉、ありがとうございます。賞賛されるのには慣れていないのですがね」

 「実は、もっと何か仰々しい記事になるんじゃないかと思っていました」

 「正直な方ですねえ」

 射命丸さんは苦笑しながら、

 「確かに、誇張したような記事を書くことも多いですけどね。それは、読者の興味を引こう、との意図があってのことですよ。どれだけ正しいことを書いたとしても、それが相手に届かなければ意味がない。読者の心に訴えることを第一に、というのが、文々。新聞のモットーです。

 今回の永遠亭の特集記事は、特に飾り立てる必要のない、素材だけで十分に魅力的なものでした。今まで全く知られていなかった謎の存在の、特ダネスクープですからね。むしろ、変に誇張したりせずに、取材したそのままを記事にした方が、良いものになる。そう判断したまでです。

 喜んでいただけたのなら、なによりですね」

 頷ける部分もあり、そうでない部分もあるが、射命丸さんなりにポリシーのようなものはあるらしい。今回の記事も、取材したそのままを書いてくれると良いのだけれども。

 「涼平さんも、患者さんを診察するんですよね?!」

 好奇心に満ちた目で、早苗さんが聞いてきた。

 「うん、そういうことになるみたい」

 「私、涼平さんがお医者さんもできるなんて、知りませんでした!」

 「大丈夫、俺も知らなかったから。一人前の医者として、十分やっていけるって、師匠から太鼓判をもらったよ」

 「どうしようどうしようって、さっきまで震えてたけどね」

 鈴仙さん、そういうことは、どうか黙っていてください…

 「私、涼平さんが診察してるところを見てみたいです!」

 「といっても、患者さんが来ないことにはなあ…

 なんだったら、早苗さんの健康診断でもやってみる?」

 「身長とか体重を測ったり?」

 「そう」

 「……」

 早苗さん鈴仙さん射命丸さんの視線が俺に集中している。何か変なことを言っただろうか、と思った次の瞬間、

 「涼平さんのエッチ!」

 「すけべえ」

 「あやややや、涼平さんも、男の子ですねえ」

 息の合った三段攻撃が飛んできた。医者が患者を診察するのに、どうしてこんな言われ方をしなくちゃいけないんだろう。理不尽だ。

 それでも、いい機会だからというので、鈴仙さんが担当で、早苗さんの健康診断をしてみることになった。俺は待合室に追い出されて、女性3人の楽しそうな声を、仕切り越しに聞くことになる。

 「あら、早苗って、思ったよりも立派な体してるのねえ」

 「本当ですね。羨ましいぐらいです」

 「私、けっこう着やせするタイプなんですよ!」

 …刺激的な内容を大きな声で話すのは、もう少し遠慮していただけないものだろうか…

 「涼平君、覗いたりしたら、承知しないわよ」

 わかってます、鈴仙さん…

 

 八意診療所の最初の患者は、俺にとっては意外な人物だった。

 「うーん、やっぱりもう少しダイエットしないと…」

 「贅沢言いすぎよ、早苗。今のままぐらいがちょうどいいと思う…あら、患者さん?」

 ちょうどいいタイミングで、鈴仙さんたちが診療室から出てきた。

 「ああ、たぶん初めて会うと思うんで、紹介しておきます。

 この人は、河野純一。俺の父親です」

 「初めまして。息子がお世話になっています」

 深々とお辞儀をする。久しぶりに見たけど、やっぱり丁寧だなこの人。鈴仙さんたちも、慌てて頭を下げていた。

 「で、父さん、今日は何?師匠のところに、挨拶にでも来たの?」

 「うん、そのつもりだったんだけどな。今までは、来たくても来られなかったし。

 しかし、なんだ、お前が医者なのか?」

 「師匠の指示で、そういうことになったんだよ」

 「そうか、ふむ…だったら、一度、診療をお願いしようか」

 まさか、最初の患者が自分の父親になるとは、思いもしなかった。とりあえず、問診票に記入してもらう。

 「涼平さん涼平さん、あの人が涼平さんのお父さんなんですか?」

 声を潜めて、早苗さんが聞いてきた。頷いてみせると、

 「カッコいい人ですね」

 「…そう?」

 「涼平さんとそっくり。涼平さんが年を取ったら、きっとあんな風になるんですね」

 鈴仙さんも頷いている。そんなに似てるかな。自分じゃよくわからないけれど。

 記入された問診票を見てみる。肩こり、動悸、たまに頭が重い時がある。なるほど。

 診察室に移って、血圧測定、血液検査、聴診等。うん、たぶんこれは、

 「高血圧だね。最低値、最高値、どちらもかなり高い。

 薬売りで日頃出歩いてるから、運動はしてるんだろうけど、酒と煙草は、今でもやってるんでしょう?少し控えた方がいいと思う」

 父さんは、ニコニコ笑っている。まったく、のんきなもんだ。

 「他の病院で、診てもらったりはしてるの?」

 「いやあ、まだ、そこまで深刻な病状でもないだろう」

 「……薬は、どうする?降圧剤、持っていく?」

 「いや、いい。自分で作るさ」

 これからも息子をよろしくお願いします、と、鈴仙さんたちに頭を下げて、父さんは診療所を出て行った。この後、師匠のところに挨拶に行くらしい。

 「涼平さん涼平さん!

 すごいです!カッコいいです!本当のお医者さんみたいでした!」

 なにやら早苗さんが興奮状態になっている。いや、一応、本当のお医者さんなんだけどな、俺。

 「…あれでよかったの、涼平君?」

 「うん?鈴仙さん、どういうことです?」

 「いや、もうちょっと、詳しく検査したり、他のお医者さんへ紹介状を書いたりしても良かったのかな、と思って」

 「たぶん大丈夫ですよ」

 「…そうなの?」

 「自分の体のことは、ちゃんとわかってると思います。あれでも、けっこう優秀な薬師なんですよ、俺の父さん。

 血圧が高いのは本当ですけど、まあ、許容範囲ですよ。あの年代の男性にしたら、まあまあ健康な方なんじゃないですか」

 「それにしては、少し深刻そうな感じで話してたじゃない」

 「試されてるのに腹が立ったんで、ちょっと仕返ししてみたんですよ。

 今日のは、診察を受けに来たというよりは、息子の医者としての技量がどの程度のものなのか、ちょっと確かめてみよう、ぐらいの気持ちだったんだと思います。おおむね満足してくれたみたいなんで、まあ、良かったんじゃないですかね」

 「…いい親子関係ね」

 鈴仙さん早苗さん射命丸さん、それぞれの顔に微笑みが浮かんでいた。

 

 その後もぽつぽつと来院者があり、結局初日に診療したのは、俺の父を含めて4人だった。だいぶ少ない気がするが、地域的なつながりが今までほとんどなかったことを考えれば、まあ、こんなものかもしれない。今後の口コミに期待だ。

 楽しかったです、これからも頑張ってください、と言い残して、早苗さんは帰っていった。射命丸さんは、師匠に話を聞いてみるらしい。

 診療所を施錠して、居間で昼食をとると、とたんに眠くなってきた。そういえば、昨晩は、緊張して、あまりよく眠れなかった。少しだけ昼寝することにしよう、と横になって、目が覚めた時には、夕方の4時を回っていた。

 



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9月11日

 寺子屋で薬の補充を終えて、慧音先生と雑談をしていると、誰かお客さんが来たようだ。おいとましようとしたら、

 「慧音、今度の人形劇のことだけど…あら、あなたは」

 入ってきたのは、人形遣いの女の人だった。俺も寺子屋に通っていたころ、年に一度ぐらい人形劇を見た覚えがある。人形だとはとても思えない、生き生きとした動きが、大変楽しかったのを覚えているが、今も変わらずに寺子屋で公演してるんだな。しかし、なんで俺のことをじっと見てるんだろう。

 「慧音、この人は…?」

 「河野涼平といって、私の昔の教え子だ。今は薬屋をしているが…どうした、アリス?」

 「ああ、河野涼平…あなたが、そう…」

 あれ、今、慧音先生が「アリス」って言ったような…

 「あの、もしかして、あなたが、魔理沙の友達で、魔法の森に住んでいるっていう…」

 「そう。アリス・マーガトロイド。初めまして、涼平君。あなたのことは、魔理沙からよく聞いているわ」

 俺も、アリスさんのことは、魔理沙の話でよく聞いている。まだ会ったことはないと思っていたのだけれど、実はずいぶん昔から知っていたんだな。生きていると、いろいろと面白いことがある。俺のことは、文々。新聞の記事で、見覚えがあったらしい。

 

 寺子屋近くの喫茶店で、アリスさんと話をすることにした。

 小さなテーブルで、俺と向かい合って座っているアリスさんは、西洋人形のようで、とても可愛らしい。子供の頃の記憶では、人形劇が面白かった印象しかなくて、それを操っていた人のことはあまり覚えていなかったのだけれど、こんなにきれいな人だったんだな。

 「どうしたの、そんなに私のことを見つめて?」

 不思議そうにアリスさんが聞いてきた。

 「いや、まあ、なんというか…魔理沙の話から想像していたのと、かなり違うもので…」

 「魔理沙は、私のことを、どんな風に話していたのかしら」

 「魔理沙よりもずっと長い間、魔法を研究してきた、魔法のエキスパートだって言ってました。それから、料理やお菓子作りにも詳しくて、時々教えてもらっているって。だから、その、もっと年上の人だとばかり、勝手に想像していたんですけど…」

 「そう。涼平君の中では、私はしわくちゃの魔法使いのおばあさんだったのね。よくわかったわ」

 「いや、そこまでは言いませんけど…」

 冗談よ、と言って、アリスさんは楽しそうに笑った。本当に可愛らしい人だな。

 「まあ、魔理沙の話で、だいたい合ってるわね。魔法の専門家ではあるし、魔理沙よりもずっと長く生きているのも本当。ただ、『長い間魔法を研究してきた』っていうのは、どうかしらね…私にとっては、魔法というのは、使えるのが当たり前のものだから」

 「へえ…?」

 「私は、魔界の生まれなのよ。種族で言うと、魔族、になるのかしら。外見は、普通の人間のように見えるかもしれないけれど。

 魔族にとっては、魔法は、使えて当たり前のものなの。そう、例えば、人間が呼吸をしたり、言葉を喋ったりする、そういうのと同じようなもの、と考えてもらえればいいんじゃないかしら。普段言葉を話すのに、特別意識することって、ないでしょう?それと同じように、私も、特別に何かをするということもなく、魔法を使えるの。例えば、こんな感じね」

 いつの間にか、アリスさんの膝の上に、可愛らしい少女人形が乗っていた。アリスさんの顔よりも少し大きいぐらいのその人形は、アリスさんの膝からテーブルの上によじ登ると、よちよち、という感じで、テーブルの上を歩いてきて、ちょこん、と、俺の膝の上に腰を落ち着けた。顔を上に向けて、俺のことを見ている。すごいな、本当に生きているみたいだ。アリスさんが操っているんだろうけど、触ってみても、どこにも操り糸のようなものは見つからない。

 「魔力の糸で操っているのよ。普通の人には見えないし、触ることもできないわ」

 もう一体、人形が、今度は空中をふわふわと泳いできて、俺の頭の上に留まった。ぺちぺち、と、盛んに頭の上で手足を動かしている。なんだかくすぐったい。

 「私は、人形を使った魔法が得意なの。その人形は、魔力の増幅装置みたいなものね。私の魔力を、人形の中で増大させて、いろいろな形で放出するの。炎とか光とか。爆発させたりもできるんだけど、試してみる?」

 勘弁してください、と言うと、アリスさんは笑って、手首を軽くひねってみせた。次の瞬間には、人形は2体とも、きれいに消え失せていた。見事なものだ。

 「たまに魔理沙に、魔法について質問されるんだけど、いつも答えに困るのよね」

 「…そうなんですか?」

 「人間が、『どうやったら上手に呼吸できるようになりますか』なんて質問されても、うまく答えられないでしょう?それと同じよ。まあ、わかる範囲で答えるようにはしているけれど。

 魔法のことは、パチュリーに聞きなさい、って、いつも言ってるわ」

 パチュリー・ノーレッジさんというのは、霧の湖のほとりにある「紅魔館」というお屋敷に住んでいるという、魔法使いの名前だ。たまに魔理沙の話に出てくる。いつも図書館にこもりきりだという話なので、間違いなく俺はまだ会っていないと思う。

 「涼平君は、だいたい私の思ってた通りの人みたいね」

 「魔理沙は、どんな風に言ってたんですか、俺のこと」

 「面白い人だ、って言ってたわ。あとは、真面目で、嘘をつかない、って」

 「俺だって、嘘ぐらい、言う時もありますけどね…」

 「だったら、『必要な時以外は嘘をつかない』ってことじゃないかしら。それって、とても大切なことよ。

 サンドイッチを、『美味しい』って褒められた、って、この前、嬉しそうに話してたわ」

 「あれは、本当に美味しかったです。アリスさんが、作り方を教えてくれたんですよね?ありがとうございました」

 「どういたしまして。

 新しい料理のレシピを魔理沙に渡しておいたから、楽しみにしているといいわ」

 「どんな料理かは、教えてもらえないんですか?」

 「知らない方が、楽しいでしょう?きっと美味しいものだから、期待して待ってなさい。

 私、驚いてるのよ。あの魔理沙が、料理の作り方を聞きに来るなんて。頭がどうかしちゃったんじゃないかって、本気で魔理沙が心配になったわ」

 「さすがにそれは、ひどくないですか…」

 「それだけ意外だったってことよ。

 今までは、魔法の研究以外は目もくれない、って風だったのに、いったい何があったのかしらね」

 アリスさんが、いたずらっぽい顔でこちらを見ている。俺が黙っていると、

 「涼平君から見て、魔理沙って、どんな風に見えるのかしら」

 「どんな風、って言われても…」

 「性格とか」

 「明るくて、人懐っこくて、物事にこだわらずさっぱりとしていて、努力家、とかですかね」

 「よくわかってるわね。それじゃあ、涼平君にとって、魔理沙は、どんな存在なのかしら」

 「大切な友達です」

 「なるほどね」

 アリスさんは、少し考えるようにしてから、

 「あのね、魔理沙の師匠の魅魔とは、私は、昔からの知り合いなの」

 「…へえ…」

 「私が、魔界から幻想郷に来たのも、元はと言えば魅魔のせい。『メイドなら、主人と一緒に行くのが当然だ』とか言われて。本当に勝手だったら」

 メイドとか主人とか、いったい何の話だろう…?

 「『魔理沙のことをよろしく頼む』って、私は、魅魔から言われているの。

 もちろん、言われるまでもなく、私にとって魔理沙は、大切な友達だし、妹のように思ってもいるわ。

 だからね、涼平君。私からもお願い。魔理沙のことを、よろしく、ね」

 わかりました、と俺が答えると、アリスさんは、微笑みながら、小さくうなずいていた。

 

 その後も、少しの間、アリスさんと話をした。寺子屋の人形劇は、「白雪姫」を上演するらしい。その演目なら、俺も子供の頃見た覚えがある。7人の小人が、それぞれ個性的に動き回るのが、とても楽しかった、と、当時の感想を伝えたら、アリスさんは、とてもうれしそうだった。

 「涼平君は、嘘をつかないものね」

 何か、変なプレッシャーを掛けられている気がするが、楽しい記憶が残っているのは本当だ。今の寺子屋の子供たちにとっても、今度の人形劇は、きっと夢のようなひと時になるのだろう。

 

 「今日会ったことは、魔理沙には内緒ね」

 アリスさんと指切りをして、喫茶店を出る。お別れするときに、たくさんの人形が宙に浮かんで、アリスさんと一緒に手を振ってくれた。童心が呼び起こされるような光景で、なんだか嬉しくなってしまう。ふと見ると、窓ガラスの向こうでは、喫茶店の店員さんが、びっくりしたような顔で、アリスさんを見ていた。

 



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9月30日

 「今日は、人里まで送っていってあげるわ」

 博麗神社で、薬箱の中身を確認していると、霊夢がそんなことを言い出した。

 「ああ、ありがとう…しかし、珍しいね、霊夢がそんなこと言うなんて」

 「空を飛んで送っていってあげたら、美味しいものをご馳走してくれるんでしょう?魔理沙が言ってたわ」

 この前、魔理沙に送ってもらった時のアレか。あの時は、ひどい暑さの中を、だいぶ涼しい思いをさせてもらったお礼、というのがあったし、今日はあの時と違って、ずいぶん気候も秋めいて、むしろゆっくりと人里を歩いて回りたい気分なのだが、

 「私、お汁粉が食べたい」

 …まあ、霊夢と一緒に人里に出かける、なんていうのも、久しぶりな気もするし、別にいいか。

 

 霊夢も空を飛ぶことができるが、魔理沙のように箒にまたがってというわけではなく、そのまま身一つで、宙に浮き上がって、ふわふわと、漂うように飛んでいく。そして俺は、ごく普通の人間なので、もちろん空を飛ぶことなんてできない。そんな状態で、さて、霊夢が「空を飛んで送っていってあげる」と言った場合にどうなるかというと、

 「えいっ!」

 掛け声とともに、霊夢が大幣を一振り。するとそこには、白と赤に塗り分けられた、大人が抱えるのにちょうどいいぐらいの大きさの球体が、宙に浮かんでいる。「陰陽玉(おんみょうだま)」と霊夢が呼んでいるものだ。霊力の塊のようなもので、霊夢が異変解決に出かける時には、この陰陽玉を使って戦うらしい。それはさておき。この陰陽玉に乗って、俺は霊夢と一緒に空を飛んでいくわけだ。これに乗るのも、ずいぶん久しぶりだな。どっこいしょ。

 乗っていく、とは言っても、なにしろ球体なので、普通に座っていたのでは、つかまるところもないし、不安定極まりない。なので、陰陽玉に腹這いでまたがって、両手両足で、しっかりと抱え込むようにする。傍から見たら不格好だろうが、どうにも仕様がない。

 「それじゃあ、いくわね」

 霊夢と一緒に、空を飛んでいく。速度は、魔理沙の時の半分ぐらいだろうか。活発な魔理沙と、のんびり屋の霊夢、という性格の違いが、空を飛ぶ速さにも表れているようで、なんだか可笑しい。秋の風が心地良い。眼下には、普段はなかなか見ることのできない、人里のパノラマが広がっている、のだろうけれど、実は、陰陽玉につかまっているのに必死で、景色に目を向けている余裕がない。「この時期は、本当に眺めが良いわね」と霊夢が言っているから、たぶんその通りなんだろう。

 考えてみれば、こうやって、霊夢と一緒に人里上空を飛ぶのは、たぶん初めてだ。子供の頃、よく霊夢の陰陽玉に乗せてもらって、宙に浮かんで遊んでいたが、あれは神社の境内に限られていた。あの頃は、まだ霊夢もほんの子供で、神社の先代の巫女さん(博麗のおばさん、と俺は呼んでいた)も、よく俺達と一緒に遊んでくれたものだ。思い出すと、なんだか懐かしいな。

 

 人里に着いた。今日回る予定のお客さんが何件かまだ残っているので、甘味処に行くのはその後だ。

 最初のお客さんの所から出てくると、霊夢が誰かと立ち話をしていた。博麗の巫女さんは、どこへ行っても人気者だ。人里に行くということで、霊夢は巫女装束から普段着に着替えていて、そんなには目立たないと思うのだけれど、わかる人にはわかるようだ。次のお客さんの所へ行く間にも、何人か霊夢に挨拶する人がいた。

 「霊夢、仕事が終わったら電話するから、先に甘味処に行って待ってたら?」

 「どうして?」

 「いや、俺がお客さんを回るのについてきても、別に面白くないだろう?」

 「楽しいわよ?」

 「…そうなの?」

 「涼平、私と一緒にいるのが迷惑だったりする?」

 いや、別に、そんなことはないけれど…。まあいいや、あともう少しだし、一緒に行こうか。

 

 お客さんを回り終わって、甘味処に腰を落ち着ける。仕事を終わった後のお茶は、また格別だ。

 「お疲れさまでした。たくさん歩き回って、大変だったわね」

 「霊夢の方こそ、だいぶ疲れたんじゃない?」

 「うん、少しだけ。でも、楽しかったから」

 「このあたりに来るのは、久しぶりだった?」

 「うん、それもあるんだけどね。久しぶりに涼平と一緒に人里を歩いたのが、とっても楽しかったの。

 涼平が先に歩いていって、私がその後からついていくでしょう?ずっと前にもこういうことがあったな、って思って。なんだか懐かしくなっちゃった」

 霊夢と歩くときは、だいたいそうなるな。俺が先に歩いて、霊夢が遅れてついてくる。霊夢は歩くのが遅いから。振り向いたら、霊夢がずいぶん後ろの方にいた、なんていうことも、割とよくあった。

 「一緒に人里を歩いたのって、いつ以来かな」

 「忘れちゃったわ。それぐらい昔」

 俺が永遠亭に弟子入りしてからだと、ひょっとしたら、今日が初めてかもしれない。ちょっと驚きだ。薬の巡回とかで、割とよく霊夢とは顔を合わせていたからなあ。

 霊夢が注文したお汁粉と、俺の分の団子セットが運ばれてきた。団子セットは、あん団子とみたらしが2本ずつ。焼き目がついて、弾力があって、とてもおいしい。

 「お団子、美味しそうね」

 「うん。疲れてると、甘いものは、本当に美味しい」

 「一口ちょうだい?」

 …そういえば、こういうこともよくあったな。お汁粉を食べた上に、団子も食べるのか。夕飯が入らなくなるぞ…まあ、いいけどさ。みたらし団子を1本、霊夢に手渡す。

 「お汁粉はどう?」

 「うん、とっても美味しいわ。ありがとう、涼平」

 霊夢は幸せそうだ。この笑顔を見られるなら、お汁粉の1杯ぐらいは安いもんだな。

 

 お茶を飲みながら、いろいろと話をする。八意診療所は少しずつ来院者が増えているが、どうも、師匠目当ての若い男性患者が多いらしい、という話をしたら、霊夢は楽しそうに笑っていた。割と笑い事じゃないんだけどな。この前の鈴仙さんみたいに、今度は師匠が求婚されたりしなければいいんだけど。

 「涼平は、お医者さんとしては、順調なの?」

 「うん、まあ、どうにか。まだ始まったばかりだから、何とも言えないけど。

 鈴仙さんが本当の医者で、俺は見習いって感じかな、今のところ。いろいろ教えてもらいながら、なんとかやってるよ。勉強してきたことを、実際に活かすというのは、やっぱり大変だ」

 「今度、涼平が当番の日に、診察してもらいに行ってみようかしら」

 「霊夢は健康だろう?」

 「病気になれるように、頑張ってみる」

 いや、頑張らなくていいから…

 霊夢の方はといえば、最近は異変も起こらないので、いたって平和な毎日を送っているらしい。

 「幻想郷も、ずっとこんな風に、静かなままだといいのにね」

 穏やかに霊夢は笑っている。のんきな博麗の巫女にとっては、何事も起こらずに、暖かい縁側でうたた寝でもできれば、それでけっこう一生を幸せに過ごせるのかもしれないな。

 「『退屈なので、早く誰か異変を起こしてほしいです!』って、この前、電話で、早苗さんが言ってたよ」

 「早苗らしいわね。

 あんまり平和が続くようだと、そのうち、あの子が自分で異変を起こしちゃうかも」

 霊夢は笑っているが、なんだか冗談に聞こえないのは、どうしてなんだろうな…

 霊夢との会話は、割と途切れがちなのだが、それでも別に気まずくなったりしないのは、付き合いが長いせいだろう。穏やかな気分で、向かい合って、黙ってお茶を飲んでいられる、こういう関係は、よく考えてみると、貴重なものなのかもしれないな。

 

 適当なところで、甘味処を出て、帰途に就く。やっぱり俺が先に歩いて、霊夢が遅れて付いてくる感じだ。意識してみると、確かに、なんか懐かしいな、うん。

 永遠亭への分かれ道で、「またね、楽しかったわ」と霊夢が手を振った。ここから博麗神社までは、歩いてもそんなに遠くはない距離だが、うーん…

 「霊夢、神社まで送るよ」

 「…ありがとう」

 神社の石段のところまで霊夢を送って、永遠亭へと帰る頃には、辺りはもうずいぶん暗くなっていた。

 



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閑話休題4

 もうずいぶん昔、俺が父親と一緒に、薬の行商に回り始めた頃の話になる。

 ある日、いつものように、父親について博麗神社に行ったら、巫女のおばさんのそばに、見たことのない小さな女の子が立っていた。

 「この子は、博麗霊夢。私の次の代の、博麗の巫女。

 霊夢、ご挨拶なさい」

 霊夢、と呼ばれた女の子は、黙って小さく俺達に頭を下げた。巫女のおばさんに隠れるようにしている。こんにちは、と俺が言っても、何も言わないで、恥ずかしそうに、俺のことをじっと見ていた。

 というのが、俺と霊夢の出会いだったと思う、たぶん。なにしろ昔のことなので、記憶があいまいだが。

 

 「博麗の巫女」というのは、文字通り「博麗神社の巫女」のことだが、もう一つ別に、「幻想郷の管理者」という意味合いもある。幻想郷を外の世界から隔てている、「博麗大結界」と呼ばれる見えない障壁があって、それを管理するのが「博麗の巫女」の仕事の一つであるらしい。優れた霊能力が必要とされる役目であり、それゆえに、必ずしも親から子へと巫女の役割が受け継がれていくとは限らない。むしろ、親子2代続けて博麗の巫女を務めることの方が稀のようで、当代の巫女がある程度の年齢に達したら、霊能力に優れた子供をどこかから見つけてきて、次代の「博麗の巫女」として修業を積ませる、というのが普通らしい。誰が、どうやって見つけてくるのかまでは、俺にはわからないが。

 巫女のおばさんも、こうしたやり方で、何十年か昔に「博麗の巫女」に選ばれた。そして、新たにまた、次代の巫女が現れた、ということだったようだ。

 

 霊夢は、外の世界から幻想郷に連れて来られたらしい。というか、本人の同意があったわけではないから、はっきり言って誘拐だ。

 「いきなり、知らないところに連れて来られて、『今日からここで巫女の修行をしなさい』って言われて。何が何だか、全然わからなかったわ」

 ずいぶん後になって、霊夢はそう言って笑ったが、実際は、とても笑い事ではなかっただろうと思う。最初に会ったときに俺が10歳だったから、霊夢はまだ8歳。知らない土地で知らない人たちに囲まれて、怯えて見えたのも当たり前だ。ただ、その一方で、霊夢は、どこか納得してもいたらしい。

 「自分には、普通の人たちとは違う力があるみたいだ、って、子供ながらに、何となく気付いていて。『どうしてなんだろう』って、不思議だったのね。それが、幻想郷に連れて来られて、『あなたには素晴らしい力があるから、これからは、ここで、存分に使いなさい』って言われてね。ああ、そうか、ここが私のいるべき場所なんだ、って、すごく腑に落ちたの」

 まあ、そんな感じで、次代の博麗の巫女となるための霊夢の修行が始まり、順調に成長していって、現在に至る、というので、物語としてはだいたい合っていると思う。

 博麗の巫女としての修行がどのようなものだったか、たまに神社に遊びに行くだけだった俺には知りようもないが、滝に打たれたり護摩行をしたりといった、いわゆる「厳しい修行」ではなかったんじゃないかという気がする。俺が会う時の霊夢は、おとなしくて、少しぼーっとしていて、いたって平和そうで、「修行している」といった風には、あまり見えなかった。それでも、巫女として成長しているというのは、傍から見ていてもよくわかった。ある日遊びに行ったら、神社の境内で、霊夢がふわふわと空中に浮かんでいたり、また別の日には、宙に浮かんだ陰陽玉を、不思議そうにじっと見ていたり、というようなことがあって、「やっぱりこの子は博麗の巫女なんだ」と、感心することが多かった。何か新しいことができるようになると、俺の前で試して見せてくれたりして、霊夢の自慢げな顔を見るのが楽しかった。

 博麗のおばさんと霊夢の関係は、大変良好だったようだ。誘拐同然に、別の世界に連れて来られた、というのが嘘のように、霊夢は博麗のおばさんになついていて、俺と知り合って2か月も経った頃には、仲の良い、本当の家族のようになっていた。事情を知らない人に「実は赤の他人です」と説明したら、相当驚かれたんじゃないか。霊夢にとって、先代の博麗の巫女は、育ての親であり、また、巫女としての師匠であり、愛情深く自分を見守ってくれた、大切な存在だったのだと思う。魔理沙が魅魔の話をするときと同じように、霊夢も、先代の話をするときには、とても懐かしそうな、楽しそうな顔になる。

 

 ちなみに、俺がよく霊夢のところに遊びに行っていたのは、「霊夢と友達になってあげてね」という、博麗のおばさんの言葉を真に受けたから、という、本当にただそれだけの理由だ。霊夢に嫌がられたりしたら、出掛けるのもやめていただろうけど、そういうこともなかったしな。しょっちゅう神社にやってくる薬屋の息子について、霊夢の方でどういう風に思っていたかは、俺にはわからないので、本人に直接聞いていただきたい。

 

 幻想郷一帯が赤い霧に覆われるという、いわゆる「紅霧異変」を霊夢が解決した時点で、博麗のおばさんは、代替わりすることに決めたらしい。異変の後に、俺が博麗神社に行ってみたら、そこには霊夢と魔理沙がいて、博麗のおばさんはいなかった。霊夢に尋ねてみたら、おばさんは、どうやら外の世界へ行ったようだ。確かおばさんは幻想郷生まれのはずだが、ずっと外の世界にあこがれていたらしく、「引退したら、外の世界に住むんだ」と、霊夢によく話していたという。それ以来、幻想郷で、先代の博麗の巫女を見たという話は、聞いたことがない。紅霧異変から、霊夢に代替わりするまでのごくわずかな期間に、人里の主だったところへの引継ぎなども、すっかり済ませていったそうで、なんというか、見事な去り際だと思う。

 自力で紅霧異変を解決したとはいえ、まだ14歳の少女一人に、博麗神社の運営をゆだねてしまって大丈夫なのか、と、俺などはちょっと不安になったりしたが、どうやらいらない心配だったようで、現在に至るまで、霊夢は、博麗の巫女としての務めを立派に果たしている。幼い子供の素質を見抜いて、一人前の巫女に育て上げた、博麗のおばさんたちはすごいと思うし、しっかりと期待に応えてみせた霊夢も、大したものだと思う。本人にこういうことを言ったら、たぶん霊夢は、不思議そうに、小首をかしげて見せるだろうけれど。

 

 すっかり幻想郷に馴染んだ感のある霊夢だが、時々、外の世界のことを思い出したりもするらしい。仲の良かった友達などもいたのだろうし、両親は、愛する娘が突然いなくなって、さぞや悲嘆にくれたことだろう。博麗の巫女として必要だった、とはいえ、ずいぶん残酷な運命を背負わされたものだ、と思うのだが、「今いるここが、私のいるべき場所だから」と、霊夢は笑ってみせる。強がりではないと信じたいが、実際のところは、どうなんだろうな。

 外の世界に行ってみたいと思わないか、と、霊夢に聞いてみたことがある。今は無理としても、巫女を引退した後で、先代のように、外の世界に戻ってみたいと思ったりはしないのか、と。

 「その時になってみないと、わからないわね。まだずいぶん先のことだろうし」

 そう言った後で、霊夢は少し考えてから、

 「涼平は、どう?外の世界に行ってみたいと思う?」

 それこそ、よくわからない話だ。なにしろ、俺は今までずっと幻想郷で暮らしてきて、外の世界なんて、霊夢や早苗さんの話を通してしか知らない。ぼんやりとしたイメージすら、思い浮かべるのが難しいようなところに、行ってみたいかどうかなんてわかるわけがない、が…

 「そうだな、全然知らない世界に行ってみるというのも、面白いかもしれないな」

 「だったら、私が引退したら、一緒に連れて行ってあげるわね」

 それは楽しみだ。何十年先のことになるのかわからないが、忘れないようにしないとな。

 

 気が付けば、霊夢との付き合いももう十年になる。早いものだ。今までと同じような関係を、この先もずっと続けていければ良いなと思うが、さて、どうなるだろうか。

 



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10月21日

 妖怪の山の紅葉が見頃なので、紅葉狩りに来ませんか、というお誘いの電話が、3日前に、早苗さんから掛かってきた。山の紅葉は、毎年、人里から眺めているが、今回は、早苗さんが、山の中を案内してくれるらしい。色づいた木々を間近に見ながらの、秋の山歩きは、さぞかし気分の良いものだろうし、普通の人間なら立ち入ることも難しい妖怪の山を見学できるというのも、心惹かれるものがある。しかし、薬売りの仕事があるし、さて、どうしたものだろう、と、夕食のときに、師匠にこの話をしてみたところ、

 「行ってみたい!」

 目を輝かせながら、姫様が大きな声でそうおっしゃったので、全ての仕事はお休みにして、永遠亭総出で、秋の妖怪の山見学ツアーに出かけることになった。正確に言えば、てゐさんだけは「あたしが留守番をしておくから、みんなで楽しんでおいで」と言ったのだが、

 「てゐを一人きりで残しておいたら、何をしでかすかわかったものじゃないから、一緒に来なさい」

 そう師匠に言われたのは、まあ、日ごろの行いというものだ。

 大勢で押し掛けるのは、早苗さんに迷惑かな、とも思ったが、電話してみると、

 「賑やかで楽しそうですね!大歓迎です!」

 意外に乗り気だった。俺と鈴仙さん以外は、早苗さんたちとは初対面のような気がするが、あの早苗さんに限って、人見知りするようなこともないだろうし、特に心配しなくてもいいか。当日、天気が悪いようだったら、そのときは電話する、と言ったら、

 「絶対にいいお天気にしてみせますから、大丈夫です!」

 早苗さんは自信満々だった。いわく、守矢神社の風祝には、天候を自在に操る力があるのだとか。どれほどのものなのか、それでは、お手並み拝見といこうか。

 

 そして今日21日。見上げる空は、素晴らしく晴れ渡っている。なるほど、風祝とは、大したものだ。心の中で、感謝の祈りを捧げておこう。早苗さん、ありがとうございます。

 守矢神社に出かけるに際して、永遠亭の他の4人は、全員空を飛べるので、もちろん今回も飛んでいくことになる。飛ぶ術を持たない一般人である俺はどうなるのかといえば、

 「涼平、しっかりつかまっているのよ?」

 どうやら、輝夜姫様に抱えられて、妖怪の山まで運ばれていくらしい。膝と背中の下に腕を通されて、横向きに抱えられる、いわゆる「お姫様抱っこ」という形だ。

 「貴族の若様や、時の帝でさえ、触れることすらかなわなかった輝夜姫様の腕に、あなたは今抱かれているのよ。

 感謝しなさい、涼平君」

 冗談めかして師匠は言うが、確かに、歴史的に見て、すごいことになってるんだな、俺。       

 しかし、どう見ても、俺の方が、姫様よりもはるかに体重はあるはずで、加えて、弁当その他の荷物も俺は抱えているというのに、触れれば折れてしまいそうなほど華奢な見た目の輝夜姫様は、軽々と腕に抱え上げて、汗一つかいていない。見た目によらず力持ちだ、と、以前に霊夢に聞いたことはあるけれど、本当にどうなっているんだ、このお姫様は。

 

 姫様に抱きかかえられて、幻想郷の空を、妖怪の山に向かって飛んでいく。この前、霊夢の陰陽玉に乗った時に比べると、格段に安心感があるので、周囲の風景を眺める余裕もある。雲一つない青空、眩しい秋の日差しに照らされて、眼下に広がる人里の光景は、素晴らしく美しい。スマホで撮影しておきたいところだが、なにしろ空を飛んでいる最中だ、万一落としたりしたら大変なことになるので、視覚にとどめるだけにしておこう。

 両腕に抱えられている状態なので、輝夜姫様のご尊顔を、どうしても間近に見ることになってしまうが、しかし、本当に美しいなこのお方は。綺麗を通り越して、もはや神々しいというか。「竹取物語」で、都中の若者の心を奪ったと言われるのも、あながち誇張ではなさそうだ。

 「…?涼平、どうかした?」

 姫様、あなたの美しさに見とれていました、などと言えるわけもないので、「何でもありません」と答えておく。師匠も鈴仙さんも、なんでこちらを見ながら笑っているんですか、まったく。

 

 妖怪の山の頂上、守矢神社の境内には、やはり紅葉を楽しむために来たのだろう、参拝客の姿がちらほら見えた。空から望む妖怪の山は、赤に黄色に緑に、色とりどりに染まって、見事なものだったが、境内から見下ろす幻想郷の姿も、また趣が変わって、広々と雄大で、美しい。

 神社では、早苗さんと、洩矢諏訪子さんが出迎えてくれた。

 「やあやあ、永遠亭の皆様、守矢神社へようこそ。

 そこの薬屋さんの彼は、今日こそは早苗の婿に」

 「なりません」

 しっかりしていていいねえ、と笑う諏訪子さんは、神奈子さんと並ぶ、守矢神社の主祭神で、祟り神だ、というのは、以前に説明した。見た目は無邪気な子供のようだが、はるか神代の昔から生きていて、早苗さんの遠い先祖にあたるのだとか。神奈子さんは、今日は社務所で、参拝客の相手をしているらしい。

 今日はよろしくお願いします、と、早苗さんに挨拶する。

 「よろしくお願いします!

 今日は涼平さんとデートですね!楽しみです!」

 いや、別に、デートとかそういう…

 「早苗、お招きいただいたお礼に、今日は一日涼平君を貸してあげるから、あとで利息を付けて返してね」

 「涼平君、頑張ってくるのよ」

 鈴仙さん、利息って何ですか。師匠、何をどう頑張れば良いのでしょうか…

 

 今日は、早苗さんが山を案内してくれるのかと思っていたら、どうやら違うようだ。

 「白狼天狗の、犬走椛(いぬばしりもみじ)と申します。本日は、皆さまをご案内させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」

 腰に剣を帯びた、折り目正しい武人、といった感じの小柄な女性が、そう言って、深々とお辞儀をした。白狼天狗、というだけあって、髪も尻尾も、見事な白色をしている。

 「最初は、私がご案内しようと思ったんですけどね。神奈子様と諏訪子様が、山の皆さんにお話したら、椛さんがお手伝いしてくれることになりました」

 「私たちの住処を、他人に勝手に歩き回られては困ります。私がご案内いたしますので、離れてどこかに行ったりしないようにお願いします」

 言われてみれば、なるほど、もっともだ。風景の美しさに誘われて、横道にそれたりしないように気を付けないとな。聞いていますか、てゐさん。

 

 犬走さんを先頭に、みんなで山道を歩いていく。空を飛べば楽なのだろうが、さすがにそれでは趣がない、ということだ。歩き疲れたり、よほどの難所にぶつかったりしたら、その時は飛んでいくことになるのだろうけれど。

 山歩きということで、皆さん普段とは違って、歩きやすい恰好をしている。姫様も鈴仙さんも、邪魔にならないように、長い髪をまとめていて、よくお似合いなのだが、いつもとはずいぶん印象が違う。これは、あとでぜひ写真に収めておこう。貴重な1枚になるはずだ。

 俺は、今日一日貸し出されている身なので、早苗さんと並んで歩くことになる。

 「そういえば、電話で言っていた通り、本当にいい天気になったね。ありがとう、早苗さん」

 「すごいでしょう?これが風祝の力です!雨風を操るから『風祝』って言うんですよ!」

 天候を操るために、どんな儀式を執り行うのか、ちょっと興味が湧くところだ。拝殿で、恭しく首を垂れて、祝詞をあげたりするんだろうか。

 「別に、何もしませんよ?ただ、『いいお天気になりますように』って、心の中でお祈りするだけです!」

 へえ…。霊夢や魔理沙が保証しているから、俺は、早苗さんの力を疑いはしないけれど、何も知らない人が相手だったら、それだと、ちょっと説得力がないかもしれないな。

 「干ばつに見舞われた時の雨乞いとかだと、本格的な儀式が必要になるらしいですけど。でも、今のところは、私は、そういうのは教わっていないですね。

 大勢の命にかかわるような、よほど重大な時でもないと、大きく天候を動かすような儀式は、行ってはいけないんだそうです。自然の摂理を勝手に変更するようなことは、たとえそれがごく限られた地域のことだったとしても、世界全体に及ぼす影響が大きすぎるから。日照りや大雨が続いて、農作物に大きな被害が出るようなことがあっても、軽々しく巫女の力を使ってはならない、って、神奈子様がおっしゃっていました。できるだけ、自然のなすがままに任せるべき、なんだそうです。

 必要な時が来たら、神奈子様諏訪子様に教えていただいて、私が、三日三晩、お堂にこもって、不眠不休で呪文を唱え続けるようなことも、あるかもしれませんね」

 そんな日が来ないことを祈っておこう。ちょっと見てみたい気もするけれど。

 

 樹々の間の、ごく細い山道を、列を作って進んでいく。山に住む妖怪たちが、長い間行き来するうちに、自然とできた道だ、と、犬走さんが教えてくれた。慣れない人間でも大丈夫なように、比較的歩きやすい道を選んでくれているのだと思う。それなりに険しく起伏もあるが、特に問題もなく進んでいける。俺と鈴仙さんは、薬の行商で、日常的に人里を歩き回っているから大丈夫として、山道を歩いたことなんておそらくないだろう、輝夜姫様が特に心配だったのだが、今のところは平気なようで、きょろきょろ辺りを見回しては、師匠やてゐさん、鈴仙さんと楽しそうに話をしている。あんなにはしゃいでいる姫様を見るのは、初めてだな。

 「早苗さんも、別に、疲れたりはしてないみたいだね」

 「はい、まだまだ大丈夫です!

 外の世界では、周りを山に囲まれたところで生活していたので、子供の頃から、山道は普通に歩いていました。これぐらいなら、全然平気です!」

 頼もしい言葉だ。意外に、俺の方が、早苗さんより先に音を上げたりするのかもしれないな。

 色鮮やかな紅葉にばかり目を奪われがちだが、秋の山らしく、様々な花も咲いている。

 「涼平さん涼平さん!見てくださいあの花、面白い形してますよ!紫色の花って、私、大好きなんです。すごく綺麗ですよね!」

 面白い形だし、綺麗な色だが、早苗さん、あの花はトリカブトだ。薬の材料にもなるが、毒があるから、うかつに近づかない方がいい。

 道中ざっと見ただけだが、薬草もいろいろ生えているな。さっきはセンブリがたくさん咲いていた。少し採集していきたいところだが、犬走さんに怒られそうだし、やめておいた方がいいか。

 「さすが薬屋さんですね!私、木とか花を見ても、名前や種類なんて、全然わからないです。涼平さん、すごいです!」

 別に、そんなに言われるようなことでもないと思う…まあ、褒められて、悪い気はしないけれども。

 

 途中一度の休憩を挟んで、1時間半ほど歩いたところで、急に開けたところに出た。大小様々な大きさの石が無数に転がる河原で、山肌からは大きな滝が流れ落ち、幅の広い流れとなって、ずっと先の方へと続いている。最終的には、霧の湖まで注いでいくらしい。

 「ここで、昼食休憩にしたいと思います。

 この川の水は、そのまま飲めますので、よろしかったらお試しください」

 犬走さんに言われて、背負っていた荷物を下ろすと、急に体が軽くなった。川の水を飲んでみると、なるほど、冷たくて、とてもおいしい。姫様たちも、水をすくっては、歓声を上げている。

 背負っていた荷物の中から、弁当を取り出す。全員の分を俺が背負ってきたので、帰りはずいぶん背中が軽くなるはずだ。みんなで一緒にお昼を食べようと思ったら、

 「涼平君は、早苗と二人で、あっちに行ってなさい」

 鈴仙さんに追い払われてしまった。少々寂しい。早苗さんはニコニコしているが。

 一人離れて、河原に腰掛けている犬走さんに、弁当を持っていく。

 「ありがとうございます。ですが、私は、自分の分を持参していますので、お気持ちだけで結構です」

 「そうおっしゃらずに、お一つだけでもいかがですか。タケノコご飯のおにぎりなんですけど」

 「…では、お言葉に甘えさせていただきます」

 俺は、早苗さんと二人で、大きな岩の上にシートを広げて、昼食をとることにする。

 「タケノコご飯って、春の食べ物だと思っていたんですけど、今頃でも食べられるんですね」

 「竹の中でも、秋に伸びてくる『寒竹(かんちく)』っていう種類があってね。竹林に生えているのを、昨日、師匠が掘ってきてくれたんだ。春先のタケノコよりも、俺は、こっちの方が好きなんだけど、早苗さん、味はどう?」

 「とっても美味しいです!」

 気に入っていただけたようでなによりだ。山道を歩いて、程よくお腹が空いているのと、美しい景色に囲まれているのとで、今日のお昼は特に美味しく感じる。

 「妖怪の山が、こんなに綺麗なものだとは、知らなかったよ。早苗さん、誘ってくれて、本当にありがとう」

 「…涼平さん、お願いがあるんですけど」

 「うん?何?」

 「ご褒美に、頭をなでなでしてもらえませんか?」

 …?別にいいけど?

 「…こうしてもらうのが、夢だったんです」

 「頭をなでてもらうのが?」

 「というか、ですね。ずっとお兄さんが欲しかったんです。私、一人っ子ですから。年上のお兄さんに、思いっきり甘えたり、褒められたりっていうのに、すごく憧れてたんです。

 今日は、夢が一つかなった気分です。私、今、とっても幸せです!」

 なるほど。俺も一人っ子だから、気持ちはよくわかる。可愛い妹がいたらいいな、と、たまに思ったりしたものだが、もしいたとしたら、今の早苗さんみたいなのかもしれないな。

 早苗さんは、本当に幸せそうな顔で、俺に頭をなでられていた。猫みたいで可愛いな、と思っていたら、急に横になって、俺の足の上に頭を乗せてきた。いわゆる、膝枕、というやつだ。なんだか、本当に、猫みたいだ。普段と違って、ずいぶん静かだな、と思っていると、そのうち、安らかな寝息が聞こえてきた。まいったな、身動きできない。シートを敷いているとはいえ、岩の上だから、足は痛くなってくるし、背中も張ってくるし…早苗さんの、幸せそうな寝顔を間近に見られるのは、眼福というものだが、できれば、早く目覚めていただけないだろうか…

 しばらくして、早苗さんが眠りから覚めた時には、俺は、体中の筋肉が、変な感じに固まってしまっていた。

 

 滝の前で、全員の集合写真を、犬走さんに撮ってもらってから、帰りの道中に出発する。ここまでは、山の頂上から下ってきたので、帰りは、上り道が多くなるはずだ。

 「頑張りましょうね、涼平さん!」

 休息充分の早苗さんは、元気いっぱいだ。俺はといえば、まだちょっと足腰が痛い。まあ、歩いているうちに、治るだろう。

 

 途中2回ほど休憩を挟み、2時間ほどかけて、守矢神社に到着した。いい汗をかいた、という感じで、程よい疲れが体を満たしている。ざっと見たところ、師匠たちも、皆元気なようだ。心配だった姫様も、全く疲れた様子も見せず、相変わらず楽しげにはしゃぎ回っている。来るときに俺を抱えて飛んできたことといい、月の人間と地球人とでは、そもそも体の構造が違ったりするんだろうか。興味深い問題だ。

 私はこれで失礼します、と言う犬走さんに、忘れずにお礼を言っておこう。

 「ありがとうございました。おかげで、とても楽しい一日になりました」

 「私は、命じられた仕事をしたまでで、お礼を言われるようなことではありません。楽しんでいただけたのなら、何よりです」

 「妖怪の山というのは、とても美しいところですね」

 犬走さんの顔に、少しだけ笑みが浮かんだ。

 「…自分の住んでいる場所を、他の方から褒めていただけるというのは、嬉しいものですね。

 よろしかったら、別の季節に、また皆さんでいらっしゃってください。今日とはまた違った山の姿を、ご案内させていただきます。

 美味しいタケノコご飯を、ありがとうございました。それでは」

 武人らしい見た目通りに、犬走さんは、口数は少ないけれど、良い人だと思う。ぜひまた別の機会にお会いしたいものだ。

 早苗さんたちにもお礼を言って、永遠亭へと向かう。帰りももちろん飛んでいくのだが、姫様の希望で、麓まではロープウェーで降りることになる。

 「皆さん、今日は本当にありがとうございました!とっても楽しかったです!」

 早苗さんに見送られながら、ロープウェーに乗り込む。座席に腰を下ろすと、一気に疲れを感じた。長時間の歩行は、薬の行商で慣れているとはいえ、山道というのは、普段とはまた違った歩き方のコツが必要になるのだと思う。

 「なに?これぐらいで、足腰が悲鳴を上げてるの?鍛え方が足りないわよ」

 鈴仙さんは、いたって元気そうだ。やっぱり、月の人たちは、俺達とは、体のつくりが、決定的に違うんじゃないかという気がする。

 「涼平君、いいものを見せてあげましょうか?」

 鈴仙さんが、スマホを見せてくれた。なんだろう、と、覗いてみると、

 「うわあ…」

 見事にだらしない顔をした男が表示されていた。言うまでもなく、俺の写真だ。早苗さんに膝枕をさせられているときのだな、これは。

 「よく撮れてると思わない?」

 「やめてください…」

 鈴仙さんに、事情を説明する。

 「お兄さんが欲しかった、ねえ。ふうん…」

 「俺も、早苗さんと同じ、一人っ子ですからね。なんとなく、気持ちはわかります」

 「…涼平君」

 「なんですか?」

 「膝枕してあげようか?」

 「……」

 「お姉さんに甘えたくなったら、いつでも言ってね?」

 考えておきます、鈴仙さん…

 

 麓に到着。来る時と同じく、姫様に抱きかかえられて、永遠亭まで飛んでいく。自分の部屋に戻ったら、安心したのか、途端に眠くなってきた。畳に横になって、次に目を開けた時には、辺りはもうすっかり暗くなっていた。



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10月25日

 「25日なら都合がいいから、お昼ごろに来てくれ」という電話が、先日、魔理沙から掛かってきた。薬の定期訪問に行こうとして、しばらく前から電話していたのだが、都合が悪い、とのことで、今まで延期になっていた。魔法の研究に取り組んでいて、ようやく一段落した、とか、たぶんそういう感じなんだろう。「お昼ご飯をご馳走する」とのことなので、そちらにも期待しておこう。

 

 夏から秋になって、魔法の森も、ずいぶん歩きやすくなったが、あくまでもそれは「比較的」ということで、じめじめして薄暗いことに変わりはない。樹木の葉も色づいたりはしているのだが、鮮やかな紅葉、というよりも、何か禍々しさを感じたりしてしまうのは、まあ、場所柄というものだろう。よほど物好きな人間でも、紅葉見物に魔法の森を訪れたりは、たぶんしないと思う。

 霧雨魔法店に到着。家の中は、この前訪問した時と同様、綺麗に片付いている。事前連絡の大切さが、よくわかるな。

 居間に通された時に、テーブルにアリスさんの姿があったので、ちょっと驚いた。

 「涼平は、まだ会ったことがないって言ってたよな。『七色の人形遣い』、私と同じ魔法使いの、アリス・マーガトロイドだ」

 「あなたが涼平君なのね。初めまして。あなたのことは、魔理沙からよく聞いているわ」

 …ああ、この前アリスさんと会ったことは、魔理沙には内緒にしておくんだった。「初めまして。子供の頃、寺子屋で人形劇を楽しみにしていました」などと挨拶してみる。我ながら、ぎこちない言い方になってしまったと思うが、魔理沙は、別に、不審がる様子もないようだ。

 「『嘘は言わない人だ』って、魔理沙が言っていたけれど、本当みたいね」

 アリスさんは楽しそうに言うが、褒められているのか、からかわれているのか、どっちなんだろう。

 ちょっと待っててくれな、と言って、魔理沙はキッチンへと歩いていった。俺は、その間に、薬箱の中身を見せてもらう。傷薬が減っているのは相変わらずだが、栄養剤がそのままだな。別に、やせ細っている風でもないから、ちゃんと食事を取っているということなんだろう。良い傾向だ。

 「今日は、珍しく、魔理沙にお招きいただいたの。どんな出来栄えのお料理が出てくるのか、すごく楽しみだわ」

 アリスさんは、本当に楽しそうだ。人形のような外見も手伝って、無邪気な子供のようで、見ていて、とても可愛らしい。

 「アリスさんは、魔理沙の作った料理は、食べたことはあるんですか」

 「料理、ねえ…。香ばしくて、歯ごたえのあるクッキーなら、あるけど」

 「ああ…でも、美味しかったでしょう、あれ」

 「そうなのよね。私が教えてあげたレシピで、どうやったら、ああいう風になっちゃうのか、本当に不思議なんだけど。たぶん魔理沙も、『もう一回、あの、焦げて硬いクッキーを食べたい』って言われても、再現できないんじゃないかしら。

 上手くできるコツを教えておいたから、この次に食べるクッキーは、期待していいと思うわ」

 やっぱり、魔理沙風にアレンジされたものが出てくるんじゃないかという気がするが、とりあえず楽しみにしておこう。

 湯気立つ鍋を両手で持って、魔理沙が戻ってきた。

 「お待たせ。キノコのクリームシチューだ」

 …おおう、予想もしないものが出てきたので、正直びっくりだ。サンドイッチが上手にできた、と、この前喜んでいたから、今日も、何かそういったものだと思っていたのに――フレンチトーストとか、ホットサンドとか――、いきなりレベルアップしすぎじゃないのか。魔理沙、本当に頑張ったなあ。

 パンとサラダもテーブルに並んで、それでは、ありがたくいただくことにしよう。見た目も香りも、実に美味しそうだ。

 「…どうだ?美味いか?」

 「…少し、しょっぱすぎるわね。塩を入れすぎたんじゃない?それに、ちょっとこってりしすぎかも」

 「でも、美味しいよ、これ」

 アリスさんの、厳しめの評価を聞いて、曇っていた魔理沙の顔が、俺の言葉を聞いた途端に、パッと輝いた。本当に、わかりやすい性格をしていると思う。

 「美味いか?!本当だな?!」

 「うん、本当。ですよね、アリスさん?」

 「…ええ、まあ、そうね…魔理沙の作ったものって、どうしてこうなっちゃうのかしら、もう」

 確かに、アリスさんの言うとおり、シチューの味付けは、少々塩辛いし、濃いめではある。でも、パンやサラダと一緒に食べるとなれば、このぐらいでも、全然問題ない。むしろ、シチューの濃い味付けと、さっぱりしたパンやサラダの取り合わせが良い感じで、食欲が増す。食べ物の組み合わせって、面白いなあ。

 「まあでも、次に作るときは、塩気をもう少し控えめにした方が良いかもしれないね」

 「うん、そうする。さあさあ、見ての通り、シチューはまだたくさんあるから、好きなだけ食べてくれよな?!」

 喜んで、お言葉に甘えさせていただくことにしよう。しかし、さっきから魔理沙は、俺達が食べるのを見ているだけだが、

 「魔理沙は、食べないの?」

 「あ、ああ…実はな…」

 苦笑しながら、魔理沙が語ったところによると、焦がしたり、味付けに失敗したりと、様々にシチュー作りの試行錯誤を重ねた結果として、どうやら、ここのところ毎日、シチューばかり食べ続けることになってしまったらしい。

 「だから、今日は、ちょっと、な。まあ、美味しいって言ってもらえて、良かったよ」

 「一人で悩んでいないで、相談しなさいよ。効率が悪いわね、全く」

 アリスさんは、少々呆れ気味だ。俺も、その意見に同意だが、一方で、素直に感心もしてしまう。何回も、作っては捨て、失敗してはやり直し、よくまあ根気が続くなあ。

 「いやあ、意外と、料理って、面白いんだよ、これが。

 アリスのレシピの通りに作って、上手くいかなくて、失敗するだろう?で、どこがまずかったかを、よく考えて、もう一回挑戦する。それで成功すればよし、失敗したら、また、改善点を見直して、やり直し。そうやって、少しずつ、納得のいくようなものができあがっていくのが、面白いんだよなあ」

 …うん?なんだか、同じような話を聞いたことがあるぞ?と思って、記憶をたどってみれば、なるほど、そのはずで、魔理沙が、魔法を研究するときの話と、全く一緒だ。何度も実験を繰り返しては、魔法を完成に近づけていく、という話を聞いて、努力家としての魔理沙の一面を再認識した記憶があるが、魔理沙にとっては、料理も、魔法の研究も、同じような感覚なのか。だとすると、魔法の研究と同様に、そのうち、何かインスピレーションを得て、想像もつかないような、まるっきり新しい料理を作り上げてしまうかもしれず、なんだか楽しみなような、怖いような、何とも言えない気分になる。とりあえず、この次ごちそうになる機会があるなら、普通のシチューが出てくることを、祈っておこう。

 アリスさんと魔理沙は、上手なシチューの作り方について話している。熱心にアリスさんに質問してメモを取る魔理沙の姿は、まさに「師匠と弟子」だ。子供の頃の魔理沙と魅魔も、こんな風だったのかな、と、想像してみるのも、なかなか面白い。

 「…?どうしたの、涼平君?」

 「アリスさんと魅魔さんって、似てるのかな、と思いながら見てました」

 ああ、ちょっと似てるかも、と、魔理沙に言われて、アリスさんは、何とも言えない表情になった。この前、喫茶店で話した時にも思ったことだが、アリスさんと魅魔の関係って、一体どうなってるんだろうな。

 そういえば、すっかり忘れていたけれど、魔理沙にお土産を持ってきたんだった。

 「おお、ありがとう…涼平、これは何だ?」

 「芋ようかん。昨日、作ってみたんだ。ごちそうになってばかりじゃ、悪いと思って。よかったら、食べてみてよ」

 「へえ…」

 早速、魔理沙が切り分けてくれたので、一つ取って食べてみる。うん、我ながら、なかなかいい出来だ。魔理沙とアリスさんの評価はどうだろう。

 「…なんというか、ただの芋だな。美味いけど」

 「そうね、でも、何かこう、風味というか、コクのようなものが…涼平君、これ、どうやって作っているの?」

 「ふかしたサツマイモに、砂糖を加えたものを、潰してペースト状にして、形を整えただけです。普通の砂糖じゃなくて、黒砂糖を使うと、風味が増すんですよ。簡単に作れて美味しいから、たまに作ったりするんです。永遠亭の人たちにも、けっこう評判がいいんですよ」

 「黒砂糖を使うのね、なるほど…」

 アリスさんは、小さくうなずいている。アリスさんみたいに、料理やお菓子作りに詳しい人だと、こういった簡単なおやつは、逆に、あまり知らないのかもしれないな。魔理沙は、芋ようかんの詳しい作り方を質問してきた。気に入ってくれたようで、何よりだ。

 芋ようかんと一緒に、お茶を飲みながら、俺と魔理沙が話すのは、いつもと同じ、薬と魔法の話題だ。この前来た時に、試供品で置いていった栄養ドリンクは、魔理沙には好評だったようだ。まあ、「何本か買ってみる?」と言ったら、「いらない」と断られてしまったが。魔理沙は、現在、新しい魔法に取り組んでいる最中だそうで、明日あたりに、またパチュリーさんに質問するために、紅魔館に出かける予定だという。

 気付けば、アリスさんが、変な顔をしてこちらを見ている。

 「…あなたたちって、いつもそういう話をしているの?」

 「ええ、その通りですけど…?」

 「仲良しなのは、見ていてわかるけれど、なんというか、こう、色気がないわね。思っていたのと、ずいぶん違うわ」

 色気…?と、魔理沙は首をひねっていたが、

 「そうそう、色気で思い出した。聞いてくれよ涼平!今試している魔法でさ、発動するときに、面白い色の光が出るんだよ!あれは、今まで、ちょっと見たことがないな。上手くいったら、どんな色になるのか、今から、すごい楽しみなんだ!」

 無言で魔理沙を見つめるアリスさんの顔は、あれはたぶん、心底呆れてるんだと思う。ご期待に沿えず、すみません、アリスさん、本当に、いつもこんな感じなんです。

 

 午後に回る予定のお客さんが何件かあるので、適当なところでおいとましないといけない。できれば、もう少し話していきたいんだけどな。

 「そうか、それじゃ、またな。

 ああ、そうだ、涼平、今度は、どんな料理が食べたい?」

 「え?シチューでいいんじゃない?」

 「同じものでいいのか?」

 「うん、だんだん寒くなってきたし。これからは、温かいシチューが嬉しい季節だよ。今度は、きっと、美味しいのを食べられるんだろう?」

 「…よし、わかった。びっくりするぐらい美味しいシチューをごちそうしてやるから、楽しみに待ってろよ!」

 魔理沙に見送られて、霧雨魔法店を後にする。魔法の森の入り口まで、アリスさんが送ってくれるらしい。

 「誰かのために頑張る、っていうのは、すごいエネルギーになるものね」

 並んで歩きながら、アリスさんが言う。

 「魔理沙は、試食係が欲しいだけなんじゃないですか」

 「なんにしても、あの魔理沙が、料理に興味を持ってくれたのは、喜ばしいことだわ。このまま一生、キノコや木の実ばかり食べて生きていくんじゃないかって、本気で心配だったもの。

 そのうち、また新しいお料理を魔理沙に教えてみるから、そのときは、ちゃんと協力してあげてね、涼平君?」

 「美味しいシチューが食べられれば、俺は満足ですよ」

 「さっき聞いたわ。でも、シチューの他にもう一品、サイドメニューが増えても、別に困らないでしょう?」

 そういうことを言われると、なんだか期待してしまうんだけどな。俺としても、今度はどんなお菓子を手土産に持っていくか、今から考えておかないといけないかもしれない。

 

 魔法の森を抜け出ると、いつものことだが、世界がやたら明るく感じる。大きく伸びをして、深呼吸して、さて、午後の仕事も頑張るとしようか。

 



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10月27日

 午前中の診療を終えて、鈴仙さんと一緒に永遠亭の母屋に戻ると、期待に目を輝かせた輝夜姫様が、俺達を待っていた。

 「…ああ、はい。姫様、着替えてきますから、少々お待ちください」

 今日は、午後から、鈴仙さんと二人で、姫様のお供をして、人里に出かける予定になっている。

 早くしてね、という、姫様の弾んだ声を背中に聞きつつ、部屋へと戻る。姫様のお気持ちはよくわかるが、あんまり期待されると、プレッシャーを感じてしまうな。 

 

 人里というのは、俺や鈴仙さんにとっては、見慣れた日常風景に過ぎないが、なにしろ、姫様は、数百年もの長きにわたって、竹林の奥深くに隠れ住んできたのだ。3年前の永夜異変の後、少しずつ、人間たちとの交流も進めてはきたものの、姫様だけは、相変わらず、永遠亭の奥で、人目に付かないように生活してきた。先日の紅葉狩り、そして今日の外出とで、ようやく長きにわたる束縛から解放されるというもので、それはまあ、姫様も、楽しみで、じっとしていられなくもなろうというものだ。

 

 鈴仙さんも普段着に着替えてきて、それでは、輝夜姫様と人里へお出掛けだ。

 姫様は、今日は、目立たないように化粧をして、服装も、できるだけ地味なものを選んで身に着けている。素顔のままだと人目を惹きすぎる、というのが、この前、守矢神社に行った時によくわかったからだが、「美貌を隠すために化粧をする」なんていう人は、世間広しといえども、そうそういないんじゃないか。「竹取物語」そのままに、里中の若者たちが、姫様に求婚するために永遠亭に押し寄せる、なんてことになるのは勘弁してもらいたいので、こういう処置も、まあ仕方がない。美しい、というのも、度を超すと、いろいろと面倒なものだ。

 とりあえず、昼食を取るために、手近な洋食屋に入る。

 予想通りというか、姫様は、興味深そうに、メニューに見入っている。「これは何?」と質問してくるのに、俺と鈴仙さんが、その都度説明する。永遠亭の食事は、基本的に和食なので、メニューに載っているのは、姫様にとっては、ほとんど全てが、初めて目にする物のはずだ。写真が多く使われているので、料理のイメージは比較的わかりやすいと思うが、匂いや味などは、なかなか伝えるのが難しい。あれも美味しそう、これも食べたい、と、何度もメニューを見直して、最終的に、姫様は、ハンバーグ定食を注文した。鈴仙さんはスパゲッティ、俺はピザを注文する。

 俺はこの店に来るのは初めてだが、鈴仙さんは何度か来たことがあるらしい。

 「食事じゃなくて、お茶を飲みに、だけどね。

 ここのケーキが美味しいって、妖夢に教えてもらったのよ。何回か、お土産に買っていったこともあるんだけど、覚えてる?」

 「覚えてる!すっごく美味しかったわ!」

 …なんかもう、姫様は、えらく盛り上がっているな。確かに美味しいケーキだったが、永遠亭での姫様は、もっとこうお淑やかに、「美味しいお菓子ね」などとおっしゃって、優雅に微笑んだりしていたはずだが。現在目の前にいるのが、意外と、姫様の素の性格なのかもしれないな。

 料理が運ばれてきた。ピザなんて食べるのはいつ以来だろう。一切れ取って食べてみる。うん、熱々のチーズがたっぷりで、大変美味しい。

 輝夜姫様は、といえば、ハンバーグを切り分ける手を止めて、俺の前のピザをじっと見ている。

 「…姫様、少し、食べてみます?」

 「ありがとう!」

 取り皿に、ピザとスパゲッティを取り分ける。姫様は、とても嬉しそうだ。

 「ハンバーグのお味はいかがですか?」

 「とっても美味しいわ!永琳も、こういうのを作ってくれるといいのに」

 姫様の頼みなら、師匠はだいたい受け入れるはずなので、たぶん大丈夫なんじゃないだろうか。永遠亭の食事が洋風に変わるのも、そう遠い未来のことではないかもしれない。まずは、作り方を覚えるところから始めなければならないだろうが、八意師匠なら、あっという間にマスターしてしまいそうな気がする。医学ばかりじゃなくて、料理の腕前もすごいからな、あの人。

 

 食事を終えて店を出る。美味しいケーキをお土産に買っていきたいところだが、この後、人里をいろいろと歩くのに荷物になってしまいそうなので、今回は断念。そのうちまた鈴仙さんに買ってきてもらおう。雰囲気の良いお店で、料理も美味しかったし、機会があったら俺もまた来てみたいと思うが、俺が薬を販売するルートからはちょっと外れているのが残念だ。

 姫様の少し後ろを、鈴仙さんと並んで、人里の大通りを歩いていく。物珍し気に辺りを見回しては、立ち止まって店の中をのぞき込んだりしている姫様を観察するのは、なかなか面白い。普段の落ち着いた姿とは、まるで別人みたいだ。

 俺と鈴仙さんの今日の主な役目は、「姫様が何かトラブルを引き起こさないか、しっかり注意しておくこと」だ。なにしろ世間知らずもいいところなので、どんな問題を巻き起こすか予想できない、との師匠の言葉だが、今のところは平穏無事に過ぎている。

 「このまま、何事もなく、一日が終わってくれるといいわね」

 「そうですね。ところで鈴仙さん」

 「なに?」

 「なに?じゃなくてですね…どうして、さっきから、腕を組んできてるんですか?」

 洋食店を出てからしばらくは、俺と鈴仙さんは、少し間を置いて、普通に歩いていたのだが、さっき突然鈴仙さんが近づいてきて、俺の腕を取って、体を密着させてきた。何かきっかけがあるのだと思うが、今のところは、よくわからない。

 「たまにはいいじゃない、こういうのも」

 「…はあ…」

 「お願い、もう少しだけ、このままで、自然に歩いて」

 幸せそうな笑顔を作りながら、真剣な声で、鈴仙さんが囁いてくる。まあ、美人と腕を組んで歩くのは望むところだが、さすがに距離が近すぎるというか、なんというか、その…やわらかい、とか、いい匂いがする、とか…

 道の向こう側から歩いてきた男性が、俺達に向かって、黙って会釈をしてきた。鈴仙さんも、軽く頭を下げて、そのまま、何事もなく行き過ぎる。耳元で、鈴仙さんの、小さな溜息が聞こえた。

 「…腕を組んできた理由って、もしかして、あの男の人ですか?」

 小声で尋ねると、鈴仙さんは、黙って頷いた。相変わらず、腕は組んだままだ。

 「この近くのお医者さん。少し前に話したことがあるでしょ?結婚を申し込まれたけど、断ったって」

 「ああ…」

 「今、付き合ってる人がいるから、って言って、断ったのよ。だから、その…ごめんね?」

 「…後で、何かご馳走してくださいよ?」

 「了解」

 なんというか、まあ、いろいろな事情があるものだ。評判のいいお医者さんだ、という話だったが、さっきちらっと見た印象だと、落ち着いた雰囲気で、見た目も悪くないし、なるほど、という感じだ。ああいう人なら、放っておいても、そのうち良いお嫁さんが見つかるんじゃないかな。などと、鈴仙さんや医者の先生に気を取られていたものだから、

 「…鈴仙さん、姫様の姿が見えませんけど」

 「ええっ?!」

 鈴仙さんは、慌てて周りを何度も見回しているが、つい先程まで、俺達の少し前を歩いていた輝夜姫様の姿は、どこにもない。

 「ちょっと、やだ、嘘でしょ…どこ行っちゃったのよ、姫様。

 私は、空の上から探してみるから、涼平君は、このあたりをお願いするわね。見つけたら連絡して。頼んだわよ?!」

 言うが早いか、鈴仙さんは上空へと舞い上がっていった。何を言う暇もなかったが、ちょっと慌てすぎのような気もする。姫様は、ほんの少し前まで俺達の目の前にいたのだから、たぶんこの近くの店にでも入っていったのだろうし、なんだったら、スマホを使えば、すぐ連絡がつくんじゃないだろうか。まさか白昼の人里で、あの力持ち、かつ不老不死の姫様が何かの被害に遭うようなことも考えにくいし、などと思う間もなく、早速発見した。花屋の店内で、輝夜姫様が誰かと話している。

 姫様がいました、と、スマホで連絡すると、猛スピードで、鈴仙さんが上空から降りてきた。俺が指差す先に姫様の姿を確認すると、

 「本当…よかった…よかったあ…」

 声を震わせて、俺の肩にすがって、泣き出した。よっぽど心配だったんだろうなあ。成り行き上、俺は、鈴仙さんをそっと抱きしめることになる。道行く人たちが、皆で俺達のことを見ている。傍から見たら、きっとメロドラマの1シーンか何かだ。ああもう、どんな状況とでも、好きなように想像してくれ、全く。

 鈴仙さんが落ち着くのを待って、花屋の中に入る。小さな店内に、色とりどりの花が所狭しと並べられていて、充満した香りで、むせ返りそうだ。俺達とちょうど入れ替わりに、姫様と話していた人が店から出ていった。楽しそうにお話されてましたね、と姫様に言うと、

 「常連、って言うの?ここのお店によく来るお客さんらしいわ。

 私が永遠亭で育てている盆栽のお話をしたら、とっても喜んでくれて。今度遊びにいらっしゃい、って、お誘いしたの」

 それは楽しみですね、と、鈴仙さんは答えているが、なんだか、笑顔が若干ひきつっているようにも見える。さっき鈴仙さんに会釈していたような気もするし、ひょっとして知り合いだったりするんだろうか。手に持った日傘と、チェック柄のスカートが印象的な女性だったが…

 

 鉢植えをいくつか、永遠亭に配達してくれるように、と注文して、花屋を出る。また大通りをぶらぶらと歩いて、服屋や道具屋、本屋などを見て回った。本屋では、姫様は、料理の本を2冊買った。2冊とも、表紙にハンバーグの写真が載っている。よっぽど美味しかったんだろうなあ。鈴仙さんは、恋愛小説を2冊買ったようだ。鈴仙さんも、そういうのを読んだりするんだな。ちょっと意外だ。

 お土産に和菓子屋でどら焼きを買って、それでは帰るとしようか。

 「姫様、楽しかったですか?」

 「ええ、とっても!」

 弾んだ声と満面の笑顔を見ると、こちらまで嬉しくなってくる。これからは、姫様も、外出の機会が増えるのだろう。まだ当分は、お付きの人が必要だろうが、少しずつ幻想郷に馴染んでいってもらえればいいな、と思う。

 

 永遠亭に到着。「ただいまー!」と、はしゃいだ声で、姫様は自室へと歩いていった。俺も自分の部屋に戻りたいところだが、

 「涼平君、ちょっといい?」

 鈴仙さんに促されて、診療所の鍵を開ける。なにやら内密の話があるようだ。

 診療所の中に入って、入口の扉を閉めると、

 「あー!もう!!やだ!!ほんとやだ!!死ぬかと思ったわよ、もう!!」

 待合室の長椅子に仰向けに体を投げ出して、手足をバタバタさせながら、鈴仙さんが叫んだ。姫様の姿が見えなくなった時のことを言ってるんだと思う。

 「大変でしたね」

 「大変だったわよ!!死んでお詫びをしなくちゃいけないかと、本気で覚悟したもの」

 「少しオーバーじゃないですか?」

 「涼平君は、師匠のことをよく知らないから、そうやって落ち着いていられるのよ…ああもう、姫様が無事でよかったわ、本当に」

 溜まっていた思いを全部吐き出して、鈴仙さんは、少し落ち着いたようだ。長椅子に横になったまま、少しの間黙っていたが、

 「…ごめんね」

 「何がです?」

 「人里で、みっともないところを見せちゃって。…ありがとう、支えてくれて、嬉しかった。

 その前も、恋人のふりをしてもらったり。なんだか、今日は、迷惑をかけてばっかりね、私」

 「こんな俺でも、役に立つことがあるなら、いくらでも頼ってくださいよ」

 「…うん、そうする」

 鈴仙さんは、長椅子から体を起こすと、

 「しっかり者の弟を持って、お姉さんは嬉しい」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、俺の頭をなでなでしてくれた。…おおう、なるほど、これは…先日の早苗さんの気持ちが、大変良く理解できる。「膝枕してください」と口走りそうになったが、危うく思いとどまったのは、我ながら頑張ったと思う。

 

 診療所を施錠して、自室へ戻る。夕食まではまだ時間があるが、このまま少し休むか、それとも調剤でもやっておこうか、さてどうしたものか。

 



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11月21日

 昨日の夜に、魔理沙から電話が掛かってきた、というのから話を始めるのがいいんじゃないかと思う。電話の内容は、久しぶりに異変解決に行ってきた、ということだった。

 「それで、霊夢のところで、異変解決後の打ち上げをやろうと思うんだけど、涼平も来るよな?」

 「…なんで?」

 「なんで、って、お前、冷たい反応だなあ」

 「いや、だって、俺は、異変解決に、何もしてないし…」

 「涼平も誘おう、って言ったら、霊夢のやつ、すごい喜んでたんだけどなあ」

 「……」

 「涼平に断られた、って言ったら、霊夢、がっかりするだろうな。もしかしたら、泣いちゃうかもなあ」

 「…何時ごろに、博麗神社に伺えばよろしいのでしょうか」

 「話が速くて助かるぜ」

 …まあ、霊夢や魔理沙と一緒に夕飯を食べるというのは、考えてみれば、別に断るようなことでもないか。霊夢と魔理沙の他に、今回は、魂魄妖夢さんも来るらしい。

 

 ということで、本日、21日の夕方、一通りお客さんを回り終わって、俺は今、博麗神社の石段を上っている。言われていた時刻よりも少し早いが、料理の手伝いでもすればいいだろう。

 社務所の裏手、霊夢の住まいの方に回って、声を掛けると、割烹着姿の霊夢が姿を見せた。

 「いらっしゃい。来てくれて嬉しいわ」

 「来なかったら、霊夢が泣くぞ、って、魔理沙に脅迫されたからね」

 「ああ…うん、泣くかも」

 そうそう、霊夢はそうやって楽しそうに笑っているのが一番だ。

 お邪魔します、と、家の中に入る。霊夢の話だと、魔理沙と妖夢さんも、もう来ているらしい。その割には、二人の姿が見えないが、

 「お料理ができるまで、まだ少しかかるから、先にお風呂に入っていらっしゃい、って言ったのよ」

 なるほど、二人とも入浴中か。

 博麗神社の奥には、2年ほど前に突然湧き出した、広々とした天然の露天風呂がある。季節もだいぶ寒くなってきた中、宴会の前にちょっと温泉へ、なんていうのは、最高の贅沢と言うべきだな。

 「涼平も、先にお風呂に入ってきたら?お仕事の後で、疲れてるでしょ?」

 …あのな…。お心遣いは大変ありがたいとは思うが。現在、魔理沙と妖夢さんが入浴中だ、と、たった今霊夢が自分で言ったと思うんだが、気のせいかな?そりゃまあ、広さで言ったら、3人で入浴したって、全然大丈夫ではあるだろうが。

 「それよりも、料理を手伝うよ。まだやることがあるんだろう?」

 「うん。それじゃ、お願いしようかしら」

 霊夢と一緒に台所に入る。本日のメニューは、どうやら鍋料理らしい。大きな土鍋の中に、野菜や豆腐が入っていて、まな板の上には、大きな魚の半身が乗っている。

 「霊夢、その魚は…?」

 「鮭の半身ね。紫が持ってきてくれたのよ。異変を解決したご褒美のつもりなのかしらね。脂の乗った鮭は、とっても美味しいのよ」

 鮭というのは、確か、海にいる魚の名前だったかな。幻想郷には、川や湖はあっても海はないので、これは珍味と言うべきだろう。どんな味なのか、大変楽しみだ。

 珍しい海の幸をもたらしてくれた、八雲紫(やくもゆかり)さんというのは、霊夢の言葉で言うなら、「胡散臭い妖怪の賢者」ということになる。博麗大結界で外の世界との間を遮断して、妖怪と人間の共存する現在の幻想郷を作り上げたのは、ほぼ紫さんの力によるものだという話だ。幻想郷の創造主ともいうべき存在であり、歴代の「博麗の巫女」の、後見人というか相談相手というか、そういう立場でもあるらしい。俺は、まだ紫さんと面識はないと思うが、霊夢によれば、向こうでは、俺のことを知っているそうだ。どういう風に思われているのか、ちょっと気になる。紫さんは、幻想郷と外の世界の間を自由に行き来できるそうで(スキマ、とかいうものを使うらしい)、今日の鮭も、たぶん外の世界から手に入れたのだと思う。

 霊夢は、鮭を食べやすいように小さく切って、鍋に入れていく。俺は、切り身にした鮭に塩を振って焼く係だ。焼き網に切り身を乗せると、すぐに表面に油が浮いて、大量の白い煙が立ち上る。なるほど、これは美味しそうだ。

 「今頃の季節は、サンマも美味しいのよね。幻想郷は、海のお魚が食べられないのだけが、残念ね」

 魚なら、川や湖で取れるから、俺なんかは特に不便は感じないが、外の世界からやってきた霊夢や早苗さんは、当然また違った感想になるんだろうな。

 焼き上がった鮭を居間に運んでいくと、魔理沙と妖夢さんの姿があった。

 「よう、涼平。ちゃんと逃げずに来るとは、あっぱれだぜ」

 言いながら、魔理沙は、濡れた髪をタオルで拭っている。湯上りで上気した顔に、うっすらと汗が浮かんで、いつもとずいぶん違う感じで、なんだか、目のやり場に困る。

 「妖夢さんも、お久しぶりです」

 「ご無沙汰しています。涼平君は、近頃は、お医者さんとして、頑張っているそうですね。鈴仙から、よく話を聞かされています」

 「鈴仙さん、俺のことを、どんな風に話してるんですか」

 「教えてあげません。鈴仙に口止めされているので」

 妖夢さんは、楽しそうに笑う。そういう風に言われると、なんだか気になってしまうんだけどな。

 魂魄妖夢さんは、冥界にある「白玉楼」というお屋敷で、庭師、そして剣術指南役として仕えている、半人半妖の女性だ。冥界というのは、死んだ人間の魂が、閻魔様に裁きを受けるまでの間、留まることになる世界の事らしい。普通の人間が冥界に行くことはできないが、冥界の住人が現世に来ることは自由のようで、妖夢さんも、たまに人里にやってきては、お茶を飲んだり、買い物をしたりしているという話だ。鈴仙さんと仲が良く、時々永遠亭に来たりもするので、俺も一応顔見知りになっている。

 土鍋や取り皿、お酒やお猪口と、いろいろと運ぶものがあるので、居間と台所を何度も往復することになる。おや、霊夢が今手に持っているのは…、ワイングラスなんて、あったんだ。

 「この前、レミリアが来た時に、ワインと一緒に、グラスとかコルク抜きなんかも、一揃い持ってきてくれたの。いい機会だから、今日、みんなで飲んでみようと思って」

 レミリアさんというのは、霧の湖のほとりにある「紅魔館」というお屋敷の当主の名前だったかな。確か吸血鬼だと聞いているが、そういう種族とも普通に付き合えてしまうのが、さすがは博麗の巫女といったところだ。隙を見せたら血を吸われるんじゃないか、と、あまり事情に詳しくない俺などは思ってしまうが、霊夢や魔理沙は普通に紅魔館に出入りしたりしているようなので、まあ、大丈夫なんだろう。

 ワインとグラスを居間に運んで、これでとりあえず全部揃ったはずだ。4つのグラスにワインを注いで、それでは乾杯。

 「お疲れ様でしたー!!」

 まあ、俺だけ、異変解決には何もしていないけれど。霊夢、魔理沙、妖夢さん、本当にお疲れさまでした。

 ワインを、とりあえず一口飲んでみる。生まれて初めて飲むワインだが、さて、味は、

 「……」

 「なあ、これって美味いのか?」

 俺が思っていたことを、魔理沙が口にしてくれた。霊夢と妖夢さんも、ちょっと考え込んでいる。どうやらこの場には、ワインに詳しい人間は誰もいないらしい。

 「『最高のワインを持ってきてあげたから、感謝しなさい』って、レミリアは言っていたけれど…」

 「だったら、いいワインなんだろうな…しかし、想像していたのと、ずいぶん違うな。ブドウから作った酒だっていうから、ジュースみたいなのかと思ってたら、ずいぶん渋いんだな。

 いいワインなのかもしれないけど、正直、味は、私にはよくわからないぜ。やっぱり、飲むなら、いつもの日本酒の方がいいな」

 このワインについては、魔理沙と意見がよく合うな。どういう銘柄なのか、ちょっと気になったので、ラベルを見てみる。「Romanee Conti」…ロマネー・コンティ、で合ってるんだろうか。上のラベルには「MONOPOLE 1945」と記してある。1945年産ということなのかな。ラベルがずいぶんボロボロで読みにくい、と思ったら、相当な年代物みたいだ。

 どうも評判が芳しくないので、レミリアさんの言う「最高のワイン」は、残念ながら、早々にお役御免ということになってしまった。まだボトルに半分ぐらい残っているが、コルクで栓をして、部屋の片隅へと追い払われる。アリスさんなら、ワインに詳しいかもしれないので、あとで魔理沙が持って行ってみるそうだ。

 飲み物を日本酒に変えて、焼き魚と鍋料理を食べながら、異変解決の話などを聞く。今回の異変はどういうものだったのかというと、

 「ヤクザの組長に頼まれて、神様を倒しに行ってきたんだ」

 …???なんだか、今一つよくわからないが、霊夢も妖夢さんも、魔理沙の言葉にうなずいているから、たぶんその通りなんだろうな。動物霊に憑依されて、体の自由があまりきかなかったとか。そんな状態で戦うのは、ずいぶん大変だっただろう。

 「いや、なかなか面白い体験だったぜ。たまにはああいうのもいいな」

 「私は、ああいうのは、もういいです。自分が自分じゃないみたいで…」

 魔理沙と妖夢さんの感想は正反対だ。霊夢はどうだったのかといえば、

 「うーん、確かに、面白い体験だったし、大変でもあったけれど、でも、悪いことをしている相手を懲らしめるのは、いつも一緒だから」

 あまり気にしていなかったらしい。落ち着いているというか、のんきそのものというか。まあ、霊夢らしい答えではある。

 

 飲んで、食べて、話をして、いい感じに酔いが回ってきた。コタツに入って、鍋物をつつきながら、日本酒を飲んでいると、もうすぐ冬なんだなという感じだ。

 「今年の冬は、レティが静かにしてくれるといいなあ」

 お猪口を口に運びながら、魔理沙が言う。レティさんというのは、確か雪女の名前だ。レティさんが元気だと、その冬は雪が多くなり、おとなしければ、雪が降らない、ということになるらしい。雪かきが大変なので、できれば俺も、レティさんには静かにしていてもらいたいと思う。守矢神社なんかは、山の上だし、境内も広いし、大雪の時は大変なことになりそうだ。それとも、神様の力で何とかなったりするのかな。

 妖夢さんは、そんなにお酒に強くないらしく、いつの間にか横になって眠ってしまった。一方で、霊夢と魔理沙は平然としている。

 「酒を飲んで、幸せそうに寝ている奴を見てると、寝顔に落書きしたくなるよな」

 妖夢さんを見ながら、魔理沙がひどいことを言っている。いやまあ、気持ちはわからないでもないけれども。

 「そうだ、涼平、傷薬がそろそろなくなりそうなの」

 ああ、そういえば、料理の方に気を取られて、本業のことを忘れるところだった。薬箱を確認させてもらおう…なるほど、傷薬と火傷の薬が減っているな。減った分は補充しておくとして、

 「霊夢、ちょっと腕を見せてくれるかな」

 「え?…そんなに大した怪我はしていないから、大丈夫よ」

 「患者は、医者の言うことには逆らわないの」

 「…はいはい」

 切り傷、打ち身、軽い火傷。腕だけじゃなくて、たぶん、足や体にも同じような怪我をしているんだろう。確かに軽症ではあるが、年頃の女の子の体だというのを考えると、かわいそうになってくる。異変解決の仕事というのも、因果なものだ。気を付けるんだよ、などと、当たり前の事しか言えないのが、魔法も使えず霊力も持たない一般人の悲しさ…どうして霊夢は嬉しそうなんだ。

 「だって、涼平に心配してもらえたから。涼平がお医者さんらしいことをしているのも、初めて見られたし」

 …つくづくのんきな巫女さんだ。

 「本当に、気を付けるんだよ?大怪我した霊夢を手術するのなんて、絶対にごめんだからね?」

 「はいはい」

 「…本当に仲良いなお前ら」

 あきれたように、魔理沙が言った。

 

 いつの間にか、ずいぶん遅い時間になっていた。そろそろ帰らないといけないな。

 「あら、帰るの?泊まっていったらいいのに」

 あのな、だから、霊夢…、18歳の女の子の家に、20歳の男が泊まっていくわけにはいかないだろう?

 「前は、時々泊まっていったのに」

 それは、子供の頃の話だろう…まったく、霊夢の中では、俺はいったいどういう存在だと認識されているんだ。

 「帰るのか。だったら、送っていってやるぜ」

 魔理沙の言葉はありがたいが、この時期に、箒にまたがって空を飛んでいくのは、ちょっと寒すぎる気がしてしまうな。

 「涼平、お前、私が魔法使いだってことを忘れているだろう?」

 いたずらっぽく笑って、魔理沙は、首から下げたペンダントを差し出してみせた。大きな宝石のようなものに鎖が付いているが、魔理沙によると、その宝石には魔力が込められていて、魔理沙が握りしめると、周囲に魔力の障壁が展開されるらしい。そうすることで、例えば、空を飛ぶときなどは、雨や風を気にすることなく飛行できるのだそうだ。魔法って便利だな。

 「まあ、空気も通さないから、あんまり長い間使ってると、息苦しくなったりするんだけどな。永遠亭までだったら、二人で飛んでも、充分大丈夫だぜ」

 それでは、お言葉に甘えさせてもらうとしようか。

 外に出て、魔理沙の箒にまたがる。見送る霊夢に、魔理沙は「すぐ戻るから、熱燗とおつまみの用意をしておいてくれ」と言っている。二人で飲み直すつもりらしい。

 ごちそうさまでした、美味しかった、と、霊夢にお礼を言って、それでは飛行開始だ。なるほど、魔理沙の言うとおり、夜風も寒さも全く感じない。さすがは魔法使いだ。

 「…なあ涼平、私も異変解決に行ってきたんだけどな」

 それだけ言って、魔理沙は黙る。うん?どういう…ああ、そうか、

 「魔理沙も、怪我したりしないように、十分気を付けてくれよ?」

 魔理沙の、楽しそうな笑い声が聞こえた。

 「うん、霊夢の言う通りだな。誰かに心配してもらえるってのは、嬉しいもんだな」

 「…ごめん、気が付かなかった」

 「…?なんで謝るんだ?

 大丈夫、ちゃんと元気で帰ってくるさ。涼平の心配そうな顔は見たくないし、美味いシチューもご馳走してやらないといけないしな!」

 永遠亭の入り口で俺を下ろして、魔理沙は、元気に飛び去って行った。霊夢と魔理沙の二人が、美味しいお酒を飲めますように、二日酔いにならない程度に、と、心の中で祈っておこう。



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12月24日

 「12月24日はクリスマスイブなんですよ!」

 薬の巡回で、守矢神社に行った時に、早苗さんにそう言われた。19日の出来事だ。

 「うん、そうらしいね」

 「外の世界では、恋人同士で、レストランで食事をしたり、プレゼントを贈ったりする日なんです!」

 「うん」

 「だから、涼平さん、24日、私とデートしましょう!」

 まあ、今年も言われるような気はしていた。確か、去年も同じことを言われて、断ったと思うんだけど、あの時は、なんと言って断ったんだったかな、と、思い出そうとしていると、

 「…あの…子供の時から、漫画とかドラマでそういうのを見て、ずっと憧れていたんですけど…デートとか恋人とか、そういうのはいいので、その、お食事だけでも、ダメですか…?」

 …なんというか、上目遣いで、自信なさげに小さな声で、そういうことを言われると、大変断りづらくなってしまうのだが。

 「…何時ごろに待ち合わせがいいかな」

 「いいんですか?!ありがとうございます!!」

 まあ、予定も特にないし、元々嫌だったってわけでもないしな。早苗さんが喜ぶのなら、別にいいか。

 

 そして、今日、24日だ。風祝の力なのかどうなのか、大変良いお天気に恵まれて、普通だったら朝から薬の販売に歩くところだが、今日ばかりは予定を変更して、夕方まで、永遠亭で調剤作業。外の世界では、今日は「恋人とデートする日」だそうだから、いつものように薬箱を背負っていったのでは、さすがに早苗さんに気の毒だ。約束の時間に間に合うように出掛ける。

 待ち合わせ場所の本屋に着いたら、すでに早苗さんの姿があった。

 「ごめん、待たせちゃったかな?」

 「あ、涼平さん!大丈夫です、全然待ってないですよ!

私、とっても楽しみで。浮かれすぎちゃって、ちょっと早く着いちゃいました!」

 「それならいいけど…」

 「…本当に来てくれるかどうか、ずっと不安でした」

 「約束したんだから、ちゃんと来るよ」

 「いえ、もちろん、そのことは疑っていませんけど。そうじゃなくて、待ち合わせの場所や時間を間違えていないか、とか、いろいろ考えちゃって…とにかく、来てくれて嬉しいです!」

 眩しいほどの笑顔を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。うん、来て良かったな。

 早苗さんと一緒に本屋を出る。夕食を予約した時間にはまだ少し早いが、適当に買い物でもしていけばいいだろう。

 「早苗さんは、どこか寄って行きたいところはある?」

 「私は、特にはないです。涼平さんは、どこか行きたいところはありますか?」

 「花屋に寄ってもらってもいいかな。買い物を頼まれているんだ」

 「花屋さんですね。いいですよ!」

 二人で、夕暮れの大通りを歩く。どの店も、そろそろ店じまいの支度を始めるころだ。

 「幻想郷って、本当に、クリスマスを祝う習慣って、全然ないんですね」

 通りを見回しながら、早苗さんが言う。今日がクリスマスイブ、明日がクリスマスらしいが、だからといって、何か特別なことをしている店は、どこにもない。いたって普通の夕暮れ時の風景だ。

 「外の世界は、12月に入ると、クリスマスの準備で、とっても賑やかになるんですよ!商店街では、クリスマスソングが流れたり、お店はどこも綺麗に飾り付けをしたり…買い物をしなくても、通りを歩くだけで、すっごく楽しい気分になれるんです!」

 お祭りのときみたいなものか。そういうのと比べると、この人里の様子は、だいぶ物足りないかもしれないな。もう少ししたら、正月の準備で、このあたりもずいぶん賑やかになるんだけど。

 

 クリスマスだからといって、幻想郷が盛り上がったりしないのは、キリスト教が全く根付いていないというのが大きいのだと思う。俺の知り合いでキリスト教徒は一人もいないし、教会も、たぶん、幻想郷には1つもないはずだ。全く馴染みがない宗教の行事を祝おうとする人も、そりゃまあ、いないだろう。

 幻想郷で宗教と言ったら、まず第一に博麗神社で、最近だと、これに守矢神社が加わる。お祓いを受けることで、確実に魔除けの効果がある、というのは、幻想郷に暮らす人間にとっては、何よりも重要だ。他に、仏教や道教なども、近頃では布教に努めているようだが、こちらも、人知を超越した力を確実に所持している人たちが布教しているからこそ、信仰する人間もいるわけで、もし幻想郷にキリスト教が広まるとしたら、何か派手な魔法でも使ってみせるか、守矢神社のように、神様を実際に人間たちの前に出現させるか、どちらか必要になるんじゃないだろうか。まあ要するに、今現在もこれから先も、幻想郷は、クリスマスとかいう行事とは無縁のままだろうということだ。たぶん。

 

 というか、考えてみると、守矢神社の巫女である早苗さんが、キリスト教の行事であるクリスマスを祝うというのは、何か宗教上問題があったりしないのだろうか。

 「私が小さい頃から、クリスマスは、普通にお祝いしてましたよ?

 もちろん、社殿に盛大に飾り付けをしたりはしないんですけど。ケーキを食べて、お父さんからプレゼントをもらって。毎年、クリスマスが来るのが楽しみでした。去年も、諏訪子様神奈子様と一緒にお祝いしましたし」

 割とそのあたりは寛容なんだな。まあ、あの二柱らしいという気もする。宗教行事というよりも、単純に催し物の一種ととらえているのかもしれないな。

 

 話をしながら歩いているうちに、花屋に着いた。辺りはもうだいぶ暗くなって、店には明かりが灯っている。

 さて、どんな花を買えばいいんだろう。薬草ならともかく、観賞用の花には、俺はあんまり詳しくないからなあ…

 「外の世界だと、クリスマスの花といったら、シクラメンかポインセチアが多かったと思います」

 早苗さんが教えてくれた花を見てみる。なるほど、シクラメンもポインセチアも、どちらも色鮮やかで、なかなか良い花だな。ふうん。

 「早苗さんが好きな花は?」

 「そうですね、あのピンク色の椿とか…あとは、やっぱり女の子ですから、真っ赤な薔薇には憧れちゃいますね」

 赤い薔薇というと…、ああ、あそこにあるあれか。けっこう高いんだな…まあいいや、

 「すみません、あの赤い薔薇を、そこにあるだけ、全部ください」

 「…?涼平さん、いいんですか、それで…?永遠亭に飾るなら、和室に合いそうな、あの辺の花とか…」

 「ああ、いいんだ、別に、永遠亭に飾るわけじゃないから…はい、早苗さん、これ」

 「…え…?」

 俺が差し出した薔薇の花束を見て、早苗さんはきょとんとしている。

 「クリスマスプレゼント。メリークリスマス、って言うんだっけ、こういう時?」

 「え…でも、涼平さん、さっき、『買い物を頼まれてる』って…」

 「うん、『クリスマスには、プレゼントを贈る』って、この前、早苗さんが言ってたよね?だから、何か買わなくちゃと思ってて。せっかく贈るなら、早苗さんが好きなものがいいかな、と思ったんだけど、どうかな?」

 「……ありがとう、ございます……嬉しいです……すごく、嬉しいです……」

 喜んでもらえたのは良かったが、泣くほどだとは予想外だ。何をプレゼントしたらいいのか、全然思いつかず、花だったらまあ無難かな、と思った結果なんだけど。泣かないで早苗さん。可愛い顔が台無しだ。ほら、ハンカチを貸してあげるから…

 ようやく泣き止んだ早苗さんは、

 「…お食事をご一緒してもらえるだけで、もう十分嬉しかったのに、プレゼントまでもらえるなんて、思っていませんでした。涼平さん、ありがとうございます。私、今、最高に幸せです!!」

 うん、やっぱり早苗さんには、笑顔と元気な声が良く似合う。

 

 花屋を出て少し歩いて、ちょうどいいぐらいの時間に洋食店に着く。この前、姫様と鈴仙さんと一緒に食事をした店だ。早苗さんの話だと、「クリスマスには、おしゃれなレストランで食事をする」そうだが、そんなものはたぶん幻想郷にはないと思うので、申し訳ないが、このあたりで妥協してもらおう。

 「素敵なお店ですね。私、初めて来ました。こんなところがあったんですね」

 案外、早苗さんには好評だったようだ。

 「鈴仙さんや妖夢さんは、たまに来るらしいよ。ケーキが美味しいんだって」

 「そうなんですね!今度、私も一緒に誘ってほしいです!」

 鈴仙さん・妖夢さんと早苗さんが、3人でケーキとお茶を前に、楽しそうにおしゃべりしているのを想像すると、なんだか自然に頬が緩む。外の世界だと、「女子会」とかいうんだっけ。帰ったら、鈴仙さんに話をしてみようか。

 外の世界のレストランだと、この時期には、クリスマス用の特別なメニューが用意されていたりするらしいが、残念ながら、今日のメニューもいつもと同じだ。早苗さん、何を食べたい?

 「私は、涼平さんと一緒のもので…このお店のお料理だと、何が美味しいんですか?」

 「この前、姫様たちと来た時には、三人でピザとスパゲティとハンバーグを頼んだんだけど、どれも美味しそうだったよ」

 姫様たちと来た時の話をすると、早苗さんは、とても楽しそうに聞いてくれた。二人でいろいろ検討した結果、ハンバーグ定食を注文する。クリスマスにはケーキを食べるそうだから、デザートにそれも頼んでおこう。

 「早苗さんの所だと、晩御飯は、だいたい早苗さんが作るの?」

 「当番制ですね。私が作ることもありますし、神奈子様や諏訪子様の時もあります」

 「作るのは三人分?神様も、食事は普通にするんだ?」

 「そうですね。外の世界にいた頃は、お二方は、何か食べたりということはなかったんですけど、幻想郷に来てからは、私と一緒に、普通にお食事なさっています。別に、食べなくても問題はないそうですけど。食欲も、私たちと同じようにあるそうですよ」

 普通に、家族そろって食事するのと、同じ感覚なわけだ。強力な力を持った神様が、米を研いだり、食器を洗ったりしているのを想像してみると、なんだか面白いな。皿を落として割ってしまったり、魚を焦がしたり、なんてこともあるんだろうか。

 話しているうちに、料理が運ばれてきた。いい感じに焼き目のついたハンバーグから、湯気が立ち上って、実に美味しそうだ。それでは、早苗さんと一緒に「いただきます」。

 「…うん、美味しい」

 「本当ですね!私もハンバーグは作りますけど、こんなに美味しくはできないです。やっぱり、本職の人は違いますね!」

 「永遠亭でも、この前、八意師匠が、初めてハンバーグを作ったよ。さすがにここまでではなかったけど、かなり美味しかった」

 「永遠亭では、永琳さんがお食事を作ってるんですか?」

 「晩御飯はそうだね。朝とお昼は、俺と鈴仙さんとてゐさんのうち、朝早く起きた人が作ることになってる。

 師匠は、料理の腕前もすごいんだよ。ハンバーグの他にも、オムレツとかピラフとか、料理の本を見ながら、初めて作ったはずなんだけど、どれも本当に美味しかった。なんだかもう、あの人に苦手なことなんて、何もないんじゃないかって気がする」

 すごいですね、と、早苗さんは楽しそうだったが、ふと黙り込むと、

 「…私、幻想郷に来て、本当に良かったと思います」

 呟くように言った。

 「毎日、こんなに楽しく過ごせるなんて、外の世界にいた時を思うと、本当に、夢みたいです。

 霊夢さん、魔理沙さん、鈴仙さん、妖夢さん、それに涼平さんも…皆さん、とてもよくしていただいて。私たち、ずいぶん勝手なこともしたと思うのに。

 今日だって、こんなに素敵なクリスマスイブを過ごせるなんて、思いもしませんでした。涼平さん、私のわがままに付き合っていただいて、本当に、ありがとうございました」

 いやまあ、そんなにお礼を言われるようなことでは…ええと、早めにハンカチの用意をしておいた方がいいのかな。

 「大丈夫です、もう泣きません。私、今、とっても幸せですから!

 そうだ、私も、涼平さんにプレゼントを持ってきたんですよ!」

 そう言って、早苗さんは、バッグの中から、ちょっと大きめの箱を取り出した。ずいぶん大きなバッグを持ち歩いているなと思ったら、そんなものが入っていたのか。

 「へえ…俺も、プレゼントなんて、もらえるとは思わなかった。ありがとう早苗さん。開けてみてもいいかな?」

 「はい、ぜひ開けてみてください!」

 リボンと包装紙に包まれた箱を、なるべく丁寧に開けていく。中に入っていたのは、

 「…靴だ。カッコいいね」

 「涼平さん、毎日お仕事でたくさん歩き回って、大変だろうと思ったので。使ってもらえると嬉しいです!」

 そういえば、以前に靴のサイズを聞かれたことがあったような気もする。確かに、歩くのが仕事みたいなものなので、靴は、すぐにすり減ってしまうな。たぶん、一か月に一足ぐらいの割合で、履きつぶしているんじゃないだろうか。

 「ありがとう早苗さん、大事に使わせてもらうよ」

 「はい!!」

 とはいえ、こんなお洒落な靴は、仕事で使いつぶしてしまうには、さすがにもったいない。大事に保管しておいて、プライベートの時にでも使わせてもらおう。

 ケーキとお茶を口にしながら、いろいろと話をする。久しぶりに食べた気がするけど、うん、やっぱり美味しいな、ここのケーキ。早苗さんも気に入ってくれたようだ。

 食事の後、すっかり暗くなった通りを、早苗さんと話しながら歩く。永遠亭への分かれ道のところで、

 「それじゃ涼平さん、今日は本当にありがとうございました。とっても、とっても楽しかったです!」

 早苗さんが手を振った。本当なら、俺が守矢神社まで送っていくべきなのだろうが、幻想郷では、これから先は、普通の人間が出歩くには、少し物騒な時間だ。万一妖怪にでも出くわした場合、俺がいたのでは、早苗さんを守るどころか、かえって足手まといになってしまう。心苦しいが、仕方ない、俺も手を振る。

 「早苗さん、くれぐれも、帰り道に気を付けて」

 「はい、ありがとうございます!大丈夫です、今日の私は、無敵ですから!!

 涼平さん、来年のクリスマスも、またご一緒しましょうね?」

 「きっと、来年のクリスマスまでには、早苗さんには素敵な恋人ができていると思うよ」

 「…もう!涼平さんの意地悪!

 涼平さんも、帰り道に気を付けてくださいね。それじゃ、おやすみなさい!」

 そう言うと、早苗さんは宙へと舞い上がり、ゆっくりと遠ざかっていった。俺も、永遠亭へと歩き出す。片手に抱えているのは、早苗さんからプレゼントしてもらった靴だ。歩きながら、今日一日のことを思い返してみる。…うん、クリスマスというのも、案外悪くないかもしれないな。

 



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1月1日

 「明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします!」

 居間で座卓を囲んで、みんなで声を揃えて、深々と頭を下げる。新年の第一声を終えて、また永遠亭の新しい一年が始まる。

 正月の食事は餅とおせち料理、というのは、永遠亭も、普通の家庭と変わらない。おせち料理は、昨日、師匠と姫様が一日かけて作って、俺と鈴仙さんとてゐさんは、協力して餅をついた。慣れない仕事をしたので、腕や足腰が筋肉痛なのは、毎年のことだ。自分が頑張ったと思えば、お雑煮の餅も、いっそう美味しく感じられる。

 「そういえば師匠、早苗さんに聞いたんですけど、外の世界だと、おせち料理も、『洋風おせち』なんてものがあるそうですよ」

 「あら、そう…洋風のおせち料理、ねえ。上手く想像できないけれど、いったいどんなお料理になるのかしら」

 「ハンバーグ!あとは、スパゲッティもいいわ!」

 輝夜姫様が、即座に反応した。以前出掛けた時に食べて以来、よほどお気に召したのだと思うが、そのあたりだと、普通の料理という感じで、「お正月のごちそう」感は、ちょっと薄いような気もする。とはいえ、師匠にとっては、「姫様が喜ぶこと」が何よりも優先される傾向にあるので、永遠亭の来年のおせち料理は「ハンバーグにスパゲッティにオムライス」とかになるのかもしれない…お子様ランチだな、それだと。

 「涼平君は、今年の抱負とかはあるの?」

 鈴仙さんが尋ねてきた。

 「医者として、薬師として、頑張って勉強して、少しでも師匠と鈴仙さんに追いつけるようにしたいですね」

 「去年も同じじゃなかった?進歩がないわね」

 「全くですね…鈴仙さんは、今年の抱負はどうですか?」

 「てゐのイタズラの被害を、少しでも少なくすることね」

 すみません、去年も同じ言葉を聞いたような気がします…というか、「バカ」と大きく書かれた紙を背中に張り付けられているのに気が付いていないのでは、その抱負を達成するのは難しいんじゃないでしょうか。鈴仙さんに教えてあげるべきなのだろうけれど、こういう時は、本人が気が付くまで、何も言ってはいけない、というのが、どうやら永遠亭の暗黙のルールらしい。

 「まあ、せいぜい頑張ることだね」

 「てゐ、あんたがイタズラしなければいいだけの話なのよ」

 鈴仙さんが何か言うたびに、背中の紙がひらひら揺れる。師匠や姫様から笑い声が起こるが、鈴仙さんは一向に気が付く様子もなく、てゐさんはそれを涼しい顔で眺めている。新年から絶好調だな、てゐさん。

 「ところで涼平、あんた、いつまでウチにいる気なんだい?」

 「何であんたが偉そうに言ってるのよ…涼平君、気にしちゃダメよ?」

 てゐさんの毒舌を、鈴仙さんがフォローしてくれる。てゐさんの口が悪いのと、悪気は(たぶん)ないのはよくわかっているので、大丈夫です、鈴仙さん。

 「ようやく、駆け出しの医者になれたところなんで、一人前の医者になれるまで、もう少し弟子を続けさせてください」

 「しょうがないねえ」

 「だから、てゐ、何であんたが偉そうなのよ…

 まあ、まだまだ見ていて危なっかしいものね。涼平君には、もっと修業が必要だわ。今のままで独立されたんじゃ、診療される患者さんが気の毒だもの」

 鈴仙さんも、けっこう口が悪いよな…まったくもっておおせの通りなので、反論できないのが悲しいが。鈴仙さん、今年も一年、ご指導ご鞭撻のほどを、よろしくお願い申し上げます。

 「任せて。可愛い弟弟子に、愛のムチをビシビシお見舞いしてあげるから、期待してね!」

 できれば手加減をお願いします…

 「涼平君がいるのは三月までよ」

 師匠の言葉に、部屋の中が急に静まり返る。いや、師匠、そんなに落ち着いてお茶をすすっていないで、もう少し詳しく説明していただきたいのですが。

 「永遠亭に涼平君がいるのは三月まで。いつ言おうかと思っていたのだけれど、いい機会だと思うから、今日ここで言っておくわ。

 いつだったかしら…そう、診療所を始めた日だから、9月1日ね。涼平君のお父様がご挨拶にいらっしゃってね。その時に、話し合って決めたのよ」

 そんなことがあったのか。できれば、本人にも一言相談していただきたかったと思うが…

 「師匠、さっきも言いましたけど、まだ医者として働き始めたばかりだし、勉強しなければいけないこともたくさんあると思うのですが…」

 「そうね。でも、永遠亭に住み続ける必要はないでしょう?自宅から通えばいいことだし、勉強するのはどこでもできるわ」

 「…はあ…」

 「お父様は、そろそろ涼平君に家に戻ってきてもらいたいみたいよ。

 …ああ、誤解しないでほしいのだけれど、涼平君に出て行ってもらいたいわけではないわ。むしろ逆ね。できれば、ずっといてもらいたいと思うわ。でも、そういうわけにもいかないでしょう?将来は独立する、という約束で来てもらったのだし。

 涼平君を見ていると、困ってしまうの。つい、いろいろと教えたくなってしまうのよね。とても熱心に勉強してくれるから。本当は薬の勉強だけでいいのに、医者の見習いまでさせてしまったりね。

 でも、私の方でも、どこかで区切りを付けないと。いつまでたっても、涼平君を手放せなくなっちゃうわ。

 お父様からお話があったのは、ちょうどよかったと思うわ。涼平君、あなたは、もう立派な、一人前の薬師よ。これを機会に、私の下を離れて、自分一人でやってごらんなさい。何か難しいことがあったら、いつでも相談に乗るから」

 身に余るほどの師匠のお言葉に、聞いていて涙が出そうだ。師匠から見て、不甲斐なく感じたことも、きっと多々あったろうと思うのに…

 「…わかりました、残り三か月、今まで以上にしっかり勉強させていただきます!」

 自然に頭が下がる。本当に、残された毎日を、悔いの残らないようにしないといけないな。

 「本当にいい子ちゃんだねえ、あんたは。『出ていきたくないです、もっとここにいさせてください』って、素直に言えばいいのに。可愛げのない」

 てゐさんの言葉に、思わず笑ってしまう。さっきは「いつまでいる気なんだ」と言っていたのに。とりあえず悪態をつかないと気がすまないのが、本当にてゐさんらしい。

 「涼平がここに来てから、もうすぐ四年か…まあ、いなくなっても、四年ぐらいは忘れないでいてあげるさ」

 ありがとうございます、てゐさん。

 

 朝食を終えたら、俺と鈴仙さんは、姫様のお供をして、博麗神社に初詣に出かけることになっている。姫様がお着替えになっているのを、俺と鈴仙さんは玄関で待っている。

 ちなみに、背中に貼られたイタズラ書きは、鈴仙さんが居間を出る時にようやく気付いて、くしゃくしゃに丸めて、全力でてゐさんに投げつけていた。

 「鈴仙さん、意外と冷静でしたね」

 「うん?…ああ、さっきの師匠の話?」

 「もっと驚くかと思いましたけど」

 「驚いたわよ。あんまり驚きすぎると、かえって冷静になるものなのね。勉強になったわ」

 そういうものなのか。今も、いたって普通に見えるけれど、内心はどうなんだろう。

 「まあ、いつかは来るとわかっていたことだものね。来るのがちょっと急すぎたけど。

 医者としてはまだまだだけど、師匠のおっしゃる通り、薬剤師としては、涼平君は、もう充分一人前だと思うわ。自信を持って独立して大丈夫よ」

 ありがたいお言葉なのだが、なんというか、もう少し寂しがってもらえると、とても嬉しいのだが。

 「てゐさんが四年ですから、鈴仙さんには、五年ぐらいは、俺のことを覚えていてもらえると嬉しいです」

 「それは無理よ」

 きっぱりと断言されてしまった。やっぱり鈴仙さんも、てゐさんに劣らず口が悪い、と思っていると、

 「五年ぐらいじゃ、忘れてあげないわ。これからずっと先、涼平君が死ぬまで、いいえ、涼平君が死んだって、絶対に覚えてる。頼まれたって、忘れてあげるもんですか」

 真剣な表情で、そう言った。俺が何も言えないでいると、

 「だからね、忘れないように、これからの三か月、思い出作りに協力をお願い、ね」

 不意に表情を和らげて、鈴仙さんは、スマホを取り出した。

 「はいチーズ」

 …思い出に残るような笑顔を作れただろうか。

 

 永遠亭から外に出ると、冬の空気が、痛いほどに冷たい。空は、快晴とは言えないまでも、まずまず良い天気で、これなら、初日の出も綺麗に拝めたことだろう。

 「…わあ、本当にすごいのね」

 博麗神社の近くまで歩いてきたところで、姫様が、感心したように呟いた。まだ神社までは少し距離があるが、遠目でもはっきりとわかるほどに、初詣客の行列が、参道をはみ出て、通りにまで続いている。道路沿いには、出店もいくつも立ち並んで、普段の静けさとは全く違う眺めだ。

 「今日は一日中、こんな行列が続くんですよ。行列に並んでから、参拝するまでに、相当時間がかかると思います。

 これでも、守矢神社ができてから、ずいぶん参拝客も減ったみたいですよ。たぶん今頃は、早苗さんのところでも、だいぶ賑わってるんじゃないですかね」

 参拝客が減った、と、普通は怒ったり、危機感を持ったりすると思うが、「楽になって助かるわ」と喜ぶあたりが、霊夢らしいところだ。

 輝夜姫様は、頷きながら俺の話を聞いていたが、

 「ねえ涼平、どうしてこんなに行列ができるのかしら?」

 不思議そうにおっしゃった。

 「…とおっしゃいますと?」

 「だって、参拝してお祓いを受けるのは、別に今日じゃなくても良いのでしょう?わざわざ並ばなくても、他の空いている日に来れば、すぐにお参りできるんじゃないかと思うのだけれど。

 昔だったら、休めるのは、一年のうちお正月だけだったから、それならまあわかるのだけれど。でも、今はそうじゃないのでしょう?」

 似たような疑問は、俺も常々感じてはいた。実際、混雑する元日を避けて、二日や三日、あるいはもっと別の日に参拝に訪れる人も、いることはいる。俺の父親がそうだったし。それでも、一月一日に初詣に来る人が大多数なのは、

 「…賑やかなのを楽しみたいんじゃないですかね、たぶん。普段とは違った、お正月のお祭り気分を味わってみたい、そんなところじゃないですか。

 人混みでうんざりしたような顔をしている人もいますけど、心のどこかでは、意外と楽しんでいたりするのかもしれませんよ」

 俺の説明で合っているのかどうか、あまり自信はないが、とりあえず姫様は納得なさったようで、しきりに頷いていた。

 なんとなく、神社の方を見上げてみる。普段は静かな博麗神社の境内も、今日ばかりは、人で溢れ返っているはずだ。臨時でアルバイトを雇ったり、氏子さんたちに手伝ってもらったりはしていると思うが、霊夢はきっと大忙しだろう。何の役にも立たないが、せめて心の中で、頑張れよ、と祈っておく。同じく、守矢神社に向けても。あちらは、早苗さん以外にも、神様が二柱もいらっしゃるのだから、博麗神社よりはいくぶん大丈夫な気がするけれど。

 参拝客の中には、着物姿の若い女性の姿も、ちらほらと混じっている。正月らしくて良いな、と、俺は思うのだが、

 「動きにくそうな格好よね、ああいうのって」

 というのが、鈴仙さんの感想になるらしい。

 「鈴仙さんも、ああいう格好をしてみたいと思いませんか?」

 「全然。普通の洋服に比べて、機能性大幅マイナスじゃない。お腹のあたりも締め付けられて、息苦しそうだし」

 「でも、綺麗ですよね」

 「それは、まあ…でも、お洒落するんだったら、洋服でいいわよ、私は」

 「そうね、鈴仙だったら、スタイルもいいし、着物姿も良く似合うと思うわ」

 輝夜姫様に言われて、鈴仙さんは、困ったような、でも、まんざらでもなさそうな表情になった。振り袖姿の鈴仙さんというのは、ちょっとうまく想像できないけれど、きっと綺麗なんだろうな。

 「ああいった振袖とはまた違うけれど、私が昔着ていた物が、永遠亭のどこかにしまってあるはずだから、帰ったら、試しに、鈴仙に着せてみましょうか」

 姫様、それは大変楽しみです…と思ったが、あの、もしかすると、その着物というのは、平安時代の十二単(じゅうにひとえ)とかになったりするのでしょうか。

 「十二単…?そんな名前じゃなかったと思うけれど。でもまあ、大昔の衣装なのは確かよ。まずは、探すところからね。どこにしまったんだったかしら…」

 なんだか大変なことになってきた。帰ったら、広大な永遠亭の中を、あちこちひっくり返して、着物探しをする羽目になるのかもしれないな。千年前の衣装なんて、普通に考えれば、時の経過や虫食いなどでボロボロになってしまいそうなものだが、おそらく完全な形で見つかってしまいそうなのが、「長い間、時の流れを止めていた」という「永遠亭」らしいお話だ。

 

 先ほど姫様がおっしゃった通り、「参拝してお祓いを受けるのは、別に今日じゃなくても良い」ので、初詣は空いている別の日に来ることにして、三人で屋台を見て回ることにする。

 というか、姫様も鈴仙さんも、普通の人間ではないのだから、別に、神社に詣でて、お祓いを受ける必要はない、むしろ、お祓いされるとまずい立場だったりするんじゃないだろうか。二人とも、そのあたりはあまり気にしていないようだけれども。

 「いろんなお店があるのね…涼平、あれは何?美味しいの?」

 輝夜姫様は、興味深そうに屋台を見回している。指差した方にあるのは、

 「りんご飴、ですか。うーん…正直、俺は、あまり好きではないですね」

 「美味しくないの?」

 「別に、まずいというわけではないんですが。ちょっと食べにくくて…というかですね、基本的に、屋台で売っている食べ物で、特別美味しいものって、少ないと思いますよ」

 「美味しくないのに、皆、買って食べるのね?」

 「それはつまり、うーん…さっきも言いましたけど、『普段とは違った、お祭り気分を楽しみたい』というのがあるんじゃないですかね。こういう時でないと食べられないもの、手に入らないものが、たくさんありますし」

 「つまり、特別なものなのね。うん、よくわかったわ」

 そうおっしゃって、姫様は、りんご飴を一つお買い求めになった。

 「姫様、お味はいかがですか?」

 「…うん、確かに、特別美味しくはないわね。でも、これは、普通の日には食べられない物なのでしょう?だったらいいわ」

 姫様にも、祭りの屋台の楽しみ方が、多少なりともわかっていただけたようだ。

 屋台を見て回るのも、ずいぶん久しぶりな気がする。子供の頃にはなかったような店も、いくつもあるな。団子の屋台などもあって、売り子さんと鈴仙さんは知り合いらしく、挨拶を交わしていた。

 あるところまで来て、鈴仙さんが立ち止まった。じっと見ている先にあるものは…

 「射的、ですか。鈴仙さん、やってみます?」

 「…そうね」

 一回の料金で、おもちゃの銃を三回打って、上手く景品を倒すか、棚から落としたら、もらえるらしい。棚に並んだ景品を見回すと、鈴仙さんは、一番端に置いてある、大きなクマのぬいぐるみに銃を向けた。なるほど、的が大きい分、当てるのも易しそうだが、落とすとなると、けっこう難しいんじゃないかな。

 一発目は大きく外れた。続いて二発目、惜しい、これは、的をかすめた。そして最後の三発目は、見事に真ん中に命中したが、クマのぬいぐるみは、少し位置がズレはしたが、残念ながら、棚から落ちるには至らなかった。

 「…もう一回お願い」

 鈴仙さんは改めて銃を構え直す。おそらく気付いてはいないと思うが、周囲には、見物人たちの小さな輪ができていた。通常の祭りの屋台とは異なる、真剣な空気が、あたりに漂っている。鈴仙さんの表情や視線、声、銃を構える姿勢などがそうさせているのだと思う。俺にしても、気軽に声を掛けるのがためらわれて、固唾を飲んで、成り行きを見守るばかりだ。姫様だけが、例外的に楽しそうに、鈴仙さんの様子を見つめている。

 一発目はぬいぐるみの右肩、二発目は左の肩に、それぞれ命中する。ぬいぐるみは大きく揺らいで、今にも落ちそうだったが、位置を大きくずらしたものの、まだ景品棚の上にある。しかし三発目、クマの顔の真ん中にコルク弾が命中すると、ゆっくりと後ろに倒れて、地面に落下していった。

 「…ふう…」

 鈴仙さんが息を吐くのと同時に、見物人たちから拍手と歓声が起こる。屋台の人も、笑いながら拍手している。鈴仙さんは、急に我に返ったらしく、周りを見回しながら、顔を赤くしている。俺と姫様も、もちろん、惜しみない拍手を送った。

 

 「…ダメね、あんなところでムキになったんじゃ」

 景品のぬいぐるみを抱えて歩きながら、恥ずかしそうに、鈴仙さんが言った。

 「すごくカッコ良かったですよ。見惚れました。さすがは元軍人さんですね」

 「もう、からかわないでよ…

 『射的』って書いてあって、銃が置いてあるのを見たら、ちょっと興味を引かれちゃったのよね。軍人気質なんて、遠い昔に月に置いてきたと思っていたのに。あー、もう、恥ずかしいなあ」

 「みんな、真剣に見入っていたものね。集中していたから、鈴仙は気付かなかったでしょう?写真に撮っておけばよかったわね」

 「姫様まで…もう、やめてください…」

 消え入りそうな声で言って、クマのぬいぐるみに顔をうずめるようにしている鈴仙さんは、射的屋での凛々しい女性と同一人物だとは、ちょっと信じられない。とにかくまあ、珍しいものを見れた。姫様もおっしゃっていたけれど、本当に、写真を撮っておけばよかったなあ。

 

 お土産に、屋台でたい焼きを買って、永遠亭に戻る。「お正月らしく、羽根つきでもしない?」と鈴仙さんに言われたので、「はい」と気軽に答えてしまったのが運のつき、全然歯が立たず、顔中真っ黒になるまで墨を塗られて、師匠姫様てゐさん、全員に大笑いされた挙句、鈴仙さんと並んで記念撮影までする羽目になった。まあ、皆さんにとって楽しいお正月になったのなら、別にいいさ。俺にとっても、いい思い出になったしな。

 一年後には、俺はここにはいないのだ、と思うと、どうしても寂しい気持ちになる。とにかく、残されたわずかな日々を、悔いなく過ごそう。

 



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1月14日

 「どうした涼平?言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」

 楽しそうに、魔理沙が言う。…そうだな、言いたいことはいろいろあるが、まずは、

 「とても美味しそうな料理だ。ずいぶん頑張ったみたいだね、魔理沙」

 「うん、ありがとう。他には?」

 「思ってたのと違う」

 「だろうな」

 悪戯が成功した時の子供は、きっとこういう表情になるんだと思う。見事に引っかかった側の人間としては、さて、どういう反応をするのが正解なんだろうか。

 

 薬の巡回のついでにお昼をご馳走する、という電話が、数日前に魔理沙から掛かってきた。すっかり寒くなったし、温かいシチューを楽しみに、霧雨魔法店へとやってきたのだが、

 「…肉じゃが、だよね、これ」

 「うん」

 テーブルに並んでいるのは、ご飯に、味噌汁に、肉じゃがだ。美味しそうに湯気が立ち上って、冷たい森の中を歩いてきた身には、大変ありがたい光景なのだが、クリームシチューにパンといったメニューを想像してきたので、うーん…

 「…どうしてこうなったの?」

 「いやあ、この前涼平は『今度の料理もシチューでいい』って言ってくれたけどさ。さすがに、同じ物ばかり作るのは、飽きてきたんだよな。それで、何かもっと工夫できないか、いろいろ試してるうちに、『考えてみたら、シチューの材料って、肉じゃがとほとんど同じだな』って思って。で、作ってみた」

 自由な発想と、「思い立ったら試してみる」という行動力が、いかにも魔理沙らしい。

 「さあさあ、せっかく作ったんだから、冷めちゃう前に食べてくれよな!」

 それではまあ、いただいてみることにしようか。しかし、魔理沙と和食という取り合わせは、なんか意外だな。まあ、魔理沙が料理をする、ということ自体が、いまだに多少の違和感があったりするわけだが。

 「…うん、美味しい」

 「だろう?

 永琳の作る肉じゃがと比べると、どうだ?」

 「料理は、他の人と比べるようなものじゃないと思うけど…でも、そうだね、師匠のと同じぐらい美味しい、かな。

 肉じゃがは、初めて作ったんだよね?本当に、料理がうまくなったなあ、魔理沙。ご飯も味噌汁も、とても美味しい」

 そうだろうそうだろう、と、魔理沙はご満悦だ。よく考えると、肉じゃがはもちろんのこと、ご飯や味噌汁を作るのも、魔理沙は初めてなんじゃないかという気がするのだけれど、今回もやっぱりアリスさんに教わったんだろうか。

 「アリスは、たぶん、和食とか中華なんかには、そんなに詳しくないんじゃないかな。聞いてみたことはないけど。

 実は、永琳に教わったんだ」

 味噌汁を吹き出しそうになった。なんだって?

 「師匠に教わったって…いつ?師匠がここに来て、魔理沙に教えていったの?」

 「いや、私が永遠亭に行って、指導してもらったんだ。先月と今月、合わせて三回出掛けたかな?

 永琳は料理が上手いって、前に涼平が言ってたし、永遠亭の料理は和食が多いって話だったしな。永琳に電話してみたら、気軽にOKしてくれた」

 「そんなことがあったんだ…俺は、全然知らなかったけど」

 「涼平には内緒にしてくれって言っておいたからな。

 後でびっくりさせてやろうと思って。どうやらうまくいったみたいだな」

 なんだか今日は、魔理沙に驚かされてばかりだ。言われてみれば、味噌汁も肉じゃがも、永遠亭で食べているものに近い味のような気がする。

 「『筋がいい』って、永琳に褒められたんだぜ」

 嬉しそうに魔理沙が言う。「師匠の肉じゃがと比べてどうか」とか尋ねてきたのは、そういうわけか。

 「肉じゃがは、そんなに苦労しなかったんだけど、ごはんを炊くのが意外と難しかった。水加減とか火加減とか、けっこう面倒なんだな。水が足りないと芯が残るし、ちょっと火が強いとすぐ焦げるし。

 永琳って、教えるのが上手いよな。筋道立てて、わかりやすく教えてくれる。永琳が医者じゃなくて、魔法使いだったらよかったのになあ。わからないところを、いろいろ質問できるのに」

 それだと俺が困る。アリスさんの話だと、魔法でわからないことがあったら、紅魔館のパチュリーさんに聞きに行っているということだったけれど。

 「パチュリーはなあ、うーん…。申し訳ないんだけど、正直、教えるのはあんまり上手くないと思う。

持っている知識がすごいのは間違いないんだけど、それを言葉にして他人に伝える技術が足りないんだな、きっと。本ばかり読んで、長年一人で魔法を研究し続けてきた結果なんだと思うけど。『他人に教える』ってことが、最初から想定されてないんじゃないかって気がする。質問すれば教えてくれるのは、本当にありがたいんだけどさ。結局、話を聞いてもよくわからなくて、本を読んで自分で調べることになっちゃうんだよ」

 会ったこともないパチュリーさんが、「山のような本だけを友として、孤独に研究を続ける大学者」といったイメージになりつつあるのだけれど、果たして合ってるんだろうか。

 「『知りたいことがあったら、いつでもいらっしゃい』って永琳に言われたし、これからも、ちょくちょく料理を教えてもらいに行こうと思うんだ。

 そういうわけだから、私も永琳の弟子なんだぜ。よろしくな、兄弟子!」

 …ああ、なるほど、言われてみれば。思いがけないところで妹弟子ができた。魔理沙、こちらこそよろしく。

 

 食事の後は、魔理沙お手製のクッキーをごちそうになった。以前に食べた時は、ちょっと変わった出来栄えだったけれど、今回のは、文句なしに美味しい。バターの風味が効いていて、歯触りもさっくりとして、形も整っているし、お世辞抜きに、店で売っていてもおかしくないんじゃないかな。正直にそう感想を言うと、魔理沙はとても嬉しそうだったが、

 「…ああ、なるほど、そうか」

 そう呟いて、突然笑い出した。いったいどうしたんだろうと思って見ていると、

 「ちょっと不思議だったんだよ。なんで涼平といるとこんなに楽しいんだろうって。やっとわかった。魅魔様に似てるんだ、涼平は」

 「…俺が、魅魔さんに?」

 「そう。見た目じゃなくて、中身が、って話な。

 私の話を何でもよく聞いてくれて、良い点があったら褒めてくれるけど、ああしろとかこうしろとか、うるさいことは全然言わないだろう?…そうだ、もし私が、何かとんでもない間違いをやらかしそうだったら、涼平ならどうする?」

 「その時になってみないと何とも言えないけれど、うーん…たぶん、頑張って止めようとするんじゃないかな」

 「だろう?うん、やっぱり魅魔様にそっくりだ」

 そうなのか。なんだか褒められている気がするが、普通はそういう時は止めようとするんじゃないか…いや、面倒事を嫌って、注意するだけして、放っておくような場合も、案外多いのかな?

まあ、性格は似ているのかもしれないが、俺はごく当たり前の人間で、魅魔さんみたいに特別な力は持っていないから、魔理沙が暴走したら、どう頑張っても止められないと思うけど。というか、今の言い方だと、実際に、何かとんでもない間違いをやらかしたことがあるのか。

 「魅魔様の弟子になった最初の頃に、いろいろと、な。好奇心旺盛な子供が、魔法なんか使えるようになったら、ついはしゃぎすぎて、加減が分からなくなる、っていうのは、なんとなくわかるだろう?

 あの頃に比べたら、今はだいぶ落ち着いたと思うから、別に心配しなくても大丈夫だと思うぜ。

 そういえば、永琳に聞いたけど、涼平、永遠亭を追い出されるんだって?」

 さらっととんでもないことを言われたような気がする。だいぶ情報が混線しているようだが、一体どうやったらそういう伝わり方をするんだろうか。

 「…本当に師匠がそう言ったの?」

 「うん、三月いっぱいで、涼平が永遠亭からいなくなるって言ってたけど」

 「その通りだけど、追い出されるんじゃなくて、独立するんだよ。魔理沙が、魅魔さんから離れて、一人立ちしたみたいに」

 「ああ、そうか。別に、何かやらかしたわけじゃないんだな。ちょっと心配したんだけど…」

 いったい何をしでかしたと思ったんだ。師匠に事情を聞いてみようとは思わなかったんだろうか。

 「いやあ、なんだか、尋ねちゃまずいような気がしてさ。永琳も、詳しいことは何も言わないし。それでまあ、なんとなく聞きそびれた。

 それで、独立したとして、四月からも、涼平は、私の所に来てくれるんだよな?」

 「そうだね、今まで通りに、薬の定期訪問で寄らせてもらうと思う」

 「だったらいいけど。もし涼平が来てくれなくなったら、料理も掃除もしなくなっちゃうと思うからさ」

 「…そうなの?」

 「うん、たぶん。魅魔様がいなくなっても、魔法の研究はずっと続けてるけど、料理に関しては、ちょっと自信がないなあ。料理も面白いとは思うけれど、何よりもまず、涼平が『美味しい』って言ってくれるのが嬉しくて作ってるんだし」

 「食べてくれる人が欲しいんだったら、霊夢とかアリスさんでも…」

 「いや、涼平じゃないとダメなんだよ。だって、『ちゃんと料理して、きちんとしたものを食べなさい』って、アリスに何度も言われたけど、全然やらなかったんだぜ?

 まあ、ちょっと前まで、料理も掃除も全然しないような生活をしてたんだから、そういう暮らしに戻っても、全然かまわないようなものだけどさ。せっかく料理の面白さが分かってきたのに、もったいないじゃないか。

 そういうわけだから、これからも、私の作る料理を食べて、『美味しい』って言ってほしい…ああ、もちろん、出来が悪かったら、そう言ってくれてかまわないんだけど。涼平、いいだろう?」

 「手料理を食べてくれ」とお願いされる、というのは、なんだか変な感じだ。普通は逆じゃないかと思うのだけれど。まあ、つまりは、今まで通りということだよな?だったら、別に断る理由もないか。

 「…それじゃ、これからもご馳走になります」

 「うん、ご馳走してやる!」

 元気いっぱいな声だ。これからは、永遠亭で魔理沙を見かけることもあるのかもしれないな。まあ、もうすぐ俺は永遠亭からいなくなるんだけども。

 「中華料理っていうのも面白そうだよな。紅魔館に行ったときに、美鈴に聞いてみるか。

 …そうだ!四月から、涼平は実家に戻るんだよな?涼平の家って、確かお父さんと二人暮らしだったよな?私が、時々食事を作りに行ってやろうか?!」

 いやいやいやいや、さすがにそれは…そんなに身を乗り出して、目を輝かせながら言われても…えーと、ごめん、ちょっと考えさせて…

 

 その後も少し話をして、午後の仕事に戻る。

 「また来いよ涼平!待ってるからなー!」

 店の入り口で、魔理沙が大きな声で言いながら、ぶんぶんと手を振って見送ってくれた。本当に元気だな。

 次に来るのは、たぶん四月か五月あたりになるのかな…

 



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1月20日

 1月1日に姫様たちと初詣から帰ってきた、その後のことを書いておこうと思う。

 姫様がおっしゃっていた通り、翌日2日から、鈴仙さんに着せるための着物探しが始まった。広大な永遠亭のあちらこちらにしまってある荷物を引っ張り出してきては開けてみるのだが、

 「…ああ、どこにしまったのかと思ったら、こんなところにあったのね!うわあ、懐かしい…」

 荷物を一つ紐解いてみるごとに、姫様はそんなことをおっしゃって、久しぶりに再会した品物にまつわる物語を話し始めるので、作業は遅々として進まない。いろいろと興味深いお話ばかりなので、俺たちもつい聞き入ってしまう。無造作に重ねられた紙束の中から、帝が姫様に宛てたお手紙、なんてものまで出てきたのだから驚きだ。保存状態も極めて良好だし、慧音先生あたりに見せてあげたら、きっと喜ばれるんじゃないかな…まあそんな感じで、着物探しで正月三が日は終わってしまった。

 ちなみに、探していた姫様の昔のお召し物は、3日の夕方ごろに見つかった。早速鈴仙さんに着てもらったが、それはもう、大変よくお似合いだった。皮肉屋のてゐさんが「…うん、まあ、悪くないね」と言っていたというあたりで、どのようなものだったか察していただければと思う。俺はスマホで何枚か写真に撮らせてもらったが、お見せできないのが残念だ。

 さて、正月が終わってまた日常が始まったわけだが、姫様は、昔の荷物を探してみるのがすっかり楽しくなってしまったようで、今日はこの部屋、明日はその隣、といった具合に、永遠亭の中を毎日家探ししていたようだ。掛け軸や置物などが、見慣れない物に時々置き換わっていたりしたのは、きっとその成果だったのだと思う。「今日はこんなものを見つけたのよ」と、夕食の時にお話を聞かせていただくのも楽しかった。まあそんな感じの毎日だったので、

 「ところで涼平、初詣にはいつ連れて行ってくれるの?」

 姫様にそう言われるまで、その件についてはすっかり失念していた。気付けばもう1月も半ばを過ぎて、「初詣」と言うには、だいぶ時機を逸してしまっている。慌てて霊夢に電話して、20日に出かけることになった。実を言うと、その日だと、鈴仙さんがどうしても回らなければいけないお客さんがいるとのことで、それならまた別の日にしようかとも思ったのだが、

 「博麗神社に行くだけなら、お供は涼平君だけでも大丈夫よ、きっと」

 そう師匠が言ったので、今回は、俺と姫様の二人だけということになった。まあ大丈夫だろう、と、俺も軽く考えていたのだが、

 「涼平君、姫様を頼んだわよ?」

 真剣な顔で鈴仙さんに言われてみると、急に心細くなってきた。以前人里に出かけたときに、姫様の姿が見えなくなって、鈴仙さんが大慌てしていたのが思い出される。あの時と違い、今回は鈴仙さんがいないわけで、つまり何かあったら、すべて俺の責任になる、ということだ。博麗神社に出かけるだけでそんなトラブルが起こるとも思えないし、いざとなれば霊夢に協力も頼めそうではあるが、なにしろ全く世慣れていない姫様のことではあるし…。お願いですから何事もありませんように、と、心の中で祈らずにはいられない。

 

 そういうわけで、本日、1月20日の午後、俺は姫様のお供をして、博麗神社への階段を上っている。

 「お正月はあれだけ混雑していたのに、今日はこんなに静かなのね。とても不思議だわ」

 輝夜姫様は、しきりに辺りを見回している。博麗神社が閑散としているのは、俺には見慣れた光景なのだが、姫様にとっては、正月との対比で、きっと新鮮に感じられるのだと思う。

 「5月には、博麗神社の例大祭があるので、その時にはまた賑やかになりますよ。みんなで笛や太鼓を鳴らして、お神輿なんかも出るんです」

 「そうなのね。楽しみだわ!」

 まあ、その頃には、俺はもう永遠亭にはいないのだけれど…

 社務所で声をかけると、霊夢が姿を見せた。

 「こんにちは、涼平。お姫様も、お久しぶりね」

 「お久しぶりにお目にかかります、その節は、大変お騒がせいたしました…できれば、『お姫様』ではなくて、名前で呼んでもらえると嬉しいわ」

 「それじゃあ…輝夜さん?輝夜様、がいいかしら?」

 「ただの輝夜がいいわ。これからは、私も、幻想郷で皆さんと一緒に暮らしていくんだもの。涼平に『姫様』と呼ばれるのは仕方ないけれど。私も、『霊夢』と呼び捨てにさせてもらっても良いかしら?」

 「ええ、もちろん。これからよろしくね、輝夜」

 姫様はとても嬉しそうだ。霊夢が、人里で初めてできた友達、ということになるのかな。

 拝殿で、姫様と一緒に、霊夢にお祓いをしてもらう。俺は、去年の夏頃に一度お祓いを受けているので、別に今回はいいのだけれど、まあ、ついでというか。年に一度お祓いを受ければ良いとはいうものの、穢れというのは目に見えない物ではあるし、普通に生活しているつもりでも、知らないうちに体内が汚濁に満ちていた、というようなこともないとは言えないので、なるべくこまめに祓ってもらった方が安心ではある。

 「…これでおしまいなの?」

 不思議そうに、姫様がおっしゃった。目に見える形で何か効果が表れるわけでもないし、儀式としては、ただ霊夢が大幣を一振りするだけのあっさりしたものだし、ちょっと物足りないかもしれないな。

 「妖怪に狙われないように、人の心の穢れを祓い清めよう、というのが目的の儀式だから。輝夜みたいな月の人たちは、地上の人間よりもずっと、身も心も清らかということだし、お祓いなんて、きっと必要がないんじゃないかしら。

 地上の人間にはこんな風習があるんだ、という程度に、珍しがってもらえると良いと思うわ」

 霊夢の説明を聞いて、姫様は小さくうなずいていた。まあ、妖怪よりも非力な人間だからこそお祓いが必要になるわけで、姫様や師匠なら、妖怪に襲われたとしても、問題なく撃退できそうではある。

 

 「少し、神社の中を一人で見て回っても良いかしら?」

 お祓いを受けた後で、姫様がそうおっしゃった。いつも誰か付き人が一緒というのでは、姫様も窮屈だろうし、博麗神社の境内であれば、お一人で散策されても、特に問題はないと思う。霊夢も了承してくれたので、姫様は一人、境内へと歩いていった。何かあったら、必ず電話してください、と、一応念を押しておく。たぶん大丈夫だとは思うけれど。

 俺たちは、霊夢の家で姫様を待つことにする。誰か参拝客が来るかもしれないし、社務所の方がいいんじゃないか、と、一応言ったのだが、

 「たぶん誰も来ないと思うから、大丈夫よ」

 というのが霊夢の答えだった。そんなに自信ありげに言うようなことでもないような気がするが。普段はこんなに閑散としていても、正月になると参拝客で長蛇の列ができるのだから、この神社も、ずいぶん極端だと思う。

 居間に通される。こたつの上に蜜柑が置いてあるのを見ると、なんだか落ち着くな。霊夢が、温かいお茶を持ってきてくれた。

 「涼平が永遠亭から追い出されるみたいだ、って、魔理沙が言っていたけれど」

 霊夢が言った。間違った情報を伝えるなとは言わないが、後でちゃんと訂正してくれないかな、魔理沙。

 「行くあてがなかったら、私の所に来てもいいわよ?部屋なら空いているし」

 「あー…、いや、気持ちは大変ありがたいと思うけれど…えーと、なんというか、追い出されるんじゃなくて、独立するんだよ。四月から」

 「うん。大丈夫よ、今日の輝夜とのやり取りを見ていれば、涼平が問題を起こしたんじゃないことはわかるもの。ちょっとからかってみたかっただけ。

 そう、独立するのね…涼平が永遠亭に入ってから、どれぐらいになるかしら。三年?」

 「もうすぐ四年になるかな」

 「そんなに経つんだ。時間が過ぎるのは早いものね…四年間過ごしてみて、どう?楽しかった?」

 「そうだね、楽しかった。とても…」

 本当に、思い返してみても、「楽しかった」以外の記憶がない。薬の勉強でも、日常生活でも。もちろん、失敗したことも多かったけれど、そういうことも含めて、全てが良い思い出になっている。師匠、姫様、鈴仙さん、てゐさん、皆さん本当によくしてもらって、こんなに恵まれた環境で過ごせたことに、どれだけ感謝しても足りないぐらいだ。四年前、もしも霊夢から師匠を紹介されていなかったら…それはそれで、きっと普通に充実した生活を送れていただろうけれど、今現在の人生の方が、より刺激的で満ち足りているのは、間違いないことだと思う。

 「…涼平?どうしたの、黙って私のことを見て?」

 「霊夢に出会えてよかったな、と思ってさ」

 「…?変なの」

 不思議そうに、霊夢は小首をかしげてみせた。師匠に紹介してもらったこともそうだし、遡って、もしも子供の頃に霊夢と出会っていなかったらと思うと…駄目だ、うまく想像できない。

 「こうしていると、なんだか懐かしいわね」

 少しの間、何も話さない時間があった後で、楽しそうに霊夢が言った。

 「こうしていると…?」

 「そう。涼平と二人で、こうやって、こたつに入って蜜柑を食べていると。子供の頃に戻ったみたいで、なんだか嬉しい」

 ああ、なるほど。冬はこたつで丸まって、暖かくなってきたら、縁側で日向ぼっこ。霊夢と一緒の風景で、最初に思い浮かぶのは、確かにそんな感じだ。暖かい所にいると、霊夢は、とても幸せそうな顔になるんだよな。ちょうど今みたいに…

 コタツにあたって、いい感じに体が温まってきたので、ちょっと横になる。少しくつろぎすぎな気もするが、そこはまあ、長年の付き合いということで、大目に見てもらおう。時々、霊夢と他愛もない話をして、こういう時間を過ごすのも、ずいぶん久しぶりだ。本当に、子供の頃に戻ったみたいだな…

 いつの間にか寝入ってしまっていた。目を開けたら、すぐ目の前に霊夢の顔があったのでびっくりした。幸福そうに寝息を立てているが、なんというか、ちょっと無防備すぎやしないか…

 「おはよう、涼平」

 声のした方に顔を向けると、姫様が、微笑みながらこちらを見ていた。

 「おはようございます…いつお戻りになったんですか」

 「ついさっき、かしら」

 「思わず寝入ってしまって…大変失礼しました」

 「可愛い寝顔を眺めていられたから、別にいいわよ。とっても仲良しなのね、あなたたち。

 声をかけようかとも思ったんだけどね。あんまり幸せそうに寝ているものだから、起こすのも気の毒かなと思って」

 ずいぶんとみっともない所を見られてしまった。姫様、そんなに楽しそうな顔をなさらないでください…

 姫様との会話が聞こえたのか、霊夢も目が覚めたようだ。

 「おはよう、霊夢。それじゃ、俺たちはそろそろおいとまするから…」

 そう言って立ち上がろうとしたら、霊夢に袖をつかまれた。意外と力が強いな。離してもらわないと帰れないんだが、と、霊夢を見ると、眠そうな目をして、体が前後左右に、ゆっくりと小さく揺れている。いわゆる、夢うつつ、というやつだ。そういえば、霊夢の寝起きは、いつもこんな感じだったな。久しぶりなもので、すっかり忘れていた。もうちょっと、意識がはっきりするまで、待つしかないか…

 「博麗の巫女のこんなところも、めったに見られないんでしょうね。写真に撮ってもいいかしら?」

 姫様、面白がるお気持ちはよくわかりますが、さすがに霊夢が気の毒なので、勘弁してあげてください…

 しばらくして、ようやく霊夢が手を離してくれたので、帰途に就くことができた。

 「四月になったら、涼平の家に遊びに行くわね」

 霊夢の見送りの言葉を聞いて、姫様は「あらあら」と、楽しそうに笑っている。別にいいじゃないですか、仲良しなんだし…と思ったけれど、あれ、ひょっとしたら、霊夢は、俺の家を知らないんじゃないだろうか。俺はよく博麗神社に遊びに行っていたけれど、霊夢が俺の家に来たような記憶が全くない。後で、電話で確認しておいた方がいいかもしれないな…

 いつの間にか日も傾いて、あたりは奇麗な夕焼け色に染まっていた。

 



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2月17日

 「参拝客の方から牛肉をたくさんいただいたので、すき焼きにしようと思うんですが、涼平さんも来ませんか?」

 「行きます」

 昨晩掛かってきた早苗さんからのお誘いの電話に、そう即答してしまったのは、我ながら食い意地が張っていると思う。

 

 一通りお客さんを回り終わって、日も落ちかけた頃、守矢神社に着く。社務所で声をかけると、早苗さんが出迎えてくれた。

 「いらっしゃい涼平さん!待ってたんですよ!」

 いつものことながら、こちらが恐縮してしまうほどの歓迎ぶりだ。

早苗さんに案内されて、というか、ほとんど引っ張られるようにして、住まいの方に向かう。守矢神社に来るようになってずいぶん経つけれど、社務所以外に通されるのは初めてだな。

 社務所の裏手にある早苗さんの家は、神社の他の建物と同様に、かなりの風格を漂わせていた。建てられてからどのぐらい経過してるんだろうな、これ。足を踏み入れるのも、なんだか恐れ多いような感じだ。

 ただいま戻りました、と、早苗さんが声をかけると、廊下の奥の方から、諏訪子さんが顔をのぞかせた。

 「お帰り早苗。涼平君も、よく来たね」

 「お久しぶりです。今日は、お招きいただいて、ありがとうございます」

 「手に持っているそれは、手土産かな?」

 来る途中で買った、日本酒の一升瓶を手渡す。

 「若いのに、しっかりしてるねえ」

 喜んでいただけたようで、なによりだ。

 居間に案内された。暖房が効いていて、寒い中を一日中歩いてきた身には大変ありがたい。テーブルの上には、ホットプレートにすき焼きの具材が用意されて、あとは煮るばかりになっている。神奈子さんと諏訪子さんは、台所でまだ準備などをしているようなので、手伝わせてもらおうかと思ったが、

 「涼平さんは今日はお客様ですから、ゆっくり待っていてください!」

 早苗さんにそう言われた。それではお言葉に甘えて…と思ったけれども、なんだか落ち着かないな。早苗さんも台所へ行ってしまって、手持ち無沙汰ではあるし、霊夢のところみたいに、くつろいで寝転がるというわけにもいかないし。やっぱり俺も手伝おうか、と思っていたら、三人そろっておいでになった。

 「待たせてすまなかったな。すき焼きはすぐ煮えると思うが、できるまでの間、とりあえず適当につまんでいてくれ」

 そう言って神奈子さんが並べてくれたのは、漬物に、佃煮に、刺身。日本酒のつまみとしては、これだけで十分なぐらいだ。

 「神奈子さん、このお刺身は…?」

 「ワカサギの刺身だ。お前が来るというので、裏の湖に行って獲ってきた。夕方まで泳いでいたものだから、鮮度は良いはずだ」

 ワカサギの天ぷらは食べたことがあるが、刺身は初めてだ。それでは、ひとついただいてみよう…うん、しっかり脂が乗っていて、身もよく締まって、とても美味しい。

 「わざわざ船を出していただいたんですか。ありがとうございます。大変だったんじゃないですか?」

 「なに、それほどのこともない。ちょっと船を出して、網を投げてみれば、このぐらいの魚は簡単に獲れる。ここの湖は、いろいろな魚が棲んでいてな。ヤマメ、イワナ、ニジマス、フナ、獲ろうと思えば、様々な種類が簡単に獲れる。近頃では、山の天狗や河童たちでも、魚獲りに来る者がいるようだな」

 なるほど。守矢神社では、魚を食べるのに苦労することはなさそうだ。俺は釣りにはあまり興味はないが、新鮮な魚をいつでも好きな時に食べられる、というのは、ちょっとうらやましい気がする。そういえば、以前からちょっと気になっていたことがあるのだが、

 「いい機会なので質問させていただこうと思うんですが…、守矢神社と裏の湖は、外の世界から移動してきたんですよね?神奈子さんや諏訪子さんの力で。だとしたら、外の世界で、元々神社や湖があった場所って、今現在はどうなってるんですか?」

 神奈子さん諏訪子さん早苗さん、三人とも、きょとんとした顔をしている。なんだろう、この「言われて初めて気が付いた」みたいな反応は。

 「…どうなってるんだろうな、そういえば」

 「今まで、考えたこともありませんでしたね」

 「うん」

 …やっぱりか。これだけの規模の神社と湖が、突然消失したのだから、外の世界では、間違いなく大騒ぎになったんじゃないかな。久しぶりに釣りや参拝に来てみたら、見慣れた景色が跡形もなくなっていた、とか、いったいどんな気がするんだろうか。跡地は、広大な平野が広がっていたりするのかな。

 「まあ、神様なんてものは、人間の都合など考えもしないで、とんでもないことをやらかしたりするものさ」

 諏訪子さんはそう言って笑っている。本物の神様の言葉だけに、説得力が違うな。無力な人間の側からすれば、あまり笑ってすませられるようなものでもないのだけれど。やれやれ。

 「涼平さん、おひとつどうぞ」

 徳利を持って、早苗さんがお酌をしてくれる。うん、やっぱり冬は、コタツに入って熱燗だよなあ。体の中から温まる。

 「早苗さんは、お酒は飲めるの?」

 「そんなに強くはないですけど。少しだけ」

 「それじゃ、ひとつご返杯を」

 「ありがとうございます!」

 俺が注いだ日本酒を飲んだ早苗さんは、すぐにむせて咳き込んだ。

 「早苗さん、大丈夫…?」

 「…はい、すみません、大丈夫、です…。普通のお酒は、何度か飲んだことがあったんですけど、熱燗は初めてで…」

 「無理せずに、ちょっとずつ飲んだらいいんじゃないかな。別に、一息に飲まなくちゃいけないものでもないんだし」

 「はい…気を使っていただいてありがとうございます」

 俺も酒を飲み始めた頃はこんな感じだったなあ、などと思いながら、ふと見ると、諏訪子さんと神奈子さんが、満面の笑顔で俺のことを見ている。

 「…あの、何か…?」

 「いやいや、べつに。年頃の男女が仲良くしているのを見るのは、良いものだなと思っただけだ。なあ諏訪子?」

 「本当だねえ、神奈子」

 …こういう場合、どんな反応をすればいいんだろうな、まったく。

 「神奈子さんも、熱燗をおひとついかがですか?」

 「ああ、いや、私たちは勝手にやっているから。お前は、早苗の相手をしてやってくれ。気持ちだけもらっておく。ありがとう。

 さあ、そろそろすき焼きも煮えただろう。遠慮しないで食べてくれ」

 それでは遠慮なく。ネギに春菊に豆腐と、適当に取らせていただく。しかし本当に肉がたくさん入っているな。四人分にしては多すぎるぐらいだ。

 「肉が足りないようだったら、まだお替りもたくさんあるぞ」

 いや、たぶんもう十分だと思います。さすがに、早苗さんが俺よりも食べるということもないだろうし。神奈子さんと諏訪子さんは、人間ではなくて神様だから、どのぐらいの量を食べるのかわからないけれど。

 「参拝客の方からお肉をいただいた、って早苗さんから聞いていますが、そんなにたくさんあるんですか」

 「ああ、まだずいぶん残っているな。全部でどのぐらい持ってきてくれたのか、量ったわけではないから、正確なところはわからないが、3kgぐらいはあったんじゃないか。塊で持ってきてくれた。

 なんだったら、明日も夕飯を食べに来てくれても構わんぞ。今度は焼肉にでもするか」

 いや、さすがにそんなに毎日ごちそうになるというわけにも…。お気持ちだけいただいておきます。

 「確か農業をやっている男だが、勝負事に勝ったお礼だ、とか言っていたな。どういった勝負事なのか、詳しくは聞かなかったが」

 なるほど、成功しますように、と神様に願掛けをして、願いがかなったのでお礼を持ってきた、というわけだ。

 「戦の神様としては、『勝負に勝たせてください』と信者が願ったとしたら、勝てるように力を貸してあげたりするんですか?」

 「するわけがないだろう、そんなもの」

 即答だった。何を当たり前のことを聞いているんだ、という感じだが、神頼みをする側の人間としては、そんなにあっさりと否定されても、ちょっと戸惑ってしまうのですが。

 「神様というのは、基本的に、人間のすることには関与しないことになっているんだ。

 例えば、今回のように、信者が戦いの勝利を願って、力添えをしてやろうと、私が乗り出したとするだろう?その時に、もしも相手も同じように、自分の信じる神様に勝利の願掛けをしていたら、どうなると思う?相手側でも神様が乗り出してきて、人間同士の争いだったはずが、神様の争いになってしまうんだぞ。勝ち負け以前に、争いの規模が巨大になりすぎて、人間も神様も、誰も得をしない。

 もう一つ例を挙げれば、自分の信徒同士が争いあって、互いに『自分が勝てますように』と願った場合はどうなる?どちらも勝てるようにするのは、なかなか難しいぞ」

 「ははあ…すると、今回、信者の方が勝負に勝てた、というのは…」

 「本人が努力した結果か、たまたま運が良かったかのどちらかだな」

 「…なるほど」

 「困った時の神頼みは効果がない、ということだ。成功したければ、それに見合うだけの努力をするのだな。そうした上で、土壇場で弱気になったり、迷ったりした時に、『自分には神様がついているんだ』という思いが、背中を押してくれることもある。信仰とはそういうものだ。

 今回、肉を持ってきてくれた男も、もしかすると、何かそういうことがあったのかもしれないな」

 「ありがとうございます、勉強になりました」

 「まあでも、涼平君の願い事だったら、私たちも力を貸してあげないでもないよ」

 「うん、それはそうだな」

 …あのですね…、諏訪子さんも神奈子さんも、前言を撤回するのに躊躇がなさすぎませんか。

 「涼平君は、私たちのお気に入りだからね」

 「神は、人間の願いに応えたりはしない。自分の思う通りに行動するだけだ。自分が気に入った人間であれば、頼まれなくても力を貸してやることだってある。お前も、もし私たちの助力が必要な時があれば、遠慮なく言ってくるがいい」

 よかったですね、と、早苗さんが笑顔でお酒を注いでくれるが、いやいやいやいや…

 「そんな、特定の人間に肩入れするようなことになったら、神奈子さんや諏訪子さんの立場が悪くなっちゃうじゃないですか。お気持ちは嬉しく思いますが、今のところはまだ、自分自身の力で何とかなるだろうと思いますし、何か苦しくなった場合は、先ほど神奈子さんがおっしゃったような『努力した上での神頼み』を試してみようと思うので、なんというか、そっと見守っていていただければ…」

 「謙虚だねえ、涼平君は」

 「そういうところを、私たちは気に入っているのだがな」

 買い被られすぎるというのも困ったものだと思う。俺は、どこにでもいる普通の人間なんだけどな…

 「四月からは永遠亭を出るという話を聞いたが、だったら私たちの所に来たらどうだ?早苗も嬉しいだろう?」

 「はい、もちろんです!!」

 いや、そういう話は…と思ったけれど、考えてみたら、ここに来るたびに言われている話だし、いまさらどうこう言うことでもないか。

 「気が向いたら、いつでも引っ越してくるといい。歓迎するぞ」

 ええ、まあ、そうですね、気が向いたら…

 

 暖かい部屋で、お腹いっぱいすき焼きをいただいて、酔いもいい感じに回ってきて、大変幸福な気分だ。

 「涼平さん、お酒はもういいんですか?…だったら、ちょっと待っていてくださいね!」

 いつものように元気よく、早苗さんは廊下へ駆け出していった。どうしたんだろう、と思う間もなく、また駆け戻ってくる。

 「よかったら食べてみてください!デザートです!」

 そう言って、可愛らしい紙袋を手渡してくれた。中には何が入っているんだろう…

 「…クッキーだ。早苗さんが作ってくれたの?」

 「はい!チョコチップクッキーです。バレンタインデー用に作ったんですよ!」

 「…バレンタインデー?」

 「外の世界では、そういう日があるんです!2月14日に、女の子が、好きな男の人にチョコレートをプレゼントするんです!ちょっと遅くなっちゃいましたけど。ただ買ってきたチョコレートを渡すだけじゃつまらないと思って、クッキーにしてみました!」

 へえ…。クリスマスとかバレンタインデーとか、外の世界には、色々と珍しい習慣があるんだな。早速、一ついただいてみようか。

 「…うん、美味しい」

 「…よかった!」

 酒を飲んだ後というのもあるのかもしれないが、甘いものがとても美味しく感じられる。バタークッキーとチョコチップの風味が良い感じだ。

 「早苗さんは、お菓子作りが趣味だったりするの?」

 「いえ、そういうわけでは…実を言うと、クッキーを作るのは、今回が初めてだったんです。美味しくない、って言われたら、どうしようかと思ってたんですけど…」

 「大丈夫、美味しいよ、とっても。これで初挑戦なのか、すごいね早苗さん」

 「…はい!」

 早苗さんは、とても嬉しそうだ。

 「…ねえ神奈子、なんだか急に暑くなった気がしないかい?」

 「そうだね諏訪子、少し暖房が効きすぎたかね。外に出て、ちょっと涼むとしようか」

 「うんうん、あとは、若いお二人に任せて」

 というようなことを棒読み気味に言いながら、二柱の神様はどこかへ行こうとしたが、いや、そろそろ俺はおいとましようかと思うんですが…。

 「なんだ、帰るのか。泊っていけばいいのに。だったら、永遠亭まで私が送って行ってやろう」

 酔い覚ましがてら、歩いて帰るつもりだったが、「遠慮するな」と重ねて言われたので、それではお言葉に甘えさせていただこうと思う。よろしくお願いします、神奈子さん。

 霊夢の陰陽玉や、魔理沙の魔法の箒のように、何かの道具に乗って飛んでいくことになるのかと思ったら、

 「おぶっていってやるから、早く乗れ」

 思いのほか即物的な方法だった。神奈子さんの外見は、長身の大人の女性といった風だが、俺が背中に乗ってもびくともする様子がないあたり、やはり神様なんだなという感じだ。

 「なるべくゆっくり飛んでいくが、酔っぱらって眠ったりするんじゃないぞ。しっかりつかまっていろよ?」

 そう言って、神奈子さんは夜空へと舞い上がった。風を切って飛んでいくが、冬の夜の寒さは全く感じない。何か神様の力が働いているんだろうか。

 「…私たちが幻想郷に来ることになったいきさつは、早苗から聞いているか?」

 飛びながら、神奈子さんが言った。

 「ええ、大体のことは…」

 「私や諏訪子のせいで、早苗には、大変つらい思いをさせてしまった」

 「……」

 「今の私たちの願いは、早苗が幸福な人生を送ること、それだけだ。

 早苗は、お前といるととても幸せそうだが、お前の方では、早苗のことをどう思っているんだ?」

 「…それは…」

 「他に誰か心に決めた相手がいるのなら、それはそれでいい。ただ、早苗を傷つけるようなことは、なるべくならしないでもらいたい…まあ、お前なら大丈夫だと思うが」

 「…はい…」

 「変な話をしてしまったか、すまない。こういうことは、周りの者が口を出すべきではないと、わかっているのだがな。

 まあ、早苗もお前もまだ若い。急いで答えを出すこともないだろう。…ああ、もちろん、婿に来てくれるのだったら、いつでも歓迎するぞ」

 永遠亭の入り口で俺を下ろして、神奈子さんは守矢神社に戻っていった。見えなくなるまで見送って、小さく息をつく。いろいろと、考えなければいけないことがあるようだ…

 



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3月31日

 夜、永遠亭の縁側で、鈴仙さんが一人で座っているところに出会った。

 「…あら、涼平君、こんばんは」

 「こんばんは…何してるんですか、こんな時間にこんな所で」

 「…私だって、一人で夜空を見上げながら考え事をしたいような時だってあるわよ…涼平君こそ、どうしたの?」

 「今夜で永遠亭ともお別れだと思うと、ちょっと寂しくて…最後に少し歩き回ってみようかと」

 「…そう…。少し座って話さない?」

 鈴仙さんの隣に腰を下ろす。見上げる夜空は、少し雲がかかっているが、三日月が美しく輝いている。

 「とうとう今日になっちゃったわね」

 「そうですね。早いものです」

 「本当にね…荷物は片付いたの?」

 「ええ、もうすっかり。少しずつ実家の方に運んでいたので。今はもう、部屋の中は、ほとんど空っぽです」

 「…そっか…」

 少しの間があって、

 「まさか、『医者をやめて、薬師に専念します』なんて言い出すとは思わなかったわ」

 「ああ…すみません、なんか」

 「別に責めてるわけじゃないけど…」

 今まで通りに、医者の勉強のために週一回永遠亭に通ってくればいい、という師匠の言葉を辞退するのには、かなりの勇気が必要だった。実のところ、医者の勉強を続けたい気持ちは強かったのだが、どうせやるのであれば、完全に自立してみたかった。毎週永遠亭に通い続けていては、いつまでも師匠や鈴仙さんに頼ってばかりになってしまうような気がした。

 「わからないことや困ったことがあったら、また鈴仙さんに教えてもらいに来ると思いますよ」

 「どうかしらね。涼平君は、頑張り屋さんだから…

 まあ、涼平君の面倒を見なくてもよくなるから、明日からは、私はずいぶん楽になるわけね」

 「…もう少し、弟弟子に対して、暖かいねぎらいのお言葉をかけてくれたりはしませんかね…」

 「『やっぱりもう一年、永遠亭にいさせてください』って、頭を下げて頼むんだったら、考えてあげないでもないわ」

 顔を見合わせて、鈴仙さんと笑う。こういうやり取りも、もうしばらくできなくなるんだな。

 「…そういえば、ちゃんと聞いたことがなかったような気がするけど、涼平君にとって、永遠亭で過ごした四年間は、どうだったのかしら。勉強になった?」

 「それはもちろん。勉強になりましたし、皆さん本当に優しくしていただいて…鈴仙さん、今まで、本当にありがとうございました」

 「うん、よろしい。

 明日の朝、出発する前に、師匠や姫様にも、忘れずにお礼を言うのよ?てゐには…まあ、言いたければ、言ったらいいんじゃない?

 …じゃあ、今まで永遠亭で過ごした中で、一番の思い出って、何かある?」

 「一番の思い出、ですか…」

 それはもう、色々ありすぎてキリがないぐらいだが、中でもとりわけ印象に残っているものといったら…

 「…すみません、ちょっと言えないです」

 「ふうん?まあいいけど…私は一つあるわよ、忘れられない涼平君の思い出」

 「…何ですか、って、聞いてもいいですか?」

 「涼平君が初めて永遠亭に来た日の、その夜の出来事」

 「…俺もそれです」

 「気が合うわね」

 二人で苦笑する。まさかの一致だ。何とか忘れようと、努力はしてきたんだけどなあ…

 

 俺が永遠亭に来た最初の日の夜の出来事を再現してみようと思う。

 夕食の後、与えられた自分の部屋で、俺は、畳の上に大の字になって寝転んでいた。初めて親元を離れて、全く見ず知らずの人達の間で暮らすというのは、ひどく緊張するものだと知った。時間にすればわずか半日あまり、皆さんとても優しく接してくれはしたが、何を見聞きし行動するにしても、絶えず気を使う。時間とともに慣れていくことではあるのだろうが、これから毎日こういう生活が続くのだと思うと、思わずため息が出る。今日のところは、このまま何もしないで、疲れに身を任せて眠ってしまいたかった。

 「新入り、風呂が空いたよ」

 ウトウトしていたところへ、声を掛けられた。ウサギと人間が入り混じったような外見をした、この小柄な女の人は、確か、因幡…てゐさん、だったかな?

 「案内してやるから、ついておいで」

 言われて、風呂場に向かう。

 「突き当りの、そこを開けると、脱衣所になってるから。だいぶ疲れてるようだから、ゆっくり風呂に浸かって、明日からに備えると良いよ」

 ありがとうございます、と、てゐさんにお礼を言って、俺は脱衣所の扉を開けて、…着替え中の鈴仙さんと鉢合わせした。

 「……」

 「……」

 一瞬、互いに顔を見合わせた後、大急ぎで扉を閉めて、

 「…すみませんでした!!因幡さんに、お風呂が空いたから入るようにと言われたもので…誰かいるとは思いませんでした!!本当に…」

 扉の向こうに聞こえるように、できるだけ大声で言い訳をしていたら、ものすごい勢いで扉が開いた。続いて飛んでくるであろう怒声に備えて、身を固くしていたら、

 「……てえええええゐ!!!!」

 大声をあげながら、パジャマ姿の鈴仙さんが、廊下の向こうへと猛スピードで駆けていった。遠くで足音が聞こえたのは、たぶんてゐさんが逃げて行ったんだと思う。呆気にとられつつ、さてこれからどうしたものか、なんとも決めかねて、風呂場の前で俺が立ち尽くしていると、何かぶつぶつ言いながら、鈴仙さんが戻ってきた。俺に気が付くと、

 「…あの因幡てゐっていう性悪ウサギは、いつも誰かをだまそうとしてくるから、気を付けること。一つ勉強になったわね…早くお風呂に入って、今日はもう寝ちゃいなさい」

 「は、はい…あの、さっきは本当に…」

 「さっき見たことは、一週間以内に忘れなさい。いいわね?!」

 「…はい…」

 「…お休みなさい、涼平君」

 そう言って、鈴仙さんは去っていった。

 

 「入門してきたばかりの弟弟子に、まさか裸を見られることになるとは思わなかったわ」

 「すみません…」

 「いいわよ、いまさら。全部てゐのせいなんだし。

 まあ、おかげで、変に気兼ねしないで話せるようになったと思えば、そんなに悪い思い出でもないわね」

 おっしゃる通りで、怪我の功名とでも言おうか、入門二日目には、鈴仙さんは、かなりざっくばらんに接してくれるようになって、おかげで、俺もずいぶんすんなりと内弟子生活に馴染むことができた。てゐさんも、まさかそういった効果まで考えて騙したわけでもないだろうが…

 いちおう断っておくと、「裸を見られた」と鈴仙さんは言ったが、あの時俺が見たのは背中だけで、鈴仙さんはもうほとんど着替え終わっていたはずだ。まあ、今となってはどちらでもいいようなことだが。

 「いろんなことがあったわ、本当に…」

 そう呟いて、鈴仙さんは夜空を見上げた。俺も同じようにする。こうして鈴仙さんと一緒にいると、色々な思いが込み上げてくる。永遠亭での四年間は、ほとんど鈴仙さんに頼りきりだったようなものだし。思わずため息をつくと、すぐそばでカメラのシャッター音が聞こえた。

 「最後の思い出の一枚、いただき。いい顔してたわよ、涼平君」

 スマホを片手に、鈴仙さんは片目をつぶってみせた。

 「…一枚と言わず、もう二、三枚ぐらいどうですか?」

 「ううん、一枚でいいわ。キリがないもの。…ねえ、私が日記をつけてるって話はしたかしら?」

 「いや、初耳です」

 「そう…三年前ぐらいかしらね。弟弟子があんまり手が掛かるものだから、ストレス発散用に書き始めたのよ」

 それはまた、なんというか…ええと、情けない弟ですみません…

 「謝らなくてもいいわ。おかげで、色々な思い出ができたし。

 日記には、涼平君の愚痴がたくさん書いてあるの。これからも定期的に読み返すと思うから、きっと涼平君を忘れることはないと思うわ。良かったわね。

 …少し寒くなってきたし、私はもう行くわ。涼平君も、あまり夜更かししちゃダメよ?明日の朝、寝坊したって、起こしてあげないんだから」

 おやすみなさい、と言って、鈴仙さんは去っていった。なんというか、最後まで相変わらずだったな。取り残された俺は、一人で月を見上げてみる。最後の夜ぐらい、少しセンチメンタルになったっていいだろう。

 「…お別れの挨拶は済んだの?」

 声のした方を見ると、さっきまで鈴仙さんがいた場所に、師匠が立っていた。

 「こんばんは…夜になると、ここに来るのが流行ってるんですか?」

 「優曇華にはそうみたいね。最近よくここに座っているのを見るわ。私は、今日も優曇華がいるのかと思って、様子を見に来たのだけれど。…どんな話をしたのか、尋ねてもいいかしら?」

 「今までの思い出話ですかね。割と普通の内容だったと思いますけど」

 「…そう…」

 師匠は、何か考えこんでいるようだったが、

 「…涼平君に話そうかどうしようか、ずいぶん迷ったのだけれど…

 二週間前ぐらいかしらね、ちょうど今頃の時間、私の部屋に優曇華が来てね。『月人の寿命を、地上の人間と同じ長さにすることはできますか』って質問してきたわ。つまり、優曇華の寿命を、ということね。すごく真剣な顔をして」

 「…鈴仙さんが…?どうしてそんなこと…」

 「さあ?優曇華が何を考えていたのか、そこまでは、私にはちょっとわからないわね。思いつめた様子だったし、相当悩むことがあったのだとは思うけれど」

 「…師匠は、なんて答えたんですか?」

 「答えようがなかったわね。今まで考えたこともないようなことだもの。『薬で寿命を延ばしたい』と言われたことはあるけれど、まさか『寿命を短くしてほしい』と言われるとはね。予想外だわ」

 「……」

 「まあ、愛弟子の言うことではあるし、なかなか興味深いテーマだし、研究してもいいような気もするわね。不老不死になる薬を作れたのだから、寿命を短くすることだって、まるっきり不可能ではないと思うわ。

 そういえば、『月人と地上の人間では、寿命が違いすぎるから、結婚しても幸福にはなれない』という話を、どこかで聞いたような気がするわね。誰が言っていたのだったかしら」

 「……」

 「素直じゃない弟子を持つと、師匠は苦労するわ。…お休みなさい、涼平君」

 また一人になって、思わずため息をつく。いろいろと思い出深い夜になった。月を見上げながら、考えに耽っていたら、ずいぶん時間が過ぎていた。そろそろ戻って寝ようか、と思ったところへ、スマホが鳴った。鈴仙さんからだ。

 「はい、もしもし」

 「…寝てた?」

 「いえ、まだ大丈夫です」

 「…そう」

 「……」

 「…涼平君」

 「はい」

 「今から、私の部屋に来ない?」



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4月1日

 出発の朝。 

 「…今まで本当にお世話になりました!」

 永遠亭の玄関で、深々と頭を下げる。しばらくしてから顔を上げたら、不思議そうな顔の姫様と目が合った。

 「ずいぶん長かったのね。いつまで頭を下げてるんだろうって、心配しちゃったわ」

 思わず苦笑すると、姫様も笑顔になった。

 「たまには遊びに来てね。今まで楽しかったわ。ありがとう、涼平」

 姫様、こちらこそ、ありがとうございました。

 「優秀な弟子が巣立っていくのを見るのは、嬉しくて寂しいものね。

 薬のことでもそれ以外でも、何か困ったことがあったら、いつでも相談しにいらっしゃい。独立しても、いつまでも私はあなたの師匠のつもりよ」

 師匠、不肖の弟子に、身に余る暖かいお言葉、ありがとうございます。師匠に出会えて、俺は本当に幸福でした。

 「…ふん…」

 てゐさんは、なんだか不服そうな顔をして黙っていたが、

 「…ちょっとしゃがんでごらん」

 言われた通りにすると、急にてゐさんが抱きついてきた。

 「あ、あの、てゐさん…?」

 「こうしないと抱きつけないんだから仕方がないだろう。背が低いってのは色々と面倒だよ、まったく…もうちょっとの間、おとなしくしてるんだよ」

 そのまま、少しの時間が過ぎて、

 「…うん、まあ、こんなもんかね」

 納得したように呟いて、てゐさんは体を離した。何だったんだろう、と思っていると、

 「幸運を、少しばかり分けてやったんだよ。

 ただのイタズラ好きな妖怪ウサギだとばかり思っていたかもしれないけどね、とんでもない、出会った人間は幸運に恵まれるという、ありがたい幸せウサギなんだよ、私は。

 もちろん実際は、出会った人間みんなが幸せになるなんて、そんな甘っちょろいことはなくて、私が気に入った人間にだけ、幸運を分けてやるんだけどね。

 私に気に入られるなんていうのは、本当に、滅多にないことなんだからね。いっぱい感謝するんだよ。…これで少しは、生きていくのも楽になるだろうさ」

 ありがとうございます、と頭を下げると、ふん、と言って、てゐさんはそっぽを向いてしまった。

 挨拶するのが最後になってしまったが、

 「……」

 鈴仙さんは、穏やかに微笑みながら、黙って俺のことを見ている。

 「…鈴仙さん、それじゃ、また…」

 「うん、またね、涼平君」

 挨拶を終えて、いつまでも名残は尽きないが、もう行かなくては。忘れ物のないよう、手荷物をもう一度よく確認して、永遠亭を後にする。途中で振り返りたくなるのを、何度もこらえた。自分で決めたことだ、今日からは、一人で頑張らなければ。

 

 実家に着いたら、父さんがいた。

 「ただいま、父さん…今日は、薬売りには行かないの?」

 「ああ、うん…お前が帰ってくるってことだったしな。出迎えてやろうと思って。お帰り、涼平。

 …しかし、まさか本当に帰ってくるとは思わなかったな」

 「…戻ってこいって、自分で言ったくせに」

 「うん、まあ、その通りなんだが。八意先生の話だと、薬屋としては、学ぶべき事は一通り学び終えたってことだったしな。

 ただ、『戻って来い』と言っても、お前の方では『永遠亭に残って、医者の勉強を続けたい』と言い出すような気がしたし、それならそれでいいとも、正直なところ思っていたんだ。自分の仕事の後を継いでもらえないのは残念だが、息子が立派に成長するのであれば、親としては、何も文句はないさ。…確認しておくが、本当に、医者をやめて良かったのか?今から、八意先生のところに戻ってもいいんだぞ?」

 そういうことは、もっと早く言ってほしかった、と、思わず苦笑してしまう。まあ、今さら戻る気もないけれど。

 「こっちも確認したいんだけど、俺は、ここに戻ってきても良かったんだよね?」

 「…それはまあ、もちろんだが…」

 「だったらいいや。今日からまたよろしく、父さん」

 「…ああ、そうだな、よろしく」

 

 永遠亭から運んできた荷物を片付けるだけで昼過ぎまでかかった。入門する時には、本当に手荷物一つで出掛けたはずだが、四年の間に、ずいぶん身の回りの品も増えたものだ。とりあえず整理し終わって、見回してみると、自分の部屋のはずなのに、なんだかよそよそしく感じられるのがおかしい。まあ、二、三日もすれば慣れるのだろうけれど。

 窓を開けて、大きく息を吸い込んで、伸びをする。二階のこの部屋から見下ろす眺めも、ずいぶん懐かしい…などと感慨にふけっていたら、家の前に立って、こちらを見上げている人がいるのに気がついた。笑いながら、手を振っている。

 慌てて階段を駆け下りて、玄関を開けたら、見慣れた女性が、目の前に立っていた。

 「…こんにちは」

 こんにちは、と、彼女も、楽しそうに挨拶する。驚かせようと思って、連絡なしでやって来たらしい。いかにも彼女らしいと思う。驚いたよ、うん。

 まさか今日訪ねてくるとは思わなかったので、さて、これからどうしたものか、自分の部屋に案内しようか、それともどこか近くの店にでも行こうか、などと考えていると、

 「なんだ、戻ってくるのはお前一人かと思ったら、嫁さんも一緒に連れてきたのか」

 背後から、父さんが余計なことを言う。父さん、そういう冗談は、時と場合をちゃんと考えて…

 「ふつつかものですが、よろしくお願いします!」

 そう言って、彼女は頭を下げた。…いや、あの、ちょっとノリが良すぎるというか…。本当に、何て言ったらいいんだろう、と、さんざん悩んだあげく、俺が口にした言葉は、

 「…こちらこそ、今後とも、末長く、よろしくお願いします」

 眩しい笑顔を浮かべて、彼女は俺の腕の中に飛び込んできた。   

 

     

 



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あとがき

 以上をもちまして、「幻想郷一般男子の日常」は終了となります。今までお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました!

 

 全部で文庫本一冊ぐらいの分量になりました。これだけの長さの物語を、半年間にわたって書き続けられたという事実に、自分自身で驚いています。今までは、二十枚ぐらいの短編を書くのにも音を上げていたのですが。

 一話十枚程度の連作短編という形にしたのと、大好きな東方projectの物語というのが、書き続けられた理由かな、と思います。自分の好きなキャラクター達を、自分の思うように動かして良い、というのは、本当に楽しいものでした。

 

 物語の結末は、「一番好感度の高いキャラクターが主人公を訪ねてくる」という、アレです。ギャルゲーとかでよくあるやつ。あれをやってみたかった。このエンディングを書きたいがために、この小説を書き始めたようなものです。霊夢・魔理沙・早苗・鈴仙、ヒロイン四人を、なるべく均等に描いてきたつもりなので、最後は、読者の皆さんが好きなキャラクターと結ばれてください。皆さんの所には、誰が訪ねてきたでしょうか。

 

 書いていて本当に楽しかったし、新しいお話を投稿するごとに、お気に入り登録者数が増えていくのは、とても励みになるものでした。最初に投稿したときには、お気に入り登録は確か八人ぐらいだったと思いますが、最終的には二百人まで増えました。登録してくださった皆様、心からお礼申し上げます。ありがとうございました!

 

 心残りとしては、最後まで感想が全然頂けなかったなー、と…。とりあえず完結したことですし、簡単な感想をいただけると、とても嬉しく思います。「好きなキャラクター」と「好きなお話・好きなシーン」等ありましたら、ぜひ書いていってください。お話に関しての疑問・質問等も、ありましたらお気軽にどうぞ。

 ちなみに作者自身としては、もちろん全てのキャラクター・全てのエピソードが大好きなのですが、中でも7月29日の、鈴仙さんが赤面するお話がお気に入りです。あれを思いついたときは、ニヤニヤが止まりませんでした。

 

 今後の予定ですが、涼平君のお話は、たぶんこれでおしまいだと思います。ただ、東方projectの二次創作小説は、書き続けていきたいと思っています。紅魔館とか、妹紅さんとか、霖之助さんとか、今回のお話で登場させ損ねた人たちもたくさんいますし。たぶん、今回と同じ世界観での、様々な東方キャラクターたちの日常の物語になるんじゃないでしょうか。何か月かに一作、程度の、ゆったりとした投稿ペースになるかと思いますが。気長にお待ちいただければと思います。

 最後にもう一度、皆様、今まで本当にありがとうございました!

 



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