ストーリー・フェイト──最強の《SS》冒険者(ランカー)な僕の先輩がただのクソ雑魚美少女になった話── (白糖黒鍵)
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終わった日常。始まる非日常

 それは日常(いつも)と変わらない空だった。何事もなく太陽が昇り、白い雲が自由気儘に伸びている、青空であった。

 

 だが、突如としてそれは──────

 

 

 

「ハハ、ハハハッ!フハァハハハハッ!!」

 

 

 

 ──────という、まるで世界全体を嘲るような笑い声と共に、破壊されることになる。

 

 空が割れる。まるで叩きつけられた鏡のように、先程まで何事もなかった空に亀裂が走り、広がり、そして割れていく。

 

 次々と落ちてくる空の欠片。だがそれは地上に落下することなく、霧散し消えてしまう。

 

 割れた空から、腕が伸びる。真っ黒で、影のような腕が無数に、這い出てくる。

 

 そして──────その存在(モノ)は現れた。

 

 

 

 

 

「御機嫌よう、愚かな人族ども。この『魔焉崩神』エンディニグル、厄災の予言に従い、此処に降りた」

 

 

 

 

 

 無数に伸びる腕の中心にいたのは、男だった。人と何ら変わらない姿ではあったが、肌は黒くこちらを見下ろす瞳は闇よりも昏く、深淵よりも深い。

 

 男──『魔焉崩神』エンディニグルは上空から地上にある街並みを睥睨し、嘆息とともに呟く。

 

「穢れている」

 

 その呟きが聞こえた者は、ごく僅かだったであろう。エンディニグルはそう呟いた直後に、腕を振り上げる。すると彼の周囲の腕も同様に振り上がった。

 

「この世界を今一度浄化しよう。これは予言の通りだ。己が結末を受け入れるがいい、人族共よ」

 

 言うが早いか。エンディニグルの手に小さな黒い球体が現れ、浮かび上がる。彼の周囲の腕もまた同様だった。

 

 その球体は、言うなれば爆弾だ。それ一つですらこの街を跡形もなく吹き飛ばせる程の威力を秘めた魔力の爆弾。

 

 それが、エンディニグルの手や周囲の腕の数だけ浮かんでいる。もしそれが一気に放たれたのなら────想像を絶する被害となるだろう。

 

 そう思い、僕は──クラハ=ウインドアは顔を青ざめ戦慄した。

 

「う、嘘だろ……!」

 

 握った得物が、震える。今すぐにでも、この場から逃げ出したかった。

 だが、たとえ今逃げたとしても助かる訳がないし、そもそも僕はそれが許される立場ではないのだ。

 

 改めて僕の周囲を見渡す。僕の周囲には、僕と同じようにそれぞれの得物を握り締め、上空に浮かぶ文字通りの終焉を睨めつける者たちが数多くいる。彼らは──冒険者(ランカー)だ。

 

 冒険者たちは、その戦意こそ失ってはいなかったが、しかし誰もが絶望的な表情を浮かべていた。

 

 無理もない。誰だって、こんな存在を目の当たりにすればこうなるだろう。

 

『魔焉崩神』エンディニグル──厄災の予言と呼ばれる書に、その名が刻まれている。終焉を司る、魔神。

 

 かの魔神は、この世界に終焉を齎すために降臨した。それは予言書にも記されていた通りで、この日のために僕たち冒険者はこの街──オールティアに集められた。この魔神を、討つ為に。

 

 だがこうして降臨されて、目の前にしてわかった。わかってしまった。無理だ。こんなの、絶対に無理だ。

 

 次元が違う。想定していたよりも、次元が違い過ぎる。いくら選りすぐりの、僕たち冒険者が──《S》冒険者が集まったところで、こんなのどうにかできる訳がない。

 

 ──ああ、僕は今日ここで死ぬんだな。

 

 未だに得物である長剣(ロングソード)を落とさないのが、不思議だった。それくらい、手の震えが止まらない。

 

 足だって地面に縫いつけられたように全く動かせない。一歩も前に踏み出せやしないし、膝だって先程からずっと笑っている。

 

 そして、それは他の冒険者たちも同じだった。

 

「……ふん。装うだけ装って、抵抗の意思はないのか。流石は人族と言うべきか。まあ、いい。せめてもの慈悲だ──痛みも苦しみもなく、汝らに終焉(おわり)をくれてやろう」

 

 何の感情もなく、エンディニグルがそう言う。瞬間、大気が一斉に振動を始めた。

 

 ゴゴゴゴ──空が、地面が、大気が、全てが揺れる。強大な地震の如く、この街全体が揺さぶられる。

 

「終焉の時来たれり。我が終わり、今此処に顕現せよ」

 

 解放されたエンディニグルの魔力に反応して、小さな黒球が震え、輝き出す。

 

 もうすぐにでも、あの黒球はエンディニグルの元から放たれるのだろう。黒球はこの街を滅ぼし、この辺り一帯の大地を蹂躙し尽くすのだろう。

 

 そう考えて、僕は今まで歩んできた人生の記憶を、凄まじい勢いで振り返った。

 

 ──今思えば、短い人生だったよなあ……。

 

 これが噂に聞く走馬灯らしい。そして思った。何故────今、この時、この瞬間、この場に、『あの人』はいないのか、と。

 

『あの人』ならば、この絶対的な魔神すらもなんとかできるんじゃあないのかと。というか多分できるだろうと。

 

 ──ああもう……早く来てくださいよ本当にもう……!

 

 冒険者にはランクがある。《E》から《S》というランクがある。ちなみにさっきも言った通り、僕は《S》ランクであり、一応これでも最高クラスの冒険者なのだ──しかし、実はこの《S》よりもまだ、上がある。

 

 《SS》ランク。この世界に三人しかいないと言われる、人でありながら人という範疇から外れた存在(モノ)たち。

 

 その《SS》冒険者(ランカー)の一人が今、この街にいる────はずなのだ。

 

 

 

 

 

 『ああ?『魔焉崩神』?んなモン知ったこったねえな』

 

 

 

 

 

 思い出されるその言葉。この世界の存続など、危機など知ったことかと、はっきり言い切ったその言葉。

 

「はは、ははは……だからって、本当に来ないことないでしょうッ!?」

 

 固まり立ち尽くす冒険者たちをよそに、上空の魔神(エンディニグル)が宣告する。

 

「滅びよ」

 

 その宣告に合わせて、小さかった黒球が徐々に大きくなる。

 

 だいぶ大きさを増した無数の黒球が、エンディニグルの手や周囲の腕から離れ、浮遊を始める。そして、遂に──────

 

 

 

 

 

「【終焉ノ(エンディ)「どっおおりゃああぁぁぁッッッ!!!」ぐぼおあぉっ?!」

 

 

 

 

 

 ──────果たして、その光景を理解できた者が何人いたことだろう。

 

 ありのまま。ありのまま今目の前で起こったことを、僕は話そう。

 

 

 

 ………………エンディニグルが、ぶん殴られた。

 

 

 

「あごお、ぐおおおおおっ!!」

 

 殴られたエンディニグルが、落下してくる。ちなみにあの黒球はエンディニグルが殴られた瞬間全部消失して、周囲にあった無数の腕も霧散した。

 

 そして秒も経過することなくすぐさま、それはもう凄まじい勢いでエンディニグルは僕たちの目の前に叩きつけられた。

 

 バゴォンッ──叩きつけられたエンディニグルの周囲一帯の地面が割れ爆ぜ、砕け散る。

 

「……………………」

 

 僕を含めた冒険者全員が、絶句していた。というか絶句せざるを得なかった。

 

 いや、だって。さっきまでこの世界に終焉を齎そうとしていた魔神が、馬鹿でかいクレーターの中心でピクピク痙攣しながら倒れているのだから。

 

 そんな中──────

 

 

 

 ダンッッッ──突如、空から炎が降ってきた。

 

 

 

「…………」

 

 炎────そう見えたのは、髪だ。燃え盛る炎のように煌めく、赤髪。

 

「……お前か」

 

 ドスの効いた、低い声。

 

「さっき、この辺り揺らしやがったのはお前かこのクソカスゴミ野郎があああああああッ!!」

 

 一見すれば凄まじい美貌を携えた絶世の美女────だがその声音が、その服装がそれを否定する。かの者は女と見紛う程の、美丈夫であったのだ。

 

 そんな美貌を台無しにさせるように、噴火するような勢いで怒鳴り散らして、未だ気を失っている魔神に対し拳を振り下ろす。肉を打つ、鈍い音が、何度も何度も鳴り響く。

 

「お前のっ、せいでっ!俺のパフェが滅茶苦茶になったろうがッッ!!この落とし前どうつけてくれるんだ、ああ!?」

 

「ぐっ、ごおぉ、おごぉっ」

 

「お前が泣くまで──いや泣いても殴んの止めねえからなああああああッッッッ!!!!」

 

 そう怒号を轟かせながら、その発言通り一切勢いを緩めず、突如として空から降ってきた赤髪の男は、未だ立つことのできないでいるエンディニグルを殴り続ける。が、その時。

 

 ブゥンッ──その場から、エンディニグルの姿が消えた。それと同時に標的を失った赤髪の男の拳が地面を打ち、こちらの鼓膜を破かんばかりの轟音を鳴らし、クレーターをさらに深いものに変えた。

 

「あぁ!?ふざけんなどこ行ったァッ!」

 

 そう叫び、周囲を見回す赤髪の男の背後に、姿を消したエンディニグルが現れる。その口元に黒と紫が混じったような、血らしき液体を伝わせながらも、エンディニグルは目を見開かせて叫んだ。

 

「死ねぇいこの塵芥(ゴミ)がッ!!【終極砲(フィナーレ)】ッッッ!!!」

 

 そう叫ぶと同時に、エンディニグルが手を突き出す。その手には先程見せた黒球の、それも全てを含めた上で数十倍以上の魔力が込められており、それが放たれれば────もはや想像することすらも馬鹿らしくなる被害が出ることは、明白であった。

 

 それをエンディニグルはただの一人に。たった一人の人間相手に放とうとしている。だが先に結果を述べてしまうなら、エンディニグルは己が手のそれを赤髪の男に対して放つことは叶わなかった。

 

 何故ならば、その前に赤髪の男が背後のエンディニグルの懐に入り込み、破壊の魔力を宿した腕を掴んで空に掲げていたのだから。エンディニグルの表情が驚愕に歪んだ刹那──魔力が空に向かって放たれる。

 

 極太の黒紫の極光が空へ伸び、その射線上にあった雲を突き抜け一瞬にして無下に散らす。

 

「逃げんな」

 

 ゾッとする程に低く、冷たい声。赤髪の男はそう言うや否や────掴んでいたままのエンディニグルの腕を握り潰して、暇を持て余していた片方の手で拳を握り、そして一切の躊躇いなくそれをエンディニグルのガラ空きとなっていた胴に打ち込んだ。

 

 バキゴチュグブ──赤髪の男の拳がエンディニグルの胴に突き刺さり、骨を砕き肉を潰す生々しい音が周囲に響き、そして拳はそのままエンディニグルの背中を貫通する。

 

「ご、ばぁッ?!」

 

 エンディニグルの口から黒紫色の液体が盛大に吐き出され、赤髪の男の身体を汚す──寸前、ジュッという音を立てて液体が蒸発し消える。それとほぼ同時に赤髪の男が言う。

 

「場所変えんぞ」

 

 直後、その場から二人の姿が掻き消えた。一拍遅れて衝撃が発生し、さらにクレーターが深く抉られ、そして広げられた。さらにその余波で辛うじて無事であった周囲の石畳と建物の窓硝子(ガラス)を悉く破壊し尽くす。

 

「………」

 

 今目の前で繰り広げられた、あまりにも非現実的な現実に周囲の冒険者たちが動揺し騒めく中、僕はただ空を見上げていた。

 

 奇跡的にも視界に捉えることができた、青空に伸びた尾を引く赤光を眺めながら、僕は呆然と呟いた。

 

「やっぱり、()()は凄いな……はは」

 

 集まった僕らを街ごと消し去ろうとした『厄災』──『魔焉崩神』エンディニグル。だがこの場に突如乱入し、かの神を殴り飛ばし、共に消えた赤髪の男────そう、彼こそが僕の先輩である世界最強の一人。

 

 ラグナ=アルティ=ブレイズ。そしてこの先は、後に僕が先輩から聞いた話になる──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街──オールティアから離れた建築物等、人の手が一切加えられていない、そのままの自然が広がる遠方の荒野。動物も魔物(モンスター)も特におらず、昼間らしからぬ静寂が満ちるこの場に──突如として轟音が響き渡った。

 

 荒れた大地が爆ぜたような勢いで割れ砕け、大量の砂埃を巻き上げると同時に凹み、巨大なクレーターとなってしまう。その中心には苦悶の呻き声を漏らしながら蹲る、男の姿があった。

 

「ぐ、ぉぉぉぉ……!」

 

 その男は人間ではない。『魔焉崩神』エンディニグル──この世界(オヴィーリス)に滅びを齎す存在(モノ)、『厄災』の一柱である。

 

 滅びを体現した、かの神の力は絶大である。戯れ程度に街を、大陸一つを滅ぼせる。まさに埒外──次元が違う。

 

 そのエンディニグルを今、見下ろしている者がいた。

 

「さっさと立ちやがれ。別に動けなくなるまで大して殴ってねえぞ」

 

 陽光に照らされ、まるで燃え盛る炎のように煌めく見事な赤髪を揺らす、その者。遠目から見れば一瞬女かと見紛う程の美丈夫。

 

 名を、ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。そのラグナに見下ろされて、そう言われて。蹲っていたエンディニグルが口を開く。

 

「良い気に、なるなよ人間風情がァァァアッ!!」

 

 そう叫んだ瞬間、もうその場にエンディニグルは蹲ってなどいなかった。憤怒に目を不気味に血走らせ、激情のあまり全身の肌に血管らしき黒紫色の管を幾筋もを浮かばせる、無傷のエンディニグルがそこには立っていた。

 

「我は『魔焉崩神』エンディニグル!世界滅ぼす第一の『厄災』!その我に塵芥にも等しいお前ら下等生物の人間にィ!擦り傷一つ負わせられるとでも思ったかァッ!?フハハハハ!見ての通り、我は無傷!お前が全身全霊を込めた一撃など、無意味なのだよォォオッッッ!!!」

 

 辺りに唾を吐き散らす勢いで咆哮を上げたエンディニグルの姿が、その場から消える。かと思えば、ラグナのすぐ目の前に現れた。直後、エンディニグルが魔力を編み、紡ぎ、そして確固たる形に────魔法へと変える。

 

「奴を引き千切れ!【(つい)魔手(ましゅ)】!」

 

 エンディニグルの言葉に応えるように、彼の周囲から無数の漆黒の手が沸き出し、ラグナに群がる。途中地面を這う手もあり、転がっていた岩石を容易に握り砕いたことから、その一つ一つに超常的な怪力が備わっていることが窺えた。

 

 が、それをすぐ目の前で見たにも関わらず、ラグナは至って平然に、そして信じられないことに────その場から一歩進んでみせた。瞬間、彼に迫っていた全ての手が、まるで見えない何かに弾き飛ばされるかのようにして、残さず掻き消えた。

 

「は?」

 

 己の勝利を確信し、それを決して疑わなかったエンディニグルがその光景を見せつけられ、意味不明とでも言いたげにそう声を漏らす。直後、彼は宙を飛んでいた。

 

 凄まじい速度で流れ溶け行く景色の中、顔面全体が拉たような鈍く重い激痛を味わいながら、数秒遅れてエンディニグルは自分が殴られたのだと理解する。無論、今対峙している人間────赤髪の男、ラグナに。

 

 その事実を理解し、だが受け入れられないまま、エンディニグルの身体が渇いた荒野の大地に激突し、突き刺さる。その際に生じた衝撃はもはや尋常ではなく、その周囲一帯の地面を割り、隆起させ、そして徹底的に元の風景から一変させてみせた。

 

 が、すぐさまエンディニグルはまたも無傷の状態で立ち上がり、彼方に立つラグナの方に向かって両手を突き出す。

 

「一握りの欠片すらも残さず消し飛べェエエエッッッ!!!【終極砲(フィナーレ)(エンド)】ォオオオッ!!」

 

 瞬間、エンディニグルの両手から放たれる黒紫色の極光。それは先程オールティアで放った魔法と同じものであったが、その時とは太さも威力も倍以上に違う。進路上にある全てを一瞬にして跡形もなく蒸発させ、それだけに留まらずオールティアにまで届きその全てを無に帰すことさえ容易く成し得る、まさに破滅の極光がラグナに差し迫る────が。

 

 バシュウゥゥッ──特に慌てることもなくラグナは片手でその極光を受け止め、そして握り潰すかのように開いた手を閉じた瞬間、エンディニグルが放った黒紫色の極光は断末魔を上げるが如く全体が撓み、そして爆発するように弾けて宙に散った。

 

「……は、はぁッ?!」

 

 自身が持つ攻撃手段の中でも一際強力な一撃を大したことなく目の前で無力化され、エンディニグルも流石に素っ頓狂な声を上げてしまう。だがそれでも透かさず彼は突き出していた両手をそのまま地面に衝いた。

 

「我が声に応えよ【眷属召喚】ッ!眼前の敵を滅ぼせぇいッ!!」

 

 直後、地面から滲み出るように無数の黒い影が出現し、すぐさまラグナの元に向かう。その速度は獣の足を遥かに越し、一秒過ぎる頃には黒い影全員が無防備に突っ立っているラグナに襲いかかっていた。

 

 影らしく自由に変形できるようで、各々の身体を剣だったり槍だったり、とにかく多種多様様々な武器に変えてラグナを仕留めんとする。が、刹那にも満たない時間の内────影は、エンディニグルの眷属たちは全滅させられていた。

 

「流石に弱過ぎんだろ」

 

 拳を振り下ろしたまま、ラグナがそう文句を言う。だが彼の遠い視線の先には、もう誰もいない。

 

「馬鹿め!!そいつらは囮だッ!!!【終極砲(フィナーレ)(クライシス)】ッッッッ!!!!」

 

 その声にラグナが頭上を見上げると、そこには己の周囲に黒い腕を無数に展開させたエンディニグルが浮遊していた。瞬間先程よりは威力は下がったが、エンディニグルの腕からだけではなく展開している黒い腕の全てからも、あの黒紫色の極光が放たれる。

 

 無数の極光は大地を穿ち、抉り、蹂躙していく。轟音という轟音が重なり合い、あっという間に荒野を凹凸だらけの更地へと変えていった。

 

 一通り極光を撃ち終わり、エンディニグルは破壊の限りを尽くされた荒野を見下ろす。そして満足げに呟いた。

 

「ハハハッ!塵一つ残らなんだか」

 

 バゴォンッ──そして、思い切り己が散々荒らした大地に叩きつけられた。エンディニグルの身体が地面に激突し、街一つ分のクレーターがそこに発生する。

 

「がばぁッ?!」

 

 それだけで終わらず今度は宙に打ち上げられ、破れた腹の中から内臓らしき肉塊を溢れさせると同時に、口から大量のドス黒い紫色の液体を噴く。が、それらの傷は一瞬にして何もなかったかのように消え失せ────刹那、エンディニグルは全身という全身を滅茶苦茶に、無茶苦茶に、徹底的に破壊された。

 

「ぐげえあごぎべぇっ??!!」

 

 骨という骨は砕かれ、肉という肉は潰され、遠目から見ればもはや吐き気を催す、実にグロテスクな塊となったエンディニグルだったが、やはり次の瞬間な無傷で健在な彼がそこにいるのだった。

 

「まだ死なねえのか。案外、しぶといんだな」

 

 半ば呆れたようにそう呟きながら、宙を飛んでいたラグナが着地する。彼の両拳は黒紫色に染まって汚れていたが、彼が軽く拳を振るうとそれもまるで嘘だったかのように消える。

 

 先程までの威勢を失くし、信じられないという顔つきで立ち尽くす他ないでいるエンディニグルにラグナは向き合う。数秒を経て正気に戻ったのか、エンディニグルは慌ててラグナに叫び散らす。

 

「こ、この人間の分ざ──

 

 ドパッ──が、その途中。エンディニグルの視界からラグナの姿が消え失せたと同時に、突然彼の頭部が爆発したように弾け飛び、四方に頭蓋の破片やら肉片やらを撒き散らせた。

 

 ──……い……で」

 

 だがしかし、刹那にも満たない時間の後、やはりそこには無傷なままのエンディニグルが立っていた。違う点を挙げるのであれば、その表情が呆然としていたものになっていることだ。

 

「頭潰しても死なねえのかよ」

 

 と、呆れを通り越し、もはや何処か感心すら感じられる呟きをエンディニグルの背後で漏らすラグナ。そんな彼の方にエンディニグルはゆっくりと、恐る恐る振り返り────そして。

 

「……く、ククク……ハァハハハハハハッ!良い!実に良いぞ!認めよう、我は認めるぞお前。故に……今こそ見せてやろう、我が全力というものをなァ!」

 

 (タガ)が外れたように、嬉々としてエンディニグルはそう言うと、徐に両腕を振り上げ、大の字になってその場に突っ立つ。瞬間──彼の身体の輪郭をなぞるように、あの無数の黒い腕が出現し、そして────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 否応にも生理的嫌悪を呼び起こす、肉を潰す鼓膜にこびりつくような生々しい音と共に、大量の黒紫色の液体が流れ落ち、その場に広がっていく。

 

 一体目の前で何が起きているのか、別に動揺するでもなくラグナが眺めていた、その時。

 

 

 

「後悔する間も、絶望する間すらも、もはや与えん」

 

 

 

 今し方、ラグナの見ている目の前で。己が使役する腕に潰された筈のエンディニグルの声が響く。そこに在るのはエンディニグルの液体に塗れた、人体を象った無数の腕の集合体だけであり────が、突如としてその下に広がっていた黒紫色の液体溜りが、粘つき糸を引きながら腕の集合体を飲み込んだ。

 

 さながら、それは粘土細工のようなものだった。幾度も表面を波立たせ、周囲に異様な臭気を撒き散らしながら────変化していく。

 

 腕らしき部分は確かな腕となり、より太く、強靭に。足らしき部分は確かな足となり、より太く、強靭に。凹凸など全くなく滑らかな胴体も瞬く間に、堅牢と表するには足りない、筋肉という筋肉を搭載し覆われた肉体へと変化していく。

 

 もはやそこに在ったのは、腕の集合体でもなければ『魔焉崩神』エンディニグルでもない。

 

 ラグナの背丈を優に越す黒紫肌の、先程の青年の風貌など欠片程も微塵にも面影を残していない、頭部に山羊のものにも似た角を戴く巨人の──そう、様々な伝承に残され畏怖される悪魔の姿そのものであった。

 

「拝謁せよ人間。刮目しろ下等生物。この姿こそが、今の我こそが真なる我。滅びの『厄災』を超越せし災い────此れ即ち『極災』。微塵の慈悲として、聞かせてやろう」

 

 まるで深淵から響く、恐ろしく低く濁った声音で、ラグナに告げる。

 

「我はエンディニグル。『魔焉崩神』エンディニグル──極災形態(モード)である。宣言しよう、もはやお前に勝ち目は……なァァァいッッッ!!!」

 

 とうとう抑えられなくなったとでも言いたげに、叫んだエンディニグルの足元から黒紫色の光が迸り、それは瞬く間に円となって、一呼吸の間も置かず広がる。ラグナの身体を突き抜け、大地を駆け抜け、ここら一帯の岩山を通り越し、荒野全体に広がっていく。

 

 それを満足げに見届けたエンディニグルが、己の勝利を確信して疑わない声で、荒野を揺らすかの如く咆哮する。

 

「神域、解放ッッッッ!!!!」

 

 瞬間────膨大という言葉では到底片付けられない、

 あまりに禍々しい魔力が荒野全てを満たした。空が、大地が黒紫色に悍ましく変色し、侵される。空間すらも歪み、気がつけば──今この場を覆い尽くす程の、エンディニグルが喚び出していた黒い腕が蔓延り、そしてそれら全てが自由に、無秩序に這い回っていた。

 

 およそ常人には理解できない、この世とは思えない、まさに異界と化した荒野。それを創り出したエンディニグルが突っ立つラグナに得意げに語る。

 

「止めの駄目押しというものだ。フハ、フハハハハッ!我が神域に足を踏み入れた者は、如何なる存在(モノ)はありとあらゆる終焉を与えられる。本来であればその命に対して終焉を迎えさせてやっているところだが……そんなことさせん。我は許可させん。させてやるものか……やるものかァァァァァアアアアア!!!!」

 

 動かないでいるラグナの眼前にまでエンディニグルは迫り、そして一切躊躇することなく、一切加減することなく彼に向かって巨拳を振るった。

 

 バガンッッッ──極災形態のエンディニグルの一撃を、防御することなく無防備にも受けたラグナの身体が冗談のように吹き飛ぶ。それだけに留まらず余波で彼の周囲の地面一帯すらも総じて捲り上げられて、彼と共に吹き飛ぶ最中粉とすら化さずに大気中で一瞬にして消滅してしまう。

 

「ハッッッハッハッハァ!!どうだ?何もできまい!?当然だ、思考することすら強制的に終焉(おわ)らせているのだからなァアッ!!」

 

 叫びながらエンディニグルが地面を蹴りつける。それだけで彼が立っていた周囲全てが陥没し、底の見えない程の深い大穴を穿つ。そして刹那よりも短い間に宙を滑って飛んでいるラグナの頭上に先回りし、エンディニグルは両巨拳を握り合わせ、それを金槌(ハンマー)のようにラグナの腹部に向かって思い切り振り下ろす。

 

 エンディニグルの握り合わせられた両巨拳がラグナの腹部を打ったその瞬間、途方もなく尋常ではない衝撃が彼の身体を貫通し、その下にある地面を穿ち、荒野全体に波及する。直撃を受けてしまった地面は一瞬にして爆ぜて、割れて、砕けて──もうそこに広がっていたのは、やはり底の見えぬ巨大な深淵。

 

 荒野全体に波及した衝撃は超振動を起こし、大地を文字通り大いに揺さぶった。それによって起きる被害は凄まじいを通り越して圧巻で、そこら中に亀裂が走り無遠慮かつ奔放に割れ目(クレバス)を作り上げていく。数々の岩山は下から揺らされ、為す術もなく大崩壊を起こしてしまう。

 

 そんな被害────否、災害が凄まじい勢いで巻き起こり、広がっていく最中。ラグナの身体が空を切りながら落下する。が、

 

「逃がさんッ!決して、逃がさんぞォオオオッ!」

 

 エンディニグルがそう叫ぶと同時にラグナを囲うように、彼の周りの何もない空間からエンディニグルの黒い腕が滲み出るように現れ、ラグナの手足を引っ掴み、そして上へ放り投げる。

 

 ラグナは一瞬にしてエンディニグルの頭上にまで投げられ、対するエンディニグルは凶悪に口元を歪め、ずらりと並びびっしりと生え揃った牙を見え隠れさせながら、硬く握り締めた巨拳を振り上げた。

 

「死ね!死ね死ね死ね死ね死ねェエエエいッッッ!!!【魔焉崩拳(まえんほうけん)】ンンンンッ!!!」

 

 狂ったように叫び続けながら、刹那エンディニグルはラグナとの距離を詰め切り、そして振り上げた拳を彼に向かって振り下ろす。それも一撃だけでなく二撃、三撃──両の巨拳を使い、一撃で大抵の存在を跡形もなくこの世界から消滅させる程の破壊力を秘める技を、一切出し惜しまない怒涛の連撃(ラッシュ)で叩き込む。

 

 エンディニグルの【魔焉崩拳】がラグナの身体を打つ度、彼の身体を衝撃が貫通し、その背後にある大空を打ち抜く。雲が千切れ、儚く霧散していった。

 

 先程の状況とは全く真逆に、一方的に攻撃を加えるエンディニグル────だがそうする最中、この神にはずっと疑問が纏わり離れないでいた。

 

 ──何故だ。何故極災形態となった我の、我の【魔焉崩拳】をその身に喰らってなお、何故原型を留めていられる……?

 

 そう、確かにエンディニグルはラグナに攻撃を加えていた。己の拳を、彼の身体に打ち込んでいた。……だがしかし、()()()()()()()

 

 やがて、エンディニグルの表情に焦りが浮かぶ。圧倒しているのはこちらのはずなのに、今有利に状況を進めているのはこちらのはずなのに────そんな焦りが彼の頭の中を一周した、その時だった。

 

「ッ!?」

 

 エンディニグルは見た。見てしまった。その一瞬。刹那にも満たないその時。

 

 

 

 

 

 ラグナが、笑っているのを。

 

 

 

 

 

 荒々しく獰猛ながらも、まるで無邪気な子供のような笑みだった。面白い玩具を見つけたような、何処か狂気を帯びた歓喜の笑顔。それを目の当たりにしたエンディニグルの背筋に、凄まじい悪寒が一気に駆け抜ける。

 

 それを感じたと同時に、エンディニグルが止めと言わんばかりに拳を大きく振りかぶる。すると先程と同じように何もない空間からあの無数の黒い腕が現れ、それら全てが振りかぶられたエンディニグルの拳に、腕全体に絡み纏わりつく。

 

 エンディニグルの腕は影の如き漆黒に染まり、瞬間元の大きさから倍以上に膨張し巨大化する。その大きさはもはやラグナの背丈を大幅に越しており、冗談抜きにそのまま拳を開けば、彼を丸ごと握り潰せる程である。

 

 だがエンディニグルはそうしようとはしなかった。今己が、極災形態となった己が放てる最大最高最強の一撃を放つ為に、彼は漆黒の拳を何処までも硬く握り締めなければならなかったのだ。

 

 極災形態となったエンディニグルは、魔法を一切使用することができない。その代わり内に秘める魔力は爆発的に増大し、それに比例して身体能力も底上げされる。それこそ拳の一振りで、容易く面白いように地形を変えれる程に。

 

 そして神域を解放させている今────その身体能力も際限なく高められている。おまけにラグナの意思を掌握することで、回避も防御も反撃も、一切合切を封じている。そこでさらにエンディニグルはこうするのだ。

 

 爆発的に増大した魔力を用い、その用途を残さず全て己の右腕、右拳に集中。それにより腕力膂力全てを桁違い、埒外なまでに、徹底的に高め極めた。

 

 そう、今こそ絶対にラグナを斃す為に。己の内で喧しく鳴り響き続ける警鐘に従って、眼前の存在(モノ)を完全に滅ぼす為に。

 

 そして、遂に──────エンディニグルはその完成された究極の一撃を、ラグナに向かって振り下ろした。

 

 

 

「【魔焉崩拳(まえんほうけん)(かい)】ッッッッッ!!!!!」

 

 

 

 ドパンッ──まるで水を大量に含ませた風船を思い切り割ったような、巨大な破裂音。ふとエンディニグルは見やる。振り下ろした右拳が、右腕ごと吹き飛んでいた。

 

「……がッ、ぎぃいぃぃいッ?!」

 

 一体何が起きたのか、一切理解できなかった。理解できぬまま、エンディニグルはただただ痛みに喘ぐ他できない。そして次の瞬間何事もなかったように右腕と右拳が元通りになると同時に気づく。自分の目の前に、誰もいないことに。

 

 

 

 

 

 刹那──────感じたのは熱だった。

 

 

 

 

 

「…………な、に……?」

 

 エンディニグルは落下する。思考が定まらない最中、彼は咄嗟に手足を動かし、もがこうとした。だが、できなかった。

 

 当前だ。何故なら今、エンディニグルの手足は────なかったのだから。達磨となった彼は為す術もなく落下を続け、数秒も経たないで己が蹂躙し尽くし、悲惨極まる有り様の地面に激しく叩きつけられる。

 

 それと同時にこの荒野全体を包んでいた禍々しい魔力────エンディニグルの神域が硝子のように割れて、儚く砕け散る。無尽蔵に湧き出し這いずり回っていた黒い腕も、急激に薄れ最後は塵のように消え失せて、気がつけば荒野は元の──とは決して言えないが、それでも異界の様相からは戻った。

 

 ──何が、起きた?何が起こっている?何故我の傷が逆行しない……?わからない……理解、できない……。

 

 微かな身動き一つすら取れず、何もできず、答えの出ない疑問をエンディニグルは抱き続ける。やがてその意識が朦朧するとほぼ同時に、彼の視界も徐々に暗く、不鮮明となり始める。

 

「【絶火(ぜっか)】。……チッ、こんなんで終わっちまったのかよ」

 

 不意に背後から聞こえてきた、酷く退屈でつまらなそうな声。一体己の身に何が起きたのか最後まで理解できず、その身体を崩壊させながら──────

 

「弱かったな、お前」

 

 ──────その失望の一言を最後に聞いて、自分の身に一体何が起こったのか、こちらを見下すこの男が一体何をしたのか。それを延々と考えながら、『魔焉崩神』エンディニグルはその場から残滓すら残さず消滅した。

 

「にしてもやっぱ上手くできねえわ、手加減。結構弱めの技を選んだつもりだったんだけどなあ……」

 

 そんなエンディニグルの最期を見届けることなく、苦い表情でそう呟きながら、頭を掻くラグナ。しかしすぐに顔を上げて、オールティアの方角に視線を向けた。

 

「まあ、もういいや。んじゃさっさと帰るか」

 

 そう言った、瞬間だった。

 

 

 

 

 

 ────見つけた────

 

 

 

 

 

 不意に、そんな誰のものともわからない声が、ラグナの頭の中で澄んで響いて聞こえた。

 

「あ?」

 

 反射的に声を上げるラグナであったが、直後彼の身体が揺れる。

 

「なっ……ぐ……ぅ、ぁ」

 

 何とか抗おうとしたラグナだったが、その抵抗も虚しく彼はその場に崩れ落ちるように倒れてしまう。数秒後、ラグナの口から聞こえ始めたのは────静かな寝息だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────ここまでが先輩から聞かされた話である。

 

 突如として現れ、終焉の魔神を討った赤髪の男。そう、この人こそが、この世界に三人しかいないと言われる存在、《SS》冒険者(ランカー)────ラグナ=アルティ=ブレイズである。

 

 そして僕ことクラハ=ウインドアの『先輩』……なのであった。

 

 こうして厄災の予言にあった一つ目の滅びは、《SS》冒険者のラグナ先輩によって回避され、この世界にまた一時の平穏が訪れた。

 

 ちなみに何故あの時先輩が現れたのかというと────「パフェ食おうとしたら急に店が揺れて、パフェが倒れた。だから打ちのめした」……らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ってことも、あったなあ」

 

 日常(いつも)と変わらない空を見上げながら、誰に言うでもなく僕はポツリと呟く。

 

 微風(そよかぜ)が吹く。小鳥が囀る。ああ、今日も良い天気だ。

 

「…………」

 

『魔焉崩神』エンディニグル。かの魔神は、強かった。本当に強かった────のだろう。一月が過ぎて、もはや漠然としか振り返られないが、話を聞いた限りでは決して人間なんかが敵う相手ではなかった。……はずだ。うん。

 

 だが、やはりそれでも────規格外で、埒外で、桁違いなあの人には届き得なかった。

 

 あの人────現時点でこの世界に三人しかいないと言われる《SS》冒険者(ランカー)の一人、ラグナ=アルティ=ブレイズ。僕の先輩であり、僕が駆け出しの冒険者である時からずっとお世話になった。

 

 

 

 ……そう、そんな先輩()()()()()

 

 

 

「えっと……大丈夫ですか?先輩」

 

 言いながら、茂みの向こうを覗き見る──そこには、想像通りの光景が広がっている。

 

 

 

「……助けてぇ、くらはぁ」

 

 …………ありのまま。ありのまま僕が見た光景を説明しよう。

 

「もう、無理だぁ……動けねえ……」

 

 雑魚中の雑魚で知られる魔物(モンスター)スライムに。それも大量の群れに、先輩は全身に纏わりつかれ、その髪も服も何もかも、とろとろのドロドロにされてしまっていた。

 

 

 

 ……()()()()()()()()()()()()、先輩が。

 

 

 

 一体どうしてこんなことになってしまったのかと、そう問われれば。僕はこう答えざるを得ない。

 

 そう、あれは今から約一ヶ月の事だ────────



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消えた先輩。現れた謎の女の子

 全ての始まりとなるその日、僕はこの街(オールティア)にある喫茶店にて、新聞を片手に珈琲(コーヒー)を飲んでいた。

 

 ……断っておくが、日常の午後を喫茶店で独り過ごす程、僕は優雅な人間ではない。この場所で、とある人物を待っていたのだ。

 

『ファース大陸を救った英雄〜街に降り立った魔神を討ちし男〜』という、全面全てを使い書かれた記事に目を通し、それからテーブルへと置いて、代わりと言わんばかりに一通の手紙(今朝自宅に届いていた)を僕は手に取る。

 

 

『今日、ヴィヴェレーシェで待ってろ』

 

 

 ……それが、この手紙の内容だ。ちなみにヴィヴェレーシェというのはこの喫茶店の名前である。

 

 差出人等は一切不明という、怪し過ぎる手紙だが、普通の人であればこんなもの無視するか即座に破り捨てるか近くの憲兵にでも知らせるだろう。

 

 当然僕だってそんな行動を取る。……取るのだが、今回はそうしなかった。何故なら、恐らく手書きだろうその手紙の筆跡が、僕の知るとある人物の筆跡と、非常によく似通っていたからだ。

 

 そのとある人物というのが────以前この街を救った冒険者《ランカー》にして僕の先輩である、ラグナ=アルティ=ブレイズであった。先輩の筆跡の癖などが、この手紙に幾つか見られたのだ。

 

 筆跡というのは、似せようとして似せられるものではなし、ましてや本人特有の癖なんて真似できる訳がない。

 

 なので、こうして喫茶店(ヴィヴェレーシェ)に訪れ、恐らく先輩なのだろう手紙の差出人を待っていたのだ。

 

 まあ……これがちょっとした悪戯だったとしても僕は気にしないし、先輩が来るなら来るでそれに越したことはない。何せ今先輩は────この街からその行方を晦ましていたのだから。

 

 『魔焉崩神』エンディニグルを連れて、ラグナ先輩は遥か空の向こうに消えた。消えて、数日が経ってもあの人がこの街に帰って来ることはなかった────そう、世界最強の一人と謳われる《SS》冒険者は、忽然と姿を消してしまったのだ。

 

 普通ならば、『魔焉崩神』エンディニグルと相討ちになってしまったと考えるのが妥当だろうが、それはないと僕は断言する。あの日、あの場にいた冒険者たちは勿論として。恐らくこの世界で生きる全ての冒険者たちでさえも、きっと断言するはずだ。

 

 先輩はエンディニグルを圧倒していた。それも完膚なきまでに。だからこそ先輩が相討ちになったとは考え難い。……無理矢理可能性を考えるなら、あの時エンディニグルはまだ全力を発揮していなかったと、そう仮定することくらいだ。

 

 それに、こういったことは別に珍しいことではない。先輩は自由で、とにかく自由奔放で。唐突に消えるのは今に始まったことじゃない。

 

 あの人はふらっと急にこの街からいなくなったかと思えば、ふらっと急にこの街に帰ってくる。なのでそれに関して僕が今さら特に思うことはなく。まあ強いて言うのならば────ああ、またか。……そんなところだ。

 

 だがしかし、今回の場合は少し珍しかった。そもそも先輩は手紙など、滅多には書かないのだ。そんな先輩が、わざわざこちらに手紙を寄越してこの喫茶店に来いと言ってきた。

 

 まあ、さっきも言った通りあの人に限って何かあったとか、そういうのは考え難い。それにこの手紙の差出人が本当に先輩ならば、これを無視する訳にはいかない。そんなことすれば……恐らく僕は死ぬことよりも酷い目に遭わされてしまう。

 

 とまあ、そんなこんなで待っていたのだが。未だに先輩らしき人物は来ていない。

 

 ──時間を指定してない時点でなあ……。

 

 手紙には来いとは書かれてあったが、肝心の時間は書かれてなかった。一応早朝からこうして待って、もう時刻は午後に差し掛かるところだ。いい加減、新聞を読んでいるのも珈琲を飲んでいるのも軽食を摘むのも飽きてきた。

 

 もう、このままいっそ帰ってしまおうかなと。その後に待つ己の未来など顧みずにそう思った、時だった。

 

 チリンチリン──本日何度目かは忘れたが、来客を知らせる鈴の音が喫茶店内に鳴り響いた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 それに続いて、落ち着いた店主(マスター)の声と、足音。

 

 小さく、そして軽やかな足音は店内を少し歩き回ったかと思えば、次にこちらに近づいてきた。思わず無意識に新聞紙から顔を上げて見れば────『それ』は視界に映り込んできた。

 

 ──な、何だ……?

 

 無論、それは人であった。人ではあったが、些かその格好に問題があった。

 

 麻布のローブ。その者は決して新しいとは言えない、少々古めかしさが目立つ麻布のローブに身を包んでいた。

 

 ようやっと僕の胸辺りに届くか、届かない程度の、少し低めな身長。顔はローブを目深に被っているためよく見えず、わからなかった。

 

 そんな見るからに怪しい麻布のローブの者は、フラフラとやや危なげな足取りでこちらの方にまで歩き、そして何故か僕の目の前にまでやって来た。

 

「…………」

 

 僕と、そのローブの間で奇妙な沈黙が流れる。新聞紙から顔を上げてしまったことを少し後悔して、とりあえず知らん振りをして、新聞紙を読む素振りで無視しようと顔を下げる────直前だった。

 

「おい」

 

 不意に、ローブが口を開いた。

 

 

 

「その……何だ。ひ、久しぶりだな。元気してたか?────クラハ」

 

 

 

 僕の名前を言いながら、ローブは顔を晒す────女の子、だった。



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ラグナ先輩?

「その……何だ。ひ、久しぶりだな。元気してたか?────クラハ」

 

 そう言って、気まずそうに。突如として現れた謎ローブはその顔を僕に晒す────女の子だった。

 

 ふわりと舞って揺れる、轟々と激しく燃え盛る炎をそのまま流し入れたような赤髪。それと同じ色の、煌びやかに輝く真紅の瞳。若干不安そうにしながらも、勝気にしている表情はまるで芸術作品かの如く精巧に作られた人形のように恐ろしく整っており、幼げながらもその将来を大いに期待させてくれる、少女の可憐さと女の美麗さの間を彷徨う、中途半端だからこそ思わず惹かれてしまう貌をそこに宿していた。

 

 麻布のローブ──否、女の子はそれだけ言って、僕の向かいの椅子へと何の躊躇いなく腰かける。

 

 僕はといえば────ただただ、困惑していた。

 

「え……え、えっと」

 

 急に向かいに座られた少女に対し、僕はしどろもどろになってしまう。いや、僕がこうなるのは仕方のないことなんだ。

 

 だって。そもそも僕に────

 

「………その、ちょっと。尋ねたいことが、あるんだけど……君、いいかな?」

 

 ────こんな女の子との面識なんて、全くないのだから。

 

「失礼になるかもだけど、君は一体誰なのかな?。僕が覚えている限り、僕の知り合いとかに君のような子はいないんだけど……」

 

 僕がそう言うと、目の前の女の子は複雑そうな──寂しそうな表情を浮かべる。それからはあ、と呆れたようにため息を吐いて。

 

「……まあ、やっぱわっかんねえよなあ」

 

 と、そう答えたのだった。見た目からは想像もつかない、可愛らしい声音には似つかわしくない、やや雑で乱暴な言葉遣いに、思わず僕は面食らってしまう。

 

 ──こ、こういう女の子もいるのか……。

 

 少しだけ驚きを感じていると、やがて女の子がまた、その口を開かせ言う。

 

「俺だよ。俺」

 

 そう言いながら。ぴっ、と自分のことを指差す女の子。……当然、僕はその意味がわからず、再度困惑した。

 

「……え?」

 

 いやまあ、自分のことを「俺」って呼んだことに対してもだけど、その言い方に僕は戸惑う他なかった。

 

 目を丸くさせ、ただただ困惑する他ないの僕に、女の子は痺れを切らしたように、若干苛立った様子で今度は──────

 

 

 

 

()()()!俺は、お前の先輩のラグナさんだ!」

 

 

 

 

 ──────などと、宣うのだった。

 

「………はい?」

 

 一瞬、この子が何を言っているのか僕は理解できなかった。なので、頭の中でこの子の発言を反芻させてみる。

 

 『俺は、お前の先輩のラグナさんだ!』

 

 …………うん。やっぱり、ちょっと理解できないかな。

 

 僕は珈琲(コーヒー)に口をつけ、それから少女にへと笑いかけた。できるだけ自然に。和かに。

 

「嘘言っちゃいけないよ、君。大体、僕の先輩は男だしね」

 

 そう、僕の先輩であるラグナ=アルティ=ブレイズは歴とした男だ。それは揺るぎない事実で、変えようのない現実なのだ。

 

 であるからして、先輩は決して今目の前にいるような赤髪の美少女などではない。うん、絶対に違う。

 

 ……さてと、ではそうなるとこの子の目的は何だろう。ひょっとして僕を騙して金でも巻き上げようとか、そんな感じの目的だろうか?

 

「ふっざけんな!嘘なんかじゃねえっての!俺は本当にラグナなんだよ!」

 

「……いや、そう言われても……あ、もしかすると君ってラグナ先輩のファン?サインが欲しいなら、僕じゃなくて先輩に直接頼んでもらえると」

 

「俺が俺のサイン欲しがる訳ねえだろッ!」

 

そう叫ぶと同時に、椅子から立ち上がる女の子。僕はその剣幕に、僅かにではあるが不覚にも気圧されてしまった。

 

 どうしよう。僕はどうやらちょっと、いや結構面倒な子に絡まれてしまったらしい。そしてまさかとは思うが……察するに、この子があの手紙の差出人なのだろうか?

 

……いや、流石にそれはないはずだ。筆跡も癖も、あれは間違いなく先輩の────僕が知る男のラグナ先輩のものだった。

 

考え込む僕に、女の子は呆れたような眼差しを向けて。そしてそれと同じ声音で、まるで愚痴を溢すかのように言う。

 

「ったく……お前、先輩の言葉も信用できないってのか?」

 

「信用できないのかって、言われても……」

 

 僕が困ったようにそう返すと、女の子は少し疲れたように眉を顰め、それから仕方なさそうにため息を吐いて椅子に再び座った。

 

 そして、唐突に。

 

()()

 

 ……と、僕に呟くのだった。しかし、急にそんなことを言われても、一体何のことだか僕はわからず戸惑った。そんな様子の僕を見兼ねたのか、また仕方なさそうに女の子が続ける。

 

「……結構前に、お前が《S》冒険者(ランカー)になった記念で渡しただろ?まだ、御守り代わりに持ってんのか?」

 

「え?……あ」

 

 そう言われて、僕はハッと気づいた。しかしそれは────僕と先輩だけしか知らないはずのことだ。

 

 僕が驚いていると、また女の子が言う

 

「アジャの森、ガヴェイラ遺跡、深淵の洞窟、白金の塔……流石に全部は覚えちゃいないけど、とにかくお前と一緒に行ったことのある場所だぞ」

 

「……はは。いや、これは……ちょっと、参ったなあ」

 

 女の子の言う通りそれらの場所は、かつて先輩と共に────というか半ば強制的に連れられ、僕も訪れたことのある場所だった。そしてこれも僕と先輩以外、知ることのない情報である。

 

 ……つまり、だ。まさか、この子は、本当に……?

 

「……ほ、本当にラグナ先輩……なんですか?」

 

 未だ信じられない気持ちで、恐る恐るそう訊くと────女の子は胸を張って、自信満々に答えた。

 

「おう。正真正銘、俺はお前の先輩、ラグナ=アルティ=ブレイズだ。さっきからそう言ってんだろ?」

 

「………マジですか」



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「……あの、先輩」

 

「あーむっ……ん?何だ?」

 

 まさに至福、という表情で運ばれてきたパフェを食べ進める先輩に、僕は尋ねてみた。

 

「そもそも、何で先輩は……その、女の子になっちゃったんですか?原因とか、わかってるんですか?」

 

「んむ……原因?いや、んー……もぐ」

 

 やや黄色みがかった白色のアイスクリームをスプーンで掬い、口元にまで運び、そして口腔にへと放り込む先輩。

 

「ん〜……!」

 

 そのアイスクリームが如何に美味なのか、それを表情で以て全力で示す先輩。とろぉ、という擬音がさぞ似合いそうな、大変可愛らしく屈託のない、頬の蕩け切った笑顔を前に、僕は思わず心臓の鼓動を早めさせてしまう。

 

 ──この子はラグナ先輩この子はラグナ先輩この子はラグナ先輩この子はラグナ先輩……!!

 

 そう心の中で自分に暗示でもかけるかの如く必死に言い聞かせて、先輩の返事を待つ。するとアイスクリームを十二分に堪能しただろう先輩は、ようやっと僕の質問に対してこう答えてくれた。

 

 

 

「それが、わかんねえんだよ」

 

 

 

 訂正。答えになっていなかった。

 

「……わからない、ですか」

 

 深刻そうに僕は返すが、先輩は大して気にしていない様子で適当に相槌を打つ。

 

「おう。……あむ」

 

 ……今、先輩の関心は全て目の前のパフェに注がれている。この人は、昔からいつもそうなんだ。

 

 大事な依頼(クエスト)に関する話の時も、僕の今後の冒険者(ランカー)人生の相談の時も、先輩はパフェやケーキ等の洋菓子(スイーツ)のことを何よりも最優先し、いつもいつも、毎回毎回食べていた。そう、今この時と同じように。

 

 まあ、別にそれはどうでもいいのだが。僕は別に何とも思っていないのだが。本当に何も、微塵たりとも思っていないのだが。うん。

 

 だがしかし、今回は先輩自身の問題。それも、性別が変わるという、到底捨て置くにも捨て置けないであろう前代未聞の大問題のはず。

 

 …………なのに、この人はどんだけパフェ好きなんだよ。

 

 ──本当に、凄い幸せそうな顔で食べるよなあ毎回……。

 

 洋菓子を食べる女子というのは、絵になる。……まあ、中身は男?なので僕としては結構複雑なのだが。

 

「……あー、じゃあ何か変なこととかもなかったんですか?」

 

「変なこと?」

 

「はい」

 

 藁にも縋る思いでそう尋ねると、先輩はそこで今日初めて考え込むような顔をして、それからあっと何か思い出したような顔になった。

 

「ああ、そうだったそうだった。俺、見たんだよ」

 

「見たって……何をですか?」

 

「夢」

 

「夢、ですか?」

 

 グラスの底をスプーンで突きながら、先輩はその夢とやらの内容を話し始めた──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………ん、あ?」

 

 ふと、目を開くと。それはもう広大な大海原が目の前に広がっていた。

 

 呆然とその景色を眺めて、それから特に思うこともなく頭上を仰ぐ。そこにあったのは、何処までも突き抜ける晴天だった。

 

「………何だ、ここ。……夢か?」

 

 未だはっきりとしない意識の中で、ラグナ=アルティ=ブレイズは第一にそう思った。そして次に思ったことが──────

 

 

 

「んじゃ寝るか」

 

 

 

 ──────だった。そして即時行動が一つのモットーであるラグナはすぐさま目を閉じた。その瞬間である。

 

 

 

 

 

「おっっっはよおおおおおおっ!!!」

 

 

 

 

 

 鼓膜を震わす、というか破り裂かんばかりの大声量の挨拶が飛んできた。流石のラグナもこれには目を開けずにはいられなかった。

 

「うっせえなぁおい!誰だあ!?」

 

「ボクだよ!」

 

「いやだから誰だ!?」

 

 気がつけば。ラグナの目の前に、女性が立っていた。透き通るような灰色の髪と、それと全く同じ色の瞳をした女性が。

 

「ボクはボクだよ人の子クン!とりあえず、おっは「うっせえ黙れ!」おっはよおおおおおお!!」

 

 ラグナの言葉になど少しも耳を傾けずに、すぐ目の前だというのにこれまた大声量で挨拶を彼にぶちかます女性。当然、眉を顰め額に青筋を思わずラグナは浮かべてしまう。

 

「ブッ飛ばすぞこのアマぁ……!」

 

 並大抵の者であれば、それだけで戦意を喪失させるような形相とドスの効いた声で、ラグナは女性にそう言うが。

 

「全然構わないよヘイカモン!」

 

 全く通じなかった。

 

「……い、いや。冗談だ」

 

 ラグナといえど、流石に女を殴るような趣味は持ち合わせていない。眉を顰め青筋を浮かべながらも、嘆息しつつ再び目を閉じた。

 

「どっかの誰だか知らんが、茶番に付き合う気はねえ。じゃあな」

 

 そして即座に意識を放り投げる──直前。

 

「あれそうなのそうなんだ。じゃあボクも手短に用件、というかお知らせをキミに伝えるよ!」

 

 と、無駄なハイテンションを維持しながら女性がラグナにこう、伝えるのだった。

 

 

 

「全人類からの厳選な抽選の結果お見事キミが選ばれましたおめでとう本当におめでとう!なのでキミにはとっても素敵でステキな祝福(ギフト)を贈っちゃうよ!さあ明日から新しい楽しい人生────否、()()の始まり始まり〜!」

 

「はぁ?」

 

 

 

 瞬間、まるで灯火を吹いて消すように。ラグナの視界は暗転し意識が途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「って、夢を見た」

 

「いや絶対それですよね原因」



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腕相撲

「って、夢を見た」

 

「いや絶対それですよね原因」

 

 半ば呆れながら、僕はそう先輩に言う。というか、現状……それ以外にないだろう。

 

 すっかり冷めてしまった珈琲(コーヒー)を一気に喉の奥へと流し込んで、一呼吸置いて僕は先輩に言う。

 

「先輩の話に聞く限り……その女性っていうのはもしかすると『創造主神(オリジン)』じゃないですかね?」

 

「創造主神?……何だっけ、それ」

 

「……はあ」

 

 気のせいだろうか。軽めの頭痛がし始めた気がする。顳顬を手で押さえながら、僕は簡単に説明する。

 

「この世界(オヴィーリス)を創り上げたとされている最高神ですよ。これくらい子供でも知ってる常識です」

 

「へー。興味ねえな」

 

「あ、はい。わかりました」

 

 ……そうだった。先輩はこういう人だった。自分に興味のないことにはとことん無関心な人であることを僕は忘れていた。

 

 けどまあ、『創造主神』様がそんな威厳の欠片もない性格だとは少し、いやかなり考え難い。しかし先輩が言っていたその特徴は、神話として現代までに語り継がれている姿と概ね一致している。可能性が完全にない訳ではないだろう。

 

 だが、ともかく今それは捨て置こう。あと気になるのは────

 

「その女性が言ってた、祝福(ギフト)というのは一体何でしょうね?」

 

 祝福。それも『創造主神』直々からの祝福である。想像の域を出ないが、それはもう凄まじいものだとは容易にわかる。

 

 それとも、女の子になったことがその祝福とやらなのだろうか?もしそうであるなら……とんだ傍迷惑な祝福もあったものだ。

 

 そう考えながら尋ねると────何故か先輩は苦虫を噛み潰したかのような顔になった。

 

「祝福なんかじゃねえっての」

 

「まあ、突然女の子にされちゃいましたしねえ」

 

「……まあ、()()()()なら、まだマシだったんだけどな」

 

「え?それは、どういう……」

 

 先輩のその言い方は、まるで他にも厄介なことがあるかのような、そんな言い方だった。率直な疑問を包み隠さずに僕がそう返すと、何故か躊躇うように黙り込んで────それから意を決したように、先輩は僕に向かって手を突き出した。

 

「「…………」」

 

 手を突き出したまま沈黙する先輩と、その行動の意図が上手く掴めず困惑し沈黙する僕。その結果互いの間で何とも言えない、気まずい静寂が数秒流れた。

 

 その静寂を、不意に先輩が破る。

 

「クラハ」

 

「え?は、はい。何ですか?」

 

 先程までの、パフェを大変御満悦そうに味わっていたのがまるで嘘だったかのような、強張った真剣な表情と声音で。先輩は僕に言う。

 

「俺と腕相撲しろ」

 

「え?あ、はい。……えっ?」

 

 先輩の言葉は本気だった。煌めいて見える真紅の瞳には、確かに燃える意志があった。つまりそれは何の冗談でもない、本気(マジ)の言葉だったのだ。

 

 正直に白状してしまうと、僕にはその真意が見抜けない。一体どういうつもりで、一体どういう思惑で先輩は唐突に腕相撲をしようといったのか。

 

その理由が僕には全くわからない。それはこの人の後輩としてあるまじきことだったが、本当にわからないのだからしょうがない。許してほしい。

 

 ──いや待て待て。僕は一体誰に向かって謝っているんだ……!?

 

 一瞬現実逃避しかけた思考を無理矢理引き戻して、僕は心の中でそう叫んでから、息を整え先輩に問う。

 

「あ、あの先輩。そんないきなり、どうして腕相撲を……?」

 

「いいから俺とやれって言ってんだろ!!」

 

「は、はい今すぐに!!」

 

 声を張り上げた先輩の圧と、それによって何事かと一斉にこちらの方に顔を向けた他の客の視線に、僕は先輩との腕相撲を余儀なくされる。

 

 が、その直前────僕は試練という名の壁に激突することになった。

 

 ──うっ……。

 

 腕相撲。それは単純明快な力比べの一つ。その規則(ルール)はあってなきことに等しいが、強いて言うのであれば。

 

 自分と相手。両者の手を握り合い、力で競い合い、どちらか一方の手を机に押しつける。ただそれだけだ。

 

 ……それだけだが、大前提として相手の手を握り締めなければならない。つまり、僕は先輩の────女の子になった先輩の、女の子の手を握り締める必要がある。

 

 …………自慢ではないが、僕は異性に対してそう免疫はない。そんな僕にとって、それが一体どれだけの難易度(ハードル)を誇るのか、理解するのは容易だろう。

 

 ──この子は先輩この子は先輩この子は先輩この子は先輩……!

 

 先程かけたばかりの暗示を今一度己に十分過ぎるくらいに、強烈に必死にかけて、待たされややその機嫌を崩し始めている先輩の手を────僕は握った。それはもう、断崖絶壁から飛び降りるような面持ちで。

 

 が、直後先輩が僕に文句をぶつけてきた。

 

「おい。もっとしっかり握りやがれ」

 

「…………」

 

「クラハ?」

 

「すみません了解です」

 

 圧に負け、言われた通り僕は手に力を込めて、先輩の手をしっかりと握り締めた。

 

 ──というか、何故僕は喫茶店で腕相撲なんかしなくちゃならないんだ……?

 

 堪らずそう心の中で呟いた、その瞬間。そんな僕の嘆きは、はっきりと確かに伝わってくる感触によって微塵も残さず吹き飛ばされた。

 

 僕の手とは全く違う、しっとりと滑らかな肌の感触。そして驚愕の、柔らかさ。

 

 ──お、同じ人間なのに、こうも違うものなのか……ッ!?

 

 思わずずっと握り締めていたくなる。それ程までに、先輩の手の感触は心地良かった。こうして握り締めているだけなのに、癒されるというか何というか……。

 

「よし。んじゃさっさと始めるぞ」

 

「っえ!?あ、は、はい!」

 

 先輩の言葉によって、またもや現実から遠ざかっていた僕の意識は急激に引き戻される。そして慌てて返事をして、目の前のことに集中する。

 

 ……まあ、そうしたところで意味など全くの皆無なのだが。ぶっちゃけると、この腕相撲────やる前から結果は見えている。

 

 どんな形であれ、それが単純な力比べならば、僕が先輩に勝てる道理などあるはずない。

 

 だって先輩は────この世界(オヴィーリス)最強と謳われる一人なのだから。その事実は女の子になったとしても、変わらないはずだ。

 

 だがしかし、すぐにこの後僕は思い知らされることとなる。

 

 

 

 『祝福なんかじゃねえっての』

 

 

 

 先輩が言っていた、その言葉の意味を。

 

「……?」

 

 時間としては、まだ五秒も経っていなかっただろう。だが僕からすれば、()()()()()()()()

 

 胸の内に湧く疑問と共に、僕が目の前の、握り合っている僕と先輩の手を見やる。位置は────全くと言っていい程に変わっていない。その事実を認識し、僕はさらに混乱することになる。

 

 ──ん?んん……?

 

 まさか、腕相撲はまだ始まっていないのか────そう、思いながら。恐る恐る僕は握り合わせられた両者の拳から、先輩の方に視線を運ぶ。

 

 

 

「こんっ……のぉ……!!」

 

 

 

 その光景を理解するのに、僕は数秒を要した。……それ程までに、僕が目にしたその光景は、異常極まりない代物だった。

 

 腕相撲はまだ始まっていないという、僕の予想は外れていた。腕相撲は既にもう、始まっていたのだ。

 

 力を入れているからか真っ赤になっている顔を必死に歪ませ、先輩は懸命にも握り締めた僕の手を動かそうとしている。……一応言っておくと僕は大して、いや全然手や腕に力を込めていない。

 

 だというのに、悲しくなる程に────先輩は僕の手を微動だにできないでいた。

 

「ふぬぅぅぅ……っ!」

 

 先輩自身、恐らくもう限界の限界に挑戦しているのだろう。ギュッと瞳を固く閉ざして、迫力よりも可愛らしさが勝る唸り声を漏らしながら。諦めずなおも僕の手を机に叩きつけようと努力している。

 

 手や腕だってそろそろ痛くなってくる頃だろうに────僕はそんな先輩がどうしようもなく不憫に思えて、どうしたって拭いようのない居た堪れなさと共にようやっと、手と腕にほんの少しだけ力を込めた。

 

 するとどうだろう。そんな僅かな力だけでも、先輩の手を押し返す(そう言うのが正しいのかはわからないが、先輩の為を思って)ことができてしまう。瞬間、ハッと先輩が閉じていた瞳を見開かせ、力んで赤らんだ顔にはっきりとした焦燥の表情が浮かぶ。

 

「く、ぁああッ!!」

 

 その時、先輩は己の限界の限界の先にある力を振り絞ったのだろう。先輩の悲痛な叫びが喫茶店を駆け抜けて──────先輩の手が、僕によってそっと机に押しつけられた。

 

「だあっ!クッソ負けたぁ……!」

 

 ぜえぜえと激しく肩を上下させ、荒い呼吸を何度か繰り返した後に、先輩は悔しそうに言う。……僕は、心苦しさで今にも押し潰されそうだ。

 

 だが、今はそんな場合ではない。一体全体、この由々しき事態は何事なのだろうか。未だに息絶え絶えな先輩に、僕は率直に言葉をぶつける。

 

「先輩、その……これは……どういう……?」

 

 僕の言葉に対し、先輩は大変不服そうな表情を浮かべ、そして口を開く。

 

「クラハ。次は俺の魔力を視てみろ」

 

「え?え、ええ。わかりました」

 

 言われたままに、そこで初めて僕は意識しながら先輩を見やった。見やって────堪らず、絶句してしまった。

 

「は……?」

 

 この世界に生きる全ての存在(モノ)には、大小多い少ないに関わらず、『魔力』というエネルギーが流れている。この魔力は魔法を行使するのに必要であると同時に、生命を維持する為にも必要である。

 

 以前の先輩の魔力は、もはや膨大などという言葉では到底収まらない程だった。……そのはずだった。

 

 だが、それがまるで嘘だったかのように──────女の子となった今の先輩には、ほんの僅かばかりの、それこそこうやって集中しなければ可視化できず感知すら叶わない程の、微弱な魔力しか残されていなかった。



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全裸先輩

 先輩は凄かった。もう、本当に。とにかく凄まじい人だった。

 

 その拳一つで大喰鬼(オーガー)だろうが竜種(ドラゴン)だろうが悪魔(デーモン)だろうが、それが一体何であろうが屠り去り。魔法でも何でもないのに、ただその身に纏ったり放ったりしたその魔力で、一流の魔道士による大魔法以上の破壊力を発揮させたり。

 

 埒外、桁違いという概念を比喩でも何でもなくそのまま体現したような人だった。常識から外れた、反則という言葉すら生温い人だった。まさに強さの次元が違う人だった。人智人域を超越した、『極者』という存在(モノ)の一人に数えられるのも、至極当然だと誰もが認めてそう思っていた。

 

 ……だから、なのだろう。途方もない愕然とした衝撃が、僕の精神を滅多打ちにして、人生でかつてない程の勢いで揺さぶっていた。

 

 が、それでも。身体を壊す勢いで危うく椅子から転がり落ちそうにまでなって、だがそれでもなけなしの気力を振り絞って堪え切り、何とか机に上半身を突っ伏させるだけに留められた僕を誰か褒めてほしい。

 

「ク、クラハ?大丈夫、か?」

 

 と、僕のそんな精神状態を知ってか知らずか。こちらのことを心配しながらも、若干引いた様子で先輩が声をかけてくれる。

 

「…………え、ええ。僕は大丈夫ですよ先輩ええ。僕は別に、何ともですよ平気ですよはいあははは」

 

「……いや、悪りぃけど全然大丈夫そうには見えねえぞ……?」

 

 未だ衝撃は抜け切っていないが、この程度で、こんな程度で崩れる程、僕は軟弱な鍛え方をしていない。柔な人間ではないはずだ。……そう、思いたい。

 

 誰に言い訳するでもなく、己にそう必死に言い聞かせながら、僕はゆっくりと上半身を起こす。それと同時に先程からずっと(詳しく言えば先輩との腕相撲の件辺りから)奇異な視線をこちらに向けているウェイトレスに、僕は人差し指を立てて注文した。

 

「すみません。とりあえず、珈琲(コーヒー)もう一杯ください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 運ばれてきた、淹れたてで熱々な珈琲を少しずつ飲みながら。僕は無言で再度先輩を見やる。

 

 先輩の身体から発せられている魔力は、やはり微弱も微弱。下手をすれば魔物(モンスター)の中でも最下位で、基本的には無害とされているスライムと同程度……下手をすれば、それ以下すらもある。

 

 念の為言っておくと、この世界の強さの基準は別に魔力によって決められている訳ではない。あくまでもその判断材料の一つに過ぎないというだけで、魔力が極端に少ないからといって、弱いということは決してない。

 

 ……だが、しかし。先輩の場合話が違ってくる。先輩は魔力もご覧の有り様で、その上先程確かめた通り、単純な肉体的力も悲惨なものだ。これも下手すれば最悪……子供相手にすら力負けするかもしれない。

 

 ──……ああ、まずい。これはまずいなあ……。

 

 そう何度も心の中で呟いて、別に不味くはない珈琲を喉に流し、僕は何とか冷静を保つ。そうだ。こんな状態になって、今一番困ってるのは先輩なんだ。だからこそ、ここは後輩である僕がしっかりしなければならない。

 

「ラグナ先輩。僕にできることがあれば、なんでも言ってください。協力します」

 

「おう。そう言ってくれると助かるぜ」

 

 にっと笑顔を浮かべる先輩。まるで向日葵のように可愛らしいその笑顔を目の当たりにしてしまい、不覚にも僕は一瞬心臓を高鳴らせてしまった。

 

 ──早まるなクラハ=ウインドア。先輩は男だぞ。今は女の子でも男だぞ。そう、男。男男男男…………。

 

 自分を誤魔化すように、本日三度目の自己暗示をかけつつ、今後どうすべきか僕は考える。

 

 ──とりあえず、このことをグインさんに報告しないとだな……。

 

「先輩。冒険者組合(ギルド)に行って、このことをグインさんに知らせましょう。それとできれば、今後の相談等も」

 

「そうだな。んじゃ、さっさと行こうぜ」

 

 喫茶店から去る為、僕は珈琲を飲み干し、空になったカップをテーブルに置く────直前、ふと思った。

 

 ──そうだ。今先輩、女の子……なんだよな。

 

 漠然と心の中でそう呟きながら、僕は改めて対面している先輩を眺める。そう、今先輩は赤髪の女の子となっている。……以前までは、男だった先輩が。

 

「…………」

 

 僕は、先輩を眺める────さらに言うなら、先輩の()()()()()()を眺める。

 

 先輩が今身につけているのは、麻布のローブ。まあ一応、無理矢理衣服の一種と言い張れるだろうが……あまり人目には晒させたくはない格好だ。

 

 ──……先輩って服とかどうしてるんだ……?

 

 ぼんやりとそう考えた直後────ハッと僕は気づいた。

 

「せ、先輩っ」

 

「ん?」

 

 できればこれは外れていてほしい予想だった。だが、残念ながらそれはないとほぼ断言できる、確信めいた予想であった。

 

 そうだ。考えてみればすぐにでもわかることだ。先輩は、この人は以前までは歴とした男だったんだ。そんな人が、女物の衣服なんて持っているはずがない。

 

 そこから導き出される一つの答え────僕は、半ば祈るような心情で、椅子から立ち上がろうとしている先輩に、慌てて急ぎ訊ねた。

 

「そ、そのローブの下

 

 ────はどうなっているんですか。と、僕がそう言葉を続けることは、惜しくも叶わなかった。

 

 果たしてそれは悪魔の罠か、それとも神の悪戯だったのか。たかが矮小な人間の一人でしかない僕には、到底わかり得ないことだ。

 

 ただ。その時目の前で起こったことを、事実そのままに記すならば。

 

 恐らく立ち上がる際に、不運にもテーブルのどこかに引っかけてしまったのだろう。また不運にも、先輩が身に纏うそのローブはお世辞にも新しいものとは言えない、古い代物だった。

 

 そして、それはあまりにも一瞬で起きてしまった、防ぎようもない事故だった。

 

 

 

 ビリィ──先輩が椅子から立ち上がったと同時に、そんな音が静かに、そして切なく響き渡る。瞬間先輩が纏う麻布のローブが無残にもバラバラに破れ。はらりと、もはやただの小汚い布片と化したそれは花弁の如く宙を舞って散り、床に音もなくゆっくりと落ちた。

 

 

 

「あ……破けちまった」

 

 それが特に大したことのない問題のように、先輩はポツリとそう呟く。僕といえば、突如として眼前に晒されたその光景を前に、ただ硬直するしかないでいた。

 

 隠されていた先輩のローブの下。外界に曝け出され、露わとなった其処は────穢れ一つとない、神聖な雰囲気すらこちらに感じさせる、純白。

 

 手で触れずともわかる。目にしただけでもわかる。きっと瑞々しく、先程握り締めたばかりの手と同様、いやあれ以上に滑らかで、柔いのであろうその肢体。

 

 中でも一際柔らかそうな、二つの果実。真っ先に注目を集めるだろうそれは、その低めな背丈に反して存外威勢良く育っており、ほんのりと薄く桃色づいた先端が目に眩しく、そして悩ましく映り込む。

 

 そこから無意識に視線を下ろせば、ほんの軽く触れただけでも折れてしまうと思い込む程に、細く括れた腰と純白の大地にポツンと点在する小さな窪み──何とも可愛らしい臍と対面することになる。

 

 いけないと頭の中ではわかっていながらも、どうしたってその部分から視線を外せず、逸らすこともできず────勢い余ってさらにその下へと、視界を移してしまう。

 

 瞬間、目に飛び込むのは──────

 

 

 

 

 

「どぉっうおわぁああああああッッッ?!」

 

 

 

 

 

 ──────直前、ようやっと僕は正気を取り戻すことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勘定(かんじょう)お願いしますお釣りはいりません!ほら先輩行きますよさっさと服買いに行きますよ今すぐに!!」

 

「ちょ、まっ…お、俺は女物なんか絶対着ねえってさっきから……い、痛い痛い!あんま引っ張んなクラハぁ!」

 

 偶々(たまたま)羽織っていたコートを即座に先輩に羽織らせた僕は、叩きつけるようにしてこの喫茶店での代金を支払い、嫌がる先輩を無理矢理連れて、この街の冒険者組合『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に向かう前に、問答無用に洋服店へと向かうのだった。



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洋服店での一幕

「はーい、いらっしゃいませー!こちらアネット……ってクラハじゃない。久しぶり!」

 

「え、ええ。こちらこそお久しぶりです、アネットさん」

 

 逃げるようにして慌てて喫茶店から立ち去り、僕は嫌がる先輩を連れて、半ば強引に顔馴染みである洋服店に急遽訪れていた。

 

 ……それにしても、それにしてもだ。全く、本当に先輩には困ったものだ。まあ元々男で、突然女の子になってしまったので、致し方ない部分もあるにはあるのだが……それでもまさか、僕の予想通りあのローブの下が一糸纏わぬ全裸だとは夢にも思わなかった。道理で僕の席に向かってくる途中、ローブの裾の隙間からチラチラ垣間見える生足の面積が、割と大胆で大変危なかった訳である。

 

 ということはつまり、先輩は喫茶店まで来る道中も全裸だったということで。もうこれに関しては男だとか女だとかそれ以前の…………人間としての常識の問題だ。

 

 というか、何故あんな麻布一枚の心許な過ぎる格好なのに、ああも先輩は平然としていられたのだろうか。僅かばかりの羞恥心すら覚えることはなかったのだろうか。

 

 ほんの些細な、それこそテーブルに引っかけただけで破れてしまうというのに。今回はあの場に僕がいて、僕が外套(コート)を羽織っていたから良かったものの……もしそうでなかったら、今頃先輩は露出狂の赤髪少女という不名誉極まりないレッテルを貼られてしまっていたところだろう。そうならず無事で済んだことに、堪らず僕は心の底から安堵した。

 

 ……しかし。問題はまだあった。それは────先輩の立ち振る舞いである。

 

 いやまあ、このことに関しても元々は男だったので致し方のない部分もあるのだが。それを差し引いても……気にしないというか、あまりにも先輩は無防備過ぎた。

 

 僕が羽織らせた外套はお世辞にも丈が長いとは言えないものだったが、今の先輩の背丈ならばただ突っ立っている分には特に問題なかった。……が、動くとなったら話は別になる。

 

 麻布のローブ姿の時もそうだったが、先輩は今自分の格好を────布一枚隔ててるだけでその下は一糸纏わぬ全裸なのだということをそう深く考えていないらしく、特に気にする様子もなく日常(いつも)通りに、男であった時と同じように平気で歩いていた。その結果どうなるかというと。

 

 外套の裾が揺れる。それはもう揺れに揺れまくる。その度に魅惑の生足や太腿がチラリと垣間見えており、それどころかあと少しで剥き出しの生尻や絶対に見えてはいけない場所が一瞬見えてしまうくらいには捲られてしまうのではないかと危惧する程までに、裾が揺れ動く。

 

 その汚れ一つとない純白の肌が、一体どれだけ魅力的で実に危ないのかを、先輩は理解していない。街道を歩き行く野朗共を刺激し、悪戯に彼らを挑発しているのだと全くわかっていない。だから先輩は平気で衆人環境の真っ只中で生肌を晒してしまうのだ。

 

 それに格好自体も多少──いや、かなり問題があった。何せ背丈の低い女の子が、その背丈に──否、性別に合っていない男性用の外套を羽織っているのだ。その上当の本人は将来有望な絶世の美少女。しかもその身振り素振りが緩く大変無防備ときた。

 

 注目を集めない訳がないのだ。……おかげさまでこの洋服店にまで至る道中、僕の心は多大な精神的負担(ストレス)を抱えることになった。

 

 不服そうな表情を浮かべながらも、渋々同行を決めてくれたのはいいが、僕の後ろを大股で歩く先輩を嗜めたり。街道を行く他の男たちが無遠慮に向ける、下卑たその視線から先輩を庇ったり。そうすることで男たちから鬱陶しそうに睨めつけられたり。

 

 中でも相当心を抉られたのが、僕に対しての女性たちのひそひそと流れた、噂話。

 

 自慢する訳ではないのだが、僕のことはこの街ではそれなりに知られている。そんな僕が、外套を脱いだ上着姿で、すぐ後ろに男性用の外套を羽織った少女を連れて歩いているのだ。

 

 ……これで良からぬ噂が立たない方が、もうおかしい状況だろう。

 

 職業柄、僕はそれなりに五感を鍛えている。その所為で、僕の聴覚はその内容を敏感にも聞き取れてしまっていた。

 

 

 

 

 

「ねえ、もしかしなくてもあの方って、冒険者(ランカー)のクラハ=ウインドアさんよね?」

 

「ええ、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のクラハ=ウインドアさんよ。間違いないわ。でも、後ろにいるあの子は一体誰なのかしら……?」

 

「う、嘘っ!?ウインドア先輩って彼女いたの!?いつの間にっ!?私、狙ってたのにぃ〜……てか誰なのあの子ぉ!」

 

「ちょ、落ち着きなよ。……でも本当に誰なんだろ、あの子。何か、赤髪の感じとか、雰囲気がなんとなく似てる気がするけど……そんなはず、ないよね。だってあの人男だし……ていうか、何で男物の外套なんか着てるの?あれ、ウインドアさんのだよね?やっぱり、そういう関係……?」

 

 

 

 

 

 …………今、こうして思い出すだけでも。胃がキリキリとした鋭い痛みを僕に訴えかけてくる。あのままあの場に留まっていたら、今頃僕は根も葉もない噂を買い物途中の奥様方や、恐らく僕と同じ冒険者組合(ギルド)に所属している後輩の女性冒険者(ランカー)たちに流されていたところだろう。……いや、まあ。こうしている間にも広められつつあるのかもしれないが……。

 

 ──生半に顔が知られているのも、厄介だな……はあ。

 

 とにかく。万が一にも組合に行ったら男性冒険者から殴られることを警戒し、覚悟しておこう。

 

 まあそんなこんなで、僕と先輩は(主に僕が)苦労しながらもようやっとこの目的地────『アネット洋服店』に辿り着いた訳である。そして入店一番、顔を見せお手本のような挨拶をしてくれたこの女性こそ、店主であるアネット=フラリスさんだ。この街にある唯一の洋服店で、僕がこの街での生活を始めたばかりの頃は、服に関して色々とお世話になったものだ。

 

 気の良い笑顔を浮かべながら、アネットさんがこちらに近づいてくる。

 

「この前は大変だったねぇ。私もあの時は流石に終わったかなって思っちゃったよ」

 

 アネットさんが言うあの時とは、十中八九『厄災』────『魔焉崩神』エンディニグル襲来のことだろう。僕は苦笑いを浮かべつつ、アネットさんに言葉を返す。

 

「僕は何の力にもなれませんでしたけどね……先輩がいたから、どうにかなりましたけど」

 

「まあ、ブレイズさんは色々な意味で反則だからね。……ところで、肝心のブレイズさんはあれからこの街に戻って来たの?」

 

 アネットにそう訊ねられて、僕はぐっと言葉を詰まらせてしまう。どう答えたものかと、考えてしまう。

 

 僕の後ろにいるこの女の子がそのブレイズさんです────などと言っても、到底信じてはくれないだろう。それに先輩が女の子になってしまったことを、果たしてGM(ギルドマスター)たるグインさん以外の人に先に教えてしまっていいものだろうか……。

 

「俺ならここにいるぞ?」

 

「え?」

 

 と、僕が悩んでいる真っ最中。僕の後ろに立っていた先輩が突如アネットさんの前に出て、そう言ってしまった。あまりにも一瞬の出来事過ぎて、止めようにも止められなかった。そしてアネットさんが困惑の声を漏らすと同時に僕は大慌てで口を開いた。

 

「す、すみませんアネットさんちょっと待っててください!!」

 

 そして彼女からの返事を待たずに、僕は有無を言わせず先輩を店の隅に押しやった。

 

「んなっ、ちょ……クラハお前何す」

 

「すみません本当にすみません。ですが、今だけは僕の話を聞いてください。お願いです、お願いですから……!」

 

 という、必死も必死な僕の態度に、流石の先輩もそれ以上は何も言わず、ちょっと引き気味にコクコクと頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 それから数分後。僕と先輩は再びアネットさんの元へ戻った。

 

「いや、お待たせしてしまってすみません……はは」

 

 と、彼女に一言謝罪を挟みながら、僕は先輩に目配せする。

 

 ──さっき言った通りに、ちゃんと口裏合わせてくださいよ先輩……!

 

 そんな僕の心からの訴えを理解してくれているのか、いないのか。残念ながら僕にはわかりかねたが、とりあえず先輩は小さく頷いてくれた。

 

 それを確認して、僕は一呼吸してからアネットさんに言う。

 

「その……今まで教えていなかったんですけど。実は僕の従姉妹なんですよ、この子。数年ぶりに僕に会う為に、オールティアへ訪れたんです」

 

 ……まあ、我ながら少し無理がある設定だとは思った。僕に従姉妹はおろか、親族がいるなどという話、周囲には全くしていないのだから。

 

 だがやはり、ここは嘘を吐いてでも誤魔化すべきだと僕は判断した。グインさんに説明せずに、周囲の人たちに先輩が女の子になってしまったなどと、ましてやかつての最強ぶりが今や見る影もなく弱体化しているのだと、僕個人で説明すべきではない。

 

 まずは僕が所属する組合の長────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』GM、グイン=アルドナテに説明し、彼が下す判断に後を任せ、委ねよう。

 

 そう僕が思った直後、先輩が口を開いた。

 

「お、おう!俺……じゃなくてわ、わた……私はクラハの先ぱ……でもなくて、従姉妹!……い、従姉妹の……あれ?えっと……あ、そうだラナだ。従姉妹のラナってんだ。よろしくな!」

 

 先輩を信じた僕が馬鹿だった。

 

「……え、あ、うん……よ、よろしく、ね……?」

 

 一体どういった反応が正解なのかわからず、困惑しながらも一応といった風に、人が好いアネットさんは何故かドヤ顔を浮かべる先輩にそう言葉を返す。

 

 僕は頭を抱えたくなるのを必死に堪えて、なけなしの気力を振り絞り、申し訳なさで胸の内を満たしながらアネットさんに情けなく懇願した。

 

「すみませんアネットさん、本当にすみません……厚かましいことこの上ないのは重々承知しています……ですが、ですがどうかお願いします。今は何も訊かずに、この子に服を用意してください。幾らでも、お金は幾らでも支払いますから……土下座もしますから……どうか、どうか……!」

 

「ええっ!?い、いや、うん!うんわかった!わかったから!何かしらの事情があるのはわかったから!だからそこまでしなくても大丈夫よ!?」

 

「ありがとうございます……!本当にありがとうございます……!」

 

 まあ、色々一悶着あったがこれでようやく先輩にまともな格好をさせることが叶う。そのことに心の底から安堵し、僕は胸を撫で下ろす。

 

 そして満を持してアネットさんに先輩を一旦預けようとした────直前だった。

 

 ──ッ!!

 

 僕は忘れていた。今、先輩に必要なのが────何も服だけではないということに。

 

 気を遣ってくれたのか、アネットさんは特に指摘してこなかったが……今、先輩は僕の外套を羽織っている。ただ、()()()()()()()。一体その下がどうなっているのかは、喫茶店で目の当たりにした僕だけが把握している。

 

 

 

 そう、今一度言おう──────先輩に必要なのは、衣服だけではない。

 

 

 

 そのことに気づいてしまい、まるで崖から突き落とされたような気分に陥ると同時に、僕は全身から冷や汗を流す。

 

 ──どうする……?僕は、どう説明すればいいんだ……!?

 

 特に何も考えず、アネットさんに服だけでなく、下着も用意してくれとお願いしたとしよう。彼女に対してこちらの事情についてろくな説明もしていないこの現状、もしそうしてしまったなら────僕は変に関係を偽ろうとしていた女の子を全裸に剥き、それから自分の外套だけを羽織らせ、大勢の人々が行き交う日中の街道を共に歩かせ、わざわざこの店にまでやって来た男ということになるだろう。

 

 ──最低最悪の超絶変態屑野郎じゃないか、僕は……!!

 

 そう認識されたならば最後、僕の社会的地位は音を立てて崩壊し地に落ちて、今の今まで慎重に、大切に築き上げてきた印象も信頼も、何かもを全て失う羽目になるだろう。いや、なる。確実に。

 

 だが、だがそれでもだ。後輩として尊敬するラグナ先輩が下着未着用(ノーブラノーパン)というのは到底無視できない、絶対に捨て置けない問題である。

 

 ……しかし、先輩のことだ。衣服だけでもあれ程嫌がったというのに、女物の下着となれば何が何でも、是が非でも身に付けるのを断固拒否してくるだろう。

 

 ──しかし、それでも……それでも、僕は…………ッ!

 

 己の評判と先輩の尊厳。その二つを天秤に掛け、僅か数秒。僕は消え入りそうな声を、喉の奥から吐き出した。

 

「……あの、アネットさん。その……非常に、申し上げ難いんですけど。もう一つ、お願いしていいですか……?」

 

「ど、どうしたのそんな急に改まって。何?何なの?さっきから一体どうしたっていうのよ?」

 

 尋常ではない程に深刻な僕の様子に、アネットさんは完全に引いてしまっている。だが、その態度は僕にとってはまだ救いだ。何せ、次の僕の言葉によって、きっと彼女は僕のことを心底軽蔑するだろうから。

 

 すぐさま目の当たりにするであろう未来を、まるで遠い他人事のように思い描きながら。意を決し、先程からずっと痛みを発し続けている胃の訴えを無視して、僕はアネットさんに言った。言ってしまった。

 

 

 

「…………下着、の類も……用意、してください……」

 

 

 

 嗚呼、人の破滅というのは意外な形で訪れる。今日、それを僕は嫌という程思い知らされた。

 

 ……一体、僕が何したっていうんだ……?

 

「……は?」

 

 案の定、アネットさんが意味不明というような反応をする。それがさらに僕の精神を抉り、心を揺さぶってくる。それでも、僕は何とか己を保って、再度口を開く────直前。

 

「お、おい待てクラハっ!服は百歩いや千歩譲って着てやるけどっ、女のパン「先輩」

 

 堪らずというように非難の声を先輩が上げたが、その途中で僕は肩にそっと手を置き、それを遮った。もうこの際、礼儀だとか、そんな些細なものは気にしない。一切合切気にしない。

 

「お願いです。後生の頼みです。こんなどうしようもない後輩の懇願を、どうか聞き入れてください。ここは僕の為を思って、下着を身に付けてください……僕という一人の犠牲を無駄に、しないでください……」

 

 先輩の肩に手を置いたまま、目頭を熱くさせて僕は先輩にそう言う。

 

 そんな僕の、今にでも死んでしまいそうな勢いの僕の様子に流石の先輩も気圧されたようで。やや面食らい引いた、けれどばつが悪そうな声音で僕に言葉を返してくれる。

 

「わ、わぁったよ……べ、別に何も、そんな泣くことねえじゃねえか……」

 

 そうして、僕は改めてもう一度アネットさんの方を見やる。彼女といえば、この状況に全くと言っていい程追いつけていないようで、完全に戸惑っていたが、僕に顔を向けられたことでハッと、けれど依然困惑の表情のままに口を開く。

 

「何か、もう……よくわかんないけど、とにかくわかったわ。うん。とりあえず、私に任せて頂戴」

 

 そしてグッと、傷心の僕を元気づける為か。アネットさんは親指を立てて、快く先輩のことを引き受けてくれた。

 

 心底嫌そうな表情をする先輩を連れ、アネットさんが店の奥へと消える。その二人の背中を、僕はただ放心したように見送ることしかできなかった。

 

 ──明日から、僕はどんな顔してアネットさんに会えばいいんだろうな……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………その、えぇっと……お、お待たせ。こんな感じに、この子の要望に合わせて……コーディネイトしてみたんだけど。大丈夫、よね?これで……?」

 

 時間にして数十分。奥に消えた二人が再び僕の前に現れる。待っている間、僕はこれからの人生について深く考え込んでいたのだが、アネットさんのセンスと手によってその装いを変えられた先輩を見て、瞬く間に、そして跡形もなく吹き飛ばされた。

 

 僕から少し顔を逸らし、気恥ずかしいのかもじもじとしながら立つ先輩。先程の全裸外套(コート)から一変した今の格好は、単的に言えば明るく活発で、天真爛漫とした女の子がするような、あくまでも動き易さを重視した服装である。

 

 露出を全く気にせず、何の遠慮なしに肌を外気に晒している。ショートパンツの裾からスラッと伸びる生足は実に健康的な魅力を発しており、むちむちとした存外肉付きの良い太腿には思わず視界を奪われてしまう。

 

 今目の前に立つ女の子がラグナ先輩であることも忘れ、見惚れてしまっている僕を、アネットさんの声が現実へと引き戻す。

 

「それと、これ返すわね。……この外套、あなたのでしょ?」

 

「え?あ……はい」

 

 言われて、僕は彼女から外套と────そして何故か紙袋を渡された。

 

「わざわざありがとうございます。……あの、アネットさん。この紙袋は一体……?」

 

 紙袋はやたら軽かった。けれど中身はちゃんと入っているようで、揺らすと擦れるような音がする。僕が訊ねると何故かアネットさんは躊躇って、それから僕に紙袋を開けるよう仕草だけで促した。

 

 奇妙に思いながらも、僕はゆっくりと紙袋を開け、中を覗き込む。

 

 紙袋の中に入っていたのは──────下着だった。……女性用の。

 

「…………」

 

 真っ白になった頭の中に、ただ目の前の視覚情報だけが流れ込んでくる。

 

 上と下の二枚組。それが数セット。こう言っては悪いが飾り気もなければ色気もない、無地の白色。

 

 果たしてこれはどういうことなのか────そんな思いと共に、紙袋を開けたまま呆然とする他ないでいる僕に、依然気まずそうにアネットさんが言う。

 

「できるだけ女らしくない下着がいいって、言われたから……そういうタイプを用意したの。あ、ちなみに支払いは必要ないから」

 

 その言葉によって、この現実から逃避しかけていた僕の意識が急に引き戻される。

 

「え、いや、それは……」

 

「それとまた後日、あの子用に服も何着か渡すわ。これもお金は取らないから安心して。余ってる在庫からだし。……その代わりに、ね?一つだけ……私から一つだけ、言わせてもらえないかしら」

 

「え……?」

 

 アネットさんの態度とその言葉に、僕は困惑の声を漏らすしかない。そんな僕に、彼女が言う。

 

「あなたたちはまだ若いわ。きっと色々あるし、色々したいっていうその気持ちもわかる。理解できる。……でも、ね。どう言えばいいのかな……若さ故の過ちとでも言えばいいのかな」

 

 こちらを糾弾する訳でもなく、そして叱咤する訳でもなく。あくまでも冷静に、落ち着いた様子で。アネットさんは僕に優しげな眼差しを送りながら、だがはっきりと嗜める声音で言った。

 

 

 

「こんな真っ昼間から、野外全裸外套プレイっていうのは流石にどうかと思う」

 

 

 

 死にたい。死のう────今この日、この瞬間程。それを切に思ったことはない。



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冒険者組合

 冒険者組合(ギルド)────冒険者(ランカー)を目指す者であれば、誰もが一度は訪れなければならない場所。

 

 そもそも、冒険者を名乗る為には、冒険者組合で発行される証明書(パス)が必要不可欠である。これがなければ正式な冒険者とは一切認められず、組合からの報酬等は全く支払われないし、支援(サポート)も受けられない。

 

 今は冒険者業に勝る稼ぎなどないに等しく、一攫千金を夢見る者や己の腕に自信のある者、それぞれの理由と希望を胸に抱いてその門を叩くのだ。

 

 しかし実のところ、冒険者になること自体はそう難しいことではない。冒険者にとっては常識的で、知っておかなければならない問題が出される筆記試験と魔物(モンスター)を相手にする実技試験。この二つに合格すれば、証明書が発行され晴れて冒険者を名乗れるのだ。

 

 だがまあ、だからといって誰もが冒険者として成功できる訳ではない。何故なら『ランク』という概念が冒険者には存在するのだから。

 

 最低の《E》から、()()()最高である《S》まで。もちろん最低である《E》であれば、子供や老人でない限り誰であろうとなることは可能だ。しかしそれ以上となると、そのランクに応じた試験を受ける必要がある。

 

 《D》ランクに上がりたいのであれば《D》ランク試験を。

 

 《C》ランクに上がりたいのであれば《C》ランク試験を。

 

 そしてそれ相応の実力を持っているのなら、最初から高ランクで冒険者を始めることだってできるし、飛び級することもできるのだ。

 

 当然、高ランクであればあるほど、稼ぎは良い。何故なら────ランクによって冒険者組合から紹介される依頼(クエスト)が制限されるのだから。

 

 冒険者といえど、最低である《E》では雀の涙程度の報酬しかない依頼しか受けられず、場合によっては普通に働いた方が生活できることもある。それに滅多にないことだが……その雀の涙しかない報酬の仕事で、運悪く命を落とす危険性だってなくはない。

 

 《D》から《C》であれば一般労働よりも少し高い程度の報酬の依頼が。

 

 《B》から《A》であれば普通に暮らす分には有り余るほどの報酬の依頼が。

 

 そして、《S》であれば────それ相応の危険があるものの、その危険性に見合った莫大な報酬が支払われる依頼を受けることができるのだ。

 

 だが、《S》ランクになるというのは棘だらけの茨道を自ら進んで踏み締めていくようなもので、そのあまりの過酷さに、途中で挫折してしまったり散っていった冒険者が後を絶たない。

 

 《S》冒険者(ランカー)という人間の逸材は限られており、一つの冒険者組合に三人いれば多いくらいなのだ──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようこそ、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へ。本日はどのような──って、あら。クラハ君じゃない。久しぶりね」

 

「……ええ、お久しぶりですメルネさん」

 

「ちょ、ちょっと一体どうしたのよ?何でそんな、今にもでも崖から身投げしそうなくらいに落ち込んでるの?」

 

 一生に一度ものの傷を心に負いながらも、僕と装いを新たにした先輩は『アネット洋服店』を後にし、自分たちが所属する冒険者組合(ギルド)────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へと来ていた。

 

 今なお昏く冷たい絶望に抱かれながら、もう何度通ったかわからない門を抜ければ、聞き慣れた喧騒が鼓膜を叩く。同時に嗅覚を刺激する料理と酒の匂いに、消沈していた僕の気力も、僅かばかりであるが回復する。

 

 が、しかし。僕と先輩が中に入ったその瞬間。先客たる冒険者たちが一斉にこちらを振り向いた。そして僕と────僕の隣に立つ先輩の姿を交互に見やったかと思うと、その中にいた男性冒険者(ランカー)数人が椅子から立ち上がった。

 

「オイオイオイィッ!噂は本当だったのかよッ!」

 

「遂にあのクラハにも彼女(コレ)が出来ちまったかぁ!」

 

「しかも絶対年下だよなその子!?いやまあ、その辺が実にお前らしいけどさあ!」

 

 その人たちは皆思い思いの言葉を口から出して。それから僕と先輩の方に詰め寄る──前に、僕はキョトンとしている先輩を連れ、彼らの間を擦り抜けた。

 

「すみません。今、急いでいるんで」

 

 そう一言付け加えて。背後で彼らが何か言っている気がするが、僕は気にも留めず足も止めない。彼らも一応は僕の先輩に当たるのだが……さっきも自分で言った通り、今は急いでいるのだ。

 

 というか、やはり危惧していた通りに噂は広まってしまっていた。事実は全く違うというのに、誰も彼もが僕と先輩を見て皆ひそひそと囁き合っている。

 

 ──辛い。

 

 だがこの程度、『アネット洋服店』で受けた傷程ではない。それか耐性が付いたのだろう。たぶん。

 

 後でどう誤解を解くか思案しながら、僕と先輩は組合の受付(カウンター)まで向かい、そしてそこに立つ一人の女性────『大翼の不死鳥』の受付嬢の一人であり、そして纏め役でもあるメルネ=クリスタさんと挨拶を交わしたという訳だ。

 

 開幕僕が纏う雰囲気を目の当たりにし、普段は落ち着き取り乱すことなど滅多にないメルネさんも、流石に驚いてしまったようだ。しかし、それをフォローする程の余裕など、今の僕が持ち合わせている訳がない。

 

 メルネさんの問いかけに答えることなく、僕は依然沈んだ態度と雰囲気のまま、呆然と口を開く。

 

「…………本当に、ここはいつ来ても、いつでもこんな感じですね。初めて訪れた時から、何も変わってない」

 

「……え、ええ。そうね」

 

 訊かれたくない。答えたくない。そんな僕の気持ちを察してくれたのだろうメルネさんは、未だ微かに動揺しながらも僕の言葉に相槌を打ってくれる。気を遣わせてしまい申し訳ないとも思ったのだが、先程も言った通り今の僕には余裕がなかった。

 

「ところで、クラハ君。あなたの後ろに立ってるその子は……誰かしら?」

 

 今、僕自身に関しての話題を振るのは良くないと判断したのだろう。純粋な疑問も含めて、メルネさんがそっと遠慮気味に訊ねる。訊ねて、それからすぐにメルネさんはハッとした。

 

「ひょっとして、その子が噂の子なの?あらあらまあまあ、可愛い素敵な彼女さんじゃない!」

 

「い、いや「はあ!?誰が彼女だふざけんな!」

 

「あ、あら?違う……の?」

 

 これ以上誤解が広がるのはまずいと思い、メルネさんの言葉を即座に僕が否定するよりも早く、先輩が吠えるように否定した。堪らず困惑するメルネさんに、僕は苦笑いを浮かべながら訊ねる。

 

「すみませんメルネさん。今、GM(ギルドマスター)はいますか?」

 

 GM(ギルドマスター)────冒険者組合の長であり、取り締まる者の通称。GMがいない冒険者組合など、もはや冒険者組合ではない。それ程にGMというのは冒険者組合にとって大切な要素なのだ──と、昔からよく『大翼の不死鳥(ここ)』のGMに熱弁されたものだ。

 

 ふとそんなことを思い出しているその時、不意にポンと肩に手を置かれた。

 

 

 

「私ならここにいるよ。ウインドア君」

 

 

 

 背後からしたその声に、僕は振り返る。そこには『大翼の不死鳥(フェニシオン)』GM────グィン=アルドナテが人の好い笑顔を浮かべて立っていた。



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『大翼の不死鳥』GM────グィン=アルドナテ

 冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)GM(ギルドマスター)────グィン=アルドナテさん。いつも浮かべている困ったような笑顔が印象的な、二十代後半を思わせる外見の男性。だが彼の実年齢を知る者は少なく、僕も先輩ですらも知らなかった。

 

「私はここにいるよ。ウインドア君」

 

 と、困ったような笑顔を浮かべつつ、僕にそう声をかけるグィンさん。一体いつの間に、そしていつから自分の背後に立っていたのだろう。……全く気配を感じなかった。感じ取ることができなかった。

 

 ──もしここがダンジョンで、グィンさんが魔物(モンスター)だったら……。

 

 一応それなりの実力は持っているつもりだったが、やはり僕はまだまだということだろう。悪寒にも似た感覚を背筋に走らせながら、僕はグィンさんに返事する。

 

「お、お久しぶりですグィンさん」

 

「うん久しぶり。会うのは『魔焉崩神』の襲来以来……になるのかな?」

 

「そうですね。たぶん、それくらいになるかと」

 

 ……正直に白状させてもらうと、僕はこの人が苦手である。掴みどころのない、飄々としたこの性格や雰囲気に、未だ上手く慣れることができないでいる。

 

 そんな僕の複雑な思いなど露知らず、困ったような笑顔を保ったまま、グィンさんが口を開く。

 

「あの時は助かったよウインドア君。何たって君は数少ない、『大翼の不死鳥』所属の《S》冒険者(ランカー)の一人だからね」

 

「……お世辞はいいですよ。僕がいたところで、状況は変わらなかった。こうして僕たちやこの街が残ってるのは、全てラグナ先輩のおかげです」

 

「んー……まあ、それはそうなんだけど、別に世辞のつもりで言ってる訳じゃないんだけどなぁ。ウインドア君、そう謙遜する必要はないと思うよ?」

 

「そう言ってくれること自体は、僕も嬉しいんですけど……」

 

 この人の言葉に嘘偽りはないんだろうけど……やっぱり、苦手だ。

 

 僕が誤魔化すように苦笑いしていると、グィンさんが訊ねてくる。

 

「ところでそちらの可愛いお嬢さんは誰だい?……ああ、もしやその子が今噂で持ち切りの、ウインドア君の恋人かい?」

 

「だから!俺はそんなんじゃねえってのっ!!」

 

「あれ?そうなのかい?」

 

「…………そうですね。はは……」

 

 参った。もう僕と先輩の噂は街全体に知れ渡っているようだ。誤報も誤報、デマもいいところだというのに。

 

 しかし、こうまで広がり認知されてしまうと、それも通用しなくなってくる。当の本人が否定しても、周りがそうだと思ってしまえばもはや関係ないのだ。噂とはそういうものであり、既成事実として扱われてしまう。

 

 ……というか、やはり他の人からすると僕と先輩はそんな風に見えてしまうのか。まあ一見だけすれば二人共年頃の男女だし、二人揃って街道を歩いていれば、何の事情を知らぬ者たちからすれば、そういった仲に見えてしまうのが当然なのだろう。

 

 それと、メルネさんもグィンさんも今の姿の先輩の一人称や口調には何も突っ込まないんだな。

 

「まあその話は置いておくとして。私の所在を確認していたということは、私に何か用事でもあるのかな?ウインドア君」

 

「あ、はい。その通りです。その、ちょっと……ラグナ先輩に関して話したいことがあって」

 

「ほう、ブレイズ君の話か。それは丁度良かった」

 

「え?」

 

 一体何が丁度良かったのか。そう思い声を漏らす僕に、グィンさんは言ってくる。

 

「ブレイズ君唯一の後輩である君に、彼が今どこにいるのか尋ねたかったんだよ。それで、ウインドア君。ブレイズ君がどこにいるか知ってるかい?それとも毎度のこと、いつの間にかもうこの街に帰って来たのかな?」

 

「……あー……えっと、まあ。知ってるには知っています、けど……」

 

 言い難そうに言葉を濁す僕に、グィンさんは訝しげにしながらも提案する。

 

「?君にしてはどうにも歯切れが悪い返答だね。まあここで立ち話も何だし、応接室にでも場所を移すことにしようじゃないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて。ではまあ、まずウインドア君の話とやらを先に聞かせてもらうことにしようかな。それで、ブレイズ君に関して何を話したいんだい?」

 

 あの後、僕と先輩はグィンさんに連れられ応接室にへと移動した。落ち着いた内装の部屋で、本棚などの簡素な家具類やインテリアが置かれてある。

 

 椅子に腰かけて、僕はグィンさんとテーブル越しに向かい合う。………先輩に関して話そうにも、一体どこから話したものだろうか。

 

 疲労にため息を吐きそうになるのを堪え、数秒の間を開けた上で僕はゆっくりと、口を開いた。

 

「グィンさん。先輩が今どこにいるかを、貴方は知りたいんでしたよね?」

 

「うん?うん。まあ、それはそうなんだけど……ということは、やっぱりブレイズ君はもう街に戻って来てるんだね」

 

「ええ……まあ、戻って来てるには、来ているんですが」

 

「だったら、先にブレイズ君の居場所を教えてもらおうかな」

 

「今、僕の隣にいます」

 

「え、そうなの?…………え?」

 

 まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、僕の隣に座る先輩(少女)を見るグィンさん。

 

 そして困ったような笑顔を、再度僕に向けるのだった。

 

「これは驚いたなあ。まさかウインドア君が私に冗談を言ってくるなんて。これは明日には雪でも降るのかな?」

 

「……いや、冗談なんかじゃあないんです。僕の隣にいる、この女の子こそがラグナ先輩────ラグナ=アルティ=ブレイズその人なんですよ」

 

「……えーっと……?それは一体、どういうことなんだい?」

 

 グィンさんはそう返すと、依然浮かべたままの困った笑顔を、今度は先輩へと向けて訊ねた。

 

「君、本当にブレイズ君なのかい?」

 

 半信半疑で投げかけられたグィンさんの問いかけに、先輩は何の誤魔化しもなく、素直に答える。

 

「おう。俺はラグナだ。ラグナ=アルティ=ブレイズなんだ」

 

「……私の記憶だと、ブレイズ君は男だったはずなんだけど」

 

 グィンさんの指摘に、先輩が言葉を詰まらせる。それから目を泳がせて、そして何故か疑問符を浮かべ、その指摘に対して返事した。

 

「いや、それは……んっと、だな……ええっと……へ、変な夢見て、そんで起きたら女になっちまってたんだ、よ……?」

 

「………………んー?」

 

 グィンさんの困ったような笑顔が、さらに困っていく。いや、これに関しては僕も同じ気持ちだった。

 

 ──そんな説明じゃあんまりですよ先輩……。

 

 ラグナ先輩だからと、喫茶店の時は大して変に抵抗感も抱かず受け入れられたが……こうして第三者の目線に立つことで僕は初めて考えることができた。考えてみれば、夢を見て、そして起きたら女になっていたなどと、そんな荒唐無稽な話誰が信じられようか。

 

 これでは二人が共謀して自分を騙そうとしていると、グィンさんがそう勘繰ってしまったりしても仕方ないことである。だが僕が思うよりも、グィンさんは善人だった。

 

「二人がかりで私を揶揄うのは、あんまり感心しないなあ」

 

 幸いと言っていいのか。二人してこちらを揶揄っているのだとグィンさんは思ってくれたらしい。まあそれはそれで問題であり、堪ったものじゃないと言わんばかりに先輩も声を荒げる。

 

「か、揶揄ってなんかねえよ!本当にラグナなんだよ俺は!信じてくれよGM(ギルマス)ッ!」

 

 そして僕も先輩のことを見兼ねて、助け舟のつもりで口を開いた。

 

「すみませんグィンさん。嘘みたいな話ですけど、全部本当のことなんですよ……」

 

 必死に訴える先輩とそれを肯定する僕を交互に見ながら、グィンさんは笑顔を浮かべつつも、少し呆れたようなため息を吐いてしまった。

 

 そして間を置かずに────今の今まで浮かべられていたグィンさんの笑顔が、そこから消え去った。

 

 ──ッ……?

 

 まるでグィンさんがグィンさんではないようだった。普段の様子とは全く以て違う、まさに真剣そのものといったただならぬ雰囲気。口を閉ざした彼の眼差しが、相対する先輩のことを真っ直ぐに射抜く。

 

 だがしかし、先輩は一切狼狽えたりなどしなかった。真っ向からその眼差しを、確かに受け止めていた。

 

 誰もが口を閉ざす無言の中、ようやっとグィンさんがまたその口を開いた。

 

「わかった。わかったよ。そこまで言うなら、こうしようじゃないか」

 

 言って、グィンさんは先輩へと視線を固く定め、そして一呼吸挟んでから彼はこう続けた。

 

「君に、今から幾つか質問しよう。それら全てはブレイズ君に関することであり、そして彼にしか答え得ない質問だ。……いいね?」

 

 その時のグィンさんが、僕にはまるで知らない全くの別人に思えた。こちらを試すような口振りの彼の言葉に、先輩は────僅かにだが、その瞳を見開かせた。……気がした。あくまでも、そんな気がしたのだ。だが僕がそう思うとほぼ同時に、先輩の様子は普通に戻っていた。

 

 ……いや、それは嘘になるだろう。ラグナ先輩と付き合いの長い者であれば、きっとわかったはずだ。その表情こそ平静を装っているように見えたが、何処か固いような、上手く言葉にすることはできない違和感がそこには確かにあった。

 

 僕がそれに気づき、一体どうしたのかと思った矢先。先輩が僕の方を一瞬だけ一瞥したかと思うと、何事もなかったかのように視線をグィンさんの方に戻して、それから閉ざしていた口を小さく開いた。

 

「わかった」

 

 先輩の声は妙に固かった。先輩の返事を受け、グィンさんは僕の方に顔を向けて言う。

 

「悪いね、ウインドア君。次に呼ぶまで、席を外してくれるかい?」

 

「え?……わ、わかりました」

 

 そのグィンさんの声音も、何故か強張っていた。それに関して問い返すことを、遠回しに許可しない声音だった。だから僕は疑問に思いながらも、彼の言葉にただ頷きそのようにするしかなかった。

 

「……ごめん、クラハ」

 

 グィンさんに言われ、一旦執務室から出て、そして扉を閉めようとしたその時。グィンさんと向き合いこちらに背中を向けたまま、先輩が一言だけそう呟く。

 

 その声音は怯えるように震え、悲痛に、切なげに響いている────少なくとも、僕にはそう感じ取れて仕方がなかった。



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GMの決断

 グィンさんから席を外してほしいと言われ、執務室から出て数十分。唐突に、部屋から入って来てほしいとグィンさんに言われ、僕は再び執務室へと入った。

 

 ──……え?

 

 入って、すぐさま戸惑い、困惑に囚われる羽目となった。執務室の空気は先程と打って変わって、重く気まずい静寂に満ちており、僕は無意識にも固唾を呑んでしまう。

 

 そんな僕に対して、グィンさんが────最初の時からは想像もできない程に真面目で、そして固い表情を浮かべている彼が言う。

 

「突然で、その上待たせてすまなかったね。ウインドア君」

 

 表情と同様に、その声音も固く重々しい。そんなグィンさんの声を聞いたのは、これが初めてだ。

 

 堪らず動揺を覚えながらも、僕は何とか口を開いてグィンさんに言葉を返す。

 

「い、いえ。そんな、気にしないでください」

 

「……うん。そう言ってくれると、僕もありがたいよ」

 

 そうしてグィンさんと社交辞令のような、一通りのやり取りを終えて。僕は次にソファに座ったままでいる先輩へと顔を向ける。向けて、堪らず狼狽えてしまった。

 

「…………」

 

 先輩の様子が、最初と全くと言っていい程に一変していたのだ。膝の上に置かれた手は固く握られ拳となっており、遠目からでも僅かながらに震えているのがわかる。一体先輩がどのような感情を抱いているのか────その顔を伏している今、それを正確に知ることは困難であった。

 

「あ、あの……先輩……?」

 

 堪らず、そして考えもなく。僕は恐る恐る先輩に声をかけた。が、先輩は顔を伏せたまま、意気消沈の声音でこう返す。

 

「悪い。今は何も訊くな。……訊かないでくれ」

 

 ラグナ先輩との付き合いは決して短くはないと、僕は思っている。思っていたが、それでも。それは初めて目の当たりにする先輩の一面だった。こんなにも暗く深く、落ち込んだ先輩の姿など、見たことがなかった。

 

 まるで懇願するような先輩の言葉に、僕が簡単な一言ですら返すことができないでいると、不意に神妙な面持ちでいるグィンさんが口を開く。

 

「ウインドア君。……いや、クラハ=ウインドア。そこに座ってくれ」

 

「え……?」

 

 今までに聞いたこともない声で、こちらに有無を言わせない圧と共に、グィンさんが僕に言う。そのことに当然僕は驚き戸惑ったが、それ以上何も言わずただこちらを見つめるグィンさんの、得体の知れないその迫力に押し負け、気がつけば僕は無意識に言われた通り、ソファに腰かけていた。

 

 異様な雰囲気が漂い、包まれる執務室────その空気に僕が堪らず背中に嫌な汗を滲ませるのとほぼ同時に。依然として神妙な面持ちのまま、再びグィンさんが口を開いた。

 

「先に結論から言わせてもらうと、私は信じるよ。今私の目の前に座るその女の子こそが、我が『大翼の不死鳥(フェニシオン)』最強でもあり、そして世界最強と謳われる三人────《SS》冒険者(ランカー)の一人……『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズ本人だって、ね」

 

「ほ、本当ですかグィンさん!?」

 

 グィンさんの言葉に、つい僕は身を乗り出してしまう。しかし、グィンさんはまだ何か言いたげにしていて、僕はそれに気づく。それから慌ててソファに戻り、逸る気分を落ち着かせながら彼の言葉の続きを待った。

 

「……それと、その最強ぶりが嘘だったみたいに弱体化してしまっていることも。うん」

 

 その時、僕は見逃さなかった。グィンさんがそう言った瞬間、ほんの微かに。先輩が肩を跳ねさせたのを。

 

 ──先輩?

 

 僕は思わずどうかしたのかと訊きそうになったが、先程言われたばかりの言葉を思い出し、その直前で思い止まる。

 

 グィンさんはといえば、そう言って一旦口を閉じてしまい、天井を仰いでいた。だがそれも数秒のことですぐさま彼は僕と先輩の方に顔を戻し、相変わらず重苦しい雰囲気を纏ったまま、言う。

 

「正直に言わせてもらうと、君たちが思っているよりもこの事態は深刻だよ。何せ、世界規模の損失だろうからね。それは間違いないさ」

 

 グィンさんの言葉に、僕と先輩は何も返せない。ただ、沈黙する他ない。

 

 今回のことは、誰が悪い訳でもない。誰かの悪意が引き起こした陰謀ではない。これといった原因が全く以て皆無な、謂わば不幸な事故のようなものだ。

 

 それはグィンさんとて、わかっているはずだ。理解しているはずだ。……けれど、彼の表情からはあの困ったような笑顔は失せて、代わりに険しく固いものとなっている。

 

 それから数分、執務室を静寂が包んだ。そしてそれを先に破ったのはやはりと言うべきか、グィンさんであった。

 

「今何をどう言ったところで、この状況が好転することはないと、わかっている。ああ、わかっているとも。……だからこそ、言わせてもらうよ」

 

 言って、グィンさんは────僕に顔を向けた。その表情は、何処までも真剣で。その眼差しはひたすらに真摯だった。

 

 その二つに圧倒される僕に、グィンさんが言う。

 

「『大翼の不死鳥』所属、《S》冒険者──クラハ=ウインドア。君にGMとして命ずる────ラグナ=アルティ=ブレイズを一から鍛え直し、そして『炎鬼神』としての強さを取り戻せ」

 

 拒否することは許さない──────直接口にはしなかったが、グィンさんの声音にははっきりと、その意思が頑なに込められていた。



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戸惑う者と焦燥する者

「私は『世界冒険者組合(ギルド)』にどう説明すれば……出品祭も近いというのに……」

 

 という、懊悩と苦心に塗れたグィンさんの独り言に後ろ髪を引かれながら、僕と先輩はその場を後にした。

 

 メルネさんに一言別れの挨拶を告げ、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から出る頃には、時刻はもう既に夕暮れ時であった。

 

 徐々に沈む太陽が空を茜色に染める中、それと同じ色に染まりつつ、ポツポツと灯りが点き始め、日中とはまた別の────夜の姿へと変わりつつある街並みを流し見ながら、僕と先輩は二人揃って歩く。

 

「「…………」」

 

 会話なんてなかった。終始──正確に言えばグィンさんの話を聞いた時から、僕と先輩は会話できずにいた。……というより、先輩が発する雰囲気がそれを許してくれなかった。

 

 あれから依然として先輩の調子が戻ることはなかった。朝や『大翼の不死鳥』までの道中で見せた、あの天真爛漫とした雰囲気は見る影もなく消え失せ。何処までも昏く、重く、陰鬱とした負の雰囲気を先輩は纏っていた。

 

 ──……先輩。

 

 そんな先輩の、ラグナ先輩の姿を見ているのは辛かった。今の先輩の心境、心情を理解できるとまでは言わない。……とてもじゃないが、言えない。

 

 だって────僕の心にも、そんな余裕はなかったのだから。

 

 ──これから、どうしよう。どうすれば、いいんだろう。

 

 こんな時こそ、後輩たる僕が先輩のことを支えなければならない。そんなこと、普段ならば頭で考えずとも、直接行動に出ていただろう。だが僕は焦燥に駆られてしまって、自分のことでとにかく精一杯になっていた。いくら一人で考えても、正しい答えなど、真っ当な結論など出やしないことだったというのに。

 

 後を思えば、この時に。この時にこそ、先輩に言葉をかけるべきだったのだ。だが不甲斐ないことに、僕が今それに気づくことは────なかった。

 

「あ……」

 

 ふと唐突に、そこでようやっと。先輩が今の今まで固く閉ざしていた口を開いて、思わずというように声を小さく漏らす。それに釣られ、僕はようやく目の前にある景色をまともに目にする。そこにあったのは────先輩が住むアパートであった。

 

 その場に立ち止まる、僕と先輩。やがてぎこちなくお互いに顔を振り向き合わせた。

 

「……今日は色々と世話になったな」

 

 先に口を開いたのは先輩だった。

 

「い、いえこれくらい当然ですよ!だって、ほら……僕はラグナ先輩の後輩なんですから!」

 

 僕自身決してそんな気はなかったが、側からすれば取り繕っているようにしか思えないだろう笑いと共に、慌ててそんな中身のない返事をする。してから、もっとマシというか、具体的な返事はできなかったのかと軽く後悔した。

 

 だがしかし。それに対して先輩が非難することはなく。ただ小さく、一言呟く。

 

「先輩、か」

 

 そう呟いて、先輩は俯いた。が、それは一秒にも満たない一瞬だけのことで、すぐさま顔を上げて、そして僕に言う。

 

 

 

「なあ、クラハ」

 

 

 

 恐らく、きっと。先輩は何か訊ねようとしたのだろう。僕の返事を求めていたのだろう。

 

 けれど、先輩は途中で言葉を止めた。口を噤んだ。まるで、躊躇うかのように。

 

「……?先輩?」

 

「やっぱ何でもない」

 

 え────と、僕が声を漏らすよりも早く。先輩はそう言って踵を返し、僕に背中を向けた。

 

「ここまで一緒に来てくれてあんがとな。んじゃあ、また明日」

 

 それだけ言って、その場から先輩は歩き出した。その歩幅は以前よりも────男だった時よりも断然狭く、また夕暮れに染まるその背中も小さく、そして弱々しく見えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──先輩、一体どうしたんだろう……。

 

 先輩をアパートにまで送り、日が沈み切り夜の帳が下りた街道を歩き、僕は家に着いた。

 

 今夜の夕食を作りながら、僕は先輩のことを考える。

 

 あの時、先輩は僕に対して何を訊くつもりだったのだろうか。……僕に、何を訊きたかったのだろうか。

 

 今となってはもう答えの出ない疑問が、頭の中で回り続ける。

 

 ──……まあ、今さら考えても、遅いか。

 

 リーン──その時、不意に呼び鈴の音が家中に響き渡った。予期せぬその音に、僕は危うく指先を包丁で切りかける。

 

「ッ……」

 

 そのことに少しだけゾッとしながらも、僕はとりあえず軽く手を洗い、玄関へと向かう。

 

 ──誰だ……?今日は特に予定なんてなかったはずなんだけど……。

 

 奇妙に思いながらも、玄関へと立つ。扉の方を見やれば、確かに外には誰かが立っていた。

 

 硝子(ガラス)の向こう側に映っていたのは、赤色。硝子を隔てている為、断言はできなかったが──僕はその色に見覚えがあった。

 

 ──…………いや、そんな。まさか。

 

 漠然と無意識に立てた予想を、自ら頭を振って否定する。そんなはずはないと、仮にそうだったとしても何故と、疑問が疑問を呼ぶ。

 

 とりあえず、警戒はしながらも。僕は扉に近づき、鍵を開け、そして恐る恐る扉を開いた。

 

 ……まあ、結論だけ先に述べるのならば。自ら否定した僕の予想は、意に反して当たっていたのだ。そう、扉の外に立っていたのは──────

 

 

 

「……よ、よお」

 

 

 

 ──────先程アパートの前で別れたばかりの、先輩だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アパートを追い出された?」

 

「……おう、そうだよ。追い出されちまったんだよ」

 

 とりあえず、あのまま玄関前にいる訳にはいかないと判断した僕は、先輩を家の中に招き入れリビングに場所を移し、テーブルを挟む形で向き合い、互いに椅子に座っていた。

 

 そして気まずそうなその表情と同じ声音で、しかし若干不貞腐れたように先輩が言う。だが今の女の子姿では、失礼と思いながらも可愛らしいと、僕は不覚にも思ってしまう。

 

 そんな己の心内を見透かされぬよう、そしてそれを誤魔化すよう僕はあくまでも真面目な風を装って、先輩に訊ねた。

 

「追い出されたって……一体どうしてですか?」

 

 装うと言ってもそれは僕の紛れもない、純然な疑問からの質問である。

 

 先輩は最初躊躇うように、僕から一瞬目線を逸らし、それからゆっくりと、遠慮がちに小さく口を開いた。

 

「よ……ぎて、反応してくんなかった……」

 

「え?……何が反応しなかったんですか?」

 

 まるでそれを口に出すのが堪え難い苦痛であるかのように、語気を窄めて言う先輩。だがそれは聞く身としては理解するのに困難を強いる内容であり、堪らず僕は先輩に問い返してしまう。

 

「だ、だから……」

 

 だが先輩も依然として躊躇する姿勢を緩めず、言い難そうに言葉を濁す。しかし、このままでは埒が明かないと僕がそう思った矢先だった。

 

「だあああッ!!」

 

 バンッ──突然弾けたように先輩が叫び、両手で思い切り机を叩く。その行動に僕が驚くと同時に、まるで堰を切ったように先輩が続けた。

 

「今の!俺の魔力が弱過ぎてッ!アパートの鍵が反応してくんなくて開かなかったんだよッ!大家に何回説明しても全ッ然信じてくれねえし……!」

 

 それは先輩が垣間見せた激情。それを前にし、僕は唖然としてしまう。だがすぐさま先輩はハッと瞳を見開かせ、それから気が憚れるような表情を僕に見せ、そして逸らした。

 

「……ごめん。八つ当たり、しちまった」

 

 顔を少し伏せながら、先輩が申し訳なさそうに僕に言う。僕としては自分が理不尽な怒りをぶつけられたことよりも、この間柄となって四年────決して短くはない月日の中で、これ以上にないくらいに切羽詰まった、余裕のない先輩の姿を目にしてしまったことに対して、深い動揺を覚えていた。

 

 僕と先輩の間で沈黙が流れる。それは妙に重たく、こちらの精神を削る。

 

「せ、先輩。とりあえず……その、ご飯にしましょう」

 

 その沈黙から逃れるように、気がつけば僕は口を開き、そう言っていた。



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 ──さて、どうしよう。

 

 皿を洗いながら、僕は独り考え事に耽っていた。当然、先輩に関してのことだ。

 

 ……まあ、結論だけ先に述べるなら。僕と先輩は今日から()()()()()()()()()()

 

 とりあえず。まずはとりあえず、僕の言い分を聞いてほしい。いや、誰に対しての言い分なのかは僕自身もわからないが……。

 

 とにかく、こうして独り言でも言わなければ落ち着いていられないというか。緊張感やら罪悪感やらで押し潰されそうになってしまうというか。

 

 先輩は一人暮らしでアパートに住んでいたが、やむを得ない事情によりアパートに帰れず、宿に泊まろうにも今からでは流石に無理がある訳で。

 

 そして、今後についての諸々をこれから僕と定期的に相談するのであれば、もういっそのこと一緒に暮らしてしまった方が手っ取り早く楽なのでは────と、食事の席で僕が先輩にそう提案してしまったのだ。

 

 くれぐれも誤解しないでほしい。別に下心等があった訳ではない。……ただ、その場の気まずく重い、正に暗澹とした空気に僕がとうとう堪えられなくなり、何とかそれを変えようと、そしてできるだけ長く続けられるような話題を思案した末の、苦し紛れの結果なのだ。

 

 そんな僕の我が身勝手さで出した提案を、先輩は──────

 

 

 

「良いな、それ。んじゃあ今日から世話になるぜ、クラハ」

 

 

 

 ──────と、まあ何とも言えない気軽さで了承してしまった。

 

「…………」

 

 自分で蒔いた種だ。今さら退こうとも考えないし、思わない。そもそも先輩にああ言ってしまった手前、やっぱり止めましょうなんて口が裂けても言えない。言える訳がない。

 

 ……だが、それでも。それでもだ。

 

 先輩との同棲。いやまあ、せめて先輩が男のままであったのなら、別段何も問題はなかっただろうが────今、先輩は女の子になってしまっている。

 

 恐らく、道を歩けばすれ違う男たちがこぞって振り返ってしまうような、そんな『女』に成長する将来性を有した美少女に、されてしまっている。

 

 そんな先輩と同棲。そんな先輩と、一つ屋根の下。お互い良い年頃の男女二人きりで、いつ終わるかもわからない程長い間、寝食を共にする。

 

 そんなの、ふとした拍子で()()()が起きても不思議ではない────そう思った瞬間、僕は頭を横に振った。

 

 ──いや。いやいや落ち着けクラハ=ウインドア。大丈夫だ何も問題はない。今先輩は女の子になっちゃってるから問題がある訳で、元の男に戻せば問題ないんだ。うん。

 

 その根拠なんてこれっぽっちもないが、こう、御都合主義的なアレで全部まるっとスルッと解決する。するはず。そうなるはずだ。そしてそうなれば先輩と同棲してても先輩は男だから何も問題はないのだ。ノープロブレムなのだ。

 

 ゴシゴシ──既に綺麗に洗い終わっている皿を何度もスポンジで擦りながら、言い訳がましく僕は心の中で呟き続ける。

 

 ──とすると、やはり最優先すべきは性別を戻すこと……けど、それこそ神の奇跡に頼らない限りは……。

 

 そもそも、この世界の最高神──『創造主神(オリジン)』が定めた事柄を変えてしまう方法など、それ以外に見当もつかなければ想像もできない。それ程、今回先輩の身に起こったことは異常中の異常事態なのだ。

 

 下手をすれば、もしかしたらグィンさんに頼まれたことよりも難しい────気がする。

 

 ──だとしたら、今は先輩の魔力をどうにかする方を考えるべきか……?

 

 先輩は言っていた。今の自分では魔力があまりにも弱過ぎて、鍵が反応してくれなかったと。

 

 ……確かに、理由としてはそれが正しいのかもしれないが、何もそれだけではないと僕は考えている。

 

 鍵が先輩の魔力に反応しなかった別の理由────それは恐らく、元の(・・)男の身体ではなく、別の(・・)女の子の身体だから、というのもあるのだろう。

 

 魔力には、『波長』というものがある。そしてこれは個々によって異なっており、この世界ではその波長を様々なことに利用している。先輩が言っていた鍵などもそうだ。

 

 今の先輩の身体は、厳密に言えば元の先輩の身体ではない。だから魔力の波長も、微妙に違ってしまっているのではなかろうか。しかしまあ、これもあくまでも僕の簡単な仮説の一つにしか過ぎないが。

 

 …………そんな理性的な考えで脳内を埋め尽くし、これから年頃?の女の子?と一つ屋根の下でしばらくは暮らすという緊張感やら何やらを、僕は必死に誤魔化していた。

 

 自慢ではないが、僕は異性経験など全くの皆無だ。

 

 ──……あれ?

 

 皿を洗っている中、ふと僕は気づいた。もし、もしだ。僕の仮説が正しいとして、そうなると今の先輩では銀行(バンク)からお金を────

 

 

「クラハー。ちょっといいかー?」

 

 

 ────が、僕のその思考は先輩の声に遮られてしまった。皿を拭きながら、半ば無意識に声がした方に振り返ってしまう。

 

「どうしましたか先輩?何かありましたか?」

 

 振り返って────僕の頭の中は一瞬で真っ白になった。

 

 

 

 

 

「髪洗うの手伝ってくんね?長くてよー、自分じゃ上手く洗えねぇんだ。……ん?どした?そんな面白い顔になって」

 

 

 

 

 

 言いながら、先輩が近づいてくる──────一糸纏わぬ、下着すらも上下共に身に付けていない、あられもない全裸姿の先輩が。

 

 一切羞恥することなく。一切隠そうともせず。むしろまるでこちらに堂々と見せつけるかのように。昼頃、不慮の事故にも近い不本意さで目の当たりにしてしまったその穢れ一つとない肢体が、ゆっくりと近づいて来る。

 

 先輩が歩く度、(うなじ)から脹脛《ふくらはぎ》を完全に覆い隠すに至るまで、伸ばされた髪が揺れる。燃え盛る炎のように鮮やかなその赤髪が、部屋の灯りに照らされ煌めく。その様が────僕にはこの世のものとは思えない、とても美しい風景に見えた。

 

「おーい?聞こえてんのかー?」

 

 視界の映る、先輩の真白な肌が眩しい。それはまるで雪原のように綺麗で。触れずとも滑らかで柔い感触を有しているのだと、容易に想像できてしまう。

 

「クーラーハー?」

 

 そして髪を押し上げる、その低い背丈には少々見合わない大きさまでに育った二つの──────

 

「…………ッ?!!?」

 

 ──────そこで僕はようやっと、我に返り正気というものを取り戻した。

 

 

 

 

 

「服ッ!!先輩服ッ!!!」

 

「え?は?」

 

「服ゥゥゥゥ!!!!」



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理性揺さぶる洗髪タイム

 ──さて、どうしよう。

 

 シャワーヘッド片手に、僕は考えていた。どうして、一体どうしてこんなことになっているのだろうかと。

 

「……何で固まってんだよクラハ。早く洗ってくれよ、髪」

 

 顔だけこちらに振り返らせて、僕にそう催促する先輩。だが、それでも僕は手を動かせないでいた。

 

 ……いや、だって。駄目だろ、これは?

 

「……あの、先輩」

 

「ん?何だ?」

 

「え、えっと……ほ、本当にいいんですか?僕がその、先輩の髪を洗っても……?」

 

「洗ってもいいも何も、そもそも俺がお前に頼んだことじゃねえか。遠慮する必要なんてねえぞ?」

 

「いや、それは、そうなん…ですけど、も」

 

 少し遅れたが、今僕がどんな状況下に置かれているのか、説明しよう。

 

 先輩と、浴室にいる。先輩と、二人きりで浴室にいる。なお浴室なので当然、先輩は全裸である。だが僕は服を着たままだ。

 

 一応、先輩は全裸であるが僕には背中を向けている。というかそうしてもらわないと困る。僕が凄く困る。

 

「それとも何だよ?俺の髪に触りたくないとか思ってんのか?」

 

「いやそんなこと全然思ってません滅相もございません」

 

 むしろその逆であるとは口が裂けても言えない、心からの本音だ。

 

 と、その時。不意に前を向いていた先輩が背後を──つまりは僕の方に振り向いた。

 

「ならさっさと洗ってくれ。このままだと俺風邪引いちまうぞ」

 

 先輩自身、その行動には何の狙いもない、強いて言うなら僕と面を向かってそう伝えたいが為のものだったのだろう。だがその行動に、僕は咄嗟に顔ごと視線を逸らし、慌てて声を上げた。

 

「え、ええ!わ、わかりました!わかりましたよ!だから前を向いてください先輩!前を、向いててください!」

 

「……?まあ、いいや。んじゃ頼んだぞー」

 

 僕の態度に胡乱げになりながらも、とりあえず納得してくれた様子で。先輩はそう言って、再び前に振り向き直った。

 

 ──ああ、この人は全くもう……!

 

 もう一度言わせてもらうが、今先輩は一糸纏わぬ全裸姿である。本来ならば布下にひた隠すべきそのありのままの全てを外気に曝け出している、大変無防備過ぎる状態なのである。

 

 そして今現在、先輩は女の子になっている訳で。それを未だに今一、先輩は自覚してくれないでいる。

 

 瞼の裏に貼り付いて離れない、先程の風景────否、絶景。慌てて視界を逸らしたとはいえ、その片隅で、しかもあんな僅かな動作でさえ揺れた、二つの肌色の果実に未だ悶々としながらも、僕は改めて先輩の髪に視線を定める。

 

 ──……本当に綺麗な赤髪だな。

 

 思わず無意識に、心の中でそう呟いてしまう。先輩の髪は燃え盛る炎を直接そのまま流し込んだような、赤々とした見事な紅蓮色で。光の加減によって美麗に赤光が瞬いて輝き、そして煌めく。その様には、否応にも見惚れてしまうものだ。

 

 シャワーヘッドを持つ手が妙に、嫌に震える。それに、緊張しているからか汗が滲み出して止まらない。

 

 本当に、いいのだろうか。いや、先輩がいいと言っているのだから、先輩の言う通り躊躇う必要はないのだろう。……だが、それでもだ。

 

 僕とて、一人の男である。当然、目の前にこんな可愛い、それも全裸の女の子がいれば、そういう気持ちになってしまう。今だって、こうして髪に覆われた背中しか見ていないのに…………結構、キている。

 

 ──落ち着け。落ち着くんだクラハ=ウインドア。相手は先輩。元男の先輩。だから先輩は男……!

 

 思わず剥き出しになろうとしている男の本能を、理性でどうにかこうにか捩じ伏せつつ、シャワーの水栓を緩める。

 

 すると音を立てながら、シャワーヘッドから温水が放出されていく。

 

「そ、それじゃあお湯かけますね……!」

 

 言って、僕はゆっくりとシャワーヘッドを先輩の後頭部へと翳した。温水によって、先輩の赤髪がゆっくりと濡れていく。

 

 外だけでなく、ちゃんと中も濡らすため、恐る恐ると残った片手を近づけていく。触れる直前まで葛藤していたが、覚悟を決め指先で髪に触れた。

 

 瞬間、伝わるのは予想通りの、素晴らしく滑らかで、さらりと流れる感触。絹糸(シルク)かと錯覚するほどの、極上の手触り。

 

 ──う、わ……。

 

 思わずそのまま、無意識に指先を沈めてしまう。すると僕の指先──どころか指は大した抵抗もなく呑み込まれ、まだ濡れ切っていない中の感触に包み込まれてしまった。

 

 ──うわ、うわうわうわうわぁ……!!

 

 ゴリゴリと理性が削られる音が聞こえてくる気がする。全身から一気に汗が噴き出してくる。

 

 女性の髪というのが、こんなにも艶めかしいものだったとは……夢にも思っていなかった。

 

 そしてこの髪の向こうには、先輩の剥き出しにされた無防備な裸の背中があるのだ。

 

 ──堪えろ。堪えろ、堪えろ堪えろ堪えろ……!

 

 完全に意識外からの思わぬ一撃に、一瞬で本能に意識を持っていかれかけてしまったが、僕はギリギリで何とか自制心(ブレーキ)を利かせて堪え、踏み止まることができた。

 

 櫛でやるように。手で先輩の髪を梳いて、水に馴染ませていく。

 

 ──……そ、そろそろかな。

 

 そうして、僕は一旦水を止め、シャワーヘッドをタイルの上にへと置いた。

 

 それからシャンプーのボトルを手に取り、中身を手の平に出し、伸ばす。ある程度泡立たせてから、また先輩の髪へと手を伸ばした。

 

「これから洗いますからね、先輩」

 

「んー」

 

 一応、先輩の断りを入れてから。改めてシャンプー塗れの手で先輩の髪に触れた。水によってしっとりと濡れた先輩の髪は、乾いている時はまた違って手触りで。また心を揺さぶられたが、僕は鉄の自制心で抑えた。

 

「い、痛かったら言ってくださいねー……?」

 

 言いながら、僕は先輩の髪を洗っていく。手の平の上でもある程度泡立っていた泡が、モコモコとさらに巨大化していく。これは……先輩の髪質のおかげだろうか?

 

 できるだけ優しく、そしてなるべく丁寧に。髪を傷めないよう、僕は割れ物を扱うような慎重な手つきで先輩の髪を洗う。そしてある程度洗えたところで、次は頭皮に移る。

 

 爪は立てず、指腹で。マッサージという訳ではないが、痛くしないよう上手く加減して、力を込めて揉んでいく。

 

「痒いところはございますか?」

 

 などと、お決まりの台詞に対し。先輩は気持ち良さそうな声で答えてくれた。

 

「痒いところはねえな。……つーか、お前頭洗うの上手いじゃねえか」

 

「そう言ってもらえて光栄ですね」

 

 ……こうして先輩と普通に会話できる程度には、荒ぶり昂っていた僕の気持ちも、だいぶ落ち着いた。最初はどうなることかと思ったが……意外とどうにかなるものだ。

 

 そうして、再びシャワーヘッドを手に取って、温水をかける。先輩の髪に盛られていた泡が、流されていく。

 

 手を使って、きちんと全部流して。そうしてようやく、先輩の洗髪は無事終わりを迎えたのだった。

 

「終わりましたよ、先輩」

 

「おう、ありがとなクラハ……あ、そうだ」

 

 己の役目を終え、そそくさと浴室から撤退しようとした僕を先輩が呼び止める。

 

「クラハ。ものはついででさ、もう一つお前に頼んでもいいか?」

 

「え、いや………はい、何でしょうか?」

 

「背中流し「もう勘弁してくださいお願いしますッ!!」

 

 先輩には申し訳なかったが、これ以上は自分を抑えられる自信が全くなかった。

 

 堪らず僕はそう叫んで、浴室から飛び出す。……だから、気づけなかった。気づくことができなかった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 僕が浴室から逃げ出す直前。遠去かるその背中を、先輩が複雑そうな表情を浮かべて見つめていたことに。

 

 そしてこの後すぐに、僕は直面することとなる。先輩がその小さく、か弱い身体の内側に抱え込んだ──────苦悩に。



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月明かりだけが照らすリビングにて

「『大翼の不死鳥』所属、《S》冒険者(ランカー)──クラハ=ウインドア。君にGM(ギルドマスター)として命ずる────ラグナ=アルティ=ブレイズを一から鍛え直し、そして『炎鬼神』としての強さを取り戻せ」

 

 グィンさんの言葉は、何処までも重かった。彼の言葉には、GMとしての重みが、これでもかと込められていたのだ。

 

 ……だが、その言葉を僕は────そのまま、すんなりと受け止めることはできなかった。

 

「まっ……待ってください!先輩を一からき、鍛え直す?僕が?ほ、本気でそう……言ってるんですか!?」

 

 だってそれはあまりにも現実離れした要求だったから。あまりにも夢想じみた、とんでもない無茶だったから。

 

 そんなこと無理だ。無理に決まっている────刹那にもそう悟った僕は堪らず悲鳴を上げるようにグィンさんに訴えたが、彼はただ真摯な眼差しをこちらに向けるだけであった。

 

 ──……本気、なのか。この人は、僕に本気で言っているのか……!

 

 荒唐無稽、無理難題にも程がある。ここまで、突き詰められるところまで弱体化してしまった先輩を、かつての────『炎鬼神』の強さにまで鍛え直すことなど……!

 

「当然こちらも最大現できる限りの支援(サポート)はする。ウインドア君、これは君にしか……いや、君だからこそできることだと……私は思っているんだよ」

 

「そ、そんなこと……言われても」

 

 考えが纏まらない。思考が上手く回らない。無礼にも程があるとわかっていたが、それでも……グィンさんの言葉全てが僕にとっては無責任なものにしか、受け取ることができなかった。

 

 グィンさんにそれだけしか返せず、僕は顔を俯かせてしまう。もう心に余裕なんてものは、一片たりともない。

 

 一体これからどうすれば良いのか────ただそれだけが、僕の頭の中を埋め尽くしていた。

 

 だから、僕は気づけなかった。ここでも、気づくことができなかった。今でも思い返せば、この時の自分を一発殴ってやりたいと思う。

 

 まるで自分が一番の被害者のように。不幸を被っているかのように。

 

 この時一番苦しんでいたのは、一番辛かったのは──────僕の隣に座っていた人物だったというのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 淡い月明かりだけが照らすリビングにて、僕は今ソファに寝転び天井を見つめていた。

 

 明日からどうなるんだろう。今の今まで送っていた日常(いつも)の日々は、どうなってしまうんだろう────そんな漠然とした不安を、僕は呆然としながら憂う。

 

 先輩を一から鍛え直す。……そんなこと、どうやったって考えられない。当然だ。

 

 だって僕は後輩──そもそも立場が逆ではないか。

 

 ──グィンさんも無茶苦茶だ……そんなこと、無理に決まっているのに……。

 

 突然上司から理不尽な仕事を押しつけられた部下の心境で、僕はやさぐれながら心の中で呟く。

 

 けれど、まあ妥当な判断ではあると頭の片隅では思う。その役目を任せられる適任者は、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』内では()()僕くらいしかいないだろうから。

 

 それに、さっきも言ったが僕はラグナ先輩の後輩だ。付き合いだって、もうそれなりのものになる。そういう点を含めて、僕がその役目を担うのが一番都合も良いだろうし。

 

 ………だからといって、はいそうですねと済ませられないのが本音ではあるのだが。適任者であるのは認めるが、もっと他に相応しい者はいるはずだと僕は思っている。何なら『世界冒険者組合(ギルド)』の『六険(ろっけん)』の誰かにでも……。

 

 ──いや、駄目だ。

 

 先輩の心中を察するならば、その選択は論外であると僕は切って捨てた。他に相応しい者はいるという考え自体は否定しないが、それでは駄目だろうと考え直す。

 

 そう、僕はラグナ先輩の後輩────ならばその役目を全うすべきだろう。

 

 それに先輩を女の子のままにもしてはおけない。男に戻る方法も、探さなければならない。

 

 ……何という、重荷。果てしない重責。まさかこんなものを背負う日が来るとは、夢にも思っていなかった。

 

 

 

 しかしこれ以上のものを────グィンさんは背負っているのだ。

 

 

 

 《SS》冒険者。この広大な世界でたったの三人しか未だ確認されていない、『極者』。その内の一人が、最弱(スライム)と並ぶ最弱になってしまった。

 

 不慮の事故のようなものだ。だが、それは言い訳の一つにしかならない。そして、グィンさんはそれを理由に逃げることなど、許される立場ではないのだ。

 

 部屋を去る直前、あの人は日常(いつも)通りの笑顔を浮かべて僕と先輩を見送った。だが、それは無理をして浮かべていたものだった。

 

 ──グィンさんに比べれば、僕はまだマシなんだ。

 

 窓から覗ける夜空と同じ色をした、天井を眺める。今日は様々な────本当に様々な出来事があった。その所為か、次第に睡魔がゆっくりと訪れる。それに抵抗することなく従うように、僕は半ば無意識に瞼を徐々に下ろす。視界が暗くなっていき、そして完全な闇に覆われる────直前だった。

 

 

 

 ギシ──不意に床が軋んだ音を立てて、僕の意識を睡魔から一瞬だけ遠去けた。

 

 

 

「……?」

 

 一体何事かと、音のした方に──正確に言えばリビングの扉がある方へと顔を向ける。すると少し遅れて、微かな音を立てながら。リビングの扉が独りでに開かれたかと思えば──────

 

 

 

 

 

「……まだ、起きてるか?クラハ」

 

 

 

 

 

 ──────という。何故か、何処か不安げな先輩の声音が僕の鼓膜を静かに震わせた。

 

「先、輩?えっと……はい。僕はまだ起きてますよ?」

 

 僕は戸惑いながらもそう答えたが、先輩は何も答えず黙ったままリビングに入ってくる。……そんな気配を感じた。

 

 今リビングの照明は消えており、差し込む月明かりは淡く心許ない。その上先輩が立っているのだろうリビングの扉付近はのっぺりとした暗闇に包まれており、僕が寝転がっているソファからではよく見えなかった。

 

 そして先輩はリビングに足を踏み入れはしたようだが、その場から動く気配がなかった。

 

「先輩……?」

 

 僕はそれを奇妙に思って、ソファから上半身だけを起こす。目を凝らせば、やはり闇の中にぼんやりと人型のシルエットが浮かんでいる。

 

「……悪いな。こんな、時間に」

 

「い、いやそんな……僕は大丈夫ですよ。気にしないでください」

 

 申し訳なさそうにそう言う先輩に、僕は苦笑いを浮かべながらそう返す。

 

 ……とはいえ、どうしてこんな夜も深まった時間帯に先輩がここへ来たのか、不思議でしょうがない。てっきりもう寝てしまっていると思っていたのだが。

 

「あの、ところで……」

 

 一体どうしたのかと、僕は訊ねようとした。だが、それを先輩は予期していたのだろう。

 

「ちょっと、お前に訊きたいことがあってさ」

 

 僕が言い終わらない内に、先輩がそう言った。そして続けて、その姿を闇に浸したまま、依然不安げな声音で先輩は僕に言う────否、問う。

 

 

 

 

 

「クラハ。お前、俺のこと……どう思ってんだ?」



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どう思ってんだ?

「クラハ。お前、俺のこと……どう思ってんだ?」

 

 その先輩の声は、静かなものだった。不安げながらも、意を決したような、覚悟を決めたかのような────そんな声だった。

 

「ど、どうって……あの、それはどういう……」

 

 何故先輩の声音がそうも真剣味に溢れているのか、どうして先輩はそんな、まるで思い詰めた様子になっているのか────それがわからず、先輩に問われたにも関わらず僕は狼狽え、気がつけばそう問い返してしまっていた。

 

 だが、この時僕が狼狽えていなくとも、その先輩の問いには答えられなかっただろう。何せ先輩の問いは曖昧なもので、如何様にでもこちらで解釈できてしまう。

 

 故に、安易に僕は答える訳にはいかなかった。

 

 そう訊き返した後で、情けなくも僕は少し後悔してしまう。これでもし先輩が機嫌を損ねてしまったらどうしよう、と。まるで親に叱られる子供のような気持ちになって、それを心の中で恐れてしまう。

 

 だが、そんな僕の小っぽけな恐れは否定される。先輩は特に機嫌を崩すことなく、また静かにその声をリビングに響かせた。

 

「そのまんまの意味だ。今の俺を、お前はどういう風に思ってんのか……どう見えてんのかを知りたい」

 

 

 

 プチ──と、その時。先輩が言い終えるのとほぼ同時に、まるで衣服のボタンを外すような、そんな音がした。……そんな、気がした。

 

 

 

 ──……何だ?空耳……か?

 

 本当にしたかどうかもわからない程に小さい、不審な謎の音に思わず意識を引かれながらも。僕は先輩の問いの意味を理解し、思わず安堵してしまう。そして深く考えることもなく、まるで当たり前の事実を突きつけるかのように、僕は平然と答えてみせた。

 

「ああ、なるほど。そういうことでしたか。そんなの考えるまでもありませんよ、僕にとって先輩は先輩です。誰よりも尊敬すべき、僕の大切な恩人なんです」

 

 僕の言葉がリビングに響き渡る。僕の答えを聞いた先輩は────何も、返せなかった。

 

 ──……?

 

 今一度、静寂がこの場に返り咲く。しかも今度の場合は何故か重たい圧迫感を伴って。が、それも束の間────長い沈黙を挟んでから、ようやっと先輩が口を開いた。

 

「……へえ。クラハ、お前そう思ってんだ。……今でも、そう思ってんのか」

 

 先輩の声音は、僅かに、だが明らかに荒んでいた。まるで吐き捨てるように先輩がそう言った瞬間。

 

 

 

 プチ──今度は間違いなく、衣服のボタンを外す微かな音が僕の耳に届いた。

 

 

 

「せ、先ぱ「クラハ」

 

 先程までの様子がまるで嘘だったように。先輩が僕の言葉を強く遮る。その声音はあくまでも静かなものであったが────明確な怒気を孕んでいると、僕には感じ取ることができた。

 

 ──あ、まずい……。

 

 瞬間、他人事のように僕はそう思う。自分が取り返しのつかないことをしでかしてしまったのだと、呆然と悟る。

 

 そう、例えるなら────決して踏んではいけない特大の地雷を、思い切り、力の限り踏み抜いたような。そんな感じに。

 

 今し方確かに聴き取ることができた衣服のボタンを外す音のことなどすっかり忘れ、僕は全身から嫌な汗を噴き出させる。瞬く間に心が恐怖と怯えに支配され、無意識にも呼吸を荒くさせてしまう。

 

 心理状態を反映するかのように、その鼓動を劇的に早める心臓を堪らず煩わしく思う僕に、依然闇にその姿を沈めたままでいる先輩が静かに、そして冷たく言い放つ。

 

「目、閉じてろ」

 

「え、あ……?」

 

 先輩の要求は、唐突だった。何故、この状況下で目を閉じなければならないのか。それとも目を閉じると同時に自分は歯を食い縛ればいいのか────そう思い、僕は困惑の声を漏らしてしまう。

 

 そんな僕の態度に、チッとその苛立ちを表すように先輩が舌打ちをする。それから先輩は乱暴に言葉を吐き捨てた。

 

「いいからとにかく閉じてろこの馬鹿ッ!」

 

「は、はいすみませんっ!」

 

 先輩に怒鳴られ、僕は悲鳴のような情けない謝罪を入れながら、為す術もなく言われた通りに固く目を閉じた。

 

 ──な、何だ!?先輩は僕に一体何をするつもりなんだ!?

 

 そう心の中でみっともなく、恐らくこれから訪れるだろう先輩の折檻に対して、僕は身構える。そんな僕に先輩が言う。

 

「俺が開けろって言うまで、目ぇ開けんなよ。絶対だからな?いいな?」

 

「りょ、了解です僕は絶対に目を開けません……!」

 

 そんな問答を終え、そして遂に。その場から先輩が動いた。ゆっくりと、僕の方に足音が近づいて来る。その度に、僕の緊張が増していく。

 

 とうとう、その足音が僕のすぐ目の前にまで近づいて────不意に、止んだ。先輩がその歩みを止めたのだ。

 

「……クラハ、お前言ったよな。俺のこと、先輩だって思ってるって。尊敬できる、先輩だってまだ思ってるんだよな?」

 

 唐突に、僕の言葉の真偽を確かめるように、先輩が僕に確認する。……何故だか、一瞬その声音が堪らなく不安で怯えている、幼い子供のように聞こえた。

 

 だが今の僕にそれを深く考え込む余裕も予断もなく、焦燥に揉まれながら咄嗟に、先輩の確認に対して肯定の意を示す。

 

「は、はい。僕の言葉に嘘偽りなんてこれっぽっちもありません」

 

「…………」

 

 僕の返事に、先輩はすぐに言葉を返すことはなかった。また長い沈黙を挟んで、そしてようやく。

 

「わかった」

 

 

 

 パサ──そう返すと同時に、軽い何かがリビングの床に落ちる音がした。

 

 

 

 ──え?何か、落ちて……?

 

 そう僕が思った束の間────突然、僕の膝の上に何かが乗った。重さは然程ない、何かが。

 

「ッ……!?」

 

 だがその何かは()()()()()。その何かは()()()()()()

 

 じんわりと、その何処か心地良い熱と感触が僕の膝に伝わる。視界を封じているせいか、いつにも増して敏感に。

 

 そしてすぐさま────今度は僕の両頬が温かみと柔らかさを伴う別の何かに包み込まれてしまった。

 

「はっ?うぇッ?!」

 

 堪え切れず、僕はみっともなく素っ頓狂な声を上げてしまう。そして咄嗟に顔を動かそうとしたが、その包み込んだ何かがそれを許さない。

 

「……クラハ」

 

 果てしなく動揺し混乱する最中、その口を閉ざしていた先輩がようやっとまた開き、静かに僕の名を呼ぶ。

 

「もう、目開けてもいいぞ」

 

 言われて、僕は閉じていた目を恐る恐る開かせて────直後驚愕に思わず見開かせてしまった。

 

「ん、なッ……!!??」

 

 何故ならば。僕のすぐ眼前に──────先輩の顔があったから。



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今、目の前にいるのは

「ん、なッ……!!??」

 

 という、驚愕の声を僕は上げずにはいられなかった。叫ばなかっただけでも、御の字だろう。

 

 何故ならば。目を見開かせた先にあったのが────こちらをただじっと見据える先輩の顔だったのだから。互いの吐息でさえかかる程の至近距離にまで、先輩がその顔を近づけていたのだから。

 

「せ、せんぱっ……!!」

 

 咄嗟に、反射的に。特に何を思う訳でもなく、そう言いかけた瞬間。こちらを見据える先輩の視線から無意識に逃れようとしたのか、一瞬視線を下に向けて────僕の頭の中は真っ白になった。

 

 ──へ……?

 

 そこにあったのは、たわわに実った二つの膨らみ。その背丈に反して大きく、それでいて形も綺麗に整った肌色の果実。本来ならば下着と衣服に包み隠されてなければならないそれらが、僕の眼前に惜しげもなく、これでもかと曝け出されていた。

 

 そしてそのさらに下に続く光景も()()で──────

 

「先輩ッ!?なな、何で服着てないんですかッ!?」

 

 ──────そこで僕は正気を取り戻し、言いながら顔を逸らそうとした。だが、そうすることはできなかった。

 

「顔、逸らすな。……こっち、ちゃんと見ろ」

 

 一糸纏わぬ全裸で。こちらに向き合う形で僕の膝の上に座る先輩が、僕の両頬を両手で包み込みながらそう言ったからだ。その言葉には、その声には上手く表現しようのない、こちらに有無を言わせない迫力があって。僕は思わず従ってしまっていた。

 

 先輩の瞳に、髪と同じ色をしたその瞳の奥に、僕の顔が映り込んでいる。予期せぬこの状況下に、情けなく狼狽え困惑し赤らんだ僕の顔が。

 

 そんな自分を心の片隅で滑稽だなと他人事のように思っていると、同じく僕の顔を真摯に見つめながら、先輩が口を開く。

 

「お前、言ったよな。俺のことまだ先輩だって思ってるって。……そう、言ってたよな」

 

 言って、先輩はさらに続けた。

 

「本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?」

 

 

 

 そう、訊かれて。その時初めて──────僕は気づいた。気づかされて、しまった。

 

 

 

「え……あ……」

 

 まるで今まで己の中で時が止まっていたように。今の今まで無視していた事実をふとした拍子に受け入れてしまうように。途端に、僕はありありと感じ取る。

 

 今の今まで気にならなかった。気にも留めなかった。膝に伝わる先輩の太腿(ふともも)の感触。先輩からふわりと漂う、仄かに甘い匂い。

 

 ──……違う。

 

 僕の両頬を包む小さな両手。細い手首に、華奢な腕と肩。括れた腰。全体的に痩せてはいるが、要所要所は程良く肉付いた、柔そうな身体。

 

 ──違う……。

 

 考えてみれば、それは当たり前のことだった。ただ、僕がそれに気づけなかった。

 

 知らず知らず、気づかないようにしていた。受け止めないように────受け入れないようにしていた。

 

 ──こんなの、違う。

 

 だが、こうして。直面させられて、僕は今初めて認識した。そうなのだと、自覚させられた。

 

 ──…………ああ、そうか。……そうだったんだ。

 

 今、僕の膝に座っているのは。今僕のすぐ目の前にいるのは──────

 

 

 

 

 

 ──()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ガツン、と。まるで鈍器で後頭部を思い切り殴られたような衝撃。無論、それはただの錯覚に過ぎない。……けど、僕にとってはどうしようもない現実そのものだった。

 

 何も言えず、呆然としてしまって、もはやどうすればいいのかわからないで、硬直する他ないでいる僕に、先輩は言う。

 

「クラハ。もう一回、言ってみろよ。さっきと同じこと、面と向かって……今の俺に言ってみせろよ」

 

 その時、目と鼻の先にある先輩の顔は、そこに浮かんでいた表情(かお)は────僕の全く知らない、未知のものだった。

 

 まるで親と(はぐ)れてしまった子供のような。今すぐにでも誰かの背中に寄りかかりたいような。誰かの腕に縋りたがっているような。そんな不安と恐怖に脅かされている者の、表情。

 

 こんな表情────少なくとも僕が知る先輩は、僕が知っているラグナ=アルティ=ブレイズはしない。絶対にしない。

 

 

 

 故に────()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 気持ち悪い違和感が、じっとりと僕の心に広がっていく。自然と背中に嫌な汗が滲み出す。

 

 違う、そんなことはない────頭ではそうとわかっていた。だが、僕の心はわかってくれなかった。……いや、それは逆だったのかもしれない。

 

 先輩は見つめる。僕の顔を見据える。僕が知らない、女の子の顔で、無言でただじっと。

 

 この時取るべき選択肢など、一つだけだった。至極簡単なものだった。

 

「っ……ぅ……」

 

 簡単なものだと、簡単なことだと頭では確かに理解していた。

 

「ぅ、あ……」

 

 僕は即座に答えるべきだった。もう一度、その言葉を伝えるべきだった。

 

 

 

『僕にとって先輩は先輩です。誰よりも尊敬すべき、僕の大切な恩人なんです』

 

 

 

 そう、言わなければならなかったのだ。ラグナ=アルティ=ブレイズの後輩として。

 

 ……けれど、この時僕は──────

 

「…………っ」

 

 ──────言葉にならない呻き声だけを漏らして、目を逸らすことしかできなかった。

 

 

 

『顔、逸らすな。……こっち、ちゃんと見ろ』

 

 

 

 先程、そう言われたにも拘らず。後輩であるにも拘らず。

 

 ……けれど、そんな僕を先輩は────責めなかった。罵倒することも、怒鳴りつけることもしなかった。

 

「……そうだよな。お前、嘘吐けないもんな」

 

 ただ、僕にそう言うだけだった。その声音は酷く優しくて、穏やかで────寂しそうだった。

 

 その声を聴いて、僕はハッと咄嗟に逸らした目線を戻そうとした。

 

 ……だが、それよりも先輩が僕の膝から下りるのが早かった。

 

「こんな時間に悪かった。……おやすみ」

 

 言って、先輩は僕に紅蓮色の伸びた髪に覆い隠された背中を向けて。床に落ちていた寝間着代わりの僕のシャツを拾い、羽織る。そしてその場から先輩が歩き出す。

 

 先輩の小さな背中が遠去かっていく。僕の前から、先輩が離れていく。それを、僕はただ見送ることしかできないでいる。

 

「せ、先輩っ!」

 

 だがしかし。先輩がリビングから出る直前、僕は辛くもそう声を出すことができた。扉を開けたまま、こちらに背中を向けたまま、先輩がそこで立ち止まる。

 

 恐らく。それは期待の表れだったのだろう。僕からの言葉を、待ち望んでいてくれたのだろう。

 

 …………なのに。

 

「せ、先輩……あの、その……僕は、僕は………」

 

 そんなことしか、口から吐き出せなかった。

 

「…………」

 

 そうして。先輩は無言のまま、こちらに背を向けたまま、リビングから出た。扉の向こうに先輩の姿が消え、扉が静かに閉じられる様を見せつけられて。それでも、なお。

 

「……僕、は」

 

 昏く深い絶望の中へ沈みながら、己が一体どれだけ不甲斐なく情けなく、そして惨めな存在なのだと思い知らされながら。ただそう呟きソファの上で僕は打ち拉がれた。



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ラグナの苦悩

 夜も良い具合に深まった頃合い。クラハとの問答を一通りやり終えたラグナは、独り部屋に──クラハの寝室へと戻っていた。ここにしばらく住まう間、どうぞ使ってくださいとクラハが貸してくれたのだ。

 

 バタン──寝室の扉を閉めた後、ラグナは寝台(ベッド)に向かおうとはせず、その場に佇む。

 

「…………馬鹿野郎」

 

 そう一言だけ呟いて。ラグナは扉を背にしてもたれかかる。それから脱力したようにズルズルと腰を下ろして、ストンと終いに冷えた寝室の床に座り込んだ。

 

「クラハの、馬鹿野郎……」

 

 そう呟くラグナの声は、弱々しく震えていた。それから膝を抱え込んで、彼は顔を俯かせる。

 

 ──俺は、女じゃねえ。

 

 誰がどう見ても、天真爛漫とした可憐な少女の姿をしているラグナは、心の中で恨めしくそう呟く。それと同時に、彼は今日一日の記憶を想起した。

 

 

 

『だっ、駄目じゃない!あなたみたいな()()()がこ、こんな格好で……しかも外を出歩くなんて一体何考えてるのッ!?』

 

 

 

 クラハと共に訪れた服屋でのこと。そこの店主──アネット=フラリスとは知り合いで、そこそこの付き合いもあったのだが……自分がラグナ=アルティ=ブレイズだと彼女は気づかなかった。

 

 まあ、当然といえば当然のことだろう。こんな、あまりにも非力で無力な少女が、あの最強と謳われるラグナであるとは誰しも思わないであろうし、信じもしないだろうから。

 

 アネットの叱責を頭の中で反芻させながら、ラグナは心の中で呟く。

 

 ──俺は女じゃねえ。

 

 それは事実だ。今の自分がラグナであると、歴とした男であると自覚も意識もある。その今までの記憶だってあるのだ────けれど、この現状がそれを否定する。

 

 

 

『すまないが、今の君を……私はあのラグナ=アルティ=ブレイズだとは思えない。認められない。一人のGM(ギルドマスター)として……そうする訳には、いかないんだ』

 

 

 

 それは自分が所属する冒険者組合(ギルド)──『大翼の不死鳥(フェニシオン)』のGM、グィン=アルドナテの言葉。苦心に苛まれながらも、こちらの為にという思いが詰められた、彼の重い言葉。

 

 ──女、じゃねえ……!

 

 悔しさと苛立ちが募るばかりであった。自分の全てを否定された気分だった。もはや、誰もが今の自分を自分(ラグナ)と見なかった。認識してくれなかった。

 

 

 

 そしてそれはクラハも────同じだった。

 

 

 

 クラハ=ウインドア。彼とは先輩と後輩という関係性に限って言えば四年の付き合いだが、実はそれを除くともう十年以上の親交になる。

 

 ラグナは知っている。幼い頃のクラハを。クラハは知っている。まだ最強に至る前のラグナを。二人が初めて知り合った瞬間は実に複雑で────とてもではないが、一言で説明なんてできはしない。

 

 その付き合いから、無自覚に。気がつけば無意識にラグナはクラハに対して絶対とも言える信頼を寄せていた。無論、それを告白したことは一切ない。

 

 ……だが、その信頼に一瞬の翳りが差した。今日という一日で、思わずラグナはクラハに対して不信──というよりは不満を抱いてしまった。

 

 その理由は、クラハの態度にあった。彼は接してくれていた。彼だけが、唯一以前と変わらない接し方をしてくれていると────ラグナは()()()()()()()

 

 しかし、結局は同じだった。クラハもまた、今の自分を女と見ていたのだ。

 

 喫茶店の時も。街道を共に歩く時も。洋服店の時も。『大翼の不死鳥』の時も。この家の時も。

 

 クラハはこちらに心を許していなかった。何処か余所余所しく、一歩引いた態度と雰囲気だった。

 

 十年以上という決して短くない付き合いがあるラグナであるから──否、だからこそわかった。それに気づいた。

 

 …………なのに。

 

 ──先輩先輩って……俺のこと、平気な顔で呼びやがって……。

 

 ラグナはそれがどうしても許せなかった。クラハ本人が一番そうであると()()()()()()癖に、まるで自分だけはわかっていますと肯定している態度が、堪らなく不愉快で……そして辛かった。

 

 だからラグナは行動に打って出た。今でも自分を先輩と────ラグナ=アルティ=ブレイズだと、確とそう認識しているのかと問うた。

 

 そしたら案の定、クラハはこう答えた。

 

 

 

『僕にとって先輩は先輩です。誰よりも尊敬すべき、僕の大切な恩人なんです』

 

 

 

 ……その言葉自体は嬉しかった。だが、それと同じくらいに哀しかった。

 

 だから────今の自分というものを、クラハに対してありのまま全てを見せつけてやった。

 

 その膝の上に座り、その両頬に両手を添え、互いの吐息が互いの鼻先にかかるまで顔を近づけて。そこまでして上で、顔を赤くし大袈裟なくらいに目を白黒させて狼狽するクラハに改めて問いかけた。

 

 本当に今目の前にいるのが、お前の先輩なのかと。ラグナ=アルティ=ブレイズであるのかと。

 

 クラハは、今度は────答えなかった。答えられず、ただ呻き、その目線を逸らすことしかできないでいた。

 

 そうなると、この結果をラグナとて予想できていなかった訳ではない。だからこそ、ここまでしたのだから。

 

 正直に白状してしまえば、憤りを覚えた。失望もした。ああ、やっぱりお前もそうなんだと────諦観した。

 

 ……だがしかし、だからといって。ラグナにはクラハを責めることはできなかった。そんなこと、できるはずがなかった。

 

『……そうだよな。お前嘘吐けないもんな』

 

 そう、言葉をかけて。ラグナはクラハの膝から下り、そして背を向けた。そしてこの場から去ろうと────クラハの前から去ろうとした、その直前。

 

 

 

『せっ、先輩っ!』

 

 

 

 こちらのことをクラハが呼び止めた。その瞬間、己の胸の内に瞬く間に広がった期待を、ラグナは忘れない────否、忘れられない。

 

 だって。自分を呼び止めた癖に、結局クラハは言葉にならない声を漏らすだけだったのだから。

 

「…………あの、馬鹿野郎」

 

 その時は既で喉奥に飲み込んで、口に出すのを堪えた言葉を今吐きながら。ラグナは己の腕を掴み、握り締める。

 

 何処にもぶつけられない、ぶつけようのない苛立ちと苦悩に辟易しながら、寝台に向かって横になることもなく。そうしてラグナはしばらくの間、扉の前に座り込み続けるのだった。



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絡み結ばれるそれぞれの運命

「という訳で、(アタシ)はこれから『世界冒険者組合(ギルド)』本部に向かうことになっちまった。GM(ギルドマスター)の代理は既に立ててあるから、そこは心配しなくてもいい」

 

 早朝。執務室にて面倒そうに上着代わりのローブを羽織りつつ、そして実に面倒そうに彼女が言った。

 

 首筋が薄く隠れる程度にまで伸ばされた紫紺色の髪。それと全く同じ色をした瞳は猛禽類を彷彿とさせるまでに鋭く、冷淡な光を宿していた。

 

 猛獣を思わせる凶暴な、だがそれでも男を確かに惹きつける確かな美貌を持つその女性は背後を振り向く。

 

「事態が事態だ。場合によっちゃあ……いや、十中八九アンタも動くことになるだろうから、準備は済ませときな」

 

 言って、彼女が視線を向ける先にあったのは、来客用の上等なソファ────否、正しくは。

 

 

 

「別に言われなくてもわかってますよ、師匠(せんせい)

 

 

 

 そこに座る、一人の少女。真白のローブを纏う、それと全く同じ色の髪をした、絵本の中からそのまま飛び出たかのような、そんな可愛らしく幼い容姿をした少女であった。

 

「……だったら構わないんだけどね」

 

「ええ。それにしても本当に興味深いですよぉ」

 

 紫紺色の女性から手渡された一枚の紙と一枚の写真を見ながら、一体何がそんなに面白いのかクスクスと笑いながらそう言う真白色の少女。

 

「『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズ……この広い広い世界(オヴィーリス)の中で、私に比肩し得る、私と同じ《SS》冒険者(ランカー)の一人。そんな彼がある日突然、そうだったのがまるで嘘みたいに弱体化した挙げ句の果て……まさかその性別すら変わってしまったなんて。くふ、ふふふ」

 

 少女が手に持つその写真には、一人の少女が写っている。

 

 まるで燃え盛る炎をそのまま流し入れたように、鮮やかに煌めく紅蓮色の髪と真紅の瞳。仏頂面ではあるが、それでも可憐で美麗で。軽く微笑みを浮かばせるだけで世の男を総じて虜にしてしまえる程の、まさに絶世の美少女。

 

 故に誰もが決して信じはしないだろう────この写真の少女が、()()()()()()()()()()()

 

 さらに言えば、その写真の少女が────『炎鬼神』の異名で畏怖され世界最強の一人と謳われた《SS》冒険者、ラグナ=アルティ=ブレイズであるなどと。

 

「あーあ、こうなっちゃうんだったら接触禁止なんて無視して、さっさと会いに行けば良かったなぁ。後悔先に立たずってこういうことを言うんだなぁ。まあ過ぎたことを幾ら嘆いても仕方ないかぁ。……それにしても、性別の逆転。神にしか許されない、神にのみ成し得られる所業…………神の奇跡」

 

 まるで何かに囚われているかのように、真白色の少女は写真の少女を見つめる。じっくりと眺める。

 

 写真に視線を注ぐ少女の瞳は、異質の一言に尽きた。何故なら────其処には定まった色が存在していないのだから。

 

 赤、青、黄────信じ難いことに、少女の瞳は秒刻みにその色を変えている。言うなれば少女の瞳は──万色であった。

 

 そんな異様極まる瞳を持つ少女は、そのあどけない顔立ちに良く似合う悪戯な笑みを浮かべて、さらに続ける。

 

「この私ですら何度挑戦しても失敗続きで終わったというのに……この確かな現実の中で、よもやこんな、とっても大変可愛いらしい事例が先に出てしまうとは。人生何があるか、本当にわからないものですねえ」

 

 そんな真白色の少女に対し、紫紺色の女性はため息一つ吐きながら。やや投げやりな態度と声音で、一応はという風に言葉をかけた。

 

「わかっているとは思うが、くれぐれも『世界冒険者組合』を挑発するような真似はするんじゃないよ。指示があるまで待機だからね」

 

「……はぁーい」

 

 意味深な一瞬の沈黙を挟んで。わかっているのか、いないのか、それが今一伝わらない妙に間の伸びた返事をする少女。そんな様子の少女に女性は再度ため息を吐きつつ、彼女に背を向けた。

 

「それじゃあ、私が帰ってくるまでの間は頼んだよ────フィーリア」

 

 そこで初めて名前を呼ばれた真白色の少女は写真から顔を上げて、こちらに背を向ける女性に今度はきちんとした返事を送る。

 

「はい、この私に任せてください。師匠……いいえ、お母さん」

 

 そうして、少女は────世界最強の一人たる《SS》冒険者(ランカー)、『天魔王』フィーリア=レリウ=クロミアは依然浮かべていた笑みを不敵なものに変えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が昇り始めてまだ間もない空の下、そこに二つの人影があった。二つの、それも大柄な人影が。

 

 一人は男物で厚手のジャケットを羽織った、燻んで鈍い光を放つ銀髪を短く切り揃えている、一見すると高身長の美青年。

 

 だが誰の目から見てもわかる程無理矢理に押さえつけられ、しかしそれでも膨らんでいるとわかる胸元とこれまた男物のスラックスに窮屈げに包まれた、張りのある肉付きの良い臀部がその認識が間違いであると主張する。

 

 その美青年────否、男装の麗人とでも言うべき銀髪の美女が静かに、ゆっくりとその口を開かせる。

 

「……じゃあ僕は発つけど、後は任せて大丈夫だよな?」

 

「ああ、問題ない。大船に乗ったつもりで任せてくれ」

 

 凛として良く響く声音で彼女の質問に答えたのは、その女性らしからぬ彼女の背丈よりも高い、それこそ頭一つ分高い背丈を誇る者。だというのに、なんとこちらも信じられないことに女性であった。

 

 他の大陸では見られない独特の衣装──この大陸、それも極東(イザナ)と呼ばれる地方独自のものである『着物(キモノ)』で身を包むその女性は、夜闇の如き漆黒の髪を腰辺りに届く程度にまで伸ばしている。

 

 そして肝心の顔立ちであるが────それはどうなっているかはわからない。何故ならば、その女性がもはやちゃんと見えているのかすら疑わしいまでの超至近距離で、しかも人の顔程もある一枚の写真を食い入るように見つめているからだ。

 

 そんな様子の黒髪の女性に対して、銀髪の美女は眉を顰めながら呆れた声を出す。

 

「そこまで気になるものか……?」

 

「当然じゃないか。私にとって小さくて大きいのは絶対の正義だ」

 

「……まあ、別にお前の性癖に口を挟むつもりはないが」

 

 そこまで言うと、銀髪の美女は踵を返し黒髪の女性に背を向ける。それから背を向けたまま、一言彼女に告げた。

 

「一応言っておくが、その写真の子は元々は男だからな」

 

 その銀髪の美女の言葉に、黒髪の女性はようやっと顔から手に持つ写真を離す。

 

「関係ないさ。いざとなれば私が女の悦びというものを身体と心の隅々にまで教え込み、私色に染め上げればいい」

 

 と、側から聞いてもとんでもない言葉を口走らせる黒髪の女性は────そんな言葉があまりにも似合わない程に、美しかった。まるで抜身(ぬきみ)の刃を思わせるような、そんな冷たくも凛々しい美貌がその顔に存在していた。

 

 ……が、しかし。その浮世離れした美貌よりも先に、他者の意識を。視線の全てを否応にも集める要素が彼女の顔にはあって。それは何かというと────()だった。右側、右目の瞼を跨ぐ形で、眉の上から顎先にまで。ピッと、縦に引かれた一本の傷跡があったのだ。

 

「………全く。一体誰に似たんだろうかな」

 

 凄絶なまでに美麗な分、傷痕がより目立つその顔に浮かべられた微笑みと共に、告げられたその言葉に苦笑を伴わせてそう返し。やがて銀髪の美女はその場から歩き出す。

 

「精々程々に、な────サクラ」

 

 その言葉を最後に、この場を去る彼女の背中を、黒髪の女性────世界最強の一人たる《SS》冒険者(ランカー)、『極剣聖』サクラ=アザミヤは見送りながら、呟いた。

 

「貴女に言われなくてもわかっているさ。カゼン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつけば、リビングが明るくなっていた。朝日が差し込み、リビングを照らしていたのだ。それと同時に、鳥の鳴き声が遠くで聞こえてくる。

 

 ──…………ああ、もう朝になってたのか。

 

 思考が上手く定まらない頭の中で、僕は呆然とそう思う。それからどうしようもなくなって、無意識に天井を仰いだ。

 

 結局、あれから一睡もできなかった。……できる訳がなかった。目を閉じる度、瞼の裏に────見えてしまう。

 

 

 

 

 

『……まだ、起きてるか?クラハ』

 

『クラハ。お前、俺のこと……どう思ってんだ?』

 

『……へえ。クラハ、お前そう思ってんだ。……今でも、そう思ってんのか』

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

 

 

 

 

 深夜の光景が。先輩の姿が。あの表情が──────その全てが。まるで今さっきあったことのように、恐ろしいくらいに鮮明に。

 

 ──……これから、どうすればいいんだろう。僕はこれからどう……先輩と接すれば、いいんだろう。

 

 それだけがずっと僕の頭の中で駆け回っていた。幾ら考えても考えても考え尽くしても、答えの出せない疑問になって埋め尽くしていた。

 

 そんなこと、僕一人で考えても仕方のないことだというのに。

 

「……」

 

 自己嫌悪に苛まれながらも、僕は無言でソファから立ち上がる。朝が来たのだ。いつまでもこうしている訳にはいかない。

 

 今日から僕の知らない────日常(いつも)が始まるのだから。

 

 僅かに冷たいリビングの床を踏み締めて、僕は歩く。扉を開いて先に進んで、トイレへと向かう。

 

 そして閉ざされているトイレの扉のノブを掴み、当然のように、何の躊躇いもなくそれを開いた。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 ……もう既に、トイレには先客がいた。寝間着代わりの僕のシャツを着た、下着(パンツ)を膝辺りにまで下ろし、今まさに便座に腰かけようとしている先客────ラグナ先輩がいた。

 

「「………………」」

 

 僕と先輩の間で、沈黙が流れる。そしてこの重く、ひたすらに重く気まずい沈黙を先に破ったのは、先輩だった。

 

「……あー」

 

 という、申し訳なさそうな声を漏らして。先輩は脱ぎかけていた下着を、ストンと足首にまで落とし。それから便座に腰を下ろした。

 

「すまん。鍵すんの、忘れてた。……ん」

 

 そう、一言僕への謝罪を先に済ませて。そして未だ僕がすぐ目の前にいるにも関わらず、便座に座った先輩は身体から力を抜こうとして──────そこでようやく僕は正気を取り戻し。

 

「す、すみませんでしたァッッッ?!」

 

 そう叫びながら脱兎の如くトイレから飛び出し、叩きつけるように扉を閉めてその場から離れるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、決して交わることのない運命であった。決して絡み結ばれる、運命(いと)ではなかった。

 

 だが、一つの出来事を切っ掛けに、運命が交わる。運命が絡み、結ばれていく。

 

 それが齎すのは、滅びか救いか。与えられるそれは、希望か絶望か。

 

 この物語の最果てに在るのは──────終わりか始まりなのか。



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アルヴス武具店

 その日、世界(オヴィーリス)に激震が走った。何故ならば、突如としてこの日に『世界冒険者組合(ギルド)』から到底信じられない、まるで嘘のような報道(ニュース)があったからだ。

 

 《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズが弱体化し、その上少女となってしまった────と。

 

 この報道と共に世界中に配られた一枚の記事とそこに載っている写真が与えた衝撃と動揺は、『世界冒険者組合』の予想を大いに上回り、尋常ではない混乱を齎すこととなった。

 

 嘆く者。怯える者。不安を抱く者────当然のことだろう。この世界には魔物(モンスター)の脅威に満ちており、そして世界を滅ぼさんとする『厄災』もいるというのに、それらに対抗できる存在(モノ)が一つ失われてしまったのだから。

 

 だが、この世界規模の影響を出した危機的状況を、逆に好機を捉える者たちもいた。

 

 最強という唯一無二の名誉を求める者。心の奥底に野望を秘めた者────そういった者たちが、この事態を受けて今、一斉に動き出す。

 

 そう────この日この時、世界は激動の一歩を踏み出したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へいらっしゃい!ここはアルヴス武具店……って、ウインドアじゃねえかよ。久しぶりだな」

 

「お久しぶりです、アルヴスさん。相変わらずここは寂れてますね」

 

「お前さんのクソ真面目なツラも相変わらずだっての。……で、そっちの嬢ちゃんが今噂で持ち切りの……」

 

「……ええ、そうですよ」

 

 早朝の、予期せぬハプニングの後。僕と先輩は気まずい空気の中朝食を済ませて、ここ────一般的なものから表向きには出せない裏事情のある武器や防具も売っている(という噂が囁かれている)『アルヴス武具店』に訪れていた。

 

 この店は僕がまだ駆け出しの冒険者(ランカー)だった頃からの行きつけである。この店の店主──アルヴス=オルトマギスさんとの付き合いは意外と結構長い。

 

 知り合った頃と全く変わらない、毛髪が死滅(ハゲ)た頭に手をやりながらアルヴスさんが複雑そうに呟く。

 

「まさか、あの『炎鬼神』の旦那がこんなお嬢ちゃんになっちまうとはなぁ。こうして実際目にしても、いやはや信じられねえっていうか何ていうか……」

 

「ああ?何だお前、文句あんのか?」

 

 アルヴスさんの嘆きをこちらの文句と受け取った先輩が、不機嫌そうに顔を歪め真紅の瞳で睨みながら、彼に食ってかかる。

 

 ……しかし。口が裂けても到底言葉には出せないが、その迫力は皆無であり。睨みを利かせているその姿はむしろ可愛いらしく、そして微笑ましかった。

 

「い、いやいや文句だなんて滅相もありませんよ旦那」

 

 そしてそれはアルヴスさんも同じことらしく、口ではそう言いながら平謝りをしているが、その顔は心なしか半笑いのように見える。しかし、残念ながら先輩がそのことに気づくことはなかった。

 

「……なら、まあ別にいいけどよ」

 

 不服そうな表情を浮かべながらも、アルヴスさんの申し訳程度の謝罪を受け取って、そう言いながら大人しく引き退る先輩。その様子に僕は僅かに苦笑しながらも、わざわざこの店に訪れた理由を伝えるべく僕は口を開き、アルヴスさんに言った。

 

「実は今日、先輩の武器を調達しにここへ来たんですけど……アルヴスさんから見て、今の先輩でも上手く扱えそうな武器ってありますか?」

 

「今の旦那でも扱えそうな得物……得物、なあ」

 

 僕の要望を受け、アルヴスさんは何とも言えない微妙な表情を浮かべながらも、黙って先輩を頭の天辺から足の爪先までじっくりと、それこそ舐め回すように眺める。

 

 ──……ん?

 

 恐らく最初こそは歴とした武具商人として、僕の要望に見事応えようとしてくれていたのだろう。だが、アルヴスさんの視線は次第に先輩の露出された肌に集められ、それは生足や臍────そして今最も関係ないであろう先輩の胸へと注がれる。浮かべているその表情こそ真剣そのものであったが、嘆かわしいかつ腹立たしいことに、それは別の意味の真剣さなのだろう。

 

 普通ならばこんな無遠慮かつ思慮の欠けた野郎の視線を受けて、不快感を抱き抗議の声を上げない女性はいない……と、少なくとも僕は思う。

 

 けれど今現にその視線を受けている先輩は元男で、であるからしてそれに対して不快に思うこともなければ、抗議の声を上げることもない。

 

 そんな先輩の様子に僕は軽い頭痛を感じながらも、わざとらしく咳払いをした。

 

「アルヴスさん?」

 

 気持ち低めに、多少の威圧感を声に乗せて。僕は遠回しの注意として先輩の身体を熱心に眺めるアルヴスさんの名を呼ぶ。すると彼はハッとしながらも、慌ててようやっと先輩から視線を外して、僕にその顔を向けるのだった。

 

「お、おおっとすまんすまん。いや客から直々に要望を出された商売の手前、失敗する訳にはいかねえからな。くれぐれも見誤らない為にな。ガハハッ」

 

「……まあ、僕としては確かな武器を見繕ってもらえればそれでいいので、貴方のその姿勢についてはとやかく言うつもりはありませんけど。ええ、はい」

 

 どう聞いても言い訳としか思えないアルヴスさんの言葉を、僕は何とか好意的に捉えられるよう努力し、彼にそう言う。

 

 ……だが、やはり知らず知らずに態度に出ていたのだろう。少し気まずそうにしながらも、アルヴスさんはちょっと待ってほしいと断ってから、そそくさと奥の方に消えた。恐らく今の先輩でも扱えそうな武器を倉庫から取り出しに向かったのだろう。

 

「……クラハ。何でお前怒ってんだ?」

 

「え?あ、いや……き、気にしないでください。決して先輩に非がある訳ではないので」

 

「……じゃあ、まあいいか」

 

 僕の煮え切らない返事に対して、納得はしてくれなかったようだが、先輩はそう言い。それ以上の言及をすることはなかった。

 

 それから特に会話をすることもなく、僕と先輩が待つこと数十分後。大きめの皮布を抱えて、アルヴスさんが戻って来た。

 

「俺から見て、とりあえず扱えそうな得物は幾つか持ってきたぞ」

 

 言いながら、台の上に皮布を広げる。その中に包まれていたのは、彼の言葉通り鞘に収められた数本の短剣や、僕の得物である長剣(ロングソード)と短剣の中間と呼べる中型剣(ミドルソード)だった。

 

「切れ味はどれも同じみたいなモンだから、どれを買うのかは使い勝手で決めてくれ……と、言いたいとこだが。俺が薦めるとしたら無難に短剣だな。軽くて取り回しが利くし、何本か携帯すれば投擲武器にもなるしで、戦い易いと思うぜ」

 

 流石は武器防具を取り扱うだけあって、アルヴスさんの言葉は正しく、僕も頷かざるを得ない。確かに短剣であれば以前と同じような動きを先輩は取れる訳だし、いざとなれば遠距離攻撃の手段があるというのも大きい。そして何より、応用が利く。

 

 ……だが、しかし。

 

「…………」

 

 当の先輩は、皮布を下敷きに台の上に並べられたそれらの得物を、何とも言えない微妙な表情で眺めていた。

 

「先輩……?」

 

 その様子を訝しげに思いながら、僕が声をかけた瞬間。先輩は唐突に視線を上に移して、口を開いた。

 

「あれがいい」

 

 そう言いながら、先輩が指を差したのは────僕の得物と似た、一般的な鉄剣(アイアンソード)であった。

 

「「…………」」

 

 瞬間、沈黙に包まれる店内。数秒後、僕とアルヴスさんは無言で互いの顔を見合わせた。

 

 ──無理ですよね?

 

 ──無理だな。

 

 以心伝心。言葉に出さずとも、僕とアルヴスさんの意見は合致する。

 

 今の先輩に、あの鉄剣は持てない────けれど、その事実をはっきりと先輩へ告げる勇気を、生憎僕は持ち合わせていなかった。

 

 なるべく遠回しに、先輩を傷つけないように。僕は慎重に頭の中で言葉を選び、意を決して口を開いた。

 

「あの、先輩。そのですね、アルヴスさんは今の先輩が使っても充分戦えると判断して、これらの武器を持ってきてくれた訳で」

 

「けど、あっちの方が強そうだぞ?デカいし」

 

「い、いや先輩。武器の性能というのは何も大きさや見た目で決まるものではなくて。どんなに名のある一流の鍛冶師が打った武器でも、個人それぞれの使い勝手で大きく左右される……というか……」

 

 そこまで言って、僕は己が取り返しのつかないことをしでかしてしまったと自覚した。何故ならば、この僕の言い方では──────

 

「……へえ、なるほどな。クラハ、つまりはお前……俺にはあの剣は使い熟せねえって言いたい訳だ」

 

 ──────と、受け取られてしまうから。先程こうならないようにと、注意していたというのに。やはり弁の拙い僕には、荷が重い役回りだったということか。

 

「そっ、そういう、訳じゃ……」

 

 慌てて言い繕おうとしても、僕を見る先輩の眼差しは厳しい。

 

 ──くッ……!

 

 一体どうすればいいのかと、一体どの選択肢が正解なのかと僕は焦る。こうなってしまうのだったら、いっそのこと変に誤魔化さず正直にそうと伝えるんだった……。

 

 しかし。突如予想だにしない助け舟が僕に出された。

 

「……わかりやした。じゃあ旦那、こうしましょうぜ」

 

「ん?」

 

 僕と先輩のやり取りを傍観していたアルヴスさんが、唐突に口を開いたかと思えばそんなことを言い出す。そして彼は先輩が指差した鉄剣を手に取って、恐る恐ると先輩の眼前に差し出した。

 

「一度、持ってみてください。それで旦那が持つことができたら、文句も何も言わずお渡ししますよ。……無償(タダ)で」

 

 それは、ある種の挑戦状のようなものだった。挑発と言ってもいい。アルヴスさんのまさかの提案に、先輩はむすっとした表情から一転、ニヤリと小悪魔めいた可愛らしい笑みを浮かべた。

 

「はっ、言ったなこの野郎。上等じゃねえか。後悔しても知らねえぞ?」

 

「男に二言はありません。旦那、さあどうぞ」

 

 アルヴスが差し出した鉄剣の柄を、先輩は自信満々に握り込んだ。

 

「ふん。こんなの楽勝楽しょ────

 

 ゴトンッ──そして、アルヴスから受け取ったその瞬間。鉄剣に引っ張られるようにして先輩の体勢が崩れた。

 

 ────…………」

 

 鉄剣の先端を床につけたまま、先輩は微動だにしない。

 

「……く、ぅぅ……ッ」

 

 ……いや、よく見れば、鉄剣を持ち上げようとその華奢な腕をぷるぷると健気に震わせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、こうなるとはわかってたさ」

 

「……ええ、そうですね」

 

 そう言い合って、僕とアルヴスさんは互いに頷き合う。……僕がそうであるように、彼もまた罪悪感に苛まれていることだろう。

 

 結論を述べてしまうと、先輩はあの鉄剣を持ち上げることはできなかった。先輩自身、どうにかこうにか持ち上げようと数分間、粘りに粘っていたのだが……その頑張りが最後まで報われることはなく。全くと言っていい程に鞘に収められたままの鉄剣の先端が床を離れることはなかった。

 

 そうして結局、先輩は鉄剣を持ち上げられなかったのだ。そして先輩はというと凄まじい程にその機嫌を崩し、何も言わず店内に幾つか置いてある椅子に座り、顔を俯かせたまま、微動だにしなくなってしまった。

 

 慰めの声をかけようにも、今では逆効果でしかない。どうすることもできず、居た堪れない気分に陥る中、唐突に思い出したようにアルヴスさんが声を上げた。

 

「おっと。そういや、そうだった……よし、ウインドア。ちょっと待ってろ」

 

「え?あ、はい」

 

 一体何を思い出したというのか。アルヴスは僕にそう言って、再びカウンターの奥へ消える。

 

 そして数分後、彼はまたこの場に戻って来た。

 

「いや実はな、最近珍しいブツを仕入れたんだよ」

 

「珍しいブツ、ですか?」

 

「おう。それがこれなんだが」

 

 そう言いながら、アルヴスさんは手に持っていた拳大の包みを台の上に置き、それを開く。その中にあったのは────独特な光沢を放つ、鈍く重々しい鉄色の塊であった。



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希少な魔石と不吉な占い

 アルヴスさんが持ってきたそれは、一見すると何の変哲のない、ただの鉄塊のように思える。しかし、その独特な光沢や質感がそうではないとこちらに訴えてくる。僕はその鉄塊擬きを眺めて、ふと気づき呟いた。

 

「まさかこれ、『魔石』……ですか?」

 

「流石は《S》冒険者(ランカー)ご明察だ。そう、一見鉄の塊にしか見えんこれも魔石の一種なんだが、その中でも珍しい希少な逸品だぜ」

 

「まあ、確かに初めて見るものですけど……」

 

 魔石────簡単に言えば、その名の通り空気中などの魔力が集まり、石のような塊となった物。主に洞窟の奥や潤沢な魔力が漂う特定の鉱山からしか採掘することはできない。

 

 魔石には様々な用途があり、基本的なものは魔力の代用などである。他にも『魔法都市』マジリカで売られている魔石は特殊な加工を施しており、砕くとその石に応じた魔法が発動するようにもなっているらしい。

 

「聞いて驚けよこの魔石はな………何と、武器になるんだ」

 

「え……武器になるんですか?その魔石が?」

 

 堪らず口から出た僕の困惑の声を聞き、得意げな表情のままアルヴスさんが頷く。

 

「おう。何でも話によるとだな、手に持った者の魔力を注ぐことによって、ソイツに合った最適の武器になる────らしいんだよな、これが」

 

「……らしいって」

 

 正直言って、アルヴスさんの言葉は胡散臭かった。そもそも武器に変形する魔石など、見たこともなければ聞いたことすらない。

 

 しかし、この男は商売関係の話で嘘を吐くような人物でないこともわかっていた。

 

 ……わかってはいるのだが、それでも彼に対して胡乱げな視線を向けられずにはいられない。

 

 

「……おいおい、そんな目で見んじゃねえよ。言っとくがコイツはモノホンの代物だぜ?今魔法都市(マジリカ)にいる商売仲間に直接取引して仕入れたんだからな」

 

「別に疑ってなんかいませんよ」

 

 ──まあ、それがその魔石が本物だっていう証明にはなりませんけどね。もしかするとその商売仲間に騙されたかもしれませんし……。

 

 口で否定しながら、心の中ではついそうと思ってしまう僕。しかし、最適な武器……もしそれが本当なら、悪くはない選択肢の一つである。

 

「一応尋ねますけど、値段は幾ら何ですか?その魔石」

 

「百五十万Ors(オリス)だ。当然、前払いでな」

 

「…………百五十万Orsですか」

 

 《A》ランク依頼(クエスト)数回分の金額である。そんな大金があれば、上等な剣の三、四本は買えるだろう。

 

 しかし、とてもじゃないがこんな得体の知れない魔石に対してつけるような値段ではない。

 

 それに前払いとなると……。

 

「効果は買ってから試せ、ということで?」

 

「おう。ソイツに合った武器になっちまうからな」

 

 あまり、食指は動かなかった。しかし、先輩に合わない武器を買ってもそれこそ無駄になるだろう。

 

 僕はその場で悩んだ末────そっと、魔法を発動させた。展開された魔法陣に、己の手を押し当てる。

 

 すると、少し経ってから三枚の大金貨がカウンターに落下してきた。

 

「毎度あり〜」

 

 アルヴスはその金貨をすぐさま回収すると、僕にその魔石を手渡してくる。持ってみた感じ、他の魔石とはそう変わりはないように思える。

 

「これで偽物とかでしたら、覚悟しておいてくださいね」

 

「ああ、覚悟しておくさ」

 

 魔石を持って、僕は踵を返す────直前、アルヴス呼び止められた。

 

「おっと待ちなウインドア。せっかくだから今日から始めることにした素敵なサービスをさせてくれよ」

 

「サービス?」

 

 振り返ってみると、アルヴスはカウンターの下から台座に嵌められた水晶玉を取り出していた。

 

「……何なんです、それ?」

 

「よくぞ聞いてくれた。これはな、誰でもお手軽に占いができてしまう魔法の水晶玉だ」

 

 ──嘘臭っ。

 

 そう思ったが、心の中に押し留めた。

 

「占い、ですか」

 

「おう!やり方は簡単、占うヤツの魔力をこれに注ぐだけ!するとこの水晶玉の色が変わるから、それで占えるって訳よ。その日の運勢恋愛楽しいこと嬉しいことなんでも占えちゃうのよねコレが」

 

 ──ますますもって、嘘臭い……。

 

 アルヴスさんが、僕に対して訴えかけるような眼差しを向けてくる。こう、本能的に苛立ちが増してくる、そんな眼差しを。

 

 ……正直、占いなど別にしてもらわなくて結構なのだが。しかし先程助け舟を出してくれた恩もあることだし、ここは乗ることにしよう。

 

 そう思いつつ、僕は嘆息しながら再びカウンターの方に近づいた。

 

「わかりましたよ。えっと……とりあえず、僕の魔力を注げばいいんですよね?」

 

「それでこそ《S》冒険者!よっ、この街一番の冒険者様!」

 

「世辞はいりませんから」

 

 言いながら、仕方なく僕はその水晶玉に触れる。そして水を注ぐようなイメージで魔力を伝せる。すると、透明だった水晶玉の内部が渦巻いて、七色に輝き出した。

 

 

 

 そして数秒後────水晶玉は、濃く黒い暗色に落ち着いた。

 

 

 

「「…………」」

 

 僕と、アルヴスさんの間で沈黙が流れる。その色は、誰がどう見ても金運だとか恋愛だとかを示唆するものではないということは明白であった。

 

 そしてようやっと、この沈黙をアルヴスさんが破った。

 

「あー……その、だな。落ち着いて聞いてくれないかウインドア」

 

「……はい。何です?」

 

 きっとろくでもない結果を聞かされるのだろうと、半ば諦めたように僕がそう言い返すと。アルヴスさんは僅かに躊躇いながらも、続きを話した。

 

「お前、ここ数日の間に死ぬかも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へえー……こんな石っころが、本当に武器になんのか?」

 

「はい。なる……らしいですよ。話に聞いた限りだと」

 

 変わらず日常(いつも)通りの喧騒を繰り広げる、この街(オールティア)の街路を、僕はいつの間にか機嫌を直していた先輩と並んで歩く。

 

 物珍しそうに手に持った魔石を眺める先輩の横で、僕は密かに思っていた。

 

 

 

 ──もう、あの店にはしばらく近づかないようにしよう。



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先輩の最適

 予期せぬ一波乱も無事やり過ごし、アルヴス武具店を後にした僕と先輩はこの街の外に広がる平原────ヴィブロ平原に訪れていた。

 

 この平原は駆け出しの《E》冒険者(ランカー)ならば必ず訪れる場所で、ここにはスライムやゴブリンなどの弱い魔物(モンスター)しか生息していない。

 

 なので、駆け出しの新人冒険者が魔物を相手にした実戦経験を積むのに適した場所なのだ。

 

 微風(そよかぜ)が吹き、こちらの髪や衣服の裾、足元の草を揺らす中、僕は先輩に尋ねた。

 

「先輩、準備はいいですか?」

 

「おう。こっちはいつでも行けるぞ」

 

 アルヴスさんから百五十万Ors(オリス)という、決して安くはない値段で購入した魔石をその小さな手の上に乗せながら、先輩は僕にそう答える。

 

「わかりました。ではその魔石に自分の魔力を込めてください。こう……魔石を見つめて、コップに水を注ぐような感じに」

 

「お、おう、やってみる……こ、こうか?」

 

 流石の先輩も緊張を覚えられずにはいられないようで、表情を固くさせながら、先輩は魔石に視線を集中させる。

 

 すると────最初こそ何も変化がなかった魔石だったが、しばらくしてぼんやりと薄く発光し始め、透けていく。その透けた内部に先輩の僅かな魔力が渦巻き出した。

 

 グニャリ──その瞬間、突如として魔石が先輩の手の平の上で、その形を大きく歪ませた。

 

「おわあっ?」

 

 という、珍妙というか可愛らしいというか。そんな反応に今一困る悲鳴を先輩が上げる間にも、魔石はグニャグニャとまるで粘土を捏ねるようにその形を変え、それと同時にその大きさも増していく。

 

 発光を伴いながら徐々に巨大化していくその光景の前には、流石の僕も呆気に取られてしまった。

 

「なな、何だよこれっ!?ど、どうしようクラハ!これ大丈夫だよな!?ば、爆発とかしねえよなあっ!?」

 

「……え、えっと、とにかく落ち着きましょう。一旦冷静になりましょう先輩」

 

 慌てふためく先輩の様子を不覚にも可愛いと思いつつ、とにかく落ち着かせようと僕は言葉をかける。

 

 しかし、その間にも魔石は先輩の手の上で膨張を続けて。一体いつまでその形を絶え間なく変え続けるのか────そう僕が思った、矢先のことだった。

 

 キンッ──まるで鉄を叩いたような、そんな澄んだ音が魔石から響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……お、おお」

 

 気がつけば、もう魔石は先輩の手の中にはなかった。

 

 代わりに────短剣と呼ぶには少し長く、しかし長剣(ロングソード)と呼ぶにも短い、かと言って中型剣(ミドルソード)程ではないという、大きさの判別が難しい一振りの剣が、そこには確かにあった。

 

「……」

 

 己の手元にあるその剣に、先輩は視線を奪われてしまっている。無理もない、あのラグナ先輩ですら見惚れてしまう程に、美しい剣だったのだから。

 

 武器というよりは、もはや美術品のようである。創世教の象徴たる十字架(ロザリオ)を模したようなデザイン。色合い(カラーリング)は純白を基本としているようだったが、剣身には薄い真紅が混じっており、それがまるで剣身に炎が纏わり揺らめいているように見えた。

 

 ──な、なるほど。この剣が、先輩にとっての最適か……!

 

 アルヴス武具店の時とは違って、先輩はその剣を何の苦もなくちゃんと持つことができている。まあ、短剣よりかは大きいし長いが、僕の得物である長剣よりは小さいし短い。それに見た目からして随分と軽そうだ。

 

 これならば、今の先輩でも満足に扱うことができるのではなかろうか。

 

 ……まあ、しかし。

 

「良かったですね先輩。変な武器とかにならなくて」

 

「おう。……でもなー、俺剣っていうか武器ってのを今まで使ったこと、ないんだよな」

 

 そう、そこなのだ。実は今朝も相談したのだが……先輩は武器という類のものを使ったことがない。そもそも先輩の戦闘は素手による格闘(ステゴロ)なのだ。

 

 しかし、今の状態の先輩ではもうその方法で戦うことは難しいだろう。というか、ぶっちゃけほぼ無理だ。

 

 喫茶店で披露してくれた、あのあまりにもか弱い力では、そんな身体能力に物を言わせた戦法など到底取れるはずがない。……あまり言いたくはないが、あの力ではスライムに傷を負わせることすら困難だろう。

 

 だから僕は提案したのだ────武器を使ってみたらどうですか、と。

 

 最初こそ、先輩も武器を使うことにはあまり乗り気ではなかった。しかし、もうそんなことを言っていられる状況ではない。

 

 そうして話し合った結果、先輩は人生で初めて武器を使うことに決めたのだった。

 

「大丈夫ですよ。基本的な振るい方や動きなどは責任持ってちゃんと教えますから」

 

「なら、まあ別にいいんだけどよ……」

 

 そうして、簡単なものではあるが。先輩に対しての僕による剣の指南が始まるのだった。



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VSスライム

「とまあ、剣の扱い方は一通りこんな感じですね」

 

 僕による先輩に対しての指南は、およそ一時間をかけて終わった。

 

「…………剣って、面倒だな」

 

 長い沈黙の後、ため息混じりに先輩がそう呟く。まあ、先輩がそう思ってしまうのは無理もないことだろう。

 

 何せ今日、先輩は初めて剣を己の得物として握って、振るったのだ。慣れないその運動は、僕の予想以上に先輩の体力を奪ったことだろう。

 

 しかし、だからといって先輩を甘やかす訳にはいかない。……何しろ、ここからが本番なのだから。

 

「そう言わないでくださいよ先輩。これから長い間お世話になるものなんですから」

 

「むう……」

 

 渋々としながらも、先輩は頷き手の中の得物を弄ぶ。正直危なっかしいことこの上ないので、後で止めさせよう。

 

 それはともかく、さっきも言った通りここからが本番。今から先輩にはその剣を使って、魔物と戦ってもらおう。

 

 意識を研ぎ澄まし、僕は辺りを見渡す。するとここから少し離れた場所に、何やらプルプルと蠢いている物体を発見した。

 

「先輩。あそこ、見てください」

 

「ん?……何かいんな。プルプルしてんぞ」

 

「スライムですよスライム。丁度良かったです。まず手始めにあのスライムを倒すことにしましょう」

 

「スライムかぁ。……別にスライムくらいなら、今の俺だって素手でもいけんじゃねえか?」

 

「駄目です。正直に言いますけど、今の先輩では貧弱過ぎて、たぶん素手だとまともにダメージが入らない可能性が高いです」

 

「…………わぁったよ。……別にそんなはっきり言うこと、ねえじゃねえか……」

 

 そんなにも武器を使うことに抵抗があるのか。諦めたように頷き、不服そうな呟きを残して先輩はスライムの方に身体を向けた。

 

 僕に教わった通りに、先輩が得物を構える。……若干切先が震えているのが少し不安だが、僕も最初の内は黙って見守ると決めたので、手は出さない。

 

 それから数秒の間を置いて────満を持して、先輩は地面を蹴り、その場から駆け出した。

 

「せぇっ」

 

 

 

 ゴッ──そして同時に、頭から突っ込むようにして派手にすっ転んだ。

 

 

 

「………………せ、先輩!?大丈夫ですか!?先輩っ!?」

 

 先輩は転んだ。足元に石などはなかったというのに、転んだ。それはもう、見事な転び様だった。

 

 己の命の次に大事である得物を手から放って、まともに受け身も取れず。駆け出した勢いそのままに、先輩は転んだのだ。

 

 僕は慌てて先輩の元へと駆け寄る。……ちなみにスライムはというと、転んだ先輩に意識すら向けていないらしく、未だプルプルと呑気に震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「違ぇから。さっきのは、違ぇから」

 

「わかりました。わかりましたから先輩。とりあえず今はあのスライムに集中しましょう?ね?」

 

 気を取り直し、先輩は再びスライムと対峙していた。まあ、その相手であるスライムに、先輩はまだ敵として認識されていないどころか、下手したら気づかれていない恐れがあるが。

 

 得物を構え、先輩はスライムを睨みつける。……さっき転んで打ちつけた額の痛みが引いていないようで、涙目なので迫力なんて毛程も感じられないのは、黙って僕の心の奥に留めておこう。

 

 スライムを睨みつけ、数秒後────

 

「せぇやあっ!」

 

 ────という威勢良く、それでいて可愛らしい気合いのかけ声と共に、先程と同じように先輩が駆け出す。流石にまた転ぶことはなく、そのまま順調にスライムとの距離が縮まっていく。

 

 こちらに迫ってきたことで、ようやくスライムも先輩に対して意識を向けることにしたらしい。プルルンと一際激しく震えて、その場から動き出す。

 

 しかし、所詮はスライム。その動きはまるで遅く、僕からすれば蝸牛が這っているような遅さだ。

 

 対し先輩はまるで猫のような機敏さで、スライムとの距離を縮めていく。文字通り絶望的なまでに弱体化したとは思えない俊敏さだ。

 

 そしてスライムを得物の間合いに捉え、先輩は剣を大きく振り上げた。

 

「とおおっ!」

 

 ……傍から見ると、隙だらけな上段からの振り下ろし。お世辞にも見事な一撃とは到底言えないが、まあ相手はスライムだ。幾ら弱体化したとはいえ、それはほぼ誤差の範囲だろう。……そうであってほしい。

 

 それに何も素手で殴りつける訳ではないのだ。武器を使えば流石に少しくらいの傷は与えられるはず────そう、僕は思っていた。

 

 しかし。現実というものは、そんなに甘いものではなかった。

 

 

 

 

 

 すぽっ、と。まだ振り下ろしている最中だった先輩の得物が、手からすっぽ抜けた。

 

 

 

 

 

「……うぇ?」

 

 クルクルと剣は宙を舞って、先輩の背後に落下し突き刺さる。その光景を、僕は何もできずにただ見ていた。

 

「…………」

 

 先輩と、スライムが互いを見合う。……まあ、スライムに目などないのだが。

 

 そんな一人と一匹の間で奇妙な沈黙が流れ────それを最初に破ったのは。

 

 

 

 ドッ──ガラ空きであまりにも無防備だった先輩の腹部に、体当たりをかましたスライムだった。

 

 

 

「ぎゃんっ?!」

 

 先輩が悲鳴を上げ、予想外の距離にまで吹っ飛ばされる。先輩はそのまま地面に倒れて────起き上がらなかった。

 

 この間、僅か数分の出来事である。目撃者である僕は、真っ白な頭の中で。気がつけば、いつの間にか叫んでいた。

 

「先輩!?大丈夫ですか、先輩ッ!?」

 

 慌てて先輩の元に駆け寄る。近づこうとしていたスライムを追い払って、先輩を地面から抱き起す。

 

「きゅぅ………」

 

 …………先輩は、スライムの、それもたった一発の体当たりで、気絶してしまっていた。



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遭遇

 とりあえず、スライムの体当たりによってダウンしてしまった先輩に、僕は初歩的な回復魔法をかけた。

 

「……えっと、大丈夫ですか?先輩」

 

 意識を取り戻した先輩に、僕は尋ねる。しかし先輩は何も答えてくれず、むすっとした不機嫌そうな仏頂面を浮かべるだけだ。

 

 ………正直に白状してしまうと、この結果を全く予想していなかった訳ではない。……しかし、まさか本当にスライムの一撃で先輩が倒されてしまうとは。

 

「…………」

 

 先輩は、件のスライムをまるで親の仇かのように睨んでいる。しかし、スライムは依然呑気にもその場でプルプル震えているだけで、どこかに逃げる素振りすら見せない。

 

 ……この様子だと、恐らくもう先輩は格下の相手だと思われていることだろう。

 

 ──……参った、なあ。

 

 内心頭を抱えながらも、回収した先輩の得物を僕は改めて確認する。十字架(ロザリオ)を模した両刃の剣で、手に持つと羽毛のように軽かった。

 

 その剣を一通り眺めて、僕は一言呟く。

 

「【鑑定】」

 

 瞬間、視界を通して、僕の頭の中に情報が流れ込んでくる。これはその名の通り、己が知りたい対象を鑑定し、その情報を出す魔法だ。

 

 使用者の実力や技量によって、その調べたい対象の情報を得ることができる。……だがしかし、その全てを得られるという訳ではない。

 

 対象が魔物(モンスター)や人間等の生物だった場合、その実力の開きで情報に制限があったり。または物体だった場合はそれがあまりにも特異だとすると、同じように制限されてしまい、有益な情報は得られない。

 

 元は希少な魔石だった武器。けれど自慢する訳ではないが、僕もある程度の実力はあると自負している。例え情報に制限を加えられたりしても、最低限の情報は得られるだろう────そう楽観的に思っていた、矢先のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『asedujbvjikhgcvnkin&&)!&&977)!?&@8)(!%###***€££$$<>><^^^^^^•••••\\\\\???!!!!!____|||||ccxchugdgfasgujvcbkkokjhghjjjjjhhhioojjbxsawwqahhvcbjikkbnkooojggvnkoikhfdseeeffxxzcvbnmkknbbnvgrtyhhvxvcsrgnojnbnmklookjfv¥¥¥¥&&@@&!?&8&!8(446889@&&&)(;;:(&&&@@‘hgujjklpojjhhjkkkkkkiojcxddfgjk』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────頭が、痛い。凄く痛い。まるで顳顬(こめかみ)をギリギリと凄まじい力で締めつけられているような、頭を手で掴みそのまま粉砕しようとしているような、とにかく形容し難い激烈な頭痛が僕を襲った。

 

 そして同時に被さってくる、猛烈な悪寒と不快感。それらによって併発される凄まじい吐き気。

 

 雑音(ノイズ)が意識を侵す。思考を乱す。知性を穢す。視界が明転と暗転を幾度も繰り返し、無慈悲に、無遠慮に僕の正気を摩耗させ、削り抉り奪い取っていく。

 

「ぅぐっ……おぁッ?!」

 

 これ以上はいけないと。これ以上は踏み込めないと。そう察知したのだろう僕の本能が、辛くも先輩の得物を宙に放り投げていた。

 

 宙を舞い、そのまま重力に引かれて深々と地面に突き刺さる先輩の得物。しかし、僕にその方向に顔を向ける程の余裕はなかった。

 

 息絶え絶えに、滅茶苦茶だった呼吸を落ち着かせる。先輩の得物からすぐに視界から外し、【鑑定】を解いたおかげか、先程までの頭痛や身体の不調がまるで嘘だったかのように消え失せていた。

 

 ──な、何なんだ。何だったんだ、さっきのは……!?

 

 言い知れない恐怖と焦燥の感情が、遅れて僕の心に滲み出す。

 

「ク、クラハ?どうしたんだよ、お前?」

 

「……え、あ……は、はい。僕は大丈夫、ですよ。先輩」

 

「全然大丈夫そうに見えねえよ、顔真っ青じゃねえか。俺の剣持ったかと思ったら、すぐにぶん投げて……」

 

「いえ本当に大丈夫ですから。……心配させてすみません」

 

 そう言う僕に、先輩はそれでも心配そうな眼差しを向ける。その瞳に何処か躊躇いの色を宿して、しかし瞬かせて先輩はそれを消した。

 

「……わかった。お前がそう言うんなら、俺もそれでいい」

 

 それから僕が投げてしまった(それ)を、先輩は拾い上げる。……その見たこそ神聖な雰囲気を漂わせる剣なのだが、僕には酷く歪で、禍々しく恐ろしい何かにしか見えなかった。

 

 柄を握り、先輩が数回振るう。刃が空を斬る、鋭い音が周囲に小さく響く。

 

 そして、先輩は────今までずっと不自然なくらいにその場に留まり続け、プルプルしていたスライムの方へと、再度身体を向けた。

 

「………認め、ねえから」

 

 得物の切先を突きつけ、微かに肩を震わせ、先輩はスライムに言う。

 

「絶対に認めねえからな!?スライムなんかに負けたなんて、俺はぜっっったいに認めねえからぁ!!」

 

 ……それは先輩の、心からの叫びだった。そう言うや否や、先程と同じように地面を蹴って、スライムに向かって突進する先輩。

 

 そんな先輩の気迫に押されたのか、僅かにスライムが退く。だが逃げ出すことはなく、スライムもまた同じように先輩へと向かっていく。

 

「うぉぉぉおりゃぁぁぁぁあああッッ!!」

 

 咆哮と共に、先輩が得物を振り上げ、向かってくるスライムに狙いを定め振り下ろす────今度は、すっぽ抜けることはなかった。

 

 太陽に照らされ、白々とした輝きを放ち刃が、スライムに向かって真っ直ぐ振り下ろされ、そして遂に──────

 

 

 

 ポヨンッ────捉える寸前、スライムは跳ねてその刃を躱した。

 

 

 

「……へ?」

 

 こちらの一撃を見事に躱された先輩はその体勢を大きくを崩してしまう。そして発生したその隙を透かさず突いて、スライムが先輩の懐に飛び込む。

 

「ちょ、まっ……!」

 

 体勢を大きく崩していた為、先輩はそれを躱すことも防御することも全くできず。その結果再び無防備に晒してしまっていた腹部に、スライムの体当たりが直撃し、先輩はまた大きく吹っ飛ばされてしまった。

 

 再び地面に倒れてしまった先輩────今度も、起き上がる様子はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「絶対に倒してやるぅ!!」

 

「えっ!?」

 

 僕の回復魔法を受け、先輩は復活すると開口一番そう叫んで、僕の制止も聞かずにスライムへと立ち向かった。そしてまた攻撃を躱され体当たりされ、吹っ飛び地面に倒れる。

 

 そんな行為を、先輩は幾度も繰り返した。倒されては僕に回復されて復活して戦って、そして倒される。

 

 そんな先輩を、僕は何度も止めようとした

 

「先輩待ってください落ち着いてください!僕に考えがあるんです!それを聞いてください!」

 

「うるせぇ!倒す!俺一人で倒す!後輩のお前の手なんか借りられるかあ!!」

 

「ちょ、先輩……せんぱぁぁいッ!」

 

 それは先輩としての誇りか、それとも意地か。或いはその両方なのか。僕の話に全く聞く耳を持たず、スライムにまた突進する先輩。そしてまた負ける先輩。

 

 何度倒されようと、先輩は諦めず(僕の回復魔法を受けて)立ち上がった。

 

 しかし現実は厳しく、辛辣で、そして非情で何処までも残酷だった。先輩の攻撃を躱しては反撃していたスライムであったが、もはや完全に格下だとその本能が判断してしまったのだろう。

 

「こ、のぉッ!」

 

 と、叫びながら。ムキになって剣を振り回す先輩。しかし、その刃がスライムを捉えることはなく。ひたすらに躱されてしまう。

 

 そしてその度に先輩は隙だらけとなり、さっきまではスライムも律儀に体当たりしていたのだが……今ではもう、それすらしなくなってしまった。

 

「動き回んじゃ、ねえッ!!」

 

 とにかく剣を振るう先輩。躱し続けるスライム。恐らく何かしらの介入がなければ、一生崩れるのことない均衡状態────僕は、それをただ涙を堪えて見守るしかなかった。

 

 ──先輩……!

 

 悲しかった。もはや最弱の魔物であるスライムにすら、先輩は相手になってもらえない事実を目の当たりにして、僕はただひたすらに悲しかった。

 

 そうして、十数分が経った頃────遂に、先輩が剣の切先を地面に突き刺し、そのまま座り込んでしまった。

 

「ぜぇ……はぁ……ちく、しょ……」

 

 結局スライムに一太刀も浴びせられないまま、先に先輩の体力が尽きてしまったのだ。地面に座り込み、顔を俯かせ肩を上下させる先輩。……まだ、目の前に倒すべき敵がいるというのに。

 

 だがしかし、当のスライムはその場から動けないでいる先輩に対して、先程のように体当たりを仕掛けてくる素振りは一切見せず。プルプルと数秒震えていたかと思えば────森が広がる後方に跳ねて、そのまま滑るように去っていった。

 

「…………え?」

 

 獲物の体力が底を突き、反撃される心配もない絶好の機会(チャンス)だったというのに。スライムはそれを突くことなく、この場を後にした。

 

 そんな、想像だにしないというか、弱肉強食が当たり前であり、それが常識であるはずの厳しい自然界においてほぼあり得ない光景を目の当たりにし、間の抜けた声を漏らした僕は、遅れて理解する。

 

 ──ああ、そうか。あのスライム、もう先輩を獲物とすら認識しなかったんだ……。

 

 貴重な体力をこれ以上消耗してまで狩る相手ではないと、そう判断されたのだろう。気づいてはいけないことに気づいてしまい、遂に僕が堪えていた涙を流す────直前。

 

 

 

「……何、逃げてんだあんの糞スライムゥゥゥゥゥウウウッッッ!!!」

 

 

 

 自分の目の前からスライムに逃走(そう言っていいのかは微妙なところではあるが)され、目を丸くさせ愕然とした表情を浮かべ、一瞬の間呆然としていた先輩が、突如何かが爆発したかのように叫んだ。

 

 腹の底から、喉の奥から、全てを絞り出し吐き出す勢いで、そう思い切り叫んで。地面に突き刺していた剣の柄を固く握り締め、そして引き抜き。地面から立ち上がりそのまま憤怒に身を任せて、スライムが消えた森林の方に先輩が駆け出す。

 

 本来ならば、すぐさま止めるべきだった。今の先輩を単独で行動させるなど、以ての外であり、論外であった。

 

 しかし、当の僕はその様に呆気に取られてしまって。その場に硬直し、固まっていることしかできないでいた。数秒遅れて、まるで停止していた時間が動き出すように、僕もまたハッと叫んでいた。

 

「先輩ッ!?」

 

 そうして慌ててその場から駆け出し、逃げたスライムを追った先輩を、僕は追うのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待てゴラァァァァアッ!」

 

 怒りとは、時に凄まじい爆発力を生み出す────その通り、先程は身動き一つすら取れなくなっていたラグナは、こちらを散々体当たりで吹っ飛ばしたり攻撃を悉く躱したり、挙げ句の果てには勝ち逃げ(少なくともラグナにはそう思えた)したスライムを追って、腹の底を焦がす憤怒に任せ叫び、木漏れ日差す森の中を駆けていた。

 

「どこ行きやがったスライムゥゥゥッ!」

 

 もはや我を忘れている様子のラグナ。今、ラグナの頭の中にはスライムのことしかなく、スライムにしか眼中にない状態である。

 

 と、その時。逃げ出した後すぐに追ったことが功を成したのだろうか、ラグナの視界の先にあのスライムが映ったのだ。その姿を捉えた瞬間、ラグナは叫んでいた。

 

「見つけたぁッ!!」

 

 剣を振り上げたまま、ラグナはスライムの元にまで駆け、その距離を詰めようとする。しかし、当然スライムがラグナの接近に気づけない訳がなく、ビクッと一瞬跳ねた後、そのまま逃げる──────瞬間。

 

 

 

 

 

 バキバキバキッッッ──突如、スライムの側にあった数本の木が乱暴に薙ぎ倒され、吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 

「んな……ッ!?」

 

 身に余る過剰な怒りによって突き動かされ、冷静さを欠いていたラグナを止めたのは、あまりにも衝撃的なその光景と────その()()

 

 木の影から飛び出した()()は、勢いそのままに眼下にいたスライムを轢き潰して。その場に止まり、四つん這いの体勢から二足で立ち上がる。ただでさえ巨体であったというのに、仁王立ちしたその姿は山を彷彿とさせた。

 

「ヴボォオオオオオオオオオ゛ッ!!」

 

 咆哮が轟き。草を、葉を、木々を、そして森全体を激しく揺さぶる。隠れ潜んでいた野鳥たちが堪らず一斉に飛び去っていく。

 

「ひっ、ぁ……っ」

 

 ラグナの身体をその咆哮は遠慮なく叩いた。肌をビリビリと痺れさせ、腹の底を容赦なく揺らした。

 

「ガアアアアア!アアアアア゛ッッッ!!!」

 

 思わずか細い悲鳴を漏らしてしまうラグナを他所に、()()は次に、その場で凄まじい勢いで暴れ出す。依然咆哮を迸らせながら、ラグナの胴よりも二回りは太い巨腕を滅茶苦茶に振り回し、その度に周囲の木々をまるで棒切れのように折り砕いては吹っ飛ばす。

 

 その光景を、ラグナはただ眺めていることしかできないでいた。

 

 ──こいつ、は……。

 

 今や遠い記憶の断片から、奇跡的にラグナは思い出す。今、自分の目の前にいる()()が────熊のような魔物(モンスター)が一体、何なのかを。

 

 山のような巨体と巨腕。そしてそれぞれの四肢の先にある、鉄ですら容易く引き裂けそうな鋭過ぎる鉤爪。その全身を包む焦茶色の毛皮は見るからに硬そうで、生半可な攻撃は全て通じないだろうと如実に思わせる。そしてそのどれもが────真っ赤な血で斑模様に染まっていた。

 

 そして今、瞳孔が完全に開き切り、血走ったその双眸が、硬直しているラグナの姿を目敏く捉える。

 

「……っ!?」

 

 そのあまりにも凶暴で危険極まりない視線に囚われた瞬間、ラグナの頭の奥の片隅で。ガンガンと何かが喧しく鳴り響き始めた。だがそれが一体何なのか、ラグナは知らない────否、()()()()()()

 

 ──動か、ねえと。

 

 そう思うだけで、今は精一杯だった。こうしている間にもずっと頭の中で鳴り響き続けている、覚えのないソレにどうしようもない煩わしさを感じながら。とにかくラグナは踵を返し、この場から駆け出そうとした。

 

 だが、足が自分の思った通りに動いてくれない。勝手に震えてしまって、少しずつしか動かない。

 

 ──な、何で……ッ!!

 

 胸が苦しい。先程から心臓が必要以上に鼓動を早めて、無意識に何度も荒い呼吸を繰り返す。その癖、全くと言っていい程に肺へ空気が行き届かない。

 

 それでも、ラグナは動こうとした。こちらの言うことを聞かない足を、無理矢理にでも動かそうと力を込めた。

 

 すると──────カクン、と。ラグナの膝が崩れて、そのまま地面に尻餅をついてしまった。続けてラグナの手から剣が離れ、地面に落としてしまう。

 

「あ……っ?」

 

 もう、自分の行動が理解できなかった。どうしてこうなっているのか、自分はどうしてそうしているのか、全くわからないでいた。

 

 すぐさま慌てて立ち上がろうにも、両足に力が入らない。さっきは込められたというのに、力んだ側から力が抜けていく。咄嗟に側に転がっている剣を拾おうにも、手の震えが止まらず、これでは拾うどころかまともに柄を握ることすらできない。

 

 ──何だってんだよ……!何やってんだよ、俺ッ!?

 

 まるで自分が自分でなくなっているような感覚に、ラグナはただひたすら困惑し、そして混乱する他なかった。

 

 そんなラグナの一連の行動を見ていた熊の魔物が、不意にその大口を開いた。

 

「ゴアアアアァァァァアアアッ!」

 

 人間の柔い皮膚など、触れただけで破り裂けそうなまでに鋭く尖った牙が並んだ大口から、先程のと勝るとも劣らない咆哮が迸る。そして一瞬の間すら置かず巨腕を振り上げ、熊の魔物はその場から駆け出す。

 

 ラグナが気がついた時には、血で赤く染められた鉤爪が頭上に迫っていて。その鉤爪が一秒もしないでこちらの身体を脳天から縦に引き裂くのだと、真っ白になってしまった頭の中で他人事のようにふと思った────────その瞬間。

 

 

 

 

 

 ガッギィィイイインンンッッッ──その鉤爪を、突如間を割って入った剣が受け止めた。



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VSデッドリーベア

 ガッギィィイイインンンッッッ──地面に座り込み、呆然とした表情で先輩が見上げていた鉤爪を、間一髪僕はその間に割り込み、既に抜いていた長剣(ロングソード)で受け止めた。剣身に鉤爪が突き立てられ、耳をつんざく甲高い音を響かせ、周囲に赤い火花を咲かせて散らした。

 

 ほぼ反射的に、考えなしに咄嗟で僕はその一撃を剣で受けた訳だが、それは浅はかであったとすぐさま思い知らされる。毛皮に包まれている、僕の胴よりも一回りは太いであろう強靭な巨腕の振り下ろしは、僕が想像していた倍以上に強烈で、そして重かった。

 

 地面が沈み、靴底がめり込む。僕の全身の筋肉と骨がミシミシと軋んだ音を鳴らす。その痛みと不快感に堪らず息を吐き、呻き声を漏らしかけたが、その既のところで僕はそれらを誤魔化すように、腕にさらに力を込めた。

 

「ぐ、ぉお……ぅらああああッ!!」

 

 そう気合を込めて叫びながら、こちらを押し潰さんとしていた鉤爪と巨腕をほぼ力任せに押し返し、跳ね除ける。そして透かさずガラ空きになり無防備となったその腹部に、僕は一切の躊躇いもなく剣を振るった。だが、既にその間合いは遠い。

 

「【剣撃砲】ッ!」

 

 しかし、それでも問題はなかった。宙をなぞる剣身に伝った僕の魔力が分厚い刃となり、それは剣身から放たれる。空を斬り裂き宙を滑る魔力の刃は、的確にその腹部を捉えて炸裂した。

 

「ガアッ!?」

 

 驚いたような鳴き声を上げて、僅かに後方へと押し出される、先輩を襲っていたその生物。……けれど、それだけだ。

 

 僕の放った魔力の刃──【剣撃砲】は明るい茶色の毛皮に斜めの線を引いただけで、肝心のその下にあるはずの肉体にまでは到達していない。現に若干怯みはしたものの、こちらへ向ける敵意と殺意はさらに増しているようだった。

 

 だが、しかし。それを気にする程の余裕を僕は持ち合わせていなかった。その生物をこの場で目の当たりにして────酷く動揺してしまっていたから。

 

 ──あり得ない……何でここに、こんなところに……!?

 

 ここ、ヴィブロ平原一帯にはスライムやゴブリン等の、危険度で《微有害級》に分類される、弱い魔物(モンスター)しか生息していない。

 

 ……だからこそ、僕は目の前の光景が、目の前にいるその生物の存在が信じられなかった。

 

 先輩に襲いかかっていたその生物の名は────デッドリーベア。本来ならばこの付近には出現しないどころか、生息すらしていないはずの《撲滅級》に該当される程危険な、熊の魔物である。

 

 山のような巨体を持ち、その強靭極まる四肢はありとあらゆるものを全て粉砕し、破壊し尽くす。その全身を包む毛皮の前には、生半可な攻撃は全て無力化されてしまう。

 

『世界冒険者組合(ギルド)』からも《S》冒険者(ランカー)複数人で討伐を推奨される程の、まさに化け物と評するに相応しい魔物の一体だ。そんなデッドリーベアが、ヴィブロ平原近くのこの森に現れるなど、かなりの異常事態である。

 

「ゴアアアッ!ボアアアアア゛ッ!!」

 

 僕の攻撃を受けたからか、デッドリーベアはかなり興奮していた。大口を全開にさせ、やたら粘度のある唾液を撒き散らしながら、無茶苦茶に巨腕を振り回す。

 

 ──……様子が、おかしい……?

 

 その異様な暴れっぷりを見て、僕はそう思った。最初こそ僕に攻撃されたからだと思い込んでいたのだが……それにしては少し、いや酷く興奮している。というか、これは……。

 

 ──()()()()()()

 

「グガオオオォォォオオオオオッッッ!!!」

 

 考え込んでいる僕を、隙を晒していると判断したのか。咆哮を轟かせて、巨腕を振り上げながらこちらに突進してくる。

 

 その巨体も合わさって凄まじい迫力であったが、僕は臆さず冷静に、背後に座り込む先輩を隠すように立って剣を構える。

 

 僕とデッドリーベアの間合いが急速に縮められる。そして遂に、突進の勢いを乗せたデッドリーベアの巨腕が僕に迫った────直前。

 

「【強化斬撃】ッ!!」

 

 そのデッドリーベアの巨腕が振り下ろされるよりも一瞬早く、僕はデッドリーベアの隙だらけとなっていた懐に飛び込み、魔力で強化した剣の斬撃を叩き込む。

 

 本来ならば、その身体を包む毛皮によって弾かれていただろうこの一撃────しかし、デッドリーベアの突進の勢いを利用したことにより、刃は僕の予想よりも遥かに滑らかに。

 

 

 

 

 

 ザンッ──デッドリーベアの巨体を通り抜けた。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 森が静寂を取り戻す。剣を振り抜いた姿勢のまま、僕は無言を保っていた。そしてデッドリーベアもまた、先程の異常なまでに暴れっぷりが嘘だったかのように、腕を振り下ろす直前のまま沈黙している。

 

 数秒遅れて、デッドリーベアの上半身が()()()。そしてそのまま、地面へゆっくりと落下した。立ったまま硬直し固まっている下半身と、地面に落ちた上半身の断面から大量の獣臭い血が溢れて流れ出し、それと共に体内に収められていた様々な臓物が零れて無惨にもぶち撒けられた。

 

 それらが奏でる生々しく実に冒涜的な、生理的嫌悪感と不快感をこれでもかと、無理矢理に引き摺り出す背後の静かな響きを聴きながら、僕は堪らず安堵の息を吐き出すのだった。



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頼ってください

 突如として出現した熊の魔物(モンスター)、デッドリーベア。一瞬の油断すらも許されない強敵であったが、僕はそれを何とか倒すことができた。そのことに堪らず安堵の息をそっと吐き出す。

 

 ──……まだ若い個体で助かった。

 

 デッドリーベア────というか、この世界(オヴィーリス)に数多く存在する魔物の殆どは、その歳を経るごとに強く、そして狡猾になっていく。僕が相手にしたデッドリーベアはまだ若く、その上我を忘れてただ暴れ回るだけだった。

 

 そういう訳で僕一人でも何とか倒すことができたが……もしそうでなかったのならば、このようにはならなかった。ましてや動けないでいる背後の先輩を守りながらなんて──────

 

「せ、先輩ッ!大丈夫ですか?怪我とかしてませんかっ!?」

 

 ──────そこまで考えて、僕は先輩の存在を思い出した。そう叫びながら、僕は慌てて背後を振り返る。

 

「…………」

 

 先輩は未だ地面に座り込んだままで、こちらを呆然とした表情で見上げていた。そんな様子の先輩を視界に捉え、僕は咄嗟に駆け寄る────直前。

 

「……ぁ、く、来んなッ!」

 

「えっ?」

 

 そんな僕を、ハッと我に返ったように先輩は止めた。だが先輩のその行為は僕にとって予想外のことで、堪らず困惑の声を漏らしてしまう。

 

 それから先輩は浮かべている呆然とした表情を複雑なものに変えて、立ち止まった僕にこう伝えてくる。

 

「お、俺は大丈夫だ。大丈夫、だから……本当に」

 

「……」

 

 そう言った先輩が、一体どのような心情だったのか。不甲斐ないことに、僕にはわからなかった。……いや、本当のところはわかっていたのかもしれない。

 

 わかっていながら、わからない振りをして。そうでないと、何処か意地でも認めたくなかったのかもしれない。

 

 すぐ側にある剣を手繰り寄せて掴む先輩の姿に後ろ髪を引かれながらも、僕は再度口を開いた。

 

「わかりました。……その、すみません」

 

 そう言って、デッドリーベアの上下に分断された亡骸へ向き直り、思考を切り替えて疑問を追求する。

 

 ──それにしても、本当にどうして……。

 

 やはり常識的に考えて、こんな場所にデッドリーベアが出現するなど異常という他ない。この地域一帯に、この魔物が満足するような餌もなければ、環境だって別に快適な訳ではない。……それに、気になる部分はもう一つある。

 

 

 

『ゴアアアッ!ボアアアアア゛ッ!!』

 

 

 

 デッドリーベアの、あの尋常ではない様子。僕の見立てに間違いがないのならば……明らかに、怯えていた。恐慌状態に陥り、目に映るもの全てが害をなす敵だと言わんばかりの暴れ方だった。

 

 ──幾ら若い個体といっても、あのデッドリーベアが怯える状況なんて……想像し難いというか、したくないな。

 

 魔物、というか野生の動物が怯えて暴れ出す原因など、僕には一つくらいしか思い当たらない。それはつまり────自分よりも強大で恐ろしい何かに、襲われたか追われたか。

 

 だとすれば、デッドリーベアがこの森に出現した辻褄が合うし、僕自身納得できる。だからこそ、そうでないと僕は願ってしまう。

 

 ──もしそうだとしたら、デッドリーベア以上の脅威が迫ってるってことじゃないか……。

 

 どうか外れていてほしい憶測を立てる傍ら、僕は得物とはまた別の小さなナイフを懐から取り出しながら、分断されたデッドリーベアの上半身の近くにしゃがみ込み、その耳をナイフで切り落とす。

 

 ──とにかく、一旦冒険者組合(ギルド)……グィンさんにこのことを報告しないと。

 

 デッドリーベア出現と討伐の証拠を簡易な空間魔法──【次元箱(ディメンション)】に放り込む。これで耳が腐敗する心配はない。

 

「…………」

 

 今すべき行動を一通り終えた僕は、気づかれないように、背後に視線をそっと流す。

 

「く、ぅ……っ!」

 

 ……その光景は、僕の予想と大まかにだが確かに一致するものであった。

 

 先程手繰り寄せたばかりの剣を地面に突き立て、それを支えに、地面から立ち上がろうとしている先輩の姿があったのだ。

 

 必死な表情を浮かべて。一生懸命な様子で。けれど、その努力は無情にも報われない。恐らく完全に腰が抜けてしまっているのだろう。足が震えてしまって、先輩は中々地面から立ち上がれないでいる。

 

 ──……。

 

 僕は思い出す。先程言われたばかりの、先輩の言葉を。

 

 

 

『……ぁ、く、来んなッ!』

 

『お、俺は大丈夫だ。大丈夫、だから……本当に』

 

 

 

「……先輩」

 

 気がついた時には、もう動いていた。もう声をかけていた。僕に呼ばれて、ビクッと肩を跳ねさせながら先輩が顔をこちらに向ける。立つことに集中し過ぎて、こうして僕が目の前に歩み寄っていたことにすらも気がつけないでいたようだ。

 

 先程僕に大丈夫だと言ったのに、今の情けない姿を見られたからか。かあっとその表情を羞恥に赤く染めて、ばつが悪そうに先輩は僕から目を逸らす。……だが、僕はそれでも構わずに言葉を続けた。

 

「構いませんから。気にしませんから。……だから、こんな時くらいは僕なんかでも頼ってください」

 

 そして、そっと手を伸ばした。

 

「!……」

 

 僕の言葉とその行動は、先輩にとっては予想外なものだったのだろう。目を丸くさせ、差し伸べられた僕の手を見つめていた。先輩は数秒の間躊躇いながらも、剣の柄を固く握り締めていた手を開き、恐る恐る僕の手を掴んだ。

 

 瞬間、僕に伝わるしっとりとした柔らかな感触。これを味わうのは二度目だというのに、僕は思わず一瞬心臓の鼓動を早めてしまった。

 

 決してそれを表情に出さないようにする僕に、先輩は沈黙を挟みつつ、少し気まずそうに言った。

 

「…………悪い」

 

 そうして僕の助けも借りて、ようやっと先輩は立ち上がることができた。

 

「気にしないでください。とりあえず、一旦街に戻りましょう先輩」

 

「お、おう……」

 

 デッドリーベアの件を報告しなければならないということもあるが、気がつけば結構な時間が経っている。そろそろ街に戻らなければ日が沈み、辺りが暗くなってしまう。僕一人であればまだ問題ないが……今は先輩を連れている。

 

 先輩が頷いたのを確認した僕は、そのまま踵を返して歩き出す────直前、不意に先輩が声を上げた。

 

「ク、クラハっ」

 

「?はい、どうかしましたか?」

 

 先輩に呼び止められ、僕はその場に立ち止まり先輩へ振り返る。先輩はというと、依然気まずそうな様子のままその場で立ち尽くしており、何故か一向に歩き出す気配がない。

 

 それを僕が不思議に思っていると、最初こそ僕を呼び止めただけで、それからは困ったようにあちこち視線を流していた先輩だったが、やがて観念したように。もじもじと太腿(ふともも)を擦り合わせながら、消え入りそうな声で僕に告げた。

 

「まだ、上手く歩けそうにねえんだ……今足動かしたら、たぶん転んじまう」

 

 ──うぐ……ッ!?

 

 そう僕に言った先輩の顔は、もう燃え出すのではないかと思う程に真っ赤で。勝気な輝きを灯すその真紅の瞳も、今では薄らと濡れて潤んでいた。その様子は僕にとっては予想も想像もしていない、まさに不意打ちのようなもので。僕の心を乱し、大いに動揺させてくれる。

 

 だが、しかし。それを表に出す訳にはいかない。それを踏まえて、僕は平静を装い口を開いた。

 

「……え、あ、ああ……えっと、そ、それは困りましたね。はは、ははは」

 

 ……わかっていた。僕にそんな器用な真似できるはずがないとわかっていた。けれど、これでも努力した。努力した結果がこれなのだ。

 

 けれど不幸中の幸いとでも言うべきか、先輩が僕の動揺と戸惑いに気づくことはなかった。まあそれは一旦置いておくとして……しかし、それでは。このままでは僕と先輩はこの場から離れられないということだ。

 

 それから数秒、微妙に距離を空けたまま沈黙が流れる。そして無意識の内にそれから逃れたいとでも思っていたのか。

 

「…………で、でしたら」

 

 特に考えることもなく、僕は言ってしまった。

 

 

 

「僕が背負って歩きますよ。先輩を」

 

 

 

 という、よくよく冷静に考えてみればとんでもないことを。



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おんぶ

「か、簡単なものですが……その、朝食です」

 

「おう。あんがと」

 

 予期せぬ不慮の事故の後、それぞれ着替えも済ませた僕と先輩は食卓へと着いていた。椅子に座る先輩の前に、音を立てぬようそっと皿を置く。

 

 そして僕も自分の分の朝食をテーブルの上に置いてから、先輩と向かい合わせに座った。そしてやや気を憚れながらも、僕は口を開いた。

 

「……では、いただきます」

 

「いただきます」

 

 食事前の挨拶も済ませ、僕と先輩の朝食の時間が始まる。会話らしい会話も挟まない、ただ時折フォークとナイフの先が皿を突く、硬い無機質な音だけが小さく響く静かな朝食が。

 

 ──……。

 

 昨日、話し合わなければと決めたはずなのに。これからについてどうしなければならないのか、それを相談しなければならないというのに。

 

 味もわからない、喉も通らない朝食を無理矢理進めながら。僕は幾度となく声をかけようとした。今、目の前に座って食事を共にする先輩に、話しかけようとした。

 

 だが、その度に──────

 

 

 

 

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

 

 

 

 

 ──────その言葉とあの光景が、僕の脳裏を過って。呼ぶことすらも、ままならないでいる。先輩と口に出すことを、躊躇ってしまっている。

 

 ──……駄目、だな。

 

 心の中でそう呟いて、心の中で自嘲する。自分はなんてどうしようもない程に意気地なしで、不甲斐なくて、そして情けない奴だと罵る。

 

 言わなければならない時に、行動しなければならないいざという時に、僕は口も開けなければ何もできないでいる。……僕は、そういう人間だったんだ。そういう、最低な人間なんだ。

 

 自己嫌悪が進む程、目の前が薄暗くなっていく。皿もその上にある料理も、徐々に見えなくなっていく。そして全て、見えなくなる────直前。

 

 

 

「クラハ」

 

 

 

 思いもよらぬ音が──声が不意に僕の鼓膜を打って震わせた。

 

 ハッといつの間にか俯かせていた顔を上げると、先輩が申し訳なさそうに、心配そうに僕を見ていた。僕が顔を上げたのを確認して、先輩はゆっくりと口を開く。

 

「……まあ、その。あん時は俺も変になってたっていうか何ていうか……と、とにかくだな。別にそうまでになって気にしなくていいし、俺のことも好きに呼べばいい。……お前を追い詰めるみたいなことして、悪かった」

 

「…………」

 

 先輩のその言葉は、僕にとっては予想外も予想外で。だからどう反応すればいいのか、どう返事すればいいのかわからず僕は詰まってしまう。そんな様子の僕を見兼ねたのか、先輩は依然気まずそうにしながらも言葉を続ける。

 

「だから、さっさと朝飯食っちまえよ。美味いのに、冷めたら不味くなるぞ。……それに、俺とお前でこれからどうすんのかも話し合うんだろ?」

 

 ──あ……。

 

 ややぎこちない微笑みと共に紡がれた先輩のその一言に、沈んでいた僕の心が洗われるような、そんな不思議な感覚で包まれる。そして、気がつけば。

 

「そ、そうですね。……先輩」

 

 僕はまた、その言葉を口に出すことができていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────という、今朝の記憶を振り返りながら。僕はヴィブロ平原の近くにあるこの森の中を、ゆっくりと歩き進んでいた。

 

 ──……今日だけでも、色々あったな。

 

 早朝のトイレでのハプニング。アルヴス武具店での一幕。ヴィブロ平原での先輩とスライムによる死闘。そして────デッドリーベアとの遭遇。

 

 日記の内容には困らない程に、本当に色々なことがあった。……と言っても、そもそも僕は日記など書いていないが。

 

 それと、思わぬ課題──というよりは問題も発見してしまった。

 

 言わずもがなそれは────先輩の弱体化度合い。いやまあ、確かに。依然とは天と地の差という言葉ですら足りない程に、それはもう比べようもないくらいに弱体化してしまっていることは承知していたのだが。

 

 ……まさか、最弱の魔物(モンスター)の代表格でもあるスライムと満足にも渡り合えず、あそこまで終始翻弄されるなんて……流石の僕も予想外である。というか誰だってこんなこと予想できないだろう。

 

 まずはスライムを相手に戦闘経験を積み重ねると共に剣の扱いに慣れてもらい、そこから段々と戦う魔物の強さを上げていく────という僕の計画が出鼻から物の見事に挫かれてしまった。さて……どうしよう。本当にどうしよう。

 

 とりあえず、ここは誰かに頼ることとしよう。僕なんかよりも人生経験が豊富な────『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の我らがGM(ギルドマスター)、グィンさんとかに。デッドリーベアの件も報告しなければならないのだし……。

 

 ──…………。

 

 とまあ、今の今まで僕は考えていた。そういった小難しい思考で頭の中を埋め尽くそうと、できるだけの努力をしていた。

 

 何故僕がそうしなければならなかったのか。実に簡単で、単純なことである。そう、僕は少しでも気を紛らわせたかったのだ。ほんの僅かでもいいから、意識を逸らそうと。意識をしないようにとしたかったのだ。

 

 ……だが、やはりと言うべきか。そんなものではどうしようもなかったと、どうすることもできないのだと。僕はつくづく思い知らされた。

 

 そう、最初から気を紛らわせることなんて。意識を逸らすことなんて。土台無理な話だったのだ────僕が、男という性に生まれ落ちた、その時から。

 

 今、僕と先輩がどういう状況なのか簡潔に説明しよう。僕は、先輩を()()()()()()。背負って、オールティアを目指して森の中を歩いている。

 

 おんぶ────それは一人がもう一人を己の背中に担ぐ行為。この日この瞬間、僕はこの行為を年頃の、それも男女ですべきことではないと、これでもかと思い知らされる羽目になった。

 

 ──迂闊だった……本当に、迂闊だった……!

 

 そう心の中で僕は激しく後悔するが、もう遅い。賽は投げられた。自ら、投げ打ってしまったのだから。

 

 ──とにかく堪えろ。堪えるんだ、僕。

 

 十数分前の自分を全力で殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られながらも、今さらどうこうできないと無理に自分に言い聞かせて諦める────その時だった。

 

 

 

「……なあ、クラハ」

 

 

 

 不意に。何故か僕がおんぶしてから今の今まで黙り込んでいた先輩が、その閉じていた口を開いた。

 

「はッ、はいィっ?どど、どうしましたか先輩っ!?」

 

 …………先輩自身にその気はなかったのだろうが、僕が背負っている体勢上その声は僕のすぐ耳元で聞こえた訳で。それがまるで囁き声のようだと僕は思わず錯覚してしまった訳で。

 

 その今までに体験したことのない、こそばゆい未知の感覚に堪らず、思い切り上擦って素っ頓狂な声色で僕は返事をしてしまった。瞬間、訪れる沈黙。

 

「……い、いや。その、重くねえのかなって……」

 

 数秒それを経てから、戸惑った様子で先輩が僕に訊ねた。

 

「え、ええ?いや、そんな全然!重くないです!これっぽっちも重くなんてないですよ!ええ、はいっ!」

 

「でも、何か……様子がおかしいじゃんかお前。さっきも今も、声変だったし」

 

「き、気の所為ですよ先輩。僕は大丈夫ですから。平気へっちゃらですから」

 

「本当か?クラハ、お前誤魔化そうとしたり、無理してる訳じゃねえんだな?」

 

「そんな滅相もありません!だから、どうか先輩は僕の背中でゆっくりと身体を休めてください!」

 

「…………わかった」

 

 長い沈黙を挟みつつ、未だ納得はしていない様子ではあったが、それでも先輩はそう言って、それ以上何か言うことはなかった。そのことに僕は心の中でホッと安堵する。

 

 ……まあ、一応。一応ではあるが、僕は言っておこうと思う。先程の僕の言葉に嘘偽りなどない。そう、先輩は重くない。全く重くなんてない。むしろ軽い。軽過ぎる。軽過ぎて、逆に心配になってくる程に。

 

 だが、しかし。

 

 ──その割に、妙に肉付きが良い。

 

 本当のことなので何度でも言わせてもらうが、先輩の身体は軽い。まるで羽毛が如きだ。

 

 その癖、太腿(ふともも)は程良くむちむちとしているし。臀部も可愛らしい丸みを帯びた、やや小振りな代物ではあるが。だからといって別に肉が薄い訳ではなく、確かな質量と男の僕とはまた違ったもちもちの感触を併せ持つ、見事な代物である。

 

 

 

 そして中でも極めつけは────今、僕の背中に触れているこの先輩の胸、だろう。

 

 

 

 服の上からでも見てわかるその大きさ。その存在感。それが今、僕の背中に触れている。触れてしまっている。

 

 お互いに服越しで、先輩に至っては下着越しでもあるというのに。それでも十二分に伝わってくる────その柔らかな感触。

 

 ──刺激が、強い……!

 

 侮っていた。たかが背負うだけ、たかがおんぶと僕は侮っていた。大したことはないだろうと、高を括っていた。

 

 このままではまずい。具体的に何がとは言わないが、このままでは非常にまずい。一刻も早く、この状況から脱しなければ、僕は……僕は……ッ!

 

 ──か、考えなければいいんだ。意識しなければいいんだ。無心に、無に……。

 

 だが、それは儚くも無駄な抵抗であると、僕は無情にも思い知らされる。

 

 気にしない、考えない、意識しない────そう、心がける程に。決意を固め深める程に。それを嘲笑うかのように、鮮明にはっきりと伝わってくるのだ。感じ取ってしまうのだ。

 

 この背中越しに伝わる熱を、豊かでたわわな二つの膨らみの感触を。

 

 それに、それだけではない。腰に密着するむちっとした太腿の感触。腕に伝わるもちっとした臀部の感触。時折首筋にかかる、ほんのりと温かい吐息。

 

 静寂に満ちた森の雰囲気も相まって、過剰過ぎるくらいに敏感に、僕はそれらを感じ取ってしまう。

 

 

 

 そして、不意に僕は悟った。

 

 

 

 ──あ、駄目だ。

 

 何故、あの時何の考えなしに、気軽に背負いますよと言ってしまったのだろう。おんぶしますよと提案してしまったのだろう。

 

 瞬く間に頭の中に浮かぶ、邪念。胸の内に広がる、劣情。その最低最悪で醜悪極まりない二つが、入り混じって僕の身体の下へ────下腹部の先へ突き進む。

 

 このままでは、数分としない内に。僕は臨戦態勢に移ってしまう。一人の男として、()()()()()()()。それも、よりにもよって先輩相手に。

 

 それは駄目だ。それだけは超えてはならない一線だ。阻止しなければならない。ラグナ=アルティ=ブレイズの後輩として、絶対に。

 

 だから、僕は。限りなく頂点に近い緊張感で、乾きに乾き切った口を開いた。

 

「先ぱ────

 

 が、その前に。僕が言葉にするよりも前に。

 

 

 

 

 

 ギュ──突如、先輩が僕の首に細く華奢なその両腕を絡めて。そして、己の身体を僕の背中へさらに密着させた。

 

 

 

 

 

 ────ぃ……ッ?!」

 

 むにゅぅ、という擬音が実に似合いそうな。この世のものとは思えない、まさに極上と評すべき柔らかな感触が押し潰れて広がりながら、僕の背中にはっきり過ぎる程に伝わった。それと同時に首筋にかかる僅かな吐息も、仄かな熱すらも感じ取れる程に近づけられた。

 

 一瞬にして身体が固く強張り、口から出した声も引き攣って掠れる。そこから先は言葉を続けられず、僕はただ絶句するしかなかった。

 

 先輩の行動は、あまりにも予想外だった。こんなにも密着してくるとは、こんな風に抱きついてくるとは思いもしなかった。

 

 急に一体、どうしてしまったというのか。真っ白になった頭の中で、ただそれだけを考えて。そして咄嗟に僕が喉奥から声を絞り出そうとした、その直前。

 

 ──…………え……?

 

 僕は気づいた。先輩の身体が────僅かばかりに震えていることに。



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こんな時くらいは

 ──こいつの背中って、こんなに大きかったっけ。

 

 と、クラハの背中で揺さぶられながら。ラグナはふと思った。

 

 

 

『僕が背負って歩きますよ。先輩を』

 

 

 

 最初は何かの冗談かと思った。そんなこと、クラハから言われるなんて夢にも思わなかった。

 

 けれど、情けないことにその時の自分は、一人で地面から立ち上がるだけでも精一杯で。そこから歩き出すことも、一歩を踏むことすらも満足にできなくて。

 

 だから、ラグナはその言葉を呑むしかなかった。この場は大人しく後輩に背負われるしか、後輩に頼るしか他になかった。

 

 それが一体どれだけ惨めで、情けないことだったか。こんな醜態を晒して、平気でいられるはずなんてなかった。

 

 普通ならば、呆れられていただろう。失望されていただろう。だがしかし、ラグナは知っている。クラハであれば、決してそうはしないと。そうは思わないということを。

 

 

 

『こんな時くらいは僕なんかでも頼ってください』

 

 

 

 だからこそ、ラグナはクラハのその提案を黙って受け入れたのだ。それしかないということもあったが、それ以上に────もう、クラハに迷惑をかけたくなかった。

 

 ──……今日の俺、散々だったな。……最低、だったな。

 

 そう心の中で吐き捨てるように呟く傍らで、ラグナの頭の中を今日一日の出来事が駆け抜ける。

 

 自分の勝手で理不尽な憤りから、八つ当たりのように己が抱え込んでいた負の感情をぶつけて。それで後輩を追い詰めて、戸惑わせて、迷わせて。

 

 後になって、自分がしたことに対して後ろめたい罪悪感を抱いて。それから逃れたいが為に、後輩に発破をかけて。

 

 そうしたからには先輩で在らなければと馬鹿みたいに息巻いて。空回って。引っ掻き回して。

 

 それでもと意地になって、その結果────死にかけた。……否、死んだ。もしあの場にクラハが駆けつけてくれていなかったら、ラグナは間違いなく死んでいたのだから。

 

 クラハがいてくれたから。クラハが後輩だったから、ラグナは今こうして生きている。こうして、彼に背負われている。

 

 結局、今日という一日を使ってラグナが成したことは────クラハに迷惑をかけるということだけだった。

 

 その事実に、現実にラグナは堪らず、表情を忌々しげに歪める。

 

 ──何が、先輩だ。

 

 心の中で呟いて、ラグナは自分がクラハにかけた言葉を思い起こしながら、それを頭の中で反芻させる。

 

 

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

 

 

 ──そりゃそうだ。こんな奴、先輩だなんて思いもしないだろ。

 

 そう心の中で吐き捨てるように呟いてから、ふとラグナは気がついた。

 

 ──クラハ、何か息が荒い……?

 

 一体いつからなのかは流石に見当がつかないが、それでも背負い始めてから確実に、クラハの呼吸の調子が僅かばかり崩れている。こんな至近距離というのもあるが、もう十年以上の付き合いになるラグナだからこそ気づけた、ほんの些細な変化である。

 

 それに気づいたラグナは、その表情を俄に曇らせた。

 

 ──……やっぱり、俺男の頃より重くなってんのか?

 

 それは自分が女になってから、ひた隠しにしながらも今の今までずっと抱き続けている疑問。その疑問と、ラグナは改めて向き合う。

 

 ご覧の通り、背丈はだいぶ縮んでしまったが……その分男の時にはなかったものが、色々と付いてきた。

 

 この長い髪も見た目以上に重いし、尻だってやたら膨らんだ気がする。それに一番は────この無駄に大きい胸の二つの塊だろう。

 

 ──こんなの、いらないってのに……。

 

 筋肉は悲しい程ないくせに、全体的に無駄な脂肪が多いこの身体に対して、ラグナは心の中で文句を呟いて。それから今の自分が本当に重いのかどうか確かめる為に、ラグナは閉ざしていた口を開き、クラハに声をかけた。

 

「……なあ、クラハ」

 

 すると、何故かクラハは肩をビクッと一瞬跳ねさせて────

 

 

 

「はッ、はいィっ?どど、どうしましたか先輩っ!?」

 

 

 

 ────続け様、そんな上擦って素っ頓狂な声を上げたのだった。

 

 ──…………は?

 

 自分はただ声をかけただけだというのに。そのクラハの反応と声音があまりにも予想外で、ラグナは呆気に取られると同時に困惑してしまう。

 

 おかげでラグナはすぐに言葉を続けられず。二人の間で妙な沈黙が流れる。それから少しして、若干遠慮気味にラグナが再度口を開いた。

 

「……い、いや。その、重くねえのかなって……」

 

「え、ええ?いや、そんな全然!重くないです!これっぽっちも重くなんてないですよ!ええ、はいっ!」

 

 こちらの戸惑い混じりの問いかけに対して、クラハはそう即答するが……それに対してラグナは不信感を抱かずにはいられなかった。

 

 ──こいつ、嘘吐いてんじゃねえか……?

 

 依然としてクラハの様子はおかしい。それに、先程までは若干程度だったというのに、今では確実と言える程に息も乱れてしまっているし。そして何よりも、クラハの身体に密着しているラグナだからこそわかったことだが、少し心配に思ってしまう程に彼の鼓動が早まっていた。

 

「でも、何か……様子がおかしいじゃんかお前。さっきも今も、声変だったし」

 

「き、気の所為ですよ先輩。僕は大丈夫ですから。平気へっちゃらですから」

 

 そう胡乱げたっぷりにラグナが言及すると、やはりクラハは慌てたように、けれど流石にさっきとは打って変わって、幾らか毅然とした態度でそう返事をする。

 

 だがそれでも────いや、だからこそラグナの疑いは晴れなかった。どころか、より深まった。

 

「本当か?クラハ、お前誤魔化そうとしたり、無理してる訳じゃねえんだな?」

 

 ラグナは引き退らずにそう訊ねると、遂にクラハは少しムキになったように声を荒げた。

 

「そんな滅相もありません!だから、どうか先輩は僕の背中でゆっくりと身体を休めてください!」

 

 そこでラグナは理解した。これ以上訊いたところで、クラハの返答が変わることはないと。

 

 ──こいつ、昔から変なところで意地張りやがるからな……。

 

 半ば呆れたように、だがそれでも何処か嬉しそうにラグナは心の中で呟く。

 

 そういった我を押し通す力は────意志は強いに限る。それは今後において色々と必要になってくるものだ。

 

 そしてそれが今のクラハにはある。そのことがラグナは嬉しくもあって、それと同時にほんの少しだけ──淋しい。

 

 けれどそれを表に出すことは決してせずに。あくまでも先程と変わらぬ風を装って、そして敢えて長い沈黙を挟んでから。ラグナはクラハに言った。

 

「…………わかった」

 

 そうしてラグナとクラハの会話は一旦終わりを迎えた。そうしてまた静寂が訪れる。

 

 クラハに背負われながら。クラハの背で揺さぶられながら。再び訪れた静寂の中で、ラグナはふと想起する。

 

 デッドリーベアに襲われた時の状況。目の前にまで迫り、眼前にまで鉤爪が振り下ろされんとしていたあの光景。

 

 その時の────自分の姿。殺されようとしていた、死が迫っていた。……けれど、何もできなかった。自ら放った武器を手に取れず、逃げることすらできなかった。

 

 そう、あの時の自分は間違いなく、たった一つの感情に縛られていた。それは久しく忘れていた感情────恐怖。

 

 もう、自分にはないと思っていた。そんな感情は自分の中から、消え失せてしまっていたと思っていた。

 

 とうの昔に捨て去った────だが、違った。そうであると、ただ思い込んでいただけだった。恐怖は未だ、ラグナの中に残っていたのだ。

 

 ラグナはそれを恥じた。みっともなく、惨めで、情けないと感じた。……しかし、彼は何処か安堵もしていた。

 

 

 

 そう、自分もまた──────一人の人間なのだと自覚できたのだから。

 

 

 

 ──…………。

 

 幾ら最強と謳われようが。どれだけ埒外と伝われようが。それが取り上げられてしまえば。歴とした、ただの人間なのだ。

 

 十数年ぶりにそれを思い出して、思い出せて。ラグナはさっき言われたばかりの、クラハの言葉を頭の中でもう一度繰り返す。

 

『こんな時くらいは僕なんかでも頼ってください』

 

 ──……こんな時くらいは、か。

 

 確かに、その通りかもしれない。こんな時くらいは────否、こんな時だからこそ。

 

 クラハの背中に、ラグナはより密着する。胸が押し潰れようがお構いなく。そしてクラハの首に回している両腕を、さらに絡ませる。

 

 今日のことで存分に思い知らされた通り、今の自分一人では何もできない。こうして誰かに頼らなければ────後輩の背中に縋らなければならない。であれば、そうしよう。

 

 ──そうだな。そうだよな……こんな時くらいは、後輩だとしても。

 

 まるで己に言い聞かせ、己を納得させるように。腕のほんの僅かな震えに気づかないまま、ラグナはクラハの首筋に額をそっと押し当て、ゆっくりと瞳を閉じた。



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酒場『大食らい』

 僕たちがオールティアに着く頃には、日はもう沈み。夕焼けの空は今や漆黒に塗り潰されて、幾千幾億と無数に散りばめられた星々に囲まれるようにして、僅かばかりに欠け始めた月が浮かんでいた。

 

 オールティアの門前で、僕は一旦立ち止まる。……流石に先輩をおんぶしたまま、街中に入る訳にはいかない。そんな勇気、生憎僕は持ち合わせてなどいない。

 

「あの、先輩。もう自分で歩けますか……?」

 

 そう、恐る恐る僕が訊ねると。森の中での、自分は重いのかという問答を最後に今の今までその口を閉ざし、黙り込んでいた先輩は、何も言わずにただコクンと小さく頷いた。

 

「わかりました。では、下ろしますね」

 

 何故何も言わず黙ったままなのか、そこに対して疑問を抱きつつも、僕は一言そう告げて。それからゆっくりと腰を下げ、先輩の爪先(つまさき)が地面に着くようにする。すると少しして僕の首に回されていた先輩の両腕が離れ、そしてフッと僕の背中にあった僅かな重みと温もりが消え去った。

 

「……じゃ、じゃあ家に帰りましょうか、先輩」

 

 微妙な雰囲気に何とも言えない気まずさを感じ、その所為で背後に立つ先輩の方へ振り向けないまま、僕はそう言って早速歩き出す────直前。

 

 

 

 ギュ──不意に、服の袖口を掴まれた。

 

 

 

「え……?」

 

 誰が僕の服の袖口を掴んだのか────言うまでもなく、それは先輩である。思わず背後を振り向くと、袖口を掴んだまま、先輩がその顔を俯かせていた。

 

 戸惑いと困惑を隠せずに、声を漏らしてしまう僕に。顔を俯かせている先輩が小さく呟く。

 

「……け」

 

「け?」

 

 辛うじて聞き取れた言葉がそれたった一つで、無論意味なんてわかるはずもなく。特に何を考えるでもなく僕が呟き返すと。

 

 バッと突然、先輩が俯かせていたその顔を勢い良く上げて、それから畳みかけるように、さっきまでとは比べようもない声量で僕に言う。

 

「酒っ!酒飲みに行くぞ!嫌とは言わせねえからな!わかったなっ!?」

 

 そう言う先輩の気迫は凄まじくて。その言葉通りこちらに有無を言わせない勢いで。その時、僕はただ圧倒されるままに大人しく頷く他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちくしょーっ!やってられっかばかやろうめばーかばーかっ!」

 

「はい。はいそうですね。馬鹿野郎ですね先輩」

 

「な!?なそうだろなっ!?いやぁくらはもそうおもうだろ?な?なっ!?」

 

「はい。はいそうですね。僕もそう思いますよ」

 

「そうだそうだだいたいよーおれがこんなんじゃなきゃあんなすらいむいっぴきけちょんけっちょんのぼっこぼこのめっためたんにできるんだからな!ほんとだぞ?ほんとだかんなこのやろう!」

 

「はい。はいそうですね。けちょんけっちょんのぼっこぼこのめっためたんですね」

 

 周囲の喧騒に負けないくらいに、先輩の愚痴は凄まじかった。それはもう、こう………とにかく色々と凄まじかった。

 

 ここは酒場『大食らい(グラトニー)』。このオールティアに立ち並ぶ数々の店の中でも、夜になれば一二を争う盛況を誇る。

 

 変わりのない平和な日常を過ごす住民たち。依頼(クエスト)帰りの冒険者(ランカー)や仕事帰りの苦労人たち。そんな人々が集まるのが、この店である。

 

 もちろん酒場というからには酒がメインだが、だからといって料理が不味いという訳ではない。むしろその辺りの飲食店よりも数段上だ。

 

 先程から忙しなく店内を駆け回るウェイトレスの一人に、僕は注文を叫ぶ。

 

「すみませーん!こっちのテーブルに木実蜥蜴(フィシャロ)の姿焼きと影水魚(カミォ)の香草包み焼きお願いしまぁーす!」

 

「はいご注文承りましたー!!」

 

 声だけ返して、様々な料理を乗せたトレイを片手に、ウェイトレスは走っていく。あれだけの量を、しかも片手だけで支えつつ、バランスを保ったまま走れるとは……大した体幹というか身のこなしというか、何というか。

 

 そんな感心を抱きつつ、改めて僕は前に向き直る────目の前の席には、先輩が座っている。……赤赫実(リゴン)の蜂蜜酒が並々と溢れて零れんばかりに注がれた木製のジョッキを、両手で持ってゴクゴクと喉を鳴らしながら飲む先輩が。

 

「んぐ、んぐ…………ぷぅっはぁ!あまいうまい!」

 

「それはよかったですね。はは、ははは……」

 

 ちなみに、先輩はこれが一杯目ではない。……かれこれ、もう五杯目である。

 

 赤赫実の蜂蜜酒はその甘みや飲みやすさから、多くの女性が好む酒の一つであり、そして唯一とも言っていい先輩の好物の酒でもある。まだ男であった、以前の先輩からの。

 

 度数は低く、そう飲んでもあまり酔いはしない酒なのだが、先輩の今の顔はそれこそ完熟した赤赫実のように真っ赤である。真っ赤っ赤である。つまりもう────十二分にデキあがってしまっている。

 

「おかわり!おかわりだこのやろうばかやろう!」

 

「はい。はいそうですね。……と、言いたいところですが先輩。もうその辺でお酒を飲むのは止めた方が「うるせーーー!!おかわりったらおかわりなんだよまだまだのむんだよこのばか!あほ!」…………あ、すみません。赤赫実の蜂蜜酒、もう一杯お願いします」

 

 先程注文した料理を運びに、こちらのテーブルに来たウェイトレスの一人に僕はそう告げる。こうなった先輩は融通が利かない。下手に抵抗すると途端に暴れ出すから、ここは大人しく従っておくのが吉だ。

 

 とはいえ、流石に六杯目は飲み過ぎである。これを飲んでもらったら、今日は終了してもらおう。

 

 ……というか、一応この世界(オヴィーリス)では飲酒は十六歳からと認められているのだが……果たして、今の(・・)先輩は一体何歳なのだろうか。

 

 考えるにしても今さらな話だが、まだ男だった先輩の年齢は二十六。けれど、その見た目通りならば間違いなく先輩は若返っている。まあ、少なくとも十六歳以上とは思うが……。

 

 先輩自身もまだろくに知らない、その身体のことを考えると。やはり、蜂蜜酒は程々に自重してもらった方がよかったのかもしれない。……だが、今日は色々とあったのだ。だから今日くらいは、少しくらいは、大目に見なければ。

 

「……たくよーちくしょうめこんちくしょう」

 

 そんな呟きにまた前へ向き直れば、先輩はテーブルに突っ伏して運ばれた影水魚の香草包み焼きをフォークで繰り返し突いていた。

 

 薄らと濡れた瞳が、真紅色の光を艶やかに零す。

 

「なんだって、おれがおんななんかになんなきゃいけねえんだよぉ……ひっく」

 

 先程まであれだけハイテンションだったのに、今はすっかり消沈してしまっていた。……やはり、男だった時よりもだいぶ情緒不安定になってしまっている。

 

 まあ、無理もないだろう。以前だったら指先で瞬殺できた魔物(モンスター)に、手も足も出せず完敗を喫したのだから。

 

 以前とは天と地程の、比べようもないくらいに弱体化してしまったから────そういうことを差し引いても、いやむしろだからこそ、精神的な傷を先輩は負ってしまった。

 

 そしてそこに追い打ちをかけるが如きの────デッドリーベアの襲撃。あの時先輩は何もできず、逃げることすら叶わず、振り下ろされんとしていた鉤爪を、ただただ見上げていることしかできないでいた。

 

 スライムよりも弱い自分。戦うこともできなければ、逃げることもできない。何もできない自分────それをこれでもかと、その現実を先輩は遠慮容赦なしに突きつけられてしまった。

 

 だからこそ、今こうして先輩はこの場に訪れて、自棄《やけ》気味に、慣れない酒なんかを煽っているのだ。

 

 ……そんな先輩の心情を察しているから、僕もそれを止めることができなかった。今僕ができることは────延々と漏れ出る先輩の可愛らしい愚痴を、ただひたすらに受け止めることだけだ。

 

 水を飲みながら、僕はふと思った。

 

 ──……そういえば、結局あの剣は一体何だったんだろう。

 

 先輩に関して色々と思い返して、その中でも特に印象が深いのはあの剣のことだ。あの時のことを思い出すと、今でも頭痛がぶり返すというか、気分が悪くなってくる。

 

 ……しかし、それでも。実は言うとあの後もう一度、抵抗はあったが試しに【鑑定】をかけてみていたのである。

 

 が、最初の時と同じように、あの奇妙で意味不明極まる文字の羅列が、僕の頭を埋め尽くすことはなかった。何故なら、そもそも【鑑定】ができなかったのだから。驚くことに、僕の【鑑定】が弾かれてしまったのだから。

 

 もはや、意味不明を通り越して不気味だった。そしてそんな得体の知れない武器を先輩に使わせたくなかった。

 

 なのでアルヴスさんに突き返そうかとも考えたのだが、しかし魔石が本物であったことに変わりはなく、それはお門違いだろうと思い留まった。

 

 新しい武器を買うことも考えた。だが、それは先輩に拒否された。

 

 

 

『お前が買ってくれた武器を、無駄にしたくない』

 

 

 

 正直に言ってしまえば、先輩のその言葉は嬉しかった。だから、せめて先輩がスライム相手に単騎でも、まともに立ち回れるようになる良い方法を、この酒場へ向かう道中思案していた。

 

 そこまで頭を働かせて──────先程から妙に先輩が大人しいというか、静かなことに気づく。

 

「あ、すみません先輩。ちょっと考え事に没頭していまし……」

 

 僅か数分の間とはいえ、放ったらかしにしてしまったことを謝りつつ、僕は先輩を見やる。……当の先輩は、テーブルに突っ伏しピクリとも動かずに沈黙していた。



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もう、何処にも

「やっぱり六杯も飲ませるんじゃなかった……」

 

 そう独り言を漏らしながら、僕は街灯が照らす街道を歩いていた。……すっかり酔い潰れてしまって今や深く眠り込んでいる先輩を、またも背負って。

 

 まさか日に二度も、それも異性をおんぶすることにはなるとは思わなかった。しかも今度は脱力し切っている分、先輩の柔い身体の感触が鮮明に、存分に、大胆に背中全体に伝わる。森の中では散々悶々とさせられた胸の感触なんか、特に。

 

 ……だが、あの時と同じように、僕の気持ちは馬鹿みたいに昂ることはない。とてもじゃないが、そんな気分にはなれない。

 

 何故ならば────あの時の先輩は、確かに震えていたのだと確信していたから。

 

 今、先輩に意識はない。だからこうして僕の背中に完全に身を任せているし、腕だって僕の首には回されず、だらんと僕の胸辺りにまでぶら下げられているし、僕の肩に顎だって乗せている。

 

 

 

 だが、動きは一切ない。微かな震えすら、微塵もない。

 

 

 

「…………」

 

 だからこそ、僕は確信した。確信できた。やはりあの時に伝わった先輩の震えは、僕の気のせいなどではなかったのだと。

 

 ──……もう、帰ろう。早く帰ろう。

 

 そのことに対して、どうこう言い表すことのできない複雑な思いを馳せて。まるで言い聞かせるように心の中で呟き、僕は街道をただ歩き、そして進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自宅に辿り着くと、僕は真っ先に寝室へ──元は自分の寝室だったが、今では先輩の寝室となった部屋へ向かった。

 

 すっかり酔い潰れてしまって、すうすう可愛らしい寝息を立てている先輩を、起こさぬようゆっくりと。まるで割れ物を扱うかのような慎重さと丁寧さで寝台(ベッド)に下ろし、横たわらせた。

 

「…………おやすみなさい、先輩」

 

 毛布をそっとかけて、一言僕は先輩にそう告げる。当然ながら、返事はない。それから僕は先輩の寝顔を眺める。

 

 起きている間は活発で、元気な笑顔を浮かべていたその表情(かお)は、今やその鳴りを潜めて。まだ幼く少女的な可憐さと、それでいて見え隠れする女性的な美麗さを漂わせる寝顔に変わっていた。

 

 それをこうしてじっくりと眺めて、僕は心の中で呟く。

 

 ──ラグナ先輩、なんだよな。

 

 本当に、以前の男だった時の面影は一片の微塵たりとも残っちゃいない。強いて言うなら、その性格くらいだ。

 

 ……だけど、先輩なんだ。面影が性格くらいしか残ってなくても、どれだけ弱くとも、先輩は先輩なんだ。それは間違いのない、間違えようのない事実なのだ。

 

 そう。たとえ本当の少女のように、恐怖に怯え、弱々しくその身体を震わせようとも。助けを求めて、誰かに縋ろうとも……。

 

「ああ、そうだよ。それでも先輩は先輩なんだよ。そんなこと当然だろ。……そんなこと、当たり前のことだろ」

 

 言い聞かせるようにそう呟いて、だがすぐに僕は憤りの疑問を噴出させる。

 

 ──じゃあ何で、だったら何で自分はこんなにも()()()()()()()……!?

 

 矛盾し相反し続ける建前と本心。それら二つに板挟みとなって、僕は目を閉じて深く息を吸い、吐き出し────

 

 

 

 

 

『本当に、そう思ってんのか?()()俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』

 

 

 

 

 

 ──────頭の中の片隅でその言葉を響かせて、逃げ出すように先輩の寝顔から視線を逸らした。

 

「……やっぱり、駄目だ」

 

 人間、一度自覚してしまえばお終いだ。ちょっとやそっとのことでは、もう覆らない。……覆せない。

 

 そう直に、面と向かって言われるまでは。何の違和感もなく、一切の疑いもなく────欠片程の否定もなく、そうだと見れていたはずなのに。だからこそ、『先輩』と気軽に呼べていたはずなのに。

 

 

 

『俺のことも好きに呼べばいい』

 

 

 

 後から、そう言ってくれたのに。その言葉に、救われたはずなのに。

 

 けれどそれは虚しい錯覚だった。身勝手な思い込みであった。

 

 今日、それを嫌という程に思い知らされた。鉄剣(アイアンソード)も持てない、スライムに手も足も出ない、デッドリーベアに殺されかけたその姿をまざまざと見せつけられた僕は────今になって、ようやく。改めて、突きつけられた。

 

 ああ、そうだ。そうだ……僕が知っている先輩は、ラグナ=アルティ=ブレイズは──────

 

 

 

 

 

 ──もう、何処にもいない。

 

 

 

 

 

「……はは、ははは……」

 

 ようやく確かな現実に向き合い、事実を飲み込み、全てを受け入れてしまうと。フッと全身が軽くなったと同時に、心の奥底から乾いた笑いが込み上げ口から出す。

 

 それから僕は静かに眠り込む()()()()()に背を向け、足音を立てないよう歩き出した。



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キミョウナフウケイ

 自分がどんな状況に置かれているのか。一体どんな現実に晒されているのか。それを改めて再確認して、再認識して。

 

 結果打ちのめされ、打ち拉がれ。寝室から立ち去り、一階のリビングへと戻った僕は────この手に、先輩の得物を握っていた。例の、十字架(ロザリオ)を模した剣の柄を、独り握り締めていた。

 

 今はもう、ただただ逃げたかった。逃げ出したかった。だから、僕はこの剣と向かい合うことにした。

 

 元は魔石であったそれは、僕には到底得体の知れない物体にしか見えない。正直、こうして手に触れることも憚れる。けれど、今では都合が良い。……この現実から一時でも目を逸らせられるなら、もうどうだっていい。

 

 一回目の【鑑定】をかけた時は、意味不明で訳のわからない情報と雑音が視界を通して脳内に流し込まれ。そして二回目の【鑑定】は弾かれた。

 

 全くもって、理解ができない。こんなことは、これまでの冒険者(ランカー)業では初めてのことだ。

 

「………」

 

 よく臭いものには蓋をせよと言うが、まさしくこれのことなのだろう。

 

 人間という生物は愚かにも好奇心というものがある。気を紛らわせる為でもあったが、本音を言えば僕は、結局この剣に対しての興味を捨て切れずにいた。

 

 少々見た目が変わった変哲のない、ただの綺麗な剣。だがその中身はとんでもなく不明瞭(ブラックボックス)。だからこそ、そうであるからこそ。こうして僕は否応にも惹かれてしまうのだろう。

 

 そして、遂に。三度目の正直というやつで、僕は【鑑定】をかけた。

 

 

 

 

 

 瞬間、剣から放たれた光の奔流が、僕の手の内側を抉り侵入し突き進み、刹那にして僕の脳天に到達し意識を破砕した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────それは、全ての空だった。朝と、昼と、夜を滅茶苦茶に混ぜ合わせ、無理矢理に統合させた、全ての空の色であった。

 

 そして其処の中央に浮かんでいるのは────太陽。深淵から抜き取ったように昏く、常闇を写し込んだように黒い、漆黒の太陽だった。

 

 その漆黒の太陽に、周囲に浮かぶ全ての雲が、空と共に吸い寄せられていく。雲は互いに繋がり輪を作り、空は不可思議な模様を描き出す。

 

 何とも幻想的で────終末的な風景だった。それを、僕はどうすることもなくただ呆然と眺めていた。

 

 そして、気づいたのだ。

 

 ──……え…?あれ、は…………。

 

 いつからそこに立っていたのか。先程からか、それとも最初からか。

 

 白く眩き輝きを放つ髪は、風もないのに揺らめいている。

 

 その右手には十字架(ロザリオ)を模したような剣が握られており、その刃先は光で覆われ、また地平線を引くかのように伸びていた。

 

 こちらに背を向けるその人は、浮かぶ漆黒の太陽を眺めているのか頭を少し上げている。それから唐突に、ゆっくりと振り返った。

 

 その顔を見て、僕は思わず目を見開かせる。何故なら、その顔は──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っ……?」

 

 気がつくと、僕は床に倒れていた。……何故か妙に身体が重い。

 

 上半身だけを起こして、周囲を見渡す。まだ外は濃密な闇に覆われているようだ。

 

 そうして、ふと気づいた。僕のすぐ側に、先輩の得物であるあの剣が転がっていることに。鞘代わりに包んでいた布も剥がれ、あらぬ方向へ飛んで落ちて広がっていた。

 

「僕は、一体……いやそれよりも何で床に?僕が落としたのか……?」

 

 心からの疑問を呟きながら、その剣を拾い上げる。……やはり、こうして眺めれば。形状の変わった、ただそれだけの、本当に変哲のない剣だ。

 

 布も拾い上げ、剣身を包みテーブルへと置いて。僕はソファに座り込み、目を閉じる。

 

 ──……明日も早いんだ。いい加減、もう寝なきゃな……。

 

 未だ、僕の迷いは消えていない。先輩へ対する認識は……変わっていない。

 

 それでも、構わずに。この現実から逃げ出したくて、何も考えたくなくて、思考を断ち切りたくて。僕は────意識を放り捨てた。



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ラグナリベンジ

「そんな近隣にデッドリーベアが……俄には信じられないけど、確かにこの耳はデッドリーベアの耳ね」

 

「ええ。すみません、本来なら昨日すぐにでも報告すべき事態だったんですけど。その、色々……ありまして。本当に申し訳ありません」

 

「気にしないで。……とは流石にちょっと、言えないわね。でもそのデッドリーベアは討伐したんでしょう?なら大丈夫よ。あの魔物(モンスター)は基本的には群れないはずだから」

 

「……だと、いいんですけど」

 

「それに、あれを見れば貴方が言うその『色々』も、大体の察しはつくわ」

 

 そう言って、冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢であるメルネさんは微笑みを浮かべながら、とある方に顔を向ける。

 

 彼女が顔を向けた先にあったのは────

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ────二日酔いによって、見事なまでにダウンし机に突っ伏している、ラグナ先輩の姿であった。

 

「……い、いや。その、本当にすみません……はは」

 

 どうしようもない居た堪れなさに思わずまた謝ってしまう僕に、依然微笑みを携えてメルネさんが言う。

 

「あらあら。別にそう気にしなくてもいいのよ。……でも、ああなる程飲ませちゃう前に、止めるべきだったとは思っちゃうわね」

 

「……以後、肝に銘じます」

 

 時刻は早朝──と表するには、少し遅い時間帯。二日酔いに呻く先輩を何とか立たせ支えながら、ご覧の通り共に僕は『大翼の不死鳥』に訪れていた。

 

 無論昨日の、ヴィブロ平原近隣の森にデッドリーベアが出現したことの報告と、グィンさんに会う為にである。

 

「メルネさん。事前に話してもいないんで恐縮なんですけど、今グィンさんっていますか?その、会いたいんです。会って、ちょっとお話ししたいんですが……」

 

 僕が恐る恐るそう訊ねると、メルネさんは浮かべていた微笑みを僅かに曇らせ、申し訳ないように答えた。

 

「ごめんなさい。GM(ギルドマスター)なら、『世界冒険者組合(ギルド)』から召集がかけられてね。中央国の本部へ向かいに、昨日オールティアから発ったわ」

 

「あ……そう、だったんですか」

 

 まるで出鼻を挫かれたような気分だった。グィンさんとは少し、先輩に関して相談があったというのに。

 

 けれど、すぐさまそれも仕方のないことだと納得する。『世界冒険者組合』からの召集というのも、十中八九先輩の身に起きた、まさに神の悪戯とも言うべきことだろう。

 

「そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。『出品祭』までには帰って来るから」

 

「わかりました。ではそれまでに、僕は気長に待つことにします」

 

「ええ。帰って来たらすぐに連絡するわ」

 

 そうして僕とメルネさんの会話は終わり、僕は踵を返し先輩の元へ向かう。依然として先輩は突っ伏した姿勢のままで、微動だにしない。その姿に若干気を憚られながらも、僕は声をかけた。

 

「先輩。用事も終わったので、そろそろ行きますけど……大丈夫ですか?一人で立てます?」

 

 そんな訊くまでもない僕の確認に、少し遅れて先輩がゆっくりと身体を起こし、顔を上げる。その顔色は悪く、大丈夫でないことが一目でわかってしまう。

 

 けれども、先輩は呻くように僕にこう答える。

 

「……大丈夫。立てる」

 

 それは明らかに無理をしている様子で、それでいて確固たる意地と意志をひしひしと僕に感じさせた。

 

 ──先輩……。

 

 心の奥底から喉元にまで出かけた言葉を飲み込んで、そう返事をしてくれた先輩に、僕もまた言葉を返した。

 

「わかりました。……酔い止めの魔法、重ねますね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所は変わってヴィブロ平原。時間も少し過ぎて、太陽も十分にその顔を見せた頃合い。僕は、その光景を遠くから見守っていた。

 

「てぇっりゃあ!」

 

 そんな可愛らしい気合の一声の下に振られた剣の刃は、お世辞にも疾く鋭いとは表せず。相対するスライムを斬ることは叶わず、ヒョイと呆気なくも躱されてしまう。

 

「クソッ……!」

 

 堪らず吐き捨てる先輩へ、スライムが体当たりを仕掛ける────が、既のところで先輩がその場から咄嗟に跳び退き、スライムの体当たりを何とか躱してみせた。

 

「そう何度も何度も、ぶっ飛ばされて堪るかってんだ!」

 

 叫びながら、剣を振り上げ先輩はスライムに向かって突き進む。そして先程と同じようにスライムへと剣を振るうのだが、その剣身が、その刃がスライムを捉えることはない

 

「こんの、ちょこまかとっ!」

 

 それでも諦めず、先輩は幾度も剣を振るう。幾度も、幾度も。だがしかし、やはりスライムを捉えることはできなかった。

 

 ──先輩……!

 

 躍起になって剣を振り回す先輩。まるで弄ぶかのように躱し跳ね回るスライム。そんな光景を見せつけられて、僕は思わず拳を固く握り締め震わせる。

 

 本当ならば、すぐにでも飛び出したかった。そんな自分を、僕は必死に抑え込む。……抑え込まなければならなかった。他の誰でもない、先輩の為に。

 

 そもそも、今日は────先輩を家から連れ出す気など微塵もなかった。『大翼の不死鳥(フェニシオン)』で見せたあの姿の通り、先輩は二日酔いに苛まれていたのだから。

 

 それに、昨日先輩は散々な目に遭わされた。そのことに対する心的負担も相当のものだったはず。だから今朝、僕は先輩に言ったのだ。

 

 今日一日は家でゆっくり身体を休めませんか────と。だが、僕の提案に先輩が頷くことはなかった。先輩は断固としてその提案を呑まなかった。

 

「…………」

 

 先輩の決意。先輩の覚悟。僕にはそれを見届ける義務がある。手出しせず、最後まで見守る必要がある。

 

 だから僕は、今すぐにでも剣を抜きそうになっている自分をどうしても抑え込まなければならない。

 

 それから数分、先輩とスライムの攻防(と言っても一方的に先輩が攻撃し、スライムは躱しているだけだが)は続いた。けれどもその間先輩の剣がスライムを捉えることはなく。ただただ、時間だけが虚しく流れて過ぎるばかりであった。

 

 ……一応言っておくと、先輩は昨日僕から剣の扱いの基礎を習った訳で、しかも本来の先輩の戦闘法は素手による格闘だ。つまり、先輩は今までその手に武器を持って戦ったことがまともにない。

 

 なので必然、その戦い方も無茶苦茶なものになる訳で。冒険者(ランカー)となってから剣を得物としている僕からすれば、それはもうとんでもなく……とんでもなかった。

 

 そうして、少なくも僕にとっては手に汗握るその攻防は続いて。だが、唐突に終わりは訪れた。

 

 まるで親の仇のようにスライムを追い回し、懸命に剣を振り回し続けていた先輩だったが、不意にスライムから距離を取ってそのまま動きを止めた。そんな先輩を安易に追撃せずに、訝しむようにスライムもまたその場で止まる。

 

 両者の間を風が吹き抜ける。その風に乗って、一枚の木の葉が舞う。それは風と共に、あっという間に両者の間を通り抜けて、彼方へと飛ばされて────静かに、落ちる。

 

 

 

 そしてそれが、偶然にも合図になった。

 

 

 

「ぶっ倒すッ!」

 

 そう叫ぶと同時にその場から駆け出す先輩。スライムもまたそれと同時に動き出す。

 

 やがて両者互いにそれぞれの間合いに入ると────先制の一撃を繰り出したのはスライム。一瞬その場に縮こまったかと思うと、すぐさまその場から飛び跳ね、その勢いのままに先輩の懐に飛び込もうとする。

 

 その一撃を受ければ、即座に吹っ飛ばされ戦闘不能になるのは必須────昨日スライムに散々体当たりをされ、その都度気絶した先輩だからこそ、他の誰よりもそのことは理解している。

 

 であるから、決してスライムの攻撃を受けないよう先輩は躱すことに心血を注いでいた。

 

 だからその体当たりも先程のように躱そうとするはず────そう思った矢先、僕が目を見開くことになった。

 

 ──先輩……!?

 

 先輩は、その場から動こうとはしなかった。己に突っ込んでくるスライムを、ただその場で真っ直ぐ見据えていた。

 

 先程も言った通り、今の先輩はスライムの一撃ですら受けただけで戦闘不能に陥る程に脆い。スライム相手に戦闘を続け、そして勝利するにはその攻撃の全てを躱さなければならない。

 

 そんなこと、誰よりも先輩自身が一番わかっているはず。なのに、先輩は躱そうとしない。その場から一歩も動かず、あくまでも真っ直ぐにスライムを見据えているだけだ。

 

 一体何を考えているのか。そう思う僕であったが、この後目の当たりにする────先輩の成長を。

 

「ッ!」

 

 遂に、スライムが先輩の懐に目がけて体当たりする────直前、先輩は剣を胸の前に構えた。

 

 それは防御の構え。スライムの体当たりを、構えた剣で受け止める先輩。

 

「うぐッ……!」

 

 体当たりの衝撃とその重みに、先輩の身体が後ろに押される。先輩もその表情を歪める────が、倒れなかった。倒れず、そして。

 

「そぉっりゃあああッ!!」

 

 ほぼ力任せに剣を振り上げ、受け止めたスライムをそのまま宙へと打ち上げた。宙に浮かび、何もできず重力に引かれて落下するスライム。その様を、先輩は黙って眺めることなく────

 

「これでもう、ちょこまかできねえだろおぉぉぉ!」

 

 ────そう叫んで、先輩は駆け出す。そして、剣を振るった。

 

 ザンッ──落下するスライムを、白刃が通り抜ける。

 

「おお……ッ!?」

 

 思わず僕が声を漏らす最中、二つに分断され地面に落下したスライムは、まるで水溜まりのように広がって。そのまま溶けるようにして、消える。

 

 剣を振り下ろした姿勢のまま、首だけで背後を見やった先輩は、そんなスライムの最期を見届けて。それからその瞳と顔を輝かせ。

 

 

 

「よぉっ……しゃあぁぁぁッ!!」

 

 

 

 そう達成感に満ち溢れる歓喜の声を上げると共に、その場で思い切り飛び跳ねた。僕といえば、ただただ感動に打ち震えていた。

 

 ──つ……遂に、ようやく遂に倒した。今の先輩が、自分一人でスライムを倒せた……!

 

 昨日あれ程敗北を喫したスライムに、ようやっと先輩は自ら勝利をもぎ取ることができたのだ。しくじれば即戦闘不能の、実に危ない賭けではあったが、それでも見事に先輩は勝ってみせた。僕は、それが自分のことのようにただただ嬉しい。

 

 記念すべき先輩の初勝利。これでようやく第一歩を踏み出せる────そう、僕が思った直後。

 

「……ん?」

 

 突如、先輩の周囲の草むらが揺れる。……今、風は吹いていないというのに。

 

 先輩が声を漏らすとほぼ同時に、草むらを揺らしながら現れたのは────スライム。それも一匹だけではなく、二匹、三匹。さらに四匹五匹、続々と草むらの中から現れる。

 

 一体、今の今までどうやって潜んでいたのか────気がつけば、十何匹ものスライムの群れに、先輩は囲まれていた。

 

 異様な雰囲気を漂わせるそのスライムたちに、流石の先輩も若干怯えた様子で、その場から一歩後退る。

 

「な、何だよ……」

 

 だがしかし、先輩は完全に取り囲まれている。つまり、逃げ場などない。

 

 ──あ、まずい。

 

 僕がそう思うのとほぼ同時のこと。徐々に先輩に迫っていたスライムたちは、一斉に先輩へと襲いかかった。

 

「ひッ!?ちょ、止め……!?」

 

 短い悲鳴を上げつつも、慌てて剣を振ろうとする先輩だったが、その行動はあまりにも遅過ぎて。そして数の暴力の前では、先輩の抵抗はあまりにも小さく、無力であった。

 

 あっという間にスライムたちに袋叩きにされる先輩。その時僕が咄嗟に取れた行動は、ただ一つ。

 

「……せ、先輩ぃぃぃいッ!!」

 

 先輩を救出する為、そう叫びながら急いで駆け出すことだけだった。



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二人が知らぬ間にも運命は

 雪辱を果たす為、ラグナがスライムに再戦を挑み、その戦いをクラハが見守っている頃合いのこと。

 

 場所は変わり、オヴィーリス四大陸がその一つ────セトニ大陸。全大陸中最も人間の技術と文明が発達し、それに伴い近代化が進むこの大陸の代表国、中央国中央首都。

 

 その中央首都に構えられた『世界冒険者組合(ギルド)』本部、大円卓会議室にて。

 

 

 

 

 

「…………はあぁぁぁ……」

 

 

 

 

 

 冒険者組合『大翼の不死鳥(フェニシオン)GM(ギルドマスター)────グィン=アルドナテは独り、用意された席に座って。今にでも崖から身投げでもしそうな、そんな絶望という絶望に染まり切った表情を浮かべ。そして、言葉では決して言い表すことのできない様々で色々としたものが詰め込まれた、ひたすらに重々しいため息を深々と吐いていた。

 

 恐らく、いやきっと。絶対に、これから先に待っているのだろう自分の未来を、この上なく憂いて。

 

 グィンがこの世全てに対して絶望を抱く最中、今は彼以外には誰一人として人間がいないこの部屋に、不意に一つの足音が響く。

 

 その足音が響く方向にグィンがぎこちない動きで顔を振り向かせると、彼の視線の先では────ゆっくりとした足取りで一人の女性がこちらへ歩いて来ていた。

 

 荒々しくもそれでいて美しい、まるで猛々しく気高い獣────そう、さながら獅子を彷彿とさせる、凶暴で危険ではあるが、故に惹かれる確かな魅力のある美貌を持つ女性だった。

 

 首筋が薄く隠れる程度にまで伸ばされた紫紺色の髪を揺らしながら、その女性はグィンの傍まで来る。そして開口一番に繰り出したのは──────

 

 

 

「何だい。しみったれてつまらない辛気臭いその面、今は中々に面白いことになってるじゃないか。いやいや、こいつは傑作だねえ」

 

 

 

 ────という言葉で。それを言い終えた女性は、口の端を禍々しく吊り上げさせ、本当に心の底から愉しそうな笑みを浮かべる。お世辞にも趣味が良いとは言えない笑みを浮かべた彼女に、グィンは多少を無理をしながらも対抗するように微笑んで、掠れた声で呻くように言葉を返す。

 

「……先のことを考えると、どうしてもね。それよりも久しぶりだね、アルヴァ。実に元気そうで、何よりだよ」

 

 グィンにそう言われて、女性────冒険者組合『輝牙の獅子(クリアレオ)』GM、アルヴァ=クロミアは依然その笑みを浮かべて言う。

 

「ああ。アンタがやらかせば(アタシ)は愉快だからねえ。今回の件でGMを辞任させられることになればもっと、もっと愉快だ」

 

「ははは……全く、縁起でもないことを言わないでくれ」

 

 そう言って、力なく笑いを零すグィン。そんな彼の様子にアルヴァは浮かべていた笑みを消して、スッと細めた瞳で見つめる。その猛禽類が如き紫紺色の双眸の奥には、若干の淋しさが込められている────気がした。

 

「……たかが十数年会わない内に、あの『剛剣』もすっかり腑抜けになっちまったもんだ」

 

「…………」

 

 アルヴァの言葉に、グィンはすぐには何も答えない。少しの沈黙を挟んでから、彼女とは対照的に微笑みを浮かべたまま、その口を開いた。

 

「それで良いんだよ、アルヴァ。何せ、自分たちの時代はもう終わったんだから。それにもう私は……どうやったって戦えない身だしね」

 

 グィンの言葉に、アルヴァもまたすぐには答えなかった。心情を上手く読み取れない無表情のまま沈黙して、唐突に懐から一本の煙草と赤い小石を取り出した。

 

 煙草を咥え、その先端に赤い小石を近づける。すると一拍置いて小石が一瞬輝き、小さな炎が弾けて瞬いた。

 

 ボッ、と。音を立てて煙草の先端にその火が灯る。役目を終えた小石を再び懐へと仕舞い、アルヴァは煙草を咥えたまま深く息を吸い込む。そして実に美味しそうに、吸った分だけ息を吐き出した。

 

「アンタなんかの言葉に同感するなんざ嫌だねえ。本当に嫌だよ。……でもまあ、腑抜けはお互い様だ。今やこの(アタシ)も小っぽけな魔石一つにでも頼らなきゃ、煙草一本に火を灯すことすらできやしない」

 

 実にしみじみとそう言いながら、紫煙を(くゆ)らすアルヴァ。そんな彼女にグィンは浮かべていた微笑を僅かに困ったように変えて、無駄だと悟りつつも一応はという風に言葉をかける。

 

「アルヴァ。ここっていうか……本部内は禁煙なんだけど?」

 

「知ったこっちゃないね」

 

 グィンの親身な注意を一蹴して、アルヴァは彼の隣の席へと座る。それと、ほぼ同時のこと。

 

 

 

「おや。見覚えのある背中が二つ、並んでいるな」

 

 

 

 グィンでも、アルヴァのものでもない。新たな第三者の声がこの部屋に、静かに響き渡った。

 

 その声に釣られて、グィンとアルヴァが顔を向けると────彼らの視線の先に、その者は立っていた。

 

 短く切り揃えられた、燻んで鈍く輝く銀髪。髪によって右目は隠されているが、そうでない左目は金色で、まるで月明かりを彷彿とさせる輝きを放っていた。

 

 高身長とも言えるグィンよりもなお高いその背丈と、軽く微笑みかけただけで街中の女性という女性を虜にできるであろう、甘くも凛々しいその美貌。そしてその身を包む厚手のジャケット、その下にあるベスト、そしてスラックス。そのどれもが正真正銘の男物である。

 

 その所為で一見すると他の追随を欠片程も許さない、まさに絶世の美青年に思えるその者であったが────目を凝らし、注意して見れば。それは間違いであると知ることだろう。

 

 ベストにジャケットと、それでもなお完全には誤魔化し切れていない胸元の僅かな膨らみ。またスラックスが包み隠すその腰も男にしてはやや豊かに思え、こちらは背後からでなければわからないことではあるが、その臀部も張りがあって、肉付きも良い。

 

 これらが指し示す、その者の真実。それは──────その者は美青年などではなく、歴とした女性であるということだ。

 

 彼────否、彼女の姿を見やったアルヴァが、僅かに眉を顰めながらも言う。

 

「アンタ、良い歳にもなってまだそんな格好してるのかい……カゼン」

 

 アルヴァにそう言われて、彼女────冒険者組合『影顎の巨竜(シウスドラ)』GM、カゼン=ヴァルヴァリサは世の女性が黄色い歓声を上げてしまうような微笑みを浮かべて、その口を開かせる。

 

「これに関してはもう仕方ない。女物の服を着るにしても、今さらな話だ」

 

 カゼンの返事を聞いて、やれやれという風にアルヴァは肩を竦めさせた。そしてすっかり呆れた声音で彼女が言う。

 

「その様子だと、どうやら()()の方もちっとも変わってないようだね」

 

「ああ。ちなみに僕はまだ、君のことは諦めてないぞ?」

 

 そう言って、カゼンはアルヴァに笑いかける。が、当然彼女の反応は芳しいものではなく、その顔を嫌そうに僅かながら歪めていた。

 

(アタシ)にその気はないって昔からずっと言ってるはずなんだけどねえ」

 

「まあそう言わずに。案外、悪くないものだぞ?騙されたと思って、一回くらい」

 

 カゼンの言葉に、もうやっていられるかと言わんばかりにアルヴァは顔を逸らして、うんざりした様子で紫煙を吐き出した。

 

 と、その時。不意に軽く、グィンが咳払いをした。それから彼はカゼンの方に顔を向けて、口を開く。

 

「やあ、カゼン。君も元気そうで何よりだよ」

 

 グィンの言葉に対して、カゼンはチラリと一瞥だけして。数秒の沈黙の後────彼女は何も言わず、アルヴァの隣へと座ったのだった。

 

 そのあんまりにもあんまりなカゼンの態度に、しかしグィンは苦笑いを浮かべつつも慣れたように呟く。

 

「……本当に、君たちは昔からずっと変わらないなあ」

 

 そしてグィンは腕時計を見やる。気がつけば、()()()がすぐ迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから十数分。先程までグィンたち三人しかいなかった大円卓会議室内は────今や、十数人という大勢の者たちが集まっていた。

 

 その者たち全員が全員、GM(ギルドマスター)である。そんな最中、未だ一つだけ。誰も座っていない空席があった。

 

 彼らGMは待っていた。その空席に座すべき人物を。その人物こそが、この場にいるGMたちを先導する者。この世界に現存する全ての冒険者組合(ギルド)を管理統括する、『世界冒険者』の長。

 

 そうして、()()()まで後一分まで差し迫った頃────閉じられていた大円卓会議室の扉が、開かれた。

 

 開かれたその扉を抜け、この部屋に足を踏み入れさせたその者に、この部屋にいる全ての者たちが視線を向ける。その数々の視線に込められているのは、確かな敬意と畏怖。

 

 女性であった。それもまだ若い、二十歳前後の女性である。だがしかし、全身から放たれるその雰囲気は、とてもではないが若年のものではなかった。

 

 前を真っ直ぐ見据えるその双眸は褪せた灰色をしており、言い表すことのできない異様な眼光を携えている。そして何よりも目を引くのは────その外見に似つかわしい、一本に至る全てが染められている、老人が如き白髪であった。

 

 容姿と雰囲気がどうにも合致しないその女性は、軍服を踏襲したかのような意匠の服を着込んでおり。その上から袖に腕を通さず羽織っただけのコートの裾を揺らしながら、ゆっくりと歩く。この場にいるGMたちの視線を注がれながら、それを存分に浴びながら、空席へと向かう。

 

 そして、満を持して────遂に、空席が埋まった。椅子に腰かけた女性は、大円卓会議室を見渡し。女性────『世界冒険者組合』三代目GDM(グランドマスター)、オルテシア=ヴィムヘクシスはその口を静かに、開かせた。

 

 

 

 

 

「ではこれより、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズ弱体化とそれに伴ったオヴィーリス『五大厄災』への今後の対策に関する、『世界冒険者組合』緊急GM会議を始める」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 僕は一体、どれくらいのスライムを倒したのだろう。何体倒しても、迫り来るスライムの大群。……彼らは、それ程までに恨んだのだろうか。憎いと思ったのだろうか。

 

「あの、先輩……その、大丈夫ですか……?」

 

 恐る恐る僕はそう訊ねる。この周囲一帯から無尽蔵に湧いて出てくるスライムの大群相手に、ほんの僅かな抵抗も一切許されず、そして一方的に蹂躙された先輩に。

 

「…………」

 

 先輩は、沈黙していた。感情の死んだ表情で、スライムの粘液に塗れたまま、気がつけば昇っていた太陽が傾き、薄い茜に染まりつつある空を見上げながら。

 

 数秒の間を置いて。ようやっと、先輩は閉ざしていたその口を開いた。

 

「……これが、大丈夫に見えんのか?」

 

「い、いいえ。……えっと、すみません」

 

 僕と先輩の間に静寂が流れる。その時、ヴィブロ平原に微風(そよかぜ)が吹いて。それに頬を撫でられながら、僕は再度口を開いた。

 

「先輩。とりあえず今日はもう、街に戻りましょう」

 

 僕の提案に、先輩は何も言わず。ただ小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラハとラグナはまだ知らない。知る由もない。今こうしている間にも、確実に、着実に己らの運命は廻り往くことを。



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ロックス=ガンヴィル(前編)

 記念すべき初勝利と数に物を言わせた蹂躙を味わった先輩を連れて、僕はオールティアに戻り、再び冒険者組合(ギルド)『大翼の不死鳥』へと戻っていた。

 

 お手洗い(トイレ)に向かった先輩が戻って来るのを待つ為、手頃な椅子に座って。僕は特に何を考えるでもなく、周囲を見回していた。

 

 酒場としての本領が発揮できる『大食らい(グラトニー)』には流石に及ばないが、この時間帯の『大翼の不死鳥』もそれなりに騒がしく、そして賑やかだ。

 

 料理を食らう者。酒を飲む者。依頼(クエスト)の報酬金に目を輝かせる者。討伐した魔物(モンスター)の危険度で競い合う者。得物を自慢する者────それら全ての光景が渾然一体となって、それ相応の騒がしさ賑やかさを生み出しているのだ。

 

 

 ……だが、正直に言わせてもらえば。今の僕にそれを楽しむ余裕などなかった。それらが、まるで蚊帳の外のような。何処か遠い出来事のように感じられて。今ここに自分もいるのだという自覚も持てないまま、ただ眺めることしかできないでいた。

 

 何故か。言うまでもない、それは──────

 

 

 

 

 

「よっ!何しけた面してんだよ、ウイン坊」

 

 

 

 

 

 ──────不意に背後からそんな声をかけられ、それと同時に肩を軽く叩かれたことにより、僕の思考が途中で遮られる。僕が咄嗟に振り返って見れば、いつの間にか背後に茶髪の男性が立っていた。

 

 その人の顔を見た僕は、思わず信じられないという風に呆然と呟いてしまう。

 

「ロックス……さん?」

 

「おう。えっと、半年ぶりだっけか」

 

 茶髪の男性────ロックスさんにそう返事されて、僕は目を見開かせ、気がつけば椅子から立ち上がり、口を開かせていた。

 

「ど、どうしてロックスさんがここに!?オールティアに帰って来てたんですかっ?」

 

 この男性のことを、僕は知っている。『大翼の不死鳥』に所属する冒険者(ランカー)であれば当然のこと、そうでなくとも知っている者は知っているだろう。

 

 冒険者番付表(ランカーランキング)第五十位────冒険隊(チーム)『夜明けの陽』の副隊長、ロックス=ガンウィル。僕と同じ《S》冒険者だが、僕など足元にも及ばない、それこそ天と地程の差がある確かな実力と実績を持つ、僕が尊敬する冒険者の一人である。

 

「確か『夜明けの陽』は長期依頼を受けてたんですよね?もしかして終わったんですか?それにロックスさんが帰って来てるなら他の皆さんも……ジョニィさんも」

 

 驚愕の衝撃が抜け切らないままに、動揺しながら僕は頭で考えるよりも先に心の中の言葉を、次々と浮かぶ疑問をロックスさんにぶつける。しかし、そんな僕に彼は困ったようにこう言った。

 

「ちょ、ちょっと一旦落ち着けよウイン坊。俺に再会できて嬉しい気持ちは十二分にわかる。けどだからってそんな勢いで質問攻めされちゃあ、俺だって答えようにも答えられないぜ」

 

「あ……す、すみません」

 

 堪らず矢継ぎ早に言葉を浴びせてしまい、ロックスさんに嗜められ、僕は謝罪を入れつつ言われた通り一旦口を閉じる。そんな僕にロックスさんは気の良い笑みを浮かべて、それから言った。

 

「そうだな。まあ立ち話ってのも疲れちまうし、椅子があるんだから座って話そう」

 

「は、はい。そうですね」

 

 そうして、僕とロックスさんは椅子に座り、席を共にする。彼は僕の顔を見て、僕と視線を合わせて、ゆっくりとその口を開いた。

 

「まず、実を言うと依頼自体は終わっちゃいない。ちょっとばかし進展があったもんでな、その報告に一旦この街に帰って来たんだよ」

 

「なるほど、そうだったんですか。……ということはやっぱり、他の皆さんもオールティアに帰って来てるんですね」

 

 そんな僕の言葉に対して、ロックスさんはその首を軽く横に振った。

 

「いや。あくまでも状況進展の報告だからな。今戻って来てるのは俺だけで、他のメンバーはまだ現地さ」

 

「あ……そう、ですよね。よくよく考えれば、それは当然ですよね」

 

 表面上は取り繕い、決してロックスさんに見抜かれぬよう。僕は内心少しだけ残念に思う。無論このロックスさんとの思わぬ再会も嬉しいが……できれば『夜明けの陽』の全員と、そしてリーダーであるジョニィさんとも再会したかった。

 

 何せジョニィさんには────『夜明けの陽』の隊長、ジョニィ=サンライズさんには数え切れない程の恩があるのだから。それこそ、ラグナ先輩に負けないくらいに。

 

 だから、せめて。僕はロックスさんに訊いた。

 

「他の皆さんも、ジョニィさんも。何事もなく、元気にしてますか?」

 

 その瞬間、僕は見逃さなかった。ロックスさんの表情が僅かに固まった、その瞬間を。

 

 ──え……?

 

 しかし、そのことに対して僕が疑問を抱くと同時に、ロックスさんの表情は元に戻っていた。それから彼が僕にこう告げる。

 

「ああ、皆元気にやってる。当然ジョニィの兄貴もな」

 

「ほ、本当ですか?なら良かったです」

 

 ──何だ?僕の気の所為か……?

 

 ロックスさんのあの反応がどうにも腑に落ちず、訝しげに思いながらも僕はそう返す。そんな僕をロックスさんはほんの数秒、黙って見つめていたかと思えば。彼にしては珍しい神妙な面持ちで、僕に言った。

 

「ウイン坊。『夜明けの陽』は……俺たちは、いつだってお前を支える。お前の助けになってやる。無論、ジョニィの────リーダーの意志でな。それだけは……忘れないでくれ」

 

「え……あ、はい。わかりました。ありがとう、ございます」

 

 何故、そんなことを今僕に言うのか。それが嬉しくない訳ではなかったが、僕は堪らずに疑問を感じてしまう。だが直後ロックスさんはまた人の良い陽気で爽やかな笑顔を浮かべると同時に、僕に訊ねる。

 

「さてさて。そろそろ俺たちの話だけでなく、お前の話も聞きたいな。……色々あったみたいだしな」

 

「……ええ。この短い間で、色々起きました。本当に、色々」

 

 そうして今度は僕が話をする番となった。当然、その話は先輩関連が殆どだった。

 

 先輩が『厄災』の一柱を討ったこと。先輩が非力で、そして無力な少女になってしまったこと。それから奔走しては苦労の連続に阻まれ立ち止まってしまっていること────ここ僅か数日で起きた出来事の全てを、僕は包み隠さずロックスさんに話した。

 

 そして一通り話し終えてから、僕は自嘲気味になって続ける。

 

「情けないですよね。GM(ギルドマスター)から託されたのに、後輩なのに……その責任と義務を全うできないでいる。その信頼に応えられないでいる。……本当に、僕は情けない人間ですよ」

 

 今の今までずっと拭えず消し去れないでいる()()()()()も相まって、僕の自己嫌悪は止まることを知らずに加速し続けていく。そんな中で呟かれた僕のそれは、鬱陶しい程に重く、嫌になる程に暗かった。

 

 だが、それを受け止めたロックスさんが返したのは──────

 

 

 

「いやあ、にしても信じられねえわ。まさかあのラグナがあんな可愛い女の子になっちまうだなんてなぁ」

 

 

 

 ──────という、話の流れを完全に断つ一言であった。

 

「…………え?」

 

 予想外も予想外の、想像の範疇から逸脱し切ったロックスさんの返事に、僕は堪らず困惑の声を漏らしてしまう。そしてそんな僕の様子などお構いなしに、ロックスさんがさらに続ける。

 

「ところでよ、こいつは大事な話なんだが……ウイン坊。お前の話が正しければ、お前は今この女の子になっちまったラグナと一つ屋根の下の甘々同棲生活送ってんだよな?」

 

「えっ?あ、えっと、そ、そうですね。今の先輩では以前まで住んでた共同住宅(アパート)の鍵を開けられないですし、銀行(バンク)からお金を下ろすことすらもできなくなってしまったので……それがどうかしましたか?」

 

 困惑のままに、とりあえず僕がそう答えると。ロックスさんはそうかそうかと呟き何度も頷いてから、今の今まで見たことのない程の、やたら真剣な顔つきになった。

 

 ──え、本当に何だ何なんだ?ロックスさんにとって、僕は何かまずいことをしでかしてしまったのか……!?

 

 思わず身構えた僕に、その真剣な顔を保ったまま、ロックスさんは小さな声で恐る恐る僕に訊ねた。

 

 

 

 

 

「今のラグナって、何カップだ?」

 

 

 

 

 

 ──…………………は?

 

 僕の思考が、一面真っ白な更地と化す。ロックスさんの言葉を、僕はすぐに理解することができなかった。

 

 カップという単語を聞いて、僕がまず頭の中で思い浮かべたのは珈琲(コーヒー)が注がれている器。だが、そんなことを僕に訊くのは文脈的におかしい。だって珈琲の話題など欠片程だって出てないのだし。

 

 それに……『何』カップとはどういうことだろう。もしやロックスさんはカップの個数について訊ねている?いやだとしても何故今?しかもそれを僕に?考えれば考える程に、訳がわからなくなっていく。

 

 そうしてあらぬ方向に思考が突き進み、結果沈黙していた僕を見兼ねたのか。痺れを切らしたロックスさんが仕方なさそうにこう言った。

 

「おいおいウイン坊!お前もういい歳の男だろ?いちいち皆まで言わないと伝わらねえのかぁ!?俺ぁパイオツのこと訊いてんだよ!ラグナのボインのサイズは一体幾つよ!?」

 

 僕の頭の中の、真っ白な更地となっている思考に。必死に紡がれたロックスさんの言葉が点々と浮かび刻まれる。そしてそれらを僕は呆然と心の中で復唱する。

 

 ──パイ、オツ……?ラグナの、ボイン……?

 

 幸運か、それとも不幸か。それらの単語は僕にとある風景を想起させた。

 

 

 

『あ……破けちまった』

 

『髪洗うの手伝ってくんね?』

 

『クーラーハー?』

 

 

 

 その声と共に脳裏を過ぎるのは、一切の穢れを知らぬラグナ先輩の裸体。そして豊かに実り揺れる二つの──────

 

「い、いや知りませんよそんなことっ!?」

 

 ──────というところで、僕は我に返り、あまりにもあんまりで下世話なロックスさんの問いを切って捨てた。が、しかし。

 

「いやいや知らないってことはないだろ。だってお前ら二人同棲してんだろ?だったらもう裸の一つや二つくらい見てんだろ」

 

「そんな訳っ……」

 

 ロックスさんの言葉を即座に否定しようとした僕だったが。そう言われて、再度脳裏を過ぎる肌色の光景を前に、頬に一筋の冷や汗を流し言葉に詰まってしまう。そんな僕の様子を見たロックスさんは、嘆息混じりにこう言う。

 

「何だよやっぱり見てんじゃねえか。で、どうだった?俺はウイン坊と違って実物を直に見た訳じゃねえから断言し兼ねるが……新聞の写真からしてDはあるんじゃないかと睨んでるんだがな、あれは」

 

 顎に手を当てながら、一体何故そんなにもなれるのかと不思議に思う程の真剣な表情で。下世話極まる推測を添えながら、ロックスさんは再度僕に訊いてくる。当然、そんな問いかけに僕は答えず、相手が誰であるかも忘れて声を荒げた。

 

「そ、そんなことわかりませんよっ!」

 

「何ぃ?わかんないだあ?……はぁぁぁ。全く同じ男として情けないぜ、ウイン坊。そんな風だと、未だに童貞か?お前」

 

「どッ……!?そ、そうだとしても問題ないでしょうッ?」

 

「大ありだ。俺なんかお前の歳にはとっくのとうに……いや、この話は今は捨て置くか。まあ、とにかくだ。詳しい話はまだ聞いちゃいないが……ラグナは性別が変わっただけじゃ飽き足らず、何故だか若返りもしちまったんだろ?」

 

 話題の方向性が胸から変わったことに、僕は未だ困惑しつつも一先ずは安堵する。そしてロックスさんの言葉を肯定する為に、首を縦に振って続けた。

 

「はい。これについても原因らしい原因はわかっていませんが……」

 

 ちなみに補足させてもらうと、『世界冒険者組合(ギルド)』は先輩の現状を世界的に公表しただけで、何故そうなってしまったのかという説明はされていない。……まあ、その原因と思わしき情報が先輩の夢という、あまりにも現実的ではないものなので、『世界冒険者組合』の対応も致し方ないとは思うのだが。

 

「ああ、だよな。そうだよなぁ……うんうん」

 

 そう呟き、何やら意味ありげに何度も頷くロックスさん。彼のそんな様子に、僕は嫌な予感を覚えられずにはいられなかった。

 

 そしてその外れてほしかった予感は、見事的中してしまうのだった。

 

「てことはだ、将来有望って奴だな。何だって恐ろしいことにまだまだ成長途上の十代だ。きっと今以上に育っちまうな、ありゃあ」

 

 言いながら、ニヤニヤとした笑みと共に自分の胸の前で、両手を大きく上下させるロックスさん。……僕はもう、絶句するしかないでいた。

 

 と、その時。不意に背後から声をかけられた。

 

「悪りぃ、クラハ。待たせた」

 

 それは紛れもなくラグナ先輩の声で。唐突なその声音に、僕は堪らず肩を跳ね上げさせてしまった。

 

「は、はいっ!?」

 

 そしてそのまま振り返る。当然、そこには先輩が立っていて。呆気に取られたような表情を浮かべ、僕のことを見つめていた。

 

「クラハお前、何で声かけられたくらいでそんな驚いてんだよ?それでも男かー?」

 

 そう言って、まるでこちらを揶揄うようにころころと悪戯っぽく笑う先輩。対して、僕は情けなくも動揺したまま、ぎこちなく口を開いた。

 

「い、いや。えっと、その……」

 

 特に疚しいことは一切していないというのに、僕は言葉を詰まらせてしまう。それと同時に無意識の内に視線を泳がせ────突如として、先程のロックスさんの言葉が僕の脳裏に浮かび上がる。

 

『今のラグナって、何カップだ?』

 

『新聞の写真からしてDはあるんじゃないかと睨んでいるんだがな、あれは』

 

『きっと今以上に育っちまうな、ありゃあ』

 

 ──…………。

 

 そして気がつけば、僕の視線は先輩の胸に注がれていた。

 

 ラグナ先輩の低い背丈に些か釣り合わない大きさのそれは、その存在感を充分に、遺憾なく放っており。否応にもこちらの視線を捕らえて離してくれない。

 

 見てはいけないと思う程、強固に。意識してはいけないと思う程、強烈に。

 

 先輩の魅惑の果実は実に魔性的で、危険で──────

 

「す、すみませんっ!何でもないです大丈夫ですっ!!」

 

「はあ?……まあ、別にいいか」

 

 そこで正気を取り戻した僕は、先輩から視線を顔ごと逸らし、何の根拠もなく勢いだけでそう言ってしまう。僕のそんな返事に当然先輩は納得できないように返したが、一瞬だけ押し黙ったかと思えば、渋々といった様子でそう加えた。

 

 ──恨みますよロックスさん……!

 

 口にはそう出さず、心の中で呟く僕を他所に、先輩は座るロックスさんに気づき、少し驚いたように彼に言葉をかけた。

 

「ロックス?お前帰って来てたのか?」

 

「おう。半年ぶりだな、ラグナ」

 

 僕の時と同じのように、気さくな様子で先輩にも挨拶するロックスさん。それからしみじみと呟くようにして彼が言う。

 

「にしてもお前……半年会わない内にとんでもない美少女になっちまったなあ」

 

 遠い目をしながら先輩のことを見つめ、そしてそのしみじみとした雰囲気のまま、ロックスさんは続けた。

 

「どうだ?十年後辺りにでも、俺と一杯付き合わないか?」

 

「ふざけんな」

 

 平然と紡がれたロックスさんの口説き文句を、欠片程も慌てふためくことなく一切動じずに、ただ冷静にそう一言鋭く切り返す先輩。そんな二人のやり取りを僕は呆然と傍観するしかないでいた。

 

 ジト目になった先輩に睨めつけられながら、ロックスさんはフッと妙に何処か腹立たしい薄ら笑いを浮かべて。

 

「ほんのちょっとした冗談(ジョーク)だ本気にすんな」

 

「本気にしてねえよ」

 

「まあまあ。そう照れるなよラグナ」

 

「照れてねえよ」

 

 ──何だこの会話……。

 

 思わず呆れる僕を他所に。そこでふと唐突にロックスさんがその表情を真剣なものへと一変させ、その全身から異様な雰囲気を放つ。

 

 ──ど、どうしたんだロックスさん……?こんな、急に……!

 

 正真正銘、それは戦士の雰囲気。数え切れない修羅場を渡り、幾つもの死線を潜り抜けた、強者の威圧。

 

 そんな雰囲気を身に纏ったロックスさんだが、彼の眼前に立つ先輩の様子は変わらない。流石と言うべきか、当然と言うべきか。かつての天地無双の強さを失えども、そこはラグナ先輩だった。

 

「ラグナ。冗談はさておいて、だ。……ここからは本気(マジ)だ」

 

 その言葉通り、ロックスさんの言葉は真剣そのものだった。厚みと重みがそこにはあった。対して先輩は無言で、そして何とも言えない無表情を浮かべていた。

 

 数秒の間を置いて、ただ一言。ロックスさんは呟いた。

 

 

 

「ラグナ────お前のボイン、俺に揉み(しだ)かせてくれ」

 

 

 

 ゴッ──その時、先輩の拳と僕の拳がロックスさんの顔面を打つのは、全く同時のことだった。



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ロックス=ガンヴィル(後編)

 何故か、妙にやたらと真剣で、そして異様な雰囲気と声音で。数秒の間を置いてから、ロックスさんがいざその口から繰り出したのは────

 

「ラグナ────お前のボイン、俺に揉み(しだ)かせてくれ」

 

 ────という、最低も最低の、野郎の獣欲剥き出しな懇願であった。

 

 ゴッ──間髪入れず、全くほぼ同時に。先輩の拳と僕の拳がロックスさんの顔面を捉え打ち据える。それから数秒程経って、彼はさも平然とした様子でその口を再度開かせた。

 

「酷えなあ二人とも。人の顔殴りつけるなんてよぉ」

 

 拳を受け止めたまま呟かれたロックスさんの言葉に、ハッと僕は我に返り慌てて拳を戻す。そして先輩もまた、微妙な表情をしながらも、僕と同じようにその拳を引いた。

 

「す、すみませんロックスさん。本当に……すみません」

 

 それから咄嗟に僕は頭を下げロックスさんに謝る。……けれど、僕はどうしても我慢できなかった。流石にこれは、許容の範疇を逸していた。彼の発言は、度を越していた。

 

 無礼を承知で、僕はロックスさんに言う。

 

「けれど、さっきのは……あまりにもあんまりだと思います。第一、先輩は「クラハ」

 

 だが、しかし。ロックスさんに対する僕の苦言を、先輩が遮り止めた。そんな先輩に、僕は思わず困惑の声を漏らしてしまう。

 

「せ、先輩?で、ですが……」

 

「俺は特に気にしてないから別にいい。そんなことより……おいロックス。お前こんなクソつまんなくてどうでもいい冗談かましに、依頼(クエスト)放ってわざわざこの街に帰って来たのかよ?」

 

 僕を諭し、制した先輩はロックスさんにそう問いかける。その声は凛としていて、鋭かった。誤魔化しや茶化すことを一切許さない、そういった声音だった。

 

 それは流石のロックスさんでも否応に感じ取ったらしく、普段から飄々としていて掴み所のない彼にしては珍しく、先輩の問いに対して押し黙ってしまう。それから数秒して、ロックスさんは口を開かせた。

 

「いや。クラハにはもう話したんだが、ちょっと依頼関係の報告をメルネの姐さんに」

 

「……」

 

 ロックスさんの答えを聞き、先輩は沈黙する。直後、先輩がまたロックスさんに訊く。

 

「なら、他の奴……ジョニィも今帰って来てんのか」

 

 恐らくそれは、僕と同じ推論に至った末の問いかけだったのだろう。けれど、そうではないことを僕は知っている。

 

 ロックスさんは、その先輩の問いに対して────何故かすぐに答えることはなかった。もう既に僕に説明しているにも関わらず、何故か悩んでいるかのように黙っていた。

 

 そんな様子に僕が疑問を抱く直前、先にロックスさんが先輩に言った。

 

「帰って来てない。今、帰って来てんのは俺一人だ」

 

 ロックスさんの言葉は、淡々としていた。僕に話した時とは、まるで違っていた。けれどそのことに対して先輩は何を言うでもなく、ただ数秒だけロックスさんを見つめて。

 

「そうか」

 

 そう一言呟くだけだった。それから先輩は僕の方に振り返った。

 

「そういやクラハ、メルネとはもう話済ませたのか?」

 

「……え?あ、いや、その……」

 

 ロックスさんの様子を堪らず不審に思っていた僕だったが、先輩の言葉によって『大翼の不死鳥(フェニシオン)』へ訪れた目的を思い出す。だが、それは達成できていない。

 

「実は今メルネさんは買い出しに行ってしまっているみたいで……」

 

「何だって?姐さん、今いないのか?」

 

「は、はい。何時(いつ)頃戻って来るのかもわからないみたいです」

 

 先輩に説明したつもりだったが、堪らずといった風に食いついたロックスさんに対して、僕はメルネさんの後輩に当たる受付嬢から訊き出した情報を話す。すると彼は少し困ったように天井を仰ぎ、それから仕方なさそうに肩を落とした。

 

「しゃあねえ。じゃあ姐さんが戻って来るまで待つとするか」

 

 それは僕としても同じことで、自分もそうすると彼の伝える────前に、先輩が僕に言った。

 

「なら俺たちは先に飯食いに行こうぜ。別に急ぎの話じゃないんだろ?」

 

「え?ま、まあそれは、そうなんですけど……」

 

「んじゃ決まりだ。ほら、さっさと行くぞ」

 

「は、はい。わかりました」

 

 踵を返し、すぐさまその場から歩き出す先輩。それに続くようにして僕もまた歩き出す。当然、ロックスさんに対して別れの挨拶を告げることも忘れずに。

 

「ロックスさん!その、短かったですけどありがとうございました!『夜明けの陽』の皆さんにも、ジョニィさんにもどうか僕は元気ですとお伝えください!」

 

「おう、任せときな。俺がしっかり伝えといてやるよ」

 

 そして先輩も一旦立ち止まって、顔だけをロックスさんの方へ振り向かせる。きっと僕と同じように彼に伝言を頼むのだろうと、安直ながらにそう思った。

 

「…………」

 

 けれど、先輩はその口を開こうとはせず。ただ無言でロックスさんのことを見つめていた。

 

 ──先輩……?

 

 僕はそれを訝しんでしまう。何故ならば、ロックスさんを見据えるその眼差しは────何処か悲哀そうに思えたから。

 

 時間にして僅か数秒、先輩とロックスさんの視線は交錯し。先に逸らしたのは、先輩だった。結局何も言わずに、また正面に顔を向き直らせて。そしてまた、歩き出した。

 

「ちょ、先輩っ?」

 

 その先輩の態度は僕を動揺させるには充分で。慌てて呼び止めようとするが、先輩はその歩みを止めることなく先に進んでしまう。赤髪を揺らしながら遠去かるその背中を、僕は困惑しながら追うだけで精一杯だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふう」

 

 クラハとラグナの背中を見送り、独りロックスはため息を吐く。椅子に座ったまま、彼は呆然と天井を仰いだ。

 

 ──あーあ、俺ぁ……駄目な男だな、全く。

 

 心の中でそう呟くロックスの脳裏で、ラグナの言葉が蘇って響く。

 

『お前こんなクソつまんなくてどうでもいい冗談かましに、依頼放ってわざわざこの街に帰って来たのかよ?』

 

「……そんな訳ねえだろ。ははは」

 

 言って、力なく笑うロックス。その意気消沈ぶりは、先程までクラハとラグナの二人と接していた様子からはとてもではないが想像できない程で。今彼が負の感情に塗れてしまっていることは、誰の目から見ても明らかであった。

 

「……ん?」

 

 と、その時。ロックスは視界の端にその姿を捉える。クラハとラグナが『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の門を抜け、少し経った後。その近くに座っていた、麻布のローブを身に纏った者が立ち上がって。二人に続くようにしてその者も『大翼の不死鳥』から去ったのだ。

 

 ──俺の気の所為か……?あのローブ野郎、何処か……。

 

 目を細め、眼光を鋭くさせながら思考を巡らすロックス。だが、それを一つの声が遮り止めた。

 

 

 

「貴方……まさか、ロックス?ロックスなの?」

 

 

 

 その声に、ロックスは咄嗟に背後を振り返る。彼の背後に立っていたのは、視線の先にいたのは────

 

「メルネの姐さん……!?」

 

 ────そう、この冒険者組合(ギルド)『大翼の不死鳥』を代表する受付嬢たる、メルネ=クリスタその人であった。彼女は目を丸くさせていたが、すぐさま普段通りの表情に戻って、ロックスの元にまで歩み寄る。そして彼に対して訊ねた。

 

「思わず驚いちゃった。ロックス、いつこの街に帰って来てたの?もしかして、あの依頼(クエスト)を終わらせたの?」

 

 彼女の問いかけに、ロックスは少し慌てながら椅子から立ち上がり、口を開く。

 

「い、いえ。詳しく話すと長くなるんですが……いやそれよりも、姐さん買い出しに行ってたんですよね?ていうか、一体どこから入って来たんですかい?」

 

 結局問いかけには答えず、しかも逆に問い返す始末のロックス。だがメルネは特に気分を害した様子もなく、さも当然のように答える。

 

「荷物倉庫に片付けて、そのまま裏口から入ったのよ」

 

 それはよくよく考えてみればわかるような答えで。それを聞いたロックスは相槌を打ちながら、メルネに言う。

 

「ああ……なるほど納得しました。ということは、ウイン坊とラグナは姐さんと見事にすれ違った訳か。なんとも間が悪いっつうか何つうか……」

 

「え?そうなの?なら二人に悪いことしちゃった……それで、どうして今ここに、貴方がいるのかしら?」

 

 そうして問答は最初に戻って。だが、それにロックスが即答することはなかった。どうしてか彼は何か躊躇うかのように、迷うかのようにその口を噤んでしまっていた。

 

 そんな彼の様子をメルネは訝しみ、再度彼の名を呟く。

 

「ロックス?」

 

 するとロックスは唐突に深く息を吸い、そして吐き出す。その様は何処か覚悟を決めたようで、ようやっと彼は口を開かせた。

 

「もう、既にGM(ギルドマスター)には報告したんですが……メルネの姐さん。実は、実は……────」

 

 瞬間、ロックスの言葉にメルネは目を見開かせ、表情が硬直する。まるで信じられないという風に、信じたくないと訴えるように。

 

 だが、それも一瞬のことで。すぐさまメルネは普段通りの表情に────否、もうそれは違っていた。普段から彼女と親しくしている者であれば、その表情は無理をして浮かべているとわかってしまった。

 

 そして当然、ロックスもそれに気づいて。彼はその顔を悔恨に歪ませ、拳を握り締めた。薄らと血が滲む程、強く。

 

「…………すみません。本当にすみません。本当に……申し訳、ありません……」

 

 これでもかと後悔と罪悪感に満ち溢れたロックスの謝罪を、メルネは黙って聞いて。そして数秒の間を置いて、彼女は閉ざしていた口を開き、彼に訊ねた。

 

「二人には……クラハ君とラグナには、もう伝えたの?」

 

 数秒押し黙って、ロックスは答える。

 

「言えませんでした。いざ顔を見たら……言葉が、出ませんでした」

 

「…………そっか。うん、そうよね。実に貴方らしいわ」

 

 それから二人の間に沈黙が流れ。またしても数秒の後、敵わないと風にロックスがメルネに言った。

 

「けれど、ラグナの奴には見抜かれたと思います。あいつは昔から勘が鋭いというか良いというか……人の内心っていうものに、恐ろしいまでに敏感ですからね」

 

「……ええ。そうね」

 

 ロックスに言葉を返し、メルネは彼に背を向ける。そうして彼女は、呆然と続けた。

 

「こんな職業だもの。いつ()()()が訪れたって、不思議じゃないわ。……うん、そう。不思議じゃ……ないから……」

 

 明らかに、それは自分に言い聞かせて、納得させようとしている風にしか思えなかった。……事実、そうだったのだろう。

 

「……『愛している』。そう、隊長は言っていました」

 

 ロックスがそう伝えた瞬間、メルネは僅かに肩を跳ね上げさせて。それからロックスの元を離れ、受付(カウンター)の奥へと向かい、そのまま控室に続く扉を開き、消えた。

 

 その背中を見送ったロックスは、顔を俯かせ苦々しく呟く。

 

 

 

「俺ぁ、駄目な男だな」



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「……その、先輩」

 

「ん?何だ、クラハ?」

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』を出て少し経った後、人混みに紛れつつも街道を先輩と共に歩く僕は、躊躇いを消せずも意を決して、先輩に訊ねた。

 

「本当に、良かったんですか?いくらロックスさんでも、あんな発言……言葉は」

 

 言いながら、僕の脳裏にロックスさんの言葉が過ぎる。彼が先輩に対して言った、数々の言葉を。

 

『にしてもお前……半年会わない内にとんでもない美少女になっちまったなあ』

 

『どうだ?十年後辺りにでも、俺と一杯付き合わないか?』

 

『ラグナ────お前のボイン、俺に揉み(しだ)かせてくれ』

 

 ……誰がどう聞いても、弁明も擁護の余地すらない性的嫌がらせ(セクハラ)発言の連発。しかもこれら全ては先輩へ向けられた訳で。勿論女性に対しても大問題だが、何より先輩は、元々は……。

 

 ──ロックスさんだって、知っていたはずだ。わかってたはずだ。なのに、あんな……!

 

 だからこそ、僕は許せなかった。いくらロックスさんといえど、言っていいことやっていいことがある。そして彼の発言と行動は、明らかにそれから大きく逸脱していた。

 

 ……だというのに、当の先輩といえば────

 

『俺は特に気にしてないから別にいい』

 

 ────と、その言葉通り大して意に介せず、全く気にも留めていない風だった。まあ、相手が他の誰でもないロックスさんということもあったろうし、先輩自身気にしていないというのも嘘なんかではなく本当のことなのだろうが……僕としては、複雑な心境にならざるを得なかった。

 

 ──僕はともかく、先輩は怒るべきじゃなかったのか……?

 

 そんな疑問を、抱かずにはいられなかった。そしてそれを心の奥に押し込めて留められる程、僕は気丈ではない。だからこうして、先輩へ向けて吐露してしまった。

 

「…………」

 

 僕の問いかけに対して、先輩はすぐに答えを返すことはなかった。数秒の沈黙を挟み、仕方なさそうに嘆息しつつ、先輩はその口を開き僕に言った。

 

「あん時も言ったけど、俺は気にしてねえよ。ロックスは昔からあんなんだし、それにあいつが自分で言ってた通り、ただの冗談で、別に本気って訳じゃなかったんだろうしなー」

 

「そ、それは……そうだと、思いますけど……」

 

 先輩は器が大きい。並大抵のことであれば、このように全てを水に流してくれる。……流してしまう。

 

 そこが先輩を尊敬できる部分の一つでもあり────そして僕が引っかかる部分でもある。

 

 器が大きい先輩と違って、僕はそうではない。たぶん人並み程度の器でしかない僕は、どうしてもそうですねとは飲み込めない。……許容することが、できないでいる。

 

 あくまでもその悪意が僕自身に向けられたものであれば、別に構わない。だがそれが先輩に対してというのなら、話は変わる。見過ごせない、許せない。

 

 たとえ先輩がいいと言っていても。許すとあっけらかんに笑っていても。僕はそうはいかない。

 

 ──……こればっかりは、幾つ歳を重ねても駄目だ。

 

 先輩の返答に良い顔を浮かべることができず、僕は苦悩する。決して先輩が悪い訳でもないのに、怒りを毛程も抱こうとしないこの人に対して、何を呑気にと憤りを覚えてしまう。

 

 人並み程度の器でしかない僕は、矮小で、そして嫌な人間だ──────

 

「……あー、でもそうだな」

 

 ──────己が心の汚さを自覚していると、不意に先輩がその場に立ち止まって。そう言いながら、僕の方に振り返った。

 

 

 

「もしお前があんなことほざいたら、俺本気(マジ)でキレるから」

 

 

 

 続け様に言葉を紡いだその声音は、真剣そのものだった。

 

 ──……!

 

 堪らず、僕は息を呑んでしまう。その時浮かべられていた先輩の表情が声音同様に真剣で────あまりにも美しかったから。

 

 天真爛漫として、あどけなさが目立つ可愛らしいその表情は、今やがらりと一変しており。今の今までずっと浮かべていたそれはまるで嘘だったかのように、残酷な程に凛々しく大人びた────翳りあるものへと変貌していた。

 

 スッと細められた真紅の瞳はこちらを試すような眼差しを帯びており、それは真正面から真っ直ぐに僕を射抜く。

 

 何も言えなかった。口が開けなかった。今この瞬間、僕の周囲の時間が止まったかと錯覚する程に静かで、それが先輩のその表情と眼差しに僕が惹き込まれていた結果なのだと、呆然としている意識の中で他人事のように理解した。

 

 時間にして、僅か数秒のことだったのだろう。だが僕にとってはこの上なく長い瞬間だった。

 

「なーんて、なっ。お前にそんなこと言う度胸ある訳ねえもん」

 

 という、先程の真剣さなど微塵もありはしない、僕がよく知る声で。翳りなど一切存在しない、悪戯っぽい明るげな笑顔と共に先輩が言う。

 

 その豹変ぶりについて行けず、呆気に取られる僕に、その踵を返しながら先輩が続ける。

 

「てことでこの話題は終いだ。そんでもう出すな。いつまでもそこに突っ立ってないで、さっさと行くぞクラハ。俺腹減ってんの」

 

 言うが早いか、先輩は再び歩き出す。少し遅れてハッと僕は我に返り、その小さな背中が人混みの中に紛れてしまう前に、慌てて声をかける。

 

「せ、先輩!ちょっと待ってください!」

 

 そうして追おうと僕もその場から歩き出す────直前。

 

 

 

 

 

「待つのはお前だ」

 

 

 

 

 

 唐突に、そんな声が背後から聞こえた。

 

 ──え……?

 

 僕の記憶違いでなければ、その声には聞き覚えがあった。……僕にとっては忘れようのない声音であった。

 

 だがそう思うと同時に、ありえないと僕は否定する。何故なら、だってその声の主は──────

 

 

 

 ゴッ──現実逃避しかけた僕の思考は、突如後頭部を襲った衝撃によって強制的に中断され。そしてそれと同時に僕の意識もまた、為す術もなく刈り取られた。



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ライザー=アシュヴァツグフ

「きゃああぁ!」

 

「な、何してるんだお前っ!?」

 

 変わることのない、平和な日常を送っていたオールティアに、絹を裂くような悲鳴や驚愕の声が響き渡る。

 

 そしてそれらに釣られて、歩いていたラグナは一体何事かとまた振り返る。

 

「クラハどうしたぁ?何があったん……」

 

 ラグナとしては、自分の後ろを歩いていたクラハが派手に素っ転んだか何かして、それに街の住民たちが大袈裟な反応をしているのだと、そう甘く平和的な予想をしていた。

 

 だが、そんなラグナの視界に飛び込んだのは────石畳の上に倒れたまま微動だにしないクラハの姿と、そして握った拳を振り下ろしたまま、それを見下ろす麻布のローブを纏う謎の者の姿であった。

 

 その予想だにしない光景を目の当たりにして、ラグナは堪らず呆然としてしまう。今ラグナの頭の中は真っ白に染められており、思考は完全に停止してしまっていた。

 

 時間にして、数秒。その場に立ち尽くしていたラグナが、真紅の双眸を見開かせ、そして叫んだ。

 

「俺の後輩に何してんだお前ぇッッッ!!!」

 

 胸の奥から、腹の底から溢れ噴き出す激怒のままに、叫んだラグナは弾かれたようにその場を駆け出す────直前。

 

 ガッ──不意に人混みから伸びた手がラグナの腕を掴み、それを制した。

 

「んなッ!?離しやがれこのクソ野郎が!!」

 

 ラグナはその手から逃れようと腕を振ろうとするが、腕を掴むその手は大の男のもので、今の非力なラグナではとてもではないが振り払えるものではなかった。

 

「アンタにはここで黙って見ててもらいますよ」

 

 そんな野太く低い声が、ラグナの頭上から降りかかる。ラグナが顔を上げて見てみれば、そこにはラグナの背丈を遥かに越す大男がいつの間にか立っており、さらにその後ろの方にも仲間らしき数人の男が立っていた。

 

「こんの……!何なんだ、お前らッ!?」

 

 焦燥に駆られ、切羽詰まるラグナ。そんなラグナのことを男たちは愉快そうに、ニヤニヤと下卑た顔で見下ろす。

 

 ──畜生が……ッ!

 

 以前の自分であったなら、まだ男であった自分ならば。こんな状況秒もかけずに文字通り一瞬で打開してみせるというのに。だが、今の自分ではどうあっても────どうにもできない。

 

 その現実をまざまざと思い知らされ、堪らずその表情を苦悶に歪ませる────が、次の瞬間。それは絶望へと変わった。

 

「何を呑気に、悠長に気ィ失ってんだ……この野郎がァ!!」

 

 ドゴッ──未だ気を失って、倒れ込んだままのクラハ。そんな無防備な彼の腹部に、ローブの者は遠慮容赦なく、一切の躊躇もなく強烈な蹴りを打ち込む。瞬間肉を鋭く抉り打つ、鈍く生々しい音が響き、クラハの身体が僅かながらに痙攣する。

 

「いい加減、起きろォッ!!」

 

 その一撃に留めず、何度もクラハの腹部を蹴り込むローブの者。その様を見せつけられたラグナが、悲痛に叫ぶ。

 

「おい止めろ!止めろぉ!!クラハが一体何したっていうんだよ!?」

 

 だが、それでもローブの者は止まることなく。執拗にクラハのことを蹴り続け────そして遂に。

 

「ゴホッ……」

 

 薄く開かれたクラハの口から、妙に鮮やかな血が吐き出され。街道に赤い斑模様を描いた。それを目の当たりにしてしまったラグナの瞳から、とうとう透明な雫が零れて落ちた。

 

「もう止めて、くれよぉ……!」

 

 表情をぐしゃぐしゃに崩し、涙を流すラグナ。その様子を、男共は実に愉快そうに見下ろし眺めながら、皆口々に言う。

 

「おいおい。随分と唆る声出してくれるじゃありませんかブレイズさんよお」

 

「本当だぜ。そんでもってこんな子供(ガキ)の女があのラグナ=アルティ=ブレイズだってんだからな。いやはやこいつは良い見世モンだなぁ全く!」

 

「タマらんなぁあ!!」

 

 心ない、汚れに汚れた男共の言葉────しかし、それはラグナには届いていなかった。否、それを気にする程の余裕など、もはや今のラグナにはなかったのだ。

 

 自分の大切な後輩が、自分の目の前で。痛めつけられている、虐げられている。

 

 だがそれを自分はただ見ていることしかできない。止めろと叫ぶのが精一杯で、けれどそんな言葉一つではどうすることも叶わない。何もできない。

 

 自分では──────助けられない。

 

 ──クラハ……クラハ……!

 

 今の自分は本当に何処までも無力だ。こうして止め処なく溢れてくる涙を、情けなく流し続けることしかできない。

 

 それが本当に、本当の本当に嫌で、情けなくて。屈辱的で、悔しくて、悔しくて。

 

 ──…………誰か。

 

 上手く回らない思考の中で、依然双眸から涙を零しながら。そうしてラグナは今一度──────心の底から叫び、乞うた。

 

「誰かぁぁぁぁあああああっっっ!!!」

 

 果たして、それは十何年ぶりの助けを求める声だったか。ラグナ自身、もう忘れてしまっていた。

 

 そしてそれは────────

 

 

 

 

 

「そこまでよ」

 

 

 

 

 

 ────────届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 クラハの腹部へ蹴りを打ち込んでいた足が、既でピタリと止まる。もし止まることなく打ち込まれていたら────その瞬間、ローブの者は無事では済まなかっただろう。

 

 ローブの者の首筋に刃が触れる寸前のところで剣を静止させたまま、吐き捨てるかのようにロックスが言う。

 

「たった一年見ない間に……とんでもねえクズの下衆野郎に成り下がったな、この野郎」

 

「ええ、本当にその通り。……心底、失望したわ」

 

 ロックスの言葉に同調し、悲哀と落胆が入り混じった声音で、複雑そうに呟くメルネ。彼女もまたその手に銀で装飾を施された金槌(ハンマー)を握っており、ロックスと同様にローブの者の顳顬(こめかみ)を打つ直前で止められていた。

 

「答えて頂戴。何故今になって、この街に戻って来たのかしら」

 

 メルネの問いかけに対して、ローブの者はすぐには答えず。勿体ぶるように数秒の間を置いてから、ようやっとその口を再度開かせた。

 

「……おお、怖い怖い。『夜明けの陽』副隊長(リーダー)と元第三期『六険』の二人がかりとは、大人気ないなあ」

 

 まるで人を小馬鹿にするような声音で言いながら、ローブの者が目深に被っていたフードを取り、隠していたその顔を白日の下に晒す。

 

 それを見たラグナは、堪らずに涙で濡れた真紅の瞳を見開かせて。そして信じられないというように、呆然と呟いた。

 

「ライ、ザー…………?」

 

 驚愕と動揺に満ちたラグナの呟きに、ローブの者────ライザーと呼ばれた金髪の男が、口元を凶悪に吊り上げさせて言葉を返す。

 

「そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ」

 

「な、何で……どうしてここにいんだよ、お前。何でこんなことしてんだよ……クラハに何してんだよ、ライザー!?」

 

 ライザーの言葉によって、ラグナはより狼狽え、感情のままに彼に問う。対するライザーは依然その口元を吊り上げて答える────直前。

 

「答える必要はないわ、ライザー。今すぐラグナを離して」

 

 語気を僅かばかりに強めて、メルネが二人の会話に割って入り、ラグナを解放するようライザーに要求する。……しかし、彼女の金槌の柄を握る力が増したところを見るに、それは半ば脅迫でもあったのだが。

 

 そしてそれがわからないライザーではなく、彼は不愉快にその表情を歪ませ、忌々しそうに舌打ちをし。それから億劫なのを微塵も隠さず、ぶっきらぼうにラグナの腕を掴む男に向かって言った。

 

「離してやれ」

 

 ライザーの言葉に従い、男は名残惜しそうに渋々と掴んでいたラグナの腕を放す。瞬間、自由となったラグナはクラハの元にまで一目散に駆け出した。

 

「クラハッ!」

 

 未だ地面に倒れたままのクラハに駆け寄り、その身体を揺さぶるラグナ。しかし彼が意識を取り戻す気配は皆無で、ぐったりと完全に脱力してしまっている。

 

「おい起きろ!なあ、クラハ!クラハッ!!」

 

 そんな状態のクラハを目の当たりにして、堪らず焦燥に駆られ揉まれ、大いに取り乱す。そして何度も呼びかけるその最中────突如、メルネが鋭く叫んだ。

 

「落ち着きなさいラグナ=アルティ=ブレイズッ!」

 

「ッ!?」

 

 予想だにしないメルネからの叱咤に、思わずラグナが肩を跳ねさせる。それから驚いた顔で見上げるラグナへ、依然険しい表情でメルネが言う。

 

「クラハ君はただ気を失っているだけ。そうなる気持ちはわかるけど……この子の先輩だというのなら、あなたは今最も冷静にならなければならない人間なのよ」

 

「!……」

 

 メルネの言葉は正しく、そして当然のことであった。ラグナの立場であれば、なおさらのこと。

 

 しかしそのことにラグナは真っ先に気づけなかった。目の前でクラハを虐げられたことに、彼の意識が戻らないことに焦り────自分はただ惨めにみっともなく泣いて、不甲斐なく取り乱すことしかできなかった。

 

 メルネに言われ、我に返ったラグナはギュッと拳を握り締め、そして顔を伏せた。

 

「……ごめん」

 

 途轍もなく、これ以上にない悔しさを無理矢理に捩じ伏せ。何処までも苦々しく震える、弱々しい声音でそう呟いて。

 

「…………」

 

 そしてラグナのそんな姿を、ライザーは感情を上手く読み取れない無表情で黙って見下ろしていた。

 

「ライザー。この街から出て行きなさい。……ここにはもう、貴方の居場所なんてないのだから」

 

 あくまでも冷静に、だが怒りを押し殺した声で言われ、ライザーはその視線をラグナからメルネに移す。彼は横目で彼女を睨めつけ、ただ一言────

 

「断る」

 

 ────確実な殺意を微かに滲ませ吐き捨てた。

 

 ──ッ……!

 

 思わず一歩後退りそうになるのを、メルネは既で堪える。表情にこそ(おくび)にも出さなかったが、ライザーのそれは彼女に危機感を抱かせるには充分過ぎる程に充分であった。

 

 数秒、息の詰まる沈黙が流れ。先にまた口を開いたのは──ライザーだった。

 

「メルネ=クリスタさんよ、俺はもう『大翼の不死鳥』の一員なんかじゃあないんだぜ。もはや貴女の言うことを聞いてやる道理なんざ……ねえんだよ」

 

「ハッ!よく言うぜ。ついさっきまで『大翼の不死鳥』の広間(ロビー)で、この二人を熱心に見張ってたくせによぉ」

 

 ライザーの言葉に透かさず噛みつくロックス。そんな彼に対してライザーは何も言わず視線だけ送り、それから小さく舌打ちし吐き捨てるように言う。

 

「まあいいさ。今日のところはこれくらいで済ませてやるよ」

 

 そして言うが早いか、ライザーは足元のクラハを跨ぎ、歩き出す────その直前。

 

 

 

 

 

「今のアンタを、俺は認めない」

 

 

 

 

 

 クラハの身を案じ、彼に寄り添い石畳に座り込み、顔を俯かせたままのラグナにそう告げた。

 

 その言葉に、堪らずラグナの肩が僅かに跳ねて震える。だがそんなラグナにはもう目もくれず、仲間だろう数人の男たちを引き連れライザーはこの場を去って行く。

 

「……ラグナ。クラハ君を病院に運びましょう。彼を医者に診せないと」

 

 遠去かるライザーの背中を尻目に、メルネはそっとラグナに声をかける。……が、彼女の言葉に対してラグナは何も返さなかった。

 

「ラグナ……?」

 

 一体どうしたのかと思ったメルネが、再度呼びかける。すると依然その顔を俯かせたまま、ラグナは言った。

 

「今の、俺…………」

 

 その声はどうしようもない程に思い詰めていて。そして不安と──────諦観にも似た絶望で満ちていた。



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言いかけたことは

「俺は認めねえ!こんな、こんなの俺は絶対に認めねえぞッ!!」

 

 流れ、滴り、垂れて落ちる。赤くて赤い、真っ赤なそれは妙に鮮やかではっきりと見えた。

 

「覚えとけ……覚えとけよ!いつか必ず、俺がお前をぶちのめしてやるッ!」

 

 声は大きく喧しく。言葉は憎悪と怨恨に満ち満ちていて。目はひたすらに殺意で溢れていて。

 

「この借りは返す……絶対に、絶対にだッ!!」

 

 けれど、今はそれどころじゃなかった。止め処なく押し寄せては広がっていく、終わりのない哀しみにも似た喪失感のせいで。

 

 剣の柄を握る手は、まるで痺れているようで。心には何も失く、何処までも空で、虚しくて。伏せる目からは、今にでも涙が零れそうだった。

 

 だが、それでもお構いなしにと。声は続き、言葉を紡ぐ。

 

「わかったな!?──────クラハァッ!!!」

 

 瞬間、呆然とする意識の最中。ただ一つ、こう思う。

 

 

 

 

 

 違う。僕は、こんなことの為に──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初、視界に映った色は真っ白だった。遅れて、それが天井なのだと僕は理解する。

 

「……ここ、は……?」

 

 今の今まで、どうやら僕は気を失っていたらしい。覚めたばかりの意識は不鮮明で、不透明で。何か考えようとしても、上手く考えることができない。

 

 背中に当たる感触と、身体に覆い被さる布らしき物体の重みで自分は寝台(ベッド)に横たわっているのだと気づいた。

 

 ここは一体どこなのか、それを把握しようと僕は身体を起こす──ことはできなかった。

 

「ぐ……ッ」

 

 ほんの僅かばかりだけ身体を動かした瞬間、腹部に響いた鈍痛に妨げられたせいで。

 

 ──……なるほど。

 

 微かに顔を顰めさせながらも、周囲に視線を配り僕は内心で頷く。ある程度の広さを確保しており、清潔にされている。このことからここがオールティアにある唯一無二の小さな病院で、そしてこの部屋はその病院の数少ない個人病室だとわかったからだ。

 

 ──ここの院長、苦手なんだよな……。

 

 職業柄、この病院には何度も世話になっている。だから当然この病院の医者とも、院長とも決して少なくない回数の交流もある。

 

 医者としては確かな腕を持つが、その人間性はおよそ褒められたものではない院長のことを思い出し、苦い表情になりながらも腹部を手で押さえながら、僕は慎重に上半身だけを起こす。窓を見やれば既に太陽は真上まで昇っていて、そのことから既に昨日から翌日の昼頃になっているのだと判断する。

 

「…………」

 

 窓を眺めながら、僕は昨日のことを呆然と思い返す。……いや、正確には意識を失う直前に聞いた、あの声を。

 

 

 

『待つのはお前だ』

 

 

 

 その声を、僕は忘れもしない。忘れることなど、できやしない────許されない。

 

 何故なら、僕はその声の主の──────

 

 

 

 

 

 ギィ──と、その時。不意に軋んだ音が立って。音がした方を咄嗟に見やれば、この病室の扉が開かれていて。そこには紙袋を片腕で抱えたまま立ち尽くす、ラグナ先輩の姿があった。

 

 僕と先輩、互いが互いの顔を静寂の中で見つめ合う。そしてそれは数秒の間続いて、先に破ったのは僕の方だった。

 

「せ、先輩……えっと、おはようございます」

 

 その様子を例えるなら、今まで止まっていた時間が動き出したようだった。真紅の双眸を驚愕で見開かせていた先輩は、抱えているその紙袋を床に落としてしまう。だがそれを気にも留めず、その場から一歩二歩と恐る恐る進んで────堪え切れなくなったように、先輩は駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「良かった、本当に良かった……!クラハ、お前ずっと寝込んじまって、全然起きなくて……!」

 

 椅子に座ってそう言う先輩の顔は、凄まじいまでの心配で染まり切っていて。その声音もどうしようもない程の不安を孕んでいて。そしてその二つは、僕が全く知らないものであった。

 

 思わず動揺を覚えながらも、まず先輩を安心させようと僕は口を開こうとした────直前、不意に腹部に先程の鈍痛が走る。

 

 ──ッ……。

 

 僕は思わず顔を顰めそうになったが、寸前で何とか堪えて平常を装う。……もう、これ以上先輩に心配をさせる訳にはいかない。

 

 痛みを我慢しながら、僕は改めて口を開いた。

 

「すみません、先輩。一体何があったか……ちょっと色々話を聞かせてほしいんですけど、大丈夫ですか?」

 

 僕がそう訊ねると、先輩は少し複雑そうな表情になった。数秒の沈黙の後、躊躇うように。だけど、先輩は僕にこう言ってくれた。

 

「……おう、いいぞ。全部、聞かせてやる」

 

 その言葉の通り、先輩は全てを事細かく語ってくれた。僕を背後から殴りつけたのは他の誰でもない、ライザー=アシュヴァツグフであること。気を失った僕を彼が甚振ったこと。その場にメルネさんとロックスさんの二人が駆けつけ、助けてくれたこと。

 

 その後僕はこの病気へと運ばれ、昨日から今日の昼頃まで気を失ったままだったこと────その全てを、先輩は僕に話してくれたのだ。

 

「……」

 

 どうりで先程から腹部に鈍痛を感じる訳だと、先輩から話を聞いた僕は妙な納得を覚える。その傍らで、僕は呆然と思い出していた。

 

 ライザー=アシュヴァツグフ────彼に関する数々の記憶を。ライザーは『大翼の不死鳥(フェニシオン)』の冒険者(ランカー)で、彼は優秀な《S》ランクの冒険者で。確かな実績を多く持つ、本当に優秀な……冒険者だった。

 

 だが、ライザーは……僕の、せいで────

 

 ──…………。

 

 ここ最近、さらに詳しく語るのなら一年の間考えることのない────否、できるだけ考えないようにしていた男について考え込んでしまい、押し寄せる自責の念と罪悪感に苦い表情を浮かべてしまう。

 

 それを勘違いしたのだろう。依然不安と心配が入り混じる顔をして、先輩が訊いてくる。

 

「クラハ、腹は大丈夫か?やっぱりまだ痛かったりするのか?……あんなに、蹴られてたし」

 

 確かに先輩の指摘通り、腹部の鈍痛はまだ止んでいない。だけど、さっきもそうであったように……僕は先輩を心配させたくなかった。不安になってほしくなかった。

 

 だから僕は浮かべていた苦い表情を普段通りのものへと変えて、平気な風を装い答えた。

 

「いえ。時間もある程度経ちましたし、もう大丈夫ですよ」

 

 そう伝えると先輩は少しの間僕の顔を見つめて、それから安堵したようにその表情を和らげさせてくれた。

 

「なら、いいんだ。……流石は俺の後輩だな」

 

「え、ええ!伊達に後輩やってませんから」

 

 まるで──というかその通りなのだが、先輩を騙しているみたいで気が憚られてしまう。だが、先輩の心身に負担をかけてしまうくらいならば、この方がまだマシだ。

 

 と、そこで僕と先輩の会話が終わり。途端に、病室は静寂に包まれてしまう。ただでさえ昼下がりの病院というのは、物静かであるというのに。

 

 それが続くのが数十秒であればまだいいが、数分となれば流石に事情が変わってくる。気まずい雰囲気というのが生じ出す。

 

 しかし何か話そうにもこれといった話題もなく。ただただ、時間が過ぎていき────そして。

 

「……クラハ」

 

 今の今まで沈黙していた先輩が、その時口を開いた。顔を僅かに俯かせて、悔恨に塗れた声で、僕に言う。

 

「ごめん」

 

「え?」

 

 それは突然の謝罪で。何故急にそんなことを言い出すのか、僕が困惑の声を漏らす。しかしそれがまるで聞こえていないように、そして堰を切ったように先輩が続ける。

 

「俺、何もできなかった。目の前でお前が腹蹴られてんのに、お前が酷え目に遭ってんのに……俺見てることしかできなかった。助け、られなかった」

 

 その言葉を聞いて、そこに込められた感情を受け止めて────瞬間、僕はハッと理解した。

 

 それは、先輩が溜め込んでいたものだった。僕が気を失って────否、僕がライザーに痛めつけられている時から、今日まで。今の今まで、計り知れない苦悶の最中でずっと溜め込むしかなかったもの。吐き出そうにも、その肝心の相手は意識がなく。ただひたすらに、我慢する他なかった。

 

 その小さな身体で。その不安定な心で。……僕は、なんて酷なことを、よりもよって今のこの人にさせてしまったのか。

 

「本当に……ごめん」

 

「だ、大丈夫ですって先輩!僕はこの通り意識も戻りましたし、先輩が助けを呼んだから、大事にも至りませんでしたし!ですから、もうそこまで気にすることなんてないですよ!」

 

 とんでもないことをしでかしてしまったと、僕が悔いる間にも先輩は謝る。反射的に、慌てて僕はできる限りの笑顔でそう言っていた。

 

 ……しかし、俯いた先輩の表情は晴れず。辛そうに、言葉を絞り出す。

 

「俺はお前の先輩なんだよ。なのに、なのに……っ」

 

 その言葉には、もはや言い表しようのない辛苦の意がありありと込められていて。僕はもう、何も言えなくなってしまった。

 

 また、病室に静寂が訪れて。だがそれは先程よりも長くは続かず、そして今度先に破ったのは────先輩だった。

 

「クラハ。俺さ、昨日からずっと────

 

 

 

 ギシ──だがその時、まるで先輩の言葉を遮るように床の軋む音が、存外大きく響き渡った。

 

 

 

 ────ッ!?」

 

 その音に対して、先輩は椅子から落ちるのではないかと危惧する程に全身を跳ねさせ、音がした方へ振り向く。過剰とも思えるその反応に多少面喰らいつつも、僕も視線をそちらに向ける。

 

 開かれたままだった扉の向こうに、かけた眼鏡が知的な印象を醸し出す、汚れ一つとない白衣姿の長身の女性が立っていた。

 

 その女性は扉と同じく床に落とされたままであった紙袋を拾い上げ、そして平然とした様子でその口を開かせる。

 

「お邪魔しちゃったかしら」

 

 その言葉だけ受け取れば、申し訳なく悪()れていたように聞こえていたのだろうが、実際にそんなことはなく。全くと言っていい程に女性は申し訳なさそうにもしていなければ、欠片程も悪怯れている様子もなかった。

 

 ──これだから、ここの院長は……。

 

 相も変わらないその人柄に辟易としてしまうが、この病室の扉を開けたままにしていたのはこちらだし、この人にしては珍しいことに他人の落とし物も拾ってくれている。そんな態度を非難するのは、流石にお門違いというものか。

 

 嘆息一つ吐いてから、僕が口を開こうとした────直前。

 

「わ、悪い。俺急用思い出した」

 

 と、先に。それも似合わない早口でそう言うや否や、先輩は椅子から立ち上がり、踵を返してそそくさとこの場を去ろうとしてしまう。

 

「えっ?ちょ、先輩っ?」

 

 そんな先輩を僕は慌てて呼び止めようとする。だって、先程先輩は────

 

 

 

『クラハ。俺さ、昨日からずっと────』

 

 

 

 ────何か、僕に言いかけていた。その声音は真剣で、何処か思い詰めているように感じ取れた。

 

 一体先輩は僕に何を言おうとしていたのか。それが、何故だか無性に気になってしまって。

 

「……」

 

 しかし、先輩は僕に背中を向けたまま。立ち止まり振り返ることなどなく、そのまま白衣の女性の側を駆け抜け、病室から去ってしまった。

 

「……なんか、悪かったわね」

 

 先輩と入れ替わりに、ゆっくりと寝台(ベッド)の近くにまで歩み寄り、拾い上げた紙袋を備え付けの机に乗せて。今度はほんの少し悪怯れたように女性が僕に言う。……だが、僕は何も返せなかった。

 

 ──……先輩は、僕に何を言おうとしてたんだろう。

 

 その一心で、それどころではなかったから。



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大空の下在るものは全て同じでも

 ──……言い出せなかった。

 

 急用を思い出したなどという、くだらない嘘を吐いて。何も考えず、ただ我武者羅(がむしゃら)に病院を飛び出して。

 

 脇目も振らず、(なり)振り構わずラグナはオールティアの街道を駆けていた。どこへ向かう訳でもなく、どこを目指す訳でもなく。

 

 ──言えなかった……!

 

 行き交う人々の間を擦り抜け、こちらの身を案じてかけられた声も一切合切、全て無視して。ラグナは独り、走った。

 

 走って、走って。そして走り続けた。陽光に照らされ煌々とした輝きを放つ紅蓮の髪を揺らしながら、ラグナは一心不乱にオールティアの街道を駆け抜けたのだ。

 

 ──聞け、なかったッ!

 

 その身には有り余る程の、己の心を焼いて、焼き尽くして、焼き焦がさんばかりの激情を抱え込んで。

 

 だがしかし、それもやがて終わりを迎える。生物の体力は有限であり、小休憩でも挟まない限り遅かれ早かれ、いつかは必ず尽きる。

 

 とはいえ、()()()()()ラグナであったら、数百倍は長い時間この疾走を続けることができていたのだが────それが今では、保って数分だった。

 

 石畳を蹴りつける足の勢いが徐々に弱まって、果てには完全に停止してしまう。その場に立ち止まったラグナは堪らず腰を折り、膝に手を置くと、息と共に忌々しそうに言葉を吐き出す。

 

「ハァ……ッ!ぐッ……クソ、が……!」

 

 病院からは、そう遠く離れられてはいなかった。クラハならば、自分と違って大して体力も消費せずに、そしてこんな自分よりもさらに早く、この場に辿り着いてみせるだろう。

 

 全身が熱い。足が痛い。もう、この場から一歩も動ける気がしない。効率の悪い、荒い呼吸を馬鹿みたいに何度も繰り返すだけで、手一杯。

 

 体力の限界──それは果たして、何十年ぶりに味わう感覚なのだろう。そんな当たり前のことも、ラグナはすっかり忘れてしまった。

 

 ──胸、苦しい……。

 

 肩を激しく上下させ、頬を伝った汗を顎先から垂らしながら、ラグナは手を胸に伸ばす────と。

 

 むにゅ、という。柔らかで何処までも沈み込んでしまうような感触が手の平に伝わり。たぷん、という。決して少なくはない確かな質量を感じる重みが手の平に乗った。

 

「…………」

 

 最初の頃は、流石のラグナも面喰らった。自分にある訳のない、あってはならないその二つの膨らみに対して、その感触と重みに対してみっともなく動揺し、これ以上にない混乱と困惑に見舞われた。

 

 しかし時が経つにつれ、今ではもう特に感慨も何ら抱かないくらいには慣れた。……慣れてしまった。

 

 これが当然なのだと、自分にはあって当たり前なのだと。いつの間にかそう()()()()()()()()()、一々憤りそうなる自分を無理矢理抑え込んで、納得させていた。

 

 ……否、()()()()()()()。諦め、そしてどうしたって変えようのない現実を、潔く黙って受け入れようと試みていた。

 

 そう、今の現実を。今の──────

 

 

 

「……ふざけんな。んなの、無理に決まってんだろ」

 

 

 

 思わず吐き出しそうになったその言葉(よわね)を、ラグナはギリギリの既で呑み込み。その代わりに、せめてもの言葉(つよがり)を吐き捨てた。

 

 手の平に伝わる柔らかな感触が憎たらしい。手の平に乗っている重さが恨めしい。

 

 それだけではない。この低い背丈も、地面に立っているんだか宙に浮いているんだかいまいちわからないこの身体も。

 

 全部が全部、何もかもが────どうしようもない程に堪らなく、気に入らない。

 

 ふと気がつけば、あれだけ乱れていた呼吸は安定し始めていた。足の痛みも引いて、歩くだけなら何とかなりそうなくらいには体力が回復していた。

 

 顎先に伝っていた汗を手の甲で拭って、ラグナは顔を上げる。未だ太陽浮かぶ空は、青くて。何処までも清々しく澄み渡っていて。今こうしてここから見上げても、どこか全く違う場所から見上げても。きっとこの空は同じように見えるのだろう。

 

 そう、同じ。そしてそれは、空の下に在るもの全てにも言えることだろう。植物も動物も、人間も。

 

 全部、同じはずなんだ────そう思いながら、視線を下げた。

 

「あ……」

 

 すぐ側に、店があった。一体何の店かはわからなかった。ただ、その店の窓硝子(ガラス)に、はっきりと()()姿()は映り込んでいた。

 

 大の男の胸に届くか届かない程度の低い身長。背中を完全に覆い隠せるまでに伸びた髪。

 

 華奢な肩や細い腕は見るからに非力そうで、当然筋肉などある訳もない。

 

 そう、そこに映っているのはどこからどう見ても一人の少女。そしてその少女は紛れもない──────今の自分。

 

「……違う、じゃねえか」

 

 呟いた声は情けなく、惨めにも震えていて。だが到底、抑えられそうにはなくて。まるで誰かに背中を押されるようにして、ラグナはその場から一歩二歩と踏み出し、フラフラと身体を危なげに揺らしながら、その窓硝子へ近づいていく。

 

「何でだよ。何で、俺だけ……」

 

 窓硝子のすぐ目の前にまで歩み寄って。ラグナは恐る恐る腕を上げて、手を伸ばして。そして窓硝子に────映り込む少女の顔に触れた。

 

 真紅の双眸でこちらを見据えながら、少女がその口を開く。

 

「俺だけ違うんだ」

 

 空は同じだった。その下に在るものも同じだと信じていた。……だけど、自分は違った。もう、同じではなかった。同じではなくなってしまった。

 

 そこにはもう、ラグナ=アルティ=ブレイズの姿など────何処にもいなかった。

 

 

 

『先輩』

 

 

 

 そう呼ばれるべき存在(モノ)など、とっくのとうに消え失せていたのだ。

 

 ──ああ、なんだ。

 

 その瞬間、諦めにも似た絶望に包まれて。勝手に乾いた笑いが口から溢れ出す。

 

 ──別にもう、聞かなくてもわかるじゃねえか。

 

 先程言いかけたことを思い返して、だがそれは必要なかったという結論を出す。何故なら、別に聞かなくてもわかることなのだから。

 

 恐らく、きっと──────

 

 

 

 

 

『今のアンタを、俺は認めない』

 

 

 

 

 

 ──────同じ風に、クラハもそう思っているだろうから。

 

「…………あ、れ……?」

 

 気がつけば、視界は街道の石畳を映していた。そして何故か、少し濡れていた。雨が降っている訳でもないのに。

 

 不思議に思って顔を上げれば────窓硝子に映る少女が、泣いていた。その真紅の瞳から、涙を止め処なく溢れさせていた。

 

「……畜生、畜生……!」

 

 言葉を漏らす度、涙は流れて、落ちて。眼下の石畳を点々と濡らしていく。

 

「ちくしょぉ…………っ!」

 

 気がつけば、頭の中はもうぐちゃぐちゃで。何が何だかわからなくて。どうしようもなくなって。まるで幼い子供のように、泣くことしかできなかった。

 

 まともに思考もできないその最中で、ただ一言ラグナは窓硝子の少女へ問いかけた

 

「今の俺って、一体誰なんだ……?」

 

 ……答えなど、返ってくるはずがなかった。当然だろう、窓硝子の少女は──────紛れもない今の自分(ラグナ)なのだから。

 

 走ってすぐに尽きてしまう体力。非力で脆弱な身体。それが、今の自分。しかし、それでも。

 

 ──それでも、俺は……。

 

 と、その時だった。窓硝子の端に、まだ記憶に新しい、見覚えのある後ろ姿が映った。

 

「!」

 

 注目を集めるだろうその金髪を、見間違えるはずもない。ラグナが見つめている中、その背中は早足で進み、あっという間に遠去かり。そして薄暗い裏路地へと消えた。

 

「……」

 

 ラグナの脳裏に、昨日の光景が過ぎる。どうすることもできず、ただ助けを求めて叫ぶことしかできなかった自分のすぐ目の前で、自分の大事で大切な存在(モノ)をいいように痛めつけられて、散々甚振(いたぶ)られて。

 

 でも、何もできなかった。自分はただただひたすらに、無力だった。それを思い出すラグナは、無意識の内に拳を握り締める。固く、そして固く。

 

「…………」

 

 瞳を閉じて、深く息を吸い。それからゆっくりと吐き出す。

 

「よし」

 

 そう言うや否や、ラグナは閉じた瞳を再度開かせる。涙はもう、止まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ん?おいおい、ここは君みたいな子が来るとこじゃないぜ。お嬢さん」

 

 鉄扉を背後にして立っている男は面倒そうに言う。それと同時に目の前に立つその者を、頭から爪先まで見下ろし眺め、ハッと気づいたように続ける。

 

「いやアンタは、確か……」

 

 その男に対して、その者は────ラグナは睨みながら、震え一つとない毅然とした声音で言った。

 

 

 

「今すぐライザーの奴に会わせろ」



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謝れ

 その建物は元は廃墟だったのだろう。それをどうやらアジトとして再利用しているらしいが……はっきり言って、その中の環境は最悪の一言に尽きた。

 

 通路は凸凹で歩き難いことこの上なく、壁もところどころ穴が空いていたり、酷い場合はそもそも崩れてしまっている。そしてどこにいようが埃とカビの入り混じった臭いが鼻を突く。綺麗好きであるラグナにとって、この環境はあまりにも辛過ぎた。

 

 ──……今すぐここから出たい。

 

 顔を顰めさせ、思わずこの建物から抜け出したい気持ちになるラグナ。しかしそうする訳にもいかず、心を気丈に保ち必死に我慢する。

 

 そうして、ある程度進むと。ラグナを案内する男が、一つの扉の前に止まる。その扉からは複数のくぐもった男たちの声が聞こえており、何かの娯楽でもしているのか馬鹿みたいに騒がしい。

 

 男が扉のノブを掴み、そして捻る────次の瞬間、ラグナは堪らず顔を歪めさせてしまった。

 

 ──うぐ……っ!

 

 通路は埃とカビだったが、その部屋の中は酒と食べ物──そして男の臭いで充満し、溢れ返っていた。しかもどうやら窓がない部屋らしく、換気もろくにしていなかったらしい。扉を開けたことで唯一の空気の通り道ができ、結果そこへ室内の空気がその臭いを伴って一気に押し寄せた訳だ。

 

 ラグナの前には案内の男が立っていたので、幸い直撃は免れたが……それでも十二分に強烈で。ラグナは無意識の内にもその場から半歩、退がってしまっていた。

 

 ──こ、こん中入んなきゃいけないってのか?

 

 この部屋に足を踏み入れさせることに対して、ラグナは生理的嫌悪感と堪えようのない不快感を抱くラグナ。そんなラグナとは対照的に案内の男は然程気にする様子もなく、そのまま部屋の中へと進んで行ってしまう。

 

「…………(クソ)が」

 

 部屋の中にいる男共に聞こえぬよう、そう吐き捨て。ラグナは目を閉じ、深呼吸──したかったがここですると身体の具合が悪くなりそうなので断念し、覚悟を決め目を見開かせる。そして死地に飛び込むつもりで、重たい足を上げ────ラグナは遂に、部屋の中へ踏み入った。

 

 部屋の中には十数人の男たちがおり、皆が皆それぞれのことをしていた。

 

 飯を貪る者。酒を煽る者。下世話な話題で盛り上がる者たち。賭博(ギャンブル)に興じる者たち。そこに広がっていたのは、そんな光景ばかりだった。

 

 それらを目の当たりにしたラグナは、率直に思う。

 

 ──くだらねえ。他にやることないのかよ。

 

 そしてラグナは視線を彼から外し、案内の男の背中を追う。と、案内の男に別の男が横から声をかける。

 

「おいジョナス!お前ライザーさんに気に入られてるからって、抜け駆けすんじゃねえぞおい!絶対だからな!!」

 

「抜け駆けなんてするかよ。ライザーさんに殺されちまう」

 

 だいぶ酒を飲んでご機嫌らしいその男は案内の男──ジョナスにそう汚らしく唾を飛ばして怒鳴りつけるが、対するジョナスは特に気にも留めず軽くあしらった。

 

 しかし、ジョナスとその男の会話に、ラグナとしては聞き捨てならない発言があった。

 

 ──抜け駆け……?

 

 一体何を指したことの抜け駆けなのか。それが妙に引っかかるラグナであったが、ジョナスの声がラグナを現実へ引き戻した。

 

「あちらです」

 

「あ?お、おう」

 

 少し慌てて返事をし、見てみれば。ジョナスが指差すその先は奥の方で、そしてそこには扉があった。この部屋に入る時とは違い、その扉の向こうから物音らしい物音は聞こえず。ラグナにはそれが少し不気味に思えた。

 

「……この先にライザーがいんのか?」

 

 ラグナはそう訊ねるが、ジョナスは何も答えず沈黙してしまう。そんな彼の態度をムッと不快に思うラグナであったが、今はそんなことを一々(いちいち)気にしている場合ではない。

 

「……わぁったよ。ここまで案内してくれてありがとな」

 

 全く心の籠っていない感謝の言葉を述べて、ラグナが扉の元まで向かおうとした、その瞬間。唐突にラグナの背筋を悪寒が駆け抜けた。

 

 ──ッ……?

 

 それはまるで、肌を舐め回されるような、そんな悍ましく気色悪い感覚で。そしてそれはラグナが生涯の中で今、初めて味わう感覚でもあった。

 

 その未知の感覚に堪らず、一瞬にしてラグナは怖気立ってしまう。咄嗟に背後を振り返ると────そこにはジョナスが立っているだけだった。

 

「……どうかしましたか?」

 

 ラグナの挙動を不審に思ったのか、ジョナスがそう訊ねる。

 

「な、何でもない」

 

 その感覚を、自分の気の所為だと決めつけて。ラグナは慌てながらもまた扉の方へと向き直り、そして進み始めた。

 

 だがしかし、ラグナは気づいていなかった。気づけなかった。

 

 ジョナスの後ろで男共が、皆顔を見合わせ下卑た笑みを浮かべていたことを。そしてジョナスが憐憫の表情で、こちらの背中を見送っていたことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扉は何の変哲もない、至って普通の扉で。別に鍵がかかっている訳でもないそれは、呆気なくも開くことができた。

 

 そして扉を開けたラグナを出迎えたのは────

 

 

 

「まさかこんなところに、それもたった一人でお越しくださるとは、ついぞ思いもしてませんでしたよ」

 

 

 

 ────という、口調自体は敬意を払いつつもその声音は何処か鬱屈としている言葉だった。

 

 狭く、窮屈な印象を抱く部屋だった。これといった家具もなく、唯一あったのは一つの小さな寝台(ベッド)だけ。そしてその寝台に腰かける、一人の男がいた。

 

 遠目からでも目立つ、派手な金髪。長身で、腰かけているというのに立っているラグナよりも少し高い位置に頭がある。

 

「ようこそ。俺の隠れ家へ」

 

 そう言って、その男は──ライザー=アシュヴァツグフは俯かせていたその顔を上げた。

 

 ライザーを一言で表すのなら、獣────獅子という言葉がよく当てはまる。別にやたら毛深いだとか、顔つきが濃いという訳ではない。むしろライザーの場合は全くの逆で、クラハと似た部類の好青年である。

 

 ……ただ、その雰囲気はクラハとは似ても似つかなかった。彼のは温厚柔和で誰でも気軽に接せられる雰囲気ならば、ライザーのは常に周囲を威圧しているかのような、雄々しく荒々しい雰囲気である。

 

 それはまさに獰猛な肉食獣────百獣の王たる獅子が如きで。また髪と同じ色をした双眸も鋭く、宿る眼光は内に秘める獣性を隠せないでいた。

 

 凶暴で危険で、接し難く近づき難い一人の男────否、雄。だからこそ、多くの女性を────雌を彼は意識せずとも本能的に惹きつけてしまうのだろう。まだ『大翼の不死鳥(フェニシオン)』に在籍していた一年前、ライザーの側に数人の女性の取り巻きができていたことを呆然と思い出し、ラグナは他人事のようにそう考えていた。

 

「それで、ここに……いや、俺に一体何の用ですか?別に世間話をしに、わざわざこんなところに来た訳ではないんでしょう?」

 

 試すようにこちらのことを見据えながら、依然気取ったような、わざとらしい口調で訊ねるライザー。それに対してラグナは、彼の眼光に僅かにも臆することなく、毅然とした態度で答える。

 

「ああ、当然。……お前に一つ、言いたいことがあんだよ」

 

 ライザーがそうするのと同じように、ラグナもまた彼のことを見据える。真紅の双眸に強かな意志を、決意の光を宿らせて。キッと彼を睨みつける。

 

「……俺に、言いたいこと?」

 

 胡乱げにそう言うライザー。そこでラグナは深呼吸を挟んだ。瞳を閉じて、息を吸い、吐き出し────そして瞳を見開かせて、ライザーに聞こえるよう一字一句、はっきりと言った。

 

 

 

 

 

「クラハに謝れ、ライザー」



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クラハが俺の後輩で、俺はクラハの先輩だからだ

「クラハに謝れ、ライザー」

 

 一字一句、間違うことなく。はっきりと聞こえるよう、確かに。一切、欠片程も誤魔化すことも、(ぼか)すこともなく。

 

 こちらを射抜き貫く、まるで剣や槍などの武器を彷彿とさせるライザーの眼差しに臆さず退かず、ラグナはそう伝えた。

 

 瞬間、部屋は静寂で満ちる。驚くことに、外で散々騒いでいるはずの男共の声も物音も、少しだって聞こえない。

 

 ラグナとライザーの間で沈黙が流れる。それは重苦しいもので、並大抵の精神力しか持たぬ者であれば、数秒とその場にいることすら叶わない程ものだ。しかし、依然としてラグナは毅然とした態度を崩さず、真正面から、真っ向からライザーと相対していた。

 

 そうして、気がつけば数分の時が過ぎ。ようやく、ライザーは再びその口を開かせた。

 

「そんなことを俺に言いに、アンタはここまで、それも一人で乗り込んだんですか?」

 

 クラハへの謝罪をそんなこと呼ばわりされ、思わず眉を上げそうになってしまったラグナだったが、それを我慢し、ライザーの質問に答えた。

 

「そうだ」

 

「…………」

 

 するとライザーは黙り込み、顔を俯かせてしまう。再び二人の間に沈黙が流れて、数分。

 

「断ります。いくらアンタの言うことでも、それだけは聞き入れられませんね」

 

 それが、数分ラグナを待たせた末のライザーの返事だった。当然、こんな返事を受けたラグナはふざけるなと激怒────しかけたが、既で拳を固く握り締め、なんとか堪えた。

 

 ──落ち着け。平常心、平常心……!

 

 そもそも顔も上げずに返事したこと自体も許せなかったが、今自分は冷静でいなければならない。そう己に言い聞かせて、沸々と込み上げる憤りを抑えつつ、あくまでも平静を装いラグナは口を開いた。

 

「一年前、負けた方が『大翼の不死鳥(フェニシオン)』を出てくって決めて、お前はクラハに勝負を挑んだ。そんで、お前はその勝負に負けた。……そうだったよな、ライザー?」

 

 確認するようにラグナはそう訊ねるが、ライザーは何も答えず、顔を俯かせたままだった。けれど構うことなく、ラグナは続ける。

 

「昨日のあれがクラハに対する仕返しのつもりだとしたら、ただの逆恨みだ。クラハは何も悪くない。それがわかんねえ程、お前だって子供(ガキ)じゃねえだろ。なのに謝れないってのか?そんなにくだらねえ自尊心(プライド)が大事だってのか?……どうなんだよ、ライザー」

 

 まるで諭すように言葉をかけるラグナだが、それでもライザーは頑なで、依然黙り込んだまま、その顔を上げようともしない。

 

 ──埒が明かねえ……!

 

 まるで態度を改めようとしないライザーに、ラグナもいい加減鬱憤が溜まる。だが憤り、激情のままに言葉をぶつけたところで、ライザーの心が動くことは決してないだろう。

 

 だからとて、ラグナが引き退る道理などあるはずもなく。そこでラグナは追い詰められたように、断腸の思いである決断を下す。できれば下したくはなかった、その決断を。

 

 ──……こんなしょうもない手に、頼りたくなんてなかった。

 

 心の中で苦虫を噛み潰したようにそう呟き、躊躇いながらも。

 

「一つ、だけ」

 

 そして未だ迷いながらも、ラグナは────

 

「お前の言うこと一つだけ、何でも聞いてやる。何でもしてやる、から……」

 

 ────そう、ライザーに繰り出した。言って、ラグナはどうしようもなく後悔し、そして途轍もない自己嫌悪に陥ってしまう。

 

 ラグナとしては、本当ならばこんなまどろっこしい手段などに訴えず、一発殴り飛ばしてラグナの元にまで引き摺って、有無を言わせず謝らせたかった。というかそうしていたはずだった。……自分がこんな目などに遭っていなければ。まだ最強と謳われていた男だった時の自分であれば。

 

 だけど今の自分はずっと非力で、遥かに無力な少女で。そんなこと、到底できる訳もなかった。

 

 しかし、ラグナはどうにかしてでもライザーを謝らせたかった。病院の寝台(ベッド)で眠る羽目になったクラハに、どうしても謝ってほしかった。こんな、惨めで情けない手段を取ってでも。

 

 けれど、だからといって確実ではない。強制力も何もないこんな手段では、結局はライザー次第。彼がどう出るかで、決まってしまう。

 

 もはや後輩の為になることも満足にしてやれない。それが悔しくて、堪らなかった。

 

「……」

 

 そして肝心のライザーといえば、やはりというか顔を俯かせたままで。しかしそこでようやく初めて、彼は動きを見せた。

 

 だらりと下げていた手を上げ、顔にやり。そしてずっと閉ざしていたその口を────

 

「俺、わからないんですよねえ」

 

 ────ようやく開かせた。それを皮切りに、今まで黙り込んでいたのがまるで嘘だったように、ライザーは喋り出す。

 

「何だってアンタはそんなにもあんな奴に肩入れするのか、昔からずっとわからなかった。ずっと理解できなかった……ねえ、教えてくださいよ。どうしてなんです?どうしてそこまで、そうまでもしても肩入れしようとするんですか?ねえ?」

 

 それはさっきまでの沈黙からは想像もできない饒舌さで。ライザーは堰を切ったように言葉を捲し立てる。そのあまりの豹変ぶりには、流石のラグナも面食らい、気圧されてしまう。

 

 そんなラグナに対して、ライザーはさらに続ける。

 

「俺の言うこと、何でも一つだけ聞いてくれるんでしょう?だったら……答えてくださいよ」

 

 そう言って、ライザーはようやく俯かせていたその顔を再び上げた。やった手はそのままに、顔の半分を覆い隠して。

 

 金色の右目と指の隙間から覗く左目が、ラグナを鋭く睨めつける。その眼差しを前にしてしまえば、並大抵の者は恐怖に萎縮し、とてもではないが平気ではいられないだろう。

 

 だが、それにラグナが当てはまることはなく。ラグナは恐怖を抱き萎縮することもなければ、怯え臆することもない。

 

 その真紅の瞳に揺るがぬ決意と固い意志を依然宿しながら、ライザーの問いかけに対してラグナは答えようと口を開く。

 

「それは、クラハが……」

 

 が、しかし。ラグナはその途中で言葉を言い淀ませてしまう。果たして、それは言ってしまっていいものかと憚られ、迷ってしまう。

 

 ライザーは言葉を挟まない。また先程のように黙って、ラグナの言葉の続きを静かに待っている。またしてもこの部屋に、静寂が訪れた。

 

 ──本当に、俺はそう言っていいのか……?

 

 ラグナは迷う。悩む。こんな自分にそうだと口に出す資格なんてないと、己を罵る。

 

 ……けれど、それでも脳裏を過ぎる。その姿が、その顔が。そして、声が。

 

 

 

『先輩』

 

『先輩?』

 

『先輩!』

 

『……先輩』

 

 

 

 こんな自分をそう呼んでくれる声が、脳裏で響く。

 

 ──……ああ、そうだよな。やっぱり、そうなんだ。

 

 そこでラグナは観念したように、心の中で頷く。

 

 どれだけ資格がないと思っても、もはや相応しくないと思っても。

 

 一体どれだけ言い訳をしようと、重ねようと。やはりどうしようもなく、自分はそうでいたいと、そう在りたいと思ってしまうのだ。

 

 もう、こればかりは諦めようとしても────どうにも諦められそうにない。

 

『俺のことも好きに呼べばいい』

 

 昨日の朝、己でもどうすればいいかわからない不安とどうしようもない焦燥に駆られてしまい、自分勝手にも振り回してしまったことへの謝罪代わりにと告げたその言葉を思い出しながら、妙に落ち着いた心境でラグナはライザーに答えた。

 

「クラハが俺の後輩で、俺はクラハの先輩だからだ。それ以外の理由なんて、ねえよ」

 

 それがラグナの、何の言い訳もない本音と、何の偽りもない本心。これだけは絶対に譲れない。譲らせない。

 

 たとえ当の本人から、どう思われてようと──────関係ない。

 

「…………」

 

 返答が予想外だったのか、ライザーは再び黙り込んだ。けれど顔は俯かせず、その双眸でラグナのことを鋭く睨めつけたまま。

 

 そうして数秒が過ぎた、その時。

 

「……クク、ハハハッ!」

 

 突如、ライザーが笑い出した。彼の顔半分を覆い隠す手が離れ、宙へ投げ出される。

 

「いやあ、負けです。俺の負けですよ。……わかりました。クラハの元までの案内、お願いします」

 

 浮かべている仏頂面からは想像できない程の、いっそ不気味にさえ思えてしまう満面の笑顔と。そしてラグナが知る人間の中でも、最も人格に難があるライザーの口から出たとは思えないその言葉に、ラグナは思わず驚き、狼狽えてしまう。

 

「お……おう。ま、任せとけ」

 

 ──こいつにしては嫌に聞き分けがいいな……?

 

 そのことを不審がるラグナだったが、クラハへ謝罪してくれるのならばそれでいい。と、その時。申し訳なさそうにライザーが言った。

 

「ええ、はい。あ、その前にすみません。ちょっとこっちに近いてもらえますか?」

 

「は?そんくらいのこと、別にいいけど」

 

 ライザーの妙な頼みを奇妙に思いながらも、ラグナはそう返して数歩、前に出て。言われた通りライザーに近づく────その瞬間。

 

 ガッ──目にも留まらぬ速さでラグナの腕を、ライザーが掴んだ。

 

 声を上げる間も、驚く間すらもなく。ラグナはライザーに無理矢理引っ張られ────

 

「う、わぁっ?」

 

 ────そのまま、寝台(ベッド)の上に投げ飛ばされてしまう。そして何が起こったのか、ラグナが理解するよりも前に────ライザーがラグナに覆い被さった。

 

 呆然とこちらのことを見上げるラグナのことを見下ろしながら、浮かべていた笑顔を凶悪に歪ませて。互いの鼻先が触れ合いそうになる程顔を寄せ、ライザーが言う。

 

「んな訳ねえだろ、馬鹿(バァカ)



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その身体と、そして心に

「んな訳ねえだろ、馬鹿(バァカ)

 

 浮かべていたその笑顔を、凶悪に歪ませ。こちらを心底、嘲った声音で。押し倒し、覆い被さりなりながら。そして互いの鼻先があと少しで触れ合ってしまう至近距離まで顔を近づけ、吐き捨てるかのように、ライザーはラグナにそう言い放った。

 

「……は……?」

 

 それに対して、ラグナは困惑の声を漏らすことしかできなかった。呆然と見上げるラグナへ、ライザーは顔を離してさらに続ける。

 

「クラハに謝るなんざ死んでもごめんだ。絶対に、何が何でもお断りだ。こんな俺の言葉を少しでも信じまって、いやあ残念でしたねぇ?ハハハッ!」

 

 騙したことがそんなにも愉快なのか、まるで子供のようにライザーは笑う。だがその笑いはあまりにも邪悪で、これ以上にない悪意で満ち満ちていて。とてもではないが子供のそれとは言えなかった。

 

「ライザー、お前……ッ!」

 

 ラグナは知っていた。ライザーの人間性はおよそ誉められたものではない、最低最悪なものであるとわかっていた。

 

 ……だが、それでも。

 

『いやあ、負けです。俺の負けですよ。……わかりました。クラハの元までの案内、お願いします』

 

 その言葉と、その似合わない笑顔を前に、ほんの少しばかりだけ……心を許してしまった。ライザーのことを、信じてしまった。

 

 そんな自分が、どうしようもなく不甲斐なかった。情けなかった。そして、止め処ない悔しさが込み上げ溢れた。

 

 そして、遂に────

 

 

 

「ふざ、けんな……ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんなこの野郎ッ!!」

 

 

 

 ────全てはクラハの為にと、今の今まで押し込め閉じ込め抑え込んでいた、ありったけの怒りが爆発した。

 

「お前!二年前とちっとも変わってねえじゃねえかろくでなしッ!そんなにも人を馬鹿にすんのが楽しいのか!?そんなにも他人を蹴落とすのが嬉しいのか!?こんの、クソッタレがァッッッ!!!」

 

 我を忘れ、己の内から噴出する激情に背を押されるまま、ラグナは怒声を飛ばす。

 

「これ以上つべこべ抜かさず、いいからクラハに謝りやがれ!こんの、逆恨みのクソ野郎がッ!どうしようもねえ筋違いの下衆野郎がッ!!」

 

 そのあどけなくも何処か大人びた顔を、今は獣の如く凶暴に歪ませながら。喉が裂けんばかりに、しかしそれを一切気にしようとせずに、全く加減しないでラグナは怒声を張り上げ続ける。その全てを、懸命にもライザーにぶつける。

 

「お前だけは!お前だけは絶対に許さねえ!絶対に、絶対に……絶対に一発ぶん殴ってやるからな!そんで、そんで……」

 

 そこで一旦、ラグナは深く息を吸い込み、そして一気に────

 

 

 

 

 

「絶対の絶対にお前をクラハに謝らせてやるッ!!ライザァァァアアアッッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 ────怒り、激怒、憤怒、憤慨。それらを一つに合わせて、あらん限りの力を込めて。ライザーに向かって、ラグナは叫んだ。

 

 言いたいことを言い終えて、胸を激しく上下させ、ぜえぜえと荒い呼吸を何度も繰り返すラグナに、ライザーは。

 

「……やれるものならやってみせてくださいよ。今のアンタにやれるというのなら」

 

 浮かばせていた歪な笑みが完全に消え失せた無表情で、酷く冷めた無感情の声で眼下のラグナにそう言った。それから彼は唐突に指を鳴らす。

 

 ジャラララッ──瞬間、連なった金属音を響かせながら。寝台(ベッド)の四隅から鎖が独りでに伸び、それら全てがラグナの手足に巻きついた。

 

「なっ……!?」

 

 驚いたラグナが慌てて手足を動かそうとするが、巻きついた鎖は到底解けそうにはなく。こうして瞬く間に、ラグナは寝台に寝かされたまま拘束されてしまったのだ。

 

「その鎖、ちょっと特殊な魔石を混ぜ込んだ鉄を使ってまして。魔力を通すことでこのように遠隔操作できる代物なんですよ。便利でしょう?」

 

 ろくに抵抗する暇もなく、鎖によって手足を縛られるその様を間近で見届けたライザーは。淡々とそう説明しながら、ゆっくりとラグナの身体から離れ、寝台から下りる。そしてラグナに背を向けると、まるで独り言のように呟き始めた。

 

「ずっと、ずっと昔からそうだった」

 

 やはりその声にはこれといった感情など宿っておらず、ただあるのは無機質な冷たさ。だがそれに構うことなく、ライザーとは真反対に烈火の如き怒りを伴わせ、ラグナはその背中に向かって怒鳴り声を張り上げさせる。

 

「おいライザー!お前これどういうつもりだ!?さっさと今すぐにでも解きやがれ!!」

 

 しかし、そんなラグナの怒声などまるで聞こえていないかのように無視して、彼は呟き続ける。

 

「初めて新聞の記事と載っていた一枚の写真を目にした時からずっと。そしてそれは新たな活躍と名声が伝わり知る度に、俺の中でますます強くなっていった」

 

 やはりというか、ライザーの声は依然淡々としており。どんなものにせよ、先程までは感情らしい感情が込められていたが、今やそれすらも一切感じられなくなっている。

 

 ──こんの……さっきから、一体どうしちまったっていうんだよこいつ……。

 

 次から次へと豹変を繰り返すライザーに、一時激情に身を任せたことも相まってラグナは疲弊を覚える。そんなラグナに対して、ライザーはなおも続けた。

 

「ああ、そうさ……俺はどうしようもなく憧れたんだ。世界(オヴィーリス)最強の一人、《SS》冒険者(ランカー)、『炎鬼神』……ラグナ=アルティ=ブレイズは、子供(ガキ)の頃からの、俺の永遠の憧れだったんだ。……そのはずだったんだよ」

 

 そこまで言って、バッとライザーはラグナの方へ振り返った。瞬間、ラグナは思わず息を呑んでしまう。

 

 ライザーの顔には、暗闇があった。それはゾッとする程に深く、そして昏かった。まるでこの世全てに絶望しているような────諦めを抱いているような、そんな表情を今、彼はそこに浮かべていた。

 

「教えてあげますよ。別に俺はクラハの奴に一年前の復讐をしに、今さらこんな街に帰って来た訳じゃない。もうそんなこと、俺にとってはもはやどうだっていい。……アンタですよ、アンタ」

 

 言いながら、振り返ったライザーがゆらゆらと。さながら彷徨う幽鬼のように、身体を揺らしながら一歩一歩と。ラグナを拘束する寝台の方に近づく。その様を見せつけられながら、堪らずラグナは困惑の声を上げる。

 

「は、はあ?寝呆けたこと言ってんじゃねえぞお前。昨日クラハにやったこと忘れたってのか?そ、それに帰って来た理由が俺って……一体どういうことだよ、ライザー!」

 

「忘れてなんかいませんよ。昨日のあれはついでみたいなものです」

 

 などと宣い、自分が帰って来た理由が何故ラグナであるのかについては答えず、ラグナへ歩み寄るライザー。そして彼はまたしても寝台へと上がり、ラグナのことを見下ろした。

 

「嘘だと思いたかった。嘘だと信じたかった……だが、全部本当のことだった。紛れもない真実だった。その顔も声も身体も、もうどこからどう見たって女じゃないですか。こんなの、俺の知るアンタなんかじゃない。俺の知っているアンタは……ラグナ=アルティ=ブレイズは何処かに消え失せてしまったんだ」

 

「お、お前……」

 

 もう、ライザーの様子は明らかに普通ではなかった。その金色の双眸は何処までも暗澹として、その表情はあまりにも深い絶望で満たされていた。

 

 それを目の当たりにして、ラグナは狼狽え動揺してしまう。そんなラグナに、ライザーは言う。

 

「……そう、今のアンタはラグナさんなんかじゃない。そんなはずがないんだ。……なのに、どうしてなんですかねえ」

 

 そこで唐突に、ライザーの瞳に光が宿る。だがそれは、狂人のそれであった。

 

「どうして、瞳は()()()()なんですかねえ?」

 

 狂人の様相を呈しながら、そう零すライザー。だが彼の言葉はラグナにとっては理解不能な代物で、しかしそれに構うことなくライザーは続ける。

 

「止めてくださいよ、そういうの……困るじゃないですか。なんでわからせてくれないんですか……理解させてくれないんですか……本当に、止めてくださいよ」

 

 ライザーの嘆きは一方的に、理不尽にもラグナに降りかかって。堪え切れなくなったラグナが口を開く────直前だった。

 

「だから、決めました」

 

 その声は、嫌にはっきりとした確かなもので。そう言うや否や、ライザーは腕を振り上げる。その動きに釣られて、目で追ったラグナは、ハッとせざるを得なかった。

 

 何故ならば、振り上げたライザーのその手には──────いつの間にか、一本のナイフが握られていたのだから。

 

 一体いつ、そしてどこから取り出したというのか。ラグナにはまるでわからない。わからず、ただただ恐怖だけが先行してしまう。そんなラグナに、ライザーが言う。

 

「そうすることに、俺は決めたんですよ」

 

 そして、ラグナが息を呑む間も与えず。冷たい光を乱反射させながら、ライザーは握ったそのナイフを一息に──────真っ直ぐ振り下ろした。

 

「…………ん、な……?」

 

 思わずギュッと固く閉じてしまった瞳を、恐る恐るラグナは開かせる。ラグナは確かに見ていた。己の胸へ躊躇なく振り下ろされるその切っ先を、確かに目撃していた。

 

 だがしかし、数秒過ぎても感じるはずだっただろう冷たい刃の感触と、血の流れる熱い痛みは来ず。何故かと見てみれば────確かにナイフは振り下ろされていた。振り下ろされていたが、その刃はラグナの胸元を突くことはなく。その上の服と下着を貫くだけに留められていた。

 

 そのことを不可思議にラグナが思った瞬間、目にも留まらぬ速さでナイフが動き、そして離れる。

 

 数秒遅れて────何の抵抗もなく、ラグナの服と下着が左右に断ち切られ。すぐさまその下にあったものが、少し押さえられていた反動もあってか。ぷるんと柔く揺れながら勢いよく、弾けるように外へ飛び出した。

 

「ひゃうっ?ふえぁっ!?」

 

 突如として外気に晒されたことによる冷たさと、何故こうなったことによる疑問から、ライザーの目の前だというにも関わらず、堪らず素っ頓狂な悲鳴を上げてしまうラグナ。そんな滑稽な姿を依然見下ろしながら、ライザーは静かに言った。

 

「今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと()()()()()()()()()



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お出まし(前編)

「今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと女になりますよね?」

 

 まるでそれが最善の解決策とでも言わんばかりに、そうすることが絶対で、正しいことかのように。金色の瞳を昏く濁らせ澱ませながら、ライザーはラグナに言い放つ。

 

 しかし、当のラグナはただただ困惑するばかりで。ライザーの言葉はラグナにとってまるで意味不明で、理解できずにいた。

 

 困惑と混乱が入り乱れ、正気ではない狂人と相対している恐怖と怯えからか。無意識にも震える声音で、こちらに馬乗りとなっているライザーにラグナが叫ぶ。

 

「お、お前それどういう意味だよ?大体瞳は元のままとか、身体と心とか何とか……まるで意味わかんねえぞ。本当に気でも狂ったってのか?」

 

「…………」

 

 だが、ライザーは何も答えない。彼はただラグナを見下ろすだけ。そんな様子の彼に、痺れを切らしたようにラグナは再度声を上げる。

 

「おいライザー!黙ってないで、何とか言えよっ!」

 

 しかし、それでもライザーが口を開くことはなく。ラグナは堪らず苛立って舌打ちする。が、その時ふと気づいた。

 

 ──?こいつ、俺の顔見てないんじゃ……?

 

 そう、ラグナの気の所為でなければ。ライザーの視線はこちらの顔に注がれていない。そのことに気がつき、当然ラグナはこう思う。

 

 ──んじゃこいつ、今どこ見て……。

 

 試しにライザーの視線をなぞるように、ラグナは目で追い。その先には一体何があるのかと探り、ハッと気がついた。

 

 恐らく、ライザーの視線が向いているその場所に。彼の視線の終着点にあったのは、今し方彼のナイフによって綺麗に切り断たれ、服と下着から解放された────

 

 ──お、俺の……胸?

 

 ────そう、今や外界に曝け出されてしまっている、ラグナの胸であった。

 

 ラグナの身長にしては見合わない、些か大きく育ち豊かに実ったそれは。大多数の男たちからすればこの世に二つとない極上の馳走であり。一部の女たちにとっては羨ましく妬ましい身体部分であり。

 

 そして男女共に共通するのは────思わず手を伸ばし、触れたくなるような。好きに揉み、勝手に弄びたくなるような。危険で甘美な魅力を放つ、まさに天上の楽園より齎された、人の官能を刺激する魔性の果実である。

 

 ……まあ最も当人たるラグナにとっては、心はともかく肉体的には自分は女であるという現実を知らしめる、憎たらしく忌々しい部分の一つでしかないのだが。無駄に大きい上に重たいということも、それを助長させている。

 

 そんな、ラグナからすれば己の劣等感を煽るだけの脂肪の塊を、ライザーは見ていた。その金色の瞳で、舐めるように。その鋭い眼差しで、熱心に。

 

 何処か妖しく危しい熱を帯びた視線を注がれ──ふと、ラグナに既視感(デジャヴ)が起こる。自分はこれと似たような感覚を感じたことがあると思い出す。それもついさっき。

 

 ──……あ。

 

 そうしてラグナは思い当たった。すぐさま脳裏で蘇る記憶。再生される映像。

 

 それはこの部屋に入る直前のこと。いざ扉を開けようと一歩前に踏み出し、近づいた瞬間。その時に感じた、あの感覚。背筋を駆け抜けた、あの悪寒のような感覚。

 

 同じだ。その感覚と、このライザーの視線は────同質のものだ。

 

 恐らく、いやきっと。この部屋に入ろうとしていた自分を、やっていることに差異はあったが皆一様に騒ぎ立てていた男たちは、背後から見ていたのだろう。この生理的嫌悪感と不快感を催す、まるでこちらのことを品定めしているような視線を皆揃って、背中へと送っていたのだろう。

 

 今、ライザーがそうしているように。そしてこの視線に含まれているのは────雄としての本能。雄として、目先に存在する雌を求める至極野生的で、原始的な性的欲求。

 

 ラグナは男女のそういった、彼是(あれこれ)に関しては疎い方だ。しかし、だからといってそれが一体何を意味しているのかわからない程、全くの無知という訳ではない。

 

 そういった視線を自分は今、ライザーから送られている。そのことに気づき自覚して。瞬間ラグナの心の中で芽生え、そして急激に膨らむものがあった。

 

 ──あ、うぅ……っ!

 

 それはラグナにとっては未知のものであった。胸の奥が熱くなり、その熱が全身に隈なく広がっていき。そしてそれは他者にこうして己の身体を、女である今の自分を見られることで、急加速を始めてしまう。

 

 そう、このように──性的な目でまじまじと眺められることが突然、それも猛烈に嫌に──────否、()()()()()()()()

 

 こんな感覚、初めてだった。男であった前ならば全裸を見られたとしても平気でいられたのに、女である今は裸どころか身体自体を見つめられることに対して、どうしたって堪えようのない羞恥心が込み上げて、溢れて止まらない。

 

 今になって覚えてしまったそれに身悶え翻弄されながら、ラグナは無意識にも腕を動かす────が。

 

 ジャラッ──無情にも、縛る鎖がそれを制する。

 

「ッ……!」

 

 鎖特有の連なった金属音と肌に直接感じる冷たく硬い感触に、ラグナはハッとする。今、自分は腕を動かし何をしようとしたのか。

 

 それを考えるよりも先に────ライザーがその口を開かせた。

 

「どうですか?わかりましたか?自分の身体を視姦される感覚……男に目で、犯される感覚というものが」

 

 などと言って。ライザーは今の今まで浮かべていた、何の感情も読み取れない無表情から一転、口元を酷く歪ませた意地の悪い笑みを浮かべる。

 

 こうして言われて、さらにラグナは自覚したばかりの羞恥心を煽られてしまうが。この男の思い通りに状況が進んでいることが癪に障ったのと、この羞恥心をどうにか誤魔化したくて────

 

「べ、別にどうってことねえな!わからせてやるとか理解させてやるとか偉そうに大口叩いといてこの程度かよ、ライザー?」

 

 ────という風に。つい、ラグナは平気を装った不敵な笑みを浮かべ、ライザーを挑発してしまった。

 

 そんなラグナの挑発に対して、数秒の間を置いて。ライザーは至って冷静に、軽く首を傾げ困ったようなわざとらしい声音で呟く。

 

「……そう言う割には、顔が赤くなっている気がするんですがね。それに鎖に繋がれていることも忘れて、腕を動かそうとした気もしますし……もしかして、その間抜けにも丸出しにしている胸でも、隠そうとしたんですか?」

 

 ライザーにそう訊かれ、ラグナはハッと気づかされた。彼の言う通り、自分は無意識の内に、この羞恥から少しでも逃れたいが為に、彼の目前に無様にも晒し上げているこの胸を、腕で少しでも隠そうとしたのだと。

 

 ──そ、それじゃまるで……!

 

 ()()()()()()()────図らずもラグナはそう思ってしまい。直後、それを振り払うように、語気を荒げてライザーに言い返す。

 

「は、はあ!?んな訳ねえっつうの!お前の気の所為とか目の錯覚とかに決まってんだろっ!」

 

 しかし、ラグナの声音は確実に震えていて。そこから図星を突かれ、動揺していることが見て取れて。そしてそれができない程、ライザーは鈍くはない。

 

「へえ。そうですか。……じゃあ、別にこんなことされても平気ですよね?」

 

 と、その顔に薄ら笑いを浮かべながら。ライザーは平然とそう言い返し──────目にも留まらない素早い動きで、ラグナの胸に手を伸ばした。

 

「っ!?お前、何すん────

 

 数秒遅れて、胸にライザーの手が伸ばされるのを視界に捉え。咄嗟にラグナが声を上げる。が、それよりもライザーの手がラグナの胸に到達する方が断然早く。瞬間、彼の手は無神経かつ無遠慮に、そして無造作さにラグナの胸を鷲掴んだ。

 

 ────いっ、ぁ……ッ!?」

 

 ライザーに胸を鷲掴まれたラグナが、最後まで言葉を口に出すことは叶わず。その途中で混乱と困惑入り混じる、か細く小さい悲鳴を挟んでしまった。

 

 今、ラグナは堪らず目を白黒させていた。鷲掴みにされた胸から伝わる痛みと────今まで感じたことのない、ピリッとした未知の感覚に。そしてそれは痛みと共に、ラグナの背筋を駆け上り、弱々しくも脳髄を突き刺す。

 

 ──い、今の感じ……何だっ?

 

 内心驚かずにはいられず、焦るラグナに。依然その手でラグナの胸を鷲掴んだまま、ライザーがニヤニヤとしながら言う。

 

「おや?おやおやぁ?どうかしましたか?俺はただ、アンタのだらしなくてみっともないこの胸をほんの少しばかり……乱暴に掴んだだけですよ?」

 

 と、とぼけたような。こちらのことを馬鹿にしているような口調と声音に。ラグナは無理矢理困惑と動揺を頭の隅へ追いやり、気丈になって彼に言い返す。

 

「ど、どうもしてねえよッ!お前こそ、俺の胸なんか掴んで喜んじまって……俺は男だぞ?わかってんのか?その上でニヤニヤ笑ってんだなぁ?」

 

 口端を吊り上げ、またもラグナはライザーを煽り立てる。しかし先程と同じように効果はない────かのように思えた。

 

 ほんの一瞬だけ、ライザーの顔が不快そうに歪んだ──気がした。それは本当に一瞬のことで、それこそラグナの言った目の錯覚で済まされてしまうだろう。事実、ラグナがそれに気づくことはなかった。

 

「……まあ、いいか。今はそんなこと、別にどうだっていい」

 

 ライザーはそう言うや否や────ラグナの胸を未だ鷲掴みにしている手に、力を込めた。

 

「っ!」

 

 ライザーの手に力が込められるのを察知し、恐らくまたも伝わるだろう痛みと、あの表現しようのない謎の感覚に備えて。ラグナは咄嗟に身構える。……が。

 

 ──……あ、れ?

 

 ラグナの予想を裏切り、痛みもさっきの感覚も伝わらない。そのことにラグナは呆気に取られ、拍子抜けした────直後。

 

 

 

 ずにゅにゅ、と。まるで不意打ちを仕掛けるように。ライザーの五指がラグナの胸に、ゆっくりと沈み込んだ。

 

 

 

「っふ、ぁん……っ!」

 

 瞬間、あの未知の感覚が。しかし先程とは比べようにもない程強烈に。胸を起点として、乾いた布を水で濡らすように、ラグナの全身に広がって。気づいた時には、ラグナ本人でさえも今の今まで、一度だって聞いたことのない、悲鳴にも似た甲高い、切なげな声が出てしまっていた。

 

「ッ……?!」

 

 遅れて、その声が自分の口から出たものだとラグナは自覚し。かあっと全身の熱が顔に集中し出すのを鋭敏にも感じ取る。それから堪らずラグナは焦燥に駆られ、内心大いに慌てふためいてしまう。

 

 ──い、今の声って、俺が?俺が出したのか!?なな、なんつー声出しちまってんだ俺……いやてかさっきのライザーに聞かれて……っ!!

 

 極度の困惑と混乱の最中に陥り、これ以上にない程に動揺しながらも。今先程ばかり漏らしてしまった、他人には絶対の絶対に聞かせてはならない声を、よりにもよってライザーに聞かれてしまったことに鋭く気づき、ラグナは咄嗟に視線を上げる。

 

 ライザーは────意外なことに無表情で。ラグナのあの声について、とやかく言う素振りは見られない。

 

 ──……き、聞かれて、ない……のか?

 

 そんなライザーの様子を目の当たりにしたラグナは、なけなしの希望に縋るように、そう思う。思い込む。そうでもしなければ、とてもではないが平気ではいられない。

 

 そうラグナが思い、なんとか平静を装おうとする中で。黙り込んでいたライザーが、不意にその閉ざしていた口を開かせる。

 

「それにしても、そのちんちくりんな身体には見合わないご立派な胸だ。なのに形は崩れず綺麗に整っていて。しかも……」

 

 と、ラグナにとっては苛立ちを掻き起こすことしかできない、称賛の言葉を一旦止めて。ライザーは開いた口をまたもや閉じると、ラグナの胸に五指を沈ませたまま、今度は手の平を徐々に押しつけ始めた。

 

 むにゅぅ、と。ライザーの手の平によって、何の抵抗もなくラグナの胸が押し潰され、柔軟にその形を歪ませる。その間、またしてもラグナをあの強烈な未知の感覚が襲う。

 

「っ……!……ッ!!」

 

 その感覚はゾクゾクとした刺激を伴って、ラグナの背筋を駆け抜けていく。その所為で思わず先程と同じような声を上げそうになったラグナだが、既のところで必死に唇を噛み締めて堪え、口から漏らさないようなんとか我慢してみせる。

 

 あんな声、絶対に誰かに聞かれたくない。聞かせる訳にはいかない。よしんば聞かせるとしても百歩、否千歩譲ってもその相手は──────

 

 ──って、いやいやいやいやッ!!ねえからッ!聞かせる訳ねえからふざけんなッ!!

 

 ──────無意識にも脳裏に浮かべてしまったその姿を、すぐさま振り払い取り消して。一体誰に対して怒っているのか、ラグナは心の中でそう怒声を張り上げさせる。……最も、現実のラグナは呻き声一つすら漏らさぬように、その小さな口を固く固く閉じている訳なのだが。

 

 それはひとまずさて置くとして。ラグナの胸を依然徐々に押し潰しながら、実に楽しそうに、心底愉しそうにライザーが言う。

 

「その感触も良いときた。いや本当に凄えよ。大した力を入れなくても飲み込まれるように指先が沈んだり、手の平で簡単に押し潰せるくらいの柔軟性。それでいて少しでも気を抜くと途端に弾かれそうになる、この弾力性……これぞ最高足り得る理想的な胸ってか?ハハハッ」

 

 言いながら、五指も手の平も。その全てを用いて、ライザーはラグナの胸を弄ぶ。弄びながら、彼は悦に入った声音で、何の躊躇いもなくラグナに言う。

 

「なあ、冒険者(ランカー)なんて潔くさっさと辞めて、もう娼婦にでもなればいいんじゃないか?」

 

 先程まで申し訳程度に取り繕っていた敬語ももはや使わずに、ライザーはそう提案する。だが、それはラグナの存在と尊厳を根底から徹底的に否定するもので。思ったとしても相当な度胸を持っているか、または人を人と思わない最低のろくでなしでもなければ、口には出せない程の発言で。

 

 ──こ、こいつ……ッ!!

 

 それをこうして堂々と面向かって言われたラグナは、当然激昂し声を上げる────ことはできなかった。ライザーに胸を弄ばれている今、少しでも口を開いてしまえばあの声が、到底人には聞かせられないとんでもない声が真っ先に出てしまう。

 

 幸いライザーにはまだ聞かれていないのだから、ラグナとしては聞かれていないまま、どうにか我慢し切ってこの場をやり過ごしたかった。となると自然、選択肢は一つ────こうして口を閉じたままでいるしかない。

 

 言い返したくても言い返せず、心を燻らせるラグナに。依然愉悦に満ちた声音でライザーが続ける。

 

「顔も良い身体も良い。背はちょっとばかし足りないが……いや、こういうのが趣味(すき)な奴にとっては垂涎の逸品か。まあとにかく、これならきっと高級娼館で働けるだろうぜ」

 

 人としての心を持ち合わせているとは到底思えない言葉を、ライザーは平気な顔で連ねて並べてみせる。少しの迷いもなく、ラグナを言葉の刃で切り刻む。

 

 だが、ラグナは何も言い返せない。それを絶好の機会(チャンス)とでも言わんばかりに、ライザーは続けた。

 

「そこで溜めるもん溜め込んだ男共に媚び売って身体売って、そんで黙って素直に犯されてりゃあ、楽に金を荒稼げるだろうよ」

 

 ──好き勝手、言いやがってこのクソ野郎……!

 

 本当ならば今すぐにでもこの男を罵倒したい。もっと言うのならその顔面を殴り飛ばしてやりたい。けれど、今の自分ではその両方もまともに実行できやしない。

 

 できることといえば────ライザーの顔を睨みつけることくらいだ。

 

 そんな、ささやかな抵抗しかできない自分がどうしようもないくらいに情けなくて、そして惨めで。この辛辣で残酷な現実の前にラグナは打ち拉がれる──その間すらも与えられない。

 

「ん……ッ!ぁ……!」

 

 ライザーの手が、ラグナの胸を揉み込み、捏ね繰り回す。彼の手によって簡単に潰れては歪み、ラグナの胸は幾度もその形を変える。

 

 その様はさながら、子供が粘土遊びをしているよう。……しかしその実態は、そんな微笑ましいものなどではなく。子供は大の男で、粘土は脂肪と水分が詰まった乳袋である。

 

 だが、広義に捉えるのであればこれも遊びの一種とも言えるだろう────男女の前戯、ということで。

 

 そしてそれは、唐突に次の段階へと発展(エスカレート)してしまう。

 

「……おっと」

 

 突如、わざとらしくそう声を上げて。散々ラグナの胸を揉み拉き、捏ね繰り、弄り回していたその手を、ライザーが止める。それまで絶えず、強弱をつけながら迫っていたあの感覚が止まり、ラグナは堪らず安堵の息を吐いてしまう。

 

 謂わばこれは、ようやっとラグナに訪れた休憩の時間────けれど、それはすぐさま奪われることになる。

 

「これは、これは……一体、どうしたってんだ?これ」

 

「……何、が……」

 

 何処か(おど)けた風な口調でライザーに訊ねられ、数分ぶりにラグナは口を開き、未だ感覚の余韻が残る弱々しい声で小さく呟き。見てみれば、あれ程延々と執拗に弄り倒していたラグナの胸からその手を離し、ライザーはどこかを指差していた。

 

 その先にあるものをラグナは視界に捉え────瞬間、思考が止まった。

 

「おいおい、流石にこればっかりは俺の気の所為とか、目の錯覚とかじゃあ……済ませねえよな?」

 

 瀕死にまで追い詰め、絶体絶命の状況に追い込んだ獲物を目の前にした獣のように。絶対の自信と余裕に満ち溢れた表情を浮かべながら、とびきりの悪意を伴わせてライザーはそう言った。



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お出まし(中編)

 ──え、あ?……は……?

 

 その光景を目の当たりにしたラグナは、ただただ困惑する他なかった。混乱せざるを得なかった。

 

 そんな状況下のラグナに、絶対的上位者の立場からライザーが言う。

 

「おいおい、流石にこればっかりは俺の気の所為とか、目の錯覚とかじゃあ……済ませねえよな?」

 

 口元を歪ませ、得意げになっているライザーであるが、今のラグナはそれどころではなかった。彼の発言に対して何か反応できる程の余裕など、とてもではないがありはしなかった。

 

 ライザーが指差すそれ(・・)に、ラグナは否応にも目が離せない。見たくなどないのに、ただそれ(・・)ばかりが徐々に、ラグナの視界を埋め尽くしていく。

 

 ──な、何で、こう……なって……?

 

 ラグナはわからない。理解できない。何故そうなっているのか、何故そうなったのか────その全てが、まるでわからなくて。理解不能で。

 

 認めたくはないが、決して受け入れたくはないが。他の誰のでもない、曲がり(なり)にも自分の身体であるというのに。

 

 ラグナには、どうしてそうなっているのかという、その変化(・・)の原因が、どうにも突き止められそうになくて。そんなラグナに、まるで言い聞かせるように。しかし優しさなど微塵も、一欠片程も込められていない声でライザーが言う。

 

「おっかしいなあ。俺の記憶だと、アンタのそこ……そんなんじゃ、なかったよなあ?一体全体、こいつぁどうなってやがんだあ?なあ?」

 

「……!」

 

 ライザーの言葉により、嫌でもラグナは認識させられる。やはり最初とは()()の様子が変わっているのだと、自覚させられてしまう。

 

 ライザーが指差して、指摘していたのは────ラグナの胸。もっと正確に言えば、その中央。その、先端部。

 

 そうじっくりと、詳しく眺めた覚えはないので定かではないが。ラグナの記憶によれば、己のそこは小さく、ほんのりとした薄い甘桃実(ピィチ)にも似た色合いで────だがしかし、今はまるで虫に刺されたかのようにぷっくりと腫れ上がり、そしてピンと屹立し尖りを帯びていて。その色もまた、甘桃実の色からは遠くかけ離れた、それこそ甘桃実ではなく熟れた紅苺実(ストリロベ)を彷彿とさせるような、赤い赤い真っ赤へと染められていた。

 

 もはや元の面影など微塵すらも感じられない、そのあまりの変容ぶりにラグナは面食らって、絶句して。到底何も言えそうにない。そんなラグナの様子を見兼ねたように、ライザーは言った。

 

「どうしてそうなってんのか、わからねえようなら……俺が教えてやるよ。」

 

 その言葉に親切心など、全く込められていない。込められていたのは、ひたすらな悪意だけ。追い込められるところまで、追い詰められるところまで。徹底的に、とことんそうしてやろうという、加減知らずな嗜虐心だけ。

 

 そしてライザーは、はっきりと。決して聞き逃さないよう、聞き逃させないよう一字一句、力を込めて丁寧に、ゆっくりと。ラグナにこう言った。

 

「アンタが()()()()()()()()からだ。俺みたいな男に胸を好き勝手滅茶苦茶にされて、なのにあろうことかそれでアンタは気持ち良くなっちまったっていう、紛うことなき証なんだぜ、それはよ。……ハハッ!ハハハッ!!」

 

 言い終えて、どうしようもなく。堪らなく愉快そうに大声で笑うライザー。しかし、そんな彼を不快だと思う程の余地は、もうラグナの心の中にはなかった。

 

 ──俺が、気持ち良く……なった?

 

 呆然と、ラグナはそう頭の中で反芻させる。させて、気がつけば無意識の内に閉じていた口を開き、言葉を零していた。

 

「そ、そんな訳……」

 

 だがラグナの声は何処までも震えていて、これ以上にない程に動揺していることは明白で。そしてそれを透かさずライザーは突く。

 

「そんな訳ねえって?それこそそんな訳がねえっつうんだよ!何せその有様が動かぬ証拠なんだからよお!しかもしかもだ、あくまでも俺が弄ってたのは片方だけだってのに……ビンビンじゃねえか!両方!!」

 

「ち、違う!違う、違う!俺は、あんなので……お前になんか!」

 

「違わない!何も違わないさ!男に自分の胸玩具みたいに扱われて悦がってましたって、これ以上ないくらいに一生懸命自己主張してんじゃあねえかよ!」

 

 もはや恥も外聞もかなぐり捨て、嫌々という風にラグナは頭を左右に振り、必死になってライザーの言葉を否定する。が、そんなラグナの反撃を容易く跳ね除け、負けじと彼も即座にそう言い返す。

 

 しかし、不覚ながらも。不本意ながらも、ラグナは()()()()()()()()()()

 

『アンタが気持ち良くなったからだ』

 

 ライザーにそう言われて、ああそういうことだったのかと。ラグナは納得してしまっていたのだ。

 

 ライザーに胸を揉み込まれ、捏ね繰り回され。その度に身体中に伝わっていたあの未知の感覚は、()()()()()()()()。そう、ただ方向性が少し違っていただけであれは、あれが女にとっての────性感だったのだ。

 

 男のものとはまるで異なっていた為に、ラグナは気づけなかった。自分が今までに経験したことのない感覚だと、勘違いを起こした。……けれど、ライザーの言葉によって、ラグナは気づかされてしまった。

 

 そのことが、その事実が。ラグナの心を苛み、そして蝕む。

 

 ──なってねえ。ライザーに……男に触られて、()()()()()気持ち良くなんて、俺はなっちゃいねえ……!

 

 そう、懸命に。まるで己に言い聞かせように、心の中でラグナはそう呟く。だが、それは苦しい無理な言い訳であると、ラグナ自身が理解していた。

 

 ラグナとて、全くの無知という訳ではないのだ。女は興奮すれば、その反応の一つとして胸の先端がそうなることくらい、ラグナだって知っている。

 

 そして自分のものが今そうなっているのだから────つまりはそういうことなのだ。ライザーの言う通り、もはやそれがラグナが気持ち良くなってしまったことを証明する、立派な証拠の一つなのだ。

 

 ……だからこそ、ラグナはより必死になって、否定していた。自己防衛と言ってもいい。けれど、他者の目から見ればそれは────往生際の悪い、悪足掻きである。

 

 そしてそれはライザーが求めるものからは程遠く、彼が望むものとはまるで違う。

 

 だからライザーはラグナに言う。求めるものを得る為に、望むものを手に入れる為に。

 

「まあ認めない気ならそれでもいい。後に苦しい思いするのはアンタだからな。あ、それともう一つ言わせてもらうが」

 

 ラグナがその言葉に対して疑問を持つ暇もなく、ライザーはそう言い終えた直後、ラグナの耳元にまでその口を近づける。そしてそっと、囁きかけた。

 

 

 

「我慢なんてしないで声出せよ。……()()()()()()()()()()

 

 

 

 ──ッ!!

 

 鼓膜をライザーの声にすぐ近くで震わされ、ゾワゾワとまるで擽られたような感覚と。その言葉に口から心臓が飛び出そうな程の衝撃を受けて。ラグナは真紅の双眸を見開かせて、堪らず叫びかけた────直前。

 

 

 

 ギュゥッ──ライザーの両手が左右に分かれてラグナの胸まで伸ばされ、透かさず未だ屹立を保ちその存在を主張するそれを、親指と人差し指でそれぞれ摘み、そして間髪を容れずに、ほぼ同時に押し潰した。

 

 

 

「ひっんゃああああぁぁぁ……っ?!」

 

 瞬間、人体の中でも繊細かつ敏感であるそこを、遠慮容赦なく、そんな風にぞんざいに扱われたことによる痛みが先駆け。だがしかし、それも遅れてラグナの下腹部より発せられたあの感覚が、性感が。けれどさっきまでは明らかに違う、重たさと鈍たさを携え。そんな痛みなど、あっという間に軽く呑み込んでしまう。

 

 しかもそれだけに留まらず、それは瞬く間に全身の隅々にまで伝播した。かと思うと、すぐさまドクドクとした熱へと変わって。ラグナの血を煮え滾らせ、ラグナの身体を焦さんばかりに火照らせる。

 

 だが中でも一番凄まじいことになっていたのは、ラグナの脳内である。

 

 今、ラグナの脳内では幾筋もの閃光が激しく迸り、そして弾け散って。ラグナの頭の中を白く白く、真白に染め尽くして、さらに塗り潰していく。

 

 当然そんな状態で思考など到底、まともにできる訳もなく。ラグナは過剰なまでに刺激が強過ぎるその性感のなすがままに、ただただ振り回され、翻弄される他なかった。

 

 ──これあたまへんにっ、こんなのっおれしらな……っ!

 

 無理矢理に与えられた性感を受け止めてから、数秒後。せめてもの情けとでも言わんばかりに考えることを許されたのは、そんな最低限の形を成した言葉だけで。それでも必死になりながら、ラグナは未だ真っ白な頭の中に精一杯言葉を並べてみせる。そんなラグナを眼下に見下ろしながら、感心するようにライザーが言う。

 

「おーおー。これはまた最初の時よりも断然良い感じに啼けたもんだな。ああ、言い忘れていたがこの部屋魔法で外に音が漏れないようにしてあるから、安心して心置きなく、思う存分啼けよ。そうすりゃ俺ももっと……()()()になれる」

 

 けれど、ライザーの言葉を聞ける程の余裕などラグナにはなく。ラグナは少しでも楽になろうと、性感から逃れようと無意識の内にその身を捩らせようとする。しかし、ライザーに覆い被さられている今、そんな些細で僅かな抵抗すらも許されることはなかった。

 

「とと……チッ、あんま暴れんなよ。うざってえ」

 

 忌々しそうに舌打ちした後、その苛立ちを噯にも隠すことなく曝け出しながら、ライザーはそう吐き捨て力任せにラグナを押さえつける。

 

「んぁゔ、んぅぅぅ……っ!」

 

 ほんの少しの身動きですら取ることを封じられ、だがその間にもジクジクと身体に熱が溜まっていく一方で。それを早くどうにかしなければ、今にでもラグナはどうにかなってしまいそうだった。

 

 ライザーに身体を押さえつけられている今、ラグナに許された唯一の行動は────声を出すこと。しかし、だからといって大口開いて衝動のままにみっともなく叫び散らすなんてことはラグナ自身が許せず。それでもこの性感と熱を声に乗せて口から吐き出さなければ、今すぐにでも気がおかしくなりそうなのも確かで。

 

 そこでラグナは、最低限吐息を出せるくらいまでに口を開き、辛く苦しく────それでいて何処か快感の色が見え隠れする、甘ったるい熱を帯びた呻きとも唸りとも取れる声を漏らすことで、なんとか妥協した。

 

 ……けれど、ラグナは気づいていない。ラグナは知らない。快楽に満ちて染まった、ある種陳腐であからさまな喘ぎ声よりも。男に触れられ刺激され、それではしたなくも気持ち良くなってしまい、だがそれを必死に誤魔化し隠そうと。いじらしくも懸命に唇を噛み締め、固く口を閉ざすが、それでも僅かばかりに、ほんの微かに漏れ出してしまう、くぐもったそういう声の方が。

 

 魅力的で、蠱惑的で。より男の欲情を掻き立て、劣情を催させるのだと。より強烈に、男を己の元に誘い込むのだと。

 

 そうとは気づかず知らず、瞳を閉じたまま声を漏らし身悶えるラグナ。その姿を眼下にして、己の加虐性(サディズム)を刺激されたライザーは獣の如く舌舐めずりする。

 

「んんっ……ふーっ、ふう、ぅぅぅ……っ」

 

 余すことなくライザーに見られていることも忘れて、数分は身悶えていたラグナだったが。ようやっと下腹部から発せられていた、あの堪えようもない性感が収まり。それと同時に全身という全身を蝕み侵していた熱も引いて、堪らず安堵の表情を浮かべながら、乱れに乱れてしまい荒くせざるを得なかった呼吸をなんとか落ち着かせる。

 

 そうして一分と数秒が過ぎた時、まず閉じていた瞳を開き。キッと潤んだ真紅の双眸で睨みつけながら、喉奥から倦怠感入り混じる声を、震わせながらも絞り出してラグナは言った。

 

「よくも、やりやがった……な。こんの、クソ野郎……!」

 

 回復したばかりの僅かな、なけなしの体力全てを使っての、ラグナにできる精一杯の悪態。強がり。だがそれは、当然ではあるが脆く弱々しい虚勢で、そしてそれを見抜けないライザーではない。

 

 得意げに口端を吊り上げ、内に秘めるその悪意を露出させんばかりに口元を歪めて、平然とライザーは言う。

 

「やってやったさ。手中の弱者をどうこう好き勝手にするのが、強者の特権だしな」

 

 ライザーの言い分は正当である。世界(オヴィーリス)の常は弱肉強食。それが覆しようのない絶対であり、揺るがない真理だ。

 

 しかし、確かにライザーの言い分は正当ではあったものの、それは酷く歪に、そして醜く捻じ曲がった正当性でもあった。

 

 すぐさまそのことを指摘してやりたいラグナであったが、生憎そんな余裕など持ち合わせている訳でもなく。そしてラグナには、それよりも先に、どうしてもライザーに対して問い詰めたい──というより、確かめたいことがあった。

 

 未だ僅かばかりに荒い呼吸を数度繰り返し、ラグナの体力が再びほんの少しだけ戻る。そうして、ラグナは口を開いた。

 

「……一つ、訊かせろ」

 

「何なりと」

 

 こちらを馬鹿にしていることを少しも隠そうとせずに、気取った口調で返したライザーに。

 

『我慢なんてしないで声出せよ。……最初の時みたいによお』

 

 その言葉を冷静に思い出しながら。その確かめたいことを、ラグナはライザーに訊いた。

 

「お前、聞こえてたのか?」

 

 何が、とは。ラグナは言わなかった。だが、それだけで十分で、ライザーは平然と答える。

 

「ええ、まあ。小鳥の囀りかと一瞬勘違いするくらいには、可愛らしい声でしたよ?」

 

「ッ……!!」

 

 嘲笑を添えながら、より馬鹿にする為だけの敬語でそう答えるライザー。そんな彼の全てがもはや、ラグナにとっては心底憎たらしい。

 

 込み上げる羞恥に顔を赤く染めさせながらも、唇を噛み締め、この恥辱の仕打ちをラグナは堪え忍ばんとする。けれども、まるで追い打ちをするかの如く、ライザーがさらに続ける。

 

「ちなみに何故聞こえていないふりをしていたのか……それはなあ、そうしたらアンタはどうするんだろうなって純粋に気になったからさ」

 

 ニヤニヤとしながら、心の底から楽しそうに、そして愉しそうに。ラグナを見下ろしながら、ライザーは言う。

 

「いやあ、思わずゾクゾクしちまったよ。聞こえてない訳がないってのに、聞こえていないって思い込んで。一生懸命になって声抑えて、我慢して、無駄な努力を続けるアンタの姿……最高(さいっこう)にいじらしくて健気だったなぁ」

 

 一体どうすれば、何を言えばラグナの精神を削れるのか。恐らく、そういったことで脳内を埋め尽くしているのだろう。そんな風に考えながら、せめてもの抵抗として。ラグナはライザーの言葉の刃から少しでも逃れようとした。が、その心境を見透かすように、ライザーはカッと目を見開かせ叫んだ。

 

「声は聞こえてたしそういうの全部諸々バレバレだったってのに、なあッ!?」

 

 そうして。頼まれてもいないというのに、訊かれてもいないことをベラベラと自分勝手に話し続け、話し終えて。ライザーはラグナをさらなる恥辱と屈辱の渦中へと、遠慮容赦なく突き落とすのだった。

 

 ──絶対(ぜってぇ)許さねえ……ッ!

 

 こんなろくでもない下衆に、どうしようもない男の手の平の上でまんまと踊らされたことを、一生の恥だと心に刻み込まれながら。ラグナはライザーへの憎悪を募らせる。……けれど、いくらこうして彼を恨もうとも、憎もうとも。今の自分では報復も何も、できやしない。

 

 できることといえば精々、散々募らせ溜め込んだ憎しみを乗せて、それこそ殺さんばかりに睨みつけ。

 

「…………はっ、それがどうしたってんだ。俺は別になんともねえっての。そっちこそ馬鹿みたいにほざいてやがれ、このお門違いの逆恨み野郎がよ」

 

 これ以上にない恨みをこれでもかと言葉に込めて、そう忌々しく吐き捨て、せめてもの抵抗としてライザーを謗り、挑発するだけである。

 

 たとえそれが大して効かないとわかっていても────だが、そんなラグナの予想とは裏腹に、ライザーは。

 

「……おい。おいおいおい、凄えな……こいつぁ、凄えよ。今、自分が置かれてる立場がわかってんのか?状況を理解できてんのか?その上でそんなくだらん挑発かましてんのなら……」

 

 瞬く間にその雰囲気を一変させ。そして、ゾッとする程昏い表情を浮かべすぐさまその手を動かした。

 

 ギュッ──さっきよりは弱く、しかしそれでもまだ強く、そして物を扱うかの如く乱暴に。再度ライザーの指がラグナの熟れに腫れ上がっている、少女としての風貌を色濃く残した、女と呼ぶにはまだ青いその容姿には似つかわしくない、淫靡な真っ赤に染まったその二つを挟み、そして押し潰す。

 

「ゔあ゛っ……!」

 

 その瞬間、まるで稲妻を受けたかのような衝撃が、ライザーの指によって押し潰されたそこを起点に、ラグナの全身に伝う。ビリビリとした痺れに襲われ、堪らず僅かに開かせてしまった口から悲鳴にも似た、くぐもった呻き声を漏らし。ラグナはその華奢な肩をビクンと跳ね上げさせた。

 

 そのラグナの様を見下ろしながら、低い声音でライザーが呟く。

 

「……心底腹が立つ。虫唾が走って、不愉快で仕方がない。本当に……本当《ほんっとう》にな」

 

 呟かれたライザーの言葉は、どうしようもない程に嘘偽りなく。そしてラグナに負けず劣らずの────憎悪と怨恨で満ちて、溢れていた。

 

 人が抱く中でも最上の、もはや闇よりも深く濃い漆黒の感情を携えながら。ライザーはさらにラグナを自分の思い通りに、責め立てる。

 

「第一、こんなんでそんなんになってるアンタに、何を言われたって何も響かねえんだよ。いい加減、それを理解しろよ。してくれよ。なぁ?……なあ!」

 

 うんざりとした様子でそう言いながら、押し潰したままのラグナのそれを。ライザーはグリグリと今度は磨り潰すかのように、指の腹で擦る。その刺激に、ラグナは堪らず声を上げてしまう。

 

「いぁあああ゛っ……それっ、やめぇ……ろお゛っ……!」

 

 ひっきりなしに、そして絶えず。ライザーがそうする限り、その刺激が引き起こす性感にラグナは悶絶してしまう。ビリビリと身体が痺れ続け、次第に何も考えられなくなってしまう。

 

 それがどうしようもない程に、ラグナは恐ろしくて、怖くて。だからこうして言葉を口に出せる内に、手遅れになる前に。ラグナは必死になって、ライザーに止めろと訴える。

 

 ……言ったところで、それにライザーが従う訳がないと半ば諦めながらも。だが、しかし。

 

「止めろって?ああ、わかった。じゃあ止めてやるよ」

 

 パッと。ラグナの予想とは裏腹に、驚く程あっさりとライザーは指を離し、弄んでいたそれを責め苦から解放した。

 

 ──っは……!?

 

 まさかの対応に戸惑いながらも、ようやっと辛苦に塗れた性感から逃れられたラグナは、すぐさま安堵する──────直前。

 

 

 

「なんてな」

 

 

 

 ピンッ──その一言と共に。離したその指で、ライザーは一切躊躇することなく、度重なる刺激によってこれ以上にない程に固く屹立したラグナのそれを。それも両方を勢いよく弾いてみせた。

 

「ん゛ひゅ……ッ?!」

 

 気がついた時には、ラグナは己の口から間の抜けた、素っ頓狂な声を上げていた。だが、それを恥ずかしいと思う暇も、与えられなかった。

 

 ライザーの指に弾かれ、数秒後。最初の時に感じたものと同質の、重たく鈍い性感がラグナの下腹部から込み上げて。そしてそれはまたしても、瞬く間にラグナの全身に伝播して。同じように、ドクドクとした熱に変わって。

 

 その熱が、ラグナの頭を灼く。熱に灼かれ、遅れて閃光が弾け迸る。そしてまた、ラグナは頭の中を無理矢理真白に染められ、塗り潰された。

 

 ──ま、たぁぁぁ゛ッ……!?

 

「んん゛ん゛っ、ぁぁうゔゔっ……!!」

 

 またもや今すぐにでもどうにかなってしまいそうになるのを、ラグナは死に物狂いで堪え切ろうと試みる。

 

 瞳を固く閉ざして、全身を強張らせ。まるで獣のような、それでいて他者の情欲を煽る艶かしさを孕んだ、濁った唸り声を漏らして。もう形振り構わずに、バラバラに飛び散りそうになっている意識を懸命に繋ぎ留める。

 

 現実にしてみれば、ほんの数十秒か数分のことだったかもしれない。けれど、ラグナにとっては永遠かと思える程の時間が過ぎ去り、ようやくラグナの身体から性感と、それにより併発された熱が引いた。

 

「は……ぁ……」

 

 もはやその音が聞こえない、殆ど意味を成さない、あまりにも弱々しい呼吸。そしてそんな呼吸すらもまともに繰り返すことができない程までに、ラグナは体力を消耗させられた。そんなラグナに、ライザーが言う。

 

「もう、認めてくださいよ」

 

 馬鹿にする為ではない、敬語で。感情らしい感情が込められていない、声で。

 

「言ってくれませんか。『俺はラグナ=アルティ=ブレイズじゃない。私は彼とは全くの別人の、か弱い少女です』……って。そう言ってくれれば、俺、止めますから。こんなくだらないことなんて」

 

 ライザーの要求は、ラグナの尊厳をこれでもかと貶し、踏み躙ったものだった。あまりにも身勝手に、そしてこれでもかと散々辱めておいて、彼は己の下衆を極めた最低最悪の行いを、くだらないことを宣った。

 

「…………」

 

 ラグナは、ライザーから顔を逸らし。何も言わず、沈黙する。

 

 ラグナからすれば、ライザーの要求は到底呑むことのできないものである。

 

 ……だがしかし、ライザーが言うこんなくだらないことから逃れたい気持ちも、ラグナには確かにあった。

 

 尊厳と解放。その二つを秤にかけて、ラグナは──────

 

 

 

「……クラハに、謝りやがれ……!」

 

 

 

 ──────その秤をぶち壊し、未だ涙が滲む瞳で、しかし気丈に真っ直ぐ睨みつけながら。そうはっきりと、ライザーに言い放った。

 

「…………はあ。そうですか」

 

 ラグナの言葉を受けて、ライザーは間を空けて深いため息を吐いた後、やけに抑揚のない声でそう返したかと思えば。スッと、ラグナを寝台(ベッド)に押さえつける為に下ろしていたその腰を上げ、ラグナの身体が離れようとする。

 

 そのライザーの行動はラグナにとっては不可解で、予想外で。一体どうしたのかと思った────次の瞬間。

 

 

 

 

 

「じゃあもうぶっ壊れろ」

 

 

 

 

 

 地の底、などでは到底表現し切れぬ低い声で言って。あまりにも禍々しく悍ましい雰囲気を一気に放ち。ライザーはラグナに迫り、そして。

 

 これまでのはまるでお遊びだったとでも言わんばかりの、隙など一切も見受けられない素早さに、僅かな抵抗すらも許さない容赦のなさで。

 

 左手をラグナの胸に真っ直ぐ伸ばし、過剰なまでに刺激され続け、痛々しい程に真っ赤に染まった上に肥大化してしまったその先端部を、さっきと同じように摘み、押し潰し────それから無慈悲にも抓り上げた。それもラグナの胸が吊り上がり、変形する程の勢いで。

 

 それとほぼ同時に、右手でラグナの残った片胸を乱雑に掴み、持ち上げて。ライザーは何の躊躇いもなく顔を近づけたかと思えば、もう片方と同様の有様となっているその先端部を迷わず咥え、歯を立てた。

 

 意外なことに、最初は何ともなかった。だが、それは所謂嵐前の静けさだということを────ラグナは知らなかった。

 

 ──……あ?あ、あっ?

 

 一拍置いて、ラグナを襲ったのは先端部に集中するジンジンとした激痛。だがすぐさまそれは、一瞬にして。

 

 ──ふあ゛、ひ、ぁあっ、ん゛あ゛あ゛あ゛っっっ???

 

 今までのはまるで嘘か冗談だったかと思える程の、凄まじく強烈で圧倒的な性感に呑み込まれた。

 

「〜〜〜〜ッ?!〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!」

 

 激痛を激痛として認識する間もなく、津波の如く押し寄せたその性感に、気がついた時には声にならない絶叫を、ラグナはその口から上げていた。

 

 ライザーの言葉通り、壊されてしまったように。ラグナはガクガクと全身を激しく痙攣させ。それだけに留まらず、背中を思い切り仰け反らせ、重石代わりになっていたライザーが離れたその分だけ腰を突き上げるように、跳ねさせて。

 

 そうして、抗うこともろくに許されず。あっという間に、ラグナの意識は真っ白な宙へ放り出された。



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お出まし(後編)

 止まることはないのかと、そう思わず危惧するくらいにはラグナの痙攣は続いて。しかし、物事の全てには等しく終わりがあるように、ラグナのそれも終着を辿る。

 

 もはや呻きにもならない、声と呼べない声を漏らして。身体の痙攣が止まったラグナは、そのまま完全に脱力してしまったように、寝台(ベッド)に沈んだ。

 

「……気ぃやって、気ぃ失ったか」

 

 淡々とそう独り言を呟いて。ぐったりとし、起き上がる様子など皆無であるラグナを、ライザーは俯瞰する。

 

 上から下まで。頭の天辺から、足の爪先まで。じっくりと、まるで舐め回すかのように。

 

 時間にしてみれば、数分のこと。そうして寝台に横たわるラグナの身体を眺め、ライザーは不意に片手を振り上げたかと思えば、そのまま顔へとやる。顔半分を覆い隠し、そして彼は天井を仰いだ。

 

 金色の右目と、指の隙間から覗かせる左目で。薄汚れたその天井を見つめながら、ライザーは呆然と振り返る。

 

 

 

『クラハに謝れ、ライザー』

 

『昨日のあれがクラハに対する仕返しのつもりだとしたら、ただの逆恨みだ。クラハは何も悪くない』

 

『クラハが俺の後輩で、俺はクラハの先輩だからだ。それ以外の理由なんて、ねえよ』

 

『絶対の絶対にお前をクラハに謝らせてやるッ!!ライザァァァアアアッッッ!!!!』

 

 

 

 それらの言葉を、今さらながらに振り返り。ライザーは独り言を吐き捨てる。

 

「クラハ、クラハと馬鹿の一つ覚えみたいに言いやがって」

 

 果たしてその声に含まれていたのは、嫉妬か。それとも────寂寥(せきりょう)か。それはライザー自身ですらも、わからない。

 

 顔半分を覆い隠していたライザーの手が、だらりと垂れ落ちる。それから彼は天井を見上げることを止め、再びラグナの方へとその視線をやった。

 

 感情を上手く読み取れない無表情を浮かべながら、ゆっくりとライザーは寝台に近づく。ラグナの元に、歩み寄る。

 

 その途中、またしても先程までの記憶を────ラグナに対して行った、己の仕打ちを、漠然とした思いで振り返りながら。

 

 ライザーの脳裏で想起されるのは──────あの、真紅の瞳。

 

 一体どれだけ屈辱を与えられようが。一体どれだけ恥辱を受けようが。一体どれだけ矜持を穢されようが。

 

 いくら謗られようと、いくら否定されようと。結局、変わることはなかった。それだけは、相も変わらず────元のままだった。

 

 今の自分はもはや女であると、これ以上にない程に。徹底的に教え込んでも。執拗に叩き込んでも。その瞳は元のまま、輝いていた。煌めいていた。透き通って綺麗によく見える奥底に、赤々とした炎を。鮮烈なまでに、美麗に逆巻かせていた。

 

 その勢いを少しも弱めることなく。僅かに鎮めさせることもなく。気を失う寸前の、最後の最後まで。

 

 ライザーはそれがどうにも、どうしようもない程に。受け入れられなかった。認められなかった。看過できなかった。赦せなかった。

 

 何故ならば。もし、それを受け入れてしまえば。認めてしまえば。看過してしまえば。赦してしまえば。ライザーは──────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だから、ライザーはそうする訳にはいかなかった。そうなることを、恐れていたのだから。

 

 実のところ、知らず知らずの内に。ラグナは追い詰めていたのだ。先輩として後輩を慮る気持ちから、決して屈しはしないという姿勢を。無駄と嘲笑われ一蹴された、精一杯の抵抗を。それらをああして、最後の最後まで貫き通したことで、ラグナはライザーを追い詰めていた。彼に焦燥を抱かせ、その心から余裕を奪っていたのだ。

 

 ──俺は受け入れない。認めない。看過しない。赦さない。

 

 苛立ちによって、度を越して加速し続ける焦燥に駆られながら。それを必死に抑えようと、取り繕うことを試みて。だが到底それはできそうにないと、瞬時に諦めて。

 

 過ぎ去る秒の中で目紛しく変化する激情の最中、やがてライザーは辿り着く。寝台のすぐ側。この手を伸ばせば、未だ意識を手放しているラグナに届く、その距離にまで。

 

「……」

 

 ライザーは恐れていた。憧憬の消失を。目標の消滅を。

 

 だから、絶対にそうする訳にはいかなかった。だからこそ、それを阻止する為にライザーは躍起になっていた。

 

 ライザーは激しく、熱烈に欲していた。揺るがない事実を。覆せない現実を。だからこそ、言わせたかった。

 

 

 

『俺はラグナ=アルティ=ブレイズじゃない。私は彼とは全くの別人の、か弱い少女です』

 

 

 

 その姿で、その顔で、その声で。そう言ってほしかった。そうすれば、ああそうかと。そうなんだと。

 

 今自分の目の前にいるのは、()()()()()()。間違っても、己がこの限りある人生を費やし費やし、なおも費やし続けながら。ずっと追い求め、そして追い焦がれた人ではないと。憧憬の存在(モノ)でも、目標の存在でもないと。そう、きっと思えただろうから。

 

 別人であるという事実を。その現実を。手にすることが、できただろうから。

 

 ……だが、しかし。返されたのは──────

 

 

 

 

 

『……クラハに、謝りやがれ……!』

 

 

 

 

 

 ──────という、まさに憧憬と目標そのものだった。

 

 あの時は、どうにかなってしまいそうだった。失望した()()()()、至って平静な()()()()()ので、精一杯だった。

 

 自分の憧憬が、目標が。こんな非力で、無力で、そしてか弱い存在になってしまったんだと。それが嘘偽りのない正真正銘の真実を帯びた、揺るがない事実と覆せない現実だと、眼前に突きつけられて。思考で理解させられた。

 

 追い求めた憧憬(ひと)は消失した。追い焦がれた目標(ひと)は消滅した。

 

 であれば、自分にはあと何が────残されているというのか。

 

「…………おい、おいおいおい。何だよ、まだ残ってたじゃねえか」

 

 数分黙り込んでいた後に、不意にライザーがそう呟く。呟いて、だらりと力なくぶら下げていた腕を、ゆっくりと振り上げる。

 

「けど、さあ……だからって、こんなのはあんまりだ

 ……本当の本当にあんまりだあ。もはやこれしか残されてないとか……いや、本当に……ハハ、ハハハ」

 

 気がつけば、先程まで無表情だったライザーの顔には、笑みが浮かんでいた。だがそれは狂った人間の、壊れた笑みであった。

 

「いらねえよ。こんなん」

 

 そうしてライザーは手を伸ばす。ゆっくりと、ラグナへと。ラグナの、股間部辺りの生地が色濃くなって、その上若干の湿り気を帯びている、ショートパンツへと。

 

「でもなあ、いらないからってただ捨てんのもつまんねえからなあ。どうせ捨てんなら、もう元通りに戻せないくらいに……壊す。壊してやる」

 

 そしてライザーの手が届く────────直前。

 

 

 

 

 

 バガァンッ──凄まじい音を立てて、この部屋の扉が吹っ飛んだ。扉は宙を泳ぎ、吹き飛んだその勢いのまま、壁に激突して。そして無惨にもそこら中に亀裂を走らせ、扉は木っ端微塵に砕け、その破片が床に散らばった。

 

 

 

 

 

「……やっとかよ」

 

 ラグナのショートパンツにかける直前で手を止めて、呆れたようにライザーはそう呟くと。

 

 ニイッ、と。口元を酷く歪に吊り上げ、より一層笑みを壊して。ゆっくりと、背後を振り返って。

 

「ようやっと、お出ましかよ」

 

 ()()()()()()()闖入者へ、歓迎の意を込めた言葉を投げつけた。



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燃え盛る夢と、そして壊れ始めた非日常

 豪々(ごうごう)と、炎が燃え盛っていた。臙脂色の舌を、四方八方に伸ばして。周囲全ての存在《モノ》を、好き勝手に舐め回し、ドロドロに焼き溶かしていた。

 

 轟々と、音が鳴り響いていた。空を裂き、地面を割り。建物とその他全てを、破壊する咆哮が。延々と鳴り響いていた。

 

 その様子を、その光景を、ただ呆然と眺めることしかできない。無尽蔵に広がる赤黒く粘っこい液体が、こちらの足元を濡らし、汚していく。

 

 咆哮が響く。咆哮が響く。咆哮が響く。何度も何度も、繰り返し繰り返し、幾度となく。

 

 それを、ただ呆然と見つめる。眺める。まるで、他人事のように。絵空事の、出来事のように。

 

 やがて────────

 

 

 

 ギョロリ、と。その黄色の眼球がこちらの姿を捉えた。

 

 

 

 炎が燃える。炎は燃える。消えることなく、ずっとずっと、永遠に。

 

 炎を背に、破滅が迫る。滅茶苦茶に出鱈目に四肢を動かし、地面をまるで硝子のように割って、建物をまるで紙細工のように潰して。

 

 もはや理性などとうに感じられない咆哮を轟かせ、破滅は迫る。不思議なことに、その様が酷く遅く目に移って、欠片程の現実感も得られなかった。

 

 しかし、それは錯覚だ。それに気づく時にはもう────破滅はすぐ目の前だった。

 

 炎と土埃を巻き上げながら、大木よりも太く強靭な豪腕が振り下ろされる。その先にあるのは、石も鋼も平等に切り裂く鉤爪。

 

 その光景ですら、まるで遅くて────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だらっしゃあああぁぁぁぁッッッ!!!」

 

 ────────そして、そんな声とともに。その破滅から振るわれた豪腕が、跳ね除けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ!!」

 

 目を開くと、真っ先に視界に飛び込んだのは────何処までも広がる澄み渡った青空と、いくつも浮かぶ無数の真白の雲と、見渡す限り水平線の続く水面。

 

 そんな、正直この世のものとは思えない、絶景と表しても何ら遜色のない光景を、こうして目の当たりにした僕は、ただただ困惑の声を漏らすしかなかった。

 

 ──な、何だここ?僕は今、一体どこにいるんだ?

 

 混乱に見舞われながらも、僕は無意識に周囲を見渡す。けれど上下左右どこに目を向けようが、視線を流そうが。そのどれもが、全く同じ光景しか映らない。

 

「……どうなって、いるんだ……?」

 

 もはやどうすることもできず、僕はもう呆然とそう呟くしか、他になく。しかし、そんな時だった。

 

 

 

 

 

「ヘェイ」

 

 

 

 

 

 という、そんな。良く言うのならば人の好い、けれど悪くいえば実に能天気な声が。突如として僕の背後で響いた。

 

 一体誰だと思って、咄嗟に僕は背後を振り返る。そこに立っていたのは──────一人の女性であった。

 

「え……?」

 

 白、とも違う。灰色にも思えたが、しかし濁ってはいない。透き通ってはいたが、でも透明という訳でもない。

 

 そんな、上手く言語化できない色の髪を肩に軽く触れる程度にまで伸ばして。そしてその髪と全く同じ色をした瞳を持つ、何とも言い表すことのできない雰囲気を纏った、女性が。気がつけば僕の背後に立っていたのだ。

 

 ──一体、誰……?

 

 思わず呆気に取られてしまう僕に、その女性は平然と声をかけてくる。

 

「そんな風にうかうかしてたら、手遅れになっちゃうぞ?キミ」

 

「え?は?」

 

 何の脈絡もなしにいきなりそう言われて、堪らず僕は困惑と混乱が入り混じった声を出してしまう。しかし、女性はそれを一切気にすることもなければ、咎めることもなく。お構いなしに続ける。

 

「今からその証拠を見せちゃう────そおぉうれっ!」

 

 そう言うが早いか、女性は溌剌としたかけ声と共に腕を振り上げる。瞬間、僕と女性が足場にして立っている水面が波打ち、宙へと飛沫した。

 

 一粒一粒が硝子(ガラス)玉と同程度の大きさの水滴が、瞬く間に僕と女性の周囲を取り囲む。しかも驚くべきことに、それら全てがまるで重力を無視しているかのように、宙に留まっていた。

 

「こ、これは一体、どういう……!?」

 

 世界の理から外れたその光景を目の前に、僕はただ驚きの声を上げることしかできない。そんな僕に、この非常識的な光景を作り出した張本人たる女性が、平然と言ってくる。

 

「よく、よぉく目を凝らして見てごらん」

 

 女性の言葉には、声には不思議と逆らえない響きがあった。そして気がつけば、僕は言われた通り目を凝らし、無数にある内の一つの水滴を見つめていて────ハッとした。

 

「先輩っ!」

 

 水滴にはラグナ先輩の姿が映り込んでいた。病院から飛び出し、無我夢中で我武者羅(がむしゃら)にオールティアの街道を駆け抜ける、先輩の姿が。

 

 映り込んでいるのは、その水滴だけじゃない。別の水滴にも先輩の姿はあって。そこに映る先輩は、立ち止まっていた。立ち止まって、何かの店らしき建物に歩み寄って、恐る恐る窓硝子に手を伸ばして。

 

「ッ!」

 

 泣いて、いた。その真紅の瞳から、透明な雫を────涙を、流していた。

 

 ──せ、先輩……?何で、泣いて……?

 

 僕にとってそれは、あまりにも衝撃的なことで。何故泣いているのかと、真っ白になった頭ではその理由を考えるだけで、手一杯で。

 

 だがしかし、それでも水滴の中の先輩は、遠慮容赦なく僕にさらなる光景を見せつけてくる。

 

 フッと、無意識に視線を逸らした、その先に。当然、そこにも水滴が浮いている訳で。そしてその水滴にも、先輩の姿が映り込んでいて。

 

 それを視界に捉えた瞬間────その思考さえも、跡形もなく吹き飛ばされた。

 

 もはや更地同然となった頭の中、言葉も出せず、呼吸するもの忘れて。目を見開かせ、食い入るように僕は水滴を、その中の先輩を見つめる。

 

 先輩は、陽の光も満足に届かない裏路地に進み。奥の方まで歩くと、廃墟らしい建物があって。鉄扉の前に立っていた男に話しかけ、そしてその男に連れられ先輩はその建物へと、入っていった。

 

 見るからにろくでもなく、危険極まりない場所に、あろうことか先輩は単身で乗り込んでしまった。その事実が、現実が。淡々と、僕の中に入り込んでくる。

 

 そして不意に、僕の背中に何かがのしかかった。

 

「ほらね?ほらね?」

 

 僕の背中に馴れ馴れしくものしかかった女性が、一体何がそんなにも楽しいというのか、気味が悪い程に明るい声で。まるで幼い子供のような無邪気さで、天真爛漫とした声音で。

 

「早く早く、どうにかしなきゃ。でないと、でないと」

 

 僕の首に腕を回し、僕の顎を指先でなぞり、僕の耳元にそっと口を近づけ。

 

 

 

「壊されちゃうよ?キミの大事で大切な存在(モノ)

 

 

 

 そう、鼓膜に絡みつくような声音で、女性は僕に囁いた。

 

「…………」

 

 気がつけば、僕は寝台(ベッド)から上半身だけを起こして、病室の壁を見つめていた。いつの間にか眠ってしまったらしく、窓の方に視線をやれば、もう既に日は沈み、空は黒へと染められていた。

 

 それを確認するとほぼ同時に、僕は寝台から降りており。

 

 気がついた時には、もう──────僕の身体は宙を落下していた。



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こんなことの為に(その一)

「はぁあー……かったりぃなあ」

 

 その言葉通り、実に面倒そうに。見張りの番を交代させられた男は、背後の鉄扉にもたれかかって、深く嘆息する。ちなみに彼が見張りを始めてから、既に小一時間は過ぎていた。

 

 依然面倒そうに、その男はぼやき続ける。

 

「俺ってばツイてないぜぇ。まだ子供(ガキ)だってのを差し引いても、超とびっきりの上玉だったてのによお……はあ。俺直々に男の相手の仕方ってもんを仕込んでやりたかったなぁ。そのついでに種も……あ、そういや確かあの嬢ちゃん、噂じゃあの『炎鬼神』様って話だったっけか?まあそうだろうとなかろうと、あんだけ可愛かったら関係も問題もねえよな。……ん?」

 

 その頭の中と同様の、下品極まった下卑た笑みを浮かべながら。欲望丸出しの随分と長い独り言を垂れ流し終えた、その時。ふと、男は気づいた。

 

 視線の先、日も沈みただでさえ薄暗いというのに、より深まった裏路地の闇の中に。ポツンと、他の闇から浮いている一つの影があった。

 

「何だぁ……?」

 

 それが一体何なのか、本能的好奇心に駆られた男はその正体を確かめようと、目を凝らす。しかしその影は闇に埋もれている上に、男の視力は特別良いという訳でもない。むしろ悪い。

 

 結果、その影が一体何であるか男はわからず。そして人体の生理現象の一つとして、無意識の内にその目を瞬かせた────そんな、一秒にも満たない僅かな、一瞬の内。

 

「おわあっ?」

 

 堪らずという風に、男は声を上げた。何故ならば、男の眼前に──────一人の青年が立っていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 周囲の外観から、今目の前に続くこの裏路地がそうであると、僕は判断し。そして迷うことなく、その裏路地へと足を踏み出し、先に進む。

 

 昼間でも相応に薄暗い裏路地は、夜になったことでその全てが濃く深い闇に包まれており。だが僕はそれを苦にすることなく、曲がりくねったこの裏路地を進んでいく。

 

 ──……ここだ。

 

 そうして、僕は辿り着いた。あの廃墟の前へと。しかし、中に入る為には通らなければならない鉄扉の前に、男が一人、気怠そうにして立っていた。

 

 僕がその男を見つめていると、やがてその男も僕のことに気づいたらしい。男も遠目から、僕のことを眺めていた。

 

 ──面倒だな。

 

 そう短く心の中で呟いた僕は、一歩前に踏み出し──────

 

 

 

「おわあっ?」

 

 

 

 ──────男の目の前にまで、接近した。驚きの声を上げる男に対して、僕は短く伝える。

 

退()いてください」

 

 だが、当然はいそうですかと男が僕の言葉を聞き入れる訳がなく。あからさまにその顔を不愉快そうに顰めさせて、ドスを利かせた低い声で僕に返事する。

 

「ああ?いきなり現れて退けだぁ?一体何様のつもりだ、お前さん。そっちこそ今すぐに俺の目の前から消えう────

 

 

 

 ドスッ──男の返事が望んだものではないと判断した瞬間、僕は躊躇いもなく。その無防備にもがら空きとなっていた人体の急所の一つ、鳩尾に拳を突き入れ、抉るようにして沈み込ませた。

 

 

 

 ────げッ……ご、え゛……ッ」

 

 という、呻き声を漏らす男に。僕は淡々と告げる。

 

「すみません。今、余裕がないんです」

 

 果たして、その僕の言葉が男に届いたかどうか。それはわからない。僕が言い終えるかないかの瀬戸際で、男は白目を剥き、顔を力なく俯かせてしまったのだから。

 

「……」

 

 全身から脱力したその男を退かし、改めて僕は鉄扉の前に立つ。そしてそのノブに手をかけ、握り、回そうと捻る──ことは叶わなかった。

 

 ──鍵……まあ、当たり前か。

 

 そう、目の前の鉄扉は鍵がかかっており、固く閉ざされていた。この鉄扉の鍵を持っているかどうか、それを確かめる為、失神している男の持ち物を漁る────普段の僕であれば、若干気を憚れながらも、そうしただろう。

 

 だが、さっきも自分で言った通り、今の僕はそんな心の余裕なんて、持ち合わせてなどいなかった。

 

「…………」

 

 時間にしてみれば、一秒にだって満たない、ほんの僅かな一瞬。その間に僕は判断を下し、そして間髪を容れずに行動へと移る。

 

 ──【強化(ブースト)

 

 ノブを握り締めたまま、僕は握っている手に、腕全体に魔力を伝わせた。瞬間、微かに鈍い音をさせて、僕が握り締めている鉄扉のノブが()()

 

 そしてそのまま僕はノブを、意思に従い()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギギギッバギン゛ッッッ──さながらそれは、痛々しい悲鳴。甲高い音を立てて、本来内側に開くはずのその鉄扉は。()()()()()()()()()()()()、そして耐久力の限度を超えて、そのまま()()()()()

 

「ひ、ひぃっ!?」

 

 鉄の塊である鉄扉が、まるで紙のようにいとも容易く引き千切られる様を、目の前で見せつけられた男が情けない悲鳴を上げ。次の瞬間、男の顔のすぐ横の硬い石の壁に、弾け飛んだ蝶番の一つが深々と突き刺さり、その周囲に亀裂を生じさせた。

 

「な、何だ何なんだッ!?な、殴り込みだってのかよッ!?」

 

 あまりにも現実離れした光景の連続に、男は極度の恐慌と混乱に陥ってしまうが、それでも今までの経験からか咄嗟に身構える。が、しかし。

 

「あ、あ……?」

 

 ゴォン──引き千切られ、支えを失った鉄扉が倒れ、鈍くて重い音を哀しげに響かせる。しかし、肝心の鉄扉を引き千切った者は、立っていない。そう、誰もいなかったのだ。

 

「一体、どうなって……」

 

 随分と風通しの良くなった玄関で、男は困惑気味に呟く。けれど、彼は気づいていなかった。

 

 自分の背後に、人影が立っていたことに。そのことに男は────最後まで気づけなかった。

 

 トッ──そして、無防備に曝け出していた(うなじ)に容赦のない、鋭い手刀を叩き込まれ。呻き声一つ漏らすこともできずに、一瞬にして男の意識は刈り取られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恐らく外に立つ者の合図で、内側からこの鉄扉の鍵を開けるのだろう。

 

 その役目を担っていたのだろう男が、引き千切られ倒れる鉄扉に気を取られている隙に、闇に紛れ音を消し、僕は素早くその背後に回り込んで。そして無防備だったその項に、躊躇せずに手刀を叩き込んだ。

 

 その意識を奪い取るつもりの威力で放たれた手刀を、まともに受けた男が意識を保てる道理などあるはずもなく。悲鳴どころか呻き声すら漏らせずに、男はその場で力なく崩れ落ちた。

 

 固く冷たい通路に倒れ込んだその男が、起き上がる様子は全くの皆無で。少なくとも意識を取り戻すのは数時間後だろうなと、その意識を刈り取った張本人たる僕は、まるで他人事のようにそう判断する。

 

 と、その時。ゾロゾロと、こちらに向かって来る複数人の足音を僕は聞き捉える。聞き捉え、堪らず嘆息してしまった。

 

 それから僕は天井を仰ぎ、左手で顔の左半分を覆い隠し。そして酷く陰鬱とした気持ちのままに、独り言を零す。

 

「鬱陶しいな……余裕ないって、言ってんだろ」

 

 そう零して、足音がする方へと目を向けた。



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こんなことの為に(その二)

「いやあ、楽しみで楽しみで仕方がありゃしねえぜ、全くよ」

 

「おうおうその通りだな。あんな上物にありつける機会(チャンス)なんて、そうそうねえぞ」

 

「惜しむらくはまだ子供(ガキ)ってとこか。けどそれはそれで、唆られるもんがあるなぁ。何にも知らねえ子供に色々と教育すんのも、新鮮で面白そうだ」

 

(ちげ)えねえ違えねえ。ギャッハハハッ!」

 

 などと、言い合いながら。その部屋にいる十数人の男たちは、それぞれの娯楽に興じていた。

 

 飯を食らい。酒を飲み。手札(カード)携え、賭博事(ギャンブル)────その光景は、まさに粗暴で乱暴な、傭兵気取りのチンピラである彼らに相応しい、最低最悪なものであった。

 

 同調性も協調性も、微塵だってありはしない。けれど、この後。そんな彼らでも一致団結し、一心同体となる。

 

 この後に待つ、本日最大のお楽しみ(メインイベント)の為に。

 

「けどよ、元は『炎鬼神』なんだろ?あの嬢ちゃん」

 

「ギャハハッ!んなのデマに決まってんだろ!……それにそうだったとして、今はただの子供の女。それも将来有望な美少女サマだ。だったら……やることは一つだろうがよ」

 

「まあ、確かに……それもそうだな!ガハハハッ!」

 

「でも、俺としては処女(ヴァージン)散らして、一番最初に味わってみたかったなぁ。あの初めて特有の痛いくらいの締まりが最高(サイコー)だっつーぅのに」

 

「そんなのここにいる全員が思ってるさ。けど、それを楽しめるのは頭のライザーさんだけだろ。まあお目溢しが味わえるだけでも喜ぼうぜ」

 

 という、品性の欠片もない、およそ頭を使っているとは思えない性欲剥き出し丸出しの会話が繰り広げられる、その最中。一人の男がふと気づいたように言う。

 

「おい、何か……下の階が騒がしくねえか?」

 

 そんな男の指摘に、苛ついた声で別の男が言う。

 

「下っ端のクズ共が不満垂れて愚痴叫びながら暴れてるだけだろどーせ。精鋭隊の癖に()っせえことを一々(いちいち)気にしてんじゃねえよ。たく、くだらねえ。みっともねえ情けねえ」

 

「お、おう……(わり)ぃ」

 

 ギィ──その時であった。今の今まで、閉ざされていたこの部屋の扉が、軋んだ音を立てながら、ゆっくりと僅かに開かれて。瞬間、部屋にいる全員が全員、扉の方へ目を向けた。

 

 まるで先程までの馬鹿騒ぎが全くの嘘だったかのように、部屋は静まり返っていた。そんな最中、ついさっき下の階が騒がしいと指摘した男を、それは気の所為だと叱咤した男がぶっきらぼうに言う。

 

「今日は絶対に開けんじゃあねえって……あんだけ言っておいたよなぁ?」

 

 だが、男の言葉に対して即座に謝罪の言葉もなければ、返事すらなく。そのことに、男は不愉快そうに舌打ちした。

 

「見てこいロルカ。そんで、連中……ちょっくらシメてこいや」

 

「ああ?面倒だな……わかったよ」

 

 下の階が騒がしいと指摘した男──ロルカはその言葉に従って、ゆっくりと椅子から立ち上がり。そしてまたゆっくりと、僅かに開かれるだけに留められた扉に近づき、この部屋から出て行った。

 

「ったく、白けさせんなよなあ」

 

「本当だぜ。こんな舐めた真似、二度と出来ないように再教育すっかぁ?」

 

「そうしようそうしよう。とりあえず半殺しは確定だ」

 

「これだから若ぇ衆は駄目だ。目上に対する礼儀ってぇモンがこれっぽっちもわかっちゃいねえ」

 

 という風に会話を広げながら、男たちは先程よりも若干勢いの下がった馬鹿騒ぎを再開させる──────その時だった。

 

 

 

 バァンッ──不意に、またしても部屋の扉が。しかし、今度は思い切り開かれて。全開となると同時に、部屋の外から何か大きな物体が投げ込まれた。

 

 

 

 突如として部屋の中に投げ込まれた()()は、宙を舞い。そして部屋の中央へと。今賭博(ギャンブル)が行われ、四人の男たちが囲むテーブルへと落下する。

 

 言うなれば、それは合唱。木製のテーブルが砕ける音、皿や酒瓶が割れる音。それに混じって微かに聞こえる、肉が切れ骨が折れる、生々しい音。そんな複数の音が大音量で重なって、部屋に響き渡った。

 

 テーブルの上にあった山札が宙へバラ撒かれ、ヒラヒラと花弁の如く舞い落ち、もはや残骸となったテーブルを下敷きに、すっかり伸びてしまっている()()────先程部屋を出たばかりのロルカの上に積み重なった。

 

 今この部屋にいる、ロルカを除いた十数人の男が。全員、全開となったままの扉の方へ顔を向かせ、睨めつける。

 

 そうして数秒後────スッと、扉の外から足が伸びて。何の躊躇もなく、部屋の床を踏み締めた。

 

「……おいおい。マジかよ。本当に来やがった」

 

「流石はライザーさんだな」

 

「ああ。全くだぜ」

 

 薄暗い通路の影から現れた、その姿と顔を見て。そう口々に男たちが言う。言って、誰しもがその口元を悪意で吊り上がらせた。

 

「丁度賭博には飽き飽きして、気分転換がしたかったとこだ」

 

「やっぱり、若ぇ衆は駄目だ駄目だあ。こうなったら礼儀ってヤツをとことん、死ぬ程その身体に叩き込んでやる」

 

「半殺しにしてやんよお。イヒヒッ」

 

 異口同音────皆言うことは違えど、その言葉に込められているものは、皆同じ。

 

 悪意と暴意と、そして殺意で満ち満ちたこの部屋に、けれど足を踏み入れたその者は──────

 

 

 

 

 

「……先輩を、返してください」

 

 

 

 

 

 ──────一切臆することなく。ただ淡々と、男たちにそう言った。



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こんなことの為に(その三)

「ぐえ゛ッ……!」

 

 何の警戒心もなく、部屋から出てきた男を、僕は背後から腕を回し、その首を絞め上げる。突然襲われたが、傭兵崩れと言ってもそこは一端の戦士と評すべきか。混乱しながらも、必死に僕の腕から抜け出そうと男はもがいた。

 

 けれど、その抵抗は無駄に終わる。僕の腕は完全に入っており、部屋にいる他の仲間が助けに来ない限り、男がこの絞め上げから抜け出すのはほぼ不可能だ。

 

 そうして十数秒後、徐々に男の抵抗は弱々しくなって。そして不意にその身体からフッと力が抜けたかと思えば、ピクリとも動かなくなり、男は完全に沈黙し大人しくなった。

 

 ──気絶(おちた)か。

 

 心の中で冷ややかにそう呟いて、僕は男の首に回していた腕をそっと外す。男の意識はしばらく戻りそうになく、僕はそんな男の首を無造作に掴み、そして。

 

 バァンッ──さっきとは違い、部屋の扉を蹴って開き。一気に全開となったと同時に掴んでいた男を、ゴミ捨て場へゴミ袋を放り捨てるように。僕は何の躊躇いもなく乱雑に部屋の中めがけて投げ込んだ。

 

 気を失ったままの男の身体が、宙を滑るように舞い。そして重力に引かれて中央の、酒瓶と肴が乗った皿と、そして大量のトランプの山札で満載のテーブルへと落下した。

 

 派手な破砕音が重なり合って、部屋に喧しく響き渡る。それを聴きながら、僕は平然と扉の外から足を伸ばし、そしてこの部屋に床を踏み締めた。

 

 部屋はすっかり静まり返っていた。先程まで馬鹿騒ぎをしていたというのが信じられない程の静寂で、今や満たされ、そして満ちていた。

 

 僕の身体に、無数の視線が突き刺さる。そのどれにも、はっきりとした確かな────殺意が込められていた。

 

「……おいおい。マジかよ。本当に来やがった」

 

「流石はライザーさんだな」

 

「ああ。全くだぜ」

 

 男たちが言う。その口元が悪意で歪み、吊り上る。

 

「丁度賭博には飽き飽きして、気分転換がしたかったとこだ」

 

「やっぱり、若ぇ衆は駄目だ駄目だあ。こうなったら礼儀ってヤツをとことん、死ぬ程その身体に叩き込んでやる」

 

「半殺しにしてやんよお。イヒヒッ」

 

 そう口々に、好きに勝手に御託を並べる彼らに。僕はただ冷静に、ただ冷淡に。けれど決して聞き逃されることのよう、一字一句丁寧に。

 

「……先輩を、返してください」

 

 そう、懇願した。少なくとも、僕はそのつもりで彼らにそう言った。

 

 だが、しかし──────

 

 

 

「寝言は死んでほざやけやァッ!」

 

「まあそもそも死んじまったら何にも言えねえけどな!」

 

「ライザーさんの手を煩わせるまでもねえ!今ッ!ブッ殺してやんぜぇえええッ!!」

 

 

 

 ──────彼らはそうとは受け取ってくれず。皆口々にそう叫ぶや否や、僕に襲いかかった。

 

 そんな、迫り来る男たちを、僕は対岸の火事のように平然と一瞥し。そして軽く小さな嘆息を一つした。

 

 そして────僕は素早くその場に()()()()()()()。瞬間、前に出ていた三人の男たちがどよめく。

 

「あァ!?」

 

「何!?」

 

()()()()()()ッ!?」

 

 実際には僕はこの場から消えてなどいない。僕はただ、その場でしゃがんだだけだ。そう、今一番僕に接近している三人の男たちの視界に映り込まない程、素早くしゃがんだだけ。

 

 だが、そもそもその動きを捉えることができていないこの男たちには、自分たちでそう言った通り────一瞬にして僕がその場から消えたように見えていたのだ。

 

 横から別の男が、三人の男たちに鋭く言い放つ。

 

「馬鹿野郎共!下だ!」

 

 時間にして、それは僅か一秒程度────けれど、僕にとってはそれで充分だった。

 

 短く鋭く、息を吐き出して。僕は両足に力を込め、床を蹴りつけその場から駆け出した。

 

 一秒が過ぎる直前────僕の前に立ち塞がる三人の男たちが、未だに眼下の僕に気づく様子はなく。それを下から冷静に眺めつつ、さらに床を蹴って加速。それと同時に前方へ真っ直ぐに、腕を伸ばした。

 

 目標は真正面。真ん中に立つ、男。一先ず僕は彼に狙いを定めた。

 

 一秒経過────こうして接近され、既に間合いに入られてしまったというのに、それでもまだ僕に気づかない真ん中の男の顎めがけて。その真下から、体重、速度、勢い全てを余すことなく乗せ切った掌底を、僕は一切躊躇うことなく打ち込んだ。

 

「ぶゔぇっ」

 

 という、珍妙な声に続いて。何か硬いものが砕ける音と肉が潰れる音が生々しく響いて。僕の掌底を無防備に受けたその男は、その場から真上に向かって()()()()()()()

 

 バキャッ──打ち上がった男の頭が天井を割って貫き、首から肩までが天井に突き刺さる。

 

「……え」

 

「は……」

 

 プラプラ、と。だらんと力なくぶら下げた手足が揺れるその男が、天井から抜ける様子は皆無で。それを残った二人の男は呆然と、まるで意味不明とでも言いたげに見上げており。

 

 そんな二人の間を駆け抜けた僕は、続け様すぐ近くのテーブルの上にあった酒瓶を手に取る。そして手に取ったその酒瓶で────立ち尽くす男の側頭部を思い切り殴りつけた。

 

 パリィンッ──男の側頭部に酒瓶が衝突し、儚い音を立てて酒瓶が割れ砕け、まだ残っていた中身が男にぶち撒けられた。

 

 血が混じり、薄い赤に染まった酒が男の服を濡らす。だが、服を濡らされたことに対して、男は憤ることは許されなかった。何故ならば、既にもうその意識が途絶えていたのだから。

 

 酒瓶の直撃を側頭部に受け、声すら出せずに気を失い戦闘不能となった男の身体が、グラリと揺れてそのまま倒れる────前に。僕は割れ砕けた瓶を放り捨て、再び空いたその手で、咄嗟にその男の胸倉を引っ掴む。

 

 二秒経過────引っ掴んだ勢いそのままに、瞬く間に仲間が二人倒され、こうして健全で無傷な敵が眼前に立っているというのに、もはや完全に思考停止してしまって立ち尽くしている残った男めがけ、僕は引っ掴んだ男を()()()()()

 

「お……うおあっ?」

 

 ただ立ち尽くしているだけの男が、僕に投げ飛ばされた男をまともに受け止めることなんて、到底できるはずもなく。投げ飛ばされた男諸共に、そんな情けない声を上げながら男は背後にあったテーブルに倒れ込む────直前。とっくに距離を詰め終えていた僕は、足を大きく振り上げ、そして。

 

 三秒経過────僕は躊躇わず、けれど背骨には当てぬよう。未だ意識の戻らない投げ飛ばした男の背中に、足を振り下ろし踵を突き刺した。

 

 パリパリパリバキャッメキミシバキバキィッッッ──酒瓶と皿とその他諸々が悉く割れ砕け散った音。テーブルと床の破砕音。それら全ての破壊の音が、渾然一体となって部屋に響き渡る。

 

 酒瓶の直撃を受けた男はもちろんのこと、その上に乗っていたもの全てとテーブルそのものが木っ端微塵に吹き飛び、どころかその下の床ですら貫通する程の衝撃をその身に受けた、残った男が無事で済むはずもなく。二人がその場から立ち上がる様子は全くと言っていい程に、皆無であった。

 

 四秒経過────迫り来た三人の男を返り討ちにした僕は、その場でざっと周囲を見渡す。

 

 ──あと、十二。

 

 部屋に残っている男の数を確認して、僕は億劫気味になりながらも、心の中でそう呟いた。



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こんなことの為に(その四)

 ──あと、十二。

 

 周囲をざっと見渡し、この部屋に残っている男の人数を確認して。僕は内心でそう呟いて、気怠さと鬱陶しさが入り混じった感情を注ぎ込んだ嘆息を、静かに吐き出す。

 

 今、僕の頭の中は先輩のことで一杯一杯だ。他のことなんて、到底考えられそうにない。

 

 早く先輩の元に行きたい。なのに、どうにもこうにもいかない。そんな理不尽極まる現実を前に、募る苛立ちは止まることを知らず、さらに加速していく。

 

 ──(クソ)が……。

 

 口には出さず、心の中でとはいえ。その所為で、普段から出ないよう気をつけているガラの悪い、乱暴で汚い言葉を僕は使ってしまう。と、その時。

 

「やりやがったなてめえ!」

 

「調子に乗るんじゃあねえぞこのボンボンがぁあッ!」

 

 一応、彼らもそれなりの場数は踏んでいるらしい。ものの数秒で仲間三人を()されたというのに、それでも勇敢に吠えながら新たに二人の男が拳を振り上げ、僕に襲い来る。

 

 ……けれど、今の僕にはその行為は非常に疎ましく、募る苛立ちを不愉快にも刺激し、助長させるものでしかなかった。

 

 右と左。僕を挟むようにして、拳は迫る。それをまるで他人事のように眺め、僕はその場から一歩退いた。

 

 そして流れるように、右の男へと接近し。続け様、その後頭部を無造作に掴む。この一連の行動を終えるのに、一秒もかからなかった。

 

「んなッ!?」

 

 僕が視界から消えたことを、今になって気づいた左の男が声を上げ。それとほぼ同時に、僕は掴んでいた男の顔を無理矢理前に押し出し、迫っていた左の男の拳へと。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 メキャ──掴んでいる右の男の顔に拳がめり込み、左の男の手首があらぬ方向とあらぬ角度に折れ曲がる。

 

「いぎゃあっ!?」

 

 左の男が悲痛な叫び声を上げ、無理に折り曲げたことで痛めた手首を残る片手で押さえて、その場から跳び退く。

 

 一方、己の意思とは無関係に顔面に拳をめり込ませた右の男は、声を上げることすら叶わない程に悶絶しているようだった。しかしそうなるのも必然、当然。何故ならそうなるように、普通に受けるよりもさらに痛むように、僕が顔面を押しつけたのだから。肝心の顔面が見えないのでそうとは断言できないが、恐らく顔の骨は歪み、鼻は砕け、歯も五、六個は抜けていることだろう。

 

 そんな惨状を軽く想像しながら、僕は掴んでいるその頭を無理矢理下げ。

 

 ゴチャッ──遠慮容赦なく、その顔面に膝を打ち込んだ。男の顔面と僕の膝が衝突すると同時に、さらに男の頭を下げさせて。

 

 ビクン、と。男の身体が一瞬痙攣したかと思うと、そのままピクリとも動かなくなった。そんな男の頭を、僕はパッと離す。

 

 重力に従って床に沈む男を背後に、未だ手首を押さえて痛がる男に僕は歩み寄る。

 

「ぐ、ッ……この糞や────

 

 ドス──呑気にもこちらのことを睨みつけ、恐らく罵りの言葉を叫ぼうとしたその男の鳩尾に。僕は鋭く貫手を突き込み、そしてさらにグッと深く、指先を抉り込ませた。

 

 ────ぁ゛ッ……ぅ゛ぇ゛……ッ」

 

 目玉が飛び出るのではないかと、思わず危惧してしまう程に。男は目を限界まで見開かせ、その口から舌を突き出し。そして、グルンと白目を剥いたかと思えば、そのまま意識を手放した。

 

 そのまま僕に向かって倒れ込んで来ようとするその男の身体を、僕は力任せに突き飛ばす。突き飛ばされた男の身体が、僕に迫っていた男にぶつかり、その足を止める。

 

「くっ、邪魔だ!」

 

 慌てて意識のない男を退かそうとする男を尻目に、僕はすぐ側のテーブルの上にあった灰皿を手に取り、そのまま背後を振り向きながら、勢いをつけて投げ飛ばす。

 

 パキャッ──音もなく、背後から忍び寄っていた別の男の額に。宙を滑るように飛んでいた灰皿が直撃し、芸術的なまでに砕け破片を飛び散らせ。それに続くようにして、額から一筋の血を流しながら男が崩れ落ちる。

 

「いい加減にしやがれこの小僧めがァッ!!」

 

 ようやっと男を退かしたらしいその男が、怒鳴りながら僕に襲い来る。しかし、その動作も何もかもが僕にとっては遅過ぎて、振り上げているその拳が届く距離にまで近づく頃には、その横面に振り返った勢い全てを乗せ切った、僕の回し蹴りが炸裂していた。

 

「がッ」

 

 男がそんな短い悲鳴を上げたが、果たしてそれは僕以外に聞き取れたのかは定かではない。何故ならば、僕の蹴撃を受けたその男は。

 

 バキャッッッ──ろくな抵抗も許されず、すぐ側にあったテーブルに叩きつけられ、割って砕いて。それだけに止まらず、床にまで到達し、そして突き破ったのだから。

 

 床に首から上だけを突き破らせて、男はピクピクと全身を力なく震わせることしかできない。そんな彼を見下ろして、僕は心の中で淡々と呟く。

 

 ──八。

 

「こんの、若造が……!」

 

「黙って見てりゃあライザー傭兵団、精鋭隊である俺たちの面目潰しやがって」

 

「ああ。調子に乗り過ぎだ。こうなったら……おいお前ら!得物だ得物出せ!本気で殺るぞ!!」

 

 一人の男はそう言うや否や、その腰に下げていた剣の柄を握り、そして鞘から抜いてみせる。他の男たちも同様に、各々の得物を抜く。

 

「今さら泣いて命乞いしようが絶対(ぜってえ)許さねぇ……ブチ殺してやるよおぉッ!」

 

「バラバラにしてやんぜ!!」

 

「血祭りだぜヒャッハァッ!!!」

 

 異様な程に士気を昂らせ、男たちは意気揚々に叫ぶ。そんな彼らのことを、僕は冷めた眼差しで眺めていた。

 

 ……そもそも、男たちは最初から間違えている。戦闘における、最も基本的で初歩的で、そして重要なことに対して、致命的な間違いを犯している。

 

 それは────この場所だ。こんなテーブルと椅子だらけの、戦闘においてただただ邪魔でしかない障害物だらけの場所を戦場にするなど、無理がある。その障害物を苦にもせず、むしろ戦闘に利用する訓練でも積んでいたのなら話はまた別だったが、こんな傭兵気取りの、兵士崩れのチンピラ共がそんな訓練を積んでいる訳もない。

 

 だから数の利を活かして、僕を取り囲むこともできない。取り囲んで一斉に飛びかかろうとしても、周囲のテーブルや椅子の所為で、精々二、三人でしか同時に僕に襲いかかれない。そして僕は二、三人程度だったら問題なく対処できる。

 

 現にさっきの男たちは僕との間合いを詰める際、テーブルや椅子が邪魔になってそれが数瞬遅れていたし、それが致命的な隙となってしまっていた。

 

 明らかに質が足りていない。明白に練度が足りていない。この程度が精鋭隊というのだから、呆れてしまう。

 

「うらァァァ!!」

 

「おらァァァ!!」

 

 得物たる、一般的に多く出回っている長剣(ロングソード)を振り上げ、無駄に威勢の良いかけ声と共に二人の男が僕の方に駆ける。その馬鹿正直で愚直なまでに真っ直ぐな突進に対し、僕は冷ややかな視線を注ぎつつ、一気に────二人の前へと()()()()

 

(なぁに)ィ!?」

 

「血迷ったかッ!?」

 

 僕の行動に驚きつつも、咄嗟に二人は剣を振り下ろす────が。

 

 ガキン──二人の剣が交差し、それぞれの剣身は僕の身体を斬りつけることなく、あらぬ方向に逸れてしまった。

 

「んなっ、邪魔すんなこの野郎!」

 

「はぁ!?それはこっちの台詞だ馬鹿野郎!」

 

 互いが互いに妨害の原因が平等にあるというのに、その責を片方に一方的に(なす)りつけようとする二人。だがしかし、それは少なくとも無傷健在の敵を目前にしてすべき行為ではない。

 

 だから、こうして。

 

「んぎっ」

 

「おごっ」

 

 両方僕に頭を掴まれ、互いの顳顬(こめかみ)と顳顬を衝突させられてしまうのだ。

 

 その手から長剣を手放し、揃ってその二人は床に沈む。

 

 ──六。

 

 心の中でそう呟くと同時に、僕は正面を向いたまま足でテーブルを引き寄せる。すると僕の背後から狼狽の声が上がった。

 

「うおっととっ?」

 

 恐らく、背後から斬りかかろうとしたのだろう。僕は背後に迫るその気配に感づき、テーブルを使いその攻撃を阻止する。

 

「この糞野郎めがああああああッッッ!」

 

 という、激昂の咆哮を上げながら。テーブルや椅子を跳ね除けながら男が突っ込んで来る。そして振り上げていた得物の長剣を、僕に向かって振り下ろす────その直前。

 

 僕は床に転がっていたまた別の男の首根っこを掴み持ち上げ、咄嗟に前へ突き出し、まるで盾の如く構えた。

 

 ザクッ──瞬間、振り下ろされた剣の刃は僕が構えた男の身体を滑り、直後バッと鮮血が噴き出し宙を赤く染める。

 

「ぎゃああああっ!いでええええっ!?」

 

「あ、やべ」

 

 肉盾にされた男の悲鳴に、仲間を斬ってしまったその男が呆然と呟き、剣を振り下ろしたままその場で立ち尽くしてしまう。

 

 そんな僅かな一瞬の隙も、僕にとっては格好の瞬間。掴んでいた男を乱雑に投げ捨て、一息で立ち尽くす男との間合いを詰め、そしてその首筋に手刀を叩き込む。

 

 直後、先程の男たちと同様にその男も床に倒れ込んだ。

 

 ──五。

 

 呟き、すぐさま僕は背後に手をやり、人差し指と親指で振り下ろされた剣の腹を摘み、その振り下ろしを止めた。

 

「いっ!?」

 

 僕が引き寄せたテーブルを退かし、僕との間合いを詰め、僕の背中へ剣を振るうのに。数秒もかかったその男が驚愕の声を上げる。そんな男を他所に、僕は剣身を摘んでいる指に力を込め、軽く捻った。

 

 パキンッ──妙に澄んだ音が響いて、剣身の少し半分が折れる。そして僕は折ったその剣身を、手首の力だけで後ろに投擲した。

 

「ぎゃあっ」

 

 そんな短い悲鳴の後に、テーブルと椅子を巻き込んで何かが倒れる音が部屋に響き渡る。視線だけ背後に向けて見てみれば、少し半分に折れた剣身が肩に突き刺さった男が倒れていた。

 

 ──四。

 

 視線を前に戻せば、四人の男たちは剣を構えていた。しかしその切先はどれも情けなく震えており、どころか全身すらもガタガタと揺らしていた。

 

「このバケモンが……!」

 

「こ、こんなの聞いてねえぞ!おい!?」

 

「これが《S》冒険者(ランカー)だってのか……?じ、実力が違い過ぎる……!」

 

「おま、お前ら!びビビってんじゃねえよ!ここで逃げたら、ライザーさんに殺されるぞっ!?や、やるしかねえッ!!」

 

 最初の強気な態度は、もはや完全に消え失せていた。彼ら四人はもう使い物にならない。全員が全員、恐怖に憑かれ、呑まれ、支配されてしまっている。

 

 そんな男たちに、僕は平然とこう告げた。

 

「別に僕はあなたたちを潰しにここへ訪れた訳じゃありません。最初にも言った通り、僕はただ先輩を迎えに来ただけなんですよ。……だから、先輩を返してくれませんか?」

 

 僕とて、これ以上無駄な労力をかけるのはごめんだ。だから彼らに対し、降参を持ちかけた。彼らだって、わざわざ痛い目には遭いたくないだろうし、その恐慌ぶりから簡単に僕の言葉に頷く────そう、思っていた。

 

「ふっざけんなド鬼畜野郎!言っただろ!?ここで逃げたら、ライザーさんに殺されるってなぁあッ!!」

 

 しかし、そんな僕の考えに反して、男たちが下した判断は抵抗の続行で。一人がそう叫び終えると同時に、全員が剣を振り上げ僕に立ち向かってくる。僕が散々利用した為にこの部屋にあったテーブルやら椅子やらは殆ど壊れてしまっていて、今では彼らでも容易に立ち回れるだろう。

 

 テーブルだった残骸と椅子の破片を蹴散らしながら、まるで纏わりつくその恐怖を誤魔化すように雄叫びを上げて、その手で得物である剣の柄を縋るかのように必死に握り締めながら、四人の男たちはこちらに駆けて来る。

 

 そんな彼らに対して、僕は堪らず眉を顰めた。

 

「糞が」



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こんなことの為に(その五)

 バキィッ──何の感慨もない、まるでただの流れ作業の一つのように。僕は掴んだ男の頭を一切躊躇せず、遠慮容赦なく床へ叩きつける。男の後頭部と床が激突し、周囲に細々とした木材の破片と、鮮血が飛び散った。

 

「……」

 

 スッと、僕は掴んでいた手を離す。男は、どうにかその意識をまだ保っていた。

 

「こ……ぞ、ぅ……めが……!」

 

 息絶え絶えに、必死になって男はそう言うと。未だ握り締めて離さないその剣を振るう────その直前。

 

 ダンッ──僕は足を振り上げ、男の顔面を踏みつけた。

 

 カラン、と。ようやっと男の手から離れた剣が床に落ちて、音を立てる。数秒、僕はそのまま立ち尽くして、それからゆっくりと周囲を見渡した。

 

 部屋にいた十五人の男たちは、皆例外なく床に倒れていて、伏していて。誰一人として立っている者は、いない。

 

 死んではいない。男たちはその見た目通り頑丈だったようで、辛うじてその意識を失うだけに留まっている。……まあ、今後の活動に些か支障を来すかもしれないが。

 

 ……異様な静けさが、部屋を包んでいる。それを作ったのは、僕だ。他の誰でもない、僕だ。

 

 暴力で痛ぶり、捩じ伏せ、踏み躙って。僕がこの惨状を、光景を作り出した。その事実と現実を受け止め、僕は拳を握り締める。

 

 そうして、誰に言うでもなく。やるせない虚無感を混ぜて、無意識の内に僕は呟いていた。

 

「違う……こんなことの為に、僕は……」

 

 が、しかし。僕はその先までは呟けなかった。何故なら、この部屋にはまだ────()()()()()()()()()()()。そしてその一人は、ゆっくりと。部屋の奥からその姿を、僕の前に晒し、僕に見せた。

 

「……こいつはまた、随分と派手に暴れ回ってくれたな」

 

 現れると同時に、まるで愚痴を零すかのようにそう言う者に、僕もまたゆっくりと顔を向けた。

 

 そこに立っていた者は────旧知の人物だった。

 

「やはりお前は疫病神だ。不幸を呼び寄せ、そして撒き散らす。そんな、人の(なり)を真似た害意そのものだ。お前は災いなんだ……クラハ=ウインドア」

 

 そう言って、まるで親の仇でも見るかのような眼差しを。まるで人類の敵だと思っているような顔を。その者は、嘗ての冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の同胞にして、同輩にして、そしてただ一人の同期であった男。

 

 男────ジョナス=ディルダーソンは、その二つを僕へと向ける。

 

「…………」

 

 そんなジョナスを、僕は無言で見つめた。何も言わず、ただ黙ったまま、彼の眼差しと顔を受け止めた。そんな僕を彼は快く思わなかったのだろう。

 

 不意にジョナスがその目を見開かせ、僕に怒鳴った。

 

「その口閉じてないで、少しくらいは何とか言ったらどうなんだ!?」

 

 ……けれど、それでも。僕は口を開かなかった。……否、開けなかった。だってジョナスの言葉はこれ以上になく的を射た、どうしようもない程に正しいものだった。

 

 押し黙るしかないでいる僕を、ジョナスは数秒見つめ、それから痺れを切らしたように、忌々しそうに舌打ちをした。

 

「相変わらずも相変わらずだな。お前は」

 

 この上ない苛立ちを込めて、そう言うジョナス。そこでようやっと、僕は口を開いた。

 

「先輩を返してください、ジョナス。……できれば僕は、君を傷つけたくない」

 

 これは紛れもない僕の本心だ。本当に、僕はジョナスを傷つけたくはない。……しかし、彼の返事は大体予想できる。予想できてしまうから、一層鬱屈とした気分が心の内側に溜まっていく。

 

 僕の言葉を呑み込み終えたジョナスが、まるでそうするのが当然だとばかりに、返事する。

 

「この奥だ。そこにお前が求めて止まない、望んで仕方がない存在(モノ)はいる。返してほしいなら、勝手に持ってけよ。……俺も勝手に、それを邪魔する」

 

 そう言い終えるや否や、ジョナスは腰に下げている剣の柄に手を伸ばし、掴み。

 

 そして、鞘から抜くことなく投げ捨てた。

 

「俺は許さない。決して、絶対に」

 

 言いながら【次元箱(ディメンション)】を開き、そこに無造作に手を突っ込み、ジョナスは引っ張り出す。

 

 彼の手に握られているのは、一振りの剣。先程まで僕が相手をしていた精鋭隊やジョナスが投げ捨てた得物とは違い、一流の鍛冶師に打たせたことが容易に窺える、一級品。量産物とは何から何までまるで違う、特注品(オーダーメイド)の一振り。

 

 それを構え、その切先を迷うことなくこちらに突きつけ。ジョナスは僕を鋭く睨めつける。

 

「お前がライザーさんをああさせた。お前がライザーさんを歪ませ、狂わせたんだ。今回のことは全てお前が原因なんだ!故に俺はお前を許しはしないッ!ウインドアァアアッ!!」

 

 射殺すようなその眼差しと固く揺らぐことはないその言葉を、僕は確と受け止め。その上で深く息を吸い、そして長いため息を一つ漏らす。

 

 そうして、僕はただ一言。ジョナスに告げた。

 

「わかりました」

 

 それとほぼ同時に、ジョナスは床を蹴りつけ、その場から一息で僕との距離を詰め終え。そして────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バガァンッ──部屋の奥にあった扉には、鍵がかかっており。それを確認すると全く同時に、僕は躊躇せずその扉を蹴破った。

 

 凄まじい音と共に扉は吹っ飛び、壁に叩きつけられ四散する。その破片が撒き散らされる最中、僕は一切迷わず部屋の中へと飛び込む。

 

 飛び込み、そして。真っ先に視界に映り込んだその光景に、僕は一瞬にして頭の中を真白に染められた。

 

 ──は…………?

 

 最初、自分は質の悪い、それこそ悪夢でも見せられているのかと思った。認めたくなかった。受け入れたくなかった。

 

 けど、それは────覆しようのない事実と、紛れもない現実に他ならなかった。

 

「……やっとかよ」

 

 歓喜に打ち震えるその声が、僕の鼓膜を撫で回す。けれど、それに対して僕は、何も考えられないでいる。何もできないでいる。

 

 床に崩れ落ち、手を突かせる。僕の視界に映り込んでいるのは、一つの寝台(ベッド)。そしてその上に乗っている、二人の男女。

 

 女はまだ少女であった。少女は赤い髪をしていて、まるで燃え盛る炎をそのまま流し入れたような。鮮やかで、本当に綺麗な赤髪で。

 

 その美しい赤髪は、さながら絨毯のように。けれど乱れに乱れて、寝台のシーツに広がっていた。

 

 ──そんな……馬鹿な……。

 

 少女の格好は、それはもう酷かった。辛うじて無事だったのは下のショートパンツだけで。その上は殆ど半裸みたいなものだった。胸元は下着ごと大きく切り裂かれ、そこから本来隠し秘められてなければならない、肌色の柔い果実が丸ごと全て溢れ出し、辱めの如く外気に晒け出されてしまっていた。

 

 そんな、誰がどう見ても()()されたことが容易に見て取れる有様で。薄らとその顔を赤く染め、気を失っているらしいその少女の────ラグナ先輩の上に、その男は馬乗りになっていた。

 

 ──嘘だ、こんなの……こんな、ことって。

 

 その光景から逃げるように、僕は俯いてしまう。どうすればいいのか、わからなかった。ただひたすらに真っ白な頭の中では、もう何も考えられなくて。

 

 ──……僕は間に合わなかった……?

 

 呆然と、心の中で呟くことしかできなかった。

 

「ようやっと、お出ましかよ」

 

 そんな言葉を、僕は単なる音の一つとして聴き取った。次の瞬間────僕の顔面全体を衝撃が叩いて。

 

 グルンと視界が回り、周りの景色が溶けたように見える最中──────気がつけば、僕は背中を部屋の壁に激突させていた。

 

 一体何が起きたのか理解できないでいる僕の鼓膜を、またもや狂喜の声が震わせる。

 

「さあ、お楽しみはこれからだぜぇッ!?クラハよぉおッ!!」

 

 その声に釣られ、僕はゆっくりと他人事のように顔を上げると。僕の目の前には、ラグナ先輩に馬乗りになっていた男が────ライザーの奴が立っていた。



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こんなことの為に(その終)

 顔面全体がジンジンと痺れて熱い。口の中を切ったのか、舌の上に血の味を感じる。未だに重い鈍痛が背中に広がっていた。

 

 遅れて、自分は顔を蹴り上げられ、後ろの壁にまで吹っ飛ばされたのだと、僕は呆然と理解して。それとほぼ同時に、その声が騒々しく、喧しく部屋に響き渡る。

 

「さあ、お楽しみはこれからだぜぇッ!?クラハよぉおッ!!」

 

 そんな男の声に釣られて顔を上げれば、いつの間にか僕の目の前には金髪の男────ライザーが立っていた。その顔をこの上ない喜悦に歪ませ、髪と同じ色をしたその瞳が、昏く淀みながらも、爛々とした危うい光を帯びている。

 

「さあ立て、立てよさっさと立てって言ってんだろうがこの(クソ)ボケがァッ!!」

 

 言って、ライザーは左足を振り上げ。そして何の躊躇もなく、遠慮容赦なく僕の腹部に向かって振り下ろす。

 

 ドスッ──ライザーの爪先が突き刺さり、僕の腹部を鋭く深く、抉る。

 

「そうらどうしたどうしたぁ?やり返してみろよぉ?なあ、なあなあなあァッ!」

 

 ドスッドスッドスッ──僕が無抵抗なのをいいことに、ライザーは何度も足を振り上げては、僕の腹部へ振り下ろすのを繰り返す。その度に彼の爪先が僕の腹部を抉り、鈍痛と激痛が僕の身体を駆け抜けていく。

 

 ……しかし、それでも僕は動けなかった。抵抗することができなかった。そうしようという気力が、欠片程も湧かなかった。

 

 ──先輩……。

 

 ただ、そう心の中で呆然と零すのだけで、精一杯だった。

 

 失意の底の底、どん底に文字通り蹴落とされ。無抵抗でいる他ない僕のことを、ライザーは一方的に甚振り続ける。当然だろう。僕の事情も、心境も彼の知ることではない。もはや妄執と怨恨に取り憑かれた彼は、ただそれに従って僕を蹴り続けるだけの狂人と堕ちたのだから。

 

 肉を打つ、重く鈍い音だけが部屋に静かに響き。そして。

 

「ゴホッ……」

 

 唐突に腹の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じた僕は、次の瞬間。喉に少しへばりつかせながら、口から血を吐き出した。吐き出された血が、床に赤い線を引く。

 

 内臓が傷ついている。このまま無抵抗に蹴られ続けられていれば、己の命に関わってくる。その可能性と危険性を目の当たりにした僕は────

 

「…………」

 

 ────それでも、何もしなかった。そこまで追い込まれてもなお、僕は失意の底から手を伸ばし、這い上がることができないでいた。

 

 そんな様子の僕を、まるであり得ないとでも言いたげに。興醒め、失望の色が混じる声でライザーが訊いてくる。

 

「……おいおい。何だって、そこまでなっても反撃しない?何でだ?何でなんだ?」

 

「……」

 

 彼の質問に対して、僕はやはり何も答えられない。こんな心情で己にならばともかく、自分以外の他者に何かを答えることなど、少なくとも僕にはできないことだったのだ。

 

 だが、そんなこともライザーが知ることではない。口の端から血を垂らし、依然黙っているままの僕を見限ったのか、彼は痺れを切らしたように舌打ちし────スッと、僕の腹部を執拗に蹴り続けていたその左足を引かせた。

 

 ドッ──かと思えば、すぐさま引いたその左足で。ライザーは僕の肩を踏みつけた。

 

「ふざけんじゃあ、ねえぞ……お前がそんなんじゃ、意味がねえだろうがよ……価値がねえだろうがよ」

 

 そんな訳のわからない言葉をポツポツと零しながら、彼は。

 

「俺がやってることが、やろうとしてることが全部無意味なんだよ!全部無価値なんだつってんだよッ!!」

 

 僕の肩を踏みつけにしていた左足を床に戻し、右足で僕の横面を蹴り飛ばした。

 

「がっ……」

 

 防御することもできず、受け身を取ることもできず。僕は床に倒され、顔面を強く打ちつける。

 

「なあ、どうしてだ?どうしてお前何もしない?なあ、なあなあなあ!」

 

 狂人の声音で言いながら、床にうつ伏せで倒れた僕の首根っこを。ライザーは無造作に掴み、彼は僕の身体を少し持ち上げ、そのままズルズルと僕の身体を引き摺る。

 

 僕を床に擦らせながら、ライザーが狂ったように続ける。

 

「この俺がわざわざ用意してやったんだ。お前なんかの為に、お前の為に手ずからわざわざ。理由ってのを。そう、お前がやり返せるように、理由を」

 

 その様は、まるで見えない何かに急かされ、駆り立てられているかのようだった。誰の目から見ても、今のライザーはもはや正気ではないことは、明白であった。

 

 ライザーは寝台(ベッド)の元にまで歩み寄って。そしてここまで引き摺った僕の身体を、首根っこを掴んだその腕だけで持ち上げる。

 

「ほらこれでよく見えるかあ?そこにあんだろ、理由が。あんなに大事であんなに大切な後輩が、理不尽にも痛めつけられてるってのに……未だ呑気に気を失ってやがる理由がな」

 

 そう言って、ライザーは僕の身体を前に突き出す。そうすることで僕の視界一面が、寝台の上の先輩で埋め尽くされてしまう。失神し、その痴態を存分に晒してしまっている先輩の姿で。

 

 ……だが、それでも。未だに僕は、何もできないでしまっている。何の気力も、もはや湧かない。

 

 そんな、どうしようもない僕に対して、ライザーはさらに続ける。

 

「だからよ、いい加減立てよこの無能。立って、拳の一つくらい振り上げてみせろよ。お前がその気にならなきゃあ……ん?んん?んんん……っ?」

 

 しかし、言葉の最中でライザーは不可思議そうに疑問の声を上げ、僕の顔を横から覗き込む。そして、不意に納得したように呟いた。

 

「ああ、そうか。そういうことか」

 

 それから、底冷えする程に低い声音で僕にこう言った。

 

 

 

「お前、()()()()()()

 

 

 

 ──……逃げ、てる……?

 

 そこでようやく、初めて。僕の中で何かが反応を見せた。が、ライザーはお構いなしに、堰を切ったように。その口から大量の言葉(ぞうお)を吐き出す。

 

「おい、おいおいおい現実逃避してんじゃねえぞ、この野郎。そりゃそうだな、確かに逃げたら楽だもんなぁ?逃げて、逃げて逃げて逃げて。そんで逃げ続けて目を背いていれば、受け入れなくても済む。認めなくても済む。そうすりゃあ、お前の()()先輩は傷つかない。砕けない。壊れないもんなぁ?ハハッ、本当に卑怯だなあ、この卑怯者め。どうしようもねえろくでもねえ糞野郎め」

 

 ライザーに言われ、罵られ。僕は気がつかされた。気がつかされてしまった。

 

 ああ、そうだ。そうだったのだ。僕は無気力を()()、諦めた()()をして。ただ、逃げていた。目を、背けていた。

 

 自分は間に合わなかったという、この受け入れ難い現実を。この認め難い事実を。それから僕は────必死に逃げていたんだ。

 

 ──そうか。そうかそうか……つまり僕は、そういう奴だったんだな……クラハ=ウインドア。

 

 ライザーの言う通りだ。僕は卑怯者だ。楽な方へ逃げていた、どうしようもない卑怯者。それをあろうことか、こうして彼に気づかされた。

 

 そのことに言い知れぬ無力感と虚脱感に呑まれ、沈み行く最中────最後に、ライザーは言った。

 

「一応、目の前のこれは最後までお前の────クラハ=ウインドアの先輩で在り続けたっていうのになぁ?」

 

 ──…………え?

 

 その言葉は、聞き捨てならないもので。今の今までずっと閉じていた口を咄嗟に開く────直前。グッと、不意に。そして一気に、僕の顔は前に突き出された。

 

 瞬間、僕の視界に先輩の下腹部が、ショートパンツの股間部がグンと差し迫って。そこに僕の鼻先が触れたと認識するとほぼ同時に。

 

「んぶっ」

 

 僕の顔面が、先輩の股座へと無理矢理押しつけられた。ぐちゅりと、微かに響く妙に粘ついた水音を。僕の鼓膜は鋭敏にも聞き捉える。

 

「そら卑怯者。たんと存分味わえよ、俺が丹念に仕込んだ雌の味ってのをよ」

 

 そう言いながら、ライザーは僕の顔面をショートパンツの上から、先輩の股座に沈めようとさらに押しつける。

 

 グリグリ、と。僕の鼻先が押し潰れながらも、先輩の股座を厚顔無恥にも弄る。ショートパンツの生地は僅かに、けれど確かに湿り気を帯びていて、蒸れていた。

 

 ライザーが押しつける度に、その下からぐちゅぐちゅという水音が、僕にしか聞き取れない程度に、しかし何度も響く。

 

「塩っぽいか?それとも甘いのか?匂いはどうだ?するか?なあ、なあ?」

 

 グッグッ、と。僕の顔面を押しつけながら、心底愉しそうにライザーが訊ねる。だが先輩の股座に顔面を押しつけられている僕に、そんなことを答える余裕などない。と、その時だった。

 

 

 

「んっ……ぁ」

 

 

 

 頭上から、そんな。悩ましい色香が滲んだ声が、微かにした。これまでで聞いたことのない声だったが、僕はその声音自体は聞いたことがあった。

 

 ──先、輩……?

 

「……おやぁ?おい、おいおいおい……まさかおい、感じてんのか?気を失ってるってのに?」

 

 まるで、聞いてはいけない音を聞いてしまったように。愕然とする僕を他所に、ライザーは少し遅れて、呆然とそう呟き────それから格好の、それも大好物の餌を見つけた獣のように、興奮の声を上げた。

 

「こいつは傑作だ。こいつはとんだ傑作じゃねえかよ、おい!」

 

 興奮と高揚に堪らずその声色を荒げさせて、より強く激しく、僕の顔面を先輩の股座に押しつけながら。ライザーは楽しくて、そして愉しくて仕方がないとでも言わんばかりに、僕の頭上から言葉を降らす。

 

「よかったなあ?おい。喜べ、喜べよ裏切り者の後輩。お前みたいな救いようのない(クズ)の顔面で、お前が先輩と呼ぶその雌は気持ち良くなってやがる。揃いも揃って、全くもって、救い難い!」

 

「むん、ぐっ……!」

 

 止めろ、と。僕は叫びたかった。けれど、ライザーがそうはさせないとばかりに、僕の顔面を力強く押し出し、押しつけ続け。結果、僕の口から漏れるのは何の意味を成さない、くぐもった呻き声だけで。

 

 ──苦し、い……っ!

 

 時間にして、それは一分弱だったのだろうか。それとも、たかが数十秒のことだったのか。いずれにせよ、先輩の股座に顔面を押しつけられている最中、そうして何とか声を絞り出し叫ぼうとしていた僕は。当然、肺に取り込んでいた空気の大半を吐き出した訳で。

 

 僕の肺が、僕の身体が新鮮な空気を取り込ませてくれと訴え出す。このままでは窒息してしまうと、僕の頭の中でけたたましく警鐘を鳴らす。

 

 今すぐに、今すぐにでも先輩の股座から少しでも離れて、空気を吸わなければ。けれど、ライザーがそれを許す訳がない。

 

「ほら、もっとだ。もっと悦くしてやれよ。お前の先輩なんだろそうなんだろぉ?だったらここは後輩として、もっともっと、もぉっと悦ばせなきゃなぁ?ハハッ!」

 

 身勝手極まりなくそう言って、ライザーはさらにまた僕の後頭部を前へ押し出した。

 

 僕の顔面が、鼻と口の全てが先輩の股座で塞がれる。一分(いちぶ)の隙すら埋め尽くされ、完全に密閉されてしまう。

 

 息ができない。肺に空気を送り込めない。そんな状況の最中、数秒もしない内に。僕の意識は、次第に朦朧と始めてしまって。

 

 ──もう、だめ……だ…………っ。

 

 いよいよ窒息間近となった、その時。僕の朦朧とする意識とは無関係に、そうしたところで無意味だというのに。死の危険に晒された僕の身体は、そこにあるはずもない空気を求めて。

 

 

 

 猶予として残された僅かばかりの体力の全てを振り絞り、思い切り。先輩の股座に、吸いついた。

 

 

 

「っふ、ぅあぁぁぁ……ッ」

 

 瞬間、未だその気を失っているはずの先輩が、そんなあられもない艶やかな嬌声をその口から散らして。それとほぼ同時に、先輩の腰がビクンと跳ねる。その勢いで、密着していた僕の鼻と口が僅かに離れた。

 

「ぷはッ……!!」

 

 ここぞとばかりに、ほんの少しばかりの湿った空気を吸い込む。何処か背徳的で、そして甘美な匂いを孕んだその空気を肺へ余すことなく送り込む。

 

 しかし、僕の意識はまだ朦朧としていて。手足に上手く力を込められない。そんな状態の僕を、ライザーは。

 

「よくやったじゃねえか。お前みたいな童貞でも、憧れの紛い物(せんぱい)を立派に啼かせることができて……よおッ!」

 

 ドンッ──一切躊躇することなく、遠慮容赦なく床に引き倒し、叩きつけた。

 

「がはッ……!」

 

 背中を衝撃が隈なく叩いて、堪らず僕は肺に取り込めたなけなしの空気を、無様にもまた宙へと吐き出してしまう。だが先程とは違って、すぐさま新たな、それも大量の空気を吸い込む。

 

 充分な空気を肺に取り込めた。意識も徐々に冴え渡り、視界も鮮明になっていった。……けれど、床に投げ出した手足に力が入らなかった。動かせなかった。もう……動かしたく、なかった。

 

 ──……一体、僕は何をしているんだろうな。

 

 みっともなく、情けなく。無様に乱れた荒い呼吸を、小さく何度も繰り返して。窒息しかけたことで、妙な程に冷静になった思考で僕は、呆然と訊ねる。だがそれは誰に向けたものでもない。自分にすら、向けたものではない。

 

「さてさぁて。もうこれで十分だろ。だから、立てよ。いつまでも床に寝っ転んでないで、とっとと立てよォッ!」

 

 ライザーが叫ぶ。だが、それを煩いと不快に思うことはなく。僕はただ、これまでのことを振り返っていた。

 

 自分が何をしているのか。自分は何がしたかったのか。ただそれだけを、確認する為に。

 

 その泣き顔を見た瞬間、どうしようもなくなった。その背中が鉄扉の奥に消え去るのを見届けた瞬間、いても立ってもいられなくなった。

 

 だから、一目散に駆けつけた。形振り構わず、必死になった。

 

 立ち塞がる障害の全てを、振り払って。捩じ伏せて。打ちのめして。そして、そうまでして。

 

 

 

 ──間に合わなかった。

 

 

 

 この現実が身に染みる。その事実が身を侵す。ゆっくりと、ゆっくりと蝕まれていく。

 

「……おい。おいおいおい、おい。ふざけんなよ。ふざけんなふざけんなふざけるな。何だ、その顔は。何だその目は。止めろ、止めろ止めろ止めろ止めろ……この後に及んでお前、その顔と目で俺を見るんじゃあねえよ」

 

 限度知らずに加速し続ける喪失感と虚無感に挟まれる最中、僕の意識から遠くの方でそんな声が聞こえる。しかし今になってはもう、どうでもいい。

 

 全部が全部、何もかもが。もはや、どうでもいい。

 

「…………ハッ。ここまで、お膳立てしたってのに」

 

 そこに込められていたのは、落胆か、失望か。それとも諦観か。あるいは、それら全部か。何処か曇って淀んでいる視界の中で、投げやりにそう吐き捨てながら、ライザーは腰から下げている剣の柄を握り、そして手慣れた動作でそれを鞘から引き抜いた。

 

「死ね。死ねよ。……もう、どうでもいい。だから死んでくれよ、クラハ」

 

 そう、言い終えるや否や。ライザーは感情が一切消え失せた表情で、振り上げたその剣を────躊躇うことなく、振り下ろした。

 

 部屋の明かりに照らされ、冷たく輝く刃を見上げながら。それを綺麗だなと、僕は他人事のような感想を抱く。

 

 その綺麗な冷たい刃が、数秒後には己の首に滑り込むというのに。あと数秒という僅かな猶予が過ぎれば、死ぬというのに。

 

 振り下ろされる刃が首へと到達する、その直前。ふと、僕は思った。

 

 ──僕は、こんなことの為に……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……う。違う……違う、違う違う違う」

 

 首めがけて振り下ろされた剣を、その刃を握り締めて。腹の底から、心の奥底から込み上げてくるものに任せて、僕は叫ぶ。

 

「僕は……僕はこんなことの為に強くなった訳じゃないッ!」

 

 バキンッ──叫んで、握り締めていたその剣を、そのまま握り砕く。砕けた剣の破片が、僕の血と共に胸に降り注ぐ。

 

 荒ぶり昂る感情のままに叫んだ僕を見下ろしていたライザーが、瞬間。浮かべていたその無表情から、歓喜と狂気が滅茶苦茶に入り乱れた笑みに一変させた。



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獣性露出

 僕の手によって握り砕かれたライザーの剣は、もはや武器としての性能を発揮できない。ただの刃物と化したそれを、彼は乱雑に明後日の方向へ放り捨てる。

 

 それと同時に空の左手を振り上げ、ライザーが【次元箱(ディメンション)】を開き、そこから何かの柄が突き出し、彼はそれを流れるように掴み取る。

 

 ライザーが【次元箱】から取り出してみせたのは、一振りのナイフ。魔物(モンスター)相手には心許ないが、人間相手ならば特に支障はない得物。

 

 そのナイフをライザーは握り締め、その顔を歓喜と狂気入り乱れる笑みで彩りながら、眼下の僕に狙いを定め突き出す。

 

「ヒャアアアッ!」

 

 その速度、その正確さ。どれを取っても幾重の戦いを経た、手練れの強者のそれで。僕はその場を横に転がって、ライザーのナイフによる突きを躱す。

 

 ドスッ──先程まで僕が倒れていた場所に、ナイフの切先が突き刺さり、その半ばまで沈み込む。それを流し目で見ながら、僕は回転の勢いを殺さずに床から立ち上がった。

 

「逃さねえよぉおッ!」

 

 僕が床から立ち上がるとほぼ同時に、ライザーは床に突き立てたナイフを引き抜くと、すぐさま身を翻し、間髪入れずに僕との間合いを詰め切る。そして、握り締めたそのナイフを以て、先程と同じ手練れの一突きを繰り出した。

 

 それに対して、僕はただ黙って────()()()()()()()()()()

 

 ザクッ──ナイフの鋭利な切先が、僕の左手の皮膚を裂き。肉に突き刺さる。そこでナイフの進行は止まったが、僕は構わずその状態のまま、さらに左手を押し出した。

 

 生理的な不快感を引き起こす、生々しい嫌な音をさせながら。僕の左手は刃どころかナイフの柄まで貫通させて、その先にあったライザーの左手を掴む。そうして僕は力任せに、強引に彼を引っ張り、こちらまで引き寄せ。

 

 ゴッ──ライザーの額に、僕は加減なしの頭突きを見舞った。

 

「がッ……」

 

 ライザーはグラリと堪らず後ろによろめき。そんな彼に続け様、僕は無防備に晒されているその腹部へ蹴りを放ち、半ば無理矢理に距離を取る。瞬間、力の緩んだ彼の左手から、貫通させたままナイフを掠め取ることも忘れずに。

 

 まだ半分、左手から突き出ているナイフの柄を右手で掴み、僕はそれを一気に引き抜いて。先程ライザーがそうしたように、刃から柄の全てまで血に濡れ真っ赤に染まったナイフを無造作に投げ捨てた。

 

「ハッ……中々に、良いイカれ具合じゃあねえの」

 

 頭を軽く振りながら、ライザーが何故か嬉しそうに言う。それに大して僕は言葉など返さず、ただ黙って睨んだ。

 

「良いぞ、良いぞ良いぞ。その調子だ……ヒヒッ」

 

 無言の僕と、何かに取り憑かれたように喋り続けるライザー。互いが互いに向かい、見合い、数秒────その瞬間は、唐突に訪れる。

 

 ダンッ──それは全く同時のタイミング。僕とライザーはその場から駆け出し、お互いの間合いに踏み込んでいた。

 

 僕が足を振り上げ、ライザーの顳顬に爪先を打ち込まんとする。それを彼は身を屈めて躱し、僕の懐に飛び込み。ガラ空きとなっていた僕の腹部に二発、そして鳩尾に一発拳を打ち込み、遠慮容赦なく抉り込ませる。

 

「!……ッ!!」

 

 重なり合う鈍痛に、尋常ではない吐き気。喉元まで込み上げた鉄っぽい味と、鼻腔を抜けるその匂い────僕はその全てを無視して、ライザーの背中へ肘を打ち込んだ。

 

「ごぉ……ッ」

 

 呻くライザーに、僕は透かさず今度は膝蹴りを放つ。一切躊躇することなく、何度も、何度も。

 

「が、は……」

 

 堪らずライザーはよろめいて。けれど僕は遠慮容赦なく、無防備となっていた彼の脇腹を思い切り蹴り上げた。

 

 為す術もなく、無様にライザーは床を転がるが、すぐさま立ち上がって僕を見る。相変わらず、その顔には歓喜と狂気の笑みが浮かんでいるままだ。

 

「なあクラハ。さっきお前、こんなことの為に強くなった訳じゃないとか何とかほざいてやがったが、じゃあお前はどんなことの為に、何の為に強くなったんだ?なあッ!?」

 

 血の混じった唾を汚らしく飛ばしながら、まるで罪人を糾弾する被害者のように、ライザーは僕に訊ねる。それが、異様な程僕の神経を逆撫でし、残る理性を削り取った。

 

「それをお前に教える義理なんてない」

 

 思考する間もなく、心根そのままから出た僕の言葉を聞いて。より一層ライザーの笑みが悪化する。

 

「そりゃ確かになあ!!」

 

 そこで僕とライザーの会話は終了した。ライザーが駆け出し、僕は迎え撃つ。

 

 殴り蹴り、殴られ蹴られ。振るわれる暴力に対して、暴力を振るう。ただ、ひたすらに。ただただ、延々とひたすらに。

 

 床に、壁に。周囲に血を撒きながら、血で染めながら。僕とライザーは殴り合い、蹴り合い────暴力を振るい合った。

 

 その最中で、ライザーが僕に言葉を投げる。ぶつけてくる。

 

「この俺が憎いか?この俺が恨めしいか?クラハァ!」

 

 まるで何かに────否、狂気に取り憑かれ、支配されながら。

 

「もっと、もっと俺を憎め!恨め!憎悪を掻き立てろ!怨恨を募らせろ!そう、一年前の俺のように!今の俺のようによぉお!」

 

 狂乱しながら、ライザーは叫び続ける。だが、こんなどうしようもない、救う手立てが何一つ思い浮かびやしない狂人の戯言に一々(いちいち)付き合ってやれる程、僕はお人好しの善人などではない。ただ一人の先輩のことで精一杯の、そんな小っぽけなただの後輩でしかない。

 

 確かにライザーがそう言う通り、僕は今彼を憎んでいる。恨んでいる。胸の内に憎悪を掻き立て、怨恨を募らせている。その負の感情に関してだけは……素直に認めようと思う。

 

 だが、それだけだ。決してそうだと口に出すことはしない。絶対に出さない。そんな、ライザーを調子に乗らせ、勢いを助長させることなどしてはならない。

 

 こういう輩にとって一番効果的なのは、無視することだ。ただひたすらに無視を決め込み、こちらは意にも介していないということを徹底的に理解させる、わからせるのが一番手っ取り早く、一番効く。だから、僕はライザーの言葉に耳を傾けない。惑わされない。反応など、少しもしてやらない。

 

 無言を貫き、完膚なきまでに打倒する────そう、思っていた時だった。

 

「おいおいだんまりとはつれねえな、寂しいなあ。……これから俺とお前は()()になるってのに、なあッ!?」

 

 ──……あぁ?

 

 拳を振り上げると同時に叫ばれた、そのライザーの戯言が。僕の癪をこれ以上にない程に、障った。

 

「…………誰と、誰が同類になる……と?」

 

 もう遅い。もう、手遅れである。……しかし、瞬間に噴出したこの激情は。とてもではないが、抑えられるものではなかった。

 

 案の定、ようやっと反応を、それも考え得る限り好ましい反応を見せた僕に。ライザーは心底嬉しそうに、狂った笑みを浮かべて言う。

 

「おやおや、これはこれは。流石のクラハさんでも、この発言は無視できなかったようですねえ?さっきまで大人ぶってたのが酷く滑稽で間抜けだな、ええ?」

 

 止められない。頭に血が上るのが、もう止められない。この怒りを、僕は我慢できない。

 

 だから────今の今まで押し留めていた全てが、堰を切ったように僕の口から飛び出した。

 

「御託なんかこっちは求めてない。誰と誰が同類になるんだって訊いたんだ。それだけを答えろ」

 

「それくらいのことで理解できねえのか、お前さんはよ。少し考えてみればわかることだろうに。じゃあ親切心で言ってやるよ。誰と誰が同類になるのか……んなの、俺とお前の二人に決まってんだろうがよ。頭足らずめが」

 

「ふざけるな。妄言を吐くのもいい加減にしろ、この狂人が。僕とお前が同類だって?そんな訳ないだろ」

 

「ハッ、いいや同類だね。これからお前と俺は同類になるのさ。お前は俺のとこまで堕ちて堕ちて堕ちるんだ」

 

「だから戯言妄言吐くのもいい加減にしろって僕は言ってるんだッ!!一体何の根拠があってッ!お前はそう言ってるんだッ!!あぁッ!?」

 

「根拠ぉ?根拠ならある!あるさッ!その一々足りねえ頭で必死に振り返ってみろよこれまでのことを!今日のことをよぉおッ!!」

 

「なんだっ……と……」

 

 言われて、僕は律儀にも思い返す。自分が先程、一体どんな行動をしていたのかを。それを思い返し、振り返り──────瞬間、ハッと気がついた。

 

 僕のその反応に()()ったりと、ライザーが口角を吊り上げ、僕に言う。

 

「ここに来る為に、俺の元に辿り着く為にお前は何をやった?わかる、俺はわかるぞぉ。何せ俺だってそうするだろうからな。自分の目的を果たす為なら、どんなことだってやってやるからなあ!!」

 

「ち、違う!違う、違う違う違うッ!他に手がなかったんだ!僕には、余裕がなかったんだ!手段なんか、選んでられなかったんだッ!!」

 

「だからそれが俺と同類だっつってんだろうがよぉおおおッ!!!」

 

 僕の頭の中で、さっきまでの出来事が想起される。ライザーの叫びによって、鮮明に呼び起こされる。

 

 先輩を連れ帰る為に、取り返す為に僕は力に頼った。余裕がなかったとはいえ、他に手がなかったとはいえ、僕は暴力に訴えた。

 

 

 

 そう、まるで目の前の男のように。ライザーの、ように。

 

 

 

「違うッ!」

 

「違わねえッ!」

 

 認めたくなかった。認める訳にはいかなかった。……でも、心はもう、誤魔化せなかった。

 

 が、それでも。ライザーと取っ組み合いながらも、僕は否定する。否定し続ける。嫌だ、自分がライザーと、こんな男と同類になるだなんて、絶対に嫌だ……!

 

「往生際が悪いんだよ、もういいからさっさと認めろよ。いくら否定したって、お前が今日やったことは覆せない事実として、紛れもない真実として、変えようがない歴史として。一生、生涯……お前の中に永遠と残って消えることなんてないからさぁあああッ!!!」

 

「黙れ!黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!!」

 

 僕は叫び、ライザーを蹴り飛ばす。彼は後ろに退がり、しかし依然僕の顔を睨めつけながら、言い放った。

 

「俺は何度でも言ってやる。お前は俺と同じだ。同じ穴の狢さ。……お互いに、己のかけがえのない大切で大事な夢と憧れを否定して汚した、全くもって救い難く救いようもない、最低最悪の同類になるんだよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中で広がったのは。寝台(ベッド)の上に乗せられた、半裸同然の先輩の姿と、跨るライザーの姿と。そして、先輩の股座に顔を埋めた僕自身の姿。

 

 その光景を今一度目の当たりにしたその時──────もう、駄目だった。

 

「…………黙れぇぇぇええええええッッッ!!!!」

 

 怒り。激怒。憤怒。それら全てが渾然一体となったようだった。もう何も考えられなかった。気がつけば、僕はその場から駆け出してしまっていた。

 

 怒りに任せて床を蹴り。激怒に託して拳を振り上げ。憤怒に委ねて襲いかかる。

 

 傍目から見れば、僕はもう人間などではなく。もはや一匹の獣にしか映らなかったことだろう。

 

 振り下ろした拳を、ライザーが躱す。躱して、握り締めたその拳を素早く振るい、僕の腹部に深く沈ませ、めり込ませる。

 

 瞬間、堪らず僕は肺の空気を吐き出して────目を見開かせ、喉を破り裂くつもりで叫んだ。

 

「ライザァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」

 

 叫んだ僕に続くようにして、ライザーもまたその目を見開かせて、同じように叫ぶ。

 

「クラハァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」

 

 そうして僕とライザーは互いの名を叫び、互いに拳を握り締め、そして互いに、それを振りかぶって。

 

 

 

 

 

 ゴチャッ──肉を打つ、二つの音が重なった。

 

 

 

 

 

 数分ぶりにまた訪れた静寂が部屋を包み込む。それは長く、長く。果てしなく、続くかに思われた。けれど、全てに等しく終わりがあるように、それもまた唐突に終わりを迎える。

 

「………………」

 

 ズルリ、と。ライザーの頬から僕の拳がずり下がり、だらんと宙を薙いで力なくぶら下がる。

 

「………………ハッ」

 

 遅れて、僕の頬からもライザーの拳がずり下がる。そして彼は乾いた笑いを一つ零して、数歩後ろによろめいた。

 

「ハハ、ヒャハ……これで、お前も……俺と、同じ。俺と同類、だ…………」

 

 よろめいたライザーは何故か、勝ち誇ったような笑みと共にそう言い残し。前のめりになって、そのまま床に倒れた。

 

「…………」

 

 二十年という、それ程短くなければ大して長くもない生涯の中で。初めて経験する虚脱感と喪失感に挟まれながら、僕は見た。見てしまった。

 

 床に倒れる直前の、ライザーの瞳に。映り込んでいた、その顔を。人を憎み、恨み。憎悪と怨恨で歪みに歪んだ、その顔を。

 

 

 

『これから俺とお前は同類になるってのに、なあッ!?』

 

『これからお前と俺は同類になるのさ。お前は俺のとこまで堕ちるんだ』

 

『何せ俺だってそうするだろうからな。自分の目的を果たす為なら、どんなことだってやってやるからなあ!!』

 

『だからそれが俺と同類だっつってんだろうがよぉおおおッ!!!』

 

『往生際が悪いんだよ、もういいからさっさと認めろよ。いくら否定したって、お前が今日やったことは覆せない事実として、紛れもない真実として、変えようがない歴史として。一生、生涯……お前の中に永遠と残って消えることなんてないからさぁあああッ!!!』

 

『俺は何度でも言ってやる。お前は俺と同じだ。同じ穴の狢さ。……お互いに、己のかけがえのない大切で大事な夢と憧れを否定して汚した、全くもって救い難く救いようもない、最低最悪の同類になるんだよ』

 

『これで、お前も……俺と、同じ。俺と同類、だ…………』

 

 

 

 …………今になって、ライザーの数々の発言が、僕の腑に落ちた。

 

 ──……そういえば、あの顔。僕は、前にも何処かで……。

 

 全身から力が抜けていくのを感じながら、ライザーの瞳に映り込んでいた顔に既視感(デジャヴ)を覚えた僕は、頭の中の記憶を漁る。そうすることで、少しでも、僅かな間でもこの現実から逃げ出そうとしたのだろう。

 

 そうして、僕は。

 

 ──ああ、そうだ。思い出した。

 

 まるで他人事のようにそう呟いて、脳裏に一つの、一年前の光景を過らせる──────

 

 

 

 

 

『わかったな!?──────クラハァッ!!!』

 

 

 

 

 

 ──────そんな、憎み恨み。憎悪を掻き立て怨恨を募らせた声と共に。

 

 そして、その時だった。

 

 

 

「クラ、ハ……?」

 

 寝台(ベッド)から、怯えて震える声がした。



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見たことのある顔。見たことのない顔

「…………ん……?」

 

 唐突に、ラグナの意識は呼び起こされた。まだ重たい瞼を苦しげに開けると、薄く滲んでぼやけた視界が広がる。

 

 ──俺、いつの間にか寝ちまってたのか……?

 

 寝起き直後特有の、霧がかかったようにぼんやりとして上手く回らない頭の中で、ラグナは呆然とそう呟き。それから自分が眠りに落ちるまでの記憶を、徐々に思い出していく。

 

 ──確か、俺は今……ライザーの奴に会いに……。

 

 しかし、その途中。ラグナが無意識の内に、腰を動かしたその瞬間。

 

 ぐちゅ、と。およそラグナにしか聞き取れない程に小さく、粘度のある水音がして。それと同時にラグナの股座を、異様な冷たさが襲った。

 

「ッ……!?」

 

 思わず喉奥から飛び出しかけた悲鳴を既のところで押し止め、けれどその不快感に堪らずラグナは己の身体を震わせる。

 

 ──な、何だっ?何で股の間がこんなに冷えてんだっ?

 

 しかもただ冷えている訳ではなく、何故か……濡れている。その現実を受け入れ、その事実を認めるのにラグナは数秒を要し────さあぁっと、その顔を青褪めさせた。

 

 ──ま、まさか俺寝てる間に漏らしっ……!?

 

 羞恥と焦燥。その二つに駆られながら、ラグナは大慌てで布団や寝台(ベッド)のシーツを触る。……しかし、危惧したこととは裏腹に、それらは濡れてなどなかった。そのことに、堪らずラグナは安堵の息を吐く。

 

 ──よ、良かった……俺、やらかしてなんかなかった……。

 

 だがしかし、今確認した通り布団やシーツは濡れてはいないが、股座が濡れて冷えていることは確かで。しかもそれだけではなく、自分の気の所為でなければ……ぬるぬると、している気もする。

 

 ──気持ち悪りぃな、これ……っ!

 

 ただでさえ股座が冷たいだけでもかなり不快だというのに、その上ぬるついてもいる。その二つが相乗して引き起こす不快感と気持ち悪さは、ラグナにとって初めての、未知のもので。それから逃れようと、ラグナは迷わずショートパンツに手をかけ、そして穿いている下着(パンツ)ごと引き摺り下ろす────ことはできなかった。

 

「……う、わ」

 

 ラグナは見てしまった。その光景────否、ラグナにとっては理解し難い、どろどろの惨状を。

 

 目が離せない。見たくない、と。真っ白になった頭の中ではそう思っているのに、視線は無視してそれに囚われてしまう。

 

 ショートパンツごと引っ張り上げた下着の中で、それは。ねとぉと、淫靡に糸を引いて。

 

 ──…………あ。

 

 瞬間、真っ白だったラグナの頭を、その記憶(えいぞう)が埋め尽くした。

 

 

 

『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に』

 

 

 

 つい先程ばかり、この身で受けた数々の陵辱。人の理性からは遠くかけ離れた、獣としての本能に限りなく近い、薄汚れた浅ましい欲望の仕打ち。

 

 それら全ての記憶を振り返る、その途中で。ラグナはこの一言を脳裏に反芻させる。

 

『アンタは気持ち良くなっちまったっていう、紛うことなき証なんだぜ、それはよ。……ハハッ!ハハハッ!!』

 

 証。証明。ライザーの言う、自分が気持ち良くなった動かざる明白な、証拠。それが今、ラグナの眼下に広がっている。それも淫らに、卑猥に。

 

 そのことにラグナは困惑し、混乱する。この上なく動揺しながら、それでも。

 

 ──違ッ……!

 

 決定的なそれを突きつけられてなお、否定しようとした。その、瞬間────

 

「違うッ!」

 

 ────聞き覚えのある声が、鋭く部屋に響き渡った。その声に、堪らずビクッとラグナは肩を跳ね上げさせてしまう。

 

 ──な、何でっ……!?

 

 ここに、こんなところにいるはずのない後輩の名を、ラグナは呟いて。そして、声がした方へと咄嗟に顔を向ければ。

 

 いた。確かに、そこに立っていた。

 

「違わねえッ!」

 

 つい先程ばかりに、自分に対して陵辱の限りを働き、こちらの尊厳をこれでもかと踏み躙った、張本人と対峙して。

 

「往生際が悪いんだよ、もういいからさっさと認めろよ。いくら否定したって、お前が今日やったことは覆せない事実として、紛れもない真実として、変えようがない歴史として。一生、生涯……お前の中に永遠と残って消えることなんてないからさぁあああッ!!!」

 

「黙れ!黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!!」

 

 二人は取っ組み合いながら、言葉をぶつけ合う。その光景はこの上なく異様で、異常で。だがそれ以上に、ラグナは愕然としていた。

 

 ──何だよ……何でだよ。

 

 信じられない面持ちで、ラグナは切実に呟く。

 

「何でお前がそんな顔してんだよ、クラハ……!」

 

 そんな顔を、ラグナは一度見たことがある。一年前に、ラグナは見たのだ。

 

『わかったな!?──────クラハァッ!!!』

 

 まるで声がそっくりそのまま、そこに表れているかのような。人を憎み、人を恨み。憎悪を掻き立て怨恨を募らせた────そんな、顔。

 

 それを今、クラハが浮かべている。普段から人の好い穏やかな、悪く言ってしまえば優男のような笑顔を浮かべている、彼が。

 

 ラグナはそれが信じられなかった。クラハとの付き合いは短くない。ラグナは彼が子供の頃から接している。そんなラグナですら、クラハのそんな顔は見たことがなかった。

 

 だからこそ、信じられなかった。信じられなくて、そして────堪らなく嫌だった。

 

 ──お前がそんな顔しちゃ、駄目だろ……。

 

 今すぐにでも止めさせなければ。すぐにでも、その顔を元に戻さなければ。普段通りの、日常(いつも)通りの顔に。あの笑顔に。

 

 そう思い、ラグナは口を開こうとするが。

 

「俺は何度でも言ってやる。お前は俺と同じだ。同じ穴の狢さ。……お互いに、己のかけがえのない大切で大事な夢と憧れを否定して汚した、全くもって救い難く救いようもない、最低最悪の同類になるんだよ」

 

 その前に、歓喜と狂気が滅茶苦茶に入り乱れた笑みを浮かべるライザーが言い。対して、クラハはその表情をさらに悪化させて、叫んだ。

 

「…………黙れぇぇぇええええええッッッ!!!!」

 

 ──ッ……!!

 

 堪らず、ラグナは身を竦ませた。その叫びに含まれている、クラハの怒り。クラハの激怒。クラハの憤怒。その全てを敏感にも感じ取ってしまい、固まってしまったのだ。

 

 寝台からラグナが見ているとも知らずに、クラハとライザーの二人は殴り合い、蹴り合い、暴力を振るい合う。そんな接し方しか知らない、相手を傷つけることでしか触れ合うことのできない、哀しき獣のように。

 

 そしてそれを、ラグナはただ黙って見つめることしかできない。

 

 ──止め、なきゃ。

 

 頭ではわかっているのに。

 

 ──止めなきゃ。早く、クラハを止めなきゃ……!

 

 頭では理解しているのに。

 

 ──このままじゃ、クラハが……ッ!

 

 だけど、思考に反してラグナの身体は上手く動いてくれない。恐怖に囚われ、怯えに縛られた身体が動かせない。

 

 そして、遂に。

 

「ライザァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」

 

「クラハァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」

 

 クラハとライザーの二人が互いの名を叫び合い、互いに握り締めたその拳を振り上げる。それを眺めながら、ラグナは──────

 

 ──クラハがクラハじゃなくなっちまうッ!!

 

 ──────その口を、開かせた。

 

 

 

 

 

 ゴチャッ────直後、ラグナが見ているその前で。それぞれの拳は交差し、それぞれの頬に突き刺さった。

 

 

 

 

 

 ──……ぁ。

 

 真紅の瞳を見開かせるラグナの目の前で、まずはクラハの拳がライザーの頬から、ズルリとずり下がり、宙へ滑り落ちて。遅れて、ライザーの拳もまたクラハの頬から、宙に滑り落ちる。それから彼はその場から数歩後ろによろめていて、浮かべているその笑みを勝ち誇ったようなものに変貌させて、クラハに向かって何か呟く。流石にその内容までは、ラグナには聞き取れなかったが。

 

 そうしてライザーは勝ち誇ったような笑みを浮かべたまま、前のめりになって床に倒れた。

 

「…………」

 

 クラハは、その場から動かない。倒れたライザーを見下ろしたまま、微動だにしない。

 

 その姿と様子に、ラグナは。開いたその口から、掠れた声を絞り出す。

 

「クラ、ハ……?」

 

 だがその声は、ラグナの意志とは裏腹に。恐怖、怯え、そして────不安に塗れていて。

 

 そんなラグナの声に、無言で佇んでいたクラハが。寝台(ベッド)の方にゆっくりと、その顔を振り向かせた。



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終わりはいつだって唐突で、突然に

「クラ、ハ……?」

 

 その声は、恐怖と怯えと、不安に塗れていた。こちらに声をかけることに対して、何処か躊躇いがあるように感じ取れた。

 

 虚脱感と喪失感の狭間に立たされながら、僕はゆっくりと寝台(ベッド)の方に顔を向ける。そこでは、いつの間にかその意識を取り戻し、上半身を起こしてこちらを見る、ラグナ先輩の姿があった。

 

 その姿を、その顔を見た僕は。何故という、一つの疑問を抱く。

 

 ──どうして、そんな……不安そうな表情を浮かべているんですか……?

 

 先輩は僕のことを見ていた。不安そうな表情で。心配そうな眼差しで。それが僕にはわからなかった。理解できなかった。

 

 だってそうだろう。見ての通りライザーは床に伏している。ライザーの仲間たちも全員叩き潰して、叩きのめした。もう先輩を脅かすような輩など、この廃墟にはいない。

 

 ……だというのに、何故先輩はそんな表情をしているのだろう。何故そんなにも不安と、恐怖と怯えが入り混じった表情を僕に向けるのだろう。

 

 わからない。理解できない。僕は、先輩を迎えに来ただけなのに。先輩を、助けに来たのに。

 

 なのに、どうして。

 

 ──どうしてあなたはそんな顔を、そんな表情を僕に向けるんですか……?

 

 そのことに対して哀愁にも似た感情を抱き────瞬間、僕の心が黒い翳りのようなもので徐々に覆われていくのを、呆然と感じた。

 

 だから、僕は今どうすればいいのかわからなくて。どんな行動に移れば、どんな選択を取るのが正解なのか、それがわからなくて。ただ、その場に立ち尽くす。

 

 そんな僕のことを見兼ねてか。先輩は戸惑うように、躊躇うように。一瞬だけ視線を泳がした後、寝台から降りる。ライザーが気を失ったからか、先輩の手足を拘束していた鎖はいつの間にか解けていた。

 

 そうして。ゆっくりと、先輩は僕の前にまでやって来た。少しの間を置いて、先輩がその口を開かせる。

 

「よ、よお。よくわかったな、この場所。その……俺を助けに、来てくれたのか?……クラハ」

 

 申し訳なさそうに言って、それから少し照れたように、先輩ははにかんで。そんな先輩に、僕は上着として羽織っていたコートを脱ぎ、黙ってそれを羽織らせた。

 

「あ……」

 

 突然僕にコートを羽織らされ、先輩は困惑の声を漏らす。……恐らく、というか十中八九ほぼライザーの仕業と見て間違いないだろうが。先輩の服はその下着(ブラジャー)ごと断ち切られ、もはやその体を成していなかった。

 

 結果、先輩の胸元があまりにも開放的になっていて。隠されるべき豊かでたわわなその中身が、丸出しと言っても過言ではない程大胆に外気に曝け出されてしまっている訳で。そのことを先輩自身は特に気にしていないようだったが、僕は到底それを看過することはできなかった。

 

 ……いや。これは違う。看過できないというのは、僕のつまらない言い訳だ。本当は────()()()()()()()()()

 

「……あ、あんがと」

 

 先輩のことを思った訳ではない、僕のその気遣いを。だが僕に信頼を寄せている先輩は、若干複雑そうにしながらも素直に受け取って、礼を述べてくれる。……その感謝が、僕の心を苛むとも知らずに。

 

「えっと、それで……さ。ま、まあ訳を話すとそれなりに長くなるんだけど、さ。あー……うん。どっから話せばいいんかな。あは、ははは……」

 

 そう言って、先輩は似合わない、慣れない苦笑いを浮かべる。……その態度が、僕の心をささくれ立たせるとも知らずに。

 

 ──…………あれ……?

 

 そこで唐突に、僕は気づく。どうして、こんなにも。よりにもよって、自分は。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 恐らくそれは、この人と知り合って始まった八年という、決して短くはない月日の最中で。僕が、初めて抱くもので。

 

 それは憤慨なのか、それとも憐憫なのか。その両方であり、またはそのどちらでもないのかもしれない。とにかく形容のし難い、負の感情としか言い表せないモノを、僕は今この人に対して向けている。それだけは、確かだった。

 

 そしてそれを、こうして。自覚してしまった瞬間──────僕の心を徐々に覆っていた翳りが、一瞬にして広がり、包み込んだ。

 

「……クラハ?」

 

 そんな僕の、昏く淀んだ心情を機敏にも感じ取ってくれたのだろう。心配そうに先輩が僕の名前を呼び、顔を覗き込んでくる。

 

 ……だが、それが()()()()()()。とにかく、無性に気に食わない。普段であればそんなことは絶対に思わないのに。こんなにも、苛立つことなどないというのに。

 

 何よりも────その瞳が許せない。元の輝きをそこに宿しておきながら、それ以外の何もかもが違う。身体も、髪も、顔も。全部、全部全部全部違う。

 

 違う癖に、どうしてそう()()()()()()さも同じだと宣うかのように、目の前のあなたはそう振る舞おうと──────()()()()()()()()()()()()

 

「な、なあ。どうしてお前、さっきから黙ったままなんだ?何か……言ってくれよ」

 

 真紅の瞳だけは元々のままの、それ以外の全てが違う目の前の先輩は。決して他人などに、否僕なんかに見せることはなかっただろう、心配と不安に満ちた表情を浮かべて言う。

 

 それを目の当たりにした瞬間、遂に僕は堪えられなくなった。

 

「…………先輩」

 

 今の今まで口を閉ざし、保っていた長い沈黙を破る為に。喉奥から絞り出した僕のその声は、自分でも意外だと思うくらいに、低かった。

 

「一つ、教えてください」

 

「お、おう。いいぞ」

 

 続いたその声も、依然低く。だからか、先輩は僅かに動揺して、けれど頷き了承の意を僕に示してくれる。

 

 ……だから、僕は遠慮せず。そして容赦なく、訊ねた。

 

「ライザーの奴に、何を……どんなことを、されたんですか」

 

 僕の声が部屋に響いてから数秒、静寂は続いて。その後、目を丸くし呆気に取られていた先輩が、呆然としたように声を漏らす。

 

「え……?」

 

 恐らく、僕がそれを訊くとは思いもしていなかったのだろう。……僕だって、訊きたくはなかった。けれど、今はそれを訊かずには、どうしたっていられなかった。

 

「どんなことされたって……そりゃあ、その……」

 

 それを言うのは流石に気が憚れるのか、先輩はらしくもなく(ども)り、微かにその頬を染めつつ僕から視線を逸らす。だが先程了承した手前、引くにも引けない様子の先輩は。やがて観念したように、逸らした視線を僕の方に戻し、若干躊躇いつつもポツポツと話し始めた。

 

「い、色々された。身体じっくりジロジロ見られたり、胸触られたり揉まれたり……あ、ああでもそんくらいだぞ?ライザーにされたのは本当にそんくらいのことで、別に殴られたり蹴られたりはされてねえし、だから俺は見ての通り何ともない!だ、だからクラハが気にすることなんて、何もないんだぞ?」

 

 ……先輩は、人の感情や心情というものに対して、昔から人一倍、誰よりも敏感だった。

 

 だから、きっと。ライザーの仕打ちの内容を聞かされ、ドス黒く静かに煮え滾る、僕のこの怒りも。先輩は感じ取り、見透かし。慌ててライザーの奴を弁明するかのような戯言を、加えてしまったのだろう。

 

 だがそれは、それだけは間違いだった。絶対に犯してほしくはなかった、最悪の間違いだった。

 

「どうしてですか、先輩。先輩はどうして、こんな場所に一人で乗り込んだんですか?一体どうしてこんな無茶をしたんですか?」

 

 到底抑えられない衝動のままに、まるで縋るように僕は先輩に詰問する。僕自身、もう訳がわからなかった。僕の心の中で、激情が渦巻いて、こうして口に吐き出さなければどうしようもなかった。

 

「そ、それは……」

 

 だというのに、目の前の先輩は肝心なところで。また吃り、目を逸らし、躊躇する。その態度が焦ったくて、煩わしくて。

 

 ガッ──だから僕は、その華奢な両肩を掴んだ。

 

「ク、クラハっ?」

 

 僕がこんな乱暴な真似をするとは、先輩は思いもしていなかったのだろう。僕だって、咄嗟のことだった。気がついたら、こうしていた。

 

 先輩が驚きの声を上げたが、しかしそれに構える余裕など僕にはない。動揺の色が見え隠れする真紅の瞳を覗き込むようにして、僕は必死になって先輩に訴えかける。

 

「そもそも先輩がこんなところに来なければ、ライザーの奴に酷い目に遭わされることなんてなかった。それだけじゃない。きっとろくでなしのあいつは、仲間を使って先輩をもっと酷い目に遭わせようとしたはずです。こんな無茶をしなければ……先輩の身には何も起こらなかったんですよ?」

 

 僕の訴えに対して、先輩は黙り込んでいた。そんな先輩に、僕は再度、切実に問うた。

 

「だから、教えてくださいよ。どうしてこんなことをしたんですか……ラグナ先輩」

 

「……」

 

 それでもまだ、先輩は沈黙を保っており。その真紅の瞳には、迷っているように揺れている。

 

 長い、本当に長い沈黙の後。遂に、先輩は。その真紅の瞳を伏せて、未だ動揺が抜け切っていない震えた声で。僕が待っていた答えを、その口から出した。

 

「お前の、為。俺が一人でここに乗り込んだのは、お前の為だ」

 

 それが、先輩の答えだった。それを聞いた僕は──────

 

 

 

 

 

 ──は……?

 

 

 

 

 

 ──────堪らず、絶句した。

 

「僕の、為……?」

 

 遅れて、呆然とそう呟く僕に対し。先輩はコクリと小さく、まるで躊躇うかのように頷く。

 

 先輩の肩を掴んだ手を、ズルリと滑り落として。僕は愕然としながら、先輩に言った。

 

「つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()と、先輩は言いたいんですか……?」

 

「…………は、はぁっ?」

 

 僕の言葉に対して、先輩は目を白黒させながら、まるで意味がわからないと声を上げた。すぐさま、先輩が言葉を続ける。

 

「ちょ、ちょっと待てよクラハ。別に俺はそうとは言ってねえだろうが。何でそうなるんだよ?」

 

「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか」

 

「はあぁっ!?だから違えって!どうしてそうなっちまうんだ!確かにここに乗り込んだのはクラハの為だけど、それは……!」

 

 先輩は必死になって、言葉を繋ごうとする。けれど、そんな先輩に対して、僕ははっきりと告げた。

 

「止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは」

 

 瞬間、先輩は止まった。真紅の瞳を見開かせて、止まって固まってしまった。

 

「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです」

 

 淡々と、僕は言葉を並べる。止まって固まって言い返せない先輩相手に、遠慮容赦なく。無慈悲に、大人気なく。

 

「だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ」

 

 それを最後に、僕は口を閉ざした。先輩はしばらくそのままだったが、やがて徐々にその顔を俯かせて。肩を小さく震わせながら、またその口を開かせた。

 

「言い訳……ああ、そうだな。クラハの言う通りだ。俺はお前を使って、言い訳してた。……でも、な」

 

 弱々しく震える声でそう言って、先輩は俯かせたその顔をまた上げた。

 

「こんな()()俺にでも、クラハの為にできることをしたかった。何でも、どんな些細なことでもいいから、お前の先輩として、お前の為になることをして、やりたかった。それは、本当、だから……!」

 

 必死に、まるでこちらに追い縋るかのように。言葉を(つっか)えさせながらも、そう最後まで言い終えた先輩の、上げたその顔には。

 

 

 

 

 

 とても悲しそうで、とても淋しそうな笑顔があった。

 

 

 

 

 

 それを目の当たりにした僕は、一瞬だけ目を見開かせて。それから顔を逸らし────

 

「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の()()()なんかが」

 

 ────突き放すように、そう返した。

 

 この部屋に、もう何度目かなんて数えるのが煩わしい静寂が訪れて。しかしそれはすぐさま、小さな足音によって破られる。

 

 その足音はやがて僕のすぐ隣で止んで。少し遅れて、もはや震えてなどいない声で、()()()は言う。

 

「助けに来てくれて、あんがと。……じゃあな」

 

 その感謝に対して、僕は。

 

「……はい。さようなら、()()()()()

 

 まだ知り合って間もなかった頃の呼び方を、もはや今さら使う機会など訪れることはないと思っていたその呼び方を。何の感情も感慨もなくただ淡々と。戸惑わず、躊躇わずに使った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終わりはいつも、いつだって唐突で、突然に訪れる。例外なく、全てに等しく。そう、平等に。

 

 だから、八年続いたこの関係もまた唐突に、突然に。経た月日と重ねた年月に見合わず、こうして呆気なく、あっさりと──────その終わりを告げたのだった。



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狂笑

「僕の、為……?」

 

 思えば、そこから狂い始めたのかもしれない。壊れた歯車が、軋んだ音を立てて歪み、それでも回り始めて、止まらないかのように。

 

「つまり……僕の所為で、僕が原因で酷い目に遭ったと、先輩は言いたいんですか……?」

 

 それはまるで自分を引き抜かれ、空っぽになった其処に全くの別の何かを詰め込まれたような、あまりにも現実味に欠けた、そんなあり得ない感覚。

 

 それに僕はひたすら戸惑って、困惑して、混乱して。けれども、今し方この口から(まろ)び出た自分の言葉を、必死になって否定する。

 

 ──違う。こんな……僕は一体、何を言っているんだ……?

 

 こんなこと、間違ってでも言いたくなかった。……言える訳が、なかった。

 

 だが現実は、無情にも僕を裏切る。

 

「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか」

 

 無慈悲に、裏切り続ける。

 

 ──僕はなんてことを口走っている……!?

 

 口を開く度に、言葉を紡いで繋ぐ度に。自分が自分でなくなっていくような、奇妙で奇異なその感覚に。僕は糸を繋がれた操り人形の如く、踊らされ続ける。

 

「止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは」

 

 延々と、永遠と。無様にも、愚かにも。

 

 ──止めろ。

 

 だけど、僕は抗った。

 

 ──止めろ。止めろ、止めろ止めろ止めろ……!

 

 必死に、抗おうとした。……だが。

 

「止めてくださいよ。僕を()()()に使うのは」

 

 それでも僕の口は、壊れた機械のように淡々と、そんな酷い言葉を吐き出し続ける。

 

 ──止めろ止めろ止めろ止めろ!違う!!僕は、こんなこと思ってなんかいない!!

 

 心の中で堪らず、そう叫んだ瞬間だった。

 

 

 

 

 

 ────本当は思ってるんじゃないの?────

 

 

 

 

 

 

 何処かで聞き覚えのある声が、僕にそう囁きかけた。

 

 ──…………え……?

 

「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです」

 

 僕が呆然としている隙に、僕の口から言葉が零れ落ちる。

 

 ──思ってなんか、いない……僕はこんなこと、思ってなんか……。

 

 もう、わからなくなった。僕という自分が、まるでわからなくなってしまった。

 

 だが、それでも。なけなしの気力を振り絞って、抵抗を続けようとした。……しかし、それはあまりにも弱々しい、儚い抵抗だった。

 

「だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ」

 

 そして、そんな程度の抵抗は、無意味に終わる。

 

「言い訳……ああ、そうだな。クラハの言う通りだ。俺はお前を使って、言い訳してた。……でも、な」

 

 しかし、あまりにも理不尽極まりない怒りを孕んだ、僕のそんな言葉に対しても。この人は真摯に受け止めて、健気に飲み込んで。

 

「こんな今の俺にでも、クラハの為にできることをしたかった。何でも、どんな些細なことでもいいから、お前の先輩として、お前の為になることをして、やりたかった。それは、本当、だから……!」

 

 そう、返してくれた。とても悲しそうで、とても淋しそうな笑顔を浮かべて。

 

 ……だが、その時僕は悟った。悟ってしまった。

 

 ──……言うな。言うな、言うな言うな言うな言うなッ!駄目だ、それだけは……これだけは……ッ!!

 

 それは決して、絶対に口にしてはならない言葉。……だったというのに、僕は────

 

「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」

 

 ────自分に抗えず、口に出してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──わかって、いたんだ。

 

 最初はゆっくりだったが、徐々に早歩きとなって。そして堪え切れなくなったように駆け出し、どんどん遠去かるその足音を聞きながら。

 

 ──本当は、わかっていたんだ……。

 

 脇目も振らず、ただ一目散に。今すぐにでも追いかけるべき、その足音を聞きながら。

 

 ──本当はわかっていたんだ……ッ。

 

 今までに味わったことのない後悔と絶望の前に、僕は打ち拉がれていた。

 

 そう、わかっていた。わかっていたというのに、僕は()()()()()()()()()()()()()()()

 

 確かに、今回のことはラグナ先輩の方にも少なからず責任はある。僕にそれを伝えられないことは重々承知しているが、それでもまずは誰かに相談してほしかった。先輩には、誰かに頼ってほしかった。

 

 誰にも伝えず、頼らず。たった一人でライザーの根城に乗り込むなんて無茶で無謀な真似を、僕はしてほしくなかった。

 

 しかし、そのことをああやって責める気など、僕にはなかった。なかった……はずだったのだ。

 

 だってわかっていたから。今回の行動の全てが、先輩なりに僕のことを思い、僕の為にと考えられていたものだと、わかっていたから。

 

『お前の先輩として、お前の為になることをして、やりたかった。それは、本当、だから……!』

 

 そう、本人から直接言われずとも。僕はわかっていた。ちゃんと、理解していた。……そのつもりだった。

 

 いざ蓋を開けてみれば────

 

 

 

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』

 

 

 

 ────最低最悪の、完全否定。

 

「…………」

 

 もう、足音は聞こえない。……それとも、もう僕の耳には届かないだけのだろうか。それすらも、そんなことすらも、今やわからない。

 

 ただわかるのは、もはや取り返しのつかない過ち。それを僕は、よりにもよってラグナ先輩に対して、しでかしてしまったのだ。

 

 こうしていくら後悔しようが、罪悪感に押し潰されていようが。どうにもならない。どうしようも、ない。

 

 呆然自失とその場に立ち尽くしていた僕だったが、ようやっと動き出す。鉛のように重たい足取りで、この部屋の壁へと歩み寄る。

 

 壁は固かった。石壁だ。手で触れると、ザラザラとした感触が皮膚を擦る。

 

「……どう、して」

 

 それだけ、僕は呟いて。石壁からそっと、手を離す。そして、すぐさま。

 

 ゴチャッ──その石壁に、額を叩きつけた。

 

「どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして」

 

 繰り返し呟き続けながら、僕は繰り返し額を叩き続ける。呟く度に、額を叩きつける。

 

「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」

 

 ビシ──そして。四十回そう呟き、四十回そう叩きつけた、丁度その時。そんな音と共に、石壁に幾筋の亀裂が走った。

 

「…………」

 

 気がつけば、目の前の石壁は真っ赤に染まっていた。下に続く赤く太い線を視線で追うと、僕のすぐ足元に小さな赤い水溜りもできていた。

 

 ──…………。

 

 妙に軽くなった頭の中で、ふと僕はこう思った。

 

 

 

 

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「……ハハ」

 

 乾いた笑い声が、自然と僕の口から漏れ出す。それを聞きながら、僕は自答する。

 

「そう、だったのかなあ。そう思って、いたのかなあ。ハハ、ハハハ……」

 

 理解不能の、グチャグチャな感情が。滅茶苦茶で無茶苦茶に入り乱れる脳裏に。

 

 

 

 ────本当は思ってるんじゃないの?────

 

 

 

 またその声が、響いた。

 

「煩えなぁあああッ!!煩えんだよいいから黙ってろぉぉぉおおおおッッッ!!!」

 

 ドゴッ──喉が裂ける勢いで、箍が外れたように叫びながら、僕は石壁を殴りつける。亀裂がさらに広がった。

 

「……ハハ、アハ、アハハッ!アッハッハッハッハ……!」

 

 僕は笑う。ドクドクと額から血を流して、垂らして、滴らせて。狂ったように──────否、狂って笑って。そう、狂い続けて。そう、笑い続けて。

 

 軋んで歪んで壊れた、この度し難い現実の最中で、独り切り。そうして、一頻(ひとしき)り笑い続けた、その後に。

 

「………………ああ、そうだね。ライザー、僕とお前は……最低最悪の同類だよ」

 

 顔半分を手で覆い隠しながら、僕はそう吐き捨てた。



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深夜の来客

 住人の、誰も彼もが寝静まる、深夜のオールティア。夜の帷がすっかり落ち切った、黒い空を仰ぎ見れば。幾万幾億という星々が輝き瞬いている。そんな絢爛と煌びやかな光景を、彼女は独り。自宅の窓から呆然と眺めていた。

 

 彼女こそ、このファース大陸モノ王国を代表する冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の受付嬢にして、元《S》冒険者(ランカー)────メルネ=クリスタである。

 

「……」

 

 満点の星を眺めながら、メルネは心の中で静かに呟く。

 

 ──二人共、大丈夫かしら……。

 

 メルネが言うその二人とは、もちろん────ラグナ=アルティ=ブレイズと、クラハ=ウインドアのことだ。

 

 世界(オヴィーリス)最強の三人と謳われ語られる存在(モノ)たち────人呼んで、『三極』。

 

 その内の一人に数えられるのが、ラグナ=アルティ=ブレイズ。直近では予言書に記されし四つの滅び────『厄災』。その一柱たる『魔焉崩神』エンディニグルを討滅した彼だったが、少々……否、かなり複雑に入り組んだ事情により、今やその壮絶無比とされた最強ぶりがまるで嘘だったかのように、非力で無力な赤髪の少女となってしまっている。

 

 そしてそんな彼女……ではなく彼をあらゆる意味で元に戻そうと、現在絶賛奔走しているのがクラハ=ウインドア。彼もまた数十年来の逸材と評され、僅か一年足らずで()()()の最高とされている《S》ランクにまでなった、期待の星の冒険者(ランカー)だ。

 

 そのクラハが何故ラグナの為に頑張っているのか。その理由は簡単だ。何故なら、彼はラグナの後輩だから。

 

 ラグナとクラハの付き合いは実に八年にも長きに渡るもので、二人は相当に厚い信頼で結ばれていると、少なくともメルネはそう思っている。……否、()()()()()

 

 メルネの揺るぎないその思いに、微かな翳りが差し始めたのはつい最近のこと────言うまでもなく、ラグナの身にあのような異変が起きてすぐの頃からである。

 

 メルネは知っていた。そして、見てきた。まだ駆け出したばかりの新人だったクラハは勿論のこと、まだ『三極』に数えられる以前の、最強と自他共に認め、認められ謳われる前の、ラグナのことも。

 

 だからこそ────いや、恐らく『大翼の不死鳥』GM(ギルドマスター)、グィン=アルドナテも今頃までこの街に滞在していたのなら、きっと自分よりも早く気づいていたはずだ。

 

 ともかく。だからメルネはそれを敏感にも感じ取った。ラグナの混乱と焦燥、クラハの困惑と戸惑いを。

 

 側から見れば、別段気にすることもないことだったのかもしれない。そうなって当たり前だという、謂わば一種の常識のような。過ぎる時間がいつしかそのことを気にさせなくなるだろうと、二人についてそう深くは知らない他人は思ったかもしれない。

 

 だが、メルネは違う。昔から二人のことを間近で見てきた彼女からすれば、それは酷く危うい。

 

 今はまだ何もなく無事で済んでいるだろうが、その不安定極まりない迷いの感情は、ほんの少しの些細な拍子で呆気なく、そして瞬く間に砕け散ってしまうことだろう。

 

 そしてそれを一から修復するとなれば至難を突き詰め────最悪の場合、もはや一生を賭しても直らないかもしれない。

 

 ──固いもの程、何故か案外脆くて派手に壊れてしまう。……二人の間にある信頼は、まさにそれ。

 

 メルネがそのことに関して危機感を抱き始めたのは、言うまでもなく昨日にあった出来事の所為。

 

 

 

『そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』から抜けた元《S》冒険者(ランカー)のライザー=アシュヴァツグフだ』

 

 

 

 それは、予期せぬ闖入者であり。そして、招かれざる来訪者でもあって。その男────ライザー=アシュヴァツグフの顔を思い出し、メルネは苦心するように目を閉じ、顳顬(こめかみ)を軽く手で押さえる。

 

 ──最悪な男が、これまた最悪のタイミング……いえ、だからこそ、なのかしら。

 

 そう心の中で呟きながら、メルネは頭の片隅に追いやっていた記憶を、ややうんざりとしながらも手繰り寄せる。

 

 恐らく全てのことの発端なのだろう、一年前の記憶を。

 

 ──ライザーは優秀な冒険者だった。才能だって、彼は十分持ち合わせていた。異例中の異例、《S》ランクからの冒険者登録がそれを証明してる……けれど、それがいけなかったのかもしれない。それが彼を、ああまで狂わせてしまったのかもしれない。

 

 メルネの閉じた瞼の裏で、未だになおその記憶は色鮮やかに想起される。

 

 結果の見えている勝負だと、誰もが思っていた。だが、それは大きな間違いで。しかし、ある意味では当たってもいた。何故ならば、驚くべきことに。

 

 

 

 ザシュッ──その勝負はたったの一合で決着がついたのだから。……それもライザーの敗北という、誰もが予想していなかった形で。

 

 

 

 メルネは今でも思い出す。信じられない面持ちで、あまりにも柔らかで、そして恐ろしく疾いその剣を。

 

「……」

 

 今でもメルネは鮮明に思い出せる。あの瞬間、ライザーの肩に遠慮容赦なく振るわれた、クラハの見事な一撃を。一切の躊躇も迷いもなく、宙を駆け抜けたあの白刃の一閃の美しさを。

 

 だからこそ、彼女は忘れることができない。

 

 

 

 

 

『わかったな!?──────クラハァッ!!!』

 

 

 

 

 

 これ以上になく、それ以上などこの世にはありはしないと思い知らされるまでに、憎悪と怨恨に満ち満ちた、ライザーの咆哮を。

 

「……はあ」

 

 たとえ事勿れ主義の偽善だと理解していても、せめてもとメルネは祈る。本当に()るのかもわからない、この世界(オヴィーリス)の創造主たる『創造主神(オリジン)』に。

 

 どうか、ラグナとクラハの二人に何もありませんように。互いを結び繋いでいるその信頼と絆に何もありませんように、と。そうすることで、昨日から不穏な警鐘を鳴らし続けて止まない、己の第六感を抑え込もうとする。

 

 ──私の予感って、嫌な時程よく当たるのよね……。

 

 その思いとは裏腹に、そう心の中でメルネが独り言ちる────その瞬間。

 

 

 

 リリーン──不意に、来客を知らせる(ベル)の音が、メルネの自宅に響き渡った。

 

 

 

「……こんな時間に、一体誰……?」

 

 壁にかけられた時計を見ながら、訝しげにメルネは口に出して呟く。それから少し思案を巡らせた後、彼女は椅子の背もたれにかけていた上着代わりの布を手に取り、玄関にまで向かう。

 

 そうして、メルネは扉の元にまで近寄り、覗き穴を見る──────

 

 

 

 

 

「え……?」

 

 

 

 

 

 ──────メルネの自宅の扉の外に立っていたのは、見覚えのある男物の黒い外套(コート)を羽織り、儚げに腕を抱き、何処か思い詰めた表情をその顔に浮かべている、ラグナであった。



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その役目を

「それにしても驚いちゃったわ。急にこんな時間に、それもまさかあなたがこうして訪ねて来るなんて、ね」

 

「……悪い」

 

「別に気にしなくていいのよ。一応私とだってそれなりに長い付き合いでしょ?それとお湯加減はどう?熱くない?」

 

「……大丈夫」

 

「そう。ならよかった」

 

「……」

 

 そうして、二人の────メルネとクラハの会話は一旦の終わりを告げ。そこから先は、シャワーから流れる温水が、浴室のタイルを叩く音だけが、静かに響き続けた。

 

 

 

 

 

 ラグナが扉の外に立っていた──────その現実を確と認識し、受け止めたメルネは。とりあえず、扉を開いた。

 

 メルネとラグナ。こうして直に対面した二人は、数秒互いを見つめ合う。無言が織り成すその静寂の最中、まず最初にその口を開かせたのは。

 

「こんな時間に悪い。他に当てがなくて、さ……」

 

 ラグナ、であった。申し訳なさそうに、ばつが悪そうに言うラグナに、慌ててメルネも口を開き、言葉を返す。

 

「べ、別にそんなの気にすることないわ。立ち話もなんだし、まあ中に入りなさい」

 

 そうして、メルネはラグナを自宅へと迎え入れた。

 

 ──当て……?

 

 そのラグナの言葉に、妙な引っかかりを覚えつつも。

 

 ……しかし。そうして迎え入れたはいいものの、そこからメルネは困惑と戸惑いに囚われることとなる。何故なら、ラグナの様子があまりにもおかしく、そして今発しているその雰囲気は、およそメルネが知るものとは遠くかけ離れていた為だ。

 

 一体どうしたというのか。何があったのか────こんな深夜に突然訪ねて来たことも含め、それらをメルネは問い質そうとした。

 

 だが、自宅に迎え入れられてからはまた口を固く閉ざし、ほんの一言すら発さないラグナの沈黙を前にしてしまっては、それも上手くできそうにない

 

 ──……困ったわねぇ。

 

 会話もできず、ただ無意味に時間だけが過ぎていく。そうは言ってもまだ、たかだか数分のことなのだが。

 

 ──よし。こうなったら……。

 

 これ以上貴重な時間を無駄に過ごす訳にもいかない。ただでさえ今は深夜で、こちらには今日の早朝から仕事が控えているのだ。ラグナには少し悪いと思いつつも、そういった個人的な理由から、メルネは行動に打って出ることにした。

 

 ──とは言っても、どうしましょ……?

 

 その行動に移る為の(いとぐち)を掴もうと、メルネは向かい側の椅子に座るラグナを眺める。

 

 そうして、ラグナの格好を眺めたメルネは。一つの単語を頭に思い浮かべた。

 

「えっと、とりあえずお風呂……そうねお風呂に入りましょ、ラグナ。その髪で一人は大変だと思うから、一緒に……ね?」

 

 言ってから、自分は一体何を言っているんだろうと、メルネは思った。自分は既に寝巻き姿だというのに。

 

 妙なことを口走ってしまったとメルネが後悔する最中、少し遅れて。やや遠慮気味に、こくり、と。小さく、ラグナが頷いた。

 

 ──……あら?

 

 

 

 

 

 ──私が言ったことだけども、まさかこうして本当に一緒に入ることになるだなんて。

 

 まるで燃え盛る炎をそのまま流し込んだような、鮮烈な紅蓮の赤髪を。湯で濡らし、指先で優しく丁寧に梳きながら、メルネは微笑む。

 

 ──本当に綺麗な髪。手入れとか特にしてないんだろうけど、正直これは妬いちゃうなあ。

 

 しかしすぐさま、そんなメルネの微笑みに、複雑なものが微かに混じる。

 

 そう、手入れなどされているはずがない。そんなことを気にする訳がない。

 

 だって、元々ラグナは男だったのだから。こんな綺麗な髪も、汚れ一つない肌も、元々ラグナは持っていなかったのだから。

 

 ──……ラグナ、本当に女の子になっちゃったんだ。

 

 とっくのとうに、『世界冒険者組合(ギルド)』から全四大陸に発表されたその情報を、まるで今知ったかのように。呆然と、メルネはそう思う。

 

 しかし、それも無理はない。確かにラグナは赤髪の少女となってしまった。けれど、それはあくまでも外見だけだった。その傍若無人な性格や大胆不敵な立ち振る舞い、その天真爛漫な性根は何処も変わっていなかった。ちっとも、ほんの少しの変化だってなかった。

 

 だからこそ、メルネは()()してしまっていた。まだそこに、自分が知るラグナがいるのだと。そんな都合の良い、()()()を起こしてしまっていた。

 

 だがそれは、やはり勝手な思い違いだったのだと。メルネは痛感させられた。周知の事実となったその現実を、今。彼女はこのような形で受け止め、ようやっと受け入れたのだ。

 

 ──……だからこそ、なのよ。

 

 ラグナの赤髪を梳くその指先に余計な力が入らぬよう、メルネは沸々と激しく、されど静かに。己の内で怒りを滾らせる。

 

 ラグナは何も話してくれなかった。何故、あの黒い外套(コート)を、クラハのものであろうそれを羽織っていたのか。何故、その下にあった服がああも、下着(ブラジャー)諸共に断ち切られていたのか。

 

 そして何故────ラグナはそんなにも気を沈ませ、昏く落ち込んでしまっているのか。玄関で他に当てがなかったと言われたことといい、メルネの頭の中では疑問符が右往左往に飛び交っている。

 

 だけど、ラグナは何も話さない。一体何があったのか、何も話してくれない。その似合わない無言と沈黙が、これ以上になく、どうしようもなくメルネの心を騒つかせてしまう。

 

 だが、しかし。それを解消できる手っ取り早い方法はある。それは単純明快────自分がラグナから訊き出せばいい。一体何があったのかと、問い詰めればいい。ただ、それだけだ。

 

 ただ、それだけのことだというのに。

 

 ──……難しい、なあ。

 

 メルネはそれができない。その一歩を、踏み出せない。確かに、明らかに尋常ではないラグナの雰囲気に気圧されている自分がいる。普段とは似ても似つかないその雰囲気に、気を憚れてしまう自分がいる。それは、自覚している。

 

 だがそうではないのだ。そういうことでは、ないのだ。もし、仮にもし。今日、ラグナが酷い目に遭って────否、()()()()()()()として、だ。

 

 そのことについて詳しく訊ねるということは、ラグナにその酷い目に関して自ら話させるということ。負ったその傷を、自分から抉れと言っているのと、同じことだとメルネは思っている。

 

 説明しなければ何もわからないし、何も始まらない。そんなことはメルネとてわかっているし、理解している。……それでも。

 

 ──私はラグナを傷つけたくない。……傷つけてしまうことが、堪らなく怖い。

 

 だからメルネはラグナを問い質すことができない。その思いが、邪魔をしてしまうから。

 

 ……それに、ラグナから話を聞かずとも。おおよそ何があったのかは、察しはつく。メルネとて、伊達に歳を重ねていない訳ではない。

 

 というより、()()()()()()()()()()()()、メルネは薄々思っていた。昨日、ライザーと望まぬ再会を果たしてしまった時から、ずっと。

 

 嫌な予感程、よく当たる────捧げた祈りは天に届かなかったことを知り、己の第六感を恨みながら。メルネは黙ってラグナの髪を梳き続ける。

 

 しかし、思わぬ形でメルネの望みは成就することになる。ラグナの髪も洗い終えたので、もう自分がいる必要はないだろうと、浴室から出る為にメルネがラグナに一声かけようとした、その時。

 

「……なあ、メルネ」

 

 黙っていたラグナが、その口を開かせた。不意のことで、ほんの僅かに肩を跳ねさせながらも、落ち着いた声音でメルネは返事をする。

 

「ん、どうかしたの?ラグナ」

 

 しかし、ラグナが言葉を続けることはなく。それからまた少しの沈黙が続いたかと思うと、メルネに背を向けたまま、ラグナは。

 

「俺って、何なのかな」

 

 そう、静かに呟いた。

 

 ──え……。

 

 自分とは何なのか。そんな哲学めいた言葉が、それもラグナの口から出たことに。メルネは堪らず動揺し、戸惑ってしまう。それが彼女の言葉を濁らせ、口を鈍らせ。結果、返事をするのが遅れて。

 

 しかし、それを気にしたようなことはなさそうに。さっきとは打って変わって、ラグナは言葉を続ける。

 

「俺はただ、何かしたかった。先輩として、後輩の為になることを、してやりたかった……ただ、それだけだったんだ」

 

 その華奢な肩を微かに震わせながら、それと同様の声音で。

 

「悔しかったから。ずっと、ずっと……あの時は見てることだけしかできなくて、助けを呼ぶくらいしかできなくて、助け、られなくて。それがずっとずっと悔しかったんだ。だから、こんな今の俺でもしてやれることを、したかっただけなんだよ」

 

 やがて、震えるだけに留まらず。徐々に、ラグナの声音は濡れていく。

 

「なあメルネ……教えてくれ」

 

 予想だにしない状況下に置かれて、声も出せずただ固まる他ないでいるメルネに。弱々しく震える濡れた声で、縋るかのようにそう言って。そしてようやっと────ラグナは振り向いた。

 

 

 

()()俺って、一体何なんだ……?」

 

 

 

 ──ラグナ……。

 

 その時見た、顔を。表情を。この生涯の中で忘れることはないだろうと、心の中で切実にラグナの名を呟きながら、メルネはそう思う。そして彼女は何も言わず、何も言えず。

 

 腕を振り上げ────そっと、ラグナを引き寄せて。その小さな身体を、優しく抱き締めた。

 

「…………言われ、たく、なかっ……た」

 

 メルネに抱き締められながら、彼女の胸元に顔を埋めさせながら。嗚咽混じりに、ラグナが言葉を零す。

 

「あんなこと、クラハだけには言われたくなかったぁぁぁぁ……っ!」

 

 そこから先、ラグナは泣いた。ずっと、泣き続けた。メルネの前で、恥も外聞もかなぐり捨てて。

 

 浴室に響き渡る、その悲しさと辛さと淋しさに満ち溢れた慟哭を聴きながら。それを止めることができない、無力な己の不甲斐なさを歯痒く思いながら。ただ、メルネはそれを受け止め続けた。それがラグナの為にできる、唯一のことだから。

 

 ──……大丈夫。大丈夫よ、ラグナ。きっと、大丈夫だから。

 

 メルネは知っている。ラグナの問いかけに答えるべき者を。

 

 メルネは知っている。失意のどん底に落ち、絶望の最中に独り取り残されたラグナに。手を差し伸べ、そこから連れ出せる者を。

 

 だから、どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても。メルネは何も答えられない。何もできない。

 

 何故ならば、知っているから。自分がそうではないことを。自分には、その資格がないことを。

 

 

 

 

 

 その役目を、果たさなければならない者を。



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裏心剥離

 一体、どれくらいの時間が経ったのだろう。一体、どれくらい僕はそこにいて、そうしていたのだろう。

 

 短命に終わるのか、長寿を全うするのか。この先どうなるのか想像もつかない人生の最中で、ただ確実に無意味と言える時間を、そこで浪費した僕は。

 

 唐突に正気に戻ったように、自分がやるべきこと、成すべきことを思い出したように。僕はその場でただ突っ立っているのを止め、歩き出した。

 

 フラフラとおぼつかない、実に危なっかしい足取りで。僕は床に伏せたまま、一向に立ち上がる気配を見せず、微動だにしないライザーを放置して。僕によって扉を蹴破られ、ただの出入口となったそこを通り、この部屋から立ち去る。

 

 抜けた先の大部屋では、つい先程僕によって打ちのめされた男たちが、未だ床に倒れていたり、壁にもたれて座り込んでいたりしていた。大半は気を失っていたが、一、二人は既に気を取り戻しており。しかし、それでもまだ僕の一撃が尾を引いているようで、僅かな呻き声を上げるのが精一杯らしく、結果誰も彼もが床から立ち上がれないでいる。

 

 向こう見ずの彼らでも、流石にそんな状態に陥ってしまえば余裕がないらしい。最初とは打って変わって、今や僕に挑みかかる者は誰一人としていない。

 

 ──……だったら、最初から大人しくしていれば、良かったのに。

 

 そうしたら、自分はまだ間に合っていたかもしれないというのに────そう、現実逃避めいた独り言を心の中で呟いて。途端、僕は苛立ち不愉快な気分を胸の内に抱く。

 

 数秒と言えど、それを抱え込むのは存外心身的負担(ストレス)になるもので。そんな些細なものであろうと、今の僕には到底見過ごせない、許容できない負担で。我慢も儘ならないことで。

 

 だからこの苛立ちを解消しようと。この不愉快な気分をどうにかしようと。床の彼らを見つめ、僕は拳を握り、力を込める。

 

 そうして、僕は────何もしないまま(・・・・・・・)、この大部屋からも立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 気がつくと、僕は扉の前に立っていた。元々は僕の部屋であり、しかし今はそう滅多には近づくことも、そして余程のことがない限りは入ることもなくなってしまった、その部屋の扉の前に。

 

 自宅の一室、それも元は自室だったというのに。何故それがそうなってしまったのか────その理由と経緯は非常に、ごく単純(シンプル)なもので。今現在、この部屋が先輩のものになっている。それに尽きる。

 

 ──今現在……か。

 

 終えたばかりの自問自答に対して、僕は自嘲し呆れ果てる。当然だろう。だってもう、この部屋はもはや()()()()()()()()()()()()

 

 己を嘲りながら、僕は扉越しに、部屋の中までちゃんと聞こえるように。口を開き、大きな声で呼びかける。

 

「こんな深夜にすみません。部屋の中に、入らせてもらいますよ」

 

 僕の声は虚しく響き渡った。扉の向こう、部屋の中からは返事も、何の音もしなかった。数秒、数分が過ぎても。何も、なかった。

 

「…………ハハ」

 

 そのことに、その事実から成り立つこの現実を前に。僕はただ、乾いて掠れた笑いを漏らすことしかできない。そうして僕は、ノブに手をかけ握り、捻って。ゆっくりと、その扉を押し開いた。

 

 部屋は、静かだった。ただひたすらに、無音だった。それも当然のこと────何故ならば、誰もいないのだから。

 

 わかり切っていた、とうに理解していた現実を。覆しようも変えようもない事実を確と受け止め。けれど存外、僕は落ち着きを払っていた。異様なくらいに、冷静だった。

 

 ……違う。諦観の念の元に()()()()()()景色を現にこの目で見て確かめたから、取り乱すことはもちろん、今さら驚愕することも愕然とすることもなかったのだ。

 

 扉を開いたまま、立ち尽くしていた僕は。少し遅れて、部屋の中に足を踏み入れさせ、そのまま歩を進める。そうして目指した先にあったのは、一つの寝台(ベッド)

 

 それを見下ろし、数秒。僕はそこへ、脱力したように倒れ込み、沈んだ。

 

「…………」

 

 以前まで、あの煌々と燃ゆる紅蓮を直接、そのまま流し入れたような、鮮烈として美麗な()()()()()が現れるまで、僕が使っていた寝台。その寝台からは、匂いがした。何処か仄かに甘い気がする、不思議と心地良い、匂いだった。

 

 こうしていると、まるでその匂いに包まれているようで。まるで、この全身を抱き締めてくれるようで。それがなんとも、堪らなく心地良いのだ。気分が落ち着き、安らぎ、癒されるのだ。

 

 今思えば、今日は長い一日となってしまった。体力も消耗した。だからか、次第に睡魔が込み上げ。それは瞬く間に巨大化し肥大化し、とてもではないが抗うことのできない程の、生理的な欲求へと成長を遂げる。

 

 ──ああ、眠い……な。

 

 鉛の如く重くなった瞼を、僕は素直に閉じる。そうして視界は閉ざされ、夜闇よりも濃く深い暗闇が、僕を覆い尽くし、包み込む。

 

 恐らく、あと数分もしない内に、僕の意識は睡魔に囚われ、無意識の奈落へ落ちることだろう。

 

 だが、その前に。自分でも意外だと驚く程冷静に、冴え渡る思考を巡らし、つい先程ばかりの出来事を鮮明過ぎるまでの映像(きおく)として振り返り、そして僕は唐突に答えへと辿り着く。

 

 あの時の自分は、もう()()()()()()()()()()。いや、ある意味では、あれこそが本当の自分だったのかもしれない。

 

 裏の心が剥がれて離れた自分が、内に秘めて閉じ込めていたその本音を、ああやってぶち撒けた。……きっと、そうなのだろう。

 

 うつらうつらとし、途切れ途切れになり始めた意識の中で。ふと、そういえばと、僕は妙な引っかかりを覚える。それが一体何なのか、上手く言葉にはできないのだが。大切で、大事なものを自分は忘れてしまっているような、そんな気がする。

 

 ──…………あ。

 

 眠りに誘われ、囚われ、落ちるその寸前。辛うじて、僕は()()を思い出す。答えは、先程想起したばかりの記憶の中にあったのだ。

 

 

 

『僕は……僕はこんなことの為に強くなった訳じゃないッ!』

 

 

 

 この手で握り締め、刃を握り砕きながら放ったその一言。そのことを思い出し、僕は妙な引っかかりの正体に辿り着く。辿り着いて、僕は────────

 

 

 

 

 

 ──僕は……何の為に、強くなったんだっけ……。

 

 

 

 

 ────────呆然自失に心の中でそう零して、直後僕の意識は安息と安寧が謳う暗闇へ、落ちて沈んだ。



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醜悪炎情

「…………ヒ、ヒッ」

 

 ラグナが部屋から立ち去り、しばらくその場で立ち尽くしていたクラハも部屋から立ち去り。この部屋に独り残された男──ライザー=アシュヴァツグフは、床に倒れ伏せたまま、小刻みにその肩を震わせ、か細く引き攣った笑いを漏らす。

 

「ヒヒッ……イヒッ、イヒャヒャ……ッ」

 

 しかし、最初は耳を澄まして聴こうとしなければ聞こえなかったその笑い声も、次第に音と勢いが増し。そうして数秒と過ぎない内に、ライザーの笑い声は部屋中に響き、震わせるようになる。

 

「ヒャアアアッハッハッハアアアァァァ!!アィイヒハハハヒヒャヒャヒャアアアアアアッッッ!!!」

 

 おかしそうに、楽しそうに、愉快そうに。ライザーは笑う。ただひたすらに、延々と。床に倒れ伏せたまま、彼は笑い続ける。

 

「イィィッヒヒヒハハハヒャヒャッ!やったッ!やってやったぞッ!作戦大成功ってやつだあっ!アヒャヒャヒャハハハッハッ!!」

 

 そうしてライザーは一頻(ひとしき)り笑い続けた後、まるで休憩とでも言わんばかりに一つのため息をその口から漏らして、それからようやっと伏せた状態から、気怠そうに床を転がり仰向けの体勢となる。しかし、起き上ろうとはしなかった。

 

 床に寝転んだまま、ライザーは薄汚れた天井を見上げながら、先程よりかは大人しい、くぐもった笑い声を漏らす。それから深々と、しみじみとした感傷に浸りつつ、彼は独り言を呟き始めた。

 

「ああ、嗚呼……痛かった。痛かったぞお……キヒ、でもその甲斐はあったなあ。見返りはあったなアハハャヒャ……ッ」

 

 天井を見上げるライザーの目は、もはや焦点が合っていない。しかしそれでもなお、お構いなしに彼は続ける。

 

「傑作だった……最高だった……もうこれ以上にねえって程の見世物だったなぁあっ!ハハハッ!あのクラハが!アヒャヒャヒャ!遂に!とうとう!アァハアッハハヒャアアアッ!!」

 

 もう、それをライザーは抑えることができないらしい。手で腹を押さえ、背中を仰け反らせ、彼は激しく笑って、笑い続ける。

 

「ハハハイヒヒヒヒャアッハッハッハッ!!ヒャハハハハッッッ!!!クラハ!これで!お前も!俺と同等だ同一だ同類だッ!!最低最悪の!そう!!最低最悪のぉぉおおおオオオッ!!」

 

 瞬間、焦点の定まらないライザーの血走った目が。零れ落ちそうになる程に、限界のギリギリまで見開かれた。

 

「同じだ!同じだ!!同じだッ!!!同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じ同じなんだァァァアアアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッ!!!!」

 

 何故喉が破り裂けないのだろうと疑問に思うくらいの、狂気の咆哮をライザーは轟かせて。直後、彼はその口を閉ざした。

 

 ライザーが無言となったことで、部屋は不気味な静寂に包まれる。その最中、数分の沈黙を以て。再び、ライザーが口を開いた。

 

「これで……あれで、俺の目的は果たされた。この俺、ライザー=アシュヴァツグフの策略、謀略通りに。見事クラハ=ウインドアは嵌まり嵌まって嵌められて、結果自分が最も大切にしていた大事なかけがえのない存在(モノ)を誹り貶め、否定した。……勝ったんだ。他の誰の目から見ても、俺は奴に勝ったんだ」

 

 つい先程までの狂騒ぶりが、まるで嘘だったかのような。落ち着きを払い、冷静沈着にライザーはそう呟く。そう、自分に言い聞かせるように。

 

 そしてライザーは口端を吊り上げ、宙へ手を翳し。血が滲み出て腕を伝う程に、力を込めて拳を握り締める。

 

「そうさ。そうだ。俺ぁ奴に勝った。ライザー=アシュヴァツグフはクラハ=ウインドアに勝利したぁ……それは!確かな事実ゥッ!!それが!確かな現実ゥウッ!!クク、ハハハ、アギャギャギャギャァアハァハァハァッ!!!」

 

 一時は冷静沈着となっていたその口調が、徐々に異変を来し。そしてあっという間にライザーの狂気は再び駆け出す。ようやっと訪れた静寂は数分と保たずに引き裂かれ、すぐさま彼の歪な狂気によって呑み込まれてしまう。

 

 その中心にいるライザーは依然笑って、そして笑い続ける。

 

「アッッヒャヒャヒャヒャッ!ヒャハハハハァアッ!!満足ッ!ン満足ゥ!!圧倒的、満足ゥウウヒヒヒヒアハハハハッ!!!…………はあ」

 

 が、しかし。延々と永遠に続くかに思われたライザーの狂笑は、不意に終わりを告げ。そして────────

 

 

 

 

 

「っんな訳ねえだろうがぁあああああッ!!アアアアアアッ!!!ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッ!!!!!!」

 

 

 

 

 

 ────────一気に弾けて爆ぜて、噴いた。

 

(クソ)が糞が糞がァアアアアッ!糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞ォォォオオオッッッ!!!憎いッ!!恨めしいッ!!殺してェエエッ!!ぶっ殺してぶち殺してやりてェエエエッ!!殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺……ッ!!!…………ド畜生がああああああああああああッッッ!!!!!」

 

 限界以上に開かれ、両端が裂けたライザーの口から。大量の血と共に、激しく濃密な憎悪と怨恨の言葉が吐き出される。己の血で赤く染まった拳を振り下ろし、床を叩き割りながら。立ち上がったライザーは胸の内から際限なく込み上げ溢れ出す負の感情のままに、癇癪を起こした子供のようにこの部屋の中で暴れ回る。

 

 ライザーに蹴り上げられた寝台(ベッド)が悲鳴のような軋んだ音と共に吹っ飛び、壁と激突し木っ端微塵に砕け散る。余波で破けた布団から飛び散った綿が、宙を舞う。

 

 恐ろしき獣の如き咆哮を上げ、ライザーがその拳で石壁を殴りつける。彼の拳はめり込み、そう薄い訳でも脆い訳でもない石壁を容易く貫いて。拳が引き抜かれ、穿たれたその大穴から。深々とした亀裂が細々と石壁全体に、瞬く間に広がり、一部が崩壊した。

 

「クラハ、クラハ、クラハ、クラハ、クラハ……」

 

 顔を手で多い、指の隙間から覗く目にありとあらゆる負の感情を宿らせて。まるで譫言(うわごと)のように、その名を繰り返し、何度も。何度も何度もライザーは呟き続ける。

 

「クラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクラハクゥラァァハアアアアアアアアアアアッッッ!!!」

 

 終いに、ライザーは叫び散らし。直後、悍ましいその狂行は唐突に終わりを告げる。

 

「…………だが、しかし。それはできやしない……あの野郎は、さらに強くなってやがった。一年前とは比較にならん。まるで別人だ畜生め。……ああ、嗚呼。何故だ、何故なんだ。俺だって馬鹿みてえにただ待っていた訳じゃない。努力は惜しまなかった。一年分の復讐を成し遂げる為の努力は一切惜しまなかった……だのに。一体、一体何が違うんだ?俺の才能と奴の才能とで、一体何が違うっていうんだ……?」

 

 先程の狂いに狂った言動とは真逆の様子で、ライザーは静かに呟き、深々と嘆く。その脳裏に、絶対に忘れ去ることのできない、心に根深く刻み込まれたその記憶(えいぞう)を想起させながら。

 

 それこそが、ライザーに道を踏み外させた原因。彼をこのような人間に貶めた要因。彼を、永遠に終わらぬ狂気へと突き堕とした元凶。

 

 少なくとも、ライザーはそう思っている。事実──────それが彼をこのような人間に豹変させた、歴とした確かな切っ掛けなのだから。

 

 憎悪、怨恨、嫉妬、妄執、哀愁────ライザーの内側で醜悪な炎が渦巻き燃え上がり、際限のない負の感情が怒涛に広がり、あっという間に埋め尽くしていく。

 

 常人では絶対に平気ではいられない心情の最中、それでもライザーは思い返し、振り返る。決して許さない為に。決して揺らがない為に。決して諦めない為に。

 

 今一度、狂気に彩られ狂気で飾られた、頭の中の地獄と向き合う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわあ、すごいなぁ。やっぱりすごいなあ」

 

 憧れだった。間違いのない、絶対の。それは永久不変の憧れであった。

 

 父も母もいない、使用人たちが忙しそうに行き交う屋敷で、無駄に広い部屋の中で。まだ幼い子供が読むには些か分不相応に思える新聞を、最高等級の絨毯(カーペット)が敷かれた床の上で広げて。

 

 少年は眺めていた。純真無垢な金色の瞳を輝かせ、その写真を目に、記憶に刻み焼きつけていた。

 

 貴族であるその少年は将来の為、この家を引き継ぐ為に齢一桁にして、この程度の新聞であれば読解し、その全容を把握できる程の教育を施されている。それも毎日。

 

 そんな少年が今、夢中になっているその記事に書かれているのは。記事と共に掲載されている一枚の大写真に映っているのは。

 

 とある街の、とある冒険者組合(ギルド)に所属している、とある冒険者(ランカー)

 

 後に世界最強、人智を超越し人域を逸脱せし存在(モノ)────『極者』。三人揃えて『三極』と呼ばれる内の、その一人。

 

 まだ若き青い十代の頃の。冒険者組合『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属《S》冒険者────ラグナ=アルティ=ブレイズ。

 

 そう、齢一桁の頃からの。永久不変、絶対不動、唯一無二の──────

 

 

 

 

 

「ぼくもいつか、ラグナさんみたいになりたいなあ!」

 

 

 

 

 

 ──────少年にとっての夢であり、目標であり、そして憧れだったのだ。

 

 しかし、少年はまだ知らない。その夢を見て、その目標を抱いて、その憧れを追いかけたことで。

 

 運命という名の、己の歯車が歪んでしまったことに。歪んだまま、それでも歯車は構わず回り始めたことに。

 

 その先に想像を絶する──などという実にありきたりで陳腐な言葉では到底足りない、人間が持つ想像力では想像自体ができない程の。あまりにも悲惨で残酷な、憎悪と怨恨に満ち溢れ、不毛な復讐に囚われ続けるだけの、破滅の未来が待ち構えていることを。

 

 その少年は────────ライザー=カディア=オトィウスはまだ、知る由もない。



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狂源追想(その一)

「それじゃあ、そろそろ出発します」

 

 陽もまだ昇って間もない、朝焼けの空の下で。振り返って、俺は別れの挨拶を告げた。

 

「この六年間……今まで本当にお世話になりました。この御恩は生涯決して忘れません」

 

 と、今考えられる限りを全て詰め込んだ感謝の言葉を贈ると。長旅に発つ俺のことを見送ってくれるこの人は、良く言えば勇ましく、悪く言ってしまえば険しいその表情を。僅かばかりに、恐らく付き合いが長く親しい間柄の者にしかわからない程の微かさではあったが。嬉しそうに弛緩させ、緩ませてくれた。

 

「気にするな。私もこれ程までに成長を遂げ、そしてそんな素晴らしいものを間近で見ることができて、嬉しかった。お前は私の誇りだ」

 

「そんな滅相もない……俺の方こそ、貴方には感謝してもし足りてない。こんな程度の言葉では到底足りないんです。本当なら目に見える形で、最大限の感謝を贈りたかった……」

 

「ハッハッハ!いい、いい!私はその言葉だけで充分だ。充分に事足りているよ」

 

 項垂れる俺に対して、この人は豪快に笑い飛ばしながらそう言葉をかけてくれる。それから数秒という大した間も挟まず、先程までの雰囲気から一変して、その人が神妙な面持ちとなった。

 

「……お前の師として、最後に伝えよう。いいか、お前には才能がある。それも凄い才能だ。成長した今のお前に比べれば、もはや私など遠く足元にも及ばない」

 

「……」

 

 師匠からの言葉を、俺は黙って聞く。

 

「しかし、ゆめ忘れるな。その才能を使って、その才能を利用して私欲を満たしてはならん。決して自分の為に振るってはならんぞ。何故ならば、お前の凄まじい才能はそんなことを成す為の力ではないからだ。……いいな?」

 

 聞きようによっては忠告と、も警告とも取れるその言葉に対して、俺は当たり前かのように頷き、言葉を返す。

 

「はい。俺の才能は、この力は世の為、人の為のものです。偉大な師から教わったことを、俺は決して、絶対に忘れません」

 

 俺に返事に対し、我が偉大なる師──シュトゥルム=アシュヴァツグフさんは安堵と満足が混じり合った表情を浮かべ、大きく深く、一度だけ頷いた。

 

 そして、シュトゥルムさんはスッと俺の後方を指差しながら、声高らかに言う。

 

「我が最後の愛弟子よ、今こそ旅立ちの刻だ!その目で見て、その足で歩け!この、広い世界(オヴィーリス)を!そして、お前が幼い頃より見て抱き追い続けたその憧憬(しょうけい)を、確かな現実にしてみせろッ!」

 

 それは、この六年という、決して短くはない月日幾年の中で。初めて耳にする、ようやっと聞くことを許された門出の言葉。そしてそれは同時に、もうこの場所へ戻ることは許さないという、巣立ちの言葉。

 

 それを聞き、俺は堪らず目頭を熱くさせてしまう。しかしシュトゥルムさんの言葉を無駄にしない為に、それを堪えて。そして俺は彼に背を向け、ゆっくりと。彼との別れを惜しみながら、一歩一歩を踏み締めながら。その場から歩き出し、進み行く。

 

 そうして俺は────ライザー=アシュヴァツグフは、ここから遥か先にある街、オールティアへ。更に詳しく言うのならば、オールティアにその居を構える、世界四大陸が一つ────このファース大陸を代表する最高最強の冒険者組合(ギルド)

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』を目指した、長き旅路の始まりを迎えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六年前、十四を迎えてすぐに俺は家名を捨てて、屋敷を飛び出した。まだ世間というものをろくに知らない子供(ガキ)の頃から、ずっと。ずっとずっと見てきた夢の為に。ずっとずっと抱き続けた目標の為に。ずっとずっと追いかけ続けた憧れの為に。

 

 俺の家は『四大』と呼ばれる、この世界(オヴィーリス)に数多く存在する貴族、大貴族など比較にもなり得ない、あの『世界冒険者組合(ギルド)』にすら強い発言力を有する四つの貴族。

 

 エインへリア家、ニベルン家、オルヴァラ家、オトィウス家。

 

 そして俺の家こそ『四大』が一家────オトィウス家。俺はその長男であり、オトィウス家の次期当主であった。

 

 だが俺はそんな地位など欲しくはなかった。何故ならば、俺には夢があったからだ。目標があったからだ。憧れが、あったからだ。

 

 まだ十にも満たない、齢一桁の子供(ガキ)の頃からの。ただただ純粋で、ひたすらに純粋な想いで────けれど、それら全てを否定された。くだらないと一蹴され、無価値であると切り捨てられた。

 

 こんな家に生まれてしまった、こんな血筋を引いてしまった俺には許されなかった。そんな実に子供らしい夢を見ることを、目標を抱くことを、憧れを追いかけることを。決して、許されはしなかったのだ。

 

 当然、俺は反対した。反論した。反発した。……だが、やはりというべきか。

 

 俺は子供だった。子供の俺の、子供の言葉はまともに聞き入れられることなんてなく。終いには途中で遮られ、この一言を冷淡に告げられる。

 

 

 

「お前は『四大』オトィウス家次期当主だ。お前には決められた将来がある」

 

 

 

 生まれながらにして、生まれる前から決められていた将来。こちらの都合など一切顧みない、意志や自由の尊重など欠片程もない、他人に用意された未来。

 

 夢もなければ希望だってありやしない。そんなのは、ごめんだった。俺には俺としての将来が、未来があるはずなんだ。

 

 だから、俺は家を飛び出した。オトィウス家次期当主の座を捨てた。オトィウスを投げ捨てた。

 

 しかし、所詮十四の子供に過ぎない俺は知らなかった。この世界(オヴィーリス)が如何に過酷であるかを。どれほど残酷であるのかを。

 

 家を飛び出して、俺が命の危機に晒されるのはそう間もなかった。

 

 唯一持ち出した一振りの剣の柄を、恐怖心から必死に握り締めて。無茶苦茶の滅茶苦茶に呼吸を荒れ乱れさせて。俺は数匹の内の一匹の魔物(モンスター)と睨み合う。

 

 完全に囲まれていた。逃げ場を奪われていた。……俺が魔物たちに一斉に飛びかかれられるのも、もはや時間の問題だった。

 

 数秒ともしない内に、自分が喉笛を噛み千切られ、この魔物たちに食われる最期が容易に想像できてしまう。だからこそ、先程から恐怖が心の奥底から込み上がって込み上がって、足の震えが止まらない。思うように頭が働かない。

 

 そして、遂にその時がやってくる。一瞬魔物は低く唸ったかと思えば、俊敏な動作でその場から駆け出し、一気に俺に迫る。

 

 ──クソッ……こんなところで、俺は……!

 

 堪らず、そう心の中で吐き捨てた、その瞬間。

 

 

 

 

 

 ザンッ──不意に、唐突に。俺へ迫っていたその魔物の首が、斬り飛ばされた。

 

 

 

 

 

「え……っ?」

 

 斬り飛ばされたその首が地面へ落下し、首を失った胴体が地面に倒れるのはほぼ同時のことで。あまりにも突然のことで困惑する他ないでいる俺の視界が、ようやっとその姿を捉える。

 

 白髪の、初老に差しかかった男性だった。その男性は魔物の血に濡れた剣を軽く振るったかと思えば、羽織っている麻の外套(コート)の裾をはためかせながら、その場から一瞬にして姿を掻き消す。

 

 そして気がつけば、二つの魔物の首が宙を飛んでいた。遅れて、その切断面から凄まじい勢いで血が噴き出し、その場に局所的な赤い雨を降らせる。

 

 だが、男性が赤く濡れることはない。何故ならば、彼に降りかかる寸前で見えない何かに遮られていたからだ。その様はまるで、男性の全身が薄い膜に包まれているようだった。

 

 まだ残っている魔物たちへ、男性は黙ったまま剣を向ける。仲間の血で真っ赤に濡れたその切先が、魔物たちを恐ろしく威圧する。

 

 その膠着は数秒だけ続き、そして呆気なく崩れた。一匹が情けない呻き声を上げたかと思うと、途端に一斉に、魔物たちはその場から逃げ出した。

 

 絶体絶命の状況から、一瞬にして、あっという間に救われた俺は。その場で立ち尽くし、固まることしかできなかった。お礼の言葉どころか、微かな呻き声一つすら出せないでいたのだ。

 

 そんな俺に男性は振り向き、今の今まで閉ざしていたその口を開いた。

 

「大丈夫か、小僧」

 

 男性の言葉に対して、俺はただ黙って、ぎこちなく首を縦に振らすので精一杯だった。

 

 そしてこれが、俺の命の恩人にして冒険者(ランカー)としての全てを教えてくれた人生の師────シュトゥルム=アシュヴァツグフさんとの出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あれから六年経ったのか。あんまり、実感はないな」

 

 シュトゥルムさんとの出会いを思い出しながら、俺は森の中を進む。夜明けと日没の回数と、そして己の日数感覚を信じるのであれば、彼の元から発って約一ヶ月が過ぎていた。

 

 冒険者(ランカー)になる為の経験を積む為、あえて徒歩で向かうことを選択した訳だが……正直、予想以上に長く、そして険しい旅路となった。

 

 だがそれも、この手に持つ地図通りならば。あともう少しで終わりを迎える。この森を抜けた先に、その街は、その冒険者組合(ギルド)はある。

 

 そう考えると、この旅路で酷使し続けた両足に否応にも力が入る。……そうだ。ようやく、ようやっとだ。

 

 ──遂に、会うことができる……!

 

 と、その時────

 

 

 

 

 

「きゃああぁぁっ!!」

 

 

 

 

 

 ────という、甲高い女性の悲鳴が森を貫いた。



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狂源追想(その二)

「きゃああぁぁっ!!」

 

 ダッ──静寂で満ちるこの森を、女性の悲鳴が痛々しく貫くとほぼ同時に。俺はその場から咄嗟に駆け出していた。

 

 ──方角はこっちか……!

 

 今、己が出せる全力の全速で。俺は森の中を駆け抜ける。地面に這っている木の根に足を取られないよう、注意を配りながら。

 

 そうして、腰に差す剣の柄を握り締めながら、俺は目の前の茂みから飛び出す。

 

 瞬間、バッと動かした俺の視界に映り込んだのは────

 

「いや……来ないでぇ……!」

 

 ────と、完全に恐怖に呑み込まれ、埋め尽くされた声を。掠れさせながらも懸命に、その喉奥から絞り出して口に出す女性。彼女は地面に尻をついてしまっており、上手く立ち上がることができないようだった。

 

 そして、そんな女性にジリジリと迫っている数匹の魔物(モンスター)。そいつらに視線を向け、俺は思わずハッとする。

 

 ──こいつらは……。

 

 魔狼(まろう)。野生動物の狼が何らかの要因で大量の魔素(まそ)を浴びることで変異した、〝有害級〟の魔物。

 

 数奇な巡り合わせ、とでも言うべきなのか。今襲われて女性と同じように、俺も六年前に魔狼たちに襲われた。そして、助けられた。

 

 ──……今度は俺の番って訳だな。

 

 あの時の記憶(えいぞう)を、あの時助けてくれたシュトゥルムさんの背中を脳裏に過らせながら、俺は剣の柄を握り込んでいる手に力を入れ、鞘から一息に抜いた。

 

「死にたくない、私まだ死にたくないっ!」

 

 地面に尻をつけたまま、迫る死の恐怖から必死に逃れようと。生への渇望をこれでもかと込めて、女性がそう叫ぶのと、魔狼の一匹が彼女に襲いかかるのはほぼ同時のことで。

 

 

 

 ザンッ──が、しかし。魔狼の牙が女性の喉笛を噛み千切ってしまうよりも、間合いを詰め、振るった俺の剣がその首を斬り飛ばすことの方が断然先だった。

 

 

 

 ゴトン、と。斬り飛ばされた魔狼の首が地面に落下し、ほんの少しの距離を転がる。それを流し見ながら、俺は女性に飛びかかった首失き胴体をやや乱暴に蹴っ飛ばす。

 

 一拍遅れて、胴体は吹っ飛びながら首の切断面から赤黒い血を噴かし、宙を真っ赤に染め上げる。幸運にも、その血が女性に降りかかることはなかった。

 

「六年ぶりってとこだな。……まあ、お前らはあの時とは違う別の魔狼共なんだろうけど」

 

 今まさに自分に襲いかかろうとしていた魔狼の首が斬り落とされたかと思えば、その胴体は蹴り飛ばされ。そしてそれら一連の行動を起こした張本人たる俺が。こうして自分の目の前に立ち、突然の闖入者に固まらざるを得ない残りの魔狼たちに、新鮮な血で濡れた剣の切先を突きつけている──────恐らくこれは、この女性が今までの人生の中で初めて体験する、驚嘆愕然の現実だったのだろう。

 

 その髪と全く同じ色をした、白金色の綺麗な瞳だった。その瞳を見開かせていたかと思えば、グラリと女性は身体を揺らして。そして、そのまますぐ背後にあった木の幹にもたれかかり、瞳を閉ざしてしまった。

 

 卒倒してしまったのだ。それも無理はない。常人であれば、誰だってそうなるはずだ。

 

 ──まあ、ここから先の光景はキツいだろうし、都合が良いか。

 

 一瞬だけ女性を一瞥した俺は迅速に判断を下し。こちらに対し魔物特有の、野生味に溢れた殺気を放つ魔狼たちを、俺は射殺すつもりで見据え。静かに、剣を構える。

 

「今の俺は、六年前とはもう違う……試すのには丁度良いか」

 

 俺がそう呟くと、こちらの出方を窺っていた魔狼たちは動き出した。一匹が吠え、それに応えるように残る二匹が同時に前に飛び出す。

 

 飛び出したその二匹が、俺に襲いかかることはなく。それぞれが左右に分かれたかと思うと、そのまま俺の周りをグルグルと駆け始める。

 

 流石は魔物化した狼。二匹共走るその速度をどんどん増していっている。一般人は当然として、並大抵の冒険者(ランカー)では到底、その姿を捉えることはできないだろう。

 

「…………」

 

 風を激しく切る音を聴きながら、俺は微動だにせず、無言で。ただ剣を構えたままでいた。

 

 そして、遂にその時は訪れる。

 

「バウッ!」

 

「ガウッ!」

 

 二匹の魔狼は吠えたかと思うと、駆けていた勢いそのままに、左右それぞれの方向から同時に、俺に飛びかかった。

 

 ……だが、それも。それ以外の全ても。俺にとっては()()()()

 

「ギャウッ!?」

 

 左手を振り上げ、俺は瞬時に左側の魔狼の首を掴み。それと全く同時に右手が握り締める剣を速く鋭く、そして躊躇いなく振るった。

 

 ザシュッ──振るわれた俺の剣の刃が宙を滑り、右側の魔狼の腹下と衝突し、そのまま何の抵抗もなく刃は進み、魔狼の背中までを通過する。

 

 下から上へ、魔狼の身体を通り抜けた刃は赤く血濡れていて。遅れて、俺に飛びかからんとしていた右側の魔狼から血飛沫が飛び、宙で上半身と下半身が分たれて地面に落下した。

 

 ドチャッ、という。妙に生々しく嫌な音を聴きながら、俺は左手で掴んだ魔狼を見やる。

 

「ガ……ガゥン……!」

 

 首を掴まれ持ち上げられている魔狼は情けなく鳴いて、宙でその四肢をじたばたと(もが)き、足掻く。そんな意味のない無駄な抵抗を眺めていた俺は、その首を掴んだまま。思い切り、魔狼を地面に叩きつけた。

 

 ゴキャ──そんな鈍く重い音と共に、地面に叩きつけられた魔狼の首が直角に曲がる。直後、魔狼の身体から力が抜け、その口からだらんと舌が伸び、はみ出た。

 

 誰の目から見ても、絶命したことがわかる魔狼の死体から。俺は視線を外し、正面へと向ける。残すは、一匹。

 

 筆頭(リーダー)格だろうその魔狼は、低く唸りながらもジリジリと、慎重に観察しなければわからない程細かく小さく、その場から後退を始めている。

 

 敵と接触した獣が取れる行動は二つ。迎撃か、撤退。それだけだ。そしてあの魔狼は後者を選んだらしい。

 

 そのことを冷静に判断しながら、俺は掴んでいた魔狼を離し、一歩踏み出す────その直前。

 

 ダッ──俺が見据えている中で、魔狼は瞬時に踵を返し、その場から駆け出した。一気に加速し、あっという間に魔狼の後ろ姿が小さくなっていく。

 

 ──……。

 

 勝手に逃げてくれるのであれば、無理にこちらから追う必要はない。さっきの二匹で試した通り、もはや今の俺にとって魔狼は大した敵にはなり得ない。まあ、流石に十数単位の群れで襲われたのなら話は別だが。

 

「けどそれは、あくまでも()()()()だ」

 

 握り締めている剣の柄に力を込めながら、俺は魔狼の後ろ姿を見る。今から追いかけても、流石に追いつけはしないだろう。

 

 だが、まだ()()──────そう判断した俺は、真っ先に柄を握る右手に、そして右腕全体に己の魔力を走らせた。

 

 ──【強化(ブースト)】。

 

 それは、初歩中の初歩に位置する魔法の一つ。故に極め易く、そして極め難い魔法の一つ。

 

【強化】した右腕を振り上げ、俺は狙いをしっかりと定め。一時的に増加し倍増した腕力膂力の全てを、余すことなく絶妙に、完璧に乗せて。

 

 

 

 ビュウッ──握っていた剣を、投擲した。

 

 

 

 ──()った。

 

 俺がそう確信するのと、投擲された俺の剣が魔狼に追いつき、そのまま魔狼を通り抜けるのは全く同時のことだった。俺の剣は止まらず赤い尾を引きながら、宙を疾駆し駆け抜けて。その遠く先にあった大木のド真ん中に、剣身全てが埋まる程深々と突き刺さる。

 

 遅れて、剣の射線にいた魔狼の身体から血飛沫が上がり、両断されたその身体は左右に分かれて地面に倒れた。

 

 その最期をきちんと見届けて、とりあえず俺は一息吐いた。

 

 ──人間を襲う魔物(モンスター)を、自分は平気だからって見逃す訳にはいかないよな。

 

 それから俺は背後を振り向き、女性を見やる。彼女は依然として気を失ったままで、その身体を力なく木の幹に任せていた。

 

「…………」

 

 こうして眺めているだけでもわかる。女性の意識が戻るには、まだ当分の時間を要するだろう。

 

 ──どうしたものか……。

 

 こちらは先を急いでいる身、その意識を取り戻すまで待っている訳にはいかない。だからとて、このまま放置しておくことなど論外である。

 

 木漏れ日を受け、美麗に輝く白金色の髪を眺めつつ。俺は少しの間考え込み。そして、ため息を一つ吐いた。

 

「まあ、仕方ないよな……」

 

 そう呟き、俺はゆっくりと女性に歩み寄り。そっと、腕を伸ばした。



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狂源追想(その三)

「…………」

 

 目的の街であるオールティアを目指し、街の近くにあるこの森の中を、俺はただ黙って。ひたすらに無言を貫いて、歩く。歩き続ける。

 

 ──確か、この先をこのまま真っ直ぐ進んで行けば、辿り着ける……はず。

 

 先程、数分の時間を費やして脳裏に刻み込んだ地図を想起させながら、俺は心の中でそう呟く。

 

 ……そんなことをしなくとも、現物があるのだからそれを見ればいいではないか、と。俺のこの旅路に同行者がいたのなら、きっとそう指摘していたことだろう。だがしかし、生憎今の俺の状況下ではそうすることはできない。

 

 何故ならば────己の背に、一人の女性をおぶっているのだから。

 

 ──他に方法がなかったから仕方なかったとはいえ、まさか見ず知らずの、しかも年頃の女をおぶる日が来ようとは……。

 

 と、俺は苦心の面持ちで声に出さずぼやく。そうでもしなければ、やっていられないというか、なんというか……。

 

 腰辺りにまで伸ばされた白金色の髪と、それと全く同じ色をした瞳。その顔立ちは凛としていて、美しかった。

 

「……チッ、(なっさ)けねえ……」

 

 記憶を基に思い描いた地図の傍らに、今自分がおぶっているこの女性の顔を浮かべて、俺は少し……ほんの少しだけ、僅かばかりに顔を熱くさせてしまうのを否応にも自覚する。

 

 本当に情けない話、生まれてこの方まともな女付き合いというものをしたことがない。オトィウス家の屋敷には歳上の侍女(メイド)たちしかいなかったし、そもそも俺はまだ子供(ガキ)だった。

 

 ……まあ、十三になった頃に、一回だけ。父から俺がオトィウス家の次期当主になった際に、後々世継ぎを残さねばならない義務のことを説明され、その教育の一環として父が選りすぐった数人の侍女の一人を宛てがわれて、()()()()をさせられそうになったことはあるのだが。無論、それは全力で断らせてもらった。

 

 

 

『今はまだこちらも無理強いするつもりはない。だがもしお前が()()()になったのなら、その時は拒否せず相手しろと話はしてある。……が、よく覚えておけ。十五までには絶対に経験させてやるからな。女の味というものを』

 

 

 

 という、断った後にかけられた父の言葉は、未だにどうやっても忘れられそうにない。

 

 ──誰が好き好んで親に用意された女を抱くかっての。俺にだって、相手を選ぶ権利っていうものがあるんだぞ。

 

 別に純情という柄を主張(アピール)する訳でもしたい訳でもないが、俺は意中の相手でもない女と、そう気軽に肌を重ねたくはない。子供ながらもそういう意思を持っていたから、断ったというのに。それをあの父は全く理解してくれなかった。だから平然とあんなことを言えたのだろう。

 

 そして屋敷を飛び出し、シュトゥルムさんに拾われた後の六年間に女っ気はほぼほぼ皆無であった。シュトゥルムさんは森の奥で簡易な小屋で一人で暮らしていたし、強いて言うならたまに、森の一番近くにある村に食材や日常生活に必要なものを買い出しに訪れ、その時によく顔を合わせていた歳の近い村娘との(ささ)やかな交流くらいだ。

 

 ──……そういや、あの子元気にやってんのかな……。

 

 その村は、お世辞にも裕福とは呼べない、貧しい村だった。いつ魔物(モンスター)の群れに襲われても不思議ではない、そんな村だった。けれど村人たちは互いのことを励まし合い助け合い、一丸となって日々を懸命に過ごしていた。そしてそれは、村娘も同じことだった。

 

 毎度毎度、いつも屈託のない明るげで眩しい笑顔を浮かべていた。きっと、彼女の笑顔に活力を分けられていた村人も少なくはないだろう。

 

 旅に発つ際に村に立ち寄り、俺は村人一人一人に世話になった礼と、別れの挨拶を告げた。もちろんその村娘にも。

 

 

 

『元気でね、ライザー君。私、ライザー君の夢が叶うって、きっとその夢は現実になるんだって、絶対の絶対に信じてるから!』

 

 

 

 最後は涙混りに切なく震える、掠れ声でその村娘は俺にそう言ってくれた。この言葉も、どうやったって忘れられそうにない。

 

 そんなところで、聞くにつまらない俺の自分語りはここまでになる。そんな訳で、こうして二十歳の大の男になったにも関わらず、俺は未だにろくな女性経験をしてこなかったんだ。必然、女性に対する免疫というのもまあ、皆無な訳で。

 

 だからこうしてこの女性をおぶっている間────俺は全身の肌から嫌な汗を滲ませる、堪え難い緊張感に包まれ苛まれていた。

 

 ──せめて上か下……どっちでもいいから歳が離れていれば良かったのに……!

 

 声に出さず、心の中で俺は苦しげな文句を呟く。そう、歳が近いからこそ、異性として意識せざるを得なくなってしまうのだ。

 

 背中越しに伝わる体温も、柔らかな身体の感触も、一定の間隔で打たれる鼓動も。その何もかもを、俺は意識してしまう。

 

 その上、今女性に意識はない。意識がないから、文字通り俺の背中にその身体を預けている訳で。遠慮容赦なく、何の躊躇いもなしに、そんな年頃の肉体を男である俺の背中に。無防備にも惜しげなく、密着させている訳でもあって。

 

 そうなると当然、女性の中でも一際柔らかな部位の感触が、俺の背中に当たって潰れて広がって。それがさらに、俺の緊張に拍車をかけていた。

 

 ──というか、服の上からじゃいまいちわからなかったが、意外とご立派な代物をお持ちのようで……。

 

 女性が着ていたのは、身体のラインがあまり出ない、全体的にゆったりとしたワンピース。そのおかげで、格好だけでは判断できなかった。

 

 恐らく、世の男からすれば今俺が置かれているこの状況は、さぞ羨ましいことこの上ない、まさに役得という奴だろう。……まあ、確かに俺だって別に嬉しくない訳でも、ましてや嫌っていう訳でもない。正直に白状してしまえば、高揚している自分がいるのもまた事実だ。

 

 けれど、それ以上に緊張と焦燥が勝ってしまう。今にでも自分の背中から女性の身体を剥がさなければ、妙な気を起こしてしまいそうで。それこそ、俺は嫌だった。

 

 ──こ、これは修行だ修行。一時の感情に流されないようにする、強靭な精神力と忍耐力を養う為の、少しばかり強引な修行。そう思い込め、ライザー=アシュヴァツグフ。

 

 もっともらしい理屈を捏ねて、情けなく不甲斐ない己を俺は律する。そうして一分でも、一秒でも早くこの状況から抜け出す為に、ひたすら前へ進む。

 

 が、丁度その時であった。

 

 

 

「…………ん……」

 

 

 

 と、不意にすぐ耳元で声が囁かれ。僅かに漏れた吐息が俺の耳を無遠慮にも擽る。瞬間、ゾクゾクとした感覚が背筋を駆け上がり、俺は堪らず肩を一瞬だけ跳ねさせてしまったが、危うく飛び出そうになった声はなんとか我慢することができた。

 

「ここ、は……?」

 

 続け様、声がそう言う。その言葉に対し、俺は咄嗟に答えた。

 

「おっ、起きたかっ!?こ、これについては誤解しないでくれ!君は意識を失ってて、でも俺は先を急いでて、けどだからって君のことを放置する訳にもいかなくて!だから君を俺の背中におぶってるのは致し方ないことというか仕方のないことというか不可抗力というかなんというか、ぶっちゃけこうするしか他に手段がなかったんだ!ああ、うん!」

 

 ……それは、自分でも流石にどうかと思う、苦し紛れの言い訳と弁明の数々だった。そんな、咄嗟の咄嗟に吐き出され、そして垂れ流された俺の言葉を、その女性は。

 

「…………」

 

 これまた、黙って聞いていた。自然と俺の足は止まり、その場を無言の沈黙が漂う。

 

 それは十数秒のことだったのかもしれない。もしくは、数分かもしれなかった。どちらにせよ、その沈黙が織り成す静寂の間に、先に堪えられなくなったのは────案の定俺だった。

 

 恐る恐る、と。徐々に、ゆっくりと俺は口を開き、喉奥から振り絞った、引き攣って掠れ気味の声を。呻くかのようにぎこちなく吐き出す。

 

「や、疾しい気持ちとかは持ち合わせていない……それは本当、だから……その、どうか信じてほしい」

 

 俺の言葉に対して、依然女性は無言だった。果たしてそれは怒っているからか、それとも悲しんでいるからなのか。それを判断できる程、俺は人の心情に聡くはない。

 

 そうしてまた数秒の沈黙が続き────しかし、それを先に破ったのは。

 

 

 

「……ふふ、あはははっ!」

 

 

 

 何の裏表もない、ひたすらに明るく可愛げのある女性の笑い声であった。それに対し、俺は堪らず混乱と困惑に包まれざるを得なかった。

 

 ──わ、笑ってる……?いや笑われてる、のか……?

 

 こちらとしては精々、怒鳴られるか泣き出されるかと簡単に予想していたのだが。まさか、笑うとは微塵にも思わなかった。何故ならば、今の状況でこの女性が笑い出してしまうような要素など、皆無のはずである。なのに、何故?

 

 それがわからず、理解できず。だから俺は、無意識の内に女性の方に顔を向けてしまった。

 

 そして、思わず目を見開き、息を呑んだ。

 

「あは、はははっ!」

 

 女性の笑顔は、まるで咲いた花のようだった。そんな素敵で、魅力的な表情から。俺は目が離せない。視線を、逸らすことができない。

 

 それは、今までの人生の中で感じたことのない、正体不明で未知の感情。その笑顔をこうして間近で見ているだけで、心が洗われるというか癒されるというか────とにかく、はっきりとした表現こそできないものの、この女性の笑顔には、何か不思議な力があることだけは、辛うじてわかり、理解できていた。

 

「あはははっ……ご、ごめんなさい。だって、私だって何がなんだかわからないのに、あなたがあんまりにもおかしなことを、あんまりにもおかしな様子で言うものだから、つい……あー、こんなに笑っちゃったのいつぶりかなぁ」

 

 と、振り向いた俺の顔を見て、慌てて申し訳なさそうに女性が言う。そんな彼女に対して、俺は未だかつて感じたことのない、この奇妙で不可思議な感情に踊らされ翻弄されつつ、決して声を上擦らせないよう言葉を零す。

 

「そうか……いやこっちこそ、他に冴えた方法が思い浮かばなくて、その……すまなかった」

 

 俺がそう言った直後、一度は落ち着きかけた女性はまたもや吹き出し、俺の背中で笑い出す。

 

 ──え?俺何か変なこと言ったか?ただ、謝っただけだぞ……?

 

 女性の笑いのツボがいまいちわからず、当惑する俺に対して。女性は依然笑いながらも、その両腕を俺の首に絡ませて、優しく穏やかな声音でこう言う。

 

「えっと、実は私足が痛くて……私は気にしませんから、どうかこのままおぶっていてくれませんか?」

 

「えっ?い、いやっ……そ、そうか。足を痛めてるなら、仕方ない。仕方ない、よな……わかった」

 

「ありがとうございます。では遠慮なく、この広くて逞しい背中に頼らせてもらいますね」

 

「あ、ああ……」

 

 そうして、俺と女性はほんの短い、ごく僅かながらの期間ではあるが。この先に待つ街、オールティアへ共に目指すことになった。



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狂源追想(その四)

魔物(モンスター)からだけではなく、街まで送ってもらって本当にありがとうございました」

 

「別に構わない。俺は、俺がしたいことをただしただけだ」

 

 俺の背中から街道の石畳に降ろされた女性は、そう言ってすぐさまその頭を深々と下げて。それに対し俺は気取った答えで返す。……まあ少なくとも他人からすればそう思えるだけで、俺自身は本当にその通りなのだが。

 

「したいことを、ただしただけ……ですか?」

 

 という、俺の言葉を口に出して反芻させ、女性は不思議そうな表情を俺に向ける。そんな彼女に対して、俺はややぶっきらぼうにこう言った。

 

「ああ。じゃあ、俺はもう行く。次からは気をつけろよ」

 

 そして女性に背を向け、石畳を踏み締める────直前。

 

「まっ、待ってください!」

 

 と、俺のことを女性は呼び止めた。まだ何かあるのかと、そう思って振り返った俺に、彼女は言う。

 

「じ、実は私、あんな風に助けられたのは初めてじゃないんです。あれで二度目、なんです」

 

「二度目……?」

 

 急に一体何を言い出しているのか、そんな思いを込め訝しんだ俺の呟きを。女性はあくまでも冷静に受け止め、その上で彼女は俺に言う。

 

「私はシャーロット。気軽にシャロとお呼びください」

 

「……」

 

 俺は、すぐには言葉を返さず。数秒の間を開けてから、口を開いた。

 

「俺はライザー。……よろしくな、シャロ」

 

「はい。こちらこそです、ライザー様」

 

 そうして俺と女性──シャーロット改めシャロは数秒その場で見つめ合い、そして互いに背を向けて、その場を後にする。

 

 ──あんな風に助けられるのは、二度目……か。

 

 しかしそうする最中、俺はシャロが言っていたことを頭の中で反芻させて、記憶の片隅からとある言葉を引っ張り出していた。

 

 

 

『今から十数年前に、お前と同じように魔狼に襲われていた子供を助けたこともあるんだ』

 

 

 

 ──……まさか、な。

 

 それはいつかの日に、酒を飲み上機嫌になっていたシュトゥルムさんが俺に語ってくれた。己の昔話の一つ。あの人は己の昔を滅多には語らなかったから、その珍しさ故に印象に残り、よく覚えていた。しかし、俺はその可能性のついてすぐさま否定する。

 

 自分の師匠が過去に助けた人物を、その弟子がまた助けた────浪漫(ロマンティック)に満ち溢れる展開ではあるが、あまりにも非現実的だ。絶対にないとは言い切れないが、しかし俺はシュトゥルムさんが助けたというその子供の名前はおろか、男か女かすらも知らない。シュトゥルムさんは俺にそこまでは教えてくれなかった。

 

 それに加えて、十数年という決して短くはない年月が過ぎてしまっているのだ。今ではもうその子供────否、成長し大人となっているだろうその人を、意図的になって捜し出すことですら困難を極めるというのに。

 

 ──シャーロット……シャロ、か。

 

 行き交う人たちに注意を払い、街道を歩きながら俺はシャーロット────シャロの名を確かめるように、心の中でそっと呟く。

 

 旅路の途中、それも目的地である街を目前にした森の中で。魔物に襲われているところを目撃し、そして助け出した────という。

 

 およそ人と人が出会うには望まれない状況下で、俺と彼女は出会った。

 

 当然のことではあるが、あんな出会い方を果たした女性は、シャロが初めてだ。そしてあんな風に交流した女性も、彼女が初めてだ。

 

「…………」

 

 自分の知らない高揚感に、己の心が包まれていることを、俺は自覚する。異性に対してこんなことを思うのも、シャロが初めてだった。

 

 果たしてこれは、一体どんな感情なのか────今の自分では未だ、到底わかりそうにもない。そして、理解できそうにもない。

 

 ──……まあ、これからオールティアにしばらく住むんだ。住む前に、顔馴染みが一人できたと思えばいいか。とにかく今はそれで、いいや。

 

 そうして俺は一旦それのことに対する思考を切り上げ、周囲を────この街の風景を見渡す。

 

 ファース大陸、モノ王国。この大陸、その国に数多く存在する街の中でも、一番と言われる活気と賑わいで溢れているこの街の名こそ、オールティア。モノ王国どころかファース大陸中の経済を回す街であり、それが間違いのない歴とした事実であることを俺は認識した。

 

 これまでの旅路で、俺は少なくはない数の街を訪れた。だからこそ、こう言える。

 

 ──良い街だ。

 

 年に一度、ファース大陸中の国から名品逸品、由緒正しきから笑えない冗談抜きの曰く付きまで。とにかく多種多様に渡る品物という品物が集められ、それら全てを制限一切なしの、正真正銘金さえあれば誰であろうと競り落とすことが可能な、大規模な競売────『出品祭』がこの街で開催されるというのも納得がいく。

 

 だが、あくまでも俺の目的はこの街自体などではない。正確には、この街に居を構える冒険者組合(ギルド)だ。

 

 その冒険者組合があったからこそ、このオールティアはここまでの成長を遂げることができたと言っても過言ではない。それ程の確かな実績と功績が、その冒険者組合にはある。

 

 街の住人に実際の場所を訊ね、俺は進んだ。そしてとうとう────その時は来た。

 

「……やっと。やっとだな」

 

 今日という日に至るまで、十四年。長かった。本当の本当に、長かった。だがそれも、ようやく一つの節目を迎えることになる。

 

 その節目を機に、俺の夢は。俺の目標は。俺の憧れは。一気に加速するのだ。

 

 夢を叶える為に。目標を達成する為に。憧れを現実にする為に。俺は今こそ、歩き出す。

 

 否応にも高鳴る心臓の鼓動を感じながら、身体の奥底から沸き上がる歓喜に弾けてしまいそうになりながら。そうして、俺は。

 

 いよいよその門を──────冒険者組合(ギルド)大翼の不死鳥(フェニシオン)』の門を抜け、その扉を押し開いた。



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狂源追想(その五)

「お、おお……っ!?」

 

大翼の不死鳥(フェニシオン)』の扉を押し開き、その先に広がっていた光景を目にした俺の第一声は。そんな言葉にならない、驚きと嬉しさが絶妙に入り混じる、感極まったものだった。

 

『大翼の不死鳥』広間(ロビー)には、それはもう大勢の偉大なる先駆者たち────冒険者(ランカー)がいた。

 

 椅子に座り料理や酒を飲み食らう者、受けた依頼(クエスト)の成果を自慢し合う者、依頼表(クエストボード)の前に立ち、受ける依頼を吟味している者────それらの光景こそ、間違いなく。俺が子供の頃から思い描き、そして想い馳せていたものに相違ない。

 

 ついこの前に二十歳を迎えたばかりの俺だが、まるで子供のように胸が躍る。童心に帰ってしまって、憧れが止められなくて……自分でも怖いくらいにワクワクしている。

 

 そうして、ようやく。俺はようやっと自覚する。自分は、来たのだと。夢の為の、目標の為の、憧れの為の。その足がかりへ今踏み出さんとしているのだと。

 

 ──遂に、遂にだ……!

 

 直後、堪らずその場で跳ねてしまいそうになった自分をどうにか抑え、とりあえず冷静になり平常心を保とうとその場で立ち尽くす────その時であった。

 

 

 

「よおそこの坊主(ボウズ)。そんなとこに突っ立ってられちゃあ、通れないんだが?」

 

 

 

 不意にそんな声が背後からかけられたかと思うと、同時に背中を軽く叩かれる。

 

「す、すみませ……っ」

 

 慌てて振り返り、謝罪をしようとした俺は。あろうことかそれを途中で止めてしまい、為す術もなく衝撃に面食らってしまう。

 

 俺の背後に立っていたのは、柑橘系の果物である黄柑実(レオンジ)を彷彿とさせる、明るい橙色の髪と。それと同じ色をした瞳が特徴的な長身の男性。だいぶ長い間着込まれたことが窺える外套(コート)の、破り裂かれたようにボロボロになった裾と袖をユラユラとはためかせるその人は、俺に対して飄々とした笑顔を送っていた。

 

 本来ならばすぐにでもその場から退かなければならなかった俺だったが、不覚にもそうすることができないでいた。何故ならば、その()()()()男の顔に対して、俺はただその場で固まる他なかった。

 

 だが、そんな身体に反して頭は変に冷静で。冴えた思考の末に俺は、呆然とその名を口から零した。

 

冒険隊(チーム)、『夜明けの陽』隊長(リーダー)……ジョニィ=サンライズ……さんッ!!」

 

「お?ああ、そうだぜ。俺こそ『大翼の不死鳥』最強の……って言っても今や冒険隊に限っての話なんだが。『夜明けの陽』の隊長をやらせてもらってる、ジョニィ=サンライズだ」

 

 そう、この人こそ『大翼の不死鳥』最強にして、冒険者番付表(ランカーランキング)第五十位の冒険隊、『夜明けの陽』の隊長。残る三人の隊員(メンバー)である《S》冒険者を率い先導している、《S》冒険者────ジョニィ=サンライズ。『夜明けの陽』としても勿論のことだが、個人での依頼、それも高難易度のものを数多く達成した実績を誇る、文句なしの手放しで尊敬するに値する冒険者の一人だ。

 

 齢一桁の頃にこれでもかと読み込んだ、冒険者専門雑誌──『冒険人生』にも何度か取り上げられていたし、俺はそれら全ての内容を把握している。少し違えば、俺の夢。俺の目標。俺の憧れ。その全部がこの人に対して向けられていたかもしれない。……まあ、申し訳のないことに、実際のところはそうではないのだが。

 

 しかし、そうは言ってもジョニィさんも尊敬する冒険者の一人には違いなく。なので当然、そんな彼との思いもよらない対面に、驚愕と衝撃、そして緊張などない訳もなく。今し方邪魔だと言われたというのに、俺は未だその場から微動だにすることもできないでいた。

 

「おいおい、また固まっちまった」

 

 と、困ったようにジョニィさんがそう呟き。彼の呟きに辛うじて我に返った俺は、慌てながら急いで彼の前から退く────その直前。

 

「おいジョニィ!んなとこでぼさっと突っ立ってんじゃねえよ!俺たちが中に入れねえじゃあねえか!なあ、ロックスッ!セイラッ!?」

 

「そうですぜジョニィの兄貴。普段からアンタのことを敬っている俺ですが、そんなことをされちゃあそれも薄れるってもんですわ」

 

「そうそう、二人のの言う通りだよ隊長。はっきり言って、邪魔だよ」

 

 俺に行く手を塞がれ、立ち止まらざるを得ないでいたジョニィさんの背後から。二人の男と一人の女、合計三人の。辛辣な言葉が口々にかけられた。だがそこに悪意の類など、微塵も込められてなどおらず。言うなればそれは冗談のようだった。

 

 それらの言葉に対して、堪ったものではないという風に。ジョニィさんが即座に振り返って言う。

 

「ぎゃあぎゃあ煩えなお前らッ!俺だって好きで馬鹿みたいに突っ立ってる訳じゃねえんだよ。道を塞がれてんだよ!道を!」

 

「ああッ!?だったらそうだって早く言えよッ!なあ、ロックスッ!?セイラッ!?」

 

「そうですぜジョニィの兄貴。何せ人ってのは、誤解させたらその時点でもう駄目なんですから」

 

「そうだよ。二人の……いや、この場合はロックスの言う通りか。うん。……こほん、そうだよ。ロックスの言う通りだよ、隊長。貴方は既に私たちに敗北しちゃってるんだよ」

 

「はあッ!?そりゃあいくら何でも理不尽が過ぎるってモンだろッ!!」

 

 ……と、周囲の空気と視線などお構いなしに。俺の目の前で口論を繰り広げる『夜明けの陽』の面々。遅れて、俺はさらなる驚愕と衝撃を受け、その上で今目の前にあるこの光景を、確かな現実を。到底信じられないでいた。

 

 それもそうだろう。今日、それも初めて訪れたばかりの『大翼の不死鳥(フェニシオン)』にて。その最強の冒険隊(チーム)の面子が勢揃いしているのだから。

 

 短く切り揃えられた茶髪の、全体的に軽装をしている男性はロックス=ガンヴィルさん。『夜明けの陽』の副隊長を務めており、ジョニィさんとは幼馴染らしい。

 

 先程から喧し……否、一番の声量を誇る緑髪の男性はベンド=ヴェンドーさん。ロックスさんとは違い、黒い重鎧を着込んだ姿から見て取れるように、彼は『夜明けの陽』の盾役(タンク)を担当している。

 

 残る最後の一人、紗酸実(レモネド)を彷彿とさせる薄黄色の髪を、背中半分を覆う程度にまで伸ばした女性はセイラ=ネルリィア。彼女もその格好から、『夜明けの陽』にてどの役割を担っているのか判断でき、それではどんな服装をしているのかというと。この世界において唯一無二にして絶対の宗教────『創世教』。その修道服である。

 

 神父や修道女(シスター)冒険者(ランカー)をしている────それが指し示すことは、ただ一つ。つまりその者は『創世教』が認めた、教会公認の回復職(ヒーラー)ということ。

 

 俺が知っている限りでは、教会の公認なしでは回復職を名乗ることは決して許されず、それと同時に神父や修道女でない者────つまりは無宗派の無神論者では回復職になることができず。そして回復職以外が回復魔法の行使及び習得することは、この世界(オヴィーリス)に存在する全ての冒険者組合(ギルド)を統括管理している絶対機関────『世界冒険者組合』が禁止している。……たった一人の、唯一のとある例外を除いて。

 

 仮にもし公認を得ないで回復職であること、そして神父や修道女でない者が宣った場合、たとえそれが冗談であったとしても、神父や修道女は有無を言わさず教会から永久追放され、その上冒険者の資格も直ちに剥奪、今後一切の復帰を禁じられてしまう。そうではない者も後者と同じように罰せられる。それ程までに重大な規律(ルール)であり、それ故に公認を得ることも困難を極める。

 

 具体的にどれくらいなのかというと、今現在『創世教』公認の回復職は全大陸、神父と修道女を含めても百人に満たない程である。

 

 セイラさんはそんな『創世教』お抱えの、数少ない貴重な人材たる回復職(ヒーラー)の一人であり。しかし、俺の記憶の中にある教会指定の修道服と、今彼女が着ている修道服はどうにも一致しないでいた。

 

 それもそのはず、何せセイラさんの修道服は────改造を施されていたのだ。それも結構、大胆な。

 

 一応ではあるが、大まかな構造自体は流石に遵守されている。しかし、あくまでもただそれだけのことで。大まかではない細やかな部分の全てにはセイラさん独自の細工(アレンジ)が入っている。

 

 まず、第一にその胸元。ここが一番わかりやすく、そして一番目につく。何故ならば、セイラさんが着るその改造修道服の胸元は大きく開かれ、おっ広げにこれでもかと。母性の象徴たるその豊かな膨らみを、惜しみなく恥ずかしげもなく露出させていたのだから。そして彼女が敬虔な『創世教』の修道女であることを示す、チェーンペンダントにされ首から下げられた、白銀の十字架(ロザリオ)がその上に乗せられていた。

 

 そして第二に切り込み(スリット)。これも本来であればないはずのものだが、セイラさんはそこにも手をつけており。足の全ては勿論のこと、太腿(ふともも)はおろか腰の辺りにまで切り込みが入れられていた。

 

 なので当然、その隙間から見事な脚線美を描く足に、むちっとした太腿、鼠蹊部の(ライン)まで見えてしまっている腰。その全てが外気に晒されている。……これは果たして言うべきなのか否なのか、その判断に若干の迷いはあるものの。一応、一応補足として付け加えると。

 

 腰の部分が露出しているにも関わらず、驚くべきことに……下着(ショーツ)らしき布が一切見当たらない。

 

 いやまあ、そこまで切り込みを入れてしまっている関係上、もし穿いていたら必然的にそれが見えてしまうのだから、まあ。この場合は仕方ないというか、うん。

 

 それはともかく。他にまだ細工がされているが、それを一々(いちいち)説明していると切りがないので、セイラさんの改造修道服についての説明はここまでとする。……しかし実はこれ、特に()()()()()

 

 何故かと言うと。回復職(ヒーラー)は歴とした冒険者(ランカー)でもある。なので当然数々の依頼(クエスト)を受けて、活動する訳で。そしてその多くは魔物の討伐や、悪人の捕縛、護衛等であり。そこにどうしても戦闘という行為が発生する。

 

 お世辞にも『創世教』の修道服は戦闘に向いているとは言えず、なので回復職たちには特権として戦い易くする為、基本的な構造を崩さない範疇内で、セイラさんのように自らの修道服に手を加えることを許されているのだ。当然この特権は回復職だけのものであり、回復職でない神父や修道女が修道服を改造した場合、厳罰に処される。

 

 ……しかし、セイラさんの場合はあまりにも大胆というか全体的に肌色の露出が多いというか。とにかく、視線のやり場に困ってしまう。

 

 ともあれ、見ての通り今ここには『夜明けの陽』の面々が集結している。それも、俺の目の前で。こんな奇跡のような状況に出くわせてしまうなんて、『大翼の不死鳥(フェニシオン)』所属の冒険者であればともかく、俺はついぞ思いもしていなかった。

 

「あッ!?おいッ!誰かジョニィの目の前に突っ立ってんじゃねえかッ!!誰だぁお前ッ!?」

 

「ん?お、本当だ」

 

「へえ。初めて見る顔だよ」

 

 固まっている俺の存在に気づき、三人がジョニィさん越しに声をかけてくる。それらの声に今一度我に返った俺は、今度こそその場から即座に退()き、大慌ててで『夜明けの陽』全員に対して頭を深々と下げた。

 

「す、すみませんっ!み、道を遮ってしまって……!」

 

「別に構わねえよ。お前さんに襲われた訳でもあるまいし」

 

 言いながら、僕が前から退いたことでようやっと。その場から歩き出しながら、隊長としての器の大きさを実感させられる言葉を、ジョニィさんは俺にかけてくれる。そして彼の背後を残る三人も付いて進む。

 

『夜明けの陽』の行進────その悠然たる立ち振る舞いに、俺は視線を奪われ、ただ立ち尽くし、その後ろ姿を見送ることしかできない。

 

 と、その時。先頭のジョニィさんが不意に立ち止まり。そして何を思ったか俺の方を振り向いた。

 

坊主(ボウズ)。ひょっとしなくても、『大翼の不死鳥』(ウチ)の冒険者志望なのか?」

 

 一体どうしてそんなことを訊くのだろうかと、一瞬思いつつも。俺は即座に頷き、返事する。

 

「は、はい!その通りです!」

 

「ほう。やっぱりそうか」

 

 俺の返事を聞いたジョニィさんは顎に手をやり、少し考え込むような態度を見せる。そんな彼に、セイラさんが胡乱げに声をかける。

 

「そんなこと、あの子に聞いてどうするの隊長(リーダー)?」

 

 しかしジョニィさんはセイラさんの方に顔を向けず、俺の方を向いたまま、まるで妙案を思いついたかのような声音で、彼はこう言う。

 

「来な。これも何かしらの縁……このジョニィ=サンライズさんがお前さんのことをGM(ギルドマスター)に紹介してやろうじゃねえか」

 

「…………え?」

 

 ジョニィさんの言葉に対して、俺はそんな間の抜けた声しか返せなかった。



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狂源追想(その六)

「来な。これも何かしらの縁……このジョニィ=サンライズさんがお前さんのことをGM(ギルドマスター)に紹介してやろうじゃねえか」

 

 と、まるでそうすることが当然のように。不敵な笑みを浮かべながら、ジョニィさんは。今日会ったばかりの俺にそう言ってくれた。

 

「…………え?」

 

 しかし、ジョニィさんのその言葉は思ってもいなかったもので。だから、そんな有り難い彼の言葉に対して、俺は間の抜けた声を漏らすことしかできなかった。

 

「紹介って、どういう風の吹き回しですかい兄貴。アンタ、そんなのろくすっぽもしないでしょうに」

 

 俺が固まっている間に、『夜明けの陽』の副隊長(リーダー)、ロックスさんがそうジョニィさんに訊ねた。訊ねられたジョニィさんが、彼にこう返す。

 

「いや、だか