天才。
多くの場合、というよりその言葉を口にする者はほぼ例外なく羨望の対象に対して向けているだろう。
生まれ持った才能。成長する才能。吸収する才能。
圧倒的大多数が持ち得ぬ天賦の才。
だが、天才と呼ばれる者が必ずしもその才能を欲しているとは限らない。
例えばスポーツで活躍したい者に芸術の才能があったところで、本人がそれを喜べないように。
例えば勉学の面で活躍したい者にスポーツの才能があったところで、本人がそれを望まないように。
だが、そんな彼等の想いが凡人に理解されることはない。
彼等が天才である、そう認識された時点で、凡人が天才の視点を理解することも、その逆も無い。
故に才能とは、それが優れているにしても劣っているにしても、多くの場合、非常に残酷な現実を当人に打ち付けるのだろう。
羽衣 文麿(ウイ フミマロ)。今年烏野高等学校に入学した彼もまた、そんな望まぬ才能を持った人間だった。
否、正確に言えば才能を持ったことを後悔するようになった人間だ。
それも一つや二つではない。親の仕事の都合で東京から宮城に越してきた彼を知る者はこの地には少ないだろうが、彼は一部、そう、やや視野の広い凡人達からこう呼ばれていた。
『万能の天才』。
そう呼ばれるようになった原因の一つとして、その呼び名の元となった人物が最も著名な分野と彼が最初に才能を発揮したのが美術の分野だったことは決して小さな要因では無いだろう。
当時弱冠10歳ながら絵画コンクールで入賞を果たすと、翌年にはヴァイオリン、ピアノでも優れた成績を収め、スポーツの分野でもバスケットボール、サッカーといった周囲で競技人口が高かった競技に参加し、チームを全国大会に導く中心人物として活躍した。
凡そあらゆる分野で才覚を発揮した彼を知る者が『万能の天才』という誰もが知るであろう鮮烈な天才の二つ名にあやかるのは無理のない事だったかも知れない。
しかし、それは彼の周りがそう評価したに過ぎない。少なくとも彼自身、そんな才能は欲していなかった。
彼はただ、楽しい事がしたいだけだった。
祖父母の家にあった綺麗な絵を見て絵画に興味が湧いた。
母が学生の頃使っていたヴァイオリンに興味が湧いた。
学校のピアノに触れてみてそれを弾く事に興味が湧いた。
友人に誘われたバスケットボールが楽しかったから熱中した。
授業で蹴ったボールの感触が面白くてサッカーを始めた。
ただそれだけで、楽しい事がしたいだけだった。
しかし気付けば彼は周囲を淘汰していた。否、周囲が彼に追いつけなかった。
所謂その道のサラブレッドと呼ばれる家の子達がそれこそ物心ついた時から磨き続けて来た物も。
将来プロになろうという夢を胸に秘めていた少年たちの想いも。
彼は一瞬にして抜き去った。
一を知らず十を知り、十を知って千をり、千を知って一を知る。
彼への視線は賞賛から尊敬へ、尊敬から畏敬へと移り変わった。特に、彼が才能をはっきりと認められるだけの秀才はその移り変わりが顕著であった。
万事に関心を示し、その才能と思いのままに探求を続けた『万能の天才』レオナルド・ダ・ヴィンチと彼の決定的な違いはこの点にあるだろう。
レオナルドはそれらに対してより高みを、深みを求める者であったと伝えられる。
一方で彼はその才能を発揮した分野に対してそれ程執着を持たなかった。結局のところ彼はただ、楽しく遊びたかっただけだった。故に周囲の自分に対する視線、態度、その他僅かな機微から楽しかった事がそうで無くなった事を知ると、その才能を惜しむ者達の声など聞こえないとばかりに新しい興味の矛先を探す事を繰り返している。
*
その日、文麿にとっては高校入学後最も遅い時間の下校となった。
折角高校に入学したのだから中学まではやってこなかった事をやってみようという彼の思惑はまず図書室の本を全て読破し、その全ての感想文を書くという暇つぶしにするにしても途方も無い作業であった。
実際、初日にして思った以上に読んだことのある本が多かったために彼の興味は既に図書室から移ろい気味である。
校舎を出ると辺りは既に暗く、入学直後であれば間違いなく家への道が分からなかっただろうなと文麿は小さくため息を吐いた。
グラウンドを照らすライトの下、浮かび上がる文麿の姿は彫刻めいていて、見る者の視線を釘付けにする一種の魔力のような物を持っていた。
180cmという高校一年生としては高い身長もさることながら、整った顔立ちと長い手足。それらしい恰好をすれば絵画の中の人物に見えてしまう姿は、夜の校庭という場面ではその美しさ以上に不気味さを見る者に与えただろう。
容姿はあくまで遺伝子によるものとして彼としては自分のそれを特にどうとも思っていなかったが。
グラウンドを歩いていると何か言い争うような声と何かが跳ねるような音が文麿の耳に届いた。
喧嘩、に近いが一方的な物ではなく、あくまで意見のぶつかり合い。何かが跳ねる音は何かしらのボールだろうと球技経験者としての文麿は判断した。その次の瞬間だった。
「っ…危ない!」
その声が文麿の耳に届いたのが先だったか、彼に向って飛んできたボールが彼の視界に入るのが先だったかは分からない。少なくとも彼は自身の視界に入ったボールがバレーボールであることを認識した次の瞬間には中学時代、体育の授業で数週間行われた頃の事を思い出す。
「(ボールの軌道、速さを見て、腰を落として、こう)」
バシン、という小気味良い音と共にボールは彼の手首にぶつかった次の瞬間、真上へと大きく飛んでいく。
声を上げた小柄な少年の正面にワンバウンドさせ、彼がボールを受け止めた事を確認すると文麿は特に怪我は無い、と言うのをアピールするかのように手をヒラヒラと振って再び校門へと進んでいった。
*
名も知らない少年を呆然と見送った小柄な少年、日向 翔陽はザリッというグラウンドを踏む音にはっとなる。
振り返った視線の先には身長は恐らく文麿とほぼ同じであろう少年、影山 飛雄がその視線は文麿の去っていた方に向けながら日向の元まで来ていた。
「なぁ影山!今の人めっちゃ上手くなかったか!?」
「…うっせ。つーか今の奴が大丈夫だっただけで他の人には当てちまうかも知んねえし、今日はこの辺にしとくぞ」
諫められた日向は少しムッとした顔をするが「確かに怪我したら大変だもんな」と片付けの準備に入る。
自身も帰り支度を進めながら影山は改めて文麿の去っていた方を見つめた。
「(今の奴、誰だ…この暗さに加えてほぼ死角から飛んできたボールに完璧に反応しやがった…中学の時見た覚えは無ぇし県外か…?いや、あんだけ目立ちそうな奴なら絶対噂の一つや二つあるはずだが…)」
そこまで考えた影山の目の前で一足先に準備を済ませた日向がビョンビョンと跳ねる。
「おい影山!とっとと帰るぞ!」
「だからウッセェよボケが!」
もしかしたら先輩達が言っていた自分達以外の新入部員、もしくは顔合わせが出来ていなかった別の部員かも知れない。影山はそう判断した。
*
「あら?文麿、その手首どうしたの?」
帰宅後、夕食と風呂を済ませてぼんやりとテレビを見ていた文麿に母親がそう尋ねる。彼がふと視線を向けると手首がやや赤くなっていた。
「あぁ、バレーボールをこう…レシーブしたんだよ。今日」
「高校ではバレーやるの?」
「いや、校庭歩いてたらボールが飛んできたから返しただけだよ」
「…バレーって体育館でやるんじゃないの?」
「…確かに」
言われてみればあの小柄な少年、それと姿は見えなかったがその相手は何故わざわざグラウンドでバレーの練習をしていたのだろうか。そんな事を考えながら頭の片隅でバレーに対する興味が湧いて来たことを何となく自覚していた。
経験上、つまらなくなるかも知れないけれど、当面の楽しみとして、候補の一つとして考えておこう。
文麿はぼんやりと考えて、明日の天気予報に視線を向けた。
視線の先の晴れマークが、バレーボールに見えた、そんな気がした。
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