ストーリー・フェイト──巨人も魔獣も悪魔も邪竜も神さえも悉く討ち斃す最強の先輩が、ある日突然女の子になってしまったのですが。一体、後輩の僕はどうすればいいのでしょうか── (白糖黒鍵)
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終わった日常。始まる非日常

 それは日常(いつも)と変わらない空だった。何事もなく太陽が昇り、白い雲が自由気儘に伸びている、青空であった。

 

 だが、突如としてそれは──────

 

 

 

「ハハ、ハハハッ!フハァハハハハッ!!」

 

 

 

 ──────という、まるで世界全体を嘲るような笑い声と共に、破壊されることになる。

 

 空が割れる。まるで叩きつけられた鏡のように、先程まで何事もなかった空に亀裂が走り、広がり、そして割れていく。

 

 次々と落ちてくる空の欠片。だがそれは地上に落下することなく、霧散し消えてしまう。

 

 割れた空から、腕が伸びる。真っ黒で、影のような腕が無数に、這い出てくる。

 

 そして──────その存在(モノ)は現れた。

 

 

 

 

 

「御機嫌よう、愚かな人族ども。この『魔焉崩神』エンディニグル、厄災の予言に従い、此処に降りた」

 

 

 

 

 

 無数に伸びる腕の中心にいたのは、男だった。人と何ら変わらない姿ではあったが、肌は黒くこちらを見下ろす瞳は闇よりも昏く、深淵よりも深い。

 

 男──『魔焉崩神』エンディニグルは上空から地上にある街並みを睥睨し、嘆息とともに呟く。

 

「穢れている」

 

 その呟きが聞こえた者は、ごく僅かだったであろう。エンディニグルはそう呟いた直後に、腕を振り上げる。すると彼の周囲の腕も同様に振り上がった。

 

「この世界を今一度浄化しよう。これは予言の通りだ。己が結末を受け入れるがいい、人族共よ」

 

 言うが早いか。エンディニグルの手に小さな黒い球体が現れ、浮かび上がる。彼の周囲の腕もまた同様だった。

 

 その球体は、言うなれば爆弾だ。それ一つですらこの街を跡形もなく吹き飛ばせる程の威力を秘めた魔力の爆弾。

 

 それが、エンディニグルの手や周囲の腕の数だけ浮かんでいる。もしそれが一気に放たれたのなら────想像を絶する被害となるだろう。

 

 そう思い、僕は──クラハ=ウインドアは顔を青ざめ戦慄した。

 

「う、嘘だろ……!」

 

 握った得物が、震える。今すぐにでも、この場から逃げ出したかった。

 だが、たとえ今逃げたとしても助かる訳がないし、そもそも僕はそれが許される立場ではないのだ。

 

 改めて僕の周囲を見渡す。僕の周囲には、僕と同じようにそれぞれの得物を握り締め、上空に浮かぶ文字通りの終焉を睨めつける者たちが数多くいる。彼らは──冒険者(ランカー)だ。

 

 冒険者たちは、その戦意こそ失ってはいなかったが、しかし誰もが絶望的な表情を浮かべていた。

 

 無理もない。誰だって、こんな存在を目の当たりにすればこうなるだろう。

 

『魔焉崩神』エンディニグル──厄災の予言と呼ばれる書に、その名が刻まれている。終焉を司る、魔神。

 

 かの魔神は、この世界に終焉を齎すために降臨した。それは予言書にも記されていた通りで、この日のために僕たち冒険者はこの街──オールティアに集められた。この魔神を、討つ為に。

 

 だがこうして降臨されて、目の前にしてわかった。わかってしまった。無理だ。こんなの、絶対に無理だ。

 

 次元が違う。想定していたよりも、次元が違い過ぎる。いくら選りすぐりの、僕たち冒険者が──《S》冒険者が集まったところで、こんなのどうにかできる訳がない。

 

 ──ああ、僕は今日ここで死ぬんだな。

 

 未だに得物である長剣(ロングソード)を落とさないのが、不思議だった。それくらい、手の震えが止まらない。

 

 足だって地面に縫いつけられたように全く動かせない。一歩も前に踏み出せやしないし、膝だって先程からずっと笑っている。

 

 そして、それは他の冒険者たちも同じだった。

 

「……ふん。装うだけ装って、抵抗の意思はないのか。流石は人族と言うべきか。まあ、いい。せめてもの慈悲だ──痛みも苦しみもなく、汝らに終焉(おわり)をくれてやろう」

 

 何の感情もなく、エンディニグルがそう言う。瞬間、大気が一斉に振動を始めた。

 

 ゴゴゴゴ──空が、地面が、大気が、全てが揺れる。強大な地震の如く、この街全体が揺さぶられる。

 

「終焉の時来たれり。我が終わり、今此処に顕現せよ」

 

 解放されたエンディニグルの魔力に反応して、小さな黒球が震え、輝き出す。

 

 もうすぐにでも、あの黒球はエンディニグルの元から放たれるのだろう。黒球はこの街を滅ぼし、この辺り一帯の大地を蹂躙し尽くすのだろう。

 

 そう考えて、僕は今まで歩んできた人生の記憶を、凄まじい勢いで振り返った。

 

 ──今思えば、短い人生だったよなあ……。

 

 これが噂に聞く走馬灯らしい。そして思った。何故────今、この時、この瞬間、この場に、『あの人』はいないのか、と。

 

『あの人』ならば、この絶対的な魔神すらもなんとかできるんじゃあないのかと。というか多分できるだろうと。

 

 ──ああもう……早く来てくださいよ本当にもう……!

 

 冒険者にはランクがある。《E》から《S》というランクがある。ちなみにさっきも言った通り、僕は《S》ランクであり、一応これでも最高クラスの冒険者なのだ──しかし、実はこの《S》よりもまだ、上がある。

 

 《SS》ランク。この世界に三人しかいないと言われる、人でありながら人という範疇から外れた存在(モノ)たち。

 

 その《SS》冒険者(ランカー)の一人が今、この街にいる────はずなのだ。

 

 

 

 

 

 『ああ?『魔焉崩神』?んなモン知ったこったねえな』

 

 

 

 

 

 思い出されるその言葉。この世界の存続など、危機など知ったことかと、はっきり言い切ったその言葉。

 

「はは、ははは……だからって、本当に来ないことないでしょうッ!?」

 

 固まり立ち尽くす冒険者たちをよそに、上空の魔神(エンディニグル)が宣告する。

 

「滅びよ」

 

 その宣告に合わせて、小さかった黒球が徐々に大きくなる。

 

 だいぶ大きさを増した無数の黒球が、エンディニグルの手や周囲の腕から離れ、浮遊を始める。そして、遂に──────

 

 

 

 

 

「【終焉ノ(エンディ)「どっおおりゃああぁぁぁッッッ!!!」ぐぼおあぉっ?!」

 

 

 

 

 

 ──────果たして、その光景を理解できた者が何人いたことだろう。

 

 ありのまま。ありのまま今目の前で起こったことを、僕は話そう。

 

 

 

 ………………エンディニグルが、ぶん殴られた。

 

 

 

「あごお、ぐおおおおおっ!!」

 

 殴られたエンディニグルが、落下してくる。ちなみにあの黒球はエンディニグルが殴られた瞬間全部消失して、周囲にあった無数の腕も霧散した。

 

 そして秒も経過することなくすぐさま、それはもう凄まじい勢いでエンディニグルは僕たちの目の前に叩きつけられた。

 

 バゴォンッ──叩きつけられたエンディニグルの周囲一帯の地面が割れ爆ぜ、砕け散る。

 

「……………………」

 

 僕を含めた冒険者全員が、絶句していた。というか絶句せざるを得なかった。

 

 いや、だって。さっきまでこの世界に終焉を齎そうとしていた魔神が、馬鹿でかいクレーターの中心でピクピク痙攣しながら倒れているのだから。

 

 そんな中──────

 

 

 

 ダンッッッ──突如、空から炎が降ってきた。

 

 

 

「…………」

 

 炎────そう見えたのは、髪だ。燃え盛る炎のように煌めく、赤髪。

 

「……お前か」

 

 ドスの効いた、低い声。

 

「さっき、この辺り揺らしやがったのはお前かこのクソカスゴミ野郎があああああああッ!!」

 

 一見すれば凄まじい美貌を携えた絶世の美女────だがその声音が、その服装がそれを否定する。かの者は女と見紛う程の、美丈夫であったのだ。

 

 そんな美貌を台無しにさせるように、噴火するような勢いで怒鳴り散らして、未だ気を失っている魔神に対し拳を振り下ろす。肉を打つ、鈍い音が、何度も何度も鳴り響く。

 

「お前のっ、せいでっ!俺のパフェが滅茶苦茶になったろうがッッ!!この落とし前どうつけてくれるんだ、ああ!?」

 

「ぐっ、ごおぉ、おごぉっ」

 

「お前が泣くまで──いや泣いても殴んの止めねえからなああああああッッッッ!!!!」

 

 そう怒号を轟かせながら、その発言通り一切勢いを緩めず、突如として空から降ってきた赤髪の男は、未だ立つことのできないでいるエンディニグルを殴り続ける。が、その時。

 

 ブゥンッ──その場から、エンディニグルの姿が消えた。それと同時に標的を失った赤髪の男の拳が地面を打ち、こちらの鼓膜を破かんばかりの轟音を鳴らし、クレーターをさらに深いものに変えた。

 

「あぁ!?ふざけんなどこ行ったァッ!」

 

 そう叫び、周囲を見回す赤髪の男の背後に、姿を消したエンディニグルが現れる。その口元に黒と紫が混じったような、血らしき液体を伝わせながらも、エンディニグルは目を見開かせて叫んだ。

 

「死ねぇいこの塵芥(ゴミ)がッ!!【終極砲(フィナーレ)】ッッッ!!!」

 

 そう叫ぶと同時に、エンディニグルが手を突き出す。その手には先程見せた黒球の、それも全てを含めた上で数十倍以上の魔力が込められており、それが放たれれば────もはや想像することすらも馬鹿らしくなる被害が出ることは、明白であった。

 

 それをエンディニグルはただの一人に。たった一人の人間相手に放とうとしている。だが先に結果を述べてしまうなら、エンディニグルは己が手のそれを赤髪の男に対して放つことは叶わなかった。

 

 何故ならば、その前に赤髪の男が背後のエンディニグルの懐に入り込み、破壊の魔力を宿した腕を掴んで空に掲げていたのだから。エンディニグルの表情が驚愕に歪んだ刹那──魔力が空に向かって放たれる。

 

 極太の黒紫の極光が空へ伸び、その射線上にあった雲を突き抜け一瞬にして無下に散らす。

 

「逃げんな」

 

 ゾッとする程に低く、冷たい声。赤髪の男はそう言うや否や────掴んでいたままのエンディニグルの腕を握り潰して、暇を持て余していた片方の手で拳を握り、そして一切の躊躇いなくそれをエンディニグルのガラ空きとなっていた胴に打ち込んだ。

 

 バキゴチュグブ──赤髪の男の拳がエンディニグルの胴に突き刺さり、骨を砕き肉を潰す生々しい音が周囲に響き、そして拳はそのままエンディニグルの背中を貫通する。

 

「ご、ばぁッ?!」

 

 エンディニグルの口から黒紫色の液体が盛大に吐き出され、赤髪の男の身体を汚す──寸前、ジュッという音を立てて液体が蒸発し消える。それとほぼ同時に赤髪の男が言う。

 

「場所変えんぞ」

 

 直後、その場から二人の姿が掻き消えた。一拍遅れて衝撃が発生し、さらにクレーターが深く抉られ、そして広げられた。さらにその余波で辛うじて無事であった周囲の石畳と建物の窓硝子(ガラス)を悉く破壊し尽くす。

 

「………」

 

 今目の前で繰り広げられた、あまりにも非現実的な現実に周囲の冒険者たちが動揺し騒めく中、僕はただ空を見上げていた。

 

 奇跡的にも視界に捉えることができた、青空に伸びた尾を引く赤光を眺めながら、僕は呆然と呟いた。

 

「やっぱり、()()は凄いな……はは」

 

 集まった僕らを街ごと消し去ろうとした『厄災』──『魔焉崩神』エンディニグル。だがこの場に突如乱入し、かの神を殴り飛ばし、共に消えた赤髪の男────そう、彼こそが僕の先輩である世界最強の一人。

 

 ラグナ=アルティ=ブレイズ。そしてこの先は、後に僕が先輩から聞いた話になる──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街──オールティアから離れた建築物等、人の手が一切加えられていない、そのままの自然が広がる遠方の荒野。動物も魔物(モンスター)も特におらず、昼間らしからぬ静寂が満ちるこの場に──突如として轟音が響き渡った。

 

 荒れた大地が爆ぜたような勢いで割れ砕け、大量の砂埃を巻き上げると同時に凹み、巨大なクレーターとなってしまう。その中心には苦悶の呻き声を漏らしながら蹲る、男の姿があった。

 

「ぐ、ぉぉぉぉ……!」

 

 その男は人間ではない。『魔焉崩神』エンディニグル──この世界(オヴィーリス)に滅びを齎す存在(モノ)、『厄災』の一柱である。

 

 滅びを体現した、かの神の力は絶大である。戯れ程度に街を、大陸一つを滅ぼせる。まさに埒外──次元が違う。

 

 そのエンディニグルを今、見下ろしている者がいた。

 

「さっさと立ちやがれ。別に動けなくなるまで大して殴ってねえぞ」

 

 陽光に照らされ、まるで燃え盛る炎のように煌めく見事な赤髪を揺らす、その者。遠目から見れば一瞬女かと見紛う程の美丈夫。

 

 名を、ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。そのラグナに見下ろされて、そう言われて。蹲っていたエンディニグルが口を開く。

 

「良い気に、なるなよ人間風情がァァァアッ!!」

 

 そう叫んだ瞬間、もうその場にエンディニグルは蹲ってなどいなかった。憤怒に目を不気味に血走らせ、激情のあまり全身の肌に血管らしき黒紫色の管を幾筋もを浮かばせる、無傷のエンディニグルがそこには立っていた。

 

「我は『魔焉崩神』エンディニグル!世界滅ぼす第一の『厄災』!その我に塵芥にも等しいお前ら下等生物の人間にィ!擦り傷一つ負わせられるとでも思ったかァッ!?フハハハハ!見ての通り、我は無傷!お前が全身全霊を込めた一撃など、無意味なのだよォォオッッッ!!!」

 

 辺りに唾を吐き散らす勢いで咆哮を上げたエンディニグルの姿が、その場から消える。かと思えば、ラグナのすぐ目の前に現れた。直後、エンディニグルが魔力を編み、紡ぎ、そして確固たる形に────魔法へと変える。

 

「奴を引き千切れ!【(つい)魔手(ましゅ)】!」

 

 エンディニグルの言葉に応えるように、彼の周囲から無数の漆黒の手が沸き出し、ラグナに群がる。途中地面を這う手もあり、転がっていた岩石を容易に握り砕いたことから、その一つ一つに超常的な怪力が備わっていることが窺えた。

 

 が、それをすぐ目の前で見たにも関わらず、ラグナは至って平然に、そして信じられないことに────その場から一歩進んでみせた。瞬間、彼に迫っていた全ての手が、まるで見えない何かに弾き飛ばされるかのようにして、残さず掻き消えた。

 

「は?」

 

 己の勝利を確信し、それを決して疑わなかったエンディニグルがその光景を見せつけられ、意味不明とでも言いたげにそう声を漏らす。直後、彼は宙を飛んでいた。

 

 凄まじい速度で流れ溶け行く景色の中、顔面全体が拉たような鈍く重い激痛を味わいながら、数秒遅れてエンディニグルは自分が殴られたのだと理解する。無論、今対峙している人間────赤髪の男、ラグナに。

 

 その事実を理解し、だが受け入れられないまま、エンディニグルの身体が渇いた荒野の大地に激突し、突き刺さる。その際に生じた衝撃はもはや尋常ではなく、その周囲一帯の地面を割り、隆起させ、そして徹底的に元の風景から一変させてみせた。

 

 が、すぐさまエンディニグルはまたも無傷の状態で立ち上がり、彼方に立つラグナの方に向かって両手を突き出す。

 

「一握りの欠片すらも残さず消し飛べェエエエッッッ!!!【終極砲(フィナーレ)(エンド)】ォオオオッ!!」

 

 瞬間、エンディニグルの両手から放たれる黒紫色の極光。それは先程オールティアで放った魔法と同じものであったが、その時とは太さも威力も倍以上に違う。進路上にある全てを一瞬にして跡形もなく蒸発させ、それだけに留まらずオールティアにまで届きその全てを無に帰すことさえ容易く成し得る、まさに破滅の極光がラグナに差し迫る────が。

 

 バシュウゥゥッ──特に慌てることもなくラグナは片手でその極光を受け止め、そして握り潰すかのように開いた手を閉じた瞬間、エンディニグルが放った黒紫色の極光は断末魔を上げるが如く全体が撓み、そして爆発するように弾けて宙に散った。

 

「……は、はぁッ?!」

 

 自身が持つ攻撃手段の中でも一際強力な一撃を大したことなく目の前で無力化され、エンディニグルも流石に素っ頓狂な声を上げてしまう。だがそれでも透かさず彼は突き出していた両手をそのまま地面に衝いた。

 

「我が声に応えよ【眷属召喚】ッ!眼前の敵を滅ぼせぇいッ!!」

 

 直後、地面から滲み出るように無数の黒い影が出現し、すぐさまラグナの元に向かう。その速度は獣の足を遥かに越し、一秒過ぎる頃には黒い影全員が無防備に突っ立っているラグナに襲いかかっていた。

 

 影らしく自由に変形できるようで、各々の身体を剣だったり槍だったり、とにかく多種多様様々な武器に変えてラグナを仕留めんとする。が、刹那にも満たない時間の内────影は、エンディニグルの眷属たちは全滅させられていた。

 

「流石に弱過ぎんだろ」

 

 拳を振り下ろしたまま、ラグナがそう文句を言う。だが彼の遠い視線の先には、もう誰もいない。

 

「馬鹿め!!そいつらは囮だッ!!!【終極砲(フィナーレ)(クライシス)】ッッッッ!!!!」

 

 その声にラグナが頭上を見上げると、そこには己の周囲に黒い腕を無数に展開させたエンディニグルが浮遊していた。瞬間先程よりは威力は下がったが、エンディニグルの腕からだけではなく展開している黒い腕の全てからも、あの黒紫色の極光が放たれる。

 

 無数の極光は大地を穿ち、抉り、蹂躙していく。轟音という轟音が重なり合い、あっという間に荒野を凹凸だらけの更地へと変えていった。

 

 一通り極光を撃ち終わり、エンディニグルは破壊の限りを尽くされた荒野を見下ろす。そして満足げに呟いた。

 

「ハハハッ!塵一つ残らなんだか」

 

 バゴォンッ──そして、思い切り己が散々荒らした大地に叩きつけられた。エンディニグルの身体が地面に激突し、街一つ分のクレーターがそこに発生する。

 

「がばぁッ?!」

 

 それだけで終わらず今度は宙に打ち上げられ、破れた腹の中から内臓らしき肉塊を溢れさせると同時に、口から大量のドス黒い紫色の液体を噴く。が、それらの傷は一瞬にして何もなかったかのように消え失せ────刹那、エンディニグルは全身という全身を滅茶苦茶に、無茶苦茶に、徹底的に破壊された。

 

「ぐげえあごぎべぇっ??!!」

 

 骨という骨は砕かれ、肉という肉は潰され、遠目から見ればもはや吐き気を催す、実にグロテスクな塊となったエンディニグルだったが、やはり次の瞬間な無傷で健在な彼がそこにいるのだった。

 

「まだ死なねえのか。案外、しぶといんだな」

 

 半ば呆れたようにそう呟きながら、宙を飛んでいたラグナが着地する。彼の両拳は黒紫色に染まって汚れていたが、彼が軽く拳を振るうとそれもまるで嘘だったかのように消える。

 

 先程までの威勢を失くし、信じられないという顔つきで立ち尽くす他ないでいるエンディニグルにラグナは向き合う。数秒を経て正気に戻ったのか、エンディニグルは慌ててラグナに叫び散らす。

 

「こ、この人間の分ざ──

 

 ドパッ──が、その途中。エンディニグルの視界からラグナの姿が消え失せたと同時に、突然彼の頭部が爆発したように弾け飛び、四方に頭蓋の破片やら肉片やらを撒き散らせた。

 

 ──……い……で」

 

 だがしかし、刹那にも満たない時間の後、やはりそこには無傷なままのエンディニグルが立っていた。違う点を挙げるのであれば、その表情が呆然としていたものになっていることだ。

 

「頭潰しても死なねえのかよ」

 

 と、呆れを通り越し、もはや何処か感心すら感じられる呟きをエンディニグルの背後で漏らすラグナ。そんな彼の方にエンディニグルはゆっくりと、恐る恐る振り返り────そして。

 

「……く、ククク……ハァハハハハハハッ!良い!実に良いぞ!認めよう、我は認めるぞお前。故に……今こそ見せてやろう、我が全力というものをなァ!」

 

 (タガ)が外れたように、嬉々としてエンディニグルはそう言うと、徐に両腕を振り上げ、大の字になってその場に突っ立つ。瞬間──彼の身体の輪郭をなぞるように、あの無数の黒い腕が出現し、そして────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 否応にも生理的嫌悪を呼び起こす、肉を潰す鼓膜にこびりつくような生々しい音と共に、大量の黒紫色の液体が流れ落ち、その場に広がっていく。

 

 一体目の前で何が起きているのか、別に動揺するでもなくラグナが眺めていた、その時。

 

 

 

「後悔する間も、絶望する間すらも、もはや与えん」

 

 

 

 今し方、ラグナの見ている目の前で。己が使役する腕に潰された筈のエンディニグルの声が響く。そこに在るのはエンディニグルの液体に塗れた、人体を象った無数の腕の集合体だけであり────が、突如としてその下に広がっていた黒紫色の液体溜りが、粘つき糸を引きながら腕の集合体を飲み込んだ。

 

 さながら、それは粘土細工のようなものだった。幾度も表面を波立たせ、周囲に異様な臭気を撒き散らしながら────変化していく。

 

 腕らしき部分は確かな腕となり、より太く、強靭に。足らしき部分は確かな足となり、より太く、強靭に。凹凸など全くなく滑らかな胴体も瞬く間に、堅牢と表するには足りない、筋肉という筋肉を搭載し覆われた肉体へと変化していく。

 

 もはやそこに在ったのは、腕の集合体でもなければ『魔焉崩神』エンディニグルでもない。

 

 ラグナの背丈を優に越す黒紫肌の、先程の青年の風貌など欠片程も微塵にも面影を残していない、頭部に山羊のものにも似た角を戴く巨人の──そう、様々な伝承に残され畏怖される悪魔の姿そのものであった。

 

「拝謁せよ人間。刮目しろ下等生物。この姿こそが、今の我こそが真なる我。滅びの『厄災』を超越せし災い────此れ即ち『極災』。微塵の慈悲として、聞かせてやろう」

 

 まるで深淵から響く、恐ろしく低く濁った声音で、ラグナに告げる。

 

「我はエンディニグル。『魔焉崩神』エンディニグル──極災形態(モード)である。宣言しよう、もはやお前に勝ち目は……なァァァいッッッ!!!」

 

 とうとう抑えられなくなったとでも言いたげに、叫んだエンディニグルの足元から黒紫色の光が迸り、それは瞬く間に円となって、一呼吸の間も置かず広がる。ラグナの身体を突き抜け、大地を駆け抜け、ここら一帯の岩山を通り越し、荒野全体に広がっていく。

 

 それを満足げに見届けたエンディニグルが、己の勝利を確信して疑わない声で、荒野を揺らすかの如く咆哮する。

 

「神域、解放ッッッッ!!!!」

 

 瞬間────膨大という言葉では到底片付けられない、

 あまりに禍々しい魔力が荒野全てを満たした。空が、大地が黒紫色に悍ましく変色し、侵される。空間すらも歪み、気がつけば──今この場を覆い尽くす程の、エンディニグルが喚び出していた黒い腕が蔓延り、そしてそれら全てが自由に、無秩序に這い回っていた。

 

 およそ常人には理解できない、この世とは思えない、まさに異界と化した荒野。それを創り出したエンディニグルが突っ立つラグナに得意げに語る。

 

「止めの駄目押しというものだ。フハ、フハハハハッ!我が神域に足を踏み入れた者は、如何なる存在(モノ)はありとあらゆる終焉を与えられる。本来であればその命に対して終焉を迎えさせてやっているところだが……そんなことさせん。我は許可させん。させてやるものか……やるものかァァァァァアアアアア!!!!」

 

 動かないでいるラグナの眼前にまでエンディニグルは迫り、そして一切躊躇することなく、一切加減することなく彼に向かって巨拳を振るった。

 

 バガンッッッ──極災形態のエンディニグルの一撃を、防御することなく無防備にも受けたラグナの身体が冗談のように吹き飛ぶ。それだけに留まらず余波で彼の周囲の地面一帯すらも総じて捲り上げられて、彼と共に吹き飛ぶ最中粉とすら化さずに大気中で一瞬にして消滅してしまう。

 

「ハッッッハッハッハァ!!どうだ?何もできまい!?当然だ、思考することすら強制的に終焉(おわ)らせているのだからなァアッ!!」

 

 叫びながらエンディニグルが地面を蹴りつける。それだけで彼が立っていた周囲全てが陥没し、底の見えない程の深い大穴を穿つ。そして刹那よりも短い間に宙を滑って飛んでいるラグナの頭上に先回りし、エンディニグルは両巨拳を握り合わせ、それを金槌(ハンマー)のようにラグナの腹部に向かって思い切り振り下ろす。

 

 エンディニグルの握り合わせられた両巨拳がラグナの腹部を打ったその瞬間、途方もなく尋常ではない衝撃が彼の身体を貫通し、その下にある地面を穿ち、荒野全体に波及する。直撃を受けてしまった地面は一瞬にして爆ぜて、割れて、砕けて──もうそこに広がっていたのは、やはり底の見えぬ巨大な深淵。

 

 荒野全体に波及した衝撃は超振動を起こし、大地を文字通り大いに揺さぶった。それによって起きる被害は凄まじいを通り越して圧巻で、そこら中に亀裂が走り無遠慮かつ奔放に割れ目(クレバス)を作り上げていく。数々の岩山は下から揺らされ、為す術もなく大崩壊を起こしてしまう。

 

 そんな被害────否、災害が凄まじい勢いで巻き起こり、広がっていく最中。ラグナの身体が空を切りながら落下する。が、

 

「逃がさんッ!決して、逃がさんぞォオオオッ!」

 

 エンディニグルがそう叫ぶと同時にラグナを囲うように、彼の周りの何もない空間からエンディニグルの黒い腕が滲み出るように現れ、ラグナの手足を引っ掴み、そして上へ放り投げる。

 

 ラグナは一瞬にしてエンディニグルの頭上にまで投げられ、対するエンディニグルは凶悪に口元を歪め、ずらりと並びびっしりと生え揃った牙を見え隠れさせながら、硬く握り締めた巨拳を振り上げた。

 

「死ね!死ね死ね死ね死ね死ねェエエエいッッッ!!!【魔焉崩拳(まえんほうけん)】ンンンンッ!!!」

 

 狂ったように叫び続けながら、刹那エンディニグルはラグナとの距離を詰め切り、そして振り上げた拳を彼に向かって振り下ろす。それも一撃だけでなく二撃、三撃──両の巨拳を使い、一撃で大抵の存在を跡形もなくこの世界から消滅させる程の破壊力を秘める技を、一切出し惜しまない怒涛の連撃(ラッシュ)で叩き込む。

 

 エンディニグルの【魔焉崩拳】がラグナの身体を打つ度、彼の身体を衝撃が貫通し、その背後にある大空を打ち抜く。雲が千切れ、儚く霧散していった。

 

 先程の状況とは全く真逆に、一方的に攻撃を加えるエンディニグル────だがそうする最中、この神にはずっと疑問が纏わり離れないでいた。

 

 ──何故だ。何故極災形態となった我の、我の【魔焉崩拳】をその身に喰らってなお、何故原型を留めていられる……?

 

 そう、確かにエンディニグルはラグナに攻撃を加えていた。己の拳を、彼の身体に打ち込んでいた。……だがしかし、()()()()()()()

 

 やがて、エンディニグルの表情に焦りが浮かぶ。圧倒しているのはこちらのはずなのに、今有利に状況を進めているのはこちらのはずなのに────そんな焦りが彼の頭の中を一周した、その時だった。

 

「ッ!?」

 

 エンディニグルは見た。見てしまった。その一瞬。刹那にも満たないその時。

 

 

 

 

 

 ラグナが、笑っているのを。

 

 

 

 

 

 荒々しく獰猛ながらも、まるで無邪気な子供のような笑みだった。面白い玩具を見つけたような、何処か狂気を帯びた歓喜の笑顔。それを目の当たりにしたエンディニグルの背筋に、凄まじい悪寒が一気に駆け抜ける。

 

 それを感じたと同時に、エンディニグルが止めと言わんばかりに拳を大きく振りかぶる。すると先程と同じように何もない空間からあの無数の黒い腕が現れ、それら全てが振りかぶられたエンディニグルの拳に、腕全体に絡み纏わりつく。

 

 エンディニグルの腕は影の如き漆黒に染まり、瞬間元の大きさから倍以上に膨張し巨大化する。その大きさはもはやラグナの背丈を大幅に越しており、冗談抜きにそのまま拳を開けば、彼を丸ごと握り潰せる程である。

 

 だがエンディニグルはそうしようとはしなかった。今己が、極災形態となった己が放てる最大最高最強の一撃を放つ為に、彼は漆黒の拳を何処までも硬く握り締めなければならなかったのだ。

 

 極災形態となったエンディニグルは、魔法を一切使用することができない。その代わり内に秘める魔力は爆発的に増大し、それに比例して身体能力も底上げされる。それこそ拳の一振りで、容易く面白いように地形を変えれる程に。

 

 そして神域を解放させている今────その身体能力も際限なく高められている。おまけにラグナの意思を掌握することで、回避も防御も反撃も、一切合切を封じている。そこでさらにエンディニグルはこうするのだ。

 

 爆発的に増大した魔力を用い、その用途を残さず全て己の右腕、右拳に集中。それにより腕力膂力全てを桁違い、埒外なまでに、徹底的に高め極めた。

 

 そう、今こそ絶対にラグナを斃す為に。己の内で喧しく鳴り響き続ける警鐘に従って、眼前の存在(モノ)を完全に滅ぼす為に。

 

 そして、遂に──────エンディニグルはその完成された究極の一撃を、ラグナに向かって振り下ろした。

 

 

 

「【魔焉崩拳(まえんほうけん)(かい)】ッッッッッ!!!!!」

 

 

 

 ドパンッ──まるで水を大量に含ませた風船を思い切り割ったような、巨大な破裂音。ふとエンディニグルは見やる。振り下ろした右拳が、右腕ごと吹き飛んでいた。

 

「……がッ、ぎぃいぃぃいッ?!」

 

 一体何が起きたのか、一切理解できなかった。理解できぬまま、エンディニグルはただただ痛みに喘ぐ他できない。そして次の瞬間何事もなかったように右腕と右拳が元通りになると同時に気づく。自分の目の前に、誰もいないことに。

 

 

 

 

 

 刹那──────感じたのは熱だった。

 

 

 

 

 

「…………な、に……?」

 

 エンディニグルは落下する。思考が定まらない最中、彼は咄嗟に手足を動かし、もがこうとした。だが、できなかった。

 

 当前だ。何故なら今、エンディニグルの手足は────なかったのだから。達磨となった彼は為す術もなく落下を続け、数秒も経たないで己が蹂躙し尽くし、悲惨極まる有り様の地面に激しく叩きつけられる。

 

 それと同時にこの荒野全体を包んでいた禍々しい魔力────エンディニグルの神域が硝子のように割れて、儚く砕け散る。無尽蔵に湧き出し這いずり回っていた黒い腕も、急激に薄れ最後は塵のように消え失せて、気がつけば荒野は元の──とは決して言えないが、それでも異界の様相からは戻った。

 

 ──何が、起きた?何が起こっている?何故我の傷が逆行しない……?わからない……理解、できない……。

 

 微かな身動き一つすら取れず、何もできず、答えの出ない疑問をエンディニグルは抱き続ける。やがてその意識が朦朧するとほぼ同時に、彼の視界も徐々に暗く、不鮮明となり始める。

 

「【絶火(ぜっか)】。……チッ、こんなんで終わっちまったのかよ」

 

 不意に背後から聞こえてきた、酷く退屈でつまらなそうな声。一体己の身に何が起きたのか最後まで理解できず、その身体を崩壊させながら──────

 

「弱かったな、お前」

 

 ──────その失望の一言を最後に聞いて、自分の身に一体何が起こったのか、こちらを見下すこの男が一体何をしたのか。それを延々と考えながら、『魔焉崩神』エンディニグルはその場から残滓すら残さず消滅した。

 

「にしてもやっぱ上手くできねえわ、手加減。結構弱めの技を選んだつもりだったんだけどなあ……」

 

 そんなエンディニグルの最期を見届けることなく、苦い表情でそう呟きながら、頭を掻くラグナ。しかしすぐに顔を上げて、オールティアの方角に視線を向けた。

 

「まあ、もういいや。んじゃさっさと帰るか」

 

 そう言った、瞬間だった。

 

 

 

 

 

 ────見つけた────

 

 

 

 

 

 不意に、そんな誰のものともわからない声が、ラグナの頭の中で澄んで響いて聞こえた。

 

「あ?」

 

 反射的に声を上げるラグナであったが、直後彼の身体が揺れる。

 

「なっ……ぐ……ぅ、ぁ」

 

 何とか抗おうとしたラグナだったが、その抵抗も虚しく彼はその場に崩れ落ちるように倒れてしまう。数秒後、ラグナの口から聞こえ始めたのは────静かな寝息だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────ここまでが先輩から聞かされた話である。

 

 突如として現れ、終焉の魔神を討った赤髪の男。そう、この人こそが、この世界に三人しかいないと言われる存在、《SS》冒険者(ランカー)────ラグナ=アルティ=ブレイズである。

 

 そして僕ことクラハ=ウインドアの『先輩』……なのであった。

 

 こうして厄災の予言にあった一つ目の滅びは、《SS》冒険者のラグナ先輩によって回避され、この世界にまた一時の平穏が訪れた。

 

 ちなみに何故あの時先輩が現れたのかというと────「パフェ食おうとしたら急に店が揺れて、パフェが倒れた。だから打ちのめした」……らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ってことも、あったなあ」

 

 日常(いつも)と変わらない空を見上げながら、誰に言うでもなく僕はポツリと呟く。

 

 微風(そよかぜ)が吹く。小鳥が囀る。ああ、今日も良い天気だ。

 

「…………」

 

『魔焉崩神』エンディニグル。かの魔神は、強かった。本当に強かった────のだろう。一月が過ぎて、もはや漠然としか振り返られないが、話を聞いた限りでは決して人間なんかが敵う相手ではなかった。……はずだ。うん。

 

 だが、やはりそれでも────規格外で、埒外で、桁違いなあの人には届き得なかった。

 

 あの人────現時点でこの世界に三人しかいないと言われる《SS》冒険者(ランカー)の一人、ラグナ=アルティ=ブレイズ。僕の先輩であり、僕が駆け出しの冒険者である時からずっとお世話になった。

 

 

 

 ……そう、そんな先輩()()()()()

 

 

 

「えっと……大丈夫ですか?先輩」

 

 言いながら、茂みの向こうを覗き見る──そこには、想像通りの光景が広がっている。

 

 

 

「……助けてぇ、くらはぁ」

 

 …………ありのまま。ありのまま僕が見た光景を説明しよう。

 

「もう、無理だぁ……動けねえ……」

 

 雑魚中の雑魚で知られる魔物(モンスター)スライムに。それも大量の群れに、先輩は全身に纏わりつかれ、その髪も服も何もかも、とろとろのドロドロにされてしまっていた。

 

 

 

 ……()()()()()()()()()()()()、先輩が。

 

 

 

 一体どうしてこんなことになってしまったのかと、そう問われれば。僕はこう答えざるを得ない。

 

 そう、あれは今から約一ヶ月の事だ────────



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消えた先輩。現れた謎の女の子

 全ての始まりとなるその日、僕はこの街(オールティア)にある喫茶店にて、新聞を片手に珈琲(コーヒー)を飲んでいた。

 

 ……断っておくが、日常の午後を喫茶店で独り過ごす程、僕は優雅な人間ではない。この場所で、とある人物を待っていたのだ。

 

『ファース大陸を救った英雄〜街に降り立った魔神を討ちし男〜』という、全面全てを使い書かれた記事に目を通し、それからテーブルへと置いて、代わりと言わんばかりに一通の手紙(今朝自宅に届いていた)を僕は手に取る。

 

 

『今日、ヴィヴェレーシェで待ってろ』

 

 

 ……それが、この手紙の内容だ。ちなみにヴィヴェレーシェというのはこの喫茶店の名前である。

 

 差出人等は一切不明という、怪し過ぎる手紙だが、普通の人であればこんなもの無視するか即座に破り捨てるか近くの憲兵にでも知らせるだろう。

 

 当然僕だってそんな行動を取る。……取るのだが、今回はそうしなかった。何故なら、恐らく手書きだろうその手紙の筆跡が、僕の知るとある人物の筆跡と、非常によく似通っていたからだ。

 

 そのとある人物というのが────以前この街を救った冒険者《ランカー》にして僕の先輩である、ラグナ=アルティ=ブレイズであった。先輩の筆跡の癖などが、この手紙に幾つか見られたのだ。

 

 筆跡というのは、似せようとして似せられるものではなし、ましてや本人特有の癖なんて真似できる訳がない。

 

 なので、こうして喫茶店(ヴィヴェレーシェ)に訪れ、恐らく先輩なのだろう手紙の差出人を待っていたのだ。

 

 まあ……これがちょっとした悪戯だったとしても僕は気にしないし、先輩が来るなら来るでそれに越したことはない。何せ今先輩は────この街からその行方を晦ましていたのだから。

 

 『魔焉崩神』エンディニグルを連れて、ラグナ先輩は遥か空の向こうに消えた。消えて、数日が経ってもあの人がこの街に帰って来ることはなかった────そう、世界最強の一人と謳われる《SS》冒険者は、忽然と姿を消してしまったのだ。

 

 普通ならば、『魔焉崩神』エンディニグルと相討ちになってしまったと考えるのが妥当だろうが、それはないと僕は断言する。あの日、あの場にいた冒険者たちは勿論として。恐らくこの世界で生きる全ての冒険者たちでさえも、きっと断言するはずだ。

 

 先輩はエンディニグルを圧倒していた。それも完膚なきまでに。だからこそ先輩が相討ちになったとは考え難い。……無理矢理可能性を考えるなら、あの時エンディニグルはまだ全力を発揮していなかったと、そう仮定することくらいだ。

 

 それに、こういったことは別に珍しいことではない。先輩は自由で、とにかく自由奔放で。唐突に消えるのは今に始まったことじゃない。

 

 あの人はふらっと急にこの街からいなくなったかと思えば、ふらっと急にこの街に帰ってくる。なのでそれに関して僕が今さら特に思うことはなく。まあ強いて言うのならば────ああ、またか。……そんなところだ。

 

 だがしかし、今回の場合は少し珍しかった。そもそも先輩は手紙など、滅多には書かないのだ。そんな先輩が、わざわざこちらに手紙を寄越してこの喫茶店に来いと言ってきた。

 

 まあ、さっきも言った通りあの人に限って何かあったとか、そういうのは考え難い。それにこの手紙の差出人が本当に先輩ならば、これを無視する訳にはいかない。そんなことすれば……恐らく僕は死ぬことよりも酷い目に遭わされてしまう。

 

 とまあ、そんなこんなで待っていたのだが。未だに先輩らしき人物は来ていない。

 

 ──時間を指定してない時点でなあ……。

 

 手紙には来いとは書かれてあったが、肝心の時間は書かれてなかった。一応早朝からこうして待って、もう時刻は午後に差し掛かるところだ。いい加減、新聞を読んでいるのも珈琲を飲んでいるのも軽食を摘むのも飽きてきた。

 

 もう、このままいっそ帰ってしまおうかなと。その後に待つ己の未来など顧みずにそう思った、時だった。

 

 チリンチリン──本日何度目かは忘れたが、来客を知らせる鈴の音が喫茶店内に鳴り響いた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 それに続いて、落ち着いた店主(マスター)の声と、足音。

 

 小さく、そして軽やかな足音は店内を少し歩き回ったかと思えば、次にこちらに近づいてきた。思わず無意識に新聞紙から顔を上げて見れば────『それ』は視界に映り込んできた。

 

 ──な、何だ……?

 

 無論、それは人であった。人ではあったが、些かその格好に問題があった。

 

 麻布のローブ。その者は決して新しいとは言えない、少々古めかしさが目立つ麻布のローブに身を包んでいた。

 

 ようやっと僕の胸辺りに届くか、届かない程度の、少し低めな身長。顔はローブを目深に被っているためよく見えず、わからなかった。

 

 そんな見るからに怪しい麻布のローブの者は、フラフラとやや危なげな足取りでこちらの方にまで歩き、そして何故か僕の目の前にまでやって来た。

 

「…………」

 

 僕と、そのローブの間で奇妙な沈黙が流れる。新聞紙から顔を上げてしまったことを少し後悔して、とりあえず知らん振りをして、新聞紙を読む素振りで無視しようと顔を下げる────直前だった。

 

「おい」

 

 不意に、ローブが口を開いた。

 

 

 

「その……何だ。ひ、久しぶりだな。元気してたか?────クラハ」

 

 

 

 僕の名前を言いながら、ローブは顔を晒す────女の子、だった。



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ラグナ先輩?

「その……何だ。ひ、久しぶりだな。元気してたか?────クラハ」

 

 そう言って、気まずそうに。突如として現れた謎ローブはその顔を僕に晒す────女の子だった。

 

 ふわりと舞って揺れる、轟々と激しく燃え盛る炎をそのまま流し入れたような赤髪。それと同じ色の、煌びやかに輝く真紅の瞳。若干不安そうにしながらも、勝気にしている表情はまるで芸術作品かの如く精巧に作られた人形のように恐ろしく整っており、幼げながらもその将来を大いに期待させてくれる、少女の可憐さと女の美麗さの間を彷徨う、中途半端だからこそ思わず惹かれてしまう貌をそこに宿していた。

 

 麻布のローブ──否、女の子はそれだけ言って、僕の向かいの椅子へと何の躊躇いなく腰かける。

 

 僕はといえば────ただただ、困惑していた。

 

「え……え、えっと」

 

 急に向かいに座られた少女に対し、僕はしどろもどろになってしまう。いや、僕がこうなるのは仕方のないことなんだ。

 

 だって。そもそも僕に────

 

「………その、ちょっと。尋ねたいことが、あるんだけど……君、いいかな?」

 

 ────こんな女の子との面識なんて、全くないのだから。

 

「失礼になるかもだけど、君は一体誰なのかな?。僕が覚えている限り、僕の知り合いとかに君のような子はいないんだけど……」

 

 僕がそう言うと、目の前の女の子は複雑そうな──寂しそうな表情を浮かべる。それからはあ、と呆れたようにため息を吐いて。

 

「……まあ、やっぱわっかんねえよなあ」

 

 と、そう答えたのだった。見た目からは想像もつかない、可愛らしい声音には似つかわしくない、やや雑で乱暴な言葉遣いに、思わず僕は面食らってしまう。

 

 ──こ、こういう女の子もいるのか……。

 

 少しだけ驚きを感じていると、やがて女の子がまた、その口を開かせ言う。

 

「俺だよ。俺」

 

 そう言いながら。ぴっ、と自分のことを指差す女の子。……当然、僕はその意味がわからず、再度困惑した。

 

「……え?」

 

 いやまあ、自分のことを「俺」って呼んだことに対してもだけど、その言い方に僕は戸惑う他なかった。

 

 目を丸くさせ、ただただ困惑する他ないの僕に、女の子は痺れを切らしたように、若干苛立った様子で今度は──────

 

 

 

 

()()()!俺は、お前の先輩のラグナさんだ!」

 

 

 

 

 ──────などと、宣うのだった。

 

「………はい?」

 

 一瞬、この子が何を言っているのか僕は理解できなかった。なので、頭の中でこの子の発言を反芻させてみる。

 

 『俺は、お前の先輩のラグナさんだ!』

 

 …………うん。やっぱり、ちょっと理解できないかな。

 

 僕は珈琲(コーヒー)に口をつけ、それから少女にへと笑いかけた。できるだけ自然に。和かに。

 

「嘘言っちゃいけないよ、君。大体、僕の先輩は男だしね」

 

 そう、僕の先輩であるラグナ=アルティ=ブレイズは歴とした男だ。それは揺るぎない事実で、変えようのない現実なのだ。

 

 であるからして、先輩は決して今目の前にいるような赤髪の美少女などではない。うん、絶対に違う。

 

 ……さてと、ではそうなるとこの子の目的は何だろう。ひょっとして僕を騙して金でも巻き上げようとか、そんな感じの目的だろうか?

 

「ふっざけんな!嘘なんかじゃねえっての!俺は本当にラグナなんだよ!」

 

「……いや、そう言われても……あ、もしかすると君ってラグナ先輩のファン?サインが欲しいなら、僕じゃなくて先輩に直接頼んでもらえると」

 

「俺が俺のサイン欲しがる訳ねえだろッ!」

 

そう叫ぶと同時に、椅子から立ち上がる女の子。僕はその剣幕に、僅かにではあるが不覚にも気圧されてしまった。

 

 どうしよう。僕はどうやらちょっと、いや結構面倒な子に絡まれてしまったらしい。そしてまさかとは思うが……察するに、この子があの手紙の差出人なのだろうか?

 

……いや、流石にそれはないはずだ。筆跡も癖も、あれは間違いなく先輩の────僕が知る男のラグナ先輩のものだった。

 

考え込む僕に、女の子は呆れたような眼差しを向けて。そしてそれと同じ声音で、まるで愚痴を溢すかのように言う。

 

「ったく……お前、先輩の言葉も信用できないってのか?」

 

「信用できないのかって、言われても……」

 

 僕が困ったようにそう返すと、女の子は少し疲れたように眉を顰め、それから仕方なさそうにため息を吐いて椅子に再び座った。

 

 そして、唐突に。

 

()()

 

 ……と、僕に呟くのだった。しかし、急にそんなことを言われても、一体何のことだか僕はわからず戸惑った。そんな様子の僕を見兼ねたのか、また仕方なさそうに女の子が続ける。

 

「……結構前に、お前が《S》冒険者(ランカー)になった記念で渡しただろ?まだ、御守り代わりに持ってんのか?」

 

「え?……あ」

 

 そう言われて、僕はハッと気づいた。しかしそれは────僕と先輩だけしか知らないはずのことだ。

 

 僕が驚いていると、また女の子が言う

 

「アジャの森、ガヴェイラ遺跡、深淵の洞窟、白金の塔……流石に全部は覚えちゃいないけど、とにかくお前と一緒に行ったことのある場所だぞ」

 

「……はは。いや、これは……ちょっと、参ったなあ」

 

 女の子の言う通りそれらの場所は、かつて先輩と共に────というか半ば強制的に連れられ、僕も訪れたことのある場所だった。そしてこれも僕と先輩以外、知ることのない情報である。

 

 ……つまり、だ。まさか、この子は、本当に……?

 

「……ほ、本当にラグナ先輩……なんですか?」

 

 未だ信じられない気持ちで、恐る恐るそう訊くと────女の子は胸を張って、自信満々に答えた。

 

「おう。正真正銘、俺はお前の先輩、ラグナ=アルティ=ブレイズだ。さっきからそう言ってんだろ?」

 

「………マジですか」



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「……あの、先輩」

 

「あーむっ……ん?何だ?」

 

 まさに至福、という表情で運ばれてきたパフェを食べ進める先輩に、僕は尋ねてみた。

 

「そもそも、何で先輩は……その、女の子になっちゃったんですか?原因とか、わかってるんですか?」

 

「んむ……原因?いや、んー……もぐ」

 

 やや黄色みがかった白色のアイスクリームをスプーンで掬い、口元にまで運び、そして口腔にへと放り込む先輩。

 

「ん〜……!」

 

 そのアイスクリームが如何に美味なのか、それを表情で以て全力で示す先輩。とろぉ、という擬音がさぞ似合いそうな、大変可愛らしく屈託のない、頬の蕩け切った笑顔を前に、僕は思わず心臓の鼓動を早めさせてしまう。

 

 ──この子はラグナ先輩この子はラグナ先輩この子はラグナ先輩この子はラグナ先輩……!!

 

 そう心の中で自分に暗示でもかけるかの如く必死に言い聞かせて、先輩の返事を待つ。するとアイスクリームを十二分に堪能しただろう先輩は、ようやっと僕の質問に対してこう答えてくれた。

 

 

 

「それが、わかんねえんだよ」

 

 

 

 訂正。答えになっていなかった。

 

「……わからない、ですか」

 

 深刻そうに僕は返すが、先輩は大して気にしていない様子で適当に相槌を打つ。

 

「おう。……あむ」

 

 ……今、先輩の関心は全て目の前のパフェに注がれている。この人は、昔からいつもそうなんだ。

 

 大事な依頼(クエスト)に関する話の時も、僕の今後の冒険者(ランカー)人生の相談の時も、先輩はパフェやケーキ等の洋菓子(スイーツ)のことを何よりも最優先し、いつもいつも、毎回毎回食べていた。そう、今この時と同じように。

 

 まあ、別にそれはどうでもいいのだが。僕は別に何とも思っていないのだが。本当に何も、微塵たりとも思っていないのだが。うん。

 

 だがしかし、今回は先輩自身の問題。それも、性別が変わるという、到底捨て置くにも捨て置けないであろう前代未聞の大問題のはず。

 

 …………なのに、この人はどんだけパフェ好きなんだよ。

 

 ──本当に、凄い幸せそうな顔で食べるよなあ毎回……。

 

 洋菓子を食べる女子というのは、絵になる。……まあ、中身は男?なので僕としては結構複雑なのだが。

 

「……あー、じゃあ何か変なこととかもなかったんですか?」

 

「変なこと?」

 

「はい」

 

 藁にも縋る思いでそう尋ねると、先輩はそこで今日初めて考え込むような顔をして、それからあっと何か思い出したような顔になった。

 

「ああ、そうだったそうだった。俺、見たんだよ」

 

「見たって……何をですか?」

 

「夢」

 

「夢、ですか?」

 

 グラスの底をスプーンで突きながら、先輩はその夢とやらの内容を話し始めた──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………ん、あ?」

 

 ふと、目を開くと。それはもう広大な大海原が目の前に広がっていた。

 

 呆然とその景色を眺めて、それから特に思うこともなく頭上を仰ぐ。そこにあったのは、何処までも突き抜ける晴天だった。

 

「………何だ、ここ。……夢か?」

 

 未だはっきりとしない意識の中で、ラグナ=アルティ=ブレイズは第一にそう思った。そして次に思ったことが──────

 

 

 

「んじゃ寝るか」

 

 

 

 ──────だった。そして即時行動が一つのモットーであるラグナはすぐさま目を閉じた。その瞬間である。

 

 

 

 

 

「おっっっはよおおおおおおっ!!!」

 

 

 

 

 

 鼓膜を震わす、というか破り裂かんばかりの大声量の挨拶が飛んできた。流石のラグナもこれには目を開けずにはいられなかった。

 

「うっせえなぁおい!誰だあ!?」

 

「ボクだよ!」

 

「いやだから誰だ!?」

 

 気がつけば。ラグナの目の前に、女性が立っていた。透き通るような灰色の髪と、それと全く同じ色の瞳をした女性が。

 

「ボクはボクだよ人の子クン!とりあえず、おっは「うっせえ黙れ!」おっはよおおおおおお!!」

 

 ラグナの言葉になど少しも耳を傾けずに、すぐ目の前だというのにこれまた大声量で挨拶を彼にぶちかます女性。当然、眉を顰め額に青筋を思わずラグナは浮かべてしまう。

 

「ブッ飛ばすぞこのアマぁ……!」

 

 並大抵の者であれば、それだけで戦意を喪失させるような形相とドスの効いた声で、ラグナは女性にそう言うが。

 

「全然構わないよヘイカモン!」

 

 全く通じなかった。

 

「……い、いや。冗談だ」

 

 ラグナといえど、流石に女を殴るような趣味は持ち合わせていない。眉を顰め青筋を浮かべながらも、嘆息しつつ再び目を閉じた。

 

「どっかの誰だか知らんが、茶番に付き合う気はねえ。じゃあな」

 

 そして即座に意識を放り投げる──直前。

 

「あれそうなのそうなんだ。じゃあボクも手短に用件、というかお知らせをキミに伝えるよ!」

 

 と、無駄なハイテンションを維持しながら女性がラグナにこう、伝えるのだった。

 

 

 

「全人類からの厳選な抽選の結果お見事キミが選ばれましたおめでとう本当におめでとう!なのでキミにはとっても素敵でステキな祝福(ギフト)を贈っちゃうよ!さあ明日から新しい楽しい人生────否、()()の始まり始まり〜!」

 

「はぁ?」

 

 

 

 瞬間、まるで灯火を吹いて消すように。ラグナの視界は暗転し意識が途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「って、夢を見た」

 

「いや絶対それですよね原因」



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腕相撲

「って、夢を見た」

 

「いや絶対それですよね原因」

 

 半ば呆れながら、僕はそう先輩に言う。というか、現状……それ以外にないだろう。

 

 すっかり冷めてしまった珈琲(コーヒー)を一気に喉の奥へと流し込んで、一呼吸置いて僕は先輩に言う。

 

「先輩の話に聞く限り……その女性っていうのはもしかすると『創造主神(オリジン)』じゃないですかね?」

 

「創造主神?……何だっけ、それ」

 

「……はあ」

 

 気のせいだろうか。軽めの頭痛がし始めた気がする。顳顬を手で押さえながら、僕は簡単に説明する。

 

「この世界(オヴィーリス)を創り上げたとされている最高神ですよ。これくらい子供でも知ってる常識です」

 

「へー。興味ねえな」

 

「あ、はい。わかりました」

 

 ……そうだった。先輩はこういう人だった。自分に興味のないことにはとことん無関心な人であることを僕は忘れていた。

 

 けどまあ、『創造主神』様がそんな威厳の欠片もない性格だとは少し、いやかなり考え難い。しかし先輩が言っていたその特徴は、神話として現代までに語り継がれている姿と概ね一致している。可能性が完全にない訳ではないだろう。

 

 だが、ともかく今それは捨て置こう。あと気になるのは────

 

「その女性が言ってた、祝福(ギフト)というのは一体何でしょうね?」

 

 祝福。それも『創造主神』直々からの祝福である。想像の域を出ないが、それはもう凄まじいものだとは容易にわかる。

 

 それとも、女の子になったことがその祝福とやらなのだろうか?もしそうであるなら……とんだ傍迷惑な祝福もあったものだ。

 

 そう考えながら尋ねると────何故か先輩は苦虫を噛み潰したかのような顔になった。

 

「祝福なんかじゃねえっての」

 

「まあ、突然女の子にされちゃいましたしねえ」

 

「……まあ、()()()()なら、まだマシだったんだけどな」

 

「え?それは、どういう……」

 

 先輩のその言い方は、まるで他にも厄介なことがあるかのような、そんな言い方だった。率直な疑問を包み隠さずに僕がそう返すと、何故か躊躇うように黙り込んで────それから意を決したように、先輩は僕に向かって手を突き出した。

 

「「…………」」

 

 手を突き出したまま沈黙する先輩と、その行動の意図が上手く掴めず困惑し沈黙する僕。その結果互いの間で何とも言えない、気まずい静寂が数秒流れた。

 

 その静寂を、不意に先輩が破る。

 

「クラハ」

 

「え?は、はい。何ですか?」

 

 先程までの、パフェを大変御満悦そうに味わっていたのがまるで嘘だったかのような、強張った真剣な表情と声音で。先輩は僕に言う。

 

「俺と腕相撲しろ」

 

「え?あ、はい。……えっ?」

 

 先輩の言葉は本気だった。煌めいて見える真紅の瞳には、確かに燃える意志があった。つまりそれは何の冗談でもない、本気(マジ)の言葉だったのだ。

 

 正直に白状してしまうと、僕にはその真意が見抜けない。一体どういうつもりで、一体どういう思惑で先輩は唐突に腕相撲をしようといったのか。

 

その理由が僕には全くわからない。それはこの人の後輩としてあるまじきことだったが、本当にわからないのだからしょうがない。許してほしい。

 

 ──いや待て待て。僕は一体誰に向かって謝っているんだ……!?

 

 一瞬現実逃避しかけた思考を無理矢理引き戻して、僕は心の中でそう叫んでから、息を整え先輩に問う。

 

「あ、あの先輩。そんないきなり、どうして腕相撲を……?」

 

「いいから俺とやれって言ってんだろ!!」

 

「は、はい今すぐに!!」

 

 声を張り上げた先輩の圧と、それによって何事かと一斉にこちらの方に顔を向けた他の客の視線に、僕は先輩との腕相撲を余儀なくされる。

 

 が、その直前────僕は試練という名の壁に激突することになった。

 

 ──うっ……。

 

 腕相撲。それは単純明快な力比べの一つ。その規則(ルール)はあってなきことに等しいが、強いて言うのであれば。

 

 自分と相手。両者の手を握り合い、力で競い合い、どちらか一方の手を机に押しつける。ただそれだけだ。

 

 ……それだけだが、大前提として相手の手を握り締めなければならない。つまり、僕は先輩の────女の子になった先輩の、女の子の手を握り締める必要がある。

 

 …………自慢ではないが、僕は異性に対してそう免疫はない。そんな僕にとって、それが一体どれだけの難易度(ハードル)を誇るのか、理解するのは容易だろう。

 

 ──この子は先輩この子は先輩この子は先輩この子は先輩……!

 

 先程かけたばかりの暗示を今一度己に十分過ぎるくらいに、強烈に必死にかけて、待たされややその機嫌を崩し始めている先輩の手を────僕は握った。それはもう、断崖絶壁から飛び降りるような面持ちで。

 

 が、直後先輩が僕に文句をぶつけてきた。

 

「おい。もっとしっかり握りやがれ」

 

「…………」

 

「クラハ?」

 

「すみません了解です」

 

 圧に負け、言われた通り僕は手に力を込めて、先輩の手をしっかりと握り締めた。

 

 ──というか、何故僕は喫茶店で腕相撲なんかしなくちゃならないんだ……?

 

 堪らずそう心の中で呟いた、その瞬間。そんな僕の嘆きは、はっきりと確かに伝わってくる感触によって微塵も残さず吹き飛ばされた。

 

 僕の手とは全く違う、しっとりと滑らかな肌の感触。そして驚愕の、柔らかさ。

 

 ──お、同じ人間なのに、こうも違うものなのか……ッ!?

 

 思わずずっと握り締めていたくなる。それ程までに、先輩の手の感触は心地良かった。こうして握り締めているだけなのに、癒されるというか何というか……。

 

「よし。んじゃさっさと始めるぞ」

 

「っえ!?あ、は、はい!」

 

 先輩の言葉によって、またもや現実から遠ざかっていた僕の意識は急激に引き戻される。そして慌てて返事をして、目の前のことに集中する。

 

 ……まあ、そうしたところで意味など全くの皆無なのだが。ぶっちゃけると、この腕相撲────やる前から結果は見えている。

 

 どんな形であれ、それが単純な力比べならば、僕が先輩に勝てる道理などあるはずない。

 

 だって先輩は────この世界(オヴィーリス)最強と謳われる一人なのだから。その事実は女の子になったとしても、変わらないはずだ。

 

 だがしかし、すぐにこの後僕は思い知らされることとなる。

 

 

 

 『祝福なんかじゃねえっての』

 

 

 

 先輩が言っていた、その言葉の意味を。

 

「……?」

 

 時間としては、まだ五秒も経っていなかっただろう。だが僕からすれば、()()()()()()()()

 

 胸の内に湧く疑問と共に、僕が目の前の、握り合っている僕と先輩の手を見やる。位置は────全くと言っていい程に変わっていない。その事実を認識し、僕はさらに混乱することになる。

 

 ──ん?んん……?

 

 まさか、腕相撲はまだ始まっていないのか────そう、思いながら。恐る恐る僕は握り合わせられた両者の拳から、先輩の方に視線を運ぶ。

 

 

 

「こんっ……のぉ……!!」

 

 

 

 その光景を理解するのに、僕は数秒を要した。……それ程までに、僕が目にしたその光景は、異常極まりない代物だった。

 

 腕相撲はまだ始まっていないという、僕の予想は外れていた。腕相撲は既にもう、始まっていたのだ。

 

 力を入れているからか真っ赤になっている顔を必死に歪ませ、先輩は懸命にも握り締めた僕の手を動かそうとしている。……一応言っておくと僕は大して、いや全然手や腕に力を込めていない。

 

 だというのに、悲しくなる程に────先輩は僕の手を微動だにできないでいた。

 

「ふぬぅぅぅ……っ!」

 

 先輩自身、恐らくもう限界の限界に挑戦しているのだろう。ギュッと瞳を固く閉ざして、迫力よりも可愛らしさが勝る唸り声を漏らしながら。諦めずなおも僕の手を机に叩きつけようと努力している。

 

 手や腕だってそろそろ痛くなってくる頃だろうに────僕はそんな先輩がどうしようもなく不憫に思えて、どうしたって拭いようのない居た堪れなさと共にようやっと、手と腕にほんの少しだけ力を込めた。

 

 するとどうだろう。そんな僅かな力だけでも、先輩の手を押し返す(そう言うのが正しいのかはわからないが、先輩の為を思って)ことができてしまう。瞬間、ハッと先輩が閉じていた瞳を見開かせ、力んで赤らんだ顔にはっきりとした焦燥の表情が浮かぶ。

 

「く、ぁああッ!!」

 

 その時、先輩は己の限界の限界の先にある力を振り絞ったのだろう。先輩の悲痛な叫びが喫茶店を駆け抜けて──────先輩の手が、僕によってそっと机に押しつけられた。

 

「だあっ!クッソ負けたぁ……!」

 

 ぜえぜえと激しく肩を上下させ、荒い呼吸を何度か繰り返した後に、先輩は悔しそうに言う。……僕は、心苦しさで今にも押し潰されそうだ。

 

 だが、今はそんな場合ではない。一体全体、この由々しき事態は何事なのだろうか。未だに息絶え絶えな先輩に、僕は率直に言葉をぶつける。

 

「先輩、その……これは……どういう……?」

 

 僕の言葉に対し、先輩は大変不服そうな表情を浮かべ、そして口を開く。

 

「クラハ。次は俺の魔力を視てみろ」

 

「え?え、ええ。わかりました」

 

 言われたままに、そこで初めて僕は意識しながら先輩を見やった。見やって────堪らず、絶句してしまった。

 

「は……?」

 

 この世界に生きる全ての存在(モノ)には、大小多い少ないに関わらず、『魔力』というエネルギーが流れている。この魔力は魔法を行使するのに必要であると同時に、生命を維持する為にも必要である。

 

 以前の先輩の魔力は、もはや膨大などという言葉では到底収まらない程だった。……そのはずだった。

 

 だが、それがまるで嘘だったかのように──────女の子となった今の先輩には、ほんの僅かばかりの、それこそこうやって集中しなければ可視化できず感知すら叶わない程の、微弱な魔力しか残されていなかった。



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全裸先輩

 先輩は凄かった。もう、本当に。とにかく凄まじい人だった。

 

 その拳一つで大喰鬼(オーガー)だろうが竜種(ドラゴン)だろうが悪魔(デーモン)だろうが、それが一体何であろうが屠り去り。魔法でも何でもないのに、ただその身に纏ったり放ったりしたその魔力で、一流の魔道士による大魔法以上の破壊力を発揮させたり。

 

 埒外、桁違いという概念を比喩でも何でもなくそのまま体現したような人だった。常識から外れた、反則という言葉すら生温い人だった。まさに強さの次元が違う人だった。人智人域を超越した、『極者』という存在(モノ)の一人に数えられるのも、至極当然だと誰もが認めてそう思っていた。

 

 ……だから、なのだろう。途方もない愕然とした衝撃が、僕の精神を滅多打ちにして、人生でかつてない程の勢いで揺さぶっていた。

 

 が、それでも。身体を壊す勢いで危うく椅子から転がり落ちそうにまでなって、だがそれでもなけなしの気力を振り絞って堪え切り、何とか机に上半身を突っ伏させるだけに留められた僕を誰か褒めてほしい。

 

「ク、クラハ?大丈夫、か?」

 

 と、僕のそんな精神状態を知ってか知らずか。こちらのことを心配しながらも、若干引いた様子で先輩が声をかけてくれる。

 

「…………え、ええ。僕は大丈夫ですよ先輩ええ。僕は別に、何ともですよ平気ですよはいあははは」

 

「……いや、悪りぃけど全然大丈夫そうには見えねえぞ……?」

 

 未だ衝撃は抜け切っていないが、この程度で、こんな程度で崩れる程、僕は軟弱な鍛え方をしていない。柔な人間ではないはずだ。……そう、思いたい。

 

 誰に言い訳するでもなく、己にそう必死に言い聞かせながら、僕はゆっくりと上半身を起こす。それと同時に先程からずっと(詳しく言えば先輩との腕相撲の件辺りから)奇異な視線をこちらに向けているウェイトレスに、僕は人差し指を立てて注文した。

 

「すみません。とりあえず、珈琲(コーヒー)もう一杯ください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 運ばれてきた、淹れたてで熱々な珈琲を少しずつ飲みながら。僕は無言で再度先輩を見やる。

 

 先輩の身体から発せられている魔力は、やはり微弱も微弱。下手をすれば魔物(モンスター)の中でも最下位で、基本的には無害とされているスライムと同程度……下手をすれば、それ以下すらもある。

 

 念の為言っておくと、この世界の強さの基準は別に魔力によって決められている訳ではない。あくまでもその判断材料の一つに過ぎないというだけで、魔力が極端に少ないからといって、弱いということは決してない。

 

 ……だが、しかし。先輩の場合話が違ってくる。先輩は魔力もご覧の有り様で、その上先程確かめた通り、単純な肉体的力も悲惨なものだ。これも下手すれば最悪……子供相手にすら力負けするかもしれない。

 

 ──……ああ、まずい。これはまずいなあ……。

 

 そう何度も心の中で呟いて、別に不味くはない珈琲を喉に流し、僕は何とか冷静を保つ。そうだ。こんな状態になって、今一番困ってるのは先輩なんだ。だからこそ、ここは後輩である僕がしっかりしなければならない。

 

「ラグナ先輩。僕にできることがあれば、なんでも言ってください。協力します」

 

「おう。そう言ってくれると助かるぜ」

 

 にっと笑顔を浮かべる先輩。まるで向日葵のように可愛らしいその笑顔を目の当たりにしてしまい、不覚にも僕は一瞬心臓を高鳴らせてしまった。

 

 ──早まるなクラハ=ウインドア。先輩は男だぞ。今は女の子でも男だぞ。そう、男。男男男男…………。

 

 自分を誤魔化すように、本日三度目の自己暗示をかけつつ、今後どうすべきか僕は考える。

 

 ──とりあえず、このことをグインさんに報告しないとだな……。

 

「先輩。冒険者組合(ギルド)に行って、このことをグインさんに知らせましょう。それとできれば、今後の相談等も」

 

「そうだな。んじゃ、さっさと行こうぜ」

 

 喫茶店から去る為、僕は珈琲を飲み干し、空になったカップをテーブルに置く────直前、ふと思った。

 

 ──そうだ。今先輩、女の子……なんだよな。

 

 漠然と心の中でそう呟きながら、僕は改めて対面している先輩を眺める。そう、今先輩は赤髪の女の子となっている。……以前までは、男だった先輩が。

 

「…………」

 

 僕は、先輩を眺める────さらに言うなら、先輩の()()()()()()を眺める。

 

 先輩が今身につけているのは、麻布のローブ。まあ一応、無理矢理衣服の一種と言い張れるだろうが……あまり人目には晒させたくはない格好だ。

 

 ──……先輩って服とかどうしてるんだ……?

 

 ぼんやりとそう考えた直後────ハッと僕は気づいた。

 

「せ、先輩っ」

 

「ん?」

 

 できればこれは外れていてほしい予想だった。だが、残念ながらそれはないとほぼ断言できる、確信めいた予想であった。

 

 そうだ。考えてみればすぐにでもわかることだ。先輩は、この人は以前までは歴とした男だったんだ。そんな人が、女物の衣服なんて持っているはずがない。

 

 そこから導き出される一つの答え────僕は、半ば祈るような心情で、椅子から立ち上がろうとしている先輩に、慌てて急ぎ訊ねた。

 

「そ、そのローブの下

 

 ────はどうなっているんですか。と、僕がそう言葉を続けることは、惜しくも叶わなかった。

 

 果たしてそれは悪魔の罠か、それとも神の悪戯だったのか。たかが矮小な人間の一人でしかない僕には、到底わかり得ないことだ。

 

 ただ。その時目の前で起こったことを、事実そのままに記すならば。

 

 恐らく立ち上がる際に、不運にもテーブルのどこかに引っかけてしまったのだろう。また不運にも、先輩が身に纏うそのローブはお世辞にも新しいものとは言えない、古い代物だった。

 

 そして、それはあまりにも一瞬で起きてしまった、防ぎようもない事故だった。

 

 

 

 ビリィ──先輩が椅子から立ち上がったと同時に、そんな音が静かに、そして切なく響き渡る。瞬間先輩が纏う麻布のローブが無残にもバラバラに破れ。はらりと、もはやただの小汚い布片と化したそれは花弁の如く宙を舞って散り、床に音もなくゆっくりと落ちた。

 

 

 

「あ……破けちまった」

 

 それが特に大したことのない問題のように、先輩はポツリとそう呟く。僕といえば、突如として眼前に晒されたその光景を前に、ただ硬直するしかないでいた。

 

 隠されていた先輩のローブの下。外界に曝け出され、露わとなった其処は────穢れ一つとない、神聖な雰囲気すらこちらに感じさせる、純白。

 

 手で触れずともわかる。目にしただけでもわかる。きっと瑞々しく、先程握り締めたばかりの手と同様、いやあれ以上に滑らかで、柔いのであろうその肢体。

 

 中でも一際柔らかそうな、二つの果実。真っ先に注目を集めるだろうそれは、その低めな背丈に反して存外威勢良く育っており、ほんのりと薄く桃色づいた先端が目に眩しく、そして悩ましく映り込む。

 

 そこから無意識に視線を下ろせば、ほんの軽く触れただけでも折れてしまうと思い込む程に、細く括れた腰と純白の大地にポツンと点在する小さな窪み──何とも可愛らしい臍と対面することになる。

 

 いけないと頭の中ではわかっていながらも、どうしたってその部分から視線を外せず、逸らすこともできず────勢い余ってさらにその下へと、視界を移してしまう。

 

 瞬間、目に飛び込むのは──────

 

 

 

 

 

「どぉっうおわぁああああああッッッ?!」

 

 

 

 

 

 ──────直前、ようやっと僕は正気を取り戻すことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勘定(かんじょう)お願いしますお釣りはいりません!ほら先輩行きますよさっさと服買いに行きますよ今すぐに!!」

 

「ちょ、まっ…お、俺は女物なんか絶対着ねえってさっきから……い、痛い痛い!あんま引っ張んなクラハぁ!」

 

 偶々(たまたま)羽織っていたコートを即座に先輩に羽織らせた僕は、叩きつけるようにしてこの喫茶店での代金を支払い、嫌がる先輩を無理矢理連れて、この街の冒険者組合『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に向かう前に、問答無用に洋服店へと向かうのだった。



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洋服店での一幕

「はーい、いらっしゃいませー!こちらアネット……ってクラハじゃない。久しぶり!」

 

「え、ええ。こちらこそお久しぶりです、アネットさん」

 

 逃げるようにして慌てて喫茶店から立ち去り、僕は嫌がる先輩を連れて、半ば強引に顔馴染みである洋服店に急遽訪れていた。

 

 ……それにしても、それにしてもだ。全く、本当に先輩には困ったものだ。まあ元々男で、突然女の子になってしまったので、致し方ない部分もあるにはあるのだが……それでもまさか、僕の予想通りあのローブの下が一糸纏わぬ全裸だとは夢にも思わなかった。道理で僕の席に向かってくる途中、ローブの裾の隙間からチラチラ垣間見える生足の面積が、割と大胆で大変危なかった訳である。

 

 ということはつまり、先輩は喫茶店まで来る道中も全裸だったということで。もうこれに関しては男だとか女だとかそれ以前の…………人間としての常識の問題だ。

 

 というか、何故あんな麻布一枚の心許な過ぎる格好なのに、ああも先輩は平然としていられたのだろうか。僅かばかりの羞恥心すら覚えることはなかったのだろうか。

 

 ほんの些細な、それこそテーブルに引っかけただけで破れてしまうというのに。今回はあの場に僕がいて、僕が外套(コート)を羽織っていたから良かったものの……もしそうでなかったら、今頃先輩は露出狂の赤髪少女という不名誉極まりないレッテルを貼られてしまっていたところだろう。そうならず無事で済んだことに、堪らず僕は心の底から安堵した。

 

 ……しかし。問題はまだあった。それは────先輩の立ち振る舞いである。

 

 いやまあ、このことに関しても元々は男だったので致し方のない部分もあるのだが。それを差し引いても……気にしないというか、あまりにも先輩は無防備過ぎた。

 

 僕が羽織らせた外套はお世辞にも丈が長いとは言えないものだったが、今の先輩の背丈ならばただ突っ立っている分には特に問題なかった。……が、動くとなったら話は別になる。

 

 麻布のローブ姿の時もそうだったが、先輩は今自分の格好を────布一枚隔ててるだけでその下は一糸纏わぬ全裸なのだということをそう深く考えていないらしく、特に気にする様子もなく日常(いつも)通りに、男であった時と同じように平気で歩いていた。その結果どうなるかというと。

 

 外套の裾が揺れる。それはもう揺れに揺れまくる。その度に魅惑の生足や太腿がチラリと垣間見えており、それどころかあと少しで剥き出しの生尻や絶対に見えてはいけない場所が一瞬見えてしまうくらいには捲られてしまうのではないかと危惧する程までに、裾が揺れ動く。

 

 その汚れ一つとない純白の肌が、一体どれだけ魅力的で実に危ないのかを、先輩は理解していない。街道を歩き行く野朗共を刺激し、悪戯に彼らを挑発しているのだと全くわかっていない。だから先輩は平気で衆人環境の真っ只中で生肌を晒してしまうのだ。

 

 それに格好自体も多少──いや、かなり問題があった。何せ背丈の低い女の子が、その背丈に──否、性別に合っていない男性用の外套を羽織っているのだ。その上当の本人は将来有望な絶世の美少女。しかもその身振り素振りが緩く大変無防備ときた。

 

 注目を集めない訳がないのだ。……おかげさまでこの洋服店にまで至る道中、僕の心は多大な精神的負担(ストレス)を抱えることになった。

 

 不服そうな表情を浮かべながらも、渋々同行を決めてくれたのはいいが、僕の後ろを大股で歩く先輩を嗜めたり。街道を行く他の男たちが無遠慮に向ける、下卑たその視線から先輩を庇ったり。そうすることで男たちから鬱陶しそうに睨めつけられたり。

 

 中でも相当心を抉られたのが、僕に対しての女性たちのひそひそと流れた、噂話。

 

 自慢する訳ではないのだが、僕のことはこの街ではそれなりに知られている。そんな僕が、外套を脱いだ上着姿で、すぐ後ろに男性用の外套を羽織った少女を連れて歩いているのだ。

 

 ……これで良からぬ噂が立たない方が、もうおかしい状況だろう。

 

 職業柄、僕はそれなりに五感を鍛えている。その所為で、僕の聴覚はその内容を敏感にも聞き取れてしまっていた。

 

 

 

 

 

「ねえ、もしかしなくてもあの方って、冒険者(ランカー)のクラハ=ウインドアさんよね?」

 

「ええ、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のクラハ=ウインドアさんよ。間違いないわ。でも、後ろにいるあの子は一体誰なのかしら……?」

 

「う、嘘っ!?ウインドア先輩って彼女いたの!?いつの間にっ!?私、狙ってたのにぃ〜……てか誰なのあの子ぉ!」

 

「ちょ、落ち着きなよ。……でも本当に誰なんだろ、あの子。何か、赤髪の感じとか、雰囲気がなんとなく似てる気がするけど……そんなはず、ないよね。だってあの人男だし……ていうか、何で男物の外套なんか着てるの?あれ、ウインドアさんのだよね?やっぱり、そういう関係……?」

 

 

 

 

 

 …………今、こうして思い出すだけでも。胃がキリキリとした鋭い痛みを僕に訴えかけてくる。あのままあの場に留まっていたら、今頃僕は根も葉もない噂を買い物途中の奥様方や、恐らく僕と同じ冒険者組合(ギルド)に所属している後輩の女性冒険者(ランカー)たちに流されていたところだろう。……いや、まあ。こうしている間にも広められつつあるのかもしれないが……。

 

 ──生半に顔が知られているのも、厄介だな……はあ。

 

 とにかく。万が一にも組合に行ったら男性冒険者から殴られることを警戒し、覚悟しておこう。

 

 まあそんなこんなで、僕と先輩は(主に僕が)苦労しながらもようやっとこの目的地────『アネット洋服店』に辿り着いた訳である。そして入店一番、顔を見せお手本のような挨拶をしてくれたこの女性こそ、店主であるアネット=フラリスさんだ。この街にある唯一の洋服店で、僕がこの街での生活を始めたばかりの頃は、服に関して色々とお世話になったものだ。

 

 気の良い笑顔を浮かべながら、アネットさんがこちらに近づいてくる。

 

「この前は大変だったねぇ。私もあの時は流石に終わったかなって思っちゃったよ」

 

 アネットさんが言うあの時とは、十中八九『厄災』────『魔焉崩神』エンディニグル襲来のことだろう。僕は苦笑いを浮かべつつ、アネットさんに言葉を返す。

 

「僕は何の力にもなれませんでしたけどね……先輩がいたから、どうにかなりましたけど」

 

「まあ、ブレイズさんは色々な意味で反則だからね。……ところで、肝心のブレイズさんはあれからこの街に戻って来たの?」

 

 アネットにそう訊ねられて、僕はぐっと言葉を詰まらせてしまう。どう答えたものかと、考えてしまう。

 

 僕の後ろにいるこの女の子がそのブレイズさんです────などと言っても、到底信じてはくれないだろう。それに先輩が女の子になってしまったことを、果たしてGM(ギルドマスター)たるグインさん以外の人に先に教えてしまっていいものだろうか……。

 

「俺ならここにいるぞ?」

 

「え?」

 

 と、僕が悩んでいる真っ最中。僕の後ろに立っていた先輩が突如アネットさんの前に出て、そう言ってしまった。あまりにも一瞬の出来事過ぎて、止めようにも止められなかった。そしてアネットさんが困惑の声を漏らすと同時に僕は大慌てで口を開いた。

 

「す、すみませんアネットさんちょっと待っててください!!」

 

 そして彼女からの返事を待たずに、僕は有無を言わせず先輩を店の隅に押しやった。

 

「んなっ、ちょ……クラハお前何す」

 

「すみません本当にすみません。ですが、今だけは僕の話を聞いてください。お願いです、お願いですから……!」

 

 という、必死も必死な僕の態度に、流石の先輩もそれ以上は何も言わず、ちょっと引き気味にコクコクと頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 それから数分後。僕と先輩は再びアネットさんの元へ戻った。

 

「いや、お待たせしてしまってすみません……はは」

 

 と、彼女に一言謝罪を挟みながら、僕は先輩に目配せする。

 

 ──さっき言った通りに、ちゃんと口裏合わせてくださいよ先輩……!

 

 そんな僕の心からの訴えを理解してくれているのか、いないのか。残念ながら僕にはわかりかねたが、とりあえず先輩は小さく頷いてくれた。

 

 それを確認して、僕は一呼吸してからアネットさんに言う。

 

「その……今まで教えていなかったんですけど。実は僕の従姉妹なんですよ、この子。数年ぶりに僕に会う為に、オールティアへ訪れたんです」

 

 ……まあ、我ながら少し無理がある設定だとは思った。僕に従姉妹はおろか、親族がいるなどという話、周囲には全くしていないのだから。

 

 だがやはり、ここは嘘を吐いてでも誤魔化すべきだと僕は判断した。グインさんに説明せずに、周囲の人たちに先輩が女の子になってしまったなどと、ましてやかつての最強ぶりが今や見る影もなく弱体化しているのだと、僕個人で説明すべきではない。

 

 まずは僕が所属する組合の長────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』GM、グイン=アルドナテに説明し、彼が下す判断に後を任せ、委ねよう。

 

 そう僕が思った直後、先輩が口を開いた。

 

「お、おう!俺……じゃなくてわ、わた……私はクラハの先ぱ……でもなくて、従姉妹!……い、従姉妹の……あれ?えっと……あ、そうだラナだ。従姉妹のラナってんだ。よろしくな!」

 

 先輩を信じた僕が馬鹿だった。

 

「……え、あ、うん……よ、よろしく、ね……?」

 

 一体どういった反応が正解なのかわからず、困惑しながらも一応といった風に、人が好いアネットさんは何故かドヤ顔を浮かべる先輩にそう言葉を返す。

 

 僕は頭を抱えたくなるのを必死に堪えて、なけなしの気力を振り絞り、申し訳なさで胸の内を満たしながらアネットさんに情けなく懇願した。

 

「すみませんアネットさん、本当にすみません……厚かましいことこの上ないのは重々承知しています……ですが、ですがどうかお願いします。今は何も訊かずに、この子に服を用意してください。幾らでも、お金は幾らでも支払いますから……土下座もしますから……どうか、どうか……!」

 

「ええっ!?い、いや、うん!うんわかった!わかったから!何かしらの事情があるのはわかったから!だからそこまでしなくても大丈夫よ!?」

 

「ありがとうございます……!本当にありがとうございます……!」

 

 まあ、色々一悶着あったがこれでようやく先輩にまともな格好をさせることが叶う。そのことに心の底から安堵し、僕は胸を撫で下ろす。

 

 そして満を持してアネットさんに先輩を一旦預けようとした────直前だった。

 

 ──ッ!!

 

 僕は忘れていた。今、先輩に必要なのが────何も服だけではないということに。

 

 気を遣ってくれたのか、アネットさんは特に指摘してこなかったが……今、先輩は僕の外套を羽織っている。ただ、()()()()()()()。一体その下がどうなっているのかは、喫茶店で目の当たりにした僕だけが把握している。

 

 

 

 そう、今一度言おう──────先輩に必要なのは、衣服だけではない。

 

 

 

 そのことに気づいてしまい、まるで崖から突き落とされたような気分に陥ると同時に、僕は全身から冷や汗を流す。

 

 ──どうする……?僕は、どう説明すればいいんだ……!?

 

 特に何も考えず、アネットさんに服だけでなく、下着も用意してくれとお願いしたとしよう。彼女に対してこちらの事情についてろくな説明もしていないこの現状、もしそうしてしまったなら────僕は変に関係を偽ろうとしていた女の子を全裸に剥き、それから自分の外套だけを羽織らせ、大勢の人々が行き交う日中の街道を共に歩かせ、わざわざこの店にまでやって来た男ということになるだろう。

 

 ──最低最悪の超絶変態屑野郎じゃないか、僕は……!!

 

 そう認識されたならば最後、僕の社会的地位は音を立てて崩壊し地に落ちて、今の今まで慎重に、大切に築き上げてきた印象も信頼も、何かもを全て失う羽目になるだろう。いや、なる。確実に。

 

 だが、だがそれでもだ。後輩として尊敬するラグナ先輩が下着未着用(ノーブラノーパン)というのは到底無視できない、絶対に捨て置けない問題である。

 

 ……しかし、先輩のことだ。衣服だけでもあれ程嫌がったというのに、女物の下着となれば何が何でも、是が非でも身に付けるのを断固拒否してくるだろう。

 

 ──しかし、それでも……それでも、僕は…………ッ!

 

 己の評判と先輩の尊厳。その二つを天秤に掛け、僅か数秒。僕は消え入りそうな声を、喉の奥から吐き出した。

 

「……あの、アネットさん。その……非常に、申し上げ難いんですけど。もう一つ、お願いしていいですか……?」

 

「ど、どうしたのそんな急に改まって。何?何なの?さっきから一体どうしたっていうのよ?」

 

 尋常ではない程に深刻な僕の様子に、アネットさんは完全に引いてしまっている。だが、その態度は僕にとってはまだ救いだ。何せ、次の僕の言葉によって、きっと彼女は僕のことを心底軽蔑するだろうから。

 

 すぐさま目の当たりにするであろう未来を、まるで遠い他人事のように思い描きながら。意を決し、先程からずっと痛みを発し続けている胃の訴えを無視して、僕はアネットさんに言った。言ってしまった。

 

 

 

「…………下着、の類も……用意、してください……」

 

 

 

 嗚呼、人の破滅というのは意外な形で訪れる。今日、それを僕は嫌という程思い知らされた。

 

 ……一体、僕が何したっていうんだ……?

 

「……は?」

 

 案の定、アネットさんが意味不明というような反応をする。それがさらに僕の精神を抉り、心を揺さぶってくる。それでも、僕は何とか己を保って、再度口を開く────直前。

 

「お、おい待てクラハっ!服は百歩いや千歩譲って着てやるけどっ、女のパン「先輩」

 

 堪らずというように非難の声を先輩が上げたが、その途中で僕は肩にそっと手を置き、それを遮った。もうこの際、礼儀だとか、そんな些細なものは気にしない。一切合切気にしない。

 

「お願いです。後生の頼みです。こんなどうしようもない後輩の懇願を、どうか聞き入れてください。ここは僕の為を思って、下着を身に付けてください……僕という一人の犠牲を無駄に、しないでください……」

 

 先輩の肩に手を置いたまま、目頭を熱くさせて僕は先輩にそう言う。

 

 そんな僕の、今にでも死んでしまいそうな勢いの僕の様子に流石の先輩も気圧されたようで。やや面食らい引いた、けれどばつが悪そうな声音で僕に言葉を返してくれる。

 

「わ、わぁったよ……べ、別に何も、そんな泣くことねえじゃねえか……」

 

 そうして、僕は改めてもう一度アネットさんの方を見やる。彼女といえば、この状況に全くと言っていい程追いつけていないようで、完全に戸惑っていたが、僕に顔を向けられたことでハッと、けれど依然困惑の表情のままに口を開く。

 

「何か、もう……よくわかんないけど、とにかくわかったわ。うん。とりあえず、私に任せて頂戴」

 

 そしてグッと、傷心の僕を元気づける為か。アネットさんは親指を立てて、快く先輩のことを引き受けてくれた。

 

 心底嫌そうな表情をする先輩を連れ、アネットさんが店の奥へと消える。その二人の背中を、僕はただ放心したように見送ることしかできなかった。

 

 ──明日から、僕はどんな顔してアネットさんに会えばいいんだろうな……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………その、えぇっと……お、お待たせ。こんな感じに、この子の要望に合わせて……コーディネイトしてみたんだけど。大丈夫、よね?これで……?」

 

 時間にして数十分。奥に消えた二人が再び僕の前に現れる。待っている間、僕はこれからの人生について深く考え込んでいたのだが、アネットさんのセンスと手によってその装いを変えられた先輩を見て、瞬く間に、そして跡形もなく吹き飛ばされた。

 

 僕から少し顔を逸らし、気恥ずかしいのかもじもじとしながら立つ先輩。先程の全裸外套(コート)から一変した今の格好は、単的に言えば明るく活発で、天真爛漫とした女の子がするような、あくまでも動き易さを重視した服装である。

 

 露出を全く気にせず、何の遠慮なしに肌を外気に晒している。ショートパンツの裾からスラッと伸びる生足は実に健康的な魅力を発しており、むちむちとした存外肉付きの良い太腿には思わず視界を奪われてしまう。

 

 今目の前に立つ女の子がラグナ先輩であることも忘れ、見惚れてしまっている僕を、アネットさんの声が現実へと引き戻す。

 

「それと、これ返すわね。……この外套、あなたのでしょ?」

 

「え?あ……はい」

 

 言われて、僕は彼女から外套と────そして何故か紙袋を渡された。

 

「わざわざありがとうございます。……あの、アネットさん。この紙袋は一体……?」

 

 紙袋はやたら軽かった。けれど中身はちゃんと入っているようで、揺らすと擦れるような音がする。僕が訊ねると何故かアネットさんは躊躇って、それから僕に紙袋を開けるよう仕草だけで促した。

 

 奇妙に思いながらも、僕はゆっくりと紙袋を開け、中を覗き込む。

 

 紙袋の中に入っていたのは──────下着だった。……女性用の。

 

「…………」

 

 真っ白になった頭の中に、ただ目の前の視覚情報だけが流れ込んでくる。

 

 上と下の二枚組。それが数セット。こう言っては悪いが飾り気もなければ色気もない、無地の白色。

 

 果たしてこれはどういうことなのか────そんな思いと共に、紙袋を開けたまま呆然とする他ないでいる僕に、依然気まずそうにアネットさんが言う。

 

「できるだけ女らしくない下着がいいって、言われたから……そういうタイプを用意したの。あ、ちなみに支払いは必要ないから」

 

 その言葉によって、この現実から逃避しかけていた僕の意識が急に引き戻される。

 

「え、いや、それは……」

 

「それとまた後日、あの子用に服も何着か渡すわ。これもお金は取らないから安心して。余ってる在庫からだし。……その代わりに、ね?一つだけ……私から一つだけ、言わせてもらえないかしら」

 

「え……?」

 

 アネットさんの態度とその言葉に、僕は困惑の声を漏らすしかない。そんな僕に、彼女が言う。

 

「あなたたちはまだ若いわ。きっと色々あるし、色々したいっていうその気持ちもわかる。理解できる。……でも、ね。どう言えばいいのかな……若さ故の過ちとでも言えばいいのかな」

 

 こちらを糾弾する訳でもなく、そして叱咤する訳でもなく。あくまでも冷静に、落ち着いた様子で。アネットさんは僕に優しげな眼差しを送りながら、だがはっきりと嗜める声音で言った。

 

 

 

「こんな真っ昼間から、野外全裸外套プレイっていうのは流石にどうかと思う」

 

 

 

 死にたい。死のう────今この日、この瞬間程。それを切に思ったことはない。



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冒険者組合

 冒険者組合(ギルド)────冒険者(ランカー)を目指す者であれば、誰もが一度は訪れなければならない場所。

 

 そもそも、冒険者を名乗る為には、冒険者組合で発行される証明書(パス)が必要不可欠である。これがなければ正式な冒険者とは一切認められず、組合からの報酬等は全く支払われないし、支援(サポート)も受けられない。

 

 今は冒険者業に勝る稼ぎなどないに等しく、一攫千金を夢見る者や己の腕に自信のある者、それぞれの理由と希望を胸に抱いてその門を叩くのだ。

 

 しかし実のところ、冒険者になること自体はそう難しいことではない。冒険者にとっては常識的で、知っておかなければならない問題が出される筆記試験と魔物(モンスター)を相手にする実技試験。この二つに合格すれば、証明書が発行され晴れて冒険者を名乗れるのだ。

 

 だがまあ、だからといって誰もが冒険者として成功できる訳ではない。何故なら『ランク』という概念が冒険者には存在するのだから。

 

 最低の《E》から、()()()最高である《S》まで。もちろん最低である《E》であれば、子供や老人でない限り誰であろうとなることは可能だ。しかしそれ以上となると、そのランクに応じた試験を受ける必要がある。

 

 《D》ランクに上がりたいのであれば《D》ランク試験を。

 

 《C》ランクに上がりたいのであれば《C》ランク試験を。

 

 そしてそれ相応の実力を持っているのなら、最初から高ランクで冒険者を始めることだってできるし、飛び級することもできるのだ。

 

 当然、高ランクであればあるほど、稼ぎは良い。何故なら────ランクによって冒険者組合から紹介される依頼(クエスト)が制限されるのだから。

 

 冒険者といえど、最低である《E》では雀の涙程度の報酬しかない依頼しか受けられず、場合によっては普通に働いた方が生活できることもある。それに滅多にないことだが……その雀の涙しかない報酬の仕事で、運悪く命を落とす危険性だってなくはない。

 

 《D》から《C》であれば一般労働よりも少し高い程度の報酬の依頼が。

 

 《B》から《A》であれば普通に暮らす分には有り余るほどの報酬の依頼が。

 

 そして、《S》であれば────それ相応の危険があるものの、その危険性に見合った莫大な報酬が支払われる依頼を受けることができるのだ。

 

 だが、《S》ランクになるというのは棘だらけの茨道を自ら進んで踏み締めていくようなもので、そのあまりの過酷さに、途中で挫折してしまったり散っていった冒険者が後を絶たない。

 

 《S》冒険者(ランカー)という人間の逸材は限られており、一つの冒険者組合に三人いれば多いくらいなのだ──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようこそ、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へ。本日はどのような──って、あら。クラハ君じゃない。久しぶりね」

 

「……ええ、お久しぶりですメルネさん」

 

「ちょ、ちょっと一体どうしたのよ?何でそんな、今にもでも崖から身投げしそうなくらいに落ち込んでるの?」

 

 一生に一度ものの傷を心に負いながらも、僕と装いを新たにした先輩は『アネット洋服店』を後にし、自分たちが所属する冒険者組合(ギルド)────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へと来ていた。

 

 今なお昏く冷たい絶望に抱かれながら、もう何度通ったかわからない門を抜ければ、聞き慣れた喧騒が鼓膜を叩く。同時に嗅覚を刺激する料理と酒の匂いに、消沈していた僕の気力も、僅かばかりであるが回復する。

 

 が、しかし。僕と先輩が中に入ったその瞬間。先客たる冒険者たちが一斉にこちらを振り向いた。そして僕と────僕の隣に立つ先輩の姿を交互に見やったかと思うと、その中にいた男性冒険者(ランカー)数人が椅子から立ち上がった。

 

「オイオイオイィッ!噂は本当だったのかよッ!」

 

「遂にあのクラハにも彼女(コレ)が出来ちまったかぁ!」

 

「しかも絶対年下だよなその子!?いやまあ、その辺が実にお前らしいけどさあ!」

 

 その人たちは皆思い思いの言葉を口から出して。それから僕と先輩の方に詰め寄る──前に、僕はキョトンとしている先輩を連れ、彼らの間を擦り抜けた。

 

「すみません。今、急いでいるんで」

 

 そう一言付け加えて。背後で彼らが何か言っている気がするが、僕は気にも留めず足も止めない。彼らも一応は僕の先輩に当たるのだが……さっきも自分で言った通り、今は急いでいるのだ。

 

 というか、やはり危惧していた通りに噂は広まってしまっていた。事実は全く違うというのに、誰も彼もが僕と先輩を見て皆ひそひそと囁き合っている。

 

 ──辛い。

 

 だがこの程度、『アネット洋服店』で受けた傷程ではない。それか耐性が付いたのだろう。たぶん。

 

 後でどう誤解を解くか思案しながら、僕と先輩は組合の受付(カウンター)まで向かい、そしてそこに立つ一人の女性────『大翼の不死鳥』の受付嬢の一人であり、そして纏め役でもあるメルネ=クリスタさんと挨拶を交わしたという訳だ。

 

 開幕僕が纏う雰囲気を目の当たりにし、普段は落ち着き取り乱すことなど滅多にないメルネさんも、流石に驚いてしまったようだ。しかし、それをフォローする程の余裕など、今の僕が持ち合わせている訳がない。

 

 メルネさんの問いかけに答えることなく、僕は依然沈んだ態度と雰囲気のまま、呆然と口を開く。

 

「…………本当に、ここはいつ来ても、いつでもこんな感じですね。初めて訪れた時から、何も変わってない」

 

「……え、ええ。そうね」

 

 訊かれたくない。答えたくない。そんな僕の気持ちを察してくれたのだろうメルネさんは、未だ微かに動揺しながらも僕の言葉に相槌を打ってくれる。気を遣わせてしまい申し訳ないとも思ったのだが、先程も言った通り今の僕には余裕がなかった。

 

「ところで、クラハ君。あなたの後ろに立ってるその子は……誰かしら?」

 

 今、僕自身に関しての話題を振るのは良くないと判断したのだろう。純粋な疑問も含めて、メルネさんがそっと遠慮気味に訊ねる。訊ねて、それからすぐにメルネさんはハッとした。

 

「ひょっとして、その子が噂の子なの?あらあらまあまあ、可愛い素敵な彼女さんじゃない!」

 

「い、いや「はあ!?誰が彼女だふざけんな!」

 

「あ、あら?違う……の?」

 

 これ以上誤解が広がるのはまずいと思い、メルネさんの言葉を即座に僕が否定するよりも早く、先輩が吠えるように否定した。堪らず困惑するメルネさんに、僕は苦笑いを浮かべながら訊ねる。

 

「すみませんメルネさん。今、GM(ギルドマスター)はいますか?」

 

 GM(ギルドマスター)────冒険者組合の長であり、取り締まる者の通称。GMがいない冒険者組合など、もはや冒険者組合ではない。それ程にGMというのは冒険者組合にとって大切な要素なのだ──と、昔からよく『大翼の不死鳥(ここ)』のGMに熱弁されたものだ。

 

 ふとそんなことを思い出しているその時、不意にポンと肩に手を置かれた。

 

 

 

「私ならここにいるよ。ウインドア君」

 

 

 

 背後からしたその声に、僕は振り返る。そこには『大翼の不死鳥(フェニシオン)』GM────グィン=アルドナテが人の好い笑顔を浮かべて立っていた。



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『大翼の不死鳥』GM────グィン=アルドナテ

 冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)GM(ギルドマスター)────グィン=アルドナテさん。いつも浮かべている困ったような笑顔が印象的な、二十代後半を思わせる外見の男性。だが彼の実年齢を知る者は少なく、僕も先輩ですらも知らなかった。

 

「私はここにいるよ。ウインドア君」

 

 と、困ったような笑顔を浮かべつつ、僕にそう声をかけるグィンさん。一体いつの間に、そしていつから自分の背後に立っていたのだろう。……全く気配を感じなかった。感じ取ることができなかった。

 

 ──もしここがダンジョンで、グィンさんが魔物(モンスター)だったら……。

 

 一応それなりの実力は持っているつもりだったが、やはり僕はまだまだということだろう。悪寒にも似た感覚を背筋に走らせながら、僕はグィンさんに返事する。

 

「お、お久しぶりですグィンさん」

 

「うん久しぶり。会うのは『魔焉崩神』の襲来以来……になるのかな?」

 

「そうですね。たぶん、それくらいになるかと」

 

 ……正直に白状させてもらうと、僕はこの人が苦手である。掴みどころのない、飄々としたこの性格や雰囲気に、未だ上手く慣れることができないでいる。

 

 そんな僕の複雑な思いなど露知らず、困ったような笑顔を保ったまま、グィンさんが口を開く。

 

「あの時は助かったよウインドア君。何たって君は数少ない、『大翼の不死鳥』所属の《S》冒険者(ランカー)の一人だからね」

 

「……お世辞はいいですよ。僕がいたところで、状況は変わらなかった。こうして僕たちやこの街が残ってるのは、全てラグナ先輩のおかげです」

 

「んー……まあ、それはそうなんだけど、別に世辞のつもりで言ってる訳じゃないんだけどなぁ。ウインドア君、そう謙遜する必要はないと思うよ?」

 

「そう言ってくれること自体は、僕も嬉しいんですけど……」

 

 この人の言葉に嘘偽りはないんだろうけど……やっぱり、苦手だ。

 

 僕が誤魔化すように苦笑いしていると、グィンさんが訊ねてくる。

 

「ところでそちらの可愛いお嬢さんは誰だい?……ああ、もしやその子が今噂で持ち切りの、ウインドア君の恋人かい?」

 

「だから!俺はそんなんじゃねえってのっ!!」

 

「あれ?そうなのかい?」

 

「…………そうですね。はは……」

 

 参った。もう僕と先輩の噂は街全体に知れ渡っているようだ。誤報も誤報、デマもいいところだというのに。

 

 しかし、こうまで広がり認知されてしまうと、それも通用しなくなってくる。当の本人が否定しても、周りがそうだと思ってしまえばもはや関係ないのだ。噂とはそういうものであり、既成事実として扱われてしまう。

 

 ……というか、やはり他の人からすると僕と先輩はそんな風に見えてしまうのか。まあ一見だけすれば二人共年頃の男女だし、二人揃って街道を歩いていれば、何の事情を知らぬ者たちからすれば、そういった仲に見えてしまうのが当然なのだろう。

 

 それと、メルネさんもグィンさんも今の姿の先輩の一人称や口調には何も突っ込まないんだな。

 

「まあその話は置いておくとして。私の所在を確認していたということは、私に何か用事でもあるのかな?ウインドア君」

 

「あ、はい。その通りです。その、ちょっと……ラグナ先輩に関して話したいことがあって」

 

「ほう、ブレイズ君の話か。それは丁度良かった」

 

「え?」

 

 一体何が丁度良かったのか。そう思い声を漏らす僕に、グィンさんは言ってくる。

 

「ブレイズ君唯一の後輩である君に、彼が今どこにいるのか尋ねたかったんだよ。それで、ウインドア君。ブレイズ君がどこにいるか知ってるかい?それとも毎度のこと、いつの間にかもうこの街に帰って来たのかな?」

 

「……あー……えっと、まあ。知ってるには知っています、けど……」

 

 言い難そうに言葉を濁す僕に、グィンさんは訝しげにしながらも提案する。

 

「?君にしてはどうにも歯切れが悪い返答だね。まあここで立ち話も何だし、応接室にでも場所を移すことにしようじゃないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて。ではまあ、まずウインドア君の話とやらを先に聞かせてもらうことにしようかな。それで、ブレイズ君に関して何を話したいんだい?」

 

 あの後、僕と先輩はグィンさんに連れられ応接室にへと移動した。落ち着いた内装の部屋で、本棚などの簡素な家具類やインテリアが置かれてある。

 

 椅子に腰かけて、僕はグィンさんとテーブル越しに向かい合う。………先輩に関して話そうにも、一体どこから話したものだろうか。

 

 疲労にため息を吐きそうになるのを堪え、数秒の間を開けた上で僕はゆっくりと、口を開いた。

 

「グィンさん。先輩が今どこにいるかを、貴方は知りたいんでしたよね?」

 

「うん?うん。まあ、それはそうなんだけど……ということは、やっぱりブレイズ君はもう街に戻って来てるんだね」

 

「ええ……まあ、戻って来てるには、来ているんですが」

 

「だったら、先にブレイズ君の居場所を教えてもらおうかな」

 

「今、僕の隣にいます」

 

「え、そうなの?…………え?」

 

 まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、僕の隣に座る先輩(少女)を見るグィンさん。

 

 そして困ったような笑顔を、再度僕に向けるのだった。

 

「これは驚いたなあ。まさかウインドア君が私に冗談を言ってくるなんて。これは明日には雪でも降るのかな?」

 

「……いや、冗談なんかじゃあないんです。僕の隣にいる、この女の子こそがラグナ先輩────ラグナ=アルティ=ブレイズその人なんですよ」

 

「……えーっと……?それは一体、どういうことなんだい?」

 

 グィンさんはそう返すと、依然浮かべたままの困った笑顔を、今度は先輩へと向けて訊ねた。

 

「君、本当にブレイズ君なのかい?」

 

 半信半疑で投げかけられたグィンさんの問いかけに、先輩は何の誤魔化しもなく、素直に答える。

 

「おう。俺はラグナだ。ラグナ=アルティ=ブレイズなんだ」

 

「……私の記憶だと、ブレイズ君は男だったはずなんだけど」

 

 グィンさんの指摘に、先輩が言葉を詰まらせる。それから目を泳がせて、そして何故か疑問符を浮かべ、その指摘に対して返事した。

 

「いや、それは……んっと、だな……ええっと……へ、変な夢見て、そんで起きたら女になっちまってたんだ、よ……?」

 

「………………んー?」

 

 グィンさんの困ったような笑顔が、さらに困っていく。いや、これに関しては僕も同じ気持ちだった。

 

 ──そんな説明じゃあんまりですよ先輩……。

 

 ラグナ先輩だからと、喫茶店の時は大して変に抵抗感も抱かず受け入れられたが……こうして第三者の目線に立つことで僕は初めて考えることができた。考えてみれば、夢を見て、そして起きたら女になっていたなどと、そんな荒唐無稽な話誰が信じられようか。

 

 これでは二人が共謀して自分を騙そうとしていると、グィンさんがそう勘繰ってしまったりしても仕方ないことである。だが僕が思うよりも、グィンさんは善人だった。

 

「二人がかりで私を揶揄うのは、あんまり感心しないなあ」

 

 幸いと言っていいのか。二人してこちらを揶揄っているのだとグィンさんは思ってくれたらしい。まあそれはそれで問題であり、堪ったものじゃないと言わんばかりに先輩も声を荒げる。

 

「か、揶揄ってなんかねえよ!本当にラグナなんだよ俺は!信じてくれよGM(ギルマス)ッ!」

 

 そして僕も先輩のことを見兼ねて、助け舟のつもりで口を開いた。

 

「すみませんグィンさん。嘘みたいな話ですけど、全部本当のことなんですよ……」

 

 必死に訴える先輩とそれを肯定する僕を交互に見ながら、グィンさんは笑顔を浮かべつつも、少し呆れたようなため息を吐いてしまった。

 

 そして間を置かずに────今の今まで浮かべられていたグィンさんの笑顔が、そこから消え去った。

 

 ──ッ……?

 

 まるでグィンさんがグィンさんではないようだった。普段の様子とは全く以て違う、まさに真剣そのものといったただならぬ雰囲気。口を閉ざした彼の眼差しが、相対する先輩のことを真っ直ぐに射抜く。

 

 だがしかし、先輩は一切狼狽えたりなどしなかった。真っ向からその眼差しを、確かに受け止めていた。

 

 誰もが口を閉ざす無言の中、ようやっとグィンさんがまたその口を開いた。

 

「わかった。わかったよ。そこまで言うなら、こうしようじゃないか」

 

 言って、グィンさんは先輩へと視線を固く定め、そして一呼吸挟んでから彼はこう続けた。

 

「君に、今から幾つか質問しよう。それら全てはブレイズ君に関することであり、そして彼にしか答え得ない質問だ。……いいね?」

 

 その時のグィンさんが、僕にはまるで知らない全くの別人に思えた。こちらを試すような口振りの彼の言葉に、先輩は────僅かにだが、その瞳を見開かせた。……気がした。あくまでも、そんな気がしたのだ。だが僕がそう思うとほぼ同時に、先輩の様子は普通に戻っていた。

 

 ……いや、それは嘘になるだろう。ラグナ先輩と付き合いの長い者であれば、きっとわかったはずだ。その表情こそ平静を装っているように見えたが、何処か固いような、上手く言葉にすることはできない違和感がそこには確かにあった。

 

 僕がそれに気づき、一体どうしたのかと思った矢先。先輩が僕の方を一瞬だけ一瞥したかと思うと、何事もなかったかのように視線をグィンさんの方に戻して、それから閉ざしていた口を小さく開いた。

 

「わかった」

 

 先輩の声は妙に固かった。先輩の返事を受け、グィンさんは僕の方に顔を向けて言う。

 

「悪いね、ウインドア君。次に呼ぶまで、席を外してくれるかい?」

 

「え?……わ、わかりました」

 

 そのグィンさんの声音も、何故か強張っていた。それに関して問い返すことを、遠回しに許可しない声音だった。だから僕は疑問に思いながらも、彼の言葉にただ頷きそのようにするしかなかった。

 

「……ごめん、クラハ」

 

 グィンさんに言われ、一旦執務室から出て、そして扉を閉めようとしたその時。グィンさんと向き合いこちらに背中を向けたまま、先輩が一言だけそう呟く。

 

 その声音は怯えるように震え、悲痛に、切なげに響いている────少なくとも、僕にはそう感じ取れて仕方がなかった。



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GMの決断

 グィンさんから席を外してほしいと言われ、執務室から出て数十分。唐突に、部屋から入って来てほしいとグィンさんに言われ、僕は再び執務室へと入った。

 

 ──……え?

 

 入って、すぐさま戸惑い、困惑に囚われる羽目となった。執務室の空気は先程と打って変わって、重く気まずい静寂に満ちており、僕は無意識にも固唾を呑んでしまう。

 

 そんな僕に対して、グィンさんが────最初の時からは想像もできない程に真面目で、そして固い表情を浮かべている彼が言う。

 

「突然で、その上待たせてすまなかったね。ウインドア君」

 

 表情と同様に、その声音も固く重々しい。そんなグィンさんの声を聞いたのは、これが初めてだ。

 

 堪らず動揺を覚えながらも、僕は何とか口を開いてグィンさんに言葉を返す。

 

「い、いえ。そんな、気にしないでください」

 

「……うん。そう言ってくれると、僕もありがたいよ」

 

 そうしてグィンさんと社交辞令のような、一通りのやり取りを終えて。僕は次にソファに座ったままでいる先輩へと顔を向ける。向けて、堪らず狼狽えてしまった。

 

「…………」

 

 先輩の様子が、最初と全くと言っていい程に一変していたのだ。膝の上に置かれた手は固く握られ拳となっており、遠目からでも僅かながらに震えているのがわかる。一体先輩がどのような感情を抱いているのか────その顔を伏している今、それを正確に知ることは困難であった。

 

「あ、あの……先輩……?」

 

 堪らず、そして考えもなく。僕は恐る恐る先輩に声をかけた。が、先輩は顔を伏せたまま、意気消沈の声音でこう返す。

 

「悪い。今は何も訊くな。……訊かないでくれ」

 

 ラグナ先輩との付き合いは決して短くはないと、僕は思っている。思っていたが、それでも。それは初めて目の当たりにする先輩の一面だった。こんなにも暗く深く、落ち込んだ先輩の姿など、見たことがなかった。

 

 まるで懇願するような先輩の言葉に、僕が簡単な一言ですら返すことができないでいると、不意に神妙な面持ちでいるグィンさんが口を開く。

 

「ウインドア君。……いや、クラハ=ウインドア。そこに座ってくれ」

 

「え……?」

 

 今までに聞いたこともない声で、こちらに有無を言わせない圧と共に、グィンさんが僕に言う。そのことに当然僕は驚き戸惑ったが、それ以上何も言わずただこちらを見つめるグィンさんの、得体の知れないその迫力に押し負け、気がつけば僕は無意識に言われた通り、ソファに腰かけていた。

 

 異様な雰囲気が漂い、包まれる執務室────その空気に僕が堪らず背中に嫌な汗を滲ませるのとほぼ同時に。依然として神妙な面持ちのまま、再びグィンさんが口を開いた。

 

「先に結論から言わせてもらうと、私は信じるよ。今私の目の前に座るその女の子こそが、我が『大翼の不死鳥(フェニシオン)』最強でもあり、そして世界最強と謳われる三人────《SS》冒険者(ランカー)の一人……『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズ本人だって、ね」

 

「ほ、本当ですかグィンさん!?」

 

 グィンさんの言葉に、つい僕は身を乗り出してしまう。しかし、グィンさんはまだ何か言いたげにしていて、僕はそれに気づく。それから慌ててソファに戻り、逸る気分を落ち着かせながら彼の言葉の続きを待った。

 

「……それと、その最強ぶりが嘘だったみたいに弱体化してしまっていることも。うん」

 

 その時、僕は見逃さなかった。グィンさんがそう言った瞬間、ほんの微かに。先輩が肩を跳ねさせたのを。

 

 ──先輩?

 

 僕は思わずどうかしたのかと訊きそうになったが、先程言われたばかりの言葉を思い出し、その直前で思い止まる。

 

 グィンさんはといえば、そう言って一旦口を閉じてしまい、天井を仰いでいた。だがそれも数秒のことですぐさま彼は僕と先輩の方に顔を戻し、相変わらず重苦しい雰囲気を纏ったまま、言う。

 

「正直に言わせてもらうと、君たちが思っているよりもこの事態は深刻だよ。何せ、世界規模の損失だろうからね。それは間違いないさ」

 

 グィンさんの言葉に、僕と先輩は何も返せない。ただ、沈黙する他ない。

 

 今回のことは、誰が悪い訳でもない。誰かの悪意が引き起こした陰謀ではない。これといった原因が全く以て皆無な、謂わば不幸な事故のようなものだ。

 

 それはグィンさんとて、わかっているはずだ。理解しているはずだ。……けれど、彼の表情からはあの困ったような笑顔は失せて、代わりに険しく固いものとなっている。

 

 それから数分、執務室を静寂が包んだ。そしてそれを先に破ったのはやはりと言うべきか、グィンさんであった。

 

「今何をどう言ったところで、この状況が好転することはないと、わかっている。ああ、わかっているとも。……だからこそ、言わせてもらうよ」

 

 言って、グィンさんは────僕に顔を向けた。その表情は、何処までも真剣で。その眼差しはひたすらに真摯だった。

 

 その二つに圧倒される僕に、グィンさんが言う。

 

「『大翼の不死鳥』所属、《S》冒険者──クラハ=ウインドア。君にGMとして命ずる────ラグナ=アルティ=ブレイズを一から鍛え直し、そして『炎鬼神』としての強さを取り戻せ」

 

 拒否することは許さない──────直接口にはしなかったが、グィンさんの声音にははっきりと、その意思が頑なに込められていた。



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戸惑う者と焦燥する者

「私は『世界冒険者組合(ギルド)』にどう説明すれば……出品祭も近いというのに……」

 

 という、懊悩と苦心に塗れたグィンさんの独り言に後ろ髪を引かれながら、僕と先輩はその場を後にした。

 

 メルネさんに一言別れの挨拶を告げ、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から出る頃には、時刻はもう既に夕暮れ時であった。

 

 徐々に沈む太陽が空を茜色に染める中、それと同じ色に染まりつつ、ポツポツと灯りが点き始め、日中とはまた別の────夜の姿へと変わりつつある街並みを流し見ながら、僕と先輩は二人揃って歩く。

 

「「…………」」

 

 会話なんてなかった。終始──正確に言えばグィンさんの話を聞いた時から、僕と先輩は会話できずにいた。……というより、先輩が発する雰囲気がそれを許してくれなかった。

 

 あれから依然として先輩の調子が戻ることはなかった。朝や『大翼の不死鳥』までの道中で見せた、あの天真爛漫とした雰囲気は見る影もなく消え失せ。何処までも昏く、重く、陰鬱とした負の雰囲気を先輩は纏っていた。

 

 ──……先輩。

 

 そんな先輩の、ラグナ先輩の姿を見ているのは辛かった。今の先輩の心境、心情を理解できるとまでは言わない。……とてもじゃないが、言えない。

 

 だって────僕の心にも、そんな余裕はなかったのだから。

 

 ──これから、どうしよう。どうすれば、いいんだろう。

 

 こんな時こそ、後輩たる僕が先輩のことを支えなければならない。そんなこと、普段ならば頭で考えずとも、直接行動に出ていただろう。だが僕は焦燥に駆られてしまって、自分のことでとにかく精一杯になっていた。いくら一人で考えても、正しい答えなど、真っ当な結論など出やしないことだったというのに。

 

 後を思えば、この時に。この時にこそ、先輩に言葉をかけるべきだったのだ。だが不甲斐ないことに、僕が今それに気づくことは────なかった。

 

「あ……」

 

 ふと唐突に、そこでようやっと。先輩が今の今まで固く閉ざしていた口を開いて、思わずというように声を小さく漏らす。それに釣られ、僕はようやく目の前にある景色をまともに目にする。そこにあったのは────先輩が住むアパートであった。

 

 その場に立ち止まる、僕と先輩。やがてぎこちなくお互いに顔を振り向き合わせた。

 

「……今日は色々と世話になったな」

 

 先に口を開いたのは先輩だった。

 

「い、いえこれくらい当然ですよ!だって、ほら……僕はラグナ先輩の後輩なんですから!」

 

 僕自身決してそんな気はなかったが、側からすれば取り繕っているようにしか思えないだろう笑いと共に、慌ててそんな中身のない返事をする。してから、もっとマシというか、具体的な返事はできなかったのかと軽く後悔した。

 

 だがしかし。それに対して先輩が非難することはなく。ただ小さく、一言呟く。

 

「先輩、か」

 

 そう呟いて、先輩は俯いた。が、それは一秒にも満たない一瞬だけのことで、すぐさま顔を上げて、そして僕に言う。

 

 

 

「なあ、クラハ」

 

 

 

 恐らく、きっと。先輩は何か訊ねようとしたのだろう。僕の返事を求めていたのだろう。

 

 けれど、先輩は途中で言葉を止めた。口を噤んだ。まるで、躊躇うかのように。

 

「……?先輩?」

 

「やっぱ何でもない」

 

 え────と、僕が声を漏らすよりも早く。先輩はそう言って踵を返し、僕に背中を向けた。

 

「ここまで一緒に来てくれてあんがとな。んじゃあ、また明日」

 

 それだけ言って、その場から先輩は歩き出した。その歩幅は以前よりも────男だった時よりも断然狭く、また夕暮れに染まるその背中も小さく、そして弱々しく見えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──先輩、一体どうしたんだろう……。

 

 先輩をアパートにまで送り、日が沈み切り夜の帳が下りた街道を歩き、僕は家に着いた。

 

 今夜の夕食を作りながら、僕は先輩のことを考える。

 

 あの時、先輩は僕に対して何を訊くつもりだったのだろうか。……僕に、何を訊きたかったのだろうか。

 

 今となってはもう答えの出ない疑問が、頭の中で回り続ける。

 

 ──……まあ、今さら考えても、遅いか。

 

 リーン──その時、不意に呼び鈴の音が家中に響き渡った。予期せぬその音に、僕は危うく指先を包丁で切りかける。

 

「ッ……」

 

 そのことに少しだけゾッとしながらも、僕はとりあえず軽く手を洗い、玄関へと向かう。

 

 ──誰だ……?今日は特に予定なんてなかったはずなんだけど……。

 

 奇妙に思いながらも、玄関へと立つ。扉の方を見やれば、確かに外には誰かが立っていた。

 

 硝子(ガラス)の向こう側に映っていたのは、赤色。硝子を隔てている為、断言はできなかったが──僕はその色に見覚えがあった。

 

 ──…………いや、そんな。まさか。

 

 漠然と無意識に立てた予想を、自ら頭を振って否定する。そんなはずはないと、仮にそうだったとしても何故と、疑問が疑問を呼ぶ。

 

 とりあえず、警戒はしながらも。僕は扉に近づき、鍵を開け、そして恐る恐る扉を開いた。

 

 ……まあ、結論だけ先に述べるのならば。自ら否定した僕の予想は、意に反して当たっていたのだ。そう、扉の外に立っていたのは──────

 

 

 

「……よ、よお」

 

 

 

 ──────先程アパートの前で別れたばかりの、先輩だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アパートを追い出された?」

 

「……おう、そうだよ。追い出されちまったんだよ」

 

 とりあえず、あのまま玄関前にいる訳にはいかないと判断した僕は、先輩を家の中に招き入れリビングに場所を移し、テーブルを挟む形で向き合い、互いに椅子に座っていた。

 

 そして気まずそうなその表情と同じ声音で、しかし若干不貞腐れたように先輩が言う。だが今の女の子姿では、失礼と思いながらも可愛らしいと、僕は不覚にも思ってしまう。

 

 そんな己の心内を見透かされぬよう、そしてそれを誤魔化すよう僕はあくまでも真面目な風を装って、先輩に訊ねた。

 

「追い出されたって……一体どうしてですか?」

 

 装うと言ってもそれは僕の紛れもない、純然な疑問からの質問である。

 

 先輩は最初躊躇うように、僕から一瞬目線を逸らし、それからゆっくりと、遠慮がちに小さく口を開いた。

 

「よ……ぎて、反応してくんなかった……」

 

「え?……何が反応しなかったんですか?」

 

 まるでそれを口に出すのが堪え難い苦痛であるかのように、語気を窄めて言う先輩。だがそれは聞く身としては理解するのに困難を強いる内容であり、堪らず僕は先輩に問い返してしまう。

 

「だ、だから……」

 

 だが先輩も依然として躊躇する姿勢を緩めず、言い難そうに言葉を濁す。しかし、このままでは埒が明かないと僕がそう思った矢先だった。

 

「だあああッ!!」

 

 バンッ──突然弾けたように先輩が叫び、両手で思い切り机を叩く。その行動に僕が驚くと同時に、まるで堰を切ったように先輩が続けた。

 

「今の!俺の魔力が弱過ぎてッ!アパートの鍵が反応してくんなくて開かなかったんだよッ!大家に何回説明しても全ッ然信じてくれねえし……!」

 

 それは先輩が垣間見せた激情。それを前にし、僕は唖然としてしまう。だがすぐさま先輩はハッと瞳を見開かせ、それから気が憚れるような表情を僕に見せ、そして逸らした。

 

「……ごめん。八つ当たり、しちまった」

 

 顔を少し伏せながら、先輩が申し訳なさそうに僕に言う。僕としては自分が理不尽な怒りをぶつけられたことよりも、この間柄となって四年────決して短くはない月日の中で、これ以上にないくらいに切羽詰まった、余裕のない先輩の姿を目にしてしまったことに対して、深い動揺を覚えていた。

 

 僕と先輩の間で沈黙が流れる。それは妙に重たく、こちらの精神を削る。

 

「せ、先輩。とりあえず……その、ご飯にしましょう」

 

 その沈黙から逃れるように、気がつけば僕は口を開き、そう言っていた。



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 ──さて、どうしよう。

 

 皿を洗いながら、僕は独り考え事に耽っていた。当然、先輩に関してのことだ。

 

 ……まあ、結論だけ先に述べるなら。僕と先輩は今日から()()()()()()()()()()

 

 とりあえず。まずはとりあえず、僕の言い分を聞いてほしい。いや、誰に対しての言い分なのかは僕自身もわからないが……。

 

 とにかく、こうして独り言でも言わなければ落ち着いていられないというか。緊張感やら罪悪感やらで押し潰されそうになってしまうというか。

 

 先輩は一人暮らしでアパートに住んでいたが、やむを得ない事情によりアパートに帰れず、宿に泊まろうにも今からでは流石に無理がある訳で。

 

 そして、今後についての諸々をこれから僕と定期的に相談するのであれば、もういっそのこと一緒に暮らしてしまった方が手っ取り早く楽なのでは────と、食事の席で僕が先輩にそう提案してしまったのだ。

 

 くれぐれも誤解しないでほしい。別に下心等があった訳ではない。……ただ、その場の気まずく重い、正に暗澹とした空気に僕がとうとう堪えられなくなり、何とかそれを変えようと、そしてできるだけ長く続けられるような話題を思案した末の、苦し紛れの結果なのだ。

 

 そんな僕の我が身勝手さで出した提案を、先輩は──────

 

 

 

「良いな、それ。んじゃあ今日から世話になるぜ、クラハ」

 

 

 

 ──────と、まあ何とも言えない気軽さで了承してしまった。

 

「…………」

 

 自分で蒔いた種だ。今さら退こうとも考えないし、思わない。そもそも先輩にああ言ってしまった手前、やっぱり止めましょうなんて口が裂けても言えない。言える訳がない。

 

 ……だが、それでも。それでもだ。

 

 先輩との同棲。いやまあ、せめて先輩が男のままであったのなら、別段何も問題はなかっただろうが────今、先輩は女の子になってしまっている。

 

 恐らく、道を歩けばすれ違う男たちがこぞって振り返ってしまうような、そんな『女』に成長する将来性を有した美少女に、されてしまっている。

 

 そんな先輩と同棲。そんな先輩と、一つ屋根の下。お互い良い年頃の男女二人きりで、いつ終わるかもわからない程長い間、寝食を共にする。

 

 そんなの、ふとした拍子で()()()が起きても不思議ではない────そう思った瞬間、僕は頭を横に振った。

 

 ──いや。いやいや落ち着けクラハ=ウインドア。大丈夫だ何も問題はない。今先輩は女の子になっちゃってるから問題がある訳で、元の男に戻せば問題ないんだ。うん。

 

 その根拠なんてこれっぽっちもないが、こう、御都合主義的なアレで全部まるっとスルッと解決する。するはず。そうなるはずだ。そしてそうなれば先輩と同棲してても先輩は男だから何も問題はないのだ。ノープロブレムなのだ。

 

 ゴシゴシ──既に綺麗に洗い終わっている皿を何度もスポンジで擦りながら、言い訳がましく僕は心の中で呟き続ける。

 

 ──とすると、やはり最優先すべきは性別を戻すこと……けど、それこそ神の奇跡に頼らない限りは……。

 

 そもそも、この世界の最高神──『創造主神(オリジン)』が定めた事柄を変えてしまう方法など、それ以外に見当もつかなければ想像もできない。それ程、今回先輩の身に起こったことは異常中の異常事態なのだ。

 

 下手をすれば、もしかしたらグィンさんに頼まれたことよりも難しい────気がする。

 

 ──だとしたら、今は先輩の魔力をどうにかする方を考えるべきか……?

 

 先輩は言っていた。今の自分では魔力があまりにも弱過ぎて、鍵が反応してくれなかったと。

 

 ……確かに、理由としてはそれが正しいのかもしれないが、何もそれだけではないと僕は考えている。

 

 鍵が先輩の魔力に反応しなかった別の理由────それは恐らく、元の(・・)男の身体ではなく、別の(・・)女の子の身体だから、というのもあるのだろう。

 

 魔力には、『波長』というものがある。そしてこれは個々によって異なっており、この世界ではその波長を様々なことに利用している。先輩が言っていた鍵などもそうだ。

 

 今の先輩の身体は、厳密に言えば元の先輩の身体ではない。だから魔力の波長も、微妙に違ってしまっているのではなかろうか。しかしまあ、これもあくまでも僕の簡単な仮説の一つにしか過ぎないが。

 

 …………そんな理性的な考えで脳内を埋め尽くし、これから年頃?の女の子?と一つ屋根の下でしばらくは暮らすという緊張感やら何やらを、僕は必死に誤魔化していた。

 

 自慢ではないが、僕は異性経験など全くの皆無だ。

 

 ──……あれ?

 

 皿を洗っている中、ふと僕は気づいた。もし、もしだ。僕の仮説が正しいとして、そうなると今の先輩では銀行(バンク)からお金を────

 

 

「クラハー。ちょっといいかー?」

 

 

 ────が、僕のその思考は先輩の声に遮られてしまった。皿を拭きながら、半ば無意識に声がした方に振り返ってしまう。

 

「どうしましたか先輩?何かありましたか?」

 

 振り返って────僕の頭の中は一瞬で真っ白になった。

 

 

 

 

 

「髪洗うの手伝ってくんね?長くてよー、自分じゃ上手く洗えねぇんだ。……ん?どした?そんな面白い顔になって」

 

 

 

 

 

 言いながら、先輩が近づいてくる──────一糸纏わぬ、下着すらも上下共に身に付けていない、あられもない全裸姿の先輩が。

 

 一切羞恥することなく。一切隠そうともせず。むしろまるでこちらに堂々と見せつけるかのように。昼頃、不慮の事故にも近い不本意さで目の当たりにしてしまったその穢れ一つとない肢体が、ゆっくりと近づいて来る。

 

 先輩が歩く度、(うなじ)から脹脛《ふくらはぎ》を完全に覆い隠すに至るまで、伸ばされた髪が揺れる。燃え盛る炎のように鮮やかなその赤髪が、部屋の灯りに照らされ煌めく。その様が────僕にはこの世のものとは思えない、とても美しい風景に見えた。

 

「おーい?聞こえてんのかー?」

 

 視界の映る、先輩の真白な肌が眩しい。それはまるで雪原のように綺麗で。触れずとも滑らかで柔い感触を有しているのだと、容易に想像できてしまう。

 

「クーラーハー?」

 

 そして髪を押し上げる、その低い背丈には少々見合わない大きさまでに育った二つの──────

 

「…………ッ?!!?」

 

 ──────そこで僕はようやっと、我に返り正気というものを取り戻した。

 

 

 

 

 

「服ッ!!先輩服ッ!!!」

 

「え?は?」

 

「服ゥゥゥゥ!!!!」



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理性揺さぶる洗髪タイム

 ──さて、どうしよう。

 

 シャワーヘッド片手に、僕は考えていた。どうして、一体どうしてこんなことになっているのだろうかと。

 

「……何で固まってんだよクラハ。早く洗ってくれよ、髪」

 

 顔だけこちらに振り返らせて、僕にそう催促する先輩。だが、それでも僕は手を動かせないでいた。

 

 ……いや、だって。駄目だろ、これは?

 

「……あの、先輩」

 

「ん?何だ?」

 

「え、えっと……ほ、本当にいいんですか?僕がその、先輩の髪を洗っても……?」

 

「洗ってもいいも何も、そもそも俺がお前に頼んだことじゃねえか。遠慮する必要なんてねえぞ?」

 

「いや、それは、そうなん…ですけど、も」

 

 少し遅れたが、今僕がどんな状況下に置かれているのか、説明しよう。

 

 先輩と、浴室にいる。先輩と、二人きりで浴室にいる。なお浴室なので当然、先輩は全裸である。だが僕は服を着たままだ。

 

 一応、先輩は全裸であるが僕には背中を向けている。というかそうしてもらわないと困る。僕が凄く困る。

 

「それとも何だよ?俺の髪に触りたくないとか思ってんのか?」

 

「いやそんなこと全然思ってません滅相もございません」

 

 むしろその逆であるとは口が裂けても言えない、心からの本音だ。

 

 と、その時。不意に前を向いていた先輩が背後を──つまりは僕の方に振り向いた。

 

「ならさっさと洗ってくれ。このままだと俺風邪引いちまうぞ」

 

 先輩自身、その行動には何の狙いもない、強いて言うなら僕と面を向かってそう伝えたいが為のものだったのだろう。だがその行動に、僕は咄嗟に顔ごと視線を逸らし、慌てて声を上げた。

 

「え、ええ!わ、わかりました!わかりましたよ!だから前を向いてください先輩!前を、向いててください!」

 

「……?まあ、いいや。んじゃ頼んだぞー」

 

 僕の態度に胡乱げになりながらも、とりあえず納得してくれた様子で。先輩はそう言って、再び前に振り向き直った。

 

 ──ああ、この人は全くもう……!

 

 もう一度言わせてもらうが、今先輩は一糸纏わぬ全裸姿である。本来ならば布下にひた隠すべきそのありのままの全てを外気に曝け出している、大変無防備過ぎる状態なのである。

 

 そして今現在、先輩は女の子になっている訳で。それを未だに今一、先輩は自覚してくれないでいる。

 

 瞼の裏に貼り付いて離れない、先程の風景────否、絶景。慌てて視界を逸らしたとはいえ、その片隅で、しかもあんな僅かな動作でさえ揺れた、二つの肌色の果実に未だ悶々としながらも、僕は改めて先輩の髪に視線を定める。

 

 ──……本当に綺麗な赤髪だな。

 

 思わず無意識に、心の中でそう呟いてしまう。先輩の髪は燃え盛る炎を直接そのまま流し込んだような、赤々とした見事な紅蓮色で。光の加減によって美麗に赤光が瞬いて輝き、そして煌めく。その様には、否応にも見惚れてしまうものだ。

 

 シャワーヘッドを持つ手が妙に、嫌に震える。それに、緊張しているからか汗が滲み出して止まらない。

 

 本当に、いいのだろうか。いや、先輩がいいと言っているのだから、先輩の言う通り躊躇う必要はないのだろう。……だが、それでもだ。

 

 僕とて、一人の男である。当然、目の前にこんな可愛い、それも全裸の女の子がいれば、そういう気持ちになってしまう。今だって、こうして髪に覆われた背中しか見ていないのに…………結構、キている。

 

 ──落ち着け。落ち着くんだクラハ=ウインドア。相手は先輩。元男の先輩。だから先輩は男……!

 

 思わず剥き出しになろうとしている男の本能を、理性でどうにかこうにか捩じ伏せつつ、シャワーの水栓を緩める。

 

 すると音を立てながら、シャワーヘッドから温水が放出されていく。

 

「そ、それじゃあお湯かけますね……!」

 

 言って、僕はゆっくりとシャワーヘッドを先輩の後頭部へと翳した。温水によって、先輩の赤髪がゆっくりと濡れていく。

 

 外だけでなく、ちゃんと中も濡らすため、恐る恐ると残った片手を近づけていく。触れる直前まで葛藤していたが、覚悟を決め指先で髪に触れた。

 

 瞬間、伝わるのは予想通りの、素晴らしく滑らかで、さらりと流れる感触。絹糸(シルク)かと錯覚するほどの、極上の手触り。

 

 ──う、わ……。

 

 思わずそのまま、無意識に指先を沈めてしまう。すると僕の指先──どころか指は大した抵抗もなく呑み込まれ、まだ濡れ切っていない中の感触に包み込まれてしまった。

 

 ──うわ、うわうわうわうわぁ……!!

 

 ゴリゴリと理性が削られる音が聞こえてくる気がする。全身から一気に汗が噴き出してくる。

 

 女性の髪というのが、こんなにも艶めかしいものだったとは……夢にも思っていなかった。

 

 そしてこの髪の向こうには、先輩の剥き出しにされた無防備な裸の背中があるのだ。

 

 ──堪えろ。堪えろ、堪えろ堪えろ堪えろ……!

 

 完全に意識外からの思わぬ一撃に、一瞬で本能に意識を持っていかれかけてしまったが、僕はギリギリで何とか自制心(ブレーキ)を利かせて堪え、踏み止まることができた。

 

 櫛でやるように。手で先輩の髪を梳いて、水に馴染ませていく。

 

 ──……そ、そろそろかな。

 

 そうして、僕は一旦水を止め、シャワーヘッドをタイルの上にへと置いた。

 

 それからシャンプーのボトルを手に取り、中身を手の平に出し、伸ばす。ある程度泡立たせてから、また先輩の髪へと手を伸ばした。

 

「これから洗いますからね、先輩」

 

「んー」

 

 一応、先輩の断りを入れてから。改めてシャンプー塗れの手で先輩の髪に触れた。水によってしっとりと濡れた先輩の髪は、乾いている時はまた違って手触りで。また心を揺さぶられたが、僕は鉄の自制心で抑えた。

 

「い、痛かったら言ってくださいねー……?」

 

 言いながら、僕は先輩の髪を洗っていく。手の平の上でもある程度泡立っていた泡が、モコモコとさらに巨大化していく。これは……先輩の髪質のおかげだろうか?

 

 できるだけ優しく、そしてなるべく丁寧に。髪を傷めないよう、僕は割れ物を扱うような慎重な手つきで先輩の髪を洗う。そしてある程度洗えたところで、次は頭皮に移る。

 

 爪は立てず、指腹で。マッサージという訳ではないが、痛くしないよう上手く加減して、力を込めて揉んでいく。

 

「痒いところはございますか?」

 

 などと、お決まりの台詞に対し。先輩は気持ち良さそうな声で答えてくれた。

 

「痒いところはねえな。……つーか、お前頭洗うの上手いじゃねえか」

 

「そう言ってもらえて光栄ですね」

 

 ……こうして先輩と普通に会話できる程度には、荒ぶり昂っていた僕の気持ちも、だいぶ落ち着いた。最初はどうなることかと思ったが……意外とどうにかなるものだ。

 

 そうして、再びシャワーヘッドを手に取って、温水をかける。先輩の髪に盛られていた泡が、流されていく。

 

 手を使って、きちんと全部流して。そうしてようやく、先輩の洗髪は無事終わりを迎えたのだった。

 

「終わりましたよ、先輩」

 

「おう、ありがとなクラハ……あ、そうだ」

 

 己の役目を終え、そそくさと浴室から撤退しようとした僕を先輩が呼び止める。

 

「クラハ。ものはついででさ、もう一つお前に頼んでもいいか?」

 

「え、いや………はい、何でしょうか?」

 

「背中流し「もう勘弁してくださいお願いしますッ!!」

 

 先輩には申し訳なかったが、これ以上は自分を抑えられる自信が全くなかった。

 

 堪らず僕はそう叫んで、浴室から飛び出す。……だから、気づけなかった。気づくことができなかった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 僕が浴室から逃げ出す直前。遠去かるその背中を、先輩が複雑そうな表情を浮かべて見つめていたことに。

 

 そしてこの後すぐに、僕は直面することとなる。先輩がその小さく、か弱い身体の内側に抱え込んだ──────苦悩に。



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月明かりだけが照らすリビングにて

「『大翼の不死鳥』所属、《S》冒険者(ランカー)──クラハ=ウインドア。君にGM(ギルドマスター)として命ずる────ラグナ=アルティ=ブレイズを一から鍛え直し、そして『炎鬼神』としての強さを取り戻せ」

 

 グィンさんの言葉は、何処までも重かった。彼の言葉には、GMとしての重みが、これでもかと込められていたのだ。

 

 ……だが、その言葉を僕は────そのまま、すんなりと受け止めることはできなかった。

 

「まっ……待ってください!先輩を一からき、鍛え直す?僕が?ほ、本気でそう……言ってるんですか!?」

 

 だってそれはあまりにも現実離れした要求だったから。あまりにも夢想じみた、とんでもない無茶だったから。

 

 そんなこと無理だ。無理に決まっている────刹那にもそう悟った僕は堪らず悲鳴を上げるようにグィンさんに訴えたが、彼はただ真摯な眼差しをこちらに向けるだけであった。

 

 ──……本気、なのか。この人は、僕に本気で言っているのか……!

 

 荒唐無稽、無理難題にも程がある。ここまで、突き詰められるところまで弱体化してしまった先輩を、かつての────『炎鬼神』の強さにまで鍛え直すことなど……!

 

「当然こちらも最大現できる限りの支援(サポート)はする。ウインドア君、これは君にしか……いや、君だからこそできることだと……私は思っているんだよ」

 

「そ、そんなこと……言われても」

 

 考えが纏まらない。思考が上手く回らない。無礼にも程があるとわかっていたが、それでも……グィンさんの言葉全てが僕にとっては無責任なものにしか、受け取ることができなかった。

 

 グィンさんにそれだけしか返せず、僕は顔を俯かせてしまう。もう心に余裕なんてものは、一片たりともない。

 

 一体これからどうすれば良いのか────ただそれだけが、僕の頭の中を埋め尽くしていた。

 

 だから、僕は気づけなかった。ここでも、気づくことができなかった。今でも思い返せば、この時の自分を一発殴ってやりたいと思う。

 

 まるで自分が一番の被害者のように。不幸を被っているかのように。

 

 この時一番苦しんでいたのは、一番辛かったのは──────僕の隣に座っていた人物だったというのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 淡い月明かりだけが照らすリビングにて、僕は今ソファに寝転び天井を見つめていた。

 

 明日からどうなるんだろう。今の今まで送っていた日常(いつも)の日々は、どうなってしまうんだろう────そんな漠然とした不安を、僕は呆然としながら憂う。

 

 先輩を一から鍛え直す。……そんなこと、どうやったって考えられない。当然だ。

 

 だって僕は後輩──そもそも立場が逆ではないか。

 

 ──グィンさんも無茶苦茶だ……そんなこと、無理に決まっているのに……。

 

 突然上司から理不尽な仕事を押しつけられた部下の心境で、僕はやさぐれながら心の中で呟く。

 

 けれど、まあ妥当な判断ではあると頭の片隅では思う。その役目を任せられる適任者は、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』内では()()僕くらいしかいないだろうから。

 

 それに、さっきも言ったが僕はラグナ先輩の後輩だ。付き合いだって、もうそれなりのものになる。そういう点を含めて、僕がその役目を担うのが一番都合も良いだろうし。

 

 ………だからといって、はいそうですねと済ませられないのが本音ではあるのだが。適任者であるのは認めるが、もっと他に相応しい者はいるはずだと僕は思っている。何なら『世界冒険者組合(ギルド)』の『六険(ろっけん)』の誰かにでも……。

 

 ──いや、駄目だ。

 

 先輩の心中を察するならば、その選択は論外であると僕は切って捨てた。他に相応しい者はいるという考え自体は否定しないが、それでは駄目だろうと考え直す。

 

 そう、僕はラグナ先輩の後輩────ならばその役目を全うすべきだろう。

 

 それに先輩を女の子のままにもしてはおけない。男に戻る方法も、探さなければならない。

 

 ……何という、重荷。果てしない重責。まさかこんなものを背負う日が来るとは、夢にも思っていなかった。

 

 

 

 しかしこれ以上のものを────グィンさんは背負っているのだ。

 

 

 

 《SS》冒険者。この広大な世界でたったの三人しか未だ確認されていない、『極者』。その内の一人が、最弱(スライム)と並ぶ最弱になってしまった。

 

 不慮の事故のようなものだ。だが、それは言い訳の一つにしかならない。そして、グィンさんはそれを理由に逃げることなど、許される立場ではないのだ。

 

 部屋を去る直前、あの人は日常(いつも)通りの笑顔を浮かべて僕と先輩を見送った。だが、それは無理をして浮かべていたものだった。

 

 ──グィンさんに比べれば、僕はまだマシなんだ。

 

 窓から覗ける夜空と同じ色をした、天井を眺める。今日は様々な────本当に様々な出来事があった。その所為か、次第に睡魔がゆっくりと訪れる。それに抵抗することなく従うように、僕は半ば無意識に瞼を徐々に下ろす。視界が暗くなっていき、そして完全な闇に覆われる────直前だった。

 

 

 

 ギシ──不意に床が軋んだ音を立てて、僕の意識を睡魔から一瞬だけ遠去けた。

 

 

 

「……?」

 

 一体何事かと、音のした方に──正確に言えばリビングの扉がある方へと顔を向ける。すると少し遅れて、微かな音を立てながら。リビングの扉が独りでに開かれたかと思えば──────

 

 

 

 

 

「……まだ、起きてるか?クラハ」

 

 

 

 

 

 ──────という。何故か、何処か不安げな先輩の声音が僕の鼓膜を静かに震わせた。

 

「先、輩?えっと……はい。僕はまだ起きてますよ?」

 

 僕は戸惑いながらもそう答えたが、先輩は何も答えず黙ったままリビングに入ってくる。……そんな気配を感じた。

 

 今リビングの照明は消えており、差し込む月明かりは淡く心許ない。その上先輩が立っているのだろうリビングの扉付近はのっぺりとした暗闇に包まれており、僕が寝転がっているソファからではよく見えなかった。

 

 そして先輩はリビングに足を踏み入れはしたようだが、その場から動く気配がなかった。

 

「先輩……?」

 

 僕はそれを奇妙に思って、ソファから上半身だけを起こす。目を凝らせば、やはり闇の中にぼんやりと人型のシルエットが浮かんでいる。

 

「……悪いな。こんな、時間に」

 

「い、いやそんな……僕は大丈夫ですよ。気にしないでください」

 

 申し訳なさそうにそう言う先輩に、僕は苦笑いを浮かべながらそう返す。

 

 ……とはいえ、どうしてこんな夜も深まった時間帯に先輩がここへ来たのか、不思議でしょうがない。てっきりもう寝てしまっていると思っていたのだが。

 

「あの、ところで……」

 

 一体どうしたのかと、僕は訊ねようとした。だが、それを先輩は予期していたのだろう。

 

「ちょっと、お前に訊きたいことがあってさ」

 

 僕が言い終わらない内に、先輩がそう言った。そして続けて、その姿を闇に浸したまま、依然不安げな声音で先輩は僕に言う────否、問う。

 

 

 

 

 

「クラハ。お前、俺のこと……どう思ってんだ?」



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どう思ってんだ?

「クラハ。お前、俺のこと……どう思ってんだ?」

 

 その先輩の声は、静かなものだった。不安げながらも、意を決したような、覚悟を決めたかのような────そんな声だった。

 

「ど、どうって……あの、それはどういう……」

 

 何故先輩の声音がそうも真剣味に溢れているのか、どうして先輩はそんな、まるで思い詰めた様子になっているのか────それがわからず、先輩に問われたにも関わらず僕は狼狽え、気がつけばそう問い返してしまっていた。

 

 だが、この時僕が狼狽えていなくとも、その先輩の問いには答えられなかっただろう。何せ先輩の問いは曖昧なもので、如何様にでもこちらで解釈できてしまう。

 

 故に、安易に僕は答える訳にはいかなかった。

 

 そう訊き返した後で、情けなくも僕は少し後悔してしまう。これでもし先輩が機嫌を損ねてしまったらどうしよう、と。まるで親に叱られる子供のような気持ちになって、それを心の中で恐れてしまう。

 

 だが、そんな僕の小っぽけな恐れは否定される。先輩は特に機嫌を崩すことなく、また静かにその声をリビングに響かせた。

 

「そのまんまの意味だ。今の俺を、お前はどういう風に思ってんのか……どう見えてんのかを知りたい」

 

 

 

 プチ──と、その時。先輩が言い終えるのとほぼ同時に、まるで衣服のボタンを外すような、そんな音がした。……そんな、気がした。

 

 

 

 ──……何だ?空耳……か?

 

 本当にしたかどうかもわからない程に小さい、不審な謎の音に思わず意識を引かれながらも。僕は先輩の問いの意味を理解し、思わず安堵してしまう。そして深く考えることもなく、まるで当たり前の事実を突きつけるかのように、僕は平然と答えてみせた。

 

「ああ、なるほど。そういうことでしたか。そんなの考えるまでもありませんよ、僕にとって先輩は先輩です。誰よりも尊敬すべき、僕の大切な恩人なんです」

 

 僕の言葉がリビングに響き渡る。僕の答えを聞いた先輩は────何も、返せなかった。

 

 ──……?

 

 今一度、静寂がこの場に返り咲く。しかも今度の場合は何故か重たい圧迫感を伴って。が、それも束の間────長い沈黙を挟んでから、ようやっと先輩が口を開いた。

 

「……へえ。クラハ、お前そう思ってんだ。……今でも、そう思ってんのか」

 

 先輩の声音は、僅かに、だが明らかに荒んでいた。まるで吐き捨てるように先輩がそう言った瞬間。

 

 

 

 プチ──今度は間違いなく、衣服のボタンを外す微かな音が僕の耳に届いた。

 

 

 

「せ、先ぱ「クラハ」

 

 先程までの様子がまるで嘘だったように。先輩が僕の言葉を強く遮る。その声音はあくまでも静かなものであったが────明確な怒気を孕んでいると、僕には感じ取ることができた。

 

 ──あ、まずい……。

 

 瞬間、他人事のように僕はそう思う。自分が取り返しのつかないことをしでかしてしまったのだと、呆然と悟る。

 

 そう、例えるなら────決して踏んではいけない特大の地雷を、思い切り、力の限り踏み抜いたような。そんな感じに。

 

 今し方確かに聴き取ることができた衣服のボタンを外す音のことなどすっかり忘れ、僕は全身から嫌な汗を噴き出させる。瞬く間に心が恐怖と怯えに支配され、無意識にも呼吸を荒くさせてしまう。

 

 心理状態を反映するかのように、その鼓動を劇的に早める心臓を堪らず煩わしく思う僕に、依然闇にその姿を沈めたままでいる先輩が静かに、そして冷たく言い放つ。

 

「目、閉じてろ」

 

「え、あ……?」

 

 先輩の要求は、唐突だった。何故、この状況下で目を閉じなければならないのか。それとも目を閉じると同時に自分は歯を食い縛ればいいのか────そう思い、僕は困惑の声を漏らしてしまう。

 

 そんな僕の態度に、チッとその苛立ちを表すように先輩が舌打ちをする。それから先輩は乱暴に言葉を吐き捨てた。

 

「いいからとにかく閉じてろこの馬鹿ッ!」

 

「は、はいすみませんっ!」

 

 先輩に怒鳴られ、僕は悲鳴のような情けない謝罪を入れながら、為す術もなく言われた通りに固く目を閉じた。

 

 ──な、何だ!?先輩は僕に一体何をするつもりなんだ!?

 

 そう心の中でみっともなく、恐らくこれから訪れるだろう先輩の折檻に対して、僕は身構える。そんな僕に先輩が言う。

 

「俺が開けろって言うまで、目ぇ開けんなよ。絶対だからな?いいな?」

 

「りょ、了解です僕は絶対に目を開けません……!」

 

 そんな問答を終え、そして遂に。その場から先輩が動いた。ゆっくりと、僕の方に足音が近づいて来る。その度に、僕の緊張が増していく。

 

 とうとう、その足音が僕のすぐ目の前にまで近づいて────不意に、止んだ。先輩がその歩みを止めたのだ。

 

「……クラハ、お前言ったよな。俺のこと、先輩だって思ってるって。尊敬できる、先輩だってまだ思ってるんだよな?」

 

 唐突に、僕の言葉の真偽を確かめるように、先輩が僕に確認する。……何故だか、一瞬その声音が堪らなく不安で怯えている、幼い子供のように聞こえた。

 

 だが今の僕にそれを深く考え込む余裕も予断もなく、焦燥に揉まれながら咄嗟に、先輩の確認に対して肯定の意を示す。

 

「は、はい。僕の言葉に嘘偽りなんてこれっぽっちもありません」

 

「…………」

 

 僕の返事に、先輩はすぐに言葉を返すことはなかった。また長い沈黙を挟んで、そしてようやく。

 

「わかった」

 

 

 

 パサ──そう返すと同時に、軽い何かがリビングの床に落ちる音がした。

 

 

 

 ──え?何か、落ちて……?

 

 そう僕が思った束の間────突然、僕の膝の上に何かが乗った。重さは然程ない、何かが。

 

「ッ……!?」

 

 だがその何かは()()()()()。その何かは()()()()()()

 

 じんわりと、その何処か心地良い熱と感触が僕の膝に伝わる。視界を封じているせいか、いつにも増して敏感に。

 

 そしてすぐさま────今度は僕の両頬が温かみと柔らかさを伴う別の何かに包み込まれてしまった。

 

「はっ?うぇッ?!」

 

 堪え切れず、僕はみっともなく素っ頓狂な声を上げてしまう。そして咄嗟に顔を動かそうとしたが、その包み込んだ何かがそれを許さない。

 

「……クラハ」

 

 果てしなく動揺し混乱する最中、その口を閉ざしていた先輩がようやっとまた開き、静かに僕の名を呼ぶ。

 

「もう、目開けてもいいぞ」

 

 言われて、僕は閉じていた目を恐る恐る開かせて────直後驚愕に思わず見開かせてしまった。

 

「ん、なッ……!!??」

 

 何故ならば。僕のすぐ眼前に──────先輩の顔があったから。



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今、目の前にいるのは

「ん、なッ……!!??」

 

 という、驚愕の声を僕は上げずにはいられなかった。叫ばなかっただけでも、御の字だろう。

 

 何故ならば。目を見開かせた先にあったのが────こちらをただじっと見据える先輩の顔だったのだから。互いの吐息でさえかかる程の至近距離にまで、先輩がその顔を近づけていたのだから。

 

「せ、せんぱっ……!!」

 

 咄嗟に、反射的に。特に何を思う訳でもなく、そう言いかけた瞬間。こちらを見据える先輩の視線から無意識に逃れようとしたのか、一瞬視線を下に向けて────僕の頭の中は真っ白になった。

 

 ──へ……?

 

 そこにあったのは、たわわに実った二つの膨らみ。その背丈に反して大きく、それでいて形も綺麗に整った肌色の果実。本来ならば下着と衣服に包み隠されてなければならないそれらが、僕の眼前に惜しげもなく、これでもかと曝け出されていた。

 

 そしてそのさらに下に続く光景も()()で──────

 

「先輩ッ!?なな、何で服着てないんですかッ!?」

 

 ──────そこで僕は正気を取り戻し、言いながら顔を逸らそうとした。だが、そうすることはできなかった。

 

「顔、逸らすな。……こっち、ちゃんと見ろ」

 

 一糸纏わぬ全裸で。こちらに向き合う形で僕の膝の上に座る先輩が、僕の両頬を両手で包み込みながらそう言ったからだ。その言葉には、その声には上手く表現しようのない、こちらに有無を言わせない迫力があって。僕は思わず従ってしまっていた。

 

 先輩の瞳に、髪と同じ色をしたその瞳の奥に、僕の顔が映り込んでいる。予期せぬこの状況下に、情けなく狼狽え困惑し赤らんだ僕の顔が。

 

 そんな自分を心の片隅で滑稽だなと他人事のように思っていると、同じく僕の顔を真摯に見つめながら、先輩が口を開く。

 

「お前、言ったよな。俺のことまだ先輩だって思ってるって。……そう、言ってたよな」

 

 言って、先輩はさらに続けた。

 

「本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?」

 

 

 

 そう、訊かれて。その時初めて──────僕は気づいた。気づかされて、しまった。

 

 

 

「え……あ……」

 

 まるで今まで己の中で時が止まっていたように。今の今まで無視していた事実をふとした拍子に受け入れてしまうように。途端に、僕はありありと感じ取る。

 

 今の今まで気にならなかった。気にも留めなかった。膝に伝わる先輩の太腿(ふともも)の感触。先輩からふわりと漂う、仄かに甘い匂い。

 

 ──……違う。

 

 僕の両頬を包む小さな両手。細い手首に、華奢な腕と肩。括れた腰。全体的に痩せてはいるが、要所要所は程良く肉付いた、柔そうな身体。

 

 ──違う……。

 

 考えてみれば、それは当たり前のことだった。ただ、僕がそれに気づけなかった。

 

 知らず知らず、気づかないようにしていた。受け止めないように────受け入れないようにしていた。

 

 ──こんなの、違う。

 

 だが、こうして。直面させられて、僕は今初めて認識した。そうなのだと、自覚させられた。

 

 ──…………ああ、そうか。……そうだったんだ。

 

 今、僕の膝に座っているのは。今僕のすぐ目の前にいるのは──────

 

 

 

 

 

 ──()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ガツン、と。まるで鈍器で後頭部を思い切り殴られたような衝撃。無論、それはただの錯覚に過ぎない。……けど、僕にとってはどうしようもない現実そのものだった。

 

 何も言えず、呆然としてしまって、もはやどうすればいいのかわからないで、硬直する他ないでいる僕に、先輩は言う。

 

「クラハ。もう一回、言ってみろよ。さっきと同じこと、面と向かって……今の俺に言ってみせろよ」

 

 その時、目と鼻の先にある先輩の顔は、そこに浮かんでいた表情(かお)は────僕の全く知らない、未知のものだった。

 

 まるで親と(はぐ)れてしまった子供のような。今すぐにでも誰かの背中に寄りかかりたいような。誰かの腕に縋りたがっているような。そんな不安と恐怖に脅かされている者の、表情。

 

 こんな表情────少なくとも僕が知る先輩は、僕が知っているラグナ=アルティ=ブレイズはしない。絶対にしない。

 

 

 

 故に────()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 気持ち悪い違和感が、じっとりと僕の心に広がっていく。自然と背中に嫌な汗が滲み出す。

 

 違う、そんなことはない────頭ではそうとわかっていた。だが、僕の心はわかってくれなかった。……いや、それは逆だったのかもしれない。

 

 先輩は見つめる。僕の顔を見据える。僕が知らない、女の子の顔で、無言でただじっと。

 

 この時取るべき選択肢など、一つだけだった。至極簡単なものだった。

 

「っ……ぅ……」

 

 簡単なものだと、簡単なことだと頭では確かに理解していた。

 

「ぅ、あ……」

 

 僕は即座に答えるべきだった。もう一度、その言葉を伝えるべきだった。

 

 

 

『僕にとって先輩は先輩です。誰よりも尊敬すべき、僕の大切な恩人なんです』

 

 

 

 そう、言わなければならなかったのだ。ラグナ=アルティ=ブレイズの後輩として。

 

 ……けれど、この時僕は──────

 

「…………っ」

 

 ──────言葉にならない呻き声だけを漏らして、目を逸らすことしかできなかった。

 

 

 

『顔、逸らすな。……こっち、ちゃんと見ろ』

 

 

 

 先程、そう言われたにも拘らず。後輩であるにも拘らず。

 

 ……けれど、そんな僕を先輩は────責めなかった。罵倒することも、怒鳴りつけることもしなかった。

 

「……そうだよな。お前、嘘吐けないもんな」

 

 ただ、僕にそう言うだけだった。その声音は酷く優しくて、穏やかで────寂しそうだった。

 

 その声を聴いて、僕はハッと咄嗟に逸らした目線を戻そうとした。

 

 ……だが、それよりも先輩が僕の膝から下りるのが早かった。

 

「こんな時間に悪かった。……おやすみ」

 

 言って、先輩は僕に紅蓮色の伸びた髪に覆い隠された背中を向けて。床に落ちていた寝間着代わりの僕のシャツを拾い、羽織る。そしてその場から先輩が歩き出す。

 

 先輩の小さな背中が遠去かっていく。僕の前から、先輩が離れていく。それを、僕はただ見送ることしかできないでいる。

 

「せ、先輩っ!」

 

 だがしかし。先輩がリビングから出る直前、僕は辛くもそう声を出すことができた。扉を開けたまま、こちらに背中を向けたまま、先輩がそこで立ち止まる。

 

 恐らく。それは期待の表れだったのだろう。僕からの言葉を、待ち望んでいてくれたのだろう。

 

 …………なのに。

 

「せ、先輩……あの、その……僕は、僕は………」

 

 そんなことしか、口から吐き出せなかった。

 

「…………」

 

 そうして。先輩は無言のまま、こちらに背を向けたまま、リビングから出た。扉の向こうに先輩の姿が消え、扉が静かに閉じられる様を見せつけられて。それでも、なお。

 

「……僕、は」

 

 昏く深い絶望の中へ沈みながら、己が一体どれだけ不甲斐なく情けなく、そして惨めな存在なのだと思い知らされながら。ただそう呟きソファの上で僕は打ち拉がれた。



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ラグナの苦悩

 夜も良い具合に深まった頃合い。クラハとの問答を一通りやり終えたラグナは、独り部屋に──クラハの寝室へと戻っていた。ここにしばらく住まう間、どうぞ使ってくださいとクラハが貸してくれたのだ。

 

 バタン──寝室の扉を閉めた後、ラグナは寝台(ベッド)に向かおうとはせず、その場に佇む。

 

「…………馬鹿野郎」

 

 そう一言だけ呟いて。ラグナは扉を背にしてもたれかかる。それから脱力したようにズルズルと腰を下ろして、ストンと終いに冷えた寝室の床に座り込んだ。

 

「クラハの、馬鹿野郎……」

 

 そう呟くラグナの声は、弱々しく震えていた。それから膝を抱え込んで、彼は顔を俯かせる。

 

 ──俺は、女じゃねえ。

 

 誰がどう見ても、天真爛漫とした可憐な少女の姿をしているラグナは、心の中で恨めしくそう呟く。それと同時に、彼は今日一日の記憶を想起した。

 

 

 

『だっ、駄目じゃない!あなたみたいな()()()がこ、こんな格好で……しかも外を出歩くなんて一体何考えてるのッ!?』

 

 

 

 クラハと共に訪れた服屋でのこと。そこの店主──アネット=フラリスとは知り合いで、そこそこの付き合いもあったのだが……自分がラグナ=アルティ=ブレイズだと彼女は気づかなかった。

 

 まあ、当然といえば当然のことだろう。こんな、あまりにも非力で無力な少女が、あの最強と謳われるラグナであるとは誰しも思わないであろうし、信じもしないだろうから。

 

 アネットの叱責を頭の中で反芻させながら、ラグナは心の中で呟く。

 

 ──俺は女じゃねえ。

 

 それは事実だ。今の自分がラグナであると、歴とした男であると自覚も意識もある。その今までの記憶だってあるのだ────けれど、この現状がそれを否定する。

 

 

 

『すまないが、今の君を……私はあのラグナ=アルティ=ブレイズだとは思えない。認められない。一人のGM(ギルドマスター)として……そうする訳には、いかないんだ』

 

 

 

 それは自分が所属する冒険者組合(ギルド)──『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のGM、グィン=アルドナテの言葉。苦心に苛まれながらも、こちらの為にという思いが詰められた、彼の重い言葉。

 

 ──女、じゃねえ……!

 

 悔しさと苛立ちが募るばかりであった。自分の全てを否定された気分だった。もはや、誰もが今の自分を自分(ラグナ)と見なかった。認識してくれなかった。

 

 

 

 そしてそれはクラハも────同じだった。

 

 

 

 クラハ=ウインドア。彼とは先輩と後輩という関係性に限って言えば四年の付き合いだが、実はそれを除くともう十年以上の親交になる。

 

 ラグナは知っている。幼い頃のクラハを。クラハは知っている。まだ最強に至る前のラグナを。二人が初めて知り合った瞬間は実に複雑で────とてもではないが、一言で説明なんてできはしない。

 

 その付き合いから、無自覚に。気がつけば無意識にラグナはクラハに対して絶対とも言える信頼を寄せていた。無論、それを告白したことは一切ない。

 

 ……だが、その信頼に一瞬の翳りが差した。今日という一日で、思わずラグナはクラハに対して不信──というよりは不満を抱いてしまった。

 

 その理由は、クラハの態度にあった。彼は接してくれていた。彼だけが、唯一以前と変わらない接し方をしてくれていると────ラグナは()()()()()()()

 

 しかし、結局は同じだった。クラハもまた、今の自分を女と見ていたのだ。

 

 喫茶店の時も。街道を共に歩く時も。洋服店の時も。『大翼の不死鳥』の時も。この家の時も。

 

 クラハはこちらに心を許していなかった。何処か余所余所しく、一歩引いた態度と雰囲気だった。

 

 十年以上という決して短くない付き合いがあるラグナであるから──否、だからこそわかった。それに気づいた。

 

 …………なのに。

 

 ──先輩先輩って……俺のこと、平気な顔で呼びやがって……。

 

 ラグナはそれがどうしても許せなかった。クラハ本人が一番そうであると()()()()()()癖に、まるで自分だけはわかっていますと肯定している態度が、堪らなく不愉快で……そして辛かった。

 

 だからラグナは行動に打って出た。今でも自分を先輩と────ラグナ=アルティ=ブレイズだと、確とそう認識しているのかと問うた。

 

 そしたら案の定、クラハはこう答えた。

 

 

 

『僕にとって先輩は先輩です。誰よりも尊敬すべき、僕の大切な恩人なんです』

 

 

 

 ……その言葉自体は嬉しかった。だが、それと同じくらいに哀しかった。

 

 だから────今の自分というものを、クラハに対してありのまま全てを見せつけてやった。

 

 その膝の上に座り、その両頬に両手を添え、互いの吐息が互いの鼻先にかかるまで顔を近づけて。そこまでして上で、顔を赤くし大袈裟なくらいに目を白黒させて狼狽するクラハに改めて問いかけた。

 

 本当に今目の前にいるのが、お前の先輩なのかと。ラグナ=アルティ=ブレイズであるのかと。

 

 クラハは、今度は────答えなかった。答えられず、ただ呻き、その目線を逸らすことしかできないでいた。

 

 そうなると、この結果をラグナとて予想できていなかった訳ではない。だからこそ、ここまでしたのだから。

 

 正直に白状してしまえば、憤りを覚えた。失望もした。ああ、やっぱりお前もそうなんだと────諦観した。

 

 ……だがしかし、だからといって。ラグナにはクラハを責めることはできなかった。そんなこと、できるはずがなかった。

 

『……そうだよな。お前嘘吐けないもんな』

 

 そう、言葉をかけて。ラグナはクラハの膝から下り、そして背を向けた。そしてこの場から去ろうと────クラハの前から去ろうとした、その直前。

 

 

 

『せっ、先輩っ!』

 

 

 

 こちらのことをクラハが呼び止めた。その瞬間、己の胸の内に瞬く間に広がった期待を、ラグナは忘れない────否、忘れられない。

 

 だって。自分を呼び止めた癖に、結局クラハは言葉にならない声を漏らすだけだったのだから。

 

「…………あの、馬鹿野郎」

 

 その時は既で喉奥に飲み込んで、口に出すのを堪えた言葉を今吐きながら。ラグナは己の腕を掴み、握り締める。

 

 何処にもぶつけられない、ぶつけようのない苛立ちと苦悩に辟易しながら、寝台に向かって横になることもなく。そうしてラグナはしばらくの間、扉の前に座り込み続けるのだった。



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絡み結ばれるそれぞれの運命

「という訳で、(アタシ)はこれから『世界冒険者組合(ギルド)』本部に向かうことになっちまった。GM(ギルドマスター)の代理は既に立ててあるから、そこは心配しなくてもいい」

 

 早朝。執務室にて面倒そうに上着代わりのローブを羽織りつつ、そして実に面倒そうに彼女が言った。

 

 首筋が薄く隠れる程度にまで伸ばされた紫紺色の髪。それと全く同じ色をした瞳は猛禽類を彷彿とさせるまでに鋭く、冷淡な光を宿していた。

 

 猛獣を思わせる凶暴な、だがそれでも男を確かに惹きつける確かな美貌を持つその女性は背後を振り向く。

 

「事態が事態だ。場合によっちゃあ……いや、十中八九アンタも動くことになるだろうから、準備は済ませときな」

 

 言って、彼女が視線を向ける先にあったのは、来客用の上等なソファ────否、正しくは。

 

 

 

「別に言われなくてもわかってますよ、師匠(せんせい)

 

 

 

 そこに座る、一人の少女。真白のローブを纏う、それと全く同じ色の髪をした、絵本の中からそのまま飛び出たかのような、そんな可愛らしく幼い容姿をした少女であった。

 

「……だったら構わないんだけどね」

 

「ええ。それにしても本当に興味深いですよぉ」

 

 紫紺色の女性から手渡された一枚の紙と一枚の写真を見ながら、一体何がそんなに面白いのかクスクスと笑いながらそう言う真白色の少女。

 

「『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズ……この広い広い世界(オヴィーリス)の中で、私に比肩し得る、私と同じ《SS》冒険者(ランカー)の一人。そんな彼がある日突然、そうだったのがまるで嘘みたいに弱体化した挙げ句の果て……まさかその性別すら変わってしまったなんて。くふ、ふふふ」

 

 少女が手に持つその写真には、一人の少女が写っている。

 

 まるで燃え盛る炎をそのまま流し入れたように、鮮やかに煌めく紅蓮色の髪と真紅の瞳。仏頂面ではあるが、それでも可憐で美麗で。軽く微笑みを浮かばせるだけで世の男を総じて虜にしてしまえる程の、まさに絶世の美少女。

 

 故に誰もが決して信じはしないだろう────この写真の少女が、()()()()()()()()()()()

 

 さらに言えば、その写真の少女が────『炎鬼神』の異名で畏怖され世界最強の一人と謳われた《SS》冒険者、ラグナ=アルティ=ブレイズであるなどと。

 

「あーあ、こうなっちゃうんだったら接触禁止なんて無視して、さっさと会いに行けば良かったなぁ。後悔先に立たずってこういうことを言うんだなぁ。まあ過ぎたことを幾ら嘆いても仕方ないかぁ。……それにしても、性別の逆転。神にしか許されない、神にのみ成し得られる所業…………神の奇跡」

 

 まるで何かに囚われているかのように、真白色の少女は写真の少女を見つめる。じっくりと眺める。

 

 写真に視線を注ぐ少女の瞳は、異質の一言に尽きた。何故なら────其処には定まった色が存在していないのだから。

 

 赤、青、黄────信じ難いことに、少女の瞳は秒刻みにその色を変えている。言うなれば少女の瞳は──万色であった。

 

 そんな異様極まる瞳を持つ少女は、そのあどけない顔立ちに良く似合う悪戯な笑みを浮かべて、さらに続ける。

 

「この私ですら何度挑戦しても失敗続きで終わったというのに……この確かな現実の中で、よもやこんな、とっても大変可愛いらしい事例が先に出てしまうとは。人生何があるか、本当にわからないものですねえ」

 

 そんな真白色の少女に対し、紫紺色の女性はため息一つ吐きながら。やや投げやりな態度と声音で、一応はという風に言葉をかけた。

 

「わかっているとは思うが、くれぐれも『世界冒険者組合』を挑発するような真似はするんじゃないよ。指示があるまで待機だからね」

 

「……はぁーい」

 

 意味深な一瞬の沈黙を挟んで。わかっているのか、いないのか、それが今一伝わらない妙に間の伸びた返事をする少女。そんな様子の少女に女性は再度ため息を吐きつつ、彼女に背を向けた。

 

「それじゃあ、私が帰ってくるまでの間は頼んだよ────フィーリア」

 

 そこで初めて名前を呼ばれた真白色の少女は写真から顔を上げて、こちらに背を向ける女性に今度はきちんとした返事を送る。

 

「はい、この私に任せてください。師匠……いいえ、お母さん」

 

 そうして、少女は────世界最強の一人たる《SS》冒険者(ランカー)、『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアは依然浮かべていた笑みを不敵なものに変えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が昇り始めてまだ間もない空の下、そこに二つの人影があった。二つの、それも大柄な人影が。

 

 一人は男物で厚手のジャケットを羽織った、燻んで鈍い光を放つ銀髪を短く切り揃えている、一見すると高身長の美青年。

 

 だが誰の目から見てもわかる程無理矢理に押さえつけられ、しかしそれでも膨らんでいるとわかる胸元とこれまた男物のスラックスに窮屈げに包まれた、張りのある肉付きの良い臀部がその認識が間違いであると主張する。

 

 その美青年────否、男装の麗人とでも言うべき銀髪の美女が静かに、ゆっくりとその口を開かせる。

 

「……じゃあ僕は発つけど、後は任せて大丈夫だよな?」

 

「ああ、問題ない。大船に乗ったつもりで任せてくれ」

 

 凛として良く響く声音で彼女の質問に答えたのは、その女性らしからぬ彼女の背丈よりも高い、それこそ頭一つ分高い背丈を誇る者。だというのに、なんとこちらも信じられないことに女性であった。

 

 他の大陸では見られない独特の衣装──この大陸、それも極東(イザナ)と呼ばれる地方独自のものである『着物(キモノ)』で身を包むその女性は、夜闇の如き漆黒の髪を腰辺りに届く程度にまで伸ばしている。

 

 そして肝心の顔立ちであるが────それはどうなっているかはわからない。何故ならば、その女性がもはやちゃんと見えているのかすら疑わしいまでの超至近距離で、しかも人の顔程もある一枚の写真を食い入るように見つめているからだ。

 

 そんな様子の黒髪の女性に対して、銀髪の美女は眉を顰めながら呆れた声を出す。

 

「そこまで気になるものか……?」

 

「当然じゃないか。私にとって小さくて大きいのは絶対の正義だ」

 

「……まあ、別にお前の性癖に口を挟むつもりはないが」

 

 そこまで言うと、銀髪の美女は踵を返し黒髪の女性に背を向ける。それから背を向けたまま、一言彼女に告げた。

 

「一応言っておくが、その写真の子は元々は男だからな」

 

 その銀髪の美女の言葉に、黒髪の女性はようやっと顔から手に持つ写真を離す。

 

「関係ないさ。いざとなれば私が女の悦びというものを身体と心の隅々にまで教え込み、私色に染め上げればいい」

 

 と、側から聞いてもとんでもない言葉を口走らせる黒髪の女性は────そんな言葉があまりにも似合わない程に、美しかった。まるで抜身(ぬきみ)の刃を思わせるような、そんな冷たくも凛々しい美貌がその顔に存在していた。

 

 ……が、しかし。その浮世離れした美貌よりも先に、他者の意識を。視線の全てを否応にも集める要素が彼女の顔にはあって。それは何かというと────()だった。右側、右目の瞼を跨ぐ形で、眉の上から顎先にまで。ピッと、縦に引かれた一本の傷跡があったのだ。

 

「………全く。一体誰に似たんだろうかな」

 

 凄絶なまでに美麗な分、傷痕がより目立つその顔に浮かべられた微笑みと共に、告げられたその言葉に苦笑を伴わせてそう返し。やがて銀髪の美女はその場から歩き出す。

 

「精々程々に、な────サクラ」

 

 その言葉を最後に、この場を去る彼女の背中を、黒髪の女性────世界最強の一人たる《SS》冒険者(ランカー)、『極剣聖』サクラ=アザミヤは見送りながら、呟いた。

 

「貴女に言われなくてもわかっているさ。カゼン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつけば、リビングが明るくなっていた。朝日が差し込み、リビングを照らしていたのだ。それと同時に、鳥の鳴き声が遠くで聞こえてくる。

 

 ──…………ああ、もう朝になってたのか。

 

 思考が上手く定まらない頭の中で、僕は呆然とそう思う。それからどうしようもなくなって、無意識に天井を仰いだ。

 

 結局、あれから一睡もできなかった。……できる訳がなかった。目を閉じる度、瞼の裏に────見えてしまう。

 

 

 

 

 

『……まだ、起きてるか?クラハ』

 

『クラハ。お前、俺のこと……どう思ってんだ?』

 

『……へえ。クラハ、お前そう思ってんだ。……今でも、そう思ってんのか』

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

 

 

 

 

 深夜の光景が。先輩の姿が。あの表情が──────その全てが。まるで今さっきあったことのように、恐ろしいくらいに鮮明に。

 

 ──……これから、どうすればいいんだろう。僕はこれからどう……先輩と接すれば、いいんだろう。

 

 それだけがずっと僕の頭の中で駆け回っていた。幾ら考えても考えても考え尽くしても、答えの出せない疑問になって埋め尽くしていた。

 

 そんなこと、僕一人で考えても仕方のないことだというのに。

 

「……」

 

 自己嫌悪に苛まれながらも、僕は無言でソファから立ち上がる。朝が来たのだ。いつまでもこうしている訳にはいかない。

 

 今日から僕の知らない────日常(いつも)が始まるのだから。

 

 僅かに冷たいリビングの床を踏み締めて、僕は歩く。扉を開いて先に進んで、トイレへと向かう。

 

 そして閉ざされているトイレの扉のノブを掴み、当然のように、何の躊躇いもなくそれを開いた。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 ……もう既に、トイレには先客がいた。寝間着代わりの僕のシャツを着た、下着(パンツ)を膝辺りにまで下ろし、今まさに便座に腰かけようとしている先客────ラグナ先輩がいた。

 

「「………………」」

 

 僕と先輩の間で、沈黙が流れる。そしてこの重く、ひたすらに重く気まずい沈黙を先に破ったのは、先輩だった。

 

「……あー」

 

 という、申し訳なさそうな声を漏らして。先輩は脱ぎかけていた下着を、ストンと足首にまで落とし。それから便座に腰を下ろした。

 

「すまん。鍵すんの、忘れてた。……ん」

 

 そう、一言僕への謝罪を先に済ませて。そして未だ僕がすぐ目の前にいるにも関わらず、便座に座った先輩は身体から力を抜こうとして──────そこでようやく僕は正気を取り戻し。

 

「す、すみませんでしたァッッッ?!」

 

 そう叫びながら脱兎の如くトイレから飛び出し、叩きつけるように扉を閉めてその場から離れるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、決して交わることのない運命であった。決して絡み結ばれる、運命(いと)ではなかった。

 

 だが、一つの出来事を切っ掛けに、運命が交わる。運命が絡み、結ばれていく。

 

 それが齎すのは、滅びか救いか。与えられるそれは、希望か絶望か。

 

 この物語の最果てに在るのは──────終わりか始まりなのか。



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アルヴス武具店

 その日、世界(オヴィーリス)に激震が走った。何故ならば、突如としてこの日に『世界冒険者組合(ギルド)』から到底信じられない、まるで嘘のような報道(ニュース)があったからだ。

 

 《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズが弱体化し、その上少女となってしまった────と。

 

 この報道と共に世界中に配られた一枚の記事とそこに載っている写真が与えた衝撃と動揺は、『世界冒険者組合』の予想を大いに上回り、尋常ではない混乱を齎すこととなった。

 

 嘆く者。怯える者。不安を抱く者────当然のことだろう。この世界には魔物(モンスター)の脅威に満ちており、そして世界を滅ぼさんとする『厄災』もいるというのに、それらに対抗できる存在(モノ)が一つ失われてしまったのだから。

 

 だが、この世界規模の影響を出した危機的状況を、逆に好機を捉える者たちもいた。

 

 最強という唯一無二の名誉を求める者。心の奥底に野望を秘めた者────そういった者たちが、この事態を受けて今、一斉に動き出す。

 

 そう────この日この時、世界は激動の一歩を踏み出したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へいらっしゃい!ここはアルヴス武具店……って、ウインドアじゃねえかよ。久しぶりだな」

 

「お久しぶりです、アルヴスさん。相変わらずここは寂れてますね」

 

「お前さんのクソ真面目なツラも相変わらずだっての。……で、そっちの嬢ちゃんが今噂で持ち切りの……」

 

「……ええ、そうですよ」

 

 早朝の、予期せぬハプニングの後。僕と先輩は気まずい空気の中朝食を済ませて、ここ────一般的なものから表向きには出せない裏事情のある武器や防具も売っている(という噂が囁かれている)『アルヴス武具店』に訪れていた。

 

 この店は僕がまだ駆け出しの冒険者(ランカー)だった頃からの行きつけである。この店の店主──アルヴス=オルトマギスさんとの付き合いは意外と結構長い。

 

 知り合った頃と全く変わらない、毛髪が死滅(ハゲ)た頭に手をやりながらアルヴスさんが複雑そうに呟く。

 

「まさか、あの『炎鬼神』の旦那がこんなお嬢ちゃんになっちまうとはなぁ。こうして実際目にしても、いやはや信じられねえっていうか何ていうか……」

 

「ああ?何だお前、文句あんのか?」

 

 アルヴスさんの嘆きをこちらの文句と受け取った先輩が、不機嫌そうに顔を歪め真紅の瞳で睨みながら、彼に食ってかかる。

 

 ……しかし。口が裂けても到底言葉には出せないが、その迫力は皆無であり。睨みを利かせているその姿はむしろ可愛いらしく、そして微笑ましかった。

 

「い、いやいや文句だなんて滅相もありませんよ旦那」

 

 そしてそれはアルヴスさんも同じことらしく、口ではそう言いながら平謝りをしているが、その顔は心なしか半笑いのように見える。しかし、残念ながら先輩がそのことに気づくことはなかった。

 

「……なら、まあ別にいいけどよ」

 

 不服そうな表情を浮かべながらも、アルヴスさんの申し訳程度の謝罪を受け取って、そう言いながら大人しく引き退る先輩。その様子に僕は僅かに苦笑しながらも、わざわざこの店に訪れた理由を伝えるべく僕は口を開き、アルヴスさんに言った。

 

「実は今日、先輩の武器を調達しにここへ来たんですけど……アルヴスさんから見て、今の先輩でも上手く扱えそうな武器ってありますか?」

 

「今の旦那でも扱えそうな得物……得物、なあ」

 

 僕の要望を受け、アルヴスさんは何とも言えない微妙な表情を浮かべながらも、黙って先輩を頭の天辺から足の爪先までじっくりと、それこそ舐め回すように眺める。

 

 ──……ん?

 

 恐らく最初こそは歴とした武具商人として、僕の要望に見事応えようとしてくれていたのだろう。だが、アルヴスさんの視線は次第に先輩の露出された肌に集められ、それは生足や臍────そして今最も関係ないであろう先輩の胸へと注がれる。浮かべているその表情こそ真剣そのものであったが、嘆かわしいかつ腹立たしいことに、それは別の意味の真剣さなのだろう。

 

 普通ならばこんな無遠慮かつ思慮の欠けた野郎の視線を受けて、不快感を抱き抗議の声を上げない女性はいない……と、少なくとも僕は思う。

 

 けれど今現にその視線を受けている先輩は元男で、であるからしてそれに対して不快に思うこともなければ、抗議の声を上げることもない。

 

 そんな先輩の様子に僕は軽い頭痛を感じながらも、わざとらしく咳払いをした。

 

「アルヴスさん?」

 

 気持ち低めに、多少の威圧感を声に乗せて。僕は遠回しの注意として先輩の身体を熱心に眺めるアルヴスさんの名を呼ぶ。すると彼はハッとしながらも、慌ててようやっと先輩から視線を外して、僕にその顔を向けるのだった。

 

「お、おおっとすまんすまん。いや客から直々に要望を出された商売の手前、失敗する訳にはいかねえからな。くれぐれも見誤らない為にな。ガハハッ」

 

「……まあ、僕としては確かな武器を見繕ってもらえればそれでいいので、貴方のその姿勢についてはとやかく言うつもりはありませんけど。ええ、はい」

 

 どう聞いても言い訳としか思えないアルヴスさんの言葉を、僕は何とか好意的に捉えられるよう努力し、彼にそう言う。

 

 ……だが、やはり知らず知らずに態度に出ていたのだろう。少し気まずそうにしながらも、アルヴスさんはちょっと待ってほしいと断ってから、そそくさと奥の方に消えた。恐らく今の先輩でも扱えそうな武器を倉庫から取り出しに向かったのだろう。

 

「……クラハ。何でお前怒ってんだ?」

 

「え?あ、いや……き、気にしないでください。決して先輩に非がある訳ではないので」

 

「……じゃあ、まあいいか」

 

 僕の煮え切らない返事に対して、納得はしてくれなかったようだが、先輩はそう言い。それ以上の言及をすることはなかった。

 

 それから特に会話をすることもなく、僕と先輩が待つこと数十分後。大きめの皮布を抱えて、アルヴスさんが戻って来た。

 

「俺から見て、とりあえず扱えそうな得物は幾つか持ってきたぞ」

 

 言いながら、台の上に皮布を広げる。その中に包まれていたのは、彼の言葉通り鞘に収められた数本の短剣や、僕の得物である長剣(ロングソード)と短剣の中間と呼べる中型剣(ミドルソード)だった。

 

「切れ味はどれも同じみたいなモンだから、どれを買うのかは使い勝手で決めてくれ……と、言いたいとこだが。俺が薦めるとしたら無難に短剣だな。軽くて取り回しが利くし、何本か携帯すれば投擲武器にもなるしで、戦い易いと思うぜ」

 

 流石は武器防具を取り扱うだけあって、アルヴスさんの言葉は正しく、僕も頷かざるを得ない。確かに短剣であれば以前と同じような動きを先輩は取れる訳だし、いざとなれば遠距離攻撃の手段があるというのも大きい。そして何より、応用が利く。

 

 ……だが、しかし。

 

「…………」

 

 当の先輩は、皮布を下敷きに台の上に並べられたそれらの得物を、何とも言えない微妙な表情で眺めていた。

 

「先輩……?」

 

 その様子を訝しげに思いながら、僕が声をかけた瞬間。先輩は唐突に視線を上に移して、口を開いた。

 

「あれがいい」

 

 そう言いながら、先輩が指を差したのは────僕の得物と似た、一般的な鉄剣(アイアンソード)であった。

 

「「…………」」

 

 瞬間、沈黙に包まれる店内。数秒後、僕とアルヴスさんは無言で互いの顔を見合わせた。

 

 ──無理ですよね?

 

 ──無理だな。

 

 以心伝心。言葉に出さずとも、僕とアルヴスさんの意見は合致する。

 

 今の先輩に、あの鉄剣は持てない────けれど、その事実をはっきりと先輩へ告げる勇気を、生憎僕は持ち合わせていなかった。

 

 なるべく遠回しに、先輩を傷つけないように。僕は慎重に頭の中で言葉を選び、意を決して口を開いた。

 

「あの、先輩。そのですね、アルヴスさんは今の先輩が使っても充分戦えると判断して、これらの武器を持ってきてくれた訳で」

 

「けど、あっちの方が強そうだぞ?デカいし」

 

「い、いや先輩。武器の性能というのは何も大きさや見た目で決まるものではなくて。どんなに名のある一流の鍛冶師が打った武器でも、個人それぞれの使い勝手で大きく左右される……というか……」

 

 そこまで言って、僕は己が取り返しのつかないことをしでかしてしまったと自覚した。何故ならば、この僕の言い方では──────

 

「……へえ、なるほどな。クラハ、つまりはお前……俺にはあの剣は使い熟せねえって言いたい訳だ」

 

 ──────と、受け取られてしまうから。先程こうならないようにと、注意していたというのに。やはり弁の拙い僕には、荷が重い役回りだったということか。

 

「そっ、そういう、訳じゃ……」

 

 慌てて言い繕おうとしても、僕を見る先輩の眼差しは厳しい。

 

 ──くッ……!

 

 一体どうすればいいのかと、一体どの選択肢が正解なのかと僕は焦る。こうなってしまうのだったら、いっそのこと変に誤魔化さず正直にそうと伝えるんだった……。

 

 しかし。突如予想だにしない助け舟が僕に出された。

 

「……わかりやした。じゃあ旦那、こうしましょうぜ」

 

「ん?」

 

 僕と先輩のやり取りを傍観していたアルヴスさんが、唐突に口を開いたかと思えばそんなことを言い出す。そして彼は先輩が指差した鉄剣を手に取って、恐る恐ると先輩の眼前に差し出した。

 

「一度、持ってみてください。それで旦那が持つことができたら、文句も何も言わずお渡ししますよ。……無償(タダ)で」

 

 それは、ある種の挑戦状のようなものだった。挑発と言ってもいい。アルヴスさんのまさかの提案に、先輩はむすっとした表情から一転、ニヤリと小悪魔めいた可愛らしい笑みを浮かべた。

 

「はっ、言ったなこの野郎。上等じゃねえか。後悔しても知らねえぞ?」

 

「男に二言はありません。旦那、さあどうぞ」

 

 アルヴスが差し出した鉄剣の柄を、先輩は自信満々に握り込んだ。

 

「ふん。こんなの楽勝楽しょ────

 

 ゴトンッ──そして、アルヴスから受け取ったその瞬間。鉄剣に引っ張られるようにして先輩の体勢が崩れた。

 

 ────…………」

 

 鉄剣の先端を床につけたまま、先輩は微動だにしない。

 

「……く、ぅぅ……ッ」

 

 ……いや、よく見れば、鉄剣を持ち上げようとその華奢な腕をぷるぷると健気に震わせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、こうなるとはわかってたさ」

 

「……ええ、そうですね」

 

 そう言い合って、僕とアルヴスさんは互いに頷き合う。……僕がそうであるように、彼もまた罪悪感に苛まれていることだろう。

 

 結論を述べてしまうと、先輩はあの鉄剣を持ち上げることはできなかった。先輩自身、どうにかこうにか持ち上げようと数分間、粘りに粘っていたのだが……その頑張りが最後まで報われることはなく。全くと言っていい程に鞘に収められたままの鉄剣の先端が床を離れることはなかった。

 

 そうして結局、先輩は鉄剣を持ち上げられなかったのだ。そして先輩はというと凄まじい程にその機嫌を崩し、何も言わず店内に幾つか置いてある椅子に座り、顔を俯かせたまま、微動だにしなくなってしまった。

 

 慰めの声をかけようにも、今では逆効果でしかない。どうすることもできず、居た堪れない気分に陥る中、唐突に思い出したようにアルヴスさんが声を上げた。

 

「おっと。そういや、そうだった……よし、ウインドア。ちょっと待ってろ」

 

「え?あ、はい」

 

 一体何を思い出したというのか。アルヴスは僕にそう言って、再びカウンターの奥へ消える。

 

 そして数分後、彼はまたこの場に戻って来た。

 

「いや実はな、最近珍しいブツを仕入れたんだよ」

 

「珍しいブツ、ですか?」

 

「おう。それがこれなんだが」

 

 そう言いながら、アルヴスさんは手に持っていた拳大の包みを台の上に置き、それを開く。その中にあったのは────独特な光沢を放つ、鈍く重々しい鉄色の塊であった。



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希少な魔石と不吉な占い

 アルヴスさんが持ってきたそれは、一見すると何の変哲のない、ただの鉄塊のように思える。しかし、その独特な光沢や質感がそうではないとこちらに訴えてくる。僕はその鉄塊擬きを眺めて、ふと気づき呟いた。

 

「まさかこれ、『魔石』……ですか?」

 

「流石は《S》冒険者(ランカー)ご明察だ。そう、一見鉄の塊にしか見えんこれも魔石の一種なんだが、その中でも珍しい希少な逸品だぜ」

 

「まあ、確かに初めて見るものですけど……」

 

 魔石────簡単に言えば、その名の通り空気中などの魔力が集まり、石のような塊となった物。主に洞窟の奥や潤沢な魔力が漂う特定の鉱山からしか採掘することはできない。

 

 魔石には様々な用途があり、基本的なものは魔力の代用などである。他にも『魔法都市』マジリカで売られている魔石は特殊な加工を施しており、砕くとその石に応じた魔法が発動するようにもなっているらしい。

 

「聞いて驚けよこの魔石はな………何と、武器になるんだ」

 

「え……武器になるんですか?その魔石が?」

 

 堪らず口から出た僕の困惑の声を聞き、得意げな表情のままアルヴスさんが頷く。

 

「おう。何でも話によるとだな、手に持った者の魔力を注ぐことによって、ソイツに合った最適の武器になる────らしいんだよな、これが」

 

「……らしいって」

 

 正直言って、アルヴスさんの言葉は胡散臭かった。そもそも武器に変形する魔石など、見たこともなければ聞いたことすらない。

 

 しかし、この男は商売関係の話で嘘を吐くような人物でないこともわかっていた。

 

 ……わかってはいるのだが、それでも彼に対して胡乱げな視線を向けられずにはいられない。

 

 

「……おいおい、そんな目で見んじゃねえよ。言っとくがコイツはモノホンの代物だぜ?今魔法都市(マジリカ)にいる商売仲間に直接取引して仕入れたんだからな」

 

「別に疑ってなんかいませんよ」

 

 ──まあ、それがその魔石が本物だっていう証明にはなりませんけどね。もしかするとその商売仲間に騙されたかもしれませんし……。

 

 口で否定しながら、心の中ではついそうと思ってしまう僕。しかし、最適な武器……もしそれが本当なら、悪くはない選択肢の一つである。

 

「一応尋ねますけど、値段は幾ら何ですか?その魔石」

 

「百五十万Ors(オリス)だ。当然、前払いでな」

 

「…………百五十万Orsですか」

 

 《A》ランク依頼(クエスト)数回分の金額である。そんな大金があれば、上等な剣の三、四本は買えるだろう。

 

 しかし、とてもじゃないがこんな得体の知れない魔石に対してつけるような値段ではない。

 

 それに前払いとなると……。

 

「効果は買ってから試せ、ということで?」

 

「おう。ソイツに合った武器になっちまうからな」

 

 あまり、食指は動かなかった。しかし、先輩に合わない武器を買ってもそれこそ無駄になるだろう。

 

 僕はその場で悩んだ末────そっと、魔法を発動させた。展開された魔法陣に、己の手を押し当てる。

 

 すると、少し経ってから三枚の大金貨がカウンターに落下してきた。

 

「毎度あり〜」

 

 アルヴスはその金貨をすぐさま回収すると、僕にその魔石を手渡してくる。持ってみた感じ、他の魔石とはそう変わりはないように思える。

 

「これで偽物とかでしたら、覚悟しておいてくださいね」

 

「ああ、覚悟しておくさ」

 

 魔石を持って、僕は踵を返す────直前、アルヴス呼び止められた。

 

「おっと待ちなウインドア。せっかくだから今日から始めることにした素敵なサービスをさせてくれよ」

 

「サービス?」

 

 振り返ってみると、アルヴスはカウンターの下から台座に嵌められた水晶玉を取り出していた。

 

「……何なんです、それ?」

 

「よくぞ聞いてくれた。これはな、誰でもお手軽に占いができてしまう魔法の水晶玉だ」

 

 ──嘘臭っ。

 

 そう思ったが、心の中に押し留めた。

 

「占い、ですか」

 

「おう!やり方は簡単、占うヤツの魔力をこれに注ぐだけ!するとこの水晶玉の色が変わるから、それで占えるって訳よ。その日の運勢恋愛楽しいこと嬉しいことなんでも占えちゃうのよねコレが」

 

 ──ますますもって、嘘臭い……。

 

 アルヴスさんが、僕に対して訴えかけるような眼差しを向けてくる。こう、本能的に苛立ちが増してくる、そんな眼差しを。

 

 ……正直、占いなど別にしてもらわなくて結構なのだが。しかし先程助け舟を出してくれた恩もあることだし、ここは乗ることにしよう。

 

 そう思いつつ、僕は嘆息しながら再びカウンターの方に近づいた。

 

「わかりましたよ。えっと……とりあえず、僕の魔力を注げばいいんですよね?」

 

「それでこそ《S》冒険者!よっ、この街一番の冒険者様!」

 

「世辞はいりませんから」

 

 言いながら、仕方なく僕はその水晶玉に触れる。そして水を注ぐようなイメージで魔力を伝せる。すると、透明だった水晶玉の内部が渦巻いて、七色に輝き出した。

 

 

 

 そして数秒後────水晶玉は、濃く黒い暗色に落ち着いた。

 

 

 

「「…………」」

 

 僕と、アルヴスさんの間で沈黙が流れる。その色は、誰がどう見ても金運だとか恋愛だとかを示唆するものではないということは明白であった。

 

 そしてようやっと、この沈黙をアルヴスさんが破った。

 

「あー……その、だな。落ち着いて聞いてくれないかウインドア」

 

「……はい。何です?」

 

 きっとろくでもない結果を聞かされるのだろうと、半ば諦めたように僕がそう言い返すと。アルヴスさんは僅かに躊躇いながらも、続きを話した。

 

「お前、ここ数日の間に死ぬかも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へえー……こんな石っころが、本当に武器になんのか?」

 

「はい。なる……らしいですよ。話に聞いた限りだと」

 

 変わらず日常(いつも)通りの喧騒を繰り広げる、この街(オールティア)の街路を、僕はいつの間にか機嫌を直していた先輩と並んで歩く。

 

 物珍しそうに手に持った魔石を眺める先輩の横で、僕は密かに思っていた。

 

 

 

 ──もう、あの店にはしばらく近づかないようにしよう。



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先輩の最適

 予期せぬ一波乱も無事やり過ごし、アルヴス武具店を後にした僕と先輩はこの街の外に広がる平原────ヴィブロ平原に訪れていた。

 

 この平原は駆け出しの《E》冒険者(ランカー)ならば必ず訪れる場所で、ここにはスライムやゴブリンなどの弱い魔物(モンスター)しか生息していない。

 

 なので、駆け出しの新人冒険者が魔物を相手にした実戦経験を積むのに適した場所なのだ。

 

 微風(そよかぜ)が吹き、こちらの髪や衣服の裾、足元の草を揺らす中、僕は先輩に尋ねた。

 

「先輩、準備はいいですか?」

 

「おう。こっちはいつでも行けるぞ」

 

 アルヴスさんから百五十万Ors(オリス)という、決して安くはない値段で購入した魔石をその小さな手の上に乗せながら、先輩は僕にそう答える。

 

「わかりました。ではその魔石に自分の魔力を込めてください。こう……魔石を見つめて、コップに水を注ぐような感じに」

 

「お、おう、やってみる……こ、こうか?」

 

 流石の先輩も緊張を覚えられずにはいられないようで、表情を固くさせながら、先輩は魔石に視線を集中させる。

 

 すると────最初こそ何も変化がなかった魔石だったが、しばらくしてぼんやりと薄く発光し始め、透けていく。その透けた内部に先輩の僅かな魔力が渦巻き出した。

 

 グニャリ──その瞬間、突如として魔石が先輩の手の平の上で、その形を大きく歪ませた。

 

「おわあっ?」

 

 という、珍妙というか可愛らしいというか。そんな反応に今一困る悲鳴を先輩が上げる間にも、魔石はグニャグニャとまるで粘土を捏ねるようにその形を変え、それと同時にその大きさも増していく。

 

 発光を伴いながら徐々に巨大化していくその光景の前には、流石の僕も呆気に取られてしまった。

 

「なな、何だよこれっ!?ど、どうしようクラハ!これ大丈夫だよな!?ば、爆発とかしねえよなあっ!?」

 

「……え、えっと、とにかく落ち着きましょう。一旦冷静になりましょう先輩」

 

 慌てふためく先輩の様子を不覚にも可愛いと思いつつ、とにかく落ち着かせようと僕は言葉をかける。

 

 しかし、その間にも魔石は先輩の手の上で膨張を続けて。一体いつまでその形を絶え間なく変え続けるのか────そう僕が思った、矢先のことだった。

 

 キンッ──まるで鉄を叩いたような、そんな澄んだ音が魔石から響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……お、おお」

 

 気がつけば、もう魔石は先輩の手の中にはなかった。

 

 代わりに────短剣と呼ぶには少し長く、しかし長剣(ロングソード)と呼ぶにも短い、かと言って中型剣(ミドルソード)程ではないという、大きさの判別が難しい一振りの剣が、そこには確かにあった。

 

「……」

 

 己の手元にあるその剣に、先輩は視線を奪われてしまっている。無理もない、あのラグナ先輩ですら見惚れてしまう程に、美しい剣だったのだから。

 

 武器というよりは、もはや美術品のようである。創世教の象徴たる十字架(ロザリオ)を模したようなデザイン。色合い(カラーリング)は純白を基本としているようだったが、剣身には薄い真紅が混じっており、それがまるで剣身に炎が纏わり揺らめいているように見えた。

 

 ──な、なるほど。この剣が、先輩にとっての最適か……!

 

 アルヴス武具店の時とは違って、先輩はその剣を何の苦もなくちゃんと持つことができている。まあ、短剣よりかは大きいし長いが、僕の得物である長剣よりは小さいし短い。それに見た目からして随分と軽そうだ。

 

 これならば、今の先輩でも満足に扱うことができるのではなかろうか。

 

 ……まあ、しかし。

 

「良かったですね先輩。変な武器とかにならなくて」

 

「おう。……でもなー、俺剣っていうか武器ってのを今まで使ったこと、ないんだよな」

 

 そう、そこなのだ。実は今朝も相談したのだが……先輩は武器という類のものを使ったことがない。そもそも先輩の戦闘は素手による格闘(ステゴロ)なのだ。

 

 しかし、今の状態の先輩ではもうその方法で戦うことは難しいだろう。というか、ぶっちゃけほぼ無理だ。

 

 喫茶店で披露してくれた、あのあまりにもか弱い力では、そんな身体能力に物を言わせた戦法など到底取れるはずがない。……あまり言いたくはないが、あの力ではスライムに傷を負わせることすら困難だろう。

 

 だから僕は提案したのだ────武器を使ってみたらどうですか、と。

 

 最初こそ、先輩も武器を使うことにはあまり乗り気ではなかった。しかし、もうそんなことを言っていられる状況ではない。

 

 そうして話し合った結果、先輩は人生で初めて武器を使うことに決めたのだった。

 

「大丈夫ですよ。基本的な振るい方や動きなどは責任持ってちゃんと教えますから」

 

「なら、まあ別にいいんだけどよ……」

 

 そうして、簡単なものではあるが。先輩に対しての僕による剣の指南が始まるのだった。



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VSスライム

「とまあ、剣の扱い方は一通りこんな感じですね」

 

 僕による先輩に対しての指南は、およそ一時間をかけて終わった。

 

「…………剣って、面倒だな」

 

 長い沈黙の後、ため息混じりに先輩がそう呟く。まあ、先輩がそう思ってしまうのは無理もないことだろう。

 

 何せ今日、先輩は初めて剣を己の得物として握って、振るったのだ。慣れないその運動は、僕の予想以上に先輩の体力を奪ったことだろう。

 

 しかし、だからといって先輩を甘やかす訳にはいかない。……何しろ、ここからが本番なのだから。

 

「そう言わないでくださいよ先輩。これから長い間お世話になるものなんですから」

 

「むう……」

 

 渋々としながらも、先輩は頷き手の中の得物を弄ぶ。正直危なっかしいことこの上ないので、後で止めさせよう。

 

 それはともかく、さっきも言った通りここからが本番。今から先輩にはその剣を使って、魔物と戦ってもらおう。

 

 意識を研ぎ澄まし、僕は辺りを見渡す。するとここから少し離れた場所に、何やらプルプルと蠢いている物体を発見した。

 

「先輩。あそこ、見てください」

 

「ん?……何かいんな。プルプルしてんぞ」

 

「スライムですよスライム。丁度良かったです。まず手始めにあのスライムを倒すことにしましょう」

 

「スライムかぁ。……別にスライムくらいなら、今の俺だって素手でもいけんじゃねえか?」

 

「駄目です。正直に言いますけど、今の先輩では貧弱過ぎて、たぶん素手だとまともにダメージが入らない可能性が高いです」

 

「…………わぁったよ。……別にそんなはっきり言うこと、ねえじゃねえか……」

 

 そんなにも武器を使うことに抵抗があるのか。諦めたように頷き、不服そうな呟きを残して先輩はスライムの方に身体を向けた。

 

 僕に教わった通りに、先輩が得物を構える。……若干切先が震えているのが少し不安だが、僕も最初の内は黙って見守ると決めたので、手は出さない。

 

 それから数秒の間を置いて────満を持して、先輩は地面を蹴り、その場から駆け出した。

 

「せぇっ」

 

 

 

 ゴッ──そして同時に、頭から突っ込むようにして派手にすっ転んだ。

 

 

 

「………………せ、先輩!?大丈夫ですか!?先輩っ!?」

 

 先輩は転んだ。足元に石などはなかったというのに、転んだ。それはもう、見事な転び様だった。

 

 己の命の次に大事である得物を手から放って、まともに受け身も取れず。駆け出した勢いそのままに、先輩は転んだのだ。

 

 僕は慌てて先輩の元へと駆け寄る。……ちなみにスライムはというと、転んだ先輩に意識すら向けていないらしく、未だプルプルと呑気に震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「違ぇから。さっきのは、違ぇから」

 

「わかりました。わかりましたから先輩。とりあえず今はあのスライムに集中しましょう?ね?」

 

 気を取り直し、先輩は再びスライムと対峙していた。まあ、その相手であるスライムに、先輩はまだ敵として認識されていないどころか、下手したら気づかれていない恐れがあるが。

 

 得物を構え、先輩はスライムを睨みつける。……さっき転んで打ちつけた額の痛みが引いていないようで、涙目なので迫力なんて毛程も感じられないのは、黙って僕の心の奥に留めておこう。

 

 スライムを睨みつけ、数秒後────

 

「せぇやあっ!」

 

 ────という威勢良く、それでいて可愛らしい気合いのかけ声と共に、先程と同じように先輩が駆け出す。流石にまた転ぶことはなく、そのまま順調にスライムとの距離が縮まっていく。

 

 こちらに迫ってきたことで、ようやくスライムも先輩に対して意識を向けることにしたらしい。プルルンと一際激しく震えて、その場から動き出す。

 

 しかし、所詮はスライム。その動きはまるで遅く、僕からすれば蝸牛が這っているような遅さだ。

 

 対し先輩はまるで猫のような機敏さで、スライムとの距離を縮めていく。文字通り絶望的なまでに弱体化したとは思えない俊敏さだ。

 

 そしてスライムを得物の間合いに捉え、先輩は剣を大きく振り上げた。

 

「とおおっ!」

 

 ……傍から見ると、隙だらけな上段からの振り下ろし。お世辞にも見事な一撃とは到底言えないが、まあ相手はスライムだ。幾ら弱体化したとはいえ、それはほぼ誤差の範囲だろう。……そうであってほしい。

 

 それに何も素手で殴りつける訳ではないのだ。武器を使えば流石に少しくらいの傷は与えられるはず────そう、僕は思っていた。

 

 しかし。現実というものは、そんなに甘いものではなかった。

 

 

 

 

 

 すぽっ、と。まだ振り下ろしている最中だった先輩の得物が、手からすっぽ抜けた。

 

 

 

 

 

「……うぇ?」

 

 クルクルと剣は宙を舞って、先輩の背後に落下し突き刺さる。その光景を、僕は何もできずにただ見ていた。

 

「…………」

 

 先輩と、スライムが互いを見合う。……まあ、スライムに目などないのだが。

 

 そんな一人と一匹の間で奇妙な沈黙が流れ────それを最初に破ったのは。

 

 

 

 ドッ──ガラ空きであまりにも無防備だった先輩の腹部に、体当たりをかましたスライムだった。

 

 

 

「ぎゃんっ?!」

 

 先輩が悲鳴を上げ、予想外の距離にまで吹っ飛ばされる。先輩はそのまま地面に倒れて────起き上がらなかった。

 

 この間、僅か数分の出来事である。目撃者である僕は、真っ白な頭の中で。気がつけば、いつの間にか叫んでいた。

 

「先輩!?大丈夫ですか、先輩ッ!?」

 

 慌てて先輩の元に駆け寄る。近づこうとしていたスライムを追い払って、先輩を地面から抱き起す。

 

「きゅぅ………」

 

 …………先輩は、スライムの、それもたった一発の体当たりで、気絶してしまっていた。



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遭遇

 とりあえず、スライムの体当たりによってダウンしてしまった先輩に、僕は初歩的な回復魔法をかけた。

 

「……えっと、大丈夫ですか?先輩」

 

 意識を取り戻した先輩に、僕は尋ねる。しかし先輩は何も答えてくれず、むすっとした不機嫌そうな仏頂面を浮かべるだけだ。

 

 ………正直に白状してしまうと、この結果を全く予想していなかった訳ではない。……しかし、まさか本当にスライムの一撃で先輩が倒されてしまうとは。

 

「…………」

 

 先輩は、件のスライムをまるで親の仇かのように睨んでいる。しかし、スライムは依然呑気にもその場でプルプル震えているだけで、どこかに逃げる素振りすら見せない。

 

 ……この様子だと、恐らくもう先輩は格下の相手だと思われていることだろう。

 

 ──……参った、なあ。

 

 内心頭を抱えながらも、回収した先輩の得物を僕は改めて確認する。十字架(ロザリオ)を模した両刃の剣で、手に持つと羽毛のように軽かった。

 

 その剣を一通り眺めて、僕は一言呟く。

 

「【鑑定】」

 

 瞬間、視界を通して、僕の頭の中に情報が流れ込んでくる。これはその名の通り、己が知りたい対象を鑑定し、その情報を出す魔法だ。

 

 使用者の実力や技量によって、その調べたい対象の情報を得ることができる。……だがしかし、その全てを得られるという訳ではない。

 

 対象が魔物(モンスター)や人間等の生物だった場合、その実力の開きで情報に制限があったり。または物体だった場合はそれがあまりにも特異だとすると、同じように制限されてしまい、有益な情報は得られない。

 

 元は希少な魔石だった武器。けれど自慢する訳ではないが、僕もある程度の実力はあると自負している。例え情報に制限を加えられたりしても、最低限の情報は得られるだろう────そう楽観的に思っていた、矢先のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『asedujbvjikhgcvnkin&&)!&&977)!?&@8)(!%###***€££$$<>><^^^^^^•••••\\\\\???!!!!!____|||||ccxchugdgfasgujvcbkkokjhghjjjjjhhhioojjbxsawwqahhvcbjikkbnkooojggvnkoikhfdseeeffxxzcvbnmkknbbnvgrtyhhvxvcsrgnojnbnmklookjfv¥¥¥¥&&@@&!?&8&!8(446889@&&&)(;;:(&&&@@‘hgujjklpojjhhjkkkkkkiojcxddfgjk』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────頭が、痛い。凄く痛い。まるで顳顬(こめかみ)をギリギリと凄まじい力で締めつけられているような、頭を手で掴みそのまま粉砕しようとしているような、とにかく形容し難い激烈な頭痛が僕を襲った。

 

 そして同時に被さってくる、猛烈な悪寒と不快感。それらによって併発される凄まじい吐き気。

 

 雑音(ノイズ)が意識を侵す。思考を乱す。知性を穢す。視界が明転と暗転を幾度も繰り返し、無慈悲に、無遠慮に僕の正気を摩耗させ、削り抉り奪い取っていく。

 

「ぅぐっ……おぁッ?!」

 

 これ以上はいけないと。これ以上は踏み込めないと。そう察知したのだろう僕の本能が、辛くも先輩の得物を宙に放り投げていた。

 

 宙を舞い、そのまま重力に引かれて深々と地面に突き刺さる先輩の得物。しかし、僕にその方向に顔を向ける程の余裕はなかった。

 

 息絶え絶えに、滅茶苦茶だった呼吸を落ち着かせる。先輩の得物からすぐに視界から外し、【鑑定】を解いたおかげか、先程までの頭痛や身体の不調がまるで嘘だったかのように消え失せていた。

 

 ──な、何なんだ。何だったんだ、さっきのは……!?

 

 言い知れない恐怖と焦燥の感情が、遅れて僕の心に滲み出す。

 

「ク、クラハ?どうしたんだよ、お前?」

 

「……え、あ……は、はい。僕は大丈夫、ですよ。先輩」

 

「全然大丈夫そうに見えねえよ、顔真っ青じゃねえか。俺の剣持ったかと思ったら、すぐにぶん投げて……」

 

「いえ本当に大丈夫ですから。……心配させてすみません」

 

 そう言う僕に、先輩はそれでも心配そうな眼差しを向ける。その瞳に何処か躊躇いの色を宿して、しかし瞬かせて先輩はそれを消した。

 

「……わかった。お前がそう言うんなら、俺もそれでいい」

 

 それから僕が投げてしまった(それ)を、先輩は拾い上げる。……その見たこそ神聖な雰囲気を漂わせる剣なのだが、僕には酷く歪で、禍々しく恐ろしい何かにしか見えなかった。

 

 柄を握り、先輩が数回振るう。刃が空を斬る、鋭い音が周囲に小さく響く。

 

 そして、先輩は────今までずっと不自然なくらいにその場に留まり続け、プルプルしていたスライムの方へと、再度身体を向けた。

 

「………認め、ねえから」

 

 得物の切先を突きつけ、微かに肩を震わせ、先輩はスライムに言う。

 

「絶対に認めねえからな!?スライムなんかに負けたなんて、俺はぜっっったいに認めねえからぁ!!」

 

 ……それは先輩の、心からの叫びだった。そう言うや否や、先程と同じように地面を蹴って、スライムに向かって突進する先輩。

 

 そんな先輩の気迫に押されたのか、僅かにスライムが退く。だが逃げ出すことはなく、スライムもまた同じように先輩へと向かっていく。

 

「うぉぉぉおりゃぁぁぁぁあああッッ!!」

 

 咆哮と共に、先輩が得物を振り上げ、向かってくるスライムに狙いを定め振り下ろす────今度は、すっぽ抜けることはなかった。

 

 太陽に照らされ、白々とした輝きを放ち刃が、スライムに向かって真っ直ぐ振り下ろされ、そして遂に──────

 

 

 

 ポヨンッ────捉える寸前、スライムは跳ねてその刃を躱した。

 

 

 

「……へ?」

 

 こちらの一撃を見事に躱された先輩はその体勢を大きくを崩してしまう。そして発生したその隙を透かさず突いて、スライムが先輩の懐に飛び込む。

 

「ちょ、まっ……!」

 

 体勢を大きく崩していた為、先輩はそれを躱すことも防御することも全くできず。その結果再び無防備に晒してしまっていた腹部に、スライムの体当たりが直撃し、先輩はまた大きく吹っ飛ばされてしまった。

 

 再び地面に倒れてしまった先輩────今度も、起き上がる様子はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「絶対に倒してやるぅ!!」

 

「えっ!?」

 

 僕の回復魔法を受け、先輩は復活すると開口一番そう叫んで、僕の制止も聞かずにスライムへと立ち向かった。そしてまた攻撃を躱され体当たりされ、吹っ飛び地面に倒れる。

 

 そんな行為を、先輩は幾度も繰り返した。倒されては僕に回復されて復活して戦って、そして倒される。

 

 そんな先輩を、僕は何度も止めようとした

 

「先輩待ってください落ち着いてください!僕に考えがあるんです!それを聞いてください!」

 

「うるせぇ!倒す!俺一人で倒す!後輩のお前の手なんか借りられるかあ!!」

 

「ちょ、先輩……せんぱぁぁいッ!」

 

 それは先輩としての誇りか、それとも意地か。或いはその両方なのか。僕の話に全く聞く耳を持たず、スライムにまた突進する先輩。そしてまた負ける先輩。

 

 何度倒されようと、先輩は諦めず(僕の回復魔法を受けて)立ち上がった。

 

 しかし現実は厳しく、辛辣で、そして非情で何処までも残酷だった。先輩の攻撃を躱しては反撃していたスライムであったが、もはや完全に格下だとその本能が判断してしまったのだろう。

 

「こ、のぉッ!」

 

 と、叫びながら。ムキになって剣を振り回す先輩。しかし、その刃がスライムを捉えることはなく。ひたすらに躱されてしまう。

 

 そしてその度に先輩は隙だらけとなり、さっきまではスライムも律儀に体当たりしていたのだが……今ではもう、それすらしなくなってしまった。

 

「動き回んじゃ、ねえッ!!」

 

 とにかく剣を振るう先輩。躱し続けるスライム。恐らく何かしらの介入がなければ、一生崩れるのことない均衡状態────僕は、それをただ涙を堪えて見守るしかなかった。

 

 ──先輩……!

 

 悲しかった。もはや最弱の魔物であるスライムにすら、先輩は相手になってもらえない事実を目の当たりにして、僕はただひたすらに悲しかった。

 

 そうして、十数分が経った頃────遂に、先輩が剣の切先を地面に突き刺し、そのまま座り込んでしまった。

 

「ぜぇ……はぁ……ちく、しょ……」

 

 結局スライムに一太刀も浴びせられないまま、先に先輩の体力が尽きてしまったのだ。地面に座り込み、顔を俯かせ肩を上下させる先輩。……まだ、目の前に倒すべき敵がいるというのに。

 

 だがしかし、当のスライムはその場から動けないでいる先輩に対して、先程のように体当たりを仕掛けてくる素振りは一切見せず。プルプルと数秒震えていたかと思えば────森が広がる後方に跳ねて、そのまま滑るように去っていった。

 

「…………え?」

 

 獲物の体力が底を突き、反撃される心配もない絶好の機会(チャンス)だったというのに。スライムはそれを突くことなく、この場を後にした。

 

 そんな、想像だにしないというか、弱肉強食が当たり前であり、それが常識であるはずの厳しい自然界においてほぼあり得ない光景を目の当たりにし、間の抜けた声を漏らした僕は、遅れて理解する。

 

 ──ああ、そうか。あのスライム、もう先輩を獲物とすら認識しなかったんだ……。

 

 貴重な体力をこれ以上消耗してまで狩る相手ではないと、そう判断されたのだろう。気づいてはいけないことに気づいてしまい、遂に僕が堪えていた涙を流す────直前。

 

 

 

「……何、逃げてんだあんの糞スライムゥゥゥゥゥウウウッッッ!!!」

 

 

 

 自分の目の前からスライムに逃走(そう言っていいのかは微妙なところではあるが)され、目を丸くさせ愕然とした表情を浮かべ、一瞬の間呆然としていた先輩が、突如何かが爆発したかのように叫んだ。

 

 腹の底から、喉の奥から、全てを絞り出し吐き出す勢いで、そう思い切り叫んで。地面に突き刺していた剣の柄を固く握り締め、そして引き抜き。地面から立ち上がりそのまま憤怒に身を任せて、スライムが消えた森林の方に先輩が駆け出す。

 

 本来ならば、すぐさま止めるべきだった。今の先輩を単独で行動させるなど、以ての外であり、論外であった。

 

 しかし、当の僕はその様に呆気に取られてしまって。その場に硬直し、固まっていることしかできないでいた。数秒遅れて、まるで停止していた時間が動き出すように、僕もまたハッと叫んでいた。

 

「先輩ッ!?」

 

 そうして慌ててその場から駆け出し、逃げたスライムを追った先輩を、僕は追うのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待てゴラァァァァアッ!」

 

 怒りとは、時に凄まじい爆発力を生み出す────その通り、先程は身動き一つすら取れなくなっていたラグナは、こちらを散々体当たりで吹っ飛ばしたり攻撃を悉く躱したり、挙げ句の果てには勝ち逃げ(少なくともラグナにはそう思えた)したスライムを追って、腹の底を焦がす憤怒に任せ叫び、木漏れ日差す森の中を駆けていた。

 

「どこ行きやがったスライムゥゥゥッ!」

 

 もはや我を忘れている様子のラグナ。今、ラグナの頭の中にはスライムのことしかなく、スライムにしか眼中にない状態である。

 

 と、その時。逃げ出した後すぐに追ったことが功を成したのだろうか、ラグナの視界の先にあのスライムが映ったのだ。その姿を捉えた瞬間、ラグナは叫んでいた。

 

「見つけたぁッ!!」

 

 剣を振り上げたまま、ラグナはスライムの元にまで駆け、その距離を詰めようとする。しかし、当然スライムがラグナの接近に気づけない訳がなく、ビクッと一瞬跳ねた後、そのまま逃げる──────瞬間。

 

 

 

 

 

 バキバキバキッッッ──突如、スライムの側にあった数本の木が乱暴に薙ぎ倒され、吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 

「んな……ッ!?」

 

 身に余る過剰な怒りによって突き動かされ、冷静さを欠いていたラグナを止めたのは、あまりにも衝撃的なその光景と────その()()

 

 木の影から飛び出した()()は、勢いそのままに眼下にいたスライムを轢き潰して。その場に止まり、四つん這いの体勢から二足で立ち上がる。ただでさえ巨体であったというのに、仁王立ちしたその姿は山を彷彿とさせた。

 

「ヴボォオオオオオオオオオ゛ッ!!」

 

 咆哮が轟き。草を、葉を、木々を、そして森全体を激しく揺さぶる。隠れ潜んでいた野鳥たちが堪らず一斉に飛び去っていく。

 

「ひっ、ぁ……っ」

 

 ラグナの身体をその咆哮は遠慮なく叩いた。肌をビリビリと痺れさせ、腹の底を容赦なく揺らした。

 

「ガアアアアア!アアアアア゛ッッッ!!!」

 

 思わずか細い悲鳴を漏らしてしまうラグナを他所に、()()は次に、その場で凄まじい勢いで暴れ出す。依然咆哮を迸らせながら、ラグナの胴よりも二回りは太い巨腕を滅茶苦茶に振り回し、その度に周囲の木々をまるで棒切れのように折り砕いては吹っ飛ばす。

 

 その光景を、ラグナはただ眺めていることしかできないでいた。

 

 ──こいつ、は……。

 

 今や遠い記憶の断片から、奇跡的にラグナは思い出す。今、自分の目の前にいる()()が────熊のような魔物(モンスター)が一体、何なのかを。

 

 山のような巨体と巨腕。そしてそれぞれの四肢の先にある、鉄ですら容易く引き裂けそうな鋭過ぎる鉤爪。その全身を包む焦茶色の毛皮は見るからに硬そうで、生半可な攻撃は全て通じないだろうと如実に思わせる。そしてそのどれもが────真っ赤な血で斑模様に染まっていた。

 

 そして今、瞳孔が完全に開き切り、血走ったその双眸が、硬直しているラグナの姿を目敏く捉える。

 

「……っ!?」

 

 そのあまりにも凶暴で危険極まりない視線に囚われた瞬間、ラグナの頭の奥の片隅で。ガンガンと何かが喧しく鳴り響き始めた。だがそれが一体何なのか、ラグナは知らない────否、()()()()()()

 

 ──動か、ねえと。

 

 そう思うだけで、今は精一杯だった。こうしている間にもずっと頭の中で鳴り響き続けている、覚えのないソレにどうしようもない煩わしさを感じながら。とにかくラグナは踵を返し、この場から駆け出そうとした。

 

 だが、足が自分の思った通りに動いてくれない。勝手に震えてしまって、少しずつしか動かない。

 

 ──な、何で……ッ!!

 

 胸が苦しい。先程から心臓が必要以上に鼓動を早めて、無意識に何度も荒い呼吸を繰り返す。その癖、全くと言っていい程に肺へ空気が行き届かない。

 

 それでも、ラグナは動こうとした。こちらの言うことを聞かない足を、無理矢理にでも動かそうと力を込めた。

 

 すると──────カクン、と。ラグナの膝が崩れて、そのまま地面に尻餅をついてしまった。続けてラグナの手から剣が離れ、地面に落としてしまう。

 

「あ……っ?」

 

 もう、自分の行動が理解できなかった。どうしてこうなっているのか、自分はどうしてそうしているのか、全くわからないでいた。

 

 すぐさま慌てて立ち上がろうにも、両足に力が入らない。さっきは込められたというのに、力んだ側から力が抜けていく。咄嗟に側に転がっている剣を拾おうにも、手の震えが止まらず、これでは拾うどころかまともに柄を握ることすらできない。

 

 ──何だってんだよ……!何やってんだよ、俺ッ!?

 

 まるで自分が自分でなくなっているような感覚に、ラグナはただひたすら困惑し、そして混乱する他なかった。

 

 そんなラグナの一連の行動を見ていた熊の魔物が、不意にその大口を開いた。

 

「ゴアアアアァァァァアアアッ!」

 

 人間の柔い皮膚など、触れただけで破り裂けそうなまでに鋭く尖った牙が並んだ大口から、先程のと勝るとも劣らない咆哮が迸る。そして一瞬の間すら置かず巨腕を振り上げ、熊の魔物はその場から駆け出す。

 

 ラグナが気がついた時には、血で赤く染められた鉤爪が頭上に迫っていて。その鉤爪が一秒もしないでこちらの身体を脳天から縦に引き裂くのだと、真っ白になってしまった頭の中で他人事のようにふと思った────────その瞬間。

 

 

 

 

 

 ガッギィィイイインンンッッッ──その鉤爪を、突如間を割って入った剣が受け止めた。



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VSデッドリーベア

 ガッギィィイイインンンッッッ──地面に座り込み、呆然とした表情で先輩が見上げていた鉤爪を、間一髪僕はその間に割り込み、既に抜いていた長剣(ロングソード)で受け止めた。剣身に鉤爪が突き立てられ、耳をつんざく甲高い音を響かせ、周囲に赤い火花を咲かせて散らした。

 

 ほぼ反射的に、考えなしに咄嗟で僕はその一撃を剣で受けた訳だが、それは浅はかであったとすぐさま思い知らされる。毛皮に包まれている、僕の胴よりも一回りは太いであろう強靭な巨腕の振り下ろしは、僕が想像していた倍以上に強烈で、そして重かった。

 

 地面が沈み、靴底がめり込む。僕の全身の筋肉と骨がミシミシと軋んだ音を鳴らす。その痛みと不快感に堪らず息を吐き、呻き声を漏らしかけたが、その既のところで僕はそれらを誤魔化すように、腕にさらに力を込めた。

 

「ぐ、ぉお……ぅらああああッ!!」

 

 そう気合を込めて叫びながら、こちらを押し潰さんとしていた鉤爪と巨腕をほぼ力任せに押し返し、跳ね除ける。そして透かさずガラ空きになり無防備となったその腹部に、僕は一切の躊躇いもなく剣を振るった。だが、既にその間合いは遠い。

 

「【剣撃砲】ッ!」

 

 しかし、それでも問題はなかった。宙をなぞる剣身に伝った僕の魔力が分厚い刃となり、それは剣身から放たれる。空を斬り裂き宙を滑る魔力の刃は、的確にその腹部を捉えて炸裂した。

 

「ガアッ!?」

 

 驚いたような鳴き声を上げて、僅かに後方へと押し出される、先輩を襲っていたその生物。……けれど、それだけだ。

 

 僕の放った魔力の刃──【剣撃砲】は明るい茶色の毛皮に斜めの線を引いただけで、肝心のその下にあるはずの肉体にまでは到達していない。現に若干怯みはしたものの、こちらへ向ける敵意と殺意はさらに増しているようだった。

 

 だが、しかし。それを気にする程の余裕を僕は持ち合わせていなかった。その生物をこの場で目の当たりにして────酷く動揺してしまっていたから。

 

 ──あり得ない……何でここに、こんなところに……!?

 

 ここ、ヴィブロ平原一帯にはスライムやゴブリン等の、危険度で《微有害級》に分類される、弱い魔物(モンスター)しか生息していない。

 

 ……だからこそ、僕は目の前の光景が、目の前にいるその生物の存在が信じられなかった。

 

 先輩に襲いかかっていたその生物の名は────デッドリーベア。本来ならばこの付近には出現しないどころか、生息すらしていないはずの《撲滅級》に該当される程危険な、熊の魔物である。

 

 山のような巨体を持ち、その強靭極まる四肢はありとあらゆるものを全て粉砕し、破壊し尽くす。その全身を包む毛皮の前には、生半可な攻撃は全て無力化されてしまう。

 

『世界冒険者組合(ギルド)』からも《S》冒険者(ランカー)複数人で討伐を推奨される程の、まさに化け物と評するに相応しい魔物の一体だ。そんなデッドリーベアが、ヴィブロ平原近くのこの森に現れるなど、かなりの異常事態である。

 

「ゴアアアッ!ボアアアアア゛ッ!!」

 

 僕の攻撃を受けたからか、デッドリーベアはかなり興奮していた。大口を全開にさせ、やたら粘度のある唾液を撒き散らしながら、無茶苦茶に巨腕を振り回す。

 

 ──……様子が、おかしい……?

 

 その異様な暴れっぷりを見て、僕はそう思った。最初こそ僕に攻撃されたからだと思い込んでいたのだが……それにしては少し、いや酷く興奮している。というか、これは……。

 

 ──()()()()()()

 

「グガオオオォォォオオオオオッッッ!!!」

 

 考え込んでいる僕を、隙を晒していると判断したのか。咆哮を轟かせて、巨腕を振り上げながらこちらに突進してくる。

 

 その巨体も合わさって凄まじい迫力であったが、僕は臆さず冷静に、背後に座り込む先輩を隠すように立って剣を構える。

 

 僕とデッドリーベアの間合いが急速に縮められる。そして遂に、突進の勢いを乗せたデッドリーベアの巨腕が僕に迫った────直前。

 

「【強化斬撃】ッ!!」

 

 そのデッドリーベアの巨腕が振り下ろされるよりも一瞬早く、僕はデッドリーベアの隙だらけとなっていた懐に飛び込み、魔力で強化した剣の斬撃を叩き込む。

 

 本来ならば、その身体を包む毛皮によって弾かれていただろうこの一撃────しかし、デッドリーベアの突進の勢いを利用したことにより、刃は僕の予想よりも遥かに滑らかに。

 

 

 

 

 

 ザンッ──デッドリーベアの巨体を通り抜けた。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 森が静寂を取り戻す。剣を振り抜いた姿勢のまま、僕は無言を保っていた。そしてデッドリーベアもまた、先程の異常なまでに暴れっぷりが嘘だったかのように、腕を振り下ろす直前のまま沈黙している。

 

 数秒遅れて、デッドリーベアの上半身が()()()。そしてそのまま、地面へゆっくりと落下した。立ったまま硬直し固まっている下半身と、地面に落ちた上半身の断面から大量の獣臭い血が溢れて流れ出し、それと共に体内に収められていた様々な臓物が零れて無惨にもぶち撒けられた。

 

 それらが奏でる生々しく実に冒涜的な、生理的嫌悪感と不快感をこれでもかと、無理矢理に引き摺り出す背後の静かな響きを聴きながら、僕は堪らず安堵の息を吐き出すのだった。



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頼ってください

 突如として出現した熊の魔物(モンスター)、デッドリーベア。一瞬の油断すらも許されない強敵であったが、僕はそれを何とか倒すことができた。そのことに堪らず安堵の息をそっと吐き出す。

 

 ──……まだ若い個体で助かった。

 

 デッドリーベア────というか、この世界(オヴィーリス)に数多く存在する魔物の殆どは、その歳を経るごとに強く、そして狡猾になっていく。僕が相手にしたデッドリーベアはまだ若く、その上我を忘れてただ暴れ回るだけだった。

 

 そういう訳で僕一人でも何とか倒すことができたが……もしそうでなかったのならば、このようにはならなかった。ましてや動けないでいる背後の先輩を守りながらなんて──────

 

「せ、先輩ッ!大丈夫ですか?怪我とかしてませんかっ!?」

 

 ──────そこまで考えて、僕は先輩の存在を思い出した。そう叫びながら、僕は慌てて背後を振り返る。

 

「…………」

 

 先輩は未だ地面に座り込んだままで、こちらを呆然とした表情で見上げていた。そんな様子の先輩を視界に捉え、僕は咄嗟に駆け寄る────直前。

 

「……ぁ、く、来んなッ!」

 

「えっ?」

 

 そんな僕を、ハッと我に返ったように先輩は止めた。だが先輩のその行為は僕にとって予想外のことで、堪らず困惑の声を漏らしてしまう。

 

 それから先輩は浮かべている呆然とした表情を複雑なものに変えて、立ち止まった僕にこう伝えてくる。

 

「お、俺は大丈夫だ。大丈夫、だから……本当に」

 

「……」

 

 そう言った先輩が、一体どのような心情だったのか。不甲斐ないことに、僕にはわからなかった。……いや、本当のところはわかっていたのかもしれない。

 

 わかっていながら、わからない振りをして。そうでないと、何処か意地でも認めたくなかったのかもしれない。

 

 すぐ側にある剣を手繰り寄せて掴む先輩の姿に後ろ髪を引かれながらも、僕は再度口を開いた。

 

「わかりました。……その、すみません」

 

 そう言って、デッドリーベアの上下に分断された亡骸へ向き直り、思考を切り替えて疑問を追求する。

 

 ──それにしても、本当にどうして……。

 

 やはり常識的に考えて、こんな場所にデッドリーベアが出現するなど異常という他ない。この地域一帯に、この魔物が満足するような餌もなければ、環境だって別に快適な訳ではない。……それに、気になる部分はもう一つある。

 

 

 

『ゴアアアッ!ボアアアアア゛ッ!!』

 

 

 

 デッドリーベアの、あの尋常ではない様子。僕の見立てに間違いがないのならば……明らかに、怯えていた。恐慌状態に陥り、目に映るもの全てが害をなす敵だと言わんばかりの暴れ方だった。

 

 ──幾ら若い個体といっても、あのデッドリーベアが怯える状況なんて……想像し難いというか、したくないな。

 

 魔物、というか野生の動物が怯えて暴れ出す原因など、僕には一つくらいしか思い当たらない。それはつまり────自分よりも強大で恐ろしい何かに、襲われたか追われたか。

 

 だとすれば、デッドリーベアがこの森に出現した辻褄が合うし、僕自身納得できる。だからこそ、そうでないと僕は願ってしまう。

 

 ──もしそうだとしたら、デッドリーベア以上の脅威が迫ってるってことじゃないか……。

 

 どうか外れていてほしい憶測を立てる傍ら、僕は得物とはまた別の小さなナイフを懐から取り出しながら、分断されたデッドリーベアの上半身の近くにしゃがみ込み、その耳をナイフで切り落とす。

 

 ──とにかく、一旦冒険者組合(ギルド)……グィンさんにこのことを報告しないと。

 

 デッドリーベア出現と討伐の証拠を簡易な空間魔法──【次元箱(ディメンション)】に放り込む。これで耳が腐敗する心配はない。

 

「…………」

 

 今すべき行動を一通り終えた僕は、気づかれないように、背後に視線をそっと流す。

 

「く、ぅ……っ!」

 

 ……その光景は、僕の予想と大まかにだが確かに一致するものであった。

 

 先程手繰り寄せたばかりの剣を地面に突き立て、それを支えに、地面から立ち上がろうとしている先輩の姿があったのだ。

 

 必死な表情を浮かべて。一生懸命な様子で。けれど、その努力は無情にも報われない。恐らく完全に腰が抜けてしまっているのだろう。足が震えてしまって、先輩は中々地面から立ち上がれないでいる。

 

 ──……。

 

 僕は思い出す。先程言われたばかりの、先輩の言葉を。

 

 

 

『……ぁ、く、来んなッ!』

 

『お、俺は大丈夫だ。大丈夫、だから……本当に』

 

 

 

「……先輩」

 

 気がついた時には、もう動いていた。もう声をかけていた。僕に呼ばれて、ビクッと肩を跳ねさせながら先輩が顔をこちらに向ける。立つことに集中し過ぎて、こうして僕が目の前に歩み寄っていたことにすらも気がつけないでいたようだ。

 

 先程僕に大丈夫だと言ったのに、今の情けない姿を見られたからか。かあっとその表情を羞恥に赤く染めて、ばつが悪そうに先輩は僕から目を逸らす。……だが、僕はそれでも構わずに言葉を続けた。

 

「構いませんから。気にしませんから。……だから、こんな時くらいは僕なんかでも頼ってください」

 

 そして、そっと手を伸ばした。

 

「!……」

 

 僕の言葉とその行動は、先輩にとっては予想外なものだったのだろう。目を丸くさせ、差し伸べられた僕の手を見つめていた。先輩は数秒の間躊躇いながらも、剣の柄を固く握り締めていた手を開き、恐る恐る僕の手を掴んだ。

 

 瞬間、僕に伝わるしっとりとした柔らかな感触。これを味わうのは二度目だというのに、僕は思わず一瞬心臓の鼓動を早めてしまった。

 

 決してそれを表情に出さないようにする僕に、先輩は沈黙を挟みつつ、少し気まずそうに言った。

 

「…………悪い」

 

 そうして僕の助けも借りて、ようやっと先輩は立ち上がることができた。

 

「気にしないでください。とりあえず、一旦街に戻りましょう先輩」

 

「お、おう……」

 

 デッドリーベアの件を報告しなければならないということもあるが、気がつけば結構な時間が経っている。そろそろ街に戻らなければ日が沈み、辺りが暗くなってしまう。僕一人であればまだ問題ないが……今は先輩を連れている。

 

 先輩が頷いたのを確認した僕は、そのまま踵を返して歩き出す────直前、不意に先輩が声を上げた。

 

「ク、クラハっ」

 

「?はい、どうかしましたか?」

 

 先輩に呼び止められ、僕はその場に立ち止まり先輩へ振り返る。先輩はというと、依然気まずそうな様子のままその場で立ち尽くしており、何故か一向に歩き出す気配がない。

 

 それを僕が不思議に思っていると、最初こそ僕を呼び止めただけで、それからは困ったようにあちこち視線を流していた先輩だったが、やがて観念したように。もじもじと太腿(ふともも)を擦り合わせながら、消え入りそうな声で僕に告げた。

 

「まだ、上手く歩けそうにねえんだ……今足動かしたら、たぶん転んじまう」

 

 ──うぐ……ッ!?

 

 そう僕に言った先輩の顔は、もう燃え出すのではないかと思う程に真っ赤で。勝気な輝きを灯すその真紅の瞳も、今では薄らと濡れて潤んでいた。その様子は僕にとっては予想も想像もしていない、まさに不意打ちのようなもので。僕の心を乱し、大いに動揺させてくれる。

 

 だが、しかし。それを表に出す訳にはいかない。それを踏まえて、僕は平静を装い口を開いた。

 

「……え、あ、ああ……えっと、そ、それは困りましたね。はは、ははは」

 

 ……わかっていた。僕にそんな器用な真似できるはずがないとわかっていた。けれど、これでも努力した。努力した結果がこれなのだ。

 

 けれど不幸中の幸いとでも言うべきか、先輩が僕の動揺と戸惑いに気づくことはなかった。まあそれは一旦置いておくとして……しかし、それでは。このままでは僕と先輩はこの場から離れられないということだ。

 

 それから数秒、微妙に距離を空けたまま沈黙が流れる。そして無意識の内にそれから逃れたいとでも思っていたのか。

 

「…………で、でしたら」

 

 特に考えることもなく、僕は言ってしまった。

 

 

 

「僕が背負って歩きますよ。先輩を」

 

 

 

 という、よくよく冷静に考えてみればとんでもないことを。



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おんぶ

「か、簡単なものですが……その、朝食です」

 

「おう。あんがと」

 

 予期せぬ不慮の事故の後、それぞれ着替えも済ませた僕と先輩は食卓へと着いていた。椅子に座る先輩の前に、音を立てぬようそっと皿を置く。

 

 そして僕も自分の分の朝食をテーブルの上に置いてから、先輩と向かい合わせに座った。そしてやや気を憚れながらも、僕は口を開いた。

 

「……では、いただきます」

 

「いただきます」

 

 食事前の挨拶も済ませ、僕と先輩の朝食の時間が始まる。会話らしい会話も挟まない、ただ時折フォークとナイフの先が皿を突く、硬い無機質な音だけが小さく響く静かな朝食が。

 

 ──……。

 

 昨日、話し合わなければと決めたはずなのに。これからについてどうしなければならないのか、それを相談しなければならないというのに。

 

 味もわからない、喉も通らない朝食を無理矢理進めながら。僕は幾度となく声をかけようとした。今、目の前に座って食事を共にする先輩に、話しかけようとした。

 

 だが、その度に──────

 

 

 

 

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

 

 

 

 

 ──────その言葉とあの光景が、僕の脳裏を過って。呼ぶことすらも、ままならないでいる。先輩と口に出すことを、躊躇ってしまっている。

 

 ──……駄目、だな。

 

 心の中でそう呟いて、心の中で自嘲する。自分はなんてどうしようもない程に意気地なしで、不甲斐なくて、そして情けない奴だと罵る。

 

 言わなければならない時に、行動しなければならないいざという時に、僕は口も開けなければ何もできないでいる。……僕は、そういう人間だったんだ。そういう、最低な人間なんだ。

 

 自己嫌悪が進む程、目の前が薄暗くなっていく。皿もその上にある料理も、徐々に見えなくなっていく。そして全て、見えなくなる────直前。

 

 

 

「クラハ」

 

 

 

 思いもよらぬ音が──声が不意に僕の鼓膜を打って震わせた。

 

 ハッといつの間にか俯かせていた顔を上げると、先輩が申し訳なさそうに、心配そうに僕を見ていた。僕が顔を上げたのを確認して、先輩はゆっくりと口を開く。

 

「……まあ、その。あん時は俺も変になってたっていうか何ていうか……と、とにかくだな。別にそうまでになって気にしなくていいし、俺のことも好きに呼べばいい。……お前を追い詰めるみたいなことして、悪かった」

 

「…………」

 

 先輩のその言葉は、僕にとっては予想外も予想外で。だからどう反応すればいいのか、どう返事すればいいのかわからず僕は詰まってしまう。そんな様子の僕を見兼ねたのか、先輩は依然気まずそうにしながらも言葉を続ける。

 

「だから、さっさと朝飯食っちまえよ。美味いのに、冷めたら不味くなるぞ。……それに、俺とお前でこれからどうすんのかも話し合うんだろ?」

 

 ──あ……。

 

 ややぎこちない微笑みと共に紡がれた先輩のその一言に、沈んでいた僕の心が洗われるような、そんな不思議な感覚で包まれる。そして、気がつけば。

 

「そ、そうですね。……先輩」

 

 僕はまた、その言葉を口に出すことができていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────という、今朝の記憶を振り返りながら。僕はヴィブロ平原の近くにあるこの森の中を、ゆっくりと歩き進んでいた。

 

 ──……今日だけでも、色々あったな。

 

 早朝のトイレでのハプニング。アルヴス武具店での一幕。ヴィブロ平原での先輩とスライムによる死闘。そして────デッドリーベアとの遭遇。

 

 日記の内容には困らない程に、本当に色々なことがあった。……と言っても、そもそも僕は日記など書いていないが。

 

 それと、思わぬ課題──というよりは問題も発見してしまった。

 

 言わずもがなそれは────先輩の弱体化度合い。いやまあ、確かに。依然とは天と地の差という言葉ですら足りない程に、それはもう比べようもないくらいに弱体化してしまっていることは承知していたのだが。

 

 ……まさか、最弱の魔物(モンスター)の代表格でもあるスライムと満足にも渡り合えず、あそこまで終始翻弄されるなんて……流石の僕も予想外である。というか誰だってこんなこと予想できないだろう。

 

 まずはスライムを相手に戦闘経験を積み重ねると共に剣の扱いに慣れてもらい、そこから段々と戦う魔物の強さを上げていく────という僕の計画が出鼻から物の見事に挫かれてしまった。さて……どうしよう。本当にどうしよう。

 

 とりあえず、ここは誰かに頼ることとしよう。僕なんかよりも人生経験が豊富な────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の我らがGM(ギルドマスター)、グィンさんとかに。デッドリーベアの件も報告しなければならないのだし……。

 

 ──…………。

 

 とまあ、今の今まで僕は考えていた。そういった小難しい思考で頭の中を埋め尽くそうと、できるだけの努力をしていた。

 

 何故僕がそうしなければならなかったのか。実に簡単で、単純なことである。そう、僕は少しでも気を紛らわせたかったのだ。ほんの僅かでもいいから、意識を逸らそうと。意識をしないようにとしたかったのだ。

 

 ……だが、やはりと言うべきか。そんなものではどうしようもなかったと、どうすることもできないのだと。僕はつくづく思い知らされた。

 

 そう、最初から気を紛らわせることなんて。意識を逸らすことなんて。土台無理な話だったのだ────僕が、男という性に生まれ落ちた、その時から。

 

 今、僕と先輩がどういう状況なのか簡潔に説明しよう。僕は、先輩を()()()()()()。背負って、オールティアを目指して森の中を歩いている。

 

 おんぶ────それは一人がもう一人を己の背中に担ぐ行為。この日この瞬間、僕はこの行為を年頃の、それも男女ですべきことではないと、これでもかと思い知らされる羽目になった。

 

 ──迂闊だった……本当に、迂闊だった……!

 

 そう心の中で僕は激しく後悔するが、もう遅い。賽は投げられた。自ら、投げ打ってしまったのだから。

 

 ──とにかく堪えろ。堪えるんだ、僕。

 

 十数分前の自分を全力で殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られながらも、今さらどうこうできないと無理に自分に言い聞かせて諦める────その時だった。

 

 

 

「……なあ、クラハ」

 

 

 

 不意に。何故か僕がおんぶしてから今の今まで黙り込んでいた先輩が、その閉じていた口を開いた。

 

「はッ、はいィっ?どど、どうしましたか先輩っ!?」

 

 …………先輩自身にその気はなかったのだろうが、僕が背負っている体勢上その声は僕のすぐ耳元で聞こえた訳で。それがまるで囁き声のようだと僕は思わず錯覚してしまった訳で。

 

 その今までに体験したことのない、こそばゆい未知の感覚に堪らず、思い切り上擦って素っ頓狂な声色で僕は返事をしてしまった。瞬間、訪れる沈黙。

 

「……い、いや。その、重くねえのかなって……」

 

 数秒それを経てから、戸惑った様子で先輩が僕に訊ねた。

 

「え、ええ?いや、そんな全然!重くないです!これっぽっちも重くなんてないですよ!ええ、はいっ!」

 

「でも、何か……様子がおかしいじゃんかお前。さっきも今も、声変だったし」

 

「き、気の所為ですよ先輩。僕は大丈夫ですから。平気へっちゃらですから」

 

「本当か?クラハ、お前誤魔化そうとしたり、無理してる訳じゃねえんだな?」

 

「そんな滅相もありません!だから、どうか先輩は僕の背中でゆっくりと身体を休めてください!」

 

「…………わかった」

 

 長い沈黙を挟みつつ、未だ納得はしていない様子ではあったが、それでも先輩はそう言って、それ以上何か言うことはなかった。そのことに僕は心の中でホッと安堵する。

 

 ……まあ、一応。一応ではあるが、僕は言っておこうと思う。先程の僕の言葉に嘘偽りなどない。そう、先輩は重くない。全く重くなんてない。むしろ軽い。軽過ぎる。軽過ぎて、逆に心配になってくる程に。

 

 だが、しかし。

 

 ──その割に、妙に肉付きが良い。

 

 本当のことなので何度でも言わせてもらうが、先輩の身体は軽い。まるで羽毛が如きだ。

 

 その癖、太腿(ふともも)は程良くむちむちとしているし。臀部も可愛らしい丸みを帯びた、やや小振りな代物ではあるが。だからといって別に肉が薄い訳ではなく、確かな質量と男の僕とはまた違ったもちもちの感触を併せ持つ、見事な代物である。

 

 

 

 そして中でも極めつけは────今、僕の背中に触れているこの先輩の胸、だろう。

 

 

 

 服の上からでも見てわかるその大きさ。その存在感。それが今、僕の背中に触れている。触れてしまっている。

 

 お互いに服越しで、先輩に至っては下着越しでもあるというのに。それでも十二分に伝わってくる────その柔らかな感触。

 

 ──刺激が、強い……!

 

 侮っていた。たかが背負うだけ、たかがおんぶと僕は侮っていた。大したことはないだろうと、高を括っていた。

 

 このままではまずい。具体的に何がとは言わないが、このままでは非常にまずい。一刻も早く、この状況から脱しなければ、僕は……僕は……ッ!

 

 ──か、考えなければいいんだ。意識しなければいいんだ。無心に、無に……。

 

 だが、それは儚くも無駄な抵抗であると、僕は無情にも思い知らされる。

 

 気にしない、考えない、意識しない────そう、心がける程に。決意を固め深める程に。それを嘲笑うかのように、鮮明にはっきりと伝わってくるのだ。感じ取ってしまうのだ。

 

 この背中越しに伝わる熱を、豊かでたわわな二つの膨らみの感触を。

 

 それに、それだけではない。腰に密着するむちっとした太腿の感触。腕に伝わるもちっとした臀部の感触。時折首筋にかかる、ほんのりと温かい吐息。

 

 静寂に満ちた森の雰囲気も相まって、過剰過ぎるくらいに敏感に、僕はそれらを感じ取ってしまう。

 

 

 

 そして、不意に僕は悟った。

 

 

 

 ──あ、駄目だ。

 

 何故、あの時何の考えなしに、気軽に背負いますよと言ってしまったのだろう。おんぶしますよと提案してしまったのだろう。

 

 瞬く間に頭の中に浮かぶ、邪念。胸の内に広がる、劣情。その最低最悪で醜悪極まりない二つが、入り混じって僕の身体の下へ────下腹部の先へ突き進む。

 

 このままでは、数分としない内に。僕は臨戦態勢に移ってしまう。一人の男として、()()()()()()()。それも、よりにもよって先輩相手に。

 

 それは駄目だ。それだけは超えてはならない一線だ。阻止しなければならない。ラグナ=アルティ=ブレイズの後輩として、絶対に。

 

 だから、僕は。限りなく頂点に近い緊張感で、乾きに乾き切った口を開いた。

 

「先ぱ────

 

 が、その前に。僕が言葉にするよりも前に。

 

 

 

 

 

 ギュ──突如、先輩が僕の首に細く華奢なその両腕を絡めて。そして、己の身体を僕の背中へさらに密着させた。

 

 

 

 

 

 ────ぃ……ッ?!」

 

 むにゅぅ、という擬音が実に似合いそうな。この世のものとは思えない、まさに極上と評すべき柔らかな感触が押し潰れて広がりながら、僕の背中にはっきり過ぎる程に伝わった。それと同時に首筋にかかる僅かな吐息も、仄かな熱すらも感じ取れる程に近づけられた。

 

 一瞬にして身体が固く強張り、口から出した声も引き攣って掠れる。そこから先は言葉を続けられず、僕はただ絶句するしかなかった。

 

 先輩の行動は、あまりにも予想外だった。こんなにも密着してくるとは、こんな風に抱きついてくるとは思いもしなかった。

 

 急に一体、どうしてしまったというのか。真っ白になった頭の中で、ただそれだけを考えて。そして咄嗟に僕が喉奥から声を絞り出そうとした、その直前。

 

 ──…………え……?

 

 僕は気づいた。先輩の身体が────僅かばかりに震えていることに。



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こんな時くらいは

 ──こいつの背中って、こんなに大きかったっけ。

 

 と、クラハの背中で揺さぶられながら。ラグナはふと思った。

 

 

 

『僕が背負って歩きますよ。先輩を』

 

 

 

 最初は何かの冗談かと思った。そんなこと、クラハから言われるなんて夢にも思わなかった。

 

 けれど、情けないことにその時の自分は、一人で地面から立ち上がるだけでも精一杯で。そこから歩き出すことも、一歩を踏むことすらも満足にできなくて。

 

 だから、ラグナはその言葉を呑むしかなかった。この場は大人しく後輩に背負われるしか、後輩に頼るしか他になかった。

 

 それが一体どれだけ惨めで、情けないことだったか。こんな醜態を晒して、平気でいられるはずなんてなかった。

 

 普通ならば、呆れられていただろう。失望されていただろう。だがしかし、ラグナは知っている。クラハであれば、決してそうはしないと。そうは思わないということを。

 

 

 

『こんな時くらいは僕なんかでも頼ってください』

 

 

 

 だからこそ、ラグナはクラハのその提案を黙って受け入れたのだ。それしかないということもあったが、それ以上に────もう、クラハに迷惑をかけたくなかった。

 

 ──……今日の俺、散々だったな。……最低、だったな。

 

 そう心の中で吐き捨てるように呟く傍らで、ラグナの頭の中を今日一日の出来事が駆け抜ける。

 

 自分の勝手で理不尽な憤りから、八つ当たりのように己が抱え込んでいた負の感情をぶつけて。それで後輩を追い詰めて、戸惑わせて、迷わせて。

 

 後になって、自分がしたことに対して後ろめたい罪悪感を抱いて。それから逃れたいが為に、後輩に発破をかけて。

 

 そうしたからには先輩で在らなければと馬鹿みたいに息巻いて。空回って。引っ掻き回して。

 

 それでもと意地になって、その結果────死にかけた。……否、死んだ。もしあの場にクラハが駆けつけてくれていなかったら、ラグナは間違いなく死んでいたのだから。

 

 クラハがいてくれたから。クラハが後輩だったから、ラグナは今こうして生きている。こうして、彼に背負われている。

 

 結局、今日という一日を使ってラグナが成したことは────クラハに迷惑をかけるということだけだった。

 

 その事実に、現実にラグナは堪らず、表情を忌々しげに歪める。

 

 ──何が、先輩だ。

 

 心の中で呟いて、ラグナは自分がクラハにかけた言葉を思い起こしながら、それを頭の中で反芻させる。

 

 

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

 

 

 ──そりゃそうだ。こんな奴、先輩だなんて思いもしないだろ。

 

 そう心の中で吐き捨てるように呟いてから、ふとラグナは気がついた。

 

 ──クラハ、何か息が荒い……?

 

 一体いつからなのかは流石に見当がつかないが、それでも背負い始めてから確実に、クラハの呼吸の調子が僅かばかり崩れている。こんな至近距離というのもあるが、もう十年以上の付き合いになるラグナだからこそ気づけた、ほんの些細な変化である。

 

 それに気づいたラグナは、その表情を俄に曇らせた。

 

 ──……やっぱり、俺男の頃より重くなってんのか?

 

 それは自分が女になってから、ひた隠しにしながらも今の今までずっと抱き続けている疑問。その疑問と、ラグナは改めて向き合う。

 

 ご覧の通り、背丈はだいぶ縮んでしまったが……その分男の時にはなかったものが、色々と付いてきた。

 

 この長い髪も見た目以上に重いし、尻だってやたら膨らんだ気がする。それに一番は────この無駄に大きい胸の二つの塊だろう。

 

 ──こんなの、いらないってのに……。

 

 筋肉は悲しい程ないくせに、全体的に無駄な脂肪が多いこの身体に対して、ラグナは心の中で文句を呟いて。それから今の自分が本当に重いのかどうか確かめる為に、ラグナは閉ざしていた口を開き、クラハに声をかけた。

 

「……なあ、クラハ」

 

 すると、何故かクラハは肩をビクッと一瞬跳ねさせて────

 

 

 

「はッ、はいィっ?どど、どうしましたか先輩っ!?」

 

 

 

 ────続け様、そんな上擦って素っ頓狂な声を上げたのだった。

 

 ──…………は?

 

 自分はただ声をかけただけだというのに。そのクラハの反応と声音があまりにも予想外で、ラグナは呆気に取られると同時に困惑してしまう。

 

 おかげでラグナはすぐに言葉を続けられず。二人の間で妙な沈黙が流れる。それから少しして、若干遠慮気味にラグナが再度口を開いた。

 

「……い、いや。その、重くねえのかなって……」

 

「え、ええ?いや、そんな全然!重くないです!これっぽっちも重くなんてないですよ!ええ、はいっ!」

 

 こちらの戸惑い混じりの問いかけに対して、クラハはそう即答するが……それに対してラグナは不信感を抱かずにはいられなかった。

 

 ──こいつ、嘘吐いてんじゃねえか……?

 

 依然としてクラハの様子はおかしい。それに、先程までは若干程度だったというのに、今では確実と言える程に息も乱れてしまっているし。そして何よりも、クラハの身体に密着しているラグナだからこそわかったことだが、少し心配に思ってしまう程に彼の鼓動が早まっていた。

 

「でも、何か……様子がおかしいじゃんかお前。さっきも今も、声変だったし」

 

「き、気の所為ですよ先輩。僕は大丈夫ですから。平気へっちゃらですから」

 

 そう胡乱げたっぷりにラグナが言及すると、やはりクラハは慌てたように、けれど流石にさっきとは打って変わって、幾らか毅然とした態度でそう返事をする。

 

 だがそれでも────いや、だからこそラグナの疑いは晴れなかった。どころか、より深まった。

 

「本当か?クラハ、お前誤魔化そうとしたり、無理してる訳じゃねえんだな?」

 

 ラグナは引き退らずにそう訊ねると、遂にクラハは少しムキになったように声を荒げた。

 

「そんな滅相もありません!だから、どうか先輩は僕の背中でゆっくりと身体を休めてください!」

 

 そこでラグナは理解した。これ以上訊いたところで、クラハの返答が変わることはないと。

 

 ──こいつ、昔から変なところで意地張りやがるからな……。

 

 半ば呆れたように、だがそれでも何処か嬉しそうにラグナは心の中で呟く。

 

 そういった我を押し通す力は────意志は強いに限る。それは今後において色々と必要になってくるものだ。

 

 そしてそれが今のクラハにはある。そのことがラグナは嬉しくもあって、それと同時にほんの少しだけ──淋しい。

 

 けれどそれを表に出すことは決してせずに。あくまでも先程と変わらぬ風を装って、そして敢えて長い沈黙を挟んでから。ラグナはクラハに言った。

 

「…………わかった」

 

 そうしてラグナとクラハの会話は一旦終わりを迎えた。そうしてまた静寂が訪れる。

 

 クラハに背負われながら。クラハの背で揺さぶられながら。再び訪れた静寂の中で、ラグナはふと想起する。

 

 デッドリーベアに襲われた時の状況。目の前にまで迫り、眼前にまで鉤爪が振り下ろされんとしていたあの光景。

 

 その時の────自分の姿。殺されようとしていた、死が迫っていた。……けれど、何もできなかった。自ら放った武器を手に取れず、逃げることすらできなかった。

 

 そう、あの時の自分は間違いなく、たった一つの感情に縛られていた。それは久しく忘れていた感情────恐怖。

 

 もう、自分にはないと思っていた。そんな感情は自分の中から、消え失せてしまっていたと思っていた。

 

 とうの昔に捨て去った────だが、違った。そうであると、ただ思い込んでいただけだった。恐怖は未だ、ラグナの中に残っていたのだ。

 

 ラグナはそれを恥じた。みっともなく、惨めで、情けないと感じた。……しかし、彼は何処か安堵もしていた。

 

 

 

 そう、自分もまた──────一人の人間なのだと自覚できたのだから。

 

 

 

 ──…………。

 

 幾ら最強と謳われようが。どれだけ埒外と伝われようが。それが取り上げられてしまえば。歴とした、ただの人間なのだ。

 

 十数年ぶりにそれを思い出して、思い出せて。ラグナはさっき言われたばかりの、クラハの言葉を頭の中でもう一度繰り返す。

 

『こんな時くらいは僕なんかでも頼ってください』

 

 ──……こんな時くらいは、か。

 

 確かに、その通りかもしれない。こんな時くらいは────否、こんな時だからこそ。

 

 クラハの背中に、ラグナはより密着する。胸が押し潰れようがお構いなく。そしてクラハの首に回している両腕を、さらに絡ませる。

 

 今日のことで存分に思い知らされた通り、今の自分一人では何もできない。こうして誰かに頼らなければ────後輩の背中に縋らなければならない。であれば、そうしよう。

 

 ──そうだな。そうだよな……こんな時くらいは、後輩だとしても。

 

 まるで己に言い聞かせ、己を納得させるように。腕のほんの僅かな震えに気づかないまま、ラグナはクラハの首筋に額をそっと押し当て、ゆっくりと瞳を閉じた。



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酒場『大食らい』

 僕たちがオールティアに着く頃には、日はもう沈み。夕焼けの空は今や漆黒に塗り潰されて、幾千幾億と無数に散りばめられた星々に囲まれるようにして、僅かばかりに欠け始めた月が浮かんでいた。

 

 オールティアの門前で、僕は一旦立ち止まる。……流石に先輩をおんぶしたまま、街中に入る訳にはいかない。そんな勇気、生憎僕は持ち合わせてなどいない。

 

「あの、先輩。もう自分で歩けますか……?」

 

 そう、恐る恐る僕が訊ねると。森の中での、自分は重いのかという問答を最後に今の今までその口を閉ざし、黙り込んでいた先輩は、何も言わずにただコクンと小さく頷いた。

 

「わかりました。では、下ろしますね」

 

 何故何も言わず黙ったままなのか、そこに対して疑問を抱きつつも、僕は一言そう告げて。それからゆっくりと腰を下げ、先輩の爪先(つまさき)が地面に着くようにする。すると少しして僕の首に回されていた先輩の両腕が離れ、そしてフッと僕の背中にあった僅かな重みと温もりが消え去った。

 

「……じゃ、じゃあ家に帰りましょうか、先輩」

 

 微妙な雰囲気に何とも言えない気まずさを感じ、その所為で背後に立つ先輩の方へ振り向けないまま、僕はそう言って早速歩き出す────直前。

 

 

 

 ギュ──不意に、服の袖口を掴まれた。

 

 

 

「え……?」

 

 誰が僕の服の袖口を掴んだのか────言うまでもなく、それは先輩である。思わず背後を振り向くと、袖口を掴んだまま、先輩がその顔を俯かせていた。

 

 戸惑いと困惑を隠せずに、声を漏らしてしまう僕に。顔を俯かせている先輩が小さく呟く。

 

「……け」

 

「け?」

 

 辛うじて聞き取れた言葉がそれたった一つで、無論意味なんてわかるはずもなく。特に何を考えるでもなく僕が呟き返すと。

 

 バッと突然、先輩が俯かせていたその顔を勢い良く上げて、それから畳みかけるように、さっきまでとは比べようもない声量で僕に言う。

 

「酒っ!酒飲みに行くぞ!嫌とは言わせねえからな!わかったなっ!?」

 

 そう言う先輩の気迫は凄まじくて。その言葉通りこちらに有無を言わせない勢いで。その時、僕はただ圧倒されるままに大人しく頷く他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちくしょーっ!やってられっかばかやろうめばーかばーかっ!」

 

「はい。はいそうですね。馬鹿野郎ですね先輩」

 

「な!?なそうだろなっ!?いやぁくらはもそうおもうだろ?な?なっ!?」

 

「はい。はいそうですね。僕もそう思いますよ」

 

「そうだそうだだいたいよーおれがこんなんじゃなきゃあんなすらいむいっぴきけちょんけっちょんのぼっこぼこのめっためたんにできるんだからな!ほんとだぞ?ほんとだかんなこのやろう!」

 

「はい。はいそうですね。けちょんけっちょんのぼっこぼこのめっためたんですね」

 

 周囲の喧騒に負けないくらいに、先輩の愚痴は凄まじかった。それはもう、こう………とにかく色々と凄まじかった。

 

 ここは酒場『大食らい(グラトニー)』。このオールティアに立ち並ぶ数々の店の中でも、夜になれば一二を争う盛況を誇る。

 

 変わりのない平和な日常を過ごす住民たち。依頼(クエスト)帰りの冒険者(ランカー)や仕事帰りの苦労人たち。そんな人々が集まるのが、この店である。

 

 もちろん酒場というからには酒がメインだが、だからといって料理が不味いという訳ではない。むしろその辺りの飲食店よりも数段上だ。

 

 先程から忙しなく店内を駆け回るウェイトレスの一人に、僕は注文を叫ぶ。

 

「すみませーん!こっちのテーブルに木実蜥蜴(フィシャロ)の姿焼きと影水魚(カミォ)の香草包み焼きお願いしまぁーす!」

 

「はいご注文承りましたー!!」

 

 声だけ返して、様々な料理を乗せたトレイを片手に、ウェイトレスは走っていく。あれだけの量を、しかも片手だけで支えつつ、バランスを保ったまま走れるとは……大した体幹というか身のこなしというか、何というか。

 

 そんな感心を抱きつつ、改めて僕は前に向き直る────目の前の席には、先輩が座っている。……赤赫実(リゴン)の蜂蜜酒が並々と溢れて零れんばかりに注がれた木製のジョッキを、両手で持ってゴクゴクと喉を鳴らしながら飲む先輩が。

 

「んぐ、んぐ…………ぷぅっはぁ!あまいうまい!」

 

「それはよかったですね。はは、ははは……」

 

 ちなみに、先輩はこれが一杯目ではない。……かれこれ、もう五杯目である。

 

 赤赫実の蜂蜜酒はその甘みや飲みやすさから、多くの女性が好む酒の一つであり、そして唯一とも言っていい先輩の好物の酒でもある。まだ男であった、以前の先輩からの。

 

 度数は低く、そう飲んでもあまり酔いはしない酒なのだが、先輩の今の顔はそれこそ完熟した赤赫実のように真っ赤である。真っ赤っ赤である。つまりもう────十二分にデキあがってしまっている。

 

「おかわり!おかわりだこのやろうばかやろう!」

 

「はい。はいそうですね。……と、言いたいところですが先輩。もうその辺でお酒を飲むのは止めた方が「うるせーーー!!おかわりったらおかわりなんだよまだまだのむんだよこのばか!あほ!」…………あ、すみません。赤赫実の蜂蜜酒、もう一杯お願いします」

 

 先程注文した料理を運びに、こちらのテーブルに来たウェイトレスの一人に僕はそう告げる。こうなった先輩は融通が利かない。下手に抵抗すると途端に暴れ出すから、ここは大人しく従っておくのが吉だ。

 

 とはいえ、流石に六杯目は飲み過ぎである。これを飲んでもらったら、今日は終了してもらおう。

 

 ……というか、一応この世界(オヴィーリス)では飲酒は十六歳からと認められているのだが……果たして、今の(・・)先輩は一体何歳なのだろうか。

 

 考えるにしても今さらな話だが、まだ男だった先輩の年齢は二十六。けれど、その見た目通りならば間違いなく先輩は若返っている。まあ、少なくとも十六歳以上とは思うが……。

 

 先輩自身もまだろくに知らない、その身体のことを考えると。やはり、蜂蜜酒は程々に自重してもらった方がよかったのかもしれない。……だが、今日は色々とあったのだ。だから今日くらいは、少しくらいは、大目に見なければ。

 

「……たくよーちくしょうめこんちくしょう」

 

 そんな呟きにまた前へ向き直れば、先輩はテーブルに突っ伏して運ばれた影水魚の香草包み焼きをフォークで繰り返し突いていた。

 

 薄らと濡れた瞳が、真紅色の光を艶やかに零す。

 

「なんだって、おれがおんななんかになんなきゃいけねえんだよぉ……ひっく」

 

 先程まであれだけハイテンションだったのに、今はすっかり消沈してしまっていた。……やはり、男だった時よりもだいぶ情緒不安定になってしまっている。

 

 まあ、無理もないだろう。以前だったら指先で瞬殺できた魔物(モンスター)に、手も足も出せず完敗を喫したのだから。

 

 以前とは天と地程の、比べようもないくらいに弱体化してしまったから────そういうことを差し引いても、いやむしろだからこそ、精神的な傷を先輩は負ってしまった。

 

 そしてそこに追い打ちをかけるが如きの────デッドリーベアの襲撃。あの時先輩は何もできず、逃げることすら叶わず、振り下ろされんとしていた鉤爪を、ただただ見上げていることしかできないでいた。

 

 スライムよりも弱い自分。戦うこともできなければ、逃げることもできない。何もできない自分────それをこれでもかと、その現実を先輩は遠慮容赦なしに突きつけられてしまった。

 

 だからこそ、今こうして先輩はこの場に訪れて、自棄(やけ)気味に、慣れない酒なんかを煽っているのだ。

 

 ……そんな先輩の心情を察しているから、僕もそれを止めることができなかった。今僕ができることは────延々と漏れ出る先輩の可愛らしい愚痴を、ただひたすらに受け止めることだけだ。

 

 水を飲みながら、僕はふと思った。

 

 ──……そういえば、結局あの剣は一体何だったんだろう。

 

 先輩に関して色々と思い返して、その中でも特に印象が深いのはあの剣のことだ。あの時のことを思い出すと、今でも頭痛がぶり返すというか、気分が悪くなってくる。

 

 ……しかし、それでも。実は言うとあの後もう一度、抵抗はあったが試しに【鑑定】をかけてみていたのである。

 

 が、最初の時と同じように、あの奇妙で意味不明極まる文字の羅列が、僕の頭を埋め尽くすことはなかった。何故なら、そもそも【鑑定】ができなかったのだから。驚くことに、僕の【鑑定】が弾かれてしまったのだから。

 

 もはや、意味不明を通り越して不気味だった。そしてそんな得体の知れない武器を先輩に使わせたくなかった。

 

 なのでアルヴスさんに突き返そうかとも考えたのだが、しかし魔石が本物であったことに変わりはなく、それはお門違いだろうと思い留まった。

 

 新しい武器を買うことも考えた。だが、それは先輩に拒否された。

 

 

 

『お前が買ってくれた武器を、無駄にしたくない』

 

 

 

 正直に言ってしまえば、先輩のその言葉は嬉しかった。だから、せめて先輩がスライム相手に単騎でも、まともに立ち回れるようになる良い方法を、この酒場へ向かう道中思案していた。

 

 そこまで頭を働かせて──────先程から妙に先輩が大人しいというか、静かなことに気づく。

 

「あ、すみません先輩。ちょっと考え事に没頭していまし……」

 

 僅か数分の間とはいえ、放ったらかしにしてしまったことを謝りつつ、僕は先輩を見やる。……当の先輩は、テーブルに突っ伏しピクリとも動かずに沈黙していた。



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もう、何処にも

「やっぱり六杯も飲ませるんじゃなかった……」

 

 そう独り言を漏らしながら、僕は街灯が照らす街道を歩いていた。……すっかり酔い潰れてしまって今や深く眠り込んでいる先輩を、またも背負って。

 

 まさか日に二度も、それも異性をおんぶすることにはなるとは思わなかった。しかも今度は脱力し切っている分、先輩の柔い身体の感触が鮮明に、存分に、大胆に背中全体に伝わる。森の中では散々悶々とさせられた胸の感触なんか、特に。

 

 ……だが、あの時と同じように、僕の気持ちは馬鹿みたいに昂ることはない。とてもじゃないが、そんな気分にはなれない。

 

 何故ならば────あの時の先輩は、確かに震えていたのだと確信していたから。

 

 今、先輩に意識はない。だからこうして僕の背中に完全に身を任せているし、腕だって僕の首には回されず、だらんと僕の胸辺りにまでぶら下げられているし、僕の肩に顎だって乗せている。

 

 

 

 だが、動きは一切ない。微かな震えすら、微塵もない。

 

 

 

「…………」

 

 だからこそ、僕は確信した。確信できた。やはりあの時に伝わった先輩の震えは、僕の気のせいなどではなかったのだと。

 

 ──……もう、帰ろう。早く帰ろう。

 

 そのことに対して、どうこう言い表すことのできない複雑な思いを馳せて。まるで言い聞かせるように心の中で呟き、僕は街道をただ歩き、そして進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自宅に辿り着くと、僕は真っ先に寝室へ──元は自分の寝室だったが、今では先輩の寝室となった部屋へ向かった。

 

 すっかり酔い潰れてしまって、すうすう可愛らしい寝息を立てている先輩を、起こさぬようゆっくりと。まるで割れ物を扱うかのような慎重さと丁寧さで寝台(ベッド)に下ろし、横たわらせた。

 

「…………おやすみなさい、先輩」

 

 毛布をそっとかけて、一言僕は先輩にそう告げる。当然ながら、返事はない。それから僕は先輩の寝顔を眺める。

 

 起きている間は活発で、元気な笑顔を浮かべていたその表情(かお)は、今やその鳴りを潜めて。まだ幼く少女的な可憐さと、それでいて見え隠れする女性的な美麗さを漂わせる寝顔に変わっていた。

 

 それをこうしてじっくりと眺めて、僕は心の中で呟く。

 

 ──ラグナ先輩、なんだよな。

 

 本当に、以前の男だった時の面影は一片の微塵たりとも残っちゃいない。強いて言うなら、その性格くらいだ。

 

 ……だけど、先輩なんだ。面影が性格くらいしか残ってなくても、どれだけ弱くとも、先輩は先輩なんだ。それは間違いのない、間違えようのない事実なのだ。

 

 そう。たとえ本当の少女のように、恐怖に怯え、弱々しくその身体を震わせようとも。助けを求めて、誰かに縋ろうとも……。

 

「ああ、そうだよ。それでも先輩は先輩なんだよ。そんなこと当然だろ。……そんなこと、当たり前のことだろ」

 

 言い聞かせるようにそう呟いて、だがすぐに僕は憤りの疑問を噴出させる。

 

 ──じゃあ何で、だったら何で自分はこんなにも()()()()()()()……!?

 

 矛盾し相反し続ける建前と本心。それら二つに板挟みとなって、僕は目を閉じて深く息を吸い、吐き出し────

 

 

 

 

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

 

 

 

 

 ──────頭の中の片隅でその言葉を響かせて、逃げ出すように先輩の寝顔から視線を逸らした。

 

「……やっぱり、駄目だ」

 

 人間、一度自覚してしまえばお終いだ。ちょっとやそっとのことでは、もう覆らない。……覆せない。

 

 そう直に、面と向かって言われるまでは。何の違和感もなく、一切の疑いもなく────欠片程の否定もなく、そうだと見れていたはずなのに。だからこそ、『先輩』と気軽に呼べていたはずなのに。

 

 

 

『俺のことも好きに呼べばいい』

 

 

 

 後から、そう言ってくれたのに。その言葉に、救われたはずなのに。

 

 けれどそれは虚しい錯覚だった。身勝手な思い込みであった。

 

 今日、それを嫌という程に思い知らされた。鉄剣(アイアンソード)も持てない、スライムに手も足も出ない、デッドリーベアに殺されかけたその姿をまざまざと見せつけられた僕は────今になって、ようやく。改めて、突きつけられた。

 

 ああ、そうだ。そうだ……僕が知っている先輩は、ラグナ=アルティ=ブレイズは──────

 

 

 

 

 

 ──もう、何処にもいない。

 

 

 

 

 

「……はは、ははは……」

 

 ようやく確かな現実に向き合い、事実を飲み込み、全てを受け入れてしまうと。フッと全身が軽くなったと同時に、心の奥底から乾いた笑いが込み上げ口から出す。

 

 それから僕は静かに眠り込む()()()()()に背を向け、足音を立てないよう歩き出した。



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キミョウナフウケイ

 自分がどんな状況に置かれているのか。一体どんな現実に晒されているのか。それを改めて再確認して、再認識して。

 

 結果打ちのめされ、打ち拉がれ。寝室から立ち去り、一階のリビングへと戻った僕は────この手に、先輩の得物を握っていた。例の、十字架(ロザリオ)を模した剣の柄を、独り握り締めていた。

 

 今はもう、ただただ逃げたかった。逃げ出したかった。だから、僕はこの剣と向かい合うことにした。

 

 元は魔石であったそれは、僕には到底得体の知れない物体にしか見えない。正直、こうして手に触れることも憚れる。けれど、今では都合が良い。……この現実から一時でも目を逸らせられるなら、もうどうだっていい。

 

 一回目の【鑑定】をかけた時は、意味不明で訳のわからない情報と雑音が視界を通して脳内に流し込まれ。そして二回目の【鑑定】は弾かれた。

 

 全くもって、理解ができない。こんなことは、これまでの冒険者(ランカー)業では初めてのことだ。

 

「………」

 

 よく臭いものには蓋をせよと言うが、まさしくこれのことなのだろう。

 

 人間という生物は愚かにも好奇心というものがある。気を紛らわせる為でもあったが、本音を言えば僕は、結局この剣に対しての興味を捨て切れずにいた。

 

 少々見た目が変わった変哲のない、ただの綺麗な剣。だがその中身はとんでもなく不明瞭(ブラックボックス)。だからこそ、そうであるからこそ。こうして僕は否応にも惹かれてしまうのだろう。

 

 そして、遂に。三度目の正直というやつで、僕は【鑑定】をかけた。

 

 

 

 

 

 瞬間、剣から放たれた光の奔流が、僕の手の内側を抉り侵入し突き進み、刹那にして僕の脳天に到達し意識を破砕した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────それは、全ての空だった。朝と、昼と、夜を滅茶苦茶に混ぜ合わせ、無理矢理に統合させた、全ての空の色であった。

 

 そして其処の中央に浮かんでいるのは────太陽。深淵から抜き取ったように昏く、常闇を写し込んだように黒い、漆黒の太陽だった。

 

 その漆黒の太陽に、周囲に浮かぶ全ての雲が、空と共に吸い寄せられていく。雲は互いに繋がり輪を作り、空は不可思議な模様を描き出す。

 

 何とも幻想的で────終末的な風景だった。それを、僕はどうすることもなくただ呆然と眺めていた。

 

 そして、気づいたのだ。

 

 ──……え…?あれ、は…………。

 

 いつからそこに立っていたのか。先程からか、それとも最初からか。

 

 白く眩き輝きを放つ髪は、風もないのに揺らめいている。

 

 その右手には十字架(ロザリオ)を模したような剣が握られており、その刃先は光で覆われ、また地平線を引くかのように伸びていた。

 

 こちらに背を向けるその人は、浮かぶ漆黒の太陽を眺めているのか頭を少し上げている。それから唐突に、ゆっくりと振り返った。

 

 その顔を見て、僕は思わず目を見開かせる。何故なら、その顔は──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っ……?」

 

 気がつくと、僕は床に倒れていた。……何故か妙に身体が重い。

 

 上半身だけを起こして、周囲を見渡す。まだ外は濃密な闇に覆われているようだ。

 

 そうして、ふと気づいた。僕のすぐ側に、先輩の得物であるあの剣が転がっていることに。鞘代わりに包んでいた布も剥がれ、あらぬ方向へ飛んで落ちて広がっていた。

 

「僕は、一体……いやそれよりも何で床に?僕が落としたのか……?」

 

 心からの疑問を呟きながら、その剣を拾い上げる。……やはり、こうして眺めれば。形状の変わった、ただそれだけの、本当に変哲のない剣だ。

 

 布も拾い上げ、剣身を包みテーブルへと置いて。僕はソファに座り込み、目を閉じる。

 

 ──……明日も早いんだ。いい加減、もう寝なきゃな……。

 

 未だ、僕の迷いは消えていない。先輩へ対する認識は……変わっていない。

 

 それでも、構わずに。この現実から逃げ出したくて、何も考えたくなくて、思考を断ち切りたくて。僕は────意識を放り捨てた。



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ラグナリベンジ

「そんな近隣にデッドリーベアが……俄には信じられないけど、確かにこの耳はデッドリーベアの耳ね」

 

「ええ。すみません、本来なら昨日すぐにでも報告すべき事態だったんですけど。その、色々……ありまして。本当に申し訳ありません」

 

「気にしないで。……とは流石にちょっと、言えないわね。でもそのデッドリーベアは討伐したんでしょう?なら大丈夫よ。あの魔物(モンスター)は基本的には群れないはずだから」

 

「……だと、いいんですけど」

 

「それに、あれを見れば貴方が言うその『色々』も、大体の察しはつくわ」

 

 そう言って、冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢であるメルネさんは微笑みを浮かべながら、とある方に顔を向ける。

 

 彼女が顔を向けた先にあったのは────

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ────二日酔いによって、見事なまでにダウンし机に突っ伏している、ラグナ先輩の姿であった。

 

「……い、いや。その、本当にすみません……はは」

 

 どうしようもない居た堪れなさに思わずまた謝ってしまう僕に、依然微笑みを携えてメルネさんが言う。

 

「あらあら。別にそう気にしなくてもいいのよ。……でも、ああなる程飲ませちゃう前に、止めるべきだったとは思っちゃうわね」

 

「……以後、肝に銘じます」

 

 時刻は早朝──と表するには、少し遅い時間帯。二日酔いに呻く先輩を何とか立たせ支えながら、ご覧の通り共に僕は『大翼の不死鳥』に訪れていた。

 

 無論昨日の、ヴィブロ平原近隣の森にデッドリーベアが出現したことの報告と、グィンさんに会う為にである。

 

「メルネさん。事前に話してもいないんで恐縮なんですけど、今グィンさんっていますか?その、会いたいんです。会って、ちょっとお話ししたいんですが……」

 

 僕が恐る恐るそう訊ねると、メルネさんは浮かべていた微笑みを僅かに曇らせ、申し訳ないように答えた。

 

「ごめんなさい。GM(ギルドマスター)なら、『世界冒険者組合(ギルド)』から召集がかけられてね。中央国の本部へ向かいに、昨日オールティアから発ったわ」

 

「あ……そう、だったんですか」

 

 まるで出鼻を挫かれたような気分だった。グィンさんとは少し、先輩に関して相談があったというのに。

 

 けれど、すぐさまそれも仕方のないことだと納得する。『世界冒険者組合』からの召集というのも、十中八九先輩の身に起きた、まさに神の悪戯とも言うべきことだろう。

 

「そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。『出品祭』までには帰って来るから」

 

「わかりました。ではそれまでに、僕は気長に待つことにします」

 

「ええ。帰って来たらすぐに連絡するわ」

 

 そうして僕とメルネさんの会話は終わり、僕は踵を返し先輩の元へ向かう。依然として先輩は突っ伏した姿勢のままで、微動だにしない。その姿に若干気を憚られながらも、僕は声をかけた。

 

「先輩。用事も終わったので、そろそろ行きますけど……大丈夫ですか?一人で立てます?」

 

 そんな訊くまでもない僕の確認に、少し遅れて先輩がゆっくりと身体を起こし、顔を上げる。その顔色は悪く、大丈夫でないことが一目でわかってしまう。

 

 けれども、先輩は呻くように僕にこう答える。

 

「……大丈夫。立てる」

 

 それは明らかに無理をしている様子で、それでいて確固たる意地と意志をひしひしと僕に感じさせた。

 

 ──先輩……。

 

 心の奥底から喉元にまで出かけた言葉を飲み込んで、そう返事をしてくれた先輩に、僕もまた言葉を返した。

 

「わかりました。……酔い止めの魔法、重ねますね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所は変わってヴィブロ平原。時間も少し過ぎて、太陽も十分にその顔を見せた頃合い。僕は、その光景を遠くから見守っていた。

 

「てぇっりゃあ!」

 

 そんな可愛らしい気合の一声の下に振られた剣の刃は、お世辞にも疾く鋭いとは表せず。相対するスライムを斬ることは叶わず、ヒョイと呆気なくも躱されてしまう。

 

「クソッ……!」

 

 堪らず吐き捨てる先輩へ、スライムが体当たりを仕掛ける────が、既のところで先輩がその場から咄嗟に跳び退き、スライムの体当たりを何とか躱してみせた。

 

「そう何度も何度も、ぶっ飛ばされて堪るかってんだ!」

 

 叫びながら、剣を振り上げ先輩はスライムに向かって突き進む。そして先程と同じようにスライムへと剣を振るうのだが、その剣身が、その刃がスライムを捉えることはない

 

「こんの、ちょこまかとっ!」

 

 それでも諦めず、先輩は幾度も剣を振るう。幾度も、幾度も。だがしかし、やはりスライムを捉えることはできなかった。

 

 ──先輩……!

 

 躍起になって剣を振り回す先輩。まるで弄ぶかのように躱し跳ね回るスライム。そんな光景を見せつけられて、僕は思わず拳を固く握り締め震わせる。

 

 本当ならば、すぐにでも飛び出したかった。そんな自分を、僕は必死に抑え込む。……抑え込まなければならなかった。他の誰でもない、先輩の為に。

 

 そもそも、今日は────先輩を家から連れ出す気など微塵もなかった。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』で見せたあの姿の通り、先輩は二日酔いに苛まれていたのだから。

 

 それに、昨日先輩は散々な目に遭わされた。そのことに対する心的負担も相当のものだったはず。だから今朝、僕は先輩に言ったのだ。

 

 今日一日は家でゆっくり身体を休めませんか────と。だが、僕の提案に先輩が頷くことはなかった。先輩は断固としてその提案を呑まなかった。

 

「…………」

 

 先輩の決意。先輩の覚悟。僕にはそれを見届ける義務がある。手出しせず、最後まで見守る必要がある。

 

 だから僕は、今すぐにでも剣を抜きそうになっている自分をどうしても抑え込まなければならない。

 

 それから数分、先輩とスライムの攻防(と言っても一方的に先輩が攻撃し、スライムは躱しているだけだが)は続いた。けれどもその間先輩の剣がスライムを捉えることはなく。ただただ、時間だけが虚しく流れて過ぎるばかりであった。

 

 ……一応言っておくと、先輩は昨日僕から剣の扱いの基礎を習った訳で、しかも本来の先輩の戦闘法は素手による格闘だ。つまり、先輩は今までその手に武器を持って戦ったことがまともにない。

 

 なので必然、その戦い方も無茶苦茶なものになる訳で。冒険者(ランカー)となってから剣を得物としている僕からすれば、それはもうとんでもなく……とんでもなかった。

 

 そうして、少なくも僕にとっては手に汗握るその攻防は続いて。だが、唐突に終わりは訪れた。

 

 まるで親の仇のようにスライムを追い回し、懸命に剣を振り回し続けていた先輩だったが、不意にスライムから距離を取ってそのまま動きを止めた。そんな先輩を安易に追撃せずに、訝しむようにスライムもまたその場で止まる。

 

 両者の間を風が吹き抜ける。その風に乗って、一枚の木の葉が舞う。それは風と共に、あっという間に両者の間を通り抜けて、彼方へと飛ばされて────静かに、落ちる。

 

 

 

 そしてそれが、偶然にも合図になった。

 

 

 

「ぶっ倒すッ!」

 

 そう叫ぶと同時にその場から駆け出す先輩。スライムもまたそれと同時に動き出す。

 

 やがて両者互いにそれぞれの間合いに入ると────先制の一撃を繰り出したのはスライム。一瞬その場に縮こまったかと思うと、すぐさまその場から飛び跳ね、その勢いのままに先輩の懐に飛び込もうとする。

 

 その一撃を受ければ、即座に吹っ飛ばされ戦闘不能になるのは必須────昨日スライムに散々体当たりをされ、その都度気絶した先輩だからこそ、他の誰よりもそのことは理解している。

 

 であるから、決してスライムの攻撃を受けないよう先輩は躱すことに心血を注いでいた。

 

 だからその体当たりも先程のように躱そうとするはず────そう思った矢先、僕が目を見開くことになった。

 

 ──先輩……!?

 

 先輩は、その場から動こうとはしなかった。己に突っ込んでくるスライムを、ただその場で真っ直ぐ見据えていた。

 

 先程も言った通り、今の先輩はスライムの一撃ですら受けただけで戦闘不能に陥る程に脆い。スライム相手に戦闘を続け、そして勝利するにはその攻撃の全てを躱さなければならない。

 

 そんなこと、誰よりも先輩自身が一番わかっているはず。なのに、先輩は躱そうとしない。その場から一歩も動かず、あくまでも真っ直ぐにスライムを見据えているだけだ。

 

 一体何を考えているのか。そう思う僕であったが、この後目の当たりにする────先輩の成長を。

 

「ッ!」

 

 遂に、スライムが先輩の懐に目がけて体当たりする────直前、先輩は剣を胸の前に構えた。

 

 それは防御の構え。スライムの体当たりを、構えた剣で受け止める先輩。

 

「うぐッ……!」

 

 体当たりの衝撃とその重みに、先輩の身体が後ろに押される。先輩もその表情を歪める────が、倒れなかった。倒れず、そして。

 

「そぉっりゃあああッ!!」

 

 ほぼ力任せに剣を振り上げ、受け止めたスライムをそのまま宙へと打ち上げた。宙に浮かび、何もできず重力に引かれて落下するスライム。その様を、先輩は黙って眺めることなく────

 

「これでもう、ちょこまかできねえだろおぉぉぉ!」

 

 ────そう叫んで、先輩は駆け出す。そして、剣を振るった。

 

 ザンッ──落下するスライムを、白刃が通り抜ける。

 

「おお……ッ!?」

 

 思わず僕が声を漏らす最中、二つに分断され地面に落下したスライムは、まるで水溜まりのように広がって。そのまま溶けるようにして、消える。

 

 剣を振り下ろした姿勢のまま、首だけで背後を見やった先輩は、そんなスライムの最期を見届けて。それからその瞳と顔を輝かせ。

 

 

 

「よぉっ……しゃあぁぁぁッ!!」

 

 

 

 そう達成感に満ち溢れる歓喜の声を上げると共に、その場で思い切り飛び跳ねた。僕といえば、ただただ感動に打ち震えていた。

 

 ──つ……遂に、ようやく遂に倒した。今の先輩が、自分一人でスライムを倒せた……!

 

 昨日あれ程敗北を喫したスライムに、ようやっと先輩は自ら勝利をもぎ取ることができたのだ。しくじれば即戦闘不能の、実に危ない賭けではあったが、それでも見事に先輩は勝ってみせた。僕は、それが自分のことのようにただただ嬉しい。

 

 記念すべき先輩の初勝利。これでようやく第一歩を踏み出せる────そう、僕が思った直後。

 

「……ん?」

 

 突如、先輩の周囲の草むらが揺れる。……今、風は吹いていないというのに。

 

 先輩が声を漏らすとほぼ同時に、草むらを揺らしながら現れたのは────スライム。それも一匹だけではなく、二匹、三匹。さらに四匹五匹、続々と草むらの中から現れる。

 

 一体、今の今までどうやって潜んでいたのか────気がつけば、十何匹ものスライムの群れに、先輩は囲まれていた。

 

 異様な雰囲気を漂わせるそのスライムたちに、流石の先輩も若干怯えた様子で、その場から一歩後退る。

 

「な、何だよ……」

 

 だがしかし、先輩は完全に取り囲まれている。つまり、逃げ場などない。

 

 ──あ、まずい。

 

 僕がそう思うのとほぼ同時のこと。徐々に先輩に迫っていたスライムたちは、一斉に先輩へと襲いかかった。

 

「ひッ!?ちょ、止め……!?」

 

 短い悲鳴を上げつつも、慌てて剣を振ろうとする先輩だったが、その行動はあまりにも遅過ぎて。そして数の暴力の前では、先輩の抵抗はあまりにも小さく、無力であった。

 

 あっという間にスライムたちに袋叩きにされる先輩。その時僕が咄嗟に取れた行動は、ただ一つ。

 

「……せ、先輩ぃぃぃいッ!!」

 

 先輩を救出する為、そう叫びながら急いで駆け出すことだけだった。



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二人が知らぬ間にも運命は

 雪辱を果たす為、ラグナがスライムに再戦を挑み、その戦いをクラハが見守っている頃合いのこと。

 

 場所は変わり、オヴィーリス四大陸がその一つ────セトニ大陸。全大陸中最も人間の技術と文明が発達し、それに伴い近代化が進むこの大陸の代表国、中央国(セントリア)中央首都。

 

 その中央首都に構えられた『世界冒険者組合(ギルド)』本部、大円卓会議室にて。

 

 

 

 

 

「…………はあぁぁぁ……」

 

 

 

 

 

 冒険者組合『大翼の不死鳥(フェニシオン)GM(ギルドマスター)────グィン=アルドナテは独り、用意された席に座って。今にでも崖から身投げでもしそうな、そんな絶望という絶望に染まり切った表情を浮かべ。そして、言葉では決して言い表すことのできない様々で色々としたものが詰め込まれた、ひたすらに重々しいため息を深々と吐いていた。

 

 恐らく、いやきっと。絶対に、これから先に待っているのだろう自分の未来を、この上なく憂いて。

 

 グィンがこの世全てに対して絶望を抱く最中、今は彼以外には誰一人として人間がいないこの部屋に、不意に一つの足音が響く。

 

 その足音が響く方向にグィンがぎこちない動きで顔を振り向かせると、彼の視線の先では────ゆっくりとした足取りで一人の女性がこちらへ歩いて来ていた。

 

 荒々しくもそれでいて美しい、まるで猛々しく気高い獣────そう、さながら獅子を彷彿とさせる、凶暴で危険ではあるが、故に惹かれる確かな魅力のある美貌を持つ女性だった。

 

 首筋が薄く隠れる程度にまで伸ばされた紫紺色の髪を揺らしながら、その女性はグィンの傍まで来る。そして開口一番に繰り出したのは──────

 

 

 

「何だい。しみったれてつまらない辛気臭いその面、今は中々に面白いことになってるじゃないか。いやいや、こいつは傑作だねえ」

 

 

 

 ────という言葉で。それを言い終えた女性は、口の端を禍々しく吊り上げさせ、本当に心の底から愉しそうな笑みを浮かべる。お世辞にも趣味が良いとは言えない笑みを浮かべた彼女に、グィンは多少を無理をしながらも対抗するように微笑んで、掠れた声で呻くように言葉を返す。

 

「……先のことを考えると、どうしてもね。それよりも久しぶりだね、アルヴァ。実に元気そうで、何よりだよ」

 

 グィンにそう言われて、女性────冒険者組合『輝牙の獅子(クリアレオ)』GM、アルヴァ=クロミアは依然その笑みを浮かべて言う。

 

「ああ。アンタがやらかせば(アタシ)は愉快だからねえ。今回の件でGMを辞任させられることになればもっと、もっと愉快だ」

 

「ははは……全く、縁起でもないことを言わないでくれ」

 

 そう言って、力なく笑いを零すグィン。そんな彼の様子にアルヴァは浮かべていた笑みを消して、スッと細めた瞳で見つめる。その猛禽類が如き紫紺色の双眸の奥には、若干の淋しさが込められている────気がした。

 

「……たかが十数年会わない内に、あの『剛剣』もすっかり腑抜けになっちまったもんだ」

 

「…………」

 

 アルヴァの言葉に、グィンはすぐには何も答えない。少しの沈黙を挟んでから、彼女とは対照的に微笑みを浮かべたまま、その口を開いた。

 

「それで良いんだよ、アルヴァ。何せ、自分たちの時代はもう終わったんだから。それにもう私は……どうやったって戦えない身だしね」

 

 グィンの言葉に、アルヴァもまたすぐには答えなかった。心情を上手く読み取れない無表情のまま沈黙して、唐突に懐から一本の煙草と赤い小石を取り出した。

 

 煙草を咥え、その先端に赤い小石を近づける。すると一拍置いて小石が一瞬輝き、小さな炎が弾けて瞬いた。

 

 ボッ、と。音を立てて煙草の先端にその火が灯る。役目を終えた小石を再び懐へと仕舞い、アルヴァは煙草を咥えたまま深く息を吸い込む。そして実に美味しそうに、吸った分だけ息を吐き出した。

 

「アンタなんかの言葉に同感するなんざ嫌だねえ。本当に嫌だよ。……でもまあ、腑抜けはお互い様だ。今やこの(アタシ)も小っぽけな魔石一つにでも頼らなきゃ、煙草一本に火を灯すことすらできやしない」

 

 実にしみじみとそう言いながら、紫煙を(くゆ)らすアルヴァ。そんな彼女にグィンは浮かべていた微笑を僅かに困ったように変えて、無駄だと悟りつつも一応はという風に言葉をかける。

 

「アルヴァ。ここっていうか……本部内は禁煙なんだけど?」

 

「知ったこっちゃないね」

 

 グィンの親身な注意を一蹴して、アルヴァは彼の隣の席へと座る。それと、ほぼ同時のこと。

 

 

 

「おや。見覚えのある背中が二つ、並んでいるな」

 

 

 

 グィンでも、アルヴァのものでもない。新たな第三者の声がこの部屋に、静かに響き渡った。

 

 その声に釣られて、グィンとアルヴァが顔を向けると────彼らの視線の先に、その者は立っていた。

 

 短く切り揃えられた、燻んで鈍く輝く銀髪。髪によって右目は隠されているが、そうでない左目は金色で、まるで月明かりを彷彿とさせる輝きを放っていた。

 

 高身長とも言えるグィンよりもなお高いその背丈と、軽く微笑みかけただけで街中の女性という女性を虜にできるであろう、甘くも凛々しいその美貌。そしてその身を包む厚手のジャケット、その下にあるベスト、そしてスラックス。そのどれもが正真正銘の男物である。

 

 その所為で一見すると他の追随を欠片程も許さない、まさに絶世の美青年に思えるその者であったが────目を凝らし、注意して見れば。それは間違いであると知ることだろう。

 

 ベストにジャケットと、それでもなお完全には誤魔化し切れていない胸元の僅かな膨らみ。またスラックスが包み隠すその腰も男にしてはやや豊かに思え、こちらは背後からでなければわからないことではあるが、その臀部も張りがあって、肉付きも良い。

 

 これらが指し示す、その者の真実。それは──────その者は美青年などではなく、歴とした女性であるということだ。

 

 彼────否、彼女の姿を見やったアルヴァが、僅かに眉を顰めながらも言う。

 

「アンタ、良い歳にもなってまだそんな格好してるのかい……カゼン」

 

 アルヴァにそう言われて、彼女────冒険者組合『影顎の巨竜(シウスドラ)』GM、カゼン=ヴァルヴァリサは世の女性が黄色い歓声を上げてしまうような微笑みを浮かべて、その口を開かせる。

 

「これに関してはもう仕方ない。女物の服を着るにしても、今さらな話だ」

 

 カゼンの返事を聞いて、やれやれという風にアルヴァは肩を竦めさせた。そしてすっかり呆れた声音で彼女が言う。

 

「その様子だと、どうやら()()の方もちっとも変わってないようだね」

 

「ああ。ちなみに僕はまだ、君のことは諦めてないぞ?」

 

 そう言って、カゼンはアルヴァに笑いかける。が、当然彼女の反応は芳しいものではなく、その顔を嫌そうに僅かながら歪めていた。

 

(アタシ)にその気はないって昔からずっと言ってるはずなんだけどねえ」

 

「まあそう言わずに。案外、悪くないものだぞ?騙されたと思って、一回くらい」

 

 カゼンの言葉に、もうやっていられるかと言わんばかりにアルヴァは顔を逸らして、うんざりした様子で紫煙を吐き出した。

 

 と、その時。不意に軽く、グィンが咳払いをした。それから彼はカゼンの方に顔を向けて、口を開く。

 

「やあ、カゼン。君も元気そうで何よりだよ」

 

 グィンの言葉に対して、カゼンはチラリと一瞥だけして。数秒の沈黙の後────彼女は何も言わず、アルヴァの隣へと座ったのだった。

 

 そのあんまりにもあんまりなカゼンの態度に、しかしグィンは苦笑いを浮かべつつも慣れたように呟く。

 

「……本当に、君たちは昔からずっと変わらないなあ」

 

 そしてグィンは腕時計を見やる。気がつけば、()()()がすぐ迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから十数分。先程までグィンたち三人しかいなかった大円卓会議室内は────今や、十数人という大勢の者たちが集まっていた。

 

 その者たち全員が全員、GM(ギルドマスター)である。そんな最中、未だ一つだけ。誰も座っていない空席があった。

 

 彼らGMは待っていた。その空席に座すべき人物を。その人物こそが、この場にいるGMたちを先導する者。この世界に現存する全ての冒険者組合(ギルド)を管理統括する、『世界冒険者』の長。

 

 そうして、()()()まで後一分まで差し迫った頃────閉じられていた大円卓会議室の扉が、開かれた。

 

 開かれたその扉を抜け、この部屋に足を踏み入れさせたその者に、この部屋にいる全ての者たちが視線を向ける。その数々の視線に込められているのは、確かな敬意と畏怖。

 

 女性であった。それもまだ若い、二十歳前後の女性である。だがしかし、全身から放たれるその雰囲気は、とてもではないが若年のものではなかった。

 

 前を真っ直ぐ見据えるその双眸は褪せた灰色をしており、言い表すことのできない異様な眼光を携えている。そして何よりも目を引くのは────その外見に似つかわしい、一本に至る全てが染められている、老人が如き白髪であった。

 

 容姿と雰囲気がどうにも合致しないその女性は、軍服を踏襲したかのような意匠の服を着込んでおり。その上から袖に腕を通さず羽織っただけのコートの裾を揺らしながら、ゆっくりと歩く。この場にいるGMたちの視線を注がれながら、それを存分に浴びながら、空席へと向かう。

 

 そして、満を持して────遂に、空席が埋まった。椅子に腰かけた女性は、大円卓会議室を見渡し。女性────『世界冒険者組合』三代目GDM(グランドマスター)、オルテシア=ヴィムヘクシスはその口を静かに、開かせた。

 

 

 

 

 

「ではこれより、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズ弱体化とそれに伴ったオヴィーリス『五大厄災』への今後の対策に関する、『世界冒険者組合』緊急GM会議を始める」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 僕は一体、どれくらいのスライムを倒したのだろう。何体倒しても、迫り来るスライムの大群。……彼らは、それ程までに恨んだのだろうか。憎いと思ったのだろうか。

 

「あの、先輩……その、大丈夫ですか……?」

 

 恐る恐る僕はそう訊ねる。この周囲一帯から無尽蔵に湧いて出てくるスライムの大群相手に、ほんの僅かな抵抗も一切許されず、そして一方的に蹂躙された先輩に。

 

「…………」

 

 先輩は、沈黙していた。感情の死んだ表情で、スライムの粘液に塗れたまま、気がつけば昇っていた太陽が傾き、薄い茜に染まりつつある空を見上げながら。

 

 数秒の間を置いて。ようやっと、先輩は閉ざしていたその口を開いた。

 

「……これが、大丈夫に見えんのか?」

 

「い、いいえ。……えっと、すみません」

 

 僕と先輩の間に静寂が流れる。その時、ヴィブロ平原に微風(そよかぜ)が吹いて。それに頬を撫でられながら、僕は再度口を開いた。

 

「先輩。とりあえず今日はもう、街に戻りましょう」

 

 僕の提案に、先輩は何も言わず。ただ小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラハとラグナはまだ知らない。知る由もない。今こうしている間にも、確実に、着実に己らの運命は廻り往くことを。



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ロックス=ガンヴィル(前編)

 記念すべき初勝利と数に物を言わせた蹂躙を味わった先輩を連れて、僕はオールティアに戻り、再び冒険者組合(ギルド)『大翼の不死鳥』へと戻っていた。

 

 お手洗い(トイレ)に向かった先輩が戻って来るのを待つ為、手頃な椅子に座って。僕は特に何を考えるでもなく、周囲を見回していた。

 

 酒場としての本領が発揮できる『大食らい(グラトニー)』には流石に及ばないが、この時間帯の『大翼の不死鳥』もそれなりに騒がしく、そして賑やかだ。

 

 料理を食らう者。酒を飲む者。依頼(クエスト)の報酬金に目を輝かせる者。討伐した魔物(モンスター)の危険度で競い合う者。得物を自慢する者────それら全ての光景が渾然一体となって、それ相応の騒がしさ賑やかさを生み出しているのだ。

 

 

 ……だが、正直に言わせてもらえば。今の僕にそれを楽しむ余裕などなかった。それらが、まるで蚊帳の外のような。何処か遠い出来事のように感じられて。今ここに自分もいるのだという自覚も持てないまま、ただ眺めることしかできないでいた。

 

 何故か。言うまでもない、それは──────

 

 

 

 

 

「よっ!何しけた面してんだよ、ウイン坊」

 

 

 

 

 

 ──────不意に背後からそんな声をかけられ、それと同時に肩を軽く叩かれたことにより、僕の思考が途中で遮られる。僕が咄嗟に振り返って見れば、いつの間にか背後に茶髪の男性が立っていた。

 

 その人の顔を見た僕は、思わず信じられないという風に呆然と呟いてしまう。

 

「ロックス……さん?」

 

「おう。えっと、半年ぶりだっけか」

 

 茶髪の男性────ロックスさんにそう返事されて、僕は目を見開かせ、気がつけば椅子から立ち上がり、口を開かせていた。

 

「ど、どうしてロックスさんがここに!?オールティアに帰って来てたんですかっ?」

 

 この男性のことを、僕は知っている。『大翼の不死鳥』に所属する冒険者(ランカー)であれば当然のこと、そうでなくとも知っている者は知っているだろう。

 

 冒険者番付表(ランカーランキング)第五十位────冒険隊(チーム)『夜明けの陽』の副隊長、ロックス=ガンウィル。僕と同じ《S》冒険者だが、僕など足元にも及ばない、それこそ天と地程の差がある確かな実力と実績を持つ、僕が尊敬する冒険者の一人である。

 

「確か『夜明けの陽』は長期依頼を受けてたんですよね?もしかして終わったんですか?それにロックスさんが帰って来てるなら他の皆さんも……ジョニィさんも」

 

 驚愕の衝撃が抜け切らないままに、動揺しながら僕は頭で考えるよりも先に心の中の言葉を、次々と浮かぶ疑問をロックスさんにぶつける。しかし、そんな僕に彼は困ったようにこう言った。

 

「ちょ、ちょっと一旦落ち着けよウイン坊。俺に再会できて嬉しい気持ちは十二分にわかる。けどだからってそんな勢いで質問攻めされちゃあ、俺だって答えようにも答えられないぜ」

 

「あ……す、すみません」

 

 堪らず矢継ぎ早に言葉を浴びせてしまい、ロックスさんに嗜められ、僕は謝罪を入れつつ言われた通り一旦口を閉じる。そんな僕にロックスさんは気の良い笑みを浮かべて、それから言った。

 

「そうだな。まあ立ち話ってのも疲れちまうし、椅子があるんだから座って話そう」

 

「は、はい。そうですね」

 

 そうして、僕とロックスさんは椅子に座り、席を共にする。彼は僕の顔を見て、僕と視線を合わせて、ゆっくりとその口を開いた。

 

「まず、実を言うと依頼自体は終わっちゃいない。ちょっとばかし進展があったもんでな、その報告に一旦この街に帰って来たんだよ」

 

「なるほど、そうだったんですか。……ということはやっぱり、他の皆さんもオールティアに帰って来てるんですね」

 

 そんな僕の言葉に対して、ロックスさんはその首を軽く横に振った。

 

「いや。あくまでも状況進展の報告だからな。今戻って来てるのは俺だけで、他のメンバーはまだ現地さ」

 

「あ……そう、ですよね。よくよく考えれば、それは当然ですよね」

 

 表面上は取り繕い、決してロックスさんに見抜かれぬよう。僕は内心少しだけ残念に思う。無論このロックスさんとの思わぬ再会も嬉しいが……できれば『夜明けの陽』の全員と、そしてリーダーであるジョニィさんとも再会したかった。

 

 何せジョニィさんには────『夜明けの陽』の隊長、ジョニィ=サンライズさんには数え切れない程の恩があるのだから。それこそ、ラグナ先輩に負けないくらいに。

 

 だから、せめて。僕はロックスさんに訊いた。

 

「他の皆さんも、ジョニィさんも。何事もなく、元気にしてますか?」

 

 その瞬間、僕は見逃さなかった。ロックスさんの表情が僅かに固まった、その瞬間を。

 

 ──え……?

 

 しかし、そのことに対して僕が疑問を抱くと同時に、ロックスさんの表情は元に戻っていた。それから彼が僕にこう告げる。

 

「ああ、皆元気にやってる。当然ジョニィの兄貴もな」

 

「ほ、本当ですか?なら良かったです」

 

 ──何だ?僕の気の所為か……?

 

 ロックスさんのあの反応がどうにも腑に落ちず、訝しげに思いながらも僕はそう返す。そんな僕をロックスさんはほんの数秒、黙って見つめていたかと思えば。彼にしては珍しい神妙な面持ちで、僕に言った。

 

「ウイン坊。『夜明けの陽』は……俺たちは、いつだってお前を支える。お前の助けになってやる。無論、ジョニィの────リーダーの意志でな。それだけは……忘れないでくれ」

 

「え……あ、はい。わかりました。ありがとう、ございます」

 

 何故、そんなことを今僕に言うのか。それが嬉しくない訳ではなかったが、僕は堪らずに疑問を感じてしまう。だが直後ロックスさんはまた人の良い陽気で爽やかな笑顔を浮かべると同時に、僕に訊ねる。

 

「さてさて。そろそろ俺たちの話だけでなく、お前の話も聞きたいな。……色々あったみたいだしな」

 

「……ええ。この短い間で、色々起きました。本当に、色々」

 

 そうして今度は僕が話をする番となった。当然、その話は先輩関連が殆どだった。

 

 先輩が『厄災』の一柱を討ったこと。先輩が非力で、そして無力な少女になってしまったこと。それから奔走しては苦労の連続に阻まれ立ち止まってしまっていること────ここ僅か数日で起きた出来事の全てを、僕は包み隠さずロックスさんに話した。

 

 そして一通り話し終えてから、僕は自嘲気味になって続ける。

 

「情けないですよね。GM(ギルドマスター)から託されたのに、後輩なのに……その責任と義務を全うできないでいる。その信頼に応えられないでいる。……本当に、僕は情けない人間ですよ」

 

 今の今までずっと拭えず消し去れないでいる()()()()()も相まって、僕の自己嫌悪は止まることを知らずに加速し続けていく。そんな中で呟かれた僕のそれは、鬱陶しい程に重く、嫌になる程に暗かった。

 

 だが、それを受け止めたロックスさんが返したのは──────

 

 

 

「いやあ、にしても信じられねえわ。まさかあのラグナがあんな可愛い女の子になっちまうだなんてなぁ」

 

 

 

 ──────という、話の流れを完全に断つ一言であった。

 

「…………え?」

 

 予想外も予想外の、想像の範疇から逸脱し切ったロックスさんの返事に、僕は堪らず困惑の声を漏らしてしまう。そしてそんな僕の様子などお構いなしに、ロックスさんがさらに続ける。

 

「ところでよ、こいつは大事な話なんだが……ウイン坊。お前の話が正しければ、お前は今この女の子になっちまったラグナと一つ屋根の下の甘々同棲生活送ってんだよな?」

 

「えっ?あ、えっと、そ、そうですね。今の先輩では以前まで住んでた共同住宅(アパート)の鍵を開けられないですし、銀行(バンク)からお金を下ろすことすらもできなくなってしまったので……それがどうかしましたか?」

 

 困惑のままに、とりあえず僕がそう答えると。ロックスさんはそうかそうかと呟き何度も頷いてから、今の今まで見たことのない程の、やたら真剣な顔つきになった。

 

 ──え、本当に何だ何なんだ?ロックスさんにとって、僕は何かまずいことをしでかしてしまったのか……!?

 

 思わず身構えた僕に、その真剣な顔を保ったまま、ロックスさんは小さな声で恐る恐る僕に訊ねた。

 

 

 

 

 

「今のラグナって、何カップだ?」

 

 

 

 

 

 ──…………………は?

 

 僕の思考が、一面真っ白な更地と化す。ロックスさんの言葉を、僕はすぐに理解することができなかった。

 

 カップという単語を聞いて、僕がまず頭の中で思い浮かべたのは珈琲(コーヒー)が注がれている器。だが、そんなことを僕に訊くのは文脈的におかしい。だって珈琲の話題など欠片程だって出てないのだし。

 

 それに……『何』カップとはどういうことだろう。もしやロックスさんはカップの個数について訊ねている?いやだとしても何故今?しかもそれを僕に?考えれば考える程に、訳がわからなくなっていく。

 

 そうしてあらぬ方向に思考が突き進み、結果沈黙していた僕を見兼ねたのか。痺れを切らしたロックスさんが仕方なさそうにこう言った。

 

「おいおいウイン坊!お前もういい歳の男だろ?いちいち皆まで言わないと伝わらねえのかぁ!?俺ぁパイオツのこと訊いてんだよ!ラグナのボインのサイズは一体幾つよ!?」

 

 僕の頭の中の、真っ白な更地となっている思考に。必死に紡がれたロックスさんの言葉が点々と浮かび刻まれる。そしてそれらを僕は呆然と心の中で復唱する。

 

 ──パイ、オツ……?ラグナの、ボイン……?

 

 幸運か、それとも不幸か。それらの単語は僕にとある風景を想起させた。

 

 

 

『あ……破けちまった』

 

『髪洗うの手伝ってくんね?』

 

『クーラーハー?』

 

 

 

 その声と共に脳裏を過ぎるのは、一切の穢れを知らぬラグナ先輩の裸体。そして豊かに実り揺れる二つの──────

 

「い、いや知りませんよそんなことっ!?」

 

 ──────というところで、僕は我に返り、あまりにもあんまりで下世話なロックスさんの問いを切って捨てた。が、しかし。

 

「いやいや知らないってことはないだろ。だってお前ら二人同棲してんだろ?だったらもう裸の一つや二つくらい見てんだろ」

 

「そんな訳っ……」

 

 ロックスさんの言葉を即座に否定しようとした僕だったが。そう言われて、再度脳裏を過ぎる肌色の光景を前に、頬に一筋の冷や汗を流し言葉に詰まってしまう。そんな僕の様子を見たロックスさんは、嘆息混じりにこう言う。

 

「何だよやっぱり見てんじゃねえか。で、どうだった?俺はウイン坊と違って実物を直に見た訳じゃねえから断言し兼ねるが……新聞の写真からしてDはあるんじゃないかと睨んでるんだがな、あれは」

 

 顎に手を当てながら、一体何故そんなにもなれるのかと不思議に思う程の真剣な表情で。下世話極まる推測を添えながら、ロックスさんは再度僕に訊いてくる。当然、そんな問いかけに僕は答えず、相手が誰であるかも忘れて声を荒げた。

 

「そ、そんなことわかりませんよっ!」

 

「何ぃ?わかんないだあ?……はぁぁぁ。全く同じ男として情けないぜ、ウイン坊。そんな風だと、未だに童貞か?お前」

 

「どッ……!?そ、そうだとしても問題ないでしょうッ?」

 

「大ありだ。俺なんかお前の歳にはとっくのとうに……いや、この話は今は捨て置くか。まあ、とにかくだ。詳しい話はまだ聞いちゃいないが……ラグナは性別が変わっただけじゃ飽き足らず、何故だか若返りもしちまったんだろ?」

 

 話題の方向性が胸から変わったことに、僕は未だ困惑しつつも一先ずは安堵する。そしてロックスさんの言葉を肯定する為に、首を縦に振って続けた。

 

「はい。これについても原因らしい原因はわかっていませんが……」

 

 ちなみに補足させてもらうと、『世界冒険者組合(ギルド)』は先輩の現状を世界的に公表しただけで、何故そうなってしまったのかという説明はされていない。……まあ、その原因と思わしき情報が先輩の夢という、あまりにも現実的ではないものなので、『世界冒険者組合』の対応も致し方ないとは思うのだが。

 

「ああ、だよな。そうだよなぁ……うんうん」

 

 そう呟き、何やら意味ありげに何度も頷くロックスさん。彼のそんな様子に、僕は嫌な予感を覚えられずにはいられなかった。

 

 そしてその外れてほしかった予感は、見事的中してしまうのだった。

 

「てことはだ、将来有望って奴だな。何だって恐ろしいことにまだまだ成長途上の十代だ。きっと今以上に育っちまうな、ありゃあ」

 

 言いながら、ニヤニヤとした笑みと共に自分の胸の前で、両手を大きく上下させるロックスさん。……僕はもう、絶句するしかないでいた。

 

 と、その時。不意に背後から声をかけられた。

 

「悪りぃ、クラハ。待たせた」

 

 それは紛れもなくラグナ先輩の声で。唐突なその声音に、僕は堪らず肩を跳ね上げさせてしまった。

 

「は、はいっ!?」

 

 そしてそのまま振り返る。当然、そこには先輩が立っていて。呆気に取られたような表情を浮かべ、僕のことを見つめていた。

 

「クラハお前、何で声かけられたくらいでそんな驚いてんだよ?それでも男かー?」

 

 そう言って、まるでこちらを揶揄うようにころころと悪戯っぽく笑う先輩。対して、僕は情けなくも動揺したまま、ぎこちなく口を開いた。

 

「い、いや。えっと、その……」

 

 特に疚しいことは一切していないというのに、僕は言葉を詰まらせてしまう。それと同時に無意識の内に視線を泳がせ────突如として、先程のロックスさんの言葉が僕の脳裏に浮かび上がる。

 

『今のラグナって、何カップだ?』

 

『新聞の写真からしてDはあるんじゃないかと睨んでいるんだがな、あれは』

 

『きっと今以上に育っちまうな、ありゃあ』

 

 ──…………。

 

 そして気がつけば、僕の視線は先輩の胸に注がれていた。

 

 ラグナ先輩の低い背丈に些か釣り合わない大きさのそれは、その存在感を充分に、遺憾なく放っており。否応にもこちらの視線を捕らえて離してくれない。

 

 見てはいけないと思う程、強固に。意識してはいけないと思う程、強烈に。

 

 先輩の魅惑の果実は実に魔性的で、危険で──────

 

「す、すみませんっ!何でもないです大丈夫ですっ!!」

 

「はあ?……まあ、別にいいか」

 

 そこで正気を取り戻した僕は、先輩から視線を顔ごと逸らし、何の根拠もなく勢いだけでそう言ってしまう。僕のそんな返事に当然先輩は納得できないように返したが、一瞬だけ押し黙ったかと思えば、渋々といった様子でそう加えた。

 

 ──恨みますよロックスさん……!

 

 口にはそう出さず、心の中で呟く僕を他所に、先輩は座るロックスさんに気づき、少し驚いたように彼に言葉をかけた。

 

「ロックス?お前帰って来てたのか?」

 

「おう。半年ぶりだな、ラグナ」

 

 僕の時と同じのように、気さくな様子で先輩にも挨拶するロックスさん。それからしみじみと呟くようにして彼が言う。

 

「にしてもお前……半年会わない内にとんでもない美少女になっちまったなあ」

 

 遠い目をしながら先輩のことを見つめ、そしてそのしみじみとした雰囲気のまま、ロックスさんは続けた。

 

「どうだ?十年後辺りにでも、俺と一杯付き合わないか?」

 

「ふざけんな」

 

 平然と紡がれたロックスさんの口説き文句を、欠片程も慌てふためくことなく一切動じずに、ただ冷静にそう一言鋭く切り返す先輩。そんな二人のやり取りを僕は呆然と傍観するしかないでいた。

 

 ジト目になった先輩に睨めつけられながら、ロックスさんはフッと妙に何処か腹立たしい薄ら笑いを浮かべて。

 

「ほんのちょっとした冗談(ジョーク)だ本気にすんな」

 

「本気にしてねえよ」

 

「まあまあ。そう照れるなよラグナ」

 

「照れてねえよ」

 

 ──何だこの会話……。

 

 思わず呆れる僕を他所に。そこでふと唐突にロックスさんがその表情を真剣なものへと一変させ、その全身から異様な雰囲気を放つ。

 

 ──ど、どうしたんだロックスさん……?こんな、急に……!

 

 正真正銘、それは戦士の雰囲気。数え切れない修羅場を渡り、幾つもの死線を潜り抜けた、強者の威圧。

 

 そんな雰囲気を身に纏ったロックスさんだが、彼の眼前に立つ先輩の様子は変わらない。流石と言うべきか、当然と言うべきか。かつての天地無双の強さを失えども、そこはラグナ先輩だった。

 

「ラグナ。冗談はさておいて、だ。……ここからは本気(マジ)だ」

 

 その言葉通り、ロックスさんの言葉は真剣そのものだった。厚みと重みがそこにはあった。対して先輩は無言で、そして何とも言えない無表情を浮かべていた。

 

 数秒の間を置いて、ただ一言。ロックスさんは呟いた。

 

 

 

「ラグナ────お前のボイン、俺に揉み(しだ)かせてくれ」

 

 

 

 ゴッ──その時、先輩の拳と僕の拳がロックスさんの顔面を打つのは、全く同時のことだった。



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ロックス=ガンヴィル(後編)

 何故か、妙にやたらと真剣で、そして異様な雰囲気と声音で。数秒の間を置いてから、ロックスさんがいざその口から繰り出したのは────

 

「ラグナ────お前のボイン、俺に揉み(しだ)かせてくれ」

 

 ────という、最低も最低の、野郎の獣欲剥き出しな懇願であった。

 

 ゴッ──間髪入れず、全くほぼ同時に。先輩の拳と僕の拳がロックスさんの顔面を捉え打ち据える。それから数秒程経って、彼はさも平然とした様子でその口を再度開かせた。

 

「酷えなあ二人とも。人の顔殴りつけるなんてよぉ」

 

 拳を受け止めたまま呟かれたロックスさんの言葉に、ハッと僕は我に返り慌てて拳を戻す。そして先輩もまた、微妙な表情をしながらも、僕と同じようにその拳を引いた。

 

「す、すみませんロックスさん。本当に……すみません」

 

 それから咄嗟に僕は頭を下げロックスさんに謝る。……けれど、僕はどうしても我慢できなかった。流石にこれは、許容の範疇を逸していた。彼の発言は、度を越していた。

 

 無礼を承知で、僕はロックスさんに言う。

 

「けれど、さっきのは……あまりにもあんまりだと思います。第一、先輩は「クラハ」

 

 だが、しかし。ロックスさんに対する僕の苦言を、先輩が遮り止めた。そんな先輩に、僕は思わず困惑の声を漏らしてしまう。

 

「せ、先輩?で、ですが……」

 

「俺は特に気にしてないから別にいい。そんなことより……おいロックス。お前こんなクソつまんなくてどうでもいい冗談かましに、依頼(クエスト)放ってわざわざこの街に帰って来たのかよ?」

 

 僕を諭し、制した先輩はロックスさんにそう問いかける。その声は凛としていて、鋭かった。誤魔化しや茶化すことを一切許さない、そういった声音だった。

 

 それは流石のロックスさんでも否応に感じ取ったらしく、普段から飄々としていて掴み所のない彼にしては珍しく、先輩の問いに対して押し黙ってしまう。それから数秒して、ロックスさんは口を開かせた。

 

「いや。クラハにはもう話したんだが、ちょっと依頼関係の報告をメルネの姐さんに」

 

「……」

 

 ロックスさんの答えを聞き、先輩は沈黙する。直後、先輩がまたロックスさんに訊く。

 

「なら、他の奴……ジョニィも今帰って来てんのか」

 

 恐らくそれは、僕と同じ推論に至った末の問いかけだったのだろう。けれど、そうではないことを僕は知っている。

 

 ロックスさんは、その先輩の問いに対して────何故かすぐに答えることはなかった。もう既に僕に説明しているにも関わらず、何故か悩んでいるかのように黙っていた。

 

 そんな様子に僕が疑問を抱く直前、先にロックスさんが先輩に言った。

 

「帰って来てない。今、帰って来てんのは俺一人だ」

 

 ロックスさんの言葉は、淡々としていた。僕に話した時とは、まるで違っていた。けれどそのことに対して先輩は何を言うでもなく、ただ数秒だけロックスさんを見つめて。

 

「そうか」

 

 そう一言呟くだけだった。それから先輩は僕の方に振り返った。

 

「そういやクラハ、メルネとはもう話済ませたのか?」

 

「……え?あ、いや、その……」

 

 ロックスさんの様子を堪らず不審に思っていた僕だったが、先輩の言葉によって『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へ訪れた目的を思い出す。だが、それは達成できていない。

 

「実は今メルネさんは買い出しに行ってしまっているみたいで……」

 

「何だって?姐さん、今いないのか?」

 

「は、はい。何時(いつ)頃戻って来るのかもわからないみたいです」

 

 先輩に説明したつもりだったが、堪らずといった風に食いついたロックスさんに対して、僕はメルネさんの後輩に当たる受付嬢から訊き出した情報を話す。すると彼は少し困ったように天井を仰ぎ、それから仕方なさそうに肩を落とした。

 

「しゃあねえ。じゃあ姐さんが戻って来るまで待つとするか」

 

 それは僕としても同じことで、自分もそうすると彼の伝える────前に、先輩が僕に言った。

 

「なら俺たちは先に飯食いに行こうぜ。別に急ぎの話じゃないんだろ?」

 

「え?ま、まあそれは、そうなんですけど……」

 

「んじゃ決まりだ。ほら、さっさと行くぞ」

 

「は、はい。わかりました」

 

 踵を返し、すぐさまその場から歩き出す先輩。それに続くようにして僕もまた歩き出す。当然、ロックスさんに対して別れの挨拶を告げることも忘れずに。

 

「ロックスさん!その、短かったですけどありがとうございました!『夜明けの陽』の皆さんにも、ジョニィさんにもどうか僕は元気ですとお伝えください!」

 

「おう、任せときな。俺がしっかり伝えといてやるよ」

 

 そして先輩も一旦立ち止まって、顔だけをロックスさんの方へ振り向かせる。きっと僕と同じように彼に伝言を頼むのだろうと、安直ながらにそう思った。

 

「…………」

 

 けれど、先輩はその口を開こうとはせず。ただ無言でロックスさんのことを見つめていた。

 

 ──先輩……?

 

 僕はそれを訝しんでしまう。何故ならば、ロックスさんを見据えるその眼差しは────何処か悲哀そうに思えたから。

 

 時間にして僅か数秒、先輩とロックスさんの視線は交錯し。先に逸らしたのは、先輩だった。結局何も言わずに、また正面に顔を向き直らせて。そしてまた、歩き出した。

 

「ちょ、先輩っ?」

 

 その先輩の態度は僕を動揺させるには充分で。慌てて呼び止めようとするが、先輩はその歩みを止めることなく先に進んでしまう。赤髪を揺らしながら遠去かるその背中を、僕は困惑しながら追うだけで精一杯だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふう」

 

 クラハとラグナの背中を見送り、独りロックスはため息を吐く。椅子に座ったまま、彼は呆然と天井を仰いだ。

 

 ──あーあ、俺ぁ……駄目な男だな、全く。

 

 心の中でそう呟くロックスの脳裏で、ラグナの言葉が蘇って響く。

 

『お前こんなクソつまんなくてどうでもいい冗談かましに、依頼放ってわざわざこの街に帰って来たのかよ?』

 

「……そんな訳ねえだろ。ははは」

 

 言って、力なく笑うロックス。その意気消沈ぶりは、先程までクラハとラグナの二人と接していた様子からはとてもではないが想像できない程で。今彼が負の感情に塗れてしまっていることは、誰の目から見ても明らかであった。

 

「……ん?」

 

 と、その時。ロックスは視界の端にその姿を捉える。クラハとラグナが『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の門を抜け、少し経った後。その近くに座っていた、麻布のローブを身に纏った者が立ち上がって。二人に続くようにしてその者も『大翼の不死鳥』から去ったのだ。

 

 ──俺の気の所為か……?あのローブ野郎、何処か……。

 

 目を細め、眼光を鋭くさせながら思考を巡らすロックス。だが、それを一つの声が遮り止めた。

 

 

 

「貴方……まさか、ロックス?ロックスなの?」

 

 

 

 その声に、ロックスは咄嗟に背後を振り返る。彼の背後に立っていたのは、視線の先にいたのは────

 

「メルネの姐さん……!?」

 

 ────そう、この冒険者組合(ギルド)『大翼の不死鳥』を代表する受付嬢たる、メルネ=クリスタその人であった。彼女は目を丸くさせていたが、すぐさま普段通りの表情に戻って、ロックスの元にまで歩み寄る。そして彼に対して訊ねた。

 

「思わず驚いちゃった。ロックス、いつこの街に帰って来てたの?もしかして、あの依頼(クエスト)を終わらせたの?」

 

 彼女の問いかけに、ロックスは少し慌てながら椅子から立ち上がり、口を開く。

 

「い、いえ。詳しく話すと長くなるんですが……いやそれよりも、姐さん買い出しに行ってたんですよね?ていうか、一体どこから入って来たんですかい?」

 

 結局問いかけには答えず、しかも逆に問い返す始末のロックス。だがメルネは特に気分を害した様子もなく、さも当然のように答える。

 

「荷物倉庫に片付けて、そのまま裏口から入ったのよ」

 

 それはよくよく考えてみればわかるような答えで。それを聞いたロックスは相槌を打ちながら、メルネに言う。

 

「ああ……なるほど納得しました。ということは、ウイン坊とラグナは姐さんと見事にすれ違った訳か。なんとも間が悪いっつうか何つうか……」

 

「え?そうなの?なら二人に悪いことしちゃった……それで、どうして今ここに、貴方がいるのかしら?」

 

 そうして問答は最初に戻って。だが、それにロックスが即答することはなかった。どうしてか彼は何か躊躇うかのように、迷うかのようにその口を噤んでしまっていた。

 

 そんな彼の様子をメルネは訝しみ、再度彼の名を呟く。

 

「ロックス?」

 

 するとロックスは唐突に深く息を吸い、そして吐き出す。その様は何処か覚悟を決めたようで、ようやっと彼は口を開かせた。

 

「もう、既にGM(ギルドマスター)には報告したんですが……メルネの姐さん。実は、実は……────」

 

 瞬間、ロックスの言葉にメルネは目を見開かせ、表情が硬直する。まるで信じられないという風に、信じたくないと訴えるように。

 

 だが、それも一瞬のことで。すぐさまメルネは普段通りの表情に────否、もうそれは違っていた。普段から彼女と親しくしている者であれば、その表情は無理をして浮かべているとわかってしまった。

 

 そして当然、ロックスもそれに気づいて。彼はその顔を悔恨に歪ませ、拳を握り締めた。薄らと血が滲む程、強く。

 

「…………すみません。本当にすみません。本当に……申し訳、ありません……」

 

 これでもかと後悔と罪悪感に満ち溢れたロックスの謝罪を、メルネは黙って聞いて。そして数秒の間を置いて、彼女は閉ざしていた口を開き、彼に訊ねた。

 

「二人には……クラハ君とラグナには、もう伝えたの?」

 

 数秒押し黙って、ロックスは答える。

 

「言えませんでした。いざ顔を見たら……言葉が、出ませんでした」

 

「…………そっか。うん、そうよね。実に貴方らしいわ」

 

 それから二人の間に沈黙が流れ。またしても数秒の後、敵わないと風にロックスがメルネに言った。

 

「けれど、ラグナの奴には見抜かれたと思います。あいつは昔から勘が鋭いというか良いというか……人の内心っていうものに、恐ろしいまでに敏感ですからね」

 

「……ええ。そうね」

 

 ロックスに言葉を返し、メルネは彼に背を向ける。そうして彼女は、呆然と続けた。

 

「こんな職業だもの。いつ()()()が訪れたって、不思議じゃないわ。……うん、そう。不思議じゃ……ないから……」

 

 明らかに、それは自分に言い聞かせて、納得させようとしている風にしか思えなかった。……事実、そうだったのだろう。

 

「……『愛している』。そう、隊長は言っていました」

 

 ロックスがそう伝えた瞬間、メルネは僅かに肩を跳ね上げさせて。それからロックスの元を離れ、受付(カウンター)の奥へと向かい、そのまま控室に続く扉を開き、消えた。

 

 その背中を見送ったロックスは、顔を俯かせ苦々しく呟く。

 

 

 

「俺ぁ、駄目な男だな」



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「……その、先輩」

 

「ん?何だ、クラハ?」

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』を出て少し経った後、人混みに紛れつつも街道を先輩と共に歩く僕は、躊躇いを消せずも意を決して、先輩に訊ねた。

 

「本当に、良かったんですか?いくらロックスさんでも、あんな発言……言葉は」

 

 言いながら、僕の脳裏にロックスさんの言葉が過ぎる。彼が先輩に対して言った、数々の言葉を。

 

『にしてもお前……半年会わない内にとんでもない美少女になっちまったなあ』

 

『どうだ?十年後辺りにでも、俺と一杯付き合わないか?』

 

『ラグナ────お前のボイン、俺に揉み(しだ)かせてくれ』

 

 ……誰がどう聞いても、弁明も擁護の余地すらない性的嫌がらせ(セクハラ)発言の連発。しかもこれら全ては先輩へ向けられた訳で。勿論女性に対しても大問題だが、何より先輩は、元々は……。

 

 ──ロックスさんだって、知っていたはずだ。わかってたはずだ。なのに、あんな……!

 

 だからこそ、僕は許せなかった。いくらロックスさんといえど、言っていいことやっていいことがある。そして彼の発言と行動は、明らかにそれから大きく逸脱していた。

 

 ……だというのに、当の先輩といえば────

 

『俺は特に気にしてないから別にいい』

 

 ────と、その言葉通り大して意に介せず、全く気にも留めていない風だった。まあ、相手が他の誰でもないロックスさんということもあったろうし、先輩自身気にしていないというのも嘘なんかではなく本当のことなのだろうが……僕としては、複雑な心境にならざるを得なかった。

 

 ──僕はともかく、先輩は怒るべきじゃなかったのか……?

 

 そんな疑問を、抱かずにはいられなかった。そしてそれを心の奥に押し込めて留められる程、僕は気丈ではない。だからこうして、先輩へ向けて吐露してしまった。

 

「…………」

 

 僕の問いかけに対して、先輩はすぐに答えを返すことはなかった。数秒の沈黙を挟み、仕方なさそうに嘆息しつつ、先輩はその口を開き僕に言った。

 

「あん時も言ったけど、俺は気にしてねえよ。ロックスは昔からあんなんだし、それにあいつが自分で言ってた通り、ただの冗談で、別に本気って訳じゃなかったんだろうしなー」

 

「そ、それは……そうだと、思いますけど……」

 

 先輩は器が大きい。並大抵のことであれば、このように全てを水に流してくれる。……流してしまう。

 

 そこが先輩を尊敬できる部分の一つでもあり────そして僕が引っかかる部分でもある。

 

 器が大きい先輩と違って、僕はそうではない。たぶん人並み程度の器でしかない僕は、どうしてもそうですねとは飲み込めない。……許容することが、できないでいる。

 

 あくまでもその悪意が僕自身に向けられたものであれば、別に構わない。だがそれが先輩に対してというのなら、話は変わる。見過ごせない、許せない。

 

 たとえ先輩がいいと言っていても。許すとあっけらかんに笑っていても。僕はそうはいかない。

 

 ──……こればっかりは、幾つ歳を重ねても駄目だ。

 

 先輩の返答に良い顔を浮かべることができず、僕は苦悩する。決して先輩が悪い訳でもないのに、怒りを毛程も抱こうとしないこの人に対して、何を呑気にと憤りを覚えてしまう。

 

 人並み程度の器でしかない僕は、矮小で、そして嫌な人間だ──────

 

「……あー、でもそうだな」

 

 ──────己が心の汚さを自覚していると、不意に先輩がその場に立ち止まって。そう言いながら、僕の方に振り返った。

 

 

 

「もしお前があんなことほざいたら、俺本気(マジ)でキレるから」

 

 

 

 続け様に言葉を紡いだその声音は、真剣そのものだった。

 

 ──……!

 

 堪らず、僕は息を呑んでしまう。その時浮かべられていた先輩の表情が声音同様に真剣で────あまりにも美しかったから。

 

 天真爛漫として、あどけなさが目立つ可愛らしいその表情は、今やがらりと一変しており。今の今までずっと浮かべていたそれはまるで嘘だったかのように、残酷な程に凛々しく大人びた────翳りあるものへと変貌していた。

 

 スッと細められた真紅の瞳はこちらを試すような眼差しを帯びており、それは真正面から真っ直ぐに僕を射抜く。

 

 何も言えなかった。口が開けなかった。今この瞬間、僕の周囲の時間が止まったかと錯覚する程に静かで、それが先輩のその表情と眼差しに僕が惹き込まれていた結果なのだと、呆然としている意識の中で他人事のように理解した。

 

 時間にして、僅か数秒のことだったのだろう。だが僕にとってはこの上なく長い瞬間だった。

 

「なーんて、なっ。お前にそんなこと言う度胸ある訳ねえもん」

 

 という、先程の真剣さなど微塵もありはしない、僕がよく知る声で。翳りなど一切存在しない、悪戯っぽい明るげな笑顔と共に先輩が言う。

 

 その豹変ぶりについて行けず、呆気に取られる僕に、その踵を返しながら先輩が続ける。

 

「てことでこの話題は終いだ。そんでもう出すな。いつまでもそこに突っ立ってないで、さっさと行くぞクラハ。俺腹減ってんの」

 

 言うが早いか、先輩は再び歩き出す。少し遅れてハッと僕は我に返り、その小さな背中が人混みの中に紛れてしまう前に、慌てて声をかける。

 

「せ、先輩!ちょっと待ってください!」

 

 そうして追おうと僕もその場から歩き出す────直前。

 

 

 

 

 

「待つのはお前だ」

 

 

 

 

 

 唐突に、そんな声が背後から聞こえた。

 

 ──え……?

 

 僕の記憶違いでなければ、その声には聞き覚えがあった。……僕にとっては忘れようのない声音であった。

 

 だがそう思うと同時に、ありえないと僕は否定する。何故なら、だってその声の主は──────

 

 

 

 ゴッ──現実逃避しかけた僕の思考は、突如後頭部を襲った衝撃によって強制的に中断され。そしてそれと同時に僕の意識もまた、為す術もなく刈り取られた。



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ライザー=アシュヴァツグフ

「きゃああぁ!」

 

「な、何してるんだお前っ!?」

 

 変わることのない、平和な日常を送っていたオールティアに、絹を裂くような悲鳴や驚愕の声が響き渡る。

 

 そしてそれらに釣られて、歩いていたラグナは一体何事かとまた振り返る。

 

「クラハどうしたぁ?何があったん……」

 

 ラグナとしては、自分の後ろを歩いていたクラハが派手に素っ転んだか何かして、それに街の住民たちが大袈裟な反応をしているのだと、そう甘く平和的な予想をしていた。

 

 だが、そんなラグナの視界に飛び込んだのは────石畳の上に倒れたまま微動だにしないクラハの姿と、そして握った拳を振り下ろしたまま、それを見下ろす麻布のローブを纏う謎の者の姿であった。

 

 その予想だにしない光景を目の当たりにして、ラグナは堪らず呆然としてしまう。今ラグナの頭の中は真っ白に染められており、思考は完全に停止してしまっていた。

 

 時間にして、数秒。その場に立ち尽くしていたラグナが、真紅の双眸を見開かせ、そして叫んだ。

 

「俺の後輩に何してんだお前ぇッッッ!!!」

 

 胸の奥から、腹の底から溢れ噴き出す激怒のままに、叫んだラグナは弾かれたようにその場を駆け出す────直前。

 

 ガッ──不意に人混みから伸びた手がラグナの腕を掴み、それを制した。

 

「んなッ!?離しやがれこのクソ野郎が!!」

 

 ラグナはその手から逃れようと腕を振ろうとするが、腕を掴むその手は大の男のもので、今の非力なラグナではとてもではないが振り払えるものではなかった。

 

「アンタにはここで黙って見ててもらいますよ」

 

 そんな野太く低い声が、ラグナの頭上から降りかかる。ラグナが顔を上げて見てみれば、そこにはラグナの背丈を遥かに越す大男がいつの間にか立っており、さらにその後ろの方にも仲間らしき数人の男が立っていた。

 

「こんの……!何なんだ、お前らッ!?」

 

 焦燥に駆られ、切羽詰まるラグナ。そんなラグナのことを男たちは愉快そうに、ニヤニヤと下卑た顔で見下ろす。

 

 ──畜生が……ッ!

 

 以前の自分であったなら、まだ男であった自分ならば。こんな状況秒もかけずに文字通り一瞬で打開してみせるというのに。だが、今の自分ではどうあっても────どうにもできない。

 

 その現実をまざまざと思い知らされ、堪らずその表情を苦悶に歪ませる────が、次の瞬間。それは絶望へと変わった。

 

「何を呑気に、悠長に気ィ失ってんだ……この野郎がァ!!」

 

 ドゴッ──未だ気を失って、倒れ込んだままのクラハ。そんな無防備な彼の腹部に、ローブの者は遠慮容赦なく、一切の躊躇もなく強烈な蹴りを打ち込む。瞬間肉を鋭く抉り打つ、鈍く生々しい音が響き、クラハの身体が僅かながらに痙攣する。

 

「いい加減、起きろォッ!!」

 

 その一撃に留めず、何度もクラハの腹部を蹴り込むローブの者。その様を見せつけられたラグナが、悲痛に叫ぶ。

 

「おい止めろ!止めろぉ!!クラハが一体何したっていうんだよ!?」

 

 だが、それでもローブの者は止まることなく。執拗にクラハのことを蹴り続け────そして遂に。

 

「ゴホッ……」

 

 薄く開かれたクラハの口から、妙に鮮やかな血が吐き出され。街道に赤い斑模様を描いた。それを目の当たりにしてしまったラグナの瞳から、とうとう透明な雫が零れて落ちた。

 

「もう止めて、くれよぉ……!」

 

 表情をぐしゃぐしゃに崩し、涙を流すラグナ。その様子を、男共は実に愉快そうに見下ろし眺めながら、皆口々に言う。

 

「おいおい。随分と唆る声出してくれるじゃありませんかブレイズさんよお」

 

「本当だぜ。そんでもってこんな子供(ガキ)の女があのラグナ=アルティ=ブレイズだってんだからな。いやはやこいつは良い見世モンだなぁ全く!」

 

「タマらんなぁあ!!」

 

 心ない、汚れに汚れた男共の言葉────しかし、それはラグナには届いていなかった。否、それを気にする程の余裕など、もはや今のラグナにはなかったのだ。

 

 自分の大切な後輩が、自分の目の前で。痛めつけられている、虐げられている。

 

 だがそれを自分はただ見ていることしかできない。止めろと叫ぶのが精一杯で、けれどそんな言葉一つではどうすることも叶わない。何もできない。

 

 自分では──────助けられない。

 

 ──クラハ……クラハ……!

 

 今の自分は本当に何処までも無力だ。こうして止め処なく溢れてくる涙を、情けなく流し続けることしかできない。

 

 それが本当に、本当の本当に嫌で、情けなくて。屈辱的で、悔しくて、悔しくて。

 

 ──…………誰か。

 

 上手く回らない思考の中で、依然双眸から涙を零しながら。そうしてラグナは今一度──────心の底から叫び、乞うた。

 

「誰かぁぁぁぁあああああっっっ!!!」

 

 果たして、それは十何年ぶりの助けを求める声だったか。ラグナ自身、もう忘れてしまっていた。

 

 そしてそれは────────

 

 

 

 

 

「そこまでよ」

 

 

 

 

 

 ────────届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 クラハの腹部へ蹴りを打ち込んでいた足が、既でピタリと止まる。もし止まることなく打ち込まれていたら────その瞬間、ローブの者は無事では済まなかっただろう。

 

 ローブの者の首筋に刃が触れる寸前のところで剣を静止させたまま、吐き捨てるかのようにロックスが言う。

 

「たった一年見ない間に……とんでもねえクズの下衆野郎に成り下がったな、この野郎」

 

「ええ、本当にその通り。……心底、失望したわ」

 

 ロックスの言葉に同調し、悲哀と落胆が入り混じった声音で、複雑そうに呟くメルネ。彼女もまたその手に銀で装飾を施された金槌(ハンマー)を握っており、ロックスと同様にローブの者の顳顬(こめかみ)を打つ直前で止められていた。

 

「答えて頂戴。何故今になって、この街に戻って来たのかしら」

 

 メルネの問いかけに対して、ローブの者はすぐには答えず。勿体ぶるように数秒の間を置いてから、ようやっとその口を再度開かせた。

 

「……おお、怖い怖い。『夜明けの陽』副隊長(リーダー)と元第三期『六険』の二人がかりとは、大人気ないなあ」

 

 まるで人を小馬鹿にするような声音で言いながら、ローブの者が目深に被っていたフードを取り、隠していたその顔を白日の下に晒す。

 

 それを見たラグナは、堪らずに涙で濡れた真紅の瞳を見開かせて。そして信じられないというように、呆然と呟いた。

 

「ライ、ザー…………?」

 

 驚愕と動揺に満ちたラグナの呟きに、ローブの者────ライザーと呼ばれた金髪の男が、口元を凶悪に吊り上げさせて言葉を返す。

 

「そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ」

 

「な、何で……どうしてここにいんだよ、お前。何でこんなことしてんだよ……クラハに何してんだよ、ライザー!?」

 

 ライザーの言葉によって、ラグナはより狼狽え、感情のままに彼に問う。対するライザーは依然その口元を吊り上げて答える────直前。

 

「答える必要はないわ、ライザー。今すぐラグナを離して」

 

 語気を僅かばかりに強めて、メルネが二人の会話に割って入り、ラグナを解放するようライザーに要求する。……しかし、彼女の金槌の柄を握る力が増したところを見るに、それは半ば脅迫でもあったのだが。

 

 そしてそれがわからないライザーではなく、彼は不愉快にその表情を歪ませ、忌々しそうに舌打ちをし。それから億劫なのを微塵も隠さず、ぶっきらぼうにラグナの腕を掴む男に向かって言った。

 

「離してやれ」

 

 ライザーの言葉に従い、男は名残惜しそうに渋々と掴んでいたラグナの腕を放す。瞬間、自由となったラグナはクラハの元にまで一目散に駆け出した。

 

「クラハッ!」

 

 未だ地面に倒れたままのクラハに駆け寄り、その身体を揺さぶるラグナ。しかし彼が意識を取り戻す気配は皆無で、ぐったりと完全に脱力してしまっている。

 

「おい起きろ!なあ、クラハ!クラハッ!!」

 

 そんな状態のクラハを目の当たりにして、堪らず焦燥に駆られ揉まれ、大いに取り乱す。そして何度も呼びかけるその最中────突如、メルネが鋭く叫んだ。

 

「落ち着きなさいラグナ=アルティ=ブレイズッ!」

 

「ッ!?」

 

 予想だにしないメルネからの叱咤に、思わずラグナが肩を跳ねさせる。それから驚いた顔で見上げるラグナへ、依然険しい表情でメルネが言う。

 

「クラハ君はただ気を失っているだけ。そうなる気持ちはわかるけど……この子の先輩だというのなら、あなたは今最も冷静にならなければならない人間なのよ」

 

「!……」

 

 メルネの言葉は正しく、そして当然のことであった。ラグナの立場であれば、なおさらのこと。

 

 しかしそのことにラグナは真っ先に気づけなかった。目の前でクラハを虐げられたことに、彼の意識が戻らないことに焦り────自分はただ惨めにみっともなく泣いて、不甲斐なく取り乱すことしかできなかった。

 

 メルネに言われ、我に返ったラグナはギュッと拳を握り締め、そして顔を伏せた。

 

「……ごめん」

 

 途轍もなく、これ以上にない悔しさを無理矢理に捩じ伏せ。何処までも苦々しく震える、弱々しい声音でそう呟いて。

 

「…………」

 

 そしてラグナのそんな姿を、ライザーは感情を上手く読み取れない無表情で黙って見下ろしていた。

 

「ライザー。この街から出て行きなさい。……ここにはもう、貴方の居場所なんてないのだから」

 

 あくまでも冷静に、だが怒りを押し殺した声で言われ、ライザーはその視線をラグナからメルネに移す。彼は横目で彼女を睨めつけ、ただ一言────

 

「断る」

 

 ────確実な殺意を微かに滲ませ吐き捨てた。

 

 ──ッ……!

 

 思わず一歩後退りそうになるのを、メルネは既で堪える。表情にこそ(おくび)にも出さなかったが、ライザーのそれは彼女に危機感を抱かせるには充分過ぎる程に充分であった。

 

 数秒、息の詰まる沈黙が流れ。先にまた口を開いたのは──ライザーだった。

 

「メルネ=クリスタさんよ、俺はもう『大翼の不死鳥』の一員なんかじゃあないんだぜ。もはや貴女の言うことを聞いてやる道理なんざ……ねえんだよ」

 

「ハッ!よく言うぜ。ついさっきまで『大翼の不死鳥』の広間(ロビー)で、この二人を熱心に見張ってたくせによぉ」

 

 ライザーの言葉に透かさず噛みつくロックス。そんな彼に対してライザーは何も言わず視線だけ送り、それから小さく舌打ちし吐き捨てるように言う。

 

「まあいいさ。今日のところはこれくらいで済ませてやるよ」

 

 そして言うが早いか、ライザーは足元のクラハを跨ぎ、歩き出す────その直前。

 

 

 

 

 

「今のアンタを、俺は認めない」

 

 

 

 

 

 クラハの身を案じ、彼に寄り添い石畳に座り込み、顔を俯かせたままのラグナにそう告げた。

 

 その言葉に、堪らずラグナの肩が僅かに跳ねて震える。だがそんなラグナにはもう目もくれず、仲間だろう数人の男たちを引き連れライザーはこの場を去って行く。

 

「……ラグナ。クラハ君を病院に運びましょう。彼を医者に診せないと」

 

 遠去かるライザーの背中を尻目に、メルネはそっとラグナに声をかける。……が、彼女の言葉に対してラグナは何も返さなかった。

 

「ラグナ……?」

 

 一体どうしたのかと思ったメルネが、再度呼びかける。すると依然その顔を俯かせたまま、ラグナは言った。

 

「今の、俺…………」

 

 その声はどうしようもない程に思い詰めていて。そして不安と──────諦観にも似た絶望で満ちていた。



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言いかけたことは

「俺は認めねえ!こんな、こんなの俺は絶対に認めねえぞッ!!」

 

 流れ、滴り、垂れて落ちる。赤くて赤い、真っ赤なそれは妙に鮮やかではっきりと見えた。

 

「覚えとけ……覚えとけよ!いつか必ず、俺がお前をぶちのめしてやるッ!」

 

 声は大きく喧しく。言葉は憎悪と怨恨に満ち満ちていて。目はひたすらに殺意で溢れていて。

 

「この借りは返す……絶対に、絶対にだッ!!」

 

 けれど、今はそれどころじゃなかった。止め処なく押し寄せては広がっていく、終わりのない哀しみにも似た喪失感のせいで。

 

 剣の柄を握る手は、まるで痺れているようで。心には何も失く、何処までも空で、虚しくて。伏せる目からは、今にでも涙が零れそうだった。

 

 だが、それでもお構いなしにと。声は続き、言葉を紡ぐ。

 

「わかったな!?──────クラハァッ!!!」

 

 瞬間、呆然とする意識の最中。ただ一つ、こう思う。

 

 

 

 

 

 違う。僕は、こんなことの為に──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初、視界に映った色は真っ白だった。遅れて、それが天井なのだと僕は理解する。

 

「……ここ、は……?」

 

 今の今まで、どうやら僕は気を失っていたらしい。覚めたばかりの意識は不鮮明で、不透明で。何か考えようとしても、上手く考えることができない。

 

 背中に当たる感触と、身体に覆い被さる布らしき物体の重みで自分は寝台(ベッド)に横たわっているのだと気づいた。

 

 ここは一体どこなのか、それを把握しようと僕は身体を起こす──ことはできなかった。

 

「ぐ……ッ」

 

 ほんの僅かばかりだけ身体を動かした瞬間、腹部に響いた鈍痛に妨げられたせいで。

 

 ──……なるほど。

 

 微かに顔を顰めさせながらも、周囲に視線を配り僕は内心で頷く。ある程度の広さを確保しており、清潔にされている。このことからここがオールティアにある唯一無二の小さな病院で、そしてこの部屋はその病院の数少ない個人病室だとわかったからだ。

 

 ──ここの院長、苦手なんだよな……。

 

 職業柄、この病院には何度も世話になっている。だから当然この病院の医者とも、院長とも決して少なくない回数の交流もある。

 

 医者としては確かな腕を持つが、その人間性はおよそ褒められたものではない院長のことを思い出し、苦い表情になりながらも腹部を手で押さえながら、僕は慎重に上半身だけを起こす。窓を見やれば既に太陽は真上まで昇っていて、そのことから既に昨日から翌日の昼頃になっているのだと判断する。

 

「…………」

 

 窓を眺めながら、僕は昨日のことを呆然と思い返す。……いや、正確には意識を失う直前に聞いた、あの声を。

 

 

 

『待つのはお前だ』

 

 

 

 その声を、僕は忘れもしない。忘れることなど、できやしない────許されない。

 

 何故なら、僕はその声の主の──────

 

 

 

 

 

 ギィ──と、その時。不意に軋んだ音が立って。音がした方を咄嗟に見やれば、この病室の扉が開かれていて。そこには紙袋を片腕で抱えたまま立ち尽くす、ラグナ先輩の姿があった。

 

 僕と先輩、互いが互いの顔を静寂の中で見つめ合う。そしてそれは数秒の間続いて、先に破ったのは僕の方だった。

 

「せ、先輩……えっと、おはようございます」

 

 その様子を例えるなら、今まで止まっていた時間が動き出したようだった。真紅の双眸を驚愕で見開かせていた先輩は、抱えているその紙袋を床に落としてしまう。だがそれを気にも留めず、その場から一歩二歩と恐る恐る進んで────堪え切れなくなったように、先輩は駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「良かった、本当に良かった……!クラハ、お前ずっと寝込んじまって、全然起きなくて……!」

 

 椅子に座ってそう言う先輩の顔は、凄まじいまでの心配で染まり切っていて。その声音もどうしようもない程の不安を孕んでいて。そしてその二つは、僕が全く知らないものであった。

 

 思わず動揺を覚えながらも、まず先輩を安心させようと僕は口を開こうとした────直前、不意に腹部に先程の鈍痛が走る。

 

 ──ッ……。

 

 僕は思わず顔を顰めそうになったが、寸前で何とか堪えて平常を装う。……もう、これ以上先輩に心配をさせる訳にはいかない。

 

 痛みを我慢しながら、僕は改めて口を開いた。

 

「すみません、先輩。一体何があったか……ちょっと色々話を聞かせてほしいんですけど、大丈夫ですか?」

 

 僕がそう訊ねると、先輩は少し複雑そうな表情になった。数秒の沈黙の後、躊躇うように。だけど、先輩は僕にこう言ってくれた。

 

「……おう、いいぞ。全部、聞かせてやる」

 

 その言葉の通り、先輩は全てを事細かく語ってくれた。僕を背後から殴りつけたのは他の誰でもない、ライザー=アシュヴァツグフであること。気を失った僕を彼が甚振ったこと。その場にメルネさんとロックスさんの二人が駆けつけ、助けてくれたこと。

 

 その後僕はこの病気へと運ばれ、昨日から今日の昼頃まで気を失ったままだったこと────その全てを、先輩は僕に話してくれたのだ。

 

「……」

 

 どうりで先程から腹部に鈍痛を感じる訳だと、先輩から話を聞いた僕は妙な納得を覚える。その傍らで、僕は呆然と思い出していた。

 

 ライザー=アシュヴァツグフ────彼に関する数々の記憶を。ライザーは『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の冒険者(ランカー)で、彼は優秀な《S》ランクの冒険者で。確かな実績を多く持つ、本当に優秀な……冒険者だった。

 

 だが、ライザーは……僕の、せいで────

 

 ──…………。

 

 ここ最近、さらに詳しく語るのなら一年の間考えることのない────否、できるだけ考えないようにしていた男について考え込んでしまい、押し寄せる自責の念と罪悪感に苦い表情を浮かべてしまう。

 

 それを勘違いしたのだろう。依然不安と心配が入り混じる顔をして、先輩が訊いてくる。

 

「クラハ、腹は大丈夫か?やっぱりまだ痛かったりするのか?……あんなに、蹴られてたし」

 

 確かに先輩の指摘通り、腹部の鈍痛はまだ止んでいない。だけど、さっきもそうであったように……僕は先輩を心配させたくなかった。不安になってほしくなかった。

 

 だから僕は浮かべていた苦い表情を普段通りのものへと変えて、平気な風を装い答えた。

 

「いえ。時間もある程度経ちましたし、もう大丈夫ですよ」

 

 そう伝えると先輩は少しの間僕の顔を見つめて、それから安堵したようにその表情を和らげさせてくれた。

 

「なら、いいんだ。……流石は俺の後輩だな」

 

「え、ええ!伊達に後輩やってませんから」

 

 まるで──というかその通りなのだが、先輩を騙しているみたいで気が憚られてしまう。だが、先輩の心身に負担をかけてしまうくらいならば、この方がまだマシだ。

 

 と、そこで僕と先輩の会話が終わり。途端に、病室は静寂に包まれてしまう。ただでさえ昼下がりの病院というのは、物静かであるというのに。

 

 それが続くのが数十秒であればまだいいが、数分となれば流石に事情が変わってくる。気まずい雰囲気というのが生じ出す。

 

 しかし何か話そうにもこれといった話題もなく。ただただ、時間が過ぎていき────そして。

 

「……クラハ」

 

 今の今まで沈黙していた先輩が、その時口を開いた。顔を僅かに俯かせて、悔恨に塗れた声で、僕に言う。

 

「ごめん」

 

「え?」

 

 それは突然の謝罪で。何故急にそんなことを言い出すのか、僕が困惑の声を漏らす。しかしそれがまるで聞こえていないように、そして堰を切ったように先輩が続ける。

 

「俺、何もできなかった。目の前でお前が腹蹴られてんのに、お前が酷え目に遭ってんのに……俺見てることしかできなかった。助け、られなかった」

 

 その言葉を聞いて、そこに込められた感情を受け止めて────瞬間、僕はハッと理解した。

 

 それは、先輩が溜め込んでいたものだった。僕が気を失って────否、僕がライザーに痛めつけられている時から、今日まで。今の今まで、計り知れない苦悶の最中でずっと溜め込むしかなかったもの。吐き出そうにも、その肝心の相手は意識がなく。ただひたすらに、我慢する他なかった。

 

 その小さな身体で。その不安定な心で。……僕は、なんて酷なことを、よりもよって今のこの人にさせてしまったのか。

 

「本当に……ごめん」

 

「だ、大丈夫ですって先輩!僕はこの通り意識も戻りましたし、先輩が助けを呼んだから、大事にも至りませんでしたし!ですから、もうそこまで気にすることなんてないですよ!」

 

 とんでもないことをしでかしてしまったと、僕が悔いる間にも先輩は謝る。反射的に、慌てて僕はできる限りの笑顔でそう言っていた。

 

 ……しかし、俯いた先輩の表情は晴れず。辛そうに、言葉を絞り出す。

 

「俺はお前の先輩なんだよ。なのに、なのに……っ」

 

 その言葉には、もはや言い表しようのない辛苦の意がありありと込められていて。僕はもう、何も言えなくなってしまった。

 

 また、病室に静寂が訪れて。だがそれは先程よりも長くは続かず、そして今度先に破ったのは────先輩だった。

 

「クラハ。俺さ、昨日からずっと────

 

 

 

 ギシ──だがその時、まるで先輩の言葉を遮るように床の軋む音が、存外大きく響き渡った。

 

 

 

 ────ッ!?」

 

 その音に対して、先輩は椅子から落ちるのではないかと危惧する程に全身を跳ねさせ、音がした方へ振り向く。過剰とも思えるその反応に多少面喰らいつつも、僕も視線をそちらに向ける。

 

 開かれたままだった扉の向こうに、かけた眼鏡が知的な印象を醸し出す、汚れ一つとない白衣姿の長身の女性が立っていた。

 

 その女性は扉と同じく床に落とされたままであった紙袋を拾い上げ、そして平然とした様子でその口を開かせる。

 

「お邪魔しちゃったかしら」

 

 その言葉だけ受け取れば、申し訳なく悪()れていたように聞こえていたのだろうが、実際にそんなことはなく。全くと言っていい程に女性は申し訳なさそうにもしていなければ、欠片程も悪怯れている様子もなかった。

 

 ──これだから、ここの院長は……。

 

 相も変わらないその人柄に辟易としてしまうが、この病室の扉を開けたままにしていたのはこちらだし、この人にしては珍しいことに他人の落とし物も拾ってくれている。そんな態度を非難するのは、流石にお門違いというものか。

 

 嘆息一つ吐いてから、僕が口を開こうとした────直前。

 

「わ、悪い。俺急用思い出した」

 

 と、先に。それも似合わない早口でそう言うや否や、先輩は椅子から立ち上がり、踵を返してそそくさとこの場を去ろうとしてしまう。

 

「えっ?ちょ、先輩っ?」

 

 そんな先輩を僕は慌てて呼び止めようとする。だって、先程先輩は────

 

 

 

『クラハ。俺さ、昨日からずっと────』

 

 

 

 ────何か、僕に言いかけていた。その声音は真剣で、何処か思い詰めているように感じ取れた。

 

 一体先輩は僕に何を言おうとしていたのか。それが、何故だか無性に気になってしまって。

 

「……」

 

 しかし、先輩は僕に背中を向けたまま。立ち止まり振り返ることなどなく、そのまま白衣の女性の側を駆け抜け、病室から去ってしまった。

 

「……なんか、悪かったわね」

 

 先輩と入れ替わりに、ゆっくりと寝台(ベッド)の近くにまで歩み寄り、拾い上げた紙袋を備え付けの机に乗せて。今度はほんの少し悪怯れたように女性が僕に言う。……だが、僕は何も返せなかった。

 

 ──……先輩は、僕に何を言おうとしてたんだろう。

 

 その一心で、それどころではなかったから。



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大空の下在るものは全て同じでも

 ──……言い出せなかった。

 

 急用を思い出したなどという、くだらない嘘を吐いて。何も考えず、ただ我武者羅(がむしゃら)に病院を飛び出して。

 

 脇目も振らず、(なり)振り構わずラグナはオールティアの街道を駆けていた。どこへ向かう訳でもなく、どこを目指す訳でもなく。

 

 ──言えなかった……!

 

 行き交う人々の間を擦り抜け、こちらの身を案じてかけられた声も一切合切、全て無視して。ラグナは独り、走った。

 

 走って、走って。そして走り続けた。陽光に照らされ煌々とした輝きを放つ紅蓮の髪を揺らしながら、ラグナは一心不乱にオールティアの街道を駆け抜けたのだ。

 

 ──聞け、なかったッ!

 

 その身には有り余る程の、己の心を焼いて、焼き尽くして、焼き焦がさんばかりの激情を抱え込んで。

 

 だがしかし、それもやがて終わりを迎える。生物の体力は有限であり、小休憩でも挟まない限り遅かれ早かれ、いつかは必ず尽きる。

 

 とはいえ、()()()()()ラグナであったら、数百倍は長い時間この疾走を続けることができていたのだが────それが今では、保って数分だった。

 

 石畳を蹴りつける足の勢いが徐々に弱まって、果てには完全に停止してしまう。その場に立ち止まったラグナは堪らず腰を折り、膝に手を置くと、息と共に忌々しそうに言葉を吐き出す。

 

「ハァ……ッ!ぐッ……クソ、が……!」

 

 病院からは、そう遠く離れられてはいなかった。クラハならば、自分と違って大して体力も消費せずに、そしてこんな自分よりもさらに早く、この場に辿り着いてみせるだろう。

 

 全身が熱い。足が痛い。もう、この場から一歩も動ける気がしない。効率の悪い、荒い呼吸を馬鹿みたいに何度も繰り返すだけで、手一杯。

 

 体力の限界──それは果たして、何十年ぶりに味わう感覚なのだろう。そんな当たり前のことも、ラグナはすっかり忘れてしまった。

 

 ──胸、苦しい……。

 

 肩を激しく上下させ、頬を伝った汗を顎先から垂らしながら、ラグナは手を胸に伸ばす────と。

 

 むにゅ、という。柔らかで何処までも沈み込んでしまうような感触が手の平に伝わり。たぷん、という。決して少なくはない確かな質量を感じる重みが手の平に乗った。

 

「…………」

 

 最初の頃は、流石のラグナも面喰らった。自分にある訳のない、あってはならないその二つの膨らみに対して、その感触と重みに対してみっともなく動揺し、これ以上にない混乱と困惑に見舞われた。

 

 しかし時が経つにつれ、今ではもう特に感慨も何ら抱かないくらいには慣れた。……慣れてしまった。

 

 これが当然なのだと、自分にはあって当たり前なのだと。いつの間にかそう()()()()()()()()()、一々憤りそうなる自分を無理矢理抑え込んで、納得させていた。

 

 ……否、()()()()()()()。諦め、そしてどうしたって変えようのない現実を、潔く黙って受け入れようと試みていた。

 

 そう、今の現実を。今の──────

 

 

 

「……ふざけんな。んなの、無理に決まってんだろ」

 

 

 

 思わず吐き出しそうになったその言葉(よわね)を、ラグナはギリギリの既で呑み込み。その代わりに、せめてもの言葉(つよがり)を吐き捨てた。

 

 手の平に伝わる柔らかな感触が憎たらしい。手の平に乗っている重さが恨めしい。

 

 それだけではない。この低い背丈も、地面に立っているんだか宙に浮いているんだかいまいちわからないこの身体も。

 

 全部が全部、何もかもが────どうしようもない程に堪らなく、気に入らない。

 

 ふと気がつけば、あれだけ乱れていた呼吸は安定し始めていた。足の痛みも引いて、歩くだけなら何とかなりそうなくらいには体力が回復していた。

 

 顎先に伝っていた汗を手の甲で拭って、ラグナは顔を上げる。未だ太陽浮かぶ空は、青くて。何処までも清々しく澄み渡っていて。今こうしてここから見上げても、どこか全く違う場所から見上げても。きっとこの空は同じように見えるのだろう。

 

 そう、同じ。そしてそれは、空の下に在るもの全てにも言えることだろう。植物も動物も、人間も。

 

 全部、同じはずなんだ────そう思いながら、視線を下げた。

 

「あ……」

 

 すぐ側に、店があった。一体何の店かはわからなかった。ただ、その店の窓硝子(ガラス)に、はっきりと()()姿()は映り込んでいた。

 

 大の男の胸に届くか届かない程度の低い身長。背中を完全に覆い隠せるまでに伸びた髪。

 

 華奢な肩や細い腕は見るからに非力そうで、当然筋肉などある訳もない。

 

 そう、そこに映っているのはどこからどう見ても一人の少女。そしてその少女は紛れもない──────今の自分。

 

「……違う、じゃねえか」

 

 呟いた声は情けなく、惨めにも震えていて。だが到底、抑えられそうにはなくて。まるで誰かに背中を押されるようにして、ラグナはその場から一歩二歩と踏み出し、フラフラと身体を危なげに揺らしながら、その窓硝子へ近づいていく。

 

「何でだよ。何で、俺だけ……」

 

 窓硝子のすぐ目の前にまで歩み寄って。ラグナは恐る恐る腕を上げて、手を伸ばして。そして窓硝子に────映り込む少女の顔に触れた。

 

 真紅の双眸でこちらを見据えながら、少女がその口を開く。

 

「俺だけ違うんだ」

 

 空は同じだった。その下に在るものも同じだと信じていた。……だけど、自分は違った。もう、同じではなかった。同じではなくなってしまった。

 

 そこにはもう、ラグナ=アルティ=ブレイズの姿など────何処にもいなかった。

 

 

 

『先輩』

 

 

 

 そう呼ばれるべき存在(モノ)など、とっくのとうに消え失せていたのだ。

 

 ──ああ、なんだ。

 

 その瞬間、諦めにも似た絶望に包まれて。勝手に乾いた笑いが口から溢れ出す。

 

 ──別にもう、聞かなくてもわかるじゃねえか。

 

 先程言いかけたことを思い返して、だがそれは必要なかったという結論を出す。何故なら、別に聞かなくてもわかることなのだから。

 

 恐らく、きっと──────

 

 

 

 

 

『今のアンタを、俺は認めない』

 

 

 

 

 

 ──────同じ風に、クラハもそう思っているだろうから。

 

「…………あ、れ……?」

 

 気がつけば、視界は街道の石畳を映していた。そして何故か、少し濡れていた。雨が降っている訳でもないのに。

 

 不思議に思って顔を上げれば────窓硝子に映る少女が、泣いていた。その真紅の瞳から、涙を止め処なく溢れさせていた。

 

「……畜生、畜生……!」

 

 言葉を漏らす度、涙は流れて、落ちて。眼下の石畳を点々と濡らしていく。

 

「ちくしょぉ…………っ!」

 

 気がつけば、頭の中はもうぐちゃぐちゃで。何が何だかわからなくて。どうしようもなくなって。まるで幼い子供のように、泣くことしかできなかった。

 

 まともに思考もできないその最中で、ただ一言ラグナは窓硝子の少女へ問いかけた

 

「今の俺って、一体誰なんだ……?」

 

 ……答えなど、返ってくるはずがなかった。当然だろう、窓硝子の少女は──────紛れもない今の自分(ラグナ)なのだから。

 

 走ってすぐに尽きてしまう体力。非力で脆弱な身体。それが、今の自分。しかし、それでも。

 

 ──それでも、俺は……。

 

 と、その時だった。窓硝子の端に、まだ記憶に新しい、見覚えのある後ろ姿が映った。

 

「!」

 

 注目を集めるだろうその金髪を、見間違えるはずもない。ラグナが見つめている中、その背中は早足で進み、あっという間に遠去かり。そして薄暗い裏路地へと消えた。

 

「……」

 

 ラグナの脳裏に、昨日の光景が過ぎる。どうすることもできず、ただ助けを求めて叫ぶことしかできなかった自分のすぐ目の前で、自分の大事で大切な存在(モノ)をいいように痛めつけられて、散々甚振(いたぶ)られて。

 

 でも、何もできなかった。自分はただただひたすらに、無力だった。それを思い出すラグナは、無意識の内に拳を握り締める。固く、そして固く。

 

「…………」

 

 瞳を閉じて、深く息を吸い。それからゆっくりと吐き出す。

 

「よし」

 

 そう言うや否や、ラグナは閉じた瞳を再度開かせる。涙はもう、止まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ん?おいおい、ここは君みたいな子が来るとこじゃないぜ。お嬢さん」

 

 鉄扉を背後にして立っている男は面倒そうに言う。それと同時に目の前に立つその者を、頭から爪先まで見下ろし眺め、ハッと気づいたように続ける。

 

「いやアンタは、確か……」

 

 その男に対して、その者は────ラグナは睨みながら、震え一つとない毅然とした声音で言った。

 

 

 

「今すぐライザーの奴に会わせろ」



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謝れ

 その建物は元は廃墟だったのだろう。それをどうやらアジトとして再利用しているらしいが……はっきり言って、その中の環境は最悪の一言に尽きた。

 

 通路は凸凹で歩き難いことこの上なく、壁もところどころ穴が空いていたり、酷い場合はそもそも崩れてしまっている。そしてどこにいようが埃とカビの入り混じった臭いが鼻を突く。綺麗好きであるラグナにとって、この環境はあまりにも辛過ぎた。

 

 ──……今すぐここから出たい。

 

 顔を顰めさせ、思わずこの建物から抜け出したい気持ちになるラグナ。しかしそうする訳にもいかず、心を気丈に保ち必死に我慢する。

 

 そうして、ある程度進むと。ラグナを案内する男が、一つの扉の前に止まる。その扉からは複数のくぐもった男たちの声が聞こえており、何かの娯楽でもしているのか馬鹿みたいに騒がしい。

 

 男が扉のノブを掴み、そして捻る────次の瞬間、ラグナは堪らず顔を歪めさせてしまった。

 

 ──うぐ……っ!

 

 通路は埃とカビだったが、その部屋の中は酒と食べ物──そして男の臭いで充満し、溢れ返っていた。しかもどうやら窓がない部屋らしく、換気もろくにしていなかったらしい。扉を開けたことで唯一の空気の通り道ができ、結果そこへ室内の空気がその臭いを伴って一気に押し寄せた訳だ。

 

 ラグナの前には案内の男が立っていたので、幸い直撃は免れたが……それでも十二分に強烈で。ラグナは無意識の内にもその場から半歩、退がってしまっていた。

 

 ──こ、こん中入んなきゃいけないってのか?

 

 この部屋に足を踏み入れさせることに対して、ラグナは生理的嫌悪感と堪えようのない不快感を抱くラグナ。そんなラグナとは対照的に案内の男は然程気にする様子もなく、そのまま部屋の中へと進んで行ってしまう。

 

「…………(クソ)が」

 

 部屋の中にいる男共に聞こえぬよう、そう吐き捨て。ラグナは目を閉じ、深呼吸──したかったがここですると身体の具合が悪くなりそうなので断念し、覚悟を決め目を見開かせる。そして死地に飛び込むつもりで、重たい足を上げ────ラグナは遂に、部屋の中へ踏み入った。

 

 部屋の中には十数人の男たちがおり、皆が皆それぞれのことをしていた。

 

 飯を貪る者。酒を煽る者。下世話な話題で盛り上がる者たち。賭博(ギャンブル)に興じる者たち。そこに広がっていたのは、そんな光景ばかりだった。

 

 それらを目の当たりにしたラグナは、率直に思う。

 

 ──くだらねえ。他にやることないのかよ。

 

 そしてラグナは視線を彼から外し、案内の男の背中を追う。と、案内の男に別の男が横から声をかける。

 

「おいジョナス!お前ライザーさんに気に入られてるからって、抜け駆けすんじゃねえぞおい!絶対だからな!!」

 

「抜け駆けなんてするかよ。ライザーさんに殺されちまう」

 

 だいぶ酒を飲んでご機嫌らしいその男は案内の男──ジョナスにそう汚らしく唾を飛ばして怒鳴りつけるが、対するジョナスは特に気にも留めず軽くあしらった。

 

 しかし、ジョナスとその男の会話に、ラグナとしては聞き捨てならない発言があった。

 

 ──抜け駆け……?

 

 一体何を指したことの抜け駆けなのか。それが妙に引っかかるラグナであったが、ジョナスの声がラグナを現実へ引き戻した。

 

「あちらです」

 

「あ?お、おう」

 

 少し慌てて返事をし、見てみれば。ジョナスが指差すその先は奥の方で、そしてそこには扉があった。この部屋に入る時とは違い、その扉の向こうから物音らしい物音は聞こえず。ラグナにはそれが少し不気味に思えた。

 

「……この先にライザーがいんのか?」

 

 ラグナはそう訊ねるが、ジョナスは何も答えず沈黙してしまう。そんな彼の態度をムッと不快に思うラグナであったが、今はそんなことを一々(いちいち)気にしている場合ではない。

 

「……わぁったよ。ここまで案内してくれてありがとな」

 

 全く心の籠っていない感謝の言葉を述べて、ラグナが扉の元まで向かおうとした、その瞬間。唐突にラグナの背筋を悪寒が駆け抜けた。

 

 ──ッ……?

 

 それはまるで、肌を舐め回されるような、そんな悍ましく気色悪い感覚で。そしてそれはラグナが生涯の中で今、初めて味わう感覚でもあった。

 

 その未知の感覚に堪らず、一瞬にしてラグナは怖気立ってしまう。咄嗟に背後を振り返ると────そこにはジョナスが立っているだけだった。

 

「……どうかしましたか?」

 

 ラグナの挙動を不審に思ったのか、ジョナスがそう訊ねる。

 

「な、何でもない」

 

 その感覚を、自分の気の所為だと決めつけて。ラグナは慌てながらもまた扉の方へと向き直り、そして進み始めた。

 

 だがしかし、ラグナは気づいていなかった。気づけなかった。

 

 ジョナスの後ろで男共が、皆顔を見合わせ下卑た笑みを浮かべていたことを。そしてジョナスが憐憫の表情で、こちらの背中を見送っていたことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扉は何の変哲もない、至って普通の扉で。別に鍵がかかっている訳でもないそれは、呆気なくも開くことができた。

 

 そして扉を開けたラグナを出迎えたのは────

 

 

 

「まさかこんなところに、それもたった一人でお越しくださるとは、ついぞ思いもしてませんでしたよ」

 

 

 

 ────という、口調自体は敬意を払いつつもその声音は何処か鬱屈としている言葉だった。

 

 狭く、窮屈な印象を抱く部屋だった。これといった家具もなく、唯一あったのは一つの小さな寝台(ベッド)だけ。そしてその寝台に腰かける、一人の男がいた。

 

 遠目からでも目立つ、派手な金髪。長身で、腰かけているというのに立っているラグナよりも少し高い位置に頭がある。

 

「ようこそ。俺の隠れ家へ」

 

 そう言って、その男は──ライザー=アシュヴァツグフは俯かせていたその顔を上げた。

 

 ライザーを一言で表すのなら、獣────獅子という言葉がよく当てはまる。別にやたら毛深いだとか、顔つきが濃いという訳ではない。むしろライザーの場合は全くの逆で、クラハと似た部類の好青年である。

 

 ……ただ、その雰囲気はクラハとは似ても似つかなかった。彼のは温厚柔和で誰でも気軽に接せられる雰囲気ならば、ライザーのは常に周囲を威圧しているかのような、雄々しく荒々しい雰囲気である。

 

 それはまさに獰猛な肉食獣────百獣の王たる獅子が如きで。また髪と同じ色をした双眸も鋭く、宿る眼光は内に秘める獣性を隠せないでいた。

 

 凶暴で危険で、接し難く近づき難い一人の男────否、雄。だからこそ、多くの女性を────雌を彼は意識せずとも本能的に惹きつけてしまうのだろう。まだ『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に在籍していた一年前、ライザーの側に数人の女性の取り巻きができていたことを呆然と思い出し、ラグナは他人事のようにそう考えていた。

 

「それで、ここに……いや、俺に一体何の用ですか?別に世間話をしに、わざわざこんなところに来た訳ではないんでしょう?」

 

 試すようにこちらのことを見据えながら、依然気取ったような、わざとらしい口調で訊ねるライザー。それに対してラグナは、彼の眼光に僅かにも臆することなく、毅然とした態度で答える。

 

「ああ、当然。……お前に一つ、言いたいことがあんだよ」

 

 ライザーがそうするのと同じように、ラグナもまた彼のことを見据える。真紅の双眸に強かな意志を、決意の光を宿らせて。キッと彼を睨みつける。

 

「……俺に、言いたいこと?」

 

 胡乱げにそう言うライザー。そこでラグナは深呼吸を挟んだ。瞳を閉じて、息を吸い、吐き出し────そして瞳を見開かせて、ライザーに聞こえるよう一字一句、はっきりと言った。

 

 

 

 

 

「クラハに謝れ、ライザー」



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クラハが俺の後輩で、俺はクラハの先輩だからだ

「クラハに謝れ、ライザー」

 

 一字一句、間違うことなく。はっきりと聞こえるよう、確かに。一切、欠片程も誤魔化すことも、(ぼか)すこともなく。

 

 こちらを射抜き貫く、まるで剣や槍などの武器を彷彿とさせるライザーの眼差しに臆さず退かず、ラグナはそう伝えた。

 

 瞬間、部屋は静寂で満ちる。驚くことに、外で散々騒いでいるはずの男共の声も物音も、少しだって聞こえない。

 

 ラグナとライザーの間で沈黙が流れる。それは重苦しいもので、並大抵の精神力しか持たぬ者であれば、数秒とその場にいることすら叶わない程ものだ。しかし、依然としてラグナは毅然とした態度を崩さず、真正面から、真っ向からライザーと相対していた。

 

 そうして、気がつけば数分の時が過ぎ。ようやく、ライザーは再びその口を開かせた。

 

「そんなことを俺に言いに、アンタはここまで、それも一人で乗り込んだんですか?」

 

 クラハへの謝罪をそんなこと呼ばわりされ、思わず眉を上げそうになってしまったラグナだったが、それを我慢し、ライザーの質問に答えた。

 

「そうだ」

 

「…………」

 

 するとライザーは黙り込み、顔を俯かせてしまう。再び二人の間に沈黙が流れて、数分。

 

「断ります。いくらアンタの言うことでも、それだけは聞き入れられませんね」

 

 それが、数分ラグナを待たせた末のライザーの返事だった。当然、こんな返事を受けたラグナはふざけるなと激怒────しかけたが、既で拳を固く握り締め、なんとか堪えた。

 

 ──落ち着け。平常心、平常心……!

 

 そもそも顔も上げずに返事したこと自体も許せなかったが、今自分は冷静でいなければならない。そう己に言い聞かせて、沸々と込み上げる憤りを抑えつつ、あくまでも平静を装いラグナは口を開いた。

 

「一年前、負けた方が『大翼の不死鳥(フェニシオン)』を出てくって決めて、お前はクラハに勝負を挑んだ。そんで、お前はその勝負に負けた。……そうだったよな、ライザー?」

 

 確認するようにラグナはそう訊ねるが、ライザーは何も答えず、顔を俯かせたままだった。けれど構うことなく、ラグナは続ける。

 

「昨日のあれがクラハに対する仕返しのつもりだとしたら、ただの逆恨みだ。クラハは何も悪くない。それがわかんねえ程、お前だって子供(ガキ)じゃねえだろ。なのに謝れないってのか?そんなにくだらねえ自尊心(プライド)が大事だってのか?……どうなんだよ、ライザー」

 

 まるで諭すように言葉をかけるラグナだが、それでもライザーは頑なで、依然黙り込んだまま、その顔を上げようともしない。

 

 ──埒が明かねえ……!

 

 まるで態度を改めようとしないライザーに、ラグナもいい加減鬱憤が溜まる。だが憤り、激情のままに言葉をぶつけたところで、ライザーの心が動くことは決してないだろう。

 

 だからとて、ラグナが引き退る道理などあるはずもなく。そこでラグナは追い詰められたように、断腸の思いである決断を下す。できれば下したくはなかった、その決断を。

 

 ──……こんなしょうもない手に、頼りたくなんてなかった。

 

 心の中で苦虫を噛み潰したようにそう呟き、躊躇いながらも。

 

「一つ、だけ」

 

 そして未だ迷いながらも、ラグナは────

 

「お前の言うこと一つだけ、何でも聞いてやる。何でもしてやる、から……」

 

 ────そう、ライザーに繰り出した。言って、ラグナはどうしようもなく後悔し、そして途轍もない自己嫌悪に陥ってしまう。

 

 ラグナとしては、本当ならばこんなまどろっこしい手段などに訴えず、一発殴り飛ばしてラグナの元にまで引き摺って、有無を言わせず謝らせたかった。というかそうしていたはずだった。……自分がこんな目などに遭っていなければ。まだ最強と謳われていた男だった時の自分であれば。

 

 だけど今の自分はずっと非力で、遥かに無力な少女で。そんなこと、到底できる訳もなかった。

 

 しかし、ラグナはどうにかしてでもライザーを謝らせたかった。病院の寝台(ベッド)で眠る羽目になったクラハに、どうしても謝ってほしかった。こんな、惨めで情けない手段を取ってでも。

 

 けれど、だからといって確実ではない。強制力も何もないこんな手段では、結局はライザー次第。彼がどう出るかで、決まってしまう。

 

 もはや後輩の為になることも満足にしてやれない。それが悔しくて、堪らなかった。

 

「……」

 

 そして肝心のライザーといえば、やはりというか顔を俯かせたままで。しかしそこでようやく初めて、彼は動きを見せた。

 

 だらりと下げていた手を上げ、顔にやり。そしてずっと閉ざしていたその口を────

 

「俺、わからないんですよねえ」

 

 ────ようやく開かせた。それを皮切りに、今まで黙り込んでいたのがまるで嘘だったように、ライザーは喋り出す。

 

「何だってアンタはそんなにもあんな奴に肩入れするのか、昔からずっとわからなかった。ずっと理解できなかった……ねえ、教えてくださいよ。どうしてなんです?どうしてそこまで、そうまでもしても肩入れしようとするんですか?ねえ?」

 

 それはさっきまでの沈黙からは想像もできない饒舌さで。ライザーは堰を切ったように言葉を捲し立てる。そのあまりの豹変ぶりには、流石のラグナも面食らい、気圧されてしまう。

 

 そんなラグナに対して、ライザーはさらに続ける。

 

「俺の言うこと、何でも一つだけ聞いてくれるんでしょう?だったら……答えてくださいよ」

 

 そう言って、ライザーはようやく俯かせていたその顔を再び上げた。やった手はそのままに、顔の半分を覆い隠して。

 

 金色の右目と指の隙間から覗く左目が、ラグナを鋭く睨めつける。その眼差しを前にしてしまえば、並大抵の者は恐怖に萎縮し、とてもではないが平気ではいられないだろう。

 

 だが、それにラグナが当てはまることはなく。ラグナは恐怖を抱き萎縮することもなければ、怯え臆することもない。

 

 その真紅の瞳に揺るがぬ決意と固い意志を依然宿しながら、ライザーの問いかけに対してラグナは答えようと口を開く。

 

「それは、クラハが……」

 

 が、しかし。ラグナはその途中で言葉を言い淀ませてしまう。果たして、それは言ってしまっていいものかと憚られ、迷ってしまう。

 

 ライザーは言葉を挟まない。また先程のように黙って、ラグナの言葉の続きを静かに待っている。またしてもこの部屋に、静寂が訪れた。

 

 ──本当に、俺はそう言っていいのか……?

 

 ラグナは迷う。悩む。こんな自分にそうだと口に出す資格なんてないと、己を罵る。

 

 ……けれど、それでも脳裏を過ぎる。その姿が、その顔が。そして、声が。

 

 

 

『先輩』

 

『先輩?』

 

『先輩!』

 

『……先輩』

 

 

 

 こんな自分をそう呼んでくれる声が、脳裏で響く。

 

 ──……ああ、そうだよな。やっぱり、そうなんだ。

 

 そこでラグナは観念したように、心の中で頷く。

 

 どれだけ資格がないと思っても、もはや相応しくないと思っても。

 

 一体どれだけ言い訳をしようと、重ねようと。やはりどうしようもなく、自分はそうでいたいと、そう在りたいと思ってしまうのだ。

 

 もう、こればかりは諦めようとしても────どうにも諦められそうにない。

 

『俺のことも好きに呼べばいい』

 

 昨日の朝、己でもどうすればいいかわからない不安とどうしようもない焦燥に駆られてしまい、自分勝手にも振り回してしまったことへの謝罪代わりにと告げたその言葉を思い出しながら、妙に落ち着いた心境でラグナはライザーに答えた。

 

「クラハが俺の後輩で、俺はクラハの先輩だからだ。それ以外の理由なんて、ねえよ」

 

 それがラグナの、何の言い訳もない本音と、何の偽りもない本心。これだけは絶対に譲れない。譲らせない。

 

 たとえ当の本人から、どう思われてようと──────関係ない。

 

「…………」

 

 返答が予想外だったのか、ライザーは再び黙り込んだ。けれど顔は俯かせず、その双眸でラグナのことを鋭く睨めつけたまま。

 

 そうして数秒が過ぎた、その時。

 

「……クク、ハハハッ!」

 

 突如、ライザーが笑い出した。彼の顔半分を覆い隠す手が離れ、宙へ投げ出される。

 

「いやあ、負けです。俺の負けですよ。……わかりました。クラハの元までの案内、お願いします」

 

 浮かべている仏頂面からは想像できない程の、いっそ不気味にさえ思えてしまう満面の笑顔と。そしてラグナが知る人間の中でも、最も人格に難があるライザーの口から出たとは思えないその言葉に、ラグナは思わず驚き、狼狽えてしまう。

 

「お……おう。ま、任せとけ」

 

 ──こいつにしては嫌に聞き分けがいいな……?

 

 そのことを不審がるラグナだったが、クラハへ謝罪してくれるのならばそれでいい。と、その時。申し訳なさそうにライザーが言った。

 

「ええ、はい。あ、その前にすみません。ちょっとこっちに近いてもらえますか?」

 

「は?そんくらいのこと、別にいいけど」

 

 ライザーの妙な頼みを奇妙に思いながらも、ラグナはそう返して数歩、前に出て。言われた通りライザーに近づく────その瞬間。

 

 ガッ──目にも留まらぬ速さでラグナの腕を、ライザーが掴んだ。

 

 声を上げる間も、驚く間すらもなく。ラグナはライザーに無理矢理引っ張られ────

 

「う、わぁっ?」

 

 ────そのまま、寝台(ベッド)の上に投げ飛ばされてしまう。そして何が起こったのか、ラグナが理解するよりも前に────ライザーがラグナに覆い被さった。

 

 呆然とこちらのことを見上げるラグナのことを見下ろしながら、浮かべていた笑顔を凶悪に歪ませて。互いの鼻先が触れ合いそうになる程顔を寄せ、ライザーが言う。

 

「んな訳ねえだろ、馬鹿(バァカ)



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その身体と、そして心に

「んな訳ねえだろ、馬鹿(バァカ)

 

 浮かべていたその笑顔を、凶悪に歪ませ。こちらを心底、嘲った声音で。押し倒し、覆い被さりなりながら。そして互いの鼻先があと少しで触れ合ってしまう至近距離まで顔を近づけ、吐き捨てるかのように、ライザーはラグナにそう言い放った。

 

「……は……?」

 

 それに対して、ラグナは困惑の声を漏らすことしかできなかった。呆然と見上げるラグナへ、ライザーは顔を離してさらに続ける。

 

「クラハに謝るなんざ死んでもごめんだ。絶対に、何が何でもお断りだ。こんな俺の言葉を少しでも信じまって、いやあ残念でしたねぇ?ハハハッ!」

 

 騙したことがそんなにも愉快なのか、まるで子供のようにライザーは笑う。だがその笑いはあまりにも邪悪で、これ以上にない悪意で満ち満ちていて。とてもではないが子供のそれとは言えなかった。

 

「ライザー、お前……ッ!」

 

 ラグナは知っていた。ライザーの人間性はおよそ誉められたものではない、最低最悪なものであるとわかっていた。

 

 ……だが、それでも。

 

『いやあ、負けです。俺の負けですよ。……わかりました。クラハの元までの案内、お願いします』

 

 その言葉と、その似合わない笑顔を前に、ほんの少しばかりだけ……心を許してしまった。ライザーのことを、信じてしまった。

 

 そんな自分が、どうしようもなく不甲斐なかった。情けなかった。そして、止め処ない悔しさが込み上げ溢れた。

 

 そして、遂に────

 

 

 

「ふざ、けんな……ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんなこの野郎ッ!!」

 

 

 

 ────全てはクラハの為にと、今の今まで押し込め閉じ込め抑え込んでいた、ありったけの怒りが爆発した。

 

「お前!二年前とちっとも変わってねえじゃねえかろくでなしッ!そんなにも人を馬鹿にすんのが楽しいのか!?そんなにも他人を蹴落とすのが嬉しいのか!?こんの、クソッタレがァッッッ!!!」

 

 我を忘れ、己の内から噴出する激情に背を押されるまま、ラグナは怒声を飛ばす。

 

「これ以上つべこべ抜かさず、いいからクラハに謝りやがれ!こんの、逆恨みのクソ野郎がッ!どうしようもねえ筋違いの下衆野郎がッ!!」

 

 そのあどけなくも何処か大人びた顔を、今は獣の如く凶暴に歪ませながら。喉が裂けんばかりに、しかしそれを一切気にしようとせずに、全く加減しないでラグナは怒声を張り上げ続ける。その全てを、懸命にもライザーにぶつける。

 

「お前だけは!お前だけは絶対に許さねえ!絶対に、絶対に……絶対に一発ぶん殴ってやるからな!そんで、そんで……」

 

 そこで一旦、ラグナは深く息を吸い込み、そして一気に────

 

 

 

 

 

「絶対の絶対にお前をクラハに謝らせてやるッ!!ライザァァァアアアッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 ────怒り、激怒、憤怒、憤慨。それらを一つに合わせて、あらん限りの力を込めて。ライザーに向かって、ラグナは叫んだ。

 

 言いたいことを言い終えて、胸を激しく上下させ、ぜえぜえと荒い呼吸を何度も繰り返すラグナに、ライザーは。

 

「……やれるものならやってみせてくださいよ。今のアンタにやれるというのなら」

 

 浮かばせていた歪な笑みが完全に消え失せた無表情で、酷く冷めた無感情の声で眼下のラグナにそう言った。それから彼は唐突に指を鳴らす。

 

 ジャラララッ──瞬間、連なった金属音を響かせながら。寝台(ベッド)の四隅から鎖が独りでに伸び、それら全てがラグナの手足に巻きついた。

 

「なっ……!?」

 

 驚いたラグナが慌てて手足を動かそうとするが、巻きついた鎖は到底解けそうにはなく。こうして瞬く間に、ラグナは寝台に寝かされたまま拘束されてしまったのだ。

 

「その鎖、ちょっと特殊な魔石を混ぜ込んだ鉄を使ってまして。魔力を通すことでこのように遠隔操作できる代物なんですよ。便利でしょう?」

 

 ろくに抵抗する暇もなく、鎖によって手足を縛られるその様を間近で見届けたライザーは。淡々とそう説明しながら、ゆっくりとラグナの身体から離れ、寝台から下りる。そしてラグナに背を向けると、まるで独り言のように呟き始めた。

 

「ずっと、ずっと昔からそうだった」

 

 やはりその声にはこれといった感情など宿っておらず、ただあるのは無機質な冷たさ。だがそれに構うことなく、ライザーとは真反対に烈火の如き怒りを伴わせ、ラグナはその背中に向かって怒鳴り声を張り上げさせる。

 

「おいライザー!お前これどういうつもりだ!?さっさと今すぐにでも解きやがれ!!」

 

 しかし、そんなラグナの怒声などまるで聞こえていないかのように無視して、彼は呟き続ける。

 

「初めて新聞の記事と載っていた一枚の写真を目にした時からずっと。そしてそれは新たな活躍と名声が伝わり知る度に、俺の中でますます強くなっていった」

 

 やはりというか、ライザーの声は依然淡々としており。どんなものにせよ、先程までは感情らしい感情が込められていたが、今やそれすらも一切感じられなくなっている。

 

 ──こんの……さっきから、一体どうしちまったっていうんだよこいつ……。

 

 次から次へと豹変を繰り返すライザーに、一時激情に身を任せたことも相まってラグナは疲弊を覚える。そんなラグナに対して、ライザーはなおも続けた。

 

「ああ、そうさ……俺はどうしようもなく憧れたんだ。世界(オヴィーリス)最強の一人、《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』……ラグナ=アルティ=ブレイズは、子供(ガキ)の頃からの、俺の永遠の憧れだったんだ。……そのはずだったんだよ」

 

 そこまで言って、バッとライザーはラグナの方へ振り返った。瞬間、ラグナは思わず息を呑んでしまう。

 

 ライザーの顔には、暗闇があった。それはゾッとする程に深く、そして昏かった。まるでこの世全てに絶望しているような────諦めを抱いているような、そんな表情を今、彼はそこに浮かべていた。

 

「教えてあげますよ。別に俺はクラハの奴に一年前の復讐をしに、今さらこんな街に帰って来た訳じゃない。もうそんなこと、俺にとってはもはやどうだっていい。……アンタですよ、アンタ」

 

 言いながら、振り返ったライザーがゆらゆらと。さながら彷徨う幽鬼のように、身体を揺らしながら一歩一歩と。ラグナを拘束する寝台の方に近づく。その様を見せつけられながら、堪らずラグナは困惑の声を上げる。

 

「は、はあ?寝呆けたこと言ってんじゃねえぞお前。昨日クラハにやったこと忘れたってのか?そ、それに帰って来た理由が俺って……一体どういうことだよ、ライザー!」

 

「忘れてなんかいませんよ。昨日のあれはついでみたいなものです」

 

 などと宣い、自分が帰って来た理由が何故ラグナであるのかについては答えず、ラグナへ歩み寄るライザー。そして彼はまたしても寝台へと上がり、ラグナのことを見下ろした。

 

「嘘だと思いたかった。嘘だと信じたかった……だが、全部本当のことだった。紛れもない真実だった。その顔も声も身体も、もうどこからどう見たって女じゃないですか。こんなの、俺の知るアンタなんかじゃない。俺の知っているアンタは……ラグナ=アルティ=ブレイズは何処かに消え失せてしまったんだ」

 

「お、お前……」

 

 もう、ライザーの様子は明らかに普通ではなかった。その金色の双眸は何処までも暗澹として、その表情はあまりにも深い絶望で満たされていた。

 

 それを目の当たりにして、ラグナは狼狽え動揺してしまう。そんなラグナに、ライザーは言う。

 

「……そう、今のアンタはラグナさんなんかじゃない。そんなはずがないんだ。……なのに、どうしてなんですかねえ」

 

 そこで唐突に、ライザーの瞳に光が宿る。だがそれは、狂人のそれであった。

 

「どうして、瞳は()()()()なんですかねえ?」

 

 狂人の様相を呈しながら、そう零すライザー。だが彼の言葉はラグナにとっては理解不能な代物で、しかしそれに構うことなくライザーは続ける。

 

「止めてくださいよ、そういうの……困るじゃないですか。なんでわからせてくれないんですか……理解させてくれないんですか……本当に、止めてくださいよ」

 

 ライザーの嘆きは一方的に、理不尽にもラグナに降りかかって。堪え切れなくなったラグナが口を開く────直前だった。

 

「だから、決めました」

 

 その声は、嫌にはっきりとした確かなもので。そう言うや否や、ライザーは腕を振り上げる。その動きに釣られて、目で追ったラグナは、ハッとせざるを得なかった。

 

 何故ならば、振り上げたライザーのその手には──────いつの間にか、一本のナイフが握られていたのだから。

 

 一体いつ、そしてどこから取り出したというのか。ラグナにはまるでわからない。わからず、ただただ恐怖だけが先行してしまう。そんなラグナに、ライザーが言う。

 

「そうすることに、俺は決めたんですよ」

 

 そして、ラグナが息を呑む間も与えず。冷たい光を乱反射させながら、ライザーは握ったそのナイフを一息に──────真っ直ぐ振り下ろした。

 

「…………ん、な……?」

 

 思わずギュッと固く閉じてしまった瞳を、恐る恐るラグナは開かせる。ラグナは確かに見ていた。己の胸へ躊躇なく振り下ろされるその切っ先を、確かに目撃していた。

 

 だがしかし、数秒過ぎても感じるはずだっただろう冷たい刃の感触と、血の流れる熱い痛みは来ず。何故かと見てみれば────確かにナイフは振り下ろされていた。振り下ろされていたが、その刃はラグナの胸元を突くことはなく。その上の服と下着を貫くだけに留められていた。

 

 そのことを不可思議にラグナが思った瞬間、目にも留まらぬ速さでナイフが動き、そして離れる。

 

 数秒遅れて────何の抵抗もなく、ラグナの服と下着が左右に断ち切られ。すぐさまその下にあったものが、少し押さえられていた反動もあってか。ぷるんと柔く揺れながら勢いよく、弾けるように外へ飛び出した。

 

「ひゃうっ?ふえぁっ!?」

 

 突如として外気に晒されたことによる冷たさと、何故こうなったことによる疑問から、ライザーの目の前だというにも関わらず、堪らず素っ頓狂な悲鳴を上げてしまうラグナ。そんな滑稽な姿を依然見下ろしながら、ライザーは静かに言った。

 

「今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと()()()()()()()()()



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お出まし(前編)

「今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと女になりますよね?」

 

 まるでそれが最善の解決策とでも言わんばかりに、そうすることが絶対で、正しいことかのように。金色の瞳を昏く濁らせ澱ませながら、ライザーはラグナに言い放つ。

 

 しかし、当のラグナはただただ困惑するばかりで。ライザーの言葉はラグナにとってまるで意味不明で、理解できずにいた。

 

 困惑と混乱が入り乱れ、正気ではない狂人と相対している恐怖と怯えからか。無意識にも震える声音で、こちらに馬乗りとなっているライザーにラグナが叫ぶ。

 

「お、お前それどういう意味だよ?大体瞳は元のままとか、身体と心とか何とか……まるで意味わかんねえぞ。本当に気でも狂ったってのか?」

 

「…………」

 

 だが、ライザーは何も答えない。彼はただラグナを見下ろすだけ。そんな様子の彼に、痺れを切らしたようにラグナは再度声を上げる。

 

「おいライザー!黙ってないで、何とか言えよっ!」

 

 しかし、それでもライザーが口を開くことはなく。ラグナは堪らず苛立って舌打ちする。が、その時ふと気づいた。

 

 ──?こいつ、俺の顔見てないんじゃ……?

 

 そう、ラグナの気の所為でなければ。ライザーの視線はこちらの顔に注がれていない。そのことに気がつき、当然ラグナはこう思う。

 

 ──んじゃこいつ、今どこ見て……。

 

 試しにライザーの視線をなぞるように、ラグナは目で追い。その先には一体何があるのかと探り、ハッと気がついた。

 

 恐らく、ライザーの視線が向いているその場所に。彼の視線の終着点にあったのは、今し方彼のナイフによって綺麗に切り断たれ、服と下着から解放された────

 

 ──お、俺の……胸?

 

 ────そう、今や外界に曝け出されてしまっている、ラグナの胸であった。

 

 ラグナの身長にしては見合わない、些か大きく育ち豊かに実ったそれは。大多数の男たちからすればこの世に二つとない極上の馳走であり。一部の女たちにとっては羨ましく妬ましい身体部分であり。

 

 そして男女共に共通するのは────思わず手を伸ばし、触れたくなるような。好きに揉み、勝手に弄びたくなるような。危険で甘美な魅力を放つ、まさに天上の楽園より齎された、人の官能を刺激する魔性の果実である。

 

 ……まあ最も当人たるラグナにとっては、心はともかく肉体的には自分は女であるという現実を知らしめる、憎たらしく忌々しい部分の一つでしかないのだが。無駄に大きい上に重たいということも、それを助長させている。

 

 そんな、ラグナからすれば己の劣等感を煽るだけの脂肪の塊を、ライザーは見ていた。その金色の瞳で、舐めるように。その鋭い眼差しで、熱心に。

 

 何処か妖しく危しい熱を帯びた視線を注がれ──ふと、ラグナに既視感(デジャヴ)が起こる。自分はこれと似たような感覚を感じたことがあると思い出す。それもついさっき。

 

 ──……あ。

 

 そうしてラグナは思い当たった。すぐさま脳裏で蘇る記憶。再生される映像。

 

 それはこの部屋に入る直前のこと。いざ扉を開けようと一歩前に踏み出し、近づいた瞬間。その時に感じた、あの感覚。背筋を駆け抜けた、あの悪寒のような感覚。

 

 同じだ。その感覚と、このライザーの視線は────同質のものだ。

 

 恐らく、いやきっと。この部屋に入ろうとしていた自分を、やっていることに差異はあったが皆一様に騒ぎ立てていた男たちは、背後から見ていたのだろう。この生理的嫌悪感と不快感を催す、まるでこちらのことを品定めしているような視線を皆揃って、背中へと送っていたのだろう。

 

 今、ライザーがそうしているように。そしてこの視線に含まれているのは────雄としての本能。雄として、目先に存在する雌を求める至極野生的で、原始的な性的欲求。

 

 ラグナは男女のそういった、彼是(あれこれ)に関しては疎い方だ。しかし、だからといってそれが一体何を意味しているのかわからない程、全くの無知という訳ではない。

 

 そういった視線を自分は今、ライザーから送られている。そのことに気づき自覚して。瞬間ラグナの心の中で芽生え、そして急激に膨らむものがあった。

 

 ──あ、うぅ……っ!

 

 それはラグナにとっては未知のものであった。胸の奥が熱くなり、その熱が全身に隈なく広がっていき。そしてそれは他者にこうして己の身体を、女である今の自分を見られることで、急加速を始めてしまう。

 

 そう、このように──性的な目でまじまじと眺められることが突然、それも猛烈に嫌に──────否、()()()()()()()()

 

 こんな感覚、初めてだった。男であった前ならば全裸を見られたとしても平気でいられたのに、女である今は裸どころか身体自体を見つめられることに対して、どうしたって堪えようのない羞恥心が込み上げて、溢れて止まらない。

 

 今になって覚えてしまったそれに身悶え翻弄されながら、ラグナは無意識にも腕を動かす────が。

 

 ジャラッ──無情にも、縛る鎖がそれを制する。

 

「ッ……!」

 

 鎖特有の連なった金属音と肌に直接感じる冷たく硬い感触に、ラグナはハッとする。今、自分は腕を動かし何をしようとしたのか。

 

 それを考えるよりも先に────ライザーがその口を開かせた。

 

「どうですか?わかりましたか?自分の身体を視姦される感覚……男に目で、犯される感覚というものが」

 

 などと言って。ライザーは今の今まで浮かべていた、何の感情も読み取れない無表情から一転、口元を酷く歪ませた意地の悪い笑みを浮かべる。

 

 こうして言われて、さらにラグナは自覚したばかりの羞恥心を煽られてしまうが。この男の思い通りに状況が進んでいることが癪に障ったのと、この羞恥心をどうにか誤魔化したくて────

 

「べ、別にどうってことねえな!わからせてやるとか理解させてやるとか偉そうに大口叩いといてこの程度かよ、ライザー?」

 

 ────という風に。つい、ラグナは平気を装った不敵な笑みを浮かべ、ライザーを挑発してしまった。

 

 そんなラグナの挑発に対して、数秒の間を置いて。ライザーは至って冷静に、軽く首を傾げ困ったようなわざとらしい声音で呟く。

 

「……そう言う割には、顔が赤くなっている気がするんですがね。それに鎖に繋がれていることも忘れて、腕を動かそうとした気もしますし……もしかして、その間抜けにも丸出しにしている胸でも、隠そうとしたんですか?」

 

 ライザーにそう訊かれ、ラグナはハッと気づかされた。彼の言う通り、自分は無意識の内に、この羞恥から少しでも逃れたいが為に、彼の目前に無様にも晒し上げているこの胸を、腕で少しでも隠そうとしたのだと。

 

 ──そ、それじゃまるで……!

 

 ()()()()()()()────図らずもラグナはそう思ってしまい。直後、それを振り払うように、語気を荒げてライザーに言い返す。

 

「は、はあ!?んな訳ねえっつうの!お前の気の所為とか目の錯覚とかに決まってんだろっ!」

 

 しかし、ラグナの声音は確実に震えていて。そこから図星を突かれ、動揺していることが見て取れて。そしてそれができない程、ライザーは鈍くはない。

 

「へえ。そうですか。……じゃあ、別にこんなことされても平気ですよね?」

 

 と、その顔に薄ら笑いを浮かべながら。ライザーは平然とそう言い返し──────目にも留まらない素早い動きで、ラグナの胸に手を伸ばした。

 

「っ!?お前、何すん────

 

 数秒遅れて、胸にライザーの手が伸ばされるのを視界に捉え。咄嗟にラグナが声を上げる。が、それよりもライザーの手がラグナの胸に到達する方が断然早く。瞬間、彼の手は無神経かつ無遠慮に、そして無造作さにラグナの胸を鷲掴んだ。

 

 ────いっ、ぁ……ッ!?」

 

 ライザーに胸を鷲掴まれたラグナが、最後まで言葉を口に出すことは叶わず。その途中で混乱と困惑入り混じる、か細く小さい悲鳴を挟んでしまった。

 

 今、ラグナは堪らず目を白黒させていた。鷲掴みにされた胸から伝わる痛みと────今まで感じたことのない、ピリッとした未知の感覚に。そしてそれは痛みと共に、ラグナの背筋を駆け上り、弱々しくも脳髄を突き刺す。

 

 ──い、今の感じ……何だっ?

 

 内心驚かずにはいられず、焦るラグナに。依然その手でラグナの胸を鷲掴んだまま、ライザーがニヤニヤとしながら言う。

 

「おや?おやおやぁ?どうかしましたか?俺はただ、アンタのだらしなくてみっともないこの胸をほんの少しばかり……乱暴に掴んだだけですよ?」

 

 と、とぼけたような。こちらのことを馬鹿にしているような口調と声音に。ラグナは無理矢理困惑と動揺を頭の隅へ追いやり、気丈になって彼に言い返す。

 

「ど、どうもしてねえよッ!お前こそ、俺の胸なんか掴んで喜んじまって……俺は男だぞ?わかってんのか?その上でニヤニヤ笑ってんだなぁ?」

 

 口端を吊り上げ、またもラグナはライザーを煽り立てる。しかし先程と同じように効果はない────かのように思えた。

 

 ほんの一瞬だけ、ライザーの顔が不快そうに歪んだ──気がした。それは本当に一瞬のことで、それこそラグナの言った目の錯覚で済まされてしまうだろう。事実、ラグナがそれに気づくことはなかった。

 

「……まあ、いいか。今はそんなこと、別にどうだっていい」

 

 ライザーはそう言うや否や────ラグナの胸を未だ鷲掴みにしている手に、力を込めた。

 

「っ!」

 

 ライザーの手に力が込められるのを察知し、恐らくまたも伝わるだろう痛みと、あの表現しようのない謎の感覚に備えて。ラグナは咄嗟に身構える。……が。

 

 ──……あ、れ?

 

 ラグナの予想を裏切り、痛みもさっきの感覚も伝わらない。そのことにラグナは呆気に取られ、拍子抜けした────直後。

 

 

 

 ずにゅにゅ、と。まるで不意打ちを仕掛けるように。ライザーの五指がラグナの胸に、ゆっくりと沈み込んだ。

 

 

 

「っふ、ぁん……っ!」

 

 瞬間、あの未知の感覚が。しかし先程とは比べようにもない程強烈に。胸を起点として、乾いた布を水で濡らすように、ラグナの全身に広がって。気づいた時には、ラグナ本人でさえも今の今まで、一度だって聞いたことのない、悲鳴にも似た甲高い、切なげな声が出てしまっていた。

 

「ッ……?!」

 

 遅れて、その声が自分の口から出たものだとラグナは自覚し。かあっと全身の熱が顔に集中し出すのを鋭敏にも感じ取る。それから堪らずラグナは焦燥に駆られ、内心大いに慌てふためいてしまう。

 

 ──い、今の声って、俺が?俺が出したのか!?なな、なんつー声出しちまってんだ俺……いやてかさっきのライザーに聞かれて……っ!!

 

 極度の困惑と混乱の最中に陥り、これ以上にない程に動揺しながらも。今先程ばかり漏らしてしまった、他人には絶対の絶対に聞かせてはならない声を、よりにもよってライザーに聞かれてしまったことに鋭く気づき、ラグナは咄嗟に視線を上げる。

 

 ライザーは────意外なことに無表情で。ラグナのあの声について、とやかく言う素振りは見られない。

 

 ──……き、聞かれて、ない……のか?

 

 そんなライザーの様子を目の当たりにしたラグナは、なけなしの希望に縋るように、そう思う。思い込む。そうでもしなければ、とてもではないが平気ではいられない。

 

 そうラグナが思い、なんとか平静を装おうとする中で。黙り込んでいたライザーが、不意にその閉ざしていた口を開かせる。

 

「それにしても、そのちんちくりんな身体には見合わないご立派な胸だ。なのに形は崩れず綺麗に整っていて。しかも……」

 

 と、ラグナにとっては苛立ちを掻き起こすことしかできない、称賛の言葉を一旦止めて。ライザーは開いた口をまたもや閉じると、ラグナの胸に五指を沈ませたまま、今度は手の平を徐々に押しつけ始めた。

 

 むにゅぅ、と。ライザーの手の平によって、何の抵抗もなくラグナの胸が押し潰され、柔軟にその形を歪ませる。その間、またしてもラグナをあの強烈な未知の感覚が襲う。

 

「っ……!……ッ!!」

 

 その感覚はゾクゾクとした刺激を伴って、ラグナの背筋を駆け抜けていく。その所為で思わず先程と同じような声を上げそうになったラグナだが、既のところで必死に唇を噛み締めて堪え、口から漏らさないようなんとか我慢してみせる。

 

 あんな声、絶対に誰かに聞かれたくない。聞かせる訳にはいかない。よしんば聞かせるとしても百歩、否千歩譲ってもその相手は──────

 

 ──って、いやいやいやいやッ!!ねえからッ!聞かせる訳ねえからふざけんなッ!!

 

 ──────無意識にも脳裏に浮かべてしまったその姿を、すぐさま振り払い取り消して。一体誰に対して怒っているのか、ラグナは心の中でそう怒声を張り上げさせる。……最も、現実のラグナは呻き声一つすら漏らさぬように、その小さな口を固く固く閉じている訳なのだが。

 

 それはひとまずさて置くとして。ラグナの胸を依然徐々に押し潰しながら、実に楽しそうに、心底愉しそうにライザーが言う。

 

「その感触も良いときた。いや本当に凄えよ。大した力を入れなくても飲み込まれるように指先が沈んだり、手の平で簡単に押し潰せるくらいの柔軟性。それでいて少しでも気を抜くと途端に弾かれそうになる、この弾力性……これぞ最高足り得る理想的な胸ってか?ハハハッ」

 

 言いながら、五指も手の平も。その全てを用いて、ライザーはラグナの胸を弄ぶ。弄びながら、彼は悦に入った声音で、何の躊躇いもなくラグナに言う。

 

「なあ、冒険者(ランカー)なんて潔くさっさと辞めて、もう娼婦にでもなればいいんじゃないか?」

 

 先程まで申し訳程度に取り繕っていた敬語ももはや使わずに、ライザーはそう提案する。だが、それはラグナの存在と尊厳を根底から徹底的に否定するもので。思ったとしても相当な度胸を持っているか、または人を人と思わない最低のろくでなしでもなければ、口には出せない程の発言で。

 

 ──こ、こいつ……ッ!!

 

 それをこうして堂々と面向かって言われたラグナは、当然激昂し声を上げる────ことはできなかった。ライザーに胸を弄ばれている今、少しでも口を開いてしまえばあの声が、到底人には聞かせられないとんでもない声が真っ先に出てしまう。

 

 幸いライザーにはまだ聞かれていないのだから、ラグナとしては聞かれていないまま、どうにか我慢し切ってこの場をやり過ごしたかった。となると自然、選択肢は一つ────こうして口を閉じたままでいるしかない。

 

 言い返したくても言い返せず、心を燻らせるラグナに。依然愉悦に満ちた声音でライザーが続ける。

 

「顔も良い身体も良い。背はちょっとばかし足りないが……いや、こういうのが趣味(すき)な奴にとっては垂涎の逸品か。まあとにかく、これならきっと高級娼館で働けるだろうぜ」

 

 人としての心を持ち合わせているとは到底思えない言葉を、ライザーは平気な顔で連ねて並べてみせる。少しの迷いもなく、ラグナを言葉の刃で切り刻む。

 

 だが、ラグナは何も言い返せない。それを絶好の機会(チャンス)とでも言わんばかりに、ライザーは続けた。

 

「そこで溜めるもん溜め込んだ男共に媚び売って身体売って、そんで黙って素直に犯されてりゃあ、楽に金を荒稼げるだろうよ」

 

 ──好き勝手、言いやがってこのクソ野郎……!

 

 本当ならば今すぐにでもこの男を罵倒したい。もっと言うのならその顔面を殴り飛ばしてやりたい。けれど、今の自分ではその両方もまともに実行できやしない。

 

 できることといえば────ライザーの顔を睨みつけることくらいだ。

 

 そんな、ささやかな抵抗しかできない自分がどうしようもないくらいに情けなくて、そして惨めで。この辛辣で残酷な現実の前にラグナは打ち拉がれる──その間すらも与えられない。

 

「ん……ッ!ぁ……!」

 

 ライザーの手が、ラグナの胸を揉み込み、捏ね繰り回す。彼の手によって簡単に潰れては歪み、ラグナの胸は幾度もその形を変える。

 

 その様はさながら、子供が粘土遊びをしているよう。……しかしその実態は、そんな微笑ましいものなどではなく。子供は大の男で、粘土は脂肪と水分が詰まった乳袋である。

 

 だが、広義に捉えるのであればこれも遊びの一種とも言えるだろう────男女の前戯、ということで。

 

 そしてそれは、唐突に次の段階へと発展(エスカレート)してしまう。

 

「……おっと」

 

 突如、わざとらしくそう声を上げて。散々ラグナの胸を揉み拉き、捏ね繰り、弄り回していたその手を、ライザーが止める。それまで絶えず、強弱をつけながら迫っていたあの感覚が止まり、ラグナは堪らず安堵の息を吐いてしまう。

 

 謂わばこれは、ようやっとラグナに訪れた休憩の時間────けれど、それはすぐさま奪われることになる。

 

「これは、これは……一体、どうしたってんだ?これ」

 

「……何、が……」

 

 何処か(おど)けた風な口調でライザーに訊ねられ、数分ぶりにラグナは口を開き、未だ感覚の余韻が残る弱々しい声で小さく呟き。見てみれば、あれ程延々と執拗に弄り倒していたラグナの胸からその手を離し、ライザーはどこかを指差していた。

 

 その先にあるものをラグナは視界に捉え────瞬間、思考が止まった。

 

「おいおい、流石にこればっかりは俺の気の所為とか、目の錯覚とかじゃあ……済ませねえよな?」

 

 瀕死にまで追い詰め、絶体絶命の状況に追い込んだ獲物を目の前にした獣のように。絶対の自信と余裕に満ち溢れた表情を浮かべながら、とびきりの悪意を伴わせてライザーはそう言った。



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お出まし(中編)

 ──え、あ?……は……?

 

 その光景を目の当たりにしたラグナは、ただただ困惑する他なかった。混乱せざるを得なかった。

 

 そんな状況下のラグナに、絶対的上位者の立場からライザーが言う。

 

「おいおい、流石にこればっかりは俺の気の所為とか、目の錯覚とかじゃあ……済ませねえよな?」

 

 口元を歪ませ、得意げになっているライザーであるが、今のラグナはそれどころではなかった。彼の発言に対して何か反応できる程の余裕など、とてもではないがありはしなかった。

 

 ライザーが指差すそれ(・・)に、ラグナは否応にも目が離せない。見たくなどないのに、ただそれ(・・)ばかりが徐々に、ラグナの視界を埋め尽くしていく。

 

 ──な、何で、こう……なって……?

 

 ラグナはわからない。理解できない。何故そうなっているのか、何故そうなったのか────その全てが、まるでわからなくて。理解不能で。

 

 認めたくはないが、決して受け入れたくはないが。他の誰のでもない、曲がり(なり)にも自分の身体であるというのに。

 

 ラグナには、どうしてそうなっているのかという、その変化(・・)の原因が、どうにも突き止められそうになくて。そんなラグナに、まるで言い聞かせるように。しかし優しさなど微塵も、一欠片程も込められていない声でライザーが言う。

 

「おっかしいなあ。俺の記憶だと、アンタのそこ……そんなんじゃ、なかったよなあ?一体全体、こいつぁどうなってやがんだあ?なあ?」

 

「……!」

 

 ライザーの言葉により、嫌でもラグナは認識させられる。やはり最初とは()()の様子が変わっているのだと、自覚させられてしまう。

 

 ライザーが指差して、指摘していたのは────ラグナの胸。もっと正確に言えば、その中央。その、先端部。

 

 そうじっくりと、詳しく眺めた覚えはないので定かではないが。ラグナの記憶によれば、己のそこは小さく、ほんのりとした薄い甘桃実(ピィチ)にも似た色合いで────だがしかし、今はまるで虫に刺されたかのようにぷっくりと腫れ上がり、そしてピンと屹立し尖りを帯びていて。その色もまた、甘桃実の色からは遠くかけ離れた、それこそ甘桃実ではなく熟れた紅苺実(ストリロベ)を彷彿とさせるような、赤い赤い真っ赤へと染められていた。

 

 もはや元の面影など微塵すらも感じられない、そのあまりの変容ぶりにラグナは面食らって、絶句して。到底何も言えそうにない。そんなラグナの様子を見兼ねたように、ライザーは言った。

 

「どうしてそうなってんのか、わからねえようなら……俺が教えてやるよ。」

 

 その言葉に親切心など、全く込められていない。込められていたのは、ひたすらな悪意だけ。追い込められるところまで、追い詰められるところまで。徹底的に、とことんそうしてやろうという、加減知らずな嗜虐心だけ。

 

 そしてライザーは、はっきりと。決して聞き逃さないよう、聞き逃させないよう一字一句、力を込めて丁寧に、ゆっくりと。ラグナにこう言った。

 

「アンタが()()()()()()()()からだ。俺みたいな男に胸を好き勝手滅茶苦茶にされて、なのにあろうことかそれでアンタは気持ち良くなっちまったっていう、紛うことなき証なんだぜ、それはよ。……ハハッ!ハハハッ!!」

 

 言い終えて、どうしようもなく。堪らなく愉快そうに大声で笑うライザー。しかし、そんな彼を不快だと思う程の余地は、もうラグナの心の中にはなかった。

 

 ──俺が、気持ち良く……なった?

 

 呆然と、ラグナはそう頭の中で反芻させる。させて、気がつけば無意識の内に閉じていた口を開き、言葉を零していた。

 

「そ、そんな訳……」

 

 だがラグナの声は何処までも震えていて、これ以上にない程に動揺していることは明白で。そしてそれを透かさずライザーは突く。

 

「そんな訳ねえって?それこそそんな訳がねえっつうんだよ!何せその有様が動かぬ証拠なんだからよお!しかもしかもだ、あくまでも俺が弄ってたのは片方だけだってのに……ビンビンじゃねえか!両方!!」

 

「ち、違う!違う、違う!俺は、あんなので……お前になんか!」

 

「違わない!何も違わないさ!男に自分の胸玩具みたいに扱われて悦がってましたって、これ以上ないくらいに一生懸命自己主張してんじゃあねえかよ!」

 

 もはや恥も外聞もかなぐり捨て、嫌々という風にラグナは頭を左右に振り、必死になってライザーの言葉を否定する。が、そんなラグナの反撃を容易く跳ね除け、負けじと彼も即座にそう言い返す。

 

 しかし、不覚ながらも。不本意ながらも、ラグナは()()()()()()()()()()

 

『アンタが気持ち良くなったからだ』

 

 ライザーにそう言われて、ああそういうことだったのかと。ラグナは納得してしまっていたのだ。

 

 ライザーに胸を揉み込まれ、捏ね繰り回され。その度に身体中に伝わっていたあの未知の感覚は、()()()()()()()()。そう、ただ方向性が少し違っていただけであれは、あれが女にとっての────性感だったのだ。

 

 男のものとはまるで異なっていた為に、ラグナは気づけなかった。自分が今までに経験したことのない感覚だと、勘違いを起こした。……けれど、ライザーの言葉によって、ラグナは気づかされてしまった。

 

 そのことが、その事実が。ラグナの心を苛み、そして蝕む。

 

 ──なってねえ。ライザーに……男に触られて、()()()()()気持ち良くなんて、俺はなっちゃいねえ……!

 

 そう、懸命に。まるで己に言い聞かせように、心の中でラグナはそう呟く。だが、それは苦しい無理な言い訳であると、ラグナ自身が理解していた。

 

 ラグナとて、全くの無知という訳ではないのだ。女は興奮すれば、その反応の一つとして胸の先端がそうなることくらい、ラグナだって知っている。

 

 そして自分のものが今そうなっているのだから────つまりはそういうことなのだ。ライザーの言う通り、もはやそれがラグナが気持ち良くなってしまったことを証明する、立派な証拠の一つなのだ。

 

 ……だからこそ、ラグナはより必死になって、否定していた。自己防衛と言ってもいい。けれど、他者の目から見ればそれは────往生際の悪い、悪足掻きである。

 

 そしてそれはライザーが求めるものからは程遠く、彼が望むものとはまるで違う。

 

 だからライザーはラグナに言う。求めるものを得る為に、望むものを手に入れる為に。

 

「まあ認めない気ならそれでもいい。後に苦しい思いするのはアンタだからな。あ、それともう一つ言わせてもらうが」

 

 ラグナがその言葉に対して疑問を持つ暇もなく、ライザーはそう言い終えた直後、ラグナの耳元にまでその口を近づける。そしてそっと、囁きかけた。

 

 

 

「我慢なんてしないで声出せよ。……()()()()()()()()()()

 

 

 

 ──ッ!!

 

 鼓膜をライザーの声にすぐ近くで震わされ、ゾワゾワとまるで擽られたような感覚と。その言葉に口から心臓が飛び出そうな程の衝撃を受けて。ラグナは真紅の双眸を見開かせて、堪らず叫びかけた────直前。

 

 

 

 ギュゥッ──ライザーの両手が左右に分かれてラグナの胸まで伸ばされ、透かさず未だ屹立を保ちその存在を主張するそれを、親指と人差し指でそれぞれ摘み、そして間髪を容れずに、ほぼ同時に押し潰した。

 

 

 

「ひっんゃああああぁぁぁ……っ?!」

 

 瞬間、人体の中でも繊細かつ敏感であるそこを、遠慮容赦なく、そんな風にぞんざいに扱われたことによる痛みが先駆け。だがしかし、それも遅れてラグナの下腹部より発せられたあの感覚が、性感が。けれどさっきまでは明らかに違う、重たさと鈍たさを携え。そんな痛みなど、あっという間に軽く呑み込んでしまう。

 

 しかもそれだけに留まらず、それは瞬く間に全身の隅々にまで伝播した。かと思うと、すぐさまドクドクとした熱へと変わって。ラグナの血を煮え滾らせ、ラグナの身体を焦さんばかりに火照らせる。

 

 だが中でも一番凄まじいことになっていたのは、ラグナの脳内である。

 

 今、ラグナの脳内では幾筋もの閃光が激しく迸り、そして弾け散って。ラグナの頭の中を白く白く、真白に染め尽くして、さらに塗り潰していく。

 

 当然そんな状態で思考など到底、まともにできる訳もなく。ラグナは過剰なまでに刺激が強過ぎるその性感のなすがままに、ただただ振り回され、翻弄される他なかった。

 

 ──これあたまへんにっ、こんなのっおれしらな……っ!

 

 無理矢理に与えられた性感を受け止めてから、数秒後。せめてもの情けとでも言わんばかりに考えることを許されたのは、そんな最低限の形を成した言葉だけで。それでも必死になりながら、ラグナは未だ真っ白な頭の中に精一杯言葉を並べてみせる。そんなラグナを眼下に見下ろしながら、感心するようにライザーが言う。

 

「おーおー。これはまた最初の時よりも断然良い感じに啼けたもんだな。ああ、言い忘れていたがこの部屋魔法で外に音が漏れないようにしてあるから、安心して心置きなく、思う存分啼けよ。そうすりゃ俺ももっと……()()()になれる」

 

 けれど、ライザーの言葉を聞ける程の余裕などラグナにはなく。ラグナは少しでも楽になろうと、性感から逃れようと無意識の内にその身を捩らせようとする。しかし、ライザーに覆い被さられている今、そんな些細で僅かな抵抗すらも許されることはなかった。

 

「とと……チッ、あんま暴れんなよ。うざってえ」

 

 忌々しそうに舌打ちした後、その苛立ちを噯にも隠すことなく曝け出しながら、ライザーはそう吐き捨て力任せにラグナを押さえつける。

 

「んぁゔ、んぅぅぅ……っ!」

 

 ほんの少しの身動きですら取ることを封じられ、だがその間にもジクジクと身体に熱が溜まっていく一方で。それを早くどうにかしなければ、今にでもラグナはどうにかなってしまいそうだった。

 

 ライザーに身体を押さえつけられている今、ラグナに許された唯一の行動は────声を出すこと。しかし、だからといって大口開いて衝動のままにみっともなく叫び散らすなんてことはラグナ自身が許せず。それでもこの性感と熱を声に乗せて口から吐き出さなければ、今すぐにでも気がおかしくなりそうなのも確かで。

 

 そこでラグナは、最低限吐息を出せるくらいまでに口を開き、辛く苦しく────それでいて何処か快感の色が見え隠れする、甘ったるい熱を帯びた呻きとも唸りとも取れる声を漏らすことで、なんとか妥協した。

 

 ……けれど、ラグナは気づいていない。ラグナは知らない。快楽に満ちて染まった、ある種陳腐であからさまな喘ぎ声よりも。男に触れられ刺激され、それではしたなくも気持ち良くなってしまい、だがそれを必死に誤魔化し隠そうと。いじらしくも懸命に唇を噛み締め、固く口を閉ざすが、それでも僅かばかりに、ほんの微かに漏れ出してしまう、くぐもったそういう声の方が。

 

 魅力的で、蠱惑的で。より男の欲情を掻き立て、劣情を催させるのだと。より強烈に、男を己の元に誘い込むのだと。

 

 そうとは気づかず知らず、瞳を閉じたまま声を漏らし身悶えるラグナ。その姿を眼下にして、己の加虐性(サディズム)を刺激されたライザーは獣の如く舌舐めずりする。

 

「んんっ……ふーっ、ふう、ぅぅぅ……っ」

 

 余すことなくライザーに見られていることも忘れて、数分は身悶えていたラグナだったが。ようやっと下腹部から発せられていた、あの堪えようもない性感が収まり。それと同時に全身という全身を蝕み侵していた熱も引いて、堪らず安堵の表情を浮かべながら、乱れに乱れてしまい荒くせざるを得なかった呼吸をなんとか落ち着かせる。

 

 そうして一分と数秒が過ぎた時、まず閉じていた瞳を開き。キッと潤んだ真紅の双眸で睨みつけながら、喉奥から倦怠感入り混じる声を、震わせながらも絞り出してラグナは言った。

 

「よくも、やりやがった……な。こんの、クソ野郎……!」

 

 回復したばかりの僅かな、なけなしの体力全てを使っての、ラグナにできる精一杯の悪態。強がり。だがそれは、当然ではあるが脆く弱々しい虚勢で、そしてそれを見抜けないライザーではない。

 

 得意げに口端を吊り上げ、内に秘めるその悪意を露出させんばかりに口元を歪めて、平然とライザーは言う。

 

「やってやったさ。手中の弱者をどうこう好き勝手にするのが、強者の特権だしな」

 

 ライザーの言い分は正当である。世界(オヴィーリス)の常は弱肉強食。それが覆しようのない絶対であり、揺るがない真理だ。

 

 しかし、確かにライザーの言い分は正当ではあったものの、それは酷く歪に、そして醜く捻じ曲がった正当性でもあった。

 

 すぐさまそのことを指摘してやりたいラグナであったが、生憎そんな余裕など持ち合わせている訳でもなく。そしてラグナには、それよりも先に、どうしてもライザーに対して問い詰めたい──というより、確かめたいことがあった。

 

 未だ僅かばかりに荒い呼吸を数度繰り返し、ラグナの体力が再びほんの少しだけ戻る。そうして、ラグナは口を開いた。

 

「……一つ、訊かせろ」

 

「何なりと」

 

 こちらを馬鹿にしていることを少しも隠そうとせずに、気取った口調で返したライザーに。

 

『我慢なんてしないで声出せよ。……最初の時みたいによお』

 

 その言葉を冷静に思い出しながら。その確かめたいことを、ラグナはライザーに訊いた。

 

「お前、聞こえてたのか?」

 

 何が、とは。ラグナは言わなかった。だが、それだけで十分で、ライザーは平然と答える。

 

「ええ、まあ。小鳥の囀りかと一瞬勘違いするくらいには、可愛らしい声でしたよ?」

 

「ッ……!!」

 

 嘲笑を添えながら、より馬鹿にする為だけの敬語でそう答えるライザー。そんな彼の全てがもはや、ラグナにとっては心底憎たらしい。

 

 込み上げる羞恥に顔を赤く染めさせながらも、唇を噛み締め、この恥辱の仕打ちをラグナは堪え忍ばんとする。けれども、まるで追い打ちをするかの如く、ライザーがさらに続ける。

 

「ちなみに何故聞こえていないふりをしていたのか……それはなあ、そうしたらアンタはどうするんだろうなって純粋に気になったからさ」

 

 ニヤニヤとしながら、心の底から楽しそうに、そして愉しそうに。ラグナを見下ろしながら、ライザーは言う。

 

「いやあ、思わずゾクゾクしちまったよ。聞こえてない訳がないってのに、聞こえていないって思い込んで。一生懸命になって声抑えて、我慢して、無駄な努力を続けるアンタの姿……最高(さいっこう)にいじらしくて健気だったなぁ」

 

 一体どうすれば、何を言えばラグナの精神を削れるのか。恐らく、そういったことで脳内を埋め尽くしているのだろう。そんな風に考えながら、せめてもの抵抗として。ラグナはライザーの言葉の刃から少しでも逃れようとした。が、その心境を見透かすように、ライザーはカッと目を見開かせ叫んだ。

 

「声は聞こえてたしそういうの全部諸々バレバレだったってのに、なあッ!?」

 

 そうして。頼まれてもいないというのに、訊かれてもいないことをベラベラと自分勝手に話し続け、話し終えて。ライザーはラグナをさらなる恥辱と屈辱の渦中へと、遠慮容赦なく突き落とすのだった。

 

 ──絶対(ぜってぇ)許さねえ……ッ!

 

 こんなろくでもない下衆に、どうしようもない男の手の平の上でまんまと踊らされたことを、一生の恥だと心に刻み込まれながら。ラグナはライザーへの憎悪を募らせる。……けれど、いくらこうして彼を恨もうとも、憎もうとも。今の自分では報復も何も、できやしない。

 

 できることといえば精々、散々募らせ溜め込んだ憎しみを乗せて、それこそ殺さんばかりに睨みつけ。

 

「…………はっ、それがどうしたってんだ。俺は別になんともねえっての。そっちこそ馬鹿みたいにほざいてやがれ、このお門違いの逆恨み野郎がよ」

 

 これ以上にない恨みをこれでもかと言葉に込めて、そう忌々しく吐き捨て、せめてもの抵抗としてライザーを謗り、挑発するだけである。

 

 たとえそれが大して効かないとわかっていても────だが、そんなラグナの予想とは裏腹に、ライザーは。

 

「……おい。おいおいおい、凄えな……こいつぁ、凄えよ。今、自分が置かれてる立場がわかってんのか?状況を理解できてんのか?その上でそんなくだらん挑発かましてんのなら……」

 

 瞬く間にその雰囲気を一変させ。そして、ゾッとする程昏い表情を浮かべすぐさまその手を動かした。

 

 ギュッ──さっきよりは弱く、しかしそれでもまだ強く、そして物を扱うかの如く乱暴に。再度ライザーの指がラグナの熟れに腫れ上がっている、少女としての風貌を色濃く残した、女と呼ぶにはまだ青いその容姿には似つかわしくない、淫靡な真っ赤に染まったその二つを挟み、そして押し潰す。

 

「ゔあ゛っ……!」

 

 その瞬間、まるで稲妻を受けたかのような衝撃が、ライザーの指によって押し潰されたそこを起点に、ラグナの全身に伝う。ビリビリとした痺れに襲われ、堪らず僅かに開かせてしまった口から悲鳴にも似た、くぐもった呻き声を漏らし。ラグナはその華奢な肩をビクンと跳ね上げさせた。

 

 そのラグナの様を見下ろしながら、低い声音でライザーが呟く。

 

「……心底腹が立つ。虫唾が走って、不愉快で仕方がない。本当に……本当《ほんっとう》にな」

 

 呟かれたライザーの言葉は、どうしようもない程に嘘偽りなく。そしてラグナに負けず劣らずの────憎悪と怨恨で満ちて、溢れていた。

 

 人が抱く中でも最上の、もはや闇よりも深く濃い漆黒の感情を携えながら。ライザーはさらにラグナを自分の思い通りに、責め立てる。

 

「第一、こんなんでそんなんになってるアンタに、何を言われたって何も響かねえんだよ。いい加減、それを理解しろよ。してくれよ。なぁ?……なあ!」

 

 うんざりとした様子でそう言いながら、押し潰したままのラグナのそれを。ライザーはグリグリと今度は磨り潰すかのように、指の腹で擦る。その刺激に、ラグナは堪らず声を上げてしまう。

 

「いぁあああ゛っ……それっ、やめぇ……ろお゛っ……!」

 

 ひっきりなしに、そして絶えず。ライザーがそうする限り、その刺激が引き起こす性感にラグナは悶絶してしまう。ビリビリと身体が痺れ続け、次第に何も考えられなくなってしまう。

 

 それがどうしようもない程に、ラグナは恐ろしくて、怖くて。だからこうして言葉を口に出せる内に、手遅れになる前に。ラグナは必死になって、ライザーに止めろと訴える。

 

 ……言ったところで、それにライザーが従う訳がないと半ば諦めながらも。だが、しかし。

 

「止めろって?ああ、わかった。じゃあ止めてやるよ」

 

 パッと。ラグナの予想とは裏腹に、驚く程あっさりとライザーは指を離し、弄んでいたそれを責め苦から解放した。

 

 ──っは……!?

 

 まさかの対応に戸惑いながらも、ようやっと辛苦に塗れた性感から逃れられたラグナは、すぐさま安堵する──────直前。

 

 

 

「なんてな」

 

 

 

 ピンッ──その一言と共に。離したその指で、ライザーは一切躊躇することなく、度重なる刺激によってこれ以上にない程に固く屹立したラグナのそれを。それも両方を勢いよく弾いてみせた。

 

「ん゛ひゅ……ッ?!」

 

 気がついた時には、ラグナは己の口から間の抜けた、素っ頓狂な声を上げていた。だが、それを恥ずかしいと思う暇も、与えられなかった。

 

 ライザーの指に弾かれ、数秒後。最初の時に感じたものと同質の、重たく鈍い性感がラグナの下腹部から込み上げて。そしてそれはまたしても、瞬く間にラグナの全身に伝播して。同じように、ドクドクとした熱に変わって。

 

 その熱が、ラグナの頭を灼く。熱に灼かれ、遅れて閃光が弾け迸る。そしてまた、ラグナは頭の中を無理矢理真白に染められ、塗り潰された。

 

 ──ま、たぁぁぁ゛ッ……!?

 

「んん゛ん゛っ、ぁぁうゔゔっ……!!」

 

 またもや今すぐにでもどうにかなってしまいそうになるのを、ラグナは死に物狂いで堪え切ろうと試みる。

 

 瞳を固く閉ざして、全身を強張らせ。まるで獣のような、それでいて他者の情欲を煽る艶かしさを孕んだ、濁った唸り声を漏らして。もう形振り構わずに、バラバラに飛び散りそうになっている意識を懸命に繋ぎ留める。

 

 現実にしてみれば、ほんの数十秒か数分のことだったかもしれない。けれど、ラグナにとっては永遠かと思える程の時間が過ぎ去り、ようやくラグナの身体から性感と、それにより併発された熱が引いた。

 

「は……ぁ……」

 

 もはやその音が聞こえない、殆ど意味を成さない、あまりにも弱々しい呼吸。そしてそんな呼吸すらもまともに繰り返すことができない程までに、ラグナは体力を消耗させられた。そんなラグナに、ライザーが言う。

 

「もう、認めてくださいよ」

 

 馬鹿にする為ではない、敬語で。感情らしい感情が込められていない、声で。

 

「言ってくれませんか。『俺はラグナ=アルティ=ブレイズじゃない。私は彼とは全くの別人の、か弱い少女です』……って。そう言ってくれれば、俺、止めますから。こんなくだらないことなんて」

 

 ライザーの要求は、ラグナの尊厳をこれでもかと貶し、踏み躙ったものだった。あまりにも身勝手に、そしてこれでもかと散々辱めておいて、彼は己の下衆を極めた最低最悪の行いを、くだらないことを宣った。

 

「…………」

 

 ラグナは、ライザーから顔を逸らし。何も言わず、沈黙する。

 

 ラグナからすれば、ライザーの要求は到底呑むことのできないものである。

 

 ……だがしかし、ライザーが言うこんなくだらないことから逃れたい気持ちも、ラグナには確かにあった。

 

 尊厳と解放。その二つを秤にかけて、ラグナは──────

 

 

 

「……クラハに、謝りやがれ……!」

 

 

 

 ──────その秤をぶち壊し、未だ涙が滲む瞳で、しかし気丈に真っ直ぐ睨みつけながら。そうはっきりと、ライザーに言い放った。

 

「…………はあ。そうですか」

 

 ラグナの言葉を受けて、ライザーは間を空けて深いため息を吐いた後、やけに抑揚のない声でそう返したかと思えば。スッと、ラグナを寝台(ベッド)に押さえつける為に下ろしていたその腰を上げ、ラグナの身体が離れようとする。

 

 そのライザーの行動はラグナにとっては不可解で、予想外で。一体どうしたのかと思った────次の瞬間。

 

 

 

 

 

「じゃあもうぶっ壊れろ」

 

 

 

 

 

 地の底、などでは到底表現し切れぬ低い声で言って。あまりにも禍々しく悍ましい雰囲気を一気に放ち。ライザーはラグナに迫り、そして。

 

 これまでのはまるでお遊びだったとでも言わんばかりの、隙など一切も見受けられない素早さに、僅かな抵抗すらも許さない容赦のなさで。

 

 左手をラグナの胸に真っ直ぐ伸ばし、過剰なまでに刺激され続け、痛々しい程に真っ赤に染まった上に肥大化してしまったその先端部を、さっきと同じように摘み、押し潰し────それから無慈悲にも抓り上げた。それもラグナの胸が吊り上がり、変形する程の勢いで。

 

 それとほぼ同時に、右手でラグナの残った片胸を乱雑に掴み、持ち上げて。ライザーは何の躊躇いもなく顔を近づけたかと思えば、もう片方と同様の有様となっているその先端部を迷わず咥え、歯を立てた。

 

 意外なことに、最初は何ともなかった。だが、それは所謂嵐前の静けさだということを────ラグナは知らなかった。

 

 ──……あ?あ、あっ?

 

 一拍置いて、ラグナを襲ったのは先端部に集中するジンジンとした激痛。だがすぐさまそれは、一瞬にして。

 

 ──ふあ゛、ひ、ぁあっ、ん゛あ゛あ゛あ゛っっっ???

 

 今までのはまるで嘘か冗談だったかと思える程の、凄まじく強烈で圧倒的な性感に呑み込まれた。

 

「〜〜〜〜ッ?!〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!」

 

 激痛を激痛として認識する間もなく、津波の如く押し寄せたその性感に、気がついた時には声にならない絶叫を、ラグナはその口から上げていた。

 

 ライザーの言葉通り、壊されてしまったように。ラグナはガクガクと全身を激しく痙攣させ。それだけに留まらず、背中を思い切り仰け反らせ、重石代わりになっていたライザーが離れたその分だけ腰を突き上げるように、跳ねさせて。

 

 そうして、抗うこともろくに許されず。あっという間に、ラグナの意識は真っ白な宙へ放り出された。



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お出まし(後編)

 止まることはないのかと、そう思わず危惧するくらいにはラグナの痙攣は続いて。しかし、物事の全てには等しく終わりがあるように、ラグナのそれも終着を辿る。

 

 もはや呻きにもならない、声と呼べない声を漏らして。身体の痙攣が止まったラグナは、そのまま完全に脱力してしまったように、寝台(ベッド)に沈んだ。

 

「……気ぃやって、気ぃ失ったか」

 

 淡々とそう独り言を呟いて。ぐったりとし、起き上がる様子など皆無であるラグナを、ライザーは俯瞰する。

 

 上から下まで。頭の天辺から、足の爪先まで。じっくりと、まるで舐め回すかのように。

 

 時間にしてみれば、数分のこと。そうして寝台に横たわるラグナの身体を眺め、ライザーは不意に片手を振り上げたかと思えば、そのまま顔へとやる。顔半分を覆い隠し、そして彼は天井を仰いだ。

 

 金色の右目と、指の隙間から覗かせる左目で。薄汚れたその天井を見つめながら、ライザーは呆然と振り返る。

 

 

 

『クラハに謝れ、ライザー』

 

『昨日のあれがクラハに対する仕返しのつもりだとしたら、ただの逆恨みだ。クラハは何も悪くない』

 

『クラハが俺の後輩で、俺はクラハの先輩だからだ。それ以外の理由なんて、ねえよ』

 

『絶対の絶対にお前をクラハに謝らせてやるッ!!ライザァァァアアアッッッ!!!!』

 

 

 

 それらの言葉を、今さらながらに振り返り。ライザーは独り言を吐き捨てる。

 

「クラハ、クラハと馬鹿の一つ覚えみたいに言いやがって」

 

 果たしてその声に含まれていたのは、嫉妬か。それとも────寂寥(せきりょう)か。それはライザー自身ですらも、わからない。

 

 顔半分を覆い隠していたライザーの手が、だらりと垂れ落ちる。それから彼は天井を見上げることを止め、再びラグナの方へとその視線をやった。

 

 感情を上手く読み取れない無表情を浮かべながら、ゆっくりとライザーは寝台に近づく。ラグナの元に、歩み寄る。

 

 その途中、またしても先程までの記憶を────ラグナに対して行った、己の仕打ちを、漠然とした思いで振り返りながら。

 

 ライザーの脳裏で想起されるのは──────あの、真紅の瞳。

 

 一体どれだけ屈辱を与えられようが。一体どれだけ恥辱を受けようが。一体どれだけ矜持を穢されようが。

 

 いくら謗られようと、いくら否定されようと。結局、変わることはなかった。それだけは、相も変わらず────元のままだった。

 

 今の自分はもはや女であると、これ以上にない程に。徹底的に教え込んでも。執拗に叩き込んでも。その瞳は元のまま、輝いていた。煌めいていた。透き通って綺麗によく見える奥底に、赤々とした炎を。鮮烈なまでに、美麗に逆巻かせていた。

 

 その勢いを少しも弱めることなく。僅かに鎮めさせることもなく。気を失う寸前の、最後の最後まで。

 

 ライザーはそれがどうにも、どうしようもない程に。受け入れられなかった。認められなかった。看過できなかった。赦せなかった。

 

 何故ならば。もし、それを受け入れてしまえば。認めてしまえば。看過してしまえば。赦してしまえば。ライザーは──────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だから、ライザーはそうする訳にはいかなかった。そうなることを、恐れていたのだから。

 

 実のところ、知らず知らずの内に。ラグナは追い詰めていたのだ。先輩として後輩を慮る気持ちから、決して屈しはしないという姿勢を。無駄と嘲笑われ一蹴された、精一杯の抵抗を。それらをああして、最後の最後まで貫き通したことで、ラグナはライザーを追い詰めていた。彼に焦燥を抱かせ、その心から余裕を奪っていたのだ。

 

 ──俺は受け入れない。認めない。看過しない。赦さない。

 

 苛立ちによって、度を越して加速し続ける焦燥に駆られながら。それを必死に抑えようと、取り繕うことを試みて。だが到底それはできそうにないと、瞬時に諦めて。

 

 過ぎ去る秒の中で目紛しく変化する激情の最中、やがてライザーは辿り着く。寝台のすぐ側。この手を伸ばせば、未だ意識を手放しているラグナに届く、その距離にまで。

 

「……」

 

 ライザーは恐れていた。憧憬の消失を。目標の消滅を。

 

 だから、絶対にそうする訳にはいかなかった。だからこそ、それを阻止する為にライザーは躍起になっていた。

 

 ライザーは激しく、熱烈に欲していた。揺るがない事実を。覆せない現実を。だからこそ、言わせたかった。

 

 

 

『俺はラグナ=アルティ=ブレイズじゃない。私は彼とは全くの別人の、か弱い少女です』

 

 

 

 その姿で、その顔で、その声で。そう言ってほしかった。そうすれば、ああそうかと。そうなんだと。

 

 今自分の目の前にいるのは、()()()()()()。間違っても、己がこの限りある人生を費やし費やし、なおも費やし続けながら。ずっと追い求め、そして追い焦がれた人ではないと。憧憬の存在(モノ)でも、目標の存在でもないと。そう、きっと思えただろうから。

 

 別人であるという事実を。その現実を。手にすることが、できただろうから。

 

 ……だが、しかし。返されたのは──────

 

 

 

 

 

『……クラハに、謝りやがれ……!』

 

 

 

 

 

 ──────という、まさに憧憬と目標そのものだった。

 

 あの時は、どうにかなってしまいそうだった。失望した()()()()、至って平静な()()()()()ので、精一杯だった。

 

 自分の憧憬が、目標が。こんな非力で、無力で、そしてか弱い存在になってしまったんだと。それが嘘偽りのない正真正銘の真実を帯びた、揺るがない事実と覆せない現実だと、眼前に突きつけられて。思考で理解させられた。

 

 追い求めた憧憬(ひと)は消失した。追い焦がれた目標(ひと)は消滅した。

 

 であれば、自分にはあと何が────残されているというのか。

 

「…………おい、おいおいおい。何だよ、まだ残ってたじゃねえか」

 

 数分黙り込んでいた後に、不意にライザーがそう呟く。呟いて、だらりと力なくぶら下げていた腕を、ゆっくりと振り上げる。

 

「けど、さあ……だからって、こんなのはあんまりだ

 ……本当の本当にあんまりだあ。もはやこれしか残されてないとか……いや、本当に……ハハ、ハハハ」

 

 気がつけば、先程まで無表情だったライザーの顔には、笑みが浮かんでいた。だがそれは狂った人間の、壊れた笑みであった。

 

「いらねえよ。こんなん」

 

 そうしてライザーは手を伸ばす。ゆっくりと、ラグナへと。ラグナの、股間部辺りの生地が色濃くなって、その上若干の湿り気を帯びている、ショートパンツへと。

 

「でもなあ、いらないからってただ捨てんのもつまんねえからなあ。どうせ捨てんなら、もう元通りに戻せないくらいに……壊す。壊してやる」

 

 そしてライザーの手が届く────────直前。

 

 

 

 

 

 バガァンッ──凄まじい音を立てて、この部屋の扉が吹っ飛んだ。扉は宙を泳ぎ、吹き飛んだその勢いのまま、壁に激突して。そして無惨にもそこら中に亀裂を走らせ、扉は木っ端微塵に砕け、その破片が床に散らばった。

 

 

 

 

 

「……やっとかよ」

 

 ラグナのショートパンツにかける直前で手を止めて、呆れたようにライザーはそう呟くと。

 

 ニイッ、と。口元を酷く歪に吊り上げ、より一層笑みを壊して。ゆっくりと、背後を振り返って。

 

「ようやっと、お出ましかよ」

 

 ()()()()()()()闖入者へ、歓迎の意を込めた言葉を投げつけた。



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燃え盛る夢と、そして壊れ始めた非日常

 豪々(ごうごう)と、炎が燃え盛っていた。臙脂色の舌を、四方八方に伸ばして。周囲全ての存在《モノ》を、好き勝手に舐め回し、ドロドロに焼き溶かしていた。

 

 轟々と、音が鳴り響いていた。空を裂き、地面を割り。建物とその他全てを、破壊する咆哮が。延々と鳴り響いていた。

 

 その様子を、その光景を、ただ呆然と眺めることしかできない。無尽蔵に広がる赤黒く粘っこい液体が、こちらの足元を濡らし、汚していく。

 

 咆哮が響く。咆哮が響く。咆哮が響く。何度も何度も、繰り返し繰り返し、幾度となく。

 

 それを、ただ呆然と見つめる。眺める。まるで、他人事のように。絵空事の、出来事のように。

 

 やがて────────

 

 

 

 ギョロリ、と。その黄色の眼球がこちらの姿を捉えた。

 

 

 

 炎が燃える。炎は燃える。消えることなく、ずっとずっと、永遠に。

 

 炎を背に、破滅が迫る。滅茶苦茶に出鱈目に四肢を動かし、地面をまるで硝子のように割って、建物をまるで紙細工のように潰して。

 

 もはや理性などとうに感じられない咆哮を轟かせ、破滅は迫る。不思議なことに、その様が酷く遅く目に移って、欠片程の現実感も得られなかった。

 

 しかし、それは錯覚だ。それに気づく時にはもう────破滅はすぐ目の前だった。

 

 炎と土埃を巻き上げながら、大木よりも太く強靭な豪腕が振り下ろされる。その先にあるのは、石も鋼も平等に切り裂く鉤爪。

 

 その光景ですら、まるで遅くて────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だらっしゃあああぁぁぁぁッッッ!!!」

 

 ────────そして、そんな声とともに。その破滅から振るわれた豪腕が、跳ね除けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ!!」

 

 目を開くと、真っ先に視界に飛び込んだのは────何処までも広がる澄み渡った青空と、いくつも浮かぶ無数の真白の雲と、見渡す限り水平線の続く水面。

 

 そんな、正直この世のものとは思えない、絶景と表しても何ら遜色のない光景を、こうして目の当たりにした僕は、ただただ困惑の声を漏らすしかなかった。

 

 ──な、何だここ?僕は今、一体どこにいるんだ?

 

 混乱に見舞われながらも、僕は無意識に周囲を見渡す。けれど上下左右どこに目を向けようが、視線を流そうが。そのどれもが、全く同じ光景しか映らない。

 

「……どうなって、いるんだ……?」

 

 もはやどうすることもできず、僕はもう呆然とそう呟くしか、他になく。しかし、そんな時だった。

 

 

 

 

 

「ヘェイ」

 

 

 

 

 

 という、そんな。良く言うのならば人の好い、けれど悪くいえば実に能天気な声が。突如として僕の背後で響いた。

 

 一体誰だと思って、咄嗟に僕は背後を振り返る。そこに立っていたのは──────一人の女性であった。

 

「え……?」

 

 白、とも違う。灰色にも思えたが、しかし濁ってはいない。透き通ってはいたが、でも透明という訳でもない。

 

 そんな、上手く言語化できない色の髪を肩に軽く触れる程度にまで伸ばして。そしてその髪と全く同じ色をした瞳を持つ、何とも言い表すことのできない雰囲気を纏った、女性が。気がつけば僕の背後に立っていたのだ。

 

 ──一体、誰……?

 

 思わず呆気に取られてしまう僕に、その女性は平然と声をかけてくる。

 

「そんな風にうかうかしてたら、手遅れになっちゃうぞ?キミ」

 

「え?は?」

 

 何の脈絡もなしにいきなりそう言われて、堪らず僕は困惑と混乱が入り混じった声を出してしまう。しかし、女性はそれを一切気にすることもなければ、咎めることもなく。お構いなしに続ける。

 

「今からその証拠を見せちゃう────そおぉうれっ!」

 

 そう言うが早いか、女性は溌剌としたかけ声と共に腕を振り上げる。瞬間、僕と女性が足場にして立っている水面が波打ち、宙へと飛沫した。

 

 一粒一粒が硝子(ガラス)玉と同程度の大きさの水滴が、瞬く間に僕と女性の周囲を取り囲む。しかも驚くべきことに、それら全てがまるで重力を無視しているかのように、宙に留まっていた。

 

「こ、これは一体、どういう……!?」

 

 世界の理から外れたその光景を目の前に、僕はただ驚きの声を上げることしかできない。そんな僕に、この非常識的な光景を作り出した張本人たる女性が、平然と言ってくる。

 

「よく、よぉく目を凝らして見てごらん」

 

 女性の言葉には、声には不思議と逆らえない響きがあった。そして気がつけば、僕は言われた通り目を凝らし、無数にある内の一つの水滴を見つめていて────ハッとした。

 

「先輩っ!」

 

 水滴にはラグナ先輩の姿が映り込んでいた。病院から飛び出し、無我夢中で我武者羅(がむしゃら)にオールティアの街道を駆け抜ける、先輩の姿が。

 

 映り込んでいるのは、その水滴だけじゃない。別の水滴にも先輩の姿はあって。そこに映る先輩は、立ち止まっていた。立ち止まって、何かの店らしき建物に歩み寄って、恐る恐る窓硝子に手を伸ばして。

 

「ッ!」

 

 泣いて、いた。その真紅の瞳から、透明な雫を────涙を、流していた。

 

 ──せ、先輩……?何で、泣いて……?

 

 僕にとってそれは、あまりにも衝撃的なことで。何故泣いているのかと、真っ白になった頭ではその理由を考えるだけで、手一杯で。

 

 だがしかし、それでも水滴の中の先輩は、遠慮容赦なく僕にさらなる光景を見せつけてくる。

 

 フッと、無意識に視線を逸らした、その先に。当然、そこにも水滴が浮いている訳で。そしてその水滴にも、先輩の姿が映り込んでいて。

 

 それを視界に捉えた瞬間────その思考さえも、跡形もなく吹き飛ばされた。

 

 もはや更地同然となった頭の中、言葉も出せず、呼吸するもの忘れて。目を見開かせ、食い入るように僕は水滴を、その中の先輩を見つめる。

 

 先輩は、陽の光も満足に届かない裏路地に進み。奥の方まで歩くと、廃墟らしい建物があって。鉄扉の前に立っていた男に話しかけ、そしてその男に連れられ先輩はその建物へと、入っていった。

 

 見るからにろくでもなく、危険極まりない場所に、あろうことか先輩は単身で乗り込んでしまった。その事実が、現実が。淡々と、僕の中に入り込んでくる。

 

 そして不意に、僕の背中に何かがのしかかった。

 

「ほらね?ほらね?」

 

 僕の背中に馴れ馴れしくものしかかった女性が、一体何がそんなにも楽しいというのか、気味が悪い程に明るい声で。まるで幼い子供のような無邪気さで、天真爛漫とした声音で。

 

「早く早く、どうにかしなきゃ。でないと、でないと」

 

 僕の首に腕を回し、僕の顎を指先でなぞり、僕の耳元にそっと口を近づけ。

 

 

 

「壊されちゃうよ?キミの大事で大切な存在(モノ)

 

 

 

 そう、鼓膜に絡みつくような声音で、女性は僕に囁いた。

 

「…………」

 

 気がつけば、僕は寝台(ベッド)から上半身だけを起こして、病室の壁を見つめていた。いつの間にか眠ってしまったらしく、窓の方に視線をやれば、もう既に日は沈み、空は黒へと染められていた。

 

 それを確認するとほぼ同時に、僕は寝台から降りており。

 

 気がついた時には、もう──────僕の身体は宙を落下していた。



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こんなことの為に(その一)

「はぁあー……かったりぃなあ」

 

 その言葉通り、実に面倒そうに。見張りの番を交代させられた男は、背後の鉄扉にもたれかかって、深く嘆息する。ちなみに彼が見張りを始めてから、既に小一時間は過ぎていた。

 

 依然面倒そうに、その男はぼやき続ける。

 

「俺ってばツイてないぜぇ。まだ子供(ガキ)だってのを差し引いても、超とびっきりの上玉だったてのによお……はあ。俺直々に男の相手の仕方ってもんを仕込んでやりたかったなぁ。そのついでに種も……あ、そういや確かあの嬢ちゃん、噂じゃあの『炎鬼神』様って話だったっけか?まあそうだろうとなかろうと、あんだけ可愛かったら関係も問題もねえよな。……ん?」

 

 その頭の中と同様の、下品極まった下卑た笑みを浮かべながら。欲望丸出しの随分と長い独り言を垂れ流し終えた、その時。ふと、男は気づいた。

 

 視線の先、日も沈みただでさえ薄暗いというのに、より深まった裏路地の闇の中に。ポツンと、他の闇から浮いている一つの影があった。

 

「何だぁ……?」

 

 それが一体何なのか、本能的好奇心に駆られた男はその正体を確かめようと、目を凝らす。しかしその影は闇に埋もれている上に、男の視力は特別良いという訳でもない。むしろ悪い。

 

 結果、その影が一体何であるか男はわからず。そして人体の生理現象の一つとして、無意識の内にその目を瞬かせた────そんな、一秒にも満たない僅かな、一瞬の内。

 

「おわあっ?」

 

 堪らずという風に、男は声を上げた。何故ならば、男の眼前に──────一人の青年が立っていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 周囲の外観から、今目の前に続くこの裏路地がそうであると、僕は判断し。そして迷うことなく、その裏路地へと足を踏み出し、先に進む。

 

 昼間でも相応に薄暗い裏路地は、夜になったことでその全てが濃く深い闇に包まれており。だが僕はそれを苦にすることなく、曲がりくねったこの裏路地を進んでいく。

 

 ──……ここだ。

 

 そうして、僕は辿り着いた。あの廃墟の前へと。しかし、中に入る為には通らなければならない鉄扉の前に、男が一人、気怠そうにして立っていた。

 

 僕がその男を見つめていると、やがてその男も僕のことに気づいたらしい。男も遠目から、僕のことを眺めていた。

 

 ──面倒だな。

 

 そう短く心の中で呟いた僕は、一歩前に踏み出し──────

 

 

 

「おわあっ?」

 

 

 

 ──────男の目の前にまで、接近した。驚きの声を上げる男に対して、僕は短く伝える。

 

退()いてください」

 

 だが、当然はいそうですかと男が僕の言葉を聞き入れる訳がなく。あからさまにその顔を不愉快そうに顰めさせて、ドスを利かせた低い声で僕に返事する。

 

「ああ?いきなり現れて退けだぁ?一体何様のつもりだ、お前さん。そっちこそ今すぐに俺の目の前から消えう────

 

 

 

 ドスッ──男の返事が望んだものではないと判断した瞬間、僕は躊躇いもなく。その無防備にもがら空きとなっていた人体の急所の一つ、鳩尾に拳を突き入れ、抉るようにして沈み込ませた。

 

 

 

 ────げッ……ご、え゛……ッ」

 

 という、呻き声を漏らす男に。僕は淡々と告げる。

 

「すみません。今、余裕がないんです」

 

 果たして、その僕の言葉が男に届いたかどうか。それはわからない。僕が言い終えるかないかの瀬戸際で、男は白目を剥き、顔を力なく俯かせてしまったのだから。

 

「……」

 

 全身から脱力したその男を退かし、改めて僕は鉄扉の前に立つ。そしてそのノブに手をかけ、握り、回そうと捻る──ことは叶わなかった。

 

 ──鍵……まあ、当たり前か。

 

 そう、目の前の鉄扉は鍵がかかっており、固く閉ざされていた。この鉄扉の鍵を持っているかどうか、それを確かめる為、失神している男の持ち物を漁る────普段の僕であれば、若干気を憚れながらも、そうしただろう。

 

 だが、さっきも自分で言った通り、今の僕はそんな心の余裕なんて、持ち合わせてなどいなかった。

 

「…………」

 

 時間にしてみれば、一秒にだって満たない、ほんの僅かな一瞬。その間に僕は判断を下し、そして間髪を容れずに行動へと移る。

 

 ──【強化(ブースト)

 

 ノブを握り締めたまま、僕は握っている手に、腕全体に魔力を伝わせた。瞬間、微かに鈍い音をさせて、僕が握り締めている鉄扉のノブが()()

 

 そしてそのまま僕はノブを、意思に従い()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギギギッバギン゛ッッッ──さながらそれは、痛々しい悲鳴。甲高い音を立てて、本来内側に開くはずのその鉄扉は。()()()()()()()()()()()()、そして耐久力の限度を超えて、そのまま()()()()()

 

「ひ、ひぃっ!?」

 

 鉄の塊である鉄扉が、まるで紙のようにいとも容易く引き千切られる様を、目の前で見せつけられた男が情けない悲鳴を上げ。次の瞬間、男の顔のすぐ横の硬い石の壁に、弾け飛んだ蝶番の一つが深々と突き刺さり、その周囲に亀裂を生じさせた。

 

「な、何だ何なんだッ!?な、殴り込みだってのかよッ!?」

 

 あまりにも現実離れした光景の連続に、男は極度の恐慌と混乱に陥ってしまうが、それでも今までの経験からか咄嗟に身構える。が、しかし。

 

「あ、あ……?」

 

 ゴォン──引き千切られ、支えを失った鉄扉が倒れ、鈍くて重い音を哀しげに響かせる。しかし、肝心の鉄扉を引き千切った者は、立っていない。そう、誰もいなかったのだ。

 

「一体、どうなって……」

 

 随分と風通しの良くなった玄関で、男は困惑気味に呟く。けれど、彼は気づいていなかった。

 

 自分の背後に、人影が立っていたことに。そのことに男は────最後まで気づけなかった。

 

 トッ──そして、無防備に曝け出していた(うなじ)に容赦のない、鋭い手刀を叩き込まれ。呻き声一つ漏らすこともできずに、一瞬にして男の意識は刈り取られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恐らく外に立つ者の合図で、内側からこの鉄扉の鍵を開けるのだろう。

 

 その役目を担っていたのだろう男が、引き千切られ倒れる鉄扉に気を取られている隙に、闇に紛れ音を消し、僕は素早くその背後に回り込んで。そして無防備だったその項に、躊躇せずに手刀を叩き込んだ。

 

 その意識を奪い取るつもりの威力で放たれた手刀を、まともに受けた男が意識を保てる道理などあるはずもなく。悲鳴どころか呻き声すら漏らせずに、男はその場で力なく崩れ落ちた。

 

 固く冷たい通路に倒れ込んだその男が、起き上がる様子は全くの皆無で。少なくとも意識を取り戻すのは数時間後だろうなと、その意識を刈り取った張本人たる僕は、まるで他人事のようにそう判断する。

 

 と、その時。ゾロゾロと、こちらに向かって来る複数人の足音を僕は聞き捉える。聞き捉え、堪らず嘆息してしまった。

 

 それから僕は天井を仰ぎ、左手で顔の左半分を覆い隠し。そして酷く陰鬱とした気持ちのままに、独り言を零す。

 

「鬱陶しいな……余裕ないって、言ってんだろ」

 

 そう零して、足音がする方へと目を向けた。



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こんなことの為に(その二)

「いやあ、楽しみで楽しみで仕方がありゃしねえぜ、全くよ」

 

「おうおうその通りだな。あんな上物にありつける機会(チャンス)なんて、そうそうねえぞ」

 

「惜しむらくはまだ子供(ガキ)ってとこか。けどそれはそれで、唆られるもんがあるなぁ。何にも知らねえ子供に色々と教育すんのも、新鮮で面白そうだ」

 

(ちげ)えねえ違えねえ。ギャッハハハッ!」

 

 などと、言い合いながら。その部屋にいる十数人の男たちは、それぞれの娯楽に興じていた。

 

 飯を食らい。酒を飲み。手札(カード)携え、賭博事(ギャンブル)────その光景は、まさに粗暴で乱暴な、傭兵気取りのチンピラである彼らに相応しい、最低最悪なものであった。

 

 同調性も協調性も、微塵だってありはしない。けれど、この後。そんな彼らでも一致団結し、一心同体となる。

 

 この後に待つ、本日最大のお楽しみ(メインイベント)の為に。

 

「けどよ、元は『炎鬼神』なんだろ?あの嬢ちゃん」

 

「ギャハハッ!んなのデマに決まってんだろ!……それにそうだったとして、今はただの子供の女。それも将来有望な美少女サマだ。だったら……やることは一つだろうがよ」

 

「まあ、確かに……それもそうだな!ガハハハッ!」

 

「でも、俺としては処女(ヴァージン)散らして、一番最初に味わってみたかったなぁ。あの初めて特有の痛いくらいの締まりが最高(サイコー)だっつーぅのに」

 

「そんなのここにいる全員が思ってるさ。けど、それを楽しめるのは頭のライザーさんだけだろ。まあお目溢しが味わえるだけでも喜ぼうぜ」

 

 という、品性の欠片もない、およそ頭を使っているとは思えない性欲剥き出し丸出しの会話が繰り広げられる、その最中。一人の男がふと気づいたように言う。

 

「おい、何か……下の階が騒がしくねえか?」

 

 そんな男の指摘に、苛ついた声で別の男が言う。

 

「下っ端のクズ共が不満垂れて愚痴叫びながら暴れてるだけだろどーせ。精鋭隊の癖に()っせえことを一々(いちいち)気にしてんじゃねえよ。たく、くだらねえ。みっともねえ情けねえ」

 

「お、おう……(わり)ぃ」

 

 ギィ──その時であった。今の今まで、閉ざされていたこの部屋の扉が、軋んだ音を立てながら、ゆっくりと僅かに開かれて。瞬間、部屋にいる全員が全員、扉の方へ目を向けた。

 

 まるで先程までの馬鹿騒ぎが全くの嘘だったかのように、部屋は静まり返っていた。そんな最中、ついさっき下の階が騒がしいと指摘した男を、それは気の所為だと叱咤した男がぶっきらぼうに言う。

 

「今日は絶対に開けんじゃあねえって……あんだけ言っておいたよなぁ?」

 

 だが、男の言葉に対して即座に謝罪の言葉もなければ、返事すらなく。そのことに、男は不愉快そうに舌打ちした。

 

「見てこいロルカ。そんで、連中……ちょっくらシメてこいや」

 

「ああ?面倒だな……わかったよ」

 

 下の階が騒がしいと指摘した男──ロルカはその言葉に従って、ゆっくりと椅子から立ち上がり。そしてまたゆっくりと、僅かに開かれるだけに留められた扉に近づき、この部屋から出て行った。

 

「ったく、白けさせんなよなあ」

 

「本当だぜ。こんな舐めた真似、二度と出来ないように再教育すっかぁ?」

 

「そうしようそうしよう。とりあえず半殺しは確定だ」

 

「これだから若ぇ衆は駄目だ。目上に対する礼儀ってぇモンがこれっぽっちもわかっちゃいねえ」

 

 という風に会話を広げながら、男たちは先程よりも若干勢いの下がった馬鹿騒ぎを再開させる──────その時だった。

 

 

 

 バァンッ──不意に、またしても部屋の扉が。しかし、今度は思い切り開かれて。全開となると同時に、部屋の外から何か大きな物体が投げ込まれた。

 

 

 

 突如として部屋の中に投げ込まれた()()は、宙を舞い。そして部屋の中央へと。今賭博(ギャンブル)が行われ、四人の男たちが囲むテーブルへと落下する。

 

 言うなれば、それは合唱。木製のテーブルが砕ける音、皿や酒瓶が割れる音。それに混じって微かに聞こえる、肉が切れ骨が折れる、生々しい音。そんな複数の音が大音量で重なって、部屋に響き渡った。

 

 テーブルの上にあった山札が宙へバラ撒かれ、ヒラヒラと花弁の如く舞い落ち、もはや残骸となったテーブルを下敷きに、すっかり伸びてしまっている()()────先程部屋を出たばかりのロルカの上に積み重なった。

 

 今この部屋にいる、ロルカを除いた十数人の男が。全員、全開となったままの扉の方へ顔を向かせ、睨めつける。

 

 そうして数秒後────スッと、扉の外から足が伸びて。何の躊躇もなく、部屋の床を踏み締めた。

 

「……おいおい。マジかよ。本当に来やがった」

 

「流石はライザーさんだな」

 

「ああ。全くだぜ」

 

 薄暗い通路の影から現れた、その姿と顔を見て。そう口々に男たちが言う。言って、誰しもがその口元を悪意で吊り上がらせた。

 

「丁度賭博には飽き飽きして、気分転換がしたかったとこだ」

 

「やっぱり、若ぇ衆は駄目だ駄目だあ。こうなったら礼儀ってヤツをとことん、死ぬ程その身体に叩き込んでやる」

 

「半殺しにしてやんよお。イヒヒッ」

 

 異口同音────皆言うことは違えど、その言葉に込められているものは、皆同じ。

 

 悪意と暴意と、そして殺意で満ち満ちたこの部屋に、けれど足を踏み入れたその者は──────

 

 

 

 

 

「……先輩を、返してください」

 

 

 

 

 

 ──────一切臆することなく。ただ淡々と、男たちにそう言った。



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こんなことの為に(その三)

「ぐえ゛ッ……!」

 

 何の警戒心もなく、部屋から出てきた男を、僕は背後から腕を回し、その首を絞め上げる。突然襲われたが、傭兵崩れと言ってもそこは一端の戦士と評すべきか。混乱しながらも、必死に僕の腕から抜け出そうと男はもがいた。

 

 けれど、その抵抗は無駄に終わる。僕の腕は完全に入っており、部屋にいる他の仲間が助けに来ない限り、男がこの絞め上げから抜け出すのはほぼ不可能だ。

 

 そうして十数秒後、徐々に男の抵抗は弱々しくなって。そして不意にその身体からフッと力が抜けたかと思えば、ピクリとも動かなくなり、男は完全に沈黙し大人しくなった。

 

 ──気絶(おちた)か。

 

 心の中で冷ややかにそう呟いて、僕は男の首に回していた腕をそっと外す。男の意識はしばらく戻りそうになく、僕はそんな男の首を無造作に掴み、そして。

 

 バァンッ──さっきとは違い、部屋の扉を蹴って開き。一気に全開となったと同時に掴んでいた男を、ゴミ捨て場へゴミ袋を放り捨てるように。僕は何の躊躇いもなく乱雑に部屋の中めがけて投げ込んだ。

 

 気を失ったままの男の身体が、宙を滑るように舞い。そして重力に引かれて中央の、酒瓶と肴が乗った皿と、そして大量のトランプの山札で満載のテーブルへと落下した。

 

 派手な破砕音が重なり合って、部屋に喧しく響き渡る。それを聴きながら、僕は平然と扉の外から足を伸ばし、そしてこの部屋に床を踏み締めた。

 

 部屋はすっかり静まり返っていた。先程まで馬鹿騒ぎをしていたというのが信じられない程の静寂で、今や満たされ、そして満ちていた。

 

 僕の身体に、無数の視線が突き刺さる。そのどれにも、はっきりとした確かな────殺意が込められていた。

 

「……おいおい。マジかよ。本当に来やがった」

 

「流石はライザーさんだな」

 

「ああ。全くだぜ」

 

 男たちが言う。その口元が悪意で歪み、吊り上る。

 

「丁度賭博には飽き飽きして、気分転換がしたかったとこだ」

 

「やっぱり、若ぇ衆は駄目だ駄目だあ。こうなったら礼儀ってヤツをとことん、死ぬ程その身体に叩き込んでやる」

 

「半殺しにしてやんよお。イヒヒッ」

 

 そう口々に、好きに勝手に御託を並べる彼らに。僕はただ冷静に、ただ冷淡に。けれど決して聞き逃されることのよう、一字一句丁寧に。

 

「……先輩を、返してください」

 

 そう、懇願した。少なくとも、僕はそのつもりで彼らにそう言った。

 

 だが、しかし──────

 

 

 

「寝言は死んでほざやけやァッ!」

 

「まあそもそも死んじまったら何にも言えねえけどな!」

 

「ライザーさんの手を煩わせるまでもねえ!今ッ!ブッ殺してやんぜぇえええッ!!」

 

 

 

 ──────彼らはそうとは受け取ってくれず。皆口々にそう叫ぶや否や、僕に襲いかかった。

 

 そんな、迫り来る男たちを、僕は対岸の火事のように平然と一瞥し。そして軽く小さな嘆息を一つした。

 

 そして────僕は素早くその場に()()()()()()()。瞬間、前に出ていた三人の男たちがどよめく。

 

「あァ!?」

 

「何!?」

 

()()()()()()ッ!?」

 

 実際には僕はこの場から消えてなどいない。僕はただ、その場でしゃがんだだけだ。そう、今一番僕に接近している三人の男たちの視界に映り込まない程、素早くしゃがんだだけ。

 

 だが、そもそもその動きを捉えることができていないこの男たちには、自分たちでそう言った通り────一瞬にして僕がその場から消えたように見えていたのだ。

 

 横から別の男が、三人の男たちに鋭く言い放つ。

 

「馬鹿野郎共!下だ!」

 

 時間にして、それは僅か一秒程度────けれど、僕にとってはそれで充分だった。

 

 短く鋭く、息を吐き出して。僕は両足に力を込め、床を蹴りつけその場から駆け出した。

 

 一秒が過ぎる直前────僕の前に立ち塞がる三人の男たちが、未だに眼下の僕に気づく様子はなく。それを下から冷静に眺めつつ、さらに床を蹴って加速。それと同時に前方へ真っ直ぐに、腕を伸ばした。

 

 目標は真正面。真ん中に立つ、男。一先ず僕は彼に狙いを定めた。

 

 一秒経過────こうして接近され、既に間合いに入られてしまったというのに、それでもまだ僕に気づかない真ん中の男の顎めがけて。その真下から、体重、速度、勢い全てを余すことなく乗せ切った掌底を、僕は一切躊躇うことなく打ち込んだ。

 

「ぶゔぇっ」

 

 という、珍妙な声に続いて。何か硬いものが砕ける音と肉が潰れる音が生々しく響いて。僕の掌底を無防備に受けたその男は、その場から真上に向かって()()()()()()()

 

 バキャッ──打ち上がった男の頭が天井を割って貫き、首から肩までが天井に突き刺さる。

 

「……え」

 

「は……」

 

 プラプラ、と。だらんと力なくぶら下げた手足が揺れるその男が、天井から抜ける様子は皆無で。それを残った二人の男は呆然と、まるで意味不明とでも言いたげに見上げており。

 

 そんな二人の間を駆け抜けた僕は、続け様すぐ近くのテーブルの上にあった酒瓶を手に取る。そして手に取ったその酒瓶で────立ち尽くす男の側頭部を思い切り殴りつけた。

 

 パリィンッ──男の側頭部に酒瓶が衝突し、儚い音を立てて酒瓶が割れ砕け、まだ残っていた中身が男にぶち撒けられた。

 

 血が混じり、薄い赤に染まった酒が男の服を濡らす。だが、服を濡らされたことに対して、男は憤ることは許されなかった。何故ならば、既にもうその意識が途絶えていたのだから。

 

 酒瓶の直撃を側頭部に受け、声すら出せずに気を失い戦闘不能となった男の身体が、グラリと揺れてそのまま倒れる────前に。僕は割れ砕けた瓶を放り捨て、再び空いたその手で、咄嗟にその男の胸倉を引っ掴む。

 

 二秒経過────引っ掴んだ勢いそのままに、瞬く間に仲間が二人倒され、こうして健全で無傷な敵が眼前に立っているというのに、もはや完全に思考停止してしまって立ち尽くしている残った男めがけ、僕は引っ掴んだ男を()()()()()

 

「お……うおあっ?」

 

 ただ立ち尽くしているだけの男が、僕に投げ飛ばされた男をまともに受け止めることなんて、到底できるはずもなく。投げ飛ばされた男諸共に、そんな情けない声を上げながら男は背後にあったテーブルに倒れ込む────直前。とっくに距離を詰め終えていた僕は、足を大きく振り上げ、そして。

 

 三秒経過────僕は躊躇わず、けれど背骨には当てぬよう。未だ意識の戻らない投げ飛ばした男の背中に、足を振り下ろし踵を突き刺した。

 

 パリパリパリバキャッメキミシバキバキィッッッ──酒瓶と皿とその他諸々が悉く割れ砕け散った音。テーブルと床の破砕音。それら全ての破壊の音が、渾然一体となって部屋に響き渡る。

 

 酒瓶の直撃を受けた男はもちろんのこと、その上に乗っていたもの全てとテーブルそのものが木っ端微塵に吹き飛び、どころかその下の床ですら貫通する程の衝撃をその身に受けた、残った男が無事で済むはずもなく。二人がその場から立ち上がる様子は全くと言っていい程に、皆無であった。

 

 四秒経過────迫り来た三人の男を返り討ちにした僕は、その場でざっと周囲を見渡す。

 

 ──あと、十二。

 

 部屋に残っている男の数を確認して、僕は億劫気味になりながらも、心の中でそう呟いた。



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こんなことの為に(その四)

 ──あと、十二。

 

 周囲をざっと見渡し、この部屋に残っている男の人数を確認して。僕は内心でそう呟いて、気怠さと鬱陶しさが入り混じった感情を注ぎ込んだ嘆息を、静かに吐き出す。

 

 今、僕の頭の中は先輩のことで一杯一杯だ。他のことなんて、到底考えられそうにない。

 

 早く先輩の元に行きたい。なのに、どうにもこうにもいかない。そんな理不尽極まる現実を前に、募る苛立ちは止まることを知らず、さらに加速していく。

 

 ──(クソ)が……。

 

 口には出さず、心の中でとはいえ。その所為で、普段から出ないよう気をつけているガラの悪い、乱暴で汚い言葉を僕は使ってしまう。と、その時。

 

「やりやがったなてめえ!」

 

「調子に乗るんじゃあねえぞこのボンボンがぁあッ!」

 

 一応、彼らもそれなりの場数は踏んでいるらしい。ものの数秒で仲間三人を()されたというのに、それでも勇敢に吠えながら新たに二人の男が拳を振り上げ、僕に襲い来る。

 

 ……けれど、今の僕にはその行為は非常に疎ましく、募る苛立ちを不愉快にも刺激し、助長させるものでしかなかった。

 

 右と左。僕を挟むようにして、拳は迫る。それをまるで他人事のように眺め、僕はその場から一歩退いた。

 

 そして流れるように、右の男へと接近し。続け様、その後頭部を無造作に掴む。この一連の行動を終えるのに、一秒もかからなかった。

 

「んなッ!?」

 

 僕が視界から消えたことを、今になって気づいた左の男が声を上げ。それとほぼ同時に、僕は掴んでいた男の顔を無理矢理前に押し出し、迫っていた左の男の拳へと。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 メキャ──掴んでいる右の男の顔に拳がめり込み、左の男の手首があらぬ方向とあらぬ角度に折れ曲がる。

 

「いぎゃあっ!?」

 

 左の男が悲痛な叫び声を上げ、無理に折り曲げたことで痛めた手首を残る片手で押さえて、その場から跳び退く。

 

 一方、己の意思とは無関係に顔面に拳をめり込ませた右の男は、声を上げることすら叶わない程に悶絶しているようだった。しかしそうなるのも必然、当然。何故ならそうなるように、普通に受けるよりもさらに痛むように、僕が顔面を押しつけたのだから。肝心の顔面が見えないのでそうとは断言できないが、恐らく顔の骨は歪み、鼻は砕け、歯も五、六個は抜けていることだろう。

 

 そんな惨状を軽く想像しながら、僕は掴んでいるその頭を無理矢理下げ。

 

 ゴチャッ──遠慮容赦なく、その顔面に膝を打ち込んだ。男の顔面と僕の膝が衝突すると同時に、さらに男の頭を下げさせて。

 

 ビクン、と。男の身体が一瞬痙攣したかと思うと、そのままピクリとも動かなくなった。そんな男の頭を、僕はパッと離す。

 

 重力に従って床に沈む男を背後に、未だ手首を押さえて痛がる男に僕は歩み寄る。

 

「ぐ、ッ……この糞や────

 

 ドス──呑気にもこちらのことを睨みつけ、恐らく罵りの言葉を叫ぼうとしたその男の鳩尾に。僕は鋭く貫手を突き込み、そしてさらにグッと深く、指先を抉り込ませた。

 

 ────ぁ゛ッ……ぅ゛ぇ゛……ッ」

 

 目玉が飛び出るのではないかと、思わず危惧してしまう程に。男は目を限界まで見開かせ、その口から舌を突き出し。そして、グルンと白目を剥いたかと思えば、そのまま意識を手放した。

 

 そのまま僕に向かって倒れ込んで来ようとするその男の身体を、僕は力任せに突き飛ばす。突き飛ばされた男の身体が、僕に迫っていた男にぶつかり、その足を止める。

 

「くっ、邪魔だ!」

 

 慌てて意識のない男を退かそうとする男を尻目に、僕はすぐ側のテーブルの上にあった灰皿を手に取り、そのまま背後を振り向きながら、勢いをつけて投げ飛ばす。

 

 パキャッ──音もなく、背後から忍び寄っていた別の男の額に。宙を滑るように飛んでいた灰皿が直撃し、芸術的なまでに砕け破片を飛び散らせ。それに続くようにして、額から一筋の血を流しながら男が崩れ落ちる。

 

「いい加減にしやがれこの小僧めがァッ!!」

 

 ようやっと男を退かしたらしいその男が、怒鳴りながら僕に襲い来る。しかし、その動作も何もかもが僕にとっては遅過ぎて、振り上げているその拳が届く距離にまで近づく頃には、その横面に振り返った勢い全てを乗せ切った、僕の回し蹴りが炸裂していた。

 

「がッ」

 

 男がそんな短い悲鳴を上げたが、果たしてそれは僕以外に聞き取れたのかは定かではない。何故ならば、僕の蹴撃を受けたその男は。

 

 バキャッッッ──ろくな抵抗も許されず、すぐ側にあったテーブルに叩きつけられ、割って砕いて。それだけに止まらず、床にまで到達し、そして突き破ったのだから。

 

 床に首から上だけを突き破らせて、男はピクピクと全身を力なく震わせることしかできない。そんな彼を見下ろして、僕は心の中で淡々と呟く。

 

 ──八。

 

「こんの、若造が……!」

 

「黙って見てりゃあライザー傭兵団、精鋭隊である俺たちの面目潰しやがって」

 

「ああ。調子に乗り過ぎだ。こうなったら……おいお前ら!得物だ得物出せ!本気で殺るぞ!!」

 

 一人の男はそう言うや否や、その腰に下げていた剣の柄を握り、そして鞘から抜いてみせる。他の男たちも同様に、各々の得物を抜く。

 

「今さら泣いて命乞いしようが絶対(ぜってえ)許さねぇ……ブチ殺してやるよおぉッ!」

 

「バラバラにしてやんぜ!!」

 

「血祭りだぜヒャッハァッ!!!」

 

 異様な程に士気を昂らせ、男たちは意気揚々に叫ぶ。そんな彼らのことを、僕は冷めた眼差しで眺めていた。

 

 ……そもそも、男たちは最初から間違えている。戦闘における、最も基本的で初歩的で、そして重要なことに対して、致命的な間違いを犯している。

 

 それは────この場所だ。こんなテーブルと椅子だらけの、戦闘においてただただ邪魔でしかない障害物だらけの場所を戦場にするなど、無理がある。その障害物を苦にもせず、むしろ戦闘に利用する訓練でも積んでいたのなら話はまた別だったが、こんな傭兵気取りの、兵士崩れのチンピラ共がそんな訓練を積んでいる訳もない。

 

 だから数の利を活かして、僕を取り囲むこともできない。取り囲んで一斉に飛びかかろうとしても、周囲のテーブルや椅子の所為で、精々二、三人でしか同時に僕に襲いかかれない。そして僕は二、三人程度だったら問題なく対処できる。

 

 現にさっきの男たちは僕との間合いを詰める際、テーブルや椅子が邪魔になってそれが数瞬遅れていたし、それが致命的な隙となってしまっていた。

 

 明らかに質が足りていない。明白に練度が足りていない。この程度が精鋭隊というのだから、呆れてしまう。

 

「うらァァァ!!」

 

「おらァァァ!!」

 

 得物たる、一般的に多く出回っている長剣(ロングソード)を振り上げ、無駄に威勢の良いかけ声と共に二人の男が僕の方に駆ける。その馬鹿正直で愚直なまでに真っ直ぐな突進に対し、僕は冷ややかな視線を注ぎつつ、一気に────二人の前へと()()()()

 

(なぁに)ィ!?」

 

「血迷ったかッ!?」

 

 僕の行動に驚きつつも、咄嗟に二人は剣を振り下ろす────が。

 

 ガキン──二人の剣が交差し、それぞれの剣身は僕の身体を斬りつけることなく、あらぬ方向に逸れてしまった。

 

「んなっ、邪魔すんなこの野郎!」

 

「はぁ!?それはこっちの台詞だ馬鹿野郎!」

 

 互いが互いに妨害の原因が平等にあるというのに、その責を片方に一方的に(なす)りつけようとする二人。だがしかし、それは少なくとも無傷健在の敵を目前にしてすべき行為ではない。

 

 だから、こうして。

 

「んぎっ」

 

「おごっ」

 

 両方僕に頭を掴まれ、互いの顳顬(こめかみ)と顳顬を衝突させられてしまうのだ。

 

 その手から長剣を手放し、揃ってその二人は床に沈む。

 

 ──六。

 

 心の中でそう呟くと同時に、僕は正面を向いたまま足でテーブルを引き寄せる。すると僕の背後から狼狽の声が上がった。

 

「うおっととっ?」

 

 恐らく、背後から斬りかかろうとしたのだろう。僕は背後に迫るその気配に感づき、テーブルを使いその攻撃を阻止する。

 

「この糞野郎めがああああああッッッ!」

 

 という、激昂の咆哮を上げながら。テーブルや椅子を跳ね除けながら男が突っ込んで来る。そして振り上げていた得物の長剣を、僕に向かって振り下ろす────その直前。

 

 僕は床に転がっていたまた別の男の首根っこを掴み持ち上げ、咄嗟に前へ突き出し、まるで盾の如く構えた。

 

 ザクッ──瞬間、振り下ろされた剣の刃は僕が構えた男の身体を滑り、直後バッと鮮血が噴き出し宙を赤く染める。

 

「ぎゃああああっ!いでええええっ!?」

 

「あ、やべ」

 

 肉盾にされた男の悲鳴に、仲間を斬ってしまったその男が呆然と呟き、剣を振り下ろしたままその場で立ち尽くしてしまう。

 

 そんな僅かな一瞬の隙も、僕にとっては格好の瞬間。掴んでいた男を乱雑に投げ捨て、一息で立ち尽くす男との間合いを詰め、そしてその首筋に手刀を叩き込む。

 

 直後、先程の男たちと同様にその男も床に倒れ込んだ。

 

 ──五。

 

 呟き、すぐさま僕は背後に手をやり、人差し指と親指で振り下ろされた剣の腹を摘み、その振り下ろしを止めた。

 

「いっ!?」

 

 僕が引き寄せたテーブルを退かし、僕との間合いを詰め、僕の背中へ剣を振るうのに。数秒もかかったその男が驚愕の声を上げる。そんな男を他所に、僕は剣身を摘んでいる指に力を込め、軽く捻った。

 

 パキンッ──妙に澄んだ音が響いて、剣身の少し半分が折れる。そして僕は折ったその剣身を、手首の力だけで後ろに投擲した。

 

「ぎゃあっ」

 

 そんな短い悲鳴の後に、テーブルと椅子を巻き込んで何かが倒れる音が部屋に響き渡る。視線だけ背後に向けて見てみれば、少し半分に折れた剣身が肩に突き刺さった男が倒れていた。

 

 ──四。

 

 視線を前に戻せば、四人の男たちは剣を構えていた。しかしその切先はどれも情けなく震えており、どころか全身すらもガタガタと揺らしていた。

 

「このバケモンが……!」

 

「こ、こんなの聞いてねえぞ!おい!?」

 

「これが《S》冒険者(ランカー)だってのか……?じ、実力が違い過ぎる……!」

 

「おま、お前ら!びビビってんじゃねえよ!ここで逃げたら、ライザーさんに殺されるぞっ!?や、やるしかねえッ!!」

 

 最初の強気な態度は、もはや完全に消え失せていた。彼ら四人はもう使い物にならない。全員が全員、恐怖に憑かれ、呑まれ、支配されてしまっている。

 

 そんな男たちに、僕は平然とこう告げた。

 

「別に僕はあなたたちを潰しにここへ訪れた訳じゃありません。最初にも言った通り、僕はただ先輩を迎えに来ただけなんですよ。……だから、先輩を返してくれませんか?」

 

 僕とて、これ以上無駄な労力をかけるのはごめんだ。だから彼らに対し、降参を持ちかけた。彼らだって、わざわざ痛い目には遭いたくないだろうし、その恐慌ぶりから簡単に僕の言葉に頷く────そう、思っていた。

 

「ふっざけんなド鬼畜野郎!言っただろ!?ここで逃げたら、ライザーさんに殺されるってなぁあッ!!」

 

 しかし、そんな僕の考えに反して、男たちが下した判断は抵抗の続行で。一人がそう叫び終えると同時に、全員が剣を振り上げ僕に立ち向かってくる。僕が散々利用した為にこの部屋にあったテーブルやら椅子やらは殆ど壊れてしまっていて、今では彼らでも容易に立ち回れるだろう。

 

 テーブルだった残骸と椅子の破片を蹴散らしながら、まるで纏わりつくその恐怖を誤魔化すように雄叫びを上げて、その手で得物である剣の柄を縋るかのように必死に握り締めながら、四人の男たちはこちらに駆けて来る。

 

 そんな彼らに対して、僕は堪らず眉を顰めた。

 

「糞が」



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こんなことの為に(その五)

 バキィッ──何の感慨もない、まるでただの流れ作業の一つのように。僕は掴んだ男の頭を一切躊躇せず、遠慮容赦なく床へ叩きつける。男の後頭部と床が激突し、周囲に細々とした木材の破片と、鮮血が飛び散った。

 

「……」

 

 スッと、僕は掴んでいた手を離す。男は、どうにかその意識をまだ保っていた。

 

「こ……ぞ、ぅ……めが……!」

 

 息絶え絶えに、必死になって男はそう言うと。未だ握り締めて離さないその剣を振るう────その直前。

 

 ダンッ──僕は足を振り上げ、男の顔面を踏みつけた。

 

 カラン、と。ようやっと男の手から離れた剣が床に落ちて、音を立てる。数秒、僕はそのまま立ち尽くして、それからゆっくりと周囲を見渡した。

 

 部屋にいた十五人の男たちは、皆例外なく床に倒れていて、伏していて。誰一人として立っている者は、いない。

 

 死んではいない。男たちはその見た目通り頑丈だったようで、辛うじてその意識を失うだけに留まっている。……まあ、今後の活動に些か支障を来すかもしれないが。

 

 ……異様な静けさが、部屋を包んでいる。それを作ったのは、僕だ。他の誰でもない、僕だ。

 

 暴力で痛ぶり、捩じ伏せ、踏み躙って。僕がこの惨状を、光景を作り出した。その事実と現実を受け止め、僕は拳を握り締める。

 

 そうして、誰に言うでもなく。やるせない虚無感を混ぜて、無意識の内に僕は呟いていた。

 

「違う……こんなことの為に、僕は……」

 

 が、しかし。僕はその先までは呟けなかった。何故なら、この部屋にはまだ────()()()()()()()()()()()。そしてその一人は、ゆっくりと。部屋の奥からその姿を、僕の前に晒し、僕に見せた。

 

「……こいつはまた、随分と派手に暴れ回ってくれたな」

 

 現れると同時に、まるで愚痴を零すかのようにそう言う者に、僕もまたゆっくりと顔を向けた。

 

 そこに立っていた者は────旧知の人物だった。

 

「やはりお前は疫病神だ。不幸を呼び寄せ、そして撒き散らす。そんな、人の(なり)を真似た害意そのものだ。お前は災いなんだ……クラハ=ウインドア」

 

 そう言って、まるで親の仇でも見るかのような眼差しを。まるで人類の敵だと思っているような顔を。その者は、嘗ての冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の同胞にして、同輩にして、そしてただ一人の同期であった男。

 

 男────ジョナス=ディルダーソンは、その二つを僕へと向ける。

 

「…………」

 

 そんなジョナスを、僕は無言で見つめた。何も言わず、ただ黙ったまま、彼の眼差しと顔を受け止めた。そんな僕を彼は快く思わなかったのだろう。

 

 不意にジョナスがその目を見開かせ、僕に怒鳴った。

 

「その口閉じてないで、少しくらいは何とか言ったらどうなんだ!?」

 

 ……けれど、それでも。僕は口を開かなかった。……否、開けなかった。だってジョナスの言葉はこれ以上になく的を射た、どうしようもない程に正しいものだった。

 

 押し黙るしかないでいる僕を、ジョナスは数秒見つめ、それから痺れを切らしたように、忌々しそうに舌打ちをした。

 

「相変わらずも相変わらずだな。お前は」

 

 この上ない苛立ちを込めて、そう言うジョナス。そこでようやっと、僕は口を開いた。

 

「先輩を返してください、ジョナス。……できれば僕は、君を傷つけたくない」

 

 これは紛れもない僕の本心だ。本当に、僕はジョナスを傷つけたくはない。……しかし、彼の返事は大体予想できる。予想できてしまうから、一層鬱屈とした気分が心の内側に溜まっていく。

 

 僕の言葉を呑み込み終えたジョナスが、まるでそうするのが当然だとばかりに、返事する。

 

「この奥だ。そこにお前が求めて止まない、望んで仕方がない存在(モノ)はいる。返してほしいなら、勝手に持ってけよ。……俺も勝手に、それを邪魔する」

 

 そう言い終えるや否や、ジョナスは腰に下げている剣の柄に手を伸ばし、掴み。

 

 そして、鞘から抜くことなく投げ捨てた。

 

「俺は許さない。決して、絶対に」

 

 言いながら【次元箱(ディメンション)】を開き、そこに無造作に手を突っ込み、ジョナスは引っ張り出す。

 

 彼の手に握られているのは、一振りの剣。先程まで僕が相手をしていた精鋭隊やジョナスが投げ捨てた得物とは違い、一流の鍛冶師に打たせたことが容易に窺える、一級品。量産物とは何から何までまるで違う、特注品(オーダーメイド)の一振り。

 

 それを構え、その切先を迷うことなくこちらに突きつけ。ジョナスは僕を鋭く睨めつける。

 

「お前がライザーさんをああさせた。お前がライザーさんを歪ませ、狂わせたんだ。今回のことは全てお前が原因なんだ!故に俺はお前を許しはしないッ!ウインドアァアアッ!!」

 

 射殺すようなその眼差しと固く揺らぐことはないその言葉を、僕は確と受け止め。その上で深く息を吸い、そして長いため息を一つ漏らす。

 

 そうして、僕はただ一言。ジョナスに告げた。

 

「わかりました」

 

 それとほぼ同時に、ジョナスは床を蹴りつけ、その場から一息で僕との距離を詰め終え。そして────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バガァンッ──部屋の奥にあった扉には、鍵がかかっており。それを確認すると全く同時に、僕は躊躇せずその扉を蹴破った。

 

 凄まじい音と共に扉は吹っ飛び、壁に叩きつけられ四散する。その破片が撒き散らされる最中、僕は一切迷わず部屋の中へと飛び込む。

 

 飛び込み、そして。真っ先に視界に映り込んだその光景に、僕は一瞬にして頭の中を真白に染められた。

 

 ──は…………?

 

 最初、自分は質の悪い、それこそ悪夢でも見せられているのかと思った。認めたくなかった。受け入れたくなかった。

 

 けど、それは────覆しようのない事実と、紛れもない現実に他ならなかった。

 

「……やっとかよ」

 

 歓喜に打ち震えるその声が、僕の鼓膜を撫で回す。けれど、それに対して僕は、何も考えられないでいる。何もできないでいる。

 

 床に崩れ落ち、手を突かせる。僕の視界に映り込んでいるのは、一つの寝台(ベッド)。そしてその上に乗っている、二人の男女。

 

 女はまだ少女であった。少女は赤い髪をしていて、まるで燃え盛る炎をそのまま流し入れたような。鮮やかで、本当に綺麗な赤髪で。

 

 その美しい赤髪は、さながら絨毯のように。けれど乱れに乱れて、寝台のシーツに広がっていた。

 

 ──そんな……馬鹿な……。

 

 少女の格好は、それはもう酷かった。辛うじて無事だったのは下のショートパンツだけで。その上は殆ど半裸みたいなものだった。胸元は下着ごと大きく切り裂かれ、そこから本来隠し秘められてなければならない、肌色の柔い果実が丸ごと全て溢れ出し、辱めの如く外気に晒け出されてしまっていた。

 

 そんな、誰がどう見ても()()されたことが容易に見て取れる有様で。薄らとその顔を赤く染め、気を失っているらしいその少女の────ラグナ先輩の上に、その男は馬乗りになっていた。

 

 ──嘘だ、こんなの……こんな、ことって。

 

 その光景から逃げるように、僕は俯いてしまう。どうすればいいのか、わからなかった。ただひたすらに真っ白な頭の中では、もう何も考えられなくて。

 

 ──……僕は間に合わなかった……?

 

 呆然と、心の中で呟くことしかできなかった。

 

「ようやっと、お出ましかよ」

 

 そんな言葉を、僕は単なる音の一つとして聴き取った。次の瞬間────僕の顔面全体を衝撃が叩いて。

 

 グルンと視界が回り、周りの景色が溶けたように見える最中──────気がつけば、僕は背中を部屋の壁に激突させていた。

 

 一体何が起きたのか理解できないでいる僕の鼓膜を、またもや狂喜の声が震わせる。

 

「さあ、お楽しみはこれからだぜぇッ!?クラハよぉおッ!!」

 

 その声に釣られ、僕はゆっくりと他人事のように顔を上げると。僕の目の前には、ラグナ先輩に馬乗りになっていた男が────ライザーの奴が立っていた。



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こんなことの為に(その終)

 顔面全体がジンジンと痺れて熱い。口の中を切ったのか、舌の上に血の味を感じる。未だに重い鈍痛が背中に広がっていた。

 

 遅れて、自分は顔を蹴り上げられ、後ろの壁にまで吹っ飛ばされたのだと、僕は呆然と理解して。それとほぼ同時に、その声が騒々しく、喧しく部屋に響き渡る。

 

「さあ、お楽しみはこれからだぜぇッ!?クラハよぉおッ!!」

 

 そんな男の声に釣られて顔を上げれば、いつの間にか僕の目の前には金髪の男────ライザーが立っていた。その顔をこの上ない喜悦に歪ませ、髪と同じ色をしたその瞳が、昏く淀みながらも、爛々とした危うい光を帯びている。

 

「さあ立て、立てよさっさと立てって言ってんだろうがこの(クソ)ボケがァッ!!」

 

 言って、ライザーは左足を振り上げ。そして何の躊躇もなく、遠慮容赦なく僕の腹部に向かって振り下ろす。

 

 ドスッ──ライザーの爪先が突き刺さり、僕の腹部を鋭く深く、抉る。

 

「そうらどうしたどうしたぁ?やり返してみろよぉ?なあ、なあなあなあァッ!」

 

 ドスッドスッドスッ──僕が無抵抗なのをいいことに、ライザーは何度も足を振り上げては、僕の腹部へ振り下ろすのを繰り返す。その度に彼の爪先が僕の腹部を抉り、鈍痛と激痛が僕の身体を駆け抜けていく。

 

 ……しかし、それでも僕は動けなかった。抵抗することができなかった。そうしようという気力が、欠片程も湧かなかった。

 

 ──先輩……。

 

 ただ、そう心の中で呆然と零すのだけで、精一杯だった。

 

 失意の底の底、どん底に文字通り蹴落とされ。無抵抗でいる他ない僕のことを、ライザーは一方的に甚振り続ける。当然だろう。僕の事情も、心境も彼の知ることではない。もはや妄執と怨恨に取り憑かれた彼は、ただそれに従って僕を蹴り続けるだけの狂人と堕ちたのだから。

 

 肉を打つ、重く鈍い音だけが部屋に静かに響き。そして。

 

「ゴホッ……」

 

 唐突に腹の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じた僕は、次の瞬間。喉に少しへばりつかせながら、口から血を吐き出した。吐き出された血が、床に赤い線を引く。

 

 内臓が傷ついている。このまま無抵抗に蹴られ続けられていれば、己の命に関わってくる。その可能性と危険性を目の当たりにした僕は────

 

「…………」

 

 ────それでも、何もしなかった。そこまで追い込まれてもなお、僕は失意の底から手を伸ばし、這い上がることができないでいた。

 

 そんな様子の僕を、まるであり得ないとでも言いたげに。興醒め、失望の色が混じる声でライザーが訊いてくる。

 

「……おいおい。何だって、そこまでなっても反撃しない?何でだ?何でなんだ?」

 

「……」

 

 彼の質問に対して、僕はやはり何も答えられない。こんな心情で己にならばともかく、自分以外の他者に何かを答えることなど、少なくとも僕にはできないことだったのだ。

 

 だが、そんなこともライザーが知ることではない。口の端から血を垂らし、依然黙っているままの僕を見限ったのか、彼は痺れを切らしたように舌打ちし────スッと、僕の腹部を執拗に蹴り続けていたその左足を引かせた。

 

 ドッ──かと思えば、すぐさま引いたその左足で。ライザーは僕の肩を踏みつけた。

 

「ふざけんじゃあ、ねえぞ……お前がそんなんじゃ、意味がねえだろうがよ……価値がねえだろうがよ」

 

 そんな訳のわからない言葉をポツポツと零しながら、彼は。

 

「俺がやってることが、やろうとしてることが全部無意味なんだよ!全部無価値なんだつってんだよッ!!」

 

 僕の肩を踏みつけにしていた左足を床に戻し、右足で僕の横面を蹴り飛ばした。

 

「がっ……」

 

 防御することもできず、受け身を取ることもできず。僕は床に倒され、顔面を強く打ちつける。

 

「なあ、どうしてだ?どうしてお前何もしない?なあ、なあなあなあ!」

 

 狂人の声音で言いながら、床にうつ伏せで倒れた僕の首根っこを。ライザーは無造作に掴み、彼は僕の身体を少し持ち上げ、そのままズルズルと僕の身体を引き摺る。

 

 僕を床に擦らせながら、ライザーが狂ったように続ける。

 

「この俺がわざわざ用意してやったんだ。お前なんかの為に、お前の為に手ずからわざわざ。理由ってのを。そう、お前がやり返せるように、理由を」

 

 その様は、まるで見えない何かに急かされ、駆り立てられているかのようだった。誰の目から見ても、今のライザーはもはや正気ではないことは、明白であった。

 

 ライザーは寝台(ベッド)の元にまで歩み寄って。そしてここまで引き摺った僕の身体を、首根っこを掴んだその腕だけで持ち上げる。

 

「ほらこれでよく見えるかあ?そこにあんだろ、理由が。あんなに大事であんなに大切な後輩が、理不尽にも痛めつけられてるってのに……未だ呑気に気を失ってやがる理由がな」

 

 そう言って、ライザーは僕の身体を前に突き出す。そうすることで僕の視界一面が、寝台の上の先輩で埋め尽くされてしまう。失神し、その痴態を存分に晒してしまっている先輩の姿で。

 

 ……だが、それでも。未だに僕は、何もできないでしまっている。何の気力も、もはや湧かない。

 

 そんな、どうしようもない僕に対して、ライザーはさらに続ける。

 

「だからよ、いい加減立てよこの無能。立って、拳の一つくらい振り上げてみせろよ。お前がその気にならなきゃあ……ん?んん?んんん……っ?」

 

 しかし、言葉の最中でライザーは不可思議そうに疑問の声を上げ、僕の顔を横から覗き込む。そして、不意に納得したように呟いた。

 

「ああ、そうか。そういうことか」

 

 それから、底冷えする程に低い声音で僕にこう言った。

 

 

 

「お前、()()()()()()

 

 

 

 ──……逃げ、てる……?

 

 そこでようやく、初めて。僕の中で何かが反応を見せた。が、ライザーはお構いなしに、堰を切ったように。その口から大量の言葉(ぞうお)を吐き出す。

 

「おい、おいおいおい現実逃避してんじゃねえぞ、この野郎。そりゃそうだな、確かに逃げたら楽だもんなぁ?逃げて、逃げて逃げて逃げて。そんで逃げ続けて目を背いていれば、受け入れなくても済む。認めなくても済む。そうすりゃあ、お前の()()先輩は傷つかない。砕けない。壊れないもんなぁ?ハハッ、本当に卑怯だなあ、この卑怯者め。どうしようもねえろくでもねえ糞野郎め」

 

 ライザーに言われ、罵られ。僕は気がつかされた。気がつかされてしまった。

 

 ああ、そうだ。そうだったのだ。僕は無気力を()()、諦めた()()をして。ただ、逃げていた。目を、背けていた。

 

 自分は間に合わなかったという、この受け入れ難い現実を。この認め難い事実を。それから僕は────必死に逃げていたんだ。

 

 ──そうか。そうかそうか……つまり僕は、そういう奴だったんだな……クラハ=ウインドア。

 

 ライザーの言う通りだ。僕は卑怯者だ。楽な方へ逃げていた、どうしようもない卑怯者。それをあろうことか、こうして彼に気づかされた。

 

 そのことに言い知れぬ無力感と虚脱感に呑まれ、沈み行く最中────最後に、ライザーは言った。

 

「一応、目の前のこれは最後までお前の────クラハ=ウインドアの先輩で在り続けたっていうのになぁ?」

 

 ──…………え?

 

 その言葉は、聞き捨てならないもので。今の今までずっと閉じていた口を咄嗟に開く────直前。グッと、不意に。そして一気に、僕の顔は前に突き出された。

 

 瞬間、僕の視界に先輩の下腹部が、ショートパンツの股間部がグンと差し迫って。そこに僕の鼻先が触れたと認識するとほぼ同時に。

 

「んぶっ」

 

 僕の顔面が、先輩の股座へと無理矢理押しつけられた。ぐちゅりと、微かに響く妙に粘ついた水音を。僕の鼓膜は鋭敏にも聞き捉える。

 

「そら卑怯者。たんと存分味わえよ、俺が丹念に仕込んだ雌の味ってのをよ」

 

 そう言いながら、ライザーは僕の顔面をショートパンツの上から、先輩の股座に沈めようとさらに押しつける。

 

 グリグリ、と。僕の鼻先が押し潰れながらも、先輩の股座を厚顔無恥にも弄る。ショートパンツの生地は僅かに、けれど確かに湿り気を帯びていて、蒸れていた。

 

 ライザーが押しつける度に、その下からぐちゅぐちゅという水音が、僕にしか聞き取れない程度に、しかし何度も響く。

 

「塩っぽいか?それとも甘いのか?匂いはどうだ?するか?なあ、なあ?」

 

 グッグッ、と。僕の顔面を押しつけながら、心底愉しそうにライザーが訊ねる。だが先輩の股座に顔面を押しつけられている僕に、そんなことを答える余裕などない。と、その時だった。

 

 

 

「んっ……ぁ」

 

 

 

 頭上から、そんな。悩ましい色香が滲んだ声が、微かにした。これまでで聞いたことのない声だったが、僕はその声音自体は聞いたことがあった。

 

 ──先、輩……?

 

「……おやぁ?おい、おいおいおい……まさかおい、感じてんのか?気を失ってるってのに?」

 

 まるで、聞いてはいけない音を聞いてしまったように。愕然とする僕を他所に、ライザーは少し遅れて、呆然とそう呟き────それから格好の、それも大好物の餌を見つけた獣のように、興奮の声を上げた。

 

「こいつは傑作だ。こいつはとんだ傑作じゃねえかよ、おい!」

 

 興奮と高揚に堪らずその声色を荒げさせて、より強く激しく、僕の顔面を先輩の股座に押しつけながら。ライザーは楽しくて、そして愉しくて仕方がないとでも言わんばかりに、僕の頭上から言葉を降らす。

 

「よかったなあ?おい。喜べ、喜べよ裏切り者の後輩。お前みたいな救いようのない(クズ)の顔面で、お前が先輩と呼ぶその雌は気持ち良くなってやがる。揃いも揃って、全くもって、救い難い!」

 

「むん、ぐっ……!」

 

 止めろ、と。僕は叫びたかった。けれど、ライザーがそうはさせないとばかりに、僕の顔面を力強く押し出し、押しつけ続け。結果、僕の口から漏れるのは何の意味を成さない、くぐもった呻き声だけで。

 

 ──苦し、い……っ!

 

 時間にして、それは一分弱だったのだろうか。それとも、たかが数十秒のことだったのか。いずれにせよ、先輩の股座に顔面を押しつけられている最中、そうして何とか声を絞り出し叫ぼうとしていた僕は。当然、肺に取り込んでいた空気の大半を吐き出した訳で。

 

 僕の肺が、僕の身体が新鮮な空気を取り込ませてくれと訴え出す。このままでは窒息してしまうと、僕の頭の中でけたたましく警鐘を鳴らす。

 

 今すぐに、今すぐにでも先輩の股座から少しでも離れて、空気を吸わなければ。けれど、ライザーがそれを許す訳がない。

 

「ほら、もっとだ。もっと悦くしてやれよ。お前の先輩なんだろそうなんだろぉ?だったらここは後輩として、もっともっと、もぉっと悦ばせなきゃなぁ?ハハッ!」

 

 身勝手極まりなくそう言って、ライザーはさらにまた僕の後頭部を前へ押し出した。

 

 僕の顔面が、鼻と口の全てが先輩の股座で塞がれる。一分(いちぶ)の隙すら埋め尽くされ、完全に密閉されてしまう。

 

 息ができない。肺に空気を送り込めない。そんな状況の最中、数秒もしない内に。僕の意識は、次第に朦朧と始めてしまって。

 

 ──もう、だめ……だ…………っ。

 

 いよいよ窒息間近となった、その時。僕の朦朧とする意識とは無関係に、そうしたところで無意味だというのに。死の危険に晒された僕の身体は、そこにあるはずもない空気を求めて。

 

 

 

 猶予として残された僅かばかりの体力の全てを振り絞り、思い切り。先輩の股座に、吸いついた。

 

 

 

「っふ、ぅあぁぁぁ……ッ」

 

 瞬間、未だその気を失っているはずの先輩が、そんなあられもない艶やかな嬌声をその口から散らして。それとほぼ同時に、先輩の腰がビクンと跳ねる。その勢いで、密着していた僕の鼻と口が僅かに離れた。

 

「ぷはッ……!!」

 

 ここぞとばかりに、ほんの少しばかりの湿った空気を吸い込む。何処か背徳的で、そして甘美な匂いを孕んだその空気を肺へ余すことなく送り込む。

 

 しかし、僕の意識はまだ朦朧としていて。手足に上手く力を込められない。そんな状態の僕を、ライザーは。

 

「よくやったじゃねえか。お前みたいな童貞でも、憧れの紛い物(せんぱい)を立派に啼かせることができて……よおッ!」

 

 ドンッ──一切躊躇することなく、遠慮容赦なく床に引き倒し、叩きつけた。

 

「がはッ……!」

 

 背中を衝撃が隈なく叩いて、堪らず僕は肺に取り込めたなけなしの空気を、無様にもまた宙へと吐き出してしまう。だが先程とは違って、すぐさま新たな、それも大量の空気を吸い込む。

 

 充分な空気を肺に取り込めた。意識も徐々に冴え渡り、視界も鮮明になっていった。……けれど、床に投げ出した手足に力が入らなかった。動かせなかった。もう……動かしたく、なかった。

 

 ──……一体、僕は何をしているんだろうな。

 

 みっともなく、情けなく。無様に乱れた荒い呼吸を、小さく何度も繰り返して。窒息しかけたことで、妙な程に冷静になった思考で僕は、呆然と訊ねる。だがそれは誰に向けたものでもない。自分にすら、向けたものではない。

 

「さてさぁて。もうこれで十分だろ。だから、立てよ。いつまでも床に寝っ転んでないで、とっとと立てよォッ!」

 

 ライザーが叫ぶ。だが、それを煩いと不快に思うことはなく。僕はただ、これまでのことを振り返っていた。

 

 自分が何をしているのか。自分は何がしたかったのか。ただそれだけを、確認する為に。

 

 その泣き顔を見た瞬間、どうしようもなくなった。その背中が鉄扉の奥に消え去るのを見届けた瞬間、いても立ってもいられなくなった。

 

 だから、一目散に駆けつけた。形振り構わず、必死になった。

 

 立ち塞がる障害の全てを、振り払って。捩じ伏せて。打ちのめして。そして、そうまでして。

 

 

 

 ──間に合わなかった。

 

 

 

 この現実が身に染みる。その事実が身を侵す。ゆっくりと、ゆっくりと蝕まれていく。

 

「……おい。おいおいおい、おい。ふざけんなよ。ふざけんなふざけんなふざけるな。何だ、その顔は。何だその目は。止めろ、止めろ止めろ止めろ止めろ……この後に及んでお前、その顔と目で俺を見るんじゃあねえよ」

 

 限度知らずに加速し続ける喪失感と虚無感に挟まれる最中、僕の意識から遠くの方でそんな声が聞こえる。しかし今になってはもう、どうでもいい。

 

 全部が全部、何もかもが。もはや、どうでもいい。

 

「…………ハッ。ここまで、お膳立てしたってのに」

 

 そこに込められていたのは、落胆か、失望か。それとも諦観か。あるいは、それら全部か。何処か曇って淀んでいる視界の中で、投げやりにそう吐き捨てながら、ライザーは腰から下げている剣の柄を握り、そして手慣れた動作でそれを鞘から引き抜いた。

 

「死ね。死ねよ。……もう、どうでもいい。だから死んでくれよ、クラハ」

 

 そう、言い終えるや否や。ライザーは感情が一切消え失せた表情で、振り上げたその剣を────躊躇うことなく、振り下ろした。

 

 部屋の明かりに照らされ、冷たく輝く刃を見上げながら。それを綺麗だなと、僕は他人事のような感想を抱く。

 

 その綺麗な冷たい刃が、数秒後には己の首に滑り込むというのに。あと数秒という僅かな猶予が過ぎれば、死ぬというのに。

 

 振り下ろされる刃が首へと到達する、その直前。ふと、僕は思った。

 

 ──僕は、こんなことの為に……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……う。違う……違う、違う違う違う」

 

 首めがけて振り下ろされた剣を、その刃を握り締めて。腹の底から、心の奥底から込み上げてくるものに任せて、僕は叫ぶ。

 

「僕は……僕はこんなことの為に強くなった訳じゃないッ!」

 

 バキンッ──叫んで、握り締めていたその剣を、そのまま握り砕く。砕けた剣の破片が、僕の血と共に胸に降り注ぐ。

 

 荒ぶり昂る感情のままに叫んだ僕を見下ろしていたライザーが、瞬間。浮かべていたその無表情から、歓喜と狂気が滅茶苦茶に入り乱れた笑みに一変させた。



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獣性露出

 僕の手によって握り砕かれたライザーの剣は、もはや武器としての性能を発揮できない。ただの刃物と化したそれを、彼は乱雑に明後日の方向へ放り捨てる。

 

 それと同時に空の左手を振り上げ、ライザーが【次元箱(ディメンション)】を開き、そこから何かの柄が突き出し、彼はそれを流れるように掴み取る。

 

 ライザーが【次元箱】から取り出してみせたのは、一振りのナイフ。魔物(モンスター)相手には心許ないが、人間相手ならば特に支障はない得物。

 

 そのナイフをライザーは握り締め、その顔を歓喜と狂気入り乱れる笑みで彩りながら、眼下の僕に狙いを定め突き出す。

 

「ヒャアアアッ!」

 

 その速度、その正確さ。どれを取っても幾重の戦いを経た、手練れの強者のそれで。僕はその場を横に転がって、ライザーのナイフによる突きを躱す。

 

 ドスッ──先程まで僕が倒れていた場所に、ナイフの切先が突き刺さり、その半ばまで沈み込む。それを流し目で見ながら、僕は回転の勢いを殺さずに床から立ち上がった。

 

「逃さねえよぉおッ!」

 

 僕が床から立ち上がるとほぼ同時に、ライザーは床に突き立てたナイフを引き抜くと、すぐさま身を翻し、間髪入れずに僕との間合いを詰め切る。そして、握り締めたそのナイフを以て、先程と同じ手練れの一突きを繰り出した。

 

 それに対して、僕はただ黙って────()()()()()()()()()()

 

 ザクッ──ナイフの鋭利な切先が、僕の左手の皮膚を裂き。肉に突き刺さる。そこでナイフの進行は止まったが、僕は構わずその状態のまま、さらに左手を押し出した。

 

 生理的な不快感を引き起こす、生々しい嫌な音をさせながら。僕の左手は刃どころかナイフの柄まで貫通させて、その先にあったライザーの左手を掴む。そうして僕は力任せに、強引に彼を引っ張り、こちらまで引き寄せ。

 

 ゴッ──ライザーの額に、僕は加減なしの頭突きを見舞った。

 

「がッ……」

 

 ライザーはグラリと堪らず後ろによろめき。そんな彼に続け様、僕は無防備に晒されているその腹部へ蹴りを放ち、半ば無理矢理に距離を取る。瞬間、力の緩んだ彼の左手から、貫通させたままナイフを掠め取ることも忘れずに。

 

 まだ半分、左手から突き出ているナイフの柄を右手で掴み、僕はそれを一気に引き抜いて。先程ライザーがそうしたように、刃から柄の全てまで血に濡れ真っ赤に染まったナイフを無造作に投げ捨てた。

 

「ハッ……中々に、良いイカれ具合じゃあねえの」

 

 頭を軽く振りながら、ライザーが何故か嬉しそうに言う。それに大して僕は言葉など返さず、ただ黙って睨んだ。

 

「良いぞ、良いぞ良いぞ。その調子だ……ヒヒッ」

 

 無言の僕と、何かに取り憑かれたように喋り続けるライザー。互いが互いに向かい、見合い、数秒────その瞬間は、唐突に訪れる。

 

 ダンッ──それは全く同時のタイミング。僕とライザーはその場から駆け出し、お互いの間合いに踏み込んでいた。

 

 僕が足を振り上げ、ライザーの顳顬に爪先を打ち込まんとする。それを彼は身を屈めて躱し、僕の懐に飛び込み。ガラ空きとなっていた僕の腹部に二発、そして鳩尾に一発拳を打ち込み、遠慮容赦なく抉り込ませる。

 

「!……ッ!!」

 

 重なり合う鈍痛に、尋常ではない吐き気。喉元まで込み上げた鉄っぽい味と、鼻腔を抜けるその匂い────僕はその全てを無視して、ライザーの背中へ肘を打ち込んだ。

 

「ごぉ……ッ」

 

 呻くライザーに、僕は透かさず今度は膝蹴りを放つ。一切躊躇することなく、何度も、何度も。

 

「が、は……」

 

 堪らずライザーはよろめいて。けれど僕は遠慮容赦なく、無防備となっていた彼の脇腹を思い切り蹴り上げた。

 

 為す術もなく、無様にライザーは床を転がるが、すぐさま立ち上がって僕を見る。相変わらず、その顔には歓喜と狂気の笑みが浮かんでいるままだ。

 

「なあクラハ。さっきお前、こんなことの為に強くなった訳じゃないとか何とかほざいてやがったが、じゃあお前はどんなことの為に、何の為に強くなったんだ?なあッ!?」

 

 血の混じった唾を汚らしく飛ばしながら、まるで罪人を糾弾する被害者のように、ライザーは僕に訊ねる。それが、異様な程僕の神経を逆撫でし、残る理性を削り取った。

 

「それをお前に教える義理なんてない」

 

 思考する間もなく、心根そのままから出た僕の言葉を聞いて。より一層ライザーの笑みが悪化する。

 

「そりゃ確かになあ!!」

 

 そこで僕とライザーの会話は終了した。ライザーが駆け出し、僕は迎え撃つ。

 

 殴り蹴り、殴られ蹴られ。振るわれる暴力に対して、暴力を振るう。ただ、ひたすらに。ただただ、延々とひたすらに。

 

 床に、壁に。周囲に血を撒きながら、血で染めながら。僕とライザーは殴り合い、蹴り合い────暴力を振るい合った。

 

 その最中で、ライザーが僕に言葉を投げる。ぶつけてくる。

 

「この俺が憎いか?この俺が恨めしいか?クラハァ!」

 

 まるで何かに────否、狂気に取り憑かれ、支配されながら。

 

「もっと、もっと俺を憎め!恨め!憎悪を掻き立てろ!怨恨を募らせろ!そう、一年前の俺のように!今の俺のようによぉお!」

 

 狂乱しながら、ライザーは叫び続ける。だが、こんなどうしようもない、救う手立てが何一つ思い浮かびやしない狂人の戯言に一々(いちいち)付き合ってやれる程、僕はお人好しの善人などではない。ただ一人の先輩のことで精一杯の、そんな小っぽけなただの後輩でしかない。

 

 確かにライザーがそう言う通り、僕は今彼を憎んでいる。恨んでいる。胸の内に憎悪を掻き立て、怨恨を募らせている。その負の感情に関してだけは……素直に認めようと思う。

 

 だが、それだけだ。決してそうだと口に出すことはしない。絶対に出さない。そんな、ライザーを調子に乗らせ、勢いを助長させることなどしてはならない。

 

 こういう輩にとって一番効果的なのは、無視することだ。ただひたすらに無視を決め込み、こちらは意にも介していないということを徹底的に理解させる、わからせるのが一番手っ取り早く、一番効く。だから、僕はライザーの言葉に耳を傾けない。惑わされない。反応など、少しもしてやらない。

 

 無言を貫き、完膚なきまでに打倒する────そう、思っていた時だった。

 

「おいおいだんまりとはつれねえな、寂しいなあ。……これから俺とお前は()()になるってのに、なあッ!?」

 

 ──……あぁ?

 

 拳を振り上げると同時に叫ばれた、そのライザーの戯言が。僕の癪をこれ以上にない程に、障った。

 

「…………誰と、誰が同類になる……と?」

 

 もう遅い。もう、手遅れである。……しかし、瞬間に噴出したこの激情は。とてもではないが、抑えられるものではなかった。

 

 案の定、ようやっと反応を、それも考え得る限り好ましい反応を見せた僕に。ライザーは心底嬉しそうに、狂った笑みを浮かべて言う。

 

「おやおや、これはこれは。流石のクラハさんでも、この発言は無視できなかったようですねえ?さっきまで大人ぶってたのが酷く滑稽で間抜けだな、ええ?」

 

 止められない。頭に血が上るのが、もう止められない。この怒りを、僕は我慢できない。

 

 だから────今の今まで押し留めていた全てが、堰を切ったように僕の口から飛び出した。

 

「御託なんかこっちは求めてない。誰と誰が同類になるんだって訊いたんだ。それだけを答えろ」

 

「それくらいのことで理解できねえのか、お前さんはよ。少し考えてみればわかることだろうに。じゃあ親切心で言ってやるよ。誰と誰が同類になるのか……んなの、俺とお前の二人に決まってんだろうがよ。頭足らずめが」

 

「ふざけるな。妄言を吐くのもいい加減にしろ、この狂人が。僕とお前が同類だって?そんな訳ないだろ」

 

「ハッ、いいや同類だね。これからお前と俺は同類になるのさ。お前は俺のとこまで堕ちて堕ちて堕ちるんだ」

 

「だから戯言妄言吐くのもいい加減にしろって僕は言ってるんだッ!!一体何の根拠があってッ!お前はそう言ってるんだッ!!あぁッ!?」

 

「根拠ぉ?根拠ならある!あるさッ!その一々足りねえ頭で必死に振り返ってみろよこれまでのことを!今日のことをよぉおッ!!」

 

「なんだっ……と……」

 

 言われて、僕は律儀にも思い返す。自分が先程、一体どんな行動をしていたのかを。それを思い返し、振り返り──────瞬間、ハッと気がついた。

 

 僕のその反応に()()ったりと、ライザーが口角を吊り上げ、僕に言う。

 

「ここに来る為に、俺の元に辿り着く為にお前は何をやった?わかる、俺はわかるぞぉ。何せ俺だってそうするだろうからな。自分の目的を果たす為なら、どんなことだってやってやるからなあ!!」

 

「ち、違う!違う、違う違う違うッ!他に手がなかったんだ!僕には、余裕がなかったんだ!手段なんか、選んでられなかったんだッ!!」

 

「だからそれが俺と同類だっつってんだろうがよぉおおおッ!!!」

 

 僕の頭の中で、さっきまでの出来事が想起される。ライザーの叫びによって、鮮明に呼び起こされる。

 

 先輩を連れ帰る為に、取り返す為に僕は力に頼った。余裕がなかったとはいえ、他に手がなかったとはいえ、僕は暴力に訴えた。

 

 

 

 そう、まるで目の前の男のように。ライザーの、ように。

 

 

 

「違うッ!」

 

「違わねえッ!」

 

 認めたくなかった。認める訳にはいかなかった。……でも、心はもう、誤魔化せなかった。

 

 が、それでも。ライザーと取っ組み合いながらも、僕は否定する。否定し続ける。嫌だ、自分がライザーと、こんな男と同類になるだなんて、絶対に嫌だ……!

 

「往生際が悪いんだよ、もういいからさっさと認めろよ。いくら否定したって、お前が今日やったことは覆せない事実として、紛れもない真実として、変えようがない歴史として。一生、生涯……お前の中に永遠と残って消えることなんてないからさぁあああッ!!!」

 

「黙れ!黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!!」

 

 僕は叫び、ライザーを蹴り飛ばす。彼は後ろに退がり、しかし依然僕の顔を睨めつけながら、言い放った。

 

「俺は何度でも言ってやる。お前は俺と同じだ。同じ穴の狢さ。……お互いに、己のかけがえのない大切で大事な夢と憧れを否定して汚した、全くもって救い難く救いようもない、最低最悪の同類になるんだよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中で広がったのは。寝台(ベッド)の上に乗せられた、半裸同然の先輩の姿と、跨るライザーの姿と。そして、先輩の股座に顔を埋めた僕自身の姿。

 

 その光景を今一度目の当たりにしたその時──────もう、駄目だった。

 

「…………黙れぇぇぇええええええッッッ!!!!」

 

 怒り。激怒。憤怒。それら全てが渾然一体となったようだった。もう何も考えられなかった。気がつけば、僕はその場から駆け出してしまっていた。

 

 怒りに任せて床を蹴り。激怒に託して拳を振り上げ。憤怒に委ねて襲いかかる。

 

 傍目から見れば、僕はもう人間などではなく。もはや一匹の獣にしか映らなかったことだろう。

 

 振り下ろした拳を、ライザーが躱す。躱して、握り締めたその拳を素早く振るい、僕の腹部に深く沈ませ、めり込ませる。

 

 瞬間、堪らず僕は肺の空気を吐き出して────目を見開かせ、喉を破り裂くつもりで叫んだ。

 

「ライザァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」

 

 叫んだ僕に続くようにして、ライザーもまたその目を見開かせて、同じように叫ぶ。

 

「クラハァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」

 

 そうして僕とライザーは互いの名を叫び、互いに拳を握り締め、そして互いに、それを振りかぶって。

 

 

 

 

 

 ゴチャッ──肉を打つ、二つの音が重なった。

 

 

 

 

 

 数分ぶりにまた訪れた静寂が部屋を包み込む。それは長く、長く。果てしなく、続くかに思われた。けれど、全てに等しく終わりがあるように、それもまた唐突に終わりを迎える。

 

「………………」

 

 ズルリ、と。ライザーの頬から僕の拳がずり下がり、だらんと宙を薙いで力なくぶら下がる。

 

「………………ハッ」

 

 遅れて、僕の頬からもライザーの拳がずり下がる。そして彼は乾いた笑いを一つ零して、数歩後ろによろめいた。

 

「ハハ、ヒャハ……これで、お前も……俺と、同じ。俺と同類、だ…………」

 

 よろめいたライザーは何故か、勝ち誇ったような笑みと共にそう言い残し。前のめりになって、そのまま床に倒れた。

 

「…………」

 

 二十年という、それ程短くなければ大して長くもない生涯の中で。初めて経験する虚脱感と喪失感に挟まれながら、僕は見た。見てしまった。

 

 床に倒れる直前の、ライザーの瞳に。映り込んでいた、その顔を。人を憎み、恨み。憎悪と怨恨で歪みに歪んだ、その顔を。

 

 

 

『これから俺とお前は同類になるってのに、なあッ!?』

 

『これからお前と俺は同類になるのさ。お前は俺のとこまで堕ちるんだ』

 

『何せ俺だってそうするだろうからな。自分の目的を果たす為なら、どんなことだってやってやるからなあ!!』

 

『だからそれが俺と同類だっつってんだろうがよぉおおおッ!!!』

 

『往生際が悪いんだよ、もういいからさっさと認めろよ。いくら否定したって、お前が今日やったことは覆せない事実として、紛れもない真実として、変えようがない歴史として。一生、生涯……お前の中に永遠と残って消えることなんてないからさぁあああッ!!!』

 

『俺は何度でも言ってやる。お前は俺と同じだ。同じ穴の狢さ。……お互いに、己のかけがえのない大切で大事な夢と憧れを否定して汚した、全くもって救い難く救いようもない、最低最悪の同類になるんだよ』

 

『これで、お前も……俺と、同じ。俺と同類、だ…………』

 

 

 

 …………今になって、ライザーの数々の発言が、僕の腑に落ちた。

 

 ──……そういえば、あの顔。僕は、前にも何処かで……。

 

 全身から力が抜けていくのを感じながら、ライザーの瞳に映り込んでいた顔に既視感(デジャヴ)を覚えた僕は、頭の中の記憶を漁る。そうすることで、少しでも、僅かな間でもこの現実から逃げ出そうとしたのだろう。

 

 そうして、僕は。

 

 ──ああ、そうだ。思い出した。

 

 まるで他人事のようにそう呟いて、脳裏に一つの、一年前の光景を過らせる──────

 

 

 

 

 

『わかったな!?──────クラハァッ!!!』

 

 

 

 

 

 ──────そんな、憎み恨み。憎悪を掻き立て怨恨を募らせた声と共に。

 

 そして、その時だった。

 

 

 

「クラ、ハ……?」

 

 寝台(ベッド)から、怯えて震える声がした。



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見たことのある顔。見たことのない顔

「…………ん……?」

 

 唐突に、ラグナの意識は呼び起こされた。まだ重たい瞼を苦しげに開けると、薄く滲んでぼやけた視界が広がる。

 

 ──俺、いつの間にか寝ちまってたのか……?

 

 寝起き直後特有の、霧がかかったようにぼんやりとして上手く回らない頭の中で、ラグナは呆然とそう呟き。それから自分が眠りに落ちるまでの記憶を、徐々に思い出していく。

 

 ──確か、俺は今……ライザーの奴に会いに……。

 

 しかし、その途中。ラグナが無意識の内に、腰を動かしたその瞬間。

 

 ぐちゅ、と。およそラグナにしか聞き取れない程に小さく、粘度のある水音がして。それと同時にラグナの股座を、異様な冷たさが襲った。

 

「ッ……!?」

 

 思わず喉奥から飛び出しかけた悲鳴を既のところで押し止め、けれどその不快感に堪らずラグナは己の身体を震わせる。

 

 ──な、何だっ?何で股の間がこんなに冷えてんだっ?

 

 しかもただ冷えている訳ではなく、何故か……濡れている。その現実を受け入れ、その事実を認めるのにラグナは数秒を要し────さあぁっと、その顔を青褪めさせた。

 

 ──ま、まさか俺寝てる間に漏らしっ……!?

 

 羞恥と焦燥。その二つに駆られながら、ラグナは大慌てで布団や寝台(ベッド)のシーツを触る。……しかし、危惧したこととは裏腹に、それらは濡れてなどなかった。そのことに、堪らずラグナは安堵の息を吐く。

 

 ──よ、良かった……俺、やらかしてなんかなかった……。

 

 だがしかし、今確認した通り布団やシーツは濡れてはいないが、股座が濡れて冷えていることは確かで。しかもそれだけではなく、自分の気の所為でなければ……ぬるぬると、している気もする。

 

 ──気持ち悪りぃな、これ……っ!

 

 ただでさえ股座が冷たいだけでもかなり不快だというのに、その上ぬるついてもいる。その二つが相乗して引き起こす不快感と気持ち悪さは、ラグナにとって初めての、未知のもので。それから逃れようと、ラグナは迷わずショートパンツに手をかけ、そして穿いている下着(パンツ)ごと引き摺り下ろす────ことはできなかった。

 

「……う、わ」

 

 ラグナは見てしまった。その光景────否、ラグナにとっては理解し難い、どろどろの惨状を。

 

 目が離せない。見たくない、と。真っ白になった頭の中ではそう思っているのに、視線は無視してそれに囚われてしまう。

 

 ショートパンツごと引っ張り上げた下着の中で、それは。ねとぉと、淫靡に糸を引いて。

 

 ──…………あ。

 

 瞬間、真っ白だったラグナの頭を、その記憶(えいぞう)が埋め尽くした。

 

 

 

『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に』

 

 

 

 つい先程ばかり、この身で受けた数々の陵辱。人の理性からは遠くかけ離れた、獣としての本能に限りなく近い、薄汚れた浅ましい欲望の仕打ち。

 

 それら全ての記憶を振り返る、その途中で。ラグナはこの一言を脳裏に反芻させる。

 

『アンタは気持ち良くなっちまったっていう、紛うことなき証なんだぜ、それはよ。……ハハッ!ハハハッ!!』

 

 証。証明。ライザーの言う、自分が気持ち良くなった動かざる明白な、証拠。それが今、ラグナの眼下に広がっている。それも淫らに、卑猥に。

 

 そのことにラグナは困惑し、混乱する。この上なく動揺しながら、それでも。

 

 ──違ッ……!

 

 決定的なそれを突きつけられてなお、否定しようとした。その、瞬間────

 

「違うッ!」

 

 ────聞き覚えのある声が、鋭く部屋に響き渡った。その声に、堪らずビクッとラグナは肩を跳ね上げさせてしまう。

 

 ──な、何でっ……!?

 

 ここに、こんなところにいるはずのない後輩の名を、ラグナは呟いて。そして、声がした方へと咄嗟に顔を向ければ。

 

 いた。確かに、そこに立っていた。

 

「違わねえッ!」

 

 つい先程ばかりに、自分に対して陵辱の限りを働き、こちらの尊厳をこれでもかと踏み躙った、張本人と対峙して。

 

「往生際が悪いんだよ、もういいからさっさと認めろよ。いくら否定したって、お前が今日やったことは覆せない事実として、紛れもない真実として、変えようがない歴史として。一生、生涯……お前の中に永遠と残って消えることなんてないからさぁあああッ!!!」

 

「黙れ!黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!!」

 

 二人は取っ組み合いながら、言葉をぶつけ合う。その光景はこの上なく異様で、異常で。だがそれ以上に、ラグナは愕然としていた。

 

 ──何だよ……何でだよ。

 

 信じられない面持ちで、ラグナは切実に呟く。

 

「何でお前がそんな顔してんだよ、クラハ……!」

 

 そんな顔を、ラグナは一度見たことがある。一年前に、ラグナは見たのだ。

 

『わかったな!?──────クラハァッ!!!』

 

 まるで声がそっくりそのまま、そこに表れているかのような。人を憎み、人を恨み。憎悪を掻き立て怨恨を募らせた────そんな、顔。

 

 それを今、クラハが浮かべている。普段から人の好い穏やかな、悪く言ってしまえば優男のような笑顔を浮かべている、彼が。

 

 ラグナはそれが信じられなかった。クラハとの付き合いは短くない。ラグナは彼が子供の頃から接している。そんなラグナですら、クラハのそんな顔は見たことがなかった。

 

 だからこそ、信じられなかった。信じられなくて、そして────堪らなく嫌だった。

 

 ──お前がそんな顔しちゃ、駄目だろ……。

 

 今すぐにでも止めさせなければ。すぐにでも、その顔を元に戻さなければ。普段通りの、日常(いつも)通りの顔に。あの笑顔に。

 

 そう思い、ラグナは口を開こうとするが。

 

「俺は何度でも言ってやる。お前は俺と同じだ。同じ穴の狢さ。……お互いに、己のかけがえのない大切で大事な夢と憧れを否定して汚した、全くもって救い難く救いようもない、最低最悪の同類になるんだよ」

 

 その前に、歓喜と狂気が滅茶苦茶に入り乱れた笑みを浮かべるライザーが言い。対して、クラハはその表情をさらに悪化させて、叫んだ。

 

「…………黙れぇぇぇええええええッッッ!!!!」

 

 ──ッ……!!

 

 堪らず、ラグナは身を竦ませた。その叫びに含まれている、クラハの怒り。クラハの激怒。クラハの憤怒。その全てを敏感にも感じ取ってしまい、固まってしまったのだ。

 

 寝台からラグナが見ているとも知らずに、クラハとライザーの二人は殴り合い、蹴り合い、暴力を振るい合う。そんな接し方しか知らない、相手を傷つけることでしか触れ合うことのできない、哀しき獣のように。

 

 そしてそれを、ラグナはただ黙って見つめることしかできない。

 

 ──止め、なきゃ。

 

 頭ではわかっているのに。

 

 ──止めなきゃ。早く、クラハを止めなきゃ……!

 

 頭では理解しているのに。

 

 ──このままじゃ、クラハが……ッ!

 

 だけど、思考に反してラグナの身体は上手く動いてくれない。恐怖に囚われ、怯えに縛られた身体が動かせない。

 

 そして、遂に。

 

「ライザァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」

 

「クラハァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」

 

 クラハとライザーの二人が互いの名を叫び合い、互いに握り締めたその拳を振り上げる。それを眺めながら、ラグナは──────

 

 ──クラハがクラハじゃなくなっちまうッ!!

 

 ──────その口を、開かせた。

 

 

 

 

 

 ゴチャッ────直後、ラグナが見ているその前で。それぞれの拳は交差し、それぞれの頬に突き刺さった。

 

 

 

 

 

 ──……ぁ。

 

 真紅の瞳を見開かせるラグナの目の前で、まずはクラハの拳がライザーの頬から、ズルリとずり下がり、宙へ滑り落ちて。遅れて、ライザーの拳もまたクラハの頬から、宙に滑り落ちる。それから彼はその場から数歩後ろによろめていて、浮かべているその笑みを勝ち誇ったようなものに変貌させて、クラハに向かって何か呟く。流石にその内容までは、ラグナには聞き取れなかったが。

 

 そうしてライザーは勝ち誇ったような笑みを浮かべたまま、前のめりになって床に倒れた。

 

「…………」

 

 クラハは、その場から動かない。倒れたライザーを見下ろしたまま、微動だにしない。

 

 その姿と様子に、ラグナは。開いたその口から、掠れた声を絞り出す。

 

「クラ、ハ……?」

 

 だがその声は、ラグナの意志とは裏腹に。恐怖、怯え、そして────不安に塗れていて。

 

 そんなラグナの声に、無言で佇んでいたクラハが。寝台(ベッド)の方にゆっくりと、その顔を振り向かせた。



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終わりはいつだって唐突で、突然に

「クラ、ハ……?」

 

 その声は、恐怖と怯えと、不安に塗れていた。こちらに声をかけることに対して、何処か躊躇いがあるように感じ取れた。

 

 虚脱感と喪失感の狭間に立たされながら、僕はゆっくりと寝台(ベッド)の方に顔を向ける。そこでは、いつの間にかその意識を取り戻し、上半身を起こしてこちらを見る、ラグナ先輩の姿があった。

 

 その姿を、その顔を見た僕は。何故という、一つの疑問を抱く。

 

 ──どうして、そんな……不安そうな表情を浮かべているんですか……?

 

 先輩は僕のことを見ていた。不安そうな表情で。心配そうな眼差しで。それが僕にはわからなかった。理解できなかった。

 

 だってそうだろう。見ての通りライザーは床に伏している。ライザーの仲間たちも全員叩き潰して、叩きのめした。もう先輩を脅かすような輩など、この廃墟にはいない。

 

 ……だというのに、何故先輩はそんな表情をしているのだろう。何故そんなにも不安と、恐怖と怯えが入り混じった表情を僕に向けるのだろう。

 

 わからない。理解できない。僕は、先輩を迎えに来ただけなのに。先輩を、助けに来たのに。

 

 なのに、どうして。

 

 ──どうしてあなたはそんな顔を、そんな表情を僕に向けるんですか……?

 

 そのことに対して哀愁にも似た感情を抱き────瞬間、僕の心が黒い翳りのようなもので徐々に覆われていくのを、呆然と感じた。

 

 だから、僕は今どうすればいいのかわからなくて。どんな行動に移れば、どんな選択を取るのが正解なのか、それがわからなくて。ただ、その場に立ち尽くす。

 

 そんな僕のことを見兼ねてか。先輩は戸惑うように、躊躇うように。一瞬だけ視線を泳がした後、寝台から降りる。ライザーが気を失ったからか、先輩の手足を拘束していた鎖はいつの間にか解けていた。

 

 そうして。ゆっくりと、先輩は僕の前にまでやって来た。少しの間を置いて、先輩がその口を開かせる。

 

「よ、よお。よくわかったな、この場所。その……俺を助けに、来てくれたのか?……クラハ」

 

 申し訳なさそうに言って、それから少し照れたように、先輩ははにかんで。そんな先輩に、僕は上着として羽織っていたコートを脱ぎ、黙ってそれを羽織らせた。

 

「あ……」

 

 突然僕にコートを羽織らされ、先輩は困惑の声を漏らす。……恐らく、というか十中八九ほぼライザーの仕業と見て間違いないだろうが。先輩の服はその下着(ブラジャー)ごと断ち切られ、もはやその体を成していなかった。

 

 結果、先輩の胸元があまりにも開放的になっていて。隠されるべき豊かでたわわなその中身が、丸出しと言っても過言ではない程大胆に外気に曝け出されてしまっている訳で。そのことを先輩自身は特に気にしていないようだったが、僕は到底それを看過することはできなかった。

 

 ……いや。これは違う。看過できないというのは、僕のつまらない言い訳だ。本当は────()()()()()()()()()

 

「……あ、あんがと」

 

 先輩のことを思った訳ではない、僕のその気遣いを。だが僕に信頼を寄せている先輩は、若干複雑そうにしながらも素直に受け取って、礼を述べてくれる。……その感謝が、僕の心を苛むとも知らずに。

 

「えっと、それで……さ。ま、まあ訳を話すとそれなりに長くなるんだけど、さ。あー……うん。どっから話せばいいんかな。あは、ははは……」

 

 そう言って、先輩は似合わない、慣れない苦笑いを浮かべる。……その態度が、僕の心をささくれ立たせるとも知らずに。

 

 ──…………あれ……?

 

 そこで唐突に、僕は気づく。どうして、こんなにも。よりにもよって、自分は。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 恐らくそれは、この人と知り合って始まった八年という、決して短くはない月日の最中で。僕が、初めて抱くもので。

 

 それは憤慨なのか、それとも憐憫なのか。その両方であり、またはそのどちらでもないのかもしれない。とにかく形容のし難い、負の感情としか言い表せないモノを、僕は今この人に対して向けている。それだけは、確かだった。

 

 そしてそれを、こうして。自覚してしまった瞬間──────僕の心を徐々に覆っていた翳りが、一瞬にして広がり、包み込んだ。

 

「……クラハ?」

 

 そんな僕の、昏く淀んだ心情を機敏にも感じ取ってくれたのだろう。心配そうに先輩が僕の名前を呼び、顔を覗き込んでくる。

 

 ……だが、それが()()()()()()。とにかく、無性に気に食わない。普段であればそんなことは絶対に思わないのに。こんなにも、苛立つことなどないというのに。

 

 何よりも────その瞳が許せない。元の輝きをそこに宿しておきながら、それ以外の何もかもが違う。身体も、髪も、顔も。全部、全部全部全部違う。

 

 違う癖に、どうしてそう()()()()()()さも同じだと宣うかのように、目の前のあなたはそう振る舞おうと──────()()()()()()()()()()()()

 

「な、なあ。どうしてお前、さっきから黙ったままなんだ?何か……言ってくれよ」

 

 真紅の瞳だけは元々のままの、それ以外の全てが違う目の前の先輩は。決して他人などに、否僕なんかに見せることはなかっただろう、心配と不安に満ちた表情を浮かべて言う。

 

 それを目の当たりにした瞬間、遂に僕は堪えられなくなった。

 

「…………先輩」

 

 今の今まで口を閉ざし、保っていた長い沈黙を破る為に。喉奥から絞り出した僕のその声は、自分でも意外だと思うくらいに、低かった。

 

「一つ、教えてください」

 

「お、おう。いいぞ」

 

 続いたその声も、依然低く。だからか、先輩は僅かに動揺して、けれど頷き了承の意を僕に示してくれる。

 

 ……だから、僕は遠慮せず。そして容赦なく、訊ねた。

 

「ライザーの奴に、何を……どんなことを、されたんですか」

 

 僕の声が部屋に響いてから数秒、静寂は続いて。その後、目を丸くし呆気に取られていた先輩が、呆然としたように声を漏らす。

 

「え……?」

 

 恐らく、僕がそれを訊くとは思いもしていなかったのだろう。……僕だって、訊きたくはなかった。けれど、今はそれを訊かずには、どうしたっていられなかった。

 

「どんなことされたって……そりゃあ、その……」

 

 それを言うのは流石に気が憚れるのか、先輩はらしくもなく(ども)り、微かにその頬を染めつつ僕から視線を逸らす。だが先程了承した手前、引くにも引けない様子の先輩は。やがて観念したように、逸らした視線を僕の方に戻し、若干躊躇いつつもポツポツと話し始めた。

 

「い、色々された。身体じっくりジロジロ見られたり、胸触られたり揉まれたり……あ、ああでもそんくらいだぞ?ライザーにされたのは本当にそんくらいのことで、別に殴られたり蹴られたりはされてねえし、だから俺は見ての通り何ともない!だ、だからクラハが気にすることなんて、何もないんだぞ?」

 

 ……先輩は、人の感情や心情というものに対して、昔から人一倍、誰よりも敏感だった。

 

 だから、きっと。ライザーの仕打ちの内容を聞かされ、ドス黒く静かに煮え滾る、僕のこの怒りも。先輩は感じ取り、見透かし。慌ててライザーの奴を弁明するかのような戯言を、加えてしまったのだろう。

 

 だがそれは、それだけは間違いだった。絶対に犯してほしくはなかった、最悪の間違いだった。

 

「どうしてですか、先輩。先輩はどうして、こんな場所に一人で乗り込んだんですか?一体どうしてこんな無茶をしたんですか?」

 

 到底抑えられない衝動のままに、まるで縋るように僕は先輩に詰問する。僕自身、もう訳がわからなかった。僕の心の中で、激情が渦巻いて、こうして口に吐き出さなければどうしようもなかった。

 

「そ、それは……」

 

 だというのに、目の前の先輩は肝心なところで。また吃り、目を逸らし、躊躇する。その態度が焦ったくて、煩わしくて。

 

 ガッ──だから僕は、その華奢な両肩を掴んだ。

 

「ク、クラハっ?」

 

 僕がこんな乱暴な真似をするとは、先輩は思いもしていなかったのだろう。僕だって、咄嗟のことだった。気がついたら、こうしていた。

 

 先輩が驚きの声を上げたが、しかしそれに構える余裕など僕にはない。動揺の色が見え隠れする真紅の瞳を覗き込むようにして、僕は必死になって先輩に訴えかける。

 

「そもそも先輩がこんなところに来なければ、ライザーの奴に酷い目に遭わされることなんてなかった。それだけじゃない。きっとろくでなしのあいつは、仲間を使って先輩をもっと酷い目に遭わせようとしたはずです。こんな無茶をしなければ……先輩の身には何も起こらなかったんですよ?」

 

 僕の訴えに対して、先輩は黙り込んでいた。そんな先輩に、僕は再度、切実に問うた。

 

「だから、教えてくださいよ。どうしてこんなことをしたんですか……ラグナ先輩」

 

「……」

 

 それでもまだ、先輩は沈黙を保っており。その真紅の瞳には、迷っているように揺れている。

 

 長い、本当に長い沈黙の後。遂に、先輩は。その真紅の瞳を伏せて、未だ動揺が抜け切っていない震えた声で。僕が待っていた答えを、その口から出した。

 

「お前の、為。俺が一人でここに乗り込んだのは、お前の為だ」

 

 それが、先輩の答えだった。それを聞いた僕は──────

 

 

 

 

 

 ──は……?

 

 

 

 

 

 ──────堪らず、絶句した。

 

「僕の、為……?」

 

 遅れて、呆然とそう呟く僕に対し。先輩はコクリと小さく、まるで躊躇うかのように頷く。

 

 先輩の肩を掴んだ手を、ズルリと滑り落として。僕は愕然としながら、先輩に言った。

 

「つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()と、先輩は言いたいんですか……?」

 

「…………は、はぁっ?」

 

 僕の言葉に対して、先輩は目を白黒させながら、まるで意味がわからないと声を上げた。すぐさま、先輩が言葉を続ける。

 

「ちょ、ちょっと待てよクラハ。別に俺はそうとは言ってねえだろうが。何でそうなるんだよ?」

 

「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか」

 

「はあぁっ!?だから違えって!どうしてそうなっちまうんだ!確かにここに乗り込んだのはクラハの為だけど、それは……!」

 

 先輩は必死になって、言葉を繋ごうとする。けれど、そんな先輩に対して、僕ははっきりと告げた。

 

「止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは」

 

 瞬間、先輩は止まった。真紅の瞳を見開かせて、止まって固まってしまった。

 

「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです」

 

 淡々と、僕は言葉を並べる。止まって固まって言い返せない先輩相手に、遠慮容赦なく。無慈悲に、大人気なく。

 

「だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ」

 

 それを最後に、僕は口を閉ざした。先輩はしばらくそのままだったが、やがて徐々にその顔を俯かせて。肩を小さく震わせながら、またその口を開かせた。

 

「言い訳……ああ、そうだな。クラハの言う通りだ。俺はお前を使って、言い訳してた。……でも、な」

 

 弱々しく震える声でそう言って、先輩は俯かせたその顔をまた上げた。

 

「こんな()()俺にでも、クラハの為にできることをしたかった。何でも、どんな些細なことでもいいから、お前の先輩として、お前の為になることをして、やりたかった。それは、本当、だから……!」

 

 必死に、まるでこちらに追い縋るかのように。言葉を(つっか)えさせながらも、そう最後まで言い終えた先輩の、上げたその顔には。

 

 

 

 

 

 とても悲しそうで、とても淋しそうな笑顔があった。

 

 

 

 

 

 それを目の当たりにした僕は、一瞬だけ目を見開かせて。それから顔を逸らし────

 

「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが」

 

 ────突き放すように、そう返した。

 

 この部屋に、もう何度目かなんて数えるのが煩わしい静寂が訪れて。しかしそれはすぐさま、小さな足音によって破られる。

 

 その足音はやがて僕のすぐ隣で止んで。少し遅れて、もはや震えてなどいない声で、()()()は言う。

 

「助けに来てくれて、あんがと。……じゃあな」

 

 その感謝に対して、僕は。

 

「……はい。さようなら、()()()()()

 

 まだ知り合って間もなかった頃の呼び方を、もはや今さら使う機会など訪れることはないと思っていたその呼び方を。何の感情も感慨もなくただ淡々と。戸惑わず、躊躇わずに使った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終わりはいつも、いつだって唐突で、突然に訪れる。例外なく、全てに等しく。そう、平等に。

 

 だから、八年続いたこの関係もまた唐突に、突然に。経た月日と重ねた年月に見合わず、こうして呆気なく、あっさりと──────その終わりを告げたのだった。



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狂笑

「僕の、為……?」

 

 思えば、そこから狂い始めたのかもしれない。壊れた歯車が、軋んだ音を立てて歪み、それでも回り始めて、止まらないかのように。

 

「つまり……僕の所為で、僕が原因で酷い目に遭ったと、先輩は言いたいんですか……?」

 

 それはまるで自分を引き抜かれ、空っぽになった其処に全くの別の何かを詰め込まれたような、あまりにも現実味に欠けた、そんなあり得ない感覚。

 

 それに僕はひたすら戸惑って、困惑して、混乱して。けれども、今し方この口から(まろ)び出た自分の言葉を、必死になって否定する。

 

 ──違う。こんな……僕は一体、何を言っているんだ……?

 

 こんなこと、間違ってでも言いたくなかった。……言える訳が、なかった。

 

 だが現実は、無情にも僕を裏切る。

 

「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか」

 

 無慈悲に、裏切り続ける。

 

 ──僕はなんてことを口走っている……!?

 

 口を開く度に、言葉を紡いで繋ぐ度に。自分が自分でなくなっていくような、奇妙で奇異なその感覚に。僕は糸を繋がれた操り人形の如く、踊らされ続ける。

 

「止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは」

 

 延々と、永遠と。無様にも、愚かにも。

 

 ──止めろ。

 

 だけど、僕は抗った。

 

 ──止めろ。止めろ、止めろ止めろ止めろ……!

 

 必死に、抗おうとした。……だが。

 

「止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは」

 

 それでも僕の口は、壊れた機械のように淡々と、そんな酷い言葉を吐き出し続ける。

 

 ──止めろ止めろ止めろ止めろ!違う!!僕は、こんなこと思ってなんかいない!!

 

 心の中で堪らず、そう叫んだ瞬間だった。

 

 

 

 

 

 ────本当は思ってるんじゃないの?────

 

 

 

 

 

 

 何処かで聞き覚えのある声が、僕にそう囁きかけた。

 

 ──…………え……?

 

「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです」

 

 僕が呆然としている隙に、僕の口から言葉が零れ落ちる。

 

 ──思ってなんか、いない……僕はこんなこと、思ってなんか……。

 

 もう、わからなくなった。僕という自分が、まるでわからなくなってしまった。

 

 だが、それでも。なけなしの気力を振り絞って、抵抗を続けようとした。……しかし、それはあまりにも弱々しい、儚い抵抗だった。

 

「だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ」

 

 そして、そんな程度の抵抗は、無意味に終わる。

 

「言い訳……ああ、そうだな。クラハの言う通りだ。俺はお前を使って、言い訳してた。……でも、な」

 

 しかし、あまりにも理不尽極まりない怒りを孕んだ、僕のそんな言葉に対しても。この人は真摯に受け止めて、健気に飲み込んで。

 

「こんな今の俺にでも、クラハの為にできることをしたかった。何でも、どんな些細なことでもいいから、お前の先輩として、お前の為になることをして、やりたかった。それは、本当、だから……!」

 

 そう、返してくれた。とても悲しそうで、とても淋しそうな笑顔を浮かべて。

 

 ……だが、その時僕は悟った。悟ってしまった。

 

 ──……言うな。言うな、言うな言うな言うな言うなッ!駄目だ、それだけは……これだけは……ッ!!

 

 それは決して、絶対に口にしてはならない言葉。……だったというのに、僕は────

 

「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」

 

 ────自分に抗えず、口に出してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──わかって、いたんだ。

 

 最初はゆっくりだったが、徐々に早歩きとなって。そして堪え切れなくなったように駆け出し、どんどん遠去かるその足音を聞きながら。

 

 ──本当は、わかっていたんだ……。

 

 脇目も振らず、ただ一目散に。今すぐにでも追いかけるべき、その足音を聞きながら。

 

 ──本当はわかっていたんだ……ッ。

 

 今までに味わったことのない後悔と絶望の前に、僕は打ち拉がれていた。

 

 そう、わかっていた。わかっていたというのに、僕は()()()()()()()()()()()()()()()

 

 確かに、今回のことはラグナ先輩の方にも少なからず責任はある。僕にそれを伝えられないことは重々承知しているが、それでもまずは誰かに相談してほしかった。先輩には、誰かに頼ってほしかった。

 

 誰にも伝えず、頼らず。たった一人でライザーの根城に乗り込むなんて無茶で無謀な真似を、僕はしてほしくなかった。

 

 しかし、そのことをああやって責める気など、僕にはなかった。なかった……はずだったのだ。

 

 だってわかっていたから。今回の行動の全てが、先輩なりに僕のことを思い、僕の為にと考えられていたものだと、わかっていたから。

 

『お前の先輩として、お前の為になることをして、やりたかった。それは、本当、だから……!』

 

 そう、本人から直接言われずとも。僕はわかっていた。ちゃんと、理解していた。……そのつもりだった。

 

 いざ蓋を開けてみれば────

 

 

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』

 

 

 

 ────最低最悪の、完全否定。

 

「…………」

 

 もう、足音は聞こえない。……それとも、もう僕の耳には届かないだけのだろうか。それすらも、そんなことすらも、今やわからない。

 

 ただわかるのは、もはや取り返しのつかない過ち。それを僕は、よりにもよってラグナ先輩に対して、しでかしてしまったのだ。

 

 こうしていくら後悔しようが、罪悪感に押し潰されていようが。どうにもならない。どうしようも、ない。

 

 呆然自失とその場に立ち尽くしていた僕だったが、ようやっと動き出す。鉛のように重たい足取りで、この部屋の壁へと歩み寄る。

 

 壁は固かった。石壁だ。手で触れると、ザラザラとした感触が皮膚を擦る。

 

「……どう、して」

 

 それだけ、僕は呟いて。石壁からそっと、手を離す。そして、すぐさま。

 

 ゴチャッ──その石壁に、額を叩きつけた。

 

「どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして」

 

 繰り返し呟き続けながら、僕は繰り返し額を叩き続ける。呟く度に、額を叩きつける。

 

「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」

 

 ビシ──そして。四十回そう呟き、四十回そう叩きつけた、丁度その時。そんな音と共に、石壁に幾筋の亀裂が走った。

 

「…………」

 

 気がつけば、目の前の石壁は真っ赤に染まっていた。下に続く赤く太い線を視線で追うと、僕のすぐ足元に小さな赤い水溜りもできていた。

 

 ──…………。

 

 妙に軽くなった頭の中で、ふと僕はこう思った。

 

 

 

 

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「……ハハ」

 

 乾いた笑い声が、自然と僕の口から漏れ出す。それを聞きながら、僕は自答する。

 

「そう、だったのかなあ。そう思って、いたのかなあ。ハハ、ハハハ……」

 

 理解不能の、グチャグチャな感情が。滅茶苦茶で無茶苦茶に入り乱れる脳裏に。

 

 

 

 ────本当は思ってるんじゃないの?────

 

 

 

 またその声が、響いた。

 

「煩えなぁあああッ!!煩えんだよいいから黙ってろぉぉぉおおおおッッッ!!!」

 

 ドゴッ──喉が裂ける勢いで、箍が外れたように叫びながら、僕は石壁を殴りつける。亀裂がさらに広がった。

 

「……ハハ、アハ、アハハッ!アッハッハッハッハ……!」

 

 僕は笑う。ドクドクと額から血を流して、垂らして、滴らせて。狂ったように──────否、狂って笑って。そう、狂い続けて。そう、笑い続けて。

 

 軋んで歪んで壊れた、この度し難い現実の最中で、独り切り。そうして、一頻(ひとしき)り笑い続けた、その後に。

 

「………………ああ、そうだね。ライザー、僕とお前は……最低最悪の同類だよ」

 

 顔半分を手で覆い隠しながら、僕はそう吐き捨てた。



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深夜の来客

 住人の、誰も彼もが寝静まる、深夜のオールティア。夜の帷がすっかり落ち切った、黒い空を仰ぎ見れば。幾万幾億という星々が輝き瞬いている。そんな絢爛と煌びやかな光景を、彼女は独り。自宅の窓から呆然と眺めていた。

 

 彼女こそ、このファース大陸モノ王国を代表する冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢にして、元《S》冒険者(ランカー)────メルネ=クリスタである。

 

「……」

 

 満点の星を眺めながら、メルネは心の中で静かに呟く。

 

 ──二人共、大丈夫かしら……。

 

 メルネが言うその二人とは、もちろん────ラグナ=アルティ=ブレイズと、クラハ=ウインドアのことだ。

 

 世界(オヴィーリス)最強の三人と謳われ語られる存在(モノ)たち────人呼んで、『三極』。

 

 その内の一人に数えられるのが、ラグナ=アルティ=ブレイズ。直近では予言書に記されし四つの滅び────『厄災』。その一柱たる『魔焉崩神』エンディニグルを討滅した彼だったが、少々……否、かなり複雑に入り組んだ事情により、今やその壮絶無比とされた最強ぶりがまるで嘘だったかのように、非力で無力な赤髪の少女となってしまっている。

 

 そしてそんな彼女……ではなく彼をあらゆる意味で元に戻そうと、現在絶賛奔走しているのがクラハ=ウインドア。彼もまた数十年来の逸材と評され、僅か一年足らずで()()()の最高とされている《S》ランクにまでなった、期待の星の冒険者(ランカー)だ。

 

 そのクラハが何故ラグナの為に頑張っているのか。その理由は簡単だ。何故なら、彼はラグナの後輩だから。

 

 ラグナとクラハの付き合いは実に八年にも長きに渡るもので、二人は相当に厚い信頼で結ばれていると、少なくともメルネはそう思っている。……否、()()()()()

 

 メルネの揺るぎないその思いに、微かな翳りが差し始めたのはつい最近のこと────言うまでもなく、ラグナの身にあのような異変が起きてすぐの頃からである。

 

 メルネは知っていた。そして、見てきた。まだ駆け出したばかりの新人だったクラハは勿論のこと、まだ『三極』に数えられる以前の、最強と自他共に認め、認められ謳われる前の、ラグナのことも。

 

 だからこそ────いや、恐らく『大翼の不死鳥』GM(ギルドマスター)、グィン=アルドナテも今頃までこの街に滞在していたのなら、きっと自分よりも早く気づいていたはずだ。

 

 ともかく。だからメルネはそれを敏感にも感じ取った。ラグナの混乱と焦燥、クラハの困惑と戸惑いを。

 

 側から見れば、別段気にすることもないことだったのかもしれない。そうなって当たり前だという、謂わば一種の常識のような。過ぎる時間がいつしかそのことを気にさせなくなるだろうと、二人についてそう深くは知らない他人は思ったかもしれない。

 

 だが、メルネは違う。昔から二人のことを間近で見てきた彼女からすれば、それは酷く危うい。

 

 今はまだ何もなく無事で済んでいるだろうが、その不安定極まりない迷いの感情は、ほんの少しの些細な拍子で呆気なく、そして瞬く間に砕け散ってしまうことだろう。

 

 そしてそれを一から修復するとなれば至難を突き詰め────最悪の場合、もはや一生を賭しても直らないかもしれない。

 

 ──固いもの程、何故か案外脆くて派手に壊れてしまう。……二人の間にある信頼は、まさにそれ。

 

 メルネがそのことに関して危機感を抱き始めたのは、言うまでもなく昨日にあった出来事の所為。

 

 

 

『そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ』

 

 

 

 それは、予期せぬ闖入者であり。そして、招かれざる来訪者でもあって。その男────ライザー=アシュヴァツグフの顔を思い出し、メルネは苦心するように目を閉じ、顳顬(こめかみ)を軽く手で押さえる。

 

 ──最悪な男が、これまた最悪のタイミング……いえ、だからこそ、なのかしら。

 

 そう心の中で呟きながら、メルネは頭の片隅に追いやっていた記憶を、ややうんざりとしながらも手繰り寄せる。

 

 恐らく全てのことの発端なのだろう、一年前の記憶を。

 

 ──ライザーは優秀な冒険者だった。才能だって、彼は十分持ち合わせていた。異例中の異例、《S》ランクからの冒険者登録がそれを証明してる……けれど、それがいけなかったのかもしれない。それが彼を、ああまで狂わせてしまったのかもしれない。

 

 メルネの閉じた瞼の裏で、未だになおその記憶は色鮮やかに想起される。

 

 結果の見えている勝負だと、誰もが思っていた。だが、それは大きな間違いで。しかし、ある意味では当たってもいた。何故ならば、驚くべきことに。

 

 

 

 ザシュッ──その勝負はたったの一合で決着がついたのだから。……それもライザーの敗北という、誰もが予想していなかった形で。

 

 

 

 メルネは今でも思い出す。信じられない面持ちで、あまりにも柔らかで、そして恐ろしく疾いその剣を。

 

「……」

 

 今でもメルネは鮮明に思い出せる。あの瞬間、ライザーの肩に遠慮容赦なく振るわれた、クラハの見事な一撃を。一切の躊躇も迷いもなく、宙を駆け抜けたあの白刃の一閃の美しさを。

 

 だからこそ、彼女は忘れることができない。

 

 

 

 

 

『わかったな!?──────クラハァッ!!!』

 

 

 

 

 

 これ以上になく、それ以上などこの世にはありはしないと思い知らされるまでに、憎悪と怨恨に満ち満ちた、ライザーの咆哮を。

 

「……はあ」

 

 たとえ事勿れ主義の偽善だと理解していても、せめてもとメルネは祈る。本当に()るのかもわからない、この世界(オヴィーリス)の創造主たる『創造主神(オリジン)』に。

 

 どうか、ラグナとクラハの二人に何もありませんように。互いを結び繋いでいるその信頼と絆に何もありませんように、と。そうすることで、昨日から不穏な警鐘を鳴らし続けて止まない、己の第六感を抑え込もうとする。

 

 ──私の予感って、嫌な時程よく当たるのよね……。

 

 その思いとは裏腹に、そう心の中でメルネが独り言ちる────その瞬間。

 

 

 

 リリーン──不意に、来客を知らせる(ベル)の音が、メルネの自宅に響き渡った。

 

 

 

「……こんな時間に、一体誰……?」

 

 壁にかけられた時計を見ながら、訝しげにメルネは口に出して呟く。それから少し思案を巡らせた後、彼女は椅子の背もたれにかけていた上着代わりの布を手に取り、玄関にまで向かう。

 

 そうして、メルネは扉の元にまで近寄り、覗き穴を見る──────

 

 

 

 

 

「え……?」

 

 

 

 

 

 ──────メルネの自宅の扉の外に立っていたのは、見覚えのある男物の黒い外套(コート)を羽織り、儚げに腕を抱き、何処か思い詰めた表情をその顔に浮かべている、ラグナであった。



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その役目を

「それにしても驚いちゃったわ。急にこんな時間に、それもまさかあなたがこうして訪ねて来るなんて、ね」

 

「……悪い」

 

「別に気にしなくていいのよ。一応私とだってそれなりに長い付き合いでしょ?それとお湯加減はどう?熱くない?」

 

「……大丈夫」

 

「そう。ならよかった」

 

「……」

 

 そうして、二人の────メルネとクラハの会話は一旦の終わりを告げ。そこから先は、シャワーから流れる温水が、浴室のタイルを叩く音だけが、静かに響き続けた。

 

 

 

 

 

 ラグナが扉の外に立っていた──────その現実を確と認識し、受け止めたメルネは。とりあえず、扉を開いた。

 

 メルネとラグナ。こうして直に対面した二人は、数秒互いを見つめ合う。無言が織り成すその静寂の最中、まず最初にその口を開かせたのは。

 

「こんな時間に悪い。他に当てがなくて、さ……」

 

 ラグナ、であった。申し訳なさそうに、ばつが悪そうに言うラグナに、慌ててメルネも口を開き、言葉を返す。

 

「べ、別にそんなの気にすることないわ。立ち話もなんだし、まあ中に入りなさい」

 

 そうして、メルネはラグナを自宅へと迎え入れた。

 

 ──当て……?

 

 そのラグナの言葉に、妙な引っかかりを覚えつつも。

 

 ……しかし。そうして迎え入れたはいいものの、そこからメルネは困惑と戸惑いに囚われることとなる。何故なら、ラグナの様子があまりにもおかしく、そして今発しているその雰囲気は、およそメルネが知るものとは遠くかけ離れていた為だ。

 

 一体どうしたというのか。何があったのか────こんな深夜に突然訪ねて来たことも含め、それらをメルネは問い質そうとした。

 

 だが、自宅に迎え入れられてからはまた口を固く閉ざし、ほんの一言すら発さないラグナの沈黙を前にしてしまっては、それも上手くできそうにない

 

 ──……困ったわねぇ。

 

 会話もできず、ただ無意味に時間だけが過ぎていく。そうは言ってもまだ、たかだか数分のことなのだが。

 

 ──よし。こうなったら……。

 

 これ以上貴重な時間を無駄に過ごす訳にもいかない。ただでさえ今は深夜で、こちらには今日の早朝から仕事が控えているのだ。ラグナには少し悪いと思いつつも、そういった個人的な理由から、メルネは行動に打って出ることにした。

 

 ──とは言っても、どうしましょ……?

 

 その行動に移る為の(いとぐち)を掴もうと、メルネは向かい側の椅子に座るラグナを眺める。

 

 そうして、ラグナの格好を眺めたメルネは。一つの単語を頭に思い浮かべた。

 

「えっと、とりあえずお風呂……そうねお風呂に入りましょ、ラグナ。その髪で一人は大変だと思うから、一緒に……ね?」

 

 言ってから、自分は一体何を言っているんだろうと、メルネは思った。自分は既に寝巻き姿だというのに。

 

 妙なことを口走ってしまったとメルネが後悔する最中、少し遅れて。やや遠慮気味に、こくり、と。小さく、ラグナが頷いた。

 

 ──……あら?

 

 

 

 

 

 ──私が言ったことだけども、まさかこうして本当に一緒に入ることになるだなんて。

 

 まるで燃え盛る炎をそのまま流し込んだような、鮮烈な紅蓮の赤髪を。湯で濡らし、指先で優しく丁寧に梳きながら、メルネは微笑む。

 

 ──本当に綺麗な髪。手入れとか特にしてないんだろうけど、正直これは妬いちゃうなあ。

 

 しかしすぐさま、そんなメルネの微笑みに、複雑なものが微かに混じる。

 

 そう、手入れなどされているはずがない。そんなことを気にする訳がない。

 

 だって、元々ラグナは男だったのだから。こんな綺麗な髪も、汚れ一つない肌も、元々ラグナは持っていなかったのだから。

 

 ──……ラグナ、本当に女の子になっちゃったんだ。

 

 とっくのとうに、『世界冒険者組合(ギルド)』から全四大陸に発表されたその情報を、まるで今知ったかのように。呆然と、メルネはそう思う。

 

 しかし、それも無理はない。確かにラグナは赤髪の少女となってしまった。けれど、それはあくまでも外見だけだった。その傍若無人な性格や大胆不敵な立ち振る舞い、その天真爛漫な性根は何処も変わっていなかった。ちっとも、ほんの少しの変化だってなかった。

 

 だからこそ、メルネは()()してしまっていた。まだそこに、自分が知るラグナがいるのだと。そんな都合の良い、()()()を起こしてしまっていた。

 

 だがそれは、やはり勝手な思い違いだったのだと。メルネは痛感させられた。周知の事実となったその現実を、今。彼女はこのような形で受け止め、ようやっと受け入れたのだ。

 

 ──……だからこそ、なのよ。

 

 ラグナの赤髪を梳くその指先に余計な力が入らぬよう、メルネは沸々と激しく、されど静かに。己の内で怒りを滾らせる。

 

 ラグナは何も話してくれなかった。何故、あの黒い外套(コート)を、クラハのものであろうそれを羽織っていたのか。何故、その下にあった服がああも、下着(ブラジャー)諸共に断ち切られていたのか。

 

 そして何故────ラグナはそんなにも気を沈ませ、昏く落ち込んでしまっているのか。玄関で他に当てがなかったと言われたことといい、メルネの頭の中では疑問符が右往左往に飛び交っている。

 

 だけど、ラグナは何も話さない。一体何があったのか、何も話してくれない。その似合わない無言と沈黙が、これ以上になく、どうしようもなくメルネの心を騒つかせてしまう。

 

 だが、しかし。それを解消できる手っ取り早い方法はある。それは単純明快────自分がラグナから訊き出せばいい。一体何があったのかと、問い詰めればいい。ただ、それだけだ。

 

 ただ、それだけのことだというのに。

 

 ──……難しい、なあ。

 

 メルネはそれができない。その一歩を、踏み出せない。確かに、明らかに尋常ではないラグナの雰囲気に気圧されている自分がいる。普段とは似ても似つかないその雰囲気に、気を憚れてしまう自分がいる。それは、自覚している。

 

 だがそうではないのだ。そういうことでは、ないのだ。もし、仮にもし。今日、ラグナが酷い目に遭って────否、()()()()()()()として、だ。

 

 そのことについて詳しく訊ねるということは、ラグナにその酷い目に関して自ら話させるということ。負ったその傷を、自分から抉れと言っているのと、同じことだとメルネは思っている。

 

 説明しなければ何もわからないし、何も始まらない。そんなことはメルネとてわかっているし、理解している。……それでも。

 

 ──私はラグナを傷つけたくない。……傷つけてしまうことが、堪らなく怖い。

 

 だからメルネはラグナを問い質すことができない。その思いが、邪魔をしてしまうから。

 

 ……それに、ラグナから話を聞かずとも。おおよそ何があったのかは、察しはつく。メルネとて、伊達に歳を重ねていない訳ではない。

 

 というより、()()()()()()()()()()()()、メルネは薄々思っていた。昨日、ライザーと望まぬ再会を果たしてしまった時から、ずっと。

 

 嫌な予感程、よく当たる────捧げた祈りは天に届かなかったことを知り、己の第六感を恨みながら。メルネは黙ってラグナの髪を梳き続ける。

 

 しかし、思わぬ形でメルネの望みは成就することになる。ラグナの髪も洗い終えたので、もう自分がいる必要はないだろうと、浴室から出る為にメルネがラグナに一声かけようとした、その時。

 

「……なあ、メルネ」

 

 黙っていたラグナが、その口を開かせた。不意のことで、ほんの僅かに肩を跳ねさせながらも、落ち着いた声音でメルネは返事をする。

 

「ん、どうかしたの?ラグナ」

 

 しかし、ラグナが言葉を続けることはなく。それからまた少しの沈黙が続いたかと思うと、メルネに背を向けたまま、ラグナは。

 

「俺って、何なのかな」

 

 そう、静かに呟いた。

 

 ──え……。

 

 自分とは何なのか。そんな哲学めいた言葉が、それもラグナの口から出たことに。メルネは堪らず動揺し、戸惑ってしまう。それが彼女の言葉を濁らせ、口を鈍らせ。結果、返事をするのが遅れて。

 

 しかし、それを気にしたようなことはなさそうに。さっきとは打って変わって、ラグナは言葉を続ける。

 

「俺はただ、何かしたかった。先輩として、後輩の為になることを、してやりたかった……ただ、それだけだったんだ」

 

 その華奢な肩を微かに震わせながら、それと同様の声音で。

 

「悔しかったから。ずっと、ずっと……あの時は見てることだけしかできなくて、助けを呼ぶくらいしかできなくて、助け、られなくて。それがずっとずっと悔しかったんだ。だから、こんな今の俺でもしてやれることを、したかっただけなんだよ」

 

 やがて、震えるだけに留まらず。徐々に、ラグナの声音は濡れていく。

 

「なあメルネ……教えてくれ」

 

 予想だにしない状況下に置かれて、声も出せずただ固まる他ないでいるメルネに。弱々しく震える濡れた声で、縋るかのようにそう言って。そしてようやっと────ラグナは振り向いた。

 

 

 

()()俺って、一体何なんだ……?」

 

 

 

 ──ラグナ……。

 

 その時見た、顔を。表情を。この生涯の中で忘れることはないだろうと、心の中で切実にラグナの名を呟きながら、メルネはそう思う。そして彼女は何も言わず、何も言えず。

 

 腕を振り上げ────そっと、ラグナを引き寄せて。その小さな身体を、優しく抱き締めた。

 

「…………言われ、たく、なかっ……た」

 

 メルネに抱き締められながら、彼女の胸元に顔を埋めさせながら。嗚咽混じりに、ラグナが言葉を零す。

 

「あんなこと、クラハだけには言われたくなかったぁぁぁぁ……っ!」

 

 そこから先、ラグナは泣いた。ずっと、泣き続けた。メルネの前で、恥も外聞もかなぐり捨てて。

 

 浴室に響き渡る、その悲しさと辛さと淋しさに満ち溢れた慟哭を聴きながら。それを止めることができない、無力な己の不甲斐なさを歯痒く思いながら。ただ、メルネはそれを受け止め続けた。それがラグナの為にできる、唯一のことだから。

 

 ──……大丈夫。大丈夫よ、ラグナ。きっと、大丈夫だから。

 

 メルネは知っている。ラグナの問いかけに答えるべき者を。

 

 メルネは知っている。失意のどん底に落ち、絶望の最中に独り取り残されたラグナに。手を差し伸べ、そこから連れ出せる者を。

 

 だから、どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても。メルネは何も答えられない。何もできない。

 

 何故ならば、知っているから。自分がそうではないことを。自分には、その資格がないことを。

 

 

 

 

 

 その役目を、果たさなければならない者を。



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裏心剥離

 一体、どれくらいの時間が経ったのだろう。一体、どれくらい僕はそこにいて、そうしていたのだろう。

 

 短命に終わるのか、長寿を全うするのか。この先どうなるのか想像もつかない人生の最中で、ただ確実に無意味と言える時間を、そこで浪費した僕は。

 

 唐突に正気に戻ったように、自分がやるべきこと、成すべきことを思い出したように。僕はその場でただ突っ立っているのを止め、歩き出した。

 

 フラフラとおぼつかない、実に危なっかしい足取りで。僕は床に伏せたまま、一向に立ち上がる気配を見せず、微動だにしないライザーを放置して。僕によって扉を蹴破られ、ただの出入口となったそこを通り、この部屋から立ち去る。

 

 抜けた先の大部屋では、つい先程僕によって打ちのめされた男たちが、未だ床に倒れていたり、壁にもたれて座り込んでいたりしていた。大半は気を失っていたが、一、二人は既に気を取り戻しており。しかし、それでもまだ僕の一撃が尾を引いているようで、僅かな呻き声を上げるのが精一杯らしく、結果誰も彼もが床から立ち上がれないでいる。

 

 向こう見ずの彼らでも、流石にそんな状態に陥ってしまえば余裕がないらしい。最初とは打って変わって、今や僕に挑みかかる者は誰一人としていない。

 

 ──……だったら、最初から大人しくしていれば、良かったのに。

 

 そうしたら、自分はまだ間に合っていたかもしれないというのに────そう、現実逃避めいた独り言を心の中で呟いて。途端、僕は苛立ち不愉快な気分を胸の内に抱く。

 

 数秒と言えど、それを抱え込むのは存外心身的負担(ストレス)になるもので。そんな些細なものであろうと、今の僕には到底見過ごせない、許容できない負担で。我慢も儘ならないことで。

 

 だからこの苛立ちを解消しようと。この不愉快な気分をどうにかしようと。床の彼らを見つめ、僕は拳を握り、力を込める。

 

 そうして、僕は────何もしないまま(・・・・・・・)、この大部屋からも立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 気がつくと、僕は扉の前に立っていた。元々は僕の部屋であり、しかし今はそう滅多には近づくことも、そして余程のことがない限りは入ることもなくなってしまった、その部屋の扉の前に。

 

 自宅の一室、それも元は自室だったというのに。何故それがそうなってしまったのか────その理由と経緯は非常に、ごく単純(シンプル)なもので。今現在、この部屋が先輩のものになっている。それに尽きる。

 

 ──今現在……か。

 

 終えたばかりの自問自答に対して、僕は自嘲し呆れ果てる。当然だろう。だってもう、この部屋はもはや()()()()()()()()()()()()

 

 己を嘲りながら、僕は扉越しに、部屋の中までちゃんと聞こえるように。口を開き、大きな声で呼びかける。

 

「こんな深夜にすみません。部屋の中に、入らせてもらいますよ」

 

 僕の声は虚しく響き渡った。扉の向こう、部屋の中からは返事も、何の音もしなかった。数秒、数分が過ぎても。何も、なかった。

 

「…………ハハ」

 

 そのことに、その事実から成り立つこの現実を前に。僕はただ、乾いて掠れた笑いを漏らすことしかできない。そうして僕は、ノブに手をかけ握り、捻って。ゆっくりと、その扉を押し開いた。

 

 部屋は、静かだった。ただひたすらに、無音だった。それも当然のこと────何故ならば、誰もいないのだから。

 

 わかり切っていた、とうに理解していた現実を。覆しようも変えようもない事実を確と受け止め。けれど存外、僕は落ち着きを払っていた。異様なくらいに、冷静だった。

 

 ……違う。諦観の念の元に()()()()()()景色を現にこの目で見て確かめたから、取り乱すことはもちろん、今さら驚愕することも愕然とすることもなかったのだ。

 

 扉を開いたまま、立ち尽くしていた僕は。少し遅れて、部屋の中に足を踏み入れさせ、そのまま歩を進める。そうして目指した先にあったのは、一つの寝台(ベッド)

 

 それを見下ろし、数秒。僕はそこへ、脱力したように倒れ込み、沈んだ。

 

「…………」

 

 以前まで、あの煌々と燃ゆる紅蓮を直接、そのまま流し入れたような、鮮烈として美麗な()()()()()が現れるまで、僕が使っていた寝台。その寝台からは、匂いがした。何処か仄かに甘い気がする、不思議と心地良い、匂いだった。

 

 こうしていると、まるでその匂いに包まれているようで。まるで、この全身を抱き締めてくれるようで。それがなんとも、堪らなく心地良いのだ。気分が落ち着き、安らぎ、癒されるのだ。

 

 今思えば、今日は長い一日となってしまった。体力も消耗した。だからか、次第に睡魔が込み上げ。それは瞬く間に巨大化し肥大化し、とてもではないが抗うことのできない程の、生理的な欲求へと成長を遂げる。

 

 ──ああ、眠い……な。

 

 鉛の如く重くなった瞼を、僕は素直に閉じる。そうして視界は閉ざされ、夜闇よりも濃く深い暗闇が、僕を覆い尽くし、包み込む。

 

 恐らく、あと数分もしない内に、僕の意識は睡魔に囚われ、無意識の奈落へ落ちることだろう。

 

 だが、その前に。自分でも意外だと驚く程冷静に、冴え渡る思考を巡らし、つい先程ばかりの出来事を鮮明過ぎるまでの映像(きおく)として振り返り、そして僕は唐突に答えへと辿り着く。

 

 あの時の自分は、もう()()()()()()()()()()。いや、ある意味では、あれこそが本当の自分だったのかもしれない。

 

 裏の心が剥がれて離れた自分が、内に秘めて閉じ込めていたその本音を、ああやってぶち撒けた。……きっと、そうなのだろう。

 

 うつらうつらとし、途切れ途切れになり始めた意識の中で。ふと、そういえばと、僕は妙な引っかかりを覚える。それが一体何なのか、上手く言葉にはできないのだが。大切で、大事なものを自分は忘れてしまっているような、そんな気がする。

 

 ──…………あ。

 

 眠りに誘われ、囚われ、落ちるその寸前。辛うじて、僕は()()を思い出す。答えは、先程想起したばかりの記憶の中にあったのだ。

 

 

 

『僕は……僕はこんなことの為に強くなった訳じゃないッ!』

 

 

 

 この手で握り締め、刃を握り砕きながら放ったその一言。そのことを思い出し、僕は妙な引っかかりの正体に辿り着く。辿り着いて、僕は────────

 

 

 

 

 

 ──僕は……何の為に、強くなったんだっけ……。

 

 

 

 

 ────────呆然自失に心の中でそう零して、直後僕の意識は安息と安寧が謳う暗闇へ、落ちて沈んだ。



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醜悪炎情

「…………ヒ、ヒッ」

 

 ラグナが部屋から立ち去り、しばらくその場で立ち尽くしていたクラハも部屋から立ち去り。この部屋に独り残された男──ライザー=アシュヴァツグフは、床に倒れ伏せたまま、小刻みにその肩を震わせ、か細く引き攣った笑いを漏らす。

 

「ヒヒッ……イヒッ、イヒャヒャ……ッ」

 

 しかし、最初は耳を澄まして聴こうとしなければ聞こえなかったその笑い声も、次第に音と勢いが増し。そうして数秒と過ぎない内に、ライザーの笑い声は部屋中に響き、震わせるようになる。

 

「ヒャアアアッハッハッハアアアァァァ!!アィイヒハハハヒヒャヒャヒャアアアアアアッッッ!!!」

 

 おかしそうに、楽しそうに、愉快そうに。ライザーは笑う。ただひたすらに、延々と。床に倒れ伏せたまま、彼は笑い続ける。

 

「イィィッヒヒヒハハハヒャヒャッ!やったッ!やってやったぞッ!作戦大成功ってやつだあっ!アヒャヒャヒャハハハッハッ!!」

 

 そうしてライザーは一頻(ひとしき)り笑い続けた後、まるで休憩とでも言わんばかりに一つのため息をその口から漏らして、それからようやっと伏せた状態から、気怠そうに床を転がり仰向けの体勢となる。しかし、起き上ろうとはしなかった。

 

 床に寝転んだまま、ライザーは薄汚れた天井を見上げながら、先程よりかは大人しい、くぐもった笑い声を漏らす。それから深々と、しみじみとした感傷に浸りつつ、彼は独り言を呟き始めた。

 

「ああ、嗚呼……痛かった。痛かったぞお……キヒ、でもその甲斐はあったなあ。見返りはあったなアハハャヒャ……ッ」

 

 天井を見上げるライザーの目は、もはや焦点が合っていない。しかしそれでもなお、お構いなしに彼は続ける。

 

「傑作だった……最高だった……もうこれ以上にねえって程の見世物だったなぁあっ!ハハハッ!あのクラハが!アヒャヒャヒャ!遂に!とうとう!アァハアッハハヒャアアアッ!!」

 

 もう、それをライザーは抑えることができないらしい。手で腹を押さえ、背中を仰け反らせ、彼は激しく笑って、笑い続ける。

 

「ハハハイヒヒヒヒャアッハッハッハッ!!ヒャハハハハッッッ!!!クラハ!これで!お前も!俺と同等だ同一だ同類だッ!!最低最悪の!そう!!最低最悪のぉぉおおおオオオッ!!」

 

 瞬間、焦点の定まらないライザーの血走った目が。零れ落ちそうになる程に、限界のギリギリまで見開かれた。

 

「同じだ!同じだ!!同じだッ!!!同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じなんだァァァアアアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッ!!!!」

 

 何故喉が破り裂けないのだろうと疑問に思うくらいの、狂気の咆哮をライザーは轟かせて。直後、彼はその口を閉ざした。

 

 ライザーが無言となったことで、部屋は不気味な静寂に包まれる。その最中、数分の沈黙を以て。再び、ライザーが口を開いた。

 

「これで……あれで、俺の目的は果たされた。この俺、ライザー=アシュヴァツグフの策略、謀略通りに。見事クラハ=ウインドアは嵌まり嵌まって嵌められて、結果自分が最も大切にしていた大事なかけがえのない存在(モノ)を誹り貶め、否定した。……勝ったんだ。他の誰の目から見ても、俺は奴に勝ったんだ」

 

 つい先程までの狂騒ぶりが、まるで嘘だったかのような。落ち着きを払い、冷静沈着にライザーはそう呟く。そう、自分に言い聞かせるように。

 

 そしてライザーは口端を吊り上げ、宙へ手を翳し。血が滲み出て腕を伝う程に、力を込めて拳を握り締める。

 

「そうさ。そうだ。俺ぁ奴に勝った。ライザー=アシュヴァツグフはクラハ=ウインドアに勝利したぁ……それは!確かな事実ゥッ!!それが!確かな現実ゥウッ!!クク、ハハハ、アギャギャギャギャァアハァハァハァッ!!!」

 

 一時は冷静沈着となっていたその口調が、徐々に異変を来し。そしてあっという間にライザーの狂気は再び駆け出す。ようやっと訪れた静寂は数分と保たずに引き裂かれ、すぐさま彼の歪な狂気によって呑み込まれてしまう。

 

 その中心にいるライザーは依然笑って、そして笑い続ける。

 

「アッッヒャヒャヒャヒャッ!ヒャハハハハァアッ!!満足ッ!ン満足ゥ!!圧倒的、満足ゥウウヒヒヒヒアハハハハッ!!!…………はあ」

 

 が、しかし。延々と永遠に続くかに思われたライザーの狂笑は、不意に終わりを告げ。そして────────

 

 

 

 

 

「っんな訳ねえだろうがぁあああああッ!!アアアアアアッ!!!ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッ!!!!!!」

 

 

 

 

 

 ────────一気に弾けて爆ぜて、噴いた。

 

(クソ)が糞が糞がァアアアアッ!糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞ォォォオオオッッッ!!!憎いッ!!恨めしいッ!!殺してェエエッ!!ぶっ殺してぶち殺してやりてェエエエッ!!殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺……ッ!!!…………ド畜生がああああああああああああッッッ!!!!!」

 

 限界以上に開かれ、両端が裂けたライザーの口から。大量の血と共に、激しく濃密な憎悪と怨恨の言葉が吐き出される。己の血で赤く染まった拳を振り下ろし、床を叩き割りながら。立ち上がったライザーは胸の内から際限なく込み上げ溢れ出す負の感情のままに、癇癪を起こした子供のようにこの部屋の中で暴れ回る。

 

 ライザーに蹴り上げられた寝台(ベッド)が悲鳴のような軋んだ音と共に吹っ飛び、壁と激突し木っ端微塵に砕け散る。余波で破けた布団から飛び散った綿が、宙を舞う。

 

 恐ろしき獣の如き咆哮を上げ、ライザーがその拳で石壁を殴りつける。彼の拳はめり込み、そう薄い訳でも脆い訳でもない石壁を容易く貫いて。拳が引き抜かれ、穿たれたその大穴から。深々とした亀裂が細々と石壁全体に、瞬く間に広がり、一部が崩壊した。

 

「クラハ、クラハ、クラハ、クラハ、クラハ……」

 

 顔を手で多い、指の隙間から覗く目にありとあらゆる負の感情を宿らせて。まるで譫言(うわごと)のように、その名を繰り返し、何度も。何度も何度もライザーは呟き続ける。

 

「クラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクゥラァァハアアアアアアアアアアアッッッ!!!」

 

 終いに、ライザーは叫び散らし。直後、悍ましいその狂行は唐突に終わりを告げる。

 

「…………だが、しかし。それはできやしない……あの野郎は、さらに強くなってやがった。一年前とは比較にならん。まるで別人だ畜生め。……ああ、嗚呼。何故だ、何故なんだ。俺だって馬鹿みてえにただ待っていた訳じゃない。努力は惜しまなかった。一年分の復讐を成し遂げる為の努力は一切惜しまなかった……だのに。一体、一体何が違うんだ?俺の才能と奴の才能とで、一体何が違うっていうんだ……?」

 

 先程の狂いに狂った言動とは真逆の様子で、ライザーは静かに呟き、深々と嘆く。その脳裏に、絶対に忘れ去ることのできない、心に根深く刻み込まれたその記憶(えいぞう)を想起させながら。

 

 それこそが、ライザーに道を踏み外させた原因。彼をこのような人間に貶めた要因。彼を、永遠に終わらぬ狂気へと突き堕とした元凶。

 

 少なくとも、ライザーはそう思っている。事実──────それが彼をこのような人間に豹変させた、歴とした確かな切っ掛けなのだから。

 

 憎悪、怨恨、嫉妬、妄執、哀愁────ライザーの内側で醜悪な炎が渦巻き燃え上がり、際限のない負の感情が怒涛に広がり、あっという間に埋め尽くしていく。

 

 常人では絶対に平気ではいられない心情の最中、それでもライザーは思い返し、振り返る。決して許さない為に。決して揺らがない為に。決して諦めない為に。

 

 今一度、狂気に彩られ狂気で飾られた、頭の中の地獄と向き合う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわあ、すごいなぁ。やっぱりすごいなあ」

 

 憧れだった。間違いのない、絶対の。それは永久不変の憧れであった。

 

 父も母もいない、使用人たちが忙しそうに行き交う屋敷で、無駄に広い部屋の中で。まだ幼い子供が読むには些か分不相応に思える新聞を、最高等級の絨毯(カーペット)が敷かれた床の上で広げて。

 

 少年は眺めていた。純真無垢な金色の瞳を輝かせ、その写真を目に、記憶に刻み焼きつけていた。

 

 貴族であるその少年は将来の為、この家を引き継ぐ為に齢一桁にして、この程度の新聞であれば読解し、その全容を把握できる程の教育を施されている。それも毎日。

 

 そんな少年が今、夢中になっているその記事に書かれているのは。記事と共に掲載されている一枚の大写真に映っているのは。

 

 とある街の、とある冒険者組合(ギルド)に所属している、とある冒険者(ランカー)

 

 後に世界最強、人智を超越し人域を逸脱せし存在(モノ)────『極者』。三人揃えて『三極』と呼ばれる内の、その一人。

 

 まだ若き青い十代の頃の。冒険者組合『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属《S》冒険者────ラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 そう、齢一桁の頃からの。永久不変、絶対不動、唯一無二の──────

 

 

 

 

 

「ぼくもいつか、ラグナさんみたいになりたいなあ!」

 

 

 

 

 

 ──────少年にとっての夢であり、目標であり、そして憧れだったのだ。

 

 しかし、少年はまだ知らない。その夢を見て、その目標を抱いて、その憧れを追いかけたことで。

 

 運命という名の、己の歯車が歪んでしまったことに。歪んだまま、それでも歯車は構わず回り始めたことに。

 

 その先に想像を絶する──などという実にありきたりで陳腐な言葉では到底足りない、人間が持つ想像力では想像自体ができない程の。あまりにも悲惨で残酷な、憎悪と怨恨に満ち溢れ、不毛な復讐に囚われ続けるだけの、破滅の未来が待ち構えていることを。

 

 その少年は────────ライザー=カディア=オトィウスはまだ、知る由もない。



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狂源追想(その一)

「それじゃあ、そろそろ出発します」

 

 陽もまだ昇って間もない、朝焼けの空の下で。振り返って、俺は別れの挨拶を告げた。

 

「この六年間……今まで本当にお世話になりました。この御恩は生涯決して忘れません」

 

 と、今考えられる限りを全て詰め込んだ感謝の言葉を贈ると。長旅に発つ俺のことを見送ってくれるこの人は、良く言えば勇ましく、悪く言ってしまえば険しいその表情を。僅かばかりに、恐らく付き合いが長く親しい間柄の者にしかわからない程の微かさではあったが。嬉しそうに弛緩させ、緩ませてくれた。

 

「気にするな。私もこれ程までに成長を遂げ、そしてそんな素晴らしいものを間近で見ることができて、嬉しかった。お前は私の誇りだ」

 

「そんな滅相もない……俺の方こそ、貴方には感謝してもし足りてない。こんな程度の言葉では到底足りないんです。本当なら目に見える形で、最大限の感謝を贈りたかった……」

 

「ハッハッハ!いい、いい!私はその言葉だけで充分だ。充分に事足りているよ」

 

 項垂れる俺に対して、この人は豪快に笑い飛ばしながらそう言葉をかけてくれる。それから数秒という大した間も挟まず、先程までの雰囲気から一変して、その人が神妙な面持ちとなった。

 

「……お前の師として、最後に伝えよう。いいか、お前には才能がある。それも凄い才能だ。成長した今のお前に比べれば、もはや私など遠く足元にも及ばない」

 

「……」

 

 師匠からの言葉を、俺は黙って聞く。

 

「しかし、ゆめ忘れるな。その才能を使って、その才能を利用して私欲を満たしてはならん。決して自分の為に振るってはならんぞ。何故ならば、お前の凄まじい才能はそんなことを成す為の力ではないからだ。……いいな?」

 

 聞きようによっては忠告と、も警告とも取れるその言葉に対して、俺は当たり前かのように頷き、言葉を返す。

 

「はい。俺の才能は、この力は世の為、人の為のものです。偉大な師から教わったことを、俺は決して、絶対に忘れません」

 

 俺に返事に対し、我が偉大なる師──シュトゥルム=アシュヴァツグフさんは安堵と満足が混じり合った表情を浮かべ、大きく深く、一度だけ頷いた。

 

 そして、シュトゥルムさんはスッと俺の後方を指差しながら、声高らかに言う。

 

「我が最後の愛弟子よ、今こそ旅立ちの刻だ!その目で見て、その足で歩け!この、広い世界(オヴィーリス)を!そして、お前が幼い頃より見て抱き追い続けたその憧憬(しょうけい)を、確かな現実にしてみせろッ!」

 

 それは、この六年という、決して短くはない月日幾年の中で。初めて耳にする、ようやっと聞くことを許された門出の言葉。そしてそれは同時に、もうこの場所へ戻ることは許さないという、巣立ちの言葉。

 

 それを聞き、俺は堪らず目頭を熱くさせてしまう。しかしシュトゥルムさんの言葉を無駄にしない為に、それを堪えて。そして俺は彼に背を向け、ゆっくりと。彼との別れを惜しみながら、一歩一歩を踏み締めながら。その場から歩き出し、進み行く。

 

 そうして俺は────ライザー=アシュヴァツグフは、ここから遥か先にある街、オールティアへ。更に詳しく言うのならば、オールティアにその居を構える、世界四大陸が一つ────このファース大陸を代表する最高最強の冒険者組合(ギルド)

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』を目指した、長き旅路の始まりを迎えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六年前、十四を迎えてすぐに俺は家名を捨てて、屋敷を飛び出した。まだ世間というものをろくに知らない子供(ガキ)の頃から、ずっと。ずっとずっと見てきた夢の為に。ずっとずっと抱き続けた目標の為に。ずっとずっと追いかけ続けた憧れの為に。

 

 俺の家は『四大』と呼ばれる、この世界(オヴィーリス)に数多く存在する貴族、大貴族など比較にもなり得ない、あの『世界冒険者組合(ギルド)』にすら強い発言力を有する四つの貴族。

 

 エインへリア家、ニベルン家、オルヴァラ家、オトィウス家。

 

 そして俺の家こそ『四大』が一家────オトィウス家。俺はその長男であり、オトィウス家の次期当主であった。

 

 だが俺はそんな地位など欲しくはなかった。何故ならば、俺には夢があったからだ。目標があったからだ。憧れが、あったからだ。

 

 まだ十にも満たない、齢一桁の子供(ガキ)の頃からの。ただただ純粋で、ひたすらに純粋な想いで────けれど、それら全てを否定された。くだらないと一蹴され、無価値であると切り捨てられた。

 

 こんな家に生まれてしまった、こんな血筋を引いてしまった俺には許されなかった。そんな実に子供らしい夢を見ることを、目標を抱くことを、憧れを追いかけることを。決して、許されはしなかったのだ。

 

 当然、俺は反対した。反論した。反発した。……だが、やはりというべきか。

 

 俺は子供だった。子供の俺の、子供の言葉はまともに聞き入れられることなんてなく。終いには途中で遮られ、この一言を冷淡に告げられる。

 

 

 

「お前は『四大』オトィウス家次期当主だ。お前には決められた将来がある」

 

 

 

 生まれながらにして、生まれる前から決められていた将来。こちらの都合など一切顧みない、意志や自由の尊重など欠片程もない、他人に用意された未来。

 

 夢もなければ希望だってありやしない。そんなのは、ごめんだった。俺には俺としての将来が、未来があるはずなんだ。

 

 だから、俺は家を飛び出した。オトィウス家次期当主の座を捨てた。オトィウスを投げ捨てた。

 

 しかし、所詮十四の子供に過ぎない俺は知らなかった。この世界(オヴィーリス)が如何に過酷であるかを。どれほど残酷であるのかを。

 

 家を飛び出して、俺が命の危機に晒されるのはそう間もなかった。

 

 唯一持ち出した一振りの剣の柄を、恐怖心から必死に握り締めて。無茶苦茶の滅茶苦茶に呼吸を荒れ乱れさせて。俺は数匹の内の一匹の魔物(モンスター)と睨み合う。

 

 完全に囲まれていた。逃げ場を奪われていた。……俺が魔物たちに一斉に飛びかかれられるのも、もはや時間の問題だった。

 

 数秒ともしない内に、自分が喉笛を噛み千切られ、この魔物たちに食われる最期が容易に想像できてしまう。だからこそ、先程から恐怖が心の奥底から込み上がって込み上がって、足の震えが止まらない。思うように頭が働かない。

 

 そして、遂にその時がやってくる。一瞬魔物は低く唸ったかと思えば、俊敏な動作でその場から駆け出し、一気に俺に迫る。

 

 ──クソッ……こんなところで、俺は……!

 

 堪らず、そう心の中で吐き捨てた、その瞬間。

 

 

 

 

 

 ザンッ──不意に、唐突に。俺へ迫っていたその魔物の首が、斬り飛ばされた。

 

 

 

 

 

「え……っ?」

 

 斬り飛ばされたその首が地面へ落下し、首を失った胴体が地面に倒れるのはほぼ同時のことで。あまりにも突然のことで困惑する他ないでいる俺の視界が、ようやっとその姿を捉える。

 

 白髪の、初老に差しかかった男性だった。その男性は魔物の血に濡れた剣を軽く振るったかと思えば、羽織っている麻の外套(コート)の裾をはためかせながら、その場から一瞬にして姿を掻き消す。

 

 そして気がつけば、二つの魔物の首が宙を飛んでいた。遅れて、その切断面から凄まじい勢いで血が噴き出し、その場に局所的な赤い雨を降らせる。

 

 だが、男性が赤く濡れることはない。何故ならば、彼に降りかかる寸前で見えない何かに遮られていたからだ。その様はまるで、男性の全身が薄い膜に包まれているようだった。

 

 まだ残っている魔物たちへ、男性は黙ったまま剣を向ける。仲間の血で真っ赤に濡れたその切先が、魔物たちを恐ろしく威圧する。

 

 その膠着は数秒だけ続き、そして呆気なく崩れた。一匹が情けない呻き声を上げたかと思うと、途端に一斉に、魔物たちはその場から逃げ出した。

 

 絶体絶命の状況から、一瞬にして、あっという間に救われた俺は。その場で立ち尽くし、固まることしかできなかった。お礼の言葉どころか、微かな呻き声一つすら出せないでいたのだ。

 

 そんな俺に男性は振り向き、今の今まで閉ざしていたその口を開いた。

 

「大丈夫か、小僧」

 

 男性の言葉に対して、俺はただ黙って、ぎこちなく首を縦に振らすので精一杯だった。

 

 そしてこれが、俺の命の恩人にして冒険者(ランカー)としての全てを教えてくれた人生の師────シュトゥルム=アシュヴァツグフさんとの出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あれから六年経ったのか。あんまり、実感はないな」

 

 シュトゥルムさんとの出会いを思い出しながら、俺は森の中を進む。夜明けと日没の回数と、そして己の日数感覚を信じるのであれば、彼の元から発って約一ヶ月が過ぎていた。

 

 冒険者(ランカー)になる為の経験を積む為、あえて徒歩で向かうことを選択した訳だが……正直、予想以上に長く、そして険しい旅路となった。

 

 だがそれも、この手に持つ地図通りならば。あともう少しで終わりを迎える。この森を抜けた先に、その街は、その冒険者組合(ギルド)はある。

 

 そう考えると、この旅路で酷使し続けた両足に否応にも力が入る。……そうだ。ようやく、ようやっとだ。

 

 ──遂に、会うことができる……!

 

 と、その時────

 

 

 

 

 

「きゃああぁぁっ!!」

 

 

 

 

 

 ────という、甲高い女性の悲鳴が森を貫いた。



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狂源追想(その二)

「きゃああぁぁっ!!」

 

 ダッ──静寂で満ちるこの森を、女性の悲鳴が痛々しく貫くとほぼ同時に。俺はその場から咄嗟に駆け出していた。

 

 ──方角はこっちか……!

 

 今、己が出せる全力の全速で。俺は森の中を駆け抜ける。地面に這っている木の根に足を取られないよう、注意を配りながら。

 

 そうして、腰に差す剣の柄を握り締めながら、俺は目の前の茂みから飛び出す。

 

 瞬間、バッと動かした俺の視界に映り込んだのは────

 

「いや……来ないでぇ……!」

 

 ────と、完全に恐怖に呑み込まれ、埋め尽くされた声を。掠れさせながらも懸命に、その喉奥から絞り出して口に出す女性。彼女は地面に尻をついてしまっており、上手く立ち上がることができないようだった。

 

 そして、そんな女性にジリジリと迫っている数匹の魔物(モンスター)。そいつらに視線を向け、俺は思わずハッとする。

 

 ──こいつらは……。

 

 魔狼(まろう)。野生動物の狼が何らかの要因で大量の魔素(まそ)を浴びることで変異した、〝有害級〟の魔物。

 

 数奇な巡り合わせ、とでも言うべきなのか。今襲われて女性と同じように、俺も六年前に魔狼たちに襲われた。そして、助けられた。

 

 ──……今度は俺の番って訳だな。

 

 あの時の記憶(えいぞう)を、あの時助けてくれたシュトゥルムさんの背中を脳裏に過らせながら、俺は剣の柄を握り込んでいる手に力を入れ、鞘から一息に抜いた。

 

「死にたくない、私まだ死にたくないっ!」

 

 地面に尻をつけたまま、迫る死の恐怖から必死に逃れようと。生への渇望をこれでもかと込めて、女性がそう叫ぶのと、魔狼の一匹が彼女に襲いかかるのはほぼ同時のことで。

 

 

 

 ザンッ──が、しかし。魔狼の牙が女性の喉笛を噛み千切ってしまうよりも、間合いを詰め、振るった俺の剣がその首を斬り飛ばすことの方が断然先だった。

 

 

 

 ゴトン、と。斬り飛ばされた魔狼の首が地面に落下し、ほんの少しの距離を転がる。それを流し見ながら、俺は女性に飛びかかった首失き胴体をやや乱暴に蹴っ飛ばす。

 

 一拍遅れて、胴体は吹っ飛びながら首の切断面から赤黒い血を噴かし、宙を真っ赤に染め上げる。幸運にも、その血が女性に降りかかることはなかった。

 

「六年ぶりってとこだな。……まあ、お前らはあの時とは違う別の魔狼共なんだろうけど」

 

 今まさに自分に襲いかかろうとしていた魔狼の首が斬り落とされたかと思えば、その胴体は蹴り飛ばされ。そしてそれら一連の行動を起こした張本人たる俺が。こうして自分の目の前に立ち、突然の闖入者に固まらざるを得ない残りの魔狼たちに、新鮮な血で濡れた剣の切先を突きつけている──────恐らくこれは、この女性が今までの人生の中で初めて体験する、驚嘆愕然の現実だったのだろう。

 

 その髪と全く同じ色をした、白金色の綺麗な瞳だった。その瞳を見開かせていたかと思えば、グラリと女性は身体を揺らして。そして、そのまますぐ背後にあった木の幹にもたれかかり、瞳を閉ざしてしまった。

 

 卒倒してしまったのだ。それも無理はない。常人であれば、誰だってそうなるはずだ。

 

 ──まあ、ここから先の光景はキツいだろうし、都合が良いか。

 

 一瞬だけ女性を一瞥した俺は迅速に判断を下し。こちらに対し魔物特有の、野生味に溢れた殺気を放つ魔狼たちを、俺は射殺すつもりで見据え。静かに、剣を構える。

 

「今の俺は、六年前とはもう違う……試すのには丁度良いか」

 

 俺がそう呟くと、こちらの出方を窺っていた魔狼たちは動き出した。一匹が吠え、それに応えるように残る二匹が同時に前に飛び出す。

 

 飛び出したその二匹が、俺に襲いかかることはなく。それぞれが左右に分かれたかと思うと、そのまま俺の周りをグルグルと駆け始める。

 

 流石は魔物化した狼。二匹共走るその速度をどんどん増していっている。一般人は当然として、並大抵の冒険者(ランカー)では到底、その姿を捉えることはできないだろう。

 

「…………」

 

 風を激しく切る音を聴きながら、俺は微動だにせず、無言で。ただ剣を構えたままでいた。

 

 そして、遂にその時は訪れる。

 

「バウッ!」

 

「ガウッ!」

 

 二匹の魔狼は吠えたかと思うと、駆けていた勢いそのままに、左右それぞれの方向から同時に、俺に飛びかかった。

 

 ……だが、それも。それ以外の全ても。俺にとっては()()()()

 

「ギャウッ!?」

 

 左手を振り上げ、俺は瞬時に左側の魔狼の首を掴み。それと全く同時に右手が握り締める剣を速く鋭く、そして躊躇いなく振るった。

 

 ザシュッ──振るわれた俺の剣の刃が宙を滑り、右側の魔狼の腹下と衝突し、そのまま何の抵抗もなく刃は進み、魔狼の背中までを通過する。

 

 下から上へ、魔狼の身体を通り抜けた刃は赤く血濡れていて。遅れて、俺に飛びかからんとしていた右側の魔狼から血飛沫が飛び、宙で上半身と下半身が分たれて地面に落下した。

 

 ドチャッ、という。妙に生々しく嫌な音を聴きながら、俺は左手で掴んだ魔狼を見やる。

 

「ガ……ガゥン……!」

 

 首を掴まれ持ち上げられている魔狼は情けなく鳴いて、宙でその四肢をじたばたと(もが)き、足掻く。そんな意味のない無駄な抵抗を眺めていた俺は、その首を掴んだまま。思い切り、魔狼を地面に叩きつけた。

 

 ゴキャ──そんな鈍く重い音と共に、地面に叩きつけられた魔狼の首が直角に曲がる。直後、魔狼の身体から力が抜け、その口からだらんと舌が伸び、はみ出た。

 

 誰の目から見ても、絶命したことがわかる魔狼の死体から。俺は視線を外し、正面へと向ける。残すは、一匹。

 

 筆頭(リーダー)格だろうその魔狼は、低く唸りながらもジリジリと、慎重に観察しなければわからない程細かく小さく、その場から後退を始めている。

 

 敵と接触した獣が取れる行動は二つ。迎撃か、撤退。それだけだ。そしてあの魔狼は後者を選んだらしい。

 

 そのことを冷静に判断しながら、俺は掴んでいた魔狼を離し、一歩踏み出す────その直前。

 

 ダッ──俺が見据えている中で、魔狼は瞬時に踵を返し、その場から駆け出した。一気に加速し、あっという間に魔狼の後ろ姿が小さくなっていく。

 

 ──……。

 

 勝手に逃げてくれるのであれば、無理にこちらから追う必要はない。さっきの二匹で試した通り、もはや今の俺にとって魔狼は大した敵にはなり得ない。まあ、流石に十数単位の群れで襲われたのなら話は別だが。

 

「けどそれは、あくまでも()()()()だ」

 

 握り締めている剣の柄に力を込めながら、俺は魔狼の後ろ姿を見る。今から追いかけても、流石に追いつけはしないだろう。

 

 だが、まだ()()──────そう判断した俺は、真っ先に柄を握る右手に、そして右腕全体に己の魔力を走らせた。

 

 ──【強化(ブースト)】。

 

 それは、初歩中の初歩に位置する魔法の一つ。故に極め易く、そして極め難い魔法の一つ。

 

【強化】した右腕を振り上げ、俺は狙いをしっかりと定め。一時的に増加し倍増した腕力膂力の全てを、余すことなく絶妙に、完璧に乗せて。

 

 

 

 ビュウッ──握っていた剣を、投擲した。

 

 

 

 ──()った。

 

 俺がそう確信するのと、投擲された俺の剣が魔狼に追いつき、そのまま魔狼を通り抜けるのは全く同時のことだった。俺の剣は止まらず赤い尾を引きながら、宙を疾駆し駆け抜けて。その遠く先にあった大木のド真ん中に、剣身全てが埋まる程深々と突き刺さる。

 

 遅れて、剣の射線にいた魔狼の身体から血飛沫が上がり、両断されたその身体は左右に分かれて地面に倒れた。

 

 その最期をきちんと見届けて、とりあえず俺は一息吐いた。

 

 ──人間を襲う魔物(モンスター)を、自分は平気だからって見逃す訳にはいかないよな。

 

 それから俺は背後を振り向き、女性を見やる。彼女は依然として気を失ったままで、その身体を力なく木の幹に任せていた。

 

「…………」

 

 こうして眺めているだけでもわかる。女性の意識が戻るには、まだ当分の時間を要するだろう。

 

 ──どうしたものか……。

 

 こちらは先を急いでいる身、その意識を取り戻すまで待っている訳にはいかない。だからとて、このまま放置しておくことなど論外である。

 

 木漏れ日を受け、美麗に輝く白金色の髪を眺めつつ。俺は少しの間考え込み。そして、ため息を一つ吐いた。

 

「まあ、仕方ないよな……」

 

 そう呟き、俺はゆっくりと女性に歩み寄り。そっと、腕を伸ばした。



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狂源追想(その三)

「…………」

 

 目的の街であるオールティアを目指し、街の近くにあるこの森の中を、俺はただ黙って。ひたすらに無言を貫いて、歩く。歩き続ける。

 

 ──確か、この先をこのまま真っ直ぐ進んで行けば、辿り着ける……はず。

 

 先程、数分の時間を費やして脳裏に刻み込んだ地図を想起させながら、俺は心の中でそう呟く。

 

 ……そんなことをしなくとも、現物があるのだからそれを見ればいいではないか、と。俺のこの旅路に同行者がいたのなら、きっとそう指摘していたことだろう。だがしかし、生憎今の俺の状況下ではそうすることはできない。

 

 何故ならば────己の背に、一人の女性をおぶっているのだから。

 

 ──他に方法がなかったから仕方なかったとはいえ、まさか見ず知らずの、しかも年頃の女をおぶる日が来ようとは……。

 

 と、俺は苦心の面持ちで声に出さずぼやく。そうでもしなければ、やっていられないというか、なんというか……。

 

 腰辺りにまで伸ばされた白金色の髪と、それと全く同じ色をした瞳。その顔立ちは凛としていて、美しかった。

 

「……チッ、(なっさ)けねえ……」

 

 記憶を基に思い描いた地図の傍らに、今自分がおぶっているこの女性の顔を浮かべて、俺は少し……ほんの少しだけ、僅かばかりに顔を熱くさせてしまうのを否応にも自覚する。

 

 本当に情けない話、生まれてこの方まともな女付き合いというものをしたことがない。オトィウス家の屋敷には歳上の侍女(メイド)たちしかいなかったし、そもそも俺はまだ子供(ガキ)だった。

 

 ……まあ、十三になった頃に、一回だけ。父から俺がオトィウス家の次期当主になった際に、後々世継ぎを残さねばならない義務のことを説明され、その教育の一環として父が選りすぐった数人の侍女の一人を宛てがわれて、()()()()をさせられそうになったことはあるのだが。無論、それは全力で断らせてもらった。

 

 

 

『今はまだこちらも無理強いするつもりはない。だがもしお前が()()()になったのなら、その時は拒否せず相手しろと話はしてある。……が、よく覚えておけ。十五までには絶対に経験させてやるからな。女の味というものを』

 

 

 

 という、断った後にかけられた父の言葉は、未だにどうやっても忘れられそうにない。

 

 ──誰が好き好んで親に用意された女を抱くかっての。俺にだって、相手を選ぶ権利っていうものがあるんだぞ。

 

 別に純情という柄を主張(アピール)する訳でもしたい訳でもないが、俺は意中の相手でもない女と、そう気軽に肌を重ねたくはない。子供ながらもそういう意思を持っていたから、断ったというのに。それをあの父は全く理解してくれなかった。だから平然とあんなことを言えたのだろう。

 

 そして屋敷を飛び出し、シュトゥルムさんに拾われた後の六年間に女っ気はほぼほぼ皆無であった。シュトゥルムさんは森の奥で簡易な小屋で一人で暮らしていたし、強いて言うならたまに、森の一番近くにある村に食材や日常生活に必要なものを買い出しに訪れ、その時によく顔を合わせていた歳の近い村娘との(ささ)やかな交流くらいだ。

 

 ──……そういや、あの子元気にやってんのかな……。

 

 その村は、お世辞にも裕福とは呼べない、貧しい村だった。いつ魔物(モンスター)の群れに襲われても不思議ではない、そんな村だった。けれど村人たちは互いのことを励まし合い助け合い、一丸となって日々を懸命に過ごしていた。そしてそれは、村娘も同じことだった。

 

 毎度毎度、いつも屈託のない明るげで眩しい笑顔を浮かべていた。きっと、彼女の笑顔に活力を分けられていた村人も少なくはないだろう。

 

 旅に発つ際に村に立ち寄り、俺は村人一人一人に世話になった礼と、別れの挨拶を告げた。もちろんその村娘にも。

 

 

 

『元気でね、ライザー君。私、ライザー君の夢が叶うって、きっとその夢は現実になるんだって、絶対の絶対に信じてるから!』

 

 

 

 最後は涙混りに切なく震える、掠れ声でその村娘は俺にそう言ってくれた。この言葉も、どうやったって忘れられそうにない。

 

 そんなところで、聞くにつまらない俺の自分語りはここまでになる。そんな訳で、こうして二十歳の大の男になったにも関わらず、俺は未だにろくな女性経験をしてこなかったんだ。必然、女性に対する免疫というのもまあ、皆無な訳で。

 

 だからこうしてこの女性をおぶっている間────俺は全身の肌から嫌な汗を滲ませる、堪え難い緊張感に包まれ苛まれていた。

 

 ──せめて上か下……どっちでもいいから歳が離れていれば良かったのに……!

 

 声に出さず、心の中で俺は苦しげな文句を呟く。そう、歳が近いからこそ、異性として意識せざるを得なくなってしまうのだ。

 

 背中越しに伝わる体温も、柔らかな身体の感触も、一定の間隔で打たれる鼓動も。その何もかもを、俺は意識してしまう。

 

 その上、今女性に意識はない。意識がないから、文字通り俺の背中にその身体を預けている訳で。遠慮容赦なく、何の躊躇いもなしに、そんな年頃の肉体を男である俺の背中に。無防備にも惜しげなく、密着させている訳でもあって。

 

 そうなると当然、女性の中でも一際柔らかな部位の感触が、俺の背中に当たって潰れて広がって。それがさらに、俺の緊張に拍車をかけていた。

 

 ──というか、服の上からじゃいまいちわからなかったが、意外とご立派な代物をお持ちのようで……。

 

 女性が着ていたのは、身体のラインがあまり出ない、全体的にゆったりとしたワンピース。そのおかげで、格好だけでは判断できなかった。

 

 恐らく、世の男からすれば今俺が置かれているこの状況は、さぞ羨ましいことこの上ない、まさに役得という奴だろう。……まあ、確かに俺だって別に嬉しくない訳でも、ましてや嫌っていう訳でもない。正直に白状してしまえば、高揚している自分がいるのもまた事実だ。

 

 けれど、それ以上に緊張と焦燥が勝ってしまう。今にでも自分の背中から女性の身体を剥がさなければ、妙な気を起こしてしまいそうで。それこそ、俺は嫌だった。

 

 ──こ、これは修行だ修行。一時の感情に流されないようにする、強靭な精神力と忍耐力を養う為の、少しばかり強引な修行。そう思い込め、ライザー=アシュヴァツグフ。

 

 もっともらしい理屈を捏ねて、情けなく不甲斐ない己を俺は律する。そうして一分でも、一秒でも早くこの状況から抜け出す為に、ひたすら前へ進む。

 

 が、丁度その時であった。

 

 

 

「…………ん……」

 

 

 

 と、不意にすぐ耳元で声が囁かれ。僅かに漏れた吐息が俺の耳を無遠慮にも擽る。瞬間、ゾクゾクとした感覚が背筋を駆け上がり、俺は堪らず肩を一瞬だけ跳ねさせてしまったが、危うく飛び出そうになった声はなんとか我慢することができた。

 

「ここ、は……?」

 

 続け様、声がそう言う。その言葉に対し、俺は咄嗟に答えた。

 

「おっ、起きたかっ!?こ、これについては誤解しないでくれ!君は意識を失ってて、でも俺は先を急いでて、けどだからって君のことを放置する訳にもいかなくて!だから君を俺の背中におぶってるのは致し方ないことというか仕方のないことというか不可抗力というかなんというか、ぶっちゃけこうするしか他に手段がなかったんだ!ああ、うん!」

 

 ……それは、自分でも流石にどうかと思う、苦し紛れの言い訳と弁明の数々だった。そんな、咄嗟の咄嗟に吐き出され、そして垂れ流された俺の言葉を、その女性は。

 

「…………」

 

 これまた、黙って聞いていた。自然と俺の足は止まり、その場を無言の沈黙が漂う。

 

 それは十数秒のことだったのかもしれない。もしくは、数分かもしれなかった。どちらにせよ、その沈黙が織り成す静寂の間に、先に堪えられなくなったのは────案の定俺だった。

 

 恐る恐る、と。徐々に、ゆっくりと俺は口を開き、喉奥から振り絞った、引き攣って掠れ気味の声を。呻くかのようにぎこちなく吐き出す。

 

「や、疾しい気持ちとかは持ち合わせていない……それは本当、だから……その、どうか信じてほしい」

 

 俺の言葉に対して、依然女性は無言だった。果たしてそれは怒っているからか、それとも悲しんでいるからなのか。それを判断できる程、俺は人の心情に聡くはない。

 

 そうしてまた数秒の沈黙が続き────しかし、それを先に破ったのは。

 

 

 

「……ふふ、あはははっ!」

 

 

 

 何の裏表もない、ひたすらに明るく可愛げのある女性の笑い声であった。それに対し、俺は堪らず混乱と困惑に包まれざるを得なかった。

 

 ──わ、笑ってる……?いや笑われてる、のか……?

 

 こちらとしては精々、怒鳴られるか泣き出されるかと簡単に予想していたのだが。まさか、笑うとは微塵にも思わなかった。何故ならば、今の状況でこの女性が笑い出してしまうような要素など、皆無のはずである。なのに、何故?

 

 それがわからず、理解できず。だから俺は、無意識の内に女性の方に顔を向けてしまった。

 

 そして、思わず目を見開き、息を呑んだ。

 

「あは、はははっ!」

 

 女性の笑顔は、まるで咲いた花のようだった。そんな素敵で、魅力的な表情から。俺は目が離せない。視線を、逸らすことができない。

 

 それは、今までの人生の中で感じたことのない、正体不明で未知の感情。その笑顔をこうして間近で見ているだけで、心が洗われるというか癒されるというか────とにかく、はっきりとした表現こそできないものの、この女性の笑顔には、何か不思議な力があることだけは、辛うじてわかり、理解できていた。

 

「あはははっ……ご、ごめんなさい。だって、私だって何がなんだかわからないのに、あなたがあんまりにもおかしなことを、あんまりにもおかしな様子で言うものだから、つい……あー、こんなに笑っちゃったのいつぶりかなぁ」

 

 と、振り向いた俺の顔を見て、慌てて申し訳なさそうに女性が言う。そんな彼女に対して、俺は未だかつて感じたことのない、この奇妙で不可思議な感情に踊らされ翻弄されつつ、決して声を上擦らせないよう言葉を零す。

 

「そうか……いやこっちこそ、他に冴えた方法が思い浮かばなくて、その……すまなかった」

 

 俺がそう言った直後、一度は落ち着きかけた女性はまたもや吹き出し、俺の背中で笑い出す。

 

 ──え?俺何か変なこと言ったか?ただ、謝っただけだぞ……?

 

 女性の笑いのツボがいまいちわからず、当惑する俺に対して。女性は依然笑いながらも、その両腕を俺の首に絡ませて、優しく穏やかな声音でこう言う。

 

「えっと、実は私足が痛くて……私は気にしませんから、どうかこのままおぶっていてくれませんか?」

 

「えっ?い、いやっ……そ、そうか。足を痛めてるなら、仕方ない。仕方ない、よな……わかった」

 

「ありがとうございます。では遠慮なく、この広くて逞しい背中に頼らせてもらいますね」

 

「あ、ああ……」

 

 そうして、俺と女性はほんの短い、ごく僅かながらの期間ではあるが。この先に待つ街、オールティアへ共に目指すことになった。



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狂源追想(その四)

魔物(モンスター)からだけではなく、街まで送ってもらって本当にありがとうございました」

 

「別に構わない。俺は、俺がしたいことをただしただけだ」

 

 俺の背中から街道の石畳に降ろされた女性は、そう言ってすぐさまその頭を深々と下げて。それに対し俺は気取った答えで返す。……まあ少なくとも他人からすればそう思えるだけで、俺自身は本当にその通りなのだが。

 

「したいことを、ただしただけ……ですか?」

 

 という、俺の言葉を口に出して反芻させ、女性は不思議そうな表情を俺に向ける。そんな彼女に対して、俺はややぶっきらぼうにこう言った。

 

「ああ。じゃあ、俺はもう行く。次からは気をつけろよ」

 

 そして女性に背を向け、石畳を踏み締める────直前。

 

「まっ、待ってください!」

 

 と、俺のことを女性は呼び止めた。まだ何かあるのかと、そう思って振り返った俺に、彼女は言う。

 

「じ、実は私、あんな風に助けられたのは初めてじゃないんです。あれで二度目、なんです」

 

「二度目……?」

 

 急に一体何を言い出しているのか、そんな思いを込め訝しんだ俺の呟きを。女性はあくまでも冷静に受け止め、その上で彼女は俺に言う。

 

「私はシャーロット。気軽にシャロとお呼びください」

 

「……」

 

 俺は、すぐには言葉を返さず。数秒の間を開けてから、口を開いた。

 

「俺はライザー。……よろしくな、シャロ」

 

「はい。こちらこそです、ライザー様」

 

 そうして俺と女性──シャーロット改めシャロは数秒その場で見つめ合い、そして互いに背を向けて、その場を後にする。

 

 ──あんな風に助けられるのは、二度目……か。

 

 しかしそうする最中、俺はシャロが言っていたことを頭の中で反芻させて、記憶の片隅からとある言葉を引っ張り出していた。

 

 

 

『今から十数年前に、お前と同じように魔狼に襲われていた子供を助けたこともあるんだ』

 

 

 

 ──……まさか、な。

 

 それはいつかの日に、酒を飲み上機嫌になっていたシュトゥルムさんが俺に語ってくれた。己の昔話の一つ。あの人は己の昔を滅多には語らなかったから、その珍しさ故に印象に残り、よく覚えていた。しかし、俺はその可能性のついてすぐさま否定する。

 

 自分の師匠が過去に助けた人物を、その弟子がまた助けた────浪漫(ロマンティック)に満ち溢れる展開ではあるが、あまりにも非現実的だ。絶対にないとは言い切れないが、しかし俺はシュトゥルムさんが助けたというその子供の名前はおろか、男か女かすらも知らない。シュトゥルムさんは俺にそこまでは教えてくれなかった。

 

 それに加えて、十数年という決して短くはない年月が過ぎてしまっているのだ。今ではもうその子供────否、成長し大人となっているだろうその人を、意図的になって捜し出すことですら困難を極めるというのに。

 

 ──シャーロット……シャロ、か。

 

 行き交う人たちに注意を払い、街道を歩きながら俺はシャーロット────シャロの名を確かめるように、心の中でそっと呟く。

 

 旅路の途中、それも目的地である街を目前にした森の中で。魔物に襲われているところを目撃し、そして助け出した────という。

 

 およそ人と人が出会うには望まれない状況下で、俺と彼女は出会った。

 

 当然のことではあるが、あんな出会い方を果たした女性は、シャロが初めてだ。そしてあんな風に交流した女性も、彼女が初めてだ。

 

「…………」

 

 自分の知らない高揚感に、己の心が包まれていることを、俺は自覚する。異性に対してこんなことを思うのも、シャロが初めてだった。

 

 果たしてこれは、一体どんな感情なのか────今の自分では未だ、到底わかりそうにもない。そして、理解できそうにもない。

 

 ──……まあ、これからオールティアにしばらく住むんだ。住む前に、顔馴染みが一人できたと思えばいいか。とにかく今はそれで、いいや。

 

 そうして俺は一旦それのことに対する思考を切り上げ、周囲を────この街の風景を見渡す。

 

 ファース大陸、モノ王国。この大陸、その国に数多く存在する街の中でも、一番と言われる活気と賑わいで溢れているこの街の名こそ、オールティア。モノ王国どころかファース大陸中の経済を回す街であり、それが間違いのない歴とした事実であることを俺は認識した。

 

 これまでの旅路で、俺は少なくはない数の街を訪れた。だからこそ、こう言える。

 

 ──良い街だ。

 

 年に一度、ファース大陸中の国から名品逸品、由緒正しきから笑えない冗談抜きの曰く付きまで。とにかく多種多様に渡る品物という品物が集められ、それら全てを制限一切なしの、正真正銘金さえあれば誰であろうと競り落とすことが可能な、大規模な競売────『出品祭』がこの街で開催されるというのも納得がいく。

 

 だが、あくまでも俺の目的はこの街自体などではない。正確には、この街に居を構える冒険者組合(ギルド)だ。

 

 その冒険者組合があったからこそ、このオールティアはここまでの成長を遂げることができたと言っても過言ではない。それ程の確かな実績と功績が、その冒険者組合にはある。

 

 街の住人に実際の場所を訊ね、俺は進んだ。そしてとうとう────その時は来た。

 

「……やっと。やっとだな」

 

 今日という日に至るまで、十四年。長かった。本当の本当に、長かった。だがそれも、ようやく一つの節目を迎えることになる。

 

 その節目を機に、俺の夢は。俺の目標は。俺の憧れは。一気に加速するのだ。

 

 夢を叶える為に。目標を達成する為に。憧れを現実にする為に。俺は今こそ、歩き出す。

 

 否応にも高鳴る心臓の鼓動を感じながら、身体の奥底から沸き上がる歓喜に弾けてしまいそうになりながら。そうして、俺は。

 

 いよいよその門を──────冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の門を抜け、その扉を押し開いた。



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狂源追想(その五)

「お、おお……っ!?」

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の扉を押し開き、その先に広がっていた光景を目にした俺の第一声は。そんな言葉にならない、驚きと嬉しさが絶妙に入り混じる、感極まったものだった。

 

『大翼の不死鳥』広間(ロビー)には、それはもう大勢の偉大なる先駆者たち────冒険者(ランカー)がいた。

 

 椅子に座り料理や酒を飲み食らう者、受けた依頼(クエスト)の成果を自慢し合う者、依頼表(クエストボード)の前に立ち、受ける依頼を吟味している者────それらの光景こそ、間違いなく。俺が子供の頃から思い描き、そして想い馳せていたものに相違ない。

 

 ついこの前に二十歳を迎えたばかりの俺だが、まるで子供のように胸が躍る。童心に帰ってしまって、憧れが止められなくて……自分でも怖いくらいにワクワクしている。

 

 そうして、ようやく。俺はようやっと自覚する。自分は、来たのだと。夢の為の、目標の為の、憧れの為の。その足がかりへ今踏み出さんとしているのだと。

 

 ──遂に、遂にだ……!

 

 直後、堪らずその場で跳ねてしまいそうになった自分をどうにか抑え、とりあえず冷静になり平常心を保とうとその場で立ち尽くす────その時であった。

 

 

 

「よおそこの坊主(ボウズ)。そんなとこに突っ立ってられちゃあ、通れないんだが?」

 

 

 

 不意にそんな声が背後からかけられたかと思うと、同時に背中を軽く叩かれる。

 

「す、すみませ……っ」

 

 慌てて振り返り、謝罪をしようとした俺は。あろうことかそれを途中で止めてしまい、為す術もなく衝撃に面食らってしまう。

 

 俺の背後に立っていたのは、柑橘系の果物である黄柑実(レオンジ)を彷彿とさせる、明るい橙色の髪と。それと同じ色をした瞳が特徴的な長身の男性。だいぶ長い間着込まれたことが窺える外套(コート)の、破り裂かれたようにボロボロになった裾と袖をユラユラとはためかせるその人は、俺に対して飄々とした笑顔を送っていた。

 

 本来ならばすぐにでもその場から退かなければならなかった俺だったが、不覚にもそうすることができないでいた。何故ならば、その()()()()男の顔に対して、俺はただその場で固まる他なかった。

 

 だが、そんな身体に反して頭は変に冷静で。冴えた思考の末に俺は、呆然とその名を口から零した。

 

冒険隊(チーム)、『夜明けの陽』隊長(リーダー)……ジョニィ=サンライズ……さんッ!!」

 

「お?ああ、そうだぜ。俺こそ『大翼の不死鳥』最強の……って言っても今や冒険隊に限っての話なんだが。『夜明けの陽』の隊長をやらせてもらってる、ジョニィ=サンライズだ」

 

 そう、この人こそ『大翼の不死鳥』最強にして、冒険者番付表(ランカーランキング)第五十位の冒険隊、『夜明けの陽』の隊長。残る三人の隊員(メンバー)である《S》冒険者を率い先導している、《S》冒険者────ジョニィ=サンライズ。『夜明けの陽』としても勿論のことだが、個人での依頼、それも高難易度のものを数多く達成した実績を誇る、文句なしの手放しで尊敬するに値する冒険者の一人だ。

 

 齢一桁の頃にこれでもかと読み込んだ、冒険者専門雑誌──『冒険人生』にも何度か取り上げられていたし、俺はそれら全ての内容を把握している。少し違えば、俺の夢。俺の目標。俺の憧れ。その全部がこの人に対して向けられていたかもしれない。……まあ、申し訳のないことに、実際のところはそうではないのだが。

 

 しかし、そうは言ってもジョニィさんも尊敬する冒険者の一人には違いなく。なので当然、そんな彼との思いもよらない対面に、驚愕と衝撃、そして緊張などない訳もなく。今し方邪魔だと言われたというのに、俺は未だその場から微動だにすることもできないでいた。

 

「おいおい、また固まっちまった」

 

 と、困ったようにジョニィさんがそう呟き。彼の呟きに辛うじて我に返った俺は、慌てながら急いで彼の前から退く────その直前。

 

「おいジョニィ!んなとこでぼさっと突っ立ってんじゃねえよ!俺たちが中に入れねえじゃあねえか!なあ、ロックスッ!セイラッ!?」

 

「そうですぜジョニィの兄貴。普段からアンタのことを敬っている俺ですが、そんなことをされちゃあそれも薄れるってもんですわ」

 

「そうそう、二人のの言う通りだよ隊長。はっきり言って、邪魔だよ」

 

 俺に行く手を塞がれ、立ち止まらざるを得ないでいたジョニィさんの背後から。二人の男と一人の女、合計三人の。辛辣な言葉が口々にかけられた。だがそこに悪意の類など、微塵も込められてなどおらず。言うなればそれは冗談のようだった。

 

 それらの言葉に対して、堪ったものではないという風に。ジョニィさんが即座に振り返って言う。

 

「ぎゃあぎゃあ煩えなお前らッ!俺だって好きで馬鹿みたいに突っ立ってる訳じゃねえんだよ。道を塞がれてんだよ!道を!」

 

「ああッ!?だったらそうだって早く言えよッ!なあ、ロックスッ!?セイラッ!?」

 

「そうですぜジョニィの兄貴。何せ人ってのは、誤解させたらその時点でもう駄目なんですから」

 

「そうだよ。二人の……いや、この場合はロックスの言う通りか。うん。……こほん、そうだよ。ロックスの言う通りだよ、隊長。貴方は既に私たちに敗北しちゃってるんだよ」

 

「はあッ!?そりゃあいくら何でも理不尽が過ぎるってモンだろッ!!」

 

 ……と、周囲の空気と視線などお構いなしに。俺の目の前で口論を繰り広げる『夜明けの陽』の面々。遅れて、俺はさらなる驚愕と衝撃を受け、その上で今目の前にあるこの光景を、確かな現実を。到底信じられないでいた。

 

 それもそうだろう。今日、それも初めて訪れたばかりの『大翼の不死鳥(フェニシオン)』にて。その最強の冒険隊(チーム)の面子が勢揃いしているのだから。

 

 短く切り揃えられた茶髪の、全体的に軽装をしている男性はロックス=ガンヴィルさん。『夜明けの陽』の副隊長を務めており、ジョニィさんとは幼馴染らしい。

 

 先程から喧し……否、一番の声量を誇る緑髪の男性はベンド=ヴェンドーさん。ロックスさんとは違い、黒い重鎧を着込んだ姿から見て取れるように、彼は『夜明けの陽』の盾役(タンク)を担当している。

 

 残る最後の一人、紗酸実(レモネド)を彷彿とさせる薄黄色の髪を、背中半分を覆う程度にまで伸ばした女性はセイラ=ネルリィア。彼女もその格好から、『夜明けの陽』にてどの役割を担っているのか判断でき、それではどんな服装をしているのかというと。この世界において唯一無二にして絶対の宗教────『創世教』。その修道服である。

 

 神父や修道女(シスター)冒険者(ランカー)をしている────それが指し示すことは、ただ一つ。つまりその者は『創世教』が認めた、教会公認の回復職(ヒーラー)ということ。

 

 俺が知っている限りでは、教会の公認なしでは回復職を名乗ることは決して許されず、それと同時に神父や修道女でない者────つまりは無宗派の無神論者では回復職になることができず。そして回復職以外が回復魔法の行使及び習得することは、この世界(オヴィーリス)に存在する全ての冒険者組合(ギルド)を統括管理している絶対機関────『世界冒険者組合』が禁止している。……たった一人の、唯一のとある例外を除いて。

 

 仮にもし公認を得ないで回復職であること、そして神父や修道女でない者が宣った場合、たとえそれが冗談であったとしても、神父や修道女は有無を言わさず教会から永久追放され、その上冒険者の資格も直ちに剥奪、今後一切の復帰を禁じられてしまう。そうではない者も後者と同じように罰せられる。それ程までに重大な規律(ルール)であり、それ故に公認を得ることも困難を極める。

 

 具体的にどれくらいなのかというと、今現在『創世教』公認の回復職は全大陸、神父と修道女を含めても百人に満たない程である。

 

 セイラさんはそんな『創世教』お抱えの、数少ない貴重な人材たる回復職(ヒーラー)の一人であり。しかし、俺の記憶の中にある教会指定の修道服と、今彼女が着ている修道服はどうにも一致しないでいた。

 

 それもそのはず、何せセイラさんの修道服は────改造を施されていたのだ。それも結構、大胆な。

 

 一応ではあるが、大まかな構造自体は流石に遵守されている。しかし、あくまでもただそれだけのことで。大まかではない細やかな部分の全てにはセイラさん独自の細工(アレンジ)が入っている。

 

 まず、第一にその胸元。ここが一番わかりやすく、そして一番目につく。何故ならば、セイラさんが着るその改造修道服の胸元は大きく開かれ、おっ広げにこれでもかと。母性の象徴たるその豊かな膨らみを、惜しみなく恥ずかしげもなく露出させていたのだから。そして彼女が敬虔な『創世教』の修道女であることを示す、チェーンペンダントにされ首から下げられた、白銀の十字架(ロザリオ)がその上に乗せられていた。

 

 そして第二に切り込み(スリット)。これも本来であればないはずのものだが、セイラさんはそこにも手をつけており。足の全ては勿論のこと、太腿(ふともも)はおろか腰の辺りにまで切り込みが入れられていた。

 

 なので当然、その隙間から見事な脚線美を描く足に、むちっとした太腿、鼠蹊部の(ライン)まで見えてしまっている腰。その全てが外気に晒されている。……これは果たして言うべきなのか否なのか、その判断に若干の迷いはあるものの。一応、一応補足として付け加えると。

 

 腰の部分が露出しているにも関わらず、驚くべきことに……下着(ショーツ)らしき布が一切見当たらない。

 

 いやまあ、そこまで切り込みを入れてしまっている関係上、もし穿いていたら必然的にそれが見えてしまうのだから、まあ。この場合は仕方ないというか、うん。

 

 それはともかく。他にまだ細工がされているが、それを一々(いちいち)説明していると切りがないので、セイラさんの改造修道服についての説明はここまでとする。……しかし実はこれ、特に()()()()()

 

 何故かと言うと。回復職(ヒーラー)は歴とした冒険者(ランカー)でもある。なので当然数々の依頼(クエスト)を受けて、活動する訳で。そしてその多くは魔物の討伐や、悪人の捕縛、護衛等であり。そこにどうしても戦闘という行為が発生する。

 

 お世辞にも『創世教』の修道服は戦闘に向いているとは言えず、なので回復職たちには特権として戦い易くする為、基本的な構造を崩さない範疇内で、セイラさんのように自らの修道服に手を加えることを許されているのだ。当然この特権は回復職だけのものであり、回復職でない神父や修道女が修道服を改造した場合、厳罰に処される。

 

 ……しかし、セイラさんの場合はあまりにも大胆というか全体的に肌色の露出が多いというか。とにかく、視線のやり場に困ってしまう。

 

 ともあれ、見ての通り今ここには『夜明けの陽』の面々が集結している。それも、俺の目の前で。こんな奇跡のような状況に出くわせてしまうなんて、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属の冒険者であればともかく、俺はついぞ思いもしていなかった。

 

「あッ!?おいッ!誰かジョニィの目の前に突っ立ってんじゃねえかッ!!誰だぁお前ッ!?」

 

「ん?お、本当だ」

 

「へえ。初めて見る顔だよ」

 

 固まっている俺の存在に気づき、三人がジョニィさん越しに声をかけてくる。それらの声に今一度我に返った俺は、今度こそその場から即座に退()き、大慌ててで『夜明けの陽』全員に対して頭を深々と下げた。

 

「す、すみませんっ!み、道を遮ってしまって……!」

 

「別に構わねえよ。お前さんに襲われた訳でもあるまいし」

 

 言いながら、僕が前から退いたことでようやっと。その場から歩き出しながら、隊長としての器の大きさを実感させられる言葉を、ジョニィさんは俺にかけてくれる。そして彼の背後を残る三人も付いて進む。

 

『夜明けの陽』の行進────その悠然たる立ち振る舞いに、俺は視線を奪われ、ただ立ち尽くし、その後ろ姿を見送ることしかできない。

 

 と、その時。先頭のジョニィさんが不意に立ち止まり。そして何を思ったか俺の方を振り向いた。

 

坊主(ボウズ)。ひょっとしなくても、『大翼の不死鳥』(ウチ)の冒険者志望なのか?」

 

 一体どうしてそんなことを訊くのだろうかと、一瞬思いつつも。俺は即座に頷き、返事する。

 

「は、はい!その通りです!」

 

「ほう。やっぱりそうか」

 

 俺の返事を聞いたジョニィさんは顎に手をやり、少し考え込むような態度を見せる。そんな彼に、セイラさんが胡乱げに声をかける。

 

「そんなこと、あの子に聞いてどうするの隊長(リーダー)?」

 

 しかしジョニィさんはセイラさんの方に顔を向けず、俺の方を向いたまま、まるで妙案を思いついたかのような声音で、彼はこう言う。

 

「来な。これも何かしらの縁……このジョニィ=サンライズさんがお前さんのことをGM(ギルドマスター)に紹介してやろうじゃねえか」

 

「…………え?」

 

 ジョニィさんの言葉に対して、俺はそんな間の抜けた声しか返せなかった。



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狂源追想(その六)

「来な。これも何かしらの縁……このジョニィ=サンライズさんがお前さんのことをGM(ギルドマスター)に紹介してやろうじゃねえか」

 

 と、まるでそうすることが当然のように。不敵な笑みを浮かべながら、ジョニィさんは。今日会ったばかりの俺にそう言ってくれた。

 

「…………え?」

 

 しかし、ジョニィさんのその言葉は思ってもいなかったもので。だから、そんな有り難い彼の言葉に対して、俺は間の抜けた声を漏らすことしかできなかった。

 

「紹介って、どういう風の吹き回しですかい兄貴。アンタ、そんなのろくすっぽもしないでしょうに」

 

 俺が固まっている間に、『夜明けの陽』の副隊長(リーダー)、ロックスさんがそうジョニィさんに訊ねた。訊ねられたジョニィさんが、彼にこう返す。

 

「いや、だから言ったろ?これも何かしらの縁ってな。理由はただそれだけのことさ」

 

「……まあ、兄貴がそう言うならそういうことにしておきますぜ」

 

「おう。なぁに安心しな。この坊主(ボウズ)は稀に見る逸材って奴よ。この俺が保証してやるよ」

 

 ──え?

 

 一瞬、俺はジョニィさんの言葉を聞き間違えたのかと思った。だがしかし、もしそれが聞き間違いではないのだとしたら……今、この人は俺のことを。稀に見る逸材だと、そう言ってくれた。

 

「へえ。隊長(リーダー)の人を見る目は確かだよ。つまり、君は才能ある若者ってことだよ」

 

「ああッ!ジョニィはろくでなしの馬鹿野郎だがッ!そこら辺は信用できるからなッ!」

 

「誰がろくでなしの馬鹿野郎だこの馬鹿野郎!!やんのかベンド!?」

 

「俺は本当のことを言っただけだろうがッ!上等だジョニィッ!今日こそ決着つけてやらぁッ!!」

 

 ジョニィさんの言葉を信じられず、呆然と硬直するしかないでいた俺に。セイラさんはその手を俺の方に優しく乗せてそう言い、ベンドさんはさりげなくジョニィさんに対しての罵倒を混じえ、彼の発言を自分なりに肯定する。

 

 ベンドさんのさりげない罵倒に噛みつき、それが原因で一瞬即発の雰囲気となるジョニィさんとベンドさんの二人。だが、その直後────

 

 

 

広間(ロビー)の真ん中で騒ぐのはそこまでにして頂戴。いい加減、他の冒険者(ランカー)たちに迷惑でしょ」

 

 

 

 ────という、僅かばかりの怒りが込められた。毅然とした女性の声がその場を貫いた。瞬間、ジョニィさんとベンドさんが静止し、硬直する。

 

「というか、騒ぐ前にまずは依頼(クエスト)の達成報告を済ませなさい。曲がりなりにもこの冒険者組合(ギルド)最強冒険隊(チーム)なら、なおさらのことじゃない」

 

 ツカツカ、と。(ヒール)の高い靴特有の、甲高い足音を伴いながら非難の声は続いて。遅れて、その声の方向にジョニィさんとベンドさんの二人は。まるで壊れた人形のようなぎこちなさで、ゆっくりと顔を向けた。

 

「メ、メルネ……」

 

 今の今まで浮かべられていた、余裕のある笑みはすっかり消え失せ。その顔を思い切り引き攣らせながら、どうしようもなく気まずそうな声で、ジョニィさんはその名を呟く。それを聞き、いまいちこの状況に追いつけず呆然としていた俺の意識が、堪らず現実へと引き戻された。

 

 ──メルネ……?メルネって、まさかあのメルネ=クリスタさんか……!?

 

 本日幾度目かの衝撃と驚愕に、俺は目を見開かせ。視線を移す────確かに、その先に彼女はいた。

 

 全体的に赤を基本とした、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』独自の制服。それをその身に纏う彼女こそ、この冒険者組合を代表する受付嬢。そして当時、人間としての範疇内で最高峰と謳われ、『世界冒険者組合』から選び抜かれた冒険者番付表(ランカーランキング)上位六名────元第三期『六険』第二位。『巨鎚』の異名で畏れられた《S》冒険者。今でこそ冒険者を引退しそれなりの年月が過ぎてしまったが、それでも冒険者の中で彼女のことを知らぬ者など一人もいない。

 

 メルネ=クリスタ。軽くウェーブがかかった空色の髪と、薄い水色の瞳が清涼感を醸し出す、まさに大人の女性と表現するべき人である。

 

「じゃあ早速、討伐の証を見せてくれるかしら」

 

「あ、ああ……ほら、バイスドラゴンの喰巨牙だ。これで文句はないだろ?」

 

 にっこり、と。美貌を携えるその顔に、穏やかな微笑みを浮かべさせて。そう訊きながら、スッとジョニィさんへ手を差し出すメルネさん。

 

 そんな彼女とは対照的に、依然気まずそうに引き攣った表情で。ジョニィさんはぎこちなく【次元箱(ディメンション)】を開き、そこに手を突っ込み。ありとあらゆる生物を問題なく、一切の抵抗を許さず容易に貫いてしまえそうな大きさと鋭さを誇る、竜種(ドラゴン)の牙を取り出して。そして、眼下に差し出されたメルネさんの手の平にそっと、ジョニィさんは慎重に乗せた。

 

「確かに、これはバイスドラゴンの喰巨牙で間違いないわね」

 

 恐らく、見た目からだけでも結構な重量があることを容易に想像させるその牙を、メルネさんは特に何でもないかのように持ち上げ宙に翳し、一通り眺めて。そして、彼女もまた【次元箱】を開き、牙を仕舞い込む。それからまたジョニィさんの方に顔を向けて、依然微笑んだまま、彼女は彼にこう言う。

 

「お帰りなさいと、とりあえずは言っておくわ。……ちなみに今回の依頼達成にかかった日数は、丁度一ヶ月よ」

 

「……そ、そうだな。そんくらいだ」

 

 その会話の内容自体は普通である。……しかし、ジョニィさんとメルネさんとの間では、言い様のない圧迫感というか逃げ場の緊張感というか。とにかく普通ではない、凄まじく重苦しい雰囲気が渦巻いていた。

 

 その雰囲気に気圧されたのか、気がつけばジョニィさんの隣から後ろに、ベンドさんは下がっており。固い表情のまま、黙って二人の様子を窺っていた。

 

「まあ、ただそれだけの話。別に気にしなくていいわ。ああ、そういえばGM(ギルドマスター)が貴方のことを呼んでいたわ。貴方も今から会いに行こうとしてたみたいだし、丁度良かったんじゃない?」

 

「え?GMが俺を……?まあ、確かにそれは丁度良い。GMにはあの坊主(ボウズ)を『大翼の不死鳥』に入れてやってくれって、紹介したかったところなんだ」

 

 そう言って、あろうことかジョニィさんは俺の方に顔を振り向かせる。堪らず、俺は焦った。

 

 ──ちょ……っ!?

 

「紹介……?あの男の子を?」

 

 焦燥に駆られ、思わず頬に一筋の冷や汗を伝わせる俺の方に。メルネさんもまた、その顔を向ける。浮かべていた微笑みに少しばかりの物珍しさを加えて、彼女は俺のことを眺める。

 

「……ふーん」

 

 水色の瞳に、値踏みするかのような眼差しを宿らせて。メルネさんは少しの間ばかり俺のことを見つめていたかと思うと、不意にフッと彼女が浮かべる微笑みに、優しさにも似た僅か温かみが表に出た。

 

 それからメルネさんはその場から歩き出し、一体どういうつもりか俺の元にまで歩み寄り。固まる他ないでいる俺に、柔らかな声音で言葉をかけた。

 

「もう知ってるかもだけど、私はメルネ。メルネ=クリスタよ。君は?」

 

「え、あ……ラ、ライザー=アシュヴァツグフ、です」

 

「ライザー=アシュヴァツグフね。彼……ジョニィは見ての通り普段からあんなだけども、人を見る目は確かなものなの。だから、君には期待してるわ。冒険者(ランカー)試験、頑張ってね」

 

 という、思いがけない人からの、予想だにもしていなかった応援の言葉に。俺は申し訳なく、そして情けないことに大した返事もできなかった。そんな俺を見てメルネさんは浮かべていたその微笑みを綻ばせ、しかし次の瞬間には。彼女はもう既に踵を返して、俺に背を向けていた。

 

「じゃあ私は仕事に戻るから」

 

「お、おう……」

 

 そしてジョニィさんとすれ違う寸前、メルネさんは彼にそう一言をかけて。この場を去る────直前。

 

「……これは私の独り言なのだけれど」

 

 静かに、けれど今この周囲にいる俺たち全員に聞こえるように。メルネさんがそう呟き、ジョニィさんの肩がほんの微かに跳ねた。

 

「どこかの誰かさんが、今回の依頼は早く終わりそうだから、時間が作れそうだって言ってたから。だから私、準備して、期待して待ってたのよね。……二週間程前から」

 

「…………」

 

 ジョニィさんの顔が、凄まじい勢いで青褪めていく。彼の頬に、幾筋もの汗が伝っていく。そんな最中、メルネさんはただ淡々と。その()()()を続ける。

 

「ああ気にしないで頂戴。これは独り言だから。ほんの些細な、大して意味のない私の独り言なんだから。……ふふ」

 

 最後に背筋がゾッと凍りつくような、そんな笑い声を残して。メルネさんはこの場を立ち去った。

 

 数秒後、固まって立ち尽くすジョニィさんの隣にまで歩み寄り、彼の肩を軽く叩きながら。同情の表情と声音でベントさんが慮るように言う。

 

「やっちまったな、こりゃ。今夜は最上級に立派な夕食(ディナー)にでも連れてってやらねえと、とんでもない目に遭わされるぜ隊長(リーダー)

 

 ──この人、普通の声量でも喋れたのか……。

 

 そんなどうでもいいことに対して、俺がそれなりの驚きを得ていると。ベントさんにそう言われたジョニィさんは鬱陶しそうに、彼に言葉を返す。

 

「煩え。んなことぁ一々(いちいち)言われなくともわかってるよ。……はあ」

 

 そう言い返した直後、参ったようにジョニィさんは深いため息を吐き。そして、再度俺の方に振り向いた。

 

「待たせて悪かったな。そんじゃま、さっさと行こうとしようぜ坊主(ボウズ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ってことで、よろしく頼むぜ。我らがGM(ギルドマスター)

 

 そうして、遂に。とうとう、俺は辿り着いた。辿り着き、立つことができた。

 

 夢、目標、そして憧れの。それら全ての、本当の意味での入口に。その事実を、その現実を遅れて実感し、俺が噛み締めている間。今目の前にいるその人は──────

 

 

 

 

 

「……いや、急にそんなことを言われても。こっちはただただ困惑するしかないんだけど?」

 

 

 

 

 

 ──────と、当惑の言葉を堪らず呟くのだった。



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狂源追想(その七)

 色々な、本当に色々な出来事があった広間(ロビー)から。ようやっと俺はジョニィさんに連れ出された。

 

 ジョニィさんに案内された先にあったのは、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の執務室。彼曰く、その部屋にGM(ギルドマスター)がいるらしい。

 

 それを聞き、俺は否応にも緊張してしまう。しかし、この程度のことで立ち止まっている訳にはいかない。夢の為にも、目標の為にも。そして────憧れの為にも。

 

 そんな俺の心情を細やかに汲み取ったのか、ジョニィさんが一歩前に出て、執務室の扉を軽く叩いた。

 

「GM!俺だ、ジョニィだ!アンタが呼んでるってんで、今来たとこだぜ!あとついでにこっちからも話があるんだ!」

 

 扉に────正確にはその向こうにいるであろう人物に言葉を投げかけるジョニィさん。すると、少し遅れて部屋の中から落ち着いた男性の声が響いた。

 

「そんな大きい声を出さずとも、ちゃんと聞こえているし聞き取れもするよ。さあ、中に入るといいよ」

 

「そうかぁ!?前の時はいくら呼びかけたって、返事の一つすらなかったじゃあねえかッ!」

 

「……まあ、そんなこともあったね」

 

「ったく……んじゃ遠慮なく入らせてもらうぞ」

 

 そうしてジョニィさんと部屋の向こうの者との会話は一旦終わり。会話を終えたジョニィさんはその言葉通り、扉のノブを無造作に掴み、握り、そして捻った。

 

 ギギィ──若干の年季を感じさせる、軋んだ音を伴いながら。ジョニィさんの手によってゆっくりと、部屋の扉は開かれた。

 

 

 

 

 

「やあ。とりあえず一ヶ月ぶりだねって、挨拶をさせてもらうとするよ」

 

 

 

 

 

 執務室の中にいたのは、やはり一人の男性だった。僅かばかりに色素の抜けた、黄色が混じる茶髪。知的な印象を抱かせる眼鏡の奥にある瞳も、それと同じ色をしていた。

 

 ──この人が……。

 

 この男性こそ、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の二代目GMにして、元《S》冒険者(ランカー)。それもメルネさんと同じく、しかし彼の場合は彼女よりも前に当たる、第二期『六険』。その頂点たる、第一位。

 

「……おや?ジョニィ、君の後ろにいる青年は一体……?」

 

 男性────グィン=アルドナテさんは、ジョニィさんの背後に立つ俺のことに気づき、不思議そうに彼に訊ねる。ここで透かさず俺は出るべきだったのだが、それよりもずっと早く。

 

「おお、こいつか?こいつはズバリ、この冒険者組合(ギルド)の所属志望者だぜGM。俺からアンタへの話ってのはそれさ」

 

 と、親切にもジョニィさんがグィンさんに説明しながら、俺の前から横へと移動した。

 

「志望者……」

 

 俺のことを眺めながら、呆然とグィンさんが呟いて。瞬間、出るならばここしかないと決断を下した俺は、口を開く────その直前。

 

「ちなみに名前はライザー。ライザー=アシュヴァツグフ!才能ある若者って奴さ!」

 

 ……ジョニィさんの行動は感謝すべき、素晴らしいものだった。だが、そのおかげで俺は口を開くタイミングを失い、結果無言でその場に突っ立っていることしかできなかった。

 

 ──こ、これは不味い……。

 

 こちらが名乗る前にジョニィさんにこちらの名を繰り出され、ではその次に自分は一体何を言えばいいのか。『暴剣』の通り名で畏れ敬われ、冒険者としての功績を積みに積み立て重ね続けた、偉大な人物にして。

 

 セトニ大陸中央国、中央都『世界冒険者組合(ギルド)』本部を襲った暴力主義者(テロリスト)────『魔人』クレヒトを討ち、本部を救った英雄の一人であるグィンさんを前にしてしまっては、そんな些細なことですら咄嗟に考えられない。俺の精神力はそこまで強靭かつ図太くはなかった。

 

 が、そんな俺の心情を鋭敏にも見抜いてくれたのか。余裕ある微笑を携えて、グィンさんが言う。

 

「なるほどね。どうも、初めましてアシュヴァツグフ君。私はグィン=アルドナテ。既に知っているだろうけど、これでも『大翼の不死鳥』のGMをやらせてもらっているよ」

 

 グィンさんの声音は、とても柔らかで、とても穏やかで。そして、とても優しかった。彼の声に耳を傾けていると、自然とこちらの緊張も緩み、解けていく。

 

「……は、はい。こちらこそ、どうかよろしくお願いします」

 

 だからか、気がつけば。俺は俺の知らぬ間に、俺の口からそんな言葉を溢していた。

 

「うん。礼儀正しいね。君の隣にいる者にも、是非見習ってもらいたいものだね」

 

「おいおい。俺とアンタの付き合いで礼儀を持ち出すなんざ、もはや今さらって話だぜGM」

 

「ジョニィ。君は親しき仲にも礼儀ありという言葉を、その頭の中に詰め込んだ方が良いと私は思うよ」

 

「勘弁願いたいなそりゃあ」

 

 ……およそ、それがGMとその組合に属する冒険者の会話だとは、俄には信じ難かった。しかしそれは今目の前で繰り広げられた、歴とした現実である。

 

 ──グィンさんの器の広さ……そしてジョニィさんの堂々とした振る舞い。流石は『大翼の不死鳥(フェニシオン)』と言うべきだな……。

 

 と、関心に浸る俺を他所に。ジョニィさんがグィンさんに訊ねる。

 

「そういや我らがGMよ。何やら俺に話があるらしいじゃねえか。そりゃ一体何なんだ?」

 

 ジョニィさんの質問に。グィンさんは少しの沈黙を挟んでから、その口をそっと開かせた。

 

「まあそれはそうなんだけど、今は君の方を優先するよ。それで、彼……アシュヴァツグフ君が『大翼の不死鳥』への所属を志望しているという話、是非とも詳しく聞かせてくれないかな」

 

 そうして、またも訪れた口を開くタイミング。ここで透かさず俺は口を開き、試験の合格をより確実なものとしなければならない。

 

 そう考え、そして意を決し。丁度一秒が過ぎたその時、俺は口を開く。

 

「は「そうそう!俺ぁ断言させてもらう。この坊主(ボウズ)には才能がある。それも凄えのが、なっ!アンタも嘆いていただろ?ここいらでとびっきりの新人が欲しいって。その新人こそ、こいつ……ライザー=アシュヴァツグフだ!」

 

 ………またしてもジョニィさんに口を挟まれ、俺は何も言えなかった。いやまあ、この人に悪意はない。それはわかっている。……だからこそ、質が悪いのである。

 

 ──確かに、確かに俺のことを紹介してくれるって、言ってくれたけども。これは、これは……ッ。

 

 しかし当人が当人である為、文句なんて言える訳もなく。やはり俺はただ、その場に立ち尽くしていることしかできない。

 

「ってことで、よろしく頼むぜ。我らがGM(ギルドマスター)

 

「……いや、急にそんなことを言われても。こっちはただただ困惑するしかないんだけど?」

 

 実に清々しく爽やかな笑顔でそう告げたジョニィさんに、ひたすらに当惑した言葉を漏らすグィンさん。それから彼は仕方なさそうにため息を吐いたかと思うと、固まる俺の方にその顔を向けた。

 

「まあ、うん。どちらにせよ、君からこれを聞かせてもらえないと、全ては何も始まらない──────冒険者(ランカー)を志す若き青年、ライザー=アシュヴァツグフ。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』二代目GM(ギルドマスター)、グィン=アルドナテが問おう」

 

 まるで別人だった。今、自分が見ている前で、全くの別人と入れ替わったのだと。そう錯覚せざるを得ない程までの、変貌ぶりであった。

 

 顔つき、雰囲気。それら全てを一変させたグィンさんが、俺に訊ねる。

 

何故(なにゆえ)に、冒険者を目指す?一体何の為に、冒険者の道に進まんとする?」

 

 ──何故……何の、為に……。

 

 この執務室に入ってから、グィンさんと対面した時から。まともに自分の言葉を繰り出せないでいた俺であったが、それを訊かれた瞬間────

 

 

 

「夢の為。目標の為。そして、憧れの為。それら全てが俺の、冒険者を目指す理由です」

 

 

 

 ────するりと、呆気なく。一切の淀みなく、その言葉が口から滑り出していた。それだけは、絶対の絶対に譲れないものだった。

 

 数秒、執務室は静寂に包まれて。俺のことを射抜くように見据えていたグィンさんは────フッと、不意にその表情を和らげさせた。

 

「良いね。我が組合への冒険者試験、君には是非とも受けていってほしい。その結果がどうであれ、ね」

 

「……ほ、本当ですか!?ありがとうございます!」

 

 これで、遂に。ようやっと出発点(スタートライン)に立つことができたのだと。俺はその現実を噛み締めるように受け止め、認識し、どうしようもなく歓喜に打ち震えてしまう。そんな俺に、ジョニィさんが激励の言葉を投げかけてくれる。

 

坊主(ボウズ)。お前なら絶対に合格できるはずさ。それはこの俺が、『大翼の不死鳥』最強冒険隊(チーム)、『夜明けの陽』の隊長(リーダー)であるジョニィ=サンライズが保証させてもらうぜ」

 

「は、はい。俺、頑張ります!絶対に、合格してみせます!」

 

「おうおう、その意気だ。(なぁに)安心しな、坊主の門出には付き合ってやるからよ」

 

 と、試験に向けて意気込む俺に。グィンさんが最初と同じ、柔らかで落ち着いた声音で訊ねる。

 

「アシュヴァツグフ君。これは個人的に気になることなんだけども、君がいいのなら私に教えてくれないかな。君が言うその夢、目標……憧れ。それらについて、詳しく」

 

「え?……あっ」

 

 グィンさんの質問によって、俺は思い出した。確かに自分は『大翼の不死鳥』の冒険者になる為に、ここまで来た。しかしそれは、あくまでも()()()に過ぎない。まだ、その先がある。

 

 情けないことに今の今まで、俺はそれを忘れてしまっていた。そんな自分を浅はかな薄情者と罵りながら、俺は即座に口を開く。

 

「すみません。実は俺……今すぐにでも会いたい人がいるんです。《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』────ラグナ=アルティ=ブレイズさんに、会いたいんです!」

 

 グィンさんの質問に対して答えられなかったことを申し訳なく思いながらも、俺はそれを抑えられなかった。そんな俺の言葉を聞いた彼は、眼鏡の奥にある双眸を僅かばかりに見開かせて、そして──────

 

「……残念ながら、それはできない。何故なら今、ラグナは……()()()()の身なんだ」

 

 ──────と、心苦しそうに言うのだった。



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狂源追想(その八)

 それは、俺が予想だにしない言葉であった。

 

「……残念ながら、それはできない。何故なら今、ラグナは……()()()()の身なんだ」

 

 グィンさんの返事に、俺の反応は一瞬遅れた。一瞬遅れて、動揺で震える声を絞り出すので精一杯だった。

 

「ゆ、行方不明……ですか?」

 

 不甲斐なく、そして情けない俺の言葉に。グィンさんはその首を重々しく縦に振り、それから申し訳なさで満ちた声で話し始めた。

 

「二年と少しにもうなるかな。我々の前から、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』からラグナが姿を消して」

 

 ──に、二年……!?

 

 グィンさんの言葉に、俺は堪らず絶句してしまう。硬直し、その場に立ち尽くすしか他ないでいる俺へ、グィンさんが困ったように、依然申し訳なさそうに言葉を続ける。

 

「ラグナには昔から放浪癖があってね。こうして行方を晦ますのは、実はしょっちゅうのことなんだ。……ただ、それでも数日、長くとも一週間くらいでいつもはちゃんと帰って来てくれるんだけどもね。『世界冒険者組合(ギルド)』の助けも借りて捜索してるけど、流石と言うべきか彼は尻尾の先すら我々に掴ませてくれないんだ。……おかげさまで、こちらもほとほと困り果ててしまっているよ」

 

「……な、なるほど。そう、だったんですね……」

 

 世界(オヴィーリス)最強の一人、《SS》冒険者(ランカー)。『炎鬼神』の異名で世界中から畏れられ、敬われている人に。俺の夢で、俺の目標で、俺の憧れであるその人に。まさか、そんな放浪癖があるとは全く知らなかった。……まあそもそもの話、《SS》冒険者について『世界冒険者組合』から公開されている情報はごく僅かで、それも最低限のものしかないので、知らないのも無理はないのだが。

 

 しかし、今それは重要なことではない。今重要なのは、現在この街には、この『大翼の不死鳥(フェニシオン)』には俺の夢はいないということ。目標はいないということ。そして……憧れはいないということ。その事実と現実が、俺の頭の中に染み込み、溶け込んで。どうしようもなく、俺の意識を呆然とさせてしまう。

 

「野良猫並みに気紛れな気分屋だからな、ラグナの奴は。にしても、やっぱり目当ては最強冒険隊(チーム)じゃなく、《SS》冒険者だったか……まあ薄々わかっていたが、こうはっきりとそれを認めざるを得ねえと、流石のジョニィさんも堪えるもんだな」

 

 俺が呆然としていると、横に立つジョニィさんがそう呟いて、その雰囲気を暗く重く変化させていた。俺はハッとし、慌てて弁明の言葉を繰り出す。

 

「すっ、すみませんっ!勿論ジョニィさんのことだって尊敬しています!……ただ、その……俺が一番最初に凄いって思えたのは……」

 

「ハハッ!別に構いやしねえよ。だって俺も凄えなって、敵わねえなって思っちまってんだからよ。そうさ、ラグナの奴は凄えんだ。アイツは『大翼の不死鳥』の誇りさ!」

 

 流石はジョニィさんというべきか。俺の言葉を聞き、彼は豪快に笑い飛ばしていた。そしてそこには、一切の偽りなどなく、それが本当の、心の底からの言葉なのだと思わせた。

 

「……という訳で、今君にラグナを会わせることはできない。彼がいつ『大翼の不死鳥』に帰って来るのかすらも、今やわからない。……それでも、君はこの組合の試験を受けてくれるのかい?」

 

「…………」

 

 俺の夢は、俺の目標は、俺の憧れは。《SS》冒険者、『炎鬼神』──ラグナ=アルティ=ブレイズさんだ。それは変わらないし、変わることもない。……けれど、だからといって。

 

「受けます。受けさせてください。だって俺は、その為に冒険者(ランカー)を選んだんですから」

 

 この選択を、拒否する理由にはなり得ないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は待つことにした。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』が、『世界冒険者組合(ギルド)』の助けを借りてなお、見つけられないのだから。俺なんかが、見つけられる訳がない。だから、待つことにした。

 

「『大翼の不死鳥』の冒険者(ランカー)たちに告ぐ!今日、ここに今。新たな同胞一人、立った!」

 

 ほんの僅かでもいい。たったの一言二言でも構わない。だからせめて、それに見合うだけの実力を。それに叶う実績を。待っている間に、俺は身に付けることにしたのだ。

 

「名はライザー、ライザー=アシュヴァツグフ!『大翼の不死鳥』の新しき────《S》冒険者だ!」

 

 俺は待つ。俺の夢が、俺の目標が、そして俺の憧れが。いつか帰って来る、その日まで。



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狂源追想(その九)

「……はあ」

 

 時刻は午後二十一時辺り。日もすっかり暮れて、あんなにも明るかった空は夜の帷が下りて。今や月や無数の星々が顔を出している。そんな夜空の真下にて────俺ことライザー=アシュヴァツグフは独り、オールティアの広場にいた。

 

 この広場には噴水があって、今俺はその近くの長椅子に腰かけ、項垂れている。それは何故かというと────今夜()()()()()()()()()()である。

 

 そもそも俺は今日まで旅人の身であった訳なので、当然この街に自宅などあるはずもなく。だがこれからはこの街に住まうのだから、その問題がどうにかなるまでの当面は宿屋(ホテル)での滞在でやり過ごそうと考えていた。

 

 ……が、しかし。その方法も今夜だけはできなくなってしまった。別に金がないからという訳ではない。旅の道すがら、金銭面に関して問題がないよう、しっかりと稼がせてもらったのだから。

 

 では何故できないのか────実に簡単な話である。空いている部屋が、なかったのだ。これではいくら金に余裕があろうが、泊まる部屋がないのならどうしようもない、

 

 ──俺としたことが……『大翼の不死鳥』に向かう前に、予約を入れておくべきだった。

 

 自分が想定していた以上に、冒険者試験が長引いてしまった。とはいえ、それを理由にする訳にはいかないのだが。

 

 オールティアにある宿屋は一つだけ。別に小さくはなかったが……まあ運が悪かったとしか言い様がない。

 

「…………」

 

 輝く星々で彩られた、満月浮かぶその夜空を見上げつつ。俺は懐に仕舞い込んでいたそれを、グィンさんから手渡された冒険者であることの証明────冒険者証(ランカーパス)を取り出し、宙に掲げる。

 

 

 

『いやあ、驚かされたよ。まさか本当に《S》ランク試験を突破してしまうとはね。おめでとう、アシュヴァツグフ君。そしてどうか誇ってくれ。《S》ランクからの登録は、『大翼の不死鳥』どころか全大陸の冒険者組合を含めても、君が初なのだから』

 

 

 

 と、感激に打ち震えながら、その言葉と共にこれをグィンさんは渡してくれた。そのことを思い出して、俺は力なくため息を吐く。

 

「ラグナさんがいたら、これ以上にないアピールになったのかもしれないな」

 

 グィンさんには申し訳なかったが、あの時の俺はそうずっと思わずにはいられなかった。……しかし、これで遂に。遂にとうとう、俺は本当の本当に第二の出発点(スタートライン)に立てたのだ。そのことだけは、素直に喜ぶべきだ。

 

 ──さて。とりあえず今日はどうするか……今夜だけ森で野宿でもするとしようか。

 

 ここまで旅を続けた俺に、野宿に対しての躊躇などもはやない。何十回と続ければ抵抗など嫌でもなくなる。

 

 結論を出してから数秒もしない内に、決意を固め。俺は椅子から立ち上がる────直前。

 

 

 

 

 

「……あら?そこにいるのは、ライザー様なのですか?」

 

 

 

 

 

 という、今日耳にしたばかりの、まだ記憶に新しい聞き覚えのある声がした。

 

 その声がした方に咄嗟に顔を向けて見れば。こちらの顔を覗き込む、白金色の髪と瞳をした、片手に買い物(カゴ)を持つ女性が立っていた。その顔を見た俺は、呆然と呟く。

 

「君は、シャーロット……シャロか?」

 

 するとその女性は────シャーロット改めシャロは、笑顔を浮かべて俺に言った。

 

「はい。シャーロットです。ライザー様に命を助けて頂いた、シャロですよ」



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狂源追想(その十)

 それは思いもよらない、予期せぬまさかの再会。この時恐らく、俺は間抜けながらに己の目を丸くさせてしまっていたことだろう。だが、たとえそうだったとしても、きっと目の前に立つ女性は、笑ってこちらを馬鹿にしたりなどしない。彼女はそういった類の、くだらなくつまらない人間なのではないのだから。

 

 今目の前にある景色の全てが、揺るぎない確かな現実だと正しく認識しながらも。それでも、半ば信じられない思いで確かめるように。俺はゆっくりと、呟いた。

 

「君はシャーロット……シャロ、か?」

 

 俺の口から呟かれたその名に対して、すぐ目の前に立つ女性は。依然咲き誇る花の如き、素敵な笑顔を浮かべて。心許ない街灯に照らされ、淡い輝きを放つ白金色の髪をふわりと揺らして。裏表のない純真無垢な眼差しが宿る、白金色の瞳をこちらに向けて。そして、その口を開かせた。

 

「はい。シャーロットです。ライザー様に命を助けられた、シャロです」

 

 女性の────シャロの返事は純粋で真っ直ぐで、何処までも一途であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ではライザー様は滞りなく、ご無事に冒険者(ランカー)になれたのですね!」

 

「あ、ああ……そうだな。一応はまあ、なんとか」

 

「わあぁっ!おめでとうございます!」

 

 パチパチ──屈託のない笑顔を浮かべて手を叩き、シャロはまるで自分のことのように、大いに喜んでくれる。そんな彼女の姿が、不思議と明るく、眩しく俺の目には映って見えた。

 

「やっぱり、ライザー様は素晴らしい殿方なのですね」

 

「いや、別に……俺はそんな大した存在なんかじゃない」

 

「いえいえ。どうかご謙遜なさらないでください。ライザー様は本当に素晴らしくて、お優しい殿方なのです。現に、こうしてわざわざ貴重な自分の時間を割いてまで、私のことを家まで送ってくれているではありませんか」

 

「…………」

 

 シャロの好意は、純粋だ。ただひたすらに純粋で、何の忖度もない程に純粋だった。だからこそ、それが俺にはむず痒いもので、どうにも落ち着けず、素直に受け取ることができないでいた。

 

「……女性一人の夜道は危険だから。ただ、それだけのことだよ」

 

 ──特に君の場合は危なっかしいというか、見てて不安になってくるから一人にしておけなかった……というのは、言わずに伏せておくことにしよう。

 

 何故こうして自分の時間を割いてまで送るのか、その理由をシャロに簡潔に説明する傍ら、俺は心の中でそう呟く。無論、彼女が俺の心の呟きに気づく訳もなく。聞き様によっては言葉足らずな俺の説明に対しても、やはり純粋な返事をシャロはしてくれた。

 

「私はここまで親切にしてくれる殿方は、ライザー様しか知りません。……と言っても、こうして殿方と接する機会なんて、今までになかったのですけどね」

 

「…………」

 

 それを聞いて、何処か安堵してしまう自分がいた気がする。しかしそれはあくまでも俺の気の所為だろう。きっとそうに違いない。というか、シャロのこの明け透けな感じはどうにかならないものだろうか。別にそれを否定する訳ではないが、こう……苦手というか、何というか。

 

 それとも俺が単に知らないだけで、世の女性とは誰もがこういった感じなのか────そう思って、直後俺は首を横に振ってそれを否定した。

 

 ──そんな訳あるか。この場合はただ、シャロがちょっと特殊(アレ)なだけのはずだ。

 

 と、心の中で呟いた後、俺は誤魔化すようにシャロに訊ねる。

 

「というか、何だって君はこんな夜遅くに買い物に出ていたんだ?そういったことは普通、夕方辺りとかに済ませるものじゃないのか?」

 

 それはあの噴水広場にて、シャロと思わぬ再会を果たしてからずっと。俺の頭の中で引っかかっていた、純然で単純な疑問。それに対してシャロは一瞬固まり、それから少し気恥ずかしそうに答えてくれた。

 

「えっと、ですね。実は仕事に夢中になってしまって。そして気がついたらこんな遅い時間に……大半のお店は閉まっちゃうんですけど、友人にお店をやっている方がいて、その人にお願いして特別に食材など、色々売ってもらったのです」

 

「仕事に夢中……」

 

 失礼に当たるので決して口には出さないが、俺は心の中でシャロのことを意外だと思ってしまった。彼女は良い意味でも悪い意味でものほほんとした、地に足つかないフワフワとしたまだ若い女性だと思っていた。だから、まさかその口から仕事に熱中しているという言葉が出てくるとは思いもしていなかった。

 

「シャロ。君はどんな仕事をしているんだ?」

 

 それは特に裏のない、純粋なただの疑問から来る質問。俺のその質問に対して、やはりシャロは笑顔で俺に答えてくれる。

 

薬師(くすし)です。小さなお店の、しがない薬師をやっているのですよ」

 

「へえ、薬師……か。ということは、やっぱり売っているのは治癒薬(ポーション)の類なのか?」

 

「はい。効き目が良いと、これでも結構評判なのです」

 

 夜も深まり、静まり返ったオールティアの街道で。幾星瞬き輝き、月光降り注ぐ黒い空の下で。俺とシャロは他愛のない会話を繰り広げる。

 

 その些細で、細やかな瞬間の時間が────何故か、妙に心が安らいで。居心地が、良かった。



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狂源追想(その十一)

 シャロの薬屋を兼ねた自宅には、意外な程早く、あっさりと辿り着いた。確かに彼女が自分で言っていたように、それ程大きくもなければ年季もそれなりに入っている家だった。

 

 それに見たところ、ここが歴とした薬屋であるということを示す看板もないので、一目見ただけではただの家にしか視界には映らないだろう。知る人ぞ知る、ということなのだろうか。

 

 まあそれはともかく。こうしてシャロを自宅まで送り届けられたのだから、俺の役目は無事に終えられた。終えられた以上、いつまでもここに突っ立っている訳にはいかない。そう思い、俺はシャロに別れを告げた。

 

「じゃあ、俺はもう行くよ。シャロ」

 

 そしてすぐさま踵を返し、この場から去る──────

 

 

 

「お、お待ちくださいライザー様」

 

 

 

 ──────ことは許されず、俺はシャロによって呼び止められてしまう。慌てて足を止め、一体何事かと彼女の方に再び振り返る。

 

「えっと、そのですね。私、どうしてもライザー様にお訊きしたいことが一つだけあるのです。どうしてもそれが気になって、大変なことに私、今夜はとてもではありませんが眠れそうにありません……」

 

 と、ほんの少し気まずそうな表情をしながら、振り返った俺にシャロはそう言う。

 

 ──シャロが俺に訊きたいこと……?

 

 それも睡眠を妨げてしまう程のことである。それが一体何なのか、疑問と興味を抱きつつ、俺はシャロに言葉を返す。

 

「別に構わない。一体、俺に何を訊きたいんだ?」

 

 すると、シャロは少し気を憚れそうにしながらも。やがて意を決したように、先程ののほほんとした緩い雰囲気と打って変わって、何処か真剣な表情と真摯な眼差しで、彼女はその口を開かせた言った。

 

「ライザー様はどうして、こんな時間にあの広場にいたのですか?」

 

 ……その時、俺の中では確実に数秒、時間が止まってしまっていた。シャロの言葉を飲み込み、そして理解するのに数秒を要したのだ。

 

 そうして、俺は呆然と口を開く。

 

「どうして、あの広場にいたのか……って?」

 

「はい」

 

 間抜けながらにただ訊かれたことを繰り返し呟いた俺に、シャロは真面目に頷きそう返してくれる。対して俺といえば、固まってしまっていた。

 

 ──いやまあ、それは今夜寝泊まりする場所がなくて、ただ途方に暮れていたから……だけども。だからって、それを馬鹿正直に言う訳には……!

 

 何故だかは自分ではわからなのだが、シャロにはそんな理由を知られたくなかった。なので一体どう言葉を濁そうか思索し、思案し────そして。俺は頬に一筋の汗を伝わせながら、ややぎこちなく歯切れの悪い、固い口調で彼女に言った。

 

「よ、夜の散歩だ。ああ、そうだ。ちょっと満月と星が浮かぶ、あの綺麗な夜空を下から眺めて、街道を歩き回ってみたいなあ……とか、思ったり」

 

 咄嗟とはいえ、我ながら苦しいにも程がある誤魔化しの言い訳であった。しかしこれでもシャロならばまあ、どうにか納得させて言い包められるだろうと、彼女には失礼だが俺はそう高を括っていた。

 

 が、しかし。シャロも流石にそこまで鈍くはなかった。

 

「でしたら、ライザー様はあの広場の椅子などに座っておらず、今も夜のオールティアを散策していたはずなのでは?私とも会わなかったでしょうし……」

 

 シャロの鋭い指摘に、堪らず俺は言葉を詰まらせてしまう。だがこの場の沈黙は肯定であることを示し、故にそうする訳にはいかず、俺は慌てて口を開いた。

 

「きゅ、休憩!休憩してたんだ!」

 

「休憩ですか?」

 

「そうだ。だから俺はあの時、あの広場の椅子に座っていたんだよ。うん」

 

「はあ……そうだったのですね」

 

 もはや何の考えなしの、言い訳の体すら成していない適当な口からの出任せだったが、そこは人の好いシャロ。若干胡乱げながらも、それで彼女は納得してくれたようだった。そのことに安堵し、今度こそ俺は踵を返し、彼女に背を向ける。

 

「そ、それじゃあ。本格的に冒険者(ランカー)としての活動が始まったら、シャロの店にも是非立ち寄らせてもらうよ」

 

「ええ。贔屓にしてもらえると嬉しいのです」

 

 そうして、俺はようやっとその場から歩き出す────直前。ふと、思い出した。

 

 ──そういえば、俺今日何も食ってないじゃないか……。

 

 しかし、それも無理はないだろう。何せ今日一日だけで、とにかく色々な出来事があった。森の中でシャロを助けたり、早速辿り着いた『大翼の不死鳥(フェニシオン)』で、この大陸最強の冒険隊(チーム)の面々、そして隊長(リーダー)であるジョニィさんと出会い、早くも良好な関係を築けたり。

 

 そして第二の出発点(スタートライン)────冒険者に、それも通常の枠組みに限った最高である《S》ランクの冒険者に無事なることができた。それらを前にしてしまえば、食事であっても忘れてしまうというものだ。

 

 しかしそれを意識した途端、空腹感に苛まれ始める。時間も時間だが、森の中に入ったらまずは夜食の材料探しと洒落込もう。見つからずとも、こういう時の為の保存食もある。

 

 ──そうと決まれば、さっさとここから立ち去ろう。

 

 行動方針を固め、俺は一歩踏み出す────それとほぼ同時のことだった。

 

「ライザー様!あの」

 

 グギュギュウゥゥ──シャロの声を掻き消す程盛大に、そんな間抜けで素っ頓狂な異音が、俺の腹から響き渡った。

 

「…………」

 

 背を向けたまま、固まっている俺に。シャロは戸惑いながらも、その口を開かせる。

 

「あ、あの……良ければですけど、是非私のお家でお食事していきませんか……と」

 

 シャロの提案の後、なんとも言えない静寂が流れて。それから俺はゆっくりと顔だけ彼女の方に振り返らせて、躊躇しながらもぎこちなく、頷いた。

 

 そんな俺を見たシャロは、堪らずといったように。クスッと、細やかながらに吹き出しながらも。

 

「では私のお家にお上がりになってくださいませ。ライザー様」

 

 そう、笑顔で俺に言ってくれた。



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狂源追想(その十二)

 非常に居た堪れない気分の中、俺はシャロによって家の中へ案内された。その外装通り、中はそう広くはなく。店としての空間もある為、お世辞にも快適な家とは言えなかった。

 

「こちらがリビングになります。どうか椅子に腰かけてお待ちになってくださいね。こんな時間でも、できる限りの料理は作るつもりですから!」

 

 そう言って、シャロはさらに奥の方へ、恐らく台所へと向かい。独り残された俺は、とりあえず言われた通り、椅子に腰かけ大人しく待つことにした。

 

 ググギュギュヴゥ──シャロの料理を待てないと、俺の腹がリビング全体に文句を響かせる。俺は堪らず、そして仕方なく嘆息した。

 

 ──……ちょっとくらいなら、まあ別に。

 

 こんな遅い時間帯にも関わらず、嫌な顔一つせずに手料理を作っているシャロに申し訳ないとは思ったが。いい加減この腹の虫を黙らせなければ、俺の気が済まない。

 

 なのでこのどうしようもない空腹を少しは紛らわせようと、俺は【次元箱(ディメンション)】を開き、そこから皮袋を取り出す。結び目を解き、指先を突き入れ、皮袋の中身を摘み取った。

 

 この皮袋に入れていたのは、一口大の赤茶色の肉塊。その表面はパサついており、一目見ただけでも水分という水分が抜け切り、乾燥しているのだとわかることだろう。

 

 我が偉大なる師、シュトゥルム=アシュヴァツグフ直伝────魔物肉(モンスターミート)干し肉(ジャーキー)である。長い間保存が効き、その上小さくとも多少は腹が膨れる、優れた非常食なのだ。欠点を挙げるのであれば、塩味を効かせつつ臭み抜きをしっかり行わなければ、魔物肉特有の風味や臭みが出てしまうということだろう。

 

 指先で摘み取ったその干し肉を、俺は雑に口の中へ放り込む。そしてゆっくりと噛み締める。パサパサとした肉が舌の上で解れて崩れて、それと同時に塩味が広がっていく。今ではもう慣れ親しんだその味に、俺は僅かばかりの安心感を抱いた。

 

 空っぽだった胃袋に、一応食べ物を突っ込んだからか。一先ず、腹の虫は大人しくなったようである。と、その時。

 

「すみませんライザー様。お待たせしました、シャロ特製シンプルパスタなのですよ」

 

 そう言いながら、奥からシャロが今一度リビングに戻って。彼女の両手には皿が乗せられ、その上には言葉通りパスタと思わしき麺料理が存在感を放っていた。

 

 パスタ────俺が知る限り、確か乾麦花(ワーフラ)粉を使って作られた麺料理の一種で、この世界(オヴィーリス)ではまだセトニ大陸でしか一般的に食されていない料理のはずである。

 

「私、子供の頃はセトニ大陸で暮らしてたのです。それでよくお母さんに作ってもらったのですよ」

 

「へえ……」

 

 シャロの話を聞きながら、俺は目の前に置かれた皿に、もっと正確に言うならパスタを眺める。シャロは自分でシンプルと言っていたが、シンプルというには些か具材が多く、またそれなりに手が込んでいるようにも思えた。

 

「ではライザー様。お召し上がりになってくださいませ」

 

「ああ、じゃあありがたく頂かせてもらうとするよ」

 

「はい!」

 

 そうして、俺とシャロはテーブルを挟み向かい合いながら。遅めの夕食(ディナー)を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ですから、ライザー様はこんな遅い時間にも関わらず、あの広場にいたのですね」

 

「……ああ。全く、情けないことこの上ない話だよ」

 

 夕食を終え、皿を片付けた後。俺とシャロは会話を繰り広げていた。その話題はというと────何故あの時俺が広場にいたのか、である。

 

 別にシャロが蒸し返した訳ではない。もう恥を晒してしまった手前、それとこうして手料理をご馳走してくれた礼も兼ねて、彼女には真実を────そう、今夜泊まる宿屋(ホテル)がなく、結果広場にて途方に暮れていたことを。彼女には正直に打ち明けることにしたのだ。

 

 最初、馬鹿にされるか思われるかと半ば決めつけながら話していたが、俺はどうやらシャロのことを未だ見誤ってしまっていたらしい。彼女は俺のことを馬鹿などにしたりせず、最後まで真剣に話を聞いてくれていた。そんな彼女に感謝しながら、俺は最後に言葉を付け加える。

 

「まあ、今日のところは森で野宿でもするよ。別にこれが初めてという訳でもないし、伊達にこの街に辿り着くまで旅していないしな」

 

「はあ……そう、ですか」

 

 俺の言葉に、何故かシャロは釈然としない様子でそう呟く。そんな彼女の態度が僅かに気になったものの、これ以上ここにいるのも迷惑になると判断を下し、俺は椅子から立ち上がった。

 

「君のパスタ、美味しかった。それじゃあ、今度こそ俺は行くとするよ」

 

「…………」

 

 シャロは、何も言わなかった。その口を噤み、白金の瞳を不自然にも泳がせていた。

 

 ──どうしたんだ……?

 

 明らかにシャロの様子、雰囲気がおかしい。そのことに気づいた俺は疑問に駆られ、胡乱げに心の中で呟く────それとほぼ同時のことだった。

 

「ライザー様。あの、ですね」

 

 口を噤んでいたシャロが、若干躊躇いつつもようやっとまた喋り。そして、続けて彼女は言った。

 

「今夜……いいえ、今日から。今日からこの家に……住みませんか?」

 

 ……直後、リビングを包み込んだのは静寂であった。その静寂は数秒、十数秒続き。そして、それを先に破ったのは──────

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 ──────という、間の抜けた俺の声だった。そして慌てて、俺は言葉を続ける。

 

「ちょ、ちょっと。ちょっと待て。待ってほしい。シャロ、君は自分が何を言っているのかわかっているのか?それをきちんと理解しているのか?」

 

 聞く人によれば不躾な俺の言葉に対して、依然シャロは真剣とした様子で返事をする。

 

「はい。当然です。私、シャーロットはライザー様に対して、自分とこの家で一緒に暮らしませんかと。そう、提案したのですよ」

 

「い、いや!いやいやいや!?」

 

 もう真夜中近い時間だとわかっていても、俺は声を抑えられずにはいられなかった。この二十年間、長くはないが決して短くもないだろう人生の中で、初めて体験する困惑と混乱だった。みっともなく動揺し、取り乱す俺に。とんでもない提案をしたというのに平然としているシャロが言う。

 

「ご安心ください。ご覧の通り、この家は少々手狭なのですが、あと一人くらいは受け入れられるのです。部屋も空いているのですし……」

 

 シャロの言葉は微妙にズレたものだった。狭いだとか部屋の空きがあるだとか、そういう問題ではない。それを指摘する為、俺は彼女に言う。

 

「お、俺と君は男女だぞ。それも割と年頃な、異性同士なんだぞ?君はそのことを承知の上で、それを提案しているのか?」

 

 俺がそう訊ねると、シャロは何も言わず。数秒経って、ポッとその頬を薄く染めたかと思うと、俺から顔を逸らしながら、やや控えめな声量で言った。

 

「……はい」

 

 瞬間、稲妻にも似た衝撃が俺の脳天を突き抜けた。今一体、自分はどんな状況下に置かれているのか、一瞬理解不能にもなった。しかしすぐさま正気を取り戻して、俺は言葉が痞えそうになりながらも、懸命に喉奥から声を絞り出す。

 

「こ、断るッ!……その気持ちだけ、受け取っておくことにする……から」

 

 ……俺にだって、性欲はある。無論、それによって掻き立てられる、性的好奇心も。だが今まで女っ気皆無の生活を送っていたおかげか、それらが表に出ることは特になく、大した問題にはなっていなかった。だが、しかし。

 

 ──シャロ……君の場合は、少し不味そうなんだ……!

 

 まだ出会って一日だというのに、俺はシャロに関心を寄せてしまっていた。彼女との距離を縮めた所為なのか、それとも彼女に惹かれてしまっているからなのか。詳しい原因はまだ不明だが、とにかくシャロと一つ屋根の下で暮らすことを考えてしまうと──────俺は、俺でいられる自信がなかった。

 

 けれど、そんな俺の心情にシャロは気づくことなどなく────

 

「いいえ!駄目です!」

 

 ────と、こちらの拒否を力強く拒否されてしまうのだった。

 

「なッ、えぇ……!?」

 

 堪らず呻く俺を他所に、彼女は椅子から立ち上がり。俺の顔を真っ直ぐ見つめながら、俺の困惑の眼差しをしっかりと受け止めながら。そして、ゆっくりと喋り出した。

 

「……ずっと、思っていたのです。何か、何かお礼になることをしたいと、私はずっと考えていたのです。あの頃の私はまだ子供でしたから、どうあっても無理だったのですが……今は違います」

 

 そこまで聞いて、俺は察する。そう、シャロは今の今まで、それを気にしていた。もはや遠い昔、然れど決してその色が薄れることもなければ褪せることもない、記憶のことを。名も知れぬ者によって救われた、その命の記憶のことを。

 

 シャロ────否、シャーロットはそういった人間性の持ち主なのだ。恩に恩で報いなければ、気が済まない人種なのだ。

 

 愕然としている俺に、シャロは続ける。

 

「子供の頃に受けた恩は、もう返すことは叶いません。ですが、今受けた恩は返せるのです。……いえ、これは()()なのですね」

 

 ──え?

 

 俺がその言葉の意味を理解し、真意に気づくよりも先に、ずっと早く。シャロはそう言うや否や、その小さく白い手を伸ばして────俺の手を掴んだ。

 

「ッ!?」

 

 突然の行動に驚き固まる俺を置き去りにして、シャロは掴んだ俺の手を持ち上げ、そして残っていたもう片方の手も伸ばして。彼女はそっと、優しく俺の手を両手で包み込んだ。

 

 柔らかい。温かい────俺はもう、それ以外のことに対して思考を割けそうになかった。そんな俺に、シャロは穏やかな声音で語りかけてくる。

 

「私、気づいたのです。ライザー様の話を聞いて、ライザー様の夢に、目標に、そして憧れに触れて────気づいてしまったのです。自分はこの方の助けになりたい、と」

 

「…………」

 

 この期に及んで、何も言えないでいる俺に。それでも、シャロは言葉を続ける。両手で包み込んだ俺の手を自らの胸元にまで運び、押し当てて。俺を見上げる白金色の瞳を潤ませながら、彼女は切に訴えかけてくる。

 

「ライザー様。どうかお願い致します。どうか、私にも僅かばかりのご助力をさせてくださいませ。住む家が早く決まれば、それだけ早くライザー様はライザー様の夢を、目標を、憧れを追えるのですよ。ですから、ですから……」

 

「…………」

 

 俺は、一瞬シャロから顔を逸らし。しかしすぐさま戻して──────彼女の手をそっと、握り返し。そして、

 

「シャーロット」

 

 はっきりと、俺はその名を口にした。



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狂源追想(その十三)

「さてさて、問題の場所はここら辺のはずだが……おいロックス、どうだ?(やっこ)さんらは見えてんのか?」

 

「いいえ全然ですジョニィの兄貴。俺の覗いているこの双眼鏡には、まだ敵影も何も映り込んでいませんぜ」

 

「ロックスの双眼鏡絶妙に古いから、あんまり信頼できないんだよ」

 

「ああッ!確かになッ!」

 

「煩え。だったらお前らのどっちかが索敵(サーチ)してこい。それでヘマしたら全力で馬鹿にして貶してやっからさぁ」

 

「断るんだよ」「断るッ!」

 

「だったらしょうもねえ文句一々(いちいち)垂れずにその口閉じてろや!」

 

「おいおい。冒険隊(チーム)内で仲良く喧嘩してる場合じゃねえだろうがよ。俺ら今依頼(クエスト)中なんだぜ?それに我らが『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の新たな可能性(ニューエース)の面前で、こんな醜態を晒してんじゃあねえっての」

 

「煩えですぜ」「煩えんだよ」「煩えぇぇッ!!」

 

「よしお前ら並べ。そして歯を食い縛れ。このジョニィ=サンライズさんが直々に丁寧にブン殴ってやる」

 

 ……現時刻、日が真上昇った昼間頃。現在地、オールティア付近の平原────ヴィブロ平原にて。木陰に潜んだ冒険隊『夜明けの陽』の面々による愉快で素敵な茶番(ショー)が繰り広げられるその横で、俺────ライザー=アシュヴァツグフは。この場合は一体、どのような反応をすべきなのか。そしてどういった態度でいるべきなのかという、選択を迫られていた。

 

 最善なのは何も求められないこと────だがしかし、そうは問屋が卸さないのである。

 

「はあ……全くよぉ。こんな隊員(メンバー)たちのこと、正直どう思うよ?なあ、ライザー?」

 

 ──そら来た。

 

 けれど、予めそう来るであろうことを受け止めていた俺は。慌てず騒がず、至って平静に。冷静にジョニィさんに答えた。

 

「俺は良いと思います。ええ、はい」

 

 そして透かさず、自分にでき得る限りの笑みを浮かべた。こう、キラッという擬音が付くような感じの、返しに困りそうな笑みを。

 

「……そ、そうか?…………そうかぁ」

 

 すると俺の思惑通りに、ジョニィさんは一瞬戸惑ったように返事した後、それもまたよしと、自分を仕方なく納得させたように同じ言葉を呟くのだった。

 

 それから特に言及されることもないだろうと確信した俺は、安堵のため息を心中で吐く。

 

 ──これで面ど……厄介な意思伝達のやり取り(コミュニケーション)に巻き込まれずに、無事済んだ……はは。

 

 決して『夜明けの陽』に聞かれてしまわぬよう、そう心の中で呟き、乾いた笑いを漏らす俺。と、そんな時だった。自らの索敵道具に文句(ケチ)を付けられたりはしたが、それで己の役割を放って棄てるような人間性は持ち合わせてなどなく、依然真面目に双眼鏡を覗いているロックスさんが、突如声を上げた。

 

「……へい、へいへいへい!奴さんら、いよいよおいでなすったぜ!」

 

「何だとぉ!?本当か、ロックス!」

 

「十二時の方向!数は……ハッハァッ!こりゃ凄え!凄えやド畜生め!」

 

「……その反応を聞く限り、やっぱり()()()()()()()()()?」

 

「ああ!全く、どうかしてるぜ世界(オヴィーリス)。とんだ薄情(モン)だな『創造主神(オリジン)』ッ!」

 

「上等ッ!久々に骨を折れそうな依頼の巡り合わせに、感謝感激雨霰(あめあられ)ッ!!」

 

「んで、そろそろ俺たちにも見えてくる頃か、奴さんらはよおっ!ロックスッ!?」

 

「へい!もう間もなく!」

 

 という、膨大かつ長年行動を共にしてきた者同士でなければ伝わらないであろうやり取りを済ませ、『夜明けの陽』の面々は前方を見据える。その様子が俺には、何処か楽しそうに見えた。……だが俺は、これ以上になく焦っていた。

 

 ──おいおい……冗談だろ?嘘だろ?本当(マジ)か?本当なのかッ!?

 

 本来であれば、この世の常に従うのであれば。決して、それは有り得ないこと。天変地異の規模と表しても、相違ない。

 

 そもそもの話、俺は半信半疑だった。依頼の内容を目に通した結果、そんなことはないと思っていた。きっと何かの間違いだろうと、高を括っていた。今回のこれだって、果たしてそれが真実通りなのか、ただ確かめに訪れただけである。

 

 ……しかし、この時俺はとある言葉を身に染みて実感させられることになる────そう、『事実は小説よりも奇なり』という言葉を。

 

 そして、遂に。とうとう、虚構じみた非現実は確かな現実となって、見えてきた。

 

「おーおー、生まれてこの方三十と少し、初めて目にする絶景だ。こりゃあ」

 

 と、当面しているはずのジョニィさんはまるで他人事のように呟く。俺といえば、その隣でただただ呆気に取られて、絶句する他ないでいた。

 

 この世界には数多くの動物が存在する。その動物たちは長く生きるか、外的要因、または突然変異等の異常事態(イレギュラー)によって膨大な魔力を得ると、魔の生物────つまりは魔物(モンスター)と化す。

 

 魔物にはそれぞれ危険度がある。最低の〝無害級〟から、最高の〝絶滅級〟まで。

 

 今回受けた依頼の内容は確かこうだ──────『〝撲滅級〟デッドリーベアの群れが発生。その規模数十に及び。よって、『世界冒険者組合(ギルド)』はこれを殲滅せよと命ずる』。

 

 〝撲滅級〟、デッドリーベア。その名の通り、魔力を得た、または取り込んだ野生の熊が、魔物化を果たした個体。その体長、約三m(メトル)。常軌を逸した怪力を誇り、その豪腕を一度振るえば、あらゆる物体を一瞬にして塵芥(ゴミ)(クズ)にしてしまえる。複数人の《A》冒険者(ランカー)で一体を囲み、討伐することを推奨されている。

 

 そしてこの魔物は()()、群れない。そういった習性を持ち合わせてはいない。基本的に番や子以外の個体が鉢合わせると、即座に殺し合いが発生する────という、凄まじいまでの凶暴性を有しているからだ。

 

 ……だが、しかし。その常識を今日、俺は覆された。何故ならば、遠くの前方にて確かに──────数十という大量のデッドリーベアたちが群れを成し、一心不乱に向こうからこちらへ、四つ脚で地面を蹴り上げて突き進んでいたのだから。

 

「……へい、へいへいへいッ!?こいつはちょっと、ヤッベぇなあっ!」

 

「急に一人で盛ってどうしたんだよ?ロックス」

 

「とびっきりの朗報って奴だぜ。この群れ……特異個体(ユニーク)が先導してやがるッ!!」

 

 それを聞き、透かさずこの場の空気が凍りついた。



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狂源追想(その十四)

「とびっきりの朗報って奴だぜ。この群れ……特異個体(ユニーク)が先導してやがるッ!!」

 

 ロックスさんの報告により、この場の空気が凍りつく。戦慄、そして沈黙に包まれ、誰もが押し黙る最中。最初に口を開かせたのは、やはりというかジョニィさんであった。

 

「特異個体……だと?そりゃ本当なのか、ロックス?」

 

 俄には信じ難いという様子なジョニィさんから訊ねられ、依然双眼鏡を覗き込んだままにロックスさんが答える。

 

「この期に及んで嘘なんか吐いたって仕方ないですって。……つっても、これが嘘だったら俺もありがたかったんですがね全く」

 

「おいロックス、双眼鏡貸せ」

 

「いや、もうその必要はなくなりそうですぜ。……直に見えますんで」

 

 ロックスさんがそう言うや否や────彼の言葉通り、もはや双眼鏡などなくとも、その姿をこの目で見て捉えることが可能になった。

 

「……なるほど。確かにありゃ、特異個体に違いねえな」

 

 その姿を目の当たりにしたジョニィさんが、冷静にそう呟く。俺もまた呆然と件の特異個体、それも生まれて初めて実際に目にする特異個体の姿を目の当たりにする。

 

「あれが、デッドリーベアの特異個体……」

 

 無数のデッドリーベアを従え、このヴィブロ平原を越えようとしているその特異個体の姿は、まさに異形で異様であった。

 

 通常個体よりも一回り、二回りはあろうかという巨躯。通常個体よりもずっと、ずっと濃い赤茶色の毛皮。大木の丸太よりも極太で強靭な双巨腕を包む毛皮は色深く、色濃く、もはや赤茶ではなく血と表現すべき色に染まり切って、また硬化でもしているのか非常に刺々しい見た目となっており、もはやその血色の剛毛皮に包まれた腕を雑に振り回すだけで、当たるもの全てを容易く粉砕できるだろう凶器と化している。

 

 そして何よりも異形で、異様な頭部。別に顔つきが通常個体からかけ離れている訳でも、また腕を包む毛皮のように、独自の発達を遂げていた訳でもない。

 

 強いて言うならば────()()していた。その風貌について、ジョニィさんが的確に言い表す。

 

「おいおい、何なんだあのご立派な鶏冠(トサカ)モドキは?生意気にもファッションのつもりなのか……?」

 

「そうだとしても、相当趣味が悪い奇抜なお洒落なんだよ」

 

 そう、特異個体(ユニーク)の頭頂部には真っ赤っ赤な、ジョニィさんの言葉通り、鶏冠を模したような赤毛が聳え立つように、天に向かって突き立っていた。

 

「まあ何はともあれ、こんなの想定外ですぜ隊長(リーダー)。あのデッドリーベアの特異個体となりゃあ、危険度は少なくとも〝殲滅級〟はあるんじゃないですかね?下手したら、〝絶滅級〟ってことも……」

 

「まあ、そうだろうな」

 

「んじゃどうします?俺たちはあくまでもデッドリーベアの群れが相手だって聞いて、ここへ馳せ参じたんですぜ。……このまま続けるか、それとも退くか。さあ、どうします我らが『夜明けの陽』隊長?」

 

 ロックさんの物言いは、まるで探るかのような、試しているかのようなもので。また今浮かべている彼の表情は、俺が初めて目にするものだった。

 

 ──この人、こんな真剣な表情もできたんだな……。

 

『夜明けの陽』は冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』最強の冒険隊(チーム)。それ故に多忙であり、こうして俺が会うのも随分と久しぶりのことだった。そんな数少ない付き合いの中で、今のロックスさんの真剣な表情は初めて見た。

 

 そしてまた、ロックスさんに決断を迫られているジョニィさんもそうだった。ヴィブロ平原を越える為に突き進み続けるデッドリーベアの群れ、そしてそれを先導する目下の特異個体(ユニーク)を眺める最中、彼が浮かべている表情は真剣そのものだった。普段からは想像もつかない程、真剣な。

 

 その表情のまま、ふとジョニィさんが小さく、静かに呟く。

 

「来るぞ」

 

 その瞬間────ヴィブロ平原の地に異変が起こる。突如として、青々しい緑草に覆われている広大な大地が、隆起した。

 

 ボゴボゴッ──散り散りとなった緑草と舞い上がった土煙が風に流され、飛ばされる。その最中、地中から突き出るようにして現れたのは、無数の岩石兵(ゴーレム)土人形(クレイパペット)であった。

 

「こ、これは……!?」

 

 予想だにしない光景を目の前にして、俺は堪らず驚愕と動揺の声を漏らす。だが、そんな俺とは違って、『夜明けの陽』の面々は毅然と、堂々としていた。

 

「へえ。ここ、岩石兵と土人形の縄張りだったんだよ」

 

「みたいだなッ!」

 

「デッドリーベアの群れと、自然系魔物(モンスター)の徒党……いよいよもって、異常事態(イレギュラー)って奴だ」

 

「……いや。まだだ」

 

 と、口々に言い合う他の隊員(メンバー)に対して、ジョニィさんがそう言葉をかける。その直後のことだった。

 

 ボゴボゴッボゴンッゴゴゴゴッ──岩石兵と土人形の前方で、一際激しく大地が隆起し、岩を飲んだ大量の土塊が噴出する。かと思えば、噴出したその土塊は生物めいた脈動を始めながら四方へ蠢き、そして一気に中心へと凝縮。直後、破裂した。

 

「なっ……え……?」

 

 あまりにも現実からかけ離れたその光景を前に、ひたすら困惑と混乱の声を俺が漏らす中。『夜明けの陽』は無言でそれを眺めていた。

 

 破裂した蠢く土塊は、人形を模していた。地面が抉れ、周囲に転がる岩が崩れ、宙へ撒き散らされた土がその人形に集中し、肉付けするかのように纏わりついていく。

 

 そうして──────そこに立っていたのは、見上げなければその全貌を把握できない程の、岩と石と土の巨人であった。

 

「こいつは驚きだ。まさか岩石土巨兵(ウォーグランドジャイアント)までご登場するとは」

 

 と、何故か楽しそうに言うジョニィさんであったが……俺は彼と違い、ただただ固まる他ないでいた。

 

 ──岩石土巨兵って、正真正銘本物の〝絶滅級〟魔物じゃないか……!!

 

 岩石土巨兵。最下位種である土人形から長い年月経て、その身にそれ相応の魔力(マナ)を取り込み、進化した岩石兵がさらにその核に魔石を取り込み、激しい拒絶反応によって引き起こされる自己崩壊に耐え切った個体のみが到達し得る、自然系魔物の最上位種にして、最強種。

 

 〝絶滅級〟という危険度が指し示す通り、その強固堅牢な巨拳を一度振り下ろせば、大地を砕き割り、大地震を引き起こし、結果周囲に甚大な被害を齎す。その出現が確認されたのならば、最優先で複数の冒険隊(チーム)で編成された大規模討伐隊で討たなければならない、〝絶滅級〟魔物の一体だ。

 

「異常事態も異常事態。とびっきりのイカれ具合だ。さあ、デッドリーベアか自然系魔物か……果たして、どっちになるんだろうな」

 

 依然余裕綽々で楽しんでいる様子でジョニィさんが呟く最中、いよいよ────特異個体(ユニーク)率いるデッドリーベア陣営と、岩石土巨兵束ねる自然系魔物陣営が相対するのだった。



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狂源追想(その十五)

「異常事態も異常事態。とびっきりのイカれ具合だ。さあ、デッドリーベアか自然系魔物か……果たして、どっちになるんだろうな」

 

 と、依然余裕綽々に、何処か面白んで楽しむように。ジョニィさんがそう呟いて、そうしてその時はとうとう、遂に訪れることとなる。

 

 離れた木陰から俺たちが見ている最中で、デッドリーベア陣営と岩石土巨兵(ウォーグランドジャイアント)陣営が、相見える。

 

 今の今までヴィブロ平原を激走し、突き進んでいたデッドリーベアの群れがそこで止まる。瞬間、ヴィブロ平原全体に激震の緊張感が走り、すぐさま異様な雰囲気に包まれる。

 

 デッドリーベアの群れと自然系魔物(モンスター)。そして、特異個体(ユニーク)と岩石土巨兵。征く存在(モノ)と阻む存在が相対し、互いを互いに睨めつけあっていた。

 

 と、そこでここまで四足歩行だったデッドリーベアの特異個体が、ゆっくりと悠然に立ち上がる。巨体も巨体────それでも、対面する岩石土巨兵の方がまだ巨大。

 

 見上げる特異個体。見下す岩石土巨兵。それぞれ率い、束ねる同胞たちが静かに見守る最中────その瞬間は、突然のことだった。

 

 岩石土巨兵が巨拳を振り上げ、その巨拳をすぐさま振り下ろす。その一撃を放つ相手は、無論特異個体。そしてその巨大さに些か見合わない素早さと速度で、巨拳は特異個体へと伸し掛かった。

 

 ドゴンッ──激突の瞬間、その場が二度三度に渡って陥没し。波状の形でクレーターは発生し。ここら一帯の大地を丸ごと揺らしてみせた。

 

 静寂が流れる。それは数秒、十数秒と続いた。そして──────

 

「ッ!」

 

 ──────振り下ろされた岩石土巨兵の巨拳に亀裂が駆け抜け。それは瞬く間に腕全体にまで及んで、直後儚く、盛大に砕け散ってしまった。

 

 ボロボロと、ついさっきまでは腕であったはずのそれが崩れ去り、ただの岩と石と土に化していく最中。押し潰されたかに思われていた特異個体は依然健在の様相で至って平然と佇んでおり、それから堪らずその場から一歩引き下がった岩石土巨兵へ詰め寄る。

 

「ガアアアアアアアアッ!」

 

 という、雄叫びと共に。特異個体は一気に跳躍し、まるでお返しだと言わんばかりに血色の剛棘毛に包まれた巨腕を、岩石土巨兵の脳天から振り落とす。

 

 並の物理攻撃はおろか、魔法も受け付けない強度を誇る岩石土巨兵。しかし特異個体の鉤爪が頭頂部に触れたその瞬間、まるでボロ紙でも破り裂くかのように容易く呆気なく、断ち砕かれて。そして数秒の間に、岩石土巨兵の巨体の上から下まで、特異個体の鉤爪が一気に通過した。

 

 岩石土巨兵は硬直していたかと思うと、不意に何か硝子(ガラス)のようなものが割れて砕け散る破砕音が儚げに響き渡り。直後岩石土巨兵の全身に亀裂が走り抜け、駆け巡り、そして────瞬く間に、ただの岩と石と土の塊に化して、一気に崩れ去ってしまった。

 

 その塊を踏みつけ、勝利をその手に収めた特異個体が雄叫びを天に向かって響かせる。

 

「ガアアアアアアアアッ!!」

 

 瞬間、先導者(リーダー)に呼応するかのように、通常個体たちも好きに勝手に雄叫びを上げる。そして大した間も置かず────特異個体がその場から駆け出した。

 

「ガアアアアアアアアッ!」

 

 特異個体が岩石兵(ゴーレム)の一体に飛びかかり、巨腕を振るう。まともな抵抗すら許されず、打ち砕かれる岩石兵。それから特異個体は目についた岩石兵や土人形を、手当たり次第に破壊していく。そんな特異個体に続くようにして、通常個体たちも進撃を再開する。

 

 それは謂わば、残党狩りであった。束ねていた存在(モノ)を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかできないでいる自然系魔物(モンスター)たちに、しかし特異個体率いるデッドリーベアの群れは容赦なく、そして遠慮なく襲いかかる。

 

 そうしてものの数分の間────そこに広がっていたのは、徹底的に打ち砕かれに打ち砕かれ、もはやただの岩と石と土に還った残骸だけであった。

 

「ガアアアアアアアアッッッ!!!」

 

 敵対勢力をあっという間に殲滅し壊滅せしめたデッドリーベア陣営が、一際激しい雄叫びを天に向かって放つ。それはさながら、我らに敵なし阻む存在もなしと、意気揚々に謳っているかのようだった。

 

 前代未聞の、まさかの魔物同士の抗争を見終えて。何も言えないで立ち尽くす俺を他所に、ジョニィさんがその口を開かせる。

 

「って訳だ。当然と言えば当然の話だが、あのデッドリーベアの群れ……いや、〝絶滅級〟上位相当に値するだろうあの特異個体(ユニーク)は放ってはおけない。故に導き出される結論はただ一つ────お前ら全員、腹括って得物を構えやがれ。引き受けたこの依頼(クエスト)、何が何でも、是が非でも達成してやろうじゃねえか」

 

 と、言うや否や我先にと、【次元箱(ディメンション)】を開き、己の得物たる細身の大剣を引き抜き、背負うジョニィさん。そんな彼に続くようにして、他の『夜明けの陽』の面々もまた、各々の得物を手に取った。

 

「ライザー。こいつはとんでもない共同作業になっちまったが……やってくれるな?」

 

 まるで試すようなジョニィさんの言葉に、俺もまた得物である剣の柄を握り締め、鞘から一気に抜き放ち。そして答える。

 

「ええ。不足の事態、流石に動揺せざるを得ないですが……だからと言って、ここで引き退がりでもしたら、俺は俺の憧れに顔向けできなくなる」

 

「……ハハッ!やっぱりお前は『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の新たな可能性(ニューエース)だな!」

 

 俺とジョニィさんは互いに笑い合い、そして特異個体率いるデッドリーベアの群れに、得物の切先を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、久々に良い運動になったな。なあ、お前ら?」

 

「よくもまあ言ってくれるぜッ!盾職(タンク)だからって躊躇なく、遠慮なく、そして容赦なく文字通り俺のこと盾にしやがってッ!今回ばかりは流石に死ぬかと思ったぞッ!」

 

「はいはい。今回復魔法使ってあげるから、さっさと機嫌を直すんだよ」

 

「いやセイラ……仕方なさそうにそう言ってるがな、お前が一番ベンドのこと都合の良い肉盾扱いしてたよな……?」

 

「え?私、回復職(ヒーラー)だよ?一番重要な役割を担っているんだよ?」

 

「……ああ、そうか。そうだな、もういいや」

 

 ……という、ある種仲間同士打ち解け合っている会話を耳にしながら、俺は空を見上げていた。見上げて、デッドリーベアの特異個体(ユニーク)との戦闘を頭の中で振り返っていた。

 

 ──実際戦ってみれば、そう大したことはなかったな。……それとも、俺の実力が増したんだろうか。

 

「突然こっちの依頼(クエスト)に巻き込んじまってすまなかったな、ライザー。けどおかげさまで助かった。何せ、ある程度楽ができたんだからな。楽が」

 

「いえ、気にしないでください。俺も『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の冒険者(ランカー)として、当然のことをしたまでですから。……それに、『夜明けの陽』との共同依頼なんて滅多にできないことでしたし、貴重な経験を得られました」

 

 未だ打ち解け合っている者同士特有の、何の遠慮も気遣いも皆無な会話を繰り広げる三人を放って。斃した特異個体の赤毛を片手に俺の方まで歩み寄り、ジョニィさんが言葉をかけてくる。対し、俺もまた最初の頃に比べて滑らか(スムーズ)に彼に返答した。

 

「にしても、まあ当然と言えば当然のことなんだろうが、お前も随分と慣れたモンだよなあ。最初のガチガチだった時が今や懐かしいぜ」

 

「ははは……そりゃそうですよ。だって────一年、経ってるんですから」

 

 そう言って、俺は軽く笑ってみせる。

 

 ……そう、あの日から今日まで。俺が『大翼の不死鳥』所属の《S》冒険者となってから。シャロと過ごしたあの一夜から────既にもう、一年が過ぎていた。




おはこんにちばん。どうも、白糖黒鍵です。まず最初に謝罪をさせてください。すみません、本当にすみません。

では手短に本題へ移らせてもらいまして。投稿した七十五話と七十六話は削除致しました。理由は展開改変の為と、もう手遅れな気もしますがテンポ改善の為です。

ですので、件の話での展開はなかったものとして、忘れてもらえれば嬉しい所存です。以上、白糖黒鍵からの報告でした。


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狂源追想(その十六)

『夜明けの陽』と別れ、あれから俺はヴィブロ平原からオールティアへと戻っていた。一年前と何も変わらない街の風景を流し見ながら、俺は帰路を急ぐ。

 

 そうして俺はこのオールティアに数多く立ち並ぶ店の内の一つの前に辿り着く。その店を見やって、僅かに気を滅入らせた。

 

 ──怒ってるかなぁ……。

 

 若干躊躇いつつも、俺は店の扉に手をかけ、ゆっくりと開かせる。来客を知らせる(ベル)の音が甲高く響いた。

 

「た、ただいま……?」

 

 と、恐る恐る俺が零すようにそう言った直後。店の奥の方からドタドタと慌しい物音がして、それはすぐさま足音になって。

 

「遅い!遅いのですよ!」

 

 そう言いながら、現れたのは一人の女性。俺と同じくまだ二十代前半の、白金色の髪と瞳が目を惹く女性だった。女性はおっとりとしたその表情に、僅かばかりの怒りを滲ませて。俺に詰め寄るや否や、その顔に含まれる同質の声で訴える。

 

「一週間後には帰ると、そう二週間前に言っていましたよね!?」

 

「……そう、ですね」

 

「じゃあ何か弁明はあるので!?」

 

「…………」

 

 そう訊かれた俺は何も言わず、頬に一筋の汗を伝わせつつ、ただ無言で手に持つ紙袋をそっと彼女の目の前へ差し出す。セトニ大陸で一番の人気を誇る洋菓子店(スイーツショップ)のロゴマークが入った、この紙袋を。

 

 それを見た彼女は目を丸くさせて、それから────一気に表情に滲み出ていた怒りの度合いが、増した。

 

 ──あ、これは……。

 

 その劇的な変化を目の当たりにした俺は、本能的に悟る。自分は恐らく、選択肢を誤ってしまったのだと。そしてそれを自覚した瞬間であった。

 

「……もしかして、私のことを物で上手く丸め込めるような女性だと、貴方は思っていたのですか……?」

 

 そう言う彼女は、満面の笑みを浮かべていた。……だが、俺にはわかる。わかってしまう。その笑顔の裏にあるのは、こちらの想像をいとも容易く絶する、激情が渦巻いているのだと。それがわかるからこそ、俺は酷く狼狽しながらも慌てて口を開いた。

 

「ち、違う!そんなこと断じて思ってない!これは、その、俺なりの誠意の証というか、何というか!ちゃ、ちゃんと言葉にして謝るつもりではあったから!それはどうか信じてほしい!」

 

 ……我ながら、聞いていて説得力に欠ける言葉の数々。だがそれは本当のことで。俺の本当の気持ちで。そこに嘘偽りなど、ある訳もなくて。

 

 そしてそれは、目の前の女性にだけは伝えたかった。

 

「……はあ。全く、貴方という人は仕方がないのですよ……そんな仕方のない人に対して甘い私も私なのですが」

 

 少しの沈黙を挟んでから、嘆息を交えながらも女性はそう言った。透かさず、俺は言葉を紡ぐ。

 

「すまない!二週間も待たせて、君を一人にして……本当にすまない……」

 

 という、情けない俺の謝罪の言葉に対して。女性は────シャーロットは依然の笑顔のまま。しかし既に怒りの失せたその笑顔のままで、言葉を返してくれた。

 

「はい。私は大丈夫なのですよ。おかえりなさい、ライザー様」

 

 

 

 

 

 シャーロットは薬師を生業とし、この店で自作の治癒薬(ポーション)などの薬を売って生計を立てている。そしてこの店は彼女の自宅の役割も兼ねていた。

 

 店の奥は居住空間(スペース)となっており、お世辞にも広いとは言えなかったが、それでも中々に快適に過ごせている。

 

「やっぱりシャロの料理は美味しいな。二週間ぶりともなると、それもなおさらだ」

 

「ありがとうございます。そう褒められると、私も作った甲斐があるのですよ」

 

「ああ。君の料理が食べられるってだけでも、日々を過ごす活力が湧いてくる。……本当に感謝しているよ、シャロ」

 

「……も、もう。そこまで言われると、流石にちょっと照れてしまうのですよ」

 

 という会話を交えて、俺とシャロは笑い合う。いつの日からか、こうして彼女と過ごす時間が俺の心を癒し、かけがえのない瞬間となっていた。

 

 ──それにしても、シャロとここまでの関係になるとは、とてもじゃないが一年前には考えられなかったな……。

 

 そう心の中で呟きながら、俺はシャロを見つめる。彼女は空になった皿や用済みとなったスプーンなどの食器類を片付け始めており、また甲斐甲斐しいことに俺の分まで片付けてくれているのだが……その姿を眺めていると、胸の奥底から込み上げるものがあって、気がつくと俺は椅子から立ち上がっていた。

 

「?ライザー様……?」

 

 突然立ち上がった俺に、その手を止めてシャロが不思議そうに声をかけてくる。しかし、俺がその声に返事をすることはなく。ゆっくりと彼女の元にまで歩み寄り、そして背後へと回って。

 

 ギュッ──その華奢な身体を、抱き締めた。小さな悲鳴をシャロは上げたが、俺を拒絶することはなく。その反応に深い感謝を抱きながら、俺は彼女の柔らかな感触を味わう。味わいながら、隠す髪を鼻先で押し退け、首の(うなじ)を鼻先でなぞる。その刺激に堪らずシャロは、ビクンと僅かに身体を震わせた。

 

「シャロ」

 

 衣服越しに、自分の身体をシャロの身体に密着させて。そして彼女の耳元にそっと口を寄せて、俺は懇願を囁きかける。

 

「その、せめて風呂を済ませてからとは、思ってたんだが……君のことを見ていたら、ちょっと、我慢が……」

 

「…………」

 

 駄目だとは、自分でもわかっていた。しかし、二週間という期間は想像していた以上に堪えるもので、どうにもならなかった。

 

 自らの浅ましい劣情を抑えることもろくにできない、そんな堪え性がなく何処までも情けない男に対して。シャロは何も言わず、ただ無言のまま。沈黙を保ったまま、俺にその顔を振り向かせて────その柔い薄桃色の唇を、俺の口にそっと押し当ててきた。

 

 数秒だったか、それとも数分だったか。とにかく、俺とシャロは互いの唇を触れ合わせ、重ねていた。そして先にその唇を押し当てたのがシャロならば、また先に離れたのも彼女だった。

 

「……本当に、仕方がない人なのですよ」

 

 と、微笑みながらシャロは言って。しかし直後俺から顔を逸らして、消え入りそうな声で続ける。

 

「で、でも、その……ここでは恥ずかしい、ので。せめて、寝室に……」

 

「…………」

 

「……え、あの、ライザー様……?」

 

 その健気でいじらしい態度を目の当たりにした俺は、そんなシャロの不安そうな声に何も返事することはなく。黙ったまま、彼女の身体を抱き抱えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻はもう既に深夜を回っていた。俺は全裸のまま、寝台(ベッド)に腰かけながら、窓から星が瞬く夜空を何を思うでもなく、ただ見上げていた。

 

 深夜の静寂が満ちる最中、耳を澄ますと。聞こえてくるのは、すぐ隣のシャロの穏やかな寝息だけで。俺の欲望を文字通り受け止め体力を使い切った彼女は、このまま日が昇り、空が明るくなるまで目覚めことはないだろう。

 

 ──……二週間ぶり、溜まっていたとはいえ。加減、できてなかったな……。

 

 今思い返すと、シャロに対して遠慮も気遣いもできなかった自分に腹が立ち、嫌気が差す。しかし、彼女はそんな余裕のない俺相手でも、一度たりとも拒否することはなく、一瞬たりとも拒絶しなかった。

 

「……ごめん。ありがとう、シャロ」

 

 と、届かない言葉を呟きながら。俺はシャロの頭をそっと、割れ物を扱うかのように慎重に、優しく撫で上げる。彼女の白金色の髪は柔らかで、非常に手触りが心地良かった。

 

 ……シャロと()()()()()()だって、一年前には考えられなかった。けれど、いつの間にかこうなってしまっていた。俺とシャロの仲は深い、ずっと深い親密なものへと発展していた。

 

 先に手を出したのは、俺だ。その日のことは、忘れようにも忘れられない。……いや、忘れてはいけないのだ。それが俺の背負うべき責任なのだから。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の冒険者(ランカー)となってからの一年。思い返してみれば長いようで、しかし殊の外短く、あっという間の一年だった。

 

 依頼(クエスト)に交流。自分で言うのもなんだが、この一年で俺の名が少しばかり知られるくらいの数の依頼は達成したし、生真面目な後輩もできた。……だが、しかし。未だに俺は夢を叶えることも、目標を達することも、憧れに追いつくこともできないでいた。

 

世界最強の《SS》冒険者(ランカー)にして、『炎鬼神』の通り名で畏れ敬われる存在(モノ)、ラグナ=アルティ=ブレイズ。彼がその行方を晦ましてから、三年。依然としてその足跡すらも、俺は見つけられないでいる。

 

──ブレイズさん……あなたは今、一体どこに……。

 

 無論、何も情報を掴めなかった訳じゃない。それらしい人物を見かけたという情報はいくつかあって、それを手に入れる度に俺は出向き──────踊らされた。

 

 ──結局のところ、今回もガセだった。

 

 ……しかし、一度だけ。その一年の中でたったの一度だけ、唯一と言っても過言ではない、ブレイズさんの痕跡にあと少しというところまで辿り着いたこともあった。……その代償に、危うく死にかけたが。

 

 思い出すと、今でも鮮明に蘇る。すぐ背後にまで忍び寄られた、冷酷で無慈悲極まりないあの死の感覚が。その時俺は知ってしまった。人間はいつでも容易く死ねる、それ程までにか弱く無力な生物なのだと。

 

 それを理解し、悟った瞬間────己の奥底から噴き出し溢れ出すものがあって。それに背を押されるようにして、俺は生き残ることができた。生き残ることができて、この街に戻って来れた。またシャロの元に、帰ることができたのだ。

 

 その時、俺は知ることができた。自分の中にいつの間にかあった、シャロへの想いを。

 

「…………」

 

 しかし、俺は知る由もなかった。何処までも薄情で残酷極まりない、どうしようもない程に度し難く、そして救い難い運命が。すぐそこにまで、着実に差し迫っていたことを。



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狂源追想(その十七)

「ではまたしばらくの間は、遠出はないのですか?」

 

「ああ。新しい情報なんてそうそう手に入らないからな。また冒険者(ランカー)稼業に専念するよ」

 

 翌朝、寝台(ベッド)から起きた俺とシャロは朝の身支度などを済ませ、昨日予め作り置いていた朝食も食べ終え、玄関でそのような会話を交えていた。

 

「それじゃあ行ってくるよ、シャロ」

 

「はい。今日も一日、お互いに頑張りましょう」

 

 そう言って、俺とシャロは数秒見つめ合い。どちらかが言い出すこともなく、両方自ら進んで顔を近づけ、互いの唇を触れ合わせ、重ね合う。

 

 そうして、僅かばかりの名残惜しさを感じながらも、俺はシャロの唇から離れて。微笑む彼女に見送られながら、俺は玄関の扉を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この街の朝は忙しい。まだ日も昇って間もないというのに忙しなく、目紛しく誰も彼もが動き回っている。そんな、一年前からずっと変わらない街の風景を眺めながら、俺は街道を歩いていた。

 

 ──……ん?

 

 と、不意に俺はその場に立ち止まり、明後日の方向へ顔を向ける。何故ならば、ついさっき────大気中に含まれる魔力(マナ)の、奇妙な揺らぎを感じ取ったからだ。

 

 まるで静謐を保っていた水面に、石を投げ込み小波(さざなみ)を立てたような。……とはいえ、気の所為と言われてしまえばそれで済まされてしまう程度の、ほんの微弱な揺らぎではあったのだが。

 

 その奇妙に思える現象に、俺は否応にも関心を引かれてしまう。引かれてしまうが、今は『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に向かっている為に、すぐさま前に向き直って、何事もなかったかのように歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『大翼の不死鳥』には、そう手間もかからず、特に何もなく辿り着いた。冒険者(ランカー)になってから数日の間は通るだけでも緊張を覚えたが、一年経った今ではもう何とも思わないその門を押し開き、広間(ロビー)に進む。

 

 一年経っても街の景色が変わらないのならば、『大翼の不死鳥』もまた変わっていない。一年前と同じ、しかし微妙に人は入れ替わっているが、相も変わらず広間は喧騒で溢れ返っていた。

 

「お、ライザー!お前帰って来てたのかよ。だったらそう言ってくれよお!」

 

「ジョナスの野郎が寂しがってたぜー!」

 

「ヒャッハー!酒美味え!」

 

 ……一応、彼らも俺の先達に当たる人たちなのだが、その性格やら振る舞いやらが原因で、どうにも敬う気になれない。しかし無反応で返す程俺は淡白ではない為、とりあえず手を振って最低限の反応は示した。

 

 歓声やら何やらに背を押されるようにして先に進み、俺は受付(カウンター)前にまで向かう。そこには、現状この場で唯一、手放しで尊敬できる人が日常(いつも)通り立っていた。

 

「あら、おかえりなさいライザー。今度の情報はどうだったのかしら?」

 

「残念ながら、今度もガセでしたよ。一応駄目元で訊いてみますが、何か新情報は入ってますか?」

 

 受付に立っていた女性────『大翼の不死鳥』の受付嬢であるメルネさんに訊かれたことを手短に答え、俺もまた彼女にそう訊ねる。しかし予想していた通り、彼女はその首を横に振るのだった。

 

「こちらも残念ながら、ね」

 

「そうですか……ああ、そういえばジョナスはもう来ているんですか?『夜明けの陽』と共同依頼(クエスト)をする機会があったので、折角だからその時の話を聞かせようと思ってるんですけど」

 

「あら、それはちょっとタイミングが悪かったわね。ジョナス君なら依頼を受けて、もう行っちゃったところなのよ」

 

「え?そうなんですか?それですれ違わなかったということは、あいつは全く別の道を行ったのか……わかりました」

 

「まあ戻って来たら話してあげればいいじゃない」

 

 そう言って、余裕のある魅力的な微笑みを浮かべると共に、メルネさんは俺にグラスを差し出す。グラスには水が注がれており、受け取ってみれば適度に冷えていた。

 

「ありがとうございます」

 

 と、礼を述べて、俺はグラスに口を付け、中の水を喉へ流し込む。そんな時、ポツリとメルネさんが呟いた。

 

「貴方が『大翼の不死鳥』の冒険者になってから、もう一年が経ったのよね」

 

 メルネさんの感慨深そうなその呟きに、俺は頷き。グラスを受付台に置いて、口を開く。

 

「はい。気がつけばあっという間の日々でしたよ」

 

「……そうね。あっという間の一年だったけど、ライザー……貴方は変わらなかったわ」

 

 そう言うメルネさんの表情は、微かに昏く落ち込み、沈んでいて。それから申し訳なさそうに彼女は続ける。

 

「そう、昔も今も変わっていない。貴方の夢は、貴方の目標は、そして貴方の憧れは変わっていないのよね。……だというのに、そんな貴方の誠実さと一途さに『大翼の不死鳥』は応えられないでいる。今も、昔も……本当にごめんなさい」

 

「えっ、いや……ちょっと待ってくださいメルネさん。そんな、謝る必要なんかないですよ。『大翼の不死鳥』の情報提供には毎回助けられていますし、それに『世界冒険者組合』が躍起になって捜しても、その影すら見つけられないでいるんです。だからその、これは仕方ないというか……」

 

 突如、ブレイズさんの確かな目撃情報をろくに提供できていないことに負い目を感じ、謝罪をしてきたメルネさん。そんな彼女に対して、俺は慌ててそう言葉を返す────と、ほぼ同時のこと。

 

 

 

 ドクン──まるで心臓が鼓動を打つように。一際力強く、大気中の魔力が脈動し、揺らめいた。

 

 

 

「こ、これは、また……?」

 

 その魔力の揺らぎに、俺は身に覚えがあった。そう、それはついさっき街道を歩いている時にも感じたものと同質の、しかしそれとは比べ物にならない程にずっと、確かな揺らぎ。

 

「…………嘘」

 

 俺が僅かに動揺する最中、メルネさんが小さく呟く。見てみれば、彼女は愕然とした表情を浮かべていた。一体どうしたのかと思い、俺が口を開く────直前。

 

 バンッ──不意に、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の門が勢い良く押し開かれて。

 

 

 

 

 

「よっ、待たせたな。お前ら!」

 

 

 

 

 

 という、快活な声が広間(ロビー)を貫き。咄嗟にその声がした方向に俺は顔を向け──────目を見開いた。



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狂源追想(その十八)

 煌々と燃え盛る紅蓮の炎をそのまま流し込んだような赤髪に、衝撃によって俺の思考は一瞬にして奪われてしまい、動揺によって意識がこれでもかと掻き乱される。

 

 ──そんな、まさか……いや、でもッ!

 

 間違えるはずがない。見間違えるはずがない。俺がその人のことを、見間違えるはずがないのだ。

 

 だって、子供の頃から。夢と希望を信じ切れるはずだったのに、生まれと家と親によって歪められ捻られ曲げられ、自由や意思の尊重など微塵の欠片もなく、最悪の絶望の、底よりもさらに底の真っ只中にいた頃の、齢一桁の頃から。それを救いに、それだけを救いに何度も何度も繰り返し繰り返し、ずっと見ていたから。見続けていたのだから。

 

 謂うなれば、その人こそ夢と希望の象徴。だから、見間違えるはずなんてない。……しかし、あまりにも突然な、これ以上になく唐突な、どうしようもなく非現実めいた現実を。何の覚悟もなく、ただの日常の最中で目撃し受け止めてしまい、結果俺はその場で硬直する他なく、ただただこの位置から眺めることしかできないでいた。

 

 そんな、およそ己の人生の中で最も肝心で大事で大切な瞬間だというのに、一切の行動を起こせないでいる俺の視界の中で。その人は紅蓮の赤髪を小さく揺らし、その顔に頼もしげな笑みを浮かばせながら、依然快活とした声で周囲の冒険者(ランカー)たちに言葉をかける。

 

「おいおい、お前ら何間抜け面してんだぁ?挨拶くらい返せよな」

 

 と、その人は非難の言葉を呟くが、それはあくまでも言葉だけで、そこに怒りや悪意の類などは一切込められてなどいない。そして、言葉をかけられたことにより我に返ったのか、周囲の内の一人が恐る恐るその口を開かせ、訊ねる。

 

「い、いや、おい……ラグナ、だよな?お前ラグナなんだよな!?」

 

 そう訊ねられたその人は────────《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズさんは、怪訝そうな表情になりながらも、さも当然のようにはっきりと、こう答えた。

 

「あぁ?んなの当たり前だろ。俺が一体誰に見えてんだよ」

 

 瞬間、広間は静まり返り。そしてそれは数秒続いた後────

 

 

 

「はあああ!?いや、はああああああッ!?」

 

「おまっ、今までどこほっつき歩いてやがったんだよ!ホントお前、消える時も急なら現れるのも急だなッ!」

 

「ていうか、遂に我ら『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の『炎鬼神』様が帰って来やがったよ、おい!」

 

 

 

 ────という、喧騒に次ぐ喧騒の前に破れ去り、跡形もなく呑み込まれてしまった。凄まじい勢いで騒ぎ立てる『大翼の不死鳥』の冒険者たちに囲まれ、ブレイズさんは不愉快そうに眉を顰めかせ、堪ったものではないと彼が叫ぶ。

 

(うっせ)えわお前らぁッ!!俺が帰って来ただけでどんだけ馬鹿騒ぎするつもりなんだっ!?」

 

 しかし、そんなブレイズさんの言葉に対して。

 

「「「三年間何の音沙汰もなかった奴が何言ってやがんだ!!!」」」

 

 と、冒険者たちは全員口を揃え、透かさず反論した。それには流石のブレイズさんも悪いと思っていたようで、彼は口を小さく開いたまま、何も言えずばつが悪そうな表情を浮かべ、ただ固まっていた。

 

「全く呆れたもんだぜ。俺たちゃぁお前が何も知らねえ子供(ガキ)の頃から面倒見てやってたってのによお。大の男になって、『世界冒険者組合』お気に入りの《SS》冒険者(ランカー)になって、その途端にこれだもんなあ」

 

「お前さんは世界最強の一人、『炎鬼神』様だけどさぁ。その前に『大翼の不死鳥』の一員でもあるだろうに。なのに三年も勝手にいなくなっちまって……せめて連絡の一つくらいでも寄越せや!」

 

「そうだそうだ!俺たち『大翼の不死鳥』を軽んじ過ぎてんだ!この恩知らず!」

 

 ブレイズさんが黙っているのを良いことに、当人たち曰くまだ子供だった彼の面倒を見ていたらしい『大翼の不死鳥』の冒険者たちは皆口々に、そして好き勝手に文句をぶつける。

 

 ……しかし、それはブレイズさんも看過できなかったようで。彼は眉を引き攣らせながら、わなわなと怒りで震えている声をゆっくりと絞り出す。

 

「……こっちが、黙ってりゃ……好き放題、言いやがって……!!」

 

 例えるならば、それは噴火直前の活火山。もう既に秒読み段階までに突入しており、このままでは確実に大噴火を起こしてしまう────かに、思われた。

 

「ていうか、お前まずメルネの姐さんに謝ってこい。一体姐さんがどれだけお前の心配してたか……」

 

 という、一人の冒険者の言葉に。ブレイズさんは硬直した。

 

「!……ッ」

 

 その上、さらに────いつの間にか受付(カウンター)台から移動していたメルネさんが、気がつけばブレイズのすぐ目の前に立っていた。……それも、今すぐに泣き崩れてしまいそうな表情で。

 

「……ねえ、ラグナ」

 

 そしてその表情と同様に、メルネさんの声音も弱々しく震えて、掠れていた。彼女の涙で濡れて潤んだ瞳に見つめられながら、そんな声音で話しかけられたブレイズさんの表情が、一気に気不味いものへと様変わりし、その頬に一筋の汗が伝う。……誰がどう見ても、彼は今酷く狼狽していることが手に取るようにわかったことだろう。

 

 だがしかし、そんなブレイズさんの様子など知ったことではないし、構わないとでも言わんばかりに。メルネさんが続ける。

 

「私、心配したのよ?本当に、心配してたのよ?それに私だけじゃないから。GM(ギルドマスター)やジョニィたちだって、貴方のこと……ずっと、ずっと……」

 

 言っているその途中で、メルネさんは俯いてしまう。そんな彼女に対してブレイズさんは動揺し、たじろぎながらも。何とかその口を開かせた。

 

「い、いや。えっと、ま、待て。待ってくれ。その何だ、俺にも色々あったつーか、何つーか……あ、あんまり知られたくねえ、事情があっていうか……」

 

 ……なんとも言えない、歯切れの悪い返事。そんなブレイズさんの言葉に対して、俯いていたメルネさんがゆっくりと顔を上げる。その瞳は見開かれており、まるで信じられないとでも言いたげに口元を手で覆い隠していた。

 

「……事情?私やGM、ジョニィたちにも、他の冒険者たちにも言えない、そんな事情があったっていうの……?一体いつの間に、ラグナは『大翼の不死鳥(フェニシオン)』をそこまで信頼できなくなっていたというの……う、ぅぅぅ……!」

 

 と、メルネさんは悲哀に満ち溢れた言葉を繰り出し、その終いには嗚咽するかのような呻き声を残す。それを間近で目撃してしまったブレイズさんは、溜まったものではないとでも言わんばかりの慌てぶりで、急いで弁明し始めた。

 

「ばっ……はあっ!?いや何でそうなんだよっ?俺は別に信用とか信頼とかできなかったから話さなかった訳じゃなくて、本当に知られたくねえ事情だったからって訳で……だああああっ!もう面倒くせぇえええッ!?」

 

 依然騒ぎ立てる冒険者たち。今や泣き崩れん様子のメルネさん。そして、この場の雰囲気に完全に圧され、もはやどうしようもなくなっているブレイズさん。結果、あまりにも混沌めいた状況が作り出され、事態の収拾がつけられなくなり始めてしまっていた。

 

 それをどうすることもなく、呆然と傍観していた俺だったが────気がついた時には、もう歩き出していた。

 

「クッソが!俺が一体何したって……あぁ?」

 

 堪らず今自らが置かれている状況に対して文句を溢すブレイズさんであったが、その途中で胡乱げな声を上げる。それはきっと、こうして目の前にまで俺が来たからだろう。

 

 その髪と同じく、真紅の瞳が俺の姿を捉える。それから物珍しそうに、ブレイズさんが口を開かせた。

 

「お前、初めて見る顔だな」

 

 すると、透かさずメルネさんがその調子のまま、ブレイズさんに説明する。

 

「それはそうよ……だって彼、一年前に新しく『大翼の不死鳥』に入ってきた冒険者(ランカー)なんだから。紹介するわね、ラグナ。彼はライザー=アシュヴァツグフ。この一年間、冒険者稼業をしながらもずっと貴方のことを捜し続けていた子よ」

 

「は?俺のことを、一年間……?」

 

 メルネさんの言葉を聞いたブレイズさんが、当惑したようにそう呟く。当の俺といえば、まだ何も言えないでいた。

 

 ──……信じられない。まるで現実じゃないみたいだ。まさか、本当に今……俺の目の前に、立っているだなんて。

 

 早く、早く言わなければ。今すぐ閉じているこの口を開いて、声をかけなければ。そう、本能は急かすのだが、未だに理性が追いつけないでいる。そんな最中、不意に俺の脳裏で想起される、一つの記憶(えいぞう)があった。

 

 それは、部屋の中で新聞紙に載せられた一枚の写真を、飽きもせず眺めている子供の自分の姿。その時抱いていた感情が、鮮明に呼び起こされていく。

 

 そして、気がついた時には──────

 

 

 

 

 

「……ずっと、ずっと追いかけていました。俺は、あなたのことを……子供の時から、ずっと……!!」

 

 

 

 

 

 ──────そう、俺は心からの言葉を吐露していた。

 

 だが、しかし。

 

「…………」

 

 ブレイズさんは、黙り込んでいた。彼が浮かべているその表情は────何故か申し訳なさそうなもので。何処か、苦しそうにも思えた。一体それが何を意味しているのか、俺が理解するよりも先に。沈黙していたブレイズさんがその口を開かせる。

 

「そうか。……でも、悪いな。お前のそれに……俺はもう、応えられねえんだ」

 

 ……一瞬、ブレイズさんが何を言っているのか、俺はわからなかった。理解ができなかった。そしてそれをわかろうとする間も、理解させてくれる時間すらも、俺には与えられなかった。

 

 ギギィ──『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の扉が、突如として開かれる。それも遠慮気味に、この上なく静かに、そっと。必然、その場にいた誰もが反射的に開かれた扉の方を振り向いた。

 

 

 

 

 

「……あの、すみません。冒険者組合(ギルド)『大翼の不死鳥』って、ここで合ってます……か?」

 

 

 

 

 

 という、やたらおっかなびっくりに呟かれたその質問に。広間(ロビー)全体に響き渡る、良く通る声でブレイズさんが答える。

 

「ああ、合ってるよ。ここが『大翼の不死鳥』だ。……お前ら、紹介するぜ」

 

 そして、ブレイズさんはこう言った。

 

 

 

「クラハ。クラハ=ウインドア。今日から俺の────後輩になる奴だ」




できれば三十までには終わらせたい


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狂源追想(その十九)

「クラハ。クラハ=ウインドア。今日から俺の────後輩になる奴だ」

 

 先程の発言が未だ理解できないでいる俺の頭の中に、ブレイズさんの言葉が無理矢理に捩じ込まれる。瞬間、俺の思考は完全に停止し、もう何も考えられなくなっていた。

 

 ──こう、はい……?こうはい、後輩……?

 

 ただただ呆然と、その単語を頭の中で繰り返し反芻させることしか、もはやできないでいた。

 

 だがしかし、状況は構わず進んでいく。現実は俺のことなど気にも留めず、俺一人を置き去りにして、俺の目の前を横切り過ぎていく。

 

「クラハ、お前来るの遅いぞ。先輩の俺を待たせて道草食うとは、結構良い度胸してるじゃねえか」

 

「い、いや……僕、この街に訪れたの今日が初めてなのに、ラグナ先輩がどんどん先に行っちゃうから……それもろくに場所も教えずに」

 

「あぁ?そうだったか?」

 

「そうですよ!」

 

 言いながら、そいつは────クラハ=ウインドアは、こちらに歩いて来る。あろうことか、ブレイズさんを名前で呼び、先輩と慕いながら。

 

 俺は視界を通して頭に流れ込んでくる情報を、まるで現実逃避するかの如く淡々と整理する。

 

 率直に言って、特徴らしい特徴がない奴だった。短く切り揃えられた黒髪に、おどおどとした自信げのない、不安を帯びた瞳。中肉中背の、優男。見た目からして、俺とはそう歳は離れていないように思えた。

 

 そんな特徴がなく、どうにも印象に残りづらい、身も蓋もない言い方をしてしまえば影が薄い。そんな青年であるクラハ=ウインドアがブレイズさんの目の前にまでやって来たかと思えば、その顔に困ったような表情を浮かばせ、ブレイズさんにこう言った。

 

「全くもう……酷いですよ、先輩。おかげで迷いましたし、大変でしたよ。その上で怒られるなんて……流石に理不尽ですよ」

 

「……あー、まあでもこうしてちゃんと着いたんだから、別にいいんじゃねえのか?」

 

「そ、それはまあそうですけども」

 

 突如として現れた、そのクラハとかいう青年は。相手があの世界最強の《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』の通り名で畏れ敬われるラグナ=アルティ=ブレイズさんと。会話を繰り広げる。少なくとも、それをこうしてすぐ目の前で眺めている俺の目には、そういう風に映っていた。

 

 そして信じ難いことに──────それをブレイズさんは受け入れていた。何の躊躇もなく抵抗もなく、それを許していた。俺にはそれが、とてもではないが信じられず、信じたくなかった。

 

 苦笑と微笑。それぞれ浮かべている種類こそ違えど、互いに共通して笑い合いながら、周囲のことなど気にせず会話する二人。その姿、その光景を間近でまざまざと見せつけられ────瞬間、唐突に。突如、刹那に。俺はわかってしまった。理解してしまった。

 

『そうか。……でも、悪いな。お前のそれに……俺はもう────

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ──── 応えられねえんだ』

 

 

 

 

 

 居場所なんてものは、最初から既になかった────否、()()()()()()。そのことがわかった瞬間、そのことを理解した刹那。驚く程に、俺の頭の中は冴え渡っていった。

 

「て訳ってことだ。見た通り、今日からクラハも『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の冒険者になる。そんでもって、俺の後輩。ほら、自己紹介」

 

「……え?」

 

「え、じゃあないだろ。基本だろーが、自己紹介」

 

「い、いや、えっと……あ、あの。ぼ、僕はクラハ=ウインドアと申します。その、これから精一杯頑張らせてもらいます……?」

 

 冴え渡る頭の中とは対照的に、俺の心の内はあり得ない程急速に、尋常ではない勢いで曇り、濁り、淀んでいく。そのことを、半ば無理矢理にわからされ、強制的に理解させられる。そんなことは露知らず、ブレイズさんに言われるがままに。口答えした挙句、あまりにもお粗末な自己紹介を述べたそいつの所為で、それがさらに酷く悪化していく。

 

「何だぁその自己紹介。クラハ、お前それでも俺の後輩かよ」

 

「い、いきなり自己紹介しろって言われても、僕はこのくらいのことしか言えないですよっ!」

 

(なっさ)けねえなぁ……まあお前らしいっちゃお前らしいけどよ。……つーことで、クラハのことよろしくな。お前ら」

 

 今すぐにでも鼓膜を破り裂くか、耳を削ぎ落としたい気分になっている俺を他所に、周囲の『大翼の不死鳥』の冒険者たちは苦笑いしながらも、信じられないことにそいつへ歓迎の言葉を贈る。

 

「あ、ああ。こっちこそよろしくな」

 

「……こう言っちゃなんだが、あんまり頼もしそうには見えん」

 

「で、でもまあ一応期待はしておくとするぜ、新人(ニュービー)さんよぉ」

 

 と、口々に言う彼らが。普段であれば別に気にも留めない奴らの言動が。今だけはやたら不愉快というか、過剰な程までにこちらの癪に障る。

 

 ……けれど、せめてもの救いと思うべきか。その人だけは他とは違ってくれていた。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいラグナ!そんなの……こんなのって流石にないわ!あんまりにもあんまりじゃないの!」

 

 と、呆然自失に立ち尽くす他ないでいる俺に代わって、ブレイズさんに怒りの言葉をぶつけるメルネさん。そのまま、彼女がこう続ける。

 

「ライザーだって、ずっと貴方のことを追いかけ続けていたのよ?さっき自分で言ってた通り、子供の頃からずっと!彼は言っていたわ、貴方は夢で、目標で、そして憧れだったって……なのに、いざ『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へ辿り着いてみれば貴方は行方不明で!でも、それでも彼は『大翼の不死鳥』に入った。入って、一年間ずっと、貴方を……ラグナ=アルティ=ブレイズを捜し続けたのよ!?」

 

 気がつけば、広間(ロビー)は静まり返っていた。メルネさんの声だけが響き渡り、それはブレイズさんを悲痛に叩く。

 

「《SS》冒険者(ランカー)でしょ!?『炎鬼神』なんでしょう!?だったら二人の面倒くらい見なさいよ!ライザーの夢と目標と憧れである貴方が、きちんと応えなさいよッ!」

 

 ……そこまで言ってくれて、ようやっとメルネさんは止まった。声を荒げた所為か、言い終えた彼女は肩を上下させ、短い間隔で何度も呼吸を繰り返す。そんな様子の彼女に対して、少しの沈黙を経てから、ブレイズさんは口を開いた。

 

「もう決めたんだよ。俺はコイツに……クラハに俺のこれまでとこれからを、全部を叩き込む。そう決めたんだ。それを俺は絶対に曲げえねえし、誰にだって曲げさせねえ」

 

 ブレイズさんの言葉に、メルネさんが愕然とした表情を浮かべる。俺といえば────ただただ、表現しようのない感情の渦の只中に立たされていた。

 

 ブレイズさんの言葉には、ただならぬ決意と。そして覆しようもない覚悟が込められていて。それが嫌でも伝わってしまう己に、心底腹が立つ。何よりも──────その全てが、余すことなく、今ブレイズさんの隣に立つ青年に注がれていることに、この上なくどうしようもない程の怒りが込み上げる。

 

 ──何故?どうして?一体、こんな何処ぞの馬の骨ともわからない奴の何が、ブレイズさんにそこまでさせる?

 

 ブレイズさんの言葉を聞く限り、彼とその青年にはただならない事情があるらしい。それはわかったし、そうなのだと理解もした。したが、かといって欠片の微塵程も、俺は納得できない。

 

 そもそも、この青年……俺にはそう大した人物には到底思えない。世界最強の《SS》冒険者にして『炎鬼神』であるラグナ=アルティ=ブレイズさんがそこまで入れ込む程の魅力も力量も────才能もあるようには到底、残念ながら全くもって思えないのだ。

 

 ──だのに、何故なんだ……?一体、どうしてなんだ……ッ?

 

「それに『大翼の不死鳥』にいるのは俺だけじゃない。ジョニィだって……『夜明けの陽』だっていんだろ。……まあ、そいつには悪いとは流石に思うよ。でも、応えられねえモンは応えられねえ」

 

「……そんな。でも、どうして……?どうして、貴方はその子にそうまで……?」

 

 俺が独り、身も心も焦がす激情に囚われる最中。まるで俺の気持ちを代弁するかのように、メルネさんがブレイズさんに訊ねる。

 

「あぁ?それは、それが俺の……」

 

 メルネさんの問いかけにブレイズさんはそこまで答えるが、それ以上の先は続けずに、途中で口を噤んでしまう。数秒の沈黙を挟んでから、彼はその口を再度開かせ、言った。

 

「……いや、何でもない。とにかく、そいつの憧れだか何だかに応える気はねえ。俺が面倒を見んのは、クラハだけだ」

 

 そのブレイズさんの言葉を聞いた瞬間、俺を囚わる激情は俺の心に忍び込む。それは瞬く間に俺の心に広がり、侵食し、隈なく、際限なく蝕んでいく。

 

 そして気がついた時には────────俺の目の前は真っ暗になっていた。そんな時、不意に俺の鼓膜をある声が不躾にも震わせる。

 

「あの……だ、大丈夫ですか?その、顔色が優れないみたいですけど……?」

 

 恐らくこの世で最も不快で耳障り極まるその声に、俺は視線を向ける。すると、いつの間にかそこに奴が立っていた。滑稽にも何処か怯えているような、不安そうな表情を浮かべながら。おっかなびっくり、一体どういうつもりかこちらに手を差し出していた。

 

「えっと、さっきも言いましたが、僕はクラハ。クラハ=ウインドアです。どうかこれから、よろしくお願いします」

 

「……クラハ……ウインドア…………」

 

 まるで確かめるようにその名を呟いた俺は────次の瞬間、吐き捨てるかのようにこう言っていた。

 

 

 

 

 

「クラハ=ウインドア。俺はお前を認められない。だから俺は、お前に決闘を申し込む」




考えるな。ただ、感じろ


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狂源追想(その二十)

「クラハ=ウインドア。俺はお前を認められない。だから俺は、お前に決闘を申し込む」

 

 そう確かに。確実に聞き取れるようにはっきりと、俺は己の目の前に立つ青年────クラハ=ウインドアに向かって吐き捨てた。

 

 瞬間、まず訪れたのは静寂で。だがそれも、すぐさま破り捨てられることになる。

 

「……ちょ、ちょっと!ちょっと待ちなさいっ!決闘?決闘って、ライザー貴方一体どういうつもり!?急に、いきなりどうしたのッ!?」

 

 と、堪らず慌てた様子でメルネさんが悲鳴の如くそう叫んだが、生憎と今の俺に彼女の言葉に反応してやれる程の余裕など、なきに等しかった。

 

 今、俺の中にあるのは自らを焼き滅ばさんまでの憤怒と、狂おしい程の嫉妬と、とてもではないが堪えられない絶望────後は、まだわからない。けれどまだ何かあるのは、確かだった。それら全ての負の感情が、俺をこのような暴挙に走らせたのだ。

 

 途端、只事ではないとどよめき、騒つく周囲。しかしそれらを気にすることもなく、俺はただ返事を待っていた。

 

「け、決闘!?いえ、そんな……こ、困りますよ。どうして、僕とあなたがそんなことを、こんな脈絡もなく突然、いきなりしなきゃいけないんですか?そんなの、おかしいですよ……絶対におかしいですよっ!」

 

 ……およそ、望んでいたものとは遥か遠くかけ離れた、度を越してふざけたその返事に。俺の理性は瞬く間に削り抉られ、あっという間に冷静さを欠かれる。そして自分の認識は甘かったことを、俺は自覚させられる。先程才能もないと思っていたが、それは間違いだった。一応こんな奴でも最低限の才能があった────これ程までに、人の気分を害すという、最低の才能とやらが。

 

 俺は堪らず舌打ちしそうになるのを必死に我慢しながら、思わず本能的に出そうになる罵倒の言葉を飲み込み、口を開き、この期に及んで口に出したくもない代わりの言葉を吐き出す。

 

「おかしくはない。理由ならある。言っただろ、俺はお前を認められない。だから決闘をする。立派な理由の下に、俺とお前は決闘するんだ。おかしいことなんて、何もない」

 

 ……何やら、俺の言葉に周囲が動揺している気がするが、何故だろう。一体俺の言葉のどこに動揺する要素があったのだろうか。俺にはわからない。理解できない。俺はただ、俺の本心に従っているだけだというのに。

 

「いやだから、それがおかしいんですよ!僕とあなたはこれで初対面じゃないですか?なのに、一体僕の何が認められないっていうんです?僕があなたのことを全然知らないように、あなただって僕のことを全然知らないはずだ。なのに、一体どうして……?」

 

 そしてこいつも、一体何をほざいているのだろう?わかりたくもない、理解したくもない。まだ齢一桁の子供(ガキ)でもわかるし理解もできる、そんな簡単なことすらわからず理解もできやしない愚鈍な屑なのだろうか。きっとそうに違いない。ますますもって、こんな奴にブレイズさんがあそこまで入れ込む程の理由がわからない。理解できない。

 

「全部」

 

 だから、仕方なく。俺はせめてもの情けとして、一握りの親切心をどうにか捻り出し、答えてやることにした。

 

「お前の全部が気に入らない。とにかく気に入らない。どうしようもなく気に入らない。だから、俺はどうあってもお前のことを認められそうにない」

 

「そん、な……」

 

 どうやら目の前の(ゴミ)は礼儀もろくに知らないらしい。こうして人がわざわざ考えなくともわかるし理解できるし察せて当然なことを、手間暇かけて懇切丁寧に教えてやったというのに。礼の一つもまともに述べられず、馬鹿みたいに絶句しやがった。いい加減、頭の血管ブチ切れそうになってくる。

 

 と、その時。何故かこんなタイミングで。あり得ない乱入が起きた。

 

「ラ、ライザー!?貴方本当に一体どうしたの!?貴方、本気でそんなこと言ってるの!?」

 

 乱入者であるメルネさんがそう口を挟んできたが、俺の方こそ何故彼女がそんなことを訊いたのか全くもって意味不明だった。どうしてそんな一々(いちいち)答えずともわかるような当たり前のことを、さも理解不能で非常識極まっていることのように彼女は言っているのか。その所為で悲しいことに、俺は彼女にまで多少の苛立ちを覚え始めてしまう。

 

 嘆息したいのを堪えつつ、俺は億劫そうにメルネさんに言葉を返してやる。

 

「ええ、本気ですよ。俺は何から何まで本気だ。……何です?貴女は俺に、何か文句でもあるんですか?……メルネさん」

 

 すると予想外のことに、メルネさんも言葉を失ってしまったかのように絶句してしまった。そんな彼女の反応もまた俺には意味不明で、正直────失望してしまった。直後、唐突に俺はまた理解する。

 

 ──ああ、そうか。そういうことか。メルネさん……貴女も、そうなんですね。

 

 俺はどうやらメルネさん……否、メルネ=クリスタのことを誤解していたらしい。先程の態度の所為で危うく騙されかけたが、結局のところ、この人も『大翼の不死鳥』側の人間だったということだ。

 

 ──今ここに、俺の味方なんて誰もいやしない……そういうことだったんだ。誰も彼も、須く、悉くが敵ということだったんだ。……上等だ、そっちがその気だというのならば、俺だってやってやる。とことん、やってやるさ。

 

「おいライザー……お前、よりにもよってメルネの姐さんに向かってなんて口利いてやがんだ!!」

 

 と、不意に今まで阿呆のように突っ立ち、こちらのことを傍観することしかできないでいた無能の一人が、何やらほざきながら俺の方に駆け寄ってくる。ので、俺は間抜けにもこちらの間合いに踏み込んだその無能の顔面を────拳で殴った。

 

 バキャッ──そんな音をさせながら、その無能が吹っ飛び広間(ロビー)の床を転がる。数秒の静寂の後、それを引き裂くようにメルネさんが悲鳴を上げた。

 

「きゃあぁあああぁあぁぁあっ!?」

 

 その悲鳴に突き動かされるようにして、他の無能共も喧しく、その耳障り極まりない声を上げる。

 

「な、何やってんだてんめえ!!」

 

「おいザンクロウ!?大丈夫か、しっかりしろザンクロウ!!」

 

「野朗共!全員であのイカれ、ブッ飛ばすぞ!」

 

 ──……イカれ?は?イカれてんのは俺のことを邪魔してるお前らだろうが。何言ってんだ、この脳足りんの負け犬共が。

 

 そう心の中で吐き捨てつつ、こちらに向かって駆け出す無能共を俺は他人事のように眺める。が、その時──────

 

 

 

「止めなさいッ!!!」

 

 

 

 ──────という、メルネの鋭い一喝が広間を貫き、俺の方へ駆けていた全員がその場に縫い付けられたかのように立ち止まった。遅れて、彼女が震える声で絞り出すようにして言う。

 

「……同じ冒険者組合(ギルド)に所属している冒険者(ランカー)同士による私闘は禁止よ。そのことを、貴方たち全員は忘れたというの?」

 

「い、いやでも姐さん!先に手を出したのはライザーの野朗ですよ!?」

 

 メルネに窘められるが、しかし納得できない無能の一人がそう叫ぶ。だがそいつの言葉を無視して、彼女は顔を俯かせたまま、言葉を続ける。

 

「ライザー。このことは、GMには報告しないでおくわ……だから、今日はもうこれ以上何も言わずに、帰って頂戴。……お願い、だから」

 

 それは切実なメルネの言葉。恐らく彼女は、心から込み上げてくるものを必死に押さえつけ、抑え込み、堪えた上で口にした言葉なのだろう。そんな切実な彼女の言葉を、俺は────

 

「断る」

 

 ────即答で。何の躊躇いもなく、一切の情けなく無慈悲に切って捨てた。すると俺のこの返事は予想外の想像外だったのか、メルネがバッと俯かせていたその顔を跳ね上げさせる。彼女の瞳は、愕然としたようにに開かれていた。

 

「……貴方、自分が一体何を言っているのかわかってるの……!?」

 

「ええ。わかっていますし、きちんと理解もしている。当然のことじゃないですか」

 

 俺はそう返事する傍ら、この人に対して失望の念を抱かずにはいられなかった。

 

 ──まさか、そんなつまらないことを一々訊ねるなんて。仮にも元『六険』が……その名が泣いているぞ。

 

 そもそも、彼女の言葉は論外だった。聞くに堪えない、あまりにも自分勝手な酷い言葉であった。故に、だからこそ俺はメルネの言葉を、ああやって切り捨てた。

 

「それに、その規律(ルール)はあくまでも同じ組合に属する冒険者同士による私闘を禁じているだけじゃないですか。そう、冒険者()()による私闘をね。けれどそこのそいつは冒険者でも何でもない、ただの旅人じゃあないですか。故に、俺とそいつの私闘は規律に反しはしない……違いますか?」

 

「それ以前の問題だと私は言っているのよッ!《S》冒険者(ランカー)がただの旅人に対して決闘を持ちかけること自体、間違っているの!ライザー、貴方はそれをわかってもなければ、理解だって全くできていないッ!!」

 

 ──……ああ、もう駄目だ。この人も、あの無能共と同じでもう駄目だ。

 

 俺は己の中でその結論を出し、メルネから目の前に立つ障害物(じゃまもの)へ視線を戻す。そいつはこの状況に追いつけていないのか、間抜け面を晒しながら呆然とその場に立ち尽くしていた。

 

「俺と決闘しろ。今、すぐにでも」

 

「……おかしいですよ。こんなの、絶対におかしい……」

 

 こいつは返事もろくにできない、どうしようもない奴らしい。遅れながら、それを俺は理解する。理解し、この上なく腹が立ち、苛立ちを加速させ募らせる。

 

 ──俺が求めているのはそんな言葉なんかじゃない。それを、手っ取り早く教えてやろうか……?

 

 と、心の中で呟きながら。俺は拳を握り締め、そして──────

 

 

 

 

 

「クラハ。その勝負、受けてやれ」

 

 

 

 

 

 ──────振り上げる前に、淡々と。予想外なことにも、ブレイズさんがそう言うのだった。



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狂源追想(その二十一)

「得物の使用は自由。決着は先に相手に一撃を入れるか、降参するか。このくらいで十分だろう」

 

 と、俺は言いながら得物である剣を鞘から引き抜き、振り上げ切先を向けて、真っ直ぐ見据える。この決闘が決まり、双方合意したというのに、それでも未だに気乗りのしない表情を浮かべているその青年────クラハ=ウインドアを。

 

「合図は……そうだな。メルネさんに任せましょう。別に構いませんよね、メルネさん?」

 

 言いながら、俺はメルネの方を見やる。彼女といえば、普段ならば絶対にしないであろう渋面を晒していた。

 

「……ええ。別に構わないわ、それで」

 

 と、今浮かべているその表情通りの声で。不機嫌なことを少しも隠さずにメルネは言う。それから彼女はぼそりと小さく呟く。

 

「こんなの、馬鹿げてるわよ。全く、本当に……」

 

 ……やはりというか、この期に及んでまだメルネは俺とこのウインドアとやらの決闘に対して、反対の意を捨てられないでいるらしい。だがもう文句は言わせない。だって、何故ならば、ブレイズさんがこの決闘を認めてくれたのだから。

 

 ──そこで見ていてください、ブレイズさん……その居場所に見合う、立つべき相応しい者が一体誰であるかを、この俺が証明してみせますよ……!

 

 そう、間違ってもこんな何処ぞの馬の骨とも知らぬ輩などではない。世界最強の三人、人の域から外れた、埒外にして桁違いの『極者』。絶対無比の《SS》冒険者(ランカー)にして『炎鬼神』である貴方の、ラグナ=アルティ=ブレイズさんの隣に立つ資格を有するのは、他の誰でもない────この俺だ。

 

 そう、齢一桁の子供の頃から。その時見た夢と、抱いた目標と、追いかけた憧れを。朽ち果てさせず、色褪せさせないで、ずっと変わらないままに持ち続け、そして今の今まで求めて生き抜いたこの俺だけが、その資格を有しているはずなのだ。……そうだと、言うのに。

 

 ──どうしてお前みたいな奴なんかが、既に立っていやがるんだ……どうして、どうしてッ!!

 

 故に俺は認めない。断じて、絶対に認める訳にはいかない。そして俺は、果たさなければならない。その居場所の奪還を。ブレイズさんの隣を、取り返さなければならないのだ。その為であれば────この命を賭けることも辞さない。それだけの覚悟を以て、俺は今ここにいる。

 

 ──そのような覚悟を、どうせお前は持ってはいないだろう……そんな奴が、そこに立っていてはいけないんだ。そうだ、そうに決まっているッ!!

 

 俺の行いを、誰も彼もが邪魔しようとした。あろうことか、仲間だと思っていた『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の皆がだ。俺のこの行いは、決闘は正当性のある正義の下による行いであるというのに。……そう、俺は裏切られたのだ。『大翼の不死鳥』に。

 

 けれど、ブレイズさんだけは違った。この人だけは、俺の行いを是とした。俺の正義を認めてくれた。俺を────受け入れてくれた。だからこそ、ブレイズさんはああ言ったのだろう。

 

 

 

『クラハ。その勝負、受けてやれ』

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺は思った──────やっぱりこの人しかない。この人だけが、俺を理解し俺を許容し俺を受け入れてくれる、ただ唯一無二の存在(モノ)なのだと。そして同時に俺は確信に至ったのだ。

 

 ──待っていてくださいブレイズさん。今すぐこのウインドアとかいう路傍の石の呪縛から、貴方を解き放ってみせますよ……そう、他の誰でもない、この俺がッ!

 

 俺がそう固く心に誓う傍ら、まるで非難するかのようにメルネが隣に立つブレイズさんに話しかける。

 

「貴方も貴方よ、ラグナ。言っておくけど、ライザーの実力は本物よ。《S》ランクからの登録を初めに、この一年で彼は様々な依頼(クエスト)を達成しているし、新人(ニュービー)にも関わらず高難易度な依頼も達成した実績があるの。それだけじゃない……近々、『世界冒険者組合(ギルド)』から冒険者番付表(ランカーランキング)入りも打診されているわ。この意味……貴方ならわかるわよね、ラグナ?」

 

「まあな」

 

「……なら、ならどうしてこんなこと認めたのよッ!こんな、こんな……っ!」

 

 ブレイズさんに対する無礼な物言いと態度に些か腹が立ったが、如何に俺が優れた冒険者であるかを彼に説明してくれているので、それは許すことにしよう。そう、俺の実力はそこらの《S》冒険者などとは比較にはならない。当然、今目の前に立つ馬の骨など、もはや比較するまでもない。

 

 ……だというのに。

 

 

 

「あいつもあいつでそれなりなのはわぁってるよ。……けど、それでも()()()()()()()()()()

 

 

 

 そう、信じ難いことに。ブレイズさんは断言したのだ。彼の言葉を耳にした瞬間、俺は思わず目を見開いてしまう。

 

 ──なん……だと……っ。

 

 この俺が、《S》冒険者の俺がこんな奴に敵わないだなんて。一体、一体何がどうあってブレイズさんはそう言えるのだろうか。数瞬の間思考を巡らし、俺はある一つの結論を弾き出した。

 

 ──そうか、そういうことか……ブレイズさん、きっと貴方は乱心しているんだそうに違いない。でなければ、そんなことを貴方が言うはずがない……!

 

 俺はその結論に辿り着いた瞬間、身も心も焼き尽くさんばかりの憤怒に駆られる。ブレイズさんがこんな何の価値もないような輩に狂わされているのだと気がついたのだ、当然のことだろう。

 

 その怒りを腕に、手に伝わせ。このまま砕かんばかりの力を込めて、俺は剣の柄を握り締める。そしてそのまま斬りかかりたい衝動を必死に抑えながら、俺は叫んだ。

 

「お前もさっさと得物を出せぇッ!いつまでそうして馬鹿みたいに突っ立っている気だこの愚図がッ!腰のそれは単なるお飾りなのかよォ!!」

 

「……」

 

 だが、それでもそいつの表情は何処か浮かばれない様子であった。ばつが悪そうというか、不憫そうというか────とにかく、これ以上この上なく史上最高に腹が立つ、忌々しい表情には違いなかった。

 

 そんなふざけた顔をされて、俺は腸が煮え繰り返る程の怒りを覚えたが、そいつもようやっと一応の覚悟を決めたらしい。俺に言われて数秒の間を置いて、クラハ=ウインドアはその手を腰に下げていた剣の柄にやり、そして鞘から静かに、ゆっくりと引き抜いてみせた。

 

 遂に訪れたこの瞬間────決して表情には出ないよう、俺は内心でほくそ笑む。

 

 ──ブレイズさん、待っていてください……この俺が、ライザー=アシュヴァツグフが貴方を正気に戻してみせる。こんな小っぽけでくだらない狂気なんて、容易く一瞬で振り払ってみせる……!

 

 そして改めて、その居場所に俺は立つ──────そう思うのと、メルネが一枚の金貨(コイン)を取り出すのはほぼ同時のことだった。

 

「これが床に落ちた時……その時が、開始の合図よ」

 

 メルネの言葉が広間(ロビー)に響き渡り、そして次の瞬間静寂に包まれる。鬱陶しい観客(ギャラリー)共は、全員黙ってこの決闘の行く末を見届けようとしていた。

 

 そうして、遂に。メルネが金貨を指で弾いた。弾かれた金貨は宙を舞い、落ちて────床と衝突し、甲高い音を、広間に響かせた。

 

「シャァアアアアアアッ!!」

 

 その音が響いたと同時に、俺は床を蹴りつけ、剣の切先を突き出しながら、そう叫ぶと共にその場から駆け出していた。対し、正面のクラハ=ウインドアは未だその場に立っているままだった。

 

 恐らく、俺の動きを目で捉えられず、こうして今動き出したことにすらまだ気づいていないのだろう。もしくはその視界から一瞬にして俺の姿が消え失せ、混乱と焦燥に駆られて動けないでいるかの何方(どちら)かだ。そうに決まっている。

 

 ──やっぱり、やっぱりなやっぱりそうだったな!分不相応が過ぎたんだよ、この馬の骨のクソ野郎がッ!そうやって認識も理解も何もできないまま、俺に斬られて負けてろッ!!

 

 次の瞬間には、自分があの居場所に────ブレイズさんの隣に立っている。そのことを確信しながら、意識の最中でゆっくりと過ぎる周囲の景色を流し見ながら、折角なので馬の骨の表情でも眺めようかと思い、視線を移す。そして、気づいた。

 

 ──え?

 

 馬の骨────クラハ=ウインドアの目が、俺を真っ直ぐ見据えていたことに。それに俺が気づく頃には────────

 

 

 

 

 

 ガギィンッ──という、金属と金属が擦れ合う、不快な音が広間に響き渡っていた。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 その時、俺は剣を突き出した体勢のまま、その場で硬直していた。……そう、今さっきまでクラハ=ウインドアが立っていた場所で。

 

「お、おい……」

 

「……全く、見えなかったぜ……」

 

「一体、何が起きた……?俺らの目の前で、今何が起こったっていうんだ?」

 

 遅れて、そんな周囲の騒めきが俺を現実へと引き戻し。不覚にも呆然としていた俺は慌てて背後を振り返る────やはりというべきか、そいつは立っていた。俺がさっきまで立っていた場所に、今度は奴が立っていた。

 

「ク、クラハ=ウインドア……!」

 

 信じられなかった。確かに、確かに俺の視界の中では、奴はまだこの位置に立っていた。そのはずだった。だが実際には、俺が元いた位置に立っている。それも何のつもりか、俺に背を向けて。

 

 幻覚系の魔法を使われた形跡はない。そもそも、そういった魔法は、それも戦闘中咄嗟に幻覚魔法を使える者などは、相当高位な魔法職(メイジ)の他にいない。そしてどう鑑みても、奴がそんな魔法職な訳がない。

 

 しかし、どちらにせよ問題はない。俺の背後を取ったにも関わらず、即座に斬りかからない上に、余裕を演出したいのか俺に背中を向けている。未だ、この決闘の決着はついていないというのに。

 

 最上級にこちらを舐めたその態度を前に、俺は大いに怒り狂いそうにはなったが、それを既のところでなんとか抑え込む。自分でも言ったが、何せまだ決闘は終わっていないのだから。

 

 ──馬鹿めッ!

 

 そう心の中で罵倒を浴びせながら、俺は剣を振り上げ再度床を蹴りつける────その直前、一声が広間を素早く貫いた。

 

「そこまでよッ!」

 

 その声の主は、言うまでもなくメルネであり。しかしその静止の呼びかけは、俺にとっては全くもって理解ができないものであった。

 

「何がそこまでだッ!?まだ、この決闘は続いているぞッ!」

 

 透かさず、俺はそう反論したが────しかし、何故か周囲の反応がおかしかった。決闘を眺めていた『大翼の不死鳥』の無能共が、揃いも揃って動揺し騒ついていたのだ。その様子を見やって、俺は心の中で吐き捨てる。

 

 ──こいつら、一体何を……。

 

 疑問を抱く俺に、何故かほんの僅かに慄いているような表情を浮かべながら、メルネが言う。

 

「ライザー……自分の右肩を、見てみなさい」

 

「右肩?俺の右肩がどうし……」

 

 そう言葉を返しながら、俺は視線を己の右肩へと移す。移したその瞬間、俺の視界に飛び込んだのは────────真一文字に裂かれた服の袖と、そこから覗く鮮烈な赤色だった。



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狂源追想(その二十二)

「ライザー……自分の右肩を、見てみなさい」

 

「右肩?俺の右肩がどうし……」

 

 そんなメルネの言葉を煩わしく思いはしながらも、彼女の言葉に従い、俺は素直にも視線を己の右肩へと移し、見やる。

 

 すると俺の視界に飛び込んだのは、綺麗な真一文字に裂かれた服の袖と、そしてその隙間から覗く────鮮烈な赤色であった。

 

 その景色を目の当たりにした俺は、頭から冷や水をぶち撒けられたかのような衝撃と驚愕に見舞われ、そしてそれらによって動揺と混乱が併発される。上手く回らず働かない思考の中で、俺は信じられない面持ちで呟く。

 

 ──い,一体これは……いつの間に、俺はいつの間に斬られていた?俺は、自分が斬られたことに気づかなかった……気づけなかった……ッ!?

 

 という、取り留めのない言葉を頭の中にばら撒きながら。俺はただただ、混乱し困惑し、そして戸惑う他になかった。

 

 傷自体はそう大したことはない。出血はしているが、そもそも傷口が浅いのですぐに止まることだろう。……だが、問題はそこではない。

 

 纏まらない思考の最中、しかし不思議な程確かに、はっきりと。それだけが、浮かび上がってくる。

 

 

 

『得物の使用は自由。決着は先に相手に一撃を入れるか、降参するか。このくらいで十分だろう』

 

 

 

 その、己の言葉だけが、脳裏にて正確過ぎる程までに浮かび上がってくる。

 

「……そんな、馬鹿な」

 

 ……そう、この決闘の勝敗を分けるのは、降参か────先に一撃を入れるか。言うまでもなくクラハ=ウインドアに手傷の類はなく、対して俺は現にこうして右肩から血を流している。その傷口から目を離せず、この状況を受け止めようとしている俺を後押しするように────否、止めを刺すかのように。

 

「この決闘はもう終わったの、ライザー。……貴方は、負けたのよ」

 

 そう、メルネが言った。

 

「…………俺が、負けた……?」

 

 自らそう呟いた瞬間。上手く纏まらないでいた俺の思考は、弾け飛び、一気に瓦解する。右肩の傷から流れる血が腕を伝い、手を濡らし、そして指先から滴り落ちていく。そんな感覚だけが、やたらはっきりとしていた。

 

 数滴の血が床に落ち、点々とした赤い模様を描くその最中。俺は剣の柄を握ったまま、呆然自失にその場で立ち尽くすことしかできないでいる。そんな俺に、まるで────いや、最初からこうなることがわかっていたように。俺にとって最悪の一言に尽きるこの結末を予期していたかのように。さも当然だというように、その人が言う。

 

「だから言ったろ、クラハには敵わねえって。……これでもう、クラハを認めるしかねえよな?」

 

 その人は────ラグナ=アルティ=ブレイズさんは俺のことを眺めながら、ぶっきらぼうに言う。俺を見るその眼差しは、まるで駄々を捏ね癇癪を起こしていた子供を見ているような、何処か呆れているようなものであった。

 

 彼にそう言われて、俺は呆然と心の中で呟く。

 

 ──認め、る……?あんな奴が、俺よりも優れていると……?あんな奴が、俺よりもブレイズさんの隣に立つのに相応しい、と……?

 

 そう呟きながら、俺は振り返る。これまでのことを、今に至るまでのことを。

 

 始まりは齢一桁の子供(ガキ)の頃から。それを夢にして、目標にして、そして憧れにして。俺は今日まで生きてきた。生まれてから何もかもが決めつけられていた、無価値な人生を少しでも価値のあるものに変えようと、生き続けた。

 

 ……だが、それを今こうして。完膚なきまでに、否定された。

 

 ──こんな、はずじゃ……ッ。

 

 それをそうと理解し、認識したその瞬間────俺の中で何か、表現し難い何かが、生まれて膨らんで、そして広がっていた。

 

 ──こんなことで、あと一歩の手が届くというところで俺は俺の今までを否定されなくちゃならないのか……?馬鹿な、そんなのあまりにも馬鹿げている……!

 

 その思いは強まる程、濃くなる程に色を変える。ドス黒く、変色していく。やがてそれは俺の視界にも影響を与え始め、急激に狭まり、薄暗くなってゆく。

 

 しかし、何故かそれと反比例するように強烈に、鮮明に。その背中だけは、この事態を招いた元凶の背中は映り出していく。加減知らずに限度もなく激しさを増し、不規則に乱れ始める動悸を感じながら。俺は小さく、掠れた声で呟く。

 

「俺、は……俺は……っ」

 

 呟きながら、剣の柄を握る手に、徐々に力を込め始める。

 

「……ライザー?」

 

 そんな俺の様子を不審に思ったのか、メルネがそう声をかけながらゆっくりと、こちらに近づいてくる。……けれど、彼女が近くにまで歩み寄る、その前に。

 

「俺はぁあああぁぁああああッ!」

 

 突如として心の奥底から込み上げた、抑えようがなく、そして抗えない激烈の衝動に背を押され。俺はそう叫ぶや否や、その場から駆け出していた。

 

「ライザーッ!?」

 

 驚き声を上げながらも、俺を止めようとしたメルネの制止を振り切り、また彼女に続こうと慌てて一斉に動き出した周囲の冒険者(ランカー)たちよりも、俺はずっと早く。

 

「うああああっ!おぉぁぁあぁああああッ!!」

 

 こちらの叫び声に驚いたのか、咄嗟にこちらを振り返ったクラハ=ウインドアとの間合いを詰め。そして俺は固く柄を握り締めたまま、剣を振り上げ。反射的に鞘から剣を再度抜こうとしているクラハ=ウインドアへ、何の躊躇いもなく、一切の遠慮容赦なく剣を振り下ろす────────

 

 

 

 

 

「おい」

 

 

 

 

 

 ────────が、振り下ろされんとしていた俺の剣は、ブレイズさんによって止められた。

 

「……ぁ、ぁ」

 

 剣を止められた俺は、そんな言葉にもならない呻き声を呆然と漏らすことしかできず。対し、刹那よりもずっと素早くクラハ=ウインドアの前に出て、俺の剣を止めてみせたブレイズさんは。剣身を掴んだままその体勢のまま、底冷えしそうになる程低い声音で、静かに言う。

 

「そろそろいい加減にしておけよ、お前……こっちはただでさえ仲間を無能呼ばわりされて、メルネも馬鹿にされて……さっきからずっと腹ァ立ってムカついてんだよ、わかってんのか……?」

 

 ブレイズさんがそう言う最中で、剣身が彼に掴まれている部分を始めとして、徐々に赤みを帯びていく。遅れて、俺の鼻先を仄かな熱気が擽った。

 

「しかも負けたってのに、クラハに襲いかかりやがって。往生際が(わり)ぃにも、限度ってもんがあんだろうが。なあ」

 

 何も言えず、何の身動きも取れずにいる俺のことを。その真紅の瞳で真っ直ぐに見据えながら。一段と声音を低くさせて、ブレイズさんは続けた。

 

 

 

「焼くぞ、お前」

 

 

 

 ゴウッ──ブレイズさんがそう言った瞬間、俺の剣を掴む彼の手から、その髪と瞳と全く同じ色をした炎が噴いた。

 

 その赤い炎は一瞬にして剣身を飲み込み、貪る。それは時間にしてほんの僅かな、恐らく刹那よりも短い瞬間。しかし、すぐ目の前で赤光を放ち、輝き煌めいて燃ゆるその炎が────俺には、何処までも綺麗で、何処までも美しいものに思えた。

 

 やがて満足でもしたように、炎の勢いは一気に弱まり。結果見えるようになった俺の剣は、柄から先はブレイズさんの炎によって喰らい尽くされ、先程まで健在であったはずの剣身は影も形もなく、すっかり消え失せてしまっていた。

 

 それを目の当たりにして、言葉を失い絶句する他ないでいる俺を尻目に。ブレイズさんは燃ゆる炎と一体化し、赤熱している手を乱雑に、軽く振るう。

 

 宙に赤い尾を引いて、一瞬。ブレイズさんの五指の先に宿っていた炎は一際強く輝き、その煌めきを周囲に放ったかと思えば、火の粉を残して儚く霧散した。

 

「……」

 

 炎を消し終えたブレイズさんは、俺を一瞥する。その時浮かべていた表情と眼差しを目の当たりにして────瞬間、俺は目を見開いた。

 

 ──…………ぁ。

 

 唐突に。突如として、俺は思い出したのだ。思い出してしまったのだ。

 

 それは初めて目にした姿。初めて見知った、写真の中の姿。そして今、それと全く同じ姿で。ブレイズさんは、俺の目の前に立っていた。

 

 ……だが、ブレイズさんは何も言わなかった。何も言わずに、その口を閉ざしたまま、憐憫の表情と侮蔑の眼差しを。ただ、俺に向けるだけだった。

 

 それは十数秒の間だったかもしれないし、もしくは数分の間だったのかもしれない。ただ言えることは、気がつけばブレイズさんはその踵を返し、俺の目の前から歩き出していて。

 

 対する俺は、徐々に遠去かるその背中を。柄を握り立ち尽くしたまま、黙って眺めることしかできなかった。

 

 何故ならば、思い出すと同時に────────()()()()()()()()()()

 

 ──……なんて、ことを。俺、は……なんてことを、してしまったんだ。

 

 そう、俺はようやっと。こんな、手の施しようがないところにまで至って、気づかされた。もはや贖うことすらも許されない程の過ちを、自分は今日。よりにもよって夢と、目標と、そして憧れとしていた人の目の前で、犯してしまったのだと。

 

 激しい後悔と絶望に挟まれ押し潰されながら、俺は心の中で慟哭を響かせる。

 

 ──俺はぁぁぁぁ……ッ!

 

 頭の中で幾重にも、巻き戻されては繰り返される先程までの行い。人生の全てを投げ打ってでも手に入れたかった夢が、目標が、そして憧れが。とっくのとうに誰かの手に渡っていたという現実を受け止められず、その現実を否定する為に。その現実を拒絶する為に────違う、ただその現実から逃げ出したかった。ただ、その為だけに自分は。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の皆を。そしてメルネ────メルネ=クリスタさんですらも、謗り蔑み嘲った。それはもう、何をどうしようが、決して赦されることのない過ち。贖うこともできない程の、俺の罪。

 

 それら全てをブレイズさんに気づかされた俺は、ただひたすら後悔に嘆き、懺悔を叫ぶことしかできない。心の中で情けなく、みっともなく、どうしようもなく。

 

 だが当然、そんな俺に対してブレイズさんが関心を向けるはずなどなく。彼はうんざりとした、鬱屈の声音で言う。

 

「おいクラハ。もう行くぞ。GM(ギルマス)にお前のこと紹介したかったけど……そんな気分じゃなくなっちまった。それにどうせ、GMもいないだろうし」

 

「……え?あ、いや……はい。わかり、ました」

 

 そうして周囲を置き去りにしながら、ブレイズさんはクラハ=ウインドアに言って。対するクラハ=ウインドアもまた、呆然としながらも慌てて返事をする。

 

 ……そして、俺はそんな二人の会話をただ聞くことしかできないでいた。

 

 ──こんな、はずじゃ、なかった。こんなはずじゃなかったんだ。

 

 と、心の中で呟いた直後。俺の全身から力が抜け落ち、今の今まで握り締めていた柄が、手から滑り落ちる。それに続くようにして、俺もまた床に崩れ落ちた。

 

 もう、何も考えれなかった。何も考えたくなかった。辛かった。全てが、何もかもが酷かった。

 

 覆しようのない諦観と、どうしようもない喪失感だけが。今の俺を満たし、埋める。

 

 ──……ああ、でも。やっぱり駄目だ。駄目なんだ。

 

 だがそんな状態に陥ってもなお、この期に及んでなおも────俺は認められないでいる。クラハ=ウインドアのことを、許容できないでいる。

 

 当然だ。だって、その場所に二人分などない。その人の隣に立つことを許されているのは、ただの一人だけ。それを俺は今も、求めて止まないでしまっている。もはやそれを手に入れる資格は失せたにも関わらず。

 

 だからこそ、俺はクラハ=ウインドアを認める訳にはいかない。たとえ否定することに意味がなくとも、たとえ拒絶することに意義がなくとも。俺は奴を────────絶対に認めない。

 

 

 

 

 

「……認め、ねえ。俺は認めねえ……認めねぇえええええッ!」

 

 俺の視界から、徐々に遠去かるその背中へ。己に対するありったけの嫌悪と失望、憎悪と怨恨を込めながら、俺は叫ぶ。

 

「俺は認めねえ!こんな、こんなの俺は絶対に認めねえぞッ!!」

 

 血を垂れ流し、唾を飛ばしながら。無様極まりなく、俺は喚き立てる。

 

「覚えとけ……覚えとけよ!いつか必ず、俺がお前をぶちのめしてやるッ!」

 

 立ち止まったクラハ=ウインドアが、俺の方を振り返る。その表情は驚きと、怯えが混じっていた。

 

「この借りは返す……絶対に、絶対にだッ!!」

 

 だが構うことなく俺は続ける。叫び続け、そして。

 

 

 

 

 

「わかったな!?──────クラハァッ!!!」

 

 

 

 

 

 喉を破り裂くつもりで、俺はその名を吐き捨てた。



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狂源追想(その二十三)

 この街────オールティアは夜も賑わっている。日中とはまた違った、夜独自の賑わいがあるのだ。

 

 点々と輝く街灯に照らされながら、街道を行く人々。そんな人々の内の数人を呼び込もうと、快活に声をかける酒場などの、夜という今の時間帯が本番の店の従業員たち。

 

 それら様々な光景が、この街の夜の日常で。俺もまたそれを好ましいものだと思い────しかし、今だけはどうしようもない程に癪に障り。鬱陶しいことこの上なく、そして煩わしいと。そう、俺は感じる他ないでいた。

 

 ──……。

 

 そんな自分に対して嫌気を差しつつ。何の疑問もなく、そして何の葛藤もなく。平穏安寧に、幸福そうに夜の日常を余すことなく享受している街の住人や、旅路の途中で訪れたのだろう者たちを流し見ながら。俺はただ無言で、黙ったまま。鉛のように重たい足を堪らず億劫になりながらも、引き摺るようにして。街道を進み、帰路を辿る。

 

 ……そう、シャロが独り待つ、店を兼ねている彼女の家を目指して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』からそう離れてはいないはずなのに、今日だけはやたら遠く長い帰路に思えた。心の中でそんな感想を抱きながら、俺は目の前の建物を軽く見上げ。そして若干気が憚られながらも、俺は懐から鍵を取り出そうとしたのだが。ふと手を止め、それから数秒挟みつつ、呼び鈴を鳴らした。

 

 リリーン──今ではもうすっかり聴き慣れてしまった鈴の音が響いて。それからすぐに扉の向こうからトタトタという足音がした後、間を置かずガチャリと扉の鍵が外される音がした。

 

「おかえりなさいませ、ライザー様」

 

 扉を開いて、その言葉と共に俺を出迎えたのは。白金色の髪と、それと全く同じ色をした瞳の女性────シャーロット。今、彼女の顔には花のような笑顔が可愛らしく咲いていた。

 

 何の裏表もない、純真無垢で屈託のないシャーロット改めシャロの笑顔に、荒れ果て沈み込んでいた俺の心が幾分か癒され。そしてすぐさま返事をしようと俺は口を開きかけ──────

 

 

 

『クラハ=ウインドア。俺はお前が認められない』

 

 

 

 ──────そんな言葉が、脳裏に響いた。

 

 ……シャロは、良い子だ。彼女は優しい、誰もが認める善人だ。対して俺は────最低最悪の、人種だ。

 

 

 

『お前の全部が気に入らない。とにかく気に入らない。どうしようもなく気に入らない。だから、俺はどうあってもお前のことを認められそうにない』

 

 

 

 齢一桁の頃からずっと。夢を見て、目標を抱いて、そして憧れた。それは全てかけがえのない大切で大事なもので。きっとそれは俺をライザー=アシュヴァツグフたらしめる、代えの利かない要素で。

 

 だからこそ、俺はああも言うことができた。今日会ったばかりの、何の事情も知らない人間に対して。ただそこに二人分の居場所などないから、引き退らせる為だけに。あんな酷い言葉を、遠慮容赦なくぶつけることができてしまった。

 

 それだけじゃない。あろうことか、俺は────

 

 

 

『ええ、本気ですよ。俺は何から何まで本気だ。……何です?貴女は俺に、何か文句でもあるんですか?……メルネさん』

 

 

 

 ────関係のない人たちにまで、逆上の矛先を向けてしまった。もうそれは、どうあっても許されない行為で、もはや取り返しのつかないことで。そしてそれは、俺にとって最悪極まりない、この世の地獄とも思える末路を招いた。

 

 

 

『そろそろいい加減にしておけよ、お前……こっちはただでさえ仲間を無能呼ばわりされて、メルネも馬鹿にされて……さっきからずっと腹ァ立ってムカついてんだよ、わかってんのか……?』

 

『しかも負けたってのに、クラハに襲いかかりやがって。往生際が(わり)ぃにも、限度ってもんがあんだろうが。なあ』

 

 

 

 

 

『焼くぞ、お前』

 

 

 

 ──……俺は最低の人間だ。俺は、最悪の人間だ……。

 

 仲間を侮辱し、傷つけ。人生の全てだったはずの存在(モノ)を失望させ。挙げ句の果て────その人の大事で大切な存在すらも、手にかけようとした。俺は、ライザー=アシュヴァツグフは……最低最悪の。

 

 ──そんな俺が、いいのか……?最悪最低のそんな俺が、シャロみたいな善人と言葉を交わし合っても、触れ合っても……関わり合ってもいいのか?

 

 いい訳がない。そんなこと、あるはずがない。こんな善人を────汚して穢すことなど、絶対に許されない。

 

 であれば、俺は────────

 

「……あの、ライザー様?」

 

 ────────という、こちらの身を案じるシャロの声に。後悔と絶望の深淵に突き落とされかけていた俺の意識が、不意に引っ張り上げられ、連れ出され。俺はハッとしながらも、静かに。

 

「……ただいま。シャロ」

 

 という、疲れた声音で返事することしかできなかった。そして無論、善人なシャロがそれを見逃す訳もなく、すぐさま彼女は俺に訊ねる。

 

「そ、その。どうかなされたのですか、ライザー様。わたしには、貴方が疲れ切っているように、思えて……」

 

「……」

 

 シャロの優しさが、俺の心に染み込んでくる。それは温かで、心地良くて────それ故に、痛かった。苦しかった。辛かった。

 

「ああ、そうだね……ごめん、シャロ。俺、疲れたよ。今日は凄く、疲れたんだ……」

 

 今すぐにも彼女の元に倒れ込み、彼女のことを抱き締めしてしまいそうになる自分を。凄まじい吐き気を堪えながら、必死に抑え。みっともないことに情けなく震えて止まらない声音で、俺はそう返事する。

 

「そ、そうなのですか?ライザー様、何か私に……貴方の為にできることはありませんか?」

 

 ──……君は、本当に……。

 

 シャロは根っからの善人だ。彼女の言葉に、偽善などというものは、一切含まれていない。そう、彼女は本気で本当に俺の身と、そして心を案じて言ってくれている。それが容易にわかってしまう程、彼女の善意は明け透けで。それは自信を持って誇れる、とても素晴らしい徳のあるものだ。

 

 そう深く思うと同時に、俺は確信する。故に、シャロにこう言った。

 

「大丈夫。でも、しばらく一人にしてほしい」

 

 その時、俺は笑顔を浮かべているつもりではあったのだが。あまり芳しくはないシャロの反応を見る限り、酷い笑顔だったのだろう。だがそれを気にする程の余裕なんて、今の俺は持ち合わせていなかった。

 

 何か言いたげにしていたシャロであったが、軽く微笑んで。小さく頷き、優しい声音で彼女は言う。

 

「わかりました。では私は、夕食の準備をしますね」

 

 そうして、玄関での俺とシャロの会話は終わったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──…………どうすれば、よかったのだろう。俺はあの時、一体どうするべきだったのだろう。

 

 部屋の中、寝台(ベッド)に腰かけ。顔半分を手で覆い俯かせながら。俺は独り、黙々と。そんな自問をただひたすら、永遠と繰り返していた。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』での今日の振る舞いは、決して許されることではないと、俺もわかっている。そしてそれを償い、贖うことすらも。

 

 今日背負った俺の罪は、それ程までに重いものなのだ。……だからこそ、俺はこの部屋に入ってからずっと、答えの出ない自問を馬鹿みたいに繰り返している。

 

 ……いや、本当のことを言ってしまえば────()()()()()()。答えなんて、とっくのとうに出していた。

 

 認めてしまえばよかったのだ。意地を捨て、さっさと認めてしまえばよかった。あの青年────クラハ=ウインドアのことを。そうすれば、あんな出来事など、きっと起こらなかった。

 

 ああ、そうだ。認めてしまえば────諦めてしまえば、よかった。その居場所には一人分の空間しか用意されておらず、そしてその居場所に選ばれたのはクラハ=ウインドアだった。だから選ばられなかった俺が潔く身を退き、あの青年のことを『大翼の不死鳥』の新たな一員、仲間として。歓迎の一言でもかけてやれば、それでよかったのだろう。

 

 もしそうしていたのならば。もし、そうできていたのであれば。仲間であるはずの『大翼の不死鳥』の冒険者たちを侮辱することも、メルネさんを嘲笑することも────ブレイズさんに失望されることも、なかったはずで。

 

 そしてまた明日から日常を、日常(いつも)通りの生活を送れていた。『大翼の不死鳥』の皆と騒いだり、依頼(クエスト)をこなしたり……そして、戻って来たブレイズさんと他愛のない世間話なども、できたかもしれなかった。

 

 そう、たとえもう自分の想いが届くことはなくとも。この夢と目標と、憧れが理解されることなどなくとも。

 

 同じ場所にいることくらいは、できていたかもしれない。俺が齢一桁の頃から抱いた夢を、定めた目標を、そして追いかけ続けたその憧れを。

 

 俺の人生の全てを捨て去ってしまえれば、諦めていられれば、何も起こりはしなかった。

 

 それに、それで俺は全てを失う訳じゃない。他にも大切で大事な、代えの利かない存在(モノ)を見つけることができた。これからの人生は、その存在の為に────シャロの為に費やせば、それでよかったのではないか。

 

 ──そう、シャロの為に、俺の人生を……。

 

「…………ハハ」

 

 ()()()()()()()()()。そんなこと、俺にできるはずがなかった。こんな最低最悪の俺なんかに。

 

 だって、もはや手遅れだというのに。それなのに、俺は未だ夢と目標と憧れを捨てられないでいる。諦め切れないでいる。

 

 ……やはり、どうしても。俺はどうしても────クラハ=ウインドアのことを認められないでしまっているのだ。

 

「……」

 

 と、その時。不意にこの部屋の扉が数回、遠慮気味に叩かれて。それから申し訳なさそうなシャロの声が、扉を挟んで聞こえてきた。

 

「あ、あの。ライザー様、夕食の準備が終わったのですが……」

 

 ……シャロは、根っからの善人だ。そんな彼女と、最低最悪の俺が、これ以上関わっていいはずがない。

 

 だから、俺は────────

 

「……ありがとう、シャロ。そしてごめん。後で行くから、ちゃんと行くから……まだ少しだけ、そっとしておいてほしい」

 

「……ラ、ライザー様。私、私……」

 

 俺の返事に、シャロは何かを言い倦ねて。しかし、彼女がそれを最後まで紡ぐことはなかった。

 

「…………わかりました。では、お待ちしていますね」

 

 そう言い残して、数秒は扉の前に立ったまま。だがやがてゆっくりと、シャロがその場から去る気配を俺は感じ取る。

 

 そうして廊下から彼女の気配が完全に消えたのを確認して、俺は部屋の中で呟いた。

 

「シャロ。……シャーロット。俺は、決めたよ」

 

 呟いて、俺は窓を見やる。夜空に浮かぶ月が、こちらを見下ろし。この身に降り注ぐ青白い月光が、やたら眩しく。そして冷たく思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ん、ぅ……?」

 

 静寂漂うリビングに、そんな可愛らしい呻き声が響く。それを発したのは、すっかり冷め切った料理が並ぶテーブルに突っ伏していた、絢爛に輝く美しい白金色の髪をした女性────シャーロット=ウィーチェである。

 

 まだ重たげな寝ぼけ眼を擦り上げ、シャーロットはゆっくりと突っ伏していた上半身を起こす。それから少し遅れて、彼女は悲鳴の如く言葉を発した。

 

「い、いけないっ!私としたことが、いつの間にか眠ってしまって……」

 

 それから慌ててすぐ目の前の料理を見やり、既に冷め切ってしまっていることを確認したシャーロットは、悲しげな表情を浮かべ────ふと、気づいた。

 

「あら、これは……?」

 

 向こう側、ほんの一年前までは誰も座ることがなかったそこに。料理が乗せられた皿の隣に、あるものが置かれており。シャーロットはそれを手に取り、呟く。

 

「……冒険者様の、冒険者証(ランカーパス)でしょうか……?」

 

 そう、見紛うことなく。それは己が歴とした、冒険者組合(ギルド)に所属する正規の冒険者であることの証。そしてこの冒険者証に、シャーロットは見覚えがあった。

 

 

 

『これを見てくれシャロ!俺、やったよ。遂にやったんだ!』

 

 

 

 そう、これは正しく『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属の《S》冒険者(ランカー)────ライザー=アシュヴァツグフの冒険者証だったのだ。

 

 それを手に取ったシャーロットは、己が胸に当てて、呆然と彼の名を口に出す。

 

「ライザー様……?」

 

 彼女の呟きは、静かに。そして悲しげに響いた。




ここまで長々と付き合ってくださり、ありがとうございます。本当の本当にありがとうございました。

次回、遂にライザー過去編……完結でございます。


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狂源追想(その終)

「……オールティア。一年間、住んだだけだったけど……良い街だった」

 

 薄明の空の下、ヴィブロ平原の辺境にてそんな呟きが風に乗り、宙へ混ざって溶けて、消える。それは人の目には決して映らないはずの光景ではあったが、まるでそれを察したかのように。独りその場に立ち尽くし、遠方から明けの陽光に照らされる街を見つめていた青年が、踵を返し背を向け、ゆっくりと歩き出す。

 

 青年の瞳は、昏く虚ろであった。意思なきそれは先を見据えているのか、何処を見定めているのか。側から見てもそれを判断することはできないし、恐らく青年自身にもできはしないだろう。

 

 そう、青年の瞳はただひたすらに────空虚だったのだ。

 

 目的地を決めているとは到底思えない足取りで進んでいた青年だったが、ふとその場で歩みを止める。それから周囲を見渡し────刹那。

 

 ジャララララッ──突如無数の鎖が出現し、青年を囲むようにして超巨大な輪を作り上げた。

 

「……」

 

 突然の事態。しかし、それに対してその青年は特に反応らしい反応を見せることは全くなく。それから大した間も置かず、ヴィブロ平原辺境の地にて声が響き渡る。

 

「とりあえずお久しぶり、と言っておくわぁ。ねえ、覚えているかしら……私たちのこと」

 

 声がした方向に、青年が顔を向ける。青年の視線の先には、二人の人間が立っていた。

 

 一人は女性。白の外套(ケープ)を羽織っており、しかしその下に衣服の類は身に付けておらず、また下着すらも上下共に付けてもいなければ穿いてもいない。鎖を雑に巻き付け、辛うじて局部を隠しているという、全裸とそう大して変わらない、新手の露出狂と言っても過言ではない格好の女性である。

 

 一人は男性。こちらはその女性とは違い、ちゃんと衣服の類を身に付けていた。散切り頭の若い男で、しかしその背には己の身の丈を遥かに越す、大剣の枠組みからもはや逸脱した武器────謂うなれば、巨大剣を背負っていた。

 

 どう見ても、誰の目から見ても明らかに普通ではない二人組。そんな二人を見やって、青年はまず鬱屈としたため息を吐いて。それから億劫そうに口を開き、言った。

 

「……確か、チェーンさんとブレイドさんだったか?」

 

「あら嬉しいわぁ。ちゃんと覚えていてくれてありがとう。安心したわ。これで覚えていないとか言われてたら……」

 

 白の外套を羽織った新手の露出狂たる痴女────チェーンが。その表情に妖艶な笑みを浮かべると共に、そう言った瞬間。

 

 ズドッ──突如、青年の足元が深く抉られ、土と草が宙に飛び散った。

 

「ついうっかり、すぐに殺しちゃうところだったわねぇ」

 

 と、依然その顔に笑みを浮かべたまま、冗談には聞こえない声で言うチェーン。その時、ジャラジャラと金属同士が擦れ合う音が突然響き。そしてその音は、彼女の足元から発せられていた。

 

「これのことだって勿論覚えてるわよねぇ?この、魔力で遠隔操作できちゃう特殊な鎖のこぉと」

 

「……ええ、まあ」

 

 チェーンの足元で蛇のように独りでに揺れ動いている鎖を見つめながら、青年はそう答える。それを満足げに聞きながら彼女は頷き、そして。

 

「ちなみにねぇ。一年前とは違って、今はこういうことだってできるのよ?」

 

 ズドッ──チェーンが言うが早いか、彼女の足元で揺れ動いていた鎖が急速にブレて。瞬間、再び青年の足元が抉られる。しかし今度は一箇所ではなく、一瞬にして数箇所が抉られていた。

 

「どぉ?見えたかしらぁ?ちなみに私が使っている鎖はこの一本。そう、私はこの一本で、今の一瞬で、複数の場所を。抉って、みせたのよぉ?」

 

「……」

 

 チェーンの言葉に対して、何も言わずにいる青年。その反応をきっと恐れ慄いているのだと、彼女は自らそう解釈し。その口元を僅かばかりに歪ませる。と、その時。

 

「おい。いい加減にしとけよ、お前ら。今ここにいるのは、お前ら二人だけじゃねえだろうが」

 

 今の今までその口を閉ざし、無言でその場に突っ立っていた巨大剣を背負う男────ブレイドが。突如口を開き、明らかに不機嫌そうな声でそう言った。透かさず、チェーンが彼に対して言葉をぶつける。

 

「何?何よ?何なのよ、いきなり?」

 

「先に()らせろ、チェーン。お前はとりあえず、引っ込んでろ」

 

 ブレイドがそう言った、その瞬間。凄まじい勢いで、とんでもなく濃密な殺気がこの場を包み込む。それを発しているのは言うまでもなくチェーンであり、それを当てられているのはブレイドであった。

 

「……ブレイドォ、アンタ自分で言ってること理解できてるんでしょうねぇ?だったらそれがどういうことになるんだか……当然わかってるわ、よ、ねぇ?」

 

 と、零れ落ちるのではないかと思わず危惧する程に見開かれたチェーンの目は、殺気立って血走っており。また彼女の殺気に反応しているのか、彼女の身体に巻き付いていた鎖が解け、無数の先端がブレイドへ向けられる。

 

 恥ずかしげもなく大っぴらに、己の局部を外気に晒すチェーンに。先程あのように地面を抉ったことから、人体など容易に貫くことができるであろう鎖の先端を向けられながらも、ブレイドは至極冷静に言葉を返す。

 

「ああ。だからこそ、って奴だな。あの時だって、お前に先に戦らせてやったんだろうが。それによ、第一お前は俺に借りがあるだろうが。一体どこの誰が、クソみてえなお前の糞の後始末してやったんだと思ってんだ、あぁ?」

 

「…………」

 

 そこでチェーンとブレイドは互いに無言になって、互いを睨めつけ合い────結果、先に折れたのはチェーンの方だった。

 

「もういいわよ。好きにすればぁ?その代わり、アンタだけは後で絶対に殺してやるから、ブレイド。今の内に精々覚悟しておくこと、ねぇ」

 

 そう言い終えるが早いか、先程までブレイドを狙っていた鎖が再びチェーンの身体に巻き付き、彼女の局部を隠す。そんな彼女を一瞥しながら、ブレイドがうんざりとしたように言う。

 

「上等だ。いい加減、お前みたいな糞漏らしの(くっせ)え女とはもう付き合い切れないと思っていたところでな。坊主をぶった斬ったら、次はお前の番にしてやるよ。チェーン」

 

「それ一々(いちいち)引っ張るの、止めてくれないかしら」

 

 チェーンの非難の言葉を無視して、ブレイドはその場から一歩、前に出ると。彼が今背負っている巨大剣が独りでに背中から離れ、彼はその柄を掴む。そして握り込み、ゆっくりと。彼は巨大剣を仰々しく構え、その切先を青年へと向けた。

 

「待たせたな坊主。今度こそ、ぶった斬ってやるよ」

 

 言って、即座に。ブレイドはその巨大剣を振るう。一瞬、無音の静寂がその場を漂ったかと思えば。

 

 

 

 ザンッッッ──突然地面に深い切れ込みが走り、それは青年のすぐ真横を抜けて。その奥にあった巨大な岩石を真っ二つに断ち斬った。

 

 

 

「……」

 

 少し遅れて、青年が真横に視線をやる。切れ込みは深く、ちょっとした断層となっていた。

 

「どうだ?一年前とは比べ物になりやしねえだろうがよ、今の俺の一振りは。その気になれば、俺はここから一歩も動かずに坊主をぶった斬れるんだぜ?ハハッ、怖いか?恐ろしいか?なあ、どうだよ?」

 

 と、得意げになって饒舌に語ってみせるブレイドを。真横の断層から視線を移し、青年は見やる。その眼差しは────草臥(くたび)れていた。

 

 そんな眼差しと全く同じ声音で、青年は言う。

 

「一回しか言わない。俺を放っておいてくれ。俺に、関わらないでくれ」

 

 そう、青年が言い終えるか終えないか。その間に、ブレイドは青年の目の前にまで迫り、巨大剣を振り上げていた。

 

「あばよ坊主。俺の剣、直に受けて逝けや」

 

 そう言うや否や、何の躊躇いもなく。一切の遠慮容赦なく、ブレイドは振り上げていたその巨大剣を、青年の脳天目がけて振り下ろした。

 

 宙を左右に分けながら、重力を上乗せした刃が青年へと落下していく。それは常人が視界に捉えられる速度を遥かに逸しており、一流の戦士だけが辛うじて認識できる程の振り下ろし。そしてあくまでも認識ができる訳で、躱そうとしても身体の反応が追いつくことはなく、また防御したところで、その防御ごと呆気なく両断されてしまうことだろう。

 

 そんな、必殺の一撃を。青年は──────剣身の中央を右手の五指の先で摘み、掴み止めた。

 

 衝撃の暴風が逆巻き、青年の足元が軽く沈み、周囲の地面がひび割れ砕けて宙に土埃を舞わさせる。一拍置いて、頬に一筋の汗を伝わせるブレイドが口を開く。

 

「こ、この化けも」

 

 ブレイドがその言葉を最後まで言い終えることはなかった。何故ならば、言い終えるその前に。

 

 バキンッ──青年が巨大剣の剣身をその半ばまで手折り。

 

 ザシュッ──そして目にも留まらぬ速さを以て、手折った半ばの剣身をブレイドへと振り下ろしたのだから。

 

「……のがっ」

 

 ブシャアッ──脳天から股座まで、剣身の刃に斬りつけられたブレイドがそんな短い悲鳴を上げた直後。勢いよく血を噴き出させ、宙を真っ赤に染めた。

 

 ブレイドの手から手折られた巨大剣が滑り落ち、それに続くようにして彼の身体もまた力なく崩れ落ち、地面に倒れ込む。そんな彼を、青年は無表情で、無感情な目で見下ろし。

 

「ブ、ブレイド……ッ!?」

 

 と、驚きの声を上げずにはいられなかったのだろうチェーンに。青年は視線を移したかと思えば、その手に握っていた半ばまでの剣身を無造作に投げ飛ばした。

 

 ヒュッ──動揺するチェーンに向かって、横回転しながら宙を斬り裂く剣身が飛来する。

 

 剣身の飛来速度が凄まじいもので、あまりにも呆気ない仕事仲間の最期を目撃し、狼狽えたチェーンにそれを躱す猶予などなく。だがそれでも、彼女の判断は迅速であった。

 

 ──甘いわぁ!

 

 ジャラララッ──チェーンの身体に巻き付いていた鎖の全てと、彼女の周囲に複数展開された【次元箱(ディメンション)】からも新たな鎖が飛び出す。

 

 全ての鎖がそれぞれ絡み合い、結び合い、縫い合わさる。そして刹那にも満たない内に出来上がったのは、鎖の防壁であった。

 

 ──この鎖の防壁は物理は勿論、上級魔法だって完全に、そして完璧に防ぎ切れる。その上さらに私の【強化(ブースト)】までかかっているのよ。そんな(なまくら)、何てことはないのよぉッ!!

 

 そう、自信満々に心の中でチェーンが叫ぶのと、青年が乱雑に投げた剣身が鎖の防壁に衝突するのは同時のことで。

 

 ガギギャギィンッ──直後、剣身が鎖の防壁を断ち切った。

 

「ッ!?」

 

 その勢いを全く衰えさせず、剣身はさらに宙を飛び、そして。

 

 

 

 ザシュッ──チェーンの胴体を通過した。

 

 

 

「…………」

 

 呆然と立ち尽くすチェーンの背後で、なおも剣身は飛び続け。やがて、明後日の方向に消える。それから少し遅れて、チェーンの口端から血が垂れ、彼女の顎に伝い、滴り────直後、彼女の上半身が僅かに()()()

 

 プツ、と。チェーンの腹部に赤い線が浮き出て。それから間を置かず、彼女の上半身が下半身から滑るようにして地面に落下する。ボチャボトと切断面から零れ落ちた内臓が次々と地面に叩きつけられる最中。

 

 ドチャッ、という。一際重く、柔らかく、水を多く含んだ物体の落下音が。妙に生々しく、最後に響いた。

 

 上半身を失ったチェーンの下半身は、数秒独りでに立ってはいたが。やがて切断面から流れ出した血が、太腿に幾筋もの線を引いた直後、グラリと大きく揺れ動き。そのまま、腸を鎖のように宙に踊らせ、真っ赤な線を出鱈目に描きながら倒れる。

 

 そんな、目の当たりにした者のほぼ全員がその場で吐いてしまうような光景を。しかし青年は至って平然と、最後まで見届けて。それから、ゆっくりと歩き出した。

 

 そして青年はチェーンのすぐ近くにまで歩み寄り。すると、表情を歪ませ、彼女が口を開かせた。

 

「ガフッ……ふ、ふふふ。驚いた……驚いたわぁ。まさか、ここまで……ゴフッ」

 

 血を吐きながらも、言葉を紡ぐチェーンのことを。青年は黙って見下ろす。その顔にも瞳にも、感情らしい感情は全く感じ取れない。だがそれでも、チェーンは口を閉ざすことなく、さらに言葉を続ける。

 

「本当、才能って残酷、よねぇ。心底嫌になる……ゴホッ……わぁ」

 

 けれど、着実にチェーンの時間切れは迫っている。彼女の声に勢いが失せ始め、弱々しく震え出し、やがて途切れ途切れになっていく。

 

 ……だがそれでも、青年の顔と瞳に感情は宿らない。そんな青年を次第に濁っていく瞳で下から見上げて、チェーンは────何故か満足そうな笑みを浮かべた。笑みを浮かべて、彼女は勝手に千切れて離れていく言葉を無理矢理に繋げて、それを口に出す。

 

「あ、ら……今、気づい、た……わ…ぁ。……ふ、ふ……そう、そ、うなの、ね…ぇ……」

 

「……」

 

 スッ、と。今の今まで見下ろすだけだった青年が、突如として足を振り上げる。青年の足の影がチェーンの顔に影が重なり、だがそれを全く意に介さず、彼女は続ける。

 

「歓迎、するわよぉ。……この、最低最悪の……同類、どう……ぞ……」

 

 そこまで言い終えたところで、チェーンの瞳から生気の光が消え失せ。その直後、青年は振り上げていたその足を。

 

 何の躊躇いもなく、そして一切の遠慮容赦なく振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……すみません。また、ここへ来るのがこんなにも遅くなってしまって……すみませんでした」

 

 そう言いながら、青年は懐から一本の酒瓶を取り出し。その栓を開け、それを一気に逆さにする。酒瓶の口から透明な液体が大量に流れ出し、その下にあった石にぶち撒けられ、その全体を徐々に濡らしていく。

 

「この酒、好きでしたよね。俺が何度も身体に毒ですよって言っても、飲むの止めませんでしたよね」

 

 石に酒をかけながら、青年は独り言を呟き続ける。光を失った、何処までも昏く虚ろな瞳で。

 

「ですが、今ならもう関係ありませんから。満足するまで、また堪能してくださいね」

 

 やがて酒瓶の中身全てがその石に注がれ。青年は空となった酒瓶を持ったまま、呆然と立ち尽くしていたが。不意に、またその口を開かせた。

 

「この一年、色々なことがありました。……本当に色々、あったんですよ」

 

 そう、青年は語る。何も言わず、何の相槌も打つことのないその石相手に。青年は独り、語り続ける。

 

「実は言うと、冒険者(ランカー)になってすぐ死にかけたんです。殺されかけたんですよ、俺。けどまあ、あの時は何とかなって、今もこうして生きています」

 

 という、衝撃的なことを。青年は至極冷静に、これ以上にない程真面目に語る。

 

「でも、そのおかげで。俺は気づけたんです。自分には夢と目標と、そして憧れしかないと思っていた。大切で大事なものはそれくらいしかないと思っていた。……けど、それとは別にもう一つ、同じくらい大切で大事なものがあるんだって……俺にはもう、大切で大事な存在(モノ)ができていたんだって気づくことができた」

 

 そこで初めて、ここに至るまで。ずっと無表情であった青年の顔が────僅かばかり、綻んだ。しかしそれが続くことはなく、すぐさま青年の顔から感情が失せて。それから青年は顔を俯かせてしまう。

 

「……けれど、俺は失ったんです。俺は夢と目標と、憧れ……その全部を、あの日に……自ら、手放して、しまって……ッ」

 

 そしてとうとう、堪え切れなくなったように。青年は膝を折り、その場に蹲り。弱々しく,ただひたすらに震えるその声音で、目の前の墓標に切実な言葉を漏らして、抱え込んだその気持ちを吐露していく。

 

「教えてください。どうか、この不出来な弟子に教えてください……俺は、俺はあの日あの時、どうすればよかったんですか?一体どうすれば、あんなことには……こんな結末にはならなかったんですか?一体何をすれば、俺はまたやり直せるんですか?夢と目標と憧れをもう一度手にすることができるんですか?……俺は、一体どうしたら、赦されるんですか……?」

 

 青年の言葉に、返事がされることはない。それは青年自身、一番よくわかっていたことだった。

 

 数秒、その場に静寂が訪れ。そして、それを破ったのは、無論青年であった。

 

「……ええ、わかっていますよ。わかって、いたんですよ……わかっていたのに、俺はそうすることができなかった。……できる訳がなかった」

 

 そう呟いて、蹲っていた青年は。ゆっくりと、再び立ち上がる。その瞳からは────透明な雫が流れ、一筋の線を頬に引いていた。

 

「だって、俺はそういう人間だったんですから。シュトゥルムさん……俺はそういう人間だったんです。貴方から引き出された才能を、力を……俺は他人の為に振るうことができなかった。他が為にではなく、己が為に振るってしまった。自らの薄汚い、浅ましい私欲なんかの為に。俺は貴方の言いつけを破った。俺は貴方のことを……裏切って、しまった」

 

 そこまで言うと、青年は微かに肩を震わせる。それはまるで何かを抑えようとしているような、堪えようとしているような仕草で。しかしそれも次第に激しくなり、また同時に青年の口から渇いた笑い声が徐々に漏れ出す。

 

「ハ、ハハハ……ああ、そうです。そうなんですよ。そう、俺は最低最悪の……ク、ククッ」

 

 誰の目から見ても、青年が危険な雰囲気を醸し始めているのは明白で。依然渇いた笑い声を微かに漏らし、響かせ────不意に、青年の肩の震えが止まった。止まったと同時に、青年がポツリと呟く。

 

「だから、決めました」

 

 

 

 

 

 ドガッ──瞬間、青年は足を振り上げ。振り上げたその足で、すぐ目の前の石を蹴り砕いた。

 

 

 

 

 

「そう、俺は決めたんですよ!もうこれからは俺の才能は、この力は俺の為だけに振るうって、使うって!己が為にではなく他が為に、なんて馬鹿げてる!馬鹿げ過ぎているッ!」

 

 ……青年が抑え込もうと、必死に堪えようとしていたのがそれだということは、もはや明らかであった。だが、むしろ下手にそうしてしまったことで、より強烈な反動を伴って。青年は解き放ってしまったのだ。

 

「結局、人は自分の為にしか強くなれない!何もできやしない!何も得られやしない!ただただすぐ目の前で取り零して失っていくだけッ!それをあの日あの時、俺は悟った!だからそう決めたァ!」

 

 もはや石の破片と欠片になったそれを、何度も蹴りつけ、何度も踏みつけ。そんな行為を執拗に繰り返しながら、およそ正気とは全く思えない歪んだ顔つきで、青年は言葉を吐き捨て続ける。

 

「シュトゥルムさん!もう逝って消えた我が偉大なる師、シュトゥルム=アシュヴァツグフさぁんッ!安心してください、別に貴方の教えは忘れはしませんよ。ええ、ええッ!絶対に忘れませんとも」

 

 破片を蹴り飛ばし、欠片を地面にめり込ませ。血反吐を吐く勢いで、青年は言葉を続ける。

 

「俺は忘れない!この世のどんな塵芥(ゴミ)にも劣る、こんな愚かな教えを俺は忘れませんよォ!(クズ)のカスみたいな赤の他人なんかに才能を、力を振るえと宣い、俺の人生を滅茶苦茶にしやがった貴方の教えをねェッ!!ハハハッ!ヒャハハハァアッ!!!」

 

 森の静寂を破り捨てて、青年の笑い声が高々に響く。限界を来し、壊れに壊れ、狂いに狂ってしまった青年の笑い声が響き渡っていく。

 

「クヒャハハハッ!ハハハッハァッ!!俺の力は俺のものだ!俺の力は俺の為に振るう!使う!使い潰すッ!たとえこの身朽ち果てようと!滅び去ろうと!それで、それであいつを……クラハ=ウインドアをォ…………イヒ、イヒャヒャッハハハハハハァッ!!!」

 

 青年は笑う。笑い続ける。独り森の中で、永遠と。笑いながら、己の内側に秘めていたその狂気を爆ぜさせ、溢れさせ、周囲に撒き散らす。狂気が、広がっていく。

 

「アィイヒハハハヒヒャヒャヒャアアアアアアッ!!アヒャヒャヒャハハハッハッッッ!!!クラハ=ウインドア、クラハ=ウインドアァァ……クラハ、クラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハァアギャギャギャギャァアハァハァハァッ!!!」

 

 天を仰ぎ見るその目はもはや焦点が合っておらず。血走り、零れ落ちそうになる程に、限界のギリギリまで見開かれていて。そして最後に────────青年の笑い声がピタリと止んだ。

 

 今一度、森は元の静寂を取り戻し。それから数分後、黙っていた青年は頭上を仰いだまま、静かに呟く。

 

「覚えていろ、クラハ。いつか必ず、絶対に……お前も俺と同じにしてやる。俺と同じ、最低最悪の……」

 

 そしてその途中で、青年は────ライザー=アシュヴァツグフは笑い出した。笑って、その場で笑い続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それがライザー=アシュヴァツグフの狂気の始まり。彼の狂気の源。

 

 その狂気に呑まれ、侵され、害され。

 

 抱いた夢は()()()()()

 

 目指した目標は()()()()()

 

 追いかけた憧れは()()()()()

 

 そしてその三つは度し難い彼の狂気に掻き混ぜられ────結果、一つの地獄が。ライザーの頭の中に生まれて、埋め尽くした。



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「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!おぁあああああ゛ッ!!クッソがああああああああア゛ア゛ア゛ア゛ッッッ!!!」

 

 部屋にひたすらに響く怒号。部屋を揺るがすその狂気の怒号。血反吐を吐きながらも、なおも構わずライザーは叫び続け、その拳を床に叩きつける。

 

「駄目だやっぱり駄目だッ!こんなので、あんなので収まる訳がないッ!足りる訳がないんだッ!!あの程度で終わらせる訳にはいかねえんだよぉおおおオオオッッッ!!!」

 

 ライザーの狂気は止まらない。一年前のあの日から、彼の狂気はずっと。その頭の中に形成されてしまった地獄がさらに加速させ、暴走させていく。

 

 己の狂気を解き放ち、部屋の中に撒き散らしながら、数分。その勢いを全く衰えさせずに、そこまで続いたライザーの狂乱は。突然、終わりを告げた。

 

「…………」

 

 狂気に突き動かされるままに、思う存分叩き割った床の上で。唐突に黙り込み、大人しくなったライザーは仰向けになって。虚ろなその瞳で、天井を見上げる。それから数秒経って、彼はまたその口を開かせた。

 

「どうすればいい。俺は一体どうすればクラハをぶっ壊せる?ぶち砕くことができる?どうすれば、どうすれば……どう、すれば……く、ぁ、ああ゛あ゛ア゛……ッア゛ア゛ッ!」

 

 そしてまた、ライザーの恐ろしく悍ましい、度し難い狂気が暴発し、噴出しかけた────その瞬間。

 

 

 

 

 

 ──簡単な話だ。力を手に入れればいい。そう、圧倒的に。ただ一方的に蹂躙できる、絶対の力を──

 

 

 

 

 

 不意に、そんな声がライザーの頭に直接響き渡った。直後、ライザーが昏く虚ろで、濁り澱んだ金色の瞳を見開かせる。

 

「力……だと?」

 

 一体どこの誰なのか、そもそもこの世の存在(モノ)なのかすらわからない、謎の声相手に。ライザーは呆然と返事をし、その声が彼にこう続ける。

 

 

 

 ──そうだ。力だ。そしてお前には資格がある。お前はその力を得るに足りる、相応しい人間なのだ──

 

 

 

「俺には、資格が……力を得るに足りる、相応しい人間……」

 

 と、己にかけられた言葉を繰り返し、反芻させるライザーに。その声はさらに続け、彼を引き返せない深淵へ誘うかのように、囁きかける。

 

 

 

 ──さあ、望むがいい。求めるがいい。そうすれば、お前に力を与えよう──

 

 

 

「…………」

 

 結局のところ、果たしてその声はライザーの幻聴だったのか。それともただの妄想だったのか。それは彼自身にもわからない。

 

 呆然とし続け、揺蕩う意識の最中で、ライザーは縋るように、声に対して問う。

 

「力を……その力を手にすれば、クラハをぶっ壊せるのか?俺は本当にアイツの全部を、アイツの何もかもを徹底的にぶち壊すことが……できるんだな?」

 

 ライザーの問いかけに対し、その声が出した答えは。

 

 

 

 ──全てはお前の思うがままだ──

 

 

 

 という、不明瞭かつ曖昧なもので。およそライザーが聞きたがっていた答えとは思えず。だがそれでも、その言葉を聞いたライザーは、邪悪に歪み切った笑みを浮かべた。

 

「ハ、ハハ……そうか。そいつぁ、良い。とても、良いな」

 

 そんな笑みを浮かべたまま、ライザーはそう呟き。そして──────

 

 

 

「だったら俺の全部をくれてやるよ。だからお前はありったけを寄越しやがれ」

 

 

 

 ──────はっきりと、確かにそう言った。しかし、ライザーの頭の中で響いていたその声は沈黙し。彼もまた黙り込み、結果部屋は重苦しい静寂に支配され。それはあと数秒は続くかに思われた、その瞬間。

 

 床から、壁から、天井から。部屋の至る場所から()()()()()()()()が這い出るように、無数に現れて。その全てがライザーへと殺到し、彼に群がっていく。

 

 無数の黒い手たちはライザーの身体を掴み、絡み。彼に纏わり、彼を包んでいく。

 

 そしてあっという間にライザーの首から下は黒く、真っ黒に染められ。しかし、それでも彼は依然としてその顔に笑みを浮かべたままでいた。

 

 そうして、遂に黒い手はライザーの顔にまで迫り。彼の視界を黒い手たちが遮り、塞ぎ。そして埋め尽くし────────やがて、その全てが漆黒の闇に塗り潰された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……よ。おい、起きろジョナス。目を覚ませ」

 

「……ぐ、く……っ?」

 

 肩を揺さぶられる感覚に、沈んでいた意識が急速に覚めていくのを感じながら。呻き声を漏らし、床に倒れていたジョナス=ディルダーソンは閉ざしていた重い瞼を苦しげに開く。と、すぐ目の前に、彼の見知った顔があった。

 

 その顔を見て、ジョナスはまだはっきりとしない意識の最中で、呆然とその名前を口にする。

 

「ライザー……さん」

 

 そう、今ジョナスの目の前にいたのは他の誰でもない────金色の髪と瞳の男、ライザー=アシュヴァツグフその人であった。……だったのだが、彼の顔を見たジョナスは、僅かばかりの奇異感を抱く。

 

 ──何だ……?何か、いつもと雰囲気が違う、ような……。

 

 そんなジョナスに、ライザーは言葉をかける。

 

「無事か、ジョナス。怪我とかしてないのか?」

 

 その言葉通り、ライザーの声音には確かにこちらの身を案じている響きがあって。それを如実にも感じ取ったジョナスは、先程彼に対して奇異感を抱いてしまった己を恥ながら、それを無理矢理に拭い去った。

 

「は,はい。特には。強いて言えば、腹に鈍痛があるくらいです。……クラハ=ウインドアの野郎に殴られた腹に」

 

「そうか。まあ今のアイツに立ち塞がって、その程度で済んだのは運が良い。それを周囲の連中が物語ってやがる」

 

 と、言いながら。ライザーは周囲を見渡す。今、この部屋の中にはジョナスを含めた、彼の仲間である十数人の男たちがいて。しかしその大半が昏倒しており、数人が辛うじてジョナスと同じように意識を取り戻してはいたが、床に伏していたり座り込んだりしながら、ただただ苦しげに呻くことしかできないでいた。

 

 全員が全員、何かしらの怪我はしていたが。命に関わるような重傷を負った者は幸いにも一人もいない。と、その時。不意にジョナスが叫んだ。

 

「そうだ!ライザーさん、クラハ=ウインドアは……!?」

 

 そう、突如としてこの拠点(アジト)を襲った襲撃者、クラハ=ウインドア。ジョナスは彼のことを思い出し、ライザーに訊ねる。

 

 ジョナスに訊ねられたライザーは、すぐには口を開かず。数秒の沈黙を挟んだ後、苦虫を噛み潰したような表情と声で彼は答える。

 

「……目的は達成した」

 

 ライザーの答えを受け、ジョナスはその意味を瞬時に理解する。

 

 ──……今のライザーさんにでも、クラハ=ウインドアは倒せなかったのか……。

 

 心の中でそう呟きながら。ジョナスは床に転がっていた、己の得物である剣に気づき、拾い上げ。そしてその剣を鞘に収め、彼は立ち上がった。

 

「ライザーさん。大丈夫です。俺は、俺だけは絶対に、最後まであなたに付いていく所存ですから。だから、いつの日か。必ず、クラハの奴を……!」

 

「……そうか。そうだな、ジョナス。お前からその言葉を聞けて、安心したよ」

 

 と、ジョナスの言葉にそう返しながら。ライザーもまた立ち上がり、彼と向き合い、そして。

 

 

 

 

 

 ドスッ──己の腕を、ジョナスの腹部へ突き刺し。彼の身体を貫いた。

 

 

 

 

 

「………え……?」

 

 状況に理解が追いつかず、呆然とジョナスは声を漏らし。直後、開いたその口から大量の血を吐き出し。目の前のライザーに被せ、彼を赤黒く染めて汚す。

 

「これで俺は、お前のことを心置きなく殺してやれるからなあ。ハハ、ハハハッ!」

 

 ジョナスの血を浴びたことに一切の不快感を覚えることなく。ライザーは彼にそう言って、笑い。そしてジョナスの身体から腕を引き抜く。彼の内臓を掻き混ぜ、千切り裂きながら。栓となっていた腕が引き抜かれたことで、穿たれたその穴から大量の血が噴き出し、ライザーへと直撃するが。それを大して気にもせず、彼は高々に笑い続ける。

 

「ヒャハハハハッ!ヒィアッハハハハッ!ハァッハッハハハッ!!」

 

 狂ったように────否、狂いながら。聴く者全てに嫌悪と恐怖を抱かせる、狂笑を上げ続けるライザーを前にしながら。ジョナスはその場に崩れ落ち、床に倒れ臥す。

 

「どう、して……ライザー、さん……」

 

 力なくそう呟いたジョナスが最期に見た光景は。笑うライザーの影から数十本の黒い手が這い出るように現れ。それら全てが群がいながら、自分に向かって殺到する瞬間だった。

 

 血溜まりを作り広げ続ける彼の全身を。黒い手の群れは掴み、絡み。そして纏わり、包み込んだ。もはやジョナスは人の形をした黒い塊となり、直後それは床に溶けるようにして、ズブズブと沈んでいく。

 

 そして気がつけば、部屋の至る場所からその黒い手たちは現れていて。その全てが周囲の男たちに向かい、始めたことは────見るにも堪えない、ひたすらに惨たらしく、残酷極まる虐殺であった。

 

「う、うわぁっ?何だこの手──いぎゃッ」

 

「や、止め──ぐぶッ」

 

「死にたくねえっ!どうして、何だって────ごお゛ッ」

 

 ある者は頭を鷲掴みにされたかと思えば、そのまま握り潰されるか、首から上を捩じ切りられ。ある者は腹部を貫かれ、そのまま持ち上げられて宙で揺さぶられ、血の雨を降らしたり。数本の手に貫かれた者は、直後外へ飛び出た手によって弾け飛び、周囲に大量の血や肉や内臓を撒き散らす。ある者は全身を隈なく叩かれ殴られ砕かれて、一瞬にして奇妙な肉塊の置物(オブジェ)と化した。

 

 未だ意識が戻らず昏倒してしまっている者たちは呆気なく殺され、意識がある者たちは抵抗するも容易く殺される────そんな恐ろしく悍ましい光景が今、この部屋の中で作り上げられ、そして広がっている。

 

 堪らず目を背けたくなるような、阿鼻叫喚の地獄絵図。誰もが吐き戻してしまうかのような血と臓物の臭気で満たされ埋め尽くされ、溢れ咽せ返る部屋の中で。それでも、ただ一人ライザーは笑っていた。いつまでも、笑い続けていた。

 

 そして一言、こう言うのだった。

 

 

 

「手に入れた……俺は手に入れたァ!力をォオオオオオオ゛ッ!!」

 

 

 

 瞬間────────新たに数百本の黒い手が現れ、部屋の全てが黒く、真っ黒に。漆黒の闇に呑まれ沈んで、一片の空白も、一分の隙間も残さず。埋め尽くされ、塗り潰された。



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本当に恐ろしいのは。本当に怖いことは。

 謂うなれば、それはまるで水の中を漂っている感覚だった。フワフワと浮遊しているようで、しかし確実に沈んで、ゆっくりと落ち続けているかのような、そんな感覚が全身を浸し、覆い、包んでいた。

 

 無意識に思考を働かせようとするが、上手くいかない。思考が頭の中で霧散し、それが靄となって。頭の中に広がり、埋めてしまう。

 

 何も考えられない状況の最中、しかし依然として身体は沈んで、落ちていく。底の底へ向かって、沈み続けて、落ち続けていく。

 

 呆然とする意識の中で、ぼんやりと思う。もしこのままでいたら、自分はどうなってしまうのだろう。底の底に辿り着いたその時、果たして自分には何が待っているのだろう。

 

 そうして、やがて、自分は──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ここ、は……?」

 

 気がつくと、自分は立っていた。両の足で、真っ直ぐに。しかし一体どこに立っているのかはまだわからない。何故ならば、それをちゃんと把握する為の視界が、酷い具合に滲んで何もかもが認識できないからだ。

 

 だがそれもどうやら最初の間だけらしい。滲んでいた視界が徐々に鮮明となって、どれがそれで、あれがそうであると段々判別できるようになってきている。視界が使い物になるまでの間、とりあえず自分が一体何であるかを思い起こすことにした。

 

 まず、自分の名前────数秒遅れて、思い出し。それを口に出して呟く。

 

「ラグナ……そうだ、俺はラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズだ」

 

 そう呟くと同時に、視界が少しまともになる。目の前を見てみれば、そこにあったのは何かの店で。その窓硝子(ガラス)には、人の形をした何かが映り込んでいた。恐らくそれが自分の姿なのだろうと、自然に思い込む。

 

 次に自分が何者であるか────これはすぐにわかった。

 

「俺は『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の《SS》冒険者(ランカー)で、『炎鬼神』って呼ばれてる」

 

 そう呟くと、途端に頭の中に浮かび上がる一つの人物像があった。燃え盛る炎をそのまま流し込んだかのような、紅蓮の赤髪と同じ色をした瞳。野生みと自信に満ち溢れた、好戦的な笑みをその顔に浮かべている男────それは間違いなく、自分の姿。ラグナ=アルティ=ブレイズの容姿であった。

 

「……待てよ。まだ、何か……まだ何かあった気がする。いやある。俺にはまだ、大事な……大事で大切な何かがある、はずで……」

 

 その疑問に突き当たった瞬間、視界が急速に鮮明になっていく。そう、あと一つ。自分は何か大事なことを忘れてしまっている。大事で、大切な何かを。その何かは、絶対に忘れてはいけないことだったということだけは覚えており、それがより一層こちらを焦らせる。

 

「何だ?一体、そりゃ何だった……?」

 

 しかし、それが何であるかを思い出す前に────滲んでいた視界が、完全に元に戻り。直後、視界に映り込んだものを目の当たりにしたラグナは、堪らず絶句した。

 

「…………は……?」

 

 自分の容姿が一体どういったものであるかは、先程思い出している。……しかし、店の窓硝子に今映り込んでいるのは。その思い出した容姿とは似ても似つかない────一人の()()()姿()

 

 もはや性別すら異なっており、強いて共通点を挙げるならば髪と瞳だけ。それ以外は全部が全部、まるで違う。

 

「だ、誰だよ?こいつ……誰なんだよ、こいつはッ!?」

 

 困惑し、混乱しながら叫ぶラグナ。そんなラグナと同じく、全く同時に。窓硝子に映り込む赤髪の少女も叫ぶ。その表情を困惑と混乱の色を滲ませて。そのことにこの上なく驚愕し、激しい動揺にラグナは襲われたが────直後、気づいた。

 

「声、高っ?俺の声、変わって……ッ!?」

 

 確か、いや絶対。先程までは自分の声音は低い、歴とした男のものだったはず。……だがしかし、今ではまるでその低さが嘘だったかのように甲高く、誰がどう聞いても自分の今の声は少女のものにしか聞こえないことだろう。

 

 到底信じられそうにない面持ちで、ラグナは己の喉に手をやる。窓硝子の少女も同様に。そんな彼女の姿を見せつけられたラグナは、窓硝子の少女に向かって堪らず叫んでしまう。

 

「や、止めろ!さっきから俺と同じことすんじゃねえッ!」

 

 けれど、窓硝子の少女はそれすらも真似る始末で。そのことにこれ以上にない、とてもではないが抑えられない怒りが込み上げ。その激情をラグナは取り繕うことなく、包み隠さず、一切誤魔化さず、ありのまま。全部を少女に対してぶつけようとした────寸前。

 

 ──……あ。

 

 ()()()()()。ラグナは、思い出してしまった。

 

「……あ、ぁぁ……」

 

 込み上げた怒りが、まるで嘘だったかのように窄み、萎んでいく。代わりにラグナの心を────絶望が満たし、埋め尽くしていく。

 

 弱々しく震える声を絞り出しながら、ラグナは崩れ落ちるようにしてその場に座り込んでしまう。瞳を涙で潤ませ、顔面を蒼白とさせながら、頭を抱え込んでしまう。

 

「ぁぁぁぁぁ……っ!」

 

 今の今まで、確固たる像として頭の中に浮かび上がっていた、ラグナ=アルティ=ブレイズの姿が。世界最強と謳われる、《SS》冒険者(ランカー)の『炎鬼神』と呼ばれるその姿が。途端に瓦解を始め、一気に崩壊していく。そしてそれは、もはやラグナにはどうしたって止められない。

 

 やがて全てが崩れ去り、壊れて消えると。ラグナの頭の中は空っぽになって。堪え難い喪失感とそれが引き起こす虚無感に苛まれ、蝕まれながら。ゆっくりと、ラグナは顔を上げた。

 

 そして、目の前の窓硝子に映る────光を失った、何処までも昏い瞳をした赤髪の少女(じぶん)が。感情など微塵も感じられない、ゾッとする無表情で。何の抑揚もない声で言う。

 

「これが今のお前だ、ラグナ=アルティ=ブレイズ。否、今のお前など、もはやラグナ=アルティ=ブレイズですらない。ラグナ=アルティ=ブレイズの偽物でも贋作でもない。ラグナ=アルティ=ブレイズの残骸でも残滓でもない。そう、まさに今のお前は────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつくと、ラグナは暗闇の中に座り込んでいた。

 

「……はあ……っ?」

 

 目の前にあった店も、窓硝子(ガラス)も、そこに映り込んでいた赤髪の少女────否、自分の姿も消え失せていて。上下左右、どこを見渡しても。少しの先だって見通すことのできない、闇が何処までも続いて、ただただ広がっていた。

 

 突然こんな真っ暗な闇の中に独り放り込まれてしまったラグナは、堪らず戸惑いの声を漏らす。

 

「な、何だよ……ここどこだよ。さっきから一体何が起こってんだよ!?一体何なんだってんだよッ!!」

 

 訳がわからない、理解ができない出来事の連続を前に。精神が限界に達しかけ、どうしようもなくなったラグナは喚き、そう叫び散らした。

 

 しかし、ラグナの声はただ虚しくその場に響き渡るだけで。誰からの返事もなかった。

 

「……本当に、何だってんだよ」

 

 そう悔しげに呟いて、ラグナは先程のことを思い返す。そう、先程の────窓硝子の前で、打ち拉がれていた自分の姿を。()()()()()()()()を思い出してしまい、絶望の渦中へ突き落とされた自分のことを。

 

 

 

『……あ、ぁぁ……』

 

『ぁぁぁぁぁ……っ!』

 

 

 

「……ふざ、けんな」

 

 唇を噛み、そう憎そうに吐き捨てるラグナは。先程のあまりにも情けなく、惨めな醜態を晒してしまっていた自分に対し。凄まじいまでの羞恥心を抱き、急激に顔が熱くなってくるのを自覚しながらも、その場から立ち上がって。

 

「ふっざけんなッ!偽物だとか残滓だとか好き勝手言いやがって!俺は俺だってえのッ!誰に何て言われよーがなッ!!」

 

 まるで燃えているかの如く、その顔を真っ赤に染めながらも。負けずめげずに、気丈になってラグナは言葉を叫び、言葉を吐き捨てる。

 

「俺はラグナ=アルティ=ブレイズで、俺がラグナ=アルティ=ブレイズなんだ!《SS》冒険者で、『炎鬼神』で、そんで……そんで俺は、あいつの……っ!」

 

 だが、その時だった。

 

 

 

 ズズズッ──突如として、ラグナの足元が。ゆっくりと、徐々に沈み始めた。

 

 

 

「ッ!?」

 

 驚愕しながらも咄嗟に、反射的に沈む足をラグナは振り上げようとして。しかし、何故だか全く力が入らず、そのことにラグナは狼狽えてしまう。

 

 ──ちょ、なっ?……力が、入んな……っ!

 

 そうこうしている間にも、ラグナの身体はどんどん闇へと沈み続けている。今ではもう、両の足首が完全に闇の中に埋まってしまっていた。

 

「ク、クソッ!クソ、クソ……!」

 

 それでもまだラグナは諦めず、口汚い言葉を吐きながらも、どうにか脱出しようと懸命になって抵抗を続ける。……だがそれが実を結ぶことはなく、無情にもラグナの身体は沈み続けていく。

 

「ヤ、ヤバ……ッ」

 

 そうして気がつけば、ラグナの身体はもう腰まで完全に闇に飲み込まれていて。その窮地にまで追い込まれ、追い詰められ。ふとラグナは考えた。

 

 ──俺、どうなっちまうんだ……?

 

 このまま、闇の中に沈み続けたら。足の爪先から頭の天辺まで、完全に闇の中に飲み込まれたら、最後────果たして、自分はどうなってしまうのだろうか。安直にも、ラグナが頭の中に思い浮かべたのは。

 

 

 

 死、という一文字。瞬間、ラグナの顔から血の気が失せ、一気に青褪めた。

 

 

 

「ヤバい、ヤバいヤバいヤバいッ!」

 

 と、無意識の内にそう連呼しながら。躍起になってラグナは闇から抜け出そうとするが────気づいてしまう。もう、闇に飲み込まれた下半身の感覚が全くないことに。

 

「っ……!!」

 

 もはや自分一人ではどうしようもできない状況に陥ったことをラグナは悟り。直後、虚空に向かって腕を、手を伸ばし。口を開かせ、恐怖と焦燥で引き攣り掠れる声を喉奥から絞り出す────直前。

 

 

 

 

 

『誰かぁぁぁぁあああああっっっ!!!』

 

 

 

 

 

 あの時の、何もできずただ誰かに助けを求めるしかなかった、非力で無力な自分の姿をラグナは思い出した。

 

 ──……今の俺は、一人じゃ何にもできないのかよ……ッ。

 

 悔しさと情けなさに顔を歪ませながら、それでも。ラグナは声を出そうとして────その瞬間、堪らずラグナは瞳を見開かせた。

 

「なっ……んで……!?」

 

 そして信じられない面持ちで、震える声音で続ける。

 

「何で、どうしてこんなとこにいんだよ……()()()!?」

 

 ……そう、ラグナの言う通り。一体、いつからそこにいたのか。それとも、突然そこに現れたのか。今もこうして沈んでいくラグナの目の前に、一人の青年が立っていたのだ。

 

 青年────クラハ=ウインドアは特に何をする訳でもなく。ただラグナの目の前に立ち、ラグナのことを黙って見下ろしていた。それも、およそ感情など微塵も、一切も感じ取れない無表情で。

 

 だが今のラグナにそれを気にする余裕などあるはずもなく。今もこうして闇に沈み、飲み込まれようとしているラグナは躊躇うことなく、目の前のクラハへと向かって必死に手を伸ばす。

 

「クラハ!俺のこと引っ張り上げてくれ!俺、このままじゃ……!」

 

 ラグナの身体は、もう半分以上が闇に飲み込まれていた。あと数分もしない内に、ラグナは完全に闇に飲み込まれてしまうだろう。そしてそれは、クラハとてわかっていたはずだ。

 

 ……けれど、助けを求めるラグナを前にしながら。クラハは────────()()()()()()()。依然として無言のまま、彼は沈み飲み込まれていくラグナのことを、見下ろすだけだった。

 

「クラハ?なあ、クラハッ?どうしてお前、俺のこと助けてくれないんだよ!?何で黙って見てるだけなんだよッ!?」

 

 と、予想だにもしていなかった、クラハのこの態度に。流石のラグナもそうやって非難の言葉を彼にぶつける。すると、ようやっと。

 

「……い」

 

 今の今まで、黙り続けていたクラハが。閉ざしていたその口を小さく薄く開かせ、何かを呟いた。しかしそれをラグナは聞き取れず、すぐさま彼に聞き返す。

 

「クラハ、お前今何て言ったっ?」

 

 聞き返したラグナに、今度は。はっきりと、クラハはこう言う。

 

 

 

 

 

「消えてしまえばいい」

 

 

 

 

 

 ──…………え?は……?

 

 クラハの一言は、ラグナの思考を停止させるには十分で。十分過ぎる程のもので。堪らず絶句してしまうラグナに、クラハは続ける。

 

「あなたなんて、消えてしまえばいい。自分一人では何もできやしない、非力で無力なあなたには、何の価値だってありはしない。無価値なのだから、もう消えてしまえばいいんだ」

 

 少しも無表情を変化させることもなく、何処までもただ淡々と。そう言い終えるや否や、クラハは踵を返し、ラグナに背を向け。そのまま、ゆっくりと歩き出す。こうしている間にも、身体を飲み込まれていくラグナのことを、放って。

 

「……ま、待てよ。待てよクラハ。お前どうしてそんなこと言うんだよ。じょ、冗談にも程があんぞ、なあ?……そうだろ?冗談なんだろ?だ、だってお前が、クラハが俺にそんなこと、言う訳、ねえ……!」

 

 絶句していたラグナであったが、こちらの助けを無視し、歩き出したクラハの背中を前に正気に戻り、慌てて言葉を紡ぐ。

 

 信じ難かった。信じられなかった。信じたくなかった。あれがクラハの言葉だと、ラグナは絶対に思いたくなかった。

 

 自分の聞き間違いだと、そう思い込みたい一心で。

 

「後輩のお前が、先輩の俺に本気でそんなこと言う訳ねえッ!!」

 

 真紅の瞳を涙で滲ませ、潤ませながら。そう、ラグナは切実に叫んだ。……そして、そのラグナの叫びはこの場から去ろうとしていたクラハの歩みを────止めてみせた。

 

「っ!クラハ……!」

 

 クラハが足を止め、その場に留まったことに対して。ラグナはこれ以上にない程の安堵を抱き、涙が薄らと浮かぶ瞳を希望に輝かせながら、その名を呟き。そしてすぐさま言葉を続ける────

 

「違う」

 

 ────前に、先にそう。その背中をこちらに向けたまま、クラハが呟いた。

 

 ──え……?

 

 あまりにも突然で、唐突なそのクラハの呟きに。ラグナは僅かばかりに困惑し。そんなラグナに、淡々と。何の抑揚もなく、何の感情も込めず。依然として背中を向けたままに、クラハがこう続ける。

 

「違う。あなたは……違う」

 

 その言葉を耳にした瞬間、ラグナの心を不安が脅かす。身の毛もよだつ悪寒が背筋を一気に駆け抜け、ラグナの動悸を激しくさせて。それが、ラグナにとある直感を働かせる。

 

 ──や、止めろ……クラハ、()()をお前に言われたら、俺は……俺はもう……!

 

 ラグナは願う。まるで命乞いかの如く、クラハに対して。どうかその先を言わないでほしいと。クラハに言ってほしくない、と。切に、そう思う。

 

 だがしかし、そのラグナの願いは、ラグナの思いは────

 

 

 

 

 

「あなたはもう僕の先輩なんかじゃない。あなたはもう、ラグナ=アルティ=ブレイズなんかじゃない。ただの無力で非力な、何の存在価値だって持ち合わせていない一人の少女だ」

 

 

 

 

 

 ────残酷過ぎる程残酷に、無惨にも裏切られ。微塵に砕かれ、壊された。

 

「…………ク、ラハ……」

 

 呟いたラグナの声音は、これ以上になく、どうしようもない絶望に染まって、満ちて、溢れていて。一瞬にして光を失った、昏いその瞳からは涙が流れ落ちる。

 

 そんなラグナのことを、クラハは対して気にも留めず。またしてもその場から歩き出す。遠去かるその背中を、ラグナはただ見つめることしかできなかった。

 

 失意の最中、ラグナは伸ばしていたその手をゆっくりと振り下ろし。振り下ろされたラグナの腕は、闇に飲み込まれる。……これでもう、ラグナは首から下の全てが闇の中に沈んでしまった。

 

 けれど、それをラグナは悲観することなく。もはやなすがままに、闇に沈んでいく。闇に、飲み込まれていく。

 

 ──……俺、死ぬのかな。

 

 遂に首までも闇に飲まれたその時、呆然自失になりながら、ラグナは心の中でそう呟く。あと数秒もしないで訪れるであろう、己が結末────死について。

 

 ラグナとて、死ぬのは恐ろしい。死んでしまうことは、怖い。そんな恐怖がもう間もなく自分へ訪れる────────しかし。

 

 ──…………あ。

 

 その時、ラグナは何を思うでもなく、今一度視線を前にやった。そこに、クラハの姿はもはやなく。それを認識した瞬間、ラグナは思い出した。

 

 確かに死は恐ろしい。死は怖い。だが、ラグナには死以上に恐ろしくて、そして怖いことがあったのだ。

 

 そう、それは────────

 

「嫌、だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…………クラハァァァァァァ……っ!」

 

 ────────クラハに、見放されること。彼に拒絶され、否定され、捨てられること。それを今になってようやく思い出したラグナは取り乱し、錯乱しかけたが。その前に、頭を闇に飲まれ。

 

 

 

 

 

 そして────────誰もいなくなった。



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断れる訳、ないじゃない

「うぁああ゛あ゛あ゛っ!ゔぐぅ、ぁあ゛っぁあ゛あ゛っ!ああぁあぁぁぁ゛……っ!」

 

 早朝。太陽が昇ってまだ間もない時間に起床し、朝の身支度を済ませ、朝食も作り準備も終わらせたメルネは。未だ寝台(ベッド)の上で眠っているだろう、突然この家に転がり込んだもう一人の同居人を起こそうと、部屋の前にまでやって来て。そして扉を軽く叩こうとした、その直前。

 

「っ……!?」

 

 そんな、聞くにも堪えない呻き声が。この上なく苦しげで、耳にしているこちらの方も辛くなってしまうような呻き声が、メルネの鼓膜を震わせた。

 

 瞬間、居ても立っても居られなくなったメルネが。即座に扉を開いて、まるで飛び込むかのようにして部屋の中へと入った。

 

「大丈夫!?ねえ、ラグナッ!?」

 

 と、その名前を呼びかけながら。メルネは寝台に急いで歩み寄る。今、彼女の視界に映り込むその光景が、これ以上にない程に彼女を焦燥させ、狼狽させ、そして動揺させていた。

 

 先程メルネが叫んだその名の通り、その寝台の上にいたのは赤髪の少女────嘗て、この世界(オヴィーリス)最強の三人。人の領域から逸脱した埒外の桁違いである『極者』の一人であり、それを『世界冒険者組合(ギルド)』から公に認められた《SS》冒険者(ランカー)であり、『炎鬼神』の通り名で畏れ敬われた者。

 

 そう、ラグナ=アルティ=ブレイズ。元々は歴とした男性だったのだが、複雑に入り込んだ諸々の事情により、その最強ぶりがまるで嘘だったかのように、今やか弱い少女と成り果ててしまっていた。

 

 そのラグナが寝台の上にいた訳だが……それはもう、一秒とて見てはいられない、見るに堪えない酷い有様であった。

 

 燃え盛る炎をそのまま流し込んだような、その赤い髪を滅茶苦茶に振り回し。小さな身体をくねらせ捩らせながら、これ以上ない程に苦しみもがき、尋常ではない程にのた打ち回らせ。まるで見えない何かを必死に掴もうと、その手は宙へ伸ばされており、ただひたすら振り回されては虚空を掻き乱していた。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛……っ!ぁぁぁあああああっ!」

 

 そしてその間、ずっと。ラグナの口からは思わず耳を塞ぎたくなるような、辛苦に満ち塗れ悲痛極まる呻き声が絶叫の如く絞り出されており。そんなラグナの有様を目の当たりにしてしまったメルネは、すぐさま寝台の上に乗り、延々と振り回されていたラグナの手を、ギュッと掴み握り締めた。

 

「落ち着いてラグナ!大丈夫、もう大丈夫だから!」

 

 それからほんの少しでも、僅かばかりでしかなくとも安心させようと。届くかどうかもわからない言葉を、メルネはラグナにかける。するとラグナの手もまたその手を握り返して、寝台から上半身を起こし、まるで縋るようにラグナは彼女へと抱きついた。

 

「う、あ、ぁぁぁ……っ」

 

 メルネの手を握り締め。残っている片腕も彼女の首に回し、ラグナは抱きついたメルネの身体に自分の身体を密着させる。

 

 ──……汗、凄い……。

 

 抱きつかれ、密着されたことにより。メルネは否が応にも感じ取る。そう、今こうして激しく(うな)されているラグナの身体は汗ばんでおり。着ている寝間着(パジャマ)は全身から流れ出たラグナの汗を吸い、びっしょりと湿っている程。そしてそれが、服越しだというのにはっきりと。メルネにも伝わっていた。

 

 しかし、そのことにメルネが一切の嫌悪を感じることも、ほんの僅かな不快感でさえも抱くことは決してない。そんなこと、あるはずもなかった。

 

「大丈夫、私は大丈夫よ。だから、だから……」

 

 止む気配を見せないラグナの呻き声を、どうにか止めようと。ラグナの辛苦を少しでも和らげようと、メルネは優しい声音でそう言葉をかけながら。ラグナの手を愛おしく、絶対に離すことのないように握り締め。彼女もまた残っている片腕をラグナの肩に回し、互いの身体をより密着させながら、互いのことを抱き締め合う。

 

 揺れるラグナの赤髪が、メルネの鼻先を掠め。瞬間、彼女の鼻腔を汗と仄かに甘い匂いが擽る。そのことに、不覚にもメルネは一瞬鼓動を早めてしまうが、即座に平常へと戻す。

 

「止めろ、止めてくれ……止め、て……う、ぅぅ」

 

 メルネの肩に顎を乗せながら、ラグナは譫言のようにそう呟く。その声は普段の様子からは全く想像もできない程に弱々しく──────

 

 

 

「嫌だ、やだ……置いてくな、捨てんなぁ……クラハ、クラハぁぁぁ……っ!」

 

 

 

 ──────どうしようもない、不安と怯えに満ち溢れている。それをこうして改めて確認する度、認識する度、そして実感する度に。メルネは胸を締めつけられ、心に極細の針を何本も何本も刺されるような、切ない痛みと。幾度も肩に流れ落ちるラグナの涙の温かさを。その間、メルネは味わっていた。

 

 ラグナとメルネ。二人は寝台(ベッド)の上で、しばらく互いの手を握り締め合い、互いの身体を密着させ抱き締め合いながら。やがて、延々と続くかに思われたラグナの呻き声が徐々に止み。そして、それが完全に止まると。その口を閉ざし沈黙を保ち続けていたメルネが、そっと静かにラグナに訊いた。

 

「……落ち着いた?」

 

 数秒遅れて、メルネの肩からフッと重みが消え失せ。それと同時に彼女の身体と密着していたラグナの身体が少しだけ離れる。

 

「……ごめん。メルネ」

 

 今、メルネのすぐ目の前にはラグナの顔があった。髪と同じ色の真紅の瞳はすっかりと涙で濡れて。また落涙の跡が濃く残る頬を朱に染めさせ、弱り切った表情で。先に謝りつつ、ラグナがメルネに懇願する。

 

「あと少しだけ、もう少しだけでいいから……まだ、このままでいさせて」

 

 その瞬間、堪らずに。メルネは息を呑んでしまった。今のラグナは、彼女が今までに見たことがない程に弱々しくて。指先でそっと触れただけでも崩れてしまいそうなくらいに脆く、儚そうで。非常にこの上なく、危うくて────こんなラグナは、メルネは一度だって目にしたことなどない。

 

 ──……これじゃ、本当に。本当の……。

 

 まるで、などではなく。まさに正真正銘の────────そこまで思って、しかしメルネはすぐさまそれを振り払った。

 

 ──何考えてるの、私。この子はラグナ。そう、ラグナはラグナよ。それは、それだけは絶対なんだから……っ!

 

 狼狽し、動揺していることを気取られぬよう、どうにかそれを隠し通しながら。メルネはラグナの手を握り締めたまま、ラグナの身体を抱き締めたまま。自分にできる限りの柔らかで、穏やかな声音で答える。

 

「そんな一々(いちいち)水臭く頼まなくても、私は別に構わないわよ……ラグナ」

 

 その言葉を聞いたラグナは、一瞬その表情を崩しかけて。すぐさま再びメルネに密着し、またさっきと同じように彼女の肩に顎を乗せると。今度は極力、できる限りその声を抑えて、嗚咽を弱々しく漏らし始めた。

 

 部屋に静かに響くラグナの嗚咽を受け止めながら、メルネは心の中で呟く。

 

 ──……それに。あんな顔されて、あんな風に頼まれたら……断れる訳、ないじゃない。

 

 だが、こうしたところで。自分がラグナの嗚咽を、その嘆きをいくら受け入れ、受け止めたところで。それが何の解決にも至らないことを、メルネは重々理解し。そして、承知している。

 

 そう、これは自分の役目ではない。この役目を果たすべき者は、他にいる。



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辛苦に満ち溢れた生き地獄から

 そうして、ラグナとメルネの二人は。早朝の割と貴重な十数分の時間を、寝台(ベッド)の上で。互いの手を握り締め合い、互いの身体を密着させながら抱き締め合いながら、些細にも贅沢に浪費し。

 

 それから何を言うでもなく、声を抑えながら漏らし続けていた嗚咽も止んだラグナが。ややぎこちなくメルネから離れ、この間ずっと握り締めていた彼女の手も若干名残惜しそうにしながらも、自ら離しようやっと解放させた。

 

「もう、大丈夫?」

 

 ラグナに人生の十数分を捧げたメルネが、優しげに訊ねる。彼女の問いかけに対して、ラグナはその顔を俯かせ、小さく首を縦に振り。そしてほんの僅かな沈黙を挟んでから、俯かせていた顔を上げた。

 

(わり)ぃ。朝からこんなことさせて。朝から、こんな……こんなの、見せちまって……」

 

 と、未だ微かに涙が浮かぶ真紅の瞳と泣き腫らしたその顔で。この上ない自己嫌悪とこれ以上にない罪悪感に満ち溢れながら、その口から転び出たラグナの言葉に対して。メルネは優しく微笑みかけた。

 

「言ったでしょ?私は別に構わないって」

 

「……本当、か?」

 

 メルネの言葉に、ラグナは不安で揺れて弱々しく震える声で。果たしてそれは嘘偽りなどのない、本心から来る本音なのかと。涙に濡れているその瞳で、上目遣いになって訊ね返す。無論、ラグナ当人は無意識の内でそれをやっている。

 

 今し方号泣していたのだと一発で見抜かれる程までに泣き腫らし、赤く染まったその顔。打ちのめされ、打ち拉がれ、すっかり弱りに弱ったその表情。寄り縋るかの如く、こちらのことを不安げに見つめてくる儚げなその瞳。

 

 それら全ての要素を一切無駄なく、完璧に。組み合わせ、文句のつけようがない程見事なまでに合致させている、今のラグナの様を見て。これでも元は歴とした男であると、一体誰が思うというのだろうか。

 

 ……末恐ろしいのは、恐らくこれら全てを当のラグナはあくまでも無意識、無自覚の領域でやってのけてしまっているということ────それを踏まえた上で、メルネは。

 

 

 

 ──ぅん……っ!?

 

 

 

 不覚ながら息を詰まらせ、思いっきり動揺してしまっていた。ラグナは歴とした男で、その声音も表情も仕草も全て無意識かつ無自覚のもので、そこにラグナの意識や思考が介在した、打算ありきのものではないときちんと理解しているのに。別に他意なんてこれっぽっちもないとわかっているというのに。

 

 ──落ち着きなさい。落ち着きなさいメルネ。ええわかっているわ、わかっていますとも。ラグナが別に()()()()つもりでやってる訳じゃないなんてこと。わかって、理解しているのよ……っ!

 

 だからこんな馬鹿みたいに、一々(いちいち)みっともなく動揺したり、情けなく狼狽している場合ではないと。メルネは己に言い聞かせ、己をどうにか律する。

 

 ──と、とにかく返事しなきゃ……!

 

 時間にして、それは刹那にも満たず。律儀にこちらの返事を待つラグナに、メルネはあくまでも平静を装いながら口を開き、言った。

 

「本当よ。当たり前じゃない。どうして私が今、ここでラグナに嘘を吐く必要があるのよ。もう」

 

 実に当たり障りのない、妥当だが安直とも言えるメルネの返事に。ラグナは彼女から目を逸らしつつ、気恥ずかしそうに。消え入りそうな声で言う。

 

「な、ならまあ、いいんだけど、さ……」

 

 その姿、なんといじらしいことか。あまりにもいじらしいラグナの姿に、またしてもメルネは心を掻き乱され、惑わされてしまう。混乱しかける思考の中で、彼女はなんとか平常心を保とうとする。

 

 ──ていうか、私にその()はないはずなんだけど……?ラグナ、恐ろしい子……!

 

 異性は当然のこと、同性ですら誘惑し、蠱惑し。まるで蜜が溢れ滴り落ちる妖艶な花の如く、巧みに己が一番の懐へと招き入れんとするラグナの天然の魔性の前に。堪らず、メルネは恐れ慄いてしまう。

 

 が、しかし。彼女とて、ただ歳を重ね、人生経験を積んだ訳ではない。元《S》冒険者(ランカー)にしてその頂点の六人、『六険』は伊達ではないのだ。

 

 浅く息を吸い、浅く息を吐き出し。その一瞬の内に平静さを取り戻したメルネは。優しく穏やかに、ラグナに言い聞かせる。

 

「ラグナ。私とかはまだ良いとして、そういう顔とか態度とか、全く知らない男に……いえ、あなたの場合女にも。とにかく、赤の他人なんかに見せちゃ駄目よ。絶対よ?」

 

 だがしかし、当人たるラグナに。自分が他者を誘っていると認知してもいなければ、当然自覚もしている訳もなく。故に、親切心に溢れたメルネの忠告も、ラグナにとっては何のことだかさっぱりで。

 

「は……?え、いやそういうって、どういう……?」

 

 だから、ラグナが困惑の言葉をメルネに返すのは必然のことだった。首を傾げるラグナに、彼女は親身になって続ける。

 

「その弱った表情とか、泣いちゃっているところとか。……そうね、それこそついさっきみたいに」

 

「……あー……」

 

 そこまで言えば、流石のラグナにも伝わったらしく。そう呆然と声を漏らしたかと思うと────直後、まるで着火したように。ボンッ、という擬音が思わず聴こえてきそうな勢いで、ラグナの顔が真っ赤っ赤に染め上げられた。すぐさま、間髪入れずにラグナは叫ぶ。

 

「は、はあぁぁぁッ!?んなっ、んなの当たりめーだろうがっ!?あんなの、お前かマリィくらいにしか見せねえっていうか見せられねえっての!ほ、他の奴になんか絶対、特にクラ……」

 

 けれど、その羞恥の只中に立たされたラグナの叫びは途中で詰まり、止まって。同時に、メルネもハッとした表情を浮かばせ、群青の瞳を見開かせた。

 

「…………見せられる訳、ねえよ。あの(ザマ)も、今の様も」

 

 そう呟いて、赤らむその顔を。悲哀に暮れさせながら、物憂げに真紅の瞳を伏せさせ。ラグナは色素のやや薄いその唇を噛み締め、寝台(ベッド)のシーツを握り締め、皺を作り歪めた。

 

 そんなラグナに対して、メルネができたことといえば。

 

「……ええ、そうね。その通り……その通り、ね」

 

 という、言葉をかけることだった。それからまた十数秒、部屋の中は静寂が漂って。そんな最中、先にその口を開かせたのは、メルネであった。

 

「ラグナ。もう朝食の準備はできてるから、着替えて顔を洗って……」

 

 言いながら、メルネは寝台の上のラグナを。臍辺りから頭の天辺まで眺める。

 

「……顔を、洗って……」

 

 つい先程まで、ラグナは激しく(うな)されていた訳で。尋常ではない魘され方をしたラグナは、大量の汗を流した訳で。そして抱き締め確認したその通り、今ラグナの身を包み込んでいる寝間着(パジャマ)は流れ出たその汗を、存分に、これでもかと吸い込んでいる。

 

 その結果、生地が薄くお世辞にも速乾性があるとは思えない寝間着が、びっしょりと湿って濡れるのは。火を見るより明らかな如く、至極当然の帰結であり。

 

 そして汗で湿り濡れたその寝間着が、ラグナの肌に張り付くことも必然と言えて。それが一体どういうことになるかというと。

 

 その低めな背丈の割には、たわわと豊かに育っている胸。こちらが思わず妬いてしまうくらいに細く、軽く触れただけで折れて砕けそうな程に華奢な、括れた腰。むっちりと妙に肉付きの良い太腿に、完璧にほぼ近い曲線美を描いた、理想的な丸みを帯びる臀部。

 

 十代半ば──精神年齢の方はともかく──の、未だ成長の余地を残す発展途上のものとは到底思えない肉体を。凄まじいその将来性を感じさせる、ラグナの肢体の輪郭線(ライン)を。寝間着が張り付き密着することによって、これでもかと激しく強調してしまうのだ。

 

 しかも生地が薄い為、寝間着は若干透けてもいて。あろうことか、本来その下に隠され秘められていなければならない下着が、おまけのように見えてしまっている始末であった。

 

 ──……あら、あら。

 

 先程自分で確かめた通り、ラグナが放つ魔性は同性ですら魅了してしまえる。そして今ラグナが晒すその痴態が、それをより一層強めており。たとえ同性愛の気がないメルネだろうと、堪らずゴクリと生唾を飲み込まずにはいられなかった。

 

 しかし、そこはメルネ=クリスタ。元第三期『六険』の《S》冒険者(ランカー)にして、今はこのファース大陸を代表する冒険者組合(ギルド)、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』受付嬢でありその纏め役たるメルネ=クリスタである。

 

 危うくその平常心を失いかけた彼女だったが、どうにかこうにか正気を保とうと。そこで一旦、彼女は深呼吸をした。

 

 瞬間────この部屋の空気と共に、ツンと酸っぱい汗の匂いと、まるで砂糖菓子のものにも似た仄かに甘い匂い。その二つが複雑に入り混じった、何処か艶かしくいやらしい、淫らな芳香がメルネの鼻腔に満ちて、浸透し。彼女はクラリと蹌踉めきかけた。

 

 ──き、気を強く保ちなさいメルネ=クリスタ……ッ!

 

 ラグナに翻弄されっぱなしのメルネはそう必死に自分に言い聞かせ、己を奮い立たせ。そして、平静を装いながらラグナに提案する。

 

「シャ、シャワーを浴びた方が良いわ、ラグナ。それと下着も両方新しいのに替えるべきね」

 

「え?あ……俺、こんなに汗掻いてたのかよ。どうりでさっきから変に肌寒くて、ベタベタして気持ち悪いと思った……そうだな。シャワー、浴びてくる」

 

「ええ。下着、替えるの忘れないで頂戴ね。それとその寝間着と今使ってる下着は洗濯籠に入れておいてね。絶対よ?」

 

「おう」

 

 メルネの言葉に頷きながら、ラグナは寝台からゆっくりと降りて。着替えと彼女に言われた通り、新しい下着を携え。ラグナはこの部屋から去った。

 

 背後で扉が閉められ、少し遅れて階段を下りる足音が十分に遠去かるのを確認してから。メルネはその場で、深いため息を吐いた。

 

「……私の、馬鹿」

 

 と、自虐の一言を呟いた後。メルネはつい先程までラグナがいた寝台に歩み寄り、シーツに手をそっと這わせる。

 

 彼女の想像通り、ラグナの寝間着程ではないがシーツも湿っていた。

 

「…………」

 

 

 

『あ゛あ゛あ゛あ゛……っ!ぁぁぁあああああっ!』

 

『う、あ、ぁぁぁ……っ』

 

『止めろ、止めてくれ……止め、て……う、ぅぅ』

 

 

 

「……本当に、私は大馬鹿よ……っ」

 

 その光景を脳裏に駆け抜けさせながら、シーツを握り締めて、メルネはそう吐き捨てる。今、彼女は途方もない罪悪感と後悔に苛まれていた。

 

 自分は無力だった。果てしなく無力で、何もできなかった。ラグナの為にできることなど一つもなくて、メルネはそれが堪らない程に苦しく、堪らない程に辛かった。

 

 ……けれど、メルネは知っていた。ラグナが自分以上の苦しみに喘いでいることを。自分以上の辛さに泣いていることを。自分以上の辛苦を、その小さな身体で必死に抱え込んでいることを。

 

 何度も幾度も、メルネは想像した。己が持つ最大限の想像力を限界まで働かせ、想像し続けた。一体、どれだけラグナは苦しい思いをしたのだろう。一体、どれだけラグナは辛い思いをしたのだろう、と。

 

 だかしかし、あくまでもそれはメルネの想像の域を出ないものだと自覚しており。そしてラグナが抱え込むそれらは、およそ人の想像など遥かに絶するものであると、彼女は嘆きながら理解していた。

 

 ──……憎い。どこまでも無力な自分が、ただひたすらに憎くて、憎らしくて……心底、嫌になる。

 

 やはり、ラグナの辛苦を真に理解できるのは、他の誰でもない当人のラグナだけなのだろう。諦観の念を抱きながら、メルネはそう結論を出す。

 

 ……否、それは間違いだ。ラグナの苦しみを。ラグナの辛さを。理解できる存在(モノ)は他に、いる。

 

 

 

 

 

『嫌だ、やだ……置いてくな、捨てんなぁ……クラハ、クラハぁぁぁ……っ!』

 

 

 

 

 

 たったの一人だけ。辛苦に満ち溢れた生き地獄の最中から、ラグナを救い出せるのはその一人だけなのだ。

 

 その顔を頭の中に思い浮かべながら、メルネは静かに呟く。

 

「クラハ……貴方、早くどうにかしないと。このままだと、手遅れになるわよ……?」



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その森は、血と臓物で満ちていた

 早朝。風に吹かれ、絶え間なく、緩りと揺れ動かさせれる木々を前にしながら。冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属の《S》冒険者(ランカー)、そして冒険隊(チーム)『夜明けの陽』の副隊長(リーダー)────ロックス=ガンヴィルはそこに立っていた。

 

「…………」

 

 ロックスはなんとも言えない、渋い表情を浮かべており。木々を眺める焦茶色の瞳は、何処か憂いを帯びている。彼は一分弱そうしてその場に立っていたかと思えば、不意に疲労感の漂うため息を一つ吐いた。

 

「今日も今日とて、相変わらず……か」

 

 ロックスの言葉は鬱屈としていて。続け様、彼は足を振り上げ。若干の躊躇いを露わにしながらも、その場から一歩を踏み出す。けれどその歩みは重たく、彼が何か迷っていることを如実に示していた。

 

 揺れ動く木々と同様に、ロックスの茶髪もまた吹かれる風に揺られ。しかし、彼がそれを大して気に留める様子などなく。依然重たげな足取りで、木々と木々の間を通り抜け。

 

 そうして、ロックスは名もなきその森の中へと。独り、進んで行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ……」

 

 この森の中に入ってすぐに、ロックスの表情が固いものになる。何故ならば、森の中に入る前から僅かばかりに漂っていた、()()()()()()彿()()()()()()()()()()臭いが。一気に、一段と深く濃いものとなって。彼の鼻腔を容赦なく襲ったからだ。

 

 常人であればまず立ち竦み、そして踵を返してこの森から逃げ出すであろう。それ程までにその臭気は酷く悍ましく、恐ろしいものだったのだから。

 

 だが、生憎ロックスは常人などではなく。彼はこの類の悪臭など、その仕事柄散々嗅ぎ慣れていた。

 

 ……けれど、そんな慣れているロックスでさえ、一瞬固まってしまう程に。今この森に充満している、咽せ返りそうなほど深く濃い血と臓物の臭いは凄まじく、筆舌に尽くし難かったのだ。

 

 ──こいつはまた、中々に強烈だなおい……!

 

 と、鼻と口を手で押さえつつ。ロックスは心の中でそう言葉を吐き捨てる。その場に数秒留まっていた彼は、やがてまたその歩みを再開させた。

 

 嫌悪感と不快感、そして恐怖を心の奥底から無理矢理に引き摺り出され、悪戯に掻き立てられて。堪らず胸の奥が痞えそうになる、鉄錆の臭気で満ちる森の中を。無言で歩き、先に進み続けるロックス。だが、不意にまたしても彼の足は止まることになった。

 

「……まあ、この酷え臭いから大体は察してたけどよ」

 

 と、舌打ち混じりに呟くロックス。それから彼はざっと周囲を見渡し、嘆息混じりにまた呟いた。

 

「流石にここまでとは、思いもしてなかったぜ」

 

 ロックスの歩みを止めさせたもの────それは、魔物(モンスター)の死骸であった。それも、一つや二つなどではなく。先程彼が()()()()()()()、少なくとも十数体がまるでゴミのように無惨にも打ち棄てられていた。

 

 その死骸の多くは魔素(マソ)を大量に取り込み、魔物化した動物の狼──魔狼で。他にも小獣人(コボルト)小悪鬼(ゴブリン)などの死骸もあった。

 

 死骸の状態はどれも酷い有様だった。不幸中の幸いとでも言うべきか、殺されてからそう時間は経っていないようで。新鮮──とは流石に言えないが、まだ腐敗は進んでいない。もしこれで今ここにある魔物の死骸の全てが、血と臓物余さず残さず腐ってしまっていたのなら。それはもう、想像もしたくない程の悪臭に、この森全体が包み込まれてしまっていたことだろう。そうはならなかったこの現実に、ロックスは大いに感謝する。

 

「しっかしまあ……遠慮がないっていうか容赦なさ過ぎるというか……魔物だって必死にこの世界(オヴィーリス)を生き抜いてるってのに」

 

 という非難を零しながら、ロックスは魔物の死骸を眺める。その殆どが恐らく剣によって斬殺されており、首を刎ねられたものや、胴体を上下半分に断たれたもの。中には心臓などの急所を突かれて絶命しているもの、頭を刺し貫かれているものがあった。

 

 そして、それらを除いた死骸は、恐らく得物を使われずに屠られたのだろう。首をへし折られていたり、頭を身体から引き千切られていたり、握り潰されていたり。手でも突っ込んで掻き回したのか、腹が乱雑に破り裂かれて、そこからグチャグチャに千切られた内臓を溢れされている死骸や強烈な蹴りでも打ち込まれたのか、身体がくの字に曲がったまま絶命している死骸もあって────とにかく、そういった無惨でとても残酷な最期を迎えた魔物たちが、そこら中至るところに転がっている。

 

 常人ならば即座に胃の内容物を無様に吐き散らすか、卒倒を免れない、まさに悪夢としか他に言いようがないこの光景。しかし、仕事柄慣れているロックスにはこの手の惨状に耐性があって。……それでも、流石にここまで凄絶なものを目の当たりにしたのは、彼には初めてのことであった。

 

 複雑な面持ちでそれらの亡骸を一通り眺め終えたロックスは、淡々と呟く。

 

「……とりあえず、まあ。俺は先に進むとしますかね」

 

 そうして、ロックスは再びその場から歩き出すのだが。行く手の先にも、魔物の死骸は点在していて。しかもその数はどんどん、際限なく増えていって。

 

 そして遂に、何十体という魔物たちの屍を超えたその末に。ロックスは目指していたこの森の奥へと辿り着いた。

 

 森の奥はだいぶ開けた場所になっていて。そこでロックスが皆目一番、己が視界に映したのは────────赤い赤い、真っ赤な()()()()()()



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殺戮者

 果たして、これは揺るぎない確かな現実なのか────そう、ロックスは思わずにはいられなかった。

 

 いや、最初に()()を目の当たりにしたのがロックスだったというだけで、別に彼でなくとも。彼以外の他の誰だって、同じように目にすれば。今この場面に直面したのなら。恐らくきっと、()()を。

 

 実在する現実とは認めず、否と判断を下し。荒唐無稽な悪夢か趣味の悪い幻覚だと思い込み、そして決めつけていたに違いない。……だが、ロックスはそうすることはできなかった。できるはずが、なかったのだ。

 

 何故ならば、臭いが。背筋に悪寒を駆け抜けさせ、全身から気持ちの悪い冷や汗を無理矢理流し出させる、あまりにも深く、あまりにも濃い血と臓物の臭気が。先程からロックスの鼻腔に無神経に入り込み、無遠慮に侵し続けていたのだから。

 

 故に、ロックスは受け止め、認知する。自分の目の前の()()が、揺るぎない確かな現実なのだと。

 

 

 

 

 

 辺り一面、見渡す限りに続いている。無数の魔物(モンスター)の死骸が浮かべられた、広大な血の海が現実のものなのだと。

 

 

 

 

 

「……マジかよ」

 

 それは、この光景を現実だと認めてしまった自分に対する、正気を疑った無自覚の呟きだったのか。それを考える余裕を、残念ながらロックスは持つことなどできず。彼はただ、目の前の非現実めいた現実に恐れ慄き、呆然とする他なかった。

 

 恐らく、というか確実に。この血の海────否、これはもうその程度の表現で済まされる規模ではなく、もはや血の大海とでも言い表すのが正しく。そしてこのような阿鼻叫喚の風景を作り出したと思われる魔物たちの亡骸の数は、もはや二十や三十では利かない。

 

 少なくとも、五十を超える数が浮かんでおり。そしてその全てが例外なく、一つ残さず。道中で見かけたのと同じ手口で、この上なく惨たらしく殺されていた。

 

 あまりにも数が多過ぎて、もはや死骸が転がっていない場所を見つけ出す方が困難な光景の最中、ロックスの視線がとある一点に留められた。

 

「ありゃ……まさか」

 

 ロックスの視線を縫い留めたのは────一振りの長剣(ロングソード)。一瞬、元からそのような色合いなのかと誤解する程に。その剣身は魔物の肉と油と血に塗れ、赤黒く染められており。そんな剣が、まるで墓標かの如く。乱雑に、ぶっきらぼうに地面に突き立てられていた。

 

 長剣を視界に収めたロックスの頬に、一筋の汗が伝い、流れ落ちる。彼は、その長剣に見覚えがあって。そして仮にその記憶が正しければ、剣の持ち主は。

 

 ──いや、そんな訳は……ッ!

 

 脳裏を過った、一抹の不安。それを頭の中から追い払うようにロックスは首を振り、そして改めてこの場を見渡し────彼は、()()姿()を捉えた。

 

「…………」

 

 瞬間、ロックスに訪れたのは安堵と────落胆。彼は無事なその姿に安堵し、そしてやはり依然として変わりないその様子に落胆するのだった。

 

 思わず口から出そうになった嘆息を堪え、刹那の躊躇いを挟みつつ、ロックスはその場から歩き出す。彼の瞳が見据える先にあったものは────天に向かって聳え立つ、一本の巨木である。

 

 それは周囲の木々の数倍の巨大さを誇る、立派な巨木で。それはもう、凄まじい存在感を自ら放っていた。

 

 そんな巨木へロックスは歩み寄り。そして彼はその下に座り込む一人の影に対して、声をかけた。

 

「よお、殺戮者。魔物を(みなごろし)たその気分はどうだ?」

 

 数秒。数十秒。そして、一分。ロックスの呼びかけに返事はなく。彼はそれを確かめると、それから嘆くかのように非難の言葉を繰り出す。

 

「言ったよな。無闇矢鱈(むやみやたら)な魔物の殺生は、その場の生態系を崩しかないってな。それを踏まえた上で訊きたいんだが……お前、一体何考えてやがんだ?」

 

 問いかけの体を装ったロックスの非難に対して、やはり返答一つなどなく。重苦しい沈黙と静寂がその場に流れる。

 

 やがて、痺れを切らしたロックスが。堪らず叱咤するように、その名を口に出した。

 

「言い訳でも何でも別に良いからよ、もう(だんま)りを決め込むのは止めにしてくんねえか?なあ────クラハ」

 

 ……そう。巨木の下に座り込んでいたその影は。今、ロックスの眼下に晒されている者の名は────クラハ。クラハ=ウインドア。まだ齢二十という若さで、冒険者(ランカー)の表向きの最高である《S》ランクにまで昇り詰め。その将来を『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の面々から期待されている。無論、ロックスもその一人である。

 

 そして恐らく、などではなくほぼ確実に。この世のものとは思えない、凄惨残酷極まるこの地獄絵図を描き上げた張本人で。しかし不気味かつ信じ難いことに、クラハの衣服は返り血で一切汚れていなかった。

 

「…………」

 

 ロックスの言葉を受けてなお、巨木の下に片膝を抱え、座り込んだままでいるクラハは。固く閉ざしたその口を開くことはなく。そんな彼の態度に流石のロックスも辟易とした様子で、堪らずというように舌打ちをしてしまう。それから再度口を開こうとした、その直前だった。

 

 スッ、と。不意に今の今までずっと座り込んでいたクラハが、静かに立ち上がった。立ち上がり、身体を幽鬼のように危なかしく揺らしながら、目の前に立つロックスのことなどまるで眼中にないかのように、その横を通り抜ける。

 

「お、おい……待てよおい!クラハッ!」

 

 そんなクラハのことを、透かさずロックスは呼び止めようとするが。彼の呼びかけに対してクラハは聞く耳を持たず、そのままフラフラと先を進む。そして血の大海の中心地に突き立てられていた長剣の柄を握ったかと思えば、ごく自然な動作でそれを無造作に地面から引き抜く。

 

 剣を引き抜いたクラハが次に起こした行動は、【次元箱(ディメンション)】を開くことで。開かれたそこから、クラハの手元へ青色の魔石が転がり落ちる。そして彼はその魔石を、すぐさま宙へ放り投げた。

 

 パキン──放り投げられた魔石の全体に細やかな亀裂が走り、透き通った甲高い音を儚く立たせると共に。まるで叩きつけられた硝子(ガラス)の如く、青色の魔石は木っ端微塵に砕け散った。

 

 キラキラと青く輝きながら、魔力粒子状となってが宙を漂い。そして一瞬にしてそれは、畝り回る水流となった。

 

 ──水の魔石……。

 

 宙に留まりながら、グネグネと蛇を彷彿させる動きで畝り回り続けるその水流を目の当たりにし、ロックスが呆然と心の中で呟くその最中。クラハは気怠げに赤黒く汚れた長剣を掲げ。するとすぐさま、水流がその剣身へと絡み纏わりついた。

 

 瞬く間に水流が血の如く赤黒く変色し、細かい肉片と油の浮く汚水と化して。その色が濃くなる程、汚染が進む程に。長剣は元の冷たく鈍い銀色の姿を取り戻していく。

 

 そうして、十数秒が過ぎたその時であった。

 

「ッ!」

 

 唐突にロックスの鼻腔を獣臭が掠めて。瞬間、クラハのすぐ側に生えていた木が乱暴に薙ぎ倒されて。

 

「ゴアアアッ!ガアアアアアアッ!!」

 

 という咆哮を伴いながら、人の身の丈を優に越す巨大熊の魔物────デッドリーベアが飛び出した。

 

 危険度〝撲滅級〟に位置付けられており、討伐も複数人の《A》ランクの冒険者で取りかかることが強く推奨されていて、その個体によってはたとえ《S》ランクの冒険者でも呆気なく命を()られかねない、紛うことなき強敵である。そして今この場に突如として現れた個体は、その類に属していた。

 

 そこらの丸太よりも太く強靭なその豪腕は、もう既に振り上げられており。それはあと数秒と大した間も置かれずに、眼下のクラハの頭上へと振り下ろされることだろう。対し、当のクラハはデッドリーベアのことなど全く見向きもしていない。

 

 次の瞬間に訪れる、最悪の未来────それを想像してしまったロックスは、無意識の内に叫んでいた。

 

「逃げろッ!!」

 

 叫びながら、ロックスは咄嗟にその場を蹴って駆け出す────その途中。

 

 

 

 

 

 ブンッ──ぶっきらぼうに、半ば雑に、そして力任せに。クラハは最後までデッドリーベアに一瞥もくれることなく。宙に掲げていた長剣を振り下ろした。

 

 

 

 

 

「バ」

 

 それがデッドリーベアがこの世に遺した、最期の一鳴きで。クラハによって振り下ろされた長剣から放たれた、絡み纏わりついていた赤黒い汚水流が。デッドリーベアの頭部を丸ごと、跡形もなく消し飛ばし。

 

 それだけに留まらず、飽き足らずに。未だとんでもない破壊力を有したその汚水流は、デッドリーベアの背後にあった木々いくつも巻き添えにする形で砕き折り、倒しながら。やがて、明後日の方向へと見えなくなった。

 

 遅れて、血を噴水のように噴き出しながらデッドリーベアの身体が倒れ。だがその血の噴水ですらも、そうなるようにと。計算の内に入れていたのか、クラハへ降りかかることはおろか、僅かに掠めすらしなかった。

 

 堪らず足を止め、硬直しその場で立ち尽くすロックスを他所に。クラハはポタポタと雫を滴らせる剣を一瞥し、軽く振るってみせる。そうして水気を完全に払うと、慣れ切った動作で鞘に収め、クラハはまたフラフラと身体を左右に小さく揺らしながら、歩き出した。

 

 ゆっくりと、しかし確実に。遠去かっていくその背中を。ロックスはしばらく見据え、眺めると。それから疲労が色濃く混じるため息を盛大に吐き、彼は途方に暮れたようにぼやく。

 

「今日も今日とて、相変わらずか」

 

 言いながら、ロックスは周囲を。無数の亡骸が悲惨に、そして物悲しく浮かぶ、血の大海と。そこへ先程新たに追加されたばかりの、デッドリーベアの首なし死骸を見回す。

 

「……てか、どうすんだよ。この後始末」

 

 それに問題はこれだけではない。ここまでの道中で見かけた魔物の死骸のことだってある。

 

 数秒、ロックスはその場に立ち尽くすと。日が昇りすっかり明るくなった空を仰ぎ見ながら、草臥(くたび)れたように呟いた。

 

「あぁ、最高だ。最高の朝だよ、全く」



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殺意に飢える(その一)

 夢を見る。そう、それは夢だ。これはきっと、夢なのだ。そうやって、自分に言い聞かせることにした。

 

 不意に鼻腔を擽った青臭さに、周囲を見渡せば。自分はいつの間にか木々に取り囲まれていて。その景色が、ここは森の中であると如実に知らしめる。

 

 不思議と、気分が落ち着く場所だった。何故か、心がみるみる安らいでいくのがはっきりとわかった。

 

 果たして、この森は一体何なのか。自分はこの森のことを知っているのか────そう考えた直後、ある風景が脳裏を駆け抜けた。

 

 

 

『お前、名前は?』

 

 

 

 そう、木にもたれかかりながら。その人は訊いてきた。まるで燃え盛る炎をそのまま流し入れたような、紅蓮の赤髪の人。何処か凶暴で粗野ながら、しかし一瞬女性かと見紛う程の美丈夫の人。

 

 ああ、そうだ。そうだった。自分はこの人と出会った場所は森の中だった。何の変哲も特徴もない、至って普通の森の中で。自分とこの人は出会ったのだ。

 

 いずれは恩人となる人。いずれは世界最強と謳われる人。いずれは────先輩となる人。その人と自分の、謂わば始まりの場所。

 

 そして、今こうして立つこの森こそ────その森なのだ。それを理解した瞬間、突如自分の腕が重くなった。

 

 一体どうしたのかと頭で考えるよりも先に。反射的に自分の視線が眼下へと向かい。そして、視界はその光景を鮮明に映し出す。

 

 自分の腕は、人を抱き抱えていた。まるで燃え盛る炎をそのまま流し入れたかのような、紅蓮の赤髪と。可憐にして美麗、その狭間を彷徨う整った顔立ちをした、絶世の美少女。その身体を、今自分は抱き抱えていたのだ。

 

 まるで眠っているように、その少女は瞳を閉ざしており。しかし、微かな寝息の一つすら彼女は立てていない。見てみれば色素の薄い、潤んだ赤い唇は真一文字に結ばれていて。ぱっと見、冗談抜きに。そのあまりにも精巧で、浮世離れした美貌も相まって。この少女が作り物の、製作者の理想がこれでもかと詰め込まれた人形なのではないかと。そんな突拍子もない錯覚を思わず覚えてしまう。

 

 だがしかし、やはりそれはただのしがない錯覚だったと、即座に思い直すことになる。何故ならば、少女の身体には温もりがあった。冷たい人形が持ち得ない、冷たい人形には決して宿せない、人間としての生命(いのち)の温もりが。今、自分の腕に抱き抱えられているこの少女には、確かに存在していたのだ。

 

 この少女は誰なのだろう。自分はどうしてこの少女を抱き抱えているのだろう────そういった疑問に駆られ、その答えを求めた、その直後のことだった。

 

 スッ、と。今の今まで、何処までも静謐な雰囲気を漂わせながら閉ざされていた、少女の瞳が。ゆっくりと、まるでこちらのことを焦らすかのように、緩やかに開かれた。

 

 堪らず、息を呑んでしまう。瞼の奥に隠し秘められていた、その瞳を目の当たりにして。深い紅色の其処に、呆気に取られている自分の顔が映り込む。

 

 言い訳などしない。その時自分は、完全に、完璧に。完膚なきまでに、見惚れてしまっていた。燃ゆる紅蓮の如き髪と煌めく紅玉の如き瞳を持つ、赤い赤いこの少女に。

 

 果たして、この少女は一体何者なのだろうか。自分と関わりはあるのだろうか。自分とは知り合いなのだろうか。もし、そうだとしたのなら。

 

 少女と自分はどんな関係なのか────そんな疑問が頭の中を駆け回り、ただひたすら巡り続けていた。

 

 まだ覚めたばかりの、何処か気怠げなその瞳で。こちらのことを真っ直ぐに見据えながら。一瞬にも満たず、刹那よりも少しだけ短い静寂を挟んでから。唐突に、この腕に大人しく抱かれている少女が。

 

 一体何を考え、そして何を思った故の行動だったのか。少女はその細く華奢な腕をゆっくりと、徐々に振り上げ。見るからに繊細なその手を、こちらの顔に近づけて。しなやかなその指先を、こちらの頬に触れさせて。

 

 まるで慈しむかのように這わせ、撫でて、なぞり。やがて、真一文字を結んでいた、薄紅の唇が。また焦らすような(のろ)さで、僅かばかりに開いた。

 

「……して」

 

 消え入りそうな、しかしそれでも。小鳥の囀りを彷彿とさせる、愛らしい声音だった。聴く者全ての鼓膜を心地良く震わす、美しい声音だった。

 

 依然消え入りそうで、それこそ今すぐにでも儚く散ってしまいそうな程に小さく、弱々しく揺れるその声で。少女は、言葉を紡ぐ。

 

「どうして……」

 

 遅れて、それが自分に対しての問いかけなのだと気がついた。少女は今、自分に問うているのだと、理解した。だが、一体何のことなのか。一体何を問うているのかまでは、わからなくて。

 

 堪らず、自分も。先程までの少女と同じく閉ざしていた口を開く────────その直前。

 

 

 

 

 

「どうして、俺を殺したんだ?……()()()

 

 

 

 

 

 そう、はっきりと確かに。少女は口にした。

 

 ズブ──瞬間、手に伝わる異様な感触。まるで粘土のような、柔らかいが妙に硬くもある物体に、何かを突き刺すような手応え。

 

「…………え……?」

 

 それが自分の────僕の。クラハ=ウインドアの声であるということに気がつくのには、少しの時間を有した。一瞬にして真っ白に染め尽くされ、塗り潰された所為で。何もかもを考えられなくなった頭の中で。しかし、目だけは律儀にも動いて。

 

 ゆっくりと、ゆぅっくりと。思わず苛立ちを覚えられずにはいられない程の遅さで、無意識の内に動かされる視界。そうしてようやく、真っ白だった僕の頭の中に、ある一つの言葉が浮かび上がった。

 

 

 

 ──止めろ。

 

 

 

 その言葉はこの上ない焦燥に塗れていた。頭の中で警鐘が凄まじい勢いで鳴っていた。

 

 ──見たくない。それを見ちゃ、いけない……!

 

 決定的な予感だった。致命的な確信だった。もし、()()を目にすれば。それを視界に映してしまえば────僕の中で、壊れてはいけない何かが、壊れて。そして、永遠に失われてしまう。

 

 だというのに、僕の目は。僕の視界は動いて、動き続けて────────遂に、とうとう()()を僕は。

 

 

 

「……そん、な……」

 

 

 

 見てしまった。映してしまった。僕の手が──────────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



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殺意に飢える(その二)

 何故、どうして────という。そんな言葉だけが、ただただ頭の中を駆け回って、駆け巡って、そして駆け抜けて。けれど、その先に答えなどなく。何故そうなったのかという、結論は用意されておらず。どうしてそうなったのかという、帰結が出されず。

 

 故に、その結果。僕は何もできず、僕はどうすることもできず。ただただ、その光景を。目の前の景色を確かな現実であると、そう受け止めざるを得なかった。

 

 だが、それでも。往生際の悪い僕の思考は、ひたすら延々と、ひたすらに永遠と。頭の中で、無数の言い訳を乱雑に立てては並べていた。

 

 ──違うこれは僕じゃない僕の意思でやったことじゃない気がついたらこうなってた勝手にこうなってたきっとこれは僕じゃない別の誰かが僕に罪を被せようと僕を身代わりにしようとこんなことをやったに違いない僕じゃない僕じゃない僕じゃない。

 

 けれど、頭の何処かの、片隅では。わかっていた。理解していた。認めて、受け止めていた。これは他の誰でもない、紛れもない自分の行為なのだと。自分の過ちの末の結果なのだと、諦観しながらそう思っていた。

 

 しかし、僕の理性はそれを許さなかった。必死に罪悪感を拭い去ろうと、死に物狂いで罪から逃げ果せようと。この期に及んでみっともなく、何処までも惨めに情けなく、己を庇いながら過ちを否定し続けるつもりだった。

 

 そんな僕の往生際の悪い理性であったが、次の瞬間。跡形もなく、その痕跡の一片すらも残さず。無慈悲にも吹き飛ばされ、消し飛ばされる────────

 

 

 

 

 

「なあ、どうしてだよ。何でお前は、俺を殺したんだ……?」

 

 

 

 

 

 ────────その、言葉によって。

 

「ッ!!」

 

 息が詰まった。まるで後頭部をぶん殴られたような衝撃を受け、まるで心臓が握り潰されたような激痛が胸中に走った。

 

「なあ。なあ、なあ。どうしてだよ、何でなんだよ……」

 

 少女の声に、憎悪や怨恨など微塵も込められておらず。その代わりに溢れていたのは────ただひたすらの、悲哀と寂寥。痛々しい程の悲しみと寂しさに、少女の声は震えて揺れていた。

 

 これならば、いっそのこと憎しみや怨みに塗れてくれていた方が良かった。その方が、まだマシだった。

 

 少女の悲しみが僕を追い立てる。少女の寂しさが僕を追い詰める。もはやまともに何も考えられなくなった頭の中で、僕がその時唯一思ったことは。

 

 ──助け……なきゃ。

 

 助けよう。救おう。今ならまだ間に合うかもしれない。今ならまだ、この少女を死の淵から引っ張り上げることが叶うかもしれない────もう誤魔化せなくなった罪悪感に、もう見て見ぬふりができなくなった罪の意識に。苛まれ、突き動かされながら抱いたその思いを胸に。僕は改めて、少女の胸元を見やる。

 

 その低めな背丈に見合わず、存外たわわと豊かに育っている二つの膨らみ。その中央に、未だ僕の手がその柄を握り締めているナイフは突き立てられていて。切先はおろか、刃の全てが少女の身体に埋まっていた。

 

 ……普通であれば、この時点で気づくべきだった。心臓がある位置に、完全に見えない程刺し込まれた刃────誰がどう見ても、それは決定的な致命傷に間違いなかった。

 

 だけれど、それを目の当たりにした僕は心の中でこう呟く。

 

 

 

 ──()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 そう、僕は信じて止まないでいた。きっと大丈夫。今すぐこのナイフを引き抜き、即座に【次元箱(ディメンション)】を開き、そこから最上級(ハイエンド)治癒薬(ポーション)を取り出し、この傷口に振りかけ、流し込めば。一瞬にしてこの傷は癒え、少女は助かるのだと。自分は少女のことを助けられるのだと、頑なに信じ込んでいた。

 

 ──早く、今すぐに、このナイフを……ッ!

 

 少女を、この腕に抱く少女を。燃ゆる紅蓮と煌めく紅玉の持ち主たる、赤色の少女のことを。助けようと、救おうと考え、思い。そしてとうとう遂に、僕は行動に────────

 

 

 

 

 

「…………あ、れ……?」

 

 

 

 

 

 ────────()()()()()()

 

「ど、どうして……何で……ッ!?」

 

 手が、動かない。ナイフの柄を握り締める手が、動かせない。今もこうして振り上げようとしているのに、必死になって少女の胸元からナイフを引き抜こうと、腕を振り上げようとしているというのに。

 

 まるで動かない。微塵も動かせない。どれだけ力を込めようが、どれ程意思を強めようが。

 

 僕の腕は、僕の手は動かない。ナイフの柄から五指を引き剥がすことすらも、できないでいる。

 

 意味がわからなかった。理解不能だった。まるで僕の手が、僕の手じゃないような感覚に陥っていた。

 

「クソ、クソッ……動け、よ……動けつってんだろうがぁあッ!?」

 

 自分が自分に反逆を起こされるという、起こるべくもない、悍ましい程に気味が悪い事態の最中に放り込まれ。僕は堪らず叫び声を上げてしまう。引き攣って掠れた、情けなくみっともない叫び声を。

 

 そして何がなんでも死に物狂いになって腕を振り上げようと、手をナイフの柄から離そうとするが。やはり、どうしたってそれらのことができない。

 

 そうしている間に────────()()。ナイフの刃が沈められている少女の胸元から血が滲み出し、着ている服を赤く染め始めた。

 

「ッ!!ま、待って!待ってくれッ!今、今すぐ抜くから!これ、君から引き抜くっ!引き抜くから待ってくれぇええッ!?」

 

 その光景を目の当たりにして、僕は半ば狂乱しながら少女にそう叫び散らし。そしてその通りにナイフを引き抜こうとする────が、やはり僕の腕は全く上がらず。僕の手は全く動かなかった。

 

「待って待って待って待って待ってもうすぐだから待って僕は助ける君を救うだからだからだから」

 

 つぅ、と。その時頬に走った、擽ったい感触が。壊れて、幾度も何度も同じ言葉を繰り返し、それを支離滅裂に並べ立てては捲し立てていた、僕のことを。一瞬にして、止めてみせて。

 

 まるで時間が停止してしまったように固まった僕へ、少女はナイフを突き立てられながらも、眩しいくらいに鮮烈な血を流しながらも、その口を小さく、微かに動かす。

 

「ク、ラ……ハ」

 

 か細く萎み切った、今にも儚く消え失せそうな弱々しい声が。僕の耳朶を優しく打ち、鼓膜を静かに震わせ────────突如、脳裏で()()()()が一気に弾け、噴き、溢れた。

 

 

 

『その……何だ。ひ、久しぶりだな。元気してたか?────クラハ』

 

()()()!俺は、お前の先輩のラグナさんだ!』

 

『おう。正真正銘、俺はお前の先輩、ラグナ=アルティ=ブレイズだ。さっきからそう言ってんだろ?』

 

 

 

 これは、出会いの記憶。

 

 

 

『クラハ。お前、俺のこと……どう思ってんだ?』

 

『お前、言ったよな。俺のことまだ先輩だって思ってるって。……そう、言ってたよな』

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

『クラハ。もう一回、言ってみろよ。さっきと同じこと、面と向かって……今の俺に言ってみせろよ』

 

『……そうだよな。お前、嘘吐けないもんな』

 

 

 

 これは、試された記憶。

 

 

 

『……ぁ、く、来んなッ!』

 

『お、俺は大丈夫だ。大丈夫、だから……本当に』

 

『く、ぅ……っ!』

 

『まだ、上手く歩けそうにねえんだ……今足動かしたら、たぶん転んじまう』

 

 

 

 これは、頼られた記憶。

 

 

 

『良かった、本当に良かった……!クラハ、お前ずっと寝込んじまって、全然起きなくて……!』

 

『クラハ、腹は大丈夫か?やっぱりまだ痛かったりするのか?……あんなに、蹴られてたし』

 

『俺、何もできなかった。目の前でお前が腹蹴られてんのに、お前が酷え目に遭ってんのに……俺見てることしかできなかった。助け、られなかった』

 

『俺はお前の先輩なんだよ。なのに、なのに……っ』

 

 

 

 これは、心配させた記憶。

 

 

 

 ──……嗚呼、どうして。どうして、僕は。

 

 脳裏を埋め尽くさんばかりの勢いで駆け巡り、駆け抜けていく無数の記憶。無数の、思い出。それら全てが僕に思い出させてくれた。思い出させて────同時にこれ以上にない程の悔恨と絶望を齎した。

 

 ──僕は……僕は…………ッ。

 

 見知らぬ少女などではなかった。この腕に抱く少女────否、この人は。僕にとってはかけがえのない、何にも決して代えられない、己の命よりもずっと大事で大切な存在(ひと)だった。

 

 たとえその姿形がいくら変わろうと。たとえその性別ですら変わってしまっても。大事で大切で、そして唯一無二の憧れの存在。永遠の憧憬そのもの。

 

 それは誰にも覆せない、誰にも覆させやしない。僕だけの現実で、僕だけの事実で、僕だけの真実だった。

 

 ……だと、いうのに。

 

『お前の、為。俺が一人でここに乗り込んだのは、お前の為だ』

 

 そう、言ってくれたのに。僕の為に、こんな度し難く、救い難く、どうしようもない僕なんかの為に。危険を顧みず、独り行動を起こしてくれた、その存在を。こともあろうに、僕は。

 

『どうしてですか、先輩。先輩はどうして、こんな場所に一人で乗り込んだんですか?一体どうしてこんな無茶をしたんですか?』

 

 一方的に問い詰め。

 

『そもそも先輩がこんなところに来なければ、ライザーの奴に酷い目に遭わされることなんてなかった。それだけじゃない。きっとろくでなしのあいつは、仲間を使って先輩をもっと酷い目に遭わせようとしたはずです。こんな無茶をしなければ……先輩の身には何も起こらなかったんですよ?』

 

 一方的に責め立て。

 

『だから、教えてくださいよ。どうしてこんなことをしたんですか……ラグナ先輩』

 

 一方的に追い込み。

 

 

 

 

 

『つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()と、先輩は言いたいんですか……?』

 

『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか』

 

『止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは』

 

『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです』

 

『だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ』

 

 

 

 

 

 一方的に苛め虐げ。しかし、それでも。

 

『こんな()()俺にでも、クラハの為にできることをしたかった』

 

 言ってくれた。

 

『何でも、どんな些細なことでもいいから、お前の先輩として、お前の為になることをして、やりたかった』

 

 そう言ってくれた。

 

『それは、本当、だから……!』

 

 ……そう、僕に言ってくれた。まだ、言ってくれていた。優しい言葉。温かい言葉。それは嘘偽りのない、心の底からの、正真正銘の、本当の言葉。

 

 それに対し、僕は────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────考える限り最低の言葉で傷つけ、最悪な形で裏切った。

 

「ッ!」

 

 僕の頬に触れていた、ラグナ先輩の指先が離れる。振り上げられていたラグナ先輩の腕が力なく垂れ下がり、僕のことを悲しげに、そして寂しげに見つめていたラグナ先輩の瞳がゆっくりと、静かに。眠るように閉じられて。

 

 次の瞬間、ガクンと。まるで操り人形の糸でも切れたように、ラグナ先輩の首は後ろに倒れた。

 

「……ぁ」

 

 僕の腕に抱かれる先輩の身体は、いつの間にか冷たくなっていた。つい先程まで、生命(いのち)の温もりを確かに宿していたというのに。

 

「ぁ、ぁぁ」

 

 ナイフが突き立てられている胸元からは、未だにどくどくと湧き水の如く血が流れ出していて。それは先輩の服を赤く染めて、真っ赤に濡らして。それだけに留まらず、やがて僕の腕に、僕の身体にも伝ってくる。

 

 温かった。もう身体は氷のように冷たいのに、その身体から流れ出される血だけは温かくて。それが僕には不自然な程に不気味に思えて、異様な程に異質なことに感じられて。

 

「ぁぁぁぁぁ…………」

 

 そして気がついた。さっき、あれ程動かそうと躍起になって、必死になっていたのに、微動だにしなかった僕の手が。ラグナ先輩の胸元に突き立てられたナイフの柄を握り締める僕の手が、ようやっと自由になったことに。特に意識しないでも、勝手に柄から離れていたことに。

 

 そのことに僕は後頭部を鈍器で殴りつけられたような衝撃を受け、絶句し。それから小刻みに痙攣するその手で、再度。無意識の内に手離していたナイフの柄を、握り締め。

 

 即座に、先輩から引き抜いた。引き抜いたナイフを放り捨て、僕は先輩の顔に、先輩の血に濡れた手をそっと這わす。それからその身体を抱き寄せ、抱き締めて。

 

 

 

 

 

「……ぁぁぁああああああッ!!!うわああああぁぁぁぁ……ッ!」

 

 

 

 

 

 ただひたすらに、慟哭し続けた。



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殺意に飢える(その三)

 一体どれ程の間、僕は慟哭していたのだろう。一体どれ程の間、僕はこの上なく惨めで無様な姿を晒していたのだろう。少なくとも、もう嗄れた呻き声一つすら出せないくらいには、僕はずっとそうしていた。

 

 呆然とそんなことを考えながら、ラグナ先輩を抱き抱えたまま。僕はその場からゆっくりと立ち上がり、そして歩き出した。先輩を連れて、行く当てもなく、どこを目指す訳でもなく。

 

 僕は歩いた。歩いて、歩いて歩いて歩いて。ラグナ先輩のことを抱き締め、抱き抱えて。そしてずっと、歩き続けた。

 

 けれど、どれだけ歩こうが。どれだけ先に進もうが、僕と先輩はこの森を抜けることができないでいた。延々と、いつまで経っても。永遠、と。

 

 だがそれでも僕は足を止めることなく、歩いた。進んだ。鉛のように重たい身体を引き摺るようにして、羽のように軽い先輩の身体を抱えて。

 

 ──……ああ、そうか。

 

 そんな時、僕はふと気づいた。きっとこれは、罰なんだと。天が、神が。僕に下した、罪に対する罰なのだと。

 

 自分の大事で大切な存在(ひと)を、自分の手で殺めた罪。永久不変の憧れを、自ら打ち砕き壊した罪。

 

 それは決して許される罪ではない。それは絶対に赦される罪ではない。そう、死を以て贖うことすらもできない、あまりにも重い大罪。

 

 だから、こんな罰が僕に下されたのだろう。大罪を犯した咎人の僕は、己が罪を文字通りこの腕に抱いて、堪え難い苦しみの真っ只中に立たされながら、歩かされ続ける。終わりのない道を、僕は終わりなく進まされる────それが、僕に下された罰。

 

 ──でも、それでも僕は許されない。絶対に赦されない。僕の罪はそれ程に、それ程のものなんだ……。

 

 そうして、僕は歩き続ける。果てしない後悔と絶望を背負い、こんな過ちを犯した己を呪い、忌み続けながら──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやいやいぃーやぁ?別にその必要はないよ?」

 

 突如、僕のすぐ横で。そんな調子の軽い、実にお気楽そうな声がした。

 

「え」

 

 トッ──その声に僕が気を取られた直後、足が何かに引っかかり。結果躓いた僕は、そのまま体勢を崩し、突っ込むようにして前のめりに転んでしまった。

 

「ぐあっ……!」

 

 そして抱き抱えていたラグナ先輩も放り捨てるように手離してしまって。僕の視界の先で、先輩が地面に落下し転がる光景が飛び込んでくる。それを目の当たりにした僕は、全身から血の気が一気に引くのを感じながら、慌てて地面から立ち上がった。

 

「せ、先輩ッ!ラグナ先輩すみませんッ!」

 

 そう謝りながら、僕は急いで先輩の元にまで駆け寄って。顔や腕に付いた土を払い落とし、まるで割れ物を扱うように慎重に、そっと地面から抱き起こした。

 

「あはははっ。いつ見ても面白いよねェ、この瞬間。いやあ……実に面白い!こうして何回何十回繰り返して、こうやって何度も何度も目にしてきた訳だけど……全然、ボクは全ッ然飽きないよお」

 

 ラグナ先輩の身体を抱き締める僕の背後で、先程も聞いた声が響く。……耳にしていて、神経を無遠慮に逆撫でられる、嫌に耳障りで────こちらに言い知れない不安を抱かせる、そんな雰囲気を醸す声音だった。

 

 その声の主は一体誰なのかと、その姿を確かめようと。先輩を抱き締めたまま、僕は背後を振り返った。

 

 僕の背後に立っていたのは、女性だった。服────というよりは辛うじてそう見えるだけの、白い一枚布をその身に纏う、透き通るような灰色の髪と、それと全く同じ色を宿した瞳を持つ、一人の女性がそこのは立っていた。

 

 今し方、面白いと言った通り。その表情に愉快そうな、楽しそうな笑顔を浮かべているその女性に。僕は呆気に取られ、呆然としながらも訊ねる。

 

「……貴女、は……?」

 

 するとその女性は一切表情を変えることなく、そしてさっきと全く同じ、聞いていて不快になる明るげな声音で、依然こちらを小馬鹿にするような調子で僕にこう言う。

 

「そんなことよりもさぁさぁ、さっきも言った通り別にキミはそうやってする必要はないんだぁよねェ。そう、そうやって泣いたり嘆いたり、後悔したり絶望したり……そんなどうしようもなくつまらなくてくだらなくて、馬鹿丸出しな真似なんて、する必要がない」

 

 女性の言葉はまるで意味不明だった。理解しようにも、元よりこちらに全く理解させる気のない内容だった。当然、全く見当違いの答えを聞かされた僕は、ただ混乱し、ただただ困惑する他しかなかった。

 

 そんな僕に対して、女性は。別にそう大したことではないように、まるで日常会話の一つだとでも言わんばかりの軽さとお気楽さで。なおもこう続ける。

 

「だってだってね?ボク、言っちゃう。キミにぶっちゃけちゃうんだけどォ……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。キぃーミっ!あははははっ!」

 

「…………は……?」

 

 その女性の言葉が、僕の思考を完全に停止させるのには十分なものだった。十分過ぎるものだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まともに考えることができなくなった頭で、然れど僕はなんとか、女性の言葉を反芻させることで。止まってしまった思考をどうにか、無理矢理に動かす。

 

 これが最初の一回目ではない────果たしてその言葉が意味することは。その答えを求め、壊れかけている頭の中に、歪になりつつある思考を巡らし。瞬間、僕の脳裏に。

 

 

 

 

 

『どうして、俺を殺したんだ?……クラハ』

 

 

 

 

 

 唐突に、その言葉が響き渡った。瞬く間に自分の全身から血が引いていく感覚を如実に享受しながら、極度の悪寒に包み込まれた僕は恐る恐る、ぎこちなく口を開く。

 

「……じゃ、あ……なんです、か。貴女、貴女が言いたい、ことは」

 

 呂律が回らない。まるでどうするのかを忘れてしまったかのように、僕の喋り方は拙く。しかし、それでも目の前に立つ透き通った灰色の女性は黙って、依然として貼り付けたような笑顔を浮かべたまま、僕の言葉に対して耳を傾けており。だから、僕はどうにかして言葉を続ける。

 

「つまり……僕は、僕が」

 

 そうして、今の今まで些細な言葉ですら口から出すのに梃子(てこ)()って僕であったが。次の瞬間、それがまるで嘘だったかのように────────

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。……そういうこと、なんですか?」

 

 

 

 

 

 ────────という、恐らく核心を突いた言葉だけはするりと、自分でも気づかない内に口から滑り出ていた。

 

 そして、そんな僕の言葉を聞いた女性は、さも当然かのように。至極当然のことのように、いかにも作り物めいた欺瞞の薄ら笑みをその顔に貼り付けたまま、平然と答える。

 

「うん、そうだよ。実に呆気なく、とんでもなく平凡で、当たり前な結論……退屈極まりないよねェ」

 

「……ふざ、けるな。ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるなッ!!」

 

 女性の言葉に対して、僕は叫ばずにはいられなかった。とてもではないが、冷静なんかではいられなかった。しかし、この僕の反応は当然のことだろう。

 

「どうして、なんで僕がラグナ先輩をこの手にかけなきゃいけないんです……?どうしてなんだって僕は先輩を殺してるんですッ!?僕はそんなこと一度たりとだって思ったことはない!そんなこと、僕が思うはずがないでしょうッ!?」

 

 それは、理性を働かせないで口から出た言葉。それは間違いない。何の装飾も着飾りもしていない、僕の心の奥底から転び出た本音であることを、僕は確信していた。

 

 が、僕の嘘偽りの言葉に。間違いのない本音に。女性は────おかしくて堪らなそうに、ころころと笑ってみせた。そして、彼女はこう言う。

 

「あっは!あっははははっ!え?何?なぁに、それぇ?本気で言ってる?もしかして、もぉしかしてキミ、本気でそう言ってるの?だとしたら、さあ……面白っ!面白過ぎキミぃ!あははっ!」

 

「はあ……ッ!?」

 

 遠慮なく、そして容赦なく。大いに女性は僕のことを笑い、嘲った。僕も、人にここまで馬鹿にされたのは生まれて初めてのことで、流石に頭に血が徐々に昇っていくのを抑えられないでいた。だがそれでも、僕ははっきりと。突きつけるみたいに女性に言い放つ。

 

「本気も何も僕はただ事実を言っているだけのことだ!ああ、断言してやる!僕はラグナ先輩に殺意を向けたことなんてないし、先輩に対して殺意を抱いたことだってないッ!」

 

 言い終え、息を荒げ肩を小さく上下させる僕に。女性は未だ微かに笑いを漏らしながらも、こう言ってくる。

 

「確かに、確かにねェ。うんうん。そうだよ、そうだとも。キミは尊敬し敬愛しているラグナ先輩には殺意なんて物騒極まりないもの、向けたことも抱いたこともないよ。そのことはボクも保証するし」

 

「…………え?」

 

 一体僕の何を知って、何を根拠にそう言っているのだろうか。あまりにも予想だにしていなかったその言葉に、堪らず面食らう僕を他所に。女性はさらに続ける。

 

「でもね?それはあくまでもラグナ先輩に対してって話でしょォ?キミの腕のそれ……()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……今さっきと違って、僕は声すら出せなかった。まるで背中に極太の氷柱(つらら)を思い切り突き立てられたかのような、そんな悪寒に全身が硬直し、またしても思考を停止させられていた。

 

 そんな僕の様子などに構うことなく、全く気にも留めず女性は言葉を続ける。

 

「ていうかさあ、キミ自分で認めてたことだよね?キミ自分でそう言ってたよね?ね?」

 

 女性の言葉によって、僕の心の中で自分の言葉が響く。

 

 

 

『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 そしてそれを目敏く気づいたらしい女性は、先程からも、今こうしている間も浮かべている薄ら笑みを────まるで満開に咲き誇る大輪の花が如く、満面の笑顔にして僕にこう言った。

 

「ほぉうら、ね」

 

 ……もはや何も言えなくなった僕は、未だこの腕に抱いている少女を見た。その身体も血も、何もかもが冷たくなった少女の亡骸を、僕は見やった。

 

 ──……ああ、そうだ。そうだった。そうだったじゃないか。

 

 僕は馬鹿だ。今さら気づいた僕は、大馬鹿野郎だ。女性の言う通りだ。全部、その通りだ。

 

 ()()()()()()()()()()。僕の知っている、ラグナ先輩じゃない。たかがナイフ一本で死んでしまった、こんなにも弱くてか弱い女の子が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんなこと、子供にだってわかるような、簡単で単純なことだった

 

 

 

 ──違う。そんなことない──

 

 

 

 ……不意に、頭の中で声が響いた。……気がした。何故だろう、少し頭痛がする。

 

 だが今はそんなことどうでもいい。重要なことなんかじゃない。

 

 僕はそんな簡単で単純なそれが、わからないでいた。理解できていないでいた。こともあろうに、ラグナ先輩の後輩である僕がだ。自分が堪らなくどうしようもない程に情けない存在だと思った。そう思いながらも、しかし。

 

「……僕がこの子を……殺した、のは。こんな可憐で、美麗で、綺麗な女の子を僕が殺したのは……これで最初ではない、と。一回目ではないと……そう、貴女は言いました」

 

 それだけは否定したかった。どちらにせよ、僕は人間として犯してはならない過ちを犯した。けれど、それだけはどうしても否定せずにはいられなかった。

 

 胸に大穴が穿たれたような、心の中が空っぽになったような虚無感に苛まれつつも、僕は俯きながら女性に言った。

 

「人は必ず一度、死ぬ。一度死んでしまえば、そこで終わりです……確かに僕は、この子を、殺した。一本のナイフを胸に突き立てて殺してしまった。それは、否定しませんよ」

 

 そこで僕は俯かせていた顔をバッと上げ、女性を真っ直ぐに見据えながら、彼女に己の言葉を叩きつける。

 

「けどそこまでだッ!そこまでなんだッ!!人は死んだら終わる!だから、最初だとか一回目だとかそもそもないんだ!同じ人を何度も殺すことなんて……できやしないッ!!」

 

 そう、そこだった。人は死ぬ。必ず、死ぬ。だがそれは己に与えられた生涯の中で、一度だけのこと。たった一度だけのことなのだ。死んだ人間をもう一度殺すことなど────何度も何度も繰り返し繰り返し、殺すことなど……できはしない。だからそこだけは、僕は少女を殺したのはこの一度だけであると言いたかった。弁明、言い訳────どんな形になっても構わないから、僕はそう主張したかった。

 

 ……仮に。もし仮に、そんなことが。同じ人を一度ならず二度も,三度も。何度も何度も、繰り返し繰り返し殺せるのなら。そんな恐ろしく悍ましい行為が許されるのは、きっと────────

 

 

 

 

 

「……あは。あはは…………あははははっ!あぁっははははっ!!アハ、アハハッ!アハハハハハッ!!」

 

 

 

 

 

 ────────笑って、いた。それはもう見事なまでに、僕の目の前に立つ、灰色の女性は大笑いしていた。

 

 この女性が笑うのはこれが初めてなどではない。先程からも、この女性は僕のことを煽るでもように、要所要所で笑いを漏らし、嘲笑を零していた。だが、しかし。

 

「アハハハハハ!」

 

 違った。これはそのどれでもなかった。何が、何処が違うのかはわからないが────この大笑いは、今までとは明らかに異なっている。

 

 言い知れようのない、未知に対する恐怖が僕の心の奥底から込み上げてくる最中。女性の笑い声が、響く。

 

「アハハハハハ!」

 

 上からも。

 

「アハハハハハ!」

 

 下からも。

 

「アハハハハハ!」

 

「アハハハハハ!」

 

 右からも、左からも。上下左右、どこからでも。女性の笑い声が、響いてくる。喧しく騒々しく、聞こえてくる。

 

「アハハハハハ!」

 

「アハハハハハ!」

 

「アハハハハハ!」

 

 瞬間、唐突に僕は理解した。今自分は、この灰色の女性の笑い声に、四方八方────どこもかしこも、完全に取り囲まれてしまっていることを。

 

 

 

 

 

「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」「アハハハハハ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、大丈夫?」



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殺意に飢える(その終)

 上下左右、四方八方────どこからでも。聞こえる、聴こえてくる。笑い声が、こちらのことを嘲る声が。楽しくて愉しくて、もうどうしようもない程に、仕方がない程に。そう言わんばかりの、大笑いが。

 

 聞こえる、聴こえてくる。いつまでもいつまでも、ずっと。まるで鼓膜にベタッと貼り付き、密着されているように。頭の外で響いて、頭の中でも響いて響いて、そして延々と響く。永遠と響き続ける。

 

 調子も、音程も、抑揚も。一切変わらないその笑い声は、着実に、確実に。こちらの正気を摩耗させ、掘削していき。

 

 あっという間に、追い込まれ、追い詰められ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、大丈夫?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────不意に。突然、本当に唐突に。やたら甘ったるく蕩けたその声が、ぞるり、と。僕の鼓膜を舐めるかのように、ねっとり撫で揺らした。

 

「ひっ……ッ?!」

 

 喉奥から無理矢理に引き絞られ、情けなく掠れたその呻き声が。自分の声であるということに、数瞬遅れて僕は気づく。まるで頭から極低温にまで冷やされた水をぶっかけられたような驚愕と衝撃に襲われる最中、またしても。

 

「ねぇえ?ねぇぇえってばぁ?大丈夫かなって、ボクは訊いてるんだけど……?」

 

 あの声が僕のすぐ耳元で囁いてくる。本能で直感し、理解していた。それが上っ面だけの言葉であると。本心では全く、ちっとも、これっぽっちも僕のことなど心配していない。気にかけていないということを。

 

 だから僕は、それに従い。即座に、いつの間にかすぐ傍に立っていた灰色の女性を、その顔をろくに見ることなく思い切り突き飛ばした。

 

「ぼ、僕から離れろっ!僕に近寄るな!近寄るなぁああああッ!!」

 

 女性を突き飛ばし、すぐさま僕はその場から跳び退く。必死だった。無我夢中のことだった。この得体の知れなさ過ぎる灰色の女性から、何が何でも距離を取らなければならないと。僕の頭の中の警鐘が全力で鳴らされていたのだ。

 

 気がつけば息が非常に荒くなっていた。整えようとするが、上手くいかない。できない。まるで忘れるはずもない、呼吸の仕方をド忘れしてしまったように。

 

「いたたっ……えぇ、酷いなあひっどいなぁあいきなり突き飛ばすなんて。あんまりだよ……ボクはただ、キミのことを心配しただけなのにぃ」

 

「見え透いた演技は止めろ!そんなもので、僕は騙されやしない……!」

 

「演技って……なんか知らない内に随分と嫌われちゃったねえ、ボク」

 

 僕に突き飛ばされたことを仰々しく、実に大袈裟な様子で灰色の女性は嘆き悲しむが、それでも僕は遠慮なく、容赦なしに拒絶の言葉を浴びせる。

 

 信用できなかった。ただひたすらに、僕はこの女性のことを全く、その何もかもが信じられないでいたのだ。

 

 ……いや、違う。信じられないのではない。僕は単にこの灰色の女性が、およそ僕の理解が及ぶ範疇から大きく逸脱しているこの存在が────()()()()。悍ましくて、恐ろしくて、そして怖かったのだ。

 

 嫌悪と不快。恐怖と忌避。それら様々な負の感情が僕の中で滅茶苦茶に無茶苦茶に入り混じって、入り乱れて。それがさらに灰色の女性に対する不信感を募らせ、僕の精神を恐慌状態へと陥れる。そんな最中、僕は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。

 

「貴女は一体何なんだ!?何が目的で、何で僕にこんなことをする!?どうして僕を追い込んで、追い詰める!?貴女は……何なんですかッ!?」

 

 恐慌する僕の問い詰めに対し、灰色の女性は依然その顔に笑みを浮かばせながら。焦らすかのように数秒の間を置いて、その口を開かせた。

 

「あっはぁごめんねえ。いや本当にごめんねえ?別にキミを怖がらせようだとか、そんなつもりボクにはないよぉ?ないんだよお?さっきのはね、キミが()()()()()()()()。あまりにも、あんまりにも愉快で楽しくて面白い、実にボク好みの反応を見せてくれていることへの、ボクなりの感謝の表れだったんだよ」

 

「僕はそんなことを訊いているんじゃあない!訳のわからないことを捲し立てて、僕を惑わそうとするなッ!!」

 

 自分が冷静ではないことは、僕とてはっきりと確かに自覚していた。だがしかし、僕が冷静でいられなくなるのも仕方のないことではなかろうか。

 

 こちらは真面目に接しているが、相手は堪らず声を荒げた僕に対して、しかし女性は笑みを崩さず、歪ませず。頭に血が昇っている僕の怒りなどまるで眼中にないように、あくまでも平然と落ち着いた様子で彼女はこう続けた。

 

「でもまあ、仕方ないよね。仕方のないことだよね。ボクがいくら本当のことを語ろうと、こうして淡々と事実を述べようと。キミはそれを認めない受け入れない。……仕方ないよ。だって、キミはそのことを()()()()()()()()()()()()()

 

 ……女性が一体何を言っているのか、一体、何に対してそう言及しているのか。僕はわからなかった。僕には理解不能のことだった。

 

 ──忘れて、いる……?僕が、一体何を忘れているっていうんだ……ッ?

 

 恐らく、僕は揶揄われているのだろう。この正体不明で、その見当もつかない灰色の女性に、僕は良いように揶揄われ、弄ばれ、馬鹿にされているのだろう。そう考えると、そう思うと僕の中で堪え難い、灼熱の業火が如き憤怒が燃え盛り、再度声を荒げる────直前、ふと気づいた。

 

 ──あれ?あ……れ……?

 

 それは()()だった。至極些細な、己に対する()()だった。その二つは瞬く間に混乱と困惑へと変わり、一瞬にして僕の頭の中を埋め尽くす。

 

 そんな頭の中で、僕が思ったことはこうだった。

 

 

 

 

 

 ──何で僕は、こんなにもこの女性に対して怒りを()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 おかしい。おかしい、おかしいおかしいおかしい。とても奇妙で、凄まじい違和感。僕は僕がわからなくなっていた。いつの間にか、自分という存在のことが理解できなくなってしまっていた。

 

 だって、わからないのだから。どうしてこんなにも、今目の前に立つこの灰色の女性に対して、抑え切れない程の激しい怒りを感じているのか。その理由が────()()()()()()()()()()()()

 

「ぉおお……おぁあああっ?」

 

 突然、今にでも頭が爆ぜ砕け散りそうな程に酷い頭痛が僕を襲う。それはどうしたって我慢のできない、とてもではないが堪えられない頭痛で、そうして情けなくみっともない呻き声を、僕は出さずにはいられなかった。

 

 そんな僕に、だが灰色の女性は慈愛と憐憫が絶妙に入り混ぜられたような感情の声音を以て、まるで癇癪を起こした幼子をあやすかのように語りかけてくる。

 

「ほら、そういうことだよ。キミは忘れてるんだ。忘れてしまうんだ。だからどうしてボクに怒りを覚えているのかわからないし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それ自体不思議にも疑問にも思うこともなければ、そもそもその事実にすら気づきやしない。……だって、キミは全部を全部、忘れちゃうんだからね」

 

 わからない。理解できない。この灰色の女性の言葉が、まるで異界の言語であるような感覚。僕にはそれが音として頭の中に響いてくるだけで、女性が一体何を言わんとしているのかは全く理解できないでいた。

 

 だが、そんな僕の様子など目もくれず。淡々と、悲哀の眼差しをこちらに向けながら、灰色の女性は続ける。

 

「ああ、なんて残酷な運命。なんと過酷な仕打ち。といってもまあボクが()()()()()()()色々と手を加えたからなんだけどね。つまるところ端的に言っちゃえばボクが原因なんだけど、ネ」

 

「ぐ、ぁ…………っ?」

 

 頭が今すぐにでも爆ぜ割れそうな頭痛も、ある程度弱まったことで。どうにか僕も余裕を取り戻し、灰色の女性の言葉に対してようやく疑問を抱けるようになった。

 

 ──そうなるように……?色々、手を加えた……だって?

 

 第一、一体この女性が言う紛い物とは、何なのだろうか。女性が言うには、それは僕にとっては大事で、大切なものだったことには違いないらしいが……やはり、そんなもの()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……教えて、ください」

 

「ん?」

 

 草臥れて、呻くことすら億劫にも思える程に疲弊していながらも。微かに、僅かに残っていた気力を無理矢理に振り絞って、僕は訊ねた。

 

「貴女はさっきから何を言っているんですか……貴女は、さっきから僕に何が言いたいんですか……どうして僕は貴女に対してこんなにも堪え難い怒りを、どうしようもない怒りを覚えているんですか…………一体、僕は何を忘れているっていうんですか?」

 

 まるで、ではなく。僕の今の声は、もはや死人そのものと言っても過言ではなかっただろう。

 

 僕と灰色の女性との間で、十数秒の沈黙が流れた。きっと、聞き取れなかったのだろうと、僕がそう思うと同時に。

 

「いや、いやいやいやあ。本当に、本当に素晴らしい。素晴らしい素晴らしい素晴らしい。……だからこそ、何処までも()()()()。愚かで哀れで、そして儚く美しい。ボクはそんなキミ()()が好きだ大好きだ。それ故に、ボクはキミが嫌いだ大嫌いだ。恨めしくて憎らしくて恐ろしくて悍ましくて……とてもじゃないけど、堪えられそうにない。あは、ははは」

 

 と、もはや僕の理解が及ばない感情で埋め尽くされた、顔と瞳で。まるで壊れた機械のように、灰色の女性はそう言った。対する僕は、当たり前に呆然とするしか他ないでいた。

 

 そんな僕に依然として未知の感情を露出させたまま、灰色の女性は続ける。

 

「えっと確かボクはキミに何が言いたいかだっけ?どうしてキミがボクに対して理由のない怒りを覚えてるかだっけ?ああ、()()()()()()()()()()()()()()いつも通り訊いてきたけど、その様子だと無事忘れてるよね。まあ別に今回だけ覚えてても、それはそれで特に問題ないけど。えっとえっとなんて言うんだったかなこういうの……あ、思い出した。確か人間は『論より証拠』って言ってたなあ。ほら、キミの足元を見てごらんよ」

 

 白状すれば、僕は灰色の女性が言っていることを何一つとして理解することはできなかった。何を言っているのかはわかる。だがその意味が()()()()()。理解できない()()()()()()。僕はただ彼女の言葉を、音としてか受け入れることができないでいた。

 

 だからきっと、僕が自分の足元を見たのも、肉体の反射だったのだろう。事実、その時僕は何も考えていなかった。正真正銘、それは無意識下での行動だった。

 

 そして何も考えていない僕の視界に映り込んだのは────倒れている一人の少女だった。

 

「…………」

 

 瞬間、気がつけば僕は固まっていた。その少女は、燃え盛る炎をそのまま流し入れたような、激しく美しい紅蓮の髪を絨毯のように広げていた。その顔もまるで一流の人形作家(ドールメイカー)が手ずから、至高にして最高に仕上げんという固い意思の下に作り上げてみせた、まさに傑作と評すべき人形の如く整っており。可憐にして美麗、その中間を彷徨う貌の持ち主であった。

 

 そしてありえないことに────何故か僕には見覚えがあった。この女の子に対して、僕は妙な既知感、既視感を胸中に抱いていた。だがそれはありえない。ありえないのだ。

 

 だって、僕は間違いなくこんな女の子は()()()()()()()()()()()。……だと、いうのに。

 

 ──どうしたって、こんなにも胸が騒つくんだ……ッ!?

 

 そんな僕に、灰色の女性が静かに言葉をかけてくる。

 

「知らない訳がない。見たことない訳がない。ねえ、そうでしょ?」

 

 女性にそう言われて、僕はその倒れている女の子をさらに眺める。言われるがままに眺め────目を、見開いた。

 

「……そう、だ。そうだった……」

 

 それは素朴な疑問だった。どうしてこの女の子はこんな場所で、それも僕の足元で倒れているのか。その疑問に対する答えは、その少女自体に用意されていた。

 

 赤かった。赤よりも赤い、真っ赤な。その少女の胸が────血に染まっていた。

 

 服も胸元も、その染め尽くし具合からして。恐らくかなり長い間、大量の血を少女は流したのだろう。少女の鮮烈極まる赤色の惨状を目の当たりにした僕は衝撃を受けながら────()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

『どうして、俺を殺したんだ?……()()()

 

 

 

 その一言と共に、脳髄の奥底から溢れ出す記憶。その全てが、血色に染まっていた。

 

「僕はなんて、ことを……今まで…………ッ」

 

 今ならば、わかる。理解できる。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その言葉の意味が。そうだ。そうだった。その通りだった。それはややこしい比喩でも何でもなく、僕は本当に────────()()()()()()()()()()()()()は、()()()()()()()()()()()()()()()()。灰色の女性の言う通り、これまでに。数回、数十回────繰り返し繰り返し、何度も何度も。この()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ──繰り返し、何度も僕は……!

 

 堪らず、その場で膝を折り、僕は崩れ落ちるように座り込む。そして周囲を見やり、今までに犯した己の過ちをまざまざと、これでもかと見せつけられた。

 

 もはやここはあの森の中ではない。影より暗く、闇より昏い黒に全てが塗り潰された悪夢の世界。そしてその世界で僕は────────赤髪の少女たちに()()()()()()

 

 数人、数十人、数百人。全員が全員、僕のすぐ傍で倒れている少女と全く同じように、その胸を血で染めて倒れている。全員が全員、()()()()()()()()

 

「その様子だと、またいつも通り思い出してくれたようだねえ」

 

 と、灰色の女性はいつも通りの言葉を、いつも通りに僕にかけてくる。そしてそれを、僕はいつも通り最低最悪の気分で受け入れる。

 

「じゃあわかってるよね?もうそろそろ……()()()()だってこぉと」

 

 ()()()()────それもまた、いつも通りの言葉。毎度、毎回。何ら変わりないいつも通りの言葉。だがしかし、その言葉に対してだけは。

 

 僕は形容のし難い、凄まじく悍ましいまでの恐怖を覚えると同時に、まるで濃く深い夜闇に怯える子供のように肩を跳ねさせて。それから、掠れた声を喉奥からどうにか絞り出した。

 

「……止めて、ください」

 

 僕としては精一杯の行動だった。掠れて、引き攣ったその声でそう言うのが精一杯で、もうとにかく限界だったのだ。

 

 増していく。この恐怖だけは、覚える度に、感じる度に、味わう度に。限度も際限もなく。そして一切の遠慮も容赦も、加減もなく。増して、増えて。増して増えて増して増えて────増していく。増えていく。

 

 どうしてだろう。何故なのだろう。毎度、毎回。積んでは増して、増えては重ねて。

 

 ……本当のところはわかっていた。こうして考えて、思考を巡らす風を装いながらも、わかっていた。きっとそれが、それこそが灰色の女性の()()()()()()()()()()()()()

 

 その証拠に、灰色の女性は決まってこう言う。

 

「ん?何?何か言った?」

 

 そう、わざとらしくとぼけた様子で言うのだ。そしてそれが、決まって僕を()()()()()

 

 ──ああ、駄目だ。やっぱり駄目だった。これじゃ、駄目だったんだ。

 

 そして僕もまた、半ば自暴自棄になってこう言うのだ。

 

「止めてくださいッ!こんな、もうこんなこと止めてください!止めてくださいよォッ!!」

 

 この女に言葉など通じる訳がない。そのことを思い出した僕は、自分のありのままをぶち撒ける。

 

「もう嫌なんですよ!堪えられないんですよッ!僕が一体何をしたんです!?どうしてこんな目に遭わされなければならないんですか!?どうしてです!?どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてッ!?」

 

 側からすれば、今の僕はこの上なく無様で、惨めで。どうしようもない程に情けなく、救いようもない程にみっともない男に見えていることだろう。だがそれでも構わない。僕は一向に構いやしない。

 

 この後に待ち受ける、()()()()のことを考えてしまえば。そんなの、あまりにも些細なものだ。

 

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……お願いします。どうかお願いします。だから、どうか……どうかぁ……っ!」

 

 今思えば、この時僕は泣いていたのかもしれない。泣きながら、縋って、祈っていたのかもしれない。そうすることが正解であると、僕はわかっていた。

 

 この灰色の女性に通じるのは()()だ。言葉の体を借りた、信仰だけだ。それしかない。そのことを、ここでの記憶を全て思い出した僕にはわかっていた。

 

 ……だからこそ、これもわかっていた。

 

「…………」

 

 静寂が流れる。重苦しい沈黙の後、僕の頭上から降りかかったのは────────

 

 

 

 

 

「うーん、だ・ぁ・めっ♡」

 

 

 

 

 

 ────────予想と全く同じの、拒否の言葉だった。

 

「キミも懲りないよねえ全く。どうせこうなるってわかってるのに」

 

 言うが早いか、女はパチンと指を鳴らし。瞬間、僕の周囲に倒れている少女たちの身体が。着ている衣服もまとめて真っ赤に染まったかと思えば、()()()()()()()()()()()

 

 さながら、それは血のようで。それが元は少女であったとは、誰もが到底信じられなかったことだろう。だが、僕は知っている。

 

 血と見紛う赤い液体が。まるで津波の如くこちらに差し迫るその液体が。元々は燃ゆる紅蓮の髪と煌めく紅玉の瞳の持ち主であった、少女であったと。

 

 そうして毎度、毎回のこと。呆然自失となっている僕の眼前にまで赤く真っ赤な液体が、少女であったはずのその液体が迫り────あっという間に僕を飲み込んだ。

 

 鼻腔と口腔。余すことなく、鉄錆の味が広がって、埋め尽くされて──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………あ」

 

 気がつけば、僕は立っていた。そして瞬時に悟り、理解していた。とうとう遂に、()()()()になったのだと。

 

「あ、じゃあないよ。あ、じゃ。もう呆けてる場合じゃあないんだぜ、キミ?」

 

 立ち尽くす僕のすぐ傍で、この上なく馴れ馴れしい声が。この上なく馴れ馴れしい態度を以て、僕に話しかけてくる。普通ならば反射的に声がする方へ顔が向いていたところだったが、僕は知っている。もう、自分の身体に自由など与えられていないことを。

 

 そんな僕の様子に一切構わずに、声は続ける。

 

「さあ、夢はいつか覚めるもの。夢からは絶対に目覚めるもの。だから毎度、毎回のように。いつも通りに」

 

 その時だった。自分が立っていた時とまた同じように、気がつけば。僕の目の前に────────赤髪の少女が一人立っていた。

 

「いつも通り、いつも通りにね」

 

 いつの間にか目の前に立っていたその少女は、全裸だった。衣服も、下着すらもない。一糸纏わぬ、純然たる全裸であった。

 

「突き立てちゃってよ……その手に握った、ナ・イ・フ」

 

 言われるがままに、僕の身体は動く。動いて、その少女のすぐ目の前にまで歩み寄って。

 

 そしてまたいつの間にか握り締めていたナイフを、僕は。気がつけば、頭上高く振り上げていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 殺せ、と。声が響く。殺せ、と。声が響く。殺せ、と。声が響く。

 

 響く、響く、響く。響響(きょうきょう)と、響響と。

 

 其命(そのいのち)を断てと。其命を絶てと。ただひたすらと。ただ延々と。ただ、永遠と。

 

 頭に浮かぶは殺意の言葉。頭に浮かぶは血染めの言の葉。

 

 嗚呼、それのなんと赤い、赤い赤いことか。なんと、真っ赤なことか。

 

 殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。

 

 相も変わらず、声が響く。響いて響いて、そして響いていく。(しん)と。深々と。

 

 心に浮かぶは殺意の言葉。心に浮かぶは血染めの言の葉。

 

 殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。

 

 性懲りもなく、声は響く。響いて響いて、そして響いていく。静と。深々と。

 

 故に己は────────この殺意に飢える。



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ラグナキャストオフ

 脱衣所に入ると、ラグナは寝間着(パジャマ)をそそくさと脱ぎ始めた。しかし、汗をこれでもかと存分に吸い込んだ布はラグナの肌に張り付いており、思った以上に脱ぎ難くなってしまっていた。

 

「……チッ」

 

 普段であれば鬱陶しいと思いこそすれど、こんな些細なことに対して腹が立つことはなかったラグナであったが。今だけは違い、無性に、どうしようもなく癪に障ってしまって。堪らず胸中をチクチクと刺す針のような、細やかな苛立ちを覚えてしまう。

 

 予期せぬ苦戦を強いられながらも、身体から引き剥がすようにして。なんとか寝間着を脱ぎ終え、そうしてラグナはあられもない下着姿となった。

 

「…………」

 

 びっしょりと汗で湿っている寝間着と同様に、いや直に肌に触れている分。今手に持つこの寝間着よりも下着は上下共に、びしょびしょに濡れていた。今になって、どうしてメルネが下着も新しいのに替えるよう言ってきたのか、遅ればせながらラグナは理解する。

 

 確かに、汗で湿って濡れた下着程、身に付け穿いていて。ここまで不快感が込み上げるものはない。しかも男性のとは違い、女性の下着の殆どは肌に密着するのだから、堪ったものではない。

 

 思わぬところで男性用の下着が如何に快適だったのかをラグナは再認識する。汗で湿っても、大して気にはならなかったし。

 

 ──これもさっさと脱いじまおう……。

 

 そう心の中で呟きながら、手に持っていた寝間着を洗濯籠の中へと投げ込み。外気に触れて、急激に冷え始めたことで、なんとも言えない気持ち悪さを伴う肌寒さを感じながら、ラグナは下着────まずはこの胸を覆い、包み隠す上の下着(ブラジャー)を脱ぐことに決めた。

 

 最初の頃は付けることも脱ぐことも苦労していた下着(ブラジャー)であるが、そんなラグナでもすっかり慣れてしまったもので。付けるのも脱ぐのも、今ではもう手間取ることなく。それこそ息をするかのように自然とできるようになっていた。

 

 ……まあ、できるようになったことで。果たしてこれを己の成長と前向きに捉えて、素直に喜べばいいのか。それともこれで自分はまた一歩女として近づいてしまったと、憂い悲しめばいいのか。一体どちらが正しいのかわからず、ラグナは迷う羽目になった訳だが。

 

 しかし、そのことについて深く考え込むのは今ではない。と、ラグナは即座に思考を切り替え。背中に手をやり、慣れた動作で流れるように淀みなく、下着(ブラジャー)のホックを外す。

 

「う……」

 

 途端、思わずというように。ラグナは小さな呻き声を漏らしてしまう。だがそれも、無理はない。

 

 何故ならば、今の今まで支えとなって、負担を軽減させていた下着(ブラジャー)のホックを外したことにより。結果、ラグナの背丈に些か見合わない程にまで育っている……否、育ってしまっている胸の重みが。遠慮も、容赦も、情けもなく。一気にラグナの両肩にのしかかってくる訳で。

 

 ずしりとした胸の重量感と、恐らくそれによって併発しているのだろう若干の息苦しさに。ラグナは苦労が色濃く滲むため息を一つ、その小さな唇の隙間から吐き出さずにはいられない。

 

 ──てか……どうしたって背は小っせえのに、胸は大きいんだよ……。どうせなら背ぇ寄越せよ、背。俺ぁ子供(ガキ)じゃねーんだぞ、たく。

 

 と、口には出さず、心の中で。鬱憤そのものと表すべき言葉を吐き捨てるラグナ。だがそれも、無理はない。

 

 何故ならば、その背丈に見合わない大きさにまで成長し、膨らんだこの胸には。それはもう、相応の苦労をラグナは味わされていたのだから。

 

 ただでさえどう重心を取ればいいのか、ちっともわからない女の身体の扱いに加えて。その大きさと相応の重みを持つ胸によって、ラグナは大いに振り回された。特に最初の頃は一歩を踏み出す度に危うく転びかけたり。いざ走り出せば即座に息は切れるわ胸は引っ張られて痛いわ、その末に素っ転ぶわ。そうして散々な目に遭っても、肝心の距離は全く稼げてないわ。

 

 まあ、とにもかくにも。このようなことが多々あった故に、ラグナの己の胸部に対する評価は最低に位置している。……しかしまあ、ラグナは知らない。それが一部の世の女性にとっては、あまりにも贅沢に尽きる文句であるということを。

 

 それはさて置いて。そんなある種選ばれし者たちだけが持てる悩みと対面していたラグナだったが。何を隠そう、その悩みを解決したのが下着(ブラジャー)であった。

 

 ……当初こそ、女性用の下着などと思っていたラグナであるが。どうして元は歴とした男である自分が、何が悲しくて女性用の下着なんかを、と。当初こそはまだ、そう思っていたラグナであったが。正直に白状してしまうと、下着(ブラジャー)に関してだけは感動にも似たものを心中に抱いていたのだ。

 

 

 

『僕という一人の犠牲を無駄に、しないでください……』

 

 

 

 という、悲壮感溢れる決死の乞いの元、渋々……本当に渋々、本当の本当に渋々と。ラグナはいざ女性用下着をあの時身に付けた訳だが。

 

 

 

 ──……っ!?か、肩軽っ!?息しやすっ!?す、凄え……!──

 

 

 

 下着(ブラジャー)を付けた瞬間、ラグナの世界が変わった。肩にのしかかっていた重量感はまるで嘘のように消え失せ、常時喉が半ば詰まっているような息苦しさも見事解消された。おまけにあれだけ苦労していた重心も、下着(ブラジャー)のおかげである程度楽に取れるようにもなって。普通に歩いている分には何も問題なく、危うく転びかけることもなくなった。

 

 その時、ラグナは如何に下着(ブラジャー)が優れており、そして下着(ブラジャー)が偉大であるかをその身と心に思い知らされたのである。

 

 こういった経緯もあって、下着(ブラジャー)だけはラグナもすぐ抵抗感を覚えなくなり、自ら進んで付けるようになった。元は男だといっていくら毛嫌いしようとも、やはり付けた時の快適さを考えてしまうと、その思いも薄まるというものだ。こればかりは、仕方のないことなのだ。

 

 久しぶりに戻ってきた重量感と息苦しさに眉を顰めさせながら、手に取った優れて偉大な下着(ブラジャー)寝間着(パジャマ)同様に洗濯籠の中に放り込んで。いよいよ、ラグナは最後に残った一枚にその指先をかける。

 

 そう、最後の一枚────つまり下着(パンツ)だ。と、その時フッと。ラグナは唐突に思い出す。

 

 ──ああ、そういやメルネに言われたっけ……確か、女物は『しょーつ』だとかなんとかって。

 

 下着(パンツ)ではなく、下着(ショーツ)。もしくは下着(パンティ)とも呼称する。しかし、どちらかで言えば前者の方が一般的────ラグナはそう、メルネから教えられたのである。

 

 ──……ぶっちゃけ、俺はどの呼び方でも別に構わねえんだけど……。

 

 そもそも、自分は男だ。下着の呼称などに拘りなど持ち合わせていないし、一々(いちいち)呼び分けるなど面倒なことこの上ない。……だけれど。

 

 ──メルネには、世話になってるからな。

 

 そう思い、ラグナはメルネからの教えを尊重し。下着(パンツ)────改め、下着(ショーツ)を脱ごうとする。ラグナ=アルティ=ブレイズは義理堅く、そして意外と律儀なのである。

 

 が、しかし。

 

「ん……」

 

 下着(ショーツ)が少し、いや中々に上手く脱げない。肌と布の間に、指先を滑り込ませることができない。それでもラグナは数回それを繰り返したが、失敗に終わり。遂に痺れを切らしてうざったそうに吐き捨てた。

 

「こんのクソがッ!」

 

 そして視線を己の下腹部へとやり。今度は目で見て確かめながら、下着(ショーツ)の縁を指先でなぞり、斜めに差し込ませ。そうしてようやく、ラグナは肌と布の間に指先を滑り込ませ、入れることができた。

 

「ったく……」

 

 たかが布切れ一枚を脱ぐのに、どうしてこんな手間をかけなければならないのか。心底、ラグナはそう思う。

 

 下着(ブラジャー)であれば、その有能性から今では自ら進んで身に付けるラグナだが。その一方で下着(ショーツ)に関しては、できれば────否、できる限り穿きたくないというのが実の本音である。そう、付ければ抜群の快適さを齎してくれる下着(ブラジャー)とは打って変わって。女性の下着(ショーツ)は少なくともラグナにとっては、不便かつ面倒なものでしかなかったのだ。

 

 まず、さっきも言った通り男性の下着(パンツ)とは違い、かなりの密着性がある。股や尻に密着してくる。まあ一応、男の下着にだってそういった密着性の高いものがあることくらいラグナも知っているが、しかしラグナがまだ男だった時に穿いていたのは解放感のある通気性の高いもので。密着する下着など眼中になかった。

 

 だがしかし、これもさっき言った通り女性の下着(ショーツ)の場合は、穿けばピッチリと肌に密着するものが大半で。それ故に、そこにラグナが求める解放感など全くの皆無で。

 

 股や尻に布が密着する感覚は未だに慣れず苦手だし。蒸れるとどうしようもなく気持ち悪くて不快だし。男の下着と違ってあまり伸び縮みしない所為で、先程みたいに脱ぐのに手間取るし。

 

 しかもその上────

 

「んぐぐ……ぐぬぅ…………だああクッソ!」

 

 ────汗を吸って湿ると、より肌に密着して張り付いて、ただでさえ脱ぎ辛いのが、余計に脱ぎ難くなってしまうし。

 

 とまあ、このように。下着(ショーツ)に対するラグナの評価は散々で、悲惨の一言に尽きる。そうして心の底から望まぬ、大変不本意な苦戦を強いられつつも。

 

「んしょ、っと。……はあ」

 

 どうにかこうにか、ラグナは下着(ブラジャー)に続き下着(ショーツ)も脱ぐことができた。

 

 あられもない下着姿から、とうとう遂に一糸すら纏わぬ全裸となったラグナであるが。その時、下着(ショーツ)を脱ぎ去る為に、下腹部にやっていた視線が。必然、流れるようにして()()を。さっき、今の今まで一枚の布によって隠されていた、ラグナの秘められし場所を視界に映す。

 

「……」

 

 もはやそこに、在るべきものはなく。最初こそ驚愕と動揺を覚えずにはいられないでいたラグナであったが、その光景も今ではすっかり慣れてしまい。心はともかく肉体はもう男ではなく、正真正銘の女であるという現実から目を背け逃げ出す気にもならなければ。その事実に絶望を抱き、悲しみに暮れることもなくなった。

 

 ……否、今でも若干物寂しさというか、そういった感情を覚えることはまだある。しかし、それだけだ。在って然るべきものがないと、いくらどう嘆いたところで。それが戻る訳がないのだから。

 

 それはそれとして。数秒の間、そこを呆然と見つめていたラグナは、ポツリと他人事のように呟く。

 

「こんな子供(ガキ)(なり)してても、一応は()()()()()()()……ほんの、ちょっとばかしだけど」

 

 別に何がとは言わないが……しかし。生えているには生えているが、薄っすらと申し訳程度に。その大部分を隠せない程度にしか。しかもまだ十分に生え揃ってもいないその有様に。ラグナは全身がむず痒くなってくるような、そんな微妙な羞恥心を覚えずにはいられない。

 

 ──いやまあ、全然生えてねえってのもそりゃ恥ずいけど……これもこれでなんか、情けないっつうか……。

 

 一応、この身体自体は十六相応の少女の身体だとはラグナも聞かされている。それを踏まえて、ラグナは振り返る。

 

 果たして、十年前の────まだ男だった時の。十六の自分はどうだったかを。

 

 ……少なくとも、これよりはまだ、もっと生えていた気がする。やはり男と女とでは、何かしらの違いがあるのだろうか。それともただ単にこの身体がまだ子供なだけなのだろうか────そこまで考え込むラグナであったが、不意にハッとなって頭を横に振るう。

 

 ──何変なこと考えてんだ俺……止めだ止め。こんなくだらねえこと考えてないで、とっととシャワー浴びちまおう。

 

 と、頭の中で広げていたその思考を丸ごと取り払って。視線を下腹部から、今し方脱いだばかりの下着(ショーツ)に移し。ラグナはスッと目を細める。

 

「……梃子摺(てこず)らせやがって」

 

 そう、睨みつけながら忌々しそうに。ラグナが吐き捨てた後、下着(ショーツ)もまた、洗濯籠へと放り込まれるのだった。

 

 そうしていざ、満を持して。素っ裸のラグナはいよいよ浴室へと踏み込む────その直前。

 

「んっ……」

 

 不意に、ラグナが全身をぶるりと震わせた。……寝間着(パジャマ)を脱ぎ、下着姿となり。そしてその下着も脱ぐ間、数分が過ぎている。その短い時間でも、ラグナの小さな身体を冷やすのには十分過ぎるくらいで。その結果、ラグナの中でとある()()が呼び起こされる。

 

「…………」

 

 浴室のタイルを踏み締めようと振り上げた片足を宙で静止させ、その場で硬直するラグナ。その時、呆然と思い出していたのだ────自分は起きてから、そのままこの脱衣所に直行したということを。

 

 ──……どうしよ。いや、でも……シャワー浴びるだけだし……。

 

 そう、自分は全身の汗を流す為に、シャワーを浴びるだけなのだ。そしてそれは数分と時間はかからない。故に、ラグナは迷う。葛藤してしまう。が、しかし。

 

「あぅ……っ」

 

 そこで追い討ちのように、()がラグナを襲って。それにより、自分が思っていた以上の量を()()()()()()()のだと自覚した。

 

「……やっぱ、先に済ませておくか」

 

 と、このままシャワーを浴びてしまおうという考えを改めたラグナは。浴室から背を向け、真っ裸のままで────トイレへと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なお、トイレに向かうその途中。丁度その時一階に降りてきたメルネと出(くわ)し。家の中とはいえ流石に裸で歩き回るなと、ラグナは彼女から説教される訳だが。おかげで予期せぬ我慢を強いられる羽目となり、ラグナが危うく決壊しそうになるのはまた別の話。



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鏡が映すのは

 ジャアアァァァ──そんな音と共に、細やかな無数の穴から熱くもなければそう温くもない、そんな中間辺りを維持した温水が流れ出す。

 

「ふう……」

 

 温かな水が身体を、肌を濡らす。温水が自分を伝い、浴室のタイルをしっとりと叩く度に。全身に浮いていた汗が流し落とされていくのを、呆然としながらも実感する。

 

 そのなんとも言えない心地良さに、自然と。小さく薄く開かれた唇の隙間から、ラグナは安堵のため息を吐いていた。

 

 ラグナがそうしてシャワーを浴びていたのは、実際には僅か数分のことだ。しかしラグナ当人からすれば、それは何時間のことのように思えた。まるで今過ぎ去っていく時間をのっぺりと、薄く長く引き伸ばしているような。そんな漠然とした錯覚が、ラグナの中にはあった。

 

 閉じていた瞳を、ゆっくりと。静かに、ラグナは開かせる。直後、紅玉が如きラグナの瞳が捉えたものは────一枚の鏡であった。

 

 そう珍しくもない、至って普通の浴室鏡だ。然程巨大という訳ではないが、メルネの頭の天辺から足の爪先までを映すには十分に事足りて。必然、彼女よりも一回り背の小さいラグナの全身も、映すのは容易である。

 

 その鏡に映る自分の姿────そこにいるのは、一人の少女。見るからにか弱そうな、赤い髪をした少女。

 

「…………」

 

 シャワーヘッドから流れ続ける温水が浴室のタイルを叩く最中、気がつけばラグナはその鏡に視線を奪われていた。鏡に映り込んだ、少女の姿に囚われていた。

 

 見惚れていた訳ではない。ただ、()()()()()()。勝手に、独りでに。もし本当にそうなれば、もはや怪奇的現象(ホラー)の類になるが、しかしそれでも自分の意識とは無関係に。この鏡に映り込んだ少女が()()()()()()()、と。ラグナは希望にも似た、そんな淡く仄かな期待を抱いていた。

 

 それは何故か。どうしてか。その理由はただ一つ────()()()()()()()()。目の前の鏡に映る少女(じぶん)が、自分ではないと認めたくないからだった。

 

 何を今さら、と。きっと誰もが思うことだろう。そんなラグナを、きっと誰もが未練がましく往生際が悪いと思うことだろう。他の誰でもない、ラグナ当人がそう思っているのだから。

 

 だが、それでも構わなかった。こんなろくでもない、どうしようもない、始末のつけようもなく救いようもない現実が。頭から尻尾まで、最初から最後まで。何から何まで嘘になって、そして全部が全部元通りになってくれるのなら。それをラグナは全身全霊喜んで受け入れるつもりだった。

 

 ……けれど、そんなラグナの思いは裏切られる。いくら見つめていようと、どれだけ見つめようと。鏡の少女は微動だにせず。ただじっと、ラグナを見つめ返すだけ。ラグナと全く同じ表情で、全く同じ眼差しで。

 

「…………まあ、そりゃそうだよな」

 

 やがて先に痺れを切らしたのはラグナの方だった。否、この表現は正しくはない。そもそもこの浴室には最初から、ラグナただ一人しかいないのだから。どうあっても、どう転んでも。痺れを切らすのはラグナ一人で、先も後もないのだから。

 

 投げやりにそう吐き捨てて、ラグナは肩に手をやる。鏡の少女もまた、肩に手をやった。寸分と違わない、全く同じ動きだった。

 

 そんな()()()()()に対しても、ラグナはやるせない、何処にもぶつけられない鬱屈とした憤りを感じるが。しかしそれも、直後諦観に呑まれる。

 

 ──ああ、そうだ。そうだよ。

 

 華奢な肩から、か細い腕に。心の中で呟きながら、ラグナは手を這わせ。ギュッ、と抱く。鏡の少女も、また同じように。

 

 いつしか、気がつけば。ラグナは鏡が苦手になっていた。自ら遠去け、できるだけ視界に入れないようになっていた。それは何故か────明白である。鏡は誰よりも、何よりも正直で。嘘偽りなく、有りの儘の全てを其処に映し出す。映し出して、一切の遠慮もなく、一片の容赦もなくこちらに見せつけてくる。

 

 女の顔。長い髪。細い肩と腕。膨らんだ胸。脆そうな腰。丸い尻。決定的な違いを示す、股間。

 

 そう、鏡は映すのだ。鏡は見せるのだ。そんな今の自分を。どこからどう見ても、誰がどう見ても。もはやただの少女でしかない、今の自分を────────

 

 

 

 

 

『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 

 

 ────────ラグナ=アルティ=ブレイズではない、今の自分の姿を。変えようのない、この現実を。鏡は見せつけてくる。それに堪えられず、気がつけばラグナは顔を伏せていた。

 

 温水が髪を濡らし、顔に伝う。目からも温水が流れるのをラグナは感じたが、それは勘違いでシャワーヘッドから流れる温水だと決めつける。

 

 そうしてしばらく、ラグナはシャワーを浴び続けた。目からも流れる温水が、止まるまで。



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それは紛れもない、嘘偽りのない

 それは強制的な意識の覚醒だった。傍から見れば不意にその場に()()立ち止まっていたクラハ=ウインドアは閉じていた瞳を一気に見開かせ、自分がいつの間にか()()()()に陥っていたことを即座に自覚する。

 

 そう、数秒にも満たない。一瞬の刹那が如き、昏睡。数十、数百時間をほんの一秒弱に圧縮し凝縮させた昏睡。それは矛盾しているのだが、しかしそれでいて正しい。否、そうとしか言いようがないのである。

 

 ここ最近、クラハは睡眠を取れていない。否、取りたくなかった。何故ならば、一度眠りについてしまったのなら。眠りへ落ちてしまったのなら────────

 

 

 

 

 

『なあ、どうしてだよ。何でお前は、俺を殺したんだ……?』

 

 

 

 

 

 ────────悪夢に満ち溢れた地獄が待っている。

 

「ッ……!」

 

 夢だ。あれは夢だ。現実などではない。現実なんかではないと、そう頭の中でわかっている。そう、理解しているというのに。

 

 ()()()()()()()()()()()。あの亡骸の冷たさが。()()()()()()()()()()()。あの鮮血の温かさが。

 

 残って、染みて、へばり付いて、こびり付いて。薄らない褪せない離れない消えない失せない。

 

 どれだけ夢だと己に言い聞かせても。どれだけ夢だと己が思い込んでも。

 

 クラハの腕は冷たい。クラハの手は温かい。冷たい、温かい。冷たい温かい冷たい温かい────────

 

 

 

 

 

『もうそろそろ……()()()()だってこぉと』

 

 

 

 

 

 ────────そしてそれは、その言葉を聞く度に強まっていく。深まっていく。徐々に徐々に、確かなものへとなっていく。

 

 そうしてクラハは思うのだ────()()()()()()()()()()()()()()と。

 

 現実ではない。全部が全部、夢の中の出来事だ。実際には誰も死んでなんかいないし、誰も殺されてなんかいない。……その、はずなのに。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()────────あの夢からこの現実に帰って来る度に、その思いが強まって深まって、確かになっていく。

 

 身体の震えが止まらない。動悸が激しくなる。頭痛は酷くなっていく一方で、今にも暴れ出しそうな腕を手で必死に押さえつける。

 

「……殺して、ない。僕は、誰も殺してない」

 

 それを一体、何度繰り返し呟いたのだろう。

 

「あの子は死んでない。あの子は殺されてない」

 

 それを一体、何度繰り返し吐いたのだろう。

 

「殺してない。死んでない。殺されてない。殺して、ない。死んで、ない。殺されて、ない。ない。ない、ない。ない、ない、ないないないないないない」

 

 それを一体、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──キミは殺したよ。あの子は死んだよ。あの子は殺されたよ──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何度繰り返し、聞いたのだろう。

 

「違う」

 

 即座に言い返す。

 

 ──違わない──

 

 即座に言い返される。

 

「違う」

 

 即座に言い返す。

 

 ──違わない──

 

 即座に言い返される。

 

「違

 

 ──違わない。違わないよ──

 

 即座に言い返す前に、言葉を被せられた。あの夢の中で散々、散々散々聞いたその声は。こちらの神経と理性をさも楽しげに、愉しげに削り抉り。消耗させながら、なおも続ける。

 

 ──確かにそれは夢の中の出来事だ。歴とした現実に起こったことじゃない、所詮夢の中での出来事でしかない。けど、けれどね──

 

 震え。頭痛。目眩。吐き気。動悸。声がこちらの鼓膜を無遠慮に、不快に撫で揺らす度。それらは悪化し、とてもではないが堪えられないものへとなっていく。

 

 今すぐにでも意識を放ってしまいたい。この現実から脇目も振らず逃げ出してしまいたい。だがそうしたところで、そうした後で待ち受けているのは────あの夢だ。

 

 極限の理不尽に打ちのめされ、ひたすらに絶望する最中。そんなことなど知ったことではないと言うように、声は続ける。

 

 ──その感覚は本物だ。その経験は紛れもない本物なんだよ。キミ自身、それはわかってるでしょ?キミが一番良く理解してるでしょ?──

 

 ()()()。声だけではなく、その姿が。気がつけば、その姿が見えていた。

 

 眼下、足元から。まるで伸びた己の影の如く、()()()()()がこちらに、じりじりと。その両腕を広げて、ゆっくりと迫る。

 

 ──そう、本物……感覚も経験も、そして()()も。

 

 衝動────その単語を耳にした瞬間、クラハの全身が強張った。そんな彼の様子を嘲笑うように、声────その灰色の女性は続ける。

 

 ──それは夢から覚める度に、強まる。深く、濃く、確かなものに。段々、段々と──

 

「……黙れ」

 

 無意識の内に言っていた。だがそう言ったところで、その者が止まる訳などなかった。

 

 ──目を背けないで。いくら拒絶したところで、どう否定したところで。夢の中でキミが駆られたその衝動は、キミが抱いた()()は嘘偽りのない真実。……そう、そうだよ。そうなんだよ──

 

「黙れ」

 

 その先は聞きたくなかった。何が何でも、聞きたくなかった。その思いで必死にクラハは耳を塞ぐが、しかし。

 

 それでも灰色の女性の声は聞こえる。聴こえる。瞬間、クラハは気づく。女性の声は、こちらの鼓膜を揺さぶっているのと同じに────()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 故に、耳を塞いだところで。この声が聞こえなくなる訳ではない。鼓膜を破ったところで、この声が聴こえなくなる訳ではない。そのあまりにも無慈悲で残酷な事実の前に、クラハはただただその場に立ち尽くすことしかできなくなり。そしてそんな彼に、声は依然として嘲笑するかのように。一切の躊躇もなく────

 

 

 

 

 

 ──キミの()()は本物だ。紛れもない、嘘偽りのない真実だ。それを他の誰でもないこのボクが認めよう──

 

 

 

 

 

 ────クラハが今最も恐れていることを、指摘し肯定した。

 

「黙れッ!!!」

 

 堪らずというように、クラハは声を張り上げ、そう叫ぶ。だが彼の叫びは森に虚しく響き渡るだけで。目の前の灰色の女性を止めることは叶わない。クラハは彼女をどうすることもできない。

 

 ──あの夢の中のキミの全てが本物だ。本当だ。事実だ。真実だ。やがてそれはこの現実でも同じになる。夢から覚めて現実に起きる度、強く、深く、濃く……はっきりと確かになっていく──

 

「黙れ!黙れ、黙れ黙れ黙れッ!」

 

 それでも、言う。言うしか、なかった。たとえ無駄であると理解していても、承知していても。そんな小っぽけな反抗しか、自分には許されていないのだから。

 

 ……だがそれも、灰色の女性の次の言葉によって。無理矢理終わらされることになる。

 

 ──そしていよいよ堪えられなくなったキミは、この現実で。あの夢と、同じ

 

「黙れぇえええええええッッッ!!!」

 

 先程自分がされたのと同じように。灰色の女性の言葉を遮ったクラハは、躊躇うことなく。腰に下げた鞘から一気に剣を抜き、振り上げたそれを女性の顔面へ突き立てた。



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拳は血に塗れ

 必死だった。無我夢中のことだった。気がつけば、鞘から剣を引き抜き。声を荒げ叫びながら振り上げたそれを、クラハは即座に。一切の容赦なく、何の躊躇いもなく振り下ろしていた。

 

 ザクッ──剣の切先が灰色の女性の顔面に突き刺さり。剣身が半ばまで深々と沈み込む。かと思えば、すぐさま引き抜かれた。

 

「黙れッ!煩いから黙れ!耳障りだから黙れ!ああ、ああ黙れッ、黙れ黙れ黙れぇッ!!いい加減に、黙れよぉおおおッ!!!」

 

 狂乱の咆哮を上げると共に、一心不乱になってクラハは剣を突き立てる。眉間と鼻の間に穴が穿たれた灰色の女性の顔を、剣で突き続ける。

 

「黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!」

 

 何度も。何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も────────

 

 

 

「黙れぇええええええええええッッッッッ!!!!!」

 

 

 

 ────────そしてクラハは発狂したように、己の喉など裂け散っても構わないというように。その時、あらん限りの。自分が持てる全ての、渾身の力を。引き絞り、振り絞り、絞り切り。

 

 

 

 

 

 ドスッッッ──振り下ろしたその剣を、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「…………」

 

 今、この場に立っているのはクラハだけだ。クラハただ一人だけが、ここにいるのだ。そのことを、その現実を彼は呆然と理解し。地面に突き立てた剣の柄を握り締めたままの手を、震わすことしかできなくなった。

 

 それは数秒だったか、それとも数分だったのか。とにかくそうしてしばらく突っ立っていたクラハだが、不意にゆっくりと、おっかなびっくりに周囲を見渡し。改めて自分以外の人の姿はおろか、気配すらもないことを確かめると。依然手を微かに震わせながら、地面に突き立てた剣を引き抜いた。

 

「……ここは現実だ。そう、現実なんだ。今僕は確かな現実に立っている。この現実の中にいるんだ。夢じゃない、あの夢の中にじゃない。そうだろ、だって声は聞こえないし、姿も見えない。だから、だから……」

 

 と、まるで自分に言い聞かせるように呟きながら。クラハは剣を鞘に納める────直後、彼の肩が小刻みに震え出す。

 

「は、はは。ははは……ひ、ひ……」

 

 それと同時に僅かに漏れる、引き攣って掠れた微かな笑い声。今、クラハが浮かべているその表情は、まさに混沌としていて。幻の恐怖に歪むその顔には、何処かこの状況を楽しんでいるかのような喜悦も混じっていた。

 

 小さく、小さく。独り、クラハはその場で笑い続ける。その様はもはや薄気味悪く、不気味なことこの上ない。彼自身、それを自覚しているのかは定かではないが。

 

 しかしそれでも、クラハは笑い続けていた。肩を揺らし、薄く開いた唇の隙間から、聴く者全員を不安にさせるような笑い声を漏らし続けていた。

 

「ひひ、ひっ……はははっ……ああそうだよなあ、そうだよなぁ……これは現実なんだ現実なんだよ。あの夢の中じゃない、あんなクソッタレの最低の最悪の夢の中なんかじゃあない。はは、そうだそうだ……だのに、一体僕は何をこんな怖がっているんだろうなあ。何で恐れているんだろうなあ。あの夢の中じゃない、この現実の中なんだから。何かを怖がることなんて、何かを恐れる必要なんて、ないのになあ……ぁはっ、あはは」

 

 ……果たして、今のクラハを目の当たりにして。一体何人が彼の正気を其処に見出せたことだろう。恐らくきっと、誰もいないのだろう。

 

 何故ならば、誰もがどう見ても。今のクラハはその正気を失っていた。正気を擦り減らし、その限界に今や到達しかけている青年の姿としか、他の者の目には映り込んでいた。

 

 このままではきっと、クラハは()()()()()()()()()()。どうにかなって、壊れてしまう。そしてその時、それを────

 

 

 

 ──それはどうかな?──

 

 

 

 ────後押しするように、追い詰め追い込むかのように。クラハのすぐ耳元で、その声が囁いた。

 

 一瞬にしてクラハの全身が硬直し。数秒遅れて、まるで壊れた機械人形のような動きで、彼は恐る恐る横に顔を向ける。そして彼は、見た。見てしまった。

 

 つい先程、鞘に納めた剣で。顔面をこれでもかと滅多刺したはずの。あの灰色の女性が自分のすぐ隣に立っていた。無残な程にグチャグチャにされたはずの顔は、全くの無傷な。灰色の女性が立っていたのだ。

 

 ザンッ──それは無意識の動き。鞘から引き抜くと共に、その勢いを殺さずそのまま。自分で気がつく頃には、クラハは灰色の女性の頭を両断していた。

 

 斬り飛ばされた頭の上部分が明後日の方向へ消える最中、下からその全てがグラリと傾いたかと思えば、そのままゆっくりと地面に音を立てて倒れる。……不思議なことに、その切断面からまだ半分残っているだろう脳も、脳漿も零れ落ちることがなければ。また血が噴き出すこともなかった。

 

 そんな、あまりにも非現実的な現実の光景を前に。クラハはただ呆然として。そんな様子の彼の肩にポンと手が置かれる。

 

 ──酷いなあ。別に問答無用で斬り殺すことないじゃーん?──

 

 そんな声が聞こえるや否や、クラハは手に持っていた剣を放り捨て。またしても()()()()()()()()()()()()()()()の胸ぐらを掴んで地面に叩きつけるように押し倒し、そのまま彼女に馬乗りになったかと思えば。

 

流れるようにクラハは拳を振り上げ、こちらを見上げるその顔に一切の躊躇なく、そして一片の容赦なくその拳を振り下ろした。

 

 ゴッ──そんな鈍い音と共に、クラハの拳が灰色の女性の顔面にめり込む。

 

 クラハがその一度で殴ることを止めることはなかった。彼は黙々と拳を振り上げては、黙々と女性の顔面に拳を振り下ろす。彼はそれを何度も、何度も。繰り返した。

 

たとえ女性の顔がどれだけ血に染まろうと、どれだけ歪もうと。止めずに、クラハは女性を殴り続けた。

 

 だが不意に、ビキッと。そんな鈍くも鋭い、割れ砕けるような激痛がクラハの拳全体に駆け抜ける。その瞬間、彼はようやく気がついた。

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「…………」

 

 次に、クラハは拳を見やる。自分の拳は────血に塗れていた。



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Kill

 それはもう、クラハの拳は酷い有様だった。それはもう、惨い有様だった。力加減などせずに、何度も繰り返し石を殴り続けた彼の拳は血塗れで、皮膚は破れ肉が抉れている始末であった。

 

 ポタポタ、と。その痛ましく傷ついた拳から滴り落ちる血が、地面に赤い斑点模様を描く。それを見たクラハの精神が────遂に、とうとう限界へと達する。

 

「……は、ははっ、い、あはは……あはははッ!」

 

 心身共に極限状態に至ったクラハは、笑う。全身を震わせ、激しく痙攣させ。眼球がそのまま零れ落ちそうな程に目を大きく見開かせて、焦点の合わない視線を四方八方へ流しながら。

 

 壊れたように、狂ったように。クラハは大口を開けて、大声を出して、笑い続ける。

 

「あははッ!あっははッはははっ!はははははッ!」

 

 クラハの笑い声が森に響く。森中に響き渡る。彼のこんな笑い声を耳にして、一体どれだけの人が恐怖に慄かずに済むか。そう危惧せずにはいられない程に、その笑い声は悍ましく、そして恐ろしかった。

 

 クラハは笑う。笑い続ける。肺にある空気を残さず全て出し切る勢いで、延々と。彼は独り、その場でずっと笑っている。

 

 だが、しかし。

 

 

 

 パキ──不意に、クラハの笑い声に混じるようにして。乾いた木の枝を踏み折ったような、そんな軽い音がして。瞬間、ピタリとクラハの笑い声が止んだ。

 

「ッ!?」

 

 音のした方向に、クラハは咄嗟に顔を向ける。その瞬間、彼の表情は固まり────そして恐怖に歪んだ。

 

「あ、ああ……!」

 

 と、完全に恐怖で染まった呻き声を情けなく漏らしながら。地面に座り込んだまま、クラハは後退る。後退ると同時に、闇雲に地面に手を這わせ、そして彼は掴んだ。

 

「く、来るな!来るな、来るな……来るなァアッ!!」

 

 恐慌の叫びを撒き散らしながら、クラハは掴んだそれを────先程邪魔だと言わんばかりに放り捨てた剣を振り上げ、その切先を突きつける。

 

 今、クラハの視界にはその姿が映っていた。今し方殴り殺したと思っていたはずの、あの灰色の女性が映っていたのだ。

 

 灰色の女性が迫る。ゆっくりと、クラハに迫る。その顔を歪めさせ、邪悪な笑みを携えながら。女性は彼に迫っていく。

 

「あぁ……あっ、あ……っ!」

 

 まさにそれは声にならない悲鳴だった。どうしようもない程に情けない、恐怖と怖気に囚われた者の悲鳴だった。そんな悲鳴を今、クラハは絶えずその口から漏らしている。突きつけている剣の切先も、怯えで震えて揺れ動いていた。

 

「来るなって、言って……言ってる、のに……!」

 

 と、堪らずそう言葉を漏らすクラハだが。しかし。今の有様の彼の言葉を、一体どれだけの人が聞き入れようか。……少なくとも目の前の灰色の女性にはその気はないようで。全く構わずに、ジリジリと着実に距離を縮めている。

 

 来るなというこちらの言葉を一切合切無視して、近づき迫り来る灰色の女性に対し。クラハは未だ漏れ出し続けるみっともない悲鳴を必死になって飲み込んだかと思えば、これが最後通告だとでも言わんばかりに叫ぶ────────その直前。

 

 あは、という。嫌に聞き覚えのある笑い声が、クラハのすぐ耳元でした。

 

「……………ぇ……?」

 

 振り向いてはいけない。見てはならない。そう、本能が。クラハの中にある、クラハを生かす為の全てが。彼にそう告げると共に、全力で警鐘をかき鳴らしていた。

 

 けれど、それでも。気がつけばクラハは顔を動かしてしまっていた。それは無意識での行動だったのか、今となってはわからない。ただ確実なことは────その笑い声がした方に、クラハは顔を向けていたということ。

 

 そしてクラハは見る。視界に映す。見て、映して────直後、彼の思考の全てが停止した。

 

 ()()。そこら中に、どこにでも。見渡す限り、見回す限り。

 

 今ここに、()()()()()()()()()()()()()

 

 笑っている。一人残らず、全員が全員。笑っている、笑っている。彼女たち全身が、クラハのことを嘲笑っている。嘲笑いながら、彼に迫っている。

 

 そんな現実とは思えない、およそ現実からはかけ離れた光景を前に。悪夢よりも悪夢めいたその光景を目の前にして。もはやクラハが何かを考えることなどできるはずなどなくて。今彼にできることといえば、すぐ目と鼻の先にいる灰色の女性の瞳に映り込んだ、絶望と諦観に呑み込まれている己を眺めることくらいしかなく。

 

 そして遂に────()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 瞬間、クラハの表情から感情が消え失せる。恐怖も怖気も、絶望も。人間が当然のように持ち合わせているありとあらゆる感情が、その瞬間にクラハから消え失せたのだ。

 

 そうしてそこから始まったのは────()()。情け容赦なし、躊躇も遠慮もない、まさに無慈悲の虐殺と鏖殺だった。

 

 クラハは憤激した訳でもない。クラハは恐慌した訳でもない。恐らくきっと、今の彼は何か思うこともなければ、何も感じていなかったのだろう。その無表情は、それを如実に示すものだった。

 

 とりあえずとでも言うように、クラハは目の前の灰色の女性の首を掴むと。そのまま少しも躊躇わずに()()()()()

 

 ゴキッと重く鈍い音を立て、灰色の女性の首があらぬ方向へ曲がり。クラハは顔色を微かに変えることなく、今し方己がその手で以て縊り殺したその女性の身体を地面へ放り捨てる。

 

 それでクラハが止まることなどなく。彼はゆっくりと地面から立ち上がり、ゆらりと身体を揺らし────突如、動いた。

 

 目にも留まらぬ疾さで動いたクラハは、もう既に剣を振り上げていて。やはり一切の躊躇も遠慮も、そして情けも容赦もせずに。彼はその剣で以て周囲の灰色の女性を斬殺する。それも依然無表情のままに、手当たり次第に、無差別に女性たちを殺し続ける。

 

 鮮血が噴く。血風が吹く。血飛沫が飛んで、そしてその全てをクラハは浴びる。剣が血で濡れ、服が血に染まる。

 

 それでも、クラハは止まらなかった。彼は斬った。斬って、斬って、斬って。

 

 斬って斬って斬って斬って斬って────────そして殺した。

 

 ふとクラハが自分で気づく頃には、彼の周囲に灰色の女性たちはおらず。ついさっきまで人の形を成していた存在(モノ)が、今や物言わぬただの肉塊と化して。まるで打ち捨てられた塵芥(ゴミ)のように、クラハの足元で無数に転がっているだけだった。

 

 それらをクラハは無表情で見下ろし、それから視線を上げる────灰色の女性がそこには立っていた。

 

 その灰色の女性は、先程クラハに近づいていた女性だ。その時浮かべていた、あの嘲笑うかのような笑みはそのままに。いつの間にか歩くのを止めて、その場に立ち止まっていた。

 

 その姿を捉えるや否や、クラハは地面を蹴った。一秒とかからず加速し切り、疾走する彼とその女性の距離が急激に縮まっていく。

 

 そしてクラハは、灰色の女性を剣の間合いに捉え。何を考えているのか、未だそこに立ったままで動こうとしない彼女の細い首筋に狙いを定め。

 

 振り上げた剣の刃を叩き込む────────直前。

 

 

 

 

 

「クラハッ!!」

 

 

 

 

 

 その声が、クラハの鼓膜を。彼の全身を叩いた。それと同時に、振り下ろされた剣が。首筋に刃が触れる寸前で止まる。

 

「……そ、んな」

 

 呆然とした様子で、クラハが声を漏らす。今、彼の目の前に立っているのは灰色の女性──()()()()()()

 

「何、で。どう、して……」

 

 辛うじて寸止めさせることができた剣を、危なっかしく小刻みに揺らしながら。信じられないように、クラハが恐る恐る呟く。

 

 そう、今ここにいるのは。クラハの目の前に立っていたのは────────

 

 

 

 

 

「ロックス、さん……?」

 

 

 

 

 

 ────────冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の《S》冒険者(ランカー)、ロックス=ガンヴィルその人であった。



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あの日から(前編)

 冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の《S》冒険者(ランカー)にして、冒険隊(チーム)『夜明けの陽』副隊長(リーダー)であるその男、ロックス=ガンヴィル。彼は今、この森の中を疾駆していた。

 

 何故、彼は今地面を蹴りつけ、木々の間を通り抜け、走り難いことこの上ない森の中を駆けているのか。

 

 無論、ロックスとて走りたくて走っている訳ではない。むしろ今朝早く床から起きた分、せめて街にはゆっくりと歩いて戻りたいと彼は思っていた。

 

 だのに、何故────その理由は実に簡単。至極単純明快(シンプル)なものだ。

 

 

 

 

 

「黙れぇええええええええええッッッッッ!!!!!」

 

 

 

 

 

 という、声が。今し方別れたばかりの、自分と同じ組合に所属する後輩の冒険者の、明らかに尋常ではない様子の叫び声が聞こえたからだった。

 

 ──全く、お前は世話のかかる後輩だぜ本当によ……!

 

 と、心の中で文句を呟くロックスであったが。それと同時に、彼は後輩──クラハ=ウインドアの身も案じていた。

 

 そもそも、ロックスが早く起きたのは己の為などではなく、他の誰でもない────クラハの為だ。

 

 さっき接した通り、今のクラハはもう普段の彼ではなくなってしまっている。もしこのまま何もせず、手を貸さずに()()()()()()いたのなら。

 

 恐らくきっと、いや間違いなく。クラハ=ウインドアは壊れる。それも決定的に、完膚なきまでに。そして壊れたが最後────もう二度と、彼が元に戻ることはないだろう。そうなるとわかっていて、それでもなお動かないことを選択し続けられる程、ロックスは冷徹でいることも非情になることもできない男だった。

 

 ……そう、最初こそロックスが取った行動は傍観だったのだ。彼はあくまでも、見守るだけで。事の顛末を見届けるだけのつもりであったのだ。そうでなければ、()()()()()()()()()

 

 ──わかってんだ。これは二人の問題さ、だから俺や他の奴に手ェ出されたら、何の意味もないんだって……そんな当たり前のことわかってんだよなあ。それでも、なあ……畜生ッ!

 

 そう、わかっている。これは、この事態の全ては二人の問題────クラハとラグナの、二人の問題なのだ。二人が自らの手で解決しなければならない、決して他人がどうこうしてはならない問題なのである。そのことを、この通りロックスも重々承知していた。

 

 その上で、ロックスはもう我慢ならなかった。彼はもう、己がただの傍観者でいることに堪えられなくなってしまった。

 

 何せ対岸の火事を眺めるが如く、見守り続けても。この事態はただただ悪化し、問題は日増しに深刻になるばかりで。結果、自分が見届けるその顛末が、最悪を凌ぐ最悪なものになるであろうと。そう、ロックスは唐突に悟ったのだ。

 

 そしてその悪寒にも似たロックスの予感をグッと、さらに後押ししたのが────

 

 

 

「あははッ!あっははッはははっ!はははははッ!」

 

 

 

 ────クラハの態度と様子だった。森中に響き渡らせんばかりの彼の笑い声を聞いて、ほんの一瞬だけロックスは顔を青褪めさせる。

 

 ──おいおい、勘弁してくれよ……!

 

 どうやら自分が思っていたよりも、クラハには限界が差し迫っていたらしい。耳にしているだけでこちらも参ってしまいそうになるクラハの笑い声を頼りに、ロックスは森の中を進み────そして遂に、彼はその場に辿り着いた。

 

 ──やっと見つけたぜ、この野郎。

 

 と、心の中で呟くロックス。今、彼の視線の先には────地面に座り込む、クラハの姿があった。依然独りで笑い続ける、クラハの姿が。彼は拳を見つめて笑っており、その拳は見ているだけでこちらも痛くなってくる程に傷ついており。また彼のすぐ近くにある石が傷ついた拳と同様に血で真っ赤に染められていることから、恐らくクラハはその石を殴っていたのだろうとロックスは推測する。

 

 ──一体何でだってそんな馬鹿なことを……。

 

 半ば呆れながらも、声をかける為に。とりあえずクラハに近づこうと、ロックスが一歩その場から進んだ、その瞬間。

 

 パキ──足元に転がっていた木の枝を、ロックスは足で踏みつけた。

 

「ッ!?」

 

 乾いた枝が折れる音がその場に響き、それとほぼ同時にロックスの方に、驚いたようにクラハが顔を向ける。すると彼の姿を視界に入れただろうクラハは────表情を強張らせ。すぐさま恐怖で塗り潰させた。

 

 ──は?

 

 ロックスは解せなかった。どうしてクラハがそのような反応をしたのか、彼はわからなかった。

 

「あ、ああ……!」

 

 困惑するロックスを他所に、クラハがあまりにも情けない悲鳴をその口から漏らしながら、地面に尻を落としたその姿勢のまま後退り。そして何かを探すように地面に這わせていた手で、彼はそれを掴む。瞬間、堪らずロックスは頬に一筋の汗を伝わせた。

 

 ──お、おいおい。マジか……?

 

 と、信じられない面持ちで、心の中でそう呟くロックス。そんな彼へ、クラハは手に持ったそれを────剣の切先を向けた。

 

「く、来るな!来るな、来るな……来るなァアッ!!」

 

 それはまさに、恐怖。怖気に纏われ囚われた者の、心の底からの叫び。クラハはそれをあろうことか、ロックスに放ったのだ。そしてそのことが、ロックスは到底信じられないでいた。何故自分が彼からそのような扱いを受けなければならないのか、どうして自分がクラハに剣を突きつけられているのか。この今の状況に対して、ロックスの理解は圧倒的に追いつけていない。

 

「お、おい。落ち着け、落ち着けよクラハ。お前一体本当(マジ)にどうしちまったんだ?」

 

 呆然とせざるを得ず、上手く思考が回らない頭の中で。とりあえずロックスが口に出せた言葉はそれだけで。しかし、彼の言葉などまるで聞こえていないかのように、伊然としてクラハは言葉にもならない、恐慌の叫びを撒き散らす。

 

 ──これじゃ、埒が開かねえ……ッ。

 

 尋常ではないクラハの様子に、ロックスは心の中で舌打ちして。とりあえず彼に歩み寄ろうとその場からまた一歩踏み出す────その瞬間、クラハが目を見開かせた。

 

「あぁ……あっ、あ……っ!」

 

 声にもならない悲鳴というのは、まさにこれのことを言うのだろう。そんな、お手本のような声にもならない悲鳴をクラハは上げたかと思うと、彼は次に言葉をその口から吐き出す。

 

「来るなって、言って……言ってる、のに……!」

 

 ──そういう訳にも、いかねえだろうがよお……!

 

 と、クラハの言葉に対して思わず苦言を零すロックス。今の彼は明らかに普通ではない。何せ自分の拳が砕けようとも構わず石を殴りつけたり、人に剣の切先を向けてしまう。そんな彼を、放ってはおけない。

 

 だからロックスも気に留めることを止め、今度は足を止めることなく、クラハとの距離をゆっくりと詰めていく。そんな自分を彼は見て────────()()()()()

 

 ──……何?

 

 それは突然のことだった。不意にクラハが全身を強張らせたかと思えば、それから壊れた人形が如くぎこちない動きで、顔を横に振り向かせた。

 

 振り向いたまま、クラハは固まり。そんな彼の様子をロックスが訝しんだ、その時。

 

 突如、クラハの様子が一変する。彼は視線だけを、だが無茶苦茶に四方八方へ流し。すぐさま────()()()()()()()()()()()()()

 

 ──ッ!?

 

 果たしてこれ以上のものがあるのかと、そう思わずにはいられない程の。真の意味での無表情。今、クラハの顔から喜怒哀楽、それら一切合切が抜け落ち、そして消え失せた。

 

 それを目の当たりにしたロックスの背筋に、凄まじいまでの悪寒が駆け抜ける。咄嗟にその場から跳び退き、即座に鞘から剣を抜き構えたくなる程の────────

 

「殺気……!」

 

 ────────ロックスは信じられないでいる。否、信じたくなかった。今自分が、こんな身の毛もよだつ恐ろしく悍ましい殺気を、よりにもよってクラハから発せられているなどという、この現実を。ロックスは認める訳にはいかなかった。認めたく、なかったのだ。

 

 ──お前、いつの間にこんな……。

 

 堪らずその場に縫い付けられたように固まったロックスの目の前で。雰囲気が一変したクラハは────不意に何もない宙へ手を伸ばし、ギュッと手を握り込む。それはまるで見えない何かを掴んでいるようだった。

 

 それからグイッと、その手をクラハが捻る。先程見せた動きが何かを掴むようならば、それをさながら何かを()()ような仕草。

 

 依然としてロックスの目の前でクラハは動き続ける。掴んで、そして折ったその見えない何かを、彼は塵芥(ゴミ)のように地面へ放り捨て。

 

 それからゆっくりとクラハは地面から立ち上がって。ゆらりとその身体を揺らしたかと思えば────突如、動いた。

 

 ──クラハ……!?

 

 クラハが剣を振るう。ロックスが見ているその目の前で、ただひたすらに。クラハは剣を振るい続ける。

 

 その動き。その剣筋。その全てが────()()だ。今クラハの周囲には誰も、何もいない。だがロックスは確信する────今、クラハは()()()()()()()()

 

 そのことを認識した瞬間だった。

 

「な……」

 

 後から思えば、それは幻覚だったのだろう。ただの、幻影に過ぎなかったのだろう。

 

 しかし、その時確かに。ロックスは己が目で、その姿を捉えた。

 

 

 

 

 

 クラハによって無惨にも斬り殺されていく、()()()()()()()()姿()()

 

 

 

 

 

 ほんの数秒か、それとも数分の間の出来事だったのか。それは目の当たりにしたロックス本人すら定かではない。ただ彼が気づいた頃には、クラハの()()は終わっていた。

 

 側から見れば、クラハはただそこに突っ立っているだけだ。汚れ一つとない剣を手に、そこに立っている。……だが、しかし。

 

 これが幻覚なのか、幻影なのか。自分の頭はどうにかなってしまったというのか。それを判断する術を、生憎ロックスは持ち合わせていない。

 

 今、ロックスの視界に広がっている光景を。ありのまま全て、書き記すのであれば。ロックスがその目で見た事実のまま全て、描写するのであれば。

 

 

 

 嘗ては灰色の女性らしき人の形を成していたはずの、雑に切り分けられた肉塊が無数に転がるその中心で。血と肉と脂に塗れた剣を力なくぶら下げ、その剣と同じく真っ赤に染まり汚れたクラハが独り、立っていた。

 

 

 

「…………」

 

 およそ見た者は吐き、または泣き、または目を逸らすであろうその惨状。まさに血塗れの景色。それは冒険者(ランカー)としても、無論人としても経験豊富なロックスですら、それを目の当たりにしてしまっては慄く他ない。

 

 そしてその最中に立つクラハは、平然としていた。或いは、彼は呆然としていたのかもしれない。ただ確かなことは────────それを作り出したのはクラハ当人であり、彼がこんな惨劇を作った事実と現実を、ロックスは未だに受け入れ切れないでいた。

 

 もはや声をかけることも憚れ、だが今この場から離れるなどという愚かしい行動など取れる訳もなく。結果、ロックスもまたその場に立ち尽くすことしかできない。と、その時だった。

 

「!」

 

 突然だった。あらぬ方向へ顔を向けていたクラハが、不意に。ゆっくりと、立ち尽くしているロックスにその顔を向けた。

 

 生涯、このことをロックスが忘れることはないだろう。……否、()()()()()()()()()()()

 

 その瞳は、昏く。影よりも、夜よりも、闇よりも。それらよりもずっと昏く、何処までも昏く。故に其処に光が灯ることは僅かにも、微塵たりともなく。そして生命(いのち)の気配すらも、()く。

 

 もはやこの現実に在るのかさえ疑わしいその瞳は、確かに見ていた。見ていると、見られていると。少なくともロックスはそう感じて──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がついた時には、もう既に己は森の中に立ってなどいなかった。そして己が今何処に立っているということもわからないでいた。

 

 ただ言えるのは────此処は影の中だ。此処は夜の中だ。此処は闇の中だ。それだけが、己に与えられた唯一の真実だった。

 

 そして己は見た。影の中で、夜の中で、闇の中で。己は────そう、ロックス=ガンヴィルは目撃したのだ。

 

 ()()は影だった。()()は夜だった。()()は闇だった。何処までも黒く、そして何処までも昏かった。

 

 覆うそれは影か、夜か、闇か。そのどれでもあり、そのどれでもないのだろう。およそ人の言語では言い表せぬそれは風もないのに靡いて、蠢いて。それの全てが、黒く昏いその全てが妖しく不気味に、脈動するように揺らめいている。

 

 延々と伸びる影が如く。広々と拡がる夜が如く。そして全てを呑み込む闇が如く。始まりが見えなければ終わりも見えない、悠久なる果てしなきその大巨躯は。

 

 大熊のように逞しく。雌豹のように麗しく。そして、獅子のように厳かであり。

 

 (もた)げられたその頭からは、山羊のものを彷彿とさせる巨大な角が天を突かんと生えており。またその角自体からも七つの角が生えており。それぞれが歪に連なるその形は、さながら冠のようであった。

 

 言葉も出せず。目も離せず。何もできずにいるロックスを、瞳が睨める。円環を纏い逆立つ十の尾を背に、(ゴウ)と激烈に炎上する竜の瞳が、ただロックスを睥睨する。

 

 その時、ロックスは唐突に理解した。燃える瞳に映り込む己を見て、ようやっと理解できた。

 

 影も夜も闇も、全てが全て。余さず、一つ残さずかの存在(モノ)なのだと。即ち、今己がいる此処は。

 

 

 

 

 

 かの存在の、世界(なか)だったのだ。



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あの日から(後編)

 ロックスが気がついた時には、クラハはもうすぐ目の前にまで迫っていた。ある程度離れていたはずの彼は、既にこちらを間合いに捉えており。その剣を、大きく振りかぶっていた。

 

 暖かな陽の光に照らされ、剣の刃が冷たい輝きを放つ。その様が、ロックスにはまるで哀しんでいるような。剣がこちらのことを憐れみ、落涙しているように見えていた。

 

 無論、それはただの錯覚だ。何ということのない、つまらない馬鹿げた錯覚でしかない。そんなことは、ロックスが一番わかっていた。

 

 刃がこちらの首を刎ねるまで、あと数秒もかからない。その事実を他人事のように認め、その現実を他人事のように受け止め。瞬間、ロックスは垣間見る。

 

 こちらに迫るクラハの顔を。感情という感情が消え失せた、彼の無表情を改めて目の当たりにし。その直後、ロックスの脳裏を()()()()が激しく、そして一気に駆け抜ける。

 

 あの光景が────影より深く、夜より広く、闇より昏いかの存在(モノ)の姿が駆け抜け、想起され。

 

 

 

 そして、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ──ッ!!

 

 こちらの首が刎ねられる未来は認め、受け止めたロックスであったが。しかし、それだけは。だがそれだけは、彼は認めることができなかった。受け止めることができなかった。

 

 ロックス=ガンヴィルは、決して()()を認めたくもなければ、受け止めたくもなかったのだ。故に、それ故に彼は叫んだ。その場から退かずに────

 

 

 

 

 

「クラハッ!!」

 

 

 

 

 ────その名を、叫ぶのだった。瞬間、今にでも叩き込まれんとしていた剣の刃は。ロックスの首筋に触れるか触れないかの瀬戸際で、止まった。

 

「……そ、んな」

 

 止めたその剣を、弱々しげに情けなく震わせながら。呆然とした声が漏れる。それを聞きながら、ロックスは再度見やる。

 

「何、で。どう、して……」

 

 と、呟くクラハの顔は────愕然としていた。そのことを確認したロックスは────()()()()。ああ、良かったと彼は安心したのだ。

 

 何故ならば、其処にあったから。其処には、クラハの感情が確かにあったのだから。……そう、今のクラハは感情を取り戻していたのだ。たとえそれが驚きや悲しみだとしても、それらは歴とした感情だ。人が持つ、人の感情なのだ。

 

 ──ああ、そうさ。当然さ、当たり前のことさ。クラハ、お前は人だ……俺が知っているお前は、ちゃんとした人間なんだぜ……。

 

 そう、クラハは人間である。誰が何と言おうと、彼は一人の人間である。少なくとも、ロックスにとってそれが現実で、事実で、そして覆ることのないたった一つの真実だった。

 

 もう既にロックスから恐怖は失せていた。慄くことも、怯えることもなく。彼はクラハの顔を見つめる。

 

「ロックス、さん……?」

 

 対し、クラハは愕然としすっかり青褪めたその表情のままに。剣と同様に震えてしまう声で、まるで信じられないようにロックスの名を口にする。次いで、彼は咄嗟に剣を下ろし、続け様に弁明の言葉を紡ぐ。

 

「ち、ちが、違う。違うんです、ロックスさん。これは、これは違う、違う違う違う。これは違うんです、よ。ぼ、僕はここ、殺そうなんて。貴方を殺そうなんて、思って、なんか。なんかない。絶対、絶対違う。これはま、間違い、です。何かの間違い、で。何かの、間違いで、何か、何かの間違い、間違いで……っ」

 

 ……まるで、などではなく。その様子は壊れた機械そのものだった。焦燥、動揺、恐慌。今のクラハは、それら三つの感情に囚われ覆われ、包まれていて。その顔は、悲嘆と哀切に歪んでいる。

 

 恐らくきっと、途方もないその罪悪感に。あと一歩、今一歩でこちらのことを手にかけてしまっていたかもしれないという、途轍もない悪辣極まったその罪の意識に。クラハの心は容易く噛み砕かれ、喰い潰されてしまったのだろう。その結果として今、彼の様子にそう表れているのだろう。それがわからない程、ロックスは鈍い男ではない。

 

 ……しかし、そんなロックスでも迷っていた。彼は、判断することができないでいた。

 

 罰するべきか、それとも赦すべきなのか。一体どちらがクラハの為で、そして正しい選択になるのか────ロックスはそれを、決められないでいた。

 

「僕は、僕は……ロックスさんッ!僕はッ!!」

 

 そうしてロックスが選択を決められないでいる内に、クラハの精神は限界へと達しかけ。その既で、ロックスは。

 

「…………落ち着け、クラハ。とりあえず、今は落ち着くんだ……クラハ=ウインドア」

 

 そう、クラハに言葉をかけた。声を荒げることなく、あくまでも平然とした風を装って。……結局のところ、ロックスは決められなかった。その二つの選択肢、そのどちらかを彼は最後まで決められなかったのだ。

 

 ロックスに諭され、ハッとクラハが目を見開かせる。それから彼は顔を俯かせ、沈黙してしまった。

 

 ロックスとクラハ。そして、森。それらにようやっと訪れた静寂は数秒続き、その静寂を最初に破ったのは────────

 

 

 

「……ロックスさん」

 

 

 

 ────────クラハであった。

 

「女性、が。灰色の女性がいたん、です。一人じゃない。二人、三人……全員同じ顔、同じ姿をした無数の灰色の女性たちがいて。そして、僕に……迫った。僕は貴方を殺そうとしたんじゃない。僕は、彼女たちを殺そうと……殺す、為に」

 

 と、俯かせていた顔を上げ、クラハがそう言う。ロックスはというと、そんな彼の言葉を黙って聞いていた。

 

「……」

 

 灰色の女性────それを耳にしたロックスの脳裏に、呼び起こされる。

 

 つい先程、クラハによって斬殺されていく、あの灰色の女性たちの最期の光景が。その上で、ロックスは。

 

「……クラハ。お前は、()()()()()

 

 と、言葉を返した。瞬間、堪らず固まるクラハへ、ロックスは言葉を続ける。

 

「最初から今まで、お前は一人だったよクラハ。お前の言う灰色の女性なんて奴は、一人だっていない。……それはただの、お前の幻覚なんだ」

 

 その言葉はクラハに対するものであり、そしてそれと同時に己への言葉でもあった。ロックス自身、そう思いたかった。

 

 ……だが、しかし。あれを幻覚、幻影だと。ただの幻など片付けてしまうには。あの灰色の女性らは────あまりにも生々しく、確かにそこに()るという、残酷じみた現実味を帯びていた。

 

 それ故に、今でこそ周囲には緑色の草木しかないが、ふとした拍子に。ロックスは赤色の肉塊を幻視してしまうのではないかと、恐れている。

 

 けれど、それでも彼はクラハの言葉に同意する訳にはいかなかった。先程は迷い、一体どちらが正しいのか判断を下すことができなかったロックスであるが、そんな彼でもこれだけはわかっている。

 

 その言葉は否定しなければならなかった。そう、他の誰でもなく、何よりも────クラハの為に。

 

 たとえ自分でも現と見紛う幻と錯覚していても。たとえ、当人以外が目にした光景であっても。ロックスはアレを決して認めてはならないのだ。

 

「…………」

 

 そんなロックスの心情を知ってか知らずか、彼の言葉に固まるクラハであったが。やがて思い出したかのように、震える声で絞り出すように彼は言う。

 

「ええ。そう、ですね……ロックスさんの言う通り、です。僕は……最初から一人だったんでしょうね」

 

「……ああ」

 

 そこでまた二人の会話は途切れ。しかし、今度はロックスが先に口を開いた。

 

「肩貸してやる。……街に戻ろう、クラハ」

 

 ロックスの言葉に、クラハは俯いたまま、黙って小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 肩を貸しながら、クラハと共に今帰るべき場所である街──オールティアを目指して歩くロックス。その傍ら、彼はすぐ隣のクラハに相談することなく。彼は独り、深く考え込んでいた。

 

 ──さっきの……あれ。

 

 と、心の中で呟くロックスが思い出しているのは────かの存在(モノ)のこと。

 

 あの影より深く、夜より広く、闇より昏い存在。巨大という言葉ですら足りぬ、悠久なる果たしなきその大巨躯。この世のありとあらゆる獣を彷彿とさせるその姿。

 

 頭に二つの巨角を戴き、そしてその巨角からも七つの角を生やし。それぞれが歪に連なったその様は、まるで絶対を示す冠のようで。

 

 逆立つ十の尾には、その一本一本に漆黒の円環が纏わり。憤怒そのものと言い表しても差し支えのない、世界の全てを焼き尽くさんばかりの大火を噴き荒らす竜の瞳は、矮小なる人間(ロックス)を睥睨していた。

 

 それらを思い出し、想起させて。ロックスは呆然と呟く。

 

 ──あれは……結局のところ、一体何だったんだ……?

 

 言葉でも表現するにしても、およそ人智人域から何処までも逸した、天地開闢の怪物、空前絶後の化け物としか言いようがなく。そしてそこまで無理矢理に表現したところで、それでも到底届き得ない、足り得ない安っぽさだと言わざるを得ず。

 

 正直なところロックスとしては────()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あれこそが、かの存在(モノ)こそが。ロックスが垣間見た幻覚だったのかもしれない。ただの幻影、つまらない幻だったのかもしれない。……そう、ロックスは思いたがっていたのだ。

 

 でないと、()()()()。あれが幻などではなく、現であるならば。この現実に実在しているのならば。それはあまりにも……恐ろしいことなのだ。

 

 恐怖────それは人も獣も全てが持ち合わせる、原初の感情の一つ。始まりの感情の一つ。

 

 しかし理性なく本能のままに生きる獣でなく、人であれば。恐怖をどうにかすることができる。克服はできずとも、どうにかするその術を、人は皆持っている。

 

 無論、ロックスとて持っている。彼程の冒険者(ランカー)となれば、恐怖の一つや二つ()()()()()()()()。それを成すのは、冒険者として積み重ねてきた経験によるものだ。

 

 ……だが、そんなロックスでさえ。恐怖を誤魔化せる彼でさえ。あの時相対した、かの存在(モノ)の前では────どうしようもなかった。どうしようもなく、どうすることもできず。ロックスは内に押し込み留めていた恐怖を、無理矢理に。そして根刮ぎ全てを引き摺り出されてしまった。

 

 絶望と諦観の下、ロックスは改めて考える。もし、仮にもしどちらかが。

 

 クラハも見たという、あの灰色の女性たち。そしてロックスだけが垣間見てしまった、かの存在(モノ)。このどちらかが真に幻なのかと問われたのなら、自分は────────

 

 

 

 

 

 ──俺は、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ────────ロックスはかの存在の方を幻だと思いたがっている。それは紛れもない、彼の心の奥底からの本音である。それは嘘偽りのない、本音なのだ。

 

 二人の人間が同じものを見た。ならば普通、どちらが幻なのかと訊かれれば、ロックス当人しか目撃していないあれこそが幻だと答えるだろう。無論、彼とてそれはわかっている。わかった上で、しかし彼は答える────灰色の女性たちが幻である、と。

 

 ならば何故か。何故、ロックスは女性たちが幻だと答えるのか。それは至極単純(シンプル)な理由。

 

 圧倒的、決定的、絶対的な────()()()。見るからに非現実的であるというのに、確実とした現実の中に在るとしか思えぬ程の、その存在感を。ロックスはこれでもかと浴びたからだった。

 

 恐ろしい。恐ろしくて、怖い────そんな恐怖に押し潰されそうになる最中、ロックスはまるで現実逃避するでもかのように、こんなことを考える。

 

 ──そういや何だって……あの一瞬、あれとクラハが重なって見えたんだかな……。

 

 そのことを考え

 

 

 

 

 

 ──駄目。キミみたいな部外者(モブ)は、駄目だよ──

 

 

 

 

 

 ──────────という声が、ロックスの頭の中で(シン)と響いて。

 

 ──ッ……!!!?

 

 肩を貸しているのも忘れて。すぐ隣にクラハがいるのも忘れて、ロックスは堪らず叫びそうになった。全身から冷や汗を滝のように流しながら、彼は自らの本能に従い、咄嗟にその考えを頭の隅に追いやり抹消する。

 

 それ以上、これ以上それについて思考してはいけないと、彼の生存本能が警鐘を全力で鳴らしていた。

 

 関係ない。あれとクラハには一切、何の関係だってない────そう自分に必死に言い聞かせながら、苦し紛れに彼は心の中で呟く。

 

 ──気がつけば、今日でもうか。もう、()()()()()…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んじゃ行ってくる。とりあえずいつも通りでいいんだろ、メルネ?」

 

「ええ。私は家のことをちょっと色々済ませてから行くわ。だからお願いね」

 

「おう。俺に任せとけ」

 

 と、元気に言うその声を聞きながら。彼女は────冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢、メルネ=クリスタは────────

 

 

 

 ──……これで、良いの?

 

 

 

 ────────という、複雑な思いを心の内に抱いていた。

 

 最初は良かれと思って起こした行動だった。見ていられず、咄嗟に差し伸べた手だった。

 

 だがそれは、今になって思えばただの利己(エゴ)だったのかもしれない。見ていられないから、居ても立っても居られないからと。何かと(もっと)もらしい理由に(かこつ)けて、浅ましく(いや)らしい自己満足に浸りたかっただけなのかもしれない。そう思えて、メルネは仕方がなかった。心底、自分が嫌になった。

 

 事実、最初は勝手に手を差し伸べておいて────

 

 

 

 

 

『嫌だ、やだ……置いてくな、捨てんなぁ……クラハ、クラハぁぁぁ……っ!』

 

 

 

 

 

 ────いざとなったら、助けられないでいる。本当に助けなければならない時に、自分は助けることができないでいる。

 

 わかっている。可哀想だからと、安易に一方だけに手を差し伸べても、それが本当の為にはならないということは、メルネとてわかっている。だがそれは、所詮体のいい言い訳でしかない。

 

 ただ黙って傍観するだけの、そんな都合の良い楽な立場に今いる自分が嫌になる。

 

 ……しかし、そう思う傍らで。少なからず、メルネはこうとも思っている。

 

 ──本当に、二人はこれで良いと思っているの……?

 

 今や小さく華奢になってしまったその背中を見つめながら。メルネは、閉ざした口を再度開かせた。

 

「ねえ、ラグナ」

 

「?まだ何かあんのか、メルネ?」

 

 名を呼ばれ、いざ扉を開け玄関から飛び出そうとしていたラグナが振り返る。少しばかり怪訝そうな表情を浮かべるその顔を目の当たりにして、メルネは────────

 

 

 

「……気をつけてね。いってらっしゃい」

 

 

 

 ────────と、即座に取り繕ったなけなしの笑顔で、誤魔化しの言葉を贈った。

 

 今になっても本音を隠す自分に、心底嫌気が差す。けれど、それでも表に出せない。何故なら、怖いから。そうするのが、恐ろしいから。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。そう思ってしまうと、本当に怖くて、本当に恐ろしくて。

 

 だから本音を隠してしまう。既のところで、心の奥底に引っ込めさせてしまう。……そんな臆病な自分が、メルネは本当に嫌いだった。

 

「お、おう。……急にそんなこと言って、どうしたんだ?」

 

「ごめんなさいね。何か、急に言いたくなっちゃったの」

 

「ふーん……変なの。まあ別に俺は構いやしないけど」

 

 と、胡乱げになりながらも特に疑わず。メルネの言葉を素直に受け取り、ラグナは再び彼女へ背を向け扉を開く。そして玄関から外へと一歩踏み出した────その直後。

 

「メルネ」

 

 振り向かず、その小さな背を向けたまま。さっきまでとは打って変わって真剣な声音でメルネの名を呼び、ラグナはこう言った。

 

 

 

「こんなことしか、()()俺にはできねえんだ」

 

 

 

 ──ッ!

 

 何故、ラグナはこちらに背を向けてそう言ったのか、その意図をメルネは測りかねたが。しかしこの時だけは、ラグナがそうしてくれたことに彼女は感謝せざるを得なかった。

 

 何故なら、その言葉を聞いた瞬間────メルネは目を見開かずにはいられずに、ラグナの言葉を受けて大いに動揺してしまっていたのだから。

 

 しかし、そんなにも動揺しながらも。メルネは咄嗟にラグナのことを呼び止めようと。その小さな背中を止めようと口を開き。

 

 バタン────それとほぼ同時に、扉が静かに閉められた。

 

「…………」

 

 ここから遠去かる足音を聞きながら、メルネは独り玄関で立ち尽くし。数秒が過ぎてようやっと、開かせたその口から彼女は掠れた声を出す。

 

「どうして……どうして、こんなことになっちゃったの……?」

 

 という、メルネの独り言は。誰に聞かれることもなく、宙に流れて、そして消えて。そうして彼女は最後に、今度は心の中でこう呟く。

 

 ──もう、今日で。今日で()()()から…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、あの日から。日常が非日常と変わり果て、そしてその非日常すらも壊れてしまったあの日から、もう。

 

 

 

『そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ』

 

『絶対の絶対にお前をクラハに謝らせてやるッ!!ライザァァァアアアッッッ!!!!』

 

『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと()()()()()()()()()

 

『……クラハに、謝りやがれ……!』

 

 

 

 あの日から。

 

 

 

『さあ、お楽しみはこれからだぜぇッ!?クラハよぉおッ!!』

 

『僕は……僕はこんなことの為に強くなった訳じゃないッ!』

 

『この俺が憎いか?この俺が恨めしいか?クラハァ!』

 

『ライザァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!』

 

『クラハァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!』

 

 

 

 嫌悪と哀愁。悔恨と激憤。そして────狂気と狂気。負の感情という負の感情が、様々に絡み合い、複雑に入り組んだそれが。激突し、衝突を繰り返したあの日から。

 

 

 

『クラ、ハ……?』

 

『どうしてですか、先輩。先輩はどうして、こんな場所に一人で乗り込んだんですか?一体どうしてこんな無茶をしたんですか?』

 

『お前の、為。俺が一人でここに乗り込んだのは、お前の為だ』

 

『つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()と、先輩は言いたいんですか……?』

 

『はあぁっ!?だから違えって!どうしてそうなっちまうんだ!確かにここに乗り込んだのはクラハの為だけど、それは……!』

 

『止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは』

 

『こんな()()俺にでも、クラハの為にできることをしたかった。何でも、どんな些細なことでもいいから、お前の先輩として、お前の為になることをして、やりたかった。それは、本当、だから……!』

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 一人は大事で大切な存在(モノ)の為に。しかし、一人はそれを否定し拒絶したあの日から。

 

 

 

『助けに来てくれて、あんがと。……じゃあな』

 

『……はい。さようなら、()()()()()

 

 

 

 全てが壊れ、全てが終わったあの日から────────もう、一週間が過ぎていた。

 

 とうにその歯車は歪んでしまった。それでも、回る。運命の物語(ストーリー・フェイト)の歯車は回り続ける。たとえさらに歪になろうとも、軋んだ音をけたたましく響かせながら。

 

 知らない。誰も知らない。クラハ=ウインドアも、ラグナ=アルティ=ブレイズも。無論、メルネ=クリスタもロックス=ガンヴィルも────そして、力を呑んだ(かつ)てのライザー=アシュヴァツグフですらも。誰も彼もが、知る由はない。

 

 その先に待つ末路を。その果てに在る結末を。この物語が辿る、運命を。

 

 唯一それを、その全てを知る存在(モノ)は──────────今はただ、嘲笑っている。



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『大翼の不死鳥』の新人受付嬢(前編)

「はい。これでこの依頼(クエスト)に関しての手続きは完了よ。お疲れ様、また次も頑張って頂戴ね?」

 

「は、はい!自分、これからも精進しますっ!メルネさん!!」

 

「ふふ、期待してるわよ」

 

 ……というようなやり取りを終えて。メルネは笑顔を以て、まだ若き青年の冒険者(ランカー)のことを見送る。そんな彼は彼女の声援をそのまま素直に受け取って、また新たな依頼を受ける為に(ボード)の方へと向かって行った。

 

 早朝から少し時間が過ぎた今。まだ眠りについていたこの街────オールティアは起き。誰も彼もが朝から慌ただしく動き回っていた。

 

 労働に勤しむ者。日常を楽しむ者。多種多様、様々な者たちが混合し溢れている。それがこの街の光景であり、時を経るにつれて幾らかは変化と変容を遂げているのだが、その根本は未だ変わらずにいる。

 

 そう、此れこそがこの街────オールティアの在り方。これだけは誰だろうと、どんな存在(モノ)であろうと。決して、絶対に変えられない、変えようのない一つの理なのだ。

 

 ……そしてそれと同じように、()()()()もまた。変化させることも、することもないと────少なくとも、メルネは思っていた。思って、いたのだが……。

 

 ──人生何があるのかわからない……当たり前のことだけど、まさかそれをこうして、よりにもよってこんな形で痛感させられるとは思いもしていなかった……。

 

 と、心の中で深々呟くメルネ。そして彼女は先程手続きを済ませた依頼の資料を整理し終え、唐突にその口を開かせた。

 

「一つ、訊いてもいいかしら」

 

 そんなメルネの問いかけに対し────数秒の沈黙を挟んでから、受付台(カウンター)に寄りかかっていたロックスがその口を開かせる。

 

「どうぞお構いなく」

 

「じゃあお言葉に甘えて。……どうしてこんなことになったのか、貴方はわかる?ロックス」

 

 ロックスからの快き了承を受け、メルネは少しの沈黙を挟んでから、まるで出方を窺っているような慎重な声音で。彼女は彼にそう訊ねた。

 

「……手前(テメ)ェながら安易安直だとは思っちゃいますが、やっぱり(やっこ)さんの所為でしょうよ」

 

 と、メルネの問いかけに対するロックスの答えはそれだった。奴さん────その言葉が示す存在が如何なるものか、わからないメルネではなく。ロックスの答えを聞いた彼女は安心したように頷く。

 

「良かった。私と同じで」

 

「はは、そりゃ確かに」

 

「……それで、私と貴方の言う件の奴さんの行方は掴めたのかしら?」

 

「いえそれが全然。()()()()やって、もう街からとっとと去ったのか。それとも何か企んでてまだ街にコソコソ潜んでるのか……いずれにせよ、残念ながらってところです」

 

 そうして、メルネとロックスの会話は一旦の終わりを見せた。周囲の冒険者(ランカー)たちが各々で賑わう、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ロビー)の最中で、ただメルネとロックスの間では静寂が流れている。重苦しい、気まずい静寂だけが。

 

 それは数秒、数十秒、そして丁度一分が経ったその時。先に閉じた口を再度開かせたのは────やはりというべきか、メルネの方であった。

 

「あれからもう、一週間なのよね」

 

 と、何処か嘆き悲しむような、悔恨の混じるメルネの呟きに。ロックスもまた、閉じた口を開いて言う。

 

「ええ。気がつけばあっという間に一週間が過ぎた。……何の進展もないままに、過ぎちまいしたね」

 

 そうして二人の頭の中で、とある光景が。つい一週間前程の光景が呼び起こされる。そしてそれは奇しくも、同じものだった。

 

 

 

『そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ』

 

 

 

 それが始まりの一言。そして────終わりの言葉でもあった。日常(いつも)通りだったものがそうではなくなり、期せずして始まったその非日常(そうではない)ものさえも、今や崩れた。亀裂を生じさせ、ゆっくりと砕けながら、徐々に壊れてしまっていっている。

 

 周囲を巻き込んで。全てを巻き添いにして。徐々に、徐々に。段々、段々と。そして終いには、きっと跡形もなく──────────

 

「ああ止めだ、止め。ここはもっと別の話題にでもしましょうぜ、メルネの姐さん」

 

「そうね。こんなこと言ってても、気が滅入るだけだもの。頭がどうにかなりそうだわ。それと姐さん呼びはちょっと、遠慮してくれない?」

 

「あ、はい。了解ですぜ、メルネのあ……メルネさん」

 

「…………まあ、良しとしましょう」

 

 だがしかし、そこでまた二人の会話は途切れた。……そもそもの話、わかり切っていた。たとえこの話題を避けたところで、残る別の話題も大差のない、ろくでもないことなど。二人はわかり切っていたのだ。

 

 またしても重苦しい気まずい静寂の最中、三度それを断ったのは────やはり、メルネだった。

 

「……最近、どうなの?…………クラハは」

 

「…………」

 

 それはロックスが会話の中で見せた、初めての沈黙であった。今の今までメルネの言葉に即座に返事をしていたロックスだったが、彼女のその問いかけに対しては、流石の彼も沈黙せざるを得なかったのだ。

 

 黙り込んでしまったロックスは、唐突に懐から小さな箱を取り出し。その箱から一本の煙草を取り出し口に咥えたかと思えば。続けてライター──近年世界(オヴィーリス)四大陸の内、最も文化と文明が進んでいる第二(セトニ)大陸にて開発された、火属性の魔力を込めた魔石を利用した簡易小型点火装置──を取り出し、煙草の先へと近づけた。

 

 カチッ──その音と共に、ライターが小さな火を吹かせ。瞬間、ロックスが咥える煙草の先に灯った。

 

(まず)いですね。何の軽口も思いつかない程度には拙いですよ。……この際正直に言わせてもらいますと、かなりヤバい。限界ってのがもうすぐそこまで迫ってる」

 

 と、紫煙を吐き出しながらようやく返ってきたロックスの言葉を聞いて、メルネは僅かに目を伏せた。

 

「……そう」

 

「一応休むよう声はかけたんですが……あの様子だと、どうだか」

 

 そして今度はロックスがメルネに訊ねる番だった。

 

「クラハもそうなんですが……そちらの方はどうなんです?」

 

 ロックスのその問いかけに対し、メルネもまた沈黙を挟むが、それはロックス程長くは続かず。何処か諦めているような、後悔しているような声音で彼女はこう答えた。

 

「どうも何も……こっちは()()()()()()

 

 見ての通り────メルネの言葉を聞いたロックスは、ゆるりと紫煙を吹かせながら、静かに呟く。

 

「……ええ。まあ確かに、見ての通りですね」

 

 そしてロックスは顔を向けた。メルネが顔を向けているその方向に、彼もまた同じように顔を向けた。

 

 メルネとロックス。二人の視界に、その姿が映り込む。そう──────────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』受付嬢の制服を着て、仕事に勤しむ()()()()()()()()()()()()()の姿が。



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『大翼の不死鳥』の新人受付嬢(後編)

「『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の新人受付嬢、ラグナ=アルティ=ブレイズ……か」

 

 と、依然紫煙を吹かせつつ、ポツリとロックスはそう呟く。

 

 今、彼の視線の先に映っているのは────黙々とテーブルを拭いている、ラグナの姿。

 

 (かつ)て世界最強の一人と謳われたラグナであるが、果たして。一体どれだけの人間が今のラグナを目の当たりにして、その過去を再認識できることだろう。

 

 恐らくきっと、いない────仮にそう問いかけられたのならば、ロックスは心を鬼にしてそう答える。……そう答えねばならない程に、今のラグナは昔のラグナとはかけ離れているのだから。

 

 最も大きな違いとしてはその性別。何故そうなってしまったのかというその原因も、肝心の当人がわからず終いで未だ謎に包まれてしまっているのだが。元々は正真正銘の歴とした大の男だったラグナは、ある日突然少女となってしまった。

 

 そして問題はそれだけに留まらず、その強さも失われた。そう、ラグナはただ少女になったのではなく。嘗ての最強ぶりが全くの嘘だったかのように、ただのか弱い少女となってしまったのだ。当然ながら、元に戻る術など現時点ではまるで皆無である。

 

 性別転化と弱体化────これらの問題が世界(オヴィーリス)に与えた影響は言うまでもなく甚大で、計り知れず。今でも四大陸の各地に波紋が広がり続けている。そしてそれを特に受けているのが、『世界冒険者(ギルド)』だ。

 

『世界冒険者組合』────有象無象の冒険者組合(ギルド)が跋扈し、良い意味でも悪い意味でも各々が好き勝手にやっていた、秩序なき混沌たる黎明期の最中に。そんな組合全てを統制統括し、完全管理する為に立ち上げられ。いつの時代からか四大陸をまとめ上げ、この世界の法を定め始め秩序を築き上げた、今や世界的行政機関となりつつある巨大組織。それが『世界冒険者組合』である。

 

 ラグナを世界最強と認め、彼に特級ランク────《SS》ランクを与えたのも『世界冒険者組合』であり、そしてラグナの他にも世界最強の証たる《SS》ランクを与えられた者は二人いる。

 

『極剣聖』サクラ=アザミヤと『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア、である。

 

 この二人について説明するには、生憎ロックスは詳しい情報を持ち合わせていない。彼が知っていることといえば、この三人が『極者』という人類の超越者で、総じて『三極』と呼ばれていること。そして今この世界のありとあらゆる均衡(バランス)を保っている存在となっているということくらいだ。

 

 ……そう、『三極』の存在によって世界の均衡は穏便に、そして安寧に保たれていた。しかし現在、その一角が欠けたことにより。世界は激動を迎える一歩手前の状態になりつつある。

 

『三極』という抑止力(カウンターコマンド)によって、今の今まで抑えられていた闇の勢力────裏社会に蔓延り、表立っての派手な行動を控えていた無数の犯罪組織。『世界冒険者組合』の目を欺き、やがて訪れるだろう好機(チャンス)を今か今かと待ち望む、その心に底知れぬ悪意を宿す者たち。

 

 そして────『五大厄災』。……とまあ、叩けば叩く程に問題が出てくる。それ程までに、今回ラグナが齎した影響は凄まじいものだった。

 

 ──けど、本人はそれを全くと言っていい程に自覚してなかったんだよなあ……。

 

 と、半ば呆れながらロックスは心の中で呟いた。だがまあ、それも無理はないだろう。何故ならばラグナは自分の関心を引くもの以外には、何処までも無関心なのだから。世界の行末なども、大して興味もないのだろう────と、諦観にも似た奇妙な感情に揺れ動かされつつ、ロックスは受付嬢としての仕事に、直向(ひたむ)きに勤しむラグナの姿を眺める。

 

 ロックスが知る限り、『大翼の不死鳥』の受付嬢の制服は評判が良い。それを着て働く女性からも、そんな彼女たちを目の保養として眺める男性からも。

 

『大翼の不死鳥』のイメージカラーである赤を基調色とした制服は、喫茶店の給仕服を元にしており。当然ながら要所要所に工夫(アレンジ)が加えられている。例えばフリルだが、この制服のデザインに関わった一人であるメルネ曰く、不死鳥の羽を意識したものらしい。他にも工夫があるが、その全てをロックスは把握していないし、たとえ把握していたとしても流石に全部を説明したりしない。理由は面倒だからである。

 

 とまあ、そんな制服を着ているラグナであるが。誠に勝手ながら野朗共の代表として、ロックスの率直な感想はこうだ。

 

 

 

 ──……似合っちゃってんな。うん。

 

 

 

 今はともかくとして、一週間前であったら不服かつ不本意であると当人は思うに違いないだろうが、今のラグナは誰もが認める美少女。その紅蓮の髪を揺らして街を歩けば、誰もがこぞって振り返ってしまうような、大変将来有望な美少女だ。

 

 そんな美少女が着て、似合わないはずがない。ラグナ自身きっと自覚はしていないだろうが、その制服を見事に着こなしている。

 

 ……そしてそれが、その現実が。ロックスに複雑な心情を抱かせる。失望、とは違うかもしれない。悲嘆、にも似ているのかもしれない。憐憫、なのかもしれない。そのどれでもあるようで、しかしそのどれでもない。上手く言葉にして説明のできない、そんな複雑な心情をだ。

 

 けれど、ただ一つ。一つだけ確かに、ロックスがラグナへ言えることは。

 

 ──らしくない。それはお前らしくないんだ、ラグナ……。

 

 生憎、ロックスと現状の、か弱く非力な少女と化したラグナとの付き合いは短い。その日数にして、一週間。たったの一週間しかない。もっと言えば、新人受付嬢となる前のラグナとの付き合いなど数十分もなかった。

 

 だが、それでも。ロックスにはわかった。伝わった。ラグナはラグナだった。何も変わってなどいなかった。

 

 たとえ天上天下唯我独尊、他を一切寄せ付けない絶対的な強さが失われようと。たとえ花も恥じらう、美麗にして可憐な少女になろうとも。それでも、ラグナはラグナで()ろうとした。

 

 嘗ての全てが消え失せた今、それでもなお己は己であると────ラグナ=アルティ=ブレイズなのだと。

 

 

 

『そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ』

 

 

 

 ……少なくとも、一週間前のあの日までは。

 

 ──一体どうしちまったってんだよ……全くよお。

 

 あの日から、ラグナは変わった。変わってしまった。どんな姿形に成り果てようとも、自分は自分のままだという気概だとか、意地だとか。そういったもの全てが、ラグナから跡形もなく消え失せてしまった。すっぽりと抜け落ちた。そうして、この現状に至る訳だ。

 

 そう、女性の衣服を着て、女性としての仕事に勤しんでいるこの現状。それがロックスには、あまりにも酷く歪なものに思えて仕方がなかった。ラグナがそうすることに、言いようのない拒否感のようなものを胸中に抱いてしまう。……過去のラグナを間近で見続けてきた、それ故に。

 

 ──良いのか?ラグナ、お前はこれで良いのか……?本当にそれで良いってのか、お前()はよ……。

 

 と、ロックスが心の中で深々と呟いたその時。ラグナもまた、テーブルを拭き終えた。そしてどうやら、それで一通りの仕事が片付いたらしい。こうしてロックスとメルネが遠目から眺めていることに気づくことなく、ラグナは一息ついて────────

 

 

 

 

 

 ギィ──それとほぼ同時に、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の扉が静かに開かれた。



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できること

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 その言葉だけが、頭の中を回っていた。ぐるぐると、ずっと。回って、回り続けていた。

 

『……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 その所為で、頭が変になって。おかしくなってしまいそうで。痛くて、辛くて、苦しくて。それが、堪えられなくて。だから忘れようとした。何度も、何度も。

 

『今の()()()なんかが』

 

 でも、忘れられなかった。忘れようと、そう思う度に。まるでそれが許されず、糾弾されているかのように。記憶に深く、より深く。鮮明に刻み込まれては残されていった。

 

 自分は否定された。自分は拒絶された。絶対と言っても過言ではない信頼と信用を抱いていた、唯一の存在(ひと)に。その現実に押し潰され、その事実に擦り潰され────どうにかなりそうだった。

 

 ……今になって思えば、もういっそのことどうにかなって。そしてそれはもう派手に壊れてしまっていた方が。事態がここまで拗れることなどなくて、色々と楽になっていたのかもしれない。

 

 けれど、選べなかった。その選択を自分は────ラグナ=アルティ=ブレイズは選べなかった。

 

 何故か?どうしてか?その理由は簡単だ。()()()()()。壊れてしまうことが、堪らなく。どうしようもなく、ラグナは怖かった。

 

 確信している訳ではない。ぼんやりとした漠然さで、しかし。もし今の自分が一度壊れたのなら、たぶんもう元に戻ることができないという。根拠も何もない思いだけがあった。

 

 痛くて辛くて苦しくて堪えられない。壊れて楽になることも選べない────────ラグナはもう、どうすればいいのかわからなくなっていた。

 

 わからないまま、走り出した。逃げ出した。行く当てなど全く考えもせず。ただ、ひたすらに。遮二無二に我武者羅に。滅茶苦茶に、無茶苦茶に。

 

 今にでも街道の路面に倒れそうになりながら、今にでも限界に達して気を失いそうにながら、それでも。ラグナは走った。逃げた。走り続けて、逃げ続けた。

 

 そしてその末に────気がつけば、ラグナはとある家の前に立っていた。

 

「……ここ」

 

 ラグナ自身、これは無意識の内のことだった。別に最初からここを目指していた訳ではない。けれど、気がついた時には自分はこの家の前で、こうして立ち尽くしてしまっていた。

 

 呆然と家を見上げ、ラグナは表情を強張らせる。今が深夜だということは、ラグナとて重々承知していた。

 

 ……しかし、それでも。

 

 

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 ふとした拍子の隙を突いて、まるでこちらのことを追い詰めるかのように。その言葉が頭の中をグチャグチャに掻き回しながら、ひっきりなしに響き渡って。それが嫌で嫌で嫌で気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて。とてもではないけど、やっぱり堪えられそうになくて。

 

 それを紛らわそうと。それを誤魔化そうと。遠去けようと、逃げようと。ラグナはそうしようとして、また気がつけばその場から一歩二歩と進んで。

 

 リリーン──そして、この家の呼び鈴(チャイム)を鳴らしてしまっていた。

 

 ハッと、鳴らした後からラグナは後悔する。後悔して、あたふたして、とりあえずその場から消えようとして。

 

 ガチャ──しかし、ラグナがそうこうしている内に。扉は開かれてしまった。

 

 開かれた扉の向こうに立っていたのは言うまでもなく────メルネ=クリスタ。当然だろう、何故ならばこの家は彼女のものなのだから。

 

 全て無意識の内に行動を起こしてしまい、その結果自分でもどうすればいいのかわからずに立ち尽くすラグナ。突然の来訪者に驚き、今一(いまいち)この状況が飲み込めないでいるメルネ。そんな二人は互いの顔を見つめ合い、数秒の静寂を漂わせ。

 

 そんな最中、とにかくこの状況をどうにかする為に。ラグナは口を開き、メルネにこう言った。

 

「こんな時間に悪い。他に当てがなくて、さ……」

 

 ……自分でも、何を言っているのかよくわからなかった。けれど、自分でもよくわからないこんな言葉に対しても、そんな自分に対しても、メルネは。

 

「べ、別にそんなの気にすることないわ。立ち話もなんだし、まあ中に入りなさい」

 

 多少戸惑いながらも微笑んで、そう言ってくれた。そして彼女はラグナのことを快く、自宅の中へと迎え入れてくれたのだった。

 

 こうしてメルネの自宅に迎え入れられたラグナであったが、やはりどうしてればいいのかわからず。結果、メルネに事情もろくに話せず、彼女を前にしてラグナは黙り込んでいることしかできないでしまっていた。

 

 ……とは言っても、一体どうしたのかと。何があってここへ来たのかと、そうメルネに訊ねられたところで────

 

 

 

『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと()()()()()()()()()

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 ────こんな経緯を平気な顔で説明できる程の勇気を、ラグナは持ち合わせていないのだが。

 

 ともあれ、またしても再びラグナとメルネの二人の間に気まずい静寂が流れてしまった訳で。しかし流石にこのまま黙り込んでいる訳にもいかないと、ラグナがそう思った直後のことだった。

 

「えっと、とりあえずお風呂……そうねお風呂に入りましょ、ラグナ。その髪で一人は大変だと思うから、一緒に……ね?」

 

 ……などと。メルネは唐突な提案をラグナに投げかけた。ちなみに彼女は既に薄布の寝間着(ネグリジェ)姿で。その格好から、入浴などもうとっくのとうに済ませていると容易に察することができる。その上で、彼女はラグナと一緒に入浴しようと提案してくれているのだ。

 

 最初、ラグナはどう返すべきか迷った。ただでさえ深夜に突然自宅を訪ねて、上がり込んで、メルネには迷惑をかけてしまっているのだ。なのに、その上入浴など……と。そう考えるラグナであったが、しかし。

 

 そんな己の思いとは裏腹に、こくり、と。メルネの提案にラグナは小さく頷いていた。

 

 まあそうして、いざ入浴せんと浴室に向かった二人だが。この時ラグナが羽織る、男物の黒の外套(コート)の下が。およそ衆人環視の最中では決して晒せない格好であったとメルネに知られて(というより見られて)、大いに彼女を驚愕させ、動揺させてしまった。

 

 だが、それでも。こちらの為と思ってのことなのか、メルネがラグナに事情を問い質すことも、何かしら訊ねることもなかった。彼女はあくまでもラグナのことを受け入れ、接するだけだった。

 

 ……だからだろう。

 

「……なあ、メルネ」

 

 優しい指先で梳かれ、髪を洗われる最中。ラグナは不意にメルネの名を呟く。

 

「ん、どうかしたの?ラグナ」

 

 メルネの声は落ち着いていた。彼女の声音は日常(いつも)通りの、変わらぬ平常なものだった。

 

 依然として言葉は響いていた。痛かった。苦しかった。辛かった。

 

 遠去けたかった。逃げたかった。……もう、どうしようもなかった。

 

 だから────────

 

 

 

「俺って、何なのかな」

 

 

 

 ────────頼ってしまった。甘えてしまった。こんな自分とは違って、日常通りで何も変わらないメルネに。彼女の優しさに。

 

「俺はただ、何かしたかった。先輩として、後輩の為になることを、してやりたかった……ただ、それだけだったんだ」

 

 と、メルネの返事も待たずに。ラグナはそう言葉を続ける。

 

「悔しかったから。ずっと、ずっと……あの時は見てることだけしかできなくて、助けを呼ぶくらいしかできなくて、助け、られなくて。それがずっとずっと悔しかったんだ。だから、こんな今の俺でもしてやれることを、したかっただけなんだよ」

 

 そんな、あんまりにもあんまりで長ったらしい言い訳を、メルネ相手に身勝手に続けて、そして。

 

「なあメルネ……教えてくれ」

 

 そう言うや否や、ラグナはメルネの方へと振り向いた。

 

()()俺って、一体何なんだ……?」

 

 …………酷かったんだろうなあ、と。今の自分はそれはもう、酷い顔をしていたんだろうなあ、と。まるで何処かの他人事のようにラグナは思う。そしてそんな顔を向けてしまっているメルネに、申し訳が立たないでいる。

 

 失望されてもおかしくない。諦められても不思議じゃない。ああ、こいつはもう駄目なんだと思われても仕方がない。()()()()()()()()()()()()。それが今の自分。今のラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 そんな自分に。こんな有様の自分に対して、メルネは腕を振り上げたかと思えば。その腕でこちらの身をそっと引き寄せて────抱き締めてくれた。彼女は優しく、抱き締めてくれたのだ。

 

 ラグナにとって、それは予想だにしない行動だった。それ故に、ラグナは困惑した。戸惑った。

 

 錯綜する思考の最中、ただ唯一確かにわかったのは。メルネの体温、彼女の優しい優しい温かさ。

 

 それを感じ取ったその瞬間────ラグナはどうしようもなくなった。

 

「…………言われ、たく、なかっ……た」

 

 思い出したくない今日の出来事、思い出す度心を深く抉られ傷つけられるその記憶と共に。訳のわからない、ラグナには説明のできない想いが胸の内から止め処なく溢れ出してしまって。どうしようもなくなって、堪らなくなってしまったラグナは、気がつけば口を開き、そう言葉を零してしまい。

 

「あんなこと、クラハだけには言われたくなかったぁぁぁぁ……っ!」

 

 そして、とうとう遂に。今の今まで懸命に繋ぎ止め、必死に抑え込んでいたその本音を、ラグナはメルネへ吐露してしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……その、ごめん。変なとこ、見せちまって」

 

「ふふ。散々泣きに泣いて、スッキリできた?」

 

「…………まあ、うん」

 

「なら別にいいじゃない。あんなの一々(いちいち)気にすることないわよ、ラグナ」

 

 胸元に顔を埋めさせ、気が済むまで泣きついてしまったことを。恥ずかしそうに縮こまりながら謝るラグナに。対するメルネは特に気にした様子もなく、微笑みを浮かべながらラグナへそう言葉を返す。

 

 平気な風を装って。堪えてないと我慢して。けれど、本当は駄目だった。我慢できなかった。嫌なものは、嫌だった。

 

 正直に白状してしまうと、溜め込んでいたのを吐き出したことで。気分はいくらかマシになった。ずっとひた隠していた本音と本心をぶちにぶち撒けて、素直になったら楽になれた。

 

 ……でも、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。

 

「まあそれはそうとして。本当にそろそろ寝ないとだわ。これ以上起きてたら、明日に響いちゃう」

 

 それに女の夜更かしは肌とか、色々駄目にしちゃうしね────と、そう付け加えるメルネ。そんな彼女のことを、ラグナは見つめる。

 

 

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 ……相も変わらず、その言葉は頭の中で響き渡る。ふとした拍子に。こちらの隙を突くように。

 

 ──今の俺が、できること……。

 

 そう心の中で呟いた、その直後だった。それは、ほぼ無意識の内のことだった。

 

「……メルネ」

 

 寝室へ向かおうとしていたメルネを呼び止め、ラグナは彼女にこう訊ねる。

 

「何か、あんのかな。今の俺ができることって、なんだろうな」

 

 そしてその言葉が────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』新人受付嬢、ラグナ=アルティ=ブレイズの始まりとなった。



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砕けて、壊れて。それでも

 無論、言うまでもなく。最初は抵抗があった。今の自分にでもできることはないのだろうかと訊ねておいて、あまりにも身勝手過ぎるというのは重々承知していた。

 

 ……けれど、やはり────

 

 

 

「じゃあ……『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢、やってみる?」

 

 

 

 ────という、メルネの提案に対しては。ラグナは抵抗を覚えられずにはいられなかった。

 

 今まで何度も繰り返し、重ねて強調してきたことであるが。そもそも、ラグナは男だ。現在(いま)はともかく、ラグナは歴とした男で。たとえこの身が少女と成り果てようとも、心までそうなったつもりはない。

 

 故に、ラグナは抵抗を覚えられずにはいられなかった。男の自分が受付嬢の制服を着て、男の自分が受付嬢として働くことなど────到底、許容できるものではなかった。

 

 ……と、()()()()()ラグナであったら、間違いなくそう思っていたことだろう。

 

 ──……俺が、受付嬢として働く。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢として、男の俺が……。

 

 色々な出来事があった。色々な出来事があり過ぎて、そして一気に重なり過ぎて。その結果、ラグナの精神(メンタル)は傷ついた。ラグナの精神は無遠慮にも抉られ、無慈悲にも刻まれ。さらに削り取られ、さらに擦り減られされ。これでもかと摩耗し、消耗してしまった。

 

 常人であったら間違いなく木っ端微塵に砕け散り、そしてもう二度と修復することは叶わなかっただろう。ラグナだからこそ、他の誰でもないラグナ=アルティ=ブレイズだったからこそ。その精神はまだ、辛うじて元の原形(かたち)を保っていた。

 

 しかしそれも、もはや風前の灯火。虫の息で、それこそ指先で軽く小突いてやるだけで。呆気なく、一気に瓦解して崩壊する。そのようなところまで、ラグナの精神は────心は追い詰められていた。

 

 …………だというのに。だった、というのに。

 

 

 

『つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()と、先輩は言いたいんですか……?』

 

『止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは』

 

『だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ』

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 それは一切容赦のない追い打ちだった。それは僅かな躊躇いもない駄目押しだった。そして何よりも堪えたのは────────

 

 

 

 

 

『……はい。さようなら、()()()()()

 

 

 

 

 

 ────────それだった。それが止めとなり、決定打になった。

 

 こうしてラグナの精神は砕かれた。そうしてラグナの心は壊された。無残に粉砕された上で、残酷に破壊されたのだった。

 

 普通だったら狂いもしたのだろう。普通だったら廃もしていたのだろう。けれど、ラグナは違った。ラグナは狂人にも、廃人にもなれなかった。

 

 精神は砕けた。心は壊れた────それでも、ラグナは()()()()()()()()()()

 

 不憫にもラグナは狂わなかった。不幸にもラグナは廃さなかった

 

 狂人にしろ、廃人にしろ。どちらにせよ、なってしまえば。その末に待つのは破滅に違いないが────それでも、ラグナにとっては地獄と何ら変わりのないこの現状から、抜け出せる手段であることは間違いなく。けれども、しかし。

 

 先程も言った通り、ラグナの精神と心は強靭で。そこだけは男でも女であっても変わらない部分で。だが、今回ばかりはそれが逆に働いてしまった。

 

 砕けても、壊れても。それでもなお、()()()()()()()()()()()。……そう、ラグナは些か強靭()()()()()

 

 故に逃げることを許されず。故に楽になることを赦されず。ラグナは、この生き地獄と真正面から向き合うことを強いられた。

 

 ……だがそれはあまりにも酷で。理不尽で。そして無理難題にも程があって。

 

 逃げたいと思わずにはいられなかった。楽になってしまいと思わずにはいられないでいた。だから、ラグナは一考してしまった。ラグナは想像してみてしまった。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢の制服を着て、そしてメルネらと共に働く自分。受付嬢の、自分(ラグナ)

 

 ──…………。

 

 それは在り得ざる想像の景色。それは在ってはならない、想像の風景。何故なら、もしそれが想像から現実へと成ったその時、自分は……。

 

「……あ、あはは!私ったら、何言ってるの。ごめんなさいラグナ、私がさっき言ったことは全部忘れて頂戴。……その、こんなこと言い出して本当にごめんなさいね。私、ラグナのこと何も考えず、こんな」

 

 黙り込んでいたラグナに、メルネが慌ててそう告げる。彼女に落ち度など、何一つとしてないというのに。

 

 そう思いながら、黙り込んでいたラグナは、閉じていたその口をようやっと開かせる。

 

「メルネ」

 

 抵抗はあった。躊躇いもあった。当然だ。今はたとえ誰もがそうであると認めてしまう、少女でも。花も恥じらう乙女であろうとも。

 

 ラグナはラグナである。世界最強の《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズである。そうであると、少なくとも本人が思っているのだから。

 

 ……けれど、そんなラグナの頭の中であの言葉が響く。

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 その声が響く。軽蔑と侮蔑、失望と絶望という四つの負の感情が複雑に入り乱れた表情が、瞼の脳裏に浮かび上がってくる。

 

 それがどれだけ苦しいか。どれだけ、辛いのか。こればかりは────ラグナにしかわからない。そしてラグナは、その末にこう口に出した。

 

「やる……よ。俺、それやるよ」

 

 

 

 ──それが今の俺にでもできることなんだから……。

 

 

 

 そう、心の中で呟きながら。



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初体験

 こうして『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の新人受付嬢、ラグナ=アルティ=ブレイズは誕生した訳であるが。色々と、最初の方は色々と大変だった。

 

 まず一番最初にぶち当たった壁が、何を隠そう『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢の制服だ。

 

 別に直前になってやっぱり着たくないだとか、土壇場になってそもそも受付嬢として働きたくないだとか。そういった文句をラグナが言い出した訳ではない。たとえ女になろうと、その本質までは変わっていないと自負するラグナ=アルティ=ブレイズが、そんな半端で往生際の悪い文句を言う訳がない。

 

 ただ、いざ実際に制服を着てみて────ラグナは二十六年と歩み進んできたこの人生の中で、初めて味わう猛烈にして痛烈な()()()に面食らったのだ。

 

『大翼の不死鳥』の受付嬢の制服が似合っていない訳ではない。その点はむしろ逆────思わず嫉妬してしまう程に、何の不自然さもなく似合っていると。メルネから抜群の評価を貰っているし。なんなら彼女以外の、今や同僚と呼ぶべき他の受付嬢たちからも似合っていると言われた。……まあだからとて、それを素直に喜べないラグナがいるのだが。

 

 それはともかく。ではラグナの言う、その如何ともし難い相違感とは一体何か────スカート、であった。そう、それはスカートだったのである。

 

 如何に、そしてどれ程の躊躇いを経た上で。ラグナが人生初のスカート着衣(デビュー)を果たしたのか。その紆余曲折とした過程を、丁寧に説明するしよう──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 今、ラグナはそれを眺めていた。主に『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢たちが使う更衣室に案内されると共に、メルネから手渡されたそれを────受付嬢の制服を。正確には制服のスカートを。手に持って、ラグナは眺めていた。眺めて、やや渋い表情をその顔に浮かべていた。

 

 ──……女物の、服……。

 

 と、心の中で躊躇いの色が濃い呟きを漏らすラグナ。しかしまあ、それも当然だ。当たり前のことだ。

 

 何せラグナは、元は歴とした男。正真正銘の、至って健全な男だった。なのでスカートなんてものを穿いたことは一度だってありはしないし、また女装癖など持ち合わせていないので穿きたいなどとは一度たりとも、微塵にも思ったことはない。

 

 しかし、今のような有様に────こんな少女となってしまってから今日に至るまで。大変不本意極まりなかったが、諸々の事情により致し方なく女物の衣服の袖に腕を通していたラグナだが。

 

 女物であることには……まあ違いないだろうが。それでも飾り気のない白のブラウスと女っ気のないショートパンツという。およそ少女らしさ(ガーリー)からはかけ離れた少年らしさ(ボーイッシュ)な服を選んでいたし。それら以外を選ぼうなどとは。全くもって、欠片程もラグナは考えなかった。

 

 ……それに、別にラグナは知らなかった訳ではない。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢の制服がどのようなものなのか、ラグナとて一応であるが知ってはいた。自分が所属する冒険者組合(ギルド)なのだし。

 

 スカートなど、やはり自ら進んで穿きたくはない────というのが隠しようのない、どうしようもないラグナの本音である。

 

 けれど、今やそんな我儘(わがまま)も言ってはいられない。仕事なのだから、四の五の言わず文句は飲み込んで、とにかくもう我慢するしかない────そう思い、ラグナは己を曲げて。袋小路へ追い詰められ、もはや観念するしかないという心境の最中にて。

 

 そうしていよいよ遂に、ラグナは────────スカートに足を通して、腰辺りにまで引き上げて、穿いた。

 

 ──っ……!?

 

 いざ穿いてみて、ほんの十数秒後。ラグナが真っ先に感じたのは────何とも言えない、心許なさと。果たしてこれで大丈夫なのかと思わずにはいられない、不安だった。

 

 服を着ているはずなのに()()()()()()()()()。こうして確かに穿いているはずなのに、けれどその実まるで穿()()()()()()()()()()()。そんな錯覚を、ラグナは覚えずにはいられなかった。

 

 ──こ、これ、ちょ……っ。

 

 特にラグナが堪えたのは足の、否、股の間を通り抜ける空気の感触。身動き一つ取る度に、()()()()、という。空気が無遠慮かつ不躾に肌を撫で触ってくる、この感触。

 

 別に顔とか腕とか、まあ多少擽ったいが首筋だとかはまだいい。それらは男の時にでも味わったことのあるものだ。それこそもはやどうとも思わない、感じて当たり前、感じて当然の感触というものだ。

 

 ……しかし、()()は違う。()()ばかりは、流石に違う。

 

 男の時はズボンだった。女になってもショートパンツを穿いていた。それ故に、ラグナにとってそれはまさに未知の感触。初めての体験────初体験。

 

 そう、ラグナは今初めて露出させた。足先、脹脛、太腿()()に留まらず。それに加えて、今この時初めて────()()()()()()、スカートの下でラグナは露出させていたのだ。

 

 これがもし、まだ丈の長いロングスカートであったのなら。多少、幾分かはマシだったのだろう。然程、空気の流れを感じることは少なかったのだろう。

 

 そう、これがロングスカート()()()()()()()。だがしかし、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢の制服は────ミニだった。丈の短いミニスカートだったのだ。それも結構、ギリギリな。チラリどころか、ガッツリ太腿見えちゃっているくらいな。

 

 なので、空気の流れを否応に感じてしまうのは至極当然の話というもので。それが露出されている素肌ならばなおさらで。そしてその場所も普段は布で覆われているのだから、鋭敏になるのもまあ、もはや仕方のないこと。……と、簡単にあっさりと自らを納得させることができたのなら、ラグナも苦労しない。

 

 ……実のところ、このスカートを手に取り改めて眺めた時。ラグナはその疑問を抱いた。果たしてこれは、服()()()と。本当に歴とした衣服の一種なのか、と。こんなものを穿いたところで、それは腰にただ布を巻き付けたのとそう違いはないのでは、と。

 

 そう、ラグナは思わずにはいられず。そんな疑問を抱いたままこうして穿いてみた結果、ラグナはこの確信を得た。

 

 

 

 こんなもの、ただ一枚の薄布にしか過ぎない────という確信を。

 

 

 

 ──お、女共はよくこんなの穿いてて平気な顔してられるな……!

 

 と、心の中で吐き捨てるように呟きながら。ギュッと、ラグナは両手でスカートを押さえる。こうでもしていないと、いつまで経ってもスースーして落ち着かないので。

 

 というか、何故下着姿や全裸だと大して気にもならないのに、どうしてこんな布切れを。たかが一枚穿いただけで。

 

 こうも空気の流れが妙に気になってしまうのか。太腿、股座の間を通り抜ける空気の感触に一々(いちいち)気を取られるようになってしまうのか。

 

 ──いや、てか無理。本当(ホント)無理。お、落ち着けねえぞ……!

 

 顔を薄ら赤く染めさせ、無意識の内にラグナはもじつく。……まあ、そもそも。一週間と数日前までは大の男であったラグナに。いきなりこんなミニスカートを相手させるというのは、少々酷な話である。

 

 だがしかし、それでも。ラグナは着替えた。その心に抵抗と躊躇を未だ残しながらも、とうとうラグナは自らの意志で女物の衣服に身を包み込んだのだ。

 

「……」

 

 何を考え、思うでもなく。気を紛らわすように、気分を誤魔化すように。ラグナはただ視線をそこらへ流し、泳がし。そしてその末に、()()を視界に捉えた。

 

 それは────鏡だった。所謂(いわゆる)、映る者の全身を映す、姿見というやつだった。

 

 ここは受付嬢専用の、女性の更衣室だ。だからこういったものが置かれていても別に不自然ではないし、というか置いてあることの方が当然とでも言うべきで。

 

 普段のラグナであれば、そんな姿見など気にも留めなかっただろう。何の変哲もない鏡だと、そう思いそう一蹴して、気にかけることなどありはしなかったはずであろう。

 

 ……しかしそれはあくまでも、()()()()()()()の話だった。そして今のラグナは、およそ普段とはかけ離れていた。

 

 魔が差したのか、はたまたどうかしてしまったのか。ラグナ自身、それはわからない。……わからないが、それでも強いて言うのなら。掘り下げるのであれば────()()()()()()()()()()()()。ひょっとすると怖いもの見たさからの、ちょっとした好奇心だったのかもしれない。

 

 まあ、いずれにせよ。まあどちらにせよ。姿見を発見したラグナは、ふと思った。

 

 

 

 ──どんな、感じなんだろ……?

 

 

 

 恐怖にも似た好奇をその胸に抱えながら、ラグナは一歩を踏み出し。続けて二歩、三歩と進み。

 

 そうして遂に、前にまで来た。その姿見の前へと、ラグナは辿り着いた。そして、見た。姿見が全てを余すことなく映し出している存在(モノ)を、ラグナは目の当たりにした。目の当たりにして、

 

「…………う、わ……ぁ」

 

 第一に、口からそんな声を漏らし────────

 

 

 

 

 

 ──女、だ。女だ、今の俺……。

 

 

 

 

 

 ────────第二に、心からそう思った。



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その表情は

 その姿見の中にいたのは一人の少女であった。見紛うことのない、疑う余地もない────そう、一人の少女がいた。

 

 煌々と燃ゆる紅蓮の髪。それと全く同じ色をした瞳。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢の制服を着ている、その少女こそが。他の誰でもない今の自分であると、ラグナは確と理解していた。

 

 ……そう、ラグナは理解していた。ラグナは知っていた。ラグナはわかっていた。そうであると受け止め、そうなのだと認めていた。

 

 もう認めざるを得なくて、もう認めるしかなくて────だがそれでも、未だに納得はしていなかった。納得できる、はずもなかった。

 

 確かに今の自分は女だ。この姿見の前にこうして立っている自分は、見紛うことなき一人の女だ。たとえ己が違うと訴えようと。否とどれだけ断じ続けようとも。所詮それは己だけの真実に過ぎなくて。その目の映る全てが事実である他にとっては、一考する余地もなければその価値すら微塵もない虚実でしかない。そしてそんなことは、ラグナとて知っている。思い知っている。

 

 だがしかし、それでも。偽りとしか受け取れない真であっても。それはラグナにとっては譲れないものだった。どうしても譲りたくないもので、絶対に譲らせないものだった。

 

 何故ならばそれは、それだけが。ラグナをラグナと定めるものだから。ラグナをラグナたらしめるものなのだから。

 

 自己同一性(アイデンティティ)────己が己であるということ。自分が自分であるということ。ラグナがラグナであるということ。それを証明する、唯一の。

 

 身体は女であろうと、この心は未だ男のまま。故に己は女に(あら)ず。女にはならず。女でなく、男である────────ラグナの思いは万夫不当にして、不撓不屈。鉄にも鋼にも勝る、絶対の思い。意思。だから変わらない。だから揺らがない。

 

『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと()()()()()()()()()

 

 たとえ女として散々謗られ、散々弄ばれ。酷たらしい陵辱の仕打ちをいくら受けようと。ラグナのその思いが変わることはない。ラグナのその思いは揺らがない──────────

 

 

 

 

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 

 

 ──────────はずだった、のに。

 

 ──俺って、俺が思う程強くなかった。全然、弱かったんだ。弱いままだったんだ……。

 

 と、ラグナは心の中で静かに呟き、そして自嘲した。しょうもない奴、どうしようもない奴と自らをそう蔑んだ。そうせずには、いられなかった。

 

 だってそうだろう。たった一つの言葉で、こうもあっさりと。呆気なく、簡単に。万夫不当、不撓不屈たらんとした己の思いを。鉄にも鋼にも勝るこの思いが。

 

 変わってしまった。揺らいでしまった。……嗚呼、だけれど。それも仕方ないではないか。思いの礎となっていた存在(モノ)からの言葉だったのだから、変わってしまうのも揺らいでしまうのも、しょうがないことではないのか。

 

 そう少しでも、そう僅かにでも思えることができたのなら、ラグナも幾分か楽になれたというのに。

 

 そんな言い訳を盾にできる程、ラグナは器用ではない。そんな言い訳を思いつける程、ラグナは薄情ではない。

 

 だが、その言葉を受け止められる程、ラグナは気丈でもない。

 

 だから、ラグナは。

 

 

 

()()俺って、一体何なんだ……?』

 

 

 

 あの日、あの夜。あの時、あの場で。恐る恐る、訊ねたのだ。

 

 

 

『何か、あんのかな。今の俺ができることって、なんだろうな』

 

 

 

 縋って、頼って。そうして、ラグナは一つの選択を与えられた。

 

 

 

『じゃあ……『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢、やってみる?』

 

 

 

 たった一つの、その選択を。……だがその選択はラグナにとっては尋常ではないものだった。あまりにもあり得ない、論外なものだった。

 

 それを選んで取ることなど以ての外。そうしたが最後、恐らくきっと、自分は──────────けれど、しかし。

 

 ──今の俺にできること……今の俺にでも、できること。それがそうだってんなら、俺は。俺は…………。

 

 ラグナはもう、手を伸ばさずにはいられないでいた。たとえそれがボロボロの板切れだとしても、板切れには違いないのだし。それを手に取れば、自分はもうこれ以上後悔と絶望の海へ沈んでいくこともないのだから。

 

 そうして行き着いた先が。そうまでして辿り着いた先が。その末路が、これだ。

 

「……あ、れ?」

 

 ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。世界最強と謳われる『三極』の一人。《SS》冒険者(ランカー)の『炎鬼神』。それがラグナ=アルティ=ブレイズ。そしてそれは自分。疑いなく、紛れもなく。正真正銘、この自分(ラグナ)のこと。男である、自分。

 

 その思い自体は今でも変わらない。そうで在りたいと、そう在らなくてはと。今もなお、未だにそうラグナは思っている。

 

 苦渋の選択だった。望まない選択だった。こうするしか他になかったから、こうした────はずだった。

 

「……女の服、着てんのに。女の格好なんか、してんのに」

 

 だというのに、どうして。どうして『大翼の不死鳥(フェニシオン)』受付嬢の制服を着て。あれ程激しく忌避し拒んでいた女の装いとなって。なのに、どうして。

 

 姿見の前に立っている自分は。この、自分(おんな)は。

 

「何で俺、こんな……?」

 

 コンコン──と、その時。不意に更衣室の扉が軽く叩かれ、その音が部屋に響き渡った。そしてすぐさま扉越しに声がかけられる。

 

「ラグナー?着替えられたかしらー?」

 

「……ぉ、おう!き、着替えられた!ちゃんと俺一人でも着替えられたぞ!」

 

 不意に扉を叩かれ。不意に声をかけられ。思わず声を上擦らせそうになりながらも、ラグナはなんとか平常を装って返事をする。その声の主────こちらの様子を見に来たのであろう、メルネに対して。

 

「そう?なら良かったわ。じゃあ私も中に入らせてもらうわね」

 

「えっ……あ、ああ!入って来ても大丈夫だぞ全然!」

 

 そうしてゆっくりと、静かに。更衣室の扉が開かれて、その言葉通り部屋の中へとメルネが進み入る。ラグナの前に現れた彼女は、何故かその手に帽子を持っていた。

 

「……あら。あらあら、まあまあ」

 

 と、更衣室の中に入ってすぐラグナのことを見やったメルネが感嘆の声を漏らす。そんな彼女に対しておどおどとおっかなびっくりにラグナが訊ねる。

 

「ど、どうだ?俺、どっか変じゃない……か?」

 

「いえ変も何も……可愛い!可愛いわぁラグナっ!凄く似合ってるっ!」

 

 ラグナの問いかけに、メルネは瞳を輝かせてそう答えた。

 

 ──……可愛い、似合ってる……か。

 

 しかし彼女のその答えはラグナにとっては喜ばしくもなければ嬉しくもない、複雑めいたもので。そしてそのことにすぐさま気づいたのだろうメルネが、ハッとした様子で慌てて言う。

 

「ご、ごめんなさいラグナ。こんなこと言われても、あなたはちっとも嬉しくないし、喜ばないわよね。私、無神経だったわ……」

 

「別に気にすることねえよ俺は平気だから、さ。んなことよりも……どうしたんだ、それ?」

 

「え?……ああ、この帽子?これはね、あなたへ渡そうと持ってきたのよ」

 

「は?俺に?何でだ?」

 

 メルネからの謝罪を受け止めつつ、ラグナは今彼女がその手に持つ帽子について訊ね。メルネはそう言って、困惑するラグナにその帽子を差し出す。

 

「そう髪が長いと、仕事の邪魔になるかもしれないから。この帽子を被って、ある程度中に入れたら邪魔にならないと思うわ」

 

 どうやらその帽子はメルネの親切心だったようだ。

 

「あー……確かに、な。そういうことならわかった。あんがと、メルネ」

 

「どういたしまして。それじゃあ私は戻るから、準備が終わったら受付まで来て頂戴ね」

 

「おう」

 

 そうしてラグナとメルネの会話は終わり。更衣室から立ち去ろうと踵を返した、メルネの背中を見つめ。僅かに躊躇いながらも、ラグナは焦った声音を喉奥から飛び出させた。

 

「メ、メルネ!」

 

 ラグナに呼び止められたメルネがその場で立ち止まり、ゆっくりと振り返る。その顔に驚愕の色が見え隠れする、意外そうな表情を浮かばせて。

 

「どうしたの、ラグナ?」

 

「いや、その、えっと……」

 

 いざ呼び止めたはいいものの、ラグナは吃ってしまう。果たして、これをメルネに訊いてもいいのかと。自分はそうしてもいいのだろうかと。

 

 現実の時間にしてみればほんの数秒────だがラグナにとっては永遠とも思える迷いの最中。黙ってこちらのことを待ってくれているメルネに、ラグナは意を決して遂に訊いた。

 

「俺今どんな顔してんだ?ふ、普通か?」

 

「……え?え、ええ。私にはいつもと変わらないように見えるけど……」

 

 メルネの言葉を聞いて、ラグナは思わずホッと胸を撫で下ろす。それから別に大したことではないとでも言うように、依然困惑する彼女に言葉を返す。

 

「そ、そっか。なら大丈夫だ。急に呼び止めてこんなこと訊いて悪かったな」

 

「そうなの?まあ、ラグナがいいのなら私は構わないけれど……本当に大丈夫なのよね?」

 

「ああ。大丈夫。……本当にもう、大丈夫だから」

 

「…………」

 

 恐らくその長い沈黙には、メルネにも何かしら思うところがあった表れだったに違いない。しかし、それ以上彼女がラグナに言及することはなく。かと言って苦言を呈することもなく。その時彼女は────ただ、微笑んだ。

 

「わかったわ」

 

 そうとだけ言い残して、メルネは更衣室を立ち去った。ラグナも今度は呼び止めなかった。

 

 また独りとなったラグナが、静かに呟く。

 

「じゃあ、やっぱり気の所為だ。さっきは俺の見間違いだったんだ」

 

 そう呟いて、メルネから渡された帽子を握り締めながら。ラグナは先程の光景を頭の隅へと追いやる。

 

 先程の光景──────────姿見に映ったあの自分(おんな)の、()()()()()()()()()を。



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ただのラグナ

「ということで、今日から『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢が一人増えるわ」

 

『大翼の不死鳥』の受付嬢たちが主に利用する休憩室にて、三人の受付嬢を集めたメルネは彼女らにそう告げた。それに続くようにして、メルネの隣に立つラグナが小さく頭を下げ、それから少しだけ怯えが混じった気まずさを漂わせながら、その口を開かせる。

 

「今日から一緒に、ここの受付嬢として働かせてもらうことになった、じゃあなくて。な、なりました。ラグナだ……です。その、えっと……よろしく、お願いします」

 

 とまあ、誰がどう聞いても、普段から使うことがないのだろうと。否応にもそれが明白に伝わる、不慣れな敬語でのラグナの自己紹介。初々しくたどたどしいそれを受けた三人の受付嬢たちは、皆困惑したようにそれぞれの視線を交わした。

 

 この場面、私たちは一体どういった反応を返すのが正解なのだろうか────という、彼女たちの心の声が聞こえてきそうである。

 

 ──まあ、そりゃそうだよな。

 

 あくまでも顔には出さないよう、そう思いながら心の中で嘆息混じりに呟くラグナ。実のところ、ラグナ自身こうなるのではないかと薄々不安には思っていた。

 

 嘗ての面影などまるでない。しかし、だからとて過去は変わらないし、事実が覆ることなどあり得ない。そう、今の自分はこんな有り様であるが────世界最強の一人だった。『炎鬼神』の通り名を持つ、冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属する《SS》冒険者(ランカー)だったのだ。

 

 無論、その過去と事実はこの三人の受付嬢たちも知っている。知っているからこその、この様子なのだろう。

 

 世界最強の一人だったはずの、『炎鬼神』の通り名を持つ《SS》冒険者だったはずの者が。ある日突然、いきなり自分が所属する冒険者組合の受付嬢になって働くというのだから。そんなの質の悪い冗談か何かとしか思えないだろう。というか、そう思われるのが当然で、そう思われても仕方のないことなのだ。

 

 如何ともし難いこの気まずさの最中、居たたまれない気分に陥ったラグナが辛抱堪らないでいると。場の雰囲気を見兼ねたのか、困惑の所為で口を開けず未だ一言どころか一声すらも出せないでいる受付嬢たちへ、メルネがこう言った。

 

「貴女たちにも色々と思うところがあるのはわかるわ。けど、それでも認めてほしいの。何も言わずに、今だけはラグナのことをどうか受け入れてほしいのよ」

 

 それはメルネの誠実さがこれでもかと伝わる懇願。しかし、それでも受付嬢たちが返すのは困惑故の沈黙で。だが、数秒の間を置いて。

 

「ま、間違いないですよね?その女の子……い、いえその方があの、あのブレイズさんなのは。世界最強の《SS》冒険者(ランカー)の一人で、『炎鬼神』と畏れられていたあの、ラグナ=アルティ=ブレイズさんということは……間違いないんですよね?」

 

 ようやっと、一人が今まで閉ざしていたその口を開き、そう言った。まさにおっかなびっくりと表するに相応しい言葉と態度だった。

 

 果たして、それを喉奥から絞り出し、そうして口から吐き出すことに。この受付嬢は一体どれだけの葛藤と躊躇を必要としたのだろうか。ラグナはそれが気になり、そして申し訳ないと思う。

 

 メルネはというと、ほんの少しだけ迷ったものの、まるで意を決するが如くその口を開かせ答える────その直前。

 

「ああ、そうだ」

 

 当人たるラグナが、それを遮った。その問いかけを発した受付嬢の言葉を、ラグナは堂々と肯定してみせた。

 

「さっきも言った通り、俺はラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズだ。……でも、()()()ラグナだ」

 

 ラグナの言葉が部屋に響く。受付嬢たちも、メルネも。その全員が口を閉じ、何も言えないでいる最中。そんなラグナの言葉だけが、淡々と静かに響き渡っている。

 

「世界最強でもないし、『炎鬼神』でもないし……もう《SS》冒険者でもない。見ての通り、今の俺は非力で無力で弱い、ただのラグナなんだ」

 

 伝わる。痞えないように懸命に。必死になって、その言葉一つ一つを今ラグナは紡いでいるのだと。これでもかと四人には伝わる。

 

「俺のこと、お前たちが気に入らないってのはわかってる。嫌がってるのも理解してる。当然だよな、いきなりだもんな。俺、元は男だもんな。……でもさ、それでもさ。働かせて、ほしいんだ」

 

 故に、口を開けない。挟めない。止めることなど、できない。彼女らはただ黙って、ラグナの言葉を聞くことしかできない。

 

「こんな俺にでもできることがしたいだけなんだ。ただのラグナにでも、できることがしたいだけなんだ。だから、だから……」

 

 四人が見守る中、ラグナは言葉を続けた。

 

「お願いします。俺を『大翼の不死鳥(フェニシオン)』で働かせてください。一緒に働かせてください」

 

 

 

 そしてラグナは三人の受付嬢たちに────────頭を下げた。

 

 

 

 ──……駄目、か。

 

 頭を下げたまま、ラグナは苦い表情を浮かべる。自分は言った。自分は吐いた。隠すことなく、誤魔化すことなく。できるだけ正直に、そして誠実に。今の今まで心の奥に押し込んでいた劣等感塗れの本音をありのままに吐き出した。

 

 けれど、そうしても。それが人に届くことはなかったようだった。その証拠に受付嬢たちからは────────

 

 

 

 

 

「そっ、そんなことないですよ!!」

 

 

 

 

 

 ────────気がついた時には、ラグナはもう顔を上げていた。

 

「そうですよブレイズさん!自分のことをそこまで卑下しないでください!」

 

「あなたは今でも『大翼の不死鳥』の《SS》冒険者(ランカー)!私たちが知っている、私たちの『炎鬼神』!ラグナ=アルティ=ブレイズさんなんですっ!」

 

 まるで今まで黙っていたのが嘘のようだった。感情が爆発でもしたかのように、閉じていたその口を開き、三人の受付嬢たちは慌てた様子で口々に、焦った風に次々とそう言う。

 

「え……」

 

 そんな彼女たちを前に、ラグナは思わず呆然としてしまった。

 

「じゃ、じゃあ何でずっと黙ってたんだ……?」

 

 ラグナとしては、その問いかけは純粋な疑問からのものだった。気に入らないから、受け入れ難いからだと。だから彼女たちは黙り込んでいたのだと、ラグナはそう思い込んでいたのだから。しかし、彼女ら曰く別にそういった訳ではないらしい。

 

「そ、それは……そのぉ」

 

 困惑の疑問符を浮かべるラグナへ、受付嬢はそんな風に濁した言葉を返す。それから助け舟でも求めるかのように、隣の二人の受付嬢らへ視線を流した。

 

「……」

 

「…………」

 

「………………えっ」

 

 結論から言うと助け舟が出されることはなかった。受付嬢が流した視線は、受け止められることなくそのまま向こうに流されたのである。

 

 予期せぬまさかの裏切りに、信じられないと堪らず声を漏らす受付嬢。そんな彼女を依然見つめるラグナ。そして部屋は再度沈黙と静寂に包まれた。

 

「ああ、あのぉ……えっと、えっと、ええぇっと……ですね?……は、あはは……はぁ」

 

 言うなれば、それはもうどうしようもないだと。諦めの境地に至り、悟った者の言動であった。今もこうしてラグナに見つめ続けられているその受付嬢は疲労困憊の様になって顔を俯かせたかと思うと。やがて小さな声で何かを呟く。

 

「…………す」

 

 だがそれは、本当に小さな声で。故にラグナはそれを聞き取れず。

 

「は?」

 

 と、ラグナが呟いたその瞬間。受付嬢が何やら息を深く吸い込んだかと思えば──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ブレイズさんがぁ!あまりにも、あんまりにも可愛過ぎたからですぅぅぅぅぅううううううッッッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────という、己の欲望(おもい)の丈を力のあらん限りこの場でぶち撒けた。




新年明けましておめでとうございます。現在遅筆気味の黒鍵です。今年もどうか著作をよろしくお願いします。

……どうにか年内には書いているこの一章を完結させたい。させたいなあ。


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シシリー=クレシェンの告白

 そう、それは正しく。非の打ち所がない程に。

 

「ブレイズさんがぁ!あまりにも、あんまりにも可愛過ぎたからですぅぅぅぅぅううううううッッッッッ!!!!」

 

 彼女の熱い欲望(おもい)だった。溢れ出して止まらない、情熱の欲望であった。

 

 恐らく、きっと。それを彼女は今の今まで抑え込んでいたのだろう。心の奥底に、隅に押しやり、押し留めていたのだろう。何故ならば、決して表に出してはいけない欲望だったのだから。

 

 だがしかし、そんな彼女のある意味健気とも言えるその努力が実ることはなく。逃げ場のない袋小路へ追い詰められ、縋った手を無情にも払われ。

 

 結果、どうしようもなくなり。もう自暴自棄になるしかないという諦観に囚われたその末に────シシリー=クレシェンは弾けた。

 

 どうしようもないのなら、自暴自棄(ヤケクソ)になるしか他に選択肢がないのであれば。せめて胸の内に秘めたこの熱き欲望、包み隠さず誤魔化さず、ありのまま。丸ごと全て、ありったけ解き放とうと。

 

 そう、シシリーは最期の覚悟を抱いて叫んだのである。

 

 シシリー渾身の、まさに命と魂を燃やした叫びが部屋に響き、空気を揺るがした、その直後。部屋の中はまた静寂で満たされたが、何故か今度のそれは重苦しい感じはないように思え、妙に変な爽快感を含んでいる。……ような、気がした。たぶん、恐らく。いやきっと。

 

 まあそんなことはさておくとして。そんな風に己が欲望を、あろうことかその当人に直接、しかもこんな場所でぶつけてしまったシシリーであったが。何故だろうか、彼女の顔に後悔の二文字はなく。どうしてか、何処かやり切ったような清々しい表情だけがそこにはあった。

 

 そしてシシリーの欲望(おもい)の丈を不意打ち気味に、予想だにしない形でぶつけられてしまったラグナはというと────

 

「…………は……?」

 

 ────ぽかん、と。見事なまでに呆気に取られていた。

 

「俺がかわ……え?は?」

 

 という、困惑の言葉をラグナは漏らさずにはいられず。そんなラグナに、まるで畳み掛けるように、矢継ぎ早にシシリーが言葉を続ける。

 

「あーあ言っちゃった!とうとう、とうとう遂に言っちゃった私!でもどうしてだろう不思議!凄いスッキリしたっていうか、一切の後悔もないんだけど!!」

 

 と、未だ呆然とし困惑の最中から抜け出せないラグナに告げるシシリー。今、彼女の顔は火照ったように赤みを帯びて上気しており、また爛々と妖しく輝くその瞳には、何処か危なげで狂気じみた情念の炎が宿り、煌々と燃えていた。

 

 このシシリーを見た誰もが皆、口を揃えてこう言うだろう────今、彼女は正気ではないと。そして次にこのような確信を得ることだろう。

 

 正気ではない彼女をこのまま放置しておけば、状況はさらに混乱の渦中に呑まれ、やがて混沌(カオス)の極みへ至るであろうと。

 

 そうなってしまえば、詰む。色々と詰んで終わる。だからそうなってしまう前にシシリーを止めなければ────ラグナを除いた、今この場に全員がその意思に突き動かされ、行動に移ろうとする。……しかし、惜しくもそれはあと一歩、遅かったのだ。

 

「こうなった以上、私もう何も怖くない。たとえ『大翼の不死鳥(フェニシオン)』をクビにされたとしても、後悔なんてしない!だから、ブレイズさん!この気持ち全部ぶつけます!!全部、どうか受け止めてくださいっ!!!」

 

 と、半ば熱狂的に息巻いたシシリーは。その言葉に対してのラグナからの返事も待たず、勢いそのままにすぐさまこのようなことを口走った。

 

 

 

「私っ!実は前々から、『大翼の不死鳥』で働く前からブレイズさんのファンでっ!そのまた実は、恐れ多くもっ……()()()()()()()()()()なって思っちゃってましたぁああああっ!きゃあぁあああああッ!!」

 

 

 

 ……今思えば、止めるべきタイミングはそこだったに違いない。もう既に若干、いやかなり手遅れであることは明白であったが、それでもラグナの為を思えば何がどうあってもそこで止めるべきだったのだ。

 

 だがしかし、悲しいかな。シシリーによるその告白(カミングアウト)がこの場に与えた衝撃は想像を遥かに絶する程甚大で。それ故に、メルネも同期たる二人の受付嬢たちも動けなかった。どうすることも、何もできないでしまっていた。

 

 恐れていた事態が起きた。混沌は生まれてしまった。後はもう────ただただ悪化するのみである。

 

「だってだってだって!!ブレイズさん超美人なんですもんそりゃあ女装の一つくらいしてもらいたくもなりますよ!てかさせたい!!!お淑やかで大人っぽいお姉様風に是非とも仕立て上げたいッ!!!!そして願わくば恥じらってほしい!『俺、男なのにこんな格好……くっ』って感じで実に恥じらってほしいぃぃぃいいいいッッッ!!!!!」

 

 シシリー劇場、開幕。

 

「そんなブレイズさんを一度でもいいから、私は眺めて尊びたかったんです……ただそれだけだったんですッ!でも、でもでもでも!!不幸なことにそれは決して叶うことのない願いへと果てました。そう、何故ならばブレイズさんが……女の子になっちゃったんですからぁあああっ!!」

 

 シシリー劇場は続く。この場にいる全員を彼方へ置き去りにして、まだまだ続く。

 

「当初、私は嘆きましたッ!悲しみましたッ!嗚呼、私の細やかなこの願いが、もはや天に届くことはないのだと。私は悲嘆し絶望してしまいましたッ!!」

 

 そう叫んだ、その瞬間。シシリーは拳を固く握り締め、わなわなと震わせる。

 

「……しかし、それは間違いでした。そう、この愚かな私の、大いなる間違いだったのです」

 

 と、何故か今になって落ち着いたように。静かに、ゆっくりと。神妙な面持ちで瞳を閉じながらそう曰うシシリー。果たして一体、彼女が言う間違いとは何なのか。というか最初から最後まで、全て何もかもが間違い以外の何物でもないではないのか────シシリーを除くこの場にいる全員がそう思わずにはいられない最中、彼女がこう続ける。

 

「確かに美丈夫ザ美丈夫のブレイズさんをおっとりほんわかお姉ちゃんにしたいという、私の願いは潰えました。…………ですがぁあッ!!!」

 

 瞬間、カッ!と。シシリーは閉じていた瞳を勢いよく、思い切り見開かせた。

 

「ぶっちゃけ!アリだと!いや全然、かなりアリ寄りのアリだなと!!だって、超絶☆美少女なんですもんっ!!!!」

 

 シシリーの瞳に宿る炎の勢いがグンと増す。この時、今度こそ彼女を止めねばならないと。これ以上彼女の口を開かさせてはならないと誰もが直感した、のだが。誰かが口を挟む余裕をシシリーが与えることはなく。

 

「まだ若干の少女らしい幼さを残しつつも女としての大人びた美貌の片鱗を感じさせる、顔立ち!開かれた薄赤唇(ルージュリップ)の僅かな隙間からチラリと垣間見える、八重歯!華奢な肩や細い腕や腰とは対照的に程良く健康的にムチってる、太腿(ふともも)!」

 

 シシリーの瞳にある炎へ、次々と薪が勝手に()べられていく。劣情一歩手前の情念という名の薪が。

 

「そしてこれらよりも、何よりも特筆すべきは…………低!身!!長!!!巨乳ぅううううッ!!!!低身長巨乳ぅううううううッッッ!!!!!!」

 

 ……世界には、『無敵の人』という言葉がある。無敵というのは文字通り向かう所敵なしで敵う相手などいないことを意味するが、ならばこの言葉の意味はというと。

 

「低い背丈に見合わぬその乳房(おっぱい)ッ!嗚呼、なんてアンバランスッ!そこから僅かに漏れ出る背徳感とえも言われぬ犯罪臭ッ!だが、それが良い。否!それで、良い!……イイんですッ!!」

 

 もはや捨てるものも失うものも、何もかもがなく。故に捨てる恐怖も失う恐怖もなく、どんなことであろうとやってのけられるし、行けるところまでとことん行ってしまえる者のことを指す。

 

「もうこれ性癖の宝庫ってレベルじゃあないですよ!?もはや武器庫です!これは性癖の武器庫ッ!!!」

 

 そして今のシシリー=クレシェンこそ、その『無敵の人』と表するに相応しいだろう。

 

「第一に、『大翼の不死鳥』(ウチ)の制服似合い過ぎですよブレイズさん!!何ですか、その帽子!?あざと可愛い!何ですか、その胸元!?ちょっと窮屈そう!何ですか、その太腿!?絶対領域が眩しい!結論…………超絶☆美少女なブレイズさん最高ぉぉぉおっ!うおおおおおおおッッッッ!!!!!」

 

 色々と吹っ切れて、吹っ切れてはいけないところまで吹っ切れてしまったシシリーは。喉が裂けるのではないかと思わず危惧する程声高々にそう叫び、無駄に部屋を震わしたその末に。

 

「っぜえ……ぜぇげっ、ゲホッ。ぜはっ、はあ……はぁ、は……っ。ふうぅ、すぅぅぅ……ふぅぅぅぅ……っはぁぁぁぁ」

 

 今すぐにでも胃の内容物を吐き散らしかねないまでに疲労し、顔を俯かせ、肩を何度も激しく思い切り上下させ。必死に荒い呼吸を幾度も繰り返した後に、深呼吸へ移り。そうしてようやっと、俯かせていた顔を再度上げ。

 

「…………大っ満足♡」

 

 と、彼女は勝手に満足して止まった。いつ終わるかもわからず、誰にも止められず、果てしなく続いた彼女の暴走は。他の誰でもない彼女自身によって、ようやっと止まったのだった。

 

 それは数秒のことだったのかもしれないし、もしくは数分だったかもしれない。今この部屋にいる誰もが口を開けず、皆慄いているかのように閉ざし沈黙する最中。

 

「ど、どうですか?ブレイズさん、私の気持ち……私のこの想い、きちんと全部あなたに届きましたか……?」

 

 汗塗れのまま、まるで十数年心の奥底にひた隠し、己以外の誰にも悟られぬようずっと押し留め、秘めさせていた恋心を解放させた。とても健気で真摯な乙女の表情を浮かべて。恐る恐るシシリーは訊ねる。

 

「…………」

 

 そんなシシリーの言葉に対して、ラグナは────────

 

 

 

 

 

「……さっきからずっと、何言ってんだお前……?」

 

 

 

 

 

 ────────呆然自失だったその顔を青褪めさせ、心底怯えた声音で訊ね返すのだった。




たぶん、今回が一章最大にして最後のギャグ回


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無茶振り

 しかし、まあ。そうなって当然というか、そうなるのが必然というか。寧ろそうなる他にないのではなかろうか。

 

「ど、どうですか?ブレイズさん、私の気持ち……私のこの想い、きちんと全部あなたに届きましたか……?」

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』受付嬢が一人、シシリー=クレシェン。彼女は今し方、その胸の奥底、隅の方に。今の今まで押しやり、押し留め、そして押し秘めていたラグナに対する熱い────そう、とてもではないが一言では説明し切れぬ、色んな意味で熱く複雑怪奇な想いを。まるで遥か天高く聳え立つ崖の上から、その身を投げ出すが如き覚悟と決意────念の為、彼女の為に補足するが自棄っぱちになってその場の勢いとノリによるものではない────の下に、シシリーは告白(カミングアウト)した。他の誰でもない、その当人たるラグナに。

 

 ……まあそんな。ある意味一途で真摯な、一世一代とも辛うじて、奇跡的に捉えられるであろうシシリーの告白を。不幸にも、不憫にも受けてしまったラグナの反応だが。

 

 

 

 嫌悪、忌避、そして恐怖────そういった様々な感情が入り混じって乱れる、一言などでは到底言い表すことができない血の気の引いた青褪めたその表情。

 

 まるで意味のわからない存在(モノ)、自分には到底理解し得ない存在、己が見知るこの世のどの存在よりも恐ろしく、ずっと恐ろしく、ただただ怖い存在を目の当たりにしてしまったかのようなその瞳。

 

 僅かばかりに震えてしまっている、引き攣ったその口元。

 

 

 

 そう、誰の目から見ても。今のラグナは────

 

「……さっきからずっと、何言ってんだお前……?」

 

 ────シシリーに対し、これ以上にない程にドン引いていた。

 

「え、ええッ!?そんなっ、私何故かこれ以上にない程にドン引かれてるッ!?な、何でっ……?一体、どうして……っ?」

 

 残念だが当然。こうなって然るべき事態。……のはずなのだが。恐らく自分が思っていたのと百八十、否もはや二周して五百四十度違う態度と反応を取られ、焦燥感をだだ垂れ流しながら、シシリーは驚愕を禁じ得ないでいる。

 

「わ、私何か言っちゃってましたかブレイズさんが怖がるようなこと?ちち、違うんです違うんですよ?ブレイズさん?私は別に、ただブレイズさんの為を思って、ブレイズさんの為と思って────

 

 スパァンッ──まさにその瞬間のことだった。恐らく迫り来る焦燥とそれに伴う動揺から、もはや何が言いたいのか、何を主張したいのか全くもってわからない言い分を口走り始めたシシリーの頭を。彼女の左右に立つ二人の受付嬢が、全く同時に叩いたのだった。それも割と容赦なく。

 

 ────あ痛ったぁあッ?!」

 

 無防備(ノーガード)な頭を思い切り、それも不意に叩かれ、思わず悲鳴を上げるシシリー。そして彼女はすぐさま、抗議の声を慌ただしく上げた。

 

「ちょっとぉ!いきなり何するのぉ!?」

 

 が、そんなシシリーの講義の声に対して返ってきたのは────

 

「それはこっちの台詞だわっ!!!」

 

「シシリー、アンタ何考えてんの!?馬鹿なの!?死ぬのッ!?」

 

 ────二人の受付嬢たちによる非難囂囂(ごうごう)の言葉であった。そして受付嬢らのそれは止まらず、勢いそのままにシシリーへ遠慮なくぶつけられる。

 

「シシリーッ!いくらどうしようもなかったからって、もっと、こう!他にやれることあったでしょ?他にもっとマシな奴あったんじゃあないの?なにもあんな暴走することなかったんじゃない、のっ!?」

 

「は、はあッ!?何、何なのその言い分ッ!私はただ己の胸の内に秘めていた、ブレイズさんへの想いを打ち明けただけだよっ!?」

 

「アンタのさっきのはただのろくでもない告白(カミングアウト)だわそんな高尚で純真無垢(ピュアピュア)な代物なんかじゃねーんだわ決して!」

 

「え、ええええ!?ろ、ろくでもないってどういうこと!?酷いよ、クーリネア!フィルエット!」

 

「「アンタが一番酷いッ!!!!」」

 

 ……ぎゃいぎゃい、と。ラグナとメルネの前にも関わらず、各々の言い争いを勝手に白熱させ、身勝手にも続ける三人の受付嬢たち。そんな彼女たちを眺めながら、メルネは心の中でポツリと呟く。

 

 ──私はさっきから、一体何を見せられているのかしら……。

 

 顳顬(こめかみ)を鋭く突き刺す頭痛に辟易としながら、メルネは咳払いを一つする。瞬間、ハッとした様子で。未だ酷い酷いと不平不満をこれでも詰め込んだ文句を垂れ流すシシリーを除く、二人の受付嬢は我に返り。

 

「も、申し訳ありません!本当に、誠に申し訳ありませんでしたラグナ=アルティ=ブレイズ様ぁッ!!」

 

「私共の同期がこのような粗相を、とんでもない過ちをぉ!!」

 

 と、今すぐに自害でもしかねない勢いで謝罪し始めた。

 

「…………えっ。あ、いや……」

 

 誰も予想だにしていなかったシシリーの狂行により、ひしひしとした恐怖感を否応にも抱かされ。怯えながら目の前の現実から意識を遠去けようとしていたラグナだったが。そんな二人の受付嬢による凄まじく猛烈な謝罪が、ラグナの意識を現実へと引き戻す。

 

「重々、これが決して許されることはない蛮行であることは私共も重々承知しております……ですが、ですがどうか!御慈悲をっ!シシリー=クレシェンに寛大な御慈悲をォォォオオオッ!!」

 

「じ、慈悲?」

 

「この子はこれでも良い子なんです!頭がちょっと、アレなだけで!ブレイズ様への憧れが過ぎてるだけで!あんなでも、根は良い子なんです!!」

 

「ちょ、まっ」

 

 二人の受付嬢────クーリネア=アヴァランとフィルエット=パマヌアスの謝罪の勢いに、ラグナは完全に追いつけていない。しかし二人はそれでも構わず、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』クビにされるだけでは済まされない過ちをしでかした同期をどうにか、なんとか救おうとラグナに謝り倒す。

 

「すみませんブレイズ様!」

 

「申し訳ありませんブレイズ様!」

 

「「本当にすみません!!本当に申し訳ありません!!」」

 

 恐らく、いや絶対。二人のこの謝罪は、ラグナがシシリーに対して赦しを出すまで止まらない────そのことを遅ればせながら理解したラグナは、無理矢理に口を挟んだ。

 

「わ、わかったわかったって!もういい!いいから!だからその、一旦黙ってくれ!」

 

 慌てたラグナの言葉に、クーリネアとフィルエットの二人は即座に口を閉じる。一瞬の静寂が流れた後、半ば呆れた様子でラグナは嘆息し、続けた。

 

「さっきから寛大とか慈悲とか……お前らは悪魔だとでも思ってんのか、俺のこと」

 

 と、ラグナが少々心外そうな態度で訊くと。クーリネアとフィルエットは申し訳なさそうに共に目を伏せ、そしておっかなびっくりに答える。

 

「い、いえ滅相もありません。そのようなことは決して。……ですが、シシリーのしたことを思えば」

 

「正直、殺されても文句は言えないですし……」

 

 二人の答えを受けて、ラグナは複雑そうな表情を浮かべる。

 

 ──……あー…………うん。

 

 まあ、確かに。本音を言ってしまえば多少の精神的なショックは受けていて、それは未だに抜け切っていない。だが無論、だからといって殺したい程までの怒りなど感じてはいない。というか、寧ろ────()()()()()()

 

 少しだけ迷いながらも、もう一度小さく嘆息して。それからラグナは口を開いた。

 

「シシリー=クレシェン……だよな?名前」

 

 二人の同期に庇われ、擁護され。ままならないこの気まずさの最中、ばつが悪く後ろめたそうな表情で。さながら審判を受けている被告の如く、その場に突っ立つシシリーに顔を向けて。

 

「っえ?あ、はは、はいッ!そうです!私はシシリー=クレシェンですッ!」

 

 突然ラグナに名前を呼ばれたシシリーは、狼狽えながらもラグナの言葉を肯定する。時間が経ち、だいぶ間が過ぎたことで。あの常軌を逸した興奮が冷めに冷め切り、遅れて自分がしでかした事の重大さを理解し、そして自覚したのだろう。さっきまでの無敵ぶりがまるで嘘だったかのように。今、彼女はラグナに対して完全に怯え竦んでしまっていた。

 

 そんなシシリーを見やって、ラグナは心の中で堪らず呟く。

 

 ──俺が悪い訳じゃないよな……?なのに、何で俺が悪いことしたみたいな感じになってんだ……?

 

 己の胸の内に徐々に広がりつつある、謎の罪悪感。ラグナがそれを感じる必要性は全くの皆無なのだが、ラグナの性分というか生まれ持っての心根というか。ともかく、そういったものの所為で感じてしまうのである。

 

 得も言われぬ居心地の悪さの最中、それでもラグナは口を開き、依然ビクビクとこちらのことを恐れるシシリーに訊ねた。

 

「まあ、とりあえずさ……別にお前は俺のこと気に入らないとか、認めたくねえとか。そういう訳じゃないんだよな?」

 

「そそそそ、そぅです!勿論、当然!ブレイズさ……様!をみみみ、認めないだなんてっ、そんな恐れ多過ぎる大それた愚行、この私めにできようありません!できっこありませんッ!!!」

 

「…………」

 

 つい先程までのシシリーの行いの全てを鮮明に、こと細やかに思い出しながら。どの口が言ってんだ、とラグナは彼女に言いそうになるのを堪え、それを飲み込んだ。そして至極平静な風を装って、彼女に言い聞かせる。

 

「落ち着けよ、シシリー。俺は怒ってねえから」

 

「すみませんすみませんすみませんすみませんでしたぁぁぁぁ……って、え?お、怒ってないんですか……?」

 

「ああ。怒ってない」

 

「え?ええええ!?ほほほ本当ですかそうなん「まあだからって平気な訳でもねえけどな」…………それは、その……本当にすみませんでした……」

 

 都度、その態度を一喜一憂に目まぐるしく変化させるシシリー。そんな彼女のことをラグナは仕方なさそうに、目を逸らし細めて、閉じた。そうして、まるで観念したかのようにポツリと────

 

 

 

「だったら、いい」

 

 

 

 ────そう、小さく。頬に僅かばかりの朱を差して、ラグナは呟くのだった。

 

 一瞬の静寂がラグナとシシリーの間を横切って。

 

「……ふへ?」

 

 数秒後、ようやっと呆然とした表情を浮かべ、とてもではないが信じられないように。シシリーがそのような、素っ頓狂な声を漏らすと。ラグナは閉じていた瞳を思い切り見開かせ、まるで場の雰囲気を誤魔化すように叫ぶ。

 

「だ,だから別にいいって俺は言ってんの!もう二度は言わねえっ!……から、な……」

 

 だが言葉に勢いがあったのは最初だけで、最後の方は尻窄みになって消え入りそうな声になって、ラグナは恥ずかしそうに言い終えた。その顔もまた、先程は頬に僅かな朱が差す程度だったが。それも今やまるで燃えているかのように真っ赤に染め上がっていた。

 

 遅れて、辿々しい口調で。躊躇いを見せつつも、シシリーが恐る恐るラグナにこう訊ねる。

 

「ぶぶ、ブレイズ様……ぇぇえええっと、そ、そそその御言葉はゆる、赦し……である、と……私は解釈しても…………よろしい、のですか……?」

 

 シシリーの問いかけに対して、ラグナは依然赤い顔のまま。ぎこちなく、ゆっくりと。さっき言った通り何も言わずに小さく頷くだけで。しかしそれだけの動作でも己の意はシシリーに伝わったようで。

 

「ほっ……本当ですかぁぁぁああああ……ッ。ぅはあぁぁぁぁぁ…………」

 

 そのシシリーの一言は極限の恐怖と緊張から解き放たれた安堵に満ちていて、そして肺にある空気全てを絞り出す勢いで凄まじいため息を吐きながら、彼女はその場に崩れるように座り込んだ。そんな彼女に、ラグナはふと思い出したように慌てて続ける。

 

「あ、でもさっきみたいなのは勘弁な。マジで」

 

「はぃぃぃぃ……以後気をつけます、ブレイズ様……」

 

「……それとな」

 

 ラグナの苦言に対して、即座に、そのように返事するシシリー。だがそれを聞いたラグナは複雑な表情を浮かべて、それからまるで特に大したことでもないかのように。それこそちょっとした雑用を任せるくらいの気軽さで。

 

「さん付けとか様付けとか、堅っ苦しいのは止してさ。俺のことは普通にラグナって呼んでくれ」

 

 胸を手で押さえ、まるで限界を超えて全力で運動した後のように肩を上下させるシシリーに頼んだのだった。

 

「了解です。承知しましたブレイ……って、ええええええ!?」

 

 不意打ちと言っても過言ではないラグナからのまさかの提案に、最初こそ平然と受け答えたシシリーだったが、数秒遅れて彼女は堪らず相手の耳を劈かんばかりの驚愕の声を上げる。そしてそれを近距離から、しかもいきなり聞かされたラグナも堪らず眉を顰めさせた。

 

「お前、色々と忙しい奴だな……俺、何か叫びたくなるようなこと今言ったか?」

 

 と、非難半分疑問半分の言葉をぶつけずにはいられないラグナへ、だがシシリーはさっきと全く同じ声量で言葉を返す。

 

「いいい、言いましたっ!仰られましたよっ!ぶ、ブレイズ様をし、下の御名前でっ!そのいと尊き過ぎる御尊名で、それも敬称も付けずによよよ呼ぶだっ、なんて!そんな、あまりにも末恐ろしい無礼な真似……このシシリー=クレシェンにはできませんよぉおおおおおッ!!」

 

「……えぇ……?」

 

 顔面蒼白で命を燃やさん勢いでそう叫ぶシシリーを目の当たりにして、ラグナはなんとも言えない微妙な表情になりながら、それと全く同じ感情が込められた呻き声を漏らす。

 

 

 

『ブレイズさんがぁ!あまりにも、あんまりにも可愛過ぎたからですぅぅぅぅぅううううううッッッッッ!!!!』

 

 

 

 その一言を始めに次々と、先程のシシリーの数々の行いがラグナの脳裏を過ぎる。そしてそれが終わった後、ラグナは心の中でこう呟かずにはいられなかった。

 

 ──もう今更じゃね……?

 

 或いは、故にだからこそなのだろうか。弾けて、先走って、暴走して。その全てが終わった後で自らの過ちを正しく理解し、そして受け入れた今だからこそ。それ程までにシシリーはラグナの提案を是としないのか。

 

 そこまで考え、半ば呆れて嘆息しながらも、未だできませんできませんと連呼するシシリーに。ラグナが仕方なく、草臥(くたび)れた声で言葉をかける────その直前のことだった。

 

 

 

「そっ……そうですよブレイズ様!」

 

「シシリーの言う通りですっ!」

 

 

 

 今の今まで、ラグナとシシリーの会話を黙って見守っていたクーリネアとフィルエットが。何故かここに来て、突如として二人の会話に割って入った。

 

「は?」

 

 予想だにしない出来事に、ラグナは目を丸くさせずにはいられない。そんなラグナへ、畳み掛けるようにして二人が続ける。

 

「流石にそれは……過ぎた温情ではないかとっ!」

 

「正直に言って……情状酌量の余地があり過ぎるのではないかとっ!」

 

「度を越した容赦なのではないかとっ!」

 

「身に余る慈悲なのではないかとっ!」

 

 言いながら、クーリネアとフィルエットの二人はラグナとの距離を詰め、ゆっくりと迫る。

 

「ちょ、ちょ……っ」

 

 ちなみに、今この場にいる全員の中で、一番背丈が低いのはラグナで。そんなラグナからすれば、じりじりと詰め寄る二人から発せられる迫力というか、圧迫感は相当なものだった。

 

 ダンッ──そして駄目押しとばかりにクーリネアとフィルエットの二人は一歩を強く踏み締め、息を揃えて力強く言う。

 

「「如何でしょうか、ブレイズ様ッ!!」」

 

 思いもしなかったまさかの横槍に対して、もはやラグナの状況把握と処理能力は限界に差し迫っており。しかしそれでもなんとか抗おうと、ラグナは反論に打って出る。

 

「待て待て待て!ちょっと落ち着けよお前らっ!さっきは許してやれだのなんだの言ってた癖に!」

 

「そっ……それは!そうなんですが!」

 

「それはそれ!これはこれというものですっ!」

 

「はあ!?なんじゃそりゃあ!?」

 

 やはり多勢に無勢。数の利を覆せず、クーリネアとフィルエットの二人にラグナは劣勢にならざるを得なく、そして二人の勢いを止められず押し切られてしまう────かに思えたその時だった。

 

 

 

 

 

 パンパン──不意に。唐突に手を叩く乾いた音が部屋を貫いて。それはラグナとクーリネアとフィルエット、そしてこの状況に追いつけず呆けた表情をしていたシシリーの全員が。ある一方に視線と意識を向けるのに充分だった。

 

 

 

 

 

「はいはい。自己紹介……というよりは話し合いかしら。とにかく、いい加減もう終わりにしましょ」

 

 一瞬にしてこの場の空気を一変させ、そしてまとめてみせた当人たるメルネ=クリスタはそう言って。自分の方に顔を向けた全員に対して、なんとも言えない苦笑いを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず三人に()()()()話をしてから自分も向かうと言い聞かせ、とりあえずラグナを独り先に受付(カウンター)へ向かわせ。ラグナがこの部屋から離れたことを確認した後、ゆっくりと扉を閉めながら。メルネは深く長く、嘆息した。それからまるで愚痴でも零すかのようにこう呟く。

 

「全く……茶番も茶番、とんでもない茶番劇だったわね。ラグナには大変な迷惑かけちゃった」

 

 それからメルネは背後を、正確には自分の背後に並んで立つ三人の受付嬢たち────シシリー=クレシェン、クーリネア=アヴァラン、フィルエット=パマヌアスの方へと振り返る。

 

「さて、と……まあ色々と言いたいことはあるけれど、これだけは先に言わせてもらおうかしら」

 

 固く張り詰めた緊張の表情を浮かべる三人に、真剣な顔でメルネはそう言って────直後、()()()()

 

「三人とも、私のこんな無茶振りに応えくれて本当にありがとう」

 

 そして、メルネは三人にそう礼を告げるのであった。



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NOT FAKE

 それはまだラグナが案内された更衣室にて、この『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢の制服に着替えている時のこと。ラグナを案内し終えたメルネは、真っ先に休憩室へと向かって。

 

「おはよう。クーリネア、フィルエット、シシリー。急な、それもこんな早朝からの呼び出しに応じてくれたこと、感謝するわ」

 

 と、自らの指示により休憩室にて待機していた三人の女性────『大翼の不死鳥』の受付嬢として働いている彼女たち、クーリネア=アヴァランとフィルエット=パマヌアスとシシリー=クレシェンらに。部屋に入って早々、メルネは挨拶と感謝の意を述べた。

 

「おはようございますメルネさん。そしてどうか気にしないでください」

 

「私たちはこの冒険者組合(ギルド)の受付嬢として働かせてもらっている身」

 

「なればこそ、その組合の代表受付嬢であるメルネさんの御言葉に私たちが従うのは、至極当然のことなのですから」

 

 と、三人それぞれの言葉を聞いて。メルネは自分でも気づかない内に固くなっていた表情を和らげた。

 

「ありがとう……そう言ってくれると幾分私の気も軽くなるわ。……じゃあ貴女たちにお願いするわ」

 

 ゴクリ、と。クーリネアとフィルエットとシシリーの三人は生唾を飲み込まずにはいられない。果たして、これから一体自分たちはメルネから何をお願いされるのだろうか────三人が緊張感に包み込まれる最中、メルネは少し間を置いてから、こう続けた。

 

「さっき言った通り、今日から『大翼の不死鳥』(ここ)の受付嬢としてラグナが働くことになった訳だけど。私、これから迎えに行ってこの部屋に連れて戻るから」

 

「はい」

 

「それでラグナには貴女たちに対して、改めて自己紹介させようと思ってるんだけど……きっと何もかもが初めてのことだから凄い緊張してると思うのよね」

 

「御(もっと)もです」

 

「そこで貴女たち三人にはそんなラグナの緊張を解せるような、素敵な自己紹介をお願いしたいわ」

 

「なるほど。ブレイズさ……様の緊張を解す為の素敵な自己紹介を私たちに」

 

 メルネの言葉に三人は各々相槌を打ち、そして最後に全員は頷いて、声を揃えてメルネにこう言った。

 

「「「了解ですっ!」」」

 

 三人の受付嬢の元気ある快い返事を受けて、メルネは嬉しそうにその顔を綻ばせた。

 

「じゃあ早速、私はラグナを迎えに行くわ。どんな風に素敵にするかは貴女たちに任せるから、どうかよろしくするわね?」

 

 と言って、メルネは三人に背を向け扉を開き、部屋から一旦立ち去り。数秒が過ぎた後に、無言のまま黙っていたクーリネアが不意にその口を開かせる。

 

 

 

「フィルエット、シシリー。さあ、やるわ「どうすんの」…………」

 

 

 

 確固たる決意と覚悟を以て、まさに真剣そのものというべき表情で。受付嬢の同期にして同僚たるフィルエットとシシリーの二人に声をかけるクーリネアだったが、そんな彼女の言葉をフィルエットは素早く遮る。

 

 フィルエットに言葉を遮られ、一旦は黙らざるを得なくなるクーリネア。黙ってそれから数秒後、突如として訪れた三人の間の静寂を切り裂くように。再度、彼女はその口を開かせた。

 

「いやどうするもなにも……正直、無茶振りが過ぎない?」

 

 と、二人にそう問いかけたクーリネアの表情は、先程とはまるで違っており。その表情から決意と覚悟は何処かへ消え失せ、ただひたすらに困惑と狼狽が色濃く浮き出ていた。その問いかけに対して、真っ先にフィルエットが返事をする。

 

「うんうん。私はそう思う。誰だってそー思うに決まってるよ」

 

「ま、まあそうよね。誰だってそう思うわよね……で、でも

 !メルネさんよ?我らが代表受付嬢のメルネさんからのお願いよ?そんなの……断れる訳ないじゃあないの無理って!?」

 

「いやまあ、確かにそうだけどさ……」

 

 もはや取り繕うことを止め、困惑を絶望に、狼狽を諦観へと上塗った表情で己の胸の内に秘めていた本音を白状するクーリネア。そんな彼女の肩を、フィルエットは何も言わず黙ったまま手を置いた。

 

 依然同じ表情のまま、クーリネアが本音をさらにこの場にぶち撒ける。

 

「第一、緊張を解せるような素敵な自己紹介って何?一体何なの?わ、私たちだって緊張してるのに死ぬ程。なのに、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の絶対的エース、不動のNo. 1(ナンバーワン)にして冒険者組合総本山『世界冒険者組合(ギルド)』から『炎鬼神』の異名を与えられた世界最強の《SS》冒険者(ランカー)の一人であるあの御方が……我らがラグナ=アルティ=ブレイズ様が。突然『大翼の不死鳥』の新人受付嬢として電撃デビューを果たし、急遽同僚として私たちと働くことになった…………え何それ夢?私今夢でも見てるのッ!?」

 

「落ち着きなよクーリネア。言ってること長いし。天変地異クラスの衝撃を受けてて、それで混乱して現実逃避したくなる気持ちは私にだってわかるけどさ。でもこれは夢なんかじゃなくてちゃんとした現実だから」

 

「わかんないわよそんなの!所謂明晰夢って可能性も否めないじゃない!」

 

「明晰夢……」

 

 自身が受け止められる容量(キャパシティ)を遥かに上回る、確かな現実を前に。クーリネアは今、フィルエットの指摘通り逃げていた。だがそれはあくまでも自己が崩壊してしまうのを防ぐ為の、謂わば彼女なりの防衛機制というやつで。そしてそれを他人が責める道理はなく、そのことをきちんと理解しているフィルエットが唯一できたことといえば、クーリネアの明晰夢発言を呆然と復唱することくらいであった。

 

 そんな彼女を他所に、クーリネアは慌てたように続ける。

 

「それに天変地異だなんて可愛らしいものじゃないわ……この衝撃は、そう!世界創生クラスよ!!だって、だって……ブレイズ様があんな超絶☆美少女になってしまわれたのだからッ!!」

 

「超絶☆美少女……」

 

「とにかく!もはや事態は手に余っているわ!嗚呼、自己紹介自己紹介……素敵な自己紹介って何なのよおおおお……っ!」

 

 と、何処か芝居じみた様子で、クーリネアは過剰なまでに嘆き床に崩れ落ちる。そんな彼女のことを、フィルエットはもう黙って見下ろすことしかできないでいた。

 

「待って」

 

 が、その時。不意に、今の今まで黙り込んで俯いていたシシリーが顔を上げ、口を開いた。彼女の声にクーリネアとフィルエットは反射的にそちらへ顔を向ける。

 

「私に良い考えがあるの。だから、任せて」

 

 そう二人に告げたシシリーの表情は、確かな自信に満ち溢れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なるほど、ね。そういう訳でああいう自己紹介……って表現するのに些か抵抗があるけど……まあこの際置いておくとして。ともかく、あんな感じになったのね」

 

「え、ええ……本当に申し訳ありません。もはや過ぎたことで手遅れであるということは重々承知していますが、せめてどんな風にするつもりなのか簡単にシシリーに訊ねるべきでした。配慮が足らないばかりに、こんな結果に……」

 

「こんなことが二度とないように、以後気をつけます……」

 

 頼んだ通り、とても素敵な自己紹介をしてもらって。結果はどうであれ、一応はラグナの緊張感を解すことには成功した──できればそう信じたい──ので、一先ずメルネは三人に礼を述べた。

 

 だがそれはそれ、これはこれということで。どうして、一体何を考えどういうつもりでこのような自己紹介をするに至ったのか、メルネは三人に説教もとい追及した。

 

 そしてメルネの詰問に対しての返答が、時間にしておよそ十数分前のやり取りのことであった。

 

「お見苦しい言い訳にはなりますが、まさかアレがシシリーの言う良い考えだったとはついぞ思いもしなかったので。本当に、誠に申し訳ありません……」

 

「……ま、まあそれについては私も同感よ。というか、誰だって思いもしないわよ。ええ」

 

 今すぐにでも断崖絶壁から身投げしそうな顔色でなおも謝罪を続けるクーリネアに、メルネはできるだけ優しく慰めの言葉をかける。

 

「それに無茶なお願い吹っ掛けた私も悪いし」

 

「い、いえとんでもない!とんでもありません!そんなことありませんよメルネさんっ!」

 

「はいっ!色々な出来事が起こり過ぎて精神的に不安定になっておられるブレイズ様を気遣うその姿勢、その配慮、その心配り……私共三人、心底感服致しました!」

 

「その通りです!メルネさんが謝ることなんて何もございませんっ!」

 

 その顔に憂いを帯びさせ、気落ちしたようにそう呟いたメルネに。三人は慌てて各々が思う支えになる言葉を、それぞれに紡ぐ。そんな彼女たちの言葉を受けてメルネは、一瞬だけ仕方なさそうに微笑んでみせた。

 

「貴女たちはそう言ってくれるのね。……でも、違うの。そういうのじゃ、ないの」

 

 メルネの表情から微笑みが消え去る。それの代わりに浮かび上がったのは────何かを嫌う、負の表情であった。

 

「私はね、貴女たちが思ってくれてるような、上等で立派な人間じゃない。ただ甘くて狡いだけの……そんな女よ」

 

 スッとその瞳を細めて、まるで零すように呟かれたメルネの言葉。それには他者に有無を言わせない、底冷えするかのような迫力が伴っていて。

 

 故にクーリネアも、フィルエットも、そしてシシリーですらも。三人の受付嬢たちは、何も言えずただ無言にならざるを得ないでいた。

 

 けれどそんな彼女たちをメルネは非難することなく。踵を返し、背を向ける。

 

「ラグナも待たせてることだし、私はそろそろ行くわね。あ、貴女たちは普段通りに働いてもらっても構わないから。だから今日も一日よろしくね」

 

 と、背を向けたまま三人に言って。メルネはこの部屋から立ち去る。

 

 開かれた扉が静かに閉められ、十数秒。

 

 

 

「「……はあぁぁぁぁ〜…………」」

 

 

 

 という実に陰鬱として重苦しいため息を、クーリネアとフィルエットの二人が大きく吐き出した。

 

「よ、良かった……無事、嵐は過ぎ去ったわ……」

 

「ええ、本当……一時期はどうなることかと。マジで終わったと思った……」

 

「全くよ……こんな神経擦り減らすの、二度とごめんよ……」

 

 心底、心の奥底から。精魂尽き果てた、疲労困憊の面持ちで。それと全く同じ感情がこれでもかと込められた呟きを漏らす二人。それからバッと全く同時に、自分たちがここまで神経を擦り減らす羽目になった元凶の方へと顔を向けた。

 

「ちょっとシシリー!?何が良い考えよ!アレのどこが一体良い考えなのっ!?」

 

「限度ってもんがあんでしょッ!!ホント、殺されるかと思ったわッ!」

 

 と、叫ばずにはいられないクーリネアとフィルエット。そんな二人とは対照的に、何故か不思議と余裕があるように感じられるシシリーが照れるように言葉を返す。

 

「いやあ……長年押し込み閉じ込めてたブレイズさんへの想いを合法的に噴かせられる良い機会だなって。正直」

 

 と、小さく舌を出しながら片目を瞑り。小悪魔めいた悪戯な笑みをバチンッと弾けさせるシシリー。

 

 そんな彼女を前にして、クーリネアとフィルエットが即座に取った行動は。

 

 

 

 

 

 スパァァンッ──二人全く同時に、シシリーの頭を引っ叩くことだった。



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甘くて、狡いだけの女

「ラグナも待たせてることだし、私はそろそろ行くわね。あ、貴女たちは普段通りに働いてもらっても構わないから。だから今日も一日よろしくね」

 

 という言葉を最後に三人へ送って。メルネは踵を返し、その背を向け、そしてすぐさまこの部屋を出て。ゆっくりと静かに扉を閉めるや否や、彼女は歩き出しその場から離れる。

 

 

 

『私はね、貴女たちが思ってくれてるような、上等で立派な人間じゃない。ただ甘くて狡いだけの……そんな女よ』

 

 

 

 それはつい今し方、三人の受付嬢らに対して告げた己の言葉。

 

「…………」

 

 だがメルネとしては、その言葉を彼女たちにかけるつもりはまるでなかった。何故ならばメルネ自身、その言葉を声にして口から出すつもりは毛頭なかったのだから。吐き出さず、喉奥に引っ込め、胸の内に閉じ込めるつもりでいたのだから。

 

 ……けれど、しかし。

 

 

 

『はいっ!色々な出来事が起こり過ぎて精神的に不安定になっておられるブレイズ様を気遣うその姿勢、その配慮、その心配り……私共三人、心底感服致しました!』

 

 

 

 その言葉に堪えられなかった。その眼差しが辛かった────だがメルネにとってそれは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……そのはずだった。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属《SS》冒険者(ランカー)────『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズの性別反転と極度の弱体化。それに伴う世界規模の動揺と混迷。

 

 特命依頼(クエスト)に出向いていた、親しく愛おしい者の計報。

 

 そして────────

 

 

 

『俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ』

 

 

 

 ────招かれざる、一人の来訪者。

 

「……ラグナもラグナだけど、私も私で相当弱ってるわね」

 

 と、誰かが決して聞き取れない声量で、息を殺すかの如く静かに。実に淡々と落ち着いた様子で素早く自己分析を済まし、メルネはそっと呟く。

 

 確かに、明らかに。明白なまでに、確かなまでに。今、自分は弱っていた。この短期間に連続で直面した非日常を前に、メルネは肉体的にも精神的にも、疲弊し衰弱していた。

 

 が、それでも。他人に悟らせまいとメルネは振る舞う。振る舞ってしまう。本当は頼りたいのに、誰かに縋りたいのに。それを心の奥に押し込んで、必死の押し殺して。そして堪える。ただひたすらに、メルネは堪える。

 

 それは何故か。答えは簡単で、そして単純(シンプル)

 

 尊敬に満ちた言葉。憧憬に焦がれる眼差し。キラキラ輝く、素敵で綺麗なもの。それを何の忌憚なく、躊躇われずに向けられて。

 

 それで平然としていられる。それを平気で受け止められる。正しく上等で立派な人間────それが他者の抱くメルネ=クリスタという人物像で。だからメルネもそれに応えた。応えて、応え続けた。

 

 ……けれど、しかし。その傍らで、メルネ当人はこう思っていた。()()()()()()、と。鬱屈としながらそう思っていた。

 

 

 

『ただ甘くて狡いだけの……そんな女よ』

 

 

 

 そうそれが、それこそが。本当のメルネ=クリスタ。彼女の事実────一切の虚偽のない、彼女の真実。

 

 だがそれを知る者は殆どいない。何故ならメルネが()()()()()()()。今の今まで、今この瞬間に至るまでずっと────隠し通してきたのだから。

 

 誰かにそうしろと言われた訳ではない。誰かにそうしてくれと頼まれた訳でもない。ただ、()()()()()()()()()()()。気がついた時にはもう既に、こうなっていた。故に、メルネは応えていた。

 

 年を経るごとに。歳を重ねるごとに。誤魔化し方が上達していくのを実感していた。嘘を吐くのにもだいぶ慣れた。

 

 …………だというのに、今回ばかりは無理だった。

 

「甘くて狡いだけ。甘くて、狡いだけの女……ええ、そうね。本当に、全くもってその通り」

 

 という、重苦しい自嘲に塗れた呟きを。メルネは弱々しげに力無く漏らす。

 

 いつからだっただろうか。いつの日から、自分は抱え込むようになってしまっていたのだろうか。

 

 燻り続ける怒り。罪悪感を伴って募る後悔。そういった様々な負の感情が、この狭い胸の中で大きく膨らんで、既のところで破裂せずに渦巻いている。

 

 そんな有様でさも平然と、何ら平気だと取り繕う。その苦しみを、辛さを。等しく理解できる者が果たして、一体何人この広い世界にいるのだろう。

 

 ──私は何もできない。どんなに些細なことでもいいのに……その些細な何かすら、私はあの子にしてあげられない……ッ。

 

 メルネは再度、改めて強く思う。自分は上等な人間ではない。誰かから尊敬を向けられ、憧憬を抱かれる程立派ではない。

 

 手を差し伸べたくても、差し伸べたその手が振り払われることを想像すると。それがどうにも怖くて、本当に恐ろしくて。だからといって黙って見ていられず。何もせずには、どうしてもいられず。

 

 それが為になることはないと。助けることには、救うことには決してならないと。間違っていると、頭で理解してわかっていても、自らそうしてしまう。だってそうして差し伸べた手ならば、振り払われることはないだろうことを確信しているから。

 

 ──ねえどうすればいいの?あの時、私は本当はどうすべきだったの?

 

 それは何度にも、幾度にも亘って繰り返し続けてきた自問。然れど、答えは出ない。メルネは答えを出せない。

 

 ──教えて……誰でもいいから、私に教えてよ……。

 

 仕方のない女だ。度し難い女だ。どうしようもない女だ────と、何処までも自らを卑下して。何処までも自らを嫌悪して。ひたすらに卑下し続け、ひたすらに嫌悪しながら。

 

 この際誰でも、誰だっていいからと。この上なく無様にみっともなく、答えを乞い求めながら。

 

 それでも、メルネは歩いた。独り、歩き続けた。

 

 

 

『流石はメルネさんですね!』

 

 

 

 尊敬。

 

 

 

『やっぱり凄えや、メルネの姐さんは』

 

 

 

 憧憬。

 

 

 

『私たちもメルネさんみたいな、非の打ち所がない立派な受付嬢目指して頑張りますっ』

 

 

 

 綺麗に。

 

 

 

隊長(リーダー)が夢中になっちまうのも、致し方なしってもんです』

 

 

 

 輝いて。

 

 

 

 

 

『俺な、たまに心の底から痛感しちまう時があんだよ。……お前に惚れて、良かったって』

 

 

 

 

 

「…………」

 

 綺麗に輝く尊敬と憧憬が目の前で螺旋を描く最中、廊下を歩いていたメルネであったが。ふと気がつけば、彼女はその場に立ち止まっていた。立ち止まって、呆然と天井を仰ぎ見ていた。

 

「……あぁ」

 

 数秒の沈黙を経て、病んだため息を吐き捨て、ポツリと呟く

 

「私、もうどうにかなっちゃいそう」

 

 そう呟いたメルネの瞳からは光が消え失せていて。何処までも昏く、果てしなく虚ろであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕に近づくなァッ!!」

 

 そしてすぐさま、そんな絶叫が広間(ホール)から響き渡って、今メルネが立ち尽くすこの廊下にまで届いた。



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向こうに立っていた者

 現時刻、ようやっと空は白んだが肝心の太陽は未だ昇り切らずにいる朝。

 

 集まった冒険者(ランカー)たちで賑わい、騒がしくなる『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ホール)も流石にこの時間帯では静まり返っており。静寂が広がり包むその最中、ラグナはただ独りその場に佇んでいた。

 

 ラグナ自身、誰もいないこの広間を目の当たりにするのは初めてのことで。普段であれば誰かしら一人は立っている受付台(カウンター)も、今はもぬけの殻である。

 

 そんながらんどうな空間を、ラグナはメルネを待っている間、こうして呆然と遠目から眺めていた。

 

 ──メルネ、まだかな……。

 

 時間にしてたったの数分。けれど手持ち無沙汰な今のラグナにとってそのたったの数分ですら長いように感じられて、実にもどかしい。

 

 メルネの到来を待ち望みながら、心の中でそう呟くラグナ。その時、ふと唐突に────

 

 

 

『おはようラグナ。今日はこんな依頼(クエスト)があるんだけど、どう?』

 

 

 

 ────そんな光景が、ラグナの脳裏に浮かび上がった。

 

 そう言って、相対するこちらに一枚の依頼書を見せるメルネ。想起される光景はまだ他にもあって、それは些細な日常会話から請け負った依頼の報告など。とにかく、様々なものが色々あった。

 

「……」

 

 メルネに待っていてくれと頼まれ、言われたその通りに広間で独り、特に何をするでなく無言で静かに待っているだけのラグナが。今、ようやっとその場から動き出す。

 

 恐らくきっと、それはただの気紛れだった。別にそうしたいという目的も、そうしなければという意思も。そんな高尚なものなどはない。ないままに、ラグナは歩く。

 

 慌てることなく、急ぐことなく。ゆっくりと、静かに。見つめるその先を目指して。

 

 良く言うなら落ち着いた、しかし悪く言えば遅い足取りで。けれどラグナがその場所に辿り着くのに、数分とかからなかった。

 

「…………」

 

 何も呟かず、微かな一声を発することもなく。つい先程までは遠目から眺めるだけだったその場所を────この冒険者組合(ギルド)の受付台を。今度はすぐ目の前にまで近づいて、ラグナは少しの間、黙ったまま見下ろして。ふとそれから、だらんと重力に任せて垂れさせていた腕を、軽く振り上げた。

 

 視界に映した受付台へ、ラグナがゆっくりと振り上げた腕を振り下ろす。まるでその感触を確かめるように、まずは手で触れ、次にラグナはぺたんと受付台に突かせていたその手を離す。が、指先までは離さない。

 

 ツツ──常日頃から布で拭かれ、磨かれそうして清潔に保たれている受付台を。割れ物でも扱うかのように丁寧に、慎重に指先でなぞりながら。再び、ラグナは動き出す。

 

 結論を先に述べてしまうと、ラグナは受付台から離れた訳ではない。ラグナが移動したのは────受付台の()()()()()

 

 内側。受付台の内側(そこ)に立つのは基本────組合の受付嬢ら。特に用もない限り、冒険者(ランカー)が立つことは決してない。冒険者が立つべき場所は、受付台の外側なのだから。

 

 そしてそれはラグナにも言えること。そう、《SS》冒険者の『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズが。受付台の内側に立つことなど、金輪際あり得ない。

 

 けれど、現に今。そのあり得ない事態が確かな現実の最中に起こっている。

 

 あのラグナ=アルティ=ブレイズが内側に立っている。冒険者としてではなく、受付嬢として。

 

 言うまでもなく、ラグナが受付台の内側に立ったのはこれが初めてのことで。またそこから眺める景色も、初めて目にするもので。

 

 別に内装が変わった訳ではない。置いてあるテーブルや椅子が変わった訳でもない。ただ眺める立ち位置を変えただけ────だと言うのに。

 

「……こんな感じ、なんだな」

 

 言葉では表せない、妙な新鮮味をラグナは味わっていた。

 

 今日これからやる仕事に関して、ラグナはまだメルネから詳しく説明されていない。とはいえ、見習いの新人受付嬢がやることなど、掃除に給仕に書類等の整理。それと各々の冒険者組合へ発行された依頼(クエスト)の把握、管理が関の山だろう。

 

 だがそれは最初の時だけで──そもそもどの程度の期間まで受付嬢として働くのか、ラグナはまだ特に決めていないが──仕事に手慣れ始めたら、自ずと次の段階へと進むだろう。

 

 そう、次の段階────受付台(カウンター)での仕事へ。

 

 ラグナが知るそれは、主に依頼の確認や受理、その完了報告。それくらいことだ。冒険者(ランカー)のラグナが知っている、受付台に立つ受付嬢の仕事はその程度だ。

 

 ……だが、それはあくまでも()()。それだけでないことも、ラグナは承知していた。

 

 時には熟練(ベテラン)冒険者との他愛のない世間話。時には新米(ルーキー)冒険者との相談事。

 

 そしていざ依頼へ出向く為に発つ冒険者たちの背中を見送り、組合に帰って来た彼らを笑顔で以て出迎える────そんな、冒険者たちとのコミュニケーション。

 

 言ってしまえば受付嬢の仕事には入らないが、しかし受付嬢が果たすべきどの仕事よりも重大で、そして確と為すべき重要な『役目』であるということを。冒険者であるとて、ラグナも重々承知していたのだ。何より、実際にその目で見てきた。

 

 そして見習いの新人とはいえ受付嬢となったラグナもまた、同じようにその役目を為さなければならない。

 

 一応は先輩に当たるあの三人の受付嬢がそうしてきたように。ずっと昔から、今の今までそうし続けてきたメルネのように。

 

「俺も同じように……あんな、風に」

 

 小さくそう呟いて、ラグナは腕を振り上げる。振り上げ、その手を己の胸にやった。

 

『気をつけてね、ラグナ。あんまり無茶はしちゃ駄目よ?』

 

 胸に手を押し当てながら、ラグナは自分にかけられたメルネの言葉を思い出す。そして、その続きも。

 

 

 

『それじゃあ、いってらっしゃい』

 

 

 

 際限なく溢れ出して止まらない、数々の記憶。かつての日々の思い出。その時その時は取り留めのない、ほんの些細な日常の一部にしか過ぎなかったというのに。

 

 今になって────いや、こうして受付台の内側に立って。冒険者としてではなく、受付嬢として立って。執拗にも頭の奥底の隅から次々と掘り起こされる。目に痛い程、鮮明になって。

 

 疑問だった。どうして今更と、何故今になってこんな昔のことをと。

 

 何度も何度も、繰り返し繰り返し。馬鹿の一つ覚えのように思い出してしまうのだろう。その理由が────自分でもわからなかった。

 

 わからず戸惑い、ただひたすらに当惑する最中。答えを見出すこともできないままに、ラグナは胸に押し当てていたその手を、そっと離した。

 

「何で俺は、こんな……」

 

 そう呟いたその声も、自分でもはっきりと手に取るようにわかる程、不安げに揺れていて。それが自分でも情けなくて、恥ずかしかった。

 

 その疑問に対して答えを見つけられず、どうすることもできないラグナは、胸から離し所在なげにしていたその手を。何をする訳でもなくただ宙へと翳し、そして追い縋るかのように。

 

 見つめる視線の先────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の大扉へ向かって、呆然と伸ばす────────その時だった。

 

 

 

 ギイィィ──厳かに固く閉ざされていたその大扉が、軋んだ音を立てながらゆっくりと開かれた。

 

 

 

「っ!」

 

 大扉が開かれたことに対し、ラグナは大いに動揺してしまい、その肩を小さく跳ねさせる。

 

 未だ太陽が昇り切らないでいるこの早朝に、『大翼の不死鳥』に来る冒険者はそうはいない。GM(ギルドマスター)であるグィン=アルドナテである可能性も否めなくはないが、彼は基本裏口から入るのだ。

 

 ──だだだ、誰だ?てか俺まだ心の準備ってやつがぁぁぁぁ……っ!?

 

 隠れようにも、動揺している身体は上手く動かず。ラグナは数秒の間、その場で硬直し突っ立ってしまう。そしてその僅かな数秒の間でも、大扉を開き切るのには充分過ぎる間であった。

 

 完全に開かれた大扉。その向こうに立っていた者の姿を、いざ視界に捉えたラグナは────────

 

 

 

 

 

「…………え」

 

 

 

 

 

 ────────目を見開き、呆気に取られたその声を漏らさずにはいられなかった。



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残響、羅列、そして(前編)

 別に思わなかった訳ではない。こうなるだろうと、想定していなかったはずもない。こんな状況にすぐさま出(くわ)すだろうことは、目に見えていた。

 

 だが、無意識の内に遠去けていた。敢えて考えないようにしていた。

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 その言葉が忘れられなくて。

 

『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 その言葉を忘れられなくて。

 

『今の()()()なんかが』

 

 どうしても、忘れられなくて。

 

 だから遠去けた。だから考えなかった。見えない振りをして、誤魔化して、偽って。

 

 そうでもしなければ、堪えられなかった。辛くて辛くて辛くて、どうにかなりそうで。でもやっぱり、既のところでどうにかなることもできなくて。結果、余計に苦しむことになった。

 

 しかし、時として現実は何処までも冷徹で、残酷で。

 

 そして運命はただひたすらに、意地が悪い。

 

「…………な」

 

 そのことをラグナは身を以て知っていた。とっくのとうの昔に、嫌と言う程散々なまでに。

 

 

 

「────」

 

 

 

 それを今、こんな形で。あんまりにもあんまりな形で、改めて思い知らされた。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の大扉の向こうに立っていた者は、中に入ろうとはせずに。心底驚かされたように目を見開き、ただその場に立ち尽くす。その様子は予想外、想定外のことが己の目の前で起こっていて、その現実を前に思考が上手く回らず、確かな事実を受け止めることもできず。

 

 結果、どうすることもできないままにその場に立ち尽くすことしかできないでいる────それは誰の目から見ても明白で、そうであると他者が理解するのは容易のことだった。

 

 広間に────否、二人の間に沈黙が漂う。まるで鉛のように重く、微かに息をするのも憚れる程に気まずい。その沈黙は数秒続いて、だがそれを先に破ったのは────

 

 

 

「クラ、ハ……」

 

 

 

 ────ラグナであった。今にも消え入りそうな、小さく掠れた声で、ラグナはその名を呟いたのだ。

 

 そう、大扉の向こうで立ち尽くしていたのは他の誰でもない、クラハ。クラハ=ウインドア本人。彼は今、こんな早朝から『大翼の不死鳥』に訪れていた。

 

「え、えっちょっ!?お、おまっ!クラハ!?こんな朝早く、何で…………あっ」

 

 そもそも誰かが来ることはないと思っていた時間帯に、まさかの人物の到来。そして油断にも似た安堵を抱き、幾分か気を抜いてしまっていたラグナ。

 

 時と場の状況とラグナの心理状態────不幸な偶然が上手い具合に重なったその結果が、ラグナの平常心を容易く掻き乱し、大いに揺さぶる。

 

 動揺を隠せず、慌てながらも噛みながらも、どうにかこうにか。一生懸命に言葉を紡ごうとするラグナであったが。しかしその途中で、ハッと気づく。気づいてしまう。

 

 今の自分の装いに。今、自分がどんな格好をして、それを一体誰の目の前に晒しているのか────ということに。

 

「あ、ああっ……違っ、これはっ、違くて!いや別に違わない、んだけどっ!」

 

 瞬間、全身のありとあらゆる血が。上に、首に、頬に────顔に集中するのを。敏感に、否応にもラグナは感じ取る。

 

 鏡を見ずともわかる。今、自分の顔がどうなっているのか。この今にでも激しく燃え出し炎上してしまいそうになる程の熱が、それを如実に教えてくれる。

 

 ものの数秒足らずで完熟し切った紅檎実(アポン)も遠く及ばない程までに、真っ赤に染め上がっているのだろうということを。

 

 ──ああクソッ!何だってこんなことに……!

 

 さながら負け惜しみをするかの如く、ラグナはそう心の中で悪態をつかずにはいられない。

 

 ……元々、抵抗がない訳ではなかった。そもそも恥ずかしくない訳がなかった。……だが、受付嬢として働くことになったからには。

 

 自ずと『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の面々に。この情けなくて恥ずかしい姿を晒すことになるのは、避けようのない必然であるということくらい、ラグナにだってわかっていた。とっくにわかり切っていたことだった。

 

 確かに嫌だ。恥ずかしい。とんでもなく、それこそ死んだ方が一層マシと思えるくらいに嫌で、どうしようもなく恥ずかしい。

 

 でも、もうこればかりは仕方のないことというか、もはやどうにもならないし、どうすることもできないし────そう己を無理矢理に納得させた上で、ラグナはこの選択を取り、受付嬢の制服に袖を通したのである。

 

 それにまあ、ある一人の者を除けば、まだ。『大翼の不死鳥』の冒険者たちに見られるのも、ロックスやグィンに見られるのもまだ我慢できる。なんとか、どうにか我慢できる。

 

 そして除いたその一人の者に、こんな格好の姿を見られてしまったとしても。事前に他に見られて、それでも我慢して、そうやって慣れておけば。たぶん、平気だった。平然としていられたはずだった。

 

 けれど、数々の不幸な偶然が積み重なった結果が齎した今であるが。その中でも特に、これはとびきりのぶっちぎり。

 

 メルネや他の受付嬢はこの際さて置き。皆目一番、最初の目撃者となったのが。他の冒険者でもロックスでもグィンでもなく。よりにもよって、クラハ。クラハ=ウインドア。

 

 この覆しようのない事実が、歴とした確かな現実が。ラグナに与えてみせた精神的ダメージは強烈無比にして到底計り知れず。

 

「あぅぅ……ぅぁぁぁぁ…………っ!!」

 

 耐性を身に付ける前に、当然クラハに見られる覚悟も勇気もなかったラグナはただただ悶え、そしてひたすらに身悶え。

 

 ──マジ、もう、無理ぃ……っ!

 

 その末にとうとう堪え切れなくなってしまい、遂にラグナは耳も頬も、全部が全部余さず残さず真っ赤に染まったその顔を伏せた。

 

 もはや羞恥心丸出しの今のラグナに、ろくな言い訳もまともな弁明も、その何一つとしてできる道理などまるでなく。それでも唯一できたことといえば。

 

 メルネ=クリスタ考案(なお本人は着ていない)『|大翼の不死鳥(フェニシオン)』受付嬢の制服の、露出上等絶対領域万歳な破廉恥ミニスカートの丈をいじらしく、手で引っ張り押さえ。事故同然に直面してしまったこの事態を前に、今すぐにでも両の目端から溢れそうになっている雫を堪え、不憫にも辛抱強く堪え忍ぶことくらいだった。

 

 解決する目処も立たなければ、良かれ悪かれ何かしら一転する気配ですら皆無なその状況の最中。然れど時間は一秒一秒、こうしている間にも刻一刻と構わず進んでいく────瞬間。

 

 ──……?

 

 どうすることもできないでいたラグナがふと気づく。この状況になってから、少なくとも数分が過ぎた。

 

 だというのに、()()()。あまりにも静か過ぎる────否、いつまで経っても()()()()()

 

「クラハ……?」

 

 ラグナが知る限り、こんな状況は予想も想定もできない人間だ。そう、こんな状況にいざ直面したのなら、まず間違いなく────

 

『ど、どうしたんですか!?なな、何でそんな格好してるんですっ!?』

 

 ────というような、そんな風な台詞を言うはずだ。ラグナが知る、クラハ=ウインドアという人物であれば。

 

 そのことに気づき、奇妙に思えるくらいに。そして時間が多少過ぎたこともあって。僅かばかりの余裕をなんだかんだ取り戻していたラグナは。訝しげな声音で名を呼びかけながら、伏せた未だに赤い顔をゆっくりと上げる────────そうして初めて、ラグナは気づけた。

 

 

 

 

 

「違う、違う……僕、僕じゃない……僕があんなこと……僕はこんなこと……違う違う違う違う……ぐ、く、ぁぁああ…………あ゛、あ゛あ゛ッ!」

 

 

 

 

 

 その有様に、ようやっと気づくことができた。



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残響、羅列、そして(中編)

 そう、それは酷い有様であった。

 

「違う、違う違う……違、う……っ」

 

 本当に酷い有様で。尋常ではない有様で。

 

「僕は……僕は、僕は僕は僕は……!」

 

 その有様が正気ではないことは、火を見るよりも明らかなのは確かめるまでもなくて。その有様が異常を極めていることは、誰もが容易に見て取れて。

 

「ゔ、あ、ぁぁ……あ、ぁあああぁぁぁ…………ッ!!」

 

 そしてそんな有様を、悲痛この上ない醜態を。早朝静かな『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ロビー)にて、クラハ=ウインドアは。こともあろうに、ラグナのすぐ目の前で。無様にも情けなく、みっともなく晒してしまっていた。

 

 無論、そのようなクラハを目の当たりにして、何もせずに黙っていられるラグナではなく。最初こそ驚愕を伴う衝撃に意識を叩かれ、否応なしに思考が止められ、呆気に取られて。不覚にも呆然としてしまったが。

 

「ク、クラハ……クラハ!」

 

 それでもすぐさま我に返り、ラグナは即座にその場から駆け出す────直前。

 

 

 

 

 

『僕の知っているラグナ先輩じゃない、()()()()()なんかが』

 

 

 

 

 

 既のところで、その言葉が。ただただ、ひたすらに冷たくラグナの脳裏に響き渡った。

 

 ──っ……。

 

 それがラグナの足を鈍らせ重くさせ、なんということのないたかが一歩を踏み出すのを躊躇わせるのには。あまりにも充分過ぎる程に、事足りた。事足りてしまった。

 

 一瞬にも満たないという表現ですら遅い、極まった刹那の最中で。ラグナは未だ躊躇しながら、混迷として止まない懊悩をその胸中に抱え込み、苦心する。

 

 いいのだろうかと。自分がそうしても、いいのだろうかと。その資格があるのだろうかと。

 

 駆け出して、寄り添って。痛ましく震えているその身体を抱き締め、今にでも砕けて壊れてしまいそうなその心を癒しながら。精一杯の温もりを込めた、もう大丈夫だと優しい言葉で以て慰め、安らげさせる────────果たして、そうしてもいい資格が自分にはあるのだろうか。

 

『僕の知っているラグナ先輩じゃない、()()()()()なんかが』

 

 クラハの知る自分(ラグナ)ではない自分に。ああまで突き放され、拒絶されてしまった今の自分に。

 

 未だ断ち切れずにいる懊悩から出る己への問い。それに対し、ラグナはすぐさま答えを出す。

 

 ──んなもん、ある訳ねえ。

 

 聞かれるまでもなく。考えるまでもなく。間違いなく、ないと。そう、ラグナはその答えを断言する。

 

 

 

 だが、()()()()()()()

 

 

 

「ゔあ゛、あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ……っ」

 

 駆け出す資格がないから。寄り添う資格がないから。抱き締める資格がないから。慰める資格がないから。そうする資格が何一つとしてないのだから。

 

「止めろ、違う……僕は……こ、こんな……あんな、ことを……っ!」

 

 ……けれど、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 故に、こうやって。尋常ではない様子で苦しみ、顔半分を片手で覆い隠すように押さえる辛そうなその姿を。こうやって、黙って眺める──────────

 

 

 

 

 

 ──ふっっっざけんなッ!!!

 

 

 

 

 

 ──────────訳などなく。そんな訳があっていいはずも、全くなく。

 

 ──資格がねえからって、だからって……!

 

 それ故に、こんな理由などで。この上なくつまらない、くだらないこんな理由などで。

 

 ──こんなんになっちまってるクラハを放っておけるかよッ!!

 

 為す術もなく止められ、ただただ無抵抗でその場に縛られていていい訳もない。

 

 本当ならば脇目も振らず即座に、形振り構わず咄嗟に動くべきであった場面。動かなければならなかった時に、不覚にも呆気に取られて固まって。次いでにその一歩を踏み出すことを躊躇った自分自身に憤りを募らせながら、ラグナは拳を固く握り締める。

 

 ──……ごめんメルネ!

 

 最短距離を突っ切る為に、受付嬢にとって大切な受付台(カウンター)を乗り越えようと。ラグナは心の中でメルネに謝りながら、受付台に足をかける。……ちなみに守備力皆無のミニスカートでこんなことをすれば当然、太腿は元よりその中身が大っぴら丸ごと外気に晒されてしまう訳だが。しかし、そんなことを一々(いちいち)気にするラグナではない。

 

 ──待ってろクラハ。今すぐ、俺が行ってやるから。

 

 と、意気込むラグナは苦労しながらも、どうにか受付台に上がって。それから足首を挫いたりなどしないよう、気をつけながら慎重に下りる。そうして、ラグナは受付台の内側から外側へ、再び立った。

 

「ぅぐっ、ぁぁ、ぁぁぁ……っ」

 

 今自分がこうしている間にも、クラハはずっと苦しんでいる。酷く辛そうに呻いている。そのことを、すぐ眼前にあるその現実を改めて受け止めたラグナは、顔を上げその名を叫ぶ。

 

「クラハ!」

 

 呼びながら、ラグナは己が抱いたその決意を奮い立たせる。力の限り。力のあらん限りに。奮わせ、言う。

 

 ──今行くから。今すぐにでも俺が行くから……!他の誰でもない、お前の為にッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『止めてくださいよ、僕を()()()()使()()()()

 

 その瞬間のことだった。今度こそ、クラハの元へ駆け出そうとした瞬間、その言葉がラグナの鼓膜を冷徹に、冷酷に。そして静かに震わせた。震わせ、今こそ先へ踏み出さんとしていたラグナの一歩を、またしても容易く呆気なく止めてみせた。

 

 ──ち、違う……っ。これは俺の幻聴。俺の幻聴、だから……!

 

 堪らず目を見開いたラグナは、慌ててそう自分に言い聞かせる。

 

 事実、それはラグナの幻聴に過ぎず。実際、クラハは今や息絶え絶えになりながら苦悶の声を漏らし、ラグナの目の前で呻いている。それは紛れもない、確かな現実である。

 

 だと、いうのに。

 

 

 

『止めてくださいよ、僕を()()()()使()()()()

 

 

 

 その声が。その言葉が。ラグナの脳裏で響いて止まない。ずっと響いて、こびりついて、止まらない。

 

 ──違う。違う、違う、違う違う違うっ!言ってねえ!んなこと、そんなこと……クラハは今言ってっ……。

 

 さっきと同じように今も立ち止まってしまっている自分を一秒でも早く動かす為に、ラグナは必死に自分に言い聞かせ続けていた。言い聞かせ、そして気づいた。

 

 ──…………今、言って……クラハは言って、なんか……。

 

 確かに。それはラグナの幻聴で、クラハが今言ったことではない────が、しかし。

 

 ──クラハは言って…………。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ──俺に、言って………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「止めてくださいよ、僕を()()()()使()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



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残響と羅列、そして(後編)

『止めてくださいよ、僕を()()()()使()()()()

 

 そう、それも事実。歴とした、確かな事実。紛れもない、何の間違いもない事実。

 

「っ、ぁ」

 

 今言っていなくとも。今、それが幻聴であったとしても。

 

『止めてくださいよ、僕を()()()()使()()()()

 

 あの日、あの夜、あの時に。クラハがラグナにそう言った。その事実は────その現実は変わらない。

 

「ぁ、ぁぁ」

 

 たとえ今は言っていないとしても。たとえ今は幻聴だとしても────────それは絶対に、変わらない。

 

「ぁぁぁぁ……」

 

 それは決して変えようがない事実だ。それは決して覆せはしない現実だ。そのことを今ここで、改めて。ラグナは知った。確と思い知らされ、心の深い奥底にその事実と現実を。これでもかと、徹底的に、容赦なく、無遠慮に。刻み、刻まれた。

 

 ──あぁぁぁぁ…………っ!

 

 気づき、直面し、自覚してしまえば。後はもう、落ちるだけ。落ちて落ちて、何処までも落ちていって。そして最後に、陥るだけ。

 

 途方もない罪の意識。止まらず加速する後悔。その二つが生む負の大渦に、ラグナは為す術もなく、抵抗することも許されずに。あっという間に呆気なく、いとも容易く呑み込まれる。

 

 未だに今も苦しみ、ひたすら苦しみ、ただただ苦しみ。苦しみ苦しみ苦しみ続けることしかできないでいるクラハの姿を。その見るに堪えない、悲痛悲惨この上ない姿を。余さず残さず、在りのままに映すラグナの視界が、徐々に。徐々に徐々に少しずつ、暗くなっていく。暗く、そして昏く。

 

 ──……嫌、だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ……。

 

 それに比例して。ラグナの精神が苛まれる。ラグナの心意が蝕まれる。その意気を犯され、意志さえも穢される。

 

 ──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!

 

 あれ程までに奮い立たせた決意は、今折られた。その胸中に抱いた覚悟は、今奪われた。今や、そこにいるラグナはもう────────無力でちっぽけな一人の少女(ラグナ)でしかなくなっていた。

 

 ──嫌だ、嫌だ……嫌だっ、嫌だ嫌だ嫌だ、もう嫌だっ!!

 

 周囲全て、己を取り囲むもの全部が。影に覆われ闇に包まれる最中。ラグナはその真紅の瞳を潤ませ、端に大粒の雫を浮かばせながら。

 

 小さな身体を惨めに震わせ、自らを覆わんとする影を拒絶し、自らを包まんとする闇に嫌悪した。

 

 そしてラグナはその末に、その果てに────────

 

 

 

 ──怖い…………っ。

 

 

 

 ────────恐怖した。

 

 拒絶が嫌悪を引き起こし、そして嫌悪は恐怖を駆り立てる。

 

 爪先から迸った怖気が背筋を一気に駆け抜け、脳天を突き抜けて。ラグナは身体を怯え縮こませ、硬直に固めていく。

 

 動けとあれ程切実に訴え、あらん限りの力を込めたはずの足は、もう竦んでしまって。たったの一歩を踏み出すどころか、振り上げることすら叶わない。

 

 ──怖い、怖い……!

 

 ラグナの中で恐怖が広がる。底なしの恐怖が、際限なく。それに相対したラグナはろくに抗えもせず、ただ女々しく己が両腕で、己が身体を抱き締めることしかできない。

 

 ──怖い怖い怖い怖いっ!!

 

 そして広がり続けるその恐怖は、次第にラグナを支配する。

 

 ──誰、か……誰でも、いいから……っ。

 

 影が覆い、闇が包み。拒絶と嫌悪と、そして恐怖が渦巻くその最中で。ラグナは、ただ。

 

 ──助けて。俺を、助けて……!

 

 自らに救いの手が差し伸べられるのを、切に求めた。

 

 

 

 

 

 そもそも、資格がどうこうの話ではなかったのだ。どうにかするだとか、どうしてやれるだとか────それ以前の問題だったのだ。

 

 たとえ資格があっても。たとえ、ラグナに誰かを助ける資格が今あったとしても。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()。到底、絶対の絶対に。

 

 何故ならば、その当人たるラグナこそ。他の誰よりも強く、他の誰かに。今、切に助けを求めてしまっているのだから。今、切に救いを欲しているのだから。

 

 ──助けて。助けて、助けて助けて助けて……。

 

 故に資格がどうこうの話ではなく。故にそれ以前の問題だった。

 

 一歩も踏み出せず、全く動けずに。ただ恐怖に怯え、惨めに弱々しく震えながら。顔を俯かせたまま、その場に立ち尽くすことしかできないでいるラグナ。

 

 

 

「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが」

 

 

 

 そんな時、不意に。その声がラグナのすぐ耳元でした。

 

「ひっ……」

 

 瞬間、肩を跳ねさせ、僅かに薄く開いた唇の隙間から引き攣った悲鳴を小さく漏らすと。ラグナは咄嗟に俯かせていたその顔を、声がした方へ向ける。

 

 だが、そこにあったのは影よりも濃く闇より深いだけの、漆黒の虚空。当然、先程の声の主の姿など、どこにも見当たらない。

 

 だのに────

 

「止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは」

 

 ────またしても、その声がラグナの耳元で聞こえてくる。ラグナの耳朶を打ち、ラグナの鼓膜を震わせる。

 

「なん、で、どう、して……?なんでどうしてっ!?」

 

 戸惑い、困惑するしかないでいるラグナを置き去りに。依然としてその声が────クラハの言葉がラグナのことを取り囲むようにして、響き続ける。

 

「つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()と、先輩は言いたいんですか……?」

 

「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた」

 

「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか」

 

「遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって」

 

 響き続けて、止まらない。クラハの声が、クラハの言葉は。何度も何度も、ずっと。ラグナのすぐ耳元で、止まらず繰り返されて。

 

「や、止めろ……っ!」

 

 遠慮容赦なく、止め処なく。ラグナを痛めつけ、嬲る。

 

 叩き、打ち、突き、圧し、潰し、締め、折り、斬り、刻み、刺し、抉り、剥ぎ、削ぎ、穿ち、貫き────────ありとあらゆる、無数の形の痛みで以て。ラグナを追い込んで、追い詰める。

 

「止め、ろ……っ!」

 

 追い込み、追い詰め。追い込みに追い込んで、追い詰めに追い詰める。

 

「止めろ、止めろっ……止、め……もう、止め……て……!」

 

 追い込み追い込み追い込み追い込み追い込み。追い詰め追い詰め追い詰め追い詰め追い詰め。ラグナが限界を迎えたとしても、責苦を与えるその手を緩めることなどせず。

 

「止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて…………っい、ぁ……!!」

 

 ラグナがいくらそう懇願しても、一切緩めず────

 

 

 

「ぁ、あっ……ぅ、ぁぁ、ぁぁぁああっうあああッ!うぅああああああ…………ッ!!!」

 

 

 

 ────そうしてとうとう、遂に。その末に堪えられなくなったラグナは悲痛な叫び声を上げると、手で耳を塞ぎ。その場にへたり込んでしまった。

 

「聞きたくねえ聞きたくねえ聞きたくねえ!もう聞きたくねえんだよおっ!!だから、だからぁ……っ」

 

 と、恥も外聞もかなぐり捨てた泣き言を。ラグナは情けなく惨めに喚き散らしながら、耳を塞ぐ手に力をより、さらに込める。

 

 そうすることでその声から。こうすることでその言葉から。逃れられる、たった一つの方法と信じ。一生懸命、必死になって縋りながら。

 

 ……だが、それでも。

 

 

 

「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが」

 

 

 

 その声は聞こえた。その言葉が届いた。先程と寸分も違わず、何もかも違わず、全く同じように。

 

「……は……?」

 

 それは、唯一の信頼を寄せていたなけなしの希望が。無情にも、無惨にも粉々に。木っ端微塵と打ち砕かれた瞬間。影も形も残さず破壊された、決定的瞬間。

 

 恐怖に彩られた絶望の表情を浮かべて、刹那。ラグナは気がついた────────その声がこちらの耳朶など()()()()()()()()()。その言葉がこちらの鼓膜を()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが」

 

 その声は。

 

「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが」

 

 その言葉は。

 

「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが」

 

 今までの、その全ては。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぅ、ぁ……ぁ、ぁ……」

 

 耳を塞いでも無駄であると。耳を塞いだとしても逃げられないと。そのことを無理矢理に教えられ、否応になく理解させられたラグナは。意味を成さない掠れ声を力なく漏らしながら、ゆっくりと。耳を塞いでいたその手を剥がし、そのまま上の方へやる。

 

 煌めく紅玉が如きその双眸は今や、零れ落ちそうな程に見開いていて。そこから溢れた透き通った涙が流れ、透明な雫となって、輝きの尾を引きながら滴る。

 

 そのラグナの様は誰もが胸を痛めるだろうくらいに悲しく、哀しく────そして綺麗で美しい。

 

『止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは』

 

 絶望し、ただひたすらに絶望し、もはや絶望する他ないラグナの頭の中で。

 

『遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって』

 

 その声が響く。

 

『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた』

 

 その言葉が並ぶ。

 

『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか』

 

 声が響き。響き、響き。

 

『遠回しに僕の所為だと』

 

 言葉が並び。並び、並び。

 

『僕を()()()に』

 

 響き。響き。響き。響き。響き。

 

『何も、違わない』

 

 並び。並び。並び。並び。並び。

 

『僕の知っているラグナ先輩じゃない』

 

 響き響き響き響き響き────────そして。

 

『今の()()()なんかが』

 

 並び並び並び並び並び────────そして。

 

 

 

 

 

『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』

 

 

 

 

 

 残響し、羅列し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()と、先輩は言いたいんですか……?』『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか』『止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは』『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです』『だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ』『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』『()()()()()』『止めてくださいよ』『今の先輩が僕の為に』『ほら、遠回しに僕の所為だと』『何が違うんですか』『()()()()()()()()()()()()と』『僕を()()()に』『今の()()()なんかが』『僕の知っている』『そうじゃないですか』『()()()に』『僕の所為だ』『僕の為に』『お前が原因で』『()()()なんかが』『先輩は僕を使って』『今の先輩が』『先輩は僕の為に』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、埋め尽くした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 気がつけば、聞こえなくなっていた。気がつけば、消えていた。

 

 つい先程まで頭の中で響いて、響いて、ただひたすらに残響し続けていたその声も。

 

 今さっきまで頭の中で並んで、並んで、ただひたすらに羅列し続けていたその言葉も。

 

 頭の中全て、隅々にまで至り、僅か微かな余地すら一切に残さず。埋めて埋めて埋めて埋め尽くしていた声も言葉も、その何もかもが。まるで跡形もなく、ラグナから失せていた。

 

 ラグナは解放された。こちらの身も心も、その全てを例外なく平等に。散々と苛み虐げ痛め嬲っていた声と言葉から、ようやっと解放された。とうとう、遂に解放された。

 

 あれ程までに切願し懇願した、自由と安楽。それを今この瞬間、ラグナは手に入れることができた────が。

 

「…………」

 

 依然へたり込んだままのラグナの身体が少しばかり、左右に揺れ動き。それから前のめりになったかと思えば、そのまま力なく、静かに。ラグナは倒れた。

 

 遅かった。もう、遅過ぎた。もはや手遅れだったのだ。

 

 残響し続けた声はラグナを疲弊させた。羅列し続けた言葉はラグナを消耗させた。

 

 その二つが、ラグナを憔悴させ切った。

 

 煌めく紅玉が如き真紅の双眸も、今や失意の底へ沈み。果てしなき絶望に呑まれて。何処までも昏く濁り、穢れた硝子(ガラス)玉と化し。

 

 活力と意志に満ち溢れていたその表情も、今では消失の虚無に上塗られ、塗り潰されていた。

 

 倒れてしまったラグナは起き上がる気配を全く見せず、微動だにしないまま。時間だけが過ぎていく。

 

 過ぎ去るその時間と共に、ラグナの瞼が徐々に閉じられていく。まるで、眠るかのように。

 

 そしてラグナの瞼が完全に閉じられた、その瞬間。

 

 

 

 ズズズ──倒れたままのラグナの身体が、沈み始めた。

 

 

 

「……」

 

 それはまるで沼へ沈んでいくような感覚。だが今、ラグナが沈んでいっているのは、闇。一筋の光すら届かない、果てしなき終わりの闇。

 

 もしこのまま、その闇に沈んだとして。深い深い、この闇に沈み込んでしまったとして。

 

 その時、自分はどうなるのだろうか。その後、自分はどんな末路を辿ることになるのだろうか────という、きっと誰も彼もが抱くであろう、そんな簡単で単純で当然な疑問。

 

 そんな疑問ですら、ラグナは抱けない。ラグナは何も考えられない。

 

 今、ラグナの頭にあるのは真っ白な。色のない、空虚な空白だけ。

 

 故に踠こうとも、足掻こうともせず。一切の、ほんの些細な抵抗を試みようともしないままに。

 

 抗わないラグナは為す術もなく、闇へ沈んでいく。深闇へ、ただ引き摺り込まれていく。

 

 そうしてあと十数秒と過ぎない内にその身が闇に飲み込まれる、その時。

 

 何を思った訳でもなく、無意識に。ラグナは閉じた瞼を薄らと開ける。

 

 ろくに見えもしない、どろりと淀む狭い視界の最中に。

 

「………………ぁ」

 

 その姿だけは、綺麗に。はっきりと確かに、ラグナは映した。



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消えてしまえばいい

 徐々に徐々に、一切合切の光も届かせんとする深淵の暗澹へ。為す術もなく成すがままに、抗おうともせずにただ無抵抗に沈んでいくラグナ。

 

 ──もう、なんも……考えられ、ね、ぇ……。

 

 倒れた身体は完全に脱力してしまって、もはや手足の指一本とて動かせそうにない。この窮地からどうにか脱出しようにも、その為の思考もまた、その脱力感に触発されたのであろう虚脱感に。頭の中を覆われ、包まれて。その結果鈍ってしまって、曇ってしまって、どうにもなりそうにない。

 

 もはや、今のこの危機的状況を覆すことは到底叶わないのだと、他人事同然にぼんやりとラグナは思い知らされ。こうしている間にも、闇に沈み、呑まれ、引き摺り込まれてしまっていって────そんな時のこと。

 

 ラグナ自身、別にそうしたかった訳ではない。そうしようと思い、考え、そして行動した訳ではない。そもそも、今のラグナにそう思考する余裕など全くもって皆無なのだから。

 

 謂わば、それはラグナの無意識下での行動で。しかし、もし好意的に捉えるとするならば、それは。矮小で細やかな抵抗すらできずにいたラグナの、なけなしで唯一の反抗でもあった。

 

 微睡みに誘われるようにして、ゆっくりと閉ざしたその瞼を。ラグナは今この時、この瞬間、この期に及んで。薄らとではあったが、それでも確かに開いたのである。

 

「………………ぁ」

 

 視界の良好度合いは最悪の一言に尽きた。薄らとである為に半分程度しかなく、その上どろりと濁って淀んで、映す何もかもがぼやけてしまって、ろくに見えやしない。

 

 ……だというのに。ラグナは見た。ラグナはその視界の最中に、その姿を。確とはっきりに映し込んでいた。

 

 周囲は漆黒。明かりとなる光など僅かすらもない。なのに、その姿だけは鮮明に、色彩鮮やかに映る。ラグナはそれが堪らなく不思議に思えて、仕方がない。

 

 闇へ沈み続けながらに、心の中で。その名前をラグナはそっと静かに呟く。

 

 ──……クラ、ハ……?

 

 つい先程までは、声だけの存在でしかなかった。ついさっきまでは、言葉だけの存在でしかなかった。ラグナの頭の中で残響する声と、羅列する言葉だけの。虚空にして虚構の存在(モノ)に過ぎず、漆黒が塗り潰し、暗黒が埋め尽くす空間には存在する訳もないはずだった。

 

 だのに、今。ラグナの視界の最中にて、映り込んでいた。幻覚と片付けるには些か無理がある、これ以上にない現実味を帯びながらに。

 

 ──クラハ……。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の《S》冒険者(ランカー)────クラハ=ウインドアは、そこに立っていた。

 

「……」

 

 力なく横たわり、今すぐにでも闇に溺れんとするラグナに。背を向けてではあるが、揺らぎない確かな現実として、そのクラハは立っている。

 

 その姿を映し、見つめたラグナ。瞬間、虚無めいた空白となっていたラグナの頭の中で、唐突に────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめん……お前しか助けられなくて、ごめん……ッ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────酷く、懐かしい声が響き渡った。

 

「……っ」

 

 ラグナは知っている。

 

『ごめん……お前しか助けられなくて、ごめん……ッ』

 

 その声の主が、一体誰であったのかを。知っている────否、確と()()()()()

 

「ぁ、ぁぁ……っ」

 

 瞬間、何もかもが真っ白な空白の頭の中で次々に浮かぶ光景の数々。それは浮かび上がっては目まぐるしく切り替わり、そして埋め尽くす。

 

 ラグナの空白を。ラグナの虚空を。ラグナの虚無を。埋めて、埋めて、埋め尽くしていく。一分の隙間なく、隅から隅まで、僅かな余地すら少しも残さず、全て。

 

 気がつけば、頭の中を覆って包んで、思考を鈍らせ曇らせていた虚脱感は吹き飛んで消えていた。

 

「く、ぅ……はぁ、ぁああ……っ!」

 

 そして全身の脱力感も。鉛のように重たかったことがまるで嘘だったかのように身体は軽くなり、そこら中から漲って溢れて止まらない力が、手足に伝っていくのをひしひしとラグナは感じ取る。

 

 そうして、薄らと開けていた瞼を全開に、闇の中へ完全に沈んでしまった自らの腕を。その力のままに、ラグナは振り上げた。

 

 その様はさながら、粘度の高い液体が如く。闇が徐々に迫り上げられて、ゆっくりと盛り上がる。時間をかけながら、着実に────そして、その時は唐突に訪れた。

 

「うああああああッ!!」

 

 ラグナの口から必死の叫びが迸ると同時に。こんもりと盛り上がった闇が裂け、割れ、弾け。直後、その下からラグナの華奢な細腕が突き出し、現れた。

 

 そこから先のラグナは、怒涛の勢いだった。闇の最中から振り上げたその腕を振り下ろし、手を闇の表面へと叩きつける。

 

 現状、下半身はおろか臍の上辺りまでが完全に闇に沈み込んでしまっているラグナの身体であるが。しかし、今し方闇を叩いたその手は沈まない。

 

 そんな不可思議極まる現象には目もくれず、ラグナはその顔を決死の形相に歪ませ、くぐもった声を荒く漏らしながらに。先程から全身の至るところから漲って溢れて止まらないでいる力をあらん限りに振り絞り、そして振り絞ったそれを余すことなく腕へ集中させると。

 

「ふんぐ、ぅぅぅッ……!」

 

 闇へ沈んでしまっていたラグナの身体が、少しずつ。徐々に、ゆっくりと引き上げられ始め────

 

 

 

「ぅおおらぁあああああッ!!!!」

 

 

 

 ────そうして、張り上げられたラグナの気合いの怒声と共に、闇の最中から完全に引き上げられた。

 

「はあっ、はぁ、は……っ」

 

 闇に沈んでいた半身の浮上を果たしたラグナ。体力の大半を費やした為に、すぐには立ち上がれず。ラグナは息絶え絶えに、荒い呼吸を何度も繰り返す。繰り返しながら、心の中で呟く。

 

 ──ま、だ……。

 

 呟きながら、今やラグナにとっては普通の地面と何ら変わらない闇の表面につく手に力を込める。

 

 ──まだ、死ねない……終われない……!

 

 そして今一度、ゆっくりと。危なげにふらつきながらも、ラグナは立ち上がった。立ち上がり、顔を上げ、吼えるように。

 

「俺は!死ねねえんだよ、終われねえんだよッ!」

 

 そう、叫んでみせた。その表情にはもう、先程までの昏き絶望と失意に呑まれ、色を失った虚無はなく。

 

 輝く希望と決意に彩られた、気高き覚悟が。今、そこにあった。

 

「だから、だから……だからッ!」

 

 依然としてこちらに背を向けたままでいるクラハの姿を遠目に見据えながら。ラグナは一歩、前へ踏み出し。そうして一気に、その場から勢いよく、軽やかに駆け出す────ラグナはもう、闇に沈まない。

 

 紅蓮に煌めく赤髪を揺らし。真紅の瞳に燃ゆる炎を灯し。ラグナは闇の最中を駆け抜け、そして。

 

「クラハッ!!」

 

 すぐそこまで。少し手を伸ばせば届くところまで、ラグナは辿り着いた。辿り着き、その名を叫ぶ。叫ばずには、いられなかった。

 

 時間にしてみれば、それはほんの十数秒という。あっさりとした、意外と短い間の出来事。

 

 名を呼ばれた為か、今の今まで背を向けていたクラハであったが。不自然な程に微動だにせずその場に突っ立っていた彼が、ゆっくりと。今にでもその手を届かせんとするラグナの方へと、振り返る。

 

 振り返ったクラハの顔を、ラグナは目の当たりにする。今、その表情にあったのは──────────果てしない虚無だった。

 

 ──え……。

 

 と、それをラグナが訝しむ間もなく。感情らしい感情を一切読み取れない、人形が如き無表情をしたまま、クラハがその口を開かせる。

 

「消えてしまえばいい」

 

 開かせて、そう。躊躇わずに、容赦なく。目の前に立つラグナへ、そう告げた。

 

「…………は……」

 

 最初、そう言われたことを上手く理解できず。一呼吸遅れて、間の抜けた声を呆然と漏らすラグナ。そんなラグナのことなどお構いなしに、クラハが言葉を続ける。

 

 

 

「あなたなんて、消えてしまえばいい」

 

 

 

 謂うなれば────などでは、もはやなく。まさにそれは、紛うことなき言葉の刃。鋭き冷き、言葉の刃。

 

 

 

「自分一人では何もできやしない、非力で無力なあなたには、何の価値だってありはしない」

 

 

 

 その刃は切り刻む。ラグナの身も心も、その刃が切り刻む。

 

 

 

「無価値なのだから、もう消えてしまえばいいんだ」

 

 

 

 そしてそれが、終いの(とど)めとなった。

 

「……ぅ、ぁ」

 

 唐突に、遠慮なく切られ。突然に、容赦なく刻まれ。突如として、遠慮容赦なく、クラハに切り刻まれて。ラグナは駆けたその足を止め、力が抜けた呻き声を弱々しく漏らすことしかできない。あと少しで届いていたはずの、伸ばしたその手は────宙で静止していた。

 

 動揺、混乱、当惑、悲哀、寂寥────そういった様々な感情が滅茶苦茶に入り乱れた上で、もうどうにもならない程までグチャグチャに掻き混ぜられたような表情を浮かべ。そして静かに、ラグナは真紅の瞳の縁に涙を滲ませ、その涙はすぐさま雫となって零れ落ちる。

 

 まるで胸の内を抉り裂かれたかのような気分だった。そんな気分に陥ったラグナが、堪らずというように数歩、クラハから後退り。

 

 直後、ラグナの背後に広がっていた漆黒の昏闇から無数の────()()()()()()が伸びて。

 

 伸びたその手全てが群がりながらラグナに殺到し。ラグナの足や太腿、臀部に腰に腹、胸と肩と首、そして頭を。それぞれ無遠慮に掴むと、そのまま後方へとラグナの身体を引っ張り。

 

 

 

 

 

 トプン────そのまま、ラグナは闇に失せた。



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灰色の少女

 あの無数の影の手に引かれ、連れられた闇の最中は。当然といえばそうなのだろうけど、暗澹としていて。さながら、底の見えぬ深淵に突き落とされたようだった。

 

 沈む。まるで落ちるように沈む。底が見えない深淵の終着点を目指して、ただ沈んでいく。

 

 ──…………力、入んねえ。

 

 気がつけば、身体中から湧き上がり溢れ出し、充ちて満ちて仕方がなかったあの力は。その全てが今や、消え失せていて。空っぽで、ごっそりと抜け落ちてしまっていて。

 

 だから、手足を振るうどころか指一本でさえ、微かにも動かせない────けれど、どうでもいい。そんなこと、もはやどうだっていい。

 

 だって、指一本動かせようが。この手足を振るおうが。

 

 

 

『消えてしまえばいい』

 

 

 

 そうしたところで、結局は無意味なのだから。

 

 ──……何も見えねえ。何も聞こえねえ。

 

 飲み込まれるようにして沈み続ける最中、他人事が如く。声にすることなく、心の中で呆然とそう呟く。

 

 この暗澹たる昏き闇の中。自分以外の存在(モノ)だって、僅かにも微かにも感じ取ることができない。

 

 それ故に何かが見えることも、何かが聞こえることもない。あり得ない、仕方がない、と。己をそう納得させる為に、納得させたいが為に。

 

 呟いて。呟いて────────即座に()()()()()

 

 わかっていた。それは言い訳に過ぎないと。所詮は一つの、単なるつまらない言い訳でしかないということは。嫌になる程うんざりと、わかり切っていた。

 

 いくら尤もらしい、それらしい理屈を。どれだけ並べ立てたところで。捲し立てたところで、ちっとも誤魔化せない。自らを最後まで、騙し通せない。

 

 何も見えないのは。何も聞こえないのは。結局のところは、そう────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ただそれだけの、単純明快(シンプル)理由(こたえ)

 

 なんと当たり前な理由だろう。なんと、至極つまらない理由なのだろう。どうやら自分は、そうまでしても背きたかったらしい。逸らしたかったらしい。

 

 自分の目の前から遠去けて、そして逃げ出したかったらしい。実に魔の抜けたことに、今。ようやっと、気がついた。気がつけて、しまった。

 

 一つ、小さく静かに。嘆息を吐いて、それからこれ以上にない程の諦観をこれでもかと詰め込んで。引き続き他人事のように、心の中でそう呟く。

 

 ──ああ、そりゃそうだ。そうだよな……だって、俺はもう。

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして沈んでいく。ただ独り、その赤髪の少女は。一糸纏わぬ裸体を包み隠さず晒しながら、闇の最中をずっと沈んでいく。

 

 終わりのない終わりを、孤独に目指す少女が想うことはただの一つ。そのただの一つを胸に抱き、そして乞い願う。

 

 どうか救われますようにと。せめて、その存在(モノ)には救済が施されるように、と。さながら天に召します主へ祈りを捧げる、乙女が如く。

 

 そうすると同時に────少女は()()()()()()()()()()()()()。強く望んだ。強く、強く、ただひたすらに、強く。

 

 少女は己が脳裏にて映し出す。映し出されるそれらは、過ち。罪。決して贖えぬ、大罪。

 

 故に少女は望んだ。この罪を背負う己への裁きを。そして罰を。何故ならば、自分は裁かれ罰せられなければならない存在(モノ)なのだから。

 

 数秒か。数分か。それとも数時間だったのか。そんな、酷く朧げで曖昧な時間の流れを。その身と心で如実に、存分に味わう赤髪の少女は。やがて眠るかのように、その瞳を閉ざす。

 

 次第に朦朧とする意識の最中で、薄らと赤髪の少女は予感する。この終わりのない終わりの闇を。こうして沈み続けながら、自分は。

 

 ゆっくりと朽ちて、果てて、終わるのだろうと。終わりのない終わりにて、自分だけがその終わりを迎えるのだろうと。

 

 そう予感し、そして次にそれは確信へと至る。

 

 本来ならばそれは赤髪の少女が望むことではない。自分は裁かれて、罰せられなければならないのだ。……が、しかし。すぐさま少女は、ああと自ら納得する。

 

 要は、()()()()()()()()。この終わりのない終わりの中で、ただ独り、ただ孤独に。最後の最期まで、誰からも。

 

 認識をされることもなく。裁かれも罰せられることもなく。朽ち果てて、消え失せる。

 

 それは少女が望んだ形ではなかったけれど、それが相応なのだろう。きっとそれが相応しいのだろう。

 

 だから、赤髪の少女は何もしなかった。抗うことも、拒むこともせず。その結末を、静かに受け入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なれないよ」

 

 不意に、その声は少女の耳朶を打ち、鼓膜を震わす。

 

 瞬間、思わずというように。赤髪の少女────ラグナは閉ざしたばかりの瞳を再度開かせる。

 

 

 

 

 

 ()()()()が、すぐ目の前にあった。

 

 

 

 

 

 自分と瓜二つの、全く同じ顔。否、同じなのは顔だけではない。

 

 一体どんな理由があってかは知らないが、その少女もこちらと同様に裸の格好で。故にわかる、その少女の身体には酷く()()()()()()、と。

 

 互いの顔が瓜二つなら、また互いの身体も瓜二つ。まるで鏡に映る自分が、そこから飛び出してきたようで。

 

 けれど、それでも違うと。自分と少女は同一の存在ではない、確かな別人であることを断言できる。何故ならば、その少女の髪と瞳は。ラグナのような紅蓮に煌めく赤色ではない、透き通るような灰色をしていたのだから。

 

 とはいえ、目で見てわかる違いは本当にそのくらいもので。その他の違いはないと言っても過言ではなくて。自分と同じ顔、同じ身体を持つ少女に対し、ラグナは薄気味悪い恐怖が入り混じった驚愕を抱いてしまう。

 

 堪らず固まり呻き声一つすら漏らせないでいるラグナに、ラグナの分身が如き灰色の少女が告げる。

 

「キミはまだ楽にはなれない。……ううん、違う」

 

 そう告げるや否や、灰色の少女は。未だこの状況に理解が追いつかず面食らっているままのラグナに、何を思ったか自分の顔を迫らせる。

 

 そうして瞬く間に二人の顔の距離は縮む。互いの鼻先が触れそうになるまで、互いの吐息を肌で感じ取れるまでに詰まって────だが、それでも灰色の少女は止まらなかった。最後まで止まることなく、そして。

 

 

 

 

 

 チュ──僅かな躊躇も微かな遠慮もすることなく。自らの唇を、ラグナの唇にそっと重ねた。

 

 

 

 ──………………ッ?!?!!!?

 

 果たして、これ程までに動揺し、混乱したことがあっただろうか。いや、ないだろう。

 

 今この瞬間の、この動揺と混乱は間違いなく。これまでの人生の中でも極度にして最大限のものだろうと、ラグナは心の底から思う。

 

 予想外も予想外、想定のしようがないこの事態を前に。ラグナは咄嗟に灰色の少女を突き飛ばそうとした。が、しかし。

 

 やはり腕に力が全く入らず、指一本ですら動かせそうにない。故に無論、腕を振り上げることなどできるはずもなかった。

 

 その間も依然として灰色の少女はラグナと唇を重ね合わせたまま────()()()()()

 

 ぬるり、と。不意に、ラグナの唇を何かが這った。

 

「んうぅっ」

 

 唇を這われた感触と、唇が濡れて湿る感覚に。堪らず目を白黒させると同時に、反射的に悲鳴を上げてしまうラグナであったが。

 

 しかし、灰色の少女が唇を塞いでいる為に叫ぶことはできず。それはくぐもった呻き声にしかならない。

 

 そしてまた、ラグナの唇を何かが這う────否、這うのではなく、()()()

 

 その何かは柔らかで、生温かく、湿り気を帯びているのだが。瞬間、ラグナは弾かれたように気づいた。

 

 これは────舌だ。その何かの正体とは、この灰色の少女の舌だったのだ。

 

 灰色の少女の舌がラグナの唇を舐る。ねっとりと、そしてじっくりと。まるで口の中で転がす飴玉をゆっくり丁寧に溶かして、満足するまで存分に味わうかのように。

 

 灰色の少女の舌がラグナの唇を擽る。僅かにざらついているその舌が、ラグナの唇を磨くように擦り上げ。そのなんとも言えない、こそばゆい擽ったさに。ラグナは思わず身震いしそうになるが、そうするだけの力すら身体に入らない。

 

 突然の、全く予想だにしなかった灰色の少女からの、想定外の口づけ(キス)。それはラグナの平常心を大いに揺さぶり、ラグナの余裕を容易く奪い取った。

 

 その結果余裕を失ったラグナは焦りに焦り、切迫してしまい。故にだからこそ、ラグナ自身()()()()()()気がつくことができなかった。

 

 灰色の少女に唇を塞がれてから一分弱。切羽詰まったようにラグナが心の中でそう呟く。

 

 ──息、できな、苦、し……っ。

 

 唇を塞がれてから今に至るまで、ラグナは呼吸できずにいたのである。

 

 ……何も、空気を取り込み肺へ送り込む為の手段として、口で息をするだけということはない。口で吸えなくとも、鼻で吸えるのだから。

 

 そしてそんなことはラグナとてわかっている。……わかっているが、他でもないこの状況────自分の顔だけでなく身体つきですら瓜二つな見ず知らずの少女に、いきなり口づけをされているこの状況の所為で。ラグナは今、そんなことにすら気がつけない程の動揺と混乱に襲われ、甚大な焦燥に駆られているのだから。故にそれもまあ、致し方ないだろう。

 

 それはさておき。一秒一秒が過ぎる毎に、ラグナの意識は徐々に薄れ始め、やがてその脳内も白み出し。窒息の危機に瀕したラグナの生存本能が警鐘を鳴らし始めた、その瞬間のこと。

 

 ──し、ぬっ……ぅ!

 

 遂に限界寸前に至ったラグナは、今の今まで頑なに閉ざしていた口を。今もなお、こうしている間にも灰色の少女に執拗に、しつこくねちっこく舐められている唇を。

 

 とうとう、開かせた。

 

 そしてそれが────()()()()()()()()()()()()()

 

「っん、むぅうっ」

 

 切望し、求め焦がれていた空気────と、共に。ラグナの口腔へ透かさず、尋常ではない素早さで以ていよいよ入り込む、灰色の少女の舌。

 

 先程までの、こちらを労り慈しむような。酷く繊細な割れ物を扱うかのような、そんな遠慮じみた慎重さすら感じられる優しさなどはまるで皆無な。

 

 形容するならば、それは食事。それも飢えに飢えて、究極的な空腹に苛まれ続ける極限状態に陥っても、なお。

 

 それでも抑えに抑え、堪えに堪え、我慢に我慢を重ね合わせて。

 

 すぐ目の前に置かれたこの至上至極の料理を。これ以上になく美味に。これ以外にない方法で。思う存分、食べ尽くす為に。

 

 今か、今か、と。その瞬間(タイミング)を、狂おしいまでに待ち焦がれながらに待ち望み。

 

 そうして、遂に、とうとう────それが訪れたのだろう。その末が、こういうことだったのだろう。

 

 為す術もなく、なすがままに。されるがまま、ラグナは灰色の少女によって。好きに勝手にやりたい放題にされてしまう。

 

「んぐぅっ、ぅぅ」

 

 ラグナの口腔へ滑り込んだ灰色の少女の舌が暴れ回る。舐って、擽って。ラグナの為の考慮など全くせず、お構いなしに自分の威勢(ペース)で。

 

 ぐちゅぬちゅと粘度のある濃い水音を景気良く互いの間で響かせながら。灰色の少女は遊んで、ラグナのことを弄ぶ。

 

 やがてラグナの口腔を嬲り回しながら堪能していた灰色の少女の舌が、もう充分だとでも言うように。突然、止まって大人しくなった────と思えたのも束の間のこと。

 

 灰色の少女の舌が伸びる。伸びて、伸びて、次に目指す。せめて巻き込まれまいと、口腔の奥へできるだけ引っ込められていたラグナの舌に向かって、灰色の少女の舌はゆっくりと押し迫り。

 

 そして呆気なく、容易くラグナの舌を捕えた。

 

「ん、んんぅ……!」

 

 まず、灰色の少女の舌先はラグナの舌を軽く突く。トントン、と数回ほど。

 

 慣れないその感覚と刺激に、ラグナは不覚にも反応を見せてしまう。肩を小さく跳ねさせ、くぐもった呻き声を漏らしてしまう。

 

 しかし、そんなラグナの反応を気にする様子も見せることなく、構おうともせず。けれど夢中になっているという訳でもなく。ただ淡々と、事務的に。作業するかのように。

 

 まるで抉って削るみたいに。灰色の少女は舌先を尖らせ、今度はラグナの舌の上をなぞらせ、幾度かの往復を繰り返す。

 

 そんな風に自らの舌を弄られるのは、これが初めてなラグナにとっては。とてもではないがじっとして堪えられるなどではなく。舌から伝わるその度し難い感覚を受け、身体が小刻みに震えてしまうのを我慢できないでいる。

 

 それでもどうにかして逃れようとするラグナであるが。そも、ラグナの口腔はお世辞にもそう広くはなく。逃げ場らしい逃げ場などないようなもの。それに加えて捕えた獲物をみすみす逃す程、灰色の少女は手緩く優しい訳でもない。

 

 ラグナのことなど全くもって考えず構わずに、灰色の少女は自らの舌を用いて。依然として度を越したその悪戯を強行し横行させる。

 

 しつこく、執拗に。ねちっこく、念入りに。その尖らせた舌先で、ラグナの舌を嬲り甚振り続けた。

 

「んんぅっ」

 

 先程よりも大きく、そして生々しく卑猥な水音と共に。苦しげな呻き声を漏らすラグナ。しかし側から聞いたそれは何処か悩ましい、艶がかった嬌声のようにも思えて。そしてそれが灰色の少女の嗜虐心を余計に煽り、増長させる。無論ラグナはそんなこと、露知らずである。

 

 そうして数分。その間、休む暇など一切与えられずに舌を玩具に弄ばれ続けていたラグナであったが。再び、その危機が訪れる。

 

 ──息、また……っ!

 

 気がつけば、先程肺に取り込んだ空気はほぼ空となっていて。となると必然、また窒息の可能性が浮上────()()()()()

 

 ラグナの意識が薄れ始め、頭の中が白く染まり出した、その瞬間。密着していた灰色の少女の唇が、ラグナの唇から離れた。

 

「っはぁ……!」

 

 しかし、離れたと言ってもほんの僅かばかりで。互いの唇に生じたその隙間は狭い。が、それでもその一瞬、ラグナが息を吸うのには充分に事足りた。

 

 そして次の瞬間、透かさず灰色の少女は再度ラグナの唇に食らいつくようにして、己の唇を重ね塞いだ。

 

「んぐっ!?」

 

 間髪入れずに再開される蹂躙。呼吸し、とりあえずは窒息の危機から免れ安堵したラグナを、灰色の少女は遠慮容赦なく弄り苛む。

 

 ──こい、つ……!

 

 さしものラグナもそうされては、もう気づく他ない。()()()()()()()()。今さっき、ラグナの唇から離れた灰色の少女の行動は、敢えてのことだったのである。

 

 その理由は明白。ラグナを窒息させない為に。ラグナが窒息し、意識を失うか最悪死んでしまうことを防ぐ為に。

 

 だが、そう気づいたところでラグナにできることなど何もなく。結局、依然として灰色の少女の手の上で転がされるように翻弄されるしかない。

 

 その事実と現実を眼前に堪らず憤りを覚える────間もなく。瞬間、ラグナは目を見開かせた。

 

「んぁぐっ」

 

 唐突に、ここにきて灰色の少女は責め方の趣向を変えた。今度は舌先を滑らせ、往復させるのではなく。ラグナの舌の根元に潜り込ませて。そして、巻きつくように絡みついた。

 

 絡みついた途端、灰色の少女の勢いが苛烈に増す。ラグナの舌を引っ張り、舌全体を上下に、器用に扱き。互いの舌が擦れ合うその度に、粘度のある淫らな水音がわざとらしい程盛大に溢れ漏れ出す。

 

 喰い散らかしながらに貪り尽くす、ただ激しくひたすらに荒々しい愛撫。だがもはやそれは、一歩間違えればただの暴力と相違ない。

 

「ふぇぁ、ひゃめっ……んぅぁん、ん……っ!!」

 

 そんな仕打ちを今の今まで受け続け、それでも耐えていたラグナであったが。とうとう、ここで遂に弱音を吐いてしまう。瞳に薄らと涙を浮かばせ、静止の呼びかけを試みものの。やはりというべきか、それは何の意味も成さない呻き声にしかなりえない。

 

 とはいえ、仮にそれが確かな意味を成し届いたところで。灰色の少女が素直に止まることはなかっただろうが。

 

 唾液が掻き混ぜられる水音と、それに混じって艶かしいラグナの喘ぎが響き続けること、数分────終わりは突然に訪れた。

 

 ここまでやってようやく満足したのか、それともここまでしなければ気が済まなかったのか。そのどちらにせよ、休憩らしい休憩を一切挟むことなく打っ通しに。ラグナを責めに責め立て責め続けていた灰色の少女は、ラグナの唇からようやく、ようやっと離れた。

 

 二人の間、唇と唇の間で銀糸が輝きながら伸びる。その光景は淫靡で卑猥で。しかし、それでいて美しく綺麗なものであった。

 

「ぷはっ!はっ、げほっ、ごほっ……すぅぅ、はあああ……ッ!」

 

 遂に与えられた、まともに呼吸する機会。激しく咳き込みながらも、本能のまま、身体が求めるままにラグナは息を吸い込む。

 

 そんなラグナの姿を見つめながらに。灰色の少女は何処か愉しそうな、嬉しそうな声音で言う。

 

「させない。楽になんて、ボクがさせないよ」

 

「はぁっ、はっ……こんの、ふっざけんなッ!!お前何なんだよ!?こんなこと、しやがって……ああッ!?」

 

 灰色の少女の言葉に対して、ラグナは逆上で返す。口端を伝う唾液を乱雑に手の甲で拭い、依然としてこちらを見つめる灰色の少女を。ラグナは敵意を剥き出しにして敵視する。

 

 が、それで灰色の少女が動じることなどなく。他人を何処か小馬鹿にするようなその態度もまるで変わらない。

 

 それでも負けじと睨め続けるラグナに対して、灰色の少女は────口角を歪に吊り上げさせた。

 

 ──んな……。

 

 瞬間、ラグナは絶句せざるを得なかった。烈火の如く逆巻いた憤怒の激情が。有無を言わせず、いとも容易く。それこそ吹いて掻き消すように削がれてしまった。

 

 それ程までに禍々しく、凶悪で悪辣で。真正の邪悪を孕んだ、人外の笑みだった。

 

 嫌悪、忌避────そして恐怖。灰色の少女の笑みはラグナの怒りを押し退け、まるでその代わりと言わんばかりにそんな感情をラグナに抱かせる。

 

 呆然とするように硬直し固まるラグナに、灰色の少女は笑んだままに言葉を続ける。

 

「何?ボクが何だって?ふふ、ボクが何なのかって……ねえ。キミがそれを訊くの?他の誰でもないキミが、よりにもよってこのボクに?へえ……ふぅーん。そっか。そっかそぉっか……あは、あはは!あっはははは!」

 

 灰色の少女は笑う────否、嗤う。躊躇なく、遠慮なく、容赦なく。ラグナを、灰色の少女は嘲るように嗤う。

 

「ははっ、あははっ、あははは……はぁーあ」

 

 一頻り、灰色の少女は嗤い続けて。不意に草臥れたように肩を落としため息を吐くと。それから改めてラグナの顔を見つめ直す。

 

 その時灰色の少女は既にもう笑みを浮かべておらず。そして、まるで試すかのように。

 

「じゃあ逆に訊くけど。()()()()()()()()()()()()()?」

 

 そう、ラグナに問うた。



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ボクはキミ。キミはボク

「じゃあ逆に訊くけど。()()()()()()()()()()()()()?」

 

 と、灰色の少女はラグナに問うた。今の彼女の態度(そこ)に先程までの、他人(ひと)を何処までも馬鹿にし、際限なく嘲笑する悪心は何処(いずこ)かへと消え去り。至って真面目な、確として真摯な真剣さがその代わりと言わんばかりに収まっている。

 

 豹変、変貌────などと、生易しい表現で済ませられるものではなく。それはもはや、こうして見ている目の前で全くの別人と入れ替わったのかと思えてしまう程。

 

 無論、そんな常識から遠くかけ離れた現象と直に相対した者が。それ相応の動揺と混乱に見舞われるだろうことは火を見るより明らかで。

 

 だが、しかし。

 

「はあ……?」

 

 今相対しているラグナはそうではなかった。

 

 ──俺が一体何だって?……は。なんだ、そりゃ。

 

 この現象に対してまず。ラグナが感じたのは、怒りと憤り。だがそれは決して、質問に対して質問で返されたことだけではなく。それよりももっと、実に単純明快(シンプル)なこと。

 

 ずばりそれは────灰色の少女の質問自体。

 

「お前、俺が一体何だって訊いたな」

 

 ラグナにとってそれはどんな質問よりもくだらない、つまらない質問。あまりにも馬鹿馬鹿しい、酷い愚問。

 

 自分が一体何なのか。一体、どういう存在(モノ)なのか。そんなことはラグナ当人が、誰よりもわかっている。一番わかり切っている。

 

「んなの決まってるだろーが」

 

 故にだからこそ、ラグナは確固たる自信を以て。試す灰色の少女に対抗するよう、射抜かんばかりに彼女を真っ直ぐ睨めつけて。

 

「俺は」

 

 ラグナは答えようと。

 

「俺、は」

 

 答えようと────

 

「……俺は」

 

 ────して。

 

「…………俺は!」

 

 けれど、ラグナは答えられなかった。本来ならば即答することだって、できたというのに。答えるべきことなどわかっていたというのに。そんなことはとうにわかり切っていたはずだったというのに。

 

 だというのに、ラグナは答えられなかった。こんなくだらなくてつまらない質問に、あまりにも馬鹿馬鹿しい酷い愚問に答えることができなかった。

 

 そんな自分の情けなさを誤魔化すようにただ叫ぶことしか、ラグナはできなかったのだ。

 

 何故だろう。どうしてだろう。少し思い返すだけでも、()()()()()()自分は言えていたのに。

 

 だというのに、それでもラグナは答えられない。ラグナは言えない。ラグナは口にできない。

 

『すまないが、今の君を……私はあの───────だとは思えない。認められない』

 

 妨げられて。

 

『俺の知っているアンタは…… ───────は何処かに消え失せてしまったんだ』

 

 遮られて。

 

『あなたはもう、───────なんかじゃない』

 

 塞がれて。

 

「………………」

 

 そうして、ラグナはもう何も言えなくなった。この自分がそうであると。他の誰でもなく、そしてどの存在(もの)でもない。そう、自分こそが───────である、とは。ラグナはもはや、こうなってしまった以上口が裂けても言えなくなってしまった。

 

 そんなラグナのことを、敗者然としたその姿を。惨めなことこの上なく情けないその姿を晒すラグナを。灰色の少女は嘲笑しながら小馬鹿にする────()()()()()

 

 ただ、見ていた。その態度、その様子を一切切り替えることなく。やはりただ、見ているだけに。灰色の少女は留めていたのだ。

 

 ──……こいつ。

 

 だがそれがより一層何よりもラグナの心を追い詰める。駆り立て、焦らせ、揺さぶる。

 

 言葉もなく沈黙が流れる。物音もなく静寂が満ちる。その最中、二人して互いに互いを見つめ合うラグナと灰色の少女────そして。

 

「……、っ」

 

 先に崩れたのは、ラグナの方だった。遂に堪えられなくなったラグナが、とうとう目を逸らし顔を伏せてしまったのだ。

 

 ……だが、それでも。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 変わらなかった。灰色の少女の様子と態度も、変わらなかった。一切、全く。僅かにも、微かにも。何もかもが変わらない。

 

 嘲ることも、茶化すことも、馬鹿にすることもなく。無変のままに灰色の少女は、ただ。先程からずっとそうしているように、じっとラグナの顔を見つめるだけ。視線を注ぐだけに留めるだけ。

 

 ────それが一体どれ程、ラグナに敗北感を抱かせたことか。完膚なきまでの、完敗を味わわせたことか。

 

 沈黙と静寂の最中にて。まるで針の筵に座らされたような気分に陥ったラグナは。そうして、その末に、とうとう。

 

「………………ょ」

 

 長い長い沈黙を経て、遂に再度(ふたたび)その口を開かせた。……とは言っても、ほんの僅か、微かばかりで。出した肝心の声も、消え入りそうな程に小さく、弱々しいもので。おかげさまで拾うのに多少の苦労を要した。

 

 そしてそれは、灰色の少女もそうだったらしい。

 

 

 

 

 

「なに?」

 

 

 

 

 

 全てはこの為だったのだろうか。声を潜め、口を閉ざし、黙々と粛していたのは。何よりもどんなことよりにも、この空気、この状況の為にだったのであろうか。

 

 もはや意固地とすら思える程に静まり返り黙り込んでいた灰色の少女は、よりにもよってこの一番に。今の今まで、このまま永久永劫永遠に(だんま)りを()め込み、その態度姿勢意志(こころざし)を貫き突き通すかと思われたが。しかしそれを思い切り裏切るようにして、あっさりと淡白飄々に躊躇いなく口を開かせた。

 

 ……けれど。その言葉は何処までも一途で。声音は何処までも真摯で。巫山戯(ふざけ)など欠片程も微塵ない、至極真面目な鳴響(ひびき)だった。

 

「────」

 

 なので、今し方目を伏せ顔を俯かせたラグナが。バッと、それこそ糸に吊られた人形の如く首を振り。眼前の少女に呆気に取られた表情を晒すことになるのはほぼほぼ、必然のこととも言えて。

 

 一体どうして?。何故に?何で?どういう神経で?よりにもよって今そこで?────────などという、憤怒と表裏めいた混乱によって頭を滅多矢鱈に掻き回されながらに、ラグナは叫んだ。

 

()()()()()()っ!わかんねえわかんねえわっっっかねぇんだよ俺だって、んなのっ!もうっ!!!」

 

 ラグナの叫びは悲痛なものだった。切実なものだった。事実、そう叫び散らし、息を切らしながら。ラグナは────紅玉が如きその瞳から、雫を輝かせていた。

 

「…………これで満足か、なあ。これで満足したかよ、お前なあ」

 

 そう言い終えるとほぼ同時に、堰を切ったように。ポロポロとラグナの瞳から涙が零れ落ちる。頬を伝い、顎先へ流れ、滴り────その様は可哀想で。酷く、とても酷く可哀想で。けれどしかし、傍目から眺めるその姿は、やはり綺麗で美しい。ラグナの涙が、ラグナの可憐な美貌を飾り、際立たせる。

 

 もう何かもがどうでもいい。全てが全て、全部がもはやどうでもいい。そういった開き直りとも取れるラグナの言葉を受けた、灰色の少女はというと。

 

 数秒の間が空いた。数秒の間を要して、灰色の少女は────────悪辣極まった、これ以上にないくらい邪悪な笑顔を以て、その顔を綻ばせた。

 

「よく言えました。ぱちぱちぱち。……ふ、ふふ。あは」

 

「……ッ」

 

 ()()()()()。その瞬間、ラグナはそう思わざるを得なかった。灰色の少女はまたしても、今こうしてラグナが見ている目の前で、全くの別人から元の人間に戻ってみせたのだ。

 

 やはり豹変変貌などとは到底済ませられない────そこはなとなく醸し出される、言い知れない不気味な悍ましさに、否応なしに息を呑むラグナ。そんなラグナのことなど意に介さず、灰色の少女が続ける。

 

「素直なのは良いことだよ可愛いし。だったらまあ、()()()()()()()。……っと、危ない危ない話が逸れるところだった。それじゃあその素直さに免じて、ボクも素直に教えてあげる。わからないキミの代わりに、ボクが答えてあげる」

 

 と、そこで灰色の少女は一旦言葉を区切り。勿体ぶるように溜める────ことなどせずに。

 

()()()()()で、()()()()()だよ」

 

 そう、あっさりと言った。言って、有無を言わせず灰色の少女はラグナとの距離を詰めた。

 

 互いの鼻先が触れ合う程の至近距離で。灰色の少女はラグナの顔から視線を離さず、逸らさずに。

 

「その身に世界の杯を抱く存在(モノ)

 

 言う。まるで謳うかのように、そう言う。

 

「その胎に創世の種を宿す存在」

 

 もはやどうすればいいのか、どうしたらいいのか。皆目見当、まるでわからないでいるラグナのことなど他所に。灰色の少女が続ける。

 

「十代目の器。十(にん)目の世杯(クレイドル)。さあ、そろそろ現実に帰る時間だね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「違、う…………ッ」

 

 そうして。ようやっと、()()()()()()()()()()()()()()()()



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あなたは

「────は、っ……?」

 

 見慣れた床。見慣れた椅子。見慣れたテーブル。見慣れた窓。見慣れた天井。見慣れた依頼掲示板(クエストボード)。見慣れた受付台(カウンター)。見慣れた広間(ホール)

 

 気がつけばもう、周囲を取り囲んでいた漆黒の影も暗澹の闇も。彼方へ消えていて。何処かに失せていて。

 

 ラグナは今、確かな現実の最中にいた。冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の中に立っていた。

 

 意識は否応もなく呆然とし。床にきちんと足をつけているにも関わらず、不安に駆られて仕方なくなる程の浮遊感に包まれ。鉛のように重い頭は、どうしようもなく思考を鈍らせている。

 

 故に、まず。最初にラグナができたことといえば。呆気に取られ、衝撃が抜け切れないその表情のまま。そしてそれをそのまま模るような声を漏らすことであり。

 

「違、う…………ッ」

 

 なので、今もこうして『大翼の不死鳥』の床に膝をつき、片手で頭を押さえ、苦渋と苦悶に苛まれ、声を押し殺すように。ラグナのすぐ目の前で呻く後輩────クラハ=ウインドアの痛ましい姿に気づくのに。あろうことか、ラグナは数秒を要してしまった。

 

「……クラハ!」

 

 瞬間、冷水を頭から浴びせかけられたように。ラグナはそう叫ぶや否や、止めてしまっていたその足を振り上げ、クラハに向かってその腕を伸ばす────直前。

 

 

 

「僕に近づくなァッ!!」

 

 

 

 こちらの鼓膜を破かんばかりの、クラハの絶叫が広間を貫いた。

 

「っ……!?」

 

 そも、クラハの絶叫など。ラグナは初めて耳にするもので。初めてだからこそ、ラグナは堪らず目を見開き、足も伸ばしたその腕も止めてしまうのは、仕方のないことで。

 

 そこから続いたのは、静寂だった。やたらに重苦しい、沈黙であった。そしてそれは、実に数秒続いたのだった。

 

「………………」

 

 床に膝をついていたクラハだったが、不意に。ゆっくりと、その場から立ち上がり。頭を押さえていた片手をそのまま顔にやり、そして未だ固まっているラグナの方に向いた。

 

 凄まじい、表情をしていた。心労を重ね、精魂尽き果て、疲れ切り途方に暮れた表情を。今、クラハは浮かべていたのだ。

 

 その見るに堪えない、とてもではないが放っておけない表情を前にして。ラグナは────何も言えなかった。何を言えばいいのか、全くと言っていい程にラグナはわからないでいたのだ。

 

 助けたいのに。救いたいのに。手を差し伸べたいのに。だというのに────────

 

 

 

 

 

『消えてしまえばいい』

 

 

 

 

 

 ────────怖くなる。否定され、拒絶され、この手を跳ね除けられるのではないかと。そう不安に思う程に。思う度に。憚られて、躊躇われて、どうしようもないくらいに怖くなって。何もわからなくなってしまって。

 

 言葉を交わすことなく、互いに黙り込んだまま。数秒が過ぎた後に。

 

「……すみません」

 

 先に口を開いたのはクラハだった。クラハはそれだけ言って、背を向け、歩き出す。ふらふらと、まるで幽鬼のように。今すぐにでも倒れそうな、危なげなその足取りで。

 

 一歩一歩が遅く、しかし着実に遠去かるその背中を見せつけられ────そうしてようやっと、ラグナは我に返ったかのように。慌てて、その口を開かせたのだった。

 

「ま、待て!待てよ!?……クラハっ!」

 

 焦燥に駆られた、切実な叫びを散らし。ラグナもまたその場から駆け出そうとする。だが、そうする寸前で。

 

 ──っ!

 

 驚くべきことに、クラハがその足を止めた。歩くことを止め、その場に留まるという選択をしてくれたクラハに、ラグナは思わず安堵しその顔を綻ばせる。そしてすぐさま二の次に声をかけ──────────

 

 

 

「違う」

 

 

 

 ────────ようとしたが、まるでそれを遮るかのように。ラグナがそうするであろうと見透かしたように、背を向けたままクラハがそう言った。

 

「あなたは違う」

 

 ラグナに振り返らず、クラハはそう続けて。そして止めていた歩みを再開させる。歩調こそ先程と全く変わらずゆっくりとした遅いもので。しかし、今度は一切止まることなどなく。

 

 ギィ──やがて、つい先程と同じように。『大翼の不死鳥』の門を抜け、クラハはこの場から去っていった。行ってしまった。

 

 その一連の光景を、ラグナは。

 

「……………………」

 

 その場に呆然と立ち尽くしながら、黙って見ることしかできなかった。

 

「ラグナッ!?どうしたの?何があったの?さっきの声って……!」

 

 そして遅れて背後で扉がやや乱暴に押し開けられる音がして、間髪入れずにメルネの声が背中越しにラグナに届いた。



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暴発

 バンッ──頭の中を過ぎる一抹の不安。それを誤魔化し、振り払い、断ち切る為に。普段であれば決してそうはしないが、今だけはやや乱暴に。メルネはその扉を開け放つ。

 

 ──……!

 

 瞬間、メルネの視界に飛び込んだのは小さな背中。今、彼女の視線の先では、ラグナが呆然とその場に立ち尽くしていた。

 

「ラグナッ!?どうしたの?何があったの?さっきの声って……!」

 

 この時、メルネは己の目敏(めざと)さを疎まずにはいられなかった。何故ならば、目敏いばかりに彼女は気づいたのだから。ラグナの様子が、見過ごす訳にはいかない程の、甚大な異常を来していることに。メルネは目敏く気づいてしまったのだから。

 

 心の奥底から止め処なく湧いて溢れて溢れ出す、不快極まる焦燥。メルネの頭の中をずっと過っている、嫌な予感。

 

 そんな、人に負の感情しか催させないものに、否応なく突き動かされるように。メルネは透かさず即座にそう声をかけると同時に、慌ててラグナの元に駆け寄る。

 

 しかし、そのメルネの必死さをまるで一笑に付するかのように。当のラグナは全くと言っていい程に無反応だった。

 

 そしてそれが、より一層メルネに望まぬ確信を抱かせた。

 

 ──お願い……どうか、違っていて……っ。

 

 普通ならば。日常(いつも)通りであるならば。ラグナのその態度は、まずあり得ないのだ。そうあってはならないものなのだ────と、必死に否定しながら。否定して、取り繕いながら。

 

 もはやこの手を少し伸ばせば届くまで。ラグナに近づいたメルネは再度、まるで割れ物を扱うように慎重に。恐る恐る、呼びかける。

 

「ラグナ……?」

 

 果たしてそれは良かったのか、それとも悪かったのか。それを判断できる程の余裕など、今のメルネにはなかった。

 

 そこでようやく。今になってようやっと、動いた。終始微動だにせずその場に立ち尽くすばかりであったラグナが、ゆっくりとメルネの方に振り返った。

 

 ──…………そん、な。

 

 瞬間、メルネが目にしたものは────

 

 

 

 

 

「……ぁ……メルネ………?」

 

 

 

 

 

 ────絶望に打ちひしがれる、哀切と諦観の表情が浮かぶ顔。そして濁り淀んだ光をどろりと零す、昏い紅玉の瞳。その二つであった。

 

 メルネ=クリスタの予感は、大抵嫌なものであればある程に良く当たる。最低最悪に限って的中してしまう。昔から、いつもそうだった。

 

『戦鎚!これでお前から……勝利をッ!捥ぎ取るッ!!』

 

 いつも。

 

『わかったな!?──────クラハァッ!!!』

 

 いつも。

 

『メルネの姐さん。実は、実は……────』

 

 いつもそうだった。そして今回もそうだった。例外などという甘えや救いなんてなかった。

 

 ……否。そんなもの、元より──────────

 

 

 

 

 

 ──違う!今はそんなこと……ッ。

 

 茫然自失としかけた己を既のところで叱咤し、メルネは正気を持ち直し。それから最初こそ気がついたように名前をぽつりと呟き、そしてただ見つめるだけのラグナに対して、あくまでも冷静な風を装い。自分にできる限りの、あらん限りの優しさを乗せた声音を以て、メルネは訊いた。

 

「ねえ、ラグナ?どうしたの?……何があったの?」

 

 ()()()()()()()()()()()と、メルネは思っていた。

 

 

 

 だがそれは、メルネの甚だしい思い上がりに過ぎなかったのである。

 

 

 

「…………」

 

 ラグナはすぐには答えず。数秒の沈黙の後、俯き、今にでも消え入りそうな程にか細い声で。

 

「なんでもない。何もなかった」

 

 そうとだけ、メルネに答えた。

 

 ──そんな訳ないでしょうに……!

 

 しかし、そんな有様なラグナの言葉を、額面通りに受け取るメルネではなく。心の中でそう漏らしながら、彼女は再度口を開かせる。

 

「安心してラグナ。私は味方だから。他の誰でもない、あなたの味方よ」

 

 例えるなら、今のラグナは小さなコップに溢れ出す直前、その限界の瀬戸際まで注がれた水。ほんの、ちょっとした些細なことでさえ、刺激されればその全てが溢れ出し、残さず零れ落ちる────だけに留まらず、コップも粉々に砕け散ってしまうことだろう。それは確実で、間違いない。

 

 そしてそれがわからなかったメルネではない。むしろ彼女こそ、それを誰よりも一番、良くわかっていた。

 

 

 

 よって、メルネの()()()は必然だった。

 

 

 

「だから、その……ラグナ。私にだけは」

 

 メルネからすれば────いや、他の者からしても、それは考えられる限りの、必要最低限の刺激だった。そのはずだった。

 

 ……しかし、そんな必要最低限の刺激ですら、今のラグナには過ぎたことで。過剰な加虐で。

 

 それを他の誰よりも一番に理解し良くわかっていたメルネは────それ故に他の誰よりも()()()()()()()()()()()()

 

 そして今この時、メルネは深く思い知らされる。過酷な重圧の代償を以て。

 

「……ぃ」

 

 やはりか細い。が、か弱くない。先程よりも確実に、ラグナの声音には力が込められていた。

 

「え……ラグナ、今なんて」

 

 しかし何をどう言ったのか、それを判断できる程聞き取れる程の声量ではなく。メルネとて、それは同じで。

 

 彼女にしてみれば────否、他からにしても決して責めているつもりなど一切なかった。

 

 けれど、それはあくまでも()()()()。そしてあくまでも、()()()()()()()()()()()()

 

 だから──────────

 

 

 

 

 

「うっっっさいッ!!…………メルネは、関係ねえから……!」

 

 

 

 

 

 ──────────そうして、ラグナが暴発することは至極当然のことであると言えた。



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 結果を先に述べてしまうなら、案外早々にラグナは馴染んだ。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』新人受付嬢として、ラグナ=アルティ=ブレイズは周囲に馴染み、そして周囲に受け入れられたのである。

 

 元々、ラグナは別に要領が悪いということはなく。むしろその辺りは下手な新人よりもずっと良い方だ。なので冒険者組合(ギルド)の受付嬢としての仕事の諸々を、並々ならない速度で吸収し、次々と覚えていった。それこそ、クーリネアら先輩受付嬢たちからのはもちろんのこと、メルネの教育及び監督が早々必要にならなくなってしまう程、効率的に。

 

「凄いです。流石としか言い様がありませんよ……ラグナちゃ、いえブレイズさん。まるでスポンジみたいなんです」

 

 というクーリネアの言葉は決して大袈裟でも何でもなく、まさにその通りで。とにかくこの時のラグナはまるでのめり込むように、受付嬢の何たるかを順調に学び、そして快調に覚えていった。

 

 ……だが、実のところメルネはそれを素直には喜べず。好意的に受け取れないでもいた。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 メルネは見つめる。静かに、一言も呟かないままに。ただ遠目から、見守るようにその光景を眺める。

 

「この依頼(クエスト)を受けたいのか?んじゃちょっと確認するな」

 

「え、ええ。お願いします……」

 

 緊張した面持ちの、まだ年若い、如何にも駆け出しといった風体である青年の冒険者(ランカー)から依頼書を受け取り。

 

 その内容に一通り目を通し、受注に関する条件等の注意事項を指でなぞる。

 

「……よし!受注条件に違反とかしてないし、大丈夫だぞ」

 

 依頼書の確認を終えて、そう言いながら青年に依頼書を返す。と、同時にこうも付け加えた。

 

「あ、無茶とかすんじゃねえよ?あと怪我とかも。無事、『大翼の不死鳥』(ここ)に帰ること。いいな?」

 

「りょ、了解です」

 

 こちらの身を案じる言葉を受け止め、青年は緊張で固くなった表情をより一層、険しく引き締める。そんな彼に対し────

 

「そんじゃ改めて────行ってらっしゃい!」

 

 ────と、ラグナは満天の下で立派に咲き誇る、向日葵のような。そんな眩しく輝く、屈託のない笑顔を贈るのだった。

 

「…………は、はい!」

 

 僅かな悪意も、微かな邪気もない。何の混じり気もない純真無垢で天真爛漫なラグナの笑顔を目の当たりにしてしまった青年だが。彼がそれにいとも容易く見惚れてしまうのは、もはや自明の理というもので。

 

 しかし、青年はすぐさま我に返ると、己の不甲斐なさだったり情けなさだったり、そういったものを隠し誤魔化すが如く。しゃんとした返事をし。共に踵を返し、駆けるようにして受付台(カウンター)を後にした。

 

 ……なお、背を向けられたラグナが知る由もないことであるが。遠目から眺めていたメルネは当然として、周りの冒険者たちも。

 

 ラグナの「行ってらっしゃい!」を受け、『大翼の不死鳥』を出るその時まで。その青年の顔が、だらしなく弛緩していたことを。今この場にいる誰もが確認していた。

 

 まあそれはさておくとして。ラグナの、冒険者(ランカー)と接する受付嬢としての一連の流れを見終え、特に指摘すべき問題点もなかったことに。メルネは安堵し────そして()()するのだった。

 

 ──あのラグナの笑顔は少し……いえ、かなり危険ね。後々、色々と誤解させかないわ。

 

 決して、決してラグナにそんな気も考えもないのだろうが。だがしかし、その当人になくても他はこうも思わざるを得ない────八方美人、と。

 

 そしてラグナの場合、悪意や打算といったものがない分、余計に(たち)が悪い。遅かれ早かれ、要らぬ問題(トラブル)を自らの元に舞い込ませるに違いない。メルネとしてはそれをどうにか防ぎたいのである。

 

 良く言えば大らか。悪く言ってしまえば大雑把。そんなラグナではあるが、その実内面は意外と繊細で脆く。特に人の感情に敏感な分、それが顕著だ。簡単に表するのなら、ラグナは精神的に傷つき易い。

 

 なので、人の感情というものが(もろ)に出る、そういった問題にはなるべく、ラグナを接しさせたくない。ある種の我儘とも言える考えを抱くメルネは────深く、ため息を吐いた。

 

 ──なんて、どうしようもない現実逃避はそろそろ止めなきゃね。

 

 また別の、今度は冒険隊(チーム)を組んでいるらしい複数人の冒険者の相手をするラグナ。この場合でも問題らしい問題もなく、ラグナは卒なく対応できている。

 

 受付嬢としての振る舞いが板についているラグナであるが、その様を俯瞰するメルネは思う────果たして、これで良いのだろうか。これで良かったのだろうか、と。

 

 ……否。本当のところはわかっている。これは、良くない流れだと。メルネとて、もう。もう()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

『うっっっさいッ!!…………メルネは、関係ねえから……!』

 

 

 

 三日経ってもなお。七十二時間が過ぎても、なお。その言葉が生々しい響きでメルネの鼓膜にこびりついている。あの時向けられた、怒りと淋しさと虚しさが入り乱れた、筆舌に尽くし難い表情が。ちっとも薄れず霞まず、痛々しい程鮮明にメルネの視界にへばりついてしまっている。

 

 そして何よりも堪えるのが────抉るかのように心に植え付け刻み込まれた、この疎外感だった。

 

 ラグナに悪気があった訳ではない。傷つけたいが為に拒絶した訳ではないということは、メルネも重々承知している。事実、あの後すぐに。我に返ったようにラグナはメルネに謝った。

 

 だがそれでも、ラグナの謝罪の言葉があっても。一時的な、それこそただの一瞬の時であったとしても。ラグナがこちらのことを拒んだという現実が消える訳でも、その事実が覆る訳でもない。

 

 憤りは噴かなかった。ただただ、後悔が募った。自分は間違えたのだという、取り返しのつかない過ちの思いだけがあった。その思いが、メルネの心の中に在り続けた。

 

 ──…………。

 

 そして、もう一つ。

 

 

 

『僕に近づくなァッ!!』

 

 

 

 その声の主が一体誰なのか、知らぬメルネではない。しかしかれこれ、もう三日。メルネはもう、その顔も姿も目にしていない。一度たりとも、していない。

 

 三日前。あの日、あの時。自分がいない間に、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ホール)にて。

 

 一体、どのようなやり取りがあったのか────それが容易に想像できてしまい、メルネはさらに鬱屈としたため息を吐いた。

 

 ──どうして、こうなったのかしら。

 

 まるで出口の用意されてない迷路を彷徨うかのような心境で、メルネは呟く。そして諦観する。この自問もまた、自分はこれから何度も。幾度としつこく繰り返すのだろう、と。

 

 ──本当にどうして……。

 

 そうしてメルネが傷心的に思い耽る間に、ラグナは冒険隊(チーム)の対応を終え、青年の冒険者(ランカー)の時と全く同じ、向日葵の笑顔で以て冒険者たちを見送った。

 

 ラグナに笑顔で見送られて、冒険隊は『大翼の不死鳥』を発つ。彼らは門を開き、依頼(クエスト)を達成する為にこの場を後にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 果たして、気づいた者はどの程度いるのだろうか。認識し得た者はどの程度いるのだろうか。

 

 冒険隊(チーム)とすれ違いながら、音もなく。さながら影のように滑り込んだ()()に、視線や意識をやれた者は何人いたのだろうか。

 

 ただ、確実に言えるのは────二人。軽く十、二十を越す。決して少なくはない人間がいる最中、たったの二人だけ。

 

 メルネと、そして────────ラグナの二人だけだった。

 

「────」

 

 一瞬にしてラグナの顔が凍りつく。煌めく紅玉が如きその瞳が見開かれる。

 

 影が伸びる。静かに、鋭く伸びる。受付台(カウンター)の中で固まるラグナのことを()()()、影は瞬く間に────()()()()()()()()()()()

 

「……三日ぶり、ね」

 

 沈黙を一瞬挟み、メルネは相対する影にそう告げる。彼女に倣うように沈黙を挟み、その影は──────────

 

 

 

 

 

「……ええ。お久しぶりです、メルネさん」

 

 

 

 

 

 ──────────否、クラハ=ウインドアは。静かに、淡々とそう言葉を返した。



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直感

 ──……クラハ。

 

 正直、()()()()()。背筋を走る怖気を止められず、思わず無意識に片腕を掻き抱こうとした自分を、メルネは既のところでどうにか制するので精一杯だった。

 

 一体、どこでそんな気配の隠し方を学んだのか。いつから、そのような歩き方ができるようになったのか。メルネは、不気味に思ってしまった。

 

 自らが知る雰囲気が払拭され、引退しいくらか鈍ったはずの、メルネの冒険者(ランカー)としての勘が警鐘を鳴らす程までに。異質で異様で、恐ろしく悍ましい。

 

 メルネにとって、今目の前に立つクラハは、それ程までの存在(モノ)だったのである。

 

 その姿形までもが変わった訳でもないのに、まるで全くの別人。確かに気圧されたことは事実。しかし、だからとて臆するメルネではない。

 

 否、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「クラハ……いいえ、クラハ=ウインドア。貴方には訊きたいことがあるわ。色々とたくさん……山程よ」

 

 メルネの声音は、もはや普段通りではなかった。クラハへ向けられる、日常(いつも)通りのものではなかった。

 

 其処にあった温もりと柔らかな穏やかさは薄れ。その代わりと言わんばかりに何処かに圧と棘を感じさせる毅然さが前面に出されている。

 

 謂わば普段の場合は『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の代表受付嬢。だが今のメルネは嘗ての、第三期『六険』の一人に数えられ、その中でも一番の武闘派と畏れられ。『戦鎚』の二つ名を大いに轟かせていた────冒険者(ランカー)である。

 

 現役を退いてなお、未だにその気迫は衰えを見せていない。これを受けて、平然としていられる冒険者はそうはいない。そしてそれはクラハも例外ではない────本来であれば。

 

「…………」

 

 だがしかし、今のメルネがそうであるように。クラハもまた、普段通りではなく。日常通りからとは、遠くかけ離れている。

 

 まるで、幾百の修羅場を潜り抜け。幾千の場数を踏み続けた、歴戦の古兵。今のクラハには初々しさが欠片程もなければ、誰に対しても一歩退いた思慮も遠慮もない。

 

 メルネとクラハ。互いが互いに普段通りではない。日常通りではない。何もかもが違う二人だが、共通していることがただ一つある。

 

 それは──────────互いが互いに、()()()()ということだ。

 

 メルネの言葉に対して、沈黙するクラハ。彼の人となりを見知る者からすれば、全く以て信じられない行為。その行動。

 

 だが、メルネはそれを咎めたりはしない。咎めず、ただ藍色の瞳を向けるだけだ。藍色の視線を注ぐだけに留めている。

 

 数秒続き、数分続くと思われた沈黙を。クラハは不意に破った。

 

「すみません。それは後にしてもらえますか、メルネさん」

 

 一瞬、メルネは耳を疑った。クラハのその言葉が信じられなかった。

 

 そして同時に────確信に至った。やはり今のクラハは今までとは明らかに違う。今までと同じように、接する訳にはいかない、と。

 

 緊張と警戒で固まりそうになるのを誤魔化して、メルネがクラハに訊ねる。

 

「何故かしら」

 

 まるで他人行儀のような言い方になるのは仕方ない。詰問と捉えられるのは承知の上だ。

 

 メルネの言葉に、今度は。クラハは沈黙を挟むことなく、即答する。

 

「話がしたいからです。……ラグナさんと」

 

 メルネは見逃さなかった。その名を付け加える直前、クラハが。今、またしても冒険者(ランカー)の対応をしているラグナに視線をやったことを。

 

 ()()()()()()()、と。そう、直感がメルネに無遠慮に告げていた。



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資格

「話がしたいからです。……ラグナさんと」

 

 その言葉を聞いた瞬間、直感した────否、嫌な予感がした。それはいけない、させてはならないと。メルネの何かが彼女に知らせていた。

 

 冒険者の勘か。それとも女の勘か。或いは、その両方共か。とにもかくにも、今ラグナとクラハを話し合わせてはならない。どころか、一緒にするのですら駄目な気がしてならない。

 

 ──……だけど。

 

 その嫌な予感を他所に、メルネは言う。

 

「貴方が先輩って呼ばずに名前で呼ぶの、いつ以来になるのかしらね。ラグナのこと」

 

「……」

 

 クラハは何も言わない。口を開かず、ただ黙ってこちらを見るだけだ。

 

 クラハの瞳は漆黒で満たされていた。重く、昏い闇が其処には広がっていた。それは眼差しにも表れていて、彼が今どんなことを考え、そしてどう思っているのか。全く以て、読み取れない。

 

 そもそも、クラハは一体ラグナと何を話すつもりなのだろうか。それがどうにもわからないのが不安で、メルネはとにかく怖かった。

 

 周囲の日常通りの騒めきの最中、メルネとクラハの二人の間だけには、沈黙から成る静寂が流れている。側からすれば浮き世離れした、異常な空間が広がっているのだが。不思議なことに────いや、()()()なことに誰も気づかない。

 

 しかし、それは無理もないだろう。何故ならば、初めから今に至るまで────メルネとラグナを除く、この場にいる誰もが皆、クラハが『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ホール)へ入ったことに気がついていないのだから。

 

 そう、クラハと入れ違いになったあの冒険隊(チーム)の面々ですら。

 

 誰もが気がつけず、故に日常通りでいられる『大翼の不死鳥』の冒険者(ランカー)たちを横目に。口を噤んでいたクラハが、またしても不意にその口を開かせた。

 

「少しでいいです。ラグナさんとの時間、僕にください」

 

 ……その台詞を馬鹿正直に、ただ表面的に捉えれば。(さぞ)かし情熱的で、ロマンスに満ち溢れていた。が、生憎メルネはそこまで能天気ではないし、今はそう楽観的に思えなかった。

 

 ──話……今のクラハが、今のラグナと……。

 

 白状してしまえば、させたくはない。もうこれ以上、妙な刺激をラグナには与えたくない。

 

 クラハの言葉にはすぐに答えず、メルネはラグナの方へ視線をやる。クラハとて先程そうしたのだから、メルネがそうしたところでこちらが気にする道理はない。

 

 ラグナはまだ冒険者の対応をしていた。しかし、丁度終わるところだったようだ。その冒険者に対しても、ラグナは笑顔を贈る。

 

 あの駆け出し冒険者の時も。あの冒険隊の時も。同じ笑顔を浮かべていた。……が、メルネにはわかる。その笑顔に隠された、固苦しいぎこちなさが。

 

 幸い、その冒険者がそれに気づくことはなく。ラグナに見送られて『大翼の不死鳥』を発った。

 

 冒険者の背中が遠去かり、そして見えなくなるその時まで。笑顔のままでいたラグナだったが、それが翳り曇るのに時間はかからなかった。

 

 そして、困ったように。気不味そうにラグナはこちらの方を一瞥する。さらに詳しく言うのであれば、クラハの方を。

 

 メルネと同じく、クラハの気配と進入に気づけたラグナ。だがそれはある意味当然とも言える。何故ならば二人の間柄はただの知人同士以上で、同じ冒険者組合(ギルド)に所属する冒険者(ランカー)以上の。謂わば師弟とも言い換えられる、先輩と後輩なのだから。

 

 ……まあ話に聞いた限りでは、ラグナがクラハのことを半ば無理矢理に後輩にしたらしいのだが。

 

 それはともかく。なので、ラグナが気づかないはずがない。気づけない訳がないのである。そして普段であれば、日常通りであったのならば、二人はまず挨拶を交わし。そうしてラグナがほぼほぼ強引に自らが受けた依頼にクラハを付き合わせる────が。

 

 今や、そうではない。メルネがそうであるように。クラハがそうであるように。

 

 ラグナもまた、普段通りでもなければ日常通りでもないのだから。

 

 一瞥をくれたラグナは、それだけに留めて。もしくはこちらが何やら話し込んでいると──事実その通りだが──思ってか。すぐさま誤魔化すように、受付台(カウンター)の裏に隠されながら重ねられていた、既に達成された依頼書の確認を始めた。

 

 その様を目の当たりにして、メルネは胸を締めつけられるような息苦しさを覚える。

 

 ──……どうすれば、いいの?

 

 もしここに鏡があったのなら、そこにはもれなく苦虫を噛み潰したかのような顔が映り込んでいたのだろう。

 

 今この時、自らが取るべき選択がわからず。苦心し懊悩するメルネの脳裏で。

 

 

 

『うっっっさいッ!!…………メルネは、関係ねえから……!』

 

 

 

 不意に、この言葉が生々しく残響した。

 

「…………」

 

 黙り込むメルネ。だが、そんな彼女に対してクラハが返事を催促することはなく。そのまま互いに無言の時間が流れていく。

 

 ここに来て黙り込んでしまったメルネであるが、この最中に彼女は呆然と思い出していた。

 

 

 

()()俺って、一体何なんだ……?』

 

『あんなこと、クラハだけには言われたくなかったぁぁぁぁ……っ!』

 

『何か、あんのかな。今の俺ができることって、なんだろうな』

 

 

 

 ──…………そういえば、そうだったんじゃないの。

 

 その瞬間に、メルネは諦めるように悟っていた。

 

 今のクラハに今のラグナと話をさせたくない。互いに面向かって話し合わせたくなどない。そう、メルネは思っていた。

 

 だが、彼女はそのラグナの記憶(すがた)を思い出すと同時に。自らにそう思う資格がないことも、思い出した。

 

 自分は何なのか。自分ができることは何なのか。思いに思い詰めて、悩みに悩み抜いて。その末に繰り出された、ラグナの苦悶に満ち溢れた疑問。

 

 それに対し、メルネは(こた)えなかった。

 

 そればかりか──────────

 

 

 

 

 

『じゃあ……『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢、やってみる?』

 

 

 

 

 

 ──────────取り返しのつかない間違(すく)いを、押しつけた。

 

 故に甘くて、狡いだけの女。そんな女にどうこう────否、どうこうできるできない以前に。どうこうする資格など、とうの最初からなかったのである。

 

「わかった」

 

 であれば、もう委ねるべきだろう。ここはもう、譲るべきなのだろう。

 

 思考停止と蔑まれても。責任放棄と罵られても。他力本願と呆れられても。

 

 そうすることが、正しいというのなら。

 

「来賓室で待ってて頂戴。……ラグナとの時間、用意するから」

 

 であればもう、そうすべきなのだ。



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冒険者と受付嬢(前編)

大翼の不死鳥(フェニシオン)』、来賓室。賓客を招き入れるだけあって、その部屋には適度な調度品の数々。シンプルなデザイン、しかしそこはかとなく漂う高級感のあるテーブル。見るからに座り心地の良さそうなソファ。

 

 掃除が隅々にまで、的確に行き届いているおかげか。この来賓室は清潔感で満たされており、いるだけでその者を上機嫌にさせてくれる────が、今だけは違う。

 

「……」

 

「……」

 

 鼻腔に取り込み、肺へ送り込むことを躊躇ってしまうような。そんな鬱屈とした重苦しい空気で充満しており、いるだけで陰鬱な気分になって。余程感受性に乏しく、感情性に欠けた者でなければ。途端にうんざりとしてしまい、あっという間に塞ぎ込んでしまうに違いない。

 

 そんな部屋の、そんな空気の真っ只中にて。今、二人の人間が存在していた。

 

『大翼の不死鳥』に所属する、新進気鋭の《S》冒険者(ランカー)────クラハ=ウインドア。

 

 元は世界最強と謳われる《SS》冒険者の一人、しかし今やその見る影もない、『大翼の不死鳥』の新人受付嬢────ラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 その二人が今、ソファに座り。テーブルを挟み、互いに顔を見合わせている。

 

 ……いや、見合わせているというのは些か表現違いだろう。

 

 何故なら────ラグナは顔を俯かせてはいないものの、その視線は定まらず常に周囲を泳ぎつつ。時折、遠慮がちに面と向かって座っている相手に注がれる。けれどそれは数秒も続かず、気がつけば再び明後日の方向へと向いている。

 

 だが、それでもマシである。だいぶマシなのである。どんな形であれ、一応は向き合おうとする意思がラグナにはあるのだから。

 

 では向こう側────当の相手たるクラハといえば。それはもう、酷いものだった。

 

 ラグナのように落ち着きなく、視線が常に周囲を泳いでいるという訳ではないが。暗澹とした闇が広大に続く、空虚な瞳が捉えるのはテーブルの一点のみで。全く以て微動だにしない。

 

 そう、ラグナがこちらと向かい合った時から。ラグナがソファに座った時から。ラグナがおっかなびっくり歩き進んだ時から。ラグナが非常に気不味そうに部屋に入った時から。

 

 ラグナが慎重に扉を叩き、中にクラハがいることを訊ねた時から。

 

 ラグナが知る由もないが。扉が叩かれ、中にいることを訊ねられたその時でさえ────クラハの視線が僅かにも揺らぐことなく、一心不乱にテーブルの一点に注がれていた。

 

 なので、会話など始まる訳がなく。部屋を共にしてから今に至るまで、恐らく十数分の間。こんな様子のクラハは当然として、ラグナもこの状況と空気に口を開くことを憚られてしまい、一言すら出せないでいた。

 

 十数分にも亘って続く沈黙と静寂。それらに伴う息苦しさと気不味さは尋常ではなく、しかもそれは続けば続く限り、際限なく膨張し増大する。

 

 さらにどうしようもないことに、膨張し続け増大し続けたその末に破裂────()()()()()()()()()()

 

 破裂するということは少なからず、状況が進展するということだ。至極極端で単純な話────()()()()()()()()()()()()()。……それが良い方向に転ぶか、悪い方向に転ぶのかはさて置いておくとして。

 

 だが、今回はその限りではない。この息苦しさと気不味さは膨張し続け、増大し続ける。何時迄も、何処迄も。

 

 それをラグナは自ずと理解していた。最初からずっと、とっくのとうに。

 

 以前までなら。三日前ならば。否────

 

 

 

『さようなら、()()()()()

 

 

 

 ────あんなことがなければ。まず、こんな状況に陥ることなど万に一つもなかった。そのはずだった、というのに。

 

『あなたなんて、消えてしまえばいい』

 

 もはや全てが、何もかもが。手の施しようがない程に手遅れで。

 

『自分一人では何もできやしない、非力で無力なあなたには、何の価値だってありはしない』

 

 取り戻しようのない事態が、取り返しのつかない悪化を辿って、辿り切ってしまって。

 

『無価値なのだから、もう消えてしまえばいいんだ』

 

 その結果が、これだ。もう、どうしようもなかった。

 

 どうすることもできなかった。どうすればいいのか、わからなかった。

 

 わからなくなった。考えられなくなった。考えたくなかった。

 

「……っ」

 

 ギュ──無意識の内に、ラグナはスカートの裾を握り締める。

 

 

 

 

 

 おい、クラハ。お前何黙ってんだ──────────嘘を吐いた。誤魔化した。

 

 お前が俺を呼び出したんだろ。俺に話があんじゃねえのか?──────────本当はわかっていた。考えていた。

 

 だから、そんな風に黙ってないで。いい加減、話してくれよ──────────でも、無理だった。駄目だった。

 

 

 

 

 

 ──……今の、俺じゃ。

 

 そう、今の。こんな有様の自分では。こんな無様な自分なんかには、もう。

 

 クラハに対して強気に出れる度胸もない。クラハに対してそう言える勇気もない。

 

 その全部を、ラグナは失ってしまっていた。

 

 状況は変わらない。事態は進展しない。時間だけが無情にもただ過ぎ去っていくばかり──────────に思えた、その時。

 

「この三日で、随分と慣れたようですね」

 

 今の今まで、固く閉ざし。何があろうと、どんなことが起きようとも決して。開かないだろうと思われたその口を、ここに来て開き。

 

 深く黙り込んでいたクラハが、遂に言葉を口にするのだった。



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冒険者と受付嬢(中編)

「この三日で、随分と慣れたようですね」

 

 十数分にも及ぶ重厚な静寂と重圧な沈黙を経て。今ようやっと、この部屋に音が────人の声が響き渡った。

 

 突如、不意打ち気味にクラハが喋ったことで。ラグナは驚き面食らってしまった。

 

 しかし、最初に口を開いたのがクラハだったことに────否、クラハがその口を開き、言葉を発してくれたこと自体に対して。その実、とても安堵してもいた。

 

 ──クラハが喋った……!

 

 状況の変化。事態の進展。それをどれ程、ラグナが切望していたか。自らの手でどうにかすることもできず、時間もただ過ぎるだけで何も解決してはくれないと。つい先程まで半ば諦めていただけに、気が抜け否応なく脱力してしまうような安心感が。どっと、ラグナにのしかかってくる。

 

「ぁ……え、な、慣れた……って?」

 

 なので簡単な受け答えをするにも手間を要し。しかもその上今の今まで黙っていたのはラグナも同じで。故に今すぐ喋るのはおろか返事をするのもままならなかった。

 

 ……なかったのだが、それでも。クラハが喋ってくれた。クラハがこちらに話しかけてくれた。

 

 その僥倖、この機会(チャンス)を。ラグナはみすみす逃す訳にはいかなかった。いや、逃したくなかったのだ。

 

 故にだからこそ。ラグナはその一心で、どうにかこうにか。引き攣りそうになりながらも、無理矢理に震わせた喉の奥から絞り出した返事が、それだった。

 

 我ながら情けない、あんまりにもあんまりな返事だということは重々承知していた。もう少し言い方というものがあるのではないかと、ラグナとてわかっていた。

 

 だが、何も言えないよりかはマシであると。無言になってしまうよりかは、ずっとずっとまだマシであると。ラグナはそう思ったのである。

 

 すると数秒の間を置いてから、再度クラハが口を開いた。

 

「受付嬢としての仕事に、です」

 

 淡々とそうとだけ、クラハはラグナに告げる。確かに、それはそうだった。

 

 ラグナが受付嬢として働き始めて、(はや)三日。だが、そのたった三日で、ラグナは────()()()()()()()()()()

 

 最初こそ、ラグナも不安で仕方がなかった。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属する冒険者(ランカー)である自分が。しかも元々男だったこの自分が。

 

 何の脈絡もなく突然に『大翼の不死鳥』の受付嬢となって。いきなり、そうなってしまって。

 

 他の、それも自分がまだ《SS》ランクになる前の。そんな昔からの付き合いがある冒険者たちと。今度は受付嬢として接する────ラグナにとってそれが一体、どれだけ空恐ろしいことだったか。

 

 こんな受付嬢(じぶん)を彼らはどう見るのだろう。どう言うのだろう。どう思うのだろう。

 

 こんな受付嬢を彼らは快く受け入れてくれるのだろうか。こちらの立場が変わっていても、以前と変わらずに接してくれるのだろうか────という、心配と不安に。

 

 ラグナは駆られて、押し潰されそうになって──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あなたは……違う……ッ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────しかし。その矢先の出来事によって、ラグナのそれらは一切合切纏めて、木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

 今ならわかる。もう認める。認める他にない。自分はただ、逃げたかった。

 

 目を逸らし、顔を背けて。拒絶された記憶を、ラグナは拒絶したかった。

 

 投げて。放って。捨てて。避けて────そうしたいが為に。

 

 要領良く効率的に。受付嬢の仕事を学び、倣い、覚えていった。

 

 何も知らない者が側から見ただけでは、そういう風にしか映らなかった。そのはずである。

 

 だが、そうではない。確かにラグナは要領良く効率的に学び、倣い、覚えた。それは紛れもない事実だ。

 

 けれどそれはあくまでも────逃げたかったからである。

 

 一時でも、一瞬であっても。瞬きにも満たない、ごく僅かな短い間だとしても。

 

 それでも。どうしても、ラグナは逃げたかったのだ。

 

『あなたは……違う……ッ』

 

 その記憶(ことば)から、逃げ出したかっただけなのだ。

 

 ……いや、足りない。逃げるだけで留められない。それだけで済ませることなど、できやしない。

 

 逃げるだけでなく、もう()()()()()()()()。いや、いっそのことならば、そもそも()()()()()()()──────────

 

「……は、はは。そ、そうか?そういうの、俺……自分じゃよくわかんねえ、な」

 

 ──────────と、そこで無理矢理に自らの思考を打ち切って。そう、ラグナはクラハに返すのだった。自分でもどうかと思う返事であることは承知の上の、覚悟の上で。

 

 だからこそ。間髪入れずに、ラグナはクラハへこう続けた。

 

「で、でも、な?意外と評判は悪くないっつうか、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の皆は良いって、受け入れてくれて。受付嬢の仕事も俺が思ってた程、そんな難しくなかったし。それにその……こ、この格好だって。えと、な、慣れちまえば平気っていうか、なんていうか?……あ、あれ?俺何言ってんだろなー……?」

 

 言っているその途中で、自分でもどうかと思う返事がさらに拗れ。その所為で余計に意味がわからないものとなっているばかりか、もはや何を言いたいのかすら不明となりかけていることを自覚し。堪らず、ラグナは自らそれを指摘してしまう。

 

 要領を得ないラグナの言葉に。しかし、クラハはその顔を険しくさせることもなければ、眉を顰めることもせず────

 

 

 

「……────……──────」

 

 

 

 ────と、何か呟いた。だがそれは非常に小さな声量で、とてもではないがラグナが聞き取れるような代物ではなかった。

 

 ──え……?クラハ、今なんて……?

 

 だがしかし、そんなクラハの些細な一挙手一投足の全てすら今は見過ごせず、否応にも気にしてしまうようになっているラグナが。それを無反応で片付けることなど、絶対にできず。

 

 故にだからこそ、そうして引っかかり、奇妙に思って。そして恐れ多くも、けれど聞かないよりかはまだずっといいと。

 

 ラグナが訊ねようと口を開く────その寸前で。

 

「これでいいと、そうは思いませんか」

 

 まるでそれを遮り邪魔でもするかのように、不意にクラハがそう言った。



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冒険者と受付嬢(後編)

「こ、これでいいって……それ、どういう意味だよ?……クラハ」

 

 思わず呆然としかけながらも、どうにか。困惑と動揺を滲ませ、ぎこちなくながらにもラグナはクラハにそう訊ねた。

 

 いや、訊ねたのではない。それは()()だ。ラグナは確かめたかったのだ。

 

 その、クラハの発言の意味を。その言葉に込められた、彼の心意を。

 

 そんなラグナの思惑を知ってか知らずか、さも当然のことかのように。

 

「どういうも何も、そのままの意味ですよ」

 

 平然、平淡と。ラグナにそう答えるクラハ。そんな彼を、ラグナはまるで信じられない面持ちで見つめてしまっていた。

 

 ──そのまま、って。

 

 つまりは、そうだ。そういうことだ。

 

 ──それって、じゃあ……っ。

 

 けれど、そうであるとは、ラグナは理解したくなかった。そうであるとは、心底認めたくなかった。どうしても否定したかった。

 

 ──そんなの、俺は……!

 

 そう、嫌だった。だから、すぐさまラグナは言わんとした。伝えようとした。

 

 だが、その前に。

 

 

 

「それにラグナさんだって、そう思っているんじゃないんですか?」

 

 

 

 と、クラハに言われた。

 

「……は」

 

 クラハの言葉は、ラグナにとってまさに寝耳に水で。全くの予想外な。考えもしなければ、頭に浮かべることすらもしなかった。

 

 まるで鳩が豆鉄砲を食ったようになったラグナが。辛うじて、紡げた言葉といえば。

 

「お、俺もそう思ってるって……意味、わかんねえんだけど……」

 

 それであった。そんなラグナの発言(それ)を聞いたクラハが。数秒の間を置いてから、ゆっくりと喋り出した。

 

「三日が過ぎました。この三日間、何の滞りなく、何の問題もなく過ぎましたよ。僕は冒険者(ランカー)として……あなたは受付嬢として。そうやって、過ごしたんですよ」

 

 まるで語り手のような口振りで、後半の冒険者、受付嬢という部分をやたら強調しながら、クラハはラグナにそう言う。そして彼はこう続けた。

 

「ラグナさん。僕はその三日で何をしていたと思います?」

 

「……そ、んなの」

 

 ()()()()()()()()。そのクラハの問いかけに、ラグナは答えを返したくなかった。

 

()()()()()

 

 それを、彼は見透かしたのだろう。

 

「一日目は初々しかったですね。二日目は慣れ始めてましたね。三日目は……()()()()()()()()

 

 側から聞いていれば、特筆することもない。別段、何らかの考えも思いも感じられない、謂わば変哲のない日常の中の会話。

 

 しかし、ラグナからすれば────それは誹り詰りの類にしか聞こえなかった。そうとしか、もう思えなかった。

 

「受付嬢の制服を……あんなに嫌がっていた女性物の服を着て。掃除して。給仕して。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の皆さんに笑いかけて。依頼(クエスト)へ赴く皆さんを、可愛らしい素敵な笑顔で見送って」

 

 止めさせようと思った。今すぐに口を閉じてほしいと願った。どうかこれ以上、喋らないでくれと祈った。

 

 

 

 けれども、ラグナはそれを行動に出すことはできなかった。

 

 

 

「あの時のラグナさんは誰がどう見ても、もうそれは立派な受付嬢でしたよ。……いえ」

 

 遂に、ラグナが言われることを。他の誰でもない、クラハに言われてしまうことを。クラハは口にし始めた。

 

 ──ち、違う……!

 

「ラグナさん」

 

 ──違う、違うっ!俺は、俺は……っ。

 

 そしてとうとう、クラハは────────

 

 

 

 

 

「今やあなたは、立派な『大翼の不死鳥』の受付嬢です」

 

 

 

 

 

 ────────ラグナへ、そう言い放った。

 

「違うッ!!…………ぁ」

 

 バンッ──気がついた時にはもう既に、ラグナはそう叫んでいた。叫ぶと同時にその両手でテーブルを叩き、椅子から立ち上がっていた。遅れて、その口からばつが悪そうに声を漏らす。

 

「……違う、ですか」

 

 そんなラグナを。しかしクラハは咎めることもなければ、不快に思うことも、嫌悪を向けることもなく。

 

「何がです」

 

 ただ淡々と、そうラグナに訊ねた。

 

「そ、それは……そりゃ、ぁ……」

 

 答えようとするが、言葉に詰まり、最終的にラグナは口籠る。その傍ら、心の中では諦めるようにこう呟いていた。

 

 ──何が、違うんだよ。

 

 そうだ。本当はわかっていた。ラグナはわかっていたのだ。

 

 ──何にも、違わねえ……。

 

 故にだからこそ、ラグナは否定したかった。わかっているから────嫌だった、から。だから、クラハの言葉に対し違うと叫んでしまった。

 

 ──違わねえよ……ッ!

 

「…………」

 

 そうして、ラグナは口を閉ざした。まるで苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべ。それから徐々に、その目線を下に伏せ始めてしまう。

 

 今すぐにでも死にたくなる程の自己嫌悪に囚われながら、まるで唯一の逃げ場所に駆け込むが如く、ラグナは思う。

 

 そもそも、自分がこうなったのは。こんな少女(じぶん)にだって、できることを。

 

 

 

『今の()()()なんかが』

 

 

 

 ただできることを、ただしたかった。

 

 

 

『じゃあ……『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢、やってみる?』

 

 

 

 ただ、それだけだった。

 

 そこに違いなどない。何一つとして、ない。

 

 故にどれだけ御託を並べ立てようと、結局それら全ては。くだらなくつまらない、みっともなく情けない、言い訳にしかならない。

 

 そのことに今更ながら気がついたラグナは、やがて目線を伏せるだけでなく、その顔も次第に俯かせていく。

 

 そんなラグナの姿を、果たしてクラハはどんな思いで目の当たりにしているのか。

 

 ──……ッ。

 

 それを、ラグナは怖くて考えることはおろか、簡単な想像をすることですら恐れて、できないでしまっていた。

 

「つまり、要はこうです。ラグナさん」

 

 不意に、クラハが口を開いた。その声に、ラグナがビクリと肩を跳ねさせた。

 

 ──駄目だ。

 

 ラグナがそう思うのも束の間、クラハは続ける。

 

「僕は冒険者(ランカー)として。そしてラグナさんは受付嬢として」

 

 ──それじゃ、駄目だろ……!

 

 駆け上がる焦燥。込み上げてくる不安。けれども、ラグナは口を開けず、黙り込んだままで。そんなラグナにクラハは遠慮なく、依然として続けてくる。ラグナにとって出来の悪過ぎる冗談を、彼は平然と宣い続ける。

 

「過ごせばいい。今こうしているように、()()()()も過ごしていければ、それでいい」

 

 そうして、ラグナを追い込み追い詰めるその焦燥と不安は、その時最高潮へと達した。

 

 ──駄目だって……っ!!

 

 だが、それでも言えなかった。拒絶の一言も、否定の一声も。クラハに対して、ラグナは何も言えないでいた。目を伏せ顔を俯かせて、それは出来の悪過ぎる冗談であると、必死に己に言い聞かせながらに。まるで親に叱られている子のようにしかいられなかった。

 

 そして、そんなラグナに対してクラハは──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたも、そう思うでしょう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────止めの一撃が如く、最後の選択を突きつけた。

 

「……………俺、は」

 

 現実にしてみれば、たかだかほんの数秒程度。だがラグナ当人からすれば、永遠とも思えてしまうくらいに引き伸ばされた沈黙と静寂であった。

 

 それを経て、ようやっとラグナは口を開かせ、そう言って。しかし、すぐさま躊躇い、途中で止めてしまう。

 

 真っ白な頭の中に、言葉など浮かばなくて。浮かべられなくて。

 

 ただ、気がついた時には──────────

 

 

 

 

 

「お前がそう思ってるんなら、俺は……それで……」

 

 

 

 

 

 ────────と、最後まで顔を逸らしながらに。ラグナはそう言っていた。

 

 だが、それは考えるまでもなく、考えてはいけない言葉であった。口に出してはいけないことであった。少なくとも、今この時、今この場で。この現況に於いては。

 

 そしてそれがわからず、そうであると判断できないラグナではない。

 

 ……が、それは普段通りのラグナであればの話だ。

 

 今のように焦燥に駆られ、冷静さを欠いてしまっていれば。正常な判断も下せなければ、そんな子供にだってわかるようなこともわからない。

 

 これは所詮、たらればな。もはや取り返しのつかない、既に過ぎてしまったことではあるのだが。

 

 仮にもし、この時ラグナが。クラハに対して、そういう素振りをせずに。何も気取らず、誤魔化さず、ただ素直に、ラグナのありのままに。

 

 心に押し留め、隠し秘めることなどせず、その本音(せいかい)を口に出していれば、或いは。こうはならなかったのかもしれない。結果はまた違っていたのかもしれない。

 

 だがもう、全ては後の祭りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、ラグナは選択を誤った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……これで僕の話は終わりです。お忙しい中こんな僕の、こんな話の為に。貴重な時間をわざわざ取らせてしまって、申し訳ありませんでした」

 

 ラグナの返事に、何処までも他人行儀な。親しい付き合いなどない、赤の他人と接するが如き距離感を。否応になく感じさせる口調と声音で返すクラハ。

 

「っ……いや別、に」

 

 そんなクラハのよそよそしい態度にラグナは傷心せずにはいられず。それでもどうにか口にできた返事が、それだった。

 

 ラグナとクラハ。今、この二人を目の当たりにして。かつては親しい先輩と後輩の間柄であったと。一体、どれだけの人間がわかるだろうか。皆無────とまではいかずとも、しかしごく少人数であることは確かだろう。

 

「では、僕はこれで失礼します」

 

 と、まるで突き放すかのようにラグナに淡々とそう言って。特に後ろ髪を引かれる様子もなく、彼は椅子から静かに立ち上がる。

 

「……おう」

 

 ラグナも、言えたのはそれだけで。それ以上のことを、ラグナはもう言えなくて。言えずに、ただ服の裾をグチャグチャに掻き乱し、固く握り締めることしかできない。

 

 もはや何を考え何を思えばいいのか。どうしてどうすればいいのか。未だ真っ白な頭ではそれらが全く以てわからない。何もかもが全然、わからない。

 

 気がつけば目の前が真っ暗だった。そんな状態のラグナですらも、クラハは────気にも留めないで、背を向けそのままこの部屋の扉へと歩き進んで行ってしまう。

 

 そうしてクラハは扉の前にまで辿り着き、そのノブに手をかける────────

 

 

 

 

 

「ク、クラハッ!」

 

 

 

 

 

 ────────寸前、椅子を吹き飛ばす勢いで。乱暴に思い切りよく立ち上がったラグナが。今まさにこの部屋から立ち去らんとしたクラハを、呼び止めた。

 

「……はい」

 

 と、やはり冷淡に。しかし律儀にその場に留まり、クラハはラグナの方に顔を振り向かせる。

 

「その、えっと……っ」

 

 そんなクラハとは対照的に。彼を呼び止めたはいいものの、そこから先はまるで考えていなかったラグナは言葉を続けられず、言い淀んでしまう。

 

 依然としてラグナの頭の中は真っ白だ。真っ白で、その所為でまだ何も考えることなどできそうになくて。そもそもクラハを呼び止めたのだって、焦燥と不安に背を無理矢理に押された故の、衝動に任せた、咄嗟のことだったのだから。

 

 しかし、それでも。沈黙している訳にはいかないと。黙り込んでしまってはならない、と。それだけは────それだけしか、今はわからなくて。

 

 だから、ラグナはそう言ってしまったのだろう。またしても衝動に任せて、咄嗟に────

 

 

 

「この格好どうだっ!?……お、俺、似合ってる…………か……?」

 

 

 

 ────そう、言ってしまっていたのだろう。

 

「み、皆からは似合ってるって、評判良くて、さっ。メルネもそう俺に、言ってくれて……っ」

 

 ──……あれ、俺、何言って……?

 

 頭の中は真っ白。目の前は真っ暗。訳がわからない。だからいつの間にか、勝手に口から出てしまった自分の言葉すら、ラグナはわからないでいた。

 

「………………」

 

 まるで数撃てば当たると盲信し、邁進するように言葉を垂れ流すラグナのことを一瞥し。数秒の間を置いてから、クラハがその口を開かせる。

 

「ええ、似合ってますよ」

 

 喜々と(はしゃ)ぐ訳でもなく。怒気に突き動かされる訳もでもなく。哀切に嘆く訳でもなく。楽しそうに揶揄う訳でもなく。

 

「今のあなたに、とても良く似合ってますね」

 

 そう言うクラハの口振りは、至って平然と。何処までも、淡々としていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……似合ってる、か。そっか。そうなのか。そう……なんだ、な……」

 

 独りとなった来賓室で。そっと、静かにラグナは呟く。その声は、弱々しく掠れていて。儚げに震えていて。

 

「俺……本当はどう、言って…………」

 

 そして淋しげに、濡れていた。



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「今のあなたに、とても良く似合ってますね」

 

 と、それだけ最後に伝えて。それに対するラグナの返事も待たずに、用の済んだクラハが来賓室を後にする。

 

 開いた扉を音もなく、丁寧に閉ざし。そしてクラハはその場から離れようと歩き出す────

 

 

 

「話はもう終わったのかしら」

 

 

 

 ────直前、横合いからいきなり話しかけられ、彼はその足を止めざるを得なくなった。

 

「だとすれば……少し、広がりに欠ける話だったようね」

 

 律儀にもその場に踏み止まったクラハに対して、声の主────メルネはそう続ける。その声音は落ち着いており、しかし注意深くよく聴いてみれば。そこには責め立てる非難の響きが含まれていることに気がつけるはずである。そして、それに気がつけないクラハではない。

 

 その上で、クラハはメルネに顔を向けることもせず、淡々と短くこう返す。

 

「ええ」

 

 そうして訪れる静寂。クラハとメルネの二人は互いに沈黙し、そのまま数秒が過ぎた後のこと。

 

「ラグナさんの時間を僕に割いて頂き、ありがとうございました。メルネさん」

 

 先に再度口を開いたのはクラハで。やはり丁寧に、しかし何処までも他人行儀な口振りで。その時、その瞬間ですら顔を一切向けることなくメルネにそう言って、クラハはその場から去ろうと歩き出す。

 

 その歩みを、メルネは。今度は止めようとはしなかった。

 

「…………ねえ」

 

 そして徐々に遠去かるクラハの背中を見つめながらに、黙っていたメルネが不意にその口を開かせた。

 

「ラグナのこと。どうして普段通りに、先輩って呼ばないの?」

 

 その問いかけが、クラハの足を再び止めさせた。

 

「……」

 

 しかし、だからといってクラハが口を開くことはなく。おろか、やはりメルネに顔を向けることもなく。そして彼女に対し背を向けたままで、その場に立ち尽くすだけである。

 

 そんな彼を、メルネはそれ以上何も言わず。ただ、何処か虚無めいた哀愁を漂わせるその背中を、じっと静かに見つめ、答えを待っている。

 

 今度の静寂は数分と続き。そしてまたしても、沈黙を先に破ったのは────

 

 

 

「違う」

 

 

 

 ────クラハだった。その短い一言だけは、メルネの方を振り向いて言うのだった。

 

 ──……!

 

 ようやっとこちらに振り向いたクラハの顔を目の当たりにしたメルネは、その時息を呑まずにはいられなかった。

 

 喜怒哀楽の抜け落ちた、虚無の表情。宛らそれは、輪郭を縁取り、なぞり、人間の顔の形を真似て模した────虚空(うろ)の穴。其処に浮かんだ、二つの目玉(がらんどう)

 

 それを目の当たりにした者全員を、漏れなくゾッとさせる深淵の最中に。一瞬、だが確実に────メルネは、垣間見た。

 

 

 

 

 

 此方を睥睨する、黒い獣の姿を。

 

 

 

 

 

「……失礼します」

 

 不覚にも呆気に取られ、放心するように立ち尽くすメルネに。クラハはそれだけ伝えると、再び歩き出す。そんな彼の声に、ハッとメルネは我に返った。

 

「まっ、待ちなさい……!」

 

 と、慌てて呼び止めようとするが。しかし、クラハはもう止まらない。それでも構わず、メルネは続ける。

 

「あなた、あなたは……ッ」

 

 だが、そこまでだった。そこまで言って、メルネは口惜しげに、その口を閉ざした。

 

 そうして、この場からクラハは去っていった。遠のく彼の背中が完全に消えるその時まで、黙り込んでいたメルネは。そっと、誰にも聞こえないだろう小さな声で呟く。

 

「……あなたはクラハ=ウインドア、なの……?」

 

 声に出してそう言ったことで、否応にも実感させられる。そう訊ねなかった安堵と、そう訊ねられなかった後悔。

 

 その二つに挟まれ、押し潰されながらに。メルネは来賓室の扉の方に振り向き、ゆっくりと歩み寄った。

 

 そしてノックしようと手を上げ────そのまま、彼女は固まった。

 

 ──……私、には。

 

 やはり、抱いたその疑問が。どうしてもメルネを躊躇わせる。果たして自分はこの扉を叩き、部屋の中にいるであろう人物に声をかけてもいいのだろうかと、彼女に考えさせてしまう。

 

 何百と、散々に繰り返したその自問自答────そうだ。こんな自分に、そんな資格など──────────

 

 

 

 

 

「そこにいんだろ。メルネ」

 

 

 

 

 

 ──────────と、その時。メルネは突如として扉の向こうからそう話しかけられた。

 

 その声────ラグナの声に。堪らず驚きながらも、平気な風を装いメルネは口を開く。

 

「ええ。いるわよ、ラグナ」

 

 変に誤魔化そうとはせず。余計なことは言わず、率直にそう返すメルネ。それが功を奏したのか、そんな彼女に対してラグナが言う。

 

「クラハとの話、今さっき終わったから。仕事、すぐに戻るな」

 

 ラグナのその声が、メルネの懊悩を加速させた。

 

「……そう、ね。お願い」

 

 メルネは己を呪わずにはいられなかった。あの時も、この時でさえも。鈍感になれない己が、メルネは恨めしかった。

 

 ラグナの声は揺れていた。震えていた。濡れていた。

 

 それに気づくことができなかったのなら、一体どれだけ良かったことか。

 

「それじゃあ私、先に戻ってるわね」

 

 部屋に入ることも、遂に扉を開くことさえせずに。そうとだけラグナに伝えて、メルネはまるでこの場から逃げるかのように。

 

 来賓室の扉から離れようと背を向け、歩き出す────その直前。

 

「メ、メルネ!……悪い。ごめん」

 

 という、扉の向こうのラグナの声が。メルネの足を止め、彼女を扉の前に留めさせた。

 

 そしてすぐさま、ラグナがメルネに続ける。

 

「やっぱ……もうちょっと、だけさ。戻るの、待ってくんねえか……?頼む、から……」

 

 と、懇願するラグナのその声は。弱々しく切なげで。可哀想な程に、淋しそうだった。

 

「……わかったわ」

 

「…………ホント、ごめん」

 

「大丈夫。大丈夫だから」

 

 そうして、二人の会話が終わり。今一度、静寂となったその場にて、メルネは背を来賓室の扉に預け、そのままズルズルと腰を廊下の床に落とす。

 

 ──何が大丈夫よ。一体、何が大丈夫なんなのよ……。

 

 その言葉の、あまりにもあんまりな無責任さに。言った自分ですら乾き切った笑いが込み上げてくる。……それと同時に、どうしようもない嫌気が差してくる。

 

 どうしてこうなるのだろう。どうしてこうなってしまうのだろう。もうお手上げだった。匙を何本も放り投げ捨てた。

 

 ……なのに、それでも。

 

 

 

 

 

 ──私は、あなたの味方でいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メルネ。メルネ=クリスタ。嗚呼、お前はなんと度し難い女なのだろう。

 

 この期に及んで。間違えて、委ねて。その癖、味方でいたいなどと。もはや、どうしようもない。

 

 優しさもない。厳しさもない。ただ狡くて、甘いだけの女────お前は、そういう女なのだ。

 

 そういう女にしか、お前はなれない──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 ふと、メルネは思った。

 

 いつの間に、この世界は。こんなにも酷く濁ってしまったのだろうか、と。



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懐疑

「…………」

 

 メルネに一方的に別れを告げ、来賓室から離れたクラハ。独り、彼は廊下を歩き進んでいく。

 

 誰かに呼び止められることはおろか、誰ともすれ違うこともなく。故に何の滞りなく、クラハはあっという間に『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ホール)へと戻ることができた。

 

 つい先程と同じく、広間は相も変わらず忙しくなく、喧しく、騒がしい。

 

「……」

 

 クラハにとって、別に見るのも初めてではないその景色、光景────が、今だけはどうしようもない程無性に、苛立たしい。頭の中を掻き回されるようで、とてもではないが堪えられたものではない。

 

 だから、すぐさまこの場からも離れようと。クラハは歩みをまた、足早に再開させる。

 

 広間に入った時と同様、今この場にいる誰もが気づけないままに。『大翼の不死鳥』を後にする為、クラハが広間から出て行く────

 

 

 

 

 

「おいおい。俺に挨拶もしないで出るつもりかよ?なあ、クラハよぉ」

 

 

 

 

 

 ────その直前、出口に一番近い席に座る男が声をかけ、彼のことを呼び止めた。

 

 声をかけられ、呼び止められたことで。メルネの時と同じように、やはり律儀にもその場でクラハは立ち止まる。そして、ゆっくりと声がした方に顔を向ける。

 

 その席に座っている男の顔を目で見て確認し、クラハが口を開く。

 

「……すみません。気がつきませんでした、ロックスさん」

 

 と、クラハにそう謝られて。その男────冒険隊(チーム)『夜明けの陽』の隊員(メンバー)の一人、ロックス=ガンヴィルが仕方なさそうな苦笑を浮かべるのであった。

 

「気がつきませんでした、って……俺ぁ、そんなに影薄かねえぞってな。まあ別にいいけどよ」

 

「では僕はこれで」

 

 と、即座に。冷淡にそう言って。今すぐにでもこの場から離れようと、出口を抜けようとするクラハ。そんな彼にまたしてもロックスは慌てて声をかけ、呼び止めようと試みる。

 

「お、おい!だからちょっと待てって!クラハ!!」

 

「…………はい」

 

 ロックスに呼び止められ、再度その場に立ち止まるクラハ。そんな彼の様子に流石のロックスも浮かべていたその苦笑から一転、真剣な表情となって。表情と同じく真面目な声色で訊ねる。

 

「一体何があった。クラハ、お前……どうしたってそんな、死人よか酷え(ツラ)晒してんだ」

 

「……死人…………」

 

 ロックスにそう言われ、クラハが呆然とそれだけ呟く。その声音も口調も、まるで何処かの他人事のようで。実際、クラハにとってはそうだったのかもしれない、と。ロックスは思わざるを得ない。

 

 しかし、それはとんだ()()()であったことを。すぐさま、ロックスは思い知らされる。

 

「……いっそのこと死んでしまえたのなら、どれだけ良かったんだろう……」

 

 一瞬、聞き間違いかと。自分の耳を疑い、それが事実かどうかを確かめる為に、即座にロックスは再度クラハに訊ねる。

 

「は?クラハ、今何()って……」

 

 が、それに対してクラハが言葉を返すことはなく。無視したまま、今度こそ『大翼の不死鳥(フェニシオン)』を後にしようと、扉に手を押し当て、そのまま開く──────────

 

 

 

「ラグナはどうした。何だって今日は一緒じゃねえんだ」

 

 

 

 ──────────その寸前、ロックスにそう言われ。瞬間、クラハが固まった。

 

「……………ロックスさんには関係ないでしょう。僕も、もうどうだっていい」

 

 そして数秒の間を挟んで、クラハはロックスにそう言うのだった。

 

 

 

 

 

「おいッ!!」

 

 

 

 

 

 が、その言葉を。よりにもよってクラハ当人から聞いてしまっては、平気でいられるロックスではなく。堪らず声を荒げ、テーブルを蹴飛ばす勢いで彼は椅子から思い切り立ち上がる。そしてその場から駆け出そうとした、その時のことだった。

 

「どうだっていい?どうだっていいって、言ったなあ?確かにそう言ったよなあ、クラハぁ!?」

 

 という声が、ロックスの背後から喧しくも広間(ホール)に響き渡った。

 

 ──ああ!?誰だ……!?

 

 声の主を確かめるべく、ロックスは視線だけ背後にやる。……その声の主を見つけるのに、そう大して時間は取られなかった。

 

 ──あいつは確か……ロンベルの野郎か。よりにもよって、また七面倒な奴が……。

 

 そうぼやくロックスの背後に立っていたのは、ロンベル=ハウザーという名の男。彼もまた『大翼の不死鳥』に所属する冒険者(ランカー)で、そのランクも《A》という、優秀な部類に当たる。

 

 ……しかし、優秀ではあるもののその素行はお世辞にも良いとは言えず。大酒飲みで、よく女性絡みの問題(トラブル)を引き起こしていた。

 

 辟易せずにはいられないロックスのことなど眼中にも入れず、ロンベルは依然喧しい声量で、まるで怒鳴り散らすように。周囲の視線を気にも留めずに叫ぶ。

 

「そんじゃあ好きにしても構わねえってことだよなあ!お前は文句ねえってことだよなあ!!我らが『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の、期待の新人受付嬢……ラグナちゃんを俺の好きにしたって、よおッ!?」

 

 と、無遠慮かつ不潔極まりなくも、薄ら汚い唾と共に。己の下卑た欲望を少しも包み隠そうともせず、叫び撒き散らすロンベル。そんな彼に対し、ロックスは眉を顰めざるを得なかった。

 

 ──何ふざけたこと抜かしてやがんだこの野郎が……!

 

 そして腹の奥底から煮え滾る怒りをロックスは────()()()()()()()()

 

 ──そんでもって、こんな野郎にこんなこと言わせやがってよぉ……クラハよぉ……ッ!!

 

 クラハとラグナの間に起きたことを、ロックスはまだ知らない。知らないが故の、その義憤を彼は抱き。

 

「はっはあ!いんやぁ今から楽しみだぜえ……あの生意気な乳、俺のこの手でどう弄ったもんかな……!」

 

「ロ、ロンベルさん……流石に拙いですって。ラグナさんに対してそんなこと言っちゃあ拙いですって……っ」

 

「ああッ!?んだおめぇ……俺に意見するって、かぁ!?」

 

「へ……?べぇげぇ、え゛ッ」

 

 その矛先をまずはロンベルに向ける。己の発言が如何に下劣で下衆で、最低最悪であるかを全く自覚せずに。

 

 その上彼の今後を案じ、わざわざ注意してくれた者を。同じ冒険者組合(ギルド)に所属する仲間を。何の躊躇いもなく平気で殴り飛ばす彼に、その鋭き切先を真っ直ぐ突きつける。

 

 ──けどまあ、まずぁ先にこいつを〆なきゃなあ……!!

 

 そして話は全てそれか、と。ロックスが動く────その直前のこと。

 

「第一ラグナさんラグナさんってなあ……あんな乳と尻だけのあんなガキが、ブレイズさんな訳ねえだろうが馬鹿が。デマ、デマなんだよどうせよ。何の為だかは知らねえし知る気もねえけど、天下の『世界冒険者組合(ギルド)』サマが言いふらした大嘘だ、どうせな。あのガキだって『世界冒険者組合』が用意したブレイズさんの影武者か何か────

 

 

 

 

 

 バキャッ──瞬間、突如として床が割れ砕ける音がした。

 

 

 

 

 

 ────ぶご、げがあっ?!」

 

 それとほぼ同時に、ロンベルの間の抜けた、しかし苦しげな悲鳴が。喧しく、広間に響き渡った。

 

「……な、んだと……!?」

 

 その時目の当たりにした光景を、恐らく生涯────は言い過ぎだろうが。しかし、当分の間は忘れられないだろうと。慄きながらにロックスはそう確信する。否、させられた。

 

 つい先程まで『大翼の不死鳥』の出入口たる扉の前に、さらに言うのならばロックスの背後に立っていたはずの。

 

 クラハ、が。その片手で以てロンベルの顔を掴み、そして────彼を広間(ホール)の床に()()()()()()()

 

「ぐべあ、ごろ、ず……ごろ゛じで、やる゛……ぞッ」

 

 ロンベルはクラハの一回りはおろか、二回りはその背丈を越す巨漢である。そんな彼は今、二回りも小さいクラハによって。ろくな抵抗も許されず、床に叩きつけられ、不甲斐なく押さえられてしまっている。

 

 無論、こんなことを、それもこのような衆目の面前でされて。それで黙っていられるようなロンベルではなく。彼はせめてもの抵抗となけなしの意地を振り絞り、剥き出しにした殺意を丸出しに。躊躇いもなくそれをクラハへとぶつけてみせる。

 

 だがしかし、もはやそんな程度のものでは。今のクラハは僅かにも恐れることもなければ、当然のように怯えもしない。

 

「少しでも手を出してみろ。ロンベルさん」

 

 と、その言葉だけ聞けば至極冷静そうに。けれどその行動は誰が側からどう見ても、激情に駆られ突き動かされたのだろうクラハが。

 

 そっと静かに、聴いた者全員が身の毛もよだつ程に低い声で、自らが取り押さえているロンベルに告げる。

 

「その時は、遠慮も容赦もしない……!!」

 

 

 

 ミシ──そしてそれとほぼ同時に、何かが。軋んではいけない何かが、鈍く軋んだような音が小さいながらにした。

 

 

 

「ぎあ、っえ」

 

 直後、まるで轢き潰された小型の魔物(モンスター)のような。そんな情けない悲鳴をロンベルが漏らし。彼のすぐ下にある床が僅かに()()()。瞬間、即座にロックスが叫んでいた。

 

「止めろクラハッ!もういいやり過ぎだ!」

 

 あくまでも今はまだ脅しのつもりで、元々本気でそうするつもりはなかったのか。それとも、ロックスに言われたからか。

 

「……」

 

 驚く程素直に、あっさりとクラハは引き下がった。

 

 クラハの手が離れたロンベルの顳顬には、はっきりと彼の五指の跡が残されており。その上、若干陥没もしていた。

 

 ちなみに先程悲鳴を上げたばかりのロンベルだったが、今はもう気絶してしまっている。

 

 己がすぐ目の前で起きた出来事に、広間にいる『大翼の不死鳥』の冒険者たちは唖然とする他になく。それを気にする様子を少しも見せずに、クラハはその最中を通り抜けていく。

 

 そうして最後まで平然としたままに、まるで何事もなかったかのように。クラハは改めて『大翼の不死鳥』の扉の前に立ち、今度こそ押し開けて、そのまま出て行った。

 

 クラハを送り出した扉はゆっくりと閉ざされ、完全に閉じたその時。未だに多くの者が唖然とし、その皆が恐れ慄くように押し黙る中。

 

 唯一、あの場面。表面上はクラハを制することができたロックスだけが、その口を開かせることができた。

 

「お前、か……?本当にクラハだったのか、お前は……?」

 

 しかし、そんな彼でさえも。戦慄し、僅かにとはいえその声を震わせずにはいられなかった。



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変化

 ()()()()。いとも容易く、それこそあっという間に。

 

 クラハとラグナ。その日を境に、その二人の関係は大きく────大き過ぎる程に、変わってしまった。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属する冒険者(ランカー)、クーリネアら受付嬢。GM(ギルドマスター)、グィン。そしてロックス、メルネ。

 

 彼ら、彼女らにとって。もはやそれは日常の一部で。普段から目にしていた、光景で。

 

 

 

 

 

「ぃよっし。クラハ、今日はこの依頼(クエスト)にすんぞ」

 

「え?い、いやラグナ先輩……これ、まだ僕が受けれるような依頼じゃあ……」

 

「俺が一緒なら大丈夫だろ」

 

「それはそうですけど、規則の問題ですし」

 

「あーもううっせえなあ。んじゃあGM(ギルマス)に話付けっから。それで文句ねえだろ?」

 

「そ、そういう問題じゃあないですよ!」

 

 

 

「おいクラハ!今日はアジャの森に行くんだ!さっさと支度しやがれっ!」

 

「ですから、僕はまだ《B》冒険者でまだ行けないんですって!」

 

「だから俺がいんだから平気だって何度も言ってんだろが!」

 

「そういう問題じゃあないんですよ!?」

 

 

 

「はっはっはっ!いや面白かったな、白金の塔!なっ、クラハ?」

 

「……死ぬかと、思った。何度も、何度も……」

 

「はあ?何ブツブツ言ってんだお前。面白かったろって俺訊いてんだけど?」

 

「何も面白くありませんでしたよ僕はッ!《A》ランクに昇格した直後に危険度《A》の、その中でも最高峰の白金の塔にいきなり挑まされて……どうやって楽しめと!?死ななかったのがまるで奇跡ですよ!」

 

「あー……?まあ別にいいじゃねえかよ。俺がいたんだし」

 

「そういう問題じゃあないんですってッ!!」

 

 

 

 

 

 ……そう。もはやその光景は、数多く存在する『大翼の不死鳥』の。日常の一部──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………先輩。その、今までありがとうございました。先輩のおかげで、僕はここまでやってこれたんです」

 

「あ?ああ……そうか?そうなのか……俺は別に大したこと、やってなかったと思うけどよ」

 

「そんなことないです。……ま、まあ、色々……本当に色んなことあったり、させられたり。酷い目にも遭いましたし死にかけたりもしましたけど。でも今思い返してみれば、それがなければ今の僕はいなかった……そして今日、《S》冒険者(ランカー)になることもできなかった。だからやっぱり、ラグナ先輩のおかげなんですよ」

 

「…………そう、か」

 

「はい」

 

「……クラハ」

 

「はい。何ですか、ラグナ先輩」

 

「凄え頑張った。それだけじゃなくて、物凄く、凄え頑張ったから。だからお前は《S》冒険者になれたんだ」

 

「…………」

 

「お前は凄えよ、クラハ」

 

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────その一欠片、だった。

 

 変わることはないと、別に誰しもがそう思っていた訳ではない。始まりがあればまた、その終わりも必ずあるように。絶対不変などという幻想めいた夢物語は、それこそ絶対にありはしない。

 

 だが、それでも。決して短くはない時間、日々、年月。その最中に続き、そして変わらないとは。誰しもが、そう思っていた。

 

 

 

 

 

「はあ!?誰が彼女だふざけんな!」

 

 

 

 

 

 けれど、そんな皆の思いを裏切るかのように。突如として、その変化は訪れたのだった。

 

 しかし、些か奇妙でおかしい話ではあるのだろうが。謂うなれば、それはまだ表面上だけの、微細な変化だったのだ。

 

 ……まあ、性別の逆転が。果たして微細な変化なのかどうかを決めるのは。その人その人が持つ、各々の尺度なのだろうが。

 

 一旦、それはさておくとして。その時はまだ、同性の二人だったのが異性の二人となっただけで。さして問題は見られていなかった。

 

 

 

 

 

「先輩。全ては基本に通ずる……という訳で、まずは基本です。地道に堅実に、着実に行きましょう」

 

「はあああ……?いやだからってスライムなんかと戦えってのか?今さら?俺に?……ったく、悪い冗談かっての」

 

「ええ、そうです。心配することはありませんよ。僕がいますから」

 

「いや別にお前がいなくても大丈夫だっつうの。スライム相手に負けてたまるかってーの」

 

「…………」

 

「?どうした、クラハ?急に黙り込んじまって」

 

「いえ。回復薬(ポーション)が今どれだけあるのか思い出してました。ラグナ先輩、ヴィブロ平原にに行く前にちょっとお店に寄りましょう」

 

「お、おう?まあ別に構わねえぞ」

 

 

 

「………………負けた」

 

「元気出してください、先輩。今勝てなくても、次勝てばいいんですよ」

 

「負けたあああぁぁぁ……!スライムなんかに負けちまったぁぁぁ……っ」

 

「ですから、ラグナ先輩」

 

「そんでもって、腰抜かして後輩におぶられて……くっそおおおぉぉぉ……!」

 

「……これは重傷ですね……」

 

 

 

「よし!勝つ!今日は絶対(ぜって)ぇ倒してやる!!」

 

「その意気です、先輩」

 

「見とけよクラハ。俺はやる!やるからな?やってやっからなっ!?」

 

「はい」

 

 

 

 

 

 傍目から見れば、性別だけでなくその関係性すらも逆転してしまっているようで。しかし実際にそんなことはなく。

 

 先輩と後輩という間柄は、相も変わらず。特に問題もなく、順調に続いていた。

 

 だからだろう。だから、誰もが皆、いつしか終わりはするのだろうが。当分はそれが続き、そしてそれもまた日常の一部の、一欠片になるのだろうと。

 

 そう、思えた。思っていた──────────故に誰もが皆、()()()()()()()()

 

 その関係性が、如何に不安定だったのか。常に揺れ動く台座の上の、積木の城のように。

 

 いつ崩れてもおかしくない、いつ壊れてもおかしくない────そんな儚げで危なげな、不安定極まりない関係性。いつの間にかそうなってしまっていたことに、誰も気づけなかった。

 

 冒険者たちも。受付嬢たちも。グィンもロックスもメルネも。誰一人として、気づこうとはしなかった。

 

 だがそれでも、どうにかなっていた。常に揺れ動く台座の上の積木の城は、奇跡的に。正気を疑うまでに精緻で緻密なその均衡(バランス)を保てていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがそれも、突如として。無慈悲な横槍によって遠慮容赦なく、一瞬で崩され、そのまま台座諸共壊されてしまった。

 

 もはや建て直しがどうだこうだのと、そう言っていられる余裕もなく。それを元に戻す手立てなど、まるでなく。

 

 そうして、事態は取り返しのつかないところにまで、至ってしまった。もう誰も、手出しを許されなくなってしまった。

 

 完全に崩壊したその積木の城を、台座丸ごと直す方法は、たったの一つだけ。

 

 当人たちに託す。もはやそれしかない。けれど、その唯一の方法ですら────今、失われようとしている。

 

 崩壊し、そのまま放置された積木の城──────────ラグナとクラハの関係性。先輩と後輩という、二人の崩壊した関係性に。

 

 今、変化(おわり)が始まろうとしている。



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崩壊(その一)

 ギイィ──『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の喧騒に紛れ込むように。軋んだ音を小さく立てながら、その扉が開かれる。

 

「……」

 

 扉の方を見やって、ロックスは堪らず辟易としてしまう。

 

 ──休めって、俺は言ったんだがな……。

 

 そう苦々しく心の中で呟く彼の視界に、その姿は映り込んだ。

 

 今朝とまるで何も変わらない。やさぐれた雰囲気は明らかに悪化し、進んではいけない方向へと止まらず、破滅に真っ直ぐ突き進んでいて。

 

 死人以上に酷いその顔に浮かぶ、鬱屈とした陰影は。今や、暗澹とした昏闇に染まりつつある。

 

「…………」

 

『大翼の不死鳥』の扉を押し開けたクラハ=ウインドアは。何も言わず、無言のまま。広間(ホール)に入り。周囲の冒険者たちに挨拶することもなければ、僅かに目もくれず。やはり無言で広間の中を歩き進む。

 

 率直に失礼と言えるそんな彼の態度を。しかし、今この場にいる者たちは咎めようとはしない。

 

 仮にそんなことができるとしたら、その者は間違いなく空気が読めない、能天気な楽観主義者である。

 

 そして現実はそう甘くはない。空気が読めない能天気な楽観主義者が、そんな都合良くこの場に居合わせている訳がなく。良くも悪くも常識的な人間が殆どの割合を占めており、故に誰もクラハに対して口を利こうとはしないのである。

 

 だが、それもむべなるかな────今のクラハに接するのは、謂わば快楽目的の大量殺人鬼に道を尋ねるのと同義のようなものなのだから。

 

 別に殺気立っているということはではない。だからといって威圧を振り撒いていることでもない。

 

 ただ、()()()()()()()。口でそう言うこともなければ、態度でそう示すこともしていないというのに。クラハの全身からは殺気とも威圧とも違う、けれどそれら以上に近寄り難い()()が発せられていて。

 

 その所為で『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属する冒険者たちは。若手(ルーキー)熟練(ベテラン)も含めて、誰もが避けざるを得なかったのだ。

 

「お、おい……」

 

「ああ、わかってる。さっさと行こうぜ」

 

 先程までやれ難易度の割に報酬が良い依頼(クエスト)を見つけただの、それを二人でやろうだのと盛り上がっていた二人の冒険者は、クラハの姿を視認するや否や。自分たちが今どこの近くに座っているのかを思い出して、椅子から立ち上がりそそくさとその場から離れる。

 

 その二人の他にも、クラハが近くを通る前に。そこから離れる者は続出していた。

 

 だが、それを(おくび)にも気にすることなく。寧ろそうされることを望んでいるかのように。全く意に介せずに、クラハは先を進む。

 

 そうして彼が辿り着いたのは、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の依頼表(クエストボード)の前だった。

 

「……」

 

 顔を上げ、クラハが見つめていたのは。ランク毎に区別分けされた中でも、一般的には最高難度と評される《S》ランクの依頼。

 

 まるで品定めするかのような眼差しを注ぎ込み、数秒。クラハは(おもむろ)に腕を振り上げ、三枚の依頼書を手に取った。

 

 その三枚全てが、討伐系。それも一匹二匹ではなく、十数体の魔物(モンスター)の退治を依頼するもので。

 

 その上対象の魔物はそのどれもが《A》冒険者数人がかりでは当然として、《S》冒険者であっても一人では苦戦はおろか平気で殺されかねない程の危険度を誇っている。

 

 今更言うに及ばないことだが、クラハは一人である。にも関わらず彼はその三枚の依頼書を手に、平然と。この『大翼の不死鳥』の受付台(カウンター)へと向かった。

 

「……あら、おはよう。クラハ」

 

 と、今度は受付台の前に立ったクラハに対して。軒並み彼を避けた者たちとは打って変わって、挨拶をするメルネ。それも受付嬢としての事務的なものではなく、あくまでも彼女個人としての挨拶を。

 

 故にだからこそ、クラハもまた。今の今まで頑なに閉ざしていたその口を開かせた。

 

「おはようございます。メルネさん」

 

「俺も今ここにいるってこと、忘れてもらっちゃあ困るんだがな」

 

 目の前の二人が挨拶を交わした場面を目の当たりにしたロックスが口を挟む。しかしその口調は大して不機嫌そうでもなければ、声音も不快には聞こえず。

 

 どちらかといえば悪戯を楽しむ子供のような、そんな何処か遊びめいて、ふざけているようなものだった。

 

 そんな彼に対しても、クラハは律儀に挨拶をする。

 

「おはようございます。ロックスさん」

 

「おうおはようさん。まあそれはそれとして、さっきぶりだなクラハ。よく……いや、()()寝れたのか?」

 

「……」

 

 クラハがロックスに対して口を利いたのは、どうやらそこまでのようだった。彼はまた無言になって、受付台の上に。手に持っていた三枚の依頼書を置き、そしてメルネが見やすいよう静かに押し広げた。

 

 その依頼書を見たメルネの顔が、微かに。僅かばかり、険しくなる。それは普段から彼女と接しており、かつ彼女から親しみを抱かれている者────つまりはクーリネアら『大翼の不死鳥』受付嬢三人娘。GM(ギルドマスター)グィン。そして今ここにいるロックスやラグナ。最後に、彼女の目の前に立つクラハ。

 

 その者たちにしか見てわからない程の、まさに極小の。彼女の表情の変化。

 

 だがしかし、()()()()。クラハはメルネに平然と言う。

 

「受理、お願いします」

 

 わかるはずなのに、まるで()()()()()()()かのように、メルネにそう言うのだ。

 

 そんなクラハに対し、彼女はほんの少しばかりの間を空けてから、諭すように訊ねる。

 

「自己責任よ?」

 

「はい」

 

 即答、だった。そこに込められていたのは、あまりにも強固で堅固で頑固な意思だった。

 

「…………はぁ」

 

 それを目の当たりにして、メルネは。クラハの前にも関わらず、目を瞑り、諦めたように嘆息する。直後、愛想を尽かしたような、つっけんどんな声色で彼にこう告げる。

 

「受理するわ」

 

 ──もう、知らない……。

 

 その言葉の裏で、泣きそうな本音を零しながら。



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崩壊(その二)

「自己責任よ?」

 

「はい」

 

 クラハとメルネ、二人の会話に耳を傾けつつ。ロックスも受付台(カウンター)に広げられた依頼書に目を通す。

 

 その内容を確かめ、メルネが表情を険しく(親しい付き合いがなければまず気づけない)させた理由を即座に理解し、納得すると同時に、ロックスもまた彼女のように嘆息しかけた。

 

 ──こいつは新手の自殺か?笑えねえな。……ちっとも笑えねえ。

 

 もし、仮に自分がこれらの依頼(クエスト)を受けるのならば。《S》冒険者(ランカー)を二人、最低でも《A》冒険者を五人連れて行くだろう。それ以下の実力しか持ち合わせていない冒険者など、何十人いようがいるだけ無駄である。

 

 そして、こんな依頼(クエスト)を。それもクラハのように複数を単独で受けようなどとは。ロックスは気が狂っても絶対に思いもしない。自殺するにしても、もっと手軽で楽な方法を選ぶ。

 

 昨日飲んだ安酒による二日酔いが今頃になって出てきたのか、それとも最近募らせてしまっているこの心労に起因するものなのだろうか。

 

 とにもかくにも、顳顬を刺すような頭痛がロックスを苛む。

 

「…………はぁ」

 

 と、その時。自己責任と言いながらも、暗にここは引き返し冷静になって考え直せと。その身を案じるが故の忠告を、無下にするかのようなクラハの即答に対し、メルネは深いため息を吐いて。

 

 それから不服そうに受付台の依頼書を手に取り。そしてその三枚全てに受理の証である判印を、メルネが半ば投げやりに押し。

 

「受理するわ」

 

 それだけ言って、クラハに依頼書を返すのだった。

 

 その光景を目の当たりにして、ロックスは心中にて乾いた笑いをどうしようもなさそうに溢す。

 

 ──マジかよ……。

 

 こればかりはロックスでなくとも、親しい付き合いがなくてもわかるだろう。メルネはクラハに愛想を尽かしたのだと。彼女は彼を突き放したのだと。

 

 しかし、ロックスには。その態度はこう見えていた。その口調はこう聞こえていた────メルネは諦めた、と。

 

 もはや自分ではどうすることもできないと、メルネが諦めそう悟ってしまったのだと。

 

 実際、そんな彼の見解は。見事に的を得ていた。

 

 ──こうなったら仕方ねえ。いっちょ、一肌脱いでやるとするか。

 

 そうして今、ロックスが動く。表面上は呆れて愛想を尽かしたように諦めていながらも、その実どうにかしてでもクラハを止めたいと思ってしまって、どうしようもなくなっているメルネの為に。

 

 そして何よりも──────────()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある日を境に、クラハとラグナが会話している場面を目にする機会が、露骨に減った。他の誰がそうは思わずとも、ロックスはそうだと思わざるを得なかった。

 

 聞いた話によれば、ラグナが『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の新人受付嬢として働き始めた三日の間、クラハは冒険者組合(ギルド)には顔を出さなかったらしい。

 

 

 

 

 

『……………ロックスさんには関係ないでしょう。僕も、もうどうだっていい』

 

 

 

 

 

 しかし、そんなことはないだろうとロックスは考えている。でなければ、クラハの口からあんな台詞がまず吐き出される訳がない。

 

 恐らく、クラハは見ていた。見つからないよう、気づかれないよう。ずっと、影から見ていたのだ。

 

 見守るのではなく、見定める為に。そうした故が末の、あの台詞だったのだろう。

 

 その言葉が一時の迷いだとか、狂気の類などではなく。心の底からの本音であることを、まるで証明するかのように。

 

 それから、ラグナに対するクラハの態度は一変した。

 

 あくまでも冒険者(ランカー)と受付嬢という、何処か一線を引いた態度を。クラハはラグナの思慮や意思ですら無下に無視して、意固地に取り始めたのだ。

 

 

 

「お、おはよう。クラハ」

 

「おはようございます」

 

 

 

「ク、クラハ。今日も元気か?なんか変なこととか、あったりしない、のか……?」

 

「特にないです。……これから依頼(クエスト)に行くので」

 

「えっ?あ、ああ……そうか。邪魔して、悪かったな……」

 

 

 

 ラグナも最初の頃は健気だった。クラハにどれだけ素っ気なくされようと。どれだけ冷たくあしらわれようとも、めげることなく。

 

 健気に直向(ひたむ)きに、ラグナなりのやり方で。以前と変わらない様子で、ラグナはクラハと接しようとしていた。

 

 だが、残酷にも。

 

 

 

「……ラグナさん」

 

 

 

 そのラグナの慮りが────

 

 

 

 

 

「止めてください。用もないのに、僕に話しかけるのは。僕は冒険者(ランカー)で、あなたは受付嬢。依頼以外で話すことなんて、特にない。仕事以上の付き合いだって、必要ない」

 

 

 

 

 

 ────報われることはなかった。

 

 そうして、この言葉が決定打となり。その日から、受付台にでも立たない限り。クラハもラグナも、互いに話すことはなくなった。

 

 ラグナの心に傷が刻まれた。大きな傷が、深く刻み込まれたのだ。

 

 果たして、それすらもクラハは承知の上だったのか。

 

 或いは────それをクラハは望んでいたのだろうか。

 

 そんなぞっとしないことを、ロックスは思わず考えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クラハ。時に相談なんだが、俺にも行かせてくれよ。その依頼(クエスト)

 

 周囲によく聞こえるよう、わざとらしく大きく通る声で。今まさに受付台付近から離れようとしていたクラハに、ロックスが気さくに話しかけた。

 

「……」

 

 ロックスに依頼同行の話を突如持ちかけられ、やはり律儀なことにクラハはその場に立ち止まる。

 

 そんな彼の方に顔を向けつつ、ロックスは。まるで確かめるように、一瞬だけ視線を()()()にやった。

 

 ──……なるほど。

 

 その視線の先にいたのは────ラグナである。今、ラグナは黙々とテーブルを拭いており。しかし、ロックスは既に気づいていた。

 

 クラハが広間(ホール)に足を踏み入れた、その時から。彼が依頼表(クエストボード)に赴き、依頼書を持ってメルネが立つ受付台に向かうまでに。

 

 テーブルを拭きつつ、チラチラと。いじらしくも、クラハの様子を窺っていたことを。

 

 確かに、クラハに言われて以来、無闇矢鱈にラグナが彼に話しかけることはなくなった。だからといって、それはラグナが彼に失望した訳でも、見放した訳でもない。

 

 クラハが止めろと言うから、止めただけ。クラハがするなと言うから、しないだけ。

 

 そして、ロックスは確信している。

 

 ラグナがクラハに対して失望することも、ましてや見放すはずがないと。

 

 故にロックスは行動に移す────否、()()()()()()()()

 

「まあこいつは真面目な話……死ぬぞ。クラハ」

 

 死ぬ、という部分だけ露骨に語気を強めて。クラハにそう言いながらも、ロックスは見逃さなかった。

 

 その瞬間、ラグナの肩がビクリと跳ね。テーブルを拭くその手が、止まったことを。

 

 ──さて、こっからはお前次第だぞ……ラグナ。

 

 と、口には出さず心の中でラグナのことを激励し。そこから、ロックスはラグナに意識を割くのを止めた。

 

「報酬も一割程度でいい。なんなら全部お前にくれてやるよ。まあ、あれだな。こいつは俺なりの無償奉仕(ボランティア)だ」

 

「……」

 

「悪い話じゃあないだろ?お前は必要以上に命を賭けなくてもよくなる。そんでもって楽しながら金儲けもできちまう。どうだ?」

 

「…………」

 

 依然として、クラハはその口を閉ざし、黙り込んだままで。一体何を考えているのかを汲み取ろうにも、その無表情からではそれも難しい。

 

 そのことに苦心しながらも、しかしロックスは根気強く粘る。

 

「おいおいなんだよ。別に怪しいことは企んじゃいねえよ。俺とお前の仲だろ?そう警戒すんなって」

 

 が、ロックスの思いも虚しく。クラハは押し黙ったまま、彼の提案に一向に頷こうとしない。

 

 ──……拙いな。

 

 と、ロックスがそう思ったのも束の間。今の今まで押し黙っていたクラハが不意に口を開いた。

 

「折角の御厚意ですが、すみません」

 

 クラハの言葉は、大方ロックスの予想通りだった。渋い表情が浮かびそうになるを堪えて、ロックスはクラハに食い下がる。

 

「まあまあそう言うなって。人の厚意は遠慮せず、素直に受け取っとくのが上手い処世術だぜ?クラハ」

 

「…………すみません」

 

 だがクラハも譲らない。こちらとの同行を避けたいというその意思は、ロックスが予想していた数倍程は固く。これは簡単には曲げられそうにないな、と。ロックスは内心草臥(くたび)れる。

 

 しかし、それでも。ロックスはまだ引き下がる訳にはいかない。

 

「ったく、しょうがねえな……まあ聞けよクラハ。俺はな、こんな手前(テメェ)の命投げ捨てるような真似なんざ、してもらいたくないんだよ」

 

 なので、ここで切り札を切ることにした。……とは言っても、クラハの心を動かす為の、策謀の言葉などではなく。それは紛うことなきロックスの本音ではあるのだが。

 

「お前が何考えて、どういう結論出して、こんなことしてんのかは知らん。けどな、こればっかりは言わせてもらうぞ」

 

 そこでロックスは確かな口調で、力強くクラハに告げた。

 

「死のうとするな、クラハ」

 

「……」

 

 余計な飾り気など何一つとしてない、ありのままの。ロックスの言葉だったが────

 

 

 

 

 

「すみません」

 

 

 

 

 

 ────それがクラハに届くことは、なかった。

 

「……そうかい」

 

 こうなってしまえば、もはやロックスに打つ手はない。故にもう、引き下がるしかない。

 

 けれど、ロックスは()()()()()()()()

 

 ──後はお前だ。頼むぞ、ラグナ……!

 

 そう、ロックスが祈るように心の中で呟くのと。ほぼ、同時のことだった。

 

 

 

 

 

「ちょ、ちょっと……その、いいか……?」

 

 

 

 

 

 そこでようやく、ロックスが待ち望んでいた声が聞こえた。



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崩壊(その三)

「ちょ、ちょっと……その、いいか……?」

 

 それは今か今か、まだなのかと。ロックスが待ち望み、乞い願っていた声だった。

 

 ……まあ、そんな風に自信喪失気味に。弱々しく儚げに震えていなかったのなら、言うことなしだったのだが。ともかく、今はこれで良しとしよう。

 

 ロックスは賭けに勝った。このような言い方は少しアレだが、こうして彼の目論見は無事成功したという訳である。

 

 だが、ロックスが世話を焼けるのはここまで。先程既に言った通り、後はもうラグナに任せる他にない。

 

 というより、やはりラグナしかいない。他の誰が何と言おうと。こればかりは、他の誰でもないラグナの役割で。

 

 そして果たすべき、ラグナの役目なのだ。

 

 ──まあ、それはこの意固地なわからず屋にも言えることなんだが……この際、それは触れないことにしておくぜっと。

 

 全てを託す思いで、しかし口調と声音は至って普段通りに。ロックスはこちらに話しかけてきたラグナに訊ねる。

 

「ん?急にどうした、ラグナ?」

 

「……」

 

 そんなロックスとは対照的に、クラハは口を閉ざし黙ったまま。だがその顔自体はラグナへと向けている。……もっとも、最初から今に至るまで浮かべているその無表情は、ラグナ相手だろうと少しも揺らがず僅かにも微動だにせず、一切の変化がないのだが。

 

 ──お前なぁ……。

 

 まだ不機嫌そうな仏頂面の方が数倍マシなその無表情に対して、個人的にクラハに茶々を入れたくなるロックスであったが。彼はそんな自分を一旦冷静になれと律し、落ち着かせる。

 

 先程も言った通り、この二人に対して自分がこれ以上世話を焼くのは、些か野暮というものなのだから。

 

「いや、ロックスには用とか別にないんだけど……」

 

「はっはっは。そいつは酷えな。でも笑って許そう。何故なら俺は心が広いからな」

 

 ラグナからそう聞けて、内心安心するロックス。元より、彼はラグナにはそういう言葉を求めていた。

 

「そんで、その言い方だとクラハには用があるってことだよな。ラグナ?」

 

「それは……そうなん、だけど」

 

 ロックスにそう言われ、ラグナは気まずそうに。その視線を周囲に泳がせ、尻込みするような声音でしどろもどろに呟く。

 

 ……ロックスとて、そこまで鈍感な男ではない。ラグナがこうしてそこに立つ為に、その為だけに一体どれ程の勇気を振り絞ったのか。それくらいのことは推して量らずとも見てわかる。

 

 だというのに────────

 

 

 

 

 

「用があるのであれば、手短にお願いします」

 

 

 

 

 

 ────────何故にクラハは、そんな健気なラグナに対して。執拗なまでに依然として冷静に、何処までも果てしなく冷徹な声を出せるのだろうか。

 

「っ……」

 

 案の定、血の気の通わない冷ややかなクラハの声に。ラグナが怖気づき、その華奢な身体を怯え竦ませてしまう。

 

 クラハとて、わかっていたはずだ。わからなかったはずがない。自分がそんな声を、そんな風にかければ。ラグナがそうなってしまうことを。

 

 態度を取り繕おうとはせず、ありのままに接するのはある意味清廉潔白なクラハらしいと言えばクラハらしい。けれど時と場合というのもある。

 

 そしてそれは間違いなく、今ではない。……それも、わかっているだろうに。

 

 ──本当にお前な……!

 

 思わずその無表情に一発、キツい一撃を見舞いたくなったロックスであるが。しかし、ラグナの為と堪える。

 

 そうしてロックスが固唾を呑んで、事の成り行きを見届けようとしている最中。一旦は黙り込んでしまったラグナは、そこで深呼吸を挟み。

 

「……あの、な。クラハ」

 

 意を決したように、その口を開かせた。

 

依頼(クエスト)には、ロックスと一緒に行ってくんねえか?」

 

 そして顔も目も逸らすことなく、クラハにそう言った。その声はもはや弱々しく震えてなどおらず、気高く強い意志を携えた────端的に言ってしまえば、ラグナらしい声に変わっていた。

 

「…………」

 

 だが対するクラハは、未だに無表情であることを貫いていた。ラグナの言葉もその声音も、彼の心を揺るがすには至らなかったという訳らしい。

 

 ──……参った、な。

 

 その現実を目の当たりにしたロックスは、雲行きが怪しくなり始めたことを自ずと察する。

 

 しかし、もう遅い。賽は既に投げられ、後はその行末をただ黙って、見届ける他にない。

 

 そしてたとえどのような結果になろうとも、ロックスはそれを受け入れることしか、もはやできないのである。

 

 ──クラハ。頼むから、()()()()()だけは、勘弁してくれよ……!

 

 と、心の中で祈るように呟くロックス。けれども、この時彼は不覚にも失念してしまっていた。或いは、()()()()()()()、今この時だけは敢えて忘れていたのかもしれない。

 

 どちらにせよ、決して短くはない冒険者(ランカー)人生の最中で────ロックスは悟っていたのである。

 

 

 

 

 

 嫌で嫌で、最悪であれば最悪である程に。そういった予感は的中するのだ、と。

 

 

 

 

 

「……ラグナさん」

 

 返事を待つラグナに、クラハは平然と答える。

 

「あなたの言葉を聞く道理も義理も、今や僕にはない」

 

 最初から今に至るまで浮かべるその無表情を一切崩さずに、彼はラグナにそう言い切った。



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崩壊(その四)

 この場の空気が瞬く間に凍りつくのは。当然であり必然で。疑問の余地など持ちようがないまでの、まさに自然なことだった。

 

 メルネとロックスの二人も流石に言葉を失い、絶句し何も言えないでいる最中。ただ一人、ラグナだけが。

 

「…………ぇ、あ……ク、クラハ……?」

 

 と、数秒遅れて、呆然と。どうしようもなく、震えて止まらないその声を。振り絞り、引き絞り、そして力なく漏らした。

 

 そんなラグナに対して、クラハは────

 

「……これ以上、僕から言うことは何もありません」

 

 ────依然浮かべているその無表情を、やはり一切崩すことなく、平然と。淡々と冷酷にもそう告げるのだった。

 

「では、僕は失礼します」

 

 透かさず、間髪を入れずにクラハが言葉を続けて。言い終えるや否や、彼はラグナに背を向け、この場から去る為に歩き出そうとする。

 

 そんなクラハの言動と行動を目の当たりにし、不覚にも衝撃と驚愕に打たれ、一時的に思考を止めてしまっていたロックスであったが。ラグナのことを、ラグナの気持ちの全てを蔑ろにした、あまりにも惨いその態度に。

 

 頭から冷水をかけられたようにロックスは我に返り、クラハを呼び止めようと叫ぶ────その直前。

 

「っま、待て!待って、くれ……っ!」

 

 真っ先に、ラグナが。今にも張り裂けそうな、切実な声でクラハを呼び止め。そして咄嗟に、彼の服の裾を掴んでいた。

 

「……」

 

 無視するには気が憚られたのか、それとも流石にそうする訳にはいかないと思ったのか。ラグナに呼び止められ、服の裾を掴まれたクラハは、その顔をラグナへと振り向かせる。

 

 一瞬の沈黙。不安げにクラハの顔を見上げるラグナが、やがて恐る恐るその口を開かせた。

 

「義理、とか……道理とかじゃあ、なくて。俺はただ、お前が心配で……だから、その」

 

 しどろもどろに紡がれるその言葉に、裏表などなく。それは何よりも、ラグナがクラハのことを親身になって案じていることの証明となっていた。そもそも、ラグナが嘘を吐こうなどとは誰も思わないのだが。

 

 そんなラグナの言葉を、クラハは何も言わず黙った聞いている。もっとも相変わらずの無表情の所為で、果たして彼がどんな気持ちでラグナの言葉を聞いているのか。皆目見当もつかないのが、ロックスにそこはかとない不安と危惧を覚えさせはする。

 

『あなたの言葉を聞く道理も義理も、今や僕にはない』

 

 ……あんな発言をした後なのだから、殊更に。

 

 下手に手出しも口出しもできないロックスが見守る最中、ラグナが。裾を掴んだまま、ゆっくりとクラハに言い聞かせ始めた。

 

「死ぬ、かもしんないんだろ?一人で行ったら死んじまうかもしれないんだろ?……俺はお前に死んでほしくないから、だから……」

 

 そう言うラグナの顔はクラハに対しての心配で満ち溢れていて。そしてそれは当のクラハにも────否、当人たるクラハであるからこそ、他の誰よりも一番わかっていたはずである。

 

 だと、いうのに──────────

 

 

 

 

 

「僕が死のうが生きようが、あなたには関係のないことでしょう」

 

 

 

 

 

 ──────────どうして、この男はこうもラグナの気持ちを踏み躙ることができるのだろう。

 

「……は……?ざ、ざっけんなっ!」

 

 このどうしようもないクラハの言葉に対しては、流石にラグナも憤らずにはいられなかったらしい。先程までの、消え入りそうな声は何処へやら。堪らず叱咤するかのように、ラグナはクラハに叫ぶ。

 

「そんな訳ねえだろ!お前が死のうがどうなろうがどうでもいいって、俺がそんなこと思う訳ねえだろうがッ!だ、大体ロックスと一緒に依頼(クエスト)に行ってもらいたいのだって、お前の為を思って……!」

 

 それは、まさに決定的な瞬間だった。

 

「…………」

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ホール)に入った時から今の今に至るまで。クラハが浮かべていた、虚無が如きその無表情に────ようやっと、変化が訪れた。

 

 変化、とは言ったが。決して大それたものではない。ほんの僅かな、本当に些細で小さな変化。

 

 けれど確かに、その時。その瞬間、クラハの無表情から感情らしい感情が、不意に滲み出たのである。

 

 

 

 

 

 それは、鬱屈とした苦悶であった。

 

 

 

 

 

「……クラハ?」

 

 無論、クラハのそれに気づかないラグナではなく。困惑と動揺を綯い交ぜにした声音で訊ねるように名前を呼んだ。

 

「……僕の為……ですか。()()それですか」

 

 すると数秒の沈黙を経て、クラハは口を開いた。その声には、今までとは明らかに違う、感情らしい彼の感情が込められていた。

 

「そうやって、あなたは。あなたという人は、使う。また使う。()()()()()()()()()()()()()()()()()。ただそれだけの為に、僕をまた使う」

 

 (タガ)が外れたという表現が的確だった。もはやそれ以外の表現などしようがない程に。

 

「何故ですか。どうしてですか。とうに選択は済ませたそれなのに、あなたは」

 

「ク、クラハ、ちょ、ま」

 

「未だに、なんで。なんで、なんで」

 

「ま、待って」

 

 ラグナの呼びかけは届かない。届かないままに、まるで壊れた機械人形のように言葉を垂れ流すクラハ。

 

「……っ」

 

 そんな彼と相対し続けるラグナだったが、やがてその表情は固く強張り、口元は戦慄(わなな)き、そして────

 

 

 

「……クラハッ!!」

 

 

 

 ────とうとう堪え切れなくなり、遂にそう叫んでしまった。

 

「っ、…………っ」

 

 それには流石のクラハも反応せざるを得なかったようで、一瞬にして彼の言葉は止まり、その口が静止する。

 

 気がつけば、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ホール)は静まり返っていた。先程まで、人目など気にせず騒ぎ立てていた冒険者(ランカー)たちが、いつの間にか。皆、ラグナとクラハの二人に注目していたのである。

 

 所謂、野次馬根性というのもあるのだろうが。しかし、皆が皆二人の顛末を案じていることもまた事実である。決して部外者が口を挟むべきではない、ラグナとクラハの問題であるが故に。

 

『大翼の不死鳥』中の視線を注がれる最中、ラグナに心配そうな顔で不安げに見つめられるその最中で。

 

 一身に注目を集めながら、再び押し黙っていたクラハは。ゆっくりと、その口を再び開かせた。



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崩壊(その五)

 第一に、謝罪の言葉だろうと。第二に、容認の言葉だろうと。その場にいる誰もが、皆そうだろうと思っていた。考えていた。

 

 ごめんなさいか、それともすみませんか。わかりましたか、それともそうしますか。

 

 そのどちらにせよ、きっとこのようなことをクラハはラグナに言うのだろう、と。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の|冒険者たちは漠然とそう思い、考えた。

 

 確かに、彼ら彼女らは正しい。彼ら彼女らは間違えてなどいない。何故ならば、事実その通りなのだから。

 

 全員が今まで見てきた、クラハ=ウインドアという人間は。

 

 優男然として、礼儀正しく。基本的には人当たりが良く、特に自身の先輩であるラグナ=アルティ=ブレイズに対して、彼が無礼を働くことは決して、絶対に有り得ない。

 

 皆が皆、クラハがそういった人間であると認識していた。彼は根っこからどうしようもない善性の塊のような人間である、と。誰もが皆そう信じ、考え、思ったのである。

 

 そこに関して、間違いは何もない。……ただ、一つ彼ら彼女らに対して指摘するのであれば。

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 つまるところ、メルネとロックスの二人を除き、『大翼の不死鳥』の冒険者たちは事態を把握していなかった。しかし、当人のクラハが波風を立てることもなく。またラグナも進んでこの事態を大事(おおごと)にしようとはしなかった為、それも無理からぬことではあるのだろうが。

 

 まあそれはさておくとして。今のクラハに対して、誰も彼もが見識も理解も深めようとはせず、無関心なままに。今初めて目の当たりにした彼を、ただ見て、ただ眺め。

 

 ()()()()クラハであったならこう言うのだろう。()()()()クラハであればそう言うのだろう────彼ら彼女らはそんな風に思うだけで、彼ら彼女らはそれ以上考えることもない。

 

 それ故に、思考を停止し放棄した彼ら彼女らにとって──────────

 

 

 

 

 

「僕はもうあなたの後輩じゃない」

 

 

 

 

 

 ──────────クラハのその言葉は、まさに寝耳に水だった。

 

 瞬間、周囲が(どよ)めく。皆がざわつき、瞬く間に『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の広間(ホール)全体が騒がしくなる。

 

 人々にはまず衝撃と驚愕が駆け抜け、各々の動揺と困惑を呼び起こし、次第に全員が悲哀と義憤を抱き始める。

 

 まさにその景色、その光景は。(さなが)目紛(めまぐる)しい人の感情で吹き荒ぶ、大嵐のようだった。

 

 そんな、混沌の坩堝と化す一歩手前の最中にて。クラハは気にすることなく平然と、言葉を続ける。

 

「あなたはもう僕の先輩じゃない」

 

 もはや正気の沙汰とは思えなかった。誰よりも生き急ぎ、そして誰よりも死に急いでいるとしか。今や誰もがそうとしか、思える訳がなかった。

 

 でなければ、こんなことを言うはずがない。()()クラハが、そんなことを。他の誰でもないラグナ相手に、言える訳がないのである。

 

 ……だがしかし、それも今のクラハには全く以て当てはまらない。

 

 故にだからこそ、今までとは違う今のクラハは。

 

「僕は冒険者(ランカー)だ。あなたは受付嬢だ。……いい加減、その事実を理解してください。その現実を受け止めてくださいよ、ラグナさん」

 

 そんなことを、ラグナに対して言えた。

 

「たかが受付嬢でしかないあなたに、僕が心配される筋合いなんてありません」

 

 平気な顔で、容易に吐き捨てられた。

 

「────」

 

 耳を疑わざるを得ないクラハの言葉により。ラグナは瞳を見開かせ、愕然とした表情を浮かべ。少し遅れて、クラハの服の裾から手を離し、だらんと力なく垂れ下げさせる。それから、徐々にその顔を俯かせていった。

 

 少なくとも、『大翼の不死鳥』に所属する熟練(ベテラン)の冒険者にとっては。そうなることは火を見るより明らかで、想像に難くないことだった。

 

「………………」

 

 一瞬即発────今し方騒ついていた『大翼の不死鳥』の広間だったが、それがまるで嘘だったかのように静まり返る。

 

 今この場にいる全員が全員、その口を閉じ、押し黙っていた。

 

 静かに怒りを燃やす者がいれば、純粋に殺気立つ者もいる。そして皆それを、ただ一点。ただの一人に対して、向けている。

 

 それが一体誰なのかは、答えるまでもないだろう。

 

「……のか」

 

 一呼吸するのにも気が憚られてしまうような、重圧の沈黙。それを真っ先に破って口を開いたのは、ラグナであった。

 

 俯いたままに、ラグナが続ける。

 

「受付嬢じゃ、駄目なのか。先輩じゃなきゃ不安になるのも心配すんのも死ぬなって思うのも……駄目なのか」

 

 間違いなく、それは誰もが今初めて耳にするラグナの声音だった。泡沫(うたかた)のように、すぐにでも消えてしまいそうな。茫然自失とした、そんな声音だったのだ。

 

 その声音を、誰よりも一番近くで聴いて。しかし、それでも顔色一つ変えることなく、クラハは言う。

 

「少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない」

 

 そしてその一言が──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……じゃあもう勝手にしろ。この馬鹿」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────遂に(つい)となった。



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崩壊(その六)

「……じゃあもう勝手にしろ。この馬鹿」

 

 俯かせていたその顔を上げ、弱々しく切なげに震えて濡れた声でラグナはクラハにそう言う。

 

 声と同様に、煌めく紅玉が如きその瞳は濡れて潤んでおり。そして、駄目押しと言わんばかりに大粒の涙が浮かべられていた。

 

 拒絶された悲しみ。決別された淋しさ。その二つがどうしようもない程に入り混じりながら入り乱れ、区別できないまでに掻き回された────そんな、情緒不安定で危うげな表情を。ラグナは今、その顔に浮かべている。

 

 今のラグナは謂わば、其処彼処(そこかしこ)(ひび)割れている硝子(ガラス)細工。

 

 不用意に手で触れようものならもちろんのこと、慎重に慎重を重ね、指先でほんのそっと優しく、丁寧に撫でやったとしても。

 

 それだけでその罅は亀裂となって、全体を瞬く間に駆け巡り。その直後粉々に砕け散ったが最後、二度と元に戻ることはなく。そして修復も叶わないことだろう。

 

 ラグナが今浮かべているその表情は、まさにそういった類の表情なのである。

 

 たとえ最大限に細心の注意を、払えるだけ払ったとしても。そのような結末を辿るは必定。その結末から免れることなど、決してできやしない。

 

 そんな表情を浮かべているラグナは、そう言い終えるや否や、クラハから顔を逸らし。

 

 それだけに留まらず、クラハが最初そうしたように。ラグナも彼に対して、その小さな背中を向ける。

 

 それからラグナはゆっくりと歩き出し、一歩ずつ踏み出して。だがしかし、その足取りはやがて。

 

 その間隔を狭め、その歩調を早め、その速度を上げ。

 

 そうしてとうとう、堪え切れなくなったように。弾かれるようにして、ラグナは駆け出した。

 

 それは脇目も振らない疾駆疾走。故に、ラグナはあっという間に『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の執務室や来賓室、受付嬢らが利用する休憩室などに続く、廊下の扉の前にまで辿り着き。

 

 そして躊躇うことなくその扉を開き、ラグナはその先へ進んだ。

 

 直後、即座に閉じられる扉。叩きつけるかのように、些か乱暴に閉ざされたその音は広間(ホール)に響き渡り。それが今この場にいる全員を、ハッと我に返す。

 

 瞬間、広間の至る場所から怒気が立ち込め、殺気が揺らめく。それはあまりにも濃く強く、常人であれば今すぐにでも。冒険者たちの怒気と殺気が渦巻くこの修羅場から、逃げ出していたことだろう。

 

「……」

 

 だが、クラハは違う。そんな修羅場の真っ只中に、依然として彼は立っていた。

 

 立ち続け、そして見届けた。ラグナが背を向け、歩き出し、駆け出し。扉を開き、閉めるまで。その一部始終を見届けた。

 

「…………」

 

 それでも、クラハの無表情が僅かにも崩れることはなかった。

 

 もはや誰もが信じて疑わないだろう。今のクラハに、もう人の心はないということを。人の心を、人としての情を彼は失った────否、()()()()のだということを。

 

 でなければ、そうでもなければ。こんな残酷に、あんなにも無惨に。ラグナを傷つけ、泣かせることなど。

 

 到底、できることではない。人の心も情も手放した、怪物(にんげん)でもない限り。

 

 二十数名を超す、老若に分かれた『大翼の不死鳥』の冒険者たちは。皆一丸になって、怪物へと成り下がったクラハに遠慮容赦なしの、躊躇いのない()()をぶつける。

 

 ……そう、敵意。敵意だ。今や、クラハ=ウインドアは彼ら彼女らにとっての。仲間(ラグナ)を害した、排除すべき敵となった────そうなってしまった。それ以上でも、それ以下でも、ましてやそれ以外でもない。

 

 だが、こうまでなっても。やはりクラハは、無表情のままで。感情が欠落したままで。

 

 そこら中、至るところから敵意を注がれ、浴びながら。それでもクラハは平気だと言わんばかりの、平然とした様子で。その全てを何の感慨もなく、一身に受け止めていた。

 

 そんな態度が、周囲を自ずと悟らせる────()()()()、と。

 

 まさにそれは嵐前の、嫌な静けさで。それはものの数秒と保たず、あっという間に破られ、裂かれ。そうして始まるのは、血を血で洗うような──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前ら全員動くなぁあああッッッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────しかし、それを阻止するかのように。突如としてロックスが一喝するのだった。

 

 立ち込めていた怒気も、揺らめいていた殺気も。途端に薄まり、次第に失せていく。それはロックスに誰もが気圧されたことの、何よりの証明だった。

 

「メルネの姐さん。ラグナのこと、お願いします」

 

「……ええ。わかってるわ」

 

 という、ただでさえ短い会話をすぐに終わらせて。ロックスは椅子から立ち上がり、メルネは踵を返す。

 

 目指す先こそ違うものの、そうして二人は全く同時にその場から歩き出した。

 

 言われた通り、誰もが動けずその場で固まるしかないでいる最中。そうした張本人であるロックスはさして気にする様子もなく、未だその場に佇むクラハの元へ歩いていく。

 

「クラハ。お前が何と言おうが、どんなに嫌がろうが。俺はお前の依頼(クエスト)に同行させてもらう」

 

 歩きながら、ロックスはクラハにそう言い。そして数秒とかからずに、彼のすぐ目の前へと立つ。

 

「……」

 

 こうしてロックスはクラハの前に立った訳だが。それでも彼が口を開くことはなく、ただ黙ったままで。ロックスもまた、彼と同じように黙ったままに、彼を見つめる。

 

 そうして数秒を経た、その直後。不意に、ロックスが腕を振り上げ。そして────

 

 

 

 

 

「まあなんだ」

 

 

 

 

 

 ────クラハの肩に、手を乗せた。そうするや否や、ロックスは彼を肩を掴み、自分の方へと引き寄せ。彼の耳元に顔を近づけ、告げる。

 

「ぶっちゃけ()()お前なんかが。どっかで野垂れ死のうがどうなろうが、俺は知らんし構わん。どうだっていい。……なあ、クラハよ」

 

 一段と声を低くして、ロックスがクラハに訊ねる。

 

「どうして、こんな奴になっちまったんだ」

 

 その問いかけに対しても、クラハが何かを答えることはなかった。



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崩壊(その七)

 本当のところはわかっていた。

 

「僕はもうあなたの後輩じゃない」

 

 結局はそうであるとわかっていた。

 

「あなたはもう僕の先輩じゃない」

 

 どうやっても最後には其処に行き着くのだと、わかっていた。

 

「僕は冒険者(ランカー)だ。あなたは受付嬢だ。……いい加減、その事実を理解してください。その現実を受け止めてくださいよ、ラグナさん」

 

 迎える結末がどういうものなのか。そんなことは、とっくのとうに。もう、わかっていた。

 

「たかが受付嬢でしかないあなたに、僕が心配される筋合いなんてありません」

 

 わかって、わかっていて。わかり切っていて。

 

 けれど、それでも。どうしても。

 

「……のか」

 

 どうしたって────

 

「受付嬢じゃ、駄目なのか。先輩じゃなきゃ不安になるのも心配すんのも死ぬなって思うのも……駄目なのか」

 

 ────どうにも、諦め切れなくて。もう諦めてしまえばそれでいいのに。なのに、諦めることができなくて。

 

 だからそう言って。気がついた時にはそう言っていて、訊いてしまっていた。

 

 わかり切っているというのに。行き着く最後の結末が、それだけしかないということは。変わることなんて、決して有り得ないということは。

 

 

 

 

 

「少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない」

 

 

 

 

 

 そうして、わかり切っていて、知り尽くしていた。行き着く最後の結末に直面し。瞬間、ラグナの頭の中は真っ白になった。

 

『さようなら、ラグナさん』

 

『あなたなんて、消えてしまえばいい』

 

『あなたは違う』

 

 真っ白になった頭の中には、それらの言葉が連続して浮かび上がって。反響しながら、反芻していく。

 

 そして気がついた時には────

 

「……じゃあもう勝手にしろ。この馬鹿」

 

 ────そう、ラグナは口に出してしまっていた。

 

 一度吐いた唾は、もう飲めないように。そう言った事実は、覆しようのない現実となって。そのことをラグナへと突きつけ、痛感させてくる。

 

 動揺。混乱。焦燥。後悔────真っ白だった頭の中は、そういった感情(もの)で、今やグチャグチャで。勝手に掻き混ぜられて、掻き回されて。それで何が何だか、訳がわからなくなって。

 

 しかし、そんな中でもただ一つだけ、わかっていることはあった。

 

 それは────今すぐにでも、クラハの前から消えてしまいたいという、堪えられない気持ち。抑えられない欲求。どうしようもない衝動だった。

 

 否、消えてしまいたいというのは言葉の綾だ。消えてしまいたいのではなく、本当は────

 

 ──ッ……!

 

 ────それを誤魔化すように。ラグナはクラハから顔を逸らし、彼に背中を向けた。

 

 ()()()()()()()()のだと、己の心にそのことを深く刻み込みながら。そして一歩、ラグナは前へと踏み出す。

 

 一歩、また一歩と。

 

 最初こそ、ゆっくりと歩こうと思った。ほんの僅か、微かに残ったなけなしの。この矜持(プライド)だけでも、意地でどうにか守ろうとして。

 

 ()()くらいは、せめて立派な姿を。たとえどんなに小さく頼り甲斐のない、情けない背中であったとしても。しっかりと見せて。

 

 それで、頭の片隅にでもいいから。どんなに些細なこととしてでもいいから、少しくらいは憶えていてほしくて。

 

 でも、そんな浅はかな考えとは。浅ましい思いとは裏腹に、自分の足はまるで言うことを聞かず。勝手にどんどん、早くなり────終いには、ラグナは駆け出した。

 

 駆け出して、ラグナは広間(ホール)から────否、クラハの前から逃げ出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあ、は、はぁ……ん、ぁ……クソ、畜生……っ」

 

 一分一秒たりとも、もう広間にはいられず。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の裏へ続く扉を開け、その先にへと足を踏み入れさせ。

 

 即座に扉を閉め────と、そこで体力を使い切ってしまったラグナは。今し方閉じたばかりの扉に、その小さな背中を預け、もたれかかった。

 

 息を切らし、肩を上下させながら。口汚い呟きを吐露し、ラグナは両足に力をなんとか込める。かなりキツかったが、そうでもしないと両足は崩れ、腰を落とし床に尻をつけてしまう。そこからまた立ち上がるのも、苦労を要することになるだろう。

 

 時間にして約一分。以前までならいざ知らず、いい加減女の身体にも慣れたこともあって、乱れていたラグナの呼吸が次第に落ち着いていく。

 

 規則正しい呼吸を繰り返す内に、真っ白で滅茶苦茶だったラグナの頭の中にも、やがて余裕が出てきて。徐々に思考力も取り戻していった。

 

 ──そういや、俺まだ仕事中じゃねえか……。

 

 そのおかげでラグナはそのことを思い出したのだが、流石に広間に戻る訳にもいかない。

 

 どうしたものかと考えるが、それで都合良く解決案など浮かぶはずもなく。

 

 ──…………とりあえず、ここから離れるか……

 

 戻れはしないが、かと言っていつまでもここに突っ立っているのもアレだと思い。先程使い果たした体力もある程度には回復した為、ラグナは一旦扉から離れようと歩き出す。

 

「っと、ぁう……っ!」

 

 が、一歩を踏み出してすぐに。ラグナは前のめりに体勢を崩してしまい、そのまま転びそうになる。既のところでなんとか踏ん張り、どうにかこうにか転ばずには済んだが。

 

 体勢の安定を取り戻し、堪らずほっと一息を吐くラグナ。それから自分が突如体勢を崩すことになった、眼下の原因を忌々しげに睨めつける。

 

 別に今に始まったことではないし、今さら文句を垂れるつもりはない。

 

 ……ないが、それでもラグナはつくづくこう思う。こう思わざるを得ない。

 

 果たして、こんな脂肪の塊の何処がそんなにも良いのだろうか────と。

 

 男の時から特に関心は持っていなかったし、女になってから今に至るまで、疎ましいことこの上ないという以外の感想もない。

 

 第一、どうしてただ歩くだけで、こんなにも重心を取られぬようわざわざ気を張って集中しなければならないのか。おかげさまでこうして歩くだけでも、結構疲れてきてしまうのだ。

 

 だが、それなら()()いい。いい方だ。問題は階段などの、段差がある場合。上がるのならともかく、下りる時────(これ)が視界を遮るのだ。

 

 その所為で何度段差を踏み外し、何度階段から転げ落ちそうになったことか。そしてその度に肝を冷やしたのは言うまでもない。

 

「……はあ」

 

 自分の身体だというのに、こうもいいように振り回されていることを改めて自覚して。ラグナは堪らず嘆息するのだった。

 

 ──駄目だ駄目だこんなことばっか考えてたら。しっかりしろ、俺。ちゃんとしろ、ラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 未だ胸中に痞えるものを残しながらも、自らを鼓舞し。ラグナは気を取り直してその場から再び歩き出す。転ばない為に、荷物(むね)に重心を取られぬよう、ゆっくりと慎重に。

 

 蝸牛(カタツムリ)……よりかは流石に速いものの、それでも他者からすれば否応に眠たくなってしまう程の。遅い足取りでラグナが向かう先は────休憩室である。

 

 広間(ホール)には戻れない。しかし、さっきのように扉の前に居座り続けることもできない。となれば、後は休憩室くらいしか残されていない。ラグナが今考え得る限りの選択肢が、それだったという訳だ。

 

 そうして廊下を歩くこと数分。ラグナは目指していたその場所、休憩室の扉の前にまで辿り着いた。

 

「……着いちまった」

 

 数秒の無言を経てから、何処か後悔を含ませながらラグナが独り呟く。呟いて、そして躊躇った。

 

 果たして、この扉を開いてしまっても良いのだろうか────と。こうまでして、自分は()()()()()()()と。

 

「……っ」

 

 躊躇って、だがそれを振り払うかのように。ぶんぶんと、ラグナは頭を左右に振るう。

 

 ──もう、全部手遅れだろ。全部、全部……!

 

 と、心の中で。哀切に喘いで苦しげに呟きながら、ラグナは腕を振り上げ。扉を開く為にノブへと手を伸ばす──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり凄いよねっ!ラグナちゃ……さん!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────そしてラグナの指先が触れたと同時に、扉の向こうからその声は聞こえた。




どうもお久しぶりです。作者の白糖黒鍵です。

突然のご報告なのですが、この度自分……コロナを患ってしまいました。

なので今回の更新が遅くなった次第です。数日が経ち、どうにかこうして書けるようにはなりましたが、それでも正直キツいですね。この話もほぼほぼ書けていた状態のを仕上げたようなものですし。

なので次回の更新も少し遅くなるかもしれません。本当に申し訳ありません。

以上、白糖黒鍵でした。


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崩壊(その八)

「やっぱり凄いよねっ!ラグナちゃ……さん!」

 

 ラグナの指先がノブに触れると同時に。その活発で威勢の良い声は、休憩室の扉の向こうから聞こえ、ラグナの耳に届き。今まさにこの扉を開こうとしていたラグナの手を、否応になく止めさせた。

 

 固まるラグナを他所に、扉の向こうから新たな声が立て続けに聞こえてくる。

 

「シシリー……あんたその話もう八回目よ?まあ私もラグナさんが凄いっていうのは全面的に同意するけども。あとちゃん付けは止めなさいって」

 

()()八回目!私はまだ、まだまだ話し足りないの!ラグナちゃ……さんの良いところ素晴らしいところっ!」

 

「わかった。わかったって。……それにしても、ここ数日だけでますます酷くなったわね。あんたのその、ラグナさんに対する熱意?熱情?……あとちゃん付けは止めな?」

 

「違う!私のラグナちゃ……さんへの愛が深まったのっ!!」

 

「「じゃあもうそれでいいわよ。知らないけど」」

 

 ……冷静になってよくよく考えてみれば、それは誰にだってわかるようなこと。しかし、ラグナにはわからなかった。焦燥に駆られ、精神的に余裕がなくなっていたラグナには。

 

 そんなラグナが、そのことを見落としてしまうのは。必定のことだったといえよう。

 

 そも、ラグナが休憩室に向かっていたのは。そこに今()()()()()と、ラグナがそう思っていた為。勝手に、そう思い込んでいた為────だが、しかし。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()。……現にこうして、休憩室には先客がいたのだから。

 

 何も別に、それはおかしいことではない。むしろ当然だろう。

 

 ラグナよりも一足先に、休憩に入っていた受付嬢の三人(クーリネア・フィルエット・シシリー)が。談笑する為にこの休憩室を利用することは。

 

 ──…………。

 

 どうすればいいのかわからず、依然扉の前で固まることしかできないでいるラグナ。そんな状態のラグナがすぐ近くに、ましてや扉の外に立っているとは露知らずに。部屋の中の三人────まあ主にシシリーが────は会話を弾ませる。

 

「やったことのない、初めてばかりの仕事……なのに、それでも文句の一つ言わず!黙々とこなし!粛々とやってのける!そこに痺れます!憧れますぅ!!」

 

「確かに。私たちが教えたのなんて最初だけで、後は自分でやることやってたわよね。ラグナさん」

 

「そーそ。こっちの立つ瀬がなくなっちゃって、正直ちょっと焦ったよね」

 

「でも、それでも完璧って訳じゃないのがグッド!何処か抜けてるっていうか、可愛らしい隙があるっていうか……とにかく!そのおかげで完璧超人特有の近寄り難さもないのがベリィグゥゥッド!」

 

「……まあ、それに同意したいのは山々なんだけど。なんか、あんたと同レベルみたいなるのが心底嫌だわ……」

 

「全くね」

 

 その言葉選び自体はともかく、彼女たちの会話は一貫してラグナのことを手放しで褒めちぎるもので。褒めちぎられる当人にしてみれば、それは大変むず痒くなるような話だったが────ラグナの場合はそうではなかった。

 

 ──……違う。俺は、そんなんじゃ……。

 

 彼女たちは知らない。知る由もない。今自分たちが凄いと、立派であると褒めちぎっている者が。どうしようもない状況に立ち会い、どうすることもできずに、ただ逃げ出したなどとは。彼女らは夢にも思わないだろう。

 

「でも本当に凄いと思うわ。急に突然女の子になっちゃって、今までの何もかもが全部変わっちゃって……それでも、逃げ出そうとしなかったんだもの。それどころか現実(いま)を受け入れて、今の自分にできることを模索し続けて……もし私が同じ立場になったらって思うと、ゾッとしちゃう」

 

 夢にも思わないから、そういった評価をしてくれている訳で。

 

 ──俺はんな、上等な人間なんかじゃ……!

 

 それがラグナには、とてもではないが堪えられなかった。

 

 まるでその善意に付け込み、騙しているかのような罪悪感に。苛まれ、押し潰されそうになるラグナを置き去りにして。不意にフィルエットが口を開かせる。

 

「あら。気がついたらもうこんな時間。ほら二人とも、そろそろ戻るわよ」

 

「え、あ……本当だ。話に夢中で全然気づかなかった」

 

「以前までならともかく、仕事上今は私たちが先輩なんだし、せめてこういうところくらいは先輩らしくいなきゃね」

 

 と、口々にそう言って。座っていたのだろう三人が立ち上がる物音がする。それを聞いたラグナは、慌てて扉の前から跳び退いた。

 

 ギィ──それとほぼ同時に開かれる休憩室の扉。直後、フィルエットとクーリネアとシシリーの三人が休憩室から出てくる。

 

「……ん?」

 

 その時、唐突にシシリーが声を上げた。

 

「シシリー?どうかしたの?」

 

 そんなシシリーに対して、フィルエットが不審そうな声音でそう訊ねる。訊ねられた彼女が、自分でも半ば信じられないように答える。

 

「ついさっきまで、今ここにラグナさんがいた、ような気がして……」

 

「…………」

 

「ちょ、ちょっと。無言で引くのは止めてよ」

 

「流石に気の所為でしょあんたの」

 

 という、会話を繰り広げながら。三人はこの場から離れ、遅れて休憩室の扉が独りでに、自然と閉まっていく。

 

 そうして完全に閉まり────咄嗟に隠れてしまったラグナは、三人の姿が完全に見えなくなったことを確認し、ほっと安堵の息を吐いた。

 

 ──つい、隠れちまった。

 

 しかし、これでラグナが望んでいた通りとなった。今休憩室には誰もいない。

 

 ……が、ラグナはその場から動けないでいた。今し方の、休憩室での三人の会話を思い出してしまっていて。

 

「…………」

 

 このまま休憩室に入るのには、ラグナの気が憚られてしまう。けれど、だからといっていつまでもここに突っ立っている訳にもいかない。

 

 これからどうすればいいのか、次に自分はどこへ行けば────否、()()()()()()()()

 

「……ぅ」

 

 と、その時。ぶるりとラグナは身体を震わせた。少し遅れて、とある欲求が込み上げてくる。

 

 ──……そういや、朝に一回行ったきりだったっけか……。

 

 そのことを思い出し、途端にラグナは意識してしまう。意識せざるを得なくなってしまう。

 

 ある意味では恥ずべき、その生理的欲求は。あっという間に膨らみ、張り詰め。そして否応にもラグナに決壊の危機感を募らせる。

 

 ──これちょっと、ヤバい……っ。

 

 こうなるまで、限界ギリギリになるまで。我慢しようなどとは決して思っていた訳ではなく。広間(ホール)の掃除を一通り終わらせてから、それからゆっくり済ませようとラグナは考えていたのだが。

 

 しかし、そうする前に色々と事情が込み入り、拗れに拗れてしまい。結局こうして思い出す今の今まで、ラグナは行きそびれてしまっていたのだ。

 

 どこに?────無論、トイレに。

 

「ん、ん……!」

 

 致し方なかったとはいえ、忘れていたその代償(ツケ)は重く。こうしている間にも、ラグナは無意識の内に太腿(ふともも)を擦り合わせてしまう。

 

 どうやら自分が思っているよりも、余力は残されていないらしい。少しでも気を抜いてしまおうものなら、その瞬間に────想像もしたくない最悪の未来を思わず想像してしまい、それを否定するようにラグナは心の中で咄嗟に吐き捨てる。

 

 ──これだから、女の身体ってのは……っ!

 

「ひぅ」

 

 しかしその直後、ぞくり、と。そんな悪寒がラグナの背筋を駆け抜け。

 

 それに続くようにして、押し留める為に込めている力が、徐々に抜け落ちていくような。そんな危うげな感覚を覚えて、堪らずラグナの顔から血の気が引き、青褪めてしまう。

 

「我慢我慢我慢がま、ん……んぁ、ぅ……くっ!」

 

 と、譫言(うわごと)のように苦悶の呟きを零しながらも。()()()()()失敗はしないと心に誓ったラグナは、どうにか気力を奮い立たせ、振り絞り。そうして、ようやっとその場からまた歩き出すのだった。



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崩壊(その九)

 バシャバシャバシャ──開かれた蛇口の先から水が流れ出し、洗面台へ叩きつけられる音が響く。それ以外に聞こえる音がない分、誇張するように。トイレ全体に喧しく響き渡る。

 

「……」

 

 その光景を数秒黙って眺めていたラグナが、呆然と心の中で呟く。

 

 ──あともうちょいで、出しちまうとこだった。

 

 そう、丁度この蛇口と同じように────そこまで考えて、ラグナはぶんぶんと頭を左右に振るう。

 

 そんなあったかもしれない最悪の未来は、こうして無事回避できたのだし。なのでもうこれ以上考えたりするのは無駄なことというか、野暮だろう。

 

 そんなこんなでラグナは気を取り直し。未だ懸命にも水を流し続けている蛇口の下に手を翳そうとして、その直前でラグナはふと思い出す。

 

「……ハンカチ、ハンカチっと」

 

 と、繰り返しそう呟きながらに。ラグナはハンカチを取り出し、それを口に咥える。

 

 咥えたそのハンカチを落とさぬよう気をつけて、改めてラグナは蛇口の下に手を翳し。丁寧に、入念に手を洗い流す。

 

「…………」

 

 つい先程、もう考える必要はないと。そう判断したばかりなのに。けれど、それが免れない人間の性というべきか。

 

 やはりこういった何でもない瞬間、ふとした拍子に────考えてしまう。別に考えなくてもいいことに限って、ひたすらにどうしようもなく、考えてしまうのだ。

 

 それがラグナの場合となると他でもない、この身体についてのことだった。

 

 ──女の身体。女の、俺の身体……。

 

 今こうしている間でも、この身体が自分の身体であるとラグナは認識している。不服ながら遺憾にも、自分の身体なのだと自覚している。

 

 だが、それでも。ラグナは如何ともし難い、拭い切れぬ()()()を抱いていた。

 

 しかし、ラグナにとってその違和感は()()でもあった。

 

 違和感を抱くということは、少なからずこれが正しいとは思っていないという証拠。これは異常で、正常ではないという何よりもの証明。

 

 当然だ。何せラグナは元々、歴とした男なのだから。その自意識は、こうしてきちんと残っている。

 

 ラグナがこの身体に────女の身体となってから三週間と数日が経った訳だが。未だに()()()()()()と自負している。

 

 だからこそ先程だって、胸に重心を取られて転びそうになったり。男の時の感覚が抜け切らず、危うく粗相をしでかしそうになったのだから。

 

 そしてそれらがラグナを安堵させる。この身体に戸惑い、翻弄され、苦労させられている自分がまだいることに。ラグナは安心できる。

 

 ……故に、時々。こんな風に、ふとした拍子に思う。

 

 ──俺は男だっていう気持ちがある。まだそう思えてる……けど。

 

 それがもし、()()()()()()()()()()

 

 今抱いているこの違和感。自分がまだ男であるという自意識。そういったもの全てが、いつの日か消えてしまったら。

 

 消えて、失くなって。そうして、この身体に()()()()()()()。異常だったことが正常なことに置き換わって、普通じゃないこれが普通になって。

 

 最終的に、自分が男であるという自意識も。次第に薄れていって──────────

 

「……っ」

 

 そこまで考えて、ラグナは目を瞑った。こうしてハンカチを咥えていなければ、きっと口元を苦々しげに歪めていた。

 

 ──もう止めだ、止め。

 

 こんなことを考えていたって、気が滅入るだけだ。頭が変になって、どうにかなってしまうだけだ。だから、できるだけ考えまいとしていたのに。

 

 いい加減、そのことに関する全ての思考を無理矢理に打ち切って。ラグナは蛇口を閉め、水を止める。それから咥えていたハンカチをようやっと手に取った。

 

 今度こそ無心になって、濡れた手を拭うラグナ。水気が取れたことを確かめ、そのハンカチを仕舞い込む。

 

「……はあ」

 

 最後に嘆息を一つ吐いて、ラグナはトイレを後にする。これからまた、自分はどうすればいいのだろうかと、思い悩んで────

 

 

 

 

 

「……ラグナ」

 

 

 

 

 

 ────そして、出会(でくわ)した。

 

「…………メ、ルネ?」

 

 今、ラグナの眼前にはメルネが立っていた。他の誰でもない、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』代表受付嬢であるメルネ=クリスタがそこに立っていたのである。

 

 完全に不意を突かれたラグナは、ただ呆然とメルネの名を呟くことしかできず。そして対するメルネといえば、何処か思い詰めたような。そんな、神妙な面持ちを浮かべていて。

 

 互いに無言のまま、数秒見つめ合ったその末に。この状況の最中、先に動いたのは────メルネの方だった。

 

 ゆっくりと、自分の方へ歩み寄るメルネに対して。ラグナは目を白黒させながら、しどろもどろになって。必死に、どうにか言葉を紡ごうとする。

 

「ご、ごめん。ごめんメルネ。これ、違くて。その、俺は」

 

 だが、メルネは何も言わずに黙ったまま。ラグナとの距離を詰め。そうして、ラグナの目の前に。

 

 腕を振り上げ、手を伸ばせばすぐ届くところにまでやって来て、メルネは────

 

 

 

 ギュゥ──要領の得ない言葉を出鱈目に口から溢すラグナを、優しく抱き締めた。

 

 

 

「メ、メルネっ?」

 

 ラグナにとって、これは予想だにしなかった行動で。それ故に困惑の声を咄嗟に出さずにはいられず。

 

 そのように戸惑う他にないラグナのことを、メルネは叱責することなく、だが依然として黙ったまま。その華奢で柔い小さな身体を、しっかりと抱き締め続けるのだった。

 

 メルネに抱き締められ、彼女の胸元に顔を埋めて。ラグナは徐々に、思考を溶かされる。頭の中が蕩けて、つい口走ってしまう。

 

「…………俺、さ」

 

 それは、今の今まで。ずっと、心の奥底に押し込めて、ひた隠していた本音(ふあん)

 

「男だって、思ってもいいんだよな。俺は……今でも俺は男だって、そう思っても……」

 

 ラグナにはまだ、自分は男だという確固たる自意識が残っている。その性自認だけは、決して変えたくないとラグナはまだ思っている。

 

 たとえ女の身体であろうと、こうして女の格好になろうとも。それだけは譲れない。ラグナは譲りたくない。

 

 ……けれど、果たして。こんな自分に────

 

 

 

『あなたはもう僕の先輩じゃない』

 

 

 

 ────そう面と向かって言われて。逃げ出した自分に、その資格はあるのだろうか。そう思っていてもいい、資格は。

 

 ラグナはもう、それがわからなかった。わからなくなってしまった。

 

『あなたは受付嬢だ』

 

 その言葉が頭の中で響いて響いて、残響し続けて。もはやどうしようもなかった。

 

 そんなラグナのことを、メルネは。

 

「……ッ」

 

 より一層力強く、しかし黙ったまま。そうして抱き締め続けるのだった。



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崩壊(その十)

 この世界(オヴィーリス)では、現在四つの大陸が存在し、確認されている。

 

 四大陸の中でも最も進んだ文明と技術を持ち、常に時代の最先端を往く第二の大陸────セトニ大陸。

 

 古き自然を色濃く、数多く残し。そして独自の文化を築く極東(イザナ)の地を有する第三の大陸────サドヴァ大陸。

 

 世界全体から徐々に失われつつある原初の神秘(ゼロ・テイル)に囲まれ、その恩恵を存分に享受する第四の大陸────フォディナ大陸。

 

 このように、各大陸にはそれぞれの記すべき特徴があるのだが。しかし、第一の大陸────ファース大陸にはこれといった、特筆すべき特徴なんてものはなく。

 

 強いて言うのであれば、四大陸の中でも有数の貿易街があることくらいで。そして何を隠そうその貿易街こそが、オールティアである。

 

 世界に誇る評価は決して伊達ではなく、この街がこの大陸の経済を一手に回していると言っても過言ではない。

 

 それ故にオールティアの顔とも言うべき街道は日夜、時間を問わず。忙しなく賑わい、沸いている。そうして常に住人と商人、人と人の波でごった返す坩堝と化しているのだ。

 

 その街道を今、二人の冒険者(ランカー)が歩いていた。

 

 

 

 

 

 ──さて、こいつは一体全体……どうしたもんかな。

 

 と、道行く人々の間を器用に抜けながら。参ったように心の中でそう呟くロックス。

 

「……」

 

 そんな彼の苦い心境など露知らず、もしくは見透かしている上でか。その後ろを黙って、相も全く変わらない仏頂面の無表情のままで付いていくクラハ。

 

 つい先程『大翼の不死鳥』の広間(ホール)の場を騒然とさせ、掻き乱すだけ掻き乱したままに後にした時から、今に至るまで。取り留めのない些細な会話はおろか、一言二言ですら。二人の間で全く交わされることはなかった。

 

 だがまあ、それも当然といえば当然のことだろう────

 

 

 

『少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない』

 

『どうして、こんな奴になっちまったんだ』

 

 

 

 ────何せ、あんなことがあったばかりなのだから。

 

 その為二人の間に流れる空気は当然ながら良好とは言い難く、鬱屈とした重苦しいものになっていて。街道の賑やかな喧騒も相まって、クラハとロックスの二人は周囲から恐ろしく浮いてしまっている。

 

 ……けれど、ロックス自身としてはこの空気をどうにかしたいと思っていた。が、当然ながらそれは容易なことではない。

 

 ──努めて冷静でありたい、と思っていた俺としたことが……つい熱くなっちまったぜ。

 

 そう、先程の場面────広間では、彼は最後まで冷静でいるべきだった。冷静に頭でものを考え、感情に踊らされる訳にはいかなかった。

 

 だが、それは無理だった。

 

 

 

『あなたの言葉を聞く道理も義理も、今や僕にはない』

 

『あなたはもう僕の先輩じゃない』

 

『たかが受付嬢でしかないあなたに、僕が心配される筋合いなんてありません』

 

 

 

 目の前で、よりにもよって。他の誰でもないクラハが、ラグナを無慈悲にも無惨に傷つける様を見せつけられて。それを大したことでもないかのように流して、見て見ぬふりで済ますことなど。到底、ロックスには無理だった。

 

 それを今さら、こうしてどれだけ悔やみ猛省しようと。吐いた唾はもう二度と飲み込めない。そのことを重々承知し、痛感しながら。しかし、それでもロックスはこの空気を変えたいと思い、考えていた。

 

 まあ、それにはこんな空気の最中にずっといたくないという彼の個人的な私情もあるのだが。それと同時に、実のところ今回のことは何もクラハが全面的に悪いと、そうロックスは思っていない。ラグナを傷心させたことは決して、絶対に許せないが。

 

 しかし、本来であれば()()()()()()事態のはずだった。他の誰でもない、ロックスにならば、クラハにあのようなことを言わせずに止められるはずだったのだ。

 

 それは何故か?────何故なら、ロックスは既に()()()()()

 

 

 

 

 

『あははッ!あっははッはははっ!はははははッ!』

 

『く、来るな!来るな、来るな……来るなァアッ!!』

 

『来るなって、言って……言ってる、のに……!』

 

『何、で。どう、して……』

 

『ロックス、さん……?』

 

 

 

 

 

 

 およそ、今のクラハの精神状態が日常(いつも)通りの正常なものとは、とてもではないが言えないということを。唯一、あの場でロックスだけはわかっていたはずだったのだから。

 

 無理もない。いくら二十歳の青年といっても、クラハの精神はまだ未熟である。だというのに、ここ最近、それも立て続けに色々なことが起こり過ぎた。

 

 敬い慕っていた、憧れそのものであった自分の先輩が。ある日突然その面影など微塵も感じられない、華奢で可憐な少女となって。おまけに世界(オヴィーリス)最強の一角と謳われていたその実力の全ても失われていて。

 

 それが質の悪過ぎる冗談と思う暇も与えられず、自分が所属する冒険者組合(ギルド)GM(ギルドマスター)直々に一から鍛え上げ、最強だったその実力を取り戻せと言われ。そうして今までの自分の立場が突如としてひっくり返されてしまって。

 

 それでも懸命に、必死にどうにかこうにかやっていた側からの────

 

 

 

『そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ』

 

 

 

 ────考え得る限りの、予想し得る中でも。最悪の最悪過ぎる、決して望むことのなかったであろう再会。そして恐らく、これが決定打となってしまったのだろう。

 

 計り知れぬ責任と重圧。多大に尽きる負担と消耗。その果てに、遂にクラハは限界を迎えてしまった。だが、むしろここまでよく保ったと言うべきだ。

 

 このような出来事が、それも連続で起きたのなら。たとえロックスやメルネといえど参ってしまう。まだ年若く精神的に未熟なクラハが現実逃避の一つや二つ起こすのも、無理はないどころか当然のことなのである。

 

 故に、自分も責任の一端を担うべきであるとロックスは考えており。だからこそ自分がこの空気を変えるべきだと思っていた。

 

 故に、ロックスが。この空気を変える為に、彼がまず取った行動は。

 

「……さっきは悪かったな、クラハ」

 

 謝り、そして歩み寄ることであった。



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崩壊(その十一)

 紆余曲折────どころの話などではなく。修正も修復もままならず、これといった解決の目処も立たない出来事の後。メルネは『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の代表受付嬢として、引き続き受付台(カウンター)に立っていた。

 

 その顔には受付嬢としての、文句の言いようがない、素晴らしく完璧な笑顔が浮かんでおり。それを目の当たりにした者全てが彼女の魅力に囚われてしまうことは、もはや言うまでもない。

 

 ……だが、その殆どは見抜けず、気がつかないことだろう。メルネが浮かべるその笑顔の裏に────莫大な憂鬱が隠れ潜んでいることに。

 

 他人には知られたくないこの憂鬱を見抜く、鋭い観察眼を持つ数少ない人物の一人────ロックスが今この場にいないことに。なけなしの幸運を辛うじて実感しながらも、メルネは受付嬢としての仕事を果たし。受理を済ませいざ依頼(クエスト)へ赴かんと意気込む一人の冒険者(ランカー)を。その笑顔で以て確と見送る。

 

 扉が閉じられ、その背中が見えなくなるその時まで。浮かべる笑顔を決して崩さずにいたメルネ。そうする傍ら、彼女は周囲に視線を巡らせる。

 

 ──もう、大丈夫かしらね。

 

 と、心の中で呟いたのも束の間。メルネの笑顔は瞬時に崩れて、裏に隠れ潜んでいたその憂鬱がその顔に転び出た。

 

「はあ……」

 

 それと同時に彼女の口から吐き出される、深刻なため息。そうして、彼女はまた心の中で重苦しそうにその名を呟く。

 

 ──ラグナ……。

 

 もはや、メルネの頭の中はそれで一杯一杯だった。それ以外に考えられることなど、もう何もなかった。

 

 ラグナは今、休憩室で休ませている。というか、もう今日のところはラグナを働かせる気はメルネにはない。……あんなことがあった後で、ラグナに容赦なく働けなどと。とてもではないがメルネには言えない。言える訳がない。

 

 なのである程度休んだら、今日はもう帰ってしまってもいいとラグナには伝えてある。そんなメルネに言葉に対して、どう思い何を考えたのかは定かではないが、ラグナは彼女の胸元にその顔を埋めたまま、ただ小さく頷いてくれた。

 

 そのことにメルネは安堵する反面────不安になってもいた。果たしてこの行いが間違ったものではないかと、そこはかとない不安に駆られていたのだ。

 

 それもそうだ。そんな風にメルネが不安に抱かれるのも、至極当然のことだろう。何せ彼女は間違えている。最初から今に至るまで、間違い続けている────少なくとも、彼女自身はそう思っていた。

 

『男だって、思ってもいいんだよな。俺は……今でも俺は男だって、そう思っても……』

 

 ……果たして、これで正解だったのだろうか。何も言わず黙ったまま、弱々しく震えていたその華奢な小さい身体を、ただ抱き締める。その行動だけで済ませることが正しかったのだろうか。

 

 本当ならば、何かしらの言葉をかけるべきだったのではないのか────────そんな終わらない自問自答に、メルネは捕らわれ、そして囚われている。

 

 わかっている。わかり切っている。こんな自分にラグナを救う資格がないことは、とうに思い知っている。メルネでは、ラグナに救いの手を差し伸べることは、できない。

 

 だが、それでも。せめて一言、何かしらの言葉は返すべきだったのではなかろうか。救いではなく、支えになってやれば、それで……。

 

 ──……どうすれば……私は、どうしたら、いいの……?

 

 諦観と後悔の泥沼にどっぷりと嵌り、浸かり。日に日に精神を磨耗し、疲れてしまったメルネは。受付台(カウンター)に堪らず突っ伏しそうになっている自分を止め、どうしようもなく心の中でそう呟く。

 

 

 

『留守は任せたよ、メルネ』

 

 

 

「…………」

 

 その傍らで、ふと頭の中に思い浮かべたその姿、その顔。脳裏で響く、その声。

 

 メルネ=クリスタ。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』代表受付嬢である彼女は、その立場故においそれと他人(ひと)に頼らない。……否、頼れない。

 

 だがそれも絶対という訳ではなく。そんなメルネが頼れる人物は二人程いる。

 

 一人は『大翼の不死鳥』が誇り、冒険者番付表(ランカーランキング)第五十位にその名を連ねる冒険隊(チーム)、『夜明けの陽』の隊長(リーダー)。そしてメルネの婚約者でもある男────ジョニィ=サンライズ。

 

 残るもう一人は他の誰でもない、この『大翼の不死鳥』を率い、導く偉大な人物──────────

 

 

 

 

 

「────ネ。おーい、メルネ?私の声、聞こえてるのかな?メルネ=クリスタ?」

 

 

 

 

 

 ──────────不覚にも物思いに耽り、半ば無意識状態に陥っていたメルネ。だがその呼びかけが、彼女を現実へと引き戻した。

 

「っえ?あ、な、何?ご、ごめんなさい。私考え事して……て」

 

 我に返り、慌てて返事するメルネであったが。自分の目の前に立っていたその者を視界に入れた瞬間、固まって。それから信じられないように、彼女は震える声で呟く。

 

GM(マスター)……?」

 

「やっと気づいてくれたね。留守番、ご苦労様」

 

 未だ信じられないようにしているメルネに、その者────『大翼の不死鳥』のGM(ギルドマスター)、グィン=アルドナテが安堵の声でそう彼女に伝え、彼は言葉を続ける。

 

「戻るのが遅くなってすまなかったね。ちょっと色々、大変だったというか……ん?」

 

 が、しかし。その途中でグィンは気づく。メルネの様子が、些かおかしくなったことに。彼女の表情がごく僅かばかりに崩れ、その瞳が若干潤み出していることに。

 

 ──あれ、私何かしたかな……?

 

 と、グィンがそう思ったのも束の間のこと。

 

「……()()()()()、私……私、は……ふ、ぅぅ、ぅぅぅ……っ」

 

 ……もはや、今となっては決して使われることはないだろうと思われていた、少なくともグィン自身はそう思っていた、その呼び方。

 

 それを今使い、言葉を続けようとして。しかしその途中で堪えられなくなったように、今の今まで必死になって心の奥底に無理矢理押し込み、押し隠していたそれが、もう抑えられなくなってしまったように。

 

 突如、メルネが己が顔をその手で覆ったかと思うと。間も置かずに彼女は、声を押し殺すようにして。あろうことにグィンの目の前で泣き出してしまったのである。

 

 ──…………ん!?

 

 予想だにしないこの状況の到来に、人生の経験を長く多く深く、積み重ねた然しものグィンも。その頭の中を真っ白にせざるを得ず、ただただ困惑し混乱することしかできなかった。

 

 が、それでも。己のすぐ目の前で泣いている、(かつ)ての後輩の姿を見て。透かさず、グィンは動いた。

 

「と、とりあえず話を!一体何があったのか、話を聞こうじゃあないかメルネ!?」

 

 そうして、受付台(カウンター)を他の受付嬢に任せて。メルネを連れ、グィンは広間(ホール)を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………そう、だったんだね。私が留守にしている間、まさかそんなことになっていたとはね……」

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』執務室。広間から離れ、どうにか落ち着きを取り戻したメルネによって、事のあらましを聞いて。長い沈黙を挟んだ後、複雑そうに、そして申し訳なさそうにグィンはそう言った。

 

「はい。私の力が及ばず、すみません……ごめんなさい……」

 

 と、未だその瞳から涙を流し、項垂れるメルネ。そんな彼女の姿を見て、グィンは和かな微笑を浮かべる。

 

「メルネが気にすることはないよ。今回の件は私の責任だ」

 

 それから執務机に肘を突き、手を組み。その口元を隠しながら、グィンが呟く。

 

「そう、他の誰でもない私の責任。……だから、他の誰でもないこの私が、しっかりとこの責任を取らなければならない……ね」

 

 彼のその声は、重かった。



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崩壊(その十二)

「……にしても」

 

 ファース大陸有数の貿易街、オールティアからそう然程は離れていない場所、ヴィブロ平原。そのヴィブロ平原を少し進んだ先にある、名もなき森林。

 

 その前で、依頼書を胡乱げに見つめながら、ロックスが信じられないように静かに呟く。

 

「この森でデッドリーベアを複数確認、な。いやはや、未だに現実感がねえというかなんというか。まあここ最近魔物(モンスター)の食い荒らされた死骸や、ただ単に殺された死骸が多数確認されてるみてえだし。あながち全くの誤報(デマ)って訳はないんだろうが……」

 

 それでも、ロックスの懐疑的懸念は晴れない。そもそも、ヴィブロ平原はもちろんのこと、この何の変哲もない、それこそ名前も付けられていないただの森に。《S》冒険者(ランカー)でも手を焼き、一筋縄とはいかない大物の魔物(モンスター)、デッドリーベアが近づくはずがないのである。

 

 ここら一帯に、デッドリーベアを満足させられるような獲物(えさ)など生息していない。精々魔物と化した狼が関の山だ。

 

 それにもし、仮にこの情報が正しかったとして。それはそれでかなり、否非常に(まず)い事態であり、見過ごす訳にはいかない問題である。一匹ですら危ういというのに、それが複数体となれば。ヴィブロ平原一帯の生態系を根本から軒並み崩壊させかねない。

 

 そして何よりも遅かれ早かれ、魔物(モンスター)以外の被害が────犠牲者が出てしまうかもしれない。

 

 ──人死が出ちまったら、寝覚が悪い。

 

 故に誤報であろうがなかろうが、確かめないという選択はロックスにとってあり得なかった。

 

「……さて。んじゃまあ、先に進むとしますかね」

 

 と、呟いてから。ロックスは隣を見やり。

 

「なあ、()()()()?」

 

 そしてその名で呼びかけるのだった。

 

「……」

 

 目的としては、場の空気を和ませたかった。この固く重苦しい雰囲気を、ロックスは払拭したいと思っていた。それ故、冗談半分揶揄半分に、敢えて彼はその呼び方を使ったのである。

 

 ……だが、それが齎した結果はご覧の有り様で。数秒程経っても返事一つとしてなくて。すぐさま、ロックスは己が軽率な行動を悔やむことになった。

 

「…………あー、すまんクラハ。怒ったなら謝る。ただ俺は俺なりにだな、ちょっとでも場の空気を軽くしたかったというか……お前の緊張を解したかったというか」

 

 居た堪れない気分に陥り、なんとも歯切れの悪い言葉を続けるロックス。そんな彼に、ようやっとクラハがその口を開かせた。

 

「結構です。こんな僕に気を遣う必要なんてありませんから」

 

「…………お、おう。そうか。……そうか」

 

「はい。では行きましょう、ロックスさん」

 

「……ああ。そうだな」

 

 そうして一歩を踏み出し、森林の中へ進み入るロックス。少し遅れて、クラハも彼の後を追うようにその場から歩き出す。

 

 クラハの歩みを背中越しに感じながら、ロックスは苦々しい心境の最中で弱気に吐露する。

 

 ──俺は空気の一つも変えられねえのか……。

 

 だが、よくよく考えてみれば。それは土台無理な話で、希うだけ無駄で徒労に終わる、儚い願いだった。

 

 何故ならば。それはたった一人の人間の手で拭えるような、そんな狭く浅い昏闇(くらやみ)ではなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さっきは悪かったな、クラハ」

 

 唐突に。老若男女、様々な人間が大勢に行き交うオールティアの街道のど真ん中で。唐突に立ち止まったロックスはクラハにそう言う。……ただし、その背中を彼に向けたまま。

 

 何もクラハだけに非があるとは思わない。思わないが、それでも。他の誰でもないクラハが、他の誰でもないラグナに対して取ったあの言動は許せない。赦してはいけない。

 

 故にそれは、ロックスができる最大限の譲歩というやつで。そしてそれが果たしてクラハがどう捉え、どう思うのか────情けなくも、そこはかとない不安をロックスは抱く。まあだからといって、今さら彼の方に振り返ろうなどとは決して考えないが。

 

 脈絡なしの、突然の謝罪────事情を知らない他者からすればそう映る他ないロックスの行動を前に。

 

「……」

 

 ロックスと同じように、その場で立ち止まった。が、それからクラハは微塵も微動だにはしない。それを背中越しにひしひしと感じ取りながら、ロックスは言葉を続ける。

 

 微塵も微動だにしないクラハだったが、それでもロックスはめげることなく、言葉を続ける。

 

「そんじゃまあ、さっさと行くとしようぜ」

 

「……」

 

 依然クラハは無言のまま。それが一体何を意味するのか、力及ばずロックスにはわからない。わからなかったが、それでも彼はその場からまた歩き出した。

 

 そうして、また同じようにクラハも歩き出す。傍目からすればなんとも言えない、実に奇妙な一連のやり取り。だが日夜を問わず忙しないオールティアの街道において、そのような些末事はあっという間に周囲の喧騒に呑まれて消えてしまい、誰も彼もが気にも留めようとはしない。

 

 そして数秒と経たない内にそんなことは最初からなかったかのように扱われる────()()()()()()()()()

 

「…………ロックスさん」

 

 長かった。それはあまりにも長い沈黙だった。その沈黙を経て、ようやっと。今ここで、遂にクラハが。ずっと閉ざしていたその口を、静かに開かせた。

 

「!……おう、何だクラハ?」

 

 実を言えば、ロックスとしては半ば諦めていた。今のクラハから返事を聞くことは至難で、そして困難であると認めていた。だがそれでも、やはり完全には諦め切れず、こうして悪足掻きを続けていた次第。

 

 その末に、ようやく手にし掴み取ったこの絶好の機会(チャンス)。それを水泡と帰させる訳には絶対にいかない。なんとしてでも、どうにかしてでも活かさなければならないだろう。

 

 故にロックスはあくまでも冷静に、平然とした態度での対応を心がける。

 

 ……だが、それも──────────

 

 

 

 

 

「あなたは人を刺したこと、ありますか」

 

 

 

 

 

 ──────────という、全く予想だにし得ない。斜め上などという範疇には決して収められないクラハの質問によって、容易く呆気なく崩されてしまうのであった。

 

「……は……?」

 

 お前は人を刺したことはあるのか────そんなことを突然訊ねられて、平気で答えられる人間など果たして、一体何人いるのだろうか。殆どの場合は面食らい、動揺し、きっと言葉を喉に詰まらせるに違いない。

 

 そしてロックスもまた、その殆どに含まれていた。

 

「い、いや……まあ仕事柄、刃傷沙汰の一つや二つあったが……」

 

 けれどそこは先達たるロックス=ガンヴィル。伊達に人生の経験を積んでおらず、多少の動揺こそあったものの、並大抵の者であれば言い淀んでしまうことを、彼は答えるのだった。

 

 そんなロックスの答えを聞いたクラハは、まるで今日の調子についてでも訊ねるかのような、そんな気楽さで淡々と平然に、再度彼に問いかける。

 

「人を殺したことは、ありますか」

 

 一瞬、ロックスは自分の耳を疑わずにはいられなかった。だがそれも当然だろう。それ程までに、クラハのその問いかけは非常識に過ぎていたのだから。

 

 しかし、それでもロックスの反応は迅速なものだった。

 

「クラハ、お前何があった。……本当にどうかしちまったってのか?」

 

 逼迫(ひっぱく)する危機感に突き動かされるようにして、ロックスは振り返ってクラハにそう言う。その声音は固く、少しばかり険しいものであったが、彼の精神状態を案じての言葉であるということは、確かだった。

 

 真剣な、だが微かに不安が滲む表情のロックスに。対するクラハは若干の沈黙を挟んでから、また静かに。別に大したことないかのように、彼に言う。

 

「僕は人を刺しました。刺して、殺しました」

 

 オールティアの喧騒が遠去かる。人々の声がくぐもって、まるで水中の中にでもいるような錯覚をロックスは抱く。

 

 特段今日は寒くはない。だというのに、氷柱(つらら)でも突き刺されたかのような悪寒がロックスの背筋を駆け抜け、しかし直後に冷や汗が伝う。

 

 それらのことを吟味して────今、自分は戦慄しているのだと。唐突に殺傷の告白を、依然毛程も変わりはしないその無表情のままにしたクラハに対して、自分は慄いていることをロックスは自覚する。

 

 何も言えないでいるロックスに、それをさして気にする様子もなく、クラハが続ける。

 

「燃え盛る炎のように鮮やかで綺麗な、赤髪の女の子でした。咲き誇る一輪の花のように可憐な、一人の女の子でした」

 

 先程の沈黙がまるで嘘のようだった。頑なに噤んでいたその口から、まるで何かに憑かれたかのようにクラハは言葉を垂れ流す。

 

「その女の子は僕に挨拶してくれるんです。僕に笑顔を向けてくれて、僕に寄り添ってくれて。髪と同じ赤色の瞳に、僕のことを映してくれて」

 

 その言葉だけを聞いたならば、聞くこちら側がむず痒くなるような、或いは苛立ちを覚えてしまうような。そんなただの馬鹿らしい惚気話。

 

 しかし、それを言うクラハの顔は何処までも無表情で。その目は何処までも昏くて。とてもではないが、彼が浮かれて惚気て話しているようには全く見えない。

 

 話の内容とその様子の剥離が齎す不気味さは尋常ではなく、それをこうして目の前にして、それでロックスのように慄くなと言うのが土台無理な話だろう。

 

 呆然とし固まるロックスを他所に、クラハは淡々と続ける。

 

「楽しそうに、親しげに接してくれる女の子」

 

 依然として淡々と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その子を僕は殺しました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 淡々と、そう言った。

 

「ナイフで。気がつくといつも手に持っているそのナイフで。その刃の鋭い切先を、胸元に突き刺して、突き立てて、突き沈めて。すると女の子はその小さな口から髪と同じくらいに真っ赤な血を吐いて。口の端に伝わせて。そうして、ゆっくりと眠るように死んでいくんです」

 

 ロックスが言葉を失い絶句していることに気づいていないように、クラハは言葉を続ける。無表情のままに、彼はその口から狂気を垂れ流す。

 

「刃が埋まった胸元から流れるその血は温かくて。でもその華奢で小さな身体はだんだん冷たくなっていって。温かいのと冷たいのが、僕の手に、僕の腕に感じて。感じて、それを感じながら……僕はいつも、何度も、毎回、幾度。繰り返し、繰り返し、繰り返して繰り返して繰り返して繰り返して、ずっと繰り返し続けて、殺し続けて」

 

 クラハの狂気は止まらない。止め処なく溢れ出し、際限なく吐き出されていっていく。

 

「最初は抵抗がありました。あったんです。身体に躊躇いはなくとも、頭の中ではこんなことをしてはいけない。してはならないと、最初はそう思ってました。……ですが、ふと気づきました。ある時から、それが段々と、次第に薄れていっていることに、僕は気づいたんです」

 

 そうして、クラハの狂気は過激化(エスカレート)する。

 

「殺意が僕の頭の中で広がって、染み込んでいって。殺意が僕の手をどんどん軽くしていって。あの燃え盛る炎みたいに鮮やかで真っ赤な血が、見たくなって。見たくて、どうしようもなくなって。そして気がついた時には、濡れているんです。ナイフの刃も、僕の手も。あの燃え盛る炎みたいな髪と、同じくらい真っ赤で鮮やかな血で」

 

 とてもではないが、素面などでは決して語れない内容を。しかしクラハは無表情を一切崩すことなく、平然とした態度で淡々と宣い続ける。それがより一層、さらに彼の身の毛がよだつ狂気を際立たせる。

 

 そして誰の目から見ても、もはや明白だろう。

 

「声が囁くんです。囁いてくるんです。殺せ、殺せって。女の子を殺してしまえって。それが頭の中で聞こえて響いて、寝ても覚めてもいつも何度も幾度も、何回何十回何百回……そうして、気がついた時には、もう、また」

 

 過激化するクラハの狂気はそのまま加速し、暴走し、その末に弾けて爆ぜるだろうことは。

 

 無論、そんな誰にだってわかること、ロックスがわからないはずもない。

 

「クラハ」

 

 故にだからこそ、手の施しようがない程に、手遅れになってしまうその前に。ロックスはクラハの言葉を無理矢理遮るように、口を開いた。

 

 その声音によってか、はたまた呼びかけられたからか。まるで壊れた蛇口のように狂った言葉を吐き出し続けていたクラハが、ようやっとそこで止まった────かに、思えた。

 

 真剣に、真摯にこちらに向き合うロックスを。数秒黙って見つめていたクラハが、不意に再び口を開いた。

 

「ロックスさん。僕はあと何回見ればいいんです?あと何十回刺せばいいんです?あと何百回殺せばいいんです?あと何回、何十回、何百回……僕は、あの子を……僕は、僕は」

 

 ……その問いかけに答えられる者など、皆無だろう。答えられたとして、それが合っているのか、正しいのか。答えた当人ですら、それはわからないだろう。わからないはずだ。

 

 故に、その時ロックスがクラハに答えたのは────

 

「行くぞ」

 

 ────という、その一言だけだった。

 

「…………」

 

 気がつけば、クラハとロックスの二人の周囲には不自然な空間ができており。街道を往来する無数の人々が、彼らを避けていることは明白で。

 

 そして二人から距離を取るその者たち皆が、奇異な視線な視線を(こぞ)ってこちらに、無遠慮にも向けていることも。

 

 クラハの狂言は先程のロックスの謝罪とは訳が違う。オールティアの街道の喧騒を以てしても、それを丸ごと呑み込んで掻き消すことはできず。またクラハが放つ、その常軌を逸した雰囲気も相まって、否応にも散在していた人々の意識を集めさせた。

 

 故に、別にロックスはもういい加減付き合っていられないと、そうして突き放すかのようにそう言った訳ではなく。むしろその逆、クラハを慮っての一言だということは、わざわざ考えずともわかる。

 

「……そうですね」

 

 だからこそ、クラハは素直に彼の言葉を聞き入れた。……もっとも、その顔に浮かべている無表情には微塵も変化がなく。瞳に宿る危うげな昏闇は晴れも薄れもせず、そのままであったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──……あの時、俺はどんな言葉をかけてやればよかったんだ。

 

 と、静謐の雰囲気で満ちているこの森林の中を歩き進みながら。誰に対して言うでもなく、心の中で独りごちるロックス。その後ろを黙って付いて歩いているクラハには見えない彼の顔は、重々しく険しい。

 

 それもそうだ。無理もない。当然だろう。何せあんなこと────あんなクラハの、あんな言葉を聞いてしまえば。誰だってこうもなる。ロックスであっても、そしてメルネだったとしても。

 

 恐らく、これは正解のない問題。正しい選択肢など、初めから用意されていない、理不尽極まる難題。それと相対するロックスは、それでも考えていた。

 

 ──…………。

 

 が、やはりというべきか答えなど浮かぶはずもなく。やがて諦めるようにロックスは心の中で、草臥(くたびれ)ながら呟く。

 

 ……それに、あの時クラハが言っていた、燃え盛る炎のような赤髪の女の子。

 

 意外……という訳でもないのだが、クラハには異性の知り合いがあまりいない。というより、そういう浮いた話をロックスはクラハからはもちろんのこと、メルネや他の者たちからも聞いたことがない。

 

 それこそ最近、世界最強と謳われ畏怖される『炎鬼神』から一転。花も恥じらう、将来が大変有望な美少女と化したラグナくらいである。とはいえ、その内にラグナを数えることはできないが。

 

 そのラグナと、クラハが言う赤髪の少女────否が応でも、重なる。頭の中で重ねてしまう。

 

 ──……だから、だったのか……?

 

 重ねて、ロックスは腑に落ちた。

 

 クラハがラグナに対して取った考えられないようなあの言動。信じられないようなあの態度。(ひとえ)にそれは、ただラグナを()()()()()()()()()()()()

 

 途轍(とてつ)もなく遠回しで、とんでもなく回りくどく。周囲からは誤解しかされない不器用なやり方ではあったが。

 

 

 

『僕は人を刺しました。刺して、殺しました』

 

『僕はいつも、何度も、毎回、幾度。繰り返し、繰り返し、繰り返して繰り返して繰り返して繰り返して、ずっと繰り返し続けて、殺し続けて』

 

『殺せ、殺せって。女の子を殺してしまえって』

 

『僕は、あの子を……僕は、僕は』

 

 

 

 恐らくきっと、その狂気から守ろうとして。守りたくて、だから────そう、ロックスは思いたかった。

 

 しかし、いくら考えたとしてもそれはロックスの憶測にしかならない。そうであってほしいという、自分の願望でしかない。本人に直接確かめるのが一番手っ取り早く間違いないのだろうが、生憎そうするだけの度胸を。ロックスは情けなくも、今持つことができないでいた。

 

 ──……ジョニィの兄貴なら、どんな言葉をかけてやったんだろうな……。

 

 そうして現実から目を背けるように、思考が逸れるのも自然の流れで。

 

「ぐッ……こいつ、は……!」

 

 だがその時、不意にロックスの思考が無理矢理に断ち切られた。唐突に鼻腔を通り抜けた、腐った血と臓物の悍ましい臭気によって。

 

「おいクラハ。警戒、怠るなよ」

 

 長年培ってきた冒険者(ランカー)の勘が警鐘を鳴らす。大抵、こういった場合には。この後すぐにでも、それはもうろくでもないことが待っている。

 

 気を引き締め、ロックスは先を進む。進む度、漂ってくるその臭気は強まっていく。それと同時に、彼の胸の内で悪い予感が膨らんでいく。

 

 そうしてある程度奥まで進んで────それが見事的中してしまったことを、ロックスは痛感させられた。

 

「……おいおい」

 

 目の前では惨状が広がっていた。ただの惨状ではない、最悪の惨状が。

 

 数は四。その(いずれ)も実に残酷で惨たらしい有り様で。ただの一般人が見たのなら、間違いなくその場で胃の内容物を戻してしまっていたことだろう。多少なりとも経験を積んでいるロックスですら、堪ったものではないのだから。

 

 だがしかし、()()()()()()()。もしこれが()()であったのなら、目も当てられない大惨事となっていたのだから。

 

 それは魔物(モンスター)の死骸。肩から切り裂かれ、その断面から内臓が溢れ出しているもの。首から上がなくなっているもの。手足を乱雑に千切り取られているもの。原型を留めない程に破壊されたもの。計四つの、死骸である。

 

 けれど、だからといって安易に胸を撫で下ろすことはできない。何故ならば、これはこれで()()には違いないからだ。

 

 もしこの死骸たちがただの取るに足りない魔物だったのならまだ良かった。が、この惨殺された死骸全てが────()()()()()()()()()だった。

 

 真偽が定かではなかった情報が、これで正しいと証明された訳である。……そしてこちらが把握しているよりも、この事態は深刻化しているということも。

 

 冒険者として、伊達に経験を積んでいないロックスが、毅然とした声でクラハに言う。

 

「クラハ。一旦ここは退く。あのデッドリーベアがこうもあっさり殺られちまってる……正直言って二人じゃちと荷が重い。最低限《A》ランクを四、五人集めてまた……クラハ?おい、聞いてんのか」

 

 だが、クラハはというとロックスのことを見ておらず。デッドリーベアの死骸を超えた先、森の奥の方へ視線を向けていて。その様子を見せられ、ロックスは薄ら寒い予感を覚える。

 

 ──こいつ、まさか……。

 

 ロックスがそう思ったのも、束の間のことだった。

 

 

 

 ダッ──不意に、クラハが地面を蹴りつけ。その場から駆け出した。

 

 

 

「クラハッ!!」

 

 ロックスの制止も聞かず、疾風(はやて)のように駆けながら、さらに奥へ独り先行するクラハ。その背中を慌てて追いかけようとロックスもまたその場から駆け出すが、数秒遅れて彼は気づかされる。

 

 ──追いつけん……!

 

 出遅れた、というのもあった。しかしそれを差し引いてでも、クラハの足力はロックスの想定を超えており。今さらながら、クラハが齢二十歳という若さで最高の《S》ランクにまで昇り詰めた冒険者(ランカー)であることを、ロックスは思い知らされる。

 

 そうして、ロックスは────

 

「……クソが!」

 

 ────クラハの背中を、見失った。



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崩壊(その十三)

 (さなが)らそれは、暴力であった。ただひたすらに突き抜けた、暴力であった。

 

 その暴力は振るうその腕で、軌道上に並び立つ全てを薙ぎ倒し。踏みつけるその足は、下にあるもの全てを微塵に粉砕せしめた。

 

 その暴力は怒っていた。己が内を焦土に焼き尽くさんまでの、壮絶で凄絶な、激烈極まるその怒りに突き動かされ、大いに荒れ狂っていた。

 

 怒りに身を任せ、怒りのままに。周囲に在る全てを、悉く。そして(ことごと)く、一切の例外を許すことなく。その暴力で以て、破壊した。

 

 慈悲も、躊躇も。遠慮も、容赦も。妥協も、譲歩も。なく、なく、なく。ただただ、怒り狂い、荒れ狂い、暴れ狂い。

 

 そうして通り過ぎたその後には、何も残らなかった。

 

 一体何がそこまでそうさせるのだろう。その怒りだけで、どうしてそこまでできるのだろうか。何がそこまで癪に障るのだろうか。

 

 それは、誰も知らない。誰にもわからない。誰にも理解できない────否、理解されない。

 

 故に暴力は怒りのままに、ただ突き進むだけ。怒りに身を委ね、任せて、眼前に在る全てを暴力で以て。捩じ伏せ、叩き伏せ、そして破壊し尽くすだけ。

 

 人々は後に、この暴力────否、暴力の化身たるこの魔物(モンスター)をこう呼んだ。

 

 泰山が如き大巨体。大樹よりも太く強靭で頑強な手足。烈火を宿す真紅の剛毛皮。それら全てを兼ね備えた恐ろしき名持ち(ネームド)のデッドリーベア──────────『滅戮の暴威(キリング・タイラント)』、と。

 

 謂わば特異個体(ユニーク)の一体。しかしその中でも一際のとびきりである。

 

 同種を遥か悠々に越す体躯。少しばかり振るうだけでも埒外な破壊力と殺傷力を誇る手足。ありとあらゆる攻撃を受け防ぐ毛皮。

 

 特異個体だという点を踏まえても、『滅戮の暴威』は常軌を逸している。それが今、その目に映るもの全てを手当たり次第に破壊しながら、独り森林の中を進んでいた。

 

 一体どこを目的地と定めているのか。何処を目指して向かっているのか────それら全てが 一切不明。

 

 そうして、悉く尽くを破壊する暴嵐と化している『滅戮の暴威』の眼前に。四体の哀れな餌食が、不運にも現れてしまった。

 

「グオ……」

 

「オオオォ……ン」

 

 餌食────デッドリーベアたちは眼前に聳え立つ、圧倒的なまでに格上の存在を目の当たりにし、竦んだような鳴き声を情けなく漏らす。

 

 そんな彼らを、『滅戮の暴威』は見下ろしていた。赤黒く淀んだその両の(まなこ)で、恐ろしくも静かに睥睨していた。

 

 その眼差しが如実にこう語っている────不愉快、であると。

 

「ゴアアアアッ!!」

 

 絶えず放たれていた膨大で莫大な威圧(プレッシャー)に、遂に耐え切れなくなった一体が悲鳴のように吠え、その場から一目散に逃げ出す。

 

 最初の犠牲が決まった瞬間であった。残る三体のデッドリーベアの視界から、突如として真紅の泰山が消え去る。

 

 ボバッ────直後、真っ先に逃げ出した一体の頭部が爆ぜた。

 

 断末魔の雄叫びを上げることも許されず。周囲の木々に薄桃色の肉片や鮮血を飛び散らせたその後に、頭部を失ったデッドリーベアの身体が崩れるように前のめりに倒れ臥す。その様を、すぐ側に立っていた『滅戮の暴威』はつまらなそうに見届けた。

 

 三体のデッドリーベアたちには見えなかった。逃げ出した一体のすぐ側にまで移動したのも、その頭部を破壊する為に振るわれた腕も。何もかもが、目で捉えることは叶わなかった。

 

 仲間────という意識があったのかは定かではないが、目の前で同類が、それもこうまでも容易く呆気なく斃された光景をまざまざと見せられ。残りの三体たちは半ば狂乱するかのように野太い鳴き声を上げる。

 

「グオオオッ!?」

 

「ゴガァ!」

 

「ボアアア!!」

 

 そう、三体のデッドリーベアは即座に悟ったのである。野生の本能とも言うべきもので、自分たちが眼前の圧倒的、絶対的強者から逃げ仰ることはできない────否、許可(ゆる)されないのであると。

 

 故に彼らデッドリーベアがその時取った行動は、数の利を活かした抵抗であった。

 

 どんな戦いであれ、数が物を言う────しかし、時に度を越した強さは、ただ強いというだけでその常識をひっくり返してしまう。

 

 その場合、生き延びる方法は一つだけ。そう、それは逃げること。恥も外聞もかなぐり捨てて、何が何でも逃げること。生きる為に、死なない為に。

 

 しかしデッドリーベアたちはその唯一の方法が取れない。取れないからこそ、そうして抵抗するという選択肢を取った。

 

 獣が選べるのは、戦うか逃げるか。故にそれは当然であるが────しかし、彼らは間違えた。

 

 間違えた彼らに待っているのは、純粋な力による、単純な蹂躙であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実に退屈極まりない殺戮を終えた『滅戮の暴威(キリング・タイラント)』は、周囲を見渡す。

 

 今や物言わぬ骸と化した四つの同胞。……否、『滅戮の暴威』にとっては同胞などではない。己に劣る、ただの紛い物。

 

 それを見下ろし、『滅戮の暴威』は怖気立つ唸り声を低く漏らす。大抵のものであれば噛み千切れる牙を剥き出しにして、そのドス黒い目を血走らせる。

 

 何故に一体、どうしてこんなにも()()()()()()()()()()()()

 

 その疑問が『滅戮の暴威』の脳内に満ちていく。そしてまた、沸々と怒りが煮え滾ってくる。

 

 転がる死骸の一つに目をやり、『滅戮の暴威』は歩み寄る。そうしてやり場の見つからない怒りを、それにぶつけた。

 

 ただひたすらに、滅茶苦茶に暴力を振り下ろす。その度に死骸は折れ、砕け、そして破壊されていく。

 

 死骸が肉塊と化すのに、そう時間はかからなかった。そのことが、さらに『滅戮の暴威』を苛立たせる。

 

 そうして『滅戮の暴威』は今し方作り出した肉塊に興味を失せさせ、再び森の奥へと顔を向け、駆け出す。

 

 地面を蹴り抉り、木々を薙ぎ倒し。何処かを目指して、我武者羅に駆けていく──────────その最中で、ふと気づいた。

 

『滅戮の暴威』がその場で足を止める。止めて、背後を振り返る。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 人間が一人、そこに立っていた。



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崩壊(その十四)

滅戮の暴威(キリング・タイラント)』が人間を目にするのは、別にこれが初めてという訳ではない。かと言って、多い訳でもないが。

 

 だが『滅戮の暴威』にとって人間というのは、己が最も忌み嫌う────脆くて弱い存在(モノ)だった。

 

 故に人間を視界の片隅に入れるだけで。苛立ちは瞬く間に頂点(ピーク)に達し、怒髪天を突き抜け、激情が噴火する────その、はずだった。

 

 人間を目にすると同時にその全てを例外なく破壊(ころ)してきた『滅戮の暴威』は、今目の前に立つその人間に対して。怒りではない、未知の感情を抱いていた。これが一体何なのか、『滅戮の暴威』は知らない。知る由もない。

 

 今までであれば、『滅戮の暴威』は間髪入れずにすぐさま襲いかかり、先程のデッドリーベアたちと同様にその人間を屠っていたことだろう。

 

 だがしかし、そんな『滅戮の暴威』は今、その場に()()()()()()。行動を起こすことなく、今はただ距離を取ったまま、その人間を眺めている。息を潜ませ、じっと静かに。

 

 その生涯に於いて、今の今まで『滅戮の暴威』はそれをしてこなかった。しようとしなかった。する必要に駆られることがなかった。

 

 それとはつまり────警戒、である。あり得ないこと、信じられないことだが。けれど、『滅戮の暴威』に限ってはそうではないのである。

 

 何故ならば、頂点に座す存在(モノ)なのだから。母の胎より生まれ落ちたその瞬間から、圧倒的にして絶対的なまでの強者として。生まれてまだ間もない仔の時から、他に比肩するものが皆無であった生物として。

 

 そうして今も頂点に座する『滅戮の暴威』は、己以外取るに足りない存在をわざわざ警戒などしたりはしない。しなくとも、どうとでもなるのだから。

 

 故にこれが『滅戮の暴威』にとっての、初めて行う警戒。迂闊に手を出すことなく、相手の出方を窺う────己以外の弱者が当然のように行ってきたそれを、『滅戮の暴威』は今こうして初めて行う訳だが。それでも当たり前のようにできているのは、もはや天性のものとしか言いようがないだろう。

 

 そんな『滅戮の暴威(キリング・タイラント)』が警戒をせざるを得ない程に、眼前に立つその人間は異質で異様で────異常であった。

 

「…………」

 

 発せられるその雰囲気。その身に纏う空気。そして第一に、その表情(かお)

 

『滅戮の暴威』は二つ、憶えている。今まで目にしてきた哀れな餌食たちの、顔を。こちらに殺されるまでに浮かべていた、その表情を。

 

 恐怖か、虚勢。すぐ側にまで迫り来る確実で絶対の死を前に、最期まで怯え切った表情。恐怖を誤魔化す為、または望み極薄の生還を果たす為に己を奮い立たせ無謀な蛮勇を以て立ち向かうその表情────その二つだけが、『滅戮の暴威』の脳裏に刻み込まれている。

 

 だが、しかし。その人間が浮かべているのはどちらでもない。この時、『滅戮の暴威』は初めて知ったのだ────それこそが、何の感情も宿していない、無表情なのだと。

 

 己以外は取るに足りない弱者。矮小でしかない塵芥(ゴミ)の屑。『滅戮の暴威』にとってそれが当たり前の認識であり、そしてそれは間違っていない────否、()()()()()()()()()

 

 けれど確信する。その認識が、常識は。今や覆されようとしていると。目の前に立っている、この一人の人間によって。

 

 それは度し難いことだった。『滅戮の暴威』にとってそれは許し難いことのはずだった。

 

 ……しかし、一体どうしたことか。あの身を焼き心を焦がす怒りは、荒れ狂いながら暴れ狂うあの怒りが。何故か()()()、僅かたりとも噴き出してくることはない。

 

 それもまた『滅戮の暴威』にとっては初めてのことで、故に戸惑う。この生涯の最中で今初めて、困惑する。

 

 それと同時に、言い知れない感情に揺れ動かされていた。それもまた、『滅戮の暴威』にとっては初めてのこと。

 

 怒涛の如く押し寄せる未知(はじめて)の連続。それもまた『滅戮の暴威』にとっては煩わしいことこの上なく、癪に障って腹立たしさ極まりない。

 

 ……が、今だけは違う。今、『滅戮の暴威』を満たしているのは、怒りではない。怒りではない、全く別の何か。それが一体何なのか、『滅戮の暴威』はわからない。知らない。

 

 ただ、確かなのは。今までの生涯の最中で、あれ程までに自らを苛み続けていた怒りが────()()()()()()()()()()

 

 頭の中を、そして心の中を。余すことなく満たしていたその怒りが、激しく燃え盛る烈火の如き憤怒が。徐々に消えていく。ゆっくりと失われていく。そうしてできた穴と隙間を埋めるように、『滅戮の暴威』が知らないもので満たされていく。

 

滅戮の暴威(キリング・タイラント)』が戸惑い、困惑する最中。かの人間が、ようやっと動き出した。

 

「────」

 

 何か言っている。けれど魔物(モンスター)である『滅戮の暴威』には、言葉ではなくただの音としか届かない。

 

 何かしらを言い終えたのだろうその人間は、やがて腰に手を伸ばす。そこに下げられていたのは、一振りの剣。

 

 それには『滅戮の暴威』も見覚えがあった。自分と相対した何人かの人間が持っていた、謂わば自分たちで言うところの爪────即ち、武器。

 

 しかし『滅戮の暴威』にとってそれは、()()()()()()()()()もの。何故ならば、今まで例外なく、この身体に傷をつけられたものはないのだから。

 

 故にその剣に対して、特段『滅戮の暴威』が注意を向けることはない。その必要がない────今までであれば、そのはずだった。

 

 生涯の中で今初めて抱いた警戒を、『滅戮の暴威』はその人間だけでなく、その剣にも向ける。そうしなければならないと、野生の本能が訴えていた。

 

『滅戮の暴威』に余すことなく警戒されながら、しかしそれを大して気にした様子も見せずに、その者は伸ばしたその手で剣の柄を握り。

 

 スッ──そして静かに抜いた。

 

 

 

 

 

 ゴッ──直後、駆け出した『滅戮の暴威』が開いていた距離を一瞬で詰め終え。抜いたその剣をろくに構える間も与えずに、既に振り上げていた剛腕で以て、人間を吹っ飛ばした。



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崩壊(その十五)

 ゴッ──己が眼前に立つ人間が、その腰に下げる剣を鞘から引き抜き、そして構える寸前。抱いた警戒心に突き動かされるようにして、人間との距離を詰めると同時に、振り上げた剛腕を振り下ろす『滅戮の暴威(キリングタイラント)』。

 

 その剛腕の一撃は太く堅固な大木を易々と真っ二つに圧し折り。己が身の丈を優に越す岩石ですらも、一瞬にして木っ端微塵へと化す。まさに悪魔的な破壊力を誇る、『滅戮の暴威』の壊滅必須の一撃。

 

 そして何よりもげに恐ろしきことは、その疾さ。一見すると鈍重な印象を受ける『滅戮の暴威』の一撃だが、しかし実は全くの逆。とんでもなく、あり得ない程に疾い。それこそ並大抵の存在では目で捉えることすら叶わず、辛うじて目に留められたとしても。それでは躱すことなど、土台無理な話である。

 

 掠っただけでも十二分な致命傷を与えかねないこの一撃を、その身にまともに受けてしまえば。それはもう、一度で。その時点で、()()()()()()()

 

 壊滅必須。絶命必至。生まれながらにして、今この時この瞬間並び立つ存在(モノ)が皆無である程に最強たる『滅戮の暴威』の一撃────それを、かの人間は受けた。実に不運、不幸なことにもまともに喰らった。

 

 直後に待ち受ける結末は、火を見るよりも明らかで。誰であろうと容易に予想し得る、その末路を辿ることは必定である。

 

 ……その、はずだった。そうなるべくしてなる、はずだったのだ。

 

 当の一撃を見舞った『滅戮の暴威(キリングタイラント)』の脳内に疑問符が浮かぶ。これは一体どういうことだと、困惑が埋め尽くす。

 

 

 

 ()()()()()()()()

 

 

 

 またしても未知(はじめて)のこと。そしてその『滅戮の暴威』が抱いた疑問に、すぐさま答えが示される。

 

 吹っ飛ばされたその人間はまるで何事もなかったかのように()()()、そして平然とその場を蹴りつけ、駆け出した。

 

『滅戮の暴威』には知る由もなく、また理解できるべくもないことだが。人間はその一撃をまともには()()()()()()()()

 

 受ける直前、その寸前に。人間はその場から()()退()()()()()。そうすることによって『滅戮の暴威』の一撃の威力を最低限にまで抑え、生じた衝撃を緩和させ、そして追撃を避ける為に敢えて派手に吹っ飛ばされることで、逆に距離を取ったのである。

 

 もっとも、今この時を除いて相手を仕留め損なったことがなかった『滅戮の暴威』に、追撃をするなどという考えは全く以て浮かばなかったが。

 

 それはさておき。『滅戮の暴威』からの追撃がないことを見るや否や、先程以上までに開いたこの距離を。しかし『滅戮の暴威』と同じように、その人間は一瞬にして詰め切り。瞬く間に、『滅戮の暴威』の懐へと入り込む。

 

 そうして流れるように、一切の澱みもないごく自然な動作で。

 

「【──】」

 

 と、またしても『滅戮の暴威』には単なる音としか聞き取れない呟きを漏らすとほぼ同時に。人間は手に持つその剣を、無防備に晒け出されていた『滅戮の暴威』の腹部へ。何の躊躇いもなく、振るった。

 

 冷酷な輝きを零す白刃が宙を滑り、残酷にも『滅戮の暴威』の腹部を斬り裂く────()()()()()、瞬間。

 

 

 

 

 

 バキンッ──澄んだ甲高い音を立てて。剣は真ん中から上が折れた。

 

 

 

 

 

「……」

 

 周囲に存在する無数の木の一本に。今し方目の前で折れてしまった剣身が宙に放物線を描きながら飛び、そして突き刺さるその音を。背後から聞きながら、一体何が起こったのかを、即座に人間は理解する。

 

 そう、自分は()()()()()()()

 

滅戮の暴威(キリングタイラント)』の巨躯を包む毛皮。その堅牢さと強靭さは容易に目で見て取れる。余程の名工の手による得物でもない限り、それを斬り断つことは決して容易ではないだろう。

 

 そしてお世辞にも『滅戮の暴威』に今対峙している人間の得物は上等な得物とは呼べない。効率と利益を重きに置いた、何ということのない大量生産品の一振りだ。

 

 そんな代物では『滅戮の暴威』を斬るどころか擦り傷一つすら負わせられないことは、百も承知。何も考えず無策のまま、無謀に振るえば。その直後に訪れる結末は火を見るよりも明らかで、そして無慈悲。

 

 人間はそれがわからない訳ではない。故にだからこそ、それを見越した上で、使った。

 

『滅戮の暴威』にはただの連なった音としてしか聞き取れなかった、先程の人間の発言。

 

『【強化(ブースト)】』

 

 それはこの世界(オヴィーリス)に存在し、そして伝えられる数多無量の魔法の一つ。最も基本的(オードソックス)にして、最も単純的《シンプル》な魔法の一種。

 

【強化】。その名が示す通り、強化する魔法。物でも人でも、魔力を用いて強化を施す魔法である。

 

 身体であれば頑健と強靭を。武器であれば硬度と威力を。己の魔力が足りる程に、そして魔力を注ぐ器が許容する限り。理論上は際限なく何処までも、強化を施し続けることができる。

 

 行使する為に必要な面倒な準備も、発動する為に複雑な想像(イメージ)も必要ない。ただ魔力さえ伴っていれば、それでいい。

 

 故にだからこそ、()()()。この魔法を極めんとするのなら、並大抵の努力では到底足りないという────まあ、それはさておき。

 

 人間はその【強化】を得物に施した。鋼ですら容易く斬断できる程度に。

 

 ……そう、()()()()。とどのつまり、この人間は侮った。己が眼前に聳え立つ『滅戮の暴威(キリングタイラント)』を、決して有象無象の雑魚には数えられないこの存在(モノ)を。

 

 だがしかし、所詮は力を振り回すだけの魔物(モンスター)に過ぎないと。だからこの程度で事足りると、人間は『滅戮の暴威』を軽視し、侮ってしまった。

 

 そうして鋼以上の硬度を誇る毛皮に包まれる『滅戮の暴威』の肉体に、鋼を斬れる程度の【強化】を施していない剣を振るった結果。容易く、呆気なく剣身は折れてしまったという訳だ。

 

 それにより生じた、一瞬の隙────『滅戮の暴威』はそれを見過ごさなかった。

 

「ガアアァッ!!」

 

 唸り声と共に振るわれる剛腕。その一撃は僅かばかりに固まっていた人間を見事に捉える。

 

 ゴッ──その瞬間、今度は。『滅戮の暴威』は確かな手応えを感じた。

 

 人間の身体がまたしても吹っ飛ぶ。しかし先程とは違う。明らかに違う。今度こそは、確実に()()()()()()()()()

 

 凄まじい勢いで人間は宙を飛び、そして瞬く間に後方にあった木に激突する。

 

 バキャッ──果たしてそれは折れた木から響いた音だったのか。それとも人間の身体から発せられた音だったのか。或いは、その両方か。とにもかくにも、折れた木が倒れるとほぼ同時に、人間もまた力なくその場に倒れ込む。

 

「……」

 

 数秒、過ぎたが。『滅戮の暴威』の視界の最中で、未だ人間が起き上げる気配は見られない。

 

 それもそうだ。先程とは違い、この人間はこちらの一撃を。大抵の生物を死に至らしめる絶命の一撃を、まともに受けた。五肢が千切れず、おろか上半身と下半身が分断されずに済んだことが奇跡に等しい。

 

 そしてそんな奇跡を起こしておきながら、その上存命までも望もうと言うのなら、それは度を越した贅沢だ。無論、それが許されるべくもない。

 

 ……そう、許されるべくもない────はずだった。

 

「…………ゴホッ」

 

 不意に、唐突に聞こえたその音に。『滅戮の暴威』が反応する。そうして瞬く間も置かずに、『滅戮の暴威』の視界の最中で。

 

 ゆらりと、人間は地面から起き上がった。そして続け様に俯かせているその顔を、ゆっくりと上げる。

 

 口端からは血が伝っており、滴り落ちたそれが地面を点々と赤く染める。その様子から、人間が内臓を痛めたことは明白である。

 

 だが、やはりそれでも────人間は無表情であった。憤ることもなければ、怯えもしない。その様子に『滅戮の暴威』の胸中に、またしても己が知らない感情が熱を帯びて沸く。

 

 そうだ。やはり違う。今眼前に立つこの存在(モノ)は、今までとは全く以て違う。激烈な憤怒をこちらに抱かせず、未知の感情を教えてくれる。与えてくれる。

 

 その時、その瞬間。『滅戮の暴威』は確信する。今まで何の変わり映えをすることがなかったこの一生が、今ようやく変わろうとしているのだと。

 

 否、この人間が変えてくれるのだろうと。

 

「…………」

 

 血を拭うこともなく、人間は折れた剣を構える。もはや得物としては機能しないであろうそれを『滅戮の暴威』へと向ける。

 

 普通ならば諦観に暮れるしかない、この絶望的な状況。しかし、今そこに置かれている人間は諦観も絶望もしていない。かと言って虚勢を張ることも、ましてや奮起することもない。

 

 ただ単に、そこに立っているだけ。折れたその剣を、こちらに向けるだけ。

 

 逃げも隠れもしない人間のその姿に、『滅戮の暴威』は確かに感じ取る。

 

 興奮を。決して怒りから発露した訳ではない、高揚を。

 

 それのなんと、心地良いことか────────

 

「グオオオオオオオオオオオオォォォッ!!!」

 

滅戮の暴威(キリングタイラント)』が咆哮する。『滅戮の暴威』自身、知るはずもなかったが。明らかにそれは、歓喜────喜びの感情が溢れんばかりに込められていて。

 

 そうして再び『滅戮の暴威』が駆け出す。足元の地面を爆ぜさせながら、怒涛の突進を見舞おうと、未だ静かに刃折れの剣を構える人間に突っ込む。

 

 そして──────────



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崩壊(その十六)

 これまでの生涯。今までの一生。その最中に於いて、『滅戮の暴威(キリングタイラント)』はただ、探していた。

 

 この腕のほんの一振りは、一切合切全てを砕いて壊す。しかし、この腕のほんの一振りではどうにもならない、そんな存在(モノ)を。

 

 探して、探し求めて。追いかけ、追い求めた。

 

 けれど、見つからなかった。当然だ。この世界に生まれ落ちたその瞬間から、最強(こどく)だった自分に並び立てる存在など────存在しない。

 

 その結論に至ったのは、果たしていつ頃のことだったか。それももはや、覚えていない。もうどうでもよくなってしまっていた。

 

 ……だと言うのに、この胸を灼き尽くして焦がし尽くす、怒りだけは。いつまで経っても、幾ら時が過ぎようとも、決して失せることも褪せることもなく。延々と、燻り続けた。

 

 忘れたかった。忘れたかったから、忘れようと。だから、暴れた。ただひたすらに暴れ、どうしようもない程に暴れ続けて────だが、『滅戮の暴威』はこの怒りを忘れることができなかった。

 

 そうしていつしか、悟った。この身が朽ちて滅び去るその時まで、殺戮の限りを尽くし、暴威を振り撒こうと。きっと最後の最期まで、自分はこの怒りに支配されたままなのだろうと。

 

 なんと、恐ろしくつまらない生涯。変わり映えのない惰性の一生。寿命を迎えるまでそれを続ければならないという、この上ない苦渋。それに伴う苦痛。

 

 どうしてこれを、怒らずに受け止められようか──────────

 

 

 

 

 

「……ガ、ァ……」

 

 

 

 

 

 だがそれも、ようやく。今ここで、終わりを迎えようとしていた。ようやっと、『滅戮の暴威(キリングタイラント)』は探し求めた存在(モノ)に行き着いた。追い求めた存在に辿り着いた。

 

 一切合切全てを(みなごろ)す、この腕のほんの一振りを。こともあろうに軟弱で脆弱極まる人間がその身に受けて、なお。絶命するどころかその場から立ち上がり、(あまつさ)えこちらに立ち向かう気概を見せつけてきた。

 

 まさに、(まさ)しく、それだ。それだった。それこそが、探し求めていた存在。それだけが、追い求めていた存在。

 

 変わり映えのしない惰性の一生。至極つまらないこの生涯。これを一変させる存在こそが、その人間だったのだ。

 

 その時、その瞬間。『滅戮の暴威』は自ずと知る。理解する。この全身を激しく駆け巡り、そうして弾けんばかりに溢れそうになるこれが。これこそが────喜び、であると。

 

 知って、知りながら、知る最中──────────()()()()

 

 実力(ちから)の全てをぶつけた。だが、それが通じたのは最初の始まりだけで。そこからは一切、全く通用せず、届かなかった。

 

 薙ごうとした腕は斬り飛ばされ、刈ろうとした爪は打ち砕かれ。終いまで、ただの一撃も。僅かな擦り傷一つですら、与えることはもう叶わなかった。

 

 先程まではこちらを斬り伏せるどころか、生じた衝撃に耐え切れず自壊した刃折れの剣を以て。その事実がまるで荒唐無稽の虚実だったかのように、こちらを散々と斬り刻んでみせた。

 

 その時初めて知ることができた、痛み。斬痕から流れる血の熱さ────それが、『滅戮の暴威』に確かな生を実感させていた。

 

 生きている。今を、生きている。こうして必死に、死に物狂いになって生きている────そのことに、『滅戮の暴威』はまたしても強烈で激烈な歓喜に打ち震えるのだった。

 

 打ち震えながら、それもまた実感する──────────今し方も過ぎない内に、この生が終わらんとしていることを。

 

 だが、駆ける。それでも構わないと、駆け抜ける。今この一瞬、それが全てであると。自ずと悟っていた『滅戮の暴威』に、よもやここまで至って止まるなどというのは、あり得ない選択で。そして取り得ない選択だった。

 

 己の全てを出し切り。己の全部を引き摺り出し。そうして──────────遂に、終わったのだ。

 

 自分が作り上げた夥しい血の海に横たわり、『滅戮の暴威(キリング・タイラント)』は遥か頭上の空を見上げる。こうして眺めるそれは────晴れやかに、青く澄み渡っていた。

 

 すると不意に、唐突に。『滅戮の暴威』の脳裏に景色が浮かぶ。ぼやけて揺らぐ数々の景色が。浮かんでは消え、それを幾度となく繰り返す。

 

 遅れて、それらが今までの生涯、これまでの一生の記憶であると。『滅戮の暴威』は気がつく。大量のそれらに────しかし、今こうして青空を眺めているような記憶はなかった。

 

 それから『滅戮の暴威』は視線を映す。空を見上げるこちらとは打って変わって、地に臥す己を見下す人間の方に。

 

 絶対的強者として君臨した自分を、最初こそ手痛い────否、今にして思えばそれも大したことはなかったのだろう。ともかく、こちらの攻撃を受けはしたが、しかしそれを全く意に介さない様子で圧倒の限りを尽くした人間は。やはりというべきか、未だにどうしてか人形が如き無表情であった。

 

 それはそうして、終わりが来る。終わりが近づいて来る。決して逃れようのない、生命(いのち)の終わりであると『滅戮の暴威』は知っていた。何故ならば、それを今までに散々見てきたのだから。

 

 けれど、後悔はない。そんなものあるはずがない。『滅戮の暴威』は全てを振り絞り、出し切ったのだから。

 

 故にあったのは後悔ではなく────充実感。やり切ったという、満足感。今の『滅戮の暴威』にあったのは、ただそれだけで。

 

 つい先程まで────否、生まれてから今に至るこの時、この瞬間まで、己を蝕み苛み続けていた憤怒の激情は。まるで元からなかったかのように消え失せていた。

 

「……ガ、ァ、ァ…………」

 

 そして生命もまた、消え失せていく。心臓の鼓動が遅くなり、だんだんと脈動が弱まっていく。それはもう、どうにもならない。どうすることもできない、生命の終わり。

 

 やがて熱かった血は冷めて、身体が凍てつくのを感じ取りながら。しかし、それでも惜しむこともせず。

 

「……………………」

 

 そうして、『滅戮の暴威』は息絶えた──────────

 

 

 

 

 

「……また、死ねなかった……」

 

 

 

 

 

 ──────────訪れる死の直前、耳に届いたその言葉(おと)を確と聞き取って。



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崩壊(その十七)

「クラハッ!!お前……っ!?」

 

 その場にロックスが駆けつけた時には、状況は既に終了していた。

 

 彼の足が遅かった訳ではない。(むし)ろ疾い方である。

 

 何せここは人の手も(ろく)に加えられていない、(まさ)に在りの儘の自然が。生まれ、拡がり、作られた森。その奥の奥の、普段であれば誰であろうと決して近寄り踏み入ろうとはしない最奥。そこへ訪れる存在はこの森に昔から棲まう動物や魔物(モンスター)くらいなもので、それ故に人が通れるような道などあるはずもなく。あるのは悪路極まった獣道、ただそれだけ。

 

 常人は元より立ち入れないとして、並の冒険者(ランカー)では一日、二日費やしても踏破できないだろうその道を、ロックスはものの一時間足らずで踏破してみせた。そんな彼を遅いと(そし)り蔑むのは余りにも酷で、そして身勝手な話というものである。

 

 ……だが、そんなロックス()()()。同じ《S》冒険者の尺度からしても十二分に抜きん出ている一人に数えられるであろう《S》冒険者ロックス=ガンヴィル()()()

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ──……おいおい。おいおいおいおい…………こいつは、マジかよ……?

 

 些か血で汚れた衣服。上から半ばまで折れた、血と肉と油に塗れた剣。足元に広がり、地面を覆い尽くしかねない程に巨大な血の湖。

 

 そしてそこに沈んでいる────恐らくデッドリーベアと思われるも、同種とは全く別の進化を遂げているのだろう魔物(モンスター)の死骸。

 

 もう、状況は終了してしまっている。これらがそのことを如実に指し示している。つまりは、だ。

 

 ──クラハが、やりやがった……一人で、こいつを……ッ!

 

 恐らく、十分にも満たない。ロックスのような一流の上澄である卓越者でさえ、全身体能力を駆使し酷使して、体力を限界まで擦り減らし擦り切らすまでに費やし、そこまでしてようやく一時間を少し切れる程度。

 

 当然、その直後に戦闘行為に移れるはずもない。最低限三分の完全休憩でも挟まない限り、絶対に無理なのだ。

 

 だと、いうのに────今目の前に立つクラハはどうだろうか?

 

 僅か十分足らずでこの場に辿り着き、(あまつさ)えその後休憩も取らずにこの恐ろしい化け物を斃してしまったのだ。戦々恐々とするロックスにはそれがわかる。わかってしまう。

 

 何故ならば仮にこの場で休憩を取ろうものなら、もれなくこの魔物に喰い殺されることは確実だろうし。何よりも、今クラハが手に持つ得物が、その事実を雄弁に物語っている。

 

 そもそも、もはや武器としての体を成していないそれで。斃したということが嘘に思えるが。しかし、だとしたらそこまで血と肉と油に塗れているはずもない。

 

 故に、クラハが斃した────もう、そう考える他にないのである。

 

 それに加えて、彼はほぼ無傷だ。目立った外傷もない。着ている衣服も返り血で少々汚れているだけで、別に破れもしていなければ裂けもしていない。そのことから、ロックスはクラハは無傷であると判断せざるを得ない。

 

 ──…………。

 

 言いたいことは多々あった。色々と、本当に色々とあった。しかし、それら全てをロックスは飲み込んで。彼はようやっと、絶句させていたその口を開かせた。

 

「まあ何はともあれ、だな。とにかく、お前が無事に生きててくれて良かったぜ。何せクラハ、お前には……?」

 

 そう、第一はそれだ。生きているのなら、生きていてくれるのなら、それに越したことはない。だからこそ、余計な言葉を挟まず、ロックスはただそう告げるのだった。

 

 しかし、そんな彼を引っかからせたのは。そうしてそこに突っ立つクラハの、その態度に他ならなかった。

 

 今の、それこそ最近のクラハの様子がおかしいのはロックスも承知している。

 

 ──…………。

 

『その子を僕は殺しました』

 

 もっと早く、気づくべきだった。だからこそ、ロックスは行動する。これ以上、踏み誤らせない為に。後悔しない為に。

 

「言いたいことあるんなら、吐き出せ。俺が全部受け止めてやっから、クラハ」

 

 そのロックスの言葉に、クラハは反応を示した。一体何処の虚空を見つめているのかも定かではないその眼差しを、チラリと一瞬だけ向けて。それからまた元に戻すと、唐突に彼は口を開いてこう言った。

 

「死にたかった」

 

 ロックスは思う。もし自分が勘の鈍い男だったのなら、或いは生まれつき聴力がない人間だったのなら。その発言を聞き逃せたし、そもそも聞こえなかったはずだと。

 

 そんなありもしないもしもを、これ程までに強く切望したことはないし。そして今後もすることはないだろうな、と。まるで他人事のように思いながら────

 

 

 

 

 

「……今、お前……何()ったよ……ああ…………ッ!?」

 

 

 

 

 

 ────ロックスは殺気を乗せて、そう言っていた。

 

 そんな彼に、まるで火に油を注ぐように、クラハは平然と続ける。

 

「僕は死ぬべきなんです。ここで死ぬべき人間でした。でも死ねなかった。ここでも死ぬことができなかった。どうして、どうしてどうしてどうして……僕は、死にたいのに……」

 

 誰でも容易にわかることだっただろう。その瞬間、ロックスの堪忍袋の尾が音を立てて引き千切れることは。

 

「死人が死にてえほざいてんじゃあねぇぞこのクソボケがあッ!!!」

 

 激昂したロックスは怒りに突き動かされるようにしてクラハとの距離を詰め、透かさず躊躇なく彼の胸倉を鷲塚む。直後、彼の鼓膜を破かんばかりの怒声を浴びせた。

 

「冗談ってのはなあ!面白えから冗談って成り立つんだよ!!ああ!?つまんねえ冗談抜かすなあァアッ!!!!」

 

「……」

 

 クラハはされるがまま、言われるがままで。反抗も抵抗もしない。そんな無気力な彼に、ロックスは舌打ちをしてからこう続ける。

 

「てか死にてえ死にてえじゃあねえんだよコラ!!なあ、お前!クラハッ!!忘れたのか?なあおい忘れちまったのかよォ!!『大翼の不死鳥(フェニシオン)』にはお前の!クラハの帰りを────

 

 

 

 

 

 トゥルルリリリリンリンリン────が、その時。ロックスの言葉を遮るようにして、彼の懐からそんな素っ頓狂な音が響いた。

 

 

 

 

 

 ────……誰だよッ!!」

 

 と、怒髪天を突いたままにロックスは懐に手を突っ込み、そこから拳大の碧色を帯びた石を取り出す。

 

 そうして流れるようにその石に少しの魔力を流した後、石を耳元にやってロックスは叫んだ。

 

「もしもぉしィッ!?こちらロックス!悪りいんだが今取り込み………………」

 

 ブチ切れた表情のままに、固まるロックス。そんな彼を他所に、淡い光で明滅を繰り返す石。そして胸倉を鷲掴みにされたままでいるクラハ────側から見れば即座に逃げ出したくなるような光景が、そこには確かに広がっていた。

 

 それはさておき。そうして数分が過ぎた、その後のことだった。

 

「……チッ!クッソが。クッッッソが」

 

 明滅を繰り返していたが、今や何の変化も見せなくなった石を再度懐に仕舞って。怒りの形相のままに、未だ胸倉を掴んだままのクラハに。

 

「戻るぞ。……GM(ギルドマスター)がお呼びだ」

 

 と、ロックスは告げるのだった。



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崩壊(その十八)

 一瞬即発の空気になりはしたが、既のところで呼び出しを受け、急遽『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へと戻ることになったロックスとクラハの二人。

 

 一応は目的であった魔物(モンスター)の討伐を果たした為、依頼(クエスト)達成の報告を受付で済ませ。そのまま二人が向かった先はこの冒険者組合(ギルド)の執務室であった。

 

 道中会話らしい会話も全くないままに、二人は執務室の扉の前に到着した。

 

「やあ。待っていたよ、二人とも」

 

 扉を開くと、そこには執務机の椅子に座る、物腰柔らかな一人の男性────『大翼の不死鳥(フェニシオン)GM(ギルドマスター)グィン=アルドナテの姿があり。そしてその傍らには、代表受付嬢であるメルネ=クリスタが立っていた。

 

「お待たせして申し訳ありませんGM。お久しぶりです」

 

「うん。久しぶりだね、ロックス。僕が留守にしていたこの一週間、調子はどうだったかな?」

 

「……ええ。悪くは……あー、はい。まあぼちぼちといったところですか、ね」

 

「なるほど。どうやら、君にも苦労をさせてしまったようだ。……ごめんね」

 

 という、何処か社交辞令じみた会話を広げるロックスとグィン。その間、メルネは神妙な面持ちで押し黙っており。そしてそれはクラハもまた同様だった。

 

「……さて」

 

 と、そこでグィンはクラハに視線を移した。

 

「ウインドア君も久しぶりだね」

 

「はい。お久しぶりです」

 

 あくまでもその口調や声音自体は穏やかなグィン。しかしそんな彼が相手であっても、クラハは依然として冷淡としたままであり。その態度は以前の彼からはとてもではないが考えられないものだった。

 

 だがそれを然程気にする様子もなく、グィンはクラハに言葉を続ける。

 

「単刀直入に訊くけど、今こうして僕の前に呼び出された理由……ある程度は察してくれているのかな」

 

 グィンの問いかけに対し、クラハは少しの沈黙を挟んでから平然と答える。

 

「自分が思っている通りなのであれば、はい」

 

「……そっか」

 

 会話────と呼ぶには少し疑問を抱かずにはいられないが。ともかく、それをロックスとメルネの二人は押し黙り、静観に徹している。そんな最中、少しの沈黙を挟んでから、再びグィンは口を開き言った。

 

「それじゃあ残念ながら……僕の言葉を忘れてしまった訳ではないんだね。ウインドア君」

 

 その言葉に対しては、クラハが何かを言うことはなく。しかしそれが予めわかっていたかのように、グィンは憤りもしなければ動じることもなく、あくまでも平然とした態度で続ける。

 

「『ラグナ=アルティ=ブレイズを一から鍛え直し、そして『炎鬼神』としての強さを取り戻せ』……あの時、僕は君に対してそう言った。何も決して考えなしに、無根拠に言った訳じゃあないんだよ。君ならば、他の誰でもないクラハ=ウインドアになら、それができると思って。成せるはずだとわかっていて、僕はあの時ああ言ったんだ。……そう、そのはずだった」

 

「……」

 

 目を伏せ、しみじみとそう溢すグィンだったが。クラハといえば、相も変わらずの無言ぶりで。そんな態度を目の当たりにしたロックスは、堪らず握り締めた拳を静かに震わせる。

 

 ──クラハ、お前ってぇ奴ぁ……ッ。

 

 しかし決してその怒りを表に出そうとはせず、ロックスはグッと抑え込む。今、怒りを露わにすべき人間は自分などではないのだから。

 

「大まかな話はメルネから聞かせてもらったよ。まさか、よりにもよって他の誰でもない君が、あろうことかラグナに対してそういった態度や言動を取るなんて。一冒険者組合(ギルド)を預かる身としてこんなことを言うのは忍びないけど……考えもしなかった」

 

 依然として黙り込んだままのクラハにグィンはそう言って、そして最後に訊ねた。

 

「僕は見誤ってしまったのかな?」

 

 と、まるで何処か他人事のように。グィンにそう訊ねられるクラハであったが、彼が答えることはない。

 

 こちらとの会話にまともに取り合おうとする気概を見せないクラハに対し、そこで初めてグィンは困ったように眉を顰める。そして遂にここで、彼は核心を突くのだった。

 

 

 

「それとも……君にとってのラグナ=アルティ=ブレイズとは、所詮その程度のことだった。そういうことなのかい?」

 

 

 

 今の今まで、頑なに黙り込んでいたクラハだったが。その瞬間、彼の瞳孔が大きく開かれる。

 

 そして難攻不落に思われていたその沈黙が、ようやく崩れ去る。

 

「……ラグナ、ですか」

 

 と、不安定に震える声で。まるで吐き捨てるかのように、クラハが言う。直後、矢継ぎ早に彼は続けた。

 

「ラグナ、ラグナラグナラグナって……はは。いや、本当に……は、ははは」

 

「……ウインドア君?」

 

 顔を俯かせ、突如として肩を小刻みに揺らしながら不気味に笑い、ぶつぶつと独り言のように言葉を呟き始めたクラハ。そんな彼の急変した様子には、流石のグィンも動揺を隠せなかった。

 

 クラハの触れてはいけない何かに、無遠慮かつ不躾に触れてしまった────そう、グィンが思ったのも束の間のことだった。

 

「ねえ、グィンさん。ロックスさん、メルネさん……『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の皆さん。あなた、あなたたちは……思ってるんですか?あの子が、あの女の子が?先輩だって、ラグナ先輩だって……本気で?そう思ってるんですか。ああ、そうか。そうなのか…………はあ」

 

 明らかに破綻した言葉を出鱈目に紡いだクラハは、独り納得して、勝手に失望と落胆のため息を吐く。それから固まる他にないでいる執務室の三人を置き去りにしたまま、突如として俯かせていたその顔を勢いよく振り上げた。

 

 

 

 

 

「そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?」

 

 

 

 

 

 そして計り知れぬ狂気が牙を剥き、身の毛も弥立(よだ)つ悍ましい怒りを撒き散らし始めた。

 

「ふざけるなっ、ふざけるな!もういないんだいないんだよぉ!!違う、違う違う違う違うあの子は違う!違うっ、違うッ!!先輩じゃないラグナ先輩なんかじゃないただの!ただの無力で非力で小っぽけな!どこにだっているただの一人の女の子だあ!女の子で、女の子なんだぁ!!だから、だからだからだからあぁぁぁ……っ!!!」

 

 もはや支離滅裂。癇癪を起こし、ただひたすらに駄々を捏ねる子供。

 

 さらにクラハはその場で喚き続ける。

 

「どうして、なんで、どうしてどうしてどうしてなんでなんでなんで!皆さんはあの子がラグナ先輩に見えるんですっ?あの子がラグナ先輩だって思えるんですっ?あり得ない、そんな訳がないッ!あんな!あんな、あんな何の取り柄もない!ただの女の子が!ラグナ先輩な訳ないでしょうにぃ!?ああ、ああああああ……!」

 

「わかった。もういい。もういいよ、ウインドア君」

 

 最初こそ不覚にも呆気に取られてしまい、硬直していたグィンだったが。ハッと我に返り、慌ててクラハにそう言う。しかし、彼の言葉など、今のクラハに届くはずもない。

 

「ラグナ先輩じゃあないのなら!ラグナ先輩なんかじゃあないあの子なんて!冒険者(ランカー)じゃなくて受付嬢やってる方が身の丈に合ってますよ全然ね!誰もがきっとそう思うでしょう!?思わないんですか!?思えよ!なあ!!思ってくれよぉおおお!!!」

 

「いい加減にしろクラハ=ウインドアッ!!」

 

 遂に堪らず、声を荒げてしまうグィン。だが、もはやそれで止められるクラハではなかったのだ。

 

「第一目障りなんだよ。目障りで、煩わしくてぇ……不愉快でッ!一体どの面下げてッ!どんな顔でッ!誰の許可を得て誰の許しを得て誰の誰の誰のッ!!ラグナ先輩を騙って装って模してッ!!!違う、お前じゃない、絶対、今さらァ!!散々、散々散々散々散々そうしようとしなかったくせに……なのに僕の為?僕の為僕の為僕の僕の僕の……!」

 

 もうクラハの言葉は意味不明で。意味不明の狂気を、ただその場に垂れ流すだけで。そんな彼を目の当たりにしているグィンは、とうとう言葉を失う。

 

 ロックスもこれにはどうすればいいのかわからず、その場から動けそうになかった。

 

 が、ただ一人────メルネだけは違った。グィンとロックスが気づく時には、彼女は既に行動を起こしていたのだ。

 

「あの子なんて!あの女の子は!!もう、ラグナ=アルティ=ブレイズじゃあ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パァンッ──依然として叫び続けるクラハの前に立ち。メルネは大きく手を振り被り、そして躊躇なくその頬を打った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……」

 

 頬を打たれたクラハが、一瞬にして止まる。遅れて、彼の頬を張ったメルネの瞳から、幾つもの涙が零れ落ち。

 

「……最低」

 

 続けて、彼女はあらん限りの軽蔑を込めてそう言うのだった。



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崩壊(その十九)

 執務室は再び静寂に包まれる。しかし今度のそれは、先程のものよりも段違いに重く、そして実に息苦しいことこの上なかった。

 

 頬を()たれ、呆然自失にその場に立ち尽くすクラハ。依然としてその瞳から涙を流しながら、振り下ろした手を押さえているメルネ。そんな二人のことを、今はただ遠目から見つめることしかできないでいるロックス。

 

 今、誰しもが口を開くことを憚れるこの状況の最中。真っ先に言葉を発したのは────やはりと言うべきか、椅子に座るグィンであった。

 

「一週間だ、ウインドア君。君には一週間の謹慎を言い渡す。……茹だったその頭を存分に冷やすといい」

 

 と、未だ立ち尽くす他にないでいるクラハに対して、酷薄にそう告げるグィン。だがその言葉には彼なりの優しさが確と込められていた。

 

 果たしてそれが伝わったのか────その結果は、すぐさま示されることになる。

 

「……」

 

 無言で立ち尽くすだけだったクラハが、唐突にようやっとその場から動き出す。彼はメルネを避け、ゆっくりと歩き出し、そうしてグィンの目の前にまで向かうと。徐に懐へと手を突っ込み、それを取り出す。

 

 己が『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属することを証明する、冒険者証明書(ランカーパス)────それを取り出したクラハは。スッと静かに、執務机の上に置いた。

 

 彼の証明書、そして何よりもグィンの目の前に、自らの意思で提示するという。その彼の行動に堪らず、ロックスは目を見開いた。

 

 ──はぁ!?お前……ッ!!

 

 それが一体どういったことを意味しているのか、ロックスは理解し重々承知している。故にだからこそ、彼は信じられなかった。……否、信じる訳にはいかなかった。

 

 しかし、そんなロックスとは違い、『大翼の不死鳥』を預かるGM(ギルドマスター)のグィンは。クラハの行動をただ静かに受け止め、そして冷静に訊ねた。

 

「本気、なのかな?これは冗談だとか、一時の気の迷いだとかで。決して済まされないことは……君もよくわかっているよね?」

 

 グィンの口調は至って冷静で、しかし静かに責め立てるような辛辣さも込められており。そこから中途半端な返しは絶対に許さないという意思が、明確に見て取れる。

 

 そしてそれがわからないクラハではない。

 

「はい。僕は今日を以て」

 

 彼はあくまでも、至って平然とした様子のままに、しっかりとした声色で誤魔化さずに────

 

 

 

 

 

「『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から脱退し、冒険者(ランカー)を辞めます」

 

 

 

 

 

 ────そう、グィンに対してはっきりと。少しも躊躇うことなく、告げた。

 

「…………それが、君の選択という訳なんだね」

 

 深く押し黙った後、やはり静かにそう呟くグィン。

 

「逃げる気?」

 

 直後、クラハに食ってかかるように。非難と批判が綯い交ぜになった声音で叱責するように、だがあくまでも声を荒げることなく、メルネがクラハにそう訊ねた。

 

「……」

 

 しかし、その問いかけに対してクラハが何かを答えることはない。だがそれで、たかがそれしきのことで食い下がるメルネではない。

 

「そうやって、何もかもから逃げて。そうしてラグナのことも貴方は……見捨てる気なの?」

 

 メルネ自身、こういった物言いはしたくはなかった。けれど、こうでもしなければ。こんな挑発と何ら変わらない物言いを使わなければ、今のクラハから言葉を、その心の奥底に秘めているのだろう本音を引き摺り出すことは叶わないと。メルネはそう判断したのである。

 

「……」

 

 が、それでもクラハは口を固く閉ざし、依然として黙り込んだままだった。そんな彼の、意固地な態度を前に。

 

「答えなさいクラハ=ウインドアッ!この意気地なしッ!!」

 

 堪え切れなくなったように、メルネは遂に声を荒げた。彼女の言葉が執務室全体を揺らし、空気を震わせた。

 

 そしてそれが功を奏したのか、またもや押し黙ってしまったクラハの口を、無理矢理に開かせた。

 

「あなた達がどんなに、どれだけそう言おうがそれはあなた達の勝手だ。……ですが、その勝手を僕にまで押しつけないでください」

 

 けれど、引き摺り出せたのは。そんな身も蓋もない、碌でもない、ただひたすらの拒絶(ことば)であり。その瞬間、メルネは堪らず目を見開かせる。

 

「この……ッ!」

 

 そして透かさず言葉を続けようとしたが、それを口に出す寸前で飲み込み。

 

「……そう。だったらもう、勝手にすればいい」

 

 少しの沈黙を挟んでから、彼女は顔を伏せ腕を抱き、突っ撥ねるように────否、諦めたように。クラハにそう言い、そして彼女は歩き出した。

 

今の(・・)貴方なんかを信じた、私が馬鹿だった」

 

 そしてすれ違いざまに、クラハに吐き捨てるようにそう言い。止まることなくそのまま扉の方にまで歩き、ドアノブを掴んで捻る。

 

 そうして扉を開いて、メルネは硬直した。

 

「…………え……?」

 

 何故ならば、扉を開いたその先には──────────ラグナが立っていたのだから。



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崩壊(その二十)

 些細な理由だった。本当に些細で、他人からすればどうでもいい……かもしれない────

 

 

 

 

 

「……クラハ……」

 

 

 

 

 

 ────そんな理由だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メルネに今日はもう帰ってもいいと言われ、結局。あの後、ラグナは『大翼の不死鳥(フェニシオン)』を後にし、諸々で色々な、複雑に混み合った事情故に。居候させてもらっているメルネの自宅へと帰っていた。

 

「……疲れた」

 

 帰宅早々にそんな独り言を漏らすラグナ。しかし、無理もない。今日あった出来事の全てを(かんが)みれば、(むし)ろぼやいて当然と言うべきだろう。

 

 肉体的にはともかく、精神的に疲弊したラグナは。ただ真っ直ぐに寝室へと向かった。

 

 寝室に入るなり、やや乱雑に着ている服を脱ぎ、その辺りに適当に放る────だけに留まらず。ラグナは下着すらも脱ぎ去り、服と同じように放った。

 

 ……まあ、確かに。今の身体にとって、女物の下着類(ブラジャーとショーツ)────特に前者が如何に有用で、そして必要であるかはラグナとて重々理解し、身に染みて承知している。

 

 しかし、だからといって。これらがあくまでも女物であるという根底は覆らないし、根本も変わらない。そしてそれはラグナにとって非常に重要なことであり、どうしても譲れない部分だった。

 

 何故ならば、自分は男なのだから。男で、ラグナ=アルティ=ブレイズなのだから。

 

『あなたは受付嬢だ』

 

 たとえ、面と向かってそう言われても。どれだけ、幾らそう言われようとも。

 

 それでも、ラグナはそう思い続ける────否、思い続ける他に、ない。

 

 ……とまあ、(もっと)もらしい理由を並べはしたものの。謂わばこれらは建前のようなもので。無論、他の理由だって当然ある。

 

 女物の下着類を身に付けているのは、精神的に苦痛だ。辛い。色々(主に胸周り)と楽であることは確かだし、快適であることは認める。

 

 が、だからと言ってラグナはずっと身に付けていたい訳ではない。……寝る時くらいは、脱ぎたい。

 

 というか寝る時くらい別に脱いだっていいだろう。脱いで、少しでも女物から離れたい。

 

 それに別に脱いだって、誰も文句は言わないはずだ。……たぶん。

 

 そうして誰の目にも映ることのない寝室とはいえ、メルネが目の当たりにしたら絶句し、間違いなく叱るであろう、あまりにも躊躇いも迷いもない、ある意味漢らしい脱衣を終えたラグナは。

 

 一糸纏わぬ裸体のまま、寝台(ベッド)へ歩み寄り、そのまま倒れ込む────ことはラグナも流石にはしない。

 

 その前に畳んでおいた寝間着(ナイトウェア)代わりの、ラグナが着るには少し大柄なシャツ。それをラグナは引っ掴み、羽織る。そうしてようやく、寝台に寝っ転がるのであった。

 

 ボフンッ──勢い良く倒れ込んだラグナの身体を、文句の一つもなしに受け止めた寝台が、軽く撓んで軋んだ音を立てる。

 

 ──……。

 

 特に大した意味もなく、寝台の上で仰向けになったラグナは天井を見つめる。

 

 そうしていると自然に今日の出来事を振り返る。

 

『僕はもうあなたの後輩じゃない』

 

『あなたはもう僕の先輩じゃない』

 

『僕は冒険者(ランカー)だ。あなたは受付嬢だ。……いい加減、その事実を理解してください。その現実を受け止めてくださいよ、ラグナさん』

 

『たかが受付嬢でしかないあなたに、僕が心配される筋合いなんてありません』

 

『少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない』

 

 脳裏で次々と浮かんでは、瞬く間に消えていくことを延々と繰り返すその光景と。こうしていつまで経ってもはっきりと鮮明に響き続ける、鼓膜にこびり付いた声。それらがラグナの精神を磨耗させて、蝕んでいく。

 

 ──あー……駄目だ。本当に、駄目だな奴だ。

 

 これ以上こうしていたら、どうにか────()()()()()()()()()()。恐らく、きっと。

 

 いっそのことどうにかなってしまえば、どうにかなれれば、それで楽になれる。そのはずだとはラグナも考えているし、そう思っている。しかし、ラグナはそれを選ばない。否、()()()()

 

 正気の限界、更にその先へ。崖っ縁から飛び降りることを、ラグナの理性は許さない。許してはくれない。それはもう、精々する程散々わかっていた。

 

 だからこうして、執拗に。しつこくねちっこく、自分は苛まれて甚振られて苦しんでいるのだから。

 

 こうして、狂気に走ることもできず、無理矢理に正気の只中に立たされ続けているのだから。

 

 苦しい、辛い、堪えられない────故にラグナは、ごろんと寝返りを打った。

 

「頭回んねぇ……もう、寝る」

 

 枕に頭を沈ませ、弱った声音でそう呟き、ラグナはゆっくりと目を閉じる。こうして起きていても、良いことなど何一つなく、碌でもないだけだ。

 

 どんなに最低な状況下でも、どれだけ最悪な心境下であっても。良くも悪くも人間の身体というものは欲求に忠実である。特に食欲や性欲、そして睡眠欲に対しては。

 

 それはラグナも決して例外ではない。次第に睡魔が迫り、そしてラグナに覆い被さる。

 

 そうして少しの間を置いて、ラグナは静かな寝息を立て始めるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕は行きます」

 

 暗澹とした、真っ暗闇の最中で。不意に、そんな声が聞こえてきた。それはよく耳にし、聞き馴染んだ────他の誰でもない、クラハの声だった。

 

 ──……クラハ……?

 

 判然としない不鮮明な意識の只中で、ラグナは胡乱げに呟く。そんなラグナに構わず、クラハの声が続ける。

 

「この街に戻るつもりはありません。……そしてあなたの元にも」

 

 ──はあ……?……はあ!?

 

 その言葉はラグナを困惑させ、動揺へ突き落とすには充分過ぎて。そしてラグナの口をこじ開けさせるのには、あまりにも事足りていた。

 

 ──クラハお前何言って……!

 

 ラグナ自身、それは口に出していた()()()()()()。が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 遅れてそのことに気づいたラグナは、更に混乱する。

 

 ──な、何で口開かなっ……!

 

 そんなラグナのことなど放って、置き去りにするように、クラハの声が尚もこう続ける。

 

「僕にはもうその資格がない。……その資格を、自らの手で捨ててしまったから」

 

 クラハがそう口にした瞬間、一寸先すらも見通せぬこの暗闇が。跡形もなく消し飛ばされるようにして、そうして晴れ渡って。

 

 最後にラグナが目にしたのは──────────残酷な程に優しい笑顔を浮かべる、クラハの姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

 気がつけば、そこは元通りの寝室であった。が、先程と打って変わって部屋全体が薄暗く、今がもう陽が落ちた夜なのだと、如実にラグナに伝える。

 

 シャツが濡れている。濡れて、肌に張り付いている。大量に滲み出た寝汗の所為だ。気色の悪い感覚────けれど、それにラグナが不快感を示すことはない。否、その余裕がない。

 

 数秒経って、呆然とラグナが呟く。

 

「……クラハ……」

 

 それから寝台から弾かれるように降りて、周囲に散らした衣服を拾い上げ、慌てて着替えたラグナが寝室を飛び出すのに、そう時間はかからなかった。

 

 メルネの自宅を後にし、ラグナはオールティアの街道を駆ける。息を切らし、汗を流し。時折何度も転びそうになりながらも、未だ活気良く行き交う人々に危うく衝突しそうになりつつも。それでも、ラグナは走ることを止めようとしない。

 

 遮二無二に我武者羅に、ただひたすらに。走って、走り続けて。そうやって、ラグナは街道を駆け抜けた。

 

 ──クラハ……ッ!

 

 それだけで、頭の中を埋め尽くしながら。そして遂にラグナは目的地に辿り着く────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の前に。

 

 無茶苦茶に息を乱したまま、ラグナは門を押し開き。そのまま倒れ込むようにして中に入る。

 

 何事もなく、日常(いつも)通りの喧騒を謳歌している『大翼の不死鳥』の冒険者(ランカー)達。その中の一人が、不意に開かれた門を見やった。

 

「ん?何だぁラグナ。そんな息荒らして、どうしたんだ?」

 

「わ、りぃ……また、後で……」

 

「お、おお。何があったのかは知らんが、無理すんなよ」

 

 その冒険者の気遣った言葉を背に、ラグナはフラフラと危なげな足取りで、受付台(カウンター)の前にまで歩く。

 

「え……?ラ、ラグナちゃ……さん?」

 

 今受付台に立っていたのは、シシリーであった。彼女は目を丸くしながら、今にも力尽きて倒れてしまいそうなラグナに対して、疑問と心配が入り混じった声音で訊ねる。

 

「一体どうしたんですか?確か今日はもう帰ったはずじゃ……?」

 

「シ、シリー……っ」

 

 しかし、両手を膝に置き、肩を大きく上下させ、息絶え絶えに。シシリーの問いかけに答えることなく、ラグナは逆に訊ね返した。

 

「クラハ……クラハはもう、戻って、来てんのか……?」

 

「えっ?は、はい。ウインドア様ならつい先程戻って来られてましたよ?」

 

 それをシシリーから聞いた瞬間、堪らずラグナは苦しげな顔を安堵に綻ばせてしまう。それからすぐさま、彼女に次の質問をぶつける。

 

「じゃあ今どこにいんだ!?」

 

「い、今はGM(ギルドマスター)の執務室にいるはずです」

 

「わかったっ!あんがとっ!」

 

 シシリーにそう礼を言うや否や、ラグナはその場からまた駆け出し、受付台を後にする。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいラグナさん!」

 

 そんなラグナをシシリーは呼び止めようとしたが、叶わずラグナは執務室へと向かってしまう。それを見届けてから、彼女は困ったように呟いた。

 

「どうしよう……執務室には今、ウインドアさんの他にもメルネさんやロックスさん、それにGMの皆さんが集まって、何やら大事なお話をしてる真っ最中らしいんだけど……大丈夫なのかなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とっくのとうに息は切れているし、胸も痛い。それに足だってジンジンと痺れて、今すぐにでも素っ転んでしまいそうだ。

 

 けれど、それでもラグナは進むことを止めない。足を止めることなく前へと進み続ける。今はただ、執務室を目指して。

 

『お前がそう思ってるんなら、俺は……それで……』

 

 ──良くない……!

 

『……じゃあもう勝手にしろ。この馬鹿』

 

 ──そんな訳ない……っ!

 

 己の発言を省みて、ラグナは後悔する。自分はなんて愚かで、そして馬鹿だったのだろうと己を蔑む。

 

 ()()()()()()()()。失うことの恐怖を、ラグナは()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だからこそ自分はクラハを────この手で唯一守れた存在(モノ)を、他のどんなものよりも、ことよりも。この身も心も朽ちて消え果てるその時まで、守り抜いて、守り通そうと誓ったというのに。

 

 ……だのに、あろうことか。感情で、一時の気の迷いなどで、捨てようとした。手放そうとしてしまった。それはもうどうしたって変えようのない、もはや覆しようのない事実となってしまった。

 

 ──ごめんクラハ……ごめん……っ。

 

 そう心の中で何度も謝りながら、ラグナは廊下を走る。この際メルネやグィンに怒られようが何をされようが構わない。

 

 ──冒険者だとか受付嬢だとか、先輩とか。そんなの、もう関係ねえ。……もうどうだっていい!

 

 見苦しい未練がないとは言わない。けれど、それを差し引いても、ラグナはそう思っていた。

 

 そうして、ようやく。遂に、ラグナは辿り着いた。クラハがいるであろう、グィンの執務室。その扉の前へと。

 

「はっ、ぜえっ……は……ぁ!」

 

 扉の前に着くや否や、ラグナは両手を膝に置き、激しく肩を上下させる。足も勝手に小刻みに震えており、ほんの少しでも気を抜けば、その瞬間に膝から崩れ落ちるに違いない。

 

 無論、そうなって当然だった。そうなって当たり前の全力疾走を、途中で休むことなくラグナはここまで続けたのだ。それも体力が著しく落ち、運動が不得手になったその身体で。寧ろ道中で限界を迎え力尽き、倒れなかったことを賞賛すべきだろう。

 

 すっかり上気し切って赤く染まった頬に一筋の汗を伝わせながら、ラグナは顔を上げて執務室の扉を見やる。

 

 この扉の先にクラハがいる────今更ながらそのことを再認識したラグナは、表情を強張らせてしまう。

 

 ──……どうしよう。

 

 荒い呼吸を何度も繰り返している所為で、頭は上手く回りそうにない。……だというのに、今はいらない記憶────言葉が蘇ってくる。

 

 

 

『僕はもうあなたの後輩じゃない』

 

『あなたはもう僕の先輩じゃない』

 

『少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない』

 

 

 

 拒絶の言葉。否定の言葉。思い出したくもないそれらが、よりにもよってこの土壇場で。次々と、ラグナの頭の中で響き渡る。それも嫌になる程鮮明に、生々しく。

 

「……ッ」

 

 そしてそれがラグナにまた、新たな恐怖を抱かせた。

 

 恐い。途轍(とてつ)もなく恐い。堪らなく恐い。どうしようもないくらいに、どうにもならないくらいに。恐くて、仕方がない。

 

 もしこの扉を開け、いざクラハに会ったとして。またしてもあのような拒絶と否定を振りかけられるのではなかろうか。いや、今度はもっと酷いかもしれない────そんな悪夢めいた碌でもない考えだけが、やたら機敏にラグナの頭の中を好き勝手に駆け回る。

 

 ──…………やっぱ、会わない方が……いいのか……?

 

 そしてそれがラグナを本末転倒な結論へ導こうとしてしまう。が、それを断ち切るかのようにラグナは頭を振るう。

 

 ──違うだろ!じゃあ俺は何でここまで来たんだよッ!?

 

 思わず弱気になってしまった自分を叱咤し、ラグナは半ば無理矢理に奮い立たせ、執務室の扉を力強い眼差しで確かに見据える。

 

「……」

 

 気がつけば、あれ程滅茶苦茶に乱れていた息も。万全ではないものの少しずつ整われ、規則正しいものに落ち着いていた。そしてそれはラグナの頭の中も同じことであった。

 

 未だ良くない考えはまだ蔓延っている。だがしかし、それが一体どうしたというのだ。

 

 失うことの恐怖に比べれば、こんなもの大したことはない。ずっと、まだずっとずっとマシだ。嫌われる方が、拒まれる方がラグナにとってはまだマシなのだ。

 

 何故ならば──────────ただそれだけで、未だクラハは自分のことを。今の(・・)自分のことを、ラグナ=アルティ=ブレイズとして見てくれているのだから。

 

 確かに自分は拒絶された。否定された。だが、それでもクラハはラグナをラグナとして扱ってくれていた。こんな何の取り柄もないただの女である今の自分を、クラハはまだラグナ=アルティ=ブレイズとして扱い、見てくれていた。

 

 ならば、もうそれでいい。それ以上の贅沢など、求めはしない。どれだけ軽んじられても蔑まれても、それでも。

 

 他の誰でもないクラハが、自分を自分(ラグナ)と認めてくれるなら────それだけでもう、よかった。

 

 ──ああそうだ。クラハ、俺はお前に……俺って思ってくれるなら、俺はそれで……。

 

 そうして、ラグナは目を閉じ。一つ、深呼吸をする。それからゆっくりと閉ざしたを開き、意を決して、執務室の扉のノブへ手を伸ばし。

 

 そして──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もし、ラグナが執務室に辿り着くのが少しでも遅れていたら。或いは、そもそも来なければ。そうなることは、なかっただろう。

 

 ラグナは忘れていた。失うことの恐怖を。だが、それだけではない。まだもう一つ、忘れていることがあった。そしてそれをその時になるまで、遂に思い出すことはなかった。

 

 そう、これもまた身を以て知ったこと。思い知らされたこと。

 

 運命は──────────

 

 

 

 

 

「そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?」

 

 

 

 

 

 ────────ただひたすらに何処までも残酷で、容赦がない。



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崩壊(その二十一)

「…………え……?」

 

 最初、メルネは目の前の光景が信じられなかった────否、信じたくなかった。

 

 まるで時間が止まったかのように、メルネの思考が停止する。しかしそれはあくまでも彼女のしがない錯覚に過ぎない。

 

 現に時間は着実に一秒ずつ過ぎていくし、意識はともかく、肉体はそれを確かに認識していた。

 

 それと同時にメルネの精神は強靭であり、余程のことでもない限り彼女の正気が戻らないことはない。そしてそれは今も例外ではない。

 

 ただそれでも、そんなメルネであってもこの時ばかりは流石に我に返るのに数秒を要しはしたが。

 

 目の前にあるその光景が確かな現実であるということ。それを数秒かけてようやっと、メルネは認知した。

 

「ラグナ……?ど、どうして?何でここにいるの……?今日はもう帰ったはず、じゃ…………ッ!!」

 

 目の前の光景────視線の先に立つラグナの姿を目の当たりにしながら。困惑と動揺を微塵も隠せず、震える声を引き攣らせ、掠れさせながら。メルネが恐る恐る呟くようにそう訊ねる。

 

 しかしその途中で、メルネは気づいた。重大で深刻なことに、不運にも彼女は気づいてしまった。

 

 弾け散る火花のように、駆け抜ける閃光のように。メルネの脳裏を、言葉が過ぎる。

 

『そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?』

 

『ただの無力で非力で小っぽけな!どこにだっているただの一人の女の子だあ!』

 

『あんな何の取り柄もない!ただの女の子が!ラグナ先輩な訳ないでしょうにぃ!?』

 

『あの子なんて!あの女の子は!!もう、ラグナ=アルティ=ブレイズじゃあ』

 

 瞬間、堪らずメルネは目を見開かせ。喉奥から声にならない悲鳴を小さく漏らしてしまった。

 

 ──まさか今の全部聞かれて……っ!?

 

 否、まだ救いはある。何故ならば、正確に言えばまだ可能性の話なのだから。あくまでもそうかもしれないという、可能性の話にまだ過ぎないのだから。

 

 ……だが、良くも悪くもそれは可能性の話。そうでない可能性とそうである可能性────この場合、一体どちらが高いのか。

 

 それをメルネは、十二分にわかっていた。だからこそ、ここまで恐れたのだ。

 

 果たしていつからだろう。いつからそこに、ラグナは立っていたのだろう。数分前からか?それとも十数分前からか?

 

 だがしかし、それを今更気にしたところで、どちらにせよもう無意味だ。

 

 そのことを────

 

 

 

 

 

「────」

 

 

 

 

 

 ────ラグナの表情が、言葉よりもずっと雄弁に物語っていたのだから。

 

 ごく僅かで微かな欠片程に、辛うじて残された矮小な希望を。握り潰され、踏み砕かれ、木っ端微塵に壊されたメルネは。背中に極限にまで冷やされた氷柱でも突き立てられたような、悪寒と怖気に駆られながらも。それでも、懸命にどうにか言葉を紡ごうとする。

 

「ち、違うの。これは違うのよ。ま、間違い……そう何かの間違い、とか……で……」

 

 けれど、今唐突に突きつけられた最悪の現実は。容易くあっという間にメルネから平静さを奪い尽くしており。その結果、そんな中身のない、何の根拠もない。要領を得ない、説得力など皆無な、しどろもどろの戯言を彼女に垂れ流させる。

 

 ──どうしようどうしようどうしようどうしてどうしてどうして。

 

 メルネの思考は無様な空回りを続ける。考えようともしても、考えた端からそれが零れ落ち、どうしたって上手く纏まらない。纏められる訳がない。

 

 動揺と困惑と混乱の末に、メルネは。一歩、無意識に前へと踏み出し。

 

 それと同時に、ビクリと。ラグナがその華奢な肩を小さく跳ねさせ。そして怯える小動物のそれのように、その場から一歩後ろへと下がるのだった。

 

 ──え……?

 

 そんなラグナの行動を目の当たりにしたメルネの頭の中が、一瞬にして疑問で満たされ、埋め尽くされる。わからなかった。理解できなかった。

 

 どうしてラグナがそのような反応をするのか。どうしてラグナがそんな反応を、よりにもよって自分に対してするのか。

 

 どうしてそんな怯えた────哀絶と諦観と、そして絶望が入り混じった表情(かお)を、自分に向けるのか。それがどうしても、メルネにはわからず、理解できないでいた。

 

「ラ、ラグナ……?」

 

 故にその理由を問おうと。メルネは情けなく震える声音でラグナを呼びかけるが。

 

「…………っ」

 

 その声にラグナが答えることはなく。口を閉ざしたままに、メルネから苦しげに、辛そうに顔を逸らしてしまう。それを見やった彼女の胸中に、嫌な予感が急速に広がり、駆け巡り、そして蔓延った。

 

 ──嘘嘘嘘止めて止めて止めて止めて。

 

 メルネは知っている。嫌という程に、こういった嫌な予感がよく的中してしまうことを思い知っている。そしてそれは決まって、最悪の結末を招く。

 

 だからこそ彼女は必死に追いやった。その予感を消し去ろうと、押しやった。追いやり、押しやり、忘れてしまおうと。そもそもそんなもの感じてもいないと、無理に虚勢を張った。

 

 が、やはりというべきか────メルネの努力が報われることなど、なかった。

 

 ダッ──数秒そこに留まっていたラグナだったが、堪えられなくなったように突如踵を返し。そして脱兎の如く、駆け出した。

 

「ラグナッ!?」

 

 まるで悲鳴を上げるかのようにラグナの名を叫ぶメルネ。しかし、それでラグナが立ち止まることはなく。彼女の視界から、その小さな背中がどんどん遠去かってしまう。

 

 ──何でよ!?どうして、どうしてこう、なるの……!!

 

 これは神の制裁か、それとも悪魔の遊戯なのか。運命による理不尽な仕打ちを前に、メルネは憤られずにはいられない。

 

 ラグナをこのまま放って捨て置く選択肢などメルネは持ち合わせていない。続けて彼女も慌てて駆け出し、執務室から立ち去る────その直前。

 

「許さない」

 

 と、背を向けたまま。恐ろしいまでに冷たい声音でそう言い残してから、彼女は執務室を後にした。

 

 再度静まり返る執務室。この静寂と沈黙を最初に破ったのは、クラハだった。

 

「これで僕は失礼します。今までお世話になりました」

 

 まるで何事もなかったかのような、非常に淡白で抑揚のない、無感情な声で、無表情にそう言い。そうしてクラハもまた、執務室を後にしようとその場から歩き出す。

 

 ロックスもグィンも、彼を呼び止めようとはしない。黙ったまま、遠去かるその背中を見つめるだけだ。

 

 そうしてクラハも執務室から去ってしまい。少し経ってから、グィンが力なく呟く。

 

「どうしてこうなったんだろうねえ……」

 

「……わかりませんよ」

 

 彼の呟きに対し、ロックスもまた力なくそう言葉を返すのだった。



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崩壊(その二十二)

「ラグナ!待って!ねえ、ラグナッ!!」

 

 少し出遅れたはしたが、メルネがラグナに追いつくことは容易であった。

 

 既に引退した身とはいえ、元は《S》冒険者(ランカー)────その中でも番付表(ランキング)最上位六人である『六険』の一人に数えられていた彼女の身体能力は未だ衰えてはいないのである。

 

 対して今のラグナの身体能力、そして運動神経はお世辞にも優れているとは言えず、実にお粗末なものであることは周知の事実。その上、ラグナはここに辿り着くまでに、元々あってないまでに少ない体力を限界以上に費やしたのだ。

 

 故に例えるなら、これは亀と兎の競争。加えて兎には油断も慢心が微塵もまるでない。一体どちらが勝つのか、その結果は見るまでもなく明らかである。

 

 目と鼻の先にある小さな背中は、未だに懸命にも離れようとしている。しかし、メルネがその気になればいつでも詰められる程、二人の距離は狭まっていた。

 

 必死に、切実にメルネはラグナのことを呼びかける。だが、彼女の呼びかけに対してラグナは応えようとしない。応える素振りをまるで見せてくれない。

 

 ──……もうっ!

 

 そんな意固地なラグナの態度に、メルネは遂に業を煮やし。直後、辛うじて開いていたラグナとの距離を瞬く間に詰め切り、そして腕を伸ばし。彼女はラグナの手を掴んだ。

 

「ラグナ!」

 

 メルネに手を掴まれては、ラグナも流石に止まらざるを得なかったのだろう。その場に留まったラグナの手を、出来るだけ優しく包み込むように握り締めながら。メルネは諭すようにラグナに言葉をかける。

 

「大丈夫。大丈夫よ。だから逃げようとしないで?一旦、とりあえず、今は落ち着きましょう?ね?」

 

 我ながら、聞いていて滑稽だった。怒りすら込み上げてくる。

 

 全くと言っていい程に中身が伴わない、何もかもが空虚で役立たずな言葉────もはや、こんな言葉しか今のメルネは言えなかったのである。

 

「……」

 

 ラグナは黙っていた。黙ったまま、メルネの方に振り返ることもしない。そのやたら不穏な様子に、不安を煽られ焦燥に駆られたメルネが、慌てて呼びかける。

 

「ラグナ?どうしたの……?」

 

 メルネが訊ねて、数秒後。ようやっと、ラグナがその口を開かせた。

 

「……てた」

 

 だが、その声はか細く小さく。全てを漏らさず聞き取るには些か苦労を要するもので。そして今どうしようもない危機感に迫られているメルネでは、とてもではないが聞き取れる筈もなかった。

 

「え……?」

 

 困ったような声を漏らすメルネ。そんな彼女に対し、ラグナが再度呟いた。

 

「違うって思ってた」

 

 ……流石に、今度ばかりははっきりと。一言一句間違いなく、メルネは聞き取った。ラグナの、怒りと悲しみと、そして淋しさ。それら全てがぐちゃぐちゃの滅茶苦茶に、ごちゃ混ぜにされたような。

 

 そんな、言葉では言い表せないような声音の、言葉を。

 

「ち、違う?ちょ、ちょっと待ってラグナ。一体何が────

 

 予想だにしていなかったその言葉に、容易く困惑と混乱の渦中に突き落とされたメルネ。彼女はその言葉の意味を、真意を訊ねようと。依然情けなく震えて揺れる声で、ラグナに訊こうとしたが。

 

 ────」

 

 が、その途中で。まるでメルネの言葉を遮るかのように。突然、今の今までこちらに背を向けていたラグナが、振り向いた。

 

 その時メルネが目の当たりにしたものは────正しく、絶望そのものだった。

 

 止め処なく溢れて零れて落ちる、透き通って輝く涙。悲哀と憎悪に塗れた表情。

 

 そしてこちらを射殺さんばかりに鋭く、尖り切った眼差しを宿すその瞳は、仄昏(ほのぐら)く淀んで、穢れたように濁ってしまっていた。

 

 メルネは絶句する。言葉を失ってしまう。当然だろう。当たり前だろう。

 

 何故ならば、それはもうメルネの知るものではなかった。見たことがないものだった。

 

『嫌だ、やだ……置いてくな、捨てんなぁ……クラハ、クラハぁぁぁ……っ!』

 

 あの時とは比べ物にならない。否、比べること自体が烏滸がましく、そしてお門違いで、甚だしい。

 

 そもそも、あの時の場合は錯乱に近く、気の動転のようなものだ。その証拠に少しすればラグナは落ち着き、どうにか収まることができていた。

 

 ……だが、これは違う。間違いなく、違う。全身を衝撃に打たれながら、メルネはそう思う。思わざるを得ない。

 

 まさか、まさかラグナが。あの天真爛漫で、燦々と他を照らす太陽の如きラグナが、こんな。ここまで、これ程までに。筆舌に尽くし難い、壮絶な泣き顔を、するなんて。

 

 メルネは知らなかった。見たことがなかった────そして知りたくも、見たくもなかった。

 

 大事で大切だった彼女の中の何かが、儚い破砕音を響かせると同時に。派手に崩れ落ちて、周囲に散らばって、消えて、失われていく。

 

 手遅れ。もはや手の施しようがないまでの、圧倒的で致命的な手遅れ。それを無理矢理に、否が応にもメルネは理解させられる。確と理解し、受け止めること。彼女はそれを強いられる。

 

 ──ラグ、ナ……。

 

 

 

 

 

 ラグナが泣いたという現実。ラグナが傷ついたという事実────否、泣かせた最悪の現実と、傷つけた最低の事実。その二つを。

 

 

 

 

 

 ──……あ、あぁ、ぁぁぁ……っ!

 

 無駄になった。無駄だった。今までの行い、その全てが。この瞬間に徒労に終わり、水泡に帰したことを、メルネが悟る。悟った彼女は、胸の奥を掻き毟るような、声にならない絶叫を。弱々しく、惨めったらしく、心の中で漏らす。

 

 そして思い知った──────────結局メルネ=クリスタという女は。優しくもないただ甘いだけの偽善者で、事なかれ主義を貫かんとした傍観者だったのだと。

 

 自分が塵芥(ゴミ)(クズ)のような人間の一人であることを再認識し、再自認しているメルネを他所に。ラグナがぽつりと漏らす。

 

「クラハは……クラハ()()は、違うんだって、俺は……っ」

 

 ラグナの声音は酷く悲しそうで、淋しそうで────そして柔らかな優しさが滲んでいて。その言葉を、もっと言えばその名前を耳にした瞬間。

 

 スゥッ、と。メルネの頭の奥が、冷えた。

 

 ──………………は……………?

 

 理解、できなかった。どうしてそんな声色で、どうしてそんな風に。その名を口にできるのか。

 

 ついさっき。今し方、あんな風に。冷酷に残酷に、放り捨てられたというのに。なのに、一体どうして。どうしてそんな、全てを赦すような、甘く蕩けるような、追い縋るような。そんな声音で、クラハの名前を口にできるのか。

 

 普通ならば、声を荒げるべきだろう。ここは怒りを剥き出しに、喉を潰さんばかりに叫び、クラハを責め立てる場面だろう。

 

 だというのに、何故────呆然自失とするメルネの頭の中で、そのような疑問が次から次に沸いてくる。

 

 どうして?どうして、どうして?どうして。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして───────────

 

「…………ねえ、ラグナ」

 

 メルネは理解に苦しんだ。メルネは理解できなかった。メルネは理解したくなかった。

 

 処理し切れないその疑問が、あっという間に彼女の頭の中に蔓延して、埋め尽くしていって。

 

 

 

 

 

「もう、忘れましょう?」

 

 

 

 

 

 そして気がついた時には、もう。既に、メルネはラグナにそう言っていた。



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崩壊(その二十三)

「もう、忘れましょう?」

 

 と、言ったその時の自分は。一体どんな顔をしていたのだろうかと。まるで他人事のようにメルネはそう思う。

 

 少なくとも、碌でもなければまともでもないような顔だということは────

 

「……は?わ、忘れる……?」

 

 ────信じられないようにそう呟いて、何処か怯えたような、引き攣った困惑の表情を浮かべるラグナを見れば。一目瞭然のことだった。

 

 もし、今目の前にいるのがラグナではなく。その代わりに一つの鏡でも置いてあったのなら。

 

 きっと、その碌でもなければまともでもない自分の顔を目の当たりにし。そのあまりにも酷く醜い有様を前に、自分は止まれていたはずだろう。止まることができていただろう。

 

 ……けれど、それは所詮メルネの、空想の絵空事に過ぎず。現に目の前に鏡などあるはずもなくて、そこにはラグナが()るだけで。

 

 故にもう、メルネは止まれなかった。

 

「そう、そうよ!忘れてしまえばいいのよラグナ!」

 

 もはや、彼女が止まることなど、できるはずもなかったのだ。

 

「だって、覚えていても苦しいだけでしょう?憶えていても辛いだけでしょう!だからね、もういっそのこと忘れるの。ねえ、そうしましょうよラグナ?」

 

 瞳を爛々と輝かせ、僅かばかりの狂気を孕んだ微笑みを浮かべながらに。宛ら子供が自ら友達を遊びに誘うように、依然として動揺を隠せず困惑から抜け出せないでいるラグナに、メルネはそんなことを提案する。

 

 彼女とて、一体それがラグナにとってどれだけ難しいことで。そして懊悩の限りを尽くさなければならないことを、理解しているというのに。

 

 故に、誰の目から見ても。とてもではないが、今のメルネが正気ではないことは、容易に見て取れた。

 

「メ、メルネ……」

 

 そんなメルネに相対する羽目になってしまったラグナは、思わず全身が総毛立つまでの恐怖を。彼女に対し、否応にも覚えてしまう。それ程までに、今のメルネは異常だった。

 

 見かけは。表面上は。辛うじてではあるが、まだ普段通りのメルネだ。ラグナがよく見知る、日常(いつも)通りの彼女である。

 

 ……だからこそ、わかってしまう。今のメルネがどれだけ危ういのか。例えるなら満杯の水が注がれた、砕け散る寸前の罅と亀裂だらけの器。もしくは破裂一歩手前まで、無理矢理に膨らませた風船。

 

 どちらにせよ、あと一つ。それがどんなに些細な切っ掛けだったとしても、今のメルネには十二分に過ぎる。秒と経たずに、彼女は……。

 

「……」

 

 けれど、それがわかっていながら。それを確と理解しながら。

 

「…………無理」

 

 そう、ラグナはメルネにはっきりと言うのだった。……とはいえ、その言葉を繰り出すのに。ラグナは目を逸らし、直前まで躊躇い、最後まで迷った挙句にではあったが。

 

 けれども、それでもラグナは答えた。己が意思で、メルネの提案を拒んでみせた。それは事実────

 

 

 

「……は……?……………え?」

 

 

 

 ────が、彼女にとってその事実は、到底受け入れ難いものだった。

 

「ど、どうして?どうしてよ、どうして……なの、ラグナ……?」

 

 動揺。困惑。混乱。その三つが複雑に入り混じり、入り乱れた声音を。情けなく震わせながら漏らし、まるで縋りつくように、メルネはラグナにそう訊ねる。無意識の内に、ラグナの手を掴む自分の手に、徐々に力を込めながら。

 

「どうしてって、それは……」

 

 どうしてとメルネにメルネに訊ねられたラグナだが、歯切れ悪く、先程のようにはっきりとした答えを言えないでいる。当然、そんな様子を目の当たりにすれば、メルネが黙っている筈がない。

 

「苦しくないの?辛くないの?いいえ、そんな訳ない。苦しくない訳がない。辛くない訳がない」

 

 それはもう、自問自答であった。目の前のラグナを置き去りに、メルネは自問自答を始め、そして終わらせ。即座に食ってかかるように、ラグナを詰問する。

 

「あなたは苦しいの。辛いの。そう、そうなのよラグナ。でないとおかしいのよ。駄目なのよ。そうでなければいけない、いけないのよ?」

 

 ラグナのことなどお構いなしに、矢継ぎ早に並び立てられたメルネの言葉。しかしそのどれもが、理性故からのものであるとは決して言い難く。支離滅裂で、それら全ては正気からは逸していると言う他になかった。

 

 ──メルネ……。

 

 そんなメルネの様子を────その惨状をこうも見せつけられては。答えに窮するラグナも、流石に口を開かざるを得ず。

 

「……メルネの言う通りだ。俺今、苦しいし、辛いよ」

 

「っ!だったら!」

 

 ラグナの言葉を聞き、メルネは目を見開かせ、声を弾ませる。

 

「でも。そんでも、やっぱできねえんだよ。クラハのことを忘れるなんて、できっこねえんだ」

 

 だが、続けられたラグナのその言葉が、瞬く間にメルネの心を薄暗く、仄(ぐら)く、暗雲に曇らせた。

 

「…………何でよ」

 

 長く、重い沈黙の後に。静かに呟かれた、メルネのその声は。どろりと濁り淀んでいて、暗澹としており。そこから感じ取れたのは、理不尽に振り回され、疑念に掻き回され。そして負の感情に囚われてしまった精神(こころ)

 

「何でよ。ねえ?何で?何でなの、ラグナ?何で何で、何で何で何で……?」

 

 まるで錯乱したように、ラグナにそう何度も訊ねるメルネ。彼女は気づかない。

 

 無意識の内に、今ラグナの手を掴んでいる自分の手に、徐々に力を込めていることに。ラグナの柔い肌に、自分の指先が沈み、圧迫していることに。

 

 表情にこそ出さないように努めているものの、それでラグナが痛がっていることにさえ。今のメルネは気づくことができないでいた。

 

 そうして、遂に。とうとう、核心を突くように、メルネはラグナに問いかけた。

 

「ラグナ。クラハってあなたにとっての……何?」

 

 間違いなく、疑う余地もなく。それこそが分岐点だった。運命の分かれ道だったのだ。

 

 メルネにそれを訊ねられたラグナは、一瞬だけ目を大きく見開かせ。けれどもすぐさま消沈するかのように彼女から視線を逸らすと、やがて気を憚られながらに、ゆっくりと口を開いた。

 

「……言え、ない。ごめん」

 

 そのラグナの言葉に含まれていたのは、どうしようもない程の後悔。それと、罪の意識。そう返すだけで、ラグナはどれ程迷い、躊躇ったのかもわかる。

 

 ……だが、しかし────

 

 

 

 

 

「……また…………なの?またあなたはそうやって私に何も教えてくれないのッ!?ラグナッ!!」

 

 

 

 

 

 ────結果としてその返事は、メルネの神経を過剰に逆撫で。そして彼女を、爆発させてしまった。

 

「あの時も。この時も。そうやって、そうやってっ!あなたは私に何も教えない!言ってくれない!何も何も!何もッ!」

 

 きっと、今の今まで。今、この瞬間まで。それは、メルネが己が心の奥底の片隅に、無理矢理に押し込んで閉じ込めていたものだっただろう。

 

 決して、ラグナに悪気があった訳ではない。寧ろ悪気がなかったからこそ、一切誤魔化すことも、偽ることもなく、彼女に対してああ言ったのだから。

 

 けれど、それが、そのラグナの選択が。良くも悪くもメルネのそれを────ずっと、彼女がひた隠しにし見過ごし続けていた激情を、引き摺り出してしまった。その結果が、これだった。ただ、それだけの話だった。

 

 もはや冷静さを欠き、とてもではないが平静でいられなくなってしまったメルネは。ラグナの手を強く握り締め、ラグナのことを責め立てる。

 

「そんなに私は頼りない?私に頼りたくないの?そうまでなって、こうまでなっちゃって……それでもまだ私じゃ駄目なのっ!?そこまでクラハが大事!?大切!?何で!?どうしてよッ!?」

 

 異常なまでに凄まじいメルネの剣幕を前に、もうラグナは何も言えず。ラグナが唖然とする他ないでいるのをいいことに、彼女が好き勝手にがなりたて続け。

 

「ねえラグナ、わかってる……?」

 

 そうして、遂に──────────

 

 

 

 

 

「今!さっきッ!!あなたはクラハに見捨てられたのよッ!!それでもまだあんな男が大事で大切だって言うのッ!!?」

 

 

 

 

 

 ──────────メルネは超えてはならない一線を、超えてしまった。



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崩壊(その二十四)

 間違ってもメルネにその一線を越えるつもりなど、毛頭なかった。ましてや、メルネはラグナを傷つけたい訳ではなかった。

 

「今!さっきッ!!あなたはクラハに見捨てられたのよッ!!それでもまだあんな男が大事で大切だって言うのッ!!?」

 

 その一線を越えたいが為に、ラグナを傷つけたいが為に、その言葉を口に出した訳ではなかった。それだけは、確かなことだった。

 

 これまでも。そして今し方も。ラグナが受けたクラハの仕打ちの数々。それら全てを鑑みれば、そうはならないだろう。絶対にそうはならない筈だろう。

 

 普通であれば、怒るべきだ。責めるべきだ。見限り、見放すべきだ────少なくとも、それがメルネの考えで、意見で、気持ちだった。

 

 ……けれど、ラグナはそうならなかった。そうはしなかった。

 

 クラハに対し怒ることも責めることもしなければ、彼を見限ることも見放すこともしないで。

 

 ただ悲しみ、ただ淋しがり、ただ泣いた。ただ、それだけだった。そしてそんなラグナの行動が────否、ラグナそのものが、メルネにはまるで理解できなかった。できる訳がなかった。

 

 どうして怒らないのか。どうして責めないのか。どうして見限らないのか。どうして見放さないのか。

 

 もうそれは、ラグナのそれは。もはや寛大だとか慈悲深いだとか。ましてや優しさでもない。言ってしまえば何処か病的で、気が触れたような、そんな異常の類で。

 

 メルネにはそれが、酷く歪で不可解極まりない、悍ましいものにしか目に映らなくて。

 

 そして自分が知るラグナが、知っているラグナが。手の届かない、彼方の果てに消え去ってしまったように思えて。だからこそ、メルネは怯えて、取り乱した。

 

 恐慌と錯乱に挟まれ、ラグナに食ってかかってしまい────そうして、彼女はこの結末を招いた。自らの口で紡ぎ、自らの手で描いた。

 

 メルネとラグナの二人の間で静寂が満ちる。重苦しい沈黙は数秒に亘って続けられ、やがて先に口を開いたのは、言うまでもなくメルネの方だった。

 

「ま、待って……ちが、違うの。今のは、違うの、よ」

 

 メルネの声は情けなくもみっともなく、惨めに震えていた。当然だろう、何せ彼女が一番わかっている。理解している。もう、取り返しのつきようがないことを。他の誰よりも一番、わかってしまっているし、理解してしまっているのだから。

 

 だが、それでも。一縷の望みに、微かな希望を託して。メルネは弁明を図ろうとした。

 

「ねえラグナ、私はあなたに言いたかった訳じゃない。あんなこと、言いたかった訳じゃ、ない、の。ただ、私は、私は……っ」

 

 けれど、とてもではないがメルネの言葉は弁明の体を成してはおらず。寧ろ大火に煮え滾った油をぶち撒けるが如く、最悪の状況をこれでもかと更に悪化させかねない程の逆効果しか発揮できないものだった。

 

「…………」

 

 そんな、メルネの言葉を。ラグナは黙って聞いて、数秒を経て。それからゆっくりと、ラグナもまたその閉ざしていた口を、静かに開かせた。

 

「俺の所為だ」

 

 ラグナの最初の一言は、それだった。

 

「クラハに呆れられたのも、クラハに嫌われたのも、クラハに見捨てられたのも、俺の所為だ」

 

 言葉を続けるラグナの瞳に、不意に大粒の涙が滲んで、浮かぶ。

 

「クラハがあんなんになっちまったのも、クラハが『大翼の不死鳥(フェニシオン)』を抜けることになったのも、俺の所為だ」

 

 ラグナの涙はやがて瞼の縁から溢れるように零れ出し、零れたその涙はラグナの頬を濡らしながら、顎先にまで伝って。

 

「こんなことになったのも、俺の所為だ。全部……全部、俺の所為だ」

 

 そうして落ちたラグナの涙は、宙に輝きの尾を引き、床に衝突すると周囲に散った。

 

「俺の、所為なんだ、よ……ッ」

 

 直後、まるで堰を切ったように。次から次に、ラグナの瞳からは大量の涙が溢れて零れ出す。

 

 その様を目の前で直視した瞬間、メルネは息を呑み。何かしらの言葉をかけようとしても、真っ白な頭の中には言葉なんて浮かぶこともなく。が、それでも何か言おうとしても、喉の奥が痛々しく震えるだけで、掠れ声すらも出せそうになかった。

 

 そうして次の瞬間、ラグナの手を掴んで握り締めていたメルネの手から、力が抜け。するりと、まるで解けるようにして彼女の手からラグナの手が滑り落ちた。

 

「ぁっ」

 

 と、声にならない声を漏らすと同時に。すぐさまメルネがラグナの手をまた掴む────前に。素早くラグナは身を翻して、再びその場から駆け出してしまう。その弱々しい小さな背中を、メルネはもう追いかけられなかった。追いかけられそうになかった。

 

「……………どうしてよ」

 

 と、力なく呟いたメルネが。そのまま膝から崩れ落ち、廊下の床にへたり込んでしまう。

 

「どうして、こうなるの……?どうしてこうなるしか、ないの……?」

 

 誰に訊く訳でもなく、消え入りそうな声で静かにそう呟いて。それから、メルネは肩を小さく震えさせ始めた。

 

「ふふ、ふふふっ……あーぁ、もう疲れちゃったな。私、疲れたな……」

 

 と、呆然自失に呟くメルネの肩の震えは次第に大きく、激しさを増していく。

 

「どうしてこうなるのかしら。どうしてこうなっちゃうのかしら。……どうして、こうなったのかしら」

 

 絶望と諦観に塗れて染まった瞳で床を見つめながら、メルネが呟く。それと同時に、彼女の頭の中では、こんな言葉が浮かび上がっていた。

 

 ──誰が悪い?これは一体、誰の所為……?

 

 誰に問うでもなく、心の中で呟き。そしてすぐさま、彼女の鼓膜をその幻聴(ことば)が震わす。

 

 

 

『俺の、所為なんだ、よ……ッ』

 

 

 

「……いいえ。違う、違うわ。違うわよ。それは違うのよ、ラグナ」

 

 それを考え出した瞬間、自ずとメルネは悟った。この時から、自分は()()()()()ことを、自覚した。

 

「誰が悪い?誰の所為?……ふふっ、そんなの、決まってるじゃない。わかり切ってることじゃない……今更、考えるまでもないわ……」

 

 メルネが渦に囚われる。憎悪と怨恨犇めく渦中に、彼女は進んで囚われて、呑み込まれていく。

 

「ええ、ええそうよ。悪いのは、全部悪いのは……ッ!」

 

 底無し沼の如く、一度沈んでしまえば。もう二度と浮上は叶わない、深淵の闇の最中に堕ちながら。メルネはその顔を思い浮かべながら、まるで吐き捨てるようにその名を呟く────直前。

 

 

 

 

 

 カツン──そんな足音を、背後から聴いた。

 

 

 

 

 

「……………クラハ=ウインドアッ!!!!」

 

 こちらに目もくれず、平然と通り過ぎ。そのままこの場から立ち去ろうとしたその背中を、射抜くように睨めつけ。瞳孔を全開にさせながら、改めてメルネはその名を叫ぶのだった。



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崩壊(その二十五)

「……………クラハ=ウインドアッ!!!!」

 

 自分でも意外だと思ってしまう程に、その声には怒りと憎しみが込められていた。今のメルネはもう、昏く淀んだ負の感情に染まり切っていた。

 

「貴方よ!貴方が!貴方の所為で!貴方のッ!所為でッ!!」

 

 毒々しく禍々しいそれらに背を突き押されるようにして、メルネが叫ぶ。瞳孔が開き切り、今にでもそこから零れ落ちそうになる程に見開かれた、彼女の藍色の双眸が。視界の先に立つその背中────他の誰でもない、クラハの背中を。を、射殺さんばかりに睨めつける。

 

「全部!全部全部全部、全部こうなったのはッ!!全部こうなったのもッ!!」

 

 喉が破り裂けてしまっても、それでも一向に構わないとばかりに、怒声を張り上げ続けるメルネだったが。しかし、そんなのはこちらの知ったことではないかのように。クラハはその場に立ち止まることなく、そのまま歩き続ける。その姿を、その態度を目の当たりにして、より強く、鋭くメルネは叫んだ。

 

「待ちなさいッッッ!!!!」

 

 憎悪に駆られ、怨恨を募らせた、その末の。メルネ渾身の一声が、ようやっとクラハの足を止め、彼をその場に立ち止まらせる。

 

「……」

 

 が、背後のメルネに顔を向けようとはしない。けれど、そんなことを気にすることができる程の余裕など、今のメルネにはある筈もなかった。

 

「そうよ……!全部、貴方が悪いの……!全部貴方が悪いのよクラハ……!!」

 

 ラグナを二度も傷心させ、そして再度泣かせてしまい。絶望と諦観に暮れ、失意の底に叩き落とされ、もはやその場に崩れ落ちへたり込むことしかできないメルネであったが。

 

「よくも、よくもッ!ラグナをっ、私をっ!ラグナと私をこんな目に遭わせてくれたわねッ!?こんな風にしてくれたわねッ!?」

 

 そんな彼女を今一度立ち上がらせたのは、皮肉にもクラハに対する激しい憎悪と深い怨恨から生じた、爆発的な活力だった。

 

「クラハ=ウインドアッ!私は決して!絶対に!!貴方を……お前を許しはしない!!許さない、許さない!許さないッ!許さないッ!!私たちをこんな目に遭わせたお前だけはッ!!!私たちをこんな風にしたお前だけはッ!!!」

 

 ……きっと、今のメルネを目にした誰もが。他の誰でもない彼女こそが、あの『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の代表受付嬢であるメルネ=クリスタだとは思えないだろう。とてもではないが、そうであるとは信じられないことだろう。

 

 それ程までに、クラハを激烈に責め立て続ける今のメルネは苛烈で、壮絶極まりなくて。筆舌に尽くし難いまでに、常軌を逸していた。

 

 およそ正常からは遠くかけ離れてしまったメルネの言葉を、しかしクラハは。

 

「……」

 

 依然として背を向けたまま、黙って聞き入れている────ように思える。彼は今、そこに立ち止まっているだけで。故にメルネの言葉が届いているのかどうかは、彼のみぞ知ることである。

 

「……何とか言いなさいよッ!このクソ野郎ッ!!」

 

 そんな自殺行為と同義でしかないその態度を前に、堪らずメルネはクラハを口汚く罵ってしまう。が、それでも彼は黙ったままで。それが却って、彼女の思考を一瞬冷静にさせた。

 

 ──……ああ、もう駄目ね。

 

 と、心の中でそう静かに呟くメルネの眼差しは。恐ろしいくらいに鋭く、冷ややかに据わっていて。

 

 それが暗に、あと一手で。何かしらの、ほんの些細な切っ掛けたった一つで。彼女が今、辛うじてどうにか保っている、なけなしの理性を。致命的なまでに決定的に崩れることを如実に示していた。

 

 ギリ──自分でも気づかない、無意識の内に。そのまま砕いてしまうのではないかという程の力で、メルネは歯を噛み締め。そして人知れず、薄皮が裂けて血が滲むまでに強く、拳を握り締める。

 

 もはや明白であった。今、メルネがクラハに対して、決して少なくも薄くもない、確かな殺意を覚え始めてしまっていることは、誰の目から見てもわかる程に、明白であった。

 

 しかし、それだけは駄目だと。その一線を超えてしまったのなら最後、もう二度と自分は戻って来れないと。そうわかって、理解しているメルネは。

 

 故に彼女は、それを忘れようと。今この時、この瞬間だけは自分の頭から消し去ろうと努めた。

 訪れるべくして訪れた沈黙。それを真っ先に破ったのは────

 

 

 

「貴女にはその資格がある。そうする資格を、貴女は持っています」

 

 

 

 ────意外にも、そのクラハの一言であった。彼の言葉を聞いた瞬間、即座にメルネの頭の中をドス黒い疑問符が埋め尽くす。

 

「……は?いきなり、何の、話……?」

 

 今すぐにでも噴き出しそうなその怒りを、今はどうにか必死に抑え込みながら。あくまでも平静であることを装いながらに、メルネがクラハにそう訊ねる。

 

「僕は肯定します。貴女のそれ(・・)は正しい。何も間違っていない」

 

 すると背を向けたまま、クラハはそう答え。そして、こう続けた。

 

「故に僕は逃げも隠れもしない。だから、貴女はそうすべきだ」

 

 ……薄々、そんな気はしていた。クラハが、自分の殺意(それ)を見透かしているのだろうことくらいは。とっくのとうに、わかり切っていた。

 

 そう、見透かされていた。勘づかれていた。気づかれていた────だというのに、その言葉通りこの男は逃げようとも、隠れようともしなかった。どころか、自分に向けられている殺意を正しいと、肯定さえする始末だった。

 

 そしてメルネはそれが、堪らなく、どうしようもなく、どうしたって、これ以上にないくらいに、圧倒的に絶対的に。

 

「…………は、はっ、あはは……何それ。殉教者でも気取ってるつもり?最低最悪の聖人にでもなりたいの、貴方?……はぁ」

 

 虫唾が走って仕方のない程、何処までも。大変受け入れ難く、途轍もなく気に入らなくて。

 

「ふざけんじゃないわよ」

 

 そしてそれが遂に、決定打となってしまうのだった。

 

 メルネは唐突に【次元箱(ディメンション)】を開くと、その真下へ己が手を翳す。直後、そこから広げられた彼女の手に向かって一本の、小ぶりな金槌(ハンマー)が滑り込む。

 

 実に手慣れた様子でメルネの手が、その柄を力強く握り締めると同時に。その金槌全体に彼女の魔力が走り、帯びたかと思うと────一気に、巨大化する。

 

 それはもはや金槌と呼ぶべき代物ではなく。無骨に大雑把で、ただひたすらに重厚な鉄塊の如き、一振りの武器。一振りの、戦鎚。

 

 どうやっても女性の細腕一本では、振るうことはおろか持ち上げることすら叶わないだろうその戦鎚を。しかしメルネは大したことでもないかのように平然と持ち上げ、構えた。

 

「そのド頭かち割ってぶち砕いてやる……!」

 

 と、物騒極まりなく、まるで冗談のような一言を。メルネは至極真面目に、真剣な声音で。陰鬱で暗澹とした昏い殺意を伴わせながら、吐き捨てるように呟き。そうして、彼女は己が両足に力を込めた。

 

 グッ──メルネの足の筋肉が僅かに盛り上がり、隆起する。

 

「……」

 

 数秒後にも、今すぐにでも。メルネがその場から駆け出し、ある程度開いているこの距離を一気に詰め切り、そしてこちらの脳天めがけて戦鎚を振り下ろせることなど。当然、クラハはわかっている。言及するまでもない当たり前の事実であると、彼は確と理解している。

 

 わかっていて、理解していて。その上で、クラハは()()()()。その場から動く気配も、メルネの前から逃げ出す様子もまるでない。依然としてメルネに背中を向けたまま、その場に立って微動だにしない。

 

『故に僕は逃げも隠れもしない』

 

 その姿から、その言葉が騙りの虚勢などではないことを、メルネは思い知る。それを思い知った彼女は、戦鎚の柄を握り込む手に、更に力を込める。

 

 もはや、二人には言葉など一切不要で。会話を交わすことなく、そして不意に、メルネが廊下の床を蹴りつけた。

 

 一瞬にしてメルネは間合いに入り込み、既に振り上げていた戦鎚を。彼女は何の躊躇いもなく、少しの容赦もせずに。

 

 この期に及んで未だに背中を向け、あくまでも無抵抗の姿勢を取り続けるクラハの脳天へ。

 

 戦鎚を振り下ろす──────────直前。

 

 

 

 

 

「止めろぉ!そこまでだァッ!!」

 

 

 

 

 

 と、メルネの背後で叫び。今にも戦鎚を振り下ろさんとしている彼女を、ロックスが羽交締めにして。その凶行を、彼は既のところで阻止するのだった。



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崩壊(その二十六)

「止めろぉ!そこまでだァッ!!」

 

 ロックスは怒声を張り上げると共に、今にもクラハの脳天に向け、振り上げていた戦鎚を振り下ろさんとしていたメルネを羽交締めにし、どうにか既のところで彼女の凶行を阻止してみせた。

 

「離して!ロックスッ!!私の邪魔、しないでよぉッ!!!」

 

 極力、メルネの身体が痛まないように。しかしそれでも常人では身動(みじろ)ぎ一つすらできない程度の力を、ロックスは己の両腕に込めている訳だが。

 

 それにも関わらず、メルネはそう叫びながら、彼の拘束から抜け出そうと必死の形相で(もが)き暴れる。

 

 既に引退している身とはいえ、流石は(かつ)ての『六険』の一人であり、『戦鎚』の異名で多くの冒険者(ランカー)に畏れられた《S》冒険者、メルネ=クリスタ────とてもではないが女性のものとは思えない、その剛力を前に。

 

 ほんの少し、僅かばかりにこの両腕から力を抜いたその瞬間。メルネは強引に抜け出し、そして今度こそ己が得物をクラハへ振り下ろすだろうことを。否が応にも、ロックスは確信させられる。故にだからこそ、彼は両腕の拘束を一切緩めることなく、メルネに言葉をぶつける。

 

「落ち着けメルネの姐さん!あんた正気……じゃあないよなあッ!?たかが一時の感情に振り回されやがって!らしくもねえッ!!」

 

「お前だけは!お前だけは!!私がッ!!私の手でッ!!!」

 

「しっかり!しろッ!してくれ姐さんッ!!」

 

「離してっ!離して!離せぇええええッッッ!!!」

 

 けれど、今のメルネにロックスの言葉は届かない。否、例えここで言葉をかけたのがグィンであっても、彼女には届かなかっただろう。

 

 未だ暴れながらに、狂ったようにメルネが叫び散らす。

 

「お前が壊した!お前が壊したのよ、クラハ!クラハ=ウインドアッ!全部全部全部!何もかも!ラグナもぉッ!お前と、私がぁ!だから、もう!壊すしかないじゃないッ!壊れるしかないじゃないッ!お前も!!私も!!」

 

 メルネの憎悪に浸り切り、怨嗟で染め尽くされた叫びを受けても。それでも、クラハがこちらに振り向くことはない。何も言わずただ無言のままに背を向けて、その場に立っているだけだ。それはもはや堂々だとか、図太いだとかではなく。ましてや、度胸があるという訳でもない。

 

 そこから感じ取れるのは────無関心。ひたすらに興味がないという、無関心さだけだ。そしてそれから導き出される、クラハの心情。

 

 もう、()()()()()()()()()()

 

 どうなろうと、どうなったとしても。構わないと、構やしないと。少なくともクラハにとっては、もうどうでもいいことなのだ。どんな結果にどう転ぼうが、どうだっていいことなのだ。この状況も、この現実も。何もかも、全て。

 

 故にだからこそ、クラハは逃げ出すことも隠れることもせず、無抵抗のままに。こうして、黙ってメルネの手にかかろうとした。彼女に、(ころ)されようとしていた。

 

 そうした結果、メルネが一体どうなるのか。選択を誤り、道を踏み外し、もう二度と戻れなくなってしまった彼女が。果たして最後に、一体どうなってしまうのか────それをわかっていながら、確と理解していながら。

 

 ロックスにクラハを助ける気など毛頭、微塵たりともない。今、この現状のクラハを助ける程、彼はお人好しの慈善家ではない。

 

 ではロックスは何故メルネを止めたのか────実に簡単で単純なことだ。彼はただ、彼女を助けたかったのだ。

 

「馬鹿げたこと言ってんじゃあねえぞ姐さん!!そんなことしても、そんなことになっても!何の解決にも、何の意味もねえことは!あんたが一番よくわかってんだろうがァ!!!」

 

 ここで選択を誤らせる訳にはいかない。ここで道を踏み外させる訳にはいかない。ここで戻れなくさせる訳にはいかない。

 

 メルネの為にも。そして──────────

 

 

 

 

 

『悪い。メルネのこと、よろしく頼む』

 

 

 

 

 

 ──────────交わしたその約束を守り通す為にも。ただその一心で、懸命に。ロックスはメルネを諭し、説得しようとする。

 

「うあああああぁぁぁッ!!!!壊す!壊す!壊す壊す壊す壊す壊すッ!!壊れる壊れる壊れる壊れる壊れるッ!!ああああああああ!!!」

 

 しかし、もはや諦観と絶望に暮れ。狂気の渦中に取り込まれたメルネには。どんな言葉も、何も届かない。そのことに己の無力さを痛感し、歯痒い挫折感を味わいながら。

 

 ──メルネの姐さん……!

 

 これで駄目ならば終わりだと半ば自暴自棄に、ロックスは叫んだ。

 

 

 

「あんたは!今ここでクラハを(こわ)して!それでどんな面して!!ラグナに会うつもりだッ!?」

 

 

 

 その瞬間、メルネは止まった。喉奥から引き攣った掠れ声を短い悲鳴のように漏らして、今し方の暴れぶりから一転して、まるで時が止まったかのように、彼女は静止した。

 

 今すぐにでも縁から零れ落ちてしまいそうな程に、限界までに見開かれた瞳を震わせながら。呆然とした様子でメルネが呟く。

 

「ラ、グナ……?ラグ、ナ。ラグナ……ラグナラグナラグナ……ぅぅぅ、ぐううううぅぅぅぅ……っ!!」

 

 けれども、すぐさま深々とした怨念の呻き声を上げると同時に。またしてもメルネの表情が歪み、戦鎚の柄を握るその手に力が込められる。再び、クラハに対するありとあらゆる負の感情が再燃し、彼女をもう一度狂気に走らせ、破滅へと駆り立てる。

 

 ……決して、ロックスの言葉が届かなかった訳ではない。現に、ほんの一瞬だったとはいえ、メルネは止まった。それが何よりの証拠だ。

 

 そして先程とは違って────憎悪と怨恨に彩られたメルネの顔には今、苦渋の懊悩もまた浮かんでいるのだ。

 

 ラグナの為にも復讐を果たすべきと唆す悪性と、ラグナの為にも堪えるべきだと訴える善性。

 

 その二つが、今。メルネの中で互いを押し退け合い、(せめ)ぎ合っているのだ。

 

「ぅぅぅぅぅぅ…………!」

 

 まるで地獄の底から上げているかのような呻き声を、血が滲むまでに噛み締めている唇の隙間から、小さく漏らすメルネ。

 

 迷っている。メルネは未だ(かつ)てない程に迷っている。一瞬で一気に、どちらかに全てが傾く天秤を前にしている。

 

 ──私たちは……!私は……ッ!!

 

 ラグナを壊した報いを受けなければならない。ラグナを壊した償いをしなければならない。

 

 復讐か、赦免か。裁くのか、赦すのか────この究極の二択を突きつけられた、その末に──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「メルネ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────満開に咲き誇る花のような。眩しく晴れやかな太陽のような。そんな、ラグナの笑顔が脳裏に浮かんだ。



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崩壊(その二十七)

「……………わかってた。最初から、もうずっとわかってた……」

 

 そう、力なくメルネが呟いた後。彼女の瞳から一粒の涙が浮かんで、流れて。彼女の頬に透明な一筋の線を引き。

 

 ゴトン──それから少し遅れて、彼女の緩んだ手元から戦鎚が滑り落ち、廊下の床に落下し重々しい音を立てた。

 

「そうなんだって、最初から、私はずっと……」

 

 直後、戦鎚からメルネの魔力が溢れるようにして漏れ出し、消失すると。またしても一瞬だけ光り輝いたと思えば、その戦鎚は再び、あの金槌(ハンマー)へと戻るのだった。

 

「ラグナは助けを欲しがってた。あの子は、救われたがってた。……クラハ。他の誰でもない、貴方によ。私には、それがわかってたの」

 

 まるで語るように独白を静かに零すメルネ。今の彼女の表情からは、今し方まで浮かべられていた憎悪に塗り尽くされた怨恨も、苦渋に満たされた懊悩も。

 

「貴方しかラグナを助けられなかった。貴方しかラグナを救えなかった。だから、私は支えることにした」

 

 今や、それらがまるで嘘だったように。それこそ憑き物が落ちたかのように、消え失せていた。

 

「支えになってあげれれば、支えになることさえできたのなら。きっと、それでいいって。助ける資格も救う資格も貰えなかった私には……甘いだけで優しくないこんな私には、それしか、できないって」

 

 そうして最後にメルネに残されたのは、どうすることもできない諦観と、どうしようもない絶望だけで。仄昏く、濁り淀んだ光を零す瞳から、彼女は止め処なく涙を流す。流し続けながら、呆然とそう呟くのだ。

 

「わかって、思って、それで……」

 

 そんな有様の彼女に対し。依然として、クラハは黙ったままだった。彼が返事をすることもなければ、何かを言うこともなく。彼はただ、無言のまま、その場に立っているだけだった。それだけで、メルネの方に振り向く様子は未だに見られなかった。

 

 だが、それでも構わずに。独り、メルネは言葉を続ける。

 

「でも、こんなことになるだなんて、思ってなかった。こんなことになってしまうだなんて、考えてなかった。考え、れなかった……っ」

 

 そうして、次第にメルネの声が弱々しく震え出し。少し長い間を挟んでから、彼女は今にも消え入りそうな声音で、絞り出すように言う。

 

「貴方がラグナを助けもしなければ救いもしないだなんて、考えられなかったのよ……!」

 

「……」

 

 ……しかし、その一言を受けても。それでも、クラハは固く押し黙ったままで。

 

「…………貴方はどうして、ラグナを助けてくれなかったの?貴方はどうして、ラグナを救ってくれなかったの?ねえ、クラハ……どうしてなの……?」

 

 そんな何も物言わぬ背中を放心するように見つめ。もはや抜け殻同然となりながら、しかし、それでも。掠れた呟きを静かに漏らすように、なけなしの希望に縋るようにして、メルネはクラハにそう訊ねるのだった。

 

 数秒の、重圧と緊迫を伴った静寂の後──────────そうして、ようやっと。クラハはメルネの方へ、振り返った。

 

「貴女の押し付けがましい理想(もうそう)に、僕を付き合わせないでください」

 

 振り返り、透かさず。あまりにも冷徹で酷薄なその一言を、躊躇も容赦もなく。特に大したことでもないかのように、彼は彼女にそう言い放つのだった。

 

 堪らず目を見開き、硬直するメルネ。ほんの一瞬とはいえ、本気の殺意を醸し出したロックス。そんな二人のことを、クラハは気にも留めず。平然と前に向き直り、そうして彼は再びその場から歩き出す。

 

 クラハの背中がある程度離れた、その時。まるで止まっていた時が動き出すようにして、メルネは泣き出した。大の大人がまるで幼い子供のように泣き喚き、声を一切抑えることもできずに泣き叫び、恥も外聞も捨てて思い切り泣き(じゃく)った。

 

 もう限界だったのだ。限界など、メルネとっくのとうに迎えていて。

 

 だというのに、それでもメルネは。何処までも追い立てられ、追い込まれ、追い詰められた。

 

 その結果、平穏を享受できる心の拠り所を失い。感情を処理することもままならず、現実を受け止めることもできなくなり。そうして、最後は弾けた。

 

 今の今まで無理矢理に、心の奥底に。仕舞い込み、押し込み、閉じ込めていたその全てを。爆発させ、噴出させ。ありのままに曝け出しながら、盛大に弾けてしまったのである。

 

 憤怒、憎悪、怨恨、後悔、自責、悲哀────そういった、ありとあらゆる負の感情に、ああして押し流されたメルネであったが。

 

 しかし、この場に駆けつけたロックスの尽力を込めた説得により、彼女は既のところでどうにか立ち止まり、踏み留まることができた。

 

 ここ一番の正念場で、彼女は自分から外れずに。メルネ=クリスタとして在りながら、人としての矜持を喪わずに済んだのだ。

 

 ……だというのに、メルネは最後の最後で。あまりにも深く、重く。致命的なまでに決定的な一撃(ことば)で以て、これ以上にない止めを刺された。故に彼女がこうなることは、至極当然であり。また、避けられない必定でもあり────そして彼女が犯し損ねた過ちによる、報いにも捉えられた。

 

 だが、メルネだけがそれを受けるのは理不尽な不公平である。彼女と同じく、否彼女以上の罰を与えられ、制裁を受けるべき人間が。少なくとも一人、まだいる。

 

 今、その者は。無為淡々とした表情のままに、何の後ろ髪も引かれていない様子で。特に早くもなければ至って遅くもない、日常(いつも)通りの歩みで、この場から遠去かっていく。

 

「……ありがとう、ございます。本当にありがとう、姐さん……」

 

 クラハの背中を、またしても遠くから眺めるだけに留め。心の底から安堵したかのように、ロックスは。未だ悲痛で哀絶極まりない号泣を続けるメルネに対し、静かに言葉をかける。

 

 今の彼には、それくらいのことしかできなかった。



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崩壊(その二十八)

『今!さっきッ!!あなたはクラハに見捨てられたのよッ!!』

 

 今し方聞いたばかりの言葉が、耳の奥でずっと響いている。

 

『『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から脱退し、冒険者(ランカー)を辞めます』

 

 その言葉もまた、覆い被さるように、畳み掛けるようにして残響している。こちらの気分も精神もお構いなしに、ひっきりなしに、ずっと。

 

 

 

 

 

『そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?』

 

『ふざけるなっ、ふざけるな!もういないんだいないんだよぉ!!違う、違う違う違う違うあの子は違う!違うっ、違うッ!!先輩じゃないラグナ先輩なんかじゃないただの!』

 

『あり得ない、そんな訳がないッ!あんな!あんな、あんな何の取り柄もない!ただの女の子が!ラグナ先輩な訳ないでしょうにぃ!?』

 

『ラグナ先輩じゃあないのなら!ラグナ先輩なんかじゃあないあの子なんて!冒険者(ランカー)じゃなくて受付嬢やってる方が身の丈に合ってますよ全然ね!誰もがきっとそう思うでしょう!?』

 

『第一目障りなんだよ。目障りで、煩わしくてぇ……不愉快でッ!』

 

『ラグナ先輩を騙って装って模してッ!!!違う、お前じゃない、絶対、今さらァ!!』

 

『なのに僕の為?僕の為僕の為僕の僕の僕の……!』

 

『あの子なんて!あの女の子は!!もう、ラグナ=アルティ=ブレイズじゃあ────』

 

 

 

 

 

 そんな無数の言葉だけが延々と、ラグナの頭の中で永遠に。こちらの耳を劈くように、こちらの鼓膜を引き裂くように。喧しく、がなり立てては喚き散らして、一切途切れずに絶え間なく、絶叫し続けていた。

 

 堪え難い頭痛に、重苦しい吐き気。そして胸に突き刺さり、抉り捩じ込まれた、切なさと。心を虐げ苛んで、蝕み腐らせていく、淋しさ。

 

 それら全てを、その華奢で脆い、小さな身体に。押し込み抱え込みながら。ラグナは今、オールティアの街道を歩いていた。ふらふらと、ゆらゆらと。今すぐにも風に吹かれて転んで、倒れてしまいそうな。そんな危なげな足取りで。

 

 朝が賑わうのと同じように、夜もまた喧しいのがこのオールティアという街だ。なので当然、この時間帯であっても行き交う人々は大勢おり。また、朝には閉めていた店も、一斉に開かれる。故に夜であっても、この街は朝と昼と同じように明るく眩しい。

 

 ……だが、ラグナは違っていた。人は見渡す限りいるのに、独りぼっちのように思えて仕方なく。街の明かりが夜闇を照らしているにも関わらず、ラグナの目の前は何処までも暗い。

 

 先程から聴こえる全ての音は騒音と雑音に擦り替えられ。なのに、聞きたくもない頭の中の言葉は、過剰な程に鮮明で、一字一句はっきりと、ひっきりなしに聞こえてくる。

 

 ──気持ち、悪い。

 

 まるで病人のように青白い顔色になりながら、グチャグチャに荒らされた心の中でそう呟くラグナ。しかし、吐き気はただ込み上げてくるばかりで、身体は胃の中身を迫り上げようとはしてくれない。

 

 今すぐにでも喉に指でも突っ込んで、無理矢理にでも吐いてしまおうかと、ラグナは考えてしまう。理由は単純で、胃の中身をぶち撒けて、この纏わってこびり付いてくるような不快感を、ほんの少しでも解消したいからだ。

 

 けれど、この身体はそうはしてくれない。吐きたいと切に願いそう思っても、楽になりたいと必死に思っても、この身体がそれに従ってくれない────訳がわからない。意味がわからない。その何もかもが、わからない。自分の身体にすら裏切られた気分に陥り、ラグナはうんざりと疲労し切って辟易としてしまう。

 

 ──…………いや、()()なのか……?

 

 もうどうにかなりそうだった。いっそのこと、どうにかなりたかった。

 

 こうして確かに、自分は存在している。こうやって腕を抱き、こうやって手を握り、こうやって足を動かしている。それは紛れもない、歴とした自分自身の確とした意思────()()()()()()

 

 果たしてこれは、本当に自分の意思なのだろうか?自分がそうしたいというラグナの意思によるものなのだろうか?

 

 自分(ラグナ)は自分なのか?自分は自分(ラグナ)なのか?

 

 普通であればこのような馬鹿げた疑問、抱くことはおろか考えもしない。そもそも考えるようなことではない。

 

 だが、ラグナの場合はそうではない。

 

 ──……わかんねえ。

 

 自分という存在の意味と意義。自分(ラグナ)という存在の証明と保証。

 

 ──わかんねえよ……!

 

 今や、それら全てがあやふやの曖昧で、霞んで薄れて。そうして、ラグナは自分が信じられなくなってしまっていた。

 

 ──わかる訳、ねえだろうが……ッ!

 

 自分がラグナであるということが、信じられなくなってしまった。

 

 自己への信頼が欠け、今の今までどうにか保ってきたなけなしの自己同一性(アイデンティティ)もボロボロと音を立てて崩れ、瓦解していくのを。判然としない意識の最中で、呆然と自覚しながら。依然としてラグナは歩き続け、進み続ける。

 

 その途中で何度も足を縺らせ、躓き、転びそうになりながらも。ただひたすらに、どこを目指す訳でもなく。

 

「ぅ、ぷ……っ」

 

 いきなり、何の前触れもなしに。腹の底から喉元にかけて、熱くてキリキリと痛むものが込み上げてきて。ラグナはその場に立ち止まり、咄嗟に手で口元を覆う。

 

 吐く────しかし、ラグナがそう思ったの束の間。突然込み上げたそれは、寸前でゆっくりと、腹の奥へとまた滑り落ちていく。

 

 どろりと粘ついた液体が己の食道を撫で、胃に伝って滴り落ちる、あまりにも気色悪いその感覚に。ラグナは瞳を潤ませ、目の端に小さな雫を浮かばせる。

 

 ──気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……っ。

 

 やはり一思いに吐くことができたのなら、少なくとも肉体的には楽になれる。……だが、この身体はそうはしてくれない。

 

 それに対して、ラグナはどうしようもできない苛立ちを募らせ、どうすることもできない無力感に打ち拉がれていると────

 

 

 

「へい!そこの彼女。急にそんな道のド真ん中に突っ立って、通行の邪魔だぜ?一体どうしたってんだい?」

 

 

 

 ────不意に、背後から。軽薄さがこれ以上にない程に似合っている、そんな声音と口調で。ラグナは言葉をかけられたのだった。



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崩壊(その二十九)

「……」

 

 特に何かを考えることもなく、反射的に。ラグナは気怠げに、ゆっくりと背後を振り返る。

 

 薄暗く焦点の定まらない視界の最中に、辛うじて捉え込んだのは。やはりというべきか、先程耳にした声に全く違わないの印象の。それこそ軽薄という概念を擬人化したような、まだ年若い男の姿であった。

 

 その男を目にして、ラグナは直感する。

 

 ──ああ、こいつ(クズ)だ。

 

 別に確かな根拠がある訳でも、動かぬ証拠がある訳でもない。ただこの男の雰囲気がそういっただけの、親切心に富んだ人間という可能性も大いにはあるだろう。人は見かけによらないとも言うのだし。

 

 だがしかし、ラグナには不思議とわかっていた。これが俗に言う、女の勘だとでもいうのだろうか。……元は男だというのに、可笑しな話である。

 

 まあそれはさておくとして。とにかく、ラグナはこの男が信用ならなかった。初対面、全く見知らぬ赤の他人であることは関係なしに。信じられない、否信じてはいけない人種だと、是非もなしに直感していた。

 

 即ち────この男は女を()()()にする類の男である、と。

 

 そしてすぐさま、ラグナが抱いたその直感が正しいことが証明される。

 

「お、へえ……良いね。良いじゃん良いじゃんね?後ろ姿からでも良いとはわかってたけどさ……こりゃ当たりじゃんね」

 

 と、軽口を叩きながら。ゆっくりと、行き交う人の波を掻き分けながら、男はラグナの方へと歩み寄って来る。

 

 もう既にその言動からして充分な説得力を感じることができたが、流石はそういった下心から行動を起こす男というべきか。いや、こうして獲物と定めた相手に悟られているのだから愚かだと蔑んでやるべきなのか。

 

 どちらにせよ、ラグナはひしひしと感じ取る。この男の、こちらを値踏みする不躾で無遠慮な視線を。こちらの身体を舐め回すように、衣服の下に隠された肢体を想像しているような下劣で下卑たの目線を。

 

 ──胸とか足、見過ぎだクソ野郎……。

 

 今、自分は確かに。確実に、この男に視姦されている────身の毛がよだつような、恐ろしく悍ましいその事実を認知し。堪らず、ラグナは男に対して嫌悪感を露わにすると同時に。そんな視線に慣れてしまっているこの自分にも、嫌気を差していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女になってから初めて気づかされたことだが、男は正直な生き物だ。己の欲望に対しては、特に忠実で正直だ。

 

 別にこの世全ての男が皆一様に、女の胸や尻ばかりにしか関心がない、下半身でしか考えられない生物とまでは流石に言わない。まあ、そこは元は同じ男だった立場として、最低限の擁護くらいはしてやるべきだろう。

 

 現に、一番身近にいたある男は()()()()()ことに関して人一倍奥手(ヘタレ)だったし。……が、それでもやはり男の本能(さが)には抗えなかったようで。結局、こちらに気取られない程度にチラチラと見てはいたのだが。まあ、これくらいはまだ可愛げもあるので、こちらは然程気にはしていない。

 

 また別のある男は確かに性欲に対して忠実で正直で、出会い頭に乳を揉ませろなどと何やら戯言をほざいていたが。まあその男は元からそういった人間だし、その言葉だって冗談八割本気二割程度のものだったので、まだ許容範囲だった。

 

 とまあ、こんな感じで男の誰もがスケベでいやらしいなどということは決して思っていない。ないが、しかしそういう男は少数なのが哀しき事実で。そうじゃない男共が大抵を占めているのが揺るがない現実だろう。

 

 ラグナがそれを思い知った切っ掛けは、やはりこうして女になってしまったことで。最初の頃は気にするどころか気づきもしなかったが、時が経ち日が過ぎていくにつれ、否応にも気づく。

 

 自分に向けられる視線。胸に尻に足に注がれる、邪な視線。(ねぶ)って絡んで纏わりつくような、男たちの色に塗れた視線。そしてそれらは、受付嬢になって『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の制服を着ている時はより顕著に、露骨なものになった。

 

 その時、ラグナは初めて思い知る────世の中の男はその大半が、スケベで。そして、いやらしいのだと。

 

 自分が情欲を向けられる立場になって覚えた、無視できない不愉快さと堪えられない気色悪さ。

 

 ──俺は、男なんだぞ……?

 

 同性(おとこ)に性の対象として見られることに対して抱いた、形容し難い忌避感とどうしようもない拒絶感。

 

 初めの頃は気にしないよう努めていたラグナだったが、こちらが文句の一つも、何も言わないのをいいことに。男たちの()()()()()視線は日に日に強く増していくばかりで、遂にラグナは堪えかねて、ある日メルネに相談を持ち掛けた。

 

 男たちから自分に向けられる視線が辛い、嫌だ。自分は一体どうすればいいのか────と。

 

「……あー、そうね。……そう、ね……」

 

 と、歯切れが悪そうに呟いたメルネの顔は。いつの日か、自分にこうやって相談されることを予期していたかのようなものだった。そして彼女は気まずそうに、申し訳なさそうにこう続けた。

 

「でも、仕方ないと……思うわ。だって、その……可愛い、のだし」

 

 メルネ曰く、これに関してはもうどうしようもないことらしい。もう慣れるしかないらしい。

 

 確かに、彼女の何処か諦めたようなその言い分も理解できる。元はラグナも男──だからといって自分もそうだったのかと問われると、正直自信はないが──なので、まあ。男とは()()()()生き物だということもわかっている。……わかってはいるが。

 

 だからといって、そう簡単に割り切れることではない。いくら慣れるしかないとはいえ、限度がある。

 

「…………ラグナ。どうしても、どうしても我慢できなくなったら。その時は、遠慮なくまた私にそう言って?そしたら、私がどうにかするから」

 

 そんなラグナの心情を察してか、何故か思い詰めたように真剣な面持ちで、メルネがそう言った。

 

 彼女が言う、そのどうにかする方法────それが一体、どういうものなのか。なんとなくではあるが、ラグナは想像できた。

 

 できたからこそ、こちらの身を案じる彼女の好意を受け取りつつも、その必要はないということも、ラグナはやんわりと伝えた。

 

 確かに身体を舐め回すように見られるのは不快極まりないが、たかがそれだけだ。強引に関係を迫られた訳でもないし、手を出されたという訳でもない。なのにこちらの都合でメルネに酷い目に遭わされるというのは、少々気の毒だろう。

 

 そうして、それからラグナは改めて。男共の視線を気にしないことに努めるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「でもこいつは頂けないなあ。君どうしたの?顔色、真っ青通り越して真っ白だけど?もしかしなくても、体調悪い?」

 

「……」

 

 いつの間にか、その男は目の前にまで歩み寄って来ていた。こちらを心配するその言葉も、態度も。その何もかもが、大袈裟な演技のようにわざとらしい。

 

「どっか休めるとこに連れてってあげようか?」

 

「…………」

 

 男の声がこの上なく煩わしい。虫唾が走り、癪に障る。とてもではないが、ラグナは男に対して返事をする気になれなかった。

 

 わかっている。わかり切っている。この男が最初(はな)から単なる善意などで動いていないことなど、とうに見抜いている。

 

 故にその発言の裏に隠された目的も、こちらに気取られぬように必死に誤魔化しているだろうその下心も、ラグナは気づいていた。

 

 仮にこの男の言葉を鵜呑みにし、軽はずみに乗ったとして。自分に待ち受けている結末は──────────

 

 

 

 

 

『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に』

 

 

 

 

 

 ──────────それと、同じようなものだ。

 

 休める場など全くの真っ赤な嘘で、どうせ自分は人気もなければ人通りもない裏路地に連れ込まれて。そしてそこで最初は弄ばれ、辱められるのだろう。

 

 こちらの抵抗などまるで意味を為さず、力づくで押さえ込まれてしまい。それから服を剥かれ、下着を()がれ。そうやって露出した胸をいいように揉まれて、気が済むまで揉み(しだ)かれて。それと同時にこちらの下腹部に手を這わせ、更にその手を下へとやって……。

 

 そうしてこちらの身体を思う存分に愉しんだ後は、はち切れんばかりに怒張した、醜く汚らわしい己の欲望を。遠慮容赦なくこちらに突き入れ、何の躊躇いもなくこちらの純潔を散らし。

 

 そのえも言われぬ征服感と支配欲を、これ以上にはない極上の馳走のように味わいながら、ありのままの快楽を思うがままに享受し。

 

 そして最後はただ込み上げる衝動のままに、溜め込んでいた情欲を好き勝手に噴かせて、果てる。

 

 そんな男の浅はかで見え透いた魂胆の全てと、それを(はら)の奥で受け止める最低の感触と最悪の感覚を想像して。

 

 そのあまりの悍ましさにラグナは身震いし、ただでさえ酷い吐き気が更にこの上なく悪化してしまった。

 

 ──んなの、絶対()だ……死んでも、嫌だ……。

 

 そう思いながら、あらん限りの嫌悪と拒絶を込めながら────

 

 

 

 

 

 ──…………ああ、でも。

 

 

 

 

 

 ────コクリ、と。ラグナは無言のまま、小さく静かに頷いた。

 

「お。じゃあ仕方ねえな、この親切な俺に任せときな」

 

 男は至極当然の如く、頷いたラグナが同意したと受け取り。直後、何の疚しさもなく、実に軽やかな足取りでラグナの元へと歩み寄る。

 

 その場から、ラグナは動こうとはしなかった。その場に立ち止まったまま、男が歩み寄って来るのを呆然と眺めるだけだ。

 

 ラグナとてわかっていた。頷くなど、同意以外の何物でもないことくらい、わかっていた。その上で、ラグナは頷いたのである。

 

 何故か────それは、単純な理由だった。

 

 ラグナにはもう、自分が他人のようにしか思えなくなっていた。他の誰でもない自分自身が、他の誰よりも一番遠い赤の他人としか、思えなくなってしまっていた。そうとしか、考えられなくなってしまった。

 

 まさに自己否定の究極系。或いは新たな二面性の発露。もしくは別人格の発生(たんじょう)

 

 ともあれ、今やラグナはラグナで在りながらラグナのままに、()()()()()()()()()()

 

 では今ここに立つラグナは────否、この()()は誰なのか。その疑問に対し、答えられる者も。そして知る者も。誰一人して、存在しない。存在などし得ない。

 

 何故ならば、この少女自身ですらその答えを知る由もなく、答えを知り得ないのだから。

 

 ──どうでもいい。別にどうだっていい……自分(おれ)でもない自分(こいつ)がどんな目に遭わされようが、もうどうでもいいや。

 

 自分が一体何処の誰なのかすらわからず、こうしている自分の人格がラグナなのか、少女なのか、それともその両方で、しかしそのどちらでもないのか。

 

 そんな、終わりの見えない螺旋模様を描くような思考を続けて。

 

 だがそれすらも、もはやどうでもよくなった。

 

 少女は内在する自分(ラグナ)の意識に従うように、その場に留まり男が近づいて来るのを大人しく待つ。そうして大した時間もかからずに、男はラグナの傍にまで辿り着いた。

 

「んじゃま、善は急げとも言いますし?早いとこ行っちゃいましょうかぁ」

 

 と、男が言うと。腕を振り上げ、気安く軽々しく、ポンと。少女の華奢な肩に、馴れ馴れしくも手を乗せた。

 

「ッ……!」

 

 瞬間、少女の全身に倦怠感が覆い被さった。同時に抗えない睡魔に襲われ、無意識にも瞼が徐々に下りていく。

 

 ──何、だこれ……?

 

「あらら。何やらこっちが思ってた以上にしんどかったっぽいね?いいよいいよ、遠慮せずに俺に身を任せなよ」

 

「おま、ぇ、ぉれに……なに、し……て…………」

 

 慌てて男に問い詰めようとしたものの、あっという間に意識が遠退き。そうして、少女は強烈な睡魔に抗えず、気を失うように眠りに落ちた。

 

「おっと」

 

 倒れ込んできた少女の身体を抱き留めると、男は口元を歪め、薄汚い笑みを浮かべる。

 

「はは、おやすみ世間知らずのお嬢さん……また目を覚ます頃には、お前はもう立派な大人になってることだろうぜ」

 

 と、周囲の誰もが聞き取れないような独り言を呟き。そうして男は少女の身体を抱き抱え、その場を後にするのだった。



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崩壊(その三十)

 人気もなければ、人通りもないような。そんな、まるで絵に描いたようかのような薄暗い裏路地。無論本来であれば誰一人として、わざわざ用でもなければ近づかないこの場所だが。今、一つの足音が静かに響き渡っており。その足音の主────一人の男の姿があった。

 

 否、正確に言えばその男一人という訳ではない。何故ならば、男はその腕にもう一人の人間────まるで燃え盛る炎のように、逆巻き揺らぐ紅蓮のように。否応にも人目を惹く、赤い髪の少女を抱き抱えていたのだから。

 

 どうやら少女は男の腕の中で眠り込んでいるようで、しっかりと閉じられた瞳は開かれる様子を一向に見せない。男の歩みに合わせて多少身体が揺れ動いても、起きる気配は全くと言っていい程に見られず。その様子から、少女の眠りが相当深いものであることが容易に察せられる。

 

 そのまだ幼なげであどけない少女の寝顔を時折、男は確認しつつ。口元を歪ませ、口角を吊り上げ、そうして下衆の笑みを見事に作り上げる。

 

「いやぁ、恐ろしく興奮するなぁ……この男をまるで知らねえ子供(ガキ)の嬢ちゃんを、これから好き勝手に、好き放題に犯しまくれると思うと……楽しみで楽しみで、そりゃあもう驚く程に仕方ねぇわ」

 

 浮かべるその笑みに違わぬ、至極下衆な呟きを独り漏らしつつ。続けて、少女の寝顔を舐め回すように眺める。

 

 確かに幼なげであどけない────しかし、それだけではない。ほんのりと薄ら赤い唇には既に女特有の艶があり、思わず指先で触れてなぞり、突っついてみたい衝動に駆られてしまう。が、今はそんなことをしている場合ではないし、まだ()()()でもない。

 

 次に男は己の腕にかかる少女の重さと、そしてその柔らかさを愉しむ。

 

「……」

 

 しかし、言うまでもなくこの男が。その程度のことで満足など到底、絶対にできる訳もなく。却って身の内に燻る劣情を悪戯に刺激されるだけで。

 

 故に当然、必然的に男の視線は向かう────無警戒に、そして無防備に。緩やかで穏やかに、規則正しく上下を繰り返す、少女の胸元に。

 

「…………」

 

 見たところ、恐らく少女の年齢(とし)は十代半ば。多めに見積もってもその後半に丁度差し掛かった辺りで、少なくとも二十歳(はたち)をまだ超えてはいないだろう。

 

 それに背丈もだいぶ低い。頭の天辺がこちらの臍をようやく越すまでしかない。それが尚更、この少女の幼さに拍車を掛けている。……掛けている訳なのだが。

 

 そんな幼い子供のような容姿とは無縁そうな、この少女の一要素(アピールポイント)────それは言うまでもなく、胸だろう。

 

 顔に見合わず、低い背丈とは裏腹に。少女の胸は豊かでたわわに実っており、今着ている女物(レディース)のシャツを些か、窮屈そうに前へ押し出している程だ。

 

 もしかすると、この少女の背の低さはこの胸に栄養の大半を持っていかれたからなのか────と、そんな風に。ある訳もない原因を男は愚推した。

 

 それはさておき。男としてこの世に生を受けた以上、否応にもこの胸には惹かれてしまう。こうして見るだけではなく、己が手で触ってみたい。あわよくば両方を両手で触って、そして心行くまで揉んで。揉み(しだ)いて、揉みくちゃにしてやりたい。

 

 それにこの少女の特筆すべき点は胸だけには留まらない。そこを除くと、一見してそこまで性的な部分は見当たらないかのように思われるだろうが────否。断じて、否と。男は言い切る。

 

 確かに一見すればそうだろう。が、こうして直に、少女の身体を抱き上げ、触れてみてわかった。

 

 女っ気のないショートパンツに包み込まれた臀部(しり)はやや小ぶりながらも形は良く確かに肉厚で、女性的な柔らかさをきちんと有しており。胸と同様、しかしこちらの場合は力強く鷲掴んで思い切り形を歪ませたいという、(おとこ)の原始的な性的欲求を呼び起こされてくれる。

 

 しなやかに伸びる足とは対照的に、むっちりとした肉感溢れる太腿(ふともも)情事(こと)をするにあたって、それはもう抜群の安定感を発揮してくれることだろう。

 

 ……と、ここまで語ってきた通り。その見た目と服装からでは少しばかり女っぽさが不足していると思いきや、その実こうして目で見て手で触れなければわからないような、要所要所で(おんな)の色香を匂わせ、漂わせている────それがこの少女に対して下すべき、正当にして本当の評価だろう。

 

「……良いね、良いねぇ。俄然、良いね……!」

 

 いざ始めた()()()を軽く想像し、込み上げる期待感と共に男はそう呟く。が、そうして改めて少女を眺めてしまうと……欲が出る。

 

 少しくらいは。ほんの少し、()()程度ならば、別に今しても、特に問題はないだろう────と。

 

「おっとおっと。いけねえいけねぇ……ま、流石にまだ手をつけちゃいけねえ」

 

 しかし思いの外、この男の自制心(ブレーキ)()いた。服の上からとはいえ、つい胸に手を伸ばしそうになった己を、既のところで男は律する。

 

 そう。()()だ。まだこの少女に手を出す訳にはいかない。何故ならばこの少女は────()()()なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お待たせしましたぁ!言われた通り持ってきましたぜ、お目当ての少女(モン)

 

 裏路地の奥の、更に奥。陽の光も差し込まないだろうそこまでに、依然少女を抱き抱えたまま進み続けた男は。路地裏に声を響かせながら、そう言った。

 

 本来ならば誰も寄りつこうとはしない路地裏の、それも入り組んだ奥の更に奥。当然人などいる筈もないのだが────しかし、今日のところは違った。

 

 四人の先客が、そこにはいた。全員、男であった。その中の一人が、不満を少しも隠そうとはせず文句を垂れる。

 

「遅かったな、鈍間。あと少し、一分でも遅かったら、お前を半殺しにしてたところだ」

 

「無茶言わないでくださいって。これでも急いだ方なんです。この時期のこの街で人探しなんて、正気の沙汰じゃあないんですよ」

 

「黙れ。言い訳なんざ聞きたかねえ」

 

「へいへい……」

 

 と、言われた文句に対し堪らず苦言を呈した男に。しかし容赦のない言葉をぶつけるその男の名は────ロンベル。

 

 

 

 

 

『どうだっていい?どうだっていいって、言ったなあ?確かにそう言ったよなあ、クラハぁ!?』

 

『そんじゃあ好きにしても構わねえってことだよなあ!お前は文句ねえってことだよなあ!!』

 

『はっはあ!いんやぁ今から楽しみだぜえ……あの生意気な乳、俺のこの手でどう弄ったもんかな……!』

 

『第一ラグナさんラグナさんってなあ……あんな乳と尻だけのあんなガキが、ブレイズさんな訳ねえだろうが馬鹿が。デマ、デマなんだよどうせよ。何の為だかは知らねえし知る気もねえけど、天下の『世界冒険者組合(ギルド)』サマが言いふらした大嘘だ、どうせな』

 

『ぎあ、っえ』

 

 

 

 

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属する、優秀な部類だと評価されている《A》冒険者(ランカー)────ロンベル=シュナイザーその人であった。



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崩壊(その三十一)

「まあまあ。その辺にしてやったらどうだロンベル。彼の言う通り、出品祭(オークション)の時期のオールティアの人入りは尋常じゃない。(むし)ろ彼を労う為にも、十万Ors(オリス)をポンとくれてやるべきだよ」

 

 今すぐにでも少女を抱き抱えている男を殴り飛ばしそうな様子のロンベルを、あくまでも穏やかな口調で冷ややかに諌める男────その名はクライド=シエスタ。彼もロンベルと同じく『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属する《A》冒険者(ランカー)であり、『閃瞬』の異名を名乗っている。

 

「そうかぁ?俺はロンベルに同意見だけどなぁ。俺たちゃあ《A》冒険者様だぞぉ?そんな《A》冒険者様を待たせるとか、ぶっ飛ばされても文句言えねぇぞぉ?」

 

 と、透かさず口を挟むその男。名はヴェッチャ=クーゲルフライデー。この男もロンベルやクライドと同じ《A》冒険者で、『壊撃』で通っている確かな実力者の一人だ。

 

「…………」

 

 そして残った最後の一人の男。壁を背に無言で立つ彼の名は、ガロー。わかっているのはただそれだけで、姓名(ファミリーネーム)は当然として、その他の素性などが全くの不明である。一つだけ確かなのは、この男もロンベルやクライド、ヴェッチャと肩を並べる屈指の《A》冒険者ということだけだった。

 

 ともあれ、このように。今、この裏路地の入り組んだ奥の、更に奥には。どういう訳で、どういった理由からなのか。『大翼の不死鳥』が抱える《A》冒険者が集っていたのだ。

 

「それにしても、なるほどね……その子で最近噂で持ち切りの?」

 

「ああ。ブレイズさんの影武者やってる子供(ガキ)だ。ったく、忌々しい。腹立たしいったらありゃしねえ」

 

「子供の割には育ってんな。出るとこ出てっし」

 

「…………」

 

 眠り込み、何一つとして言えない少女に対し。各々の感想を言い合う男たち。そんな会話を遮るように、少女を抱き抱える男が再度口を開いた。

 

「そんで、こっちはこっからどうしたらいいんです?頼まれてた仕事はご覧の通り終わったんもんで……」

 

 すると、徐にロンベルはその場から動き。そうして男の目の前にまで来るや否や、その顔面を殴りつけた。一切躊躇せず、遠慮なく。

 

「ぶべ……ッ!」

 

 殴られた男は堪らず身体をふらつかせたものの、倒れることも、抱き抱える少女を放り投げることもなく、彼は耐えた。

 

 そんな男をロンベルは塵芥(ゴミ)(カス)でも見下ろすかのような目つきで、吐き捨てるように言う。

 

「立場を理解してねえみたいだな。誰に向かってんな口利いてんだ、ああ?そら、さっさと早く寄越せやボケが」

 

「へ、へいへい……」

 

 ロンベルに急かされ、男は彼に少女を受け渡す。彼から少女を受け取ったロンベルは、早速その身体を目で眺め、手で触れ。そうして、彼は少女を味見する。

 

「……はっ、生意気な肉つきしやがってからに。あーけしからん、けしからんなぁこれは。全く以てけしからんよなあおい」

 

 と、下卑下劣な思考を少しも隠そうとせず、その顔に出しながら。ロンベルはそう呟き、極上の獲物を前にした猛獣のように、唇を舌で舐めずった。それからあからさまに上機嫌な様子で、少女をその腕に抱き抱えたまま踵を返した。

 

「にしても、なあ?」

 

 その途中で、この場はおろか路地裏全体に響き渡る程の大声で、ロンベルはわざとらしく続ける。

 

「もうちったぁ感謝してほしいよなあ。相手を眠らせて記憶を消す固有魔法(オリジナル)……ってだけ言えば聞こえは良いが?その実対象相手の魔力が高かったり、耐性があると少しも効きやしない外れ固有魔法だもんなぁ」

 

「……」

 

「それに加えて魔物(モンスター)全般にゃあ効果がねえときたもんだ。はは、マジに使えねえなあおい?マジで終わっちまってるよなあ、おいおい」

 

 ロンベルの言葉を、男は何も言わずにただ黙って聞き続けていた。

 

 ここで下手に何か言い返そうものなら、その後自分に待ち受けているのはロンベルによる私刑(リンチ)だ。それがわかっていて、口を開こうとする馬鹿はいない。そして男もそういった馬鹿の一人ではない。

 

 それ故の無言と沈黙。だがそうしたところで、結局はロンベルという男の加虐性(サディズム)を加速させるだけなのだ。

 

「そんな塵芥(ゴミ)の屑滓《クズカス》戦力外野郎を、わざわざ拾ってやってこうやって有効活用して、それでちゃんと()()()()もくれてやってる俺は一体何だ?善人の中の善人じゃねえかよ!?ははははははッ!!!」

 

 ──……相変わらず言いたい放題言いやがって。お前みたいなクソド外道が善人な訳ねぇだろうが。それにお目溢しつったって、散々お前らに使い回されて使い倒された後じゃねえかよ……。

 

 と、心の中であらん限りの悪意と憎悪を込め、殺意を剥き出しにして吐き捨てる男だが。それが声に出てしまわないよう、依然として口は固く閉ざしている。

 

「君が善人の中の善人だとしたら、僕は死後聖人認定されるだろうね」

 

「だな」

 

「…………」

 

「ああ?そらどういう意味だお前ら。ああッ!?……ふん、まあいい。今、んなことに付き合ってられる程暇じゃあない」

 

 自分は善人だと宣うロンベルに、各々の意見を溢す《A》冒険者(ランカー)の三人。そのどれもが否定的で、当然の如くロンベルは語気を荒げて彼らに噛みつく。しかし、すぐさま不快さを噯にも隠さないで忌々しそうに吐き捨て、そそくさと足早にまた歩き出した。

 

 ロンベルの視線の先────そこにあったのは、路地裏の地面に投げ出されるようにして雑に置かれている、埃に塗れ薄汚れているマットレス。

 

 彼はそのマットレスのすぐ側にまで歩くと、まるで物のように抱き抱えていた少女を放り投げた。流麗に煌めく赤髪をぶわりと宙に広げながら、少女はそのマットレスに落下する。

 

 お世辞にも反発性に優れているようには見えない古ぼけたマットレスで、それ故に衝撃の吸収性も相応に低いだろうことが容易に見て取れたが。

 

 トス──しかし、少女がマットレスに着地した時に聞こえたのは、思いの外重々しいものではなかった。どうやら少女の身体の軽さが功を奏したようである。

 

 勢いよく跳ね上がってしまい、あわやマットレスの外に弾き出されしまうということもなく。少女の身体は無事マットレスの上に乗せられた。なお、このように扱われても、少女が目を覚ます様子はない。

 

 それを確認したロンベルは再度舌舐めずりをして、それから顔だけを後ろに振り向かせた。

 

「最初に話した通り()()は俺が頂く。文句はねえよな?」

 

「どうぞご自由に。どのみち、今回僕はパスだ。趣味じゃない」

 

「俺も構わねえぞぉ。その代わり、()()は俺のモンだってこと忘れんじゃねえぞぉ」

 

「はっ、クライドはまだしも、ヴェッチャ。お前だけは理解に苦しまされるぜ。糞穴(ケツ)のどこが良いんだか……」

 

「意外と悪かねぇんだぞこれが。前とは違って、こう……グッポリ感が良い。一度味わえば病みつきになるってもんだぁ」

 

「訊いてもねえこと言うなや気持ち悪りぃ。で、ガロー。お前もクライドと同じってことでいいんだよな?」

 

「…………」

 

 そうして、それぞれの言質を確保し、ロンベルはニヤリと下品な笑みを浮かべて。彼は再び少女の方へと向き直り、自分もまたマットレスに身を乗り出した。

 

 如何に少女が軽くとも、ロンベル程の男が上に乗ればどのようなマットレスであってもその形は歪み、押し潰れる。こんなマットレスでは尚のことで、生地越しに地面の硬い感触を膝頭に感じるロンベルだったが、しかし彼がそれを気にすることはない。

 

 当たり前だろう。これから味わう少女と、その快楽を前にしてしまえば。ロンベルにとってそんなものは至って些細なことでしかないのだから。

 

「へへッ……悪く思うなよ嬢ちゃん。俺を恨んだりするなよ嬢ちゃん。なんたってこれからヤること全部、あいつの所為なんだからよ」

 

 と、まるで呪詛のようにそんなことを呟きながら。ロンベルは少女の胸元へと手を伸ばし、シャツを掴み────下着(ブラジャー)ごと、破り裂いて引き千切り、剥ぎ取った。



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崩壊(その三十二)

 ビリビリと布が破り裂ける音。ブチブチとボタンが弾け飛ぶ音。それら二つの音は重なり、悲痛な合奏をする。

 

 乱雑に乱暴に、シャツを下着(ブラジャー)ごと剥ぎ取られ。赤髪の少女は外気に、そしてロンベルの視界に。柔らかで(なめ)らかな、汚れ一つとしてない純白の裸体を、上半身だけを晒け出す羽目になる。

 

 まだ上半身だけとはいえ、しかし。少女のそれはそれだけで十二分に男の目を愉しませ、情欲を過剰に煽り得るもので。無論、それはロンベルも例外ではない。衣服の下に隠されていた少女の可憐で美麗な肢体の半分を前に、彼の原始的興奮が無理矢理に高まり、これ以上にない昂りが彼を急かす。

 

「そうだ。俺は悪くねえ。俺が悪い訳がねえんだ。悪りぃのは全部が全部あいつさ……あのクソ生意気で何もかもが気に入られねえ気に食わねえ、クラハ=ウインドアのドクソッタレだ……!!」

 

 微塵の説得力もなければ何の正当性も持ち合わせていない、まさに自己中心性に極まった、言い訳になりもしない戯言を譫言(うわごと)のように漏らしながら、ロンベルは血走った目で少女の上半身を凝視しながら、満を持して。いよいよ遂に、目下の御馳走(フルコース)の前菜へと手をつける。

 

「あの野郎、いつも澄ました(ツラ)浮かべやがって……!自前(テメェ)の実力で《S》冒険者(ランカー)になったつもりでいやがってッ!!んな訳ねぇだろうが!ラグナさんに気に入られてたからなれたんだよ、お前はァッ!!」

 

 今この場にいない人間を純粋な悪意で以て否定するロンベルの手が、吸い込まれるように。少女の胸に触れる。

 

 ただでさえ柔らかい少女の身体の中でも、一際柔い部分。男の視線を釘付けにして()まない、二つの罪な肌色の果実。仰向けになっている為に、自重で若干潰れ、その形を僅かに歪ませているそれに。ロンベルの五指の先が沈み、減り込む。

 

 伝わるその感触。まるでこちらの指をやわわに飲み込み、それでいて押し返してくるような弾力とそれに付随する張り。

 

「大きさ……形……感触……っは、はははッ!」

 

 それら全てを味わったロンベルが、喉を震わし歓喜の声を解き放つ。

 

子供(ガキ)の乳じゃねえな、こりゃあ!?」

 

 そして言うや否、先行させた指先に続けて、手の平全体、余すことなく少女の胸に押しつけた。

 

 直後、堪らず感嘆の息を漏らすロンベル。指先だけでもあれ程に感動的な感触を味わうことができたのだ。それが手の全てともなれば、無理もない。

 

 腹の奥底から次々に込み上げてくる情動(リビドー)のままに従って、ロンベルは本格的に少女の胸を弄び始めた。

 

 ぐにゅり、むにゅり、もにゅり、と。ロンベルの指の動きに合わせて、少女の胸が何度も幾度に。如何様にも崩れて、潰れて、歪んで。

 

 それはロンベルの視覚と触覚を愉しませると同時に。これを己の好き勝手にしているという、彼の征服感を満たしていた。

 

「ふざけやがってクソが。ふざけやがってド畜生が。お前なんざどうってことねえんだよ、クラハ……お前なんざ大したことねぇんだよォ!ああッ!?」

 

 叫ぶロンベルの手に力が込められた、その瞬間。このような仕打ちを受けても尚、未だ眠り続ける少女の、ほんの僅かに開かれた唇の隙間から。穏やかで可愛らしい静かな寝息に混じるようにして、艶のある悩ましい声が一瞬だけ漏れた。

 

「……お?おお、おお……こいつぁ……?」

 

 少女のまだ幼なげであどけない、不慣れでたどたどしい嬌声。大半の者は聴き逃してしまうであろうそれを、ロンベルの聴覚は耳聡く拾い上げ。彼はそう呟きながら、つい先程の直前まで休まず動かしていた手を。まるで焦らすかのように、少女の胸からゆっくりと離す。

 

 しつこく揉み回され、ねちっこく揉み(しだ)かれたことで。血行の通りが良くなり、少女の胸全体が火照っているように薄らと赤みが差していて。

 

 だがその中でも一際、真っ先に視線を奪われる|一点があり。当然、ロンベルの視線もそこに注がれていた。

 

 穴を開けんばかりの眼光を突き刺しながら、浅ましく悍ましい(おとこ)の興奮を少しも隠そうとせず、鼻息を荒立てながらに叫んだ。

 

「嬢ちゃん!お前さん、淫乱(ビッチ)だなぁ!?」

 

 ロンベルの視線を磔にしている、少女の一点。最初こそ特に気にもしない、強いて言えば可愛らしい薄桃色であったその一点────少女の胸の、先端。

 

 それが今や、激しく燃え盛っているのかと思う程、情熱的なまでに真っ赤に染まっており。その色合いはまさに、一番の完熟の時期を迎えた紅檎実(アポン)のそれと同様であった。

 

「おねんねしてる子供の風体(ナリ)して、感じて一丁前に喘いじまうなんざぁ……全く!最高だぜッ!!」

 

 そう言いながら、ロンベルは手を伸ばす。少女の胸に────否、もっと言えば淫靡に色づいたその先端に、指先を近づける。

 

 そうして、遂に────ロンベルの指先が、少女のそれに触れてしまった。

 

「ん……っ」

 

 少女が声を上げる。先程とは違う、はっきりとした嬌声を漏らしてしまう。眠っていて、意識がないこの状態であっても、(おんな)の快楽を確かに享受してしまっていることを。少女は望んでいないにも関わらず、否応にもロンベルに伝えてしまう。

 

 そしてそれは、ロンベルの行いを更に過激化(エスカレート)させるには、充分だった。

 

「はは、良いぜ良いだろ?なあ、嬢ちゃん。この俺がもっと、良くしてやるよ……!」

 

 そう言うや否や、ロンベルは指先を動かし始めた。指の腹の下にある紅苺実(ストリロべ)の如き少女の先端を、彼は弄り始めたのである。

 

 最初こそは。それとも、最初だからこそか。

 

 くにくに、と。まず、ロンベルは根本から上下に倒しては起こすことを数回繰り返す。刺激としては幾分、まだまだ弱い部類だったが。

 

 しかし、未だ穢れを知らぬ生娘の少女にとってはそれだけでも充分で、先程不意にロンベルに聴かせてしまった嬌声を、またしても彼に聴かせてしまう。それだけでなく、時折何かを堪えているかのように、身体全体も小さく震わせてしまう始末。

 

 そんな少女の反応を見て愉しみ、悦楽をじっくりと味わいながら。ロンベルは少女の小さな蕾を更に責め続ける。

 

 それに加えて、こうしてはっきりとした、確かな刺激を与えられたことによって。ただでさえ真っ赤になっていた先端の色が濃くなり、そして濃くなればなる程に────硬さを増す。

 

 時間としては一、二分。そんな僅かな間であったが、やはり。少女にとっては、充分過ぎた。未成熟と成熟の端境で彷徨うこの少女にとっては、ロンベルの指先による些細な責め方であっても、あまりにも充分過ぎたのだ。

 

「……いやぁ。こりゃもしかしなくとも、素質有りってとこかな?」

 

 未だに眠り続ける少女は、ロンベルの眼下にその証拠を。余す全てを、晒け出す。

 

 最初の甘桃実(ピィチ)の如き薄桃色で。控えめで大人しい少女のそれは。今や完熟し切った紅檎実(アポン)紅苺実(ストリロベ)を超える程に染め上がり、腫れ上がり。

 

 そしてとてもではないが、もはや控えめで大人しいなどとは間違っても、もう思えない程に。

 

 ピン、と。天を目指し、そして貫かんばかりに。硬く尖って、雄々しく勇ましいまでの屹立を果たしていた。

 

 まだ幼なげであどけない少女らしい少女が、これでもかと主張している雌の悦びを。本来であれば是が非でも隠すべき事実(それ)を、恥ずかしげもなくここまで大っぴらに、白日の下に包み隠さず晒け出してしまっている────その何とも筆舌に尽くし難い、異質で異常な不均衡(アンバランス)不道徳(インモラル)を目の当たりにして。

 

 ロンベルの元からあってないような理性の(タガ)が、容易に弾け飛んで砕け散った。

 

「嬉しいねえ。嬉しいぞこれはよぉ。んん?そんなに俺の指が悦かったかい嬢ちゃん?安心しな、お楽しみはまだまだこれからさ……!!」

 

 心底驚くべき成長による変貌を遂げ、育ち切った少女のそれに。負けず劣らず、痛い程に硬く怒張する本能を。けれども今はまだ解放の時ではないと煩わしく抑え込みながら、ロンベルは一旦中断していた少女に対する責めを再開させる。

 

 先程と同じように、今すぐにでも触って欲しそうに。健気にいじらしく、それでいて卑しく貪欲に。

 

 そうやって強請(ねだ)る少女の純真にして魔性の果実の、淫らな(へた)に。わなわなと小刻みに震わせながら、ロンベルは己が指先を近づけていく。

 

 その様はさながら、蜜の香りに誘われる虫が如きだった。

 

 今度ばかりは時間をかけなかった。否、かけられなかった。それ程までに少女の放つ誘惑は強烈無比で、とてもではないが抗いようのないものだった。

 

 そうしてすぐさま、ロンベルの指先が少女の靡端に。少しも躊躇うことなく、遠慮容赦なく────()()()()()

 

「うぁっ、んんっ」

 

 ロンベルの人差し指と親指の腹に。まるで噛むようにして上下から挟まれ、潰され。一層艶がかって濡れた声を上げると共に、少女は堪らずといったように腰を跳ねさせる。しかし、それでもやはり眠ったままであり、閉じられた目が開かれる様子はない。

 

 だが、その寝顔には明らかな変化が生じていた。先程までは幼くあどけなく、どちらかといえばそっと見守りたくなるような。そんな庇護欲を掻き立てられる可愛らしいものであったが。

 

 それが今や、眉は何処か悩ましく辛そうに寄せられ。頬は熱を持ったように上気し、薄らと汗が滲み。そして何よりも独特の色香を漂わせ、見る者全てに邪心を抱かせ惑わすという、真反対なものへと変わっていたのである。

 

 そんな少女の顔を見て。気を良くしない男などいるはずもない。ロンベルとてそれは同じで、口端を吊り上げ、口元を歪ませつつ。更に少女への責めを加速させる。

 

 挟んで潰すだけに限らず。まるで転がすように擦り上げたり、器用に扱いてみせる。ロンベルがそうしてやる度、少女の口からはしたない声が漏れ出し。

 

 それを聴いているだけでこちらの理性という理性がドロドロに溶かされてしまい。ビクビクと跳ね続けている腰の動きを感じているだけで、際限のない興奮で無理矢理にでも昂ってしまう。

 

 無知で無垢な一人の少女を、快楽の泥沼に突き落とすように。もう二度と後戻りできない、雌の末路を進ませるように。

 

「まだまだ、まだまだまだまだまだァ……!」

 

 一人の男として────否、一匹の雄として。これ以上にない達成感に酔い痴れながら、ロンベルは責める指先を決して休ませない。

 

 そうして責めに責め続けたロンベルが、より過酷な仕打ちを少女へと与える。

 

「はっは、覚悟しな嬢ちゃん。ちと、こいつはキくぜ……!?」

 

 そう言うと同時に。ロンベルは指先で摘んだままに、少女の先端を引っ張った。一応、彼なりに力は抑えられ、ある程度加減はされながら。

 

「ん゛あ゛っ、ぁ、ぁ……っ」

 

 それは明らかに、今までの声とは質が違っていた。およそこんな年端も行かない少女が出してしまっていいような声ではなかった。ましてや、他人に聴かせることなど以ての外であった。

 

 しかし、当然ロンベルに聴こえていないはずがなく。少女の濁った嬌声に、その顔をどうしようもなく凶悪に歪ませた。

 

「おーおー……そこまで悦んでもらえて何よりだ。いやぁ、全くだな……ははは!」

 

 と、言いながら。ロンベルは引っ張ったまま、これまた器用に爪先を使って。少女の先端、それも天辺を擽るようにして引っ掻き始めた。

 

「お゛っ、おぉ、お゛ゔっ……ん゛っお、お゛……っ」

 

 最初の控えめで小さく、小鳥の囀りのように可愛らしい嬌声は、とうに消え失せてしまい。今やその代わりに聴こえてくるのは、可憐な少女の口から出ているとは到底思えぬ程に下品極まりない喘ぎ声で。耳にする者によっては、まず幻滅されるか、失望されるか。もしくは、欲望を更に突かれ、劣情を激しく掻き立てられるか。そのどちらかで、そしてロンベルの場合、言うまでもなく後者の方であった。

 

「いや嬢ちゃん、ココ雑魚(よわ)いなぁおい?そら、カリカリ、カリカリ……ってな」

 

「ん゛ん゛ん゛ん゛ぅ゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛っ」

 

 ロンベルの爪先が鋭く引っ掻いたり、潰したりする度に。その度に少女は汚らしく啼いては、その身を捩り背を仰け反らせる。そのあまりにもみっともなく、そして卑猥な姿を。ロンベルはただひたすらに愉しんだ。

 

 そうして少しと経たない内に、ロンベルは少女のとある()()を鋭敏にも把握する。

 

「さて?もうじきそろそろってとこか?くくっ、なぁ嬢ちゃん?そろそろなんじゃねえの?ははっ」

 

 明らかにその勢いと力強さを増している、跳ねる少女の腰の動きを感じつつ。ロンベルは歪んだ笑みを浮かべながらにそう訊ねる。とはいっても、返されるのは何の意味も成していない喘ぎ声以外にないことを承知の上であるが。

 

 だがそれでもよかった。ロンベルにとってどのような返事であっても、別になくとも。至極、もはやどうでもよかったのだ。何故ならば、その問いかけは単に、彼の嗜虐心を満たす為だけのものなのだから。

 

 己の醜く薄汚い自己満足に背を突き押されるようにして、ロンベルが叫ぶ。

 

「んじゃあ、早速キメちまおうかぁ!?なあ!景気良くキメようぜ!?おい!キメちまえよッ!オラァッ!!」

 

 ギュウッ──叫ぶと同時に、遠慮容赦なく。一切躊躇することなく、ロンベルは。これでもかと刺激を与え続けられ、敏感に育ち切った少女の先端を。今までの中で一番強い力で引っ張り、捻り抓って、伸ばしながら。そうして、彼は思い切り押し潰した。




今回ばかりはアウトだったかなとは思った。それでも後悔はせず投降する気もなく。投稿をして公開はした。


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崩壊(その三十三)

「おっとおっと、やっぱり若い奴は元気が良いなあ?」

 

 あらん限り、限界の限界まで。背中を仰け反らせ、思い切り腰を突き上げ。ビクンビクンと身体全体を痙攣させている少女を見下ろしながら。まるで他人事(ひとごと)のようにロンベルはそう呟く。

 

「それにしてもヤベェ声出たな嬢ちゃんよ。これで起きてねえってんだから、全く。若さってのは末恐ろしいもんだな」

 

 と、ロンベルが呟き終えるとほぼ同時に。少女の痙攣が次第に弱まり、突き上げていた腰がガクンと崩れ、マットレスに落下した。

 

「ん、ん……ぅ、ぁ……」

 

 まさに精魂尽き果てた、と表するに相応しい様子の少女は。グッタリとしながら、今にも消え入りそうな呻き声を小さく漏らす。

 

「まあ、あれだけド派手だったんだ。もう充分()()()()()()だろ。早速確認確認……って、おいおいマジか」

 

 そんな息絶え絶えな少女の様子を心配するような素振りなど微塵も見せず、ロンベルはそう言うや否や。つい先程酷使した自らの手を休めることなく、またしても少女に伸ばす。が、その途中で彼は手を止め、驚いたように声を上げた。

 

「やっぱり嬢ちゃん……素質持っちまってんなぁ、おい?」

 

 と、何処か嬉しそうに呟くロンベル。今、彼の視線が注がれているのは少女の、下腹部。更に厳密に言うのであれば、股間。

 

 少女のそこは今や恥じらいの欠片もなく、大っぴらに大胆極まりなく広げられており。意識がないとはいえ、とてもではないがこんな花も恥らうような少女がしていいような格好ではない。

 

 その上、履いているショートパンツの股間部は────他と比べて()()()()()()()()。……とはいえ、注意深く観察しなければわからない程度に、ではあるが。

 

 しかし、察しの良い者が目にすれば、それが一体何を意味するのか。容易に見て取れてわかってしまうことだろう。

 

 かく言うロンベルも、その察しの良い者の一人であり。故に彼は若干、後悔したように呟く。

 

「あーぁ、この俺としたことが。子供(ガキ)だ子供だと見縊ってたぜ。こりゃ先に脱がしとくべきだったか。嬢ちゃんの()()、是非とも拝ませてもらいたかったもんだ……まあ、いいや。どうせこの後も見れる。そう気にするこたぁねえな」

 

 ロンベルはそう言いながら、宙で静止させていた己の手を改めて少女へと伸ばす。緩やかに上下を繰り返す少女の下腹部へと伸ばし、這わせ、軽く撫でやり。

 

 そのもちもちとした感触や、こんな僅かな刺激でさえビクビクと震える動きをまずは味わってから、指先を汗ばんだ肌になぞらせ、色濃くなったショートパンツの股間へと向かわせ。

 

 そうして触れる直前────ロンベルの指先は如実に感じ取る。

 

 少女の、年齢(とし)半ばの決して他人に触れさせてはならない聖域。そこから発せられる、むわりとした妖しい熱気と淫らな湿気。

 

 それを嫌らしい程敏感に感じ取ったロンベルは、当然のように把握し、認知する。

 

 他の誰でもない己の手によって。まだ幼気であどけなく、可憐で愛らしい花園(しょうじょ)は。今やその面影を僅かに残しながらも、(おとこ)を至極の快楽へと誘う楽園(おんな)に至ったのだと。

 

「もう受け入れ準備万端ってか、ええ嬢ちゃん?全く……最高じゃねえか」

 

 喜悦と愉悦が入り混じった、もはや形容のし難い醜さで溢れた、満面の笑みを浮かべ。ロンベルは獣欲に塗れた声でそう言いながら、ショートパンツを掴む。

 

「そんじゃあ、とっとと嬢ちゃんの小便(ションベン)臭え()()()()、拝ませてもらおうじゃあねえの」

 

 と、言うや否や。ロンベルは僅かに躊躇うことなく、もう堪えられないという風に。

 

 ズリッ────少女が履くショートパンツを、中身の下着(ショーツ)ごと引き下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪趣味だね。あんな幼気(いたいけ)な少女をああも弄んで、辱めるなんて。ロンベル=シュナイザー、相変わらず男の風上にも置けない奴だ」

 

「おいおいぃ。何自分だけはマトモって面して吐いてやがんだぁお前ぇ?今までやってきたことぉ……忘れんじゃあねぇぞぉ?」

 

 自分がしたいまま、好き勝手に。身勝手極まる傍若無人ぶりで己の(おとこ)の欲望をただただ満たす為だけに、少女を凌辱するロンベルの所業(こうい)を。

 

 クライドは遠目から眺め、彼は侮蔑の言葉を吐き捨てて。そんな彼に対し、批判するようにヴェッチャがそう言う。

 

「お前なぁ。今まで()った女の人数覚えてんのかぁ?」

 

「少なくともその中にあの子のような少女がいないことは確かだね。僕が手をつけるのはたおやかな淑女(レディ)だけさ。これまでも、これからもね」

 

「やっぱお前も大概だなぁ」

 

「僕だって一人の男なんだよ。それに一人の男として、淑女に真摯に向き合うことの何が悪い?」

 

「…………」

 

 何処か自慢げに、何故か誇らしそうに。開き直ってそう宣うクライドに。ヴェッチャが半ば呆れたようにそう言う最中。

 

 ただ一人、今の今まで、依然として沈黙を貫き続けるガローが────徐に、懐から一振りのナイフを取り出した。

 

「どうしたんだいガロー。突然そんな物騒なものを取り出して……」

 

 それに気づいたクライドが声をかけるも、ガローが言葉を返すことはなく。彼はただ一点────路地裏の暗がりを鋭く睨めつける。

 

 そうして、クライドは察知した。

 

 ──ガローが、殺気を……?

 

 その直後、ガローは壁に寄りかかるのを止め。真っ直ぐに立ち、路地裏の暗がりと真正面から向き合い。

 

 ヒュッ──そしてすぐさま、手に持っていたナイフを投擲するのだった。

 

 ガロー────彼のナイフを用いた投擲術は正確無比にして百発百中。それに加えてロンベルら上澄みの《A》冒険者(ランカー)の中でも、彼の気配察知の能力は突き抜けていた。

 

 過去に遥か上空を高速で飛び回る鷹の魔物(モンスター)、エビルホークを。地上からのナイフ一本の投擲で仕留めたこともある。

 

 故にガローの投擲はまさに必殺の一撃で、彼に先に気取られた相手が、投げられた彼のナイフから逃れる術はないも同然であり、それは決して覆しようのない事実であった。

 

 そんなガローの投擲を、彼の行動を目の当たりにしたクライドは。独り、腰に下げた得物の柄を握り締めた。

 

 ──君を殺すよガロー……()()()()しやがって……ッ!

 

 そうしてガローの方に振り向き、クライドは得物を鞘から引き抜く────直前。

 

「………………」

 

 何の前触れもなく、突如としてガローが()()()

 

「……ガロー?」

 

 何も言わず無言のまま、その場に倒れ込んだガロー。仰向けに倒れた彼は、そのまま微動だにせず。起き上がる気配を微塵も見せない。

 

 そんな彼を訝しみ、一応心配する素振りで声をかけたクライドが、ふと気づく。

 

 彼の喉元────そこに深く減り込む、一個の小さな石礫(いしつぶて)に。

 

「……なるほど。まあ、そうだね。こうでなくちゃ、ね……!」

 

 それを目の当たりにし、全てを把握したクライドはより強く、得物の柄を握り込む。また彼の隣に立つヴェッチャも、ゴキゴキと拳を鳴らし、臨戦態勢に入っていることを周囲に告げていた。

 

「流石はこの僕を、『閃瞬』と謳われる剣聖たるこのクライド=シエスタを。『創造主神(オリジン)』の気紛れじみた、その身に余る過度な幸運で。たったの一度、打ち負かしただけのことはあるよ」

 

 と、路地裏の暗がりに顔を向けながら言うクライド。続けて彼はこう言う。

 

「でもね。所詮は気紛れ。幸運。その場その時限りの一瞬さ。そうだということを、他の誰でもないこの僕、『閃瞬』のクライド=シエスタ直々に教えてあげるとしようじゃないか。僕の多大な親切に咽び泣いて喜ぶといい……!」

 

 スッ──そう言い終えて、クライドは満を持して鞘から得物を静かに抜き放つ。彼の得物はまるで針の如く、極限にまで剣身が細められた、刺突剣(レイピア)であった。

 

 少し遅れて、足音が路地裏に響く。それは何処までも静かで、不気味なまでに落ち着いた足音だった。

 

 やがて、暗がりから滲み出るように。浮き上がるようにして、足音の主が。その姿をクライドとヴェッチャの眼前に晒け出す。

 

 大方、二人の予想通りの人物であった。()()()()()、今二人はこの場に集まったのだから。

 

 今し方倒れたガローも。そしてクライドとヴェッチャも。ロンベル=シュナイザーの()()()()()()()()、集まったのだから。

 

「……あの時、言ったなあお前?おい、言ったよなあ?手を出してみろって。手を出したら遠慮も容赦もしねえとか、何とかよぉ?ええ?」

 

 背を向けたまま。ぐちゅぐちゅ、ぐちゅりと粘ついた水音を静かに立てながら。ロンベルはそう言って、宙に手を掲げる。

 

「そら、手ぇ出したぞ?あ?見えっか?なあ、おい」

 

 言って、振り向くロンベル。それから彼はてらてらと濡れて輝く己の指を、舌で舐める。此れ見よがしに(ねぶ)る。

 

「んんーやっぱ若いと違うなぁ味が。この小便(ションベン)臭さと青い風味。それに混じる仄かな雌の味……こりゃ格別の味わいだぜ。がはははッ!」

 

 と、今し方堪能した少女の秘蜜の味を語り、笑い────直後、思い切り目を見開かせ。

 

「やってみろ?なあ、おい……遠慮!容赦なく!やってみせろよ!?なあッ!!おいッ!!クラハ=ウインドアァァァァッ!!!!!」

 

 視線の先に立つ、ガローのナイフをその手に持つクラハに対して、ロンベルは憤怒と狂気の咆哮を上げるのだった。



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崩壊(その三十四)

「……」

 

 ガローのナイフを手に持ったまま、その場に突っ立つクラハ。その顔は酷く気怠げで、そして陰鬱そうだった。

 

 彼がもう、日常通りの様子ではないことは。発せられるその雰囲気や立ち姿から、誰の目から見ても明白で。

 

 しかし、今この場にいるロンベルら三人にとって、そんな情報(こと)はどうでもよかった。至極、これ以上にない程にどうでもよく、考えるに値すらしなかった。

 

 恐らく、きっと誰であろうとそうなのではないか。これから死に行く者に。今すぐにでも殺してやろうとする相手に。果たして、一体どれ程の者が思いを馳せるのだろうか。

 

 少なくとも、三人がそうではないことは確かで。揺らぎもしなければ、覆しようもなかった。

 

「それじゃあ事前に話し合わせてた通り、僕がお先に」

 

 と、言って。鞘から抜いた刺突剣(レイピア)をそのままに。一歩、クライドが前へと踏み出す。そんな彼をヴェッチャは黙って眺め。

 

「ああ!好きにしやがれ!」

 

 未だ片手間に赤髪の少女を弄り回しながら、ロンベルは野次を飛ばすのだった。

 

「忘れもしない。僕は忘れないよ……一時、片時も忘れたりしない。忘れることなど、できやしない……あの日の、不幸で不運な敗北を忘れられないんだよ……ッ!」

 

 沸々とした怒りを静かに立ち昇らせ、刺突剣の柄を握り締めながら、クライドが呟く。そんな彼の呟きに対して、クラハが何かしらの言葉を返すことはなく。依然として億劫そうに黙り込んだまま、その場に突っ立っているだけである。

 

「……クラハ=ウインドア。君は今日ここで死ぬんだ。この僕、クライド=シエスタの刺突剣によって。あの世なんてものがあるのならそこで自慢するといい。何せ僕の得物の錆になれる存在(モノ)は、殊の外少ないのだからね」

 

 そんなクラハの様子、彼の態度が。余程心底気に食わず、神経に障り、虫唾が走ったクライドは。そう言って、静かに刺突剣を構える。

 

「……」

 

 しかし、得物を構え、その気になれば一瞬でこちらの命を()りかねないクライドの姿に怯えることもなく。彼の殺意を剥き出しにした気迫に恐れをなすこともなく。

 

 やはりというべきか、クラハはまるで何処か他人(ひと)事のような。自分には関係のないことだと言わんばかりの、無関心な姿勢と態度を依然として崩さないでいた。

 

「…………それじゃあ、さよならだ」

 

 そんなクラハに対して、全く血の気の通わない、文字通り言葉だけの別れを贈り。クライドは両足に力を込め、それと同時に魔力を流し、伝わせる。

 

 ──【強化(ブースト)】。

 

 そして固く、何処までも固く柄を握り込み。刺突剣の鋭き切先をクラハから決して逸らさず。そうする最後まで逸らさずに。

 

 クライドはその場を思い切り、全てを出し切るようにして──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刺突剣(レイピア)のシエスタ────そう言われる程に、シエスタ家は代々刺突剣を得物とし、そしてその当主の誰もが皆、刺突剣の名手であった。

 

 その中でも十二代目の当主であるクライド=シエスタは。その長き歴史を誇るシエスタ家の中でも。随一の才覚を持って生まれた、歴代のシエスタ家当主を遥かに凌ぐ、刺突剣の使い手であり。

 

 そのことを如実に、周囲の人々に知らしめたのは彼が十代半ばの頃。とある技を会得したことから始まる。

 

 その名を────【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】。

 

 決して大言壮語などではない。その名が示す通り、文字通り。この技を放つその瞬間、クライドは閃光となり、瞬いた。

 

 技の構造(しくみ)は至って、意外な程に単純(シンプル)。刺突の構えを取り、己が両足に限界負荷直前までの魔力を流し、通し、伝わせ、込める。そうして自分が出来得る限りの【強化(ブースト)】を経て。

 

 しかし、繰り出すその直前の直前まで、腰から上全ては極限にまで脱力させ。

 

 そうして、一気に。まるで射られた矢の如く、駆け出す。

 

 それにより生み出されるは、あまりにも恐ろしく疾い突進。それを視認はおろか視界に映すことですら困難を極め、この技を目の当たりにした相手は堪らず、クライドが目の前から消え去ったと錯覚してしまい。

 

 彼の刺突剣の切先がこちらの身体を突き刺し、剣身が貫いたその時になって、ようやくクライドの姿を再認識するに至るのだ。

 

 その上更に、げに恐ろしきことに。クライドは【閃瞬刺突】の軌道を()()()()()()()()()()()()()

 

 故に、仮に奇跡的に彼の【閃瞬刺突】の軌道を見切り、躱そうとしても。その都度、彼は軌道を修正するだけなのだ。

 

 この第一(ファース)大陸にてクライド以上に疾い剣は存在しない。事実上、彼の技は最速となり。そうして彼は世界(オヴィーリス)の剣聖の一人に数えられ、いつしか技と同じ異名────【閃瞬】と呼ばれるに至った。

 

 剣士として約束された、綺羅星よりも眩く輝かしい覇道を順風満帆に歩き進んでいたクライドであったが。

 

 彼の人生(そこ)に薄暗い翳が差し、仄昏い闇に堕ちたのは、突然の日のことだった。



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崩壊(その三十五)

「僕は彼と同意見さ。悪いけど、そう簡単には認められないな……クラハ=ウインドア君」

 

 日常(いつも)通りのオールティアの街道にて。突如として道を塞がれ、人気のない路地裏に連れ込まれ。動揺と困惑に見舞われるその青年に、クライドははっきりとそう告げた。

 

「……え、えっと。ク、クライド=シエスタさん?これは、どういう……?」

 

「どうも何もないよ。……まあそれはさておき。そして許せないんだ。僕は到底許し難いんだよ、クラハ=ウインドアという男が」

 

「え……?」

 

 この状況に理解が追いつかず、ただただ頭上に疑問符を浮かべるしかないでいる青年────クラハ=ウインドアに対して。静かな怒りで震える声でそう言うや否や、クライドは腰に下げている己の得物、刺突剣(レイピア)の柄へ手をやった。

 

「ライザーは僕の良き戦友(ライバル)だった。故にだからこそ、彼を追いやった君は許せない。許す訳にはいかない」

 

 クラハにそう言い放ち、そしてクライドは彼に選択肢を一方的に突きつける。

 

「選べ、ブレイズさんの威を借る卑怯者。今すぐ『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から去るか、それとも去らないか」

 

「え?ええ?い、いやちょっと待ってください。話があまりにも急で……」

 

「去るか、去らないか。君に今求める答えは、そのどちらかだけだよ」

 

 拒否も誤魔化しも、曖昧な返答などは一切許さないというクライドの強固な意志を、これでもかと感じさせるその声音と口調に。最初こそ面食らい動揺と困惑をするしかないでいたクラハも、唐突に訪れたこの理不尽な状況と向かう会うことを決め、彼が答える。

 

「僕は『大翼の不死鳥』を去る訳にはいきません。ただ、それだけです」

 

 クラハの返事を受け、クライドは彼を憐れむように目を閉じ。そしてすぐさまカッと見開かせた。

 

「ではこの僕が、他の誰でもないこのクライド=シエスタが。君の剣士人生の幕引きを務めるとしよう。些か役不足感は否めないけどね」

 

 そう言って、クライドは静かに。鞘から刺突剣を抜き、その切先をクラハに定め、構えた。

 

「え……!?」

 

「君も剣を抜くんだ。無駄な徒労で終わってしまうだろうけど、君だって得物を抜かずに黙って終わりたくはないだろう?」

 

「だ、だからちょっと待ってくださいって!本気ですか!?同じ冒険者組合(ギルド)に所属する冒険者(ランカー)同士の私闘は規則(ルール)で禁じられていて……!」

 

「僕は君を『大翼の不死鳥』の冒険者とは認めていない。断じて、認めない」

 

 クライド自身、これが暴論だとは自覚していた。しかし、それでも別に構わないと考えていた。規則に反してでも、彼は『大翼の不死鳥』からクラハ=ウインドアという一人の男を消し去りたかったのだから。

 

「…………」

 

 クライドの言葉に堪らず絶句したクラハであったが、やがて観念したかのように。彼もまた腰に下げる得物の柄に手をやり、握り締め。一瞬の間を置いて、鞘から抜く。

 

 何ら変哲もない、一般的な長剣(ロングソード)。何も得物一つで剣士の価値が決まる訳ではないが、クライドは思わず失笑してしまいそうになる。

 

 ──もう少しマシな剣はなかったのかい……。

 

 まあ、幾ら得物が良かろうと。『閃瞬』と謳われ自他共に、誰もが認める剣聖には逆立ちをしたとて、敵う道理などあるはずもないのだが。

 

「一瞬だ。一瞬で、決着(カタ)をつけさせてもらうとするよ。精々、例え朧げな片鱗。到底自らの理解には及ばない境地であったとしても、この技……確とその目に刻め」

 

 と、語り終えて。クライドは普段と変わらず、まるで何気ない日常(いつも)を過ごすように────放つ。

 

 ──【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】ッ!

 

 瞬間、クライドは一条の鋭き閃光と化し。直後、クラハを穿つ──────────()()()()()

 

 

 

 パキィンッ──クライドの目前で、黄色い火花が散ると共に。妙に澄んで伸びる音が、路地裏で鳴り響いた。

 

 

 

「…………え……?」

 

 そのクライドの声は、間が抜けて呆けたものだった。だが、無理もない。今彼の視線の先にあるものを映せば、きっと誰だってそんな声を出すだろう。

 

 クライドが手に持つ得物。彼の、延いてはシエスタ家を象徴する刺突剣(レイピア)の。()()()()()()()()()()()()その光景を目にしてしまえば。誰であっても、そのような声を出さざるを得ないだろう。

 

 もはや武器として機能も価値も失った己の得物を呆然と見つめ、クラハの背後で立ち尽くすクライドに。申し訳なさそうな声が届く。

 

「……すみません」

 

 そんなクラハの謝罪の言葉が、不意にクライドを現実へと引き戻し。それと同時に、彼を悟らせた。

 

 ──…………僕は、負けた……?

 

 その事実を裏付けるかの如く、クライドは遅れて理解する。理解して、彼は再度堪らず呟いた。

 

「僕が負けた……ッ!?」

 

 先程の一合。秒にも満たないが、刹那よりかは遅い一瞬の間にて起きた、その全て。

 

【閃瞬刺突】で以て、まずはクラハの右肩を貫かんとして。それに対してクラハはその長剣で以て、こちらの刺突剣の剣身を()()()()()のだ。

 

 言葉だけで説明されたのなら、別にそう大したことのようには聞こえないかもしれないが。しかし、クライドにとってはそれがどんなことよりも受け入れ難くあり得ない、あってはならない最悪の事実に他ならない。

 

 まだ。仮にもし、【閃瞬刺突】の軌道を見切り、躱したのであれば。そちらの方がまだわかる。わかるし、そうされたとしてもこちらは軌道を変えられる。故に問題はない。

 

 だが、躱すのではなく。【閃瞬刺突】の軌道を見切ったその上で、こちらの意識を掻い潜り、刺突剣の剣身自体を折って、【閃瞬刺突】を破るなど。

 

 そんな常識外れの芸当、埒外の(わざ)は。並外れた、ほんの一握りの強者にしか許されない。

 

 それを、こともあろうに目の前の男────クラハ=ウインドアがやってのけた。

 

 やってのけ、こちらを負かした────その最悪の事実をクライドは認知し。けれど、どうしたってそれが受け入れられず、信じられないようにそう呟いた後。

 

「では、これで僕は失礼します……」

 

 そう言って、クラハはこの場から去ろうとする。そんな彼を、クライドはこれまでの人生で一度も味わったことのない焦燥に駆られながらも、慌てて呼び止めようとする。

 

「ま、待てッ!クラ「何、してんだ」

 

 が、不意に背後から響き渡ったその声によって、クライドの声は遮られ、そして容易く掻き消され。

 

 瞬間、全身を駆け巡る恐ろしく悍ましい悪寒に、彼は硬直することを余儀なくされるのだった。

 

 身動き一つはおろか、ほんの僅かに身を捩らせることすらもできない。身体中が総毛立ち、大量の冷や汗が止め処なく流れ出す。

 

 形容し難い、どうしようもない絶望にも似た恐怖に。身も心も縛られ、逃げ出すことも腰を抜かすことさえも、クライドはできないでいるその最中。彼をそのようにした原因である声が、続ける。

 

「俺の後輩に何してんだ、お前……?」

 

 直後、クライドが切に感じたのは。こちらを跡形もなく焼き尽くさんとする熱気と。それに伴った、決して免れることのできない────絶対的な死の気配であった。



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崩壊(その三十六)

 結果だけ先に述べるなら、この件でクライドが咎められることはなかった。何故ならば、彼が一方的にけしかけた決闘に対し、クラハが表立って苦言を呈することも、大衆に言い触らすこともなかったからだ。

 

 また、この件によりクライドは間違いなく厳罰、下手をすれば最悪『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から除名された後、半永久的な冒険者(ランカー)の資格剥奪もあり得た。今回、彼がしでかしたことはそれだけ重大な規則(ルール)違反で。

 

 そんなクライドの今後悪化するだろう状況と潰れる面子に損なわれる社会的地位を案じてか。クラハはこの件を、GM(ギルドマスター)たるグィンに告発もしなかった。

 

 彼はクライドに決闘を挑まれたこと、その理由は自分を『大翼の不死鳥』から追いやりたいから────そういった諸々、丸ごと全てを。何事もなかったかのように水に流したという訳である。

 

 故に揺らがない、覆らない事実として。クライドは、自分が最も嫌悪し、排除しようとした相手に。情けなく惨めにも、庇われてしまった────()()()()()

 

「俺の後輩に何してんだ、お前……?」

 

 その命もまた、彼は救われたのだ。

 

 クライドがあの時身に染みて感じた、形を持った死────それは他の誰でもない、ラグナ。『大翼の不死鳥』に所属し、世界最強と謳われる三人の《SS》ランクの冒険者(ランカー)。『炎鬼神』の通り名で畏れ敬われる存在(モノ)、ラグナ=アルティ=ブレイズに他ならず。

 

 突如としてその場に現れたラグナは、自分の唯一の後輩であるクラハが。今し方害されたのだと察し、その害した当人────クライドに対し。

 

 逃げようも避けもない、決して免れることのできない絶対的な死の予感を、無理矢理にでも抱かせる程の殺気を当て。

 

 そしてそれを現実にせんと、己が拳を振り上げ、クライドのすぐ背後にまで迫り詰め。

 

 これから死ぬ恐怖で固まって動けないでいるその背中に、振り上げた拳を振り下ろす────その直前、寸前で。

 

「待ってくださいッ!!」

 

 と、これ以上にない程の危機感を込め、クラハが叫び。彼に呼び止められたラグナは、クライドの背中に振り下ろさんとした拳を、既のところで静止させるのだった。

 

 ……流石にラグナとて、本気で命を奪うつもりはなかった。だからといって、クライドに浴びせたその殺気は紛れもない、嘘偽りのない純真な殺意からのものであったのは本当で。

 

 そして殺す気はなくとも、少なくともクライドには半年を病院の寝台(ベッド)の上で大人しく過ごしてもらうつもりではいた。

 

 が、結果はそうはならなかった。これも(ひとえ)に、ラグナを呼び止め。自分は全く気にしていないし大丈夫ですからと、静かに猛る彼をクラハが必死に説得し、どうにか宥めたおかげで。

 

 そうして、クライドは社会的にも物理的にも、クラハに救われた。それが、その事実がわからない程、クライドも幼稚(こども)ではない。

 

 

 

 ……()()()()()()()、到底、絶対に。もはや理屈どうこうではなく、クライド=シエスタはクラハ=ウインドアを許せなくなり。ただひたすらに恨み、ただひたすらに憎んだ。

 

 

 

「クソッ!クソクソクソクソクソォオオッ!!凡人の分際でッ!何の取り柄もない、取るに足らない凡夫の分際でェッ!!この僕を!よりにもよってシエスタ家十二代目当主!『閃瞬』!このクライド=シエスタをォ!!」

 

 バンッバンッバンッ──机を殴り割り、椅子を蹴り割り、壁を叩き割りながら。クライドはあらん限りの怨嗟と憎悪をその口から吐き散らす。

 

「ああ、ああッ!さぞかし気分が良かっただろうな!愉快で愉快で、それはもうどうしようもなく愉しかっただろうなァ!?僕を擁護して!僕を庇って!僕を救って!その、つもりになってェッッッ!!!」

 

 ここが今、自分が宿泊している宿屋(ホテル)の一室だということも忘れて。クライドはいつ吐血してもおかしくない、その勢いのままに。手当たり次第に、所構わずに暴力を振り撒きながら、ひたすらに叫び続ける。

 

「ふざけるなふざけるなふざけるな!!気分を良くしていいのも愉悦に浸るのも僕だ!このクライド=シエスタだぞッ!?それをそれをそれをぉ……あの、凡骨風情のォ!!ド底辺の馬の骨ェ!!腐れ畜生の輩めがァァァァ!!ああああ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁァァアアア゛ッ!!!!!」

 

 常軌を逸したクライドの、凶気と狂気の端境に在る暴走は止まることを知らず。延々、永遠と彼は続ける────かに、思われたのだが。

 

 不意に、恐ろしく凄まじいまでに暴れ散らかしていたクライドは、急に静止した。今までの行動が、まるで全くの嘘だったかのように。彼はその場で立ち尽くし、沈黙した。

 

 突如としてこの場に訪れた静寂────言うまでもなく、それを破ったのは。

 

「じゃあそんな奴に負けた僕は……!一体、何なんだ……ッ!?」

 

 そんな、苦渋と懊悩に塗れて染まった、クライドの独り言であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荒らしに荒らし尽くした部屋から出て、宿屋(ホテル)を後にしたクライドが。オールティアの街道を行き交う人々の、こちらに注がれる視線が。何時になくおかしいことに気づくのに、そう時間はかからなかった。

 

 というのも、彼が常日頃浴びていたのは羨望や尊敬、賞賛が含まれていた、もはや雨と表現するに相応しい程の、無数の眼差しで。

 

 しかし、今は浴びているのではなく、どちらかというと()()()。不躾で無遠慮な視線を、ただこちらに一方的に向けているのだ。

 

 しかもそれらに含まれているのは────()()()()()()。そういった、人間の醜悪さと救えなさを凝縮させたような、負の感情。

 

 ──何だ。何だ、何だ何だ何なんだこいつら……僕が一体誰なのかわかっていて、そんな目で見ているというのか……!!

 

 それがクライドをこれ以上になく不快にさせ、ただでさえ荒んでいる彼の心を掻き乱すのは言うまでもなく。

 

 そして虎の尾を踏むが如く、それが一体どれだけ命知らずで愚かな行為であるのか。人々の大半は考えもしないし、理解を示そうとも思わない。

 

 ──ならば、致し方ないよな?

 

 故に、クライドは考えた。自ら、その無礼千万が。万死に値することなのだと、そう考え。歩きながらに無意識の内、腰に下げる刺突剣(レイピア)の柄に手を伸ばす────直前。

 

「へい。へいへいへーい」

 

 突如、歩くクライドの前方を。数人の男たちが阻むように立ち、その中の一人が進み出て、気安く彼を呼び止めた。

 

 ──あ……?

 

 己が道を遮っただけに留まらず、自らの下賤で何の価値もなく、塵芥(ゴミ)屑滓(クズカス)な身分の分際で。罪深くもそれを自覚することもなく、またそれを全く以て弁えることなく、分不相応極まりなく悍ましいことに、呼び止めたことに対して。

 

 瞬間、クライドは己の中でプツン、と。何かが引き千切れた音を聴いた。

 

 ──わかった、わかった……もういい。ああ、もういいとも。

 

 顳顬に極太の青筋を走らせ、血が薄ら滲む程までにキツく刺突剣の柄を握り込み。際限なく沸き上がり続ける憤怒と、邪悪なまでにドス黒い殺意を抱き。しかしそれを(おくび)にも出すことなく、不自然なまでに満面の笑みを浮かべ、クライドが口を開く。

 

「おま……君たち。この僕が一体どこの誰で、どういった存在なのか。それを承知の上での、行為か……?」

 

 クライドは自分を褒めてやりたい。表情に出さないだけでも相当な負担と無茶を強いているのに、それに加えて日常(いつも)通りと何ら変わらない、至って平常心に富み余裕に満ち溢れている声音を。こうして問題なく出せているのだから。

 

 今すぐにでも刺突剣を鞘から抜き放ち、目の前に立つ塵芥の屑滓の、下水(ドブ)に浮かぶ汚物以下の脳髄に突き立てたい、凄まじく強烈で堪え難い衝動を。奇跡的にも抑えられているクライドに。

 

 そんな彼の猛獣も脇目も振らずに逃げ出すような、快楽目的の殺人鬼よりもずっと恐ろしいその心境を察することも、推して図ることもせず。まるで足の踏み場もない断崖絶壁で激動(ブレイクダンス)するかのように、クライドの前に立ちはだかった男が言った。

 

「ああ。俺らの中の常識中の常識だもんな。知らねえ訳がねえよ────《E》冒険者(ランカー)の雑魚相手におめおめ無様に負けた、『閃瞬』のクライド=シエスタ、サマ?ギャハハハハッ!」

 

「……………」

 

 その男の発言に、クライドは怒りと殺意を一瞬忘れ。が、直後すぐさま取り戻し、馬鹿笑いを続ける糞尿の詰まった肉袋相手に、静かにその言葉を吐き捨てた。

 

「場所変えようか」



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崩壊(その三十七)

「それで、お前らはどうやって情報(これ)を知った?答えろ。さっさと、答えろ」

 

 スッ──すっかり恐慌状態に陥り、ただただその身を竦ませ、路地裏の壁を背にこの場から逃げ出すこともできない男の額へ。クライドは何の感慨もなく事務的に、そう一方的に訊ねるや否や、ぬらぬらと血で生々しく濡れた刺突剣(レイピア)の切先を突きつけた。

 

「さもなければ殺す。今すぐにでも殺す。絶対に殺す。何が何でも殺す。ああ、安心するといい。お前が独り寂しい思いをしないように、そこらに転がってる塵芥(ゴミ)屑滓(クズカス)共も漏れなく殺してやる。僕は貴族だからね、価値のない愚民へ贈るには、これは些か過ぎた慈悲だろうけど……僕は優しいだろう?ほら、早く(ハリー)

 

「まッ、待ってくれ!ちょ、調子に乗ってた!……乗ってましたぁ!!ただそれだけなんですよぉ!!」

 

早く(ハリー)早く(ハリー)早く(ハリー)早く(ハリー)早く(ハリー)

 

「本当にすみませんでしたァ!申し訳ありませんでしたァ!」

 

「……煩いな、愚図が」

 

 瞬く間に自分以外の仲間を刺突剣で突かれ、斬り刻まれ。しかし死にはしない程度までの出血に止め、けれど出来得る限りの苦痛を可能な限り引き摺り出し、それを余すことなく最大限に与えられる、その様子をまざまざと目の前で、見せしめのように見せつけられては。

 

 この男に限らず、大抵の人間がこうなる。そしてそれをクライドとて理解している。きちんと理解した、その上で。

 

 グッ──彼は不快極まった声音でそう吐き捨て、男の額に突きつけている刺突剣の切先を、深く沈める。

 

「わわわかった!言う!今!言うから!だから俺を殺さないでくれぇえええ!!」

 

 切先の硬い感触が直に伝わり、直後男は情けない声音でそう喚き散らした。

 

 瞬間、堪らずクライドは刺突剣を根元まで一息に押し込みたくなったが。その本能と言っても差し支えのない衝動を、鉄の理性で抑え込み。彼は徐々にゆっくりと、刺突剣を押し出す。

 

 一秒ずつ、着実に。刺突剣の切先が額の肌を圧迫し、血の(たま)が作られていることを知ると同時に、死がすぐそこにまで迫り来ているのを改めて自覚した男は。

 

 思わず上げそうになった悲鳴を無理矢理に腹の奥底に押し込んで、その代わりと言わんばかりに口早に説明を始めた。

 

「魔石!魔石だよ!昨日、誰だかわかんねえけど広場でばら撒いてたんだよ!百個二百個、節操なく!こ、これだよッ!」

 

 そう言うや否や、男は乱雑に懐へ手を突き入れ、そこから一個の、手の平に収まる程の大きさしかない、薄黄色の石を取り出し。それをクライドの目前に晒した。

 

「お、俺ぁ最初金になるかと思って拾ったんだ。きっと、あの場にいた大半がそうだったろうさ……でも、あの時拾った誰かが、興味本位か何かでこの魔石を砕いたんだよ」

 

 魔石────それはこの世界(オヴィーリス)各地に存在する、しかし人が辿り着くには様々な困難が待ち受ける秘境や魔境でしか採掘できない、貴重な鉱石

 

 その名の通り、この鉱石は一定の魔力を蓄えている。というより、この性質を持つ鉱石全てが、総じて魔石と呼ばれている。

 

 とりわけ高値で取引される魔石だが、その中でも魔力をただ蓄えるだけでなく、込める────つまり魔法を封じ込められる類のものは群を抜いて大変貴重であり、その大体に想像を絶する程の価値を持っている。それこそ、下級貴族やクライドのような中級貴族ではおいそれと手が出せない程の価値が。

 

 そんなたったの一個で一攫千金を担える、込められる魔石。当然、込められた魔法を使うことだってできる。実質、魔力を消費せずとも使える魔法を持ち歩いているようなものだ。

 

 どうやって中に込められた魔法を発動させるのか────その方法は至って簡単。先程男が言っていたように、砕けばそれでいい。砕くことによって、内包されている魔法を発動────というよりかは、解放するのだ。

 

 きっとその魔石を砕いたものは、これが通常の魔石なのか込められる魔石なのかを判断したかったのだろう。そこに一つだけあったものではなく、無数にばら撒かれたその内の一つであるなら、クライドもそうしていた。そうして確認した後は、無論独り占めである。

 

 ──惜しいことをしたな……。

 

 その場に自分がいなかったことを若干、少し、仄かに後悔しながらも。クライドは男が見せびらかすその魔石を平然と奪い取り。

 

「あ」

 

 呆けた声を漏らす男の目の前で、彼から奪い取った魔石を何の躊躇いもなく、地面に叩きつけ砕いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そうか。そうか、そうか。そういうことだったのか」

 

 と、()()()()を全て見終えたクライドは、淡々と呟く。そんな彼に対して、男はへらへらしながら言う。

 

「そ、そういうことだ。街中は今この話題で持ち切りだぜ?あの剣聖、《閃瞬》のクライド=シエスタが。全く無名の《E》冒険者(ランカー)に負けたってよ。アンタは今やとびっきりの人気者さ。よ、良かったな。はは、ははは……」

 

 クライドは何も言わず。男の額に若干突き刺さり始めていた刺突剣(レイピア)を引かせ。

 

 直後、透かさず刺突剣の切先で以て。男の両目をほぼ同時に、突いた。

 

「……え」

 

 一拍遅れて、男の両目が真っ赤に染まり。次の瞬間、大量の血涙が溢れ零れて。

 

「いっぎ、ぃ、っでぇええええッ?!」

 

 堪らず両目を手で押さえ、その口から痛々しい絶叫を迸らせる男。彼はその場に崩れ落ち、両目から絶え間なく、止め処なく流れ出す、どろりと濁った血涙で。その手を赤く汚しながら、想像を絶する激痛にのたうち回った。

 

「目、がぁああぁあああッ!?俺、俺のっ!目があああああああああああぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 もはやクライドに塵芥(ゴミ)へ向ける、微塵の一欠片程の関心は、跡形もなく消え失せており。まるで壊れた玩具のように転がり回る屑滓(クズカス)など捨て置き、忘れて。彼はさっさとこの場を後にする。

 

 クライドの足取りに迷いはない。当然だ、今の彼に寄り道をするという選択肢はなく。今は一刻も早く、早急に。その場所へ向かわなければならないのだから。

 

 そう、この街の冒険者組合(ギルド)────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へ。

 

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す……」

 

 今回の事態、その全てに於ける、元凶を。究極的なまでに徹底的に、己の心に後腐れが巣食わぬよう。出来得る限り気分良く、可能な限り心地悦く惨殺する為に。



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崩壊(その三十八)

 バァンッ──荒々しく、を通り越して。もはや叩き壊さんばかりに『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の扉が押し開けられ。が、性急(せっかち)極まることに扉が開き切る前に、その者は広間(ロビー)へと押し入った。

 

 一体何事かと、今広間にいる冒険者(ランカー)の大半が扉の方へと顔をやり。そしてその誰もが全員、心胆を寒からしめるのだった。

 

 無理もない。今し方広間に飛び込むように押し入ったその者の────クライド=シエスタの、その顔を目の当たりにしてしまえば。

 

 余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)。威風堂々。何処か信頼にも似た、絶対の自信。

 

『大翼の不死鳥』に所属する冒険者(ランカー)たちに限らず、この街(オールティア)の住民たちも。皆が皆、全員知るクライドの顔は。そういった揺るがない自尊心(そうしょく)が常に施されて、着飾られたもので。

 

 今の彼の────人形が如き無表情で。しかし、まるで今すぐにでも(こぼ)れ落ちそうになる程に目は見開かれ。またその瞳孔も同様に、完全に開き切った、そんな彼の顔は。

 

 まるで狂気の谷底へ今すぐにでも身を投げようとして、正気の崖際に立っているような。そんな顔は、誰もがこの時初めて目にしただろうから。

 

 例え他に類を見ない程の鈍感であっても。今のクライドが普段の、日常(いつも)通りの彼ではないことくらいは、容易く察せられるはずだ。もしこれで察せられないのであれば、呆気なく早死にする愚者(ばか)に他ならない。

 

 そして幸いなことに、今この場にそんな者は誰一人としておらず。誰もが皆、決してクライドの行先を阻むことのないように。自殺などして堪るかと言わんばかりに、彼から距離を取る。

 

 故にその女性冒険者(ランカー)は不運だった。そして、彼女は不幸だった。悪魔の悪戯(いたずら)めいた、ただの偶然というだけで。今この時その一瞬、他の誰よりも少し、クライドとの距離が近かったというだけで。

 

 椅子に(すね)をぶつけるのも構わず、まるで獰猛で凶悪な魔物(モンスター)に対峙してしまった時と全く同様に、跳ねるようにしてその場から退き。直後、そんな女性のすぐ目の前を、クライドが通り過ぎる────その瞬間。

 

「ひッ……!?」

 

 図らずも、聞いてしまった。元はしがない盗賊(シーフ)をやっていただけに、敏感に鍛えられていた女性の聴覚が、拾ってしまった。

 

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す────という。

 

 まるで壊れたように、それでいて揺るぎもしない確かな意志と強い決意を以て。延々とその口から漏れるクライドの薄暗い憎悪と、仄昏い怨嗟に。塗れて染まり尽くした、彼の呟きを。

 

 女性とてわかっていた。別にクライドにとっては、ほんの一瞬でさえ気に留める必要もない、路傍の石に過ぎないだろう自分に対して。

 

 酷く悍ましく恐ろしいことこの上ない、その殺気が。自分に対してわざわざ向けられた訳ではないことくらいは、彼女とてわかっていた。

 

 だがそれでも、こちらの正気を削るには十二分過ぎた。

 

 まるで自らの喉笛に、魔物の牙が食い込み、突き刺さり。そして無惨にも噛み千切られる────そんな()りもしない空想でしかない、己の最期を。女性が垣間見るのには十二分に過ぎており、彼女の顔から一瞬にして血の気を奪った。

 

 青いを通り越し、白い顔色を晒しながら。女性は小刻みに、絶え間なく身体を震わせ。やがて耳を澄まし意識を集中しなければ聴き取れない程の、くぐもった水音を立てる。

 

 少し遅れて、女性が今履いているショートパンツの股間部が徐々に色濃く変色し始め、その裾口から薄黄色い筋が数本、彼女の太腿(ふともも)に伝い、足を濡らす。

 

 やがてくぐもった水音は堰を切ったように激しさを増し、それと同時に股間部は一気に色濃くなり、裾口から伸びる筋が無数となり。

 

 そうしてあっという間に、女性の足元にはほんのりと湯気を漂わせる、大きな水溜まりが出来たのだった。

 

 今し方、自らが作り出した粗相の上に、女性は力なく尻を落とし。飛沫(しぶ)いた彼女の尿が、周囲の床を点々と濡らす。

 

 しかしクライドはそんな光景には目もくれず。ただひたすらに前へ、前へと突き進む。

 

 ──殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」

 

 頭と心の中をそれだけで埋め尽くして。視線の先、並み居る冒険者の全員が恐怖に慄き、身を竦ませその場から一歩も動けないでいる最中。たった一人、未だ独り呑気に依頼表(クエストボード)を眺めている、その者の元へ。

 

「どれが良いかな……?先輩は何でもいいって言ってたけど……」

 

 などと、何処までも馬鹿馬鹿しくふざけた戯言を宣うその者の、すぐ背後にまで。クライドが迫るのには、一分も必要なかった。

 

 文字通り、手を伸ばせばすぐに届く至近距離。しかしクライドの気配にその者が気づくことはなく。それがまるでこちらからの不意打ちを誘っているかのように思えて仕方なく、そののほほんとした余裕の態度が、クライドの神経をこれでもかと逆撫でる。

 

「……やっぱり先輩に訊くか」

 

 と、呟いて。ようやっと依頼表の前から移動しようとしたその者の、無防備に晒されていた後頭部を。躊躇わず、透かさずクライドは掴んだ。

 

「ッ!?なっ」

 

 そして遠慮も容赦もせずに思い切り、突然後頭部を掴まれ素っ頓狂な間抜け声を上げたその者の顔を、クライドは依頼表に叩きつけた。

 

 ゴチャッ──水分を含んだ柔らかいものが、硬いものに勢い良く衝突した、嫌に生々しい音が広間(ロビー)に響き渡る。

 

「が……ッ」

 

 予期せぬ出来事と、顔面全体を覆う鈍痛に。その者は堪らず声を漏らす。が、そんなことは知ったことではないとでも言わんばかりに────二度三度、更に数回、クライドは後頭部を掴んだままに、その者の顔面で依頼表を叩くのだった。

 

 叩きつけられる音に重なる、痛みに喘ぎ呻く声。それを聴いて────その場から動こうとする者は、誰一人としていない。男たちは息を殺し、女たちは手で口を押さえて。皆誰もが全員、動けないでしまっている。

 

 わかっているから。もしその行為を止めようものなら、まるで塵芥(ゴミ)を処分するかの如く、簡単に殺されてしまうのだと、理解してしまっているから。

 

 だから誰も動けない。誰も止めない。誰も助けない。何故なら誰だって、自分の身の安全が第一だから。自分の命が一番なのだから。

 

 そうして音と声が等しく、十数回鳴って。やがて声はしなくなったが、それでも音だけは続いて。

 

 依頼表(クエストボード)にはっきりとした血の一本線が引かれた後。ようやく、クライドはその手を止めた。

 

 誰もが思った。やっと満足したのか、と。これようやく、その者も自分たちも解放されるのだと。今し方行なわれていた、クライドの横暴の終わりを。その場にいる全員、誰しもが皆、予想した。

 

 だが、そんな希望的観測に満ちた予想は──────────

 

 

 

 

 

「クラハ=ウインドアァァァッ!お前ェ!よくもォォォ!!やってくれたなァァァァアアアアッ!!!」

 

 

 

 

 

 ──────────という、常軌を逸したクライドの声によって。大いに覆され、そして粉微塵に打ち砕かれるのだった。



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崩壊(その三十九)

「そんなことだろうとッ!こんなことだろうとッ!僕は、この僕はわかっていたんだァ!!けど僕は貴族だ剣聖だ『閃瞬』だクライド=シエスタだ!!!だから信じてやった!一欠片の信頼をッ、お前みたいな塵芥(ゴミ)(クズ)(カス)ゥゥゥ!!寄せてやったッ!というのにィィィィイイイイッ!!!!」

 

 無表情から一変、怨嗟怨恨にどうしようもなく歪み、度し難い悪意に浸り染まり塗り潰された、邪悪な狂気の表情を浮かべ。もはや病的なまでに赤黒く血走った目で射殺さんばかりに睨みつけながら。

 

 クライドは頭皮ごと引き剥がさんばかりの勢いで、掴んだままの後頭部を引っ張り、そのまま広間(ロビー)の床に向かって、クラハを叩きつけるようにして投げ飛ばす。

 

「どうだどうだったどうだったんだァ!?この僕を騙してェ!この僕を裏切りィ!この僕を恥晒し者に仕立て上げた、その気分はァ!?」

 

 ろくに受け身も取れず、無様に床の上を転がるクラハに対し。クライドは怒りの絶叫を唾と共に吐き散らしながら、彼の元にまで迫る。

 

「愉しかったか!?心地良かったか!?気持ち良かったか!?ふざけるな!ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな……ふざけるなァアアアアッ!!!!」

 

 顳顬を裂くように走らせた極太の青筋が、今にでも爆ぜて断ち切れそうになっているのにも関わらず。クライドは己の内に募りに重ね続けた、クラハに対する憎悪と怨嗟を焚べて、憤怒の業炎を逆巻せ燃やし続ける。例えそれが自分を消し炭の一片も残さず、跡形もなく、完全に焼き尽くすことになったとしても。

 

「その快悦!愉悦!全て全て全てこの僕が味わうべき感情(もの)だ!断じてッ!断じて断じて断じてェ!!お前のような無価値の有象無象がッ!味わっていい感情ではないッ!!味わうべきは……この僕なんだぞッ!?」

 

 理屈はおろか、もはや屁理屈の体裁すら保てていない、他の誰一人として理解できない癇癪(ことば)を撒き散らして。

 

「殺してやるぞクラハ=ウインドアァッ!この僕ゥ!剣聖ッ!『閃瞬』のクライド=シエスタァ!殺してやるぞォオオオオッ!!!」

 

 そう叫ぶや否や、クライドは腰に下げた自らの得物────刺突剣(レイピア)の柄に手を伸ばし、そして思い切り引き抜いた。

 

「ま、まずい!?」

 

 衆目に晒されている最中、それでも構わず殺すと宣言し。その通りに得物を、命を奪う為の凶器(どうぐ)を抜く様を見せつけられ。

 

 そうしてようやっと、目の前で繰り広げられる理不尽極まりない暴行を。ただ遠目から黙って眺めることしかできないでいた冒険者(ランカー)たちの一人が、正気を取り戻し。冒険者は叫ぶと同時に慌てて、その場から駆け出そうとする。

 

 だが、しかし。その冒険者は到底、とてもではないが間に合わない。精々駆け寄ったところで、すぐ目の前でクラハの脳天をクライドの刺突剣の切先が突き刺さり、剣身が貫くその光景を見るだけだ。

 

 何故ならば。限界を超えたその怒り故か、それとも底なしの憎悪と際限のない怨嗟がその境地へと至らせたのか。ともかく、この時クライドは────()()()()。正確に言えば、クライドの代名詞たる剣技────【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】が。

 

 今までは下半身に許容限界間際、その瀬戸際(ギリギリ)の【強化(ブースト)】を施し。対して上半身は崩れ落ちる程、極限にまで脱力させ。そうして引き絞られた弓によって放たれる矢の如く、一気に駆け出す────これら全てが【閃瞬刺突】を放つ為には必須な予備動作であり、これをなくしてこの技を放つのは、土台無理な話だった。

 

 そしてその事実が、クライドはどうしようもない程に歯痒かった────訳だったのだが。

 

 この時、その一瞬。驚嘆すべきことにクライドは、これらの予備動作を大幅に短縮、どころか省略────否、()()()。これまでの生涯の最中に於いて、もはや比較するのが馬鹿らしくなる程に最速で、そして最高の【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】を放ってみせたのだ。

 

 広間(ロビー)の床が蹴り砕かれると全く同時に、刺突剣(レイピア)の切先がクラハに迫る。彼は未だ倒れたままで、立ち上がることもその場から動くこともままならないでいる。

 

 そんなクラハが予備動作なしに放たれた【閃瞬刺突】から逃れる術はもはや皆無で。秒も過ぎることなく、刹那よりかは遅い間にも、僅かな抵抗すら許されず貫かれてしまうことは────今この場にいる誰にだって簡単に想起し得る、明白な事実(みらい)に他ならず。

 

塵芥(ゴミ)ィィィィイイイイ!!屑滓(クズカス)ゥゥゥゥウウウウ!!死ねィィィイイイねェェェエエエエエエッッッ!!!」

 

 鬼気迫る狂気の形相で自ら進み、歓んでそれを実現せんと。叫ぶクライドは一切止まることなどなく、微塵も躊躇することなく。そうして刹那が──────────()()()()()()()

 

 

 

 

 

 トッ──クラハの脳天を突くには、余りある距離にて。刺突剣の切先は、その指先によって容易く呆気なくも、止められてしまうのだった。



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崩壊(その四十)

 渾身。これまで以上で、これ以上にない程の、渾身。クライド自身、意図せずしてそうなってはしまったが、しかし結果として。この時、今その瞬間に於いて。全身全霊が込められ、乾坤一擲の一撃となったことで更なる飛躍を遂げ、進化を果たした【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】。

 

 一瞬の遥か先を行き、刹那と全く同じ速さの境地に至ったその技を。もはや躱せる者はほぼ、存在しない。

 

 その上生半な防御は当然として、魔法による防壁でさえも貫通せしめるその一撃は、急所に当てれば立ちどころに絶死の一撃と化し。事実、今この場にいる者全員がこの進化した【閃瞬刺突】と対峙したのなら、誰もが死ぬ定めにその身を置かれたことだろう。

 

 そしてそれは進化した【閃瞬刺突】の餌食となるべく標的にされたクラハも例外ではなく。ただでさえ万全の状態を期したとしても、これを躱せるか防げるかは半々だというのに。今のように床に倒れたまま起き上がれないでいる有様の彼では、もう逃れる術はない。

 

 もはや誰にも止められない、この絶望的状況。それが覆されることはなく、クライドの進化した【閃瞬刺突】が、彼の刺突剣(レイピア)の鋭き切先が。クラハの脳天を突き刺し、彼の脳髄をその頭蓋ごと串刺しにする刹那────よりも前に。

 

 そっと、突き出されたその指先一本によって。クライドがこれからの生涯を費やしてでも、もはや繰り出すことは叶わないだろう、進化した【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】は。容易く呆気なく、止められた。

 

 人生最大の技を。他に比肩し得るものはないと断言できる、最強の技を。大したこともなくあっさりと、それもただの指先一つで止められるという。剣士であれ拳闘家であれ、武の道を歩む者からすれば。決して、絶対に認めたくはない────否、認められない最悪の中の最悪な、大いにあまり余って酷な現実。

 

 きっと大半の者がそれを受け止められず、全く以て信じることができず。実戦の只中であれば最期まで呆けたまま、命を落とす羽目になるだろう。

 

 或いはそれが一番なのかもしれない。それがその当人にとっての、一番の幸福であり、望むべき最期なのかもしれないが。

 

 しかし、それは大半の有象無象に限った話であり。曲がりなりにも剣聖と謳われ、『閃瞬』の異名を取るクライド=シエスタはそうではない。彼はその現実が受け止められない程の弱者ではないし、信じられない程の愚者でもない。

 

 だがそんなクライドでも、この進化した【閃瞬刺突】が。たかが、指先一つで止められてしまったという事実を呑み込むのには、多少の時間を要し。最終的に一分と数十秒もの間、彼は呆然と目の前の光景を遠くのもののように眺めることしかできないでいた。

 

 ──僕の【閃瞬刺突】……刺突剣(レイピア)の切先……指先で止められて……微動だにできない……?

 

 まるでバラバラに散ったパズルを元に戻すように。認識した事実の欠片(ピース)一つ一つを確かめながら、間違いが生じぬように嵌め直していく、その途中で。

 

「こいつだ」

 

 不意に、突如としてその声がクライドにかけられて。瞬間、彼の意識は急速に現実へと引き戻された。

 

「……な、は……?」

 

 そうしてようやく、クライドは目の当たりにする。クラハの脳天を突かんとした刺突剣の切先を、彼を殺す為に放たれた【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】を。その指先で苦労なく軽々と止めたみせた張本人────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属する、世界(オヴィーリス)最強と謳われる三人の《SS》冒険者(ランカー)の一人、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズの姿を。

 

「ぶ、ブレ、ブレイズさん……?どうして、貴方がここに……?」

 

「ほら、さっさと……あ?何でこの野郎気ぃ失ってやがんだ?……チッ、面倒くせぇな」

 

 予想だにしていなかった人物が、つい先程まで『大翼の不死鳥』の広間(ロビー)には影も形も存在していなかったはずの者が。しかし、こうして今は自分の眼前にいるという、確かな現実に対し。ただひたすら疑問を抱く他になく、情けなく震えてしまうその声でクライドが訊ねるが。

 

 そんな彼の問いに対してラグナは何も答えず、自身の右側を見下ろしながらそう言うのだった。

 

 遅れて、クライドが視線だけをそこにやると────()()()()。白目を剥き、口を半開きにさせて、だらんと舌を伸ばし。涎を垂らして失神している男が。ラグナの右手にその首根っこを掴まれていたのだった。

 

 当然、クライドはその男の名前も、顔も目にした覚えはない。彼にとっては見ず知らずの、全くの赤の他人である。

 

 一体何故、ラグナはこんな男を連れているのか────ただでさえ解せない疑問がますます深まるそのクライドのことなど構わず、唐突にラグナはその男を床へと落とし。今度は男が着ている上半身の服を無造作に引っ掴むと、一切躊躇することなく剥ぎ取った。

 

 布が引き裂かれ、引き千切られる音が悲鳴のように広間に響き渡り。上半身裸となった男にはもはや目もくれず、彼から剥ぎ取った服を乱雑に振るうラグナ。彼の突然の奇行を前に、この場にいる誰しもが固まるその最中。

 

 バララララッ──ラグナが振るっていた男の服から、まるで霰が降る如く、十数個の魔石が落ちてくるのだった。

 

「……え」

 

 床の上にばら撒かれて転がるその魔石には、さしものクライドも見覚えがある。というより、忘れられる訳がない。

 

 何故ならば、その魔石こそが────

 

 

 

『魔石!魔石だよ!昨日、誰だかわかんねえけど広場でばら撒いてたんだよ!百個二百個、節操なく!こ、これだよッ!』

 

 

 

 ────今回の事態を引き起こした、発端なのだから。

 

 ──な、何だ?何だこれは?一体何が起こってるんだ……?どういうことなんだ……ッ!?

 

 止められた【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】。ラグナ=アルティ=ブレイズ。知らない男。大量の魔石────次から次へと脳が理解を拒む情報の波に、とうとうクライドの容量(キャパシティ)が限界に達し、彼の動揺と困惑が極まっていく。

 

 だが、そんなことはラグナの知ったことではなく。淡々と、固まるクライドへ彼が言う。

 

「この魔石をばら撒いたのはこいつ。街の奴らにも訊いて回ったし、こいつもそうだって自分で認めてたぞ」

 

 そう言うラグナの右手には、いつの間にか件の魔石が握られており。徐に、彼はそれを人差し指と親指の腹で押し潰し、砕く。

 

 砕けた魔石は瞬く間に粉々となって、すぐさま魔力の粒子と化し、それは宙へと舞い上がり────その()()()()()()()()

 

『僕は彼と同意見さ。悪いけど、そう簡単には認められないな……クラハ=ウインドア君』

 

 と、その映像の中のクライドが、同じく映像の中のクラハに対して告げる────これこそが魔石に封じ込められていた魔法、【映憶追想(ヴィジョン)】。早い話、映像を録画できる魔法の一種である。

 

 そうして再生されたのは、あの日起きた出来事の全て。クライドがクラハに理不尽な理由からによる、一方的な決闘を仕掛け、そして敢えなく【閃瞬刺突】を破られた瞬間。クラハに対し危害を加え、ラグナの逆鱗に触れ、彼の拳が振り下ろされる寸前。声をかけたクラハによって、クライドが事なきを得た顛末。

 

【映憶追想】はその一部始終の再生を終えると、途端に魔力の残滓となって崩れ、大気に霧散し溶けていく。その傍ら、クライドはやはり固まったままで。そんな彼に対し、ラグナは言葉を続けた。

 

「せっかくクラハが水に流したってのに、どっかの馬鹿が蒸し返しやがって……胸糞悪りぃ」

 

 と、吐き捨てて。一歩、ラグナはその場から踏み出す。

 

 ジュッ──瞬間、そんな音が。何かが焼けたような音がして、クライドの刺突剣(レイピア)の剣身が。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「まあ、俺が言いたいのはさ」

 

 クライドがそれに気づき、驚く間すらなく。彼のすぐ目の前に立ったラグナが、指先に赤光を灯しながら、冷淡とした声音で静かに呟く。

 

「これに関して、クラハは全く関係ねえってことだ。こんな(こす)くて悪趣味な真似できる程、あいつの性根は腐ってねえし。てか、そもそもこんなこと、最初(ハナ)からやろうとも考えねえよ」

 

「…………あ、ぁ……あ」

 

 そうしてようやっと、己の得物の有様に気づいたクライドが。未だ赤熱の輝きを放つ刺突剣の根本と、床に落ちて転がっている剣身を。交互に見つめ、それから彼は、恐る恐る顔を上げ、ラグナの顔を見やる。

 

 ラグナといえば、そんなクライドのことを冷ややかな眼差しで見下ろし────不意に、彼の胸倉を片手で掴み。そして有無を言わさず、まるで赤子でも抱き上げるかのように軽々と、彼を己の頭上よりも高く持ち上げた。

 

 クライドの足が床から離れ、プラプラと何処か間の抜けたように力なく揺れる。しかしそんなことには目もくれず、ただ一言。

 

「言うことあるか?」

 

 頭上に掲げたクライドを見上げながら、ラグナはそう訊ねるのだった。

 

 それに対してクライドは────何も言うことができず。ただただ、ラグナに無抵抗で持ち上げられていることしかできないでいる。

 

 ──ひ、ひ……ひっ。

 

 その身体は恐怖に竦み上がり。その顔は恐怖に歪み切り。その目は恐怖に屈している。だがそれも、無理はない。無理もないし、当然だ。

 

 きっと、誰だって。どんな偉丈夫(いじょうふ)だろうと、どんな益荒男(ますらお)だろうと。今クライドが見ている存在(モノ)を見てしまえば、誰であろうと皆等しく、彼と同じようになるはずだ。

 

 ラグナである。クライドを持ち上げているのも、彼の目の前に立っているのも。紛れもない、ラグナ=アルティ=ブレイズである。

 

 それはクライドにもわかっていた。彼とてそれを重々理解していた────が。

 

 その上で、クライドの視界に映り込んでいるのは────────巨大な顎をこれでもかと大きく広げ、上下にズラリと並んだ鋭利な牙を輝かせ、今にでもこちらを喰らわんとしている、一頭の竜種(ドラゴン)だった。

 

 このままだと喰われて死ぬ。噛み砕かれて飲み込まれて死ぬ。呆気なく死ぬ。簡単に死ぬ。絶対に死ぬ。

 

 死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死死死死死死死死死死死死死────それが瞬く間にクライドの脳内を埋め尽くし。彼の胸中の隅々にまで侵蝕した。

 

 カツン──全身が虚脱し、弛緩したクライドの手から滑り落ちた刺突剣(レイピア)が床に叩きつけられる。

 

「…………ぁ、ぁ」

 

 身体を死に巻かれながら、死に首を締めつけられながら、クライドは引き攣った声を情けなく漏らす。

 

 クライド自身、言うべきことはわかっていた。それを言わなければ、すぐにでも喰い殺されることも理解していた。

 

「あ、あぁ、こ」

 

 故にそれが違うことも。そして絶対に言ってはならないということも。クライドはわかっていたし、理解していたのだ。

 

 だが、あまりにも圧倒的なその殺意を前に。絶対的で、どうしようもない、確実な死を目前に────

 

 

 

 

 

「ころ、ころさ、殺さ、ない、で、くだ、さ……」

 

 

 

 

 

 ────クライドの意に反し、彼の生存欲求がその言葉を引き摺り出してしまった。

 

「…………」

 

 その言葉────否、命乞いを受けたラグナは、無表情で。怒りに荒れることも、哀れみに凪ぐことも、呆れに放ることも。何も、なく。

 

 そんな虚無めいた無表情を浮かべたまま、ラグナは拳を力を込め。その気配を如実に感じ取ってしまったクライドの顔から、一瞬にして全てが消え去り。

 

 直後──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ラグナ先輩ッ!……待って、ぐ……先輩、待ってください……ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────今の今まで床に伏して沈黙していたクラハが、割って入るかの如く、そう叫ぶのだった。

 

「僕は平気です……平気、ですから……大丈夫です、から。だからどうか、クライドさんを離してあげてください……お願い、します」

 

 クライドの視界の端に映るクラハは、未だ血が流れる額を手で押さえながら。しかし必死に、懸命になってラグナに訴えかける。

 

 そんなクラハの訴えを。純真な善意からによるその呼びかけを聞いて。

 

「……」

 

 ラグナは一瞬眉を顰めるも、仕方なさそうに目を閉じ。そして、握り締めたその拳から、ゆっくりと力を抜くのだった。

 

 それと同時にクライドの眼前に広がっていた顎が、ゆっくりと離れ、静かに閉じられ。そして竜種がクライドの前から去っていく────ラグナの殺意が薄れて、消えていく。

 

 そのことに、堪らずクライドは安堵の息を吐く。

 

 ──た、助かっ

 

 

 

 

 

 ゴッ──瞬間、クライドが顔面に感じたのは。ただひたすらに、何処までも重い衝撃だった。



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崩壊(その四十一)

 バキィッ──視界の端から端に映り込んでは、凄まじい勢いで溶けて流れて過ぎ去っていく、無数の景色を尻目に。宙を滑るようにして飛ぶクライドは、そのまま『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の扉に激突し。瞬間、扉は破砕され幾つかの木片と化し、彼はそれらと共に外へと放り出される。

 

 木片が次々と地面に落下していく最中、クライドだけは依然として宙を飛び続け。だがそれも永遠ではなく、徐々にその高度も落ち、彼の身体もまた地面へと落下した。

 

「ごえッ、おぼッ」

 

 が、それでクライドが止まることはなく。地面に叩きつけられては跳ね上がり、また叩きつけられては跳ね上がることを数回、繰り返し。

 

 次第にその勢いも死に始めるが、今度は何度も翻筋斗(もんどり)打っては為す術もなく、受け身も取れずに、クライドはボールになってただただ、地面を転がり続けて。

 

 そうして数分の時間をかけ、ようやっとクライドの身体は完全に止まり、その場に留まるのだった。

 

 また言うまでもなく、今は日中。往来の人通りの真っ只中を、クライドはこのようにして宙を吹っ飛んでいた訳だが。奇跡的に彼の射線に街道を歩く人々が重なることはなく、しかし翼を持たない人間がそのように宙を飛ぶ様を、数多くの者が目撃した。

 

「お、おわっ?何だあ!?」

 

「きゃあッ!」

 

「と、飛んでる……冗談みてえに人がぶっ飛んでらぁ……」

 

(すっげ)えな。地面に落ちてもまだ、ボールみたいに転がってるよ、あいつ。は、ははは……」

 

 そうして多くの人々に驚愕と奇異の眼差しを向けられながら、ようやっと静止したクライドだが。そのまま、地面に倒れ込んでうつ伏せになったまま、彼は全く微動だにしない。

 

「……え、あ……?し、死んじゃった……?」

 

 と、今この場にいる誰かが、そう呟いた瞬間。

 

「…………あっ、がぁ、お゛え゛っ……ぼ」

 

 クライドはガクガクと肩をひっきりなしに震わせながら、グラグラと左右に揺れながら、やっとのことで上半身だけを地面から起こして。直後、その口からどろりとやたら粘っこい血を吐き出した。

 

 ボタボタと血が汚らしく垂れ落ちる音に混じって、コツコツと硬くて軽い何かが地面に落ちる音もする。それは一体何なのだろうと、まるで目の前の現実から逃げるように、クライドは焦点(ピント)が一向に合わず、使い物にならない視界でその正体を探った。

 

 眼下に広がる、自らの吐血の跡。その血の中に、数個の白い欠片のような物体が沈んでいるのを見つけ。それは人間の歯で、それが自分の歯なのだと。クライドはまるで他人事のようにそう気づく。

 

「が、ががっ……ぎ、ぃ、おげぇあ、あぎっ」

 

 鼻腔の中がひたすらに血生臭い。口腔の至るところから、鉄の味がする。というより、それしかしない。

 

 やっとのことで肺に取り込む空気が、まるで幾重にも夥しく積み重なった、まだ鮮度を保っている死体から流れ込んでくる、血と鉄の臭気に満ちているようで────呆然とそれを感じていると、不意に顔面全体が痺れ。束の間、想像を絶するような。否、想像すらしたくもない程の鈍痛にクライドは見舞われ。堪らず、彼は悶絶してしまう。

 

 ──い゛っ、いた、いいたいいたいたい……痛い痛い痛い痛い痛い…………ッ!?

 

「あ゛あ゛ッ、ぎぎ、がぁっ……い゛い゛い゛い゛ッッッ」

 

 終わりの見えない、極まったその鈍痛に。クライドはその場に転げ回りそうになるが、そうするだけの体力も残されておらず。結果、彼は尋常ではない様子で小刻みに身体を揺らし、震わせ。再度その口から唾液混じりの血と共に、不鮮明にくぐもった呻き声を漏らすことしかできない。

 

 ──た、助けっ……誰か助けて、くれ……っ!

 

 と、もはや堪えられそうにないと悟ったクライドが、周囲に助けを求めようとした、その時。

 

「クラハのああいうとこ……別に嫌いじゃねえけど、好きでもねえんだよな」

 

 クライドの助けを求める、その心の声に応えるようにして。しかし、彼にとっては今一番耳にしたくない声が頭上から降りかかって。彼が咄嗟に顔を上げる────よりも早く。

 

「てな訳で。クラハに免じて、今回は小突くだけで勘弁してやるよ」

 

 突然前髪を掴まれ、そのまま引き千切られる勢いで。無理矢理に、クライドは顔を上げさせられた。無論言うまでもなく、彼のすぐ目の前にいるラグナの手によって。

 

「お前、今度またクラハに小っちぇことやってみろ」

 

 わざわざ腰を下ろし、律儀にクライドとの目線を合わせながら。ラグナがそう言った瞬間、クライドは息を呑む。呼吸を止める。呼吸の仕方を忘れてしまう。

 

「そん時はあいつが何言っても」

 

 そしてクライドは見る。見てしまう。彼には見える。見えてしまう。

 

 先程の竜種(ドラゴン)など比にならない、否比べることですら、もはや馬鹿らしくなるまでに。あの竜種など、小さな蜥蜴(とかげ)でしかなかったと思い知らされる程に。

 

 言葉などでは到底言い表すことも、形容すらできない。それをすること自体烏滸(おこ)がましく、そして憚られてしまうような────化け物。或いは、怪物。どちらにせよ、とてもではないが生物風情が立ち向かえるはずもない、歯向かっていいはずがない存在(モノ)であることだけは、確かで。

 

 ただひたすらに悍ましく、ただひたすらに恐ろしい。千里、万里離れた場所から視界の端の隅に映したとしても。それでも総毛立つような恐怖に駆られ、(たちま)ち精神を崩され壊されてしまうような────そんな存在が。

 

 ぼっかりと大口を開け、その底はおろか一寸先ですら見通せない、深淵が如きその口腔を。此れ見よがしに見せつけながら、ゆっくりと迫り。そして、こちらの頭を徐に咥え込み────

 

 

 

 

 

「潰す」

 

 

 

 

 

 ────ブチン、と。喰い千切るのだった。



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崩壊(その四十二)

すみません。以前投稿した話を改稿して、再投稿しました。


「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

 

 宿屋(ホテル)の一室。澄み渡る晴天に、昇り切った太陽が意気揚々に燦々と輝きながら浮かぶ真昼間の時間帯。それにも関わらず、遮光布(カーテン)は僅かな陽光さえも差し込むことは許さないとばかりに、完全に閉め切られ。だというのに、照明の類は一切点けられていない。

 

 完全な闇とまではいかないまでも、視界を働かせるには少し無理をする必要がある薄暗い、その部屋で。ただひたすらに聴こえてくるのは、そんな憎悪と怨嗟がこれでもかとあらん限りに、異常なまでに込められた、一単語で。

 

 それが何回も、何十回も、何百回も。延々とずっと。永遠に、ずっと。繰り返し繰り返し、何度も幾重にも呟かれている。

 

 ダンッダンッダンッダンッダンッ──その呟きと同時に、凄まじい力で何かが突き刺さっては引き抜かれ、そしてまた突き刺さっては引き抜かれる、明らかに普通ではない異様な物音。

 

 一体誰が、この部屋にいるのか。そんな異常で正気の沙汰とは思えない言動と行為を、誰がしているのか────

 

「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

 

 ────それは他の誰でもない、クライド。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属の《A》冒険者(ランカー)、剣聖と謳われ『閃瞬』の異名を取る、あのクライド=シエスタであった。

 

 クライドは目を見開いたまま。ドス黒く血走った目で、この部屋に備え付けられた机の上を。そこに置かれた一枚の紙────青年らしき人物が描かれた紙を見ていた。瞬きも一切せずに、睨めつけていた。

 

 その青年が一体誰なのかはわからない。青年らしいという曖昧な情報も、服装が男物で。そして背格好などから感じ取れる雰囲気が、まあ比較的青年のそれに近いという憶測から立てられているだけで。実際その紙に描かれている人物が本当に青年なのかどうかはわからない。

 

 それは一体どうしてか。理由は簡単だ────何故ならば、それを判断する一番の情報である、その顔が。もはや復元すらもほぼ不可能な程に、()()()()()()()()()()からだ。それこそ、果たしてこの人物は男なのか女なのか、そのどちらも判別できないまでに。

 

 それに穴だらけとは言ったが、正しくは穴だ。とっくのとうにその部分の紙は細切れをとっくのとうに通り越し、微塵までも通り超えてしまっていて。もはやただの穴となって、その下が見えている。

 

 一体何がその紙をそうまでしたのか。その原因を手にしたまま、クライドは宙へと振り上げ────

 

「死ね」

 

 ────振り下ろす。またしても突き刺さる音が────刺突音が部屋に響いた。

 

 紙に穴を開け広げ、その下の机すらも穴だらけにした代物。それは、ペンだった。これといって特に言うこともない、至って普通のペンで。もっと言えばそのペン先で以て、クライドは紙と机の上を穴だらけにしていたのだ。

 

 普通、そんなことをすれば大抵のペン先は砕けて使い物にならなくなり。それでも使い続ければペン自体が真っ二つに割れるか折れる。しかし、クライドが振り上げては振り下ろすことをただひたすらに繰り返し続けていたはずのペンは。その先も含めて全くと言っていい程に無事だった。

 

「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。し……」

 

 そうして数分の間、同じことを変わらずに続けていたクライドだったが。不意に、まるで時間が止まったかのように固まって。かと思えば、今机の上に広げたその紙を、徐に払って。すぐさま、自分が腰掛けている椅子の横に。無造作に積み上げられ、山の体を成す紙束の、一番上を手に取り。

 

 バァンッ──机を粉砕するかのような勢いで、手に取ったその紙を机上に叩きつけた。

 

 そして透かさず、ペンを頭上高くまで振り上げ。

 

「死ね」

 

 と、低く静かに呟き。今し方机上に叩きつけ、広げたその紙に──────────クラハ=ウインドアの全身象が描かれた、その紙に。何処か困ったような笑顔を浮かべる彼の顔に、寸分の違いもない狙いを定めて、ペンを振り下ろし。

 

 

 

 

 

 ダンッッッ──未だ鋭く尖った光を放つそのペン先で、クラハの顔を突くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「潰す」

 

 と、言われ。ただの幻想に過ぎず、何のことはない錯覚でしかない。しかしこれ以上にない程に確かな現実味を帯びた、あまりにも生々しい己の最期を。その過程と結果の全てを包み隠さず見せつけられたクライドは、声にならない悲鳴を。まるで喉奥から絞り出すように、しかしそれでも掠れた、引き攣ったような悲鳴を。それしか、漏らせず。

 

 意志を挫かれ、精神を折られ、心までも砕かれたクライドは。もはや用無しと言わんばかりに掴まれていた頭を、乱雑にラグナから手放され、解放されたが。

 

 目を虚ろにさせ、蹲り。しばらくの間、その場に留まって放心し。そんな有様のクライドを、ラグナは。一瞥することもなく、身を翻し、その場から歩き出す。

 

「にしても扉どうすっかな……あー、クソ。GM(ギルマス)に怒られる……」

 

 などと若干憂鬱そうに呟くその様から、ラグナにとってクライドなど、もう気に留める必要がない、もうどうだっていい存在になったことが窺える。まあ、事実そうなのだが。

 

 ともあれ、ラグナは突然この場に現れたかと思えば、あっという間に去ってしまった。まるで、嵐のように。その天災じみた彼の気紛れさに、誰しもが呆気に取られる最中。

 

「……ぁ、ぁ…………あ」

 

 まるで死んでしまったかのように────いや、実は本当に死んでしまって。けれど何かしらの奇跡が起こり、息を吹き返した────という訳があるでもなく。

 

 数分の間、その場に蹲っていたクライドが。恐る恐ると、顔を上げ。まるで捕食寸前にまで追い詰められた小動物のような顔つきで、周囲を見渡す。

 

「あ、ああ……ああああ…………」

 

 そんなクライドが、周囲の視線を集めないはずもなく。だがそれが、他でもない人々の視線が。彼を限界以上に追い込んでしまった。

 

「ああああああああ……!」

 

 涙を流しながらに、クライドは情けなく呻き。突如、バッと彼は地面から立ち上がって。

 

「ああああああああああああああああああああああッッッッッ!!!!!」

 

 と、こちらの耳を(つんざ)く悲鳴を上げるや否や、その場から駆け出し。途中何度も転びそうになりながらも、その情けない姿を街中の人間に見られながらも。彼は、逃げ出した。

 

 

 

 

 

 それから数日の間は、誰もクライドの姿を目にすることはなかった。



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崩壊(その四十三)

 抱いた恐怖が限界を振り切り、奇声と紙一重な絶叫をその口から迸らせながら。道中、何度も派手に素っ転びかけるまでに不安定で危なげな、側から見たらただただ、甚だしく滑稽な足取りで。脇目も振らず、その場を後にしたクライド。

 

 ファース大陸を代表する冒険者組合(ギルド)にして、同じくサドヴァ大陸の『影顎の巨竜(シウスドラ)』、フォディナ大陸の『輝牙の獅子(クリアレオ)』に並び『三獣』と称される強豪組合の一つ────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』。

 

 その『大翼の不死鳥』に所属する、有数の《A》冒険者(ランカー)。それに加えて人域の範疇に在る剣技、その一種の到達点、【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】の会得を果たしたことで。栄えある剣聖の一人に数えられ、技と同じ異名────『閃瞬』と呼ばれるようになった、シエスタ家十二代目当主であるクライド=シエスタ。

 

 並いる他者からすれば、自分たちなど遠く及ばない程の選ばれし者。華々しく輝かしい人生を約束された者────そんなクライドが。

 

 あのような。あんな、無様極まりない醜態を。こちらの眼前でこれでもかと見せつけてきたら。誰だって、どんなに無関心であっても誰だって、否が応でも注視してしまうだろう。

 

 そして誰もが皆、彼に対して抱いた失望を更に加速させるのだった。

 

 ……そう、失望だ。オールティアの人々は今や、クライドに対して失望していた。あのクライド=シエスタを、剣聖と謳われ『閃瞬』と呼ばれる彼を。

 

 それは本来であればあり得ない、あるべくもない、あってはならないことだ。

 

 だが、それは無理もない。いや、(むし)ろ仕方ないのだろう。クライドともあろう者が晒した無様な醜態に加え、あんな事実が知られてしまえば。人々から失望されるのも、止むなしというものだ。

 

 事実────先日、人の往来が激しい大広場にて、どこにでもいそうな至って普通の男が。突如として、周囲にばら撒いた魔石。その魔石に封じ込められていた魔法────【映億追想(ヴィジョン)】。

 

 数多く存在し、世に知られている汎用魔法の中でも高等な部類に位置する【映億追想】が見せた、その嘘偽りのない、誤魔化しようがない、紛れもない光景(じじつ)

 

 

 

 

 

『僕は彼と同意見さ。悪いけど、そう簡単には認められないな……クラハ=ウインドア君』

 

 

 

 

 

 その第一声から始まった、あまりにも身勝手な理由からによる一方的な決闘。その上の、呆気なさ過ぎる敗北。

 

 この世界(オヴィーリス)にて一番信憑性が高く、確実である情報源とは他でもない、この【映億追想】であり。口伝による誇張や、新聞に於ける誤報(デマ)も。この魔法ではまず、発生する心配はない。というより【映億追想】の性質上、誇張も誤報も発生のしようがないのだ。

 

 それ故に、その光景を目にした全員は思わざるを得ない。この日、この時。剣聖、『閃瞬』のクライド=シエスタは────敗北したのだと。それも誰も彼もが見知らない、若輩の冒険者(ランカー)に。

 

 失望、幻滅、落胆。オールティアの誰しもがそういった感情(もの)を胸中に抱いて向けるその最中、当人たるクライドといえば。

 

「どうして、どうして、どうして……僕が、この僕が?こんな?こんな目に遭っているんだ?遭わなきゃいけないんだ?遭わされなければ、ならないんだ……!?」

 

 逃げ込むようにして駆け込んだ宿屋(ホテル)の一室の、寝台(ベッド)の上にて。膝を抱えて座り込みながら、正気とは思えない目つきをしながら、ぶつぶつと呟いていた。ここ数日間、彼はずっとそうし続けていたのだった。

 

「僕はクライド=シエスタだぞ……僕は剣聖、『閃瞬』のクライド=シエスタなんだぞ……!《A》冒険者(ランカー)で剣聖で『閃瞬』で、なのにそれなのに……一体どうして()()()である僕が……ッ!?」

 

 被害者────そう、クライドは思っている。何の疑問も欺瞞もなく、自らは紛うことなく被害者であると。今回の事態に於ける、被害者以外の何者でもないと。クライド=シエスタという人間は、本気でそう固く、思い込んでいるのだ。

 

「全て、全て全て全て悪いのはあいつなのに。終始徹頭徹尾非があるのは、あいつ……()()()の奴じゃないか。クラハこそが諸悪の根源、事態の元凶、是が非でも()()()なのはクラハ=ウインドアじゃあないかッ!?だのにッ、だというのにッ!どうして僕がこんな目に遭わなければならないんだァッ!!」

 

 そしてそれと同時に、やはり疑問も欺瞞もなく。クライドはそう思い込み、完全に信じ込んでいた。

 

 ……礼節と常識の下に、至って正常な思考と健全な精神を持ち。罪を悪と感じること────即ち、罪悪感。それが十二分に育まれた人間であれば。普通、そんな風には捉えない。

 

 だが、残念ながらクライドはそうではなく。彼は自分に咎められる謂れはないし、当然責められる非もないと。疑う余地すら残さず、そう思っている。思ってしまっている。

 

 何故ならば、自分は()()()()()()()。他の有象無象とは明白に、明確に、明らかに違う()()()()────それに対し。

 

「第一あの日、あの時!僕に黙って素直に負けてれば良いものをッ!卑怯な手に頼って!姑息な手に縋って!無理矢理必死になってまで、僕にィ!このぼくに、《A》冒険者(ランカー)に剣聖に『閃瞬』にクライド=シエスタにィィィッ!!勝ちやがったからァァァァアアアアッッッ!!!」

 

 クラハは特別でもない。クラハは選ばれてもいない。クラハはただの有象無象、何の価値もない────それこそ塵芥(ゴミ)屑滓(クズカス)と同等、否もはやそれ以下。

 

 クラハ。クラハにこそ、他の誰でもないクラハ=ウインドアこそが。非を有する加害者で、咎めも責めも受けて然るべき人間。断罪の裁きを与えられるべき、悪そのもの────クライドにとってそれが揺らがない虚構(しんじつ)で、覆らない虚実(げんじつ)なのだ。誰が何と言おうと、誰に何と言われようと。

 

 そんなクライドを他者が側から見れば。恐らく誰だって例外なく、こう評するはずだ────怪物、と。驕り高ぶった自尊心と膨れ過ぎた虚栄心に囚われた、醜悪極まりない怪物であると。

 

 そんな世にも悍ましく、そして哀れな怪物に成れ果てているとも自覚しないままに、クラハに対して。クライドは純然たる悪意を以てひたすらに彼への憎悪(ことば)を吐き捨て、怨恨(ことば)を吐き散らす。

 

 そうしてやがて、それは凄まじく強烈無比極まる────

 

「ああ、ぁぁぁ……あ゛あ゛あ゛あ゛ッ……!」

 

 ────誤魔化しようのない、嘘偽りのない。そしてどうにも、どうしても堪え難い殺意に変質し。

 

「殺────

 

 

 

 

 

 ────潰す────

 

 

 

 

 

 ────ッッッ!!??あああッ!あああああああああッ!?」

 

 そうしてそれを口に出そうとした直前で、鼓膜にこびりついて離れない、その何処までも無情で冷淡な声が響いては。途端に一瞬で顔面蒼白となり、途轍(とてつ)もない恐怖に表情を情けなく歪ませ、怯えながらに絶叫を部屋に撒きながら、クライドは寝台(ベッド)に蹲る。

 

 寝台全体が揺れて動く程に身体を震わし、息吐く暇も全くないまでに尋常じゃなく、ひっきりなしに目を泳がせ。そんなクライドが再び落ち着きを取り戻すのには、数分の間も要し。

 

「……どうして、どうして……どうしてクラハが、クラハみたいな塵芥(ゴミ)の、屑滓(クズカス)が……一体何の間違いで、よりにもよってブレイズさんに、あそこまで……ッ?」

 

 そしてまた、最初の状態に戻る。そのようなことをここ数日の間、クライドは延々と繰り返している訳だが。

 

 コンコン──その時、突然この部屋の扉が外からノックされ。瞬間、まるで射殺すように鋭く、クライドが扉を睨みつける。

 

「何だッ!?ルームサービスは頼んでないぞッ!!」

 

 と、扉越しに立っているだろうこの宿屋(ホテル)の従業員に。理不尽にも怒声を飛ばすクライド。しかし、その怒声に屈することなく、扉の外に立つ者は。至って平然とした声で言った。

 

「クライド様。私です」

 

「ああッ?……待て。その声……」

 

 クライドにとって、扉の外から聞こえてきたその声は覚えがあり。恐る恐る、確かめるように彼が呟く。

 

「まさか、ジョーンズか……?ジョーンズなのか……?」

 

 と、クライドに訊ねられ。扉の外にいる者が────ジョーンズが返事をする。

 

「はい。ジョーンズです。ジョーンズ=マッカンベリー……執事(バトラー)のジョーンズでございます」

 

「ジョーンズ……何故、お前がここに?どうしてお前がこんなところにいる?」

 

 ジョーンズ=マッカンベリー────シエスタ家に代々仕える執事であり、余程のことがない限り彼が屋敷を出ることはまずない。

 

 つまり、その余程のことがあったから、ジョーンズは今ここにいる訳で。最初こそ皆目見当もつかないでいたクライドであったが。不意に、彼の頭の中で一つの憶測が立ち。

 

 ──……まさか、まさかまさかまさかまさか……っ!

 

 瞬間、クライドは猛烈に嫌な予感を覚えて。そしてそれを助長するように────

 

 

 

「クライド様。一旦、お屋敷にお戻りください。……カイエル様がお呼びです」

 

 

 

 ────父の名を出して、ジョーンズは固まって黙り込む彼にそう言うのだった。



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崩壊(その四十四)

「久しいな、クライド」

 

 豪奢絢爛────などということはなく。しかし、見る者が見れば気づくだろう。

 

 一通り揃えられた家具の数々は貴族に相応しい代物であり。また過剰でも不足でもない程度に飾られている調度品は、そのどれもが確かな気品を持ち合わせている。

 

 そんな、華美と実用の両方を兼ね備えた、執務室にて。これまた全体に落ち着いた、それでいてそこはかとない高級感を、自然に漂わせている執務机に肘を乗せ。その机に合わせて作られたのだろう椅子に座る、その男は。開口一番、そう言うのだった。

 

「……お久しぶりです……父上」

 

 対し、姿勢正しくその場に立ち。その顔をやや強張らせつつも、平常に挨拶を返すクライド。

 

 父上────そう、クライドが言った通り。今彼の目の前にいる男こそ、シエスタ家十一代目当主。そして他の誰でもない、クライドの父親────カイエル=シエスタ。彼もまたシエスタ当主に相応しい刺突剣(レイピア)使いの名手であり。質実剛健の、紛うことなき傑物(けつぶつ)である。

 

 そのカイエルは。息子であるクライドを一瞥し、少しの間を置いてから、再度その口を静かに開かせる。

 

「お前が家を発ってから二年。見ればわかる……腕を上げたようだな、我が息子よ」

 

「お褒めに預かり光栄です父上。ええ、僕は……このクライドは日々の鍛錬を怠ることなく研鑽を重ね、実力の向上に邁進しております」

 

「ふむ。結構」

 

 クライドとカイエルの会話はとてもではないが、親子のそれとは思えず。まるで身分の差が如実に表れている、他人同士のようにしか聞こえないし、そのようにしか見えない。

 

 だが何を隠そうこういった会話こそが、二人の会話なのだ。父親(カイエル)息子(クライド)の会話に他ならないのである。

 

 またしても押し黙るカイエル。それに準ずるクライド。そうして二人の間で、とてもではないが親子の間で到底流れ得ないだろう、重苦しい静寂が流れて、(しば)し。

 

「時にクライド。覚えているな?このシエスタ家の家言(いえごと)を。お前が幼い時から家を発つ二年前まで、ずっと聞かせてきたそれを」

 

 瞬間、堪らずクライドは固唾を呑む。危惧して恐れ慄いていたことが、だがそれはまだ己の憶測であり想像に過ぎないことが。目前にまで迫り、徐々にその距離を詰めているように思えて、仕方なくて。

 

 しかしそれを半ば無理に無視して、できるだけ平静を装いながらに、クライドは答える。

 

「『シエスタ家当主たる者、その生涯全て常勝不敗で在れ』……はい。覚えています、父上。この教えを、僕は一時一瞬でも、忘れたことはありません」

 

 クライドは祈る。どうかこの時不覚にも頬に流してしまった、一筋の汗を気づかれないようにと。

 

 そして願った。どうか、自分が抱いている不安が、ただの何ということはない杞憂に終わりますようにと────が、クライドは知らない。まだ歳若く経験の少ない彼は、そうであるとは知る由もない。

 

 願いは脆く砕けやすい、尊く儚いもの。故にだからこそ────

 

 

 

 

 

「素晴らしい。ではクライド、お前……これに見覚えはあるか」

 

 

 

 

 

 ────叶うことはないということを。

 

「────」

 

 その問いかけ────否、確認の言葉と共に。徐にカイエルが懐から取り出した、()()()()を目にして。堪らず、クライドは己の心臓が鷲掴みにされたような錯覚を覚える。……いや、本当にただの錯覚であったのなら、どれだけ良かったことか。

 

 息が詰まる。すぐさま返事をしなければならないと、頭ではわかって、きちんとそう理解しているのに。自らの意に反して、口が思うように開かない。

 

 ──まずいまずいまずいまずいまずい。

 

 切羽詰まり、焦燥に捕らわれたクライドを見やり。カイエルは僅かに、クライドに気づかれないように伏せ。しかしすぐさま平常通りに戻して、彼はただ一言、息子へ告げる。

 

「そうか」

 

 そう告げるや否や。今頃になってようやっとその口を開かせ、何かしら口走ろうとしたクライドを尻目に。

 

 カイエルは自らが取り出した魔石に、魔力を走らせる。そうすることによって魔石を自身の意識下に掌握した彼が、魔石に命じる────砕け散れ、と。

 

 パキンッ──瞬間、魔石全体に細かい(ひび)が生じ。それは(たちま)ち亀裂になったと思いきや、まるで硝子(ガラス)のような澄んだ音を立てて、砕けるのだった。

 

 

 

 

 

「……さて。我が息子、クライドよ」

 

 役目を終えた【映億追想(ヴィジョン)】が途端に魔力の粒子となって、溶けるように宙に霧散し消えると同時に。

 

 もはや無言のまま、その場に固まるしかないでいるクライドに対し、あくまでも毅然として落ち着いた声音でカイエルは呼びかけ。続けて、彼はこう言う。

 

「先程口にした家言、もう一度言ってみるがいい」

 

 今し方、滞りなく、淀みなくするりと。口から出ていたその言葉を、しかし今度ばかりはクライドは出せず。そんな彼を一瞥し、カイエルが言う。

 

()()()()()、な?」

 

 その直後、ハッとしたように。声が上擦るのも構わずに、クライドが叫んだ。

 

「お、お待ちください父上ッ!違います、違うのですよこれはッ!」

 

 クライド自身、それが最悪手だということは────

 

 

 

 

 

『言うことあるか?』

 

『こ、ころ、殺さ……ないで、くださ……』

 

 

 

 

 

 ────あの時、あの時以上に。当然の如く、わかり切っていた。だが、それでも彼はその最悪手(ことば)を口にしてしまう。

 

「ぼ、僕は負けてなど……いません!決してッ!クラハに、あんな輩にこの僕が負ける訳ないでしょう!?きっと何か要因(カラクリ)が……そ、そうですッ!卑劣な手段を、卑怯な手を用いたに違いないクラハの奴はッ!!それしかない!でなければ、このクライド=シエスタに勝てる訳、ないッ!!」

 

「……」

 

 焦りのあまり、クライドは気づかない。気づけるはずもない。普段であれば、気づいていた────側から見れば特に変化がないかのように思える、カイエルの顔が。徐々に、徐々に険しくなっていることに。

 

 そしてそれに気づけないが為に、クライドは更に続ける。更に、自分の首を締めていく。

 

「ああそうだ……でなければ僕に勝てない……勝てる訳がないんだ。卑劣な手でも卑怯な手でも使ってなければ……ただあの時あの一瞬、僕よりも……運に恵まれてなければ……そうです!父う────

 

 ゴッ──突如、クライドの視界が急激に揺れ動いた。少し遅れて、それは自分の頭自体が揺れ動いたからだとクライドは理解すると共に。彼は右頬に広がる鈍い痛みと、そのすぐ内側で滲み出す血の味を感じるのだった。

 

 ────…………え……?」

 

 クライドが気がついた時には、カイエルは既に彼の眼前に立っており。そうして今し方、振り上げたその拳で以て、一発。

 

 とっくのとうに、他の誰でもない、己が血を分けた息子の頬を殴り終えていたのだった。



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崩壊(その四十五)

 ──な、ぐられた……殴られた?殴られた、殴られた殴られた……僕が父上に殴られたァッ!?そんなこと今までなかったのに、一度も殴られたことなんてなかったのにィ……ッ!?

 

 騒然混迷を極めんとす心境に相反し、呆然自失とするしかない面持ちを浮かべ、ただその場に突っ立つ他にないクライド。

 

 そんな彼に対して、カイエルは静かに、けれど有無を言わせない確かな迫力と凄まじい気魄をこれでもかと押し出しながら。遠慮なく、容赦なく怒声を浴びせかける。

 

「見損なったぞ我が息子よ……よもや、お前ともあろう者が、そのような腐った世迷言を口にするとは……クライドッ!二年も見ない間に、こうも見下げ果てた男になるとはな!!」

 

 それは嘘偽りのない、紛れもない心の底からの本音。純然たる怒りの本音。それは呆然とするクライドを更に硬直させるには充分で、そして十二分に過ぎた。あまりにも過剰であった。

 

 殴られた頬を手で押さえ、放心するしかないでいるクライドに、もはや一瞥すらもくれず。彼のことなど捨て置いて。カイエルは彼に背を向け、窓の方を見やりながら。

 

「……クライド。このことを知ってから、ずっと考えていた。そうしようか、しまいか……決め(あぐ)ねていた。が、今のお前を見て、今し方の言葉を聞いて……私は決めたぞ」

 

 と、先程の怒りはまるで消え失せた────あくまでもそのように思えるだけだが────声音で。淡々と言い、そして淡々と告げる。何の躊躇もなく、クライドへと伝える。

 

「お前にはシエスタの家名を捨ててもらう。今後一切、お前がシエスタを名乗ることを私は許容しない。決して……決してな、クライド。我が息子めが」

 

 ……それこそ、クライドが最も恐れていたこと。そうであってほしくはなかった、最悪の結果。どうしようもない、結末。

 

 そうして今や、それは確かな、覆らない現実と化し。こうして今や、それと対面し、直面したクライドは。

 

「…………」

 

 何も、言わなかった。一言も、発さなかった。そんなクライドに対して、カイエルもただ一言、最後の言葉を贈る。

 

「話は以上だ。()く去れ、息子よ。そして二度と、この屋敷の敷居を跨ぐな……クライド」

 

 父、カイエル=シエスタ直々に。面と向かって────はないが、しかし。他の誰でもない父当人から勘当を言い渡され。

 

 クライドはやはり何も言わず。ただの一言も返すことなく。まるで錆の浮いた古い機械人形(マシンドール)のようなぎこちなさで、身を翻し、踵を返し。

 

「……」

 

 そして沈黙したままに、この執務室から去るのであった。それ故に、クライドは知る由もない────窓に顔をやるカイエルが今、まるで苦虫を噛み潰したかのような表情を。言いしれようのない後悔と罪悪感に、苦しげに歪んだその表情を浮かべていたことなど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋敷の侍女(メイド)や、彼女たちを統括する執事(バトラー)であるジョーンズに見送られ。そうして、オールティアへと再び戻って来たクライドは。周囲から向けられる視線や、声を潜めて何やら言い合っていることなど、まるで眼中になく。

 

 ──どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

 

 ただひたすらに、そう心の中で呟く。

 

 ──何で何で何で何で何で何で何で何で。何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故。一体何で一体何故一体何で一体何故一体何で一体何故一体何で一体何故。

 

 ただそれだけで、頭の中を埋め尽くす。

 

 ──誰が悪い誰が悪い誰が悪い誰が悪い誰が悪い誰が悪い誰が悪い誰が悪い。父上父上父上父上父上父上父上ラグナ=アルティ=ブレイズラグナ=アルティ=ブレイズラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 クライドの中で、もはやそれしかなくなる。

 

 ──違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。

 

 それしか、なくなっていく。

 

 ──クラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハ。

 

 そうして、クライドは行き着く。彼は辿り着く。

 

 ──クラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハ。あの塵芥(ゴミ)あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの塵芥あの屑滓(クズカス)あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓あの屑滓。

 

 正気の崖際、そこから身を投げ出し。狂気の谷底へと、そうして落ちていく。

 

 ──塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥塵芥屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓屑滓。

 

 そして落ちる最中。クライドは、人で在る為のそれを。本来であればどんなものよりも、何ものよりも代え難いそれすらも、彼は──────────

 

 

 

 

 

「……」

 

「ん?なんだお客さんか?アンタ運が良い。実に幸運だ。もしよかったら見てってくれよ。俺ぁしがない絵描きでね、こうやって道端に布敷いて、絵を描いて、そんで売ってるんだがよ。気に入った絵があったら遠慮なく言ってくれ。あ、ちなみに今のオススメは……ずばりこれだ。今何かと話題になってる、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の若い冒険者(ランカー)さ」

 

 ふとした拍子に視界に留めたそれを、店主の男が手に取り、こちらの眼前に無遠慮にも突きつける。他のことなど眼中になかったクライドであったが、それは。それだけは、そればかりは。否応にもなく、見てしまった。

 

「……おや?ところでお客さん、こっちの見間違いとかじゃあなきゃ、もしやアンタ……」

 

 と、呆れたことに今頃になって、こちらの顔をよく見て確認し出した店主の男。しかし、そんな彼には目もくれず、突如クライドは魔法を発動させる。

 

 それは物体であれば如何様なものでも収納を可能にする、世間でも一般的であり冒険者(ランカー)であれば誰だって当然のように使っている汎用魔法────【次元箱《ディメンション》】。それを応用したもの。

 

 ジャララララッ──虚空に空いたその穴から、大量に滑り落ちてくる金貨。その金貨は瞬く間に黄金の小山を築き上げるのだった。

 

「……えっ?あ?ア、アンタ……?」

 

 人生の最中で、こんな文字通りの大金の山を目にするのは初めてだということを、これ以上になくわかりやすい反応で教えてくれる店主の男に。淡々と、クライドは告げる。

 

「寄越せ。ありったけ全部、寄越せ」

 

 そして店主がこちらの眼前に突きつけてきたその一枚の絵を────クラハ=ウインドアが描かれた絵を指差すのだった。



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崩壊(その四十六)

「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

 

 ダンッダンッダンッダンッダンッ──ただひたすらに呟き。ただひたすらに刺す。このクラハの絵を買ったその日から始めて、今に至るまで。果たして、これで何回目だろうか。何回繰り返したのだろうか。

 

「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

 

 ダンッダンッダンッダンッダンッ──しかし、もうどうでもいい。これで何回目だとか、何回繰り返しただとか、もはやどうだっていい。

 

「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

 

 ダンッダンッダンッダンッダンッ──クライドには関係ない。例え何十、何百、何千、何万と繰り返そうが。彼にはもう、止められないのだ。止めようにも止められない。今更止まろうにも、止まることなどできやしない。

 

「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

 

 ダンッダンッダンッダンッダンッ──そうして、また。その行為を終えたクライドはその絵を机上から払い、流れるようにまたしても足元へと手をやり。

 

「……」

 

 クライドの指先が、宙を掻いた。予期していなかったその感覚に、彼は無言のまま視線だけを足元に向け、そして思い知る。

 

『寄越せ。ありったけ全部、寄越せ』

 

 と言って、そこに無造作に積み重ねたはずの、あの紙の山は。いつの間にか、一枚たりともなくなっており。そのことに呆然とした疑問を抱きながら、ふとクライドは周囲を。部屋の中を見渡す。

 

 部屋の床は、その紙で埋め尽くされていた。その紙全てに、顔に穴を穿たれた人間が描かれており。それを目の当たりにしたクライドが、静かに呟く。

 

「どうしてだ……?どうして僕がこんな目に遭う……?どうして僕ばかり……?一体どうしてこの僕ばかり、剣聖の僕ばかり、『閃瞬』の僕ばかり、僕、僕、僕……クライド、シエスタ…………」

 

 人間、やることがなければ。他にやることもないのなら、誰にそうしろと言われた訳でもなく。こうして、自然と考えてしまう生き物だ。時間の許す限り、深く考え込んでしまう生き物なのだ。そしてそれは、クライドも例外ではない。

 

 良くないと。それは良くないことであると、クライド自身わかっている。それを考えれば考える程、その思考に囚われれば囚われる程に。

 

 心が歪み、腐り、潰える。そんなことは、他の誰でもないクライドこそが、一番わかっていた。

 

 だからこそ、こうしていたというのに。ほんの僅かな間であったとしても、思考を逸らし。はぐらかそうとしたというのに。

 

 だが紙は終わった。もうない。行為が止まった。もうできない。それ故に、クライドは考えてしまう。

 

「ブレイズさん……父上……クラハ=ウインドア……」

 

 そう呟く傍ら、クライドの脳裏で。唐突に、弾けた。

 

 

 

 

 

『……すみません』

 

『僕はこれで失礼します』

 

 

 

『俺の後輩に、何してんだ』

 

『言うことあるか?』

 

『潰す』

 

 

 

『素晴らしい。ではクライド、お前……これに見覚えはあるか』

 

()()()()()、な?』

 

『見損なったぞ我が息子よ……よもや、お前ともあろう者が、そのような腐った世迷言を口にするとは……クライドッ!二年も見ない間に、こうも見下げ果てた男になるとはな!!』

 

『今のお前を見て、今し方の言葉を聞いて……私は決めたぞ』

 

『お前にはシエスタの家名を捨ててもらう。今後一切、お前がシエスタを名乗ることを私は許容しない。決して……決してな』

 

 

 

 

 

 それらの記憶が弾けて、散って、撒かれ、混ざって、合わさって。そうして、クライドの脳裏を侵食し、腐食させていく。瞬く間に精神が蝕まれ、歪まされ、挙げ句の果てに(ひしゃ)げて崩れて、壊れていく。

 

 嗚呼(ああ)。嗚呼、嗚呼どうすれば。一体どうすれば、一体どうしたら。この苦しみから抜け出せるのだろうか。自分は解放されるのだろうか。

 

 自分にはわからない。誰も教えてくれない。故にだからこそ、己は救われない()()()()()()。報われることのない、被害者なのだ。

 

「僕は……この僕は……」

 

 そうして、不意に。まるで他人事のように、クライドは脈絡もなく思う──────────部屋に落ちている紙、この宿屋(ホテル)の従業員に捨てさせないと、と。

 

「……………………捨て、る?」

 

 瞬間、クライドの思考が跳ねる。まるで雷にでも打たれたかのように、彼の思考が爆ぜる。

 

「捨てる、捨てる、捨てる……?捨てる。捨てる捨てる捨てる捨てる捨てる捨てる捨てる捨てる捨てる捨てる捨てる捨てる……………………あ、は……はは、ははは……」

 

 それがまさに、一寸先すら見えぬ闇の最中に。一筋の弱々しい、けれども比にならぬ程に凄まじい光明が差した瞬間に他ならず。

 

 濁り澱んでいたクライドの瞳が、途端に生気が灯る。その勢いが秒刻みに増す毎に、彼は震える声で呟く。

 

「そうか……そうだったか……は、は、そうだったんだ…………そうだったなぁ!ははははははっ!」

 

 クライドの瞳に灯るその生気に、言いしれようのない不穏さが滲み。それは瞬く間に誤魔化せない怪しさと、無視できない危うさへと転じ。

 

「よく考えればわかることだった。よくよく考えてみれば、当然のことだったじゃあないか!?()()()()()()()()()()、荷物は多ければ多い程重いし苦しいし辛いのは当たり前だよな……そうだよなあッ!?あははははッ!!」

 

 そして爛々とした輝きへと成り果てた。そのことに気づかないまま、自覚してないままに。裂けて血が出るまでに、その口端を吊り上げて。クライドは笑う。笑い続ける。

 

「あはッ!はははっ、ははッ!だったら、だったらぁ!そうだったらあッ!捨ててしまおう!!そうしたら、もう重くない!苦しくない!辛くない!ない!ない!ないッ!!はははははははッッッ!!!」

 

 父、カイエルがそうしたように。彼がそうすると決めたように。息子であるクライドもまた決めた。そうすると、彼は決めた。

 

「はは、ははは……いらない。いらないいらないいらないいらないいらない……もういらない。全部いらない!もう捨てよう!全部捨てよう!剣聖、『閃瞬』、家名(シエスタ)……捨てようじゃあないかッ!?そうだ、僕にはもうこれ一つあればいい……これだけでいい……!」

 

 と、歓喜と瓜二つの、しかし根本的に、もはや本質的には全く違う類の。目にする者全てに嫌悪と忌避、そして恐れを抱かせる、満面の笑みを以て。クライドはそう叫ぶや否や、椅子から飛び跳ねるように離れ。床の紙の一枚を手に取り、それを頭上へと掲げてみせる。

 

「これさえあれば……これさえあるなら。それで僕はこの僕だ!あはッ!あはははははッ!あッははは!ははははッ!ははははははッッッ!!!」

 

 そうして、クライドは笑い。大いに笑い、いつまでもずっと、そうやって笑うのだった。



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崩壊(その四十七)

「……」

 

 その日も、また。そうして日常(いつも)通り、男────カイエルは。剣聖、『閃瞬』のクライド=シエスタの父親であり。彼の先代に当たるシエスタ家十一代目当主、カイエル=シエスタは。

 

 日々の執務を淡々とこなし、順調に片付けていく────()()()()()()。今日ばかりは、否ここ最近はそうではなく。自分でも情けない話で、これもただの言い訳でしかないということも重々理解しているが。とあることが原因で、今カイエルは執務に専念することができないでしまっていた。

 

 そのとあることというのは言うまでもなく────クライド。他の誰でもない息子の、クライドのことである。

 

「…………」

 

 今日より数日前、カイエルはクライドをこの屋敷に来させた。その理由は────

 

 

 

 

 

『僕は彼と同意見さ。悪いけど、そう簡単には認められないな……クラハ=ウインドア君』

 

 

 

 

 

 ────そのことについて。自分の(あずか)り知らないところで、自分の息子が身勝手な理由からによる決闘を繰り広げたことに関してだ。

 

 自らがそうされたように、そうであったように。カイエルもまた、己が息子であるクライドにもそうした。幼少期から屋敷を発つ二年前の日まで、彼に言って聞かせた。

 

 シエスタ家当主たる者、その生涯全て常勝不敗で在れ────シエスタ家が始まって以来、一字一句欠けることなく継がれてきたこの家言を。自分が父にそうされていたように、そして父が祖父にそうされていたように────カイエルはクライドにもそうした。

 

 何故なら、それが正しいと思っていたから。これが正しいのだと、カイエルは信じていたのだから。

 

 別にこの家言が間違っているとは考えていないし、今更否定しようとも思わない。しかし────ふと、カイエルは些細な疑問を抱いた。果たして、本当にこれでいいのかと。

 

 確かに人生、勝てねば意味はない。勝たねば、何も得られないし、何も変えられないし、何も始められない。

 

 何かを得たいのなら。何かを変えたいのなら。何かを始めたいのなら。まずは、勝たなければならない────けれど、だからといって、()()()()()()()()()()()。……はずだ。そのはずだ。

 

 そも、負けたことがないということは。それ即ち、成長の機会(チャンス)もないということ。成長の機会が訪れない人間の行末(ゆくすえ)など、たかが知れている。現に今の自分がこうなのだから。

 

 認めたくはないが、自分が────シエスタ家がこうして現代(いま)も、敗北を知らないままに続いたのは。ただただ、運に恵まれていたとしか言いようがない。

 

 それ故に、カイエルは些か遅くも、疑問に思ったのだ。そんなシエスタ家(じぶんたち)は、正しいのか。これで本当にいいのか、と。

 

 そして疑問に思ったまま、答えもわからないままに。それをクライドに対して強要しても良かったのだろうか────その結果を、数日前。カイエルは目にした。目にして────

 

 

 

『ぼ、僕は負けてなど……いません!決してッ!クラハに、あんな輩にこの僕が負ける訳ないでしょう!?』

 

 

 

 ────彼は、後悔した。身が切り裂かれ、心が張り裂ける程の後悔に襲われた。

 

 ──すまないクライド……全て、全ては私の所為だ。私の不甲斐なさが招いた結果だ……。

 

 もう数分前から止まってしまっているペンを、静かに机上に起き。それからカイエルはすっかり冷めてしまった珈琲(コーヒー)を少し啜る。……こんなにも苦いのは、単に角砂糖を落としていないからだけではないだろう。

 

 やはり、間違っていた。祖父や偉大なるシエスタの先祖たちまでもが……とは流石に言わないが。しかし、少なくとも自分は間違っていたとカイエルは自責の念に駆られる。

 

 早く気づくべきだった。もっと早く気づくべきであり、そして別の形で答えを出すべきだった。だが、もう遅い。何もかもが、もはや遅い。

 

 ──故にだからこそ、手遅れとは知りつつも……私は決めた。そう決めたのだ。なあ、そうだろう……?

 

『お前にはシエスタの家名を捨ててもらう』

 

 ──愚かな私。愚かな、カイエル=シエスタよ……。

 

 間違えた自分は。とっくのとうに間違えていた自分は、もうどうにもならない。

 

 だが、クライドは違う。息子はまだ違う。まだ、間に合うはずだ。こんな自分とは違って、まだ年若い青年で、輝かしい希望と未来があるのだから。

 

 ──私には確信がある。クライド、お前はシエスタ家歴代当主の中で唯一、敗北した……否、知った。それはつまり、私を含めた全当主の中で唯一、成長の機会を得たということに他ならない。

 

 クライドであれば、きっと。否、必ず己のものにし、糧にするだろう。その確信が、カイエルにはあった。

 

 ──成長を遂げたお前は、シエスタ家に変革を(もたら)す。今までのシエスタ家(わたしたち)を覆し、新たなシエスタ家の創始者(はじまり)となるだろう。惜しむらくは、私がそれを十全には見届けられないということ……実に、無念だ。

 

 と、心の中で()()みと呟き。カイエルはカップをまた机上へと置いて、何を思うでもなく窓の方を見やる。

 

 ──……あの日とて、本当はあんなことを言うつもりなどなかった……。

 

 そして何度目かもわからない程に、思い返したあの日のことを。またしても、カイエルは思い返す────想起させる。

 

()()()()()、な?』

 

 我ながら、酷い物言いだ。それに説得力などないに等しいだろうが、別に責める()()()()()()()()

 

 ──昔から妻にも言われ、呆れられた……私は不器用だと。全く以てその通りで、返す言葉もなかった。

 

 他にもっと言い方があった。上手い言い方など、幾らでもあった。

 

『見損なったぞ我が息子よ……よもや、お前ともあろう者が、そのような腐った世迷言を口にするとは……クライドッ!二年も見ない間に、こうも見下げ果てた男になるとはな!!』

 

 だが、あの時の熱くなっていた自分の理性(あたま)では、ろくな言い方が思いつかず。

 

『お前にはシエスタの家名を捨ててもらう。今後一切、お前がシエスタを名乗ることを私は許容しない。決して……決してな、クライド。我が息子めが』

 

 結局、そんな突き放すような言葉をかけてしまった。そんな突き放すような言葉をかけてしまったことを、今でもこうして、カイエルは後悔しているのだった。

 

「…………気にするな。敗北は恥ずべきことではない。それはお前を更なる高みへと誘う、他のどんなものよりも……」

 

 依然として窓の外を見つめながらに、独り静かに言葉を紡ぐカイエル。だがそれは今更でしかなく、そして無意味だ。無意味であると、彼は重々理解している。

 

 ──やはり駄目だな、私は。他ならぬ自分の息子だというのに、まるで他人行儀のような褒め言葉しか出てこない。父親失格か……。

 

 堪らず、そう嘆いて。けれど、それでもカイエルはそうでありたいと思う。ただ一人の、クライドの父親で在りたいと切に願う。故にだからこそ、深い感謝の念を抱いた。

 

『……すみません』

 

 我が息子、クライドを。剣聖と謳われ、『閃瞬』と呼ばれ。自身の実力を少しも疑わないでいたクライド=シエスタを。見事、その技────【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】を打ち破り。そしてクライドを負かしてくれた青年────クラハ=ウインドアに対して。

 

 ──彼には頭が上がらない。クライドに成長の機会(チャンス)を与えてくれただけでなく、あの『炎鬼神』からも庇ってくれて……本当に、感謝しなければならない。

 

 もし、あの時。怒りに身を任せ、その拳を振り下ろさんとしていた『炎鬼神』────ラグナ=アルティ=ブレイズを。クラハ=ウインドアが止めてくれていなければ。最悪、クライドは二度とその手に刺突剣(レイピア)を握れなくなっていたかもしれない。

 

 それはクライドにとって、死にも等しい────いや、それ以上に苦しく辛い結末だろう。そんな結末を息子が辿らずに済んで、本当に良かった。

 

 故にだからこそ、カイエルは許せなかった。

 

『卑劣な手段を、卑怯な手を用いたに違いないクラハの奴はッ!!それしかない!でなければ、このクライド=シエスタに勝てる訳、ないッ!!』

 

 命の恩人にして、自らを人生の岐路に立たせてくれた者に対して。そのあまりにも身勝手な侮辱の言葉を、よりにもよってクライド当人が口にしたという事実、現実に。堪らず、カイエルは激怒した。激怒せずにはいられなかった。

 

 ──が、それもこれも(ひとえ)に私の責任だ。何も考えず、何も疑わずに、クライドにシエスタの家言を……その価値観を植えつけてしまった私の不始末に起因するものだ。……いつの日か、私は彼に頭を下げねばならんな。

 

 と、自嘲気味に心の中で呟いて。カイエルはクラハ=ウインドアの顔を脳裏に浮かべ────ふと、思った。

 

 ──はて……?妙だな。クラハ=ウインドア……会ったことはおろか、一度たりとて顔を合わせたことなどないはずだ。そもそも、今回のことがなければ、私が彼のことを認知することはなかっただろう。……だというのに、何故だ?

 

 カイエルは思う──────────()()()()()()()()()()()()()()、と。



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崩壊(その四十八)

 いや、それはない。そんなことはあり得ない。そうだと、わかってはいるが。しかし、それでも何か……やはり頭の片隅で、無視できない引っかかりを感じている。

 

 思い出せそうで思い出せない、このなんとも言えない歯痒い感覚に。カイエルは眉をやや顰めながらも、やがて仕方なさそうに嘆息した。

 

 ──まあ、いい。恐らく、私の気の所為だろう。

 

 と、思い直して。カイエルは再び、窓から机上へと顔を戻し。未だ多く残っている、目を通さなければならない書類の数々に、少し辟易する。とにかく今日中にはなんとか終わらせたいものだが……如何(いかん)せん、気力が足りない。

 

「……クライド……」

 

 そしてその度に息子の名を呟くばかり。……認めるしかない。自分はもう一度、話をしたい。顔を合わせて、きちんと話し合いたい。

 

『話は以上だ。()く去れ、息子よ。そして二度と、この屋敷の敷居を跨ぐな……クライド』

 

 ……本当はそんなことを言う気など、カイエルにはなかった。彼には全くなかったのだ。ただ気がついた時には既にもう、そう言ってしまっていた。

 

 ああ言ってしまった手前、すぐ呼び戻しては些か親としての面子(メンツ)が立たない。……いや、この期に及んでそんなことを気にしてしまうから、駄目なのだとは自覚しているのだが……。

 

 ──どうしたものか……。

 

 と、(しば)し。またも仕事を放って、考え込むカイエル。その時、不意に彼はそれを目に留めた。

 

「……手紙」

 

 そう、手紙である。一体いつの日からそこに放置していたのか、忘れてはしまったが、机上の端に一枚の手紙が置いてあり。それを見やったカイエルの脳裏に、一筋の閃きが駆け抜ける。

 

「手紙、か。なるほど、それならば」

 

 そう呟くや否や、カイエルは机の引き出しを開き、すぐさま便箋を手に取った。

 

 続けて流れるようにペンを手に取り、ペン先を紙に当て────カイエルはそこで止まってしまう。

 

 ──書こうと決めたのはいいものの、さてどう書いたものか……。

 

 別に内容が思いつかないという訳ではない。(むし)ろ、その逆だ。書きたい内容が多過ぎて、伝えたいことがあり過ぎて。果たしてどれから、どうやって始めたらいいのか、カイエルはわからないでいた。

 

「…………まあ、とにもかくにも。まず書かなければ何も始められん」

 

 ので、とりあえず。カイエルはそう書き出す。

 

『親愛なる我が息子、クライドへ────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギィ──その時、唐突に。静かに、ゆっくりと。執務室の扉が開かれた。

 

「む……?」

 

 扉はきちんと閉めた。中途半端でもない限り、この執務室の扉はそんな風には、勝手には開いたりなどしない。

 

 そう思いながら、扉の方へと顔を向けるカイエル。直後、その姿を視界に捉えて。堪らず、呆然とカイエルが呟く。

 

「クライド……?」

 

 そして次に、カイエルが目にしたのは──────────筆舌に尽くし難い程に凄絶極まる、あまりにも悍ましい嗤顔(えがお)を浮かべるクライドと。

 

 そしてこちらの目と鼻の先にまで迫る、血に塗れ、薄桃色の肉片がこびりついた、刺突剣(レイピア)の鋭い切先であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなた?何か凄い物音がしたようだけれど、大丈夫?それとジョーンズを知らないかしら。彼の姿を今朝から一度も見てないの……?」

 

 何か重く巨大な物が落ちたような音を聴きつけ、カイエルの執務室に近づくその女性────エマリー=シエスタ。彼女はカイエルの妻であり、クライドの母である。

 

 普段であれば仕事に取り掛かっているカイエルの執務室には近寄らないエマリーだが、先程耳にした物音と。そして今し方目にした、至極珍しいことに半開きとなっている執務室の扉を見やって。彼女はそのことに物珍しさ半分、不可解な疑問半分を持ちながら。恐る恐る、執務室へと近づき。そして、その中を覗いた。

 

「あなた……?一体どうしたの?何をしてるの……?」

 

 部屋の中のカイエルは、椅子に座っている。椅子に座り、背を向け、窓の方を見ている。そして────静かだった。ただひたすらに静かで、不気味な程に静かだったのだ。

 

 不可解極まるその様子と状況に、声をかけたエマリーだが。しかし、聞こえていないのかカイエルは返事をしない。それどころか、こちらの方に振り向くこともせず、反応らしい反応を何一つとして見せない。

 

 ──仕事中でもないのに……。

 

 と、そんなカイエルのことを胡乱げに思い、訝しみながら。エマリーは部屋の中へと足を踏み入れ、ゆっくりと彼に近づく────その途中で、気づいた。

 

「……え……?」

 

 眼下の床。そこに小さな、赤い一点がある。見た最初こそはそれが何なのか、わからないでいたエマリーだったが。少し遅れて、まるで信じられないように彼女がそう呟く。

 

「血…………?」

 

 瞬間、こちらに背を向けていたカイエルが。彼の身体が椅子から倒れて、その拍子にエマリーの方へと顔が向く。

 

「…………ぃ、いやあぁぁぁぁああああッ!?」

 

 直後、屋敷全体に響く程の、絹を裂くような絶叫を上げるエマリー。だが、それも無理はない。

 

 何故ならば────こちらに向いたカイエルの、()()()()()()()()()()()()()、夥しい鮮血を目の当たりにしてしまったのだから。

 

「あっ、あなたぁ!?あなたっ!あなたぁぁぁッ!!??」

 

 鈍い音を立て、床に倒れて。そのまま力なく横たわる夫の、その姿を見て。エマリーは(たちま)ち半狂乱になって叫び散らし、堪らずその場に腰を落とす。

 

 否が応でもわかる。理解させられる。もはや、カイエルが死体となったことを。何者かによって殺されたのだろう彼が、今や物言わぬただの死体になってしまったことを。それがわかり、理解できたエマリーは。依然泣き叫びながらも、床の上を這って執務室の外を目指す。

 

「誰かぁぁぁぁッ!助けてッ!夫が、殺されてッ!誰か、誰か助け

 

 

 

 

 

 ドスッ──そうして外を目前に。必死に助けを求めて叫ぶエマリーの額から、血濡れた刺突剣の切先が突き出した。

 

 

 

 

 

 一瞬にして、その場が静寂に包まれる。つい今し方まで、悲痛な叫びを上げていたエマリーは沈黙し、その目から光が失われ。直後、彼女の額から突き出ていた刺突剣の切先が素早く動き、そして彼女の脳天を突き抜ける。

 

 少し遅れて、エマリーの頭の、右上半分がズレて────そのまま床に滑り落ちた。

 

 ベシャ──粘ついた水音を立てると共に、ゆっくりと執務室の床に血溜まりが広がり。

 

 ズリュン──それに続くようにして、傾いたエマリーの欠けた頭の中から、そこに収まっていた彼女の脳髄が零れ。

 

 

 

 

 

 グチャッ──そして零れ出したエマリーの脳髄を、遠慮なく、躊躇なく、その足が踏み潰した。

 

「……はは、ぁは」

 

 そうして、微かな嗤い声を漏らして────クライドは。彼はそのまま、靴底にエマリーの脳髄だった薄桃色の柔らかな肉片をこびりつかせたままに、静寂を取り戻した執務室を後にするのだった。



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崩壊(その四十九)

 シエスタ家、邸宅。一階の大食堂にて。

 

 豪勢な料理の数々が並ぶ、円型の巨大な食卓(テーブル)を。今、大勢の人間が囲んでいる。

 

 十数を軽く越す椅子に座る、シエスタ家に仕える侍女(メイド)たち。その全員がここに集合しており。ある者は額に、ある者は後頭部に。一人一人に細かな違いや差異はあるものの、彼女ら全員に穴が穿たれていることは一致し。その穴を覗けば、存外形の保たれた脳が見えることだろう。

 

 そして侍女たちが座る物よりも幾分か上等な作りとなっている数個の椅子には、彼女たちの上司に当たる執事(バトラー)が皆、腰掛けている。頭部に穴を空けている彼女たちとは打って変わって、その執事たちは皆一様に燕尾服の胸辺りを色濃くさせており、注視すればその辺りの布地が刃物か何かの鋭い切先で貫き裂かれていることがわかる。そして垣間見える内側のシャツは、血で赤く染まっていた。

 

 そんな執事たち、彼らが座るその椅子よりも。更に豪奢な椅子に座る、また違った見た目(デザイン)の燕尾服に身を包む、初老の男性────ジョーンズ・マッカンベリー。シエスタ家の使用人全員をその一手に纏め上げる筆頭(リーダー)である執事。そのジョーンズだが、侍女や他の執事たちとは違い、彼の身体は傷だらけで、如何(いか)に激しい損傷を受けたのかを如実に、生々しく物語っている。

 

 肩や腕、足の至る箇所(ところ)から血を流し。また鳩尾付近からも流血しており、そして額と喉に穿たれたその穴からも、未だに鮮血が止め処なく流れている。

 

 そしてジョーンズらの椅子とは、まさに格の違いを放つ二つの、それぞれ細部で違う凝った意匠が施された、逸品の椅子に座っているのは。

 

 言うまでもなく、この屋敷の主人(あるじ)にしてシエスタ家十一代目、前当主。右目の空洞を晒すカイエル=シエスタ。その妻である、頭の右上半分が欠け、その中身が空っぽとなったエマリー=シエスタ。他の誰でもない、その二人であった。

 

 誰がどう見てもわかる。誰の目から見ても、そうであるということは明白である────そうして、食卓(テーブル)を囲う彼ら彼女ら、ジョーンズ、そしてカイエルとエマリー。その全員が今や、何一つとして物を言うことは決してない、ただの人間の形をしている肉の塊でしかないと。即ち、紛うことなき死体に他ならないと。

 

 死体が食卓を囲っているという、側から見れば(はなは)だ正気ではない、常軌を逸したこの光景を。ただ一人、独りで遠くから眺めている者がいる。

 

 その者こそが、こんな狂った光景を作り出した張本人。侍女や執事、ジョーンズに加えて。己が両親すらも、その腰に下げた刺突剣(レイピア)の切先で以て手に掛けた、犯人。

 

 シエスタ家十二代目、現当主。剣聖と謳われ、『閃瞬』の異名を与えられた、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属の《A》冒険者(ランカー)────クライド=シエスタ。

 

 クライドは椅子に座って、まるで観客でも気取るかのように。今し方自らの手で作り上げた、その度し難い狂気の産物を。特に何を考える訳でも、何を思うでもなく、無表情で。そして無言のままに、眺めていた。

 

 そうして眺めて。数分、(しば)し眺めて。不意に、クライドの肩が、小刻みに揺れ出す。

 

「ふっ、ふふ……はは、ははは……」

 

 そして徐に椅子から立ち上がると、軽く手を振り上げる。その時、クライドの手から何かが、宙へと放られた。

 

 それは紫色の魔石。その魔石は宙を舞い、次の瞬間。全体に細やかな罅が生じ、それは亀裂となって駆け回り。瞬く間に、魔石が宙で砕け散って────それに呼応するかのように。

 

 

 

 パキパキパキパキキキィンッ──死体が囲む食卓(テーブル)の真上に吊り下げられたシャンデリアから。硝子(ガラス)が割れたような、澄んで透き通ったが立て続けに響き渡った。

 

 

 

 砕け散った無数の魔石が、シャンデリアから落ちてくる。それら全てがどうやら、先程クライドが宙に放り投げた魔石と同じものらしい。

 

 砕けた魔石は落下するその途中で、更に細かく砕けていき。あっという間に砂粒程となって、一瞬にして魔力の粒子となって。その末に、大気に溶けて霧散する。

 

 そうして薄紫色の光が淡く瞬いた直後────それを台無しにするかの如く、突如として大食堂の窓の殆どが割れ砕け。

 

 

 

 

 

「ガルロオァァァアッ!」

 

「ガウガウガウガウゥ!」

 

「ガアアアアアアッッッ!」

 

「バアアァウウウッ!」

 

「オォーーーンッ!」

 

「アオォォォーーーンッ!」

 

 

 

 

 

 続け様に、割れたその窓の全てから。過剰な魔力を浴び、魔物(モンスター)化した野生の狼────魔狼の群れが。それも一つではなく複数の群れが、今し方魔石から放出されたその魔力に惹きつけられて。続々と押し寄せ、次々と大食堂へと飛び込み。

 

 そして一匹一匹が我先にと、食卓(テーブル)の方へと殺到した。

 

 一匹の魔狼が侍女(メイド)の首を噛み千切り、彼女の頭を咥え、そのまま豪快に頭蓋を噛み砕いて咀嚼する。また別の魔狼は別の侍女に飛びかかり、押し倒すと。彼女の胸元に鼻先を突っ込み、他の部位よりも断然柔いその膨らみに噛みつき、がっつくようにして食べ始めた。

 

 執事(バトラー)にも数匹の魔狼が群がり、早い者勝ちと言わんばかりに。各々の魔狼が、彼の腕や足を取り合うようにして貪っていた。

 

 これだけ数が多いと、物好きな個体もいるようで。他の魔狼が目もくれていない、食うには些か魅力に欠けるのだろうジョーンズの元へ。老齢の域に達し、独特の雰囲気を放っている魔狼が歩み寄り。最初は椅子に座る彼を見上げるだけだったが、不意にその口を彼の足に近づけたかと思うと。ゆっくりと開かせ、足に噛みつき、椅子から引き摺り。床に叩きつけるように倒した。

 

「ガァウ……」

 

 と、静かに一鳴きしたその魔狼は。ジョーンズの顔にまで近づいて、彼の頬に自らの牙を突き立て────彼の顔を、()()()()()()

 

 果たしてその行為に一体何の意味があるのか、それはこの老いた魔狼にしかわからない。単に、ジョーンズの顔の皮膚を食べたかっただけなのかもしれないが……。

 

 こうして、次々と魔狼の餌食になるシエスタ家の使用人たち。そしてそれはカイエルとエマリーも決して例外ではなく、残酷に。惨たらしく、二人も魔狼に食われ、食い散らかされた。

 

 布の裂ける音。肉の切れる音。骨の砕ける音────その合奏は(およ)そ人が演奏できるものではなく。しかし今人を使って奏でられているというのは、悪い冗談と紙一重な皮肉と言えただろう。

 

 普通でまともな感性の持ち主であれば、誰しもが耳を塞ぎたくなるような。あまりにも恐ろしく悍ましい、そんな合奏曲を。

 

「ははははッ!あははははははッ!!」

 

 この場ただ独りの観客者であり、魔狼の食事風景を含めた、その全てを鑑賞していたクライドは。今すぐにでもその場を転げ回るのではないのかというくらいに嗤い、大いに嗤い、盛大に嗤い。

 

「あはははははははははははは!!!捨てた!捨てたぁ、捨てた捨てた捨てた捨てたぁあああああ!!!」

 

 侍女たちを殺し。執事たちを殺し。ジョーンズも殺し、遂には他の誰でもない己の両親も。カイエルとエマリーの二人すらも、殺した上で。無関係な人々を巻き込んだ、身勝手極まりない最悪の鏖殺を果たしたその上で。そうして、クライドは嗤いながらそう言うのだった。

 

 無論、そんなクライドにも。飢えた二匹の魔狼が素早く迫る。涎を垂らし、鋭い牙を見せながら。その魔狼たちは左右に分かれ、それぞれ同時に。未だに嗤い続けているクライドへと襲いかかる。

 

 あわやクライドも魔狼の餌食になるかと思われた、その寸前。依然嗤いながらに彼は刺突剣(レイピア)を鞘から抜き、そのまま流れるようにして。

 

ドスッ──右の魔狼の脳天へと切先を突き立て、貫き。

 

「ガウッ!?」

 

 飛びかかってきた左の魔狼の首を、難なく左手で掴み。

 

ゴキンッ──そしてさも平然とその首を()し折るのだった。

 

 首が不自然な方向へと向き、だらんと口から舌を伸ばす魔狼を放り投げ。刺突剣を魔狼から引き抜き。クライドは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。

 

「でもこれだけは、これだけはぁ!捨てない!僕は捨てないよおおおおお!?絶対にッ!僕は捨てないからなああああああぁあははははははははははははははッ!!!!」

 

 と、突如叫び。そして嗤う────そんな狂気を周囲に振り撒きながら、時折襲ってくる魔狼をその刺突剣で殺しながら。そうして、もはや畜生の地獄絵図と化した大食堂から、クライドは去って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてその日を機に、クライド=シエスタは行方を(くら)ました。



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崩壊(その五十)

 ──今まで、今の今まで……今こうして再び君の前に立つまで。クラハ!クラハ=ウインドアッ!僕は捨てなかった!君に対する憎悪!怨恨!殺意ッ!!僕は決して捨てはしなかったぁ!!!

 

 クラハの姿を視界に捉えてから。彼の姿を己が視界に映してから。クライドの脳裏で次々と目紛しく呼び起こされる、その景色(きおく)風景(きおく)

 

 それら全てが鮮烈で鮮明で、故にクライドのただひたすらに暗澹とした意志を掻き立て、漆黒の殺意を過剰なまでに煽り立て。そして、早く早くと苛むように、彼を急がせる。

 

 ──君を殺す。君を殺す、君を殺す!君を!君を!!君を!!君をッ!!!殺す!、殺す!!殺す!!殺すッ!!!その為だけに……今この瞬間(とき)の為だけにッ……僕はここまで、生き続けてきたんだよなぁ…………ッ!!??

 

 華々しく輝く、数々の栄光────貴族(シエスタ)の地位。剣聖の名声。『閃瞬』の異名。冒険者の立場。それら全てを、雑多を踏み日々を味気なく過ごす凡人では、決して手にすることは叶わないそれらを。自らの手で、他の誰でもない己の手で。投げ打って、放り捨てたクライド。

 

 使用人、幼少の頃から付き従ってくれていた者、自分にとって唯一無二たる両親(ちちとはは)────その(ことご)くを、鏖殺(みなごろ)しても。それでも、尚。

 

 それだけは。それだけは、捨てられなかった。他の全部を捨てられても、たった一つのそれだけは捨てられなかった。捨てられる訳がなかった。

 

 何故ならば、もはやそれがクライドにとっての生存意義。存在理由。自己証明────己にとっての、絶対の価値。そうにまで、成った。成れ果てた。

 

 故にだからこそ、クライドはそれを捨てない。捨てることなく、今まで。今の今まで。今の今までに至る、この今の為まで。彼は、絶対に捨てなかった。

 

 そうして今、今こそクライドは──────────()()()()()()

 

 ──これは君の為だけに。ただ君という一つの存在の為だけに、他の存在(なにもの)でもない君の為だけに。クラハ=ウインドアという存在(モノ)の為だけに!その為だけにッ!僕がッ!!僕はッッッ!!!

 

 シエスタ家の邸宅、大食堂にて。自らが呼び寄せた無数の魔狼が、屋敷の人々(なきがら)を惨たらしく喰い荒らし、喰い散らかす畜生の地獄の最中にて。その時浮かべていた嗤顔(えがお)をこの時も浮かべながら、【閃瞬刺突(フラッシュ・スラスト)】の構えを取り、そして放つ。その、寸前。

 

 足に施した【強化(ブースト)】を()()()()。直後残留した魔力を転用し、別の魔法を瞬時に発動させる。それは【強化】の所謂(いわゆる)応用技術────その名も、【放出(バースト)】。読んで字の如く、己が魔力を放出させる魔法。

 

 無論、ただ魔力を放つだけではない。【放出】はその勢いを爆発的に高め、常人は当然として並大抵の魔物(モンスター)であれば跡形もなく吹き飛ばせる程の威力へと変える。

 

 それをクライドは最後の後押しの加速として利用し。結果、従来の【閃瞬刺突】のそれとは比較にもならない程の速度を得た。それも(ひとえ)に、クラハを殺すという殺意だけに背を押され、偶然成功した予備動作を必要としない────ノーモーションの【閃瞬刺突】を。

 

 どのような状況下にあっても平然と繰り出せるようになるまで、半ば死人と化すまでに無茶で無謀な鍛錬を寝ずに積み重ねたクライドの。病的で狂気の沙汰の執念、そしてクラハへの憎悪と怨恨と殺意が可能にし、そして実現させた賜物(たまもの)

 

【閃瞬刺突】を超える【閃瞬刺突】────即ち、【閃瞬刺突《フラッシュスラスト》・限界全速(トップスピード)】。

 

 そして今からクライドが見せるのは、()()()()()()()。【閃瞬刺突】を超えた【閃瞬刺突・限界全速】を経た、その生涯にて一度しか放つことが許されない、一度切りの技。

 

 魔法士にとっての外法。魔の道から外れし、禁忌であるように。剣士にとって、あるべくもない技。恥ずべき技。剣を愚弄し、剣を冒涜する技。

 

 そして、クラハを殺す為の技。他の誰でもない、クラハ=ウインドアただ一人を殺す為だけの、技。

 

 両の足、その踵内部に魔石を仕込み。【放出】の際にその魔石が反応し、()()()()()()

 

放出(バースト)】による加速に、魔石の爆発の勢いを上乗せすることによって。そうして得られる、限界を超えた超常的速度。

 

 それを得る代償にクライドの足は。皮は裂け、肉は爆ぜ、骨は砕け────結果、彼の足は使い物にならなくなるだろう。それも現存する汎用の治癒魔法では治癒することが不可能なまでに、致命的なまでに。

 

 そしてそれはクライドの剣士生命を絶たれることに他ならない────が、それでもよかった。そうなろうとも、彼は構わなかった。

 

 己の剣士としての人生を生贄に、クラハ=ウインドアを殺せるならば────それだけで、クライドには十二分に過ぎたのだ。

 

 ──殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 

【放出】に反応して、クライドの踵に仕込まれた魔石が輝き。直後、爆発する。

 

 ──死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。

 

 抉れる地面。弾けるクライドの足。宙を飛ぶ彼の身体。

 

 ──クラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドアクラハ=ウインドア。

 

 瞬間、クライドの視界に映る全てが溶ける。溶けて、視界の端に流れて、(ことご)くが消え失せていく。不思議と、その現象がクライドには懐かしく思えた。

 

 ──殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ。

 

 一秒よりも速く、秒が経つよりも速く、刹那と並び。

 

 ── 殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハ殺す死ねクラハッ!

 

 並んで──────────そして()()()()()

 

「殺すッ!死ねッ!!クラハァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッ!!!!!!!!!」

 

 この時この瞬間。この時の為に、この瞬間の為に。クラハを殺すという、その為だけに。クライドが放った、その技────【閃瞬刺突《フラッシュスラスト》・超過刹那《オーバーアクセル》】は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。どんなに僅かでどれだけ些細な反応すらも許さずに、その額へと。クライドが握る刺突剣(レイピア)の切先を突き立て、その頭蓋を容易に貫き、後頭部から切先を突き出させるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのようにクラハに直撃しても尚、クライドの生涯に於ける正真正銘最後の一撃となった【閃瞬刺突・超過刹那】の勢いは死なず、そのままクラハと共にクライドは宙を飛び続け。そして遂には彼諸共壁に激突する。

 

 直後、(かつ)ての路地裏に轟音が響き渡り。クライドとクラハが激突した壁が凹み、全体に亀裂が縦横無尽に駆け巡った。

 

「…………は、は」

 

 数秒、目と鼻の先に見える、クラハの。訳もわからず困惑と呆然が()い交ぜになった表情を晒す、彼の死に顔を。クライドは眺め、脱力したように嗤い。

 

 ドサ──刺突剣(レイピア)の柄から手を離し、そのままクライドは路地裏の地面へと倒れた。

 

「ははは……やった……やった、ぞ。僕は……この僕はぁ、やったんだ!遂に、やったんだぁああああアアアアッ!!!」

 

 足の感覚が全くと言っていい程になく、立てない為に。クライドは身を捩り、仰向けになると。満面の邪悪な嗤顔(えがお)を浮かべて、堪らずそう叫ぶ。依然、彼は叫び続ける。

 

「僕はあああああああァアッ!殺したアアアアアアアアアアアッ!!遂に遂に遂に殺したッ!殺した殺した殺した殺した殺した殺したァァァアアアッッッ!クラハ!クラハクラハクラハクラハァアアアッ!!クラハ=ウインドアをォォォォオッ!!!アハハハハハハハァアアアアッッッ!!!!!」

 

 喉が裂け、血を吐こうとも。構わずに、クライドはそう叫ぶ。

 

「アハハハハハ!ハハハハハァ!!こ、これはぁ……凄いな、凄いぞぉ……!?絶頂(しゃせい)の百倍は気持ち良いなああああああ!?最高だあああああああ!!!あっははははははッ!!!」

 

 そうして、叫び続けながら────刺突剣で壁に(はりつけ)にしていたクラハの姿が、いつの間にかどこにもなく。何処にもなく、消え失せていることにも気づかないで。

 

 そして今や、自分が路地裏にではなく。周囲には何もない、何も存在しない。一寸先はおろか、その果てすらも暗澹たる闇の最中にいることにさえも、気づかず。

 

 気づけないままに、独りクライドは嗤い。自らに闇が迫り、闇に呑まれ始めても、それでも彼は嗤い続け。

 

 やがて、クライドの身体は崩れ出し。闇へと混ざり、溶けて。(つい)には消えるのだった。



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崩壊(その五十一)

 絶対的な隙。そう、絶対的な隙である。そして致命的な隙でもある。

 

 どのような玄人であれ。如何な達人であれ。

 

 一騎当千の古兵(ふるつわもの)でさえ。空前絶後の強者でさえ。

 

 その全員が全員、その瞬間にだけは────否、仕留めようとする堅固な意志と。確実に止めを刺すという揺不(ゆるがず)の殺意によって。どうしても、どうあってもその隙を晒す。その気がなくとも、気づかない内に晒してしまう。

 

 それは言うまでもなく────()()()()()だ。絶好の機会か、或いは確信を以てか。

 

 どんな玄人でも、どんな達人でも、どんな古兵でも、どんな強者でも。

 

 必殺の一撃を放つ、その直前。寸前の瞬間にだけ晒す、その隙。しかしそれは秒にも満たず、刹那にも満たない、限りなく(ゼロ)に近い猶予(ラグ)

 

 これは所詮机上の空論から成り立つ、言葉だけの結論ではあるが。仮にもし、その絶対的かつ致命的な隙を見極め、そして突けるのであれば。防御のことなど考えず、攻撃だけに全意識を集中させている為に。これ見よがしと無防備になっている急所へ一撃を与えられるのであれば。

 

 例え赤子であっても、その者らを(ことごと)く打ち倒してみせるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 と、昔ふと耳にしたそんな戦学を今、呆然と思い出しながら。今し方クライドの鳩尾に突き入れた貫手を、ゆっくりと引き戻し。直後、こちらに向かって倒れ込んでくる彼の身体を、クラハは気怠そうにして避ける。

 

 ゾッと怖気が背筋を駆け抜けていくような、悍ましい満面の嗤顔(えがお)を晒したまま。白目を剥いて失神しているクライド。だがしかし、自分が今そうなっていることに。自分がそんな無様極まりない醜態を晒していることに、彼は気づいてすらいない。気づくことなど、できやしない。

 

 何せ攻撃の瞬間。攻撃に全意識が集中させ、彼が己の全てを(なげう)ち、その身を犠牲にした【閃瞬刺突(フラッシュスラスト)超過刹那(オーバーアクセル)】を放つその瞬間。その寸前に。

 

 こちらの認識を掻い潜りながら一瞬にして間合いを詰め切ったと同時に。人体の急所の一つ、鳩尾に。貫手をクラハに抉るように、鋭く深く突き込まれ。(たちま)ち、瞬く間に意識を刈り取られたのだから。

 

 そしてあまりにも短く、あっという間の出来事であったが故に。きっとクライドにはその現実が認識できず、それを埋め合わせるかのように。彼は今自分にとって都合の良い、何処までも自分本位な幻想(ゆめ)を見ている────否、見せられて。それに溺れて、囚われていることだろう。

 

 白目を剥いたクライドが浮かべるその嗤顔が、そのことを如実に物語っていた。そんな彼が力なく路地裏の冷たく薄汚れた地面に倒れる、その一部始終に。クラハは目もくれず、一片たりとも視線をやらず。背を向けたまま、彼は心の中で呟く。

 

 ──ライザーだったら、難なく反応してただろうな。

 

 今回は相手がクライドだった為に、その戦法を取ったクラハであるが。彼自身がそう分析している通り、相手がライザー程の実力者ともなればこの戦法は通用しない。こちらの狙いを容易く看破され、咄嗟に防御されるだろう。

 

 ともあれ。そうしてクライドを(くだし)たクラハは。前方に視線を向け、初めて気づく。つい先程までそこに立っていたはずの、ヴェッチャ=クーゲルフライデーの姿が。今や影も形も、そこから消え失せていることに。

 

 瞬間、流れるように周囲にへと。クラハが視線を配らせた、その直後。

 

 

 

「ヒョアアアアアアアオオオオオオオオッ!!!」

 

 

 

 と、頭上から奇声と紙一重な裂帛の絶叫が迸り。透かさず、クラハが頭上を見やる。

 

 その時クラハが目撃したのは、こちら目掛けて宙から落下する、拳を振り上げたヴェッチャの姿であった。

 

 ──恐ろしく(はや)いその貫手、俺でなきゃぁ見逃しちまうなぁ……!!

 

 そう心の中で呟き慄きながらも。ヴェッチャは振り上げた拳に満身の魔力と渾身の力を込めて、【強化(ブースト)】と併用する形でその魔法を発動させる。

 

 ──『鋼鉄の巨人(メタイツ)』所属《S》冒険者(ランカー)、ガラウ=ゴルミッド師匠直伝ッ!【金剛体(ダイヤモンドボディ)】ッ!!

 

 本来であれば全身にかかるその効果を、今この時限り。硬く握り締めた己が拳に限定し、留める形で。

 

 ──【金剛体】は【強化】を遥かに凌ぐ、それこそ別次元の防御力と引き換えに、発動者は解除するかされるまでその場から一歩も動けなくなるぅ……がぁ!俺ぁこうしたぁ!防御力が真髄たるこの魔法を、俺ぁ()()()に変えたぁ!

 

 狙うはただ一点。狙うは、クラハの脳天ただ一つ。

 

 ──最硬とは即ち最高!この世のどんなものよりも硬いってことはぁ、この世のどんなものでも絶対にぶち壊せるってぇことさぁぁぁああああッ!!

 

 最硬の防御力を最高の攻撃力に変換したその技────【絶壊拳(ぜっかいけん)】。ヴェッチャが『壊撃』と呼ばれる所以(ゆえん)である。

 

 ヴェッチャの言っていることに間違いはない。時として身を守る為の盾が、身を砕く鈍器と化すように。絶対の防御力を誇る【金剛体】を、彼の【絶壊拳】のように攻撃力へと転ずれば。名工の手により作られた至高の防具であれ、最優の魔法士による防御魔法であれ。

 

 その(ことごと)くを例外なく、粉砕し破壊してみせることだろう。それは覆しようのない、歴とした確かな事実に他ならない。

 

 そしてそれは、クラハもわかっている。十二分に理解した、その上で。彼が取った行動は────

 

 

 

 

 

「……あぁ!?」

 

 

 

 

 

 ────()()()()()()。無駄な徒労に終わると思われても、【強化(ブースト)】を用いた防御もせず。彼はただ、その場に突っ立つだけだった。そんな姿を、自殺行為でしかないそんな行動を前にして。堪らず、ヴェッチャは素っ頓狂な声を上げてしまう。

 

 ──そうかいぃ……んじゃぁ、脳漿脳髄ぶち撒けろぉぉぉぉぉぉおッッッ!!!

 

 そして【金剛体(ダイヤモンドボディ)】経て手にした攻撃力に、たたでさえそれだけで大抵の勝負は決するその攻撃力に。駄目押しのありったけの【強化】を乗せた、ヴェッチャ=クーゲルフライデー史上最強の【絶壊拳】が今、目下のクラハに炸裂するのだった。



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崩壊(その五十二)

絶壊拳(ぜっかいけん)】、その驚くべき威力は。クラハが前に討伐したデッドリーベアの特異個体(ユニーク)であり名持ち(ネームド)────推定危険度〝絶滅級〟下位とされる『滅戮の暴意(キリングタイラント)』であっても。直撃を受ければ、即死は免れないだろう。

 

 故に【絶壊拳】を人間が脳天に受けようものなら、(たちま)ち為す術もなく、その者の頭部は爆ぜ砕けて散ることだろう。

 

 ましてや今のクラハのように、何の防御もせずに受けたのなら、それは決して覆しようのない絶対的で決定的な最期(みらい)となる──────────()()()()()()

 

 

 

 

 

「……あぁ……?」

 

 

 

 

 

 路地裏に轟音が響き渡った。それは人の拳が人の頭を殴った音というには、あまりにも大き過ぎた。大きく、分厚く、重く。そして、大雑把過ぎた。

 

 それは正に、轟音であった。

 

「お、おお……おぉぉ……」

 

 ヴェッチャが震えた呻き声を漏らす。少し遅れて、一分程遅れて。そうしてようやっと、彼は今自分が目にしている光景が、決して見間違いなどではなく。ましてや幻覚でもないことを、にじり寄ってくるその痛みと共に理解する。してしまう。

 

 先程の轟音は確かに人体と人体が衝突した際に発せられた音。何かが爆発した訳でも、巨大な魔物(モンスター)の咆哮でもない。人の拳が、人の頭を殴った故に発生した音なのだ。

 

 そしてその轟音の発生源の一つ────即ち、ヴェッチャの拳。【絶壊拳(ぜっかいけん)】を放つ為に固く握り締めていた彼の拳は、今──────────()()()()()()()

 

「ぉぉぉぉおおおおおおおおッ!?ひょおおおおおおおおッ!?」

 

 それはもう、酷い有様であった。まるで内側から爆発でも起こしたかのように。皮の殆どが裂け破れ、肉も骨もほぼ全てが吹き飛んでいる。ヴェッチャの拳は、もはや原型を留めていないまでに、破壊し尽くされていた。

 

 そしてヴェッチャと対峙し、彼の〝絶滅級〟魔物すらも屠る、恐るべき【絶壊拳】の一撃を。自殺行為宛らに【強化(ブースト)】もせず、何の防御体勢取らずに。その額で以て受けたクラハは────()()()()()()()()()()。多少首が後ろにやや倒れたくらいで、頭部は爆ぜ砕け散ってもいないし。額からは血の一滴すらも流れていない。誰がどう見ても、全くの無傷健在であった。

 

 想像を絶する────などという範疇に収まる訳もなく。今まで生きてきた中で初めて味わう、激痛を超えるその痛みに。どうすることもできず、ただ情けなく悲鳴を撒き散らしながら、ヴェッチャは地面に落下する────直前。

 

 ゴッ──何ということもない、特に腰も入っていないクラハの拳によってヴェッチャは顔面を殴られた。

 

「ぺ」

 

 クラハの拳を顔面で受け止め、ヴェッチャは刹那の一言を最後に漏らし。地面に身体を叩きつけられ、まるでボールのように跳ね。それからまた地面に叩きつけられるが、跳ねることはなくそのまま転がり、やがて独りでに止まる。最初こそ数回身体を痙攣させていたが、その後は微動だにすることもなく。そうして、ヴェッチャ=クーゲルフライデーは完全に沈黙した。

 

「はっはっは……はぁっはっはっはっはははッ!いやあ流石はブレイズさんの威を借る《S》冒険者(ランカー)サマだ」

 

 少し遅れて、今の今まで黙り込んでいたのがまるで嘘だったかのように。完全に怯えて身を竦ませ、真っ青な顔色を晒す固有魔法(オリジナル)の使い手たる男の隣で。豪快に笑い唾を飛ばしながら、ロンベルがその場から立ち上がり、そしてゆっくりと歩き出す。

 

「ガローやクライド、ヴェッチャみてえな、似非(エセ)の出来損ない成り損ないの《A》ランクじゃあ相手にもならねえ。てんで話にならねえか。まあ、んなこと最初(ハナ)からとっくのとうにわかり切ってる、承知の上の事実だったがな」

 

 喉に石礫(いしつぶて)を受け、気道を潰され失神したガロー。攻撃を繰り出す寸前の隙に、鳩尾を突かれて失神したクライド。自らの一撃が通じず、その上自らに返ってきた衝撃で己の拳を破壊され、終いにはただの拳の一発で失神したヴェッチャ────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属の精鋭《A》冒険者の三人を。地面に倒れて動けないでいる彼らを見下ろし、あらん限りの侮蔑を込めて嘲り笑いながら、ロンベルがそう言う。

 

「感謝するぜ、クラハ。おかげで奴らを始末するのが楽になった。お礼と言っちゃなんだが……俺に殺されて先に死んでろ、お前」

 

 ゆっくりと歩き、クラハの目の前に立ち。ロンベルはそう言うや否や、腰に下げた得物────長剣(ロングソード)の柄を握り。鞘から抜き放ち、大上段に構えて。

 

「早速バッサリ逝っとけやああああああああァアアアアアアッ!!!!!」

 

 そして躊躇いなく、遠慮容赦なく。クラハの脳天にその刃を振り下ろす。その速度はクライドの【閃瞬刺突(フラッシュスラスト)超過刹那(オーバーフラッシュ)】に並び、()()()()()()()。一人握りの選ばれし強者程度には、目に留めることすら叶わない斬撃で。平然と振るわれたその絶技に対して、クラハは。

 

 

 

 

 

 バキンッ──まるで目の前を遮った木の枝でも振り払うかのように。半ば投げやりに振るった裏拳で以て、剣身を叩き折るのだった。



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崩壊(その五十三)

 クラハの裏拳により折られた、ロンベルの得物である長剣(ロングソード)の剣身は。宙を飛び、そしてこちらの一合を呆然と眺めていた、固有魔法(オリジナル)の使い手たる男の顔面に突き刺さる────ことはなく。彼からほんの僅かに逸れて、すぐ側の壁に切先が突き立てられ。止まらず、そのまま壁の中に沈むようにして、剣身の(ほとん)どは埋まってしまった。

 

「…………ひ、ひぃぃぃぃ!?」

 

 最初こそ何が起こったのかわからず、顔のすぐ横に見えるその剣身を見やって、そうして時間をかけてようやっと、今目の前で起きたことの全てを理解した男は。堪らず悲鳴を上げ、その場から駆け出す。

 

 ズダンッ──駆け出し、数歩進んだ瞬間。男の行先を遮るように、彼の眼下の地面にガローのナイフが深々と突き刺さる。それは今し方まで、クラハがずっと持っていたものだった。

 

「いっ……!?」

 

 あと少し、もう少し早く足を振り下ろしていたのなら。今頃、自分の足はそのナイフによって、地面に繋ぎ止められていた────そのことに遅れて気がついた男は、喉奥から引き攣った声を、掠れさせながら情けなく漏らすのだった。

 

 この場から逃げ出そうものなら、一体どんな目に遭わせられるのか────その恐怖に身と心を縛られ、もはや動けないでいる男を尻目に。ロンベルは剣身が根本から折られてしまい、柄だけの姿に変わり果てた得物を眺め。彼がわざとらしく言う。

 

「おいおい。おいおいおい……ったく、冗談じゃあねえぜこりゃあ。クラハよぉ……お前、高かったんだぞこれよ。お前のお粗末な代物とは違ってよお」

 

 口ではそう言っているものの、ロンベルが本気で残念がっているようには思えない。そしてそれを裏付けるように、彼はその柄を塵芥(ゴミ)の如く放って、投げ捨てるのだった。

 

「ま、別に構やしねえよ。お前なんざ殺すのに、こんな得物(モン)必要()()()()()

 

 投げ捨てたその直後、ロンベルはその顔を歪ませ、引き攣った笑みを浮かべる。

 

「へへ、そうさ。ああ、そうだ……へへへっ、お前なんざどうってことねえ。どうってことねえんだ……誰が、誰がお前なんざ……どうってことねえッ!怖かねえんだよォッ!!」

 

 そしてそう叫ぶや否や、ロンベルは素早く【次元箱(ディメンション)】を発動し。その下に手を翳し、直後彼の手の上にそれが落ちてくる。

 

「……それは……?」

 

 クラハの視界に映り込んだそれは、一本の注射器であった。それも主に第二(セトニ)大陸の各病院で使用されている、最先端のもので。その中身は空ではなく、今は赤い液体で満たされていた。

 

 その注射器は一体何なのか。その赤い液体は一体何なのか────という疑問が詰め込まれたクラハの呟きに対し、ロンベルは答えず叫ぶ。

 

「野郎ッ!ぶっ殺してやるぁあああああああああッ!!!」

 

 そして握り砕かんばかりにまで手に力を込めながら。己の首筋に、躊躇わずに。その注射器の針を突き刺すのだった。

 

「はぁぁぁ……!はは、はぁはぁはぁ、はははは……!」

 

 注射器を満たしていた赤い液体が、首筋に突き刺さっている針を通して、ロンベルに流れ込んでいく。注射器から赤い液体が減っていく度、彼の顔は恍惚に歪み、不気味な笑い声がその口から力なく漏れ出る。

 

 そして────遂に、注射器の中身は空となり。それは赤い液体の全てが、残さず余さずロンベルの身体に注入されたことを意味していた。

 

 その赤い液体にはどのような効果が含まれているのか。そしてそれは人体に────ロンベルに何を(もたら)すのか。先程からそういった疑問が尽きないクラハだったが、その答えを今、彼はこれでもかと目にすることになる。

 

「おおっ、お゛……おっごッ、があっ、がががッ…………おあ、おあおあおあッ、オアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!!!」

 

 空となり、もはや用済みとなった注射器を投げ捨てるロンベル。最初の数秒こそ特に変化は見られなかったが、突如として彼は己の身体をくの字に曲げながら苦悶の声を漏らし、かと思えばすぐさま反り返り、まるで獣の咆哮のような絶叫を路地裏に轟かせた。

 

 ロンベルの肌に血管が浮かび上がる。幾筋、何本も。そしてそれら全てが今にでもはち切れんばかりに膨張しており、遠目から見れば無数の極太に巨大な赤黒い蚯蚓(ミミズ)が、彼の身体に纏わり這いずり回っているかのように思えた。

 

「ひぃぃぃぃッ!?い、一体全体、これから何が始まるんだあッ!?」

 

 一刻も早くこの場から一目散に逃げ出したいものの、それが許されるとは到底思えず。結果、どうすることもできずただその場に立ち留まることしかできないでいる、固有魔法(オリジナル)使いの男が。とてもではないが正常には見えない、尋常ではない様子のロンベルを凝視しながら、激しく怯え切った声でそう叫ぶ。

 

 するとその男の方に顔を、そこら中、至る箇所(ところ)に血管を浮き駆け巡らせているその顔を向け。ロンベルが震えた声で答えた。

 

「し、しら、知らないのかッ?たっ、だ、だい……大蹂躙だッ!」

 

 ボゴボゴボゴンッ──直後、ロンベルの肩が隆起した。肩だけに留まらず、腕や胴、足までも。彼の全身の筋肉という筋肉が瞬く間に膨張と隆起を繰り返し、一回り二回りと彼の身体は巨大化し始めた。

 

「おあッ、オアッ、オアアアッ……OAAAAAAAAA(オアアアアアアアアア)ッ!」

 

 最初こそロンベルの巨大化に合わせて、彼が着ている上半身の服は引き伸ばされていたが。やがて耐え切れなくなり、まるで悲鳴を上げるかの如く音を立てて。引き裂け千切れて、(たちま)ちただの布切れと化す。

 

 そうして、次第にロンベルの巨大化の勢いは弱まり、遂には止まった。不幸中の幸いというべきか、上半身の服とは違って、下半身のズボンは無事であった。

 

 それはともかく。上半身裸となり、その顔と同じく血管を隈なく浮かばせ、蠢くように躍動させながら。ロンベルは依然として震える声で、不安定な口振りで言う。

 

「良い……イイ、いい、気分、だ……AAAAAA(アアアアアア)FUUUUUUU(フウウウウウウウ)っ……こりゃ、あれだな……ッ」

 

 そして徐に三倍以上は膨れ上がった、大木の丸太とほぼ変わらぬ腕を振り上げ。岩石の如き豪拳を握ったかと思えば。

 

 ブゥンッ──何の躊躇いもなく。一切の遠慮も容赦もなく。その握り締めた豪拳を、固有魔法使いの男に振り下ろすのだった。

 

「え」

 

 ゴボチャッ──男が間の抜けた声を出すとほぼ同時に。ロンベルの豪拳が彼の顔に触れ、即座に爆発を起こしたかのように(ことごと)く崩壊し。壁や地面に血や赤く染まった脳漿、大小の肉塊と骨、それから逸れた肉片と骨片がぶち撒けられた。

 

 少し遅れて、首から上が丸ごと爆ぜた男の身体がビクビクと痙攣し、首から鮮血が噴き出す。そして力なく、地面に倒れ込んだ。

 

 そんな、常人であれば目を背けて口から胃の中身を吐き出し。心臓が弱い者であればあまりの衝撃に、心臓を止め兼ねない。そんな猟奇的場面(スプラッター)を目の当たりにしたが。然して取り乱すこともなく、平然としているクラハ。

 

 そんな彼の方に向いて、ロンベルはその顔に常軌を逸した表情を浮かべながら、血の混じった唾を撒き散らしながら叫んだ。

 

「最高に、ハイッてやつだあああああああッ!!!URAAAAAAAA(うるあああああああ)AAAAAAAAAA(ああああああああああ)っッっッッっっ!!!!!!!!!!」

 

 直後、ロンベルから凄まじい程の魔力が迸る。それは瞬く間に彼の肉体を包み込み────瞬間、彼の周囲一帯が。壁も地面も罅割れ、亀裂が駆け抜け。抉れたようにそこら中が凹んでいく。

 

 クラハの髪が揺れる。彼の頬を撫でるそれは────風だ。だが自然に発生したものなどではなく、その風の発生源は、他の誰でもないロンベルであった。

 

「クラハ。クラハ=ウインドア……他でも、ねえ……他の誰でもねえ、お前だからこそ……見せ、て、やる、ぜ……ッ!?HAHAHAHAHA(ハハハハハ)ッ!!!」

 

 と、言って。そして、ロンベルは発動させる────今の今まで、他の誰にも、誰一人として見せることはなかった、己が最大の切り札を。

 

 

 

 

 

「発動ッ!【超強化(フルブースト)】ォオオオオオッッッッッ!!!!!」



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崩壊(その五十四)

「発動ッ!【超強化(フルブースト)】ォオオオオオッッッッッ!!!!!」

 

 

 

 

 

 それこそ。その魔法こそ、ロンベル=シュナイザーが他の《A》冒険者(ランカー)を見下していた理由。彼が『大翼の不死鳥(フェニシオン)』《A》冒険者最強たらしめている理由。

 

 この世界(オヴィーリス)にて、使用できる者は両手で数えられる程しか未だ確認されていない。そしてその者ら全てが、常人には見られない特殊な。ある意味では異常とも取れる()()の持ち主である。

 

 

 

 彼ら彼女らは生まれつき────類を見ない程に頑丈であり、強靭であった。そして、常軌を逸する桁外れな膂力を有していた。誰が最初にそう言ったか、いつしかその者たちは皆、超人体質と呼ばれるようになった。

 

 

 

 そんな超人体質の一人に該当するロンベルは拳をただ振るうだけで、【強化(ブースト)】された一撃を凌駕し。剣を振るえば、何の技量も技術にも頼らない、単純な力だけで。最速と謳われた剣技よりも遥かに速い剣技に追いつき、そして容易く追い越してしまう。

 

 そんなロンベルに────というよりは、彼と同じ超人体質の者たちのみ、行使し得る魔法。彼ら彼女らにのみ使うことが許された魔法────【超強化(フルブースト)】。

 

 そもそも使用できる人間が数人と限られている為に、その詳しい原理や正しい効果についてはまだ判明していない。そんな中でただ一つ、唯一わかっているのは。

 

 超人体質による人並外れた頑丈さと強靭さを以てして、それでようやく初めて耐えられる程の絶大な負荷を経て。【強化】を優に、遥かに超える、埒外な強化を得られるということ。

 

 ただでさえ何もせずとも殴打の一発で〝殲滅級〟の魔物(モンスター)を撲殺し。【強化】をすれば、一撃で〝絶滅級〟下位の魔物もロンベルは屠ってみせる。

 

 そんなロンベルが【超強化】を使えば。その場合に限っての話ではあるが────ロンベル=シュナイザーは《S》冒険者(ランカー)()()()

 

 その上、ロンベルが先程自身に打った注射────自身に注入した、あの赤い液体による。劇的なまでに人間離れした肉体強化がそこに合わされば、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』切っての実力者である《S》冒険者、ジョニィ=サンライズにも匹敵するはずである。

 

「覚悟、しなぁ……この一撃、は……放つ俺ですら、どうなんの、か……わからねぇ……ぜ」

 

 と、【超強化】の尋常ではない程に絶大な負荷を。普通の人間であればまず一秒と保たず、肉体と脳が自壊しているだろうその負荷を耐えつつ、苦し紛れにロンベルはそう呟く。

 

「せめてもの、ほんの些細、で……なけなし、なッ、敬意(リスペクト)……だ……っ」

 

 正常からは程遠い速度と勢いで、目紛しく早急な循環を何度も繰り返す血流により。全身に張り巡らされた血管という血管の全てが、破裂寸前にまで膨張していることで。今やロンベルの肌は赤黒く変色しており、また体温が異常なまでに高まっているのか、彼の周囲の景色は陽炎のそれと同じように歪み、揺らめいており。そして驚くべきことに彼の身体からは、蒸気が立ち昇っていた。

 

 体温の異常上昇に伴う、凄まじい発汗により。文字通り、ロンベルの身体から滝のように汗が流れ出し、地面に滴り落ちると。接触する瞬間、焼けたような音を立てると共に、彼の汗は弾け散った。

 

 揺らぐ蜃気楼を纏いながら、全身を包んでも尚有り余り、絶えず滾って仕方がないその魔力を。他の箇所(どこ)でもない、拳に。赤黒く脈打つ極太の血管(ひし)めく、今にでも爆ぜそうな程強烈に握り締めた、己の右拳(うけん)に。

 

GUUU(グウウウ)……っ!OOOOOO(オオオオオオ)ッ!!GAAAAAAAAA(があああああああああ)ッ!!!」

 

 ほんの僅か、微塵たりとて、一切合切残さず。注ぎ、全集中させた。

 

 ボゴンッ──そうして更に倍以上に膨張し、脅威の巨大化を果たすロンベルの右拳。彼はそれを重々しく振り上げ、クラハに告げる。

 

塵芥(ゴミ)が!掃いて捨てる塵芥の中で少しは上等(マシ)な塵芥野郎がッ!!受け取れ、俺の敬意をなぁぁぁああああああああッッッ!!!」

 

 そしてロンベルは、振り上げたその右拳で以て。今まで逃げ出す時間、瞬間は幾らでもあったというのに。その場から一歩も動かず、ロンベルの眼前から退かず。依然として()()()()()()、ただ立っているだけのクラハの横顔を。

 

 思い切り、力の在るが(まま)に。己が許す、力のあらん限り──────────殴りつけた。

 

 クラハの右頬に、ロンベルの右拳(うけん)が衝突する。瞬間、【絶壊拳(ぜっかいけん)】の時とは比較にもならない、路地裏どころかこの街(オールティア)全体に響き渡るような轟音がして。同時に暴風が巻き起こり、突風が吹き抜け。その場の地面一帯が罅割れ、亀裂が駆け抜け、次々と爆発するように砕けて。

 

 そしてクラハの右頬から突き抜けたロンベルの拳打の衝撃が、離れた壁にも伝わり。中心に大穴を穿ち、その周囲を深く陥没させ、全体に亀裂を縦横無尽に走らせた。

 

 ……もはやそれは、拳で人を殴った、その余波という範疇を多大に超えており。そしてその到底受け入れ難く、呑み込み難い事実は当然口伝などでは信じられず。例え目の前で見せつけられたとしても、それでも多くの人々はその現実を理解することを拒んでしまうだろう。

 

 何せただの肉体、ただの拳の一発が。下手な魔法を凌駕してしまったのだから──────────

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 ──────────そして、最後まで何もせず。魔法に頼ることも、防御もしないで。その人体が放つにはあまりにも度を越した威力の一撃を受けたが。

 

 クラハの頭部は形も歪まず、無事に残って、首とも確と繋がっていた。

 

「……がっ、な……っ!」

 

 そんなあり得ない、あるべくもない、あってはならない現実に直面したロンベルは。クラハの右頬を殴りつけたその姿勢のまま、驚愕に目を見開き絶句するに他なく。

 

 少し遅れて、クラハの口端から血が流れ、伝い。そうして彼が呟く。

 

「……今のは効きました」

 

 と、呟くや否や。クラハもまた己の拳を握り締め、力を込め。

 

「【強化(ブースト)】」

 

 そう言い終えると同時に。固まって動けないでいたロンベルの、無防備に晒されている────訳ではなく。過剰に盛り上がり、異常なまでに隆起した筋肉によって覆われ、素手はおろか剣の刃すらも通さぬ守りを得ている、彼の鳩尾に。

 

 

 

 

 

 ズドッ──クラハの拳が、深々と突き刺さった。



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崩壊(その五十五)

 ズドッ──何の比喩でもなく、鋼の硬度を容易く上回るロンベルの筋肉の、常識から外れた強度を。しかしクラハの拳はそれを意に介さず物ともしないで、真っ向から文字通り打ち破り。彼の鳩尾に深々と突き立てられたのだった。

 

「お゛お゛ッ……ごぉ、こっ……ッ!!」

 

 急所を突かれ、肺に残っていた空気を絞り出され。眼窩からそのまま丸ごと零れ落ちるのではないのかと思う程に、目を見開かせるロンベル。やがて、次第に彼の身体が激しく、尋常ではない勢いで震え出したところで。クラハは彼の鳩尾に突き立てていた己の拳を、ゆっくりと引き抜いた。

 

「ぉごひゅっ」

 

 と、声にならない声を漏らし。ロンベルは崩れ落ちるように、力なくその場に両膝を突かせる。

 

「ばっ、ぁがっ……はあ、はあぁぁ゛……ッ」

 

 顔中に脂汗を浮かばせ、口から血混じりの涎を絶え間なく垂れ流し、ひっきりなしに目を泳がせて。しかし、それでもロンベルの意識が途絶えることはなかった。

 

 そんな彼を、クラハは無言で黙ったまま、静かに見下ろす────と、その時であった。

 

「まぁ、だあああああ!!!終わら、ねええええええええッ!!!」

 

 突如、地面に両膝を置かせたまま。ロンベルは顔を上げ、鬼気迫る表情で。何もしないでただこちらのことを見下ろしているだけのクラハを下から睨みつけ、薄ら赤い涎を吐き散らしながら、まるで地獄の底から呻くようにそう叫び。そして有無を言わせず再度腕を振り上げる────寸前。

 

 べキャッ──ロンベルの顔面を、クラハの膝が。鋭く(はや)く、打ち上げた。

 

「べげっ」

 

 まるで馬車に轢き潰された蛙のような。そんな何処か間抜けで情けない声と共に。ロンベルは堪らず倒れて、背中を地面に思い切り、勢いよく叩きつける。

 

「……ぼ、っ……ぉ、ご、こ……」

 

 口から血の混じった泡を吹き出すロンベルであるが、驚くべきことにそれでも尚、彼は意識を保っていた。目を見張るべき、驚異的な根性(タフネス)────だが、今回に限ってそれが、逆に自分の首を絞める結果を招くことを、彼はこれから嫌という程に思い知らされる。

 

 もはや意識をただ保ち、維持するだけで精一杯となり。その場から動くことも、地面から身体を起こすこともできないでいるロンベル。そんな彼を依然見下ろしながら、クラハは一歩前へ踏み出し。そうして、徐に足を振り上げ、彼の────股間の上に翳すのだった。

 

 これから一体何をする気なのか。朦朧とし始めた意識の只中で、せめてもとクラハの一挙手一投足に目を離さないと決め込むロンベルを他所に。クラハは翳していたその足を、静かに、そっと。彼の股間に下ろす。

 

 その時点で、察しの良い者であれば。クラハが行おうとしているその所業を、大方把握してしまうだろう。把握し、己に待ち受ける末路を理解してしまい。その誰もが背筋を凍らせるような恐怖に抱かれることだろう。

 

 そしてロンベルもまた、その内の一人であり。手足を振るうことも、指一本ですらも動かせそうにない彼は。自らが決して逃れられないことを重々承知しながら、それでもどうにかその恐怖を誤魔化そうと、顔を引き攣らせながらに叫ぶ。

 

「や、やれよ……やってみろよこの塵芥(ゴミ)野朗がッ!屑滓(クズカス)野郎がよォ!ええ!?やれるもんならやれよ上等だクソがあッ!!」

 

 恐怖に屈することなく、語気を荒げて気丈に振る舞うロンベルだが。しかし、それが己に残されたほんの僅か、なけなしの自尊心(プライド)を守りたいが為の。ただの強がりでしかないということは、彼の顔を見れば誰にだってわかることだった。

 

 そんな、ロンベルの安い挑発に。クラハは憤慨することもなく平然としたまま、徐々に。彼の股間の上に乗せた自分の足を、沈ませ始めた。

 

 予想が的中し、恐れている想像がゆっくりと実現するのを。だんだんとはっきりしていくクラハの履く靴の裏側の感触と、増していくその重みが。否応にも、望んでいないにも関わらず、ロンベルに伝える。

 

 ──ち、畜生が……!

 

 身体の方はもう然程問題はない。だが、まだ手足に上手く力が入りそうにない。幸い時間を稼ごうとしなくても、当のクラハに急ごうとする気がないことだけが。現状ロンベルにとって唯一の救いであり────他とない、二度は訪れないであろう千載一遇の機会(チャンス)でもあった。

 

 ──落ち着け、落ち着け……落ち着けよ、俺……っ!

 

 決して焦らず、決して慌てず。忍び寄り、着実に迫り来ている恐怖に。必死に抗いながら、()()()が訪れるのを、ロンベルは今か今かと待ち焦がれた。

 

 そして機を見るに(びん)に、ロンベルが掠れた声音で叫んだ。

 

「まっ、待て!待てちょっと待て!待ってくれ!」

 

 先程見せた強気と気概は何処へやら、情けなくも弱々しく震えた声で。男にとっては死も同然たる所業を、わざとらしい程に遅くゆっくりと行おうとしているクラハに。恥も外聞もかなぐり捨てて、ロンベルは命乞い(さなが)らに、彼に対して懇願する。

 

「わ、悪かった!俺が悪かったっ!もうこんなことは二度としねえ!あの嬢ちゃん……ブレイズさんに手は出さねえし近づきもしねえよおっ!だ、だから勘弁、勘弁してくれ……っ!」

 

 側から見ればみっともない、無様極まりない姿を。こともあろうにクラハの眼前で晒すロンベル。しかし、それでクラハが止まることはなく。やがて、自身の雄の象徴の一部(こうがん)に、危機感を募らせる圧力をいよいよ感じ始めたロンベルは、遂に叫ぶのだった。

 

「怪物ッ!金色(ラディウス)の怪物の情報を俺ぁ持ってるんだぞッ!?」

 

 金色の怪物────その単語を耳にした瞬間、クラハが固まった。

 

「へ……へへ……そ、そうだよなあ。そうなるよなあ……お前は『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属の《S》冒険者(ランカー)で、生粋のお利口さんだもんなぁ……これを聞いちゃあ、おいそれと手は出せねえよなぁ……?おっとそのままだ。今少しでも動いてみろ。そん時は死んでも、俺は情報を吐かねえ」

 

「……」

 

 ロンベルは気づかない。急死に一生を経た末に、どうにか掴んでみせた機会(チャンス)に気を取られてしまって。その時、今の今までずっと、ガローの時もクライドの時もヴェッチャの時も。そしてこの自分さえも、一方的に(くだ)したその時も。変わらず、少しも微動だにすることもなかった、クラハの仮面じみたその無表情が。

 

 

 

 ほんの僅かに、不快そうに歪んだことに。

 

 

 

 ──やっぱ、お前はどうしようもねえ……。

 

 そのことに気がつかないまま、ロンベルはクラハに言う。

 

「んじゃあ俺の言う通りにしてもらおうか。まずその足を退()けろ。そんで地面に置いて、ちゃんと両足でしっかり立つんだ。話はそれからってモンよ」

 

「…………」

 

 クラハは大人しく、素直に。ロンベルの指示に従って、彼の股間を踏みつけにしていた足を、言われた通りにゆっくりと退かす。そうして、クラハの足が完全に離れた、その瞬間。

 

 ──ド(ぐさ)れのお人好しな甘ちゃんだッ!!

 

 と、心の中で呟き。気づかれぬように開いた【次元箱《ディメンション》】から()()を手に滑り落とし、その感触を確かめると共に、動くようになった手で握り締め、ロンベルは腕を振り上げた。

 

()ったッ!!!」

 

 

 

 

 

 パァンッ──という、まるで乾いた枝を()し折ったような音が。ロンベルの言葉に覆い被さるようにして、その場に響いた。



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崩壊(その五十六)

「…………は、は……ははッ、はははははッ!傑作だ、こいつぁ傑作だあッ!はははっはっはっはッ!!」

 

 先端から白煙を(くゆ)らす()()を手にしたまま、ロンベルは笑う。ゲラゲラと、目の前に立つクラハを。首を後ろに倒したまま、微動だにしないその姿を見上げながら、彼は盛大に面白おかしく笑い続ける。

 

「しっかし、凄えなこりゃあ……素敵だな、素晴らしいな!?確かに()()()の言う通り、これが量産されれば《S》冒険者(ランカー)なんて目じゃねえ。いや、下手したら《SS》冒険者だって……ぶち殺せるんじゃあねえのか!?この、銃を使えばよぉ!!」

 

 と、手に持つ()()────銃を、プラプラと揺らして。感激に打ち震えながらにロンベルはそう叫ぶ。

 

 銃────一見すると無骨な鉄の塊にしか見えないそれは、端的に言えば()()()()。この時代の最先端を遥かに越す、新しき次代の武器である。

 

 それもこと対人戦に()ける、単純な殺傷力だけであれば。時と場合によって左右こそされてしまうものの、魔法を凌ぐと言っても過言ではない。

 

 弾倉(マガジン)と呼称される鉄の筒に、銃弾と呼称される粉末状にまで細かく砕かれた、特殊な魔石を内部に仕込んだ鉄の玉を込め。そうして銃弾を詰め込んだその弾倉を、本体である銃に差し込む。

 

 そして最後は誤った暴発を防ぐ為の安全機構が解除されているかを確認を終えれば、使用するに当たっての前準備は完了する。

 

 後は対象の急所────人間であれば頭や心臓に狙いを定めて、引き金と呼ばれる場所に指をかけ、そして力を込めてそこを引けば。

 

 刺激を与えられた粉末状の魔石が反応を起こし、爆ぜたその勢いで。弾丸は銃の内部を駆け抜け、その先の銃口という部分から音の速さで以て、外へと射出される。

 

 流石に硬い皮膚や甲殻、鱗を持つ魔物(モンスター)相手や、人間であっても盾や鎧などといった防具類に阻まれたり、【強化(ブースト)】などの魔法で身体を強固にされたりしまえばそれまでだが。

 

 この撃ち出された銃弾は人体ならば如何なる場所を穿つことが可能で、無論頭や心臓などの急所に命中すれば、大抵の人間は死ぬ。《A》冒険者(ランカー)だろうが《S》冒険者だろうが、皆同じ人間で、脆弱性も共通しているのだから。

 

 そしてこの銃の特筆すべき、最も優れた利点は────最初から最後まで、その使用に魔力を()()()()こと。故に発動を察知されやすい魔法や魔石に込めた魔法、魔道具(マジックアイテム)よりも、圧倒的な攻撃前の隠匿性に優位を有しており。

 

 それ故に奇襲をかけ易く、また防御もされ難い。躱そうにも、ただでさえ視認性の悪い小さな鉄の塊が、音の速さで飛来することに加えて。そもそも未知の武器であるが故に、初見での対応が非常に厳しい。

 

 また使用者の魔力に依存せずに使える為、状況次第ではあるが、ロンベルの言う通り────この銃が量産化され、多くの人々の手に渡るようになった暁には。例え戦闘の素人だろうと、格上も格上の《S》冒険者とて、ただの銃弾の一発で。容易く、殺してしまえる。

 

 ただ問題なのは、それが早くて百数年。下手をすれば千年程先に実現するだろう未来の話で。少なくとも、この時代にそれが成されることはないということだ。

 

 世界(オヴィーリス)の最先端を担う第二(セトニ)大陸、そして世界中に公に認識及び認知されている冒険者組合(ギルド)を統括する組合────『世界冒険者組合』が抱える、(あら)ゆる武器や戦術戦学に於ける、他に二人といない智慧者(ちえしゃ)十数名。

 

 そして世界最高峰と謳われ、その手にすること自体が末代まで語られるべき、永年色褪せない名誉と栄誉とまで絶賛され、戦いに身を置く者全てが己の何を差し出しても構わない程に欲する得物を打ちし存在(モノ)たち────『三鍛冶』の一人。

 

 その奇々怪々な発想と奔放極まる独創性、それらを形にして実現させる天性の鬼才ぶりは。世の常識、理の規律(ルール)から逸脱した、ある種の《SS》冒険者(ランカー)にも並ぶとまで断言された。

 

 その彼の名こそ────スミス=アンド=ウェッソン。彼こそがこの銃の発案者であり、発明者であり、命名者である。

 

 元々『世界冒険者組合』の長たるGDM(グランドマスター)、オルテシア=ヴィムヘクシスによる要望(リクエスト)────魔法に頼らず、魔力を用いない形で。戦闘を経験していない者が戦闘の熟練者を打倒できるような、遠距離主体の、戦闘の黎明《れいめい》となる武器を作ってくれ────という。側から聞けば無茶無謀もいいところでしかない、その無理難題を。

 

 

 

 

 

「いいぜ!こっちも丁度面白い新作考えてたからな!」

 

 

 

 

 

 と、気前の良い。実に快い返事で、スミスは了承するのだった。

 

 元より考えていたこともあって、GDMから預かった人員を有効的に酷使────もとい活用し。

 

 合計十個──後にスミスが数えるのに使う単位を丁に定める──の銃が最初期の試作品として、まずは作られたが。例え彼の才を以てしても、現在の技術力では量産など夢のまた夢である程に、厳しいものがあった。

 

 更にある日突然、その内の三つが()()。以降、発見されないまま行方知れずとなってしまった訳だが。

 

 

 

 何を隠そう、現にロンベルが手にしている、その銃こそ。紛失したとされる三つの内の、一つである。

 

 

 

「がはははッ!ははッ、ははは……あぁ?」

 

 一(しき)り、笑うだけ笑って。ロンベルは疑問の入り混じった不快そうな嘆息を吐いた後、苛立ちを少しも隠さずに叫ぶ。

 

「おいおいおい!死体がいつまで突っ立ってる気だあっ!?死体は死体らしく、その辺の塵芥(ゴミ)と一緒に地面に倒れてやがれってんだッ!!」

 

 確かに。ロンベルが言う通り、その顔面に銃弾を受けたクラハは。その首を後ろに倒したままではあるものの、身体は地面に倒れることはなく。微塵たりとて微動だにせず、依然としてその場に立っていた。

 

 最初こそ死んだと確信していたロンベル。否、彼でなくとも、誰だって死んだと思うだろう────そう、()()()()()()()

 

 ──……い、いや、まさか……いや!あり得ねえ!ある訳がねえッ!完全な不意打ちッ!完璧な奇襲ッ!音速ですっ飛んで来る小っせぇ鉄の塊を、あの瞬間(タイミング)で躱せる(わきゃ)ぁねえんだッ!!んなの、俺だって無理だからな……!

 

 自分が無理ならば、相手も無理なはず────そんな浅はかで短絡的な思い込みをしたが為に、ロンベルがその末路を辿ることは必然となった。

 

「た、倒れねえってんなら……俺直々にぶっ倒してやるよぉ!!!」

 

 と、ロンベルは言うや否や。地面から身体を起こし、立ち上がろうとした────直前。

 

「ッ!?」

 

 銃に撃たれてから、今の今に至るまで。まるで時間が止まったかのように、静止していたクラハが。後ろに倒れていたままだった彼の首が、()()()()()、静かに起こされる。

 

 立ち上がろうとしたことも、上半身を起こすことさえも忘れてしまう程の驚愕に見舞われ、ギョッとするロンベルを他所に。やがて、クラハの首が完全に起こされ、今し方銃撃されたその顔面を、彼に晒す────瞬間、ロンベルの表情が固まる。

 

 クラハは、銃弾を()()()()()。命を奪う為に放たれたその銃弾を、上下の歯で以て、彼は()()()()()()()()()()()()

 

「…………ば、ばッ」

 

 自分の予想を遥かに超える光景を目にしたロンベルが、堪らず自らの顔を恐怖で歪ませる最中。ペッと噛んでいた銃弾を地面に吐き捨てるクラハ。

 

 直後、ロンベルの起こした行動は迅速かつ的確だった。彼は指をかけたままの、銃の引き金を引こうした。

 

 

 

 だが、それでもロンベルは遅く。そして、クラハはただひたすらに(はや)かった。

 

 

 

 ドゴッ──ロンベルが銃を撃つよりも、ずっと疾く。クラハの蹴撃が、彼の股間に深々と()り込んだ。

 

 肉を打ち、骨を砕く鈍いその音に紛れて。

 

 

 

 

 

 グチャ──という、()し潰れる音もした。

 

 

 

 

 

「……っッっッ!!!!!」

 

 少し遅れて、ロンベルの顔が。言葉で形容出来ない程、凄惨なまでに壮絶に様変わりし。一瞬にしてその顔色が青()めるのを通り越して真っ白に抜け落ち、目を剥き、瞬く間に彼は失神する。

 

 クラハが減り込ませた己の足を引かせ、数歩その場から遠去かった後。不自然に凹んだロンベルの股間から。くぐもった水音が響き出し、彼が履くズボンの生地の色が濃くなるにつれて、地面に水溜まりが広がっていく。

 

 やがてその黄色い水溜まりに、赤い色が混じり出し、その色が止め処なく広がり始めた頃に。男としての象徴(シンボル)ごと、人間の尊厳を蹴り砕かれ。死を遥かに凌駕する程の無様、生き恥を晒しているロンベルを見下ろしながら。

 

「……次は遠慮も容赦もしないって、自分でもそう言っていましたよね」

 

 言葉など、返されないことも承知の上で。至極淡々と、クラハはそう呟くのだった。



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崩壊(その五十七)

 石礫(いしつぶて)を喉に食い込ませているガロー。

 

 天上の幸福を噛み締める、悍ましい歓喜と度し難い狂気の嗤顔(えがお)を浮かべ、白目を剥いているクライド。

 

 己の全てであった拳を手首の上から跡形もなく、丸ごと吹き飛び、拳打による陥没の跡が薄らと残る額から血を流しているヴェッチャ。

 

 二回りは増強していたその巨躯も、今や空気の抜けた風船のように(しぼ)み、股間から溢れ出た尿と血で下半身を情けなく濡らしているロンベル。

 

 全員が全員、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属している、精鋭中の精鋭である《A》冒険者(ランカー)で。確かな実績も、少ない経験もある、そんな彼らは今。

 

 その有り様に差異の違いはあれど、四者一様に共通して────気を失い、戦闘不能に陥っていた。

 

 ロンベルら四人を倒した、他の誰でもない張本人たるクラハは、彼らに一瞥もすることなく。ゆっくりとした、日常(いつも)通りの歩みで。平然と、静かに先へ進み。

 

「……」

 

 そうして、遂に辿り着いた。時間にして約十分と少しという。複数人の、それも指を折って数えられる程の実力者である《A》冒険者を相手取ったにしては。些か短い時間を費やして、ようやっとクラハは辿り着いた。

 

 路地裏の狭まった奥。埃で薄汚れた、安物の寝台(ベッド)。その上に寝かされている、赤髪の少女の元へ。

 

 少女は眠っていた。整った寝息を静かに立てながら、頬をほんの僅かに上気させながら。疲労と快楽の余韻が未だに残る、何処か心地良さそうで艶かしい寝顔を晒しながら。彼女はその寝台の上で、眠っていた。

 

「…………」

 

 そんな少女の寝姿を。そんな彼女の寝顔を。クラハはただ、黙って。無言で眺める。数分、十数分────こうして時間が過ぎるのも構わず、(いと)わずに。そうして、彼は眺め続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クラハ」

 

 唐突に、その声が頭の中に響く。残響する声に続いて、その光景もまた脳裏に()ぎる。

 

『その……何だ。ひ、久しぶりだな。元気してたか?────クラハ』

 

 響くその声と、過ぎる光景に対して。ただ一言、クラハが呟く。

 

「違う」

 

 

 

 

 

『祝福なんかじゃねえっての』

 

 

 

 

 

 直後、響く声は同じだが。過ぎる光景は変わった。そしてそれも、クラハは否定する。

 

「違う」

 

 

 

『服は百歩いや千歩譲って着てやるけどっ』

 

 

 

 それもまた、クラハは否定する。

 

「違う」

 

『ちょっと、お前に訊きたいことがあってさ』

 

「違う」

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

「違う」

 

『すまん。鍵すんの、忘れてた。……ん』

 

「違う」

 

『なんだって、おれがおんななんかになんなきゃいけねえんだよぉ……ひっく』

 

「違う」

 

『……これが、大丈夫に見えんのか?』

 

「違う」

 

『俺はお前の先輩なんだよ。なのに、なのに……っ』

 

「違う」

 

『助けに来てくれて、あんがと。……じゃあな』

 

「違う」

 

『お前がそう思ってるんなら、俺は……それで……』

 

「違う」

 

『義理、とか……道理とかじゃあ、なくて。俺はただ、お前が心配で……だから、その』

 

「違う」

 

『受付嬢じゃ、駄目なのか。先輩じゃなきゃ不安になるのも心配すんのも死ぬなって思うのも……駄目なのか』

 

 何度否定しても。幾度否定しても。その度に、言葉が響く。光景が過ぎる。響いては過って、過っては響いて。それを何度も、幾度も、永遠と繰り返す。

 

 堪え難い苦痛。度し難い心労。御し難い狂気。それらが滅茶苦茶に混ぜ合わされ、無茶苦茶に()い交ぜにされて。見るも恐ろしく悍ましい極彩色の、名状し難いナニかと化して。

 

 クラハを苛烈に責め立て、非情に苛み続け、酷薄に追い詰め────ただひたすらに、彼を正気の沙汰から追い出す。

 

 一時(いっとき)か、一瞬か。何時(いつ)己という、確固たる自我が。揺らぎ薄らぎ、消え失せてしまうのか。そもそも、今こうしている自分は、果たして()()()()()()()()────そんな、拭い去れない言い知れぬ不安が。胸中に広がり、あっという間に侵食し尽くし。

 

 その傍らで、クラハは呼ばれる。彼はその声に、呼ばれている。

 

 クラハの頭の中で聞こえているはずのその声が、彼のすぐ耳元で聞こえてくる。

 

「クラハ」

 

 何度も。

 

「クラハ」

 

 幾度も。

 

「クラハ」

 

 そして、永遠に。

 

 

 

 

 

「クラハ!」

 

「クラハ?」

 

「クラハ……」

 

「クラハッ!!」

 

「クラハ!?」

 

「…………クラ、ハ」

 

 

 

 

 

「違う、違う、違う……」

 

 顔を俯かせ、耳を塞ぎ、目を見開かせ。恐れと怯えに震える声音で、弱々しく呟くクラハを────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうして、俺を殺したんだ?……クラハ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────その、胸を血で染め上げた、赤髪の少女が。正気の沙汰から、突き飛ばした。

 

「違うッ!違うッ!!違うだろぉ!?」

 

 耳を塞いでいたその手で頭を掻き毟り。頭皮を引っ掻き、爪の間に(こそ)いだ肉を詰め、赤く染めながら。半狂乱になって、クラハは独りその場で叫ぶ。叫んで、取り憑かれたようにそう呟き続ける。

 

「君はお前はあなたはこいつはそいつは違う違う違う違う君は違うお前は違うあなたは違うこいつは違うそいつは違う」

 

 そして不意に、クラハは寝台(ベッド)の少女を睨みつけ、再度叫んだ。

 

「この子は、先輩じゃない!!この子は先輩なんかじゃないッ!!先輩じゃあないんだあッ!!!だから、だから……っ」

 

 顔を歪め、表情を悲痛に歪ませて。そうして、クラハは心底苦しみ痛みに喘ぎながら、吐き捨てるように呟いた。

 

「僕は、ラグナ先輩を、殺してなんか……ないんだ…………」

 

 そう呟いたクラハの視界に、少女の姿が映り込む。ありありと、()りの(まま)、その全てが。

 

「……君は、違う」

 

 見るに堪えない、あまりにも酷い表情をしながら。それに見合った声音で、クラハが言う。

 

「なのに、どうして……どうすれば……僕はどうすれば、いいんだよ……」

 

 そう言って、クラハはまた黙り込み。が、すぐさま彼は自嘲の笑みを、その酷過ぎる表情に貼り付けた。

 

「わかってる。わかっているんだ。一体どうしたらいいのか……一体どうすればいいのか。そんなこと、もうとっくのとうにわかり切ってる」

 

 と、まるで何もかもを諦めたような声音と何もかもを放り出すような口調で。何処か開き直るようにクラハはそう言うと、徐に────己の腰に下げた、長剣(ロングソード)の柄に手をやった。手をやり、握り込んだ。

 

「大したことじゃない。別にこれが二度目や三度目でも、ましてや初めてでもない。今更、本当に大したことじゃないんだ」

 

 そして誰かに言い訳でもするかのようにそう言って、クラハは。長剣を、鞘から引き抜くのだった。



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崩壊(その五十八)

 長剣(ロングソード)の刃に、赤髪の少女の姿が映り込む。それを呆然自失に眺めるクラハの瞳は、仄(ぐら)く濁り、暗澹に淀んでいた。

 

「大丈夫。たぶん、痛みはないから。君相手なら、もう慣れたから」

 

 と、眠っている少女に語りかけながら。手にした長剣を危なげに。不安定に、そして不気味に。クラハは絶えず、揺らす。

 

「ああ、慣れてるんだ。そう、だいぶ慣れてる。君の死体はこれまでに、何百人も見てきた。だから、僕は嫌でも慣れた」

 

 死人も()くや、血の気の失せた、青いを通り越した白い顔色で。クラハはそんな独り言を呟いて、長剣の柄を握り込むその手に、ゆるりと力を込めた。

 

「僕は疲れたんだ。僕は辛いんだ。そしてそれは全部、(ひとえ)に君の所為だ」

 

 と、真っ白な顔に無表情を浮かべ、奈落の如き諦観と、深淵の如き絶望の声音で以て。はっきりと、クラハは告げる。

 

「だから君を殺す。同じように、日常(いつも)のように。僕は君を……殺す」

 

 一字一句、違わず。言葉を詰まらせず、言い淀みもせずに。クラハはそう言った瞬間、揺らしていた長剣(ロングソード)の切先をピタリと静止させ。未だ寝台(ベッド)の上で穏やかに眠り込む少女の、緩やかな上下を繰り返す胸元に、その切先の狙いを定めるのだった。

 

「君がいるから……君なんかが僕の前にいるから……何もかもが違う君が、僕の目の前にいるから……」

 

 と、静かに呟くクラハの顔は。(およ)そ、正気や正常の類とは遠く、遥かかけ離れていて。

 

 どろりと濁り淀んだその瞳から発せられる、何処までも据わり切った、常軌を逸する眼差しは。正しく────人殺しのそれと同質のものだった。

 

 そんな、他人に対して向けるべくもない、向けてはならない眼差しを。クラハは赤髪の少女へと向けながら、聞こえないことを承知の上で、彼は言う。

 

「酷いよ、一体何の権利があって……どういう理由で、君は僕をこんな……こんなこと、こんなのは。許さない、許されないよ」

 

 そう口にするクラハは、意図せず無意識の内に。人間だろうが魔物(モンスター)だろうが関係なく無差別に。己と相対する全ての存在(モノ)が、本能的に彼を嫌悪し忌避する、とてもではないが普通ではなく、明らかに尋常ではない────そんな禍々しく、おどろおどろしい怖気を。彼はその全身から滲ませるようにして、醸し出す。

 

「決して、許されるべくもない」

 

 クラハはその怖気を言葉に乗せ、そして長剣(ロングソード)の刃に伝わせる────否、その時にはもう既に、彼の怖気は()()()()()()

 

「だから殺すんだ。殺さなければ、ならないんだ」

 

 揺るがず覆らない、確固たる絶対の────殺意に。

 

「さようなら」

 

 そうして殺意を込めて、クラハは長剣を振るう。その鋭い切先を、赤髪の少女の柔らかな胸元に、突き立てる──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうして、俺を殺したんだ?……クラハ」

 

 ──────────その寸前で。長剣(ロングソード)の切先が突き刺さるか刺さらないか、少女の肌に触れるか触れないか。そんな目と鼻の先の、至近距離にて。クラハは、止まっていた。

 

「……………」

 

 限界まで、それ以上にまで見開いたその目は。一切瞬きもせずに、少女の姿を見つめる。彼女の顔を、視界全部に映し込んでいる。

 

 相も変わらず、深い眠りに囚われている赤髪の少女。それ故に、その少女が口を開くことはない。よしんば開いたとしても、それは言葉を紡ぐ為にではなく、息を吐いて吸う為だ。

 

 だからこそ、今し方耳にしたその声も。先程、嫌という程に散々に聴かされ続けた、ただの幻聴だ。取るに足りない、ただの幻聴に過ぎない。

 

「…………」

 

 そんなことはわかっている。そんなことは、とうに理解している。

 

「……どうして」

 

 だというのに。だのに、一体どうして。

 

「どうして、どうして僕は手を止めた。こうして手を止めているんだ。どうして、何故、何で。わかっている、わかってるんだ。こうすれば楽になれるって。もう苦しいのも辛いのも終わるんだって。わかってる、僕は、わかってる……わかってるわかってるわかってる」

 

 再び、長剣(ロングソード)の切先が揺れる。かと思えば止まり、だがまた揺れて。やがて小刻みに、震え出す。そしてクラハはまた、口を開く。

 

「君は違う。君じゃない。君なんかじゃない。だから殺せる。簡単に殺せた。今だって、殺せるんだ」

 

 口を開いて、言葉を吐いて、力を込めて────けれど、それでもやはりクラハは長剣の切先を少女に突き立てられない。あと少し、ほんの少し、前に出すだけで。それだけで、鋭利な切先は、その柔らかな肌に突き刺さるというのに。

 

「僕は殺せる。僕は殺した。殺せるんだ、殺し……ぁ、あ」

 

 抑えられない殺意。堪えられない殺意。どうしようもないこの殺意────それにただ、従えば。抗おうとしなければ、それでいいはずなのに。

 

「あ、あぁ、あああ、あぁぁぁ」

 

 呻くクラハの左手が、不意に動く。彼の左手は、長剣(ロングソード)へと向かい────剣身を握り込む。

 

「ぁぁぁぁああああ…………」

 

 少し遅れて、クラハの左手から血が流れ出し。それは刃を伝い、柄に垂れ。終いに、赤髪の少女の顔に滴り落ちる。彼の血が少女の頬を朱に染め、彼女の唇に紅を引く。そうして、少女に血化粧が施されていく。

 

 その様を目の当たりにしながら、クラハは────更に左手に力を込めた。

 

 バキンッ──瞬間、長剣の剣身は握り砕かれて。その破片が周囲に、クラハの血と共に飛び散るのだった。

 

「……僕は、君を殺したんだ。僕が殺したのは、君だ。君なんだ……ラグナ先輩じゃなくて、君なんだよ」

 

 自ら剣身を砕き、柄だけとなった長剣を。クラハは放り捨て、呆然と呟く。呟いて、彼は少女に手を伸ばし、そして確かめるように。彼女の顔を、指先でなぞる。

 

「殺したのが君で、だから、僕は先輩を殺して、なんか……殺してなんか……先輩を、僕は…………」

 

 なぞりながら、そう呟く傍らで。またしても、クラハの鼓膜を────

 

 

 

 

 

「クラハ」

 

 

 

 

 

 ────その幻聴(こえ)が震わせる。それを聴きながら、クラハはまた呟いた。

 

「君は違う。……あなたは違う」

 

 そしてクラハは赤髪の少女の顔から指を離し、手を遠去け。着ている外套(コート)を脱ぎ、それをかけてから、彼は彼女を寝台(ベッド)から抱き上げて。

 

 そうして少女を抱き(かか)え、クラハは踵を返し。少女を連れて、彼が歩き出す。

 

 未だ地面に倒れたままに、依然として沈み伏すしかないでいる四人の男たち。そんな彼らのことなど、我関せずと言わんばかりに、クラハは置き去りにして。少しも気にすることなく、全く構わずに彼は歩き進み。

 

 そしてクラハは腕の中の少女と共に、路地裏の闇の向こうへと。溶けるようにして消え、この場から去るのだった。



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二つの厄災

 オールティアから遠く離れた西の荒野——その場所を突き進む、一つの影があった。

 

 人間、ではない。その影を人間とするなら巨大過ぎるし、そもそも——その影には、八本もの腕があった。

 

 左右にそれぞれ四つ。そしてその全ての手に、形や長さや大きさの違う剣を握っていた。

 

「………………近い」

 

 影——八本腕の異形が呟く。驚くほどに低い声だった。

 

「近い、近いぞ。気配が近い——我が主の気配が」

 

 進む。進む。進む。前へ。前へ、前へ、前へ、前へと。

 

 ただひたすらに。

 

 目指すは視線の先。遠き、(オールティア)。其処に、その場所に、求める存在(モノ)がいる。

 

 だから、この異形はその歩みを止めない。

 

「我らが主。我らの(はは)——今、御迎えに参ります。我を創造(つく)りし偉大なる御方よ」

 

 八本の手に持つ、得物を揺らして。異形は進む————と、

 

「…………む」

 

 女——である。眼前を、女が歩いていた。

 

 軽装、という訳ではないが生地の薄い衣服。さらりと流れるように伸びる、濡羽色の髪。そして、腰に差した一本の刀。

 

「おい、そこの人の子よ。止まれ」

 

 八つの得物の刃先を向けて、異形が声をかける。すると少し遅れて、その女は立ち止まった。

 

「…………なにか、御用でもお有りで?」

 

 美しい、貌だった。だが同時に、底冷えするかのように、酷く冷たい美貌だ。形容するならば——さながら抜身の刃。

 

 小首を傾げるその女に対して、異形が不快そうに言葉をぶつける。

 

「退け。愚劣なる人の子の分際で、我の前を歩くな。せめてもの慈悲に、その命だけは取らないでやろう」

 

「……………………」

 

 女は、無言で異形を見つめる。その黒曜石のような瞳で、じいっと。

 

 異形が、腹を立てるように八つの得物の刃先を、さらに近づける。

 

「我の言葉が聞こえていないのか?退けと言っているのだ。人の子よ」

 

「…………ふむ」

 

 そこでようやく、女は再び口を開いた。

 

「一つ、貴殿に対して尋ねたいことがあるのだが……宜しいか?」

 

「……………………なん、だと?人の子の分際で、我に、物を尋ねたいだと?そんなこと許す訳が「もしだ」

 

 異形の言葉を遮って、女は尋ねる。

 

「その提案を拒否した場合、私はどうなるのかな?」

 

「……………………」

 

 異形は、なにも答えない。ただ女に突きつけていた得物を遠ざけ、それからゆっくりと、口を開いた。

 

「もういい」

 

 ブンッ——そして、言うが早いか、八つある腕の一本を振り下ろした。

 

「愚劣にして矮小なる人の子よ」

 

 ザンッッッ——数秒遅れて、女のすぐ側の地面が、両断された。一瞬にして無数の地層が露出し、永遠に続くのではないかというほどに斬撃の傷跡ができていく。

 

「決して赦しはしない。そして我が慈悲を拒絶したことを後悔するがいい——想像を絶する苦痛の中で悶え死ね」

 

 八つの得物全てを振り上げ、異形は宣告した。

 

「我は『剣戟極神』天元阿修羅。かの厄災の予言に記されし、滅びの一つ()り」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オールティアから遠く離れた東の荒野——そこにも、別の影がいた。

 

 巨大な歯車を背負い、周囲にそれぞれ七色に輝く球体(スフィア)を漂わせ、浮遊しながらその影も先を目指す。

 

「嗚呼、嗚呼……お待ちください我らが主。尊き主。今、今御迎え致します」

 

 不気味に蠢くローブを揺らして、影は進む。

 

「全てを創造せし御方。全てを生みし御方。今馳せ参じましょう偉大なる我がお「あの」……ん?」

 

 不意に、影は背後から声をかけられ、その場に止まった。依然周囲の球体を漂わせながら、振り向くと——そこには、少女が立っていた。

 

 不愉快そうな表情を少しも隠そうともしていない、少女だった。相当上質な素材を使用しているだろう白のローブ。そしてそのローブと全く同じ色の髪。

 

 だがこちらを睨めつける瞳は違い、かなり奇異なものだった。

 

 なにせ、驚くことに決まった色が——存在していない。

 

 光の反射などで変化しているのだろうか。時に赤だったり、または青だったり。とにかく、その少女の瞳は、複数の色を内包していた。

 

 他に二つとない瞳を有した少女が、その可愛らしい表情を歪めて、口を開く。

 

「ちょっと邪魔なんで、退いてくれません?そこ」

 

「……………ほう」

 

 一瞬にして、ローブの影が放つ雰囲気が、一変した。

 

「小娘風情が、この我に対し、物を言うだと?」

 

 徐々に、ゆっくりと。周囲の大気が————震え出す。

 

「面白い、実に面白く——実に愚かで甚だしい。そして酷く傲慢で不遜で、何処までも無謀だ」

 

 大気の振動の度合いが増すにつれ、歯車を背負った影の周囲に浮かぶ、球体の輝きも増していく。

 

 七色の光を浴びながら、影が激怒のままに喋る。

 

 

「不愉快。不愉快、不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快————不愉快だァアアァアァァアァアッッッッ!!!!」

 

 

 そして、弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「喜べ、不幸なる薄幸の少女よ」

 

 背には、七つの後光。頭上には、銀の輪。

 

 左に純白を。右に漆黒を。四つに対する八枚の翼。

 

 その姿を見た者は、総じてこう呟くだろう————堕天使、と。

 

「その特異なる双眸にて刻むがいい、この姿を。尊き我らが主が創造せしこの、完璧なる姿を」

 

 まるで謳うかのように、影——いや、堕天使は少女に語りかける。

 

「そして聞くがいい。我らが主に賜うた、この名を」

 

 絶大に過ぎる魔力を放ち、堕天使は宣告した。

 

「我こそは『輝闇堕神』フォールンダウン。かの厄災の予言に記されし、滅びの一つ形り」



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迫り来る二つの滅び

 その日、オールティアは、かつてないほどの混乱と騒乱と恐慌に陥っていた。

 

 その理由は非常に簡単である。

 

「報告!現在、西及び東から『魔焉崩神』級、いやそれ以上の魔力反応が接近中!繰り返す!西及び東から接近中!!」

 

 冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』。恐らく、終末を嘆くこのオールティアよりも、この場所は極度の混沌を形成していた。

 

 冒険者(ランカー)たちが忙しなく駆け回る。己の武具を手に取る者。そしてこの世の終わりを嘆き、絶望に打ちひしがれる者——まさに、混沌としている。

 

 そんな混沌の渦の中で、僕は——クラハ=ウインドアは、自らの得物の柄を、固く握り締めていた。

 

 ——…………今度こそ、終焉(おわり)かな。

 

 先ほどからずっと、メルネさんが声を荒げて状況を逐一報告し、グィンさんが必死になって『大翼の不死鳥』の冒険者たちを纏めようとしている。

 

 今、この街にいつかの魔神——エンディニグルを超える、強大過ぎる魔力反応が近づいて来ている。それも一つではなく、それぞれ西と東から、二つも。

 

 恐らく、というか確実に——かの厄災の予言に記されし、滅びの一つだろう。でなければ、今この状況の説明がつかない。

 

 ——次の襲来は、百年後のはずだったのに………なんで、それが同時に二つも…………!

 

 最悪だった。誰がどう見ても、最悪の状況だった。

 

 エンディニグルの時は、僕たち冒険者は凄まじく幸運だった——何故なら、その時はこの街に、世界に三人しかいない人類最強、いやもはや人の域から外れた《SS》冒険者の一人がいたおかげで、エンディニグルを討つことができたのだから。

 

 …………だが、今は——————

 

 

 

「………………クラハ」

 

 

 

 ギュ——不意に、得物を握る右手に、柔らかな感触が覆い被さった。

 

「……先輩」

 

 僕の隣には、少女が立っている。燃え盛るよう炎のように鮮やかな赤髪に、まだ幼さが残るが大人びた雰囲気を感じさせる、少女と女の間を彷徨う、不安定で——だからこそ惹かれてしまう美貌。

 

 しかし今その美貌は固く、緊張に強張っており、また宝石のように美しい琥珀色の瞳には、隠し切れない不安と怯えと————悔しむ色があった。

 

 彼女の名は——いや、彼の名はラグナ=アルティ=ブレイズ。以前、この街に降り立った魔神を討った、現時点で三人しか公に確認されていない、規格外と認定された《SS》冒険者の一人————だった。

 

 だが訳あって100だったLvは今や5になっており、しかも何故か男から女の子になってしまっていた。

 

「………俺が、こんなんじゃなければ」

 

「………………気にしないでください。先輩」

 

 重ねられた小さな手が、微かに震えている。怖い——のだろう。

 

 男だった以前の時ならいざ知らず、今や先輩はか弱い女の子。まさに人外だった能力値も今では見る影もなく、最近になってようやく最弱の魔物(モンスター)であるスライムに、単騎でもギリギリで辛勝できるようになったばかりなのだ。

 

 が、今この街に迫っているのは桁違いなどとは程遠い、文字通り次元が違う二つの滅びの化身、いやそのものである。

 

「……………………」

 

 今、先輩が抱いている恐怖を、少しでも和らげたかった。

 

 ……だが、流石に今回は、無理そうだ。

 

 だって、僕も自分で情けなくなるほどに、滅びが怖いのだから………。

 

 ——終焉は、いつも唐突にやってくる。だけど、これはあんまりだろ……!

 

 数時間後には、二つの方角から向かってくる破滅がこの街に到着する。それまでに、僕たち冒険者はそれぞれの配置に着かなければならない。

 

 ……たとえ、絶対に生きて帰れないとわかっていても。

 

 ——……いや。

 

 得物の柄を、握り締める。より強く、より堅固に。

 

「……クラハ?」

 

 先輩が、心配そうに声をかけてくる。その声に対して——僕は笑いかけた。

 

「そんなに不安にならないでください、先輩。大丈夫ですよ。言ったでしょう——僕は死んだりしない。離れたりしない——って」

 

 そう言うと、先輩は微かに瞳を見開かせて——それから、ほんの少しだけ強張っていた顔を緩ませた。

 

「………………おう」

 

 その表情を見て、僕の恐怖も少し和らいだ————その時、だった。

 

 

 

「そ、そんなッ?!あり得ないっ!?こんなこと、あり得ない…………」

 

 

 

 不意に、状況報告を続けていたメルネさんが、ヒステリックを起こしたように叫んだ。彼女の元に、慌ててグィンさんが駆け寄る。

 

「どうしたメルネ!なにがあった!?」

 

 珍しく声を荒げさせて、尋ねてくるグィンさんに、メルネさんが信じられないように、放心しながら——伝えた。

 

 

 

「………………さっき、この街に接近していた、二つの魔力反応が…………一瞬で、消失した……わ…」



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恥を知れ

「すぐには殺さんぞ、女。我を侮辱した罪は、泰山よりも重く、大海よりも深い。すぐに死なぬよう、その手足を斬り飛ばし、心臓以外の内臓を斬り抜き、最後にその脳天を貫いてくれる」

 

 八本腕の異形——『剣戟極神』天元阿修羅は、それぞれ八つの得物を掲げて、こちらを呆然と見つめる女に言う。

 

「見よ、この我が剣の輝きを。この八振り全ての得物は、我らが偉大なる御方により創造(つく)られた、神々しき御剣(みつるぎ)。人の子の血で穢すには全く惜しい代物よ」

 

 だが——と。天元阿修羅は再度その全ての得物——御剣の刃先を女の眼前にへと突きつける。

 

「それでもお前には使ってやろうではないか。誇れ、人の子風情が、この御剣の穢れとなれることを。そしてこの『剣戟極神』によって斬られることを」

 

「……………………」

 

 しかし、依然として女は呆然としたままだった。恐怖している——という訳ではない。怯えているという訳でもない。

 

 天元阿修羅は感じ取る————この女が、この絶体絶命の状況に対して、特に危機感らしい危機感を抱いていないことに。

 

 そして気づいてしまう————この女が、この『剣戟極神』天元阿修羅に、大して関心を向けていないことを。

 

「…………死ねぇぇぇええええぃぃいいいいいいいッッッ!!!」

 

 天元阿修羅は考えを改めた。先ほどはできる限り苦しめて殺すと言ったが、気が変わった。

 

 もはや不快極まるこんな塵芥(ゴミ)を、一秒でもこの視界に収めていたくない。

 

 だから、一思いに——一振りで塵に還すつもりで、得物を振るった。

 

 

 

 

 キンッ——唐突に、金属同士で叩いたような、甲高い音が周囲に鳴り響いた。

 

 

 

 

「『剣戟極神』天元阿修羅」

 

 そこでようやく、女が再び口を開いた————未だ得物を振り下ろしている途中の、天元阿修羅から、背を向けて(・・・・・)

 

「本音を言わせてもらうと、ほんの僅かばかり……期待はしたのだがな」

 

 残念そうに。実に残念そうに。

 

 不服そうに。実に不服そうに。

 

 女は続ける。

 

 

 

「『剣戟極神』とは名ばかりの実力だった——恥を知れ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………馬鹿、な」

 

 女の背に、届くか届かないか。刃先が触れるか触れないか

 そんな至近距離で、振り下ろそうとしていた得物を、静止させて。天元阿修羅が呟く。

 

「この我が、この『剣戟極神』天元阿修羅が」

 

 ピシリ、ピシリ。奇妙な音が、微かに響く。

 

「あり、得ん」

 

 ピシンッ——そして、静止していた得物の刃先が、欠けた。

 

「馬鹿なぁぁぁああ…………!!!」

 

 天元阿修羅が手に持つ八振りの御剣全てに亀裂が走り——そして同時に全てが砕けた。パラパラと、破片が落下していく。

 

「お、おお……おおお……散ることを、お赦しください……我らが偉大なる、御方よ…………」

 

 倒れていく。『剣戟極神』天元阿修羅が、身体を斜めに分断された滅びの一つが、倒れていく。

 

 破片が粉となり、そして宙に霧散する御剣と共に————塵と化して風に流され、消えていった。

 

「…………さて。未だ遠いな、目的地(オールティア)は」

 

 まるで何事もなかったかのように、女は歩みを再開させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なお、余談ではあるが。

 

 この荒野からさらに遠く、遠く離れた場所に、観光名所にもなっている巨大な山がある。

 

 が、数分後、何故か突如としてその山頂付近が切断されてしまったらしい。



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殺すつもりはなかったのに

「そう怯えるな、少女よ。安心するがいい——一瞬の苦痛を感じることなく、貴様は昇天を迎えられるのだから」

 

『輝闇堕神』フォールンダウンが天高く舞い上がる。

 

 対して、白ローブの少女は逃げる素振りすら見せず、頭上に浮遊する堕天使を呑気に見上げる。

 

「………ふむ。恐怖のあまり、感情が死んでしまったようだな。哀れ、哀れなり」

 

 まるで彫刻のような、完璧なる美貌を、堕天使は憐憫に染める。だがそれは所詮上っ面だけの、偽りのものだ。

 

 腕を振り上げ、フォールンダウンが高々と少女に向けて言い放つ。

 

「嘆くな、少女よ。これは終焉(おわり)ではない——次代への、開始(はじまり)である」

 

 瞬間、フォールンダウンの腕に魔力が、爆発的に集中する。そして秒が過ぎるごとに、純白の輝きが溢れていく。

 

「さあ受け入れよ。これは、新しき来世(せかい)の、洗礼だ————」

 

 輝きが、フォールンダウンの腕から離れる——直前、少女がその口を開いた。

 

 

 

「想像以上です」

 

 

 

 それは、聞き様によっては、フォールンダウンへの賞賛の言葉に聞こえただろう。少なくとも、フォールンダウン自身はそう捉えた。

 

 ——だが、その認識は誤っていた。

 

「想像以上、想像以上に——期待外れ」

 

 酷く、酷く落胆するように。少女はわざとらしく肩を竦めてみせる。

 

「なんですか、その姿?無駄にキラキラしてるだけじゃないですか。後ろの翼も安っぽいし、大した魔力もないし。仰々しいにも程がありますよ——『輝闇堕神』様」

 

 そう言って最後に、小馬鹿にしたような表情を少女はフォールンダウンに向けた。

 

「………………ハハ、ハハハハハ……」

 

 嗤う。上空の堕天使(フォールンダウン)が、嗤う。

 

 それと同時に今すぐにでも放たれようとしていた腕の輝きが、一瞬にして消え失せた。

 

「面白い、面白いぞ少女——いや小娘よ」

 

 その代わりに、今度はその背から差していた七つの後光が、急激にその輝きを強めていく。

 

「面白くて面白くて………………腹が立つ」

 

 その呟きは、非常に低く殺意に満ち溢れていた。

 

「撤回しよう小娘。貴様は不幸でも薄幸でもない、その身に余るほど、幸運だ」

 

 全くそうとは思っていない声で、フォールンダウンは少女を指差す。

 

 すると、眩く輝いていた七つの後光全てが少女に飛来し、取り囲むようにその周囲を回りながら浮遊する。

 

「感謝しろ。盛大に、その生命全てを使って、感謝するがいい」

 

 フォールンダウンの言葉が響く。荒野に響き渡る。それに比例して、少女を囲む後光の輝きが増していく。

 

「なにせこれから貴様は、我らが偉大なる御方により、直々に贈られた奇跡によって、魂の一片も残さず消滅できるのだから」

 

 不意に、少女の足元から数十本の光り輝く鎖が伸び、瞬く間に少女の身体に巻きつき、拘束してしまう。

 

「さあ、受け入れろ。奇跡を、我らが偉大なる御方の奇跡を。さあ、さあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあぁぁぁぁ……!!」

 

 七つの後光全てが輝く。強く、強く。そして放たれる光と光が、互いに互いと結びつき、絡み、やがて一本の柱にへと変化していく。

 

 それは、奇跡などという代物ではない。一度解放されたのならば、その周りにある全ての存在(モノ)をただ一方的に消去する、神代の魔法。

 

「受け入れろ、小娘ェェェェエエエエエエッッッ!!!!」

 

『輝闇堕神』が叫ぶと同時に、後光は—————

 

 

 

 

 

「……はあ、雑っっっ魚」

 

 

 

 

 

 —————その力を発揮することなく、容易く呆気なく、少女を縛っていた光の鎖とともに七つ全てが粒子となって消え失せた。

 

「………………な、な」

 

 そこで初めて、フォールンダウンの余裕が崩れ始めた。

 

「ば、馬鹿な。馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿なッ!?きさ、貴様ァ!!一体、今一体なにをしたッ!?」

 

 みっともなく取り乱して、喚くフォールンダウンに、侮蔑の眼差しを向けながら少女が言う。

 

「なにをって、別にただあなたの魔法を無効化(ディスペル)しただけですけど……なにか?」

 

「ふざけるなぁあぁあぁぁぁあああぁぁッッッ!!!」

 

 頭を掻き毟り、一心不乱に八枚の翼を出鱈目に羽ばたかせながら、フォールンダウンは狂乱する。

 

「奇跡だぞ!?全てを創造せし主の、全てを生みし我らが御方の、崇高なる奇跡——神代の大魔法、【七冠の神裁(セブンス・オブ・ジャッジメント)】だぞッ!?たかだか人族の小娘風情が、無効化などできるはずがないッッ!!!」

 

「知ってますよ。私も使えますし、それ」

 

「なにぃぃいっ!?」

 

 ふあぁ、と。あくびを漏らしながら、心底どうでもよさそうに少女は続ける。

 

「でもそれ魔力の消費量の割に威力がイマイチなんですよねー。発動も遅いし、まあざっくり言っちゃうと使えない魔法ですね」

 

「あ、あり得ない。あり得ない、あり得ないあり得ないこんなことあってはならない……偉大なる御方の恩恵も受けず、そんなことあるはずが…………!」

 

「………んー。なんか、可哀想になってきたなぁ——あ、そうだ」

 

 なにか思いついたように少女はそう呟いて——次の瞬間、その場から消えた(・・・)

 

「!?」

 

 フォールンダウンは驚愕する。何故なら、さっきまで地上にいたはずの少女が、気がつけば目の前にいたのだから。

 

 己と同じく浮遊する少女が、ぴっと小さな人差し指をこちらに突きつける。

 

「ちょいっとな」

 

 その指先から放たれたのは、極小の球だった。それは宙を真っ直ぐ飛び、スッとフォールンダウンの胸にへと沈み込んだ。

 

「…………?な、なん——

 

 異変は、すぐに訪れた。

 

 ——ぉ、ご……ぐ、ぃっ、ぎぁああ……!??!!」

 

 ボゴボゴ、と。そんな異音を鳴らしながらフォールンダウンの身体が膨れ上がる。背中の翼が、次々と腐り落ちていく。頭上にあった銀の輪が、錆びて朽ち、崩れ去っていく。

 

「げぇべばああああああッ?だ、だぢゅ、ぶごぉっ??」

 

「………………あれ?」

 

 醜く膨れ上がっていくフォールンダウンの姿を見て、まるで予想外というように少女が顎に指を当て、首を傾げる。

 

「いだいいだいいだぃぃぃいいいぃっからっからだっふくれっだずげ、べばあああっ」

 

 ぶくぶく。ぶくぶく。フォールンダウンだったナニかは、膨れ上がっていく。顔が、首が、胴が、四肢が、全てが醜く悍ましく、際限なく膨れ上がっていく。

 

「もぐぎぉ、ぎぼぼ、ぼごごごっ」

 

 その様は、まるで風船人形のようだった。しかし風船というのは空気を入れれば入れるほど膨らむが——限度というものがある。

 

 いつしか素材の強度が膨張する力に耐えれなくなった時、一気に破裂する。そしてそれは、目の前の風船人形(フォールンダウン)とて同じであった。

 

「や、やばっ…」

 

 結末を予測した少女が、再び消える。その瞬間————

 

 

 

「びぎゅっ」

 

 

 

 ボバンッッ——膨張する力に、とうとう耐え切れなくなったフォールンダウンの身体が爆発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………別に、殺すつもりはなかったのに」

 

 荒野をゆっくりと進みながら、少女は呟く。

 

「まさか私の魔力をほんのちょっぴり分けただけで、ああなるとは…………本当に、期待外れだった」

 

 少女が先を見据える。

 

「まだ、目的地(オールティア)は遠いですねー」



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五つの滅び

『厄災の予言』——数ヶ月前、世界(オヴィーリス)始点(はじまり)と、数々の逸話と共にそう噂されている最古の遺跡。『ブィギュヴアロ遺跡』の最奥部から、冒険者(ランカー)チーム“翡翠の涙”によって発見された書物である。

 

 まあ、書物と言っても一枚の紙でしかなく、しかもこの世界に既に存在するどの紙でもなく、全く新しい材質である。

 

 そして驚くことに、いかに力を込めて引っ張ろうが千切れもせず、火にかけても燃えず、水に浸けてもふやけることがない。

 

 もはや紙なのかすら疑わしくなるが、その質感は確かに紙のそれなのだ。

 

 そして、この『厄災の予言』には、その名の通り予言と思わしき文が書かれており、五つの名前が記されていた。

 

 

 一の滅び——『魔焉崩神(エンディニグル)

 

 二の滅び——『剣戟極神(天元阿修羅)

 

 三の滅び——『輝闇堕神(フォールンダウン)

 

 四の滅び——『理遠悠神(アルカディア)

 

 五の滅び——『真世偽神(ニュー)

 

 

 この五つの滅びこそが厄災であり、世界に終焉(おわり)(もたら)す——と、予言されていたのだ。

 

 まず、一の滅びである『魔焉崩神』は既に降臨したが、ある一人の冒険者に討ち取られた。

 

 そして残りの四つの内二つ。二の滅び『剣戟極神』と三の滅び『輝闇堕神』。それぞれ百年ごとにこの世界に降臨し、同じく終焉を齎すだろうと言われていた。

 

 だが、何処か狂ったのか——百年どころか『魔焉崩神』襲来から一ヶ月も経たずに、あろうことか同時に現れたのだ。

 

 今度こそ、もう終焉だろうと。この世界に生きる全ての存在(もの)たちは思った————

 

 

 

 

 だが、その二つの滅びすらも、二人の冒険者(ランカー)によって討ち取られたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 人類(じぶん)たちは助かったんだと、先ほどの陰鬱な雰囲気がまるで嘘であったかのように騒ぎ立てる冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属する他の冒険者から離れて。

 

 独り椅子に座り僕——クラハ=ウインドアは、テーブルに置いたグラス、そこに注がれた葡萄酒(ワイン)に映る、己の顔をただ眺めていた。

 

 ——また、救われたのか……。

 

『魔焉崩神』の時と同じように、絶体絶命、絶望的な窮地から。

 

 そのことには、感謝している。だがそれと同時に——己の情けなさを痛感していた。

 

 ——なにもできてない……なにも、してないじゃないか。僕。

 

 そう、僕はなにもしていない。なにも、できていない。

 

『魔焉崩神』の時も、今回も。ただ、自分の死を恐れて惨めに震えていただけだ。

 

 立ち向かう振りだけを見せて、助けを待っていただけだ。

 

 僕みたいな凡人など、とっくのとうに死んでいる。死んでいるはずだった。だが現にこうして僕はまだ生きている。生きて、しまっている。

 

 戦って勝って生きているのならいい。戦って負けて死ぬのも構わない。

 

 しかし僕は——戦わずして生きている。勝ちも負けもしないで、ただただのうのうと生きている。

 

 ——なにやってんだろうなあ僕……。

 

 葡萄酒に映る自分の顔が、酷く情けない。本当に、どうしようもなく、情けない。できることならこのまま溶けて消えてしまいたい。

 

 ——なにが《S》冒険者だ。僕みたいな臆病者でどうしようもない奴なんかに、相応しくない肩書きだ畜生。

 

 際限なく膨れ上がる自己嫌悪に押しつぶされそうになっている、その時だった。

 

「おーい。クーラーハー」

 

 蜜柑酒が注がれたグラスを片手に、向こうから僕の先輩——ラグナ=アルティ=ブレイズが僕の方にへと歩いてきた。

 

「先輩…」

 

「お前なにしけた顔でいんだよ。折角の酒が不味くなるぞー?」

 

「いや……えっと……その」

 

 燃え盛る炎のように鮮やかな赤髪。幼さが残る可憐さと、発展途上ではあるが充分な魅力を伝えさせる美麗さを綯い交ぜにした顔立ち。

 

 街中で歩けば、十人の男が全員振り返るだろう、誰もが認める美少女だ————元男(・・)であるという点を考慮しなければの話ではあるが。

 

 

 

 かつて、オールティア(この街)に一人の冒険者がいた。

 

 その冒険者は、公にでは三人しか確認されていない世界最強の《SS》冒険者——人でありながら、人の範疇を外れた、規格外の存在。その内の、一人。

 

 《SS》冒険者(ランカー)——『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズ。激烈に燃え盛る炎のような赤髪の、その性格には似つかわしくない、中性的な顔立ちの、男。

 

 ————そう、『男』だ。…………だったんだ。

 

 

 

「ん?どした?」

 

「……………………」

 

 まあ、詳しい説明は省くが……とある事情によってラグナ=アルティ=ブレイズ——僕の先輩は男から『女の子』になってしまい、その上100であったはずのLvも、1になってしまっていたのだった。

 

「なんだよ~?言いたいことあんならはっきり言えよ~?」

 

「で、ですから……って先輩近い。近いですって」

 

 気がつけば、先輩は僕の隣に座っており、面白可笑しそうに顔を綻ばせながら、自らの身体をこちらに寄せてきていた。

 

 改めて言おう。ラグナ先輩は元男である。そして今は女の子である。それも誰もが認めるだろう美が前に付く少女である。

 

 だが——先輩にはその自覚がない。今自分は女なのだという、自覚が全くない全くしていない。

 

 ——ああもう…………!

 

 心臓が嫌でも早鐘を打つ。鼻腔を擽る甘い匂いに理性をぐらりと揺さぶられる。

 

 先輩は全然気づいてくれない。全然察してくれない。ここ最近、一体どれだけ僕が自制(ブレーキ)を効かせているのかを。

 

「別に近くても良いだろ?先輩()後輩(お前)の仲なんだし」

 

「そ、それは以前までの話です。今は良くないんです」

 

 こうして先輩と会話していると、無意識にも頭の片隅でここ最近あった出来事を思い出す。

 

 ——僕も、もっと前に進まなきゃ駄目だな……。

 

 でなければ、先輩のLvを元の100にすることなど、夢のまた夢。

 

 ……自己嫌悪など、している場合じゃなかった。

 

 テーブルのグラスを持って、葡萄酒を一気に飲み干す。そして少し先輩に離れてもらおうとした——直前だった。

 

 

 

 

 

「あのー、すみませーーーん。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』って、ここで合ってますかねーーー?」

 

 

 

 

 

 冒険者組合(ギルド)の扉を開けながら、突如としてそんな声が飛び込んできた。



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二人目と三人目の《SS》冒険者(ランカー)

「あのー、すみませーーーん。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』って、ここで合ってますかねーーー?」

 

 突如として開かれた冒険者組合(ギルド)の扉。そして飛び込んでくる声。

 

 その声の主が、返答も待たずに中にへと入ってくる。突然の来訪者に、その場の誰もが静止し、沈黙した。

 

「…………え?なんです、この空気」

 

 押し黙ってしまった周囲の冒険者(ランカー)たちを、来訪者は困惑するようにきょろきょろと見回す。

 

 ——誰だ……?

 

 グラス片手に、僕はその来訪者の姿を眺めた。

 

 少女、である。(シルク)だろうか、相当材質の良い真白のローブに身を包んだ、それと全く同じ髪色の少女。

 

 幼げ、ではなく幼い顔立ちで、遠目から見れば非常に精巧に作られた可愛らしい人形のように見える。

 

 そして何よりも目を惹くのは————その瞳であった

 

 赤色(・・)、かと思えば青色(・・)。だが次の瞬間には緑色(・・)に変わっており、そして驚く間もなく黄色(・・)になっている。

 

 あまりにも、特異性に溢れた瞳だった。一体どういう原理でそうなっているのか、こうして呆気に取られている間にもまた色が変わっている。

 

「んー………」

 

 他に二つとないであろう瞳を有した少女は、困惑しながらも、周囲の冒険者たちの視線を集めながら歩き進む。

 

 そして————

 

 

 

「そこのあなた、ちょっといいですか?」

 

 

 

 ————僕と先輩の前まで辿り着き、そして僕に向かって指を指しながらそう言ってきた。

 

「…………え?ぼ、僕ですか?」

 

「はい。あなたです」

 

 紫色(・・)の瞳を瞬かせ、藍色(・・)の瞳でこちらの顔を見つめながら、少女が訊いてくる。

 

「『大翼の不死鳥』は、この冒険者組合で合ってます?」

 

 少女の桜色(・・)の瞳に戸惑いながらも、その問いに僕はぎこちなく頷いた。

 

 すると少女は紅色(・・)の瞳を閉じて、安堵したように息を吐いた。

 

「なら良かったです……疲れた」

 

 橙色(・・)の瞳を見せて、少女は近くにあった椅子に腰かけた。

 

 ——……いやいや。

 

 思わず呆気に取られてしまっていたが、僕は慌てて少女に訊き返す。

 

「えっと、君は一体「すまない。『大翼の不死鳥』という冒険者組合は、こちらで合っているのだろうか?」………はい?」

 

 再度、突如としてまた別の、全く聞き覚えのない声が冒険者組合内で響いた。凛として、芯の通った声だ。

 

 反射的に顔を向けると——そこには、一人の女性が立っていた。

 

「…………ふむ。見たところ、酒盛りの途中だったのか?」

 

 少女も少女で珍しい身なりをしていたが、その女性もこの辺り——というかこの地方ではまず見かけない服装をしていた。

 

 ——あれは確か……キモノ、だったか?極東特有の衣服の。

 

 周囲からは明らかに浮いた格好である。だが、息を呑むほどにそれはその女性に似合っていた。

 

 濡羽色と形容するのに相応しい、さらりと伸びた黒髪。切れ長の、しかし不思議と威圧感を感じさせない黒曜石のような黒い瞳。

 

 そして何より目立つ、腰に差した得物——確かあれも極東に伝わるというカタナ、と呼ばれる剣の一種だ。

 

 あともう一点、その女性の特徴を付け加えるのなら、女性にしてはかなりの高身長ということである。少なくとも僕の身長は越している。

 

 椅子に座って、テーブルに突っ伏している白ローブの少女同様、そのキモノ姿の女性は周囲を見回しながら、ゆっくりとこちらの方にまで歩いてきた。

 

「そこの君、ちょっと宜しいかな?」

 

 ——ま、また僕か…………。

 

 心の中でそう呟きながら、僕は口を開く。

 

「は、はい……な、なんですか?」

 

「そう固くならないでくれ。少し訊きたいことがあるだけなんだ」

 

 キモノ姿の女性が僕の顔を覗き込むようにしてそう言ってくる。

 

 その女性は、綺麗だった。先輩とも、先ほどの少女とも全く違う。可愛らしさなど欠片もない、美麗さを突き詰めた顔立ち。

 

 だがそれと同じくらいに——酷く、冷たい美貌でもある。まるで抜身の刃のような、女性のものにしてはあまりにも鋭過ぎる。

 

 ——ていうか、この人も近いな…………!

 

 詰められた距離による圧迫感に、僕が顔を引き攣らせている中、その女性は言ってくる。

 

「実は『大翼の不死鳥』という冒険者組合を探しているのだが、ここでいいのだろうか?」

 

「そ、そうですね。ここです、よ……」

 

「ふむ、そうか。答えてくれてありがとう。助かっ……」

 

 女性はそう礼を言いながら、僕に頭を下げようとした直前のことだった。

 

 黒曜石のような瞳が、僕の隣に座る先輩を捉えて、時が止まったかのように彼女は硬直した。

 

「…………な、なんだよ?俺の顔になんか付いてんのか?」

 

 流石の先輩もその眼差しに堪えられなかったのか、若干怯えつつもそう訊くと——何を思ったのか女性は即座に跪いた。

 

 もう一度言う。先輩に対して、少しも躊躇うことなく、彼女は跪いた。

 

「…………うぇ?」

 

 女性の奇行に、先輩がそんな珍妙な声を上げる。僕も無言ではあったが、内心先輩と同じような境地にいた。

 

「挨拶が遅れてすまない。私はサクラ=アザミヤと言う。……もし、差し支えなければ、貴女の御名前も聞かせて欲しい——可愛らしいお嬢さん?」

 

 無駄にキリッとした凛々しい表情で、無駄にキリッとさせた凛々しい声でキモノ姿の女性——サクラ=アザミヤは先輩にそう尋ねる。

 

 対して先輩は、女性の、女性でありながらその紳士然とした態度に完全に引いていた。

 

「え、えっと……俺、ラグナ………」

 

「ラグナ、ラグナか——ではラグナ嬢。宜しければ私とお茶でも如何かな?先ほどあちらに雰囲気の素晴らしい喫茶店を見つけてね、是非とも午後の時間を貴女と過ごしたい」

 

「は、はあ……?」

 

 …………なんということだろう。あろうことか、先輩が口説かれている。今は女の子である先輩が、僕の目の前で。

 

 しかも今だけなら一応は同性の、女性相手に。

 

 想像もし得なかった光景に、唖然としながらも、僕はハッと我に返り、慌てて椅子から立ち上がった。

 

「ちょ、なにを言って「予想よりも少しお早い到着でしたね、お二人方」……グィンさん?」

 

 僕の言葉を遮るようにして、奥から登場してきたのはこの冒険者組合(ギルド)『大翼の不死鳥』のGM(ギルドマスター)——グィンさんだった。

 

「………………」

 

 グィンさんが、突如として現れた少女と女性を交互に見やる。

 

 椅子に座ったかと思えば、目を離した隙にテーブルに突っ伏して寝ている少女と。

 

 未だ熱い言葉を以て先輩を口説こうとしている女性を。

 

 そんな二人を見やって、それから彼は僕の方にゆっくりと、困ったような笑顔を向けた。

 

「ウインドア君。これ一体どういう状況なのかな?」

 

「………どういう、状況なのかと訊かれても。そもそも、この人たちは一体誰ですか?貴方は知っているんですよね?グィンさん」

 

 僕が逆にそう訊くと、グィンさんは少し困ったような笑顔を浮かべて、少し間を置いてから——

 

 

 

「『極剣聖』と『天魔王』——そう呼ばれている、《SS》冒険者(ランカー)の二人だよ」

 

 

 

 ——そう、言ったのだった。

 

「……………………え?」

 

 僕は、もう一度見やる。

 

 未だテーブルに突っ伏して寝ている白ローブの少女と。

 

 先輩が明らかに嫌がっているのにもかかわらず熱心にアプローチするキモノ姿の女性を。

 

 見やって————数秒後、

 

 

 

「えええぇぇぇぇぇええええええッッッ!?!?」

 

 

 

 死ぬほど驚くのだった。



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負けるな先輩

 場所は変わって冒険者組合(ギルド)の応接室。今ではすっかり見慣れてしまった部屋だが、今回ばかりは雰囲気が一変していた。

 

「本日は遠路遥々(はるばる)、我が冒険者組合『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に訪れて頂き、誠にありがとうございます。『極剣聖』殿、『天魔王』殿」

 

 そう言って、グィンさんは向かいに座る二人——《SS》冒険者(ランカー)たちに恭しく頭を下げる。

 

「そう畏まる必要はない、『大翼の不死鳥』GM(ギルドマスター)。それに私のことは気軽にサクラと呼んでくれても構わない」

 

「右に同じく。私も堅苦しいのは苦手なんで」

 

「……わかりました。では私も肩の力を抜かせてもらうことにしましょう」

 

 そんな三人の会話のやり取りを、僕は他人事のように呆然と聞いていた。

 

 ——『極剣聖』、『天魔王』……《SS》冒険者……。

 

 未だに、信じられない。今目の前に座るこの二人が、かつての先輩と並び評されている、世界最強の《SS》冒険者。

 

『極剣聖』——なんでも、一振りで海を割り、地を裂き、天を斬ったと語られ、この世界(オヴィーリス)に生きる全ての剣士にとっての伝説となっている。

 

『天魔王』——全ての魔法をその知性の元に収め、気紛れ一つで災害も、天変地異を起こすことも思うがままと。そう恐れられながらも、魔道士の頂点として崇められている。

 

 ——《SS》、冒険者…………。

 

 その事実を認識しようとする度、嫌でも先ほどの光景が脳裏を過ぎる。

 

 テーブルに突っ伏して威厳もなく、くうくう寝ていた『天魔王』の姿と。

 

 どれだけ先輩に拒否されようとも、めげずに喫茶店に誘おうとしていた『極剣聖』の姿が。

 

 ——…………なんだろう。何故か酷い裏切りにあった気分だ。

 

 今まで抱いていた、《SS》冒険者に対しての憧憬というか尊敬というか畏怖というか、そういう諸々の類の感情が、残らず全て吹っ飛んだ。

 

 そして心底驚いた——まさか先輩が《SS》冒険者唯一の常識人であったことに。

 

 ——先輩は大の甘党なのと、極度に面倒がるのを除けば至って普通の人だし。

 

 それか《SS》冒険者、というよりLv100になるためには……まさか人として少々アレな者にならなければいけないのだろうか………?

 

「そんなの絶対に嫌だ…」

 

「ん?なんか言ったかクラハ?」

 

「いえ何も」

 

 まあ、心配する必要はないはずだ。僕なんかがLv100になれる訳がないのだし。

 

「それでは改めて名乗らせてもらおう——私はサクラ=アザミヤ。冒険者組合『影顎の巨竜(シウスドラ)』に所属する、《SS》冒険者だ。人からはよく『極剣聖』なんていう大それた名でも呼ばれているが、私はそんな大した奴じゃないさ」

 

 そう言って、キモノ姿の女性——『極剣聖』サクラ=アザミヤさんは気の良い笑顔を僕とグィンさんに送って、それから先輩には無駄に爽やかな笑顔を向けた。ぶるりと先輩が身体を震わせる。

 

「私もそんな《SS》冒険者の一人、フィーリア=レリウ=クロミアです。所属する冒険者組合は『輝牙の獅子(クリアレオ)』で、私も他人からはよく『天魔王』と呼ばれますね」

 

 サクラ=アザミヤさんに続いて自己紹介をする『天魔王』——フィーリア=レリウ=クロミアさん。こうしている間も、彼女の瞳は絶えずその色を変えていた。

 

「自己紹介ありがとう。私はグィン=アルドナテ。さっき言ってくれた通り、この冒険者組合のGMをやっているよ。それでこっちは我が『大翼の不死鳥』が誇る《S》冒険者、クラハ=ウインドア君だ」

 

「よ、よろしくお願いします……」

 

 グィンに紹介されて、僕はサクラさんとフィーリアさんにぎこちなく会釈する。

 

 緊張、なんてものではない。何せこの世界(オヴィーリス)で最高峰、最強の二人の冒険者を目の前にしているのだ。

 

 たとえ先ほどの残念な姿を見ていても、戦々恐々としてしまう。

 

 そんな僕に対して、二人はそれぞれの反応を返してくれた。

 

「その若さで《S》冒険者か。将来が楽しみだな——こちらこそよろしく頼むよ、ウインドア」

 

「Lvは……80ですか。まあ、悪くはないですね——よろしくです。ウインドアさん」

 

「は、はい。お願いします……」

 

 …………あれ?やっぱりこの人普通に常識人なのでは?と。対応を受けた僕は密かにそう思った。

 

 まあそれはともかく。一つ、僕にはどうしても気になるというか、到底無視できない疑問があった。

 

「えっと……それで、なんですけど。無礼を承知で訊きたいことがあるんですが、いいですか?」

 

 恐れながらも僕はそう訊くと、二人は揃って首を傾げた。

 

「訊きたいこと、ですか?」

 

「別に構わないが……」

 

 そこで一旦僕は深呼吸して、二人に訊いた。

 

 

 

「あの、お二人はなんで『大翼の不死鳥』(ここ)に…………?」

 

 

 

 ————そう。僕はずっとそれが気になっていた。

 

 《SS》冒険者が、それも二人同時に一つの冒険者組合に訪れた理由。普通ならば、絶対にあり得ないことである。

 

「それには私が答えるよ。ウインドア君」

 

 だが、そこですかさずグィンさんが会話に割って入ってきた。

 

「彼女たちにはね、この街の防衛(・・)のために来てもらったんだよ」

 

「防衛……ですか?」

 

「うん」

 

 頷きながら、グィンさんは僕に対して説明を始める。

 

「思い出してほしいんだ、『魔焉崩神』の時のことを。厄災の予言には『魔焉崩神』を含めた五つの滅びの名が記されていたけど、それらが一体どこに降臨するのかは『魔焉崩神』だけしか記されていなかった。だからまあ、残りの滅びたちも、もしかしたらこの街に降りてくるんじゃないかって話になってね。王都に出張して、そこで他のGM……まあ主に『輝牙の獅子』と『影顎の巨竜』とだったけど。相談して、彼女たち《SS》冒険者を借りたんだよ」

 

『大翼の不死鳥』の《SS》冒険者は諸事情で使えなくなっちゃったしね——そう小声で僕の耳元近くで囁くグィンさん。それから決して見えないように先輩を指差す。

 

「…………なるほど。納得できました」

 

 僕も、チラリと先輩を一瞥してそう返す。

 

 ……一刻も早く、先輩を元に戻さなければ…………!

 

「まあ、そういうことだ。なのでこの街にはしばらく滞在することになる」

 

「この街で一番オススメのホテルってあります?」

 

 その時だった。そこで唐突に、二人の《SS》冒険者がほぼ同時に「あっ」と声を上げた。

 

「そうだそうだ、忘れていた」

 

「はい。私も忘れてましたよ」

 

 ——なんだ?

 

 僕とグィンさんが視線だけを交わす中、サクラさんとフィーリアさんが揃って訊いてきた。

 

 

 

「「『炎鬼神』はどこにいるん(です)だ(か)?」」

 

 

 

「…………………………」

 

「………………えっ、と」

 

 僕とグィンさんは、どもる。先輩は意味がわかっていないのか、やや困惑しながら小さく首を傾げていた。

 

 ………『炎鬼神』というのは、二つ名である。

 

 ………………誰の、二つ名かというと。それは—————

 

 

 

「「ここにいます」」

 

 

 

 —————先輩、のだ。…………まだ、男でLv100の、《SS》冒険者だった時の先輩の、だが。

 

 ——ていうか知らなかったのか先輩………。

 

 僕とグィンさんが口を揃えてそう言うと、当然目の前の《SS》冒険者二人はきょとんとする。

 

「ここにいるって……」

 

「この場にはウインドアとアルドナテ殿と、ラグナ嬢の姿しか見えないが」

 

 それを聞いて、僕はさらに頭を抱えたくなった。

 

 ——まさかこの人先輩の名前を知らない……!?

 

 そしてどうやらそれは隣のフィーリアさんも同じようだった。

 

 なので僕は、恐る恐るゆっくりと——未だ自分の所在を尋ねられているのだと理解できていない先輩を、遠慮がちに指差した。

 

「…………?どうした、ウインドア、アルドナテ殿。二人してラグナ嬢を指差して」

 

「…………………………」

 

 サクラさんはまだ気づいていないみたいだったが、フィーリアさんは違ったらしい。神妙な顔つきになって、先輩のことを見つめていた。

 

 そしてようやく——合点がいったのか先輩が得意げに胸を張った。

 

「おう!その『炎鬼神』?ってのは俺のことだ!……だよな?」

 

 ——先輩、胸を張ったなら最後まで自信持ってください。

 

 不安そうに顔を向けてくる先輩に、僕がそう思った直後だった。

 

 

 

「……く、んふ…あ、あはははっ!はははは、あっはははははははっ!」

 

 

 

 ……笑っていた。

 

『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアが、最初こそ堪えていたが、堪え切れず吹き出して笑っていた。

 

 隣のサクラさんが驚いたような眼差しも気にすることなく、僕とグィンさんの戸惑いの視線も受けながらも。

 

 げらげらと一人で笑い転げていた。

 

「いひっ、ふふっ……!お、おかし——あはははははっ!!」

 

「な、なにそんな笑ってんだよっ!?」

 

「い、いやだって………ふふふっ…………こ、これが笑わずにいられますか…っ………あはっ…!」

 

 怒る先輩に対して、フィーリアさんは笑いを堪えて、真面目に答えようとするが——

 

「はーっ……はーっ………わ、私が聞いたところによると、《SS》冒険者——『炎鬼神』は、男性の方らしいですよ?少なくともあなたのような女の子じゃないですし、それに………くふっ………あ、あなたLv5————だあああもう駄目我慢できないあはははははっ!あっはっはっはっ!!」

 

 ——結局堪え切れずまた一人で大笑いし始めてしまった。

 

「おなかっおなかいたい笑い過ぎてっ!無理無理こんなの我慢できないってあはははははははは!!!」

 

 そこに、もう『天魔王』の威厳など欠片ほどもなかった——と、

 

「あははっ!あはは、ははは……はは…?」

 

 まるで油の切れた機械人形のように、徐々にフィーリアさんの笑いが収まっていく——何故なら、彼女に笑われ過ぎた先輩が、涙目になっていたのだから。

 

「………俺、なのに。本当に俺なのに………男、なのにぃ…………!!」

 

 僕とグィンさんとサクラさん、三人揃って非難の視線をフィーリアさんにぶつける。

 

「……………………いや、あの、その……す、すみませんでした…………」



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報酬はあの子?

「…………なるほど。まあ大体の事情はわかりました」

 

 テーブルに肘をついて、両手を口元にまで持っていき、真面目な様子でフィーリアさんはそう呟く。もう、また笑い出すことはないだろう。……たぶん。

 

「ですが、まあ……にわかには信じ難い話ですけど……」

 

「ふむ。私もそれに同じだ」

 

 ——まあ、ですよね……。

 

 あの後、必死に涙を堪える先輩をなんとか励まして、先輩の身に起こったことを全て彼女らに説明したのだ。

 

 朝起きたら女の子になっていたことと、それと同時にLv1になっていたことも。

 

 ……しかしまあ、フィーリアさんの言う通り、にわかには信じ難い話である。

 

「けどまあ【リサーチ】で見たところ、本当に『炎鬼神』——ラグナ=アルティ=ブレイズ本人なのは確かなことですしねえ……」

 

 疑い半分、興味半分といった眼差しをフィーリアさんは先輩に向ける。対して先輩は先ほどのこともあるせいか、ぷいっと顔を背けてしまうが。

 

「………ふーん」

 

 …………気のせいだろうか。フィーリアさんの眼差しの、興味の度合いが濃くなったような気がする。

 

「元男、か…………いやしかし……それを考慮しなければ…………それに先ほどの表情(かお)を思い出すと…………ふふ」

 

 気のせいだろうか。サクラさんが何やら不穏なことをブツブツ言いながら、まるで獲物を狩る獣のような鋭い眼光を先輩に向けている気がする。

 

 ……取り敢えず、できるだけあの人には先輩を近づけないようにしよう。じゃないと、何か取り返しのつかないことが先輩の身に起こる気がする。

 

「それに合点もいきました。だから私と『極剣聖』がこの街に呼ばれたんですね」

 

 うんうんと頷くフィーリアさん。その横で未だに顔を俯かせ、耳を澄ましても聞こえない声量で何かを呟き続けるサクラさん。

 

 ——こうして見ると本当に《SS》冒険者(ランカー)とは思えない………とてもじゃないけど。

 

 そう僕が思った時だった。

 

「ん……?」

 

 ふと、グィンさんがそんな声を上げたかと思えば、懐に手を突っ込んで、拳大の澄んだ蒼色の魔石を取り出した。

 

「すまない。私は少し席を外させてもらうよ。冒険者同士、会話を楽しんでてね」

 

「え?ちょ、グィンさ——」

 

 バタン——僕が呼び止める暇もなく、グィンさんは立ち上がってそそくさと部屋から出て行ってしまった。

 

「…………ええ……」

 

 僕がそう放心するように呟く最中、二人の《SS》冒険者が口々に言葉を紡ぐ。

 

「朝起きたら女の子に……Lv1……E-とEXという能力値(ステータス)……気になるなあ……」

 

「そうか…!いっそのこと女としての悦びを身体に教え込み、心も女にしてしまえば……万事解決か……!」

 

 何やら二人の呟き——主にサクラさんの——がどんどん不穏な響きを伴わせてきている。すると不意にギュッと服の裾を掴まれた——無論、隣に座る先輩にである。

 

「先輩?」

 

 僕が顔を向けると、若干目元を腫らした先輩が、まるで怯えた小動物のように身体を縮こませていた。

 

「く、くらはぁ……あいつら、なんか怖いんだけど……」

 

「………………」

 

 最近ずっと思っていることなのだが、もしかすると先輩は身体だけではなく、精神の方も女の子に染まり切ってしまっているのではないか?

 

 そう、勘繰ってしまうほどに最近の先輩は女の子らしいというか女の子してるというか……。

 

 ——って何を考えてるんだ僕は……!

 

「あ、安心してください先輩……気のせいですよ」

 

「そ、そうか……?」

 

「はい。…………たぶん」

 

 と、そこで一旦席を外したグィンさんが戻ってきた。

 

「いやあすまなかったね。それでアザミヤ君とクロミア君。こちらが支払う君たちへの報酬なんだけども」

 

「GM。実はそれについて話があるのだが」

 

「あ、私も」

 

「え?うん。何だい?」

 

 《SS》冒険者の二人は揃ってグィンさんの方へ顔を向けて、それからさも当然のように——

 

 

 

「「あの子で」」

 

 

 

 ——と、先輩を指差すのだった。



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泣かないでラグナちゃん

「「あの子で」」

 

 と、《SS》冒険者(ランカー)の二人は揃って先輩を指差した。

 

「……………………」

 

「……………………」

 

 沈黙が、その場を支配する。決して軽くはない沈黙が、その場を包み込んでしまう。

 

 そして、それを真っ先に破ったのは——

 

 

 

「は、はああああああっ!?」

 

 

 

 ——という、先輩の絶叫だった。

 

「ほ、報酬が俺って、どういう「ちょっと待ってくださいサクラさん」「それはこちらの台詞だなクロミア」

 

 先輩の声を遮って、サクラさんとフィーリアさんがお互いを睨み合いながら、口論を始めてしまう。

 

「ラグナ嬢は私のものだ。誰にも渡さん」

 

「なに言ってるんですか。ブレイズさんは私のものですよ。今決めました」

 

「いや、私のものだな私は君よりも早くそう決めていたよ」

 

「いやいや私のものですってば私だってサクラさんがそう言う前からずっと決めてました数分前から決めてましたー」

 

「いやいやいや私のものだぞ数時間前から決まっていたことだ」

 

「いやいやいやいや——」

 

「いやいやいやいやいや——」

 

 ………………僕やグィンさん、そして件であるはずの先輩を放ったらかして、そんなどうでもいい口論を二人は続ける。

 

 そこに理屈などはなく、ただお互いの身勝手過ぎる主張を衝突させ合っているだけである。

 

「お、お前らなに勝手なこと言って……」

 

 先輩もその口論に割り込もうとするが、意味不明な内容なのに無駄に白熱し過ぎてて、そんな隙が見当たらない。

 

「君はわかっていない。一体どれだけラグナ嬢が価値のある存在(モノ)なのかを。燃え盛る炎のように鮮やかで美しい赤髪。快活無垢を体現した少女のような可憐さと、時折醸し出る女のとしての色香。そして思わず視界を奪われる太腿と大胆な脇と可愛らしい小さな臍——彼女は、生ける芸術だ」

 

「は?なんですかその主張。変態性極まって凄く気持ち悪いです。ブレイズさんの価値がわかっていないのはあなたの方ですよ『極剣聖』。彼女ほど珍しいじっけ……境遇の人間はいません。最高のひけ……観察対象ですよ?これはもう色々と調べないと逆に失礼になるんじゃないんですかね」

 

「先ほどの台詞そのまま返そうこの俗物が。己の欲望だけを詰め込んだ主張を掲げるなど言語道断。恥を知れ」

 

「あなただけには言われたくねえですよ」

 

 サクラさんとフィーリアさんの口論……と呼べるのかもはや怪しいが、とにかく二人の言い争いはますます激しくなっていく。

 

 その横で、懸命に割り込もうとする先輩。だが激化する二人の言い争いに、もうそんな余地など一片たりともありはしなかった。

 

「………………う、ぐぅぅ…!」

 

 やがて、先輩が助けを求めるかのように、僕の方に顔を向けてきた。

 

 琥珀色の瞳にはまた涙が溜まっており、今にでも泣き出してしまいそうだった。

 

「くらはぁ…………」

 

「……せ、先輩。その………負けないでください」

 

 と、そこで一進一退?だったサクラさんとフィーリアさんの口論が、新たな局面を迎えていた。

 

「……互いに、譲る気はないようだな」

 

「ええ。そうみたいですね」

 

 泣きついてきた先輩を、よしよしと頭を撫でて宥める中、二人は依然お互いの顔を睨み合いながら————

 

 

 

「「実力行使、と行こう(行きましょう)か」」

 

 

 

 ————そう、とんでもないことを言い出すのだった。

 

 ——い、いやいや実力行使って……!?

 

 胸の中に先輩を抱きつつ、なんとかこの事態を収拾してもらおうとこの場の年長者に顔を向けた。

 

 ……が、もうそこには誰もいなかった。

 

 ——に、逃げたなあの人(グィンさん)…………!

 

「思い立ったが吉日、と言うからな。では早速参ろうか、『天魔王』殿?」

 

「その言葉だけには同意しますよ『極剣聖』。ええ、参りましょう」

 

 

 

 

 

 そうして、先輩の了承その他諸々などお構いなしに。

 

 今後戦いに生きる存在全てにとっての『神話』となる、《SS》冒険者二人の——『極剣聖』と『天魔王』による、ラグナ先輩を賭けた決戦が、始まろうとしているのだった。



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『極剣聖』対『天魔王』——開戦

『ログバード荒野』——オールティアからだいぶ遠く離れたその場所にて、その者たちは互いに向き合っていた。

 

 世界全ての剣士にとっての生ける伝説————《SS》冒険者、『極剣聖』サクラ=アザミヤ。

 

 世界全ての魔道士にとって決して到達することはできはしないだろう頂点————《SS》冒険者、『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア。

 

 現時点で、名実共に最強と謳われるその二人が、今ここで、互いに向き合っている。

 

 ——まさか、こんなことになるなんて……。

 

 そして、そんな人生に一回見れるかないかという光景を、僕——クラハ=ウインドアは遠くから眺めていた。

 

「あいつら勝手に全部進めて……決めやがって……ちくしょう」

 

 隣の先輩が堪ったものではないとそう呟く。まあ、そう言いたくなる気持ちはわかる。

 

 なにせ、今からあの二人は————

 

 

 

「時間無制限、決着はどちらかが参ったと言うまで——それで異論はないな?『天魔王』殿」

 

「はい。それで構いませんよ『極剣聖』様。そして、勝った方がブレイズさんを好きにできる————で、いいですよね?」

 

「異議なし」

 

 

 

 ————先輩の意思などそっちのけで、先輩を賭けて戦うのだから。

 

「うぅ……俺どうなるの……?」

 

「……………………」

 

「なんか言えよくらはぁ!」

 

 助けを求める先輩の眼差しが痛い。辛い。

 

 僕だって、どうにかしたい。もしこのままどちらか勝っても、先輩には弄ばれる運命しか待っていない。

 

 そんな運命容認できる訳がない。…………訳が、ない、のだが。

 

 ——………………すみません先輩。無力な僕を許してください…………

 

 今僕にできるのは、これから始まるであろう、世界(オヴィーリス)史上、最大にして最高の決戦を見届けることだけだ。

 

 そして、その『時』は——唐突に訪れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「では、始めるとしようか」

 

「はい。始めるとしましょうか」

 

 そう言って、『極剣聖』(サクラ)『天魔王』(フィーリア)は互いを見合った——そのまま、数秒が経過する。

 

 そして丁度一分が経って、再びフィーリアが口を開く。

 

「なにぼうっと突っ立ってるんです?さっさと動いたらどうですか?『極剣聖』」

 

「それはこちらの台詞さ、『天魔王』」

 

 然とした雰囲気で、さも当然かのようにサクラはフィーリアに——

 

 

 

「先に攻撃してくるがいい。『れでぃーふぁーすと』というやつだ、『天魔王』——私からは、動かんよ」

 

 

 

 ——そう、言い放った。

 

「…………へえ。随分と親切なんですね、『極剣聖』様は」

 

 その声音こそ変わりなかったが、フィーリアは僅かばかり憤っていた。

 

 サクラのその発言は、見事にフィーリアの神経を逆撫でた。恐らく本人にはそのつもりはないのだろうが、そんなことは関係ない。

 

 ——気に入らない。

 

 心の中でそう呟いて、フィーリアは片腕をゆっくりと広げる。

 

「じゃあお言葉に甘えて」

 

 瞬間、彼女の周囲すべてに——色鮮やかな無数の球体(スフィア)が出現した。

 

 それは、魔力。ただの魔力の塊——だが、その量が異常であった。

 

 かつてオールティアに襲来した魔神エンディニグル。かの魔神もまた同じような攻撃をしようとしたが、フィーリアのこれと比べると——あれは児戯の域も出ていない(・・・・・・・・・・)

 

 エンディニグルのを爆弾と表するのなら、フィーリアのこれは————兵器(・・)であった。

 

「ほう……」

 

 視界を覆い尽くす、一個一個が壊滅的な威力を秘めるその球体を見て、サクラが吐息を漏らす。

 

 そんな彼女に、フィーリアが言う。

 

「言っておきますけど、この程度で終わらないでくださいよ?」

 

 そして————それら全てをただ一人の標的に向かって、撃ち放った。



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『極剣聖』対『天魔王』——序盤の一合

「おいおいおい………嘘だろ……!?」

 

 愕然と、その光景に僕は呟く。

 

 フィーリアさんが片腕を軽く広げた瞬間、彼女の周囲に無数の色鮮やかな球体(スフィア)が出現したのだが……その一個一個が途方もない魔力の塊であり、また冗談抜きで街一つどころか大陸すら無に還せるのではかという、まさに壊滅的な威力を秘めていた。

 

魔焉崩神(エンディニグル)』が放とうとしていた黒球などとは、まるで比べ物にならない。この球体の前では、あんなものただの少し破壊力のあるボールにしか思えない。

 

 そんな恐ろしい球体が、無数に浮かんでいるのだ。百、千——万を、超えている。

 

 ——あ、あんなの放ったら…………!

 

 こんな荒野など一瞬にして消滅し、オールティアは消え去り、このファース大陸が消失してしまう。

 

 そんな未来を垣間見て、僕は無意識に先輩の身体を抱き締めてしまう。

 

「わぷっ……ちょ、クラハ…っ!?」

 

 先輩が声を上げるのと同時に——

 

 

 

「言っておきますけど、この程度で終わらないでくださいよ?」

 

 

 

 ——なんの躊躇いもなく、フィーリアさんはそれら全てをサクラさんに向かって撃ち放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この程度で終わらないでくださいよ?」

 

 半ば投げやりな声と共に、万を軽く凌駕する球体がサクラに向かって殺到する。それと同時に、

 

「…む?」

 

 ブォン——そんな異音を立てて、サクラの周囲を透明ななにかが覆った。

 

 一体それがなんであるか、サクラが理解する前に————

 

 

 

 

 ゴッッッッ——殺到していた球体が、彼女の元に辿り着いた。

 

 

 

 

 次々と炸裂する爆光。荒野に鳴り響く轟音。それが百回、千回、万回と幾度もなく繰り返された。

 

 そこまでしてようやく——止まった。

 

 透明ななにかに閉じ込められているように、宙に留まる砂埃と砂利。

 

 数秒後、その透明ななにかが溶けるように消えて、それらが解放されて徐々に霧散を始めた。

 

「………………」

 

 未だ濃過ぎるその煙幕を、フィーリアは黙って見つめる。

 

 数秒経って、ようやく薄まって——彼女はほんの僅かにその口元を吊り上げた。

 

「へえ……」

 

 そうして、煙幕が完全に晴れて————そこには、無傷(・・)のサクラが立っていた。一体なにをどうしたのか、服に埃一つすら付いていない。

 

「ふむ。私を閉じ込め、その上魔力による爆撃………中々良い威力だったぞ。『天魔王』」

 

 たったの一個で街一つどころか大陸すら無に還す魔力弾を、万を超える数を受けた後とは到底思えない様子でフィーリアにそう話すサクラ。

 

 対して、フィーリアは感嘆するように吐息を漏らす。

 

「流石はLv100ですか。この程度の攻撃では傷一つ負わないんですね」

 

「昔から頑丈なのでな——では、次は私の番だな」

 

 

 

 キンッ——サクラがそう言うと同時に、金属同士を叩いたような、甲高い音がその場に鳴り響いた。

 

 

 

「…………?なん——

 

 パァリィンッッ——その奇妙な音に対して、フィーリアが首を傾げたと同時に、そんな硝子を思い切り叩き割ったかのような破砕音と共に、不可視の透明な破片が宙を舞った。

 

 ——ッ!?」

 

 破片が溶けるように消えていく中、遅れてフィーリアの背後の地面に僅かな亀裂が走り、そして瞬く間に広がる。亀裂は止まることなく、拡大を続けていく。

 

 また、彼女の頭上に浮かんでいた雲も、真っ二つに千切れ粉々に吹き飛ばされていた。

 

「ん?……ああ、なるほど。斬った(・・・)時に妙な手応えを感じたが、障壁のようなものを展開していたのか。流石は『天魔王』、気づかなかったよ」

 

 瞳を見開き、目紛しくその色を変えて愕然としているフィーリアに、感心するようにサクラがそう言う。

 

「…………『極剣聖』」

 

 そのフィーリアの声は、僅かばかり——ほんの微かの少しばかり、戦慄に震えていた。

 

 当たり前だ。確かにサクラの言う通り、フィーリアは密かに障壁——【拒絶の守】を己の周囲に張っていた。

 

 これは、先ほどサクラに対して放った魔力弾にすら容易に耐えられるほどの強度を誇る防壁魔法で、一応念のための保険としてフィーリアは展開していたのだが……。

 

 ——まさか、一撃で……しかも、斬った?

 

 信じられない。だって、サクラは——彼女は、己の得物に手をかけていなかった(・・・・・・・・)

 

 一体、いつ抜いたというのか—————

 

「ふむ。では、数回斬ればいいか(・・・・・・・・)

 

 疑問を抱くフィーリアをよそに、そうサクラが呟くと全く同時に、

 

 

 

 

 

 キンッキンッキンッキンッ——合計四回(・・・・)。先ほどと同じ音が鳴り響いた。



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『極剣聖』対『天魔王』——刹那の斬撃

「………………一体、なにが起こってるんだ……?」

 

 半ば放心するように、僕は呟く。

 

 先ほどフィーリアさんがサクラさんに向かって、あの球体(スフィア)を放ったと同時にサクラさんの周囲をなんらかの魔法結界が張られ、閉じ込められた彼女に全ての球体を撃ち込まれた。

 

 瞬間、炸裂するは爆光。鼓膜を破り捨てんばかりの轟音。それが気の遠くなるほどまで続いて、ようやく収まることには僕の耳朶は痺れ切ってしまっていた。

 

 魔法結界が解除され、無力化したそれが崩れて、宙に溶けるようにして消えていく。

 

 ——サ、サクラ……さん……。

 

 心の中で、呆然としながら、結界の中に閉じ込められていた彼女の名を呟く。

 

 ……あの、爆撃だ。大陸一つを容易く吹き飛ばせるほどの爆撃を、サクラさんは受けた。

 

 それも一回二回ではなく、万を超える回数まで。

 

 恐らく、身体の一片すら残っていないのだろう——そう、思っていた時だった。

 

「…………え?」

 

 濃過ぎる煙幕が晴れ——そこに、サクラさんが立っていた。五体満足の、無傷なサクラさんが。着ている衣服ですら無事であった。

 

 ——そんな、あ、あり得ない……!

 

 目の前の光景が信じられない。現実が、現実だと認識できない。それほどに、僕は衝撃(ショック)を受けていた。

 

 だが————こんなもの、まだ序の口であったと、これから僕は散々思い知らされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キンッキンッキンッキンッ——合計四回。先ほどと全く同じ音がその場に鳴り響いた。

 

 ——…ッッ?!

 

 瞬間、言い知れぬ、途轍もない悪寒をフィーリアは感じ取った。感じ取ってしまった。

 

 その感覚を、彼女は知らない。知らないが——本能が、全力で警鐘を鳴らす。

 

 

 

 今すぐ、その場から離れろと

 

 

 

 ——【転移】ッ!!

 

 そう心の中で思った瞬間、その場からフィーリアの姿が一瞬で消え去った。

 

 そして刹那も過ぎずに————

 

 

 

 ザンザンザンザンッッッッ——フィーリアが直前まで立っていた場所に、深々と斬撃の跡が刻まれた。

 

 

 

 跡は止まらず、彼方にまで地を走る。大地を裂き、余波として無数の亀裂を残していく。

 

 そして亀裂が拡大し、瞬く間にちょっとした渓谷にまで成長してしまった。

 

「………ふむ。これも躱す、か」

 

 呟きながら、サクラは上空を見上げる——そこには、こちらを見下ろすフィーリアの姿があった。

 

「……………………」

 

 フィーリアは、見下ろす。眼下のサクラを。

 

 ——これは、ちょっと気を引き締め直す必要がありますね。

 

 完全に見縊っていた。完全に侮っていた。

 

『極剣聖』。自分以外の、Lv100————

 

 ——………………久しぶりに、ちょっと力出そうかな。

 

 宙を浮遊していたフィーリアが、ゆっくりとサクラの目の前に着地する。

 

「『極剣聖』。あなたのこと、少しだけ認めてあげます」

 

「それは光栄だな『天魔王』。私も先ほどの攻撃を、君が躱せるとは思っていなかった……賞賛させてほしいよ」

 

 二人の《SS》冒険者(ランカー)は、再び互いに向かい合って、必要最低限の会話を交わす。

 

 そして、再度フィーリアの姿が消えた。かと思えばサクラからだいぶ距離を取った場所に立っていた。

 

「嬉しいお言葉ですね。素直に受け取っておきます」

 

 フィーリアがそう言うと同時に、彼女の周囲にまた色鮮やかな球体(スフィア)が出現する。

 

 だが、今度はその数は少なかった。少なかったが——その分、その輝きを増していた。

 

「ですから、遊ぶのは止めて——少しだけ本気を見せてあげますよ」

 

 にいっ、と。口端を歪めて、フィーリアは両腕を振り上げた。



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『極剣聖』対『天魔王』——魔の剣と鉄の刀

「少しだけ本気を見せてあげますよ」

 

 そう言って、にいっと可愛らしくも、凶悪的に口端を歪めながら、フィーリアは両腕を振り上げる。

 

 すると彼女の周囲を浮遊していた色鮮やかで、強き輝きを見せていた球体(スフィア)が、凄まじい速度でサクラに向かって飛来した。

 

 空を裂きながら、こちらに向かってくるそれをサクラは冷静に見つめる。

 

 ——あれは、少しまずいな。

 

 そう察した瞬間、その場から彼女は跳び退いた。直後、球体がそこに着弾する。

 

 

 

 ゴォッ——着弾した球体が爆ぜ、天を貫く光の柱を築き上げた。

 

 

 

「…………ふむ」

 

 その柱に貫かれた雲が、欠片も残さず消滅する。地面は穿たれており、断面はまるで研磨された硝子のように、ゾッとするほど綺麗だった。

 

 残りの球体がサクラを追う。そのどれもが常軌を逸した速度であり、また信じられないことに秒が経過するごとに著しくその速度を増していた。

 

 だが——いやだからこそ。サクラ=アザミヤという存在(モノ)の異常性を強めていた。

 

 疾い。途轍もなく、とんでもなく、疾過ぎる。

 

 人の常識から完全に逸脱した疾さを以て、サクラは荒野を駆ける。跳ねる。

 

 その度に蹴りつけられた大地が、悲鳴を上げて爆ぜ割れる。

 

 砕け散った破片が、一瞬にして粉にへと分解されていく。

 

 サクラと球体の追いかけっこが続く。いつまでも、どこまでも。

 

 そんな中、フィーリアはただ己の魔力を練り上げていた。

 

 

 

「【焔炎ノ剣(フレアソード)】」

 

 

 

 彼女が右手を掲げる。瞬間、天を突く業火の剣が顕現し、大気を熱し焼き焦がす。

 

 

 

「【氷冷ノ剣(アイスサーベル)】」

 

 

 

 彼女が左手を掲げる。瞬間、天を突く氷獄の剣が顕現し、大気を冷し凍てつかせる。

 

「さあて。御覧に入れましょう『極剣聖』様——私の、剣を」

 

 にたり、と。口元を吊り上げ————フィーリア=レリウ=クロミアは、高く高く掲げたその両手を、ゆっくりと合わせた。

 

 業火の剣と氷獄の剣。相反する二つの剣身が、反発し合いながらも溶け合い、絡み合い————やがて一つの新たな剣にへと融合を果たした。

 

 それを、フィーリアは、

 

 

 

 

 

 

「焼かれて凍えろ————【炎氷ノ剣(カオスブレイド)】ォォォォオオオオオオオッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 遠く、球体と戯れるサクラの元にへと振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「むっ」

 

 唐突に、サクラの目の前で、彼女を必死に追いかけ回していた球体が、光の粒子となって崩れ去り、霧散した。

 

 それと同時に————遠方からこちらに、なにか凄まじい熱気(・・)氷気(・・)が迫り来るのを察知した。

 

 その瞬間、

 

「これは本当にまずいな」

 

 そう言って、すかさずサクラは——己の得物の柄に手をかける。

 

 キン——澄んだ音色を立てて、鈍く光を漏らす刀身がその姿を見せた。

 

「ふっ——」

 

 鞘から抜き放った刀を、サクラは己の前にへと翳す。

 

 

 

 直後、遥か彼方から——全てを焼き尽くし凍てつかせる魔の剣の刃が振り下ろされた。

 

 

 

「ぐっ……うぅ……!!」

 

 凄まじい熱気。凄まじい氷気。凄まじい威力。

 

 ギリリリッ——炎氷の刃と鉄刀の刃が激しく競り合う。過剰なほどの火花を、その間に咲かし散らす。

 

 拮抗。サクラの膂力と、魔の剣が、拮抗する。

 

 そして————ほんの僅かばかり、サクラが押された瞬間であった。

 

 

 

「ぉぉ、おおおおおおッッッ!!!」

 

 

 

 ガキンィンッッッ——サクラの腕が振り上げられ、魔の剣が弾かれ一瞬にして霧散した。



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『極剣聖』対『天魔王』——驚愕のち接戦

「なっ…?」

 

 サクラにへと振り下ろした【炎氷ノ剣(カオスブレイド)】の剣身が、一瞬跳ね上がり湾曲したかと思うと、そのまま赤と青の粒子となって宙に霧散してしまった。

 

 ——無効化(ディスペル)された……!?

 

 その事実に驚愕しながら、ハッとしてフィーリアは即座に腕を振るう。

 

「【熾天使の守】ッ!」

 

 瞬間、彼女を覆うように輝き煌めく防壁が、ドーム状に展開される。同時に——不可視の衝撃が襲いかかった。

 

 バリンッ——呆気なく、【熾天使の守】が砕け散る。

 

「チッ——【転移】!」

 

 その様をすぐさま視認して、フィーリアはその場から消える。先ほどまで彼女が立っていた場所が次々と斬り刻まれ、また新たな渓谷が発生した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「出鱈目ですね………」

 

「そういう君も大概だとは思うが」

 

 声のした方にへと、フィーリアは顔を向ける。そこには、サクラが立っていた。

 

 その手には、抜身となった彼女の得物——刀が握られている。

 

 陽光を受けて、冷たく鈍く輝くそれを、サクラはゆっくりと振り上げた。

 

「いつぶりだろうな。こうして己の得物を、まともに抜刀したのは」

 

 言いながら、振り上げたそれを彼女は真横に振るう。

 

 それと全く同時に、彼女の隣に聳え立っていた大岩が、真っ二つに分断された。

 

「…………本当に出鱈目ですね。『極剣聖』」

 

「君もな。『天魔王』」

 

 サクラとフィーリアが互いを見合う。彼女たちが見合う——『極剣聖』と『天魔王』が、見合う。

 

 二人の間に沈黙が流れた。数秒の、けれど途轍もなく重く、緊張に満ち溢れた沈黙が。

 

 そして、その沈黙を最初に破ったのは——サクラであった。

 

「では、そろそろ私から動くとしよう」

 

 サクラが、呟いた。フィーリアの目の前で(・・・・・・・・・・)

 

「………………はっ?えッ!?」

 

 今度は、フィーリアも驚愕を隠せなかった。何故なら、先ほどまでサクラは、決して近いとは言えない位置にいたのだから。

 

 だが——それが今は眼前にいる。

 

「驚いている場合か?」

 

 言いながら、振り上げていた刀をサクラは振り下ろす——だが、斬ったのは愕然とこちらを見上げるフィーリアの顔ではなく、荒野の大地だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、危なかった……」

 

 頬に一筋の汗を流しながら、安堵したようにフィーリアが呟く。

 

「【転移】が間に合って良かった。じゃなかったら、今頃私の顔は真っ二つでしたね」

 

「では身体を両断してやろう」

 

「え?」

 

 ほぼ反射的に、フィーリアは背後を振り返る————鈍く輝く、冷たい刃がこちらに迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………これは、流石の私も驚きを隠せない、な」

 

 それは、飾りもない心からの言葉。

 

 

 

「ま、魔道士……舐めんじゃねえですよ……っ…!」

 

 

 

 そんなサクラの言葉に、声を震わせながらフィーリアは返した——手に持った杖で、彼女の刀を受け止めながら(・・・・・・・)



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『極剣聖』対『天魔王』——魔法は使えない

「ま、魔道士……舐めんじゃねえですよ……っ…!」

 

 そう、声を震わせて。今己の身に振り落とされんとした鈍く鋭く、冷たく輝く鉄の刃を、奇跡的な反射神経で【次元箱(ディメンション)】から取り出した杖で、フィーリアは受け止めた。

 

 ——ま、間に合った……!

 

 杖の表面に、刃が食い込む。

 

「……細腕に似合わず、剛力だな」

 

「は、はは……まさか」

 

 今、フィーリアは己の腕に膨大な魔力を流し込んでいた——【強化(ブースト)】。基礎中の基礎の魔法で、その名の通り身体能力を、消費した魔力の分だけ強化できる。

 

 そしてそれは肉体だけに留まらず、応用として物体の強度をも上げることができる。

 

 それによってフィーリアは、今自分が握るその杖を、鋼鉄となんら変わらない強度にまで引き上げていたのだ。

 

 しかし、流石に限度というものも存在する。

 

 己の肉体の許容量を遥かに超える魔力を流し込み、【強化】しようとした場合、肉体がその負荷に耐え切れず崩壊してしまう。

 

 だが、フィーリアはその限界の限界、ギリギリまで己の腕を【強化】していた。そうでもしなければ、サクラの膂力に押し負けていたからだ。

 

 ——この人は巨人か(ドラゴン)かなにかですか……!?

 

 そう錯覚してしまうほどに、彼女は馬鹿力だった。いや、そんな可愛いものではない。

 

 まるで自分の数百倍巨大で膨大に過ぎる質量を誇る鉄塊を押しつけられているようだった——とてもではないが、女の力ではない。

 

「………………ふむ」

 

 だが、それは違っていた(・・・・・・・・)

 

「ではもう少し力を込めるか」

 

「は?」

 

 サクラがそう言った瞬間————形容し難い、この世のものとは思えない、まるで重力そのものと思えるような力がフィーリアを襲った。

 

「な、なっ………!?」

 

 押される(・・・・)。今や巨人となんら遜色ないはずの膂力を誇るフィーリアの腕が、サクラの膂力によって押される。

 

 激し過ぎる力に挟まれたフィーリアの杖が、まるで悲鳴のような異音を小さく鳴らす。

 

 瞬間————

 

 

 

 ビキリ——今や鋼となんら遜色ないはずの強度になっていたはずの、フィーリアの杖に僅かばかりの亀裂が走った。

 

「ッ…?!」

 

 もはや驚愕を通り越したなにかに、突き動かされるようにして、ほぼ本能的にフィーリアが動く。

 

「は、離れろォッッ!!」

 

 フィーリアが右腕を振り上げる——瞬間、彼女の右腕は膨れ上がり、黒く禍々しいモノにへと変異した。

 

 その異形なる黒腕を振るい、サクラの身体を横から殴りつける。

 

「ぐっ…」

 

 殴りつけられたサクラは、抵抗も許されず吹っ飛ばされた。荒野の大地を彼女が転がっていく。

 

「はあっ……はぁ……!」

 

 その様を眺めながら、己の身にかけた【強化】を解除するフィーリア。変異していた彼女の右腕も元に戻る。

 

 そして遅れて、彼女の手にあった杖が、真っ二つに砕け折れた。

 

「………………これ、結構貴重な代物だったんですけどね」

 

 もはや使い物にならなくなったそれを、彼女は【次元箱】の中に放り込む——と、

 

「離れろ、とは酷いじゃないか『天魔王』。こう見えて私は繊細でね、傷つき易いんだ」

 

「……寝言は寝てからほざきやがってください。『極剣聖』」

 

 嘆息しながら、フィーリアは尋ねるようにして呟く。

 

「それにしても、意外です。あなたのような人が【転移】を使えるなんて……これ、結構習得に苦労する部類の魔法なんですけどね」

 

 そう言うと————まるで意味がわからないようにサクラは首を少し傾げた。

 

「……?あなた、さっき【転移】使ってました……よね?」

 

「………………………………ああ」

 

 そこで初めて納得したようにサクラは呟いて、それからこんなことをフィーリアに言うのだった。

 

 

 

「『天魔王』。君は勘違いをしている——私はね、魔法が使えないんだ(・・・・・・)。だから君の言う【転移】というものは、使った覚えがない」

 

 

 

 最初、その言葉をフィーリアは理解できなかった。それから数秒を経て、ようやく理解した。

 

 理解して————

 

「はあああああああああッッッ??!」

 

 ————という、まさに意味不明といった絶叫を上げたのだった。



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『極剣聖』対『天魔王』——【七栄の聖裁】

「『天魔王』。君は勘違いをしている——私はね、魔法が使えないんだ(・・・・・・)。だから君の言う【転移】というものは、使った覚えがない」

 

 さも当然のように。さも当たり前のように——目の前に立つ女は、そんなことを言ってのけた。

 

 本来、世界(オヴィーリス)に生きる全ての存在(モノ)には、膨大なれど微小なれど、皆魔力というものを宿している。

 

 人間。亜人(デミ)魔物(モンスター)。植物。

 

 特別な武具にも、魔力は宿っている——そう、絶対に宿っていて、その逆は決してあり得ない。

 

 逆————つまり、魔力がないなんてことは、絶対にあり得ないことなのだ。

 

 それが『天魔王』——フィーリア=レリウ=クロミアにとっての常識であり、己の理であった。

 

 だから、その発言は。

 

『極剣聖』——サクラ=アザミヤの発言は、彼女にとって全く理解し得ないものだったのだ。

 

 数秒かけて、彼女の言葉を飲み込んで。頭の中で反芻させて。そこまでして、フィーリアは理解した。

 

 理解したからこそ————

 

 

 

「はあああああああああッッッ??!」

 

 

 

 ————彼女は絶叫した。

 

「ま、魔法が使えないって……つまりあなた、魔力がないんですか!?そんなのあり得る訳ないでしょう!!?」

 

「…いや、まあ……全くないという訳ではない……と思うのだが。しかし魔法が使えないことは確かだ」

 

 ばつが悪そうに返すサクラ。そんな彼女の言葉を聞いて、フィーリアは思わず頭を抱えそうになった。

 

 ——そ、そんな……馬鹿な……ことが…?

 

 だが、彼女は納得しない。じゃあ何故サクラはあの時、自分が認識する間もなく、それこそ【転移】したかのように目の前に立っていたのか。そして【転移】したはずの自分の背後に何故立っていたのか。

 

 錯乱しそうになるのを、無理矢理抑えながら、フィーリアはサクラに尋ねる。

 

「じゃ、じゃあ……あなた、どうやって……?」

 

 まさか、己が認知すらしていない、魔法を超えた魔法とか使ったのか——先ほどサクラ本人が魔法の類は使えないと言っていたはずなのに、現実逃避のせいか、そんな思考をフィーリアは積み重ねてしまう。

 

 だが、返ってきたのは————百八十度、全くの予想外の答えだった。

 

 

 

「どうやって、か。ただそのようにして動いただけだが?」

 

 

 

 一瞬にして、フィーリアの頭の中が真っ白になった。

 

「………………へ?う、動いた……だけ……?」

 

「ああ。まあ普通に動いた訳ではなく、ちょっと特殊な歩法を用いてだが……それがどうかしたのか?」

 

 その瞬間、フィーリアの中でなにか、とても大事なモノが、音を立てて崩れ去った。

 

 そして、もうなにかもがどうでもよくなって————彼女は、サクラを睨みながら呟いた。

 

召喚(カモン)

 

 瞬間、彼女の足元から薄紫色の魔法陣が広がり、そして目の前に移動する。

 

 ドクンッ、と。魔法陣が不気味に脈打って——

 

 

 

「お呼びですか、御主人(姐さん)

 

 

 

 ——漆黒の外套を纏った、仮面の男が浮上してきた。腰には、一振りの剣を差している。

 

 突如魔法陣から現れた仮面の男に、フィーリアは完全に苛立った声で威圧するように命令する。

 

剣魔(ファルファス)。一分、時間を稼いでください」

 

 言いながら、サクラを指差す。仮面の男——剣魔が彼女を見やり、それから錆びたブリキ人形のようにフィーリアにへと向き直る。

 

「………………御主人、冗談ですよね?」

 

「そんな訳ねえでしょ。戯言抜かす暇があったらとっとと動け」

 

「い、いやですが——」

 

 なおも躊躇う剣魔に、フィーリアは吐き捨てた。

 

 

 

契約破棄(しに)たいか?この無能」

 

 

 

 瞬間、弾かれたように剣魔はサクラに突撃した。

 

 その後を追うように、四つの【次元箱(ディメンション)】が展開され、そこからそれぞれ一本の豪奢な装飾を施された大剣が飛来する。

 

「ほう。中々手応えの感じられそうな相手だ」

 

 刀を構え、こちらに向かってくる剣魔をサクラは迎え撃つ

 腰に差した剣を抜き放ち、鋭く剣魔が振るう。

 

 宙に線を引きながら、刃が滑るようにしてサクラの元に襲来する。

 

 常人の剣士なら、認識すらできない一撃——だが、サクラからすれば至って普通の攻撃であり、彼女が刀で受けることは容易であった。

 

「ふっ——」

 

 サクラと剣魔が、互いを至近距離にて見合う——まあ、片や仮面なので、一体どのような表情を浮かべているのかはわからないのだが。

 

「良い剣だ」

 

「貴女ほどの存在(モノ)にそう言われるとは、至極恐悦の至り」

 

 と、そこでサクラが身を退いた。

 

 瞬間、直前まで彼女が立っていた場所に、様々な宝石や白金(プラチナ)で飾られた四本の大剣の内一本が突き立つ。

 

 残り三本が宙を疾駆しながら、跳び退いたサクラを追う。不規則な軌道を描き、彼女の身にその宝刃を突き立てるために舞う。

 

 そしてそれに続くようにして剣魔もこちらから離れたサクラを追った。

 

「…………」

 

 こちらに飛来する大剣を弾き、剣魔の剣を捌く中、サクラの表情はだんだんと微妙なものになっていく。

 

 ——少なくとも、『剣戟極神』よりかは楽しめてはいるが………。

 

 縦横無尽に襲い来る四本の大剣。完全に人の域を逸した悪魔の剣。

 

 その二つを以てしても、サクラの心の内にある渇望を潤すことは、叶わない。

 

 まあ、そもそも——ここまで手加減して(・・・・・)ようやく自分に喰らいつけているのだから、それを望むのは酷という話なのだが。

 

 ——………………ふむ。

 

 チラリ、と。サクラはフィーリアの方へ視線をやる。彼女は集中しているのか、その多色の瞳を閉じていた。

 

 そうして————彼女が剣魔に対し、稼げと言っていた一分が経った。

 

「存外楽しめたよ。さらばだ、剣の悪魔」

 

 言いながら、刀を振るうサクラ。剣魔はそれを剣を以て受け流そうとしたが——あまりに桁外れな膂力の前に、剣自体が砕けてしまった。

 

「なっ——」

 

 そしてそのことに驚愕すると同時に、サクラによってその首を斬り落とされた。仮面をつけたままの頭部が転がって、身体諸共魔力の粒子となる。

 

 そしての粒子を散らすようにして、四本の大剣が彼女に飛来するが——

 

「業物を壊すのは、少々心苦しいな」

 

 ——言いながら、四本全てに同時に斬撃を叩き込んだ。

 

 物体を破壊することに重点を置いたその一撃に、決して砕けぬと賞賛される『不壊ノ魔石(オリハルコン)』と同等の強度を誇るはずの大剣たちは、容易く呆気なく折れ砕ける。

 

 重厚な破砕音を立てて、四本分の分厚い破片がサクラを取り囲むようにして散る————その瞬間であった。

 

 

 

「む?」

 

 

 

 ジャララララッ——宙を舞っていた大剣の破片が一瞬輝いたかと思うと、その全てが鎖に変化して、サクラの身体に巻きつき、縛り上げた。

 

「…………これ、は」

 

 同時に、サクラの身体から瞬く間に力が抜けていく。いや、抜けていくというよりは——吸われていく。

 

 全身の脱力感に、流石のサクラも膝を突く。瞬間——彼女を中心にして、荒野全体にまで迫ろうかという、魔法陣が現れる。

 

 

 

「『極剣聖』」

 

 

 

 フィーリアの声が響く。その声が、荒野に響き渡る。

 

 

 

「あなたは本当に強かった……まさか、この魔法を使うことになるとは、夢にも思っていませんでした」

 

 

 

 それに応えるかのように、魔法陣が輝き出す。燐光を噴き出させ、淡く——そして激しく輝きを放ち始めていく。

 

 

 

「ですから、誇ってください——この魔法の前に、散ることを」

 

 

 

 そして—————サクラの頭上に、空全てを覆うようにして、円環が現れた。白く、光り輝ける、七つに重なった円環が。

 

 呆然と、それをサクラは見上げる。

 

 

 

「此れは救済。此れこそ奇跡。純白なる、神々しき栄えある光」

 

 

 

 フィーリアが紡ぐ。言葉を紡ぐ。一言一句、丁寧に。

 

 紡がれる度、七つの円環の輝きが増し、その中心にもはや膨大と片付けることもできないほどの魔力が集中していく。

 

 

 

「さあ、受け入れなさい。その身に————

 

 

 

 そして、フィーリアは紡ぎ終えた。

 

 

 

 

 

 ————【七栄の聖裁(セブンス・オブ・グローリー)】」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………ちょっと、やり過ぎましたかね」

 

 独り、フィーリアが呟く。彼女の目の前には、荒野が広がっている————凡そ、そのほとんどの面積を占める、大穴が穿たれた荒野が。

 

 覗き込んで見れば、かなり深く、底など全く見えやしない深淵。

 

「まあ、彼女ほどの人なら生きてるでしょう。…………たぶん」

 

 その大穴から背を向けて、フィーリアは歩き出す。

 

「でも、強かったなあ——『極剣聖』」

 

 確かな満足感と、少しばかりの喪失感を抱きながら、彼女は荒野を後にする——————

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザンッ——そんな、無防備にも晒されていたフィーリアの首筋に、不可視の斬撃が走り、突き抜けた。



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『極剣聖』対『天魔王』——その決着、誰も知らず

 ザンッ——不可視の斬撃が宙を走り、無防備にも晒されていたフィーリアの首筋に叩き込まれ、そしてそのまま突き抜けた。

 

「——か、ッ…はっ……?!」

 

 途轍もない衝撃に、フィーリアの小柄な身体が僅かばかり浮き上がり、一瞬だけその足が地面から離れた。

 

 一秒にも満たない時間をかけて、再び彼女は地面にへと足をつける。それから前のめりになって、数歩先に進む。

 

「………………なに、が」

 

 鈍痛が全身を殴打する。首筋に至っては、まるで折れてしまっているかのような、激しい違和感に包まれており、堪えようのない不快感が伝っていた。

 

 ぐらぐらとする視界に、吐き気を覚える。それに意識を強く保たなければ、すぐにでも気を失いそうにもなっていた。

 

 そんな状態に陥ってるフィーリアだったが、突如背後から襲い来たソレの正体を確かめずにはいられず、身体に鞭打って無理矢理にでも、彼女は振り返った。

 

 

 

「敵を前に、背を向けるなど愚の骨頂だな——『天魔王』」

 

 

 

 …………そこに立っていたのは、ぶらりと力なく刀を下げた、『極剣聖』——サクラ=アザミヤであった。

 

 身に纏っている着物は、もはやボロ切れ同然となっており、肩や足は当然として、括れた白い腹部や臍、太腿などかなり際どい部分までもが完全に露出してしまっていた。

 

 そして至る箇所から、鮮血を流し、滴らせていた。

 

「…………あれを受けて、立っていられる、なんて」

 

 到底信じられないというように、呆然とフィーリアは呟く。そんな彼女に対しても、サクラは同じような面持ちで伝える。

 

「私も首を落とすつもりで斬ったのだがな」

 

「………………」

 

 無意識に、フィーリアは己が纏っている真白のローブを握り締める。

 

 実を言うと、彼女はこのローブに対してもとある防御魔法をかけてあったのだ。

 

 このローブを身につけている者を、守るための防御魔法を。念のため、万が一のためにとびきり堅固で特別な防御魔法を。

 

 だが、それすらもたったの一撃で木っ端微塵に砕かれた。

 

 まあ、その魔法のおかげで首は飛ばずに済んで、その代わりに全身を殴られたかのような鈍痛に襲われているが。

 

「……正真正銘の、化け物ですね。あなた」

 

 つう、と。フィーリアの口端を血が伝う。

 

 どの程度までかはわからないが、どうやら内臓にまで衝撃のダメージは及んでいるらしい。

 

「それはお互い様だろう」

 

 無言で、二人は見合う。数秒——数分。

 

 何度目かの沈黙。そして、再びそれは唐突に破られた。

 

「なんで、しょうね。なにか、よくわからない気持ちになってます——私」

 

「奇遇だな——私もだよ」

 

『極剣聖』と『天魔王』は依然見合う——その言葉通り、今両者の胸の内に、不思議な感情が渦巻いていた。

 

 数秒以て、それが一体なんであるかを、二人は理解した。

 

 

 

 高揚——である。

 

 

 

 どくり、どくりと。心臓が高鳴る。徐々に、その鼓動を高めていく。

 

 胸の内を満たしていく、充足感。だが次の瞬間、もっと、と。それを求め始める。

 

 心地の良い痺れが脳裏を浸す。ゾクゾクと快感にも似た感覚が、背筋を突いて駆け上がる。

 

 身体が熱い。身体中を巡る血液が、まるで沸騰しているかのように熱い。歓喜——激しい歓喜が、心を満たしていく。

 

 

 

 

 そう、それは—————確かな、『生』の実感。

 

 

 

 

『極剣聖』と『天魔王』は、久しく忘れていた。埒外な強さというものを得たばかりに、彼女らは今の今まで忘れていたのだ。

 

 今、生きている。今を生きている。この瞬間(いま)を自分たちは確かに生きている。

 

 それが嬉しい。それが——途轍もなく楽しい。

 

「………………ふふ、ふふふ」

 

『極剣聖』が、口元を綻ばせる。

 

「………………あは、あはは」

 

『天魔王』が、口元を綻ばせる。

 

「楽しい、な」

 

「楽しい、ですね」

 

 それは心の底からの、言葉であり————直後、様変わりした荒野にて、二人の声が高らかに響いた。

 

 

 

「ふふ、はははっ…ははははッ!」

 

「あはっ……あはははっ!!」

 

 

 

 嗤う。二人は嗤う。二人の嗤い声が響く。

 

 ずっと、ずっとずっと。

 

 

 

 

 ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと—————

 

 

 

 

『極剣聖』と『天魔王』が、嗤う。そして、ひとしきり嗤って————彼女たちは、顔を狂喜に染めたまま言葉を交わす。

 

「もっと楽しむとしようか」

 

「もっと楽しみましょうか」

 

 血に塗れて、『極剣聖』は己の得物を構えて。

 

 血を垂らし、『天魔王』は魔力を練り上げて。

 

「『極剣聖』」

 

「『天魔王』」

 

 《SS》冒険者(ランカー)の二人は、互いに言い放った。

 

 

 

 

 

「「殺す気でかかって来い(来なさい)」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、『ログバード荒野』にて激突した『極剣聖』と『天魔王』。

 

 その二人の戦いはもはや人の常識外であり、そして人がその全容を理解することは決してできないだろう。

 

 広大な荒野の地形を、いとも容易く変えた戦いなど、我々常人が理解できるはずがない。

 

 理解できるのは——彼女たちと同じ境地に至った存在(モノ)だけだ。

 

 故に、二人の戦いの結末を知る者などいない。

 

 何故なら——最初からその戦いを目撃していた人物は、もう既にその場から去ってしまっていたのだから。

 

 

 

 ただ、一人を除いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。オールティアの酒場——『大食らい(グラトニー)』にて、僕は——クラハ=ウインドアは、呆然としながら目の前に置かれたグラスを眺めていた。

 

「………クラハ?本当にお前、大丈夫か……?」

 

 そんな僕の様子を見かねて、隣に座る先輩が心配そうにそう尋ねてくる。そんな先輩に顔を向けて、僕は力なく答えた。

 

 

 

「大丈夫です、先輩。僕は…………大丈夫です」

 

 

 

 《SS》冒険者。Lv100————自分とは住んでいる世界が、あまりにも違い過ぎるということを、その日嫌になるほど思い知らされた。



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『極剣聖』対『天魔王』——報酬(ラグナちゃん)の処遇

 オールティア。それが、この街の名前だ。

 

 特に田舎でもなければ、かといって都会でもない。そんな中途半端な街。

 

 特筆できるものといえば、この街にある冒険者組合(ギルド)に所属する、一人の冒険者(ランカー)くらいである。

 

 現在この世界(オヴィーリス)に公に確認されている、人知を超越した存在(モノ)たち——Lv100という、人の域から逸脱し得た存在たち。

 

 その存在たちを、僕たちは《SS》冒険者(ランカー)と呼んでいた。

 

 《SS》冒険者は、三人いる。三人と言っても、先ほども言った通り公に確認されている三人である。

 

 その内の一人が——この(オールティア)にいたのだ。

 

 ……だが、しかし。色々と混み合った事情によって、今その人はLv100からLv1になってしまい、しかもどういう訳か男から女の子になってしまった。

 

 まあそれからも色々あってなんとかLvは5までに戻ったのだが——元の100までの道のりは、遥か遠く、尋常でないほどに険しかった。

 

 けれど、それでもその道を踏破しなければならない。

 

 ————それが、後輩たる僕、クラハ=ウインドアの使命なのだから。

 

 とまあ、その話はここまでにするとして。

 

 その人——ラグナ先輩を除いた二人の《SS》冒険者——『極剣聖』と『天魔王』と呼ばれるその二人が、突如としてこの街に訪れたのだ。

 

 サクラ=アザミヤさんと、フィーリア=レリウ=クロミア。それが二人の名前で、そして……少し言い難いのだが、変人であった。

 

 それから詳しい経緯は省かさせてもらうのだが、先輩を賭けて二人は勝負することになり、流れで僕もその戦いを見ることになってしまったのだが。

 

 ————嫌というほど、思い知らされた。彼女たちが、《SS》冒険者なのだということを。Lv100という、人の身でありながら人を超えた、存在を。

 

 とてもではないが、あくまでも自分たちと同じ人間だというのに、それが到底信じられなかった。

 

 もう、あれは——人じゃない。

 

 己の常識をことごとく覆されたというか木っ端微塵に砕かれたというか遠慮容赦なしに圧し折られたというか。

 

 とにかくいかに己がちっぽけな存在で、彼女たちからすればそこら辺に転がる小石と大差ないと認識されているんだろうなとか。

 

 そんなことを考えてしまった僕の心は、瞬く間に言いしれようのない虚無感と、途方もない喪失感で満たされて。

 

 気がつけば、隣のラグナ先輩に励まされながら、僕はその場を後にしていた。

 

 人外による人外のための人外の戦場から、逃げるようにして街に戻って、フラフラとしながらも酒場に転がり込んで、こちらの心身を案じてくれる先輩と、一杯の酒を喉奥に流し込んで。

 

 そうして、情けなく無様に先輩に慰められながら、どうしようもない軟弱野郎の僕は自宅の帰路に着いたのだった。

 

 そして翌朝————先輩の励ましと慰めのおかげもあって、なんとか回復した僕は、取り敢えず自分が所属する冒険者組合『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へ向かうのだった。

 

 …………そこに、予想だにしない光景が待っているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………」

 

 最初、自分は幻覚でも見せられているのかと思った。だがそんな考えは、すぐさま掻き消されてしまう。

 

 ありのまま。ありのまま、今目の前の光景を伝えよう。

 

 周囲の冒険者(ランカー)たちの喧騒に紛れるようにして————その存在(ひと)たちは、

 

 

 

「いやあ、昨日は本当に楽しかったですね!サクラさん!」

 

「ああ。実に有意義な時間だった。あの日のことを、私は決して忘れはしないだろう」

 

「はい!はいはい!私も忘れたりしませんよ!」

 

「できることなら、あの時の高揚をもう一度味わいたいものだな」

 

 

 

 ……その存在たちは、同じテーブルに座って酒を飲み交わしていた。

 

「…………」

 

 その光景を目の当たりにして、唖然とする僕の横で、先輩が言う。

 

「お、お前ら……なんで酒飲んでんの?一緒に」

 

 決して大きくはなかった声量——だが、目の前の二人は即座にこちらにへと振り向いた。

 

 二人——サクラ=アザミヤさんとフィーリア=レリウ=クロミアさんは先輩の姿を見るなり、すぐさまその顔色を変えた。特にサクラさんはアルコールが入っているせいかだらしなく口元が緩んでいる。

 

「お待ちしてましたよブレイズさん!」

 

「おはよう。今日も素敵だね、ラグナ嬢」

 

 言うが早いか、二人は椅子から立ち上がって、先輩の前にまで歩いてくる。

 

「お、俺を待ってた……?」

 

「はい!待ってました!」

 

「ああ、私も待っていたよ。愛しき仔猫ちゃん」

 

 不自然なまでに笑顔の二人が、ポンと先輩の肩に手を乗せる。

 

「実は私たち、考えてたんですよ」

 

「は?」

 

「そう、考えていたのだ」

 

「な、なにを……?」

 

 ビクビクと怯える先輩に、口を揃えて、妙にキラキラとさせた笑顔で伝えた。

 

 

 

「「半分こすることにした(しました)よ」」

 

 

 

 半分こ————そう言われて、まるで意味がわからないというように呆然とする先輩に、二人が続ける。

 

「午前は私がブレイズさんを」

 

「午後は私がラグナ嬢を」

 

 目も眩むような笑顔を以て、再び彼女たちは口を揃えた。

 

 

 

 

 

「「自分の好きにしてもいい、ということで話をつけ(ました)た」」

 

 

 

 

 

 …………傍から聞いていれば、それはとんでもなくとんでもない発言で。

 

 そこに先輩の意思を尊重することはなく。完全に自分たちの勝手で進めている。

 

 ——………………これが、《SS》冒険者。

 

 

 

 

「は、はあ!?ふざけっ…!」

 

「さあブレイズさん。大丈夫、酷いことはしませんよお。ちょっと調べるだけですから。ちょっと色々調べるだけですからぁ!」

 

「そしてその後は私とお茶をしよう、ラグナ嬢。それから君に似合う服を見繕おうな?」

 

「い、嫌っ——くらはぁ!!」

 

 いつの間にか二人に挟まれ、連行されようとしている先輩が、涙目になってこちらに手を伸ばしてくる。

 

 目の前に差し出されたその手を、反射的に掴もうとして————

 

 

「「ウインドア(さん)?」」

 

 

 ————同時に、サクラさんとフィーリアさんが笑顔を向けてきた。依然変わりのない、不気味なくらいに和かな笑顔を。

 

「……………………」

 

 その笑顔の前に、僕は黙って腕を下ろすしかなかった。

 

「ふぇ!?ちょ、クラハ!?」

 

「…………すみません先輩。無力な、僕を許してください……!」

 

「お、お前っ————この裏切り者ぉ!!」

 

 先輩が二人の《SS》冒険者によって連行されていく——その光景を、僕はただ見送ることしかできなかった。



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幕間——決して見えざる水面下

 言うなれば、そこは聖堂であった。いや、正しく解するなら、そこは聖堂としての機能などないのだが、その造りは聖堂とほぼ大差ない。

 

 四方を囲む純白の壁。ステンドグラスが嵌め込まれた窓——違う点としては、祭壇であるべき場所に、些か巨大過ぎるであろう玉座があるというところくらいだろうか。

 

 その後ろにも、その玉座の巨大さに劣らないほどの、美麗なステンドグラスが壁に嵌め込まれていた。

 

「………………」

 

 そんな玉座に、腰かける者が一人。祭服、と呼べばいいのだろうか。随分と凝った意匠が施された、見た目からしてだいぶ重そうなそれを、その者は着ている。

 

 かなり、独特な雰囲気を漂わせている者だった。白に限りなく近い金糸ようなの髪は、首筋を隠す程度にまで伸ばされており、日の光に触れて艶やかに輝いている。

 

 そして——なによりも奇妙なのはその貌。一見して、男のように見えれば、女のようにも見える。

 

 少年か少女か。青年か淑女か。年若くも見えれば、年老いているようにも見える。

 

 常人とは明らかに一線を画すその人物は、眠るようにして瞳を閉じており————不意に、横一文字に(つぐ)んでいたその口を、微かばかりに開いて吐息のように声を漏らした。

 

「退屈、だねぇ」

 

 その声ですら、性別が曖昧であった。低い男の声にも聞こえるし、高い女の声にも聞こえる——

 

「こうしているのも、もういい加減飽きてきた。いつになったら、この退屈から自分は逃れられるんだろうねぇ」

 

 そこは、雑音の一つすら発生しない、究極の静寂に包まれている場所。なので、その声は、大袈裟なくらいまでに響き渡っていた。

 

「嗚呼、本当に退屈————」

 

 そう言って、そこで初めて閉ざしていたその瞳を、開いた。

 

 なかった(・・・・)。色が、存在していなかった

 無色——灰色とも違う、無色。

 

 無色の双眸が、遠くの扉を捉える。明らかに必要以上に巨大な扉が——音もなくゆっくりと、開かれた。

 

「失礼します」

 

 そう言って、入ってきたのは——まだ若い青年であった。

 

 重厚な鎧に全身を包み、鉄とよく似た鈍い銀色の髪を揺らして、毅然とした態度で青年は(シルク)で織られた深紅のカーペットを踏み締め、前を進んでいく。

 

 そして玉座に座る、男かも女かもわからない、祭服を身に纏ったその者に——跪いた。

 

「聖国特務機関『神罰代行執行者(イスカリオテ)』——アエリオ=ルオット、此度帰還致しました」

 

「うん。おかえり。待ってたよ、ルオット君」

 

 銀髪の青年——アエリオ=ルオットは、顔を上げて、続ける。

 

「御報告申し上げます——猊下」

 

「うん。いいよ」

 

 祭服を身に纏った、性別が曖昧な者——アエリオに猊下と呼ばれたその者が、和かにその顔を綻ばせる。

 

 数秒の沈黙を挟み、アエリオは猊下にへと報告する。

 

「先日交戦した『極剣聖』と『天魔王』ですが、両者体力切れによる共倒れにて、引き分けに終わりました」

 

「……ふーん。引き分け、ね」

 

 さして驚いた様子もなく、猊下はそう呟いて。それからアエリオに対してこう尋ねた。

 

「どうだった?『極剣聖』と『天魔王』は——表舞台で最強と謳われている二人の実力を、目の当たりにしてどうだったかな、アエリオ君?」

 

「………………」

 

 その問いに、アエリオはすぐには答えられない。再度数秒の沈黙を挟んで——彼は、はっきりとした口調で言い放った。

 

 

 

問題ない(・・・・)かと思われます。『極剣聖』と『天魔王』が障害になったとしても、我々に支障はないかと」

 

 

 

 それを聞いて、にまりと猊下は口元を歪ませる。

 

「ならば良し」

 

 それから、猊下は彼にこう続ける。

 

「任務ご苦労様——じゃあ、引き続きこの子(・・・)の監視よろしくね」

 

 言いながら、ヒラヒラと。一体いつの間に取り出したのか、一枚の写真を揺らしながらアエリオに見せる。

 

「………………」

 

 その写真に写っているのは、一人の少女。まるで燃え盛る炎のように鮮やかな、赤髪の少女。

 

 その名を、ラグナ=アルティ=ブレイズ——とある事情によって、性別を変えられてしまった、この世界(オヴィーリス)の表舞台最強と謳われる三人の内の一人だった、元男。

 

「くれぐれも丁重に頼むよ。大事だからね、この子は。色々と」

 

「……猊下。無礼を承知で、お聞かせください」

 

「ん?なに、珍しいね——いいよ、なにを聞きたいのかな、アエリオ君?」

 

 憮然とした表情で、アエリオは問うた。

 

「本当に、その少女が握っておられるのですか?——この世界の、運命を」

 

 彼のその問いに、猊下はすぐには答えなかった。ただ意味深にくすりと小さく笑って——

 

 

 

「うん。そうだとも。だって————『創造主神(オリジン)』の器なのだからね、この子は」

 

 

 

 ——そう、言うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………器、か」

 

 再び独りとなった玉座の間にて、猊下は呟く。

 

「潰えたと思ったんだけどねえ……あの血族」

 

 写真を眺めながら、呟く。

 

「見れば見るほど、似てるなあ——あの女に、さ」

 

 そして————その写真を躊躇なく破り裂いた。

 

 

 

「…………本当に、忌々しい」



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先輩の『あの』日——始まりの、ちょっとした違和感

 ——どうして、こうなった………?

 

 馬鹿みたいに早鐘を打ち続ける心臓の鼓動が痛い。炎上でもしているかのように顔が熱い。

 

 今、この時この瞬間。僕は——クラハ=ウインドアは、二十年歩んできた人生の中で、恐らく一番であろう窮地に立たされていた。

 

 ——僕がなにしたっていうんですか………『創造主神(オリジン)』様………。

 

 この世界(オヴィーリス)を創り上げた存在(モノ)に対して、僕は心の中で恨むように呟く。

 

 ——……誰か、助けてくれ………!

 

 留まることを知らず昂り続けていく感情を必死になって抑えながら、寝台(ベッド)の中で僕は祈る。

 

 

 

 自分の背中に押しつけられた、柔らかな先輩の胸(・・・・)の感触を、味わいながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事の始まりは、今朝だった。なにも変わりはない、平穏な朝——日常(いつも)と同じような朝だったんだ。

 

「塩は……うん、丁度良い。えっと胡椒はっと……」

 

 呟きながら、僕は戸棚にある調味料置き場を片手で探る。その間も熱しているフライパンへの集中は途切れさせない。

 

 日常通り、僕は先輩よりも早く起きて、朝食を作っていた。今日のメニューはベーコンエッグとパン、それと簡単なサラダだ。

 

「……あったあった。けど量が少ないな……今日買いに行こう」

 

 フライパンの中のベーコンエッグに、手に取った胡椒を適度に振りかけていく。

 

「これくらいでいいかな」

 

 焼き加減を見て、そう判断した僕はベーコンエッグをフライパンから、予め用意しておいた皿にへと移す。

 

 プルンと半熟気味に仕上げた黄身が揺れる。我ながら美味しそうである。

 

 既に二人分のサラダとパンが用意されたテーブルにへと、その皿を運び、そしてゆっくりと慎重に置いた。

 

 ——そろそろ先輩が起きてくる頃合いだな。

 

 そう思った矢先、階段を降りる小さな足音が聞こえてきた。そして、

 

 ギィ——そんな音を立てながら、リビングの扉が開かれた

 

「おはようございます、先輩。朝食できてますよ」

 

 言いながら、扉の方へ顔を向ける——そこに立っていたのは、もう今では見知った寝間着姿の、先輩である。相変わらず、今日もぴょんぴょん元気にあちこち髪が跳ねている。

 

「…………おはよ、クラハ」

 

「……?え、ええ。おはようございます先輩」

 

 先輩のその挨拶を聞いて、僕は真っ先に違和感を覚えた。

 

 言葉の内容こそ日常と変わりないのだが……今日は、明らかに覇気が感じられないというか、髪の跳ね具合に反して元気がないというか。

 

 ——それに、なんか怠そう……?

 

 ふあぁ、と。あくびを漏らしながら、先輩は椅子に座る。依然違和感を感じながらも、僕も椅子に座った。

 

「じゃあ、いただきましょう」

 

「おう……」

 

 ————今思い返すと、この時の先輩の様子について、深く考えなかった自分を殴り飛ばしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝食を済ませ、身支度を整えた僕と先輩は、そのままLv上げ——ではなく、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』にへと赴いていた。

 

 その理由は、グィンさんに会うためである。

 

「早朝からすみません、グィンさん」

 

「別に大丈夫だよウインドア君。こう見えても最近暇だからね——それで、今日はどうしたのかな?」

 

 応接室にて、僕とグィンさんは会話を始める。先輩といえば、やはり気怠げというか、何処か上の空というか。ぼうっとしながら、休むようにして椅子に座っていた。

 

 そんな状態の先輩に僕も少なからず心配を覚えたのだが、ここに来る際先輩に尋ねると、「大丈夫だ。心配すんな」の一点張りで、それ以上深く入り込んで尋ねると、不機嫌になりそうだったので、仕方なく納得し、尋ねるのを止めた。

 

 

 

 ……今思い返すと、本当にこの時の自分をぶん殴りたい。

 

 

 

「ふむ。ブレイズ君のLv上げに関して、アドバイスがほしい……か」

 

「はい。グィンさん、なにか良い方法とか知ってますか?」

 

 先週訊こうと思っていたが、とにかく色々あって今日まで訊けずにいたこと。

 

 まあ先輩の場合、やはりパワーレベリングしか取れる方法がないと思うのだが……。

 

 それでもこの人ならなにか別の方法を知っているんじゃないかと思い、グィンさんに訊いてみた所存である。

 

「んー……」

 

 するとグィンさんは指を顎に押し当て、数分考え込んだかと思うと、僕を試すような笑顔を浮かべて、こう言ってきた。

 

「ウインドア君。時に、君はこんな噂を聞いたことはあるかい?」

 

「え?噂、ですか?」

 

 僕がそう訊き返すと、グィンさんは頷きながら続けた。

 

 

 

「『ヴィブロ平原』に潜む、伝説のスライムの噂だよ」



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先輩の『あの』日——伝説のスライムの噂

「『ヴィブロ平原』に潜む、伝説のスライムの噂だよ」

 

 笑顔を携え、グィンさんはそう僕に言った。

 

 ——伝説の、スライム……?

 

 そんな噂、全く以て耳にした覚えはない。僕が首を傾げていると、グィンさんがそのままの笑顔を保ったまま、その伝説のスライムの噂とやらの内容を話し始めるのだった。

 

「いつだったかなあ……ウインドア君も、ブレイズ君もまだ『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に所属していない頃の時かな」

 

「そ、それはまた、だいぶ前ですね……」

 

 僕が知る限り、先輩は十代前半から既に『大翼の不死鳥』所属の冒険者(ランカー)になっていて、当の僕は十六歳の時に『大翼の不死鳥』の冒険者となった。

 

 それよりも前となると……本当に、随分と古い噂だ。

 

「私が執務室で山のような仕事を片付けていた時にね、突然こんな興味深い報告が入ったのさ」

 

「報告、ですか?」

 

 頷きながら、グィンさんは続ける。

 

「なんでも、『ヴィブロ平原』でね——虹色に輝くスライムのような、謎の魔物(モンスター)を『大翼の不死鳥』の一人の冒険者が目撃したらしいんだ」

 

「に、虹色に輝く……?」

 

 確かに、そんなスライム見たことも聞いたこともない。

 

「当然その冒険者は捕まえようとしたらしいんだけど、尋常じゃない速さでその場から一瞬で逃げ去ってしまったらしいんだ。……それで、まだ仕事の途中だったんだけど、どうしてもそれが気になっちゃって……こっそり、個人的に調べてみたんだよね」

 

 言いながら、僕に向けて軽くウィンクするグィンさん。取り敢えず僕は苦笑いを返すが、内心ではなにやってんだこの人、と呆れていた。

 

 そんな僕の内心に気づかないまま、少し興奮するようにグィンは話を続ける。

 

「すると面白いことにね、そのスライムらしき謎の魔物について記された文献があったんだ。……まあ、文献といってもほとんど御伽噺みたいな内容だったけど」

 

「へえ……一体どんな風に書かれてたんですか?」

 

 僕がそう訊くと、グィンさんはこう語った。

 

 

 

 ————太古の時代、この世全ての叡智をその身に蓄えた、賢者の如き魔物が存在していた。七色に光り輝く不定の身体を持ち、ある時には鳥、ある時には獣の姿となりて、古に生きた人々を、その膨大なる叡智を以て、導いた————

 

 

 

「……とまあ、こんな感じの内容だったよ」

 

「…………」

 

 確かに、御伽噺というか伝説のような内容だった。それにその賢者の如き魔物というのが、スライムであるとも明言されていない。

 

 されてはないが、しかし……その特徴——七色に輝く、不定の身体——を聞く限り、概ね一致してはいる。

 

 後半の鳥や獣の姿になる、というのは少しアレだが……。

 

 ——この世全ての叡智……か。

 

「この世全ての叡智、ということはそれを得るために、その魔物は恐らく凄まじい経験を積んだことだろうねえ……それはもう、気が遠くなるような経験値(・・・)を、ね?」

 

 そんな言葉と共に、再度ウィンクを送ってくるグィンさん。何故彼がこんな噂を引き合いに出してきたのか、その発言でわかった。

 

「ありがとうございます。面白い噂でした」

 

「だろう?だけどまあ、あくまでも噂の範疇だからね。そこだけはよろしくね?」

 

「わかってますよ」

 

 グィンさんにそう言って、僕は椅子から立ち上がった。

 

「先輩。話が終わったのでそろそろ行きま……しょう?」

 

 先輩は、椅子に座りながら、やはり何処か気怠そうにしていた。心なしか、その表情も固いというか、なにかを堪えているというか……。

 

 数秒遅れて、先輩が僕の声に反応する。

 

「うぇ?あ、お、おうそうか。んじゃ行こうぜ」

 

「……あの、先輩」

 

 流石にこれには、僕も無視できなかった。

 

「やっぱり、朝から変ですよ……先輩。身体の調子が悪いんじゃ「へっ、平気だってさっきからずっと言ってるだろ?あれだよ、あれ。ちょっとぼーっとしてただけ。だから大丈夫だ」………わかり、ました」

 

 そう、笑顔で言ってくる先輩に、胸の中に苦い棘が刺さりつつも、僕はそれ以上はなにも言えなくなってしまった。

 

 

 

 …………本当に、この時踏み込まなかった自分をぶっ飛ばしたい。



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先輩の『あの』日——混ぜるな危険な二人

 グィンさんと別れ、僕と先輩は『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のロビーへ戻った。

 

「……ん?」

 

 なにげなく、ふと依頼看板(クエストボード)の方へ視線をやると、つい最近見知った二人がその前に立ち、看板(ボード)に貼られている数々の依頼(クエスト)を、揃って難しい顔で眺めていた。

 

 二人——先日、この街(オールティア)を防衛するために『輝牙の獅子(クリアレオ)』と『影顎の巨竜(シウスドラ)』から、こちらに派遣されてきた冒険者(ランカー)——サクラ=アザミヤさんとフィーリア=レリウ=クロミアさんである。

 

「おはようございます。サクラさん、フィーリアさん」

 

 僕がそう挨拶しながら近づくと、またも揃って二人はこちらに振り返った。

 

「ウインドアか。それにラグナ嬢も。おはよう」

 

「こちらこそおはようございます。ウインドアさん、ブレイズさん」

 

 彼女たち二人は、ただの冒険者ではない。この世界《オヴィーリス》に、僕を含めた星の数ほど無数に存在する冒険者たちの中でも、特別中の特別。異例中の異例。一つにして一つとない、まさに特出した、決して抜かれることのない、一つの個。

 

 

 

 僕たち常人では決して到達し得ない、踏み得るのことのない、人族(ひと)としての極致に、辿り着いた存在(モノ)

 

 Lv100——人の身でありながら、人ならざる存在の境地に至った彼女たちは、《SS》冒険者(ランカー)と呼ばれている。

 

 

 

 ……なお、余談ではあるのだが、実は二人の他にももう一人の《SS》冒険者がいるのだが、今は入り組んだ複雑な事情で、一時期最弱(スライム)よりも最弱となってしまい、その輝かしい称号を剥奪されてしまった。

 

 つい最近ようやくスライム相手にも辛勝できるようになったので、最弱よりも最弱という不名誉極まりない汚名(レッテル)はなんとか剥がせたが。

 

「どうしたんですか、お二人共依頼看板なんか眺めて……なにか気になる依頼でもあったんですか?」

 

 僕がそう訊くと、二人は小さく首を振って否定する。

 

「暇だったのでな、なにか手応えのある依頼はないものかと探していたのだが……」

 

「ありません、ね。一応まだマシかなってものはいくつか見繕ったんですが」

 

 そう言いながら、僕の方にフィーリアさんが数枚の依頼書を見せてくる。

 

 

 

『〝殲滅級〟シデンワイバーン討伐依頼』

 

『〝殲滅級〟デッドリーベア討伐依頼』

 

『〝絶滅級〟『灰燼』フレイソル=クロナガンド討伐依頼』

 

 

 

 ——……え?

 

「こ、これ全部がまだマシ……なんですか?」

 

「ああ」「はい」

 

 さも当然のように頷く二人に、思わず僕は頭を抱えそうになってしまった。

 

 ——どんだけ……常識外なんだよ、この人たちは……!!

 

 一応説明すると、先ほどフィーリアさんが見せてきた依頼は、そもそも二人でやるような代物ではない。

 

 僕たち《S》冒険者——それも選りすぐりに選りすぐった冒険者十数人(・・・)でやらなければならないものだ。

 

 そもそも、魔物にはそれぞれの『危険度』というものがある。

 

 字を読んでの通り、如何にその魔物が、僕たち人間から見て、どの程度危険なのかを表したものだ。

 

 スライムやゴブリンなどの、大して危険になり得ないだろう魔物は〝微有害級〟

 

 ロアーウルフやバンデッドコボルトなどの、決定的ではないが確かな危険になる魔物は〝有害級〟

 

 まだ年若い(ドラゴン)種やそれに匹敵する、状況によっては無視できない危険である魔物は〝撲滅級〟

 

 村や小さな街一つ程度ならば、即座に地図上から消せる、優先討伐令が下されるほどの危険を誇る魔物は〝殲滅級〟

 

 そして、その〝殲滅級〟を遥かに超える、放っておけば致命的な被害を齎らすことは確実であろう、悠遠の時を生きた魔物は〝絶滅級〟

 

 というような感じで区分けされているのだ。特に〝撲滅級〟からは基本的に《B》ランク以下の冒険者が遭遇した場合、即時撤退という決まりになっている。

 

 〝撲滅級〟だと、《A》冒険者数十人かがりで挑んでようやく討伐できるほどで、《S》冒険者であれば二人いれば充分だろう。

 

 〝殲滅級〟だともはや《A》冒険者など話にならず、確かな実績と実力を持つ《S》冒険者五人で挑むことが推奨されている。

 

 そして〝絶滅級〟になると《S》冒険者であっても有象無象では歯が立たず、世界でも有数の、それこそ名の知られている《S》冒険者が十数人で挑んで、勝てるかどうか。

 

 その中でも、彼女たちが選んだ依頼は最上の最上に位置する難易度である。

 

 シデンワイバーンは雷を自由自在に操り、凄まじい速度で空を駆け、その姿を捉えるだけも困難。

 

 デッドリーベアはその動きこそ遅いが、その豪腕から繰り出される一撃はまさに必殺で、また身体を覆う毛皮は鉄と比べても遜色ない防御力を誇る。

 

 そして最後の〝絶滅級〟——フレイソル=クロナガンドは二つ名持ちの火竜で、『灰燼』の名の通り、その視界に映る全てを灰に還す。

 

 フレイソル=クロナガンドを討伐できるような《S》冒険者など、恐らく指で数えられるほどしかいないのではなかろうか。

 

 ——『鋼の巨人(メタイツ)』のガラウ=ゴルミッド、『虹の妖精(プリズマ)』の三精剣……僕が知っている中だとこれくらいじゃないかな……?

 

 とにかく、僕ではまず相手にならない。

 

 それに、たとえそれら超一流の《S》冒険者がチームとなって挑んだとしても、少なくとも三日三晩を跨ぐ死闘になること間違いなしだろう。

 

「シデンワイバーンやデッドリーベアはともかく、『灰燼』の方はどうでしょう?」

 

「ふむ。一秒持つかどうかだな……」

 

 …………間違いなし、だろう。



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先輩の『あの』日——強情な嘘。弱い本音

「「伝説のスライム?」」

 

 その声音こそ違えど、込められた感情や響きは全く同じに。サクラさんとフィーリアさんは揃ってそう口に出した。

 

「はい。といっても、グィンさんからの言伝ですけどね」

 

 あの後、終始見繕った依頼(クエスト)書を依然気難しい表情で眺め、やれどうすれば長く楽しめるだのやれどこまで手加減すればいいのだのと、傍から聞いているだけで卒倒しそうになるような相談を繰り返す二人を見兼ねて、僕は先ほどグィンさんから聞いた伝説のスライムとやらの噂を教えたのだ。

 

「伝説のスライム……私も初めて聞きましたね」

 

「ああ。私も生まれて此の方、そんなスライム見たことがないな」

 

 ——《SS》冒険者(ランカー)ですら聞いたことも見たこともないのか……。

 

 虹色に輝く伝説のスライム——果たして、本当に実在するのだろうか?

 

 そう思いながらも、僕はつい、半ば冗談のつもりで言ってしまった。

 

「そんなにお暇を持て余しているのなら、僕と一緒に探しませんか?伝説のスライム——なんて」

 

 すると——《SS》冒険者の二人は、

 

 

 

「良いですね。探しに行きましょうウインドアさん!」

 

「確かに、これらの依頼よりもその伝説のスライムとやらを探す方が楽しそうだ。喜んで付き合うよ、ウインドア」

 

 

 

 予想外の食いつきを見せた。

 

「え?いや……そ、そうですね。じゃあ是非お願いします」

 

 ——なんてこった……まさか、本当にいるかどうかもわからない伝説のスライム探しに、《SS》冒険者の二人を付き合わせることになるとは……。

 

 やはり、慣れない冗談など言うべきではないな——と、少し心の中で後悔しながらも、ふとそこで先輩のことを思い出した。

 

「す、すみません先輩。僕の勝手で……」

 

 周囲を見渡すと、すぐ近くの椅子に先輩は座っていた。……ただ、明らかに様子がおかしかった。

 

 顔を俯かせて、荒く呼吸を繰り返しているのか、先ほどから(しき)りにその肩を上下させており、またお腹を両手で押さえていた。

 

「せ、先輩……?」

 

 そう僕が声をかけて——返事が返ってくるのは一分過ぎた後だった。

 

「……え?、あ、お、おう。話、終わったのか」

 

 言いながら、先輩は顔を上げるが、まるで完熟した林檎のように真っ赤で、深みがかった琥珀色の瞳も薄らと濡れて、潤んでいる。

 

 もう、誰がどう見ても、明らかだった。

 

「ラグナ先輩」

 

 少し、声音を強めて、僕は尋ねる。

 

「もう誤魔化さないでください。今先輩、絶対に体調崩してますよね?」

 

「…………崩して、ねえ」

 

 キッと、先輩が僕の顔を睨みつけて、少し怒ったようにそう返す。強情なのも、ここまでくると困りものである。

 

 ——……仕方ない、か。

 

 恐らく僕がどう言っても、先輩は首を横に振って否定して、決して認めることはないだろう。

 

 

 

 ならば——もう自分から認めさせるしか方法はない。

 

 

 

「わかりました。じゃあ本当に大丈夫なんですね?」

 

「お、おう。さっきから、そう言ってるだろ……っ」

 

 依然、辛そうに言葉を絞り出す先輩を見て、僕はつい心配しそうになるのをグッと堪えて——踵を返した(・・・・・)

 

 

 

「じゃあ行きましょう、『ヴィブロ平原』に」

 

 

 

 ……心が痛い。まるで細い針をゆっくりと、何十本も刺されているみたいだ。

 

「……え、あ…そ、そうだな……い、行かなきゃ、な」

 

 背中を向けながら、まるで突き放すかのようにそう言った僕に、まるで動揺しているのを隠せずに、先輩がそう返す。

 

「ちょっと、ウインドアさん……」

 

「ウインドア、正気か?」

 

 流石にこの僕の態度は看過できなかったのか、咎めるようにサクラさんとフィーリアさんが声をかけてくる。が、

 

「お、俺は大丈夫、だから」

 

 言いながら、フラフラと椅子から立ち上がった先輩の声に遮られ、それ以上二人が僕になにかを言うことはなかった。

 

「…………は、ぁっ……!」

 

 チラリ、と。視線だけ背後にやると、先輩は危なげな足取りで、懸命にその一歩一歩を踏み出し、前に進んでいた。

 

 そして、ようやく僕の元にまで辿り着いて————ぐったりと、僕の背中にのしかかるようにして倒れ込んできた。

 

 途轍もない後悔と途方もない罪悪感に苛まれる中、ようやく先輩は、

 

 

 

「ご、めん。嘘、()いて、た……しんど、ぃ……くら、は…ぁ」

 

 

 

 やっと、僕に弱みを見せてくれた。



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先輩の『あの』日——オトナの身体に近づいたラグナ先輩

「それで、先輩は大丈夫なんですか!?なにか、重い病気でも患ってしまったんですか!?」

 

 開口一番、掴みかかる勢いで僕は目の前の医者——メイシア=クローリットさんにそう尋ねた。

 

 対し、顔を顰めさせながら、彼女もその口を開く。

 

「うるさい。騒がず、まずは落ち着きなさいこの馬鹿」

 

 至極冷静に、だが確かな怒りを以てそう返されて、僕はぐうの音も出せず椅子に座る。

 

「す、すみません……」

 

「全く……まあ、そうなる気持ちは理解できなくもないけど」

 

 あの後、伝説のスライム探しはまた後日とサクラさんとフィーリアさんに頭を下げ、己の体調不良を白状した先輩を背負い僕は急いで病院に駆け込んだ。

 

 先輩は弱っていて、また酷い発熱もしていることがわかり、もう僕の心の中は先輩への申し訳なさと自分の配慮のなさ、後悔と罪悪感がごちゃごちゃになって積み重なり、率直に言って死にたくなった。

 

 けれど嘆いている暇などほんの僅かだって用意されていない。メイシアさんを頼って、すぐさま先輩を診察してもらい、それが終わったのでこの場に呼ばれた訳だ。

 

「………そうね。どこから説明したものかしら……」

 

 少し複雑そうな表情で、メイシアさんは思い悩んでいる。

 

 ——や、やっぱり先輩はなにか病気を……?

 

 そう不安になりながらも、僕は彼女の言葉を待つ。そうして数分後、ようやく彼女はその口を再び開いた。

 

「まあ、あれね」

 

「……あ、あれ…ですか?」

 

「そう、あれ」

 

「…………あの、メイシアさん。あれとは一体……?」

 

 そのなにかを濁すような、『あれ』発言に、僕は意味がわからずそう追求すると、メイシアさんは依然複雑そうな表情を保ったまま、僕に教えてくれた。

 

 

 

女の子の日(生理)……よ」

 

 

 

 ——…………へ?

 

「せ、せいり……?」

 

 あまりにも予想外だった言葉に、思わず声に出してそう反芻させると、メイシアさんが至って冷静な口調で続ける。

 

「そう、生理。それともあれかしら?排ら「い、いやいや知ってます!知ってますからその先は言わなくていいですというか言わないでください!」……ならいいわ」

 

 生理、という言葉だけでもだいぶアレなのに。あろうことかこの人はより生々しい言葉を使おうとした。危ないところだった……。

 

 心の中でホッと安堵する僕をよそに、メイシアさんはさらに続ける。

 

「と言っても、まだ生理前の症状なのだけれどね。ただ彼女の場合は普通よりもちょっと重いわ。……それに」

 

「そ、それに?」

 

 半ば信じられないような面持ちと声色で、彼女は言う。

 

「あの子、たぶんこれで初経になると思うんだけど……見たところ十七か十八よね?」

 

「え?あ、あー……はい。そうですね。そのくらいになりますね」

 

 先輩の実年齢は恐らく二十六歳のはずだが……あの身体の場合、どうなるんだろう?こうしてメイシアさんに言われるまで、意識もしなかった。

 

 ——あまり詳しくないけど、普通は十歳から遅くても十四歳までには迎えるんだったか……?その、初経って。

 

 とすると先輩の場合はかなり遅く、珍しいのだろう——まあ前まで男だったのだから、そうなるのは至極当然のことなのだろうが。

 

「…………いまいちはっきりしない答えだけど、まあいいわ。とにかく、命に別状とかはないから安心しなさいな」

 

「なら、いいんですけど……」

 

 とにかく、僕としては複雑な心情である。というか、実感が湧いてこない。……その、先輩が、生理になったなんて。

 

 なんだか気が抜け、脱力する僕に、淡々とメイシアさんが告げる。

 

「じゃあこっちからは痛み止めと頭痛薬、それと解熱剤を処方するから……そういえば、貴方とあの子ってどういう関係なのかしら?」

 

 それを訊かれて、僕はギクリとした。

 

「ど、どういう、関係と……申されましても……」

 

 思わず変な口調になりつつ、そう返すがメイシアさんはじっと僕の顔を見つめてくる。

 

「……………………」

 

 場が、重苦しい沈黙に包まれ————堪え切れず、僕は苦しげに答えた。

 

「ど、同棲してる……か、彼女………です」

 

「そう、ならいいわ」

 

 ——すみません本当にすみません先輩勝手なこと言って本当に誠にすみません……!

 

 心の中で必死に先輩にそう謝罪を繰り返す中、ふとした様子様子でメイシアさんが言う

 

「解熱剤なのだけれど、実は二種類あるのよ」

 

「……はい?」

 

 さも当然のように、彼女は僕にこう尋ねた

 

「錠剤と座や「錠剤でお願いします!錠剤で!!」……わかったわ」

 

 やっぱり、苦手だこの人……!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともあれ、メイシアさんから薬を受け取り、僕はあの後すぐさま先輩を自宅まで送った。先輩はもうすっかり疲れ切っており、今は寝台(ベッド)の上で大人しくしてもらっている。

 

 そして僕といえば、夕食に使う食材の買い出しに出かけていた。メイシアさんから渡されたメモに書かれた、生理中に食べると良い食材を買えたことを確認しながら、僕は自宅の帰路に着く。

 

「………………はあ」

 

 独りでにため息を吐いてしまう。まあ、先輩は元男だった先入観のせいで、そういう女の子特有のあれらについては完全に失念してしまっていた。

 

 そのことを恥じながら歩きつつ——ふと、思った。

 

 ——そういえば、生理を迎えたってことは、先輩の身体はもう、完全に女の子の身体だってことが証明されたのか……。

 

 そのことに関して先輩はあまり理解していなかったようだが……。

 少し考えて、気づいた。

 

 

 

 ——あれ、てことは先輩……もう子供産めるんだ…………。

 

 

 

 気づいて、数秒後。

 

「僕は馬鹿かあああぁぁっ!?」

 

 ラグナ先輩に対して不敬極まり過ぎる考えを抱いた己を、律するために壁に向かって、何度か頭突きを繰り返した。



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先輩の『あの』日——それは長い夜の幕開けで

 一(しき)り壁に向かって頭突きを繰り返した後、僕は自宅にへと帰った。

 

 未だに額が痛むが、回復魔法を使ったので傷などは塞がっている。いやあ、使えるようになっておいて助かった。

 

 いくらか冷静になった頭で、僕は取り敢えず買った食材類をテーブルに置いて、それから階段に向かう。

 

 ゆっくりと階段を上って、そして元は僕の寝室であり、今は先輩の寝室となっている部屋の前にまでやって来た。

 

 一旦息を整えてから、これまたゆっくりと慎重に、扉を軽く数回ノックする。

 

「…………入って、いいぞ」

 

 少し遅れて、扉の向こうから先輩の声が聞こえてきた。薬のおかげか、若干元気を取り戻せているように思える。

 

「わかりました。じゃあ、入りますよ?先輩」

 

 言って、入室の許可を貰った僕は扉のノブを握り、捻った。

 

 大した抵抗もなく開いた扉を抜けて、部屋の中にへと入る。部屋は薄暗く、また少し違和感を感じるほどに静かだった。

 

「先輩、具合はどうですか?」

 

 寝台(ベッド)の方にまで歩いて、僕はそう尋ねる。すると毛布を頭まで被った先輩が、ちょこんと顔を出した。

 

「…………少し、マシにはなった」

 

 そう言う先輩の顔は、確かにまだほんのりと赤みを帯びていたが、その琥珀色の瞳からは確かな活力を感じる。

 

 取り敢えず、僕はホッと心の中で安堵した。

 

「ならよかったです。……先輩、今日は朝から無理をさせて、本当にすみませんでした」

 

 謝罪をし、頭を下げた僕に、先輩は慌てるように声をかけてくる。

 

「お、お前が謝る必要なんかねえよ。……俺が、つまんない意地、張ってただけだし……」

 

「でも」

 

 それでも謝罪を続けようとする僕に、先輩はこう言ってくる。

 

「お前はなんにも悪くねえ。だから謝る必要もねえの——わかったか?」

 

 そう言いながら、普段よりは弱々しいが、向日葵が咲いたような笑顔を浮かべた。

 

 ——……この人には、敵わないな………。

 

 その笑顔に見事に打ち負かされた僕は、代わりに微笑を返す。

 

「わかりました——じゃあ、一つだけ訊きたい

 ことがあるんですが、いいですか?先輩」

 

「訊きたい、こと……?別に、いいけど……」

 

 訝しむように見つめてくる先輩に、僕は誤魔化さず、はっきりと訊いた。

 

「どうして、体調を崩してないって、嘘()いてたんですか?」

 

 先輩は、すぐには答えなかった。困ったように瞳を少しだけ僕から逸らして、それから数秒経って再び僕の方に合わせた。

 

「め、迷惑……かけたくなかったんだよ。お前に、さ……」

 

 ……先輩がそう答えるだろうことは、大方予想はできていた。この人は、そういう人なのだから。

 

 ——全くもう……。

 

 呆れるような、嬉しいような。そんなよくわからない感情が僕の心を浸す。

 小さく嘆息しながら、僕は先輩に言う。

 

「別に構いませんよ。それに先輩言ってたじゃないですか」

 

「え…?」

 

 苦笑を交えて、きょとんとしている先輩に、僕は続けた。

 

「僕に無茶苦茶迷惑かけるって。嫌ってなるほど苦労かけるって」

 

 すると、先輩は一瞬呆気に取られたように沈黙して、それからあたふたしながら口を開く。

 

「い、いやっ、あれは、そのっ……こ、言葉の綾っていうかなんていうか……!」

 

「先輩、言葉の綾なんて言葉知ってたんですね。意外です」

 

「は!?それくらい俺だって知ってるっての!馬鹿にすんな!」

 

 頬を膨らませ、先輩は怒るが、やはり外見のせいで迫力など欠片もなく、可愛らしさが圧倒的に勝る。

 

「…………ふ、ふふ」

 

 そんな先輩に、僕は堪え切れずに軽く吹き出してしまう。するとさらに怒ったように先輩が声を上げた。

 

「わ、笑ってんじゃねえ!このアホ!」

 

 ——可愛いなあ………はは。

 

 なんというか、全く人畜無害な愛くるしい小動物を見ているみたいだ。依然吹き出しつつも、取り敢えず僕は謝罪を挟む。

 

「すみません。我慢してたんですけど、つい」

 

「むう………」

 

 むくれながらも、それ以上先輩がなにか言うことはなかった。そんな先輩に、僕は伝える。

 

「では僕は夕食を作りますので。できたら先輩の分を部屋に運びますよ」

 

「………おう」

 

 未だ釈然としない面持ちではあったが、それで先輩は頷いて再び毛布の中にへと潜った。

 

 ——さて、じゃあ僕は下に戻るとしますかね。

 

 そう思い、踵を返す——直前だった。

 

 

 

 ギュ——唐突に、服の裾を掴まれた。

 

 

 

「……先輩?」

 

 見てみれば、毛布から伸びた手が裾を掴んでおり、少し経って遠慮がちに先輩が毛布からその顔を覗かせた。

 

「……………………」

 

 じっと、先輩が僕の顔を見上げる。その宝石のように綺麗な、琥珀色の瞳が僕の顔を捉える。

 

 奇妙な沈黙を挟み、そして。

 

 

 

「……ク、クラハ」

 

 

 

 その声はどうしようもない不安に満ちていて。まるで夜に怯える子供のように、微かに震えていた。

 

「い、今から……お前にかけてもいいか?…………迷惑」



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先輩の『あの』日——僕が覚えていますから

 仄かに甘い匂いが、鼻腔を(くすぐ)る。僅かに漏れる吐息の音が、鼓膜を撫でる。

 

「………………」

 

「………………」

 

 沈黙が痛い。静寂が気まずい。何度目だろう、この状況。

 

 ——確かに、確かに僕は迷惑をかけてもいいと言った。別に構いませんよと言ったけど。

 

 人生で二度味わえるかという、極限の緊張感をこの身に浴びて、僕は心の中で叫ぶ。

 

 

 

 ——まさか、先輩に……寝台(ベッド)で、一緒に、寝てほしいなんて言われるとは……!

 

 

 

 そう。今僕は先輩の寝台の上にいる。そしてこの背中の後ろには、先輩がいる。

 

 つまり、僕は今、先輩と一緒の寝台にいるということだ。

 

 ——沈黙……圧倒的、沈黙…………ッ。

 

 先輩にあんなことを言った手前、断ることができず、腹を切るような面持ちで寝台の中に入ったのはいいが……何故かそれきり先輩は黙ってしまった。

 

 なので僕も口を開けず、気がつけば沈黙はあまりにも濃密で、重過ぎるものに成長してしまい、もう口を開こうにも開けなくなってしまった。

 

 必要以上の静寂の中、ただ聞こえるのは先輩の小さな吐息の音だけ。それが一体どれだけ気まずいことか、おわかり頂けるだろうか?

 

 ——……本当に、どうしよう。

 

 もういっそのこと開き直って、寝てしまおうかと思ったが、こんな状況の最中そんなの無理である。無理に決まっている。

 

 ——そうだ。なにか考えよう。全力で頭を働かせて、無理矢理にでもこの状況から気を逸らそう。

 

 そもそもだ。何故、先輩は急にこんなことを僕に頼んできたのだろう。「一緒に寝てくれ」なんて今まで言われたことはなかったし、先輩はそんなことを言う人でもなかった。

 

 何故……だろう……?

 

 ——………………。

 

 考えて、考えて————深き思考にへと、僕が没入する、直前だった。

 

 

 

 

 

 むにゅぅ、という擬音が似合いそうな、感触が僕の背中を襲った。

 

 

 

 

 

「……………………??!!?」

 

 人間、心の底から本当に驚くと、嘘みたいに声が出なくなるらしい。僕はそんなこと今までになかったので、あまり信じていなかったが、今身を以て体感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 —————そうして現在に至る訳だ。いやあ、参ったな本当に。本当に…………!

 

「せせ、せんぱいっ?」

 

 突如として押し付けられてきた、まるでマシュマロみたいに柔い感触に完全に狼狽し、情けなく上擦る僕の声に、数秒遅れて、

 

 ギュゥ——僕の首に、先輩の腕が回されて、背中のマシュマロがより密着してきた。

 

 ——先輩ィィイイイイイッ!!??

 

 もはやショート寸前の僕の頭の中に、小さな声が届く。

 

「ごめん。今だけ……こうさせて、くれ」

 

 ……その声は、震えていた。どうしようもなく、震えていた。

 

 ——先輩……?

 

 先ほどから喧しく鼓動する心臓の音に、掻き消されてしまうのではと思うくらいに、消え入りそうな声で先輩が続けてくる。

 

「俺……怖いんだ」

 

 その先輩の言葉は、予想外だった。僕がそう思う間も、先輩は言葉を零していく

 

「最初はよくわかんなくて、現実感もなくて……でも、お前が出かけてる間、考えてた」

 

 僕は、なにも言えない。未だこの状況に混乱しているせいなのか、それとも……。

 

「よくは知らねえけどさ、要は女が子供を産める身体になったってことなんだろ?その、せーりって」

 

 依然震えたままの声で、背中越しにそう僕に訊いてくる先輩。……だ、だいぶ答え難い質問だ。

 

「…………そ、そうですね。僕も詳しくは知りませんが、その認識で合ってるかと……思います」

 

「……そっか」

 

 先輩のその声は、震えは若干止まったものの、その代わり——何処か哀しそうに聞こえた。

 

 そのままの声音で、静かに、先輩が言う。

 

「おかしいよな。俺、男なのに」

 

 首に回された腕に、僅かばかりの力が込められる。

 

「まだ頭ん中じゃあ、男だって思ってんのに。身体は女」

 

 そしてさらに密着する、先輩の身体。柔らかい——女の子の身体。

 

「……なあ、クラハ」

 

 先輩は、僕に尋ねてくる。

 

「今の俺って、本当に俺なのか?(・・・・・・・・)

 

 …………その問いかけに対して、僕は答えることができなかった。本当なら、即答すべきことなのに。

 

 馬鹿な僕は、先輩に今かけてやるべき言葉の一つすら、思い浮かばない。

 

「……先、輩」

 

 それが悔しくて、情けなくて、でもやはり言葉は出てこなくて。そんな自分を許してくれと言わんばかりに、ただの一言を絞り出すようにして呟くことしか、僕はできなかった。

 

 そんな僕に、先輩が続ける。

 

「……実は、よ。昔の俺ってどういう奴だったか、今の俺は上手く思い出せないんだ」

 

「え……?」

 

 それは一体どういうことなのか——そういう意味を込めた、僕の呟きに、先輩は腕の力をより少し強めて答える。

 

「全くって訳じゃない。けど、日が経ってく度に……こうして夜を過ごして朝を迎える度に、だんだん、昔の俺の姿が、ぼやけてく」

 

 ……そこで、初めて僕は気づいた。密着している、先輩の身体の震えに。それは、寒気からくる震えではない。それは——

 

「それがさ………怖いんだよ」

 

 ——怯えに、よるものだった。

 

「なあ、クラハ。知ってるか?女の身体って、信じられないくらいに軽いんだ。いつもふわふわしててさ、いつかどっかに飛んじまうじゃないかって、歩く度に思っちまう」

 

 言葉が続けば続くほど、先輩の腕に力が込められていく。

 

「…………俺、消えたくねえよ」

 

 ——……………………。

 

 一体、どの言葉が正解なんだろう。一体どの選択肢を取ることが、正しいのだろう。

 

 こんなに不安そうな先輩は初めて見た。こんなに怖がってる先輩は初めて見た。

 

 その不安を僕が理解することは叶わない。その怯えを僕が共感することは叶わない。

 

 そんな自分が、どうしても許せなかった。

 

 ——……。

 

 正解なんてわからない。最適解なんてわからない。

 

 でも、それでも——僕は、

 

 

 

「ラグナ先輩」

 

 

 

 ギュ——胸の前にあった、先輩の手を握った。

 

「無責任な言葉かもしれません。身勝手な気持ちかもしれません。でも、聞いてください」

 

 できる限り、優しげな声音で。和らげな口調で。僕は言葉を紡ぐ。

 

「もし、今の先輩が昔の先輩を忘れてしまっても、僕が覚えてます。この先ずっと、覚えていますから」

 

 絶対に離さないように、その小さくなってしまった手を、痛くない程度に握り締めて、続ける。

 

「だから安心してください。何度だって、僕が教えますよ——昔の先輩を、今の先輩に」

 

 ……できれば、顔を合わせながら言いたかったが、そうすると理性が持ちそうにないので、それは断念した。

 

 寝台の中が、再び沈黙に包まれる。だが先ほどと違って、重く苦しいものではない。

 

 そして、こつん、と。僕の首筋に硬く、でも柔らかい感触が伝わる。

 

「…………あんがと」

 

 もう、その先輩の声に震えはなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくして、背後から先輩の寝息が聞こえ始めた頃、ふと気づいた。

 

 

 

 ——……あれ?もしかして、朝までこのまま?



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先輩の『あの』日——おんなのこはやわらかい

 日常と変わらない朝。今日も今日とて暇を持て余していた人族最強の一角——《SS》冒険者(ランカー)、『極剣聖』サクラ=アザミヤはこの街(オールティア)冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』にへと訪れていた。

 

 理由は至極単純——暇だから。

 

 ——なにか、手応えを感じられる依頼(クエスト)はないものか……。

 

 《E》ランクから、《S》ランクまでの、様々な依頼書が貼られた看板(ボード)を眺めて、彼女はそう思う。

 

 ——結局『灰燼』は一秒も相手にならなかった。強過ぎるというのも、少し考えものだな。

 

 想起される先日の記憶。遠方の火山を根城にしていた『灰燼』フレイソル=クロナガンド——〝絶滅級〟という、一応最高の危険度を誇る二つ名持ちの年経た火竜だったが……ほんの肩慣らしのつもりで軽く刀を振っただけで、かの火竜は僅かな抵抗もなく真っ二つに両断され、絶命した。

 

 ——全く、〝絶滅級〟などという肩書きは当てにならんな。

 

 Lv100の彼女からすれば、〝絶滅級〟も〝微有害級〟も大して変わらない。それが、人としてのある種の極致に至った存在(モノ)の認識であった。

 

 そしてそれは、サクラ=アザミヤに限定されていることではない。

 

「おはようございます、サクラさん」

 

「む、フィーリアか。おはよう」

 

 看板を眺めていたサクラの背後から、そう声をかけたのは、真白のローブに身を包んだ、それと全く同じ色をした髪の少女。

 

 その少女こそ、今ではサクラのその苦悩を唯一共感し、共有できる存在——もう一人の《SS》冒険者、『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアである。

 

 サクラの隣に立ち、彼女もまた看板を見上げる。

 

「……なにか、楽しそうな依頼ありました?」

 

「……残念ながら、ないな」

 

 はあ、と。《SS》冒険者二人はため息を吐く。それは何処までも深く、虚無めいたため息だった。

 

「あ、そういえば」

 

 不意にフィーリアが声を上げる。

 

「結局、大丈夫だったんですかね?……ブレイズさん」

 

「ラグナ嬢か。確かに、今彼女はどうしているのだろうな……」

 

 彼女たちは三日ほど前の記憶を掘り起こす。一人の、赤髪の少女の姿を。

 

 その少女の名は、ラグナ=アルティ=ブレイズ。………以前までは、サクラとフィーリアの苦悩を理解でき得ただろう、最後の《SS》冒険者。

 

 しかし今では、まあ……複雑な事情(本人談)というか、数々の不幸(本人談)というか……そういう色々なことが積み重なって、現在では100だったLvは5に、しかも男だった(本人談)はずなのに誰もが認める美少女にへと変わり果ててしまった。

 

 ——まあ私としては全く構わないのだが。むしろ女になってくれてありがたいのだが。

 

「まあ、女性には切っても切れない問題ですからねえ………『あの』日は」

 

「ああ、切っても切れんな………『あの』日は」

 

 うんうんと、二人が頷き合っている——その時だった。

 

 

 

「いっよーうっ!」

 

 

 

 バンッ——まるで元気そのものというような声と共に、勢いよく冒険者組合の扉が開け放たれ、赤髪を揺らした一人の少女が飛び込んできた。

 

「俺、復活!」

 

 誰もが目を向けると、そこには件の少女——元男で元《SS》冒険者、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズの姿があった。

 

 そして、その後ろには。

 

「…………おはよう、ございます」

 

 …………一体なにがあったのか、三日前とは似ても似つかないほどに、憔悴し切った『大翼の不死鳥』所属の《S》冒険者にして、ラグナの後輩でもあるクラハ=ウインドアの姿もあった。

 

 元気よく冒険者組合のロビーに飛び込んだラグナに、まるで生気を感じさせない足取りでクラハが続く。

 

「ちょ……ど、どうしたんですかウインドアさん?なんでそんな状態に……?」

 

 一睡もしていないのか、目の下に相当濃い隈を作っているウインドアの様子を見兼ねて、慌てて彼の元にフィーリアは向かう。

 

「い、今にでも倒れそうだな……」

 

 そしてサクラもそこで看板を見るのを止めて、彼女と同じくウインドアの元に歩み寄った。

 

「よっ。久しぶりだな、サクラ。フィーリア」

 

「……お久しぶり、です。サクラさん、フィーリアさん」

 

 まるで向日葵が咲いたような、燦々と眩しい満天の笑顔のラグナと、この世界の全てという全てに、疲れ果ててしまったような、力ない乾いた笑みを浮かべるクラハ。

 

 対照的な二人の様子に、サクラとフィーリアはただ困惑することしかできない。

 

 すると、フッとまるでなにかを悟ったように乾いた笑みを零しながら、そんな《SS》冒険者二人にクラハは告げる。

 

「……この三日間で、わかりましたよ」

 

 一体なにがわかったというのか——明らかに普通ではないクラハのその様子に、サクラとフィーリアは気圧されていた。

 

 そして、クラハはその続きを話す。

 

 

 

「女の子って……柔らかいんですね……はは」

 

 

 

 …………そのクラハの言葉には、まるで三日三晩の死闘を潜り抜け、その末にこの世界の真理の一部を垣間見たかのような、漢の重みがあった。



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伝説のスライムを探せ(前々編)

 先輩の女の子の日(生理)騒動が終わり、一週間。僕と先輩は今、『ヴィブロ平原』にへと訪れていた。

 

 日常(いつも)と変わりない、快晴の日差しが降り注ぐ中、僕と先輩は並んで歩く。

 

「ここもなんか久しぶりって感じすんなー」

 

「まあ、色々ありましたからね……ここ数日」

 

 言いながら、振り返る。……いやあ、本当にここ数日だけで一生分の思い出ができた気がする。

 

「……えーっと」

 

 チラリ、と。僕は控えめに視線を背後に送る。そこにいるのは————

 

 

 

「へええ、こんな平原が近くにあったんですねえ。静かで良い雰囲気出てますねー」

 

「ああ。長閑《のどか》で素晴らしい場所だ。………是非とも後日、ラグナ嬢と二人きりで訪れたところだな」

 

 

 

 ————世界最強の二人。二人の《SS》冒険者(ランカー)、『極剣聖』サクラ=アザミヤさんと『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアさん。

 

 戦々恐々としながらも、僕は背後の二人に尋ねる。

 

「あ、あの……サクラさん、フィーリアさん?その、本当によかったん、ですか……?」

 

「え?なにがです?」「なにがだろうか、ウインドア?」

 

 同時に返事を投げてくる二人に、僕は躊躇いつつもわかりやすく、はっきりと言い直した。

 

「いや、ですから……伝説のスライム探しに付き合ってもらっても」

 

 伝説のスライム——なんでも、僕や先輩が『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の冒険者になる以前に、この平原で目撃された、スライムと酷似した謎の魔物(モンスター)である。

 

 七色に輝く不定形の姿をしており、またとんでもなく素早いらしい。

 

 それ以外の情報はないに等しく、これを情報と読んでもいいのか躊躇われるが、グィンさんが個人的に調べたという文献だけだ。

 

 

 

 ————太古の時代、この世全ての叡智をその身に蓄えた、賢者の如き魔物が存在していた。七色に光り輝く不定の身体を持ち、ある時には鳥、ある時には獣の姿となりて、古に生きた人々を、その膨大なる叡智を以て、導いた————

 

 

 

 ……というような内容である。少し引っかかるのは、スライムとは明言されていないことと、鳥や獣に擬態できる点だろうか。

 

 とにかく、僕と先輩はLv上げがてら、そのスライムを求めて今日はこの平原に訪れた訳だ。……今ではこの世界に二人しかいない、現役《SS》冒険者であるサクラさんとフィーリアさんを、恐れ多くも引き連れて。

 

「ウインドア。それならば問題ないと言ったはずだ。私は暇だからな……蚊ほども手応えを感じられない魔物の相手をするよりも、いるかどうかもわからない伝説のスライムとやらを探す方がよっぽど楽しいだろうよ」

 

「私もサクラさんに同じですねえ。正直そんなスライム聞いたこともなかったので興味ありますし、それにいたらいたで捕まえて、実験に使えるかもしれませんし……」

 

「は、はは……そ、そうですか。だったら、まあ……別にいいんですけど……はい…」

 

 ——冗談のつもり、だったんだけどなあ……。

 

 サクラさんはともかく、フィーリアさんにはなんて説明しよう。本当は先輩の経験値稼ぎの糧にしたいので、捕獲は遠慮してくれませんか、と言っても……聞いてくれないだろう。いや聞いてくれないだろうなあ。

 

「……なにそんなに気にしてんだ?クラハ。俺もこいつらがいても構わねえぞ?……まあ、サクラはアレだけど」

 

「僕にも、色々あるんです先輩。……色々あるんですよ……」

 

 可愛らしく小首を傾げる先輩に、僕は苦笑いしながらそう返す。何故だろう、胃が少し痛い気がする。

 

「それで、そのスライムの目撃場所はどの辺りなんだ?ウインドア」

 

「え?ああ……情報が確かなら、ここを進んだ少し先です」

 

 サクラさんに訊かれて、僕はグィンさんから貰ったメモを見ながら答える。……とはいえ、だいぶ古い情報だから当てにはならないだろうが。

 

 そうして僕たち一行は先を進んで、メモに記されていた場所付近に辿り着いた。

 

「……ふむ。ここでその伝説のスライムは目撃されたのか」

 

「別に空気中の魔素も多くも少なくもない、普通の場所ですね」

 

 二人の言う通り、そこは変哲もない林の中。強いて言うなら、他よりも少し開けた場所だということくらいだろうか。

 

 ——そもそも、まだこの平原にいるんだろうか?……そのスライムは。

 

 まあ、そう考えるのも今さらという話ではあるが。周囲を見渡していると、不意にフィーリアさんが口を開いた。

 

「こうして集まるんじゃなくて、手分けして探した方が効率良くないですか?」

 

 確かにその通りだ。全員で集まって一箇所を調べるよりも、分かれてそれぞれの場所を調べた方が絶対に効率的だろう。

 

「そうですね。僕も分かれて探した方がいいかと思います」

 

「ですよね。そっちはどうですか?サクラさん、ブレイズさん」

 

 フィーリアに尋ねられて、先輩とサクラさんの二人が彼女に答える。

 

「お世辞にも私は頭が良くなくてな……君たちに合わせることにするよ」

 

「お、俺も」

 

 ……なにはともあれ。この場は分かれて探すという意見で一致した。するとフィーリアさんは——何故か口の端を吊り上げて、

 

「でしたら——勝負、しませんか?」

 

 そう、僕たち三人に言うのだった。



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伝説のスライムを探せ(前編)

「でしたら——勝負、しませんか?」

 

 不敵に口の端を吊り上げて、『天魔王(フィーリアさん)』は僕たちにそう言った。

 

「しょ、勝負……ですか?」

 

「はい。勝負です」

 

 困惑する僕に、何故か自信げな笑みを浮かべて、フィーリアさんは続ける。

 

「内容は至って簡単。この中で一体誰が先にそのスライムを見つけられるか、です」

 

「え、えっーと……」

 

 ふふんと(少々控えめな)胸を張り上げるフィーリアさんに、僕はすぐに返事ができなかった。急に勝負と言われても、困る。

 

 ——勝負とか興味ないんだけどなあ……。

 

 かといって、スライム探しに付き合ってもらっている身、無下に断るのも憚れてしまう。

 

 どうしたものかと、僕が言葉に詰まっていると——

 

 

 

「ふむ、面白い。その勝負受けて立とう『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア」

 

「俺も!ただ探すだけじゃあつまんねえもんな」

 

 

 

 ——先輩とサクラさんがその提案を呑んでしまった。

 

「ありがとうございます。では、ウインドアさんは?」

 

 言いながら、フィーリアさんが妙に期待を込めた眼差しを僕に送ってくる。……もう、無下にとか関係なく、断れる雰囲気ではない。

 

 ——まあ、別にいいか……。

 

 半ば諦めたように僕は心の中で呟いて、

 

「わかりました。僕もその勝負、乗りますよ」

 

 そう、返すのだった。僕の返事を受けて、フィーリアはその顔に笑顔を咲かせる。

 

「流石ウインドアさん話がわかる~!じゃあスライムを最初に発見できなかった人は、発見した人に今夜『大食らい(グラトニー)』で奢ってくださいね!」

 

 ……そんな、余計な一言も加えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さてさて」

 

 ウインドアらと分かれ、林の中で独りフィーリアはほくそ笑む。その理由は至極簡単——このスライム探しという勝負に、己の勝利を確信しているからである。

 

「サクラさんやウインドアさんたちには悪いですけど、勝負ですから、ね」

 

 呟きながら、彼女は腕を振り上げた。

 

召喚(カモン)!」

 

 瞬間、フィーリアの声に続くようにして彼女の足元に紫に禍々しく輝く魔法陣が描かれ、滑るようにして前方にへと移動する。

 

 そして数秒遅れて——

 

 

 

「お呼びでしょうか、御主人様(マイマスター)

 

 

 

 ——燕尾服を身に纏った、黒髪の青年が現れた。こちらに跪く青年に対して、フィーリアが言う。

 

従魔(ヴァルヴァルス)。今からあなたに仕事を与えます」

 

(かしこ)まりました。……それで、(わたくし)はなにをすればよいのでしょうか?御主人様」

 

 そう返し、我が主人の言葉を待つ青年——従魔に、さも当然のようにフィーリアはその仕事とやらの内容を話した。

 

「スライムを探してきてください」

 

 ……その場に、数秒の沈黙が流れた。一瞬の静寂を挟んで、彼女の言葉を受けた従魔が口を開く。

 

「ス、スライムを……ですか?」

 

「はい。スライムです」

 

 従魔はなんとも言えない表情になりながらも、ややぎこちなくその言葉に頷いた。

 

「畏まりました……ちなみに、スライムといってもどのようなスライムを御所望なのでしょうか?」

 

 彼に尋ねられたフィーリアは、少し考えるように黙って、それから口を開いた。

 

「七色に輝く、なんか凄そうなスライムをお願いします」

 

「……………………」

 

 依然なんとも言えない表情のまま、従魔は両腕を広げる。

 

「御主人様の総ての意のままに——出でよ、我が使い魔たち」

 

 心なしか疲れているような従魔のその呟きに、応えるようにして彼の足元から伸びていた影が枝分かれし、一つ一つ分裂していく。

 

 分裂した影の破片は、地面から浮き上がり——そして数羽の鴉となった。その鴉たちに、従魔は告げる。

 

「ここ周囲を捜索し、七色に輝くスライムを探し出せ」

 

 従魔の言葉に、鴉たちは鳴いて空にへと飛び立っていく。その様を見送り、従魔は再びフィーリアの方にへと向き直った。

 

「どの程度時間がかかるかはわかり兼ねますが、必ずや御主人様の求めるそのスライムを探し出してみせましょう」

 

「ええ。期待してますよ、従魔」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィーリアやウインドアとラグナの二人と分かれ、サクラもまた林の中に独り立っていた。

 

 周囲に生える木々を眺めて、数秒。

 

 

 

 キンッ——その場に、小さく、けれど何処までも鋭く澄んだ音が響いた。

 

 

 

 少し遅れて、彼女から数歩離れた木の枝が、ゆっくりと地面にへと落下する。それをサクラは、地面から拾い上げた。

 

「ふむ」

 

 手に取ったその木の枝を、じっくりと観察し——なにを思ったか、真っ直ぐに地面に突き立てた。

 

「…………」

 

 無言になって、木の枝を見つめるサクラ。すると、しばらくしてその木の枝は微かに揺れ始めたかと思うと——静かに、若干右に向きながら倒れた。

 

 その先に視線をやって、サクラは呟く。

 

「そこ、だな」

 

 そうして、彼女はまた歩き出すのだった。



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伝説のスライムを探せ(中編)

「……伝説のスライム、か」

 

 林の中を歩きながら、僕は呟く。七色に輝いている、と言われても、想像がつかないというのが正直な感想だ。

 

 ちなみに僕と先輩は二人一組でスライム探しをすることになった。理由としては単に僕が今の先輩を一人にしておけないのと、今の先輩では恐らく絶対に見つけられないと思ったからだ。

 

 ……だがまあ、当然と言えば当然なのだろうが、やはり七色に輝いているスライムなど全く見つからない。そもそも他の魔物すら見かけない。

 

 ——おかしいなあ……まさか、サクラさんとフィーリアさんがいるせいかな……?

 

 もしかすると、二人が放つ圧倒的強者の威圧(オーラ)に怯えてしまっているのかもしれない。……その可能性がないとは言い切れないのが、本当に怖いところだ。

 

 ——だとすると、伝説のスライムなんてますます見つからないんじゃ……。

 

 捕獲しようとしたらその場から一瞬で逃げ去ったというくらいだ。その伝説のスライムとやらは、かなり臆病な性格なのかもしれない。

 

 …………そういえば、あまり考えなかったが、二人共どういう方法で探しているのだろう?

 

 ——まあ、取り敢えず僕は僕で探すとしよう。

 

 一応こうして歩きながらも周囲には気を配っている。しかし先ほども言った通り魔物の気配はまるでしない。

 

「……参ったなあ」

 

 別に勝負には勝てなくてもいいのだが、それとは別になんの成果も出せないのは避けたい。ただでさえ、《SS》冒険者(ランカー)の二人にこんなことを手伝わせてしまっているのだから。

 

 そこまで考えて、ふと僕は思い出した。隣にいるはずの先輩の存在を。

 

「先輩。伝説のスライムって、一体どんなのか………」

 

 僕としては、ただ先輩が伝説のスライムに対して、一体どんな想像(イメージ)を抱いているのか、それが気になり訊こうと思って、先輩の方に顔を向けただけだった。

 

 それだけ、だったのだが。

 

 

 

「ん?どした、クラハ?」

 

 

 

 先輩が僕と顔を合わせる。その胸に、キラキラと七色色に輝く、(・・・・・・)スライムと酷似した(・・・・・・・・・)謎の魔物を抱きながら(・・・・・・・・・・)

 

「……………………」

 

「あ、こいつ?いやさあ、なんかさっきあそこら辺の茂みから俺に飛びついてきたんだ。そんでなんか懐かれたみたいでよ……って、なにそんな鳩が豆鉄砲食ったような顔してんだよ?クラハ」

 

 ガサガサッ——そこで、不意に周囲の茂みが騒めいて。

 

 

 

「直感が囁いている。ここに、私の求める存在(モノ)がある……と…?」

 

「ここですね!例のスライムがいる場所は!やっぱり私が一ば……ん…?」

 

 

 

 そして、そこからサクラさんとフィーリアさんが意気揚々と現れた。が、先輩——正確にはその胸の中にいる虹色のスライム——を見て、僕と全く同じような状態になった。

 

 固まってしまった僕たち三人に、先輩が困惑しながら声をかけてくる。

 

「な、なんだよ。お前ら全員そんな顔になって……こいつがそんなに珍しいか?まあ、確かに俺もこんなスライム初めて見たけど」

 

 先輩のその発言に対して、数秒後。僕らは————

 

 

 

 

 

「「「いたああああああああああああッッッ!?」」」

 

 

 

 

 

 ————というように、絶叫で返したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

 場を、沈黙が支配していた。こう、形容し難い沈黙だった。

 

 そんな中、僕とサクラさんとフィーリアさんに囲まれるようにして、先輩は座っている——その胸の中に、七色に輝く、スライムらしき魔物を抱えながら。

 

 ——……いや、これ……ええ……?

 

 恐らく、今先輩が抱きかかえているその魔物こそ、僕たちが探し求めていた存在——七色に輝いているという、伝説のスライム。

 

「……な、なんなんだよお前らさっきから…」

 

 なんとも言えない、僕たちの視線を受けて先輩がそのスライムを抱き締める。むにゅぐにゅと押し潰れる先輩の胸の上で、スライムが歪む。

 

「…………羨ましい」

 

 隣でサクラさんがなにか呟いた気がするが、スルーしよう。

 

 取り敢えず、そこで僕たち三人はそれぞれ視線を交わし、声なき心の会話?というものを始めた。

 

 ——どうしますか?サクラさん、ウインドアさん。

 

 ——どうしますかと、訊かれても……。

 

 ——ラグナ嬢の柔い果実にああも沈むことができるなんて……羨ましい、羨ましいぞスライム…!

 

 隣でサクラさんが全く関係ないことを心の中で呟いている気がするが、スルーしよう。

 

 ともあれ、僕たちは心での会話を続ける。

 

 ——正直な話、私欲しいです。あのスライムめっちゃ欲しいです。

 

 ——……えっと、それについて、ちょっとお願いしたいことがあるんですけど……。

 

 ——欲しい……私も、ラグナ嬢の果実……!

 

 視線だけを交わす僕たちを、最初こそ先輩は胡乱げに眺めていたが、やがて興味も薄れたらしく、今ではその胸に抱いているスライムを突っついたり、楽しそうに宙へ投げてはキャッチするのを繰り返していた。

 

 対して、スライムは特に逃げる様子も見せず、依然七色に輝いたまま、先輩に遊ばれるがままになっている。

 

 そんな、傍目から見れば和ましさしか感じられない光景を視界の隅に留めて、僕たち三人は視線を交わし続ける。

 

 ——お願い、ですか?あと関係ないですけどブレイズさん可愛い。

 

 ——はい。実はあのスライムに関してなんですけど……あと関係ないですけど先輩可愛い。

 

 ——ああ。それに関しては全面的に全力で肯定そして同意させてもらおう。嗚呼、ラグナ嬢は可愛いな全く!

 

 本当に、本当に言い難かったのだが……腹を切るつもりで僕はフィーリアさんに伝えた。

 

 ——あのスライム、先輩に倒させてくれませんか?

 

 ——…えー?……倒し、ちゃうんですか?……んー。

 

 少し気難しそうな表情を浮かべ、フィーリアさんは間を空けてから、仕方なさそうに返す。

 

 ——まあ、一番最初に見つけたのはウインドアさんたちですしね。わかりました。

 

 ——あ、ありがとうございます……本当にありがとうございます……!

 

 ——何故そんなにも可愛いんだ……ラグナ嬢……嗚呼……。

 

 そうして、僕たち三人の、心での会話は終了した。それと同時に、僕は再び先輩の方にへと顔を向けた。

 

「先輩。ちょっと「クラハ!俺さ、お前に頼みたいことがあるんだけど、いいか?」……頼み、たいこと?僕にですか?」

 

 プルプルと震えるスライムを抱き締めながら、やや上目遣いに先輩は、僕に言った。

 

 

 

こいつ(スライム)、飼わねえ?」



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伝説のスライムを探せ(後編)

こいつ(スライム)、飼わねえ?」

 

 プルプルと震える七色の輝きを放つスライムを抱き締め、無意識なのかそれとも狙ってやっているのかはわからないが、若干上目遣いに先輩は僕にそう言うのだった。

 

「か、飼う?」

 

 全くの予想外だったその言葉に、一瞬の沈黙を挟んで、僕は面食らいながらも先輩にそう返すことしかできなかった。僕の返事に、うんうんと先輩は頷く。

 

「な?いいだろ?」

 

「い、いや……それは…」

 

 別に、魔物(モンスター)をペットにすることは、この世界(オヴィーリス)ではそう珍しいことではない。

 

 それに詳しくは知らないが、なんでも魔物と絆を深め、共に行動する魔物使い(モンスターテイマー)という職業もある。

 

 …………しかし、だ。だからといって先輩のその言葉を、吞む訳にはいかない。

 

「……先輩。僕も、こう言うのは心苦しいんですけど……」

 

 そもそも、今回の目的はLv上げ——先輩の経験値を稼ぐために、僕たちはその伝説と謳われるスライムを探しに来たのだ。

 

 まあ、まさか本当に実在して、しかも発見できて、その上こうも簡単に捕まえられるなんて、夢にも思っていなかった。

 

 そして、幸いなことに我々の獲物であるそのスライムは、あろうことか僕たち冒険者(ランカー)を前にして逃走するどころか、一応冒険者である先輩にああも懐いている。

 

 この絶好の機会(チャンス)——みすみす逃してしまう手はない。

 

「…………そのスライムは、倒します」

 

 伝承によればその身に膨大な知識を収めているという伝説のスライム。グィンさんの言っていた通り、さぞかし莫大な経験値を得られることだろう。

 

 これで少しは先輩のLv上げも楽になるかもしれない——そう考えながら、心を鬼にした僕の発言に、

 

「え、ええ…?た、倒すの?こいつ?」

 

 予想通り先輩は難色を示した。それでも、僕は酷に告げる。

 

「はい。元々、そのつもりでここに来たんですから。先輩も、それを理解した上で付いて来たんでしょう?」

 

「そ、そりゃ……そう、だけど……」

 

 依然スライムをその両腕で抱き締めながら、先輩はしどろもどろに視線を泳がす。

 

 ——僕も、敵意のない魔物を倒すのは、気が進まない。だけど、今はそう言っていられる状況じゃないんだ。

 

 僕はなんとしてでも先輩を元のLv100にまでしなければならない。こう言うのも大袈裟だが、今ではそれが僕の人生目標にもなっている。

 

「お願いします、先輩」

 

「う、ぅぅ……!」

 

 ギュウゥ——僕に迫られ、先輩はより強くスライムを抱き締める。

 

 ……ふと思ったが、このスライム今己がどんな状況に置かれているのか、理解しているのだろうか?

 

 この世全ての知識を収めているのだから、それに比例した知能も持っているはずだと思うのだが……。

 

 ——まあそんなことはどうでもいいか。逃げないのなら、それに越したことはないし、好都合だ。

 

 そうして、僕とサクラさんとフィーリアさんの視線が注がれる中、数秒の葛藤を経て先輩は————

 

 

 

「む、無理っ!できねえっ!」

 

 

 

 ————と、さらにスライムを強く抱き締めるのだった。

 

 ……もうかなり拉てしまっているのだが、大丈夫なのだろうか?いや、スライムだから大丈夫か。

 

「先輩。お気持ちはわかります。わかりますが、ここは心を鬼にしてください」

 

「無理なモンは無理だ!俺には、こいつを倒すなんて、できっこねえ……ッ!」

 

 なんとか先輩を説得しようとするが、首を振って先輩は僕の言葉を受け入れてくれない。……参ったなあ。

 

 助けを求めて、僕は二人の《SS》冒険者(ランカー)に視線を流す。が、

 

 

「……」「……」

 

 

 二人揃って僕から顔を逸らした。

 

 ——は、薄情な……!

 

 そんな二人に対して、畏れ多く不敬にも僕はそう思ってしまう。

 

「ちゃんと面倒見る!だから、だから……!」

 

「い、いやですが……」

 

 ならばせめてと、僕は己が我を通そうとするが、

 

 

 

「くらはぁ……」

 

 

 

 潤んだ琥珀色の瞳の前に、思わず心が揺らいでしまった。

 

 ——う、うぐっ……それは、卑怯ですよ先輩……!

 

 だが、それでも、僕は————

 

「な、なんでもする!するから!」

 

「ん?今な「サクラさん今は黙ってましょうね」

 

 ————…………僕、は……。

 

 

 

「……わかりました。もう、わかりましたよ……」

 

 

 

 クラハ=ウインドア。なんと、自己の弱いことか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……本当によかったんですか?ウインドアさん」

 

 オールティアへの帰り道。不意に僕はフィーリアさんにそう尋ねられた。

 

 対して、僕は力なく返す。

 

「まあ、先輩が喜んでいるのなら……」

 

 そう言って、僕は嬉しそうにスライムを抱く先輩の姿を眺める。……いやあ、本当に嬉しそうだなあ。先輩。

 

「苦労人、ですね。ウインドアさん」

 

「そう思っているのなら、さっき助けてくれてもよかったんじゃないんですかね……」

 

「それとこれは別の話ですから」

 

 言いながら、小悪魔的な微笑を浮かべるフィーリアさん。この人もだいぶイイ性格をしている。

 

 ——餌とかどうしよう……そもそも、スライムってなにを食べるんだ……?

 

 はしゃぐ先輩と、その様子を眺めてにやけているサクラさんと、そんな彼女の顔を見て少し引いているフィーリアさんの隣で、僕は考える。

 

 その時、だった。

 

 

 

『聞こえるか、御主人の御主人よ』

 

 

 

 唐突にそんな声が、僕の頭の中に響いた。

 

「!?」

 

 先輩たちのではない、全く知らない声。突然のことに困惑する僕に、声が再度響く。

 

『案ずるな。我は怪しい存在(モノ)ではない——我は、先ほど御主人に拾われた、お前たちが言うスライムとやらだ』

 

 ——……は?

 

 慌てて、先輩の腕の中にいるスライムを見やる。するとまるで反応するように、ブルリと微かに震えた。

 

『御主人の御主人よ。この恩は決して忘れはしない——今後とも、よろしく頼む』

 

 それきり、そのスライムが僕に語りかけてくることはなかった。未だ混乱する頭の中で、ただ一つ思う。

 

 

 

 ——予想の斜め上の……口調だった……。



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DESIRE────Prologue〜壊れた思い出。響く嗤声〜

 鼓膜を突く騒音。鼻腔を掻く臭い。視界を塞ぐ暗澹。

 

 人気のしない裏路地に、駆ける足音一つ。酷く調子の乱れた、足音一つ。

 

 はあはあと漏れる吐息は必死で。足音は死に物狂いに鳴り響く。

 

 そして、やがて喧しく鳴っていたそれは、ピタリと止まった。

 

「…………行き、止まり」

 

 滲む、焦燥。隠された、絶望。

 

「チッ……」

 

 そんな苛立ちと共に吐き出された舌打ちの音に続いて、

 

 カツン──また、足音がした。

 

「ッ!!」

 

 わざとらしいほどに、ゆっくりとした歩調で。ゆったりとした間隔で。その足音がだんだん近づいてくる。

 

 はあはあと、息が漏れる。動悸が激しくなり、不規則に乱れていく。

 

 そうして──────

 

 

 

 

 

「これで、鬼ごっこは終いだな……ええ?」

 

 

 

 

 

 ──────足音は、目前にまで迫ってきた。

 

「運が悪かったなぁ。けど同情はしないぜ」

 

 足音の主は、男だった。短く切り揃えた黒髪に、にたりと歪ませた口から覗かせる、ギザついた歯が特徴的な、男だった。

 

 点々と赤く濡らしたスーツ姿の男が、まるで馬鹿にするような声で続ける。

 

「そもそも、そもそもの話だ。この件に首突っ込まなきゃ、お前はこんな目に遭わなかった。そして大して価値もないその余生を、浪費して無事平穏に死ねたはずだった」

 

 言いながら、男が近づいてくる。不快さしか伝えられない、笑みを浮かべて。

 

「だから、こうなったのは全部お前の責任だ。全部お前が原因だ。俺は悪くねえ」

 

 近づいてくる。ゆっくりと、距離を詰めてくる。

 

「そうだ。俺は悪くない。悪いのはお前だお前。お仲間が死んだのも、全部お前のせいだ。逆恨みとか絶対にすんじゃねえぞ?御門違いってモンだろ?」

 

 仲間——その単語に、どくんと心臓が疼いた。

 

「…………あん、たは、人間(ひと)じゃない……ッ」

 

 絶望と恐怖とありったけの嫌悪を込めた呟きと共に、得物を抜き放つ——それと同時に、スーツ姿の男はすぐ目の前にまでやってきていた。

 

「俺は人間さ。誰よりも、人間らしいさ」

 

「黙れぇえッ!」

 

 路地裏に、怒号が響き渡る。

 

「エミリア……エミリアはどこだ!?どこにいるんだ!?答えろッ!!!」

 

「…………エミリアぁ?なんだそりゃ」

 

 スーツ姿の男は、首を傾げる。傾げて、数秒後。ああと思い出したように手を叩いた。

 

「もしかしてお前の女か?まあそうだよなぁ、だから、首突っ込んだんだもんなぁ、お前らはよ……!」

 

 この上ない敵意の眼差しに貫かれながら、戯《おど》けるように男は言う。

 

「ちょっと待ってなぁ……」

 

 瞬間、男のすぐ近くで、宙に亀裂が走った。その亀裂に男は躊躇なく手を突っ込み、掻き回すようにして腕をしばらく動かしていたかと思えば、そこから一個のケースを引き摺り出した。

 

 そのケースは木製のようで、しかしだいぶ頑丈そうな印象を受ける。そのケースを男は掲げる。

 

「これにはな、あるモンが詰まってる。冥土の土産だ──特別に見せてやるよ」

 

 そう言うや否や、

 

 ガパッ──スーツ姿の男の手にあった、木製のケースが開いた。

 

「…………なん、だ……それは……?」

 

 呆然と、呟く。ケースの中にあったのは──燦然と煌びやかに輝く、数々の装飾品(アクセサリー)だった。

 

「俺の蒐集品《コレクション》さ。全部売りに出す前の商品《おんな》から、ちょいと拝借させてもらった」

 

「売りに、出す前……?」

 

 愕然とする瞳が、無意識にもその装飾品を眺めていく──そして、

 

 

 

「……ッ?!」

 

 

 

 その中の、一つに、視線が囚われた。

 

「で、だ。エミリアだったか?もう何百個も出荷してるからなぁ……それに売りモンなんかにゃ興味ねえし、まるで覚えてないんだが」

 

 スーツ姿の男が、そのケースをこちらに突きつける。

 

「こん中にその女の装飾品があるんなら──悪いな、もう売りに出しちまった。今頃豚かなんかに犯されて見世物にされてるか、ろくでなしの貴族(ばか)共の慰み者(おもちゃ)にされてるだろうよ」

 

「……あ、ああ……ああああ……」

 

 手の中の得物が、震える。瞬く間に、視界がぐにゃりと歪んで滲んでいく。

 

 

 

 ──私、ずっと大切にするね──

 

 脳裏を過ぎる、いつかの残景。

 

 ──ねえ、貴方のこと、好きになっちゃった──

 

 脳裏に浮かぶ、いつかの言葉。

 

 ──いつまでも、一緒にいようね。……愛してるわ、クラウド──

 

 

 

 それら全てが、粉々に砕け散った。

 

「あアあああアアアぁァァぁぁぁアアアアアッッッ!!!!」

 

 涙を流して。絶叫を上げて。スーツ姿の男に向かって──クラウドは突撃する。

 

 得物を振り上げて、そして──────

 

 

 

 

 

「馬鹿が」

 

 

 

 

 

 ザグッ──首筋に三箇所の、引き千切ったような斬撃の痕を走らせて、立ち止まった。

 

 一瞬遅れて、噴水のように鮮血をそこから噴き出させて、糸の切れた人形のようにクラウドは倒れる。

 

 広がる血溜まりを眺めながら、スーツ姿の男は吐き捨てる。

 

「馬鹿だ。どうしようもない、救いようがねえ屑の馬鹿だ」

 

 吐き捨てて、嗤った。

 

「ハハハッ……ヒヒャハハハハハッッッ!!!」

 

 路地裏に響き渡る嗤い声────果たして、それは人間か。または、悪魔か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 此処は金色の街(ラディウス)──野望(ゆめ)渦巻く、最高と最低の坩堝。

 

 数週間後、この街に訪れることを、クラハたちはまだ知らない。



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DESIRE————大陸横断列車『Ground』

 ガタンゴトン——全身に伝わる、心地良い振動。

 

 ——……この感じは、良いな。

 

 溶けて流れていく風景を眺めながら、僕はそう思う。こう……上手い具合に眠気を誘ってくるというか、なんというか。

 

 ——大陸横断列車、『Ground(グランド)』……か。

 

 この世界(オヴィーリス)には、四つの大陸が存在する。

 

 一の大陸、『ファース大陸』

 

 二の大陸、『セトニ大陸』

 

 三の大陸、『ザドヴァ大陸』

 

 四の大陸、『フォディナ大陸』

 

 僕と先輩が住むオールティアはファース大陸にある街の一つで、確か記憶通りならば、サクラさんが所属する冒険者組合(ギルド)影顎の巨竜(シウスドラ)』が拠点とする街——アトナルガはザドヴァ大陸にあり、フィーリアさんが所属する冒険者組合『輝牙の獅子(クリアレオ)』が拠点とする街、通称『魔法都市』——マジリカはフォディナ大陸に存在する。

 

 僕はどちらもまだ直接には訪れたことはないが、一冒険者(ランカー)としてその名前と存在する大陸の場所は把握している。……まあ、先輩はたぶんしてないだろうけど。

 

 ともあれ、昨今。この四つの大陸を移動——横断する列車が作られたのだ。これがその列車————四大陸横断列車『Ground』である。

 

 特等級宿泊室十部屋、一等級宿泊室五十部屋、二等級宿泊室百部屋、三等級宿泊室二百部屋、娯楽施設七部屋、倉庫三部屋、計三百七十部屋から成る四十車両編成列車。

 

 素材には主にガンヂア鉄とボルボニクス鉄を使用した合金を使っており、外装には打撃斬撃あらゆる衝撃に耐性を持ち、その上第九位階魔法までを無効化(ディスペル)できる魔石を、特殊な方法によって液体状に変化させ、それを噴射(スプレー)塗装(コーティング)してある。

 

 なので列車としては申し分なさ過ぎるまでの強度を誇り、また列車強盗対策として最後尾にある倉庫車両には〝撲滅級〟魔物(モンスター)を数十体収容しているので安全面(セキュリティ)についても十全だ。

 

 また娯楽施設に関しても妥協が一切なく、一日では遊び切れないほど。料理に関しても、そのどれもがこの列車でしか味わえないもので、超一流の料理人(コック)たちが手がけている。

 

 贅という贅を尽くした豪華大陸横断列車——それこそが『Ground』であり、これこそが『Ground』なのだ。

 

 ……ちなみに、片道だけでも乗車するのに半年は遊んで暮らせるほどの金額はかかるので、《S》冒険者でもない限り乗車できないし、しようとも思わない。

 

「………………」

 

 改めてこの部屋を——特等級宿泊室を僕は見回す。

 

 全体的に落ち着いているが、確かな高級感を感じさせる内装。細部にまでこだわりを散りばめられた数々の調度品。そして最も目立っている、キングサイズの寝台(ベッド)

 

 ——お、落ち着けない……!

 

 落ち着きのあるデザインの部屋なのに、全く落ち着けない。というか広過ぎるこの部屋。

 

 家具に詳しくなくても、一流の職人の手によって作られたのだろうとわかる椅子に座って、窓から景色を眺めていれば、少しくらいは気も紛れるだろうと思っていたが……いやあ、残念ながら効果など皆無だぁ。

 

「…………はあ」

 

 そもそも、こんな豪華な部屋ではなく、普通の二等か三等級の部屋が良かった。確かに僕は《S》冒険者で、稼ぎだってそれなりにあるし貯金も人並み以上はあると自負するが、あくまでもその金銭感覚は庶民的なのである。

 

 ——《S》冒険者になって、一番高い買い物したのは、あの家くらいだしなあ……。

 

 昨日も今日もなにも気にしないではしゃいでいる先輩や、こういうのに慣れているのか、少しも動じていないサクラさんやフィーリアさんが羨ましい。

 

 娯楽施設もあるが、生憎そういうものに僕は関心がない。かといってこの列車の中を散策するのも、気が滅入りそうで……正直、嫌だ。

 

 ——…………そもそも、なんで僕と先輩も選ばれたんだろう。

 

 景色を眺めながら、僕は己の記憶を振り返る。

 

 

 

 事の顛末は、今日から三日前にまで遡る————



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DESIRE————『世界冒険者組合』からの依頼

「急に呼び出したりしてすまなかったね。ウインドア君、ブレイズ君」

 

 開口一番。執務室にてグィンさんは僕と先輩にそう言ってきた。

 

 対し、僕は慌ててその謝罪に返事をする。

 

「あ、謝らなくても大丈夫ですよグィンさん。GM(ギルドマスター)の呼びかけに応じるのは、冒険者(ランカー)として当然のことなんですから」

 

「クラハの言う通りだぜ、GM(ギルマス)

 

 僕と先輩の言葉に、申し訳なさそうにしながらもグィンさんは微笑んだ。

 

「そう言ってくれるとありがたいよ、二人共。……そうだねぇ、どこから話せばいいのかなぁ……」

 

 顎に手を当て、僕と先輩に向けたその微笑を困ったようにして、そう続けるグィンさん。

 

 早朝。もはや日課と化した先輩のLv上げに出かけようとしたところ、突然グィンさんに至急『大翼の不死鳥(フェニシオン)』にまで来てほしいと頼まれ、現在このような状況となっている。

 

 ——一体、どうしたんだろう……なにかしたかな?僕。

 

 それか先輩に関してのことか——そう思い、こうして『大翼の不死鳥』に来たのだが……どうやらそれも違うらしい。

 

 と、そこで。

 

 

 

 ガチャ——不意に、背後の扉が開かれた。

 

 

 

「お邪魔しまーす」

 

「失礼。……遅くなってすまない」

 

 そんな言葉と共に、執務室に入ってきたのは——サクラさんとフィーリアさんだった。

 

「あれ、ウインドアさん?それにブレイズさんも……おはようございます」

 

「む、君たちも呼ばれていたのか。おはよう、ウインドア。そしてラグナ嬢、君は今日も可憐だね」

 

 予期せぬ二人の登場に、僕は驚きながらもなんとか言葉を返す。

 

「お、おはようございます。サクラさん、フィーリアさん。……えっと、なんでお二人共ここに?」

 

「それについては私が答えるよ。ウインドア君」

 

 挨拶を返しつつ、それと同時に何故二人共ここに来たのか、その理由を尋ねると、すかさずそこでグィンさんが割り込んできた。

 

「実は君たち二人以外にも、彼女たちにも声をかけたんだよ」

 

「そうだったんですか……」

 

 まさか僕と先輩の他に、サクラさんとフィーリアさんも呼びかけていたとは。……本当に、なにがあったのだろうか?

 

「…………よし。ここは変に言葉を選ばず、正直(ストレート)に話すよ」

 

 僕がそう思っている最中、グィンさんはそう言って、そしてその『話』とやらを、こう切り出した。

 

 

 

「君たち全員に、依頼(クエスト)を受けてもらいたい」

 

 

 

 一瞬だけ、執務室を沈黙が包み込んだ。それから最初に口を開いたのは————

 

「依頼、ですか?」

 

 ————やはりというか、僕だった。

 

「そう、依頼だよ。それも緊急のね」

 

 僕の声に、何処か困っているようないつもの笑顔を見せながら、グィンさんはそう返す。するとそこで今まで黙っていたサクラさんが不意にその口を開かせる。

 

「GM。それは、私とフィーリアが出張るほどの依頼なのか?それにもしそうであるなら、ウインドアやラグナ嬢を呼ぶ必要はないと思うが」

 

 確かに、その通りだった。今の先輩……はともかく、僕だけならまだしも、わざわざ《SS》冒険者であるこの二人にも受けてほしい依頼など、たかだか《S》冒険者である僕にこなせるとは、とてもじゃないが思えない。

 

 するとグィンさんは少し顔を俯かせたかと思うと、すぐに上げた——だが、そこにもう、いつも浮かべているあの困ったような笑顔はなかった。

 

「そういう、指示だからね」

 

 いつになく真剣な表情で、グィンさんが続ける。

 

「……この依頼は、『世界冒険者組合(ギルド)』の長——『GND=M(グランドマスター)』直々に『大翼の不死鳥』(ここ)に発注されたものなんだ」

 

 ……それを聞いて、僕は思わず耳を疑ってしまった。グィンさんのその言葉は、それほどまでに衝撃的なものだったのだ。

 

「…………それはまた、凄いですね」

 

 恐らく僕と同じ心境で、フィーリアさんがそう言う。彼女といえど、動じずにはいられなかったようだ。

 

「ぐ、ぐらんど……ますたー……?」

 

 …………まあ、先輩はたぶん知らないだろうなとは思っていた。ただでさえ他人に関しての興味がないのだし。

 

「簡単に言うと、凄く偉い人ですよ。先輩」

 

「へえ」

 

 小声でそっと教えると、やはり先輩は興味なさそうに返す。……流石は先輩、Lv1になろうが女の子になってしまおうが、その大物っぷりはいつまでも変わらない。そこに痺れて憧れてしまう。

 

 まあそれはともかく——そこで一旦グィンさんは僕たちを眺めて、それからゆっくりと、こう訊くのだった。

 

 

 

「ギルザ=ヴェディス……という名を知っているかい?」



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DESIRE————それでも、頼みたい

「ギルザ=ヴェディス……という名を知っているかい?」

 

 僕たちの顔を一瞥、グィンさんはそう言ったのだった。

 

 ——ギルザ、ヴェディス……?

 

 恐らく人名だろうそれを、僕は今まで聞いたことがなかった。そしてそれは先輩やサクラさん、フィーリアさんも同様だったらしく、揃って首を傾げていた。

 

 一瞬の沈黙を挟んで、不意にグィンさんは懐に手を入れ、そこから一枚の写真を取り出した。そしてそれを僕たちに見えるようにテーブルの上にへと置く。

 

 お世辞にもあまり鮮明度が高いとは言えないその写真に写っていたのは、一人の男の横顔だった。

 

 短く切り揃えた黒髪に、燻んだ浅緑色の瞳。それと口から少し覗かせるギザついた歯が特徴的な、スーツ姿の男。

 

「ギルザ=ヴェディス。その男の名前だよ」

 

 写真を眺める僕たちに、グィンさんが説明する。

 

「年齢及び経歴等一切不明、唯一わかっている情報は、その居場所だけ」

 

「……それはまた、色々と訳ありですね」

 

 グィンさんの言葉に、興味深そうに頷きながらフィーリアさんがそう返す。そして、彼に尋ねる。

 

「となると、この人は先ほどの依頼(クエスト)になにか、関係があるので?」

 

「……その通りだよ」

 

 そこでグィンさんは僕たちに背を向け、窓の外を見やった。そこにあるのは何処までも澄み渡る青空と、それを飾る白い雲。

 

 そんな景色を眺めながら、背を向けたまま彼は続ける。

 

「実はね、この男を一ヶ月ほど前から追っていた冒険者(ランカー)チームがいたんだ」

 

 …………グィンさんのその言葉には、哀しむような、そんな感情が込められていた。

 

「そして一週間前くらいに、その冒険者チームが所属する冒険者組合(ギルド)に、この男の写真と、現在の居場所を掴んだという、そのチームからの情報が入った。……けど、それから二日後、消息を絶ってしまった」

 

 グィンさんの言葉に、誰も答えることができなかった。重苦しい静寂に包まれる中——ただ一人、サクラさんが言う。

 

「消された、か」

 

 彼女のその発言に、グィンさんはなにも返さなかった。……いや、その沈黙こそが、それに対する返答だったのかもしれない。

 

 それからまた少しの静寂がその場に訪れて——こちらに背中を向けていたグィンさんが、再び振り向いた。

 

「この依頼には、闇がある」

 

 そう呟く彼の顔は、やはり今までにないほどの真剣さに満ち溢れていて、普段ならば絶対に見せないような——凄みがあった。

 

「ここ数年の間、とある街で失踪事件が度々発生しててね。その被害者の数は……今では数百人にも及ぶと言われているんだ」

 

「す、数百人…!?」

 

 驚愕する僕の呟きに、グィンさんは依然真剣な表情のまま、続ける。

 

「もうただの事件では片付けられない被害状況だ。……だけど、未だにこの事件は明るみに出ていない」

 

 ——そ、そんな馬鹿な……。

 

 グィンさんのその話は、とてもじゃないが到底信じられないものだった。一人や二人だけならまだわかるが、もし本当に数百人も失踪しているなら、大事件もいいところだ。

 

 それにその規模だと、もはや失踪なんかではなく————

 

「誘拐されているんじゃないか——そう、思っているね?ウインドア君」

 

「えっ…」

 

 ものの見事に、グィンさんの言葉は僕の意中を貫き当てていた。驚いていると、グィンさんは真剣な表情から、また普段浮かべているあの困ったような笑顔になった。

 

「そう、その通りだよ。……失踪したんじゃない、全員誘拐されたんだ」

 

 だが、それは一瞬にしてグィンさんの顔から消え去ってしまった。

 

「ギルザ=ヴェディス——その筋では名の知れた、俗に言う裏社会の住人。数々の違法取引に手を染め、中でも人身売買に力を入れている。そうして稼いだ資金は……約百億Ors(オリス)にも上るらしいね」

 

「百……っ!?」

 

 グィンさんのその言葉に、僕は情けなくも素っ頓狂な声を上げずにいられなかった。

 

 当然だ。百億Orsなどという大金……僕には、想像もつかない。

 

「百億ですか……まあ、普通じゃないですか?」

 

「うむ。百億程度ならば、普通だな」

 

 …………まあ、この人たちについては放っておくことにしよう。そもそも僕たち一般人とは生きる世界が違うのだから。

 

「ひゃく……おく……?」

 

 ちなみに先輩は僕と同じで上手く想像できていないようで、不思議そうにその首を傾げさせていた。……余談ではあるが、以前の記憶が確かならば、まだ男の時だった先輩の貯金はそれ以上はあった気がする。

 

「……だけど、あくまでもそれらはまだ噂の範疇を出ない。それらの噂を、事実として実証する術は——ない。けどこのままだと、行方知れずの失踪者は際限なく増えてしまうだろうね。……私としては、決して見過ごすことはできない」

 

 そう呟くグィンさんの瞳には、静かで、だが確かな怒りが揺らめいていた。

 

 そして、彼は——僕たちに、その頭を下げた。

 

「この依頼に、失敗は許されない。冒険者チームの件で、今ギルザ=ヴェディスはこちらの動きに警戒しているからね……恐らく、この一週間以内には、再びその行方を晦ますだろう。それだけは、絶対に阻止しなくてはならない」

 

 その言葉に込められているのは、僅かな焦燥と、僕たちに対する申し訳なさ。そして、確固たる意志。

 

 こちらに頭を下げながら、我らがGM(ギルドマスター)が告げる。

 

「本当に身勝手で、無責任ですまないのだけど……それでも、一冒険者組合(ギルド)のGMとしても頼みたいんだ——どうか、この依頼(クエスト)を受けてほしい」

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』GM——グィン=アルドナテ。彼のその言葉に、僕たちは—————



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DESIRE————『金色の街』ラディウス

「——ろ!おい起きろ、クラハ!」

 

「…ぇ?」

 

 突如こちらの鼓膜を思い切り叩くその声に、僕はいつの間にか閉じていた瞼を開く。

 

 目の前では——先輩が、僕の顔を覗き込んでいた。

 

「せん……ぱい?」

 

 まだ安定しない、朦朧とする意識の中で、僕がそう呼ぶと、呆れたように眼前に立つ先輩はため息を吐く。

 

「いつまで寝てんだこの野郎。もうすぐ着くぞ」

 

「着く……?」

 

 ん、と。先輩が窓の方に顎を向ける。それにつられて僕も窓の方へ顔を向けると——既に、青かった空は黒くなっていた。

 

 黒くなってはいたが————輝いていた(・・・・・)

 

「………お、おお……これは…」

 

 地上から、燦然とした眩い光が、数十本の柱となって、遥か上の黒空を貫いている。そのあまりの輝きに、元から浮かんでいた星たちが、残らずその光に呑み込まれてしまっていた。

 

 ——これが、噂に聞くあの……!

 

 今までの人生の中で、一度も見たことがないその景色に、僕は年甲斐もなく興奮してしまう。それほどに、窓の外に広がる『そこ』は、目を惹かれてしまうものだった。

 

「ほら、さっさと準備しようぜ準備」

 

 言葉も出せず、彼方のその輝きに意識を占領されてしまっている僕に、旅行鞄の中身を整理しながら先輩がそう言ってくる。

 

「は、はい!」

 

 慌てて椅子から立ち上がり、僕も自分の旅行鞄の元に歩み寄る。……準備と言っても、大した量は入っていないのだが。

 

「……そういえば先輩。サクラさんとフィーリアさんは……?」

 

「あいつらならもうとっくに準備し終わって、すぐ降りられるようになってる」

 

「あ、はい」

 

 若干の申し訳なさが心の中に滲み出てくる。まさか少し考え事に集中していただけで、眠ってしまったとは……この列車での生活は、予想以上に僕の体力を削り取ったらしい。

 

 だがまあ、三日間なにもトラブルが発生することなく、こうして無事に着くことができた。

 

「…………」

 

 もう一度、窓の外を見やる。依然としてその場所は——その街は、夜を照らしていた。

 

 人は、その街をこう呼ぶ。

 

 

 

 

 

『金色の街』————ラディウス、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………うっわぁ」

 

 ドン引きするような、フィーリアさんの声。

 

「これは、中々に……凄まじいな……」

 

 珍しく、狼狽えるようなサクラさんの声。

 

 無理もなかった。このホームの内装を見れば、誰だってそうなるだろう。僕なんか、呻き声一つすら絞り出せない。

 

 輝いていた。視界の隅から隅まで——その全てが、輝いていた。

 

「……きんぴかだ……」

 

 先輩が呆けるようにしてそう呟く。その呟きの通り、今僕たちが立つこのホームは、三百六十度——何処を見渡しても、金がある。

 

 足元も。壁も。天井も。光り輝く、黄金が敷き詰められている。

 

 それだけではなく、至る場所に様々な魔物(モンスター)を象った黄金の像やらが置かれてあり、天井には無数のシャンデリアが吊り下げられている。

 

 窓の方も全面硝子(ガラス)張りになっており、外からこのホーム内の様子が丸見えであった。そしてこちらからも街の様子の一部を覗けてしまう。

 

 一部——そのはずなのに、それだけでもこの街が一体どういう場所なのか、十二分にわかってしまう。

 

 ——ラディウス……噂には聞いてたけど、まさかここまでとは……!

 

 セトニ大陸で随一の富裕街。この大陸の富は、全てこの街に集結するとまでも言われているらしいが……確かに、この光景を目の前にすれば、それも頷ける。

 

 もう夜だというのに、恐らく昼間以上に賑わっているだろう街並み。そして太陽よりも照らしている無数の灯り。

 

 ——川だ、人の川が流れてる……。

 

 圧倒され、硬直したまま動けないでいる僕たちの左右を、列車から降りた乗客たちが次々と通り過ぎていく。

 

「……い、行きましょうか」

 

 数分経って、ようやく声を絞り出すことができた僕に、他の三人はこくこくと、ぎこちなくもそう頷いた。



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DESIRE————ギルザ=ヴェディスという男(その一)

「三っていう数字はよ、なにをするにしても丁度良い、よく出来た数だと思わねえか?」

 

 ビクンッ、と。大袈裟なまでに、その言葉に肩が揺れてしまう。

 

「まあ要するにだ。機会(チャンス)ってのは三回が良いのさ。三回がな。そんだけありゃ、充分だろ?」

 

 それはまるでこちらにものを尋ねるような口調ではあったが、絶対の同意を求める意志が込められていた。

 

 その意志を敏感にも察知して、取れるのではないかと思うくらいにガクガクと、何度も首を振るう。

 

「だよな?お前も、そう思うよな?」

 

 あまりにも必死なこちらの様子が可笑しいのか、薄ら笑みを浮かべながら、目の前に立つその男は言う。

 

 そして————

 

 

 

「だからぁ、四度目なんてねえよ」

 

 

 

 ————その薄ら笑みを一層凶悪に歪ませて、慈悲など一片もない声音で、はっきりと言い放った。

 

「そ、そんなッ……お、お願いしますッ!お願いしますッ!!」

 

 慌てて、男の足元に縋ろうとして、

 

 ガッ——少しの遠慮も容赦もなく、顎を(つま)先で蹴り抜かれた。

 

「ぐべッ?!」

 

 途方もない衝撃に、まるで潰された(カエル)のような悲鳴を上げて、床を転がる。

 

 遅れて伝わってくる鈍痛に、荒い呼吸しか繰り返せなくなっていると——足音が、こちらの元にまで近づいてきた。

 

「機会はやった。三回やった。それで充分だとお前も理解していた」

 

 淡々と、男が告げる。

 

「だが、駄目だったな。お前は、機会を三回全部棒に振った。四度目なんてものは、もうねえよ」

 

 本当に同じ人間なのか——そう思うぐらいに、その声は冷たく、何処までも非情であった。

 

 そうして、そのままの声音で、男が続ける。

 

「さて、どうするかなあ。一体どれが一番高く売れるんだったかあ?……まあ、取り敢えず解体(バラ)すか」

 

 解体——その単語に、過剰なまでに意識が反応した。

 

「まっ、待ってくださいお願いしますッ!まだ死にたくないんです!ああ、あと一日、一日だけ……ぜ、絶対に返しますからぁ!!絶対、絶対にィッ!」

 

 生き延びようと。なんとしてでも生きようと。人間(ひと)としての尊厳など全て放り投げて、そう男に懇願する。

 

 だが、そんなもの——無意味だった。

 

「あと一日?あと一日で、五百万Ors(オリス)稼げんのか?お前」

 

 グイッ、と。こちらにその顔を近づけて、はっきりと現実を突きつけてくる。

 

「それができたんなら、お前俺よりも商才あるわ」

 

 男はそこで己の指を鳴らす。すると扉が開かれて、三人の男たちが部屋の中に入ってきた。

 

「連れてけ」

 

 そう言われるや否や、男たちはこちらの腕を掴み、床から強引に立ち上がらせる。

 

「い、嫌だ、嫌だぁ!死にたくないっ、死にたくないぃぃ!!」

 

 必死に叫んで、必死に抵抗するが——それも無駄で。二人の男によって、部屋から引き摺り出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ボス。報告したいことが」

 

 喧しく喚いていたのが消えて、再び静寂が訪れた部屋の中、椅子に座ると同時に、残った部下にそう言われた。

 

「報告?なんだ?」

 

 そう返すと、その部下は懐から数枚の写真を取り出し、机の上にへと置いた。

 

 目を通すと——その写真には、それぞれ四人の男女が写り込んでいる。

 

「先ほど、この街に来た連中です。監視してた奴らが言うには、明らかに他の観光客とは違う雰囲気がしていたと」

 

「…………」

 

 その写真を手に取って、一枚一枚、確認する。

 

 ——冒険者(ランカー)……か?

 

 そう思って、数日前の記憶を掘り返し、こちらをコソコソと嗅ぎ回っていた冒険者たちのことを思い出す。

 

 ——流石に少し、派手にやっちまったか。けどまあ、仮にそうだとしてもすぐには動けねえ。

 

 写真を眺めながら——ギルザ=ヴェディスは考える。

 

 ——すぐには動けねえが、それでも早くしないとな……別に二人はどうってことないが、残りの二人がやべえ。

 

 変わった格好の、身長の高い女と真白のローブに身を包んだ少女が写った写真を見ながら、ギルザは考える。

 

 ——こっちの白いのはまだいい。まだいいが、デカいのは特にやべえな。目線こそ違う方を向いているが……ほんの僅かばかり、腰の得物に手を伸ばしてやがる。明らかに気づかれてるな、こりゃ。

 

 そうして数秒考えて、ギルザは部下に言う。

 

「取り敢えず監視してろ。男と赤いのは構わねえが、白いのとデカいのは特に注意しとけ。いいな?」

 

「了解です。ボス」

 

 部下は頭を下げ、そう返すと部屋から出て行った。

 

 独り、その部屋の中で、座ったままギルザは一枚の写真を眺め続ける。

 

「…………」

 

 彼が眺めているのは、燃え盛る炎のように鮮やかな、赤色の髪を揺らす少女の写真。

 

 まだ全体的に幼いが、確かな『女』を感じさせる顔。可憐さと美麗さが入り混じったそれには、恐らくすれ違う男全員を振り返らせてしまうような、そんな将来性を感じ取ることができる。

 

 そして、このような感情を抱いたのも、久々だった。

 

 ——良い、な。見たところまだ子供(ガキ)だが……それでも素材が良い。いつ振りだろうな、商品(おんな)に対してこう思ったのは……。

 

 写真を握り締めて、獲物を定めた獣のように、舌を舐めずる。

 

 ——欲しいな、こいつ。

 

 周囲にその天真爛漫な雰囲気を惜しげもなく放ち、勝気にしている少女の写真を、ギルザ=ヴェディスはいつまでも眺めていた。



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DESIRE————湯船にて、決意新たに

 セトニ大陸にある無数の街の一つ、ラディウス。先ほども言った通り、この大陸全ての富が集まる、随一の富裕街である。

 

 今まで風の噂でしか、この街のことを知らなかったが……はっきり言って、生きている世界がまるで違った。

 

 とにかく、どこを見渡しても光り輝いている。夜なのに、まだ昼間なのではないかと思うほどに、街全体が夜闇を照らしていた。

 

 無数に立ち並ぶ、多種多様の高級店。著名なブランドショップに、飲食店(レストラン)

 

 こんな光景、オールティア——いや、四大陸の中でも見られるのはこの街くらいだろう。『金色の街』——そう呼ばれているのも、納得だ。

 

 上下左右どこもかしこも黄金だらけだった駅を去り、僕たち四人はこの街のとある場所を目指し、煌びやかな街道を歩く。

 

 全く見たことのなかった光景に興奮を少しも隠そうとせず、周囲の目など気にせず「きんぴか!凄え!」とはしゃぐ先輩。

 

 豪奢絢爛としたドレス姿の、道行く女性を片っ端から口説き回るサクラさん。

 

 そんな彼女を呆れながら、口説く女性から引き剥がすフィーリアさん。

 

 そして、そんな三人の後ろを苦笑いしながら歩く僕。……恐らく、傍目から見ればなんとも珍妙な四人組に思えたことだろう。

 

 ともあれ、燦然とするラディウスの夜を、色々な意味で楽しみながらも、僕たちは先を進むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふうぅ…………」

 

 溢れんばかりの湯が張られた浴槽に、遠慮なく全身を浸からせると、ほぼ無意識にそんなため息を僕は吐いてしまう。

 

 ——疲れた……。

 

 少し熱めの湯が、体力を消耗させられた身体を心地良く癒し、緊張をゆっくりと溶かしてくれる。

 

 ——………………。

 

 深々と浴槽に身を沈めながら、僕は周囲を軽く見渡す。…………うん、広い。

 

 ——流石はラディウスで一二を争うホテルだなあ……浴室だけでも、僕の家のリビングよりも広いんじゃないか?これ。

 

 しかし、やはりここまで広いと落ち着こうにも落ち着けないものである。ここ最近、こんなのばっかりだ。

 

 ここはラディウスにある中でも、凄まじい人気を誇る高級三つ星ホテル——『Elizabeth(エリザベス)』。

 

 世界的にも有名なホテルで、詳しくは知らないが四大陸中に存在するホテルをランキング付けした旅行雑誌、『世界散策』では毎回上位(ベスト)10に選ばれているほど。

 

 そのサービスやホテルとしての質もトップクラスであり、当然その宿泊代も凄まじいのだが、それでも予約は十年待ちだとか。

 

 そんなホテルに、今僕たちはいた。というか、ここを目指して先ほどまで僕たちは歩いていたのだ。

 

 ——別に、普通の宿屋でもよかったんだけどなあ……。

 

『Ground』での生活が、脳裏に蘇ってくる。こう言うのはアレなんだろうが……いくら《S》冒険者(ランカー)といえど、あくまでも僕の金銭感覚は庶民的なものなのだ。

 

 ——しかも、自分が払ってる訳でもないし……宿泊代。

 

 そう。『Ground』も、そしてこの『Elizabeth』も。僕たちが自腹を切っている訳ではない。これら全ての費用は——『世界冒険者組合(ギルド)』が負担しているのだ。

 

 その事実が、より僕の肩に重くのしかかってくる。

 

「…………今回の依頼(クエスト)、絶対に失敗できない」

 

 サクラさんやフィーリアさんだけならまだマシも、僕や先輩までこんな好待遇を受けてしまっているのだ。失敗する気など元よりないが……責任感とか、そういったものがより重みを増してのしかかってくるのだ。

 

 ——ギルザ=ヴェディス……か。

 

 今回の依頼の目標。裏社会の住人である、話——といってもほぼ噂らしいが——に聞く限り、僕が知る中で最悪の人間。

 

 数多くの違法取引に、人身売買。失踪と見せかけた誘拐を、少なくとも百回以上は繰り返している闇の商人。

 

 そんな男が、この街にいる。この街を根城にしている。一体何年前から、そうしているのだろう。

 

 何年前から、こんなことをしているのだろう————

 

 ——なんとしてでも、ここで捕まえないといけない。

 

 ————そうしなければ、被害者は増えていくだけだ。それにグィンさんが言うには、一週間以内に捕まえなければ、この街から逃走する可能性が高いのである。

 

 期限はあと三日。この街はオールティアよりも広い……果たして、間に合うのだろうか?

 

 ——いや、間に合わせるしかない……!

 

 そのために、僕たちはここに訪れたのだから——そう、湯の中で意気込んだ瞬間だった。

 

 

 

 ガラッ——突如、勢いよく浴室の扉が開け放たれた。



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DESIRE────やわやわ、こりんこりん

 ガラッ──突如、浴室の扉が勢いよく、乱暴に開け放たれた。

 

「くーらはっ!まーだはいってんのか~?」

 

 そんな声と共に、浴室に飛び込んでくる影が一つ。燃え盛る炎のように鮮やかな赤色をした髪が、僕の視界の隅で揺れる。

 

 一瞬、なにが起きているのか僕は理解できなかった。理解できなかったが、己の視界は目の前の光景をしっかりと捉えていた。

 

 僅かばかりに朱が差した肌は、見ているだけでも実に滑らかそうで。さぞかし極上の手触りをしているのだろうことを、如実に伝えてくれる。

 

 窪んだ小さな臍は可愛らしくも何処か扇情的で。細く括れた腰は軽く抱き締めただけでも、折れてしまいそうなほどに華奢で。

 

 だがそれに反して太腿は妙に肉付きが良く、しかし太いという訳ではない。スラリと伸びて、曲線美を描く足がそれを教えてくれる。

 

 そして走っているせいで激しく上下し、その柔らかさをこれまでかと訴えてくる、適度に実った二つの────

 

 ──そぉぉおおおっいいぃっ!!!

 

 ────そこで、僕は自らの頬を思い切り、自らの拳で打ち抜いた。

 

「せ、先輩ッ?!ま、まだ僕入っているんですけどッ?」

 

 頬に広がる鈍い痛みによって、正気に戻った僕は突如として浴室に乱入してきた先輩に言いながら、即座に背中を向ける。

 

 そんな僕に対して、一糸纏わぬあられもなさ過ぎる(ここは浴室なので、仕方のないことというかそうなるのが当然なのだが)姿の先輩が、きょとんとした声を背中越しにかけてきた。

 

「ん~?なんでくらはせなかむけてんの~?こっちみろよ~おれおまえのせんぱいなんだぞ~?」

 

 けらけらとしながら、先輩がゆっくりとこちらに近づいてくる気配がする。

 

「いや、いやいやなに言ってんですか先輩?僕男ですよ?お・と・こなんですよっ?」

 

「おまえこそなにいってんだよ~おれだっておとこだっての~」

 

「いやそれはそうなんですけど!精神的には男同士ですが肉体的には──って、ん……?」

 

 そこまで言って、ふと気づいた。先ほどから先輩の声が、こう……妙に間延びしているというか、やけにふわふわしたものになっているというか。

 

 ──まるで、酔っ払って…………あ。

 

 そして思い出した。確か、この部屋の冷蔵庫に、一本のワインボトルが冷やしてあったことを。

 

 ………まさか。

 

「あの……先輩?ひょっとして、酔ってます?」

 

「んぇ?よってなんか、ねえっての~ただぁ、れーぞーこにぃ、ぶどうじゅーすあったからそれのんだだけだし~」

 

 ──ドンピシャだ畜生ッ!

 

 恐らくルームサービスの一環というものなのだろうけれど、それでも僕はこのホテルの従業員に対して、僅かばかりの怒りをぶつけてしまう。

 

 まあそれはそうとして。今先輩は酩酊状態にある。つまり酔っている。酔っ払いと化してしまっている。

 

 正常な判断力が欠けている今、そんな先輩と一緒に入浴するなど問題しかない。あと罪悪感が凄まじいことになる。

 

 ……しかし。しかしだ。先輩をこの浴室から追い出すには…………また、振り返らなければ、ならない。

 

 背後を振り返って、先輩の裸体を直視しなければならないのだ。

 

 ──………………最悪、目を瞑れば……!

 

 が、

 

 

 

 チャプン──すぐ後ろで、なにかが水に沈むような音が聞こえてきた。

 

 

 

「ふい~……あったけえぇ…」

 

「せんぱぁぁいィ!?」

 

 思わず絶叫しながら背後を振り返りそうになって、慌てて止まる。

 

 なんてこった、先輩が浴槽に入ってきてしまったじゃあないか……!

 

「せせ、先輩お、おちちちついてて」

 

「あはは~なんかくらはへんだぞ~?」

 

 先輩にそう言われて、ハッと僕は我に返った。いけない、まず落ち着くべきは僕自身だ。

 

 平静を取り繕いながら、背中を向けたままもう一度先輩に話しかける。

 

「先輩、取り敢えず僕の話を「えいっ」突如として背中を包み込むマシュマロ感触うぼはあああああ!!!」

 

 僕の平静は、所詮ただの付け焼き刃に過ぎなかった。一瞬という刹那にも満たない短過ぎる時間を使って構築された僕の平静など、この蕩けるように柔い極上の果実の前には無力だった。哀しいほどに無力で、僕はやっぱり男なんだなと、痛感させられた。

 

 ──いや違う違うそうじゃない。

 

 落ち着け落ち着くんだ僕。ここで動揺したらそれこそ先輩の思う壺だ。……まあ、酔ってるから大した思考はできてないと思うけど。

 

 それに今さら抱きつかれたからなんだというのだ。別にこれが初めてじゃあないじゃないか。二度目じゃあないかこれで。

 

 だから僕がこの程度で動揺なんて────

 

「ぎゅうぅ」

 

 ────マシュマロがさらに密着してきてしかも背中全体を滑らかでしっとりとした肌が覆って

 

 

 

「うぐおぉぉぉぉぉ……!」

 

 

 

 なんと凄まじい刺激(右ストレート)。あまりに桁違いな威力の前に、僕の理性は危うくKO(ノックアウト)されるところだった。

 

 露出しそうになる本能を、呻き声を上げながら無理矢理捩じ伏せる。僕は男。先輩も男。だからなにもないなにかあってはいけない…………!

 

「先輩…ッ、きゅ、急にどうしたんですか…?なんで、こんな抱きついて……ッ」

 

 必死に自分を保ちながら、そう尋ねると、酔っ払い(先輩)は少しぼうっとした声で答えた。

 

「わかんねえ。なんとなく?」

 

 前言撤回。先輩のそれは答えになっていなかった。先輩も正気じゃない……ッ。

 

「先輩、取り敢えず離れましょう?ね?」

 

 背中に抱きつき柔肌を惜しげもなく密着させてくる先輩に、まるで赦しを請うかのような声音で、僕はなんとか説得を試みる。

 

 だが、酔って我を失っている先輩にそんなものが通じるはずもなく、

 

「やぁーだ」

 

 ぎゅぎゅぅ、と。僕の首に両腕を回して、これ以上にないほどに強く抱きついてきた。

 

 僕の背中に、過剰なまでに押しつけられた二つの膨らみ。形容するならやはりそれはマシュマロで、何処までも柔らかくて────だがしかし。

 

 

 

 こりん、と。そこで初めて、硬く尖ったような感触も感じ取れた。

 

 

 

 ──……あ。

 

 それが一体なんなのか、初めの数秒はわからなかった。だが急速に冴えていく頭が、その正体を即座に弾き出した。

 

 そう。それは、言うなれば──────

 

 ──…………もう、無理だ。

 

 心臓が高鳴る。血が全身を一気に駆け巡る。堪えていた分、より一層激しく強烈に。

 

「ん……?くらは、なんかからだあついぞ……?」

 

 僕をこうさせた張本人が、そう言いながらこちらの肩に顎を乗せてくる。その行動すらも、己を昂らせる燃料となってしまう。

 

「くらはー……?」

 

 こちらの身を案じているのだろう声。だが、やはりそれすらも──悩ましい。

 

 ──この際、自覚させて……あげようかな。

 

 欠片ほどといえど、まだ残っていた理性が本能に喰い殺されていくのを感じながら、そう思った。

 

 未だに先輩が、その身体で自らを男だと主張するのなら──はっきりと、その身体にわからせてやろう。

 

 いくら意識は男でも、精神は男でも、身体はあくまでも女なんですよとわからせてやろう──いや、わからせてやる。

 

 ──そうしたら、こんな挑発、もうしなくなるはず。

 

 徐々に、最低に歪んでいく己に気づけず、僕はそう結論づける。その行為こそ、自分が最も恐れていたことだというのに。

 

 先輩に対して、絶対にしてはならない行為だと、重々承知していたことだというのに。

 

 

 

 だが、先輩の色香に狂わされてしまった僕は、それを思い出すことができない。

 

 

 

 ──先輩が悪いんだ。一体どれだけ僕が我慢しているのか、抑え込んでいるのか知らないで、いつもいつも………!!

 

 これから先輩に対してする己の歪み切った、何処までも最悪で最低な行為を正当化するため、身勝手にも程がある言い訳を心の中で呟いて、顔だけ振り返った。

 

 

 

 

「…ん……ぅ……」

 

 

 

 

 ……………………寝ていた。先輩は、こちらの首に両腕を回したまま、こちらの肩に顎を乗せたまま、こちらの背中に身体を預けたまま、それはもう本当に心地好さそうに、すやすやと寝ていらっしゃった。



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DESIRE────昨晩はお楽しみ?

 翌日。寝不足気味の重く気怠い身体を引き摺りながら、僕は『Elizabeth(エリザベス)』の一階にある大食堂ホールにへと訪れていた。

 

「頭痛え……」

 

 僕の隣で、僕と同じように気怠そうにしながら先輩がそう呻く。元々お酒(アルコール)に強くないのに、ワインボトル一本を開けた報いというものだろう。

 

「頑張ってください、先輩」

 

 投げやりにそう励まして、僕は目の前にある白塗りの扉を押し開く──瞬間、飛び込んでくるいくつもの音。

 

「…………」

 

 大食堂ホール、というくらいだから、やはりそれなりに広いのだろうなとは思っていたが。思ってはいたのだが。

 

 ──まさかここまでとは……。

 

 軽く数百人は収められるだろう面積だった。頭上を見やれば高い天井に、無数のシャンデリアが吊り下げられている。

 

 食堂というよりかは、舞踏会(パーティー)にでも使うようなダンスホールである。用意されたテーブルに座り、それぞれ朝食を摂る宿泊客たちを眺め──向こうの方に、よく見知った二人の姿を見つけた。

 

 サクラさんとフィーリアさんである。先輩の手を引きながら、二人が座るテーブルにまで近づくと、そこで彼女たちも僕と先輩に気がついたのか、食事の手を止め皿の料理から、こちらの方に顔を向けてくれた。

 

「おはようございますお二人共……って、朝からだいぶお疲れのご様子ですね。どうしたんですか?」

 

「ふむ。特にウインドアは今すぐにでも倒れそうな顔をしているな。寝不足か?寝不足は健康に響くぞ」

 

 そう言って、サクラさんはおもむろに椅子から立ち上がったかと思うと、僕のすぐ側にまで身体を近づけて、色素の薄い、淡い桃色の唇をこちらの耳元にそっと寄せて、揶揄(からか)うように囁いてきた。

 

 

 

「昨晩は、お楽しみ(・・・・)だったのかな?」

 

 

 

 その声は彼女にしては珍しく意地が悪いもので、その言葉の意味を僕はすぐに理解することはできず、数秒遅れて理解した。

 

「しっ、してません断じてっ」

 

「む?そうなのか?駄目じゃないかウインドア。一つの寝所に二人の男女……私の故郷にはね、こんな言葉があるんだ——『据え膳食わぬは男の恥』。意味は「サクラさん?ウインドアさんを精神的に虐めるのはそこまでにしておきましょうね?」………仕方ないな」

 

 皿の上のオムレツにナイフを入れているフィーリアさんに窘められるようにそう言われて、渋々といったようにサクラさんはそう返す。

 

 …………顔が熱い。まあ、無理もないだろう。

 

 自分よりも身長の高い、性格こそ目を瞑ってしまえば、街中の誰もが振り返ってしまうだろう絶世の美女であることには変わりないサクラさんに、あんな無警戒に接近され、擽るように耳元で囁きかけられては、誰だって心臓の一つや二つ、嫌でも高鳴ってしまうというものだ。

 

 ──それに……サクラさんって……。

 

 見てはいけないとわかっていても、思わず極控えめに視線を注いでしまう。……い、意外とボリュームがあったというかなんというか……どこがとは言わないが。

 

「さて、フィーリアの言う通り冗談はここまでにして。ウインドア、ラグナ嬢。ここのホテルの朝食はびゅっふぇ?形式らしくてな。ほら、あそこに大皿が置かれてあるだろう?」

 

 そう言ってサクラさんは向こうを指差す。その方向に視線を送ると、確かに彼女の言う通り、巨大な長テーブルの上に無数の大皿が置かれてあり、それら全てに多種多様の料理があった。

 

「なるほど、わかりました。じゃあ先輩取ってきま……先輩?」

 

 丁度いい具合にお腹も空いてきたので、朝食を食べるため早速取りに行こうと声をかけながら先輩の方を向くと──何故か、先輩は少し不機嫌そうにしていた。

 

「……」

 

「えっと……ど、どうかしましたか?先輩」

 

 自分でも気づかない内になにか、先輩にとって不愉快な言動か行動でもしていたのかと、ここまでの道中を軽く振り返りながらそう尋ねると、依然不機嫌そうにしながら、

 

「…………別に」

 

 そう返して、繋いでいた自分の手を僕の手から離して、スタスタとやや早歩き気味に長テーブルの方に向かってしまった。

 

「え、ちょ、先輩っ?」

 

 急変した先輩の様子に困惑しながらも、慌てて僕もその背中を追った。

 

 

 

 

 

 

 

「……嫉妬(やきもち)とは、随分と可愛らしいじゃないかラグナ嬢」

 

「ほぼあなたが妬かせたんですけどね」



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DESIRE────『金色の街』の影

「では今日の行動方針を決めるとしましょうか」

 

 ローストビーフを礼儀正しく丁寧な手つきで小さく切り刻みながら、フィーリアさんがそう言う。

 

「私としては、まず情報収集するべきだと思うのですが……皆さんは?」

 

 食べやすい大きさに切り刻まれたローストビーフを口に運びながら、意見を訊いてくるフィーリアさんに、まずは僕が返す。

 

「僕もそうすべきだと思います。ギルザ=ヴェディスに関して、僕たちは知らないことが多過ぎますから」

 

「……以前にも言ったが、私の頭はそう出来は良くない。なので、基本的には君たちに合わせることにするよ」

 

 赤と緑のコントラストが色鮮やかで美しいサラダを抓《つま》みながら、サクラさんが僕とフィーリアさんに申し訳なさそうに言う。

 

「わかりました。ブレイズさんはどうですか?」

 

「俺もサクラと一緒。頭悪いし」

 

 スクランブルエッグを食べながら、フィーリアさんにそう返す先輩。……余談ではあるが、その声は若干棘立っており、依然として機嫌は崩れたままである。

 

 ──先輩って、あんまり機嫌とかそう悪くならない性格のはずだったんだけどなあ。

 

 ウィンナーを嚙りながら、僕はそう思う。先輩とはかれこれ八年の付き合いになるが、その決して短くはない年月で先輩が機嫌を崩したことが全くなかった訳じゃない。けど、少なくとも今みたいな崩し方は初めてである。

 

 ──いつもなら時間が経てばすぐに直るはずなんだけど……。

 

 現在の様子を見る限り、残念ながらそれはなさそうだ。さて、どうしたものか。

 

「なるほど。ではやはりここは三手に別れましょう。私とサクラさんはそれぞれ単独で、ウインドアさんとブレイズさんは一緒になって、情報を集めましょう」

 

 僕が悩んでいると、いつの間にか皿を空にしたフィーリアさんがそう言って、椅子から立ち上がった。

 

「では私はお先に失礼しますね」

 

 言うが早いか、軽やかな足取りでフィーリアさんはこのテーブルから離れていく。そんな彼女の背中を見送っていると、今度はサクラさんが立ち上がる。

 

「私も行くとしよう。……すまん、ウインドア。頑張れ」

 

 それだけ言って、彼女もまたこのテーブルから去っていく。……一体、僕になにをどう頑張れというのか。

 

 依然として機嫌の変わらぬ先輩に、気まずさを覚えながらも、勇気を出して声をかける。

 

「じゃ、じゃあ僕たちもそろそろ行きましょうか?先輩」

 

「…………」

 

 苦笑いを浮かべた僕の顔を、先輩はジト目になって少し見つめたかと思うと、黙って小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラディウス──通称『金色の街』。その名の通り、昨夜はまさに街全体が華々しく煌びやかに輝いていたが、当然と言えば当然なのだろうが、朝はその真逆であった。

 

「…………これは」

 

 あれほど賑わっていたはずの街並みが、ガラリと一変していた。軽く見渡すだけでも無数にあった高級店は軒並み閉まっており、スーツやドレスで着飾り川のように流れていた人たちもいない。

 

 今見えるのは、寂れたように閑散とした街の風景と、周囲の状況などまるで気にしていられず、各々の仕事に向かう人たちと。

 

 そして、放心しているかのように、空虚な表情で石畳に座り込んでいる、この街には似つかわしくない——放浪者の姿だった。

 

「…………」

 

 そんな風景を目の当たりにして、僕は複雑な心情になる。表と裏。光と闇。これが──そういうことなのだろう。

 

 いわばこれは影なのかもしれない。この街の、影。

 

 ──街が豊かだからといって、そこに住んでいる住人全員が幸せだとは限らない……か。

 

 気の毒だとは思う。だが、だからといって僕には、どうすることもできないことだ。

 

 ふと隣に視線をやれば────先輩が、見ていた。

 

「…………」

 

 向こうの方。壁にもたれかかるようにして座り込む、ボロボロに破れている服を身に纏っている、男性を見ていた。

 

 生きる希望というものを忘れてしまったように、ただただ虚無感溢れる表情で宙を眺めている彼を、先輩は悲痛な面持ちで静かに、見ていた。

 

 ──……先輩、(やさ)しいもんな。

 

 今、一体どういうような心境に先輩が立っているかは、僕とて理解できる。理解できているが──さっきも言った通り、僕らには、どうすることもできない問題で、そしてそれを悔やむ時間も猶予もない。

 

 傍目からすれば、僕は酷く冷たい、非情な人間に見えるだろう。だって僕自身、そう思っているのだから。

 

 重々、承知しながら。自覚できていながら──僕は、先輩に言う。

 

「行きましょう。先輩」

 

「え?あ……おう」

 

 突然僕に声をかけられて、少し驚いたように先輩はこっちを見て、それから視線だけ壁にもたれかかる男にやったが、すぐに僕の方に向き直って頷いた。



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DESIRE────情報収集一日目(サクラとフィーリアの場合)

「……この辺りで、いいですかね」

 

 ラディウスの薄暗い路地裏の中で、クラハたちと別れたフィーリアは独り呟くと、改めて周囲に人の気配がないかどうかを確かめる。

 

 ──人影なし……と。

 

 まあ、それも当然といえば当然である。彼女は人が近づかないような場所を探して、ここを見つけたのだから。

 

 確認し終えたフィーリアが、静かに呟く。

 

召喚(カモン)

 

 瞬間、彼女の足元から薄紫色に輝く魔法陣が出現し、それは地面を滑るように移動する。そして──

 

「お呼びでしょうか、御主人様(マイマスター)

 

 ──いつぞやの燕尾服姿の青年、従魔(ヴァルヴァルス)が現れた。現れた彼に、フィーリアは淡々とした口調で告げる。

 

「仕事です従魔。今からあなたには、この男について集められるだけの情報を集めてもらいます」

 

 言いながら、フィーリアはいつの間にか取り出していた写真を従魔に手渡す。それに写っているのは当然──今回の依頼(クエスト)目標(ターゲット)であるギルザ=ヴェディスの横顔である。

 

「この写真の男についての情報を収集すればよいのですね?畏まりました」

 

「はい。ちなみに時間はどれくらい欲しいですか?まあ今日中しか与えられませんけど」

 

「それで充分です」

 

 ダンッ──従魔はフィーリアにそう返すと、自らの足元を蹴りつけた。

 

 少し遅れて、伸びていた彼の影に亀裂が走り、やがて細やかなに枝分かれしていく。

 

「一人の人間を調べ上げるなど、造作もありません。今日中と言わず、半日でその男の全てを暴いてみせましょう」

 

 従魔の言葉に続くように、枝分かれした彼の影が、宙に浮かび上がる。そしてその一つ一つが無数の鴉となって、その翼をはためかせラディウスの空にへと飛び立っていった。

 

 だが、それだけでは終わらない。まだ残っていた従魔の影が、今度は小さな鼠の群れにへと変わっていく。数こそ先ほどの鴉には敵わないが、それでも充分に多い。

 

「さあ、行きなさい」

 

 従魔の言葉に従って、鼠たちは蜘蛛の子を散らすようにしてその場を駆け出した。

 

 駆けていく鼠たちを見送りながら、従魔はフィーリアへ顔を向ける。

 

「では私も行って参ります。御主人様の期待に添えられるよう、必ずや情報を持ち帰ってきましょう」

 

 それだけ彼女に言って、従魔は深々と一礼をしたかと思うと、すぐさま地面に溶けるようにして消えてしまった。

 

 この裏路地から彼の気配が完全に消えたことを確認すると、再び独りになったフィーリアは呟く。

 

「さて。じゃあ私も行くとしましょうか」

 

 そう言うが早いか、ゆっくりと彼女はその場から歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「協力ありがとう。お嬢さん」

 

 そう言って、サクラはこちらの話を聞いてくれた女性に、女が浮かべるには些か爽やか過ぎる笑顔を送った。その笑顔を目の当たりにした女性が、相手は同性だというのに思わず微かに頬を染めてしまう。

 

「い、いえ……こちらこそなにも知らなくてすみません」

 

「気にすることはないよ。ではまた、機会があればどこかで」

 

 言いながら踵を返し、去っていくサクラの後ろ姿を見送りながら、半ば無意識に女性は呟いてしまう。

 

「素敵……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先ほどの女性の熱を帯びた視線に気づくこともなく、人が入り乱れる街中をサクラは歩く。普通であればここまでの人混みに一度紛れてしまうと、特定の人物を見つけるのには苦労を有するのだろうが、彼女の場合その身長や格好から、それを心配する必要はないだろう。

 

 とまあ、そんなことは置いておくとして。人混みの中で目立ちながら、サクラは考えていた。

 

 ──ホテルを出てから色々と聞き込んでみたが……やはりというか、誰も知らないな。

 

 考えながら、彼女は懐から一枚の写真を取り出す。その写真はフィーリアが持っていたものと同じものだ。

 

 その写真を、サクラは歩きながら眺める。

 

 ──まあ、一応裏社会の住人というくらいだ。そう簡単に見つかるほど間抜けではないということか。

 

 そこで一旦写真から視線を外し、周囲を軽く見渡す。

 

「む…?」

 

 視線の先。視界に入ってきたのは──黒を基調とした色の看板。

 

butterfly(バタフライ)』。看板には金文字でそう書かれている。

 

「…………」

 

 あの店は恐らく、酒場(BAR)だろう。サクラ自身、そういった店にはあまり立ち入ったことはないのだが、ふと思った。

 

 ──その手の情報を仕入れるのならば、ああいった場所が最適だと相場が決まっていると聞いたな……。

 

 思い立ったが吉日。どうせこのままぶらぶらと歩き続けても、大した情報を手に入れることはないだろう。

 

 そこまで考えて、サクラは人混みから抜け出るのだった。



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DESIRE────情報収集一日目(クラハとラグナの場合)

 夜とはまた違った忙しさがあるラディウスの朝。皆それぞれの仕事へと向かう人々でごった返す街中を、僕と先輩は数時間ほど歩き回った。

 

 やや非効率的だとは自覚していたが、その間聞き込みを行なっていた。……しかし、軽く数十回と繰り返したが、残念ながらこれといった有力な手がかりはなに一つ、掴めないでいた。

 

 そのことに焦燥を覚えるも、かといって僕にはこれ以外に情報を集める手立てがない。

 

 そうして碌な情報を集められないまま、現時刻は正午を回ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………はあ」

 

 ラディウスの中央広場にて、ベンチに腰かけながら僕は深いため息を吐いた。

 

 ──結局、なにもないな……情報。

 

 ギルザ=ヴェディスの横顔が写る写真を眺めながら、心の中で独り言つ。

 

 ……まあ、よくよく考えれば、ラディウスの住民たちがこの男について知らないというのも当然と言えば当然だろう。

 

 なにせこの男は裏社会の住人で、そんな者が周囲の人物においそれと自身に関する情報を教えている訳があるはずないし、そもそも表立って行動していることもないと思われるから、目撃情報がないのも当たり前だろう。

 

 ──フィーリアさんとサクラさんはどういう方法で情報収集しているんだろうな……。

 

 気ままに浮かんでいる空の雲を見上げて、そんなことを思う。恐らくサクラさんは僕たちと一緒で聴き込んでいるのだろうが、フィーリアさんは違うだろう。彼女が聞き込みというのは、少し想像がつかない。

 

 と、そこで。

 

「少しは休めたか?クラハ」

 

 その声に僕は顔を向けると、いつの間にか目の前には先輩が立っていた。

 

「お疲れ様です、先輩。……すみません。先に休ませてもらってしまって」

 

「気にすんな。お前に休めって言ったのは俺なんだし」

 

 言いながら、自然な動作で僕の隣に腰かける先輩。ほぼ(ゼロ)距離になって、先輩の身体が僕にへと密着してくる。

 

 ──ちょ、ちょ…っ…。

 

 揺れた先輩の髪から、ふわりと漂ってくる仄かな甘い匂い。それが僕の鼻腔を悪戯に擽って、思わずクラリと理性が揺さぶられてしまう。

 

 普通であれば、ほんの少しの隙間を設けるものなのだろうが……僕という人間に対して、全くと言っていいほどに先輩は警戒心を抱いていない。

 

 そも八年の付き合いだし、警戒されないのは当然のことなのだが、今の状況だとまずい。非常にまずい。

 

 ──というか何度目だこんな状況……。

 

 そしていい加減慣れろ自分。

 

「先輩近い。近いです」

 

「別にいいだろ減るもんじゃないし……って、何回目だよこのやり取り」

 

 僕と同じような思いに至った先輩がそう返して——なにを考えたのか、グイッと身体を寄せて、顔を近づけてきた。

 

 ──せ、先輩……!?

 

 鼻と目の先に、先輩の顔がある。琥珀色の瞳に、情けなく動揺している僕の顔が映り込んでいる。

 

 慌てる僕に、何故か少し不愉快そうに先輩が言う。

 

「それともなんだ?俺に、近づいて欲しくないってのか?」

 

 ……どうやら、僕はまたなにか下手を踏んでしまったらしい。折角戻ったと思っていた先輩の機嫌が、また悪化してしまった。今日の先輩、扱いが難しいというかなんというか……まるで猫みたいだ。

 

「そ、そういう訳じゃ……」

 

 頬を膨らませて、少し瞳を細ませこちらを睨むように見つめる先輩に、これ以上その機嫌を損なわせないよう慎重に僕は言葉を選びながら返す──

 

「……まあ、いいや」

 

 ──前に、先輩がそう言って僕から離れ、ベンチから立ち上がった。

 

「喉渇いた」

 

「え?」

 

 困惑の声を上げる僕に、先輩はそれだけ言うと、小悪魔のように悪戯めいた、可愛らしい笑みを浮かべた。



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DESIRE────これはデート?

「すみません。甘蜜桃(フロタリア)のジュース二つお願いします」

 

「あいよ」

 

 僕の注文を受けた屋台の店主が気さくにそう返して、背後にあった籠から手のひら大の、桃の一種である甘蜜桃を二個手に取る。

 

 それから果物ナイフを握り、手慣れた様子でその皮を剥いていく。そうしてあっという間に──

 

「甘蜜桃のジュース、お待ちどう」

 

 ──僕の目の前にジュースが用意されていた。

 

 ──なんという早業……。

 

「ありがとうございます」

 

 言いながら、カウンターの上にジュースの代金を置いて、店主からそれを受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝──とはもう呼べない、昼のラディウス。流石にこの時間帯にもなると、あの忙しなかった人混みもなくなり、いくらか余裕を得ることができた人たちが増えていた。

 

 仕事の休憩中だろう者。また午後の時間を優雅に過ごすため、喫茶店などに訪れている者──そして、

 

 ──………気のせい、かな。何故か、やけに若い男女が多い気がするぞ……この辺り。

 

 そう、恐らく僕と同年代だろう男女のペアが、そこらかしこを歩いている。……これは、どう鑑みても、アレだろう。

 

 ──デート…………だよな。

 

 男女二人が一組になって、あははうふふと互いに微笑みながら、非常に仲睦まじく街路を一緒に歩いている。中には手を繋いでいたり、腕を組んでいたり。

 

 まさしくこれは──デートである。いやこれをデートと呼ばずして何をデートと呼ぶのだろうか。

 

 ──まあ、僕には縁のないことだ。ここは気にせず、適当に…………。

 

 そう思いながら、何気なく、隣にいる先輩の方を向いた。

 

「んく、ん……」

 

 先ほど僕が手渡した甘蜜桃のジュースを、これまた実に美味しそうに飲んでいる。相当お気に召したようで、その顔を幸せそうに蕩けさせ、頬を緩めさせていた。

 

「………………」

 

 そんな様子の先輩を見やって──ふと、一つの疑問を抱く。

 

 

 

 僕と先輩。他の人からは────どう見えて(・・・・・)いるのだろう?(・・・・・・・)

 

 

 

「…………」

 

 改めて、周囲を見渡す。カップルらしき男女たちの姿がそこにはある。

 

 そして改めて、思い出す。今、先輩は女の子になっていることを。そして、僕は男であるということを。

 

 つまり、今僕ら二人は、傍目から見ればお揃いのジュースを飲んでいる男女に見える訳で。つまりそれが意味をすることは──

 

 ──…………デート真っ最中の……カップル……?

 

 そこまで考えて、即座に僕は己の頭を激しく振り回した。

 

 ──いや!いやいやいや!違う!これは違う!!そもそも僕と先輩は男同士で!今先輩が女の子でも!その中身は男で……!

 

 客観的な事実に気づいてしまい、動揺のあまり、危うく手元にあるジュースを落とすところだった。しかしそれに一旦気づいてしまうと、否が応でも意識してしまう──隣の、先輩を。

 

「…………」

 

 再度見やると、美味しそうにまだジュースを先輩は飲んでいる。ゴクゴクと、白く細い首が、喉が上下し、生物的に、艶めかしく蠢く。その様が、僕には少し────

 

 ──って、なにをまじまじと見てるんだ僕は……!

 

 そう自分に言いながら、慌てて先輩の喉から目を逸らす。……駄目だ。やはり、変に意識してしまっている自分がいる。僕と先輩は、あくまでも男同士だというのに。

 

 ──先輩は、特になんとも思っていないんだろうな……。

 

 僕が知るラグナ=アルティ=ブレイズという男は、色恋沙汰というものに疎い。というか、若干心配になるくらいに、そういった話題に関心がない。

 

 ──別に俺だってそういう(・・・・)のに興味がねえ訳じゃねえよ。ただ今はちょっと面倒っていうか、なんていうか──

 

 以前──まだ男だった時──に、パフェを食べながらそう言われたのだが、実際のところ疑わしい。

 

 まあそれはともかく。僕が言いたいことはつまるところあれだ。今、この状況に対してこの人は、そういった意識はしていないのだろう。

 

 ──……そう考えると、なんか僕だけ変に意識してて、馬鹿みたいだな……。

 

 そう思うと、動揺していた僕の心も次第に落ち着きを取り戻してくれた。そうだ、これは決してデートなどではない…………はず。

 

 ──……僕もジュース飲もう。

 

 そうして手元のそれを喉に流し込もうとした時だった。唐突に、くいくいと服の裾を掴まれた。当然、掴んだ主は先輩である。

 

「なあ、クラハ」

 

「はい。なんですか?先輩」

 

 返しながら、先輩の方に目線を戻す。すると、先輩は奇妙そうにある一点を指差しながら、僕に尋ねた。

 

「ありゃなんだ?あれも店……か?」

 

 言われて、僕もその指が指し示す方へ顔を向けると──そこには、麻のような大布を広げ、その上に色取り取りの装飾品(アクセサリー)を乗せた、所謂(いわゆる)露店があった。



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DESIRE────白いリボンと赤い髪

「そうですね。あれもお店の一種ですよ、先輩」

 

「へえ……」

 

 僕に言われて、先輩はその露店に視線を向けたまま、小さく呟く。そんな先輩の姿……というよりは様子を、僕は少し意外に思った。

 

 ──まさか、この人が露店(あれ)に興味を引かれるなんて。

 

 ただでさえ、全ての物事に対してほぼ無関心である先輩が、だ。珍しいこともあるものだ。

 

 こちらの服の裾を掴んだまま、露店を見つめる先輩に、試しに僕は提案してみた。

 

「先輩。時間も少しありますし……折角だから、見ていきますか?」

 

「え?…あー……そう、だな。お前がそう言うんなら」

 

 この提案に対して、何故かほんの微かに恥ずかしがるように、だが首を小さく縦に振って、先輩は頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………いらっしゃい」

 

 露店にまで近づくと、店主であろう男に僕たちはそう声をかけられた。初老の、浅黒い肌と蒼く澄んだ瞳が特徴的な男性である。

 

 僕らも軽く挨拶を返して、早速麻に近い質感の赤布の上に乗せられた、数々の品物を眺める。

 

 恐らく手作り(ハンドメイド)かと思われるそれらの品々は、遠目から見て取れた通り、様々な動物や魔物(モンスター)を象った装飾品(アクセサリー)や、簡単なオブジェであり、中々に精巧に作られている。これが手作りだとすれば、この店主はだいぶ手先が器用なのだろう。

 

 ──これは灰水牛(ヴァロン)……こっちは金華鳥(ピニシア)かな?どれも随分と出来が良いな。

 

 素人目から見てもそう思えるのだから、相当なものだろう。昨今、進歩した技術と魔法の融合により、このような装飾品や置物、食器や家具に、果ては僕の得物である長剣(ロングソード)のような武器も、全く同じものであるなら簡単に作れるようになり、大量生産が可能になったこの時代。

 

 そんな時代の中でも、まだこのようなものがある。世界中に名が知れた大手ブランドならまだしも、こんな露店に、である。

 

 ──凄い、ことなんだろうな。……まあ、素人である僕がこう言うのも、おこがましいことなんだろうけど。

 

 と、僕はそこで気づいた。

 

「…………」

 

 僕と同じように、先輩も布の上の品物を眺めており、その中の一つに対して視線を注いでいる。

 

 一体先輩がどんな品物を見ているのか、僕も少し気になって見てみると──

 

 ──リボン……?

 

 そう、それはリボンであった。それも手作りであろう、白いリボン。特段上質な素材を使っている訳ではなく、花を象った赤の刺繍が施されている。

 

 ──この花は確か……カラシャ、だったか?

 

 カラシャ——ザドヴァ大陸の極東地方に多く分布する、その鮮やかな赤い色が特徴的な花である。僕自身詳しくは知らないが、極東地方では『彼岸』という言葉を象徴している花らしい。

 

 それを、先輩は眺めていた。他の品物には目をくれず、まるで取り憑かれたようにそのリボンを見つめている。

 

 ──………………。

 

 こんな先輩を見るのは、初めてだった。元々こういった装飾品などに欠片ほどの興味を示さないような人なのだが……あのようなリボンに──女の子が(・・・・)惹かれるような装飾品に、こんな風になって視線を注ぐとは。

 

 僕は少しだけ考え込んで、それから店主に言った。

 

「すみません。その白のリボンを売って頂けますか?」

 

「え?」

 

 僕の言葉に、先輩が少し驚いたように声を上げた。それに続くようにして、店主が低く、しかし実に聞き取りやすい声で言う。

 

「六百Ors(オリス)……と言いたいところだが、そこの嬢ちゃんの熱い眼差しに免じて、三百Orsにまけてやるよ」

 

「は、はあっ?俺そんなの「ありがとうございます」

 

 先輩の声を遮って、太っ腹な店主に礼を言いながら、代金を手渡す。そうして、先輩が熱心に見つめていた白いリボンを手に取った。

 

「先輩。ちょっとこっちに頭向けてもらえませんか?」

 

 リボンの手触りを確かめながら、そう先輩にお願いする。先輩は唖然としていて、それから数秒遅れて、

 

「や、やだ」

 

 と、慌てて拒否した。恐らくこのリボンを僕がどのようにして使うのか、先輩といえど流石にわかっているのだろう。全く、素直じゃないなあ。

 

「俺男だし。そんなの女がつけるようなモン「僕の三百Ors、無駄にするつもりですか?」……ひ、卑怯だぞクラハ!」

 

 笑顔を浮かべる僕に、先輩はそう怒鳴ってみせるが、琥珀色の瞳をしばし泳がせて──やはり僕の言葉が効いたのか、観念したように僕の方へとその頭を近づけてくれた。

 

「ほ、ほら!これでいいんだろこれで!?」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 言いながら、僕は先輩の髪にリボンを近づけ、

 

「……これでよし、と」

 

 少々手間取ってしまったが、なんとか結びつけた。結びつけて──思わず、心の中で唸ってしまった。

 

 ──に、似合ってる……。

 

 所謂(いわゆる)蝶結びというものだが、当然と言うべきかそのリボンは実に大変、非常に先輩に似合っていた。

 

 思わず見惚れてしまっていると、顔を赤らめた先輩がブツブツと小さく文句を呟き始める。

 

「か、買って欲しいなんて言ってねえのに……こんな、女が好きそうな、もの……」

 

 ……そう言う先輩だが、無意識でそうしているのか、指先を髪をクルクルと弄んでいるその姿は、何処からどう見ても女の子にしか見えない。それに、確かに「欲しい」とは口には出していなかったが………。

 

 ──思い切り顔に出てたしなぁ……まあ、まさか先輩がこういったものを欲しがるとは、夢にも思っていなかったけど。

 

 そんな先輩を見やって、僕は苦笑いを浮かべた。それから先輩は文句を垂れていたが、やがて小さく。本当に小さく──最後にポツリと零した。

 

「…………でも、まあ…あ、あんがと……」



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DESIRE────みなまで言わずとも

「では、今日の成果をお互い出し合いましょうか」

 

 日も沈み、僕らが知る姿にへと再びなったラディウス。豪奢絢爛の輝きに包まれる繁華街。早朝から昼間まででは軒並み閉まっていた数々の高級店も、昨日と同じように開かれており、物凄い賑わいに満ちている。

 

 そんな高級店の内一つ。名は『O.rsay(オルシエ)』。世界にその名を馳せる、有数の三ツ星飲食店(レストラン)。『食の都』フィマンテアに本店を構え、大陸各国に支店を並べ、無論このラディウスにもある。それがこの店なのだ。

 

 そんな『O.rsay』の店内にて、僕や先輩、サクラさんとフィーリアさんは全員同じ席に集合し、座っていた。

 

 まずは各々の空腹を高級料理を以て満たし、それから少しして唐突に、組んだ手の上に顎を乗せたフィーリアさんがそう言ったのだ。

 

「きょ、今日の成果……ですか」

 

「はい」

 

 刻々と内包する色を変え続ける、フィーリアさんの神秘的とも、摩訶不思議的とも言えるその瞳に見つめられ、思わず僕は心臓の鼓動を早めてしまう。

 

 ……これを言ったら失礼になるのだろうが、別にフィーリアさんに対してそういう(・・・・)感情を抱いた訳ではない。どちらかといえば——『恐怖』に近いものである。

 

 何故なら、情けないことに今日僕たちはなんの情報も得られなかった。つまり、成果など一つもありはしないのだ。

 

 ──どうしよう……。

 

 じっとりと、冷や汗が滲み出し、背中を湿らせる。しかし悩んだところで僕に取れる選択肢など、一つしかない。

 

 今僕の目の前に座る存在(ひと)は『天魔王』と呼ばれ、その名を世界(オヴィーリス)に轟かせ、畏れ多くも崇められている——と言っても過言ではない、《SS》冒険者(ランカー)の一人。僕のような吹けば飛ぶ、凡人の塊が吐《つ》くような嘘など一発で見抜かれることだろう。

 

 ──……もう、ここは正直に白状するしかない……。

 

 下手に嘘など吐いてしまえば、僕の人生がここで終わるかもしれない。こんな煌びやかな飲食店で最期など迎えたくない。

 

 覚悟を決め、僕が口を開く──直前、

 

 スッ──そっと静かに。そして優しげに。フィーリアさんが己の手のひらを僕の眼前にへと突きつけた。

 

「いいんです。みなまで言わずとも、このフィーリア、全てわかっています」

 

「え……?」

 

 困惑する僕を置いて、瞳を閉じたフィーリアさんが続ける。

 

「自分を責める必要はありませんよウインドアさん。相手は一応裏社会の住人。組織の頭領(ドン)です。ですから、有益な情報など掴めなくても当然。しかもたったの一日しかなかったのですから尚更ですよ」

 

「は、はあ……そ、そうですね……?」

 

 ふふんと胸を──口が裂けても言えないが、控えめである──張って、得意げな表情を浮かべる彼女に対し、僕はひたすら困惑の眼差しを送ることしかできない。

 

 えっと……つまり、だ。フィーリアさんは最初から僕と先輩がギルザ=ヴェディスに関する情報を集められないとわかっていた、ということ。そしてそれを気に病むことはないと、彼女は僕を励ましてくれたのか……?

 

 ──…………よ、よくわからない人だな……。

 

 なにはともあれ、僕たちの収穫がないことを、この人は咎めるつもりはないらしい。思わず安堵してしまうが、しかし……それでいいのだろうか?

 

「そ・れ・に」

 

 一言一句強めて、なにやら意味深な笑みを浮かべつつ、フィーリアさんが言う。

 

「ブレイズさんを見れば、お二人がどのようにして今日を過ごしたのか……大体は想像できますし、ね?」

 

 言いながら、トントンとフィーリアさんは己の指先で自らの頭を軽く突いた。

 

 最初こそその発言の意味がわからず、僕は戸惑いながらも、食後の洋菓子(デザート)を、実に幸せそうに味わう先輩の方を見やって──それからあっ、と気づいた。

 

 ──リ、リボン……!

 

「え、えっと、これはその」

 

 みっともなく取り乱す僕に対して、フィーリアさんはまるで小動物を眺めるかのような微笑ましい表情になって、それはもう柔らかな声音で告げられた。

 

「式には呼んでくださいね?」

 

「じょ、冗談は笑えるものにしてください!お願いします!」

 

 堪らず叫んでしまった僕から顔を逸らして、次に彼女はサクラさんの方にへと向ける。

 

「まあそれはそれとして。あなたはどうなんですか?サクラさん」

 

「…ん?私か?」

 

 フィーリアさんに尋ねられ、サクラさんが口を開く。少し間を置いて、それから彼女は言う。

 

「私は──」

 

 ガシャーンッ──しかし、その言葉は突如として店内に響き渡った破砕音によって、遮られてしまった。



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DESIRE────銃弾そして銀ナイフ

 ガシャーンッ──続けようとしたサクラさんの声を遮って、突如店内にそんなけたたましい音が鳴り響いた。

 

 ──な、なんだ?

 

 思わず音のした方向に顔を向ける。そこでは──

 

 

 

「おいおいおい!なんなんだぁこの店は?こちとら客だぞ?お客様は神様だろうがよお!!」

 

「そうだそうだ!お前ら店員は黙って言うこと聞いてりゃいいんだよこのドグサレがあ!!」

 

 

 

 ──と、一体何があったのか、二人組の男が怒声を撒き散らし、己の周囲にも気を留めず非常識に騒ぎ立てていた。恐らく二人のどちらかがそうしたのだろう、テーブルはひっくり返されており、床には割れてしまった皿や料理が無残にも散乱している。

 

「も、申し訳ございません!ですが、当店はそのような「うっせえなあ!!だから、店員は黙ってろって言ってんだろクソが!!!」

 

 ドガッ——生々しい、肉を打つ鈍い音。謝罪していた店員の男性を、赤いスーツを着た男が殴りつけたのだ。

 

「がっ…!?」

 

 突然頬を打ち抜かれた店員が、堪らず床に伏せる。そして追い討ちと言わんばかりに、今度は青いスーツを着た方の男が足を振り上げた。

 

「このクズが!くたばれや!!」

 

 男の鋭い爪先が、無防備にも晒されている店員の脇腹を抉り打つ────寸前、

 

 

 

「止めないか」

 

 

 

 先ほどまで椅子に座っていたはずのサクラさんが、青スーツの男の足をそっと掴んで、その暴行を止めていた。

 

「……ああ?なんだ、この女ァ?」

 

「てか、こんなデカ女今までどこにいやがったんだ?」

 

 男二人が、殺意剥き出しでサクラさんを睨めつける。しかしその殺意に欠片も臆さず、飄々とした態度でどうでも良さそうに、掴んでいた青スーツの足を放して、サクラさんは二人に答えた。

 

「なに、私はただのお節介焼きさ。気にすることはない──まあそれはそれとして。一体何があったのかは知らないが……いくら客だからと言って、店員に対して度の過ぎた態度を取るのは間違っていると思うのだが」

 

 あくまで穏便に。穏やかな声音でサクラさんはそう言ったが……やはりというか、彼女の言葉に対して二人は額に青筋を立てた。

 

 そして、

 

「「んだと……?」」

 

 全く同時にそう呟いて、

 

「「ブチ殺してやらあこのクソアマがァ!!」」

 

 全く同時にサクラさんにへと殴りかかった。が──

 

 

 

「おお、怖い怖い。私はか弱い女性だよ?大の男二人がかりとは、大人げないじゃあないか」

 

 

 

 ──彼女の顔を捉えようとしていた男二人の拳は、呆気なさ過ぎるほどに、サクラさんの両の手のひらによって、それぞれ優しく受け止められてしまった。

 

「んな…っ!」

 

「こ、このっ…!」

 

 数秒遅れて、自分たちの拳が受け止められたことに気づき、慌ててサクラさんの手のひらから逃れようと男たちが腕を振るうが──微動だにしない。

 

「さて、私は寛容だからね。今すぐこの店員に謝罪して、このテーブルも元に戻して、床を綺麗に掃除するなら……もうこれ以上関わりはしないよ」

 

 己の拳を引き離すことができず、それでもなんとかしようと慌てている男二人にサクラさんはそう言うと──ほんの小さく少しだけ、腕を揺らした。

 

 瞬間、あれだけ必死になって引き離そうとしても、微塵も動かなかった男たちの拳が、パッと嘘のようにサクラさんの手のひらから離れた。

 

 急に拳を解放されて、思わずその場でたたらを踏む男らに、心配するかのような、わざとらしい声音でサクラさんが声をかける。

 

「おやおや……貧血でも起こしたかい?水でも持ってこようか?」

 

 と、小馬鹿するような含み笑いを混ぜてそう尋ねるサクラさん。そんな彼女に対して赤スーツの男はたじろいでいたが──青スーツの男は違った。

 

「こんの、クソアマ風情が……調子乗ってんじゃねェぞ!」

 

 そう叫ぶや否や、青スーツの男は己の懐に手を突っ込んで、そこからあるものを取り出す。

 

 一見するとそれは、少し細長い筒のようで。質感は鉄のそれに近い。遠目からその謎の物体を眺めて、ハッと僕はその正体に気づいた。

 

 ──あれって、まさか銃……!?

 

 銃──僕も詳しくは知らないが、セトニ大陸の技術によって開発され、セトニ大陸のみで流通している武器の一種で、原理はわからないが……なんでも、音の速さで鉄の塊を射出することができるらしい。

 

「サクラさん!気をつけてください!それは──」

 

 遠くから注意を促そうとサクラさんに声をかけようとしたが──僕よりも、青スーツの男の行動の方が早かった。

 

「死ねやぁ!!!」

 

 パァンッ──閃光が刹那に瞬いて、まるで乾いた枝を折ったような音が店内を貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………サ、サクラ、さん……?」

 

 僕は、呆然と声を漏らすことしか、できなかった。音が鳴り響いたとほぼ同時に、サクラさんの首が後ろにへと曲がったのだ。

 

 首を後ろに曲げたまま、硬直しているサクラさんを見て、遅れてニヤリと青スーツの男が口元を歪める。

 

「へ、へへ……!お、お前が悪いんだクソアマ……お、俺たちを馬鹿にするからよぉ……ヒヒッ!」

 

 先ほどの賑わいがまるで嘘のように静まり返ってしまった店内に、青スーツの男の下卑た笑いがこだまする────その時だった。

 

 

 

「なるふぉど。ふぉれがひゅうとひうとふゅうものふぁ」

 

 

 

 後ろに曲がっていたサクラさんの首がゆっくりと戻されて、もごもごとした、かなり聞き取りづらい声を絞り出した。その口元を見やれば──細く鋭く伸ばした鉄の塊を、歯で噛んでいる。

 

「…………へっ?はぁ?!」

 

 そんな彼女の様子を、青スーツは一瞬理解できないでいたが、しかし理解した瞬間、そんな素っ頓狂な声を上げてしまう。

 

 噛んでいた鉄の塊を、指先で摘まみ取って、それから足元に転がっていた銀のナイフをサクラさんは手に取った。

 

「さて、先ほども言ったが私は寛容でね。私が言っていたことを今すぐに実践してくれるのであれば、このことも不問にしよう。……何度でも言うが、私は寛容だから、ね」

 

 ヒュンッ──そして、その手に取ったナイフを軽く振るった。

 

 本来であれば、そのナイフは料理を切り分ける程度の切れ味しか有していない──そのはずだったのだが、数秒遅れて呆然と立ち尽くしていた男の青スーツが、ザックリと斜めに裂けた。

 

「………………え?」

 

 一体何が起きたのか理解できなかったのだろう。少し乱雑に裂けたスーツの胸元を見下ろして、それから発狂でもしたかのように意味不明で情けない叫び声を上げ、周囲の視線も顧みず、脱兎の如くその場を駆け出した。

 

「ちょっおまっ……お、覚えてやがれこのクソアマァ!!」

 

 そして、残った赤スーツもそんな捨て台詞を残して、逃げ出した青スーツを追いかけ、慌てて店から出て行った。

 

 

 

「……謝罪はおろか、後片付けもしないで逃げるとは。男の風上にも置けん奴らだったな」



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DESIRE────二人の心の中

O.rsay(オルシエ)』にて食事中だった僕たちを、突如襲った出来事。何があったのかは定かではないが、店員に暴力を振るう赤スーツと青スーツの男の二人組。

 

 そんな彼らの非道を有無を言わせず止めたのは、サクラさんだった。先輩ならまだしも、本来ならば男の僕がすぐにでも止めに入るべきはずだったのに、あまりにも突然過ぎる事態に、呆気に取られて動けなかった。

 

 サクラさんは、そんな僕なんかよりもずっと早く、行動に移っていた。先ほどまで椅子に座って、フィーリアさんと会話をしていたにも関わらず──気がついた時には、もう彼女は男たちの元にいた。

 

 あくまでも平和的に事を収めようとするサクラさんに対して、男たちは野蛮極まりなく殺意剥き出しに殴りかかったが、その拳はサクラさんによって容易く受け止められた。

 

 あまりにも理不尽に過ぎるその暴力に、しかしサクラさんはまだ平和的に事を収めようとした。だが、彼女に対して怒りを募らせた赤スーツの男は、己の懐から凶器を取り出した。

 

 凶器──それは、この大陸独自の技術によって開発された、銃と呼ばれるもの。詳しい仕組みなどはわからないが、魔法も使うことなく鉄の塊を、音の速さで撃ち出すことのできるらしい。

 

 魔物(モンスター)相手には少し心許ないと思うが、しかしそれが人間となれば話は変わってくる。魔物とは違って、僕たち人間の身体は柔く、脆い。そんな身体に、音の速さで鉄の塊など撃ち込まれれば、とてもじゃないが無事では済まない。

 

 そんなものを赤スーツの男は取り出して、そしてなんの躊躇いもなくサクラさんに向けて、使った。まるで乾いた枝を折ったような音と共に、店内を一瞬の閃光が貫いた────だが、銃を以てしても、彼女を殺すことはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………ふぅ…なんか、疲れたな」

 

Elizabeth(エリザベス)』の|寝台(ベッド)に寝っ転がり、僕は真っ白な天井を見上げる。染み一つとない純白の天井は、本当に綺麗だった。

 

 流石は特等級宿泊部屋(スウィートルーム)。気づくことがないだろう細部にまで、掃除が行き届いている。

 

 ──あの時のサクラさん、格好良かったなあ。

 

 今でも鮮明に思い出せる。店員に対して理不尽な暴力を振るう悪漢を、誰に気づかれるでもなく即座に止めたサクラさんの姿。凛とした美貌も相まって、普段のあの様子からは想像もできないほどに雄々しかった。

 

 ──……って、女性に対してこう言うのもなんか変だな……。

 

 しかし、あの時の彼女を評するのであれば、このような言葉が正しいだろう。事実、店にいた大半の女性が、それはもううっとりとした表情でサクラさんに熱い眼差しを注いでいたのだから。

 

 まあそれはともかく。散乱した料理の残骸や割れてしまった皿の片付けや汚れてしまった床の掃除などを手伝い、僕たちは『O.rsay』を後にし、そのままホテルにへと戻ったのだった。

 

 そうして今日は解散し、各々の部屋に向かった訳だ。

 

「………………はぁ」

 

 歩き疲れた身体を、このような上質な寝台に沈ませているからか、急速に抗い難い睡魔に襲われる。

 

 ──まだ、だめだ……シャワーも、浴びて…ない、のに……。

 

 そう思いはするのだが、しかしこの睡魔はあまりにも重い。瞬く間に、思考に(もや)がかかり始めてしまう。それと同時に瞼も開けていられなくなってしまう。

 

 ──…………あぁ、眠いなぁ………………。

 

 浴室から聞こえてくる水音に鼓膜を僅かに震わされながら、唐突に僕の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「出たぞクラハー……って、なんだ。寝ちまったのか」

 

 わしゃわしゃと乱雑にバスタオルで髪を拭きながら、ラグナが浴室から出る。ちなみに一糸纏わぬあられもない全裸姿で。

 

 髪の次に身体を拭きつつ、ラグナはクラハが大の字になって寝ている寝台にへと歩み寄る。

 

「…………ふーん」

 

 よほど疲れているらしく、起き上がる様子はない。ラグナはじっと、クラハのその無防備な寝顔を眺める。

 

 ──意外と子供っぽいていうか……可愛い寝顔してんのな。

 

 今思えば、こうしてクラハの寝顔を眺める機会などなかったとラグナは思う。思いながら、そのまま眺め続ける。だが何故か、次第に変な気分になってしまい、慌てて視線を逸らした。

 

 ──き、着替えよ……。

 

 そう思い、しっとりとするバスタオルを椅子の背もたれにかけ、誤魔化すようにそそくさとホテルが用意した寝間着(パジャマ)にラグナは着替えるのだった。

 

「よっと」

 

 着替えを終えて、ラグナもまた寝台にへと横になる。ラグナもクラハと同じようにある程度の疲労を感じており、シャワーで温まったことも相まって、急激に瞼が重くなり始める。

 

「ふぁ…」

 

 可愛らしい小さなあくびを漏らして、瞼を閉じる——寸前、不意にラグナはその手を寝台のサイドテーブルにへと伸ばす。

 

 そこにあるのは、今日クラハが買ってくれた、あのリボン。それを手に取って、真上に掲げ眺める。

 

「…………」

 

 正直、今でもわからない。何故こんなものに自分が惹かれてしまったのか。以前であったら、このようなリボンなど──女が好むようなものなど、欠片ほどの興味も示すことはなかったというのに。

 

 以前、クラハにも話したことではあるが、最近自分が自分(・・・・・)でなくなって(・・・・・・)いる気がする(・・・・・・)。……いや、気がするのではなく、本当に────

 

「…………ああ、クソ」

 

 リボンを戻して、隣の寝台に寝るクラハの姿をもう一度見やる。見やって、今朝のことを思い返す。

 

 今日の自分は、どうもおかしかった。以前ならばどうとも思わなかったというのに、サクラと親しげにするクラハを見て──何故か、胸が締めつけられるような、苦々しい不快感にも似たなにかを抱いた。

 

 あの時の自分は、怒っていたのかもしれない。ただ、それがクラハと親しげにするサクラに対してなのか、それとも彼女に言い寄られて満更でもない反応だったクラハに対してなのか──そもそも、何故こんなことで自分がこんな気分になっているのだろう。

 

 …………まあ、それもクラハが買ってくれたリボンによって、いくらか紛れたが。

 

「……やっぱもう、違うんかな(・・・・・)。俺」

 

 そう呟きながら、クラハを眺める。そうして、以前彼がかけてくれた言葉を、ふと思い出した。

 

 ──この先、ずっと覚えてますから──

 

「………………俺がこうなってんの、お前のせいだかんな」

 

 小声ながらにそう呟いて、ラグナは寝台から降りて──起こさぬように、クラハが寝る寝台にへと、乗り込んだ。



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DESIRE────ギルザ=ヴェディスという男(その二──前編)

「畜生が……あのアマ覚えてやがれ……クソがッ!」

 

「まあ落ち着けよ兄貴。あんなクソアマなんか忘れちまおうぜ。正直な話、もう関わりたくないんだよな俺」

 

 夜のラディウス。街灯もない薄暗な裏路地を、男二人が歩き進む。

 

 赤スーツの男──その名をバンゼン=オグヴ。

 

 青スーツの男──その名をオンゼン=オグヴ。

 

 人呼んで『オグヴ兄弟(ブラザーズ)』──その悪名をこの街に響かせる、チンピラ気取りの兄弟である。

 

O.rsay(オルシエ)』にて、店員に対して理不尽な暴力を振るった二人だったが、その蛮行を店に居合わせていた女──その者こそ世界に三人(今は実質二人だが)しかいないと言われる《SS》冒険者(ランカー)の一人、サクラ=アザミヤだとは知らない──に止められ、逃げるようにして店を後にした。

 

 そのことに対して、兄であるバンゼンは憤りながら延々とその口から悪辣な言葉を吐き捨て、弟であるオンゼンはそんな兄を宥める。

 

 そんな二人が何故このような裏路地にいるのか──それは、この裏路地こそに、二人は用があったからだ。『O.rsay』に立ち寄ったのは、あくまでも夕食を済ますために過ぎなかった。

 

 ……まあ、あんなことがあって、夕食などまともに済ませられなかったのだが。

 

「あんな大勢の前で恥をかかされたんだぞ!?このままで終われるかってんだ!」

 

 オンゼンの言葉に対して、怒鳴り返すバンゼン。しかし冷静に、オンゼンが言う。

 

「けどよ……あの女に勝てる手とかねえだろ」

 

「…………まあ、そりゃあ……なあ」

 

 懐にある鉄の塊──銃を一瞥して、苦々しくバンゼンは呟く。彼の脳内にて、『O.rsay』での記憶が蘇る。

 

 脳天に風穴を空けるつもりで撃った銃弾を、歯で噛んで止めたあの女。そして大した切れ味もないはずのナイフで、この厚い革のスーツに深い切れ込みを走らせた。

 

 正直言って、どんな武器を持ち出したとしても、あの女には勝てないだろう。そもそも、同じ人間だとはとてもじゃないが思えない。

 

 しかし舐められたままというのも捨て置けない。傷つけられた自尊心(プライド)を抱えながらも、二人は裏路地を歩く。

 

 そうしてやがて────彼らは、辿り着いた。

 

「兄貴」

 

「……ああ」

 

 まるで入り組んだ迷路のような裏路地。その奥にあったのは、固く閉ざされた分厚い鉄扉と、その前に立つ黒服の男の姿であった。

 

「オグヴ兄弟、だな」

 

 その黒服の男の言葉に、二人は黙って頷き──懐から一枚の薄いカードを取り出した。

 

 そのカードを見やって、黒服の男が言う。

 

「中に入れ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鉄扉を抜けた先は、薄暗い通路。それなりに年季のある建物らしく、カビの臭いが鼻腔を突く。

 

 多少それに不快感を覚えつつも、こちらを先導する黒服の男の後ろをオグヴ兄弟は黙って歩く。その間口を開く者は誰一人としておらず、この通路の窮屈さも相待って、重苦しい空気が漂う。

 

 そうして歩き続け数分──不意に、黒服の男が立ち止まった。その先にあるのは、これまた質素な木製の扉。

 

「この扉の先」

 

 背中を向けたまま、黒服の男が言う。

 

「我らがボスがこの扉の先にいる。そのことを重々承知しておけ」

 

「……おう」

 

 その言葉に頷きながら、バンゼンは考える。

 

 ──この先にいるのか……『金色(ラディウス)の怪物』、ギルザ=ヴェディスが。

 

 この街の裏側に身を置く者ならば、誰一人として知らないことはないだろうその名前。この金色の街を裏から支配する、男。

 

 それがギルザ=ヴェディス。通称──『金色の怪物』

 

 ──決して表舞台には出ず、汚れ仕事などは全て部下に任せ、己の手は汚さない………名前だけが歩き回って、肝心のその姿は部下以外誰も見たことがない。謎の多い野郎……。

 

 当然、バンゼンとてギルザの姿を見たことはない。他の者と同様、彼に関する様々な噂を知っているくらいだ。

 

 そのギルザ=ヴェディスが──この扉の先にいる。そのことに、自然とバンゼンは口元を歪ませた。

 

 ──上等だ。怪物だがなんだが知らねえが、このオグヴ兄弟の敵じゃねえ。

 

 一応、説明を挟むと今日この二人がここに来たのは、ギルザ=ヴェディスに会い、彼の部下になるためである──が、あくまでもそれは建前上の理由であった。

 

 本来の目的は────彼の築き上げた組織を乗っ取るため、である。

 

 正常な思考を持つ者ならば、それが一体どれほど無謀なことであるか、容易に判断できるだろう。しかし中途半端に名を上げた彼らオグヴ兄弟にはそれができなかった。

 

 ギルザ=ヴェディスに関しての様々な噂だが、そのどれもが常軌を逸しており、また彼に関わった者は例外なく、消されている。

 

 消されたのは、彼の正体を探ろうとした者が主だ。やれ海に沈められただの山に埋められただの、または魔物の餌にされただの──とにかく、正体を暴こうとした者は誰一人として、無事で済んでいない。

 

 その次が──ギルザ=ヴェディスに喧嘩を売った者及び組織だ。

 

 個人であれ組織であれ、これも例外なく彼は始末し尽くした。おかげでこの街に跋扈してた無法者どもは、その半分近くが彼に消されたのだ。

 

 噂が噂を呼び──そして現在に至る。表舞台には出ていないが、その黒い噂だけが独り歩きしている。しかしこの現状にオグヴ兄弟は密かに不満を積もらせていたのだ。

 

 噂だけで恐れられ、この街の甘い蜜を思う存分楽しみ、啜り、味わっている。碌に表舞台に立つこともない、果たして本当にいるのかどうかすらもわからない男に対して。

 

 ──気に入られねえ。トコトン気に入られねえんだよなあ……!!

 

 そうして二人は考えたのだ。敢えて下手に出て、一旦彼の部下になり、内部から乗っ取ることを。

 

 側から見れば実に幼稚な手段なのだが──生憎、それを彼らに指摘する者はいなかった。

 

 ──もうすぐだ。もうすぐで、俺たち兄弟はこの街の富を貪れるんだ。ヒャハハ……!

 

 ──楽しみだなあ、兄貴ィ。

 

 背後にて歪んだ笑みを浮かべる二人に対して、黒服の男が再度声をかける。

 

「扉を開ける。……くれぐれも、ボスに対して失礼な真似はするなよ?」

 

 二人の返事を待つことなく、黒服の男はその木製の扉を開いた。



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DESIRE────ギルザ=ヴェディスという男(その二──後編)

 扉が開かれた瞬間、感じ取ったのは──香ばしい、食欲をそそられるような、焼けた肉の匂い。

 

「よお、待ってたぜ」

 

 無骨な鉄扉や所々劣化の目立つ廊下に比べて、その部屋は不自然なほどに広く、そして豪華であった。

 

 目にしただけで相当に上等なのだとわかる数々の調度品。敷かれた絨毯も一級品の類だろう。

 

 部屋の中央。そこにはテーブルとソファが置かれてあり、そしてテーブルには先ほどの匂いの正体──まだ焼かれてそう経っていないのだろう、鉄板皿に乗せられたステーキが二人前が用意されている。

 

 …………いや、そんなことよりも────

 

「まあ突っ立って話すのもアレだ。とりあえずそこのソファにでも腰かけるといい」

 

 予想だにしない光景を前に、呆気に取られるオグウ兄弟(ブラザーズ)に、部屋の奥の執務机に座る男が声をかける。

 

 その言葉に、二人は顔を向ける。執務机に座る男は、テーブルに置かれているのと同じものだろう、ステーキを食していた。

 

「ああ、ちょいと失礼なんだが見逃してくれや。まだ夕食を済ませてなかったもんでな──あぁぐ」

 

 言いながら、男はナイフがあるというのにそれを使わず、フォークでステーキを突き刺し、持ち上げ豪快に食らう。僅かに血の入り混じった肉汁が滲み、ソースと合わさって鉄板皿にへと滴り落ちた。

 

 ジュゥ──滴り落ちたそれが、音を立てて鉄板に焼かれる。

 

最上級(ロイヤルクラス)のステーキだ。夕食済ませてないんなら、遠慮なく食えや」

 

 まるで獣のように肉を食らいながら、男──ギルザ=ヴェディスがそう話しかけるが、しかし二人はそれどころではなかった。

 

 釘付けになっていた。今、オグウ兄弟はその光景から目を離せられないでいた。

 

 彼らの視線の先──それは、ギルザの背後の壁。そう、その壁に、

 

 

 

「んぐゥウウウウウウウッ」

 

 

 

 磔にされ、猿轡を噛まされ、目隠しされた全裸の男がいたのだから。

 

「むぐォオオオオ」

 

 拘束から抜け出そうと必死に、男が身体を捻り、両腕両足を滅茶苦茶に動かす。

 

 ガシャンジャララッ──だが、結果は鎖が揺れ、擦れ合う金属音が虚しくその場に響くだけだった。

 

「どうした?そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔なんかしやがってよぉ……ほら、座れよ」

 

 しかし、すぐ背後だというのにギルザは気にしていない。ただ平然と執務机に座り、ただ平然とステーキを食べている。

 

 異様の一言に尽きるその光景に、二人は唖然として、しかしギルザの言葉にハッと我に返り、慌てて言われた通りソファに腰かけた。

 

「………」

 

「………」

 

 無言になって、目の前にあるステーキに視線を注ぐ。食欲をそそられる香ばしい匂いが鼻腔を撫でるが、今もなお暴れている全裸の男の唸り声により、食べる気にはなれなかった。

 

「わざわざこんな場所にまで足を運んでくれてありがとうな。オグウ兄弟」

 

 そう言いながら、空のワイングラスにへとワインを注ぐギルザ。トポトポと静かに音を立てながら、まるで血のように赤いそれがグラスを満たしていく。

 

 ある程度注ぎ終えて、ボトルを傍らに置きグラスをゆっくりと掴んで、ギルザは己の口元にその縁を押し当て、傾けた。中身のワインが僅かに開かれた口の隙間を通って、ギルザの喉奥にへと流れていく。

 

「こんな時間だ。難しい話はナシにしよう」

 

 ステーキに手をつけず、動揺を隠せない表情のまま固まっているオグウ兄弟に、ギルザはそう語りかける。

 

「お前ら二人を、俺の|組織(ファミリー)に加えたい」

 

 言って、最初の半分ほどまでの面積に減ったステーキを、大口開けて一息に頬張った。ギルザの口の端にソースが伝う。

 

 数回咀嚼した後、それを嚥下すると、ギルザはナプキンを手に取り、口元を軽く拭う。その間、部屋は静寂に包まれていた。

 

 数秒経って、再度ギルザが口を開いた。

 

「望むモンは全部くれてやる。金も酒も、女も」

 

 そう言って、彼は立ち上がった。立ち上がって、背後の方──磔にされた全裸の男の前に、立った。

 

「……まあ、元よりそのつもりでここに来たんだろうけどな。お前ら二人は」

 

 オンゼンとバンゼンは黙ったままではあったが、それをギルザが指摘する様子はない。寧ろ二人の言葉など、求めていないかのようにも思える。

 

 それはともかく。全裸の男の前に立ったギルザは無言で『次元箱(ディメンション)』を発動させ、それ(・・)を手元に滑らせた。

 

「お前ら兄弟の噂は耳にしているし、期待もしているんだ」

 

 ……恐らく、ギルザには見えていないだろう。彼は今、オグウ兄弟に背を向けている。だから、わからない。

 

 今、二人の表情が青ざめて凍りついていることに。二人の視線がそれ(・・)に向けられていることに。

 

 ──お、おい……まさか……?

 

 彼がその手に握っているのは──ナイフ。鈍く輝く刃は凹凸状となっており、また鮫の歯のように細やかに突起している。もしそれで切りつけられようものなら、想像を絶する激痛を伴って肌を、肉を裂かれてしまうことだろう。

 

 そんな凶器をギルザは掲げると────

 

 

 ズッ──特に躊躇うこともなく、全裸の男の肌にへと突き刺した。

 

 

「んぐオォォオオオオオオッ?!」

 

「だから是非とも、俺の部下になってもらいたい」

 

 ブチブチと繊維が千切れていく音がする。グチャグチャと肉が切れていく音がする。

 

 くぐもった絶叫を上げる全裸の男の身体からナイフが引き抜かれ、鮮血が噴く。鉄臭さを伴うそれは、ギルザの顔を汚した。

 

「ちょ、っ……!?」

 

 思わず声を上げかけたオンゼンだったが、それはすぐさま引っ込むこととなる。何故なら──

 

「なって、くれるよなあ?」

 

 ズッ──血濡れたナイフの刃を、ギルザが再び全裸の男に突き刺したのだから。

 

「んごオオオオオオオオッ!!?」

 

 そして再び、ゆっくりとそれを引き抜く。鮮血が噴く。ギルザの顔がさらに汚れる。

 

 そうしてまた突き刺す。絶叫。引き抜く。鮮血が噴く。汚れる。

 

 突き刺す。引き抜く。突き刺す。引き抜く。突き刺す。引き抜く。突き刺す。引き抜く。突き刺す。引き抜く。突き刺す。引き抜く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く突き刺す引き抜く────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グズュ──力なく垂れていた頭に、血と肉と油に塗れたナイフが突き立てられ、根元近くまで沈んだ。

 

「歓迎するぜ──オグウ兄弟(ブラザーズ)

 

 そして、ペンキでもブチ撒けられたのかと思うほどに全身を真っ赤に染めたギルザは、背後を振り返り、ブルブルと身体を震わせている二人にそう言った。



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DESIRE────前戦準備

「えー、それでは作戦会議を始めるとしましょう」

 

 朝。場所はホテル『Elizabeth(エリザベス)』一階、大食堂。テーブルの上に肘をつき、両手を口の前で組みながらフィーリアさんはそう言った。

 

「……作戦会議、ですか」

 

「はい。作戦会議です」

 

 こほん、とそこで一旦息を整えて、フィーリアさんが続ける。

 

「まず、私たちがこの街に来てから、今日で二日目です」

 

「そうですね……」

 

 そう、僕たちがこの街に訪れてから、既にもう二日目である。つまり今回の依頼(クエスト)──ギルザ=ヴェディスの身柄確保に残された期間は、今日を含めてあと一日しかない。

 

 ──なのに、僕はなんの情報も掴めてない……。

 

 その事実に対して、打ちひしがれる僕に、フィーリアさんが言葉をかけてくる。

 

「そう気に病む必要はありませんよ。ギルザ=ヴェディスに関しての情報は、私が粗方集め終わっているんですから」

 

「そ、そうですね……はい……」

 

 恐らく僕のこの様子を見かねての言葉だったのだろうが、残念ながら逆効果である。

 

 無力感と劣等感に苛まれる僕を、少し気の毒そうに眺めて、それから先輩やサクラさんにも視線を送って、フィーリアは口を開いた。

 

「まず、ギルザ=ヴェディスに関してですが──当然、相当用心深い性格で、表舞台に出てくることはまずないでしょう」

 

「…………」

 

 まあ、裏社会の住人が進んで表舞台に顔を出す訳がない。つまりそれが意味することは──標的(ギルザ)の確保が困難であるということ。

 

 ──間に合うのか?僕たちは……。

 

 だが、そんな僕の不安を見透かすように、フィーリアさんは不敵に、小さく笑った。

 

「ですが明日──奴は間違いなく、表に出てきます」

 

「え?」

 

 得意げにしながら、フィーリアさんは懐に手を差し入れ──そこから三枚の小さな封筒を取り出した。

 

 そしてその封筒を軽く宙にへと放り投げる。無造作にも放たれたその封筒らは、散らばることはなく、それぞれが僕たちの前に着地した。

 

「……あの、フィーリアさん。これは?」

 

 未だに得意げにして、「フッ」という台詞が付くような微笑を携える彼女に、僕は尋ねる。

 

「これですか?これは、招待状です」

 

「招待、状……?」

 

 困惑しているのは、僕だけではない。フィーリアさんを除いた二人──先輩とサクラさんも、恐らく僕と同じような表情を浮かべていた。

 

 そんな僕らに、やはり得意げにしてフィーリアさんが喋り出した。

 

「実は明日、この街の──まあ、俗に言う富裕層(VIP)を集めた舞踏会(パーティー)が開かれるんですよ」

 

「ほう。舞踏会か」

 

 サクラさんの相槌にフィーリアは得意げなその表情を少しも崩すことなく、さらに続ける。

 

「ええ。それでこういった催し物には広告主(スポンサー)が付きものじゃないですか──ここまで言えば、あとはもうおわかりですね?」

 

 そう言って、ふふんと得意げな表情を、今度は挑戦的なものに変えてフィーリアさんは僕らに差し向けた。

 

 彼女の言葉に、頭を回転させる。

 

 ──広告主……ああ、なるほど。

 

 結論を出すのに、さほど時間はかからなかったが──

 

「ギルザ=ヴェディスが広告主、ということか」

 

 ──僕よりも先に、サクラさんが結論(それ)を口に出して述べた。

 

「その通りです、サクラさん。それとウインドアもわかっていたみたいですね」

 

 そこでカップを持ち、静かに珈琲(コーヒー)を飲むフィーリアさん。意外なことに、彼女はブラックを飲めるのだ。

 

 ……ちなみに、言うまでもないというか、言うことではないこともないかもしれないが、先輩は特に考える素振りも見せず、ただただ目の前にあるケーキを食べていた。実に美味しそうに。

 

 まあそれはともかく。ごくんと珈琲を喉奥に流し込んで、フィーリアさんが口を再度開く。

 

「ですので、今日はその殴り込み(カチコミ)の下準備をしましょう」

 

「え?」



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DESIRE────洋服屋『ERy』にて

 ここはラディウス。『金色の街』と呼ばれるに至るほど、このセトニ大陸の富を集める場所。

 

 しかしこの街はそれだけに留まらない。それで留まることを知らない。富──金には魔力が宿っている。

 

 人を惹きつけ離さず、(とら)える魔力が宿っている。その魔力が、この街に無数の人間を寄せ集めるのだ。

 

 自らを豪奢絢爛に色飾る富裕者。様々な分野(ジャンル)にて一線級に活躍する玄人(プロ)。一攫千金という砂上の幻想に夢馳せ集う者たち。

 

 そんな多種多様の混沌の様相を描きながら、この街は過去(きのう)現在(いま)未来(あした)に存在している。

 

 故に。そんな混沌を象徴するかのように、その倍以上の店が建ち並ぶ。

 

 それは飲食店(レストラン)であったり。宝石店(ジュエリーショップ)であったり。骨董(アンティーク)(ショップ)であったり。

 

 ────洋服屋(ブランドショップ)であったり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 時刻は午後十二時少し過ぎ──こちらを照らす暖かで、けれど少々熱く感じる日差しを受けながら、僕クラハ=ウインドアはとある店の中にいた。

 

ERy(エリィ)』──それがこの店の名前で、端的に言うならば、洋服屋である。

 

 自慢ではないが僕は服装(ファッション)に疎い。そして疎いのだから、当然このような店など生まれてこの方訪れたこともない。

 

 では何故そんな僕が、こんな場所にいるのか──答えは簡単。フィーリアさんに連れて来られたのだ。

 

 

 

殴り込み(カチコミ)の下準備をしましょう』

 

 

 

 脳裏にて、フィーリアさんのその言葉が浮かび上がってくる。殴り込み……なんともまあ、不穏な響きである。

 

 ──それでなんだって……洋服屋なんだ?

 

 殴り込みというからには、安直ではあるが武器屋など、そういう店に立ち寄るのかと思っていたのだが、これは予想外だった。

 

「…………」

 

 横目でチラリと視線を流す。そこにあるのは、姿鏡。それに映る今の僕は──実に珍しい格好をしていた。

 

 燕尾服。シンプルで、しかし確かな高級感を感じさせるデザイン。一体いつの間に測ったのか、サイズもピッタリである。

 

 ──やっぱり、似合ってない……よな。

 

 普段の僕であれば、こんな服など着たりしない。そう、自分から進んで着たりなど絶対にしないのだ。

 

 フィーリアさんに連れられ、ここに到着するとすぐさま店から数名の店員が出て、有無を言わせず僕たちを店内にへと案内し、なんの事情も飲み込めないままあれよあれよと僕はこの燕尾服に着替えさせられた。こちらの抵抗を一切許さない、まさに流れる川のような手際で。

 

 そしてフィーリアさん、サクラさん、先輩は別の店員に店の奥にへと案内された。突然のこと過ぎて先輩は混乱し困惑していて、しかしサクラさんは特に動揺もせずに落ち着いてた。まあ、僕や先輩と違ってあの人はこんな程度のことで動揺することなど思っていなかったが。

 

 とにかく、三人が奥に連れてかれて、約一時間が経とうとしている。その間僕はこのようにしてこの場に待たされていたのだ。

 

 ──あと、どれくらい僕は待たされるんだろうか。

 

 しかしまあ、当然と言えば当然のことだろうが、衣服の様々な事情に関しては、男である僕よりも女性である彼女たちの方が色々と手間がかかることはこちらも重々承知している。

 

 そうだ。フィーリアさんも、そして思わず忘れそうになるがサクラさんだって立派な女性。僕や先輩と違って遅くなるのは当然の──と、そこまで考えて。

 

 ──いや、先輩は……。

 

 僕は思い出した。フィーリアさんとサクラさんと、そして先輩も(・・・)店の奥に連れてかれたことを。そう、元の性別は違えど、先輩も今や女の子だ。

 

「…………え?いや、けど……そしたら、先輩は……」

 

 唐突に浮かんだ一つの考え。けどそれは決してあり得ないことというか、先輩だったら断固として拒否する流れというか。

 

 ──女の服なんかぜってぇ着ねえからなっ!?──

 

 想起されるいつしかの光景。いやあ、あの時は随分と苦労させられたものだ。一応女物ではあるが、男物にも見えなくもない服装、ということであの場は収まったのだが。

 

 と、その時。

 

 

 

「すまないウインドア。待たせたな」

 

 

 

 僕の背後から聞き覚えのある、しかしいつにも増して凛々しさが際立つ声がかけられた。振り返れば──予想通りの人物がそこには立っていた。

 

「い、いえ。気にしなくてもいいですよ、サクラ……さん?」

 

「初対面でもないのに、何故疑問形なんだウインドア」

 

 サクラ=アザミヤ。数週間前ほど知り合ったばかりである彼女だが、今は見たことのない格好となっていた。いや、その格好自体は見たことはあるのだが。

 

 燕尾服(・・・)。今、サクラさんは僕と同じものであろう燕尾服にその身を包んでいた。



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DESIRE────燕尾服とパーティードレスと?

「さて、どうかな?ウインドア。君の目から見て、私のこの格好は似合っているかい?」

 

 そう僕に訊いてくる燕尾服姿のサクラさん。普段は下ろしている髪も、今は一本に結ってまとめた、所謂(いわゆる)ポニーテールと呼ばれる髪型になっていた。

 

「え、えっと……そう、ですね」

 

 その問いかけに対して答えるため、困惑しながらも僕はやや遠慮気味にサクラさんの全身を眺める。

 

 先ほども言った通り、サクラさんが着ている燕尾服自体は僕と全く同じものである。そう、彼女は今、男物である服装なのだ。

 

 ……しかし、情けないのやら悲しいのやら。燕尾服(それ)はこれ以上にないほどにサクラさんに似合っており、男であるはずの僕よりも、間違いなく彼女は見事に着こなしていた。もし彼女の性別を知らぬ者が見たのなら、彼女のことを美青年だと勘違いすることだろう。

 

 ──いや、でも流石にそれはないか。

 

 だがその考えを僕は即座に否定した。確かに、遠目から見る分には、今のサクラさんは誰の目に映ろうと燕尾服姿の美青年と思うだろう。……ささやかにもその存在を主張する、二つの胸元の膨らみから気づかなければの話だが。

 

 悪いと思いつつも、僕とて立派な一人の男だ。男としての性には逆らえず、その部分に視線を流してしまう。

 

 華のような可憐さからはほど遠く、刃のような美麗さを纏うサクラさんの、女性的特徴。普段のキモノ姿では近づいて見なければ気にすることのない、だがそれでもそれ相応の大きさを予想させる胸元。やはりあの服が目立たせなくさせるのか、それともサクラさん自身が相当着痩せする体質なのだろうか。

 

 今の燕尾服姿では──それが実に窮屈そうに見える。まるで入り切らない大きさの果実を、無理矢理袋の中に押し込んでいるような、そんな窮屈さを。そして心なしかサクラさんの表情も若干苦しそうに思える。

 

 ──やっぱり、サクラさんって……。

 

 否が応にも浮かび上がってくる一つの推察。しかしそれはサクラさんに対して無礼極まる邪推であり、僕はそれを即座に頭の中から消し去った。

 

「似合ってる……と、思います。違和感とか全くないですし」

 

「なら良かった。……ふむ。しかしあれだな。男物の服が似合っていると言われると、それはそれで複雑な気持ちになるな」

 

「あ、た、確かに……すみません」

 

 と、そんな会話の最中、不意に向こうの方から聞き覚えのある声と足音が響いてきた。

 

「お待たせしましたー!」

 

 僕とサクラさんが揃ってそちらに視線を向ける──向こうからこちらにやって来ていたのは、フィーリアさんである。しかし、普段とは一味違った姿となっていた。

 

「ほら、どうですかサクラさん?ウインドアさん?」

 

 パーティードレスと呼ぶのだろうか。白を基調としたその衣装姿のフィーリアさんは、普段のような幼い雰囲気とは打って変わって、静かで落ち着きのある、大人びた雰囲気を纏っていた。

 

「私は良いと思うぞ。その格好だと普段のあどけなさが抜けて、新鮮に見える」

 

「……なるほど。つまりいつもの私は子供っぽいって言いたいんですね?」

 

「……………まあ、そうだな」

 

「せめて言い訳の一つくらいしてくださいよっ!」

 

 どうやらフィーリアさんは自分が子供っぽく思われるのは心外だったらしい。正直僕もサクラさんとほとんど同じような感想を抱いていたので、ばつが悪い。

 

 ──えっとどうしよう。僕はなんて言ったらいいんだ。

 

 他の感想を絞り出そうと慌てて思考を巡らす──が、

 

「もういいです。じゃあウインドアさんはどうなんですか?まさかサクラさんと同じような感想じゃないですよね?……ねぇ?」

 

 呆れた表情をサクラさんに送ってから、そう言いながら僕の方には不気味なくらいまでにニコニコとした満面の笑顔を向けて、フィーリアさんが訊いてきてしまった。

 

「え、いや、その…!」

 

 返答に詰まった時点でもう手遅れな気がするが、それでもなんとか考えようとして、しかしその前にフィーリアさんに嘆息された。

 

「いいです。もういいですよどうせ私は子供体形ですよ少女(ロリータ)ですよ。……はあ」

 

 そう言って、今度は僕ににまっとした、なにか意味ありげな笑みを彼女は向けた。

 

「それに、ウインドアさんにはもっと別の感想を言ってもらいますからね」

 

「え?」

 

 別の感想──それはどういうことなのかと僕が訊く前に、フィーリアさんは奥の方に向かって呼びかけた。

 

ブレイズさーーん(・・・・・・・・)!もうそろそろこっちに来てくださいよー!」

 

 その呼びかけに対して、僕は即座に思い出して硬直する。そうだ、ここには、四人で来ていたのだ。

 

 サクラさん、フィーリアさん、僕──そして、ラグナ先輩の四人で。

 

 燕尾服に着替えたサクラさん。パーティードレスに着替えたフィーリアさん。この二人がそれぞれの衣装に着替えているのだから、当然先輩も同じくなにか別の衣装に着替えているはず。

 

 ──ほ、本当に……先輩も……。

 

 あれほど頑なに女物の衣服を拒んでいた先輩が、まさか──言い様のない、胸の内がざわつく感情に脳内が埋め尽くされる。

 

 …………しかし。数分経っても、向こうから誰かが来る気配はなかった。

 

 ──あれ……?

 

 僕が不思議に思う最中、痺れを切らしたフィーリアさんがやれやれと首を振って、仕方なさそうにまた向こうにへと歩いて行った。

 

 それから数秒後、

 

「なにやってるんですかブレイズさん!せっかく着替えたんですから、ウインドアさんに見せましょうよその姿を!」

 

「ふざ、ふざけんなっ!こんな格好クラハに見せれる訳ねえだろ!?絶対行かな「問答無用!観念しやがれ、ですっ!」はっ?ちょ、んなっ…は、離せぇ!!」

 

 そんな会話が聞こえたかと思えば、すぐさま向こうから再びフィーリアさんと、彼女に腕を掴まれ無理矢理連れられて──この場に、ようやくラグナ先輩も現れた。



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DESIRE────可愛い先輩

「クソッ…なんで俺がこんな格好……!」

 

 などという言葉と共に、フィーリアさんに連れられこの場に現れた先輩。その姿を見て僕は──言葉を失っていた。

 

 ──せ、先輩……。

 

 先輩が今着ているのは、赤と黒を基調とした、ゴシックドレス。フリルなどで全体的にボリュームがあり、大胆にも胸元を露出させている。全体的に見れば実に少女らしい衣装だが、しかしその内に秘めた女らしさも醸し出していた。また、サイズがなかったのかそれとも意図的なのか。先輩には少し大きいのではないかと思う。

 

 しかし、逆にそれが功を奏しており、今の先輩を非常に素晴らしく、愛くるしい可憐な少女にへと仕立てていた。今の先輩は、傍目から見ると超一流の、それこそこの世に二人とていない鬼才の人形作家──《(ゴッド)()(ハンド)》、マヴィロフ=ベンクィッティが手がけた、非常に精巧な芸術的人形(ドール)としか思えない。

 

「うぅぅぅ……!」

 

 堪えられないというような呻き声を上げて、両手で顔を覆い俯く先輩。梳かれて(シルク)のような輝きと艶やかさを放つ髪の隙間から僅かに覗き見える、真っ赤に染まった耳から察するに、恐らくその顔も完熟した林檎のようになっていることだろう。

 

「どうですどうですかウインドアさん!?このラグナさんは!?可愛いですよね!?思わず抱き締めたくなりますよねなっちゃいますよね!?」

 

 何処からどう見ても美少女然とした今の先輩に思わず見惚れてしまっている横で、はぁはぁと息を荒げ興奮を少しも隠そうとしないフィーリアさんが僕にそう訊いてくる。正直、彼女のその言葉には同意する。全力で。

 

「ほら、なにか言ってあげてくださいよウインドアさん!さあ!さあ!!」

 

 興奮全開のフィーリアさんの言葉に押されるように──しかし全くの無意識に、僕は口を開き声を零した。

 

 

 

「可愛い」

 

 

 

 瞬間、バッと俯いていた先輩が思い切り顔を上げた。予想通り、その顔は完熟した林檎の──いや、もはやそれ以上に真っ赤に、真っ赤っ赤に染まっており、また驚愕の表情となっていた。

 

「か、かわっ………!?」

 

 先輩のその声はこれまでにないほどに震えており、その上凄まじく掠れていた。それからまるで魚のように口をぱくぱく開閉させて──かと思えば、その琥珀色の瞳をじわぁと潤わせた。

 

 ──あっ……。

 

 今までの経験上、僕は察した。この後に起こすであろう先輩の行動を。その前に止めようと慌てて再度口を開こうとしたが──

 

 

「ぅ、ぁ…な、なに言ってんだこの馬鹿ぁぁぁあっっ」

 

 

 ──と、叫んで。僕らから背を向けて脱兎の如く店の奥に逃げてしまった。

 

「………………」

 

 非常に居た堪れない気分の中、遠ざかるラグナ先輩の背中に手を伸ばしたまま立ち尽くす僕の横で、《SS》冒険者二人が会話を交わす。

 

「そういえば、どうしたんですかサクラさん。さっきからずっと黙ってますけど……?」

 

「……………………心を無にしていなければ、即死だった」

 

「は?」



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DESIRE────淑女としての礼節

 傷心の先輩をなんとか宥めて、僕たちが『ERy(エリィ)』を後にする頃には、もう午後十六時近くになっていた。

 

 最初訪れた時のように、『金色の街』としての姿を取り戻していくラディウスの街道を僕たち四人は歩いていく。

 

「明日、私とブレイズさんはこの街に観光として訪れた富豪の姉妹で、ウインドアさんとサクラさんはその執事という設定で舞踏会(パーティー)に参加します」

 

 歩きながら、全ての決着がつく明日についてフィーリアさんが説明する。

 

「ですので、変装がバレないように動かないといけんですけど……まあ、私とサクラさんは名前だけ目立って顔とかはあまり知られていないですし、ブレイズさんは性別やら容姿やら全部が変わってますし、ウインドアさんは知名度的には無問題なので、よほどのことがない限り気づかれはしないと思います」

 

「よほどのことがない限り、ですか……」

 

「はい」

 

 確かに彼女の言う通り、僕も先輩を除いた残り二人の《SS》冒険者(ランカー)が、『極剣聖』と『天魔王』という異名で呼ばれていることは知っていた。だがあくまでもそれだけで、その顔や姿などは全く知らなかった。

 

 名前だけが独り歩きしている──このような言い方はあまりしたくないが、確かにその通りだった。であれば気をつけるのは──

 

「ですので、一番気をつけるべきなのは私たち四人が冒険者だと気づかれることです」

 

 ──僕が頭の中でその結論を出すよりも早く、フィーリアさんは口に出していた。そう、僕たちが一番気をつけなければならないのはそこだ。今、ギルザ=ヴェディスが最も警戒しているだろう存在は僕たち冒険者なのだろうから。

 

「とは言っても特に怪しい動きをしなければいいだけの話です。……なんですが」

 

 そう言って、フィーリアさんは僕の隣で歩く先輩に顔を向けた。

 

「ブレイズさん。問題はあなたです」

 

「え?」

 

 唐突にそんなことを言われた先輩が抗議するかのように戸惑った声を上げる。

 

「お、俺が問題ってどう「言葉遣いです」……こ、ことば…づかい…?」

 

 先輩の言葉を遮って、フィーリアさんが己の指先を先輩の眼前に突きつける。尚のこと困惑する先輩に、彼女は憤慨するように続けた。

 

「言葉遣いですよ言葉遣い!女の子があんな乱暴な言葉遣いしたら駄目でしょう!?」

 

 ──ああ……。

 

 フィーリアさんの言葉に、僕は心の中で頷く。女の子、それも貴族なら、先輩の言葉遣いなど論外だろう。だが、それは仕方のないことだ。

 

 そもそもの話、先輩は元は()なのだ。元が男である以上、否応なしにも乱雑な言葉遣いになってしまうものだ。

 

 なので当然先輩も言い訳をするが──

 

「お、女の子って……そもそも俺は「その一人称もです!女の子が自分のこと『俺』って呼びますか?呼びませんよ普通!」いや、だ、だから……」

 

 ──それを素直に聞き入れるほど、フィーリアさんは甘くなかった。

 

「とにかく、今問題点を挙げるならあなたの存在ですよブレイズさん。今ならまだしも、あの服装(ドレス)でその言葉遣いはまずいです。違和感しかありません」

 

 嘆息を混じえて、すっかり呆れた声色でフィーリアさんはそう言って、それから──何故か不気味なくらいに、にこやかな笑顔を浮かべた。

 

「ですので調きょ……矯正しましょう」

 

「うぇ?」

 

 先ほどから戸惑い続けている先輩を無視して、次にフィーリアさんは僕の方に顔を向いた。

 

「なのでウインドアさん。今夜、ブレイズさんをお借りしますね?」

 

 何故だろう。彼女は今、笑顔を浮かべているはずなのに、背筋が凍るような恐怖と威圧感しか感じられない。

 

 ──断ったら殺される……!

 

「わ、わかりました。先輩をお貸しします」

 

「んなっ!?ちょ、クラ「わぁありがとうございますウインドアさん!私、話のわかる方は大好きです!」

 

 またしても先輩の言葉を遮って、フィーリアさんはそう言うと少しの抵抗も許さず僕の隣を歩いていた先輩の腕を掴み、瞬く間に自分の隣にへと移動させた。

 

「さあブレイズさん。私が淑女(レディ)というものを徹底的に叩き込んであげますからね」

 

「ざ、ざっけんな!だから俺は

 

 先輩がその言葉を言い終える前に────瞬時にしてフィーリアさんと共にこの場から姿を消してしまった。恐らく……彼女が【転移】を使ったのだろう。

 

 ──すみません先輩本当にすみません……!

 

 いつしかの既視感(デジャヴ)を感じながら、僕は心の中で必死に先輩に対して謝罪を繰り返す。僕とて、やはりまだ命は惜しい。

 

 また先輩を売ってしまった罪悪感に精神を磨り潰される中、呆然と立ち尽くしていたサクラさんが口を開く。

 

「……しまった。伝え忘れてしまったな」

 

 そう呟くや否や、彼女は僕の方に顔を向ける。

 

「すまんウインドア。フィーリアに……いや、もういいか。私は少し寄り道をしてからホテルに戻る。まあそう遅くはならないから、心配はしないでくれ」

 

「え…?あ、はい。わかりました」

 

「ああ。ではな」

 

 サクラさんはそれだけ言うと、ホテルとは別方向に向かって歩いて行ってしまった。

 

 

 

「…………とりあえず、ホテルに戻るか……」



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DESIRE────とある酒場での一幕

 空を茜に染め上げ、傾いていた太陽は沈み切った。さすれば次に昇るのは月である。

 

 今宵の月は満月。完全な球体となったそれが浮かび、幾数千個の綺羅星と共に黒々とした夜空を飾り上げる。

 

 そう、朝昼夕が終わりを告げて、夜が()た。金色(ラディウス)が最も輝ける時間が、ようやく訪たのだ。

 

 燦然と煌びやかに。映すもの全てが強光を放つ豪奢絢爛な街並み。そして自由奔放に跋扈する人々。

 

 その誰もがスーツやドレスを身に纏い、日々ひた隠していた己が欲望を解き放つ。

 

 

 嗚呼、今日も此処は欲が渦巻いている────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあぁ~~…………」

 

 何処までも昏く沈んだため息が、長々と垂れ流されて、やがて宙に溶けて霧散する。そしてそれと同時に半分ほどの琥珀色の液体が注がれていたグラスが乱暴な手つきで持ち上げられ、その縁が薄赤色の唇に触れた途端、グイッと一気に傾けられた。

 

 薄く開かれた隙間に、グラスの中身が流れ込む。半分とはいえ、それなりにあった量の液体が、瞬く間に消え去ってしまった。

 

「んっあぁぁ……」

 

 瞬間焼けつくような感覚が喉を襲うが、大して気にならない。寧ろその感覚が心地良い。今、この時を自分が生きているのだという確かな実感を得られるのだから。

 

 味わうことなど眼中無視した煽り飲みを終えて、ダンッと叩きつけるようにグラスをカウンターに置く。本来ならば店主から窘められかねない行為だったが、店が店だからか特に言及はされなかった。

 

「……………なにやってんだろうなあ、あたし」

 

 カウンターに突っ伏して、切実に言葉を零す。その声は、若干の震えを孕んでいた。

 

 ここは酒場(BAR)butterfly(バタフライ)』。ラディウスに多く点在する酒場の中でも、常連が通う隠れた名店である。

 

 そして今、この酒場のカウンターに突っ伏す女性の名はメアリ。メアリ=フランソワ。その年齢、二十二歳。

 

 生まれ故郷はファース大陸にある田舎町。十八歳の時に夢を叶えるため、彼女はこの街に訪れた。そうして、四年という月日が流れたが──その結果がこれである。

 

「なんとか女優にはなれたけど、仕事は全然ないし、いつまで経っても無名のままだし……はあー……」

 

 蜜柑色の瞳を潤ませ、メアリは陰鬱としたため息を吐き続ける。人生そう上手くはないとは常識であるが、ここまでとは彼女も思っていなかった。

 

「もう田舎に帰っちゃおうかなー……」

 

 そうぼやきながら、もう一杯を頼もうとしたその時だった。

 

 スッ──唐突に、横からグラスが流された。

 

「…………え?」

 

「あちらのお客様からです」

 

 困惑しているメアリに店主(マスター)が告げる。横を見やれば──いつからそこにいたのか、女性が座っていた。

 

 変わった格好の女性であった。柔らかで厚みの感じる布の衣服……確かザドヴァ大陸の極東特有の、キモノという名前のものだったはず。

 

 ──なんて綺麗な人……。

 

 同性ということを忘れて、思わずメアリは見惚れてしまう。そのキモノの女性は実に美貌的で、ゾクリとしてしまうような、例えるなら刃物のような美麗さを醸し出していた。

 

 我を忘れてその顔を見つめていると、その女性もこちらの方に向いた。

 

「あっ…す、すみません」

 

 慌てて謝罪し顔を逸らす。が、

 

「別に謝らなくてもいい。……お隣、失礼してもよろしいかな?」

 

 逸らし終える前に、いつの間にか座っていた席からすぐ傍にまで歩み寄っていた女性にそう訊かれてしまった。その声音も鋭く研ぎ澄まされており、しかしそれでいて酷く優しくこちらの耳朶を打つ。

 

「どどどどうぞお構いなくぅうっ!」

 

 相手は同性だというのに激しくときめいてしまう自分を感じながら、顔を真っ赤にしてメアリは声が裏返るのも構わずそう返す。そんな彼女に対して、キモノ姿の女性は柔かに、爽やかな笑顔を送った。

 

「ありがとう。では失礼」

 

 そうしてメアリの真横の席に座る。瞬間、メアリの鼻腔を、仄かに甘い香りが擦り上げた。

 

 ──ひゃあああああああああっ

 

 想像だにしない状況に、遂に彼女は暴走しかけたが、鉄の理性でなんとか抑える。平常心を保つことを最優先とし、高鳴ってしまった心を落ち着かせようとする彼女に、キモノ姿の女性は話しかける。

 

「私はサクラという。もしよかったら、君の名を聞かせてほしいな」

 

「あたっあたしの名前ですか!?メメ、メアリって言います!」

 

「メアリか。可愛らしい名前だ」

 

「かわ、可愛いらしいだなんて、そんな」

 

 慌てふためくメアリにキモノの女性──サクラは微笑みながらも、次に憂いるような表情を浮かべた。

 

「実は先ほどから君の様子を見ていてね……君のようなお嬢さんが自棄になって酒を飲むのは感心できないな」

 

「そ、それは……その、すみません……」

 

 サクラに指摘されて、メアリは羞恥と気まずさに板挟みにされてしまう。こんな綺麗な女性に、自分のあんな醜態を見られてしまっていたのだ。

 

 ──恥ずかしい……穴があったら入りたいとはこのことね……。

 

 俯くメアリに、サクラは優しげに語りかける。

 

「謝る必要はない。寧ろ謝罪をするのは私の方さ。お節介を焼くためとはいえ、乙女の見せたくない姿をまじまじと眺めてしまった。すまない──けど、今日はその一杯で終わりにしてほしい」

 

 そう言って、サクラは立ち上がった。それから店主に一言告げる。

 

「店主。勘定を」

 

「かしこまりました。こちらになります」

 

 酒の代金を店主に渡し、そして店主からサクラは一枚の紙を受け取った。その紙を一瞥して、彼女はそれを懐にしまい込む。

 

 そうして踵を返し、店内から立ち去る──その直前、サクラは振り返った。

 

「それとこれもお節介になってしまうが、悩みというのは誰もが抱え込む。それは当然のこと──しかしだからといって悩み過ぎるのはよくない。いっそのこと、開き直ってしまうのも一つの手だと私は考えるよ」

 

 バタン──それを最後に、サクラは店から去っていった。

 

「………………開き、直る」

 

 彼女の背中を見送って、メアリはそう呟きながら彼女から送られたグラスを覗き見る。そのグラスを満たしていたのは、自分の瞳と同じ蜜柑色の液体。

 

「……そうね。そうよね。あの人の言う通り──いっそのこと、開き直ってしまおうかしら」

 

 そう言って、メアリはグラスを傾け、それを飲み干すと席から立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから数年後、ラディウスにてとある舞台女優が話題となる。その名をメアリ=フランソワ。

 

 たとえ遥か格上の主演者に対しても、歯に衣着せぬ己の全てをぶつけるかのような演技が話題を呼び、見事舞台『貧民街の貴女』の主演に抜擢されるが、そんな未来を現在の彼女が知る由もない。



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DESIRE────先輩からのご褒美?

 なんの前触れもなく、本当に突然に、意識が覚醒した。

 

「………………ん……?」

 

 少し重い瞼をゆっくり開くと、真っ先に視界に飛び込んだのは闇だった。それはあまりにも濃くて、一寸先すら見えない、闇。

 

 ──どこだ、ここ……。

 

 全く見覚えのない、そして全くの予想外な光景に、僕の脳内は困惑で埋め尽くされる。それでもとりあえず動こうと、半ば無意識に腕を上げる──ことはできなかった。

 

「え?」

 

 何度も上げようとするが、僅かに揺れるだけでそれ以上はなにもできない。ならば足は、と足も動かそうとするが、同様の結果に終わる。

 

 それから少し遅れて、手首と足首それぞれに、なにか縄が擦れるような感触がすることに気づいた。

 

 ──……今、僕は縛られているのか……?

 

 そう思うと同時に、自分が今どんな体勢になっているのかも気づく。どうやら椅子らしき物体に座っている、というよりは座らされているらしい。

 

 ここは一体どこなのか。そもそも何故自分は椅子に拘束されているのか──唐突過ぎる状況と情報量に、僕はただひたすら戸惑い、困惑することしかできない。

 

 とりあえず今はこの拘束から逃れようと方法を考える──その時だった。

 

 カツン──不意に、前方からそんな足音が響いてきた。

 

 ──あ、足音?誰か、こっちに来る?

 

 カツン、カツンと。ゆっくりとではあるが、その足音はこちらに近づいてきている。音の質からして、足音の主はどうやらハイヒールを履いているらしい。

 

 謎の状況と、近づく謎の足音。それらの要素が重なり、流石の僕も恐怖感を覚えてしまう。思わず身構えていると、やがてその足音の主が、濃厚な闇の中から浮き上がるように、姿を露わにした。

 

「………………え」

 

 そんな間の抜けた声が、僕の口から滑り落ちる。足音の主は、これまた全くの、予想だにしない人物だった。

 

 

 

「よ、目ぇ覚めたみたいだな──クラハ」

 

 

 

 呆然とする僕に、そうラグナ先輩(・・・・・・)は────あのゴシックドレス(・・・・・・・)姿()のラグナ先輩は声をかけた。

 

「せ、先輩?なんで、その服装を……?」

 

 慌てる僕に対して、先輩は落ち着きを払った態度で──何処か揶揄(からか)うような笑みを薄く浮かべて、再度その口を開く。

 

「ああ、この服か?また見てもらいたくてさ──お前に、な」

 

 そしてもう一歩、先輩は僕の方に歩み寄った。身体を傾ければ、届きそうな距離から、先輩が続ける。

 

「どうだ?この服、似合ってるか?それともやっぱ……似合ってねえか?」

 

 そう言いながら先輩は、ゴシックドレスで着飾った己を──女の子(・・・)としての己を僕に見せつけてくる。

 

 僕はといえば、ただひたすらに戸惑い、困惑し、そして狼狽えてしまう。だって、あの先輩が、あのラグナ先輩が、自ら進んで女の子の服を着て、まるで女の子がするような質問をこちらに投げかけた。

 

 その事実が、目の前の現実が僕をどうしようもなく、動揺させてくる。

 

「そ、それは」

 

「それは?」

 

「その」

 

「おう」

 

 ──お、女の子だ……今の先輩、何処からどう見ても、女の子だ……!?

 

 狼狽えまくる僕の、意味を成さない言葉にもきっちりと相槌を返すその姿は、まさしく女の子。例えるならそう──幼馴染を揶揄う、幼馴染の女の子。

 

 依然としてラグナ先輩はこちらを揶揄うような、小悪魔のような笑みを浮かべたまま、途絶えてしまった僕の言葉を待っている。手玉に取られているような、いや取られているのを自覚して、僕は心の奥底から羞恥心のようなものが滲み出てくるのを感じた。

 

「………………」

 

「………………」

 

 僕と先輩の間で沈黙が流れる。それはとても気まずい沈黙で、やがて先に僕が堪えられなくなってしまった。

 

「か、可愛い……です。と、とても。はい」

 

 たったそれだけの、なんてことのない、正直な賞賛。心からの、感想。だと、いうのに。

 

 ──か、顔が熱い……凄く、熱い……!

 

 何故か今まで生きてきた人生の中で、最大の羞恥が僕を襲っている。う、うおおぉ……。

 

「……ふーん。可愛いんだ、俺」

 

 僕の言葉を確かめるように、先輩はそう呟く。それから浮かべていた笑みを──にやり、と。妖しげに歪めた。

 

 ──な、なんだ?

 

 先ほどまでの揶揄うような、小悪魔的微笑ではない。まるで獲物を見定めた、獣のような──狩る存在(モノ)の、捕食者の笑み。これから行えることが愉しみで仕方がないという、加虐者(サディスト)の微笑み。

 

 スッ、と。琥珀色の双眸を細めて。

 

「なあ、クラハ」

 

 先輩が僕の名前を呼ぶ。その声は、口調こそ普段通りだったが、今まで聞いたことのないくらいに柔らかで、僕の鼓膜を優しく震わしてくれる。

 

 だが、それが僕をより一層激しく動揺させた。

 

「正直なお前に、あげてやるよ──ご褒美」

 

 そう言うや否や、先輩は──ドレスの両裾を摘んだ。

 

「…………へ?」

 

 先輩のその言葉と行動に、僕はまた間の抜けた声を漏らす。というか、今現在目の前で起こっていることに、理解が追いつかない。

 

 ──ごほうび……?ご褒美?先輩が、僕に?いやそれよりもなんでこの人はドレスの裾なんかを……?

 

 混乱し始める僕をよそに、先輩が言う。

 

「言っとくけどさぁ……()だけじゃねえんだよな、女の格好してんの」

 

 言いながら、先輩は持ち上げる。ドレスの裾を、徐々に、徐々に。ゆっくりと、先輩の細くしなやかで、真白な生足が露わになっていく。

 

 その光景から目が離せなくて、ただただそれを見つめることしかできないでいる僕に、先輩が続ける。

 

「見せてやるよ──こん中」

 

 裾を持ち上げる手は止まらない。生足だけでなく、もっと上──見るからに柔らかそうで、それはもう素晴らしく極上な感触が楽しめるだろう、太腿すらも外気に晒された。

 

 しかし、それでも──手は止まらない。もっと、もっと上へ。ドレスの裾はもっと上に引き上げられて、たくし上げられていく。

 

 そして。やがて、僕の視界を─────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だっ、駄目ですよ先輩!?それ以上はいけない!!」

 

 バッ──そう叫びながら、僕はベットから飛び起きた。

 

「…………………………あ、れ……?」

 

 遅れて、周囲を見渡す。先ほどまでの謎の空間ではなく、今では見慣れてしまったホテルの部屋。

 

 それからゆっくりと隣のベッドに目を向けるが、そこには誰もいない。今、この部屋には僕一人しかない。先輩なら姿など、影一つもない。

 

「……………………………………ゆ、夢……だった、のか」

 

 コンコン──僕がそう察するのと同時に、不意にドアをノックする音が響いた。

 

「ウインドア、まだ起きているか?」

 

 そして、それに遅れてサクラさんの声が僕の鼓膜を静かに震わした。



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DESIRE────夜行海景

「夜中に突然すまなかったな。ウインドア」

 

「い、いえいえ全然気にしなくても大丈夫です。僕も丁度起きたところでしたし」

 

 などという会話を交わしながら、僕とサクラさんはホテルの廊下を並んで歩く。ちなみに今の時刻は午後の二十一時である。

 

 この時間ともなると、僕たちのように廊下を歩く他の宿泊客もほぼ見ない。現に僕とサクラさんの二人きりだ。

 

 サクラさんという、他に二人とていないだろう美女と二人きりの状況。普通であれば男としてこれ以上に喜ばしいことはない状況なのだが、生憎今の僕にそう思う余裕などなかった。

 

 サクラの隣で歩きながら、僕は内心頭を抱えていた。

 

 ──まさか、先輩で……よりにもよってあんな夢を見てしまうなんて……僕は、最低だ。

 

 自己嫌悪と罪悪感に身も心も押し潰されそうである。まあ確かに先輩と同棲を始めてから劣情というか鬱憤というかなんかもうそういう色々なものを溜め込んでしまっているが、先輩は先輩なので決して間違いなど起こさないよう、自分なりにできるだけ気をつけていた。あくまでも僕はそのつもりだった。

 

 …………つい先日、先輩の挑発に堪え切れなくなって思わず一線を超えかけそうになったが、それはまあノーカウントということで。

 

 ともかく、気をつけてはいたのだ。…………いたはず、だったのだ。

 

 ──………………でも、可愛かったなあ……あの先輩。

 

 いけないとわかってはいる。わかっているが、どうしても思い返してしまう。先ほど見てしまった、最低な夢の内容を。

 

 あれほど忌避していたはずの、女の子の服を自ら着て、僕に評価を求める先輩。男を誘うような、挑発的な笑みを浮かべる先輩。『ご褒美』と称して、ドレスの裾を摘んで、ゆっくりと持ち上げ、たくし上げようとしていた先輩。視界を埋める、細くしなやかで見事な脚線美を描く生足。視界を奪う、対照的に程よくむっちりとした百点満点の太腿。

 

 それら全てを赤裸々に僕に晒し上げ、そしてなお手を止めることはなかった。そして遂に────というところで、目が覚めた。

 

「…………」

 

 束の間想起される、女の子になった先輩と初めて会ったあの日。お世辞にも厚いとは言えない麻のローブ一枚纏っただけで、その下にはなにも着ていないという衝撃的カミングアウトをぶちかました先輩に、無理矢理にでも服を買ったあの日。

 

 ──ふ、服なら女物でも百歩譲って着てやる!けど、その下までは絶対に認めねえからなっ!?──

 

 その発言と共にまるで水浴びをなにがなんでも拒否する猫の如く、抵抗した先輩。しかし結局僕の決死の懇願に根負けし、一番女っ気のないものを着用することにした先輩。

 

 その先輩が、そんな先輩がわざわざ『ご褒美』と称してまで、僕に見せつけようとした──ドレスの中身(した)。果たして、そこには一体どんな光景が秘められていたのだろう。

 

 男であれば、誰しもが疑問を浮かべ、、興味を持ち、期待を抱く花の園。乙女がひた隠す、見えざる楽園(エデン)

 

 ──無難に考えるなら、白の無地。シンプルに尽きるもの……しかし、あの服はフィーリアさんが用意した、謂わばオーダーメイド。そして彼女の周到ぶりを考える限り、恐らくあの服に合わせた下着類もちゃんと用意している……はず。

 

 その場合、先輩のことだから必死にそれらを身につけることも、穿くことにも抵抗したはずだ。だがフィーリアさんのことだ。恐らくではあるが、無理矢理にでも先輩に着用させただろう。

 

 ──あのゴシックドレスに合わせるとしたら、僕の感性(センス)ならありきたりだが赤か黒、だな。それで生地は……まあ……薄い方が好きだな、うん。

 

 考えれば考えるほど、僕は没頭していく。先輩のドレスの中身。その無限に広がる可能性(コスモ)を探求するために。

 

 そして────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、ウインドア。聞いているのか?」

 

 ──という、若干の苛立ちを混ぜたサクラさんの声に、遥かなる旅路に赴こうとしていた僕の意識は引き戻された。

 

「えっ!?あ、は、はい!どどうしましたサクラさん?」

 

 思い切り動揺し上擦る僕の声に、サクラさんは少し呆れるように吐息を漏らす。それから僕にこう言った。

 

「いや……ふと、君から邪念のようなものを感じてね。なにか考え事をしていたようだが、変なことでも妄想してたのかい?」

 

 サクラさんにそう言われ、僕は思わず心臓を飛び跳ねさせた。まさか先輩の下着(パンツ)について考えていたのを、見抜かれているとは。

 

 冷や汗を流しつつも、なんとか僕は返答する──前に、サクラさんがなにかを察したような表情を浮かべた。

 

「まあ君も男だ。そういう妄想の一つや二つ、するものか」

 

「違っ…いや、えっと……そ、そうですね。はい……」

 

 僕としては否定したかったが、話が拗れると思ったので泣く泣くサクラさんの言葉に頷いた。

 

 ──とりあえず、話題を変えよう。

 

「そ、それよりもサクラさん。こんな時間に、どこに向かうつもりなんですか?それも、僕なんかを誘って……」

 

 確かに夜はラディウスの本調子。最も街が活気に溢れる時間帯である。しかしサクラさんはあの街で遊ぶような人ではないし、僕だってそういう人間でもない。

 

 そんな彼女がわざわざ僕を誘って、一体どこに赴こうというのか──少しの間を置いてから、サクラさんは口を開いた。

 

「海を眺めに、な」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ざあざあと、波の音がする。それは心地良くて、聴く者の心を安らがさせる音色である。

 

 夜闇が溶け込んだ海を横目に、月明かりに薄く照らされた砂浜を僕とサクラさんは歩く。

 

「夜の海というのも中々風情がある。暗く不気味に見えるが、故に神秘的だ。君もそう思わないか、ウインドア?」

 

 こちらに背を向けて、僕の前を歩くサクラさんがそう訊いてくる。確かにその言う通りで、暗い海というのは恐ろしくもあって、だが夜空に浮かぶ星々を映すその景色は、とても神秘的だった。

 

「……はい。僕もそう思いますよ」

 

 そうして、僕とサクラさんは夜の砂浜を歩く。会話などは挟まず、この場に漂う静寂を味わいながら、ただ歩いていく。

 

 ────しかし、それは突然に、終わりを告げる。

 

「この辺りでいいか」

 

 不意に、そう言って。僕の前を歩いていたサクラさんは立ち止まった。それから少し腰を下ろして、己の足元に手を伸ばす。そこにあったのは、流されてきたのだろう少し細めの木の棒。

 

 それをサクラさんは拾い上げて、僕に背中を向けたまま数回、軽く振るう。彼女のその奇妙な行動の意味がわからず、一体なにをしているのだろうと訊く──直前だった。

 

 今まで背中を向けていたサクラさんが、ゆっくりとこちらに振り向いて、そして──

 

 

 

「剣を抜け。ウインドア」

 

 

 

 ──そう言いながら、拾い上げた木の棒を僕に突きつけた。



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DESIRE────『極剣聖』との腕試し

「剣を抜け。ウインドア」

 

 そのサクラさんの言葉はあまりにも唐突で。僕はそれをただの音としてしか、最初は受け取れなかった。

 

 数秒を挟んで、脳がそれを言葉であると理解する。それと同時に、込められた意味も理解する。理解して──尚のこと僕は戸惑った。

 

「け、剣を抜けって……急にどうしたんですかサクラさん?一体、どういう……」

 

 動揺する僕に、依然として木の棒を突きつけたまま、彼女は答える。

 

「そのままの意味だ。……ウインドア、ちょっとした腕試しをしようじゃないか」

 

「う、腕試し?」

 

「ああ、腕試しだよ」

 

 サクラさんの言葉に、僕は困惑する他ない。唖然としてしまう僕に、彼女は──

 

「内容は至って単純だ。これから私はこの木の棒を得物として、君に突きを放つ。それを君は受ける──ほら、単純だろう?」

 

 ──こちらを揶揄うような、悪戯めいた笑みと共に、サクラさんはとんでもないことを宣った。

 

 数秒ほどの沈黙を挟んだのち、

 

「い、いやいや!そ、そんなの無理ですよ!?僕にサクラさんの一撃を受けろということですよね?そんなの絶対に無理ですって!」

 

 と、思わず必死になって僕は返した。日々の言動から忘れてしまいそうになるが、彼女は──サクラ=アザミヤは、これでも世界に三人(今では実質二人)しかいないと言われる、最強の《SS》冒険者(ランカー)の一人。数々の武士の頂点に座する、『極剣聖』。

 

 そんな彼女が放つ突きの一撃など、たかが一《S》冒険者に過ぎない僕なんかが到底受けられる訳がない。

 

 なのでその場に土下座する勢いでそう返したのだが──

 

「大丈夫。ちゃんと手加減はするさ。最悪の場合になっても、病院送りになるだけで済ます」

 

 ──と、無慈悲にもそう返された。

 

「全然大丈夫じゃないですよそれ!?」

 

 半ば絶叫するように言う僕に、サクラさんはまるで春に吹く爽やかな風のように、

 

「君に拒否権はない」

 

 そう断言された。

 

「そ、そんな……」

 

「男だろう?ならば潔く覚悟を決めて、剣を抜け」

 

 どうやら本当に、サクラさんはその腕試しという名の無謀な挑戦を僕にさせる気らしい。もうこれ以上抵抗は無駄だと悟り、内心泣きながら僕は黙って、腰に下げた剣を、鞘から抜いた。

 

 ──一体この人はなにを考えているんだ。明日はギルザ=ヴェディスと直接対決するっていうのに……まさか、これは僕に対する、遠回しの戦力外通告なのか……?

 

 まあそう考えるならこの状況に納得いく。本来、このクエストに僕や先輩など、全く必要ないのだから。

 

「よし。いいか、私の一撃を受け止められたなら君の勝ち。受け止められなかったら私の勝ちだ」

 

「…………はい」

 

 こうなってしまった以上、もうやるしかない。半ば自棄(やけ)になって、サクラさん相手だというのに僕はそんな投げやりな声で返す。

 

 それに対して彼女は腰を少し低くさせ、木の棒を構えた。

 

 それは数秒だったか、数分だったか。僅かながらに重苦しい、息が詰まるような沈黙が流れた。そして────やはりその時(・・・)も、突然訪れた。

 

「行くぞ」

 

 瞬間、サクラさんの足元が爆発した。大量の砂が宙に巻き上げられ、砂埃となって舞う。

 

 もう既に、そこにサクラさんは立っていなかった。その現実を認識すると同時に──彼女は、僕の眼前にまで迫っていた。

 

 ──…………ああ、やっぱり無理だった。

 

 僕の視界を覆う、焦げ茶色の先端。遅れてそれがサクラさんが持つ木の棒だと理解する。したところで、無意味なのだが。

 

 ──病院送り、かぁ。せめて、骨折くらいで済むかな……?

 

 諦観の念を抱きながら、心の中でため息を吐く。吐いて──ふと、目の前の景色に違和感を感じた。

 

 何故だろう。こちらに迫る木の棒が、やけに遅く感じる。というより────視界に映る全て(・・・・・・)が、まるで流れる雲のように、遅く見える。

 

 宙に舞って、漂う砂埃も。夜闇に紛れて揺れる、サクラさんの黒髪も。不思議なほどにゆっくりに、かつ鮮明過ぎるほどはっきり見える。

 

 それを自覚した瞬間、気づけば自分は──剣を胸の前に掲げていた。

 

 

 

 

 

 そして、僕の意識は掻き消えた。



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DESIRE────柔な一撃を贈ったつもりもない

「………い。おい、ウインドア。起きろ、大丈夫か?」

 

 そんな声が聞こえてくると同時に、身体を揺さぶられて、いつの間にか閉じてしまっていた瞼をゆっくり開くと、目の前にはこちらのことを心配そうに覗き込むサクラさんの顔があった。

 

「……サ、クラ、さん…?」

 

「無事、気を取り戻してくれたか。良かった」

 

 そう言って、今度は安堵の表情を浮かべるサクラさん。そんな彼女の様子を不思議になって眺めて──遅れて、僕は今横になって倒れていることに気がついた。

 

 背中に触れる細やかな砂の感触を感じながら、先ほどのことを思い出す。

 

 ──そうだ、僕は確かこの人に腕試しをすることになって、それから……?

 

 そこで不意に、右腕に強烈な痺れが走った。驚いて思わず動かそうとしたが、全くもって動かせなかった。

 

 ──う、腕が全然動かせない……。

 

 そのことに動揺していると、安堵した表情から一転申し訳なさそうにしながら、サクラさんが僕に手を差し伸べてくれた。

 

「こんなことに突然付き合わせて本当にすまない、ウインドア。立てるか?」

 

「え、ええ」

 

 とりあえず右腕はしばらく動かせそうにないので、左腕を上げて、僕は彼女の手を掴む。そうして僕はようやく砂浜から身体を起こせた。

 

「しかし、目立った怪我はないようで安心したよ」

 

「ははは……そう、ですね」

 

 確かに右腕は動かせなかったが、骨折はしていないらしい。時間もある程度経ち、心に幾らか余裕ができたからか直前の記憶も戻ってきた。

 

 ──そうだった。僕はこの人の突きを受けて、それから気を失ったんだった。……それにしても、よく無事だったな、僕。

 

 手加減をしてくれていたとはいえ、あの『極剣聖』の突きを受けたのだ。腕が木っ端微塵にならなくとも、最低でも骨折は免れないと思っていたのだが……右腕を見やれば、異常はどこにも見られない。どうやら僕の身体は、僕が思っていた以上に頑丈だったらしい。

 

 ──けど、一体なんだったんだ。あの感覚は……?

 

 思い返す、サクラさんの突きが炸裂する直前の景色。あの時、確かに僕が捉える視界の全てが、あくびを漏らすほどに遅く見えた──無論、サクラさんの動きまでもが。

 

 結果として咄嗟に右腕を上げ、握っていた剣を胸の前に掲げた訳だが、その瞬間右腕全体にとんでもない圧力が伝わり、気がつけば僕は意識を手放していた。

 

 ──……そういえば、僕の剣は?

 

 今、僕の右手にはなにも握られていない。そのことに気づき慌てて周囲を見渡すと、サクラさんが口を開いた。

 

「君の剣ならここにある」

 

 その言葉に見てみれば、彼女は僕の剣を握っていた。

 

「確認したが、この剣も無事だったよ」

 

「す、すみません。ありがとうございます」

 

 頭を下げながら、僕は彼女から剣を受け取る。それから慣れない左腕を使って、慎重に再び鞘に納めた。

 

 僕が剣を納めたのを見計らって、サクラさんは優しく穏やかな口調で言ってきた。

 

「さて、これで私の気は済んだ。再三言わせてもらうが、こんなことに付き合わせて申し訳なかったな、ウインドア。ホテルに戻るのなら手を貸すよ」

 

「いや、サクラさんにそこまでさせる訳にはいきませんよ。僕は大丈夫ですから」

 

 戦々恐々としながら答える僕に、サクラさんはやはり申し訳なさそうにしていたが、そうかと僕に言った。

 

「では自分はホテルに戻りますね」

 

「ああ。私はもう少し海を眺めてから戻るとするよ」

 

「了解です」

 

 と、社交辞令のような会話をして、僕とサクラさんの夜は終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラハが去って、夜の砂浜に独り残されたサクラ。数分ほど静かに押しては引いていく海の波を眺めて、ふと唐突に彼女は口を開いた。

 

「もうそろそろ出てきたらどうだ?──フィーリア」

 

 その言葉が宙に放り出されて、数秒。不意にサクラのすぐ隣から、闇から浮き上がるようにして一人の少女──フィーリアが、その姿を現した。

 

 突如としてこの場に出現した彼女は、呆れたようにため息を吐いた。

 

「どうだ、じゃないですよ。なにやってんですか貴女は」

 

「腕試し」

 

「する相手を考えてください馬鹿」

 

 フィーリアから咎められて、サクラは肩を竦める。そんな彼女の様子になおさら呆れながら、フィーリアは続ける。

 

「全く。もしこれでウインドアさんを本当に病院送りにしてたらどうするつもりだったんですか。今回のクエストは人手が大事なんですよ、人手が」

 

「だが結果として彼は見事私の突きを受け止めた。しかも無傷で、な」

 

「……受け止めた、ですか」

 

 胡乱げな表情を、フィーリアは浮かべる。

 

「立っていた場所から、数メートルも吹っ飛ばされて……あれで受け止めたって言えるんですかねえ」

 

 まあ、あれで無傷だったことは素直に評価しますけど──そう付け加えたフィーリアに、サクラは頷く。

 

「けど、ウインドアさんはあくまでも手加減した突きを受けただけに過ぎません。……手加減し過ぎたんじゃないんですか、『極剣聖』様?」

 

「……………………」

 

 まるで煽るようなフィーリアのその言葉に、サクラはなにも答えない。ただ未だに持っていた木の棒を、軽く宙に翳す。

 

「確かに、私は手加減したさ。……だが」

 

 ザバァァアッ──静寂を破り捨てる、そんな音と共に。夜闇が溶け込んだ海から、突如としてそれ(・・)は現れた。

 

 鮫、である。しかしその大きさは常軌を逸しており、またその鱗もまるで鉄のような光沢を放っている。

 

 〝殲滅級〟、通称『大海のギャング』。メガロヴァニス──それがこの鮫の、魔物の名前であった。

 

 大口を開けて、海から飛び出したメガロヴァニスはサクラめがけて落下してくる。ズラリと並んだ、もはや剣と呼んでもなんら遜色ない歯に、彼女の頭頂部が映り込む。

 

 このままでは間違いなくサクラは喰われる──しかし、彼女はその場から一歩も動かず、

 

 

 

 ヒュン──ただ、手に持っていた木の棒を軽く振るった。

 

 

 

 恐らく、およそそれは常識という概念から、馬鹿げたほどに遠く、遥か遠くかけ離れた光景だっただろう。

 

 そして恐らく、たとえその目で見たとしても、大概の人間はその光景を、現実を受け止められはしない。それほどまでに、馬鹿げていたのだから。

 

 ありのままに、書き記すのなら────割れていた(・・・・・)。砂浜も、海も、空も、宙にいたメガロヴァニスですらも、一切の例外なく、全てが割れていた。

 

 自らの身体を両断されたことに気づくことなく、メガロヴァニスだったものが海に落下する。その様を見届けてから、ゆっくりとサクラは口を開いた。

 

「あんな若造に受け止められるような、柔な一撃を贈ったつもりもない」

 

「……………………」

 

 彼女によって断ち割られた海が、再び一つに戻る光景を見て、フィーリアは一言だけ呟く。

 

「海を割ったっていう話、本当だったんですね」

 

「まあな。では私もホテルに戻るとしよう。いい加減、眠くなってきた」

 

 言いながら、サクラは木の棒を振るう。それだけで二度も彼女の膂力に晒された木の棒は、瞬く間に粒子状に分解され宙に霧散してしまった。

 

 踵を返し、その場から立ち去る──直前、サクラはフィーリアの方にへと振り返った。

 

「そういえば、ラグナ嬢は今どんな感じなんだ?立派な淑女(レディ)に仕立て上げると言っていたが」

 

「はい。順調に進んでますよ──この調子なら、明日にはきっと花も恥じらう乙女になってますよ、ブレイズさん」

 

「………………なあ、フィーリア。今夜は君の部屋で寝かせてくれないか?」

 

「嫌です」

 

「……………………どうしてもか?」

 

「はい」

 

「………………………………そうか」

 

 そうしてしょんぼりと肩を落として、サクラはホテルに戻るのだった。



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DESIRE────ギルザ=ヴェディスという男(その終)

 夜。金色(ラディウス)の豪奢絢爛なる喧騒すらも、全て平等に呑み込む深夜。

 

 とある場所にて、とある男は独り、椅子に座っていた。

 

「………………」

 

 机上に散らされた数十枚の書類を、男は──ギルザ=ヴェディスはただただ、眺めていた。それらを手に取る訳でもなく、それらに筆を加える訳でもなく、それらを破り裂く訳でもなく。ただ、ただ。眺めていた。

 

 眺めて。数分、眺めて────そして、薄く口端を吊り上げさせた。

 

「もうすぐだ」

 

 それは独り言である。誰に対して言った言葉ではない。強いて言うなら、ギルザがギルザ自身に向けて言った、独り言である。

 

「もうすぐで、俺は立つ」

 

 言って、傍らに置いていた真っ赤な林檎を手に取る。手に取った林檎を、ギルザは口元までに近づけて────囓りついた。

 

 しゃくしゃくと。果肉を皮ごと噛み砕いて。磨り潰して。味わいながら、咀嚼し嚥下する。

 

 その一連の動作を終えて、ギルザは言葉を放り出す。

 

「頂点だ。誰にも辿り着けない、誰にも縋らせない、独壇場の頂点に、だ」

 

 瞬間、彼の脳内にて、想起される。己が忘れたい、忘れ難き、忌々しい記憶が。

 

 その記憶が、何時までも。何時までも──────

 

 

 ゴトン──ギルザが、囓った林檎をゴミ箱に放る。

 

 

「頂点に立ち、その時こそ──俺は、ようやく手にすることができるんだ……ハハ、ハハハハ………ハハハハハハ…………!」

 

 嗤い声がこだまする。ギルザ=ヴェディスの嗤い声がこだまする。至悦と独楽(どくらく)に浸った、人として最悪な嗤い声が、こだまする。

 

 数秒。数分続いて────パッと、それは唐突に鳴り止んだ。

 

「入れ」

 

 さっきとは打って変わって、そのギルザの声は恐ろしく平坦で、底冷えしていた。彼の声に遅れて、固く閉ざされていた部屋の扉が、音もなく静かに開けられる。

 

「どうした。報告か?」

 

 ギルザに訊かれ、部屋に戦々恐々と足を踏み入れた部下の一人が返事をし、頷く。

 

「例の準備が整いました、ボス。それと──四匹の鼠についても」

 

「ほう。聞こう」

 

 部下の報告に、ギルザは耳を傾ける。それは時間にして数分のことで、それが終わると、やはり彼は薄く口端を吊り上げさせた。

 

「なるほど。なるほどなあ……まあ、そう来るよなあ」

 

 報告を聞き終えて、ギルザは部下に下がるよう指示する。頭を下げ、部屋から出た部下が扉を閉めるのを見届けて、彼は面白がるような口振りで呟いた。

 

「いいだろう冒険者(ランカー)諸君──精々、勝手に気張ってろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今宵の金色は、いつになく昏く濁っている。



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DESIRE────淑女を覚えた先輩ちゃん

「この屋敷、だな。舞踏会(パーティー)の会場とやらは」

 

「そ、そうみたいですね……」

 

 招待状を眺めているサクラさんの言葉に、萎縮しながら僕は頷く。……原因は、目の前の建造物にあった。

 

 このような建物を豪邸と呼ぶのだろう。凄まじく巨大で、それはもう豪華な屋敷だった。

 

 ──流石は大富豪だな……。

 

 僕はただただ圧倒されてしまうのだが、隣のサクラさんは至って平然である。これが、《S》冒険者(ランカー)と《SS》冒険者との違いなのだろう。やはり僕は、一般庶民となんら変わりはないようだ……。

 

 僕たちがラディウスに訪れて、今日で三日目。そう──今日が、三日目。ギルザ=ヴェディスと、いよいよ対決する時が来たのだ。

 

 時刻は十九時。舞踏会開催三十分前である。

 

「フィーリアはラグナ嬢を連れて、少し遅れて向かうと言っていたが……まだ来る気配はないな」

 

 招待状を懐にしまいながら、サクラさんがそう呟く。彼女の言う通り、今朝ホテルのロビーにてフィーリアさんにそう言われたのだ。

 

 ──すみません。ブレイズさんをもう少しはずか……じゃなくて、淑女のなんたるかを身体に叩き込みたいので、会場には少し遅れて行きますね──

 

 ……余談ではあるが、あの時のフィーリアさんの目は、なんというか、悦に浸る嗜虐者(サディスト)のものになっていた気がする。気がする、だけだが。

 

「流石に開催には遅れないでほしいのだがな」

 

「いやフィーリアさんのことですから、それはないかと」

 

「まあ、それもそうか──む、ウインドア。噂をすればなんとやらだ」

 

 そう言いながら、サクラさんは前方を指差す。その方向に視線をやれば──彼女の言う通り、噂をすればなんとやら。遠目からでも目立つ、パーティードレスに身を纏った白髪の少女と、ゴシックドレスを身に纏った赤髪の少女の二人組がこちらに向かって歩いて来ている。フィーリアさんと、ラグナ先輩だろう。

 

 ──……ん?

 

 

 そこで、僕はフィーリアさんの隣を歩く先輩の様子が少し、おかしいことに気づいた。ただ一体どうおかしいのかはまだわからないのだが……。

 

 しかし。その違和感の正体を、僕はすぐさま掴むことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、遅くなっちゃってすみません」

 

 言いながら、ぺこりとその頭を下げるフィーリアさん。その隣では先輩が立っているのだが──やはりというか、明らかに様子がおかしかった。

 

 まず、雰囲気が一変している。僕が知っている先輩は、どんなことにも動じず堂々としており、それは女の子になっても変わらなかった。

 

 大胆不敵で、どんなことにも臆さない。いつでもどんな時でもマイペースを貫く、天真爛漫で活発で────しかし、今はまるで違う。

 

 まるで小動物のように、少しだけ怯えた表情。普段とはかけ離れた、しっとりとして、大人しく、しおらしい、お淑やかな雰囲気。本当に同じ人物なのかと、疑わずにはいられないほどに、ラグナ先輩は豹変していた。

 

 ──どうしたんだ……?

 

 僕が密かに衝撃(ショック)を受ける最中、不自然なくらいに和かな笑顔のフィーリアさんが続ける。

 

「私って凝り性なんで……どうしても自分が納得できるまで追求しちゃうんですよねえ」

 

 そう言って、フィーリアさんは依然その笑顔のまま、隣にいる先輩にへと顔を向ける。

 

「ほら、ブレイズさん。ウインドアさんに挨拶しないと」

 

 彼女にそう言われて、びくりと先輩は肩を僅かに跳ねさせる。それから、おろおろとわかりやす過ぎるくらいに狼狽え慌て始めた。

 

 ──ほ、本当に一体どうしたんだ……!?

 

 予想の斜め上をいく先輩の態度に、思わず僕も慌ててしまう。

 

「ど、どうしたんですか先輩大丈夫ですか?フィーリアさんも挨拶って一体……」

 

 僕がそう訊くが、フィーリアさんは口を開かず、ただ笑顔のまま、隣の先輩を見つめている。そんな彼女の様子に先輩が気づき、先輩は観念したかのように大人しくなり、僕の方に身体を向けて──

 

「こ、今晩はどうか……よろしく、お願いします。クラハ」

 

 ──そう言って、ドレスの裾を摘んで、ぎこちなく会釈した。

 

「…………え?あ、は……え…!?」

 

 僕は、ただただ驚く他ない。驚愕するしかできない。だって、あの先輩が、あの先輩が敬語を使い、あまつさえまるで貴族の令嬢のように会釈を、僕の目の前でしたのだから。

 

 そこには、もう僕が知っている先輩はいなかった。そこにいたのは──堪え難い羞恥に身を焦がす、素敵なお嬢様だった。

 

「もう殺せ……殺せぇ……」

 

 僕に対してそうするのがよほど恥ずかしかったらしく、蚊の鳴くような声で言いながら、先輩は両手で顔を覆い隠す。……その姿に、微弱な既視感(デジャヴ)を感じるがどうでもいいことだろう。

 

 そんな先輩を、それはもう満足だというように眺めるフィーリアさん。そして僕の隣で僅かながらにサクラさんが呼吸を乱している気がするが、何故そうなっているのか皆目見当もつかない。

 

「では参りましょうか。舞踏会に」

 

 そう言って、僕とサクラさんの間を抜けて、フィーリアさんが先に行く。それに続いて先輩も歩くのだが─またしても、僕は驚かされた。

 

 ──お、大股じゃないだと……!?

 

 別に言及することでもなかったので今まで言っていなかったが、先輩は女の子になった後でも男だった時と変わらず大股で歩いていた。女の子なのにそれははしたないと僕も思ったのだが、流石にそこまで先輩に対して言おうとは思えなかったのだ。

 

 なので今の今まで見て見ぬ振りを続けていたのだが──それがどうしたことか。先輩は今、きちんと女の子らしく、股を開き過ぎることなく歩いている。

 

 ──あの先輩がここまでになるなんて。一体どういう教育をしたんだ、フィーリアさんは……?

 

 ここまでとなると、流石の僕も気になってしまい、前を歩く先輩に僕は声をかけた。

 

「あの、先輩」

 

「ん?どうしたん……ですか、クラハ?」

 

「うぐっ……い、いや。その」

 

 参った。敬語を使う先輩に慣れない。動揺しながらも、僕は訊いてみた。

 

「昨日フィーリアさんからどんな風に淑女(レディ)としての立ち振る舞いを教えてもらったのかな、と」

 

 僕がそう訊くと、先輩はきょとんとした表情を浮かべて────瞬間、ボンッというような擬音が聞こえてきそうな勢いで赤面した。

 

「………………え?」

 

 赤面したまま、黙り込んでしまう先輩。予想外な反応に困惑していると、こちらを面白がるような声音でフィーリアが口を開いた。

 

「駄目ですよぉ、ウインドアさん。女の子にそんなこと訊くなんて、デリカシーが足りませんねえ」

 

「え?え?」

 

 フィーリアさんの言葉に、ますます僕は困惑してしまう。と、その時サクラさんに軽く肩を叩かれた。

 

「ウインドア。乙女の花園に、そう軽々と押し入ってはいけないよ」

 

「………………そうですね。すみませんでした……」



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DESIRE────急変

 外からもわかる通り、屋敷は中も豪華だった。真昼のように明るい大広間には、既に三十人近くの舞踏会(パーティー)の招待者が集まっている。

 

「凄いですね。ここにいる全員が全員、富豪なのか……」

 

「そうですね。それも有名人ばかりですよ。例えば……あ、ほら。あそこにいる殿方は『アバハデンホールディングス』の代表取締役、ゼノン=アバハデンさんです」

 

「え!?あの『アバハデンホールディングス』の……!?」

 

「それにあっちは『コミトミウン』社会長のウィウィ=コミトミウンさん」

 

「ほ、本当に凄い……僕でも知ってる有名人ばかりだ……」

 

 そんな人たちばかりが集まっている場所に、今立っているのだと実感し、今さらながら緊張してしまう。しかしフィーリアさんやサクラさんは至って自然体で、改めて《S》冒険者(ランカー)と《SS》冒険者の格の違いを思い知らされた。

 

 ……ちなみに先輩はというと──

 

「…………」

 

 ──まるで借りてきた猫のように、ガチガチに固まっていた。まあ無理もない。この人は、こういう厳粛とした場所が苦手なのだから。

 

 だが、そんな先輩の様子などお構いなしに、フィーリアさんがその腕を掴んだ。

 

「さて。では私たちは少し挨拶に回ってきますね──ほら、行きますよブレイズさん」

 

「は?えっ、ちょ」

 

 抵抗なんてなんのその。嫌がる先輩を無理矢理引っ張って、フィーリアさんは各方面の大物たちの輪の中に突っ込んでいく。……そろそろ、先輩が不憫に思えてきたが、だからといって僕に助ける手段はない。

 

 ──帰ったら、洋菓子(スウィーツ)でも買ってあげよう。

 

 僕がそう思っていると、不意に軽く肩を叩かれた。叩いたのは言わずもがな、隣のサクラさんである。

 

「ウインドア。少しいいか?」

 

「え?あ、はい。なんですか、サクラさん」

 

 サクラさんにそう訊かれて、僕はそう返す。すると彼女はほんの一瞬だけ──思い詰めるような表情を浮かべた。

 

 ──え……?

 

 しかし本当にそれは一瞬で、すぐに普段通りの表情に戻っていた。

 

「場所を変えよう──君に、話がある」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そ、それは本当なんですか……!?」

 

 大広間から離れた廊下。今、この場所には僕とサクラさんの二人しかいない。

 

 サクラさんの話を聞いて、僕は驚愕し、そして──焦燥に駆られた。

 

 ──もしそうなら、まずい。非常にまずいぞ……!

 

 焦る僕に対して、サクラさんが言う。

 

「落ち着けウインドア。あくまでもこれは可能性の話だ。……まあ、無視はできない可能性なのだが」

 

 そこでだ、と。続けながら、彼女は懐に手を忍ばせ──そこから、一枚の紙を取り出した。見たところどこかの店の領収書(レシート)のようだ。

 

「裏に簡易的な情報と地図が書いてある。……君に確認してもらいたいんだ。本当にこれがただの、可能性に過ぎないものなのかを、ね」

 

 そう言って、その取り出した紙を僕に渡した。やはりそれは領収書で、裏返せば──彼女の言う通り、そこには簡素な文章と地図が書かれていた。

 

 遅れて、何故今彼女がこれを僕に渡したのか、その意味を理解した。

 

「…………そ、それって、つまり」

 

「ああ。つまりそういうことだ」

 

 サクラさんからその紙を受け取り、僕は思わず生唾を飲み込む。不安の重圧が、僕の背中にのしかかってくる。

 

「酷な頼みだとは重々自覚している。だが、今動けるのは君しかいない」

 

 言いながら、申し訳なさそうな表情をサクラさんは僕に送る。対し僕は、受け取った紙に再度視線を流して──懐にへとしまった。

 

「わかりました。やって、みせます」

 

 僕の言葉に、サクラさんは一瞬だけ目を見開かせて、しかしすぐさま安堵するような、落ち着いた微笑を浮かべた。

 

「任せた」

 

 それが、会話の終了だった。僕は踵を返し、全速力で屋敷の出口を目指す。

 

 遅れて────大広間の方から悲鳴のような声が次々と聞こえたが、僕はただ唇を噛み締め、走ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「たく、クラハの奴どこに行ったんだ?」

 

 フィーリアからやっとの思いで逃げ出すことができたラグナは、彼女の目がないのをいいことに、普段通りの口調になりながらクラハを捜していた。理由は単純──こんな場所に、一人でいたくないからである。

 

 ──フィーリアもサクラも、悪い奴じゃないってのはわかってんだけど……わかってんだけどなあ。

 

 毎度毎度注がれるサクラの熱を帯びた眼差しと、フィーリアから昨日受けた仕打ちを思い出し、ぶるりとラグナは身体を震わせる。

 

「……もう、あんな目には遭いたくねえ──って、お?」

 

 そこでようやく、ラグナは見つけた。視線の先、廊下の遠くにクラハと、サクラの姿を。どうやら二人はなにか話し込んでいるようだった。

 

 ──サクラと一緒にいたのか……クラハ。

 

 そう思うと同時に──何故か、胸の奥の締めつけられるような、苦しさにも切なさにも思える、妙な感覚をラグナは抱く。それはこの街に訪れてから、何度か感じた、自分では理解できない未知の感情。

 

それと同時に、クラハに対して沸々と怒りも湧いてきた。

 

 ──俺が大変な目に遭ってんのに、なんであいつは他の女(・・・)なんかと……!

 

 以前のラグナであったら、決してそう思うことはなかっただろう。何故なら、それは────

 

「一発ぶん殴ってやる…!」

 

 己の拳を握り締め、その場から歩き出す──直前だった。

 

 バッ──突如、ラグナの背後から手が伸ばされた。

 

「!?」

 

 声を出す間もなく、布のようなものでラグナは口を塞がれてしまう。瞬間、ラグナの全身から力が抜ける。

 

 

 

 そうして瞬く間に意識も溶かされ──消え失せた。



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DESIRE────First contact

「全く。ブレイズさんったら緊張し過ぎですよ」

 

 ある程度挨拶を終え、独りフィーリアはそう呟く。そうして片手にあるワイングラスを口元に近づけ、傾けた。

 

「…………」

 

 ──あんまり美味しくないですね……。

 

 そんな感想を抱きながら、彼女は自然体を装いながら、周囲を軽く見渡す。標的(ギルザ)の姿は、当然見えない。

 

 ラグナが少し外の空気を吸いたいと言ってから数分経ったのだが、未だ戻る様子がない。やはり一人で行動させるべきではなかったかと、少しだけフィーリアは後悔する。

 

 ──気がついたらサクラさんもウインドアさんもどっかに消えちゃいましたし……協調性ないなあこの面子(チーム)

 

 しかし既に過ぎたこと。まあ最悪自分一人でギルザを捕まえればいいと、フィーリアはそう結論づけた。

 

 チラリ、と。やたら豪華で巨大な振り子時計に視線をやる。舞踏会(パーティー)開始まで、残り五分前である。

 

 ──さて、そろそろ気合い入れますか。

 

 心の中でそう呟いて、フィーリアは中央にへと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「皆さん、お忙しい中わざわざ集まってくれてありがとうございます」

 

 舞踏会開始二分前。大広間の中央にて声高らかに、派手な服に身を包んだ男が参加者全員に向けてそう言う。彼こそこの屋敷の主人にして今回の舞踏会の主催者である、フォルネ=クリフコスィであった。

 

 そんなフォルネの姿を、フィーリアは遠目から静かに眺めていた。

 

 ──フォルネ=クリフコスィ……ラディウスの中でも随一の資産家で、その界隈では『投資王』という異名で通っている人物。

 

 そして黒い噂も聞く人物である。具体的には──裏社会に通じている、らしい。まああくまでも噂の範疇に過ぎないが。

 

 ──仮に噂が本当だとすれば、十中八九ギルザとの繋がりもあるはず。この街でそういう(・・・・)ことをするのなら、必然的に彼と関わることになるんですから。

 

 社交辞令めいた挨拶を続けるフォルネ。それもやがて終盤に迫った時だった。

 

「それではご紹介しましょう。この舞踏会を開くに至って、私が力を借りたビジネスパートナー──クライヴ=ネスクト君です」

 

 フォルネの言葉と共に、大広間の扉がゆっくりと開かれる。大広間に入ってきたのは──黒スーツに身を包んだ、若い男だった。

 

 やや鋭い目つきに、微かに吊り上げられた口元。お世辞にも好青年とは言えず、無表情ではあるが、何処か凶暴性を感じさせる顔つきである。

 

 その男を見て────フィーリアは確信した。

 

 ──いた。

 

 瞬間脳内にて想起される記憶。一週間前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のGM(ギルドマスター)グィン=アルドナテから見せられた、一枚の写真。

 

 その写真に写された、男の横顔を。

 

 ──ギルザ=ヴェディス……!

 

 表舞台には決してその姿を現さないと言われた男が、遂に現れた。流石に偽名を使っているが、間違いない。

 

 一歩、一歩と。自然を装いながら、フィーリアは前に進む。そんな中、フォルネから紹介を受けたクライヴ──いや、ギルザが口を開く。

 

「いやあ、今日はお集まり頂けて、誠にありがとうございます。このクライヴ、感謝のあまり涙が溢れてしまいそうです」

 

 と、大袈裟な口調と身振り手振りで話すギルザ。しかしフィーリアの目には、それは上っ面だけのものにしか見えない。

 

 ──よくもまあ、思ってもないことを。

 

 そして、ギルザとの距離をある程度詰めた、その時だった。

 

「とまあ、まだ話したいことは山ほどあるのですが、舞踏会まであと三十秒しかありません。ですので、この一言で締めさせてもらいます」

 

 そう言ってギルザは────にやり、と。口元を歪ませた。

 

 

 

「とりあえず死ね」

 

 

 

 ババババッ──それは、連なった銃声だった。遅れて、彼の隣に立っていたフォルネの口から血が垂れ、なにが起こったのか全く理解できていない表情のまま、床に崩れ落ちる。その背後には、いつの間にか黒スーツの男が立っており、長い筒のような形状の銃を構えていた。

 

 穴だらけとなったその身体から血が溢れ、瞬く間に血溜まりを広げる。数秒後、参加者である一人の女性が、絹を裂くような悲鳴を上げた。

 

「…………え、な」

 

 フィーリアが困惑の声を漏らす。それと同時に囲むようにして、一斉に周囲からなにかを構えるような音が鳴る。

 

 そして────────

 

 

 

 ダダダダダダダダダッ──先ほどと同じような銃声が、喧しい大合唱を奏でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ハハッ、見つけたぜぇ」

 

 宙に静止する数百の弾丸。その光景の最中にいる、こちらに苦虫を噛み潰したかのような表情を向ける白髪の少女を──フィーリアの姿を見ながら、嘲るようにギルザはそう言った。



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DESIRE────Battle party(その一)

 一拍置いて、宙に留まっていた全ての銃弾が床に落ちる。硬質で甲高い音が次々と鳴り響く中、内心フィーリアは苦々しく呻いていた。

 

 ──燻り出された……!

 

 だが迅速に、かつ躊躇なく彼女は動いた。

 

「【氷棘(アイスニードル)】!」

 

 瞬間、フィーリアの眼前に魔力によって発生した冷気が集中し、瞬く間に切っ先鋭い氷の棘となる。そして間髪を容れず凄まじい速度で放たれた。

 

 氷の棘は大気を貫きながら、ただ真っ直ぐに、そして正確に──ギルザの額にへと飛来する。

 

 そしてそのまま彼の額を────通り抜けた(・・・・・)

 

「…………チッ」

 

 その様子を見て、行儀悪くフィーリアは舌を打つ。そんな彼女に、依然口元を歪めてギルザが言う。

 

「残念だったなあ冒険者(ランカー)。上手い具合にここまで入り込めたみたいだが、その頑張りは無駄に終わる」

 

「話には聞いてましたけど、本当にどうしようもないクズ野郎みたいですね。ギルザ=ヴェディス……あなたこんなことして、一体なにを考えているんですか!?」

 

 激昂するフィーリアだが、それに対してギルザがどう思うこともない。彼はただ、まるで人を馬鹿にしたような薄ら笑みを浮かべて、彼女を挑発する。

 

「なにを考えているって、これからを考えているのさ俺は。だからその馬鹿をぶっ殺して、そいつらもぶっ殺そうとした。ただそれだけだ」

 

 言いながら、足元に横たわるフォルネの死体を踏みつけ、蹴り飛ばす。飛び散った血が、床に前衛的な模様(アート)を描いた。

 

「まあお前らはここで無様に足止め食らっとけ。その間に、俺はさっさとトンズラさせてもらうぜ──ヒャハハハ!」

 

 汚らしく笑うギルザの姿が、徐々に薄れて、掠れていく。やがて、完全に消えた。

 

 カラン、と。彼が立っていた場所に魔石が落下し、すぐさま砕けて霧散してしまう。そんな光景を目にして、フィーリアが呟く。

 

「幻影の魔石……この舞踏会(パーティー)は囮だったって訳ですか」

 

 彼女がそうぼやくと、大広間の扉が乱暴に開け放たれ、そこから大人数の武装した男たちが雪崩れ込んでくる。ギルザの部下たちだ。

 

「ぞろぞろと……」

 

 軽く周囲を見渡せば、壁際に立っていた警備員やら案内人やらも皆ギルザの部下らしく、同じ形状の銃を構えている。参加者全員を取り囲んでいるような形になっており、このままではギルザが言っていた通り、全員死ぬことになるだろう。

 

 フィーリアは嘆息し、そして気怠げに口を開いた。

 

「邪魔です」

 

 シュン──彼女がそう吐き捨てると同時に、彼女の周囲にいた参加者たちは、一人も残さずその姿を消してしまった。その光景を目の当たりにしたギルザの部下たちが、大いにどよめく。

 

「な、なんだ?客が全員消えちまったぞ?」

 

「まさか、あのガキが殺ったのか?」

 

「あんな見た目で惨いことしやがるぜ……」

 

 口々に勝手なことをほざく部下たちに、フィーリアが怒鳴りつける。

 

「人聞きの悪いこと言わないでください!全員外に転移させただけですから!」

 

 それから再度うんざりと嘆息。そんな彼女の様子を眺めながら、ギルザの部下たちは下衆な笑いを漏らす。

 

「んなことはどうだっていい」

 

「お前を殺せば百万Ors(オリス)が手に入るんだ」

 

「むしろ余計な壁がなくなって、撃ち殺しやすくなったぜぇ」

 

 銃を構え、自分を取り囲む男たちを、フィーリアは今一度睥睨する。そして──やはりうんざりと、嘆息した。

 

「上等です。身のほど弁えさせてやりますよ、この有象無象共が」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ふむ」

 

 クラハに例の情報を渡し終え、悲鳴と銃声が響いた大広間にへと駆けていたサクラ。だが、彼女は今、大広間にへと続く廊下にて立ち止まっていた。

 

 理由は単純明快──己の前に、大勢の武装したギルザの部下たちが立ち塞がっているからである。

 

 困ったような表情を送る彼女に、部下たちが各々言う。

 

「お前がボスの言っていた標的(ターゲット)の一人だな」

 

「お前を殺せば百万が手に入る……こりゃあぶっ殺すしかねえよなあ!?」

 

「ヒャッハー!ぶっ殺TIMEだぜえええ!」

 

 部下たちの言葉を受け、困ったような表情のまま、サクラは眉を顰める。そんな彼女の様子に全く気づくことなく、部下の内三人が前に出た。

 

 ──……なんだ?

 

 その三人に対して、サクラは疑問を抱く。何故ならその三人は他の者とは違い、まるで小型化した大砲のような形状をした銃を構えていたからだ。

 

 一体それがなんなのか、考えている時だった。

 

「これでも喰らいやがれ!」

 

 ボンッ──一人が叫ぶと同時に、その謎の銃から一斉に球体のようなものが射出された。それはあっという間にサクラの眼前にまで迫ってくる。

 

「?」

 

 疑問に思いながらも、とりあえずその場から跳び退こうとしたが──突如として、その球体が鎖に変わった。

 

「!?」

 

 球体から鎖に変わったそれが、サクラの身体に巻きつく。そうして瞬く間に拘束されてしまった。

 

 その様を見た三人が、歓喜の声を上げる。

 

「やったぜ引っかかりやがったぞこいつ!」

 

「その鎖はなぁ、一本であのバーサクドラゴンですら完全に拘束しちまう強度を持つ。人間じゃあ絶対に引き千切れねえ!」

 

「それが三本!三本大出血サービスだ!」

 

 廊下にて、男たちの下卑た笑い声がこだまする。男たちは、自分たちの勝利を確信していた。

 

 だが、彼らは知らされていなかった。五人の標的が、ただの冒険者だとしか。それ以外の素性など、全く知らされていなかったのだ。

 

「………………」

 

 己の身体を縛る鎖を、サクラは無言で見つめる。そんな彼女の様子に構うことなく、男たちは手に持つ銃を構えた。

 

「とっととおっ()ね、キザ野郎!」

 

 そして引き金を引く────直前だった。

 

「ふッ」

 

 サクラが息を吸い込み、鋭く吐き捨て、そしてほんの少し腕に力を込めた。

 

 

 

 バギンッ──たったそれだけで、彼女を縛りつけていた鎖が、三本とも全て引き千切れてしまった。

 

 

 

「「「………………は?」」」

 

 男たちが愕然とする中、服に付いた鎖の破片を軽く払いながら、サクラが言う。

 

「一応言っておくが、私は歴とした人間だからな」

 

 彼女のその言葉に対して、返されたのは恐慌と怒号であった。

 

「バケモンだぁぁぁっ!」

 

「う、撃て!撃て撃て撃てぇえッ!!」

 

「うわああああああああ!!!」

 

 阿鼻叫喚の中、それでも男たちは銃の引き金を引こうとする。だが先に結果を述べさせてもらうなら、それは叶わぬ行動となってしまった。

 

 

 

 キンッ──唐突に、甲高い金属音が廊下に響き渡った。

 

 

 

「……あ?なんだ今のお……と……」

 

 男たちの顔が、青ざめていく。無理もない。何故なら────構えていたはずの銃が、両断されていたのだから。

 

「君たちの武器は無力化させてもらった。先を通らせてもらうよ。こう見えても急いでいる身なんで、ね」

 

 呆然と立ち尽くしている男たちの背後で、いつの間にか腰に刀を差したサクラがそう言いながら、先を進む──瞬間、

 

 

 

 

「素晴らしいな。流石は『極剣聖』──我ら剣士の頂に座する存在(モノ)だ」

 

 

 

 

 突如として、彼女の歩みを一人の男が遮った。



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DESIRE────Battle party(その二)

「相手はガキ一人だ!さっさと撃ち殺すぞ!」

 

 部下の一人がそう叫ぶと、他の部下たちも一斉に銃を構える。その冷たい銃口の全てが、フィーリアにへと無遠慮に向けられた。

 

 傍目から見れば、絶体絶命の状況──だが、それに対してフィーリアは絶望することはなく、むしろ不敵に、薄く笑みを浮かべていた。

 

「お、おい……あのガキ、なんか笑ってねえか?」

 

「はっ、気でも狂ったんだろ。んじゃぶっ放すとしますかあ!!」

 

 そして部下たちは、少しの躊躇も遠慮もなく、引き金を引いた。

 

 バララララララッ──連なった銃声が大広間に響き渡る。銃口から吐き出された灼熱の銃弾は、大気を裂き焦がしながら、中央に佇むフィーリアに向かって殺到する。

 

 このままでは数秒後には、その全ての銃弾が無慈悲にもフィーリアの身体に突き刺さり、そして風穴を空けられるだけ空けることだろう。

 

 そんな誰にだって予見できる、変わりようのない確定された未来(まつろ)──だが、それでも、フィーリアはその場から一歩も動かなかった。

 

 彼女であれば【転移】を使えば銃弾の回避など容易いこと。しかし、その【転移】を使用する素振りもない。

 

 男たちが浮かべる下衆な笑みに見送られながら、哀れにもフィーリアに銃弾が到達する──────

 

 

 

 

「ばーか」

 

 

 

 ──ことは、なかった。彼女に殺到していた銃弾は宙に飲まれ(・・・・・)、そして全くの逆方向(・・・・・・)にへと吐き出された。

 

「……は?」

 

 目の前で起きたそのありえない現象を理解する前に、フィーリアに向かっていた全ての銃弾が全ての銃口にへと戻され、瞬間男たちが手に持つ銃が異音を立て爆発四散する。

 

「いぎっ?」

 

「あぎゃ!」

 

「うげぇ!?」

 

 異口同音。それぞれ悲鳴を上げながら、銃だった鉄塊を床に投げ捨て、手を押さえる男たち。そんな彼らに対して、フィーリアはただ冷たい眼差しを送る。

 

「【次元箱(ディメンション)】の応用で、私の周囲の空間を少し歪めました。これで私に飛来する物理的な攻撃全てが、そのまま逆方向に返ります──って、説明してもあなたたちには理解できませんか」

 

 その声も眼差しと同様に、いやそれ以上に冷たく、無感情。そんなフィーリアに対して、己の武器を破壊された男たちは恐怖を抱く──その時だった。

 

 バゴォッ──突如として、大広間の壁が轟音と共にぶち破られた。壁の残骸やら破片やらが落ちる中、それ(・・)は姿を現した。

 

『ガルルルォアアッ!!』

 

 一見すれば、それは犬であった。だがその全てが異常であった。

 

 人間よりも遥かに巨大で、全身を包む毛皮は硬く、まるで鎧のよう。床を踏み砕く四肢は丸太の如く太く強靭。その先に続く足からは、触れただけで切り裂かれそうなほどに鋭い爪が伸びている。

 

 そして最も目を引くのは──その頭部。その犬らしき動物は、驚くことに三つの首を持っていた。

 

『ガアアアアアア!』

 

 三つの首が、三つの咆哮を放つ。それだけで周囲の大気が震え、その場にいる全員の鼓膜を激しく叩いた。

 

「う、うるさ……!ちょ、なんですかコレ?」

 

 突如として大広間に乱入してきたその限りなく犬に近いなにかを、眉を顰めながらフィーリアは指差す。そんな彼女に対して、破壊された壁から出てきたギルザの部下らしき男が答えた。

 

「はっはぁ!耳の穴かっぽじって聞きな。そいつは我らがボス、ギルザ様が飼い慣らした地獄の番犬……〝殲滅級〟の魔物、イフリートケルベロスだ!」

 

「イフリート……ケルベロス……?」

 

 フィーリアの困惑した声に、三つ首の犬──〝殲滅級〟イフリートケルベロスが吠える。僅かに開いた口の隙間からは尖り切った牙が並んでおり、その間から涎が滴り落ちた。

 

「このイフリートケルベロスは人肉が大好物でなぁ。ボスはよく処分(・・)に使っていたもんさ。だからお前も餌にしてやるよ!そら、喰っちまえイフリートケルベロス!」

 

 イフリートケルベロスの足元に立つ男がそう叫ぶと、三つのうち一つの首が大きく口を開けた。かと思えば──

 

「……へっ?」

 

 ──首を伸ばし、足元の男を床ごと喰らってしまった。床が砕け瓦礫と化す破砕音と、それに混じってぐちゃぐちゃと水気のある粘土を捏ねるような音が大広間に響く。

 

『ガォオオオォォオォオオォッ!!!』

 

 そして数秒も経たないうちにイフリートケルベロスはその場から駆け出した。二つの首は涎を、一つの首は瓦礫と血を垂らしながら、ただ真っ直ぐにフィーリアに突撃する。

 

 床を踏み砕きながら迫るイフリートケルベロス──だが、それでもフィーリアは大して動揺することはなかった。

 

 特に焦る訳でもなく、特に慌てる訳もなく、そして特に恐怖することもなく──ただイフリートケルベロスを見つめていた。

 

 そしてイフリートケルベロスとフィーリアの距離が詰め終わる、直前だった。

 

 

 

「止まりなさい」

 

 

 

 瞬間、フィーリアから凄まじい勢いで魔力が放たれた。その魔力に当てられたイフリートケルベロスが、唸ると同時に、彼女に言われた通りに止まる。

 

『ガ、ガウ……ウ…』

 

 彼女の魔力に当てられただけだというのに、イフリートケルベロスは完全に萎縮し、怯えてしまっていた。地獄の番犬と言われ恐れられた魔物のその姿を目の当たりにして、部下たちがざわつき、慌てふためく。

 

「う、嘘だろ……?あの、イフリートケルベロスが……」

 

「あ、ありえねえ……こんなのありえねえよ」

 

「バケモンかよ、あのガキ……」

 

 恐怖が伝染していく部下たち。しかしフィーリアがそれを気にすることはなく、己の眼前に立つイフリートケルベロスに対して──ただ一言、言い放った。

 

「下がれ、駄犬」

 

 たった一言。たったの一言だけだったというのに、イフリートケルベロスは情けない鳴き声を上げて、背を向け一目散にフィーリアの前から逃げ出してしまう。

 

 自ら破壊した壁に、全速力で駆けるイフリートケルベロス──しかし、そこに到達することはできなかった。

 

 

 

「あらぁ?駄目じゃない番犬が逃げちゃあ」

 

 

 

 ザンッ──人を小馬鹿にするような、甘ったるい声。それに続いて床を走った三つの血飛沫が、イフリートケルベロスの三つの首を切り落とした。

 

「臆病な番犬なんていらないわよねぇ?。あははっ」

 

 首を失い、床に倒れ臥すイフリートケルベロス。その横を、一人の女が歩いていた。

 

 鮮血を浴びたかのように全身が赤いその女は、そう言いながらフィーリアに微笑みかける。

 

「あなたもそう思うでしょ──『天魔王』様?」



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DESIRE────Battle party(その三)

「素晴らしいな。流石は『極剣聖』──我ら剣士の頂に座する存在(モノ)だ」

 

 そう賞賛しながら、サクラの行く先に立ち塞がる男。その男は、かなり異質であった。

 

 まずその服装だが、このセトニ大陸では普及していないはずの、薄い布一枚で作られたような衣服──それを、サクラは知っている。

 

 ──あの服……着流しか。

 

 着流し。それは言うなれば、サクラが着る着物の男物。そう、サドヴァ大陸極東特有の衣服なのだ。

 

 そして男の腰に下げられたものを見て、サクラは確信した。

 

「……君は、極東(イザナ)の出だな」

 

「いかにも」

 

 サクラの問いかけに、男は腰に下げたものを──刀を揺らしながらそう答える。

 

「俺の名はミフネ。ミフネ=カラズチ──今宵『極剣聖』の称号を得る者の名だ。覚えておくといい」

 

 着流しの男──ミフネのその言葉に、感心するようにサクラが息を吐く。

 

「ほう。それは随分と大きく出たな……それほどまでに己の腕を信頼しているのか」

 

「当然」

 

 ミフネはそう返すと、サクラの背後で固まっているギルザの部下たち──正確には彼らが持つ両断された銃を一瞥して、顎に手をやる。

 

「俺には全て見えていたよ、『極剣聖』。そいつらが銃を構える時には、お前はもう既に動いていた。恐ろしく速い抜刀……この俺でなければ見逃していたところだ」

 

 それを聞いて、ほんの少しサクラは目を細めた。

 

「なるほど。確かに『極剣聖』(わたし)の名を得る者と豪語するだけのことはある」

 

「ああ。『極剣聖』……お前が今まで歩んできた人生の中で、数え切れないほどの強者がお前に挑戦してきたことだろう。その上で言わせてもらうが、その連中と俺を同じだとは思うなよ。俺はその誰よりも強く、そしてお前よりも強いのだからな」

 

 そう言うミフネの瞳は、絶対の自信に満ち溢れている。自分のその言葉を、完全にその通りなのだと思っている。

 

 確かに彼の言う通り、『極剣聖』の称号を求めてサクラに挑んだ挑戦者は星の数ほどいる。その誰もが己の実力を信頼する強者たちで、それをサクラは真っ向から叩き潰した。

 

 ミフネの言葉を受け取り、サクラは僅かばかりにだったが──口元を緩める。

 

「嬉しい限りだよ、君のような勇ましい挑戦者は久しくいなかった」

 

「…………余裕ぶっていられるのも、今のうちだ」

 

 サクラの言葉に、不愉快そうな声音でそう返すミフネ。彼は己の得物に手をかけながら、喋る。

 

「俺の流派、岩斬鉄裂流は文字通り岩を斬り鉄を裂く。そんじょそこらの凡庸剣法とは格が違う。そして、なによりもだ」

 

 ミフネは喋り続ける。

 

「俺の剣は──疾い」

 

 キンッ──そう言った瞬間、ミフネのすぐ側の壁に、一条の亀裂が深々と走った。

 

「俺もお前と同じ境地に至っているのだよ『極剣聖』。もう一度言わせてもらうが、今までの連中と俺を同じだと思うなよ」

 

 その直後だった。ミフネの背後から、誰かがこちらに駆けてくる。サクラはその者には、見覚えがあった。

 

「は、速過ぎですぜミフネの旦那。ようやく追いつき……って、げぇ!?お、お前はぁ!?」

 

「…………君は、あのレストランの時の」

 

 そう、二日前──とあるレストランにて店員に理不尽な暴力を振るっていた兄弟の一人、青スーツの弟オンゼン=オグヴであった。

 

 サクラを見て、しまったと言わんばかりに叫ぶ彼だったが、すぐさま得意げな表情を浮かべる。

 

「また会ったな、女!あん時の借り、今返させてもらうぜ!……さあ、やっちまってくだせえミフネの旦那ぁ!」

 

 ──君自身が返す訳ではないのか……。

 

 なんとも小悪党らしいオンゼンのその台詞に、内心でサクラは呆れる。その一方で、ミフネはオンゼンの顔を一瞥すると、口を開いた。

 

「丁度良かった」

 

 キンッ──その言葉と同時に、甲高い金属音が響いた。

 

「……え?」

 

 呆然と声を漏らすオンゼン。瞬間──彼の首が宙を舞った。ミフネはその断面に刀を掲げ、遅れて断面から噴水のように血が噴き出す。

 

 赤く、赤く刀身が濡れ、染まっていく。そんな光景を目の当たりにしながら、サクラはまるで理解できないと言うように眉を顰め、ミフネを睨めつけた。

 

「…………一体、どういうつもりなんだ?その男は仲間ではなかったのか?」

 

 サクラのその言葉に、ミフネは冷笑する。

 

「仲間?そんな訳ないだろう。俺にとってこいつは……いや、こいつら全てが潤滑剤だ」

 

「潤滑剤だと……?」

 

「ああ。潤滑剤だとも」

 

 そう言って、オンゼンの血に塗れた刀をミフネは鞘に収める。まともに血払いもしなかったためか、その鯉口から血が滴り落ちているが、それをミフネが気にする様子はない。

 

 彼は不敵に口元を歪ませて、サクラに語り出す。

 

「『極剣聖』。さっき俺はお前と同じ境地に至っていると言ったな。だがそれは正確には違う──至ったと同時に、追い越したんだ(・・・・・・・)

 

 そう言って、ミフネは刀の鞘に手をかけた。

 

「摩擦というものがあるだろう、『極剣聖』。物体同士が擦れ合うことで生じる抵抗力──『極剣聖』、確かにお前の剣も、俺の剣も疾い」

 

 だが、と。彼は続ける。

 

「鞘から抜刀する際にも、少なからず摩擦が生じているのだ。刀の刃と鯉口からな……それでも俺たちの剣は疾いさ。疾いが、摩擦によって誤差程度ではあるがその疾さは落ちてしまっている」

 

「………」

 

 ミフネのその言葉に、サクラは沈黙を以て答える。しかし、それを受けてミフネは────さらに口元を歪ませた。

 

「それを俺はこうすることで解決したのだ。見ろ、俺の刀を。俺の刀の鞘を。鯉口から血が垂れているだろう?これが良いんだこれが。こうすることによって鯉口周辺をじっとりと湿らせ、抜刀する際に生じる摩擦を極限にまで減らすのだ──時間が経つと血が凝固し、通常よりも遥かに摩擦がかかってしまうようになるのが欠点だがな」

 

 くつくつとミフネが笑う。

 

「まあそれも一瞬で片をつければ関係ない。この状態から放つ俺の居合は音すらも置き去りにする。引導を渡してやろう、先代(・・)

 

 そう自信満々にサクラに言い放ち、ミフネは構えて────そのまま(・・・・)前のめりになって(・・・・・・・・)床に倒れた(・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一つだけ言っておこう、ミフネとやら」

 

 ミフネの首に手刀を打ち込み、彼を昏倒させたサクラが先を歩きながら、届くことのない言葉を、背を向けたままかける。

 

「己の器を知れ。君のような輩が背負えるほど、『極剣聖』(わたし)の名は軽くない」



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DESIRE────Battle party(その四)

「あなたもそう思うでしょ──『天魔王』」様?」

 

 そう言って、心底楽しそうな笑顔をフィーリアに送る赤い女。誰がどう見ても彼女がおよそ正常な人間ではないことは明白であった。

 

 赤い傘を差しながら、まるで踊るかのように軽やかな足取りで女は進む。そんな女を、フィーリアは訝しげに眺めていた。

 

「……あなた、何者ですか?」

 

 名を尋ねるフィーリアに対して、女は不自然なほどに上機嫌で答える。

 

「私アメリア!アメリア=ルーガーネット!」

 

 ……見たところ、女は成人しているようなのだが、言動はまるで子供のようだった。そんな矛盾にフィーリアは違和感を抱きつつも、一応名乗ったので礼儀として名乗り返す。

 

「あ、ありがとうございます。私はフィーリア=レリウ=クロミアです。……まあもうご存知でしょうけど」

 

「ええ知っているわ。だってあなたは『天魔王』──この世界全ての魔道士の頂点ですもの。逆に知らない方がおかしいわ!」

 

「……そ、そうですね」

 

 ──この人私の苦手なタイプだ。

 

 内心そう思いながら、苦笑混じりにそうフィーリアは返す。するとそんな彼女の様子がおかしいと思ったのか、女──アメリア=ルーガーネットはくすくすと笑う。

 

「本当におかしいわぁ。おかしくておかしくて──

 

 シュバンッ──突如、笑い続ける彼女の足元から五つの血飛沫が迸った。

 

 ──思わず殺したくなっちゃう!きゃははっ」

 

 宙を切り裂きながら、五つの血飛沫がフィーリアに向かって飛来する。そして彼女の胴体をも切り裂く──直前、まるで見えない壁に衝突したように遮られ、宙に溶けるように霧散した。

 

「油断も隙もありませんね。演技ですか、それ?」

 

 冷ややかな眼差しと共にそう言葉を送るフィーリア。対し、依然笑いながらアメリアも言葉を返す。

 

「演技だなんて酷いわぁ。これが私なのにぃ……あはっ」

 

 そう言って、アメリアは笑って、笑い続けて──唐突に、ピタリと笑うのを止めた。

 

「酷い。本当に酷い。酷い、酷い、酷い、酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷いぃぃぃいいいいいいいっっっ」

 

 シュバンシュバンシュバンシュバンシュバンッ──笑うのを止めたと思えば、いきなり発狂したように喚き散らし、それに比例するように無数の血飛沫が床を走った。

 

「ちょ……急にどうしたんですか」

 

 しかし先ほどと同じように、フィーリアに届くことなく遮られ霧散する。

 

 すると狂ったように喚いていたアメリアが、より一層激しく喚き始めた。

 

「どうしてそんな酷いことを言うの『天魔王』様ぁ!そんな酷いこと言われたらぁ、私、私、私私私ぃいッ」

 

 喚き、叫ぶアメリア。すると彼女は床に手を突き、ゆっくりと戻す。その過程で彼女の手と床の間に一条の鮮血が滲み出し、溢れ出していく。

 

 溢れ出した鮮血が、やがて棒状となり、そしてとある形と成る。

 

「『天魔王』様をぶっ殺したくてぶち殺したくなって堪りませんわぁあ♡」

 

 甘く蕩けた声音でそう叫びながら、アメリアは今し方作り出した鮮血の大鎌を滅茶苦茶に振り回して駆け出した。その勢いは尋常ではなく、瞬く間にフィーリアとの距離を詰め終わってしまう。そして思い切りその大鎌を振り上げ、思い切り振り下ろした。

 

 ガギィィンッ──しかしその鎌もフィーリアに届くことはなく、血飛沫同様見えない壁のようなものに衝突し、赤い火花を咲かせた。

 

「あぁんもう硬い硬い硬い硬い硬い硬いぃんん!!」

 

 だがそれでもアメリアは止まらない。出鱈目に大鎌を振り回し、その周囲に赤い火花を幾つも咲かす。その度に鉄同士を叩いたような、耳障りな不快音が鳴り響いて、透明な障壁の向こう側にいるフィーリアは眉を顰める。

 

「うるさいですね……」

 

 そうしてその行為を数十回繰り返した時だった。突然、アメリアが大鎌を振り回すのを止め、フィーリアから距離を取った。

 

「どうしました?ようやく諦めてくれましたか?」

 

 フィーリアはそうアメリアに声をかけるが──彼女は、にいっと歪んだ笑みを浮かべた。

 

「まっさかぁ」

 

 瞬間、彼女の手にあった大鎌が溶け、床に大量の血溜まりを広げる。そしてアメリアは歪んだ笑みを浮かべたまま、その血溜まりにへと足を踏み入れた。

 

「『天魔王』様があんまりにもお強いので、私も取っておきの手を使わせてもらいますねえ?」

 

「取っておきの、手?」

 

 疑問符を浮かべるフィーリアをよそに、血溜まりの上で両腕を振り広げるアメリア────次の瞬間、それは始まった。

 

 ドォロルルルルルッ──粘着質な水音と、大広間に湧き立つ錆びた鉄のような臭い。今、アメリアの頭上にて、そこら中から無数の鮮血の線が伸び、集中していた。

 

「……これは」

 

 線のうち一本は、イフリートケルベロスの亡骸から伸びている。線がその太さを増す度、亡骸が痩せこけ乾いていく。

 

 そして──────

 

 

 

「おぼぉっ?げ、おぉ?」

 

「血、血がぁ、俺の血げぼぉっ」

 

「目が潰れっがっあああおおおおぉ」

 

 

 

 ──────その周囲にいるほぼ全ての部下たちからも伸びていた。口から鼻から、目は内側から押し寄せる圧力に耐え切れず、弾けてそこからも。穴という穴から血が噴き出しアメリアの頭上にへと吸い寄せられていく。

 

「…………」

 

 もがき苦しみ、そして生きながらにして朽ちていく部下たち。その地獄のような光景を、フィーリアはただ冷静に眺めていた。

 

 ──同情くらいはしてあげますよ。

 

 アメリアが狂笑を上げる。歓喜の狂笑を上げながら、己が頭上にイフリートケルベロスの、そして部下たちの血を集めていく。

 

 そうして、そのアメリアの行為は、やはり唐突に終わりを告げた。

 

「きひ、きひゃひゃははっあひははははっ。どんな塵芥(ゴミ)(クズ)でも、これだけいれば使えるわねぇ。はゃははっ」

 

 アメリアの頭上。そこに集められた血は──真っ赤な球体と化した。不規則に、不気味に脈動を繰り返す、真っ赤な球体にへと。

 

 球体は脈動しながら、ゆっくりと落ちていく。落ちて、そして。

 

 ドプン──その下にいたアメリアを、飲み込んだ。



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DESIRE────Battle party(その五)

 アメリアを飲み込んだ、血によって形成された冒涜的な球体。それは、まるで心臓がそうするかのように、静かに脈動を続けていた。

 

 騒がしい彼女が飲み込まれたことによって、大広間は静寂に包まれた。脈動を繰り返すその球体を、フィーリアは訝しげに遠目から眺める。

 

「……一体、なんなんですかあれは……?」

 

 大広間に響き渡るフィーリアの独り言。周囲が静かなだけあって、それはよく響く。

 

 ──わからない以上、無闇に動くのは危険ですかね。

 

 そう自分に言い聞かせて、引き続き球体を観察する──その時だった。

 

 ドクンッ──一際、強く球体が脈動した。

 

「……?」

 

 瞬間、球体から────腕が飛び出してきた。しかし、それはアメリアの腕でもなければ、もはや人間の腕でもない。

 

 一瞬石柱かと見紛うほどに太く、そして巨大で真っ赤な腕。その肌も人間のそれではなく、まるで岩の表面かのようだった。

 

 そして次に球体から飛び出たのは足。腕と同様真っ赤であり、やはり人間のそれとは違う。

 

 人間離れした腕と足。突如として球体から生えたそれらにフィーリアは少しばかり驚かされたが、この程度のことで動揺する彼女ではない。あくまでも彼女は、冷静だった。

 

 球体に亀裂が走る。最初は一筋だったが、徐々に増えて、瞬く間に球体全体にへと走った。そして──

 

 バッシャアアアアッ──割れ砕け、内部から大量の血が流れ出た。

 

 

 

 

 

「きははあはははぁっ。どお『天魔王』様?これが私の、真の姿!」

 

 

 

 

 

 球体の残骸が転がる中心に立っていたのは、アメリアではなかった。そこに立っていたのは──フィーリアよりもずっと、遙かずっと巨大な、真紅の悪魔だった。

 

 蝙蝠と類似した翼をはためかせ、周囲に暴風を起こす。低く淀み濁った、悍しい声色が大広間の大気を揺らす。

 

「改めて自己紹介させてもらうわ。私はアメリア=ルーガーネット。人間にして、魔族の血を引く存在(モノ)

 

 真紅の悪魔──アメリア=ルーガーネットのその口調は、先ほどまでと違って確かな知性と理性が感じ取れた。

 

「この私の姿を見て、生きていた人間はこれまでで誰一人としていない。何故なら、私がこの手で全員ぶち殺してやったから」

 

 悪魔となったアメリアが一歩を踏み出す。たったその一歩で、彼女一帯の床全てが、音を立てて割れ爆ぜた。

 

 拳を握り締め、アメリアが牙の並んだ口を大きく開けて、立ち尽くすフィーリアに向かって叫んだ。

 

「あなたも例外じゃあないわ『天魔王』!人間でしかないあなたに、魔族でもある私は倒せない!」

 

 そして床を蹴った。割れていた床が完璧に粉砕され、一瞬にしてアメリアがフィーリアとの距離を詰める。

 

 拳を振り上げ、そしてフィーリア目掛けて振り下ろす。しかし未だに彼女の前には目に見えない透明な障壁があり、それによってアメリアの拳は防がれてしまう──はずだった。

 

 バァリンッ──アメリアの拳と障壁が衝突し、障壁が歪みガラスのように割れ砕けてしまった。

 

「な、嘘……!?」

 

 不可視の破片が宙に霧散し、儚く消えていく。その光景を目の当たりにしてフィーリアは、硬直してしまう。

 

 その隙を、アメリアは決して見逃さない。

 

「勝ったッ!」

 

 ガシッ──慌ててその場から退こうとしたフィーリアを、アメリアは難なく掴み文字通り手中にへと収めてしまった。

 

「い、いやぁ!離して!離してください!」

 

 悲鳴を上げながら、なんとかして脱出しようとフィーリアはもがくが、無駄だった。アメリアは、ゆっくりと、徐々に彼女の身体を握り締めていく。

 

「ざまぁないわねえ『天魔王』。このまま握り潰してやるわッ」

 

 グググ──身体を圧迫され、フィーリアが呻く。もはや指一本すら動かせなくなり、身動きが取れなくなってしまった。

 

「あ、が…ぁ……くる、し……ぃ…」

 

 全身の骨が軋む。内臓が徐々に潰れていく。チカチカと明滅する。

 

 口端から唾液を垂らし、表情を歪ませる彼女の様子を、アメリアは実に愉しそうに眺めていた。事実、彼女は今人生の中で最大の喜悦を享受していた。

 

「よくも小娘風情が舐めた態度取ってくれてたわねえ。そのお礼に──これ以上にないくらいに苦しませて殺してあげるわぁあ!!」

 

 そして、アメリアは一気に、手に力を込めた。

 

 

 ゴキグチャボキグチュバキャブチュ──枯れ枝を数十本まとめた折ったような音と、粘度の高い液体を袋に入れ激しく叩いたような音が混じり合い、最高なまでの生理的嫌悪を引き起こす、名状し難い合奏をフィーリアの身体から奏でた。

 

 

「あ、ぎぃ、ぁああああぁぁあああああっ?!」

 

 喉奥から絞り出すかのような絶叫をフィーリアは上げて、次の瞬間大量の血を口から噴き出す。そして────まるで糸の切れた人形のように、だらりと首を曲げた。

 

「……あは、あははははははっ!はははっはははははははははははあああははっははははっっ!!」

 

 アメリアが笑う。これ以上になく、最高だと言うように高らかに笑う。その度に握り締めたフィーリアの身体が揺れ、周囲に血飛沫を飛ばす。

 

 依然笑いながら、アメリアは空いている左手でフィーリアの頭を摘む。そして一切躊躇うことなく、捻り切った。首を失ったフィーリアの身体から、さらに大量の血が床に零れ落ちる。

 

 捻り切ったフィーリアの小さな頭を、アメリアは指圧しまるで林檎のように潰した。爆ぜるようにして潰れた彼女の頭から砕けた頭蓋骨と桃色の肉と、グチャグチャになった脳の破片と脳漿が飛び散り、床を汚した。

 

 それは、フィーリアの死体に対して行われる、死者の尊厳をとことんまで踏み躙り、侮辱する行為の始まりに過ぎなかった。

 

「きゃはっ!きゃはははははっ!ひひゃあはははっはは!」

 

 腕を摘み、引き千切る。脚を掴み、引き千切る。そして達磨となった彼女の上半身と下半身をそれぞれ掴み、まるでゴムのように伸ばして、引き千切った。

 

 彼女の死体に残されていた血が、雨となってアメリアの頭上から降り注ぐ。それを歓喜し狂笑を上げながらアメリアは浴びる。

 

「勝った!勝ったわ!私は勝ったんだわ!あの『天魔王』に、クソ生意気で気に入らないチビのメスガキに、私は勝ったんだわぁあははははははははっ!!!」

 

 勝利の咆哮が大広間に轟く。そしてアメリアは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「良い夢は見れましたか?」

 

 ──────瞬間、アメリアの目の前の全てが、崩壊した。



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DESIRE────Battle party(その終)

「良い夢は見れましたか?」

 

 そんな声と共に、崩れ落ちていくアメリアの眼前の景色。吊り下げられたシャンデリアが落下し、壁も階段も、例外なく全てが崩壊していく。

 

 そして────気がつけば、アメリアは大広間の中央に立っていた。

 

「……は?え?」

 

 慌てて周囲を見渡すが、シャンデリアは落下してなどいないし、壁も階段も崩れておらず全くの無事であった。

 

「な、なに?なんなのよさっきのは!?」

 

 崩壊していたと思っていたら、崩壊していない。何事もなかったかのように大広間は綺麗で、どこも変わっていない。

 

 そしてアメリアは気づいた。己の足元が、やけに綺麗なことに。先ほどグチャグチャのバラバラにしてやった、フィーリアの残骸が、どこにも見当たらないことに。

 

 その事実に気がつき困惑する彼女が前を振り向く──そして、信じられない光景を目の当たりにした。

 

 

 

「どうも。おはようございます」

 

 

 

 アメリアの目の前に、フィーリアが立っていた。今し方この手で全身の骨を砕き、内臓を潰し、殺したはずの彼女が、そこに立っていたのだ。

 

 その現実を一瞬受け入れることができなかったアメリアは、呆然と全くの無傷であるフィーリアを眺め、それから叫んだ。

 

「おま、お前は『天魔王』!?な、何故だ!?何故生きている!?お前は、この手で殺した、はず……!?」

 

 混乱し慌てふためく彼女を諭すように、ゆったりとした優しげな声音でフィーリアは語りかける。

 

「なるほど。私を殺す夢を見てたんですね。恐れ多くも、この『天魔王』を殺す夢を」

 

「ゆ、め……?」

 

 理解が追いついていないアメリアに対し、依然柔らかな口調でフィーリアは続ける。

 

「はい夢です。あなたがその真の姿とやらになった直後、私はとある魔法を発動させました」

 

 フィーリアの声音は、口調はやはりやけに穏やかで、しかしそれが一層不気味さを醸し出している。事実、アメリアは先ほどから無意識に、その背中に冷や汗を伝わせていた。

 

「【夢景色(ドリームシアター)】──なんてことのない、ただの幻覚魔法です。抵抗(レジスト)さえできればなんの影響もありません。……まあ、あなたはできなかったようですけど」

 

 そう言って、フィーリアはまるで花が咲いたような、大変可愛らしい笑顔を浮かべた。

 

「途中からあなたのことが不憫でならなくて、だから最後くらい少しでも良い思いをさせてあげようかなって、あなたに夢を見せてあげたんですよ。私って、優しいですよね?」

 

 それは心の底からの言葉で、ありのままの真実しかなかった。つまり──アメリアなど、最初からまるで相手になどしていないと告げているようなものだった。

 

 そのことに気づき、アメリアは極太の青筋を立てた。

 

「…………じゃあ、なに?この私が、なんてことのないチンケな夢に踊らされたとでも言いたいの?」

 

 アメリアの震えた言葉を受け取って、フィーリアは顎に人差し指を押し当て、わざとらしく考え込んでから、あっけらかんと答えた。

 

「ええそうですよ?そんな簡単なこともわからなかったんですか?」

 

 二人の間に沈黙が流れ、そして──────

 

「ぶち殺すぞこのガキャアッッッ!!!!」

 

 ──アメリアが怒号を上げ、その真紅の豪腕を振るった。拳がフィーリアの眼前にまで迫るが、それに対し彼女は呆れたように嘆息を漏らし、スッと手のひらを掲げた。

 

 アメリアの拳が、フィーリアの手のひらに吸い込まれるように向かって──

 

 

 

 バァシィィンッ──肌と肌が互いに叩きつけられた甲高い音。それを聞いてアメリアは勝ち誇るような笑みを浮かべたが、それは一瞬にして驚愕のものにへと上塗りされた。

 

 

 

「な、なにぃ……!?」

 

 己の拳が、受け止められた。この悪魔のものと化した拳が、ただの少女同然のフィーリアの手のひらによって、受け止められていた。

 

 力を込めて押そうとも、びくともしない。どれだけ力を込めようとも、ほんの微かな距離でさえ、フィーリアを後ろに下がらせることができない。

 

 その事実にアメリアが戦慄していると、仕方なさそうにフィーリアが口を開く。

 

「夢と同じようになると思ってたんですか?だとしたら思い上がりも甚だしい。(それ)(それ)現実(これ)現実(これ)です」

 

 フィーリアがそう言うと、その姿が一瞬にして消えた。かと思えばすぐさまアメリアの眼前に現れた。

 

 宙に浮遊しながら、アメリアがそうしたかのようにフィーリアも己の腕を振り上げ、きゅっとその小さな手を握り、拳を作る。

 

「一思いに(パワー)で捩じ伏せてあげます」

 

「は?」

 

 そして言うが早いか、フィーリアは腕を振るった。

 

「【天魔王ノ拳(ふぃーりあぱーんち)】」

 

 ドゴォッ──気の抜けた、緊張感の欠片もないその声と共に振り下ろされたフィーリアの拳は、アメリアの顔面にへと突き刺さった。

 

「ぶげッ?!」

 

 傍目から見れば、フィーリアのその拳に、大した威力など込められていないように思えただろう。事実、フィーリアのその攻撃は素人のそれ同然であり、アメリアが呆然としていなければ躱すことなど容易かった。

 

 しかし実際、【強化(ブースト)】されたそのフィーリアの拳に秘められた威力は──およそ人間のものではない、埒外で出鱈目なものであった。

 

 それをろくに防御もしないで受けたアメリアが、まるで冗談のように吹っ飛ばされ、紙を破るように幾つもの壁を突き抜ける。そしてやがてその姿も、見えなくなってしまった。

 

「ふう。これでやっと静かになるってもんですよ」

 

 拳を撫でながらそう呟くフィーリアの元に、一つの影が歩み寄る。その気配に気づき、フィーリアが振り向くと──今ではよく見知った人物がそこに立っていた。

 

「サクラさん。あなた、今までどこほっつき歩いてたんですか!」

 

 フィーリアにそう叱咤されて、大広間にやってきたサクラは申し訳なさそうに頭を掻く。

 

「いやその、なんだ……ともかく、無事なようで良かったよフィーリア」

 

「私の質問に答えてください」

 

 フィーリアの言葉に、口を閉ざすサクラ。そんな彼女の様子に呆れ、先にフィーリアが折れてしまった。

 

「はあ……もういいです。あなたも無事でなによりです」

 

「ああ。それにしても、酷い有様だな」

 

 大広間の惨状を目の当たりにして、サクラがそう呟く。そんな彼女に対して、再度フィーリアは訪ねた。

 

「そういえばウインドアさんは?一緒じゃなかったんですか?」

 

「……それなんだが、さて。どこから説明したものかな」

 

「は?」

 

 サクラの意味深な返しに、困惑するフィーリア。そんな彼女に、サクラはこう言った。

 

「単刀直入に言う。ギルザはこの街での稼ぎを捨てて、『エデンの林檎』の密売を始めるつもりだ。ここで逃がすと、奴は手のつけられない正真正銘の怪物になるだろう」

 

 サクラの言葉に、呆けたような表情をフィーリアは浮かべる。最初は理解が追いついていないようで、少しの間を挟み、それから驚きの声を上げた。

 

「ちょ、それほんとですか!?だとしたらまずいじゃないですか!」

 

「ああ。だから奴をこの街から逃がさないよう、ウインドアには追ってもらっている。私たちも向かうぞ」

 

 そう言って、その場からサクラが駆け出そうとした瞬間だった。一体どこから湧いて出てきたのか、大人数の武装したギルザの部下たちが大広間に押し入ってくる。

 

「殺せ殺せ!ぶっ殺せ!」

 

「百万は俺のモンだ!」

 

「死に晒せやぁ!!」

 

 部下たちの姿を見て、堪らず鬱陶しそうな表情を浮かべるサクラ。が、ふとあることを思い出し、フィーリアに向き直る。

 

「そういえば、ラグナ嬢はどうした?姿が見当たらないようだが」

 

「…………あっ」



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DESIRE────局面

 サクラとフィーリアがそれぞれの敵と対峙する少し前、ラディウスの外れにある、今では寂れてしまった港にて金色(ラディウス)の怪物は独り静かに佇んでいた。

 

 怪物──ギルザ=ヴェディス。彼はただ、目の前に広がる輝ける街を眺める。

 

 ──相変わらず汚ねえ街だ。

 

 そう心の中で呟いた時だった。遠くの方から誰かがこちらに駆け寄る足音が聞こえてきた。

 

 その足音にギルザは目を向ける。視線の先にいたのは、つい二日前組織の部下にした男──オグヴ兄弟(ブラザーズ)の片割れ、兄のバンゼンであった。

 

 バンゼンは息を切らしながら、必死にこちらまで辿り着くと、息を整えながら話しかけてきた。

 

「ボ、ボス……や、約束通り、拐ってきましたぜ……」

 

 そう言うバンゼンの背には、一人の少女が眠っていた。燃え盛る炎のように鮮烈で、煌びやかな赤髪に白いリボンを結びつけた少女が。

 

 その少女を見て、ギルザがほんの僅かに口角を上げた。

 

「よくやった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 港には一隻の船があった。無論、ギルザが所有するものである。

 

「運び終わりましたぜ、ボス」

 

 船内に気を失ったままの少女──ラグナを運び終えたバンゼンが甲板にへと出てくる。ギルザも甲板の上に立っており、未だ遠くから街の豪奢絢爛な景色を眺めている。

 

「安心してくだせえ。ちゃんと縛ってありますから逃げ出す心配もありやせん。まあどの道海に出ちまえば逃げようがありませんがね」

 

「そうだな」

 

 バンゼンの方に、ギルザがゆっくりと振り返る。彼の顔を目にして、思わずバンゼンは身体を強張らせ冷や汗を流す。

 

 ──こ、怖え……!

 

 バンゼンも裏社会に身を置く者だ。彼とてそれなりの修羅場だとか、そういう(・・・・)経験は伊達に積んではない。ないが、それでもギルザが放つ圧はそんな彼を怯えさせるには充分なほどに邪悪で、そして醜悪だった。

 

 恐らく無意識なのだろうが、彼は常に纏っているのだ──昏く淀み濁った殺意を。

 

「バンゼン。お前は俺の言うことに従い、俺の仕事を真っ当にこなしてくれた。そこに関して、俺は嘘偽りなく感謝するぜ」

 

「へ、へい……!」

 

 確かに言う通り、その言葉には嘘も偽りもない。心の底からの言葉。それを聞いて、思わずバンゼンも口端を吊り上げる。

 

 そんな彼に対して、ギルザは続ける。

 

「本当にありがとな。お疲れ様」

 

 そして、まるで煙草を取り出すかのように自然な手つきで、ギルザは懐から拳銃を取り出し、なんの躊躇いもなくその銃口をバンゼンに向け、あっさりと引き金を引いた。

 

 パンッ──寂れたラディウスの港に、一発の銃声が響き渡る。

 

「………………え、は……?」

 

 つぅ、と。バンゼンの口端から血が伝い、甲板に落ちる。撃たれた胸を押さえながら、彼はよろよろと後ろに下がり、そして甲板から海に落ちた。

 

 バシャンッ──その音を最後に、港は再び静寂を受け入れる。

 

「金で作った特別製の弾丸だ。それがお前の退職金さバンゼン」

 

 拳銃を懐にしまい、ギルザは踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………ぅ…ん…?」

 

 重く粘つく微睡みの中から、這いずり出るようにしてラグナの意識は覚醒した。直後、ずきりと酷い頭痛が彼女を襲う。

 

「いっ……た…」

 

 思わず頭に手をやろうとして腕を上げようとしたが、できなかった。遅れて両腕が縄のようなもので縛られているのだと気がつく。なのでほぼ無意識に足を動かそうとしたが、同様だった。

 

 ──チッ……。

 

 今、どうやら自分は壁にもたれかかるようにして座っている姿勢らしい。視界は暗く、ここがどこなのかもわからない。部屋の中だということは辛うじてわかるのだが。

 

 頭痛はまだ続いている。それにまだ眠気もしつこく残っており、こうして起きているのも辛い状態である。と、その時だった。

 

 カツン──向こうから、階段を下りる足音が響いてきた。

 

 ──だれ、だ……?

 

 やがて足音は階段を下り終えて、真っ直ぐこちらに近づいてくる。そうして──足音の主は、ラグナの目の前にまでやってきた。

 

 滲み歪むラグナの視界に映ったのは、黒スーツの男。凶悪な笑みを携え、口端から僅かに覗かせる牙と見紛うほどに鋭い歯が凶暴さを醸し出す。

 

 その顔を見て、ラグナは思い出した。

 

「……ギル、ザ……!」

 

 見間違えるはずもない。その男は写真の男、今回の依頼(クエスト)標的(ターゲット)──ギルザ=ヴェディスであった。

 

 ギルザはゆっくりと腰を低く下げ、ラグナの顔を覗き込みながら彼女に話しかける。

 

「はは、お目覚めかい?可愛いお嬢さん」

 

「…………る、せ」

 

 相変わらず酷い頭痛は続いている。それに意識も混濁とし始めており、口を開いて声を絞り出すことすら今のラグナには困難なことだった。

 

 それを知ってか知らずか、依然として薄気味悪い笑みを浮かべてギルザは話しかけ続ける。

 

「写真を見た時から気に入っていた。俺がこんな感情を抱くのは数年ぶりさ。それだけお嬢さんは魅力的で、魔性的だよ」

 

 そう言ったかと思えば、ギルザはラグナの口元に手を伸ばした。ギルザの無骨な男の指先が、ラグナの薄い桃色の唇にへと近づいていく。徐々に、徐々に。

 

 そしてそれにラグナが気づいたと同時に、ギルザの指先は到達した。

 

「むぁ、ぐっ」

 

 慌てて反射的にラグナは口を固く閉ざそうとするが、もう遅い。ぐちゅ、とギルザの指先がラグナの口腔に無理矢理侵入してくる。

 

「安心しな。俺は優しいからよぉ……すぐには壊さねえよ」

 

 ぐちゅぐちゅ、ぐりぐりぐちゅり。ラグナの柔い口腔を、ギルザの指先が掻き回す。無遠慮に、犯していく。

 

「ふぁ、ん、ぐぅ……!」

 

 口腔を好き勝手にされる不快感にラグナは必死にギルザの指先を追い出そうとするが、構わずギルザの指先は蹂躙を続ける。

 

 ラグナの舌先の感触をギルザは存分に楽しみ、そしてじっくりと味わう──その途中だった。

 

 ガリッ──不意に、ラグナの口からそんな異音がした。

 

「…………」

 

 ギルザが、ほんの僅かに愉悦の笑みを歪ませる。それからゆっくりとラグナの口腔から己の指を引き抜いた。

 

 ギルザの指先からは、血が流れていた。その自分の指の様を、ギルザはじっと眺める。

 

「ざま、ぁ…みろ、へん……たい、やろ」

 

 そんな彼に対して、未だに上手く回らない呂律でラグナが罵倒する。

 

「おま、え……は、ここ…で、おわり、だ。お……まえ、なん…か、クラ、ハが……つかま、え……るんだか、らよ…」

 

 そう言って、ラグナはキッとギルザを睨みつける。対し、ギルザが己の指から彼女に顔を向ける。そこにあったのは──悍ましさに満ち溢れた、凶笑であった。

 

「俺がここで終わる?ほざくな玩具が」

 

 血と唾液に濡れた指先を突きつけて、怒りとも笑いともつかぬ震え声で続ける。

 

「いいかよく聞け。俺はここから登り詰めるんだ頂点に。誰にも縋らせない頂点に。不安を抱く必要もない恐怖に怯えることもない唯一の頂点にだ。その俺が、こんな場所で終わる訳がない!」

 

 そう言って、ギルザは再び手を伸ばし──ラグナの髪に結ばれていた白いリボンを剥ぎ取った。

 

「あっ……そ、れ…!」

 

 返せ、と。ラグナは叫ぼうとしたが、先に限界が訪れてしまった。気丈に開かれていた瞼が、静かに閉じていく。

 

 ギルザはその様子を見て、踵を返した。

 

「覚えておけ。お前は念入りに徹底的に躾けてやる。下品で最高に最低な雌犬に、な」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 再び甲板にへと出たギルザ。先ほどから彼は感じ取っていた。謎の、気配を。

 

 それを確かめるために船内から出た彼の視界に、真っ先に映り込んだのは────

 

 

 

「あなたがギルザ=ヴェディス……ですね?」

 

 

 

 ────若き青年の冒険者(ランカー)の姿だった。



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DESIRE────三刃鞭

「あなたがギルザ=ヴェディス……ですね?」

 

 そう慎重に、僕は船内から出てきた男に訪ねる。対して男はなにも返さなかった。

 

 ここはラディウスにある港。街の発展につれて利用される機会が少なくなり、そして遂には寂れてしまった港だ。

 

 ──情報通りだった……。

 

 懐にしまってあるサクラさんから渡された領収書(レシート)を意識しながら、僕は心の中でそう呟く。ということは、やはりあの情報も本当のことなのだろう。

 

 ギルザ=ヴェディスが、この街から出て『エデンの林檎』の密売に手を染めようとしているという、情報。

 

 ──なら、ここで絶対に捕まえなければ……!

 

 僕がここで彼を逃せば、サクラさんの言っていた通りギルザは手のつけようのない、裏社会の怪物となってしまう。それほどに彼がやろうとしていることは莫大な利益を生み出す行為であり、また甚大ではない被害をも生む行為でもあった。

 

『エデンの林檎』──以前にも説明した通り、特級有害物質と見做されている違法物である。魔石に限りなく近い鉱石で、人体にとって極めて有害なものであると同時に、粉末摂取などすることによって一時的な身体能力の向上、魔力の上昇という恩恵を受け入れられる。

 

 しかし、その後に待っているのは──確実な死だ。『エデンの林檎』とはそれほどまでに危険で、そして魅力に溢れていた。

 

 過去の戦争でもその効能が評価され、使い捨ての兵士たちによく使われていたのだという。敵国の戦力も減らせて、かつ余分な自国の兵力も調整できる──今では戦争などという手段はもう取られることがないが、それでも『エデンの林檎』には需要がある。

 

 そんなものの密売など、絶対に許す訳にはいかない。確固たる意思の下に僕が男を睨むと、ようやくその閉ざしていた口をゆっくりと開いた。

 

「仮にそうだとして、それを知ってお前はどうする?俺を捕まえようって魂胆か、冒険者(ランカー)?」

 

「その通りです」

 

 間髪を容れずそう答えると、男は再び黙ってしまった。かと思えば顔を手で覆い、それから呻くようにして微かに、笑い始めた。

 

「ハハハ……そうか、そうかそうか」

 

 そして、指の隙間から眼光を僕に突き刺した。

 

「身の程知れよ小僧。お前にそんなことできやしない」

 

 瞬間、ギルザから泥のような殺意が溢れ出した。それは瞬く間に僕の全身に纏わりつき、ドッと冷や汗が滲み出てくる。

 

 初めて味わう、感覚だった。魔物と相対するのとは違う、にじり寄ってくる恐怖。それに思わず僕は生唾を飲み、少しだけ後ろに下がってしまう。

 

 そんな僕を嘲笑うかのようにギルザが言う。

 

「殺すぜ。どうやってこの場所を突き止めたのかは知らねえが、俺の顔を見たからには死んでもらう必要がある」

 

 そして彼は一歩前に踏み出す。月明かりに照らされ、見え難かったギルザの全身が露わとなり──そこで僕は初めて気づいた。

 

 背筋が、凍った。途端に早鐘を打つ心臓を必死に抑える。

 

「そ、それ……一体、どこで……?」

 

 震える声でそう言いながら、僕がギルザが握り締める──先輩にプレゼントとして買った白いリボンを指差す。すると彼は自分が握るそれに視線をやった。

 

「ああ、これか?気にすんな蒐集癖さ。お前のお仲間の赤髪のお嬢さんからちょいと拝借させてもらった」

 

 それを聞いて、思わず僕は全身に力を込めた。

 

「先輩はどこですか」

 

 どう考えても、この男は先輩と接触している。その性格からして、リボンを奪い取るだけで済ませるはずがない。

 

 サクラさんに頼まれてすぐ出てしまったとはいえ、先輩の身に関してなにも考えなかった自分を殴り飛ばしたい衝動を抑えながら、そう訊ねたが──ギルザはまるで意味がわからないような表情を僕に向けた。

 

「先輩だと?……まさか、あの赤髪のことかぁ?」

 

「そうです」

 

 するとギルザは呆気に取られたような表情になって、それから少し経って、盛大に笑い始めた。

 

「ヒャハハハッ!こいつは傑作だぜぇおい!先輩だと?あんなのがお前の先輩なのか?馬鹿言ってんじゃねえよ、先輩ってのは敬うべき人物に対して使う言葉だぞ?どうしたらあんなのが先輩になるんだよ。おかしくて腹ァ痛えよ!」

 

 そう言って、ギルザはさらに勢いを増して笑い続ける。その何処までも人を馬鹿にするような笑い声が、僕の鼓膜を喧しく叩いてくる。

 

 思わず、拳を握り締めた。それも血が滲むほど、強く。沸々と煮え滾る怒りを必死に抑えながら、僕は口を開いた。

 

「笑うな」

 

 その声は、震えていた。怒りに震えているのが、丸わかりだった。僕のその言葉に、ピタリとギルザの笑いが止まった。

 

「…………いいか、よく聞いとけよ小僧」

 

 笑うのを止めたギルザは、口元を歪ませ僕に言い放った。

 

「あんなのはな、先輩なんかじゃあねえ。あんな雌は野朗共に使い回されるのがお似合いな──畜生以下の性処理玩具なんだよ」

 

 瞬間、僕の頭の中でなにかが、音を立てて切れた。

 

 ダッ──腰に下げた鞘から剣を引き抜き、僕はギルザに向かって一直線に駆け出す。そんな僕を彼は嘲笑った。

 

「馬鹿が」

 

 そう言って、ギルザが宙に手を翳し──そして振るった。一見すれば意味がわからない行動だったが、その瞬間僕の本能が退けと全力で警鐘を鳴らした。

 

 得も言われぬ悪寒を抱きながら、半ば無意識にその場から一歩後ろに跳んで下がる。が、遅かった。

 

 ブシュ──肩に激痛が走り、生温い液体が腕を伝う。視線をやれば、肩の肉が抉られたように袖ごと切り裂かれていた。

 

「ほお。感情なんかに流される馬鹿かと思ったが……どうやら違ったらしいな」

 

 予想だにしない傷口に、戦慄し口を開けないでいる僕にギルザが感心するように言ってくる。

 

「あのまま突っ込んでたら、死んでたぜ?小僧」

 

 ニヤニヤと笑いながら、甲板に佇むギルザ。その時、僕は気がついた。彼の右手が、なにかを握り締めていることに。

 

 リボンと違って、月明かりに照らされていても目を凝らさなければ見えないだろう。それは夜闇に紛れるようにして、ギルザの右手から伸びていた。

 

 僕の視線に、ギルザがわざとらしく右手を軽く振るう。ジャラジャラと鎖のような音が鳴った。

 

「せっかくだぁ、教えてやる。こいつが俺の得物──

 

 ジャララッ──勢いを強めて、ギルザの右手が振るわれる。するとやはり鎖が擦れ合うような音が周囲に鳴り響いて、ギルザの足元が三箇所同時に切り裂かれた。

 

 ──『三刃鞭』さ」

 

 そこで、初めてギルザが持つ得物──『三刃鞭』の全容が僕の視界に映る。

 

 それは、サクラさんの得物である刀の柄に似た持ち手からそれぞれ三条に伸びる、矢尻のような刃が無数に連なった異質な剣であった。



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DESIRE────VSギルザ(前編)

「肩痛いだろ。敢えて切れ味鈍くしてるからなあ」

 

 凶悪な笑みと共に、己の得物──三刃鞭を軽く振るうギルザ。その度に三つ六つと彼の周囲が傷ついていく。

 

 ──間合いが広過ぎる……!

 

 三刃鞭。矢尻のような刃物が無数に連なり一条を成している武器。その名の通り、持ち手からは刃の鞭が三本伸びている。

 

 少なくとも僕は見たことも聞いたこともない武器だった。恐らく、ギルザの特注品(オーダーメイド)なのだろう。

 

 三本の鞭それぞれがかなりの長さであり、それからわかる通りその間合いはとんでもなく広い。先ほども回避したつもりだったが、肩を掠めてしまった。

 

 剣を構え、僕はギルザの様子を窺う。……しかし、彼が自分から動く気配はない。依然として凶悪な笑みを浮かべたままそこに立っているだけだ。

 

 このままでは埒が明かない──だから、意を決し僕は身体を前に傾けた。

 

 ──さっきは握っているのが見えなかったから完全には躱せなかった。今度は見えてる、躱せるはず……!

 

 再度ギルザに向かって僕は突っ込む。するとやはりさっきと同じように彼は右手を振るった。

 

 ビュン──三刃鞭が大気を裂き、宙を舞う。まるで蛇のように蛇行しながら、しかし三本全てが確実に僕の方に向かってくる。

 

 ──見える。躱せる!

 

 予想していたよりも、三刃鞭は軌道こそ複雑だったが肝心の疾さはそこまででもない。サクラさんの抜刀と比べたら雲泥の差だ。

 

 こんなの簡単に躱せる──確信を以て、僕は三刃鞭の斬撃を掻い潜り、回避し切った。

 

 ──よし!

 

 後はこのままギルザとの距離を詰め終えるだけ────そう、思った直後だった。

 

 

 

 ザシュ──右足に、焼けるような激痛が走った。

 

 

 

「ぐ、あ?」

 

 堪らず足が絡れ、僕は危うく転びそうになるが寸でのところで体勢を持ち直す。しかし今度は左腕に同じ激痛が走る。

 

「あがっ…!」

 

 右足と左腕から発せられるその痛みに、思わずぐらりと視界が揺れる。一瞬だけ意識が遠のいたが、すぐさま頭を振って取り戻す。

 

 目の前を見れば、ギルザが笑っていた。それは人が踠き苦しむ様を見て愉しむ、外道の笑み。彼が右手を返すようにして小さく振るっていることに気づき、瞬間怖気を感じて咄嗟にその場から転がるようにして離れた。

 

 ザシュ──僕が立っていた場所に、抉り切ったような傷ができた。

 

「勘が良いなあ。あと少し遅かったら背中に一生モンの傷ができてたぜぇ?」

 

 息を荒げている僕に、ギルザが馬鹿にするような声音でそう言ってくる。それから彼はまだ続ける。

 

「俺の三刃鞭はなぁ、一回躱したくらいじゃ無意味なんだよ。こうやって手首を細かく返せば、軌道なんざいくらだって変えられるからなあ」

 

 言いながら、ギルザは三刃鞭を何度か振るう。その途中で手首も何度か返し、言った通りその軌道を変幻自在に操っていた。

 

「…………」

 

 その光景を見て、僕は絶句するしかなかった。三本の刃の鞭が、縦横無尽に宙を舞っている。たとえ初撃を躱したところで、鞭が軌道を変えてこちらを追尾してくる。

 

 一本だけであったらなら、せめて一本だけであったらならまだ躱し続けることは可能だっただろう。しかし、ギルザが操るのは三刃鞭──三本の刃の鞭だ。一本をどうにかしたところで、二本が残っている。

 

 それに、場所も悪かった。甲板という限られた空間で、あの間合いの広さは驚異過ぎる。せめてここが市街地だったなら、建物なり遮蔽物なりでなんとでもなったことだろう。

 

 ……いや、なによりも驚愕すべきなのは、あのような武器を容易く扱えるギルザ自身の技量だ。少なくとも僕には無理だ。

 

 ──…………やっぱり、あの(・・)情報も本当なのか。

 

 サクラさんから渡された紙には、ギルザ=ヴェディスに関する情報が記されていた。彼がこの街を捨て、『エデンの林檎』の密売に手を染めようとしている企みも──そして彼の過去(・・)

 

 にわかには信じ難い情報だった。それを事実として考えても、何故彼が自ら進んでこんな世界に足を踏み入れたのか、僕には全く理解できなかった。

 

 ギルザ=ヴェディス──彼は、何故ここまで歪んでしま(・・・・・)ったのだろうか(・・・・・・・)

 

「そんなとこで考え事かい?んなことしてっと、死んじまうぞお?」

 

 馬鹿にしたような声に、ハッと顔を上げる。眼前には、既に刃の鞭が迫っていた。

 

 頭で考えるよりも先に顔を引く。刃が僕の顔面を触れるか触れないかの超至近距離で、前髪を数本巻き込みながら通り過ぎた。

 

 髪を無理矢理引き抜かれる痛みを無視して、慌ててその場から跳び退く。しかし、また遅かった。

 

 ザク──鎖骨付近の肉を、二本の鞭が抉り取る。

 

「ぐあぁっ!」

 

 港に僕の苦悶の叫びが響き渡る。あまりの激痛に、また意識が飛びかけたが、なんとか堪えた。

 

 剣を握る手が重い。呼吸をしても息苦しい。四肢から伝わる熱さと激痛に涙が出そうになる。

 

 なんとかギルザから距離を取れたが、もう僕の身体は満身創痍だった。三刃鞭が負わせる傷はかなり凶悪で、出血が全く止まらず止血も容易ではない。この出血量は──まずい。

 

 ──なんとかしないと。僕がなんとか、この男を捕まえないと……!

 

 最悪、ここにサクラさんかフィーリアさんのどちらかが合流できる時間さえ稼げればいい。だから、なんとしてでも────

 

 ガクンッ──そう思った直後、僕の膝が崩れ落ちた。

 

「あ……?え……?」

 

 慌てて立ち上がろうとするが、膝に力が全く入らない。それどころか腕からも瞬く間に力が抜け落ちて、甲板にへと剣を落としてしまう。

 

 突如として訪れた身体の異変。困惑することしかできない僕に、ギルザは笑いながらこう言った。

 

「やっと回ってきたみたいだなぁ。本当なら一度掠ったらそこでお終いだったんだが……まあ、お前は頑張ったよ。小僧」

 

 言いながら、ギルザが僕との距離を詰めてくる。三刃鞭の間合いに入るよう、僕に近づいてくる。

 

 ──動け。動け、動け動け動け動け動け動け……!!

 

 そう心の中で何度も呟きながら、僕は立ち上がろうとする。だが虚しくも身体が意思に応えてくれることはなかった。

 

 それでも。無理矢理にでも動こうとして────

 

「じゃあな。死ね」

 

 ザグッ──その前に、三刃鞭の刃が僕の首を抉り裂いた。



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DESIRE────VSギルザ(中編)

 僕の耳元で、血が噴き出す音が聞こえる。どこよりも近い場所で聞こえているはずのその音は、不思議なことに遠くから鳴り響いているように思えた。

 

 真っ白になっていく頭の中、僕はゆっくりと甲板に倒れ始めていく。もう、身体を動かそうだとか、なにも考えられなかった。

 

 そんな僕を一瞥して、ギルザは踵を返し、離れていく。それを止めようとも、思えなかった。彼の背中をただ、見つめることしかできなかった。

 

 ──……ああ、やっぱり僕なんかには無理だった。僕なんかに、できることじゃなかったんだ。

 

 薄れていく意識に、サクラさんの姿が映り込む。彼女は僕を信頼してくれたが、それに応えることはできなかった。それが悔しくて……けど、なにもできない。

 

 ──すみません。サクラさん……フィーリアさん……。

 

 そうして、身体から外に流れ出る血の生温さを感じながら、僕は──────

 

 

 

 

 ──………………あ…。

 

 甲板に倒れる直前、偶然にも僕の視界に『それ』が映った。ギルザの左手にある、『それ』が。

 

『それ』は──白いリボン。僕が、先輩に買ってあげた白いリボン。

 

 瞬間、真っ白に染まっていくだけだった僕の脳内を埋め尽くさんばかりの記憶(えいぞう)が浮かび上がってくる。

 

『おい起きろ、クラハ!』

 

『ありゃなんだ?あれも店……なのか?』

 

『これでいいんだろこれで!?』

 

『あ、あんがと……』

 

『な、なに言ってんだこの馬鹿ぁぁぁあっっっ』

 

『よろしく、お願いします。クラハ』

 

 それはこの(ラディウス)で繰り広げた、ほんの少しばかり変わった、日々。そのどれもが忘れ難い、思い出。

 

 笑っていた。先輩が────笑っていた。

 

 

 

 

 ダンッ──床に倒れ臥す直前、僕は甲板に手を突きなんとか持ち堪えた。ボタボタと血が垂れ落ちて甲板を赤く染める。

 

 顔を上げれば、ギルザがこちらに振り返っていた。その顔には僅かながらの驚愕と動揺が滲み出ている。

 

「…………小僧」

 

 ギルザの声には、確かな苛立ちが混じっている。それを無視して僕は甲板から立ち上がる。先ほどまで全く言うことを聞かなかったはずの身体が、今度は素直過ぎるほどに自分の思い通りに動かせた。

 

 身体が軽い。それも異様なくらいに。血を流し過ぎたせいだろうか。このままでは間違いなく失血死するだろうが──その前に目の前の男をどうにかできれば問題ない。

 

 肺にあった空気を絞り出すように吐き、僅かに鉄錆の臭いが混じった空気を新たに吸い込む。そして僕は自分でも驚くほど冷静に口を開いた。

 

「あなたに一つ、聞かせてほしいことがあります」

 

 そう言う僕に対してギルザは不可解そうな表情を浮かべ、納得がいかないというように彼も口を開く。

 

「一滴でグラヴォロアも動けなくなる神経毒だぞ?それにそもそもその出血量でなんで立ち上がれる?何故喋れる?小僧」

 

「質問しているのはこちらです」

 

 即座にそう返すと、ギルザは沈黙する。遅れてそれが彼なりの肯定なのだと判断し、僕は訪ねた。

 

「ギルザ=ヴェディス──あなたは、本当に元冒険者(ランカー)だったんですか?」

 

 ギルザは、黙ったままだった。それから少し静寂を挟み──心底うんざりだというように彼が顔を歪ませた。

 

「だったらなんだ?俺が元冒険者でなにが悪い?ああそうだ。元冒険者さ、俺は」

 

 その声は、荒み切っていた。億劫とした響きに満ち溢れていた。彼は俯くと、凄まじい勢いで喋り出した。

 

「冒険者なんて糞食らえだ。あんなモン百害あって一利なしだ。正気の奴がやるもんじゃねえ。ああそうだ、冒険者は正気じゃない」

 

 それは怨嗟の呟きだった。呪詛の連なりだった。まるで壊れた機械人形のようにギルザは喋り続ける。

 

「俺だって最初はやったさやっていたさ真面目になだけどなそれが駄目だったんだそれが駄目だったんだよなあどいつもこいつも俺を頼りやがる俺に縋りやがる平気で命をかけさせやがる張らせやがる何度も何度も何度も」

 

 ギルザの右手が揺れる。振り子時計のように規則正しく、正確に。その度に握られた『三刃鞭』の刃が甲板に細やかな傷を残していく。

 

「数え切れないほどの不安を抱いた数え切れないほどの恐怖を覚えたそれでもギルドの連中は塵芥屑(ゴミクズ)ばかりで誰一人も手を差し伸ばしもしなかったそれでも俺は堪えた俺は堪えた俺は堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた」

 

 揺れる。ギルザの身体も揺れる。ゆらゆらと、まるで幽鬼のように、微塵の生気も感じさせることなく。

 

「ずっと堪えた堪え続けた堪え続けて続けて続けてでもそれでもやっぱりなんにも変わりはしなかったそれどころか不安と恐怖は増した重くなっただがそれでも俺は堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた堪えた堪えて堪えて堪えて堪えて堪えて堪えて堪えて堪えて」

 

 同じ言葉の羅列。もはや、ギルザ=ヴェディスが正気ではないことは、誰の目にも明らかだった。

 

 そして、ピタリと彼の声は止まった。かと思えば────

 

 

 

「殺してやった」

 

 

 

 ────そう言って、顔を上げた。

 

「ぶっ殺してやった全員さァ!この手で、この手でよォオ!!もう俺は誰にも頼られない。もう俺に誰も縋らせない。不安も恐怖も抱かない!」

 

 ありのままの狂気をそこに宿らせて、彼は叫ぶ。金色(ラディウス)の怪物が叫ぶ。

 

「お前も殺す小僧!それで俺は頂点に立つ!誰にも頼らせねえ!誰にも縋らせねえ!ヒャハハハハハハッ!ハハハハハッ!!」

 

 そこに立っているのは、もはや人間ではなかった。人間の形を真似た、真正の怪物であった。

 

 怪物──ギルザ=ヴェディス。元《S》冒険者である彼を、僕は睨みつけた。そして、血が伝う口をゆっくりと開く。

 

「……何故あなたがそうなってしまったのか、大方理解できました。あなたの境遇には少しばかり同情はします」

 

 はっきりと、その耳に届くよう、僕はギルザにこの言葉を突きつけた。

 

「僕はあなたのようにはならない。あなたのような冒険者には、絶対に」

 

 僕の言葉に、ギルザは固まった。表情を狂気に染めたまま、まるで静止画のように。

 

 それから、怖気立つほどの無表情になって──直後、彼は激昂した。

 

「ならないんじゃあねえ!なれねえんだよ!!!」

 

 そして、彼は『三刃鞭』を振り上げた。



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DESIRE────VSギルザ(後編)

 ビュンッ──今までと比にならない速度で振るわれる『三刃鞭』。三つの刃の鞭が、大気を裂いて宙を舞いながら僕に襲いかかってくる。

 

「死ね!」

 

 ギルザの言葉と共に襲来するそれを、僕は最小限の動作で躱す。が、やはりそれでも三刃鞭の刃が僕の腕や脇を浅く抉り裂いてくる。

 

 だが、僕は狼狽えなかった。そのまま腰を低くし、再びギルザに向かって駆け出す。

 

 傍目から見れば、それは先ほどの二の舞にしかならない行動だっただろう。現に、ギルザは完全に勝利を確信したように笑みを浮かべていた。

 

「馬鹿か小僧!?血ィ抜けて頭ん中スッカラカンになったのかぁ!?そうやって突っ込んでも俺には辿り着けねえよ!!」

 

 ビュンッ──ギルザが『三刃鞭』を振るう。刃の鞭がさっきと同じような軌道を描いて、僕に飛来する。

 

 このままではまた僕の首元を抉り裂いてくるだろう。もしそうなれば、今度こそ僕は甲板に倒れ伏し、もう二度と立ち上がれはしない。

 

 そんな、誰にだって予見できる簡単な未来──しかし、僕は止まらず(・・・・)力強く甲板(・・・・・)を蹴った(・・・・)

 

 ザグッ──『三刃鞭』が抉り裂いた。僕の、右肩を。

 

「……あ?」

 

 間の抜けたような声を漏らすギルザ。その間も僕は止まらない。ただひたすら真っ直ぐに、彼の懐を目指す。

 

「チッ」

 

 ギルザが『三刃鞭』を振るう。刃の鞭が不規則な軌道を描き、宙を滑りながら僕の首元を狙う。依然勢いを保ったまま僕は身体を傾ける。結果、『三刃鞭』は僕の首元を抉り裂くことなく、それぞれが腕や足を抉った。

 

「…………」

 

 ギルザの表情が、固まった。それから無言で『三刃鞭』を振るい続けるが、三つの刃は走り続ける僕に対して致命傷を与えることができない。

 

 傷は増えていく。だが、それだけだ(・・・・・)。こんな傷では、僕を死に追いやることなどできはしない。

 

 徐々に、ギルザの表情に焦りが滲み始める。

 

「こ、こいつ……!」

 

 そしてまた『三刃鞭』を振るうが、結果は変わらなかった。

 

 ──躱そうとするから、駄目だったんだ。

 

『三刃鞭』の刃を身に受けながら、僕は心の中で呟く。

 

 ──無理に躱そうとするから、一本目は躱せても二本目と三本目はまともに受けてしまった。

 

 考えてみれば、それは当然のことだった。『三刃鞭』は三本の鞭。一本を躱すことに全力を費やしては、その後は無防備になってしまう。無防備になったところを、残りの二本の鞭が急所を狙って抉ってくる。

 

 無防備な状態でそれを躱すなど到底不可能だ。だったら最初から躱さなければいい(・・・・・・・・)

 

 致命傷さえ避けられれば、あとは問題ない。腕を抉られようが足を裂かれようが、死にはしない。痛みなど、いくらでも堪えられる。

 

 ──先輩が笑われるのと比べたら、こんなものなんともない。先輩のためだったらいくらだって傷ついてやる。

 

 寸でのところで首への致命傷を避けながら、僕はギルザとの距離を詰めていく。彼との距離が縮まる度に身体の傷は増えていくが、こんな男に先輩が笑われた屈辱に比べればどうってこともない。

 

 ──死ななければ、問題はないんだ……!!

 

 先ほどよりもずっと強く、それこそ割り砕かんばかりの勢いで甲板を蹴り、僕は愚直に一心不乱にただギルザの元を目指す。

 

 少しも走る速度を緩めない僕に、遂にギルザが堪らず叫んだ。

 

「いい加減止まれやこのガキがァアアッ!!!」

 

 叫びながら、ギルザが『三刃鞭』を振るう。金属の擦れ合う不快な音を立てながら、『三刃鞭』の刃が僕の首に向かう──ことはなかった。

 

 ザクッ──三本全ての刃は、僕の首ではなく腹部を切り裂いた。

 

「がはッ……!」

 

 すぐさま喉奥から粘つくものが込み上げて、堪え切れず大量の血を吐き出してしまう。吐き出された血が甲板にぶち撒けられる。

 

 ……が、それでも僕は足を止めなかった。限界まで力を込めて、甲板を蹴り叩く。

 

「はぁ……!?」

 

 驚愕を隠そうともせず、ギルザが戦慄するようにそう溢す。対し、僕は変わらず彼を睨み続けた。

 

 そして、遂に────ギルザとの距離が、縮まった。

 

 ──絶対に、逃がさない……!

 

 確固たる意思の下、僕は血が滲むほど力を込めて拳を握り、振り上げる。対して、ギルザは──その顔を焦りから、明確な恐怖に歪ませていた。

 

「く、来るな!来るんじゃねえ!!」

 

 もはやそれは叫びではない。恐怖に打ち震える、惨めな悲鳴。だが、僕は足を止めない。そのまま、彼の懐に飛び込む。

 

 すると彼は握り締めていた先輩の白いリボンを宙に放って、震える手を懐に突っ込んだ。

 

「俺に近づくなあああぁぁぁぁあああああああっ!!!」

 

 発狂するようにそう叫んでギルザが懐から取り出したのは、一丁の銃。未だ震えている手つきで冷たく輝く銃口を僕に向けた。

 

 パァン──乾いた枝を折ったような音と共に、金色の銃弾が撃ち出された。

 

「ッ!」

 

 大気を熱して焦がし、螺旋に回転するそれは僕に向かって真っ直ぐに突き進む。時間にして一秒にも満たない一瞬────

 

 

 

 ドゴォッ──僕の頬を掠めて通り過ぎ、それと同時に僕は全ての勢いを乗せた己の拳を、一切の迷いなくギルザの顔面に突き刺した。

 

 防御もできず、まるで玩具のように吹っ飛び甲板に転がるギルザ。数回身体を痙攣させたかと思えば、そのままピクリとも動かなくなった。

 

 先輩のリボンが宙に漂い、夜風に流されてしまう──直前、僕が掴み取る。そして気絶したギルザに、届くことのない言葉をかけた。

 

「リボン、返してもらいますよ」



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DESIRE────Epilogue〜この人たちがいる限り〜

 青く澄み渡る空に、燦々と輝き浮かぶ太陽。少し暑く感じてしまう陽射しの下、僕ことクラハ=ウインドアは住民たちの心地良い喧騒を聞きながら、オールティアの街道を歩いていた。

 

 あのラディウスでの一件から、早くも一週間が過ぎていた。三日間という短い期間ではあったが、凄まじく濃密な出来事の連続だった。しかし、今思い返せば遠い昔のことのように感じる。

 

 オールティアに戻ってきてからも、忙しい日々が少しばかり続いた。依頼(クエスト)達成の手続きだったり、グインさん主催の『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の面々による労いの宴会だったり──それはもう忙しい数日間だった。

 

 そうしてようやっと昨日落ち着き、こうしてゆっくりと街道を歩いていられるようになったのだ。……まあ、この後もちょっとした予定があって、集合場所に向かっているだけなのだが。

 

 それはさておき、ギルザに関しての結末も語ろうと思う。結果を先に述べるなら──ギルザ=ヴェディスという男は死んだ。

 

 彼が抱えていた組織(ファミリー)はサクラさんとフィーリアさんによって、再構築が不可能なまでに壊滅された。今後、ラディウスにてあれ以上の組織が誕生することはないだろうと思いたい。

 

 そして当の本人であるギルザ=ヴェディスだが、『世界冒険者組合(ギルド)』によって拘束、確保された彼はすぐさま裁判にかけられることとなり、ほぼ間違いなく死刑判決を下される──と、思われていた。

 

 しかし実際には彼が死刑判決を受けることはなかった。何故ならば──そもそもギルザが裁判などにかけられることがなかったからだ。

 

『たす、たすけっ、助けてくれぇええっ!怖いんだ!怖いんだぁぁっ』

 

冒険者(ランカー)は化け物だ!あいつらがいないところに連れてってくれ!もう嫌だ!もう怖い思いをするのは嫌なんだ!』

 

『ああ殺されるっ、小僧が来るっ、小僧が殺しに来るぅううぅうううっ!』

 

 ……このように、僕に殴り飛ばされ失神し確保された後、意識を取り戻した彼は精神が崩壊していた。常に極度の恐怖を抱え、特に冒険者と聞くと狂ったように喚き回る。誰がどうしようとも、彼は恐慌し続けた。

 

 そんな彼が裁判など到底できる訳もなく、最終的に彼は精神病棟に送られることになった。

 

 そして病棟に送られてから二日後、ギルザは着ていた服を縄代わりに首を吊って自殺した──これがギルザ=ヴェディスという男の、結末だ。

 

 正直に言ってしまえば、こんな結末など僕は受け入れたくない。ギルザには法で裁かれ、正しい方法で罪を償う義務があった。あの男が犯した罪は、あの男の薄汚い穢れた命一つなどで清算できるほど、軽いものではないのだから。

 

 しかし、同時に僕は彼に対して後悔も感じていた。理由はどうであれ、最終的に彼をあんな風にしてしまった原因は、僕に変わりない。自分の行動が間違っていたとは決して思わないが──それでも、複雑な心境だった。

 

 だがもうギルザ=ヴェディスはいない。彼は死んだ──もう、過ぎた話になってしまった。変えようのない過去に対して、今さらどうこう言っても意味はない。

 

 ──忘れよう。それでいい。それで、いいんだ……。

 

 そこでギルザに関して考えることに区切りをつけて、僕は街道を歩く。するとしばらくして中央広場にへと出た。

 

 噴水の近く──その場所で、サクラさんとフィーリアさん、そして先輩の三人が待っていた。僕が近づくと、真っ先に先輩が気づいた。

 

「クラハ!お前遅いぞ!」

 

 内容こそ僕を咎めているが、声音は明るく楽しそうで、その表情は嬉しそうな笑顔である。僕の方へ駆け寄ってくる先輩に続いて、サクラさんとフィーリアさんも歩み寄ってくる。

 

「おはよう……と言うには少しばかり遅いか。やあウインドア、身体の調子はどうだい?」

 

「こんにちはですウインドアさん。今日はわざわざ付き合ってくれてありがとうございます」

 

 それぞれ声をかけてくれる二人に、僕は笑顔で応する。

 

「お久しぶりです、サクラさん。フィーリアさん。僕はこの通り至って元気ですよ。今日はよろしくお願いします」

 

 合流し、一通りの挨拶を終えた僕たちは、このまま街の外──ヴィブロ平原に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──冒険者(ランカー)、か……。

 

 風が吹き渡るヴィブロ平原。揺れる足元の草や遠方の木々を眺めて、僕はふと足を止めた。

 

 僕が足を止めたことに気づかず、先を歩く先輩たちの背中を見て、唐突に考えてしまう。

 

 ギルザ=ヴェディス──彼は非常に優れた《S》冒険者であり、少なくともあのような凶行に走る人物とは考えられなかった。しかし彼には周囲の期待に応え続けられる度量が、なかった。その精神も脆く、最後には折れ曲がり歪んで狂ってしまった。

 

 自分が所属していた冒険者組合(ギルド)の面々を一人残らず惨殺し、GM(ギルドマスター)すら手にかけて。組合そのものを潰し、その行方を晦ませた。

 

 冒険者を辞めた彼は裏社会にへと沈み、そしてラディウスにて怪物となってしまった。人の道を外れた、ただの怪物に。

 

 僕はそんな彼と────己を、重ね見た。もし僕も、彼と同じような環境に身を置いていたら、彼と同じような人生(みち)を歩んでいたのかもしれないと。

 

 我ながら馬鹿らしい考えだとは思う。つまらない杞憂だと思う。……それでも、少しは考えてしまうのだ。

 

 ギルザ=ヴェディス。一体どうすれば、彼は救われたのだろう。彼は──折れ曲がらず、歪むことも狂うこともなかったのだろう。

 

 あくまでも、これは僕の憶測に過ぎない。過ぎないが、敢えて言うなら────

 

 

 

「……む?どうしたウインドア。そんなところに立ち止まって」

 

「そうですよ。早く来ないと置いて行っちゃいますよー?」

 

「早くこっち来いクラハ!」

 

 

 

 僕が立ち止まっていたことに気づき、三人とも振り返ってこちらを急かす。慌てて、僕も駆け出した。

 

「す、すみません!今行きます!」

 

 …………もう、このことについて考えることも、止めにしよう。何故ならば────

 

 

 

 

 ──この人たちがいる限り、僕は歪まないだろうから。



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海へ行こう──夏、到来

 この世界(オヴィーリス)にも四季というものが存在する。春夏秋冬──今は気温穏やかな春が終わり、灼熱の日差しが忌々しくも好ましい、爽やかな夏である。

 

 辛くもまだ耐えられる猛暑の中──僕は一人、冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』のロビーにて、テーブルに突っ伏していた。

 

 ──……暑い。

 

 この季節、それは当たり前のことなのだが毎度毎度思う。大量の汗を流しながら、ぼうっと目の前にある依頼看板(クエストボート)を僕は眺める。

 

 この一ヶ月間、思い返せば多忙な日々だった。それはもう……多忙な日々であった。

 

 ラディウスでの一件から、喜ばしいことにどうやら僕の知名度がそれなりに上がったらしい。まああの『世界冒険者組合』直々の依頼を達成(クリア)したのだから、当然のことと言えばそうなのだが。

 

 ともかく、それなりとはいえクラハ=ウインドアという名前が有名になったことで、僕を指名する依頼が舞い込んでくるようになったのだ。最初の一ヶ月間は……本当に忙しかった。

 

 ──暇じゃないだけマシなんだろうけど……それでもなあ。

 

 あまりの忙しさに、日課であった先輩のLv(レベル)上げもままならなかったほどだ。おかげさまで先輩のLvはラディウスに出発した時から一つも上がっていない。

 

 それについていい加減焦りというか危機感を抱き始めた頃、ようやっと僕を指名する依頼の数も減って、最終的にこうして冒険者組合のロビーにて、テーブルに突っ伏していられるくらいには暇ができたのだ。

 

 ……ならば、今こそ先輩のLv上げをすべきだと思うだろう。誰だってそう思う。僕だってそう思う。

 

 だから今朝、先輩を連れてヴィブロ平原にいざ向かおうとした。したのだが────

 

 

 

『おはようございますウインドアさん!ブレイズさん借りますね!』

 

 

 

 ────家を出た瞬間、突如目の前に現れたフィーリアさんによって、抵抗はおろか声を上げる間すらも与えられず、先輩が攫われてしまった。

 

 あっという間に玄関前に一人残された僕は、予定がなくなってしまいどうすることもできなかったので、取り敢えずこうしてこの場所に来た訳だ。

 

 かと言って、依頼を受ける気力などなく、テーブルに突っ伏し無為な時間を過ごしている。そんな僕の元に、歩み寄る影が一つあった。

 

「あら、クラハ君。元気がないようだけど大丈夫?」

 

『大翼の不死鳥』の受付嬢──メルネさんである。夏仕様の生地の薄い制服姿の彼女が、トレイを片手に僕が突っ伏すテーブルにまでやって来て、トレイに載せたコップを僕の目の前に置いた。

 

「冷たいお水よ」

 

 メルネさんの言う通り、コップに注がれた水はキンキンに冷えており、実に美味しそうである。

 

「あ、ありがとうございます……メルネさん」

 

 お礼を言いながら、身体を起こし、コップを手に取り縁を口につけ傾ける。予想通りこの猛暑の中で飲む水は格別で、喉を通り抜けるこの冷たさが大変素晴らしく心地良かった。

 

「ふふっ、良い飲みっぷりね。中身が水じゃなくてお酒だったら、もっと様になったでしょうけど」

 

 微笑を携えるメルネさんの言葉に、僕は苦笑を浮かべる。空になったコップを返すと、また彼女は受付の方にへと戻っていった。

 

 メルネさんの背中を見送りながら、僕は独り心の中で思う。

 

 ──僕が『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に来てから、もう三年経つのか……。

 

 三年前──僕はまだ《B》冒険者(ランカー)の駆け出しで、今よりもずっと未熟でどうしようもない冒険者だった。そんな僕がここまで来れたのは、ラグナ先輩のおかげだ。

 

 ──いやあ、本当に無茶苦茶だったなぁ先輩。色んな危険地帯に散々連れ回されたっけ……よく死ななかったよ、僕。

 

 嘆息しながら、当時の記憶を振り返る。先輩は誰に対しても平等で、僕のような新人冒険者でも、本来ならば熟練の冒険者たちがチームを組んで挑むような過酷なダンジョンなどに平気で連れていく。あの時命を落とさずに現在(いま)をこうして生きていられるのが奇跡と思えるくらいには、僕も死にかけた。

 

 ──先輩には数え切れないほど助けてもらったよな。

 

 ラグナ=アルティ=ブレイズ。誰よりも立派で、偉大なる僕の先輩であり、この世界最強と謳われる三人の《SS》冒険者の一人。

 

『炎鬼神』の異名を持ち、その通り怒れる鬼神の如く暴れ回り、その紅蓮に燃ゆる炎を以て眼前の敵を焼き尽くす──それが先輩の戦い様で、僕は何度もその姿をこの目で見てきた。

 

 そう、ラグナ先輩は自他共に、誰もが認める最強の冒険者────だったのだ。

 

 ──それが、今やLv15の女の子だもんなあ…………。

 

 詳しい事情は割愛させてもらうが、ともかく色々あって今や先輩は可憐でか弱い女の子になってしまった。最強だったラグナ=アルティ=ブレイズは、一夜にして最弱の少女となってしまった。

 

 そうしてなんとか先輩を元に戻す為奮闘続けて早二ヶ月──進歩は、蝸牛の如し。成果は微々たるもの。

 

 ──マシになった。最初よりかはずっとマシになったんだ。スライムだって一人でもなんとか倒せるようになったし……なった、し……。

 

 スライム一匹と一戦交えただけで疲労困憊となり倒れてしまう先輩の姿が脳裏に蘇り、とても悲しい気分になってきた。おかしいなあ、何故か視界が滲んでよく見えない。

 

 ──それにしても、なんだってフィーリアさんは先輩を攫ったんだろう?

 

 そう思った瞬間だった。

 

 シュン──突如として、僕の目の前にフィーリアさんが現れた。至極幸福といった満面の笑顔と共に。

 

「ウインドアさん!海に行きましょう!」

 

 そして間髪容れず僕に対してそう言ってきて。あまりにも突然過ぎるその提案に対して僕は────

 

「……えっ、あ、はい」

 

 ────そう反射的に了承してしまうのだった。



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海に行こう──緑と、そして青と白

「海に行きましょう!」

 

 突如として僕の目の前に現れるや否や、その一言を僕に対して送り、思わず反射的に生返事してしまった僕を彼女は自らと共に、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のロビーから別の場所にへと【転移】させた。

 

 一瞬にして目の前に広がる緑一色の長閑(のどか)な風景──僕とフィーリアさんは、ヴィブロ平原に【転移】したのだ。

 

「付いて来てください、ウインドアさん」

 

 そう言うが早いか、フィーリアさんが歩き出す。僕はイマイチ状況を飲み込めないまま、慌てて彼女の後ろを付いて歩く。

 

「あ、あのフィーリアさん。海に行きましょうって、一体どういう……?」

 

 ロビーでの一言を思い出しながら、僕は訊ねる。すると彼女はこちらに振り返らず、前を向き歩くまま答えた。

 

「どうもこうもそのままの意味です。これから海に行くんですよ──四人で」

 

 そう言うと同時に、スッと前方を指差すフィーリアさん。釣られて見てみると、この壮大な草原の中でも目立つ、天を突く勢いにまで成長した大樹がそこに立っており、その木陰の下には見慣れた二人の人物──大樹にもたれかかり、悠然優美に佇むサクラさんと、薄ら赤く染めた頬をむすっと膨らませ、そっぽを向くラグナ先輩の姿があった。

 

「お待たせしてすみませーん」

 

 二人と同じように木陰に入り、まずはそう声をかけるフィーリアさん。僕といえば、やはり困惑を隠せずただ戸惑うことしかできない。

 

 そんな僕に、大樹にもたれかかっていたサクラさんが涼しげな微笑を送ってくる。

 

「やあ、ウインドア。久しぶりだな」

 

「え、ええ……お久しぶりです、サクラさん」

 

「ちょっと。私を無視しないでくださいよ」

 

 若干狼狽えながら返す僕と、サクラさんに無視され非難を上げるフィーリアさん。そんな僕たち二人を彼女は交互に見つめ、それから何故かうんうんと頷く。

 

「少しだけ男を感じさせる顔つきになったじゃないか、ウインドア。それとすまないフィーリア。君と私の仲だから、これくらい許されると思ってしまって、な」

 

「……いやまあ、確かにこれくらい別にいいですけど」

 

 それを皮切りに、今度はフィーリアさんと他愛ない日常の会話を始めるサクラさん。二人の様子を眺めつつ、僕も先輩の方に歩み寄った。

 

 先輩は依然として頬を染め、そっぽを向いていたが、僕が近づくとややぎこちなく、こちらの方を向く。

 

 ──先輩、どうしたんだろう……?

 

 こちらに向けられた琥珀色の瞳には、なにか怯えにも似た躊躇いがある。今の先輩は、今朝とはまるで別人かのようだった。

 

 そう疑問に思いながらも、僕は口を開いた。

 

「今朝ぶりですね、先輩」

 

「……お、おう。そうだな」

 

 そう返す先輩の顔は、やはり何処か気まずそうで、会話もそこで止まってしまった。

 

 サクラさんとフィーリアさんの何気ない会話の横で、沈黙する僕と先輩。どうすればいいかわからず、黙っていると──やがて、意を決したように、今度は先輩がその小さな口を開いた。

 

「な、なあクラハ」

 

 言いながら、赤い顔の先輩が僕に詰め寄る。予想していなかった急接近──ふわり、と。揺れた先輩の髪から仄かに甘い香りがして、僕の鼻腔を悪戯に擽る。

 

「えッ?ぅあ、はいっ?!」

 

 完全に動揺した。まるで悲鳴のような情けない僕の返事に、しかしすぐに先輩は続けず、やっぱり躊躇うようにその瞳を宙に泳がせて──だが、覚悟を決めたように、真っ直ぐ僕に定めた。

 

「おっ、お前は「では四人全員集まったことですし、早速向かいましょう!」

 

 しかし間の悪いことに先輩の声はフィーリアさんによって掻き消されてしまい、そして彼女は間髪容れず流れるように【次元箱(ディメンション)】を発動させ、そこから手のひら大の透明な球体の石を取り出す。

 

 見たところどうやらそれは魔石のようで、フィーリアさんは一切の躊躇なくそれを芝生に叩きつけた。

 

 パリンッ──まるで硝子が割れるような音を立てて、石は砕けた。瞬間、散った破片全てが淡く輝き、膨大な魔法式が宙に流出する。

 

 魔法式は瞬く間に僕たちを取り囲んで──────その瞬間、視界の全てが真白に染められた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………うわぁ」

 

 耳に届く、穏やかな波の音色。目の前を埋め尽くす、一面の青と白。

 

 頭上には突き抜けるような晴天が広がり、いかにこの世界が広大なのかを如実に物語る。

 

 先ほどまで僕たちは、ヴィブロ平原にいたはずだ。しかし──どこまでも水平線の続く、青々とした海と白い砂浜が目の前にあった。



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海に行こう──無人島with僕ら

 目の前に広がる青い海と境界線を引く白い砂浜。下にある海と同じく真っ青に突き抜ける空にも、やはり砂浜のように白い大小の雲が点々と浮かんでいる。

 

 自然が織り成す均衡(バランス)の取れた、素晴らしく美しい、浮世離れした景色に、僕はただ圧倒される他ない。そんな中、隣に立つフィーリアさんが口を開く。

 

「どうですかこの景色。どうですかこの眺め。素晴らしいですよね?」

 

 そう言って、僕たち三人に顔を向け、見つめるフィーリアさん。絶え間なく内包する色を変える彼女の瞳が、キラキラとこれ以上になく得意げに輝いていた。

 

「は、はい。凄く綺麗ですよ……こんな景色、僕初めて見ました」

 

「ああ。ウインドアの言う通りだ。海と砂浜、空と雲──それら四つの要素全てが互いの美点を絶妙に高め合っている」

 

 フィーリアさんの言葉に同意し、目の前に広がる世界を絶賛する僕とサクラさんの二人。だが、残った一人は違った。

 

「…………」

 

 残った一人──先輩は、苦虫でも噛み潰したような表情を浮かべ、無言で海を見つめている。

 

 何故そんな反応なのかと僕が疑問に思っていると、僕とサクラさんの賞賛の言葉に見てわかるほど気を良くしたフィーリアさんが、これまた上機嫌な声で言う。

 

「さっすがはウインドアさんとサクラさんわかる〜!黙っているブレイズさんのことは置いておくとして、実はここ私が暇潰しに世界(オヴィーリス)巡りしている最中に偶然見つけた無人島なんですよ」

 

「無人島……ですか」

 

 彼女の言葉に、僕は後ろを振り向く。僕たちの背後には鮮やかな青い海と白い砂浜とは打って変わって、鬱蒼とした森林が広がっており、恐らくこの無人島の中心部と思われる場所に、天を貫くほどに巨大な山があった。

 

 確かにフィーリアさんの言う通り、この島の自然に人の手が加えられた様子はないようで、僕たち四人以外の人間の気配がまるで感じられない。森林の上を飛び交う様々な鳥の姿を見ながら、僕はそう思う。

 

「では皆さん!自然に見惚れるのはここまでにして、早速着替えましょう!」

 

 着替え──その単語に、ビクッと僕の傍に立つ先輩が肩を跳ねさせる。それからゆっくりとフィーリアさんの方に────

 

 

 

「駄目ですよ?ブレイズさん」

 

 

 

 ────顔を向ける前に、彼女自身が先輩のすぐ目の前に立った。恐らく【転移】を使ったのだろう。

 

 まだ口も開いていなかったというのに、先輩に対してやけに和かな笑みを浮かべて、フィーリアさんはそう言う。そして顔を強張らせすぐさま口を開こうとした先輩の腕を掴み、また今朝と同じように一瞬にして先輩と共にその場から消え去った。

 

 時間にして僅か三十秒弱──残された僕とサクラさんは、ただ互いの顔を見合わせて。

 

「……私たちも着替えるとしよう」

 

「……そうですね」

 

 と、そんな風に言葉を交わすことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無人島──大雑把に言えば、海。そんな場所に来て着替えるものなど、一つしかない。

 

 水着、である。水場で遊ぶための服装。濡れても平気である格好。

 

「……」

 

 僕、クラハ=ウインドアは水着に着替え終えて、先ほどまでいた砂浜で先輩、サクラさん、フィーリアさんの三人を待っていた。

 

 無言になって、一定の間隔で押しては引いていく海の波を眺める。こちらの鼓膜を微弱に震わす波の音が心地良い。

 

 ──……水着。

 

 ただ一言、僕は心の中で呟く。次に脳裏を過ぎる、三人の姿。

 

 サクラさんもフィーリアさんも、女性。また先輩も今や女性。今この島に、僕を除いて男はいない。

 

 つまるところ──僕以外、全員が女の子。そして今この瞬間、彼女たちは各々の水着に着替えている……はず。

 

 僕とて男である。男であるからには、当然異性──女性に対して、そういう興味もある。

 

 男性はおろか、同性であるはずの女性までも虜にしてしまうほどの美貌主のサクラさん。そんな彼女と対極に位置する、幼くあどけない、思わず守りたくなってしまう愛らしさを誇るフィーリアさん。そしてその二人が持つ美麗さと可憐さを絶妙な加減で併せ持った、先輩。

 

 三人全員が、道行く人々を思わず振り返らせる容姿(スペック)であり、そんな三人のあられもない(ただしフィーリアさんは除く)水着姿を拝められるとなると……流石の僕も心を踊らせてしまう。が、肝心なことに気づいた。

 

 ──いや待てクラハ=ウインドア。一つ、見逃してはいけないことがあるぞ。

 

 見逃してはいけない点──なにを隠そう、それは先輩だ。込み入った事情で女の子になってしまっている先輩だが、元は立派な男だった訳で。男であるはずの先輩が女物の水着など絶対に持っている訳がなくて。だから今この場で先輩が己の水着姿を披露できる訳もなくて。

 

 しかし、突如として僕の思考に稲妻のような閃きが迸った。

 

 ──ああ、だから今朝フィーリアさんは先輩を連れてったのか。

 

 遡ること一ヶ月前、僕の冒険者(ランカー)としての知名度を上げる要因となった依頼(クエスト)。詳しい話は省くが、『金色の街』と呼ばれる街ラディウスを舞台に、僕と先輩、そしてサクラさんとフィーリアさんの四人である男を捕まえた。

 

 その途中、色々あって僕たちは変装することになり、フィーリアさんが衣装を用意してくれたのだが、元は男といえど現在は女の子である先輩に彼女は一着のゴシックドレスを用意した。それはもう、素晴らしいデザインだった。

 

 そんなフィーリアさんがわざわざ早朝僕の家に訪れ、問答無用で先輩を連れ去ったとなれば、答えは一つ。恐らく彼女はゴシックドレスの時と同様、先輩に水着を用意したのだろう。

 

 ──……い、いやいや待て。だからと言って、先輩は着るのか?

 

 先輩にとって、女物の衣服を着ることは女装するのと同じことであり、普段着も女物ではあるがお世辞にもあまり女の子らしくはない。

 

 フィーリアさんに用意されたゴシックドレスを着ることもかなり嫌がったらしいようで、だが最終的には彼女に半ば脅さ……必死に頼み込まれ、先輩は渋々ゴシックドレスを着た。しかし今回は水着であり、着るとなればその難易度はゴシックドレスなど生温く思えるものだ。

 

 今回ばかりはいくらフィーリアさんが頼んでも、先輩は断固拒否するのでは──そう思った時だった。

 

 

 

「お待たせしましたー!」

 

 

 

 という、遠くからこちらに駆け寄るフィーリアさんの声が聞こえてきた。



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海に行こう──魅惑肌色Summer⭐︎beach

「お待たせしましたー!」

 

 声がした方向に、僕は顔を向ける。瞬間視界に入ってきたのは、こちらに駆けてくるフィーリアさんの姿だった。

 

 彼女は僕の元にまで駆け寄ってくると、少し息を切らせながら、その口を開く。

 

「どうですか、ウインドアさん?私の水着姿」

 

 ふふんと何故か勝ち誇るように得意げな笑みを浮かべて、僕に見せつけるように恥ずかしがることなく、己の水着姿を晒すフィーリアさん。彼女が今着ている水着は……まあ、可愛いらしいワンピースタイプの白いものだった。

 

 ──…………どうと、言われても。

 

 肌の露出は少なめで、外見が幼い少女のフィーリアさんにとても似合っている。だがそこに女の色香というものは皆無で、出てくる感想がただ可愛く、微笑ましいという他ない。そしてこれは自身の外見に対してコンプレックスを抱いているフィーリアさんに対する、この上なく失礼なものである。

 

 そんな僕の心情を見抜いてしまったのか、勝ち誇っていた笑みを、怒りの──ではなく、哀愁漂う表情に変えて、フッと虚しみに満ちたため息を彼女は吐いた。

 

「……わかってますよ。私こんな体型ですし見た目子供ですし、ええはい。胸だってこの通り壁ですし」

 

 言いながら、ぺたんとしている己の胸を撫でるフィーリアさん。毎度色を変えるその瞳には、光が点っていない。

 

 そんな彼女の様子に僕は慌てて弁明しようとしたが、その前に彼女が僕の身体──主に上半身に対して注視し、意外そうな声音で言ってくる。

 

「ウインドアさんって、結構着痩せするんですね」

 

 言うが早いか、僕との距離を詰めて、ぺたぺたと躊躇なく僕の胸板や腹筋をフィーリアさんは触ってくる。

 

「ちょ、フィーリアさん……!」

 

「うっわ筋肉硬い。腹筋割れてる。脂肪全然ない」

 

 フィーリアさんの手はしっとりとして柔らかく、その感触が余すことなく僕の肌に伝わってくる。おまけに擽るかのような手つきに、ゾクゾクとした感覚が僕の背筋に走り、フィーリアさんの外見も相まって、倫理(モラル)的に非常にまずいことをしているんじゃないかと思ってしまう。

 

「……顔つきとは裏腹に、傷だらけですねえ」

 

 言いながら、今度はその細く小さな指先で、つぅと彼女は僕の──ラディウスでの一件でできた傷跡の一つをなぞる。

 

 彼女の言う通り、以前と比べて僕の身体には大小の様々な傷跡ができた。背中にも刺し傷がある。中でも目立つのが、胸板から腹筋にかけて走る三本の傷だろう。

 

 それらをじいっと見つめて、フィーリアさんが口を開く。

 

「…………ウインドアさん。もし良ければですけど、これ「待たせたな」

 

 だが突如として、彼女の声を遮るように、別の声が割って入る。反射的に僕とフィーリアさんが顔を向けると、声の方向には──少し気まずそうにしているサクラさんが立っていた。

 

「……お邪魔、だったかな?」

 

 気まずそうな表情のまま、彼女がそう言う。少し遅れて、その言葉の意味を僕は理解した。

 

「ち、違います誤解ですよサクラさん!」

 

「まあまあ落ち着けウインドア。君も男だ。男であるからには、女に対して興味を持つのは当然さ。……しかし、まさかフィーリアに気があったとは意外だよ。君の場合、てっきりラグナ嬢だと思っていたんだが」

 

「だからそれが誤解なんですって!僕はフィーリアさんとそ、そういう(・・・・)ことをしていた訳じゃなくてですね!?あと先輩に対してもそんな疚しい感情持ち合わせてませんから!」

 

「大丈夫だ。そう否定しなくても、私は君を軽蔑したりはしない」

 

「で、ですから……!」

 

「言い合っている中失礼しますけど、私に気があったのが意外ってどういう意味ですかね」

 

 誤解を解くため慌てて必死に説明を続ける僕に、サクラさんは笑って返す。

 

「すまない、冗談だ冗談」

 

「わ、わかってくれたなら良かっ……た、です……?」

 

 サクラさんにそう言われ、いくらか心の中に余裕ができて、僕は初めて気がついた。……いや、彼女に揶揄われなければ、最初から遠目でも気がついたはずだ。

 

「…………」

 

 恐らく僕とほぼ同じタイミングでフィーリアさんも気づいたのだろう。隣で彼女が慄き、息を呑む気配がする。無理もない、特に彼女からすれば──サクラさんのそれ(・・)は、およそ常識というものから埒外なまでに逸脱しているのだから。

 

「む?どうした二人共。急に押し黙って」

 

 そう言って、固まる僕らを胡乱げに見つめるサクラさん。どうやら己のそこ(・・)に対して、不躾な視線が注がれていることに気づいていないらしい。

 

 普段の立ち振る舞いや言動から、つい忘れがちになってしまうがサクラさんとて、立派な女性の一人である。女性であるからには、まあ……女性らしさを肉体的に主張する部分もある訳で。

 

 普段着ているキモノの上からではわからず、しかし近づいて見ればかなり育っているとわかる訳で。

 

 …………もう、単刀直入に言わせてもらおう。サクラさんのそれ(・・)とは──ずばり、胸だった。巨乳どころではない、爆乳。見ただけでも相当窮屈そうなのが伝わる、サイズ感。

 

「それにしても水着など久しぶりに着たものだよ。……変ではない、かな?」

 

 珍しく少し不安そうな表情を浮かべ、未だ固まっている僕ら二人に対して訊ねるサクラさん。彼女が着ている水着は良く言えば落ち着いた、地味めな黒のビキニ。しかしだからこそ──サクラ=アザミヤという一人の女性が持つ美貌を、これでもかと強調していた。

 

 その現実離れした胸につい視線を持っていかれるが、他も思わず息を呑むほどに凄まじい。

 

 全体的に見ても余分な脂肪は全く付いておらず、適度に絞られた筋肉があることが容易にわかる肉体。だが硬いという印象はなく、女性特有の柔らかみも仄かに感じさせる。そしてなによりも──その腹部。

 

 ──す、凄い……。

 

 割れていた。腹筋が見事に、六つに割れている。その様は、もはや芸術の域である。

 

「…………その、なんだ。そう無言で眺められると、流石の私も恥ずかしいのだが」

 

 その肉体美にすっかり囚われ、一言も発せられずにいる僕と、目を見開き己の胸と、目の前にある巨大な肌色の果実を交互に見比べることを幾度も繰り返しているフィーリアさんに、その言葉通り僅かに羞恥を漂わせてサクラさんが言う。

 

「……えっ?あっすすみませんっ!つい!」

 

 彼女に言われて、ようやく自分が女性に対して失礼この上ないことをしていると気がつき、僕は慌ててサクラさんの身体から目を逸らす。

 

「そ、そうですねっ、にあ、似合ってますとても!はい!」

 

 みっとみもなく声を上擦らせながら、そんな知性も表現もない単純明快な賞賛をサクラさんに送る僕。それを受けて、彼女が安堵の息を静かに漏らす。

 

「なら良かった。私はセンスというものがないからな……ところで、何故フィーリアは親の仇でも見るような目で私の胸を睨んでいるんだ?」

 

「…………いや、やっぱりこの世界は不条理でどうしようもなく残酷なんだなと、しみじみ再認識してただけです」

 

 頭上に純粋な疑問符を浮かべて訊くサクラさんにそう答えるフィーリアさんの瞳は、何処までも深淵のように仄暗く静かで、それでいて虹のように色鮮やかなのだから違和感が半端ではなかった。

 

 恐らくそれだけで人を射殺せそうなフィーリアさんの眼差しを、意に介することもなくサクラさんは周囲を見渡す。

 

「ラグナ嬢はまだなのか」

 

「……ああ、そういえば」

 

 サクラさんの言葉に、再びその瞳に人としての光を取り戻して、フィーリアさんがそう呟く。かと思えば、一瞬にしてその場から消えてしまった。【転移】である。

 

 そして数秒も経たないうちに──

 

「本日のメインディッシュ、ただ今お持ちしましたァ!」

 

 ──そんな、渾身の叫びとキメ顔を携えて、また戻ってきた。……鳩が豆鉄砲を食らったような、呆気に取られた表情の先輩と。

 

「…………え?は?」

 

 そんな素っ頓狂な声をぽつりと漏らして、それから一気に顔が真っ赤に茹だった。

 

「うひゃわああぁっ!?み、見んなぁぁっ!!」

 

 絹を裂いたような、可愛い悲鳴を上げて、すぐさまその場に先輩はしゃがみ込み、腕をフルに活用しなんとか己の身体を覆い隠そうとする。

 

 しかし、そんな健気な努力は、無慈悲にも一蹴された。

 

「なに座ってんですか駄目ですよブレイズさんほらちゃんと立ち上がってください早く早く」

 

「んなっ、ちょ…やめっ……!」

 

 先ほどまでの虚無めいた無表情から、一転してやけにニコニコとした満面の笑顔を浮かべ、しゃがみ込んだ先輩を無理矢理立たせようとするフィーリアさん。当然先輩はその暴挙に抵抗するが、健闘虚しくもう一度立たされてしまった。

 

「くそぉ……くそぉぉ……!」

 

「女の子がそんな言葉使っちゃ駄目ですって──さて。ほらどうですかお二人方。このブレイズさんの水着姿は?素晴らしいでしょう?」

 

 大役としての務めを果たしたような、歴史に名を残す偉業を成し遂げたような、妙に清々しく誇らしい笑みを携え、必死に身体を隠そうとする先輩の抵抗を捻じ伏せながら、僕とサクラさんに感想を尋ねてくるフィーリアさん。

 

「………………」

 

 言葉が、出なかった。目の前に立たされている先輩から、目が離せなかった。

 

 太陽の光を浴びて、燦然と輝く紅蓮の髪は揺らめき燃ゆる炎の如く。そしてそれに包まれている、身体。

 

 フィーリアさんよりも熟し、しかしサクラさん程はまだ成長していない。だが、それ故の、二人にはない魅力がそこに宿っている。

 

 髪色との対比が美しい真白の肌は滑らかで、触れずとも見ただけでその手触りが伝わってくるよう。すらりと伸びた足の脚線美も見事である。

 

 そしてそれらの要素を際立たせる──水着。先輩が今着ているのは、サクラさんと似た赤のビキニ。彼女のよりも女の子らしい可愛いもので、腰には一枚布(パレオ)が巻かれており、非常に先輩に似合っていた。

 

 ──そういえば、水着姿とはいえこうして先輩の身体をゆっくり眺めるのは初めてだな……。

 

 確かに不慮の事故だったとはいえ、先輩の裸を目撃したことはある。その時は咄嗟に顔を逸らしていたが、今はそうする必要もない。

 

 男の性故に、僕は先輩の水着姿から目を離すことができない。それだけ、今の先輩は魅力的だった。

 

「素晴らしい。本当に素晴らしいよラグナ嬢。今の君は、最高に輝いている」

 

 僕の隣に立つサクラさんが、先輩に対して称賛の声を送る。見やれば──彼女は、実に至極幸福そうな表情で、鼻から血を流していた。

 

 ぼたぼたと砂浜に落ちていくサクラさんの鼻血。傍から見れば仰天ものの光景だったが、彼女のことなので不安だとか心配だとかそういう気持ちには全くならなかった。

 

「ほら絶賛されてますよブレイズさん。嬉しいでしょう?ね?」

 

「全っ然嬉しくねえ……!」

 

 せめてもの抵抗か、吐き捨てるようにそう言って、顔を俯かせる先輩。そんな先輩を依然笑顔のままのフィーリアさんは見つめて──

 

「じゃあウインドアさんからのなら喜べますかね?」

 

 ──そう言うや否や、トンと先輩を前に突き飛ばした。

 

「うわっ?」

 

 ──えっ。

 

 彼女に突き飛ばされて、前のめりになる先輩。そしてそのまま砂浜に倒れる──前に、反射的に動いた僕によって、抱き留められた。

 

「だ、大丈夫ですか先輩……?」

 

 そしてまたもや反射的にそう訊きながら、先輩の顔を見やる。見やって──少し、後悔した。

 

「お、おう……なんとも、ない」

 

 先輩の顔は依然として真っ赤だった。至近距離の中、先輩の琥珀色の瞳が僕の顔を映す。そこは激しい羞恥のせいか僅かに潤んでおり、不安にも怯えにも似たようなような感情と──どういうことか、ほんの微かな期待も込められていた。

 

 ──う、わ……。

 

 間近で見る先輩の琥珀色の瞳は信じられないくらい綺麗で。間近で見る先輩の赤らんだ顔は驚くほど可愛くて。だから僕は先輩の顔を見てしまったことに、後悔を覚えたのだ。

 

 心臓が早鐘を打ち始める。やはり言葉など浮かばず、僕と先輩は無言になって、この場にはフィーリアさんもサクラさんもいるというのに、互いの顔を見つめ合う。

 

 そしてようやっと、恐る恐る僕が口を開く──直前だった。

 

 

 

 バシャアァァン──突如として、海から凄まじい勢いでなにかが飛び出す音がした。

 

 

 

「っ!?なん」

 

 だ、とは言えなかった。音が聞こえ、咄嗟に海の方へと顔を向けた瞬間、身体が包み込まれるような感触と共に、先輩諸共抵抗のしようがない力によって引っ張られたからだ。

 

「ぐ、う、わぁぁ…!?」

 

「な、なんだ!?なんなんだよおおぉ!」

 

 僕のすぐ耳元で、先輩が困惑と恐怖をごちゃ混ぜにした声を上げる。すると、急に全身をふわりとした浮遊感に襲われた。

 

 なにが起きているのかさっぱり理解できない中、僕の視界が捉える──真下には、青く澄み渡る広い海があった。

 

 ──……は?

 

 先ほどまで、僕と先輩は砂浜にいたはず──そう考えて、見えるずっと下の海から、今僕と先輩を襲うこの浮遊感の原因がわかった。

 

 ──ああ、そうか。僕たちは今、宙に浮いてるんだ。

 

「…………なんで!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なあ、フィーリア」

 

「……なんですか、サクラさん」

 

 荒れ狂う青海に──もっと正しく言えば突如としてその中心部に浮上したそれ(・・)に目を向けながらサクラが、同じく目を向けているフィーリアに訊く。

 

「アレは、正しくアレか?」

 

「まあ、アレですね」

 

 こちらのことなどお構いなしに、二人抱き合って(少なくともサクラとフィーリアにはそう見えていた)いたクラハとラグナを、目にも留まらぬ俊敏さで捕らえたそれを見ながら、二人が口を揃えて言う。

 

「イカですね」「イカだな」

 

 先ほどまで静寂だった海。しかしその静寂はなんの前触れもなく突然現れたそれ(・・)──二人の言う通り、遠目から見れば一つの島だと錯覚するまでに巨大な、イカによって打ち破られたのだった。



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海へ行こう──青年、甘き匂いに溺れて

 穏やかであったはずの海中から、突如現れた島と見紛うほどに巨大なイカ。その姿を眺めながら、フィーリアが呟く。

 

「〝絶滅級〟クラーケン──超大型のイカの魔物。話には聞いてましたけど、実際に見るのは初めてですね」

 

 そう呟く彼女の視界で、イカ──クラーケンの無数にある、極太の触手(ゲソ)がウネウネと宙で蠢く。

 

「この辺りの海の大主ってところでしょうねー」

 

「うむ。あの貫禄ある佇まい……それで間違いないだろう」

 

 〝絶滅級〟──魔物の中でも天災と評される強大な存在を前にしているというのに、フィーリアとサクラは至って平常である。

 

 まあ、それも当然だろう。彼女たちにとって、〝絶滅級〟も〝微有害級〟も、そう大差ないのだから。

 

 しかし、そんな彼女たち二人でも、一つの気がかりはあった。

 

「ウインドアとラグナ嬢は無事だろうか?恐らくあの触手の一つに捕らえられていると思うが……」

 

「そうですね。十中八九捕食するために捕まえたんでしょうし。早めに救出しないと危ないかもしれませんね」

 

 と、その時だった。宙を畝るだけであったクラーケンの触手が、不意に止まった。

 

「む?」

 

 そのことに対してサクラが訝しげな声を漏らす──と同時に、静止していた無数の触手は、いきなり目にも留まらぬ速さで二人に殺到する。

 

 常人であれば視認すらできない速度──だが、サクラは難なく己の視界にその全てを捉える。

 

 半ば反射的に、彼女は宙に手を翳す。

 

「【次元箱(ディメンション)】」

 

 そして淡々とそう呟いた。瞬間、虚空に微小の裂け目が現れ、そこから彼女の得物である刀の柄が突き出てくる。

 

 それを掴み、そのまま引き抜く。柄、鍔──鞘。サクラの得物の全容が、余すことなく今この場に露出する。

 

「ふッ……」

 

 鋭く息を吐き、すぐさま抜刀。鈍色の刀身が晒され、太陽に照らされ冷たく輝く。

 

 そうしてサクラは抜き放った己の得物を、遠慮なく振るった。銀色の閃光が宙を疾駆するのと、クラーケンの触手が届くのはほぼ同時だった。

 

 幾度にも走る銀色の閃光に妨げられ、殺到していたクラーケンの触手は悉く弾かれる。得物の刀身を通して伝わる手応えに、サクラが眉を顰めた。

 

「む……?」

 

 斬れない(・・・・)。斬るつもりで振るっているのに、クラーケンの触手は全く斬れず、弾くことしかできない。

 

 彼女はすぐさま理解する。何故斬れないのか──その原因は、この触手が持つ弾力性にある。柔らか過ぎるのだ。柔らか過ぎて、刃が通らない。刃が通らなければ、斬ることはできない。

 

「…………」

 

 厄介──触手が斬れぬなら、恐らくクラーケンも斬ることは叶わないだろう。どうしたものかと思った、瞬間だった。

 

 

 

「【氷結(フリーズ)】」

 

 

 

 パキパキッ──その呟きと共に、一瞬にしてサクラの視界に映る全ての触手が、例外なく凍りついた。

 

「これで斬れますよね?」

 

 ザンッ──得意げなフィーリアの声に続くようにして、凍りついていた全ての触手が、一太刀で斬られ宙を舞う。

 

「助かった、フィーリア」

 

「どういたしまして、です」

 

 サクラによって斬られ、宙を舞った触手がボトボトと次々に、さながら雨のように砂浜にへと落下する。それを避けつつ、二人は前に進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼下に広がる海を眺めながら、とにかくこの状況から脱しようと僕は努力する。しかし、なんとか手足は動かせるのだが、それも少しだけ。とてもではないが、先輩と共にこの拘束から抜け出せない。

 

 身体を包むブニブニとした触手の感触を感じながら、先輩に声をかける。

 

「だ、大丈夫ですか先輩?」

 

「…………」

 

「先輩?」

 

 僕の呼びかけに、何故か先輩は反応してくれない。顔を俯かせたまま、微動だにしない。

 

 そのことを不審に思い、顔を覗き込んでみると──

 

「せ、先輩……?どうしたんですか?」

 

 ──まるで僕のことなど眼中にないとでも言うように、先輩はただ下の海を見つめていた。瞳を見開かせ、固い表情で。

 

 ──本当に一体どうし……て……。

 

 何故先輩がそんな様子になっているのか、鑑みて──僕は思い出した。とても重要なことを、思い出してしまった。

 

 海に向かう前、先輩は何処か不安そうで、怯えていた様子だった。砂浜から海を眺める時、先輩は苦々しい表情を浮かべていた。

 

 先輩がそうなるのも、無理はない。何故なら、この人は────

 

 

 

「海ぃぃいいいいっ!?」

 

 

 

 ────海が、大の苦手なのだから。

 

「ちょ、先輩!落ち着いて……!」

 

 ああ、僕はなんて馬鹿なのだろう。こんな重大なことを忘れてしまっていたとは。まあここ数年先輩と海など訪れていなかったし、仕方ない部分もあるのだが。

 

 固かった表情はあっという間に青ざめ、恥も体裁も捨て、半狂乱になって先輩は騒ぐ。全身をぶるぶると震わせ、その瞳に大粒の涙を浮かべて。

 

「助けてくらはぁあああっ!!」

 

 そう叫ぶや否や、必死になって先輩は僕に抱きついてきた。元々密着していたお互いの身体が、さらに密着する。

 

「ちょ、ちょっぉせんぱ……!」

 

 今、僕と先輩は水着である。全裸に限りなく近い、装いである。なので当然僕の肌に、僕の身体に先輩の肌の、先輩の身体の感触がほぼ直接(ダイレクト)、そして大胆(ダイナミック)に伝わってくる。

 

 先輩は、柔らかくて、温かくて。それはもう、素晴らしい抱き心地で。その上仄かに甘い、良い匂いもする。思わず抱き返しそうになって、その直前で僕はなんとか堪えた。

 

 ──待て待て待てクラハ=ウインドア。落ち着くんだ。ここは一旦先輩に離れてもらって、先輩にも落ち着いてもらわないと……!

 

 別に、これが先輩との身体的な初めての接触ではない。添い寝だってしてるし、それこそつい先月には(ほとんど不慮の事故のようなものだが)風呂を共にし、水着どころか全裸で背中越しに、その小さ過ぎず大き過ぎず、実に理想的なサイズの胸だって押しつけられたのだ。

 

 今さらこの程度のことで狼狽える僕ではない。……もう既に狼狽えてしまっている気はするが、ともかくこの程度はもうどうってことないのだ。

 

「せ、先輩。まず落ち着きましょう。落ち着いて」

 

 ブォン──突然、視界が無理矢理掻き回された。

 

「うおっ…わっ?」

 

 さっきまで僕と先輩を拘束するだけだった触手が、一体どうしたことか急に激しく畝り出した。それによって僕と先輩は揺さぶられ、振り回される。

 

 堪らず僕は驚き、声を漏らしたが──先輩の場合、その程度では済まなかった。

 

「ひぁやああああっ?!」

 

 やたら可愛らしい悲鳴を少しも隠さずに上げて、先輩は無我夢中になって僕の身体により一層抱きつき──瞬間、

 

「むぐ!?」

 

 僕の視界が一面肌色に染められた。直後、例えようのない、今まで触れてきたどんなものよりも柔らかい感触に己の顔面が包み込まれる。

 

 ──な、なんだなんだ!?今度はなにが起こってるんだ!?

 

 混乱する僕はとにかく状況を整理しようと頭を働かせようとして──鼻腔に雪崩れ込んだ濃厚濃密で、いっそ毒々しいとも思えてしまうほどに甘ったるい匂いによって阻まれた。

 

「むぐぉ……」

 

 その匂いは僕の鼻腔にあっという間に充満し、優しく無遠慮に犯していく。脳髄の奥が痺れ、瞬く間に思考が鈍る。

 

「う、海!海ぃ!落ちるっ!落ちちまうぅ!」

 

 触手に揺さぶられ、振り回されたことにより完全にパニック状態に陥った先輩がさっき以上の勢いで泣き叫び、それに比例するように僕の顔面を覆う、大変柔らかい謎の物体がさらに強く押しつけられた。

 

 ──ぅ、ぁ…………。

 

 同時にその強烈さを増す、蕩けるように甘い匂い。その刺激は想像を絶するもので、幸福感にも似た感情が僕の心を満たしていく。それが、とてつもなく、この上なく心地良い。

 

 それは抗いようのない、いやそもそも抗うという意思そのものを根こそぎ奪う心地良さで、その心地良さの前に僕は──呆気なく屈してしまった。

 

 ──……もう、なんか……どうでもいいや…………。

 

 顔面を覆い隠すこれが一体なんなのかも。この匂いの正体も。先ほどから覚え始めた息苦しさも。その全部全部がどうでもよくなって。考えるのがとにかく億劫になって。次第に頭の中が空っぽになっていく。だんだん溶けていく。

 

 けれど、片隅にほんの僅かばかりに残っていた理性が、奇跡的にもその答えを導き出した。

 

 

 

 ──ああ、わかった。今、僕の顔に押しつけられてるのは……先輩の胸、かぁ。

 

 

 

 そうして急速に肌色一色だった目の前が白み始め、意識が遠のく────その時、だった。

 

 

 

 

 

 ザンッッッ──突如として、そんな斬撃音が周囲に響き渡った。



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海へ行こう──決着、〝絶滅級〟クラーケン

 ラグナの妖しく甘き女体に溺れ、クラハが窒息しかける少し前。サクラとフィーリアは砂浜にて、ひたすら前進を続けていた。

 

 彼女たち二人の前進を止めようと、クラーケンは己の身体から新たな触手(ゲソ)を無尽蔵に生やし、片っ端から伸ばす。が、

 

 パキパキッ──その全てが届く前に氷結され、そしてサクラが一刀の元に斬り飛ばす。

 

 先ほどからこの繰り返しであり、サクラとフィーリアの前進は止まらない。順長に、徐々にクラーケンに近づいている。

 

 そして、とうとう────二人はクラーケンとの距離を充分に縮め終えた。視線の先、海に浮かぶクラーケンの姿をサクラが見据える。

 

「フィーリア。逃げられては面倒だ」

 

「わかってます」

 

 サクラにそう言われ、フィーリアは前に出る。その間にもさっき以上の数と勢いでクラーケンの触手が殺到するが、届くこと叶わず全てが凍てつき、宙に留められる。

 

 見ようによっては芸術的とも思える、凍ったクラーケンの触手群を前に、フィーリアはスッと己の手を海に沈めた。

 

「【氷結(フリーズ)】」

 

 ただ淡々と、そう彼女が呟く。瞬間、彼女の手が沈む部分を除いて──クラーケンを取り囲むようにして、その周囲の海が凍った。

 

「これでもうあのイカは逃げたくても逃げられませんよ」

 

 得意げにした笑みを携え、フィーリアはサクラに顔を向ける。彼女の言う通り、クラーケンの周囲は完全に凍っており、氷が分厚く板を張っている。これではもう、クラーケンは身動き一つすら取れないだろう。

 

「さあ、お膳立てはこれで充分でしょう?あとはお任せしますね」

 

「ああ。任せてくれ」

 

 そう言った直後、その場からサクラの姿が消えた。遅れて、周囲の砂が爆発でも起こしたかのように吹き飛び、先ほどまでサクラが立っていた場所が大きく抉れる。

 

「…………相変わらず、人間離れした身体能力……」

 

 目を庇うために上げていた両腕を下ろし、言いながらフィーリアが上空を見上げる。遠くまで澄み渡った青い空と、こちらを眩しく照らす太陽。自然が織り成すその風景に一点──その姿はあった。

 

 遥か天高く、それこそ翼の英雄の如く太陽に届かせんとばかりに。砂浜から跳躍したサクラが、空の中にて静かに己の得物を鞘から抜く。

 

 太陽を背に、『極剣聖』(サクラ)は遥か下のクラーケンを見下ろす。

 

「その柔軟さと弾力の前では、確かにこの刃を通すのは至難の技──もっとも、それは固定されていない(・・・・・・・・)場合の話だ」

 

 重力に引かれ、急加速しながらクラーケンの脳天目掛けて、一直線にサクラは落下──いや、降下する。

 

「要は包丁とまな板──いくら刃が通らないからといって、硬いものを下に上から刃を押し当てれば、嫌でも通る」

 

 濡羽色の髪を揺らし、サクラは降下しながら刀を振り上げ──そして、振るった。

 

 クラーケンの体表に、一筋の光が走る。それは銀色の閃光。秒にも満たぬ、一瞬よりも刹那よりも、短く儚い、淡い一閃。

 

 そうしてだいぶ遅れて、ようやっと時が一秒経過した瞬間であった。

 

 

 

 ザンッッッ──最初は、斬撃音。

 

 

 ブシャアッ──次に、噴出音。

 

 

 バガンッッ──そして、破砕音。

 

 

 

 果たして、その光景を見て、それを確かな現実だと認識し、その上でなにが起こったのか、理解できる人間は何人いるのだろう。

 

 常人ならば到底不可能。武に通ずる達人であれば──辛うじて、だろうか。

 

 単純に。今目の前で引き起こされた現実を書き記すなら────こうだ。

 

 

 天災の〝絶滅級〟、クラーケン。そのサイズ、島の如し。その馬鹿らしいまでの巨体が、文字通り一刀両断されていた(・・・・・・・・・)

 

 自らを固定していた極厚の氷板ごと、真っ二つに割られていた。

 

 この付近の海の大主クラーケンは、体液を撒き散らし、内臓をぶち撒け、呆気なく一瞬にして絶命していた。

 

 

 一枚の氷板から大小無数の氷塊と化し、その内の一つにトン、と何事もなかったかのようにサクラが着地する。

 

 刀を軽く払い、鞘に納めた彼女はクラーケンを背に独り呟く。

 

「まあ、包丁の場合押すのではなく引いて切るのだがな」



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海へ行こう──それが、哀しき男の性

 今、自分が先輩の胸に抱かれていると理解し、顔を包むしっとりふかふかの感触と例えようのない幸福の甘い匂いを味わいながら、僕が意識を手放そうとした瞬間、

 

 ザンッッッ──朧げに崩れゆく意識の中、辛うじて僕の鼓膜をそんな斬撃音が震えさせた。

 

 直後、一瞬の浮遊感が全身にかかって──それはすぐさま存在意義を思い出した重力によって上書きされた。

 

「うぇあああああっ!?」

 

 すぐ耳元で響く、もう何度目かわからない先輩の悲鳴。同時に僕の顔に押しつけられていた先輩の胸が離れ、僕の視界がようやく肌色一色から解放される。

 

 ──助……かった…ッ。

 

 未だに鼻腔の奥に燻る甘い匂いに若干の幸福を感じながらも、先ほどから死ぬほど求めていた念願の酸素を、僕はこれでもかと取り込む。

 

 必死に呼吸を繰り返す僕が、今触手(ゲソ)に巻かれたまま、先輩と共に落下していることに気がつくのは、少し遅れてからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 酸素を充分過ぎるほどに取り込んで、僕は呆然と青い空と浮かぶ白い雲を眺めていた。

 

 つい先月、死ぬような思いをしたばかりだというのに。まさかまた、それもこんな短い間隔(インターバル)で死にかけるとは考えもしなかった。

 

 ──それも、先輩の胸で……。

 

 人体でも溺死できるのだと思い知らされた僕は、隣を見やる。そこには──

 

「きゅぅ……」

 

 ──危うく、それも無意識に僕を手にかけそうになった先輩が失神している姿があった。

 

「……それにしても、まさかこの触手に助けられるとは」

 

 そう言いながら、今度は先輩から僕たちの下にある触手に視線を移す。この触手が下敷きになったおかげで、海──だったはずが何故か見るも分厚そうな氷板に、僕と先輩が叩きつけられずに済んだ。しかもこの触手の弾力によって落下による衝撃もなく。

 

 ──運が良いのか、悪いのか……。

 

 嘆息しながらも、取り敢えず命を繋ぎ止められたことに僕が感謝していると──太陽に照らされ、氷板に映っていた僕の影が上塗られた。

 

「無事か?ウインドア、ラグナ嬢」

 

 そして背後からかけられた、今ではもうすっかり聞き慣れてしまった、サクラさんの声。それにははかとなく、こちらの身を案じるような不安さが混じっていた。

 

 彼女を安心させるためにも、こちらには怪我一つないことを知らせようと、僕は口を開きながら背後を振り返る────

 

「は、はい。大丈夫ですよサクラさ…んッッッ?!」

 

 ──振り返って、一瞬にして気が動転した。語尾の部分が非常に情けなく、みっともなく上擦り、全身から滝のような冷や汗が噴き出す。

 

 一体何事かと思うだろう。僕も、すぐには目の前の現実を受け入れることができなかった。自分は幻覚を見ているんじゃあないかと思った。

 

 だがそれは違う。幻覚にしては意識が妙にはっきり覚醒しているし、そもそも──これを幻覚と決めつけるには、些か僕の度量が足りなかった。

 

「……?どうしたウインドア。急に押し黙って」

 

 すぐさま硬直した僕の様子を訝しんで、サクラさんがこちらにより近づいてくる。そのせいで──揺れた(・・・)

 

 それはもう、見事な揺れ様だった。男であるならば、否応にも視線を釘づけにされる、揺れ様であった。

 

 ここまで言ってしまえばもうおわかりだろう。今、サクラさんは、『極剣聖』と呼ばれる《SS》冒険者(ランカー)、サクラさんは────上半身裸になっていた(・・・・・・・・・・)

 

 そりゃあ水着姿なのだからほぼ裸みたいなものだろう。だが違う。本当に裸なのだ。みたいではなく、本当に上に何も付けてないのだから。

 

 砂浜ではあったはずの、サクラさんの水着の上が、どうしたことが今は影も形もなくなり、消失していた。それに当の本人は気づいていないのか、至って平然な様子である。

 

 辛うじて包み込まれ、押さえ込められていたサクラさんの二つの超弩級質量兵器は今や一枚の布による束縛から解放され、その圧倒的過ぎる存在感をさらに強めている。

 

 しかも肝心のサクラさんが惜しげもなく己の女性を象徴するその部分を、外気に、そして僕の目の前に惜しげもなく晒してしまっていることに気づいていないため、彼女は全く隠そうとしない。

 

「ウインドア?」

 

 近寄ったサクラさんが、少し腰を低く曲げる。それだけの動きでも、彼女が持つ凶悪兵器はぶるるんっと揺れる。

 

 思わずその様にゴクリと無意識に生唾を飲み、見入って──慌てて僕は顔ごと視線をサクラさんから逸らした。

 

 それから大いに動揺しながら、上擦り切った声を絞り出した。

 

「すっ、すみませんッ!サク、サクラさん!ううう上!上ないです危ないですヤバいです!本当にすみませんッ!」

 

「上……?」

 

 挙動不審なまでに(ども)る僕に言われ、怪訝そうな声をサクラさんは出す。それから少しの静寂がこの場に訪れ──やがて、サクラさんが合点のいったように再度口を開いた。

 

「ああ、なるほど。どうりで先ほどから胸元が妙に涼しいと思った。すまないウインドア、見苦しいものを見せたな」

 

 今己が非常にまずい状態であるのをようやく把握したサクラさん。が、そのことに対して特に羞恥に駆られる様子はなく、微塵も取り乱すこともなく、凄まじく平然としている。

 

 ──な、なんでこの人そんなにも平気そうにしているんだ……!?男として見られていないのか僕は……?

 

 何故か僕の方が恥ずかしくなってきた。おかしい、普通は胸を見られたサクラさんの方が恥ずかしがるはずなのに。おかしい。

 

「しかし参ったな。隠そうにも代わりの布など……む?あれは……」

 

 顔を俯かせることしかできないでいる僕を他所に、サクラさんがそう呟く。すると彼女が動く気配を感じた。

 

 それから一分弱挟んで、またサクラさんが僕に声をかけてきた。

 

「ウインドア。こっちももう大丈夫だ」

 

「え?あ、はい……」

 

 そう言われて、僕は恐る恐る背後を振り向く。そこには────砂浜の時に見た、ちゃんと上下きちんと水着を着たサクラさんが立っていた。

 

 その彼女の姿に、僕は心の底からホッと安堵の息を吐く。そしてすぐさまもう一度頭を下げた。

 

「すみませんサクラさん!ふ、不可抗力とはいえ、その……む、胸を見てしまって……本当に申し訳ありませんでした」

 

「別にいいさ。男に胸を見られるくらい、どうってことないからな」

 

「あ、ありがとうございます……!」

 

 女性の言葉とは全く思えない、その漢らしいサクラさんの言葉に、思わず僕は感動を覚えてしまう。なんて器の大きい人なんだ……!

 

「…………あー、その、なんだ」

 

 僕が心打たれていると、やがて気まずそうにサクラさんが口開く。その視線は、何故か──僕の下半身に注がれている。

 

「君は、あれだな。身体もそうだが……やはり顔に見合わず、男らしいんだな」

 

「……え?」

 

 その彼女の言葉の意味がわからず、僕も視線を下に送ると────一瞬にして血の気が引いた。

 

「ちょっ!違っ…こ、これはっ……!!」

 

 僕は、あまりにも無防備だった。無防備過ぎた。叫びつつ、大慌てで不自然に(・・・・)盛り上がった(・・・・・・)水着を、両手で覆い隠す。

 

 そんな僕に、サクラさんは特に気にしていないように言う。

 

「そう気にすることはないぞ、ウインドア。君も男だ。それもまだ若い。だから、そうなる(・・・・)のも仕方ないさ」

 

 サクラさんの優しさが、この上なく痛く、辛かった。



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海へ行こう──お前の為

「…………ん、ぅ…?」

 

 〝絶滅級〟の魔物、クラーケンに襲われてから一時間ほど。気を失っていた先輩から、そんな声が漏れ出た。

 

 それを聞いて、僕は思わず安堵の息を吐いてしまう。それからできるだけ優しげに、こちらからも声をかける。

 

「大丈夫ですか先輩。頭痛とか、してませんか」

 

 言いながら、先輩の顔を覗いてみる。まだ若干寝惚けているようで、薄く苦しげに開かれた琥珀色の瞳は、とろんとしている。

 

「……くらは?」

 

「はい、クラハです」

 

 僕の名前を呼んだ先輩は、それからキョロキョロと眠たげに、やや億劫そうに周囲にへと視線を配らす。

 

 それから不思議そうに、依然寝惚けたままの声色で呟いた。

 

「……まわり、うみじゃ、ねえ」

 

「移動しましたから。今僕と先輩がいるのは砂浜の上です」

 

 そう僕が答えると、先輩はそれから意味もなく視線を宙に漂わせて、ふと下の方にやった。

 

「くらはの、ひざ……?」

 

 その言葉通り、先輩の顔の下には僕の膝がある。そう、僕は今、先輩の頭を己の膝の上に置いているのだ。

 

 依然不思議そうにする先輩に、僕は苦笑いを少し交えながら言う。

 

「そのままだと先輩の髪、砂塗れになると思って。……やっぱり、硬かったですかね?僕の膝」

 

 僕のその言葉に、少しの間を置いてから、やはりまだ寝惚けた──けれど心なしか、何処か嬉しそうな声音で先輩はこう返した。

 

「……だいじょうぶ。もうすこし、こんままでいる」

 

「了解です」

 

 そうしてまた少し間を置いて、最初よりもだいぶはっきりした口調で先輩が口を開いた。

 

「そういや、サクラとフィーリアは?」

 

「サクラさんと、フィーリアさんですか……えっと、ですね。お二人なら、向こうの砂浜にいますよ」

 

「向こうの砂浜……」

 

 そう呟いて、二人の所在をその目で確かめようと、先輩は向こうの砂浜にへと視線をやった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「サクラの姐御!そのまま!そのまま一直線に!」

 

「いいえ『極剣聖』様。この馬鹿が言っていることは全くの嘘です。本当はその位置から右に進んで、左に半回転した後に真っ直ぐ歩いてください」

 

「違いますねえサクラさん。実はその場でジャンプして、着地した地点こそ真実ですよ!」

 

 唐突にではあるが説明しよう。この世界(オヴィーリス)には、夏が旬の果物──『紅爽実(シャクヴァ)』というものがある。

 

 一玉が人の顔ほどの大きさがあり、分厚い緑色の皮によって守られている果肉は、その名の通り鮮烈極まるほどに真っ赤で、シャリシャリとした食感と仄かな甘味、そして爽やかな後味が特徴の、冷やして食べると大変美味な代物である。

 

 それでこの『紅爽実』を使った海の遊びというものもあって、簡単に説明すると目を布などで隠した者が棒を持ち、視界を封じた中周囲の者たちからの情報を頼りに、砂浜に置かれた『紅爽実』を握ったその棒で叩き割る。

 

 その際、伝える情報は虚偽のものでも構わない──そんな海の遊びの一つにサクラとフィーリア、そしてフィーリアに喚び出された剣魔(ファルファス)従魔(ヴァルヴァス)は興じていた。

 

 三人それぞれの全く違う情報を聞きながら、サクラはただ静かに佇んでいる。彼女は、その場から一歩も動かない。微塵たりとも、微動だにしない。

 

「姐御!」

 

「『極剣聖』様」

 

「サクラさん」

 

 フィーリアの声。剣魔の声。従魔の声。しかし、サクラはなにも答えない。その身に静寂を纏うだけである。

 

 そんな彼女の様子に、あれだけ騒いでいた三人も否応なしに静まり返る。それから数秒後──ようやっと、彼女が動きを見せた。

 

 スッと、握った棒を振り上げて、そしてスッと、軽く振り下ろす。ただ、それだけである。

 

 傍から見れば、それはただの素振りにしか見えなかっただろう。その場から一歩でも動けば、辛うじてその踏み出した先に目当ての『紅爽実』があるのだとサクラは思って、棒を振るったのだと思えただろう。

 

 しかし彼女は一歩どころか、やはりその場から微動だにしていない。それにそもそも、あのような振り方では、彼女といえど『紅爽実』の硬く分厚い皮を割ることなど、到底できやしない。

 

 悪魔二人はどうしたら正解がわからず、ただ黙り込んで。そんな行動を起こしたサクラを茶化すため、フィーリアが口を開く────直前。

 

 

 

 三人の目の前で、暴風(・・)が吹き荒れた。

 

 

 

「きゃっ!?」

 

 そんなやたら可愛らしい悲鳴が、開けたフィーリアの口から上がる。それとほぼ同時に彼女を庇うようにして、剣魔と従魔の二人が咄嗟に前に出る。

 

 上空に巻き上げられた砂が、宙に流れていく。そんな最中、先ほどの暴風の発生源であるサクラは目隠しをシュルリと解き取って、両腕を軽く上げ伸ばし、なにを思ってか手のひらを上に向けてその場に待機する

 

 するとまた数秒後──突如として空から、見事なまでに真っ二つに両断された『紅爽実』が降ってきて、まるで元からそうなると決まっていたように、それぞれサクラの両手に落下した。

 

「まあ、ざっとこんなものだ」

 

 両手のひらに乗せた『紅爽実』の綺麗過ぎる断面を見せながら、そうサクラは三人に言うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なに、やってんだあいつら?てかあの仮面とキザ野郎はなんなんだ?」

 

 砂浜の状況を見て、困惑の声を上げる先輩。

 

「恐らくですけど、『紅爽実(シャクヴァ)』割りをしているんだと思います。あのもう二人については僕もわかりませんけど……」

 

「ふーん。なんかフィーリアたちは騒いでんな。そんでサクラはだんまりで、さっきから全然動いていな……あ、棒振ったぞ」

 

「そうですね。けど『紅爽実』は……って、ええっ!?きゅ、急に暴風が……!」

 

「すっげえな。あの変な緑の果物、めっちゃ高く飛んだと思ったらいきなり切れたな」

 

 などと、呑気にも彼女たちによる『紅爽実』割りの実況をする僕と先輩。のんびりとした、実に平和で穏やかな時間が僕と先輩の間で流れる。

 

 それからすぐさま交代し二回戦を始める四人の様子を先輩と共に見ながら、ふと今まで訊くに訊けなかったことを思い出し、僕は先輩に訊いてみた。

 

「あの、先輩。ちょっと訊きたいことがあるんですけど……」

 

「ん?なんだ?」

 

 砂浜に顔を向けたままそう返す先輩に、僕は少し躊躇いながらも、意を決して口を開いた。

 

「忘れてしまってて本当に申し訳なかったんですけど……先輩、確か海苦手でしたよね。なのに、どうして今日来たんですか?」

 

 

 僕の問いかけに、先輩はすぐには答えなかった。なにやら謎の盛り上がりを見せる砂浜に顔を向けて、それから数秒経って──突然、身体ごとこちらの方に振り向いた。

 

 僕の視界に、触れただけで折れてしまいそうな腰や、呼吸を繰り返す度僅かに上下する腹部、小さく窪んだ可愛らしい臍に、左右に流れてその柔らかさと妙な艶かしさを表現する胸。その全てが晒される。

 

 未熟とも、完熟とも言えない、その間を彷徨う危うい色香を漂わす先輩の身体が、僕の膝上で遠慮もなく、惜しげもなく晒される。

 

 ゴクリ、と。無意識に生唾を飲んでしまう。途端に、さっきまでは気にならなかったはずの、先輩の背中の感触と温もりをやけに感じてしまう。

 

「お前の為」

 

 心臓が早鐘を打ち始め、徐々に落ち着きをなくしていく僕に、何処か罰が悪そうに、けれど驚くほど優しげな表情を浮かべて、先輩はそう言った。



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海へ行こう──がさつで、大雑把で

「お前の為」

 

 優しげな、しかし何処かばつが悪そうな表情を浮かべて、先輩はそう言う。僕としては、その予想外の言葉に対して、驚きと困惑を抱いていた。

 

「ぼ、僕の為……ですか?」

 

 思わず聞き返した僕に、先輩は小さく頷く。それからほんの僅かばかり僕から琥珀色の瞳を逸らして、再度その小さな口を開く。

 

「ラディウス……だったよな。あの街で、またお前に無茶させちまったから、さ。……その、俺のせいで」

 

 そう言う先輩は、まるで親に叱られた子供のように怯えていて、弱々しく縮こまっていた。

 

「だから詫びっていうか、お礼っていうか……とにかくお前になんかしてやりたくて。けどなんにも考えつかなくて……そんな時に、フィーリアに言われたんだ」

 

「フィーリアさんにって、今朝の……?」

 

 僕の脳裏に描き起こされる記憶──Lv(レベル)上げのため、出かけようとした矢先、玄関に突然【転移】してきたフィーリアさんが有無を言わさず、先輩を誘拐……という言い方はアレだが、まあどこかへと連れ去ってしまった。

 

 そんな今朝の記憶を思い出しながら、先輩にそう訊くとまた小さく頷いた。

 

「いきなり服屋の前に連れてかれてさ──『海に行きましょう』って。けど俺海嫌いだろ?だからすぐ断ろうとしたんだけど、その前にこう言われた」

 

 そこで一旦先輩は間を置いて、逸らしていた瞳を僕の顔に合わせてきた。

 

「『そしてウインドアさんにブレイズさんの水着姿を見てもらいましょう!』……ってな」

 

 気がつけば、先輩の顔がまた薄く赤らんでいる。声も、僅かばかりの震えが生じていた。

 

 先輩は続ける。

 

「正直言えば、かなり迷った。凄え迷った。女の、それも水着なんか死ぬほど着たくなかったし。……けど、今の俺がお前にしてやれることなんか、こんくらいしかなかった」

 

 頬を染めさせて、健気にもその琥珀色の瞳を向けて。先輩は、僕に言う。

 

「な、なあクラハ。この水着、似合ってるか?──今の(・・)俺の水着姿、見れて嬉しい……か?」

 

 恐らく、その言葉を絞り出すのに、先輩は相当憚られたのだろう。その証拠に──先輩の瞳には、底知れぬ不安が滲んでいた。

 

 ──先輩……。

 

 正直に言えば、先輩の水着姿は最高だ。フィーリアさん……はともかく、男であれば誰であろうと、下手すれば同性である女性すらその目に留めさせられるだろう肉体美(プロポーション)を誇る、サクラさんと並べても──僕は、先輩の水着姿の方が魅力的に見えた。

 

 普通なら、ここは似合ってますよだとか、凄く可愛いですよだとか、男としてそういう言葉を返すべきだろう。しかし、しかしだ。

 

 先輩は女性ではない──女の子ではない。元は歴とした、男なのだ。今はそうでなくとも、僕にとって先輩は男なのだ。

 

 ……その割にはいちいち異性として、不覚にも見てしまって、意識してしまっている自分がいるのだが。まあそのことについては置いておくことにする。

 

 とにかく、今は下がってしまったLvを上げることを最優先としているが、いずれ将来的には元の性別に、男に戻ってもらう。戻ってもらわないと、僕が困る。……その、色々と。

 

 そして先輩本人も、己の現状には不満を抱いている──はずだ。Lvのことも、女の子になってしまったことにも。

 

 事実、女の子となってしまった後も、あくまでも先輩は男として振る舞っている。僕とだって、以前と変わらない接し方を続けている。

 

 そんな先輩に、果たして──本来ならば女の子にかけるような言葉を、褒め言葉を送ってもいいのだろうか?

 

 ──いや、ここは……送るべき、だろう。

 

 そう思い、さっきまで考えていたこと全てを僕は頭の中から振り捨てた。

 

 今考えてみれば、ここ最近先輩の様子は少し、違っていた。普段はあっけらかんで、僕の事情やらなんやらなど関係ないと、僕を引っ張り回していた。

 

 それが最近──というより、先輩が言うラディウスでの一件からあまりなくなって、何処か妙に距離を置かれ、遠慮されていた。

 

 何故そんな態度だったのか、先輩の話を聞いてその疑問がようやく氷解した。先輩は、ラディウスで僕が無茶をしたことに心を痛め、今の今まで気にかけていたのだ。

 

 ──気にしなくていいって言ったのに……。

 

 本当にこの人は。普段はがさつで、大雑把で。そのくせ変なところで律儀というか生真面目で。

 

 僕を喜ばせるためだけに、本当なら絶対に着たくない女物の水着を着て、嫌いで苦手なはずの海にまでやって来て。

 

 やっぱり先輩は先輩だ。たとえその境遇が変わろうと、その性別が変わろうと、やはり──ラグナ=アルティ=ブレイズは健在だ。

 

 だからここは送るべきなのだ。その健気過ぎる、献身的努力を報うために

 

 そこまで考えて、僕は口を開く──直前だった。

 

「や、やっぱいい!なにも言わなくていいてか言うな!」

 

 僕の沈黙に堪え兼ねたのか、それとも正気に戻ってしまったのか、ガバッと僕の膝から起き上がり、慌ててそう言ってきた。顔も、いつの間にか薄らとではなく、燃え上がっているかのように真っ赤になっていた。

 

「急に変なこと言ったり訊いたりしてごめんな、クラハ。さっきのは全部忘れてくれいや忘れろ。い、いいな!?」

 

「え、いや……あ、はい。わかりました」

 

「よし。それでいい、それで」

 

 誤魔化すように僕に笑いかけて、先輩は僕の膝から離れ、立ち上がる。そして背中を向けたまま、僕に言う。

 

「じゃっ、俺たちも遊ぼうぜ!」

 

 そう言うや否や、僕の返事も待たずに先輩は砂浜にへと駆け出してしまう。その遠ざかる小さな背中を僕は少し見送って、それから苦笑いしながらもゆっくりと立ち上がった。



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海へ行こう──人間に見えますか?

 木陰にて休んでいたクラハ、ラグナも加えて砂浜での遊びはますますの盛り上がりを見せた。

 

 楽しい時間ほど早く過ぎるものはない。燦々と無人島を照らしていた太陽も傾き、茜に染まった空もやがて黒く、闇に沈んだ。

 

 そう、この無人島にも──夜が来たのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 ざあざあと波が往復を繰り返す音が聞こえる。夜闇が溶け込んだ、暗い海。そして頭上には、幾億の綺羅星が何処までも続く夜空を飾り立てている。

 

 そんな、人の手が入れられていない無人島だからこそ、見ることの叶う景色を、彼女は──『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアは独り、砂浜に座り込みながら眺めていた。

 

 ──綺麗ですね。

 

 そう、心では全く思っていない(・・・・・・・・)ことを心の中で呟きながら、ずっと眺めていた。

 

 実を言えばこれ以上の景色など、数え切れない程度には目にしてきている。伊達に世界を巡っていない訳ではない。

 

 それら全てが絶景と評せるだけのものであり──しかし、そうと理解しながらも、フィーリアの心は動かず、ちっとも揺れなかった。

 

 言葉というのは便利である。何故ならそう口に出すだけで、表面上はいくらでも取り繕えるのだから。

 

 ……そうして、物事を考えてしまっている己が、誰よりも──どんなことよりも、フィーリアは嫌いだった。

 

 ──全然思ってもいないこと口に出して、並べて……馬鹿みたいです。

 

 はあ、と。フィーリアが嘆息する。それは宙に流れて、溶けて、消えた。

 

 と、その時だった。

 

 

 

「夜景を独りで楽しむとは、水臭いじゃないかフィーリア」

 

 

 

 そう言いながら登場してきたのは、『極剣聖』サクラ=アザミヤ。フィーリアと同じく、この世界で三人──もっとも今では実質二人だが──しかいない《SS》冒険者(ランカー)で、そして絶対強者である故の孤独を共感してくれる、フィーリアの友人とも言える存在。

 

 そんな彼女がフィーリアのすぐ傍にまで歩み寄り、同じように目の前に広がる闇が織り成す夜景を眺める。

 

「こんな素晴らしい夜景、独りで眺めているなど勿体ないと思うぞ」

 

「……そうですね」

 

 サクラの言葉に、フィーリアは頷く。それから少しの静寂を挟んでから、唐突にフィーリアがサクラに問う。

 

「綺麗だと、サクラさんも思うんですか?」

 

「この夜景をか?当然だ、こんな景色、こんな辺境の無人島でしか見られない」

 

 それを聞いて、サクラに気づかれぬよう再度、フィーリアは嘆息してしまう。

 

 ──この人も、そう思うんですか……いや、思える(・・・)、ですね。

 

 サクラの返答は、フィーリアが望んでいたものではなかった。彼女も自分と同じような存在(モノ)であり、もしかしたら、彼女もまた自分と同じように歪な価値観なのではないかと、ほんの僅かに期待していたのだ。……まあ、ある意味歪んではいることには変わりないのだが。主に恋愛関係が。

 

「……君もそう思っているのではないのか?」

 

「ええ。当たり前じゃないですか」

 

 普段から浮かべている笑顔を見せ、本心を偽りながらフィーリアも同意を返す。そんな彼女に対して、サクラは一瞬だけ瞳を細めた。

 

「悩みがあるのなら、相談に乗るが」

 

「ある訳ないじゃないですか私に。急に気持ち悪いこと言わないでくださいよ、サクラさん」

 

 以前ちょっとしたことでサクラと対決することになり、その時以来流すことのなかった冷や汗で背中を湿らせて、平静にフィーリアがそう返す。

 

 そんな彼女に対し、やはりサクラは訝しげな視線を送って──

 

「そうか。急に気持ちの悪いことを言って、すまなかったな」

 

 ──しかし、それ以上の追求はしなかった。それからまた静寂が続いて、やがて気まずそうに再度、フィーリアからその口を開いた。

 

「まあ、悩みという訳ではありませんが……少しだけ、話を聞いてくれますか?」

 

「ふむ。相談に乗る訳ではないが、聞こう」

 

 そこで少しの間を置いて、その話とやらをフィーリアは始める。

 

「私、昔から起源(ルーツ)というものに興味があるんです」

 

「ほう。起源、か」

 

「はい、起源です。この世界(オヴィーリス)創造主神(オリジン)によって創られたという起源があるように、物体にも生命にも、それら全てが基となる起源を持っているんです」

 

 フィーリアの話をサクラはただ静かに聞いている。……傍目から見れば、寝ているようにも思えるほどに。だが彼女はしっかり起きているし、たとえ立ちながら寝ていても、フィーリアがそれを咎めることはない。

 

 フィーリアの話はまだ続く。

 

「子供の頃は本を、そして七年前に世界を一度巡ってあらゆる起源を調べました。おかげさまで、この世界に関するある程度のことは知り尽くせました」

 

 そこで一旦フィーリアは口を閉じ、話を止める。そうして三度その場が静寂に包まれて──そして三度目も、フィーリアがそれを破り捨てた。

 

「けど、それでも一番知りたかった起源は知れませんでした」

 

「……一番知りたかった起源?」

 

 サクラの言葉にフィーリアが頷き、そして続ける。

 

「私の、起源です」

 

 刹那の躊躇いを挟み、フィーリアは己が口から絞り出す。

 

「実は私、捨て子なんですよ」

 

 それは唐突な告白であった。人によっては口に出すことすら憚られるような、告白。それに対して、サクラはなにも言わない。ただ沈黙を以て返すだけ。

 

 そんな彼女の対応に少しばかりの感謝を交えて、フィーリアが続きを語る。

 

「今から数えて十五年前、私は師匠(せんせい)……じゃなくて、冒険者組合(ギルド)輝牙の獅子(クリアレオ)』のGM(ギルドマスター)──アルヴァ=クロミアに拾われました」

 

 目の前にある一夜限りの景色を眺めながら、フィーリアは言う。

 

「父の顔も、母の顔も知りません。元々どこにいたのかもしりません。一体どこで私を拾ったのか師匠が教えてくれないので、生まれ故郷すらも知りません。世界中を巡っても、手がかりの一つすら掴めませんでした」

 

 彼女の声色は、あくまでも普段通りのものだった。……が、サクラにはそれが偽りのものだとわかる。

 

『天魔王』──この世界全ての魔道士(ウィザード)の頂点に座し、この世界の知識をほぼ知り尽くした存在(モノ)

 

 そんな存在が、本来ならば誰であろうと知っているはずのことを全く知らないというのは、実に皮肉なものであった。

 

「……あなたなら、いいですかね」

 

 その言葉の意味をサクラが理解するよりも先に──フィーリアが行動に移る。

 

 静かに、ゆっくりとフィーリアは息を吐く。すると────彼女の身体に、異変(・・)が生じた。

 

 フィーリアの肌に、線が走る。それは直線であったり、または曲線であったり。瞬く間に彼女の全身に線が引かれ、そして淡い輝きを帯び始める。そのいくつもの線は、まるで刺青のようだった。

 

「普段は魔法で上手く誤魔化しているんです。……まあ、完璧にとは言えませんけど」

 

 小さな笑みを浮かべて、フィーリアがサクラの方へ顔を向ける。右頬には揺らめいているような紋様が浮かび上がっており、身体に引かれた線と同様に、淡い輝きを帯びている。

 

 そしてなによりも注目を集めるのは──その瞳。

 

 言葉で表すなら、それは虹。今フィーリアの右の瞳には、虹が宿っていた。

 

 赤、青、黄、緑、橙、藍、紫。それぞれ七色が複雑に混じり、絶妙に絡み、非常に幻想的で──そして不気味であった。

 

 あまりにも色鮮やかな右の瞳。しかし、それとは対照的に、左にはなにもなかった(・・・・・・・)

 

 無色。白とも、灰とも言えぬ、まさに無色。

 

「子供の頃、虐められてたんです。『気持ち悪い』だの、『化け物』だの……ずっと、ずっとそう言われ続けました」

 

 気がつけば、フィーリアの顔からは笑顔が消えていた。いや、それどころか表情らしい表情が、消失している。

 

 己の腕を抱いて、フィーリアは続ける。

 

「私は確かめたいんですよ。自分は人間なのか、そうでないのか──だから、起源を求めているんです」

 

 無表情よりも無表情になって、フィーリアはサクラを見つめる。虹の瞳と無の瞳で、静かに。

 

 そして、試すような口振りで──彼女に問う。

 

「『極剣聖』様。あなたには、私が人間に見えますか?」



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海へ行こう──お前の好きに

「ここら辺でいっか」

 

 僕の前を歩いていた先輩が、急にその場で立ち止まったかと思うと、そう呟く。

 

 サクラさん、フィーリアさん、そしてフィーリアさんの使い魔だという剣魔(ファルファス)さんと従魔(ヴァルヴァス)さんの二人の悪魔を加えた、砂浜での遊びは凄まじい盛況を見せた。

 

 そのおかげもあってか、時間があっという間に過ぎ、気がつけば陽も沈んでいて、外界から切り離されているこの無人島にも平等に、夜が来た。

 

 夜闇に包まれ、青く澄み渡っていた空も、海も、それら全てが等しく黒に染められた頃、突然先輩が僕と二人きりで話したいと言い出した。

 

 なのでサクラさんとフィーリアさんとは一旦別れ、半ば無理矢理連れ出されるような形で僕と先輩はこの無人島の森の、それも奥の方にまでやって来たのだ。

 

 夜もそれなりに深まり、森の中も暗い。しかし頭上を見れば満点の星空が広がっており、また今夜は満月なので辛うじて薄らと、周囲の様子も紅蓮の赤髪に隠された先輩のその小さな背中も見えている。

 

 立ち止まった先輩が、くるりとこちらに振り返る。その際髪が舞うように揺れて、土と草木の匂いに混じって、仄かに甘い匂いが僕の鼻腔を擽る。

 

 ……海に来る前にも思ったことだが、僕と同じ洗髪剤(シャンプー)を使用しているはずなのに、どうして先輩の髪からはこんなに良い匂いがするんだろう。それともこれが先輩の髪本来の匂いなのだろうか。

 

 などと考える僕に対して、にへっとした笑顔を浮かべて先輩が言う。

 

「悪いなクラハ、急にこんな場所に連れ出してさ」

 

「いえ、全然構いませんよ先輩。それで、話ってなんですか?」

 

 僕がそう訊くと、先輩はすぐには答えず、僕の方へゆっくりと歩み寄って、さほど離れていなかった距離をさらに詰めてきた。

 

「せ、先輩?」

 

 僕との距離を詰めた先輩は、こちらの顔には目もくれず、何故か身体──上半身に対してその視線を送っている。戸惑う僕を置き去りに、そのまま見続けていたと思えば────ぺたり、と。唐突にその小さな己の手を、僕の上半身に重ねた。

 

 先輩の手は、しっとりとしていて、柔らかくて。その感触に僕は思わず声を上げそうになる。しかしそれをなんとかグッと堪えて、平静を装いながら再度僕は先輩に訊ねた。

 

「どうしたんですか先輩?急に、僕の身体に手を重ねて……」

 

 これにも、先輩はすぐには答えてくれなかった。少しの間を挟んでから、ようやくその口を開いてくれた。

 

「傷」

 

「き、傷?」

 

 困惑気味に繰り返した僕に、先輩が黙って頷き、そしてまた口を開く。

 

「傷、増えたよな。お前」

 

「え、あ…そう、ですね。確かに増えましたね」

 

 その言葉に、フィーリアさんにも傷痕について指摘されたことを思い出す。鏡などで自分の身体を目にする際、真っ先に目につくくらいには増えている。

 

 自分で見る場合には特に気にならないのだが……やはり、他人からすると、見苦しいものなのだろう。

 

 ──……そういえば。

 

 それとついでにもう一つ思い出した。砂浜にて、フィーリアからかけられた言葉を。

 

 確か、彼女は────

 

 

 

「って、ちょっ、先輩っ?」

 

 

 

 ────僕の思考はそこで無理矢理遮られてしまった。何故なら、僕の上半身を──さらに詳しく言うなら数々の傷痕の一つを触り、撫でていた先輩の手が、いつの間にか顔の方に伸びていたからだ。

 

 先輩の細くしなやかな指先が、僕の頬を滑り、そして止まる。僕の記憶が正しければ、そこには────

 

「……ここにも、できてる」

 

 ────先輩の指摘通り、爪で引っ掻いたような、薄く抉られた一本線の傷痕があった。

 

「本当に、傷だらけだな。お前」

 

 そこで初めて、先輩がちゃんと顔を見せた。見て、僕は堪らず動揺してしまった。

 

 先輩の瞳が潤んでいた。その琥珀色の双眸は、涙で滲んでいた。

 

「俺が、男だった時は。まだ男だった時は……全然、なかったのに……こんなじゃあ、なかったのに……!」

 

 先輩が言う。必死に抑えて、けどそれでも震えてしまっている声で、僕にそう言う。

 

「俺のせいだよな……俺がこんなんになっちまったから、女なんかになっちまったから!弱くなっちまったから!!」

 

 そして遂に堪え切れず、弾けた。先輩の悲痛な叫びと共に、琥珀色の瞳から涙が零れ落ちる。

 

「せ、先輩!ちょっと、一回落ち着きま「落ち着けねえよ!!」

 

 僕は慌てて先輩を落ち着かせようとするが、無理だった。今の先輩はこれ以上にない──いや、これまでで見たことが一切ない、凄まじいまでのヒステリーを起こしていた。

 

 ぼろぼろと大量の涙を流して、普段なら絶対に上げないような嗚咽を上げて、僕のすぐ目の前だというのに先輩は激しく、泣いていた。

 

「ごめん、こんなこと言うのは、筋違いだってのはわかってんだ。……ああ、わかってん、だよ」

 

 涙でぐちゃぐちゃに濡れた表情で、僕の顔を一心に見つめて、嗚咽混じりに、先輩は言う。

 

「胸が、痛いんだ。苦しいんだ……お前の身体の傷を見る度に、お前の顔の傷を見ちまう度に、胸が……心が、締めつけられて、痛くて、苦しく、て……!」

 

 先輩の声は、苦痛に塗れていた。苦悩に塗れていた。自責に──塗れていた。

 

 ──……先、輩……。

 

 そうして、初めて、ようやっと──僕はこの人が背負ってしまった後悔の、その重みを思い知らされた。同時に、いかに僕という人間が浅はかで、考えなしの木偶の坊ということも、わからされた。

 

 僕はちっとも、欠片すらも理解していなかった。あの時、あの木陰で、自分に対して打ち明けられたことが全てだと、愚かにも思い込んでいた。

 

 そうだ。そうだった。先輩は、この人は、ラグナ=アルティ=ブレイズという人物は。

 

 がさつで、乱暴で、強引で、大雑把で──人一倍、誰よりも優しく、慈悲深い。

 

 そのことを、知っていたのに。そんなことは、僕が一番よく知っていたはずなのに。

 

 先輩があのくらいで済ます訳がないじゃないか。あの程度で、済ます訳がないじゃないか。あんなので──己を赦す訳なんか、ないじゃないか。

 

 今すぐにでも声をかけたかった。僕は大丈夫です、と。だからそれ以上自分を責めないでください、と。

 

 言葉は浮かぶ。……けれど、それを口に出すことも、声にすることも、今の僕にはできなかった。

 

「お前には迷惑かけるって言った。お前は別にいいって言ってくれた。……だけど、よ……!」

 

 なにも言えず、口を閉ざすことしかできないでいる僕に先輩が言う。言って、依然その瞳から涙を流しながら──こう、続けた。

 

「お前の好きに、してくれ」

 

「えっ?」

 

 思わず、そんな素っ頓狂な声が漏れ出てしまった。一瞬、僕には先輩の言葉が、その意味が理解できなかった。

 

 戸惑う僕に対して、なおも先輩は続ける。

 

「やっぱり、さ。こんな水着じゃ、駄目だ。釣り合い取れてねえよ。水着なんかで、こんなふざけたモンで取れる訳、ねえんだよ」

 

 己の水着姿を否定し罵りながら、己が言葉でその身を引き裂きながら。

 

「ずっと、ずっと考えてた。お前と一緒の時も、お前が依頼(クエスト)に行ってる時も、考えてた。あの時お前が死んでたらって。お前にもう会えなくなったらって」

 

 こちらに追い縋るように。こちらを追い求めるように。

 

「もうどうにかなりそうだった。どうにかなっちまいそうになった。痛くて苦しくて、怖くて……!」

 

 延々と先輩は吐露する。今の今まで胸の内に秘めていたことを。この瞬間まで胸の奥に押し込んでいたことを。

 

「俺はお前に、二度も死にかけるくらいの無茶させた。こんなことでも、釣り合いが取れるなんて思ってない。けど、少しでもお前の……クラハの、気が晴れるなら」

 

 そして、僕の頬に手で触れながら、懇願するかのように先輩が告げた。

 

「抵抗、しねえから。お前がどんなことしても、お前にどんなことされても。だから、お前の──クラハの好きに、してくれ」

 

 僕は、すぐには口を開けなかった。先輩のその言葉に対して、答えを返せなかった。

 

 先輩の心に刺さった棘。それは僕の想像よりもずっと酷く巨大で、そして根深く突き刺さっていた。

 

 それを先輩の心から抜くには、どうしたらいいのだろう。どうすればいいのだろう。

 

 僕がなにを言っても、どれだけの言葉をかけても、先輩の心からその棘は引き抜けない。その程度のことで引き抜けるものなら、最初から先輩はここまで、追い込まれていない。

 

 ──……本当に僕は、情けない男だな。

 

 先輩はこちらを見つめている。涙ですっかり濡れた琥珀色の瞳が、こちらを見ている。

 

 棘を抜くには、先輩が自分で言っていた通りにするしか他ない。先輩を僕の好きにするしか、方法はないだろう。

 

 そうしなければ──一生、この人は己を決して赦しはしない。死ぬまで、心に棘を刺したまま、己を責め続ける。

 

 本当に先輩は不器用だ。致命的なまでに、不器用な人だ。どこまでいっても不器用で────優し過ぎる人だ。

 

 だったら、ここは大人しくそれに従うことにしよう。その言葉に、従うことにさせてもらおう。

 

「……わかりました」

 

 心の中で決断を下した僕は、そこでようやく再び、口を開いた。

 

「本当に、僕の好きにしていいんですね?──先輩のこと」

 

 僕の言葉に、先輩はこくりと頷く。そして僕の頬から手を離し、腕を下ろす。

 

 一旦心の中で深呼吸を済ませ、そして僕は己の手を先輩に伸ばし────肩に、そっと置いた。

 

「…………え?」

 

 まさか肩を触られるとは思ってもいなかったのだろう。困惑する先輩に、意を決して僕は言った。

 

「抱き締めさせてください、ラグナ先輩」



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海へ行こう──強い漢に

「抱き締めさせてください、ラグナ先輩」

 

 その華奢な肩に手を乗せ、その涙塗れの瞳を見つめ、もうこれ以上にないほど真剣になって、僕は先輩にはっきりとそう言った。

 

「……は?え?」

 

 僕の言葉を受け、数秒の沈黙を挟んだ後に先輩が、呆気に取られたような表情を浮かべて、戸惑いに満ちた声を漏らす。

 

「だ、抱き締──」

 

 それから続けてなにか言いかけた先輩を、僕は有無を言わさず思い切り、抱き締めた。腕を先輩の背中に回して、先輩の胸を押し潰すくらいに、強く。

 

 胸板にマシュマロを押しつけたような、弾力のある柔らかな感触が広がる。それと同時に仄かに甘い、蕩けるような匂いが僕の鼻腔を軽く撫でた。

 

 ──……ちょっと、これは予想以上にまずいかもしれない……。

 

 思わず心臓が高鳴りそうになる。先輩の身体は、僕の胸板で潰れている胸と同じくらいに柔らかくて、温かくて──そして小さかった。

 

 こうしてこの身体を抱き締めて、改めて思い知った。思い知らされた。こんな小さな、本当に小さな身体で、この人はあんなにも重い自責を背負っていたのだと。

 

 下手すれば、一瞬で押し潰されてしまうほどの、重荷(じせき)を、たった一人で背負い込んでいたのだと。

 

 一体どれだけ苦しかったのだろう。一体どれだけ辛かったのだろう。その苦しみを、その辛さを、今まで理解してやれなかった己を、許せない。

 

 さらに強く、先輩を抱き締める。僕と先輩の身体が、これ以上にないくらいに密着し、堪らず先輩が苦しそうに微かな呻き声を漏らすが、それでも僕は両腕に込めた力を緩めなかった。

 

 否応なしに昂る自己を必死に抑えつけて、僕は閉じていた口を開く。

 

「先輩」

 

「ん、っ……どう、した?クラハ」

 

 僕の腕の中で身じろぎ、妙に艶のある声で先輩が返事する。……気のせいだろうか、心なしか先輩の身体が少し熱くなってきている気がする。それとも、僕の身体が熱くなっているのだろうか。

 

 まあそんなこと今は置いておこう。慌てふためきそうになるのをなんとか誤魔化しつつ、途中で噛まぬようにしっかりと息を整えて、僕は再度口を開いた。

 

「決めました」

 

 強く、強くその身体を抱き締めながら。両腕に確かな温度と感触を感じながら。

 

 一言一句決して違わぬよう、一言一句全て伝わるよう。僕は、続ける。

 

「本当に身勝手で、思い上がりも甚だしいと思います。けど、言わせてください」

 

 先輩は、なにも言わない。ただ、沈黙を返すだけ。僕はそれを肯定と受け取り、ほんの僅かに揺れ動いていた決意を、完全に固めた。

 

「強く、なります。先輩が心配にならないくらいに。不安なんてこれぽっちも覚えないくらいに。そんな強い──漢に、僕はなります。なってみせます」

 

 側から聞けば、説得力の欠片すらない、あまりにも現実を知らない若者の言葉だ。それが那由多の先にある叶わぬ願望だ。そんなことは、口にした僕にだってわかっている。

 

 けれど、誰がなんと思おうとも、誰になんと思われようとも構わない。

 

 もうこれ以上、こんな先輩は見たくない。もうそれ以上、自分を追い込まないでほしい。その一心だった。

 

「だから、もう自分を責めるのは止めてください。何度でも言いますが、僕は大丈夫ですから。絶対に、先輩の前から消えたりなんか、しませんから」

 

 だから──そう、言葉を続けて。

 

「安心して、少しくらい気楽にしていてくださいよ。ラグナ先輩」

 

 夢物語にも近い、僕の決意の全ては話し終わった。場が、静寂に包まれる。

 

 気がつけば、先輩の身体の震えは止まっていた。僅かばかりに漏れていた、小さな嗚咽も聞こえなくなっていた。

 

 しばらくして、僕に抱き締められたままの先輩が、おずおずと口を開く。

 

「……本当か?本当に、俺の前から消えたりしないか?」

 

「はい。消えたりしません」

 

「本当の本当にか?」

 

「本当の本当にです」

 

 先輩はそう何度も僕に確かめて、それからようやっと──安心したような、脱力した安堵の息を漏らした。

 

「……その言葉、絶対に忘れねえからな」

 

 そう言って、少し躊躇ってから、先輩は僕の首に両腕を回す。

 

 夜の無人島の、森の奥深くで。なにも聞こえない、静寂が支配する空間で。時間が過ぎ去るままに、僕と先輩は抱き締め合い続けた。



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海へ行こう──そうして、無人島の夜は過ぎ

「「…………」」

 

一体、どれくらいの時間が経ったのだろうか。それすらもわからないまま、僕と先輩はお互いに黙りながら、サクラさんとフィーリアさんの二人がいる砂浜にへと戻るため、森の中をゆっくりと歩いていた。

 

空気が気まずい。非常に気まずい。……まあ、それは当然だろう。

 

先ほどまで、僕と先輩は抱き締め合っていた。無言で、時間も忘れて、ずっと。……いやまあ、別にそれ自体は構わないのだが。問題はなかったのだが。

 

ふと冷静になって思い返してみると、僕は先輩に対してとんでもないことをしていたのだと自覚した。いくら先輩を宥めるためとはいえ、お互い水着というほぼ裸同然の格好で、あんなに密着しながら抱き締め合っていたとは……今になっても、畏れ多いというか恥ずかしいというかなんというか。

 

自分の心に渦巻くよくわからない感情に翻弄されながら、とりあえずこの気まず過ぎる無言状態を打破するため、半ば自棄になりながらも僕は開こうにも開けないでいた己の口を、無理矢理に開いた。

 

「せぇっぁ」

 

…………噛んだ。盛大に噛んでしまった。僕の上擦り切った奇妙この上ない声に、堪らずといった様子で僕の方に先輩が顔を向けてくる。

 

「……先輩、さっきはその、すみませんでした。あんな……だ、抱き締めたりなんかしてしまって」

 

どうにも締まらない己の情けなさに内心身悶えながらも、先ほど言えなかった言葉をなんとか口に出せた。

 

「き、気にすんな。俺も、さっきは変になってたっていうか、考え過ぎてたっていうか……と、とにかく別にいいんだ。別に、謝んなくても」

 

僅かばかりに頬を赤らめさせながら、先輩は僕にそう言ってくれる。その言葉だけでも、僕の心に刺さる罪悪感が、少しは薄らいでくれた。

 

しかし、どうしようもないことに僕と先輩の会話はそこで終了してしまい、再び気まずい静寂が戻ってしまう

 

──わ、話題を……とにかくなんでもいいから話題を……!

 

この静寂を堪え切れるほど、僕は図太くない。先輩は気にしなくてもいいと言ってくれたが、罪悪感がいかに薄まろうと、その姿を視界に映す度に先ほどの記憶が鮮明に蘇ってしまう。

 

その瞳から涙を溢れさせ、精神的にすっかり弱り切ってしまった先輩が。僕に抱き締められるままになって、その身体の感触と温もりを包み隠さず、惜しげもなく伝えてくれた先輩の姿が。

 

それら全ての記憶が脳裏を過ぎる度に、どうしようもなく僕は心を揺さぶられてしまう。

 

このままではまずい。なにがどうまずいのか具体的には説明できないが、まずいものはまずい。少しでも、気を逸らさなくては。

 

そう思って、ふと視線を上にやった。頭上には、満天の星空が広がっていた。

 

「…………ほ、星」

 

「星?星がどうかしたかクラハ?」

 

それは、ほぼ無意識な呟きであった。大抵は聞き流されてしまうだろう小さな呟き──しかし、運の悪いことに、その呟きは先輩の耳に届いてしまっていた。

 

「えっ?あ、いやえっとその」

 

この時、僕の中での最優先事項はなんとかして先輩と会話すること──それしか考えていなかった。だからだろう。

 

さっきのは独り言です。大した意味はないんです忘れてください──そう返すべきだったのに。そう返すだけでよかったのに。

 

「ほ、星がっ、綺麗ですねっ!先輩!」

 

……余計に頭を回転させてしまった結果、そんなどこぞの詩人みたいなことを僕は言ってしまった。

 

なんの脈絡もなくいきなり星を賛美した僕に、意味がわからないとでも言うように先輩は琥珀色の瞳を瞬かせる。かと思えば──突然、堪え切れなかったという風に噴き出した。

 

「ふっ、あははっ!そ、そうだな。星綺麗だな!」

 

「え、ええ……星綺麗ですよ、ね……」

 

先輩に思い切り笑われながら、頭の中を真っ白にして僕はそう返す。……もう自分が情けないというか穴があったら今すぐ入りたいというかなんというかなんていうか。

 

夜が深まる森の中、先輩の明るく楽しそうな笑い声が響く。そうして先輩はひとしきり笑って、ふと僕に顔を合わせ訊ねた。

 

「そういやさ、お前その傷どうすんだ?」

 

「え?ああ、この傷跡ですか?」

 

「おう。フィーリアに頼めば消してくれるんじゃねえか?」

 

僕の全身にある大小の傷跡を眺めながら、そう言う先輩。確かに先輩の言う通り、フィーリアさんならばこの程度、それこそ痕跡など全く残さず綺麗に消せるだろう。というか、実を言えば既に彼女から言われていたのだ。

 

──ウインドアさん、その傷私が綺麗にしてあげましょうか?──

 

フィーリアさんの言葉を思い出しながら、僕は先輩に告げる。

 

「はい。……ですが、その気はありませんよ」

 

「は?なんでだよ?」

 

疑問符を浮かべる先輩に、何故その気がないのか、僕は笑顔を浮かべて答えた。

 

「僕にとってこれは、証みたいなものなので」

 

「証?」

 

「ええ。こんな僕でも、先輩のことを助けることができた、守れたんだっていう証なんですよ。……はは」

 

言ってる途中で気恥ずかしくなってしまい、僕は最後に苦笑いを零す。そんな僕を先輩はきょとんとした顔で見つめたかと思うと、突如何故か顔を逸らした。

 

「ば、馬っ鹿じゃねえの……」

 

その先輩の声は消え入りそうなほど小さく、またかなりの羞恥が混じっていた──と、思う。

 

それはさておき。また少しの沈黙を挟んでから、再び先輩は逸らしていた顔を僕に向けた。

 

「なあ、クラハ」

 

「はい。なんですか?先輩」

 

そう返事をすると、先輩はそこで少し躊躇するように押し黙って、もう一度その口を開いた。

 

「前に言ったよなお前。今の(・・)俺が昔の(・・)俺のこと忘れても、教えるって」

 

「え、あ……そうですね。はい、言いました」

 

先輩の言葉に、僕は早くも数ヶ月前の記憶となってしまった、あの夜の日。詳しい事情は省くが、今日と同じように先輩は精神的に弱っており、結果的に寝台(ベッド)を共にすることになった。

 

その時に、僕は言った。約束した──もし、今の先輩が昔の先輩のことを忘れてしまっても、その度に何度でも、僕が教えると。昔の先輩のことを今の先輩に教えると。

 

それらの記憶を振り返る最中、先輩がほんの少しだけ憚れる様子で僕に言う。

 

「……い、今。今教えてくれ。お前が凄いって思ってた、昔の俺のこと」

 

琥珀色の瞳が、不安そうに僕を見つめる。その不安をいち早く振り払おうと、僕は笑顔を浮かべて、喜んでその頼みを引き受けた。



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海へ行こう──新たな誘い

『ガオアァ!』

 

 ヴィブロ平原に一匹の獣が吠える声が響き渡る。その声の主は〝有害級〟の魔物(モンスター)、レイジウルフである。

 

 レイジウルフは普段群れを成して狩りなど行っているのだが、今ここにいるのは一匹だけ。恐らく群れから逸れたか、それとも追い出されたのだろう。

 

 レイジウルフはその名の通り凶暴で、気性が荒く率先して人間や動物、自分よりも弱い魔物に襲いかかり、そして食らう。冒険者(ランカー)が見かけたのなら、まず間違いなく駆逐対象だ。

 

 そんなレイジウルフが研ぎ澄まされた自慢の鋭い牙を、薄く開いた(マズル)の隙間から覗かせながら、ヴィブロ平原を縦横無尽に駆け回る。

 

 〝有害級〟ではあるが、流石は狼の魔物。一般人なら目にも留まらぬ速さ──だが、僕からすれば遅い。

 

「気をつけてください先輩!今、レイジウルフは先輩の方に向かってますから!」

 

 向こうに立つ先輩にそう注意すると同時に、得物である長剣(ロングソード)を鞘から抜き放つ。ここからならば、万が一レイジウルフが先輩に噛みつこうとも、牙と同様に鋭いその爪で先輩を引き裂こうとしても、その前に僕の【斬撃波】でレイジウルフを両断できる。

 

 だからといって、慢心を抱くなど以ての外だ。できる限りの警戒をしつつ、レイジウルフの姿を捉え続ける。一方で、僕から注意を受けた先輩は若干緊張しながら返事をする。

 

「お、おう!ま、任せとけ!」

 

 そしてややぎこちなく、得物である純白の十字架剣を抜いた。十字架剣を構えた先輩に、ジグザグと左右に不規則に動きながら、レイジウルフが突っ込んでいく。

 

 駆けるレイジウルフを、先輩は必死になんとかその琥珀色の瞳で捉える。やがて先輩とレイジウルフの距離は縮まり、そして────

 

『ガァッ!!』

 

 ────完全に詰め終える前に、レイジウルフが先輩を仕留めようとその懐目掛けて一気に飛び込んだ。……しかし。

 

「フッ…!」

 

 その飛び込みはあまりにも単調で、以前の先輩ならばいざ知らず、今の先輩に躱せないものではなかった。飛びかかったレイジウルフを躱し、そしてそれと同時に先輩は、己の得物である十字架剣を振るった。

 

 

 

 ザンッ──太陽に照らされ輝く白刃が、吸い込まれようにしてレイジウルフの首に叩き込まれたかと思うと、次の瞬間呆気なく、あっさりとその首を斬り落とした。

 

 

 

「……や、やったやったぞ!俺倒せたぁ!」

 

 頭部を失くしたレイジウルフの身体が転がる側で、先輩が無邪気に飛び跳ねながら喜びの声を上げる。

 

「お見事です先輩!凄いですよ!」

 

 出番もないまま役目を終えた長剣を鞘に収め、称賛の言葉をかけながら、僕は先輩の元に駆け寄る。そして軽いハイタッチを交わした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お待たせしました。『桃雲実(パルポ)』のパフェと珈琲(コーヒー)でございます。ごゆっくりどうぞ」

 

 言葉と共に、テーブルに注文した品が並べられる。頭を下げ、ウェイトレスがテーブルから離れると、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせながら先輩はパフェを自分の方に寄せる。

 

「うわ美味(うま)そー……いただきまーす!」

 

 期待の眼差しを送りながら、切り分けられた『桃雲実』と『桃雲実』で作られたフルーツソースがかかったバニラアイス、そして一口サイズのプチケーキをまとめてスプーンで掬い、小さな口を目一杯に開いて、それら全てを先輩は頬張る。

 

 もきゅもきゅと口を数回動かしたと思えば、実に幸せそうにその顔を蕩けさせた。『桃雲実』のパフェ、随分とお気に召したようである。

 

 それにしても、やはり女の子がスイーツを美味しそうに食べていると良く映える。たとえ元は男であると知っていても、だ。……まあ、こう思ってしまうのは先輩に悪いのだが。

 

 目の前のパフェに夢中になっている先輩を眺めながら、僕は静かに視覚魔法──【リサーチ】を発動させる。

 

 瞬間、僕の視界に滲み出すようにして、先輩の周囲に様々な情報が浮かび上がってきた。

 

 

『ラグナ=アルティ=ブレイズ:Lv24

 

 生命値──D+

 

 攻撃値──D+

 

 防御値──E+

 

 俊敏値──C

 

 魔力値──EX

 

 

 PA(パッシブ):【創造主神の祝福(オリジンズ・ギフト)

 SK(スキル):なし』

 

 

 それらは文字通り、先輩の情報である。先輩の能力値(ステータス)である。こうして確認して、その度に僕は思う。先輩は、着実に一歩ずつ前に進んでいる。

 

 ……進んでいるのだが、それでも今の先輩のLv(レベル)からすると、この能力値は少し低いと言わざるを得ない。まあ最初よりもずっと、本当に強くなった。先輩は強くなってくれた。

 

 最初はスライムに一撃で戦闘不能にさせられていたが、今では逆に一撃でスライムを倒せるようになったし、先ほどのレイジウルフのように、僕のサポートがあれば〝有害級〟の魔物(その中で弱い部類になるが)もなんとか倒せるほどだ。

 

 いやあ、本当に感慨深いものだ。……本当に、先輩は成長している。剣の扱いも鋭く疾くなったし、このまま順調にいけば、もう僕のサポートなしでも〝有害級〟を倒せるようになるんじゃなかろうか。もしそうなってくれたなら今後のLv上げの効率もグンと跳ね上がることだろう。

 

 そこまで思って、僕は──【リサーチ】を自分にへと使った。

 

 

『クラハ=ウインドア:Lv88

 

 生命値──A++

 

 攻撃値──A+

 

 防御値──S

 

 俊敏値──A++

 

 魔力値──B+

 

 

 PA(パッシブ):全能力値(ステータス)増加(B) 剣技適正(A) 防技適正(A) 魔法適正(B-) 強靭(A++) 勇気(S) 不屈(S) 決意(S)

 SK(スキル):第四級以下汎用剣技全使用可能 第四級以下汎用防技全使用可能 第三級以下魔法(支援限定)全使用可能 【強化(ブースト)】 【放出(バースト)】』

 

 

【リサーチ】を他人にではなく、自分に使うとこのように、様々な情報が頭の中に浮かび上がる。

 

 気がつけば、以前は80だった僕のLvも、いつの間にか88に上がっていた。能力値もかなり変化している。

 

 ……だが、僕としては少し複雑な気持ちだった。あともう少しで、僕はLv90に到達する。常人の、限界に達する。才能の有無が──わかってしまう。

 

 むろん、自分がLv100になれる才などないことは薄々わかっている。わかっているが……いざその現実を突きつけられる時がもうすぐ来るかと思うと、どうしても複雑なのだ。

 

 一週間前、フィーリアさんに誘われて、無人島にへとバカンスに向かった。その無人島での一日は、とても楽しい思い出となっている。

 

 魔物に襲われたり、それをサクラさんが容易く屠ったり、海の遊びに興じたり。

 

 そして、事情は省かせてもらうが、僕はその日に先輩に誓った。先輩が不安に思わないほどに、心配なんてしないくらいに強くなってみせると。

 

 ……そう、誓ってしまったから、より一層複雑に思ってしまう。僕の限界というものが、そう遠くないうちにわかってしまうことが────

 

 ──……いや、今はこのことについて考えるのは止めよう。

 

 そう思い、僕は珈琲を一口啜る。適度な苦味が心地良い。この喫茶店に初めて訪れ、その時に飲んだ味と全く変わらない。だからこそ、僕はいつまでもこの珈琲を飲んでいられるのだろう。

 

「あー…むっ。……そういや、遅えな。もうそろそろ来る時間じゃねーの?」

 

 珈琲を味わっていると、唐突にパフェを食べていた先輩が店内の時計に視線をやりながら、そう言葉を零す。言われて、僕は時計も見やると、確かに約束の時間が迫っていた。

 

「そう、ですね。遅れるということはないと思いますけど……」

 

 僕と先輩はこの喫茶店に、パフェと珈琲をただ味わいに来た訳ではない。実を言うと、この喫茶店が待ち合わせの場所なのである。

 

 一体誰なのかというと──

 

 

 

 カランカラーン──と、そこで不意に来客を知らせるベルが、店内に鳴り響いた。

 

 

 

「ん」

 

 少し遅れて、ゆっくりとした足音が近づいてくる。音がする方に視線を送ると、こちらの方に、今ではもうすっかり見慣れてしまった──サクラさんの姿があった。

 

「すまない。待たせてしまったかな──ラグナ嬢。ウインドア」

 

 爽やかな笑顔を浮かべながら、そう僕たちにサクラさんは言葉をかけたかと思うと、次にこう訊ねてきた。

 

 

 

「時に訊くんだが二人は……幽霊屋敷に興味はあるか?」



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Glutonny to Ghostlady──それが、始まりの日

 びしゃり、と。少しばかりぬめついた水音が響く。

 

 びしゃり、びしゃり。ぬめつく水音が、ずっと響く。

 

「許さん、許さん……絶対に、決して許しはしない……!」

 

 それは男の声だった。憎悪、激怒に支配された、理性の欠けてしまった男の声だった。

 

 同じ内容を紡ぐその声がする度に、ぬめる水音は響き続ける。だが、水音も男の声も、不意にピタリと止んだ。

 

 一瞬にして静寂に包まれる部屋の中。窓硝子を叩く雨音が、嫌に良く聴こえる。

 

「はは……ははははっ!はははははは!!」

 

 しばらくして、今度は男の笑い声が響く。狂気に囚われた、絶叫にも似た笑い声が部屋にこだまする。

 

 その時、だった。

 

 

 

 バンッ──突如として、部屋の扉が勢いよく開かれた。

 

 

 

「お父様!!」

 

 叫びながら部屋の中に飛び込んだのは、少女。ドレスに身を包んだ、黄金のような金髪の少女だった。

 

「いけませんわ!どうかお止めください!こんな、こんなことをしても……!」

 

 宝石のように美しい蒼い瞳に涙を浮かべて、男の元に少女は駆け寄ろうとする。だが、そんな少女に対して、男は目もくれなかった。

 

 男の血走った目が見ていたのは、赤黒い血で床に描かれた、模様だった。

 

「全部、全部くれてやる!望むもの全てをくれてやる!だから、来い!!」

 

「お父様ぁあああっ!」

 

 男の声と、少女の声が部屋に響き、交差する。その直後、雷鳴が大気を震わせ、裂いた。

 

 血で描かれた模様が、蠢いた。まるで意思を持っているかのように。どくり、どくりと心臓が脈動するかのように波打つ。

 

 やがて模様に、光が灯る。赤黒い、蛍火のような光が。だがそれは瞬く間に輝きを増して────部屋を、閃光で満たした。

 

 

 

 

「お前か?私を呼んだ愚か者は」

 

 

 

 

 

 気がつけば、それ(・・)はそこにいた。血の模様の中心に、立っていた。

 

 それ(・・)の目の前に立つ男が、歓喜とも、恐怖とも取れるような表情を浮かべ、それ(・・)に答える。

 

「そうだ!俺が呼んだ、俺がお前を呼んだ!俺の、俺の願いを叶えてくれ!」

 

 半狂乱になりながら、男は床に這い蹲りそれ(・・)の足に縋り寄る。そんな男を見下ろして、一瞬だけ片眉を跳ね上げさせたかと思えば、それ(・・)は歪んだ笑みを浮かべた。

 

「いいだろう。貴様の願いとやらを叶えてやる。その代わり──全てを貰うぞ」

 

「構わない!だから、だから……!」

 

 瞬間、男の動きが止まった。そしてすぐさま────まるで糸の切れた操り人形のように、床に倒れ込んだ。

 

「…………お、父様?お父様!?」

 

 床に倒れ伏したまま動かない男の──父の身体を少女は揺さぶる。しかし、幾度揺さぶろうとも、もう自ら動くことはなかった。

 

 父は死んだ──やがてその現実を少女は受け入れると、その場に座り込み、茫然自失とする。そんな少女に対して、未だ血の模様の中心に立つそれ(・・)が、宣告するように口を開く。

 

「全てを、貰うぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨が降っている。雨は、ずっと振り続ける。勢いを増して、雷鳴を轟かせて。

 

 響く。雨音が。響く。雷鳴が。響く。響く。響く。

 

 空虚に。永遠と。誰も彼もがいなくなってしまった、その屋敷の中で。



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Glutonny to Ghostlady──同行しないか?

「あれか、件の屋敷とやらは」

 

 ファース大陸西部──グェニ大森林。人など滅多に立ち入らない第二級危険指定地域へ続く丘から、青黒い大樹が無数に並び、どこまでも続くその光景を眺めながら、凛とした声色でサクラさんが呟く。

 

 彼女の視線の先。彼女の言う通り、そこには大樹よりも巨大な屋敷がある。いや、屋敷というよりは、もはや城のような見た目である。

 

 自然に囲まれた、たった一つの人工建築物。その目立ち様は凄まじいものである。そんな屋敷をサクラさんと同じように遠目から眺め、僕も口を開く。

 

「そう、ですね。あの屋敷こそ、これから僕たちが向かうべき場所──ゴーヴェッテン邸でしょう」

 

 グェニ大森林の巨大屋敷──その名をゴーヴェッテン邸。このファース大陸に住まう者であれば、特に冒険者(ランカー)稼業の人間であれば、知らぬ者はほぼいないと言われるまでに有名な場所である。

 

「でっけぇ家だなあ」

 

「…………」

 

 なんの飾り気もない素直な感想を零すラグナ先輩と、その隣で顔を若干青くさせ、固い表情でゴーヴェッテン邸を眺めるフィーリアさん。そんな二人に一旦視線を送って、すぐさまサクラさんはゴーヴェッテン邸に視線を戻す。

 

 そして、彼女は宣言でもするかのように、僕たち三人に告げた。

 

「では行くとしようじゃないか。ゴーヴェッテン邸──『幽霊屋敷』に」

 

 

 

 ゴーヴェッテン邸。またの名を、『幽霊屋敷』。何故そんな場所に僕たちは向かうことになったのか、それは遡ること二日前の話になる────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「時に訊くんだが、二人は幽霊屋敷に興味はあるか?」

 

 喫茶店『ヴィヴェレーシェ』にて、待ち合わせの時間よりも少しだけ遅く、僕と先輩の二人に合流したサクラさんは軽い謝罪を済ませると、次にそんなことを訊いてきた。

 

「ゆ、幽霊屋敷……ですか?」

 

「ああ。幽霊屋敷、だ」

 

 普段通りの凛とした表情と声音でそう返すサクラさん。僕としては、訊かれたことの内容が内容なので、困惑を隠さずにはいられない。

 

「興味があるかと訊かれると、正直あんまり……ですね」

 

「へえ、クラハは興味ねえのか。俺はあるぞ。なんか面白そうじゃん!」

 

 僕とは真反対の反応を見せ、食いつく先輩。そんな先輩の姿をサクラさんはまるで、可愛がりたくてしょうがなくなる小動物に向けるような眼差しで見つめ、それから何処か満足そうに頷いた。

 

「ふむ。相も変わらずラグナ嬢は愛くるしい──ではなく、実はこういった依頼(クエスト)があってな」

 

 言いながら、サクラさんは懐から一枚の紙を取り出し、テーブルの上にへと置く。彼女の言う通り、その紙は依頼書だった。

 

「『世界冒険者組合(ギルド)』から通された依頼だ」

 

「そ、そうなんですか。……え!?そうなんですか!?」

 

 なんでもないかのようにサクラさんがそう言ったため、思わず流しかけたが、すんでのところで僕は彼女の発言を頭の中で反芻させ、その場から飛び跳ねかねない勢いで驚愕した。

 

 当然ではあるが、依頼というものは依頼主が冒険者組合に発注することによって発生する。しかし、それはあくまでも一般人が、手頃な冒険者組合──例えば『大翼の不死鳥(フェニシオン)』がそれに当てはまる──に発注した、通常の依頼である。

 

 だが『世界冒険者組合』となれば話は全く違ってくる。そもそも、一般人はおろか、下手な上流貴族では『世界冒険者組合』に対して依頼を発注することなど到底叶わないからだ。

 

『世界冒険者組合』。今この世界(オヴィーリス)に現存する全ての冒険者組合の祖であり、またその全ての頂点。そんな冒険者組合に依頼を発注するとなると、あまりにも莫大な金がかかる。

 

 理由は単純である。『世界冒険者組合』に所属する冒険者(ランカー)の質が、高過ぎるからだ。

 

 この世界には、ある一つの番付(ランキング)が存在する。そしてその番付こそが、『世界冒険者組合』に加入するための条件であり、また唯一の方法。

 

 その名も────冒険者(ランカー)番付表(ランキング)

 

 第一位から第五十位まで。選ばれるのは全《S》冒険者であり、チームとして選ばれるのが大半であり、《S》冒険者個人が選ばれるのは少ない。

 

 この番付表に名を連ねることは冒険者にとってこれ以上の名誉はなく、たとえ最下位である五十位だとしても、番付外である《S》冒険者五十人よりも価値があると判断される。

 

 この番付表は毎月刊行される冒険者にとって必須の情報誌、『冒険人生』に必ず掲載されており、刊行されるのと同時に更新される。しかし、順位が変わることはもちろん、新たな冒険者チームが番付入り(ランクイン)することは滅多にない。そして冒険者個人となると、数年に一度あるかないかというほどであり、その中でもここ十年間全く、一度も変動しない順位がある。

 

 冒険者番付表第六位から第一位──通称、『六険(ろっけん)』。

 

 

 第六位────冒険者組合(ギルド)緑緑の妖狐(プランフォクス)』所属、トゥトゥ=ニーパニーパ。

 

 

 第五位────冒険者組合(ギルド)流星の落涙(シューティア)』所属、エグゼ=ルキオン。

 

 

 第四位────冒険者組合(ギルド)大地の防人(グランドタイタニス)』所属、バルボル=ダンダリオ。

 

 

 第三位────冒険者組合(ギルド)燦然の煌洸(シャインフラニス)』所属、リィン=ヴァーミリス。

 

 

 第二位────冒険者組合(ギルド)威光の熾天(ゴッドセラフ)GM(ギルドマスター)、ルミナ=ゼニス=エインへリア。

 

 

 第一位────冒険者組合(ギルド)無所属、レイヴン。

 

 

 以下、六名。その全員が個人で活動する冒険者たちであり、現在存在する冒険者の中でも最高峰と謳われる者たちである。

 

 とまあ、『六険』に関する説明はここまでにするとして。『六険』の誰もが『世界冒険者組合』には所属していないのだが、番付入りしている冒険者及びチームの五割は『世界冒険者組合』に所属している。つまり他の冒険者組合と比べても、その水準が圧倒的なまでに高いのだ。

 

 番付入りの冒険者、チームへの依頼料は想像を絶するほどに高額であり、それを支払える存在はかなり限られてくる。少なくとも世界に名の知れた資産家、大企業の会長、もしくは────

 

「落ち着け、ウインドア。驚くはわかるが、みっともないぞ」

 

 と、僕の思考をサクラさんがその一言で断ち切った。彼女に言われて、僕はいくらかの冷静さを取り戻す。

 

「す、すみません。つい……」

 

 冷静さを取り戻し、僕はテーブルの上に広げられた依頼書に目を軽く通す。通して──取り戻した冷静さを、僕は再び欠くことになってしまった。

 

「ゴ、ゴーヴェッテン邸の探索及び調査……!?」

 

 同時に、何故最初にサクラさんが『幽霊屋敷』に興味はあるかと訊いてきた理由がわかった。なるほど、そういうことか……。

 

 思わず言葉を失う僕に、試すような口振りでサクラさんが言う。

 

「ああ。まあそれで、な……ラグナ嬢と──いや、ウインドア。君に提案があるんだが」

 

「……提案、ですか?」

 

 サクラさんは頷いて、それからとんでもないことを僕に言ってきた。

 

「この依頼、私と同行しないか?」



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Glutonny to Ghostlady──四人集って、再び依頼へと

「この依頼(クエスト)、私と同行しないか?」

 

 ──と、まるで世間話のような軽さで、『世界冒険者組合(ギルド)』から通された依頼への同行をサクラさんは僕に求めてきた。

 

 対し、僕はその発言を理解するのに数秒の時間を要し、そして理解すると同時に──慌てて首を横に振った。

 

「い……いえ!いえいえいえっ!そんなっ、ぼ僕なんかがっ、駄目ですよ!?」

 

「なにが駄目なんだウインドア。これも経験の一つさ」

 

「で、ですが……!」

 

 なお渋る僕に、サクラは少し困ったような、残念そうな表情を浮かべる。と、パフェを食べ終えた先輩も不服そうに僕に言う。

 

「いいじゃんかクラハ一緒に行っても。俺も行ってみたいぞ『幽霊屋敷』!」

 

「いやそれが一番困るんですよ……」

 

 そう、そのサクラさんの誘いに僕が遠慮したいのは先輩のことがあるからだ。むろん『世界冒険者組合』から通された依頼ということもあるのだが、ここで僕が同行することに賛同した場合、必然的に先輩も連れて行かなければならなくなる。

 

 ゴーヴェッテン邸──別名、『幽霊屋敷』。今から五十年ほど前、この屋敷にはゴーヴェッテンという上流貴族の夫婦と娘、数十人の使用人が住んでいたのだが、ある日当時のゴーヴェッテン家の当主、ディオス=ゴーヴェッテンが突如乱心し、己の使用人はおろか妻と実の娘までもその手にかけ、挙げ句の果てには自ら命を絶った。

 

 何故彼がそんな狂行に走ってしまったのかは、遺書の類などがなかったため、現在でもその動機は不明である。そうして時は過ぎたが、かの屋敷は今現在も残っている。

 

 普通、五十年も前の建築物ならば管理でもしない限り、雨風に晒され、朽ちる。しかしゴーヴェッテン邸の場合は違った。

 

 変わらない(・・・・・)。当時のゴーヴェッテン邸の様子を知る者曰く、不気味なくらいに変わっていないのだという。五十年間放って置かれたのに、五十年前と全く変わっていないのだと。

 

 であればどこぞの誰かがひっそりと秘密裏に、個人的にあの屋敷を管理しているのではないか。そんな仮説の一つが立てられたが、すぐさま否定された。何故ならばかの屋敷が建つ場所が、場所だったからだ。

 

 グェニ大森林。第二級危険指定地域であるこの場所は、常人であれば立ち入ることすらできず、また冒険者であっても依頼のためでもなければ、わざわざ訪れることはない。

 

 そんな物騒な場所に、この屋敷は建っている。未だ健在である屋敷の謎もいつの間にか放られ、代わりにこんな噂が立つようになった。

 

 曰く、屋敷の地下にゴーヴェッテン家の財宝が眠っているのだと。曰く、貴重な魔道具が隠されているのだと。

 

 そんな噂に根拠というものは全くなかったが、浪漫溢れるその噂を信じ、または屋敷自体に興味を持ち、いつの日か腕に自信のある冒険者や様々な賊が屋敷にへと赴き──そして、誰一人として帰ってくることはなかった。

 

 そもそも場所が場所であることも要因なのだろうが、それでも夢のある噂の他に、不穏な噂が付け足されるのに時間はかからなかった。

 

 曰く、屋敷には世にも恐ろしい人食いの化け物が住んでいるだとか。曰く、殺された使用人たちの怨念が留まっており、夜な夜な化けて出ては屋敷に土足で踏み込んだ者たちを一人残らず、取り殺しているのだとか。

 

 とにもかくにも、そのどれもが信憑性に欠ける噂ばかりではあるが──屋敷に立ち入った者たちで、帰ってきた者は誰もいないということは確かなのである。

 

 そんな超ド級の危険極まりない場所に、今の先輩を連れて行ける訳がない。いくら《SS》冒険者(ランカー)であるサクラさんが一緒でも、万が一ということもある。

 

 ……本音を言うなら、僕だって是非同行させてもらいたい。《SS》冒険者の一人と依頼を共にできる機会など、相当限られているのだから。まあ、つい三週間前ほど合同で依頼を受けたばかりだが。

 

 ならば、先輩を家に待たせれば済む話なのだが、先ほど先輩が自分から言った通り、この人は行く気満々で、仮に僕が家で大人しく待っててくださいお願いしますからと、必死に頼み込んでも、絶対にその首を縦に振ることはないだろう。

 

 そうなると、ここはもうサクラさんの誘いを断る他ない。心苦しいが、先輩を危険な目には遭わせたくない。

 

 ──すみません先輩。もう、僕はあなたには擦り傷一つすら負ってほしくないんです。どうか、理解してください……。

 

 しかし、僕はわかっていなかった。僕が行かないくらいで、諦めるほど先輩は甘くなかった。

 

 不意にスプーンの先を僕に突きつけ、不敵な笑みと共に先輩が言う。

 

「よしクラハ。先輩命令だ、行くぞ『幽霊屋敷』」

 

「えっ……い、いや今「後輩たる者、先輩の言うことは絶対だって、前に教えたよな?俺」……わかり、ました」

 

 横暴である。先輩という立場を存分に利用した横暴であるが──僕は、泣く泣く頷くしか、なかった。

 

「……これは将来尻に敷かれるな」

 

 僕と先輩のほぼ一方的なやり取りを見たサクラさんがポツリとそう呟き、思わず反論しかけたが、グッと堪えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喫茶店(ヴィヴェレーシェ)を後にし、サクラさんが先導する形で僕たちは街の広場にへと向かう。と、そこにも今では見知った影があった。

 

「やっと来ましたね皆さん!?私、三十分はここで待たされましたよ!」

 

 僕たちの姿を確認するなり非難の声を上げたのは、二人目の《SS》冒険者(ランカー)、フィーリアさんだった。三十分もこの広場で待たされ若干機嫌を損ねている彼女に、サクラさんが笑いながら言葉を返す。

 

「いやすまないフィーリア。これくらい、君なら許してくれるかなと思っていたんだ」

 

「……気のせいですかね、なんか最近サクラさんの私に対する扱いが雑というか、酷くなってる気がするんですけど……はあ」

 

 やれやれと軽く頭を左右に振り、フィーリアさんは嘆息すると、サクラさんに訊ねる。

 

「それで、ウインドアさんとブレイズさんも来ることになったみたいですけど──一体どんな依頼なんですか?」

 

「え?もしかして、フィーリアさんもこの依頼に?」

 

 まるでサクラさんの依頼に同行する気満々のフィーリアさんのその言葉に、思わず僕も彼女にそう訊いてしまう。僕の言葉にフィーリアさんははいと頷いて、そして彼女にサクラさんが答えた。

 

「グェニ大森林にあるゴーヴェッテン邸の探索及び調査だ。面白そうだろう?」

 

「へえ。グェニ大森林のゴーヴェッテン邸…………」

 

 と、サクラさんの言葉を受けたフィーリアさんは、何故かそこで固まってしまった。だが彼女の様子に気づかず、サクラさんは続ける。

 

「フィーリアも聞いたことがあるはずだ。『幽霊屋敷』──実に面白そうだろう?」

 

「……え、ええ!そ、そうですネ!面白そうですネ!」

 

 ──ん……?

 

 サクラさんの言葉に、ぎこちなく頷きそう言うフィーリアさん。しかし、その普段とは違う態度に、僕は違和感を抱く。

 

 ゴーヴェッテン邸という単語を耳にした途端、フィーリアさんの様子は明らかに変化している。何処か固いというか、なんというか……。

 

 考えて、僕はある一つの答えに辿り着く。しかしその答えは、およそ僕にとっては信じ難いというか、あまりにも畏れ多いというか、ありえないというかあってはならないというか────とにかく、口に出すことも憚られる答えだった。

 

 だがそれと同時に、『天魔王』と畏怖されるフィーリアさんにも、可愛らしい一面があるんだなと、思わず心がほっこりしてしまった。いやまあ、彼女がそうなのだとはまだ決まっていないのだが。

 

 ──これは僕の心の内に秘めておくことにしよう……うん。それが、フィーリアさんのためだ。……たぶん。

 

 と、フィーリアさんと会話を終えたらしいサクラさんが、おもむろに懐からあるものを取り出す。それは──以前にフィーリアさんも使っていたものとよく似た、薄青色の魔石であった。

 

「意外ですね。サクラさん、あなたそんなもの持ってたんですか」

 

 僕と全く同じ感想を言うフィーリアさんに、サクラさんが言う。

 

「いや、これは貰ったんだ──今回の依頼主に、な」

 

 バキンッ──それと同時に、彼女は手元の魔石を握り砕いた。手から零れ落ちた破片が淡く輝き、粒子となって僕たち四人を瞬く間に包み込んだ。

 

「面子も揃ったことだ。会いに行くとしよう」

 

 そのサクラさんの言葉を最後に、目の前が真白に染められた────



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Glutonny to Ghostlady──『四大』が一家、オトィウス家

 視界が真白に染められ、身体が浮遊感に包まれたかと思うと──その感覚はすぐさま消え失せてしまう。視界も徐々に元に戻り、そして正常となった。

 

「……ここ、は?」

 

 正常となった視界が映したのは、オールティアの街並みではなく、無数の木々。自然本来のではない、人の手が入った木々の群れである。

 

 周囲を見渡すと、木々しかない。三百六十度、どこに視線を巡らしても、木々しか見えてこない。

 

 そのことに僕が困惑を覚えていると、不意にサクラさんが口を開いた。

 

「どうやら転移は成功したようだな」

 

 転移──ということはやはり、言うまでもないがここは先ほどまでいたオールティアの中央広場ではないのだろう。

 

 ここが一体どこなのか、なにかしらの事情を知っているサクラさんにそれを訊こうとして、僕は彼女の方に顔を向ける──その途中だった。

 

「なっ……」

 

 僕は思わず、驚愕の声を漏らす。いや、無理もない。こんな木々しか見当たらない場所に、まさかあんなものがあったのだから。

 

 視界の正面。その先には、門があった。僕の、今この場にいる全員の身長を遥かに越すまでに巨大な門が。そしてその奥には──太陽に照らされ輝く、純白の大屋敷が建っていた。

 

 僕が呆気に取られていると、なんということはないと言うようにサクラさんが再度口を開く。

 

「あれだ。あの屋敷に住まう者こそ、今回の依頼主さ」

 

「えっ?」

 

 その発言の意味がわからず、思わず困惑の声を漏らす──その直後だった。

 

 

 

「お待ちしておりました、『極剣聖』様。本日はお忙しいところ、わざわざお越し頂き、ありがとうございます」

 

 

 

 およそ感情という感情が希薄な、抑揚の少ない声。それは僕のでも、先輩のでも、むろんフィーリアさんとサクラさんの声ではない。

 

 一体、いつからそこに立っていたのか。いや、もしかすると元々そこにいたのかもしれないが、自ら声を発してくれてなければ、少なくとも僕や先輩がその存在に気づくことはできなかっただろう。

 

 女性だった。雪のように白い髪と、同様に白く、そして感情を感じさせない瞳。僕たち四人の目の前には、侍女(メイド)服にその身を包んだ、一人の女性が静かに佇んでいた。

 

「ああ。少しばかり遅れてしまったかな?」

 

「いえ。時間通りでございます」

 

 素早く、そして簡潔にサクラさんに答えて、謎の侍女はフィーリアさんと、そして僕と先輩に瞳を向ける。……侍女の瞳は、やはり無機質で、まるで人形のそれであり──こう言っては悪いのだが、少し不気味だと僕は思ってしまった。

 

「そちらの方は『天魔王』様とお見受けしますが、そちらのお二方は?」

 

 再びサクラさんの方に瞳を戻し、侍女は彼女にそう訊ねる。

 

「私の友人であり、依頼(クエスト)の同行者だ。同業者を数人ほど連れて来ると言っただろう?」

 

 サクラさんの言葉を受けて、侍女は一瞬沈黙したかと思うと、すぐさまサクラさんに向かって頭を下げた。

 

「了解しました。では屋敷の方へご案内させてもらいます」

 

 そして頭を上げ、刹那僕の方を見た──気がした。あまりにも一瞬のことで、とてもじゃないが確信なんて持てないのだが、あの人形めいた瞳とまた、目があった気がしたのだ。

 

 しかしそれに僕が気づく時には、既に侍女は僕たちから背を向けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて。まずは軽い自己紹介としましょう。私はリオ。オトィウス家現当主、リオ=カディア=オトィウスと申します」

 

 様々な調度品に彩られた来賓室の中、実に柔らかな物腰で、僕たちの目の前に座る青年はそう名乗った。

 

 金というには少しばかり燻んだ髪色に、僅かに黒みがかった金色の瞳。一般市民はおろか、並の貴族ですら手が届かないだろうことが見てわかってしまう、上等なスーツに身を包む青年──リオ=カディア=オトィウス。

 

「貴殿の依頼を受けた冒険者(ランカー)、サクラ=アザミヤだ。……と言っても、もう存じ上げているのかな」

 

 彼の名乗りを受け、サクラさんもまた名乗り返す。しかし彼女の言う通り、オトィウスさんは既に知っていた様子で口を開く。

 

「はい。数々の武勇伝聞き及んでいます、『極剣聖』サクラ=アザミヤさん。今回は私の依頼を受けてくれて、本当にありがとうございます」

 

「そう畏まらなくても結構。あくまでも私は一介の冒険者。貴殿に敬語を使われるほどの者ではないし、それに堅苦しいのは少し苦手なんだ」

 

「ご謙遜を。この世界(オヴィーリス)の全剣士の頂に座する方を一介の冒険者扱いなど、私には到底できません。それにこれが私の喋り方なんですよ」

 

 と、そんな会話を二人は広げるが──僕といえば、もう気が気でなかった。

 

 ──お、オトィウス!?オトィウスって、あのオトィウス!?

 

 今日だけで、一体僕は何回驚けばいいのだろう。もう人生で経験し得る驚きを消費してしまっている気さえする。

 

 オトィウス──恐らくこの世界でその名を知らぬ者は、まだ赤子や年端もいかない子供を除いていないはずだ。何故ならその名は、一大陸を揺るがすほどの権力を握っている貴族の名なのだから。

 

『四大』。それは、この世界に存在する大陸──ファース大陸、セトニ大陸、サドヴァ大陸、フォディナ大陸それぞれにて、絶大な権力を持つ四つの大貴族の通称。

 

 ファース大陸──オトィウス家。

 

 セトニ大陸──エインへリア家。

 

 サドヴァ大陸──オルヴァラ家。

 

 フォディナ大陸──ニベルン家。

 

 その『四大』の一つオトィウス家に、それも現当主の目の前に、僕は今いるのだ。たかが一《S》冒険者に過ぎない僕なんかが、《SS》冒険者の二人(先輩は除く)と一緒にいるのだ。もう気が気でないし、凄まじいほどの場違い感に今すぐにでも逃げ出したい気分だ。

 

 ──やっぱり同行なんてするんじゃなかった……『世界冒険者組合(ギルド)』を通した依頼だから、並の小中貴族が依頼主じゃないだろうとは思ってたけど、これは大物過ぎる……!

 

「オトィウス家……かのご高名な『四大』の一家に会えるなんて、感謝感激です。あ、私はフィーリア=レリウ=クロミア。巷では『天魔王』って呼ばれている《SS》冒険者でーす」

 

「自己紹介ありがとうございます。むろん貴女のことも存じ上げていますよ、『天魔王』。あのレリウの名を継ぐ者にこうして会える日が来ようとは」

 

 固まる僕とは反対に、サクラさんと同じように普段と変わらない様子のフィーリアさん。流石は《SS》冒険者というべきなのか、なんというか。

 

 ……ちなみに、

 

「このソファめっちゃふかふかっ!」

 

 先輩も変わらず至って普段通りだった。流石は先輩というべき……なのだろうか。



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Glutonny to Ghostlady──依頼話〜『幽霊屋敷』の地下階層〜

「『極剣聖』と『天魔王』、あの偉大なる《SS》冒険者(ランカー)のお二方が揃っている今、是非ともお話に花を咲かせたいところなのですが……ここは自重し依頼(クエスト)に関するだけで留めておきます」

 

 そう言って、リオさんはやや仰々しく悲しむような素振りを僕たちに見せる。そんな彼に対し、毅然とした声音でサクラが訊ねる。

 

「グェニ大森林に建つ屋敷、ゴーヴェッテン邸──人呼んで『幽霊屋敷』。確か此度の依頼はその内部の探索及び調査……だったかな?」

 

 サクラさんの問いかけに、リオさんは首を縦に振り、そして再度口を開き、続けた。

 

「その通りです。ゴーヴェッテン邸、通称『幽霊屋敷』。今回私が貴女に……いえ、貴方方にはこの屋敷の探索と、調査をしてほしいのです。厳密に言えば、この屋敷の地下階層の、ですが」

 

「ほう。『幽霊屋敷』には地下階層なんというものがあるのか。いや、話に聞いた限り並貴族が住まう規模の屋敷ではない故、むしろあると考える方が当然か」

 

 少しだけ興味が湧いたのか、若干高くなったサクラさんの声に、人当たりの良い微笑を携えリオさんが続ける。

 

「まあ実を言うと『幽霊屋敷』にそんな場所が存在すると私が知ったのも、先月のことなんですけどね」

 

 と、そこでリオさんは言葉を止めて、それから僅かばかりの沈黙を挟んだ後に──先ほどまで漂わせていた柔和な雰囲気を抑えて、続きを語った。

 

「父の遺言にあったんです。『あの屋敷を、地下をどうにかしてくれ』──と」

 

「……それはまた、気になる遺言だな」

 

 サクラさんの言葉に同意するように、リオさんは続ける。

 

「また実を言うと、私の父とゴーヴェッテン邸の主──ディオス=ゴーヴェッテンは旧知の間柄だったらしいんです。それでディオス=ゴーヴェッテンが亡くなった後、あの屋敷の一応の所有権が父に渡ったのですが……何故か、父は一切屋敷には近寄ろうとしませんでした。それどころか存命だった間は母や、私という息子すらも近づくことを許さなかったんです」

 

「そうだったのか……しかし、それもまた奇妙な話だな。今まで近づけさせなかったというのに、どうにかしてくれとは。それにあの屋敷には冒険者やら賊やらが忍び込んでいたという噂を聞いたが、それを貴殿の父は容認していたのか?」

 

「ええ。そのことに関してなのですが、どうやらそうだったみたいですね。父は所有権自体は握っていましたが、屋敷の管理等は全くしていませんでしたし、我関せずといった風でした。……それで、父の遺言に従いまずは地下階層の有無を確かめるため、手頃な冒険者を雇い、屋敷に向かわせたんです」

 

 またそこで一旦沈黙を挟み、気まずさを含んで声でリオさんは再度口を開いた。

 

「結果だけ申しますと、有無は確かめられませんでした」

 

 その彼の一言には、重みがあった。自分を責める、後悔の念が込められていた。

 

 そこで僕は思い出す。ゴーヴェッテン邸──グェニ大森林の『幽霊屋敷』の噂を。屋敷には金銀財宝が眠っており、また恐ろしい化け物が巣食っており──そして足を踏み入れて、無事に帰って来た者は誰一人もいないという、内容を。それを思い出し、リオさんが雇ったという冒険者に関してある程度、察した。

 

 ──……やっぱり、危険だ。

 

 そう思い、僕は再び躊躇ってしまう。『幽霊屋敷』──果たして、僕と先輩が足を踏み入れてもいい場所なのか、と。

 

 グッ──突然、僕の足先が踏みつけられた。

 

「っ……?」

 

 さほど痛みはなかったが、それでもつい反射的に驚いてしまい、咄嗟に己の足元を見やると──先輩の小さな足が、そこにはあった。

 

 サクラさんとリオさんが会話し、それを聞くフィーリアさんの横で、僕は信じられない面持ちで隣に座る先輩の方に顔を向ける。

 

 ……先輩は、ジト目で僕の顔を見つめ、不機嫌そうに頬を僅かに膨らませていた。

 

 ──え?なに?なんで?

 

 何故に先輩は機嫌を悪くしているのだろう。その原因がわからず、僕が内心動揺していると、ソファから少し腰を浮かせ、先輩がこちらに身体を寄せてきた。

 

 不意打ちの急接近──堪らず声を上げそうになったが、その前に先輩が僕の耳元に口を近づけ、囁いた。

 

「言っとくけど、お前がなに言っても行くからな」

 

「…………は、はい」

 

 こちらに言い返すことは許さないぞ、と言わんばかりの憤りが込められた先輩の囁きに、僕はただ首を縦に振り、頷くしか他なかった。

 

「……えっと」

 

 と、不意にそこで困惑気味というか、やや気まずいというようにリオさんが声を漏らす。その声が僕の鼓膜を震わすと同時に、いつの間にか来賓室がちょっとした静寂に包まれていることに気がついた。

 

 そのことを奇妙に思い視線を巡らせば──僕と、僕に身体を寄せる先輩以外の、この部屋にいる三人がなんとも言えないような表情でこちらを見ていた。

 

「その、失礼かもしれませんが……恋人同士、なのですか?お二方は」

 

「……え?」

 

 この場合、どういったような表情を浮かべているべきなのか──という、そんな心の声が聞こえてきそうな面持ちで、リオさんは僕に訊ねる。対し、僕は気の抜けた声しか返せなかった。

 

 ──恋人?僕と、先輩が?

 

 言われて、今僕たち二人が客観的にどう見えているのか理解する。複雑に絡む事情により女の子になった先輩が、男である僕の方に、なんの躊躇いもなく己の柔い女体を寄せて、そしてなんの忌避もなく男である僕の耳元に薄桃色の口元を近づけている、そんな状況なのだと、遅れて理解する。

 

 数秒、沈黙を挟んで。僕は凄まじく慌てふためきながら若干乾燥した口を開いた。

 

「ちっ!違「(ちげ)えよ。こいつは俺の後輩で、俺はこいつの先輩」

 

 が、突如そこに口を挟んだ先輩の声によって、僕の声は遮られてしまった。だが、その先輩の言い分は人を納得させられるものとはお世話にも言えず、少々苦しいものである。が、しかし。

 

「ああ、そうでしたか」

 

 それでも、リオさんは納得してくれた。僕がなんとも言えない気持ちを抱く中、彼は少し言い難そうにサクラさんに言う。

 

「依頼した手前、こう言うのは身勝手なのですが……この依頼についてはもう一度考え直してもらってもこちらは構いません。むろん《SS》冒険者であるお二方の実力を疑っている訳でも、ましてや軽視している訳でもありません。それに貴女が複数人同行させるという考えに反対するつもりもありません。……ありません、が」

 

 そこで、再度リオさんは僕と、そして先輩の方を見やった。彼が浮かべるのは──心配の表情。

 

「正直に申しますと、そのもうお二方……特に可憐な赤髪のお嬢さん(フロイライン)の同行にはやや賛成しかねます。それに、いくら『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のクラハ=ウインドアさんでも、危険かと思います」

 

「え?僕のことも、知っていたんですか?」

 

 驚きに思わず声を上げた僕に、リオさんは微笑を以て頷く。

 

「当然ですよ。ラディウスでの一件、お見事でした」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 ……まさか、僕なんかのような、それこそ一介の《S》冒険者でしかない存在が、あの『四大』に認知されているとは。胸に達成感と感動が湧き上がり、僕は思わず嬉し泣きしそうになった。

 

「きっとこれからも貴方は冒険者として輝かしい活躍するだろうと、私は思っています。……それ故に、できれば屋敷に足を踏み入れてほしくないんです」

 

 僕にそう言うリオさんは、本気でこちらの身を案じていることがひしひしと伝わってくる。僕に万が一のことなんて、あってほしくないと、訴えかけるその気持ちが。

 

 正直に言ってしまえば、僕は揺らいでいた。リオさんから直に話を聞かされ、情けない話──ほんの少しばかり、怖気づいてしまった。

 

 ──……けど。

 

 僕は、前に進まなければいけない。冒険者としての経験を積まなければならない。何故ならあの日、そう誓ったのだから。

 

 強くなると。心配なんてさせないくらいに、強くなると────今、隣に座る人とそう約束したのだから。

 

 リオさんの方に顔を向け、僕は彼に言う。

 

「お気遣い、本当にありがとうございます。……ですが、僕も同行します。いやさせてください。むろんこのひ……この子のことも、僕が絶対に守ってみせるので」

 

 まるで自分自身に言い聞かせるような僕の言葉を受けて、リオさんは少し面食らったように、その目をほんの微かに見開かせていた。

 

「……なるほど。それほどまでの覚悟を、貴方は抱いていたのですね。わかりました。もうこれ以上口は挟みません」

 

 しかし──と。リオさんが言葉を続ける。

 

「先ほどは違うと言っていましたが……お二方は本当に恋人関係ではないのですが?貴方の言葉を聞く限り、どうしても私にはそう思えてしまって……」

 

「…………」

 

 言われて、少し冷静になって、僕は自らの言葉の内容を振り返る。振り返り、考えた。

 

 ──うん、その通りだな。うん。

 

 直後、顔から火が出るんじゃないかというほどまでの羞恥に身を襲われ、堪らず僕は顔を俯かせてしまった。

 

「だから違えっての」

 

「そう、ですか……」

 

 再度僕の代わりに答えてくれる先輩。と、今まで黙っていたサクラさんが軽く咳払いした。

 

「とまあ、この通りだ。むろんこの私がいるからには、この二人の安全は保証する。報酬に関しても私のみで大丈夫だ。三人には私が個人で出す」

 

「あ、いえ彼らへの報酬も支払いますよ。元より同行は許可してますので」

 

「む、そうか。であればその御言葉に甘んじさせてもらうことにしよう」

 

「ええ、構いません。それで屋敷にはこちらから馬車を出しますので、そちらに乗って向かってもらいます。距離にして今からですと……二日ほどで着くかと」

 

「すみません、ちょっといいですか?」

 

 と、そこで不意にフィーリアさんが二人の会話に割り込んだ。

 

「確認したいことが一つあるんですけど」

 

「確認、ですか?なんでしょう?」

 

 首を傾げるリオさんに、まるで天気の話をするかのようなごく自然に何気なく、至って普通の表情でフィーリアさんは彼にこう訊ねた。

 

 

 

「あの、お屋敷って爆破しても構いませんか?」

 

 

 

 …………その瞬間、時が止まった──そうと錯覚してしまうような、沈黙と静寂が場を支配した。

 

 ──……いやなにさらっととんでもないこと訊いてるんだこの人……!?

 

 僕が思わずそう思ってしまう最中、やがてリオさんが口を開く。

 

「ええ、構いませんよ。こちらとしては住む気のない屋敷ですし、重要なのはあくまでも地下階層なので」

 

 ……え、いいの?構わないの?



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Glutonny to Ghostlady──『天魔王』様はお化けがお嫌い

「爆破しましょう。最悪地下階層が崩落で埋まっても私がなんとかするので。もうなにも考えず爆破しましょう」

 

 リオさんが出してくれた馬車に乗り、『幽霊屋敷』──ゴーヴェッテン邸に向かう道すがら、もうそうするしかない。それが正解だと言わんばかりの勢いで、フィーリアさんは僕たちに先ほどからそう訴えていた。

 

「い、いや流石にそれはまずいですってフィーリアさん……」

 

「なにを躊躇う必要があるんですかウインドアさん。爆破しても構わないとあの人は言っていました。つまりそういうことなんです。そんな屋敷、跡形もなく消し去るのが我々人類の為なんです!」

 

 と、こちらに反論を許さぬ語気の強さを見せるフィーリアさん。そんな彼女の気迫に押され、僕はなにも言えなくなってしまう。

 

 ──こんな様子のフィーリアさん初めて見た……。

 

 僕は思い出す。オールティアからリオさんの屋敷に転移する前、サクラさんから『幽霊屋敷』のことを聞き、明らかに動揺していた彼女の様子を。

 

 ……あの様子と言い、今の様子と言い、やはりこの人は────

 

 

 

「私は別に構わんぞ。フィーリアの言う通り、爆破していいと言われているしな」

 

 

 

 ──と、僕の思考を遮るように、今まで黙っていたサクラさんが突然口を開き、あろうことかフィーリアさんの蛮族的主張(ばくはきょか)を認めてしまった。まさかの展開に思わず僕は絶句し、それから早急に考えを改めてもらえるよう、慌てて口を開こうとした直前だった。

 

「ただ」

 

 まるで窘めるかのような声音で、サクラが続けた。

 

「九分九厘、祟られるぞ。フィーリア」

 

 瞬間、フィーリアさんの身体が硬直した。そんな彼女の様子には目もくれず、サクラさんはなお続ける。

 

「私の故郷にはそういった屋敷やら城やらは溢れ返るほどあってな。領土を広げる為だとか、まあ自分本位な目的でそれらを排除しようとした輩は、漏れなく全員祟られ死んでいったよ。それはもう、惨い死に様を晒して……おっと。これについて語るのはここまでにしよう。流石の私も亡霊に祟られてはどうしようもないからな」

 

 それで、と。サクラさんは、フィーリアさんに訊ねた。

 

「どうする?まあ決めるのはお前だし、私はそれに従うだけさ」

 

「………………」

 

 馬車内に沈黙が漂う。それは数秒ほど続き──

 

「や、やっぱり冒険者(ランカー)たるもの、そんな至極雑な手段に頼ってはいけませんね!あは、あはは!」

 

 ──と、誤魔化すように笑いながら、フィーリアさんが断ち切った。それから彼女は俯き、なにか呟いたが、僕たちの耳に届くことはなかった。

 

 それはそうとして。ふと僕は試しに彼女に一つ、あることを訊いてみることにした。

 

「あのフィーリアさん。その、一つ訊きたいんですけど……」

 

「やっぱ来るんじゃなかった──え?あ、はいなんですか?」

 

 独り言を中断させ、俯いていた顔をこちらに向けてくれるフィーリアさん。そんな彼女に、僕は意を決して訊ねた。

 

「フィーリアさんは幽れ「はぁ!?いる訳ないじゃないですか!?おば、お化けなんてそんな非現実的な存在いる訳ないじゃあないですか?!」……え、あ…そ、そうですね。……なんか、すみませんでした……」

 

 これで確定した。フィーリアさんはお化け──もとい幽霊の類が苦手なのだと。今までの反応を見る限り、そのことは火を見るよりも明らかではあったのだが……。

 

 ──今回の依頼(クエスト)、先行きが不安になってきたぞ……。

 

 と、その時。

 

「…………ふ、くく…」

 

 堪えるような微かな笑い声がして、見てみればサクラさんが顔を背けて窓の方に向けていた。注視すると、僅かばかりに肩が震えているのがわかる。

 

 いやまあ、その気持ちはわかるが。フィーリアさんの反応を見ると、思わず噴き出しそうになる気持ちは凄くわかるのだが。

 

 馬車に揺られている内に、いつの間にか眠ってしまっていた先輩に肩を貸しつつ、僕も窓の方に視線をやる。浮かんでいた太陽は傾き始め、空を茜色に染め上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。欠けた月が見下ろす中、恐怖と後悔に塗れた男の声がこだまする。

 

「畜生、畜生どうしてこうなった?なんでこんなことになっちまったんだ畜生ッ!」

 

 ぜえぜえと息を切らしながら、男は疾駆する。脇目も振らず、ただひたすら走り続ける。背後から追ってくるそれ(・・)から、死にもの狂いで逃げる。逃げる。逃げる。

 

 右へ左へ。時に駆け上り、時には駆け下りて。されど、出口は見つからない。

 

「死にたくねぇ、死にたくねえ!こんなとこで死んでたまるかよクソがッ!畜生がッ!」

 

 みっともなく顔を涙と洟水でぐしゃぐしゃに汚しながら、男は叫ぶ。叫び続ける。それに呼応するかのように、グンと迫るそれ(・・)の勢いが増した。

 

「クソ、クソクソクソッ!このクソッタレがぁ!!」

 

 男は走った。走り続けた──だが、彼は動物でも、ましてや魔物(モンスター)でもない。彼は人間なのだ。

 

 それ(・・)とは違い、やがて男の駆ける勢いは徐々に減っていく。男の足が徐々に鈍くなり、遅くなっていく。

 

「畜、生……ッ」

 

 激しく鼓動する心臓が痛い。思うように酸素を取り込めない肺が苦しみ出す。男の身体には、体力の限界が訪れてきていた。

 

 ここまでか────そう思った矢先、男はあるものを視界に捉える。

 

「だあぁッッ!!」

 

 扉、だった。一か八かと勢いそのままに扉に身体を激突させ、中にへと押し入る。そしてそのまま流れるようにして、男は扉を再び叩きつけるようにして閉めた。

 

 バンッ──直後、思い切り扉が叩かれる。何度も、何度も。男は扉に身体を押しつけ、泣き喚きながら必死に押さえた。

 

「入るなぁ!入るんじゃねえぇ!入るんじゃあ、ねええええええええええッッッ!!!」

 

 扉を激しく叩く音と、男の叫び声が交差する。そうして────不意に、扉を叩く音はぴたりと止んだ。

 

「………………はは、はははは……」

 

 扉を蹴破ろうとしていた力がフッと消え、そのことに思わず安堵した男は、堪らず扉を背に膝から崩れ落ちる。荒くなっていた息を整え、そして顔を上げた。

 

「逃げ切った!生き残ったぞ俺は!見たかこのク

 

 

 

 ドズッ──叫び、大きく開かれていた男の口めがけて、大振りのナイフが飛来し、それは男の口腔を容易く貫くと、扉にへと突き刺さった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………お父様の屋敷は、誰にも荒らさせない」

 

 一筋の、淡い月光が差す部屋の中、その声はか細く静かに、響き渡る。



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Glutonny to Ghostlady──突入、『幽霊屋敷』

 ──そうして、現在に至る訳だ。今回の依頼(クエスト)の目的地である『幽霊屋敷』(ゴーヴェッテン邸)を遠目から眺めていると、馬車の方から声が上げる。

 

「先ほども言った通り、これ以上は馬車で進むことができません!すみませんがここからは徒歩でお願いします!」

 

 拠点を作る為の準備をしながら、ここまで僕たちを運んでくれた御者がそう言う。彼の言葉に返事をして、それから遠方の屋敷を目指して僕たちは歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻にして昼を少し過ぎた頃、第二級危険指定地域とされている割りに、特に大した問題(トラブル)も魔物との遭遇もなく、僕たち四人は目的地──ゴーヴェッテン邸の正門前に辿り着いた。

 

 流石に『四大』の一家であるオトィウス家ほどではないが、それでも充分過ぎるほどに巨大な正門を僕は観察する。……少なくとも五十年以上は前から存在しているというのに、錆一つすら見当たらないし、老朽化している様子も見受けられない。確かにこれは、少々奇妙だ。

 

 ──本当に誰かがこっそり管理しているのか……?

 

 僕がそう思っていると、不意にサクラさんが前に出る。彼女はそのまま歩みを止めず、固く閉ざされた正門のすぐ前にまで近づいた。すると────

 

 

 

 ギイィ──サクラさんが触れた訳でもないのに、正門は音を立てながらゆっくりと、独りでに開かれた。

 

 

 

「ひっ」

 

 そんな不可思議な光景を目の当たりにしたフィーリアさんが、可愛らしい小さな悲鳴を口から漏らす。一方で、誰よりも正門の近くに立つサクラさんは、目の前で勝手に開いたそれに、奇妙な眼差しを注ぐ。

 

「……これはまた、親切な門だな」

 

 そう呟くや否や、少しも狼狽えずに彼女は再び歩き出す。なんの躊躇なく正門を抜ける彼女の後に、僕たちも多少慌てながらも続いた。

 

 正門を抜けた先でも、森が広がっている。周囲をいくら見渡そうが、やはり同じ木しかない。そして動物の気配も感じ取れず、それどころか魔物が徘徊している風にも見えない。

 

 何処か不穏な空気を肌で感じる最中────結局大した問題に最後まで直面することもなく、とうとう僕ら四人は辿り着いてしまった。

 

 グェニ大森林の深部に建つ、一つの屋敷──目的地、『幽霊屋敷』にへと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『幽霊屋敷』──ゴーヴェッテン邸。かの屋敷はその噂通り、正門同様五十年以上前の建築物とは思えないほどに綺麗に、そして整えられていた。

 

 木製の壁はどこも腐っておらず、また信じられないことに微細な傷一つすら見当たらない。数十以上にも存在する窓の硝子(ガラス)には僅かな曇りもなく、新品かと思うほどに透明である。……だというのに、そこから覗き見える屋敷の内部は深淵のように暗く、中は一体どうなっているのかは、とてもじゃないがわからなかった。

 

 もはや異様とまで感じるほどに屋敷は綺麗で──だが、ゾッとするほどに、人の気配は全くしない。充分な管理がされているようにしか思えないのに、信じられないくらいに生活感も、人が住んでいる様子がない。

 

 それ故屋敷からは言い表せない、言い様のない恐ろしげな雰囲気というものが漂っており、そういった類に関して有り体言って苦手ではない僕からしても、思わず不気味に思ってしまっていた。

 

 そして僕がこうなのだからと、フィーリアさんの方を見やれば──ほぼ予想通りというか、彼女は真っ青な顔で屋敷を凝視していた。気のせいか、ぷるぷると全身を震わせているようにも見える。

 

 と、不意にギュッと服の袖口を掴まれた。

 

「?」

 

 なんだと思い見れば、袖口を掴んでいたのは先輩の小さな手だった。続いて隣を見やれば、先輩は顔を少し強張らせて、屋敷を眺めている。流石のこの人も、やはり目の前に建つ屋敷は不気味に思えるらしい。

 

 ……それにしても、最近先輩がこういう、女の子らしい仕草をすることが増えた気がする。恐らく当の本人は無自覚なのだろうけど。

 

 まあ今それについて考えるのは後にするとして、僕たち三人がこんな様子の中、サクラさんは至って普通で、数秒屋敷を眺めていたかと思うと、不意に歩き出した。

 

「行くぞ」

 

「は、はいっ」「お、おう!」

 

 僕たちに背を向けたまま、彼女は短くそう言う。声をかけられて、慌てて僕と、袖口を掴んだままの先輩も続く。……それから十数秒ほど経った後、震える声を絞り出して、今にも泣き出しそうな様子になりながらも、フィーリアさんも歩き出した。

 

「え、ちょっ、まっ……お、置いてかないでくださいよぉ〜」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠目から眺めただけでも異様な雰囲気を醸し出していた『幽霊屋敷』だったが、こうして近づくと──それに加えて、言い表せない圧も感じ取れるようにもなった。

 

 ──これは、ちょっと……。

 

 もうすぐ目の前には屋敷の中に進む為の大扉があるのだが……情けない話、開ける気になれない。とてもではないが、自分から進んで開けようという気になれないのだ。

 

 すっかり気圧されてしまい、僕が動けないでいると、スッとサクラさんが一歩、足を前に踏み出した。

 

 その瞬間────

 

 

 

 ギギギ──閉じられていた大扉が、軋みながらもその見た目通り重厚に、ゆっくりと開かれ始めた。

 

「…………」

 

 流石にサクラさんも、これには少々面食らったらしい。彼女の身体が、ほんの少しばかり後ろに退がった。

 

 音を立て続けて、遂に大扉は完全に開かれる。その先にあったのは──濃密過ぎる、闇だった。

 

 なにも見えない。全く見えない。ただ、そこに在るのは闇だけ────

 

「……なるほど。『幽霊屋敷』という通称も、あながち間違いではないらしいな」

 

 先ほどの門と同じく、独りでに開いた大扉と、その奥に待っていた光景に、堪らず動揺する僕と違い、やはりサクラさんは冷静で、静かにそう呟く。

 

「私が先導を務めよう」

 

 そう言うや否や、少しも臆さずサクラさんは歩き出す。そしてなんの躊躇もなく広がる闇にへと足を踏み入れ──そのまま中に沈んでいった。

 

 少し遅れて、闇から凛としたサクラさんの声が聞こえてくる

 

「早く来るといい。案外中は普通だぞ」

 

 サクラさんの尋常ではない肝の据わりぶりに、思わず呆気に取られてしまっていたが、彼女の声にハッと我に返り、依然として気圧されたままではあるが僕も、先輩も歩き出した。ちなみに先輩は僕の袖口をギュッと掴んだままである。

 

 一方でフィーリアさんといえば────

 

「マジですかマジですかなんで中入れちゃうんですか心臓に毛でも生えてるんですかというか置いてかないでくださいぃぃ……!!」

 

 ────と、もう半ば泣いているのが丸わかりな声音でそう言いながらも、こんな場所で独りにされる方がよっぽど堪えるらしく僕と先輩の後ろをおっかなびっくり付いていた。

 

 躊躇いながらも、昼間だというのに一寸先すら見通せぬ闇に恐る恐る足を踏み入れる。爪先が闇に埋もれた瞬間、ぬるりとした感触が伝わった──気がした。

 

 そこからは意を決し、一気に踏み込む────目の前を見れば、そこは広大な玄関だった。

 

「え……」

 

 思わず声が漏れる。外からでは全く見えなかったのに、いざ中に入ってみれば──見える。薄暗いが、それでも目を凝らせば間取りも、構造も、なんなら奥に続く廊下や無数に並んだ扉も、その全部が見える。

 

 いや、それよりも────

 

 ──今、昼……だよな?

 

 ────そう、今は昼のはずなのだ。外から見た通り、この屋敷には窓がある。それも大量に。だが微かな陽光ですら、差し込んでいない。

 

 差し込んでいるのは、淡く、薄青い光だ。

 

「…………!?」

 

 それを奇妙に思い、視線を横に流す。…………月が出ていた(・・・・・・)

 

 ──どうなってるんだ!?

 

 そう驚愕した直後だった。

 

 

 

 バタンッ──背後で、凄まじい勢いで扉が閉まる音がした。

 

 

 

「ひえぇっ!?ちょ、はっ?う、嘘でしょっ?!」

 

 普段ならば絶対に聞けないだろう声音で悲鳴を上げたフィーリアさんは、すぐさま扉に駆け寄ったようで、ガタガタと激しく揺らす。しかし、扉が開くことはなかった。

 

「あ、開かない……」

 

 絶望に満ちたフィーリアさんの声が、虚しく玄関に響き渡る。それから、少し申し訳なさそうにサクラさんが呟く。

 

「私としたことが迂闊だったな。すまない」

 

 そう呟いて、僅かに身体を揺らした──その瞬間だった。

 

 パキ──それは注意していなければ、聞き逃してしまうほどに小さく、微弱な音。

 

「む?」

 

 刹那、それはもう凄まじい音を立てながら、サクラさんが立っていた床が抜けた(・・・)

 

 それはあまりにも突然で、気がついた時には──もう、僕たちの目の前からサクラさんの姿は消えていた。床に空いた、穴だけをそこに残して。

 

「…………さ、サクラさんッ!?」

 

「うわっ?」

 

 思わず先輩を振り払って、僕は穴の元に駆け寄る。覗いてみるが、底知れぬ闇が広がっているだけだった。

 

「そんな……」

 

 と、僕が呟いた瞬間だった。唐突に、視界を白いものが遮ったのだ。

 

「ッ!?」

 

 それに驚きつつ、顔を上げる──今、僕は霧に包まれていた。

 

「き、霧……?屋敷の中で……?」

 

「お、おいクラハッ。お前急に──って、な、なんだこりゃ?」

 

 振り払われたことを非難しながらも、僕の元に駆け寄った先輩も突如発生した霧に困惑の声を上げる。

 

 霧はたちまち濃くなり──そして、急激に薄まる。やがて霧散したかと思えば、完全に消えた。

 

「一体、なにが……」

 

 呟きながら、周囲を見渡す。見渡して、僕は気づいてしまった。

 

「…………フィーリア、さん?」

 

 僕のすぐ傍には先輩がいる。……しかし、扉の方にいたはずのフィーリアさんの姿は、まるで先ほどの霧のように、跡形もなく消えてしまっていた。



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Glutonny to Ghostlady──二人は危機に、一人は嵌り、一人は叫ぶ

「先輩。僕から離れないでくださいね」

 

 そう声をかけながら、僕と先輩は廊下を歩く。廊下は異様なほどに長く、信じられないことに終わりが見えてこない。外から軽く眺めただけではあるが、明らかに屋敷の外見と内部が合っていない。

 

 と、僕の背中にくっ付くようにして後ろを歩く先輩が、少し不機嫌そうに返事する。

 

「おう。……って言っても、お前が俺から離れたけどな。さっき」

 

「うっ……すみません」

 

 瞬く間に《SS》冒険者(ランカー)の二人と分断されてしまい、僕クラハ=ウインドアは今、非常に焦っていた。

 

 いくら《SS》冒険者であるサクラさんとフィーリアさんが一緒だったとはいえ、僕は油断していた。油断し過ぎていた。まさか、こんな事態になってしまうとは。

 

 僕としたことが、冒険者の基本を怠っていた。そもそも物騒な噂が絶えないこの『幽霊屋敷』に対して、警戒というものを全く抱いていなかった。その時点で、僕は冒険者失格だ。

 

 ──……サクラさんは大丈夫だって言ったけど、それでも少しくらいは用心すべきだった。

 

 確かに、彼女基準からしてみればこの事態もさほど大したことはないのだろう。当然床が抜け落ちていった彼女の安否は気にかかるが、恐らく無事……だとは思う。サクラさんが死ぬなんてとてもじゃないが想像もできないし、仮にもし死んでしまっていたら──僕と先輩がこの屋敷から生きて脱出することなど、絶対にできはしないだろう。

 

 逆に心配なのは……フィーリアさんの方だ。彼女の凄まじい怯え様を思い出すと、堪らず不安を覚えてしまうが、しかし逸れてしまった今、どうすることもできない。その無事を祈り、捜すくらいのことしかできないのだ。

 

 そう思い、僕はチラリと視線を横に流す。……流して、内心ため息を吐いた。

 

 僕の記憶に間違いがなければ、時刻はまだ昼だったはずだ。太陽だって昇っていた。空も明るかった。

 

 だが、窓から覗ける景色は──真っ暗闇だった。空も黒一色に染められており、煌びやかな星々は一つもなく、ただポツンと寂し気に満月が浮かんでいる。

 

 ──本当に一体どうなってるんだ……なんだって、夜になってる?

 

 持っている知識と今まで培ってきた冒険者としての経験を総動員させ、考えてみたが──残念ながら、大した仮説は立てられなかった。まだ先輩が男だった頃──つまり正真正銘の三人目の《SS》冒険者、『炎鬼神』と呼ばれていた頃に、様々な危険地帯に散々連れ回されたが、今回みたいな状況に置かれたのは初めてだ。

 

 ──……それに。

 

 窓を見つめ、僕はおもむろに拳を振り上げ、そして今己が出せる全力を込め、透明な窓硝子(ガラス)に向けて思い切り振り下ろした。

 

 普通であれば、硝子など粉々に砕け散る威力──だが。

 

 ガッッ──驚くことに、僕の拳を受けても硝子は鈍い音を立てるだけで、全くの無傷であった。

 

「…………」

 

 無傷で済んでしまった窓硝子を眺めて、嘆息する。本当にこれは硝子なのだろうか。

 

「お、おいクラハ」

 

 少し訝し気に窓硝子を見つめていると、先輩が声をかけてくる。その声には、何故か若干の不安というか、心配の気持ちが込められていた。

 

「はい、どうしましたか?先輩」

 

「いや、さっきも硝子殴ってたけど……痛くねえのか?」

 

 言われて、僕は自分の拳を見やる。窓硝子と同じように至って無傷だったが、確かに先輩の言う通り、傍目から見れば僕の先ほどの行為は、あまり見過ごさずにはいられないものだろう。

 

「大丈夫ですよ、先輩。【強化(ブースト)】しているので平気です」

 

「……そうか。なら別にいいけど」

 

 まだ少し思うところはあったようだが、先輩は納得してくれたらしい。普段はがさつで大雑把な人なのに、こういったことには人一倍心配してしまう──僕はこの人ほど優しい人間を他には知らない。

 

 まあそれはともかくとして、やはり窓硝子を割って強引に脱出はできないとわかった今、あまり動きたくはないが、前に進むしかない。ここで立ち止まっていても、事態は進展しないのだから。

 

 それにサクラさんとフィーリアさんも捜さなければならない。特にフィーリアさんはできるだけ早急に見つけ出さないと……一体なにをするかわからない。

 

「先輩。先に進みましょう。くれぐれも、僕から離れないでくださいね」

 

「わぁってるっての。お前こそ、さっきみたいなことすんじゃねえぞ」

 

「は、はい。気をつけます」

 

 先ほど乱暴に振り払ったことに対して非難をぶつけられながら、僕と先輩は廊下を進む。途中、なんらかの部屋に続くのだろう扉を開けようとしたが、鍵がかかっているのか全く開かなかった。

 

 ──それにしても、本当に終わりが見えてこないぞこの廊下……。

 

 割と冗談抜きで無限に続いているのではないかと思ってしまうほどに、廊下は長かった。屋敷には照明の類は一切なく、唯一窓から月光が注がれるだけであったが、それでも薄暗に見える廊下には無数の扉があり、しかし試したところ、その大体が開くことはなかった。

 

 階段なんてものもなく、窓から外を見ても、月が出ているというのに全くと言っていいほどに地面は見えず、果たして今僕たちは一階にいるのか、それとも知らない内に二階や三階に移動しているのか──あまりにも長過ぎる上に変化がない廊下を歩かされているせいで、それすらも曖昧になってきていた。

 

 幸い、まだ空腹や喉の渇きは覚えていないが──そう僕が考えていた時だった。

 

「ぅひあっ?」

 

 不意に、先輩がそんな素っ頓狂な悲鳴を上げた。思わず慌てて僕は先輩の方に振り返る。

 

「ど、どうしました先輩っ!?」

 

 見てみれば、先輩はだいぶ驚いた様子で、誰もいないはずの後ろを何度も確認しつつ、自らの臀部を手で押さえていた。

 

 それから僕の方に顔を向けて、言ってくる。

 

「さ、触られた!今なんかに(ケツ)触られたぞ!」

 

「え……?」

 

 言われて、思わず先輩の臀部に視線を注いでしまう。もっとも、今は先輩の前にいるのでよくは見えないのだが。

 

 瞬間想起される光景────それはいつぞやのシャワーだったり、いつぞやの浴室乱入だったり、直近の無人島バカンスでの水着姿であったり。

 

 今思い返せば、様々な状況下で僕は先輩の無防備にも剥き出された臀部を目の当たりにしてきていた。胸と同様に大き過ぎず、かといって小さい訳でもなく、形も良く整った可愛いらしい丸い先輩の臀部を。

 

 確かに先輩の臀部は、こう見かけてしまうとつい手を出したくなるような、そんな見事な臀部だ。そのことは男であれば誰であろうと同意するだろうし、サクラさんであれば情熱を以てその首を何度も縦に振ることに違いない。実際、先輩が水着を着ていた際、彼女は先輩に気づかれないよう、熱い眼差しを秘密裏に送っていた。

 

 ……というか、そもそも先輩はこう、色々と反則だと思う。小柄な割に身体つきは結構、凶悪だし。しかも当の本人はそのことを全く自覚していないので、無防備過ぎる振る舞いを平然と行うし。それがあまりにも目に毒だし。

 

 ──やっぱりちゃんと言うべきじゃあないのか?ここはビシッと僕が言って、少しでも自覚を……って違う!!

 

 そこでハッと僕は正気を取り戻した。いや先輩に対して女子としての貞操観念を教え込むことも大切というか今後絶対にしなければならないことなのだが、生憎今はそれどころではない。

 

「き、気のせいじゃないですか?誰もいませんよ、先輩の後ろ」

 

「いやでも……そう、だな。たぶん俺の気のせいだったかも。悪りぃ、先行こうぜ」

 

 釈然としていない様子だったが、先輩は僕の言葉に頷いてくれた。念の為僕ももう一度先輩の背後を確認したが、やはりそこには薄闇が広がっているだけだった。

 

「はい。行きましょう」

 

 そう言って、再び歩き始める────直前だった。

 

 

 

 リーン──唐突に、鈴の音が廊下に響き渡った。

 

 

 

「…………え」

 

 気がつくと、僕はもう廊下にはいなかった。巨大な部屋の中──大広間(ホール)、とでも呼ぶべきなのだろう。様々な調度品や天井から吊り下げられた煌びやかなシャンデリア、そして剣を構えた無数の鎧が壁際に沿って、規則的に並べられている。

 

 ──ここは、一体……。

 

「な、なんだぁ?ここどこ?」

 

 突然の事態に頭が混乱し、上手く回せないでいると、隣から僕以上の混乱と困惑に満ちた声を先輩が上げた。

 

 人間、自分よりも余裕がない者を見ると、不思議なことに落ち着き冷静になれるものだ。とりあえず、今は先輩を落ち着かせよう。

 

「先輩、絶対に僕から──

 

 離れないでください──そう、僕が言いかけた瞬間だった。

 

 グンッ──突然、僕の身体を風圧にも似た、強烈な衝撃がかかった。

 

 ──うぐぁっ?」

 

 予想だにしていなかったそれに、僕は対応できず後方の壁にまで一気に押し込まれてしまう。そしてろくに受け身も取れず、凄まじい勢いで叩きつけられた。

 

「かはッ……!」

 

 背中越しに内臓全てを揺さぶられるような感覚と、肺に残っていた酸素を無理矢理に絞り出され、堪らず僕はそのまま膝から床に崩れ落ちてしまう。

 

 急いで立ち上がろうにも、まるで足に力が入らなかった。

 

「クラハ!?」

 

 僕の名前を叫び、先輩がこちらに駆け寄る──その直前、

 

「うわっ、わわっ?」

 

 信じられないことに、先輩の小さな身体が、独りでに少し宙に浮いた。かと思うと、まるで見えないなにかに引っ張られているかのように、先輩は大広間の中央にへと飛ばされてしまった。

 

「痛っ!」

 

 そしてそのまま宙から落下し、尻餅をつく。幸い大した高さではなかった為、怪我はないようだったが、それでも僕の不安を煽るのには充分過ぎる光景だった。

 

「先輩!」

 

 今度は僕から先輩の元に駆け寄ろうと、今度こそ足に力を込めて床から立ち上がる。そして勢いに任せて駆け出そうとした──時だった。

 

 ガシャン──金属同士が擦れ合う、不快で耳障りな音が周囲からいくつも響いた。

 

 ──今度はなんだ!?

 

 僕は慌てて視界を巡らす。音の発生源は、すぐさまわかった。わかって、思わず声を漏らしてしまった。

 

「……嘘だろ」

 

 薄闇の向こうから、こちらを取り囲むように。無数の金属音を喧しく響かせながら────鎧がゆっくりと迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………参った、な」

 

 薄闇が広がる廊下にて、ほとほと困り果てたような声が静かに響く。しかし、その声に対して別の声が返事をすることも、なにか別の音がすることもない。

 

「…………はあ」

 

 その事実を再三確認し、再三この辺りに人はいないのだとわからされ、堪らず声の主は重ったるいため息を吐いてしまう。

 

 声の主は、《SS》冒険者(ランカー)──サクラ=アザミヤである。屋敷に突入して早々、なんとも間抜けな形でクラハらと分断されてしまった彼女は今、どうしようもない状況に陥ってしまっていた。

 

「私ともあろう存在(モノ)が……情けないな」

 

 そう、床から抜け落ちてしまった彼女は──あろうことか、落下の勢いそのままに、着地点であった床も突き破ってしまい、その結果下半身全てが床下に、そして上半身のみが出ているという実に珍妙な状態となっていたのだ。

 

 抜け出そうにも、誰に対して見せる訳でもないのにやたら大きく育ってしまった尻が突っかかってしまい、ちょっとやそっとでは抜け出せない。かと言って無理矢理抜け出そうとすれば、十中八九床がさらに割れる。

 

「……フィーリアにああ言った手前、これ以上破壊する訳には……」

 

 さてどうしたものかと、『極剣聖』は頭を捻る。彼女としてはいち早く脱出し逸れてしまったクラハとラグナ(それとついでにフィーリアとも)と合流したい。

 

 しかし──いかに床をこれ以上破壊せずに抜け出せるのか、もどかしいことに良い案は浮かばなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方で、もう一人《SS》冒険者──フィーリア=レリウ=クロミアは薄暗い廊下を、今にも泣き出しそうな表情でゆっくりと、それこそ蝸牛(かたつむり)の如く慎重に歩いていた。

 

「ああ〜……もうやですぅ、帰りたいですぅ……どこ行っちゃったんですかウインドアさん、ブレイズさーん……」

 

 霧に包み込まれ、それが晴れたかと思えば目の前にいたはずのクラハとラグナの姿は消え失せており、フィーリアは独り、廊下に取り残されていた。

 

 そんなあまりにもあんまりな現実に打ちのめされ、堪らずフィーリアは自ら心を閉ざしかけたが、『天魔王』としての面子がなんとか彼女を奮い立たせた。

 

 ……とはいえ、その場から動き始めるのに、一時間ほどかかったが。

 

「【転移】も阻害されてできないし、もうどうすればいいんですか……」

 

 嘆きながらも、フィーリアは先に進む────と、その時だった。

 

 ギギ──後ろから、床が踏まれ軋む音が静かに響いた。

 

「…………」

 

 思わずその場で立ち止まるフィーリア。泣き出しそうだった表情が、瞬く間に青ざめ恐怖に塗り潰されていく。

 

 数秒経って、固唾を飲みながらもフィーリアは一歩踏み出す。また、背後から床が軋む音が響く。

 

 そこで、彼女は完全に止まってしまった。目を瞑り、荒く呼吸を繰り返して──そして、意を決した。

 

「もういい加減にしてくださいよッ!?」

 

 バッと、フィーリアは屋敷中に響かせるつもりで叫びながら、己の背後を振り返った。一体なにがいるのか、一体どんな存在(モノ)が自分に付いてきているのか──それを確かめずに、それを無視しながら移動するなど絶対にできなかったから。

 

 振り返ったフィーリアの視線の先には────

 

 

 

「…………なにも、いない?」

 

 

 

 ────そう、なにもいなかった。そこにはただ、薄闇が広がる廊下が続いているだけだった。

 

「…………はあぁぁ〜」

 

 心の底から安堵の息を吐き出し、フィーリアは胸を撫で下ろす。

 

 ──そうですよね。大体お化けとか、そんな非現実的な存在なんていませんよね。私ったら考え過ぎですねえ。

 

 フッと先ほどまで抱いていた恐怖もいくらか和らぎ、彼女は前に向き直った。

 

「キャハ」

 

 すぐ目の前に、片目の取れた、ボロボロの人形の顔があった。これでもかと歪ませた口元から、ゾッとするほどに無邪気な笑い声が漏れ出てくる。

 

「キャハハ」「キャハハハ」「キャハハハハ」

 

 そして奥の方、薄闇が広がる廊下の先にも、人形の顔が浮かび上がっていた。無数の、人形の顔が。

 

 それら全てから笑い声がする。子供そのものの、無邪気な笑い声がいくつにも重なって、大合唱を奏でる。

 

 

 

「「「「キャハハハハハハハハハッ」」」」

 

 

 

 世にも悍しい大合唱。それに数秒遅れて────

 

「いぃぃやああああああああっっっ?!!?!?」

 

 ────という、屋敷全体を震わせるような悲鳴も上がった。



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Glutonny to Ghostlady──戦闘、亡霊の騎士(前編)

 ガシャン──僕に迫っていた無数の鎧の一体が、ぎこちない動作で剣を振り下ろす。冷たい刃が、宙を切り裂きながら襲いかかる。

 

「フッ……!」

 

 しかしその斬撃は僕を傷つけるにはあまりにも遅く、躱すのは実に容易かった。空振った鎧が大きくその体勢を崩す。

 

 後ろに退がりながら、腰にかけた鞘から剣を抜く。即座に構え、僕は鋭く周囲を見渡した。

 

 数にして、ざっと十八。三百六十度、取り囲まれている。幸いなことに、どの鎧も先輩の方に向かう様子はない。

 

 柄を握り締め、鎧たちを見据える。依然として鎧たちはじりじりとこちらとの距離を詰めており、だがその動きからは絶えず違和感を発していた。

 

 まるで意思という意思が感じられない、とてもではないが中に人間が入っているとは思えない──例えるなら操り人形のようなもの。

 

 そこに至って、ハッと僕は気づいた。

 

 ──亡霊の騎士(ゴーストナイト)……。

 

 昇天できず未だこの世を彷徨う無数の魂が、一つの集合体となって空の鎧に宿ることで誕生する、〝有害級〟上位の魔物(モンスター)である。

 

 ならば対処は簡単だ。魔物なら──倒せばいい。

 

「ハアッ!」

 

 すぐさま鎧──亡霊の騎士の一体との距離を詰め、懐に飛び込む。

 

 そして剣を振り上げながら、僕は剣に魔力を伝わせる。

 

「【強化斬撃】……!」

 

 魔力によって切断力と破壊力を倍増された刃が、僕の急接近に対してなにも反応できないでいる亡霊の騎士の、ガラ空きとなっている胴体に吸い込まれるようにして打ち込まれる。並の鎧ならば難なく両断できる一撃──だった(・・・)

 

 ガァンッ──打ち込んだ刃は、鎧に食い込み大きく歪んだところで止まってしまった。その事実に、思わず僕は驚愕してしまう。

 

 ──見た目より硬い……!?

 

 瞬間、背後からゾッとするような悪寒を感じて、反射的にその場から跳び退く。直後、僕がさっきまでいた場所に数本の剣が突き立った。

 

「クッ……!」

 

 慌てて剣を構え、周囲を急いで見渡す。正面には先ほど僕に斬りつけられ、胴体が歪んだ一体。その一体の左右にそれぞれ一体ずつ。僕の両横と背後にそれぞれ五体。

 

 亡霊の騎士はさほど強くはない魔物だが、こうも数が多いと話は別だ。それに────

 

「先輩!そこから動かないでください!」

 

 ────先輩のこともある。幸い狙いは僕のようだが、下手に動かれて敵視(ヘイト)されてしまうと一気に状況が悪化してしまう。

 

 僕は大声で叫びながら、先輩の方を見やる。依然先輩は床にへたり込んでおり、こちらを心配そうに見つめていた。

 

「お、おう!」

 

 先輩の返事を聞いて、僕は亡霊の騎士に意識を向ける。亡霊の騎士たちはこちらを取り囲んではいるが、その気になればいつでも突破できるような緩い包囲だ。それに見たところ、とてもではないが連携が取れるとも思えない。

 

 注意するとしたら、鎧自体の耐久力。ざっと見た感じ、あまり上等な鋼が使われているとは思えず、【強化斬撃】ならば難なく斬れるだろうと踏んだのだが……なにかしらの強化を受けているらしい。とはいえ一撃であそこまで歪めさせられたのだから、もう一撃打ち込めば問題ないだろう。

 

 問題はその隙を突けるかどうか──僕は慎重に鎧たちの動きを見据える。そのどれもが鈍く、これならば特に問題はないと判断。と、右横にいた一体が僕に向かって剣を振り下ろしてきた。

 

 だが大した速度もなく、技術の欠片もない単調に尽きる剣撃。それを僕が躱すのは、正直呼吸するよりも簡単だった。

 

 躱しながら、魔力で強化した剣を肩に打ち込む。刃が肩部分を押し込み、大きく凹ませた。すかさず剣を引き抜き、間髪入れずに同じ箇所に打ち込んだ。

 

 べキン──甲高い音を立て、肩から大きく亀裂が走り、鎧は斜めに割れた。空っぽだった中から白い(もや)のようなものが噴き出し、宙に霧散する。

 

 ──まず一体。

 

 続けて、その隣にいた鎧に突きを放つ。腕全体を【強化(ブースト)】したその突きの威力は尋常ではなく、強化されている鎧の胴体を貫く。しかしそれでは破壊力が足りず、活動を停止させるには不充分である。

 

 そのまま力任せに横に振るう。こんな無茶な使い方をすれば、いくら鉄で出来ている剣だろうと折れてしまう。だが魔力によって強化された剣はその耐久力も増しており、結果折れるどころか変形もせず、貫かれ多少脆くなったのか、存外呆気なく鎧を断ち切った。

 

 ガタガタと激しく震えながら、鎧が床に倒れる。そして先ほどの鎧同様白い靄を噴き出し、動かなくなった。

 

 ──二体。

 

 少し荒くなった息を整えながら、別の鎧に視線を移す──直前、突如僕の鼓膜を悲鳴が震わせた。

 

「先輩ッ!?」

 

 慌てて先輩の方を振り向く。振り向いて、全身から冷や汗が噴き出した。

 

「ちょ、こっち来んなぁっ!」

 

 先輩が叫びながら、必死に腕を振り回す。その度に赤髪と、髪に結び付けた白いリボンが流れるように揺れる。

 

 今、先輩の周囲には薄く透けた手首が四つほど、浮いていた。



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Glutonny to Ghostlady──戦闘、亡霊の騎士(後編)

 近づけさせまいと、必死に腕を振る先輩を嘲笑うかのように、その薄く透けた手首たちは浮遊する。その様を目の当たりにして、思わず僕は叫んでいた。

 

「先輩!」

 

 あの手首たちには見覚えがある。確か〝有害級〟の魔物(モンスター)彷徨える手(ウィスプハンド)だ。

 

 この彷徨える手も亡霊の騎士(ゴーストナイト)同様、昇天できずにいる魂が魔素(マソ)を浴びて、魔物化してしまったものだ。とはいえ亡霊の騎士と比べればその危険度は低く、特別警戒視するような相手ではないが──先輩からすれば充分な強敵に成り得る。しかもそれが四体ともなれば、万が一あっても先輩に勝利はない。

 

 急いで先輩を助けようと僕はその場から駆け出す──が、残る亡霊の騎士たちに行手を阻まれてしまう。堪らず舌を打って、剣を構えた。

 

「邪魔だッ!!」

 

 苛立ちをそのまま吐き出すように叫んで、剣を振るう。だが先輩が襲われているという状況に焦ってしまい、力に任せた雑な一撃となってしまった。

 

 ガギンッ──正面に立ち塞がる亡霊の騎士の剣が、僕の剣を受け止める。刃と刃が衝突し、火花を散らせた。

 

「くっ……!」

 

 そのまま勢いに任せて、僕は押し込もうとする。が、僕は一瞬でも忘れていた。亡霊の騎士が、まだ他にいるという重要な情報を。

 

「ッ!」

 

 ハッとそれを思い出し退こうとするが、遅かった。

 

 ザシュッ──僕の右脇腹を、他の亡霊の騎士の剣が斬り裂いた。

 

「ぐあっ……」

 

 堪らず僕は呻き、だがそれでも接近していた亡霊の騎士を蹴り飛ばしその場を退く。右脇腹を押さえながら、改めて周囲を見渡した。

 

 亡霊の騎士はまだ十六体残っている。いくら雑魚とはいえ、考えなしにこの包囲網を突破するのは容易くない。

 

 と、その時だった。

 

「なっ、それ返せぇっ!!」

 

 先輩の声に、堪らず僕は顔をそちらに向けてしまう。向けて、目を見開いた。

 

 先輩の周囲を漂っていた彷徨える手の一体が、素早く先輩の頭に近づいたかと思うと、髪に結び付けられた白いリボンを解き奪い取った。

 

 慌てて先輩が取り返そうと腕を伸ばすが、彷徨える手は離れてしまう。それからリボンの端を掴むと、垂れ下がったもう一方の端を別の手が掴んだ。

 

 そしてその二体の手はリボンを横に広げたかと思うと、これまた素早く先輩の顔面に向かって飛来する。僕からすればだいぶ遅い動きだったが、先輩からすれば速く、捉え切れるものではなかった。

 

「ちょなっ!」

 

 彷徨える手は奪ったリボンで、瞬く間に先輩の両目を覆う。そのまま端と端を結び合わせ、あっという間に先輩の白いリボンを目隠しにしてしまった。

 

 視界すらも奪われ、暴れようとする先輩を彷徨える手が二体がかりで押さえる。

 

「こんのっ……離しやがれぇ!」

 

 彷徨える手たちをなんとか振り払おうとするが、先輩の膂力では到底叶わないことだった。と、残っていたもう二体の彷徨える手も先輩にへと接近する。

 

 その手中には、一体どこから持ってきたのか長めの紐があった。そしてそれをやたら慣れた動き……というよりは手つきで、あれよあれよと先輩の両手と両足に巻きつけ、縛り上げてしまった。

 

「クソッ……」

 

 そうして、四体の彷徨える手たちは瞬く間に、先輩の身体の自由を奪ってしまった。その事実に直面し、堪らず僕の焦りは頂点(ピーク)に達してしまう。

 

 剣の柄を固く握り締めながら、心の奥底から噴き出す憤りのままに叫ぶ。

 

「先輩ッッッ!!」

 

 だからか、気がつけなかった。彷徨える手たちに視線を向けている間、周囲の亡霊の騎士たちに異変が生じていたことに。

 

 慌てて無理矢理包囲網を突破しようとして、そこで初めて僕はそのことに気づいた。

 

 ──気配が、変わった……?

 

 そう感じた瞬間、咄嗟に剣を掲げた。直後、亡霊の騎士の剣が襲いかかる。その一撃は防ぐことはできたが、さらに困惑してしまう。

 

 ──剣がさっきよりも疾くなってる……!

 

 その場から跳び退いて、亡霊の騎士たちの出方を窺う。やはり先ほどと明らかに様子が違う。

 

 鎧の一体が僕に向かってくる。人形めいていたはずの動きが、まるで歴戦の戦士のように鋭くなっていた。

 

 僕に向かって、剣が振り下ろされる。キレが数割増したその一撃は、もはや油断を許さないものとなっている。慌てて剣で受け止めるが、重さも増しており堪らず僕は押し込まれてしまう。

 

「ぐッ……!」

 

 もはや、目の前にいる亡霊の騎士たちは雑魚とは呼べぬ代物となっていた。一体だけならともかく、十六体もいるのだ。危機的状況──と、再び僕の鼓膜を先輩の悲鳴が震わせた。

 

「先輩!?」

 

 思わず顔をそちらに向けてしまう────そこには、とんでもない光景があった。

 

 

 

「ど、どこ触って、ちょ、止めっ……!」

 

 

 

 先輩の動きを封じ、彷徨える手たちはまたその周囲を好き勝手に浮遊していたかと思えば、突然また近づいた。

 

 近づいて────あろうことか、先輩の身体を弄び始めたのだ。

 

 二体の彷徨える手は別れると、先輩の上半身──胸にへと触れる。程よく豊かに実ったその果実を、薄く透けた手たちは無遠慮にも掴んだ。

 

「ひ、あ……っ」

 

 瞬間、先輩の小さな口から甲高い悲鳴が漏れた。それに少し遅れて、かあぁっと先輩の顔が赤く染められていく。

 

「へ、変な声出ちま──ひゃうっ?」

 

 彷徨える手の中で、先輩の果実が踊る。薄透明の指が沈み込み、むにゅむにゅと身勝手にその形を歪ませ、その度にビクンと先輩の華奢な肩が小さく跳ねた。

 

「ん……んんっ……!」

 

 もうこれ以上声を上げたくないのか、先輩は必死になってその唇を噤み、彷徨える手たちの下劣な行為に堪え続ける。が、不意に彷徨える手の指先が先端にへと伸びて──ピンッと弾くように触れた。

 

「ふぁあっ!?」

 

 不意打ちの刺激に、堪らず先輩は声を上げてしまう。だが彷徨える手は止まらない。

 

 その指先は先端をグッと今度は押し潰し、胸全体を揉み込みながらグリグリと刺激を容赦なく与える。それはあまりにも先輩には強過ぎるもので、我慢できず嬌声にも似た悲鳴が先輩の口から溢れ出した。

 

「こんなの、知らなっ──んあぁっ……!」

 

 ビクンッと肩どころか全身が跳ね、先輩の背中が仰け反る。まだ穢れを知らぬ無垢な先輩の身体に、彷徨える手たちは着実に女の悦びというものを教え込んでいく。

 

 不躾な陵辱に身悶える先輩。そこでようやくもう二体の彷徨える手たちは動き出し、一体は先輩の薄く開かれた口元に触れたかと思うと、そのまま指を口腔に突っ込んだ。

 

「むぐぅっ……!?」

 

 図らずも彷徨える手の指を咥える先輩。リボンによって隠されているため不明ではあるが、恐らくその目を白黒とさせていたことだろう。

 

 そして最後の一体は上下を繰り返す先輩の腹部を指先で撫でながら、徐々に下腹部にへと降下し────瞬間、僕の中でなにかが弾け飛び、気がつけば感情のままに叫んでいた。

 

「それ以上先輩に触ってんじゃねぇええッッッ!!!」

 

 激昂のままに、僕は剣を前に押し出す。すると自分でも驚くほどに呆気なく亡霊の騎士を押し返せ、そのまま思い切り剣を振るった。

 

 ガギギィンッ──鎧に刃が食い込み、激しく火花を散らしながら断ち斬った。上下に分断された鎧が床に音を立てて転がる。

 

 前方を睨めつけると、三体の亡霊の騎士が立ち塞がっている。柄を潰すつもりで握り締め、僕は叫ぶ。

 

「邪魔だって言ってんだよこの鉄屑共がぁあッ!!」

 

 床を破らんばかりの勢いで蹴りつけ、勢いのままに剣を振るう。

 

 ザンッ──立ち塞がっていた三体の鎧は、ろくに抵抗もできず、構えた己の剣ごと僕に斬られ、先ほどの鎧と同じように床を転がった。

 

 そのまま突き進み、先輩の元に一気に駆けつける。見れば、もう彷徨える手の指先が、先輩の短パンの中に侵入する直前だった。

 

「いい加減、先輩から……離れろッッッ!」

 

 胸の奥底から延々と沸き出す激情に身を任せ、剣を振り上げる。そしてありったけの魔力を注ぎ込み────先輩の少し前めがけて思い切り突き立てた。

 

 切っ先が床に突き刺さった瞬間、注がれていた魔力が凄まじい勢いで放出される。それはさながら爆発によって生じた爆風のようで、たかが魔素によって魔物化しただけであり、半ばこの世に未練を残す魂でしかない彷徨える手が堪えられるようなものではなかった。

 

 魔力の放出をまともに受けた彷徨える手たちは呆気なく吹き飛ばされ、そして四体とも呑まれて消滅してしまった。

 

「ハアッ……ハァ……」

 

 僕はその場で荒く何度も呼吸を繰り返す。我ながら結構な無茶をしたせいで、体力も魔力も激しく消耗している。

 

 少し遅れて、後ろで重いものが床に叩きつけられる音がいくつも鳴り響く。見てみれば、残りの亡霊の騎士がただの鎧となっており、床に転がっていた。どうやら亡霊の騎士たちも、あの魔力の爆発には耐えられなかったらしい。

 

 危機的状況をなんとか打破し、堪らず僕は安堵の息を吐く。そして呼吸を整えながら、先輩に顔を向ける。

 

「…………」

 

 リボンが解け、解放された先輩の琥珀色の瞳は、薄らと涙が滲んでいた。未だその顔も赤らんでおり、呆然とした様子で僕のことを見上げている。

 

「すみません、先輩……その、大丈夫ですか……?」

 

 そう声をかけながら、僕もしゃがみ込み先輩の両手と両足を縛っている紐を解く。幸い柔らかい素材だったので、痕などは残っていない。

 

 先輩はというと、若干ぼうっとしながらもハッと我に返ったように、慌てて口を開いた。

 

「お、おう俺は大丈夫だおう!」

 

 その声は何故か上擦っており、先輩が動揺しているのは明らかだった。一体、どうしたというのだろうか。

 

 まあそれはさておき。確かに先輩の言う通り、目立った外傷もなく、大丈夫そうではある。彷徨える手たちは先輩のことを傷つけた訳ではなく、ただ辱めただけのようだった。……しかし何故だろう。それが一番に許せない。

 

 今なお言い表せない感情が心の内に燻る中、不意に背後でなにかが軋む音が静かに響いた。咄嗟に振り返って見てみれば──閉ざされていた大広間(ホール)の扉が開いていた。

 

 ──よし、これでここからは出られる。

 

 そう思いながら、僕はもう一度先輩の方に振り向く。先輩は、まだ床に座り込んだままだった。

 

「……先輩?」

 

 拘束からは解かれ、もう自由の身だというのに先輩は中々立ち上がらない。どうしたのだろうと僕がそう呼びかけると、先輩は太腿をもじもじと擦り合わせながら、少し遅れて恥ずかしそうに声を絞り出した。

 

「わ、悪りぃクラハ……腰抜けて、動けねえ……」



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Glutonny to Ghostlady──八年前

 突如大広間(ホール)に閉じ込められ、魔物の襲撃に遭いつつも、なんとか退けることができた僕と先輩は、大広間から脱出して、引き続き終わりの見えない廊下を歩いていた。

 

 しばし互いに無言だったが、不意に先輩が申し訳なさそうに、そして気まずそうに口を開いた。

 

「なあ、クラハ」

 

「はい。どうしました先輩?」

 

「い、いや……重く、ねえのかなって……」

 

「え?……あ、ああ!全然重くないですよ、先輩。……むしろ軽過ぎて、少し心配になってくるくらいです」

 

 苦笑いしながら、僕はそう答える。一体先輩はなにが重くはないのかと訊いたのか──なにを隠そう、それは先輩自身(・・)のことだ。

 

 様々な経緯は省かせてもらうが、大広間にて先輩は腰を抜かしてしまい、とてもではないが自力で歩けない状態になってしまった。いつまでも同じ場所に留まっていては、また魔物の襲撃に遭いかねない。だが先輩は動けない。

 

 そこでいつぞやのように、今僕は先輩の身体を背に負ぶって廊下を歩いているのだ。だから先輩は僕に重くはないのかと訊ねたのである。しかしさっきも言った通り、先輩の身体は驚くほど軽い。

 

 ……軽い、のだが。

 

 ──その割には妙に肉付き良いんだよなこの人……。

 

 何度も言わせてもらうが、決して先輩は重くはない。日々しっかりとした食事を摂っているのか、普段から共にしているはずの僕がそう疑問に思うほどに、先輩の身体は軽い。

 

 その癖、太腿はほど良くむちむちとしているし、その可愛らしいお尻についても、廊下にて先ほど語った通りそれはもう素晴らしいのなんの。

 

 そして極めつけは──今僕の背中に触れているこの胸、だろう。流石にサクラさんほどのサイズではないが、それでも充分な大きさかつ形も整っており、これぞ世に言う『美乳』という代物なのだろう。

 

 と、ここまで説明するとそれなりに体重があるように思えるが、散々言及した通り先輩は軽い。軽過ぎる。

 

「そ、そうか。なら、別にいい……のか」

 

「はい。だから気にしないで、今は休んでください」

 

「……おう。そうする」

 

 そこで一旦、僕と先輩の会話は終わった。再び沈黙と静寂に包まれながら、この果てしなく続く廊下を、僕は先輩を負ぶりながら歩き続ける。

 

 ……しかし、こうして人を背負うのは久しぶりだし、それもこんな長い間背負うことは初めてだ。

 

 だから、だろうか。思わずこんなことを考えてしまうのは。

 

 ──おんぶって、こんなに身体が密着するものだったか……?

 

 気にしまい、考えまいとしていたが、もう無理だった。この背中越しに伝わる熱を、これ以上無視することなんて、できなかった。

 

 腰に感じるむちっとした、太腿の感触。時折首筋にかかる、ほんのりと温かい吐息。場の静かな雰囲気も相まってか、それらが否応にも僕の鼓動を早める。

 

 ──…………まずい。

 

 堪らず頭の中に浮かんでくる邪念を、僕は咄嗟に振り払う。……当然であるが、やはりおんぶは僕と先輩のような、年頃の男女がしていい行為ではない。いやまあ先輩は元男だが。

 

 これ以上続けると反応(・・)しかねないと思った僕は、平静を装いながら先輩に訊ねる。

 

「あの、先輩。そろそろ自力で動けますか……?」

 

「……ちょっと、まだ上手く足に力が入らねえ」

 

「…………了解です」

 

 男の正念場だ、クラハ=ウインドア。ここは心を無にして堪える他ない。そう覚悟を決めて、僕は前を見据える──その直後だった。

 

 

 

「……クラハ」

 

 

 

 ギュウゥ──僕の名前を呼びながら、不意に先輩が僕の首に両腕を回してきた。

 

「…えっ?え!?ちょ、先輩どうしました!?」

 

 もう平静を装うだとか、そんなことできなかった。ただでさえ背中に感じていた柔い先輩の胸が、さらに押しつけられて潰れるほどに密着しているし、ほんの掠める程度だった先輩の吐息が、今やむず擽ったく思える。そしてなによりも──先輩の体温が、僕をどうしようもなく焦らせた。

 

 上擦った僕の声に、何故か先輩はこちらのことを、何処か微笑ましく思うような声音で答えた。

 

「お前、背中大きくなったな」

 

「え?」

 

 懐かしむように、先輩は続ける。

 

「八年前はあんな小せえガキだったってのに……本当に成長したよ、お前は。背中だって全然頼りなかった癖に、今じゃその背中に身体預けてる。……それとも、俺が女になってるから、そう思っちまってるのかな」

 

「…………」

 

 先輩の声は、優しかった。何処までも優しくて、何処までも温かくて──何処までも、淋しそうだった。

 

 今、先輩はどんな顔になっているのだろう。どんな表情を浮かべているのだろう。気になったが、振り返る勇気が、湧かなかった。

 

 黙る僕に、なおも先輩は続ける。同じ声音で、まるで子守唄でも歌うかのように。

 

「さっきだってそうだ。一応強くなってんのはわかってたけどさ、まさかあそこまで強くなってるとは思ってなかった。もう、あの頃のお前はいねえんだなって……思い知らされた」

 

「……先輩」

 

 その場に立ち止まって、そこで初めて、僕は口を開いた。だが、それ以上のことはなにも言えなかった。

 

 三度目の沈黙と静寂。しかしそれは、先輩によってすぐさま断ち切られた。

 

「覚えてるか、あの日(八年前)のこと」

 

 訊かれて、思わず全身が強張った。そのことを悟られぬよう、ゆっくりと答える。

 

「覚えて、ますよ。忘れる訳……ないじゃないですか」

 

 そう、忘れる訳がない──忘れられる訳がない。

 

 

 

 あの日。八年前のあの日。クソッタレの運命とやらが、僕から全てを奪い去ったあの日。

 

 今でも鮮明に思い出せる。思い出せてしまう。業火に巻かれ一瞬にして消し炭にされた人。巨大で鋭利な爪によってバラバラに引き裂かれた人。その豪腕で押し潰されグチャグチャになった人。

 

 悲鳴。怒号。まだ年端もいかない女の子が、泣きながら崩れ落ちた建物の下敷きになった。赤子を抱いた、まだ若い婦人が赤子諸共生きながらにして炎に焼かれた。

 

 立ち向かった男たちは悉く殺された。逃げようとした人たちも悉く殺された。まだ幼かった子供たちすら悉く殺された。

 

 その光景が、目から離れない。網膜にこびりついて、離れない。

 

 あの地獄の惨状が、脳裏に焼きついて、八年経った今でも離れてくれない。

 

 逃げろと言った父は、自分の目の前で喰い殺された。自分を庇った母は爪で身体を串刺しにされた。助けようとした自分の妹は、無残にも踏み潰された。

 

 一瞬にして、全部奪われた。僕は──なにもかも、奪い尽くされたのだ。

 

 

 

「……ごめん。()なこと思い出させた」

 

 申し訳なさそうに先輩がそう言う。……やはり、この人に隠し事はできそうにない。

 

「気にしないでください。もう、過ぎたことですから」

 

 そして絶対に忘れてはいけないことだ──そう思いながら、僕は言う。遅れて、先輩も口を開く。

 

「海に行った時にさ、俺に教えてくれたよな。お前」

 

 その言葉の意味がわからず、一瞬僕は困惑したが、すぐに思い当たった。

 

今の(・・)俺が昔の(・・)俺のこと忘れても、教えるって』

 

『い、今。今教えてくれ。お前が凄いって思ってた、昔の俺のこと』

 

 恐らく先輩はそのことを言っているのだろう。そう思った僕は、頷きながら先輩に答えた。

 

「はい。ですけど、それがどうしました?あ、また教えてほしいとかですか?それともまた別の武勇伝が聞きたいんですか?」

 

「…………違う」

 

 それだけ言うと、また先輩は口を閉じてしまった。先ほどから感じる雰囲気といい、何処か悲しげな態度といい、一体どうしたのかと僕が訊こうとした、その瞬間だった。

 

 

 

思い出せなくなった(・・・・・・・・・)

 

 

 

 そう、先輩がぽつりと呟いた。



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Glutonny to Ghostlady──だから、大丈夫なんですよ

思い出せなくなった(・・・・・・・・・)

 

 ぽつり、と。先輩はそれだけ呟いた。同時に、僕の首に回された両腕に、僅かばかりの力が込められる。

 

 どういうことですか──そう訊く前に、先輩が僕に言う。

 

「今だから言うけどよ、実は海に行く前からもう、思い出せなくなってたんだよ。まだ男だった時にお前と行った場所とか、そういうの……全部」

 

 それは、衝撃的な告白(カミングアウト)。それと同時に思い出す──オールティアでの一夜、とある事情から同じ寝台(ベッド)を共にすることになった時、先輩から告げられた言葉を。

 

 

 

『昔の俺ってどういう奴だったのか、今の俺は上手く思い出せないんだ』

 

『全くって訳じゃない。けど、日が経ってく度に……こうして夜を過ごして朝を迎える度に、だんだん、昔の俺の姿が、ぼやけてく』

 

『それがさ……怖いんだよ』

 

 

 

 あの時の記憶が、鮮明に思い起こされていく。そして今この状況と──重なっていく。

 

 なにも言えず、口を開けないでいる僕に先輩は続ける。

 

「思い出せないだけじゃない。お前から話を聞いても、それが俺のことじゃないようにしか思えねえ。ただの赤の他人の話にしか……思えねえ」

 

 ……僕は、先輩の言葉を呆然と受け取る他、なかった。どう返事をすれば、どう言葉をかけるべきなのか、わからなかった。

 

 そんな僕の心情を見透かしてか、何処か皮肉めいた含み笑いを先輩が零した。

 

「おかしいよな。全部昔の俺の、男だった時の話なのに。けどさ、今聞くと別人の話にしか聞こえなくて……でも俺の話なんだって、そう思うと……頭ん中、グッチャグチャになって」

 

 そこで気づく。先輩の身体が微かに震えていることに。先輩の声が、徐々に涙ぐんだものに変わってきていることに。

 

 そのことに気づいて、今の状況がますますオールティアでのあの一夜と重なった。

 

 今、先輩は普通ではない。精神状態が著しく不安定になってしまっている──そのことに今さらながら気づいた自分を腹立たしく思いながらも、なんとか落ち着かせようとようやく口を開く。……が、情けないことにかける言葉が、まだ浮かんでこなかった。

 

「でもさ、それはまだいいんだ。まだ全然いい。問題は──お前との思い出も、いくつか思い出せなくなってるってこと、なんだよ」

 

 それを聞いて、ハッとする。何故この人がこんなにも取り乱しかけているのか、その原因がわかった。

 

 …………だが、それがわかっても、悔しいことに言葉が浮かばない。一刻も早く言葉をかけなければならないというのに、焦れば焦るほど、なにも浮かばない。

 

「俺、それが嫌なんだ。絶対に嫌なんだ。俺の話とか全然どうでもいい。でも、お前との思い出だけは……絶対に忘れたくないのに。どうしても、忘れたくない、ってのに」

 

 ぽたり、と。不意に首筋を仄かに温かいなにかが濡らした。それは一度に留まらず、ぽたぽたと遅れてさらに僕の首筋を濡らす。

 

「けど、いくら頑張っても、どうやっても、頭ん中ぼやけて、日に日に上手く思い出せなくなってきて」

 

 先輩の声は、もう誤魔化しようのないほどに震えていた。悲痛なほどに、濡れていた。

 

「そんで、さ。とうとうあの日(八年前)のことも、だんだんぼやけてきちまった」

 

 先輩の腕に、力が込められる。先輩の身体が、さらに密着する。

 

「俺さ、どうしようもないクズや「先輩」

 

 流石にその言葉は、聞き捨てならなかった。もう、これ以上黙って聞いていられなかった。

 

「もうそれ以上自分を傷つけるのは止めてください。僕は大じょ「なにが大丈夫なんだよ」

 

 僕の言葉を、先輩の声が遮った。その声音は、酷く刺々しく、荒れていた。

 

「大丈夫、大丈夫って……いつもいつも……お前の『大丈夫』ってなんなんだよ。なにが大丈夫なんだよ。こっちはお前との思い出も、お前と出会った八年前のことも、忘れかけてんのに……それのなにが大丈夫だってんだよ!?」

 

 先輩の怒号が僕を貫く。涙に塗れた、悲痛な叫びが僕の心を突き刺す。

 

「それともなんだよ。お前はいいってのか?俺がお前との記憶(おもいで)を忘れちまっても、八年前のことも忘れちまっても構わねえってのか!!」

 

 不意に、鎖骨に小さな痛みが走る。視線をやれば、先輩の爪が食い込んでいた。

 

 頭の中が、真っ白に染められていく。なにも考えられなくて、でもなんとか先輩を落ち着かせようと、僕は口を開く。

 

「せん「煩い!黙れ!!!」

 

 先輩が僕に怒鳴る。怒鳴って、息を荒げながらも先輩は続ける。

 

「お前になにがわかるってんだよ!なんにもわからねえ癖に、わかったような口利くんじゃねえ!わかったように慰めんじゃねえ!!」

 

 …………そこで、僕は気づいた。気づかされた。自分が、一体どれだけの負担をこの人にかけていたかを。

 

 傍目から見れば、責められるのは間違いなく先輩だろう。必死に落ち着かせようとしている者を、一方的に拒絶しているのだから。

 

 だが、違う。僕は、とんでもない大馬鹿野郎だ。大丈夫、なんて無責任な言葉をかけて、苦しめていた。

 

 失いたくない記憶を失いつつある者に、ただ大丈夫と声をかけて。ただ大丈夫と返して──その結果がこれだ。

 

 考えてみれば、大丈夫な訳がなかった。この人(先輩)が僕との思い出を忘れることなど、大丈夫なはずがなかった。

 

 当の本人である僕から、それを大丈夫ですと言われて、一体どれだけその心を追い詰めてしまったか。忘れてはいけない記憶を、忘れられても大丈夫ですと言われて、一体どれだけその罪悪感を抉ってしまったのか。

 

 僕の首筋に、絶え間なく温かいものが伝う。それが流された先輩の涙だということは、とっくにわかっていた。

 

 先輩が言う。もう怒っているのか泣いているのか、わからなくなってしまった声で、縋りつくように僕に訊く。

 

「……なあ、クラハ。俺って、なんなんだ……?」

 

 ……僕は、すぐには答えられなかった。廊下に、先輩の嗚咽が静かに響く。

 

 鎖骨に爪が食い込む痛みを感じながら、僕はようやく、口を開いた。

 

「あなたは、僕の先輩です。僕の先輩──ラグナ=アルティ=ブレイズ」

 

 先輩は、なにも言わない。それでも、僕は言葉を続ける。

 

「誰がなんと言おうと、それは変わらない。変えさせない。先輩は僕の先輩です。誰が否定しようと、たとえあなた自身が否定しようとも、僕の先輩はあなたです──ラグナ先輩」

 

 そう、この人は僕の先輩。《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』──ラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 先輩の手を、さらに強く握り締める。

 

「前に、僕は言いました。今の先輩が昔の先輩を忘れても、僕が覚えてますと。その度に、僕が先輩に教えます、と」

 

 あの時はこの言葉だけでも、先輩を安心させることができた。先輩を落ち着かせることができた。だが、今回ばかりはどうにもならない。……もう、この言葉が、先輩に届くことはない。先輩の心を──救えない。

 

 そんなことはわかっている。そんな簡単なことは、わかり切っている。だからこそ、僕は僕が許せない。どうしても──赦せない。

 

 ……以前から先輩が情緒不安定になってきているのは、気づいていた。そしてそれを隠し通そうと、先輩が無理していることもわかっていた。……わかっていたのに、僕はこの人のその甘さに、しがみついてしまった。

 

 もう、遅過ぎる。だがそれでも────僕は言わなければならない。ここで言わなければ、取り返しがつかなくなる。

 

 あまりの緊張感に息が詰まる。堪らず深呼吸しそうになる。だが、今はその刹那にも満たない瞬間ですら惜しかった。

 

「先輩」

 

 先輩はなにも言わない。なにも返してくれない。それでも──構わない。

 

「僕は忘れませんから。先輩が忘れても、絶対に忘れません。何回だって、何度だって先輩に教えますよ。たとえその話が別人のものにしか思われなくても、思ってくれなくても……話します」

 

 一歩、先に踏み出せ──クラハ=ウインドア。

 

「あなたは《SS》冒険者、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズその人です。あなたがそれすらも忘れてしまったとしても、僕がこの先も、これからもずっと覚えてます。僕が覚えている限り──あなたはラグナ=アルティ=ブレイズなんですよ」

 

 そこで初めて、ほんの僅かばかりに身体を震わせて、先輩は反応した。そのことにこれ以上にないくらいの安堵感を抱きながら、僕は続ける。

 

「だからもう、それ以上今の自分を否定してあげないでください。今の先輩が僕との思い出を思い出せなくなっても、僕が覚えていますから。過ごした時間も、過ごす時間も、過ごしていく時間も、全部。……だから、僕は大丈夫なんですよ。ラグナ先輩」

 

 これが僕の全てだ。僕が今できる、全て。これで駄目ならば──もう、お終いだ。

 

 今まで歩んできたこの人生の中で、最大級の緊張感に包まれながら、僕は先輩の言葉を待つ。

 

 先輩は、黙ったままだ。……ただ、心なしか首に回されている腕に、また力が込められた気がした。

 

 再び、廊下に静寂が戻る。気がつけば、先輩の小さな嗚咽は止まっていた。そして数秒挟んで──ようやく。

 

 

 

「………………クラハ」

 

 

 

 本当にようやく。やっと、先輩はその口を開いてくれた。



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Glutonny to Ghostlady──あなたの元に

「………………クラハ」

 

 本当にようやく。やっと、先輩はその口を開いてくれた。すっかり泣き掠れてしまった声を懸命に絞り出して、開いてくれた。

 

「下ろして」

 

 ギュゥ──その言葉とは裏腹に、何故か先輩は僕の背中に身体をより密着させてくる。

 

「……え?あ、は、はい」

 

 そんな先輩に困惑しながらも、言われた通りゆっくりと、そして慎重に床にへと下ろす。それからつい流れで先輩の方へ振り向こうとした直前、トンと背中を軽く叩かれた。

 

「向くな」

 

 僕が口を開くよりも先に、先輩がそう言う。

 

「俺がいいって言うまで……こっち、向くな」

 

「ぇ?え、えっと……わ、わかりました」

 

 今にも消え入りそうで、そしてかなり恥ずかしそうにしている先輩の声。すぐさっきまであんなことがあったというのに、もしかしたら僕と先輩の関係に修復不可能な亀裂が生じた可能性があったかもしれないというのに──だが、それでも僕の心を惑わせ、掻き乱すには充分過ぎるほどの威力が、それには込められていた。

 

 もはや何度目かわからない沈黙に、場が支配される。数秒、数分と経っても、先輩はまだその口を開かない。さっきとはまるで違う緊張感に、僕は押し潰されそうになる──その時だった。

 

「…………も、もういいぞ。こっち……向いても」

 

 ようやっと、背中越しに先輩がそう言ってくれた。時間にしてみればほんの六分、七分という短い間だったかもしれない。だが僕からすれば、一時間超ほどの長い間にも思えた。

 

 ……が、いざ振り向くとなると、謎の照れというか、気恥ずかしさが途端に込み上げてくる。しかしいち早く先輩の方へ振り向きたいという欲が勝り、僕は意を決して振り向いた。

 

「………………」

 

 当然ではあるが、そこにいるのは先輩だ。可憐ながらも美麗なその(かお)を涙でぐしゃぐしゃにした先輩が、宝石のような輝きを灯す琥珀色の双眸を濡らした先輩が、そこに経っていた。

 

 僕を見上げながら、先輩はその口を開く。

 

「抱き締めろ」

 

 ……思わず、一瞬思考が止まった。一体どんなことを言われるのか、身構えていたが──僕にとって、先輩のその言葉は、全く予想だにしていなかったものだった。

 

 ────だが。

 

 

 

 

 

 ギュッ──思考に反して、もう既に僕の身体は、先輩のことを抱き締めていた。

 

 

 

 

 

「っ……」

 

 僕の腕の中で、先輩が小さく息を呑む。それから遠慮がちに、先輩も自分の腕を僕の背中にへと回した。

 

 再度、密着する僕と先輩。先輩の身体はやはり柔らかくて、背中越しとはまた違った感触で、仄かに甘い匂いが鼻腔を擽って──それら全てが、僕の心臓をあり得ないほどに高鳴らせて、もう破裂するんじゃないかと危惧してしまうくらいに跳ね上がらせる。

 

 ──……ああ、ヤっバいな。ヤっバいぞこれ。

 

 別に、こうして正面から先輩を抱き締めるのは、これが初めてではない。いつぞやの無人島の一夜でも、それこそお互い水着姿で抱き締め合ったこともある。

 

 ……だというのに、その時よりも今この状況の方が────何倍も強烈で、僕の理性を激しく揺さぶった。

 

 僕の男としての本能が刺激される中、さらなる追い討ちが襲いかかる。

 

「……なあ、クラハ」

 

 背中に回した腕に力を込めながら、もの凄く恥ずかしそうに先輩が言う。

 

「その、もっと……強く、抱き締め……ろ」

 

「ッ……!」

 

 それは、僕にはあまりにも絶大過ぎる破壊力を宿した言葉で、堪らず言われた通りに、先輩の小さな身体をより力を込めて抱き締めてしまう。

 

 服越しに感じる先輩の体温が愛おしい。以前は水着という半裸同然の格好であったが故、肌と肌が直に触れ合い、密着し、もう熱いくらいに先輩の体温を感じられたが──今は互いに服を着ており、当然体温は感じ難い。だが、それ故もどかしく思ってしまい、求めてしまいそうになる。

 

 ……しかし、(すんで)のところで踏み止まる。何故なら、これ以上腕に力を込めたら、もう止まれそうにないから。先輩のことを壊してしまうかも、しれないから。それほどに先輩は華奢で、そして柔らかい。

 

 だが、そんななけなしの理性すらも────

 

「…………クラ、ハ」

 

 ────呆気なく、吹き飛ばされる。

 

「ど、どうしました先輩?」

 

 僕の名を呼んだ先輩は、躊躇いながらも腕の中から、今にも燃え上がりそうなくらいに真っ赤に染まった顔を上げて、僕のことを真摯に見つめながら、やはり恥ずかしそうに──本当に恥ずかしそうに、口を開いた。

 

「お、俺のこと……こ、こわ…………も、もうぶっ壊すつもりで抱き締めてくれっ!」

 

 ガツン、と。理性が殴りつけられた。そんな台詞、まさか先輩の口から飛び出してくるなんて、夢にも思っていなかった。

 

 しかも、これだけでは終わらなかった。

 

「クラハのこと、感じたい、から……っ!」

 

 そう言うと同時に、先輩もまた僕の背中に回した腕に、力を込める────もう、限界だった。

 

「先輩ッ!」

 

 ギュウッ──言われた通り、ありったけの力で先輩を抱き締める。それこそ、本当に先輩のことを壊すつもりで。

 

「ふあぁ……ぁぁ……」

 

 先輩から苦しげな、でも何処か幸せそうな、蕩けた呻き声が漏れ出す。……しかし、それはすぐさま塗り替えられる。

 

 僕の腕の中で、先輩の身体が小さく震え出す。流石に力を込め過ぎたと思い、咄嗟に緩めようとしたが──その前に、先輩が口を開いた。

 

「クラハ、クラハぁ……!」

 

 必死にしがみつくように、縋りつくように先輩は僕の名前を呼ぶ。涙ぐんだ、震えた声で何度も。

 

 僕の胸に顔を埋めながら、まるで幼い子供のように言葉を続ける。

 

「ごめんごめんごめん……っ!お前に酷えこと言って、お前に当たって……!」

 

 僕への謝罪を零しながら、もはやなんの躊躇なく先輩は泣く。……もう、僕の腕の中にいるのは、か弱い一人の女の子だった。

 

 そしてふと、思い出す。今となっては少しばかり遠い記憶となった、オールティアのとある一夜。深夜の病院でのことが。

 

 あの時も、こうして先輩は僕に抱きついて、泣いていた。気が済むまで、ずっと泣いていた。声を抑えることなく、僕には滅多に見せない、弱り切った姿を全て曝け出しながら。

 

 あの時の状況と、今の状況が重なる。違うところといえば──あの時とは違い、僕も先輩のことを抱き締められていることだ。

 

「もうしねえから、あんなこと、もうしないから……!」

 

 だから、と。口を開けず黙る僕に、先輩は懇願する。

 

「俺のこと、捨てないで……!俺から離れないで、クラハぁ……!」

 

 恥も外聞もかなぐり捨てて、先輩は僕のことを求める。……こんな先輩を見るのは、初めてだった。先輩がこんな風になるなんて、思いもしなかった。

 

 わんわん泣き続ける先輩の姿を目の当たりにして、ふと遠い日の──本当に遠い日の記憶にある言葉が、脳裏を過った。

 

 

 

『本当はね、あんな性格の子じゃなかったのよ』

 

 

 

 ──ああ、こういうこと……だったんですね。マリア姉さん。

 

 それは、家族を失ったばかりの、まだ子供だった自分の面倒を見てくれた一人の修道女(シスター)の言葉。あの頃は理解できなかったが──八年経った今、ようやくその意味をこうして理解した。

 

 抱き締めながら、僕は先輩に言う。

 

「大丈夫ですよ、先輩。僕はここにいます。あなたの元に、いますから」

 

 瞬間、勢いを増して先輩は泣き始めた。声も抑えず、溜めていたものを全て吐き出すように。

 

 そしてそれを僕は受け止め続けた。この人の気が済むまで、ずっと。



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Glutonny to Ghostlady──先輩命令

 一体、どれくらいの時間が経ったのだろう。ふとそう思い、窓から空を見上げてみるが、浮かんでいる月は全く動いていないように思える。

 

 ──腕時計でもしてくるんだった。いや、こんな普通じゃない場所じゃ、時計なんてものは役に立たないか……。

 

 そんなことを心の中で呟きながら、視線を窓の方から己の腕の中──正確には、未だこちらの胸に顔を埋めたままでいる、先輩にへと戻す。

 

 あれから一頻り先輩は泣いて、泣いて、泣きじゃくって──ようやく落ち着いて、大人しくなった。しかし未だに僕から離れようとはせず、すっぽりと僕の腕に収まったままだった。

 

 自分でもできる限り優しい声音で、先輩に訊ねる。

 

「溜め込んでたもの、全部吐き出せましたか?先輩」

 

 少し遅れて、こくりと先輩は小さく頷く。そんな様子を思わず可愛らしいと思いながら、僕は続ける。

 

「なら良かったです。じゃあもう大丈夫そう……ですか?」

 

 その僕の言葉には、先輩は頷かなかった。僕の胸に埋めたまま、ぐりぐりと顔を押しつけながら、口を開く。

 

「……い」

 

「?なんですか先輩?」

 

 言葉が聞き取れず、なにを言ったのか僕が訊くと、やっぱり少し遅れて、もう一度先輩は震えた声を絞り出した。

 

「今、凄え恥ずい」

 

 ……その言葉通り、僕の腕の中で先輩は、今までで見たことがないくらいに恥ずかしがっていた。

 

「よりにもよって、お前にあ、あんな姿見せちまうとか……恥ず過ぎて死にそう……っ」

 

 先輩は、決して僕の胸から顔を離さない。それほどに、今の自分の顔を見られたくないのだろう。……だが、僕は今それどころではなかった。

 

 ──恥ずかしがってる先輩滅茶苦茶可愛いいいぃぃぃ……ッ!!

 

 今までを振り返ってみれば、羞恥に駆られる先輩の姿は何度も目にしてきた。だが今この時、この瞬間の先輩は、そのどれよりも魅力的で──どうしようもなく僕を惹きつけた。

 

 今一体先輩はどんな顔をしているのだろう。どんな顔になっているのだろう。恐らくそれはもう真っ赤で、もうこれ以上にないくらいに真っ赤で、その琥珀色の瞳を羞恥で滲ませているのだろう。嗚呼、それがどうしてもこの目で見てみたい。

 

 僕の心の中を、邪念が染めていく。羞恥に駆られている先輩の顔を、どうしても見てみたいという欲望が満たしていく。

 

 …………だが、それは駄目だ。絶対に駄目だ。ここは堪えなければ──駄目だ。

 

 黒い欲望に身を委ねてしまいそうになるのを、鉄の自制心で必死に阻止する。そして少しでも気を逸らそうと、僕は先輩から視線を外し、なにもない天井を静かに見つめる。

 

「だから、もう少しこのままでいさせろクラハ……!」

 

 そう言って、より先輩は顔を僕の胸に押しつける。その行為に深い意味はないと思われるが……それでも、僕のこの疾しい気持ちを助長させるには充分過ぎる。

 

 ──堪えろ。堪えるんだ僕……今、先輩に手を出す訳にはいかないんだ……ッ!

 

 先輩を抱き締めつつも、それ以上のことは我慢する。言うだけならどうということはないが、実行するとなると想像の数十倍は厳しい。凄く辛い。もの凄く、辛い。

 

 気を抜くと、自分の手が先輩の身体の、あらぬ場所に動きそうになる。というか、もう正直触りたい。本当に触りたい。先輩のあらぬ場所にどうしても触れてみたい。

 

 ……だが、何度も言う通りそれは絶対にやってはならない、先輩への裏切りだ。先輩は僕のことを心の底から信用しており、だからああして絶対に晒したくなかった姿を僕に見せてくれたのだし、こうして無防備にも僕に抱き締められているのだ。

 

 その信用につけ込んで、先輩の貞操と尊厳を踏み躙るなど言語道断。そんなことをするくらいなら────と、その時。ふと僕は疑問に思った。

 

 ──そもそも、先輩は男じゃないか。こんな感情を抱くこと自体、間違ってるんじゃ……。

 

 しかし、今僕の腕の中にいる先輩は女の子だ。あくまでもそれは変わらない。……だから、僕は今こんな獣のような浅ましい欲望を覚えているのか?

 

 それとも、身体関係なく、先輩個人に対して?いや、それはない。僕の恋愛対象は異性だ。間違っても同性ではない。…………であるなら、やはり僕は先輩にではなく、先輩の今の身体に欲情してしまっている、のか?

 

 ──……いや、それも違う。

 

 確かに、僕の恋愛対象は異性──女の子だ。しかし、だからといって、抱き締め合うだけでここまで興奮するほど飢えている訳ではない。十代後半ならいざ知らず、流石に二十歳になってからはある程度、そういうのは落ち着いた。

 

 ……仮に、もし仮に。他の女の子とでも同じ状況になれば──こんな風に興奮を覚えただろうか?必死にならなければ我を見失いかけるほどに、僕は興奮したのだろうか?

 

 それは、たぶん────

 

 

 

「クラハ?おい、聞こえてんのか?」

 

 

 

 ────そこで僕の思考は、先輩の声によって遮られてしまった。

 

「っえ、あ、はいどうしました先輩っ!?」

 

「……いや、さっきからずっと呼んでんのに、反応しねえからさ。お前こそどうした?なんでそんなに慌ててんだ?」

 

 気がつけば、もう既に先輩は僕の胸から顔を離しており、こちらを不思議そうに見上げていた。もっとも、まだ薄らと頬は赤く染まってはいるが。

 

「だ、大丈夫ですよ僕は大丈夫ですから気にしないでください。はい」

 

 さっきまで考えていたことを決して見抜かれないよう、若干回転が鈍くなってしまっている頭を無理矢理働かせ、冷静なのを装いながら、僕はそう先輩に返す。

 

 なにが大丈夫なのか全くわからない僕の言葉に、流石の先輩も怪訝そうな表情を浮かべたが、それはすぐさま消え去った。

 

「なら、別にいいけど」

 

「いやあ、心配させてすみません。はは、ははは……」

 

 苦笑いする僕に、先輩は何処か照れた風に、しかし吹っ切れた様子で言ってくる。

 

「その、なんだ。お前のおかげで色々楽になった。……そうだよな、俺は俺──ラグナ=アルティ=ブレイズで、お前の先輩だ。なにがあっても、それは変わんねえ」

 

 そして──向日葵のように眩しく、可愛らしい笑顔を咲かせた。

 

「あんがとな、クラハっ」

 

 ──ッ……!?

 

 別に、先輩の笑顔を見るのはこれが初めてではない。多くもないが、決して少なくない数は目にしている。

 

 ……だというのに、今この瞬間の、その先輩の笑顔は、妙に僕の心臓を高鳴らせ、どうしようもなくざわつかせた。

 

「そ、そんな。僕はただ、後輩としてすべきことをしただけです、よ……」

 

 それを悟られぬよう、落ち着いている風を装って僕は先輩にそう返す。幸い、先輩が僕の動揺を見抜くことはなかった。

 

「そうだな。じゃあそんな先輩思いの後輩に命令だ」

 

 そう言うや否や、先輩は僕から少し離れ、距離を取る。依然としてその顔に笑顔を咲かせたまま、口を開く。

 

「少し屈め」

 

「え?りょ、了解です。……このくらいでいいですか?」

 

 先輩に言われ、僕が少し身体を屈めた──瞬間だった。

 

 

 

 ギュッ──突然、僕の顔を柔らかくて温かい感触が包み込んだ。

 

 

 

 ──……?っ!?ッ?!

 

 遅れてその感触が先輩の胸のものだということに気づき、それと同時に先輩が僕を、僕の顔を胸元に抱き締めているのだとわかった。

 

 それを理解した瞬間、全身が熱くなり、咄嗟に離れようとしたが、その前に先輩の手が僕の後頭部を押さえ込んだ。

 

「コラ、離れようとすんな」

 

 そして先輩が僕を窘める。しかしその声音は普段とは全く違うどころか、今初めて耳にするほどに優しく──慈愛に満ち溢れた、母のような温もりがあった。

 

「お前は本当に自慢の後輩だ。クラハ」

 

 先輩はそう言うと、後頭部に置いたままの手で、ゆっくりと僕の頭を撫でる。

 

 ──せ、せんぱ……うああっ……。

 

 先輩に頭を撫でられ、瞬く間に僕の脳内が真白に染められていく。なにも、考えられなくなっていく──なにも、考えたくなくなっていく。

 

 心がこの上ない安らぎと幸福感に満たされる中、先輩の言葉だけが深く、染み込む。

 

「……もし、俺がお前との思い出を全部忘れちまっても、お前は忘れんな。ずっと、ずっと覚えてろ。……先輩命令だかんな」

 

 その言葉に、僕は口を開けなかった。幼い子供のように、ただ小さく頷くことしか、できなかった。



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Glutonny to Ghostlady──荒らさせない

「……あの、先輩」

 

「ん?なんだ?」

 

 未だ若干の気恥ずかしさに引っ張られながらも、僕は口を開いた。

 

「その、い、いつまで……このままでいるんですか?」

 

 そう訊ねると、先輩は少し勿体ぶるように数秒の沈黙を挟んで、悪戯めいた声音で答える。

 

「俺の気が済むまで、だな」

 

 むにゅ、と。同時に僕の顔を柔い谷間にさらに押しつけた。

 

 途端、先ほどよりもずっと強く、ずっと強烈に。こちらの脳髄をとろとろに蕩けさせるような甘い匂いが僕の鼻腔を満たす。

 

 得も言われぬ多幸感──しかし、僅かばかりに残っていた自尊心と羞恥が、すぐさま僕の正気を取り戻した。

 

 ──いやこれ以上は駄目だ堪えられないっ!!

 

 すみません放してください先輩──そう、僕は言おうとした。言おうと口を開いた。

 

 

 

 リーン──不意に、甲高い呼び鈴(ベル)の音が廊下に響き渡った。

 

 

 

「……ありゃ?」

 

 呆気に取られた、気の抜けた声を先輩が漏らす。かく言う僕も、声にこそ出さなかったが内心では同じような心境だった。

 

 僕と先輩は先ほどまで廊下にいたはずだ。だが今は違う。肌色で埋まる視界を必死に上に向け、目線を周囲に巡らせば──いつの間にか、僕たちは廊下から別の場所に移動していた。

 

 多過ぎない程度の家具。僅かな隙間さえ残さずびっしりと本が収められた本棚。そして中央近くにある、天蓋付きの巨大な寝台(ベッド)

 

 それらを見るに、ここが誰かの寝室なのだと、理解するのはそう難しいことではなかった。問題は何故僕たちが──この寝室にいるか、である。

 

 つい先ほど、これと似たような現象に僕と先輩は遭っている。そのことから咄嗟に身構えようとして──しかし、顔の下半分を覆うむにゅんとした感触に、張り詰めさせた警戒の糸が弛んでしまう。

 

 ──ま、まずはここから抜け出さないと……!

 

 そう心の中で呟くが、男の本能がこの楽園から抜け出したくないと訴え、上手く身体に力が入らない。それでもなんとか動こうとする──その時だった。

 

 

 

「…………流石に、私の部屋でそう戯れるのは止してほしいのだけれど」

 

 

 

 美しく、されど底冷えするほどに冷たい声が、部屋に響いた。その声に、ハッと僕と先輩が視線を向ける。

 

 視線の先にあったのは、一つの椅子。一見変哲のない、だがそれでも細部に渡って細やかな装飾が施されているその椅子に、少女が座っていた。

 

 白い、というよりはもはや青白い、病的とも思える肌。窓から差し込む淡い月明かりに照らされる、燻んだ金色の髪。

 

 こちらが認識したのを確認すると、少女はゆらりと椅子から立ち上がる。身長はさほど高くはないが、それでも先輩よりはある。

 

 身を包む藍色のドレスの裾を小さく揺らしながら、少女が僕と先輩を光のない蒼い瞳で見つめる。

 

 一呼吸置いて、

 

「だ、誰だお前っ!?」

 

 驚愕の声を上げながら、先輩は自分の胸元に抱き締めていた僕を慌てて突き放した。危うく僕は床に倒れそうになったが、なんとか踏ん張り姿勢を整える。

 

 ──せ、先輩……。

 

 流石に人の目があると、先輩もあのような行動は恥ずかしいらしい。まあだからといって、突き放すのもどうかと思うが。

 

 先輩への非難をグッと心に押し留めつつ、僕はすぐさま視線を少女の元に戻す。少女は依然として僕と先輩二人を見つめており、無表情ではあったが、そこに僅かばかりの不快感が入り混じっていることに気づく。

 

 ──……まあ、自分の寝室で見知らぬ男女が密着していたら、不快に思うのは当然か……。

 

「……賊に名乗る名前なんて、持ち合わせていないわ」

 

 眉を顰めつつ、不快感を声に滲ませながら少女が言う。その声音は何処か高圧的で──明らかに、僕と先輩を敵視していた。

 

「先輩、僕の後ろに」

 

「……おう」

 

 先輩も、少女の敵意を感じ取ったらしい。ほんの少し怯えたように頷き、僕の背中に隠れるようにして退がる。

 

 ──見た目は普通の女の子にしか思えない。……だけど。

 

 少女から視線を逸らさず、いつでも鞘から剣を引き抜けるように僕は身構える。こんな異常な屋敷に独りでいる少女など、普通である訳がない。

 

 ──…………ん?女の子?

 

 ふとそこで、僕は思考の片隅に引っかかりを覚える。確か、この屋敷──『幽霊屋敷』の主、ディオス=ゴーヴェッテンには────

 

「……誰にも、この屋敷は荒らさせない」

 

 ────その引っかかりの正体を掴む前に、対峙する少女が先に動いた。そう言うや否や、スッと少女は袖に包まれ隠された腕を振り上げる。そして、ゆっくりと静かに人差し指を真っ直ぐに、僕の背中に隠れるように立つ先輩にへと向けて伸ばした。

 

「【誘眠蝶(ヒュプノスバタフライ)】」

 

 少女がそう呟いた瞬間、伸ばされた指先に蒼い粒子が集まり、一匹の美しい蝶にへと変わった。蝶は少し遅れて、少女の指先から優雅に飛び立つ。

 

 ひらひらと宙を浮遊する蝶──が、不意にその姿が、溶けるようにして消え失せた。

 

 それに僕が少し驚いていると、突然背後で先輩が声を上げた。

 

「うわっ?」

 

 その声に慌てて振り返ってみれば──先輩のすぐ目の前に、あの蒼い蝶が何事もなかったかのように飛んでいた。

 

 ──まずいっ!

 

 そう思い咄嗟に腕を振ろうとしたが、遅かった。蒼い蝶が先輩の額にへと、止まる。

 

 その瞬間、先輩はその場で一瞬ふらついたかと思えば──そのまま床にへたり込み、仰向けに倒れてしまった。

 

「先輩っ!?」

 

 慌てて声をかけながら、身体を揺さぶってみるも反応はない。琥珀色の瞳は固く閉ざされており、耳を澄ませば規則正しい小さな寝息が聞こえる。

 

 ──ね、寝てる……?

 

 突然のことに僕が困惑していると、背後から声をかけられた。

 

「その子は眠らせたの。しばらくは目覚めない」

 

 ゆっくりと、振り返る。そこにいるのは、少女一人。先ほどと全く同じ位置に立っている。

 

 依然として敵意に満ちた眼差しをこちらに送りながら、少女は言う。

 

「安心して。その子も、あなたを殺したら同じ処に送ってあげる」

 

 その言葉に続くようにして、虚空から滲み出すようにして数本のナイフが浮かび上がる。

 

「許さない」

 

 その言葉には、溢れんばかりの憎悪が込められていた。そしてハッと、僕は気づいた。思考の引っかかりの正体が。わかってしまった。そうだ、この屋敷の主、ディオス=ゴーヴェッテンには────

 

 

 

「お父様の屋敷を荒らす賊は、絶対に許さない……!」

 

 

 

 ────一人の、娘がいたのだった。



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Glutonny to Ghostlady──戦闘、『幽霊屋敷』の少女

「お父様の屋敷を荒らす賊は、絶対に許さない……!」

 

 少女がそう呟いた瞬間、彼女の周囲に浮かんでいた数本のナイフが、動きを揃えて刃先を僕の方に向ける。そして間髪容れずこちらに飛来した。

 

 冷たく銀色に輝くナイフから視線を逸らさず、僕は咄嗟に眠らされた先輩を抱き上げその場から跳び退く。

 

 ズダダダッ──遅れて、誰もいなくなった床に全てのナイフが突き刺さるが、数秒遅れて霧のように掻き消えてしまった。

 

 ゆっくりと、壁際に先輩の身体を下ろす。しかし、未だ目を覚ます気配がない。

 

 そのことに不安を覚えながらも、僕は少女の方にへと向き直る。少女は依然としてこちらを見つめており、相変わらずその瞳は敵意で溢れている。

 

 この屋敷、ゴーヴェッテン邸の主ディオス=ゴーヴェッテンには一人娘がいた。だが今から五十年前に乱心した彼によって、その手にかけられたはず。

 

 仮に、今自分の目の前に立つこの子が、この少女が件の娘だとしても。少なくとも五十年は前の人物である。しかしどう見ても、僕の前にいるのは明らかに僕よりも歳下であろう少女だ。

 

 ──一体、どういうことなんだ……?

 

 混乱しながらも、僕は鞘から剣を引き抜く。そして構えると同時に、再び少女が動きを見せた。

 

 先ほどと同じようにスッと少女は腕を振り上げる。そして宙に掲げた手を、ゆっくりと広げた。

 

 瞬間──少女の手のひらに禍々しい魔力が渦巻き、凝縮するように集中し、黒い球体が発生する。

 

 その球体を目にし、慌てて僕は己の魔力を全身の肌に覆うように巡らせる。それが終わる直前、少女がポツリと呟いた。

 

「【闇魔弾(ダークスフィア)】」

 

 少女の呟きと共に、彼女の手のひらから黒い球体が放たれる。少しもブレることなく、球体は僕の方に向かって──着弾し、破裂した。

 

「…………」

 

 少女の瞳が、僅かばかり見開かられる。無理もない、自分の放った【闇魔弾】が直撃したというのに、僕は無傷で済んでいるのだから。

 

 数秒の沈黙を置いて、少女が口を開く。

 

「【魔防障壁(マナバリア)】を使える賊なんて、初めて見たわ」

 

【魔防障壁】──己の魔力を使い、一時的に魔法への耐性を上昇させる防技の一つである。

 

 大したダメージは受けていないことを確認し、僕は剣を構え床を蹴る。少女との距離はさほど開いてはおらず、一気に詰めた──が、

 

「なっ……?」

 

 気がつけば、僕のすぐ目の前にいたはずの少女の姿が、消えている。慌てて周囲を見渡す直前、横から声が上がった。

 

「【闇魔弾】!」

 

 瞬間、僕はその場から跳び退く。遅れて、ついさっきまで僕が立っていた位置にあの黒い球体が着弾し、爆ぜて床に穴を開けた。

 

「言っておくけど」

 

 声のする方に視線を向ける。案の定そこには少女が立っており、先ほどと同じように周囲にはナイフが浮かんでいた。

 

「この屋敷の中じゃ、私には絶対に勝てない。だから、無駄な抵抗は止めてくれる?」

 

 彼女の言葉を無視して、僕は再び床を蹴って駆け出す。今度は両足に【強化(ブースト)】をかけており、先ほどよりも素早く少女との距離を詰めることができたが────

 

「……無駄だって、言っているのに」

 

 ────またもや、少女は僕の目の前から消えていた。呆れたような声が、僕の背後から聞こえてくる。

 

 頭で考えるよりも先に、身体が動いていた。床を転がって、その場から離れる。一瞬遅れて、ナイフの雨が降り注いだ。

 

 木製の床が喧しく悲鳴を上げる。顔を上げれば、数十本のナイフが床に突き立っていた。少し経って、霧のように薄れて霧散する。

 

「…………」

 

 こちらを刺すような少女の眼差しを受けながら、僕は考えていた。

 

 ──瞬間移動……【転移】か?いや違う。それらしい魔力の動きはなかった。

 

 思考を巡らす間にも、少女の攻撃が僕を襲う。突き刺さらんと飛来するナイフを躱し、【闇魔弾】は【魔防障壁】を使って防ぐ。幸い彼女の魔力はそれほど強くはなく、耐性さえ上げてしまえばダメージはない。

 

 警戒するとしたら、ナイフ。こればかりは躱さなければ。

 

「ちょこまかと……!」

 

 やがて痺れを切らしたように、少女が苛立ちを滲ませながら呟く。と、そこで僕はあることを思い出した。

 

『あ、ウインドアさん。これあげます』

 

 それはフィーリアさんの言葉。彼女はそう言って、僕にとあるものを渡してくれた。彼女にしてみればただの気紛れだったのだろうが──今この瞬間、それがこれ以上にない最高の贈りものになった。

 

 ──ありがとうございます、フィーリアさん……!

 

 すぐさま【次元箱(ディメンション)】を使い、そこから拳大の麻袋を取り出す。そしてその麻袋からそれを──魔石を取り出した。

 

 取り出すと同時に、そのまま躊躇いなく魔石を少女に向かって投げつける。魔石は寸分違わず少女の顔面にへと飛んでいき──突如現れた一本のナイフによって貫かれ、粉々に砕かれた。

 

「お粗末な飛び道具」

 

 嫌悪感を詰め込んだ少女の一言。そんな彼女の周囲を取り囲むようにして、砕け散った魔石の欠片が床に転がる。

 

 それを確認し、僕はすぐさま駆け出す。開いていた少女との距離は瞬く間に詰まり、迫る僕を見て少女は嘆息する。

 

「あなた学習しないの?いくらそうやって近づいてきても、私は捉えられない」

 

 うんざりとしたように、少女がそう言った──瞬間だった。

 

 バチジジジッ──突如、少女の周囲に散らばっていた魔石の欠片全てが発光し、まるで稲妻のように瞬いた。

 

「……なに?え、なんで!?」

 

 そこで初めて、無表情だった少女の顔が崩れた。先ほどまでの余裕をなくし、その表情に焦りの色が帯び始めていく。

 

「あっ…!」

 

 ハッと、少女が振り向く──だが、僕はもう既に彼女の目と鼻の先にいる。

 

 先ほど僕が投げた魔石は、フィーリアが独自に開発したというもので、なんでも粉々に砕き、その欠片を対象の周りに散らせることで、魔力や魔石を使った転移、またはなんらかの能力での移動を阻害することができるのだ。

 

 ──間合いに入った。

 

 視界に、少女の顔が映り込む。焦りと動揺と、そして恐怖に引き攣っていて、蒼い瞳は剣を捉えている。

 

 慌ててその場から離れようとしてはいたが、身体を上手く動かせていないようだった。恐らく、思考に身体が追いついていないのだろう。

 

 そんな彼女の様子を目の当たりにしつつ、僕は振り上げた己の得物を、振り下ろそうとした。無防備にも晒されていた白い首筋に、この冷たい刃を叩きつけようと、宙に滑らせようとした──だが、

 

「…ッ」

 

 あるまじきことに、ほんの一瞬だけ躊躇してしまった。振り下ろそうとした腕を、ほんの一瞬だけ鈍らせてしまった。時間にしてみれば数秒にも満たない僅かなもの──しかし、少女が次の行動に移るのには充分なものだった。

 

 未だ顔を引き攣らせながらも、ややぎこちなく少女は僕に向かって手を突き出す。瞬間、僕の身体を衝撃が貫いた。

 

「がッ……!」

 

 内臓が圧迫される痛みと異様な不快感に、僕は堪らず後ろに退がってしまう。咄嗟に前を向くと、少女は少しの驚きと不可解が入り混じった表情を浮かべ、そこに立っている。彼女の足元に転がっていた魔石の欠片はもうなくなっている。

 

 ──やってしまった……。

 

 心の底から悔やむ。もしあの時躊躇なんかせず剣を振り下ろすことができていたら、この戦いは終わっていた。……だが、僕は躊躇ってしまった。この少女の首を斬り落とすことを、躊躇ってしまった。

 

 今さら後悔しても遅い。遅過ぎる。気を引き締め、剣を構え直す僕に、納得がいかないような眼差しを送りながら、少女が声をかける。

 

「……お人好しね、あなた。けどこの屋敷に踏み入った以上、容赦はしないわ」

 

「…………」

 

 少女の動向を警戒しながらも、僕は視線を流す──先輩は、未だ床に倒れており、起きる気配は皆無だった。

 

 そんな僕に対して、少女が言う。

 

「そんなにその子が大事?」

 

 その言葉に対して、僕は沈黙で返す。するとなにを思ったのか、唐突に少女は腕を振り上げた。

 

「気が変わったわ」

 

 瞬間、彼女の腕の周囲を囲むようにして、五つの黒い球体が浮かび上がる。その光景を目にした時──既に、僕の身体は動いていた。

 

 駆ける僕を尻目に、淡々と少女が呟く。

 

「【五連闇魔弾(フィフス・ダークスフィア)】」

 

 少女の呟きに、五つの黒い球体が先輩に向かって放たれた。



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Glutonny to Ghostlady──闇、全てを呑みて

「【五連闇魔弾(フィフス・ダークスフィア)】」

 

 淡々とした少女の呟きに続くようにして、前に突き出された手から五つの黒い球体が放たれる。それは大気を震わせ、抉り、そして侵しながら真っ直ぐに、正確に──床に倒れ伏す先輩の方へと、向かっていく。

 

 そんな光景を目の当たりにしながら、気づいた時にはもう僕の身体は動いていた。握っていた剣を放り出し、床を蹴りつけ、無我夢中で駆け出していた。

 

 なにも考えられなかった。他のことを考える余裕など、持ち合わせることができなかった。ただ必死に、あの魔力の塊が先輩の身体を吹き飛ばす前に、自分が辿り着くことしか、頭になかった。

 

 球体が先輩に迫る。昏倒し、これ以上になく無防備となっている先輩に、人の命を散らすには充分過ぎるほどの威力を秘めた球体群が迫る。

 

 僕は先輩に向かって、無意識に手を伸ばし、そして──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……まさか、本当に助けるなんて、思いもしなかったわ」

 

 奇妙とも、感心とも取れるような声音で少女が言う。そんな彼女の言葉を、ぼんやりとする意識の中で、僕は辛うじて聞き取った。

 

 結論から先に述べるなら、先輩は無事だ。見た限り、傷一つとない。それを確認し、背後に向けていた顔を、ゆっくりと僕は前に戻す。

 

 自分でも信じられなかった。咄嗟に駆け出せたとはいえ、正直な話──間に合うとは思っていなかった。

 

 だが、ギリギリ──本当のギリギリ、間に合った。飛来する【五連闇魔弾】から、横たわる先輩を庇うことができた。

 

 その事実を、現実を頭が受け入れた瞬間──全身を砕くような激しい鈍痛に危うくその場で倒れそうになった。

 

 すぐにも崩れかけている膝を、ありったけの根性となけなしの気力でなんとか支える。そして背後の先輩を隠すように、僕は両腕を広げ、少女を睨めつけた。

 

「…………」

 

 一瞬でも気を抜けば、失神するだろう僕を、少女は黙って見つめる。蒼い瞳が、じっと静かに、こちらのことを見据える。

 

 両者互いに、口を閉ざす。沈黙が寝室を満たし──数分。先にそれを破ったのは、僕だった。

 

「…こ、の……人、には」

 

 たったそれだけのことを言うのに、かなり手間取った。何度も噛みそうになるのを必死に隠して、絶対の意志を込めながら僕は彼女に告げる。

 

「指、一本……触らせない……ッ!」

 

 もう、僕に余力は残されていない。こうして立つだけで、精一杯である。とてもではないが戦えない──それでも、そう言わずにはいられなかった。

 

 虚仮威しでしかない僕の言葉を、少女はどんな風に受け取ったかはわからない。僕の虚勢を前に、彼女は嘲笑うこともなく、恐怖することもなく、ただ依然として黙ったまま──ゆっくりと、その場から歩き出した。

 

 もう一歩も動くことができない僕は、身構えることしかできない。そして身構えたとしても、その先からなにができる訳でもない。けれど決して退かず、ゆっくりとした足取りで迫る少女を睨みつけた。

 

 数分かけて、少女は僕の目の前にまで歩いてきた。そして彼女は──唐突に、両腕を静かに振り上げた。

 

 思わず身体を強張らせる僕に、少女の手が伸びる。それは首筋に近づき──そっと、指先で撫でた。こそばゆい感触に、堪らず足が震えた。

 

 ──な、なんだ!?

 

 てっきり喉笛でも掻っ切るつもりだと思っていただけに、僕は驚くを隠せない。そんな僕を他所に少女はそのまま両手を上げて──なんの冗談か、僕の頬に添えた。

 

 予想だにしていなかった行動に、僕の頭は混乱を極める。なにをしているんだと、僕をどうするつもりだと訊きたいのに、上手く口が動かせない。

 

 そんな僕を少女はやはり黙ったまま、見つめる。サファイアのような蒼い瞳に、たじろいでいる僕の顔が映り込む。

 

 再度訪れる沈黙──しかしそれはまたもや破られる。が、言葉によってではない。

 

 今度の沈黙を破り裂いたのは────突如として、その蒼い瞳から流れた、一筋の涙だった。

 

「っ?!」

 

 ギョッとする僕に、まるで信じられないように、頬に触れる手をわなわなと震わせながら、少女が閉じていた口を開く。

 

「嘘、でしょう……?こんなの、見たことない。ないわ……」

 

 呆然としながら、少女が続ける。

 

「何処までも澄み渡った、青空みたいに綺麗な心……なのに、どうして?ねえ、どうしてなの?」

 

 少女の声に、もはや憎悪は少しも込められていない。全く躊躇することなく顔を寄せて、彼女は僕に純粋な疑問をぶつけてくる。

 

「あなたの心には、亀裂がある。それも大きな、深い亀裂。普通ならもうとっくに砕けているはずなのに……どうしてまだ正気(かたち)を保っていられるの?あなたの心を、なにが支えているの?」

 

「…………」

 

 その問いに、僕はどう答えればいいのかわからなかった。ただでさえこうして立っているだけでもやっとなのに、心だとか、亀裂だとか急に言われても、それに対して答えを返すなど、できる訳がない。いやたとえ平常時であっても、無理だろう。

 

 ……しかし、たった一つだけ、少女の言葉の中に心当たりがある。それは────

 

 

 

 

 

『なにをしている、アリシア』

 

 

 

 

 

 ────唐突に、寝室に声が響き渡った。若い、男の声だった。

 

「ひっ…!」

 

 その声に、少女が微かな悲鳴を漏らす。そしてよろよろと、僕から数歩後退(ずさ)る。

 

 ──きゅ、急にどうしたんだ?いやそれよりも、さっきの声は誰だ?

 

 周囲を見渡しても、今この部屋には僕と先輩、そして少女の三人しかいない。僕は男だが、言うまでもなくさっきの声の主ではない。

 

『そいつはもう動くことすらままならん。殺すのは容易いことだろう──だというのに、なにを手間取っている。アリシア?』

 

 またしても、寝室に姿の見えない男の声が響く。その声に少女──アリシアの顔が、みるみる青ざめていく。

 

「い、今!今すぐに殺します!」

 

『ならば、さっさと殺せ』

 

「は……はい!」

 

 男の声に急かされて、アリシアが再び僕に詰め寄る。いつの間にか、その手にはナイフが握られていた。

 

 顔面蒼白のまま、アリシアは僕の目の前に立つ。その時──彼女の背後で、真っ黒なものが蠢いた。

 

 それはまるで濃霧のように宙を漂い──かと思えば、素早い動きで僕に殺到する。それが僕の身体に纏わりついた瞬間、全身が固まった。

 

「っ!?……ぁ……!」

 

 指一本、全く動かせない。微動だにしない。まるで水中にいるみたいに全身が重い。呼吸が上手くできず、息苦しい。

 

 なにが起きたのかわからず、混乱する僕を他所に、あの男がまた響く。

 

『これならば確実に殺せるだろう。さあ、殺れ。アリシア』

 

 アリシアは、腕を振り上げる。ぶるぶると激しく震えており、手に握るナイフの切っ先が絶えず揺れていた。

 

 彼女は浅く荒い呼吸を繰り返し、僕を見つめる。その蒼い瞳は、懊悩するかのように揺れている。

 

 やがて、アリシアの腕の震えが止まった。

 

「……ッ、あ、あぁ…ッ!」

 

 それは苦悩の呻き。彼女が僕を殺すことを躊躇しているのは、明らかだった。そんな彼女の背中を押すように、男の声が響いた。

 

 

 

『父を、救いたいのだろう?』

 

 

 

 その言葉に、ハッとアリシアは瞳を見開かせる。そして、覚悟を決めたようにスッと細めた。

 

「………………ごめん、なさい」

 

 それだけ言って、アリシアは────ナイフを振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……い」

 

 嗚咽混じりの、声。どうしようもなく震えた、その声が続ける。

 

「殺せ、ない……!もう、私はこの人を殺せない……ッ!」

 

 アリシアの悲痛な声が、静かに響く。彼女の振り下ろしたナイフは、空を切っていた。

 

「こんなに綺麗な心の持ち主を殺すなんて、私にはできない……!」

 

 アリシアの蒼い瞳から、止め処なく涙が溢れ零れ落ちていく。彼女の手からナイフが滑り落ち、床に突き刺さる直前、やはりそれは霧のように霧散した。

 

『………………そうか』

 

 男の声は、明らかに落胆しているようだった。次の瞬間、僕の身体に纏わりついていた感触が消え失せた。

 

 フッと身体が軽くなり、僕は前のめりに倒れそうになって、なんとか踏み止まる。呼吸も正常に戻り、肺に充分な酸素を取り込むために、何度も息を吸っては吐くのを繰り返す。

 

 そして顔を上げ────呆気に取られた。

 

「……え?」

 

 間の抜けた声が、無意識に僕の口から漏れる。ただ、そうすることしか、できなかった。

 

 

 

『残念だよ、アリシア。実に……残念だ』

 

 

 

 先ほど僕の身体に纏わりついていたのは、それだったのだろう。濃い靄のような、霧のような、濃淡のある影とも思える闇。その闇は不気味に蠢き、脈動しながら──アリシアの身体を貫いていた。

 

 彼女の腹部から生え出た闇が大きく揺れる。その光景を黙って見ることしかできない僕に、今にも消え入りそうな声でアリシアが力なく言う。

 

「ごめんなさい……どうか、逃げて……」

 

 それが、最期の言葉だった。アリシアから突き出た闇が一際大きく震えたかと思うと、次の瞬間爆発を起こしたかのように増大した。アリシアの身体が瞬く間に黒く染められ、呑まれていく。

 

 それだけでは終わらない。氾濫した川のように闇は寝室に溢れ、僕と先輩をも呑み込まんとする。

 

「せ、先ぱ──

 

 荒れ狂う闇に抗いながら、僕は先輩にへと手を伸ばす。しかし、未だ眠りから覚めぬ先輩の身体は──無慈悲にも、僕の目の前で闇に沈んだ。

 

 ──っ、ぁ」

 

 頭の中が、一瞬で真っ白に染まる。なにも考えられず、ただ虚空に手を伸ばしたまま──やがて、僕の視界は黒で満たされた。



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Glutonny to Ghostlady──『七魔神』〝暴食〟のヴェルグラト

「おい、起きろ小僧。貴様いつまで寝ているつもりだ?」

 

 不意に、そんな男の声が鼓膜を揺らした。それによって僕の意識は覚醒し、閉じられていた瞼をゆっくりと開く。

 

 頬の下に感じるのは、石の硬い感触。まだ寝起きで働かない頭でそれを確かめながら、初めて自分が横になっていたことを自覚した。

 

 ──いつ、の間に……?

 

 身体が妙に重い。頭が上手く回らない。僅かに頭痛がする。額を手で押さえながら、なんとか上半身を起こす。

 

 周囲は、薄暗かった。鼻腔を埃とカビの臭いが突く。一体、ここはどこなのだろう?

 

 そう思い、まだぼやける視界を巡らそうとした時だった。

 

「この不届き者め。この私をさて置いて、部屋の状況を確認している場合か?万死に値するぞ、愚鈍が」

 

 怒りと不快を少しも隠さない男の声が響くと同時に、僕の身体を重圧と衝撃が襲う。呻くことすらできず、僕は石床に顔面を押しつけなりそうにながら、その場から勢いよく吹っ飛ばされた。

 

「が……ッ」

 

 壁に背中が勢いよく激突する。しかもまだ立ち上がっていなかったため、膝から下全体を思い切り石床で擦られた。皮が擦り剥け、後から滲むような痛みが出てくる。

 

 ──な、なにが……起きて……!

 

 訳がわからない状況に、完全に頭が追いつかない。それでも改めて周囲を見渡して──僕は気づいた。

 

 誰かがいた。座っていた。それを認識した瞬間──バッと、部屋の至るところから光が噴き出した。

 

 目を潰さんばかりの、眩く荒らしい光。それを発しているのは、無数の金銀財宝。今初めて気づいたのがおかしいと感じるほどに大量の、それこそこの場所を埋め尽くすほどの金貨や宝石類があり、信じられないことにそれら全てに微弱な魔力が宿っており、それが光を発しているのだと僕は理解する。

 

 足全体に走る痛みを無視して、立ち上がり呆然とする僕に、あの寝室で響いた男の声が再度かけられる。

 

「だがまあ、大したものよ。なにせここに──この地下室に訪れることができたのは、貴様が初めてだ小僧。その点に関してだけは褒めてやろうじゃあないか」

 

 その声がした方向を顔を向ければ、そこには椅子があった。しかし人一人が座るには明らかに巨大で、細部にまで余すことなく黄金が使われているだろうそれは、玉座と表するべき代物である。

 

 そしてその玉座には──一人の男が足を組みながら、座っていた。

 

 短く切り揃えられた髪は、影をそのまま流し込んだかのように黒い。それと対照的にその身を包むのは純白のスーツであり、汚れはおろか微かなシミ一つすらない。

 

 男は、非常に──それこそ人間とは思えないほどに整った顔立ちをしていた。まるで作り物の、人形のような非生物的な美を、そこに宿している。そしてそれを裏付けるかのように、僕に向ける瞳はゾッとするほどに昏く、|生命(いのち)の温かみというものが一切感じ取れなかった。

 

 冒険者(ランカー)としての勘が告げる。本能が喧しいばかりに警鐘を鳴らす。今、自分の目の前に座る男は────明らかに危険だと。

 

 息を呑むことすらできず、ただ黙る他ない僕に対して、さらに男は言葉をかける。

 

「そんな顔をしてどうしたのかね?もしやこの私に畏れを抱いたのか?だとすれば、実に賢しく、利口だぞ小僧。その恐怖──畏怖は正しいものだ。ああ、仕方のないことだ」

 

 実に傲慢極まりない、不遜な物言い。しかしそのことに対して苛立ちも、一切の不快感も抱かない。抱けない。僕の心を支配するのは、この男の言う通り純粋な恐怖だ。

 

 冷や汗を流し、ただ戦々恐々とする僕に、男は言う。

 

「ではそれに免じて、貴様に権利をやろう。偉大なる我が名をその耳にすることを。私の善意に平伏し、咽び泣き、そして歓喜にその身を震わせ拝聴しろ」

 

 まるで己がこの世界の頂点に座する存在(モノ)だと言うように。己以外の存在など塵芥の(クズ)でしかないと言わんばかりに。

 

 瞬間、男から魔力が溢れ出す。それはドス黒く──まるで闇そのもの。それに当てられ、堪らず僕は全身を震わせ竦み上がってしまった。

 

 ──む、無理だ。殺され……る……ッ。

 

 本能が理解する。僕は絶対に勝てない。今、目の前に存在する男からすれば、自分などちっぽけな、それこそ吹けば飛んで消える命でしかない。

 

 勝手に笑い始める膝を懸命に押さえる僕に──男は告げた。

 

 

 

 

 

「私の名はヴェルグラト。魔界を統べる『七魔神』が一柱──〝暴食〟のヴェルグラト様だ」



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Glutonny to Ghostlady──二百年の屈辱と、五十年の復活

「私はヴェルグラト。魔界を統べる『七魔神』が一柱──〝暴食〟のヴェルグラト様だ」

 

 絶対的強者による威圧感に、慄き恐怖し固まるしかない僕に、禍々しく邪悪極まる魔力を放ちながら、玉座に座する男──ヴェルグラトは名乗った。対し、僕は口を閉ざし、なにも言えなかった。

 

 ──七、魔神……?

 

 魔界についてはともかく、それは全く聞いたことのない言葉だった。だが一つだけはっきりとわかるのは──この男、ヴェルグラトが僕たちにとって敵か、少なくとも味方ではないということ。

 

 彼が放つその魔力、かつてオールティアに襲来した滅びの厄災──『魔焉崩神』エンディニグルと同等、もしくはそれ以上だ。もしこんな存在が外に出ようものなら──瞬く間に地上は滅びるだろう。

 

 ──サクラさんか、フィーリアさんに知らせないと……!

 

 この滅びの厄災となんら変わらない存在に対抗できるのは、あの二人だけだ。そう思い急いで頭を回すが、なにも思いつかない。……いや、たとえ彼女たちにこの脅威を知らせる術があったとしても、それを実行させることをこの男は許しはしないだろう。同じ立場であったらなら、僕もそんなことはさせない。

 

 ──どうすれば、いいんだ……!?

 

 必死に考えるが、なにも思い浮かばない。ただただ焦ることしかできない自分に腹を立てていると、不意にヴェルグラトが恍惚とした声を上げた。

 

「おぉ……おお!良い、実に良いぞ小僧!怯え…怒り…焦り……やはり負の感情は美味よなぁ。ああ、美味といえば」

 

 そこで一旦言葉を止め、右手で顔半分を覆い隠しながらヴェルグラトは小刻みに肩を震わせる。遅れて、彼が笑っているのだと、僕は理解した。

 

 悦に浸った声で、ヴェルグラトが言う。

 

「あの娘──アリシアも中々の美味であった。今考えれば、少し惜しいことをしたやもしれん」

 

 ──アリ、シア……。

 

 その名前を聞いた瞬間、僕の脳裏に先ほどまでの光景が蘇る。

 

『ごめん、なさい……どうか、逃げて……』

 

 腹部を貫かれながらも、その瞳に涙を浮かべて僕にそう言い遺し、闇に呑まれた少女の──アリシアの最期の姿。気がつけば、僕は呆然としながら口を開いていた。

 

「……あの子、は……」

 

「んん?アリシアのことか?」

 

 僕の声はそう大きくはなかったが、ヴェルグラトは聞き取っていた。一切の光を通さない漆黒の双眸をこちらに向け、その口を薄気味悪く吊り上げたかと思うと、彼は言った。

 

「あの娘はこの世界から消滅した。もう二度と生まれ変わることもあるまい。いやあ、実に哀れで、最後の最期まで救われん娘だった」

 

「……え?」

 

 ヴェルグラトの言葉は、理解できなかった。この世界から消滅した──もう二度と生まれ変わることもない──それは、一体どういう意味なのだろうか。

 

 僕が混乱していると、不意に玉座からヴェルグラトが立ち上がった。

 

「小僧。今私はすこぶる機嫌が良いのでな、戯れに教えてやろう──この『七魔神』〝暴食〟のヴェルグラトが受けし二百年前の屈辱と、五十年をかけた復活を」

 

 ヴェルグラトがそう言った瞬間、僕の身体が硬直した。手足はおろか指一本も、身震い一つすらも起こせない。

 

 ──僕は、なにをされて……!

 

 見ていた限りでは、ヴェルグラトがなにかしたようにも、魔法を使ったようにも見えなかった。ただ、僕にその昏い眼差しを向けているだけにしか、思えなかった。

 

 ただただ混乱するしかない僕に、彼は続きを語る。

 

「二百年前、私は魔界だけでなくこの地上をも手中に収めようと、我が精鋭の配下である悪魔を率いて、魔界から発ち地上にへと降り立った。そして蔓延る下等な人間共を蹂躙し、一つの大陸をこの手に墜とさんとした──その時だった」

 

 瞬間、ヴェルグラトから膨大な魔力が噴き出す。まさにそれは──彼の憤激を表していた。

 

「奴が、現れた。見た目はただの人間の男だったが──信じられんことに奴は一瞬にして千を超える私の魔の軍勢を葬り去り……油断していたとはいえ、あろうことかこの〝暴食〟の魔神たる私ですら、拳一つの一撃で斃した」

 

「な……」

 

 思わず絶句せずにはいられない話だった。再度言うが僕の目の前に立つこの存在は、人類の絶対敵である厄災の滅びに匹敵する。僕たちが絶対に敵わない存在であり、唯一対抗し得るのは『極剣聖』サクラ=アザミヤと、『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアと、在りし日の先輩──『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズの三人だ。それは間違いない。

 

 ──既に、二百年前の時代にはLv100に到達した人がいたのか……!?

 

 Lv100。人でありながら、人を超えた存在(モノ)。その剣の一振りで山を断ち海を割り天を裂く。その魔法一つで天変地異を起こし理すら歪める。その身のみで竜を屠り──そして魔神すらも斃す。

 

 ……実を言えば、サクラさんもフィーリアさんも、ラグナ先輩も。この三人がLv100として認知されたのはごく最近のことだ。この中で一番の年長者であるサクラさんですら、彼女がLv100であると確認されたのはまだ十年前のこと。サクラさんこそ最初の(・・・)Lv100だと、言われていたのだ。

 

 だが、ヴェルグラトの話が本当だとすれば──人外(Lv100)は、二百年前には少なくとも一人、存在していたのだ。

 

 Lv100に関する歴史を根底からひっくり返す話を聞かされて、絶句する僕に、構わずヴェルグラトは続ける。

 

「しかし魔神である私にとって、肉体的な死は一時の休息に過ぎん。肉体を滅ぼされた私は、魂のみでこの地上に留まり、いかにして再び肉体を得るかを画策し──五十年の月日が流れ、転機が訪れた」

 

 そう言って、ヴェルグラトは唐突に背を向け、ゆっくりと歩き出す。その先にあるのは──ただの闇だった。周囲は輝き煌めく宝石で埋め尽くされているというのに、その一帯だけが濃い影が、広がっていた。

 

「私の肉体を構築し得るだけの量の魂が集まっているのを感じ、そこに向かうと──ある人間の男が儀式を行なっていた。実に稚拙なものであったが……それは紛れもなく、悪魔を呼び出す儀式だったのだよ」

 

 そこでヴェルグラトは再び僕に振り返った。彼の顔にあったのは──意地汚い、薄ら笑みだった。

 

「なにを隠そう、その男こそこの屋敷の主だった者──ディオス=ゴーヴェッテンだ。彼奴は百人はいた使用人を自らの手で殺し、悪魔降臨の儀を行なっていたのさ!」

 

 なにがそんなに面白いのか、ヴェルグラトは茶化すように言う。対して僕は、口を開くことすらできないでいた。

 

 ──ディオス=ゴーヴェッテンが、悪魔を喚び出す儀式を……?

 

 彼は、一体どんな目的でそんなことをしようとしたのか。まあそれはともかく、もしこの魔神の言うことが真実ならば、ディオスは乱心し、ただ使用人を殺した訳ではないらしい。

 

「しかしまあ、そんなことはどうでもいい。私にとって重要だったのは儀式……正直魔神であるこの私が悪魔の真似事なんぞ御免被りたかったが、利用させてもらった。捧げられた百人とディオス=ゴーヴェッテン──そして彼奴の娘アリシアの魂を糧に、こうして私は再び肉体を得て現界できたのだからなぁ」

 

 肩を震わせ、ヴェルグラトが笑う。一体なにがそんなに面白おかしいのか、僕には全く理解できなかった。

 

「だがこう見えても私は義理堅い性分でな、彼奴の望みを叶えると同時により多くの魂を喰らうため、彼奴が悪魔に身を委ねても殺したかった者の元に向かった──ふふ、ははははッ」

 

 いきなり大笑いするヴェルグラト。唐突過ぎるその様子に堪らず困惑していると、やがて彼は落ち着いた。

 

「いやぁすまんなあ。今になっても、この先を思い出すと笑いが込み上げてくるんだ。実に、あまりにも愉快なことだった故に。……人間というのは実に醜い生物よなあ」

 

 天井を仰ぎ、しみじみとヴェルグラトは呟く。彼のその言葉を僕が理解するよりも早く──彼は続きを語った。

 

「『あいつよりも大量の魂を用意する。俺にはその手立てがある。だから、俺を見逃してくれ。どうか殺さないでくれ』──だったか。くく、本当に人間は愚かだ。愚かで、自分が助かるためならどんなことでもする。まあその意地汚さ、生き汚なさが私の好物である所以なのだが。ともかく、私は魂さえ得られればどうでもよかった」

 

 だから──と、ヴェルグラトは続けた。

 

「乗ってやった。本来悪魔は契約を違えられん定めにあるが、私は魔神。そんな定めなどとは無縁だ。結果この屋敷には一生遊んで暮らせるだけの財宝があるという噂が流れ、それを聞いた賊共は掃いて捨てるほどここに訪れた。おかげで元の力を取り戻し、そしてそれ以上の力を蓄えられるほどの魂を集めることができた。アリシアは今までよく働いてくれたなあ」

 

「…………働いて……?」

 

 その単語に引っかかり、思わず口に出して呟くと、ヴェルグラトはこちらを向いて頷いた。

 

「私自ら魂を集めることなどある訳ないだろうが。私の中にある膨大な魂からアリシアの魂を拾い上げ、一つ道を示してやったのさ──私の眷属となり、私に従い、私が満足する量の魂を集められたのなら父を蘇らせてやる──となぁ。だいぶ葛藤していたが、結局あの娘は我が魔力をその身に受け入れた」

 

 そこでまたヴェルグラトは手で顔を覆い、肩を小刻みに揺らす。そして愉快で堪らないというように、その続きを語る。

 

「実に素晴らしい見世物だったぞお。苦悩しながらも己の父の屋敷を荒らす賊を殺すアリシアの姿は。躊躇いながらも人を殺め、これも父を蘇らせるためと必死に自分に言い聞かせ、罪の意識から逃れるために、徐々に己が心を自ら砕いていくあの姿はぁ!今でも思い出すと最高に笑いが込み上げてくる!是非とももう一度この目で見たいものだよ!」

 

 まるで玩具(おもちゃ)に夢中になっている子供のように、嬉々として語るヴェルグラト。今になってその声が──酷い雑音にしか、僕には聞こえなかった。

 

 わかっている。再三言うが、この男に敵わないことはわかっている。……それでも、訊かずにはいられなかった。

 

「……一つ、訊かせてください」

 

 半ば答えのわかり切っている問いを、僕はヴェルグラトに投げかける。

 

「あの子が……アリシアが、魂を集めれるだけ集められたとして──あなたは、本当にあの子の父を蘇らせたんですか」

 

 この、僕の問いかけに対して、数秒の沈黙を挟みヴェルグラトは────

 

 

 

「そんな訳ないだろう。あんなのもの、ただの口からの出任せだったからなあ」

 

 

 

 ────最高に不愉快極まりない満面の笑みで、そう答えた。

 

「…………」

 

 言葉が出ないというのは、こういうことなのだと僕は実感する。拳一つすら握り締められないことを、これ以上にないほどに不甲斐ないと思いながら、僕は込めれるだけの怒りと嫌悪を込めて、言葉を吐き捨てた。

 

 

 

「人の心を、想いを……玩具にするなクズ野郎……!」



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Glutonny to Ghostlady──〝暴食〟の余興

 アリシア=ゴーヴェッテンという一人の少女について、僕はよくは知らない。当然だ。なにせ今日出会ったばかりなのだから。

 

 だが、それでも──彼女の言葉を聞けば、おおよそはわかる。彼女が一体どういう人間だったのか。

 

『お父様の屋敷を荒らす賊は、絶対に許さない……!』

 

 父親思いの、

 

『ごめんなさい……どうか、逃げて……』

 

 心優しい少女だったのだと、それだけはわかった。

 

 父親に命を奪われたというのに、その父親を救うため。誰に頼ることもできず、ただ独り苦悩に苛まれ葛藤に身を焦がされながらも、己の心を自ら打ち砕きながらも、アリシア=ゴーヴェッテンは歩き続けた。その道の果てに、大切な父親が待っているのだと、そう信じて。

 

 ……だからこそ、僕は許せなかった。そんな健気な少女の心を弄び、決意を嘲笑い、想いを踏み躙ったこの魔神が、どうしても許せなかった。

 

「人の心を、想いを……玩具(おもちゃ)にするなクズ野郎……!」

 

 後先のことなど考えずに、睨みつけながら僕はヴェルグラトに向かって、そう吐き捨てた。とてもではないが、そう言わずにはいられなかったのだ。もし身体が動かせていたら──言葉よりも先にその胸糞の悪い、不愉快に尽きる顔面を殴り飛ばしていたかもしれない。

 

「…………」

 

 ヴェルグラトは、なにも言わなかった。ただ一瞬にして歓喜に満ちていた表情を無に変え、開いていた口を閉ざしていた。

 

 間に沈黙が流れ────刹那、フッと僕の身体に自由が戻った。

 

「うわっ……!」

 

 あまりにも突然だったので、前のめりになって倒れそうになる。が、問題はなかった。

 

 ドッ──直後、腹部を思い切り殴りつけられたような、重い衝撃が叩いた。

 

「がはッ?!」

 

 内臓のほとんどが圧し潰されたのではないかと思う間もなく、後ろの壁の方にまで僕は吹き飛ばされる。背中と壁が激突し、一瞬にして肺に残っていた空気が出尽くした。

 

 そしてすぐさま横から同じような衝撃に殴打される。咄嗟に腕で防御(ガード)したが、案の定無意味だった。

 

 踏ん張ることを許されず、僕は今度はそのまま横に吹っ飛ばされ、輝きを放つ金貨の山に突っ込んだ。

 

「ぐ、あ…ぁ……!」

 

 身体がバラバラになったかのような錯覚に襲われながらも、なんとか立ち上がろうとする。しかし、無情にも手足は僕の言うことを全く聞いてくれず、ただ金貨に埋もれながら呻くことしかできなかった。

 

 そんな僕に目もくれず、ヴェルグラトは淡々と言う。

 

「身の程を知れ。口を弁えろ小僧。さっきも言ったが今私は機嫌が良い。本来ならば即座に物言わぬ肉塊にしてやるところだが、その分不相応な勇猛さにも免じてその程度に留めておいてやろう。……さて」

 

 身体の自由は戻った。しかし、未だ手足に力が入らない。僅かに指一本を動かすので、今は精一杯だった。金貨の山から起き上がれずにいる僕に対して、なおもヴェルグラトは言葉を続ける。

 

「再びアリシアの魂を喰らったことで、貸し与えていた魔力も返ってきた。もはや今の私は、二百五十年の私とは比べ物にならん。これならばもう、あの男に遅れなど決して取らんはずだ!ふはははッ」

 

「……そ、れは……どういう……」

 

 ヴェルグラトのその言い方は、彼が言う二百五十年前──彼を倒したという男が、まるで今も生きているかのようなものだった。

 

 だが、そんなことはあり得ない。二百五十年も前の人物が、人間が未だに生きていることなど、絶対にない。もし本当に生きているのなら……それはもう、人間とは呼べない。

 

 そんな僕の気持ちを見透かしたのだろう。金貨に埋もれたこちらにゴミを見るような眼差しを送りながら、ヴェルグラトが言う。

 

「一体どのような手段を取っているのかは見当つかんが、私にはわかる。二百五十年前に奴から受けた古傷が、今もなお疼くのだ。あの男は、確実にまだ生きている」

 

 と、不意にヴェルグラトは指を鳴らす。パチンと乾いた音が地下室に響き渡ったかと思うと──彼の背後にある、壁を覆っていた影が霧散した。

 

 光に照らされてもなお、全く見えないでいたそれに隠されていたものが露わとなり──堪らず、僕は目を見開いた。

 

「先、輩……ッ!?」

 

 壁には、先輩がいた。未だ意識の戻らぬ先輩の姿が、そこにあった。先輩は、鎖で両手を縛られ壁に磔にされていた。

 

 驚いている僕に、恍惚とした声でヴェルグラトが言葉をかけてくる。

 

「この娘は素晴らしいなあ実に素晴らしいぞ。ここまで穢れを知らぬ、純真無垢な魂は初めて見た。さっきも言ったが私はもう充分に力を取り戻したが……〝暴食〟の魔神として、是非ともこの魂は喰らいたい」

 

 そんなことは、絶対にさせる訳にはいかなかった。今すぐにでも先輩を助け出したい──その一心で、なんとか僕は金貨の山から起き上がる。……しかし、それだけでやっとだった。

 

 ──先輩を、助けなきゃ……!

 

 そう思い、未だ鈍痛響く身体に鞭を打つ。だが、無情にも僕の手足は、思うように動いてくれなかった。

 

「ほう。一応まだ立ち上がれるようだな。まあ、そうでないとつまらん」

 

 焦る僕に、ヴェルグラトはそう言うと懐に手を入れ、そこから緑色の、小さな玉を取り出す。一体それがなんなのか、僕が疑問に思う前に、彼は僕に向かってそれを投げた。

 

 緑の玉が、弧を描きながら僕の眼前にまで迫ったかと思うと、宙で粉々に砕け散った。散らばった破片は瞬く間に粒子と化し、僕の身体に降り注いでいく。それから少し遅れて──僕の身体を、淡い緑光が包み込んだ。

 

「な……」

 

 直後、身体から鈍痛が抜け、それどころか感じていた倦怠感や疲労すらも消えていく。一瞬にして重かった身体は、まるで嘘のように軽くなった。

 

 驚き困惑する僕に、ニヤニヤとしながらヴェルグラトが言う。

 

「余興だ、小僧。再三言うが今私はすこぶる機嫌が良い。よって、貴様に機会(チャンス)をくれてやろう。生きるか、死ぬか──その選択の、機会をな」

 

 そう言うと、ヴェルグラトは宙に向かって手を突き出す。瞬間、奥にある財宝の山が揺れ、そこから一振りの黄金の剣が突き出て、宙に飛び出したかと思えばヴェルグラトの手に収まった。

 

 柄を握り締め、ヴェルグラトは確かめるように黄金の剣を軽く振るう。そして、その切っ先を僕に向け言った。

 

「さあ、剣を抜け小僧。一つ、この〝暴食〟のヴェルグラト様と遊戯(ゲーム)をしようじゃあないか」



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Glutonny to Ghostlady──遊戯開始

「さあ、剣を抜け小僧。一つ、この〝暴食〟のヴェルグラト様と遊戯(ゲーム)をしようじゃあないか」

 

 魔力の煌めきを灯す周囲の財宝に照らされ、美麗に輝く黄金の剣の切っ先をこちらに向けながら、不敵な笑みと共にヴェルグラトは僕にそう言った。彼のその言葉に対して、僕はただ冷や汗を流す他ない。

 

 そんな僕に、ヴェルグラトは意地の悪い笑みを浮かべながら続ける。

 

「喜ぶといいぞ小僧。勝負は至って簡単なものだ──貴様はこれから私と斬り結び、擦り傷一つさえ負わせればいい。もしそれができたのなら、貴様のことは見逃し、この屋敷からも出してやる。それに、あの娘も、な。……大切な存在なのだろう?貴様にとって、あの娘とやらは。まあこの遊戯を受けないのなら、今すぐに貴様らの魂を喰うだけだがなあ」

 

 ……ヴェルグラトの言葉に、僕は黙ったままだった。黙ったまま────ゆっくりと、剣を抜いた。

 

 普通ならば、絶対に乗りはしない提案だ。できることなら、今すぐにでもこの場から離脱したい。なんとしてでも逃げ出したい。

 

 だが、それは許されない。一人ならばともかく、先輩を見捨てることなど絶対にできない。絶対にしたくない。もっとも、ここでその遊戯とやらに乗らなければ、僕も先輩も、確実な死を迎えるだけだ。ならば、ごく僅かな可能性でも──必死にしがみついてやるだけだ。

 

 しかし、仮にこの遊戯に僕が勝利できたとして、だ。果たしてこの魔神は約束通り、本当に僕と先輩を見逃してくれるのだろうか。その捻じ曲がった悪辣な性格からして、とてもではないが信用なんてできない。……できないが、ここは乗るしかないのだ。

 

 ──なにが選択だ。こんなの選択もなにもあったもんじゃない。

 

 鞘から抜いた得物の柄を握り締めながら、僕は心の中で悪態をつく。まあ、どんなに喚こうが状況は変わらない。僕は目の前の魔神に擦り傷一つでもつけることだけを、考えていればいい。

 

 そう思いながら、剣を構える。そんな僕をヴェルグラトは微かに笑って、突きつけていた得物の切っ先を上に逸らした。

 

「先手は譲ってやる。いつでもかかってこい、小僧」

 

 ……ヴェルグラトは、明らかに僕を下に見ている。まあ、無理もないというか、そうするのが当然である。彼からすれば、僕などそこらの虫ケラ程度の存在としか思えないだろうし。

 

 先手を譲られ、僕はヴェルグラトを睨み──動かなかった。否、動けなかった。

 

 譲られたからといって、そうすぐに動けるものではないのだ。己とこんなにも──千里は離れているだろう強大な相手を前に、そう考えなしに動けるほど僕は勇猛ではないし、無謀ではない。僕は臆病で、小心者なのだから。

 

 否応にも攻めあぐねる僕に、最初こそ面白がるような視線を送っていたヴェルグラトだったが、徐々にそれも退屈そうなものに変化していき、彼は遂に痺れを切らした。

 

「貴様から来ないのならば……こちらから行くぞッ!?」

 

 そう言うや否や、僕の視界からヴェルグラトの姿が消えた。遅れて、彼の足元の近くにあった金貨や財宝やらが、まるで爆風に巻き上げられたかのようにバラバラに吹っ飛んでいく。

 

「ッ!」

 

 それはもう、ほぼ冒険者(ランカー)としての勘だった。頭で考えるよりも先に、右に向かって剣を振るう。

 

 ガキンッ──直後、鉄同士を思い切りぶつけたような甲高い音が響き、宙に火花を散らした。

 

「ほう。やはりそこらの賊とは訳が違うなぁ。そうだ、そうでなくてはなあ!」

 

 僕によって弾かれた剣の軌道を、無理矢理戻してヴェルグラトは再度僕に斬りかかる。金色に輝く黄金の刃が、宙を滑りながら一閃を描く。

 

 ──腕、が……ッ!

 

 対して、僕はこれ以上になく焦っていた。たった一度弾いただけだというのに、腕がかなり痺れている。

 

 ヴェルグラトの膂力は、常軌を逸していた。腕を【強化(ブースト)】せずに先ほどの一撃を受けていたら、間違いなく折られていたことだろう。

 

 再び刃が迫る。尋常ではない疾さのそれを、僕はなんとか目で追いながら防ぐ。刃と刃が互いに衝突し合い、幾度もその間に火花を咲かせては散らすを繰り返す。

 

 正直に言えば、ヴェルグラトの剣の腕はド素人のそれだ。技も、技術のへったくれもない。これだけに関して言えば──特殊な得物を見事に使いこなしていたギルザ=ヴェディスが大幅に上回っているだろう。

 

 ……だからといって、ヴェルグラトは弱い訳ではない。剣の腕こそ素人だが、その身体能力は完全に人外である。ただ力に任せて剣を振るっているだけだが、その一撃一撃が尋常じゃなく重い。それに剣速も並外れており、正直目で追うのがやっとで、反撃などとてもではないができなかった。

 

「くッ……」

 

 ヴェルグラトの剣を捌き、なんとか後ろに飛び退いた。そんな僕に対して、彼が追撃することはなく、まるで観察するようにこちらを眺めていた。

 

 ──随分余裕そう……いや、当然か。

 

 ヴェルグラトからすれば、僕など砂粒のような認識だろう。今だって、僕にしてみれば先輩の命をかけた戦いだが、ヴェルグラトはただの遊戯としか思っていないはずだ。

 

 擦り傷一つさえ、負わせればいい。……だが、それがとてつもなく、尋常ではないほどに遠い道のりにしか思えない。でも、それでも──と、僕はそう思いながら、剣を構える。

 

 ──先輩は、必ず助ける……絶対に助けてみせるっ!

 

 改めて心の中で固く決意した────直後だった。

 

 

 

 バキンッ──そんな、一際甲高い音を鳴らして。構えた僕の剣が、真っ二つに折れた。



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Glutonny to Ghostlady──【超強化】

 先輩は助ける。なんとしてでも、絶対に──その決意に対して、現実はあまりにも非情で、残酷に応える。

 

 バキンッ──そんな甲高い音を立て、構えた僕の得物である剣は、突如真っ二つに折れてしまった。

 

「…………な、っ」

 

 驚愕する僕を置き去りに、折れた剣身が重力に引かれ、床に落下し、カキンという音が虚しく響き渡る。

 

 ──折れ、た?僕の剣が、折れた……?

 

 現実を受け入れられない僕の頭の中で、ただその言葉が飛び回る。と、唐突にハッと思い出した。

 

 あの大広間(ホール)での戦闘────先輩を辱められ、我を忘れて僕は目の前にいた敵を斬り捨てたが、あの時この剣には相当な負担をかけた。

 

 恐らく、もう既に耐久限度に限界が訪れていたのだろう。しかし僕はそれに気づかず、ヴェルグラトの常識外れな膂力を乗せた剣を受け、弾き、捌いた。……いくら魔力で【強化(ブースト)】していても、僅かばかりの延命に過ぎなかったのだ。

 

 得物を失い、呆然とする僕に対して、嘲笑と共にヴェルグラトが声をかけてくる。

 

「おやおやぁ、これは困ったなあ。それではもう、その剣は役に立たまい。かといって、他の武器は私が持つこの剣以外にはないのだよ。……よって、残念だがこの遊戯(ゲーム)は私の勝ち、ということだなあ」

 

 ……確かに、ヴェルグラトの言う通りだった。こんな剣では、とてもではないが戦えない────ない、が。

 

「……まだだ」

 

 僕は、折れた剣を構え直し、引き続きヴェルグラトと向かい合う。剣は折れたが、僕はまだ立っている。まだ立てる。まだ、戦える。

 

 側から見れば、潔く敗北を認められない、諦めの悪い無様な戦士にしか見えないだろう。別にそう思われても、どう思われても僕は構わない。僕は、諦める訳にはいかない。

 

 何故なら、この遊戯には──この戦いには、先輩の魂が、命がかかっている。たとえ得物が欠けようが折れようが、僕自身が戦える限り、僕は絶対に諦めない。

 

「僕はまだ戦える。……まだ、戦えるんだッ!」

 

 己を奮い立たせるために、僕はそう叫ぶ。そして折れた剣身の先を、ヴェルグラトに向け突きつけた。そんな僕の意志に対し──ヴェルグラトは億劫そうに、この上なく非常に億劫で面倒そうに、手に持っていた黄金の剣を放り捨てた。

 

「くだらん。つまらん。興が冷めた」

 

 己が得物を放り捨てたその行動に、僕が驚愕する最中、凄まじく乱雑にヴェルグラトがそう吐き捨てた瞬間──彼の足元に伸びていた影から、数十本の黒い線が一気に宙に飛び出した。

 

 飛び出した黒い線は、蠢きながらその形を人の拳に変える。その様を僕が認識するよりも早く、ヴェルグラトは呟く。

 

「【影連打(シャドウラッシュ)】」

 

 その呟きが宙に落ちるか落ちないか──彼の周囲にあった数十個の影の拳は、僕に向かって殺到する。その事実をやっと認識する頃には、もう遅かった。

 

 

 

 ドドドドッ──容易く大岩を砕かんばかりの一撃が、一度に何十発も僕の身体を打ち貫いた。

 

 

 

 悲鳴はおろか、呻き声一つすら上げられず、僕は後方に思い切り吹き飛ばされる。固く握り締めていたはずの得物も彼方に放り、再び金貨の山に沈んだ。

 

 身体中が痛い。手足が微動だにしない。奇跡と言うべきか、それとも不幸中の幸いだと言うべきか骨は砕かれていないようだったが、それでもあれほどの強打を受けた僕の身体は、もはや震わすことすらままならないでいた。

 

 こうして意識を保つのも、厳しい状態だ。ほんの少しでも気を緩めた瞬間、僕は失神するだろう。それだけは避けなければならない。……が、たとえここで意識を保たせても、果たして意味はあるのだろうか。

 

 半ば折れようとも離さなかった得物は、手放してしまった。身体ももはや動かせない。こうして、背中に固く冷たい金貨の感触を味わいながら、必死に意識を繋ぎ止めている僕に、なにができるのだろうか。

 

 そう考えてしまった瞬間────あんなにも奮い立っていた気力が、呆気なく削がれた。

 

 ──やっぱり、駄目だった。そもそもこれは遊戯だ。あの魔神にとっては遊戯で、勝負でも戦闘でもなんでもない。

 

 瞼が、重い。徐々に暗くなる視界の中、ヴェルグラトの声が遠く響く。

 

「冥土の土産に覚えておけ、小僧。私はな、絶対的絶望に立たされている最中、それでも欠片ほどの僅かな希望を信じ縋りつき足掻く者が、あまりにもどうしようもなく凄まじいほどに──大嫌いなのだよ」

 

 彼がそう言った瞬間、向こうの方からなにかが金貨を掻き分ける音が聞こえてくる。遅れて、その音が先ほどヴェルグラトが放り捨て、金貨に埋もれた黄金の剣が発したものだと理解した。

 

 ……それを理解したところで、この状況を打破できる訳がないのだが。今すぐにでも意識を放り出しそうになっている僕の元へ、ヴェルグラトがゆっくりと足音を立てながら歩み寄ってくる。

 

「まあしかし、刹那ほどではあったが私も存外楽しめたぞ小僧。その礼と敬意を表して、このヴェルグラト様直々に、剣で貴様の生涯を終えせてやろうではないか。くはは、感謝するといい」

 

 ──それの何処に、感謝しろっていうんだ……。

 

 そう心の中で悪態をつくが、そうしたところで全身に力が入る訳でもない。怒りを燃やそうにも、もはやなんの感情も湧いてこない。

 

 ──ここで、終わる。僕はもう、終わるんだ。

 

 一体自分はなんのために戦っていたのか、なにを守るために剣を取っていたのかすら、わからなくなった。今はただ、身体中が怠い。重い。痛い。

 

 もうなにもかも投げ打って、投げ捨てて、楽になりたい。その思考で、頭の中が埋め尽くされる。

 

 ──…………ああ、畜生。

 

 全部がどうでもよくなり、そして視界が暗転する直前────隅に、その姿が映り込む。

 

 だいぶ距離は離れている。だというのに、不思議なほどに、不自然に思えるほど鮮明に、見えた。見えてしまった。

 

 酷く穏やかで──気持ち良さそうに眠る、先輩の顔が。

 

 

 

「では、さらばだ」

 

 ヴェルグラトの声に続いて、宙を鋭いなにかが斬り裂いていく音がする。時間にして数秒後には、その音の発生源が僕の身体に突き立てられるはずだ。

 

 その数秒が──今はあくびが出るほどに遅く感じ。そして、頭で考えるよりもずっと早く、速く、疾く──僕の身体は、先に動いていた。

 

 亡霊の騎士(ゴーストナイト)の戦闘で消耗した身体に、少女の幽霊(アリシア)の魔法で傷ついた身体に、魔神(ヴェルグラト)の攻撃で打ちのめされた身体に、一体何処にまだ残っていたのかと思うほどに大量の僕の魔力が、無意識に広がり伝わっていく。

 

 魔力が強制的に体力を回復し。魔力が強制的に傷を癒し。魔力が強制的に打ちのめされた身体を動かす──僕の意識とは無関係に、手足に、全身に溢れんばかりの力が勝手に込められていく。

 

 本来ならば、使えないはずの魔法を。決して使えないはずの魔法を僕は発動させていた。これは、【強化(ブースト)】を超える【強化】────

 

 

 

 ──【超強化(フル・ブースト)】。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぁあ──がああああああああッッッ!!!」

 

 全身を駆り立てる衝動と勢いのままに、喉を破かんばかりに叫び、僕は立ち上がりと同時に無我夢中で石床を蹴りつける。その衝撃で、まるで爆発したように石床は割れ砕けた。

 

「な…にィ!?」

 

 これにはヴェルグラトも堪らず驚愕の声を上げ、しかし黄金の剣を振り下ろすことは止めない。金色の刃が、僕に向かって振り下ろされる。

 

 そのままであれば、刃は僕の首に到達し、そしてその斬れ味によって容易く斬り飛ばしたことだろう。しかし、それが実現することはなかった。

 

 何故なら────

 

「だらぁあああッ」

 

 ────振り上げられた、僕の手によって止められたのだから。僕の手のひらに刃が沈み、皮膚を裂く。直後、激痛と共に鮮血が噴き出すが──それだけだ。【超強化】された僕の肉体は、今や生半可な武器では斬ることも砕くこともできはしない。

 

 ギョッとするヴェルグラトを他所に、僕は勢いのままに手を横に振るう。むろん、刃を握ったまま。

 

 べキンッ──黄金の剣身は、呆気なく折れる。

 

「しゃあああぁぁあぁあッ!!」

 

 そして手折った剣身の刃を、ヴェルグラトの顔面に走らせた。



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Glutonny to Ghostlady──発現

「しゃあああぁぁあぁあッ!!」

 

 本能に身を任せた咆哮と共に、僕は手折った黄金の剣身の刃を、躊躇うことなくヴェルグラトの顔面に走らせた。

 

 一体なにが起きたのか、理解できずに呆けるヴェルグラトの顔面に、ビッと一本の線が引かれる。そしてきっかり一秒後に──その線からやけに鮮やかな血が噴き出した。

 

「ぐ、ぁお、お……おおおおおぉぉおぉおおっ?」

 

 少し遅れて、顔を手で押さえ苦悶に満ちた呻き声を漏らしながら、ヴェルグラトは数歩たたらを踏んで退がる。その様を見て、僕の心にしてやったりという感情と満足感が芽生え──直後、全身から異音が鳴り出した。

 

「くぁ、ぎあぁあはがあぁ……!!」

 

 パキパキバキバキという、乾いた大量の枝を同時に叩き折ったかのような音と、ブチブチと身体の中でなにかが立て続けに千切れていくような感覚に襲われ、堪らず僕は意味を為さない悲鳴を漏らしながら床に崩れ落ちる。その音と感覚が止んだかと思えば、次は今までに味わったことのない激痛が、全てを凝縮したような凄まじい激痛に見舞われる。

 

「あぁあぁぁあああぁ……っ」

 

 何故気を失わないのか、失えないのかが堪らなく不思議だった。今すぐにでも床を転げ回りたいのに、身体が言うことを聞かないせいでそれもできない。だから、こうしてじっとこの気が狂いそうになる痛みに耐えるしかない。

 

 瞬く間に視界が滲んで見えなくなる。ぽたぽたとあり得ない量の涙が目から溢れてくる──それでも、僕の頭は鮮明過ぎるまでに、意識を保ったままだった。

 

 ──痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 隈なく埋め尽くしてくる痛みの中、ただ一つ僕は考えていた。

 

 ──でも、これで……先輩を……。

 

 僕はヴェルグラトに一撃を入れた。かの魔神に、擦り傷一つ負わせることができた。自分は──遊戯(ゲーム)に勝ったのだ。

 

 ただそれだけを思い、激痛に苛まれながらも先輩の方に顔を向け

 

 

 

「この糞餓鬼がぁッ!!下等生物の、分際でェッッッ!!!」

 

 

 

 ドゴッ──唐突に、顔面を割らんほどの衝撃を受けて。一瞬にして僕の意識はトんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蹴り上げた青年が、まるで玩具のように軽々と吹き飛び、壁に激突しそのまま動かなくなった様を見届け、荒々しく息を吐き出すと共にヴェルグラトが叫ぶ。

 

「ふざけるなよ人間風情があッ!この『七魔神』が一柱、〝暴食〟のヴェルグラト様にィ!!傷を負わせるなど……身の程を知れこの塵芥屑(ゴミクズ)のカスがあああああッッッ!!!あああアああアアああああアアアアアぁぁァア!!!!」

 

 怒りのままに、ヴェルグラトの魔力が逆巻く。それは暴風の如く荒れ狂い、彼の周囲にあった財宝全てを宙に巻き上げ、粉々に砕き散らす。

 

「許さん!許さん!!許さんんんんッ!!!許さん許さん許さん許さん許さん許さん許さん許さん許さん許さぁぁぁんッッッ!!!!」

 

 ヴェルグラトが腕を振るう。放たれた魔力がその先にあるもの全てを巻き込み、破砕する。

 

 ヴェルグラトが足を叩きつける。それだけで彼の足元一帯の石床に深々と亀裂が刻まれ、少し遅れて爆ぜたように割れ砕け、そこら中に大小様々な破片が飛び散る。

 

「殺す殺す殺すころすころすころすころすころすころすころすコロスコロスコロスコロスコロス殺ス殺す殺殺ころころコロ殺殺すゥッッッ!!!!」

 

 ドッと、ヴェルグラトから怨嗟と憎悪に塗れた魔力が噴出される。その魔力は周囲に残っていた財宝の魔力を侵し、そして貪り────魔力が宙に溶ける頃には、全ての財宝は錆びつき、または朽ち果て、あるいは崩れ落ちていた。

 

「ハア、ハア……ハア……!」

 

 一頻り叫び、己が激昂を散々吐き出して、ヴェルグラトは肩で息をする。そして青年──クラハが吹っ飛んだ方へ腕を振り上げる。

 

「欠片すら残さんぞ、羽虫が……!」

 

 ヴェルグラトの手に、魔力が集中する。もしそれが放たれれば、間違いなく気を失っているクラハの身体は周囲の財宝諸共、この世界から消失することだろう。

 

 一切の躊躇なく、集中させた魔力をヴェルグラトは放つ────直前、ふと彼は思い留まった。

 

「…………そういえば」

 

 呟きながら、魔力を霧散させ腕を下ろす。それから向こうの壁に──正確には、その壁に磔にした赤髪の少女──ラグナに顔ごと視線をやる。

 

 ──先ほど、この小娘と小僧は廊下で盛り合っていたな。小僧の反応といい、行動といい……やはり恋仲か。

 

 脳裏にて再生される記憶(えいぞう)を垣間見ながら、不意にヴェルグラトは口元を邪悪に歪めた。

 

 今度は顔だけでなく、身体を少女の方へ向け、そして歩き出す。今、彼の頭には悍しい思考が渦巻いていた。

 

「そうにもなってまで、守ろうとしたものなぁ。それほどに、大切なのだろうなぁ。貴様にとってこの雌は──なあ、小僧?」

 

 返事などある訳がないことを承知で、ヴェルグラトは背後で未だ気を失っているクラハに言葉をかける。まあ元より返事など彼は求めていないので、問題はないが。

 

 ある程度までラグナの元にまで歩き、ヴェルグラトは立ち止まる。そして磔にされたラグナの身体──より正確に言うならばその衣服の下にある肢体──を舐めるように眺め、口端から僅かばかりの涎を流す。

 

「やはり、小柄な割に中々喰い甲斐のありそうな肉体だな。その癖処女ときた。魂も信じられんほどに清らかかつ潔白で、純粋……こんな上玉の御馳走、百年に一度ありつけるかないかだぞ。全く」

 

 ニタリ、と。ヴェルグラトは己の口元をさらに歪める。流れ出る涎の量も増し、ぼたりと床に垂れ落ちる。瞬間、ジュッと音を立てて床が徐々に融解し始めた。

 

「魂はたらふく貪ったが……まあ、別腹という言葉もあるしなぁ」

 

 言いながら、ヴェルグラトが腕を軽く振るう。傍目から見ればそれはなんの意味もない、ただ宙を手で切っただけの行動にしか思えなかったが──

 

 ビリィッ──少し遅れて、ラグナが着ている服の、胸元部分が独りでに破けた。下着も同様に破けてしまい、そこに収まっていた彼女の胸がぷるんと外気に曝け出されてしまう。

 

「安心するがいい娘よ。痛みはない。苦しみもない。ただ、終わるだけだ」

 

 ヴェルグラトはそう言葉をかけるが、未だ昏睡状態であるラグナにそれが届くことはない。もっとも、ヴェルグラト自身そのことは承知の上で言ったのだが。

 

「楽しみにしていろ、小僧。この娘の魂を喰らった後に、貴様は起こしてやる。そして目の前で、貴様の大切な存在であるこの娘の亡骸を──嬲ってやる。陵辱し、犯した後に娘の屍肉を嫌というほど食わせてやるからなぁあ?」

 

 平気な顔で、悍しいこと極まる言葉を吐きながら、ヴェルグラトはラグナに向かって手を伸ばす。しかしその手を届かせるには、まだいささか無理がある距離だ。むろん、それはヴェルグラトもわかっている。

 

「【魂喰らいの魔手(ソウルイーター)】」

 

 ヴェルグラトの呟きが宙に落ち、溶けると同時に。伸ばされた彼の手が、漆黒に染まる。そして蠢きながら巨大化し──見るからに邪悪な形にへと化した。

 

 命ある存在(モノ)から魂を抜き取る、ヴェルグラトの異形の手がラグナに迫る。しかし、今のラグナにそれを回避する術はない。

 

「さあ、私に喰わせろその魂……くは、くはははッ」

 

 ヴェルグラトの歪んだ嗤い声が地下室に響く。そして伸びる彼の【魂喰らいの魔手】の指先が、柔らかなラグナの胸に触れる────瞬間。

 

 

 

 バチィッ──地下室を埋め尽くすほどの、閃光が迸った。

 

 

 

「ぐっ!?」

 

 思わずヴェルグラトは目を押さえる。その閃光はあまりにも眩しく、一瞬眼球を焼かれたような錯覚さえ覚えてしまうほどだった。

 

 数秒経って、ようやく彼は押さえていた目を解放し、周囲を見渡す──が、未だ視界は真白に染められていた。

 

「な、なにが……ぐおっ?」

 

 困惑に包まれる最中、不意にヴェルグラトの腕に激痛が走る。堪らず呻き、反射的に視線をそこにやる。真白に染まっていた視界は徐々に色を取り戻し、正常なものに戻り──ヴェルグラトは、間の抜けた声を漏らした。

 

「……な」

 

 失くなっていた(・・・・・・・)。先ほどまで、つい先ほどまでラグナにへと伸ばしていたはずの手が、腕ごと消失していた。

 

 斬り落とされた訳でもない。引き千切られた訳でもない。ただ、まるで元から存在していなかったかのように。

 

「なぁにぃぃイッッッ!!??」

 

 痛みを堪えながら、ヴェルグラトは腕を押さえる。断面からは筋肉やら骨やらが見えており、奇妙なことに出血することは一切なかった。驚愕と困惑に動揺しながらも、彼は急いで己の魔力を練り上げる。

 

「ぐぅぅぅああぁぁぁぁ……!!」

 

 ボゴゴボボ──やたら粘ついた水音をさせながら、鏡面のように綺麗過ぎるヴェルグラトの腕の断面が不気味に蠢く。かと思えば、凄まじい量の血が噴き出すと同時に巨大な肉塊がそこから飛び出し、一瞬にしてそれはヴェルグラトの腕に、手になった。

 

「があああ……この、小便臭い雌餓鬼がぁ……!」

 

 再生を終えた血塗れの腕を何度か軽く振るって、忌々しくヴェルグラトは吐き捨てる。

 

「もう貴様の魂などいらんわ!惨たらしく死ねェ!!」

 

 そう叫び、ヴェルグラトが腕を振り上げる。即座に腕は真っ赤に染まり、鋭利な血の刃と化す。鉄程度ならば問題なく両断するだろうそれを、彼は一切の躊躇なく無防備なラグナの身体に振り下ろす──────直前、

 

「ッ?!」

 

 彼の背筋に、今までに経験したことのないような、酷く悍しい寒気が駆け抜けた。

 

 ──なんだッ?

 

 反射的に、本能に身を任せヴェルグラトは背後を振り向く。振り向いて──彼の思考が、止まった。

 

「…………なん、だ……と?」

 

 彼の視線の先に、立っていた。己が蹴り飛ばし、戦闘不能にしたはずの者が──クラハが、立っていた。

 

 呆気に取られるヴェルグラトを他所に、顔を俯かせながら立つクラハは唐突に、静かに、ゆっくりと腕を振り上げる。見ているだけであくびが出そうになる、酷く緩慢な動作──そう、ヴェルグラトが思った刹那。

 

 

 

 そのクラハの腕が、闇と化した。

 

 

 

 秒ごとに揺らめき、一瞬たりともその形を留めないそれが、ヴェルグラトの認識をすり抜け、振るわれる。

 

「……は?」

 

 ヴェルグラトのすぐ隣を、闇が駆ける。それはその進路にある全てを瞬く間に呑み込みながら進み続け、壁に到達し、弾けた。

 

 弾けた闇はなおもその周囲にある全てを呑みながら、嘘のように消える。……そして、そこにあったはずの財宝も、石床すらも──消えて失くなっていた。

 

 そんな光景を目の当たりにし、数十秒かけてヴェルグラトはなんの意味もない声を絞り、漏らす。それに続くようにして、立っていたクラハが再び倒れる。

 

 床に伏し、全く微動だにしないクラハを見やり、呆然とヴェルグラトが呟く。

 

「……なにが、起きた?なにが起こった?あれは……アレは、なんだ?」

 

 戦慄にも似た疑問がヴェルグラトの頭を埋め尽くす。彼は全く理解できなかった。今己が目の前で起きた全てが、理解し得なかった。

 

 ただわかるのは──あの闇は、決して人間などが振るえるような、扱えるような代物ではない。それどころか、下手をすれば闇と深く触れ合っているはずの我々魔神ですら、魔なる存在にですら……不可能かもしれない。

 

 ヴェルグラトの頬に、一筋の液体が伝う。それが冷や汗だということを、彼は知らない。何故ならその冷や汗こそ──今まで生きてきた中で、初めて流したものなのだから。

 

 ──……もし、仮にもし……あれが、アレが私に当たっていたら……私は、どうなっていた?

 

 呑まれ跡形も、もはやそこにあったという事実も過去も消え去った箇所を流し見て、ヴェルグラトの内側を隈なく埋め尽くす。今までに感じたことのない、真綿で首を絞められるような、言い様のない不安にも似た、だがそれとは全く以て違う感情が彼の心を埋め尽くす。

 

 数秒をかけて────それが『恐怖』なのだと、唐突にヴェルグラトは理解した。してしまった。

 

「恐怖、だと?これが……恐怖なのか?この『七魔神』たる私が、〝暴食〟のヴェルグラト様が恐怖した、のか?私に……恐怖を抱かせたのかぁあ…………???」

 

 その事実を、現実を受け止めた瞬間────それを消し飛ばすために、ヴェルグラトは己の内から激情を噴出させた。

 

「ふぅざぁあけえるなぁぁぁあああああああッ!!!人間、人間の、虫ケラ虫ケラ風情の、餌の分際で恐怖をォッ!この『七魔神』〝暴食〟のヴェルグラトにぃイ!許さんッ!許さん許さん許さん許さぁァあああアああアアアアア!!!!」

 

 再度その激情に身を任せ、その激情のままにヴェルグラトは己が魔力を巻き上げ、渦ませ、暴流と化させる。全てを圧し潰し、破壊する魔力を考えなしに、制限なく全身から溢れさせる。

 

 理性を掻き捨て、誇りも自尊心(プライド)もかなぐり捨てヴェルグラトは叫ぶ。もはや声ではない、音をその口から吐き出し、魔力の矛先を──床に倒れ伏すクラハにへと向けた。

 

 本来であれば、その十分の一の出力でも今のクラハを消し去るには充分過ぎる。そのことは、ヴェルグラトもわかっている。それでも彼は己の全力を以てクラハを消し去ろうとしている。

 

 今、ヴェルグラトの本能は警鐘を鳴らしていた。目の前に倒れている人間を、絶対に葬り去れと彼の本能が訴えていた。

 

 それに対してヴェルグラトは否定を全く抱かなかった。

 

 そして荒れ狂う破滅の魔力を、僅かな躊躇もなく──────

 

 

 

 

 

 バゴォォンッ──ヴェルグラトの手から放たれる直前、轟音を立てて地下室の壁が吹き飛んだ。

 

「…………どこですか、ここ?」



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Glutonny to Ghostlady──うざったいんですよ

 バゴォォンッ──正体不明の脅威を垣間見せたクラハを消し去るべく、今にヴェルグラトが魔力を放とうとした矢先、突如としてそんな轟音が鳴り響き、それと共に地下室の壁の一部分が丸ごと吹き飛んだ。

 

「なんだァッ!次から次へと、このヴェルグラト様の邪魔を……するなァァァ!!!」

 

 もはや感情が度を越して荒ぶり、半ば狂乱しながらヴェルグラトは叫ぶ。そして吹き飛ばされた壁の方に、身体ごと顔を向ける。

 

 大穴が穿たれた壁には、一つの人影があった。それはだいぶ小柄で、しかし土埃が舞うせいでそれ以上はわからない。

 

「…………どこですか、ここ」

 

 ヴェルグラトが視線を注ぐ中、その人影は声を上げる。まだ幼く、だが何処か大人びた、奇妙な声音。

 

 やがて、人影はゆっくりと歩き出す。まだ立ち込み漂う土埃の中から現れたのは────白い、少女だった。

 

「随分埃っぽいですねえ」

 

 背中を覆い隠すどころか、脹脛(ふくらはぎ)にすら届くほどに伸びた、純白の髪。僅かに曝け出されている肌も、その髪と同様に白い。

 

 少女の全身は、どこを眺めても白一色で統一されており──しかし、その瞳だけは違う。最初にヴェルグラトが見た時には、少女の白さに良く映えた赤色だったのだが、次の瞬間それは青色に変わっていた。

 

 そう認識したと同時に、今度は緑色に。かと思えば黄色──と思った矢先、紫色にへと変わっている。

 

 ──なんだ、あの出鱈目な瞳は?決まった色が、存在していない……?

 

 奇妙の一言に尽きる少女の瞳にヴェルグラトが呆気に取られる中、その少女はきょろきょろと不思議そうに地下室を見回す。

 

「もしかしなくても、ここが件の地下室ですか。本当にあったんですね……ていうか、なんでこの金貨錆びてるんでしょう」

 

 言いながら、足元に転がっていた金貨を拾い上げ、これまた不思議そうに少女は眺める。かと思えば、ポイと後ろの方に投げ捨てた。

 

「まあ別にいいですね。どうでも」

 

 そんな少女の様子に、思わず呆気に取られてしまっていたヴェルグラトだったが、ハッと彼は我に返り、慌てて口を開く。

 

「お、おい──」

 

 が、ヴェルグラトがその口から言葉を出す前に、突然彼の目の前から少女の姿が消える。少し遅れて、ヴェルグラトはそれが瞬間移動──【転移】によるものだと理解する。理解して、驚愕してしまう。

 

 ──ば、馬鹿な。この屋敷では私の許可なく【転移】の類の魔法は使えんはずだぞ……!?

 

 そう心の中で信じられないように呟きながら、ヴェルグラトは周囲を見回す。むろん、少女の姿を確認するために。そしてその姿は、割とすぐあっさり見つかった。

 

「うわぁ……これはまた、派手にやられちゃいましたね」

 

 少女は、向こうの壁際の方に座り込んでいた。そしてよく見てみれば、先ほどまで目の前に倒れていた青年──クラハの姿もそこにあった。

 

「なにィ……!?」

 

 そう呻きながら、慌ててヴェルグラトはクラハが倒れていたはずの場所に視線を向けるが、当然そこにはもう誰もいない。あの少女は、自分が【転移】をすると同時に、クラハのことも【転移】させたのだ。

 

 ──い、いつの間に……いやそうじゃない。何故だ、何故自分だけでなく、他者に対しても【転移】を使える?何故だ何故だ何故だッ?!

 

 瞬く間にヴェルグラトの脳内を疑問が埋め尽くす。そしてそれは、次の瞬間加速した。

 

「ブレイズさんは……特に目立った傷は見当たりませんね。ただ意識を失ってるだけですか。……それにしても、何故こんなにも胸元が大胆にというか、だいぶ開放的になってるんですかね。遂に痴女さんになってしまったんでしょうか。それとも私に対する当てつけなんでしょうか」

 

「!?」

 

 壁にもたれかかるようにして、磔にしていたはずの赤髪の少女──ラグナの姿がそこにあった。

 

「あ、あり得ん……あり得んあり得んあり得んあり得んあり得んッッ!そんなことがあってたまるかッ!このヴェルグラト様に気づかれず、二度も他者を【転移】させたなどと、そんな馬鹿なことがあるはずがない!あっていいはずがないッ!小娘、貴様一体何者だッッッ!?」

 

 もはや動揺を隠すこともできずに、頭を掻き毟りながらヴェルグラトは少女に訊ねる。しかし、その彼の問いに対して──

 

「さてさて。問題はウインドアさんですねえ。一応息はまだあるみたいですけど……この傷だとなぁ」

 

 ──なにも返せなかった。それどころか、まるでヴェルグラトがいることにも気づいていない様子であった。彼女は己の背後にいる彼に意識を微かにも割かず、クラハの傷の具合を冷静に診ている。

 

「な……ぐ、お……ぉお……!」

 

 そんな彼女の態度の前に、ヴェルグラトの怒りの沸点は容易く振り切れた。

 

「貴様もこの私を愚弄するかぁああ!!死に晒せ【影鋭槍(シャドウランス)】ゥゥゥ!!!」

 

 怒りに身を任せ、ヴェルグラトが咆哮する。それに続くようにして彼の足元にある影が宙に飛び出し、瞬く間に切っ先鋭い漆黒の槍と化す。そして目にも留まらぬ速度で、無防備な少女の背中にへと伸びる。

 

 その切っ先が少女の背中に触れる直前────グシャリ(・・・・)と、拉げた。

 

「……ん、なぁ…?!」

 

 驚愕するヴェルグラトを置いて、彼が放った【影鋭槍】は少女を貫くことなく、そのまま魔力の粒子となって宙に霧散してしまう。

 

「それにこの右腕……一体なにしたんですかこの人。よくもげさせないでいられましたねこれ。皮膚とか完全に破けちゃってますし、筋肉もズタボロだし、骨は砕け散る寸前ですし」

 

 ヴェルグラトが呆然とする中、至って平然と少女はクラハの傷の具合を診続ける。まるで、ついさっき己の背中に、【影鋭槍】が迫っていたことに気づいていないように。

 

 数秒経って、ようやくヴェルグラトはハッと正気に戻り、慌てて叫んだ。

 

「シャ、【影大槌(シャドウハンマー)】!!」

 

 瞬間、ヴェルグラトの影は膨れ上がり、今度は見るも巨大な大槌と化し、少女の頭上に向けて思い切り振りかぶられる。人間の頭部など簡単に潰せるだろうそれは、一拍を置いて振り下ろされた。

 

 少女の頭上に迫り、直撃する──直前。大槌は勢いよく弾かれた。グワンと撓み、宙で跳ね上がったかと思うと、そのまま粉々に砕け散り、やはり魔力の粒子となって消えてしまう。

 

「……な、ば……」

 

 堪らず絶句するヴェルグラト。そんな彼に目もくれず、少女は呟く。

 

「ここまで重傷となると、やっぱりあの魔法が一番ですかねえ。あれ、結構集中力使うんで苦手なんですけど……」

 

 ──こ、この小娘がぁ……!

 

 全くと言っていいほどにこちらに意識を向けない少女に対して、これ以上のない憤りをヴェルグラトは抱くが、それと同時に先ほども感じた、あの感覚──恐怖を、思い出していた。

 

 ──あり得ん。あってたまるかこんなこと。あんな、あんな小娘風情に、私の魔法が通じないなどと……断じて認めるものかぁああッ!

 

 全魔力を込めて、彼は三度目の魔法を発動させる。

 

「【影大剣(シャドウブレイド)】ォオオオオ!!!」

 

 ヴェルグラトの叫びと共に、影は噴き出し、分厚く無骨な大柄の両刃と化す。そしてそれはヴェルグラトの意思に、殺意に従い振るわれる。宙を裂き、全てを等しく両断する黒刃が、常人では決して捉えられない速度で、少女の細い首に──叩き込まれる。

 

 

 

 バキンッ──そんな鉄が砕けたかのような甲高い音を鳴らして、少女の首を斬り落とさんとした【影大剣】は真っ二つに折れた。

 

 

 

「………………ぐ、お、ぉぉ」

 

 折れた剣身が宙に飛び、深々と天井に突き刺さり硝子のように儚く砕け散っていく様を見ながら、ヴェルグラトは苦悶の呻きを零す。今、彼の中にあった大切ななにかが、音を立てて崩れ去っていく。

 

「んー。久々に使うからちょっと自信ないなあ」

 

 そして、やはりというか、それでも少女の態度は変わらなかった。依然としてヴェルグラトに対して、その小さな背中を無防備にも向けたままだった。

 

「ぉ、おおお……ふざ、けるなああああああああ!!」

 

 もはや自暴自棄(やけくそ)になって、ヴェルグラトは己の腕を鮮血の片刃に変化させ、その場から駆け出すと同時に叫ぶ。

 

「死「あーもう。さっきからうざったいんですよ」

 

 ザンッ──ヴェルグラトの言葉を、少女のうんざりとした声が遮る。そして間を置かず幾数十枚の不可視の刃が、彼をバラバラに斬り刻んだ。

 

 無数の肉塊と化したヴェルグラトの身体が、ぐちゃぐちゃと生々しい音を立てながら石床に落下する。

 

「話なら後で聞きますので、今は黙っててください」

 

 血溜まりが広がっていく中、背を向けたまま少女──フィーリアはそう言うのだった。



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Glutonny to Ghostlady──魔神覚醒

「さてと、静かになりましたし早速始めますか」

 

 バラバラに斬り刻まれ、もはや物言わぬ無数の肉塊へと化したヴェルグラトの生々しい落下音を聞きながら、大して気に留めない様子で真白の少女──フィーリアはそう呟く。そしておもむろに己の親指を自らの口元に近づける。

 

「あー…む」

 

 口を小さく開き、近づけた親指にかぷりと噛みつき、歯で皮膚を軽く裂く。少し遅れて、彼女の親指から真っ赤な血が流れ出す。

 

 親指を口から離すと、フィーリアはクラハの身体の上に掲げる。そして静かに、ゆっくりと彼女は言葉を紡ぎ始めた。

 

「我が鮮血よ。我が魔力を糧に、この者を癒したまえ──【神の血(キュアブラッド)】」

 

 その言葉に続くようにして、フィーリアの親指から一滴の血がクラハの身体に垂れ落ちる。最初こそ特に変化はなかったが、次に驚くべき光景が繰り広げられる。

 

 ボゴボゴと嫌に生々しい音と共に、クラハの身体が流動する。目に見える速さで彼がこの屋敷で負った傷が治り、筋肉やら骨やらも再形成されていく。

 

 その中でも特に、否が応でも目を引かれるのは──右腕である。フィーリアの指摘通り、クラハの右腕の有様は酷いという言葉で片付けられるものではなく、たとえ魔法で回復したとしても確実に後遺症が残るほどのものだった。

 

 ……が、それはあくまでも一般的に使われる中での、最下級から最上級の回復魔法の場合である。今フィーリアが使った【神の血】であれば──問題はない。

 

 元々、この魔法を使えるのは僧侶などの、主に回復職(ヒーラー)限られている(・・・・・・)。それもその道を極めた上で、凄まじい修行を終えた超一流の回復職の者が、最短で五十年をかけてようやく習得できる魔法なのだ。

 

 だがそれを『天魔王』──フィーリア=レリウ=クロミアは覆した。回復職ではなく、あくまでも魔道士に過ぎないはずの彼女は──信じられないことにこの魔法を十歳の時点で習得していた。

 

【神の血】の効果はまさに絶大で、どんな重傷でも、致命傷でも、難病でも不治の病でも──関係なく全て治癒することができる。失ってしまった腕や足ですら、瞬く間に再生させてしまう。その強力さは、『世界冒険者組合(ギルド)』から行使の制限をかけられているくらいである。

 

 一度使用するのに膨大な魔力を必要とするそれを、しかしフィーリアは至って平然とした様子で振るい、傷がたちまち癒えていくクラハの様子を眺める。

 

「……特に問題はなさそうですね。良かった良かった」

 

【神の血】が上手く使用できたのを確認し、ホッと彼女は安堵の息を吐く。いかに『天魔王』といえど、緊張も抱くのである。

 

 クラハとラグナの二人を包み込むようにして魔法の障壁(バリア)を張ってから、フィーリアは背後を振り返った。

 

「それで、話があるのならどうぞ。もうやることやったんで、好きなだけ聞いてあげますよ。私優しいですから」

 

 うんざりとするフィーリアの視界が捉えたのは、石床に蹲る血塗れの男の姿だった。苦しげに身体を震わせるその男は。やはり苦しげに声を上げる。

 

「ぐがああぁぁぁ……この、程度でぇ……私を……魔神を殺せると、思うなぁぁ…………!」

 

 そう忌々しそうに呻きながら、血塗れの男──『七魔神』が一柱、〝暴食〟のヴェルグラトは立ち上がる。その顔もドス黒い血に塗れており、また蜘蛛の巣のように無数の血管らしき赤黒く細長い管が張っていた。

 

 荒々しく呼吸を繰り返しながら、憤怒の形相で彼はフィーリアに続ける。

 

「小娘ぇええッ!貴様は私を、このヴェルグラト様を本気で怒らせたなぁあ!!もはや、そのことを後悔させる時間すら与えん、与えんぞぉぉぉおおおおおッ!!!」

 

 ヴェルグラトがそう言うと、彼の足元に広がる血溜まりが不気味に脈動し、歪な無数の棘と化す。そして一瞬の間も置かずにその全てがフィーリアにへと射出された。

 

 血の尾を引きながら、フィーリアの顔面に突き刺さらんとしたその全ての棘は、彼女の眼前にまで迫った瞬間、妙に乾いた音を立てて一本残らず折れ砕け散る。が、その様をヴェルグラトは見てもいなかった。

 

「うおおおおおおおおおっ!死ねええええぇぇ!!」

 

 そう叫びながら、クラハでは決して捉えられない速度でヴェルグラトはフィーリアに迫る。広げられた両腕は、冒涜的に尽きる、真紅の異形と化している。

 

 そんな彼の突進を見て、フィーリアは一言だけ雑に吐き捨てた。

 

「うっさ」

 

 ボゴンッ──直後、ヴェルグラトの腹に巨大な風穴が空けられた。血と内臓が外に零れ落ち、彼はその口から大量の血を宙に吐き出す。

 

「ごおええ、がばあああ」

 

 そのまま倒れそうになったが、間一髪ヴェルグラトは持ち堪える。そして腹に空いた風穴が新たに形成された血と内臓と肉によって塞がれるのと同時に、未だ血を口から垂らしながら彼が叫ぶ。

 

「殺すゥゥウウウウ!」

 

 瞬間、彼の右腕が巨大な真紅の剣と化した。そしてそれをフィーリアに向けて、思い切り振り下ろす。それに対して、また彼女は一言を雑に吐き捨てた。

 

「しつこい」

 

 グチュブチャッ──真紅の大剣が粉々に破砕されるのと全く同時に、ヴェルグラトの頭部が圧し潰れた。ビクビクと彼の身体が何度も痙攣を繰り返す。

 

「……で、話は終わりましたか?」

 

 半ば呆れたようにそう訊ねるフィーリア。その問いかけに大して、未だ立ったままのヴェルグラトの身体はさらに激しく痙攣し始め──かと思うと、その上からなにも失くなってしまった首から、大量の血と肉が噴出する。天井を赤黒く汚しながらそれは宙で渦巻き、瞬く間に血塗れのヴェルグラトの頭部となった。

 

「ごむずめぇえええ……!!!」

 

 宙に浮いているヴェルグラトが、憎悪のままにそう吐き捨てる。そして噴出する血に引っ張られ、グチャリと周囲に血を撒き散らしながら首にくっ付いた。そして彼の両腕がまたしても変化し──今度は切っ先鋭い槍となった。

 

 それを構えながら、ヴェルグラトは血の入り混じった唾を吐き散らしながらあらん限りに叫ぶ。

 

「ごろじてやるぅうゔゔゔゔッッッ!!!!」

 

 もはや理性の欠片すら手放してしまった彼の様子に、フィーリアはただ小さなため息を吐いて──心底面倒そうに、呟いた。

 

「もう聞き飽きました、それ」

 

 瞬間、槍と化したヴェルグラトの両腕は粉砕され、彼の全身に穴という穴が穿たれ、顔の半分が消し飛んだ。遅れてそこら中から血が流れ出すのと同時に、彼が石床に力なく膝から崩れ落ちる。

 

 そしてそのまま倒れかけたが、その寸前でなにも失くなってしまった両腕から血が噴き、そこからまた新たな両腕が生え、石床を突いた。……が、もうそれだけだった。

 

「ぜ、ぇ……ばぁぁ……」

 

 石床に手を突いたまま、ヴェルグラトは動かない。もはや彼に、そんな体力は残されていない。

 

 そんな彼をフィーリアはただ無関心に、興味などなさそうに無言で眺める。

 

 先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように、地下室が静まり返る──しかし、それも数秒だけだった。

 

「……ひひ、ははは」

 

 突然、ヴェルグラトからそんな声が上がる。彼の肩が、小刻みに揺れる。

 

「?」

 

 そんな彼の様子に、フィーリアが疑問を抱く──瞬間。

 

 

 

「はははあっはっはひゃはっ!」

 

 

 

 大声を上げて、ヴェルグラトは狂ったように笑い始めた。彼の笑い声が地下室に響き渡る。

 

 ──え?なに?

 

 突如として急変した彼の態度に、フィーリアも堪らず困惑する。と、一頻り笑ってから、ヴェルグラトが言う。

 

「認める。認めてやる小娘。貴様は強い──今の(・・)私よりも」

 

「……今の?」

 

 そのヴェルグラトの言葉には、含みがあった。それを感じて、そう呟くフィーリアに彼は言う。

 

「ああそうだ。今の私よりもだ。小娘、貴様が悪い。悪いんだ。その強さが、たかが人間の分際で愚かにも魔神をも超えてしまった、驕り高ぶったその強さが──貴様自身を確実な破滅へと導いてしまった」

 

 言いながら、ヴェルグラトは身体を起こし、虚空に向かって手を突き出す。すると彼が突き出した手の上の空間が、捻れるように歪む。その現象の正体を、フィーリアはうんざりするほどに知っていた。

 

 ──【次元箱(ディメンション)】……この人、一体なにを……?

 

 フィーリアがそう思うのも束の間、その歪んだ空間からとあるものがヴェルグラトの手に吐き出される。それは──手のひら大の、水晶玉と非常に似通った球体の魔石。

 

 それを受け止め、ヴェルグラトがこれ以上にないほどに口角を吊り上げる。

 

「これはあの男に対する切り札だったが……貴様に使ってやるぞ小娘。貴様にはそれだけの価値があると、私は判断した」

 

 下卑た笑みを浮かべながらそう言って、ヴェルグラトはギュッと握り締める────虚空を(・・・)

 

「…………ん?」

 

 そのことに違和感を覚え、ヴェルグラトが己の手元に視線をやる。そして思い切り目を見開かせた。何故なら、先ほどまでその手中にあったはずの、己の切り札である魔石が──消えていたのだから。

 

 驚愕する彼の鼓膜を、わざとらしいまでに呑気な声が震わせる。

 

「へー、これが切り札ですかー」

 

 その声にハッとヴェルグラトは視線を向ける。当然のことであるがその先にいるのは石床に座り込むフィーリアの姿で──先ほどと違う点を挙げるなら、彼女の両手が、ヴェルグラトが持っていたはずの魔石を頭上に掲げているということ。

 

「ば、馬鹿なッ!?いい一体いつの間にィ?!か、返せ!私のだぞッ!!」

 

 もはや体裁を取り繕う余裕すら失くしてヴェルグラトが必死に喚く。まあそれも無理はない。己の切り札を、奥の手をフィーリアに奪われ、今に石床に叩きつけられそうになっているのだから。

 

 もしそうなれば、ヴェルグラトの五十年は全て水の泡と化す────しかし、そんな彼の不安に反して、フィーリアはその手にある魔石を石床に叩きつけようとはしていなかった。興味深そうに、彼女はその魔石を眺めていたのだ。

 

「中に入っているのは……人間の魂ですね。それも大量の。なるほど、これはいわば膨大な魔力の塊みたいなものですか……ふーん」

 

 フィーリアがそう呟き終わるのと同時に、パッとその手から魔石が掻き消える。そうヴェルグラトが認識した瞬間、彼の手に覚えのある重みが帰ってくる。

 

 見てみれば、フィーリアに奪われてしまったはずの魔石が、そこにはあった。

 

「な……」

 

「返して欲しかったんですよね?ほら、言う通りに返してあげました」

 

 信じられないように、ヴェルグラトは再びフィーリアを見やる。彼女は──依然、つまらなそうな表情を浮かべていた。

 

 動揺しながらも、フィーリアにヴェルグラトは言葉を投げる。

 

「こ、小娘、貴様正気か?己が掴んだ千載一遇の機会(チャンス)を、貴様は自ら放り捨てたのだぞ?それがわかっているのか?」

 

「正確には返した、ですけどね。はい、別に構いませんよ。その魔石もただ少し珍しいってだけでそう大したものでもなかったですし、それを使って少しでもこの茶番が楽しめるようになるんでしたら、万々歳ですから」

 

「………………」

 

 フィーリアは、明らかに舐め切っていた。『七魔神』が一柱、〝暴食〟のヴェルグラトを、舐め腐っていた。完全に格下の相手だと、そう認識していた。

 

 そのことを改めて思い知らされ────ヴェルグラトはあまりの怒りに己の腸が煮え繰り返るどころか、もはや焼き焦げるような錯覚を覚え、しかし、この時絶対なる勝利を彼は確信した。

 

 ──その傲慢の前に、滅び去るがいい。

 

 そう内心で吐き捨てながら、ヴェルグラトは叫ぶ。

 

「いい加減、この私を舐めるなぁああああああああ!!!!」

 

 そして、手にある魔石を────思い切り握り砕いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パリンッ──不意に、メルネの背後にあったグラスが割れ砕け、ちょっとした悲鳴を彼女は上げる。

 

「な、なに?なんで急に……」

 

 そう言いながら、飛び散った破片を彼女は慎重に拾い上げるのだった。

 

 

 

 

 

「……なんなんだ、あれは」

 

 窓からとある方角を眺め、グィンは戦慄の声を漏らす。それは、彼は今まで歩んできた人生の中で、決して短くはないだろうその人生の中で──初めて目にする景色だった。

 

 雲が、渦巻いている。その中心に突き立つ、光の柱。見ようによっては神聖に感じられるそれに対して、グィンは真逆の雰囲気を微かに感じ取っていた。

 

 ──奥底に感じる、この魔力の脈動……なんて、邪悪極まりないんだ……ッ。

 

 今、彼の──かつて『六険』の一人に数えられたほどの冒険者(ランカー)であった彼の生存本能が警鐘を鳴らす。あの光の柱は、この世界(オヴィーリス)に混沌を齎し、そして終末を迎えさせるものだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くくく、はっはっはっはぁあッ!」

 

 笑い声がこだまする。己は頂点に至ったのだという、高笑いがこだまする。

 

 迸り荒れ狂い、溢れて噴き出す極光の中より、それはこちらに歩み来る。絶対の絶望をその身に携え、絶対の破滅を振るうために一歩を踏み出す。

 

 今此処に顕現す。混沌を齎し終末を迎えさせる存在(モノ)

 

 

 

「小娘。貴様に滅びを与えてやる。この『七魔神』──否、『第六罪神(シックス・シン)』のヴェルグラト様が、な」



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Glutonny to Ghostlady──『天魔王』対『第六罪神』

「くはははぁあ!素晴らしい!素晴らしいぞこの力ぁ!!身体の奥底から無尽蔵に湧き上がるこの感覚ぅ!!これは……遥かに想像以上ッ!!!」

 

 地下室を埋め尽くす極光を身に纏い、感情の爆発のままにヴェルグラトが狂喜する。高笑いを響かせながら、彼がピッと指先で宙を弾く。

 

 瞬間、その先にあるもの全てが破壊し尽くされた。石床は爆ぜたように砕け散り、天井は裂けて、壁は粉々に粉砕される。

 

 その光景を目の当たりにして、よりヴェルグラトは感動の声を上げる。

 

「おおッ!たった、たったこれだけの放出でッ!これだけの破壊力ッ!なんと、なんと素晴らしい……!!」

 

 顔を手で覆い、ヴェルグラトは恍惚とする。そんな彼を、フィーリアは石床に座り込んだまま、呆けたように見ていた。

 

 そんな彼女に、ヴェルグラトは口元を歪ませながら言葉をかける。

 

「どうした小娘?まるで声も出せん様子ではないかぁ?まあ無理もないな。この私の、魔神を超越した『第六罪神(シックス・シン)』ヴェルグラト様の圧倒的なまで暴力的な魔力を、力の波動をそんな間近で感じてしまっては。それで呻き声一つ漏らせというのが酷な話よ」

 

 意気揚々に、溢れて零れんばかりの己が力を存分に振るいながら、余裕に満ち満ちた表情を浮かべるヴェルグラト。彼が何気なく、無意識に放つ魔力でさえ周囲に亀裂を迸らせ、破砕させ粉微塵にしていく。

 

 そんな光景を眺めて、ようやっとフィーリアはその口を開いた。

 

「……なんて、こと」

 

 その彼女の声は、ほんの微かに震えていた。それからフィーリアは己の顔を両手で覆い、俯かせる。

 

「こんな、こんなに……まさか」

 

 側から見れば、それは度し難い絶望に打ち拉がれ嘆く者の態度にしか思えない姿だ。少なくとも、フィーリアの目の前に立つヴェルグラトはそう思った。そう思い、これ以上になく彼はその口元を邪悪に歪ませた。

 

 凄まじく上機嫌な様子になって、彼は彼女に優しげに言葉を投げかける。

 

「案ずるな小娘。確かに貴様には堪え難い屈辱とほんの僅かな絶望とやらを味わされたが、奇遇なことにこのヴェルグラト様も優しい性分だ。恐れるな、痛みも苦しみもない。貴様はただ──終わるだけさ」

 

 彼が、そう言い終えた直後だった。ゆっくりと、フィーリアの顔から両手が離れていく。そして、彼女はまたゆっくりと顔を上げた。その顔を見て──ヴェルグラトは、ギョッとした。

 

 無表情。感情らしい感情が一切見当たらない──まさに、人形のような顔だった。それにヴェルグラトが思わず驚いていると、妙に無機質な声音でフィーリアが口を開く。

 

「まさかこんなにも想像以上に想像以下(・・・・)だったとは、流石の私も考えもしませんでした。本当に……くだらない」

 

 ヴェルグラトにとって、その言葉はあまりにも予想外なものだった。予想外過ぎて、彼の思考が止まってしまうほどに。

 

 間の抜けた顔で静止する彼に、フィーリアは呆れを通り越して憐れみを込めて言う。

 

「切り札とか抜かしやがってたので、一応ほんのちょっぴりばかり期待はしてたんですけど……やっぱり当てにするんじゃなかったですね。それと弱い者いじめしてしまってすみませんでした。痛かったですよね?苦しかったですよね?本当に、本当にごめんなさい。……お詫びと言ってはなんですが──もう嬲らずに、一瞬で終わらせてあげます」

 

「………………なん、だと?」

 

 その彼女の言葉を受けて、ようやくヴェルグラトの頭は再回転を始める。始めて──すぐに吹っ切れた。

 

「なんだ、なんなんだその言葉は。物言いは。それは、それではまるでこの私よりも、『第六罪神』となったこのヴェルグラト様よりも、まだ貴様の方が上だと言っているみたいじゃあないか?ええ?」

 

 額に青筋を浮かべ、周囲に先ほど以上の勢いで魔力を滾らせ放出しながらヴェルグラトがフィーリアに言う。彼の言葉に対して、彼女は──一層哀れそうな表情を浮かべた。

 

「みたいじゃなくて、その通りです。下手に希望を持たせてもあれですからこの際はっきり言いますけど──ぶっちゃけ、私からすれば今の貴方も、さっきの貴方も……大して変わってませんから」

 

「…………は」

 

 平然としたフィーリアのその言葉を、ヴェルグラトは受け止められなかった。彼女の言葉が、ただ表面的に彼の脳内を駆け巡る。そして──彼は激昂に呑まれた。

 

「ふざけるのも大概にしろこの餓鬼ィ!!今の私が、『第六罪神』となった今の私がさっきと変わらないだと!?そんな訳があるか!」

 

 先ほどまで溢れんばかりにあった余裕など微塵も吹き飛び、目を血走らせ殺気を振り撒きながらヴェルグラトは語る。

 

「いいか?その腐った耳の穴をかっぽじってよく聞いておけ!『罪神』とは我々『七魔神』の上位段階!次のステージなんだよォ!それも限られた存在のみが到達できるステージだッ!それを、変わっていないなどと……ほざきやがって……ッ」

 

 ドッ──そのヴェルグラトの激昂を表すように、彼が立つ周囲一帯が爆発したように吹き飛ぶ。

 

「ハッタリもほどほどにしろォオ!!!」

 

「……そう言われましても」

 

 心の底から怒り狂うヴェルグラトに対して、同じく心の底から面倒そうにフィーリアはため息を吐く。それもわざとらしく。

 

 彼女のその態度は、よりヴェルグラトの激情を燃え上がらせるのには充分過ぎるもので、己の喉を裂かんばかりに再度叫ぶ──前に。先にフィーリアがスッとその場から立ち上がって、しょうがなさそうに口を開いた。

 

「わかりました。じゃあ攻撃してきてください」

 

 ……これで何度目だろう。ヴェルグラトがフィーリアの言葉に対して思考が停滞するのは。彼女のその言葉の意味を、やはり彼は数秒かけて呑み込み、そして正気を疑いながらも、彼も口を開く。

 

「攻撃……だと?小娘、貴様は今、私に攻撃しろと言ったのか?」

 

「そうです攻撃です。第六なんとかになった貴方の、最大最高の攻撃を私にしてみてください。この通り私は避けもしませんし躱しもしません。障壁だって解除しましたから。防御もしないので安心してください」

 

 ヴェルグラトは、全く理解できなかった。何故フィーリアが──己の目の前にいるこの少女が、そんな提案をするのか微塵も理解できなかった。

 

 ──何故だ。何故こんなにも、この小娘は平然としていられる?『第六罪神』となった私の魔力の波動を受けて、何故そこまで平気でいられる?何故僅かにも焦らない?何故微かにも怯えない?何故微塵も絶望しない?

 

 わからない。今の自分は先ほどの自分よりも強大な存在となった。強くなった──はずだ。それは紛れもない事実に変わりないのだ──そう、ヴェルグラトは必死に自分に言い聞かせる。……が。

 

『まさかこんなにも想像以上に想像以下だったとは、流石の私も考えもしませんでした』

 

『本当に……くだらない』

 

『切り札とか抜かしやがってたので、一応ほんのちょっぴりばかり期待はしてたんですけど……やっぱり当てにするんじゃなかったですね』

 

『それと弱い者いじめしてしまってすみませんでした。痛かったですよね?苦しかったですよね?本当にごめんなさい。……お詫びと言ってはなんですが──』

 

『もう嬲らずに、一瞬で終わらせてあげます』

 

 先ほどの、彼女のその言葉が頭の片隅にこびりつく。嫌に、巡り廻る。

 

 ──そんなはずがない。そんな馬鹿なことがあるはずがない。

 

『みたいじゃなくて、その通りです』

 

『下手に希望を持たせてもあれですからこの際はっきり言いますけど──』

 

『ぶっちゃけ、私からすれば今の貴方も、さっきの貴方も……』

 

 

 

『大して、変わってませんから』

 

 

 

 ──違う。違う……違う違う違う違う違う!この力は最強だッ!無敵だッ!!絶対だッ!!!

 

 ヴェルグラトは、今一度己を奮い立たせる。何故自分が優れていると、勝っていると自覚しているはずなのに、そうしたのかは彼もわからなかった。

 

「……いいだろう。ああ、いいだろう!その言葉、乗ってやろうッ!そして己が選択を、果てしなく後悔するがいい!」

 

 言って、彼女の言葉通り彼は己の魔力を練り上げる。最高の、最高潮にまで。

 

 そうすることによって、初めて発動できる魔法の──彼女が言う、最大最高の攻撃とやらを繰り出すために。そして、その準備が終わる。

 

「はは、はははッ!もう遅いぞ、小娘。もう手遅れだ。全てなにもかも、もう手遅れだァ!!」

 

 ヴェルグラトがそう言い終えると同時に、彼の練り上げられていた魔力が宙に霧散する──かと思えば、フィーリアの足元にその全てが集った。

 

 集った魔力が、不気味に脈動したと思うと────瞬間、それは変貌した。

 

 言うなれば、それは口だった。人間一人など、それもフィーリアや今のラグナように小柄な少女一人などあっという間に容易く飲み込めるだろう、巨大に尽きる口であった。

 

 中は、深淵である。ただただ、底が一切見通せない深淵が広がっている。それをフィーリアは不思議そうに眺め、そんな彼女に対して狂喜しながらヴェルグラトは言葉をぶつける。

 

「それだ!それがこの私の、『第六罪神』となったこの私が!『第六罪神』となったこの私でしか放つことのできない絶対の一撃!これで、貴様も終わりだ、小娘ェ!!」

 

 ──さあ、焦ろ怯えろ恐怖しろ。その死ぬほど気に食わん顔を絶望で塗りたくり、諦観に染め尽くせッ!

 

 爛々と目を輝かせて、ヴェルグラトは内心そう呟く。彼は、どうしても見たかった。自分をこれ以上になく虚仮にし、散々弄んだ少女の、そういった弱者が浮かべる──敗者の表情をこの目でしかと見てから、始末したかった。

 

 ──さあ。さあさあさあ!見せろ、早く見せろ!この私に、それを見せてくれ!!

 

 ……だが、フィーリアが彼に見せたのは────

 

 

 

「……ふふっ」

 

 

 

 ────という、嘲笑だけだった。

 

「ッ……ぉ、お……の、れぇえええッ!」

 

 ヴェルグラトの咆哮に応えるように、フィーリアの足元にある口がさらに広がっていく。そして、ヴェルグラトは全ての魔力を振り絞りながら、己が繰り出せる最大最高の攻撃を──発動させた。

 

「無に飲まれろォ!【暴食の晩餐】ンンンッ!!!」

 

 バクンッ──そんな異音と共に、口は周囲の大気ごと、中心にいたフィーリアを飲み込んだ。彼女を飲み込んだ口が、そのまま溶けるかのように消えていく。

 

「……………」

 

 静まり返る地下室。口があった場所には、なにも残されていない。それを確認したヴェルグラトは、小刻みに肩を震わせる。

 

「……はは、くは、くくははははぁ!やはり、やはりなあああ!」

 

 ヴェルグラトが笑う。大笑いする。少女のあの数々の言葉は、こちらを散々貶したあの言葉全てが全くのハッタリだったのだとわかり、彼は独り笑い続ける。

 

「なにが大して変わってないだ?ええッ?本当にくだらなかったのは貴様の方じゃあないか小娘ェ!くははははッ!やったぞ、私はやったんだッ!これでもう、この世界で私に敵う存在はいない!今の私なら、あの男も容易く屠れよう!はははははッ!」

 

 笑って、笑って。気分の絶頂に浸って。

 

「今一度、言おう!もはや言うまでもないことだが、敢えて言おう!私はッ、この『第六罪神(シックス・シン)』ヴェルグラト様がッ」

 

 それをより強めるために。より確かなものにするために。より実感を得るために。今、ヴェルグラトは言う。

 

「勝っ「やっぱり大して変わってませんでしたね」

 

 パキンッ──そんな淡々とした言葉に遮られるのと同時に、ヴェルグラトの内側からなにかが砕けたような音が響いた。



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Glutonny to Ghostlady──決着

「やっぱり大して変わってませんでしたね」

 

 パキンッ──非常に、それはもう心の底からつまらなそうに。淡々としたその言葉と同時に、ヴェルグラトの内側からなにかが砕け散るような音が響いた。

 

「──ぎ、ィあゔぁあぁあああッ?」

 

 瞬間、ヴェルグラトの口からあり得ない量の血が噴き出す。噴き出した彼の血が、瞬く間に広がっていく。

 

「あああああああッ、あああああああああッ」

 

 血を吐きながら、ヴェルグラトが石床を転がる。胸を押さえながら、のたうち回る。その間も彼は狂ったような悲鳴を上げ続けていた。

 

 ──なんだなんだこれはこれはこれは痛い痛い痛い抜ける抜ける抜ける落ちる落ちる落ちる。

 

 この短い間に、充分にヴェルグラトは激痛を味わってきた。しかし今彼を襲うこの痛みは、ただ痛い訳でなくなにか──言い様のない喪失感を伴っていた。

 

「ああああ、あああああああ……あああああ?」

 

 痛みに喘ぎ、苦痛に満ちた悲鳴を上げる中、ハッとヴェルグラトは気づく。

 

 ──な、なに?嘘だ。まさか、まさかまさかまさかまさかまさかッ?

 

 そう、ヴェルグラトは気づいてしまった。己の身体の異変に、気づいてしまった。

 

 ずるずると、己の中から零れていく。自己の器から、抜け落ちていく。止め処なく、加減を知らず何処までも。

 

 痛みと共に感じるこの喪失感。急激に身体が重くなり、力が全く込められなくなっていくこの感覚。

 

 ヴェルグラトは、その正体を──理解してしまう。

 

 ──ま、魔力……私の魔力が、私の『第六罪神(シックス・シン)』の力が消えていく。私から、抜け落ちていくッ!?

 

 その瞬間──流失は急加速した。瞬く間に『第六罪神』の力が外に零れていき、そして──そのことに大してヴェルグラトが極限の焦燥を抱く前に、空っぽになった。

 

 流れた彼の『第六罪神』の力が、黒い円を描く。かと思えば、その中心からゆっくりと、細くしなやかな少女の腕が浮上してくる。

 

「だから言ったじゃないですか。人の言葉は素直に聞き入れるべきですよ」

 

 途方もない虚無感に囚われ、もはやなにを考えることもできずに呆然とするヴェルグラトにそんな言葉が投げかけられる。

 

 ズズズ──やがて、その黒い円から完全にフィーリアがその姿を現す。まるで水中に浸かっていたかのようにずぶ濡れであり、彼女の真白の髪がペタリと服に張り付いていた。

 

「…………」

 

 そんな惨状である己の全身を軽く眺めていたフィーリアの足元から、突如として暴風が逆巻く。彼女の髪と服が激しく巻き上げられた──と思う瞬間には暴風は止んでおり、濡れていた髪も服も気がつけば完全に乾いていた。

 

「さてさぁて。これで納得してくれますか?というか、貴方は私には絶対に敵わないってこと、理解できました?」

 

「……私の、力」

 

 フィーリアの問いに答えず、ヴェルグラトはポツリと呟く。そんな彼を冷ややかに見下ろして──トン、と。フィーリアは己の足元をこれ以上にないほどに、凄まじいほどにそっと優しく軽く踏みつける。

 

 それだけのことで、辛うじてそこに残留していた『第六罪神(シックス・シン)』の──かつて人類を滅ぼそうとした三つの厄災を遥かに凌駕する、膨大な魔力は呆気なく、容易く霧散しこの世界から、永久に消え失せしまった。

 

「…………あ、ああ……ぁぁ」

 

 五十年をかけてようやっと手に入れたはずの我が力が、目の前で儚く散っていく様を目の当たりにし、そんな無様な呻き声を漏らしながらわなわなと震わせて、ヴェルグラトは手を伸ばす。

 

「これでもう、貴方の切り札は消えて失くなっちゃいました。それと貴方に取り込まれた際、魔力の核を破壊したので、もう貴方は二度と魔法を使えません。というか、貴方本来の魔力すら失いましたよ」

 

 淡々と、事務的なフィーリアの声が地下室に響く。それはヴェルグラトの鼓膜を揺らすが、しかし彼がそれに対して反応することは、なかった。

 

 もはや廃人同然となってしまった彼に、依然としてフィーリアは淡々と告げる。

 

「これ以上生き恥晒させるのも少々心苦しいですし、とっととお終いにしましょうか」

 

 そう言うや否や、スッとフィーリアは腕を振り上げ、宙に手のひらを上に向けて翳す。ほんの少し彼女の魔力が蠢いたかと思うと────ポッ、と。その手のひらの上に小さな黒い球が現れる。

 

「普通に殺しても後々復活するんでしょう魔神様?肉体を滅ぼしても、魂さえ無事なら」

 

「……私、の……力……力……」

 

 フィーリアの問いかけには答えず、やはりヴェルグラトは廃人のようにそう何度も繰り返し呟き続ける。そこで、この魔神は完全に壊れてしまったのだと、自分が壊してしまった彼女は理解する。したところで、罪悪感など全く微塵もないのだが。

 

 ──……だったら、もういいです。

 

 彼女の手のひらに浮いていた黒い球が、ヴェルグラトに向かってゆっくりと飛来する。が、不意に彼がその口から別の言葉を吐き出した。

 

「…………最期に、教えてくれ。小娘……貴様は、一体なんなんだ。人間……なのか」

 

「……」

 

 光すらも失った目で、そう訊ねるヴェルグラトに対して、フィーリアは少しだけ、本当にほんの少しだけ思案するように表情を曇らせ──嘆息しながら、口を開いた。

 

「私だってわかりませんよ。ですが、人は私をこう呼びます──『天魔王』、と」

 

「……そう、か。『天魔王』……魔王、か。はは……ははは………」

 

 力なく笑う彼に、フィーリアの放った黒球が迫る。そして彼の眼前に到達すると────その黒球は急激に膨張し、巨大化した。

 

 もはや小さくはない黒球に、亀裂が走りそこから無数の黒い手が這い出てくる。その手全てがヴェルグラトに伸びる中、フィーリアは彼に最後の言葉をかける。

 

「ではご機嫌よう、魔神様──【終わり無き終焉(エンドレスエンド)】」

 

 そのフィーリアの言葉に、ヴェルグラトはなにも返さなかった。そして、彼の顔を黒い手たちが掴んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザンッ──壁に無数の切れ込みが走る。かと思えば、次の瞬間には粉微塵と化して宙に流れた。それを払い除けて、地下室に一つの影が入り込む。

 

「……なんだ、ここは。地下室、か?」

 

 地下室に入り込むや、影──サクラはそう呟く。と、彼女の視界に見知った複数の人影が映り込んだ。

 

「む、フィーリア。それにウインドアとラグナ嬢……ようやく見つけたぞ」

 

「あ、サクラさん。お久しぶりですね」

 

 石床に座り込むフィーリアの元に、サクラは歩み寄る。その途中で彼女も地下室を軽く見回し、そして軽く眉を顰めた。

 

 眉を顰めたまま、サクラはフィーリアに訊ねる。

 

「フィーリア。ここで一体なにがあった?それにウインドアとラグナ嬢は……それは、二人とも寝ているのか?」

 

「はい。だいぶ疲れてるみたいで、さっきから身体を揺すっているんですが全然起きません。それと……」

 

 ここで一体なにがあったのか──その質問にも答えるために、フィーリアはこの地下室での出来事を軽く振り返る。

 

『七魔神』〝暴食〟──『第六罪神(シックス・シン)』とのやり取りを。それらを振り返って──彼女は。

 

 

 

「いえ。別になにもありませんでしたよ。私がここに辿り着いた時には、既にこんな有様でしたし」

 

 

 

 かの魔神に関する記憶を脳裏の片隅に追いやり、そして放棄してからそう、純真無垢という言葉が似合いそうな笑顔と共にサクラに言うのだった。



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Glutonny to Ghostlady──蝶は空へ飛び

「……ん…?」

 

 唐突に、僕の意識は覚醒した。まだ微睡に囚われる中──バッと、僕は急いで身体を起こす。

 

「先輩ッ!」

 

 未だ混濁する意識の中で、次々と乱雑に情報が浮かび上がる。『幽霊屋敷』、幽霊少女(アリシア)──そして、魔神(ヴェルグラト)

 

 なにがなんでも先輩を助け出そうと、壁に磔にされているはずの先輩の姿を探すため、無我夢中で周囲を見渡す──見渡して、思わず僕は呆気に取られてしまった。

 

「え……?」

 

 壁などなかった(・・・・・・・)。僕の周囲にあったのは────青々とした無数の木々である。

 

 ──そ、外?なんで、外に……。

 

 ただただ困惑するしかない僕に、聞き知った声がかけられる。

 

「やっと起きましたね、ウインドアさん」

 

「え?あ、フィ、フィーリア、さん……?」

 

 声のした方向に目を向けると、僕のすぐ隣にフィーリアさんがいた。そして彼女だけでなく──サクラさんの姿もそこにはあった。

 

「無事でなによりだ。ウインドア」

 

「…………え、えっと」

 

 まるで、というか全然全く状況が飲み込めない。一体なんで僕は外に出られているのか。そもそも屋敷はどこに消えてしまったのか。そして──あの恐ろしい魔神はどうなったのか。

 

 極度に混乱しながらも、とりあえず二人にそれらを訊ねようとして────僕の背後で、眠たげな声がした。

 

「ふ、ぁ……?ここ、どこ……?」

 

 その声に、バッと僕は振り返る。そこには──気怠げに地面からゆっくりと身体を起こす、先輩がいた。その姿を視界に捉えると同時に、僕の身体が無意識に動き──瞼を擦る先輩を思い切り抱き締めた。

 

「……うぇっ?ちょ、クラハ?お、お前急にどした?」

 

 堪らず困惑する先輩。しかし僕は黙って、フィーリアさんとサクラさんが見ている前だというのに、その小さな身体をただずっと抱き締め続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……件の地下室を発見した後、屋敷全体が激しく揺れ、慌てて脱出。その直後屋敷は倒壊した──か」

 

 こちらに報告を終え、拠点であり住む街でもあるオールティアに帰還するクラハたちの後ろ姿を窓から見送りながら、『四大』──オトィウス家当代、リオ=カディア=オトィウスはポツリ、と。まるで独り言のようにそう呟いて、なおも続ける。

 

「やはり『極剣聖』と『天魔王』相手では、かの『七魔神』一柱も役不足だったみたいだね。まあ、仕方ないか」

 

 これで古い置物も片付けられたことだし、と。彼はそう付け加える。そして少し黙っていた後に、己の背後に立つ彼女に声をかけた。

 

「是非とも君の感想が聞きたいな。あの二人に間近で接触した君に、さ。ねえ、どうだった?──元《S》冒険者(ランカー)にして、かつての『六険』〝血塗れ(ブラッディ)〟スノウ」

 

 そのリオの問いかけに、彼女は──彼の侍女(メイド)であるスノウは、静かに答える。

 

「数々の噂に違わぬ、いやそれ以上の化け物でした。正直言って、勝てる気が全くしません。特に『天魔王』の方は……人間なのかどうかも疑わしい(・・・・)です」

 

 スノウの声に、およそ感情といったものはない。しかしそれでも──微小には震えていた。それをリオは敏感にも感じ取り、満足に頷く。

 

「やっぱりそうだよねー。僕も武人の心得だとかそういったものは持ち合わせていないけど、それでもあの二人からは圧というか、凄まじい雰囲気をひしひしと感じたよ。できればもう直には会いたくないね」

 

 まるで他人事のようにそう言うリオに対して、僅かに躊躇しながらも、スノウが再度口を開く。

 

「確かに、かの《SS》冒険者もですが……個人的にもう一人、警戒すべき人物が」

 

 彼女の言葉に、リオが振り返る。

 

「なんだって?それはまさか……あの《S》冒険者のことかい?」

 

 信じられないように言う彼に対し、こくりとスノウは頷く。そして言った。

 

「『天魔王』に関しては疑惑程度で、あくまでもこれは私の勘によるものですが……恐らく、アレは人間ではありません(・・・・・・・・・)。人間の皮を被った、得体の知れない何かです」

 

「……」

 

 その彼女の言葉に対してリオはすぐに返事をせず、また窓の方に向き直る、見れば、屋敷の敷地内から出たあの四人が【転移】系の魔法の光に包まれているところだった。

 

 それを眺めながら、ようやく彼は口を開く。

 

「僕には多少名の知れた一《S》冒険者にしか思えなかったけどね。でもまあ、一応頭の片隅には留めておくとするかな。君のそういった嫌な予感は昔から外れた試しもないしね」

 

 やがて空に昇る光の奔流を──否、正確に言うならば空そのものを見つめ、リオはポツリと呟く。

 

「我ら『四大』が天上へ至る日は、そう遠くない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、もうおばけ……じゃなくて幽霊屋敷は懲り懲りですよぉ」

 

「おや、奇遇だなフィーリア。私もしばらくは遠慮したいね。……一体何時間動けないでいたことか。結局屋敷を破壊してしまったな……」

 

「俺も俺も~なんか変な手首に身体触られまくったし、途中から眠ちまって記憶とか全然ねえし」

 

「ラグナ嬢、その辺りの経緯を詳し「サクラさん自重しましょうね」

 

 女三人寄れば姦しい──まあその内の一人は元男であるが──という言葉を体現するように、先輩とサクラさんとフィーリアさんは他愛もない会話を繰り広げる。そして僕といえば少しばかり距離を空けて、三人の後ろを歩いていた。

 

「……」

 

 先ほど、今回の依頼主であるリオさんに報告を終えた。これにて『幽霊屋敷』──ゴーヴェッテン邸を巡った依頼(クエスト)の幕は、下された。

 

 ……しかし、僕にはその実感が全くない。こうして全てが終わったというのに、未だに頭の中に引っかかっている。

 

 そう、あの恐ろしい魔神──ヴェルグラトの存在が、だ。

 

 ──あの後それとなくフィーリアさんに聞いたけど、知らぬ存ぜぬだった。……あいつは、どうなったんだ?

 

 かの魔神に一矢報いたところまでは覚えている。しかしそれから先の記憶が全くない。……ないのだが。

 

 ──動かした(・・・・)。あの後、一瞬だけ……誰かが、何かが僕の身体を、右腕を……動かした。

 

 僕は己の右腕を見やる。どこをどう見ても、至っていつも通りの、僕の右腕──だが、何故だろうか。まるで別の違う何かに、思えてしまうのは。

 

 ──…………一体、僕が気を失った時になにが……?

 

「おい、クラハ」

 

 考え込んでいると、不意に前から声をかけられる。慌てて顔を上げれば、すぐ目の前に先輩が立っていた。

 

「本当にどうしたんだお前。そんな浮かない顔でぼうっと突っ立ってさ」

 

「え?あ、いえ……すみません。ちょっと考え事を」

 

 どうやらいつの間にか立ち止まってしまっていたらしい。さらに先の方を見れば、オトィウス家の敷地内から出たのだろうサクラさんとフィーリアさんが待っていた。

 

「ふーん。考え事、か。まあ別にいいけど」

 

 そう言って、先輩は踵を返しその場から駆け出す──前に、思い出したかのように再び僕の方に振り返る。

 

「ごめん言い忘れてた」

 

「え?」

 

 なにを──そう僕が言う前に、花が咲いたような笑顔で、先輩が言った。

 

「今回は色々、本当に色々あんがとな。クラハ」

 

 そう言うや否や、また踵を返しサクラさんとフィーリアさんの元に駆け出す先輩。僕といえば、そのあまりの不意打ちに、完全に虚を衝かれ硬直してしまっていた。

 

 数秒遅れて、ハッと僕は我に返る。

 

 ──それは、反則ですよ先輩……ッ。

 

 堪らず、心の中でそう呟きながら、これ以上待たせないためにも僕もその場から駆け出す──その直前、視界の端にあるものを捉える。

 

 ──あれ、は……。

 

 それは、一匹の蒼い蝶だった。蝶はひらひらと舞うように、空へ飛んでいく。不思議と目が離せず、その行方を目で追っていると──向こうから先輩が僕を呼ぶ。

 

 駆け出す直前にもう一度空の方を見やると────もう既に、あの蒼い蝶の姿は何処にもなかった。



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ラグナちゃん危機一髪?──クライマックスは、最初から

「ん、んん……ッ」

 

 どうしてこうなったのか。なんでこうなったのか。というかこれで何回目だろうか。僕が、こんな風に頭をフル回転させるのは。

 

「ふ、ぅ……!」

 

 そう心の中で堪らず愚痴を零しながらも、僕は考える。ひたすら考える。一体どうやってこの状況を切り抜けようかと。

 

「は、ぁ……!」

 

 どうする?どうすればいい?僕は、一体どんな手を使えばいい?どんな手を使って、この状況から脱すればいい?

 

「ん…く、ぅ……!」

 

 幾度も幾度も考え、考えて、考え直して、考え抜いて。僕は。

 

「ん、ぁ、ぁぁ……ッ!」

 

 ──いやもう無理だよッ!!!微塵も冷静になれねえんですけどッ!?なにも考えられねえんですけどォ!!??

 

 もう堪えられなかった。そう心の中で叫ばずにはいられなかった。むしろここまで死に物狂いで冷静さを装おうとした僕の努力を認め、褒めてほしい。

 

 一体なにを言ってるんだこいつはと思うだろう。誰だって思う。僕だってそう思う。しかしここは一度待ってほしい。そして黙って僕の話を聞いてほしい。

 

 僕は、クラハ=ウインドアは男である。二十歳の、心身共に至って健全な青年である。

 

 それと自慢する訳ではないが──この二十年間、僕に交際経験はない。つまり異性と深い仲になったことが生まれてこの方一度だってない。ないのだ。

 

 だがしかし、僕とて一人の男だ。歴とした男なのだ。こんな僕にだって、ソッチ方面の欲は……それなりにある。それなりにあるが、決して表に出さぬよう普段から抑えている。

 

 そんな僕が、今置かれている状況を説明しよう。いや説明する。誰になんと言われようが僕は説明しなければならない。

 

 今、僕は。クラハ=ウインドアは────

 

 

 

「くぅぅ、ふぅぅぅッ…………!!」

 

 

 

 ────そんな、あまりにも悩ましい、こちらの心をとことん掻き乱す、艶かしく切なげで、そして色っぽい苦悶の声を、必死に抑えながらも先ほどから僅かに漏らし続けているラグナ先輩と二人きりでいた。それも人二人が入るには狭過ぎる石棺の中に立って。零距離になって互いの身体を密着させ合いながら。

 

 …………何故、何故こんな事態になってしまったのか。何故僕と先輩がこんな目に遭ってしまっているのか。その経緯を教えよう。ことの始まりは、今朝のことだ────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なあ、クラハ」

 

 ぷよんぷよんと虹色に輝く伝説のスライム(確証はない)ことレインボウを指で突き、先ほどからそうしてレインボウと戯れていた先輩が不意に僕に声をかけた。朝食を作りながら、僕は返事をする。

 

「はい、どうしましたか先輩?」

 

「暇だ」

 

 依然としてレインボウを突きながら、先輩は僕にそう言う。その言葉を受けて、僕もそうだなと思う。

 

 時の流れというものは早いもので、あの『幽霊屋敷』──ゴーヴェッテン邸の依頼(クエスト)から実に一週間が経とうしていた。その間特にこれといった出来事(イベント)もなく、確かに先輩の言う通り良く言えば日常(いつも)の、悪く言えば暇な日々が続いている。

 

 目玉焼きを焦さぬよう気をつけながら、僕は先輩に返事代わりに提案する。

 

「じゃあ久しぶりにヴィブロ平原でLv(レベル)上げでもしに行きましょうか?」

 

 その僕の提案に、暇だとこちらに訴えた先輩があまり乗り気ではなさそうな声音で言う。

 

「いやまあ、それでも別にいいんだけどさ。……いいんだけど、こう毎回同じ場所ってのは流石に飽きるっていうかなんていうか……」

 

「……確かに、その通りですね」

 

 先輩の言うことはもっともだ。僕と先輩があの平原に向かった回数は、十や二十では利かない。それこそあの平原に生息する魔物であれば、囲まれなければ今や先輩単独でも倒せてしまうのだから。

 

 ──今考えると、最初の頃と比べ物にならないくらいに、先輩強くなったなあ……。

 

 スライムにすら敗北していたあの時先輩は、もはやいない。そう思うと、僅かばかりの寂しさが込み上げてくる。

 

 とまあ、この話についてはここまでにするとして。もう今の先輩ならば、もっと別の場所でLv上げはできるのではないだろうか。そう考えて──ふと、あることを僕は思い出す。

 

 ──そういえば、グィンさんが言ってたな。

 

 ゴーヴェッテン邸の依頼から帰って二日ほど過ぎた頃に、僕が所属する冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』のGM──グィンさんに頼まれていた話を。

 

 その話というのは、遺跡調査である。なんでも、僕たちがオールティアを離れてから少し経って、この付近に新しく遺跡が発見されたのだという。

 

『僕としては、是非とも君に調査してもらいたいんだよねえ。こういうのはやっぱり、一番信頼できる人にやってもらいたいからさ』

 

 彼からは別に断ってくれてもいいと言われているし、気が向いたらやってくれとも言われている。とりあえず最初は考えますとその場を後にしたが……今の今まで忘れてしまっていた。

 

 ──……今の先輩なら、ある程度は大丈夫かもしれない。それに万が一のことがあっても、今まで未発見だったとはいえこの辺りの遺跡だ。前ならともかく、今の僕なら容易く守れる……はずだ。

 

 そう心の中で思いながら、僕はそのことを先輩に話してみる。すると案の定、その琥珀色の瞳をキラキラと輝かせて、突っついていたレインボウを頭に乗せて先輩は食いついた。

 

「そんなの絶対面白えじゃん!行こう!」

 

「了解です。じゃあ朝食を済ませたら、早速準備に……ん?」

 

 そう言って、目玉焼きと肥美獣(チャンチャモ)のソテーを乗せた皿をテーブルに運ぼうとした時だった。

 

 コンコンッ──突然、窓硝子を叩くような音が響き、反射的に視線を向けると、窓の外に一羽の鳥がいた。ただの野鳥という訳でないことを示すように、その首には首輪が付けられており、そこから小さな魔石が吊り下がっている。

 

「……なんなんだ、この鳥……?」

 

 明らかに普通の鳥ではない。しかし、だからといって無視する気にもなれず、とりあえず皿をテーブルに置いてから僕は窓の方に向かう。そして警戒しながらも、ゆっくりと窓を開けた。すると────

 

 

 

『おはようございますウインドアさん!ブレイズさん!突然で申し訳ないんですけど、この後少し時間ありますか?』

 

 

 

 ────と。こちらの方に僅かばかり乗り出してきたその鳥の首輪に吊り下げられた魔石から、何故か妙にテンションの高いフィーリアさんの声が響いてきた。



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ラグナちゃん危機一髪?──魔力だからお漏らしじゃない

「いやあ、本当にすみませんね。突然急に。それもこんな朝早くから」

 

 皆目一番。僕と先輩を呼び出したフィーリアがそう言って、軽く頭を下げる。そんな彼女に対して、僕は少し慌てながらも言葉を返す。

 

「べ、別に謝ることはないですよフィーリアさん。僕たちも用事があると言えばありますけど、そう大したものでもないですし」

 

「おう。俺も特に気にしねえぞ。……それに、お前にはもっと酷いこと前にされてるしな」

 

 後半部分に僅かばかりの棘を垣間見せながらも、概ね先輩も僕と同じような態度である。そんな僕ら二人に──というよりは先輩に向けて、フィーリアさんは苦笑を浮かべる。

 

「そう言ってくれると助かります……ブレイズさんに関しては、その節はどうもすみませんでしたと言う他ないですね」

 

 そう言って、こほんとフィーリアさんが息を整える。それから彼女はやや神妙そうな顔つきとなった。

 

「さて。わざわざホテルにまで来てもらいましたし、これ以上立たせるのは申し訳ないので、どうぞ中へ」

 

「はい。……えっと、失礼します」

 

 そうして、フィーリアさんに案内されるがままに、現在彼女が宿泊するこのホテル──『旅人の安らぎ』の特等級の一室に、僕と先輩は足を踏み入れることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──これ、は……。

 

 フィーリアさんが泊まるこの部屋に入って、僕はすぐさま呆気に取られてしまう。何故なら、部屋の状況が僕の予想、というか常識?と言えばいいのだろうか。まあとにかく、それらを覆すものだったからだ。

 

「……なんだこりゃ。凄え……な?」

 

 先輩の様子も僕と同様だった。この人がこんな風に困惑するのは珍しい。しかし、これ(・・)を目の当たりにして、困惑するなというのが無理な話だろう。

 

 端的に言うのなら──魔石だらけ(・・・・・)だった。床も壁も、天井もそして窓の方にも。どこを見回しても、大小無数の魔石が、部屋のそこら中に生えていた。

 

 呆然とする僕と先輩に、少し気恥ずかしそうにしながらフィーリアが説明する。

 

「それらの魔石に関しては気にしないでください。それと……できるだけ見ないでもらえると助かります。……その、なんていうか……私からするとちょっと、いえ結構恥ずかしいものなんで」

 

「わ、わかりました。……フィーリアさん、これは一体……?」

 

 少し申し訳ないと思いながらも、僕はこのそこら中から生え出している魔石に関して、とてもではないが訊かずにはいられなかった。僕の質問に対し、フィーリアさんは若干渋りながらも、答えてくれる。

 

「え、えっとですね。えーっと……私、他の人よりも魔力が多くて、それで……週に一回か二回、寝てる時とかぼーっとしてる時とかに、過剰になった魔力が……そのぅ…………も、漏れちゃって……結果こうなるん、ですよね……はは」

 

 そう言い終えて、誤魔化すように笑うフィーリアさんの顔は、赤く染まっていた。普段の飄々というか、余裕に満ち溢れた彼女が、少なくとも浮かべそうにない、羞恥の表情となっていた。

 

 ──この人もこんな顔するんだな……。

 

「……す、すみません!本当にすみません!そんなこと説明させてしまって……」

 

 心の中でそう思いながらも、僕は慌てながらもすぐさま彼女に向かって頭を下げ、謝罪の言葉を述べる。述べながら、いかに自分にデリカシーというものがないのかと、己を叱咤する。

 

 確かに、フィーリアさんがこの魔石を見ないでほしいとこちらにお願いする訳である。僕たちからすれば、ただ魔石がそこら中から生えているだけにしか見えないが、彼女からすれば、これらの魔石全ては────

 

 

 

「ふーん。要はフィーリアが漏らした跡ってことか。これ全部」

 

 

 

 ────絶対に口に出して言ってはいけないことを、先輩が口に出して言ってしまった。心ない先輩のその言葉に、ビクッとフィーリアさんが身体を跳ねさせる。そして慌てて僕が先輩に注意するよりも早く、彼女はその口を開いた。

 

「ちッ、違いますぅ!おしっ…………お、お漏らしなんかじゃありません魔力ですぅ!これは魔力だからお漏らしにならないんですぅ!私はお漏らしなんかしてないんですぅ!!」

 

「フィ、フィーリアさん……」

 

 普段の様子など彼方に放って。もはや炎上するのではないかというほどに顔を真っ赤にして、必死になってフィーリアさんはそう先輩に訴える。そんな彼女の様子に、流石の先輩もたじろいでしまう。

 

「お、おう……わ、わぁったよ。……なんか、ごめん」

 

「わかればいいんですよ、わかれば……全くもう」

 

 無意識なんですから仕方ないじゃないですか──そう付け加えて、フィーリアさんは嘆息する。……僕としては、この数分で彼女に対して抱いていたイメージだとか、雰囲気だとか……まあ、そういった諸々のものが、こう……崩れてしまい、呆然とする他なかった。

 

 口も開けず黙る僕と、気まずそうに口を閉ざす先輩に。フィーリアさんが言う。だが、その言葉は────

 

 

 

「せっかくブレイズさんのLv(レベル)も、性別も元に戻してあげようと思って呼んだのに……」

 

 

 

 ────あまりにも、衝撃的なものだった。



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ラグナちゃん危機一髪?──『妖精聖剣』

「せっかくブレイズさんのLv(レベル)も、性別も元に戻してあげようと思って呼んだのに……」

 

 何気なく、まるでそう大したことではないかのように。ポツリと呟かれたフィーリアさんのその一言で、時間でも止まったかのように、一瞬にしてこの場が静まり返る。

 

「……?」

 

 ただ一人、例外であるフィーリアさんが固まる僕と先輩に対して小首を傾げ────ようやく、僕ら二人もハッと我に返り、直後凄まじい勢いで先輩がフィーリアさんに詰め寄った。

 

「ど、どういうことだよそれッ!?Lvも、性別も元に戻すって、そんなことできんのか!?」

 

 今にもフィーリアさんに掴みかからんばかりに、先輩が声を荒げてそう訊ねる。流石の彼女もその鬼気迫る勢いに若干押されながらも、先輩に対して答える。

 

「え、ええ……できます。戻せますよ。なにせ、私にはその手段がありますから」

 

「う、嘘だろ……?マジか?マジでか!?」

 

「マジです。マジですから、ブレイズさん一旦落ち着きましょう。落ち着いて一回私から離れましょう」

 

 そう言って、至近距離にまで迫った先輩を押し戻すフィーリアさん。そんな二人のやり取りを、僕は呆然と眺めていた。……いや、そうすることしか、できなかった。

 

 ──元に、戻せる……?先輩を、元に……?

 

 はっきり言って、信じられなかった。とてもではないが、にわかには信じ難かった。畏れ多くも、《SS》冒険者(ランカー)──『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアのその言葉を、僕はすぐには受け入れられなかった。

 

 それはそうだろう。一体どのような手段があるのか。Lvも、性別も元に戻す──あの頃の、正真正銘の《SS》冒険者、僕が尊敬し、そして僕のずっと遥か彼方に立つ、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズに戻す、ことなど。

 

 そんなの、そんなもの、奇跡にでも頼るしかないはずだ。……この人は、フィーリアさんはその奇跡を────起こせる、のだろうか。

 

 ──本当に、可能……なのか?

 

 思わずはしゃぐ先輩を他所に、僕も微かばかりに震える声音で、恐る恐るフィーリアさんに訊ねる。

 

「あの、フィーリアさん……先輩のLvも、性別も……全部元に戻せる、なんてこと……そんなこと、本当にできるんですか?」

 

 場合によっては失礼にあたるだろう僕のその問いかけに──フィーリアさんは眉一つ顰めさせず、それどころか満面の、これ以上にないくらいに自信に満ち溢れた笑顔で答えた。

 

「はい。私にはそんなことが本当にできちゃいます。『天魔王』の名は伊達ではないということですよ」

 

 そう言うや否や、彼女は無言で、まるでポケットに手を突っ込むように【次元箱(ディメンション)】を発動させる。だがかなり小さいもので、そこにフィーリアさんが躊躇なく手を突き入れる。

 

「間抜けな話、私もこれ(・・)の存在をつい最近まで忘れてたんですよねえ。まあ滅多に使わないし、忘れちゃうのも無理はないというかなんというか」

 

 そう言って、フィーリアさんが【次元箱】からゆっくりと手を引き抜く────その手には、一本のナイフが握られていた。

 

「そう、これですこれ」

 

 言いながら、そのナイフを得意げに宙に翳すフィーリアさん。僕と先輩は、そのナイフに視線を集める。

 

 簡単に言うならば、果物ナイフだろう。しかし一般的なものと比べると少し小さめで、だがやたら凝った装飾が施されており、果物を切るのに使うのは、少々躊躇うほどに美麗である。

 

 僕と先輩がそのナイフを眺める中、これまた得意げにフィーリアさんが言う。

 

「『妖精聖剣(フェアリーテイル)』──それがこの、妖精の国に代々伝わる秘宝の名です」

 

 ──『妖精聖剣』……それはまた、凄い名前だな。

 

 いや、それよりもなんでそんなものをこの人は持っているんだろう。そもそも、妖精の国とは一体──後から遅れてそういった疑問が僕の頭を占める中、

 

 

 

「一日に三回までならどんな願いでも叶えてくれる、ちょっと素敵な道具(アイテム)なんですよ」

 

 

 

 ……と。フィーリアさんはさらりと、まるで大したことのないようにそう付け加えた。

 

 再度、この場を静寂に包まれ──すぐさま、先輩がそれを打ち破った。

 

「はあああああああ!?ちょ、それホントかっ?嘘じゃねえのかっ!?」

 

「本当ですよ。なんでわざわざ嘘吐かなきゃいけないんですか。あとブレイズさん声大きいですって」

 

 堪らず声を荒げて興奮する先輩と、依然落ち着きを払ってそんな先輩を窘めるフィーリアさん。そんな二人を前に、やはり僕はただ黙っていた。……いや、あまりの衝撃に言葉を失い、口を開けずにいたのだ。

 

 ──どんな願いでも、叶える道具……。

 

 それこそ、まさに奇跡としか言い様がない。先ほど僕は不安に思ったが、あまりにも烏滸(おこ)がましいことだった。この人は奇跡を起こすどころか──奇跡そのものをその手に持ってきてしまった。

 

 呆然とする他ない僕を他所に、フィーリアさんが続ける。

 

「とはいえ、流石に制限とかはありますけどね。ですがそれさえ守れば、この『妖精聖剣』は使用者のどんな願いでも──たとえこの世界(オヴィーリス)の滅亡を望んだとしても、叶えてくれます」

 

「凄え……(すっげ)えな!」

 

 なんとも語彙力のない称賛をフィーリアさんに──というか、彼女がその手に持つ『妖精聖剣』に対して先輩が送る。だが未だに口を開けない僕よりかは、まだ全然マシなのだろう。……と、ようやく僕が受けた衝撃も抜けてきた。

 

「……た、確かに。どんな願いでも、なんでも叶えてくれる道具なんて……凄過ぎますね」

 

 悲しいことに、僕も先輩と同等の称賛しか思いつけなかった。……とまあ、それは置いておくとして。

 

『妖精聖剣』──とにかく凄まじい道具ではあるが、その前にフィーリアさんの言う、その制限とやらが気になり、僕は彼女にその内容を訊ねる。

 

「フィーリアさん。その、『妖精聖剣』の制限って一体なんなんですか?やっぱり、それほどの道具ですから相応に重いんでしょうか……?」

 

 なにせ、あらゆる願いを叶えてくれるのだ。恐らく僕の想像を遥かに絶する制限なのだろう。人体に負荷がかかることは間違いない──それをフィーリアさんにかけさせるには、心苦しい。

 

 不安そうな僕の問いかけに、しかしフィーリアさんは依然と笑顔を浮かべながら答えてくれた。

 

「そう大したものじゃないです。使用者本人の、本来の魔力量によって叶えられる願いの規模が決まる──この道具の制限はただそれだけです」

 

「……へ?」

 

 思わず、ほぼ無意識に僕は己の口から、そんな間の抜けた声を漏らしてしまった。いや、それも無理はないだろう。なんだって、僕の想像を絶するほどに、『妖精聖剣』の制限とやらは軽かったのだから。

 

「つ、使うたびに寿命を削られたり……そういう制限じゃあ、ないんですか?」

 

「まっさかぁ。そんな制限でしたら私だって使わず【次元箱】の底に放っておきますよ」

 

「…………そう、ですか」

 

 つまり、だ。この道具を使うには魔力が高ければそれでいい。もしくは自分の願いに見合った魔力を身につければいい──ただ、それだけである。

 

 ──逆に、魔力がなければただの綺麗な果物ナイフってことにもなるけど……。

 

 呆然とする僕に、ですがとフィーリアさんが付け加える。

 

「例えば『億万長者になりたい!』という願いでしたら、私なら難なく叶えられます。しかし『無限の富が欲しい!』だと私でも叶えられません。願いの代価として、文字通り無限の魔力を要求されますからね。流石の私でも、魔力は有限ですからねえ」

 

「な、なるほど」

 

「でもブレイズさんを元に戻すという願いなら、私なら叶えられる……と思います。有限って言っても、たぶんこの世界で一番魔力量はあると思うんで」

 

 言いながら、えへんと胸を張るフィーリアさん。この人のその言葉には、これでもかという説得力が込められていた。

 

 ──……そうか。先輩を、ラグナ先輩を元の状態に……あの頃に、戻せるんだ……。

 

 正直なところ、実感がまるでない。性別に関してはまだしも、Lvは地道に、それこそ今やっている方法で上げる他ないと、僕はずっと思っていた。それしか方法はないんだと、結論を出していた。

 

 ……しかし、まさかこんな道具が存在するなんて、夢にも思っていなかった。これさえ、この『妖精聖剣』さえあれば、全てが元に戻る。全部、解決する。

 

 最強と謳われる三人の《SS》冒険者(ランカー)──その内の一人、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズが、再びこの世界に帰ってくるのだ。

 

 もうこれ以上、僕が頑張る必要はない。先輩を元に戻そうと躍起になる必要もない。今の、か弱い少女となってしまっている先輩を守るために、強くなる必要も──ない。

 

 また、元に戻るだけだ。あの第一の厄災──『魔焉崩神』エンディニグルがオールティアに襲来する以前の、日常(いつも)の日々が戻ってくるだけだ。

 

 そのことに関して忌避感など微塵もない。そんなもの、抱くはずがない。また《SS》冒険者が三人となり、次の厄災──『理遠悠神』アルカディアへの対処が、より万丈となるのだから。

 

 ──そうだ。喜ぶべき、なんだ。

 

 そう思い、僕は先輩を見つめる。今の、可憐な赤髪の少女である先輩を見つめて────

 

 

 

「んじゃあ早速よろしく頼むぜ、フィーリア!」

 

 

 

 ────僕の視線に気づくことなく、これ以上にないくらいに嬉しそうに、先輩がフィーリアさんにそう言う。その姿を見て、目の当たりにして、僕はもう、なにも言えなくなってしまった。

 

「バッチ了解ですよ!さあ、とくとご覧になってください──この、『妖精聖剣(フェアリーテイル)』の力を!」

 

 そして、フィーリアさんも僕の様子に気づくことなく、己が手に持つ『妖精聖剣』を宙に掲げた。



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ラグナちゃん危機一髪?──『天魔王』の敗北

「さあ、とくとご覧になってください──この『妖精聖剣(フェアリーテイル)』の力を!」

 

 その得意げなフィーリアの声と共に、彼女がその手に握る『妖精聖剣』が宙に掲げられ、続けて彼女は言葉を紡ぐ。

 

「聖剣よ、我が魔力を代価とし、我が望みを今此処に成せ──『妖精聖剣』!」

 

 フィーリアさんがそう紡ぎ終えた瞬間──馬鹿みたいに、そして信じられないほどの膨大な魔力が彼女から放出され、その全てが怒涛の勢いで『妖精聖剣』に流れ込む。普通の道具(アイテム)ならば、それほどの魔力を受けて無事で済むはずがないのだが──驚くことに、『妖精聖剣』はその全魔力を僅かにも残さず、吸収してしまった。

 

 途端、この部屋を埋め尽くさんばかりに『妖精聖剣』が光り輝く。その輝きは徐々に刃先に集中したかと思えば──一気に放たれる。粒子となったその光が、雪のように部屋の中で舞い、そして優しく穏やかに先輩の身体を包み込んだ。

 

「……ッ、ぁ」

 

 不意に、グラリとフィーリアさんの身体が揺れた。危うくそのまま床に倒れ込みそうになったが、彼女はなんとかその場に踏み留まる。

 

「フィーリアさん!?」

 

 そんな彼女の様子に堪らず僕はそう叫んで、慌てて駆け寄る。

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

「…………大丈夫です。ちょっと、想像の倍魔力を持っていかれて、少し目眩がしただけですから」

 

 そう言うフィーリアさんだったが、その顔は見てて心配になるほどに真っ青である。と、そこで次は先輩が声を上げた。

 

「お、おおお……!なんか、力が……身体の奥から力が……!」

 

 その言葉に続くようにして、先輩を包み込む輝きが一層その強さを増す。それと同時に──先輩から、強大な波動が満ち溢れていく。

 

 ──……遂に、遂に帰ってくるのか。

 

 フィーリアさんに肩を貸しながら、僕は先輩の様子を見届ける。《SS》冒険者(ランカー)──『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズの帰還を、見届ける。

 

 そして、その時は────

 

 

 

「おおおおお…………!!」

 

 

 

 ────来なかった(・・・・・)。突如、先輩を包み込んでいた輝きが、光の粒子が、まるで蜘蛛の子を散らすようにして宙に霧散し、溶けるようにして消失してしまったのだ。

 

「……はぇ?」

 

 一気に静まり返った部屋の中、そんな気の抜けた先輩の、未だ赤髪の少女の姿のままである先輩の声だけが虚しく響き渡る。そして遅れて────

 

「はああああああああああああッ!?」

 

 ────という、フィーリアさんの絶叫が迸った。

 

「え、いや、ちょ…はあ?はぁああっ?なん、なんで私の魔力が消え……いやそれよりも、なんでブレイズさん女の子のままなんですか!?」

 

 矢継ぎ早にそう言って、未だ少し青ざめた顔であるにもかかわらず、フィーリアさんは急いで先輩の元に歩み寄る。僕は、その背中をただ呆然と見送るしかできないでいた。

 

「ブレイズさん!私の!私の魔力はどこにいったんですか!?どこにやりがったんですか!?」

 

「ん、んなこと俺が知るか!そんなんよりも俺まだ女のままだぞ!?男に戻れてねえじゃねえか!どういうことだよ!!」

 

「そんなの私だって知りませんよ!」

 

 ぎゃいぎゃいと部屋の外にまで聞こえんばかりの大声で、そう言い合う先輩とフィーリアさん。そこでハッと僕も我に返った。

 

 ──ど、どういうことだ?一体、なにがどうなってるんだ……?

 

 混乱しながらも、僕は【リサーチ】を使う。見ての通り、何故か先輩の性別は元に戻ってはいなかったが──Lv(レベル)の方は戻っているかもしれない。そう考えての行動だった。

 

 しかし────

 

 

 

『ラグナ=アルティ=ブレイズ:Lv30』

 

 

 

 ────Lvの方も、元には戻っていなかった。その事実を、現実を目の当たりにし、さらに僕は混乱する。

 

「フィ、フィーリアさん……先輩の、Lvも……戻ってません」

 

「なッ……そ、そんな訳……!」

 

 僕に言われ、フィーリアさんも【リサーチ】を使ったのだろう。彼女の顔が、呆然となって──すぐさま、再び『妖精聖剣』を宙に掲げた。

 

「せ、聖剣よ!」

 

「駄目だフィーリアさん!」

 

 僕は大慌てで、再度『妖精聖剣』の力を振るおうとするフィーリアさんを止めようとする。もし先ほどと同じ量の魔力を吸い取られたら、流石にこの人でも命に関わる。そんなことは、この人も重々理解して、承知しているはずだ。

 

 だが、それでも彼女は『妖精聖剣』の力を行使しようとしている。それは先輩の為なのか、それとも己の自尊心(プライド)がこんな結果を認められないからか──ともかく、僕はフィーリアさんの無謀な行動を必死に止めようとした──が、

 

 

 

「我が魔力を代価とし、今一度我が望みを此処に成せ!」

 

 

 

 少しの躊躇いもなく、フィーリアさんがその言葉を口に出し、そして言い終えてしまった。少し遅れて、先ほどと同じように彼女の身体から魔力が絞り出され始め──止まった(・・・・)

 

「……え?」

 

 呆けたようにフィーリアさんが声を漏らす。彼女の魔力はほんの少しだけ絞り取られ、しかし『妖精聖剣』がその魔力を吸収することはなかった。結果、彼女の魔力が宙に溶けて消える。

 

 なんとも言えない空気が部屋を満たす中──真っ先に我に返ったフィーリアさんが三度叫ぶ。

 

「い、いい加減にしやがってくださいこの聖剣!我が魔力を代価とし、今度こそ我が望みを此処に成せ!成しやがれ!」

 

 普段からは到底想像できないような必死さとお世辞にも綺麗とは言えない言葉遣いで叫ぶフィーリアさん。そんな彼女の悲痛とも思える叫びに、しかし『妖精聖剣』は無情にも、なにも応えなかった。

 

「………………」

 

 とうとう、無言になって立ち尽くし、『妖精聖剣』を宙に掲げたまま固まるフィーリアさん。そんな彼女に対して僕はどう言葉をかけていいかわからず、ただ沈黙するしか他なかったが──先輩は違った。

 

「……なんだよ。そのナイフ、見掛け倒しのポンコツじゃねえか」

 

 …………時に人の言葉は、下手な凶器よりも人を傷つける。そしてその先輩の言葉は凶器以上の凶器であり──恐らく、フィーリアさんが今一番聞きたくなかった言葉だったのだろう。

 

 心ない先輩の一言が部屋に響いたのを最後に、また静寂が訪れる。それは今までよりもずっと長く、そして重かった。だが突如として────

 

「あーーーッ!!!もういい!もういいですよ!上等ですよこの野郎!大体こんな全然使えないナマクラに頼ったのが間違いだったんですぅう!!!」

 

 ────そんなフィーリアさんの怒声が跡形もなく消し飛ばした。瞬間、彼女は【次元箱(ディメンション)】を開き、そこに『妖精聖剣』を乱暴に投げ入れる。そしてまた別の【次元箱】を開いて即座に手を突っ込む。

 

【次元箱】から引き抜かれた手に握られていたのは、桃色の液体で満たされた謎の小瓶。その栓を目にも留まらぬ勢いで抜いたかと思えば、急変した彼女の態度に驚き思わず固まっていた先輩の小さなその口に、僅かな躊躇いもなく突っ込んだ。

 

「むぐぅ?!」

 

 小瓶が傾けられ、中の液体が減っていく。それと同時に先輩は目を白黒させながらも、その白い喉を上下させる。その様が、僕の目には妙に艶かしく映ってしまう。

 

 小瓶の中身が消えると、ようやくフィーリアさんが先輩の口から小瓶を引き抜く。解放された先輩は、堪らずその場に崩れ落ちて、激しく咳き込む。

 

「ゲホッゴホ……い、いきなりなにすんだフィーリア!!てか、俺になに飲ませて……!」

 

「なにを飲ませたかって!?私が前に暇潰しで作った性転換薬ですよ!これを一滴でも口にすればあら不思議!一分もしないで性別が逆転しますやったね!!」

 

 

 

 

 

 数十分後。特に先輩に変化は起きなかった。

 

 

 

 

 

「ちっくしょおおおおおおおおおおっ!!!!」

 

 バリィンッ──そう吐き捨てて、フィーリアさんは窓硝子を思い切りブチ破り外に消えてしまった。瞬間、粉々に砕け散った硝子の破片が巻き戻るようにして集まり、気がつけばそこには全く無事な窓硝子があった。

 

「…………と、とりあえず遺跡に向かいましょう。先輩」

 

「……そ、そだな」

 

 

 

 

 

 この日、『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアは、初めて敗北というものを味わされたのだった。



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ラグナちゃん危機一髪?──己への疑念

 グィンさんから調査を頼まれた遺跡は、オールティアの外れにある森の奥深くにあった。ホテルから飛び出して行ったフィーリアさんのことも気がかりではあったのだが、とりあえず僕と先輩はその遺跡調査の方を優先し、件の遺跡を目指し向かった。

 

 そして森の中を進む途中、何度かその森に生息する魔物の襲撃を受けつつも、予想よりも少し早くその遺跡に辿り着くことができたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これが例の遺跡、みたいですね。……そう古いものじゃあ、ないみたいですけど」

 

 目の前の遺跡を眺めて、とりあえず僕はそう評価を下す。そう大きいものでもないし、年代もそう古いものとも思えなかった。

 

「それにしても、なんでこんな遺跡が今さら発見されたんですかね……」

 

「さあな。そんなん考えるよりも、とっとと中に入ってみようぜ。クラハ」

 

 僕にそう言って、一足先に遺跡に踏み入ろうとする先輩。そんな先輩の行動を、僕は慌てて止める。

 

「先輩待ってください。一応念のため、先輩は僕の後ろにいてください。どうか、お願いします」

 

「あ?……わぁったよ。しゃあねえな」

 

 僕の言葉に、遺跡の入口手前で踏み止まり、こちらに振り返って不服そうな表情を見せながらも、先輩はそう返し素直に受け入れてくれた。

 

「ありがとうございます。では……進みましょう」

 

 そんな先輩に感謝しながら、僕は先頭に立ち、そしていよいよ遺跡の中に踏み入ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遺跡の中は、薄暗かった。しかし薄暗いだけで、真っ暗ではない。まるで草のように──いや、今朝『旅人の安らぎ』の特等級、フィーリアさんが泊まる部屋で見た光景のように、そこら中に魔石が生えており、その魔石がぼんやりと発光していた。

 

 おかげで灯りには困らないが……生え出しているせいで、少々足場が危ない。魔石に足を取られない気をつけながら、僕の後ろを歩く先輩にも注意を投げかける。

 

「先輩。転ばないように気をつけてくださいね。たぶん、結構痛いと思いますよ」

 

「んなの言われなくてもわぁってるってーの。……たく、あんまし子供扱いすんな」

 

 僕の言葉に、少し怒ったようにそう返す先輩。だがやはり、少女の姿だと怖くなく、むしろ微笑ましいというか、可愛らしいというか。

 

 ──……。

 

 歩きながら、ふと思い返す。今朝のことを、フィーリアさんの──正確には彼女の持つ『妖精聖剣(フェアリーテイル)』のことを。

 

 彼女曰く、一日三回までなら使用者の魔力に応じてどんな願いでも叶えてくれる、神器級(ゴッズクラス)と言っても差し支えない道具(アイテム)。もはや凄まじいという簡単な評価では片付けられない道具だった。

 

 ……しかし、それでも。先輩を元に戻すことは叶わなかった。そのあまりにも強大過ぎる力を以てしても、先輩のLv(レベル)も性別も──元には、戻せなかった。

 

 Lvに関しては、最悪問題はない。一体どれだけの時間がかかるが皆目検討つかないが、地道に魔物(モンスター)狩りを行い、経験値を稼いでいけば──最終的にはLv100に到達できる……だろう。たぶん。

 

 だが一番問題なのは────その性別。今さら言うことではないが、元々先輩は男だ。Lvもそうだが、性別も元に戻さなければならない。というか、先輩がそれを強く望んでいる。

 

 けれど正直言って、これに関しては全くの手詰まりである。一体どのような方法があるのかすらも、僕にはわからない。その上、今日のことで……若干、それは絶望的なんじゃあないかと、考えさせられてしまった。

 

 Lvの方ならまだ納得できた。人類の限界点──Lv100だ。この世界(オヴィーリス)を創りし最高神──『創造主神(オリジン)』が定めし、生命にとっての一つの極地だ。たとえ『妖精聖剣』のような、神器級の道具の力を用いたとしても、そうは問屋が卸さなかったのだろう。

 

 しかし、しかしだ。それに比べて性別の方になると話は違ってくる。そりゃあ性別だってそうポンポンと変えられないものだろう。……変えられないが、神器級の力であればこの程度、普通はどうにかなったはずだ。

 

 だが、依然として先輩は女の子のまま。フィーリアさんが作ったという性転換薬の効果も出なかった。では、一体どんな方法を使えば先輩を男に戻せる?

 

 ──……わからない。

 

 諦めかけている訳ではない。世界は広いのだ、きっとまだなにか、方法はあるはずだ。諦めるには、早過ぎる。

 

 ……ただ、思ってしまった。あるまじきことに、僕は思ってしまったのだ。

 

 

 

 先輩が、女の子のままで良かった────と。

 

 

 

 ──僕は、僕がわからない……!

 

 安堵してしまった。ホッと、胸を撫で下ろしてしまった。先輩が今も女の子であることに──僅かにも喜んでしまった。

 

 後になって、僕はそんな自分を責めた。いい訳がないだろうと、己を罵った。当たり前だ。そんなこと、喜んでいい訳がない。

 

 そして──先輩の性別が戻らなかったことに対して、何故喜んでしまったのか、参ったことにその理由すらもわからない。

 

 ──どうして、なんだろう。

 

「先輩……」

 

「ん?なんだクラハ?」

 

 小声で呟いたつもりが、先輩の耳に届いてしまったらしい。後ろから返事する先輩の方に振り返って、少し慌てながらも僕は答える。

 

「い、いえ!なんでもないです!」

 

「……」

 

 僕の顔を訝しげに見つめる先輩。少しの沈黙が流れた後、先輩が心配そうに口を開いた。

 

「お前、なんか悩んでんのか?」

 

 その言葉に対して思わず肩が跳ね上がりそうになるのを必死に抑えながら、僕は至って平然とした表情を浮かべた。

 

「まあ、悩んでることには悩んでますね。僕も最近武器を新調しようかなー……と。この剣だってあまり状態の良くない、間に合わせの予備品(スペア)ですし。お金も充分貯まってきたので、今度はもう少し上等なものを買いたいところです」

 

 全く心にも思っていない僕の言葉に対して、やはり先輩は何処か考えるように真剣な眼差しを僕に向けたが──それも数秒のことだけだった。

 

「そうか。まあ……なんだ。お前の好きにすればいいと思うぞ」

 

「はい。そうします……ん?」

 

 と、その時だった。この遺跡に入ってしばらく道なりに歩いていた僕と先輩だったが──ようやっと、ある程度開けた場所に出れた。



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ラグナちゃん危機一髪?──ピンチはいつも突然訪れる

 今まで快適とは言えない、狭まった通路を歩いていた僕と先輩だったが、ここに来てようやっとある程度開けた場所に出た。通路で見てきたものと同様、この場所にも至るところに発光する魔石が生えており、この場所全体を照らしていた。

 

「やっと広いとこに出れたな」

 

「ええ、そうですね」

 

 そう短く言葉を交わしながら、僕と先輩は先に進む。そして中央辺りにまで歩いた時──僕は足を止めた。続けて、腕を振って先輩も止まるよう合図を送る。

 

「?」

 

 僕の合図を受けて、奇妙そうにしながらもすぐ後ろで、先輩も素直に止まってくれる。それを確認して、僕は黙ったまま静かに、剣を鞘から抜いた。

 

「先輩。武器を構えてください」

 

「…………ああ、そういうことか」

 

 流石の先輩も、気づいたらしい。僕の言葉通り、先輩も己の得物であるあの十字架を模した白剣を構える。

 

 僕と先輩が互いに背中を合わせる中──周囲から、なにかが起き上がるような音が次々と聞こえてくる。その音の主が、視界に映り込んでくる。

 

 言うなれば、それらは土で作られた、少々不格好な人形であった。恐らく目を模しているのだろう、顔の上部分に空いた二つの穴が僕と先輩に向けられる。

 

 〝有害級〟の魔物(モンスター)──『土人形(クレイパペット)』。今、僕と先輩は完全に取り囲まれていた。

 

 無数の『土人形』から目を離さず、僕は先輩に訊ねる。

 

「やれますか?先輩」

 

 先輩はすぐには答えず、少し遅れて──

 

「頑張る」

 

 ──そう、微かに固い口調で僕に返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、これはクラハが知る由もないこと。クラハとラグナが遺跡にて魔物──『土人形(クレイパペット)』の群れに囲まれている時のこと。

 

 オールティアにある酒場──『大食らい(グラトニー)』。ここには住民はもちろんのこと、依頼(クエスト)帰りの冒険者(ランカー)たちも訪れる場所である。質の良い、美味い酒を多く取り揃えている他、その肴だったり、これまた美味い料理も出している、まさにオールティアの男たちにとって楽園のような場所なのだ。

 

 その『大食らい』に今──とある二人の人物が立ち寄っていた。

 

 

 

「んぐ、んぐっ……かっはぁぁ…!ったく、ほんとやってらんねえですよぉ、えぇもぅ」

 

 これで十杯目になる金色の液体──発泡酒(エール)をこれまた豪快に一気飲みし、凄まじく鬱屈としたため息を吐きながら、空になった木製のジョッキをテーブルに思い切り叩きつけ後、それはもう鬱屈とした声音で先ほどのため息と同じように、その人物はそう吐き捨てる。そして間髪容れずどうしようもなく鬱屈としたように続ける。

 

「そっもそもでっすよぉ。わぁたしだって、てんまおぅだぁって、しぃっぱいのひとつやふたぁつ、するんですよぉぉぉ……ひっく」

 

 ……誰がどう見ても、その人物は完全にデキ上がっていた。注文を頼まれ、否応にも近づくことになる店員を除き、誰一人としてその近くに少しも寄らない状況の中──しかし、その酔っ払いと同じテーブルに座る、もう一人の人物がいるのだ。

 

「……まあ、君になにがあったのかは知らないが。自棄酒はその辺りまでにしたらどうだ?フィーリア」

 

「うっせえ、でぇすよ!ぃいんですよべっつにぃ〜わたぁし、よってなぁんか、なぁいんですからぁぁ〜」

 

「いや誰がどう見ても今の君は酔っているよ……」

 

 全く以て説得力の欠片もないその言葉に、珍しく頭を抱えるのは──サクラ。とある事情でこの街に滞在する、世界(オヴィーリス)最強の三人(実質今は二人だが)の一人、『極剣聖』と呼ばれこの世界全ての剣士に尊敬と畏敬と憧憬、そして畏怖の念を送られる、《SS》冒険者である。

 

 一方、サクラの言う通り自棄酒を煽り続け、ひたすら自堕落というか、人から尊敬やら畏敬やら憧憬を根刮ぎ掻っ攫う様を、恥ずかしげもなく大っぴらに晒すこちらの人物は──フィーリア。彼女もまた世界最強の三人(二度目の注釈だが今は実質二人である)の一人、『天魔王』と呼ばれるこの世界全ての魔道士(ウィザード)の頂に君臨する、《SS》冒険者である。

 

 そんな二人が──というよりサクラの場合は半ば強引に付き合わされて──『大食らい』にて、互いに酒を飲み交わしていた。

 

「あああちっくしょぉ……ぶぅれぃずさんだぁって、ひどすぎるとおもいません?いくらぁ、なんでぇも……ことばのげぇんどってもんがあるでしょぉぉ??」

 

「凄まじいほどまで絡み酒だな……まあ、こんな君を見られるのはある意味幸運なんだろうか」

 

「なにいってんですかぁさくらさぁん……わたしぃの、はなしぃきぃいてくだぁさぁいぃよぉぉ」

 

「安心しろフィーリア。君が酔い潰れても、私がしっかりとホテルに連れて行こう」

 

 全く成立しない会話を数回挟んだ後、不意にブルリとフィーリアが身体を震わせる。それから少し煩わしそうにしながらも、だいぶ危なげに揺れながらも立ち上がった。

 

「む?どうしたフィーリア」

 

「といれ。……ひっく」

 

 それだけ言って、その言葉通りにトイレがある方向に向かって彼女は歩き出す。しかし立ち上がった時と同様、その足取りは実に危なっかしい。

 

 そんな彼女の様子に、サクラは背中越しに声をかける。

 

「大丈夫か?私も付いて行こうかー?」

 

「いいですべぇつっにー。わたしは、てんまおうなのでぇ」

 

「……そ、そうか。転ばないよう、気をつけれてくれよ?」

 

「はいはーぃ……ひっく」

 

 心配するサクラに見送られて、トイレに向かうフィーリア──しかし、酩酊状態にある思考の最中、突如稲妻が走ったかのように、閃光が迸るように、彼女はとあることを思い出す。

 

 ──そういえば……。

 

 先ほどの通り、口に出す言動こそ酔っ払いそのものであるが──その思考は至って普段通りで、冴えていた。

 

 ──ブレイズさんに飲ませた、あの薬。

 

 色々と言葉の刃に斬られ刺され抉られた腹いせに、ラグナに飲ませたあの薬。あの桃色の薬には、ある副作用(・・・)があったのだと、フィーリアは思い出したのだ。

 

 それは────

 

 

 

 

 

 ──遅効性で、少しキツめの利尿作用があるんでしたっけ。



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ラグナちゃん危機一髪?──こんなこともあろうかと

「【強化斬撃】!」

 

 ザンッ──魔力によって巨大化した剣身を土人形(クレイパペット)に叩きつけ、刃がその身体を砕く。そしてその一体だけには留まらず、並んでいた四体もまとめて叩き斬った。

 

 動力の源である魔核(コア)を一撃で破壊された土人形たちが、ただの物言わぬ土の塊となってボロボロと崩れ去っていく。その様を尻目に、僕は即座にある方向を振り向く。

 

 その方向にいるのは──先輩である。一応【挑発】を使い、僕の方へ敵意(ヘイト)を集めたとはいえ、土人形はざっと見ても十体はいた。七体は僕が倒したが、残りの三体は先輩の方へ向かったはずである。

 

 一応土人形は〝有害級〟の中でも下位に入る魔物だ。今の先輩であれば、三体であろうと多少苦戦は強いられるだろうが、それだけのこと。負けはしない──はず。

 

 しかし、万が一ということもある。そう考える僕の視界に映り込んだのは────

 

 

 

「ハァ…ッ!」

 

 

 

 ────と、声を張りながら、己の得物である十字架を模した白剣を振るう先輩の姿だった。純白の刃が、幾度も斬りつけられところどころ損傷し、欠けている土人形の胴体に叩きつけられる。

 

 それが決定打となったようで、白刃が叩きつけられた箇所から無数の亀裂が走り、次の瞬間先輩と対峙していた土人形はボロボロと崩れ落ち、床に落下した衝撃で破片も粉々に砕け散った。

 

 どうやらそれが最後の一体だったらしい。肩で息をする先輩の周囲をよく見てみれば、土人形の残骸らしきものが転がっている。やはり僕の見立て通り、今の先輩にとって三体まとめて襲いかかっても、土人形程度では大した強敵には成り得なかったようだ。

 

 一応まだ残りがいないかを探った後、僕は剣を鞘に納め先輩の元にまで歩み寄り、声をかける。

 

「凄いです先輩。土人形三体を一人で倒したなんて」

 

「……七体倒したお前にそう言われても、嬉しかねえ」

 

 僕から教えてもらった【次元箱(ディメンション)】に白剣を仕舞って、先輩は微妙そうな表情でそう返す。

 

「まあまあそう言わずに。こうした地道な一歩が大切なんですから」

 

「そりゃあ、そうだけど……」

 

 ともあれ、これで先輩一人でも、この程度の〝有害級〟ならば複数体でも勝てることがわかった。これは大きい。この調子ならば、今まで以上に効率良く経験値を稼ぐこともできるようになってくるだろう。

 

 その証拠にこの一戦だけで──

 

『ラグナ=アルティ=ブレイズ:Lv(レベル)31』

 

 ──このように【リサーチ】で見た通り、Lvも1上がっている。これは思った以上に大きな進歩だ。

 

「では丁度いい場所もあったことですし、ここで休憩しましょう」

 

 僕はともかく、この戦闘で先輩もだいぶ疲労したことだろう。ここに来るまで歩き通しであったし、今までは場所が場所だったので、休憩などまともに取れていなかった。ここいらが最高のタイミングというやつだろう。

 

 そう考えての僕の提案だったのだが──

 

「……お、おう。そだな」

 

 ──何故か、先輩は妙に固い表情で、あまり乗り気ではない様子で頷いた。

 

 ──?

 

 そのことに対して僕は疑問に思ったのだが、それは思うだけに留まり、問い質そうとはしなかった。

 

 

 

 ……今思い返せば、この時の自分は他人に対しての気遣いというか、配慮が至らな過ぎると言わざるを得ず、正直思い切りぶん殴ってやりたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とりあえず手頃な場所を陣取り、携帯してきた保存食の干し肉を口にしながら僕と先輩は休憩する。時間としては、十分を目安に考えていた。

 

「この後はさらに奥に進みますけど……罠とかにはくれぐれも注意してくださいね、先輩」

 

「わ、わぁってるってーの。別にLvが下がっただけで、これまでの経験とかは、ちゃんとあるからな?」

 

「それは僕もわかっています。ですが念のためですよ念のため。万が一ということもあるじゃあないですか」

 

「……まあ、確かにな……」

 

 という、冒険者(ランカー)たちにとっては他愛ない、普段の会話を交わす僕と先輩。……しかし、その最中ずっと、僕はあることが気になっていた。

 

 ──……なんか、さっきから先輩妙に落ち着きがなくないか……?

 

 そう。こうして互いに座りやすい石に座って、休憩を始めてからずっと。先輩の様子が変というか……こう、心なしか忙しない気がするのだ。それにその顔に浮かぶ表情も、何処か固いというか、緊張しているというか……。

 

 ──一体どうしたんだろう。

 

 そう思いながら、ふと喉に渇きを覚える。それと同時に、この遺跡内が少し蒸し暑いことにも、気がついた。

 

 僕は【次元箱】から丸く膨れ上がった皮袋水筒を取り出し、栓を開け口につけ、中の水を喉に流し込む。この遺跡内の環境や先ほどの戦闘によって多少汗を流したからか、適度に冷たい水がやたら美味しく思える。

 

 ──水分補給にも気をつけないと……って。

 

 そこで、ハッと気づく。この環境と、戦闘によって僕の身体は汗を流した。……ならば、先輩も同じような状態なのではと。

 

 そう思って、干し肉をちまちまと食べ進める先輩を見やる。案の定、紅蓮に燃ゆる赤髪はぺたんとしており、服も身体に張り付いている……ような気がする。それと薄らと顔も赤らんでいるようにも思えた。

 

 そして恐らく、この人……。

 

「あの、先輩」

 

「ん、ん?なんだクラハ。どうかしたか?」

 

 こうして改めて注視してわかったことを確認するため、僕は先輩に訊ねた。

 

「水、飲みました?」

 

 僕のその質問に対して、先輩は一瞬固まって、それから数秒かけて、気まずそうに答える。

 

「……飲んでねえ、けど」

 

 ──やっぱり……。

 

 その返事に対して、内心嘆息しながら僕は先輩に言う。

 

「まあ、僕も今初めて水を口にしたので、あまり強くは言えませんが……駄目ですよ先輩。水はちゃんと飲まないと」

 

「ん、んなことわぁってるっての」

 

 しかし、僕の注意を受けたにもかかわらず、先輩が水を──というか僕と同じように皮袋水筒を取り出そうとせず、困ったように僕から視線を逸らして、先輩は口を開いた。

 

「……そ、その……忘れた」

 

「え?」

 

 それを聞いて、思わず僕は目を丸くしてしまう。何故ならこの人がそういった、冒険者にとっての必需品を忘れることなど、滅多になかったからだ。

 

「そうですか……」

 

「お、おう。だけどまあ、ちょっとくらい「いえ先輩。大丈夫です」

 

 少し申し訳ないと思いながらも、先輩の言葉を遮って僕は再度【次元箱】を開く。そしてそこから──もう一個の皮袋水筒を取り出し、先輩に向かって差し出した。

 

「こんなこともあろうかと、二つ持ってますから。僕」

 

「…………は、はは。そ、そうかぁ。やっぱお前は自慢の後輩だわー……」

 

 そう言って、先輩は何故か苦笑いを浮かべながら、僕が差し出したその皮袋水筒を受け取った。

 

 

 

 ……もう、これ以上なにを言っても所詮後の祭りでしかないのだが……今ほど、この時の自分の鈍さを恨めしいと思ったことはない。



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ラグナちゃん危機一髪?──知られたくない

 これはクラハが知る由もないこと。決して彼が知ることはできなかったこと。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)GM(ギルドマスター)──グィン=アルドナテに頼まれる形で、オールティア北部にある外れの森にて、突如発見された遺跡の調査に赴いた二人の冒険者(ランカー)──クラハ=ウインドアと、ラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 遺跡に向かう途中、森に棲まう魔物共を退けながら、件の遺跡に辿り着いた二人は意気揚々と、しかし警戒は怠らず突入する。

 

 外見内部こそところどころ風化し、崩れてはいるがそう古くはなく、また見渡す限り生えている発光する魔石のおかげで、あまり苦労することなく二人は先を進めた。

 

 そして狭まっていた道から一転、ある程度は開けた場所に出て、そこで二人は〝有害級〟の中でも下位に属する魔物(モンスター)──『土人形(クレイパペット)』の群れに遭遇。そのまま襲撃されるが、いくら束になって襲いかかってもクラハの脅威には足り得ず、また以前ならばまだしもいくらかLvの上がったラグナにとっても、大した強敵にはならなかった。

 

 そうして難なく土人形の群れを返り討ちにした二人であったが──クラハは知らなかった。気づいていなかった。

 

 この遺跡に入って少し経った時から。土人形と戦っている間にも。己の冒険者として先輩たるラグナが、独りずっと苦しんでいたことに。生物である以上、決して無視できない問題(・・)に、ずっと苦しめられていたことに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──……あー、クッソが……。

 

 決して声に出さぬよう、保存食の干し肉を無心で噛みながら、ラグナは心の中でそう吐き捨てる。まあそうしたところで、己の現状が変わる訳でも、ましてや今抱えるこの問題も解決する訳でもない。それはわかっている。わかっているが、それでも内心で悪態をつかなければ心が折れそうだった。

 

 土人形との戦闘を終え、タイミングも良いということで絶賛休憩中なのであるが──恐らく、真の意味で休憩ができているのは目の前のクラハだけだろうと、ラグナはそう思う。何故なら──とてもではないが、休憩ができるだけの余裕を、今のラグナは持ち合わせていないのだから。

 

 それはどういうことか。答えは簡単である。クラハもラグナも人間──生物だ。生物である以上、そして生物である故に、無視できない問題というものがある。今まさに、ラグナはその問題に直面していたのだ。

 

 それは────

 

 

 

 ──ションベン、したい……!

 

 

 

 ────そう、尿意。生物であれば絶対に避けては通れぬ生理現象──排泄衝動に、彼は駆られていたのだ。

 

 ──なんでこんなにしたくなってんだよ……水とか、全然飲んでねえのに……っ。

 

 今朝からここまでの一日をラグナは振り返る。振り返って、なお困惑する。

 

 今朝にはきちんとトイレを済ましたし、フィーリアに呼ばれ、一悶着終えた後この遺跡に向かう前にも、トイレに一度立ち寄っている。そして覚えている限り、それまでに水分は必要最低限しか摂取していないし、森に訪れてからも、この遺跡に入ってからも水は一口も飲んではいない。

 

 ……そのはずなのに。

 

 ──ああクソ……クソッ……!

 

 まあ、実を言えば遺跡に入って少し経った時、ほんの僅かにではあるが尿意自体は覚えていた。しかしそれは本当にごく僅かもので、気にもならないほどだったのだ。

 

 しかし、そう時間も過ぎない内に、水など口にしていないにもかかわらず、その小さな尿意はどんどん膨れ上がり──結果、もはや無視など到底できるはずがないまでに、ラグナの水風船(ぼうこう)を膨らませてしまった。

 

 向かい合うクラハにバレないよう、ギュッと内股になりながら、なんとか気を紛らわせようとラグナは無言で、無心になって干し肉を頬張る。当然、味などわかるはずもない。それほどに、ラグナは切羽詰まっていた。

 

 ──どうすりゃいい……どうすりゃいいんだよ……!

 

 押しては引いていくのを何度も繰り返す波に翻弄されながら、ラグナは必死に頭を回転させる。この危機的状況を打破するための方法を、必死に考えようとする。

 

 しかし──

 

「んん……ッ」

 

 ──このどうしようもない尿意が、意地悪にもそれを妨害する。一際強い波が防波堤を打ちつけ、ラグナは堪らず苦悶の声を漏らしてしまうが、幸いにもそれがクラハの耳に届くことはなかった。

 

 ──ヤバいヤバいヤバい……ッ!

 

 もじもじと自分でも気づかずに太腿を擦り合わせ、身体を縮こまらせてラグナはその波が引くまで堪える。そしてようやっとその波も引いて、微かにではあるがホッと、しかし力を抜き過ぎずラグナは一息つく。

 

 そしてすかさず、チラッと視線だけでクラハを見やる。幸運とでも言うべきか、こちらの方に顔を向けてはいなかった。

 

 先ほどの姿を見られていないことがわかり、思わず安心するラグナ。尿意に身悶えし、必死に抑え込み堪えている姿など先輩として見せる訳にはいかないし、見せたくもない。

 

 ともあれ、ラグナは引き続きなにか打てる手はないものかと思案する──しかし実を言うならば、もうとっくに一つの手段は思いついていた。というか、あった。

 

 なにを隠そう、その手段とは────その場でして(・・・・・・)しまうこと(・・・・・)。つまるところ、野外排泄である。

 

 そもそも、その職業柄冒険者(ランカー)はこのような事態とは無縁ではいられず、切っても切り離せない問題である。人間であるからにはきちんとすべき場所──トイレがあるが、しかし森や平原、洞窟にこんな遺跡などにそんなもの用意されているはずがない。

 

 しかし生理現象である以上、どうしようもない。ずっと我慢できるものではないし、そんな状態で魔物を相手取ろうなど以ての外。論外であり、無謀もいいところである。

 

 であれば、解消するしか他ない。男女関係なく──野に放つ他ない。まあ、冒険者に限らず旅をする者だったり、日数を跨ぐ大移動の際であれば自然と取るしかない、常套手段だろう。

 

 まあできることならトイレで済ませるのが一番なのだが……ともかく、ラグナに手段が全くない訳ではないということだ。というか、それしかない。

 

 ラグナとて、そんなことは重々承知している。むしろ最初から躊躇わず、その手段を取ろうとしていた。

 

 ……だが、できなかった(・・・・・・)

 

 ──……クソ。

 

 できるだけ動きを抑えるようにしてもじつきながら、ラグナは干し肉を飲み込む。

 

 別に、野外排泄という手段を取るのはこれが初めてという訳ではない。……ただ、それは以前の時──まだ()だった時の話だ。

 

 こうして女になってからは、したことがない。なので多少不安はあるにはあったが……しかし、それが理由でできなかった訳でもない。というかここまで尿意が差し迫っているなら、たとえ外でしたことがなくてもする。こうして下を着たまま漏らすよりかは、下を脱いで自分の意思で出してしまう方が遥かにマシだ。そう、ラグナは思っていた。

 

 しかしだ。いざするとなってある問題が立ちはだかった。それは────クラハの存在である。

 

 単独だったならばいざ知らず、今はクラハがいる。クラハがいる以上、黙って離れることはできないし、この後輩がそんなことさせる訳がない。

 

『先輩。一人でどこに行く気ですか?危険ですから、単独行動なんてさせませんよ』

 

『以前だったら話は別ですが、今はLvが下がってしまっているんです。どんなに小さなことでも、先輩に危険な目に遭わせる訳にはいきません』

 

 ……などとこちらに言ってくるのが目に見えている。生意気なことを言えるようになったことは嬉しいが、それとこれでは話は別だ。

 

 であればいっそのこと白状してしまえばいい。自分の今の状態を。自分が今抱え込んでいる問題を。白状した上で一人にさせてほしいと頼めば──そう考えて、即座に諦めた。

 

 排泄というのは、大きな隙を晒す行為だ。野外排泄の際に魔物に襲われて、命を落とす冒険者も少なくない。

 

 なので一人の場合ならば絶対の安全を確保した上で行為に移るのが基本であり、そして今のように二人──複数人の場合、なにがあってもすぐに駆けつけれる距離で、その行為が終わるまで他の者は周囲を警戒しながら待機するのが基本だ。

 

 その基本を、この生真面目な後輩が忘れている訳がないし、ましてや知らない可能性など微々もない。野外排泄したいと馬鹿正直に伝えてしまったが最後────

 

 

 

『わかりました!先輩の近くで周囲を見張ってますから、僕のことは気にせずしてください!』

 

 

 

 ────と言って、付いてくるだろう。

 

 ──……。

 

 それでも、以前──女になってそう日数も経ってなかったのなら、特に気にはしなかっただろう。その言葉通り、この下腹部に溜まりに溜まった尿意を、気にせず地面に向けてぶち撒けたことだろう。

 

 ……しかし、いざそうなって──ふと、考えてしまった。ここまで高まってしまった以上、きっと勢いも激しい。激しい分、音だってそれなりにするだろうし……臭いだって、それなりに立つだろう。それをクラハに聞かれたり、嗅がれたりする。

 

 

 

 そう考えてしまった瞬間、何故か凄まじい羞恥の炎が心の中で燃え上がった。

 

 

 

 燃え上がって、気がつけばなにも言えなくなってしまった。クラハに向かって、小便をしたいなど言えなくなってしまった。それどころか──今こうして己が尿意を催し、それに苛まれていることなど、クラハに知られたくなくなってしまったのだ。

 

 理由はわからない。わからないが──ただ、恥ずかしい。クラハに知られてしまうことが、ただただ恥ずかしい。この後輩だけには、知られたくない。

 

 そう思った結果が、今のこの状況である。完全な自業自得だ。

 

 ──ああ、もう……!

 

 クラハに気づかれないよう、ラグナはひたすら干し肉を噛み締め、尿意を堪える。だがそんな我慢がいつまでも続くはずがない。この身体──というか女の身体では、思うように我慢が利かない。

 

 いずれ決壊の時が訪れる。もしそうなれば、とてもじゃないがクラハの先輩でいることに堪えられなくなる。ただでさえ今もこの立場に関して思い悩んでいるのに、後輩の前で漏らしたりなどしたら──もう先輩でなんて、いられない。

 

 だからラグナは必死になって堪えながら、別の方法はないのかと考える──その時だった。

 

「あの、先輩」

 

 不意に、クラハが声をかけてきた。



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ラグナちゃん危機一髪?──飲みたくない。けど飲みたい

「あの、先輩」

 

 波打つ尿意に必死に抗う中、不意にクラハが声をかけてきた。しかし、あまりにも突然だったので、ラグナは思わずビクリと肩を跳ねさせそうになった。

 

 ──ひ、ぅ……っ。

 

 そして間の悪いことに、それとほぼ同時に尿意が高波となってラグナを襲う。咄嗟に手で押さえ(・・・)かけたが、その直前でクラハが今こちらに顔を向けていることを思い出し、間一髪動かしそうになった手を半ば無理矢理止めることができた。

 

 しかし手は止まっても、己が抱え込むこの恥ずかしい欲求は止まってくれない。今すぐここから放てと、出せとより強く激しくラグナの防波堤を叩きつける。

 

 だがクラハがこちらを見ている手前、挙動不審な動きをする訳にはいかない。そして声をかけられたのだから、なんともないように返事をしなければ、変に思われてしまう。

 

 結果、その波をラグナは決死の気合いと根性でなんとか抑え込みながら、なに食わぬ顔でその口を開くのだった。

 

「ん、ん?なんだクラハ。どうかしたか?」

 

 若干ではあるが震えてしまう声音で、必死に平静を保った顔でラグナはそう返す。対して、少し神妙な顔つきでクラハが訊いてくる。

 

「水、飲みました?」

 

 ……ラグナとしては、その質問には答えたくなかったし、なんならされたくなかった。

 

 ──水なんて今飲める訳ねえだろっ……!

 

 波も引いて、僅かばかり余裕を取り戻したラグナは心の中でそうツッコミながら、数秒の沈黙を挟んだ後に気まずくなりながらも、不審に思われないためにもそのクラハの問いかけに答える。

 

「……飲んでねえ、けど」

 

 そう答えて、ラグナは後悔してしまう。この生真面目な後輩が、それを聞いて黙っているはずがない。恐らく次にこう言ってくるのだろう──

 

「まあ、僕も今初めて水を口にしたので、あまり強くは言えませんが……駄目ですよ先輩。水はちゃんと飲まないと」

 

 ──まあ完全ではなかったが、概ね予想通りだった。クラハに水分補給を怠ったことを咎められてしまったが、今の状態でそれは自殺行為以外のなにものでもない。

 

「ん、んなことわぁってるっての」

 

 そう返して、また数秒の沈黙を挟んでから、仕方なくラグナはクラハにこう言うのだった。

 

「……そ、その……忘れた」

 

 嘘である。

 

 ラグナは水など忘れていない。ちゃんと【次元箱(ディメンション)】の中には皮袋水筒が入っている。しかしさっきも言った通り、こんなにも昂った尿意を抱え込んでいる中、水など飲める訳がない。轟々と燃え上がる大火に、大量の油を注ぎ込むような真似など、できるはずがない。

 

「え?」

 

 まるで信じられないとでも言うように、クラハが目を丸くしながらこちらを見て、それから続ける。

 

「そうですか……」

 

 そう呆然と呟くクラハ。どうやらこれが嘘だとは思われていないらしい。まあ心の底から尊敬する先輩が言っているのだから、それが嘘なのだと第一に考えないのだろう。

 

 ──ご、ごめんクラハ……。

 

 後輩の信頼を実に身勝手な理由で利用し、罪悪感に駆られるラグナであったが、やはりどうしても、クラハにだけは知られたくない。理由こそわからないのだが──ラグナは、今自分が猛烈に小便がしたいことを、本当に彼にだけは知られたくなかった。

 

 だがこれでなんとか水を飲まずに済みそうだ、と。そう思いながらラグナはこう続け──

 

「お、おう。だけどまあ、ちょっと」「いえ先輩。大丈夫です」

 

 ──ることはできず、言葉の途中でクラハに挟まれる。そしてそう言うや否や、彼は唐突に【次元箱】を開くと──そこから、別の皮袋水筒を取り出して、それをラグナに向かって差し出した。

 

「こんなこともあろうかと、二つ持ってますから。僕」

 

 ──……そうだな。お前はそういう奴だもんなあクラハぁ……!

 

 よくよく考えてみればわかることだった、この生真面目な後輩が、皮袋水筒の予備を持っていない訳がなかった。この生真面目な後輩が、こんな状況を予想していないはずがなかったのだ。

 

「……は、はは。そ、そうかぁ。やっぱお前は自慢の後輩だわー……」

 

 堪らず苦笑いを浮かべ、もう怒っていいのか喜んでいいのか全くわからずそう言って、グチャグチャな気持ちになりながら、キラキラとその瞳を輝かせるクラハから、ラグナは予備の皮袋水筒を受け取った。

 

「……」

 

 受け取って、そこから先はなにも考えられなかった。ただ無言になって、受け取った皮袋水筒をラグナは無言で見つめる。

 

 そんな先輩たるラグナの様子を後輩たるクラハが気にしない訳がなく──

 

「どうしました先輩?……なんで飲まないんですか?」

 

 ──そう、不思議そうに訊いてくる。

 

「い、いや……」

 

 吃りながらも、ラグナは頭を回す。一体どうすればこの昔から馬鹿みたいに生真面目で、やたらと気遣いと気配りが上手い大切な後輩を納得させ、水を飲まずにこの皮袋水筒を返せるのか。

 

 考えて──そこに尿意が横槍を入れてくる。そのせいで、思考が上手くまとまらない。そもそもこういった考え事は、ラグナが不得手にしていることだというのに。

 

 ──水なんか飲んじまったら、絶対後がヤバくなる……!

 

 ただでさえまともな水分補給をしていないのにもかかわらず、ここまで尿意が高まっているのだ。そこに水を注ぎ込めば──そこから先は、ラグナでも流石に予想がつく。だから、今はこの皮袋水筒の中身を口にはしたくなかった。

 

 …………したくは、なかったのだが。

 

「……」

 

 ラグナの視線が釘付けになる。皮袋水筒の──栓に。

 

 ──……ヤバく、なる……。

 

 それはわかっている。そのことはわかっている。……だがしかし、ラグナはその栓から目を離せない。

 

 ……ラグナは、水を飲みたくない。けれど実を言うと────それと同じくらいに、水が飲みたかった(・・・・・・・・)

 

 先ほども言った通り、今までラグナはまともな水分補給ができていない。その上さっきの土人形との戦闘で激しく動き回り、汗も流した。

 

 そしてそこにこの──干し肉。少しでも尿意から気を紛らわせるためとはいえ、ラグナは無心でこれを食らい続けた。結果この乾燥した肉のおかげでラグナの喉の渇きはますます深刻化し──今、猛烈なほどにラグナの身体は水を欲していた。

 

 それでもなお、ラグナは我慢しようとしたのだ。したが、こうして目の前に出されれば──それも簡単に揺らいでしまう。

 

 できれば飲みたくない。けどどうしても飲みたい──そんなジレンマがラグナの精神を苛み、圧迫し、追い詰め────そして。

 

 ──ちょっと、だけなら……?

 

 そんな悪魔の囁きに唆されて、固く閉ざされていた皮袋水筒の栓を開け、ラグナは皮袋水筒に口をつけ、恐る恐る傾けた。

 

 瞬間、ラグナの口腔に拒絶しながらも待ち焦がれていた水が流れ込む。それは適度に冷えており、瞬く間にパサパサになっていた口腔に潤いを与えた。

 

 それからラグナの喉を通っていく──その冷たさと感覚があまりにも心地良くて、汗を流し熱を帯びていた身体を癒す。

 

 そして、気がつけば。

 

「……ぷは」

 

 皮袋水筒に入っていた水を、半分にまで減らしてしまった。

 

「……そ、そんなに喉渇いてたんですね。良い飲みっぷりでしたよ、先輩」

 

 最初そのことにラグナは気づかず、喉の渇きを満たしたことで放心していたが、クラハにそう言われようやっと気づき、遅れてその顔が青ざめる。

 

 ──やっちまったぁぁ……!

 

 随分と軽くなってしまった皮袋水筒片手に、己を自ら窮地の淵に追いやってしまったとラグナは後悔するが──もはや、後の祭りである。

 

「先輩?」

 

 そんなラグナの様子を目の当たりにして、不審そうに声をかけてくるクラハに、ラグナは後悔しながらも、先輩として彼にこれ以上の不安を抱かせないようなんとか答えた。

 

「だ、大丈夫。大丈夫だからな。俺はお前の先輩なんだからな」

 

「え?……あ、はい。……いや、え?」

 

 しかし、その返答がよりクラハの不安を煽ったことに、今のラグナが気づくことはなかった。



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ラグナちゃん危機一髪?──こっち向くな

 先輩の見事な飲みっぷりを見届け、そこで休憩を切り上げ僕たちは再び先を進んでいた。

 

 ──…………。

 

 開けたあの場所から一転、また狭まっている道を注意しながら歩き進む中、僕は考えていた。どうにも、気になることがあったのだ。

 

 それは────先輩の様子である。

 

 ──先輩本当にどうしたんだろう……?

 

 何故そう思うのか、当然理由はある。先ほどの休憩中、明らかに先輩は様子がおかしかった。

 

 妙に落ち着きがなかったというか、変に忙しなかった。あまり顔色も優れていなかったし、何処か苦しげに見えた気もする。

 

 恐らくそれは水分が不足していたからかと思ったのだが、水を飲ませた後も特にそれらが改善されることはなく、むしろ悪化した──気がする。そう、あくまでもその気がするだけなのだが。

 

 体調でも崩してしまったのかと思い、訊ねてみたが大丈夫の一点張り。もうどうしようもなかったので、そこはとりあえず引き下がったのだが……。

 

『い、いいかクラハ。こっからは、できるだけゆっくりな。ゆっくり、歩いてくれ。そんで後ろ……お、俺の方には振り向くな。わかったか?』

 

 と、出発前にそう念入りに、先輩に釘を刺された。その鬼気迫る表情や雰囲気に圧され、思わず僕は頷いてしまったが、こうして後々からそのことが気がかりになって、仕方なくなっていたのだ。

 

 何故、先輩は僕にそんなことを頼み込んできたのだろうか。その理由がどうにも推測できず、思い切ってそのことを訊いてみようかとも思ったが、あの時の鬼気迫った表情や雰囲気を思い出してしまうと、それも憚られる。

 

 結果、答えの出ない疑問が悶々と、僕の頭の中を回り続けていた。そしてもし本当に先輩が体調を崩しているのなら、今すぐにでも調査を打ち切って、オールティアに戻らなければならない。

 

 ──でもそうするとこの人絶対に機嫌が悪くなるんだよなあ。

 

 しかし、やはりそうも言っていられないのではないか。ここは後輩として、しっかりと動くべきであると、最終的にそう考える。

 

 文句を言われる覚悟を決め、失礼ながら背を向けたまま再度、体調について訊ねる────その直前だった。

 

「ク、クラハッ!」

 

 不意に、先輩が僕の名前を口にした。それも何処か、かなり切羽詰まった声音で。

 

「は、はい!?どど、どうしました先輩っ?」

 

 そう返すと共に、咄嗟に先輩の方へ振り向こうとして──

 

「向くな!……こ、こっち、向くんじゃ、ねえ……っ」

 

 ──途切れ途切れに、先輩に静止をかけられた。

 

「ぜ、絶対、向くな、よ……そん、で……っ」

 

 ただならぬ雰囲気を発しながら、思わず硬直する僕に先輩が続ける。

 

「ちょっと、止まって、ろ……いい、か?なん、にも訊くな。わかったか……!?」

 

 何故か必死な先輩のその様子に、堪らず僕はただ首を縦に振ることしかできない。それを見て満足したのか、それ以上先輩が僕になにか言うことはなかった。……なかったのだが。

 

「ん、んん……!」

 

 ……という、切なげで、苦しげで、何処か悩ましい呻き声を漏らす。しかもそれだけには留まらず、こう……地団駄を踏むというか、身体を揺らすような気配も背中越しに感じられた。

 

 ──……え?え?

 

 瞬く間に、僕の頭を困惑と疑問が埋め尽くす。一体、僕の背後で先輩はなにをしているのか。一体、僕の背後はどういう状況になっているのか。

 

 それを確かめたい欲求が即座に芽生え出すが、先ほど先輩に振り向くなと言われたため、それはできない。好奇心にも似たこの欲求を必死に押し潰すこと──実に数分。ようやっと、再び先輩が口を開いた。

 

「……も、もう大丈夫。大丈夫だぞ、クラハ。急に止めたりして悪かった。先、行こうぜ。……あ、でもまだこっちは向くな。絶対」

 

「……あ、はい。わかりました……」

 

 先輩の様子を確実に確かめるために、本当ならすぐさま振り向くつもりだったのだが、事前にそう釘を刺されて、了承以外認めないという圧をこちらに向けられ、やはり僕はそう返すことしかできなかった。

 

 そうして実に謎(僕にとっては)だったやりとりも終えて、僕と先輩はさらに先を進み────遂に、この遺跡の最深部と思われる場所に、辿り着いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここが、最深部……みたいですね」

 

 あの土人形(クレイパペット)以来、特に魔物(モンスター)の襲撃に遭うこともなく、僕と先輩は無事?に遺跡の最深部らしき場所にまで到達した。

 

 先ほどの、土人形と戦闘を繰り広げた開けた場所に比べると、まだ少し狭いが……それでもこの場所も充分に広い。そして気になることに──視線の先、中央辺りに奇妙な、台座ようなものがあった。

 

 ──あれは、なんだ?

 

 ちょっとした好奇心に駆られて、周囲を警戒しながらもゆっくりと、僕はその台座に近づく。どうやら元はそこになにか乗せられていたようだが、今は空となっていた。

 

「……」

 

 ごく微かに残った魔力の残滓に、僕は思考を巡らす。改めてこの場所を見渡して、一つの推測を立てた。

 

 恐らく、ここは儀式の間──のような場所だったのだろう。広過ぎず狭過ぎず、そして今まで通ってきた道と比べると、大気に漂う魔素(マナ)も幾分潤沢である。

 

 ──考えてみればみるほど、興味深いというか……本当になんなんだろう、この遺跡。

 

 一体どういう目的で建てられたものなのか。そもそも何故こんな遺跡が今になって発見されたのか。普通なら、とっくの前に発見されてもおかしくはないものだし、それにこの遺跡が一体どの年代のものなのかも、判別が難しい。

 

 ──……ん?

 

 そこまで考えて、ふと僕は気づいた。この場所に辿り着いてから──何故か、先輩が一言も発していないことに。

 

「……先輩?」

 

 そのことに気づき、振り向くなと言われていたにもかかわらず、僕はつい先輩の方へ振り向いてしまう。本来なら僕のすぐ後ろに立っているはずだったが──そこに、先輩の姿はなかった。

 

「……!?」

 

 先輩の姿が消えていることを認識し、即座に僕の身体は冷や汗を流す。確か、この場所に入った時にはまだいたはずなのだが。

 

 焦りながら、僕は慌てて周囲を見回す。見回して──安堵するのと同時に、少し拍子抜けしてしまった。

 

 ──いた……!

 

 先輩はすぐに見つかった。先輩は、隅にいたのだ。しかしその姿を目にして──思わず、絶句してしまった。

 

 ──せ、先輩……ッ!?

 

 先輩は、真っ直ぐに立たず、腰を少し曲げお尻を後ろに突き出すような姿勢を取っており、そしてあろうことか片手を、片手を……とても大事というか大切というか、こう大っぴらに口に出すことは絶対にできない己の場所に、押し当てている。

 

 とてもではないが見ていられない、見てはいけない先輩のその姿を目の当たりにしてしまい、僕は大いに動揺してしまう。一体どうするべきなのか、とにかくそのはしたない、女の子が決してするべきではない姿勢を今すぐ止めさせるよう、注意すべきなのか──混乱する僕だったが、ふとあるものに気づく。

 

 残る先輩の片手が伸びる先、そこに石で作られた、棺があった。中々に巨大で、しかしただ石を削っただけのものなのか、装飾らしい装飾は一切見当たらない。何処までもシンプルな棺である。

 

 そんな棺に向かって、何故か先輩は手を伸ばしている。それも腰をくねらせ足をもじつかせながら。薄ら赤く染まり、苦悶に満ちた、一欠片の希望に縋るような、そこに救いを求めるような表情を浮かべて。

 

 ──…………あ。

 

 そんな状態である先輩を見て、僕は一つ思い至る。何故先輩の体調が悪そうだったのか。何故この道中、先輩は苦しそうにしていたのか。

 

 体調が悪かったのではなく、もしかするとこの人は────だがしかし、その僕の思考も途中で断ち切られる。

 

 先輩がその手を伸ばす棺から、背筋が凍るような悪寒を感じ取ったのだ。その悪寒の正体を確かめる間もなく、僕はその場から駆け出す。

 

「ま、待ってください先輩!」

 

「うぁいっ?!」

 

 僕に急に呼びかけられたからか、先輩が驚いたようにこちらの方を向く。その瞬間、見るからに動かせそうになかった棺の蓋が音を立てながら開き、中から無数の黒い手が、一斉に先輩に向かって伸びた。

 

「……へ?」

 

 伸びてくる黒い手に、先輩が間の抜けた声を漏らす。次の瞬間黒い手たちは先輩の身体を掴み、棺の中に引き込もうとする。

 

「先輩ッ!!」

 

 完全に中に引き込まれる寸前、なんとか僕は先輩の腕を掴むことができたが────

 

「しまっ……」

 

 ────また中から新たな黒い手が飛び出し、先輩と同じように僕の身体を掴んだ。慌てて僕はその場で踏ん張ろうとしたのだが、抵抗も虚しく黒い手たちは凄まじい力で、僕も棺の中に引き込んでしまう。

 

 そして視界が真っ黒に染められたかと思うと──背後で、再び蓋が閉じられる音が、無情にも響いた。



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ラグナちゃん危機一髪?──膨らむ尿意。止まらない焦り。思い出す解放感

 時は少し遡って。恐らく儀式を行う場だったではないのかと、そうクラハが推測を立てた場所に至る道中のこと。

 

 休憩を切り上げ、先を進むクラハとラグナ。しかしクラハは気づいていなかった。否、その抱え込む不調自体には気づけていたのだが、それが一体なんなのかは彼はわかっていなかった。

 

 そして。ラグナは今──先輩として、人間としての尊厳を揺るがし失いかねない、危機に直面していた。

 

 

 

 

 

 ──……ヤバい。

 

 その単語が、ラグナの脳内を埋め尽くす。とにかく、ヤバい。

 

 今にも破裂しそうな欲求を、必死に抑え込みながらラグナは一歩を踏み出す。しかし、その一歩が尋常ではないほどに重く、辛い。

 

 ──腹重い、痛い……!

 

 先ほどからズシリとした鈍痛が響いて止まない下腹部を、ラグナは軽く触れてみる。触れて──目を見張った。

 

 ──うっわ……。

 

 普段は引っ込んでいるはずのそこが、今は心配になるほどにぽっこりと膨らんでいた。幸い服の上からではわからないが、こうして手で触ってみればわかってしまう。

 

「ッ!」

 

 己の下腹部の状態を自覚した途端──先ほどからずっと、こちらを苛み苦しめ続ける欲求が、尿意がより一層強まり、ラグナは慌てて下腹部から手を離し、足の間隔を狭め堪える。己の体内、より詳しく記すなら下腹部辺り──そこで荒れ狂いながら防波堤を叩きつける高波を、なんとかやり過ごそうとする。

 

 ──ん、ぅぅ……っ!

 

 思わず口から出そうになる呻き声を、なんとか心の内に留めるラグナ。クラハとはある程度距離を取っているため、聞こえはしないだろうが……それでもこんな声、聞かれたくない。その一心で、ラグナは堪えていた。

 

 やがて波は引いたが、さっきとは違って、もう少しもラグナは安堵できない。何故ならこうして引いてもまたすぐに波は押し返すし、なんなら今僅かにでも息を吐こうなら、その瞬間に決壊するのではないかと危惧するほどに、もうラグナは追い詰められていたからだ。

 

 ジワ、と。微かに視界が滲む。あまりの尿意に、ラグナの琥珀色の瞳に涙が浮かび始めていた。

 

 ──なんで、俺がこんな目に……俺、なんかしたか?

 

 下腹部を襲う鈍痛と、限度を知らずに高まる尿意に、現実から逃げるようにラグナは考える。何故自分がこんな目に遭わなければならないのだと。

 

 ……実を言えば、ラグナがここまで排泄衝動を我慢するのは、これが初めてではない。一ヶ月前ほどに、これと同じくらいの尿意を、ラグナは経験している。

 

 それは黄金の街──ラディウスでの依頼(クエスト)を終えてすぐのこと。その依頼によって知名度が上がり、クラハが様々な依頼を受けて奔走していた頃のことだ。

 

 

 

 

 

 クラハが家を空けることも多くなり、そのためラグナは一人で過ごす時間、一日が多くなった。その頃のラグナはまだ、充分にLv(レベル)も上がっておらず、単独でLv上げをすることができなかった。

 

 たまにサクラやフィーリアとも軽い交流もあったのだが、しかしそれだけでは流石に暇も潰せなかった。なにかすることはないのか──そうラグナが思っていた矢先、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢であるメルネ=クリスシスタに、ある提案をされたのだ。

 

 好きな時でいいから、『大翼の不死鳥』(ここ)の仕事を手伝ってみない?──と。

 

 給金も弾むからと念入りに頼み込まれたのだが、正直言ってラグナは乗り気ではなかった。一応ラグナの少々込み入った事情を知る、数少ない人物の一人なのだが、それを承知で彼女は、働く際に着てほしい服を見せたのだ。

 

 当然と言えば当然なのだが、それは女物の服だった。それも喫茶店のウェイトレスが着るような、とても可愛らしいもの。彼女曰く、『大翼の不死鳥』の新しい制服らしいが……それを着て働くのに、少し、いやかなりの抵抗をラグナは覚えた。

 

 しかし、やはり暇には変わらず、なにをすればいいのかも思いつかず────結局、後日ラグナはメルネのその提案を飲み、好きな時に『大翼の不死鳥』のお手伝いとして働くことに決めた。

 

 そして記念すべき『大翼の不死鳥』の初勤務。ラグナはすぐさま大人気となった。

 

 主に男性冒険者(ランカー)からのものだったが、女性冒険者からも人気を得ていた。やれ人形みたいで可愛らしいだの、是非とも妹にしたいだの。それはもう、凄まじい人気ぶりであった。

 

 

「いやあ、最初見たときは天使だと思ったよ。冗談抜きで。しかもあんな丈の短いスカートで、ああも無防備に動き回ってくれて……もう感謝しかない。是が非でもこの後お持ちかえ……お茶にでも誘いたいね。その格好のままで」

 

 

 と、《SS》冒険者──『極剣聖』サクラ=アザミヤはこの時のことをこう語っている。ちなみに余談ではあるがこの後、彼女は同じく等しく《SS》冒険者──『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアによって、強引に『大翼の不死鳥』から連れ出された。

 

 まあそれはともかく。ラグナはお手伝いとしてこの日は大いに働いた。冒険者の案内だったり、頼まれた料理や酒を運んだり。とにかく、ラグナはこれ以上にないくらいに『大翼の不死鳥』内を駆け回った。

 

 その日は気温も高く、そんな中で室内を動き回れば、必然的に身体は火照る。身体が火照れば汗が流れ、そして喉も渇く。

 

 なのでラグナは合間を見ては、ちょくちょく水を飲んでいた。量としては少なかったが──あくまでも、それは一回として見れば、での話だ。少ない量も二回三回と重なれば、それなりの量になる。

 

 そして当然のことではあるが、水分を取ればその取った分だけ体内を巡り──後々、出すことになる(・・・・・・・)。しかし間が悪かったというか、運が悪かったというか。ラグナがそうする機会を得られたのは、午後の休憩一回切り。

 

 そのたった一回で、今まで取ってきた水分全てを出せる訳がない。残ったそれらは時間をかけて、徐々にラグナを苦しめることになる。

 

 その苦しみが表立ったのは、午後の休憩が終わって小一時間経った頃。その時ラグナはメルネに教育を受けながら、彼女共に『大翼の不死鳥』の受付嬢をしていた。

 

 最初こそちょっとしたいな、程度だったその欲求は時間が経つにつれて膨張し──気がつけば、一瞬でも気を抜いたら出てしまうほどのものとなっていた。

 

 しかもこの時のラグナは女体で我慢をするということにまだ慣れておらず、それでもなんとか堪えていたのだが──すぐ隣にいたメルネが、その危機に気づかないはずがなかった。

 

「あの、ラグナ君。十分くらいなら、また休憩してきてもいいわよ?」

 

 遠回しに出されたメルネの助け舟に、ラグナは躊躇なく即座に乗った。彼女の言葉に押されるようにしてラグナは無言でその場から駆け出し、一目散に己が切望する場所──トイレにへと向かったのだ。

 

 途中転びそうになるも無事目的地にラグナは辿り着き、飛び込むようにして個室に入って、乱暴に扉を閉め、壊す勢いで鍵をかけて、下着(パンツ)を下ろし秒も置かず、叩きつけるようにして便座に腰かけ────次の瞬間には、ラグナの全身から力が抜け落ちていた。

 

 

 

 

 

 まあ、なにはともあれ。既にラグナはこの同程度の尿意を味わっている。これが、初めてではないのだ。

 

 否応にあの時のことをラグナは思い出す。あの時、トイレの個室に駆け込み、その末に手に入れた──安堵感と、解放感。はち切れそうなほどに、己が内に溜め込んだものを、なにも考えずにただひたすらに、欲求のままに噴き出させる、あの快楽。

 

 ある意味最も原始的なその快楽は、性に疎いラグナの脳髄と思考と理性すらも、見事に蕩けさせた。それを、今この場で思い出し──その瞬間、ゾクゾクと悪寒にも似た感覚がラグナの背筋に走り、同時に今まで比べものにならないほどの波が、ラグナに迫った。

 

 ──ひっ、ぁ……!?

 

 咄嗟にギュッと、足を閉じ。普段であれば絶対に触れない場所を、両手で押さえて。硬直しその場に立ち止まって思わず、ラグナは叫んだ。

 

「ク、クラハッ!」

 

 呼応するかのように、波が荒々しく防波堤を叩く。ズクンと内側から押し出てくる鈍痛に、ラグナは折れそうになったが──先輩としての矜恃と、人間としての尊厳を守るため、その瞳に涙を滲ませながらも、堪える。

 

「は、はい!?どど、どうしました先輩っ?」

 

 急に呼びかけられたからか、驚きながらクラハが声を上げる。しかも遺跡の中にいるせいでその声は反響して──ラグナの腹に、響いた。

 

 ──ふ、くぅぅ……!!

 

 体内にこれでもかと溜め込んだそれ(・・)が、クラハの声によって揺らされる。その刺激は想像以上に、想像以上で。もうラグナは訳がわからなくなりそうになる。

 

 それでも死に物狂いで、足を固く閉じて、両手にさらに力を込めて、何度も息を短く吸っては吐いて、腰を曲げ臀部を後ろに突き出して────ラグナは、今にも外に出てこようとしているその欲求を、形振り構わず無我夢中で抑え込み、堪え続けた。

 

 そんな中、辛うじてラグナは視界に捉える──こちらに背を向けているクラハが、今にも振り返ろうとしている姿を。

 

「向くな!……こ、こっち向くんじゃ、ねえ……っ」

 

 頭で考えるよりも先に、声が出た。

 

 この切羽詰まった状態で声を上げるのは相当辛い。本当に辛い。だが今の自分の姿勢をクラハに見られたくない、見せたくない、見せる訳にはいかない──その一心で、ラグナは続けて声を絞り出す。

 

「ぜ、絶対、向くな、よ……そん、で……っ」

 

 息絶え絶えになりながらも懸命に、ラグナは固まっているクラハに伝えた。

 

「ちょっと、止まって、ろ……いい、か?なん、にも訊くな。わかったか……!?」

 

 ラグナの言葉に、ぎこちなくその首を縦に振るクラハ。と、その時──ラグナを苛み苦しめる尿意が、一層強く暴れ始めた。

 

「ん、んん……!」

 

 思わず悲鳴を上げそうになってしまったが、その寸前で開いていた口を固く閉ざし、間一髪ラグナはそれを阻止する。しかし完全にとはいかず、注意すれば聞き取れる程度の呻き声を漏らしてしまう。

 

 ラグナの足がもじつき、腰がくねり、臀部が揺れる。傍目から見れば、その動きは非常に扇情的で、男の劣情を煽り催させるには充分過ぎた。仮にもしクラハが振り返り、ラグナのこんな動きを見てしまったのなら、凄まじい精神力と忍耐力を備える彼でも、一溜りもなかっただろう。

 

 ──ヤバいヤバいヤバいヤバいぃぃぃ!!!

 

 これ以上にないほどに焦りながら、ラグナは子供のように地団駄を踏む。それからしばらく堪えて、堪えて──あんなにも荒れ狂っていた尿意が、徐々に引き始めた。

 

 ──出、る……かと、思った……。

 

 束の間訪れた平穏に縋りながら、未だ固まり立ち尽くすクラハに、ラグナは声をかける。

 

「……も、もう大丈夫。大丈夫だぞ、クラハ。急に止めたりして悪かった。先、行こうぜ。……あ、でもまだこっちは向くな。絶対」

 

「……あ、はい。わかりました……」

 

 そう念入りに釘を刺したラグナの言葉に、若干の動揺と困惑を滲ませた声音でクラハが返す。そうして、二人はまたゆっくりとした足取りで、遺跡の奥に進むのだった。



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ラグナちゃん危機一髪?──やっぱり知られたくない

 あれから特に大した魔物(モンスター)の襲撃もなく、ラグナとクラハの二人は遺跡の最深部らしき場所に辿り着くことができた。

 

「ここが、最深部……みたいですね」

 

 と、言いながら先に進むクラハ。そして彼に続いてラグナもまた進む──ことはできなかった。

 

 ──……ん、んぅぅ……!

 

 ここまではなんとか歩けていたラグナだったが、もはやその限界は近く、その場に立ち止まったまま動けない。クラハが中央辺りにまで進むと同時に、とうとうラグナは座り込んでしまった。

 

「は、ぁ……んっ、く……!」

 

 琥珀色の瞳を涙で濡らして。無意識ながらもはしたなく腰をくねらせ、臀部を揺らして。股座に両手を重ね、それだけでなく足の踵をそこに押しつけて。もう意地だけで、ラグナは懸命に必死の抵抗を続ける。……が、しかし。

 

 ──ク、ソ……出る、出る出る出る……!もう、出ち、まう……ッ。

 

 波は秒ごとにその勢いを増す。その上高まるばかりで、引く気配が一切ない。ここまでその侵攻を防いでいた防波堤も、もはやボロボロでいつ崩れてもおかしくなかった。

 

 とにかく、下腹部が重い。痛い。今にも心が挫けそうになってしまう。今すぐにでも、この地獄のような苦しみから解放されたい。

 

「ひ、ぐっ…ぁ、う……!」

 

 限界の限界まで、崖っぷちのギリギリにまで追い詰められて────苦悶に満ちた頭の中、ふとラグナは思った。

 

 ──…………もう、いいんじゃ、ねえの……?

 

 この危機的状況を打破する方法など、もう思いつかない。というかそれを考える余裕などない。大体、クラハにバレず気づかれず、この欲求を解消しようなどということが、無謀だったのだ。

 

 道中、無言でクラハの元から離れられる訳がないし。それにクラハが気づかない訳もないし。どちらにせよ、もう詰んでいたのだろう。それでも彼の先輩である意地だとか、誇りだとかを理由にして、ここまでラグナは頑張ってきた。堪えてきた。我慢してきた。

 

 ……しかし、もうそれも限界だ。このままでは確実に────だが、それは嫌だ。一人だったのならいざ知らず、クラハと共にいる今──それだけは、絶対に嫌だ。

 

 だから、だからもう。

 

 ──もう、クラハに言って、そんで……。

 

 ラグナの背中を押すように、波が迫る。ぶるり、と。ラグナは身体を震わせ、先にいるクラハの姿を見つめ────

 

 ──…………や、やっぱ無理!あいつに、こんなこと、言えない……言いたく、ない……ッ!

 

 ────ぶんぶん、と。その首を横に振った。やはり、クラハには知られたくない。以前ならばそうは全く思わなかったのに、今は頑なにそう思ってしまう。

 

 しかしそうは言っても、これは生理現象だ。意地や誇りや、気合や根性でどうにかすることはできない。遅かれ早かれ──その時(・・・・)は来る。

 

 そんな子供にだってわかること、ラグナも重々承知している。だからこそ、その時が来る前に。そしてクラハに気づかれずにどうにかしてこれを、この羞恥に塗れた欲求を解消しなければならない。その方法を考えなければならない。

 

 だが、今となってはそれも極めて難しい。ここまで暴れ狂う波を抑え込みながらでは、まともな方法一つすら出やしない。

 

 あまりにも絶望的な状況の中、何気なくラグナはクラハから視線を外し、周囲を見渡す。見渡して────あるものを、その視界に捉えた。

 

 ──ありゃ、なんだ……?

 

 ラグナの視線の先に映っていたのは、言うなれば石の塊であった。縦長の、奇妙な形の石。呆然とそれを眺め、遅れてその石の塊が棺のようなものだと、ラグナは気づく。

 

 見た目からして中々に巨大で、人二人程度ならばギリギリ収まるだろう。それを眺めて──ラグナの思考に、稲妻のような閃きが瞬いた。

 

 ──これしか、ねえだろ……っ!

 

 人間、極限状態にまで追い詰められると、時に訳のわからないわからないことを思いつくものである。例えば、このラグナのように────クラハに気づかれず、目の前の石の棺に入り、その中で致して(・・・)しまおう────とか。

 

 野外ならともかく、一応棺は密室とも言える。ならば音だったり臭いだったり、それらもこのまま放ってしまうよりかは幾分抑えることができるのではないか──そうラグナは考えた。……まあ、そんなことは絶対にないのだが。いくら密室とはいえ多少音も臭いも、漏れるだろう。だが、今のラグナにそこまで考える余裕など、ない。

 

 それに一番重要な問題を、ラグナは見過ごしていた。そしてその問題に、最後まで気づくことはなかった。

 

「っく、んぃぃぃ……ッ!」

 

 なにやらクラハが中央辺りで考え事に耽けている隙に、必死の形相でラグナは地面からゆっくりと、なんとか再度立ち上がる。股座に置いた両手を一層固くしながら、少しでも波が弱まった頃合いを見計らって、蝸牛のような足取りで棺に向かって歩き出す。

 

 絶望に埋もれている中で見つけた、ほんの一欠片の希望を胸に、ラグナは目指す。もうこれ以上は堪えられない。これが最後の機会(チャンス)────そして、手を伸ばせば届く距離にまで、辿り着いた。

 

 後はその手を伸ばせばいいだけ。そう、この両手の内の片手を、伸ばせばいい。……いいのだが、それが極めて難しい。極めて、困難。

 

 だが、それでも。つう、と一筋の涙を頬に伝わらせながらも──ラグナは、そっと離した。離した片手を、ぷるぷると細かく震わせながらも、棺にへと伸ばした。

 

 

 

 ……ラグナが気づけなかった問題。それを、今ここで言おう。先ほども述べた通り、棺は石でできている。当然、その蓋も石である。

 

 そしてこれもまた当然であるが、棺の中へ入るためにはこの石の蓋を開けなければならない。それが、この──ラグナの華奢な腕でできるだろうか。しかも破裂しそうなほどに膨張した、尿意を堪えたまま。

 

 答えは──できない。確実に。しかし、後にこれも関係なくなってしまった。

 

 

 

「ま、待ってください先輩!」

 

「うぁいっ?!」

 

 突然クラハから声をかけられ、肩を跳ねさせてラグナは彼の方に顔を向けてしまう。それと同時に────ジワ、と。温かい感覚を覚えた。

 

 ──ぁ……。

 

 ラグナがハッとするのも束の間。突如として目の前の棺の蓋が音を立てて開き、真っ暗なその中から無数の黒い手が一斉に伸びる。

 

「……へ?」

 

 そんな間の抜けた声を漏らすラグナを、その黒い手たちは掴んだ。掴んで、その中へ引き込もうとする。

 

「先輩ッ!!」

 

 しかしその前にクラハはなんとかラグナの腕を掴む。だがその瞬間、棺の中からまた新たな黒い手が無数に伸びて、クラハすらも掴んでしまう。

 

「しまっ……」

 

 そして二人ともその黒い手によって棺の中に引き込まれ──蓋が、無情にもまた閉じられた。



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ラグナちゃん危機一髪?──言ってくれれば

「…………」

 

「…………」

 

 当然の話ではあるが、棺の中は真っ暗だった。真っ暗で、そして狭かった。見た目からしてそれもわかっていたことだが、いざこうして入ってみると本当に狭い。恐らく先輩が今の、小柄な女の子になっていなかったら収まり切れていなかっただろう。

 

 まあそれはともかく。この棺はこういった遺跡にありがちな、(トラップ)だっただろう。そしてそれに僕(言ってしまえば巻き込まれたようなものだが)と先輩は見事に引っかかり、閉じ込められてしまった訳だ。

 

 棺の中に閉じ込められてから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。まだ一時間は経っていないと思うが、果たして。

 

 そして気になることが一つ。それは──こんな事態になってから、まだ一度も先輩と会話をしていない、いや先輩が一切口を開いていないということ。

 

 ──……先輩。

 

 確かに棺の中は真っ暗闇だ。しかし流石にしばらくすれば、その暗闇にも目が慣れてくる。闇の中、薄らと見える先輩は、何故かその小柄な身体をより縮こまらせながら、その顔を俯かせていた。

 

 ……先ほども言った通り、この棺は狭い。とても窮屈だ。なのでこれは仕方のないことではあるのだが、今僕と先輩は互いに向かい合う形で、互いの身体を密着させていた。

 

 服越しに、先輩の熱が伝わってくる。時折その身体が微かに震え、それも余すことなく僕に伝わってくる。まあ、それだけだったらまだいい。まだマシだった。

 

 これも仕方のないこと、致し方ないことなのだが──当たって、いる。先輩の、程よいサイズ感の、母性の象徴が。僕の、下腹部辺りに押しつけられている。この棺に閉じ込められてからずっと、僕の下腹部辺りをふにゅん、とした感触が覆っている。

 

 目線を下にやれば、きっと押し潰されている先輩のそれ(・・)が見えることだろう。薄闇の中で、朧げに。本音を言えば見たい。是非ともその様を見てみたいが──そうすると色々拙い状況になる。主に僕が。

 

 ──ああ、柔らかい。相変わらず柔らかいなあ……もういい加減、慣れないかなあ。この感触。

 

 別に、これが初めてという訳ではないのに。もう何度かこの身で味わったことのある感触だというのに。未だに僕の意識はこれに慣れてくれない。そんな自分が、情けなかった。

 

 それと、この狭い空間による問題はこれだけではない。あと二つほど、残っているのだ。

 

 一つは──空気。この狭さと、お世辞にも通気性が良いとは言えない空間。当然、空気……というより、匂いが篭る。

 

 今、この空間を満たしているのは、汗と──何処かほんのりと甘い、匂い。こちらを鼻腔を悪戯に弄る、香水とは根本的に違う、そんな匂い。

 

 言うまでもないが、その匂いの主は──先輩だ。この匂いも下腹部に伝わる感触同様、もう既に何度か嗅いでいる。……しかし、やはりこの匂いにも慣れることができない。こちらの理性を、容赦なく淫らに掻き回してくる。

 

 まさに雄を誘う芳香──相も変わらず、とんでもない強敵だ。しかもこの中途半端な密室……その牙が、いつにも増して鋭く輝いている。

 

 そして二つ目──沈黙。今この通り、僕と先輩は会話らしい会話を一切していない。というか、先ほどからずっと先輩がその口を開いていない。

 

 沈黙。ひたすらに、沈黙。おかげさまで感触やら匂いやらから気を逸らせず、僕はどうしてもそれらを気にしてしまう。……しかも、だ。

 

 先輩は口を開いていない。が、それも完全ではない(・・・・・・)

 

 時折その身体を震わせるのと同時か、少し遅れてから────

 

「……ん、んん…っ」

 

 ────という、必死に噛み殺したような、実に悩ましい呻き声を漏らすのだ。本来であれば僕の耳に決して届かないだろう声量なのだが、この狭い密室空間の中、その上僕も先輩も基本無言──嫌でも、届いてくる。

 

 本当にそれが、キツい。一応今はまだ自分を抑えられているが……正直、限界は近いと思う。幸い僕の身体は反応せずにいられているが、それも時間の問題だろう。

 

 ──それだけは駄目だ。こんな密着してるんだ……絶対にバレる。気づかれる。なんとか、堪えなくては……!

 

 そう固く心に誓いながら、僕は先輩を見やる。……問題はこの三つだけだ。この三つだけだが、あくまでもそれは僕にとっての(・・・・・・)問題であるということだけ。

 

 思い出す。この棺に近づいていた先輩の状態を。あの姿勢を。……もし、僕が思う通りならば。今この人は──僕のこれらの問題など軽々吹っ飛ぶほどの、人の尊厳に関わってく問題を、その小さな身体で抱え込んでしまっている……はずだ。確証は、まだない。

 

 しかしもし仮にそうであるとすれば──全ての辻褄が合う。先輩が不調そうにしていたことも、やたらと挙動不審だったことも、なにもかも。何故そうしていたのか、合点がいく。

 

 ……ただ、それを確かめるのには、少々勇気がいる。こんなことを確かめるのには、躊躇いを覚えてしまう。

 

 それでも、僕は確かめなければならない。後輩として、先輩の尊厳を守るために。

 

「……あの、先輩」

 

 気まずい沈黙を破って、僕は先輩に訊ねる。

 

「その……つかぬことをお聞きするんですが」

 

 僕の言葉に、先輩はすぐには答えない。やはりぶるり、と。その身体を微かに震わせて、少し経ってから、ようやく今まで閉ざしていたその口を、開いてくれた。

 

「……なん、だよ」

 

 途中つっかえながらも、そう言ってゆっくりとこちらに、この棺の中に閉じ込められてから俯かせていたその顔を、先輩は上げる。頬は熱っぽいように染まり、宝石のような琥珀色の瞳は潤んでいた。

 

 ──ぐッ……!!

 

 その表情が持つ、あまりの破壊力に、僕の理性が大いに揺さぶられる。庇護欲を凄まじく刺激され、思わず先輩のことを抱き締めそうになってしまう。しかし根性と気合でそれを強引に捻じ伏せ、苦渋に苛まれながらも────意を決して、僕は目の前の先輩にそれ(・・)を訊ねた。

 

 

 

「…………せ、先輩。ひょっとして今……我慢、してます?……トイレ」

 

 

 

 ……場の空気が、固まった。薄闇の向こうで見える先輩は、赤い顔のまま呆けたようにしており、それから一気に、そのまま火でも噴き出すじゃあないかというほどに真っ赤になった。

 

「しッ、してな「嘘は駄目ですよ、先輩」

 

 僕に言葉を遮られ、先輩は言い止まる。そして酷く動揺するように僕からその視線を逸らして、泳がして──やがて、観念したかのように、真っ赤になったまま、また俯いて。それから小さく、こくりと頷いた。

 

 ──やっぱり……。

 

 思わず嘆息しそうになるのを抑えて、僕は言い聞かせるように口を開く。

 

「なんで道中で言ってくれなかったんですか……休憩の時にだって。というか、いつもなら言ってましたよね?」

 

 特にそのことを責める気も、咎める気も僕にはなかったのだが、自然とそんな風な言い方になってしまう。僕の言葉に先輩はすぐに答えず、躊躇するように身体を揺らして、俯いたまま消え入りそうな声で、僕に言った。

 

「お前に……知られたく、なかった……から」

 

「…………え?」

 

 先輩の言葉は、僕にとっては予想外のものだった。というか、僕が知る先輩なら、絶対にそうは言わない。

 

「ぼ、僕に知られたくなかったって……どうして」

 

 呆然としながらもそう訊くと、やはり俯いたまま先輩は僕に言う。

 

「だ、だってお前、俺がションベンしたいって言ったら、絶対近くで見張るだろ?」

 

「そりゃ見張りますよ。単独ならともかく、複数で動いているんですから」

 

「…………それが、嫌だった…んだよ」

 

 ──え、ええ?そんな、なんで今さら……。

 

 僕はひたすら困惑せざるを得ない。こんなことも、以前の先輩なら絶対に言わない。言うはずがない。

 

 冒険者(ランカー)はその職業柄、止むを得ず野外で排泄する機会が多い。僕とて既に経験済みだし、なんなら先輩だってそうだ。

 

 それを、何故今になって嫌がったのか。何故今さら抵抗感を覚えたのか。そう、今────

 

 ──……ん?今……?

 

 ────ふと、僕はそこに引っかかりを覚える。それから改めて先輩を見やる。恥ずかしそうに俯く、赤髪の少女(・・)となった先輩を。

 

 ──…………あー、あーーー……そうか。そういう、ことか……というか、そうだった……!

 

「…………あの、先輩。その……は、配慮が足りなくて、本当にすみませんでした……」

 

 今度こそ全て合点がいき、納得した僕は、先輩に謝罪の言葉を述べる。しかしそれはあまりにも唐突なもので、当然意味がわからないとでも言うかのように、俯いていた先輩がその顔を上げる。

 

 きょとんとする先輩に、僕は罪悪感に包まれながら、そして躊躇しながら、続けた。

 

「えっと、ですね……いや、まあ。確かに、確かにですよ?僕は見張りに回りますよ?ですが、その……一応……最低限、距離は取りますし……言ってくれれば、耳とかだって、塞ぎました……よ?」

 

「……………………」

 

 その時向けられた、先輩の恨みに満ちた眼差しを、僕は一生忘れることはないだろう。



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ラグナちゃん危機一髪?──しちゃいましょう

「ふ、う……ぁ、んんっ……!」

 

 …………暗く、狭いこの空間に、先輩の喘ぐ声が静かに、艶かしく響く。それは苦悶に満ちていたが──僕からすると、疾しい気分を無理矢理掻き立てられるような、実に悩ましい。

 

 ──……誰か、誰か助けてくれ……今すぐ僕をここから連れ出してくれ……!

 

 必死になって頭の中を空っぽにしつつ、僕は心の中でそう呟く。今すぐにでもここから離れなければ、己を見失いそうで本当に怖い。

 

「は、ぁ……くぅ、ぅぅぅ……!」

 

 だが先輩はお構いなしに、僕に密着したまま、その小さな身体を揺らす。足をもじつかせ、腰を震わせる。そうまでしないと気を紛らわすことができないのだと、僕もわかっている。それはわかっているが……それでも、先輩のその動きや仕草は僕の理性を激しく削っていく。

 

 ──誰か助けてくれぇ……!!

 

 できるだけ先輩の姿を視界に捉えないよう、上を向いて。ふにゅむにゅと下腹部で押し潰されながら踊る感触から意識を必死に遠ざけて。僕は、神頼みするかのように心の中で呟く。

 

 

 

 ……トイレを我慢していることが僕に知られて、開き直ったのか、先輩はあれから随分と大胆になった。

 

 必死に押さえ込んでいた声も僕に聞こえるまで漏らし、その生理現象から気を紛らわせるために、積極的に身体も動かすようになった。……先輩としては、本当ならその手で直接押さえつけてしまいたいところなのだろうが、生憎この狭苦しい空間では、それができなかった。

 

 

 

「…………あ、の。先輩」

 

「な、ぁ……んだ、よ……っ?」

 

 もはや喋ることすら困難なのか、やっとの様子で先輩は口を開く。僕は気を憚られながらも、重要なことだと己に言い聞かせ、訊ねた。

 

「あ、あとどれくらい……できそう、ですか?……その、我慢って」

 

「…………もう、無理…かも。割と、限界近、い……!」

 

 弱々しい声音で、先輩は僕にそう答える。それを聞き、僕の方にも少なからず、焦りというものが出始める。

 

 ──は、早くここから脱出しなければ……!

 

 そう思って、僕は腕を動かせるか試してみる。するとある程度の範囲ならばなんとか動かせることがわかり、僕はそこに一縷の希望を託し己の腕を【強化(ブースト)】し、肘先を棺の蓋に向けてぶつけた。

 

 ドンッ──衝撃によって棺全体が揺れ動き、先輩が驚いたように小さく悲鳴を上げる。

 

 ──……開かない、か。

 

 僕の考えとは裏腹に、棺の蓋は開かず固く閉ざされたまま。であれば、もっと力を込めるだけ──そう、僕が思った瞬間だった。

 

「ク、クラハ……!」

 

「え?な、なんですか先輩?」

 

 不意に先輩に名を呼ばれて、そちらの方に顔を向ける。すると先輩は俯いていた顔を上げて、涙が浮かぶ琥珀色の瞳で、非難するような眼差しをこちらに向けていた。

 

 それから辛そうに、しかし微かな怒りを込めて先輩が言う。

 

「い、いきな、り……なに、しやがん、だ。この、野朗……!で、出るかと、思った、じゃねえか……っ」

 

「え、ええ……!?す、すみません!棺の蓋を、開けようかと……」

 

「そ、そうか。……あ、と、あんまり、大きい声、出すな……頼、む」

 

「りょ、了解です……」

 

 僕がそう返すと、先輩は再び俯いてしまう。脱出するために取った行動が、さらに先輩を追い詰めてしまう結果となり、僕の心に後悔と罪悪感がのしかかる。

 

 ──ど、どうすれば。どうすればいい?僕はどうすればいいんだ……!

 

 先輩のためになにかできることはないのか。必死になって頭を回すも、僕は特にこれといった方法を思いつけなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────と、そういった経緯の果てに、僕と先輩はこの状況下に置かれてしまったという訳だ。

 

 先輩への負担なしに、この棺からどうにかして脱出する方法を僕はずっと考えていた。考えていたが、やはりなにも思いつけない。というか、そんな方法あるとは思えない。

 

 仮に僕が【転移】を使えたのなら話は違ったのだろうが……ともあれ、無情にも時間だけが過ぎ、いよいよ以て先輩も限界に達しようとしている。

 

「もう無理無理無理ヤバいヤバいヤバいぃ……!!」

 

 絶え間なく身体を揺らしながら、先ほどからうわ言のように、そう繰り返す先輩。……もはや誰がどう見ても、限界突破間近の状態である。

 

 ……実を言えば、方法は一つ思いついている。いるのだが、その方法は先輩に──恥を掻かせることとなってしまう。しかしこのままでは、どのみち先輩は恥ずかしい思いをすることになるだろう。その違いはそれが、小さいか大きいかのどちらかである。

 

 ──……仕方ない。これは、仕方ないんだ。

 

 身を切る思いで、僕は口を開いた。

 

「先輩」

 

 僕の真剣な声に、ふるふると先輩は顔を向ける。本当に辛そうな表情を浮かべており、今の今まで溜め込んできたその苦しみが、垣間見える。

 

 ──もうこれしかないんだ。きっと、たぶん……これが最善なんだ……!

 

 僕としては、これ以上先輩を追い詰めるような行為をしたくなかったが──心を鬼にし、意を決して切り出した。

 

「しちゃいましょう」

 

 ……一瞬にして、場が静まり返った。僕の言葉を受けて、まるで意味がわからないといったように、先輩は眉を顰める。

 

「……は?」

 

 そして、そう一言だけ口にした。そりゃそうだ、先ほどの僕の言葉では、意味などまるでわからないだろう。

 

 固まっている先輩に、僕は躊躇いながらも、今度こそ意味が伝わるように、言った。

 

 

 

今、ここで(・・・・・)。しちゃいましょう……先輩」



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ラグナちゃん危機一髪?──今すぐ楽になりたいと思いませんか?

今、ここで(・・・・・)。しちゃいましょう……先輩」

 

 今度こそ、その意味を伝えるために。呆然とし固まる目の前の先輩に、僕ははっきりと、そう言った。

 

「……」

 

 僕の言葉を聞いて、先輩は数回その瞳を瞬かせる。そして────

 

「は、はあ!?ふざ、ふざけんな!んなのできる訳ねえだろ?!」

 

 ────確かな怒りを携えて、そう声を荒げた。そしてなお、その怒りを先輩は僕にぶつけてくる。

 

「マジで意味わかんなっ──ひぅ……!」

 

 しかし、言ってるその途中で、先輩は身体を硬直させて止まってしまう。恐らく大声を出したせいで、抑え込んでいた尿意を刺激してしまったのだろう。

 

 小さく呻きながら、先輩はもじつく。そして数分後、なんとかある程度は収まったようで、涙目になりながらも再びその口を開いた。

 

「…………こ、こで……しろ、って、ことだ、ろ……?お、お前の、前で……ション、ベン……!」

 

「……そう、ですね」

 

 先輩の言葉に、僕は頷いてそう答える。瞬間、先輩は絶句したかと思うと、もう既に真っ赤だったその顔を、さらに赤く染め上げ信じられないように────

 

「お、俺がションベンしてる、とこ見てえ、ってのか?」

 

 ────そう、僕に訊いてきた。

 

 ──…………え?

 

 僕は、その先輩の質問の意味を、すぐには理解できなかった。何故そうなるのか、困惑を抱いて真っ先に考える。が、その前に幻滅したように、そして悲しそうに。しかし僅かばかりの蔑みを込めて。僕から目を逸らしながら、先輩が言い放った。

 

「……お前が、そんなヘンタイ野郎だとは、思ってなかった」

 

 ──……んんッ!?

 

「ちょ、ちょっと待ってください!違います!違いますって先輩!」

 

 先輩にとんでもない誤解と変態疑惑をかけられ、思わず僕は大慌てでそれを否定する。少なくとも僕にそんな変態(しんし)的趣味はない。……はずである。

 

「せ、説明をさせてください説明を!僕はそんな趣味なんて……あっ」

 

 語気を強めて僕は続けていたが、ハッと途中で気づき言葉を止める。しかし、少し遅かった。

 

「だ、だからデカい声、出すな馬鹿野郎ぉ……!!」

 

 足を固く閉じ、太腿を擦り合わせ、ぎゅっと身体を縮こまらせながら、苦しく辛そうに先輩は声を絞り、僕に非難をぶつけてくる。

 

「す、すみません……」

 

 僕は即座に謝り、今度は声量を抑えつつ先輩に弁明を試みてみる。

 

「えっとですね、先輩。僕もいろいろと方法を考えましたが、そのどれもがさっきみたいな、手荒いものなんです」

 

 僕の言葉に、先輩は静かに耳を傾けている。まあ口を挟む余裕すらないのもあるのだろうけど。しかし、少なくとも先ほどのようにこちらを軽蔑している様子はない。

 

 そのことに堪らず安堵するが、だからこそ不安を覚えてしまう。果たして、この人がこの説明を聞き入れてくれるかどうか。受け入れてくれるのだろうか、と。

 

 先の先輩の反応を見るに、はっきり言ってそれは難しいだろう。だがこの棺から脱出するには、やはり……してもらうしか、ない。どのみち乱暴な方法でしか抜け出せないのだ──もはや決壊間際にまで追い込まれた以上、事前に出してもらわなければならない。そうしなければ、確実にこの人は一生忘れられないような大恥を抱えてしまうことになる。

 

 後輩として、それはあまりにも心苦しい。だからこそ、ここは心を鬼にしてまで、最低限の恥を味わってもらう他ない。

 

「ですから、先輩には今ここで、してもらいます。……この際いっそ、自分の意思でした方が精神衛生上、まだ良いでしょう?」

 

「…………」

 

 先輩の反応は、予想通り芳しくない。当たり前だ。僕も同じ立場なら、はいそうですねと簡単には首を縦には振れない。

 

 しかし、だからといって引き下がる訳にもいかないのだ。僕は罪悪感を引き摺りながらも、敢えて少しキツめの口調で続ける。

 

「それにこのままだと服を汚すことになるんですよ?それでもいいんですか、先輩?」

 

 ……やはり、我ながら意地悪な言い方だと思う。心が痛むが、これも先輩のためだ。

 

 僕にそう言われて、先輩は逸らしていた目線をこちらに戻す。琥珀色の瞳は、困ったように揺れていた。

 

「……けど、よ……」

 

 もう限界ギリギリまで追い詰められているというのに、先輩はまだ抵抗を捨てられないらしい。その気持ちも理解できるが……それはそれ、これはこれというやつだ。

 

 依然として罪悪感に心を苛まれながらも、その先輩の抵抗心を削り取るために、僕は攻め方を変えて先輩に言う。

 

「辛い、ですよね。苦しい、ですよね。今すぐ楽になりたいと……先輩、そうは思いませんか?」

 

 言い聞かせるように、ゆっくりと。僕がそう訊ねると、先輩は動揺するように、その琥珀色の瞳を見開かせる。まさか、僕がこんな手段に打って出るとは思いもしなかったのだろう。僕としてもこんなこと、したくない。

 

「それに、このまま我慢しても……トイレまでには間に合いませんよね。でしたら、もういっそのことここで済ませてしまいましょうよ。その方が服も汚れませんし──少なくとも、失禁(おもらし )にはなりませんよ」

 

 僕のその言葉、特に後半部分が効いたのだろう。先輩はもじつきながら、口を開く。

 

「お、俺が……ここで、して、も……情けな、いって……思わねえ、か?ば、馬鹿にしたり、しねえ、か?」

 

 涙目でこちらを見上げながら、先輩が僕にそう訊ねる。対して僕は、微笑を浮かべた。

 

「そんなの思いもしませんし、する訳ないじゃないですか。それにまあ、多少僕の服に引っかかっても、気にしませんから」

 

 それでも先輩は躊躇うように視線を泳がし────懊悩の末に、こくりと。ようやく小さく頷いてくれた。

 

「ありがとうございます。先輩、自分で下脱げますか?」

 

「なん、とか……て、てか目瞑れよ……!」

 

「はい」

 

「あと、耳も塞、げ。鼻、も摘めぇ……っ!」

 

「いやそれは無理ですよ。僕二つしか手ないので」

 

 先輩の無茶な注文に僕は堪らずそう返すと、先輩はその表情を曇らせ、悩むように沈黙していたかと思うと、苦渋の決断を下すような面持ちで、再度その口を開いた。

 

「じゃ、じゃあ鼻摘んで、か、片耳……塞いで、くれ……頼む、から」

 

 言われて、僕は無言で即座に行動に移る。言われた通り目を瞑って、鼻を摘み、比較的聴力が良い(と思う)右耳を、残った片手で塞いだ。

 

「……よ、よし。んじゃ……脱ぐ、ぞ」

 

 先輩のその声は、まだ何処か迷っているようだったが、やがてなんとか腕を動かしている気配が伝わってくる。

 

 そして、少し遅れて──肌と布が擦れるような音が、棺の中で響く。普段であれば決して聞こえない、気にもしない音のはずが、この窮屈な空間と視界を閉ざし無意識ながらも他の感覚が研ぎ澄まされている今、やけに大きく聞こえてしまい、止むを得ず意識してしまう。

 

 先輩が、目の前で自らその下を脱ごうとしている。図らずも──僕はそう意識してしまう。

 

 ──考えるな考えるな考えるな考えるななにも考えるな……!

 

 僕が必死になって己に言い聞かせる中、衣擦れの音が止む。そしてまた、先輩が口を開いた。

 

「ほ、本当に、するから、な……マジでする、から……ぜ、絶対目開けるなよクラハっ!?」

 

 羞恥で震えさせながら、先輩は僕にそう釘を刺す。それに対し僕が言葉を返す──前に、先輩の何処か切なげな声が、先に棺の中で響いた。

 

「も、出──」

 

 

 

 

 

 バァンッ──突然、背後で蓋が開かれた音がした。



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ラグナちゃん危機一髪?──つるつる

「も、出──」

 

 切なげに震える声を先輩が絞り出すのと、ほぼ同時に。

 

 バァンッ──突然、僕の背後で蓋が思い切り開かれる音がした。

 

「「……へ?」」

 

 全く同時に、僕と先輩が困惑の声を漏らす。そしてそれに続くようにして、ドンと僕は力強く乱暴に突き飛ばされる。

 

「うおっ……!」

 

 目を閉じていたために、身構えることもその場で踏ん張ることもできず、ただ身体を包む一瞬の浮遊感を感じるままに──すぐさま背中を強打する。

 

「がはッ!?」

 

 まるで内臓全体を揺さぶるような衝撃に襲われ、僕は堪らず肺にあった空気を残らず吐き出してしまう。それから慌てて浅い呼吸を繰り返して、自分は棺の外に放り出されたのだと遅れて理解する。

 

 ──な、なにが、起こって……。

 

 そう思いながら、咄嗟にその場で立ち上がる──直前、僕の耳に、先輩の声が届いた。

 

「んなぁ!?ちょ、は、離しっ……!」

 

 そして次の瞬間、ドンと僕の腹部目掛けて何かが落下してきた。そう重くはなかったのだが、また突然のことで身構えられず、先ほど辛うじて肺に取り込んだ空気をまた吐き出してしまう。

 

「ごふッ」

 

 一体先ほどからなにが起こっているのか、全く訳がわからず僕は咄嗟に、今まで閉じていた目を開く。開いて────頭の中が、一瞬にして真っ白になった。

 

 僕の腹部の上には、先輩がいた。琥珀色の瞳を涙塗れにした、先輩が跨っていた。

 

 …………その下になにも穿いていない、そこだけ所謂生まれたままの姿の先輩が。

 

「…………」

 

 真っ白になった頭の中、ただ一言だけが浮かぶ。

 

 ──つるつるだ。

 

 そう思った瞬間、僕の上に跨ったまま呆然としていた先輩の身体が、ぶるりと震えた。

 

「──ぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遺跡の最深部にて、クラハとラグナが色々な意味で凄まじい結末を迎えていた頃、酒場『大食らい(グラトニー)』にて。

 

「おい、おいフィーリア。もういい加減起きろ」

 

 そう言いながら、サクラはフィーリアの身体を揺さぶる。結局昼から夕方近くまで酒を飲み続けた彼女は、見事に撃沈してしまっていたのだ。

 

「…………ん~?んんー……」

 

 サクラに揺さぶられて、フィーリアが鬱陶しそうな声を漏らす。そして閉じていたその瞼を、彼女は嫌々にゆっくりと開いた。

 

「……うぇい」

 

 そして隣に座るサクラに顔を向けて、そう言い放った。そんな彼女に対して、サクラはなんとも言えない表情を送る。

 

「フィーリア。今日はもう帰ろう。帰った方がいい。支払いは私がするから」

 

「…………んぇあぁ~」

 

 可愛らしいようであまり可愛くない、珍妙な呻き声を上げてフィーリアは背を伸ばす。と、次の瞬間。

 

 パキキ──フィーリアの周囲が一瞬薄らと輝いたかと思うと、拳大程度の魔石がテーブルに生えた。

 

「…………ぁ」

 

 それを見たフィーリアが、やってしまったという風に声を漏らす。

 

「フィ、フィーリア?これは、一体……?」

 

 そして同じくその光景を目の当たりにしたサクラも、テーブルの薄青色の魔石に奇異の視線を送りながら、そうフィーリアに訊ねたが、しかし彼女はなにも答えず、ただ面倒そうにその魔石に指先を伸ばす。

 

「……らいじょうぶれすよぉ。こぉれぇ、いっがぃととれまぁすんの、でぇ……」

 

 全く呂律の回っていない、間延びした声でそう言うフィーリアの指先が魔石に触れる────その瞬間だった。

 

 

 

 パキンッ──まるで硝子が割れるように、魔石が儚く砕け散った。

 

 

 

「む?砕け、た?」

 

 飛び散った破片が魔力の残滓となり、宙に霧散していく様を見届けながら、サクラがそう呟く。それから無意識にフィーリアの方に視線を向けると────

 

 

 

「………………」

 

 

 

 ────彼女は、固まっていた。まるで到底信じられないものを目の当たりにしたかのように、その瞳を見開かせていた。普段は魔法で上手く誤魔化しているはずの、七色が入り乱れる右の瞳と、透き通るような灰色の左の瞳を。

 

「……フィーリア?」

 

 明らかに普通ではない彼女の様子に、少し不安そうにサクラが呼びかける。しかし──フィーリアは、なにも答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………はあ」

 

 朝。リビングにて独り、僕はそんな重いため息を吐き、頭を抱え込む。

 

 あの(・・)遺跡調査から、一日経った。結局あの遺跡に関する手がかりなどは掴めず、僕はともかく先輩が散々な目に遭うだけで終わってしまった。

 

 …………まあ、なんだろう。結論だけ先に述べてしまうと──これ以上にないくらいに先輩は落ち込んだ。それはもう、ぐうの音も出ないほどに。僕の慰めなど全く届かないほどに。

 

 僕に跨ったまま、楽に(・・)なってしまった先輩は、もうその口を開いてくれなかった。気にしないでください、大丈夫ですからと僕が何度も言っても、先輩はずっと口を閉ざしたままだった。

 

 そうして辛過ぎる無言の中遺跡を出て、オールティアに戻り、そして家に着いても先輩は無言で、そのまま自室に閉じ籠ってしまった。もうどんな言葉をかければいいのか僕もわからず──今に至る。

 

 ──僕が、もっと早く気づいていれば……。

 

 ただただその後悔が、僕の胸の中に募る。そして一体どうすれば先輩を立ち直らせることができるのか考え、ふと唐突に思う。

 

 ──トイレに行きたいことを知られたくなかった、か。……以前の先輩なら、間違いなく出なかった言葉だな。

 

 先輩も、少しは女の子としての恥じらいを覚えたという訳なのだろう。まあ男ならともかく、本来女の子はそういったことを気にするものだし──そこまで思って、僕は疑問を抱いた。

 

 ──あれ……?元は男である先輩が、そんな恥じらいを持つのはおかしいんじゃ……?

 

 リーン──と、そこで突然家の呼び鈴が鳴り響いた。

 

「ん?こんな朝から……誰だ?」

 

 少し奇妙に思いつつも、そこで一旦考えるのを止め僕は玄関に向かう。そしてゆっくり扉を開くと────

 

「おはようございます、ウインドアさん。……えっと、昨日はどうも、すみませんでした」

 

 ────そこにはフィーリアさんの姿があった。しかもただ立っている訳でなく、それなりに大きい白い箱を抱えている。

 

 彼女は何故か少し気まずい様子で、僕に訊いてくる。

 

「あの、ウインドアさん。その、ブレイズさんは……」

 

「え?せ、先輩ですか?……い、今はちょっと、取り込み中というかなんというか」

 

 僕がそう答えると、フィーリアさんはなにか察したような表情を浮かべ、僕から視線を逸らしながら、抱えるその白い箱を僕に差し出した。

 

「これ、ウインドアさんからブレイズさんに渡しておいてください。ちょっとお高い洋菓子(スイーツ)です」

 

「へ?……あ、はい。わかり、ました。ありがとうございます」

 

 困惑しながらも、僕はフィーリアさんからその箱を受け取る。それから彼女はまだなにかあるように立ち留まって、再度またその口を開く。

 

「ウインドアさん」

 

「?は、はい」

 

 箱を側に置きつつ、僕が返事をすると──意を決するように、彼女は話を切り出した。

 

 

 

 

 

「マジリカに、来ませんか?」



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ARKADIA────残景追想(その一)

 いつだって、避けられていた。いつだって、嫌われていた。

 

 いつも気持ち悪いと言われていた。いつも化け物だと言われていた。

 

 同い年くらいの子供たちにも、そしてずっと年上の大人たちからも。

 

 最初こそ、嫌だった。そんなことを言わないでほしかった。けれど、誰も止めてはくれなかった。

 

 だから────いつしか、どうでもよくなった。

 

 避けられても特に思うことがなくなった。だって一々気にしていても仕方のないことなのだから。

 

 嫌われても特に思うことがなくなった。だって一々傷ついても仕方のないことなのだから。

 

 気持ち悪いと何度も言われた。化け物めと何度も罵られた。でも別にどうでもいい。だって、全部無駄なのだから。

 

 

 

 そうして、とうとう────なにも、感じなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マジリカと呼ばれるこの街には、とある場所がある。ここの住民たちは皆、その場所のことを──『魔石塔』と呼んでいた。

 

 その名の通り、その塔は全体が薄青い魔石で覆われており、また塔ではあるがそう高くはない。一説によれば、地下があるのだとかなんとか。

 

 この塔についての情報はそれ以上になく、またそれが真実なのか確かめる術もない。何故なら、この塔を覆う魔石が壊せない(・・・・)から。

 

 一見すれば、このフォディナ大陸では全般的に見られるような、至って普通の魔石。しかし、その硬度は常軌を逸していたのだ。

 

 どんな衝撃を与えても(ヒビ)一つすら入らない。どんな魔法をぶつけようが一片も砕けやしない。

 

 その魔石を調べようとした者もいたが、結局塔と同じくなにもわからなかった。

 

 そんなものだからやがて塔に近づく者も減って、遂には誰もいなくなってしまった。

 

 普段から誰も近づこうとしない魔石塔だったが────わたしにとっては、どんな場所よりも居心地の良い場所だったのだ。

 

 

 

 

 

「あなた、ですわね!」

 

 日常(いつも)通り、魔石塔の近くで、特になにかする訳でもなくぼうっとしていると、不意にそんな声が耳朶を打った。まるで鈴のように軽やかで、可愛らしい声音だった。

 

「ついにみつけましたわ。まったく、こんなところにいるなんて」

 

 その言葉に続いて、足音が近づいてくる。だが、気に留めようとは思わなかった。

 

 声の主の正体など別にどうだっていい。声の高さと、まだたどたどしい言葉遣いからして、どうやら子供のようだ。またいつものように心ない罵倒をぶつけられるだけだろう。

 

 わざわざ人を避けるためにこの場所にいるというのに──そんな諦観の念を抱いていると、やがて声の主は目の前にまでやって来た。

 

 どうでもいいと思いつつも、つい目を向けてしまう。そこに立っていたのは──やけに豪華そうなドレスに身を包んだ、同い年くらいの少女だった。

 

 背中を覆うまでに伸びた金髪と、同じく色の瞳。人形のように整った顔には、自信に満ち溢れ勝つこと以外知らないといった、勝気な表情が浮かんでいる。

 

 少女はこちらを一瞥すると、唐突にビシッと人差し指の先を突きつけて、言い放った。

 

「あなた!なのりなさい!」

 

 ……反応に困った。まさか見ず知らずの少女に、出会い頭名乗れなんて言われるとは、思いもしなかった。

 

「……」

 

 とりあえず沈黙で返して、少女から顔を逸らす。するとその行動が気に入らなかったのか、怒ったように少女が叫んだ。

 

「ちょっと!このわたくしがなのれといっているのよ!?なのりなさいよ!」

 

「…………」

 

 この少女、一体何様のつもりなのだろうか。普通、こういう場合は先に名乗ってから、相手に名乗らせるものだろう。

 

 相手にするのも面倒なので、その言葉も無視すると──またムキになったように少女が叫んだ。

 

「こ、このわたくしをにどもむしするなんて、あなたいいどきょうしてますわね!?」

 

「………………」

 

 息を荒げる目の前の少女に、仕方なく再度顔を向ける。そして気怠げに、口を開いた。

 

「……だれ?」

 

 そう訊ねると、わかりやすいくらいに少女は目を見開かせて、それから信じられないように三度叫んだ。

 

「こ、このわたくしを、ナヴィア=ネェル=ニベルンをしらないの!?」

 

 ぎゃいぎゃいと叫ぶ金髪の少女。しかしその名前──ニベルンというのには聞き覚えがある。確か『四大』の内の一家だったはずだ。

 

 ということは……この少女はニベルン家のお嬢様ということなのだろうか。言われてみれば、その言葉遣いも何処か丁寧というか、上品だった気がする。

 

 ……だとすればなおさら謎である。何故『四大』のお嬢様が、供もなくこんな場所にまでやって来て、街の嫌われ者である自分にこうも突っかかってくるのだろう。

 

 そう疑問に思っていると、少女──ナヴィアは、呆れながらも、キッとこちらを睨んだ。

 

「ま、まあいいですわ。そんなことよりも……あなた!このわたくしとしょうぶなさい!」

 

「……は?」

 

 この時久々に、本当に久々に、感情らしい感情を込めた声が出たと思う。

 

 そしてこれが、ナヴィアとの──わたしにできた初めての親友との、出会いだった。



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ARKADIA────『魔法都市』マジリカ

 オヴィーリス四大陸の一つ──フォディナ大陸。この大陸は他の大陸と比べて大気中に流れる自然由来の魔力が豊富であり、この大陸特有の珍しい魔石も数多く存在する。またそれもあってどの大陸よりも魔法に関する文明が進歩しているのだ。

 

 魔法を極めるのならフォディナとまで言われており、事実この世界(オヴィーリス)でその名を轟かせる魔道士(ウィザード)は、その殆どがフォディナ大陸出身だったりする。そしてかの『大魔道士』──レリウもこの大陸の生まれだったと言われている。

 

 そんな魔法に所縁(ゆかり)あるフォディナ大陸であるが、当然数多くの国があり、街がある。そしてこの大陸において最も有名であろう場所は────『魔法都市』マジリカだろう。

 

 フォディナの魔は此処に在り──という謳い文句の通り、マジリカはこの世界に生きる全ての魔道士にとって他に何処とない聖地で、魔法文明が進んでいるフォディナ大陸の中でも、随一だ。

 

 世界最先端の魔法に、魔道士専門育成機関『魔道院』に、冒険者組合(ギルド)輝牙の獅子(クリアレオ)』の存在。魔道士にとって重要な知識や施設が、この街に集まっているのだ。

 

 魔道士ならば生涯に百度は訪れるべし、とまで言われるマジリカ。この『魔法都市』に──今、僕ことクラハ=ウインドアは、ひょんなことから訪れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここが、『魔法都市』マジリカ……」

 

 門を抜けた先で広がっていた光景を目の当たりにして、僕は呆然と呟く。マジリカについては数多くの噂を聞いてはいたのだが、こうして実際に足を踏み入れ訪れたのは、今回が初めてである。

 

『金色の街』ラディウスに訪れた時と同じような感覚が、僕の中で広がる。あの街はあの街で、僕を驚かせてくれたが──ここ、マジリカもまたそれとは別の驚きがあった。

 

 街の様子こそ、僕が住うオールティアとそう変わりはしない。ラディウスのように観光客で溢れ返っている訳でもないし、発展度合いで比べればこの街も田舎と言わざるを得ないだろう。

 

 ……しかし、それはあくまでも一般的な観点から見た話である。周囲を軽く見渡すだけでも、まずこの街でしか目にすることができないような要素がふんだんに見られた。

 

 街灯には他の街と同様に魔石が使われているが、明らかに種類が違う。少なくとも僕の知らない魔石であることは確かだ。

 

 そして至るところに見られる店には、まるで見たことのないような魔石や魔道具(マジックアイテム)が並んでいる。中には魔法で浮遊させているのだろう家具らしきものを並べている店や、色鮮やかな魔石から噴き出す多色の火で肉や果物を焼いている店、魔道士がその身に纏うようなローブや帽子、装飾品を売っている店、無数の杖や鞭、刃渡りの小さいナイフなども売っている店もあった。

 

 目にする景色のどれもが初めてで、僕は否応にも興奮を覚えてしまう。そしてそれは──

 

「うっはぁ!なんか面白そうなもんがいっぱいあんな!」

 

 ──僕の隣に立つ先輩も同じことだった。

 

「なあなあ、早く見に行こうぜクラハ!」

 

「そうですね。けど見るのに夢中になって、逸れないでくださいよ?」

 

「んなことわぁってるっての!」

 

 琥珀色の瞳をキラキラと輝かせて、売店の一つに向かう先輩の背中を、僕は苦笑しながらも追う。その道中、心の底から安堵していた。

 

 ──良かった。先輩が立ち直ってくれて、本当に良かった……!

 

 一週間前にあったとある事件のせいで、その心に深い傷を先輩は追ってしまい、今や普段からは想像もできないほどに落ち込み自室に閉じ籠もっていたのだが、とある人物からの贈りものによって、無事この通り先輩は元通りに、元気になってくれた。

 

 ──うん、うん。やっぱり先輩はこうでいてもらわなければ。

 

 頷きながら進む僕。しかし、突如背中越しに声をかけられた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいお二人共」

 

 声をかけたのは、僕と先輩、そしてサクラさんの三人を連れて来てくれた人物──フィーリアさんだった。

 

「えっ、あ、はい」

 

 彼女に呼び止められ、僕はその場で止まる。先輩も向かおうとした売店からその踵を返し、こちらに戻って来た。

 

「いや、まあ街に着いたら自由に行動していいと言ったんですけど、その前に私からちょっと紹介したい人がいるというか、案内したい場所があるというか……」

 

「紹介と案内か」

 

 フィーリアさんの言葉に、サクラさんがそう返す。フィーリアさんが頷きまたその口を開く──その直前だった。

 

 

 

「おーっほっほっほ!」

 

 

 

 ……というような、実に自信に満ち溢れた高笑いが広場に響き渡った。



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ARKADIA────出会い頭口喧嘩

「おーっほっほっほ!」

 

 マジリカの中央広場にて、突如としてそんな高笑いが響き渡る。その声質と高さからして女性のもののようで、実に自信に満ち溢れた高笑いである。

 

 ──な、なんだ?

 

 あまりにも突然のことで、僕は驚きながら周囲を見回す。すると、いつの間にか向こうの方に誰かが立っているのが見えた。

 

 女性、だった。結構距離はあったが、それでもだいぶ目立っている。陽に照らされ燦然と輝く金髪に、その身を覆う豪奢絢爛なドレス。身長も女性にしては高い方で、僕と同じくらいはあるように思えた。

 

 ──あの人は、一体……?

 

 困惑する僕たちの元に、その女性はゆっくりと、優雅な足取りで歩いてくる。その途中、再び広場全体に届かせんばかりに女性が声を出す。

 

「あらまあ、久しぶりですわねえ──フィーリア!相変わらず、小さいこと」

 

 女性の言葉に、またしても僕は軽く驚いてしまう。どうやら彼女は、フィーリアさんと知り合いらしい。

 

 そうしてフィーリアさんの方に顔を向けると──彼女は、まるで苦虫を百匹噛み潰したように顔を歪めさせていた。

 

 ──え?

 

 そんなフィーリアさんの表情に面食らいながらも、一体どうしたのかと訊ねる──前に、早々とフィーリアさんがその口を開いた。

 

「では皆さん行きましょう。私に付いて来てください」

 

 そして言うが早いか彼女は踵を返し、広場を去ろうと歩き出してしまう。

 

「えっ、ちょ、フィーリアさん?」

 

 さっきというか、明らかに普段とは違うその様子に、困惑しながらもとりあえず止めようと、背中越しに呼び止める──その時だった。

 

 ダダダダッ──突然、向こうの方から凄まじい勢いでこちらに駆けてくる足音が、高らかに鳴り響いた。

 

「っ!?」

 

 咄嗟にその音がする方に視線をやると────信じ難い光景が、そこにはあった。

 

 ──ええっ……!?

 

 先ほどまで優雅に歩いていた金髪の女性が、走っていた。激しい運動をするには絶対に適していないだろうドレス姿で。それはもう、思わず感嘆してしまうような美麗なフォームで。さながら大自然の陸上を駆ける獅子のように。

 

 バッサバッサとドレスの裾が思い切りはためく度に、スラリと伸びた生足が垣間見える。見事な脚線美を描くその足が、何度も地面を蹴りつける。

 

 そうしてこちらとある程度離れていたはずの距離は、あっという間に詰められてしまう──かに思えたその時、僕はさらに卒倒するような、あまりにも衝撃的過ぎる光景を目にすることになった。

 

「この(わたくし)を無視してどこに行く気ですのこの貧乳合法幼女ォッ!!」

 

 ダンッ──もはや優雅さも気品さもない暴言を吐き捨てると、金髪の女性は駆ける勢いそのままに、宙へ跳び上がった。

 

 ──ええぇぇッ?!

 

 武闘家顔負けの、芸術的とまでさえ思えてしまうような跳び蹴り。槍の如く鋭く伸ばされた足先が、その先を歩くフィーリアさんの無防備に晒された背中に突き刺さる──直前。

 

 ヒュン──一瞬にして、フィーリアの姿がその場から消え去った。遅れて、金髪の女性が虚空を貫き、華麗に着地する。

 

「チッ!」

 

 そしてなんとも行儀悪く舌打ちをした瞬間、パッと彼女の背後にフィーリアさんが現れる。現れるなり──

 

「別に私がどこに行こうが私の勝手でしょうがこのデカ乳暴力女ァッ!!」

 

 ──と、あらん限りの怒りを込めて、普段とは全く違う口調で彼女も暴言を吐き捨てた。スッと無言で金髪の女性は地面から立ち上がり、そしてフィーリアさんの方に振り向く。

 

 言い様のない緊張感に包まれる広場にて、フィーリアさんは見上げ、金髪の女性は見下す。そして数秒の沈黙が二人の間に流れた時、それは唐突に破り捨てられた。

 

 

 

「「誰が貧乳(デカ乳)合法(暴力)幼女(女)だッ!!!ああッ!?」」

 

 

 

 そしてそれが、開幕の合図だった。

 

「大体相変わらずなのはあんたでしょあんた!昔っからバッタバタ走っちゃぴょんぴょん跳ねて、その足癖の悪さどうにかなんない訳!?」

 

「あらあらごめんあそばせぇ?二十歳になっても十年前となにも変わらないあなたと違って私は成長が早くてつい活発に身体を動かしたくなってしまいますのぉ。いつまで経っても幼女同然のあなたには一生わからない衝動ですわねえおほほほ!」

 

「はーっ!はーっそうですかはーっ!別にそんな衝動わかりたくも知りたくもないっての!その無駄に育ち過ぎた胸ぶっるんぶるん下品に揺らしながら、無駄にエロいスケパン見せ散らかしても平気でいられる痴女と違ってぇ、二十歳の大人で常識人な私には羞恥心ってものがあるからさぁ!」

 

「え?なに嫉妬?それ嫉妬ですのぉ?こーんなにもナイスバディである私に、色気の欠片もないお子様なあなたがそんなこと言っても、まるで嫉妬しているようにしか聞こえませんわぁ」

 

「は、誰がよりにもよってあんたなんかに嫉妬するかっての。じゃあ訊くけど、あんた恋人できたの?そーんなにもナイスバディで色気ムンムンなあんたなら恋人の一人や二人くらい余裕でしょ?ま、それでもどうせ未だにいないんでしょうけど。いくら顔や身体が良くても性格がアレだしねあ・ん・たは!」

 

「なぁんですってこの小娘ぇ!!じゃあ逆に訊かせてもらうけどあなたはどうなのよあなたは!?あなただってどうせ今もいないし今までできたこともないのでしょう!?あなたの場合、性格も最悪で身体の方もご覧の通り貧相ですもの!殿方が関心を示す訳がありませんわよねえおーっほっほっほ!」

 

「違わい!私はできないんじゃなくて作らないだけだから!その気になれば男の一人や二人どうってことないから瞬殺だからぁ!!!」

 

 …………この『魔法都市』マジリカに訪れてから、一体何度僕はこの短時間で驚かなければならないのだろう。若干、頭の奥が痺れてきた気さえしてくる。

 

 フィーリアさんと金髪の女性の激しい言い争いを前に、僕とサクラさんは呆然とする他ない。そして何故か先輩は面白そうに眺めている。

 

 二人の言い争いは限度を知らずに白熱化していき────結局、その勢いを全く衰えさせずに数分間続いたのだった。



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ARKADIA────『四大』が一家、ニベルン家

「えー、このデカ乳痴女が紹介したかった人その一でーす」

 

 突如としてこのマジリカの広場に現れた、金髪の女性と不毛な口喧嘩を数分間繰り広げた後、すこぶる不機嫌そうになって、凄まじくぶっきら棒にフィーリアさんが僕たち三人に向かってそう言う。が、彼女の言葉に透かさず金髪の女性が怒鳴り声を上げる。

 

「だから誰が痴女よ!……コホン」

 

 怒鳴った後、女性は息を整え、改めて僕たちの方に身体を向けると、先ほどの様子からは想像し難い優雅な所作で、ようやくその名を口にしてくれた。

 

「名乗りが遅れて申し訳ございませんわ。(わたくし)は『魔道院』理事長兼ニベルン家次期当主──ナヴィア=ネェル=ニベルンと申します。以後お見知りおきを」

 

 金髪の女性──ナヴィアさんはそう言って、ドレスの裾を軽くたくし上げてこちらに会釈する。

 

 それに対し僕も咄嗟に自己紹介をしようとして────

 

 ──ナヴィア=ネェル=ニベルン……ニベルン(・・・・)

 

 ────そこに、引っかかった。……確か、僕の記憶が正しければ、それは。

 

「……あの、ナヴィアさん。失礼を承知で一つ、お訊きしたいんですが」

 

「ええ、別に構いませんわ。なんでしょう?」

 

 その豪奢絢爛なドレスや、先ほどの……まあ、フィーリアさんとのやり取りを除き、優雅と気品に溢れた言動と立ち振る舞いからして、僕のような一般人ではなく貴族なのだろうとは、少なからず察してはいたのだが。

 

 全身から冷や汗が僅かに滲み出すのを実感しながら、恐る恐る僕は彼女に訊ねた。

 

「ニ、ニベルンって……もしかして、あのニベルンですか?」

 

 すると彼女は数秒の沈黙を挟んで、こちらを揶揄(からか)うように微笑み、その口を開いた。

 

「はい。『四大』が一家──ニベルン家のことでしてよ」

 

 その言葉を訊いて、僕は思わず身体が蹌踉めき、その場で卒倒しそうになった。なったが、なんとか気力を振り絞って堪える。

 

 ──マジか……。

 

 言葉が出ないとはまさにこのこと。いや、無理もないだろう。この世界(オヴィーリス)を代表する大貴族──『四大』の一つ、ニベルン家のお嬢様にして次期当主が自分の目の前に立っているのだから。ほんの二週間ほど前にも同じく『四大』、オトィウス家当主のリオさんにも会ったばかりだというのに。

 

 そもそも本来ならば、僕のような一般庶民がこうして直に会っていること自体がおかしいのだ。そう思いつつ、頭を押さえて視線を目の前に改めて向ける。

 

「いやあ、さっきの蹴り凄かったな!もしかしてお前喧嘩やれんのか?」

 

「私から見ても先ほどの跳び蹴りは実に見事だった。ナヴィア嬢、貴女は武術の心得でも?」

 

「一応嗜む程度には」

 

 ……いつの間にか先輩とサクラさんはナヴィアさんの近くにまで歩み寄っており、そんな他愛もない会話を交わしていた。彼女がかの『四大』ニベルンの一族であることなど、まるで関係ないかのように。

 

 流石は《SS》冒険者(ランカー)──そう僕は思ったが、ふとこれまでのことを軽く振り返ってみる。振り返って、こんな僕でもここ最近、数多くの大物たちと出会ってきたことを思い出した。

 

 ……そろそろ、僕も慣れるべきなのかもしれない。

 

「ウインドアさん?ぼうっと突っ立って、なにか考え事でも?」

 

「え?……あ、いや、そういう訳では」

 

 気がつくと、僕のすぐ隣にフィーリアさんが立っていた。彼女は怪訝そうに僕の顔を覗き込んでおり、僕が慌てて言葉を返すと、さほど興味もなさそうに相槌を打つ。

 

「……あの、フィーリアさん」

 

 ふとした疑問を抱いて、僕はフィーリアさんに訊ねる。

 

「ナヴィアさんとは、一体どういった関係で……?」

 

 先ほどのやり取りを見て、少なくともそう浅い関係性ではないことは間違いなくわかる。僕のその質問に対してフィーリアさんはすぐには答えず、少し考えるように黙って、それから微かにうんざりとした表情を浮かべながら答えた。

 

「別に。ただの腐れ縁ですよ」

 

 そしてすぐさま先輩とサクラさんの二人と談笑するナヴィアさんの元に、フィーリアさんも向かう。ナヴィアさんの背中を指で突っついて、フィーリアさんは彼女を振り向かせた。

 

「ナヴィア。後で話があるんだけど」

 

「あら、もしかしてどうしたら背が伸びるかの相談?それともその絶壁を双丘に変える方法でも知りたいの?」

 

 もはや煽ることしか考えていない言葉をナヴィアさんはぶつけたが、それに対して先ほどのようにフィーリアさんが憤慨することはなかった。ただ、上手く感情を読み取ることができない、無表情とはまた違った表情でナヴィアさんを見つめる。

 

 そんな彼女の様子に、ナヴィアさんも流石にふざけることを止めた。

 

「……わかったわ。時間は取ってあげる。場所はあそこ(・・・)でいい?」

 

「いい」

 

 そうして、二人の会話は終わった。フィーリアさんは踵を返し、ナヴィアさんは先輩、サクラさん、そして僕と順番に視線をやって、それからまた口を開いた。

 

「話はそこの幼女から聞いていますわ。可愛らしいお嬢さんと、『極剣聖』様……そして『不死鳥の大翼(フェニシオン)』の冒険者(ランカー)クラハ=ウインドア。(わたくし)たちフォディナの民はあなた方三人を歓迎致します」



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ARKADIA────GM──アルヴァ=クロミア

 ナヴィアさんは僕たちに軽い挨拶や、マジリカに三日間滞在する僕たちへの支援(サポート)の内容等を終えると、そのまま別れ広場を去った。彼女曰く、今はまだ仕事中だったのだが、こっそり抜け出してここに来たらしい。

 

『魔道院』に戻るナヴィアさんの背中を見送り、フィーリアさんの案内(ガイド)の元、次なる目的地へと向かう。その途中、寄り道をしながら。

 

 マジリカには、初めて目にするものが溢れていた。特にこの街にしかない魔道具(マジックアイテム)の数々には、否応にも目を引かれた。他にもこの街──というよりはこの大陸独自の食文化も興味深いものがある。

 

 最初に目にした、【(ファイア)】の術式を込めた、様々な色の魔石を使った肉の串焼きや果物焼き。店主によると、焼く炎の色によってその味付けが変わるのだとか。

 

 試しに無色の魔石で焼いた串焼きと、一番人気だという赤色の魔石で焼いた串焼きを食べ比べてみた結果、確かに赤色の魔石で焼いた串焼きは辛みの効いた、スパイシーな味付けに変わっており、非常に美味だった。

 

 それと先輩が(いた)く気に入った、一口サイズのスライム饅頭。略してスラまん。……この愛称で親しまれているらしいのだが、個人的にはあまり使いたくない愛称である。その理由は伏せさせてもらうが。

 

 まあそれはともかく。この饅頭というのは元々サドヴァ大陸の極東──イザナと呼ばれる地方のお菓子なのだが、スライム饅頭はそれを元にしたもので、驚くべきことにその名前の通り──なんと生きた(・・・)スライムで、砂糖などで味を整えた果物のペーストを包み込んでいる。その為商品棚に並んでいる時も、手にとっていざ口にする時も、プルプルと震えているのだ。早い話、スライムの踊り食いである。

 

 ……一応物は試しと僕も一個食べてみたのだが、口の中に放り込んでもなお震え、歯で噛むとより一層激しく震え暴れるのだが、少しするとそれがまるで嘘のように大人しくなる。……なんというか、食事という行為がいかに残酷であるかと、改めて痛感させられた。

 

 しかし、そんな僕とは対照的に先輩は面白そうに二つ三つと口に放り込み、楽しく美味しそうにスライム饅頭を味わっていた。

 

 ……僕たちもレインボウというスライムらしき魔物(モンスター)を飼っているが、先輩はこの饅頭に対してなにか思うところはないのだろうか。まあ、店員の話によるとこのスライムは饅頭の為に作られた食用スライムだというので、他のスライムと一緒くたには考えられないのかもしれないが。

 

 とまあ、ここマジリカにはそういう摩訶不思議に満ちた食べ物が様々あり、またそういった食べ物だけに留まらずここでしか買えない一風変わった家具や室内装飾品(インテリア)の品々、フォディナ大陸独自の意匠を凝らしたお洒落特化の衣服に、冒険者(ランカー)向けの多種多様な魔法を施した特別な衣装、属性を付与(エンチャント)した魔法武器などもあった。それらを眺め手に取り、感心したり時には驚きもしながら、僕たち四人は目的地────マジリカの冒険者組合(ギルド)、『輝牙の獅子(クリアレオ)』の門の前に、辿り着いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「話はそこの馬鹿娘からあらまし聞いてるよ。まあとにかくだ、ようこそ(アタシ)の『輝牙の獅子(ギルド)』へ」

 

『輝牙の獅子』に入るなり、僕たち四人は受付嬢に連れられ、この執務室に通された。そして部屋の中で待ち受けていたのは──一人の女性。

 

 サクラさんの濡羽色とはまた違った黒髪に、まるで猛獣のように凶暴で、しかし何処か翳りのある美貌。そして視界に捉える全てを睥睨し射抜く、猛禽類にも似た濃い紫紺色の鋭い瞳。

 

「あの腑抜けは元気にやってるのかい?『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の坊や」

 

 緊張で固まる僕に、遠慮容赦なくその紫紺の視線を突き刺しながら、その女性が訊ねる。

 

 女性が放つ、荒んだ独特の雰囲気に呑まれそうになりながらも、僕はなんとか答えた。

 

「は、はい……GM(グィンさん)なら、げ、元気です!」

 

「そう。まあ別にどうでもいいんだけどさ。……昔はあんなんじゃあなかったんだけどねえ」

 

 つまらなそうに、不愉快そうに女性はそう呟いて、嘆息する。対して僕は、僅かながらも安堵の息を思わず漏らしてしまっていた。

 

 ──会うのはこれが初めてって訳じゃないのに……やっぱり、苦手だ。

 

 じっとりと冷や汗が背中を伝う。正直なことを言えば、今すぐにでもこの部屋から去りたい気分だ。

 

「それと……」

 

 スッと、女性の瞳が僕から離れ、今度は僕の隣に立つ先輩へと視線が定められる。

 

「……ふーん」

 

 まるで舐るかのように、頭の先から足の爪先まで、女性は先輩の全身をじっくりと眺める。そして面白そうに、しかし何処か気に入らないようなため息を吐く。

 

 対し、先輩は黙ったままその場に立っていた。僕の隣にいる為その表情などはわからないが、恐らく僕と同じように緊張で強張っているはずだ。何故なら先輩も、この人を苦手としているのだから。

 

「話には聞いてたけど、本当だったんだ。久しぶりだねえ、『炎鬼神』。……それにしても、まあ随分と可愛らしい小娘になっちまったもんじゃないか」

 

「お、おう。久しぶり……です」

 

 普段の様子からは考えられないくらいに緊張しながらも、なんとかそう返す先輩。それに対して女性は適当に相槌を返して、改まるように僕たちに言う。

 

「そこの坊やと『炎鬼神』、馬鹿娘は知っていると思うけど……私がこの冒険者組合のGM──アルヴァ=クロミアだよ」

 

 女性──アルヴァさんはそう名乗ると、今度はサクラさんが口を開いた。

 

「私はサクラ。サクラ=アザミヤだ。貴女のことはカゼン……『影顎の巨竜(シウスドラ)』のGMからいくつか聞き及んでいる」

 

「私もあんたの噂は耳にしてるよ『極剣聖』。こうして直に会えて実に光栄だね」

 

 流石は一冒険者組合のGM。今目の前に立つ《SS》冒険者(ランカー)に対して、少しも臆していない。堂々とした、年長者としての余裕が満ち溢れている。

 

 僕がそう思っていると、アルヴァさんがサクラさんから視線を外し、淡々とした物言いで続ける。

 

「まあ、あまり観光向けの街じゃないけどゆっくりしていきな。なんなら『輝牙の獅子』(ここ)依頼(クエスト)を受けたって構わないしね」

 

 そうして言い終わると、アルヴァさんは執務机に広げられた無数の書類へと視線を落とす。そしてさっきまで行っていたのだろう、事務作業を再開した。

 

 ──……え?

 

 もはや僕たちには目もくれず、苛立った様子で次々と書類の処理を進めるアルヴァさん。困惑していると、今まで黙っていたフィーリアさんが慌てて、小声で僕たちに言った。

 

「す、すみません皆さん!じ、実は私師匠(せんせい)には挨拶だけってお願いしてまして……も、もう各自自由に行動してもらって構いませんから。どうぞ、マジリカを観光してってください!」

 

「……あ、はい」

 

 やたら早口気味に紡がれたフィーリアさんの言葉に、とりあえず僕だけがそう返して、僕たち三人は執務室から立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラハたちが執務室から出て、離れていくのを見届け、扉を閉めると真っ先にフィーリアは目の前の執務机に座る己が師であり、そして義理の母に対して、非難の声をぶつける。

 

「もう!確かに挨拶だけって私言いましたけど!だからってあんなのはないですよ師匠!」

 

「見てわかる通り、(アタシ)は多忙なんだよ馬鹿娘。お前の頼み通り、挨拶してやっただけまだマシだろう。本当ならこの部屋に呼びたくもなかったし、なんなら会いたくもなかった」

 

 弟子であり、そして義理の娘であるフィーリアの言葉を受け、アルヴァはなんとでもないように、乱暴な口調を以て彼女にそう返す。そのあんまりな言葉に絶句する彼女に対して、アルヴァがさらに続ける。

 

「そもそも、突然連絡寄越したかと思えばいきなりこっちに帰るだの人連れてくるだの抜かして、非常識にも限度ってものがあるだろ。まあ他の誰でもないお前だったから私はこうして会ってやったんだ。予定よりもずっと早く仕事片付けて、無理くり時間作ってね。そこら辺、どうなんだい?」

 

 アルヴァの言葉は、尤もだとフィーリアは思う。自分は一昨日、なんの脈絡もなしにナヴィアとアルヴァに連絡し、クラハら三人を連れてマジリカに一旦帰ると伝えた。その為彼らに対してホテルなど、三日間滞在するにあたって都合の良い場所を用意できないか、そういった頼み事をしたのだ。

 

 結果ナヴィアからはニベルン家の息が掛かっているホテルをクラハたちへ用意してもらい、アルヴァからはこの冒険者組合への出入り、依頼の受注などの許可を特別に下ろしてもらった。

 

 そのことを踏まえて、アルヴァに対してフィーリアは申し訳なさそうに、頭を下げた。

 

「す、すみません……」

 

「よろしい」

 

 アルヴァはフィーリアにそれだけ返して、また事務作業に専念する。筆を動かす音や書類が擦れる音だけが数度響いた後、視線は書類に向けたまま、再度アルヴァが口を開いた。

 

「それじゃあ、本題に移るとしようかね──フィーリア」

 

 彼女のその言葉に、フィーリアが微かに肩を跳ねさせる。そして僅かばかりにその表情を曇らせた己が娘へ、アルヴァはこう続けたのだった。

 

「特別だよ。話、聞いてやる」

 

 そして先ほどから忙しなく動き続けていたその手を止めて、アルヴァは書類から顔を上げる。そこには、娘の帰省を喜ぶ、母の表情が浮かんでいた。



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ARKADIA────魔石塔。懐かしき困惑にて

輝牙の獅子(クリアレオ)GM(ギルドマスター)、アルヴァさんへの挨拶を終え、受付にてこのマジリカに滞在する三日間、外部冒険者(ランカー)である僕たちでも『輝牙の獅子』に発注された依頼(クエスト)を受けられるよう、様々な手続きも終えて、僕と先輩、サクラさんは『輝牙の獅子』を後にした。

 

 そしてフィーリアさんの言葉もあって、僕と先輩は早速マジリカを観光することにした。ちなみにサクラさんは僕たちとは別れ、道行くマジリカの女性魔道士に声をかけ、どこかへと去ってしまった。まあ、いつも通りのことなので大丈夫だろう。

 

 先輩と二人きりで、時間を忘れて楽しむマジリカの観光はとても有意義なものだった。フィーリアさんの案内があったさっきとは違い、行き当たりばったりな観光ではあったのだが、これこそ旅の醍醐味というものだろう。

 

 時に住民の話を聞いて。時に己の勘に従って。時に先輩に振り回されて──この一日だけでも、僕たちはマジリカという街を堪能できたことだろう。

 

 そしてあっという間に陽は落ち始めた頃────僕と先輩は、とある場所に訪れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラディウスとは違った賑やかさで溢れていた繁華街を抜け、しばらく進んだ先。そこに、それ(・・)は建っていた。

 

 実に行き当たりばったりだったマジリカ観光の中で、唯一定めていた目的地。マジリカへ向かうことが決まった時から、是非とも一度は足を運びたいと思っていた場所。

 

『世界冒険者組合(ギルド)』刊行の雑誌、『冒険人生』。ある月の刊に載っていたのを目にして、人生に一度はこの目で直接見たいと思った場所。

 

 その場所の名は────魔石塔。不詳の時代からこの地に悠然と聳え立つ、マジリカを代表する観光名所だ。

 

 

 

 

「……これが」

 

 天に向かって突き立つ、魔石に覆われたその塔を見上げ、僕は感動のため息を吐く。感無量の極みとは、このことだろう。

 

 魔石塔。話によれば、ここマジリカという街が作られる以前(・・)から、この場所に建てられていたという。またこの塔は未だ多くの謎に包まれており、何故この場所に建てられているのか、どういった目的でここに建てられたのか。その一切が不明なのだ。

 

 今までに多くの遺跡学者やら、魔道士たちがこの塔の謎に挑んだという。そしてその全てがあえなく撃沈したという。この塔に関しての文献や資料があまりにも少ないせいもあるが、一番の原因は──その中に入れない(・・・・)からだ。

 

 この魔石塔の一番の特徴であり、また象徴でもある魔石。この魔石は驚くことに、破壊することができないのだという。いかなる手段を用いても、絶対に砕くことが叶わないのだという。

 

 そんな魔石は塔を着飾るように覆っており、中へ進むための大扉をも覆ってしまっている。だから、この塔の中には入れないでいるのだ。

 

「…………」

 

 無窮の神秘に包まれた塔を、僕はある程度離れた位置から眺める。この塔への接近は『世界冒険者組合』が禁止にしている。

 

 それからこの場の周囲へ、目を配らす。この街一番の観光名所──しかし、その周囲にはなにもなかった。

 

 ……否、正確には人の気配が微塵もない。全く感じられない。何故ならこの場所は、廃墟街(・・・)となってしまっているからだ。

 

 元は人々の活気で満ち溢れていたことを証明する、悉く風化し大半が崩れ落ちている建造物を見やって、僕はなんとも言えない気分になる。

 

 ──『世界冒険者組合』の介入も一因にあるんだろうけど……。

 

 魔石塔は、その神秘性故に多くの人を惹きつける。しかし、その神秘性は時としてこの上ない不気味さに変じることもある。その不気味さが、自然と人々をこの場所から遠ざけたのだろう。

 

 こうしてここへ訪れて、改めて思う────似ている(・・・・)

 

 ──…………もうすぐで、『あの日』だな。

 

 僕がそう思っていた、その時だった。この魔石塔の廃墟街に来てか無言だった先輩が、不意に前へ歩き出した。

 

「あ、先輩待ってください。魔石塔には……」

 

 僕の注意も虚しく先輩はスタスタとその歩みを進めて、魔石塔のすぐ近くにまで行ってしまう。僕も一瞬躊躇ったが、先輩の後に続くようにして魔石塔に近づく。

 

 遠くから眺めるだけでも充分過ぎるほどに美麗な塔であったが、近くで見るとより一層美麗である。塔自体は至って普通の石塔なのだが、その全体を覆う薄青い魔石が夕陽に照らされ、青と赤が複雑に絡んだ光を発しており、実に幻想的な光景が広がっていた。

 

 その光景に思わず僕の視線と意識が囚われてしまう中、先輩は何故か奇異な表情を浮かべ──スッと、その小さな手を伸ばす。そして細い指先が、魔石の表面にそっと触れた。

 

「先輩……?」

 

 その先輩の様子に、思わず僕は訝しんだ声をかける。すると少し遅れて、先輩がようやく口を開いた。

 

「なあ、クラハ」

 

 魔石から僕の方に顔を向けて、先輩は言う。

 

「初めて、だよな?俺らがここに来んのって」

 

「……え?」

 

 その先輩の言葉に、僕は思わず怪訝な声を返してしまう。そう、先輩の言う通り、僕たちがここに来たのはこれで初めてだ。しかし、そんなこと僕に訊かなくても、先輩だってわかっているはずだ。

 

「そう、ですね。そのはずですよ、先輩」

 

 僕の言葉に先輩はすぐには返さず、再び魔石の方へ顔を向けて、少し間を置いてからぽつりと呟いた。

 

懐かしい(・・・・)

 

 そして、触れさせていた指先で魔石をゆっくりと撫でる。僕は、先輩の呟きにただただ困惑させられる他ないでいた。

 

「懐かしい、って……」

 

 先ほど先輩が僕に確認した通り、僕たちがマジリカに訪れるのも、ましてやこの魔石塔の元へ足を運んだのもこれが初めてだ。初めてのはずだ。

 

「…………」

 

 先輩は、なにか考えこむように指先に触れる魔石を見つめている。その横顔には困惑と────慈しむような、複雑な感情が宿っていた。

 

 その先輩の表情に思わず見惚れてしまう中、ふと僕は気づく。

 

 ──ん?この魔石……どこかで、見たことがあるような……?

 

 塔を青に彩る魔石。その質感に遠い既視感を感じ、頭の片隅に押し込まれた記憶が刺激されたのだが、果たしてそれが一体なんだったのか、僕は思い出すことができなかった。



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ARKADIA────懐かしの味わいは苦くて

 サクラがマジリカの道行く女性魔道士たちを口説き、クラハとラグナが魔石塔へ訪れているのとほぼ同じ頃。己が師であり母であるアルヴァ=クロミアと話を終えて、独りフィーリアはマジリカの街道を歩いていた。

 

 真上に上がっていた太陽も、徐々に傾き空を茜に染め上げているこの時間帯でも、金色の街ラディウスほどではないがそれなりに活気に満ちている。そんな中、フィーリアは人々の雑多を掻き分けながら、とある目的地を目指していた。

 

 そこは、四年前──まだフィーリアが『魔道院』の学生だった頃に、この街で唯一入り浸っていた店。その店で、彼女を待つ一人の女性がいる。

 

 ──……。

 

 無言で、無表情で、フィーリアはただひたすらに道を歩く。前を進む。絶えずその色を変える瞳で、時折マジリカの風景を流し見ながら。

 

 そうして、数分後彼女は辿り着いた。自分が目指していた目的地、十五年の腐れ縁である人物──ナヴィア=ネェル=ニベルンが待つ、「本日貸し切り」という看板を下げた、喫茶店『魔女の休息』に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カランカラーン──懐かしい扉を開けたフィーリアを、また懐かしい鈴の音が出迎えた。

 

「いらっしゃい」

 

 数歩店の中へ足を踏み入れる彼女を、次に迎えた声。それはこの店に初めて訪れた時と全く変わっていない。カウンターの方へ顔を向けてみれば、声と同じく──しかし厳密に言えば白髪など増えている──容姿も変わっていない、店主(マスター)がそこには立っていた。

 

「お久しぶりです」

 

 フィーリアがそう返すと、店主はグラスを磨きつつも軽く頭を下げる。寡黙なその性格も、変わっていない。

 

「お待ちの方はあの席に」

 

 店主の短い言葉を受け取り、フィーリアはすぐさま奥の方のテーブルに顔を向ける。二つある椅子の一つには、既に先客──ナヴィアが座っており、カップを口元に運んでいるところだった。

 

「ありがとうございます」

 

 それだけ言って、フィーリアは店内をゆっくりと進む。扉も来客を知らせる鈴も店主も、そして店の内装もあの頃と変わっていない。自分の覚えている限りではあるが、この街には多少の変化があった。それは店だったり、人であったり。

 

 しかし、本当にここだけは。この場所だけは変わっていないのだ。まるで時の流れに取り残されたように──しかし、フィーリアにとってそれが、ほんの少しばかり口元を緩めてしまう程度では嬉しかった。こうして思い出が思い出のまま、その形を留めていることが喜ばしかった。

 

 レトロチックな店内を、慣れた足取りでフィーリアは歩く。そして、学生時代からの指定席にまで彼女はやって来た。空いている椅子を引いて、すとんと腰をそこに下ろす。

 

「お待たせ」

 

「ええ」

 

 フィーリアとナヴィア、二人の短い応答が静かな店内に響き渡る。それから特に会話らしい会話は広げられず、また店内は静寂に包まれる。二人だけのその空間に、気がつけば店主が近づいていた。

 

「どうぞ」

 

 その言葉と共に、店主がフィーリアの前にスッと、一切の音を立てずに皿を置く。そこに乗せられていたのは──至って普通な、シンプルの一言に尽きるサンドウィッチ。今が旬の果物を純白の生クリームで包み、フィリングしたフルーツサンドである。

 

 そのフルーツサンドを見て、フィーリアは僅かながらに頬を綻ばせてしまう。そしてゆっくりとそれを手に取って、己の口元にまで近づける。近づけて、小さくではあるが口を開き、フルーツサンドに齧り付いた。

 

 もきゅもきゅとフィーリアの口が上下に動く。その度に彼女の舌の上で、果物の瑞々しい食感が跳ねるように踊り、甘みを控えた生クリームの優しい風味が滑らかに広がっていく。

 

「……ふふっ」

 

 好物の味わいが全く変わっていないことに対して、思わずフィーリアは笑みを零す。それから少しずつ、ちまちまとフルーツサンドを食べ進めた。

 

「……本当、昔のままですわね。貴女は」

 

 そんな彼女の姿を見やって、ナヴィアはそう呟いて再びカップの縁を口元に当て、傾ける。

 

 喉を通り過ぎていく紅茶の香りと風味を感じながら、ナヴィアは頭の片隅に留めてある記憶を無意識に引っ張り出す──それは懐かしき、学生時代の日々。

 

 それらを思い出しながら、ナヴィアはカップを置いて、未だ無邪気な子供のように──というか彼女の容姿ではそうにしか見えない──フルーツサンドに舌鼓を打ち楽しむフィーリアに、本題(・・)について訊ねた。

 

「それで、話ってなんなの?別に(わたくし)と思い出に浸りたい訳ではないのでしょう?」

 

 瞬間、フィーリアの手が止まった。徐々に彼女の口へと消えていたフルーツサンドが宙で静止する。あれほどまでに緩んでいたその表情が、一瞬にしてそこから消え去る。

 

 フィーリアはナヴィアの言葉に答えず、少しの間固まっていたかと思うと、手に持っていた食べかけのフルーツサンドを皿に戻す。しかし依然として黙ったまま──不意に閉ざしていたその口を、彼女は開いた。

 

 

 

「明日、魔石塔に行く」

 

 

 

 今、店内にはフィーリアとナヴィア、店主の三人しかいない。まあ本日は貸し切りという看板を下げているので、それは当然のことなのだが。

 

 それはともかく、そのこともあって店内は実に静かだった。静かな分、フィーリアのその言葉はよく店内に響き渡った。

 

「……」

 

 彼女の言葉を受け、ナヴィアが呆然とする。呆然として、数秒後──

 

「……は、あはははっ!」

 

 ──と、大いにはしたなく噴き出した。ナヴィアの笑い声が、店内の静けさを尽く打ち破っていく。

 

「あ、貴女…っ、それ前振りとしては、完璧です、わ……ああもう駄目堪えられないあははは!わ、私、笑いを抑え込むことができませんわあっはっー!」

 

 お腹を抱えながら、今にも椅子から転げ落ちそうな勢いで笑い続けるナヴィア。息絶え絶えになりながらも、彼女は続ける。

 

「そ、そもそも魔石塔に行ったってどうする気なの?まさか、中に入るつもりかしら?だとしたら止めておきなさい。あの塔の魔石は貴女にでも破壊できなかったのだから、行ったとしても無駄足になるだけ……ふふ、ふふふ……っ」

 

 再び笑いのツボを刺激されてしまったのか、そこでナヴィアは顔を俯かせ、プルプルと小刻みにその肩を震わせる。しかしそれも数秒だけのことで、また顔を上げて笑い出してしまう。

 

 みっともなく笑うナヴィア。するとフィーリアはおもむろに手を宙に翳す。少し遅れて彼女の手のひらの上で少量の魔力が渦巻き──気がつけば、小石程度の魔石がそこにあった。そして次の瞬間、

 

 

 

 パキンッ──まるで硝子(ガラス)でも割ったかのように、綺麗に澄んだ破砕音を立てて砕け散った。

 

 

 

 ナヴィアの笑い声が、一瞬にして止んだ。彼女の視界で、フィーリアの小さな手から零れ落ちた魔石の欠片が、宙で解けるようにして魔力へと戻り、霧散し溶けて消えていく。

 

 ナヴィアが蒼い瞳を見開かせる中、さも平然とフィーリアが言う。

 

「もう一度だけ言う。明日、私は魔石塔に「駄目」

 

 内容的には先ほどと全く同じ言葉。しかし、今度はそれを、ナヴィアは遮り、強く否定した。続けて、フィーリアに彼女は言う。

 

「駄目です。行かせません。絶対に行かせませんわ。行かせて堪るものですか。フィーリア、もう一度考え直しなさい」

 

 先ほどの様子がまるで嘘のように、ナヴィアは真剣な表情でフィーリアに言う。そう訴えかける。しかし、彼女はなにも答えなかった。なにも答えず、ただ無表情のままに、ナヴィアの顔をじっと見つめる。

 

 互いに無言になって、互いに顔を見合わせる二人。その視線がぶつかり混じり合っていたかと思うと、先にそれを──ナヴィアが断ち切った。

 

「……貴女、そんなことを話す為だけに……いえ、伝える為だけに、私にわざわざ時間を取らせた訳?」

 

 フィーリアは、なにも答えなかった。そんな彼女の様子に、とうとうナヴィアの堪忍袋の緒が切れた。

 

「ふざけないでよッ!」

 

 バンッ──はっきりとした確かな怒りの声と共に、ナヴィアはテーブルを叩きつけ椅子から立ち上がる。その衝撃で、彼女の目の前のカップが思い切り揺れて、倒れかける。

 

「一人旅から帰って来たと思えば、ろくに話もしないですぐに街から出てって、まともな連絡もないと思えば急に街に一旦帰るから都合調整よろしくだのと無茶を言って……それで挙げ句の果てこの仕打ち?貴女、私を馬鹿にしてるの!?なにか答えなさいよッ!!」

 

 ナヴィアの怒号が店内を、フィーリアを貫く。……しかし、それでも彼女は黙ったままだった。そんな彼女に対してナヴィアは口汚く舌打ちする。

 

「大体、アルヴァのおば様がそれを許可するはずも「取った」……なんですって?」

 

 ナヴィアの言葉を遮る形で、フィーリアもようやく閉ざしていたその口を開く。だが、その声におよそ感情というものは込められていなかった。動揺するナヴィアに、フィーリアは言い聞かせる。

 

「許可なら、もう取った」

 

「…………嘘、でしょう……?」

 

 到底信じられないという風にナヴィアはそう訊き返す。しかし、今度はフィーリアはなにも言わなかった。再びその口を閉じて、沈黙で返すだけだった。

 

 そんな彼女の様子にナヴィアは堪らず絶句し、それから先ほどと同じように小刻みに肩を震わせる。先ほどと違うのは、それが笑いによるものではなく、怒りによるものだということ。

 

「……ええ。ええ、そう。そうなの」

 

 そう呟くや否や、ナヴィアはその場から歩き出す。椅子に座ったまま、黙ったままでいるフィーリアを歩き越して、彼女は背を向けて言う。

 

「貴女がその気なら、私にだって考えがありますわ」

 

 まるで吐き捨てるようにそれだけ言って、ナヴィアはそのまま早歩きで店から出て行ってしまった。多少乱暴に開け放たれた扉がゆっくりと閉まってから、フィーリアは再びその視線を眼下の皿に向ける。

 

 そして無言でその上にある食べかけのフルーツサンドを手に取って、一口齧る。齧って、数度顎を上下させて、それを喉に流し込んでから、ぽつりと呟いた。

 

 

 

「苦く、なっちゃったな」



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ARKADIA────そんな感情(もの)は

 傾いていた陽も完全に沈み、マジリカに夜の帳が下される頃、僕はナヴィアさんが用意してくれたホテルの寝台(ベッド)の上に寝転んでいた。

 

 自分の思うままに手足を伸ばしつつ、染み一つ汚れのない真っ白な天井を眺める。眺めながら、僕は今日一日あったことを振り返っていた。

 

 マジリカ。フォディナ大陸を代表する、世界(オヴィーリス)中の魔道士が集まる、魔道士の都。そこで目にするものは、その全てが新しいものだった。

 

 特にスライム饅頭。あの饅頭を口にした食感は、恐らく一生忘れることはないだろう。……というか、忘れられないだろう。

 

 そしてかねてより訪れたいと思っていた、この街一番の観光名所──魔石塔。不壊の魔石に飾られたかの塔は、写真で見るよりもずっと美しく、そして綺麗だった。だった、が。

 

 ──……懐かしい、か。

 

 それは先輩の言葉。僕が知る限りでは、魔石塔の元に来たのは今日が初めてで、当の本人も言っていた通り先輩もそれは同じである。……なのに、あの塔に対して先輩はどうやら、謎の懐古感を抱いたらしい。

 

 浴室からシャワーがタイルを叩く水音が聞こえてくる。入っているのはむろん、先輩である。今回もまた当然のように、僕と先輩は同室なのだ。まあ別にこれが初めてという訳じゃないしそもそも現在同棲中なので今さらどうこう言うことはないのだが。もはやどうってことはないのだが。うん。

 

 それはともかく。何故先輩は魔石塔に関してそんな感情を抱いたのだろうか。しかも聞けば、まるで生き別れた妹や弟にやっとの思いで再会できたような、そういったものに近い懐古感らしい。……およそ物体、それも無機物に対して抱くものではない。

 

 引き続き天井を眺めながら、あの時の先輩の様子を──魔石塔に対して浮かべていた表情を思い出す。塔の表面を覆う魔石に指先で触れ、困惑しながらもまるで慈しむような────まるで愛する我が子に向ける、母のような表情を。

 

 正直に言えば、先輩があんな表情を浮かべるとは思わなかったし、浮かべられるとは考えもしなかった。それだけに新鮮で──魅力的だった。思わず見惚れて、見入ってしまうくらいに。

 

 ──そういえば、先輩が女の子になってからもう三ヶ月経つのか……。

 

 忘れてはいけないことだが、僕の先輩であるラグナ=アルティ=ブレイズは元《SS》冒険者(ランカー)であり、そして元男でもある。詳しい事情は省かせてもらうが、先輩が今現在の状況と状態になってしまったのは春先────かの厄災、滅びの一──『魔焉崩神』エンディニグルが襲来して、数日のことだ。

 

 何故そうなってしまったのか、その原因は未だ不明のまま。というか、それを調べる余裕がないのが本音だ。今の最優先事項は先輩をLv(レベル)100に、そして男に戻すことである。

 

 それに関して、Lvこそ最初はあまりにも貧弱な能力値(ステータス)故に、相当苦戦を強いられていたのだが、それも徐々にではあるが解決し始めている。当然ではあるがあの頃と違って、先輩のLvは今や30。以前にも言及した通り、もうヴィブロ平原に生息する魔物では先輩の相手にならなくなった。……本当に、先輩は涙ぐましい成長を遂げてくれた。

 

 しかし、それが意味するのは、もうヴィブロ平原では経験値を稼ぐのが難しいということだ。そろそろ新しい狩場を探さなければならない。だがそれについては大方の目処はつけてある。今のところ本当に問題なのは──性別の方だ。

 

 これに関しては、戻すその手段すら掴めていない。……いや、方法はあったにはあったが、結果として先輩を男に戻すことはできなかった。

 

 そもそも性別を変えることなど、そう並大抵のことではない。というか、前例がない(・・・・・)。見た目だけならば幻覚魔法などで容易にどうにかなるが、外見だけでなくその中身までも作り変えてしまう方法など、仮説すら立てられていないのだ。まさに神の所業──奇跡と言ってもいい。

 

 ……まあ、意図せずその奇跡を体現した存在(モノ)が今、向こうの浴室でシャワーを浴びている訳だが……ともかく、現状では先輩を男に戻すのは、ほぼ不可能に近い。ただでさえ天衣無縫(なんでもあり)と思えたフィーリアさん──『天魔王』ですら、それが叶わなかったのだから。

 

 事態は想像以上に深刻だ。……そう、想像以上に深刻。深刻だとは、僕も思っている。もしかしたら先輩は男に戻れないかもしれない──その可能性が半ば無視できないほどに突出し始めたことは、僕も重々承知している。

 

 ……しかし、しかしだ。そう思う傍らで────

 

 

 

 別に、(・・・)それでも(・・・・)いいんじゃ(・・・・・)あないか(・・・・)と、思ってしまっている自分がいる。

 

 

 

 ────それが決して許されることではないとは、わかっている。わかっているが、それでもこう思ってしまう。

 

 あの時先輩が男に戻らなくてよかった、と。女の子のままでよかった、と。

 

 無意識にも感じたあの安堵感は、今でも強く頭に残っている。思わずほっと胸を撫で下ろしてしまったことも、はっきりと覚えている。

 

 それが一体何を意味するのは、ちゃんと理解している。理解できている。その上で言うが──別に僕は、そういった(・・・・・)感情を先輩に対して抱いてはいない。多少、性的な目線を不慮の事故のせいというか、不覚にも向けてしまったことはあるが、だがそれだけははっきりと言える。

 

 ……いや、正直なところ──わからないのだ。自慢ではないが、僕はこれまでの生涯で恋というものをしたことがない。恋が一体どういったものであるかは、表面上は理解しているが具体的にはわかっていない。

 

 数日前、あの(・・)遺跡内でも衝突した疑問に、僕は向き合う。果たして、この気持ちこそが──それ、なんだろうか。考えて、しかし僕は否定する。

 

 ──違う。僕は先輩に対してそんな感情は抱いていない。きっと今の先輩は女の子だから、性別が変わってしまっているから勘違いしているだけだ。肉体的には異性だけど、精神的には同性で……そもそも、あの人は命の恩人だ。命の恩人に対して、そんなものは抱いちゃいけない。

 

 誰に言うでもなく、誰に弁明するでもなく、ただ心に秘めた独り言を僕は捲し立てる。……けれど、そうであるならば──何故、自分はあの時ああ思ってしまったのか。

 

 ずっと考えていたが、答えは出ないでいた。……否、出さない(・・・・)ようにしていたのかもしれない。本当はわかっていて──だがそれを認める訳にはいかないから、出さないでいるのかもしれない。

 

 と、その時。

 

 

 

 バタン──気がつけばシャワーの音は止んでいて、代わりに浴室の扉が開かれる音が部屋に響いた。



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ARKADIA────青年よ、今宵は己が手で

 ──……疲れた。

 

 ふわふわの極上感触である寝台(ベッド)に、ごろんと無防備にも細く白い素足を晒しながら、寝っ転がるラグナはそう心の中で呟く。このマジリカという未知の街を歩き回り、そのおかげで酷使した足がまるで棒のようになっていた。

 

 浴室の方からはシャワーの音が漏れる程度に聞こえてくる。言うまでもないが、今入っているのはクラハだ。

 

 ──……。

 

 ぼうっと天井を眺めながら、ラグナは今日一日のことを振り返る。クラハと共に歩き、そして見るこの街は新鮮な驚きで溢れていて、凄く楽しかった。

 

 特にフィーリアに連れられ、食べてみたスライム饅頭。絶品だった。味もさることながら、口に入れた時のあの食感が今でもはっきりと思い出せる。オールティアに帰ったら、是非とも自分なりに再現してみたいものだ。……その時は、レインボウの視界(そもそも目があるのかわからないのだが)に入らないよう、気をつけなければ。

 

 そんなことを考えながら、ラグナは次にクラハのことについて──というよりは、街を歩き進む中で彼に声をかけていた冒険者(ランカー)たちのことを思い出す。

 

 

『『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のクラハ=ウインドアさんですよね!?その、サインって貰えますか!?』

 

『ウインドアさん握手お願いします!』

 

『も、もし機会があれば一度チーム組みませんか!?』

 

 

 ……その大半が自分たちと同じような観光中の冒険者で、そして女性であった。一応男性もいたにはいたが、それでも圧倒的に女性の方が多かった。

 

 ラグナとて、一ヶ月ほど前のこと────ラディウスでの依頼(クエスト)の一件で、クラハの知名度が爆発的に伸びたことは承知している。それから個人で様々な依頼もこなし、それによりさらに知名度が上がったこともわかっている。そして『大翼の不死鳥』の受付嬢──メルネの話から、女性冒険者からの人気が高いことだって知っているし、理解している。

 

 今まで実績らしい実績がなく、そのせいで日の目を見ることができないでいた可愛い自慢の後輩が、ようやくその実力に見合った、相応しい名声を得られることができたことはラグナだって嬉しい。……嬉しい、のだが。

 

 クラハが他の(・・)女性からちやほやされているのを見ていると──何故か無性に腹が立ってくるのだ。

 

 ──女に群がれて、鼻伸ばしてんじゃねえよ馬鹿クラハ。

 

 大勢の女性に囲まれ、困りつつも満更でもない表情を浮かべるクラハの姿を思い出し、ラグナは不快そうに眉を顰めるが、その傍らで困惑の表情も浮かべる。

 

 ──てか、なんでそんなんで、こんなにイライラしてんだろ……俺。

 

 燻る原因不明苛立ちに、ラグナは己の胸に手を当てる。……まあこんなことをしたところで、この苛立ちが一体なんなのかはわからないのだが。

 

 それに、まだわからないことはもう一つある。この苛立ちはもう一ヶ月ほど前から感じているが、これはつい最近のことである。

 

 クラハのことを考えると────何故か胸がきゅうっと締めつけられるような、そんな心苦しい謎の切なさを胸の奥に覚えるようになってしまったのだ。

 

 この切なさが一体なんなのか、ラグナは全くわからない。ただクラハのことを考えてしまうと、胸の内がこの切なさで一杯になって、どうしようもなくなる。今まで、こんなことは全くなかったというのに。

 

 一度メルネ辺りに相談しようかと考えもしたが、その直前で何故か後ろめたさというか、気恥ずかしさを覚えてしまい、結果未だに相談できないでいた。

 

 この無性な苛立ちといい、この胸を締めつける切なさといい……男の時には全く抱いたことのない感情だった。それ故ラグナの脳内は困惑で満たされ──直後、ぐしゃぐしゃと髪を手で掻き乱した。

 

 ──あーもう止めだ止め!これ以上考えてたら、なんか頭ん中変になっちまいそうだ。

 

 そしてごろんと寝返りを打って、ラグナがうつ伏せになる。ラグナの体重と寝台に挟まれて、むにゅぅという擬音が出そうな具合に、胸が押し潰されその形を歪ませた。

 

 ──……あ。

 

 寝台と同じくらいにふわふわな枕に顔を押しつけながら、ふとラグナはとあることを思い出した。

 

 

 ──良いかラグナ。胸を揉むんだよ胸を。それで相手の女がときめきゃあ、それが『恋』ってモンなんだぜ──

 

 

 それは十六年前、ほんのちょっとした好奇心で訊いた質問の答え。今の今まで、脳の片隅から抜け落ちていたいつかの記憶。

 

 当時の自分ではその意味がよくわからず、そして思い出した今でもよくわからない。そもそも、『ときめく』ということが理解できない。

 

 しかし、今は立場が違う。十六年前も四ヶ月前も、その時は男だったが──今のラグナは()である。

 

 ──ジョニィ……アイツ、まさかこん時の為に……?

 

 己に喧嘩の技術を与えてくれた、謂わば師匠のような男の顔を思い出しながら、ラグナは上半身を起こし、自分の手を胸に伸ばし、触れる。今の自分には──揉めるだけ(・・・・・)の胸がある。

 

 ……実を言えば、ラグナとてこの苛立ちにも切なさにも、一つの心当たりがあった。昔、とある孤児院に共に住んでいた修道女(シスター)が、よく言っていたのだ。

 

 

 ──その子のことを考えると、なんだか胸が苦しくなったり、切なくなったりしちゃって……それでその子が他の子と仲良くしてるところを見ちゃうと、別にその子のことが嫌いな訳じゃないのに怒りたくなっちゃう。その思いがね……『好き』ってことなんじゃないかな──

 

 

 当時の自分にはその言葉の意味があまり理解できないでいたが……今、自分がクラハに対して抱いている感情がまさにそれではないのかと、ラグナは思っていたのだ。

 

 そう思いつつも、しかし否定していた。当然だ、今でこそ自分は女であるが──それはこの身体だけの話である。精神(こころ)は、違う。

 

 ──そうだ。俺は今は女でも、男。そんでクラハも男。……好きになるとか、絶対にねえ。

 

 確かにクラハのことは好いている。しかしそれはあくまでも後輩として。決して恋慕の情ではない──ラグナは、そう考えていた。

 

 であれば良い機会だろう────確かめよう(・・・・・)。今、この場で確かめてしまおう。

 

 と、その時。

 

 

 

 バタン──丁度いいことに、浴室の扉が開かれる音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タオルで濡れた髪や身体を充分に拭いて、僕は浴室から出る。そうしてすぐさま視界に飛び込んだのは──寝台(ベッド)で眠る先輩の姿だった。

 

 ──先輩、寝ちゃってたのか……まあ、今日は結構歩き回ったしな。

 

 そう思いながら、思わず先輩のことを僕は眺めてしまう。眺めて、思わず指で頬を掻く。

 

 ──……それにしても、本当にこの人は無防備というかなんというか……。

 

 今の先輩の格好は、正直言ってかなり目に毒だった。ホテルから貸し出されている寝間着(パジャマ)に身を包んでいる訳だが、この寝間着……生地が、薄い。

 

 なので身体のラインというものが結構浮き出やすく──先輩の場合、その無防備さも相まってかなり拙い格好となってしまっている。たとえホテルの中であろうが、この格好で歩き回させる訳にはいかない。絶対に。

 

 ──というか、他の人……特に男に見られたくない。見せたくない。

 

 そう心の中で固く決意しながら、僕の視線は無意識に先輩の身体を舐めるようになぞっていた。

 

 どちらかといえば、先輩は童顔だろう。まだ幼さが残っていて、しかし時折女の色を覗かせる、そんな曖昧な境界線が引かれた顔立ち。そしてその身長も低い。流石にフィーリアさんよりも低くはないが、僕よりも頭一つ低く、サクラさんと並べば冗談抜きに子供としか思えないほどの身長差ができる。

 

 ……そのくせ、その身体つき自体は結構、メリハリがあるというか発育が良いというか、正直顔に見合ってないというか。とにかく、僕には少々……いや、かなり刺激が強い。目の保養になるが、それと同時に目の毒にもなる。

 

 特に横になって僅かに潰れている、大き過ぎず小さ過ぎない絶妙なサイズ感で、その上形も整った文句なしの────

 

 ──って、いつまで僕は先輩のことを眺めてるんだ……!

 

 ハッと我に返り、僕は己を叱咤しながら慌てて先輩から顔ごと視線を逸らす──その直前だった。

 

「ん、ぅ……」

 

 小さな寝息を漏らしながら、先輩が不意に寝返りを打った。横向けの姿勢から仰向けとなり──その最中、男の性により先ほどまで僕が邪な視線を注いでしまっていたその部分が、たゆんと。それはもう、実に柔らかそうに揺れた。

 

「……」

 

 ……どうやら、先輩は下着をしていないらしい。寝巻きの薄布一枚に隔てられた、先輩が寝息を立てる度に僅かに上下するそれに、僕は再び視線を釘付けにされてしまう。

 

「…………」

 

 ごくり、と。思わず生唾を飲む。そして唐突に、思ってしまった──触ってみたい、と。

 

 それは男の本能だったのだろう。雄に刷り込まれた、根源の欲求だったのだろう。

 

 先輩の方に、ゆっくりと。一歩ずつ、足音を立てないように慎重に僕は近づく。今思えば、背中に押しつけられたり顔に押しつけられたり腹部に押しつけられたり──一応己の身体でその極上の感触を味わう機会は多々あったが、そのどれもが謂わば、不本意による事故のようなものだったと記憶している。

 

 しかし自らの意思で触れたことは、一度もない。それは絶対を以て言える。なんだかんだで、僕から先輩の肌色の果実に手を伸ばすことは、今まで一度もなかった────ただ、この時を除いて。

 

 今の僕は、さながら花の蜜に誘われる一匹の虫だった。逆らうこともできず、ただふらふらと誘い込まれていく。

 

 理性は歯止めを利かせようとするが、本能がそれを邪魔する。それを押し退ける。頭の中では駄目だとわかっていても、身体はどんどん前へ進んでしまう。

 

 そして──遂に、手を伸ばせば届く距離にまで、僕は先輩に近づいてしまった。

 

 ──止まらなきゃ。止まら、なきゃ……。

 

 思考は言葉を紡ぐが、腕はそれを無視し手が近づく。仰向けになったことで僅かに横に流れるも、ある程度その形を保っている先輩の双丘に、近づいていく。

 

 ──これ、以上は……!

 

 突如として心の内に芽生えた本能による欲求は、想定以上に強大で、想像以上に凄まじかった。それを前にした僕の理性など、まるで吹けば飛ぶような小っぽけなものでしかない。

 

 そうして、いよいよ……僕の手は──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もはや触れるかないかまでの距離にまでクラハは迫ったが、それだけだった。ほんの微かに詰めれば、ほんの僅かにでも伸ばしてしまえば触れることができたであろう至近距離で、クラハは静止した。

 

 静止して、数十秒そのままでいたかと思えば、バッと踵を返し、何故か浴室へと戻って──しばらくしたら戻ってきた。戻って、先ほどのように寝台(ベッド)の上で眠るふり(・・)をするラグナには一瞥もくれず、もう片方の寝台に横たわると、そのまま沈黙した。

 

 ようやっと静寂が訪れた部屋の中、寝台の上でラグナは瞳を閉じながら、ぽつりと呟く。

 

「……このヘタレチキン」

 

 小さな怒りと失望が宿るその呟きは、クラハの耳に届くことはなく、そのまま宙に流れて溶けて消えた。



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ARKADIA────残景追想(その二)

「さあフィリィ!勝負しますわよ!」

 

 ……早朝。日常(いつも)通り、薄青い魔石で覆われた魔石塔の外壁にもたれかかっていると、これまた日常通り──五年過ぎたらいつの間にかそうなっていた──に、甲高い少女の声がキンキン響き渡った。

 

「…………」

 

 心地良く微睡んでいたところを邪魔された私は、不愉快だと言うように眉を顰めて、その声のした方へと煩わしく顔を向ける。……本当のことなら無視してしまいたいのだが、そうすると余計悪化するのでできない。理不尽だ。

 

 そうして顔を向けると──やはりというか案の定というか。毎度毎度よく飽きもせずにいられているというか。視線の先には、今ではうんざりするほどに見慣れてしまった一人の少女の姿があった。

 

 その少女は私がそっちに顔を向けたことを認識すると、不思議なほどに自信に満ちた表情で近づいて来る。そして目の前にまでやって来ると、私のことを見下ろしながらこう言うのだった。

 

「勝負しますわよ!」

 

「…………」

 

 先ほど聞いたばかりのその言葉に対して、私も言葉で返すのはとてつもなく面倒だなと思い、秒にも満たない刹那の思考の末、私はやはり日常通りに鬱屈としながら渋々頷くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかしい!こんなの絶対におかしいですわ!」

 

 数十分後、私の鼓膜をキンキンとした泣き声が叩く。それがあんまりにも喧しくて、私は堪らず眉を顰めさせる。そして面倒ながらも、口を開いた。

 

「……おかしいって、なにが」

 

「貴女がですわよフィリィ!なんでそんなに、いつだって強いの!?どうしてなのよぉ……!!」

 

「…………」

 

 そう言われて、正直私は困った。確かに私が年齢に対して異常過ぎる魔力量があることや、魔法の精度や発動速度、その威力が高過ぎることは自覚し切っていたことなのだが、しかし何故そうなのかと問われると私も答えられない。だって昔からそうだった(・・・・・)らしいのだから。

 

 なので私は嘆息しながら、泣き喚く少女──ナヴィアにつっけんどんに言った。

 

「さあ?そんなのわからないし、わかろうとも思わないし、興味もない」

 

 私のその言葉と言い方に、ナヴィアの泣き声が止まった。絶句する彼女は、信じられないといったような表情を私に向ける。

 

「……うう、ぅぅぅ……!」

 

 しかしそれも少しだけのことで、すぐに彼女はその表情を悔しそうに歪めて、恨めしそうな呻き声を漏らす。そしてバッとその場から立ち上がると、再度私のことを見下ろして、ビシッと小さく細い指先を私の鼻先に突きつけた。

 

「そんな無愛想にすることないでしょ!?フィリィ、こうなったらもう一度」

 

 グギュゥゥ──怒りに燃えるナヴィアの言葉は、そんな彼女の腹部から鳴り響いた珍妙な音によって遮られた。直後、二人の間で沈黙が流れる。

 

「…………」

 

 こちらを見下ろし指先を突きつけたまま、顔を真っ赤に染めて固まるナヴィア。そういえばもう少しでお昼だなと、私は呑気にそう思う。

 

 沈黙が漂う最中、とりあえず私は口を開いた。

 

「お昼、食べれば?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……前々から訊きたかったんだけど」

 

 ナヴィアが持ってきたサンドイッチを食べながら、ふと私はあることを訊こうとして、隣に座りサンドイッチを美味しそうに頬張る彼女に声をかける。

 

「むぐ……訊きたいこと?貴女が(わたくし)に?なんですの?」

 

 奇妙、というよりは珍しいといった色が濃い声音で返すナヴィアに、私は少し躊躇いながらも、その訊きたいことを口に出した。

 

「飽きないの?」

 

 私の言葉に、ナヴィアは小首を傾げる。そんな彼女の様子を見て、内心ため息を吐きながらも、私は再度口を開いた。

 

「五年間、ずっと私に勝負を挑んでるけど……なんで、いい加減飽きないの?というか、諦めないの?」

 

 今度こそ伝わるように言葉を選んだ甲斐もあって、ナヴィアは私のその言葉にぱちくりと一度その瞳を瞬かせた後、手に持っていた食べかけのサンドイッチを放り出しかねない勢いで怒った。

 

「あ、貴女!この私を一体誰なのか忘れましたの!?私は『四大』が一家、ニベルン家次期当主──ナヴィア=ネェル=ニベルンですのよ!絶対、絶対に諦めませんし、絶対に飽きませんわ。私が貴女に勝つ、その時まで!」

 

 そしてまたビシッと、ナヴィアは私に指先を突きつけるのだった。……一応聞くだけにはそれなりに様になった宣言だが、その凄みやらは彼女の口元にあるサンドイッチの食べカスで半減してしまっていた。

 

 そんな彼女に対して、私はサンドイッチを少し齧り、喉奥に流し込んでから大雑把に返した。

 

「あっそ。まあ、頑張ってね」

 

 むろん、私の言葉でナヴィアがさらに烈火の如く怒ったことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 夢、か──上手く思考が働かない頭の中で、ただ呆然とそう思う。夢なんて、いつぶりに見たことだろう。

 

 真っ白な天井を見上げて、それからゆっくりと身体を起こす。そして流れるように時計に目をやった。……時刻はまだ朝の六時を回った頃である。

 

「…………」

 

 無言で、寝台(ベッド)から下りて、そそくさと身嗜み整える。整えながら、心の中でぽつりと呟いた。

 

 ──今日は、忙しくなる。



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ARKADIA────おこな先輩ちゃん

 気がつけば、僕はいつの間にか無事に朝を迎えていた。若干睡眠が足りていない身体を、気怠げに寝台(ベッド)からゆっくりと起こす。

 

 ──……昨日は、どうかしてたな。僕。

 

 寝起きで上手く働かない頭の中で、僕はそう言葉を思い浮かべる。同時に想起される昨夜の、寝台に横たわる直前の記憶──なんの警戒も不信も全く抱かず、食べるには充分過ぎるほどに熟し、しかし若々しく瑞々しい肢体を、心許ない薄布一枚の寝間着(パジャマ)で包んだ、あまりにも無防備な先輩の寝姿。

 

 そして危うくその隙につけ込んで、悪戯をしでかしそうになった最低に尽きる己の姿を。

 

 ──…………本当にどうかしてた。取り返しのつかないことを、しようとしてた……。

 

 別に言うことでもないが、一人暮らし時代の時ならいざ知らず、現在僕は先輩を絶賛同棲中だ。当然、個人的な時間はかなり削られてしまっている。

 

 ……まあ、そのせいで色々(・・)と溜まるものも増えてしまった訳で。そして今は旅行中な訳で。否が応でも気分というものが高まってしまう訳で。

 

 そこに夜のテンションと先輩の刺激的な姿が合わさった結果──普段は誤魔化している欲が駆られてしまったのだ。…………さて、そろそろ言い訳もここまでとしよう。なにを言ったところで、僕が最低最悪の男になりかけたのは変わらない事実なのだし。

 

 色々と考え事をしたおかげか、気がつけば寝起きの頭もすっかり覚醒している。とはいえ身体の方はまだそれについてこれず、やはり怠い。ちょっとしたあくびを交えながら、なにを思った訳でもなく僕は先輩が眠る寝台の方へ顔を向けた。……が、そこに先輩の姿はなかった。

 

「あれ……」

 

 そのことに思わず声を漏らして、視線を部屋中に巡らす──必要はなかった。何故なら、先輩の姿をすぐに見つけることができたからだ。

 

 先輩は部屋の扉の前に立っていた。格好もあの刺激の強い寝間着姿ではなく、動き易さを重視した普段の衣服に着替えている。

 

「……」

 

 先輩は僕の方を見ている。心なしかその顔が固いというか、何処か不機嫌そうに思えるのは気のせいだろうか。

 

 なにも言わずただこちらを見る先輩に、僕は困惑しながらも声をかけた。

 

「せ、先輩おはようございます。僕より早く起きるなんて珍しいですね」

 

 そう、基本的に先に起きるのは僕であり、丁度朝食を作り終える頃に先輩は起きてくる。それが毎回の流れであり、僕が体調を崩すなどの不測事態(イレギュラー)がない限り、その流れが変わることはなかった。

 

 僕の言葉を受けて、先輩は依然として固い表情のままに口を開く。

 

「おう。じゃあ俺先に行ってるから。とっとと準備終わらして来いよ」

 

 先輩の声音は酷く乱暴なものだった。言うが早いか、先輩は僕に背を向け、扉のノブに手をかける。

 

 そして扉を開けてそのまま部屋から出る──直前、顔だけを僕に向けて、はっきりとした怒りを込めた言葉を僕にぶつけた。

 

「この童貞野郎」

 

 それだけ言って、先輩は部屋から出て行った。バタンと叩きつけるように扉が閉められる。予想だにしていなかった先輩からのその暴言に、僕はただ寝台の上で呆然としている他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先輩からまさかの暴言を受け、寝台の上で固まっていた僕だったが、その数分後に突如として正気を取り戻し、すぐさま寝台から下り大急ぎで着替えも準備も終え、最後に忘れ物もないか確認した上で部屋を出た。

 

 先輩はエントランスホールで僕のことを待ってくれていた。てっきり部屋を出る際の言い方からして、先に一人で『輝牙の獅子(クリアレオ)』に向かってしまったのではないのかと僅かながらに思ってしまっていた。

 

 ……しかしその機嫌自体は全く変わっていなかった。理由が全然わからないのだが、何故か先輩は酷く怒っていたのだ。

 

 僕が会話を試みても刺々しい返事しかしてくれないし、先輩の方から言葉を投げられることもない。……今日の先輩は、類を見ないほどに怒り心頭に達していた。

 

 なんとかしてその怒りの理由を訊き出したかったが、だからといって「先輩なんでそんなに怒ってるんですか?」などと訊ねてしまった日には、もう絶対に口を開かないだろうし、こちらに顔どころか少しの視線もくれはしないだろう。それがラグナ=アルティ=ブレイズという人物なのだ。

 

 ……ただこれは最近になってからのことであり、僕が覚えている限りでは、昔──というより、まだ男だった時はそこまで酷くはなかったはずだ。

 

 ──なんか、先輩女の子になってから沸点が低く……いや、怒りどころがわからなくなってきてるような……。

 

 まあ、なにはともあれ僕と先輩はこれから簡単な依頼(クエスト)を受ける為、『輝牙の獅子』へ向かった訳だが……その道中の雰囲気は最悪の一言に尽きた。

 

 一つの会話もなく、冗談すら挟まず、また並んで歩くことは許さないとでも言うように。先輩は普段よりもずっと早い歩調でズンズンと僕の前を歩く。その間、先輩から声をかけられることもなければ、こちらに振り返ることすらなかった。

 

 ……であればと、僕からコミュニケーションを取ろうとしたが、その小さな背中越しから発せられる「話しかけんな」という無言の圧力を前にしては、そんなこととてもじゃないができなかった。

 

 そうして胃が痛くなってくるような気まずい雰囲気の中、心なしか道行くマジリカの人々に距離を取られる中──僕と先輩は目的地である『輝牙の獅子』の門の前に辿り着いた。



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ARKADIA────まだおこな先輩ちゃん

「『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のクラハ=ウインドア様と……チームの方ですね。本日は『輝牙の獅子(クリアレオ)』へ訪れて頂き、誠にありがとうございます。ではこちらの方から受ける依頼(クエスト)をお選びください」

 

『輝牙の獅子』の中に入り、僕と先輩はまず受付の方へ向かった。そこで『輝牙の獅子』の受付嬢さんとの挨拶を軽く済ませ、いくつかの依頼を提示された。

 

 提示された依頼を軽く眺め、僕は考える。考えて、先輩の方へ顔を向けた。

 

「先ぱ……」

 

 そう声をかけかけて、僕の声は途中で止まった。……いや、止めざるを得なかったのだ。

 

「…………」

 

 先輩は、やはり不機嫌そうに、むすっと頬を僅かに膨らませた表情でこちらから顔を逸らし、『輝牙の獅子』を支える柱の一つに身体を傾けさせ、もたれかかるようにして立っていた。道中で発していた「話しかけんな」的雰囲気(オーラ)を、依然として纏ったまま。

 

 ──……参ったなあ。

 

 ほんの少しばかり胃がきりきり痛むのを感じながら、僕は先輩に向けた顔をもう一度依頼書の方に戻す。戻して、頬に一筋の冷や汗を伝わせた。

 

『輝牙の獅子』の受付嬢さんが提示してくれた依頼は、全部で五つほど。そしてその内四つは魔物(モンスター)退治で……そのどれもが現段階の先輩に戦わせるには、少々危険な相手ばかりである。

 

 しかしこれはあくまでも僕から見た判断で、そして僕が付いていれば大事には至らないだろう。要はこれらを受けるか受けないかは、先輩に判断してもらいたいのだ。

 

 ……だが、今先輩はすこぶる機嫌が悪く、先ほども言った通り柱にもたれかかったまま動こうとしていない。とてもじゃないが、僕と話をしてくれそうになかった。

 

 ──どうしよう。

 

 チラリ、と。視線だけで受付嬢さんの様子を見やる。彼女も職業柄人の機嫌等には敏感なようで、なにやら居心地が悪そうにしている。それを確かめて、僕は心の中が申し訳ない気持ちで一杯になった。

 

 ──仕方ない。ここは早々に決めてしまった方がいいだろう。

 

 そう考えた僕は、魔物退治の依頼を除けて、五つ目の依頼書を手に取った。

 

「すみません。では今回はこの依頼でお願いしたいです」

 

 五つ目の依頼は、マジリカ近辺の森林調査。主に魔物の特異体(イレギュラル)が発生していないか、それを調べる依頼だ。

 

 本来、特異体というのは滅多なことで発生しない。それこそ滅びの厄災──もしくはそれに匹敵するだけの魔物、〝絶滅級〟が出現しない限り。

 

 その点を差し置けば、この依頼はただ森を調査するだけだ。見回り(パトロール)と置き換えてもいい。これならば他の依頼よりかは安全で、先輩の意見も聞く必要はないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、では行きましょう……先輩」

 

 受付嬢さんから詳しい話を聞いて、早速向かおうと僕は未だ柱にもたれかかる先輩に声をかける。先輩はジロリと僕に睨みつけるように視線をやって、それから無言のままようやっと柱から離れた。そしてすぐさま外に出ようとスタスタ歩き始めてしまう。

 

 ──本当に参ったな。相当お冠になってるぞこれ……。

 

 そう心の中で焦りの言葉を呟きながら、どんどん遠ざかる先輩の背中を僕は慌てて追いかける──その時だった。

 

「ちょっと待ちな。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の坊や。そしてお嬢ちゃん」

 

 不意に、女性の声が僕と先輩を呼び止めた。背後を振り返ってみれば、向こうから『輝牙の獅子(クリアレオ)』のGM(ギルドマスター)──アルヴァさんが歩いて来ていた。

 

「アルヴァさん……?」

 

 僕はもちろんのこと、すこぶる不機嫌な先輩も流石にその場に立ち止まる。そうしてアルヴァさんはすぐ僕たちの前にまでやって来た。

 

「一つ訊きたいことがあるんだけど、いいかい?」

 

「訊きたいこと、ですか?僕は大丈夫ですけど……」

 

 言いながら、先輩の方を見る。先輩は相変わらず仏頂面で無言だったが、どうやらそれは肯定の意を示していたらしい。アルヴァさんも先輩のその様子に多少思うことはあったようだったが、すぐさま僕たちにこんなことを訊いた。

 

「アンタら、今日馬鹿娘……フィーリアと会ったかい?」

 

「え……?」

 

 言われて、僕はハッとする。そういえば、昨日この『輝牙の獅子』で別れたのを最後に、フィーリアさんとは会っていなかった。

 

 ──今まで全然考えなかったけど、フィーリアさんと会わないのって珍しいな……。

 

 今思えば、知り合ったその日から欠かさずフィーリアさんとは交流があった。というか、彼女の方から交流を深めてくることが多々あった。例に出すなら無人島の件だったり、まだ記憶に新しい『妖精聖剣(フェアリーテイル)』騒動だったり。

 

「いや、会ってませんけど……まさか、フィーリアさんになにかあったんですか?」

 

 言いながら、僕は万が一にも有り得ない話だと思う。あのフィーリアさんのことだ。たとえ彼女の身になにかあったとしても、彼女はそれを難なく退けるだろう。あの人はそういう人だ。

 

 僕がそう訊ねると、アルヴァさんは少し考え込むようにしてから答える。

 

「……そういうことじゃないさ。まあ、会ってないなら会ってないでいいんだ」

 

 きっとそれが、あの馬鹿娘の選択(・・)なんだろうからね────最後に加えられたその言葉は、注意していなければ聞き逃していたほどに、小さなものだった。

 

 ──選択?

 

 独り言として聞き流すには少々意味深なその言葉に、咄嗟に僕は追求する──前に、アルヴァさんが背を向ける。

 

「つまらない時間を取らせて悪かったね」

 

 そう言って、早々に僕と先輩の前から去ってしまった。



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ARKADIA────そして歯車は軋みながら回り出す

 依頼(クエスト)を受け、『輝牙の獅子(クリアレオ)』から出て行こうとしたクラハとラグナを呼び止め、訊きたかった一つの質問を終えて、彼らが去るのを見届けず執務室へと戻ったアルヴァは、独り椅子に座り考え事に耽っていた。

 

 今朝、彼女はフィーリアの部屋に向かったが、既に誰もいなかった。それを確認して、アルヴァはどうしてもクラハとラグナに訊ねたかったのだ──フィーリアと、会ったのかを。

 

 そして会っていないという答えを受けて、アルヴァの不安は僅かに膨れ上がった。幸いにもそれをあの二人に気取られることはなかったが。

 

「……」

 

 アルヴァは、天井を見上げる。見上げて、昨日のことを────昨日フィーリアと交わした会話のことを思い返す。

 

 ──遂に、()たってのかい。

 

 心の中で、アルヴァは苦々しくそう呟く。今彼女の内側を占めるのは──拭いようのない不安と、恐れにも似た焦り。そしてどうしようもない苛立ちと、自己嫌悪。

 

 ──こうなった以上、アタシにはどうすることもできない。……どうしてやることも、できない。

 

 後悔と懺悔が浮かぶ紫紺の瞳を閉じて、最後にアルヴァは思い返した────昨日の、会話の締めとなったフィーリアの言葉を。

 

 

 

 ────それでも、私は求めます。たとえ果てなき絶望と後悔がそこに待っていたとしても、それが私の……唯一の生きる目的(きぼう)ですから────

 

 

 

「……こんなろくでなしのクソババアを、赦しておくれ……フィーリア」

 

 執務室に小さく響いたその呟きは、誰にも──当の本人にも、届かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この街は変わらない。十五年前も、十年前も、五年前も。流石にその見た目に多少の変化は起こしたが、その本質自体は欠片ほども変わってはいない。恐らくそれが変わることはないのだろう。五年後も、十年後も、十五年後も。

 

 魔法都市マジリカの遥か上空に浮遊するフィーリアは、ただ淡々とそう思う。そう考える。やはり独りは気楽だと、直後に思う。考える。なにせ着飾る必要も気負う必要も気真似る必要も、ないのだから。

 

 こきこき、と。フィーリアは無意識に数度、首を左右に少し傾ける。普段から調子を装っている為、軽い肩凝りがあるのだ。

 

 ──気は引ける。だけどそれはそれ、これはこれ。遠慮は……しない。

 

 だって自分はこの日の為に今までを費やしてきた。この時の為に今までを賭してきた。だから遠慮はしない。絶対に。

 

 我が望みをこの手にする為に。我が願いを叶える為に。我が目的を──果たす為に。フィーリアは────『天魔王』は動く。

 

 

 

 ────たとえそこに果てしない絶望が待ち受けていても。たとえそこに果てしない後悔があったとしても。それでも、アンタは求めるのかい?────

 

 

 

 それは、師の言葉。昨日ばかり聞かされた、親の言葉。そこに込められていたのは、溢れんばかりの愛情と心配──けれど、今さらその程度のもので、止まれなかった。フィーリア=レリウ=クロミアは──止まることができなかった。

 

 ──当たり前だ。だって、私はこの為にこの塵芥(ゴミ)みたいな人生(みち)を、歩んできたんだから。

 

 危うく心に芽生えそうになった躊躇いを引き抜いて。フィーリアは【次元箱(ディメンション)】を開く。開いて、その中から一本の杖を引っ張り出す。

 

 その杖は、彼女の身の丈の倍はある、長く巨大な杖だった。その見た目こそ特に変哲もない、見る者によってはただの太い木の棒にしか見えない──しかしそれは、あくまでも見る者によって(・・・・・・・)だ。

 

 フィーリアと同業──つまりは魔道士であるなら、それも並大抵の魔道士であるなら、この杖を目にした瞬間、その場に卒倒していたことだろう。この杖にはそれだけの──圧倒に尽きる膨大な魔力が込められていたからだ。

 

 フィーリアは、その使い捨て(・・・・)の杖をむんずと握り、宙へと振り上げる。そして、その杖に込められている魔法を彼女は一切の躊躇なく発動させた。

 

 

 

「おやすみなさい──【安息に抱かれて(メリー・ヒュプノス)】」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バタバタと、人が倒れていく。まるで糸の切れた操り人形のように、片っ端から人々が倒れていく。

 

 その様を見下ろしながら、フィーリアは飛行する。そして目的地が見えてくると、その付近へと着地した。

 

 トン、とフィーリアが降り立つ。人気など皆無である、この街一番の観光名所の付属品(オマケ)たる、廃墟街に。

 

 彼女の視線の先。そこに聳え立つ、魔石に覆われた石塔──魔石塔。そこが彼女の目的地。人生の答えが──起源(ルーツ)が待つ場所。

 

 …………その前に、一人の女性が立っていた。まるでフィーリアの行先を塞ぐように、そこに立っていた。

 

「……それが、あんたの考えって訳?」

 

 地上に降り立ち、改めてその姿を目にしながら、うんざりとした表情と声音でフィーリアは訊ねる。対し、彼女の行手を遮る女性は────『魔道院』理事長兼『四大』ニベルン家次期当主、ナヴィア=ネェル=ニベルンが口を開く。

 

「フィーリア。一つ、訊かせて頂戴」

 

 質問に質問で返す──本来ならば許されない無礼ではあったが、それをフィーリアは咎めない。ただ無言で、それを了承する。

 

 それを確認して、ナヴィアははっきりと、彼女にその訊きたいこととやらを口に出した。

 

「もう、自分では止まれませんのね?」

 

 返されたのは、無言。しかし、それは先ほどと同義の意。ナヴィアは一瞬だけ瞳をフィーリアから逸らして──すぐさま、キッと彼女を睨めつけた。

 

「……わかりましたわ。ではこの私が、ナヴィア=ネェル=ニベルンが、魔石塔を守護する存在(モノ)として────全力で貴女を止めてみせますッ!!」

 

 ナヴィアの気高き咆哮。それにフィーリアはされど無言で応えた。



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ARKADIA────本当にすみませんでした

 依頼(クエスト)の調査対象である森は、オールティアの付近に広がる森と大体同じようで、しかし大気に漂う魔素(マソ)の量は倍以上だ。それにオールティアの森よりも緑は濃く、見たことのない摩訶不思議な植物も数多く発見した。

 

 だがその反面、魔物(モンスター)は少なかった。森に入ってから一時間ほど経つが、遭遇したのはこの森の魔素の影響を受けて、生態が若干変化したスライムくらいだ。まあスライムは全大陸にかけて生息しているので、特徴と言える特徴にはならないのだが。

 

輝牙の獅子(クリアレオ)』から受けたこの依頼はあくまでも森林調査であるが、別に魔物退治を制限されている訳ではない。なので調査がてら、先輩のLv(レベル)上げに魔物も倒したかったが……ここまで遭遇しないとは。

 

 森を進みながら、ふと僕は思い出す。『輝牙の獅子』から出る前に、GM(ギルドマスター)であるアルヴァさんに声をかけられたことを。

 

 ────アンタら、今日馬鹿娘……フィーリアと会ったかい?────

 

 そしてその後にぽつりと呟かれた、選択という単語。……これがどうしても、頭の片隅に引っかかる。

 

 ──それに……。

 

『輝牙の獅子』を出た後、僕と先輩は偶然サクラさんにも会った。彼女も彼女で『輝牙の獅子』に用があったらしい。

 

 そして訊ねられた──フィーリアさんの行方を。話を聞けば、サクラさんも昨日からフィーリアさんとは全く顔を合わせていなかった。これを聞いて、流石に僕もおかしいと思ってしまった。

 

 ──フィーリアさん、なにか……なければいいんだけど。

 

 今思い返せば、このマジリカに訪れてからフィーリアさんの様子は、何処かおかしかったように思える。いや、おかしいというよりは……思い詰めているような、なにかに追い詰められているような。余裕のない切羽詰まった雰囲気をどことなく発しているようだった。

 

 僕の心に、言い様のない不安が染み込んでくる。今この瞬間にでも、自分の知らないところで重大な出来事が起きているんじゃあないかと、そう考え込んでしまう。

 

 ──気の、せい……そうだ。たぶん気のせいだ。フィーリアさんだぞ?フィーリアさんに限って、なにかあるなんてない……。

 

 それら全てを振り払うように、僕は頭を振るう。そして視線だけを後ろの方へやった。やって、少しばかり後悔する。

 

 ──先輩……まだ、機嫌が直ってないのか……。

 

 先輩は、仏頂面で黙って僕の後ろを歩いている。余談ではあるが、森に入ってからその口を一切開いていない。会話らしい会話など、一つもなかった。

 

 今日の先輩は凄まじかった。凄まじい機嫌の悪さだった。正直こんな先輩は初めてだ。もうどうすればいいのか、僕はわからない。

 

 そもそもの話だ。一体どうしたって先輩はこんなに怒っているんだろう。今朝の罵倒といい、この不機嫌といい……本当になにがあったんだろうか。いや、一体僕がなにをしたというのだろうか。

 

 胃が痛くなる沈黙に堪えながら、僕は視線を前に戻し振り返る。僕が知らない内に、または気がつかない内に先輩の機嫌をすこぶる損ねるような行いを働いていたのかを。昨日から今この瞬間まで己の行動を思い出してみるが──駄目だ、なにも見当たらない。思い当たる節がない。

 

 ──そろそろ、僕の心が限界を迎えそうだ。

 

 どうにかしてこの状況から脱したいと必死に考えた末────ふと、僕は思い出した。

 

 ──あ。

 

 

 

 無意識に零れる声と共に、想起される昨夜の光景。寝台(ベッド)に横たわり、あまりにも無防備な寝姿を曝け出していた先輩。寝間着と表すのにはいささか頼りない、薄布一枚に身を包んだその艶姿に、男としての本能を刺激され手を出してしまいそうになり、辛くも抑え込んだ僕の行いを。

 

 

 

 ……いやしかし。あの時先輩は眠っていた。すうすうすやすやと可愛らしい寝息を漏らしながら、あの寝台の上で眠っていたはずだ。

 

 …………まさか、とは思うが、しかし。考えてみればみるほどに、原因らしい原因がこれしか思い当たらない。これしか、見つけられない。

 

「…………」

 

 じっとり、と。僕の背中に冷や汗が滲み出す。突如として浮上してきた一つの可能性を前にして、僕はこの二十年間生きてきた人生の中で、恐らく一番と言えるだろう焦燥感と切迫感に呑まれそうになっていた。

 

 僕は一体どうするべきなのか。どうしたらいいのか──その答えは、数秒と経たずに頭の中で弾き出される。それと同時に、僕はその場で足を止めた。

 

「……?クラハ?」

 

 目の前を歩いていた僕が、唐突に止まったことにより、先輩が否応なしにその口を開く。この森に入ってから、初めての第一声である。

 

「先輩」

 

 僕は先輩の方に振り返らず、言った。

 

「休憩、しましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕と先輩はある程度開けた場所を見つけ、周囲に魔物(モンスター)がいないことを入念に確認し、休憩をすることにした。そして真っ先に僕が起こした行動は────

 

 

 

「この度は……本当に、本当にすみませんでしたぁぁぁぁ!」

 

 

 

 ────先輩に土下座することであった。



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ARKADIA────消えない怒り、その胸に

 ラグナは怒っていた。今日というこの日の朝から、元《SS》冒険者(ランカー)『炎鬼神』──ラグナ=アルティ=ブレイズはこの人生の中で、二度はあるかというほどの激情にその身を焦がしていた。

 

 彼女──否、彼は誰に対してその激怒を向けているのか。なにを隠そう、可愛いたった一人の己の後輩──クラハ=ウインドアに対してである。

 

 最初こそ、この怒りもそう大したものではなかった。火の粉も散らせない、極めて微弱なものだった。しかしその極めて微弱な怒りの火は、時間が経つにつれてその勢いを増し──気がつけば、もうどうしようもないほどの、全てを焼き尽くさんばかりの大火となってしまっていた。

 

 何故そうなったのか。何故そうなってしまったのか。その原因は──クラハにある。

 

 経緯等は省かせてもらうが、ほんのちょっとした好奇心から、ラグナはクラハに己の胸を揉ませようと画策した。そして結果だけ述べるなら、彼がラグナの胸を揉むことはなかった。

 

 ……まあ、そうは言っても後一歩のところで胸を揉まんとしたのだが。しかし、クラハは(すんで)のところで思い止まり、揉まなかったのだ。

 

 そのことに対してラグナはクラハに失望と、怒りを覚えた。男としてそういうことに興味津々な癖に、いざとなったら日和(ひよ)ってずこずこ引き退る。男の──いや雄の風上にも置けない、その情けない姿にラグナはカチンと頭に来たのだ。

 

 だがそれと同時に考えた。元々自分は男だ。いくら身体は女とはいえ、精神衛生上クラハは引き退るを得なかったのだろう。それに先輩ということもあったに違いない。だから仕方ない、クラハが触れなかったのは仕方のないことなんだ──寝台(ベッド)の上でそう考えながら、ラグナは眠ろうとした。が、できなかった。

 

 もしも、と。思わず考えてしまった。別の可能性──仮に、仮に自分が元から(・・・)女であったとして、果たしてクラハはこの身体を触ったのだろうか。胸を揉んだのだろうか、と。

 

 出た結論は──同じだった。あの後輩の性格からして、たぶん同じ結果を辿ることに違いない。そう思った瞬間────心に燻っていた怒りが、一気にその勢いを増した。

 

 理由はわからない。何故そうなったのか、皆目見当もつかない。ただ、クラハは触れなかった──その事実に、結果に堪らなく苛立ちを覚えてしまって、無性に腹が立ってしまって、どうしようもなく怒りを抱いた。

 

 一度火が付いてしまった怒りというのは、そう簡単に収まるものではない。寝よう寝ようとと思っても、その怒りに邪魔されて──ラグナはその日、まともに眠ることができなかった。

 

 そのまま朝を迎えても、胸を焼く怒りは消えず、思わずその場で暴れ回りたい衝動に駆られながらも寝台から下り、着替えを済ませてラグナはクラハが起きるのを待った。ラグナと違ってクラハは熟睡しており、それが余計にラグナの怒りの火に油を大量に注いだ。

 

 結局クラハが起きたのは三十分後であり、彼が呑気に挨拶してきた時は割と本気で殺意を抱いてしまった。こっちは一睡もできなかったというのに。

 

 心の奥底から無数に噴き上がってくる罵詈雑言を必死に抑え込んで、ラグナはぶっきら棒に返事を返しさっさと部屋から出た。……内緒ではあるが、クラハを童貞野郎と罵った際、多少胸がスカッとした。

 

 それからクラハと共に行動していたが、いつまで経ってもこの怒りは収まらず、別にそうしたい訳でもないのにクラハにキツく当たってしまい、またそれが原因で自己嫌悪に陥って怒りが込み上げて────という、負の悪循環にラグナの心身は晒された。その結果、クラハと会話もろくにできないでしまっていたのだ。

 

 ……別に、クラハと会話がしたくない訳ではない。むしろしたい。普段のように冗談を交えて、他愛もない会話に花を咲かせたい。……しかし、それを己の内に燻り続ける怒りが許さない。許してくれない。許してくれそうにない。

 

 そうして結局険悪な(ラグナが一方的にそうしているだけなのだが)雰囲気のまま、クラハが受けたという依頼(クエスト)の目的地である、マジリカの外れにある森に入ってしまった。そして入ってからも、会話の類はおろか合図の一つすら交わさなかった。まあ、一応合図などなくとも平気ではあると思うが。

 

 ──……俺だって、こんなの嫌だってのに。

 

 表に出す態度とは裏腹に、ラグナは心の中で苦々しく吐き捨てる。そう、ラグナとてこんな雰囲気のままでいるのは嫌なのだ。心底嫌なのだ。だが──やはり未だ心をチリチリと微弱に炙る怒りが、それを解消させようとはさせてくれない。

 

 自分がいかに嫌な存在だと、ラグナは思い知らされながら、前を歩くクラハの背中をじっと見つめる。

 

 ──……。

 

 特に注視していなかったせいも、自分が女になったというせいもあるのだろうが……いつの間にか、クラハの背中は男らしく、そして逞しいものに変化していた。以前まではお世辞にも頼り甲斐があるとは言えなかったというのに。

 

 時の流れは遅いようで、しかしその逆本当に早いものだとラグナは僅かながらに実感させられる。

 

 ──もう『あの日』から八年……八年か。

 

 今ではもうただの(・・・)記憶としてしか思い出せない、決して忘れてはならない戒めの残景を、ラグナは頭の中で想起させる。あの時の唯一の生き残りであった少年が、今や立派な《S》冒険者(ランカー)の青年。感慨深いものがあるが、それと同時に複雑な思いがラグナの心を占める。

 

 ──…………謝ろう。今朝のこと、今日のこと。

 

 こんな雰囲気のまま、共に過ごし続けるのは限界だった。つまらない意地など捨て、くだらない怒りなど放って、あんな態度を取ってしまったことをクラハに謝罪しよう──そう思って、ラグナは口を開こうとした。

 

 しかし、それよりも先に、不意に目の前を歩いていたクラハがその場で足を止めた。

 

「……?クラハ?」

 

 いきなり止まった後輩を不審に思い、ラグナは胡乱げに声をかける。それに対してクラハはこちらに振り返らず、背を向けたまま妙に引き攣った声を絞り出した。

 

「先輩」

 

 そして引き攣った声のままで、彼はこう続けた。

 

「休憩、しましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この度は……本当に、本当にすみませんでしたぁぁぁぁ!」

 

 休憩を提案し、手頃な場所を見つけた矢先、クラハが取った行動はそれだった。一切の躊躇も迷いもなく、彼はラグナに対して土下座をしてみせた。それはもう、見事な土下座を。

 

 深々と、それこそ額を地面に擦らんばかりに頭を下げて。開口一番謝罪の声を上げるクラハ。そのあまりにも必死過ぎる様子に、ラグナは────

 

「……え、は、え、えぇ……?」

 

 ────ただただ困惑し、そして思わずドン引きする他ないでいた。そんな先輩に構うことなく、クラハはさらに必死に声を上げる。

 

「僕は、こともあろうに……いくら元は男でもとか、肉体的には異性だけど精神的には同性ですよとか、そう日頃から言い聞かせていたにもかかわらず………昨夜、無防備に眠っているのをいいことに……僕は先輩のむ、胸を触ろうとしてしまいました。先輩に、手を……手を出そうとしてしまいました!すみません!本当に申し訳ありませんッ!」

 

 そうしろと言ってないにもかかわらず、ラグナにとっては既に承知の事実であった罪を、クラハは告白する。対してラグナはやはり、困惑することしかできないでいた。

 

「へ、あ……お、おう……」

 

 ──え?急にどうしたんだこいつ?なんで今それを言ってんの?

 

 口では意味を為さない声を漏らす傍ら、内心ではただただドン引きしながらそんな言葉をラグナは紡ぐ。だがそれにクラハが気づける訳もなかった。

 

「僕はクズです!最低のクソ野郎です!」

 

「え?は?いや、そんなことねえって」

 

 今度は己を貶し始めた後輩に、ようやくラグナはハッと我に返り、とりあえずそれを否定しその行動を止めさせようと口を開く。

 

「ク、クラハ。もういい。もういいから」

 

「本当にすみません!本当に申し訳ありません!」

 

「いやだから、そういうのはもう」

 

「ビンタの一発、いや百発は覚悟してます!」

 

「だ、だからそんなことしねえっての。顔上げろ、顔。てか土下座止めろ」

 

「先輩お気に入りの洋菓子(スイーツ)も奢ります!」

 

「……お、おう、わかった。……って違えって!いい加減こっちの話聞けよ!」

 

 クラハのその言葉に心を揺さぶられ、思わず頷いてしまうが、こちらの話に耳を傾けてくれないクラハに痺れを切らし、ラグナが叱咤する。これには堪らず一心不乱に謝罪を続けていたクラハも、ビクッと身体を跳ねさせ顔を上げた。

 

「ったく……図体は変わっても、そういうとこは変わんねえな。ほら、早く立て」

 

 嘆息しながらそう呟いて、直後にラグナは小さく吹き出してしまう。ドン引き必至のクラハの土下座を目の当たりにしてしまったら──自分でも不思議なくらいに、そして嘘のように、この胸をチクチクと苛み続けていた怒りが吹き飛んだ。

 

「せ、先輩……」

 

 妙に晴れやかで清々しい気分に包まれる中、立ち上がったクラハが恐る恐る声をかけてくる。きっと、自分がまだ怒っているのだと彼は思っているのだろう。

 

 それを払拭させる為に、ラグナは笑顔を浮かべ口を開く──その直前だった。

 

 

 

 グラリ──唐突に、本当に唐突にクラハの身体が傾いた。

 

 

 

「……うぇっ?」

 

 そして彼は力なく、ラグナに向かって倒れ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラハとラグナはまだ知らない。この時、歪んだ歯車が軋んだ音を立てて、回り出したことを。



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ARKADIA────親友激突

 魔石塔聳え立つ、廃墟街にて。その二人は静かに、互いに無言になって、向かい合っていた。

 

 一人はこの世界(オヴィーリス)最強の一角────《SS》冒険者(ランカー)、『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア。

 

 一人は魔道士専門育成機関『魔導院』現理事長にして、『四大』が一家ニベルン家次期当主────ナヴィア=ネェル=ニベルン。

 

 初めて出会ったその日から今日まで、実に十五年来の付き合いという、謂わば腐れ縁で結ばれた二人。こうして互いに向き合い、互いを見合うことは無論これが初めてである訳がない。その正確な数字こそ、とうに二人共忘れてしまったが──百や二百では利かないことだけは確かである。

 

 ……だが、今日今この時ほど、真剣味を帯び向かい合い、見合うことは手で数える──否、もしかすれば今日が初めてのことだったかもしれない。

 

 今までとは違う雰囲気に包まれながらも────先に動いたのは、ナヴィアの方だった。唐突に、彼女の手元が歪む。【次元箱(ディメンション)】を開いたのだと、それを見たフィーリアはそう思う。彼女にとって、その光景は己の生涯の中で、うんざりするほどに見慣れたものだ。

 

 フィーリアがぼうっと眺める中、開かれた【次元箱】から、無色透明の拳大の魔石がナヴィアの手のひらに滑り落ちる。それをしっかりとナヴィアは受け止めると、握り締めたまま頭上へと掲げる。

 

 そして、グッと更に握り締める力を強めた。

 

 パキンッ──まるで硝子を割ったかのような、軽やかで澄んだ音と共に、ナヴィアの手の中にあった魔石が砕けた。

 

 パラパラ、と。砕け散り欠片となった魔石がナヴィアの頭上に降り注ぐ──その途中、それら全てがまるで解けるようにして、宙で溶けていく。

 

 溶けたその欠片は魔力の粒子となり、そうしてようやくナヴィアの頭に、肩に、身体全体に降り注いでいく。そしてある程度降り注がれた、その時────彼女の魔力が、急激に高まり倍以上に膨れ上がった。

 

 過剰となった微量の魔力が漏れ出し、それを身に纏いながら、ナヴィアは静かに構えを取る。そして、はっきりとフィーリアを睨みつけ、口を開いた。

 

「行きますわよ、フィーリア」

 

 そう言うが早いか、ナヴィアは地面を蹴った。

 

 バゴンッ──彼女に蹴りつけられた地面が、爆ぜたように砕けて、一気に陥没する。その様をフィーリアが遠目から確認する時には、既にナヴィアは彼女の眼前にいた。

 

 軽く宙に飛び上がっていたナヴィアが、足を振るう。まるで鞭のようにしなりながら、ナヴィアの足はフィーリアの肩を確実に捉え──そして打った。

 

 ガキィンッ──直後、まるで鉄同士を激しくぶつけ合ったかのような音が廃墟街に響き渡る。見てみれば、ナヴィアの足とフィーリアの肩との間で、火花が散っていた。

 

 ナヴィアの足は、フィーリアの肩には届いていなかった。彼女の肩に触れるか触れないかというほどの至近距離で、彼女の足は見えない何かに遮られ、当たる直前で止められていたのだ。

 

「ぐ、う、ぅ……!」

 

 顔を歪めながら、呻き声を漏らすナヴィアを、フィーリアは無表情で眺める。そして静かに、ゆっくりとその腕を振り上げる──直前だった。

 

「ぅ、ぃ……りぁあああッ!!!」

 

 ナヴィアがまるで獣のように吠えた瞬間、止められていた彼女の足が微かに前へ進み──次の瞬間、破砕音が派手に、そして喧しく鳴り響いた。

 

 ──ッ!?

 

 フィーリアが驚くと同時に、見えない何かを無理矢理破壊したナヴィアの足が、彼女の肩を打つ。刹那、まるでボールのように軽々と、フィーリアは蹴り飛ばされた。

 

 悲鳴すら出せずに、フィーリアの身体は宙を飛ぶ。それと同時にナヴィアも再度その場を蹴って、すかさず吹っ飛んでいく彼女を追跡する。

 

「!!」

 

 が、その途中で不意にナヴィアは胸の前で両腕を交差させた。瞬間、彼女の全身を強烈な衝撃が叩いた。

 

「がッ……」

 

 肺に取り込んでいた空気を強制的に吐き出さされながら、ナヴィアもフィーリアとは逆方向に吹っ飛ばされる。危うくそのまま固い地面に背中を叩きつけられる直前、彼女はなんとか宙で受け身を取り、着地する。

 

「は、ぐ……!」

 

 遅れてやって来た鈍痛と、内臓全体を揺さぶられた不快感をナヴィアは堪える。そして視線を前方にやると──フィーリアもまた、体勢を立て直しているところだった。

 

「……驚いた」

 

 少し声を張って、フィーリアがそう言う。その言葉通り、その声には驚きが込められていた。

 

「まさか、あんたに私の障壁(バリア)が破られる日が来るなんて、考えもしなかった。……咄嗟に全身を【強化(ブースト)】してなかったら、ちょっと危なかったかも」

 

 言うなれば、それは賛辞であった。この世界最強の一人による、心からの最高の褒め言葉──だが、それを受けたナヴィアは、内心舌打ちをせずにはいられなかった。

 

 ──魔石を使っても、貴女の【強化】には及ばないというの……!

 

 先ほど、ナヴィアが砕いたあの魔石。あれには、【強化】の魔法が込められていたのだ。それも通常よりも特別強力なものが。

 

 そしてナヴィアにはとある異能があった。ずばりそれは、魔石の強化。彼女が使用した魔石は、通常よりもその効果が高まる。故に、『魔石の申し子』──幼少時、ナヴィアはそう呼ばれることもあった。

 

 そんな彼女が、通常よりも強力な【強化】を込めた魔石を使ったのだ。当然その効果も倍増し、今やナヴィアは己が身を生涯かけて鍛え上げた、一流の戦士ですら及ばない身体能力を得ている。そして更に、彼女自身も今日までの十五年間、『魔導院』理事長としての勤務や、ニベルン家当主の座を継ぐ為の教育を受けながらも────フィーリアに打ち勝つ為に、己の身を鍛錬し続けていた。

 

 仮に、彼女が冒険者(ランカー)としての道を歩んでいたら────間違いなく、今頃は最高峰と謳われる冒険者の一人、『六険』となっていたことだろう。

 

 しかし、その上で使用しても。ただでさえ普通に使っても一流の戦士を凌駕するというのに、十五年という月日をかけて鍛錬を積んだナヴィアが使っても、それでもなおフィーリアの【強化】には遠く及ばない。届き得ない。

 

 その事実が、ナヴィアの肩に重く、重くのしかかる──だが、それでも彼女は諦めなかった。

 

「……ハァッ!」

 

 己に喝を入れ、ある程度回復したナヴィアが地面を蹴る。また先ほどのように地面が爆ぜ砕け、彼女の姿が一瞬で掻き消える。

 

 フィーリアがそう認識するよりもずっと早く、ナヴィアは彼女の眼前に迫る。そしてフィーリアがようやく眼前にまで迫っていると認識する頃には、彼女はもう己の足を再度振り上げていた。

 

 突進の勢い全てを乗せた、ナヴィアの回し蹴りがフィーリアの顳顬(こめかみ)を打たんとする。その威力はもはや人体が繰り出せるものではなく、もしこれがフィーリアの顳顬に直撃しようものなら、ほぼ間違いなく彼女の頭部が爆ぜ砕けるか、彼女の運が良ければその首がへし折れるだろう──まあ、どちらにせよ死ぬことには変わりないのだが。

 

 そのナヴィアの回し蹴りがフィーリアの顳顬を打つ直前、フィーリアが腕を振り上げた。

 

 バシィンッ──ナヴィアの足とフィーリアの腕が衝突し、その間で甲高い音を響かせた。

 

「チッ」

 

 ナヴィアは舌打ちをすると同時に、咄嗟にその場から跳び退く。彼女の金髪が宙で揺れながら広がって──次の瞬間、その一点に大穴が穿たれた。

 

 数本千切れ飛び、宙を舞う己の髪に視線を一切やることなく、ナヴィアは跳び退いた後も止まらず、跳躍し続ける。そんな彼女を追うようにして、さっきまで彼女がいた場所が次々と陥没していく。

 

 依然として駆けながら、再びナヴィアは【次元箱】を開き、今度は赤色の魔石を手の中に滑らす。そして、その魔石をフィーリアの方へ放り投げた。

 

「【殲滅の灼炎(ジェノサイドフレイム)】ッ!」

 

 ナヴィアがそう叫んだ瞬間、彼女が放り投げた魔石が呼応するように赤光を放ち、硝子を割ったかのように軽やかで、妙に澄んだ音を立てて粉々に砕け散った。

 

 四方八方に飛び散る魔石の欠片が、解けるように宙に溶けて霧散する。瞬間、その場一帯が熱気で満ち──突如、超巨大の火球が現れた。その火球は地面を、大気を焼き焦がしながら、フィーリアへと飛来する。

 

 そして彼女を呑まんとした、その時。まるでそこにあったことが嘘だったように、火球はフィーリアの目の前で、一瞬にして発していた熱気諸共、跡形もなく消え失せた。

 

 が、すぐさまフィーリアの視界をナヴィアの足が埋め尽くす。【殲滅の灼炎】を放った後、追尾する不可視の衝撃を掻い潜り、【殲滅の灼炎】に隠れるようにしてナヴィアはフィーリアに接近していたのだ。

 

 死角からの、瞬速の一撃。だが、それすらもフィーリアは咄嗟に仰け反ることで回避してしまう。

 

 蹴りを空振らせたまま、そこで初めてナヴィアは理解する。フィーリアが己の身体に対してかけた、【強化】の範囲を。

 

 ──まさか、この子……五感も、神経も……!?

 

 ナヴィアが戦慄する中、スッとフィーリアが腕を軽く振り上げる。瞬間、ナヴィアの身体を、衝撃が貫いた。

 

「が、はッ……!」

 

 一瞬で喉の奥から熱くて酸っぱいものが込み上げて、思わず咄嗟に片手で口を押さえる。そうでもしないと、そのままそれを口から吐き出してしまいそうだった。

 

 手で口を押さえながら、ナヴィアはフィーリアの前から跳び退く。しかし先ほどとは違って、今度は不可視の衝撃が彼女を追うことはなかった。そうしてナヴィアがフィーリアからある程度距離を取ると、ゆっくりとフィーリアも仰け反らせた上半身を起こす。

 

「…………やっぱり、【持続治癒(リジェネレイション)】をかけてても、結構キッツいなぁ……」

 

 そう苦しげに呟くフィーリアの口端に、一筋の血が伝う。対し、ナヴィアは未だ腹部から迫り上がる吐き気に喘ぎ、その肩を上下させていた。

 

 先に回復したのは──ナヴィアだった。僅かに漏れた唾液を手の甲で乱暴に拭って、彼女はその場からまた駆け出す。それと同時に【次元箱】から、また別の、黄色の魔石を取り出した。

 

 ナヴィアは今度はそれを、フィーリアの頭上目掛けて放り投げる。そして先ほどと同じように、叫んだ。

 

「【怒号の落雷(ストロングボルト)】ッ!」

 

 彼女の言葉に応えるように、フィーリアの遥か上空にあった魔石が黄光を放ち、そして儚く砕け散る。遅れて、真下にいるフィーリアへ極太の雷が落ちた。

 

 雷がフィーリアの身体を貫く──かに思われた瞬間、先ほどの火球と同じく、彼女に直撃する寸前で堰き止められ、一瞬にして消滅してしまう。

 

 だがその頃には、ナヴィアはもう別の魔石を彼女に向かって放り投げていた。

 

「【凍獄の氷柱(ヘルアイスピラー)】ッ!」

 

 水色の魔石が砕け散り、全てを凍てつかせる冷気を伴いながら、槍のように先端が尖った氷の柱がフィーリアに迫る。だが、今度はそれだけに留まらない。

 

「【幾刻の暴風(サイクロンリッパー)】ッ!」

 

 ナヴィアの言葉に、水色の魔石と同時に投げられていた緑色の魔石が砕ける。瞬間、ありとあらゆるものを巻き込み、切り刻む暴風が巻き起こる。

 

 氷柱と暴風。その二つが同時にフィーリアを滅茶苦茶にせんと襲いかかる────が、彼女の目の前で、氷柱は宙で真っ二つに折れ、暴風は無残にも散らされ無害な微風(そよかぜ)に変えられてしまった。

 

「っ……」

 

 絶句せざるを得ないナヴィアに対して、フィーリアが挑発するように言う。

 

「これでもうお終い?」

 

 そう言って不敵な笑みを浮かべるフィーリア──そんな彼女に、ナヴィアは己の拳を握り締めて、吠えるように叫んだ。

 

「まだ、まだァッ!!」

 

 そしてすぐさまフィーリアとの距離を詰めた瞬間、彼女の眼前で魔法陣が展開される。それを何の躊躇もなく、ナヴィアは蹴った。

 

 蹴りつけられた魔法陣は一瞬だけ輝いたかと思うと、粉々に砕け、魔力の残滓となってその場から消失する。その魔法陣を蹴りつけたナヴィアはというと──遥か上空にまで跳び上がっていた。

 

 クルン、と。上空でナヴィアが一回転し、再びその足元に先ほどと同じ魔法陣が展開される。そしてやはり先ほどと同じく、彼女はそれを蹴った。

 

 魔法陣が砕けると同時に、蹴った勢いと重力に身を任せて、凄まじい速度で何回も回転しながらナヴィアがフィーリア目掛けて落下していく。その姿は、さながら黒い海から地上へ零れ落ちる、一条の流星のようであった。

 

 遥か上空にいたはずのナヴィアはあっという間にフィーリアのすぐ頭上にまで迫って、彼女の脳天に狙いを定め、速度と重量を余すことなく乗せ切った、絶命必至の踵下ろしを見舞う────が、それすらも、直撃する寸前でフィーリアは腕を掲げて防いでしまった。

 

 ドォンッ──爆発音と聴き紛う、到底人体から発せられそうにない音に遅れて、フィーリアの足元一帯が凹み、沈み、一気に陥没する。

 

「な、っ……」

 

 超高空からの踵下ろしですら、至ってダメージも受けないで防いだフィーリアに、ナヴィアは堪らずに声を漏らす。

 

 ──どれだけ、桁違いだって言うの……この子の【強化】は……!!

 

 そう思った束の間、慌てて彼女はそこから跳び退こうとして──しかし、一歩遅かった。

 

 ナヴィアの身体を、フィーリアが放った不可視の衝撃が打つ。今までよりも数段威力と重みを増したそれに、危うく彼女の意識は刈り取りかけられた。

 

 一瞬真っ白に染まった視界のまま、ただ本能に従ってナヴィアはフィーリアの足を思い切り蹴って、その勢いで彼女から一気に距離を離す。

 

「──ご、が、いぁ…あ゛……!!」

 

 着地をした瞬間、ナヴィアは一瞬動くことを辞めてしまった肺を、全力で再度動かす。全身を使い、息絶え絶えになりながら息をする彼女を、フィーリアは冷ややかに見つめる。

 

「……もう、気は済んだ?」

 

 眼差しと同様に、その声も冷ややかなものだった。そんな彼女を、大粒の汗を全身から流しながらも、ナヴィアはキッと睨みつける。まだ、彼女の戦意は折れてはいない。

 

 ──もう、時間はありませんわ、ね……。

 

 最初にかけた【強化】の効果時間の残りを悟りながら、ナヴィアは【次元箱】を開く。彼女の手のひらに向かって落ちたのは────三つの、小さな宝石だった。

 

「…………フィーリア」

 

 その宝石をしっかりと握り締めながら、ナヴィアは口を開く。

 

「そろそろ、終わりにしましょう」

 

 そう言うと同時に、ナヴィアは纏うように、幾重にも魔法陣を自分の周囲に張り巡らせる。そして──その場を蹴った。今までよりも、ずっと力強く。

 

 ナヴィアが駆ける。彼女の足が地面を叩く度に、地面は爆ぜ、割れ、砕ける。

 

 ナヴィアは駆ける。フィーリアの元に、ただ愚直に、真っ直ぐに。それ故に、彼女は際限なく、どんどん加速する。

 

「……わかった」

 

 もはや彼女の耳には届かないと知りながらも、フィーリアはそう言って、スッと腕を振り上げる。少し遅れて、不可視の衝撃がナヴィア目掛けて走った。

 

 衝撃が、ナヴィアを打つ。一度目は魔法陣によって防がれたが、そのたったの一度で彼女が張り巡らした魔法陣は、一つ残さず全てが砕かれてしまった。

 

 続けて走った衝撃が、ナヴィアを叩いた。肌が撓み、肉が歪み、骨が軋むが──それでも、ナヴィアは止まらない。

 

 パキン──ナヴィアの手の中にある宝石の一つが砕ける。彼女の手の中でその欠片は溶けるように消えて、瞬間彼女の拳に火の魔力が宿る。

 

 衝撃は絶えず、ナヴィアを叩く。ベキベキと全身から嫌な音が響き、激痛に彼女は堪らず顔を顰めさせる──それでも、ナヴィアは止まらない。

 

 パキン──ナヴィアの手の中にある宝石の二つ目が砕ける。それも最初に砕けた宝石と同様に消え、瞬間彼女の拳に水の魔力が宿る。

 

 一際強い衝撃が、ナヴィアを貫く。全身が鈍痛に覆われ、内臓の全部が激しく揺さぶられ、思わず彼女はその場でもんどり打って倒れそうになり、その最中でも衝撃が立て続けに、何度も彼女を襲う──それでも、ナヴィアは止まらない。

 

 パキン──ナヴィアの手の中にある最後の宝石が砕ける。やはりそれも先に砕けた二つの宝石と同様、彼女の手の中で溶けるように消えて、瞬間彼女の拳に地の魔力が宿る。

 

 火、水、土──ナヴィアの拳に宿った、その三大属性は複雑に絡み合い、そして融け合う。融け合った三つの魔力は一つとなり────瞬間、それは絶大な魔力へと変化した。

 

 その魔力を己が拳に宿して、ナヴィアが駆ける。ただひたすらに、目の前へ。真っ直ぐ、真っ直ぐに。

 

 そんな彼女の首元から上全体を、不可視の衝撃は遠慮も容赦もなく痛烈に、叩きつけた。

 

「が、ッ……」

 

 このまま真後ろに折られるんじゃないかと思うほどの負荷が、ナヴィアの首にかかる。気道を一瞬だけ完全に潰され、彼女の足は────

 

「…ッ、ぁ……ぁああああああッ!!!」

 

 ────これまで以上に力強く、地面を蹴りつけた。ナヴィアは一気に加速し、フィーリアとの距離を詰める。

 

 喉の奥から迫り上がる鉄の味と臭いを堪えながら、あらん限りの力を、ありったけの気力を込めて、ナヴィアは拳を振り上げた。

 

「【三魔絶拳(トリニティアブソリュートフィスト)】ッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポツポツ、と。雨が降り出す。勢いはさほど強くはない、弱い雨だった。

 

 静かに雨音が響き渡る中────ナヴィアは、苦々しく呟く。

 

「……ここまでしても、届かないのね」

 

 ナヴィアの【三魔絶拳】は、直撃さえさせれば、最強最悪である〝絶滅級〟の魔物(モンスター)ですら屠る。それほどまでの威力を元から有しており、ナヴィアが誇る正真正銘の、最大最高の技だ。

 

 そこに更にあの三つの宝石──純度百パーセントの魔石に込め、限界以上にまで高めた三属性の魔力により、その威力は極限まで跳ね上がり、もはや人の身で受けられる道理はなくなっていた。

 

 ……だが、それをフィーリアは、受け止めていた。その小さな手のひらで、優しく。

 

 なけなしの根性で両足を何とか立たせたまま、ナヴィアは続ける。

 

「昔から、反則過ぎますのよ……貴女」

 

 ずるり、と。フィーリアの手のひらから、ナヴィアの真っ赤に染まった拳が滑り落ちる。己の限界を超えて放った一撃の代償は重く、辛うじて手としての形を保ってはいるものの、止め処なく血が溢れ、肌は破れ、覗く肉はグシャグシャに、骨はその全てが砕け、その破片が周囲に散らされていた。

 

 どうやって使い物にならない、治しようもないナヴィアの手に対して、彼女の一撃を受け止めてみせたフィーリアの手は──彼女の血で赤く染められているだけで、至って無傷である。それを確認して、ナヴィアはああ呟いたのだ。

 

 今すぐにでも意識を放りそうになっているナヴィアに、フィーリアは少し迷って────人差し指を向ける。

 

 

 

「ちょっと見ない間に、強くなったね。ナヴィ」

 

 

 

 そう言って、ピッとフィーリアは彼女に向けた人差し指の先で、軽く宙を弾く。一瞬の間も置かず、今までよりもずっと強烈な衝撃がナヴィアの身体を貫いた。



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ARKADIA────そういう目で見ても

 ゆっくり、と。頬を優しく撫でる風の感触に、僕の意識が唐突に覚醒する。いつの間にか閉じていた瞼を開く途中、不意に鼻腔を何か、仄かに甘い匂いが擽った。

 

 ──……ここ……は?

 

 顔を上げ、完全に瞼を開く。若干ぼやけていた視界はすぐに鮮明となり────瞬間、飛び込んで来たのは一面に広がる、真白の花畑だった。

 

 風が吹いて、僕の横を過ぎ去っていく。足元の花々が揺れ、花弁が宙を舞う。その様は、僕の目には非常に幻想的に映った。

 

 ──こんな花、見たことない……。

 

 足元の花を一輪手に取って、僕はそれを眺める。特に変わったところはないが、少なくとも僕は知らない種類の花だ。

 

 ──そもそも、ここは一体何処なんだ?確か僕は、先輩と……。

 

 そこで初めて、僕は気がついた。いつの間にか、僕の傍から先輩の姿が消えていることに。気がついて、慌てて周囲を見渡して────見つけた。

 

 ──先輩!

 

 向こうの方に、人影があった。紅蓮に燃ゆる、赤い髪──間違いない。あの人は先輩だ。僕はそう思って、急いで駆け寄る──その直前で、止まった。

 

 ──え……?

 

 よく見れば、違った。確かに先輩と同じ髪色だが──それでも、違う。

 

 その人は、純白の修道服を身に纏っていた。どうやら一点物らしく、他では目にしたことがないような、独自の意匠が見て取れる。

 

 僕の覚えている限りでは、先輩はあんな修道服は持っていないし、たとえ持っていたとしても着ようとは絶対にしないだろう。

 

 そして──先輩と見紛うその女性の隣には、一人の男が立っていた。

 

 ──誰だ?

 

 一体その男が何者なのかと僕が疑問に思っていると、不意に先輩のものと酷似する赤髪の女性が、隣に立つその男に顔を向ける。その顔を見た僕は──思わず、見入ってしまった。

 

 似ていたのは、赤髪だけではない。顔もまた、先輩と非常に似通っている。しかし先輩とは違って、こちらの女性はいくらか大人びた顔立ちをしており、可愛いというよりは綺麗という言葉が似合っていた。

 

 二人は会話をしているようなのだが、距離のせいかその内容も、その声もこちらには届かない。けれどその会話を楽しんでいることは、柔らかで魅力的な微笑みを絶やさずにいる赤髪の女性の様子から、容易に感じ取れる。

 

 不意に、再び風が吹いた。真白の花と共に、女性の赤髪も揺れる。慌てて髪を手で押さえながら────女性は、僕の方に視線を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ん、んん……?」

 

 唐突に、僕の意識が覚醒する。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。……何か、とても重要な、夢を見ていた気がする。

 

 無意識に瞼を薄く開く────直前。むにゅ、と。何か凄まじく柔らかい、すべすべふわふわな、筆舌に尽くし難く素晴らしい感触が僕の下顎全体に伝わった。

 

 ──え?あ?なんだこれ?

 

 一瞬にして驚きと困惑で満たされる僕の脳内。思わず、ずっとそうしていたい気持ちを抑えて、確認の為に顔を上げる────直前。

 

「んひゃっ」

 

 …………という、何とも言えない感じの、実に珍妙な悲鳴が僕の頭上で響いた。その悲鳴に釣られて、顔ではなく視線だけを上げると──僕の頭上に、少し驚いた表情を浮かべている、先輩の顔があった。

 

「……」

 

 お互いに口を開けないでいる中、僕の瞳と先輩の琥珀色の瞳が合う。そして数秒遅れて、先輩が先に口を開いた。

 

「よ、よお。やっと目ぇ覚めたんだ、な。クラハ」

 

 その先輩の声には、若干の羞恥が込められている。恐らく、先ほどの悲鳴を僕に聞かれたからだろう。僕はまだ寝起きで冴えない思考でそう考えながら、取り敢えず返事しようと──ふと、自分がどういう状況に置かれているのかが、とても、非常に気になった。

 

 まず、何故こんなにも先輩の顔が近いのだろう。そして、未だ僕の顎下を包むこの素敵な感触は何なのだろう。

 

 次々と浮かぶ疑問。僕は特に何を思うでもなく、視線を下げる。瞬間、見えたのは肌色一色であった。

 

 ──…………。

 

 実を言えば、この感触には覚えがある。ただ、それはないだろうと、僕はそう思っていた。……いや、現実から目を背けていた。

 

 しかし、この光景を目の当たりにして、それを認めざるを得なくなってしまった。

 

 ──そうか。僕は今……。

 

「ク、クラハ?黙ってないで何か言えよ」

 

 先輩の言葉を浴びながら、心の中で呟いた。

 

 ──先輩の胸に顔を埋めているのか。

 

 驚くほど冷静に呟いてから、一瞬にして全身から冷や汗が噴き出し、脳内が真っ白になった。

 

「す、すみませんッせせ、せんぱっ、すみまッ」

 

 上手く呂律の回らない舌を無理矢理動かして、とにかく今すぐにでも離れようと、逆らいそうになる本心を捻じ伏せて、僕は顔を上げようとする。だが、それはできなかった。何故なら────ギュッと、先輩の手が僕の後頭部を押さえたからだ。

 

「むぐっ?!」

 

 顎下だけでなく、僕の口元さえも先輩の谷間へ沈む。瞬間、鼻腔が強烈に甘い匂いで満たされる。

 

 堪らず鈍る思考の中、少し恥ずかしそうに、しかし優しく穏やかに──心なしか嬉しそうに、先輩が言う。

 

「は、離れんな。……別にいいから。こんままで」

 

 ──えッ!?なんでッ!?

 

 思いも寄らない先輩からの言葉に、僕の困惑は極まる。当たり前だ、今日一日ずっと不機嫌だった先輩が、いつの間にかこんなにも優しくなっているのだから。

 

 ……そうだ。今日、僕は先輩を怒らせてしまった。それはもう、類を見ないほどに。そしてその原因も……まあ、説明するのは気が憚れる、最低なもので。

 

 だからこそ、今この状況に対して僕は困惑せずにいられなかった。

 

「……なあ、クラハ」

 

 不意に、先輩がまたその口を開く。優しげに、語りかけるように僕に言う。

 

「その、なんだ。俺も今日はあんな態度取っちまって、ごめんな」

 

 ……それは、予想だにしていなかった、先輩の謝罪の言葉だった。僕がまたしても驚き、固まっている中、先輩が続ける。

 

「……この際だから言うけど、よ。えっとな、うん……べ、別にいいんだぞ?別に今の(・・)俺のこと、そういう(・・・・)目で、見ても。俺は気にしねえ、から……」

 

 ──…………え?

 

 その先輩の言葉は、到底聞き捨てられないものであった。その先輩の言葉が意味することを、僕はとてもじゃないが追求せずにはいられなかった。

 

 若干惜しいと思う気持ちを無視し、僕は先輩の谷間から顔を上げる────直前だった。

 

 

 

 ガサ──不意に、背後で何かが草木を掻き分ける音がした。

 

 

 

「む。慣れ親しんだ気配がすると思えば、ようやく見つけたぞウインドア、ラグナ嬢。二人共今す……ぐ……」

 

 …………凄まじく聞き覚えのある声が、徐々に固まる。それは僕と先輩も同じで、数秒この場が沈黙で満たされたかと思うと、また不意にそれは破り捨てられる。

 

「…………すまない。邪魔をした」

 

 そんな居た堪れそうにした、気不味そうな──サクラさんの声によって。



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ARKADIA────残景追想(その三)

「フィーリア!明日卒業するって本当なの!?」

 

 サクラ──サドヴァ大陸極東の地、イザナに分布するという固有の植物──の咲き乱れた花弁が、微風(そよかぜ)によって宙へと無数に吹き飛ばされる、桃色一色の景色の中。それを貫くように、『魔道院』の制服に身を包んだナヴィアの声が響く。

 

 そしてそれは、サクラの木に寄り添うようにして立つ、私────フィーリア=クロミアの耳に充分過ぎる程に届いた。

 

「……本当だよ。明日、私は『魔道院』(ここ)を卒業する」

 

 少々億劫だなと思いつつも、私はナヴィアに言う。まあ、顔はそちらに向けなかったが。そんな私の元に、彼女はズカズカと無遠慮にも近づいて来る。そして、またしても盛大な声量を以てその口を開いた。

 

「あ、貴方編入してからまだ一年しか経ってないでしょ!?なのに、どうやって……!」

 

 大方予想通りであるナヴィアの言葉に、私は同じ言葉ではなく、とあるものを目の前に突き出す。彼女も最初の数秒はこれが何なのかわからなかったようだが、すぐさままたしても絶叫した。

 

「と、特例卒業証明書……ですってぇ!?」

 

「『魔道院』の御老公方(ジジイども)の頭が固過ぎて、発行させるのにちょっと手間取ったけどね。私嫌われてるから、おか……師匠(せんせい)の手も結局借りちゃったし」

 

 この『魔道院』が正式に設立されてから百五十年、その長い歴史を振り返ってみても、類を見ない偉業を成し遂げた私を、ナヴィアが悔しそうに睨みつける。しかし自分で思った以上にこの紙切れ一枚の効果はあったようで、彼女はもう何も言えなくなってしまっていた。

 

 桃色の花弁が縦横無尽に舞う中、ちょっとした沈黙を挟んで、それから開き直ったようにまたナヴィアがその口を開いた。

 

「ふ、ふん!貴女が『魔道院』を卒業するとしても、関係ありませんわ。(わたくし)は貴女に勝つまで、何時だって何度だって「あ、ごめんナヴィア。私卒業したら、すぐにマジリカを発つから」挑んで……え?」

 

 割り込ませた私の言葉に、得意げにその学生が持つものにしては些か大きいと思える胸を張り、続けていたナヴィアが固まる。そして少し遅れて、彼女は私に問いかけてくる。

 

「マ、マジリカを発つって……それは一体、どういうことですの?フィーリア」

 

「どういうことも何も、そのまんまの意味。……ちょっと思うことがあって、さ。大魔道士(レリウ)の秘境に籠もりたいなーって」

 

 私の返答を受けたナヴィアの顔が、見る見るうちに焦りの色で染まっていく。そして何を血迷ったか────

 

「で、でしたら!私も行きますわ!『魔道院』を中退してでも、貴女と一緒に……!」

 

 ────などと、とんでもないことを言い出し始めた。

 

「冗談なら笑えるのにしてよ。大体、仮にも『四大』が一家、ニベルン家の次期当主の御嬢様が、深き歴史と重き伝統ある『魔道院』を中退なんてしたら、立場とか面子とか……色々と不味いんじゃない?」

 

「それは、そうだけど……!」

 

 ナヴィアはまだ何か言いたそうにはしていたが、私が言うまでもなくそのことは彼女自身が一番知っているし、理解している。

 

 結局、それを最後にまたナヴィアは押し黙ってしまった。色素の濃い赤色の唇を、噛み締めて。

 

 ……腐れ縁という奴で、何だかんだ今まで付き合いのある彼女に対して、別に思うこと一つない程、私も薄情者ではなかったらしい。若干ばつが悪そうになりながらも、私は再度口を開く。

 

「まあ、もう一生この街には帰らないつもりとか、そういうのはないから、そこは安心していいよ」

 

「……ではいつ、この街にいつ帰ってくる気でいるつもりなの?」

 

 その質問に対して、私は一瞬だけ迷って、そして答えた。

 

「四年……辺り?」

 

 私のその返答に、やはり予想通りナヴィアは絶句してしまった。数秒彼女は固まっていたが、やがて諦めたように、中々に重いため息を吐いた。

 

「……そもそも、ちょっと思うことって一体…………」

 

 言っている途中で、ハッとしながらナヴィアが私を見やる。そしてまるで確かめるかのように、こう続けた。

 

「フィーリア、貴女まだ……諦めてなかったの?」

 

 ナヴィアのその言葉に対して、私はすぐに言葉を返すことができなかった。

 

 そんな私のことを、ナヴィアは真摯な眼差しで見つめたかと思うと、すぐさまキッとまた睨みつけて、そして────

 

「私とここで勝負なさい!フィリィ!」

 

 ────と、この十年間で何百回も聞かされた言葉を、今までにないくらいに真剣な声音と表情で口にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……今思い返せば、ちゃんとした真剣勝負はあの日以来だったね」

 

 酷い有様となった廃墟街の広場にて、フィーリアの呟きが静かに響き渡る。

 

 フィーリアは地面に倒れたまま、微動だにしないナヴィアの傍に、ゆっくりと歩み寄る。彼女はもう完全にその意識を手放しており、目を覚ますことは暫くないだろう。

 

 腰を下ろし、ナヴィアの身体に優しく、割れ物を扱うかのように丁寧に慎重に、フィーリアは手で触れる。

 

「骨折、十四箇所。打撲、全身。内出血、軽微。……想定よりかは、まだマシかな」

 

 彼女の身体の状態を把握して、それからフィーリアは問題である右手へと視線を移す。改めて見ても酷たらしい惨状で、もはやこちらは普通の回復魔法では完全には治し切れないと判断する。

 

 ──無茶し過ぎ。

 

 心の中でそう呟いて、フィーリアは軽く頭を振るう。けれど、それと同時に理解する。一体ナヴィアが、どんな思いで、どんな覚悟で──どれだけ、自分のことを止めたかったのか。

 

 己の指を口元に近づけ、フィーリアは躊躇なく歯で噛む。痛みと共に皮膚が裂け、血が滲み出る。それを目で確認して、そっとナヴィアの右手に翳す。

 

「【神の血(キュアブラッド)】」

 

 フィーリアの言葉が宙に投げ出されると同時に、彼女の指から滴る血に癒しの魔力が宿る。そしてそれは、ナヴィアの右手にぽたりと落ちた。

 

 瞬間、生理的嫌悪を催す生々しい音を立てながら、ナヴィアの右手がまるで生物のように蠢き始める。それからあっという間に神経やら骨やら筋肉やらが再構築され、新しく再生した皮膚がそれら全てを覆い、包み込んでいく。そして気がつけば──そこには、全くの無傷であるナヴィアの右手があった。

 

 フィーリアはそれをしっかりと確認すると、その場から立ち上がり、ナヴィアの傍から離れる。

 

「……それくらいは多めに見てよ」

 

 そう呟いてから、またフィーリアは歩き出す。ナヴィアに背を向け、最初と同じように──魔石塔の方へと。

 

 もう振り返ることなく、ただ真っ直ぐに──────

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ──────けれど、数歩歩いたところで、フィーリアは止まった。

 

 その場に立ち止まって、少ししてからフィーリアはため息を吐く。それから、また再びナヴィアの方に戻って、今度は彼女の顔の傍に蹲み込んだ。

 

「……この際だから、今だから、さ。あんたに言っとく」

 

 言いながら、フィーリアはナヴィアの髪に手を伸ばし、そっと掻き上げる。それから彼女の頬を指で優しくなぞりながら、柔らかで温かな声音で語りかけるように、フィーリアが言う。

 

「私ね、憧れてたんだ」

 

 その言葉には、嘘も偽りもない。正真正銘の、心の底からの、フィーリアの本音だった。意識のないナヴィアに対して、フィーリアは本心の吐露を続ける。

 

「あんたの無鉄砲さとか、遠慮なさとか、分け隔てなさとかそういうの、全部。私にはなくて、私じゃあ絶対に手にできないものだったから。羨ましいなって、ずっと思ってた」

 

 恐らく、それはこの世の誰であろうと聞けはしない言葉。『天魔王』と呼ばれ、敬意と畏怖される少女の──ありのままの、剥き出しの言葉。

 

「街一番の嫌われ者に、あんなに声をかけて、こんなに接してくれるのはあんただけだった。……正直、凄く嬉しかったよ」

 

 まだ言葉を続けようとして、だがそこでフィーリアは口を閉ざす。閉ざして────代わりに、笑顔を浮かべた。

 

 未だ意識の戻らぬナヴィアを置いて、フィーリアは立ち上がる。そしてまた地面に倒れたままの彼女に、その小さな背中を向けた。

 

「もう、行くね」

 

 背中を向けたままそれだけ言って、ようやく再びフィーリアはその場から歩き出す。止まる様子は──ない。

 

 魔石塔とフィーリアの距離が、徐々に縮まっていく。縮まって──遂に、彼女はすぐ目の前にまで来た。

 

 フィーリアの視界を、魔石塔の扉が埋め尽くす。扉は彼女の背丈を遥かに越しており、そして薄青い魔石で分厚く覆われている。

 

「……昔から、薄々気づいてた」

 

 独り言を零しながら、フィーリアは扉を覆う魔石に触れる。魔石はまるで氷のように冷たい。

 

 触れたまま、ただ一言。フィーリアが言う。

 

 

 

「砕けろ」

 

 

 

 彼女がそう呟いた瞬間、彼女の手が触れている部分から無数の亀裂が四方八方へと走り、そして秒も経たずに硝子を割ったかのように軽やかで、澄んだ音を立てながら────砕けた。扉を、魔石塔全体を覆っていた薄青い魔石が、決して壊せないと言われていたその全ての魔石が、彼女の言葉に従うようにして、一切も残さずに砕け散った。

 

 残骸が、破片が、欠片が。まるで天から降り注ぐ雨のように、落下していく。落下しながら、宙で解けるようにして溶けていく。溶けたそれらは魔力の粒子となって、舞って、霧散していく。

 

「……やっと。やっと、この時が()た」

 

 そう呟くフィーリアの眼前で、硬く閉ざされていた魔石塔の大扉が、廃墟街全体を震わせる程の音を立てながら、独りでに開かれていく。その先は、全くの闇で包まれている。

 

 しかしフィーリアは物怖じ一つもせず、先へと進む。今の彼女には、もう止まるなどという選択は存在しない。

 

 その闇に足先を沈ませながら、フィーリアは心の中で呟く。

 

 ──私に何があっても、あんたは私の親友だから……ナヴィ。

 

 そして──────フィーリアの身体が、完全に闇に沈み込んだ。



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ARKADIA────確かめに

「え!?マジリカの住民たちが、突然昏倒したんですか?」

 

「ああ。私が見た限りでは、今あの街で意識を保っている者はほぼいない。全員が全員、全く同時に昏倒してしまった」

 

 いきなりは信じ難い話をしながら、僕とサクラさんは森の中を、木の枝や根に足を取られないよう注意しながら、しかし全力で疾走していた。一刻も早く、マジリカに戻る為に。

 

 サクラさんの話によれば、どうやら彼女の目の前で、突然マジリカの住民たちが次々と倒れ、そのまま動かなくなってしまい、慌てて確認したところ眠ってしまっているだけだったらしい。だがいくら起こそうとしても、起きる気配はなかったという。

 

 ──……じゃあ、僕が感じた、あの感覚(・・)は……。

 

 サクラさんの話を聞いて、僕の中で蟠りとなっていた疑問が解決する。実を言うと、先程マジリカの方から、不意に謎の魔力が一瞬波打ったような感覚を感じたのだ。が、感じた矢先そこからの記憶が飛んでおり……まあ、気がつけば僕は先輩の(不可抗力ながら)谷間に沈んでいた訳だ。

 

 あの感覚は、ひょっとして気のせいだったのではと思っていたが、サクラさんの話を聞いて確信した。恐らく、僕と先輩が森に行っている間、何かがマジリカで起こったのだ。僕の知る由のない、途轍もない何かが。

 

 一体、あの街で今何が起きているのか。それを確かめる為にも、サクラさんと共に一刻も早く戻らなければならない。こんなことなら、転移用の魔石を持っておくんだった。

 

 ……ちなみに、先輩はというと────

 

 

 

「見られた見られた見られたぁ……!」

 

 

 

 ────先程の光景を、僕のことを胸元に抱き締めている(傍目から見ればたぶんそうとしか映らない)ところを、よりにもよってサクラさんに見られてしまった羞恥に身悶えしながら、例によって僕におぶられている。以前ならともかく、今の先輩が僕とサクラさんに追いつける訳がないので。

 

 先輩は冗談抜きで羽毛のように軽いし、おぶるのは別にこれが初めてということもない。それにまあ、密着されることにもいい加減慣れたので、特に問題はない。……ないの、だが。

 

「うぅぅ……何だって、いつもこんな恥ずい目に遭わなきゃなんねえんだ……畜生」

 

 己の不運や災難を嘆き、堪らず愚痴を零して。先輩はぐりぐりと顔を押しつける。……どこに?無論、僕の首筋に。

 

 ──く、擽ったい……!

 

 先輩の鼻先が僕の首筋を擦り、先輩の吐息が僕の首筋を撫でる。その度に僕の全身をゾワゾワとした怖気にも似た感覚が巡り、思わず変な気分になってしまう。正直今すぐにでも顔を離して欲しかったが、穴があったら入りたいであろう今の先輩の心情を察してしまうと、顔を離してくださいなんて、とてもではないが言い出せなかった。

 

 結果僕に残された道は堪えるというものしかなく、少しでも首筋から気を紛らわそうと無心で走っている訳だが……果たして、気のせいだろうか。時折、先を走るサクラさんがこちらに向ける視線に、羨望と嫉妬が込められていると思ってしまうのは。

 

「まあとにもかくにも、だ。私たちは早急にマジリカに戻らなければな」

 

「は、はい!そうですね!」

 

「ではもう少し飛ばすとしよう──遅れるなよウインドア!」

 

「えっ?りょ、了解です!先輩、しっかり掴まっててくださいね」

 

「大体……あ?何──ってうわわ!?ちょま、落ちっ、クラハ落ちるぅ!」

 

 と、そんなこんなで。僕たち三人は急ぎマジリカに戻るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マジリカに戻った僕たち三人を待ち受けていたのは──不気味とさえ思ってしまう程の、静寂であった。

 

 確かにサクラさんの言っていた通り、マジリカの住民たちは地面に倒れていたり、建物の壁などにもたれかかっており、その全員が微動だにしていない。

 

 慌てて確認すると、息はしており、確かにこれもサクラさんの言っていた通り、どうやら眠っているだけらしい。しかしいくら肩を揺さぶろうが、何をしても目を覚ます気配は皆無であった。

 

 ──一体、今この街で何が起きているんだ……?

 

 明らかな異常事態を目の当たりにし、慄くように僕がそう思っていると、『輝牙の獅子(クリアレオ)』に向かっていたサクラさんが、浮かない表情で戻ってきた。

 

「ウインドア。向こうも大体同じ状況だったよ。……ただ、アルヴァ殿の姿はどこにもなかった」

 

「……そう、ですか」

 

 おおよそ、サクラさんの報告は予想通りではあった。アルヴァさんならば大丈夫だろうとは思っていたのだが……どこにもいないとは、一体どういうことなのだろう?

 

 ──……まさかとは、思うけど。

 

 この異常事態に、アルヴァさんが何かしら関わっている可能性が出てきてしまった。……それか、あるいは。

 

「それと、やはりフィーリアの姿もな」

 

 そう呟くサクラさんの表情は、何処か苦々しい。……そうだと考えたくはないが、今朝から姿を見せていないフィーリアさんも、怪し過ぎる。

 

 ──本当に、この街で何が起きて、何が起ころうとしてるんだ……!

 

「……?先輩、どうかしましたか?」

 

 ふと、そこで僕は先輩の様子が少しおかしいことに気がつく。マジリカに戻ってから、先輩は何処か上の空というか、何故か困惑したような表情を浮かべ、押し黙っていた。

 

「…………いや、なんか、さ」

 

 僕に声をかけられて、先輩は依然困惑しながら詰まり気味に口を開く。そしてある方向へ顔を向けながら、言った。

 

「あっちから、呼ばれてる気がすんだ……俺」

 

「呼ばれてる、ですか……?」

 

 僕も、先輩が顔を向けている方向に視線を移す。その先にあるのは確か────魔石塔のはずだ。

 

「……では向かうとしようじゃないか。どちらにせよ、手がかりはそちらにありそうだしな」

 

 黙ってしまった僕と先輩に、サクラさんがそう言葉をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔石塔の元へ向かった僕と先輩は、思わず驚愕せずにはいられなかった。それは無理もないだろう、何故なら昨日と今日で──その様がまるで違っていたのだから。

 

 元々ボロボロであった廃墟街はさらに崩れ、酷い有様となっており。そして広場に関しては一体何があったのか、総じて地面を覆う石畳は爆ぜ割れ、砕け散っていて、そこら中にクレーターのような凹みがいくつもある。まるで災害が通り過ぎた後のような、目も当てられない惨状であった。

 

 ……だか、その中でも一番に度肝を抜かれたのは────

 

 

 

「ナヴィアさんっ!?」

 

 

 

 ────倒れている、ナヴィアさんの姿であった。

 

「だ、大丈夫ですか!?ナヴィアさん!しっかりしてください!一体、ここで何があったんですか!?」

 

 僕は慌てて駆け寄り、そう声をかけながら力なく横たわるナヴィアさんの身体を、そっと慎重に抱き起こす。最初、彼女は意識を失っていたが──少し遅れて、非常に重たそうにその瞳を開いてくれた。

 

「……あなた、は……」

 

「クラハ=ウインドアです!ナヴィアさん、ここで一体何が……」

 

 ナヴィアさんは焦点の合わない視線を宙に巡らしてから、僕の方に向けて、それから微弱に震える手つきで僕の腕を掴んで、苦しそうに声を絞り出す。

 

「おね、がい……あのこを……フィリィを……とめ、て……」

 

 今にも泣き出しそうな程に、ナヴィアさんの声は震えていた。薄らと濡れた彼女の青い瞳が、僕の顔を見つめる。

 

「はやく、とめない……と……フィリィが、フィリィが…………いなく、なっちゃう……きえ、ちゃ……ぅ……!」

 

「……そ、それは、どういう……」

 

 僕が訊ねるとほぼ同時に、ナヴィアさんの瞳がゆっくりと閉じる。そして僕の腕を掴んでいた彼女の手から力が抜けて、だらりと滑り落ちる。どうやら、また気を失ってしまったらしい。

 

 フィリィ、というのは恐らくフィーリアさんのことだろう。……これでもう、信じ難いことではあるが……少なくともあの人がこの事態に何かしら関わっている、もしくは──引き起こした張本人だということが、確定してしまった。

 

 しかし、ナヴィアさんが言っていたことは、彼女の訴えは一体どういう意味なのだろう。フィーリアさんがいなくなる、消えてしまうとは……どういうことなのだろう?

 

 ナヴィアさんが残した言葉の不穏さに、言い知れない不安と焦りを感じていると、不意に先輩の声が頭上から降ってきた。

 

「お、おいクラハ。……前、見ろ」

 

「……え?前、ですか?」

 

 信じられないという風な先輩の言葉に、僕も視線を前方に向けて────瞬間、途方もない衝撃が僕を襲った。

 

「そんな、馬鹿な……」

 

 呆然と、そう声を漏らすしかなかった。恐らく、誰だってそうするだろうし、する他なかったはずだ。

 

 開いていた(・・・・・)。魔石塔の巨大な扉が、固く閉ざされていたはずのあの巨大な扉が、今ははっきりと、開かれていた。

 

 ……だが、異常はそれだけではない。というより、たぶんこちらの方がもっと重大で、より異常らしい異常だろう。

 

 砕けていた(・・・・・)。魔石塔を魔石塔たらしめていた、どんな手段を用いても破壊不可能と謳われていた、あの薄青い魔石が──無残にも粉砕されていた。

 

 まだ辛うじて残ってはいるが、それはもはや残骸としか呼ぶに値しないものであり、そして砕いた宿命から、その残骸も徐々に魔力となって、分解され始めている。このまま放っておけば──いずれ、あの残骸すらも消滅してしまうことだろう。

 

 ──なんて、ことだ。

 

 少なくとも昨日までは扉は開かれていなかったし、勿論魔石だってあんな風に粉砕されていなかった。それは確かな事実なのだ。

 

 一体誰が──そう考えて、僕はすぐにハッとなった。

 

 ──まさか、フィーリアさんが……!?

 

 信じたくはないが、こんなことあの人以外にできるとは到底思えない。というか、考えられない。

 

「…………」

 

 と、僕が愕然としていると──不意に、トンと軽く肩を叩かれる。咄嗟に叩かれた方に顔を向けると、いつの間にか僕のすぐ傍にまで、先輩が歩み寄っていた。

 

「……先輩?」

 

 先輩の顔には、困惑と──何故か、怯えが浮かんでいる。それに気づき、思わず声をかけると、僅かに震えた声を先輩は零す。

 

「声が、する」

 

 そう言って先輩がスッと、魔石塔を指差した。

 

「声、ですか……?」

 

 僕がそう訊き返すと、こくりと先輩は頷く。……その反応を見て、さらに僕の困惑は増した。

 

 先輩は声がすると言ったが、僕には何も聞こえていない。魔石塔の方からは、声どころか物音一つすら聞こえない。……というか、そもそも距離的に声や物音など、聞こえてくるはずがないのだ。

 

 ──もしかして、先輩にだけ聞き取れる、声のような何かしらの音でもしてるっていうのか……?

 

 僕がそう思っていると、今まで黙っていたサクラさんが、突然口を開いた。

 

「確かめに行こう。それが一番手っ取り早いだろうしな」

 

 そう言うサクラさんの眼差しは──真っ直ぐに、魔石塔の開かれた扉の奥の、深く濃い闇を見据えていた。

 



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ARKADIA────理遠悠神

創造主神(オリジン)』が創りし世界、オヴィーリス。この世界には、古の時から言い伝えられる五つの存在(モノ)がある。

 

 それらの名は、滅びの厄災。オヴィーリスに破滅を齎す、終末の体現。一つ一つの形を成した、一つ一つの終焉。

 

 

 

 第一の滅び────魔焉崩神エンディニグル。

 

 

 第二の滅び────剣戟極神テンゲンアシュラ。

 

 

 第三の滅び────輝闇堕神フォールンダウン。

 

 

 第四の滅び────理遠悠神アルカディア。

 

 

 第五の滅び────真世偽神ニュー。

 

 

 

 人類はこれまでに第一、第二、第三の滅びを退けた。さあ、次なる滅びは理想による滅び。悠遠なる終焉。

 

 悠久の理想郷が世界に築かれし瞬間(とき)──滅びは齎される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 想像していたよりも、塔の内部はそう入り組んではいなかった。まあ、だからといってスムーズに先に進める訳ではない──のだが。

 

 フィーリアは歩いていく。一歩も立ち止まらず、迷いなく、淀みなく。塔の中を進んでいく。だが彼女の頭の中は困惑と戸惑いで満ちていた。

 

 当然のことではあるが、フィーリアはこの塔の内部を知らない。知る由もない──だというのに、勝手に足が進む。まるで幼少時からそうしていたかのように、まるで慣れ親しんだ庭を散策するかのように、足が進んでいく。

 

 それが彼女にとって、到底無視し得ない、堪らない疑問であった。だがそれを考える間も余裕もなく、ひたすら前進を続けていく。

 

 途中途中、塔の外壁を覆っていた薄青い魔石を見かけた。どうやら魔石は内部にも渡って、この塔を侵食していたらしい────しかし、その全てがフィーリアの視界に入る度に、例外なく、片っ端から、独りでに砕け散っては解けるようにして、魔力の残滓となって宙に溶けていく。

 

 フィーリアとて最初こそ、その現象に対して面食らいはしたが、それが何度も続けば流石に慣れる。今ではもう横目で流し見るだけで、彼女はそういうものものなんだなと、軽く済ませていた。

 

 元々、これらの魔石は自分から発生(・・)したものだ。なので、今さらフィーリアがどうこう思うことはない。また途中、道を塞ぐようにして魔石が生えていたが、それも彼女が万色に絶え間なく変わる瞳で捉えれば、呆気なくそして儚く砕け散ってしまった。

 

 そんな光景を数度目にしながら、塔の内部を進み続け────遂に、フィーリアはそこへ、辿り着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恐らく、魔石塔の最深部──そこは、魔石に包まれていた。

 

 天井も壁も石に覆われた地面も、その全てが薄青い魔石によって包まれていた。魔石に宿った魔力が、微弱に光を放ち、この場所全体を淡く照らし出していた。

 

「…………何、ここ」

 

 フィーリアが、呆然と呟く。道中あれほど滑らかに、微かな淀みもなく進んでいた足は、ここに辿り着いた瞬間、また勝手に止まっていた。

 

 思うように動かない足で、フィーリアは先に、この場所の中央に向かう。フラフラと、まるで花の蜜に誘われる蝶のように、中央へと。

 

 そして途中、何回か転びそうになりながらも──フィーリアは、ようやくそれ(・・)の元にまで、歩み寄れた。

 

 フィーリアの眼前を、魔石が覆っていた。彼女の背丈を遥かに超す、それこそ天井を突き破らんばかりにまで巨大な、魔石だった。

 

 ──なんで。

 

 フィーリアの動悸が、その勢いを徐々に増していく。じっとりと、滲み出てくる冷や汗が彼女の背中を湿らせていく。

 

 ──なんで、なんでなんでなんで。

 

 フィーリアの瞳が捉えても、ここにある魔石には何の変化もなかった。そしてそれは、彼女のすぐ目の前にある巨大な、奇妙にも中心だけが砕けて、空洞となっている巨大な薄青い魔石も同じだった。

 

 視線が外せない。フィーリアは、その魔石から──中心の空洞から目が離せない。彼女の動悸が、さらに速くなっていく。

 

 ──知らない。知らない知らない知らないこんなの私は知らない。なんで、なんで、なんで。

 

 ずぐり、と。不意にフィーリアに頭痛が走る。脳髄の奥深くから、自分の全く知らない何かが、無理矢理這い出てくるような、強烈な不快感と痛烈な違和感に彼女は襲われる。

 

「っい、あ……!」

 

 堪らずフィーリアはよろめいて、咄嗟に身体を支えようと手を伸ばす────すぐ目の前に聳え立つ、全く知らないのに知り尽くしている(・・・・・・・・)巨大な魔石に。

 

 フィーリアの小さな白い手が、ゆっくりと伸びて──────その魔石に、触れた。

 

 

 

 

 

「……………………は?」

 

 

 

 

 

 フィーリアは、目を見開く。魔石に触れている彼女の手が、わなわなと震える。

 

「ぇ、いや……なんっ……ぃや、嘘、嘘嘘嘘嘘」

 

 今すぐ魔石から手を離せと、心が叫ぶ。しかし、それが秒も経たずに、容赦なく吹き飛ばされる。

 

「違う違う違う違う違う違う違う違う」

 

 出鱈目に言葉を垂らしながら、ようやくフィーリアは魔石から手を離し、その場に両手を突く。彼女の顔は──まるで死人のように真白だった。

 

「私は、私は、私は…………」

 

 亡霊のようにそう呟くフィーリアの瞳から、涙が落ちる。ぼたぼたと、止め処なく落ちていく。

 

「ああ……ぁ……ああああぁぁぁぁああ……」

 

 フィーリアの心を、深い後悔が満たしていく。昏い絶望が覆っていく。

 

 フィーリアの右の瞳が、虹に染まる。

 

 フィーリアの左の瞳が、灰に染まる。

 

「………………そう、だったん、だ」

 

 掠れて、震える声でそう呟いた瞬間──────それ(・・)は全てを(・・・・)取り戻した(・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕が想像していたよりも、魔石塔の内部はそう複雑なものではなかった。だが途中壁が崩壊していたり、瓦礫が散らばっていたりと、進むには少々疲れる道のりではあった。

 

 当然と言うべきか、魔物(モンスター)の気配は全く感じない。その点であれば、昔先輩と共に探索した遺跡(ダンジョン)などに比べれば幾らか楽だろう。

 

 ……だからといって、最低限の警戒は怠らない。魔物の気配を感じないからといって、そう安心できるものではない。魔物の中には意図的に気配を消せる種類もいるのだから。

 

 体力を余計に削らぬ程度に注意を払いながら、僕と先輩、そしてサクラさんの三人で塔の内部を進む──いや、降りていく。

 

 ──……それにしても。

 

 歩きながら、視界の端に映る魔石に意識を向ける。薄青い、魔石。……間違いなく、魔石塔の外壁を覆っていたものと同じものだろう。

 

 ……気のせい、だとは考えたい。自分の考え過ぎだと思いたい。しかし、これまで散々目にしてきた、この魔石は。

 

 ──以前、フィーリアさんが……。

 

 ギュッ──不意に、僕の腕を何かが掴んだ。

 

 咄嗟に顔を向けると、先輩が僕の腕を掴んでいた。……先輩が浮かべていた不安や怯えは、魔石塔に入るよりも深く、濃いものとなっていた。

 

「……先輩」

 

 僕が声をかけると、先輩は戸惑った様子で口を開く。

 

「…………やっぱ、声すんだよ。さっきからずっと、何かが呼んで、やがる……!」

 

 言いながら、先輩は掴むだけじゃなく、僕の腕に抱きついてくる。その身体は、僅かながら震えていた。

 

「それに、俺知らねえのに……こんな場所、全然知らねえのに……なんでこんなに懐かしい(・・・・)って思うんだよ……!」

 

 ……先輩の声は、震えていた。どうしようも、ないくらいに。そんな先輩に対して僕は言葉をかけようとして──代わりに、そっと自分の手をその華奢な肩に乗せた。

 

「……大丈夫ですよ、先輩。僕が、いますから」

 

 僕の言葉など気休め程度にしかならないと思ったが、それでも先輩は充分だったようで、こくりと小さく頷いて僕の方に身体を寄せた。

 

「ウインドア」

 

 突如、先を歩いていたサクラさんが口を開いて、僕と先輩の方に振り返った。

 

「この先が最深部かもしれん」

 

 サクラさんはそう言って、それから少し言い淀むようにして、僕に続けた。

 

「……剣は、いつでも鞘から抜けるようにしておけ」

 

「え?」

 

 それは一体どういうことですか、と僕が訊き返すよりも早く、サクラさんはまた歩き出してしまう。

 

 ──剣を抜けるようにって、なんで……。

 

 サクラさんの言葉が引っ掛かったが、考えるのは後にして僕も先を進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔石塔の最深部──と思われる場所。そこは大きく開けた場所となっていた。

 

「……ここ、は」

 

 見渡しながら、僕は呆然と呟く。ただただ、圧倒される他なかった。

 

 視線を向ける先全てに、あの薄青い魔石がある。しかもこの道中で見かけたものと、比較にもできない程に高純度なものだ。それがこの場所全体に──いや、この場所を包み込むようにしてそこら中から生え出している。

 

 微弱な魔力を放ち自ら発光する魔石が作り出す景色は、非常に幻想的で、まるでここがオヴィーリスではない、別の異界のように感じられた。

 

 ……だが、僕は以前にも一度、似たような(・・・・・)景色を目にしたことがある。そう────僕と先輩が迷い込んだ、緑色の魔石が生え出していた、あの洞窟で。

 

 ──同じ、だ……。

 

 厄災の予言に記されし滅びの一つ、『魔焉崩神』エンディニグル。終焉を司る魔神の出現の影響によって、恐らく生み出されたのだろうあの洞窟。その最奥で目にしたように────この開けた場所の中央部には、極太の柱のような魔石が突き立っている。……そして、その魔石の元に。

 

「フィ、フィーリアさん!」

 

 今朝からその姿を消していた、フィーリアさんの姿があった。彼女はこちらに背を向けて、目の前にあるその魔石を見上げていた。

 

 思わず咄嗟に一歩踏み出そうとして──寸前、バッとそれをサクラさんに止められた。

 

「……サクラさん?何を……」

 

 何故止めたのかと僕が訊く前に、声が響く。

 

「思ってたよりも、早かったですね」

 

 それは紛れもなく、フィーリアさんの声だった。……そう、それは間違いない。だが、その声音は──ゾッとするほどに無感情で、無機質極まりないものだった。

 

 瞬間、僕の身体に重圧(プレッシャー)がのしかかってくる。全身から、冷や汗が滲み出してくる。

 

「……フィーリア、さん……?」

 

 呆然と、半ば無意識に僕はそう呟く。わからなかった。何故フィーリアさんから、こんな威圧感が放たれているのか、全く理解できなかった。

 

 呆気に取られている間に、フィーリアさんがゆっくりと僕たちの方に振り返る。

 

「……私、全部思い出したんです」

 

 振り返ったフィーリアさんの顔は、無表情だった。感情など欠片程も感じさせないくらいに、無表情だった。その無表情な顔には────薄青い、紋様のような刺青が走っている。

 

「長話もなんでしょう。手短に、手っ取り早く言いますね──私って、実は人間じゃなかったんですよ(・・・・・・・・・・)

 

 普段とかけ離れた、一切色の変わらない虹の瞳と灰の瞳でこちらを眺めながら、フィーリアさんがそう言う。何も言えずにいる僕と先輩、サクラさんの三人に向けて、彼女は言う。

 

「では、改めて名乗らせてもらいます──人間」

 

 ただただ、固まるしかない僕たち三人にはっきりと────こう告げた。

 

 

 

 

 

「私が『理遠悠神』アルカディア。厄災の予言に記されし、滅びの一つ()り」



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ARKADIA────最悪な決別

「私が『理遠悠神』アルカディア。厄災の予言に記されし、滅びの一つ()り」

 

 幾度となくその輝きを変える虹に染まった右の瞳と、透き通った灰に染まった左の瞳に。何ら感情を一切感じさせない眼差しを宿して。僕たちの前に立つフィーリアさんは微かな躊躇も、迷いもなく、はっきりとそう名乗った。

 

 ……だが、僕にはその名乗りが、まるで意味がわからなくて、理解できないでいた。

 

 信じられない面持ちで、僕は口を開く。

 

「フィ、フィーリア……さん?ど、どうしたんですか?そんな、急に……じょ、冗談でもそれは流石に笑えませんよ……?」

 

 情けなく震えた僕の言葉に対して、フィーリアさんは何も返さなかった。ただ、無感情で無機質な、底冷えするような眼差しをこちらに送るだけだった。

 

「フィ、フィーリ「煩い」

 

 数秒の沈黙に堪え切れず、再度名前を言おうとした僕の声を、フィーリアさんが遮った。……その声も、普段からは全く想像できない程に、冷たいものだった。

 

「私はフィーリアじゃない。アルカディアです。滅びの厄災──私は、貴方たち人間の敵ですよ」

 

 違う。そんな訳がない。そんな筈がない。何かの間違いです──そういった、否定の言葉を僕は咄嗟に口に出そうとした。今自分の目の前に立つ現実を認めたくなくて、受け入れたくなくて、口に出そうとした。……だが、それは叶わなかった。

 

「ッ……」

 

 口を開こうとした瞬間、そこでようやく、初めて。こうして対面してから初めて、フィーリアさんが感情らしい感情を露出した──けど、それは殺意(・・)だった。

 

 昏く、冷たい殺意。その口を開けば殺すという、意思表示。そうだとは認めたくなかったが──そこに、躊躇いも迷いも見られない。

 

 およそフィーリアさんのものとは思えない殺意に当てられて、堪らず恐怖に僕は身体を強張らせ、開きかけた口を閉じる──直前。

 

 

 

「違え!」

 

 

 

 先輩が一歩前に出て、そう叫んだ。

 

「お前はフィーリアだ!人間のフィーリアだ!なのに、厄災だとか滅びだとか敵だとか……何馬鹿なことほざいてんだよ!?冗談でも言って良いことと悪いことがあんだろ、フィーリア!!」

 

 さっきまで怯えていたのが、まるで嘘のようだった。先輩は必死に、懸命にフィーリアさんに言葉を投げかける。

 

 それに対し、フィーリアさんが虹と灰の双眸を先輩へと向ける。そこに込められていたのは────

 

 ──……え?

 

 ────限りない憎悪と、怨嗟だった。

 

「…………ふふっ、ふふふ」

 

 今まで無表情だったフィーリアの顔に、変化が訪れる。その口元が吊り上がり、にいっと見るからに邪悪な笑みを作り上げた。作り上げて──

 

「ご多幸そうで何よりですね。……お母様(・・・)

 

 ──そう、呟いた。

 

「……は?」

 

 フィーリアさんの呟きに、遅れて先輩が意味がわからないというな声を漏らす。……僕も、内心では同じ気持ちだった。

 

 ──お、お母様?今、フィーリアさんは先輩に対して……お母様って、言ったのか?

 

 だがそこに対して何か考える余裕を、フィーリアさんは与えてくれなかった。すぐさま浮かべたその笑みを消して、淡々と言う。

 

「はっきり言って、不愉快。本当に不愉快極まりない──もう失せろ」

 

 心の底から有らん限りの憎しみと恨みを込めた声で、フィーリアさんは忌々しそうに吐き捨てる。瞬間、宙が薄青い燐光のような、弱々しい光を放ち────気がつけば、そこには魔石が浮いていた。

 

 全体的に歪で、刺々しい形状の魔石で、先端がより鋭利に、凶悪に尖っている。人体など容易く貫けることは明白で、その先端はしっかりと先輩の首に狙いを定めていた。それに気づき、凄まじい悪寒と共に僕は咄嗟に叫ぶ。

 

「せ、先輩ッ!!」

 

 そして慌てて前に出ようとして────その前に、サクラさんが先輩の首根っこを掴んでいた。そのまま、彼女は先輩を後ろの方に引っ張る。

 

「ひゃわっ?」

 

 突如サクラさんによって引っ張られた先輩が悲鳴を上げ、直後既に誰もいない宙を魔石が貫く。そのまま速度を落とさず魔石は飛行を続け、やがて壁に深々と突き刺さった。

 

「ウインドア!」

 

 いつになく真剣な声でサクラさんは叫んで、引っ張った先輩を己の元に引き寄せたかと思うと──なんと、そのまま抱き抱えた。

 

「……はっ?えっ?」

 

 所謂、お姫様抱っこというもので。ひたすら困惑する先輩を他所に、サクラさんが続けて僕に向かって叫ぶ。

 

「走れ!ここは一旦退くぞ!死にたくなければ、とにかく走るんだ!」

 

 そう叫ぶや否や、サクラさんはその場から駆け出す。その速度は森の時とは比べ物にならないで、あっという間に僕の視界からサクラさんの背中が遠ざかっていく。

 

「ちょ、サクラさん……!?」

 

 堪らず呆然と呟く僕の後ろで、何か奇妙な音が凄まじい勢いで立て続けに響き渡る。その音に釣られて思わず視線を向けると────

 

「な、なっ……」

 

 ────魔石、だった。有り得ない勢いと速度で魔石が大量に、次々と作り出され一つになっていき、それら全てが巨大な生物のように、不気味に蠢いていた。

 

 魔石はフィーリアさんの身体を包み込むようにして、一瞬で覆い隠す。それから一瞬だけその動きを止めたかと思うと、壁やら地面やら、そこら中からも魔石が生え出し、僕に向かって殺到する。

 

「ッ……!!」

 

 濃厚な死の気配に背中を押されて、気がつけば僕はサクラさんと同じように、その場から脱兎の如く駆け出していた。



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ARKADIA────話してやる

 魔石塔最深部──今現在、その場所にて僕──クラハ=ウインドアは有らん限りの力を足に込めて、所々崩れて荒れた通路を、死に物狂いで激走していた。

 

「うおおわあああッ!!」

 

 そこらに転がる瓦礫に決して足を取られ、転ばないよう細心の注意を払いながら、ただひたすらに疾駆する。もし少しでも立ち止まろうものなら──死ぬ。背後から聞こえてくる、先ほどからずっと鳴り止まない、立て続けに硝子を割って砕くような、妙に澄んだ音がそれを嫌でも、僕にそう確信させる。

 

 ──クソ、状況が状況だからか……道が長いって、出口が遠いって、思ってしまう……!

 

 息を切らしながらも、尚僕は走り続ける。当たり前だ、今ここで一秒でも止まったら、僕の身体は迫り来る魔石の津波に呑まれて、グシャグシャに砕かれ潰され、それはもう滅茶苦茶にされる。僕だって、誰にだってわかる数秒先の末路(みらい)だ。

 

 だから、僕は止まらない。息が切れようと、たとえ体力が限界に達しようと、僕は止まる訳にはいかない。こんな所で──死ぬ訳にはいかない!

 

 気力を奮い立たせて、己を鼓舞しながら走る。通路を駆ける。魔石塔内部を、僕は疾走し続ける。

 

 時間にして恐らく数分のことだっただろう。だが僕からすれば、何時間のようにも思えた。そうと思える程に僕は走って────ようやく、求めていた光景が視界に入る。

 

 少しも躊躇わず、まるで跳ぶようにして最後の一歩を踏み出し、僕は魔石塔の出口を抜けたのだ。

 

 抜けた後も止まらず、ある程度まで進んで魔石塔の出口から遠ざかる。そうして初めて僕はその場に立ち止まって、膝に手を置き腰を曲げて、思い切り息を────

 

 

 

「クラハっ!」

 

 

 

 ────吸う前に、先輩に抱き締められた。僕の視界が一瞬にして肌色に染まって、顔はすべすべふわふわで柔らかい感触に包み込まれる。

 

「もごッ?!」

 

「大丈夫か!?怪我とかしてねえよなっ!?」

 

 これ以上になく焦った声音でそう訊ねながら、先輩更に僕を強く抱き締める。当然、その問いに僕が答えられる道理はない。

 

 ──い、息できな……し、死ぬぅ……!

 

 とにかく離して欲しいと訴える為に、僕は腕を上げようとする。しかし、全力に全力を費やした後で、体力の限界に陥っている僕の身体にそんな余力は残されておらず、プルプルと微弱に震わせることしかできない。

 

「もご、ご……も」

 

「何か返事してくれよクラハ!なあ!」

 

 返事したくてもできないんですよ──そう心の中で呟いた瞬間、急激に意識が遠のき始めて──

 

「ラグナ嬢。取り敢えずウインドアを離してくれ。じゃないと彼が窒息する」

 

 ──そして掻き消える前に、若干焦りを滲ませてサクラさんがそう言った。

 

「おうわっ!?ご、ごめんクラハ!マジごめん!」

 

 サクラさんの言葉を受けて、慌てながら先輩が僕を天国と地獄の両方を内在した、その魅惑の谷間から解放する。直後、僕は激しく咳き込みながらも、必死に何度も深呼吸を繰り返して、新鮮な酸素を空っぽ間近となっていた肺に取り込む。

 

 ──僕は、あと何回先輩で溺れかければいいんだ……!?

 

 僕がそう心の中で思う側で、不意に先輩でもサクラさんでもない、新たな声がこの場に響いた。

 

「お三方!無事でしたのね!」

 

 声のした方へ、僕たち三人はほぼ同時に顔を向ける。声の主は──ナヴィアさんだった。僕たちが魔石塔へ突入している間に、どうやら意識を取り戻したらしい。

 

「フィリィ!フィリィは!?」

 

 僕たちの方にまで駆け寄って、ナヴィアさんは一番近くにいたサクラさんに詰め寄って、掴みかからんばかりの勢いでそう訊ねる。そのあまりにも切迫した様子の彼女に、サクラさんも多少は面食らいながらも口を僅かに開いて──だが、すぐに閉じて視線を逸らしてしまう。

 

 そんなサクラさんの反応を目の当たりにして、ナヴィアさんはその蒼い瞳を見開かせ、悔しそうに顔を歪めさせた。

 

「…………そう、ですのね。やはり、こうなって(・・・・・)しまったのね」

 

 ──……こうなって、しまった……。

 

 そのナヴィアさんの言葉を聞いて、僕は確信する。彼女は知っていた(・・・・・)。全て、とは流石に考えないが……ナヴィアさんは、予めある程度は知っていたのだ。

 

 肺に充分な量の酸素を取り込み、ようやく落ち着きを取り戻すことができた僕は、ナヴィアさんに話を聞こうと近づく──前に。

 

 

 

 パキパキパキッ──背後の、魔石塔の方から。先程散々聞かされたあの(・・)恐ろしい音が、不意に鳴り響いた。

 

 

 

「…………早く、ここから離れた方が良さそうだな」

 

 硬直する僕の側で、ぽつりとサクラさんが呟いて、彼女を除くその場の全員が無言でそれに同意した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戻って来たかい。待ってたよ」

 

 魔石塔から離れ、廃墟街からマジリカに戻って来た僕たち四人を待っていたのは────フィーリアさんと同じように、突如としてその姿を消していた『輝牙の獅子(クリアレオ)GM(ギルドマスター)──アルヴァさんだった。

 

 正直予想もしていなかった僕たちは思わず驚いてしまった。……ただ一人、ナヴィアさんを除いて。

 

 アルヴァさんは僕と先輩とサクラさんを眺めて、それから何も言わずに背を向ける。そして言った。

 

「付いて来な」

 

 そう言って、彼女はその場から歩き出す────

 

 

 

「話してやるよ、全部」

 

 

 

 ────そう、付け加えてから。



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ARKADIA────十六年前(その一)

「付いて来な。話してやるよ、全部」

 

 そう言われ、アルヴァさんと共に僕たちは『輝牙の獅子(クリアレオ)』へと戻った。『輝牙の獅子』のロビーには意識を取り戻した冒険者(ランカー)や、こちらに避難した住民たちで溢れ返っており、それはもう凄い状況ではあった。

 

 全員が全員、困惑状態の半ば混乱(パニック)に陥ってしまってはいたが、それもアルヴァさんが一喝するとすぐさま収まった。そして彼女は後の処理を受付嬢らに任せて、僕たちをGM(ギルドマスター)の執務室へと連れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さて。全部話してやるとは言ったけども……一体何処から話せば良いのか」

 

 そう言って、椅子に腰掛け執務机に肘を突き、組んだ手を顎に当てながら、アルヴァは少し悩ましそうにする。そのすぐ隣では、ナヴィアさんがばつが悪そうに立っていた。

 

「まあ、取り敢えずだ。あんたら、フィーリアとは会えたのかい?……あの魔石塔の最深部で、さ」

 

 そのアルヴァさんの問いかけに対して、少し遅れて僕と先輩だけが小さく頷く。サクラさんは、何か考え込んでいるのか俯いていた。

 

「……フィーリアさんは、自分のことをアルカディアと──『理遠悠神』アルカディアだと名乗って、いました」

 

 僕がそう言うと、アルヴァさんは特に驚く様子も見せず、ただそうだろうねと、一言だけを僕に返した。

 

 再び、その場の誰もが黙ってしまう。執務室が静寂に包まれる。が、それを破ったのは──

 

「一つ、訊ねたいことがある」

 

 ──先程俯き、何か考え込んでいたサクラさんだった。彼女はいつの間にかその顔を上げており、黒曜石と見紛う瞳で、アルヴァさんのことを真摯に見つめていた。

 

 対し、アルヴァさんは口を開かなかった。サクラさんと同じように、黙って彼女もまた、紫紺色の瞳をサクラさんに向ける。それがアルヴァさんなりの了承の合図なのだと僕はわかっており、そしてそれはサクラさんもわかったらしい。少し遅れて、彼女が口を開く。

 

「お二人は……いや、アルヴァ殿は知っていたのか?この事を……貴女は元から、全て知っていたのか?」

 

 そのサクラさんの問いかけに、アルヴァさんはすぐには答えなかった。……ただ、気持ちばかりその瞳に、翳りを差して。それからゆっくりと、アルヴァさんも口を開いた。

 

「ああ。知っていたさ」

 

 アルヴァさんの返答に対して、サクラさんが何か言うことはなかった。スッと彼女へ向けていた瞳を細めて、口を開こうとしたが、閉じたのだ。

 

 何か言いたそうにはしていたが、結局サクラさんは何も言わず、少し複雑そうな表情を浮かべ先程と同じように俯いてしまう。そんな彼女の様子を目の当たりにして、妙だなと思いはしたが──それよりも、アルヴァさんに向かって僕は口を開いていた。

 

「し、知っていたって……フィーリアさんが『理遠悠神(アルカディア)』だと、彼女が滅びの厄災だと、アルヴァさんは最初から知っていたんですか!?まさか、ナヴィアさんも!?」

 

 もしそうなら、何故話さなかったんですか。何故今まで黙っていたんですか────僕はそこまでは口に出さなかったが、それでもアルヴァさんには充分伝わった。依然その紫紺の双眸に翳りを見せながら、彼女は言う。

 

「ナヴィアにはそこまで話しちゃいない。この子にはただ、時期(・・)が来るまでに、あの馬鹿娘を塔からできるだけ遠ざけて欲しいって頼んでただけ。…………事の発端は、今から十六年前になる」

 

 そこまで言って、アルヴァさんは躊躇うかのように一瞬黙ったが、こう続けた。

 

(アタシ)は、まだ魔石塔とは呼ばれていなかったあの塔で、フィーリアと出会った」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世暦九百八十三年。フォディナ大陸首都────マジリカにて。この日この時、彼女は苛立ちながらも、目の前に聳え立つその塔を下から眺めていた。

 

「…………何だって(アタシ)がこんなチンケな塔の調査なんかしなきゃならないのかねえ」

 

 心を煮えさせる苛立ちを乗せて、ぽつりと忌まわしそうにぼやく彼女の名は──アルヴァ=レリウ=クロミア。大魔道士と謳われるレリウの名を継ぐ、謂わば今代の大魔道士にして、『六険』序列第二位の元《S》冒険者(ランカー)でもあり、そして冒険者組合(ギルド)輝牙の獅子(クリアレオ)』の若きGM(ギルドマスター)である。

 

「全く。やれやれだよ」

 

 尚もそうぼやいて、彼女は懐から一本の煙草(タバコ)を取り出す。そしてその煙草を咥えたかと思うと、指を先端に近づけパチンと鳴らす。瞬間火花が散って、先端が燃え出した。

 

 うんざりとした様子で、鬱屈そうに紫煙を吐き出しながら、アルヴァは塔を見つめる──何ら変わりのない、特に変哲のない石塔を。

 

 

 

 

 

 しかし、アルヴァは知らなかった。その最深の最奥にて、この世界(オヴィーリス)を揺るがす、波乱の運命が眠っていることを。



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ARKADIA────十六年前(その二)

(アタシ)に塔の調査をして欲しい、だあ?」

 

 フォディナ大陸首都、マジリカ。通称『魔法都市』。二百年前に実在していたという、魔道士の祖と伝えられ、大魔道士と今現在でも謳われるレリウが作り上げた街。

 

 そのマジリカにある、このフォディナ大陸を代表する冒険者組合(ギルド)──『輝牙の獅子(クリアレオ)』。急激にその数を増やしたこの時代の組合の中でも、『三強』と称される組合の一角である。

 

 そして『輝牙の獅子』の執務室にて、明らかに至極面倒そうな声色で、大魔道士の名を継ぐ、今代の大魔道士──『輝牙の獅子』三代目GM(ギルドマスター)、アルヴァ=レリウ=クロミアはそう言ったのだった。

 

「え、ええ。その通りでございます」

 

 対し、世界(オヴィーリス)全組合を統治する組合──『世界冒険者組合(ギルド)』からの使者である男は、やや怯えながらもアルヴァにそう返す。

 

「…………はあ」

 

 聞くからに重たいため息を吐いた後、アルヴァは懐から煙草(タバコ)を取り出し、それを咥えると指を先端に近づけ、鳴らす。パチンと軽い音と同時に火花が散って、火が点る。

 

 うんざりとした様子で、鬱屈そうに紫煙を吐き零してから、アルヴァは言う。

 

「わざわざGDM(グランドマスター)が直々に出すような依頼(クエスト)でもあるまいに……クソが」

 

 美女と評しても差し支えのないアルヴァの口から、荒んだ声音で吐き出される暴言スレスレの言葉に、使者が堪らずビクリとその身体を揺らす。

 

 ──……タマの小さい奴だねえ。

 

 使者の反応を眺めて、依然紫煙を吐きながらアルヴァは内心独言る。それから彼女は数秒程黙っていたが、観念したかのように使者に言った。

 

「わかったよわかった。引き受けるよ、その依頼」

 

「ほ、本当ですか。いやぁありがとうございます。あ、こちらに詳細が記載されておりますので、後程確認をお願い致します」

 

 アルヴァの了承を受けて、使者は心底ホッとしたような安堵の声音で矢継ぎ早にそう言葉を連ね、彼女の執務机に様々な書類を置くと、そそくさと執務室を後にした。

 

 使者の遠ざかる背中を見送って、アルヴァは彼が置いていった書類へと視線を向ける。流し目でそれらの内容をざっと通して、咥えていた煙草を口から離す。だいぶ短くなったそれは、一瞬にして炎に包まれ灰すら残さず燃え尽きた。

 

「…………面倒だねえ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それにしても、いつ見ても立派な塔だよ。少なくとも二百年前に建造されたなんて、とてもじゃないけど信じられない」

 

 紫煙を吐き出しながら、目の前に聳え立つ塔を調査することになった経緯に当たる、一週間前の記憶を振り返るアルヴァの耳に、何処となく柔らかで、軽い声が届く。向いて見れば、今ではよく見知った男がこちらに歩いて来ていた。

 

「そしてこれがかの偉大なる『創造主神の遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の一つだということも、ね」

 

 男はそう付け加えて、アルヴァの隣に並び立つ。彼の横顔をある程度眺めてから、アルヴァは口を開いた。

 

「何だ。アンタも来てたのかい、ジョシュア」

 

「いや来てたのかいって……今朝顔を合わせたじゃあないか、アルヴァ」

 

 男──ジョシュアはアルヴァの言葉に非難を返す。しかし彼女は大して気にすることなく、至って平然としたままだった。

 

「忘れてた。影薄いんだよ」

 

「ええ……?相変わらず君は酷いなぁ」

 

「まあそんなどうでもいいことは放っておくとして。何か用?」

 

 全く、微かにも悪びれない様子のアルヴァに、ジュシュアは堪らず嘆息し、やれやれと首を振りつつも彼女の言葉に答える。

 

「塔へ入る準備が整ったから、それを君に伝えに来たのさ。僕を含めて今は皆、君の指示待ちだよ。リーダー」

 

「そうかい。そいつは利口なことだね」

 

 初めと比べるとだいぶ短くなった煙草を、アルヴァは口から離す。すると遅れて煙草は炎に包まれて、一瞬にして灰すら残さず燃え尽きる。

 

 軽く手を振って、彼女はまるで愚痴を零すかのように言った。

 

「それじゃあ、さっさと入ってさっさと調べてさっさと帰るとしよう」



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ARKADIA────十六年前(その三)

創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』────この世界(オヴィーリス)を無から()み出したと、今現在なお神話として伝えられる最高神、『創造主神(オリジン)』が遺したという、この世の理ですら捻じ曲げかねない力を秘めた、魔道具(マジックアイテム)と似て非なる物。

 

 現在それがそうだと確認されている物は少なく、その上その全てがこの世界の法を統治する機関──『世界冒険者組合(ギルド)』によって、漏れなく回収され、管理されている。……ただ一つを除いて。

 

 その一つというのが今アルヴァたちが調査しているこの塔である。どの年代に建てられたのかも不明であり、それこそ下手をすれば俗に神話と呼ばれる時代の建造物、と考察する遺跡学者も少なくはない。

 

 しかしそれを確かめようにも、この塔を調査することはおろか近づくことすらも『世界冒険者組合』から禁じられていた。曰く、我々人類が触れるには、あまりにも分不相応であり、畏れ多い禁忌なのだという。

 

 ……そう、禁じられていた。禁じていたはずだった。

 

 

 

 

 

「……それが今更、どういう風の吹き回しだってんだい」

 

 想像の程よりも幾分綺麗で、整っている通路を、しかし慎重に進む傍ら、アルヴァはそう小さくぼやく。注意して耳を澄まさなければ聞き取れないような、そんな小さな声量ではあったが、彼女の隣を歩く男──ジョシュアの耳には届いていた。

 

「どうしたんだいアルヴァ?そんなに苛ついていると、折角の美貌が台無しだよ?」

 

「煩い黙れ。……別に何でもないよ。一々気にするな」

 

「ならいいんだけどね」

 

 調査の補助を務める数人の遺跡学者と、護衛である数人の《A》冒険者(ランカー)に取り囲まれるようにして、アルヴァとジョシュアは塔の通路を進む。進みながら、二人は他愛のない会話を交わす。

 

「それにしても、思っていたよりも中荒れてないね。壁も然程崩れていないし、この通り通路だって歩き易い。そして何よりも……空気が澄んでいる。塔の中にいるのに、まるで外みたいだ」

 

「……まあ、調査がし易いなら(アタシ)は何だっていい」

 

「君のその淡白な反応、僕の予想通りだよ」

 

 などという、他愛のない会話を繰り広げながら、アルヴァたち即席の調査隊は先を進んで行き────やがて、塔の最深部に続くのではと思われる通路に差し当たった時だった。

 

「これ、は……」

 

 目の前に広がっている、その光景を目の当たりにしたジョシュアが呆然と呟く。アルヴァも、表面上は平然とはしていたが、内心はジョシュアと同じような面持ちでいた。

 

 調査隊の眼前は、薄青い魔石で覆われていたのだ。

 

「魔石……?」

 

 警戒しながらも、慎重な手つきでジョシュアがすぐ側の壁を覆っていた魔石に触れる。

 

「……普通だ。アルヴァ、これは至って普通の魔石だよ。しかし、何故塔の内部にこんな魔石が──っと?」

 

 突然、アルヴァはジョシュアの肩を掴み、彼を後ろに退がらせる。それとほぼ同時のことであった。

 

 パキキ──妙に澄んで、何処か軋んだような音が響く。それに遅れて、調査隊の面々の前に広がっていた薄青い魔石が、固体である筈の魔石が、まるで流体のように蠢き出した。

 

「な、何だ!?」

 

 遺跡学者と《A》冒険者たちが、その奇怪で信じ難い光景の前に堪らずざわめき立つ。しかしそんな中でも、アルヴァとジョシュアは冷静だった。装っている訳でもなく、二人は冷静に目の前の光景を眺めていた。

 

 薄青い魔石は絶えず蠢き、流動しながらも一点へと収束する。壁を覆っていた魔石も、通路に張っていた魔石も、その全てが。

 

 液体のようになった魔石は幻想的とも思える薄青い燐光を周囲に振り撒きながら、やがて溶け合い混ざり合い、一体となって────突如柱のように突き立ち、硬化した。

 

 いっそ不気味とさえ思える勢いで蠢いていた魔石は、その形を保ったまま静止する。そのまま数秒が過ぎ、ぽつりと一人の冒険者が呟く。

 

「止まった……?」

 

 瞬間、魔石の柱全体に罅が走る。走って、内側から爆発でもしたかのように弾けて崩れる。しかしその勢いとは裏腹に破片は周囲に飛び散らず──どころか、驚いたことにその一つ一つが宙で固められたように止まった。

 

 宙で止まっていた破片はやがてゆっくりと、まるで何かに引き寄せられるようにして、互いが互いにくっつき、そして合体していく。

 

 気がつけば────調査隊の目の前には、薄青い魔石で出来た、酷く歪で角張った、刺々しい人型の物体が立っていた。予想だにしない光景の連続に、驚き固まるしかないでいる調査隊の面々へと、顔らしき部分がパキバキという音を立てながら、ぎこちなく向けられる。

 

「……モ、魔物(モンスター)!?岩人形(ゴーレム)か!?」

 

「アルヴァ様!お下がりください!」

 

 正気を取り戻した冒険者たちが、それぞれの経験を生かし、各々の得物を抜き、全員前に出る──直前、そんな彼らに対してアルヴァは淡々と告げた。

 

「アンタらが下がりな。じゃないと、死ぬよ」

 

 アルヴァの言葉を受けて、冒険者たちが一斉に彼女の方を見る。彼らの視線を浴びながら、悠々とアルヴァはその場から歩き出して、岩人形と思しきその魔石の魔物と彼女は対峙する。

 

 ──ざっと見、〝殲滅級〟最上位……下手すれば〝絶滅級〟か。とんだ化け物が潜んでたもんだ。

 

 内心そう呟きながら、アルヴァは嘆息する。だが同時に安堵もした──何故なら、今この場に自分がいなかったのなら、間違いなく調査隊は全滅していただろうから。

 

 魔石の魔物の、恐らく腕と思われる鋭く尖った部分に警戒しながら、アルヴァは息を吐いて、己の魔力を手元に集中させる。一瞬彼女の手元から赤光が散ったかと思うと──ボウ、と大気を焼き焦がす音を響かせて、短剣を模したような、細長く幅広い炎が噴き出した。

 

「ア、アルヴァ……」

 

 心配と不安で満ちたジョシュアの声が静かに、その場に響く。だが彼の声に対してアルヴァが振り返ることは決してなく、彼女は噴き出したその炎を何の躊躇いもなく己が手で握り締めた。

 

 アルヴァと魔石の魔物が、沈黙と静寂の元で互いを見合う。ジョシュアも、学者たちも、冒険者たちも、誰も彼もが押し黙る最中──先に動いたのは。

 

 

 

 パキンッ──魔石の魔物だった。



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ARKADIA────十六年前(その四)

 パキンッ──魔石が砕けるような、あの甲高く妙に澄んでいる音が通路に響き渡る。アルヴァの背後にいた面々がその音が響いたという事実を認識する頃には(・・・・・・・)、目の前に立ちはだかる魔石の魔物(モンスター)の胴体から突如として生え出した、全体が歪で刺々しい槍の如き新たな魔石が地面を突いていた。

 

「……お、おおっ……」

 

 一人の冒険者(ランカー)が、堪らずといった様子で動揺の声を漏らす。当然だろう──確かに、確かに魔石は地面を突いてはいた。恐らくこの塔と同質の材料である石で覆われた地面を、その石を割り砕き貫いてはいた。

 

 ……だが、もう既にそこには誰もいなかったのだ(・・・・・・・・・)

 

 

 

「鈍いんだよ、木偶の坊」

 

 

 

 その場にいる全員が驚愕に固まっている中、誰の目にも捉えられることなく、魔石の魔物の背後で自らが作り出した炎の短剣を振るった体勢のまま、アルヴァが鋭く吐き捨てるように叱咤する。数秒遅れて──地面を突いていた魔石が真っ二つに折れる。どちらもその断面は、まるで融解でもしたかのように熔けていた。

 

 そして、魔石の魔物自体にも異変は訪れ──妙に甲高く澄んだ音を喧しい程に鳴らしたかと思うと、その身体が斜めに分かれて、そのまま砕けて無数の破片と欠片になって地面に散らばり、ばら撒かれた。

 

「ま、全く見えなかった……何という、早業……」

 

「これが『紅蓮』のアルヴァ……引退してもなお、この強さなのか」

 

「……桁違いだ。俺たちとは実力の桁が違い過ぎる……!」

 

 今し方目の前で繰り広げられた光景が、到底受け入れ難く信じられないという風に、口々に呻くようにそう呟く冒険者たちと、未だ呆気に取られて呻き声すら出せないでいる学者たちを他所に、ただ一人ジョシュアはその場から駆け出して、慌てた様子でアルヴァに寄り添う。

 

「アルヴァ!?大丈夫かい!?」

 

 普通であれば、そんな風に、まるで彼女の身を案じるかのように声をかけるなど、誰もすることはないし、しなかっただろう。

 

 何故ならアルヴァには目立った負傷もなく、また先程の光景を目にしたばかりなのだ。彼女を心配する要素など何一つ見当たらないし、むしろ完璧過ぎる程の勝利を収めた彼女に対して、そんなものは無礼の極みでしかない──そう誰でも思うように、冒険者たちも思って、ジョシュアに対して彼らは非難の声をぶつける────その直前だった。

 

 グラリ、と。至って平然と立っていたアルヴァが、突如よろめいた。

 

「え……?」

 

 冒険者の一人が困惑の声を漏らすのと同時に、よろめいた彼女を、すぐ傍のジョシュアが優しく、慎重に。まるで割れ物を扱うようにして、できるだけ彼女に負担がかからぬように抱き留めた。

 

「ほら、見たことか。一応は医者である僕の目の前で、あんな無茶は止してくれ」

 

「……(アタシ)()らなきゃ、全員()られてた」

 

 無傷であるはずのアルヴァは、ジョシュアに寄りかかりながら、苦しそうに何度も荒い呼吸を繰り返していた。息絶え絶えにしながらもそう返された彼女の言葉に対して、ジョシュアは表情を曇らせながらも、窘めるように言う。

 

「それでも、だ。前と違って君はもう──魔法が使えないんだから(・・・・・・・・・・・)

 

 ……それは、この場にいる誰もが、衝撃を受け耳を疑ってしまうような、そんな発言であった。アルヴァを抱き留めるジュシュアの元に、冒険者たちが堪らずといった様子で駆け寄り、そして各々好き勝手に口々に、非難紛いの質問をぶつけていく。

 

「おいおいおいお医者さんよ!アルヴァさんが魔法が使えないって?お前の目は節穴かい?さっきの見てたろ!?」

 

「そ、そうだ。先程アルヴァ様は魔法を使っていたじゃないか」

 

「ああ、この二人の言う通りだ。……とてもじゃないが、魔法が使えないなどと、私は思えないのだが」

 

 明らかに喧嘩腰な彼らを、しかしジョシュアは一切臆する様子もなく一瞥し、僅かながらの怒りを口元に滲ませ開く────

 

 

 

「ちょっと、黙ってろ新米(ルーキー)共。……まだ(ケツ)の青いガキが、横からぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃあないよ鬱陶しい」

 

 

 

 ────よりも先に、アルヴァが辛そうにしながらも、ドスの利いた声を絞り出した。

 

 彼女の辛辣な言葉に、自分たちなりに擁護したつもりであった冒険者たちは、堪らず衝撃を受け絶句する他なく、口を閉ざした彼らにジョシュアが訊く。

 

「……君たちは覚えているのかな。中央国襲来事件──あの『魔人』のことを」

 

 そのジョシュアの質問に対して、まだアルヴァにぶつけられた言葉の衝撃が抜け切っていないのか、冒険者たちはすぐには答えられなかったが、遅れて三人とも頷き、その中の一人が口を再び開く。

 

「確か四年前だろう?ああ、覚えているとも当然だ。忘れようにも忘れられない事件だった。……もしあの時あの場に、『三強』──グィン様とアルヴァ様とカゼン様がいなければ、かの『魔人』によって中央国は為す術もなく、滅ぼされていただろうな」

 

 そう語る冒険者の顔は薄らと青ざめていた。そんな彼に対してジョシュアはアルヴァの様子を気にし、若干躊躇うようにしながらも、彼はこう言った

 

「それが原因なんだ。アルヴァはあの戦いの後遺症で……魔法が使えない身体になってしまったんだよ」

 



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ARKADIA────十六年前(その五)

「アルヴァはあの戦いの後遺症で……魔法が使えない身体になってしまったんだよ」

 

 そう、何処か苦い表情を浮かばせて。アルヴァを除くその場にいる誰もが衝撃を受けずにはいられないことを、ジョシュアは言った。

 

「な、何だと……いや、しかし先ほど、アルヴァ様は……」

 

 それでも、納得はできないように、ジョシュアの言葉を受けた冒険者の男が呟く。だがそれはジョシュアにとっては予想通りのもので、彼は小さく嘆息しながらも続けてこう言った。

 

「まあ、まだ使えるには使えるさ……多少の無理(・・)さえすれば、ね」

 

「無理、だと?」

 

 意味がわからないといった風の男に、またもジョシュアは続ける。

 

「人間が魔法を発動する時、身体のある部分が活発になる。全身に通う神経とはまた別の神経──それを僕ら医者は魔力回路と呼んでいるんだけど、アルヴァはかの魔人との戦いで、そこをやられてしまった。……完治の見込みはない」

 

 ジョシュアの言葉が、通路内で静かに響き渡る。

 

「以来、小さな火を起こす程度ならともかく、アルヴァは魔法を発動するのに……筆舌に尽くし難い激痛を伴うようになった。それこそ二度三度味わえば、最悪の場合そのショックで死にかねないような、常人ならば到底耐えられないような激痛をね」

 

 聞くだけであれば、そのジョシュアの言葉はわざとらしいほどに淡々としていた。……だが、その裏に、沸々とした怒りがあった。

 

 通路内が静寂に包まれる。もう、誰も口を開けないでいた。三人の冒険者たちは、もう何も言えないでいた。

 

 少し経って、前に出ていた男がぽつりと呟く。

 

「『六険』を……冒険者(ランカー)を引退したのは、やはり人材発掘や後進育成に尽力する為ではなかったという訳か……」

 

 

 

 

 

 当時、現役である冒険者も、既に引退していた冒険者も、そして冒険者を志していた者も、その全てがおよそその人生の中で、最大級の衝撃と驚愕をその身に叩き込まれたことだろう。

 

 一時は世界(オヴィーリス)を絶望の谷底へと突き落とした魔人事件──しかし辛うじて当時の『六険』であり、その中でも『三強』と謳われた三人の冒険者によって魔人は討たれ、世界は救われた。

 

 しかし事件から一週間が過ぎた後、とある報道が発表されたのだ。

 

『三強』引退──あまりにも、突然の報道であった。魔人との戦いの後、『三強』は一旦活動を休止するという一報を最後に、何の音沙汰もなかったので、尚更のことだった。

 

 理由としては今後より良い優秀な人材発掘の為、後進育成に尽力する為だと『世界冒険者組合(ギルド)』から説明はされたが、それ以上の詳しい情報はなく、また『三強』による会見も開かれることはなかった。

 

 当然激しく追求はされたのだが、頑なに『世界冒険者組合』はあれ以上の説明はせず──結局、何もわからず終いで、最終的に『三強』は各々が所属していた組合のGM(ギルドマスター)となり、正真正銘現役からその身を引いたのだ。

 

 

 

 

 

「…………(アタシ)は、まだマシな方さ」

 

 不意に、今まで黙っていたアルヴァが口を開いた。その声には深い悔恨と苦渋の色が滲んでいた。

 

「あの戦いで、カゼンは右目と左腕、右足を持ってかれた。顔にも派手な傷が残っちまった。それに馬鹿……グィンの奴に至っては……」

 

 しかし、何故かそこで彼女は再び押し黙ってしまい、それからゆっくりとジョシュアから離れ、立ち上がった。

 

「古臭い話はここまでだ。とっとと先に進むよ」

 

 そう言うや否や、歩き出すアルヴァ。しかし最初と比べても、明らかにぎこちなく覇気がなくなっていた。そんな彼女の背中越しに、慌ててジョシュアが声をかける。

 

「ま、待てアルヴァ!もう少し休んでからの方が……痛み止めも」

 

「いらない。必要ない」

 

 ジョシュアにそう返してから、アルヴァは振り返って、はっきりと彼らに告げた。

 

「言っただろ。私はね、こんなくだらない依頼(クエスト)なんかさっさと終わらせて、さっさと帰りたいんだ。三度は言わせるなよわかったか?」

 

 そして返事も待たずに彼女はまた歩き出した。彼女の言葉に男性陣は堪らず呆気に取られ呆然としていたが、ハッと我に返ると慌てて彼らもその場から動き出した。

 

 アルヴァら調査隊は先に進む。再びあの魔石の魔物と同じような存在に出会すこともなく、積み重ねられた年月と月日に対して異様なほどに綺麗で、整えられた塔内部の通路を順調に進む。

 

 そうして、調査隊は辿り着いたのだ。遂に──神秘に包まれた『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の一つであるこの塔の、最奥に。最深部に。

 

 そこで調査隊を待ち受けていたのは、想像の遥か斜め上の光景だった。



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ARKADIA────十六年前(その六)

 長く、しかしさほど荒れてはいなく、途中に一度魔物に襲われはしたものの、特に苦労することなく調査をしながら、アルヴァたち調査隊は『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』たる塔の内部を進んだ。進んで、そしてとうとう、アルヴァたちは辿り着いた。

 

 塔の最奥部。最深部──そこで彼らを待ち構えていたのは、予想の遥か斜め上を行く光景だった。

 

 

 

 

 

「……これは、一体……そんな、まさか」

 

 その目で目の当たりにしているはずなのに、しかしそれでもなお信じられないという風に。呆然と、ジョシュアがそう呟く。そしてそれはその場にいる他の誰だろうと同じことだった────ただ一人、アルヴァを除いて。

 

 調査隊の眼前にあったのは、魔石だった。上も下も、右も左も、視界に映る全てが、薄青色の魔石によって覆われていた。

 

 ……だが、その中でも最も気を引き、否が応でも視線を巻き取られる箇所が一つ。そこは恐らくこの場の中央に当たる場所で、そこには見上げてもなおその頂点が見えないほどの、巨大な魔石の柱が突き立っていた。

 

 そして、その柱には────

 

 

 

「……人間(・・)、だ。人間の子供……女の子がいるぞ!?」

 

 

 

 ────一人の少女がいた。まるで眠っているかのように瞳を閉じている、一糸纏わぬ全裸の少女が柱の中にいたのだ。

 

「お、おいおい、おいおいおい!こ、こりゃあ一体どういうこったよ!?何だって人間のガキが!?」

 

「い、生きている……のか?あの少女は生きているのか?」

 

「いや、そもそも本当に人間の子供なのだろうか……?」

 

 己が予想を遥かに容易く超す光景を前に、冒険者たちは慌てふためき、学者たちは恐れ慄く。そういった反応をしてしまうのは、至極当然のことだった。

 

 そんな彼らの中で、あくまでも冷静を保てていたのは二人だけ。言うに及ばず、アルヴァとジョシュアの二人だけだった。

 

「あれは、眠っているのかな……?なあ、アルヴァ」

 

 魔石の中で眠る少女から、目を離せないでいるジョシュアが、そう隣に立つアルヴァに訊く。彼女は彼の問いに答えず、彼と同じように少女を見つめ──突如、その場から歩き出した。

 

「ア、アルヴァ?君、どうするつもり……」

 

 声をかけるジョシュアに目もくれず、背後の調査隊の面々が漏らす切羽詰まった焦りの声に耳を傾けることもなく、独りアルヴァは歩いていく。微塵も臆した様子を見せずに、魔石の柱へと。魔石の柱の中の少女の元に歩いていく。

 

 そうして。遂に──手を伸ばせば簡単に触れられてしまうほどの距離にまで、アルヴァは魔石の柱に近づいた。

 

「……」

 

 そんな至近距離で、彼女はその魔石の柱をゆっくりと見上げる。恐らく柱の中心だと思われる位置に、少女はいた。

 

 その外見と背丈からして、まだ年端もいかない──四歳弱だと思われる。瞳を閉じたその顔は、酷くあどけない。肌もまるで透き通るように白く、首元にまで伸びる髪も、無防備にも晒されているその全身の肌も同様だった。

 

 ──人形……。

 

 パッと、アルヴァはそう思って。ふと何をするでもなく、彼女は魔石に手を伸ばす。彼女自身、この時何故自分が手を伸ばしたのか、わからなかった。無意識、だったのだ。

 

 アルヴァの手と、少女を包む魔石の距離が縮む。ゆっくりと縮んで、そして────彼女の指先が、魔石に触れた。

 

 ピキ──瞬間、少女の顔辺りで、魔石に罅が走った。罅は驚き思わず身構える面々を置いてけぼりに、瞬く間に広がって、そして砕けた。

 

「アルヴァ!」

 

 ジョシュアがそう叫ぶのと同時に、砕けた魔石の欠片が宙を舞う。無数のそれは落下する途中で解けるようにして宙で溶けて、魔力の残滓となってゆっくりと降り注ぐ。その様は、まるで淡い粉雪のようだった。

 

 そしてふわり、と。魔石に閉じ込められていた少女の身体が落ちる。アルヴァの方に向かって、落ちていく。その道中──少女と共に落下していた残りの魔石の欠片が、一緒薄青色に発光したかと思うと、それらは白い布のような物体へと変化し、少女に纏わりついた。

 

 こちらに落下してくる少女の姿が、アルヴァにはやけに遅く見えた。何を考えるでなく、彼女はゆっくりと己の両腕を広げる。そして広げ終わるとほぼ同時に、その中に少女は落ちた。

 

 少女を抱き留め、アルヴァは僅かに後ろに下がる。少女は、比喩なしに羽毛の如く軽かった。

 

「アルヴァ!大丈夫かい?女の子の方は……」

 

 遅れて駆けつけてくるジョシュアや調査隊の面々の声を背後から受けながら、アルヴァは腕の中の少女の顔を眺める。瞳を閉じ、すやすやと眠るその姿は、まるで小さな赤子そのものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これこそ、今代の大魔道士アルヴァ=レリウ=クロミアと、後に彼女からフィーリアと名付けられる少女との、出会いの瞬間であり────それと同時に、この世界(オヴィーリス)を回す歯車を、少しずつ歪ませる運命の、始まりであった。



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ARKADIA────十六年前(その七)

「やあ、久しぶりだねアルヴァ。調子はどうだい?」

 

 多種多様の魔導士たちが居を構える『魔法都市』──マジリカ。そしてこの街のみならず、フォディナ大陸を代表する冒険者組合(ギルド)、『輝牙の獅子(クリアレオ)』の執務室兼応接室にて、出された珈琲(コーヒー)を飲んでから、目の前に座るその人物に対して、そんな差し障りのない言葉をジョシュアはかけた。

 

「……まあ、ぼちぼちだね」

 

 対し、ジョシュアと向かい合って座る人物──『輝牙の獅子』GM(ギルドマスター)アルヴァ=レリウ=クロミアは気怠そうに返し、彼と同じように珈琲をゆっくりと、慎重に啜るのであった。彼女は猫舌なのだ。

 

「ぼちぼち、ね」

 

 そうして二人の会話は止まり、部屋に静寂が訪れる。その状態が数分続いた頃、またジョシュアが口を開こうとした、その時だった。

 

 

 

 ガチャ──不意に、部屋の扉が押し開かれた。

 

 

 

「おかあさんおかあさん!」

 

 扉を押し開くとほぼ同時に、そんな可愛らしい声が部屋に響き渡る。アルヴァとジョシュアが咄嗟に視線を向けると────そこには、一人の小さな少女が立っていた。

 

「……て、ジョシュアおじさんもいるの?こんにちは!」

 

「やあこんにちは、フィーリア。元気そうで何よりだ」

 

 少女──フィーリアはジョシュアにペコリと頭を下げ、無垢な笑顔と共に挨拶を送って、すぐにアルヴァの元に駆け寄る。そして彼女の腕にギュッと抱きついた。

 

「おかあさん!」

 

「はいはい、あんたのお母さんだよ。で、どうしたんだいフィーリア。下で遊んでろって、(アタシ)は言ったはずだよ?」

 

 言いながら、己の腕に抱きつくフィーリアに訊ねるアルヴァ。その声音は柔く穏やかで、浮かべている表情も優しさに満ちていた。

 

「わたしおかあさんといっしょにいたい!だめ?」

 

 そう言いながら、腕に抱きついたままフィーリアはアルヴァの顔を見上げる。そんな愛らしいおねだりを受けて、アルヴァは少し困ったように、だが何処か嬉しそうに、仕方ないという風に嘆息した。

 

「しょうがない子だね。ちょいとだけだよ」

 

 そう言って、アルヴァはフィーリアの頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でやる。途端にフィーリアの顔が綻び、さらに強くアルヴァの腕に抱きついた。

 

「……なんとも微笑ましい光景だ。しかも信じられない。この光景の中に君がいるってことが、さ。『紅蓮』のアルヴァも随分と丸くなったんだなあ」

 

「それ以上何か吐いたらブチ殺すよ」

 

 にまにまと口元を薄く少し吊り上げ、生暖かい眼差しを送るジョシュアに、隣にフィーリアがいることも気にせず殺意を込めて、そうアルヴァは吐き捨てる。その紫紺の瞳は昏く輝いており、それが冗談の類などではないのだと、否が応にもジョシュアに理解させた。

 

 彼は軽く頬に一筋の汗を伝わせながら、しかし冷静に続ける。

 

「じょ、冗談……と言いたいんだけど、冗談じゃあないんだよ、ね」

 

 スッと、アルヴァの瞳が静かに、だが恐ろしいまでの疾さで細まる。もはやその様は獲物に狙いを定めた、猛禽類のそれである。

 

 猛禽類の眼差しに射抜かれながらも、竦む己を必死に奮い立たせジョシュアが言う。

 

「四年前に出会った君は、何処か余裕がないというか……切羽詰まっていた。肉体はともかく、精神が酷く脆く、不安定に思えた。だからこそ君の専属医たる僕は僕なりに、この四年間君の手助け(サポート)をしてきた訳なんだけども」

 

 要は何が言いたい──今すぐにでもそう口に出したそうな仏頂面のアルヴァの、その隣に立つフィーリアの方にジョシュアは顔を向けて、続けた。

 

「君は変わった。一ヶ月前のあの日、その少女に──フィーリアに出会って、見違えるほどに立ち直った。フィーリアと接する際に浮かべる、君の表情が何よりの証拠さ」

 

 その言葉を最後に、ようやくジョシュアは己が口を閉ざす。そんな彼に対して、アルヴァは依然として仏頂面のまま、紫紺の双眸を細めたままだったが──数秒後、堪えられなくなったようにそっぽを向く。心なしか、その頬に僅かばかりの朱が差していた──ように思えた。

 

 そんな二人を交互に見つめて、フィーリアは不思議そうに小首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』と呼ばれる塔の調査から、早くも一ヶ月過ぎた。塔の最深部にて発見された少女は保護され、そのままマジリカの病院に移された。

 

 当初は一向に目を覚ます気配を見せなかった少女だったが、入院から三日ほどが経った後、突如として固く閉ざしていた瞳を開かせたのだ。

 

 このことは急遽アルヴァに伝えられ、彼女も急いで病院に向かい、そして三日ぶりに少女と顔を合わせた。

 

 最初こそ少女は言葉が話せず、自身が置かれている状況や環境に対して酷く怯えていたが、それもアルヴァが来た瞬間、パッと吹き飛んだかのように笑顔を見せ、そして驚くことに彼女に向かって走り出し、抱きついたのだ。

 

 流石のアルヴァも驚きと困惑を隠せないでいたが、普段の様子からでは絶対に想像し得ない、まるで本当の母のような温かい表情を浮かべ、己の胸元に飛び込み抱きついてきた少女を受け入れ、優しく抱き締めたのである。

 

 しばらくそうしていると、少女はアルヴァに抱き締められたまま、再び眠ってしまった。それを彼女は確認すると、起こさぬように慎重に抱きかかえ、少女を寝台(ベッド)に寝かせ、病室を去った。

 

 そして『輝牙の獅子(クリアレオ)』へと戻ったアルヴァは『世界冒険者組合(ギルド)』に二度目となる報告をし、そのまま経過観察という体で、少女を当面の間彼女が引き取ることとなった。

 

 塔の最深部にて発見された少女──綿密な検査の結果、一応は我々と同じく人間であることはわかったのだが、まだ解明できない不明な部分もあり、多くの謎が残った。

 

 中でも一番不可解なのは、何故この少女があんなにもアルヴァに懐いているのか、という一点。これに関しては彼女本人も知らないと通しており、また少女もその点に関しては何故か答えることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンコン──部屋の空気がいくらか和み始めた時、不意にやや遠慮気味に扉が叩かれた。

 

「GM。お取り込み中、申し訳ありません」

 

 ノックの次に聞こえたのは、この『輝牙の獅子』の受付嬢の声。しかし何故かその声は少し怯えているように思える。

 

「……扉、開けても構わないよ」

 

 アルヴァがそう言い、遅れて静かに部屋の扉が開かれる。当然その向こうに立っていたのは受付嬢で、固い表情を浮かべる彼女が口を開く。

 

「実は先ほど、GMに面会したいという方が、その……訪ねてきまして」

 

 気不味そうにする受付嬢に対して、アルヴァは僅かばかり表情を険しくさせながら、低い声で言う。

 

「私に会いたいって奴は、その後ろの奴かい?」

 

「え……?」

 

 アルヴァに言われて、反射的に受付嬢が己の背後を振り返る。彼女の後ろには────一人の人間が立っていた。



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ARKADIA────十六年前(その八)

「私に会いたいって奴は、その後ろの奴かい?」

 

 怪訝と警戒が入り混じる声音で、そうアルヴァが受付嬢に訊ねる。それに対し、受付嬢は呆けた表情を浮かべた。

 

「え……?」

 

 呆然とそう呟きながら、彼女は己の背後へ振り返る。振り返って、堪らず悲鳴を上げてしまった。

 

「きゃあっ!?」

 

 しかし、それは無理もないことだっただろう。何故なら、受付嬢のすぐ背後には────一人の、影の如き黒衣を纏った人間が立っていたのだから。

 

 かなりの巨体を誇る人物だった。受付嬢が小柄というのもあるが、それを差し引いても身長が高い。その上がたいも良く、その身を包む分厚い黒衣の下には、鍛え上げられた肉体があるのだと、アルヴァは否応にもそう感じた。

 

 そして何よりも目を引くのは、その顔。別に整っているという訳でも、派手な(きず)がある訳ではない。例えそうであるとしても、アルヴァたちにそれを確認できる術はない。それは何故かというと、その黒衣の者が奇妙な意匠の、一世代前の機械人形(マシンドール)の頭部を模したような仮面(マスク)を被っていたからだ。

 

「ろ、受付(ロビー)でお待ちくださいと……!」

 

 狼狽えながらも、受付嬢が黒衣の者に非難の声をぶつける。それに対し、黒衣の者は頭を僅かに下げつつ、これまた分厚く黒い手袋をつけた手を後頭部にやった。

 

「はは、どうもすみません。つい、気が逸ってしまって。つい」

 

 仮面をしているせいか、黒衣の者の声はくぐもっていた。しかしその声の質や低さからして、どうやら男らしいことがわかった。

 

 黒衣を纏った男が、申し訳なさそうな声で名乗る。

 

「初めまして。私はヴィクターと申します。セトニ大陸の辺境の地にて、魔石に関するしがない研究を行なっている、しがない一研究者です」

 

 そう名乗るや否や、黒衣の男──ヴィクターは己が前に立つ受付嬢を押し退け、歩み出る。小さな悲鳴を上げる受付嬢を気にする素振りを少しも見せず、そして一切の躊躇もなく、ヴィクターは執務室兼応接室の中へと、その足を踏み入れさせた。

 

「この度は貴女──この魔法都市(マジリカ)が誇る冒険者組合(ギルド)、『輝牙の獅子(クリアレオ)GM(ギルドマスター)にして、レリウの名を継ぐ今代の大魔道士、そしてかつて『紅蓮』の二つ名で活躍と名声を手にしていた『六険』第二位の元《S》冒険者(ランカー)……アルヴァ=レリウ=クロミア殿とお話ししたく、私は訪れました」

 

 言いながら、ヴィクターは机を挟む形で、アルヴァの目の前に立つ。その様は、さながら漆黒の壁であった。

 

 予想だにしない、し得ない来訪者の出現に、ジョシュアは声も出せず驚き、固まっている。そしてフィーリアは突如として現れたヴィクターを目の当たりにして、怯えた様子でアルヴァの腕にギュッと抱きついていた。

 

「……そうかい。で、アンタの言う話って何だい?」

 

 異様とも表せる空気漂う最中、ただ一人平常と打って変わらぬ様子で、冷静にアルヴァがヴィクターにそう訊ねる。対し、ヴィクターはさも平然と受け答えた。

 

「ちょっとしたデリケートなお話しです。……ですので、再度申し訳ないのですが、今すぐに貴女以外の方にはこの部屋から出て行ってもらいたいのですよ。何分デリケートなお話しですから、貴女と二人きりになりたいんです」

 

「……厚顔無恥というか面の皮が厚いというか……まあ、いいだろう」

 

 って訳だ、と。アルヴァは隣のフィーリアと固まる二人に言う。

 

「ジョシュア。フィーリア連れて下に。ミリーナ、アンタはその間抜け面さっさと直して仕事に戻れ。じゃないと今すぐクビにするからね」

 

「え、ええっ!?わ、わかりました!」

 

「……わかったよ。さ、フィーリア。僕と一緒に行こう」

 

「え?わたし、おかあさんと……うん、わかった」

 

 アルヴァの言葉を受け、受付嬢──ミリーナは慌ててその場から去り、ジョシュアもフィーリアを連れて部屋から出て行く。フィーリアは少しだけ不満そうに頬を膨らませたが、アルヴァの言葉に従い大人しくジョシュアに連れられて行った。

 

 バタン──扉が閉じられて、あっという間にアルヴァとヴィクターは二人きりとなった。

 

「まあ、とりあえず座りな」

 

「はい。お言葉に甘えて」

 

 アルヴァに言われ、ヴィクターは椅子に腰掛ける。ギシリ、と。腰掛けた彼の体重に文句を言うように、椅子が小さく軋んだ。

 

「それでそのデリケートな話ってのは何?こっちも割と忙しい身でね。できればさっさと終わらせたいんだよ」

 

「あの子、フィーリアという名前なんですか?」

 

「は?」

 

 こちらの言葉を無視して、そう訊いてくるヴィクターに対して、流石にアルヴァは欠片ほどの殺意を抱いたが、冷静にと己に言い聞かす。そして彼の質問に関して渋々返した。

 

「……ああ、そうだよ。そうだけど、それがどうしたってんだい?」

 

「なるほど。いやあ、フィーリアちゃん……可愛いですねえ」

 

 ──今すぐにでもブチ殺してぇ……!!

 

 ヴィクターの、その生理的嫌悪を催すうっとりとした声音で、フィーリアの名を紡がれたことに対しても、実に気色悪く可愛いと宣ったことに対しても、先ほどとは比べようがない殺意をアルヴァは覚え、しかし己の太腿を抓り上げ、なんとか堪えた。

 

 必死に平静を保とうとする彼女に、ヴィクターは言う。

 

「それでお話しのことなんですが、何を隠そうあの子、フィーリアちゃんに関することなんですよ」

 

 そう言って、さらに彼はこう続けた。

 

「お忙しい身のようですので、単刀直入に申し上げさせてもらいます。フィーリアちゃんを────魔石の落し子を、私に譲って頂けませんか?」



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ARKADIA────十六年前(その九)

「フィーリアちゃんを──魔石の落し子を私に譲って頂けませんか?」

 

 黒衣を身に纏う自称研究者、ヴィクターは。まるで至って普通に、さも平然とそうアルヴァに言った。その言葉には、不気味なくらいに感情というものが込められていなかった。

 

「……は?」

 

 これには流石のアルヴァも絶句し、辛うじてそう返すことしかできなかった。そんな彼女に対して、ヴィクターは淡々と続ける。

 

「いや実はですね。先ほども申し上げた通り、私は魔石の研究を行っていまして。それでとある方から支援(サポート)を条件に、とある計画(プロジェクト)を任されているんです。ですがここだけの話……その計画というのが今、少々難航しておりまして。が、しかしです。フィーリアちゃんがあれば、その計画が大幅に進歩、いえ完成させることができるかもしれないのですよ」

 

 まあ極秘の計画なので、その詳しい内容等は説明しかねますが──そう言いながら、ヴィクターは【次元箱(ディメンション)】を開き、そこからやけに頑丈そうな銀色のケースを取り出す。そしてそれをテーブルの上に無造作に置いた。

 

「無論、無償(タダ)でという訳ではありません」

 

 言って、ヴィクターはそのケースを開く。中に入っていたのは──大量のOrs(オリス)紙幣だった。

 

「とりあえず、一千万は用意しました」

 

 至って普通に、己は正常であると主張するかのように。ヴィクターがそう言う。瞬間────アルヴァの中で、辛うじて彼女を押し留めていたモノが、音を立てて千切れた。

 

「……どうか致しましたか?」

 

 無言で黙っているアルヴァの様子を変に思ったのか、ヴィクターがそう訊ねる。そんな彼の言葉に対して、アルヴァが口を開く。

 

「どうか、致しましたかだって?そりゃこっちの台詞(セリフ)だよ。どうかしてんのは、お前の方だろ」

 

 言いながら、アルヴァは目の前に座る男を睨めつける。その紫紺の瞳には、視界に映る全てを焼き尽くす烈火の如き、憤怒の激情が揺らめいていた。

 

 身と心を焦がす怒りに、堪らず震える声でアルヴァが続ける。

 

「そもそもの話、何様のつもりだいお前。他人(ひと)私事(プライベート)にズカズカ割って入り込んで、挙げ句の果てにフィーリアを金で寄越せって……あの子は物じゃないんだよ。ふざけるのも大概にしやがれこの腐れ研究者が」

 

 もはや殺意を毛ほども隠さずに、躊躇も遠慮も容赦もなく直情的(ストレート)にぶつけてくるアルヴァに対し、ヴィクターはほんの僅かだけ沈黙したかと思うと、すぐさま合点がいったように言った。

 

「ああ、そうですね。確かに私はふざけてました。魔石の落し子の価値を見誤っていた。一千万程度の額では足りませんよね」

 

「はあ?」

 

 意味がわからない、というようなアルヴァの声を無視するように、ヴィクターは続ける。

 

「では言い値で買い取ります、アルヴァ=レリウ=クロミア殿。とはいえ流石に限度というのもありますので、一億以上となると「帰れ」

 

 もう、論外であった。アルヴァは一秒でもこの男を視界に入れたくなかった。あらん限りの怒りと嫌悪を込めて、ヴィクターの言葉を遮って彼女は言う。

 

「今すぐ帰れさっさと帰れとっとと帰りやがれクソ野郎。ちょびっとばかりの親切心で教えてやるが、これ以上(アタシ)と会話しても、お前の望むものは絶対に手に入らない。絶対に、だ。それが理解できたんなら一秒でも早くここから消えてくれ。もう二度とその趣味の悪い仮面(マスク)面を私に見せるな。私の前から失せろ、クソったれ」

 

「………」

 

 ヴィクターは、黙った。仮面をしているせいで、彼が今一体どんな表情を浮かべているのか、アルヴァが窺うことはできないが、よしんばそれができても彼女は死んでもしなかっただろう。

 

 そうして数秒経ち、不意にヴィクターが声を上げた。

 

「わかりました。今日のところは帰りましょう」

 

 言って、彼はケースを閉じ、再びそれを【次元箱】へと放り投げる。そして椅子から立ち上がると、そのまま扉の方に向かう。

 

「また後日、返事を聞きます。今日からしばらく、私もこの街に滞在しようと思いますので。……次は良い返事を期待してますよ」

 

 先ほどのアルヴァの言葉を聞いていなかったのか、ヴィクターはそう言い残す。当然その言葉にアルヴァが黙っていられるはずがなく、すぐさま先ほど以上にキツい罵声を浴びせようとしたが、彼女がそうするよりも早く彼は扉を開け、部屋から出て行った。

 

 バタン──扉がゆっくりと閉じられ、部屋にはアルヴァ一人が残された。

 

「…………」

 

 少し経って、深々とアルヴァがため息を吐く。そして懐から一本の煙草を取り出し、咥えると反対側の先端に指先を近づける。一瞬だけ彼女の指先から火が噴いて、煙草に灯る。

 

「……ふぅ」

 

 紫煙を吐き出して。ポツリと独り、アルヴァは呟いた。

 

「ストレス溜まっちまった……久々に、男でも食い漁ろうかね」



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ARKADIA────十六年前(その十)

 また後日、返事を聞きます────突如としてアルヴァの前に現れた、黒衣の研究者ヴィクターはその言葉通り、あの日以来も『輝牙の獅子(クリアレオ)』に訪れては、彼女にフィーリアの引き渡しの交渉を続けた。

 

 彼が訪ねる度、アルヴァも律儀に対応しては一蹴し追い返す。それを延々と繰り返し、気がつけばそれが半ば彼女の日常と化してしまうほどに、ヴィクターはしつこく粘り、そして迫った。終いには自分が限度だと言っていたはずの一億も超える金額を提示してくる始末だった。

 

 だがそれでもなお、アルヴァは断った。フィーリアは物ではない──あの子は絶対に売らないし、渡さない、と。

 

 ……けれど、はっきりとそう断言しても、ヴィクターが諦めることはなかった。すると彼は金だけでなく、一体どこからどうやって仕入れたのか、魔道士にとって非常に価値のある希少な数々の品や、魔道士であれば喉から手が出るほどに欲しがる知識なども交渉材料に含め始めた。アルヴァの心の天秤を傾けさせようと、彼はとにかく必死だったのだろうが、それが余計にアルヴァの怒りの火に油を注いだ。

 

 延々と続けられる(いたち)ごっこ────だがしかし、それはある日、唐突に終わりを見せることとなる。

 

 

 

 

 

「わかりました。アルヴァ=レリウ=クロミア殿。貴女の心の頑なさ、私の身にありありと染みましたよ。……ここは、もう折れましょう」

 

 決して進展など訪れないであろうと思われた、フィーリア引き渡しの交渉は、二ヶ月を経て──遂に、ようやっと決着がつけられた。

 

「……そうかい。本当に、呆れる男だったよ。お前さん」

 

 そう、心底草臥れたようにアルヴァが言う。そんな彼女の言葉を受けて、ヴィクターが椅子から立ち上がった。

 

「褒め言葉として受け取ります。貴女も度を越した頑固者でしたよ」

 

「褒め言葉として受け取っとく。じゃあもうとっとと消えな。そんでこの街からもいい加減出てけ」

 

「ええ、言われなくてもそうします。この街からも、明日には去ろうと思います」

 

「そうしてくれ」

 

 うんざりとしたアルヴァの言葉に背中を押されるようにして、ヴィクターは扉を開け部屋から出ようとする。その直前、一瞬だけ彼は彼女の方に振り返った。

 

「貴女のような人間と交流(コミュニケーション)を取れて良かった。私にとって、実に貴重な体験になりましたよ」

 

 ……それはヴィクターなりの、アルヴァに対する嫌味だったのか。相変わらず感情を感じさせない、のっぺりとした声でそれだけ言い残して、彼は部屋から出て行った。

 

「……」

 

 アルヴァは押し黙ったまま、窓の方に視線をやる。既に陽は落ち始め、青い空を茜に染め上げていた。そんな窓の外の様子を眺めながら、彼女は口を開く。

 

(アタシ)もお前みたいな奴と交流できて、良い経験になったよ。これからクソみたいな奴に会っても、そいつがお前以上のクソ野郎ってことはそうないだろうし。……さて、帰ろうか」

 

 言って、彼女もまた椅子から立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………」

 

 自宅への帰路を進む途中、歩きながらアルヴァは考えていた。無論、あの黒衣を身に纏った謎の研究者──ヴィクターについて。

 

 ──結局、あの男は一体何だったのか……。

 

 長い人生──と言っても精々二十四年間ではあるが──の中で、あそこまで根本から生理的に受け付けない、心の底から嫌悪と拒否が隠せられない人間に出会えるとは、色々と経験が豊富であるアルヴァも流石に思っていなかった。

 

 あの男の姿を頭の中で思い浮かべることも、ましてやあの男に関して何か考えることも極力、できれば微塵もしたくないというのが己の本音ではあったが、しかしそれと同時に否応にも気にはなる。

 

 果たして、ヴィクターは一体何者なのか────と。自称研究者ということ以外、彼の素性は一切不明である。実を言うと彼が『輝牙の獅子』を訪れた日から、アルヴァは彼に関して秘密裏に調べていたのだ。

 

 人としての倫理観というものが、あそこまで欠如した男だ。どうせ公にはできない、恐ろしく悍ましい何らかの秘密を隠し持っているに違いない。魔石の研究というのも、表舞台にはある程度露出させることができるようにしてるというだけで、その裏では非人道的な所業を犯しているはずだろう。己の目的の為ならば、あの男は何をしようと構わないはずだ──この二ヶ月間接して、アルヴァにはそれが充分過ぎるほど良く伝わった。

 

 なので彼のそういった闇を暴き出し、せめて社会的にブチ殺してやる────この調査には、そのようなアルヴァの私情も含まれていた。

 

 そうしてとりあえず、魔石の研究者という言葉を半信半疑にではあるが一応呑んで、そういった方面に絞り、繋がり(コネ)のあるセトニ大陸の研究者たちを調べた。だが、アルヴァが望んでいた結果は手に入らなかった。

 

 であればもう徹底的にしか他にない──そう結論を出したアルヴァは、とにかくヴィクターに繋がり得るだろう研究者を片っ端から調べ尽くした。調べ尽くしたが、やはりというべきか有力な情報は得られなかった。

 

 しかし徹底的。徹底的にと決めたアルヴァは、今度は本やら論文やらを漁りに漁った。研究者という人間は己の生涯をかけて得た成果をやたら目に見えるよう、ひけらかしたがる──完全な偏見ではあるがそう思っていた彼女は、その例に漏れずヴィクターもそうではないのかと考え、それらしいものを漁ったのだ。

 

 ……だが、それでもめぼしい情報は手に入らず、実に不本意ではあったが、最終的にアルヴァは諦めてしまった。

 

 その矢先に先ほどのあれだ。フィーリアを手に入れることにあれほど固執、執着していたあの男は、驚くくらいにあっさりとその手を引いた。まあ、それはそれで不自然であり逆に怪しいとアルヴァも思ったが、あちらも諦めてくれるのであればそれに越したことはなかった。

 

 ──とはいえ、本当に諦めてくれたのかねえ。

 

 自分が思う限り、ヴィクターは手段を選ばない男だ。先ほども言った通り、目的の為ならば何だってするだろうし、何だって捨てるだろうし、何だって犠牲にするだろう。そんな男が、ああも簡単に目的(フィーリア)を諦めてくれるものだろうか?

 

 その答えは──否。アルヴァの経験上、ああいった輩は信用できない。信用するとしたら、それは馬鹿な奴らだけだ。

 

 ──とりあえず、しばらくは気ィ張っとかないとだね。

 

 そうアルヴァが心の中で固く思っていると、不意に隣から声が上がった。

 

「おかあさん?そんなかおして、どうしたの?」

 

「……え?」

 

 少し不安そうなフィーリアの声に、アルヴァは慌てて顔を隣に向ける。見れば、フィーリアが声と同じように不安そうに彼女を見上げていた。

 

「あ、ああ。いやちょっと考え事してただけだよ。大丈夫さ」

 

「ほんとう?おなか、いたかったりしない?」

 

「痛くない。本当だよフィーリア。心配してくれてありがとね。それよりも、今日は何を食べたいんだい?」

 

「おかあさんのりょうり!」

 

 まるで本当の親子のように、アルヴァとフィーリアの二人は帰路を歩き進んでいく。フィーリアの小さな手をアルヴァはしっかりと握り締めながら、とある言葉を思い起こしていた。

 

 

 

 ──そういえば、何で君はあの子に『フィーリア』という名前を付けたんだい?──

 

 

 

「………」

 

 その言葉を思い出しながら、アルヴァはフィーリアの手を、より強く握り締めた。

 

 ──今度はもう、絶対に離さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、アルヴァは甘く見ていた。ヴィクターという男の奥に潜む、何処までも黒く、何処までも昏い執念を。

 

 それを彼女は一ヶ月後に────最悪の形で思い知らさせられることとなる。



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ARKADIA────十六年前(その十一)

「てことで、今日一日フィーリアの面倒頼むよ」

 

 早朝。アルヴァは準備を済ませながら、そうジョシュアに言った。

 

「ああ。それはわかったけど……でも、急にどうしたんだい?」

 

 不可解そうな声音でジョシュアがアルヴァに訊ねる。彼の問いかけに対し、彼女は悩むかのように少しだけ黙って、それから静かに答えた。

 

「……ちょっと、思うことがあってね。それを確かめに行ってくる。じゃあ頼んだよ」

 

 そう答えて、アルヴァは自宅から出る。……できればフィーリアと言葉を交わしたかったが、この時間に起こすのは子供にとって苦だろうと、彼女は思い止めた。

 

 今日、アルヴァは向かう先は『世界冒険者組合(ギルド)』──経緯は、唐突なものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの奇妙な黒衣の研究者、ヴィクターがマジリカを出てから、実に一ヶ月が過ぎた頃。様々な書類を捌いていたアルヴァは、ふと思い出した。

 

「……そういや、アイツが出てからもう一ヶ月か。まさか、本当にこんなあっさり諦めてくれるとは思いもしなかったね」

 

 アイツというのは、無論ヴィクターのことである。得体の知れない計画(プロジェクト)の為に、フィーリアが欲しいとほざき、何が何でも手に入れようとアルヴァに迫ったあの男。しかし結局それは叶わず、最終的に諦めこの街から出て行った。だがまだ何かしらの形で接触(コンタクト)を図ろうとするかもしれないと、それでもアルヴァは警戒して、気がつけば一ヶ月が経っていた。

 

 その間、何もなかった。逆に怪しく思えるくらいに、いっそ不気味なくらいに、何もなかったのだ。

 

 もう、ここは折れましょう──あの言葉はどうやら本当のことだったらしい。己が抱え込んでいた一抹の不安が杞憂に終わり、アルヴァは複雑な心境になる。ああいった輩は何をするかわかったものではないし、てっきり相当な根回しでもしてくるんじゃあないかと、彼女は考えていたのだ。というか、自分だったら間違いなくそうするだろうし。

 

 ともあれ、何もなく無事に事態が収束してくれる分には構いはしない。どうせだしこれを機にあんな人間のことなどすっぱり忘れてしまおう────そう、アルヴァが思った直後だった。

 

 

 

 ── フィーリアちゃんを──魔石の落し子を私に譲って頂けませんか?──

 

 

 

 不意に、ヴィクターのその言葉を、思い出した。

 

「………」

 

 瞬間、アルヴァの頭の中で、爆発でも起こしたかのように思考が広がる。それと同時に心の中で彼女は呟く。

 

 ──何で、気づかなかった……いや、気づけなかった?(・・・・・・・・)

 

 自分が信じられなかった。何故という思いが無限に湧いてきた。そうだ、それがおかしかったのだ。ジョシュアや他の者ならまだしも、自分は真っ先に気づくべきだった。気づかなければならなかった。

 

 そもそも、どうしてあの男はフィーリアを欲しがった?それは計画の為──いや、問題はそこではない。確かに、あの男はこう言っていた。フィーリアのことをこう呼んでいた────魔石の落し子、と。

 

「なんてこった……(アタシ)は馬鹿か!?」

 

 この事実に今さらながら気づいた自分に、ひたすら苛立ち腹を立たせ舌打ちしながら、アルヴァは書類を放って椅子から立ち上がる。

 

「何で本当に気づけなかったんだ……全部、最初からおかしかったんだ……アイツがフィーリアのことを知っていたのが(・・・・・・・)おかしいことだったんだ!!」

 

 そう、全てはそこ。その一点。何故ならば、フィーリアという一人の少女の正体は。

 

 

 

 

 

 あの塔の調査に関わった人物や、『世界冒険者組合』の重役、それも限られた極一部の人物しか知られていない、極秘の超国家機密級の情報なのだから。

 

 

 

 

 

「まさか、あの男『世界冒険者組合』と繋がってたってのかい……!」

 

 信じられない面持ちでそう呟くや否や、もうアルヴァは居ても立っても居られなくなった。そこから先の彼女の行動は、迅速かつ性急であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、アルヴァが自宅を発って少し経った後、二階からトントン、と。ゆっくりと階段を下りる小さな足音が響いた。

 

「……あれ、ジョシュアおじさん……?」

 

 まだ寝呆けた声でそう言ったのは、フィーリアだった。どうやら起きてしまったらしい。

 

「フィーリア。起こしちゃったかな?ごめんね、こんな朝早くに」

 

「おかあさんは……?」

 

 ジョシュアにそう訊きながら、まだ眠気で少し足元をふらつかせながらも、フィーリアは彼に歩み寄っていく────その時だった。

 

 

 

 ガチャ──突然、ジョシュアが閉めたはずの家の扉の鍵が、ゆっくりと開けられた。

 

 

 

「ん……?」

 

 アルヴァが何か忘れ物でもして戻って来たのか──そう思い、ジョシュアは扉の方に振り返る。それとほぼ同時に、扉が開かれた。

 

 

 

 

 

「おや、おはようございます。確か、貴方はアルヴァ=レリウ=クロミア殿の御友人……でしたね」

 

 

 

 

 

 だが、そこに立っていたのは彼女ではなかった。一ヶ月前に、この街から去ったはずの、黒衣を纏った研究者──ヴィクターであった。

 

「な、き──

 

 思わずジョシュアが叫ぼうとした直前、ヴィクターが一瞬にして彼との距離を詰める。そして無防備にも晒されていた腹部に、一切の躊躇いもなく拳を突き刺した。

 

 ──ご、ぶっ?」

 

 腹部を中心に衝撃と鈍痛がジョシュアの全身に広がる──刹那。

 

 ドッ──まるで爆風でも直撃したかのように、彼の身体が後方に吹き飛んだ。

 

「がッ……」

 

 受け身も取れず、まともに壁に叩きつけられた後、そのままズルズルとジョシュアは床に倒れ、ピクリとも動かなくなった。

 

「…………え?」

 

 床に伏したまま動かないジョシュアを、フィーリアはただ呆然とした様子で見つめる。そして彼女が前に顔を向けると。

 

 

 

「おはようございます。フィーリアちゃん」

 

 

 

 すぐ目の前に、ヴィクターが立っていた。

 

「い、いやっぁ……!」

 

 まるで声にならない悲鳴を上げ、フィーリアはその場から逃げ出そうとする。しかし、その前に。

 

 トッ──ヴィクターが、親指で彼女の顳顬(こめかみ)を突いた。

 

 今度は悲鳴すら上げられず、気を失ったフィーリアの身体が倒れる──直前、そっと優しくヴィクターが抱き留め、そのまま抱え上げた。

 

「これで材料は揃いました。では、参りましょう」



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ARKADIA────十六年前(その十二)

「そりゃあ予約(アポ)もなしに無理だとはわかってたけどね……少しくらいは融通利かせろって話さ……まあ、いないんじゃあ仕方ないけどねえ」

 

 フォディナ大陸とセトニ大陸を結ぶ空域にて、そうアルヴァは忌々しく眼下に広がる海に向かって吐き捨てる。

 

『世界冒険者組合(ギルド)』に向かうと決め、早朝から自宅を発ち、目的地である『世界冒険者組合』が座する中央国にアルヴァが到着したのは、丁度午後のことだった。

 

 そうしてアルヴァは『世界冒険者組合』に着き、早速件の人物である、組合を治めるGND=M(グランドマスター)に会おうとした。が、面会の予約も取らず、突然訪れた彼女が会えるはずもなかった。

 

 しかし、どうしてもヴィクターとの繋がりを確かめずにはいられなかったアルヴァは、それでもなんとか会おうと食い下がろうとした。が、そもそも今日はファース大陸へ出払ってしまっていると代理の者から説明されてしまい、歯痒く思いながらも彼女はGND=Mとの面会を諦めざるを得なかった。

 

 まあ、当然と言えば当然の結果だ。GND=Mは多忙の身──なんの脈絡も話もなく会えるような人物ではない。そんなことは冒険者(ランカー)はもちろんのこと、あまり関わりのない一般人ですらわかっていることだ。

 

 そこに気がつかないほどに、アルヴァは今焦っていた。

 

 ──仮にヴィクターが『世界冒険者組合』に繋がっていたとして、もしそうなら情報を流した奴がいる。そいつのせいで、フィーリアがあんなクソ野郎に目をつけられちまった。絶対見つけ出す……!

 

 そして必ず制裁してやる──そう固く心に誓いながら、アルヴァは急かすように今自分が跨っている、飛竜(ワイバーン)の腹を蹴りつける。彼女に蹴られ、まるで抗議でもするかのように鳴いて、今でもかなり出している速度をさらに上げ、陽が沈み始め青から茜に徐々に染まっていく空を駆け抜けていく──その時、突然アルヴァの懐が震えた。

 

「あ……?」

 

 アルヴァが一瞬だけ眉を顰め、それから仕方なさそうにため息を吐きながら、飛竜の背から落ちないようにしつつ、器用に片手を懐に突っ込む。そして数秒探って、今もなお震えている通話の魔法が込められた魔石を取り出した。

 

「誰だ!(アタシ)は今話せる状況じゃ」

 

 ない──そう、アルヴァが言い終える前に、その魔石から声が響いた。

 

『アル……ヴァ……』

 

「……ジョシュア?」

 

 その声は、ジョシュアのものであった。しかし、何故かその声は酷く苦しげで、今にも消え入りそうなほどに弱々しい。そのことに対して疑問と不安を抱くアルヴァに、ジョシュアが続ける。

 

『落ち着、いて……ど、うか…聞いて、くれ……僕、も……余裕がない……から……単刀直入に、言う……』

 

「…………」

 

 一体何事か────そうアルヴァが思った矢先、ジョシュアが言った。

 

 

 

『フィーリアが、攫われ、た』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しっかし、本当に来るのか?」

 

 夜。やけに星が綺麗に輝く夜空の下、マジリカの廃墟街にてそんな気怠げな男の声が響く。その声に対して、また別の男の声が静かにこう返した。

 

「正直、わからんな。何せ大陸間の移動は一日かかる。往復ともなれば丸々二日だ」

 

「なるほどなあ。とすると……今回の依頼(クエスト)は楽で良いや。こうして見張ってるだけで金が貰えるんだから」

 

 その言葉を受けて、気怠げな男は実に楽観的にそう呟く。すると先ほどの静かな男とは違う、二人に比べ厳格な男の声が窘めるように響いた。

 

「相手を考えて物を言え。今回、私たちが相手にするのは、そこらの魔物(モンスター)やチンピラじゃあないんだぞ」

 

「わかってるって。けどもう深夜近くだぜ?これはもう来ないんじゃ……」

 

 そこで、気怠げな男は止まり、先ほどまで緩んでいたその表情がやや緊張したように固まる。そして、何を思ったかその場から立ち上がった。

 

 その様子を見て、他の二人も察する。

 

「……噂をすればなんとやら。いよいよおいでなすった」

 

 気怠げな男がそう言った瞬間であった。

 

 

 

「誰かと思いきや、何だアンタたちかい」

 

 

 

 夜闇の向こうから、声がした。するとほぼ同時に、その声の主の姿が三人の眼前に晒される────現れたのは、アルヴァだった。

 

「……信じられん。片道ならまだしも、まさか往復で帰って来られるとは」

 

 本当に、心の底からあり得ないように。物静かな男が声を漏らす。対して、別の男は何故か妙に納得した様子で口を開く。

 

「流石はかつての『六険』第二位、『紅蓮』のアルヴァ様だ。常識というものを軽々と越していく。戦慄が全く止まらない」

 

 三人の男たちをアルヴァは黙って睥睨し、そして告げた。

 

「どういうつもりなのかは知らんし訊く気もない。……けど、老婆心で言ってやるよ。変な考え持たずにさっさと退きな。そうすれば、とりあえず痛い目見ずに済む」

 

 それは忠告というよりは、もはや警告の類であった。しかし、それに対して三人は──それぞれ構えを取った。

 

「悪いが、そうもいかないんだよなアルヴァさん。一応、俺たちも玄人(プロ)冒険者(ランカー)なんでね」

 

「私も同じだ。アルヴァ殿……貴女を、この先には行かせない」

 

 気怠げな男と物静かな男がそう言って、次に厳格な男が続ける。

 

「アルヴァ様。自分は魔道士として、貴女様を心の底から尊敬している。だからこそ、言わせてほしい。どうか、ここは退き下がってくれ」

 

「……」

 

 厳格な男の言葉を、アルヴァは黙って聞く。男は数秒の間を空け、そして言った。

 

「確かに、確かに貴女様は偉大だ。誰もが認める、この世界(オヴィーリス)最高の魔道士にして、後世に語られる『六険』第二位『紅蓮』のアルヴァ=レリウ=クロミアだ。……しかし、今となってはそれも過去の話。魔法も使えず、冒険者も引退した今の貴女様は、魔道士にも冒険者にも非らず。一対一ならばともかく……我ら三人に勝てる道理はない」

 

「…………」

 

 横から聞く分には、厳格な男の言葉は最もであった。そう、今のアルヴァにはかつての、現役であった全盛期の実力は欠片ほども残っていない──彼らがそう思い、そう考えるのは無理のない、当然のことだった。

 

 それはアルヴァ自身も一番よくわかっていたし、理解していた。だからこそ────彼女を深く憤らせた。

 

「わかった。自分(てめえ)の選択だ、後悔すんじゃないよ」

 

 静かに、至って冷淡とアルヴァがそう言った瞬間──三人の目の前から、彼女の姿が掻き消えた。

 

「……な──

 

 ドズッ──厳格な男が呆けたような声を漏らした直後、彼の喉をアルヴァの貫手が突き刺す。そして彼女は間髪入れずに今度は彼の鳩尾を一切躊躇せず、遠慮容赦なく拳で突いた。

 

 ──ぎゅび」

 

 肺に取り込んでいた空気を無理矢理押し出され、まるで潰れた蛙のような、もはや声とは表せない音を凹んでしまった喉から絞り出して、厳格な男は白目を剥きそのまま失神し倒れた。

 

「……ば、なァっ?!」

 

 次に隣に立つ物静かな男が驚愕の声を上げて、その無防備に晒されていた顎をアルヴァの拳が掠める。その一撃は威力こそ全く込められていなかったが、完璧に物静かな男の脳全体を揺さぶった。

 

「が、ぐ……」

 

 脳震盪を起こし、堪らず男の身体がふらつき、そのまま膝から崩れ落ちる──直前、その後頭部をアルヴァの手が掴み、そして思い切り硬い地面に向かって叩きつけた。

 

 ゴチャッ──厳格な男の額と地面の間で、そんな嫌に生々しい衝突音が走る。男の身体が一度だけ痙攣したかと思うと、一拍置いて血溜まりが地面にゆっくりと、ジワジワと広がっていった。

 

「……ぼーっと突っ立ってる場合かい?」

 

 瞬く間に二人が倒され、しかし状況に追いつけていなかったのか呆然としていた気怠げ男は、アルヴァのその声によってハッと我に返ったように腰に手を伸ばす。そして掴もうとして──そこで初めて、気がついた。

 

 己の得物たる長剣(ロングソード)が、空の鞘だけを残して消えていることに。そして見てみれば、アルヴァの手によく見知った得物が握られていることに。

 

「い、いつの」

 

 ドッ──気怠げな男が言い終える前に、アルヴァは奪った長剣の柄で彼の顳顬(こめかみ)を突いた。

 

「こういうことがあるから、得物使うんならある程度気を払った方が……って、言っても聞こえないか」

 

 失神し、呆気なく前のめりになって倒れた気怠げな男の近くに、言いながらアルヴァは奪い取った長剣を放り捨てる。そして視線を前方へと向けた。

 

「待ってな、ゴミクズクソ野郎」

 

 躊躇いもなく、一切の嫌悪感も隠さず、まるで汚物に向けて吐き捨てるように言って、アルヴァは一歩踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………想定よりも、少し早かったですね」

 

創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の塔、その最深部にて。十数名の仮面(マスク)を被った人間たちが、中央に聳え立つ巨大な魔石の周囲で忙しなく動く中、唐突にヴィクターがそう呟く。その、瞬間。

 

 

 

 バゴォッ──最深部への入口を塞いでいた防壁(バリケード)が、まるで紙のように吹き飛んだ。

 

 

 

「今度は随分な大所帯引き連れてるじゃあないか……ええ?ヴィクター」

 

 その声と共に、舞う砂埃から一つの影が──アルヴァが姿を現す。余裕綽々にこちらの方に歩いて来る彼女を見て、ヴィクターが淡々と呟く。

 

「はい。何せ計画(プロジェクト)も大詰めですから。万全に気を払ったまでです」

 

「そうかい。そんな死ぬほどどうでもいい話題はいらん。御託も結構。(アタシ)がアンタから聞かされたいのは……」

 

 そう言おうとして、アルヴァが視線を頭上にやった時だった。そこで初めて、彼女の視界にその光景が映った。

 

 この場の中央にある巨大な魔石。今では中身(・・)が消え、空洞となっていたその中心部分に────全裸に剥かれたフィーリアの姿があったのだ。

 

「フィーリア!?」

 

 その姿を見て、アルヴァは叫ばずにはいられなかった。それに加え、フィーリアの手足を魔石が覆っており、まるで巨大な魔石が牢獄のように思えた。

 

「フィーリアちゃんでしたらご安心ください。あれはただ眠っているだけですし……本来、これが正しい使用法(・・・)ですから」

 

 そう説明しながら、魔石と一体化しているようにも見えるフィーリアから、ヴィクターは再度アルヴァが立っていた方向に顔を向ける。

 

 ヴィクターのすぐ眼前にまで、アルヴァが迫っていた。



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ARKADIA────十六年前(その十二)

「そりゃあ予約(アポ)もなしに無理だとはわかってたけどね……少しくらいは融通利かせろって話さ……まあ、いないんじゃあ仕方ないけどねえ」

 

 フォディナ大陸とセトニ大陸を結ぶ空域にて、そうアルヴァは忌々しく眼下に広がる海に向かって吐き捨てる。

 

『世界冒険者組合(ギルド)』に向かうと決め、早朝から自宅を発ち、目的地である『世界冒険者組合』が座する中央国にアルヴァが到着したのは、丁度午後のことだった。

 

 そうしてアルヴァは『世界冒険者組合』に着き、早速件の人物である、組合を治めるGND=M(グランドマスター)に会おうとした。が、面会の予約も取らず、突然訪れた彼女が会えるはずもなかった。

 

 しかし、どうしてもヴィクターとの繋がりを確かめずにはいられなかったアルヴァは、それでもなんとか会おうと食い下がろうとした。が、そもそも今日はファース大陸へ出払ってしまっていると代理の者から説明されてしまい、歯痒く思いながらも彼女はGND=Mとの面会を諦めざるを得なかった。

 

 まあ、当然と言えば当然の結果だ。GND=Mは多忙の身──なんの脈絡も話もなく会えるような人物ではない。そんなことは冒険者(ランカー)はもちろんのこと、あまり関わりのない一般人ですらわかっていることだ。

 

 そこに気がつかないほどに、アルヴァは今焦っていた。

 

 ──仮にヴィクターが『世界冒険者組合』に繋がっていたとして、もしそうなら情報を流した奴がいる。そいつのせいで、フィーリアがあんなクソ野郎に目をつけられちまった。絶対見つけ出す……!

 

 そして必ず制裁してやる──そう固く心に誓いながら、アルヴァは急かすように今自分が跨っている、飛竜(ワイバーン)の腹を蹴りつける。彼女に蹴られ、まるで抗議でもするかのように鳴いて、今でもかなり出している速度をさらに上げ、陽が沈み始め青から茜に徐々に染まっていく空を駆け抜けていく──その時、突然アルヴァの懐が震えた。

 

「あ……?」

 

 アルヴァが一瞬だけ眉を顰め、それから仕方なさそうにため息を吐きながら、飛竜の背から落ちないようにしつつ、器用に片手を懐に突っ込む。そして数秒探って、今もなお震えている通話の魔法が込められた魔石を取り出した。

 

「誰だ!(アタシ)は今話せる状況じゃ」

 

 ない──そう、アルヴァが言い終える前に、その魔石から声が響いた。

 

『アル……ヴァ……』

 

「……ジョシュア?」

 

 その声は、ジョシュアのものであった。しかし、何故かその声は酷く苦しげで、今にも消え入りそうなほどに弱々しい。そのことに対して疑問と不安を抱くアルヴァに、ジョシュアが続ける。

 

『落ち着、いて……ど、うか…聞いて、くれ……僕、も……余裕がない……から……単刀直入に、言う……』

 

「…………」

 

 一体何事か────そうアルヴァが思った矢先、ジョシュアが言った。

 

 

 

『フィーリアが、攫われ、た』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しっかし、本当に来るのか?」

 

 夜。やけに星が綺麗に輝く夜空の下、マジリカの廃墟街にてそんな気怠げな男の声が響く。その声に対して、また別の男の声が静かにこう返した。

 

「正直、わからんな。何せ大陸間の移動は一日かかる。往復ともなれば丸々二日だ」

 

「なるほどなあ。とすると……今回の依頼(クエスト)は楽で良いや。こうして見張ってるだけで金が貰えるんだから」

 

 その言葉を受けて、気怠げな男は実に楽観的にそう呟く。すると先ほどの静かな男とは違う、二人に比べ厳格な男の声が窘めるように響いた。

 

「相手を考えて物を言え。今回、私たちが相手にするのは、そこらの魔物(モンスター)やチンピラじゃあないんだぞ」

 

「わかってるって。けどもう深夜近くだぜ?これはもう来ないんじゃ……」

 

 そこで、気怠げな男は止まり、先ほどまで緩んでいたその表情がやや緊張したように固まる。そして、何を思ったかその場から立ち上がった。

 

 その様子を見て、他の二人も察する。

 

「……噂をすればなんとやら。いよいよおいでなすった」

 

 気怠げな男がそう言った瞬間であった。

 

 

 

「誰かと思いきや、何だアンタたちかい」

 

 

 

 夜闇の向こうから、声がした。するとほぼ同時に、その声の主の姿が三人の眼前に晒される────現れたのは、アルヴァだった。

 

「……信じられん。片道ならまだしも、まさか往復で帰って来られるとは」

 

 本当に、心の底からあり得ないように。物静かな男が声を漏らす。対して、別の男は何故か妙に納得した様子で口を開く。

 

「流石はかつての『六険』第二位、『紅蓮』のアルヴァ様だ。常識というものを軽々と越していく。戦慄が全く止まらない」

 

 三人の男たちをアルヴァは黙って睥睨し、そして告げた。

 

「どういうつもりなのかは知らんし訊く気もない。……けど、老婆心で言ってやるよ。変な考え持たずにさっさと退きな。そうすれば、とりあえず痛い目見ずに済む」

 

 それは忠告というよりは、もはや警告の類であった。しかし、それに対して三人は──それぞれ構えを取った。

 

「悪いが、そうもいかないんだよなアルヴァさん。一応、俺たちも玄人(プロ)冒険者(ランカー)なんでね」

 

「私も同じだ。アルヴァ殿……貴女を、この先には行かせない」

 

 気怠げな男と物静かな男がそう言って、次に厳格な男が続ける。

 

「アルヴァ様。自分は魔道士として、貴女様を心の底から尊敬している。だからこそ、言わせてほしい。どうか、ここは退き下がってくれ」

 

「……」

 

 厳格な男の言葉を、アルヴァは黙って聞く。男は数秒の間を空け、そして言った。

 

「確かに、確かに貴女様は偉大だ。誰もが認める、この世界(オヴィーリス)最高の魔道士にして、後世に語られる『六険』第二位『紅蓮』のアルヴァ=レリウ=クロミアだ。……しかし、今となってはそれも過去の話。魔法も使えず、冒険者も引退した今の貴女様は、魔道士にも冒険者にも非らず。一対一ならばともかく……我ら三人に勝てる道理はない」

 

「…………」

 

 横から聞く分には、厳格な男の言葉は最もであった。そう、今のアルヴァにはかつての、現役であった全盛期の実力は欠片ほども残っていない──彼らがそう思い、そう考えるのは無理のない、当然のことだった。

 

 それはアルヴァ自身も一番よくわかっていたし、理解していた。だからこそ────彼女を深く憤らせた。

 

「わかった。自分(てめえ)の選択だ、後悔すんじゃないよ」

 

 静かに、至って冷淡とアルヴァがそう言った瞬間──三人の目の前から、彼女の姿が掻き消えた。

 

「……な──

 

 ドズッ──厳格な男が呆けたような声を漏らした直後、彼の喉をアルヴァの貫手が突き刺す。そして彼女は間髪入れずに今度は彼の鳩尾を一切躊躇せず、遠慮容赦なく拳で突いた。

 

 ──ぎゅび」

 

 肺に取り込んでいた空気を無理矢理押し出され、まるで潰れた蛙のような、もはや声とは表せない音を凹んでしまった喉から絞り出して、厳格な男は白目を剥きそのまま失神し倒れた。

 

「……ば、なァっ?!」

 

 次に隣に立つ物静かな男が驚愕の声を上げて、その無防備に晒されていた顎をアルヴァの拳が掠める。その一撃は威力こそ全く込められていなかったが、完璧に物静かな男の脳全体を揺さぶった。

 

「が、ぐ……」

 

 脳震盪を起こし、堪らず男の身体がふらつき、そのまま膝から崩れ落ちる──直前、その後頭部をアルヴァの手が掴み、そして思い切り硬い地面に向かって叩きつけた。

 

 ゴチャッ──厳格な男の額と地面の間で、そんな嫌に生々しい衝突音が走る。男の身体が一度だけ痙攣したかと思うと、一拍置いて血溜まりが地面にゆっくりと、ジワジワと広がっていった。

 

「……ぼーっと突っ立ってる場合かい?」

 

 瞬く間に二人が倒され、しかし状況に追いつけていなかったのか呆然としていた気怠げ男は、アルヴァのその声によってハッと我に返ったように腰に手を伸ばす。そして掴もうとして──そこで初めて、気がついた。

 

 己の得物たる長剣(ロングソード)が、空の鞘だけを残して消えていることに。そして見てみれば、アルヴァの手によく見知った得物が握られていることに。

 

「い、いつの」

 

 ドッ──気怠げな男が言い終える前に、アルヴァは奪った長剣の柄で彼の顳顬(こめかみ)を突いた。

 

「こういうことがあるから、得物使うんならある程度気を払った方が……って、言っても聞こえないか」

 

 失神し、呆気なく前のめりになって倒れた気怠げな男の近くに、言いながらアルヴァは奪い取った長剣を放り捨てる。そして視線を前方へと向けた。

 

「待ってな、ゴミクズクソ野郎」

 

 躊躇いもなく、一切の嫌悪感も隠さず、まるで汚物に向けて吐き捨てるように言って、アルヴァは一歩踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………想定よりも、少し早かったですね」

 

創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の塔、その最深部にて。十数名の仮面(マスク)を被った人間たちが、中央に聳え立つ巨大な魔石の周囲で忙しなく動く中、唐突にヴィクターがそう呟く。その、瞬間。

 

 

 

 バゴォッ──最深部への入口を塞いでいた防壁(バリケード)が、まるで紙のように吹き飛んだ。

 

 

 

「今度は随分な大所帯引き連れてるじゃあないか……ええ?ヴィクター」

 

 その声と共に、舞う砂埃から一つの影が──アルヴァが姿を現す。余裕綽々にこちらの方に歩いて来る彼女を見て、ヴィクターが淡々と呟く。

 

「はい。何せ計画(プロジェクト)も大詰めですから。万全に気を払ったまでです」

 

「そうかい。そんな死ぬほどどうでもいい話題はいらん。御託も結構。(アタシ)がアンタから聞かされたいのは……」

 

 そう言おうとして、アルヴァが視線を頭上にやった時だった。そこで初めて、彼女の視界にその光景が映った。

 

 この場の中央にある巨大な魔石。今では中身(・・)が消え、空洞となっていたその中心部分に────全裸に剥かれたフィーリアの姿があったのだ。

 

「フィーリア!?」

 

 その姿を見て、アルヴァは叫ばずにはいられなかった。それに加え、フィーリアの手足を魔石が覆っており、まるで巨大な魔石が牢獄のように思えた。

 

「フィーリアちゃんでしたらご安心ください。あれはただ眠っているだけですし……本来、これが正しい使用法(・・・)ですから」

 

 そう説明しながら、魔石と一体化しているようにも見えるフィーリアから、ヴィクターは再度アルヴァが立っていた方向に顔を向ける。

 

 ヴィクターのすぐ眼前にまで、アルヴァが迫っていた。



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ARKADIA────十六年前(その十三)

 ヴィクターが視線を戻す頃には、既にアルヴァは彼の眼前にまで迫っていた。大きく振り上げられた足が、瞬く間にヴィクターの視界を埋め尽くす。

 

 ──これは回避できませんね。

 

 常人は当然として、並の《S》冒険者(ランカー)では視界の片隅に捉えることすら叶わない、まさに瞬速と言っても過言ではない、アルヴァの蹴りを目の当たりにして、ヴィクターはそう判断すると全く同時に右腕を振り上げる。

 

 瞬間、アルヴァの足がその右腕を捉え、深々とめり込んだ(・・・・・)

 

 バキグチュッ──乾いた木の枝が()し折れるような音と、肉が押し潰されるような、嫌に生々しい音が重なって、ヴィクターの右腕から鈍く響く。

 

「お、らぁあああッ!!」

 

 アルヴァが咆哮が大気を震わし、ビリビリと周囲一帯に響き渡る。彼女の蹴りを受けて、地面に付いていたヴィクターの足が微かに離れ、信じ難いことに彼の巨体が僅かながらも宙に浮いた。

 

 そしてそのまま────後方へと吹っ飛ばされた。一切の抵抗を許されずに、ヴィクターは魔石に覆われた壁に叩きつけられたのだ。

 

 ヴィクターの背中と壁の衝突音が響き、壁を覆う魔石全体に(ヒビ)が瞬く間に走る。そして秒も経たずに、それらは細かく砕け散った。

 

 それぞれが小さな欠片となった薄青色の魔石が、まるで粉雪のように舞って落ちる。それらを浴びながら、ヴィクターが静かに言う。

 

「……なるほど。これが『六険』第二位ですか。とてもではないですが、現役から退いているとは思えませんね。一応、耐衝撃(ショック)性も兼ね備えた防護服なのですが……それでも、私の右腕はご覧の有り様です」

 

 そう言うヴィクターの右腕は、拉げて凹み、奇妙な形に歪んでしまっていた。袖の色も赤黒く変色しており、袖口を伝ってポタポタと血が垂れ落ち、地面に赤い斑点を描く。一目見ただけでも、その腕がもはや使い物にならないということが理解できた。

 

 だが、己の右腕の惨状にヴィクターは特段驚きもせず、それどころか感極まったように身体を震わせていた。

 

「素晴らしい。本当に見事で素晴らしい蹴撃でした。……しかし、このままではこれからの活動に些かの支障をきたしますね」

 

 そう言って、ヴィクターが【次元箱(ディメンション)】を開き、手元に一本の、黒い液体で満たされた注射器を落とす。そしてそれを慣れた手つきで右肩に刺す────直前。

 

「そんな(ザマ)で上から物言ってんじゃないよ腐れ悪趣味クソ仮面(マスク)ッ!」

 

 既に距離を詰め、間合いに入ったアルヴァが足を振り上げる。その狙いは、確実にヴィクターの頭部に定められていた。

 

 もしこれが先程のようにまた直撃すれば、間違いなくヴィクターの首が圧し折れることだろう。だが、二度も同じ攻撃を通用させるほど、この男は甘くなかった。

 

 アルヴァが足を振り上げた瞬間────彼女の足元が突如爆発した(・・・・)

 

「ぐあっ!?」

 

 壁と同じように魔石に覆われている地面が爆ぜ、アルヴァは難なく吹き飛ばされる。不幸中の幸いか、彼女の両足は無傷であったが、爆発の勢いで散らばった魔石の破片が、宙に浮いた彼女の全身を鋭く、細かく悪戯に切り刻んだ。

 

(トラップ)です。先程貴女に蹴り飛ばされた際に仕掛けました」

 

 咄嗟に両腕で顔を庇いながら、地面に着地するアルヴァに、淡々とヴィクターが説明する。

 

 ──そんな暇なかったろうが……!

 

 切傷の痛みを堪えながら、心の中でアルヴァがそう吐き捨て、ヴィクターを睨めつけた。

 

「先日臨床実験を行ったばかりで、不安ですが……致し方ありません。多少の副作用は覚悟しましょう」

 

 全く不安そうには聞こえない声音でヴィクターはそう言うと、既に空になった注射器を放り捨てる。彼が放り捨てた注射器が地面に落下し、粉々に砕け散ったのと、それはほぼ同時のことだった。

 

 突如、ヴィクターの右腕の袖口から垂れ落ちていた血が止まる。かと思えば、次の瞬間まるで滝のような勢いで噴出した。

 

 瞬く間にヴィクターの足元に血溜まりが大きく広がり、ガクンと彼の身体が揺れる。その光景を目の当たりにして、アルヴァも堪らず面食らう──直後。

 

 明らかに致死量と思えるヴィクターの血溜まりが、黒く変色した(・・・・・・)

 

「!?」

 

 そのことに驚愕せずにはいられないアルヴァであったが、変化はそれだけには留まらなかった。黒い血らしきものとなったそれは、信じ難いことに────独りでに蠢き出し、ヴィクターの右袖の口に向かってその全てが殺到したのだ。

 

 ボコボコとヴィクターの右袖が音を立てながら異様に膨れ上がり、そしてバリッと破れて弾け飛ぶ。赤黒い布片がいくつも周囲に飛び散ら交う中、それ(・・)は外気に、アルヴァの視界に曝け出された。

 

「……なるほど。若干の痺れはありますが、ある程度自由は利きます。これならば制御(コントロール)も可能でしょうし、この結果は成功と言えますね」

 

 相変わらず淡々とした、感情の抑揚がない声でそう言うヴィクターであるが、そんな彼を──というよりは、それ(・・)を注視しながら、ゾッとしたような声をアルヴァが絞り出した。

 

「そりゃあ……何だ?ヴィクター、お前何をした……?」

 

 そのアルヴァの問いかけに、律儀にも丁寧にヴィクターが答える。

 

「これですか?これは私の新しい右腕(・・・・・)ですよ。貴女に蹴り潰されてしまいましたので、新しく生やし……いえ、この場合は移植したと言った方が正しいですか」

 

 その言葉通り、確かにそれ(・・)は腕を模していた。人間の腕の形をしていた。……その色が、腐った油のように黒いことと、時折不気味にその全体が波打つことを除けば。

 

「まだ違和感が残っていますが、(じき)に消えるでしょう」

 

 そう言って、何を思ったかヴィクターはその黒い右腕を振り上げる。そして、振り下ろした。

 

 

 

 ドゴォンッ──まるで、爆弾が爆発でもしたような轟音が響いて、この場どころか塔全体が揺さぶられる。ヴィクターの黒い右腕が殴りつけた場所を中心に、地面を覆う魔石も、そしてその下にあった地面すらも、等しく割れて、砕かれた。

 

 

 

「……な、っ」

 

 その余波は離れていたアルヴァの足元にも及び、魔石の表面に深い亀裂がいくつも走る。その様を目の当たりにしては、流石の彼女も戦慄せざるを得なかった。

 

「おや、膂力の大幅な上昇を確認。これは嬉しい誤算です」

 

 対し、ヴィクターは一切変わらない声音でそう言って、アルヴァを見やる。機械の頭部を模した仮面の目が、立ち竦む彼女を絡め取るように見つめる。

 

「これも貴重な体験です。元『六険』第二位、『紅蓮』の実力……是非、一度味わっておきたい」

 

 言って、ヴィクターは再度右腕を振り上げた。



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ARKADIA────十六年前(その十四)

「これも貴重な体験です。元『六険』第二位、『紅蓮』の実力……是非、一度味わっておきたい」

 

 そう言って、ビクンと鼓動するように震える漆黒の右腕を、ヴィクターが振り上げる。

 

「私の理想通りであれば、恐らく可能なはずです」

 

 ヴィクターがそう言った直後、振り上げたその黒い右腕が激しく蠢く。粘度のある液体を棒で掻き混ぜるような音に伴って、辛うじて人間の腕を模していたその形が歪み、崩れ、変形する。その光景は、頑健な精神の持ち主であるアルヴァに、生理的嫌悪感を抱かせる程度には気色悪いものだった。

 

 ──気持ち悪りぃな……アイツ一体何を……。

 

 ヴィクターの一挙一動が上手く読めず、アルヴァは戸惑う。先程の(トラップ)のこともあり、彼女が動くにも動けないでいる、その時だった。

 

 ガキンッ──言うなれば、それは金属音であった。その音の発生源は、ヴィクターの黒い右腕からで、先程から絶えず一つの形を留めていなかったそれは、一瞬にして鋭利な黒い刃と化していたのだ。

 

「成功です。まだ少し時間はかかりますが、形態変化もできますね」

 

 先程から続く、予想だにしない光景の連続に、またしても面食らうアルヴァを他所に、ヴィクターが他人事のように淡々と言葉をそう述べる。そして、唐突に彼は刃となった右腕を軽く振るった。

 

 言うまでもなく、今ヴィクターとアルヴァの距離は開いている。どうやっても、その刃が彼女に届くことはないくらいには、だ。そんなことは彼も承知しているはず。しかし、彼は振るった。下から、まるで掬い上げるように、その刃を。

 

 刃が切り進む。まるでバターでも切るかのように、何の抵抗もなくスルスルと地面を覆う魔石を切りながら、伸びてアルヴァに迫る(・・・・・・・・・)

 

「ッ!?」

 

 大した速度ではなかった。常人であればともかく、アルヴァからすれば、思わず欠伸(あくび)が出そうになるほどに、その黒刃は遅い。……しかし、腕自体がまるで餅のようにグンと伸びたことに、流石の彼女もギョッとしてしまい、固まってしまった。

 

 結果、刃の接近を首元にまでアルヴァは許してしまい────

 

「く、ぅあッ!!」

 

 ────しかし、それでもギリギリの直前で反応に間に合い、咄嗟に上半身を後ろに倒し、何とか躱した。彼女の首を切り損ねた刃が、すぐ眼前を通り過ぎていく。

 

 ──もう少し速かったら、終わってた……!

 

 全身から冷や汗を滲ませながら、アルヴァは心の中で呟く。そして()を警戒しすぐさま背後を振り返る。

 

 黒刃は過ぎ去った後も止まらず、宙を滑っており、その進路にはヴィクターと似たような仮面(マスク)を被った、彼の部下と思われる一人の男が立っていた。

 

 ザシュッ──しかし黒刃が止まることなく、それどころかその勢いを全く緩めず、そして一切の躊躇なく、その部下の身体を斜めに通り過ぎた(・・・・・)

 

「……な」

 

 堪らずアルヴァの口から、信じられないというような声が漏れる。それと同時に恐らくまだ作業中だったのだろうその部下の身体が、斜めに分断されて地面に血と臓物を撒き散らして落下した。

 

「なるほど。形態変化を用いると、制御(コントロール)に多少の難が発生するようです。有益な情報(データ)が取れました」

 

 絶句するアルヴァを他所に、自分の部下を斬殺したというのに、平然とした様子でヴィクターがそう言う。そんな彼をアルヴァは正気を疑うような目で睨めつける。

 

 ──コイツ、イカれてるにも限度があるだろ……!?

 

 そんなアルヴァの心の内を見抜いたのか、ヴィクターが彼女に言葉を投げかける。

 

「彼の名はリルトと言います。優秀な部下でした。私としても、残念です」

 

「はぁ……?」

 

 自分の不手際で殺しておいて、一体何を言い出すのか────そう言わんばかりにアルヴァが声を漏らして、直後彼女はその場から跳び退く。

 

 瞬間、先程まで彼女が立っていた場所を、黒刃が通過した。その道中、また別のヴィクターの部下が一人いたのだが、少し遅れてその身体は左右に分かれた。

 

「彼はアルウィン。彼もまた優秀な部下だったのですが……残念ですよ」

 

 何の感情もなくそう言って、続けてヴィクターは黒刃を操る。最初こそ軌道も直線的で、速度も大したものではなかったのだが、それも秒刻みで改善されていく。黒刃が、まるで一つの生物のようにアルヴァをしつこく粘り強く追跡する。

 

 アルヴァが身を捻って黒刃を躱す。ヴィクターの部下の上半身と下半身が切り離される。

 

「ああ、ダンテ。貴方も優秀でしたね」

 

 アルヴァがしゃがんで黒刃を躱す。ヴィクターの部下の首が宙を舞う。

 

「ハイネ。貴方も優秀な部下でした」

 

 アルヴァが身体を傾け黒刃を躱す。ヴィクターの部下がまた一人、死ぬ。黒刃に胸を貫かれたその部下は、他の者よりも背丈が低く、それだけで見ればまだ若い青年のように思えた。それを裏付けるかのように、やはり終始変わることのない声音でヴィクターが言う。

 

「ロヴェルツ……君も、優秀で将来有望な子でしたよ。本当に、本当に残念でなりません」

 

「ッ……!」

 

 とてもではないがそう思ってるとは全く思えない、ヴィクターの言葉を聞き、遂にアルヴァの堪忍袋の尾が切れた。

 

「さっきからいい加減にしとけよお前ェッ!!部下を、自分の仲間を何だと思ってやがんだこのド畜生があッ!!!」

 

 己の腹を焼く憤怒に任せ、アルヴァは叫ぶ。そして今の今まで躊躇っていた手段(・・)を、彼女は解放した。

 

「お前は生きてちゃいけねえ人種だ!生かしちゃいけねえ人種だ!だから、(アタシ)が引導を渡す!渡してやる今ここでッ!!お前を、地獄の底にブチ叩き込むッ!!!!」

 

 迫っていた黒刃を難なく躱し(・・・・・)、アルヴァは地面を蹴りつける。瞬間、彼女の姿がその場から消え去った。それから少し遅れて、先程まで彼女が立っていた地面が、爆発でも起きたかのように吹き飛んだ。

 

 地面が大きく抉れ、覆っていた魔石も砕けて大小無数の欠片となって、宙に飛散し周囲に節操なく散っていく。

 

 ヴィクターの視界に、アルヴァの姿は映っていない。ただ、彼の眼前の地面が凄まじい勢いで次々と爆ぜ砕け、その度に魔石が欠片となって飛び散る。いっそ幻想的と思えてしまうその光景を目の当たりにしながら、やはり淡々と彼は呟いた。

 

「【強化(ブースト)】ですか。それも相当に強力なものようですね。その身体でそんな無茶を行うとは……もしや、死ぬおつもりですか?」

 

 それはアルヴァに対する、ヴィクターの問いかけ。しかしそれに彼女が答えることはない。

 

 ヴィクターが正面を向いている中────アルヴァは、既に彼の背後に回っていた。

 

 ──速度は圧倒的にこっちが勝ってる。その首、蹴り落としてやるよッ!

 

 ここまで駆けた勢いを殺さずに、アルヴァは振り上げた右足にその全てを乗せる。もはやその蹴撃は人の目で捉えられるような代物ではなく、そして直撃すれば圧し折れるどころか、そのまま千切れ飛ぶまでの、殺人的な威力を秘めていた。

 

 その殺傷力極まった蹴撃を、少しの躊躇もなく、一切の迷いなく、アルヴァはヴィクターの後頭部目掛けて一息に振り下ろす──────直前。

 

 

 

 彼女の首を、黒い右手(・・・・)が掴んだ。

 

 

 

「が、ッ?!」

 

 掴んだと同時に、凄まじい膂力でアルヴァの身体が持ち上げられ、そのまま一気に後方へと持っていかれ、思い切り壁に叩きつけられる。魔石が砕かれる甲高い音と、壁が破壊される轟音が鳴り響いて、叩きつけられたアルヴァの背中に巨大なクレーターが発生し、そこを中心に大きな亀裂やら罅やらが無数に広がっていった。

 

「ぎ、は…ぁ……!」

 

 一体何が起きたのか、アルヴァは理解できなかった。しようとして、それを背中を襲う重過ぎる鈍痛によって阻まれる。

 

 肺に残されていた空気を根刮(ねこそ)ぎ絞り出され、アルヴァは咄嗟に新たな空気を肺に取り込もうとして、しかしその直前に凄まじい力で首を締められてしまう。

 

「がッ」

 

 ギリギリと、首が締められる。気道が圧迫され、アルヴァの呼吸が阻害される。肺に新たな空気を取り込めず、命の危機からくる生存本能か、彼女は暴れようとするが、首を締める力がより一層増し、それすらもできなかった。

 

 ──何で。ヴィクターは私が背後に回ってることに気づいていなかった。そもそも、私の動きを全然捉えられていなかった。なのに、何で……!?

 

 命が脅かされ、逆にそれで次第に冷静になっていった思考を、必死にアルヴァは回す。それから無意識に視線をこちらの首を掴んで締めているヴィクターの右手に向け、彼女は目を見開かせた。

 

「確かに、私には貴女の動きは全く見えていませんでした。だから、そうしたんですよ」

 

 そう言うヴィクターの右手、いや伸びた黒い右腕全体に────びっしりと、百個は超えるだろう目玉があった。その全てが、アルヴァのことを無機質に見つめていたのだ。

 

「たとえ私の目が捉えられずとも、他の目が貴女を捉えます」

 

 アルヴァの首を掴む右手に、力が込められる。込められていく。このままでは窒息する前に、首が握り潰される。……いや、この男はそうするつもりなのだろうと、呆然としながらアルヴァは思う。

 

「アルヴァ=レリウ=クロミア。貴女は素晴らしい方でした。ここで殺してしまうのが、非常に惜しいです。しかし、計画(プロジェクト)遂行の為、私は心を鬼にしましょう」

 

 次第に、アルヴァの全身から力が抜け始める。そして感覚すらも抜けて、徐々に目の前が暗くなっていく。

 

 ──……なんて(ザマ)だよ。これじゃあ、同じじゃないか。四年前と、同じ……。

 

 振り上げようとしていた手が、だらりと下がる。もう、身体に力を込めることすら、今のアルヴァにはできない。ぼんやりと、彼女の耳にヴィクターの声が届いてくる。

 

「私は進みます。五人の大切な部下と、貴女の亡骸を踏み越えて、私は進み続けます。それが私にできる、先生(ドクター)への恩返しなのですから。……さあ、終わらせましょう」

 

 そしてヴィクターは右手に最大限の力を込めようとする。そうすれば、アルヴァの今にも潰れそうな細い首など、一瞬にして握り潰されてしまうだろう。

 

 その直前────アルヴァは、視界を前に向けた。

 

「…………」

 

 中央に聳え立つ、巨大な魔石の柱。中心が空洞となっており、そこに収められている──まだ幼い少女の姿が、再度映った。

 

 ──……フィー……リア……。

 

 瞬間、アルヴァの脳裏に在りし日の光景が、静かに過った。



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ARKADIA────十六年前(その十五)

「そういえば、何で君はあの子に『フィーリア』という名前を付けたんだい?」

 

 とある日の、とある昼下がり。マジリカ全体を見渡せる大橋にて、煙草(タバコ)を吸うアルヴァに、唐突にジョシュアの質問が降りかかった。その唐突な彼の質問に、アルヴァは煙草を咥えたまま彼の方へ顔を向ける。

 

 数秒、二人は見つめ合う。互いの間で沈黙が流れ、それに堪え切れなくなったジョシュアが軽く頭を下げた。

 

「す、すまないアルヴァ。君の気を悪くするつもりはなかったんだ。ただ、ちょっと興味本位というか、君があの子を保護することになって、すぐあの名前を付けたものだから、気になって……」

 

 しどろもどろにそう言い訳をするジョシュアを、アルヴァは黙って見つめる。まるで試すような眼差しを送っていたかと思うと、すっかり短くなった煙草を口元から指先で摘み取って、ジョシュアから顔を逸らしゆっくりと紫煙を吐き出す。

 

「……まあ、アンタとも長い付き合いになったしね」

 

 顔を逸らして、マジリカの街並みを見下ろしながら、アルヴァは続けた。

 

「妹の名前だよ。(アタシ)のね」

 

 それを聞いて、ジョシュアが目を丸くする。それから意外そうにアルヴァに訊ねる。

 

「アルヴァ、君妹が……いや、え、でも……」

 

 そう訊ねて、途中で察してしまったジョシュアは言い淀む。それを裏付けるように、何ら至って変わらないそのままの声音で、アルヴァが言った。

 

「ああ、いたさ。……四つの頃に、火事で死んだ」

 

 アルヴァがそう言った瞬間、大橋に風が吹く。その風に紫紺色の髪を揺さぶられながら、彼女は続ける。

 

「あの子ね、似てるんだ。そっくりってほどじゃないけど、雰囲気とかが似てるんだ。私の傍にずっとくっ付いて追いかけてくるところとかも、同じなんだ」

 

 そう続けるアルヴァの声は、何処か震えているように、ジョシュアには聞こえた。

 

「……目の前にいたんだ。助けられるはずだったんだ。……でも、私は(フィーリア)を助けられなかった。必死にこっちまで伸ばしてたその小さな手を、私は掴めなかった。掴んで、やれなかった」

 

「……アルヴァ」

 

 呆然と、ジョシュアはアルヴァに声をかける。だが彼女は振り返らなかった。

 

「わかってる。あの子(フィーリア)が妹なんかじゃないってのは、私だってわかってるさ。……でもね、そんなの関係ない」

 

 その声は、もう先程のように震えてはいなかった。そしてアルヴァはようやくジョシュアの方に振り返る。彼女の表情には、固い決意が浮かび上がっていた。

 

「私はもう、二度と離したりはしない。フィーリアの手を、絶対に離さない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、在りし日の光景。記憶。それが、今アルヴァの中にある意志を、猛烈に滾らせた。もはや動かせそうにもなかった己の身体の奥底から、何か熱いモノが込み上がってくる。湧き上がってくる。

 

 ──ふざけんじゃ、ないよ。(アタシ)はまだ、終われない……終わる訳には、いかない……!

 

 折れかけた己に叱咤し、アルヴァは下げてしまった手を、もう一度徐々に振り上げる。

 

 ──誓ったんだ。もう、あの手を離さないって……二度と、離したりなんかしないって!

 

 そして遂に、こちらの首を掴むヴィクターの黒い右腕を、アルヴァの手が掴む。何とか引き剥がそうと、彼女は微弱ながら力を込める。だが当然、彼の右腕はビクともしない。

 

 ──……どうなっても、いい。

 

 アルヴァの手に、力が籠る。

 

 ──この身体が使い物にならなくなっても、いい。ブッ壊れちまっても、構わない。

 

 ドクン、と。アルヴァの心臓が鼓動を打つ。打つ度、彼女の手に──いや、彼女の全身に、熱が籠もっていく。

 

 ──だから、だから……。

 

 その熱は限度なく、そして留まることなく上昇していき、やがて目に見えるようになる。

 

「……おや。これは、一体……」

 

 ヴィクターが首を傾げさせて、不思議そうに呟く。それも当然と言えば、当然のことだろう。何故なら──今、彼が見ているアルヴァの周囲の景色が、まるで陽炎のように揺らいでいるのだから。

 

 そして遅れて、ヴィクターは察知する。己の右腕の先が──アルヴァに掴まれている部分が、まるで火に炙られているように熱いと。

 

 瞬間、ヴィクターの本能が警鐘を全力で鳴らす。今すぐ右手に力を込めて、目の前にいる女の首を握り潰せと、彼に訴えかける。彼にとってこのような感覚を抱くのは生涯で初めてのことであり、だからこそ即座に彼は従おうとした────だが、それでも、もう手遅れであった。

 

 

 

 ブシャアッ──まるで水風船を破裂させたかのような音を立てて、ヴィクターの右腕が、アルヴァが掴んでいた部分が弾け飛んだ。

 

 

 

「……ッ!!」

 

 瞬く間に焼けるような激痛が、ヴィクターの右腕全体に走る。それに堪らず彼はたたらを踏んで一歩その場から退がり、そしてアルヴァの方へ顔を向け──驚愕と困惑に囚われた。

 

「その、姿は……一体、どういう……」

 

 視線の先に立つアルヴァを見て、ヴィクターが呆然とそう呟く。しかし、それも無理のないことだろう。

 

 何故ならば、今のアルヴァは────

 

 

 

「……ああ、ヴィクター。お前の言う通り、もう……終わらせよう」

 

 

 

 ────燃ゆる紫紺色の炎を、身に纏っていたのだから。

 

「燃えている……?いや、違いますね。その炎は、貴女の魔力ですか?」

 

 ヴィクターの問いかけに、アルヴァが答えることはない。ただ彼女は彼を睨めつけ、そして黙ってその場を蹴る。瞬間、やはり彼女の姿はそこから掻き消えて、ドロドロに融解した魔石やら、露出し焼け焦げた地面だけが跡のように残される。

 

 先程のような爆発は起きない。代わりに、次々と地面を覆う魔石がジュッと音を立て、融解していく。その光景を目の当たりにして、ヴィクターはまたも呆然と呟く。

 

「捉えられない……」

 

 そう、ヴィクターにアルヴァの姿は見えていなかった。己の目にも、右腕にある百個近くの目玉にも、彼女の姿が映ることはない。

 

「……ならば」

 

 ヴィクターがそう呟き、少し遅れて彼の右腕の目玉全てが一斉に閉じ、溶けるように消える。そして、突如彼の右腕が膨張した(・・・・)

 

 ──百近くの視野を有しても捉えられないほどの速度。当然本人も視界が利いていないはず。その中で取れる選択は……単純な直線の突撃。ここは下手に反撃するよりも、迎撃するのが最善でしょう。

 

 ヴィクターの右腕が膨張していく。太く、そして巨大化していく。その度に血管らしき管が表面に浮き出していく。

 

 ──伸縮性、可変性を捨て……質量の増長、密度の倍増、さらに巨大化と硬質化を重ね合わせる。

 

 ものの数秒──たったそれだけの間で、ヴィクターの黒い右腕は、まるで一本の柱と見紛うような代物になっていた。彼はそれを、ゆっくりと鈍重に構える。

 

 ──点による攻撃はその殺傷力こそ優れたものですが、命中率が低い。ここは点ではなく面……面で、押し潰しましょう。

 

 それと同時に、ようやっとヴィクターの視界にアルヴァの姿が映り込む。彼女は、紫紺色の炎を纏いながら、鬼気迫る表情で足を振り上げていた。

 

 秒も過ぎぬ、一瞬にも満たぬ刹那────アルヴァの足とヴィクターの拳が衝突する。瞬間、その間からとても人体から発せられたとは思えない音が響く。

 

 アルヴァの蹴撃と、ヴィクターの拳撃。両者の攻撃は凄まじい拮抗を周囲に見せつけ──しかし、その決着自体は味気なく、呆気ないものであった。

 

「どぉ、りゃあああああッ!!!」

 

 咆哮と共に、アルヴァがより蹴撃に力を込める。瞬間、ヴィクターの拳に小さな亀裂が入り──それは瞬く間に広がり、彼の右腕が木っ端微塵に砕け、彼が大きく体勢を崩す。その隙を、アルヴァが見逃すことはなかった。

 

 透かさずヴィクターの懐に入り込み、アルヴァは固く握り締めていた拳を、無防備にも晒されていた彼の腹部に、何の躊躇いも迷いもなく打ち込んだ。

 

 アルヴァの拳に打たれ、その部分が大きく凹み、衝撃と紫紺色の炎がヴィクターを貫く。側から見ても相当な威力を秘めた一撃──だが、その一発だけでアルヴァは終わらせなかった。

 

「ぉおおらああああぁぁッ!!!」

 

 咆哮を上げながら、アルヴァはヴィクターに拳を打ち込む。絶えず、何発も打ち込んでいく。彼女の拳が彼に沈む度に、紫紺色の炎が噴いては貫いていく。

 

 まさに死力を絞り出し、絞り尽くした怒涛の連撃(ラッシュ)────その前に、とうとう堪らずヴィクターの身体が大きく揺れ、傾いた。

 

 そのまま倒れる──直前。アルヴァが紫紺色の炎に絡み纏われた足を振り上げ、そして。

 

 

 

「フィーリアに、手ェ出してんじゃぁ……ねえェェェェエッッッ!!!!!」

 

 

 

 ヴィクターの鳩尾を蹴りつけた。



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ARKADIA────十六年前(その十六)

「フィーリアに、手ェ出してんじゃぁ……ねえェェェェエッッッ!!!!!」

 

 プライドも、面子(メンツ)も全てかなぐり捨てた、アルヴァの全力全開必死の咆哮。それに続いて、振り上げられた彼女の足が的確に、よろめいたヴィクターの鳩尾に突き刺さる。

 

 瞬間、今までの比ではない程に巨大な紫紺色の炎が噴き、ヴィクターの背中を突き抜けて、広がり舞って散る。その様は、まるで大量の花弁(はなびら)を思わせた。

 

 アルヴァの身長を優に越す、ヴィクターの巨体が宙に浮く。そしてそのままボールのように真っ直ぐ吹っ飛び、途中にいくつかある魔石の柱も貫いて、その勢いのままに魔石に覆われた壁に激突する。瞬間今までの中で一番の轟音と破砕音が合唱しながら最深部に響き渡り、一面どころか全体の壁を覆う魔石に際限なく亀裂が走り、そして砕けた。

 

 壁に打ちつけられたヴィクターが、そのまま力なくズルズルと地面に座り込む。動く気配は、しなかった。

 

 ──………。

 

 誰がどう見ても、ヴィクターが立ち上がれるとは到底考えられない状況──しかし、それでもアルヴァは警戒を緩めんかった。……否、緩められなかった。彼女にそうさせることを、あの男の存在が許さなかった。

 

 ヴィクターは依然沈黙したまま、微動だにしない。しかし、アルヴァは未だ毅然と睨めつける。彼女の頬を、一筋の汗がゆっくりと伝う。

 

 もはや、アルヴァはその場から動けないでいる。己の手足はおろか、全身の感覚はとうに消え失せ、無意識に開かれた拳は先程のように固く握り締めることもできず、またその指先に僅かな力を込めることすらも叶わない。

 

 こうして両足でちゃんと立てていられていることが、己ながらアルヴァは不思議でならなかった。本来なら、もう地面に倒れているはずだし、アルヴァ自身そうしたかった。もう何もかも放り捨て、このまま思い切り地面に倒れたかった。……だが、残されたなけなしの意地が、それを許さなかった。

 

 ──頼む。そのまま、終わってくれ。もう、終わってくれ……!

 

 慣れない神頼みをしながら、アルヴァは動かぬヴィクターを睨み続ける。手応えはあった。彼はもう、立ち上がることはできないはずだ。彼が立ち上がることは──あってはならない。

 

 久方ぶりの静寂に包まれた最深部。そのまま数秒、数分経って────アルヴァが、一瞬気を抜きかけた時だった。

 

 ビクン、と。割れ砕けた壁にもたれかかっていたヴィクターの身体が、跳ねた。

 

「ッ……!!」

 

 一瞬にしてアルヴァの全身が強張る。彼女が見てる前で、ブルブルと激しく痙攣しながら、地面に座り込んでいたヴィクターが、ゆっくりとその場から立ち上がった。

 

 ──……冗談……キツいってんだよ……!

 

 アルヴァの脳内が焦燥で埋め尽くされる。今すぐ動こうとするが、どうしても手足が言うことを聞かない。彼女の中で、ただただ焦りだけが先走っていく。

 

 立ち上がったヴィクターは、グラグラと身体を揺らし、一歩足を前に踏み出す。一際大きく身体が揺れ、危うく倒れそうになるが、何とか堪える。瞬間、ドバッと彼が被る仮面(マスク)のあらゆる部分からドス黒い血が噴き出し、その下からも大量の血が垂れ落ちていく。

 

 誰がどう見ても、ヴィクターは限界を迎えていた。しかし、彼は構うことなく、さらにもう一歩前へと足を踏み出す。また先程以上の血が噴出し、地面を赤黒く染めていく。

 

「く………ソが……っ!」

 

 焦りのあまり、上手く開かない口を無理矢理動かしてそうアルヴァが吐き捨てる。そんな彼女に向かって、残された左腕を、ガクガクと激しく震わせながらヴィクターは伸ばす──────その、瞬間。

 

 

 

 

 

 ガラララッ──突如、壁の一部が崩れた。

 

 

 

 

 

「!?」

 

 アルヴァの視界の中で、崩落した壁が、無数の巨大な瓦礫へと変わっていく。そしてそれら全てが、数歩歩いたことで丁度真下になったヴィクターの頭上に落下していく。そしてヴィクターがぎこちなく頭上を見上げるのと、彼をその瓦礫群が容赦なく押し潰すのはほぼ同時のことだった。

 

 水分を多く含んだ物体を潰したような、嫌に生々しい音。透かさず、それは瓦礫の落下の轟音に覆い隠され、次々とその轟音が積み重なっていく。だがそれも、案外すぐに終わりを迎えた。

 

 たったの数秒だった。たったの数秒で、ヴィクターが立っていた場所には、瓦礫の山が築かれていた。呆然とするアルヴァが正気に返るのは、瓦礫の下からゆっくりと血溜まりが広がっていく光景を目の当たりにしてからのことであった。

 

 突如として現れた黒衣を身に纏った、狂気に塗れた研究者──ヴィクター。際限のない凶行と暴走を続けた彼が迎えた最期は、崩落した瓦礫に押し潰されたことによる、圧死だった。

 

「……終わ、った……か」

 

 不本意ながらもヴィクターという一人の男の末路を見届け、アルヴァはそう呟く。その瞬間、今度こそ張り詰めていた警戒が一気に緩み、気が抜けた彼女の膝が崩れ、そのままうつ伏せになって地面に倒れてしまう。

 

 ──……ああ……もう、動かせ、ねぇ……。

 

 途端に全身を襲う鉛のような重たい怠さと、自分の中にあった大切な何かを失ったような虚無感に、堪らずアルヴァは意識を放棄しかける。しかし、その直前で彼女の視界の隅に、とあるものが映り込んだ。

 

「ッ……」

 

 ヴィクターの、部下だった。そこでようやくアルヴァは思い出す。まだ、彼の部下が数名この場に残っていることに。

 

 意識を失いかけた身体に、意地の鞭を打つ。荒い呼吸を何度も繰り返して、アルヴァは必死になって己の腕に、手に、指に力を込めようとする。

 

 ──まだ、駄目だ……なん、とか……!

 

 念の為に懐に忍び込ませていた、信号を発する魔法を込めた魔石を取り出そうと、アルヴァは一生懸命己を鼓舞し、奮い立たせながら力を込める。……だが、虚しいことにアルヴァの指は微かにも動かない。力を込めようとしても、その仕方を忘れたように全く込められない。

 

 ──助、けん…だよ。フィーリアは……絶対、に……!

 

 その時だった。不意に────アルヴァの背後の方から、パチパチと妙に間の空いた、遅い拍手が響いてきた。それと同時に、こちらの方へゆっくりと足音が近づいてくる。

 

「?……」

 

 全く予想もしていなかったそれに、アルヴァは眉を顰める。咄嗟に顔を向けようとしたが、そうすることすらもできない。

 

 そんな有様の自分にどうしようもない苛立ちを募らせながら、唯一動かせる視線を謎の拍手と足音のする方へ向けようとする。しかし、そのアルヴァの努力は、無駄に終わった。

 

 

 

「いやあ、流石だよアルヴァ。やっぱり君は凄いや。全く以て、敵わないな」

 

 

 

 その声を聞いて、思わずアルヴァは己の耳を疑ってしまう。そして震える声で、訊ねた。

 

「……ジョシュア、か?」

 

「うん。そうだよ。僕だよ、アルヴァ」

 

 気がつけば、拍手は止んでいた。足音も消えていた。声は、すぐ隣から聞こえていた。

 

 アルヴァが、視線を向ける────そこに立っていたのは、紛れもなくジョシュアその人であった。日常(いつも)通りの、何ら変わらない笑顔を顔に浮かべた彼が、うつ伏せになっているアルヴァのすぐ隣に立っていたのだ。

 

 ジョシュアは地に伏すアルヴァを軽く一瞥したかと思うと、手も伸ばさずにそのまま先に進む。まさかの対応に、アルヴァは堪らず困惑する他なかった。

 

 しかし、何はともあれ──この場に現れたのがジョシュアだ。彼ならば事情を説明せずにも、ある程度察して動いてくれるだろう。即座にそう考えて、困惑しながらもアルヴァは彼にフィーリアを助けてくれと、そう言い出す──直前であった。

 

 

 

「やあ、待たせたね皆。じゃあ、四年という月日を、時間をかけたこの計画(プロジェクト)を、大成させるとしようか」

 

 

 

 ……と。そんなことをジョシュアが先に言い出した。それに続いて、彼の言葉を受けたヴィクターの(・・・・・・)部下たちが、全員揃って跪く。その光景を目の当たりにしたアルヴァは、一瞬頭の中が真っ白になった。

 

「……は?」

 

 先程まで言わんとしていたこととは全く違う、ひたすら困惑した呟きしか口に出してしまう。そんなアルヴァへ、魔石に囚われているフィーリアを眺めていたジョシュアがもう一度振り返る。彼は依然変わらず笑顔を浮かべていたが──アルヴァの目には、今はただどうしようもなく不気味なものにしか映らなかった。

 

 今この状況に理解が追いつけないでいるまま、アルヴァはジョシュアに声をかける。

 

「ジョシュ、ア……一体どういう……」

 

 困惑に満ちた彼女の言葉を受けたジョシュアが、唐突に己の懐を探り、そこから筒のような、鉄の塊を取り出す。そして彼はそれを、ゆっくりとアルヴァの方に向けた。彼女の瞳に、先端に空いた穴が映り込む。

 

「君は見たことがないよね。これは銃と言って、早い話鉄の弾を音の速さでこの部分……銃口から撃ち出す武器さ。セトニ大陸で秘密裏に開発されてるんだけど、一般的に流通するのは恐らく十数年後辺りになるかな」

 

「銃……?武器……だって?」

 

 ジョシュアの説明を聞いて、アルヴァの困惑はますます極まる。当然だろう、その武器を、アルヴァは今ジョシュアに向けられているのだから。

 

 こちらに向ける穴──銃口を微塵も逸らすことなく、ジョシュアが続ける。

 

「この計画を達成させるにあたって、何よりの障害で、それと同時に重要な欠片(ピース)だったんだ。君という存在が──アルヴァ=レリウ=クロミアという存在がね。だから四年前、僕は君に近づいた。今日という日の為に、君の絶対的信頼を得る為に、ね」

 

 変わらない笑顔を浮かべたまま、ジョシュアが言葉を続ける。だが、それらほぼ全てが、アルヴァの耳を擦り抜けていた。

 

「アンタ、何言って……」

 

 呆然と呟かれたアルヴァのその言葉に対して、そこで初めてジョシュアが止まる。数秒静止していた彼は、何を思ったか突然【次元箱(ディメンション)】を開いた。

 

「そうだね。もう全部終わるんだ。だから、君に教えるよアルヴァ」

 

 ストン、と。彼が開いた【次元箱】から、彼の手元に何かが落ちる。無意識にその何かにアルヴァは視線を向けて────固まった。

 

 ジョシュアは【次元箱】から取り出した──機械人形の頭部(・・・・・・・)を模した(・・・・)ような仮面(・・・・・)を頭にまで運び、そして何の躊躇いもなくそれを被った。

 

 ヴィクターの部下の一人が、仮面を被ったジョシュアに近づき、いつの間にか取り出した、見覚えのある黒衣(・・)を彼に手渡す。それをジョシュアはやはり何の躊躇いもなく受け取って、ゆっくりと静かに羽織った。

 

「こういうことだよ、アルヴァ」

 

 くぐもった声で、ジョシュアが言う。

 

 

 

 

 

「僕は──────ヴィクターさ」



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ARKADIA────十六年前(その十七)

「やあ。初めまして、アルヴァ=レリウ=クロミアさん。今日から貴女の主治医を務める、ジョシュアです。以後、どうかよろしくね?」

 

 そう言って、その男はある日突然(アタシ)の前に現れた。『世界冒険者組合(ギルド)』から派遣された医者で、男のくせに妙にサラサラとした金髪と、深い海を思わせる碧眼に、中肉中背の──まあ、言うなれば典型的な優男であった。

 

 男──ジョシュアはその挨拶通り、その日から私の治療を請け負った。だが、そんな彼を私は拒絶した。それはもう、激しく拒絶しまくった。

 

 自分の身体だ。自分の身体のことくらい、私が一番理解している。……理解、してしまっている。

 

 セトニ大陸を襲った、『魔人』クレヒトとの戦いで、私は魔法を自由に扱えなくなってしまった。己の限界を超えて魔法を行使したことによる、後遺症だった。

 

次元箱(ディメンション)】や、煙草(タバコ)を灯す程度の小さな火を起こす場合であれば特にこれといった支障はないが、それ以上の──【炎魔弾(ファイヤスフィア)】といった初歩的な魔法ですら一度使えば、全身をズタズタに引き裂かれて千切られるような激痛に襲われて、とてもではないが動けなくなる。

 

 それでも無理矢理使い続けようとすれば、今度こそ体内の魔力回路がイカれて、私は魔力そのものを失うことになるだろう。そうなれば──その先にあるのは死だ。この世界(オヴィーリス)に生きる生命(いのち)にとって、魔力とは空気中の酸素のようなもので、それほどに重要で大切なのだ。

 

 ジョシュアは私を治療すると言ってた。私の魔力回路を正常に戻してみせると、そう息巻いていた。……それが、なおさらこの上なく、私を苛立たせた。

 

 もう、治らない。もう、戻らない。治せない、戻せない────身体が、冷酷にそう告げていた。

 

 だから、私はジョシュアを拒否した。拒絶した。関わるなと叫んだ。殺気を込めて睨んだ。殴った。蹴った。

 

 ……それでも、彼は離れなかった。私にいくら怒鳴りつけられようが、殺気をぶつけられようが、殴られようが蹴られようが、私から離れなかった。ジョシュアは、諦めなかった。

 

 白状してしまうと、私は治らなくてもいいと思っていた。もうまともに魔法を使えなくてもいいと、そう思っていたのだ。

 

 

 

 だって────これが、私にできる唯一の贖罪なのだから。

 

 

 

 グィン=アルドナテ。カゼン=ヴァルヴァリサ。この二人は私と同じ冒険者(ランカー)で、自分の背中を任せられる、唯一無二の仲間であった。……だが、私は自分のせいで、魔人との戦いで二人に一生の重荷を背負わせてしまった。

 

 魔人の攻撃から私を庇ったカゼンは、右目と左腕と右腕を失い、おまけにその顔にも痛々しい傷痕が残った。彼女曰く、医者からはその傷痕は消えることも、消すこともできないのだという。

 

 魔人に止めを刺したグィンは、死に絶える直前の魔人による最期の足掻きを受け、目に見える外傷こそなかったが、身体にあるほぼ全ての内臓を持っていかれてしまった。幸い生命活動を維持させるのに必須な内臓は無事であったが、それでも、人間にとって──並大抵の動物にとって、その場で即死しかねない致命的ダメージをグィンはその身に受けたのだ。

 

 しかし、驚くべきことに、グィンは持ち前の強靭な生命力で、僅かながらも生き長らえた。時間にして数十秒という、決して長くはない間ではあったが、そのおかげで何とか医療班が間に合い、延命処置を受けることができたのだ。

 

 ……とはいえ、それだけであった。グィンは断言されてしまった。この先、半年も生きてはいられないだろう──そう、医者から断言された。

 

 当然といえば当然のことだ。いくら仮初の、人工による内臓と治療魔法を使っても、それは延命行為でしかなく、そしてそれにも今の技術では限度がある。失った手足や不治の病ですら癒してしまうと言われる、最上位の治療魔法──【神の血(キュアブラッド)】も、魔人の呪いのせいでグィンにも、カゼンにも作用しない。……もう、どうすることもできない状況だった。

 

 そして、グィン本人もそれを受け入れていた。短くはない己の道のりに待つ、その辛い現実を彼は潔く受け入れる、覚悟を決めていた。グィンは、そういう男だった。

 

 だが、先に結論を述べてしまうと彼は死ななかった。余命宣告である半年を過ぎても、それどころか一年経っても彼はまだ生きている。

 

 元々グィンという男は中々にしぶとい男であったが、それを差し引いても奇跡としか言いようがない現状だった。とはいえ、流石に以前のような生活は送れず、常日頃から生命の危機に晒されていることには変わりないのだが。

 

 ともあれ、二人に比べてしまえば私の後遺症などまるで軽かった。魔法が自由に扱えないだけで、五体満足ではあるしまともな生活も送れているのだから。

 

 私があの場で己の限界を超えて、動けなくなってしまったから、カゼンが攻撃を庇うことになってしまった。

 

 私が弱かったから、グィンが魔人と死闘を繰り広げ、満身創痍となっているところで呪いをかけられてしまった。

 

 全て、私のせいだ。私が未熟だったせいで──二人は、私以上の重荷をその身に背負うことになってしまったのだ。

 

 だから、私は死ぬまでこのままでいようと思った。二人と違って、私の後遺症はまだ治る可能性があったが──私は、その可能性を自ら潰すことにした。

 

 二人を差し置いて、自分だけ元通りになろうなどと、とてもではないが考えられなかった。私のせいで、二人はああなってしまったというのに。

 

 自己満足と言われるかもしれない。それでも構わない。この後遺症を一生抱え込むことが──二人に対する、私なりの償いなのだ。

 

 

 

 

 

「それは違う」

 

 

 

 

 

 だが、ジョシュアは私の贖罪を否定した。似合わない真顔で、私の償いを彼は切って捨てた。

 

 その日のことはよく覚えている。手こそ出さなかったが、そこで私は初めて、本気で彼を拒絶した。拒否した。

 

 お前に何がわかる。たかが医者でしかない、赤の他人でしかないお前に一体私の何がわかる。知ったような口で、否定するんじゃない────恐らく、ジョシュアに向かって吐き捨てたこの言葉を、私は一生忘れられないだろう。

 

 彼は黙っていたが、散々罵り続けた私が息を切らして黙り込むと、その固く閉ざしていた口を静かに開いた。

 

「一週間、僕に時間をくれ」

 

 そう言った翌日、ジョシュアはマジリカを発った。最初、彼は逃げたのだと思った。一週間時間をくれなどとほざいて、この街には二度と戻ってこないつもりなのだろうと、私はそう思っていた。

 

 しかし、そんな私の考えを覆すように、一週間後ジョシュアはマジリカに、私の元に戻ってきた──二通の便箋を携えて。

 

 私に会うなり、彼はその二通の便箋を手渡してきた。私といえば呆気に取られていて、なすがままにそれを受け取って、そして彼は私に封を切れと言った。

 

 言われた通り封を切って中身を確かめると、それぞれの便箋にそれぞれ一枚の手紙が入っていた。自然の流れで目を通してみると────それは、カゼンとグィンからの、言葉(メッセージ)であった。

 

 二人とは、冒険者(ランカー)引退会見の日以来、会ってはいない。連絡も取ってはいない──何故なら私にそうする資格など、ないと思っていたから。

 

 ……否、資格どうこうではない。ただ単に、二人に会わせる顔を持ち合わせていなかったのと、連絡をする度胸がなかっただけだ。そう、私は嫌でも理解していた。

 

 きっと、二人は私を恨んでいるだろう。お前のせいで自分たちは不自由な人生を送る羽目になった。お前を絶対に許さない────そんな憎悪の言葉をぶつけてくるだろう。この手紙にも、そんな憎悪が綴られているのだろう──私は、自分勝手にそう決めつけていた。

 

 だが、そこに綴られていたのは────他愛のない挨拶と近況確認、そして私に対する感謝の言葉であった。

 

 

 

『アルヴァ。君があの時、限界を超えてまでクレヒトに痛手を負わせてくれていなければ、こちらは全滅していた。私の目と腕と足に関しては気にしないでくれ。最後に……あまり自分を責めるな』

 

 

 

『いつまで過ぎたこと後悔してんじゃねえ。似合わねえんだよ、ガサツ女。いい加減、顔上げて前見やがれ』

 

 

 

 ………情けなく肩を小さく震わせ、口元を押さえる私に、ジョシュアがこう言葉をかける。

 

「最初から、誰も君を責めてなんかなかった。君は最初から赦されていたんだ──だからもう、自分を赦してやらないか?……アルヴァ」

 

 私は、何も言わなかった。……何も言えず、二人からの手紙を握り締め、声を押し殺して静かに泣くことしか、できなかった。

 

 

 

 

 

 時間にして、恐らく(アタシ)は一時間弱泣いていたと思う。その間、ジョシュアは何も言わず、ずっと傍にいてくれた。

 

「……なあ、アルヴァ。実は君に……伝えたいことがあるんだ」

 

 私が泣き止んだのを見計らって、ジョシュアがそんなことを言い出す。私は、黙って頷き、その続きを促す。

 

 彼の話を要約すると────今の(・・)医学技術では、私の魔力回路を正常に戻すことは叶わないらしい。……それを告げたジョシュアは、見たことのないくらいに顔を悔しさで歪めさせていた。

 

 だが、私はジョシュアを責めなかった。元よりそれはとっくに理解していた身だし、そもそも彼を責め立てようなどの気持ちは、全く込み上げてこなかった。

 

「別にいい。アンタが気にすることなんて、ない」

 

 そうジョシュアに言う私の声は、先程まで泣いていたせいか酷く掠れていた。私の言葉を聞いた彼は一体何を思ったのか、こちらにグッと身体を近づけ、不意に私の両肩を掴んだのだ。

 

 正直に白状してしまうと、思わず悲鳴を上げそうになってしまった。今思えば、あんな風に異性から──男から距離を詰められるのは初めてのことだった。

 

 まるで生娘のように情けなく心臓の鼓動を早め、僅かばかりに見開かせた私の目に、ジョシュアの碧い瞳が映り込む。少しの沈黙を挟んでから、静かに彼は言った。

 

「君の魔力回路は僕が治してみせる。たとえどれだけの時間がかかろうとも、どれだけの年月が過ぎ去ったとしても、いつの日か絶対に、治してみせる。だから、それまでにどうか、僕に君を支えさせてほしい。……君の傍に、いさせてほしい」

 

 ……ジョシュアは、真剣だった。どこまでも真っ直ぐに、私のことを真摯な眼差しで見つめていた。

 

 当然だが、今までの人生の中で、一人の男からこんなことを言われたのも初めてだった。初めてで、当の私はただひたすらに戸惑って、困惑するしかなくて────何も言えずに、小さな子供のようにこくりと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕は────ヴィクターさ」

 

 機械人形の頭部を模した仮面(マスク)を被り、黒衣を身に纏って、ジョシュアは地面にうつ伏せになっている眼下のアルヴァにそう言う。対し、アルヴァは彼の言葉が理解できていないのか、まるで呆けたように彼を見上げる。

 

 そして少し遅れて、ようやっと彼女は口を開いた。

 

「何を……言って、んだ?ジョシュア。こんな時に、一体何の冗談だい……?」

 

 アルヴァの声は、震えていた。この上なく、弱々しく。まるで彼の言葉を理解したくないと訴えるかのように。目の前にある現実から、目を背けるように。

 

 だが、しかし。そんな現実逃避を試みるアルヴァに対して、ジョシュアは────

 

「冗談なんかじゃあないさ。言葉通りの意味だよ。ヴィクターは僕で、僕がヴィクターなんだ」

 

 ────銃を向けたまま、日常(いつも)と変わらぬ調子でそう返した。だが、それでもアルヴァは受け止められないように、肩を小刻みに揺らしながら、言葉を漏らす。

 

「そんな訳、ないだろ…………アンタがあんなクソ野郎な訳ないだろッ!?」

 

 喉の、全身の痛みを忘れて、アルヴァは叫ぶ。この上なく取り乱しながら、彼女は現実を否定しようとする。

 

「ヴィクターは死んだ!さっき!潰れて、私の目の前で!アンタはジョシュアだ!ヴィクターなんかじゃ、ない……!ヴィクターなんかじゃあないんだよッ!?」

 

 戸惑いながら、困惑しながら、混乱しながらアルヴァは悲痛な叫びを上げる。彼女の言葉は、もはや願望に近かった。目の前の現実が嘘であってほしいという、切実な願望だった。

 

 けれど、彼女の目の前に立つ男は、あくまでも淡々に、冷酷に彼女の願望を打ち砕く。

 

「まあ、確かに君の言う通りヴィクターは死んだね。死んだけど、死んではいない(・・・・・・・)。君の目の前で死んだ彼も紛れもなくヴィクターで、そしてこの僕もヴィクターなんだよ」

 

「は、ぁ……!?」

 

 まるで意味がわからないと訴えるアルヴァに、ジョシュア────否、仮面の男はこう続ける。

 

「詳しい説明は省くけど、さっきまで君が戦っていたあの男は、謂わば僕の分身さ。偉大なる先生(ドクター)の御業によって作られた分身なんだ。だから彼も僕で、僕も彼なのさ」

 

 ちなみに『ジョシュア』というのは過去に捨てた名でね──おまけのようにそう付け加えて男は言うが、アルヴァは全くと言っていい程に彼の言葉を飲み込めないでいた。彼女の心が、未だに理解することを拒んでいた。

 

 ……もう、訳が……意味がわからない……!

 

 そう心の中で苛立ちのままに吐き捨てながら、なおもアルヴァは彼に訴えかける。

 

「ふざけんじゃ、ないよ。大体先生って誰だ……あのクソ野郎は一体何だったんだ!なあ、ジョシュア!」

 

 現実を受け止められないアルヴァは、縋るように己の目の前に立つ男を見上げる。その紫紺色の瞳は、僅かばかりに潤んでいた。

 

 硬い地面を無意識に指先で掻きながら、アルヴァが震える声を喉奥から絞り出す。

 

「アンタがクソ野郎(ヴィクター)ってんなら、アンタは私を騙してたのか……あの日から、出会った四年前からアンタは私を騙してたのか!?」

 

 顔を上げて、アルヴァは悲痛に叫ぶ。

 

「あの時私にかけてくれた言葉は、全部嘘だったってのかい……?」

 

 まるで救いを求めるようなアルヴァの言葉に、彼女の目の前に立つ、仮面(マスク)を被った黒衣の男は、何も言わなかった。地面に伏せる彼女に、銃口をただ向けるだけだった。

 

「……何か、言えよ。答えろ、よ………」

 

 弱々しく、アルヴァが小さくそう呟く。その瞬間────遂に、彼女の紫紺色の瞳から雫が零れ落ちた。

 

「答えろよぉ……ジョシュアぁ……!!」

 

 ……もはや、そこにいたのはか弱い独りの女であった。今にもボロボロと崩れて消えてしまいそうな程に脆い眼差しを向けるアルヴァに、男は──静かに、被っていた仮面を取った。その下にあるのは、日常通りの柔和な笑顔で。その笑顔のまま──────

 

 

 

 

 

「ああ嘘だよ、アルヴァ。僕は、ずっと君を騙していたんだ」

 

 

 

 

 

 ──────平然と、アルヴァにそう言い放った。

 

「………ふざ、けんな……ふざけんな……ふざけんなぁぁぁぁ……!」

 

 心を圧し折られたアルヴァが、顔を俯かせ何度もその言葉を繰り返す。そんな彼女に手を差し伸べることなく、依然銃口を逸らさず向けたまま、仮面の男────否、ヴィクターが言う。

 

「さて。これで僕の正体は明かした。じゃあ次にこの計画(プロジェクト)について君に教えよう。アルヴァ、君も元冒険者(ランカー)なら、一度くらい『厄災』について聞いたことあるだろう?」

 

 訊ねるヴィクターに、アルヴァが返事をすることはない。……しかし、それについては彼の言う通り、彼女も僅かばかりに聞き覚えがあった。

 

『厄災』──最近、若手冒険者チームである〝翡翠の涙〟が発見した書物に記されていた、いつの日かこの世界(オヴィーリス)に滅びを齎す五つの存在(モノ)たちのことである。

 

 だが、それが一体どうしたというのか──咽び泣く本能に反し、アルヴァの理性は冷静にもそう考えていた。そんな彼女に、ヴィクターは続ける。

 

「単刀直入に言おう。僕の計画というのはね……その『厄災』の内一柱を目覚めさせることなんだ」

 

「……は……?」

 

 ヴィクターのその発言は、投げやり気味になりかけていたアルヴァの意識を無理矢理向かせるには充分な程に衝撃的であった。俯かせていた顔を再度上げ、呆然とした表情を浮かべるアルヴァに、だがヴィクターは次にもっと信じ難いことを言い放った。

 

 

 

「そして、その『厄災』の一柱が────フィーリアなのさ(・・・・・・・・)。」

 

 

 

 ……今度は、アルヴァは何も言えなかった。最初、それが何か(タチ)の悪い、冗談なのかと思った。

 

 ──……フィーリアが、厄災……?

 

 遅れて、ゆっくりとヴィクターの言葉をアルヴァは飲み込む。そんな彼女の様子に構うことなく、さも平然とヴィクターはそのまま続ける。

 

「さてさて。これで僕は全てを話した。もう思い残すことはない。アルヴァ……後は、用済みの君を始末するだけだ。しかし、心苦しいよ。君の接触が起点になったのに。この計画一番の功労者である君を、よりにもよってこの計画の一任者である僕が始末しなければならないなんて……本当に、心苦しい」

 

 そう述べる彼は、至って日常通りだった。その声音も、その笑顔も、その全てが日常通りであった。

 

「…………」

 

 アルヴァは、もう何も言わなかった。もう、何も言いたくなかった。これ以上──目の前に広がる現実を、見たくなかった。

 

 ──全部、どうでもいい。

 

「じゃあアルヴァ──そろそろお別れの時間だ。君のような友人がいたことを、僕は忘れないよ」

 

 上げた顔を、再び俯かせたアルヴァの後頭部に、ヴィクターはその手に持つ武器──銃の、銃口の狙いを定める。そして──────

 

 

 

 

 

「いや、やっぱり止めよう」

 

 

 

 

 

 ──────銃を下ろした。

 

「騙されていたとはいえ、君も立派な協力者だ。そんな君には、あるね」

 

 言いながら、ヴィクターは手に持っていた銃を懐にしまう。代わりに、彼はまた別のものを────今度は一つの魔石を取り出す。それは小さな、虹色に輝く魔石であった。

 

「……え?」

 

 堪らず困惑するアルヴァに背を向け、その魔石を持ってヴィクターは歩き始める。フィーリアの元に、ゆっくりと。

 

「君にはあるんだよ。この計画の大成を見届ける資格が──いや、義務が。義務は、果たさなきゃ」

 

「お、おい……待て、ジョシュア……アンタ、フィーリアに何する気なんだ?おい、おい!?」

 

 アルヴァの声を無視して、ヴィクターは進む。そして彼は辿り着く。フィーリアを囚える、薄青色の巨大な魔石の元に。そして彼は掲げる。その手に持つ、虹色の魔石を。

 

「ジョシュア!ジョシュア!!止めろ、止めろぉぉぉッ!」

 

「大丈夫だよ、アルヴァ。フィーリアは死なない。……ただ、消えるだけさ」

 

 その瞬間、虹色の魔石が徐々にその輝きを強める。そしてそれに反応したかのように────今の今まで固く閉ざされていた、フィーリアの瞳がゆっくりと開かれた。そのことにハッと、アルヴァが目を見開かせる。

 

「…………ジョシュア、おじさん……?」

 

 フィーリアが、寝惚けたままにそう言う。それに対して、ヴィクターは彼女が知る笑顔のままに、口を開いた。

 

「やあ、おはようフィーリア────そして、さようなら」

 

 

 

 パキン──そう言うと同時に、彼は掲げた虹色の魔石を砕いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は、は…は。なる……ほど、ね。確か、に……こ、れは………正しく『厄災』……だ」

 

 その日、その時。この塔の最深部にて。目の前に広がった光景を、目の前で繰り広げられてしまった現実を、生涯アルヴァは忘れないだろう────忘れられないだろう。

 

 一瞬にして血に染められた地面。撒き散らされた人の臓物。破かれた衣服と、仮面(マスク)

 

 地面と同じように血に染まった、人間大の魔石に、ヴィクターは囲まれていた。囲まれながら、見上げていた。彼はそれ(・・)を呆然と眺めていた。

 

「素晴ら、しい……本、と、うに……ゴフッ」

 

 全身の至るところからびっしりと魔石が生えた(・・・)ヴィクターの口から、大量の血が溢れ出す。地面に落ちて広がったその血にも、赤く濡れた魔石が混じっていた。

 

「す、ば……ら…し………い」

 

 口の端から血を垂らし、虚ろな目でそう呟くヴィクター。そしてそれが、彼の最期の言葉となった。

 

 突如として彼の顔が裂け、そこから血と脳漿で汚れた魔石が突き出す。かと思えば次の瞬間、彼の頭は弾け飛び、それと同時に魔石の欠片が周囲に散らばる。

 

 次にヴィクターの腹部が異様に膨らみ、巨大な魔石が突き破って生えてくる。千切れたヴィクターの上半身は落下する途中で、頭同様に弾けて、臓物と肉片と、そして魔石をブチ撒けた。

 

 そんな、ヴィクターの壮絶にしてあまりにも現実離れした死に様を目の当たりにして、アルヴァは何も言えなかった。微かな息すら、漏らせないでいた。

 

 そんなアルヴァの元に、それ(・・)は近づく。今し方ヴィクターと、その彼の部下全員に酷たらしい、およそ人間が迎えるべきではない死を贈ったそれ(・・)が、ゆっくりと歩み寄る。

 

 一歩、地面を踏む度に。その足元に薄青い魔石が形成される。その光景は、いっそ幻想的に思えた。

 

 そしてとうとう、それ(・・)は──────フィーリアの形を模した何かは、アルヴァのすぐ目の前にまで来た。

 

 地面に伏す彼女を、七色が複雑に入り混じり絡み合う虹の瞳と、それに対して無と形容できるほどに淋しげな灰の瞳が見つめる。その二つに含まれているのは、ただただ無機質で無感情な光だけであった。

 

 一糸纏わぬその身には、薄青く輝く線が幾何学模様のように何本も走っており、まるで刺青のようであった。そしてその線は顔にも現れており、しかし身体のものとは違ってこちらは流麗な曲線を描いていた。

 

その場に佇んでいたフィーリアの形を模したそれは、不意にしゃがみ込み、その小さな白い手をアルヴァの顔に近づける。アルヴァの視界はその指先に徐々に覆われ────そこで、唐突に彼女の意識は途絶えた。



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ARKADIA────十六年前(その十八)

 気がつくと、目の前が真っ暗だった。どこを見回しても、真っ暗で、光など何処にもなかった。

 

 身体の自由が利かない。身体の自由が利かないまま、ただ沈んでいく感覚だけが広がっている──そう、今自分は沈んでいるのだ。

 

 例えるなら、水の中だ。この暗闇は、水のようだ。だが不思議と息苦しいことはなく、どころか思いの外──心地良かった。

 

 沈んでいく。ゆっくりと、何処までも。沈んで、沈んで──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヘェイ」

 

 ──────唐突に、終わった。また気がつけば、あの果ても底も知れない暗闇は掻き消え、代わりに目の前に広がっていたのは澄み渡った青空と海と砂浜。そして立っている、一人の女性。透き通るような灰色の髪と、それと全く同じ色をした瞳を持つ、一人の女性。

 

「そろそろキミの出番だよ。『理遠悠神(アルカディア)』のこと、よろしくネ?」

 

 瞬間、またしても唐突にこの世界(ばしょ)も終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開けば、最初に飛び込んだのは染み一つない、白い天井。

 

 ──……ここ、は……。

 

 鈍い思考をゆっくりと正常に、冴えさせながらアルヴァは視線を泳がす。泳がして、ここがマジリカにある病院の一室なのだと理解する。

 

 それに続き、今自分は寝台(ベッド)に寝かされていることにも気づく。しかし、何故自分が病室で寝かされているのか、その理由が全くわからず、アルヴァは困惑を覚えながらも、とりあえず寝台から降りようとして──だが、身体が妙に重く、意思に反して上手く動くことができなかった。

 

 ──一体、どうなって……。

 

 そのことに対して戸惑い────直後、アルヴァの脳裏を数々の記憶が過った。

 

 

 

 

 

『おかあさん!』

 

『初めまして。私はヴィクターと申します』

 

『魔石の落し子を、私に譲って頂けませんか?』

 

『フィーリアが、攫われ、た』

 

『『紅蓮』の実力……是非、一度味わっておきたい』

 

『僕が──────ヴィクターさ』

 

 

 

 

 

「……そうだ。(アタシ)は、塔にいて……何で、私こんなとこに……」

 

 あのあまりにも衝撃的な出来事を徐々に思い出しながら、アルヴァはなんとか上半身だけは起こす。それとほぼ同時に、不意にこの病室の扉が静かに、ゆっくりと開かれた。

 

 咄嗟にアルヴァが扉の方に顔を向ける。そこにいたのは────

 

 

 

「……お母、さん?」

 

 

 

 ────フィーリア、だった。彼女は最初信じられないというような、そんな驚愕の表情を浮かべていたが、それもすぐさま歓喜の笑顔に変わって、そしてとてもではないが抑えられないというように、その場から駆け出した。

 

「起きたのお母さん!?良かった!」

 

 そう言って、フィーリアはこちらに駆け寄ってくる。その姿がアルヴァには不思議とゆっくりに見えて、酷く懐かしく思えて、同時に言葉では表せない、暖かいモノでアルヴァの心が満たされ、溢れた。

 

 ──……ああ、フィーリア……フィーリア……!

 

 そしてこちらに向かってくる愛しい我が娘を優しく抱き止めようと、思い切り抱き締めようとアルヴァは腕を振り上げる。先程まで上手く動かせなかったというのに、今度はあっさりと腕は動いてくれる。

 

「お母さん!」

 

 満面の笑顔のまま、アルヴァの元に飛び込もうとするフィーリア。そんな可愛らしい少女の姿をアルヴァは微笑ましく見つめて、眺めて────直後、気づいてしまった。

 

 

 

 フィーリアの右の瞳が七色入り混じり絡み合う虹に染まっていることに。左の瞳が無を形容するような灰に染まっていることに。そして天使のような笑顔浮かべるその顔に、流麗な曲線を描く一本の薄青い線が走っていることに。

 

 

 

 瞬間、アルヴァの脳裏に蘇る。あの光景が。ヴィクターと彼の部下が一瞬に、瞬く間に呆気なく惨殺された、あの恐ろしく悍ましい光景が酷く鮮明に蘇ってくる。

 

 そしてそれをやったあの時の、フィーリアの形を模した別の何かと、今こちらに向かってくるフィーリアの姿と──重なった。

 

「ッ!」

 

 今思えば、それはアルヴァの、元冒険者(ランカー)としての危機感から来る防衛本能のようなものだったのだろう。アルヴァ自身、決して、決して絶対にそうしたいと考えて、そう行動した訳ではない。そんな訳も、はずもなかった。

 

 だが、アルヴァはそうしてしまった。こちらに駆け寄り、抱き着こうと伸ばされたフィーリアの手を、彼女は。

 

 

 

 

 

 パン──手で、払い除けてしまった。

 

 

 

 

 

「………え……?」

 

 抱き着こうと伸ばした手を払われ、数歩後ろに退がったフィーリアが呆然と声を漏らす。遅れて今自分が何をしてしまったのか理解したアルヴァが、ハッと慌ててこちらから離れたフィーリアに声をかける。

 

「ち、違っ……違うんだフィーリア。これは、さっきのは違く、て……」

 

 上手く言葉が出ないアルヴァを、フィーリアはただ見つめていた。その瞳は────酷く、寂しげだった。

 

「……お医者さん、呼んでくるね」

 

 そう言うや否や、フィーリアは踵を返し、ゆっくりと歩き出す。そんな彼女をアルヴァはすぐ呼び止めようとしたが、そうする前にフィーリアは走り出し、急いでこの病室から出て行ってしまった。

 

「…………何、やってんだ(アタシ)……この、馬鹿野郎……!」

 

 やっとの思いで、それこそ死ぬ思い取り戻したというのに、自らの手で突き放してしまった小さな背中を見送って、独り病室に残されたアルヴァは抱き締めようとしたその手で、寝台のシーツを握り締め、顔を後悔で歪ませながらただそう呟くことしかできなかった。



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ARKADIA────十六年前(その十九)

「…………」

 

 今、アルヴァ=レリウ=クロミアは大橋にいた。微風(そよかぜ)に、紫紺色の瞳と同じ色をした髪をされるがままに靡かせながら、彼女はマジリカの街並みを────以前の面影は辛うじて残されているものの、大部分は変わってしまった(・・・・・・・・)その街並みを、大橋の上から独り、黙って見下ろしていた。

 

 ──……本当に、すっかり変わっちまったね。

 

 時の流れの早さというものを嫌でもしみじみと感じさせられながら、そう心の中で呟いて、アルヴァは(おもむろ)に己の懐に手を突っ込ませ、そこから一本の煙草(タバコ)を取り出す。そしてそれを加え、先端に指先を近づけて──煩わしいとでも言うかのように眉を顰めた。

 

「ああ、そうだった」

 

 そうぼやいてから、アルヴァは煙草の先端に近づけた指先を戻し、また懐に突っ込む。そしてそこから魔石を加工して作った、簡易な小型火起こし器を取り出した。

 

「全く……別に火ィ点けられれば何でもいいんだけど、不便でしょうがないったらありゃしない」

 

 先端に着火させ、アルヴァは久々の煙草をゆっくりと味わう。紫煙を吐き出しながら、彼女は街並みから別の方へ視線を向ける。その先にあったのは────薄青い魔石に覆われている、塔であった。

 

「…………」

 

 その塔を、かつては『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』と呼ばれていた塔を、アルヴァは複雑な表情で遠くから眺め、今日までの記憶を振り返った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの後、フィーリアに呼ばれた医者から、アルヴァは全ての説明を事細かに聞かされた。

 

『創造主神の聖遺物』の塔に異変が起きていることに気づいた冒険者(ランカー)によって、塔の入口付近にてフィーリアと共に倒れていた自分が発見されたこと。

 

 その後、二人とも病院に運び込まれ、先にフィーリアが意識を取り戻したが、自分は一向に意識が戻らず、その日から今日まで一年(・・)もの長い間、意識不明の昏睡状態に陥っていたこと。

 

 ……そして、自分はもう────一切の魔力がないということ。

 

 本来、この世界(オヴィーリス)で魔力なしに生きていられる生物は今のところおらず、確認もされていない。前に説明した通り、生命活動を維持させる為に魔力というものは必要不可欠で、それこそ身体を巡る血液と同等な程なのだ。

 

 だが、その魔力を失っても、アルヴァは生きている。世界全体から見ても、今の彼女は唯一無二の存在となっていた。

 

 その上魔力回路こそ致命的なまでに──否、もはや治療不可な程までに損傷してしまっているが、それによる手足の異常はなく、普通はあり得ない、まさに奇跡だと医者はアルヴァに言った。

 

 そんな彼の説明を、アルヴァは半ば他人事のように聞いていた。今己が対面しているこの現状に、確かな実感を掴めないでいたのだ。

 

 医者の説明も終わり、とりあえずその日は寝台(ベッド)の上で休み、翌日からだいぶ鈍ってしまった身体のリハビリテーションにアルヴァは努めた。一年間もずっと動かしていなかった身体はまるで別人のもののようで、またアルヴァ自身そういったことに慣れていないのもあってか、悪戦苦闘の日々を過ごすことになった。

 

 しかしそこは腐っても元『六険』(S)冒険者(ランカー)。医者からは最低でも二ヶ月はかかるだろうと言われていたのだが、アルヴァは驚くべきことにたったの一週間で、日常生活を送る分には支障をきたさない程度までに身体機能を回復させてみせた。

 

 そうして担当の医者を驚愕させながら、ある一点を除けば重大な後遺症もないということで、そのままアルヴァの退院も決まったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さて、と。それじゃあ、そろそろ行くとしようかねえ」

 

 病院での記憶も振り返り終えて、煙草(タバコ)の吸殻を口から離し、今までそうしていたようにアルヴァは【次元箱(ディメンション)】を開こうとするが──その直前でまた眉を顰めた。

 

「……本当に不便ったらありゃしないよ」

 

 そう吐き捨てながら、アルヴァは再度懐を探り、火起こし器と同じく以前であれば決してその世話になることはないだろうと思っていた、まだ新しく買ったばかりの吸殻入れを取り出す。

 

 ──いい加減、(アタシ)も慣れないとね。

 

 その吸殻入れに吸殻を押し込みながら、アルヴァは心の中でそう苦々しく呟くと同時に、改めて痛感させられる────今の自分は、ポケット程度の【次元箱】を開くことも、煙草に灯す程度の小さな火を起こすことも、できないのだと。できなくなってしまったのだと。

 

 当然のことと言えば、当然だ。そもそもアルヴァには、魔力がないのだから。己にあった全ての魔力を、彼女は失ったのだから。『ない袖は振れない』──以前カゼンから教えられたこの極東(イザナ)の言葉を、今になってアルヴァは思い出す。

 

 火起こし器と吸殻入れを懐にしまい、踵を返しその場からアルヴァは歩き出す。目的地──冒険者組合(ギルド)輝牙の獅子(クリアレオ)』へと向かう為に。

 

 世暦九百八十四年の今日────アルヴァ=レリウ=クロミア、『輝牙の獅子』GM(ギルドマスター)としての復帰の日である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ゛あ゛ぁ゛あ゛〜!お゛がえりな゛ざいGM(ギルドマスター)ぁ゛ぁ゛ぁ゛……!!」

 

「あ、ああ……相変わらず元気そうで何よりだよ。リズ」

 

 一年と一週間ぶりに『輝牙の獅子』の門を潜ったアルヴァを最初に出迎えたのは、受付嬢兼GM代理を務めていたリズティア=パラリリスであった。

 

「ほんどゔに……グズッ、GMがもどっでぎで……ぼんどうによがっだでずぅぅぅ……!」

 

「そ、そんなに心配してくれてたのかい……その、すまなかったね」

 

 顔をぐしゃぐしゃに歪めさせて大泣きしながら、こちらに抱き着いてくるリズティアだったが、この組合に所属する他の冒険者(ランカー)たちも概ね彼女と同じように泣きながら、アルヴァの復帰を大いに喜んだ。

 

 そんな彼らに申し訳なくも若干引きつつ、謝りながら、とりあえず今すべきことを確認する為に、不本意ながら長い間留守にしてしまっていた執務室へと足を運ぶ。

 

 ──掃除とかはリズがしてくれてたようだし、まずは書類やら何やらに目を通すとしようかね……。

 

 恐らくこれから相手をするだろう膨大な書類の山を想像しながら、アルヴァは執務室の扉の取手(ノブ)を握る。そしてヒヤリとするその冷たい感触を少しばかり懐かしみながら、ゆっくりと捻った。

 

 ギィ──軋んだ音を立てながら、扉が開く。そのまま特に何を思うでもなく、アルヴァは室内に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

「やあやあ。初めまして、だよね。現『輝牙の獅子』GM、元『六険』《S》冒険者────『紅蓮』の……えぇと、アルヴァ=レリウ=クロミア君?」

 

 

 

 

 ────既に、執務室には先客がいた。



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ARKADIA────十六年前(その二十)

「やあやあ。初めまして、だよね。現『輝牙の獅子』GM、元『六険』《S》冒険者────『紅蓮』の……えぇと、アルヴァ=レリウ=クロミア君?」

 

 声も出せず、ただ硬直し固まるしかないアルヴァに、そんな声が呑気にもかけられる。男にも女にも聞こえる、性別というのを感じさせないどっちつかずな声色であった。

 

 そしてそれは声色だけに留まらず、その見た目も同様で。アルヴァの椅子だというのに何の躊躇いも戸惑いもなく座る、白に限りなく近い金髪と、灰色とも何とも形容できない無色の瞳を持つその者は、一見すると幼い少女のようにも見えるし、かと思えば凛々しい青年かのようにも見えるし、だと思うと穏やかな老人に見える。他に見たことのない、独自な意匠が施された真白色の祭服らしき衣服を身に纏うその者は、外見すらもどっちつかずで、年齢もまるでわからない。

 

 ──コイツは、一体……!

 

 無論、今日来客があるなどアルヴァは聞かされていないし、仮にあったとしてもアルヴァの許可もなしにこの組合(ギルド)の者が勝手に、それも彼女の執務室などで絶対に待たせないはずだ。

 

「はは。そんなに怖い顔をしないでくれたまえよ。勝手にこの部屋に入って、勝手にこの椅子に座ってることは謝るから。ほら、そんな扉の前で立ち止まってないで、もう少し前においで」

 

 アルヴァの困惑と警戒を他所に、この部屋の主でもないのにその者は彼女を手招く。当然それにアルヴァが従うはずもなく────

 

 

 

「前に進め。死ぬぞ」

 

 

 

 ────逆にその場から離れようとした彼女の首筋に、冷たい鋭い何かの切先が押し当てられ、それと同時にすぐ背後からそんな少年の声が聞こえてくる。まだ変声期も訪れていないような、高くあどけない声音──しかし、そこに込められていたのは、到底似合うことのない確かな昏い殺意。

 

「ッ……」

 

 アルヴァの頬に一筋の汗が伝う。少年の殺意は本物だ。このまま立ち止まっていれば、首筋に当てられている得物の切先を、少年は躊躇なく一息で沈み込ませることだろう。もしそうなった時の先にある結末など、アルヴァには容易に想像できてしまう。

 

 ゆっくりと、アルヴァが一歩踏み出す。それに続いて、彼女の背後にいる少年も一歩踏み出す。そうして二人はある程度まで進んで、スッと祭服を纏う者が手を上げた。

 

「そこでいいよ。……さてさて。こんな物騒な真似をどうか許してほしいなぁクロミア君」

 

「……」

 

 ニコニコと笑顔を浮かべながら、その者はアルヴァにそう言う。その言葉に対して、アルヴァは何も返せなかった。刃物らしき切先を押し当てられている手前、下手な行動が取れないのだ。

 

 黙るアルヴァに、特に気にした様子もなくその者は続ける。

 

「そう緊張しなくても……まあ首にそんな危ないのを当てられてちゃあ、それも無理だよね。うん。アクセル君、離れて」

 

「は?」

 

 予想だにしないまさかの発言に、黙り込んでいたアルヴァが堪らず声を漏らすのと、彼女の首筋を圧迫していた冷たく鋭い切先の硬い感触が静かに消え失せるのは、ほぼ同時のことであった。アルヴァの背後に立っていたのであろう少年が、その言葉通りに離れたのだ。

 

 咄嗟に、アルヴァは振り返る──予想通り、そこに立っていたのは少年であった。恐らくまだ歳は十か十一そこらか。灰色がかった白髪と、深みのある翡翠色の瞳が特徴的な、年齢の割に身長の高い子で、特注なのだろう真白色の礼服を着ていた。そしてつい先程までこちらの首筋に押し当てていたのであろう、これまた他に見たことのない意匠のナイフをその手に握っていた。

 

「これで緊張も解けるでしょ?ほら、リラックスリラックス」

 

「………」

 

 まるで(おど)けるようにそう言う祭服の者を、アルヴァは怪訝な表情で見つめる。彼女には、この者の行動が理解できなかった。……いや、彼女でなくとも、この行動には誰であろうと首を傾げざるを得ないだろう。

 

 交渉等において絶対的有利を意味する、こちらの生殺与奪の権を握っていたというのに、わざわざ自分からそれを手放す──本来なら愚か極まりない行動であるが、だからこそアルヴァにはそれが却って酷く、不気味この上ないと思えてしまう。

 

 こんなあり得ない行動を取るということは、即ちそうしても特に問題はないと暗にこちらに示しているということ。仮に今すぐアルヴァが祭服の者に襲いかかろうが────この祭服の者は、それを退けられるのだということ。その手段を有しているということであり、そしてその手段こそが、恐らくこの礼服の少年なのだろう。

 

 アルヴァの、冒険者(ランカー)としての勘が告げていた──このまだ年端もいかない少年に、自分は勝てないと。もしここで()り合えば、確実に喰われる──とても信じ難いことではあるが……この少年がこちらに放つ殺気が、それを如実にアルヴァに知らしめていた。まだ魔法が扱えたのならば、また話は別だったのかもしれないが。

 

 ──明らかに子供(ガキ)が放てる殺気じゃない……クソ、何だって復帰初日にこんな目に遭ってるってんだい……!

 

 災難ばかりに見舞われる己の不運を恨みながら、アルヴァは先程から止まらない冷や汗でじっとりと背中を濡らす。祭服の者はリラックスしろだとか抜かしていたが、こんな訳のわからない状況でそんなことができるほど、生憎アルヴァの肝は据わってはいない。

 

 そんな彼女の内心を見抜くように、ニコニコとした朗らかな笑顔を少しばかり曇らせて、仕方なさそうに祭服の者が口を開いた。

 

「こっちはあくまでも一方的に話をしに来ただけなのにねぇ……アクセル君、クロミア君を虐めるのもそこまでにしなさい」

 

 祭服の者がそう言った瞬間、アルヴァに向けられていた少年──アクセルの殺気が、まるで嘘のように掻き消えた。

 

「よしよし。これで今度こそリラックスできるかな?クロミア君」

 

 また戯けるようにして言う祭服の者を、アルヴァはただ呆然と見つめる他なかった。そこで彼女はふと気づく。

 

 ──あの、ペンダント……。

 

 祭服の者の首から吊り下げられているペンダント。そのペンダントトップにある白金(プラチナ)十字架(ロザリオ)。アルヴァはそれに微かな見覚えを感じて────ハッと、目を見開かせた。

 

「……アンタは、まさか……」

 

 堪らずというようにわなわなと震える声を絞り出すアルヴァ。そんな彼女の推測を裏付けるかのように、祭服の者の朗らかな笑顔が、ニヤリと僅かに歪んだ。

 

「御名答」



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ARKADIA────十六年前(その二十一)

 何処と見慣れたことのない独自な意匠の真白の穢れなき祭服に、この世界(オヴィーリス)に唯一にして最大の宗教の象徴たる白金(プラチナ)十字架(ロザリオ)──この二つがアルヴァの中で結びつき、一つの推測が立つ。そしてそれは、彼女を(にわ)かにも慄かせた。

 

 堪らず震える声音で、恐る恐るとアルヴァが訊ねる。

 

「……アンタは、まさか……」

 

 すると終始朗らかであった祭服の者の笑顔が────ニヤリと崩れて、初めて欠片ばかりの悪意をアルヴァに見せた。

 

「御名答」

 

 その言葉を耳にした瞬間、アルヴァは(たちま)ち己の全身から血の気が引いていくのが、ありありとわかった。だが、それも無理はないのことだ。今自分の目の前にいる存在(モノ)は、本来ならば到底顔を合わせることも、ましてやこのようにして会うことも叶いはしない存在なのだから。

 

 戦慄を上手く隠せないまま、アルヴァが口を開く。

 

「何故アン……貴方様が、こんな一冒険者組合(ギルド)のしがないGM(ギルドマスター)の元にまで、わざわざ遠路遥々訪れたのでしょうか?」

 

「ははは。別に敬語なんて無理して使うことないよ。知らなかったとはいえ、今さらだろうしねぇ」

 

 滅多には使わない敬語になるアルヴァに対し、クスクスと祭服の者が笑って愉快そうに返す。しかし、依然としてアルヴァの表情は固いままだった。

 

「まあいいや。さっきも言った通り、こっちはただ一方的に話をしに来ただけなんだ。いや、話というよりは……お願いって言った方が正しいかな」

 

「……お願い、ですか」

 

 アルヴァの言葉に、祭服の者は静かに小さく頷く。そして続けて言った。

 

「単刀直入に言わせてもらうと、君が今保護している子──確かフィーリアって呼んでたよね。そのフィーリア君に関することなんだけども……大方、ヴィクター君から聞かされたでしょ?」

 

 ヴィクター────その名前に、微かにだがアルヴァが肩を跳ねさせたのを、祭服の者は見逃さなかった。

 

「……すみませんが、そのような方は存じ上げません」

 

「誤魔化さなくていいよぉ。忘れたくても、忘れられないでしょ。ねぇ?」

 

 腕を抱いて、目を少し逸らしながらそう答えたアルヴァに、ニコニコと祭服の者は朗らかな笑顔でそっとそう返す。何も言えず、黙り込んでしまった彼女に、至って平然としたまま祭服の者が続けた。

 

「さて揶揄うのもここまでにして。ヴィクター君が言っていたことは全て本当さ。フィーリア君──あの子は人間じゃあない。限りなく人間に似せられて創られた、予言書に記されしこの世界を滅ぼす五つの『厄災』の内一柱────『理遠悠神』アルカディア。そう遠くは未来に、必ず討たなければならない人類の敵なんだ」

 

 祭服の者の話を、アルヴァは黙って聞く。聞く傍らで、しかし俄かには信じ難い話であった。

 

 予言書に記されし『厄災』──『理遠悠神』アルカディア──人類が討つべき敵。そのどれもが、およそアルヴァの常識の埒外にある情報で、彼女の脳はそれを荒唐無稽の御伽噺だと決めつけたがっている。

 

 ……だが、それと同時に強く。はっきりと、鮮明に。あの時の記憶が蘇る。一年前、あの塔の最深部にて繰り広げられたあの光景が、アルヴァの瞼の裏で流される。

 

 破壊された壁や地面を修復するように覆う薄青い魔石。虹色の閃光に溺れ、次々と身体の内側から魔石に食い破られて絶命する男たちと────かつて心の底から信頼していた、己の良き理解者であり友だと思っていた者の、あまりにも酷たらしく凄惨だった死に様。

 

 アルヴァがそれらを想起する最中、祭服の者は静かな声で続ける。

 

「けど、今のアルカディアにそこまでの力はない。一年前は中途半端に、それも無理矢理起こされただけだからね。解放された溢れ出る魔力をただ無意味に撒き散らして、クロミア君を除くあの場にいた全員を魔石にして、終いには『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』であるあの塔を魔石漬けにしたところで、一旦は魔力を使い切って沈黙した」

 

 そこまで言って、そこで祭服の者は浮かべていた朗らかな笑顔を、少し崩して真剣な表情をする。それからその表情と同様に真剣な声で、アルヴァに語る。

 

「けれどね、もう封の役目を果たしていた蓋はこじ開けられてしまった。数年後か数十年後か……正確な日はまだわからないけど、いつの日か、アルカディア──いやフィーリア君はあの塔の元へ帰るだろう。そしてその時こそ、彼女はアルカディアとして課せられた役目の為に、真に力を振るう。その力で、今度こそこの世界を滅ぼすのさ」

 

「…………」

 

 言うなれば、それは予言であった。信憑性はない──しかしあの光景を、あまりにも強大に余る、人域を完全に逸脱した人外の魔力をその身から溢れさせ、その身に纏うあの時のフィーリアの姿を目の当たりにしたアルヴァにとっては、もはや信憑性がどうこうもなく、やたら焦燥を含む真実味を帯びたものだった。

 

 そして。それはアルヴァが、彼女が決して言いたくはなかった言葉を、この上なく苦悶させながら、その口から絞り出させた。

 

「つまるところ、(アタシ)にフィーリアを……無力の身となっているあの子を、今の内に殺せと?」

 

 そう、堪らず顔を歪めさせて訊ねるアルヴァに、しかし祭服の者は再び笑顔になってこう返した。

 

「殺せるの?ねえクロミア君────君はフィーリア君を、あの子を殺せるのかい?」

 

 執務室は、沈黙に包まれた。祭服の問いかけに、アルヴァは何も答えられなかった。彼女はただ、黙って俯くことしかできないでいた。

 

「まあ、別に今殺せとは言わないよ。フィーリア君を殺すも生かすも、クロミア君の自由だ。君の好きにするといい。……ただ、今後フィーリア君をあの塔の中に入らせないようにしてほしいんだよね。近づくくらいは大丈夫だけど、中に入れちゃまだ駄目だ。まだ、時期じゃあないからさ」

 

 そんなアルヴァの様子を気にすることなく、祭服の者はそう言って、椅子から立ち上がった。

 

「これで話は終わりだよ。復帰初日で色々忙しいところごめんね──じゃあ帰ろうか。アクセル君、ラスティ君」

 

 言いながら、扉の方へ向かう祭服の者と少年アクセル────そして、気がつけば、いつの間にか開かれていた扉の向こうに、一人の女が壁にもたれかかるようにして立っていた。

 

 ──な……。

 

 真白の修道服をその身に包んだ、影のある妖艶な女であった。アルヴァのとは違う、濃い紫色の髪に、それと同じ色をした右の瞳。左の瞳がどうなっているのかは、生憎眼帯をしていた為わからない。

 

 その女からは、気配が全くと言っていいほどに感じられない。こうして直に目で見ているにも、見えているにも関わらず────その場にいると認識できない(・・・・・・)

 

 そのことに対して言い表せぬとてつもない戦慄を抱くアルヴァを、その女が見やる。右の瞳が放つその眼光は、獲物を前にした蛇のように鋭く、全身に絡みつくようであった。

 

「ッ……!」

 

 ゾクリとアルヴァの背筋に怖気が走るのと、ニタリとその女が口元を吊り上げたのは同時だった。

 

「もう会うことはないだろうけど、どうかアルカディアをよろしく────そして、その時(・・・・)は頼んだよ?」

 

 硬直するアルヴァに構うことなく、執務室から出た祭服の者はそう言って、だが彼女からの返事も待たずにアクセルが扉を閉めた。



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ARKADIA────十六年前(その二十二)

 夕暮れ。茜に焼ける空を呆然と見やりながら、アルヴァは独りマジリカの大橋にいた。

 

 この日、アルヴァは(ろく)に仕事を(こな)すことができなかった。まともに、集中することも打ち込むことも、何一つ叶わなかった。

 

 ……まあ、それも当然のことだろう。己が抱える冒険者組合(ギルド)に復帰して早々、あんな話を一方的に聞かされれば。あの時点で帰らなかったことを褒めてほしいくらいである。

 

 予想だにしない、予想しようにもし得ない、『不可侵の都』からの思わぬ来訪者を前にして、アルヴァの精神は大きく摩耗し擦り減らされた。生きた心地を全く感じられず、必要最低限の仕事を片付けた後の彼女は、マジリカの陽が沈み始めるまで、ただ椅子に座っていただけであった。

 

 そうしてやっとの思いで帰路に就いたアルヴァは、何も考えずにこの大橋へと訪れていた。街並みを軽く一望できるこの場所は彼女にとって、精神安定剤のような役割を持っており、心にストレスや不安を募らせると、決まってここに来ていた。

 

 頭上に広がる空と同様に茜色に染め上げられていく街並みを、アルヴァはしばらく呆然と眺める。数秒、数分────それから、ポツリと彼女は呟いた。

 

「今日ね、(アタシ)聞かされたんだ。退院早々復帰初日だってのに、頭がどうにかなっちまいそうになるくらいの、訳わからん話」

 

 それは、独り言と表するにはあまりにも大きく、夕暮れ時のこの大橋に響き渡った。だが、それを気にも留めないで、アルヴァは続ける。

 

「フィーリアは人間じゃあなくて、予言書に記されし『厄災』の一柱『理遠悠神』アルカディアで、そんでいつの日か世界(オヴィーリス)を滅ぼしちまうんだと。……だってのに、その日が来るまで保護してくれだとか、そのくせ別に殺してもいいとか……本当に、訳がわからなくて、いい加減頭痛くなるってんだよ全くさ」

 

 無論、アルヴァの独り言に対して別の誰かが、何かを返すことはない。独り言なのだから、それが当然と言ってしまえば、まあ当然のことだ。

 

 他の誰かに見られれば、間違いなく夕暮れ時の大橋に独りで喋っているアルヴァは変人認定されるか、気でも触れたのかと不気味に思うことだろう。当然それはアルヴァ本人とてわかっていた────わかっていたが、こうせずにはいられなかったのだ。

 

「そういやフィーリアといえばね……情けないことにここ最近まともに話せてないんだ。多分、私嫌われたんじゃあないかねえ。だって、向こうから避けられてるんだよ。……もう、どうすりゃあいいのか、わかんないよ」

 

 そう呟いて、(おもむろ)にアルヴァは懐に手を突っ込み、そこから一本の煙草(タバコ)と火起こし器を取り出す。そして早速煙草の先端に火を灯そうとして────その直前で、また彼女は口を開いた。

 

「どうすりゃあいいと思う?私はどうすりゃあいいんだ?なあ」

 

 言いながら、ゆっくりとアルヴァは横に振り向く。まるで自分の隣に、そこに日常(いつも)通りに、誰かが立っているかのように。

 

 

 

 だが、もう誰もいない。今アルヴァの隣には────もう、誰も立ってはいない。そこには、いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは病院で目が覚めて、なんとか身体が動かせるくらいには回復した頃の時であった。その日、アルヴァは魔力なしでも使用可能な、時間制限のある通話魔法の術式を込めた魔石を片手に、とある人物と連絡を取っていた。

 

 その人物とは──────

 

 

 

 

 

『この度は災難だったな、『輝牙の獅子(クリアレオ)GM(ギルドマスター)……アルヴァ=レリウ=クロミア殿。身体の調子は如何かな?』

 

 

 

 

 

 ──────この世界(オヴィーリス)にある全冒険者組合(ギルド)を管理管轄する組織、『世界冒険者組合』。その長である四代目GDM(グランドマスター)であった。

 

「お気遣いありがとうございます。こちらこそ多忙である身にも関わらず、(アタシ)のような一介のGM(ギルドマスター)に過ぎない者の為に貴重な時間を割いてくださり、本当に感謝します」

 

 相変わらず裏の読めないGDMの声音に対し、アルヴァも欠片程も心には思っていない言葉を連ねる。こんなやり取りは、所詮社交辞令に過ぎない。

 

『別に気にしなくともいいさ。それに一介だなんて謙遜することもない。なんだって君はかの『三獣』の一角のGMなのだから』

 

「……ありがとうございます。して、些か気が早いとは思うのですが、本題に……四年前、そちらから派遣された医者の、ジョシュアの件に移っても?」

 

 GDMとの会話をなるべく早く切り上げたい心情を見透かされぬよう、アルヴァは注意を払いつつ遠慮がちにそう訪ねる。

 

 ……しかし、そのアルヴァの言葉に対して、向こうからの返答はなかった。両者違いに無言となり、場が静寂に支配され、数秒────先にまた口を開いたのはアルヴァであった。

 

「ジョシュアに関して、私が貴女から訊きたいことは一つ……彼は、一体何者だったのでしょうか?」

 

 そのアルヴァの問いに関しても、返されたのは沈黙で、だがそれを気にすることなくアルヴァは続ける。

 

「私は、どうしてもそれが知りたい。先日、ここの院長にも訊きました。ジョシュアについて、可能な範囲で教えてほしいと。……ですが、次にこう言われました。今までに、この病院に────そんな名前の医者はいない(・・・・・・・・・・・・)と」

 

 アルヴァの声音は、真剣そのもので。だが、それでもGDMは口を噤んだまま、ひたすら無言を保っていた。そんな彼女の様子に内心苛立ちながらも、それも見透かされないよう表には出さずに、アルヴァはなおもこう続けた。

 

「どうか、お願いします。私はただ知りたいだけなんです。ジョシュアとは一体何者だったのか──彼は一体何だったのか、私は知らなければならない。……気が、済まない」

 

 アルヴァの、真摯に尽きる懇願────その前に、遂にGDMが噤んでいたその口を、開いた。

 

『『輝牙の獅子(クリアレオ)』GM、アルヴァ=レリウ=クロミア。私から君に言えることは、一つ』

 

 グッと、アルヴァの表情が強張る。欲して止まない情報が手に入るのだから、それは当然のことだろう。

 

 ……しかし、GDMからかけられたその言葉は──────

 

 

 

 

 

『今後一切、この件には関わるな』

 

 

 

 

 

 ──────アルヴァの期待を、真っ向から潰すものであった。

 

『力になれず、すまないな。だが、この世には知らなくてもいいことがある。心苦しいとは思うが、彼のことはもう忘れろ。……忘れてくれ』

 

 絶句し固まるアルヴァに構わず、先程までの無言がまるで嘘だったかのように、GDMは饒舌に彼女にそう語りかける。皮肉にも、その言葉がアルヴァを正気を取り戻させた。

 

「……ふざけないで、ください。私は、真剣に言『もしこれ以上追求するというのなら、冒険者組合への支援(サポート)の全てを断ち切らせてもらう』………は?」

 

 GDMのその言葉には、さしものアルヴァも怒りを隠せられなかった。そうしてまた両者共に無言になって────その数分後に、やはりまたアルヴァが先に口を再度開いた。

 

「なるほど。それが貴女のやり方ですか」

 

 もはや苛立ちも隠さず、はっきりとした失望も交えてアルヴァは吐き捨てるようにそう言う。だが、返ってくるのはやはり無言であった。

 

 ──埒が明かない。

 

 そう判断したアルヴァは、今すぐにでもこの手に持つ魔石を投げ捨てたい気持ちを抑え込みながら、未だ黙り込むGDMに言い放つ。

 

「私はともかく、他の冒険者(ランカー)や受付嬢たちの生活がある。ここは大人しく引き退がりましょう。……だが、良い機会だ。この際はっきり断言させてもらうぞ四代目」

 

 もう、アルヴァの声には欠片程の敬いはなくなっていた。その代わりにあったのは──確かな軽蔑と怒りであった。

 

「先代の突然死、『世界冒険者組合』上層部構成員の大幅な変更……数を挙げればキリがないからこの辺りにしとくが、覚悟しておけよ。何を企んでいるのか知らんが、いつかその尻尾を掴んでやる」

 

 アルヴァの声には、逃れようのない凄みがあり、並大抵の相手ならばこれだけで戦意を喪失させられるだけの圧が込められていた。しかし、それを受けた当人のGDMは、然程気圧された様子もなかった。

 

『了解した。これでも物覚えは良い方でね……ではそのいつかまで、お互いより良い関係を築いていこう』

 

 その言葉を最後に、通話魔法が切られる。何の音もしなくなった魔石をアルヴァは握り締め────無言でそれを地面に叩きつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 思い出したくもなかった、病院での記憶を振り返って数分。横に向けていた顔をアルヴァはまたゆっくりと正面に戻す。そして火起こし器を──ジョシュアからの贈り物であるそれを見つめながら、最後に彼女が震える声で、ポツリと呟いた。

 

 

 

「慣れなきゃ、なあ」



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ARKADIA────十六年前(その終)

 静かな、夜だった。茜に染められていた空は、今や真っ黒に塗り潰されて、無数の星々が散りばめられており、その中心には一片も欠けていない満月が浮かんでいた。

 

 その薄い月明かりが差し込む中────自宅へと帰ったアルヴァは、入浴も夕食も済ますことなく、無言で沈黙を纏いながら、フィーリアの部屋にいた。

 

「…………」

 

 当然ではあるが、フィーリアはもう既に寝ていた。寝台(ベッド)の中で、小さな寝息を立てながら、静かに。

 

 まだあどけないその寝顔を、アルヴァは眺める。……一年という月日が経ってしまったからか、あどけなくはあるが何処か大人び始めたようにも思える。

 

 聞いた話によれば、自分が昏睡していた間は、『輝牙の獅子(クリアレオ)』の受付嬢であるリズティアがフィーリアの面倒を見ていてくれていたらしい。それを聞きアルヴァは感謝すると同時に────情けないことに、少し彼女に対して嫉妬を抱いてしまった。

 

 昏睡していたので仕方ないとはいえ、一年という決して短くはない期間をアルヴァは共に過ごしてやれなかった。一年間に及ぶフィーリアの成長を、アルヴァは見てやれなかった。……見れなかった。

 

 それが堪らなくどうしようもない程に悔しいし、だからこそリズティアが羨ましかった。

 

 ──……妬ましい羨ましい、か。一体、どの面下げてほざいてんだかな……(アタシ)に、そう思う資格なんてないってのに。

 

 内心で己に対してそう吐き捨てながら、アルヴァはほんの少し嫌悪感に顔を歪ませる。……そう、自分にはそんな資格も、そんな権利もない。

 

 あの日、あの時。病院で目を覚ました自分の元に、これ以上にないくらい嬉しそうな表情で駆け寄ってくれたフィーリアを────あろうことか恐怖を抱き拒絶した自分には、欠片程もない。

 

 ──………私は、とことん救いようがないクソだ。本当に……嫌になる。

 

 そう、アルヴァは自己嫌悪に陥る。何故なら、今この瞬間だって──自分は恐怖しているのだから。その頬に薄青い流麗な曲線を走らせるフィーリアを、恐ろしいと思ってしまっているのだから。

 

 その線が、アルヴァに思い出させる。彼女にとってつい先日のことかと思える、あの塔の最深部にて繰り広げられた、あのこの世のものとは到底思えない惨劇を、否が応にも想起させてしまう。

 

 そんな自分が────本当に嫌だった。心底、嫌になった。

 

 ──何で、こうなっちまったんだろうね。……私が、何をしたってんだろうね。

 

 それは疑問の皮を被った、諦めだった。内から湧く無力感を噛み締めながら、アルヴァは手を握り締める────否。正確には手の中にある、ナイフ(・・・)の柄を。

 

「………」

 

 あんな話、嘘だとしか思えない。眉唾な、荒唐無稽に過ぎる出鱈目な作り話としか、信じられない──他の者であれば、きっと皆口を揃えてそう言うのだろう。

 

 けれど、アルヴァは違った。あの光景を、あの力を見た彼女は、信じる他なかった。

 

「……何だって、私なんだ」

 

 眠るフィーリアを起こさぬよう、アルヴァは小声でそう呟く。それと同時に、ナイフの柄を握る手に、さらに力を込める。痛いくらいに、込める。

 

『不可侵の都』の来訪者は言っていた。フィーリア──否、アルカディアはこの世界(オヴィーリス)を滅ぼすと。

 

 であれば、今己がすべきことはただ一つ。そして今それができるのは、アルヴァにおいて誰もいない。

 

『不可侵の都』の来訪者は言っていた。このまま生かすも────殺してしまうのも自由だと。別に構わないと。

 

 一人と、世界。その二つを天秤にかけ、そしてその二つのどちらかに傾くのかは、火を見るよりも明らかで。そしてそのことに躊躇いを抱くのは以ての外で。そこに私情を挟み込むことなど、言語道断で。

 

 そしてそれは、アルヴァ自身が一番理解していた。

 

 ──安心しな、フィーリア。アンタを、絶対に独りなんかにはしないから。

 

 そう心の中で呟きながら、ゆっくりと静かに、アルヴァはナイフを振り上げる。

 

 ──私が、ずっと傍にいるから……!

 

 思わず乱れ始める息を必死に整え落ち着かせながら、手の震えを抑え、アルヴァはナイフの切先をフィーリアの胸へと定める。

 

 ──これからも、ずっとずっと一緒だ……フィーリア。

 

 そして、遂に。アルヴァはナイフを振り下ろす──────

 

 

 

「……ッ、ッ……………ッ!」

 

 

 

 ──────ことは、できなかった。振り上げた手を振り下ろせないでいる自分に、彼女は叱咤する。

 

 ──やれ!何をしてるアルヴァ=レリウ=クロミア!覚悟を決めたんだろ!?やれよ……やれよ!

 

 つう、と。噛み締める唇の端に、血が伝う。フルフルと、次第にナイフの柄を握る手が震え始めてしまう。

 

 ──感情に流されるな!今ここで殺さなきゃ、世界が滅ぶんだぞ?つまらない私情なんか、さっさと捨てろ!捨てちまえ!

 

 必死に、必死に自分に言い聞かせる。自分を説得する。このナイフの切先を、この人の形を模しただけの厄災に突き立てろと、自分に訴えかける。

 

 ──やるんだ、アルヴァ=レリウ=クロミア……今、お前がやるんだ!!!

 

「!」

 

 ガッと目を見開いて、アルヴァは今一度ナイフを振り上げ、振り上げ──────

 

 

 

 

 

「……できる訳、ないだろ」

 

 

 

 

 

 ──────力なくそう呟いて、フィーリアに突き立てることなく、腕を振り下ろした。

 

「無理だ。やっぱり、無理なんだ。私には、できない。私はフィーリアを……この子を、殺せない……」

 

 茫然自失にそう呟き俯きながら、アルヴァはナイフの柄を握り締めたまま、踵を返す。

 

「殺したく、ない……!」

 

 そしてこの部屋に来た時と同じように、足音を立てないよう部屋から去ろうとした────その時であった。

 

 

 

 

 

「おかあさん」

 

 

 

 

 

 そう、背中越しに声をかけられた。ビクッと肩を跳ねさせ、アルヴァは咄嗟に振り返る。

 

「フィ、フィーリア、アンタ起きて……!」

 

 先程まで寝ていたはずのフィーリアは、上半身だけを起こして、顔をこちらの方に向けていた。堪らず狼狽えるアルヴァを、虹色と灰色の瞳が静かに見つめる。

 

「……」

 

 フィーリアは無言だった。対してアルヴァは声にならない声を漏らし、普段からは想像もできない程に慌てていた。

 

「ち、違う。違うんだよフィーリア、これは、私は……!」

 

 言いながら、フィーリアの視界に入らないよう手に持つナイフをアルヴァは隠す──その直前、気づいた。

 

 ──……え?

 

 ない。握っていたはずのナイフが、ない。そのことに初めて気づくと同時に────アルヴァは思わず目を見開かせた。

 

 何故なら、先程まで自分がこの手に握り締めていたはずのナイフが、フィーリアの小さな手に渡っていたのだから。アルヴァから顔を逸らして、フィーリアは月光に照らされ鈍く輝くナイフの刃を、ジッと静かに、無表情に眺める。

 

 ──この子、まさか【転移】を……!?

 

 本来であればフィーリアの年齢で使えるはずがない魔法を前にして、アルヴァは堪らず驚愕し、硬直して固まり、喉奥から引き攣ったような呻き声を漏らす。彼女がそんな状況の最中──不意に、黙っていたフィーリアがその口を開いた。

 

「おかあさんも、こわいんだね。わたしのこと」

 

 フィーリアのその声は、酷く悲しげであった。酷く、淋しげであった。

 

「みんなもいっしょ。みんな、こわがってる。あたしのこと、こわいっておもってる。でも、あたしなにもしてないよ。なのになんで?このおめめがこわいの?このせんがこわいの?」

 

 ナイフの刃を見つめたまま、ボロボロとフィーリアが一気にそう言葉を吐き出す。それは、初めて聞く彼女の本音だった。

 

 違う。私は怖がってなんかいないよ──そう、アルヴァは即座に声をかけるべきだったのだろう。そうすべきだったのだろう────だが、その意思に反して、身体は全く動いてくれない。記憶が、それを邪魔する。

 

 ──違う……違う……!

 

 それでも、勝手に再生される記憶を押し退けて、アルヴァは動こうとした。フィーリアの元に、駆け寄ろうとした。

 

 だが、その前に、寝台の上のフィーリアが、先に動いた。

 

「……わたし、もう……やだよ」

 

 震える声でそう口にした瞬間、フィーリアは一切の躊躇なく、ナイフの切先を首元に突きつけて、そしてそのまま────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめん!フィーリア、本当にごめんな……!馬鹿で、気づけなくて……!」

 

 ────────柔いフィーリアの首を貫く直前、駆け寄ったアルヴァがそれを止めた。ナイフの刃を、彼女の手が掴んで止めたのだ。

 

 部屋に、懺悔と後悔の慟哭が響き渡る。アルヴァの瞳から涙が流れ、手からは真っ赤な血が溢れ出る。

 

(アタシ)は怖がらないよ、もう二度と、絶対に……だから、だからもう一度だけ、こんなどうしようもない親に、もう一度だけ機会(チャンス)を頂戴……!」

 

 泣きながら、そう言ってアルヴァはフィーリアの身体を抱き締める。力強く、精一杯に。

 

 対して、フィーリアは何も言わなかった。何も言わずに、ただアルヴァに抱き締められるがままになっている。

 

 アルヴァとフィーリア。その二人のことを、月明かりが薄く、ただ照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 わかっています。これが間違いであることは、こんなこと間違っていることは、わかっています。

 

 ですが、それでも。どうか許してください。一緒にいたいのです。傍に、いたいのです。

 

 だからどうか、こんな自分を赦してください。せめて、一緒にいさせてください。傍に、いさせてください。

 

 

 

 

 

 いつか訪れる、その日まで。



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ARKADIA────強者たち、今此処に集いて

「……これで、(アタシ)の話は終わり。これが私の知っている全てだよ」

 

 その言葉を最後に、アルヴァさんは口を閉じた。……執務室は、何とも言えない沈黙と静寂で満たされていた。

 

 時間にして恐らく一、二時間弱。何を思うでもなく泳がせた視界に映り込んだ空は、すっかり暗色に染められている。曇っているのか、無数に散りばめられているはずの星はよく見えず、浮かぶ月も今は隠れてしまっていた。

 

 気不味い沈黙と静寂が続く。この場にいる全員が、口を開けないでいる。……僕なんか、こうして今の状況を内心でただ呟くことしかできないでいるし、あの先輩ですらどうしたらいいのかわからなそうに、おろおろとしながら口を閉ざしていた。

 

 ──……まさか、十六年前に、アルヴァさんの身にそんなことがあったなんて……。

 

 かつては『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』と呼ばれていたらしいあの魔石塔で、魔石に包まれていたフィーリアさんを発見したこと。それからしばらくしてヴィクターと名乗る研究者の男が現れ、計画(プロジェクト)の為にフィーリアを付け狙い、その果てにアルヴァさんと激突し、だが結果的にはフィーリアさんは『厄災』────『理遠悠神』アルカディアとして、まだ不完全ながらも一度目覚めてしまったこと。

 

 ざっと軽く振り返ってみても、衝撃的な出来事の連続で、正直僕は頭の中でこの話を上手く整理できないでいる。理解はできても、受け止められないでいてしまっている。

 

 ──僕は、何も知らないでアルヴァさんを……。

 

 口にこそ出さなかったが、フィーリアさんのことを今の今まで黙っていたアルヴァさんに対して、内心で責めてしまったことを僕は悔いた。

 

 アルヴァさんは取るべき選択肢を誤った。それは間違いない。覆しようもない、そして取り返しようもない過ちだ。

 

 一人と世界。そのどちらか片方を選べと問われたなら、そのどちらかを取れと迫られたのなら、むろん後者だと万人は口を揃えそう言うだろう。

 

 当然そんなことはアルヴァさんとてわかっていたことで────だが、彼女がそうすることなど、できるはずがなかったのだ。

 

 妹を亡くし、心の底から信用していた者にも裏切られ、アルヴァさんに残されたのはフィーリアさんだった。フィーリアさんただ一人だった。だが、その唯一残された拠り所ですら、この世界を滅ぼす『厄災』と知らされた。

 

 私情に流されることは決して許されない。個ではなく、全体を。そんな当たり前のこと、アルヴァさんとて────否、アルヴァさんだからこそ、一番わかっていたはずだ。

 

 だから彼女はその手に取った。冷たいナイフを、その手に握った。握り締めた。振り上げた。

 

 ……だが、振り下ろすことは叶わなかった。叶うはず、なかった。それは絶対に許されるべきことではない────ではない、が。

 

 もし。仮に僕がアルヴァさんと同じような状況に置かれたら。同じような立場に立たされたら──────同じ選択を迫られたら。

 

 ──…………。

 

 先輩の姿が、僕の脳裏を過ぎる。そして隣に立つ先輩へ視線をやって、僕は頭を振った。

 

 ともかく、言えるのはただ一つ。自分に、アルヴァさんを責める資格など最初からなかったということだけだ。

 

「……ともかく、だ。フィーリアはもうフィーリアでなくなった。今のあの子は『理遠悠神』アルカディア──(アタシ)たち人間が討たなきゃならない……敵なんだよ」

 

 アルヴァさんは僕たちにそう言う────だが、その言葉はまるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

 

 と、その時。突如として執務室の扉が、やや遠慮がちに音を立てながら開かれる。それに釣られて視線をやると──そこには、『輝牙の獅子(クリアレオ)』の受付嬢が、執務室に漂う雰囲気に当てられ困惑しながら立っていた。

 

 僕たち全員に視線を浴びせられ、堪らずおどおどしながらも、その受付嬢の子がやや気不味そうに言った。

 

「お、お取り込み中のところすみません……GM(ギルドマスター)、つい先程あの方たちが到着したん、ですけども……」

 

 ──あの方たち……?

 

 受付嬢の言葉を聞き、僕が頭の上に疑問符を浮かべる傍ら、アルヴァさんは神妙な面持ちで受付嬢に言う。

 

「わかった。ここに連れてきな」

 

「りょ、了解しました。今すぐ連れてきます!」

 

 アルヴァさんにそう言われて、受付嬢は慌ただしく踵を返し、その場から去る。少し遅れて、アルヴァさんが僕らに言った。

 

「この日の為に整えてたんだよ──戦力をね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数分後、受付嬢に案内され、この部屋へ訪れたその面々を前にして、僕は驚愕の声を上げられずにはいられなかった。

 

 

 

「いやあ、お久しぶりですクロミアさん。遂に、この日が()ちまったんですかい」

 

 

 

 執務室全体を揺らす野太い声。その発生源は、一見鋼の塊かと見紛う鎧を着込んだ、巨大な戦鎚(ウォーハンマー)を背負った偉丈夫であった。

 

「すまないねガラウ。急な呼び出しに応えてくれて、感謝するよ」

 

「はっはっは!そう言わんでください!貴女には返そうにも返し切れない恩がある。この程度、どうってことはないですって」

 

 と、その外見に反せず豪快に笑い飛ばすその人を、僕は情けないことに身体を震わせて、ただただ目を見開かせて見つめることしかできなかった。

 

 ──う、嘘だろ……『鋼の巨人(メタイツ)』の(S)冒険者(ランカー)、ガラウ=ゴルミッド……ほ、本物だ……!!

 

 ガラウ=ゴルミッド────数少ないセトニ大陸の《S》冒険者の一人で、しかも冒険者番付表(ランカーランキング)に個人で三十位にその名を刻む、《S》冒険者の中でも屈指の実力者。得物であるその戦鎚をまるで小槌のように軽々と振り回し、〝殲滅級〟の魔物(モンスター)ですら難なく叩き潰していくその姿は、まさに豪傑と表するに相応しいと誰もが口を揃えて言う。

 

 予想だにしない大物冒険者の思わぬ登場に、堪らず驚き固まる僕。しかし、驚愕はこれだけでは留まらない。

 

 

 

「ウチらのことも忘れないでよね!『虹の妖精(プリズマ)』、『三精剣』──イズ=ミルティック!」

 

「同じく『三精剣』──アニャ=ミルティック」

 

「そして最後に私『三精剣』筆頭(リーダー)──リザ=ミルティック。此度はアルヴァ様の招集を受け、参りました」

 

 

 

 ……と。ガラウさんに続いて執務室に入った三人の女性が、各々己の名を告げた。

 

『虹の妖精』。フォディナ大陸に居を構える、『輝牙の獅子(クリアレオ)』に次ぐと言われる冒険者組合。

 

 その『虹の妖精』には『三精剣』と呼ばれる三姉妹がおり、彼女たちもまたその名を世界中に轟かせる《S》冒険者であり、番付表にもチームとして四十位に連ねている。

 

 三女イズ=ミルティックは雷属性の、次女アニャ=ミルティックは水属性の、そして長女でもあり『三精剣』筆頭であるリザ=ミルティックは火属性の魔法を得意としており、三位一体と謳われる彼女たちの連携(コンビネーション)の前には、〝殲滅級〟の魔物であろうと為す術もなく散るのみと言われている。

 

 ──番付入り(ランクイン)冒険者が、こうも一堂に会するなんて。そしてその場に今僕もいるなんて、まるで夢みたいだ……サイン貰いたい……!

 

 思わず状況を忘れて、僕は呑気にもそう思ってしまう。しかしすぐさま頭を振って、そんな場合ではないとなんとか自分を律する。

 

「アンタたちも急ですまないね」

 

「構いませんよ。アルヴァ様には昔も今も、お世話になっているのですから」

 

 興奮と緊張に挟まれ、僕が荒らぐ息を必死に落ち着かせる最中、ガラウさんと同じようにアルヴァさんは『三精剣』筆頭のリザさんに申し訳なさそうに言い、対してリザさんは柔らかな笑みと共にそう返す。そのやり取りや発言からして、それなりに長い付き合いなのだとわかる。

 

「ほほう。嬢ちゃんたち三人が最近噂になってる『三精剣』か。俺ぁガラウ=ゴルミッド。こうしてお目にかかれて光栄ってモンだぜ。話に聞いてた以上に別嬪だしな。まあ今日はよろしく頼むぜ」

 

「それはこちらの台詞というもの。『鋼の巨人』ガラウ=ゴルミッド……貴公の武勇は幾つも聞き及んでいる。その戦鎚を振るう勇姿、是非ともこの(まなこ)に焼き付けたい所存」

 

「ちょアニャ(ねえ)固過ぎ。あ、さっきも言った通りウチが『三精剣』末の妹イズでーす!ウチもゴルミッドオジさんの凄いことメチャ知ってるよ。でもでも、今日はウチの方が凄いってとこ見せちゃうかもだから、そこんとこモロモロ含めてよろしくっ☆」

 

「ほお、そいつは頼もしいこった。とはいえ若いモンに負けるつもりはさらさらねえ。俺もまだまだ現役ってところを見せつけてやるよ嬢ちゃん方」

 

 アルヴァさんとリザさんが会話する横で、ガラウさんと『三精剣』の二人、イズさんとアニャさんがそんな会話を繰り広げる。と、アルヴァさんとの話を終えたらしいリザさんが、慌ててその中に加わった。

 

「あ、貴女は軽過ぎるのよイズ。……本当に申し訳ありませんゴルミッド様。どうか妹の無礼をお許しください」

 

「いやいや別に気にしてねえって!むしろこのくらいの方がこっちも気を遣わんでもいいし、楽だから助かる!」

 

「そ、そうなのですか……?」

 

 豪快な笑みを浮かべて、そして豪快にそう言うガラウさんに、戸惑った表情を浮かべるリザさん。そんな番付入り冒険者たちの邂逅の様子を、こんな間近で見れてしまった僕は、やはりただただ圧倒され、抑えようにも息を荒げてしまうばかりであった。



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ARKADIA────怖気

「で、もしかしなくても……アンタだな?」

 

 興奮と緊張でその場から動くことも、口を開くことも上手くままならない僕が見ている中、『三精剣』の面々と気さくなやり取りをしていたガラウさんが、ふと唐突に真剣な表情でそう言いながら振り返る。彼の視線が注がれる場所────そこには、壁にもたれかかるサクラさんの姿があった。

 

「……ああ。いかにも」

 

 アルヴァさんの話が終わってから、沈黙を保っていたサクラさんが、普段よりも少し低い声でガラウさんの問いかけを肯定する。そんな彼女の元へ、ガラウさんはゆっくりと歩いて近づいていく。

 

「やっぱりな。……いやあ、耳にする数々のお噂以上だな、『極剣聖』。前々から是非とも会ってみたいとは思っていたが……全く感激モンだぜこりゃあ」

 

 一定の距離にまで近づくと、ガラウさんはそこで止まる。そんな彼に、サクラさんはチラリと視線をやる────その様子を見て、僕は頭の中で何かが引っかかった。

 

 ──……何だ?サクラさん、何かいつもと違う、ような……?

 

 と、僕が抱いたその違和感を疑問に思ったその時だった。

 

「ねえねえ。君ってさぁ、まさかクラハ=ウインドア?」

 

 突然、すぐ近くで底抜けに明るい声が聞こえて、咄嗟に前を見れば────鼻先に吐息がかかりそうな程の距離に、『三精剣』ミルティック姉妹三女、イズ=ミルティックさんの顔があった。

 

「え、ぉうわっ!?」

 

 そのことに僕は驚愕し、堪らず声を上げてしまうが、イズさんはそれを少しも不快に思った様子も見せず、どころかやたら興味津々という感じでさらに僕の方へと詰め寄って来た。

 

「最近になって色々話聞くから気になってたんだけど……意外とイケメンじゃん」

 

「ふむ。確かにイズの言う通りだ。まだ少し幼さは残っているが、それでも良い男には違いない」

 

「ちょっと二人とも。初対面で顔の良し悪しを計るのは止めなさい。……妹たちが申し訳ありませんウインドア様。先程名乗った通り、私はリザ=ミルティックと申します。といっても、既にご存知だったでしょうか?」

 

「え?ええ?いや、あ、は…はい」

 

 イズさんが詰め寄ったことをきっかけに、残る『三精剣』の面々であるアニャさんとリザさんも僕の方に近づいてくる。会話は勿論のこと、異性(ただし先輩は除く)とまともに接触すらしたことのない僕にとって、彼女たち三人のコミュニケーションはあまりにも刺激的で、とにかく一溜まりもなくて。ただ情けなく動揺するしか他なかった。

 

 が、その時。思わぬ救いの手が僕に差し伸ばされた。

 

「お、お前らクラハに近づき過ぎだ!もう少し離れやがれ!」

 

 そう言って慌てて僕と『三精剣』の間を割って入ってのは、先輩だった。

 

 ──せ、先輩……!

 

 堪らず感動してしまう僕だが、ふと疑問に思う。何故か、心なしか先輩の様子が不機嫌そうに見えたからだ。

 

 僕が首を傾げる最中、『三精剣』全員の意識が先輩へと向けられ、注がれる。

 

「……な、何だよ。文句でもあんのか?ああ?」

 

 先程とは打って変わって、三人は無言で先輩を見つめ、その視線を一身に受ける先輩は僅かに怯えたように、しかしそれを誤魔化すように語気を強めて三人にそう訊ねる。

 

 その先輩の問いかけに、『三精剣』たちは数秒を以て────

 

 

 

「「「可愛いぃぃぃっ!」」」

 

 

 

 ────と、やたらテンション高めに叫んで返した。その黄色い叫びを僕よりも間近で受け、堪らず先輩はビクッと全身を驚きで跳ねさせる。そしてその直後、あっという間に『三精剣』によって先輩は取り囲まれてしまった。

 

「ええ何なにナニ!?いつの間に『輝牙の獅子(クリアレオ)』にこんな可愛い新人来たの!?受付嬢?受付嬢なの!?」

 

「いや格好を見る限り冒険者(ランカー)だろう」

 

「そんなのどっちだっていいじゃない!貴女お名前は?お名前は何て言うの?お姉さんたちに教えて?」

 

 ……女三人寄れば姦しいとは、まさにこのことを言うのだろう。瞬く間に先輩を取り囲んだ『三精剣』は、きゃあきゃあと歓声を上げながら、皆先輩へ口々にそう捲し立てる。当然先輩はというと、琥珀色の瞳を白黒させて、質問を携え迫り来る彼女たちに圧倒されるばかりであった。

 

「ちょ、まっ……!」

 

 そして慌ててその場から逃げようとするが、しかし当然それを『三精剣』の面々が許すはずもなく────

 

「うわぁほっぺぷにぷにぃ〜!肌ツヤもハンパないし、メッチャ羨まなんですけどぉ!?」

 

「む。これは……背や顔立ちに反して、中々………羨ましいな……」

 

「きゃああん本当に可愛いわねえ貴女!もう、食べちゃいたいわあ!!」

 

 ────と、今度はその身体を好き放題触られまくられてしまう。イズさんには横から頬を指先で突かれ何やら感激を覚えられ、アニャさんには背後から胸を揉まれ羨望を抱かれ、長女たるリザさんに至ってはもはや髪と同じく深紅色の瞳を妖しく爛々と輝かせ、荒い息遣いで場も気にせずそう叫ぶ始末だった。

 

「おま、なにす……ひゃぅっ!ちょっ、やめっ……やぁ……!」

 

 碌な抵抗もできず、憐れにも先輩は『三精剣』に好き勝手に弄ばれてしまう。その光景を僕は、ただ黙って眺めるしかなかった。

 

 ──す、すみません先輩……僕では、とてもじゃないけどそこから助け出せません……本当にすみません……!

 

 と、その時。不意にアルヴァさんがわざとらしく咳払いをした。瞬間、『三精剣』がハッと一斉に我に返ったように止まる。

 

「あー……その辺で勘弁してやってくれ。その子は『輝牙の獅子』(ウチ)(モン)じゃあない。……まあ、色々とややこしい事情があってね」

 

 アルヴァさんの言葉に、彼女たちは慌てて先輩から離れる。ようやく解放された先輩もすぐさまその場から逃げ出し、僕の方へと一目散に駆け寄ると、僕の背中に縮こまって隠れてしまった。

 

「先輩、大丈夫ですか……?」

 

 僕がそう訊ねると、先輩はフルフルと力なく首を振る。……どうやら先輩の精神は、ものの数分でそこまで磨耗させられたらしい。とはいえ、先程先輩が受けた扱いを考えれば、それは当然というものだ。

 

「ご、ごめんなさい……その子があまりにも可愛らしかったから、つい」

 

 と、『三精剣』の筆頭であるリザが代表で謝罪してくれるが……それでも、先輩は僕の背中に隠れたままだった。僕と『三精剣』の間で気不味い空気が流れる中、アルヴァさんが口を開く。

 

「さて。若干部屋の雰囲気が和んだところで悪いが──────

 

 

 

 

 

 その瞬間、この執務室を途轍もない、形容し難く凄まじい怖気が貫いた。



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ARKADIA────そして滅びは始まりを告げた

「さて。若干部屋の雰囲気が和んだところで悪いが──────

 

 

 

 

 

 瞬間、まだアルヴァさんが言い終えぬ内に。突如としてこの執務室全体を途轍もない、形容し難く凄まじい怖気が貫く。直後、それは一瞬にしてこちらを全力で押し潰さんばかりの、あまりにも重過ぎる圧となって、一気に執務室を満たした。

 

 

 

 

 

 ──────ッ……!」

 

 アルヴァさんの顔から血の気が引き、その頬に一筋の汗がゆっくりと伝う。……いや、それは彼女だけに限ったことではない。僕は当然として、ガラウさんや『三精剣』全員も同様だった。

 

 ──な、んだ……これ……!?

 

 先程まで緩んでいた空気が、まるで嘘のようだ。一分の隙も許さない、張り詰めた糸のような緊張感が今この部屋を支配している。

 

 ゾワゾワと全身の肌が粟立つ。身体の震えが止まらない。止められない──今まで生きている中で、初めての感覚に僕はこれでもかと翻弄されてしまう。

 

 だが、流石と言うべきか────やはり番付入り(ランクイン)冒険者(ランカー)たちは違った。

 

「こいつは、相当なモンだぜ……」

 

 と、呟くガラウさんは表情こそ強張っているが、特に臆した様子はなく、それどころかこの緊張感を何処か楽しんでいるようにも思える。

 

『三精剣』も先程先輩と(一方的に)触れ合っていた明るげな雰囲気こそ微塵も残さず掻き消え、あの楽観的なイズさんですら真剣な表情を浮かべているが、そこに恐怖や怯えといった感情は見られない。

 

 そしてこの中でも飛び抜けて凄いのは────言うまでもなく、サクラさんである。

 

「……」

 

 まるで抜き身の刃のように鋭く、凛々しいその美貌を一切崩すことなく、サクラは普段通りの然とした態度で壁にもたれかかっている。……のだが、やはり僕には何かが、何処かが違うように思えて仕方ない。こう、その表情こそ一片たりとも変わっていないのだが、それが固いというか、何というか……。

 

 ──サクラさん、ひょっとして何か考え込んでいる?それとも、思い詰めている……のか?

 

 心の内側から滲み出る恐怖を誤魔化すように、僕はそんなことをつい考えてしまう。……それと、ちなみに先輩はというと──

 

「……ん?お前らどうした?急に黙りやがって」

 

 ──きょとんした顔でそう言いながら、不思議そうに僕たちのことを見回していた。流石は先輩だ、女の子になってしまっても、その大物ぶりは全く変わらない。頼もしい限りである。そう現実逃避気味に僕が思った直後だった。

 

 バンッ──閉じられていた執務室の扉がやや乱暴に開け放たれ、その場にいる全員の視線が無意識にそちらへと向かう。そこに立っていたのは、随分と慌てた様子の、ガラウさんたちをここへ案内した先程の受付嬢であった。

 

「た、大変です!皆さん、今すぐ外に来てください!塔が……魔石塔が大変なんです!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……オイオイ、こりゃどうなってやがんだ」

 

 ガラウさんが呆然とそう呟く。いや、口に出して言ったのが彼なだけであって、僕も他の皆も、内心で全員同じようなことを呟いていただろう。

 

 確かに、あの受付嬢の言う通りだった。マジリカを代表する観光名所であり、そして嘗ては『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』と呼ばれていたらしい、あの魔石塔には────途轍もない異常が、はっきりと目に見える形で起きていた。

 

 ──一体、何が……たったの一、二時間で何があったら、こうまでなるんだ(・・・・・・・・)……!?

 

 簡単に言ってしまえば、僕が知る魔石塔は。あの薄青い魔石でところどころ覆われていた塔は、もはやその面影を微塵も、その欠片すらも残さずに────変わり果てていた。

 

 恐怖にも似た驚愕に僕が動けず固まる傍ら、ガラウさんがアルヴァさんに訊ねる。

 

「アルヴァさんよ。こいつは新手の改築(リフォーム)ですかい?」

 

 真面目半分、茶目っ気半分といった感じのガラウさんの問いかけに、しかしアルヴァさんは至って平然と、予めこうなることがわかっていたかのように落ち着いた様子で返す。

 

「いや。ああまでできる業者なんて、(アタシ)は知らん」

 

 そう返して、アルヴァさんは真っ直ぐに見つめる────天を貫かんばかりにまで伸びる、比喩でも何でもなくまさに巨大な魔石の塔となった、魔石塔を。

 

 そして、その瞬間。先程執務室でもこの身で感じた怖気が大気に走り、僕が思わず身構えるとほぼ同時に────

 

 

 

 

 

『聞け、人の子共よ』

 

 

 

 

 

 ────そんな、聞き覚えのある、だがこれまでで一度たりとも聞いたことはないトーンの声が、マジリカ全体に響き渡った。

 

 ──この、声は……!

 

 間違いない、フィーリアさんの声だ。僕がそう思うと同時に、突如として膨大かつ圧倒的な魔力が塔から溢れ、それはマジリカの空に広がっていき、やがてその魔力はとあるものを模倣し始める。

 

 そして数秒経って────空に、その姿が浮かび上がった。

 

 

 

 辛うじて面影はまだ残っていた。残っていたが、それでもその姿は、今まで知る中のどれでも違っていた。

 

 街並みを睥睨する右の瞳には、七色が複雑に絡み混じった虹が。左の瞳には、無に限りなく近い褪せた灰が。左右それぞれに瞳を染めており、しかし共通しているのは、そこに感情らしいものが一切込められていないということ。

 

 左の頬に走る薄青い線は流れる水の如き曲線を描いており、仄かに燐光を発していた。

 

 だが、そんな異質に尽きる瞳よりも。しかし、思わず美麗に映る燐光の曲線よりも。一際目を奪われるのは────額の右から伸びる、歪で刺々しく薄青い一本の()だった。

 

 

 

『我は予言書に記されし、五つの『厄災』の一つ。第四の滅び────『理遠悠神』アルカディアである』

 

 呆然とする僕らを他所に、フィーリアさん────否、アルカディアはひたすらに無機質で無感情な声で、まるで宣告するように続ける。

 

『愚劣にして矮小たる人の子共よ。足掻きは無意味である。ただ何もせず、我が滅びを受け入れるがいい』

 

 言って、唐突にアルカディアが宙に向かって腕を突き出す。

 

 ──な、何を?

 

 僕がそう思うと同時に、虚空に薄青い光が瞬く。そして次の瞬間────凄まじい勢いで魔石が噴き出した。

 

 噴き出した魔石は塊となり、その塊はなおも膨張を続けて横に伸びる。伸び続けて、やがて別の形へと変化していく。

 

 最終的にその魔石の塊は──アルカディアの身の丈を遥かに超える、巨大な杖へと変貌を遂げた。しかし杖といっても僕が知るそれとは全く違い、先端はまるで槍のように鋭く刺々しく尖っていた。

 

『我が滅びの一端、確とその目に焼き刻め』

 

 依然マジリカを──否、呆然と見上げる僕らや、何か騒ぎでも起きているのかと家から疎らに出てきた住民たちを見下ろしながら、アルカディアはそう言うと目の前に浮かぶ魔石の杖を手に取り、そしてゆっくりと振るう。

 

 

 

 

 

 直後、魔石塔が聳え立つ旧市街地方面に────薄青い光の柱が無数に突き立った。



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ARKADIA────魔石の主

『我が滅びの一端、確とその目に焼き刻め』

 

 そう言って、アルカディアは手に取った魔石の杖をゆっくりと振るう。直後──今や住民の居ない旧市街地方面に、薄青い光の柱が無数に突き立った。それと同時に、強大かつ膨大に尽きる魔力が、大気中を震わせ満ちていく。

 

 そして、突き立ったその光の柱が、やがて一つに収束を始めて。やがて一つの巨大過ぎる柱となったその時────それは、弾けた。

 

 弾けた光の柱は極光となり、極光が旧市街地全体を包み込み、その光景を目の当たりにしていた全員の視界を埋め尽くす。今までに感じたことのない魔力の波動が余波となって、こちらにまで届いて、僕の肌を撫で、大気を揺さぶっていく。

 

 やがて眩し過ぎるその薄青い光も徐々に薄まって、完全に収まった頃に僕は目を開く。開いて、思わず声を漏らしてしまった。

 

「これ、は……?」

 

 僕の視界の至るところで、薄青い粒子がふよふよと舞っていた。遅れて、その粒子が魔力の成れの果て──残骸だと気づく。

 

 ──一体、何が起きて?

 

 先程から立て続けに衝撃を受け、危うく思考停止しそうになる脳を僕はなんとかして正常に保とうとする。その傍ら、突如として呆然と立ち尽くす僕たちの中から、今にでも張り裂けそうな程に悲痛な声が上がった。

 

「フィリィ!ねえ、返事してフィリィ!!」

 

 その声の主は、言うまでもなくナヴィアさんであった。彼女は胸を手で押さえながら、髪と同じ金色の瞳を濡らして、地上から必死に呼びかける。

 

 ……だが、それに対してアルカディアがフィーリアさんとして反応することはなかった。遥か宙に浮かぶこちらを見下ろすその瞳には、もはや人間味など全くの皆無である。

 

「……フィリィ」

 

 悔しげに、そして悲しげに顔を歪めながら、ナヴィアさんはただその名をポツリと呟く。遅れて、宙にいるアルカディアが杖を手放し、スッと自由となった手を掲げる。

 

『人の子共よ。今一度汝らに告げよう。足掻くことなく、我が滅びを受け入れろ。さすれば苦しみはない。不安も恐怖も、そこにはない』

 

 無機質無感情なアルカディアの声が響く。マジリカに響き渡る。それに続いて、掲げられたその小さな手から、魔力が放出されていく。

 

 それは、先程見せたあの光の柱の時よりも、弾けた極光の時よりも、何処までも圧倒的で、途方もなくて、止め処ない量の魔力だった。その全てが、星微かに輝き月僅かに見せる夜空へと、際限なく放出されていくのだ。

 

 人の身であれば、とっくのとうに搾り滓となって力尽き、果ててしまっている──だが、アルカディアは疲弊することもなければ、発せられる異様で異質な圧にも微塵の衰えも見受けられない。その事実に先輩を除く僕たち冒険者(ランカー)群が声も出せずに戦慄する中、変化は唐突に訪れた。

 

 アルカディアの魔力が、別のものに変わっていく。置き換えられていく────遅れて、僕はそれが魔法なのだと気づく。……否、魔法に限りなく近く、それでいて根底から全く違う(・・)別の力だと気づいてしまった。

 

『見よ。是ぞ我が滅び。その形』

 

 アルカディアがそう言った瞬間、変化は完全なものとなった。マジリカの空を埋め尽くさんばかりの────薄青い、言うなれば巨大な時計の文字盤が浮かび上がっていた。

 

『夜明けの時、世界(オヴィーリス)は理想の元へと還る。理想の元に創り変えられる。其れこそ人の子らに齎す我が滅びであり──人の子らに贈る我が救いである。怯える必要はない。其処にあるは永遠の安寧と……儚く尊い、理想郷なのだから』

 

 夜空に浮かぶ文字盤と、アルカディアをただ呆然と見上げることしかできないでいる僕らに、アルカディアはそう語りかけて、最後にこう告げる。

 

『最後に再度宣告しよう────人の子共よ、汝らの足掻きが意味を成すことは決してない。その全てが徒労に終わる。我が滅びを、我が救いを、己が定めとして受け入れろ』

 

 そして、アルカディアの姿が一瞬揺らいだかと思うと、その全体が薄青い魔力の粒子となって、そのまま宙に散った。

 

 瞬間、この場丸ごと僕らを押し潰すかのような圧と怖気がまるで嘘のように掻き消え、僕の身体の奥底からドッと疲労感が溢れた。

 

 思わずその場に座り込みそうになるのを堪えながら、先程まで宙にいたアルカディアについて、呆然と振り返る。

 

 ──……もう、まるで別人じゃないか。

 

 姿からは辛うじてその面影を感じ取れたが、発せられる雰囲気は、あまりにもかけ離れていた。その口調も、声音も何もかも──僕が知るかつての姿とは、剥離してしまっていた。

 

 

 

 ────そこの貴方、ちょっといいですか?────

 

 ────おはようございますウインドアさん!ブレイズさん!────

 

 ────マジリカに、来ませんか?────

 

 

 

 現状と現実を痛感すればする程に、フィーリアさんとの記憶が脳裏を掠める。次々に過ぎる。その度に僕の胸をやるせない気持ちが埋めて、気がつけば痛みを覚えるくらいに、僕は己の拳を握り締めていた。

 

 ──フィーリア、さん……。

 

 何か方法はないのだろうか。どうにか和解できないのだろうか。……対立するしか、道は残されていないのだろうか。

 

『厄災』として目覚めてしまった彼女を、討つしか、ないのだろうか。

 

 ──…………どうすれば。

 

「一旦中に戻るよお前たち。とりあえず、(アタシ)たちは作戦会議だ」

 

 誰もが押し黙る中、不意にパンと手を叩きながら、アルヴァさんが声をかける。彼女のその声で、僕もハッと我に返った。それと同時に気づく。

 

 ──あれ?

 

 改めて、僕はこの場にいる全員を見回す。アルヴァさんに、ガラウさん。『三精剣』の皆も、先輩もちゃんと僕の隣にいる。

 

 ……だが、周囲のどこを見渡しても──────サクラさんの姿はなかった。

 

 そのことに対して僕が驚いていると、同じく気づいたらしい先輩も慌てた様子で声を上げる。

 

「お、おいお前ら。サクラがいねえぞ」

 

 だが、僕と先輩を除く全員は驚いた様子も、慌てる様子もなかった。そんな中、アルヴァさんが先輩に、そして僕にも聞こえるように言ってくれる。

 

「だから言ったろ。私たち()作戦会議だってね。……全く、『極剣聖』には頭が上がらないよ」

 

 そう言うアルヴァさんの顔は、魔石の塔と、薄青い燐光をそこら中から夜空に向かって放つ旧市街地方面を向いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 皆の中から無言で抜けたサクラは、独りマジリカの大橋に立ち、遠方に聳え立つ、もはや魔石そのものと表しても過言ではない魔石塔と、その下に広がる────魔石の街(・・・・)を見下ろしていた。

 

 固く真剣な面持ちのまま、彼女は静かにその名を呟く。

 

「フィーリア……」

 

 サクラの声は宙に乗って、流れ、そして誰にも聞き取られることもなく、夜の闇に溶けて消えた。



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ARKADIA────その数は

「さて、じゃあまずは被害状況と各々の戦力確認としようか」

 

輝牙の獅子(クリアレオ)』の中へ戻り、そして執務室に再び戻ったアルヴァさんの第一声はそれだった。椅子に座る彼女の言葉を受けて、最初にガラウさんが答える。

 

「大まかな話と、そんで下手すると死ぬかもしれねえって伝えた上で『鋼の巨人(メタリカ)』から用意できたのは……五十人。全員、《A》冒険者(ランカー)ですぜ」

 

「……『虹の妖精(プリズマ)』からは三十人です。人員が少なく、すみません」

 

 そう申し訳なさそうに言うリザさんの言葉も受けて、アルヴァさんは少し考え込んでから口を開く。

 

「そっちで八十。『輝牙の獅子』(ウチ)で六十。合わせて百四十、か」

 

 アルヴァさんの声は、僅かばかりの苦々しさが滲んでいる。……正直に言えば、僕もそうだった。

 

 ──お世辞にも、多いとは言えない。

 

 今や数ヶ月以上も前となる、『厄災』最初の襲来──『魔焉崩神』エンディニグル。その討滅に集められた冒険者の数は、僕が覚えている限りでは三百を優に越していたはず。まあエンディニグルの襲来はあの日と予め予期されていたことであり、今マジリカに集められた戦力よりもずっと多かったのは当然ではあるのだが。

 

 ……しかし、だ。あの日あの時、エンディニグルと直接対峙していたからこそ、より強い不安と恐怖に僕は駆られる。

 

『理遠悠神』アルカディア────かの第四の『厄災』の威容は、エンディニグルを遥かに凌駕している。あのエンディニグルが今や可愛いとさえ思えてくる程だ。

 

 ──アルカディアは明らかに……他の『厄災』とは違う。別格、だ。

 

 そしてそれは第二、第三の──『剣戟極神』テンゲンアシュラと『輝闇堕神』フォールンダウンにも言えることなのだろう。何故ならこの二つの『厄災』も、その魔力反応だけならエンディニグルを超えていたのだから。

 

 とはいえ、これはあくまでも僕の憶測にしかならない。エンディニグルとは違い、僕は二つの滅びと直接対峙していない。する前に、二つの滅びは二人の冒険者によって討たれたのだから。

 

『剣戟極神』は『極剣聖』サクラさんに。『輝闇堕神』は『天魔王』フィーリアさんに。二つの『厄災』は、二人の《SS》冒険者によって見事討たれたのだ。

 

 ……だが、今回は違う。二人から一人に。味方から敵に────『天魔王』と呼ばれる少女は、『理遠悠神』となって人類の前に立ちはだかっている。それが今の現状であり、覆しようのない現実だ。

 

『理遠悠神』アルカディア。現時点では詳しい情報は明らかとなっていないが、それでもわかっていることがある。それは、人間にとってこの上ない、圧倒的脅威ということだ。

 

 ──……。

 

 そう間違いなく思う側で、しかしどうしても僕が彷彿とさせてしまう。アルカディアの姿を思い出す度に──フィーリアさんの姿をそこに重ねてしまう。

 

 ──討つしか、ないのか?僕たちにはアルカディアを……フィーリアさんを倒す道しか、残されていないのか?

 

 その時、僕は運命というものの理不尽さを痛感させられると同時に、疑問を抱いていた。この世界(オヴィーリス)の創造主たる神────『創造主神(オリジン)』に対して。

 

 現在残る伝承によれば、『創造主神』は文字通り全てを創造した最高神。それもあってか、予言書に記される五つの『厄災』は、謂わば『創造主神』が人類に与えた試練だと見解されている。もし仮にそうなのだとすれば、何故『創造主神』はこのような試練にしたのだろう。

 

 そもそもの話、何故フィーリアさんには自身が『理遠悠神』アルカディアという自覚も、その意識もなかったのだろうか。

 

 もし最初から自覚していれば、意識があれば────この世界をとっくの昔に、エンディニグルが出現するよりも己らの存在が記された予言書が発見されるよりも前に、滅ぼしていたはずだ。だってその時にはまだサクラさんや以前の先輩たち《SS》冒険者の存在も確認されていなかったのだから。

 

 他の『厄災』など必要もなかった。だというのに、『創造主神』はそうしなかったのか。何故わざわざ『理遠悠神』(アルカディア)に、『天魔王』(フィーリア)としての半生を歩ませたのか。僕はそれが疑問で疑問で、とにかく仕方がない。

 

 ──まさにこれが神のみぞ知る、か……。

 

 コンコン──僕が己の思考に若干投げやりに近い結論を出すのと、不意に執務室の扉がやや遠慮がちに叩かれるのはほぼ同時のことであった。遅れて、アルヴァさんが言う。

 

「入りな」

 

 彼女の言葉に従うように、執務室の扉はゆっくりと開かれる。やはりというか、そこに立っていたのは先程の受付嬢。ただ違うのはその手にちょっとした荷物を抱えているということだ。

 

「し、失礼します」

 

 若干震える声で受付嬢は執務室の中にその足を踏み入れ、アルヴァさんの前にまで進むと、お互いの間を遮る執務机の上に荷物──何個かの魔石と数枚の書類──を並べた。

 

「現在の状況の全てをまとめた資料です」

 

「説明しな」

 

 やや食い気味にアルヴァさんに言われ、受付嬢はまず魔石にそっと指先を近づけ、触れる。彼女の魔力に当てられた魔石は仄かに輝き出したかと思うと、宙に一枚の写真が浮かび上がる。……だが、その一枚はあまりにも衝撃的なものだった。

 

 ──な……?

 

 写真はかなりの高度の上空から撮られており、その被写体は今や魔石そのものと表せる魔石塔と周囲──マジリカ旧市街地。つい数時間前までいたその場所は、もはや見知らぬ場所へと変わり果てていた。

 

 言うなれば────魔石の街(・・・・)。既に廃墟となった店や家などの建造物、街道──その全てが薄青い魔石に覆われており、中には丸ごと包み込まれているものもある。柱のように突き立つ無数の魔石も、鋭利に尖った結晶のような形となった巨大な塊も見られる。

 

 およそこの世のものとは思えない、神秘的で幻想的な、だが生命の気配がこれでもかと感じられないその街の光景に、僕は気圧され絶句する他ないでいた。

 

「こちらが今現在の旧市街地の状況です。ほぼ全ての範囲が魔石によって侵蝕されており、その上少しずつ拡大しています。空気中に含まれる魔素(マソ)も非常に不安定になっていて、突入するには大変危険な状況かと。……一体何が起こるのか全く予想できませんから」

 

 この状況も相まってか、先程とは打って変わって受付嬢は執務室にいる全員に対して、冷静沈着にそう告げる。それから受付嬢はまた別の魔石に触れた。

 

 さっきと同じように、魔石が薄く輝いて宙に写真が浮かぶ────瞬間、執務室全体に戦慄が駆け抜けた。

 

 今度の写真に写っているのは、旧市街地と現市街を隔てる境界線。その境目の向こうに、魔石が突き立っていた。……否、突っ立っていた(・・・・・・・)

 

 言うなれば、それは人形だった。人間大の、人間の形を大雑把に模した、表情のない人形。薄青い魔石で作られた、人形である。

 

 その人形が────百体。ざっと軽く見ても、それだけの数はいた。それらが一体何なのか、僕が呆気に取られる中、受付嬢が説明を始める。

 

「恐らく岩人形(ゴーレム)の一種と思われる、未知の魔物(モンスター)です。それも、〝殲滅級〟最上位クラス……かと」

 

 ──〝殲滅級〟最上位だって……!?

 

 あまりの情報に、僕の意識がほぼ強制的にそっちへ引っ張られる。もしそれが確かならば、とんでもない事態だ。この魔石の魔物一体一体が〝殲滅級〟最上位だというのなら、最悪の一言に尽きる状況だ。

 

〝殲滅級〟の魔物は街や都市一つを滅ぼせる程の脅威であり、その最上位ともなれば生ける天災──〝絶滅級〟にも迫る。しかもそれが百体だ、もはやその脅威度は〝絶滅級〟とほぼ同じで、大差ないだろう。

 

 そう僕が思う最中、受付嬢が今まで以上に険しい顔つきで、さらに続ける。

 

「……それと、その。あまり申し難いのですが、写真に写っているのは一部(・・)です」

 

 ……その情報は、あまりにも現実離れした────

 

 

 

「現在確認されているだけで、その数千体(・・)です」

 

 

 

 ────もはや最悪の一言では片付けられないものであった。



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ARKADIA────今一度、その決意を

「現在確認されているだけで、その数千体です」

 

 意を決して告げられた受付嬢の言葉によって、執務室の空気が一瞬にして凍りつく。僕も、最初その言葉の意味を理解できないでいた。

 

 ──……せん、たい……?

 

 この岩人形(ゴーレム)らしき魔石の魔物(モンスター)の危険度は、受付嬢によれば〝殲滅級〟最上位。天災の存在──〝絶滅級〟の一歩手前の魔物だ。それが、少なくとも千体はいるのだという。

 

 信じ難い。信じられない。信じたくない────もう、最悪だとかという陳腐でありきたりな言葉では到底片付けられない。

 

 本来、〝殲滅級〟の魔物は確かな実力を持った《S》冒険者(ランカー)複数人で相手をしなければならない。それの最上位ともなれば、それこそガラウさんや『三精剣』で挑まなければ、倒すことは困難を極めるだろう。そしてそれはあくまでも一体の場合(・・・・・)である。

 

 それが、千体。しかも生態も対処もまるでわからない未知の魔物が千体。に対して、こちらは僕を含めた《S》冒険者五人と、他の《A》冒険者百四十人。……もはや笑いすら込み上げてくる程の、圧倒的で絶望的な戦力差だ。

 

 ──こんなの、一体どうすれば……。

 

 もはや言葉すら出ず、希望の欠片すらも掴ませる気のない現実を前に、僕はとある人を思い出す。思い出して、堪らず項垂れてしまう。

 

 ──駄目だ、サクラさんの手は借りられない。サクラさんには……。

 

 そうして頭を抱え込みそうなっていると、今まで押し黙っていたアルヴァさんが、ゆっくりとその口を開いた。

 

「……で、空のアレ(・・)については何かわかっているのかい?」

 

 その声音は、ぎこちなくそして固い。無理矢理冷静を装っているような、所謂作ったような声音だった。そんなアルヴァさんの問いかけに、慌てて受付嬢が答える。

 

「は、はい。確認したところ、あの文字盤はフォディナ大陸全域及び、他の大陸(・・・・)の空にも浮かび上がっているそうです。……その正確な数までは、まだ調査できていません」

 

 それを聞き、またしても僕は冗談のような衝撃を受けてしまう。あの時計の文字盤のような魔法が、マジリカだけに留まらずこの大陸全域、そして他の三大陸の空にも浮かんでいるという、あまりにも常識外れな規模(スケール)に二度目の絶句をせずにはいられない。

 

 そも、先程見た文字盤一つでも百人、否それ以上の魔道士──それも《S》冒険者(ランカー)並の一流魔道士でも到底賄い切れない程の魔力を以て発動された、強大だとかという言葉では生温い、完全に人の域から逸脱した魔法である。だというのに、この大陸のみならず他の大陸にまで影響を及ぼしているのだ。

 

『理遠悠神』アルカディア────その存在は先の三つの『厄災』よりも遥かに強大無比で、その脅威も天と地程の差である。まさか同じ『厄災』でも、こうも違うとは。

 

「そして『理遠悠神』が言っていた通り、夜が明けるのと同時に、針が一周します。その時何が起こるのかは……全く以てわかりません」

 

 その言葉を聞いて、僕はふと思い出す。あの時、アルカディアがこちらに告げていたことを。

 

 

 

 ────世界(オヴィーリス)は理想の元へと還る。理想の元に創り変えられる────

 

 

 

 夜明けの時、一体この世界はどうなってしまうのか。アルカディアの手によって、どうされてしまうのか。そもそも、理想の元に還るとはどういうことなのか。どう、創り変えるというのか。

 

 ──一体何が起きるっていうんだ……?

 

 僕が考え込む中、アルヴァさんが受付嬢に訊ねる。

 

無効化(ディスペル)は?」

 

「不可能です。あの魔法を止めるには、発動者の意思で解呪するか……発動者を倒すしか、他に方法はありません」

 

 アルヴァさんは、何も返さなかった。ただ少し瞳を細めて、それから小さく呟く。

 

「そうかい」

 

 その声には、微かな苦悩が入り混じっていた──気がする。僕には、そんな気がした。続けてこの部屋にいる全員に聞こえるよう、アルヴァさんが言う。

 

「聞いた通りだ。アルカディアの対処は『極剣聖』に任せるしかない。この現状で、彼女こそが対抗できる唯一の存在(モノ)だからね。千体の魔物(モンスター)は今ここにいる者を含め、百四十七人(・・・・・)で、どうにかするしかない」

 

「……?」

 

 アルヴァさんの言葉に、僕は透かさず引っかかる。何故なら、その人数だと──一人足りない。含まれていない。

 

 僕のその引っかかりに気づいたのか、そこでアルヴァさんが僕の方に振り向いた。

 

「クラハ。別に断ってくれても構わない。この事態は(アタシ)のつまらない、くだらない感情の末の、結果だからね。それにアンタを巻き込むのは、勝手が過ぎるってモンだよ」

 

 そう言うと、アルヴァさんは椅子から立ち上がり、僕の方にゆっくりと歩いてくる。そしてある程度の距離で止まると────彼女は、何の躊躇もなくその場で土下座した(・・・・・)

 

「……え?え!?」

 

 アルヴァさんのまさかの行動に、執務室にいるほぼ全ての者がどよめく。僕に至っては思わず驚愕を声に出してしまっていた。そんな僕らに構わず、アルヴァさんは土下座のまま言う。

 

「頼む。今は少しでも……いや、その力をどうか貸してほしい。こんな情けない、どうしようもない私の為に、どうか戦ってほしい」

 

「ちょ、アル、アルヴァさん止めてください!そんな、土下座なんて」

 

 友人の冒険者組合(ギルド)に所属しているとはいえ、身内ではない外部の冒険者(ランカー)に、大陸一と謳われる冒険者組合の長たるGM(ギルドマスター)が、あろうことか土下座をする──そんな冗談かのような状況の当事者になるなんて、僕は夢にも思わずとてもではないが気が気でなかった。

 

 慌てながら、僕はアルヴァさんにそう言うが、彼女は土下座したまま、僕に続ける。

 

「お門違いだってのは重々承知してる。アンタはフィーリアに連れられて、この街を観光しに来ただけ。なのに、こうやっていきなりその命を預けてくれってせがんでるだからね。笑って馬鹿にしてくれても構わない。……だから、どうか頼む。共に戦ってくれ……クラハ」

 

「ア、アルヴァさん……」

 

 アルヴァさんは土下座したまま、その姿勢のまま、一切微動だにしない。

 

 今、アルヴァさんがどんな気持ちなのかは、完全にとまでは言わないがわかる。僕も彼女と同じ立場であったなら、同じくこのようにしただろうから。

 

 アルヴァさんが言う通り、今回僕はあくまでも観光目的で、フィーリアさんに誘われてこのマジリカに訪れたに過ぎない。『世界冒険者組合(ギルド)』から協力要請をされている訳でもないし、決してこのような、それこそ世界の命運を分ける戦いを自ら進んでしに来た訳ではない。

 

 だから彼女の言う通り────別に僕が『理遠悠神』アルカディアに、立ち向かう理由もなければ、そんな義理もない。

 

 相手は遥か強大な脅威で、そして保有するその戦力も圧倒的で。それに対しこちらは量も質も、劣ってしまっている。目に見えている明らかな死地に、一体誰が進んで飛び込もうと言うのだろうか。

 

 アルヴァさんが自分でも言う通り、この事態を手招いたのは他の誰でもなく、彼女自身で。己の傍にいる存在(モノ)の正体をわかった上で、情に流され今の今まで目を瞑っていた末の、結果だ。

 

 事前に事情を知らせていたのならいざ知らず、僕やサクラさんは真実を今日知ったばかりなのだ。自らの意思でアルカディアの元へ向かったサクラさんは別として、この事態に僕まで巻き込むのはありえないことである。そしてそれを誰よりも何よりも理解し、承知しているのはアルヴァさん本人だ。その上で、彼女は僕に土下座をしてまで頼み込んでいる。

 

 ──……普通だったら、断るんだろうな。

 

 再度言わせてもらうが、僕に『厄災』に挑む理由も、義理もない。

 

 

 

 だが、生憎そんなつまらないことで断る程、僕は薄情者ではなかったらしい。

 

 

 

「アルヴァさん」

 

 僕がそう声をかけるのと──不意に僕の服の袖が少し引っ張られるのは、ほぼ同時のことだった。一体誰がと刹那の間に思考を巡らせて、袖を引っ張った主を特定する。

 

 案の定、それは──先輩だった。咄嗟に隣の方を見やれば、先輩が顔を俯かせていた。

 

 ──先輩……。

 

 そこで僕は思い出す。ここ最近先輩と過ごした日々を。先輩と交わした言葉の数々を。

 

 ────俺の前から、消えたりしないか?────

 

 僕の脳裏をいつかの言葉が過ぎる。それと同時に理解する──先輩の不安を。心配を。

 

 先輩だって、馬鹿じゃない。これから僕が向かおうとしている場所が戦場になることはわかっているだろうし、そこが生きて帰られるかどうかも定かではない死地だとも、わかっている。わかっているから、先輩は僕の服の袖を引っ張ったんだ。

 

 けれど、それだけで。先輩は何も言わない。……何も、言えない。何故ならわかっているから。今この状況で、僅かとはいえ僕の力が必要なことがわかっているから。

 

 行けとは言わない。行くなとは言わない。ただ、先輩はその小さく細い指の先で、袖を摘んで黙ったまま、俯いている。その姿を見て、僕は。

 

 ──先輩。あの時、僕は言いました。先輩に誓いました。……貴方に、決意を見せました。

 

 強くなる。なってみせる。心配されない程に、不安とも思わないまでに────そう、僕は言った。心に決めた。であるなら、今こそ切り拓き、乗り越え前に進むべきなんだ。この目の前に聳える壁を乗り越え、進まなければ僕に先はない。強くなれない──なれるはずがない。訳がない。

 

 ──……先輩、すみません。

 

 先輩の気持ちをみすみす無下にしてしまうことに対しての罪悪感に苛まれながら、僕ははっきりと未だ眼下のアルヴァさんに伝える。

 

「僕も戦います。皆さんと共に、立ち向かいます。……ですから、もう土下座なんて止めてくださいよ」

 

「…………ありがとう」

 

 アルヴァさんがまた立ち上がってくれるのは、そう言って少し遅れてからだった。



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ARKADIA────約束

「よぉしお前らぁ!相手は手前(テメェ)の遥か格上!決して正面切って戦おうとするな!必ず三人以上の複数人で対象を囲んで、一撃入れたら回避に徹しろ!そんで隙見つけてまた一撃叩き込んでやれ!」

 

「「「「「オオオォォッ!!!!!」」」」」

 

 マジリカ、市街地と旧市街を分け隔てる広場にて。ガラウさんの怒号如き指示に、彼に連れられた総勢五十人のA冒険者(ランカー)たちが怒号如き返事で応える。その光景は側から見ても圧巻で、その周囲の大気がビリビリと震えているような気さえしてくる。

 

「そして最も大事なことを伝える!いいかお前らぁあ!!俺たちは死ぬ為に戦うんじゃねえ──明日を勝ち取りに、明日に進む為に戦うんだ!どんな状況になっても、それだけは絶対に忘れるな!諦めるな!だから────これが終わったら、全員腹ぁ弾けるまで酒を飲み明かそうぜぇえええッ!!!」

 

「「「「「オオオォォッ!!!!!」」」」」

 

 信頼により堅く結ばれた団結力は、凄まじい程の爆発力を生む。その爆発力は、各々の士気を極限まで、否際限なく高めてくれる────僕は、番付入り(ランクイン)冒険者の、正に先頭に表立って走るに相応しいだけの度量と威厳をこれでもかと見せつけられ、堪らず拳を固く握り締めてしまう。

 

 ──僕もいつかあんな風に……。

 

 そう思い、直後その思いを頭の中から振り払う。違う。僕が目指すのは、僕が最も偉大と思う人の、不安も吹き飛ばし心配も持たせない程の、そんな漢。そしてそれに至る為には、畏れ多くも──あのガラウさんを越えなければならない。絶対の、絶対に。

 

 ──……遠い、な。全然先が見えてこないや。

 

 僕は改めて自覚する。ガラウさんの怒号を耳に聞いて、ガラウさんの迫力を目にして。改めて、己が歩まんとしている道の果てしなさを。その険しさを。

 

 大抵の者は諦め、挫折し、そして半ばで止まりそこで終わるだろう──だが、僕にはそれが許されない。許さない。

 

 たとえ足の裏がズタズタに傷ついても。これ以上にない程に身体を痛めつけられても。そんな苦など、笑って吹き飛ばせるくらいまでに、自分は強くならなければならない。

 

 ──そう、あの日あの夜に……先輩に言って、誓ったんだ。

 

 男に──否、漢に二言はない。ここで躓いたら、立ち止まったら、戻ったら────僕は二度と、先輩の隣に立てない。その資格を、失ってしまう。

 

「私たち『虹の妖精(プリズマ)』は後方支援に回ります!前衛の補助(サポート)をできる限り最大限に、負傷者が出たら即座に治癒を!」

 

 と、そこで『三精剣』筆頭(リーダー)、リザさんの凛とした声が広場を貫く。その迫力と勢いこそガラウさんには敵わないが、それでも耳に聞く者たちを圧倒させるだけの声量と、気迫がそこにはあった。

 

 ──リザさんも凄いな……。

 

 そう感心する傍ら、僕はまた彼女たち『三精剣』も越えるべき壁だと再認識する。……本当に、気が遠くなる道のりである。だが、そのことに対して、己の選択を誤ったとは思わない。後悔など以ての外だ。

 

 ──……いや。後悔自体は少ししてる、な。

 

 しかしそれは別のこと。そう、僕がこの戦いに参加するに当たって────やはり、先輩の心へ負担をかけてしまったことに対して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの、先輩。話って何ですか?」

 

 アルヴァさんに僕も共に戦うと告げ、それに伴いガラウさんと『三精剣』の皆さんと、これからの方針を決めて、そしていよいよ執務室から戦場となるであろう広場に向かう──その直前だった。

 

『クラハ。ちょっと話あるから、来い』

 

 そう、突然先輩から言われた。……こちらに有無を言わせない、静かな迫力を携えて。

 

 ガラウさんたちに少し遅れると伝え、僕は先輩に言われた通り現在泊まっている宿屋に向かい、部屋まで来た訳である。

 

 扉をノックすると、少し遅れて中から先輩の返事がして、ゆっくりと扉を開くと──先輩は、寝台(ベッド)の上に座っていた。

 

 部屋に入った僕を見るや、先輩は無言で自分の隣を指先でトントンと数回突く。最初それが一体どんな意味なのか、僕は疑問に思ったが遅れて「ここに座れ」と示しているのだと理解する。

 

「……し、失礼します」

 

 先輩は、今までにない、言い表せようのない雰囲気をその身に纏っている。そのことに少なからず動揺、困惑する自分がいて、思わず気後れしつつも先輩が座る寝台の元まで歩き、そして一言断ってからゆっくりと、寝台を揺らさないようにと変な気を遣いながら、僕は慎重に先輩の隣に座った。

 

「……」

 

 僕を寝台に座らせた先輩は、何も喋らない。こちらに顔を向けることなく、ただ俯いて、依然沈黙を保っている。それを前に──否、先輩の雰囲気にすっかり呑まれて、僕も口を開けず黙るしかないでいた。

 

 ──この感じ、前にもあったな……。

 

 などと、気を紛らわす為以前にも何度かあったこんな状況のことを思い返す────その時だった。

 

 

 

 

 ギュ──不意に、なんとなく寝台に置いていた僕の手が、柔らかい何かによって包まれた。

 

 

 

「ッ?!」

 

 予想だにしていないその感触に、僕は思わずその場で飛び跳ねそうになって。けれどそれを咄嗟に鋼の精神で堪える。僕とて、今まで場数を踏んでいない訳ではない。色々な経験をこの身で味わってきた。……本当に、色々と。

 

 ──だから落ち着け。落ち着くんだ僕。落ち着いて、冷静に手元に視線をやるんだ……!

 

 そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと手元に視線を運ぶ。運んで──そして危うくまた飛び跳ねそうになった。

 

 ──え……!?

 

 僕を部屋に招いてから、未だ無言を貫く先輩。しかし、その口を開くよりも先に先輩は────小さく柔そうな己の手を、僕の手に重ねていた。

 

「クラハ」

 

 僕が驚くのも束の間、そこで初めて先輩は口を開き、俯かせていたその顔をこちらに向ける。そこにあったのは──酷く優しげな、笑顔だった。

 

「行ってこい」

 

 声も、その笑顔と同じくらいに優しさに満ち溢れていて。先輩はたった一言僕にそう言うと、僕の手に重ね合わせていた手を離す。……心なしか、名残惜しそうに。

 

「話はこれで終わりだ。こんな時に、こんなことの為だけに、わざわざ呼び出してごめんな」

 

「え、あ……い、いえ全然大丈夫ですよ。……えっと、じゃあ僕、行きますね」

 

「おう」

 

 先輩は、笑顔を浮かべたままだった。その笑顔に見送られながら、僕は寝台から立ち上がり、そして部屋から去るために歩き出す。

 

 ……気のせいか、足が妙に重い。背中を引っ張られるような、そんな感覚もしている気がする。だが、それでも僕は行かなければならない。この街を守る為に、明日へ進む為に。

 

 瞼の裏に、先程見た先輩の笑顔がくっきりと張り付いている。それを思い出し、そして振り払いながら、扉を開く────直前。

 

 

 

「クラハッ!」

 

 

 

 今にでも張り裂けてしまいそうな先輩の声が、部屋を震わせた。続け様、こちらに向かって足音が駆け寄って来る。

 

「せ、先ぱ」

 

 思わず一瞬硬直してしまった僕だったが、一体何事かと背後を振り返ろうとする。だがその前に──むにゅん、と。凄まじく柔らかい何かが背中に、勢い良く思い切り押し当てられた。

 

 ──ッ!?ッ?!?!

 

 一瞬にして大混乱を起こす僕の頭。そして立て続けに、下げていた僕の手が、再度包まれた。包まれ、握り締められた。

 

「……頭ん中じゃ、わかってんだけどなぁ。やっぱ、駄目なんだよなぁ……」

 

 先輩の声は、震えていた。どうしようもないくらいに、辛そうに。僕の手を握り締める力が、さらに増す。

 

「俺、先輩なのに。お前に必要なんだって、わかってんのに。あれだけだって、決めてたのに……でも、やっぱり駄目だ。無理だ。他の奴に任せて、一緒にいてくれって、言いたくなる。……そう、頼みそうになっちまう」

 

 言葉を連ねるごとに、先輩は己の身体を僕の背中に押し付けてくる。背中越しに先輩の鼓動が伝わるくらいに、恥ずかしげもなく胸を押し当てている。手も、もう離さないと訴えんばかりに力が込められていた。

 

「……自分(てめえ)が嫌になる。心底、腹が立つ。……それでも、抑えられねえんだ。我慢なんか、できっこねえんだよ」

 

 どうしようもない程に、震える先輩の声。そこに乗せられているのは、あまりにも大きく重い、後輩(ぼく)への想い。

 

 けれど、それに対してどう応えればいいのか、僕はわからなかった。今この時と同じような状況は幾つもあったというのに、どうすればいいのかわからない。一体どれが、何が正解なのか────わからない。

 

「………俺、待ってるから」

 

 僕の背中に身体を押し付けたまま、僕の手を握り締めたまま、依然──否、より震える声で先輩が言う。

 

「だから、だからさ。……約束、しろ。絶対に帰るって。俺んとこに絶対生きて帰って来るって……約束してくれクラハ」

 

 ……先輩の言葉は、そこまでだった。再度、部屋が静寂に満たされる。

 

 時間にしてみれば、ほんの数秒だったのだろう。だが僕には──そして恐らく先輩にとっても、永遠と錯覚する程に、長い静寂だと思えた。

 

 沈黙を経て、僕は────先輩の手を、痛くないようそっと握り返す。そして、意を決し口を開いた。

 

「約束します。僕は必ず、貴方の元に生きて帰ります」

 

 先輩は、今度は何も言わなかった。僕のその返事に対して何も言わず、ただ黙って頷く気配をさせた。



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ARKADIA────開戦

「…………」

 

 時間にしてみれば、僅か十数分の、短い間のことである。けれど、当事者であった僕からすれば、その倍は長いことのように思えた。

 

 つい、自分の手を見やる。見やって、先程までこの手が先輩に握られ、細い指先を這わせ絡んでいたのだと思い返す。あの擽ったくなるような感触が、何処か安堵を覚えるような温もりが、今もそこに残っている気さえもする。

 

『……それでも、抑えられねえんだ。我慢なんか、できっこねえんだよ』

 

 どうしようもない程に震える声で、それでもなんとか堪えて、溢れそうになる辛さを必死に胸の中に押し留めて、懸命に伝えられたその言葉。それを聞いて、僕は────複雑な気持ちを抱いた。

 

 以前、先輩が告白してくれた。曰く、女になってしまってから、男だった時の記憶が徐々に、少しずつ薄れて、遠のいて、そして消えてしまっていると。

 

 自分のことのはずなのに、後輩である僕から話を聞かされても、それが他人の話にしか思えなくなってしまっていると。

 

 要するに────女として日々を過ごす内に、かつての自分がゆっくりと喪失しているのだ。そのことに対して、先輩は酷い焦燥と恐怖に駆られている。今の自分が、一体誰なのかわからなくなり始めている。

 

 ……正直に白状してしまうと、最初僕はそれを完全には受け止められないでいた。いや、理解できていなかった。先輩は先輩だ。何があろうと、それは変わらない────そう、僕は思っていた。

 

 だが、その認識も塗り替えられた。僕の内にも、多少、ほんの僅かにではあるが……不安が、芽生えてしまった。

 

 以前の、まだ男だった時の先輩なら、あんな言葉は言わない。口には絶対に出さない。僕が知る、僕の先輩であるラグナ=アルティ=ブレイズであれば、ありえない。

 

 ……しかし、先程の先輩の様子をこの目で見て、初めてそれが揺らいだ。揺らいで、そして疑問が浮かんだ。

 

 

 

 果たして、僕の目の前には先輩が──ラグナ=アルティ=ブレイズが、そこにいるのか。そこにちゃんと、己が前に存在しているのだろうか────と。

 

 

 

 ふと浮かび上がったその疑問を、疑惑を、疑心を僕は即座に振り払った。……振り払わなければ、ならない気がした。でないと、何か取り返しのつかないことになると、そう思ったから。

 

 先輩は先輩だ。ラグナ=アルティ=ブレイズだ。その事実だけは変えようがないし、変えさせはしない。……これから僕は、これまでの人生の中で最大となるであろう死闘へと赴く。だから、このことに関して考えるのは一先ずここまでにしよう。

 

 続きは────全てが終わってからにしよう。

 

 ──僕は、生きて帰る。……生きて帰らなければ、いけないんだ。

 

 そう己に言い聞かせて。僕は今一度目の前を向く。話を終えたらしいガラウさんと『三精剣』を先頭に、各々集められた冒険者(ランカー)たちが前衛と後衛に分かれ、列を組んでいた。

 

 ──……僕も行かなきゃ。

 

『理遠悠神』アルカディアに対する一戦力として、僕もその中へ加わろうと歩き出す──その直前。

 

 

 

 ズガガガッッッ──突如、そんな轟音が魔石塔の方から鳴り響き、マジリカ全体に大きく響き渡った。

 

 

 

 

「な、何だ!?何が起きた!?」

 

 総勢百四十八名の内の、名も知れぬ一人の冒険者が声を上げる。だが、彼のその声に、答えを以て返す者は誰一人としていない。

 

 遅れて、この広場に切羽詰まった、鋭い声が響き渡る。

 

『伝令!伝令!岩人形(ゴーレム)らしき魔物(モンスター)に動き有り!繰り返す!魔物に動き有り!』

 

 その声を全ての冒険者たちが聞き終えるとほぼ同時に、旧市街地と市街地を隔てる門の外から、まるで石でも擦り合わせるような、そんな生理的嫌悪感を引き摺り出されるような不快音が静かに響き出す。それはやがて数を増し、幾重にも重なり、巨大になっていく。

 

 そして──遂に、それ(・・)が姿を現す。露わにする。この場にいる冒険者たちの視界に、僕の視界に。

 

「……ハッ。お相手も準備を終えたってことか。上等じゃねえか」

 

 そう言って、ガラウさんは背中の戦鎚を手慣れた動作で構える。その顔に、戦いへ挑む(つわもの)の表情を浮かべて。

 

「リザ姉、アニャ姉。とりま、ウチらはフォローしながら、ガンガン攻めればいいんだよね?」

 

「ああ。日常(いつも)通りに、仲間を守り、そして敵を討つ」

 

「ええそうよ二人共。この場にいる全員に、『三精剣』の名は伊達ではないと証明するのよ!」

 

『三精剣』の面々も同じように、それぞれの得物を手に構え、その顔に大胆不敵な微笑を浮かべ並び立つ。

 

《S》冒険者の中でも一際強者に類される四人の背を前に、だが僕も負けじと長剣(ロングソード)の柄を固く握り締め、そして鞘から抜き出す。

 

 ──……先輩、待っていてください。必ず、帰りますから。貴方の元に、傍に生きて戻りますから!!

 

 そう心に誓って、前を見据える。敵が────魔石の岩人形の群れが、ゆっくりとこちらに迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しばかり時は巻き戻って。今やその全体を薄青い魔石に覆われ、埋められ、占め尽くされたマジリカ旧市街地。

 

 この街にもはや生命の気配など欠片もせず。形骸となったこの場所を、ただ独り歩き進む存在(モノ)が一つ。

 

 漆をそのまま流し入れたかのように黒い、さらりと艶やかに伸ばされた髪。そして抜き身の刃を彷彿とさせるような、恐ろしいまでに整った、鋭く冷たい美貌。

 

 サドヴァ大陸極東の地、イザナ独自の民族衣装として伝えられる着物をその身に纏う彼女こそ、この世界(オヴィーリス)最強と謳われる三人の《SS》冒険者(ランカー)の一人。

 

『極剣聖』サクラ=アザミヤ。彼女は今、この旧市街地のとある場所を目指し────そして、遂に辿り着く。

 

「…………」

 

 その場所こそ、このマジリカを象徴する塔。あくまでも比喩としてそう評されそう呼ばれ、だがしかし今やその通りとなった場所。

 

 魔石塔──天を突くまでに巨大化したその塔を、サクラは静かに見上げて、それから視線を前方へと戻す。

 

 塔の内部への入口である、薄青い魔石の門。その前に、一つの影が立っていた。

 

 サクラ自身、それはよく見知った影。そう、その影は────

 

 

 

「待ってましたよ。数時間ぶりってとこですかね、サクラさん」

 

 

 

 ────同じく《SS》冒険者の一人たる、『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアその人であった。



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ARKADIA────極者問答

「待ってましたよ。数時間ぶりってとこですかね、サクラさん」

 

 薄青い魔石の門の前で、日常(いつも)と変わらない様子で、口調で、声音で言う。真白のローブに、それと同じく真白の髪をした、秒とて一定の色を保たない奇異な瞳を持つ一人の少女。

 

 その名を、フィーリア=レリウ=クロミア。彼女もこの世界(オヴィーリス)最強と謳われる《SS》冒険者(ランカー)の一人にして────世界を滅ぼす五つの『厄災』の一柱、『理遠悠神』アルカディアとして覚醒してしまった存在(モノ)

 

 ニコニコとまだ幼さが残るその顔に可愛らしい笑顔を携えながら、フィーリアはサクラにそう声をかけたが、それに対して返事が返されることはない。サクラは、ここへ来る道中と同様に、依然として口を閉ざし黙ったままである。

 

 サクラとフィーリアの間に静寂が流れる。その状態が数秒続いて、そしてまたフィーリアが少し残念そうにその口を開かせた。

 

「こうしてようやくまた、直に再会できたのにだんまりっていうのは流石の私も傷つきますよ?」

 

 フィーリアのその言葉が効いたのか、そこでようやくサクラがこの街に足を踏み入れてから、今の今まで閉ざしていた口をゆっくりと開く。

 

「先程とは随分、口調も様子も違うようだが」

 

「ええ。だって演技してましたもん。ほら、ああいう堅苦しい方が雰囲気とか、威厳とかそういうの出るでしょう?それにサクラさんと直接会うんですから、あんな姿よりも親しみがある姿の方が良いかと思いまして」

 

 相も変わらずに、その顔に不自然な程にニコニコとした笑顔を携えて。一体何がそんなに楽しいのか、やたら明るげな声音でさも嬉しそうに。そう、フィーリアはサクラに語る。

 

 対してサクラはというと──仏頂面を浮かべ、そこに嘲笑を添えていた。

 

「直接、か。なるほど、物は言いようだな」

 

 酷くつまらず、くだらないとでも言いたげなサクラのその言葉に、初めて彼女と相対するフィーリアが浮かべる笑顔に僅かな影が差す。しかしそれも一瞬のことで、すぐさまフィーリアはサクラに言う。

 

「言葉の真意は測りかねますが、ここで一つ私から、『厄災』としての私から親切な忠告をしてあげます。……今すぐその場で右に回って、戻ってください。そうすれば、全ては穏便に済みますよ」

 

 フィーリアの忠告に対し、返事はない。だがそれは予想通りだったようで、仕方なさそうにわざとらしくため息を吐いて、再度フィーリアが言う。

 

「ここへ向かう道中、貴女も見かけましたよね?薄青い魔石の魔物(モンスター)を。もし貴女がこのまま先に進むというのならば、私は躊躇なくあれを市街地に差し向けます。何やら人間共は無意味な足掻きを試みるつもりのようですけど、わかってますよね?あの街に今いる冒険者では、あれには敵わないと貴女はわかっているはずですよねサクラさん。……言っておきますが私は本気ですよ。あの街を蹂躙することに対して、私は一切躊躇しない。あの街を血で染め上げることを厭いはしない」

 

 何故なら、『厄災』だから。この世界(オヴィーリス)を滅ぼす、第四の滅び。『理遠悠神』アルカディアだから────そう、笑顔のままに、笑顔を崩すことなくフィーリアは言いのける。……しかし、それでもサクラが再度その口を開くことはなかった。

 

 そうしてまた、両者の間に静寂が流れ出す。重く、淀みを帯びた静寂が。

 

 そしてまたしても、それを断ち払ったのはフィーリアであった。

 

「まあ、今さら訊くまでのことではないと重々承知しているんですが……それでも、敢えて訊きましょう。サクラさん、貴女は一体──何をしにここへ来たんですか?」

 

 彼女と相対してから、必要最低限の言葉以外は交わさず、終始無言の姿勢をサクラは貫いた。

 

 だが、しかし。ここでようやくそれも覆る。答えなどとうにわかり切った、明らかに見え透いたその問いかけに対して、初めてサクラが動きを見せる。

 

 スッと、サクラの手が──自らの腰に下げる極東(イザナ)独自の武器である、刀の柄へと伸びて、そして静かに握られた。

 

「……そうだな。それには、こう返すとしよう」

 

 チンッ──そう、サクラが言い終えるとほぼ同時に。そんな音が互いの間で小さく鳴り響く。

 

「……?」

 

 彼女の一連の動作と言葉に、フィーリアは不可解そうに小首を傾げる。そんな彼女に対して、まるで突き放すかのようにきっぱりと、サクラが言った。

 

「それが聞きたいのであれば、紛い物など頼らずに、お前自身で改めて訊け」

 

 最初、彼女のその言葉の意味が理解できなかったのか、そこでとうとうフィーリアの笑顔が消え失せ、怪訝そうに歪む。が、それすらもすぐさま消えて────ニイッと、口元が凶悪に吊り上がった。

 

「ああ、そうですか。やっぱり、そうでしたか」

 

 口元を吊り上げたまま、フィーリアがそう言う。それと同時に彼女の髪が小さく微かに揺れた、その瞬間。

 

 

 

 

 

 彼女の首が、横にずれた(・・・)

 

 

 

 

 

 ズガガガッッッ──フィーリアの首がずれると全く同時に、彼女の背後にある塔の門も斜めに分断され、石同士を激しく擦り合わせるような轟音が旧市街地、どころか街の方にまで響き渡る。

 

 ずれて落下するフィーリアの首が、一瞬にして薄青く変色し、ただの魔石の塊となって、宙で罅割れ砕けて霧散する。残された彼女の身体も同様に、やはり硝子(ガラス)細工のように細かく砕けて、崩壊していく。

 

『やっぱり!やっぱりやっぱりやっぱり!そうなんですね!?その気なんですねサクラさん!?』

 

 一閃されて、分断された門が未だ轟音を鳴らして崩れゆく中で、そんなフィーリアの感極まった声が旧市街地中から響く。

 

『いいでしょう!ならば訊きましょう私自身で!だから早く来てくださいサクラさん──いや、『極剣聖』!その刃を我が首に振るってみせろ!我が滅びを、我が理想を阻んでみせろ!!』

 

 フィーリア────否、『理遠悠神』アルカディアの声がこだまする。それを聞きながら、サクラはその場から進む。得物を握る手の、僅かな震えを押さえながら。

 

 ──……紛い物と頭でわかっていても、流石に少し堪えるな。

 

 崩れ去る門を抜け、サクラは改めて見上げる。すぐ目の前に聳え立つ、薄青い魔石の巨塔を。その頂点を。

 

「……」

 

 見上げて、ぽつりと呟いた。

 

「フィーリア。君は、勘違いしているよ」



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ARKADIA────弱過ぎる

「ォウラアアアアアアアッ!!!」

 

 先陣を切ったガラウさんの、獣如き咆哮が広場の大気を震わせる。その手に持つ巨大な戦鎚(ウォーハンマー)を軽々と振るい上げ、そして一息にそれを振り下ろす。

 

 その先にいたのは、一体の魔石の魔物(モンスター)。魔物の方も先頭に立つガラウさんを捉えていたようで、人体はおろかそれを守る防具すらも容易く貫ける程鋭く尖った、腕らしき部位を向けていた。

 

 が、その切先が届くよりも先に──戦鎚が魔物を横合いから叩く。文字通り重く、強烈な戦鎚の一撃をまともに受けた魔物は、一瞬にして、呆気なく粉々に砕けて、大小無数の魔石の破片や欠片となって周囲にばら撒かれた。

 

「ん……?」

 

 早速一体目を撃破したガラウさんだったが、何を思ったのかその顔に訝しげな表情を浮かべ、魔物を屠った己が得物たる戦鎚を見やる。だが、その行為は決して戦場では取ってはならない、格好の隙となってしまった。

 

「ガラウさん!!」

 

 そんな行動をガラウさん程の冒険者(ランカー)──戦士が取る訳がないと思っていた僕は、慌ててそう叫ぶ。何故ならもうすぐそこまでに、三体の魔石の魔物が彼を仕留めんとそれぞれ別方向から、既に攻撃を仕掛けていたのだ。

 

 先程の魔物と同じように、ガラウさんへと腕らしき部位が向けられる。だが明らかに間合いが足りていない──そう思った矢先、その切先がグンと伸びる。

 

 ──不味い!

 

 と、僕が思った直後だった。ガラウさんが足で地面を勢いよく踏みつけた。

 

「【衝撃壊(インパクトブレイク)】ッ!」

 

 瞬間、ガラウさんを中心に、強力な衝撃波が巻き起こる。それは地面を覆っていた魔石やその周囲を次々と破壊し、そして迫っていた三体の魔物すらも呑み込み、その全身を粉砕してしまった。

 

 急いで彼の元までに駆けつけようとした僕は、その光景を目の当たりにして、ただ呆然とする他なかった。

 

 ──す、凄い……。

 

 それしか、心の底から湧き上がらない。ガラウさんは──僕の想像を遥かに超える程の、強者だった。相手は〝殲滅級〟、それも最悪とされる生ける天災──〝絶滅級〟に限りなく近い最上位だというのに、それを瞬く間に四体も倒してしまった。

 

「……」

 

 だが、ガラウさんの顔はやはり何処か不可解そうだった。何か納得がいかないような感じである。

 

「ウチもいるってこと、忘れないでね!」

 

 と、その時後方からそんな明るげな声がした────そう僕が認識するよりも先に(・・)、何かが僕の隣を通り過ぎる。

 

「……え?」

 

 気がつけば、僕の前には『三精剣』の一人──イズさんがいた。彼女の全身は今、魔力に包まれている。

 

「一気に、行くよっ!」

 

 そう言うや否や、僕が捉えていたイズさんの姿が霞んで消え、一条の稲妻が魔石の魔物の群れを駆け抜ける。瞬間、魔物たちに電撃が走り、そしてその多くが亀裂を全身に生み、やはり粉々に砕け散った。

 

「……あれれ?」

 

 色々な意味で衝撃的過ぎる光景を目の当たりにし、呻き声一つすら漏らせない僕のすぐ隣で不思議そうな声が上がる。思わず反射的に顔を向ければ、そこには今さっき群れに突っ込み、そして殲滅したイズさんが立っていた。

 

 バチバチと全身から音を立て、時折真白の閃光を弾けさせている彼女は、両手に持つ短剣を交互に見やっている。そんな中、またしても後方から声が上がった。

 

「【殲滅の灼炎(ジェノサイドフレイム)】ッ!」

 

「【絶撃の激流(アブソリュートウォーター)】ッ!」

 

 その二つの声──気迫に満ちたリザさんとアニャさんの声が響き渡ると同時に、爆発的な魔力が後方から迫る。かと思えばそれらはすぐさま僕らの前を過ぎ去り、そして視界に映り込む。

 

 巨大な火球が魔物の群れへ撃ち込まれ、轟音と共に火柱を突き立たせる。それが収まった時には、そこにはもう炎熱によって焼き焦げ融けた地面しか残されていない。

 

 別の方には極太の水流が地面やら魔石に覆われた廃墟諸共、群がる魔物たちを呑み込み、何重にも破砕音を奏でて、やがて水流が魔力の残滓と化し宙に霧散し消える頃には全てが丸ごと綺麗に消失してしまっていた。

 

「………」

 

 僕にはもう、感想らしい感想すら浮かばない。ただただ、呆気に取られその場に立ち尽くしているだけだ。

 

「やっぱり、な」

 

 その時、納得したようにガラウさんが呟いて────

 

 

 

弱過ぎる(・・・・)。まるで手応えがねえ」

 

 

 

 ────と、続けてこちらの耳を疑ってしまうようなことを言うのだった。

 

「……え。えっ……?」

 

 ガラウさんのまさかの発言に、みっともなく思い切り狼狽えた声を漏らす僕とは対照的に、僕の隣に立つイズさんがうんうんと同意するよう頷きながら口を開く。

 

「だよねだよね。正直、肩透かしっていうか何ていうか」

 

 そう言いながら、得物である短剣をプラプラと揺らすイズさん。そんな彼女を僕が目を丸くしながら見つめていると、少し後ろから声がする。

 

「ご無事ですか御三方……いえ、あの程度なら聞くまでもなかったですね。……しかし、これは妙です」

 

「ああ。ゴルミッド殿と姉さんの言う通り、かの魔石の魔物は少々弱いように思える。だがそれでいて、内在させている魔力自体はやはり強大無比だ」

 

 言うまでもなく、声の主は先程凄まじい魔法を見せたリザさんとアニャさんである。前にいる僕らと合流した二人は言いながら、前方に犇く魔石の魔物たちを見据える。

 

「……何かの前触れじゃなければいいのだけど」

 

 声に僅かながらの不安を帯させて呟くリザさんとは反対に、誰よりも魔物の前に立つガラウさんが戦鎚を大きく、そして軽々と豪快に振り上げて高らかに叫ぶ。

 

「まあ弱いことに越したことねえだろ!こりゃ案外何とかなりそうじゃねえか。よぉし、ウインドア!俺ぁちょっくらあん中突っ込んでひと暴れしてくっから、お前さんは一先ずここで待機して後ろの連中に指示を出してくれやぁ!」

 

 瞬間、僕の返事も待たず単身魔物たちの群れに突っ込むガラウさん。最初不覚にも呆気に取られてしまった僕であったが、慌てて口を開こうとすると同時に、隣でバチンと音が響く。

 

 何かと見れば、先程までそこに立っていたはずのイズさんの姿が消えていた。

 

「ウチも良いとこ見せなきゃね!」

 

 その声に釣られ前を見れば、全身から閃光を迸らせ輝くイズさんが駆けていた。

 

「ウインドア様!ゴルミッド様が申していた通り、後方の冒険者(ランカー)たちと合流次第、彼らに指示をお願い致します!私たちはほんの少しでも貴方方の負担を減らせるよう、二人に続いて魔物たちを討ちに向かいます!」

 

「頼んだぞ、ウインドア殿!」

 

 そう言い終えるとほぼ同時に、左右からリザさんとアニャさんが僕の背中を追い越し、瞬く間に僕の視界から遠ざかっていく。……僕は返事も碌にできず、ただその背中を見送るしかできなかった。

 

 ──……自信が、凄い勢いで崩れそうだ。

 

 上には上がいる────そんな言葉が僕の頭の中に浮かび上がってくる。そしてそれを嫌でも実感させられるやり取りだった。

 

 と、その時。

 

 ドンッ──廃墟の屋根から、何かの影が僕の目の前に落下してくる。言わずもがな、その正体は全身が鋭利に尖った、一体の魔石の魔物だった。

 

「ッ!」

 

 その姿を捉え、僕は反射的に剣の柄を握る手に力を込める。それとほぼ同時に、僕の前に降り立った魔物が動いた。

 

 ヒュッ──尖る魔物の身体の一部が、まるで槍のように伸びて僕に襲いかかる。風切り音と共にその鋭利な切先が迫るが、僕の目には確かに見えていた。

 

 ──躱せる。

 

 そう心の中で思うと同時に、僕は少し身体をずらす。僕の身体を貫かんとした切先は、空を突くだけに終わる。

 

 その隙を見逃さず、すぐさま僕は間合いを詰め、咄嗟に腕を【強化(ブースト)】し、そして余剰分の魔力を長剣(ロングソード)に巡らせる。

 

 息を短く吐き、がら空きとなった魔物の脇に狙いを定め、剣を振り上げた。

 

「【強化斬撃】ッ!」

 

 魔力によって保護、強化された剣身が魔物を捉え、刃が食い込む。そして僅かな手応えを得るとほぼ同時に、剣身は魔物の身体を通り抜けた(・・・・・)

 

 ──えっ……。

 

 少し遅れて、魔石の魔物の身体が上下にずれ、そのまま地面に崩れ落ちる。それから全身が細やかに罅割れたかと思えば、魔石が砕ける時と同様の、あの妙に甲高い音を響かせ粒子と化し、その場で霧散し溶けるように消えてしまった。

 

 その一部始終を見届けて、僕は己の得物を見やる。

 

 

 

『弱過ぎる。まるで手応えがねえ』

 

 

 

「………」

 

 ガラウさんのあの発言を、僕は今になって理解し、それを実感した。



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ARKADIA────もう充分さ

「リズ。今状況はどうなってる」

 

 場所は打って変わり、冒険者組合(ギルド)輝牙の獅子(クリアレオ)広間(ロビー)

 

 急遽今回の第四の『厄災』──『理遠悠神』アルカディア討滅戦により、それにおける作戦本部となったそこでは、現在『輝牙の獅子』に所属する全受付嬢を総動員させており、『鋼の巨人(メタイツ)』ガラウ=ゴルミッドと『虹の妖精(プリズマ)』、『三精剣』及び『大翼の不死鳥(フェニシオン)』クラハ=ウインドアらを筆頭(リーダー)にした、冒険者(ランカー)部隊を全力で補助する為、本格的に交戦が始まった時から忙しくなく動き回っていた。

 

 そんな受付嬢たちをまとめ上げ、逐一的確な指示を飛ばすのは、同じく受付嬢たるリズティア=パラリリス。ここだけの話ではあるが最近三十路を迎えたばかりの彼女だが、『輝牙の獅子』GM(ギルドマスター)、アルヴァ=クロミアから全幅の信頼を置かれており、後輩である他の受付嬢からも慕われている、誰もが認める『輝牙の獅子』の受付嬢長である。

 

 他の受付嬢から舞い込んでくる大量の報告を順次捌き整理すると同時に、己も数十個に及ぶ魔石から流れ込む、最新の戦況や情報の確認も行なっている。常人であればとっくのとうにパンクしている仕事量を、リズティアは日常(いつも)と変わらない顔で、変わらない様子でこなしていた。

 

 そんな時、不意にアルヴァからそれを訊ねられ、だが予めわかっていたかのような滑らかさでリズティアは答える。

 

「はい。戦況の方ですが、こちらが優勢です」

 

「……それは本当かい?」

 

 リズティアの返事に対し、胡乱げな反応を見せるアルヴァ。それも無理はない──何故ならば今冒険者たちが相手にしている魔物(モンスター)は〝殲滅級〟最上位個体で、最前線で戦っているガラウや『三精剣』、クラハならばともかく他の冒険者など、確実な策を取らなければとても太刀打ちできない。しかもそれがこちらの全戦力を大幅に上回る、千体もいるのだ。

 

 本来であれば苦戦必須────万が一にも、こちら側が優勢になることはありえない。……そのはずだった。

 

「どうやら、今交戦している魔物は魔力量こそ〝殲滅級〟最上位と称しても断じて間違いないのですが、戦闘の様子を見る限り動作こそ素早いものの単調で見切り易く、また耐久力も並以下のようなんです。……現に、ガラウ=ゴルミッド様、『三精剣』の皆様が既に二百体近くの数を倒していますし、クラハ=ウインドア様の指揮下で戦っている《A》冒険者たちも対処できています。そしてクラハ=ウインドア様本人も魔物を何体か倒しました」

 

「…………そう、か」

 

 リズティアの報告を受け、渋々といった様子でアルヴァはそう返す。……だがその内心では、如何とも言えぬ不安を抱いていた。

 

 ──弱いんだったら、別にそれに越したことはない。ないが……何か、嫌な予感がするね。

 

 そして彼女は考える。ここは一旦彼ら冒険者部隊を退がらせるべきではないかと。考えて──だが、次にはその考えを頭の中から振り払っていた。

 

 ──今、あの子たちを退がらせる訳にはいかない。一応住人はこの辺りに全員避難させたが、一人だって犠牲を出す訳にはいかない。心苦しいが、ここは踏ん張ってもらうしか、ない……。

 

 それでも、一度こびりついてしまった不安は拭えず、アルヴァは浮かない表情をする──その時だった。

 

 

 

「なあ、アルヴァ」

 

 

 

 と、不意にそんな声がアルヴァの背後からかけられた。咄嗟に振り返って見れば、そこには神妙な面持ちの、紅蓮の髪の少女が立っていた。

 

 彼女の────否、()の名はラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。恐らくこの世界(オヴィーリス)に生きる人間の、大半に知られている名前だろう。

 

 この世界最強と謳われ、誰からもそうだと一片の疑いもなく認め信じられていた三人、《SS》冒険者(ランカー)の一人にして、その戦いぶりから『炎鬼神』と称されていたが、今や訳ありの事情があってこのような、最初と比べればだいぶマシになったものの、かつての強さとは程遠い可憐な少女となってしまっている。

 

 そんなラグナの顔を見て、アルヴァはスッと瞳を細める。

 

 ──只事、って訳じゃあなさそうだね……。

 

 そう心の中でラグナに呼びかけられた理由の推察を立てながら、アルヴァが口を開く。

 

「どうした『炎鬼神』。アンタにしては珍しい顔色みたいだけど、何かあったかい?」

 

「……いや。そういう訳じゃ、ねえんだけど」

 

 そう言いながらも、アルヴァの瞳から逃れるようにラグナは視線を逸らして口を閉じてしまう。が、意を決したようにその琥珀色の瞳を、彼女の方にきちんと彼は向けた。

 

 向けて、閉じてしまったその口を開いた。

 

「こんな状況でってのはわかってるし、承知の上だ。……ちょっと、いいか?」

 

「……」

 

 ラグナの琥珀色の瞳を見ながら、アルヴァは観念するように小さく静かに息を吐く。

 

 ──……そういや、昔からこの子は妙に鋭いというか、勘が良かったんだっけね。

 

 心の中でそう呟いて、アルヴァはポンとリズティアの肩を叩いた。

 

(アタシ)はちょいと席を外す。すぐ戻って来るから、その間ここは任せたよ」

 

「っえ?ちょ、GM(ギルドマスター)!?」

 

 これには流石のリズティアも悲鳴を上げるが、そんな彼女の悲鳴など無視してアルヴァはラグナの傍に歩み寄る。

 

「サシになりたいんだろう?。執務室に行こう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『輝牙の獅子』、執務室。つい先程まで人で溢れそうになっていたのが、まるで嘘のように静まり返ったこの場所に、アルヴァとラグナは二人きりでいる。

 

「……それで『炎鬼神』。話ってのは何だい?」

 

 窓枠に寄り掛かりながら、アルヴァがラグナに対しそう訊ねる。彼女に訊かれ、ラグナは少しの間を置いてから、言った。

 

「あんた、あいつを……本気でフィーリアを倒すつもりなのか?」

 

 アルヴァとラグナ、二人の間に沈黙が流れる。それを最初に破いたのは、アルヴァのため息であった。

 

「ああ。倒す。……あの子を、討つ」

 

「じゃあその後あんたはどうするんだ。全部が片付いた後……終わらせた後、どうする気でいるんだ」

 

 そのラグナの問いかけを受けて、アルヴァは先程己が立てた推察は間違っていなかったと確信する。確信して、この執務室へ向かう道中で予め考えてあった言葉を、彼女は口に出す。

 

「今回の事態を招いたのは私だ。十六年前、あの子を是が非でも手放したくないと、自前(てめぇ)の感情に流された、私のせいだ。それに、この始末にアンタたち若い衆も巻き込んじまった。……然るべきケジメをつける」

 

 そこまで言い終えて、アルヴァはラグナの顔を見やる。彼はこちらに、真摯な眼差しを向けていた。

 

 数秒黙って、アルヴァは続きを語る。

 

「私はあの子を独りにする気はない。一体どのくらいかかるかはわからないけれど、それでもケジメをつけ終えたら……私はあの子の元に、行くよ」

 

 それがアルヴァの、ラグナの問いに対する答え。対し、彼女の答えを受け、聞き終えたラグナは刹那、琥珀色の瞳に揺らぎを見せて。しかしそれを誤魔化すように口を開く。

 

「つまりそれって、そういうこと(・・・・・・)だよな?」

 

 ラグナの言葉に、アルヴァは黙って頷く。彼女のその仕草を見やって、一瞬だけ瞳を見開かせるが、すぐに彼女から顔を逸らし俯いた。

 

「……そう、か」

 

 そうして、二人の会話は終わった。アルヴァが窓枠から離れ、執務室から去ろうと扉へと歩き出す。

 

 顔を俯かせたままでいるラグナの傍を通り抜け、アルヴァは扉を開ける為にノブに手を伸ばす────その瞬間だった。

 

「これしか、なかったってのか……もっと他に方法とか、なかったのかよ」

 

 伸びるアルヴァの手を、ラグナの微かに震えるその声が止めた。

 

「余計なお世話だってのはわかってる。わかってるけどよ。……でも、そんなのって、あんまりじゃねえのか」

 

 扉の方に身体を向けたまま、ラグナに背中を向けたまま、その場で立ち止まるアルヴァ。そんな彼女に、感情の滲む声で、訴えるようにラグナは続ける。

 

「心の底から信じてた奴に最悪な形で裏切られて、それでも死に物狂いで守り抜いた自分よりも大切なモンを、よりにもよって自分から捨てて、そんで最後は死ぬって……あんたそれでいいのか?本当にいいのか?……だったらあんたの人生って一体何なんだよ!!!」

 

 そこで遂に、今の今まで必死に抑え込んでいたのだろう、ラグナの感情が爆発した。

 

「昔からずっとずっと傷ついて、傷ついて!そんでようやく手に入った幸せも手放して!あんた馬鹿じゃないのか!?あんたにだって幸せな人生一つくらい、送る権利あっただろうが!なのに、なのに……あんた一体この人生で何がしたかったん、だよ……!」

 

 ラグナの、涙に濡れた言葉を背を向け黙ったまま聞きながら、アルヴァは内心驚きを隠せないでいた。

 

 ──……そんなこと、よもやアンタから言われるとはついぞ夢にも思わなかったよ。

 

 本来ならば、そんな言葉を投げかけられても、アルヴァの心が揺れることはないし、逆に何を知っているのかと逆上するところだっただろう。だが、ラグナの場合は違う。彼はアルヴァ本人から、全てではないが彼女が送った半生を聞いた上で、そしてフィーリアとの間に何があったのか知った上で、そう訴えかけたのだ。

 

 ──……幸せな人生、か。

 

 言われて、アルヴァは思い返す。己が歩んだ、己の人生の道のりを。

 

 

 

 言ってしまえば、ろくな人生ではなかった。穢れの血だと、呪われし魔女の血筋だと幼い頃から、生まれ故郷で散々差別され迫害され忌み嫌われて。その末に妹諸共家を焼かれ、斧や鍬を持って目を血走らせた村人たちに追いかけられ殺されそうになりながら、故郷から命からがら逃げ出した。

 

 不幸中の幸いとでも言えばいいのか、こんな目に遭った原因でもある血筋のおかげで、自分は人よりも魔法の才に恵まれていた。だから故郷から逃げ出せた後は、旅をしながら用心棒紛いの仕事をして、金を稼いだ。……まあ、自分は都合の良いことに女だったから、その一本で稼いでいた訳ではないが。

 

 ともあれ、そうして語るに値しない生活を送り続け、五年。十七になった自分に、ある転機が訪れる。

 

 フォディナ大陸に伝えられる、伝説の大魔道士──レリウ。その偉大なる名を継ぐ、所謂二代目大魔道士と自分は出会ったのだ。

 

 話を聞けばその二代目は自分を捜していたらしい。同じ場所に留まることなく、各地を転々としながら用心棒や、人員の足りない冒険者(ランカー)チームの一時メンバーに入る、素性不明の、下手な一流魔道士を凌駕する女魔道士がいる──と、噂を耳にして。

 

 自分を捜していた二代目の目的は、ずばり後継者を育成する為。己の限界を悟り、数年前から後を継ぐに相応しい後継者を捜していた二代目は、自分に目をつけたのだ。

 

 どうしても弟子にしたい、弟子になってくれと懇願する二代目を、とりあえず自分は────ブチのめした。それはもう、徹底的に。二度と立ち上がることのないように。

 

 誰かの下に付くなど、真っ平ごめんだった。だから自分は二代目をブチのめし、そしてそのレリウの名を無理矢理奪ってやった。無論、自分がより効率良くこれまで以上の金を稼ぐ為の、知名度(ネームバリュー)として都合が良かったからだ。

 

 けれど、このレリウの名を継いだことによって、後にさらなる人生の転機が訪れることになろうとは、この時の自分はついぞ思いもしていなかった。……そしてこの二つの転機が、巡り巡ってこんな事態を引き起こすことになることも。

 

 

 

 ──こうして思い返せば、ろくでもない人生だったんだ。……全く、本当にろくでもない人生だったよ。

 

 だが、そんなろくでもない人生の中にも一握りの、ほんの一握りくらいの救いはあった。その救いが、一体どれだけ自分に生きる希望を与えてくれたことか。

 

 ──…………もう、充分さ。

 

 そう欠片程の心残り(・・・)をひた隠しながら、アルヴァは口を開いた。

 

「ありがとうね」

 

 背を向けたまま、ラグナに告げる。……返事はなかった。

 

 多少後ろ髪を引かれながらも、アルヴァは途中で止めていた手をノブに伸ばし、扉を開き執務室から出る。そんな彼女を、一人の女性が出迎えた。

 

GM(ギルドマスター)!」

 

 女性──現場の指揮を任せたはずのリズティアがそこに立っていた。それも、血の気の引いた青ざめた顔で。酷く慌てた様子の彼女が、アルヴァに急いで告げる。

 

「大変です!このままでは、このままでは────

 

 その、報告は。

 

 ────冒険者(ランカー)たちが全滅(・・)します!!」

 

 アルヴァを動揺させるには、あまりにも容易く、充分なものであった。



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ARKADIA────絶望降誕

「ハァッ!」

 

 ザンッ──鋭く吐いた息と共に振るった剣が、目の前の魔石の魔物(モンスター)を両断する。二つに分たれたその魔物が妙に澄んだ音を立てて、粉々に砕け散るのを確認し終え即座に別の方へ身体を向ける。

 

 ──これで二十体目……!

 

 見てみれば、他の《A》冒険者(ランカー)たちも複数人で魔物を囲い、やや苦戦しながらも僕と同じく倒している。その光景を見やって、僅かばかりではあるが心の中に余裕が出始めた。

 

 ──いざ始まる前までは不安でしょうがなかったけど、まさかこうなるなんて。

 

 現在、戦況は僕たち冒険者側が圧倒的優位に立っている。僕たちがやっていることは言ってしまえば露払いみたいなもので、魔物たちが市街地に侵入しないよう各々対処しているだけだ。……その対処だけで、もう七十体程の魔物を倒した。

 

 ──ここだけでもこれだけ倒しているんだ。きっと前線で戦ってるガラウさんたちは……倍以上はもう倒しているんだろうな。

 

「っと……」

 

 突如横から突き出された魔物の腕を躱し、返しの動作で僕はその魔物を斬り捨てる。不意打ちを仕掛けてきた魔物は斜めに分断され、今までと同じように砕けた。

 

 ──……にしても、な。

 

 砕け散る途中で魔力の粒子となり、宙に舞う様子を眺めて、僕は疑問を抱く。

 

 何故、この魔石の魔物たちはこんなにも弱いのか────と。

 

 確かに、この魔物たちが持つ魔力自体は強力かつ強大なのは事実だ。だがその肝心な魔力を魔物たちは全くと言っていい程に活かせていない。攻撃手段はおろか、防御手段にも使えていない。

 

 これでは宝の持ち腐れ──無意味だ。……だからこそ、却って不気味に思えて仕方がない。

 

 ──それに……。

 

 まだ腑に落ちない点がある。それは今宙に舞った、魔力の粒子。魔石の魔物の、成れの果て。見たところどうやら魔石を使用した際に残るものに近く、だがそれとは違って消滅せずに上空へと滞留している。この場では既に五十体は倒しており、その魔物らの粒子全てが集まり、宙を漂っている。

 

 おかげさまでこの辺り一帯が薄青い燐光で満たされている。遠目から、そして事情を何も知らなければ、さぞ美しく幻想的で、現実のものとは思えないような絶景に見えることだろう。

 

 だが、そうではない者からすれば、今この状況は異常だとはっきりわかる。本来ならばすぐさま消え行くはずのものが、こうして未だに宙を漂っているのだから。

 

 幸い、この粒子を吸い込んでも身体に異常は見受けられない。……まあそれも今のところ、という訳だが、現時点では人体に害を及ぼすことはないらしい。

 

 ──……ここにいる魔物も数が減ってきた。多人数で叩けばどうにかなるし、ここは彼らに任せて僕もガラウさんたちに加勢すべきか……。

 

 この場を軽く見渡し、ある程度現状を理解した僕はそう思いつつ、剣の柄を握り締める。そして指示を出そうと口を大きく開く────その直前だった。

 

 

 

 

 

 キイイィィィンンン──不意に、そんな甲高い音が、この場に震えてこだまし、響き渡った。

 

 

 

 

 

「な、何だ!?何の音だ!?」

 

 予想だにしないその音に、《A》冒険者(ランカー)の一人が動揺したように叫ぶ。声にこそ出さなかったが、僕も同じ気持ちだった。

 

 ──急に一体、何だ……?

 

 音は、未だ響いている。どころか、その数も増している。最初は一つだったのが二つに、三つに。まるで共鳴でもするかのように、重なり響き続ける。

 

 綺麗な音色だった。綺麗で、それが却って不気味極まりなく、心の底からこちらの不安を掻き立てる。

 

 ──……え?

 

 この場にいる者たちが困惑と混乱に囚われる最中、ふと僕は気づいた。敵である魔石の魔物の動きが、いつの間にか止まっていることに。

 

 そして────この甲高い音が響くのに合わせて、魔石の魔物の身体が細やかに振動していることに。その、瞬間だった。

 

 パキン──突如まだ残っていた魔石の魔物の全身が罅割れたかと思えば、その場で独りでに粉々に砕け散った。残骸たる大小無数の破片と欠片が宙に撒かれ、落下する途中でその全てが魔力の残滓である粒子に変わって、宙を舞う。

 

 その一体を皮切りに、次々と魔石の魔物たちが勝手に砕け散っては粒子となって、それら全てが宙に舞い上がる。一瞬にしてこの場が濃い青に包まれ、僕らが呆然とその場で立ち尽くす中──変化は再び起こった。

 

 宙を滞留していた魔力の粒子が、まるで何かに引き寄せられるようにして流れ始めた。その行き先を見やれば────現在ガラウさんたちが戦っているであろう、旧市街地の方である。

 

 それを確認した僕は、背中を押されるようにその場から駆け出す。心の中が、途轍もない嫌な予感が埋め尽くしていた。

 

「ちょ、ウインドアさん!?」

 

 背後からそんな声が上がったが、それに反応し立ち止まれる程の余裕は、もうなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これで、百ッ!」

 

 バチンと閃光が瞬く。そしてそれが薄れ消えると同時に、胴に焦げた一閃を刻まれた魔石の魔物(モンスター)が倒れ、その途中で儚く砕けて散った。

 

 残滓たる魔力の粒子が宙へ立ち昇るのを見届け、バチバチと全身から閃光を弾けさせるイズはその場を軽く蹴りつける。瞬間、またしても閃光が瞬いたかと思えば、もう既にそこに彼女の姿は消えており、先程まで立っていた場所に焦げた跡が残されているだけだ。

 

「吹き飛べ【憤怒せし大地(タイタンラース)】ッッッ!」

 

 別の方では魔物に囲まれたガラウが怒声と共に高く振り上げた戦鎚(ウォーハンマー)を魔石に覆われた地面へ振り下ろし、その周囲を派手に爆ぜ割り砕く。彼を中心とした一帯が陥没したかと思えば、割り砕かれた地中から巨大な石柱が何本も突き出し、その先にいた魔物を悉く吹き飛ばす。吹き飛ばされた魔物たちは、そのまま呆気なく砕け散っていった。

 

「ハッハァッ!どんどんかかって来いよ雑魚共ォ!俺ぁまだまだ行けるぜぇえええ!!!」

 

 勇ましく咆哮を上げ、ガラウが目に留まらぬ速度で戦鎚を振り回し、手当たり次第に己が周囲の地面を滅多打つ。その度に戦鎚が破り砕いた場所から石柱が飛び出しては魔物たちを吹き飛ばしていった。

 

「【滅尽の大暴焱(ターミネイトファイア)】!」

 

「【全呑す大瀑水(イーティングアクア)】!」

 

 また別の方からはリザとアニャの凛とした声と共に、悉くを焼き尽くさんとする大業火と全てを呑む大洪水が巻き起こり、その場にいた魔物の殆どが容易く滅ぼされる。後に残されたのは、やはり残滓となった大量の魔力の粒子のみであった。

 

 

 

 ……とまあ、これが最前線である旧市街地中央区、現在の戦況である。クラハの予想通り、ガラウたち《S》冒険者(ランカー)側が圧倒的過ぎるまでに優位だったのだ。今この場にいる者だけでも既に四百近い数の魔物を倒してしまっている。

 

 最初こそ絶望視されていたはずの戦いが、今や消化試合になりかけているという事実。……だが、四人それぞれが浮かべる表情はそう軽いものではなかった。

 

 否応にも感じる、何とも言い難いこの違和感。何故この魔物たちはこうも手応えがないのか。何故その内に秘める魔力量と、こうまで吊り合っていないのか。

 

 彼らは《S》冒険者の中で比べても、同じ《S》冒険者であるクラハなど到底足元に及ばない、歴とした強者たちである。その強者としての勘が告げていた。

 

 

 

 まだ何かある(・・・・・・)のではないか────と。

 

 

 

 だが、その肝心の何かがわからない。そして今自分たちに立ち止まれる程の余裕はない。いくら弱かろうが魔物は魔物。一匹たりとて街に通す訳にはいかない。

 

 だから彼らは得物を振るう。その心に一抹の不安を過らせながらも、それを見て見ぬふりをしながら、彼らは戦う。

 

 ……けれど、《S》冒険者たちは知る由もない。己らが抱え込む、その不安の全容が明かされる時が近いことを。そしてそれが己らの想像を容易く遥かに、超える程最悪であることを。

 

 そして今────刻は(きた)る。

 

 

 

 キイイィィィンンン──言うなれば、それは共振音。まるでワイングラスの縁を濡らした指先で擦った時に発生するような、甲高い音が突如として響き出し、響き渡る。

 

 

 

 

「っ?何?何の音……?」

 

 そんなリザの声を掻き消す勢いで、その音は周囲中から響き、幾重にも重なる。そして彼らは気づく。この謎の音が発生したとほぼ同時に──周りにいる魔石の魔物たちの動きが止まったことに。

 

 そして目を凝らしてよく見れば────そう注意深くして見なければわからぬ程に、魔石の魔物たちの身体が、細かく振動していることにも。

 

「……よくわからんが、つまるところ好機(チャンス)到来だろ!止まってんだからなぁ!!」

 

「えっ!?ちょ、ゴルミッド様!」

 

 戦鎚を振り上げ、リザが呼び止めるのも構わずガラウは動きを止めた魔物へと突進する。そして戦鎚を以て砕かんとした、その瞬間。

 

 パキン──彼がそうするよりも早く、魔物の全身に罅が走り、直後粉々に砕け散ってしまった。

 

「な?」

 

 それを呼び水に、他の魔物たちも独りでに砕けて散っていく。撒かれた破片やら欠片が魔力の粒子となって、宙へ巻き上げられ────一つに収束する。その光景を目の当たりにしたアニャが驚愕するように口を開く。

 

「い、異常だ!何か異常が起こっている!」

 

 魔力の粒子が集まっていく。他の場所からも、この場に流れ込んでいく。一つの場所へ集中していく。

 

「総員厳戒態勢!」

 

 リザの声が鋭く飛び、それによりこの場にいる全員がそれぞれの得物を構え、気を引き締めた瞬間──────収束した魔力の粒子が、一気に弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 言うなれば、そこは玉座の間であった。辺り一面を薄青い魔石で覆われた、そして包まれた大広間。その中央には巨大な結晶と見紛う玉座がある。

 

 玉座に座っているのは、お粗末にも不似合いな一人の少女。真白の髪を伸ばした、小さな少女。

 

 少女は眠っているように目を閉じており、だが唐突にその色素の薄い唇を僅かに開かせる。

 

「思ってたより、少し早かったですね」

 

 そう、無感情に呟いて。少女はようやっと目を開く。其処にあったのは虹と灰の瞳であった。

 

「さあ、本番はこれからですよ。頑張って、精々足掻いてみせてください」

 

 言って、少女────フィーリア=レリウ=クロミア改め『理遠悠神』アルカディアは無表情だったその顔を、凶悪に歪めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何だ。一体、何なんだ」

 

 己にできる限りの全力でガラウさんたちと合流した僕は、目にしたそれ(・・)から視線を外せず、呆然と呟く。恐らく、他の人たちも同じだっただろう。

 

 僕たちの目の前にあったのは、巨大な薄青い魔石の柱。光の中から現れたその柱は、異様な雰囲気を醸し出していた。

 

「……来る」

 

 不意にイズさんがそう呟いた瞬間、その場に突き立つ柱に異変が生じる。突如として、柱に亀裂が走ったのだ。

 

 亀裂はたちまち広がって、そして甲高い音を大きく響かせ柱が砕け、崩れていく。その光景を眺めていた僕は────目を見開かずにはいられなかった。

 

 ──……え?

 

 崩れた柱の中から、それ(・・)は一歩前へ進み出る。その足が魔石に覆われた地面を踏み締めた瞬間、崩れ落ちる柱だった魔石が宙で静止し、一瞬にして魔力の粒子と化す。

 

 粒子が舞う。舞って、形を成していく。集まり凝縮され、それぞれの形となっていく。

 

 粒子は輪に。粒子は腕に。球体(スフィア)に。剣に。

 

 気がつけば、其処に立っていたのは異形だった。正しく異形と、そう呼ぶ他ない存在(モノ)がいた。そして僕はその異形を────知っている。

 

 そう、それ(・・)は。もはや既に、斃されたはず。討たれたはずの存在。

 

「嘘……だ。何で、何で……」

 

 天使を彷彿させるような頭上の輪や、その背にある八つの得物を握る八本の巨腕には見覚えはない。しかし、その身体とその顔には見覚えがある。忘れる訳も、忘れられる訳もない。

 

 激しくこの上なく動揺しながらも、震える声で僕はその名を口にする。

 

 

 

「『魔焉崩神』、エンディニグル……!?」

 

 

 

 僕がそう呟くのと、

 

「馬鹿野郎ッ!!!」

 

 ガラウさんが叫び、そして呆けて無防備になっていた僕の腹部を、一瞬の内に間合いを詰めたエンディニグルの拳がめり込んだのは、ほぼ同時のことだった。



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ARKADIA────『極剣聖』進撃す(前編)

 時間は遡り、魔石塔内部。そこを独り進む、一つの影があった。

 

 サクラである。今し方フィーリア──まあ偽の紛い物ではあったが──と対話を終えた彼女は単身、フィーリア────否、『理遠悠神』アルカディアが待ち構える魔石塔に突入した訳だが、その内部は随分と様変わりしていた。

 

 まず、広い。外から見た以上に内部は広大かつ複雑な構造へと変貌を遂げている。そして見渡す限り、視界に映る全てが薄青い魔石に覆われ囲まれており、文字通りサクラの視界を埋め尽くし支配していた。

 

 人は同じ景色が永遠と続く様を見せ続けられると、どうやら気が狂うらしい。だが依然としてサクラは平気なままで、道の続く限り彼女は先を進む。

 

 ──ウインドア……他の者たちは無事に、上手くやっているのだろうか。

 

 街の防衛を任せた冒険者たちの身を案じながらも、サクラは止まらず突き進む。今、彼女には立ち止まる時間さえもないのだ。

 

「……む」

 

 と、不意にサクラがスッと身を屈める。直後、彼女の頭上を壁から突如として伸びた魔石が通り過ぎる。その魔石の先は細く鋭利に尖っており、人体などいとも容易く貫けることが見ただけでもわかる。そしてそれは明らかにサクラを狙っていた。

 

 ──始めたか。

 

 サクラがそう思った直後、彼女の周囲の壁が──否、壁を覆う薄青い魔石がグニャリと歪み変形し、そして一気に伸びた。

 

 言うなれば、それは粗く雑な槍。しかしの切先は人体を貫くには充分過ぎる程に鋭利に尖っており、目で見て確認するだけでも十数は軽く越すそれらがサクラに向かって殺到する。その伸びる速度も常人は当然として、並の《S》冒険者(ランカー)にも到底捉え切れぬものだ。

 

 が、それをサクラは見てから(・・・・)次々と躱す。目標を貫けなかった魔石の槍が、それぞれ壁やら地面やらに突き刺さっていく。

 

 しかし、息もつかせぬ間にサクラを第二波が襲う。今度は壁からだけでなく、彼女の頭上からも、そして足元からもさっき以上の数が迫り来る。

 

 だが、それでもサクラに焦燥が芽生えることはない。その顔に日常(いつも)通りの表情を浮かべ、あくまでも冷静に淡々と彼女はその襲来に対応する。

 

 頭上からのは頭を軽く捻り、壁からのは身を翻し、足元からのは前に跳んで回避する。その瞬間、宙にいるサクラを狙って、前方から一際巨大な魔石の槍が突き出て伸びた。

 

 回避によって生じる一瞬の隙を、文字通り突いた一撃────けれど、それすらもサクラに届くことはなかった。目の前にまで迫ったそれを、彼女は宙で身を捻って器用に躱したのだ。そしてあろうことか、その槍の上に着地してしまった。

 

 槍の上を疾駆するサクラに、また新たな槍が伸びる。だが今度の数はもはや数十と片付けられず、群れとすら形容できる程に膨大だった。

 

 人体を貫くどころか細切れにする槍の群れ────だがしかし、それを前にしても、サクラを動揺させるには至らなかった。

 

 サクラは腰に下げた得物たる刀の柄に手をかけ、口を開く。

 

「温い」

 

 瞬間、すぐ目の前にまで迫っていた魔石の槍全てが、全く同時に粉々に砕け散り、宙に撒かれたその欠片すらも吹き飛ばされる。気がつけば、サクラの視界には薄青い魔石の壁しか残っていなかった。

 

 と、その時──サクラが駆けていた槍の至る箇所から、まるで茨のように無数の棘が生え出す。その先も凄まじく鋭利に尖っており、やはり人体など容易くズタズタにしてしまえるだろう。

 

 だがその棘が生え終わる時には、既にサクラの姿は消えていた。刹那、生えたばかりの棘が根刮ぎ削ぎ落ち、そして槍すらも真っ二つに折られた。

 

「遅い」

 

 地面に着地していたサクラはそう呟いて、抜いた刀を鞘へ納刀する。そして顔を前方に向ける。

 

「……」

 

 今の今まで、サクラは長く細い一本道を進んでいた。そんな彼女の目の前に広がっていたのは────明らかに塔の構造を無視した、巨大な空間であった。



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ARKADIA────『極剣聖』進撃す(後編)

 サクラの目の前に広がっていたのは、この魔石塔の構造を明らかに無視した、不自然なまでに開けた巨大な空間であった。ただ、無秩序に延々と開けている訳ではなく、とはいえ目を少し凝らさなければならないが、壁はある。

 

 しかしその壁はどこまでも続いており、見上げてもずっと上まで伸びている。そしてその壁はぐるりとこの空間を囲っていた。それを確認して、サクラの脳裏にとある光景が想起される。

 

 ──まるで円形闘技場(コロシアム)だな。

 

 そう思いながら、サクラが一歩前に進み出る。すると彼女の背後で蠢くような音がして、振り返ってみればそこには魔石の壁ができていた。

 

 ──逃げ道を塞いだか……。

 

 まるで他人事のように心の中で呟きながら、サクラはさらに前へ進む。そうしてこの空間の中心辺りにまで進んだ、その時であった。

 

 

 

『ようこそ、『極剣聖』様』

 

 

 

 ……それはフィーリアの声。フィーリアの声が、全方位から響き渡り、この空間を──魔石の円形闘技場を満たす。

 

 その場に止まり立ち尽くすサクラに、やたら嬉しそうな様子でフィーリアが続ける。

 

『それにしても流石ですねサクラさん。あの道中の仕掛け(ギミック)をああも余裕で易々と突破しちゃうなんて……あははっ。それとどうですかここ?貴女の為に、ほんのちょっと手間をかけて準備してみたんですけど』

 

「……」

 

 フィーリアの言葉に、サクラは口を開かない。そうしてこの場に──魔石の円形闘技場に一瞬の静寂が生まれて、だがすぐさまそれは破られる。

 

『……まぁた、だんまりですか。まあ別にいいですけど……それでは『極剣聖』様ぁ。お次はとっても、とぉっても楽しい楽しい乱痴気騒ぎと参りましょう♪』

 

 と、フィーリアの戯けた声音が響いたその瞬間、円形闘技場全体が微かに揺れる。直後、フィーリアの周囲を除く円形闘技場の至る箇所が、突如不自然に隆起し始めた。

 

 ──……何だ?

 

 それを訝しげに眺めるサクラに対して、なお戯けたままにフィーリアは続ける。

 

『まず第一のお相手は、私の魔力をフルに流し込んで徹底的に強化した精鋭兵たちです。強いですよー?〝絶滅級〟なんて目じゃないくらい……いえいえ』

 

 気がつけば、サクラは取り囲まれていた。三百六十度、グルリと視界を巡らせても、それが────フィーリアの言う魔石の精鋭兵の、歪で尖りながらも人に似た形を取るその姿が、無数にも映り込んでいた。

 

 その数優に千を────否、五千(・・)は越している。

 

 文字通り大量の魔石の精鋭兵に囲まれるサクラに、フィーリアが言う。

 

『あの(ゴミ)の出来損ない共……三つの『厄災』よりもずっと、ずっとずっとずっとずっと──ずぅっとぉ、強いですよ。ふふ、ふふふ……うふふふ、あはははっ!』

 

 堪え切れなかったとばかりに、そこでフィーリアが一気に笑い出す。それは彼女らしい無邪気なもので────だがその裏に、計り知れない底知れない邪悪さが滲んでいた。

 

 フィーリアの笑い声が響き渡る中、サクラを取り囲む精鋭兵たちはじりじりと、少しずつその距離を詰めていく。そして、突如として十数体が飛びかかった。

 

 フィーリアの言葉通り、精鋭兵たちは強かった。その動きは〝絶滅級〟など相手にもならない程に素早く、そして凶器の如く鋭利に尖り切った腕らしき部位は、恐らく現段階で存在するどんな防具ですらも、まるで紙のようにその悉くを貫き、斬り、裂いてしまうだろう。

 

 正しく絶死を伴った、死神の鎌ならぬ死神の槍が、サクラの身体を串刺しにせんと迫り来る────しかし。

 

「……」

 

 当の本人たるサクラは、少しもどころか、一切の動揺も怯えも、その顔に浮かべておらず。ただ酷く至極、陳腐でつまらなそうな表情をしていた。そして、いつの間にか彼女の手は刀の柄を握っており、そこに僅かばかりの力が込められる。

 

 嘆息一つ交えて、今の今まで沈黙を決め込んでいたサクラが、ようやっと閉ざしていたその口を開いた。

 

「私も見縊(みくび)られたものだ」

 

 チンッ──サクラの言葉が響くよりも少し先に、そんな音が鳴る。瞬間、彼女に飛びかかっていた魔石の精鋭兵も、そしてそのすぐ周囲にいた精鋭兵も、全て平等に砕かれた。

 

「生憎、大軍相手は慣れている。……とっくのとうの、昔からな」

 

 砕け散り、ばら撒かれる残骸と破片と欠片を押し除け、まだ残る精鋭兵たちがサクラに襲いかかる。……が、彼女の姿はそこにはない。

 

 精鋭兵たちがそれを認識した瞬間、またしても砕かれる。精鋭兵の頭上で、刀を抜いたサクラが宙を舞っていた。

 

 落下するサクラを仕留めんと、数体の精鋭兵が跳び上がって腕を振り上げる。瞬間、槍の如く歪に尖っていたそれは鋭利な刃へと変わる。が、すぐさま粉々に砕け散って、その身体も同様の運命を辿った。

 

 着地したサクラに間髪入れず精鋭兵が襲いかかる。だがその間合いすら詰めること叶わずに、ただひたすら砕かれ散らされ撒かれてしまう。

 

 この間、数秒。たったその数秒で、サクラは精鋭兵を──フィーリア曰く、人類の脅威として立ちはだかった先の三つの『厄災』すらも凌駕する、化け物の中の化け物たるその精鋭兵たちを、彼女は千体倒してみせた。だが、それでもなお魔石の精鋭兵たちは数多く残っている。

 

 刀を鞘に納刀したサクラが、不意にその場を軽く蹴る。刹那、その場から彼女の姿が掻き消えて、それと同時に彼女の視線の先に立っていた精鋭兵たちが次々と粉砕されていく。

 

 先程姿を消したサクラは、既に精鋭兵の群れの中に立っていた。鞘から抜かれた刀を、彼女はスッと僅かばかりに揺らす。直後──地面が爆ぜたように割れ砕け、そこに立っていた精鋭兵たちは何の抵抗も許されず宙へ高く打ち上げられ、そしてやはり砕け散った。

 

 瞬きをする間に、面白いように精鋭兵の数が減っていく。もしこれが人間であったら今この場は凄惨極まる地獄絵図を描き、辛うじて生き残った者たちは皆こぞって武器も尊厳も投げ捨て、外聞もなく惨めに命乞いをしたことだろう。

 

 だが、それはあくまでも個々の意思を持つ人間であればの話。今サクラが薙ぎ払っている相手はフィーリアの────『理遠悠神』アルカディアの私兵。謂わば使い捨ての駒だ。当然駒に意思などなく、ただ主に命じられたままに動くだけ。

 

 だからここまで圧倒的な差をまざまざと見せつけられても、魔石の精鋭兵は退かない。逃げ出さない。

 

「……」

 

 散乱する残骸を踏みつけて、こちらに迫る精鋭兵をサクラは眺める。その顔は、何処か哀しそうだった。ゆっくりと、彼女が刀を振り上げる。そして一息に宙を薙いだ。

 

 一拍遅れて、サクラに迫っていた精鋭兵たちの上半身が宙を飛び、舞う。そしてその全てが、やはり儚く砕け散る。

 

 またも一拍遅れて、地面に残された下半身も次々と砕けていく。と、その中から一際俊敏な影が一つ飛び出し、サクラとの距離を一瞬で詰めた。

 

 言わずもがな、精鋭兵である。ただ今までとは違ってその一体はより一層全身が刺々しく、まるで鋭利な刃を想起させた。その精鋭兵の刃がサクラの顔面に風穴を穿たんと迫る。が。

 

 その刃の切先を、サクラの指先が優しげに摘む。そして────思い切り地面に向かって叩きつけた。

 

 叩きつけられた精鋭兵は一溜まりもなく爆発四散し、それだけに留まらずその下にあった魔石も爆ぜ砕け、さらに覆われていた地面すらも陥没してしまった。

 

 その一部始終を見届けたサクラは、何とも言えない表情を浮かべる。そんな彼女に対して、まだ残っている魔石の精鋭兵たちは一斉に襲いかかる。

 

 普通であれば対応不可避な包囲襲撃────だがしかし、それでもなおサクラの顔色は少しも変わらなかった。

 

「……終わらせるか」

 

 そう呟くや否や、サクラは今さっき納刀したばかりの刀の柄に手をかける。そして握り込み────僅かばかり抜刀してみせた。

 

 瞬間、すぐそこまで迫っていた精鋭兵たちが一瞬にして細切れにされ、宙に霧散していく。サクラを取り囲んでいた精鋭兵たちが、凄まじい勢いでバラバラに刻まれていく。

 

 その間、サクラは柄を握り、僅かに刀身を見せながら中心に立っているだけだった。だというのに、為す術もなく精鋭兵たちは粉微塵と化し、何もできず散っていく。

 

 

 

 そして数秒後────気がつけば、もうサクラの周りには身動き一つとしない、大量の薄青い魔石の残骸らしきものが転がるだけとなっていた。

 

 

 

「……」

 

 チン──刀を鞘に納刀し、サクラは己の周囲に視界を配らせる。先程も言った通り、もはや既に彼女以外に身動きを取る影は、一つもない。

 

 少し遅れて、散々なまでに荒れた円形闘技場内で乾いた拍手がゆっくりとしたリズムで響き渡った。

 

『本当に流石ですね、サクラさん。出来損ないとはいえ、先の三つの『厄災』を超える私自慢の精鋭兵たちが、それも一万という数を用意したというのに、こうもいとも容易く数分で全滅させられるなんて。いやあ全くもうこっちはびっくりですよ』

 

 拍手が止み、今度はフィーリアの声が円形闘技場に反響する。言葉でこそ驚いたという彼女であったが、その声音は至って平然としていた。

 

『でもまあ、ほんの合間の余興としては充分過ぎるくらいに楽しい見世物でした。さてさて『極剣聖』様。勝手口はあちらでございます。その先の先で、私は首を長くして待ってますからね』

 

 言って、サクラの視界の先。聳え立つ壁に突如亀裂が走り、次の瞬間音を立てて崩壊していく。轟音を伴い露出したのは、果てが見えぬ螺旋階段だった。

 

「……」

 

 サクラが歩き出し、ある程度にまで進んだその時。壁の一部であった残骸が一瞬輝いて、ドロリとそれら全部が溶けて混ざる。そしてドロドロと蠢いていたかと思えば不意に中心から巨大な柱が飛び出し、その柱に液体が纏わりつく。

 

 一瞬にしてその柱が液体に包まれ、かと思えばすぐに弾けて吹き飛ぶ。そこに現れたのは、魔石の巨人だった。サクラの身長を容易く遥かに越す巨人が、ゆっくりとその拳を振り上げる。

 

 サクラといえば、全く何も気にした様子もなく進んでおり、そんな彼女に向かって巨人が振り上げた拳を振り下ろす。風鳴り音を響かせながら、拳がサクラに迫る。

 

 と、そこで不意にサクラが刀を抜く。そしてその切先を迫る巨人の拳に向けた────瞬間。

 

 

 

 バゴォォォオオオオンッッッ──巨人の拳が爆発を起こしたように砕け散って、その奥にあった上半身も丸ごと消し飛んだ。

 

 

 

「……君らしくないな」

 

 遅れて崩壊を始め、落下する残骸の中を進みながら、刀を鞘に納めサクラはぽつりと呟いた。



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ARKADIA────その想い

 円形闘技場(コロシアム)を切り抜けたサクラは、螺旋階段を上がっていた。最初に見た通り果てしなく続いており、サクラが数分駆けてもなお終わりが見えてこない。

 

「……」

 

『その先の先で、私は首を長くして待ってますからね』

 

 果ての見えぬ螺旋階段を、何の比喩でもなく疾風の如く駆け上りながら、サクラはその言葉を静かに、脳裏に過ぎらせていた。

 

 ──フィーリア。やはり、君は……。

 

 塔への門の時にも、そして先程の時も。他人からすれば普段通りに聞こえていたフィーリアの声だったが、しかしサクラにはわかっていた。そして恐らくこの場にいればクラハにも、ラグナにも。

 

 今となっては結構な付き合いとなった三人ならばわかる。今のフィーリアは、確実に────

 

「……む」

 

 ────その時、この果ての見えぬ螺旋階段の終わりが、ようやっと見えた。そのことにサクラの思考が半ば無理矢理断ち切られる。

 

 螺旋階段の先──そこで広がっていたのは、一体どういう造りなのか検討もつかない、明らかに物理的に不可能な大広間(ホール)であった。さらに、比較的身長が高めなクラハよりも頭一つ分より高いサクラを優に超える、過剰と思える程に巨大で、だがそれに見合わぬくらいに質素(シンプル)な扉が構えていた。

 

 そしてその扉の前には────二つの人影が立っている。その佇まいは、さながら扉を守護する番人のようである。

 

「……君たちは」

 

 二人の番人について、サクラには覚えがあった。……ただ、彼女にある記憶の中と、今の姿には多少の違いがあった。

 

 一人は腰に剣を下げた、漆黒の外套を身に包んだ仮面の者。顔を隠すその仮面の右側が、薄青い魔石でびっしりと覆われている。

 

 一人は燕尾服を着た長身の優男。ただし微笑んだけで街行く女性の殆どを虜にしてしまうだろう顔の左側は、薄青い魔石によって覆われその魅力を損なってしまっていた。

 

 その二人を見つめ、サクラはスッと瞳を細める。そして静かにため息を一つ吐いた。

 

「私も、退く訳にはいかないのだがな」

 

 サクラが零したその一言が合図だったかのように、佇むだけだった仮面の剣士が動きを見せる。ややぎこちなく右腕を震わせたかと思えば、それがまるで嘘だったかのように瞬時に剣を鞘から抜き、俊敏にその場を蹴る。

 

 刹那、サクラの眼前には鋭き切先が広がり。けれどその切先が彼女の瞳を突くことは叶わなかった。

 

 切先がもはや誰もいない虚空を貫く。それを追うかのようにして、魔石の床に薄青い魔石が走る。その場から跳び去ったサクラの目には、その魔石群がいくつにも連なった、無数の鋭利な剣身のように見えていた。

 

 およそ人類には到底見切ることなど不可能な突きを躱された仮面の剣士が、今度はその場で素早く剣──遠目から見れば魔石をただ粗く削った、しかし切先だけは異様なまでに鋭い無骨な棒──を振るう。

 

 直後、続くように連なる魔石群がサクラを狙って無数に駆ける。その速度は人の視力などで到底捉え切れるものではなかったが、サクラからすればそう大したことはない。宙で体勢を整え刀の柄を握る────そのすぐであった。

 

「?」

 

 空いていたサクラの左手が、突如として何かを指で摘み止める。視線だけやれば、サクラの指は一本のナイフを摘んでいた。銀製の、恐らく食事用のナイフ。続けて視線を動かすと、その先には腕を振りかぶった姿勢の、あの燕尾服の優男がいた。

 

 透かさずサクラの目前にまで魔石群が迫る。もし呑み込まれでもしたら、人体など即座に細切れの肉片と化すだろう。

 

 だがサクラはあくまでも冷静に、得物を鞘から抜刀。刹那、彼女のすぐ目の前にまで迫っていた魔石群の全てが残らず散り散りに吹き飛んだ。

 

 刀を構えたサクラの元に、仮面の剣士が迫る。その接近に対応しようとした矢先、サクラの左手が細かく動く。視線だけをまたやれば、彼女の左手は器用にも数本の銀ナイフを掴み取っていた。

 

「……すまないが、私に飛び道具の類は通じないぞ」

 

 いつの間にかある程度距離を詰めていた優男に対して、自分でも届くかどうかわからない言葉をサクラは告げる。そんな彼女に、仮面の剣士が斬りかかる。

 

 ギィィン──鉄の刀と魔石の剣、材質の異なる二つの刃が衝突し、その間に黄色と青色の火花を咲かせた。

 

「……!」

 

 仮面の剣士の一撃を受けたサクラの瞳が見開く。それから何かを察したかのようにスッと細めて、彼女は隙だらけとなっていた剣士の胴に一発の蹴りを入れる。

 

 側から見ればそう大した威力はないだろうその蹴撃。しかしそれはあくまでも見た目だけで、生半可な者ではそれだけで再起不能にされる程の、強烈な威力をそこに宿していた。事実、人ならざる存在(モノ)であるはずの仮面の剣士は為す術もなく、そのまま蹴飛ばされてしまった。

 

 仮面の剣士との間合いを強引に離したサクラの元に、今度は燕尾服の優男が迫り来る。優男は彼女の距離をより詰めると同時に、数本の銀ナイフを投擲する。

 

 宙を裂きながら己に飛来する銀ナイフを、サクラは実に落ち着いた様子で眺め、そして徐にまだ左手に持っていた銀ナイフを投擲した。

 

 優男が投擲した銀ナイフと、今し方サクラが投擲した銀ナイフ。その二つの射線は全く同時に重なっており、刹那にもその切先同士が衝突を起こし、そして両方とも粉々に砕け散った。

 

 まさに神業──しかし、燕尾服の優男は臆することなく、続け様に次々と銀ナイフを投擲する。そのどれもが様々な方向から、だが確実にサクラを狙っている。

 

 サクラもまだ手元に残っていた銀ナイフを投擲し、前方から飛来するものを砕く。だがまだ多くの銀ナイフが彼女に迫っていた。

 

 無数の銀ナイフがサクラの身体に突き刺さる────直前、サクラがその場で刀を振るった。言うなれば、それはただの素振りである。

 

 だがサクラはそのただの素振りだけで、己が周囲に暴風を起こしてみせた。彼女に向かっていた銀ナイフの全てが巻き上げられ、彼方へと飛ばされてしまった。

 

 けれど、それでも燕尾服の優男の戦意が削がれることはなく。今度は唐突に魔石の床に手を叩きつける。バンと音が張ると同時に、そこを起点として影が広がり、無数の触手のように蠢き飛び出した。

 

 影の触手がサクラが立っていた場所に突き刺さる。当の彼女といえば、既に宙にいた。影の触手は群を成して、凄まじい速度と勢いで追跡を仕掛ける。

 

 宙に浮くサクラは無防備──されど、影の触手群は彼女を捉えることができない。絡め取ろうしても、サクラはそれを紙一重で全てを躱してみせる。

 

 躱しながら、サクラが燕尾服の優男との距離を詰める。刀を構えた彼女の様子に、これでは埒が明かないと判断したのか、不意に手に持っていた一本のナイフを振るう。瞬間、サクラを囲っていた影の触手群が優男の元へ戻り────その全てが、ナイフに集中した。

 

 燕尾服の優男の手に握られているのは、もはや銀の食器(テーブル)ナイフなどではなかった。言うなれば、それは漆黒の細き刃を持つ、一振りの刺突剣(レイピア)。優男がその刺突剣を構え、その姿を見たサクラは口を開く。

 

「……上等ッ!」

 

 その瞬間、サクラの背後から五本の魔石の柱が、彼女を包み込むように襲い来る。が、サクラがクルンと宙で回転したとほぼ同時に、それら全てが平等に砕かれる。

 

 柱を砕き、サクラが視線を地上に戻す。だが、そこにはもう誰もいない。即座に前方に顔を上げれば、刺突剣を構える燕尾服の優男が目の前にいた。

 

 サクラと優男。互いに得物を構えた両者が、宙の中で交差する。二人の姿が重なった、その瞬間。

 

 

 

 キンッ──そんな音だけが、妙に静かに響いた。

 

 

 

 直後、宙にいる優男の肩から鮮血が噴き出し、姿勢が崩れる。握っていた刺突剣が手元から滑り落ちて、その刃が真っ二つに折れた。

 

 一方で着地したサクラの元に、彼女に遠方まで蹴飛ばされた仮面の剣士が迫り、その手に握った魔石の剣を振るう。瞬間、刃の如き魔石が連なってサクラを襲う。

 

 目前にまで押し寄せる魔石群に向かって、サクラが刀で宙を薙ぐ。たったそれだけの動作で、彼女に押し寄せていた魔石群の全てが吹き飛ばされる。が、その影に隠れていた剣士がサクラに斬りかかる。

 

 サクラの刀と仮面の剣士の剣が衝突し、再度黄と青の火花を散らす。それも一度のみならず、何度も、幾重にも。

 

 数十にも及ぶ、人域を逸した斬り合いの末──先に退がったのは仮面の剣士の方であった。自らサクラとの距離を離した剣士のすぐ側に、一本の魔石の柱が突き立つ。

 

 突如として突き立ったその柱に、仮面の剣士が己の得物たる魔石の剣を突き刺す。瞬間、柱から薄青い光が溢れて輝き出し────そして静かに崩れ落ちた。

 

「……ほう」

 

 それ(・・)を目の当たりにしたサクラが、思わず感嘆の息を漏らす。……否、刀剣を得物にし生きる存在(モノ)であれば、そうせざるを得なかっただろう。

 

 崩れた柱の中から現れたのは、もう無骨な魔石の棒などではない。それとは正反対の、精錬され何処までも鋭く、ただただ鋭く研ぎ澄まされた、正しく至高にして最高の一振りと評するに相応しい(つるぎ)がそこにあったのだ。

 

 真の姿を晒したその剣を、仮面の剣士がゆっくりと構える。対するサクラは刀を────今一度、鞘に納めた。

 

「その覚悟、確と見届けた」

 

 言って、サクラもまたその場で構えを取った。両者互いに見合い、そして。

 

 

 

 

 

 ダンッ──仮面の剣士が大広間(ホール)の石床を蹴った。

 

 

 

 

 

「……」

 

 サクラの背後で、仮面の剣士が剣を振り下ろした姿勢のまま静止していた。サクラもまた同じように、鞘に納めた刀の柄を握ったままその場で静止している。そうして数秒が過ぎて────ピシリと、剣士が未だ振り下ろしているままの剣に、亀裂が走った。

 

 亀裂は瞬く間に剣身全体に広がり、そして硝子(ガラス)のように儚く砕け散る。落下する破片と欠片が薄青い魔力の粒子となって宙に霧散する途中で、保たれていた仮面の剣士の姿勢も崩れ、膝が石床を突く。

 

 サクラは、苦い表情をその顔に浮かべ、仮面の剣士の方へと振り向く。その背中は陽炎のように揺らぎ、薄らぎ──消えかけていた。

 

「…………貴女に、託します」

 

 それは、救いを乞う声だった。それは助けを求める言葉だった。短い末路の、そんな一言だけを残して。気がつけば、仮面の剣士の姿はサクラの視界から消え失せていた。

 

「……」

 

 スッと瞳を細め、サクラは再度背後を振り返る。彼女の視線の先──宙で一足先に斬られた燕尾服の優男が、石床に伏しながらも、こちらを見上げていた。……だが、彼の身体もまた、半分以上が魔力の粒子に戻り、そして消えかけている。

 

 剣士とは打って変わり、優男はサクラに対し何も言葉を伝えることはなかった。ただその顔に、半分魔石に覆われたその顔に酷く優しげな微笑みだけを浮かべて────やはり、サクラの視界から消え失せた。

 

「……受け取ったぞ、その想い」

 

 それだけ言って、サクラは固く閉ざされていた大扉の方へ顔を向ける。大扉は、いつの間にか開け放たれていた。

 

 一切先の見えぬ闇を見つめ、サクラは歩き出す。歩きながら、ぽつりと彼女は呟く。

 

「フィーリア。今、会いに行く」

 

 そしてサクラは────闇に溶け、沈み、消えた。



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ARKADIA────残景追想(その終──前編)

「なるほど、なるほど。こうなったか。こうなって、しまったか」

 

 知らない声だった。聞いたことのない声音だった。それに釣られて、いつの間にか閉じてしまっていた瞼を開こうとして、けれど妙に重く気怠く、思うように力が入らない。

 

 そのことに困惑していると、またすぐ前の方から声が聞こえてくる。

 

「それにしても……ふーん。へえ」

 

 果たして男なのか、女なのか。そのどちらともつかないような、そんな曖昧な声色。その発声源たる主は何やら興味深そうに呟いて、こう続ける。

 

「確かにそっくりだ。鏡合わせの瓜二つだ。けれど、まさか本当に乗ってくるとは思わなかったなぁ」

 

 ……その発言の意味はわからない。だけど、そこに込められているのが────憐れみであることはわかった。

 

「こちらとしては、八割程の些細な冗談のつもりで言ったんだけど……あの御方も人が悪い……いや、人ではない(・・・・)か」

 

 理解などできない内容の言葉を連ねて、その声の主は言う。こちらに語りかけてくる。

 

「こうなってしまった以上、君の運命はほぼほぼ決まってしまったようなものだ。辛く、酷く、惨い絶望が待ち受けていることだろう。果たして其処に未来はあるのだろうか。……けれど、だからこそ────祈ろう。願おう」

 

 そして最後に、告げる。

 

「いつか、いつの日か。その刻が()たのなら。どんなに些末でも、微小でも、僅かなものでも。大したことなどなくても。先の先、最果ての先で傷を負い傷に塗れ、その末に倒れた君に。温かな手を差し伸べられることを祈ろう。希望で溢れる未来が贈られることを願おう」

 

 憐れみで満たされた、その言葉を。哀しみで満ちたその声音を。聞いて、聴いて。瞬間、あれ程重い瞼が、今になってパッと開かれた。

 

 暗闇から解放された視界に、映り込んだのは──────真白の、髪だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ん……?」

 

 頬に硬い感触が広がって、唐突に意識が醒める。重く、気怠い身体を無理矢理起こしてみれば。今、自分が外にいることに気づいた。

 

 記憶がない。上手く思い出せない。頭が働かず、思考が鈍っている。それでも視界だけは無意識に泳いで──直後、ただ驚愕に意識が支配された。

 

「え……?なに、これ……?」

 

 それは自分が知るものとは、あまりにもかけ離れていた。言うなればそれは────薄青い、魔石の塔であった。そして気づく。自分のすぐ隣で、誰かが倒れていることに。そこに視線をやって、またもや驚愕に叫んだ。

 

「おかあさん!?おかあさん!!」

 

 自分のすぐ隣で倒れていたのは、母──アルヴァ=レリウ=クロミア。それも、全身から夥しい程の流血をしている姿で。

 

 こうしている間にも広がる血溜まりの中で、沈むアルヴァの傍に慌てて寄り添い、混乱と困惑に囚われたままに、その身体を揺すぶる。そうすることで、よりアルヴァから血が抜け、己の両手が赤く染まっていくことにも気づけずに。

 

「いや、いや……」

 

 広がる赤がやけに鮮烈に見えて。やがて何も考えられなくなって。頭の中も白く染まって、けれどそれに反して目の前が徐々に真っ暗になって────そして。

 

 

 

 

 

「いやぁあああぁああぁああああぁぁぁっ!!!」

 

 

 

 

 

 堪らず、心の底から絞り出すように──────フィーリアは張り裂ける感情のまま叫んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論だけ先に述べてしまえば、アルヴァは奇跡的にもなんとか一命を取り留めることができた。あの後、『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の塔にて異変が起きたことを察知した『輝牙の獅子(クリアレオ)』の冒険者(ランカー)たちが駆けつけてくれたのだ。

 

 マジリカの病院へ運び込まれたアルヴァだったが、その命自体はどうにか留めたのだが、肝心の意識が戻ることはなかった。曰く、意識がいつ戻るかは検討もつかず、もしかするとこのまま一生、意識が戻らない可能性もあるらしい。

 

 自分たちにできることは、ただ信じて待つだけだと、『輝牙の獅子』の者たちも、そしてフィーリアもそう聞かされた。以来様々で数々の者がその瞳を閉ざしたままのアルヴァの元に訪れたが、それも時が過ぎて──一年が経とうとする頃には、誰もいなくなっていた。……ただ一人を除いて。

 

 アルヴァが昏睡状態に陥った日から今日に至るまで、最後まで彼女の傍にいたのはフィーリアだけだった。当然と言えば当然のことなのかもしれないが、誰も彼もがアルヴァが再度その瞳を開くことを諦めてしまう中、フィーリアだけが最後の最後まで、ただ信じて待っていた。

 

 何度も声をかけた。幾重も言葉を贈った。しかし閉ざした瞳は僅かばかりにも開かず、だがそれでもフィーリアはアルヴァが寝台(ベッド)から起き上がるのを信じ、待ち続けた。

 

 たとえ、アルヴァが長き眠りに落ちたあの日から、己を取り巻く環境と状況が、最悪に一変してしまったとしても。

 

 

 

 

 

 あの後保護されたフィーリアは、当然の如く矢継ぎ早に質問を浴びせられた。『創造主神の聖遺物』の塔があんな状態なのか。何故自分があの場にいたのか。そもそも、一体何があってアルヴァはあそこまでの重傷を負っていたのか。

 

 ……だが、そのどれに対しても、フィーリアは答えを返さなかった。……否、返せなかったのだ。何故なら彼女には────それらに関する記憶の一切を、失ってしまっていたのだから。

 

 フィーリアが覚えていたのは、あの日自分は家にいたことと、ジョシュアもいたこと。……そして、突如として黒衣を身に纏った男──ヴィクターが来訪してきたこと。

 

 家に押し入るや否や狼狽えるジョシュアを殴り飛ばし、すぐさま自分に迫ったこと。そんなヴィクターから堪らず逃げ出そうとした────そこまでなら、辛うじて思い出すことができる。……できたが、フィーリアがそれを口に出すことなどは、できなかった。

 

 何故ならば──怖かったから。ただ堪らなくどうしようもなく、怖かったから。

 

 だからこそ、フィーリアはその口を閉ざしたままでいるしかなかった。今はただ、アルヴァと────母と話がしたい。あの時本当に怖かったと、抱きつきたかった。

 

 ……しかし、そんなフィーリアの態度が、余計に彼女に対する疑心(・・)をより高める結果となってしまったのだ。

 

「ねえ、フィーリアちゃん?」

 

 誰も彼もがフィーリアに無遠慮に質問を投げつける中、ただ純粋に彼女の身を案じた者──『輝牙の獅子(クリアレオ)』の受付嬢であり、まだ新人ながらもアルヴァの厚い信頼を受けているリズティア=パラリリスが、その声に確かな不安と心配を滲ませながら、フィーリアに訊いた。

 

「その……目と顔は、どうしたの?」

 

 そのリズティアの言葉の意味を、フィーリアは理解できなかった。理解できず呆けていると、私物なのだろう小さな手鏡を彼女から渡され、そこに映り込んだ自分を目の当たりにして────一瞬、思考が停止した。

 

「え……」

 

 思わず、フィーリアはそう声を漏らしてしまう。当然だろう。だって、己が知る自分と、今鏡に映る自分の顔が、あまりにもかけ離れていたのだから。

 

 別に骨格や輪郭が変わっているという訳ではない。顔つき自体は以前と変わらぬまま──違うのは、リズティアの言う通り瞳と、そして顔ではなく正確に言えば肌であった。

 

 微かに震える指先を肌に這わし、曲流を描く刺青の如き薄青い線(・・・・・・・・・)を恐る恐るゆっくりなぞる。その感触は何処までも酷く滑らかで、凹凸など微塵も感じはしない。

 

 その事実に見開いた瞳すらも、もはや既知のものではない。以前までは肩に軽く触れる程度にまで伸びたこの髪と同様、真白に近い色だった。

 

 しかし鏡に映る自分の瞳は、まるで別物。そもそも左右で色が違う(・・・・・・・)

 

 右の瞳は、虹だった。そうとしか表現する他ない、七色が複雑に絡み、混ざり合いながら輝いていた。

 

 左の瞳は、灰だった。透き通った、だが白とは言えない灰色。こちらには輝きなど一切なくて、人の温かみがまるで感じられない。

 

 同じ顔なのに。今まで通りと何も変わらない、己の顔であるはずなのに。だがその手鏡に映る肌の線と、瞳がそれを否定する。

 

「……しら、ない。こんなの、わたししらないっ……」

 

 そう、フィーリアは。

 

「しらないよぉ……っ!」

 

 異質極まる両の瞳から涙を零し、怯えて震える声を漏らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の塔に関する異変も、そして自身の異変についても何も知らないフィーリアの身柄は、ひとまず『輝牙の獅子(クリアレオ)』の面々が保護することになった。……単に保護と言っても、かなり特殊な事例(ケース)になってしまったが。

 

 最初にまだ幼いフィーリアを誰かが、アルヴァの意識が戻るまで預かろうと提案されたのだが、フィーリアはこれを拒否した。

 

 他人に迷惑をかけたくないと、フィーリアは冒険者組合(ギルド)の全員に話したが……本当は違った。ただ、やはり────怖かったのだ。恐ろしかったのだ。

 

 あの場にいたこと。アルヴァが死にかけていたこと。そして、自分の異変。何故ああなっていたのか、何故こうなったのか。その全てが未だわからないフィーリアにとって、もはや己以外が──否、己すらも恐怖の対象となっていた。……母たるアルヴァと、彼女の傷つき砕かれかけた心を支えたジョシュアの二人を除いて。

 

 ジョシュア。とある事情により、魔法の使用に制限をかけられたアルヴァを、親身になって懸命に支えた彼女の専属医。

 

 アルヴァがあの状態になってしまった今────もう、フィーリアが頼れるのはジョシュアただ一人だけだった。彼ならば、きっとどうにかしてくれる。おかあさん(アルヴァ)を助けてくれる────そう、フィーリアは真っ先に思った。……思って、いた。

 

 

 

 だが現実は、辛く酷く、理不尽であると思い知らされた。

 

 

 

「……え?」

 

 最初、フィーリアは返された言葉を理解できなかった。受け止められなかった。

 

 当然だ。何故ならば、

 

「ジョシュア……?そんな人、この街にはいないはずよ(・・・・・・)。それにGM(ギルドマスター)に専属医がいるなんて話、初めて(・・・)聞いたんだけど……」

 

 現時点で頼れるジョシュアの所在を尋ねたら、リズティアからそんな返事をされたのだから。

 

 彼女以外の誰に尋ねても、皆同じような返事であった。そう、フィーリア以外の誰もが────ジョシュアという人物の記憶を、失っていたのだ。

 

 ──なんで?どうして……?

 

 それも記憶だけではなかった。ジョシュアに関する記録も、その全てがまるで嘘だったかのように消失していた。彼の存在自体が、消されていた。その事実はフィーリアを一層恐怖に駆らせ、そして今や自分は孤独なのだと、現実を無慈悲に突きつけられた。

 

 もう訳がわからない。何もわからない。全てが、何もかもが。頭の中がグチャグチャで、けれどそれを誰に相談することもできなくて、打ち明けられなくて。

 

「……おかあさん」

 

 陽が傾き、空と同じ茜に染められる病室で。握り返すことのない手を小さい両手で包みながら、フィーリアは寝台(ベッド)のアルヴァに呼びかける──────返事は、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼いながらも、フィーリアは存外しっかりした子だった。流石に日中は『輝牙の獅子(クリアレオ)』やアルヴァが静かに眠る病室にいたが、それ以外はきちんとアルヴァの自宅で過ごしていた。

 

 誰かの世話になることを拒んだフィーリアが一人暮らしをすることになるのは必然的で、しかし当然それに反対する者もいた。アルヴァとジョシュアの次に付き合いが長いリズティアや、アルヴァと親しい間柄にいた者たちだ。

 

 だが、フィーリアは年齢に反して大半の家事をこなしており、またアルヴァが念の為にと銀行(バンク)には預けず、直接金庫に預けた貯金もあり、その額も普通の生活を送る分には当面問題なかった。

 

 そのこともあってか、次第にリズティアたちも無理にフィーリアに言葉をかけず、いつしか見守るだけとなっていた。まあ、日中の間は『輝牙の獅子』や病院にいるので、そういう点も含めて特に問題はなかったのだ。

 

 だがリズティアたちとて、疑問を感じられずにはいられなかった。何故ああも頑なにフィーリアは誰の世話になることを拒否するのか。その理由を彼女たちは知らない。何度かそれを訊ねたが、やはりというかフィーリアが答えることはなかった。

 

 当然である。何を隠そうその理由こそが、フィーリアの恐怖そのものだったのだから。

 

 

 

 

 

 発端はアルヴァが昏睡に陥り、数日が経過した時のこと。まだ、フィーリアが寝台(ベッド)の元から離れられないでいた時のことだ。

 

「……ん」

 

 アルヴァの見舞いを始めたばかりのフィーリアは、面会が許される時間のギリギリまで、彼女の傍にいた。およそ人のものでない、魔眼が如き虹と灰の瞳に心配と不安を満たしながら。

 

 だが、未だ慣れない生活に自分でも気づかない内にストレスと疲れを感じていたようで、その日フィーリアは寝台に寄りかかって寝てしまい、夜を明かしてしまった。

 

 ──あ、さ……?

 

 閉められたカーテンの、僅かばかりの隙間から差し込む日差しを浴びながら、フィーリアはゆっくりと上半身を起こす。少しばかり無理な姿勢で寝ていたせいか、背中と腰が痛い。

 

「……おはよう、おかあさん」

 

 そう言葉をかけるが、返事はない。静かに眠るアルヴァの顔を見やって、ふと何をするでなくフィーリアが視線を流す──その瞬間であった。

 

「……え……?」

 

 それ(・・)は、明らかに不自然で、異物そのもの。昨日までには絶対になかったもの。

 

 フィーリアが寄りかかっていた場所に────小さな薄青い魔石が生えていた。日差しに照らされることなく、自ずと発光しているその魔石から、フィーリアは視線を逸らすことができない。目を離せない。と、その時。

 

「いっ、っう……!?」

 

 まるで突き刺すかのような鋭い痛みが喉に走り、堪らずフィーリアがその場にしゃがみ込み、口元を手で押さえて咳き込んでしまう。数回程繰り返して、落ち着いた彼女はまた立ち上がる。

 

 そして無意識に口元にやっていた手を見やって、固まった。

 

 フィーリアの手は、血に染まっていた。喉を傷つけたのか、彼女は吐血したのだ。……だが、それだけではない。

 

 真っ赤な血に濡れて染まった、魔石の欠片が乗っていた。

 

「……こ、れ……わたしの、くちから……?」

 

 そのあまりにも悍ましい、眼下の事実と現実を認識し、理解した瞬間。一気に腹の奥底から込み上げてくるものを感じて、堪らずフィーリアは血のついた薄青い魔石の欠片を放り、血塗れの手で再度口元を押さえ慌ててその場から駆け出し、病室を後にする。

 

 そして運良くすぐ近くに見えたトイレに駆け込み、個室に飛び込んで鍵をかけるどころか扉も開けっ放しのまま、便器の蓋を片手で乱暴に上げ、顔を突っ込んだ。

 

「ぉうえぇぇぇっ……!」

 

 もう堪える必要もなくなり、フィーリアは胃の内容物を存分に便器の水へと吐き戻す。とはいえ、彼女の喉を通るのは血が混じった胃液が殆どであったが。

 

「はあ……はぁ……っ」

 

 フィーリアの吐き気が治まるには、数分を要した。その間彼女はずっと便器に顔を突っ込んだままで、しかし時間帯もあってか他に人が訪れることはなかった。

 

 体力を消耗したフィーリアは、息を荒げて座り込み、個室を仕切る壁に力なくもたれかかる。もう何も考えることができず、彼女は虚ろな表情を浮かべて、ただ呆然とする他ないでいた。

 

 それからまた数分が経って、フィーリアは立ち上がり、トイレの水栓レバーを上げ、薄らと赤くなった水を流す。そしてまだおぼつかない足取りのまま、ゆっくりと個室から出るのだった。

 

 フィーリアがアルヴァの病室に戻ることはなかった。彼女はトイレを後にすると、逃げるかのようにそのままアルヴァの自宅へと戻ったのだ。その理由はもちろん、今朝の出来事のせいである。

 

 もう、フィーリアの精神状態は限界間際だった。肌に走る線と、異質に尽きる虹と灰の瞳。そして極めつけはあの薄青い魔石。血に汚れたあの欠片が、いつまで経っても瞼の裏に焼き付いて離れない。離れてくれない。

 

「……わたし、は」

 

 壁に寄りかかって、フィーリアはどうしようもなく震える声で呟く。数日前から何もかもが彼女を追い詰め、そして今壊さんとしている。

 

 一体何が自分の身に起こっているのか、何故こんなことになってしまったのか。その原因は、始まりは全て────あの日だ。アルヴァ(おかあさん)が昏睡した日からだ。

 

 だが、どれだけ頭の中を巡り回っても、やはり何も思い出せない。どうしてあの日自分はアルヴァの隣で倒れていたのか、どうしてもわからない。

 

 ──こわい。

 

 もはやフィーリアの胸の内はそれで一杯だった。恐怖という恐怖が心を埋め尽くし、侵し、そして犯す。

 

 それでも、フィーリアはなんとか堪える。己の大事で大切な、唯一の存在を狭まった心の中に浮かべ、ギリギリで留まる。

 

 そんな中────ふと、フィーリアの視界が捉えた。

 

「……あ」

 

 気がつけば、すぐ近くの眼下に、あの小さな薄青い魔石があった。

 

 その日から────フィーリアは人と関わるのを最小限にまで控え、そして極度に拒むようになった。

 

 

 

 

 

 

 それこそがフィーリアが誰の家にも世話にならず、独りアルヴァの自宅にいる理由。話すことなど到底できない、絶対に話したくない理由だ。

 

 一体自分はどうしてしまったのだろうか──それがどうしても知りたいと同時に、どうしても知りたくない(・・・・・・)。だって万が一にもそれを知ってしまったら、もし決して認めたくない、受け入れたくない事実を突きつけられたら────恐らく、その瞬間フィーリアは限界に達する。その確信が、彼女にはあった。

 

 そんな相反する矛盾の意思を抱くフィーリアであったが、それも運命の悪戯か────彼女自身、予期せぬ形で真実を知ることになる。



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ARKADIA────残景追想(その終──中編)

 それはアルヴァが昏睡してから二週間が過ぎた頃。その日フィーリアはGM(ギルドマスター)不在の冒険者組合(ギルド)、『輝牙の獅子(クリアレオ)』にいた。

 

 GM不在の中、それでも『輝牙の獅子』所属の冒険者(ランカー)たちは日常(いつも)と変わらず、それぞれに動いていた。依頼(クエスト)の受注に、各々の装備確認、チームの面子(メンバー)確認と編成──だが、それは側から見れば誤魔化しのようにも思えた。

 

 GM、アルヴァ=レリウ=クロミア。頼りになる彼女が今ここにはいないという事実と現実は、少なからず冒険者たちに不安を与えている。だがそれでも彼らが日常を演じるのは、他でもないアルヴァの為だ。

 

 (アタシ)がいなくなった程度でビビってんじゃないよ────辛気臭い雰囲気を誰よりも嫌うアルヴァがいかにも言いそうな台詞を、この場にいる誰もが心に思い浮かべ、それを支えと糧にして日々過ごしている。そんな者たちを、フィーリアは受付の方から遠目に眺めていた。

 

 ──……。

 

 向けるその眼差しに嘗ての明るさはなく、また放たれていた天真爛漫な雰囲気も、今や影に潜み、隠れてしまっていた。

 

「ねえ、フィーリアちゃん」

 

 と、そんな様子のフィーリアの元に一人の女性──『輝牙の獅子(クリアレオ)』の受付嬢たるリズティア=パラリリスがゆっくりと歩み寄る。その手には、グラスコップが握られており、その中を橙色の液体が満たしていた。

 

黄陽実(サナサ)果実水(ジュース)なんだけど、飲む……かな?」

 

 言いながら、リズティアはその手に持つコップをフィーリアに差し出す。が、フィーリアはチラリと視線をやったものの、小さく首を横に振った。

 

「……すみません。だいじょうぶです」

 

「そ、そう。わかったわ」

 

 申し訳なさそうに断ったフィーリアに対して、リズティアは気の良い笑顔で以てそう返す。……けれどその内心では、複雑な感情を抱いていた。

 

 ──フィーリアちゃん……前までは明るくて元気な子だったのに、な。

 

 我が『輝牙の獅子』GM、アルヴァが倒れてから二週間。たったそれだけの期間で、フィーリアの性格はまるで変わってしまった。それがリズティアの心に負い目を感じさせると同時に、如何にアルヴァ=レリウ=クロミアという存在が、今目の前に座る幼い少女にとって大きな心の支えで、そして拠り所であったかを改めて痛感させられた。

 

 何も別にリズティアはアルヴァの代わりになりたいなどとは思っていない。誰かが誰かの代わりになど、なれるものではない。その想いの在り方は傲慢──ただの自己満足だ。

 

 ただ、安堵してほしかった。自分は独りぼっちじゃない、孤独じゃない──リズティアはそう、フィーリアに思ってほしかった。少しでも彼女の不安や怯えを、拭い取りたかった。

 

 けれど、現実はこれである。

 

 ──……やっぱり、貴女じゃなきゃ駄目みたいです。だから、どうか早く……。

 

「戻って来てくださいよ、GM……」

 

 受付のカウンターにコップを置いて、そう悔しげにリズティアが呟いた、その瞬間だった。

 

 

 

 バンッ──突如、蹴破らんばかりの凄まじい勢いで、『輝牙の獅子』の扉が乱暴に開かれた。直後、一つの影が転がるように慌ただしく広間に飛び込む。

 

 

 

「な、何?」

 

 一体何事かとリズティアやフィーリア──この場にいる殆どの者が視線をやると、そこにいたのは────一人の男だった。

 

「た、大変だあっ!!は、早くなんとかしないと、この街が滅ぼされちまうぞッ!?」

 

 男は実に酷い格好であった。身に纏っている服はもはやボロ切れ同然で、まただいぶ長い間身体を清めていないのか、思わず顔を歪めてしまう程の異臭を周囲に放っている。

 

 まるで──というか浮浪者そのものの出立ちをしたその男は、酷く怯え恐慌しながら、そんな突拍子もないことを言いのけ、さらに続ける。

 

「お、俺は見たんだ見ちまったんだよこの目で、確かにはっきりと!お前ら冒険者(ランカー)だろ!?早くなんとかしろよ!で、でないと……でないとぉ!!」

 

「……貴方は」

 

 男の様子にその場にいる誰もが気圧される中、リズティアただ一人が冷静に彼を見つめ、そして気がついた。

 

 頭の中で思い起こされるのは、もはや遠い記憶。その見た目からいつしか『魔石塔』と呼ばれるようになったあの『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の塔の調査。アルヴァを筆頭とした三名の冒険者(ランカー)によって構成された護衛隊と、セトニ大陸に居を構える『世界冒険者組合(ギルド)』本部より派遣された研究者たちによって、それは行われた。

 

 しかし、この調査終了後、アルヴァと共に行動した三名の冒険者はその行方を晦ました。捜索も行われたが、発見には至らないという結果に終わり、そしてなし崩し的に捜索は打ち切られ、彼ら冒険者は死亡したものと判断された。

 

 だが、『輝牙の獅子』の面々に現れた男こそ────その行方不明となり死亡者扱いとなった、冒険者の一人だったのだ。

 

「み、見たんだ……俺は、この目で……そうだ、あいつが、あいつ……」

 

 身体をふらつかせ、血と泥に塗れ赤黒く染まった片手で顔を覆いながら、男がブツブツとそう呟き、だがその途中で止まる。

 

「……あ、ああ、ああああ!」

 

 男の恐慌具合がより一層酷く悪化し、その全身がブルブルと激しく震え出す。彼の視線の先にいたのは────椅子に座り呆然としているフィーリアの姿であった。

 

「何で!?何でッ!?何で何で何でここにいる?ここにいやがるッ?!や、止めろ止めろ止めろ!あいつだ!あいつが全部やったんだ!塔も仲間も、あの医者も!あいつがッ!!」

 

 出鱈目な言葉を滅茶苦茶に吐き散らかして、涎を振り撒き、男が指差す。無論、その先にいるのはフィーリアで。指の間から覗く、男の血走った目が、ギョロリと彼女を捉えた。

 

「ひっ……!?」

 

 堪らず恐怖で顔を歪め、身を竦めたフィーリア。そんな彼女に、男はさらに、まだ幼い少女に対してかけるにはあまりにも無遠慮で、無体な言葉を叩きつけた。

 

 

 

「この、化け物めぇえッッッ!!!」

 

 

 

 言うが早いか。恐慌状態に陥っているとは思えない程洗練された動きで男は【次元箱(ディメンション)】を開き、震えておぼつかない己の手元へ抜き身の短剣を滑らせる。その柄を握り締め、そして衝動に突き動かされるようにその場から駆け出す。

 

 あまりにも突然かつ読めない男の行動を、『輝牙の獅子(クリアレオ)』の面々は止めることができなかった。ようやく動き出す頃には数秒が経過しており、そしてその数秒で男は椅子に座るフィーリアとの距離を詰め終えていた。

 

「ふぃ、フィーリアちゃんッ!?」

 

 慌ててリズティアが前に出ようとするが、遅い。フィーリアの眼前は──既に短剣の切先で埋め尽くされていた。

 

「うわぁあああぁぁあぁああああぁああっ!」

 

 男は涎と奇声を迸らせ、振り上げた短剣を何の躊躇も迷いもなく、容赦なしに眼下のフィーリアの顔面に突き立てる────直前。

 

「こ、こないで……こないでぇえっ!」

 

 バキバキバキッ──瞬間、フィーリアの悲鳴に呼応でもしたかのように。

 

 

 

 彼女の周囲を取り囲むようにして太く分厚い、薄青い魔石の柱が何本も連なって突き立ち、そしてその内の一本が男を吹き飛ばした。

 

 

 

「ぐぶべあ゛っ」

 

 抵抗もできなかった男が宙を飛び、そのままろくに受け身も取れず壁に叩きつけられる。ゴチャ、という嫌に生々しい音を立てた後、男は床に倒れ込み、そのままピクリとも動くことはなかった。

 

 静まり返る広間(ロビー)。誰もが沈黙する中、魔石の柱に囲まれているフィーリアだけが声を漏らす。

 

「あ……」

 

 その場にいる全員が、フィーリアを見やる。無数の目が、視線が彼女に注がれる。彼女を絡め捉える。

 

 其処にあったのは、呆然──驚愕────恐怖。未知に対する、畏れ。

 

 それら全てが不躾に、幼いフィーリアの身体に刺さる。幼いその心を突き刺す。

 

「ち、ちが……ちがう、の。わたし、しらない。こん、な。こんなの……」

 

 フィーリアは震える声を懸命に絞り出し、そう告げる。だが、直後潤んだその異質な瞳から透明な雫が流れ────瞬間、フィーリアが椅子から跳び降り脱兎の如く駆け出してしまった。

 

「フィ!……フィーリア、ちゃん……」

 

 ハッと我に返ったリズティアが慌てて呼び止めようとしたが、その時既にフィーリアの小さな背中は遠く、そして『輝牙の獅子』を飛び出してしまった。伸ばしたリズティアの手が、虚しく宙を掻く。

 

 ──……届か、なかった……届けられなかった……!

 

 手をゆっくりと振り下ろし、リズティアは悔しげに顔を歪めた。

 

「すみません、GM(ギルドマスター)。やっぱり、私じゃあ……」

 

 リズティアが力なく呟くとほぼ同時に。先程まで全くの無反応だった冒険者(ランカー)の男の身体が、ビクンと跳ねた。

 

「……あ、ああ……駄目だ。どいつもこいつも、駄目なんだ。あの化け物は殺せない。殺せやしないんだ。化け物を殺すのはいつだって英雄だ……」

 

 ブツブツと不気味に呟きながら、そして四肢を僅かに痙攣させながらも、床に伏していた男はゆっくりと立ち上がる。その際に、ボタボタと血が垂れ、床を赤く染めた。

 

「俺ぁ……子供(ガキ)の頃から憧れてた……夢見てたんだ。そうさ、俺は英雄になりたかったんだ。ヒヒッ、ヒヒヒ……」

 

 男の様子は、さながら幽鬼のようだった。右に左に身体を揺らしながら、男はそう言って不気味な笑いを溢す。そんな男に、堪らずというようにたまたま側にいた冒険者の一人が声をかける。

 

「お、おいお前、大丈夫か?」

 

 声をかけたその冒険者に、男はバッと勢い良く顔を向ける。壁に叩きつけられ、床に落下した際に強く打ちつけてしまったのか、その額からはダラダラと赤黒い血が止め処なく流れていた。

 

「俺はぁ!なりたかったんだ英雄に!だから、化け物を殺して、俺は英雄になるぅうッ!!!」

 

 もはや、誰の目から見ても男は正気ではなかった。尋常ではない恐怖をこれでもかと浴びた結果の末路。その姿がそこにはあった。

 

 狂気に駆られた男が、あまりにも自然な動作で腰に隠すようにして差していた剣を鞘から抜き、そして一切躊躇わずにそれを振るった。銀の刃が宙を滑り、軌跡の途中にあった、声をかけた冒険者の腹部をなぞる。

 

「……え?」

 

 そんな呆けた声に一拍遅れて。斬り裂かれた冒険者の腹部から鮮血が噴き出し、目の前にいた男とその周囲を赤く汚した。

 

「英雄にっ!英雄にぃッ!ヒャハ、ヒャハハハハァッ!!!」

 

 冒険者がその場で倒れる中、血に塗れながら男は高らかに笑う。血に濡れた剣をブンブンと振り回しながら、まるで夢を見て夢に憧れる少年のように。

 

「て、てめえ!やりやがったなこのキチガイ野朗!」

 

「早くそいつを取り押さえろ!」

 

「だ、誰か!誰か今すぐに手当てを!」

 

 一瞬にして騒乱の只中となった『輝牙の獅子』広間(ロビー)。それを引き起こした張本人たる男を取り押さえようと、複数人の冒険者が詰め寄る。が。

 

「させねえさせねぇぞ!英雄になるのはこの俺だ!英雄になっていいのは俺だけだ!あの化け物をぶっ殺して、英雄になれるのはこの俺なんだぁああぁああぁあッ!!!!」

 

 などと、支離滅裂に叫び散らしながら、男は迫る冒険者たちを手当たり次第に撫で斬っていく。狂気に満ちたその立ち振る舞いや言動とは裏腹に、男の剣捌きは卓越したもので、今この場にいる冒険者たちが到底敵うものではなかった。

 

「や、止め──ぐああっ」

 

「殺され──ギャッ」

 

「ひぃいっ──がふッ」

 

 阿鼻叫喚。地獄絵図。先程まであった日常は、非日常へと。悲鳴と怒号が合唱し、血飛沫が宙を舞う。そんな鉄錆臭い混沌の最中、男の狂笑が何処までも響く。

 

「横取りは許させねえ!あの化け物を殺すのは俺だ!他の誰にも殺らせねえ!殺らせるものかよぉおおおおッ!!!!」

 

 笑っていた男はそう叫ぶや否や、突如としてその場から冒険者組合の扉に駆けて向かう。その行手を遮る者はもはや誰もおらず、リズティアは今し方引き起こされた悪夢じみた目の前の現状を受け止められず、ただ放心し、血みどろの男の背中が遠ざかるのを黙って眺めることしかできない。そしてそれが完全に消え去る直前────男の目の前で、扉が勝手に開かれた。

 

 ──え……?

 

 瞬間、リズティアの視界に映り込むもう一つの姿──一体何の用があって訪れたのか、それはフィーリアと同い年くらいの、少女であった。

 

「英雄の行先を、遮るんじゃあねえよッ!」

 

 男の怒号に、その少女の全身がビクリと跳ね、その顔が上を向く。キョトンとした瞳の奥に映り込んだのは、もう人とは呼べない獣が銀色の凶器を振り翳す姿だけだった。

 

 その光景を前にして、リズティアが目を見開き即座に大声で叫ぶ。

 

「止めっ」

 

 

 

 ザシュッ──欠片程の躊躇いもなく、振り下ろされた刃が。僅かばかりの迷いなく一人の小さな少女の首を斬り飛ばすのは、それとほぼ同時のことであった。

 

 

 

「待ってろ化け物ぉおぉおおヒヒャハハハッ!」

 

 新たに鮮血を浴びながら、飛び出す男。その背後では少女の生首が宙を舞い、リズティアの視界を残酷にも占領する。

 

 数秒、遅れて。

 

「……ぃゃややゃゃぁあああぁ……っ!」

 

 悲痛と絶望に塗れた、リズティアの絶叫がその場に響き渡るのであった。



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ARKADIA────残景追想(その終──後編)

輝牙の獅子(クリアレオ)』で惨劇と片付けるには生温い、血に満ち塗れ溢れた混沌が繰り広げられる中、飛び出したフィーリアは独り、マジリカを駆けていた。

 

 ろくに前も見ず。出鱈目に。体力が保つ限り、フィーリアは地面を懸命に蹴って、走る。ただ我武者羅に。体裁などお構いなしに。

 

 ……否。今のフィーリアに己の体裁について考える余裕などなかった。今彼女の頭の中は真っ白で、グチャグチャで。今こうしているように他の何かをすることで気を紛らせないと、すぐにでもどうにかなってしまいそうだった。

 

 何故そうなったか──無論、それは先程のこと。日常に突如として割り込んだ、あの異物(おとこ)にある。

 

 フィーリアは知られたくなかった。一瞬でも気を抜けば、張り詰めた緊張の糸を緩めてしまえば、その格好の隙を突いて漏れてしまうから(・・・・・・・・)。漏れ出した自分の知らない何かが、薄青い魔石という形を取って酷い現実を見せつけてくるから。

 

 一週間程前のあの日、ストレスによる疲れからアルヴァの病室で一夜を明かしてしまったあの日。……自分がもう、知らない(・・・・)自分に変わりつつあると突きつけられたあの日からだ。

 

 一体何がどうなって、こんなことになってしまったのか。フィーリアはわからない。わかる訳も、ない。

 

 だって────何も、全く知らないのだから。

 

 この瞳も、肌に走る線も、あの魔石のことも。フィーリアは何もかも知らない。全部知らない。知る由もない。今の(・・)自分のことなど、知らない。

 

 自分が、知らない自分に変わっていく。置き換えられていく。徐々に、そして加速的に。

 

 そう、それはまるで──────

 

 

 

 

 

『この、化け物めぇえッッッ!!!』

 

 

 

 

 

「ッ!」

 

 違う。違う、違う、違う違う違う違う違う違う。

 

 

 

 ──違わないよ。

 

 

 

 自分はそんなのじゃない。自分は歴とした。

 

 

 

 ──いい加減、認めようよ。

 

 

 

 自分だって、他の皆と同じ。

 

 

 

 ──同じじゃないよ。だって、自分(わたし)は。

 

 

 

 

 

 人間/化け物だ。

 

「ちがうッ!わたしは!……わたし、は」

 

 頭が、痛い。怖気が全身を巡って、止まらない。吐くものなどないのに、吐き気が込み上げてくる。

 

 辛い。苦しい。グチャグチャの感情が心を埋め尽くして、もう堪えられない。

 

 ずっと我慢していた。ずっと押し留めていた。ずっと、抑え込んでいた。

 

 けれど、もうそれはできない。見られた。知られた。

 

 もう────終わりだ。

 

「……ここ、って」

 

 脇目も振らずに走り続けたフィーリアが辿り着いたのは、マジリカ旧市街地。そう、『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』たる、薄青い魔石に覆われた塔の元であった。

 

「ぐ、ぅ……ぁっ……!」

 

 呆然と立ち尽くすフィーリアだったが、不意に胸を思い切り締めつけられるような激痛と苦しみに襲われ、堪らず手で押さえその場にしゃがみ込んでしまう。

 

「い、ゃ……だめぇ……っ!」

 

 身体の奥底から、得体の知れない何かが溢れ、外へ出ようとする。それをフィーリアは必死に抑えようとするが、あまりにもか弱く、儚い抵抗だった。

 

「でちゃ、う……いや、なのに……ぐ、ぅぅぅ!」

 

 フィーリアの顔に走る薄青い曲流の線が、微弱に輝きを瞬かせる。瞬間、彼女の周囲に粒子のようなものが舞い、そして。

 

 

 

「ぁ、ぁぁ……あああああああああああッ!!!」

 

 

 

 バキバキバキッ──フィーリアの身体から青い閃光が弾け、迸り、突き立つ。空を穿ち雲を散らせたかと思えば、この場所に酷く歪な魔石のオブジェを作り上げた。

 

「ぁぁあぁああああ!ぃやああああああッ!!!」

 

 なおもフィーリアの身体から閃光が放たれる。放たれた閃光は好き勝手に周辺を駆け巡り、そしてそれら全てが薄青い魔石となる。彼女が絶叫する度に閃光は溢れ出し、魔石となり手当たり次第に周囲を覆う。

 

 そうして閃光の放出は止まることを知らず秒刻みに勢いと激しさを増しながら続いたが、それもようやっと収まりを見せ始める。閃光はその輝きを徐々に落とし、挙動も落ち着き始めたのだ。

 

「うぐ、うぁあ……は、ぁ……ッ」

 

 地面に蹲ったまま、両腕で身体を抱き締めながら、フィーリアが苦悶に呻く。閃光自体は大人しくなっていったが、それでも彼女の様子が元に戻らない。

 

 そんな状態が数秒続いた、その瞬間であった。再びフィーリアの身体から発せられる閃光の輝きが急激に高まり、膨れ上がったと思えば。

 

 

 

 

 

「い、ぅあ……がぁ、があ゛あ゛あ゛あ゛

 あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 蹲っていたフィーリアが身体を仰け反らせ、喉を潰さんばかりに叫ぶとほぼ同時に、閃光が炸裂し、そして爆発した。

 

「……ぁ、ぁぁぁ……」

 

 魔石に囲まれ、ペタンと座り込んだまま、フィーリアは言葉にならない声を静かに漏らす。

 

 ──……でちゃ、った。

 

 虚とした瞳で周囲を見渡せば、魔石しか視界に入らない。まるでここだけが、異世界と化したような風景だった。

 

「ぜんぶ、わたしが……?」

 

 己を取り巻く現実が、そうだと如実に伝える。否応なしに訴えてくる。この異界極まる風景を創り上げたのが、自分であると突きつけてくる。

 

 こんな所業────人間にできるはずがない。できるとしたら、それは。

 

 

 

 化け物だ。

 

 

 

「……ちがう。ちがうちがうちがうッ!わたしがやったんじゃない!こんなのやってない!こんなの、わたしに!……にんげんに、こんな、こと……」

 

 頭を振って、フィーリアは必死に否定する。否定し、拒絶する。

 

 だがそうする度に視界ははっきりと確かに。今し方己が生み出した魔石を映し出す。その魔石に、今の自分の姿が映り込む。

 

 そこに映り込んでいたのは────何処までも鮮やかな虹と透明な無の灰の瞳をした、肌に薄青の輝きを灯す刺青が如き曲流の線を走らせ、そしてその額に二本の歪ながらに刺々しく伸びた角を生やす、真正の異形たる少女であった。

 

「…………わたし、じゃない」

 

 瞳を見開かせ、そう呟きながら震える手を顔にやるフィーリア。するとそれと全く同じ動きをしてみせる、魔石の中の異形。

 

「わたしじゃない。こんなの、わたしなんかじゃないッ!」

 

 バキン──堪らずフィーリアが叫んだ瞬間、彼女の目を奪っていた魔石が跡形もなく粉々に爆ぜ砕け散る。

 

「わたしはッ!」

 

 依然、フィーリアは叫ぶ。彼女の叫びが響き渡ると、それに呼応でもするかのように次々と魔石が砕けていく。砕けて、その破片と欠片が魔力の残滓である粒子となって、宙に舞っては霧散し溶けて消え失せる。そこに薄青い煌めきを一瞬だけ残して。

 

「わたし、は……わたしは、ばけものなんか、じゃ」

 

 そう呟くフィーリアの声は、どうしようもない程に昏い、深い絶望に塗り潰されている。彼女自身、必死に否定し続けた。拒み続けた。現実から目を、背き続けていた。

 

 ……だが、それももう限界だった。今日この瞬間────フィーリアの心は、無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。

 

 どうすればいいのかわからず、その場に座り込むフィーリア。そんな彼女の元に、来訪者が一人、現れる。

 

 

 

「ハァッハハハッ!嗚呼、見つけた!見つけたぞ!」

 

 

 

 そのあまりにも喧しい声のする方に、フィーリアはゆっくりと顔を向ける。するとそこには──冒険者の男がいた。『輝牙の獅子(クリアレオ)』に突如として押し入り、そして自分を殺そうとしたあの男が立っていた。

 

「やっぱりそうだったそうだったんだな!?その顔!姿!正しく化け物!お前は正真正銘の化け物だ!イヒ、イヒヒャハハッ!これで俺は英雄だぁああああああッ!」

 

 その全身を赤黒く染めて、それと同様に赤黒く染まった剣を振り回しながら、何がそんなにも嬉しいのか楽しいのかわからない歓声を上げて。完全に正気を失った者の表情を顔に浮かべながら、男はその場を駆ける。

 

「化け物ぉおおお!お前を殺して、俺が英雄になるんだぁ!英雄になっていいのは俺だけなのさぁあああッ!だから、この俺に殺されてろこの化け物がぁああああああッッッ!!!」

 

 尋常ではない速度で男はフィーリアとの距離を詰める。あと数秒もあれば、剣が届く間合いに辿り着けるだろう。

 

 そんな中、フィーリアといえば────

 

「……」

 

 ────その男のことを、眺めていた。

 

 ──このひとのせいだ。

 

 不意にフィーリアの頭の中を、その言葉が埋め尽くす。途端、彼女の心に昏い感情が滲む。

 

 ──このひとのせいで、しられた。みられた。このひとのせいだ。こんなひとが、こんなにんげんがいたから、わたしは。

 

 昏い感情は、あっという間に黒い感情へと変容する。一気に淀み、濁り、濃く、ドス黒く穢れ変色していく。

 

 ──ゆるさない。

 

 感情が────燃え滾る憤怒と煮え立つ憎悪が、フィーリアに訴えかける。自分がこんな目に遭っているのは今迫っている人間のせいだと。自分をこんな醜い化け物にしたのは────人間だと。

 

 ──ゆるさない、ゆるさない、ゆるさないゆるさないゆるさない。

 

 人間()許せない。人間()赦せない。憎くて憎くて憎くて、どうにかなってしまいそう──否、もう既になっている。恨めしくて堪らない人間なんかのせいで、どうにかなってしまった。自分は────壊れてしまった。

 

 フィーリアがそう思う度に、彼女の虹の瞳は爛々と妖しく輝き。それに反して灰の瞳からは光が消えて。彼女の身体に走る薄青い線からも燐光が漏れ出す。

 

 消えればいい。失われればいい。人間なんて、この世界から影も跡形もなく、残滓すら残さず消失してしまえばいい。

 

 ──……ううん、ちがう。

 

 滅ぼす(・・・)滅ぼしてやる(・・・・・・)。この手で、必ず。ただの一人も残さず、この世界ごと。

 

 ──わたしがほろぼさなきゃ。

 

 滅ぼさなければ。滅ぼさなくては。だって、それこそが創られた理由なのだから(・・・・・・・・・・・)

 

 そう、自分はその為に創り出された。あの方に────一にして全なる(はは)に。

 

 滅びを齎す存在(モノ)。この世界を悠遠なる理想(わたし)で抱き、包み、そして滅ぼす存在。

 

 ──わたしが。

 

 人類の絶対敵。無慈悲な終焉(おわり)にして、慈悲の試練。第四の厄災たる我がその名こそ──────

 

 

 

 

 

 ── 『理遠悠神』アルカディア。

 

 

 

 

 

「ヒャハハハハァッ!英雄だぁあッ!やったあああああああああああああッッッッ!!!!」

 

 叫びながら、剣を振り下ろす男。その血に汚れた刃がフィーリアの首を刎ね飛ばす寸前、彼女はぶっきらぼうにその小さな手を振るう。

 

 ビシャッ──瞬間、フィーリアの顔を生暖かい液体が濡らした。

 

「……え……?」

 

 その感触にハッと我に返ったフィーリア。正気に戻った直後、彼女の瞳に映ったのは。

 

 

 

「あ、べぇがげっ?」

 

 

 

 身体の至るところから血に濡れた魔石を生やす、男の姿だった。

 

「ぎぇ、ぼぼ、ごぼぼっ」

 

 男の口から血が噴き出たかと思えば、すぐさま魔石が生え出てくる。刹那、男の血走った目がグルンと裏返り。

 

「ぼ」

 

 そんな一文字の一言だけを残して、男の身体は急激に歪ながらに膨らんで、弾け飛んだ。肉を引き千切る生々しい音と骨を砕く音が重なり、実に冒涜的な音楽を奏でながら、血で真っ赤に染まった魔石と元は人間であったその残骸が周囲に飛び散り、そしてフィーリアに向かって降り注ぐ。

 

 さながら、それは人間一人を使った血と肉のシャワー。血がフィーリアの服を、身体を、髪を、顔を濡らす。それに続いて、ベチャベチャと骨の破片入り混じった薄桃色の肉片が彼女の全身へ叩きつけられていく。

 

「……ぁ、ぁ」

 

 フィーリアの鼻腔が鉄臭い血の匂いで充満し、それ以外の匂いがわからなくなる。

 

 フィーリアの視界が地面に散らばった人間の内臓と内臓だったであろう肉塊で埋め尽くされ、それ以外の景色が映らなくなる。

 

「ぁぁ、ぁぁぁ」

 

 ──なに、したの?わたしが、した、の?

 

 ブルブルと震える両手で、フィーリアは顔に触れる。手のひらに伝わるドロドロと粘つく感触に、堪らず全身が怖気立つ。悪寒に苛まれる。

 

 ──ちがう。ちがうちがうちがうッ!わたしはこんなことしてない!こんなこと、したかったんじゃ……!

 

 頭の中で目の前に広がる現実を必死に、懸命に否定するフィーリア。

 

 ──わたしは、ひとをころしたかったんじゃない!!

 

「…………あ」

 

 その時、フィーリアは見た。そこに転がっていた、丸い物体を。その物体は────眼球だった。

 

 地面から、眼球がこちらのことを見上げている。顔などないのに、その視線が怨念に塗れているようだと、フィーリアは他人事のように感じられて。

 

 そしてその視線を受けて────彼女は唐突に理解した。

 

 

 

 ──わたしは、ひとをころしたんだ。

 

 

 

「いや……いやぁ……」

 

 その視線から逃れようと、でもその場から上手く立ち上がることもできず。涙を流しながら周囲を見回す。

 

 周囲は薄青い魔石だらけで。それら全てに映り込んでいる。今の自分が。顔と髪と全身が、血と人肉塗れの、角を生やした異形の姿が。

 

 どこを見ても。どこを見ようとも。映っている。見せつけてくる。今の自分を。恐ろしく悍ましい異形の姿を。

 

 逃げ場などもはやどこにもない。現実から逃れることは許されない────その事実を思い知らされた瞬間、とうとうフィーリアの精神は限界に達した。

 

「もういやぁああああああああああああああっ!」

 

 フィーリアの絶叫に応えるかのように、この場周囲一帯の薄青い魔石の全てに亀裂が走り、そして同時に砕けた。薄青い粒子が大気を埋め尽くし、そして宙へと舞い上がる。

 

 その中心に座り込むフィーリアであるが、亀裂は彼女の額の角にも走り、静かに砕け散る。その破片も落下する途中で薄青い粒子となって、宙に溶けて消えていく。

 

 そうしてフィーリアはそのまま、その場に倒れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞼を開けば、真っ先に視界に飛び込んだのは天井だった。見覚えのない、白い天井であった。

 

 ──……ここ、どこ……?

 

 上手く働かない頭の中でそう呟いて、とりあえず上半身を起こす。どうやら自分は寝台(ベッド)に寝かされていたらしく、周りを見ても天井と同様に全く知らない部屋の中だった。

 

 辛うじてわかるのは、この部屋が病室らしいこと。つまり、ここは病院なのだろう。寝起きの頭も徐々に冴え、そう考えを巡らしている時だった。

 

 ガチャ──不意に、この病室の扉が開かれた。

 

 

 

 

 

 話を聞けば、自分は旧市街にある『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の塔の広場で倒れていたところを発見され、この病院へと運び込まれたらしい。

 

 その日は一切目を覚ます気配がなく、一旦安静の元様子を見るということで落ち着いたのだが、その翌日──つまりは今日、フィーリアの意識は覚醒したのだ。

 

 軽く検査を行ったところ、一部(・・)を除けば特に異常は見られず、その後フィーリアは数々の質問を浴びせられた。……浴びせられた、のだが。

 

「……えっ、と。すみ、ません……わかりません。……なに、も」

 

 その言葉通り、塔の広場で何故自分が倒れていたのか、フィーリアは何もわからないでいた。……そう、あの時と──アルヴァと共に倒れていた時と同じように、彼女は『あの』日の記憶を失ってしまっていたのだ。

 

 有益な情報の類いは手に入らないと知り、そして目を瞑れば異常もないことから、フィーリアはすぐに退院という流れになり、午後になる頃には彼女はマジリカの街道を歩いていた。今目指している目的地は、『輝牙の獅子(クリアレオ)』である。

 

「……?」

 

 期間はまだ短いとはいえ、住んでいる街。特に迷うこともなく進むフィーリアであったが──この日は、何かが違っていた。

 

 視線を、浴びる。視線を集めている。この街に住まう老若男女全員が、自分を見ている。それも普通にではなく────奇異、嫌悪、恐怖という負の感情を込めた、負の視線で。

 

 フィーリアも、別にこういったことが初めてという訳ではない。彼女自身、己が異質な風貌をしていることは重々承知している為、少なからずこういった悪目立ちしてしまうのも仕方のないことと、もう割り切っている。

 

 だが今日は、それがあからさまだ。露骨過ぎるのだ。今までは控えめだったのが、今日は誰も彼もが噯にも隠さず、ありありとフィーリアに無体な眼差しを不躾に浴びせている。

 

 そう、まるで────この世の存在(モノ)ではない、異物を見るかのように。

 

「……」

 

 そんな視線の只中に晒されて、堪らずフィーリアは己の腕を抱いて、無意識にもその足を早める。

 

 逃げるようにその場を後にするフィーリアを、マジリカの住人たちは眺めながら、決して彼女には聞こえない声量でヒソヒソと、何か囁き合うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふざけるな!ふざけるなっ!ふざけるなァ!」

 

 苦しく、辛い思いをしながらも目的地である『輝牙の獅子(クリアレオ)』の前に辿り着いたフィーリアであったが、直後彼女は異様の光景を目の前にしていた。

 

「お前たちは冒険者(ランカー)のくせに、どうして……どうして私の娘を守ってくれなかったんだ!どうして見す見す死なせたりしたんだ!あの子は、あの子はまだ四歳だったんだぞ!?」

 

「……申し訳、ありません」

 

「謝罪なんかいらないんだ!娘を、エミーを返せ!返せぇえッ!」

 

『輝牙の獅子』の門前で、一人の男が泣き叫び、泣き崩れていた。慟哭するその男の前には苦々しい表情を浮かべる、この冒険者組合(ギルド)の受付嬢であるリズティア=パラリリスが立っており、その場に異様の光景を作り出していた。

 

 一体何事か──フィーリアが困惑する最中、地面に泣き崩れたまま、男が続ける。

 

「どうしてだ。どうしてエミーだったんだ……何故、私の娘が死ななければ、殺されればならなかったんだ。この世界に、神などいないということなのか……!」

 

 困惑したまま、フィーリアは前に進む。すると彼女の存在に気づいたリズティアが、思わずといった様子で驚きの声を上げた。

 

「フィーリアちゃん!?」

 

 瞬間、男が凄い勢いでフィーリアの方に振り返る。彼もまた彼女の姿を視界に捉え、その表情を見る間に憤怒へ染め上げる。そして、徐に地面から立ち上がったかと思うと、そのままフィーリアに飛びかかった。

 

「お前のせいだ!お前なんかがいたから、エミーは殺されたんだッ!」

 

「ひっ!?」

 

 必死の形相でそう叫びながら、男はフィーリアに掴みかからんとして──寸前、中で様子を伺っていたのか、不意に冒険者の一人が門から飛び出し、男の両手がフィーリアの両肩を掴む直前、飛び出した冒険者が男を羽交締めにしそれを阻止してみせた。

 

「あんた正気か!落ち着け!」

 

「うるさい黙れ!私を離せ!殺してやるんだ!この──化け物をぉおっ!」

 

 死に物狂いで暴れ、なんとか抜け出そうとする男が、無遠慮に唾を飛ばしながら、呆気に取られているフィーリアに向かって叫び続ける。

 

「知っている、知っているんだぞこの化け物め!お前があの塔をあんな風にしたのも、何人もの人間を殺したことも全部知っている!子供の姿をしていても、私は騙されない!騙されないからな!エミーを、娘を奪った醜い化け物が!恨んでやる!一生恨み続けてや「止めて!!!」

 

 あまりにも心ない男の言葉に堪え兼ねたリズティアがそう声を荒げる。が、それは些か遅かった。

 

「っ……!」

 

 男の言葉をまともに受けてしまったフィーリアは、瞳を濡らして数歩その場から退がったかと思えば、踵を返しそのまま一目散に駆け出してしまう。

 

「あっ!?待ってフィーリアちゃん!貴女は悪く……ない、の……」

 

 言いながら、リズティアは手を伸ばす。だが今度もその手は決して届くことはなく、またしても彼女は遠ざかる背中を、無力にも見つめることしか、叶わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィーリアはただひたすらに駆けていた。もはや、彼女の心に余裕などありはしなかった。

 

 フィーリアの頭の中で、一つの単語が巡る。

 

 

 

『化け物が!』

 

 

 

 ──ばけもの……?わたしが……?

 

 心の中で呟いて、ブンブンと頭を横に振ってフィーリアはそれを否定する。自分は化け物などではないと主張する。

 

 ……だが。そうする度にあの男の顔が浮かんでくる。こちらを化け物と罵った声が頭の中を反芻する。

 

 ──わ、わたしはばけもの、なんかじゃ。

 

 改めて心の中でフィーリアがそう呟いた、その時だった。

 

 ガッ──不意に、何かがフィーリアの足を引っ掛けた。

 

「ふあっ?──きゃうっ!」

 

 無我夢中でとにかく駆けていた為、踏ん張ることなどとてもできずにフィーリアは転んでしまう。不幸中の幸いか、顔から地面に倒れることはなく、けれど手のひらや膝を擦り剥いてしまった。

 

 ジンジンと痺れるような痛みにフィーリアが顔を顰めさせる中、地面に倒れ込んだままの彼女に対して声が降る。

 

「やい!みつけたぞばけもの!」

 

 その声は、まだ高く、幼い少年のものであった。その声音に似合わぬ唐突な罵倒にフィーリアが慌てて顔を上げてみれば──自分を囲むようにして、数人の同い年くらいであろう子供たちが立ってこちらのことを見下ろしていた。

 

 フィーリアが驚き固まる最中、子供たちが口々に寄って集って眼下の彼女に心ない言葉をぶつけていく。

 

「このばけもの!」

 

「とうさんやかあさんがいってた!」

 

「ばけものばけものー!」

 

 子供たちの言葉が、フィーリアの心を揺らして、傷つける。だが彼女からすればそれは覚えのない、謂れのない言葉で、言葉のはずで──だから、弱々しく震える声で子供たちに言い返す。

 

「わ、わたしはばけものじゃ……!」

 

 だが、虚しいことにフィーリアの言葉が届くことはない。

 

「うるせえ!ばけものめ、おれたちがおまえをやっつけてやる!」

 

 フィーリアに対してそう言った、恐らくこの集団を纏めているのだろう筆頭(リーダー)格の少年は徐にズボンのポケットに手を突っ込み、そこから小さな石を取り出す。そしてあろうことか──何の躊躇もなく、迷わずにフィーリアに向かって投げつけた。

 

「いたっ……!」

 

 少年の投げた石は、フィーリアの身体に当たり、彼女に鈍痛を味わせる。とはいえ所詮少年の力。そう大した威力はなかったが、それでも

 まだ幼いフィーリアにとっては堪え兼ねないものである。

 

 忽ちフィーリアの瞳が潤み、滲む────しかし、それで終わりではなかった。

 

「よーし、みんなでこいつをはやくやっつけよう!」

 

「そうだそうだ!」

 

「やっつけるんだ!」

 

「このまちをぼくたちがまもるんだ!」

 

 そう言うや否や、他の子供たちも各々に石を取り出し、そしてそれを掲げる。

 

 石を──暴力を振るう。それが決して正しい行為ではない、間違っている────とは子供たちは考えない。考えようと思いもしない。

 

 何故ならば今自分たちは正義の味方であると思っているからだ。今自分たちは悪い化け物を退治する、英雄(・・)なのだと思っているからなのだ。そんな自分のこの行動が間違いだと、思う訳がない。

 

 当然である。もはやフィーリアは同じ人間だとは思われていない。だから子供たちは何の躊躇いも迷いもなく、彼女に対して暴力を振るえる。振るってしまえる。

 

「い、いや……やめて……!」

 

 涙を浮かべ、そう必死に懇願されても。子供たちは止めようとは思わない。微塵も、思いはしない。子供というのは────時に大人よりも残酷なのだ。

 

 幼く、まだ純真無垢な心に加減(ブレーキ)はなく。故に大人以上の純粋な残酷さを以て、子供たちは今まさに決行する。この街を、自分たちの両親を救う為に。化け物(フィーリア)を倒さんと、その手に持った石を全員で一斉に投げつける────その時だった。

 

 

 

「この馬鹿ガキ共ッ!何やっとるんだ!」

 

 

 

 不意に鋭い叱咤の声がこの場を貫く。それに堪らず子供たち全員はビクリと身体を跳ねさせ、それぞれに悲鳴を上げ石を捨てて、まるで蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。

 

「あ……」

 

 思いもしなかった助けに、フィーリアは呆然としながらも顔を上げる。彼女の目の前には三十代前後の男が立っており、こちらを見下ろしていた。

 

「あ、あの……ありがとう、ございます」

 

 地面から立ち上がり、男に礼を伝えるフィーリア。彼女の感謝に対して、男は────

 

「……とっと失せやがれ。ここにいたら迷惑なんだよ、化け物め」

 

 ────そう、まるで汚物でも見るかのような眼差しをフィーリアに向けながら、忌々しそうに吐き捨て、踵を返しさっさとこの場を去っていった。

 

 男からそんな反応を返されたフィーリアは、ただ呆然としながら、しばらくそこに立っているしかないでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、フィーリアは風の便りで聞いた。『あの』日──自分が病院に運び込まれた日に、あったことを。

 

『輝牙の獅子』に突如として押し掛けたあの男が、マジリカの住民にフィーリアが人外の化け物であると吹聴していたこと。そして自分が冒険者組合(ギルド)を飛び出した後、男が発狂して周囲にいた冒険者たちを手当たり次第に斬殺し、終いには親の使いで組合に訪ねてきた一人の少女の首を、刎ねたこと。

 

 さらに男はそれだけに飽き足らず、街道を歩く住民たちもその手にかけ、旧市街に消えたこと。

 

 そして数時間後、『創造主神の聖遺物(オリジンズ・アーティファクト)』の塔広場にて、一面血の海と元は人間だったのだろう残骸に埋もれるようにして、気を失っている自分が発見されたこと。

 

 それら全ての話を聞いたフィーリアは、『輝牙の獅子』へ訪れた。訪れ、所属する冒険者(ランカー)たちに今まで世話になった感謝と礼を伝えると、組合を後にした。

 

 その日を最後に、フィーリアが『輝牙の獅子』へ来ることは二度となかった。

 

 

 

 

 

 いつの日からか、フィーリアはマジリカの住民たちから迫害を受けるようになってしまっていた。街を歩けば子供たちに虐められ、大人たちはそれを遠目から眺めては見て見ぬ振りをする。する上で、皆彼女を人殺しの化け物と呼び、決して子供扱いも、人間としてすら扱わなかった。

 

 そんな生活が数ヶ月も続き────いつしか、フィーリアは病院へ入り浸るようになってしまったが、それも長くは続かなかった。

 

 ある日、フィーリアは聞いてしまったのだ──病院に勤める複数人の看護婦(ナース)たちの、自分への陰口を。

 

 やれあんな化け物がいたら病院の評判が下がるだの、やれその姿が視界に映るこっちの気分のことも考えてほしいだの。

 

 それらの陰口はフィーリアの心を深く抉ったが、中でも彼女を一番酷く惨たらしく傷つけたのは。

 

 

 

 娘が人殺しの化け物だなんて、アルヴァ様が可哀想────その一言であった。

 

 

 

 その日を境に、フィーリアは毎朝早くからアルヴァの病室に訪れては、挨拶や花瓶の水の交換という風に見舞いを最低限なものに済まして、病院に滞在する時間すらも極力減らすようになった。

 

 そうしてフィーリアの姿を普段から見かける人々も少なくなり────気がつけば、いなくなっていた。

 

 

 

 

 

 フィーリアは孤独だった。朝も昼も夜も、ずっと孤独と付き合い、孤独に付き纏われていた。

 

 自分以外に誰もいない家は静かで、掃除など終わらせてしまえば本当に酷く静かで。そんな中フィーリアはリビングにて独り、膝を抱えて座り込む。

 

 早朝に病院へ行き、未だ寝台(ベッド)の上で眠ったままのアルヴァに会い、おはようと声をかける。そして花瓶の水を入れ替え、花が傷んでいれば新しいものと取り替える。それが終わればまたねと声をかけて、即座に病院から去る。

 

 それからできる限り人気を避けて街道を進み、自宅に戻る。自宅に戻ったらまず掃除を一通り済ませ、リビングにて膝を抱えて一日中座り込む。そうして気がつけば、夜が明けている。

 

 今やそれがフィーリアの毎日。彼女の日常。そこに喜楽が湧くこともなく、また哀怒を噴かせることもなく。ただただ、虚しさに諦観を抱え込む日々の繰り返し。

 

 食欲すらも次第に薄れ、酷い時には一週間も何も全く口にしないこともあった。だがそれでも、不気味極まりないことにフィーリアの身体が痩せこけることはなく、異常が発生しないのが異常であるという始末だった。

 

 そんなことが延々と続けば、誰であろうと発狂するだろう。それが正常な人間であればなおのこと────だが、それがいくら続けられようが、フィーリアが気を狂わせることはなかった。……否、狂おうにも彼女は狂うことができなかった。許されなかったのだ。

 

 現在、アルヴァの帰還を信じ待ち続けているのは、恐らくフィーリアだけである。そんな彼女すらおかしくなれば、アルヴァを待つ存在(モノ)は誰一人としていなくなってしまう。病院に眠る彼女が、真の意味で独りぼっちとなってしまう。

 

 そうなることを、フィーリアはどうしても阻止したかった。孤独が何よりも辛いのは、彼女が誰よりも理解していたから。だからそれをアルヴァに──母に味わせる訳にはいかなかったのだ。

 

 ……また、別の理由もある。それは────

 

 

 

 ──おかあさん……。

 

 

 

 ────もう一度、もう一度また言葉を交わしたかった。おはようの声が聞きたかった。その手で頭を撫でて、そして抱き締めてほしかった。母の愛が、欲しかった。

 

 それが叶うのならば、叶えることができるのならば。フィーリアは今この現実を堪えられる。乗り越えてみせる。たとえこの身を引き裂く孤独があろうと、己の存在を誰からも否定されようとも。

 

 アルヴァがまた瞳を開いてくれるのであれば。たったそれだけのことで自分は報われる。救われる。この残酷に尽きる現実とも向き合える────そう、フィーリアは縋った。縋って、願った。

 

 

 

 

 

 

 そうして、一年という月日が過ぎ去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おかあ、さん?」

 

 それは日常(いつも)通りの朝のことだった。日常通り、病院に訪れた。病室の扉を開けて────フィーリアの視界にその光景が飛び込んだ。

 

 自分の目を疑った。信じられなかった。だが、それ以上に胸の内を忘れていた感情が────喜びと嬉しさが一気に満たした。

 

 アルヴァが、起きていた。一年もの間眠り続けていた母が、上半身だけではあるが寝台(ベッド)から起こしていたのだ。

 

 こちらの方に顔を向け、アルヴァは呆然としている。恐らく自分が置かれている状況に理解が追いついていないのだろう。けれどフィーリアには関係なかった。とてもではないが、抑えられなかった。

 

「おきたのおかあさん!?よかった!」

 

 早朝の病院だということも忘れて、感極まった声を上げながら、フィーリアはその場から駆け出す。一秒でも早く、アルヴァの元に辿り着く為に。

 

 おはようの声が聞きたい。その手で頭を撫でて、そして抱き締めてほしい。母の愛が欲しい────もうそれだけで、フィーリアの中は一杯だった。

 

 いよいよそれが叶う。今まさに、この瞬間。そう思うだけで、幸福感で満たされる。包まれる。

 

 呆然としていたアルヴァも、その表情を和らげ両腕をそっと振り上げる。それを見たフィーリアは、またも叫んだ。

 

「おかあさん!」

 

 フィーリアもまた腕を上げて、アルヴァの胸に飛び込もうとする。

 

 そして──────

 

 

 

 

 

 パン──伸ばした手を、払い除けられた。

 

 

 

 

 

「………え……?」

 

 最初、フィーリアは一体何をされたのか理解できなかった。したく、なかった。

 

 払われた手が少し痺れたように熱くて。その感覚に戸惑いながら、フィーリアはアルヴァの顔を見やる。和らいでいたと思っていたその表情は────引き攣っていた。

 

 ──……あ。

 

 同じ。自分を見る他の人と、同じ表情。同じ目。全部、同じ。

 

 例外なく其処に込められているのは、恐怖。自分たちとは違う異物に対して向ける、恐怖と忌避。

 

 それに気づいた──気がついてしまった瞬間。

 

 

 

 ──……ああ、そっか。

 

 

 

 フィーリアの中で、ずっと心の支えとしていたモノが、音を立てて崩れ落ちた。

 

「ち、違っ……違うんだフィーリア。これは、さっきのは違く、て……」

 

 もう、届くことはなかった。もう届くことなどなくなってしまった。

 

 結局、同じだったということ。何もかも、全てが同じ。同じく等しく────自分を拒絶する。否定する。

 

 部屋は明るいはずなのに、真っ暗で何も見えない。さっきまで鮮明に聴こえていたはずの音も、今や酷く濁って響く。

 

「……おいしゃさん、よんでくるね」

 

 一秒だって、ここにいたくなかった。その一心でそう言って、フィーリアは踵を返して歩き出し──走り出す。

 

 途中自分を呼び止めようとする気配を感じたが、それは勝手で残酷な錯覚だと、決め込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喜ぶって、何だっけ。

 

 怒るって、何だっけ。

 

 哀しいって、何だっけ。

 

 楽しいって、何だっけ。

 

 忘れてしまった。そんな感情(もの)、全部忘れてしまった。

 

 だって必要のないものだから。自分には、いらないものだから。

 

 もうどうでもいい。何かもが、どうでもいい。

 

 

 

 

 

 誰からも嫌われて。

 

 誰からも避けられて。

 

 拒絶されて。

 

 虐られて。

 

 

 

 そして、否定された自分。

 

 

 

 

 

 自分って、一体何なのだろう。何の為に、いるのだろう。此処に在るのだろう。

 

 誰もわからない。誰も教えてくれない。

 

 でも、もうそれでもいい。もう、どうでもいい。

 

 

 

 

 

 気がつけば、何も感じなくなった。喜ぶことも怒ることも哀しむことも楽しむことも、なくなった。

 

 何もかも、なくなった。だからだろう。

 

 

 

 月浮かぶ深い夜、その手に握られた銀色に冷たく輝くナイフが振り下ろされそうになっても。

 

 その刃先を己の胸に突き刺そうとしても。

 

 その刃が握り締められ鮮血が流れ落ちる様を見せつけられても。

 

 激しい自己嫌悪と後悔に塗れた懺悔の言葉を与えられても。

 

 力の限り、強く抱き締められても。

 

 

 

 もう、何も感じない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれ、フィーリア(わたし)って────一体何だっけ。



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ARKADIA────極者と厄災、今こそ相見えて

 扉の先は、通路であった。扉の外からでは一寸先も見えぬ闇に覆われているようにしか見えなかったが、いざ突き進めばそれは間違いであると思い知らされた。

 

 まるで王城を彷彿とさせるような通路は、存外明るかった。壁に薄青く発光する魔石が繋がっているおかげだろう。

 

 果てしないこの先の終着点を目指しながら、独りサクラ=アザミヤは進む。罠を警戒しながら。ゆっくりと、慎重に。

 

 通路内の空気がサクラに纏わりつく。そしてそれはこうして一歩一歩足を進める程に、濃く重たいものへと変わっていく。

 

 恐らくだが────この通路の最果てに、己を待ち受ける存在(モノ)が影響しているのだろう。

 

 つう、と。サクラの首筋を一筋の汗が静かに伝う。その感触が、彼女の気をさらに、そして否応にも引き締めさせる。

 

 ──……刻は近い、か。

 

 そう、刻はすぐ其処まで迫っている。終焉(おわり)が、迫ってきている。

 

 果てしてそれは一体──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唐突だった。本当に、それは唐突なことだった。果ての見えぬ通路を歩いていたサクラであったが、刹那気づけば──彼女はもう、通路内には立っていなかった。

 

 言うなれば、そこは広間。主座す、玉座の間。

 

 サクラの視線の先。彼女の瞳に映り込むのは、あまりにも仰々しい玉座。そしてそこに座る────

 

 

 

 

 

「やっと、辿り着いてくれましたか」

 

 

 

 

 

 ────一人の少女。汚れ一つとしてない純白の髪を伸ばした、額の右側に歪に刺々しい角を一本生やした、少女の姿。

 

「待っている間、本当に退屈で退屈で、危うく退屈に縊り殺されるところでした──お久しぶりですね、サクラさん」

 

 巨大な薄青い魔石の玉座に座る、反して小柄な少女は己の頬に──正確にはそこに走る刺青の如き、曲流する薄青い線に指を這わせ、そして瞳を閉ざしたまま、押し黙っているサクラに続ける。

 

「どうしたんですか。黙ってないで、挨拶の返事一つくらいしてくださいよ。さっきと違って、こうしてちゃんと、面と向かって会っているんですから」

 

 言って、玉座に背を預けもたれながら、クスクスと肩を僅かに揺らす少女。

 

 そんな少女に対して、数秒の沈黙を挟んでサクラは────

 

「君に、その玉座は似合わない。……フィーリア」

 

 ────と、ようやく言葉を返した。返したが、それは少女が求めていたものから、遠くかけ離れた代物であった。

 

 玉座の間に、両者の間に静寂が流れる。それを先に破り裂いたのは、少女の方だ。

 

「それ、どういう意味ですか?」

 

 先程と聞き比べても、その声音は明らかに機嫌を損ねていた。だがサクラは大して気にすることもなく、平然とその問いに答えてみせる。

 

「そのままの意味だ。すっかりその気になっているようだが……正直言って、今のお前は見苦しい。見るに、堪えられん」

 

 再び、静寂が流れる。が、さっきよりも俄然ずっと早く、少女が口を開いた。

 

その気(・・・)?」

 

 機嫌を損ねるを通り越し、僅かに怒りすら感じさせる雰囲気を纏いながら、玉座の少女はそう言って、そこでようやく────閉ざしていたその瞳を、ゆっくりと開眼させた。

 

 複雑に入り乱れ絡み合う七色の瞳は、最初よりも爛々とした光を妖しく漏らし。対する無色とも形容できる灰色の瞳は、さらなる翳りが差している。

 

 明らかに人外の瞳をした少女が、言葉を続ける。

 

「その気も何もありませんよ。私はあなたたち人類の絶対敵────第四の『厄災』、『理遠悠神』アルカディアなんですから」

 

 言って、少女──アルカディアがスッと細めた瞳でサクラを見下ろす。その眼差しに、もはや人間的な温かみなど皆無で。何処までも人外的な冷淡さが込められていた。

 

 ……だが、しかし。

 

「よくもまあ、そう心にないことを、思ってもいないことを平気な面して言えたものだな。それとも何だ?もしやお前は演技だとかに関心でもあったのか?」

 

 それでも飄々としたサクラの態度は変わることがなかった。聞くものによれば酷いと思うだろう言葉を彼女にぶつけて、さらに続ける。

 

「だとしたら大根役者にも程がある。……もうこんな茶番、さっさと終いにするぞ────フィーリア」

 

 サクラの物言いは、もはや罵倒に近い。対するアルカディアは、数秒沈黙していたと思えば、唐突にその口を開いた。

 

「私は、フィーリアじゃない。『理遠悠神』アルカディアです」

 

 そう言う彼女は、何処までも無表情だった。だが、こちらに有無を言わせない迫力がこれでもかと押し出ており、並大抵の者であったらこれだけで戦意を喪失せざるを得なかっただろう。

 

 だが今アルカディアの前に立つのは、サクラ。『極剣聖』サクラ=アザミヤ。これしきのことで狼狽する彼女ではない。

 

 己は『理遠悠神(アルカディア)』だとあくまでも主張する少女に対して、サクラは平気な顔で言葉を返す。

 

「違うな」

 

 それは、あまりにも強靭な否定の意思を込めた言葉だった。その言葉を前に、玉座の少女の肩がほんの僅かに、跳ねる。

 

「お前はフィーリアだ。フィーリア=レリウ=クロミアだ。それ以上でも以下でも、それ以外でもない」

 

 そう言って────サクラは仏頂面を崩した。そこでようやく、ここで初めて、彼女は微笑みを浮かべたのだ。

 

「そんな当たり前のこと、わかっているだろう?」

 

 サクラは優しい声音で、優しい言葉を投げかける。……だが、それに対して返されたのは。

 

「違わない。違わないですよ」

 

 これ以上にないくらいに底冷えた、ただひたすらに無感情な声だった。

 

「……」

 

 サクラの微笑みが、僅かばかり曇る。それからまた彼女は口を開いた。

 

「フィ「その名で私を呼ぶなァアッッッ!!!」

 

 バキンッ──それは、明確な怒りであった。サクラの声を遮り、憤怒に叫びながら少女が玉座から立ち上がり、その直後玉座諸共その周囲の薄青い魔石が、独りでに砕かれ飛び散った。

 

「私はお前たち人類に滅びを齎す存在(モノ)!救いを与える存在!それが『厄災』、『理遠悠神』アルカディア!それ以上でも以下でも、それ以外でもない!あるものかッ!」

 

 鬼気迫る表情で、その瞳を見開かせて、喉を潰さんばかりに激しくそう叫んで、少女が続ける。サクラに向かって激情のままに吼える。

 

「今一度告げてやる、私はアルカディア!お前たち人類が打倒すべき絶対の敵────『理遠悠神』アルカディアだァッ!!!!」

 

 そう言い終えたアルカディアは、息を切らして苦しそうに肩を小さく上下させる。そんな彼女の姿を、サクラはただ黙って見上げていた。浮かべた微笑みを消して、少し哀しげに、寂しげに見つめていた。

 

 ある程度呼吸を整え、冷静さを取り戻したのだろうアルカディアは、先程の激昂がまるで嘘のように淡々と続ける。

 

「再会早々に争う程、野蛮なつもりはありません。ねえサクラさん、私実はこんな余興を用意したんです」

 

 言って、スッとアルカディアが手を振り上げる。瞬間、何も乗せられていない手のひらの上で、薄青い粒子が舞い、そして渦巻いて──気がつけば、それは真球へと変化を遂げていた。

 

「さあ、ほんの一時……存分に楽しみましょう?」

 

 その真球が一体何であるのか、疑問に思うサクラを置いて、アルカディアはそう言うと可愛らしく笑んでみせ、そしてその手に乗せた真球を宙へと放り投げた。

 

 直後、投げ出された真球の真下から、生物の触手が如き柔らかで滑らかな挙動で数本の魔石の柱が突き出し、真球を絡め取る。刹那、その柱群の中央から極太の柱が突き出て、真球と激突した。

 

 真球と柱、その二つが激突した瞬間、その間に薄青い閃光を迸らせ、硝子でも割ったかのような甲高く儚い音を広間に響き渡らせる。だが、真球も柱にも、ごく僅かな罅すらも走ってはいない。

 

 ──何だ?

 

 突如としてその場に完成した奇妙な魔石のオブジェを前に、サクラがそう思った矢先だった。

 

 ブゥン──という奇妙な音と共に、そのオブジェから薄青い光が虚空に向かって放出された。

 

「投影機みたいなものですよ」

 

 アルカディアの言葉に続くようにして、やがてオブジェから放たれる光は形を取り、四角となる。そして、彼女の言う通り────遅れてそこには映像が映し出された。

 

 その映像にあったのは──────頭上に天使を彷彿させる輪を浮かべ、背に得物たる大剣を八振り握る八本の巨腕を生やし、己の周囲に無数の腕を展開させる、そんな異形と呼ぶ他ない青年を模した薄青い魔石の像と、それと対峙する、傷だらけで血塗れのガラウ=ゴルミッドと、彼がその背後に庇っている、満身創痍の『三精剣』の面々──────という、まさに衝撃の一言に尽きる光景であった。

 

 それを目の当たりにしたサクラに対して、アルカディアは浮かべていたその可愛らしい笑顔を──凶悪に歪ませ、口元を吊り上げて言い放つ。

 

「『極剣聖』サクラ=アザミヤ。直視せよ、確とその眼に焼き刻め────圧倒的、絶望を」



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ARKADIA────伝説の目撃者

「『魔焉崩神』エンディニグル、『剣戟極神』テンゲンアシュラ、『輝闇堕神』フォールンダウン……消耗品にすら満たない役立たずの出来損ない共でしたけど、それでも三つ合わせれば、意外と使い物にはなりましたね」

 

 魔石のオブジェ──否、投影機が映し出す映像を、正確に言えば異形たる青年を模した魔石の像を眺めながら、一片の感情も込めずにアルカディアが言う。

 

「でもサクラさんにぶつけたとしても、数秒も稼いでくれないでしょうねえ。あの再利用(リサイクル)の使い回し……とりあえず『三厄災(トリオンカラミティ)』とでも呼びましょうか」

 

 依然悪意に染まった笑みをそのままに、アルカディアはサクラに伝える。

 

「ですが、あの程度の冒険者(ランカー)たち相手ならば話は別。充分過ぎる程に充分、その役目を全うしてくれることでしょうねえ。ふふ、ふふふ……あっははは!」

 

 楽しくて、愉しくて仕方ないというような笑いがアルカディアの口から勢い良く(まろ)び出る。異質極まりないその瞳を見開かせ、悪意が伝染した表情で、まるで唄うかのように彼女がサクラに語る。

 

「サクラさぁん!もしあの場に貴女がいたのなら、彼らが犠牲になることはなかった!代わりにこの世界が終わっていた!またその逆も然り!」

 

 その場から駆け出しそうになる勢いで、アルカディアは続ける。

 

「彼らを見捨てることで、世界は救われる!だからこうして貴女はここにいる!此処に在る!それが、これが貴女の選択ですサクラさん!」

 

 言って、アルカディアがその細い指先を突きつける。映像に目を奪われているサクラへと、迷いなく突きつけ、そして躊躇いなく言い放つ。

 

「私が憎いでしょう?恨めしいでしょう!?だったらその得物を抜け!その殺意を剥き出せ!」

 

 子供のように爛々と瞳を輝かせ。その表情を高揚に薄ら赤く染めさせて。アルカディアは叫ぶ。

 

「私を殺してみせろ!理想(わたし)を打ち砕いてみせろ!それを成すのは貴女において他はない!他なんて認めない!」

 

 誰にも有無を言わせない鬼気迫る気迫を以て、彼女は叫び続ける。

 

「化け物を殺すのはいつだって英雄────だから、化け物な私を殺すのは、英雄のサクラさんです!!」

 

 そのアルカディアの叫びに、サクラが口を開くことはなかった。彼女はただ黙って、投影機の映像を見ていた。

 

 今、その映像の中で繰り広げられているのは、生命(いのち)を燃やして刹那に煌めかす者の勇姿。その背に己ではない他の誰かを庇い、強大な敵の猛攻を一身に受け続け、耐え続けている者の、最期の輝き。

 

 それを確と眼に焼き刻みながら、ようやっとサクラは口を開いた。

 

「フィーリア」

 

 だがそれは、アルカディアが求めた言葉とは。

 

「やはりお前は──いや、君は勘違いをしている」

 

 程遠く、そしてかけ離れたものだった。

 

「……勘違、い?」

 

 理解不能とでも言いたげな声音で呆然と呟くアルカディアに、今度はサクラが語りかける。

 

「彼らは犠牲にはならない。そんな暴挙を、()が許すはずがない」

 

「彼……?」

 

 それが一体誰のことを指し示しているのか、アルカディアは刹那に思考し、直後サクラを嘲った。

 

「貴女ともあろう存在(モノ)が、そんな夢想を惨めに抱きましたか。そんなことあり得るはずがない。あんな矮小に、その状況を打開できる訳がない」

 

 まるで吐き捨てるかのように、彼女が続ける。

 

「第一、あの身の程知らずは────クラハ=ウインドアは『三厄災』相手に初手で終わってんですよ!そんな期待外れがどうこうするとでも!?」

 

 不快感丸出しに投げられたその問いに、サクラは────再度アルカディアの方に振り返って、自信に満ち溢れる不敵な笑みを携えて、さも当然のように答えた。

 

「ああ、できるさ。どうこうするさ。そしてそれを知らぬ君ではない」

 

「ッ……何を、言って」

 

 サクラの返事に、そこで初めてアルカディアが動揺を見せた。堪らずというように彼女はたじろいで、けれど即座に気丈に言い返す。

 

「あり得ない、決してそんなことあり得るはずがない!訳がない!私は何度だって────

 

 

 

 だが、その途中。依然として投影機が映し出す映像が、アルカディアをより激しく、より強烈に、そして確実に動転させた。

 

 

 

 ────何、度だって……ッ!?」

 

 その瞳を驚愕に思い切り見開かせるアルカディアに、サクラは背後の映像へ振り返ることなく、彼女を見据えてはっきりと告げる。

 

「存分に見届けることだ。絶望に立ち向かう、ほんの一握りの──故に砕けぬ希望を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「馬鹿野郎ッ!!!」

 

 突如として現れ(いで)た、天使の如く頭上に輪を浮かべ、その背に八振りの大剣を握る八本の巨腕を生やす、青年を模した異形の魔石の像を目撃し、呆気に取られたクラハへガラウは怒号を飛ばす。凄まじく迅速な判断──だが、それでも遅かった。

 

 魔石の像はその場にいる全員の視界にも映らぬ疾さで、クラハとの距離を詰めたかと思うと、無防備となっていた彼の腹部に躊躇いなく拳を突き立てた。

 

 一拍の間を置いて、クラハの身体を衝撃が貫く。彼の背後に広がる広場の石畳を覆う魔石が悉く割り砕かれ、その石畳すらも総じて捲り上げられ、さらに下の地面までもが深々と、そして広大に抉られる。

 

 衝撃が齎す被害はそれだけに留まらず、後方に建てられていた数々の廃屋や廃墟をまとめて破砕し────そしてその末に、クラハの身体がまるで冗談のように吹っ飛ばされた。

 

 凄まじい勢いで宙を飛ぶクラハの口から、大量の血が吐き出される。鮮血で赤い放物線を描く彼はそのまま、元は何かの施設だったのだろう巨大な廃墟に突っ込む。直後轟音を立てて廃墟は崩落を起こし、一瞬にして瓦礫の山と化すのだった。

 

「ウインドア、様……!?」

 

 思わずというようにリザが呟き、呆然とする彼女へ即座に得物たる戦鎚(ウォーハンマー)を構えたガラウが鬼気迫る様子で怒鳴る。

 

「余所見厳禁!!全力警戒!!!」

 

 ガラウの叱咤に、ハッとリザが我に返る。その直後、クラハを殴り飛ばした魔石の像が動く。

 

 ブンッ──魔石の像に生える巨腕の一本が、その場で大剣を振るう。刹那、刃を象った魔力が放たれ、その軌跡に存在するもの全てを両断しながらガラウたち冒険者(ランカー)へと差し迫った。

 

 並の冒険者は当然として、《S》冒険者──それも名の知れた実力者であっても躱すことの叶わぬ魔力の斬撃。だがそれと相対するは『鋼の巨人(メタイツ)』のガラウ=ゴルミッドと『虹の妖精(プリズマ)』の『三精剣』────冒険者番付表(ランカーランキング)上位にその名を連ねる彼らは伊達ではない。

 

 各々が別々の方向へと瞬時に散り、直後魔力の刃がその場を断ち穿ち、そして粉微塵に爆散刺せた。

 

「【獄炎砲撃(インフェルノカノン)】ッ!」

 

「【大海砲撃(アクエリアスカノン)】ッ!」

 

 駆けながら、リザとアニャの二人はそれぞれ魔法を放つ。掲げられた彼女たちの手から大量の魔力が放出され、それらは大気を焦がす大火球と、大地を呑む大水球へと形を成し、魔石の像に飛来する。

 

 直撃すればそれこそ一瞬で終わる程の威力を秘めるリザとアニャの魔法────だが魔石の像に当たる寸前、二人の魔法に異変が生じた。

 

 リザの大火球が揺らぎ、アニャの大水球が波打ち、そして瞬く間に魔力の粒子へと戻され霧散してしまった。その光景を目の当たりにし、堪らずリザが声を上げる。

 

無効化(ディスペル)!?」

 

「驚いてる場合かァッ!!【衝撃壊・強(ストロングインパクトブレイク)】!!!」

 

 動揺するリザを叱咤しつつ、ガラウは戦鎚を振り下ろし、魔石に覆われている石畳を叩きつける。瞬間彼が先程見せた強烈な衝撃波が発生し、今度は周囲に広がるのではなくその全てが一点に集中し、より強力になって魔石の像に向かう。

 

 迫る衝撃波に対し、魔石の像は軽く大剣を振るう。先程見せたばかりの魔力の斬撃が飛び、ガラウの起こした衝撃波を容易く掻き消した。魔力の斬撃の勢いは衰える様子を全く見せず、ガラウへと差し迫る。

 

「まあそうだわなクソッ!」

 

 短く悪態をつきながら、ガラウは咄嗟にその場から跳び退く。刹那、彼が立っていた場所を魔力の斬撃が駆け抜け、魔石と石畳と地面をまとめて断ちながら、その先にあったいくつかの廃屋と廃墟を両断する。

 

「いくらなんでも、出鱈目が過ぎる!」

 

「だったらウチが!」

 

 堪らず泣き言を叫ぶアニャの隣で、『三精剣』三女であるイズが高らかに叫び、そして己の身に魔力を集める。彼女の魔力は雷となり、バチバチと弾けながら彼女の四肢へ伝わり、彼女の得物にも伝播する。

 

「【強化・属性付与(エレメンタルブースト)】──一気に、行くよッ!!」

 

 全身と得物の双剣に雷を纏わせ、イズは真っ直ぐに魔石の像を見据え、刹那彼女の姿がそこから消え去る。

 

 虚空に閃光が弾けたその瞬間、魔石の像を雷が斬りつけた。雷の斬撃を受け、動揺したよう魔石の像が僅かに後ろへと退がる。

 

 直後、今度は無数の雷の斬撃が幾重にも魔石の像に走る。雷が縦横無尽に魔石の像を駆け回る。

 

「【雷精乱舞(ボルテックダンス)】──ウチの動きは、如何なる存在(モノ)だろうと捉えることは叶わない!」

 

 雷の斬撃を何度も受けながらも、魔石の像はイズをなんとか離そうと大剣を振り回す。だがその動きはあまりにも鈍重で、文字通り雷と化した彼女をまるで捉えられない。

 

 ようやく冒険者たちに訪れた優勢────それを噛み締めながら、イズが心の中で呟く。

 

 ──これなら、通じる。行けるッ!

 

 だが、不意にリザが鋭く叫んだ。

 

「今すぐ離れて!イズ!!」

 

 ──え?

 

 リザの言葉にイズが疑問符を浮かべたその時────突如、何かが彼女の足を掴んだ。

 

「え、な」

 

 その感触に、咄嗟にイズが視線を向ける。己の足首を掴んでいたのは────一本の、腕。

 

 それを認識した瞬間、イズの視界が急速にブレた。そして。

 

 

 

 バガァンッ──イズの身体は、魔石に覆われた石畳へ、思い切り叩きつけられた。轟音と共に魔石と石畳が一気に割れ爆ぜ、彼女が叩きつけられた場所を中心に大規模なクレーターが発生する。

 

 

 

「がッ……ごぼ……ッ」

 

 まるで全身の骨が砕けたかのような鈍痛と衝撃を受け、僅かに跳ねたイズは目をあらん限りに見開かせて、その口から大量の血を噴き出す。その血で顔や髪、衣服を赤く濡らして、彼女はそのまま力なく仰向けになり、ピクリとも動かなくなった。

 

 そんな悲惨な末の妹の姿を目の当たりにして、リザが堪えられずに悲鳴を上げる。

 

「イズぅぅぅうううッ!!!」

 

「……妹を、よくもォォォオッ!」

 

 リザとは対照的に、その顔を憤怒に染めさせ、アニャが刺突剣(レイピア)を構えその場から駆け出す。

 

「感情に動かされんじゃねえ馬鹿がッ!」

 

 慌ててガラウが止めようと叱咤したが、既に遅い。魔石の像へと、アニャが突進を仕掛ける。

 

 対する魔石の像はイズの足を掴み、そして彼女を時面へと叩きつけた腕を──何もない虚空から生えて伸びる腕を揺らす。すると魔石の像の周囲全体の空間が波紋を打つように揺らいで────瞬間、大量の腕が現れ出た。

 

「なん、だと……ッ!?」

 

 まさに異様と表する他ない光景が、そこには広がっていた。無数の腕がそれぞれ全てバラバラに動き、しかし一瞬にしてある一点を目指し、殺到する。

 

 言わずもがなその一点とは、アニャである。

 

「駄目ッ!?アニャ!!!」

 

 リザがそう叫ぶのと、群がる腕がアニャを蹂躙するのはほぼ同時だった。

 

 一本の腕がアニャの刺突剣を容易く圧し折り、そして残る無数の腕が彼女を取り囲む。姿が完全に見えなくなると、肉を打つ嫌に生々しい音が何度も響き、そしてそれに加えてグチャグチャと水音も混ざり始めたかと思えば、その下に鮮やかな血溜まりが広がり出した。

 

 不意に音が止んで、それと同時にアニャを取り囲んでいた無数の腕も魔石の像の元へと戻っていく。そうしてリザとガラウの視界に晒されたのは────大きな血溜まりの上に立つ、血塗れのアニャの姿であった。

 

 衣服はもはやボロ切れ同然と化しており、その下から覗く肌はどこを見ても血で濡れている。誰がどう見ても生死に関わる重症を負っているのは明白で、中でも特に、否応に目を引かれるのは──今にも千切れそうになっている、彼女の左腕であった。

 

 アニャの身体が大きく揺れ、そのまま自らが作り出した血溜まりに倒れて沈む。そんな妹の凄惨極まる姿を目の当たりにして、リザの精神は遂に限界を迎えてしまう。

 

「嫌ぁぁぁっ!アニャぁぁぁ!イズぅぅぅ!嫌、嫌ぁああああっ!!」

 

 得物たる刺突剣を有らぬ方向へ放り投げ、顔を両手で覆いながら現実逃避でもするかのように、わんわんと幼い子供の如く泣き出すリザ。そんな彼女を見てガラウは即座に声を出しかけて、だが戦鎚の()を握り込み、そんな己を御した。

 

 ──なんだってこんな、ことに……!

 

 そんなガラウの視界で、未だ魔石の像の周囲に浮かぶ無数の腕が、新たな動きを見せる。

 

 不意に腕たちは上空へと伸び、そして急降下を始める。さながらそれは雨のようで、その下には先程倒れたアニャと、未だ意識の戻らぬイズがいた。

 

 ガラウの背筋を悪寒が駆け抜けて、彼は瞬時に手に握る戦鎚で虚空を叩いた。

 

「させるかァ!!【衝撃壊・空(エアインパクトブレイク)】ッ!!!」

 

 瞬間、強烈な衝撃が宙を走り、アニャとイズに降りかからんとしていた無数の腕へと到達し、それら全てを弾いてみせる。が、それも僅かなもので次の瞬間には元の軌道に戻ってしまう。

 

 しかし、それでも生まれた刹那の隙。それを見逃すガラウではない。彼は咄嗟に【次元箱(ディメンション)】を開き、空いている手を突き入れ、そしてそこから取り出したものを投げた。

 

「間に合い、やがれェエエエッ!!!」

 

 ガラウが投げたのは、拳大の魔石。それは地面を転がり、アニャとイズの近くまで転がると独りでに砕けた。瞬間、その場から二人の姿が掻き消える。

 

 ドドドドドッ──刹那、無数の腕が誰もいない地面を叩き、全て丸ごと粉微塵に帰す。

 

「リザ=ミルティック!妹二人連れて今すぐ逃げろ!生きて、ここから逃げ出せ!」

 

「え……?」

 

 ガラウがそう叫んだ瞬間、瞳から光を失くし呆然と座り込んでいたリザのすぐ傍に、先程姿の消えたアニャとイズが現れる。だが依然として二人の意識は喪失したままであり、アニャに至っては今すぐにでも傷を塞がなければ死んでしまう程に出血していた。

 

 そんな二人の──特にアニャの惨状を目の当たりにし、リザはさらに取り乱してしまう。

 

「嫌ァ!二人が、二人がぁ!」

 

「イズは助かる!アニャも治療すればなんとかなる!だから、いい加減にしろリザァ!!」

 

「嫌ァァァァァァ!」

 

「ぐッ……こんの、クソッタレェェェエエエ!!!」

 

 リザに言葉が届かず、苛立ちのあまり咆哮するガラウ。その時、凄まじい勢いで無数の腕が彼らに迫った。

 

 割り、抉り、砕き、潰し。地面はおろか周囲にある全てを悉く破壊しながら迫り来る、暴威を体現する腕の群れ。それをガラウは睨めつけ、そして彼は────戦鎚を己の傍らに突き立てた。

 

「正気を取り戻せ馬鹿野郎ォォォ!!!【敵意集中(ヘイトオーラ)】ッ!【金剛体(ダイヤモンドボディ)】ィィィイイイイイッッッ!!!!」

 

 瞬間、ガラウの身体は鋼に──否、金剛(ダイヤモンド)に化す。そう思わず疑ってしまう程に、彼の身体が硬化する。

 

【金剛体】。それは数多く存在する防技の中でも、限られたごく僅かな近接職──重戦士(ヘビーナイト)にしか習得し得ない、防技の奥義の一つ。

 

 金剛と化したその身は、真に鉄壁の防御力を誇る────そのガラウに、無数の腕が集中し、殺到する。

 

 最初、ガラウが感じたのは重さと鈍さだった。【金剛体】を以てしても、完全には防ぎ切れぬ衝撃と威力。それが一度ならず二度、三度──そして何度も連続で襲ってくる。止まることを知らないその猛攻は、彼が纏う鎧を容易に打ち砕き、金剛と化している彼の肉体に確かなダメージを、着実に蓄積させていく。

 

 もしガラウがその身を金剛としていなかったのなら、彼はとっくのとうに物言わぬ肉塊へと果てていたことだろう。

 

「ぐ、ぉ、ぉぉお……ッ!」

 

【敵意集中】にて腕の注意を引き、本来ならば一撃絶命必須の猛攻をその一身に受け止め耐えるガラウ。その背中を、リザは地面に座り込み、呆然自失に眺めていた。

 

「……もう、終わりよ。あんな化け物、勝てっこない……私たちも皆も殺されて、終わるのよ……」

 

 光を失ったままの瞳で、絶望に呟くリザ。だが、戦意喪失している彼女に、苦し紛れにガラウが言葉をぶつける。

 

「生き、るのを……諦めるんじゃ、ねえェエッ!俺たちはまだ死んでない!まだ……終わってねェエエエエッ!!」

 

「……」

 

 だが、しかし。そのガラウの言葉すらも、もはやリザに届くことはない。彼女の心を打つことはない。

 

 ──ク、ソ……!

 

 やがて、ガラウの身体が押され始める。それでも彼はなんとか踏ん張ろうとするが、もう限界が近かった。

 

 秒刻みに増す鈍痛。殺し切れない衝撃。それらがガラウの肉体と精神を磨耗させ、追い詰めていく。

 

 そこに駄目押しと言わんばかりに、魔石の像がまた新たな腕を喚び出す。それも今度は先程以上の、大量を。

 

 大量の腕は絡み合い、形を成す。それは遠目からであれば、薄青い一本の巨槍に見えた。巨槍を成した腕はグラリと大きく傾き、無数の腕に一方的に嬲られ続けているガラウへと狙いを定める。それを見た彼の頬を、一筋の汗が伝った。

 

 ──この状況で、あんなのを受けちまったら……!!

 

 ガラウが旋律を覚えるのも束の間────腕の巨槍は勿体ぶることもなく、ただ真っ直ぐに飛来を始めた。宙を裂き貫きながら、彼を串刺しにせんと押し迫る。

 

 無数の腕に殴られ叩かれながら、その光景をガラウは眺める。不思議と、それはゆっくりと遅かった。

 

 確実に迫り来る絶対の死────それをあまりにも切実に、予感しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつけば、僕の身体は沈んでいた。何処まで続く、何処までも暗く、そして昏い闇の中に。

 

 手足が、動かない。動かせない。まるで泥濘(でいねい)に突っ込んだかのように重く。まるで鉛が如く重く。

 

 沈んでいく。沈み続けていく。僕の身体が、底の見えぬ闇の果て──深淵の最果てに引き摺り込まれていく。

 

 このまま沈み続けたら、もう一生戻れない。そんな予感────否、確信があった。あったが、それでも僕の手足は僕の手足ではないかのように、僕の意思を聞かない。僕の意思が届かない。

 

 そうしてだんだんと、頭の中もぼやけ始めて。いつの間にか何をしたかったのか、忘れ初めて。

 

 こうして考えることも億劫になって。次第に虚無に染まって。僕は、真っ白になって。

 

 そして────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なあ、クラハ」

 

 ────────酷く、懐かしい声が響いて聴こえた。

 

 ──……。

 

 炎が、燃えている。とても、凄く熱い炎が、轟々と逆巻き燃え上がっている。

 

 ──……ッ。

 

 それを感じ取った瞬間、僕の中で何かが一気に膨らみ、弾けた。

 

 ──……ぼ、くは……ッ。

 

 このままではいけないと、必死に叫んでいる。このままで終わる訳にはいかないと、必死に訴えている。

 

 ──ぼく、は……ッ!

 

 どれだけそうしようと思っても、あれだけ意思を以ても微動だにしなかった手が、足が、身体が。僅かに、ほんの僅かに動いていく。動かせていく。

 

 ──ぼくは……僕はッ!

 

 頭の中を映像(きおく)が駆け巡る。様々な記憶が、一気に、そして止め処なく溢れ出す。

 

 

 

『じゃあ、お望み通り二人同時に喰ってやるよお!!』

 

 

 

 それが、最初だった。

 

 

 

『ならないんじゃあねえ!なれねえんだよ!!!』

 

 

 

 そうだ。いつだって、そうだった。

 

 

 

『この糞餓鬼がぁッ!!下等生物の、分際でェッッッ!!!』

 

 

 

 負けていた。結果的に見れば負けではないのかもしれないが、それでも負け続けだった。

 

 それがどうしても、どうしようもなく、心の底から嫌だった。

 

 

 

『強く、なります』

 

 

 

 言ったはずなのに。

 

 

 

『心配にならないくらいに』

 

 

 

 そう、言ったはずなのに。

 

 

 

『不安なんて欠片程も覚えないくらいに』

 

 

 

 確かに、そう、言ったはずなのに。

 

 

 

『そんな強い──漢に、僕はなります。なってみせます』

 

 

 

 言った────誓ったはずなのに。だが、それでこの様だ。こんな自分が、本当に嫌になる。

 

 強くならないといけない。ずっと、もっと。強く、強く。

 

 じゃないと、また心配をかけさせることになる。また不安を覚えさせることになる。

 

『大丈夫か!?しっかりしろ、おい!』

 

『ごめん、クラハ……ごめん、なさい……!』

 

『お前の好きに、してくれ』

 

『……なあ、クラハ。俺って、なんなんだ……』

 

 もう、ごめんだ。こんなのはもうたくさんだ。心配させるのは。不安にさせるのは────泣かせて、しまうのは。

 

 ──ごめんだ。そんなの、二度とごめんだ……!

 

 腕を、手を伸ばす。前へ、前に。その先に見えるものを。在るものに届かせる為に。この手で掴み取る為に。今こうしなければ────僕は前に進めない。一生強くなれない。そんな予感が、ただひたすらに僕を突き動かす。

 

 眩く輝くソレ(・・)に、手を伸ばす。必死に伸ばし続ける。そして、遂に──────

 

 

 

 

 

「強く、なるんだああああああッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 ──────しっかりと、確かに掴んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、ガラウ=ゴルミッドは目撃することとなる。そしてその光景を、彼は生涯忘れないだろう。

 

 己を貫かんとした腕の巨槍は、群がっていた無数の腕諸共に吹き飛ばされ、魔石の像は迫り来るその一撃を打ち消さんと大剣を振るう。

 

 大剣から放たれた魔力の斬撃は秒も経たずにかち合い、拮抗することもなく、何の抵抗も許されずに逆に呑み込まれ、その上で三つに束ねられた『厄災』──『三厄災(トリオンカラミティ)』にまで到達した。

 

『三厄災』が軽々と浮き上がり、吹き飛び、その背後に生えていた巨大な魔石塊と激突し、それを粉砕してなお飛び続け、廃墟に突っ込み瞬く間に瓦礫の山に変えて、ようやく沈黙する。

 

 派手に土煙が宙に舞う最中、地面に片膝を突くガラウが呆然と、まるで信じられないように呟く。

 

「お前、さんは……」

 

 そう、彼は目撃者となったのだ──────

 

 

 

 

 

始動開始(スタートオン)────【超強化(フル・ブースト)】」

 

 

 

 

 

 ──────伝説の、始まりの。



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ARKADIA────VS『三厄災』

 全身から力が漲る。力が湧く。力が、溢れ出してくる。それでも身体が訴えかけてくる────まだまだこんなものではない、と。

 

 言うまでもなく、相手は強大過ぎる程に強大。確かめるまでもなく、今までの中で最強。

 

 だが、何故だろう。そうだと認識しているはずなのに──────

 

 

 

 ──負ける気がしない。

 

 

 

 ──────その確信が、胸の中で疼いて止まらない。

 

起動開始(スタートオン)────【超強化(フル・ブースト)】」

 

 考えるでもなく、唐突に浮かび上がった言葉を呟いて。この手に握る得物の長剣(ロングソード)を逆手に持ち替え、無尽蔵に込み上げてくる力のままに僕は地面を蹴りつける。

 

 バガンッ──たったそれだけの動作で、僕の周囲一体が爆ぜ割れ陥没し、刹那僕の姿はそこから消え失せていた。

 

 視界に映り込む周りの景色が、溶け出すように凄まじい勢いで流れていく。喧しい風切り音を聴きながら、僕はただ一心に前に前にと駆ける。

 

 目指す前方────崩壊し瓦礫の山と化したそこから、不意に無数の腕が天を突くように飛び出し、瓦礫を吹き飛ばす。舞い上がった土煙の中から現れたのは、胸に深々と亀裂を刻まれた、三つの厄災を模する、異形の魔石の像。

 

 腕に囲まれながらその場に立つ魔石の像。唐突に胸の亀裂から新たな魔石が生え出し、盛り上がり、その亀裂を歪ながらも埋めて塞ぐ。その最中に喚び出した無数の腕は複雑で読み難い軌道を描きながら、凄まじい速度で僕の方へと接近を仕掛けてくる。

 

 それを眺めて、僕は軽く剣を振るった。

 

「【剣撃砲】ッ!」

 

 瞬間、剣身に伝わった僕の魔力が、空飛ぶ分厚い刃となって撃ち出される。その刃は迫り来る腕たちを悉く斬り捨て、跡形もなく消し飛ばしながらもその勢いと鋭さを全く落とさず、その向こうにいた魔石の像へと直撃し、その身体を大きく斜めに分断せしめた。

 

 欠片を周囲に飛び散らせながら、斜めに立たれた魔石の像の半身が落下を始める──直後。それぞれの断面から急速に魔石が生え、そして伸びたかと思うと溶け合うかのように混ざり、瞬間魔石の像の身体は元通りとなっていた。

 

 そんな衝撃的な光景を目の当たりにして、僕はさらに勢いを強めて地面を蹴りつける。先程以上に地面を陥没させながら、グンと加速した僕の元に、また新たな腕が捉えようと迫る。

 

 腕を躱しながら、僕は今度は思い切り地面を踏みつけ、宙へ跳躍する。そして透かさず真下目掛けて剣を振るう。

 

「【斬撃波】ッ!」

 

 瞬間魔力の刃が爆ぜ砕け、凹み抉れた地面をさらに無残に破壊する。刃を受けた地面は深々と斬撃の跡を刻まれ、そして宙に大小様々な瓦礫の塊を巻き上げる。

 

 それらに視線をやり、僕は適切な瓦礫を選別し、頭の中で道筋(ルート)を繋げる。そして何の迷いもなくその通りに動いた。

 

 落下する瓦礫を蹴って、蹴って蹴って蹴って。僕は空中を突き進む。腕の追跡を躱しながら、蹴る度にその速度を増しながら。

 

 そして再び、僕は剣を振るった。今度は地面にではなく、近くにあった廃屋へと。

 

 魔力の斬撃は易々と廃屋を断ち、断たれた廃屋は崩壊を始める。落下するその巨大な残骸をあらん限り力強く蹴りつけ、僕はさらに宙を跳んだ。

 

 跳び上がった僕を包み込むように無数の腕が取り囲む──前に、僕は叫んだ。

 

「【魔力放出(マナバースト)】ッ!!」

 

 瞬間、僕の身体から膨大な魔力が勢いよく放たれ、取り囲もうとした腕を一本残らず吹き飛ばしてみせる。そのまま身を屈ませ落下を早めさせた僕は、苦もなく無事に着地する。

 

 落下を受け止めた地面はやはり派手に陥没してしまったが、それに構うことなく僕は即座に駆け出す。離れていた魔石の像は、もう目の前にいた。

 

 ──間合いは詰めた。絶対に逃がさない。

 

 冷静に判断する傍ら、僕は魔石の像に斬りかかる。対する像も背の巨腕が握る大剣を振り下ろす。その見た目とは裏腹に、素早い。

 

 僕の剣と像の大剣。二つの剣身が衝突し、その間に火花を咲かす。それに遅れて────大剣の剣身に罅が走り、刹那甲高い音を立てて砕けた。

 

 僕は刹那にも止まらず、ただ剣を振るう。像もまた別の大剣で受け、そして砕かれる。それをあと六回繰り返し────結果、瞬く間に魔石の像は得物を失うことになった。

 

 空手となった巨腕が、今度は僕自身を握り潰さんと八本一斉に捉えにかかる。だが僕は退がらず逆に一歩、前に詰めた。そして続け様に叫ぶ。

 

「遅い!【魔力放出】ッ!!」

 

 瞬間、僕から爆発するように放たれた魔力が八本の巨腕を弾き飛ばし、直後その全てが粉々に砕け散り、薄青い燐光だけを残して宙に霧散した。

 

 得物のみならず、巨腕までも失った魔石の像──不意にその周囲の空間が揺らぐ気配を察知し、僕は長剣を握る手に力を込める。

 

「させない!そんな隙は与えないッ!」

 

 剣を振りかぶったまま、僕は地面を蹴りつける。像の懐に飛び込んで、駆ける勢いそのままに剣を振り下ろす──直前。

 

 バキンッ──そんな、以前にも一度聴いた音がしたかと思うと、今まさに振り下ろそうとしていた剣が、無情にも砕け散った。

 

 ──なっ……!?

 

 戦闘中の、得物の破損────瞬間、僕の脳裏に光景が過ぎる。

 

『この遊戯(ゲーム)は私の勝ち、ということだなあ』

 

 あの時もそうだった。剣を失い、僕は負けた。先輩を守れなかった。

 

 

 

 そして今、またしても僕はこの手に握り締める剣を砕かれ、失った。

 

 

 

 攻撃が一拍遅れ、その隙に魔石の像の周囲が揺らぐ。そしてあの無数の腕が虚空から現れ、その全てが魔石の像の元に集合する。集合した腕たちは像の腕へと群がり、絡まり、繋がっていく。

 

 そこにあったのは、先程ガラウさんを葬り去らんとしていた腕の巨槍。だが今僕が相対しているこれは明らかにより巨大で、堅牢で、そして鋭利だった。

 

 ──僕は、また負けるのか……?ここで、死ぬ……?

 

 得物を失い、心の中で呆然とそう呟き────俄然僕は拳を握り固めた。

 

「違うッ!負けない!死ねない!まだ、終わってないッッッ!!!」

 

 剣を砕かれたからなんだ。得物を失ったからどうした。それで負けた訳じゃない。死んだ訳じゃない。終わった訳じゃない。

 

 

 

 武器ならまだ、(これ)がある。

 

 

 

 こちらに巨槍を構える魔石の像に対して、僕は握り締めたこの拳に魔力を集中させる。集中させると同時に、頭の中で一つの想像(イメージ)を描き出す。

 

 僕はいつも見ていた。すぐ側で。すぐ傍で──すぐ隣で。その姿を、その戦いを。

 

 鮮やかな紅蓮に燃ゆる髪を揺らし、絶対不敵の笑みを浮かべて、その身一つ拳一つで、並み居る敵を薙ぎ倒してきた。

 

 そう、いつだってあの人は────ラグナ先輩はそうやって戦ってきたんだ。そうして戦っていたんだ。

 

 想像を固く、固く、固く固く固くただひたすらに。思い出せ、あの戦い方を。今はそれを、模倣する。

 

 ──もう絶対に心配させない不安にさせない。絶対の、絶対に。

 

 魔石の像が構えた巨槍の切先を見据え、僕は足で地面を踏みつける。腰を低く構え、拳を振りかぶる。

 

 そして────────

 

 

 

 

 

「もう二度と、絶対に泣かせたりするものかぁあああアアァァアアアアッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 ──────迫る巨槍へ、何処までも固く握り締めたこの拳をぶつけた。

 

 巨槍と拳。武器と武器が衝突し、その間と周囲に衝撃を伝わせ、暴風が逆巻く。そして巨槍の切先が折れ、その全体に亀裂が走り、弾け飛ぶように砕け散る。

 

 露出した魔石の像の腕。像もまた拳を握っており、それもまた僕の拳と衝突し────呆気なく砕けた。だがそれでも僕の拳は止まることなく宙を突き進み、がら空きとなっていた像の胸を打ち、貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おいおい嘘だろ。ブッ倒しちまったぞ……あの、バケモンを」

 

 イズとアニャの魔石に込めた回復魔法による治療を終え、気を失ったリザを地面に寝かせたガラウが呆然と呟く。それも無理はない。目の前の激闘をその目で見た上でも、到底信じられない光景の連続だったのだから。

 

「まるで別人じゃねえか。同じ小僧にゃ思……」

 

 薄青い粒子と化し、風に流され霧散していく魔石の像と、拳を突き上げたままその場に静止しているクラハの姿を眺め、ふとガラウは一つの単語を思い出し、無意識にそれを呟いた。

 

「まさか、二重魔力核(ダブルコア)だってのか……?」



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ARKADIA────帰ろう

「ふざけるな!一体何なんだこれはッ!?」

 

《S》冒険者(ランカー)クラハ=ウインドアと、三神合一の厄災『三厄災(トリオンカラミティ)』との戦いの決着を見届け、直後魔石の投影機を粉々に破砕させたアルカディアが、動揺を隠せずに叫び散らす。

 

「認めない認めない認めない認めてなるものかこんな滅茶苦茶で、出鱈目な奇跡!私は断じて認めはしない!!」

 

 片手で頭を押さえ、虹と灰の瞳を見開かせ、先程まであった余裕などまるで嘘だったかのように、震える声でアルカディアは続ける。

 

「そもそもアレは何だ?何故ただの人間にあそこまでの力が?あんなただの、矮小に過ぎない人間が何故『三厄災』を圧倒し得る力を?ありえない、ありえないありえないありえないッ!まさか、二重魔力核(ダブルコア)保持者だとでもいうのかあの人間は────クラハ=ウインドアはッ!?」

 

 アルカディアが疑問を撒き散らす度、それに呼応するかのように、彼女の周囲の魔石が弾けるように砕け散る。そして、不意に彼女はサクラの方へと顔を向けた。

 

「サクラさん……『極剣聖』サクラ=アザミヤッ!最初からこうなることをわかって、だから貴女は……ッ!」

 

 しかし、その言葉に対してサクラは静かに、小さくその首を横に振った。

 

「いや。私はただ信じていただけだ。一人の《S》冒険者──クラハ=ウインドアという男を。何せやればできる奴だからな、彼は」

 

 そう言って、フッと微笑を浮かべてみせるサクラ。そんな彼女に対してアルカディアは顔を歪め、そこに怒りという感情をありありと露わにしながら吐き捨てる。

 

「信じていただけ?信用、信頼……くだらない。くだらないくだらないくだらないくだらない心底くだらないッ!!信用なんてできるものか、信頼なんてするものかよお前ら人間が……大いなる主祖に、お母様に────あの最低最悪のろくでなし(・・・・・)に利用される為だけに創り出された、ただの部品(パーツ)風情がァ!!!」

 

 そこまで言って、ぜえぜえとアルカディアは肩を上下させ、息を切らして止まる。そして数秒の間を置いて、彼女はスッと元の無表情に戻った。

 

「まあ、正直これは想定外の事態ですが、大した問題ではありません。ええそうです、別に『三厄災』が倒されたところで、問題なんてありはしない。だってこの私が──第四の厄災たる『理遠悠神』(わたし)がこの通り、依然健在なんですから。あは、あはははっ!」

 

 人形めいた無表情を喜悦の悪笑へと染めて、俄然虹の瞳を爛々と無垢に過剰に輝かせ、灰の瞳をより一層暗く昏く深めさせ、その身から底知れぬ人外の魔力を溢れさせながら、アルカディアが誘い文句を謳う。

 

「さあ、さあさあさあ!始めましょうよ、始めちゃいましょうよサクラさん!人類存亡、世界滅亡を賭けた一世一代の大決戦を!棒も槍も許さない、絶対存在同士の極致終戦(さいごのたたかい)を!御覧の通り私は既に出来上がってます。後は貴女だけ!理性なんて脱ぎ捨てて、殺意露出させて、派手に私と踊り狂いましょう!?」

 

 それはさながら、恋に焦がれる乙女。キラキラとその顔を恋色に染めて煌めかせて、艶やかな熱を帯びた声音を以てアルカディアはサクラを甘ったるく誘う、誘い込む。自らが望む、甘美にして至上なる、殺し合いの舞踏へ。

 

 対するサクラも、アルカディアに言われた通り腰に下げた刀の柄に、手を伸ばし握り込む。

 

「…………」

 

 そして、彼女は──────

 

「……やはり、君はまだ勘違いしているよ」

 

 ──────そう、言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『鋼の巨人(メタイツ)』ガラウ=ゴルミッド様、『虹の妖精(プリズマ)』『三精剣』の皆様、そして『大翼の不死鳥(フェニシオン)』クラハ=ウインドア様が帰還しました!」

 

『理遠悠神』アルカディアの眷属である魔石兵、そして三つの厄災が合わさった、恐らく〝絶滅級〟を遥かに凌駕する魔石の像を倒し、冒険者組合(ギルド)輝牙の獅子(クリアレオ)』へと無事……とは完全には言えないが、それでも帰還した僕たちを出迎えたのは、歓喜の声だった。

 

 目の前に迫る危機を脱し、安堵する冒険者(ランカー)たち。……けれど、それを得る為に支払った代償は少なくない。

 

 幸い後遺症にはならないが、それでも当面の間は冒険者としての活動を休止せざるを得ない程の重傷を負ったガラウさん。肉体的にはともかく、精神的ショックを受けてしまい、深刻な心的外傷(トラウマ)を抱え込んでしまったリザさん。目立った外傷こそなかったものの、だいぶ内臓が傷つき、今後後遺症が出る恐れがあるイズさん。

 

 そして──ガラウさん以上の重傷を負い、利き腕であった左腕を失ってしまった、アニャさん。彼女は奇跡的に一命を取り留めたが、今後の冒険者活動は絶望的だろう。

 

 結果この戦いで、番付表(ランキング)に、それも全員が上位に名を連ねる、屈指の実力者たちが軒並み今後の活動に支障を来す被害を受けた訳だ。各々が所属する冒険者組合(ギルド)──特にチームの存続が危ぶまれる『虹の妖精』が受ける影響は多大であることは明白である。

 

 危機を退け、ひとまずは街の防衛に成功したが、それを手放しには喜べない状況の最中。唯一無傷で五体満足だった僕は────一室にて、先輩と二人きりになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋は、静寂に包まれていた。まだ浮かぶ月の明かりだけが薄く照らす中、僕は今──凄まじい緊張の只中に身を置かされていた。

 

 ほんの一言すら口から漏らすことも憚れる状況。僕はただ一心に考える。

 

 ──どうして、どうしてこうなった……?

 

 僕は今、この部屋にあるたった一つの寝台(ベッド)に腰掛けている。……そして、僕のすぐ隣には。すぐ傍には────

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ────ラグナ先輩がいる。この部屋に入ってから、何故か一言も発することなく、無言を保つ先輩が座っている。それも互いの腕が、身体が触れ合ってしまう程の至近距離で。

 

 ──考えろ。何だっていいから今はとにかく考えるんだクラハ=ウインドア。先輩の腕が柔らかいだとか、仄かに良い匂いがするなとか今思ってる場合じゃないんだ……!

 

 深夜。一つの部屋。そして、若い男女が二人きり────もうなんか色々と準備というかお膳立てが整ってしまっているというか、とにかく僅かな拍子で間違い(・・・)がいつ起きても不思議じゃない、そんなまずい、主に僕がまずい状況。それだけでも相当なものだというのに──そこにさらに加わる、先輩の様子。

 

「…………」

 

 この部屋に来てからというものの、理由は全く以て不明だが何も話そうとしない先輩。まあ、別にそれだけならば問題はない。それだけだったのならば、問題などなかったのだ。

 

 その口を開こうとはしない。しないが、その代わりと言わんばかりに──先輩はもじもじと身体を小さく揺らす。ふと何気なく見やった顔は、薄暗くその上俯いていたのでわかり難かったが、何処か切なげで、ほんのりと赤かった気がする。

 

 それが、その様子が本当にキツい。冗談抜きにキツい。精神的にキツい。理性が直に揺さぶられて、一瞬でも気を抜くと跡形もなく吹き飛びそうになる。枷を引き千切って、箍を外して今すぐにでも間違いを起こしそうになる。

 

 というかそもそも何故先輩はそんな風になっているのだろう。何でそんな……まあ、うん。

 

 ──本当に、一体どうして……。

 

 全ての始まりはこの『輝牙の獅子(クリアレオ)』のGM(ギルドマスター)──アルヴァ=クロミアさんにある。彼女は『輝牙の獅子』に帰還した僕に真っ先に言葉をかけたのだ。

 

 

 

『『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の坊や。帰ってきたとこ悪いんだけどさ……『炎鬼神』が坊やと話をしたいんだとさ。二人きりでってご所望だから、部屋を用意した。じゃあ後はよろしく』

 

 

 

 そうして案内されたのがこの部屋だった訳だが……恐らくは泊まり込み用の一室なのだろう。恐る恐る扉を開いてみれば──先輩が独り、寝台に座っていたのだ。明かりも灯さず、薄暗い中で。この様子で。

 

 その雰囲気に思わず気圧され戸惑う僕を、先輩は何も言わずただトントンと寝台を、自らの隣を指で数回突いた。少し遅れて、それが「ここに座れ」と暗に示しているのだと気づき、畏れ多くも僕は先輩の隣に──ある程度の距離を空けて座った。座ったのだが、すぐさま激しく動揺する羽目になった。

 

 何故かだって?それはそうだろう。だって────先輩に腕を掴まれたのだから。

 

 危うく声を上げそうになるのを我慢する僕を、先輩はやや遠慮がちに自らの元へ引っ張る。またも遅れて、暗に「寄れ」と示しているのだと僕は気づいた訳だが、それと同時に疑問を抱く。何故先輩は何も言わず、その口を頑なに閉ざしたままなのだろう、と。

 

 アルヴァさんによれば話があるとのことだったが、先輩は一向にその話を始めようとはしない。そうしてその理由も上手く訊き出せず────現在に至る。

 

 ──どうしよう。僕はどうすればいいんだろう。訊くべきか?いい加減、僕からその話とやらを訊き出すべきなのか?先輩はそれを求めてるのか……?

 

 今現在この世界(オヴィーリス)が直面している危機も忘れ、どうすることもできずにただ冷や汗を流す僕──だが、突如として事態は急変を迎える。

 

 不意に、こちらにも聴こえるくらいに大きく、そして深く先輩が息を吸い、吐いた。吐いて、それから意を決したように────

 

 

 

「クラハ」

 

 

 

 ────初めて、口を開き言葉を出した。出して、先輩は俯かせていた顔を上げ、僕の方へと向けた。その顔は、やはり薄ら赤く染まっていた。

 

「は、はいっ?ど、どどうしました先輩?」

 

 いつかいつかと待っていたのに、いざ声をかけられみっともなく上擦り震える声で返事する僕を、琥珀色の瞳がじっと見つめる。静かに、見据える。

 

 数秒の静寂を経て、そして。

 

「抱き締めさせろ」

 

 そんな一言が、僕の耳朶を打った。打つとほぼ同時に────

 

 

 

「──んむぐっ!?」

 

 

 

 ────視界が黒く染められ、顔全体がふわふわむにゅむにゅと柔く、それでいて弾力のある感触に沈み、包み込まれた。

 

 辛うじて肺に空気を取り込める中、ただでさえ先輩の一言でこの上なく動転しかけた僕の意識は、この何処か──否、確実に覚えのある感触の前に混迷を極め、思わずそこから抜け出そうと暴れる────直然だった。

 

「俺、怖かったんだ」

 

 僕の後頭部に腕を回し、強く、より強く抱き締めながら、先輩がそう言う。その声は、若干震えていた。

 

「お前があの変な奴にぶっ飛ばされて、死んだんじゃないかって、思って。本当に怖くて、怖くて」

 

 もはや何も言えずにいる僕に、先程までの沈黙が嘘だったかのように、先輩は続ける。若干震えるその声は、次第に涙に濡れてしまっている気がした。

 

「けど、違った。お前は生きてた。ちゃんと生きて、勝って、こうして帰ってきてくれた」

 

 だが、違った。その震えは、その涙は。これまで先輩が味わったものとは違う。流してきたものとは違う。

 

 それに僕が気づくと同時に、後頭部に回された腕が離れる。こちらに自由が戻り、咄嗟にこの極上の感触の元から──先輩の胸元から僕は顔を上げようとした。上げようとして、その前に僕の両頬を指先が触れた。

 

 そっと、僕の顔が持ち上げられ、自然と視線が上を向く。そして視界に飛び込んできたのは────

 

 

 

「だから、今はそれが凄え嬉しい」

 

 

 

 ────琥珀色の瞳を濡らし、その頬に涙を伝わせる、満面の笑顔を浮かべる先輩だった。

 

 ──先輩……。

 

 今まで、先輩は泣いてきた。何度も、何度も、僕はこの人を泣かせてしまった。

 

 恐怖。悲哀。後悔。様々な感情をその胸に抱き、そして涙を流してきた。流させた。僕はそれが堪らなく辛く、そうさせる自分の不甲斐なさと情けなさに心底腹が立ち、そして嫌気が差した。

 

 けれど今先輩が流すその涙は、これ以上にないくらいに綺麗で、温かで、何処までも優しい。今までとは全く違う、先輩の涙。

 

「俺、わかんねえんだ。今の手前(テメェ)の気持ちが。この胸の中にある、このグッチャグチャの気持ちが。こんなの知らねえし、初めてなんだ。でも、一つだけ確かなモンはわかってる」

 

 そんな先輩の涙に、笑顔に思わず見惚れてしまう僕へ先輩が言葉を贈る。

 

「街も約束も、守ってくれてありがとう────おかえり、クラハ」

 

 ……その言葉を受け取った瞬間、不覚にも僕は目を見開かせ狼狽えかけてしまったが、すぐさま平静さを取り繕い、僕もまたそれに見合う言葉を返した。

 

「はい────ただいまです、ラグナ先輩」

 

 

 

 

 

「……」

 

 すうすうと可愛らしい寝息を立てながら、静かに眠る先輩の傍に座り、僕は部屋の窓から夜空を見上げる。夜空には月と星と────あの、時計板を模した巨大な薄青い魔法陣が浮かんでいる。

 

 さっきも言った通り、戦いは終わった。だがそれはあくまでも僕たちの戦いが、だ。

 

 まだ全てが終わった訳ではない。むしろ、まだ何も終わってはいない。何故なら今回の事態の大元は────あの魔石の塔にて、未だ健在なのだから。

 

 ──後はお願いします、サクラさん。貴女なら、きっと……。

 

 依然魔法陣の針は進んでいる。それが一周するまで、もう間もなくである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「勘違い?これ以上何を勘違いしてるって言うんですか私が!?すっかりその気になってるのを誤魔化してないで、さっさとその得物を抜け『極剣聖』!私に殺意を突き立てろサクラ=アザミヤ!!」

 

 まだ勘違いしている────そう言われたアルカディアだったが、聞く耳を持とうとせずなおも彼女はサクラを煽り立てる。腰の刀を抜けと迫る。

 

 そんなアルカディアに対して、サクラは哀しそうな表情を刹那に浮かべ、そして再度口を開く。

 

「だから、それだよ。君の、もう一つの勘違いというのは」

 

 そう言って、サクラは刀の柄を握り締め。

 

「私は……戦う為にここまで来た訳じゃない。ましてや、君を殺そうなんて微塵も思ってはいない」

 

 鞘から抜かずに刀を持ち上げ、そして一切の躊躇もなく、地面へと落とした。

 

 刀を──得物を放棄したサクラは空となった手を、呆然と立ち尽くすアルカディアに差し伸べて。優しげな微笑みを浮かべて、一点の曇りもない声音で────

 

 

 

「私と帰ろう────フィーリア」

 

 

 

 ────そう、言うのだった。



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ARKADIA────『極剣聖』対『理遠悠神』

「…………」

 

 こちらへ伸ばされたその手を、立ち尽くしながら呆然と眺めるアルカディア。そうして数秒経て────彼女はその顔を酷く不愉快そうに歪めさせた。

 

「正気ですか?サクラさん、貴女自分が一体何をしているのか、言っているのか理解してるんですか?」

 

 辛辣な声音をサクラに叩きつけるアルカディア。だがサクラは意に介さず、微笑みを浮かべたまま、さも平然と彼女へ言葉を返す。

 

「ああ、理解しているとも。私と、皆の元へ帰ろう。フィーリア」

 

 サクラの言葉に、欠片程の迷いはない。彼女らしい、何処までも真っ直ぐで、嘘偽りなどない真剣な言葉。それをアルカディアは感じ取り────故に、辟易とした。

 

「……興が冷める。失望だ、『極剣聖』」

 

 つまらなそうに吐き捨てて、それと同じものを瞳に宿らせて、アルカディアはサクラに言う。

 

「刀を拾え。それを抜け。私と戦え。私は滅びの『厄災』、『理遠悠神』アルカディア。人類が打倒すべき存在(モノ)。故にその手を取ることはない。その手は繋ぐ為に開くのではなく、殺す為に固く握り締めろ」

 

 そう言うと同時に、常人であれば浴びただけでも生きることを諦めるような、真正の人外だけが持ち得る殺気をアルカディアは放つ。それは遠回しに、それ以外の行動を一切許さないと言っていた。

 

 だが、しかし。今アルカディアの前に立つのは『極剣聖』サクラ=アザミヤ。その程度の殺気で折れることもなければ、揺らぐこともない。

 

 刀を一向に拾おうとしないサクラに、アルカディアは深々と嘆息し、忌々しそうに呟く。

 

「そうですか」

 

 アルカディアの呟きと共に、彼女のすぐ側で、何もない宙に突如として薄青い粒子が舞い、瞬時にそれは一個の魔石となる。先端が歪ながらに鋭く尖った、命を奪うには充分過ぎる殺傷力を有した魔石に。

 

 魔石は数秒、そこに浮いていたかと思うと。

 

 ビュンッ──そんな風切り音と共に、消えた。

 

 硬いもの同士が凄まじい勢いで衝突したような異音がして、その方向にサクラが視線を向けると、そこには先程アルカディアの側で浮いていた魔石が、同じ魔石である床に突き刺さっていた。

 

 遅れて、千切れた彼女の黒髪が数本宙を舞い、そしてその頬に赤い一筋が引かれる。

 

「次は当てる。もう二度は言わない────私と戦え、『極剣聖』」

 

 床に深々と突き立った魔石を見下ろすサクラに、淡々と、先程の高揚などまるでなかったかのように。無表情無感情で言うアルカディア。

 

「……」

 

 そんなアルカディアへ、サクラは視線を戻す。戻して、彼女は────

 

 

 

「言っただろう。私は戦いに来た訳じゃない、君を連れ戻しに来たんだ」

 

 

 

 ────頑なに、そう言い返すのだった。瞬間、アルカディアは瞳を大きく見開き──彼女の周囲に無数の魔石が宙に現れる。微動だにせず浮かぶそれらは、床に突き刺さっているものと同様に、先端が鋭利に尖っていた。

 

「これで少しは気も変わりました?」

 

 まるで忠告のように訊ねるアルカディア。だがそれでもサクラは床にある刀を拾おうともしなければ、全く動じることもない。

 

 そんな彼女の様子を目の当たりにして、アルカディアは────その顔に貼り付けていた無表情を、憤怒の形相へと様変わりさせた。

 

「ならば死ね。この『理遠悠神(アルカディア)』を失望させたままにッ!!」

 

 アルカディアがそう叫ぶや否や、彼女の周囲に浮いていた魔石の一つが消失する。それと同時に風切り音が喧しく一瞬響いて、そして。

 

 

 

 

 

 ズガンッ──床に突き刺さった。サクラの、右肩を掠めて(・・・)

 

 

 

 

 

「……何?」

 

 思わずといったように、アルカディアが訝しげな声を漏らす。当然だろう、その魔石は間違いなく──サクラの心臓を貫くつもりで放ったはずなのだから。

 

 だが、結果は違う。魔石はアルカディアの定めた狙いから大幅に逸れて、サクラの右肩を掠め床に突き刺さった。その現実を前にして、彼女は疑問を抱かずにはいられなかった。

 

 ──外した……?いや、そんなことはない。私は確実にサクラさんの心臓を狙った。狙って、魔石を放った。……紙一重で躱されたということか。

 

 その割にそれらしい動きをサクラは全く見せなかったが────その事実を無意識ながらに無視して、アルカディアはそう考えて己を納得させる。させてから、彼女を嘲ってみせる。

 

「戦わないとほざいておきながら、ちゃっかりこちらの攻撃を躱すなんて。酷いですね、まさか騙し討ちでもしようとしてたんですか?貴女らしくもない」

 

 そうやって非難をぶつけるアルカディアであったが、明らかにその機嫌は良くなっている。対するサクラといえば、魔石が掠めた右肩に手をやっていた。

 

「……」

 

 右肩に触れたサクラの手は、血で赤く染まっている。それを見た彼女は────憤慨することもなければ、恐怖することもなく、フッと何故か口元を嬉しそうに綻ばせた。

 

「これで確信した。……全く、存外君は素直じゃないな」

 

「……は?」

 

 予想だにしないサクラの発言に、意味不明とでも言いたげにアルカディアが声を漏らす。そんな彼女に依然サクラは微笑みを向けながら、優しく穏やかに言う。

 

「待っていろ。手を取るのが気恥ずかしいというのなら、私がそちらまで行くとしよう」

 

 そしてその言葉通り、サクラはその場から一歩を踏み出し、ゆっくりと砕けた玉座の方へ────アルカディアの元へ歩き始めた。

 

「なっ、何を言って……い、いい加減にしろ『極剣聖』ッ!刀を、得物を拾え!」

 

 あまりにも想定外なサクラの反応と態度と行動に、アルカディアの平静さは呆気なく崩されて、どうしようもなく乱されてしまう。もはや体裁を取り繕う余裕すら失くしてしまったのか、震える声で懇願するかのようにそう叫ぶが、サクラは刀を見向きもしない。彼女はただ真っ直ぐに、アルカディアだけを見据えていた。

 

 私は戦いに来た訳じゃない────その言葉が本気であると、確固たる意志の元に在ると見せつけられ、それはアルカディアの精神を限界間近まで追い詰めてみせる。

 

「く……来るな。来るな来るな来るな!こっちに……来るなァァァアアッ!!!」

 

 異質の瞳を思い切り見開かせ、アルカディアは錯乱しながら絶叫する。それと同時に彼女の周囲に浮かぶ魔石がまた一つ、そこから消え去る。

 

 今度はろくに狙いも定めていない、ただサクラの歩みを止める為に撃ち出された一撃。魔石は豪速で大気を裂き、宙を突き進みながらサクラへと飛来して────彼女の足を掠め通り過ぎた。

 

「また……!?」

 

 驚愕の声を漏らすアルカディア。再度彼女の側から魔石が消え失せ、今度こそサクラの身体を穿つ────ことはなく、彼女の脇腹を掠めて壁に突き刺さる。

 

 一度ならず、二度も三度も。サクラへ向けて撃ち出したはずの魔石が悉く狙いから外れ、その現実がアルカディアをこれでもかと追い込んでいく。

 

 ──当たらない。

 

 魔石が消える。サクラの左肩を掠める。

 

 ──当たらない。

 

 魔石が消える。サクラの右腕を掠める。

 

 ──当たらない、当たらない……!

 

 魔石が消える。サクラの左足を掠める。魔石が消える。サクラの腰辺りを掠める。

 

 ──当たらない!当たらない!当たら、ないッ!?

 

 次々と消える魔石。次々と増える、サクラの掠り傷。そこから血が滲み、彼女の着物を点々と赤く染めていく。

 

 だが、それでもサクラは足を止めない。どれだけ傷が増えようと、血が滲み流れようと。彼女はその歩みを止めず、アルカディアの元まで進み続ける。

 

 ──どうして当たらないっ?どうして、どうしてどうしてッ!?

 

 それはサクラが最初と同じように、魔石を紙一重で躱しているから────そうやってアルカディアは己を無理矢理納得させ、困惑を鎮めようとするが、もはやそれも叶わない。

 

 ……いや、最初からずっと、わかっていた。ただ、認めたくなかっただけ────本当にサクラには、戦う意思なんてないことを、認めたくなかっただけだ。

 

 サクラは魔石を紙一重で躱してなどいない。そう、躱してなどいなかった。最初から、ずっと。

 

 理解していながらも理解することを拒んでいた、その事実をようやっと認め、受け入れ──────彼女はその答えに辿り着いてしまった。

 

 

 

 ──………当たらないんじゃ、ない。私が……当てようとしてないんだ(・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 散々、今まで散々自分は煽っていた。訴えていた。戦えと、殺意を振り翳し、突き立ててみろと──『極剣聖』サクラ=アザミヤに言っていたのだ。

 

 だからこそ、アルカディアは今の今まで自分を保てた。正気でいられた。サクラの、人間の敵として。『理遠悠神(アルカディア)』として。

 

 だが、結局は無理だった。そもそもの話自分だって────戦おうとしていなかったのだから。敵に、『理遠悠神』に成り切れていなかったのだから。

 

 ──…………あ……れ……?

 

 そこまで考えて、ふとアルカディアは疑問に思う。その疑問は、あっという間に彼女の胸の内を埋め尽くす。

 

 何故自分は『理遠悠神』に成り切ろうとしていたのだろう?何故、自分は敵で在ろうとしていたのだろう?

 

 そんなこと、する必要などないのに。そう、自分は厄災、第四の滅び──『理遠悠神』なのだから。だからそれに成り切るだとか、関係ないのだ。

 

 だからこそ、敵で在ろうとした。敵で在ろうとしている。人間が打倒すべき、絶対敵に。

 

 ──じゃあ、何で私はサクラさんに攻撃を当てようとしなかった……の?

 

 それは自分が『理遠悠神』に成り切れていないから。敵で在ろうとしていないから────自問自答を終え、またしても疑問が脳内を埋める。

 

 ──あ、れ?成り、切る?『理遠悠神』に?そんな必要ないのに?え?あれ、あ、れ……?

 

 思考が乱れる。精神が喰い荒らされる。矛盾という矛盾がアルカディアを呑み込む。

 

 

 

 そして、その果てに────アルカディアの中で決定的で、そして致命的な何かが弾けて、砕けた。

 

 

 

「う、ぐぁ……あアあぁあァァアあッッッ?!あアああアアアっ!!!」

 

「っ!?フィーリアッ!!」

 

 突然喉が破り裂けるのではないかと思う程に、明らかに尋常ではない絶叫を迸らせ、響き渡らせるアルカディア。両手で頭を押さえてその場に蹲り、依然絶叫を上げながら激しく痙攣し始める。

 

 そんな、誰がどう見ても異常な彼女の姿を前に、流石のサクラも堪らず慌てて彼女の元まで駆け出そうとするが、サクラはその途中で半ば無理矢理に止まった。

 

 何故ならば、もしそのまま突き進んでいたのなら────サクラは確実に死んでいたからだ。自分の周囲を取り囲むようにして浮かぶ、大小無数の魔石に首を貫かれて。

 

 宙で静止している魔石をサクラが見つめていると、やがて頭を抱え込み蹲っていたアルカディアが、フラフラと立ち上がる。

 

「ちが、う……わたし、はある、かでぃあ……『理遠悠神』アルカディア……私は『理遠悠神』アルカディア!フィーリアじゃない!フィーリアなんて、最初から、ずっと!存在なんかしてないッ!」

 

 そう叫ぶアルカディアの額、その左側で薄青い粒子が輝く。瞬間、そこにあったのは────酷く歪な、薄青い角。

 

 この局面、一本角(ふかんぜん)から二本角(かんぜん)に至ったアルカディアが、魔石に囲まれ身動きの一切を封じられているサクラに告げる。

 

「言え、『極剣聖』ッ!戦うと、言え!でなければ……今すぐにでもお前を殺すッ!今度こそ、絶対にッ!!」

 

 凄まじいまでの魔力と殺気を放ちながら、迫真の覚悟を携えて、アルカディアはその腕を振り上げる。

 

 そんな彼女の姿を見て、そんな彼女の言葉を聞いて。生命など容易に奪える形をした魔石に隈なく取り囲まれているサクラは────それでも不敵に微笑んでみせた。

 

「言っただろう。私は戦いに来たんじゃない、君を連れ戻しに来たと」

 

 サクラの言葉に、アルカディアの顔が歪む。そして振り上げた腕を一思いに振り下ろそうとした、その直前。微笑んだままのサクラが言葉を続けた。

 

「それに、君に私は殺せないよ。だって────君も戦うつもりはなかったじゃないか」

 

 それは、何の根拠もない言葉だった。だというのに、込められていたのは絶対にそうであるという、自信──確信──信頼。

 

「ッ────」

 

 一片の疑いもなかった、その言葉を受けて。アルカディアは──────

 

 

 

 

 

「ぁ、ぁあああああ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 ──────刹那の躊躇もなく、腕を振り下ろした。



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ARKADIA────それが人であるということ

 響く音だけを、聴いていた。肝心の光景(げんじつ)からは、目を背けていた。

 

 振り下ろしたこの腕は何処までも軽く。なのに、少しも持ち上げられやしない。

 

 己の望みを叶えたはずの心には────ただただ、空虚だけが広がり尽くしている。

 

 

 

 

「…………」

 

 何も、考えられなかった。ただ、終わらせたのだという、何処か他人事めいた感想しか、抱けなかった。

 

 ……だと、いうのに。そう、終わったはずなのに────────

 

 

 

 

 

「だから、言っただろう。君に私は殺せないと」

 

 

 

 

 

 ────────覆しようのない事実が、その終わりをあっさりと否定してみせる。

 

「……う、そ……?」

 

 殺した────本当にそう思っていた。信じて疑わなかった。だが、サクラは未だそこに立っていた。

 

 無傷ではない。その足元には砕けた魔石が数えるのも馬鹿らしくなる程転がっており、そしてそれら以外の魔石は──サクラに突き刺さっている。

 

 突き刺さっていない箇所を探す方が難しいまでの惨状。まず間違いなく絶命は免れない重傷────だが、それでも。

 

 サクラはそこに立っている。生きている。それは変えようのない、確かな現実。それを直視したアルカディアは、全てを悟った。

 

 見ていた訳ではない。しかし、わかる。わかってしまう。何故サクラが生きているのか────それは自分がそのようにと選択したからだ(・・・・・・・・・・・・・)

 

 サクラの身体を刻み、裂き、刺し、穿ち、抉る──その目的の為に殺到させた魔石は、確かに彼女を傷つけた。だが、その前にその大半が砕けたのだ。

 

 魔石同士が衝突し、互いを互いが削り砕き合った。サクラの足元に転がっている無数の残骸がそれだ。むろん、そうしようと思ってアルカディアはそうした訳じゃない。彼女の意識は致命傷を与えようとしたが、彼女の無意識はそうとはしなかった。

 

『君も戦うつもりはなかったじゃないか』

 

 その言葉の通りであった。そもそも、こんな回りくどい手に頼らずとも、サクラを容易に殺せる手段など他にいくらでもあったはずだ。『理遠悠神(アルカディア)』には、それがあったはずなのだ。

 

 けれど、結局はそれらを選ばなかった。敵として在ったはずなのに、そうしようとしなかった────自分には、戦うつもりもなければサクラを殺す気も、敵であろうとする気すらも最初からなかったのだ。

 

 その全てを悟らされ、気づかされ、アルカディアは──────否、一人の少女(・・・・・)はぺたんとその場にへたり込んだ。

 

「……な、んで……?どうし、て……?」

 

 虹の瞳からは輝きが消え失せ、灰の瞳は徐々に透き通り始める。そしてその二つから、雫が零れた。

 

『理遠悠神』の面影なども微塵も感じられない、あまりに弱々しい声で、少女は呆然と呟く。

 

「なんで私なの?どうして私だったの?私が何をしたっていうの……どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの……?」

 

 ポタポタとその瞳から透明な雫が、涙が溢れて止まらず、零れ落ちていく。零れた少女の涙が、小さな音を立てて魔石の床を少しずつ濡らしていく。

 

 そして流す涙と同じように、少女がその口から言葉を溢していく。

 

「わからないのに、知らないのに……この瞳のことも、この肌のことも、何もわからないし知らなかったのに。なのに皆から勝手に化け物って呼ばれて、蔑まれて、嫌われて、虐められて……私だって何もわからなかったのに、知らなかったのに……!」

 

 止まることを知らずに溢れていく少女の言葉。そこに含まれていたのは、あまりにも重たい孤独を悲哀。やがて少女の身体を、薄青い粒子が包み始めた。

 

 玉座の間の全体が、軋むような異音を立てる。それは徐々に大きさを増し、それと同時に座り込んだ少女を包む粒子が濃くなっていく。

 

 その景色をサクラが眺めていると────突然、彼女の足元に転がり散らばっていた魔石の残骸が砂のように崩れ、薄青い粒子となった。そして同じように、彼女の身体に突き刺さったままであった魔石も粒子と化し、露わとなったその傷口から血が流れ始める。

 

 周囲を見渡してみれば、壁やら床やらも少しずつ崩壊し始め、粒子となってしまっている。そしてそれら全てが少女の方へと、流れていく。

 

 サクラは直感する。このままでは取り返しがつかない事態に陥ると。今すぐにでも行動に出なければ、少女を放っていては全てが手遅れになると。

 

 そう直感して────なお、サクラは床へ放り捨てた刀には目もくれず、ゆっくりとまた歩き出す。彼女が一歩を踏み出す度に、彼女の身体から血が流れ、赤い軌跡を残していく。

 

「どうして私だったの?どうして私がこんなことしなくちゃいけなかったの?誰か教えてよ……誰か答えてよぉっ!!」

 

 少女が叫ぶ。悲痛の叫びを上げる。それに呼応するかのように少女を囲む薄青い粒子は輝きを周囲に放つ。

 

 泣き叫ぶ少女。崩壊する玉座の間。際限なく輝きを強める粒子────そんな状況の最中、サクラは脳裏に蘇らせる。

 

 数週間の前の記憶──そう、あの数多の星浮かぶ、夜空の下での会話を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、昔から起源(ルーツ)というものに興味があるんです」

 

 その会話は、そんな何気ない一言から始まった。

 

 そこから始まった会話は続き、己の身の上やそれを追い求める理由を語り──そして、彼女はその姿を晒した。

 

 七色が複雑に絡み混じり合い、輝く虹色の瞳と、相反する透き通った灰一色の瞳。

 

 露出する肌に走る、刺青の如き薄青い線。それは彼女の顔にも走っており、身体のものとは違って曲流している。

 

 明らかに非人間的な容姿となった彼女が、静かに呟く。

 

「子供の頃、虐められてたんです。『気持ち悪い』だの、『化け物』だの……ずっと、ずっとそう言われ続けられました」

 

 それは、欠片も思い出すのが辛い、迫害の過去。

 

「私は確かめたいんですよ。自分は人間なのか、そうでないのか──だから、起源を求めているんです」

 

 それを求め続ける理由も語り、満点の星空の下、全てを赤裸々に告白した少女が、虹と灰の瞳をこちらに向けて問う。

 

「『極剣聖』様。貴女には、私が人間に見えますか?」

 

 その問いかけに対して、彼女が一体どのような答えを欲していたのか。正直に白状してしまえば、皆目検討もつかなかった。

 

 ……ただ、その過去を聞いて、目的を聞いて────彼女もまた、こちら側(・・・・)存在(モノ)なのだと、認識させられた。

 

 化け物──それは、彼女に限ったことではない。何故なら自分もまた、そうだった(・・・・・)のだから。

 

 だからこそ、自分は答える────

 

「ああ、見えるとも。少なくとも私から見れば、君は素敵な女の子だよ。化け物なんかじゃない」

 

 ────そう、答える。この答えを受けた彼女は、最初キョトンとした表情を浮かべ、それからかあっとその表情を赤らめさせた。

 

 そんな様子を初心(うぶ)だなと思いつつ、続けて語る。起源を欲した彼女に、語りかける。

 

「それと、君は起源(ルーツ)を知りたいと言っていたな。……これはあくまでも私が思うことだが、果たしてそうまでして知り得るに値するのかな、起源というのは」

 

 この言葉に対して、彼女は大した反応を見せなかった──否、見せようとしなかったのかもしれない。

 

 この時、自分はそう深く考え込んでいなかった。話を聞いておきながら、理解を示してやることができなかった。

 

 だから、言ってしまった。

 

「私は起源──過去というものが嫌いだ。そんなものを知ったところで、所詮はただの個々に関する歴史の一部でしかない。確かに己の正体を知りたいのなら、それを求めることは至極当然のことだろうさ。……でも、それが己を形作った訳ではないだろう。いつだって己を己と形作り、成すのは……今という、生の瞬間だけだ」

 

 そう、心ない言葉で。あまりにも残酷な言葉で。

 

「…………ええ。確かに、その通りです……かね」

 

 彼女を深く、傷つけてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──本当に、あの時の私を殴りたい。

 

 そう思いながら、サクラは先を進む。ただ一人の少女を救う為に、進み続ける。

 

 血を流しながら、決して止まることなく。全身を苛み虐げる痛みを、甘んじて受け入れて。

 

「私はこんなことしたくなかった!なかったのに、でも仕方ないでしょ!?だって私はその為に創られた……子は親の言うことを聞くものじゃない!」

 

 この少女が味わった孤独は一体どれだけのものだったのだろう。この少女が味わった苦しみは一体どれだけのものだったのだろう。それは誰にもわからない。それがわかるのは、味わった──味あわせられた、少女だけだ。

 

 それが、堪らなく悔しい。己の無力さを、まざまざと突きつけられる。……だからこそ、救いたいと切に願い、叶えたいと心の底から思える。

 

 少女からすれば、身勝手な自己満足なのかもしれない。押し付けがましい傲慢なのかもしれない。恩着せがましい偽善なのかもしれない。

 

 だが、それでも構わない。

 

 ──これは、私の我儘だ。しかし、この我儘を最後まで貫き通す。

 

 例え今ここで死んだとしても────否、死んでも貫き通す。絶対の、絶対に。

 

 不撓不屈の意志を携え、サクラは進む。ゆっくりと砂のように崩れ、薄青い粒子と化す玉座の間を、彼女はただひたすらに進む──未だ泣き叫ぶ、少女の元を目指して。

 

「何で私なの……?私はどうすれば良かったの……?どうして、どうしてどうしてどうして……!」

 

 溢れ出る感情そのままに、少女が言葉を紡ぐ。彼女を取り巻く粒子はその度に輝きを増し、濃く滞留する。

 

「………もう、疲れたよ」

 

 少女がそう呟くのと、サクラが彼女の目の前にまで辿り着くのは、ほぼ同時のことだった。少し遅れて、床に座り込み俯いたまま、少女が呆然と言う。

 

「……数分もすれば、世界(オヴィーリス)は滅びます。何もかもが魔石に成り果てて、全ての生命が等しく終わるんです。……それでもまだ、貴女は戦わないつもりなんですか。私を、殺さないつもりなんですか。……サクラさん」

 

「ああ。私は戦わない。私は君を……殺しはしない」

 

「……そう、ですか。結局貴女も同じです。他の皆と同じ……私に酷いことをする。させる。……本当に、酷い人」

 

 少女の声には、どうしようもない、暗く昏い絶望だけがある。それをわかっていながら、サクラは言う。

 

「覚えているか、あの日、あの夜……星空の下、私が君にかけた言葉を」

 

 サクラの問いかけに、少女が俯かせていたその顔を上げる。涙を流しに流して、それでもなお流し続け、泣き腫らしすっかり赤くなったその顔には、疑問が浮かんでいた。

 

「……言、葉……?」

 

 意味がわからない、覚えがないとでも言いたげに少女がそう呟くと、サクラは──不意にしゃがみ込んで。

 

 

 

 ギュッ──まるで割れ物を扱うかのように慎重に、そしてできるだけ優しく、少女の身体を抱き締めた。

 

 

 

「今、もう一度。私に言わせてくれ」

 

 抱き締めたまま、サクラが言う。だが少女が返事をすることはない。あまりにも突然で、予想外なサクラの行動に、その思考が止まってしまっていたのだ。

 

 だがサクラとしてはそれでも構わなかった。何故なら少女が何を言ったとしても、彼女は言うつもりだったのだから。

 

 そうして、サクラは口を開く。あの日、あの時、あの夜と同じように。

 

「君は素敵な女の子だよ。化け物なんかじゃない」

 

 その瞬間、ビクッと少女の身体が跳ねる。サクラからは見えていなかったが、その瞳もまた驚愕に見開かれており、激しく震えて、動揺しているのをこれでもかと主張していた。

 

 数秒遅れて、瞳と同様に震える声を少女が絞り出す。

 

「……私は化け物ですよ。三人の人間の血を浴びた、正真正銘の化け物です。お母さんの大切だった存在(モノ)をこの手で壊した、最低最悪の化け物なんです。貴女の言う、素敵な女の子なんかじゃ、ない」

 

 少女は続ける。まるで懺悔のように。後悔と絶望に塗れた言葉を、吐露し続ける。

 

「化け物な私に居場所なんてない。帰る場所なんてない。皆の元に帰ることなんて、許されない。……もう、私は手遅れなんですよ。あの日から、十六年前のあの日、あの時から。心変わりなんて、絶対に許されない」

 

 少女の言葉には、罪悪感が込められている。それは人一人が背負うには、あまりに重たく、あまりにも大きい。

 

 だから、サクラは言うのだ。

 

「やはり、君は化け物なんかじゃない。それは心ない化け物なんかが言える言葉じゃない。心ない最低最悪の化け物が、そんな温かく優しい言葉を言えるものか。言っただろう、己を己と形作り、成すのは今という生の瞬間だけ。決して過去や、ましてや起源(ルーツ)でもない────私は何度だって言ってやる。君は素敵な女の子──そう、皆と同じ正真正銘の人間だよ」

 

 嘘偽りなど全くない、心の底からの、心のままの言葉を。そして彼女の言葉の前に、少女は身体を僅かに震えさせ。

 

 ピシン──額に生える二本の薄青い、歪ながらに刺々しく伸びた角に亀裂を走らせる。

 

「……私は、帰ってもいいの?。皆の元に、帰ってもいいの?」

 

 本格的な崩落と崩壊を始めた玉座の間にて、一人の少女は声を震わせながら訊ねる。それに対し、依然彼女を抱き締めたままに、サクラは優しい微笑みを浮かべて答えた。

 

「ああ。安心しろ、この罪もその後悔も、君の全てを私も共に背負ってやる。だから、一緒に帰ろう────フィーリア」

 

 パキン──サクラの言葉が少女の心を打ち、響かせたその瞬間。亀裂の走った二本の角は甲高い音を儚くも響かせ、折れた。そしてその角すらも薄青い粒子となって、霧散する最中。

 

「────はい」

 

 そう、少女は──────フィーリアは涙に塗れた満面の笑顔を顔に咲かせ、頷いた。



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ARKADIA────『極剣聖』、帰還

 先輩の眠りが浅いものから深いものへ変わったことを確認した僕は、『輝牙の獅子(クリアレオ)』一階の広間(ロビー)に戻っていた。

 

 広間に戻ると、先程まで大勢いたマジリカ防衛戦の為に三つの冒険者組合(ギルド)から集められた冒険者(ランカー)たちの姿が消えており、残っていたのは状況を逐一確認している受付嬢のリズティアさんと、『輝牙の獅子』GM(ギルドマスター)であるアルヴァさんの二人だけだった。

 

「おや、戻って来たのはアンタだけかい『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の坊や。『炎鬼神』はどうしたんだい?」

 

「はい。その、先輩は寝ちゃいました」

 

「ああ……そりゃ無理もないか。あんなに心配してたら、精神も擦り減って体力も消耗するさね」

 

「……」

 

 本人としては特にそう思っていない、何気ない一言のつもりだったのだろう。だが、それでも僕にとってはどんな言葉よりも大きく、決して聞き逃せない一言で、心に深く突き刺さる。

 

 ──心配させないって、誓ったはずなのにな……。

 

 やっぱり、僕は全然だ。まだ全然駄目な男なんだ──そう自己嫌悪に陥る僕の心境を見抜いたのか、アルヴァさんが僕から顔を逸らして、唐突に独り言のように呟く。

 

「『炎鬼神』は最後まで諦めなかった」

 

「……え?」

 

 アルヴァさんの言葉に、僕は思わず反応してしまう。そんな僕を彼女は無視して、さらに続ける。

 

「実は言うと、ここにいた奴らは諦めてた。あの化け物にアンタたちが蹂躙される様を見せつけられて、もうお終いかと思ってたんだ。……(アタシ)も含めてね」

 

 けどね、と。アルヴァさんが言う。

 

「それでも『炎鬼神』だけは諦めなかった。アイツは一時も映像から目を逸らすことなく、あの戦いを最後まで見届けた。そう、アンタが吹っ飛ばされた時だって、目を離さなかったんだ。……アイツだけだったよ、アンタたちが──坊やが勝つって、最初から最後まで信じ切れてたのは」

 

 そこで逸らした顔を僕の方に向けて、微笑を浮かべながらアルヴァさんは言った。

 

「胸張りな『大翼の不死鳥』の坊や。アンタは着実に強くなってる。『炎鬼神』の期待に、応えられる男になり始めてる。だから、そう一々悲観するんじゃあないよ」

 

 それは、アルヴァさんなりの、この人ができる最大限のフォロー。激励の言葉であり、それと同時に僕への評価であった。それを受けた僕は感極まると同時に、少し照れ臭く思ってしまうのだった。

 

「あ、ありがとうございます。まさか、アルヴァさんからそんな言葉を、僕には勿体なさ過ぎる言葉を贈られる日が来ようとは思ってもいませんでした……!」

 

「まあ、まだまだってのは否めないけどね。これからも精進することだね」

 

「はい!肝に銘じます!……それで、今の状況はどうなってるんですか?」

 

 その僕の問いに、アルヴァさんはすぐには答えてくれなかった。浮かべていた微笑から一転して、少し気鬱そうな、あまり芳しくはない表情に変え、黙り込んでしまった彼女の代わりに、リズティアさんが答えてくれた。

 

「正直、あまり良い状況とは言えません。目前に迫る脅威は退けられましたが、世界(オヴィーリス)中の空に浮かぶ超巨大魔法陣は、依然健在で……進む秒針が一周するまで、残り数分といったところです」

 

「……状況、把握しました」

 

 リズティアさんの言う通り、現況は切迫している。あの魔法陣から発動される魔法が一体どのような影響を齎すかは全くの未知数であるが……どんな形であれ、僕たち人類──いや、この世界にとってはそれが終焉(おわり)になることだけはわかっている。数分もしないで、わからされるんだ。

 

 刻一刻と迫り来る、確実な滅びに身構えながらも。僕は信じる。先輩が僕を信じてくれたように、僕はあの人を──サクラさんを信じる。

 

 あの人なら、きっとできるはずだ。この事態の────最良の幕引きを。

 

 そう思いながら、僕もまた広間を後にし、外へ出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外。空の闇は薄れ始めており、星々の光も徐々に遠のき出している。

 

 そんな夜更けと夜明けが曖昧な空に浮かぶ、この街を──否、このフォディナ大陸を覆う程に巨大な魔法陣。時計板を模したそれは薄青い光を放出しながら、一切の淀みなく滑らかにその秒針を進めている。

 

 それが一周するまで、もはやもう間もなく。そしてその末に齎されるは────世界の滅び。

 

 彼ら冒険者(ランカー)たちやこの街の住民たちは固唾を呑み、ただ見上げるしか他ない。この極大厄災を止める為に立ち向かった、たった一人の極者を信じて。

 

 だが無情にも時間は過ぎ去り、秒針が遂に(ゼロ)の目前にまで迫って、そして──────────

 

 

 

 

 

 ピシンッ──その直前。大きく斜めに、魔法陣に亀裂が走った。

 

 その亀裂を始めに、魔法陣全体が罅割れていく。そして最後には、まるで硝子(ガラス)が割れるかのようにして、魔法陣は砕けた。その残骸は宙を落下し、途中で薄青い粒子となって街に、大陸に降り注がれ、霧散していく。

 

 先程まであった静寂を切り裂くように、組合(ギルド)の通信から報告が飛ぶ。厄災によって全大陸全域に展開されていた魔法陣が、全て同時に無力化され、そして消滅したと。

 

 その報告によって最初こそ目の前で何が起きたのかわからず、呆然としていた冒険者たちであったが、ハッと我に返り、瞬間その場にいる全員が歓声を張り上げた。

 

 街中が安堵と歓喜に満ち溢れる中、やがて空が白み太陽が昇る。そうして皆一様に気がついた。

 

 激闘が繰り広げられた旧市街地に聳え立つ、このマジリカを象徴し、今やその呼び名通り魔石そのものになった『魔石塔』が、大量の薄青い粒子となって、まるで砂の城のように徐々に崩れていることに。

 

 風に流される粒子は輝き、空を染めていく。朝焼けの色と混じり合い、この世に二つとない、今という瞬間だけに成す刹那の幻想風景を作り出す。それは誰からも視線を奪い、そして言葉をも奪い去る。

 

 こうしている間にも『魔石塔』は崩れ去っていき、太陽も昇り地上に暖かな恵みの光を差す。それに照らされ、浴びながら歩く姿がそこにあった。

 

 人々はその姿に気づくや否や、揃って声を張り上げる。全員一丸となって、その存在(モノ)の凱旋を心の底から祝う。

 

 そう。これでようやく、戦いは終わったのだ。戦いが終わり、彼女は────『極剣聖』サクラ=アザミヤは帰還した。皆の元へ、その腕に少女を────『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアを抱き抱えて。



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ARKADIA────GDM──オルテシア=ヴィムヘクシス

理遠悠神(アルカディア)』が展開した、世界(オヴィーリス)全大陸全域の空に浮かぶ魔法陣が砕け、完全に無力化された。そのことが意味するのは────第四の厄災、『理遠悠神』との戦いが遂に終わったということ。

 

 その事実を僕らは噛み締めながら、一斉に声をあらん限り上げて、歓喜した。自分たちは勝った、世界を守った、生き残った、と。

 

『理遠悠神』の力の一端、その残滓たる薄青い魔力の粒子が街中に降り注ぐ中、空が白み沈んでいた太陽が昇る。地上に燦々と光を注ぎ────その暖かな日差しの中を歩く者が見えた。

 

 その姿を最初に見た一人の冒険者(ランカー)が、思わずというように声を上げる。

 

「『極剣聖』様だ!皆、我らが『極剣聖』様が帰還されたぞ!」

 

 瞬間、どっと湧き上がる歓声。当然だろう、何せ今回一番の立役者──英雄、サクラさんの帰還だ。

 

 僕もまた観衆の中から抜け出して、サクラさんの元へ駆け寄る。

 

「サクラさーんっ!」

 

 こちらへ歩いて来るサクラさんは、その腕に一人の少女を──フィーリアさんを抱き抱えていた。その光景を見て、僕は思わず目頭が熱くなってしまう。

 

 ──フィーリアさんを正気に戻せたんですね……!

 

 信じていた通り、この人は最良の幕引きをやってみせた。この街に、僕たちの元にフィーリアさんを連れ戻してくれた。そのことに限りない感謝を抱きながら、僕はさらに呼びかける。

 

「サクラさ……んッ!?」

 

 呼びかけて、直後僕は驚愕と動転に見舞われる羽目になった。何故ならば、こちらに向かうサクラさんは────立っているのはおろか、そうして歩けているのが不思議な程の重傷を負っていたのだから。

 

 その身に着るサドヴァ大陸極東(イザナ)の伝統衣装、キモノも見るも無惨なまでにそこら中が破れ裂かれており、もはやボロ切れ同然と化してしまっている上に、そこから露出して見えている傷口から流れ出たのだろう血によって、その全体が真っ赤に染まっている始末である。

 

 そんな彼女の酷い有り様を目の当たりにしてしまった僕は、思い切り動揺しながら、大慌てで安否を訊ねる。

 

「サクラさん!?だ、大丈夫ですか!?大丈夫なんですかっ!?」

 

 すると当のサクラさんは切り傷や裂傷だらけの顔に余裕の微笑を浮かばせ、言う。

 

「ただいま、ウインドア。見ろ、この通りフィーリアは無事連れて帰って来たぞ」

 

「えっ?いや……あ、はい。えっと、おかえりなさいです……いえそうじゃなくて!サクラさん明らかに重症ですよね!?平気そうですけど普通だったら間違いなく致命傷ですよねその状態!」

 

「ああ、気にするな。既に血は止まっているし、特に問題はないよ。……とはいえ、今回は私も流石に疲れた。至急休みたいから、フィーリアのことを頼んでいいかな?」

 

「えっ……わ、わかりました」

 

「ありがとう」

 

 微笑を浮かべたまま、サクラさんは己の腕の中で眠るフィーリアを僕の方へと移し、僕は慎重に彼女の身体を腕に抱き抱える。フィーリアさんも先輩と同じか、先輩よりも軽く、一瞬心配になってしまう程だった。

 

「じゃあフィーリアを頼んだ」

 

 サクラさんはそう言うと、他の冒険者たちからも心配や危惧の声をかけられ、その度にちょっとした返事をしながら『輝牙の獅子(クリアレオ)』の扉を開き、そしてそのまま中へと入っていってしまった。

 

 フィーリアさんの身体を抱き抱えたまま、その背中を見送った僕は呆然としながらも心の中で思わず呟いてしまう。

 

 ──サクラさんって、本当に僕や皆と同じ人間なんだろうか……?

 

 と、その時。不意に抱き抱えられているフィーリアさんから、ほんの小さな声が漏れ出た。

 

「ん、ぅ……?」

 

 そしてやや重たそうに閉じられていた瞼が開かれる。そこから見えたのは────七色が鮮やかに入り混じる虹と、それに相反するように薄い灰一色の瞳であった。

 

 その瞳を前に、僕が思わず硬直してしまっていると、フィーリアさんは寝惚け眼でこちらの顔を見つめ、少し経ってパチパチと数回瞬きをし、それからも数秒僕の顔を眺める。そしてゆっくりと、その口を薄く開いた。

 

「ウイン、ドアさん……?」

 

「え……あ、はい。僕です。クラハ=ウインドアです」

 

「…………」

 

 僕がそう返事すると、フィーリアさんは僕の顔から視線を外し、今度は周囲を見渡す。そうして彼女は理解したのだろう、今自分が一体どういう状況に置かれているのかを。

 

 今自分は、僕に抱き抱えられて────俗な言い方をするなら、お姫様抱っこされているのだと。

 

「……ッッッ!!」

 

 ボッと、そんな音がするのではないかという勢いで。フィーリアさんの顔が真っ赤に染まり、そして彼女は叫ぶ。

 

「ななんっ!ななな何でウインドアさんがわわ、私をおひ、お姫様抱っこしてるんですかッ!?サクラさんはッ?!」

 

 それは出会ってから初めて耳にする、フィーリアさんの心の底から動揺した声音だった。その可愛らしい様子と反応に、僕は堪らず吹き出しそうになるを必死に我慢しながら、至って平静に答える。

 

「フィーリアさんのことをサクラさんから任されまして。あの人は今、『輝牙の獅子』の中で休んでいるかと」

 

「へ、へえ……そうだったんですか。だからウインドアさんは私のことを……って、別にお姫様抱っこする必要はないじゃないですか!普通に起こせばいいじゃないですか!」

 

「いえ。寝ていたので、起こしたら悪いかなと」

 

「それで怒ったりなんかしませんよっ!もう下ろしてください!」

 

 依然真っ赤な顔でそう僕に訴えるフィーリアさんを、言われた通り僕はゆっくり下ろす。ようやく自分の足で地面に立ったフィーリアさんが、その身に纏うローブの裾を適当に直している時。

 

「……ようやく、帰って来たかい」

 

 と、一体自分たちはどんな反応をすべきなのか戸惑い騒つく冒険者(ランカー)たちの中から、その声が聞こえて通る。瞬間、フィーリアさんの肩が僅かながらに跳ねた。

 

 少し遅れて、冒険者たちの中から一人の女性──先程の声の主である、アルヴァさんが現れこちらに────正確に言えばフィーリアさんの元にまで歩み寄って来る。

 

「……お、お母……さん」

 

 アルヴァさんの姿を見るや否や、先程の様子がまるで嘘だったかのように、フィーリアさんはおどおどとし始めてしまう。……が、彼女がそうなるのも無理もない。例えるのも憚れてしまうが、もし僕も彼女と同じ立場であったのなら、僕だってそうなるだろう。

 

 それだけ、フィーリアさんは己に対して罪の意識を、払拭しようのない後悔を感じているのだ。

 

「あの、えっと……わ、私……」

 

 一体どんな言葉を口に出せばいいのかわからず、それでも懸命に声を絞り出すフィーリアさんを、アルヴァさんはただ黙って見ていた。黙って見て、そして────

 

「おかえり。フィーリア」

 

 ────そう、険しさを保っていた表情を和らげさせ、ただその一言を彼女へ贈った。

 

 瞬間、フィーリアさんの瞳がパッと見開かれて、それから潤む。そして彼女もまたその口を開く──直前。

 

 

 

「お、おい!何か、向こうから何かこっちに近づいて来るぞ?」

 

 

 

 フィーリアさんとアルヴァさんの二人の会話の行く末を静かに見守っていた冒険者の一人が、唐突に空を指差して言う。その言葉に釣られて他の者も空を見上げ、そして皆一様にどよめく。

 

「ありゃ、まさか……」

 

「おいおい、こいつは何かの冗談か?」

 

「ど、どうしてこんなことが……」

 

 この場にいる全員が驚き、狼狽えるのは仕方のないことであった。皆と同じように空を見上げた僕だって、自分の視界に映ったものが信じられなかった。

 

 呆然と、無意識に呟いてしまう。

 

竜種(ドラゴン)……」

 

 マジリカの上空を飛んでいたのは、一匹の竜種。かなりの巨体を誇る、純白の竜。その竜はまるで天使を彷彿させるような翼を羽ばたかせ、ゆっくりとこっちに、確実に僕たちがいる方へと近づいて来ている。

 

 ある程度の距離にまで近づくと、僕はその巨竜の背に────二人の人間(・・・・・)が乗っていることに気がついた。

 

 ──ひ、人が、乗ってる?

 

 僕が困惑するよりも先に、ここから少し離れた場所に巨竜が着地する。その巨体に見合わず静かに、ゆっくりと。

 

それとほぼ同時に、その背から二人の人間が飛び降りた。

 

 その二人を見て──────僕は心臓を鷲掴みにされたが如きの衝撃を受けることになった。

 

「な……ッ!?」

 

 突如として現れた巨竜のことも、まるで非現実的なことのように思えてしまうというのに。己の視線の先に立つあの二人は、それ以上だった。

 

 硬直する僕の代わりに、激しく震えた声で一人の冒険者が言う。

 

「う、嘘だろっ?あ、あのおふっお二人はまさか……まさかッ?」

 

 言葉にして口に出すことすらも憚れるその名を、彼はなけなしの勇気を振り絞って口に出した。

 

「世界冒険者組合(ギルド)統括、GDM(グランドマスター)オルテシア=ヴィムヘクシスと『六険』第二位、『威光の熾天(ゴッドセラフ)GM(ギルドマスター)ルミナ=ゼニス=エインへリアぁ!?」



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ARKADIA────今までありがとうございました

 それは予想だにしない、まさかの来訪者。その二人を前に、僕はただ驚愕しながら硬直する他ない。

 

 流石にサクラさん程ではないにしろ、女性にしては高い背丈。燻んだ銀髪と、同じ色の瞳。纏い放つその雰囲気は常人とは明らかに一線を画しており、刃物の輝きにも似た、鋭過ぎるその銀の眼光も相まって、尋常ではない威圧感を生み出している。

 

 その女性こそ、冒険者(ランカー)ならば誰しもが知っている存在(モノ)。この世界(オヴィーリス)に存在する全ての冒険者組合(ギルド)を管理、統括する『世界冒険者組合』の長──即ち、GDM(グランドマスター)────オルテシア=ヴィムヘクシス。

 

 突如として三代目GDMに就任した彼女だが、それ以外にこれといった情報がない謎多き人物であり、その年齢すらも不明である。しかもこれは噂の範疇ではあるのだが……就任以来、その容姿は一切変わっていない(・・・・・・・)────らしい。

 

 また大衆伝達(マスコミュニケーション)を極度に嫌っており、初代や先代とは打って変わって表舞台に露出することは滅多にない。どころか僕の記憶が正しければ就任時の会見以来、衆人環視に身を置いたことがなく、以降の会見等は代理の者を遣わせ済ませてきた。

 

 だからこそ、今こうして目の前にGDM本人が立っていることが信じられなかった。

 

 そしてオルテシア=ヴィムヘクシスの隣に立つ、遠くからでも目立つ桃色の髪の少女。僕と同い年でありながら、冒険者としてこの上なく、最良にして最高の称号。冒険者番付表(ランカーランキング)最上位六名──『六険』。その内の、第二位。

 

 さらには今現時点で存在する組合の中で、所属する百名の冒険者全員が《S》ランクかつ、その内の二十名が個人で番付表にそれぞれ名を連ねるという、自他共に誰しもが認める最高峰の冒険者組合────『威光の熾天(ゴッドセラフ)』。歴代最年少GM(ギルドマスター)

 

 そして極め付きは名だたる大貴族ですらその足元にも及ばない『四大』であり、その中で最も古く、最も強い権力と影響力を持つ名家──エインへリア家の一族にして、次期当主。

 

 この世界(オヴィーリス)を創造せし最高神、『創造主神(オリジン)』は決して個に二物を与えることはないと謳われているが、彼女だけにはそれが当てはまらない。彼女こそ、その理から外れた、唯一無二の例外。

 

『神の寵愛を受けし者』。『神に愛された少女』。『聖天騎士』。『人天使』。

 

 様々な異名で呼ばれるその少女の名は────ルミナ=ゼニス=エインへリア。現時点で《SS》冒険者(ランカー)の域に二番目に近いと噂される、僕なんかが逆立ちしたって絶対に敵う訳がない、天才の権化。天賦の才の体現者だ。

 

『世界冒険者組合』GDMオルテシア=ヴィムヘクシスと『六険』第二位にして『威光の熾天』GM、そして『四大』エインへリア家次期当主であるルミナ=ゼニス=エインへリア。そんな超大物の二人を目の前にした僕は、ただただ固まる他ない。まさか、《SS》冒険者である『極剣聖』(サクラさん)『天魔王』(フィーリアさん)と出会った時並みの衝撃を、こうして二度も体験するだなんて……夢にも思わなかった。

 

 ──な、何でこんな場所に、この二人が……。

 

 上手く回らない思考の最中、ハッと僕は気づく。二人の来訪が、そう驚くべきことではないと。今回の事態を鑑みれば、そう不自然なことではないと。

 

 何故ならば今回の事態には────『厄災』が絡んでいるのだから。それも想定し得る限り最悪な状況──切り札であったはずの存在(モノ)が、『厄災』そのものだったのだから。

 

 そこから導き出される、GDMと『六険』第二位がこの場所に、マジリカにまで遠路遥々赴いた理由は。

 

 ──フィーリア、さん……!

 

 それしか考えられない。だが、僕にはどうすることもできないことで────気がつけば、向こうの二人はこちらの方にまで来てしまっていた。

 

「…………」

 

 どうすればいいのか、どんな行動を取れば正解なのかわからず、固まるしかない僕ら冒険者(ランカー)をGDMは黙って睥睨する。彼女の一挙手一投足に言い知れぬ威圧感が込められており、まるでこちらの考えなしで勝手な発言を封じているかのように思える。

 

 そしてたっぷり十数秒の沈黙を経て、僕たちの目の前に立つGDMはその色素の薄い唇を初めて開かせた。

 

「冒険者諸君。今回の件、実にご苦労だった」

 

 その声音は、存外低かった。

 

「諸君らのおかげでこの街……否、この世界(オヴィーリス)は救われた。後日、感謝と責任を以て『世界冒険者組合』(こちら)から相応の謝礼を贈らせてもらう。……して、此度私がこの街に訪れた理由だが」

 

 威圧と重圧を伴わせてGDMが言葉を続ける最中、固まるしか他ないでいる僕たち冒険者の中から、二人だけが動きGDMと傍に控えるルミナさんの前に出た。言わずもがなその二人とは────『輝牙の獅子(クリアレオ)』GM、アルヴァさん。そしてフィーリアさんだった。

 

 その二人の姿を──特にフィーリアさんをGDMは見やりながら言う。

 

「そう。君だ。理由は君にある……久しいな、『天魔王』。もっともこんな形で再会などしたくなかったが」

 

「……はい。こちらこそお久しぶりです」

 

「今回の失態、覚悟はできているのだろうな?」

 

「……私は取り返しのつかない過ちを犯してしまいました。そのことに関して、弁明する気は一切ありません。この罪とそれに対する罰の全てを受け入れる所存です」

 

 淡々と繰り広げられるその会話を聞きながら、僕は内心焦っていた。このまま黙って突っ立っている訳にはいかないだろうと、そう己の心が訴えかけていた。……けれど、情けないことに僕の両足はこの場から一歩を踏み出してくれなかった。

 

「ルミナ」

 

 フィーリアさんの言葉を聞いたGDMが、数秒の沈黙を以てただ一言、そう発する。

 

 直後、名を呼ばれたルミナさんが動く。傍目から見れば何ということのない、ただの移動。しかしそこに一分の隙すらなく、即座に戦闘へ移行できることを暗に示していた。……とはいえ、流石の彼女もフィーリアさんが相手ではお手上げだろうが。

 

 しかし当のフィーリアさんが今どうこうしようとしている気配は全くなく、ただじっとルミナさんが歩み寄って来るのを待っていた。そしてすぐ目の前にまで来たルミナさんは、不意に【次元箱《ディメンション》】を開いて、そこから首輪と手枷を取り出す。ここからではよく見えなかったが、一般的なものとは少し作りが違うように思えた。

 

 ルミナさんが取り出したその首輪をフィーリアさんに着け、そして彼女の両手に手枷をかける。その際ルミナさんは何やら言葉をかけていたようだが、ここからでは遠過ぎてとてもではないが聞き取ることはできなかった。だが彼女が浮かべていた、心苦しく辛そうな表情からそれがどのような言葉だったのかは察せられた。

 

「ではこれより『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア────改め『理遠悠神』アルカディアを連行する」

 

 そう言うや否や、GDMが歩き出す。それにルミナさんも続き、少し遅れてフィーリアさんも歩き出した。が、その時。

 

「お、お待ちを!GDM!」

 

 フィーリアさんと共に前へ出たアルヴァさんが慌てて声を上げ、この場から去ろうとするGDMを呼び止める。そしてすぐさま言葉を続ける──ことは叶わなかった。

 

「『輝牙の獅子』GM、アルヴァ=クロミア」

 

 アルヴァさんが言葉を続けるよりも先に、彼女の方へ振り返らずに、背を向けたままGDMが重苦しい声音で言葉を放つ。

 

「今回の件について、お前を咎めるつもりはない。むろん、責任を求める気もない」

 

 GDMのその言葉に、アルヴァさんは堪らず絶句してしまう。言葉を失い、それでもなんとか声を震わせながらも絞り出そうとしている彼女に、至って平然とGDMは冷徹に告げた。

 

「その代わり、一つ命令を下す。本日より三日後、アルカディアの処分に関する会議を開く。それに参加しろ。だが意見は出すな。傍聴だけをしていろ。これを拒否することは許さない」

 

 ……それは、アルヴァさんに対してあまりにも酷な命令であった。GDMの命令の内容を聞き、アルヴァさんは紫紺の双眸を見開かせ、それから黙って顔を俯かせた。

 

「では諸君、さらば」

 

 場が異様な雰囲気に包まれる中、GDMがそう言ってまた歩き始める────直前。

 

 

 

「ちょっと待ちなさいッ!!」

 

 

 

 そんな声が、冒険者たちの中から上がった。その声に誰もが驚き、バッと声のした方へ振り向く。僕も振り向いて、見やったその先に立っていたのは──────目元を薄ら赤く腫らした、ナヴィアさんその人だった。

 

 ──ナヴィア、さん……!?

 

 一体いつの間にそこに立っていたのだろうか、その顔を怒りに染めているナヴィアさんは歩き出し、早歩きで前を進む。その有無を言わせない気迫を前に言われずとも自然に冒険者たちは退いて道を開ける。そうしてズンズンと彼女は進み、あっという間にGDMの元に辿り着いた。

 

「……君は」

 

 アルヴァさんの時とは打って変わり、自分たちの近くにまで来たナヴィアさんの方に振り返るGDM。だがその表情は依然として感情らしいものが浮かんでいない。

 

「確かニベルン家の御令嬢……だな」

 

「ええ、(わたくし)は『四大』が一家、ニベルン家のナヴィア=ネェル=ニベルンですわ。もちろん貴女様のことは存じ上げております、『世界冒険者組合』GDM、オルテシア=ヴィムヘクシス様。……その上で、私は貴女様に──いいえ、貴女に言いたい」

 

 そこで一旦ナヴィアさんは目を閉じ、深く息を吸う。そしてカッと閉じたばかりの目を見開き、勢いよく腕を振り上げ、何の躊躇も迷いもなく、指先をGDMへと突きつけた。

 

「貴女、先程から一体何なのですかッ!確かに、確かにフィーリアはしてはならないことをしましたわ。それは確かな事実……だけれどッ!」

 

 相手の身分など知ったことではないように。己の背後で冒険者の皆が一斉に騒ついているのも構わずに。僕が呆然としている間にも、ナヴィアは敵意剥き出しに睨めつけたまま、激情を以てGDMに食ってかかる。

 

「フィーリアは望んでああなってた訳じゃない!その子は自ら望んで『厄災』になった訳じゃないッ!なのに、貴女は彼女をアルカディアと呼んだ。事態が収束した今、それでも貴女はフィーリアを『厄災』と扱った……人外と見做した!私は、それがどうしても許せないッ!!」

 

 ナヴィアさんのまさかの言動と行動に、護衛であるルミナさんですらもどうすればいいのかわからず動揺している最中、相対するGDMは感情が読み取れない無表情のまま、ただ黙ってナヴィアさんの言葉を聞いていた。

 

「今までフィーリアは貴女が認定した《SS》冒険者として、貴女が授けた『天魔王』の名を背負ってこの世界と人類を守護してきた!だというのにこの扱いはないでしょう!?それに加えてアルヴァおば様への仕打ち……愛する娘の処分が決められる様を、育ての親に──母に黙って目の前で見届けろというのですかッ!!オルテシア=ヴィムヘクシス────貴女、本当に度し難いですわッ!!!」

 

 下手をすれば『四大』ニベルン家に泥を塗り、そして『世界冒険者組合』を敵に回しかねない、それ程までの問題がある一言を最後に、ようやくナヴィアさんの激情は止まった。流石に叫び続けて体力を消耗したらしく、少し息を切らして肩を上下させる彼女に対して、押し黙ったままでいたGDMは、閉ざしていたその口をゆっくりと開いた。

 

「ニベルン家次期当主、ナヴィア=ネェル=ニベルン。君の言い分はよくわかった。その上で、私も君にこう言わせてもらおう」

 

 瞬間、GDMがナヴィアさんとの距離を急激に詰めた。そして距離を詰めただけでなく腕を伸ばし、一切の躊躇なく彼女の顎を手で掴み、グイッと互いの鼻先が直に触れ合う程、互いの吐息が混じり合う程まで彼女の顔を引き寄せた。

 

「それがどうした」

 

 堪らず動揺し硬直するナヴィアさんの顔を上から覗き込みながら、何の抑揚もない声音でGDMは彼女に告げる。

 

「君の言う通り、確かに彼女──フィーリア=レリウ=クロミアには決して少なくはない回数、この世界と人類の現在(いま)未来(あす)を守ってもらった。それは確かな事実。……しかし、今回彼女がアルカディアとしてこの世界と人類の現在と未来を滅ぼそうとしたのもまた、確かな事実だ」

 

 GDMの言葉は実に淡々としたものだった。だがそれがナヴィアさんの神経を逆撫でしてしまったのだろう。

 

 固まっていた彼女は慌ててこちらの顎を無遠慮にも掴むGDMの手を払い、続け様彼女から数歩距離を取る。そしてキッと未だ気丈に睨みつけながら、彼女もまた口を開いた。

 

「だから、それは「それがどうしたと、私は言っているんだ」

 

 が、そこで初めてGDMオルテシア=ヴィムヘクシスの感情が顔を見せた。それはナヴィアさんと同質の、だが彼女とは真逆の────静謐なる激情。それを以てGDMはナヴィアさんの言葉を遮った。

 

「知らなかった。望まなかった……そんなことは元よりとっくにとうに承知している。その上でこの扱いなのだよ。それにアルヴァ=クロミア……彼女のことだ。大方今回の不始末を片付けた後、責任を取ってGMの辞任を申し出ることだろう。だがアルヴァ=クロミア程優秀な人材はそうはいない。今彼女に辞められたら色々と困るのだよ。……よく覚えておくといい、ニベルン家の御令嬢。君が思う程、この世界は優しくもなければ甘くもない」

 

 ……そのGDMの言葉の前に、ナヴィアさんは黙らざるを得なかった。あまりにも重たく、ただひたすらに現実を突き詰めたその言葉は、彼女を押し黙らせるには充分過ぎるものだったのだ。

 

 しかし、だからといって。ナヴィアさんがその場から引き退ることはなく────だがその時、思いもよらぬ人物が口を開いたのだ。

 

 その人物は────

 

 

 

「GDM」

 

 

 

 ────フィーリアさんだった。

 

「己の立場は重々理解しています。ですが、ですが何卒お許しください。私に……最後の慈悲を与えてください」

 

 最後の慈悲──果たしてそれが一体何を意味するのか。フィーリアさんの心からの懇願を受けたGDMは、彼女の方に顔を向けて。数秒黙り込んで────そして観念したようにため息を一つ吐いて、瞼を閉じて言った。

 

「ああ言った手前、格好つかんが……許そう」

 

 そしてフィーリアさんから今度はルミナさんの方に顔をやり、GDMは軽く顎をしゃくってみせる。困惑気味に立っていたルミナさんだったが、GDMの合図を受けフィーリアさんから数歩、距離を取った。

 

 少し遅れて、フィーリアさんがナヴィアさんの元にゆっくりと歩み寄る。最初はお互いに黙っており、先に口を開いたのは──ナヴィアさんだった。

 

「これで、良かったの?貴女はこれで良いの?」

 

 その問いかけに対して、フィーリアさんは少し考えるように俯いて、それから顔を上げる。そこにあったのは、ただ一つの笑顔だった。

 

「良い。むしろ、こんな私なんかには有り余ってるよ」

 

「そんな訳ないでしょッ!?」

 

 フィーリアさんが言い終えるとほぼ同時だった。彼女の言葉を聞いて、受けて。ナヴィアさんは叫んだ。彼女のその叫びは、涙に塗れ悲痛に震えていた。

 

「子供の頃から拒まれて!虐められて!嫌われて!散々悪意に晒されて!その挙げ句にこれよ!?なのに良いの?この結末で良かったの?────だったら貴女の人生って一体何だったのよ!!」

 

 その叫びに込められていたのは、ただ親友を救いたいという一心のみだった。望んでもいない運命に晒され、歩みたくもない人生を歩かされ、結果傷つき傷に塗れ、その果てに救いようのない結末を用意されたたった一人の親友を救いたいという、その気持ちだけだった。

 

 それを受け止めて、フィーリアさんは──────それでも、笑顔を浮かべた。

 

「それでも、良いの」

 

 そう、言葉を返されて。遂にナヴィアさんはその場に崩れ落ちた。もはや、自分ではどうすることもできないという、現実を突きつけられて。受け止めて。

 

「ウインドアさん」

 

 声を押し殺してナヴィアさんが咽び泣く中、不意にフィーリアさんが僕を呼ぶ。突然呼ばれた僕が顔を上げると、彼女がこちらを見つめていた。

 

「すみません。ちょっとこっちまで、来てもらえますか?」

 

「は、はいっ!」

 

 返事をし、僕を即座にその場から駆け出す。周りの冒険者たちも自ずから道を開けてくれ、僕はあっという間にフィーリアさんの前にまで辿り着く。

 

 緊張でぎこちなく前に立つ僕に対して、フィーリアさんは何か言おうと口を開くが、すぐに閉じてしまう。それから少し経って、彼女は再度口を開いた。

 

「駄目ですね。言いたいこと、色々あったんですけど……言っちゃったら、私戻りたくなっちゃいます。だから、これだけにします」

 

 そう言って、フィーリアさんは笑った。だがそれは、悲哀の笑みだった。

 

「今までありがとうございました。……ブレイズさんとサクラさんにも伝えてください。あとナヴィ……ナヴィアのこともお願いしますね」

 

 そう僕に伝えて、フィーリアさんは振り返り歩き出す。

 

「……ぇ、あ、ふぃ、フィーリッ……」

 

 気がつけば僕はフィーリアさんのことを呼び止めようとしていた。別れの挨拶にしては、それはあまりにも短く、淡白なものだったから。

 

 

 

 でもその前に、歩いている途中でフィーリアさんが、振り返った。彼女はまだ、笑顔を浮かべていたままだった

 

 

 

 ──あ……。

 

 その笑顔を目の当たりにして、僕はようやく理解した。この胸を埋め尽くす焦りを──いや、違う。

 

 僕は焦っていたんじゃない──────恐れていたんだ。

 

 いつしか、それが当たり前になっていた。当然のことだと思っていた。僕の周囲にいることが、日常(いつも)通りなのだと、思っていた。

 

 だから全てが終われば、また元通りになる────そう、何の根拠もなく漠然に思っていた。

 

 今にしてみれば、ありえないというのに。荒唐無稽で、あまりにもお粗末な夢想だというのに。

 

 この世全てに始まりがあるように、この世全てに終わりもまたある。これだって、幾千幾億という途方もない無数の中にある、一つに過ぎない。

 

 

 

『そこの貴方、ちょっといいですか?』

 

 

 

 始まりは、そんな些細も些細な、そんな一言。偶然、気紛れと呼ぶことさえも烏滸がましい、出会い。

 

 その出会いから今に至るまで────とても一言なんかでは語れない、様々な出来事があった。そしてそれは今後も続いていくのだろうと────無責任にも、僕は思っていたんだ。

 

 けれど、それは決して叶わない。もはや、叶うことのない幻想。

 

 だから、僕は。

 

 

 

 

 

「……わかり、ましたっ!絶対に、絶対に伝えますっ!……こちらこそ、本当の本当に、今まで……今までありがとうございましたァッ!!」

 

 呼び止めようとした己の身勝手を飲み込んで、そう返した。フィーリアさんは僕の返事を受けて、何処か満足そうに少し頷くと、また前へと振り返り、ゆっくりと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クラハーっ!ちょっと今何がどうなってんだ?中でサクラがボロッボロのまま大の字になって床で寝てるし、こいつらはこんなだし……ていうかフィーリアは帰った来たの、か……?」

 

 早朝。静まり返る街の中、そんな先輩の声だけが良く響き渡る。

 

 僕の方にまで駆けつけた先輩へ顔を向けて、僕は口を開く。

 

「……先輩、おはようございます」

 

「え?あ、おう……いやそれよりも、何で……お前」

 

 先輩は少し不安そうに、そして心配そうに僕に訊ねた。

 

「何でお前、泣いてんだよ」

 

「…………」

 

 その先輩の問いかけに対して、僕はただ拳を握り締めて。そして、口を開いた。

 

「先輩。フィーリア、さんが────



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ARKADIA────エピローグ(その一)

「…………」

 

 この世界(オヴィーリス)に存在する四つの大陸の内一つ──ファース大陸。そしてそのファース大陸にある無数の街の一つ──オールティア。

 

 茹だるような残暑が牙剥く日中、僕──クラハ=ウインドアは街道をゆっくりと歩いていた。

 

 今目指す目的地は自分が所属する冒険者組合(ギルド)、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』。一ヶ月に及ぶ長期休暇も昨日で終わり、今日からまた『大翼の不死鳥』唯一の《S》冒険者(ランカー)として活動を再開するのだ。

 

 ──……。

 

 気持ちは憂鬱としていた。別に冒険者の活動が嫌だからという訳ではない。理由は、別にある。

 

「おい、クラハ」

 

「……あ、はい。どうしましたか、先輩?」

 

 すぐ隣から声をかけられ、僕は振り向く。今この隣を歩いているのは──言わずもがな、先輩である。先輩は歩きながらも僕の方に顔を向けており、その表情は微かな怒りとこちらの身を案じる優しさが滲み出ていた。

 

「今日からまた依頼(クエスト)受けんだろ。関係ねえことばっか考えてんじゃねえよ」

 

「……はい。すみません」

 

 先輩から叱られ、僕は申し訳なくそう返す。

 

 ──そう言う、先輩だって……。

 

 そう思わず心の中で呟きながら。そして僕は考えてしまう。振り返ってしまう。思い返して、しまう。

 

 一ヶ月前に起きた、世界の存続を懸けた人類と『厄災』による戦い────『理遠悠神(アルカディア)事変』のことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィーリアさん──否、『厄災』として覚醒した『理遠悠神』アルカディアが起こした戦いは、後に『理遠悠神(アルカディア)事変』と呼ばれるようになった。結果的に僕たち冒険者はかの『厄災』を打倒し、世界を救うことに成功したが……残された爪痕は決して浅くなく、実に深いものであった。

 

虹の妖精(プリズマ)』が誇る冒険者チーム──『三精剣』。その筆頭(リーダー)を務めていたミルティック三姉妹の長女リザ=ミルティックさんと次女アニャ=ミルティック。この戦いによりアニャさんは冒険者として再起不能までの重傷を負い、そしてリザさんはその精神に深刻で、癒える見込みがつかない心的外傷《トラウマ》を抱え込んでしまい────事態収束から約二週間後、二人の引退が『虹の妖精』から公式に発表された。

 

 リザさんとアニャさんの引退により『三精剣』は事実上の解散となり、またその名も冒険者番付表(ランカーランキング)から除かれた。

 

 だが、その数時間後。とある声明が出されたのだ。

 

 

 

「『虹の妖精』の剣はまだ折れてない!だって、ウチがまだいるから!」

 

 

 

 その声明の主は、ミルティック姉妹三女──リザさんとアニャさんの末の妹、イズ=ミルティックさんだった。彼女もまた戦いで重傷を負ったのだが、多少の後遺症も覚悟されていたのだが……不幸中の幸いとでも言うべきなのか、再起不能のアニャさん程ではなかった。

 

 とはいえ、それでも数ヶ月の間は活動停止。復帰するにもそれ相応のリハビリテーションが待っている────しかし。

 

「リザ姉も、アニャ姉も……二人が引退することになった原因はウチ。ウチの弱さが招いた結果。……だから、ウチは誓う!リザ姉とアニャ姉の全部背負って!ウチはもっともっともっと強くなる!なってみせる!」

 

 イズさんの瞳には、ただひたすらに輝く意志があった。

 

「見てなよ冒険者たち。待ってなよ番付入り冒険者(ランクインランカー)たち!ウチは雷の妖精、イズ=ミルティック。あんたたちなんかさっさと追い越してやるんだからっ!」

 

 拡声の魔力を付与された魔石を掴み、高らかに。その瞳に一等星よりも眩く輝ける絶対の不撓不屈の意志を宿して、イズさんは叫んだのだ。

 

 

 

「ウチが目指すのは────『六険』だッ!!!」

 

 

 

 ちなみに、この発言の直後イズさんが盛大に吐血したことで軽い騒ぎになったことについては、あまり触れないでおこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、僕は無事己の日常へと帰って来れた。……そう、これが僕の日常で、そして日常(いつも)通りなんだ。

 

 この街の街道を、先輩と歩く。そんな何気ないこの瞬間こそが、僕の正しい日常。そこに──────

 

 

 

 

 

『おはようございます、ウインドアさん!』

 

 

 

 

 

 ──────あの人の姿がないことこそが、僕の正しい、本当の日常。

 

「……にしても、一体どこに消えやがったんだかな。サクラの奴は」

 

 考え込む僕の隣で、先輩がそう独り言を漏らす。一ヶ月の前のあの日、フィーリアさんが僕たちの前から去ったのと同じく、何も告げずに姿を消したサクラさんのことについて。

 

 今思えば、僕は夢を見ていたのだろう。長い長い、夢を。そして夢はいつしか覚めるもの。……だから、こうなることも至極当然と言えよう。

 

 ──…………。

 

 そう思って、僕は黙って拳を握り締めた。もう二度とこの目にすることは叶わない────あの日見た悲哀の笑顔を鮮明に思い出しながら。

 

「……」

 

 そんな僕のことを先輩はまた見つめていたが、今度は何も言わなかった。

 

 そして気がつけば──────僕と先輩は『大翼の不死鳥』の前にまで、辿り着いていた。

 

 数秒そこで待って、僕は深呼吸をする。気持ちを切り替える為に。己の未練を断ち切る為に。……まあ、そうしたところで、そう上手くできれば苦労なんてしないのだけれど。

 

 まるで重々しい巨大な鉄扉を押し開くかのように。僕は、一ヶ月と少しぶりに『大翼の不死鳥』の扉を開いた。

 

 

 

 

 

「…………え……?」

 

 

 

 

 

 開いて。中に進んで。その先にあった存在(モノ)を前にして、瞬間僕の頭は真っ白になった。

 

 極度の混乱と困惑の最中に晒され、呆然と突っ立つ他ないでいる僕へ、その存在は────その人は。

 

 

 

 

 

「やっと来ましたね。おはようございます、ウインドアさん!」

 

 

 

 

 

 日常通りの笑顔を見せた。



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ARKADIA────エピローグ(その二)

「…………」

 

 静寂に満ちる廊下に、コツコツと一つの足音が響く。その歩幅は小さく、そしてゆっくりである。

 

 ここはこの世界(オヴィーリス)に存在する全ての冒険者組合(ギルド)を統括、管理する組織────『世界冒険者組合(ギルド)』。四大陸の内最も文化と文明が開花された大陸、セトニ大陸中央国に居を構える本部である。

 

 その本部の廊下を独り歩いていたのは、世界最強と謳われる三人の《SS》冒険者(ランカー)──『天魔王』の異名で呼ばれる存在(モノ)。その名はフィーリア。フィーリア=レリウ=クロミア。

 

 フィーリアは無言のまま、この長い長い廊下を歩き進む。……その首に首輪を着け、その両手に手枷をかけたまま。

 

 一見何の変哲もない拘束道具なのだが、素材に特殊な魔石を使用しており、拘束した者の魔力を完全に封じる効果がある。この道具の前では、流石の『天魔王』も無力な常人と化してしまうのだ。

 

 とはいえ、こういったことに対しての対策をしないフィーリアではない。いくつかの対策を予め身体に(・・・)仕込んでいる。が、今の彼女にそれを行使する気は全くなかった。

 

 ──三週間と少し。気がつけ、あっという間だったかな。

 

 そう、歩きながらフィーリアは独り振り返り、思い返す。今日から三週間と少し前の出来事を────己が犯した罪のことを。

 

『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア────否、『厄災の予言』の記されし五つの滅び。その内の一柱──第四の滅び、『理遠悠神』アルカディアの過ちを。

 

 三週間と少し前。世界(オヴィーリス)は滅びに直面した。そしてそれを行おうとしたのは──他の誰でもない、フィーリアであり、そしてアルカディアである。

 

 結果としてある存在(モノ)の介入により世界は滅ぼされずに済み、救われたのだが……当然の帰結としてフィーリアは責任を背負うこととなった。世界を手にかけようとしたその罰を受けることとなった。

 

 が、罰──処分と言ってもそう簡単な話ではなく、それを定める為の場としてこの『世界冒険者組合』本部が選ばれ、協議されることになったのだ。

 

 そして三週間と少しの月日が過ぎた今日────フィーリア=レリウ=クロミア改め『厄災』アルカディアの処分の内容が、とうとう決まった。それを聞く為に、今彼女は廊下を歩いている。

 

「……ここ、ですね」

 

 廊下を歩き進んでしばらく。フィーリアはその終点──扉の前に辿り着く。その扉の先こそ、彼女の目的地。

 

 限られた人物しか入ることを許されない場所────『世界冒険者組合』統括、GDM(グランドマスター)オルテシア=ヴィムヘクシスの私室である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア。……改め、私たち人類の絶対敵。『厄災』第四の滅び、『理遠悠神』アルカディア。もう話に聞いているとは思うが、先日お前の処分が正式に決議され、今日はその内容を伝える為にここまで赴いてもらった。……何か、言いたいことはあるか?」

 

 私室に入ったフィーリアに対し、オルテシアは淡々と事務的に、起伏のない無感情な声音で彼女に告げ、そして問うた。が、その問いに関してフィーリアは何も答えず、ただの沈黙を彼女に返す。

 

 果たしてそれをどう受け取ったのか、それはオルテシア本人しかわからないこと────彼女は数秒の沈黙の後、大量の書類を散らばせた机に置かれた陶器のカップを手に取り、そしてその縁を口に含む。カップがやや傾けられて、それに遅れて彼女の喉がコクリと上下した。

 

 カップの縁が口から離れ、音もなく静かに再度机上に置かれる。そしてすぐに、オルテシアは言った。

 

「私、GDMオルテシア=ヴィムヘクシスが告げる。『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア改め『理遠悠神』アルカディア。本日よりお前を人域隔絶領域『外なる淵(アビス)』へ一時封印。第五の『厄災』である『真世偽神』ニュー顕現の際解放、討滅に協力しろ。無事討滅に成功した後、即刻処刑とする。……以上だ」

 

 冷酷、残酷──そんなありきたりな言葉にするには足りない、あまりにも救いようがない宣告。口にする者の精神すら磨耗させるだろうそれを、オルテシアは至って平然と、何の誤魔化しも濁しもなく、無表情無感情に言い切った。

 

 そしてその宣告をフィーリアはあっさりと、泣き喚くことも取り乱すこともなく、受け入れた。

 

 ──……最後の最期まで、私は道具。道具として使われ、使い潰される。

 

 それが相応しい己の末路なのだと、フィーリアは思う。思って、そして。

 

 

 

 フィーリアの脳裏に、己が過ごした日々の記憶が輝き弾けて溢れた。

 

 

 

 ──……あ、れ……?

 

 フィーリアは鮮明に思い出す。自分をここまで育ててくれた者の顔を。周囲から拒絶されていた自分に初めて手を差し伸べてくれた者の顔を。

 

 自分を常に敬い慕ってくれた者の顔を。嫌だと口では言いながらも嬉々として自分と接してくれた者の顔を。

 

 

 

 そんな者たちをまとめて滅ぼそうとした自分を救ってくれた者の顔を。

 

 

 

 ──おか、しい……な。

 

 惜しくはないと思った。当然だと思っていた。こうなって当たり前なのだと、疑問も反感も何もなかった。

 

 己が確と受けるべき報い────なのに。

 

 ──どうしよう。

 

 この四週間と少しの間で、決してそうは思わなかったというのに。そう思ってはならない身なのだと、言い聞かせていたのに。だというのに。

 

 ──私、やっぱり。

 

 ここにきて。今になって。最後の最後になって。

 

 

 

 

 

 ──死にたく、ないなあ。

 

 

 

 

 

 フィーリアはそう思ってしまった。そんな希望(ねがい)を抱いてしまった。そんな願望(すくい)を求めてしまった。

 

 だが、フィーリアはそれら全てを丸ごと飲み込んで。決して表に出すことなく彼女は了承の意を示そうと口を開く────寸前。

 

 

 

 バァンッ──突如として、この部屋の扉が勢いよく思い切り開け放たれた。

 

 

 

「取り込み中、失礼する」

 

 凛としたその声に、口を開きかけていたフィーリアがビクッと肩を跳ねさせてしまう。

 

 ──……嘘、でしょ……?

 

 そう心の中で呟きつつも、フィーリアはゆっくりと背後を振り返る。その胸に、淡い期待を抱きながら。そして彼女の期待は────

 

「……サクラ、さん」

 

 ────無事、見事に応えられた。呆然と呟くフィーリアに続いて、オルテシアが机上に肘を突き手を組み、そこに顎を乗せ眉を微かに顰めさせて言う。

 

「『極剣聖』……何故、ここに」

 

 予定外の突然過ぎる来訪。それもこの私室に直接──オルテシアの声音には僅かばかりの、だが確実な不快感が滲んでいた。が、それに対してサクラは特に悪びれることもなく、前に進みながら彼女に言う。

 

「ここに来た理由はただ、一つ」

 

 そしてフィーリアのすぐ隣にまで来て、サクラは止まった。ひたすらに困惑に揉まれるフィーリアを他所に、彼女は続けた。

 

「GDMオルテシア=ヴィムヘクシス。先の一件に対しての見返り──報酬を貴女に要求しに来た次第だ」

 

「……何だと?」

 

 サクラの言葉を聞き、オルテシアは意味不明そうに呟く。そして透かさず彼女は言った。

 

「『理遠悠神(アルカディア)事変』に関しての謝礼ならば既に

 

 

 

 ダンッ──オルテシアの言葉を遮るかのように、そんな音がこの部屋に響き渡る。オルテシアが音の発生源──机の上に目をやれば、そこには一枚の小切手が突き刺さっていた。

 

 

 

 …………」

 

 口を噤んだオルテシアに対し、サクラがはっきりと告げる。

 

「いらん」

 

 オルテシアの私室を、重苦しい沈黙が満たす。明らかに険悪となり始めている雰囲気の最中に突如立たされ、一体自分はどうすればいいのかとオルテシアとサクラの二人を何度も交互に見やるルミナと、もはやこの状況にただただ困惑するしかないでいるフィーリア。

 

 そんな二人の心理心情など露知らずと、無言になってオルテシアとサクラは互いを見合う。そんな状態が十数秒続き、そして。

 

「いいだろう。では訊こうか『極剣聖』サクラ=アザミヤ……お前が私に望む見返り、報酬とは一体何だ」

 

 そう、鬱屈に塗れた声音でオルテシアが先に口を開き、サクラに訊ねた。

 

「……私が欲する報酬は」

 

 オルテシアに訊ねられ、サクラは一拍の間を置き、彼女を真っ直ぐ見据え、当然のように言いのけた。

 

 

 

 

 

「『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアに対する処分取り消しと、彼女への私刑執行だ」



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ARKADIA────エピローグ(その三)

「『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアに対する処分取り消しと、彼女への私刑執行だ」

 

『世界冒険者組合(ギルド)』本部、GDM(グランドマスター)オルテシア=ヴィムヘクシスの私室。この日今、『理遠悠神(アルカディア)事変』の首謀者たる『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミア改め『理遠悠神』アルカディアに対する処分がオルテシアから直々に言い渡され、そしてそれを彼女が受け入れようとした寸前、この場にいる全員が予期せぬ人物────『理遠悠神事変』解決の立役者である《SS》冒険者(ランカー)、『極剣聖』サクラ=アザミヤがこの私室に乗り込んで来たのだ。

 

 困惑する場の空気などまるで気にせず、サクラは『世界冒険者組合』からの謝礼を返上し、オルテシアにそれに代わる報酬を要求した。そして彼女が求めた報酬が、それだったのだ。

 

 サクラの言葉が私室に響き渡り、瞬間この場を静寂が包んだ。フィーリアが硬直し、ルミナが目を丸くさせる。そしてオルテシアといえば────怪訝そうに、胡乱げな眼差しを彼女に送っていた。

 

 机に膝を突き、手を組み顎に乗せたまま、オルテシアがゆっくりと口を開く。

 

「処分取り消しと、私刑……執行だと?」

 

「ああ。ちゃんと聞こえていたようで安心したよ」

 

 と、こちらのことを揶揄うように、そんな軽口を叩くかのような声音で平然と言うサクラ。彼女の態度に、オルテシアはスッと目を細めた。

 

 ──一体何を考えている……何を企んでいる?

 

『天魔王』への処分取り消しまでは想定の範疇だったが、私刑──これはオルテシアの予想外である。正直に言えばそのどちらとも却下したかったが……それは許されない。それをサクラが許すはずもない。

 

 肌に絡み纏わりつく、底冷えする殺気に当てられながらも、オルテシアは冷静に思考を巡らす。

 

 ──ルミナすら欺くこの殺気……断ろうものなら、何をされるかわかったものではないな。

 

 護衛として側に置いているルミナは、サクラの殺気に全く気づくことなく、先程からいまいち状況に追いつけていないせいか、オロオロとした様子で視線を泳がせている。……一体何の為の護衛なのかとオルテシアは思ったが、まあそれも無理はないかとすぐに嘆息する。

 

 この殺気は普通ではない。無数の死線を渡り超えてきた者だけが放つ、独特の殺気。いくら実力があっても、まだそういった経験が浅いルミナでは感じ取れないのも仕方ないことなのだ。

 

 ──……どの道、こちらに選択肢はないか。ならば……。

 

 現実時間にして一秒未満。刹那の瞬間にも満たぬ間にそこまでの思考を巡らしたオルテシアは、結論を出す。こちらを見据えるサクラを負けじと彼女も見据え返しながら、言った。

 

「『極剣聖』サクラ=アザミヤ。お前の要求……お前が欲するその報酬、くれてやろうじゃないか。GDMの名において『天魔王』の処分を取り消し、そして彼女への私刑執行を認めよう」

 

 数秒の沈黙を挟んで。仏頂面を貫くオルテシアに対してサクラはどんな女であろうと一発で落としかねない、そんな魔性的な微笑みを浮かべて、心の底からそう思っていると主張するかのような声音で、彼女が言う。

 

「こちらの要求受け入れ感謝する。ではありがたく、遠慮なく報酬を頂戴するとしよう」

 

 そしてサクラはゆっくりと、すぐ隣のフィーリアの方に身体を向ける。フィーリアといえば──最初こそその顔を俯かせていたが、やがて上げられた顔に浮かんでいたのは、今にも消え入りそうな程に儚い笑顔であった。

 

「やっぱり、私って駄目ですね。許されないのに期待しちゃって。そんな訳がないのに、そう思っちゃって」

 

 そんなフィーリアに対してサクラは申し訳なさそうな、やるせない表情を浮かべた。そして、ただ一言を彼女にかけた。

 

「すまない」

 

 サクラのその声音も、浮かべる表情と同様に僅かに、暗く沈んでいた。対してフィーリアは口を開こうとして、しかし彼女は噤んでしまう。数秒の沈黙の後、今度こそゆっくりとその口を開いた。

 

「お願い、しますね」

 

 サクラにも劣らない、そんな短いたった一言。だがそれだけでも、わかることがあった。伝えられることがあった。

 

 ──良いのかな。こんな終わり方で……こんな結末で。

 

 サクラに言葉を告げた後、フィーリアは心中にて想いを溢す。独白を綴る。

 

 ──私が背負ったこの罪が赦されることは、絶対にない。それ相応の報いを受ける義務が、私にはある。……あるはずなのに。

 

 この世の何からも切り離された虚無に放り込まれて、閉じ込められて。いつ訪れるかもわからない脅威を討つ為に道具同然に駆り出されて、そして最後には全くの見ず知らずの人間の手によって終わる。

 

 滅びの『厄災』──こんな化け物な自分であるが、一体何の皮肉なのか身体の構造自体は見た目通り人間と然程違いはない。違いはないが、やはり根本的な部分ではそうではないと知った。前に一ヶ月近くの絶食を試み、水も一滴すら飲まなかったが、それでも自分は死ななかった。死ねなかった。欠片程の変化もなかった。

 

 自分は人間──否、生物にとっては必要不可欠な飲食、栄養の摂取が不要なのだ。

 

 だからとて、流石にこの首を落とされれば死に至るだろう。心臓を貫かれれば死ねるだろう。……そんな確信が、自分にはある。

 

 世界を滅ぼそうとした化け物には、これが相応しい結末。相応の末路だ。今さらそれを否定するつもりも、拒絶するつもりもない。

 

 ──なのに……サクラさんの手で、終わっても良いのかな。

 

 そんな訳はない────そんな問答を繰り返している内に、気がつけばサクラがこちらにその手を伸ばしていた。

 

 細く、華奢。だがか弱いという印象は全く抱かせないサクラの指先が、フィーリアの顎に触れる。そう、フィーリアが認識した瞬間であった。

 

 気がつけばサクラの顔が鼻先にあった。互いの僅かな吐息すら混じり合うまでの至近距離だった。彼女の黒曜石が如き漆黒の瞳に己の顔が映り込んでいた。

 

 そして。

 

 

 

 

 

 唇に、柔く暖かな感触が重なっていた。

 

 

 

 

 

 ──…………え。

 

 フィーリアは、ただただ呆然するしかないでいた。

 

 一瞬にして再び私室内の空気が一変する。無音という無音に、ただルミナの息を呑む音だけが静かに、生々しく響く。

 

 そんな状況の最中、この空気を作り出した張本人たるサクラは数秒そのままでいたかと思うと、ゆっくりとフィーリアの唇に重ねていた己の唇を離し、そして彼女自身からも少しだけ距離を取ったのだった。

 

 その後、サクラは平然と。口元を手で隠し驚愕に目を見開かせているルミナと、固い表情を浮かべるオルテシアの二人に向かって告げる。

 

「これで『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアへの私刑は執行された。これ以上、彼女に罰を与えることはこの私──『極剣聖』サクラ=アザミヤが許しはしない」

 

 それは、誰であろうと一瞬耳を疑う内容の発言で、そして宣言であった。

 

 それを平気な顔で宣ったサクラの隣で、未だ呆然としているフィーリアが、今し方までサクラの唇と触れていた己の唇に指を這わせる。

 

 ──…………。

 

 まるで自分だけ時間が止まっているかのような感覚の中で、フィーリアは呆然と先程の光景を振り返る。

 

 サクラに顎を軽く掴まれ、ほんの少し顔を引き寄せられて、気がつけば彼女と唇を重ねていた。恋仲の男女の如く、互いの唇を重ね合わせていた。

 

 ──……唇、重ね……。

 

 唇を重ねる。その行為にはちゃんとした、大切な意味が込められていることくらい、フィーリアとてそれくらいは把握している。だがまさかそれを当の自分がすることも────ましてやこんな突然に、突拍子に奪われるなど思いもしなかった。

 

 口づけ。接吻。キス。そんな単語が唐突に浮かび上がり、フィーリアの頭の中をグルグルと身勝手にも回り出す。

 

 そうしてようやく、そこで初めて、フィーリアはふと確かに理解したのだ。

 

 ──ああ、そっか。私、サクラさんとキスしたんだ。

 

 その事実を理解し、受け入れたその瞬間。唇に指先を這わせたまま、フィーリアの表情が燃えるように赤く染め上げられた。

 

「ちょなぁっ?!」

 

 続けてそんな珍妙な叫びを上げたフィーリアに、またもサクラが手を伸ばす。しかし今度は彼女が認識するよりも素早く、音もなく。

 

 刹那にしてサクラの指がフィーリアの頸辺りを撫で、瞬間彼女の身体が傾き、倒れかけたが、その寸前にサクラが優しく抱きとめた。

 

「……『極剣聖』」

 

 そのままフィーリアの身体を抱き抱えるサクラに、オルテシアが声をかける。だがその声音は低く、その表情も険しい────誰がどう見ても、今彼女が怒りに溢れているのは明白であった。

 

 そしてその怒りのままに、彼女は続ける。

 

「やってくれたな。これは……いや貴様、一体どういうつもりだ?何が狙いでこんな茶番を?」

 

「……」

 

 オルテシアの問いかけに対して、サクラは何も答えなかった。感情を露出させたオルテシアとは対照的に、先程まで浮かべていた表情の全てが嘘だったかのような無表情を彼女に向け、サクラが口を開く。

 

GDM(グランドマスター)。一つだけ、貴女に問おう」

 

 オルテシアの問いかけを無視して、サクラがそう言う。そして間髪容れずに彼女は続けた。

 

「貴女の目には、この子はどう見えている?」

 

 サクラの問いを受け、オルテシアは口を閉ざす。が、直後当然だというように彼女はサクラに言った。

 

「愚問も愚問だな。私の目には、ただの化け物にしか見えない」

 

「……そうか」

 

 オルテシアの返答に、サクラはただそれだけ呟いて──フッと息を吐き出す。瞬間、オルテシアの眉間に僅かな皺が寄る。

 

 それからサクラは踵を返し、青褪めた表情のルミナと再度無表情となったオルテシアに背を向け、言った。

 

「失礼した」

 

 ただそれだけ言い残し、フィーリアを抱き抱えたまま、サクラは私室を後にする。扉が音を立てて静かに閉じたその時、オルテシアが深々とため息を吐いた。

 

「ルミナ。何か拭くもの、適当な布を」

 

「え?」

 

 あまりにも唐突なオルテシアの要求に、ルミナが困惑の声を上げた、瞬間。

 

 

 

 ピシン──何の前触れもなく、本当に突然に。机上に置かれていたカップが上下に分断され(・・・・)、その下にあった書類にまだ残っていた中身が撒かれ、容赦なく濡らした。

 

 

 

「……え?ええっ!?」

 

 ただただ驚くしかないでいるルミナを他所に、オルテシアはうんざりしたように天井を仰ぐ。

 

「吐息で陶器(カップ)を両断……全く以て規格外。埒外だ」

 

 やたら滑らかで綺麗なカップの切り口を眺めながら、オルテシアは呟く。それから黒く染められた書類────フィーリアに関する情報を一通り記したそれを見やって、彼女は言うのだった。

 

「化け物よりもよっぽど化け物だな。大乱の英雄」



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ARKADIA────エピローグ(その四)

 不意に擦れた布の感触に、意識が唐突に覚醒する。寝起き直後特有の気怠さに揉まれながらも、半ば無意識的に身体を覆うこの布を跳ね除ける。

 

「……ん、ふぁ……」

 

 呻き声を漏らしながら、背中や臀部に伝わる、柔らかく沈み込むような感覚に、どうやら自分は今寝台(ベッド)の上にいるらしい。そのことを自覚して、とりあえず上半身だけを起こしてみる。……何故だろう。妙に涼しいというか、やたら布団や寝台のシーツが肌を擦る。

 

 起きて間もない為、視界が不鮮明だ。それでもここがどこかの場所の寝室で、それなりの広さだということはわかる。ぼやける視界を巡らし──その内に、徐々に鮮明さを取り戻す。

 

 そしてふと、ある部分が目に留まる。そこにあったのは壁一面の鏡であった。鮮明になる視界。目を細め、その鏡に映り込む景色を凝視する。

 

 数秒後、やがて完全な鮮明さを取り戻した視界は捉えた。鏡に映り込んだ、その姿を。

 

 

 

 目を凝らし、鏡を見つめる寝台の上の、一糸纏わぬ全裸の姿を。

 

 

 

「…………」

 

 流れるまま、鏡から視線を外し、恐る恐ると眼下を見やる。そこにあったのは────やはり惜しげもなく晒されたなだらかな肌色の平原と、呼吸によって生々しく蠢く腹部と、そして奥ゆかしい臍であった。

 

 それら全ての光景を確と受け止めて。

 

「ふっきゃあああああっ?!」

 

 堪らず、そうフィーリアは絶叫を上げたのだった。

 

「なんっ、な何で服っ?着てな……はだかぁ!?」

 

 混乱のあまり要領を得ない言葉を撒き散らし、とにかく慌てふためくフィーリア。彼女は先程跳ね除けた布団を大急ぎで引っ掴んで、そして身体を覆う。

 

 ──ていうか、ここどこ……!?

 

 フィーリアがそう思った瞬間、向こうの方でガラッと扉が開かれる音がした。咄嗟に顔を向けて数秒。現れたのは──────

 

 

 

「む。起きたか、フィーリア」

 

 

 

 ──────と何故か少し不服そうに、残念そうに言う、サクラであった。彼女の微かに濡れた黒髪が、この室内を照らす僅かな照明によって艶やかに照らし出されていた。そして何よりも特筆すべきなのが今の彼女の格好である。

 

 驚くべきことに、サクラが今身に纏っているのは、純白のバスローブだったのだ。

 

「さ、サクラさんっ!?そそその格好は一体どういうことですかっ?」

 

「どういうことも何も、湯浴みの後だからこの格好になったのだが。……寝起きだというのに、存外君は騒がしいな」

 

 湯浴み──つまりはシャワー。入浴。そのどちらでも構わない話だが、それらの行為の後に、サクラがそんな格好になっているのは至極当然であり、また必然とも言えよう。

 

 まあそれはさておき。目を覚ましてから今に至るまで終始慌てふためき通しなフィーリアのことなど全く気にせず、サクラは黒髪を僅かに揺らしながら、寝台の彼女の元にゆっくりと歩み寄る。

 

「まあ、それだけ騒げるのなら元気なことには違いないか」

 

 などと言いながら、サクラもまた寝台に腰を下ろす。バスローブ姿の彼女は何処か無防備で、そして普段はおくびにも出さない女性らしさを醸し出していた。……雰囲気的な意味でも、肉体的な意味でも。

 

 震える声で、恐る恐るフィーリアがサクラに訊ねる。

 

「あ、あのサクラさん……貴女、その下って、今……」

 

「む?この下か?下着の類は付けてないが」

 

 ──ですよねー……!

 

 サクラに答えられ、フィーリアは声に出さずに心の中で苦しげにそう呟く。バスローブなので、それが当然といえば当然なのだろうが。

 

 しかしそのせいで、普段は然程気にならない、目立たないサクラのとある部分がこれでもかと主張している。下着──彼女曰く、サドヴァ大陸極東(イザナ)独自の下着とも言える『サラシ』によって押さえられている、その部分が。

 

 そこは──サクラの胸は冗談抜きでフィーリアの顔以上の大きさと面積を誇り、しかも胸なのだから当然、二つある。サクラがほんの少しでも身動きするだけでバルルンッという擬音が聴こえそうな程に二つとも揺れる。勢い良く、激しく。

 

 ──あ、相変わらずですね……。

 

 もはやそこまでとなると異性同性、男女問わず関心を集める。そしてそれはフィーリアとて──否、そこに人並み以上に劣等感を抱える彼女だからこそ、無意識ながらにも視線を注いでしまっていた。

 

 だが、そのことにサクラが気づくことはない。『極剣聖』サクラ=アザミヤは鈍感なのである。不意に黙り込んでしまったフィーリアに彼女が訝しげに訊ねる。

 

「フィーリア?」

 

「うぇ?あ、いや……」

 

 サクラに声をかけられ、フィーリアは挙動不審に彼女の胸から視線を逸らす。それから誤魔化すように、今度はフィーリアがサクラに矢継ぎ早に質問した。

 

「そ、そもそもここどこなんですか?私『世界冒険者組合(ギルド)』本部にいたはずですよね?ていうか何故私はは、裸で寝台の上に?」

 

「ここは中央街のホテルの一つだ。私が本部から君を連れ出した。裸だったのは後でおい……寝台に寝かせるのに、あの格好のままでは不便かと思ってな。やむなく脱がしたからだ」

 

 フィーリアの一つ一つの質問に、一つ一つ丁寧に嘘偽りなく(後半に怪しい部分はあったが)答えたサクラ。彼女の答えを受けて、フィーリアは納得したように頷き──かけて、慌てて首を横に振った。

 

「いや、いやいや!サクラさんはいいとして、私は何でホテルなんかにいるんですか!私は、私は……!」

 

 そんなフィーリアの肩に、サクラは手を置く。そして彼女は言った。

 

「フィーリア。もうお前があの場所に戻る必要はないんだ。ましてや人の世から隔離されることも、処刑を受けることもない。何故なら、君に定められた処分は取り消され、私による私刑も既に執行されたのだからな」

 

「……は?それは、どういう……」

 

 そこでフィーリアの脳内を数々の映像が駆け巡る。『世界冒険者組合』本部、GDM(グランドマスター)オルテシア=ヴィムヘクシスの私室に起きた、全ての出来事を彼女は思い出した。

 

『取り込み中、失礼する』

 

『『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアに対する処分取り消しと、彼女への私刑執行だ』

 

『すまない』

 

『これで『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアへの私刑は執行された。これ以上、彼女に罰を与えることはこの私──『極剣聖』サクラ=アザミヤが許しはしない』

 

 ……まあ、正確にはその辺りの出来事を思い出した。思い出して、瞬間ボッと音がしそうな勢いでフィーリアは顔を真っ赤にさせ、けれどすぐさま続けた。

 

「ふ、ふざけないでください!あ……アレが私に対する、サクラさんの私刑だって、貴女は本気で言ってるんですか!?」

 

 フィーリアの言うアレとは、言わずもがなキスのことである。そんなことくらいサクラとてわかっており、彼女はその上で憤るフィーリアにはっきりと、平気な様子で告げた。

 

「ああ」

 

「なあっ……ば、馬鹿なんじゃないですか貴女ッ!」

 

「……ふむ。何だ、あの程度では不満だと君は言うのか?」

 

「いえ不満とかそういう……ええ、ええそうですよ不満ですよ不満!あんな、あんなことが私刑になる訳」

 

 刹那、フィーリアの視界がグルンと回る。目に見えていた景色全てがグチャグチャに、混然一体に溶け合い、そして元に戻る。

 

「…………ぇ」

 

 一体何が起こったのか、フィーリアは理解できないでいた。どうしてこうなっているのか、彼女はわからなかった。

 

 困惑と混乱に包まれる頭の中、ただ一つ。今の状況を呆然と受け止める。フィーリアは今────サクラによって寝台に押し倒されていたのだ。

 

 己の裸体を隠していた布団はいつの間にか剥ぎ取られており、フィーリアの全てが今サクラの視界に晒されている。そのことに気がつき咄嗟にフィーリアは腕で一部分でも隠そうとしたが、生憎彼女の両腕はサクラの手によって硬く、力強く押さえられていた。

 

「なるほど。こんなどうしようもない、ろくでもない女に唇を奪われた程度では不満か。なるほど、なるほど」

 

 言いながら、サクラはじっくりと眼下のフィーリアを眺める。正確に言うならば、彼女の未成熟の肢体を舐めるように、視姦する。

 

 それはさながら獲物を前にした猛獣──そんなサクラの獰猛な視線の前に、フィーリアはただただ赤面し、瞳を弱々しく震わせることしかできない。

 

 そんな初心(うぶ)丸出しなフィーリアに、普段よりも低い声音でサクラは言った。

 

「では君の()()()も、奪ってしまおうか」

 

 それが一体何を意味するのかくらい、流石のフィーリアもわかっていた。

 

 サクラの瞳は真剣であった。その奥には、情欲の炎が揺らめいており、その発言が決して冗談などではないと、如実に知らしめていた。

 

 このままでは唇だけでなく、己の純潔も奪われてしまう────そう、理解していた。けれどフィーリアは悲鳴はおろか、微かな呻き声一つすら漏らせないでいた。

 

 正直に言えば、怖かった。それは間違いない。

 

 フィーリアは思い返す。サクラとのキスを。彼女と唇を重ねた感触を。驚きこそしたが────嫌だとは、思わなかった。

 

 そのことから、フィーリアは理解する。これは嫌悪から来る恐怖ではない。好奇心による恐怖だと。

 

 そう受け止めたフィーリアの頭の中を、こんな思考が埋め尽くす。

 

 ──何も、しなかったら。このままでいたら……私、どうなるんだろう。

 

 今までに抱いたことの感情が胸の辺りで渦巻く。変に心臓が高鳴り、身体が熱を発していく。

 

 ──怖い。本当に怖い……でも。

 

 そして気がつけば──────フィーリアは瞳を閉じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんてな」

 

 数秒後、サクラはそう言うと同時に、押さえていたフィーリアの腕を解放し、彼女の上から退いた。

 

「……ふ、ぇ?」

 

 またも唐突に解放され、呆然と声を上げるフィーリアに対して、背を向けたままサクラが言う。

 

「フィーリア。死んで終わりにするな。死は、贖罪になりはしない」

 

 そしてフィーリアの返事も待たずにサクラは立ち上がり、未だ呆然とするしかない彼女を置いて、この部屋の扉の前に立つ。

 

「シャワーでも浴びて、今日はもう寝るといい。明日は早いからな」

 

 そう言って、フィーリアを独り残してサクラは扉を開き部屋から出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 扉を閉じた後、サクラはすぐに、音を立てないように扉にもたれかかる。そして顔に手をやり、覆い隠した。

 

 ──悲鳴の一つでも、上げると思ったんだがな。

 

 顔が熱い。鏡がないのでわからないが、きっと情けなく紅潮させていたのだろう。

 

 先程の光景を思い返してしまう。押し倒したフィーリアの裸体。瑞々しく、一切の穢れを知らない白い肌。

 

 そして羞恥と恐怖に震えながらも、込み上げる好奇心に理性を預け、期待でもするかのように恐る恐ると瞳を閉じたあの姿。

 

 それらをこうして振り返っているだけでも────抑え込んでいるこの獣性が顔を出しそうになる。

 

 ──そういえば、前にウインドアに『据え膳食わぬは男の恥』と諭したことがあったな……私も人のことを言えないな。

 

 かと言って、手を出せば自分は間違いなく後悔しただろう。……たとえ合意の上であっても。

 

「……とりあえず、頭でも冷やしてくるか」

 

 そう独り呟いて、サクラはもたれかかっていた扉から離れ、どこへ行くでもなく歩き出した。

 

 

 

 

 

 ちなみに余談になるが、この日このホテル内を並みの巨漢の背丈を越す、絶世の美貌と暴力的なまでに豊満な身体を併せ持った、色々な意味で男女隔てなく注目と関心と興味と一部からは嫉妬を集める女性が、バスローブ一枚というあまりにも大胆かつ無防備過ぎる格好で深夜徘徊していたと、噂になったとかならなかったとか。



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ARKADIA────エピローグ(その五)

 フォディナ大陸、通称『魔法都市』──マジリカ。この街を、そしてこの大陸を代表する冒険者組合(ギルド)輝牙の獅子(クリアレオ)』。

 

「…………」

 

 そのGM(ギルドマスター)の執務室にて、『輝牙の獅子』のGMであるアルヴァ=クロミアは今、執務机に広げられた報告書等の大量の書類と向かい合っていた。

 

 時刻は午前。太陽が昇ってまだ間もないが、仕事は未だ手付かずのまま。……別に量に対して辟易している訳ではない。仕事に働かせなくてはいけない頭の中を、溢れんばかりの自己嫌悪と後悔が埋め尽くしているからだ。

 

 その原因となっているのは今日より三週間と数日前の記憶────セトニ大陸中央国、『世界冒険者組合(ギルド)』本部にある大会議室の場にて、繰り広げられた光景にある。

 

『理遠悠神事変』の後始末。己の保身しか考えない者たちは皆口を揃えて処刑を唱え、己の利益しか興味のない者たちは皆口を揃えてその利用価値を訴えた。

 

 それら全ての言葉を聞き入れ、受け入れ、黙り込んで──アルヴァは死に物狂いで噴出しそうなる怒りを抑え込んだ。一体こいつらはあの子を────フィーリアのことを何だと思っているんだと、怒鳴り散らしたくて、どうにかなりそうであった。

 

 だが、自分にはそれが許されない。何故ならば、それに耐えることが、それを堪えることが己に課せられた唯一にして絶対の罰だったのだから。

 

 

 

『その代わり、一つ命令を下す。本日より三日後、アルカディアの処分に関する会議を開く。それに参加しろ。だが意見は出すな。傍聴だけをしていろ。これを拒否することは許さない』

 

 

 

 フィーリアの処遇会議中、ずっとその言葉がアルヴァの胸の中を渦巻き漂っていた。

 

 ──まさか、二度も殺してやりたい程に人を憎む羽目になるとは、思わなかったね……。

 

 ケジメをつけることも許されず。罪を一緒に背負うことも許されず。命よりも大切な存在の、娘の尊厳が嬲られ傷つけられ詰られる現実を、目の前でただ黙って受け止めることしか自分には許されなかった。

 

 この憎悪に正当性はない。逆上、逆恨みでしかない。それはわかっている。理解している────それでも、アルヴァはそうせずにはいられなかった。

 

「……(アタシ)は、無力だ。無力で、ちっぽけな人間だ……」

 

 だから何もできない。大切な娘一人すら、救えない。

 

「……畜生」

 

 吐き捨てて、執務机の上の写真立てを見やる。そこにあるのは────幼き日のフィーリアの写真。

 

「……畜生……ッ」

 

 フィーリアはこの世界から隔絶された領域──『外なる淵(アビス)』に封印される。そして残る最後の厄災、『真世偽神』ニュー出現の際解放し、討滅に協力し完了後、処刑される。

 

 そのように処分を下すと決定され、会議は終了された。アルヴァは即座にフィーリアとの面会を求めたが、当然のように却下された。

 

 他の景色は滲んでろくに見えたものじゃないのに、その写真だけはやたら鮮明にはっきりと視界に映る。純真無垢という言葉がこれ以上になく似合う満面の笑顔が、絶望的なまでに心を突き刺し、抉る。

 

 気がつけば、アルヴァはその写真立てを手に取っていた。

 

「これが、私への報いなんだろうね」

 

 そう呟くと同時に想起される過去。誰からも否定され拒絶されたこの子を、自分すらも突き放してしまった。あの時見せた表情は未だに瞼の裏にこびりつき刻み込まれている。そしてそれは今後も、後先短いだろうこの一生を終えるまで、決して消えはしないのだろう。

 

 ずっと後悔してきた。もしあの時手を取っていれば。抱き締められていたのなら。ほんの少しだかもしれない。だがそれでも、あの子を楽にすることができたのではないか。

 

 ずっと、アルヴァはそう考えてきた。……けれど、どうやっても過去はどうにもならない。過ぎた時間は二度と取り戻せない。そんな当然のことを、いつの間にか忘れてしまっていた。

 

 ──そういえば、いつからだったか……あの子が私のことを、師匠(せんせい)だなんて呼び始めたのは。

 

 ふと心の中でそう呟きながら、アルヴァは手に取っていた写真立てを裏返す。そして留め具を外し、そっと木の板を取った。

 

 一見すれば幼き日のフィーリアの写真が飾られているこの写真立て。だが実はその裏には別の写真が隠されており、その一枚をアルヴァは手に取った。

 

 隠されていた写真に写っていたのは────成長したフィーリアと、同じく成長した少女であるナヴィアだった。

 

 アルヴァがフィーリアに師匠と呼ばれるようになったのは、ナヴィアのおかげでもある。病院でのあの日以降、露骨にこちらを避けるようになってしまったフィーリアを、まだ幼かったナヴィアが変えてくれた。

 

 今までこちらのことを避けていたフィーリアが、ある日突然自分に魔法を教えてほしいと頼み込んできた。最初こそ少し驚いてしまったが、フィーリアが自ら話しかけてきたこと、自分を頼ってくれていることがどんなことよりも嬉しいと、アルヴァは感じた。

 

 むろん、断りなどしなかった。その日からアルヴァはフィーリアに、己が持つ魔法の全てを教えた。魔法とは何かと、教授した。

 

 そしてその時に知ったのだ────自分の知らない間に、フィーリアに初めての友達ができていたことを。……まさかその友達が『四大』の一家たるニベルン家の御令嬢、ナヴィア=ネェル=ニベルンとは思ってもいなかったが。

 

 情けない話だが、フィーリアを変えたのは──救ったのは、ナヴィアである。彼女がいてくれたから、彼女が絶望と失意の底に沈んだフィーリアに手を差し伸べてくれたから、一度崩れてしまったフィーリアとの関係を、何処かまだ距離はあったが修復することができたのだ。

 

 ……けれど。その時からでもあった。フィーリアが己の過去を──出生を気にし始めたのは。

 

 フィーリアに血の繋がりがないことは教えていた。その上で、あの子は自分を実の母のように慕ってくれた。まだ幼いということもあって、その辺りは然程気にしなかったのだろうが、一体自分が何処の生まれで、何処に故郷があるのか──そういったことは不思議なくらいに訊ねてこなかった。

 

 とはいえ、訊ねられたとしてもアルヴァは答えられなかったのだが。自分は魔石の中で眠っていたなどと、到底信じられる話ではないし、それ以上の詳細を彼女は知らなかった。フィーリアがどういった存在なのか、把握していなかった。

 

 

 

『御名答』

 

 

 

 そう、あの日までは。

 

「…………」

 

 全て知った。知らされた。フィーリアは人間ではないということ。この世界(オヴィーリス)に滅びを齎す五つの厄災、その内の一柱。『理遠悠神』アルカディアであるということ。

 

 言えるはずなかった。伝えられるはずがなかった。何度訊ねられようと、教えられるはずがなかった。

 

 のらりくらりと言及を躱す内、フィーリアが己の過去について問い正す機会は徐々に減っていった。いくら訊いても答えてくれないと、彼女の中で諦めがついたのだろう。

 

 その代わり、フィーリアは調べるようになった。この世界に関する知識を、彼女は貪るようになった。自分で真実を────起源(ルーツ)を求めるようになったのだ。

 

 けれど、その努力が決して実ることはないとアルヴァは知っていた。だが、起源そのものと呼べる代物はすぐ側にあり、万が一にもそれに気がつくことを危惧して、彼女は託した。

 

 フィーリアの唯一無二と言える──────

 

 

 

 

 

GM(ギルドマスター)。来客です」

 

 

 

 

 

 ──────という、扉の向こうの声にアルヴァの意識が現実に引き戻される。声の主はこの組合の受付嬢たるリズティア=パラリリスであり、写真立てを元の位置に戻し扉越しにアルヴァは訊ねる。

 

「来客だって?そんな予定、今日はないはずだよ。一体どこのどいつだい?」

 

 僅かな怒気を含ませたアルヴァの声音。だがそれに臆することなく、リズティアが平然と答える。

 

「それは、ご自分の目でお確かめください」

 

「何……?」

 

 普段とはあまり似つかわしくないリズティアの言動。そこにアルヴァが疑問を抱くと同時に、執務室の扉が開かれた。扉の向こうに立っていたのは二人。その内の一人はリズティアで、そしてもう一人は────アルヴァが絶対に予想し得ない人物だった。

 

 自分の目を疑い、信じられない思いでアルヴァは呆然と言葉を漏らす。

 

「……そん、な。何で、何だって……」

 

 そしておぼつかない足取りで、その場から進み出す。また扉の外にいたその者も執務室に踏み込み、若干気恥ずかしそうにしながらも口を開いた。

 

「その、えっと……まあ色々あって、本当に色々あって説明が難しいんですけど……でも今は、これだけは言わせてください」

 

 そう言って、笑顔を浮かべて、こう続けた──あの時は伝えることのできなかった、言葉を。

 

「ただいま。お母さん」

 

 瞬間、堪えられなくなったアルヴァが駆け出し、そしてもう決して、絶対に二度と離すまいと────フィーリアを力強く抱き締めた。

 

 何年ぶりに流したのかすら、もはや忘れてしまった涙を溢れさせ、頬から顎に伝わせながら、どうしようもなく震えてしまう声で、けれどアルヴァは確かに、今一度伝えた。

 

「……ああ、おかえり。フィーリア……!」



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ARKADIA────エピローグ(その六)

 昼下がりのマジリカ。『理遠悠神(アルカディア)事変』の戦場となった旧市街地にて、彼女は独り佇んでいた。

 

 戦後の爪痕が深く残るこの場は、もはやかつての場所ではない。放置されていた廃屋や廃墟等は数多く倒壊しており、まだ街道も無秩序に生え突き立った魔石が消えたせいか、穴だらけの凹凸だらけとなってしまい、とてもではないが整備されていた道とは思えなかった。

 

 そしてそれらよりも、何よりも特筆すべきなのは──この旧市街の中央付近。広場があるそこには、この街を象徴する塔があった。……だが、今やそれは失われてしまった。

 

『理遠悠神』アルカディアが戦意を失くすと同時に、その意思に従うように、魔石そのものと化した『魔石塔』もまた失われた。その巨大さに見合わない呆気さと、儚さの下に。

 

 象徴を失い、不自然な程にだだっ広くなった旧市街地中央広場。その場所に今、彼女は────ナヴィア=ネェル=ニベルンは立っている。

 

「…………」

 

 この場所は、ナヴィアにとって思い入れがある場所であった。大切な思い出が詰まっている場所であった。それは何ものにも代え難く、尊い大事なものだった。

 

 だが今はもう────形すら、影すら残ってはいない。ただただ空虚が、そこに広がっているだけだ。

 

「……どうして、こうなったの」

 

 それは三週間と数日に亘って続いた自問自答。が、それに答えなどない。答えの出ない疑問だけが、ナヴィアの胸の中に漂い、渦巻き、埋め尽くす。

 

 ナヴィアは自分も小っぽけな人間の一人に過ぎないと思い知らされた。『四大』の血を引いているだけの、ただの無力な人間なのだと実感させられた。自分にできないことはないという、万能感にも似た自信を、粉々に打ち砕かれた。

 

 失意の底で、ナヴィアは想起する。彼女の頭の中で、過去の記憶がやけに鮮明に、まるで走馬灯のように再生される──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もうっ!いったいなんなんですの!なんでそんなにつよいのよ!?」

 

「……そんなこといわれても」

 

「おかしいですわ!ずるいですわ!はんそくですわ!むきぃぃぃ!」

 

 大人ですら滅多に寄りつかないマジリカの旧市街地。『魔石塔』が聳え立つ中央広場に、今二人の子供がいた。

 

 一人は涙目で地団駄を踏みながら、文句を叫び散らす金髪碧眼の少女。豪奢絢爛と表するのが相応しいドレスで身を包んでおり、側から見ただけでもその少女が大貴族の令嬢であろうことが窺える。

 

 対し、その少女が撒き散らす文句を受け、呆れた表情を浮かべるもう一人の少女。白い。とにかく全体的に白い少女。髪も服も、僅かな隙間から覗かせる肌も白い。……ただ、それ一色という訳ではない。

 

 その少女はまだ幼い。恐らく歳は五つ──だというのに、その顔にはまるで刺青が如く、曲流しが薄青い線が走っていた。そして何よりも注目を惹きつけていたのは──その瞳。

 

 左右で色が違う。虹彩異色(オッドアイ)────単に言ってしまえばその範疇に当てはまるのだろうが、その少女の場合は訳が違った。

 

 右にあったのは、虹。七色が複雑に絡み合い、入り混じっている。対して左にあるのは、灰色。白に近い、透き通った灰色である。正に対極の、そして奇異な双眸を少女は持っていたのだ。

 

「だいたい、わたくしとおなじごさいなのに、どうしてこんなにまほうのつよさがちがうの!?どうしてよおっ!」

 

「……さいのうのさじゃない?」

 

「なぁんですってぇえええっ!!」

 

 あらん限りの力で声帯を震わせ、声を絞り出して叫ぶ金髪碧眼の少女。子供のものとは思えない、咆哮と呼んでも差し支えない叫び声の直撃を受け、堪らず真白の少女は顔を顰めさせ、両手で両耳を塞いだ。

 

 だがお構いなしその調子で、金髪碧眼の少女は真白の少女に続ける。

 

「もうこうなったらぜったい、ぜぇっっったいにッ!このわたくしがあなたにギャフンといわせてやりますわ!わたくしをこけにしらこと、こころのそこからこうかいさせてやるんだからっ!」

 

「……あー、うん。その、まあがんばって?」

 

「なんであなたがおうえんするのよ!おうえんするならもうすこしやるきだしなさいよ!」

 

「ええ……」

 

 終始姦しく騒ぎ立てる金髪碧眼の少女。どこまでも落ち着いた、冷静(クール)無愛想(ドライ)な真白の少女。その二人の関係性はまるで水と油で────しかし、不思議なことに馬が合わないという訳ではないらしい。

 

 ビシィ、と。真白の少女に指先を突きつけて。金髪碧眼の少女は何故か得意げな表情で彼女にこう言ってのける。

 

「だからわたくしがしょうぶにかつまで、あなたはわたくしとしょうぶしなさい!かつまで、わたくしといっしょにいなさい!いいですわね!?」

 

 あまりにも理不尽で自分本位な言葉。けれど真白の少女は今度は顔を顰めさせず、仕方なさそうに、諦めたように言葉を返す。

 

「いいよ。あなたがわたしにかつまで、つきあってあげる」

 

「ほんとう!?」

 

 真白の少女の言葉に金髪碧眼の少女はやたら嬉しそうに詰め寄る。その反応に真白の少女は堪らず身を引いて、そしてやや困惑気味に首を小さく縦に振る。

 

「じゃあやくそくですわよっ!やくそくしてちょうだい、フィーリア!」

 

「……やく、そく……」

 

 まるで噛み締めるように、呆然と少女の言葉を呟いて。それからそこで初めて僅かな笑みを浮かべて、真白の少女────フィーリアは返事した。

 

「うん、やくそく。やくそくするよ、ナヴィア」

 

「ええ!やぶったら、ゆるしませんわ!」

 

 そうしてまた、金髪碧眼の少女────ナヴィアも笑顔を浮かべ、フィーリアに頷いてみせるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────今思えば、それがフィーリアとの腐れ縁の始まりだったのだろう。我ながらまだまだ子供だったんだなと、自嘲するようにナヴィアは力なく笑みを浮かべた。

 

「……(わたくし)が勝つまで、付き合うって言ってたじゃない」

 

 言って、ナヴィアは顔を上げる。彼女の視線の先には何もなく、それがより一層彼女の心を深く抉った。

 

「一緒にいるって、言ったじゃない」

 

 拳を握り締め、血が滲む程に固く握り締め、ナヴィアは言葉を零す。

 

「あの、嘘吐き……」

 

 言葉と共に、涙を零す。碧眼から溢れた雫が流れ、頬から顎下へと伝い、そして足元の石畳に落ちた瞬間──────

 

 

 

 

 

「大嘘吐きぃぃいいいいッッッ!!!」

 

 

 

 

 

 ──────今の今まで抑え込まれていた、ナヴィアの激情が爆発し、噴き出した。肺にある空気全てを吐き出す勢いで彼女は叫び、滲み出た血で薄ら赤く染まった拳を、一切の躊躇いなく石畳へ叩きつけた。

 

 バゴォォオンッ──旧市街地全体に轟音が響き渡る。ナヴィアの足元は当然として、その周囲一帯までもが一気に凹み、戦後無事で済んだはずの石畳は呆気なく悉く割れて、砕けてしまった。

 

「世界最強なんでしょ!?人域を超越した極者なんでしょ!?『天魔王』なんでしょ!?なのに何で文句一つすら言わないのよ!!何で少しも抵抗しないのよ!!何でそんなあっさり連行されてんのよぉおおおおッ!」

 

 溜め込んだ不満やら怒りやら、悲しみやら寂しさやら。とにかく必死に抑え込んでいた思いの丈を存分に吐き出して、それらと共にナヴィアは初撃で既に悲惨な有様となっている地面を何度も殴り続ける。その度に破壊された石畳がさらに砕かれ、また少しずつではあるがその場が陥没し始めてしまっていた。

 

 いくら今更用のない旧市街地とはいえ、こんな破壊行動は許されるものではない。ナヴィアの立場であったら尚更の話。だがその程度の理由で止まれる程、今の彼女に余裕がなかった。

 

「大体貴女が望んでやったことじゃないでしょ!自分がやりたくもないことやらされて、つまらない運命なんかに散々踊らされて!なのにそれで良い?それで良いって……一体どの口が言ってんのよ!」

 

 まるで子供のように、胸から溢れてくるむしゃくしゃな感情を思いのままに、思う存分撒き散らして、ナヴィアは拳を振るい続ける。そして片方だけでなく両の拳を高く振り上げて、ありったけで彼女は叫んだ。

 

「あの、馬鹿ぁああああああッッッ!!!」

 

 叫んで、振り上げたその二つの拳を同時に振り下ろす。ナヴィアの両拳と地面が接触し激突したその瞬間、初撃の時以上の轟音が鳴り響き、土埃が舞い上がり、砕けた石畳の破片が一気に宙へと飛び上がった。

 

 それを最後に、ようやくナヴィアは止まった。その場を破壊し尽くした彼女は座り込んだまま動かなくなり、頭や肩に小さな破片や欠片がポツポツ、コツコツと降り注ぐ。

 

 舞い上がった土埃が風に流され薄まり霧散していく最中、一頻り暴れて頭に上っていた血も下がり、いくら冷静になったナヴィアの頭の中で、今朝のことが蘇ってくる。

 

『四大』が一家、ニベルン家現当主にして父である──アイゼン=ネェル=ニベルンにナヴィアに呼び出され、そして淡々と伝えられたことが。『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアは『外なる淵(アビス)』へ追放、封印されることが決まったということが。

 

 それを伝えられた瞬間、ナヴィアは何も考えられなくなってしまった。思考が上手く纏まらず、頭の中が真っ白に染められ、だがそれとは真逆に目の前は真っ暗だった。

 

 

 

 人域隔絶領域『外なる淵』。『創造主神の聖遺物(オリジン・アーティファクト)』の力を取り入れ、転用し応用され、開発された結界────に限りなく近い空間魔法である。

 

 この魔法は一度発動さえさせてしまえば魔力の供給が続く限り、異空間を常時展開させる。この空間は世界(オヴィーリス)の理から外れており、故に外からは干渉できず、また内からもどうすることはできない。

 

 この異空間内では魔力を完全に封じ込められ、それどころか五感も、思考さえも遮断され何もできなくなる。

 

『外なる淵』に囚われることは、文字通り封印されるということなのだ。

 

 

 

 この魔法が使用された事例は過去に一度だけ。フィーリアは二人目として、この『外なる淵』に封印される。それが意味することは、彼女とはもう、何があっても会えないということ。

 

 その事実を、現実を漠然と受け止め、漫然と理解し────気がついた時には、ナヴィアはここへ訪れていた。

 

「……まだ、勝ってない。私はまだ貴女に、勝ってない、のに……」

 

 力なくその場に座り込んだまま、悔しげにナヴィアはそう呟く。再びまた、その瞳には涙が溢れていた。

 

 今は思い出したくもないというのに、鮮明過ぎる程に数々の日々が想起される。フィーリアと過ごした今までの全てが、ナヴィアの頭に呼び起こされる。それが彼女にとって、とてもではないが堪え難い、尋常でない程の苦痛となってしまう。

 

『いいよ。あなたがわたしにかつまで、つきあってあげる』

 

 ここで聞いた十五年前の言葉を思い出しながら、ナヴィアは呟いた。

 

「私はただ、貴女と一緒に……」

 

 それはずっと、心の奥底に仕舞い込んでいたナヴィアの本心。フィーリアに打ち明けられないでいた、彼女への想い。

 

 それを無意識にも吐露して──────

 

 

 

 

 

「あーあ。一体何やってんの、あんた。ここ、私のお気に入りの場所だったのに」

 

 

 

 

 

 ──────という、不意に背後から聞こえてきたその声に、ナヴィアは固まった。

 

 瞳を見開かせて、肩を僅かに震わせながら、恐る恐るナヴィアが己の背後へと振り返る。視線の先に立つその姿を前に、彼女は呆然とする他なかった。

 

 呆けた表情を思わず晒すナヴィアの元に、()()が足元に転がる石畳の破片やら欠片に躓かないよう、ゆっくりと歩み寄る。

 

 そして座り込んだままのナヴィアの目の前にまでやって来て、彼女は──────フィーリアは呆れたような、申し訳ないような、けれど何処か嬉しそうな、そんな複雑な感情が入り混じる表情で彼女に言った。

 

「よっ。久しぶり、デカ乳暴力女」

 

「…………」

 

「まあ、うん。色々、いや本当に色々あって。もうすぐ『世界冒険者組合(ギルド)』から発表があると思うんだけどさ。……私、結局戻ることになったんだよね。あはは」

 

 そう言って、平然と笑うフィーリアを、ナヴィアは信じられない目つきで見やる。それから顔を俯かせた。

 

「……よ」

 

「え?」

 

 プルプルと肩を震わせながら、意味を成してない呟きをナヴィアは漏らし、それにフィーリアが疑問符を浮かべた次の瞬間。

 

「ふっざけんじゃないわよこの貧乳合法幼女ォォォオオオオオオオオオッッッッ!!!!」

 

 憤怒の形相と共に咆哮を上げて、バッと立ち上がった勢いそのままに、ナヴィアはフィーリアに飛びかかり、問答無用に勝負を仕掛けた。

 

 

 

 

 

 そして普通に負けた。



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ARKADIA────エピローグ(その七)

「これで、私からの話は以上です。ちょっと長くなっちゃってすみませんね」

 

「……え、ええ。いや別にそれは大丈夫なんですけど……」

 

 そう申し訳なさそうに、けれど笑顔を浮かべて言うフィーリアさんに、僕は未だ困惑しながらもなんとかそう返す。

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の扉を開くと、フィーリアさんがいた────というあまりにも信じ難く、咄嗟には受け止められない現実を前に、僕は混乱せずにはいられなかった。そんな僕を彼女はとりあえず座らせ、そして何故自分がここにいるのか、それらを含めた事の経緯を話してくれたのだ。

 

 ……とはいえ、それでも僕はいまいちこの状況を飲み込めないでいるのだが。ちなみに先輩はというと────

 

「お前……クラハにあんな風に言っておいて、お前……」

 

 ────そんな感じで、力が抜けるというか、呆れたようにしていた。……まあその気持ちは理解できるが。

 

「ゆ、許してくださいよぉ。私だって、覚悟決めてたんですよ?でも、まさかあんなことになるなんて……流石の私でも予想外だったというか、なんというか」

 

 と、浮かべていた笑顔を苦笑いに変えて、呆れる先輩に言葉をかけるフィーリアさん。確かに彼女の言い分は正しい。

 

 まさか『世界冒険者組合(ギルド)』本部に直接乗り込んで、GDM(グランドマスター)に直談判するなど……しかもその為だけに、フィーリアさんの処分が決定されたら即動けるように、中央国に身を潜めていたなど誰だって予想できないものだろう。まあ、サクラさんらしいといえばらしいが……。

 

「……そういえば、そのサクラさんは今どこに?」

 

 僕がそう訊ねると、何故かフィーリアさんまでも疑問げに、だがしかし答えてくれる。

 

「それが私にもわからないんですよねえ。一応この街には一緒に来たんですけど、気がついたら消えてたんです」

 

「……はあ。そう、ですか」

 

 それを聞き、僕は思った。

 

 ──サクラさん、自由人過ぎないですか……?あと、貴女はそれでいいんですかフィーリアさん……。

 

「まあ、アルドナテさんとはもう話をつけたので、ここに来ないなら来ないで、別に問題はないんですけどね」

 

 本人を前に、決して口には出せない呟きを心の中で僕が呟いていると、フィーリアさんがそう言う。その内容は聞き流せるものではなく、その話について訊こうとした────瞬間だった。

 

 バンッ──と、勢いよく『大翼の不死鳥』の扉が不意に開かれて。

 

 

 

「ここへ訪れるのも、随分久しぶりだな」

 

 

 

 という聞き覚えのある、一ヶ月ぶりに耳にする声音と共に、サドヴァ大陸極東(イザナ)独自の衣服であるキモノ姿の、一人の女性がこの組合の広間(ロビー)に入ってきた。

 

 その人は今ここにいる他の冒険者(ランカー)の注目を一身に集めながら、真っ直ぐこちらに、僕たち三人の方へと向かって来る。

 

「おや、私以外はもう集まっていたのか。すまない、待たせたな。そして久しぶりだ、ウインドア。ラグナ嬢」

 

 そう言って、その女性は────サクラさんは爽やかな微笑を浮かべた。そんな彼女に対して座っていたフィーリアさんが立ち上がり、文句をぶつける。

 

「もう、遅いですよサクラさん。私と一緒に来たのに……一体何してたんですか」

 

「いやあ、道中(みちなか)で美しい御婦人を見かけてしまってな。つい声をかけてしまったんだ」

 

「だと思いました。……全く、貴女という人は……」

 

 申し訳なさそうに、だが微笑は崩さず答えるサクラさん。そんな返事をされ、呆れてため息を吐くフィーリアさん。そんな二人のやり取りを眺めて、僕はいつの間にか安心感に包まれていた。

 

 ──久しぶりだ。本当に、久しぶりに感じる……。

 

 一ヶ月前には、ほんの数時間前までは二度と、決して訪れることはないだろうと思っていた日常が、非日常の連続だったはずなのに気がつけば当たり前になっていた日常が目の前にある。

 

 そのことが一体どれだけ嬉しかったことか。そしてそれは先輩も同じだったようで、少し気恥ずかしそうに、けど歓喜の声で先輩が二人に言う。

 

「ま、まあ別に!お前らがどうなっても俺はどうも思わなかったけどさ!……でも、これでまた四人でいられるってことだよな?また色々できるってことなんだよな!」

 

 自分の感情に素直になれない先輩の言葉。だがそれに対してフィーリアさんとサクラさんは顔を見合わせて、それからまた僕と先輩の方に顔を戻し、フィーリアさんが気まずそうに口を開かせた。

 

「その、すみません。このことも順を追って説明するつもりだったんですけど」

 

 そう言って、フィーリアさんは少し悲しそうな、寂しそうな表情で続けた。

 

「私たち、今日でこの街から去ることにしました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本来の時間から数時間遅れて、『世界冒険者組合(ギルド)』から全大陸にとある知らせが発表された。その全容はこうだ──────

 

 

 

『厄災』第五の滅び、『理遠悠神』アルカディアがマジリカにて降臨。かの滅びは世界(オヴィーリス)全域に神代級に相当する人知超越の大魔法を発動、展開させ破滅を齎さんとした。しかしその場に居合わせていた《SS》冒険者(ランカー)、『極剣聖』サクラ=アザミヤ────及び()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の二名によって、無事討ち取られた。この情報はGDM(グランドマスター)オルテシア=ヴィムヘクシスの名を以て、真実であると宣言する。

 

 

 

 ──────という訳であり、予めフィーリアさんから聞かされていた内容と概ね合致していた。

 

「行っちまったな、あいつら」

 

「……はい。行ってしまいましたね」

 

 フィーリアさんとサクラさんの二人を見送り、その背中が遠く小さく、そして僕たちの視界から完全に消えた後、先輩がほんの少しだけ寂しそうに言って、僕もまた先輩と同じ気持ちでそう言葉を返す。

 

「たく、あいつら本当に勝手で突然だよな。いきなりこの街に来やがったと思いきや、いきなり出て行くんだからさぁ」

 

「ええ、本当に、そうですね」

 

 先輩の文句に同意しながら、僕は思い返す。フィーリアさんからの言葉を。

 

 曰く、GDMからの命令であり、今回の件に関して目を瞑る代わり、二人にはそれぞれが所属する冒険者組合に戻れとのことらしい。

 

 そもそも、フィーリアさんとサクラさんの二人がこの街に訪れたのは、弱体化してしまった先輩の穴埋めと、三度もこの街に厄災が襲来したからに他ならない。厄災に関しての詳細はその多くが不明であり、一体どこに襲来するのかは全く検討がつかず、そんな状況の中で三度にも渡ってこの街が狙われたのだから、《SS》冒険者の二人をこの街に遣わせたのだ。

 

 だが今回の件のような例が発生した以上、もはやそうも言っていられなくなってしまった。残る最後の厄災────『真世偽神』ニューが一体どの大陸の、どこに襲来するかの予想ができない以上、二人を別々の大陸に留まらせ、もしサドヴァ大陸にもフォディナ大陸にも降臨しなかった場合、フィーリアさんは自身の【転移】で、サクラさんは『世界冒険者組合』による支援(サポート)で即座に向かわせるとのことだ。

 

 ──僕は今まで夢を見ていたんだ。そのことに、違いはない。

 

 そして今、その夢は終わった。僕は夢から覚めたのだ。長い、とても長い夢だった。

 

 ある日突然この街、オールティアに訪れた二人。その人たちはかつての先輩と同じ世界最強と謳われる《SS》冒険者(ランカー)だった。

 

 それからは非日常の連続で、驚くばかりの日々だった。そしてその経験は、僕にとってかけがえのないものとなった。

 

 それを僕は忘れない。絶対に、忘れない。そして心の底から思う。先程までは、今朝までは決して考えられなかったことを。

 

 そして、それは恐らく先輩も同じだ。

 

「先輩」

 

「ん?何だクラハ?」

 

「寂しくは、ないですか?」

 

「はあ?べっつにー。全然寂しくなんかねえな」

 

「……僕も同じです」

 

 そう言葉を交わして、僕と先輩は顔を見合わせて、互いに笑顔を浮かべた。そう、もう寂しいとは思わない。

 

 だって、サクラさんとも────フィーリアさんとも、またすぐに、また会えるだろうから。僕も先輩も、そう確信しているから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ」

 

「?どうしました、先輩?」

 

 二人を見送り、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に戻る途中、ふと先輩が声を上げた。一体何かと僕が声をかけると、先輩は不思議そうな表情で言う。

 

「いや、フィーリアに訊きたいことがあったんだけどさ。忘れてた」

 

「フィーリアさんに訊きたいこと、ですか?」

 

 おう、と頷いて。そして先輩が続けた。

 

「あいつ、自分はアルカディアだとかほざいてた時……何で俺のこと、()()()って呼んだんかなって」



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ARKADIA────エピローグ(その終)

「記憶が思い出せない、だと?」

 

 それは予想だにしない返答であり、サクラは思わずそう声を上げてしまう。それに対しフィーリアも申し訳なさそうに、困惑に満ちた声音で言葉を返す。

 

「はい。その……どう言えばいいのかわからないんですけど……アルカディアとしての自覚も意識もまだあるんです。記憶もまあ完全に思い出せない訳じゃなくて、私がアルカディアとしての発言と行動の全ては覚えてしますし、はっきりと思い出すこともできます。というか、忘れろというのが土台無理な話です。……そうなん、ですが」

 

 表情を曇らせ、そこで一旦言葉を区切るフィーリア。それから数秒を挟んで、彼女はサクラに言った。

 

「『理遠悠神』アルカディアとして立ち振る舞っていたときは、目的を果たそうとしていた時には覚えていた『厄災』()()に関することも、そして『創造主神(オリジン)』に関する全ての記憶は全くと言っていい程……いえ、元から何も知らなかったかのように、思い出すことができないんです」

 

「……そうか」

 

「お役に立てず、申し訳ありません」

 

「いや、君が気にすることはない」

 

 そうフィーリアに言葉を返す傍ら、サクラは真面目な表情を浮かべて、あの時のことを────アルカディアと対峙した時の記憶を振り返る。

 

 

 

『大いなる主祖に、お母様に────あの最低最悪の()()()()()に利用される為だけに創り出された、ただの部品(パーツ)風情がァ!!!』

 

 

 

 それはフィーリアの────否、アルカディアの言葉。それがずっと、今この日に至るまでサクラの中で引っかかっていた。

 

 ──アルカディアが、『厄災』らが祖と、お母様と呼ぶ存在……それに私たち人間が部品とは一体どういうことだ?

 

 この世界(オヴィーリス)を無から創り出し、全を生み出した最高神──それが『創造主神』。それはこの世界に生きる全ての存在(モノ)にとっての常識であり、真理だ。

 

 だが、アルカディアの言葉を思い出す限り────もしかすると、『創造主神』というのは自分たちが思っているような存在ではないのかもしれない。

 

 かの神は世界を創り出したが、世界を滅ぼす『厄災』も()み出した。『厄災』にとっては『創造主神』は文字通り親であり、母と呼ぶのはごく自然のことだろう。

 

 ──……ん?そういえば……。

 

 そこでふとサクラは思い出す。そう、アルカディアは『創造主神』を母と呼んでいた。かの神をお母様と呼んでいた。

 

 だが、アルカディアはどこかで一度だけ────別の誰かに対して、お母様と呼んでいなかったか?

 

 ──…………駄目だ。思い出せん。

 

 数秒考えたが、それが一体誰だったのか思い出せず、結局そこでサクラはそのことについて思考を割くのを止めた。普段あまり使わない頭を回転させて疲れたというのもあるが、今はこんなことよりも別に──すぐ隣を共に歩く存在に意識を集中させたかったのだ。

 

「今思えば、あれだけの期間留まった街はあそこが初めてだったな」

 

「はい。私もです」

 

「悪くない……いや、実に充実した、楽しい日々を過ごせたよ」

 

「本当にその通りです。同じ場所に留まって、退屈な気分にならなかったなんていつぶりでしたかね」

 

 真面目な話は終わりを告げて、今度はサクラとフィーリアは他愛ない雑談を始め、そして繰り広げる。けれどその間も二人の歩みは止まることなく、整備された道を進んでいく。

 

「それに私にとっては貴重な友人が三人も増えましたし。実を言うと最初の頃は見ず知らずの街に期間未定の滞在なんて嫌だなあって、思ってたんですけどね」

 

「……増えた友人は二人ではないのか?」

 

「え?」

 

 何故か不服そうにそこを突っ込んだサクラの言及に、疑問符を浮かべてフィーリアが彼女の方に顔を向ける。するとサクラは口元を悪戯っぽく歪め、それから指先を唇に押し当てた。

 

「少なくとも私と君は、もはや友人以上の関係だと思っているのだが」

 

 と、揶揄いの声音で言うサクラ。フィーリアはきょとんとした表情を浮かべ────数秒を経てサクラの行動とその言葉の意味を理解し、一瞬にして火でも噴き出し燃えるのではないかと思ってしまう程に、その顔を真っ赤に染め上げさせた。それから酷く動揺した様子で、大慌てで口を開く。

 

「は、はあッ!?なな何を言ってるんですか貴女はッ!だ、大体あんなの、あんなのノーカン!ノーカンですよノーカン!」

 

「はっはっは。それは酷いなあ。それにホテルの時だって、君は私に身体を差し出そうとしていたじゃあないか」

 

「は、はああああッ?!ち、違ッ……あれは、流されてっていうか……だああああああああ!!!とにかくあの時の私は色々あり過ぎて!本当に色々あり過ぎて混乱してて正気じゃなかったんです!別にサクラさんのことなんて気の合う友人としか見てませんしそもそも私にそっちの趣味はありませんからぁ!私は至って健全ですからぁ!!」

 

「そこまで必死になって否定すると、却って説得力ないぞフィーリア」

 

 と、周囲がだだっ広い静かな平原なのをいいことに、騒がしく言い合う二人。それから顔を見合わせて、ふと堪え切れなくなったように同時に笑い出した。

 

 数分、存分に笑い合って。瞳の端に涙を浮かべながらフィーリアが口を開く。

 

「あーあ、おかしい。本当におかしくて、思わず柄にもなくたくさん笑っちゃいました」

 

「ああ、全くだ」

 

 そして、サクラとフィーリアは不意にその歩みを止めた。彼女たち二人の前には古びた看板が立てられており、その先に少し続く一本道は──途中から左右に分かれていた。

 

 それを少し複雑そうな表情で見て、フィーリアが呟く。

 

「意外と早かったですね」

 

 オールティアからここまでの道のりは、精々一時間と少し程度。馬車を選ばず敢えて徒歩を選んだ二人のちょっとした旅路の、終着点。

 

 ここから始まるのは、長い一人旅だ。そのことを理解している二人はまた歩き出し、そしてそれぞれが別の道に立つ。

 

 サクラは左の道に。フィーリアは右の道に。そこで彼女ら二人は、互いに向き合った。

 

 それから先程までの様子がまるで嘘だったかのように、二人は無言で互いを見つめ合う。そして先に口を開いたのは──サクラであった。

 

「フィーリア」

 

 神妙な面持ちでサクラがフィーリアに言う。

 

「ホテルでも言ったが、死んで終わりにするな。死は贖罪にならない。今や君は一人の、己の命だけでなく、三人の命を背負っているんだ。それを自分から放り捨てることを、たとえ君であろうと──いや、君だからこそ、私は許さない」

 

「……はい」

 

 サクラの言葉に、フィーリアは苦々しい表情で頷く。そんな彼女へ、サクラは続けて言葉を贈る。

 

「幼い少女が見れなかった分だけ、君が世界を見ろ。あのような男が二度と現れぬよう、君が行動しろ。支えとなっていた者の代わりに、次は君が母の支えになっていけ。そして決して忘れるな。君の目の前で散った三つの命を。……それが命を奪った者の、責任と義務だ」

 

 サクラの言葉は何処までも重く────だが、それと同じくらいに、フィーリアのことを想っていた。そのことを感じ取り、瞳を僅かに潤ませて、フィーリアは再度深く頷いた。

 

「……そういえば気になっていたんだが、私ならともかく、君であれば【転移】を使えばすぐにマジリカに戻れるのだろう?わざわざ列車に乗る必要などないと思うのだが」

 

「べ、別にいいじゃないですか。初心に戻ってというか……たまにはそういうのも悪くないんじゃないかって思ったんですよ」

 

「まあ、確かに初心に返ることは良いことだ」

 

 という、最後に少しの会話を済ませて。サクラとフィーリアはまた互いに見つめ合い、互いに笑顔を浮かべた。

 

「では、またな」

 

「ええ、また」

 

 そう言って、二人は互いに背を向け、それぞれの道をゆっくりと歩き出す──が、すぐにハッとした様子でフィーリアがサクラの方に振り返った。

 

「サクラさーんっ!」

 

 フィーリアに呼ばれて、一体どうしたかとサクラもまた振り返る。そうして笑顔のまま、フィーリアはこう続けた。

 

「事態が全て落ち着いたら!私と一緒に旅に、世界(オヴィーリス)を回ってみませんかー!」

 

 そうフィーリアに提案を投げられ、サクラがその場に数秒留まる。一瞬何か考え込むように顔を俯かせたかと思えば、すぐにサクラは顔を上げて、フィーリアに向けて言った。

 

「ああ!是非、そうしよう!」

 

 そして今度こそ二人は互いに背を向けて、進むべき道へと再び歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある少女がいた。その少女は幼い頃に周囲から酷い迫害と拒絶を受けていた。

 

 血の繋がりはなかったが、それでも溢れんばかりの愛情を注いでくれた義理の母にすら、一時とはいえ突き放され、少女はとうとう絶望の底に叩き落とされ、哀しんだ。ただひたすらに哀しみを抱き、遂にはその心を閉ざしてしまった。

 

 だがそんな少女に手を差し伸べた、もう一人の少女がいた。最初こそその手を拒んだ少女であったが、手を差し出す少女は決して彼女から離れなかった。

 

 そんな彼女に、少女は今までに感じたことのない感情を覚えて、遂にその手を掴み、そしていつしか閉ざしてしまっていた心を、また開いたのだ。

 

 救われた少女はいつの日からか、自分という存在に興味を持った。過去がない自分は、一体何なのだろうと、疑問を持った。

 

 それから少女は自分に関する記憶を────起源(ルーツ)を求め始めた。だがいくら調べても、探しても、少女はそれを手にすることはできなかった。

 

 だが少女は手にすることができた。十五年という月日の果て、自分がどういう存在(モノ)なのかを知った──思い出した。

 

 そして今一度、今度はより深く、より強大な絶望を抱き包まれることとなってしまった。世界という世界に絶望し、少女は次に破滅を望んだ。滅びを渇望した。

 

 だがしかし、既のところで再び、少女は救われたのだ。

 

 少女は何処までも運命に翻弄された。弄ばれた。傷という傷を負い、塗れ、そしてその果てに倒れた。けれど、それでも彼女を救う手はあった。

 

 少女が進む道は、これからもきっと過酷なものになるだろう。それがその少女の運命であり、決められた定めなのだ。

 

 けれど、これまでとは一つ違うことがある。それはもう、少女は独りではないということ。

 

 これから先、少女はどうなるのか。それは誰にもわからない。少女のすぐ傍に立つ者にも、少女自身にも、そして少女を()み出した存在にすらも。

 

 だが、これだけは言える──────もう二度と、その少女が絶望に呑まれることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さてさて、と。これでようやく舞台が整った」

 

 言うなれば、其処は礼拝堂であった。もっとも、其処に礼拝堂としての機能などありはしないのだが。

 

 薄暗な月明かりだけが照らす中、玉座に座るその存在(モノ)は言う。眼下に跪く四人の影へ、宣告する。

 

「待ちに待った仕事の時間だよ。『神罰代行執行者(イスカリオテ)』の諸君」

 

 まるで焦らすかのように玉座の存在はその影たちに視線を配り、そしてようやっと続けた。

 

「『創造主神(オリジン)』の器──我らが愛おしき世杯(せいはい)の君を迎えに────否、取り戻しに行こう」




私の数少ない読者の皆様。どうも、白糖黒鍵です。

二年ぶりとなるこの近況ノートにて、読者方にお伝えしたいことがあります。批判覚悟の上です。

昨日、私の著作である『《SS》冒険者だった先輩が朝会ったら女の子になっていた話』の三章の大詰めの話となる『ARKADIA編』が完結したのを区切りに、私は今年の一月程から考えていたことを実行に移したいと思います。

ずばりそれは『《SS》冒険者だった先輩が朝会ったら女の子になっていた話』のタイトル変更と、一部の設定変更です。

その変更する設定というのが、主に以下の二つです。

・LV(レベル)、ステータス等のキャラの強さの数値化。

・キャラのスキル。

他にも細かい変更はまだ予定の域を出ていませんが、この二つに関しては確定事項です。

そして次に著作の改稿です。『ARKADIA編』の後半部分を除いた、第一章から第三章『ARKADIA編』序盤中盤の全てを改稿します。そしてこれが一番の批判部分になり得ると思っているのですが、上記の設定変更に伴い、一部の話を書き直します。一体どの話をどの程度書き直すか、今はその全てを伝えることはできませんが、少なくとも第一話は現在のものとは別物になります。

ですので、今いる読者の皆様の中には、「これもう別の作品じゃん」と思われる方がいるはずです。はい、その通りです。ですが、それでも私はそのようにします。

また、これらが全て終わるまで、本編の更新を一旦停止します。本当に身勝手で申し訳ありません。

それでは、心の広い読者様に向けて。それでもどうか、今後とも著作をよろしくお願い致します。以上、白糖黒鍵でした。


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