罅割れた夢 (島ハブ)
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1話

 

 

 

 思慮深い、と思われていることが多かった。

 目の前に座っている記者も、サカキのことを思慮深いと形容していた。ジムリーダー対四天王。つい先日行われたエキシビジョンマッチについての取材だった。

 カンナとシバが二人ずつ、キクコが三人のジムリーダーを倒し、疲れ果てたキクコをサカキが一蹴した。

 ワタルとサカキの対峙は二時間の長丁場となり、互いに最後の一体を繰り出す激戦の末にワタルが制した。

 

「世間じゃ、あれをチャンピオンの勝利とは思ってませんよ。キクコ氏との短い勝負。あの僅かな消耗が、勝敗を別けたと、そう言われています」

 

 記者の言葉に、サカキは微笑んで見せた。記者が頭を掻いた。

 

「オーキドキクコ時代はオーキドの引退に幕を閉じ、ワタルサカキ時代は真っ当な直接対決なし。カントーのファンは不幸だと思いませんか?」

 

「チャンピオンと真っ当な勝負をするのはポケモンリーグを勝ち抜いたものだけですよ」

 

「勝っておられる。サカキさんの殿堂入りの表彰状は今でもセキエイに飾られています。しかしその時、ワタル氏はまだ無名の少年だった。そしてサカキさんは、チャンピオン就任を拒否された」

 

「故郷でなにかをしたくてね。幸い、トキワジムのジムリーダーが引退を公表していた」

 

「今から、というのは?」

 

「さて、今さらチャンピオンロードを抜ける体力が残っているかな」

 

「これだよ。弱ったな。実は、編集長から刺激的なコメントを取ってこいと言われましてね」

 

「そういうのはワタル君に頼むんですな」

 

 ワタルは、どこか挑発的なチャンピオンだと言われていた。実際にそういう振る舞いもしている。本来はもっと物静かな青年であることを知っているのは、四天王とジムリーダー以外にほぼほぼいない。ワタル自身が、挑戦者を刺激するようなチャンピオン像を作ろうとしているのだ。

 

「別の記者が行きましたよ。会場など作るな、だそうです」

 

「先の試合は、途中から屋外競技場に場所を移しましたからね。まあ、地面とドラゴンの試合を屋内でやろうと言うのが土台無理な話だ」

 

「主催はウチのスポンサーですよ。あの物言いを記事にするのはちょっとね」

 

「じゃ、諦めるんですな」

 

「普段思慮深いサカキさんから、大きな発言が出てくる。そういうものの方が面白いんですがね。どうです?なにか、野望のようなものはお持ちでは?」

 

 同席していた秘書の目が、一瞬揺れた。そのことに、サカキは気付かない振りをした。

 

「野望、ですか。ないこともないな」

 

「それはどんな?」

 

「トキワの、いや、カントーのトレーナーを世界最強に育て上げることですよ」

 

 ジムリーダーとしては、模範的な解答だった。記者も苦笑いしている。秘書の表情だけが固い。サカキが本当のことを語ったと、理解しているからだ。

 現在のトレーナー情勢についてしばらく雑談を交わして、記者は帰っていった。それなりに真っ当な記者なので、発言を誇張されたりすることもないだろう。

 

「コーヒーを淹れてくれないか。それと、午後の予定を」

 

「十三時に、挑戦者が来ることになっています。三名。ジムトレーナーを突破できそうな実力者はいません。しかし」

 

「勝負に絶対はない。私はここで、挑戦者を待つこととしよう」

 

「よろしくお願いします。十六時に、ニビの博物館で仕事が一つ。新しく発掘された化石周辺の地層について、サカキ様の見解を訊きたいとのことで、博物館に足を運んでいただくことになります」

 

「オツキミ山のものか」

 

「詳細な研究はタマムシ大学から調査チームが来ることになっているようです。サカキ様のコメントはあくまで館内の展示物としてのものだと」

 

「わかった。精々、一般受けしそうなコメントを書くこととするよ」

 

「その後はしばらくフリーになっています。二十一時に、ポケモン協会のトキワ支部長と会食。トキワの未来についてということで、ジムトレーナーを何人か伴っていただくことになります」

 

「漠然とした話だ」

 

「協会本部から配分された資金を消費しつつ、実績を作ろうということでしょう」

 

「人選は任せる。たらふく食う人間を選んでくれ」

 

「昼食は抜くよう伝えておきます」

 

 コーヒーが差し出された。ブラックだ。コーヒーなど本来は砂糖を入れて飲むものだと思うが、一度この味を覚えると、舌というより脳がこれを求めてしまう。

 口をつける。苦味が通り抜けた後は、頭の中がすっきりとしたような感覚になる。今後もきっと、ブラックを飲み続けるだろう。

 

「タマムシに行く」

 

 人選を終え戻ってきた秘書に、サカキはそう言った。彼女は僅かに周囲を気にする素振りを見せた。このムツキという秘書は、どこか神経質なところがあった。神経質であり、鈍感なのだ。

 ジム周辺ぐらいの範囲までならば、サカキは気配を読みきることができた。そのぐらいのことができなければチャンピオンロードを安全に抜けることはできないし、ハナダの洞窟などに行けば死ぬしかなくなる。殿堂入り後の一ヶ月を、サカキはハナダの洞窟で過ごした。地獄の特訓だったが、今思うと余計なものに煩わされることもない甘美な時間だった気もする。

 

「ニビの後になります。ピジョットを用意します」

 

「ガラルという国では航空網が発展しているらしいな。カントー、いや、この国全体でああいうものを整備しなければならん」

 

「クチバが許さないでしょう」

 

 ムツキが目を伏せた。

 戦争に負けたのだった。サカキの生まれるずっと前で、オーキドやキクコでも、まだ幼いと言われるぐらいの頃だ。

 進駐軍が、クチバに入った。国内最大の港であるクチバは言ってしまえば口のようなもので、食事をするにも息を吸うにも進駐軍の顔色を伺わなければならないということだ。生殺与奪を握られているという意識は国民の多くに恐怖と反感を植え付けた。激しい抵抗運動が起こり、武力決起も視野にいれた活動すら進んでいた気配だった。

 進駐軍も硬軟織り混ぜた対応を取り、懐柔を図った。最終的に繋がりを同盟に変え、いくつかの強硬な権利を手放すことで進駐軍は同盟軍となり、カントーに溶け込んでいくこととなる。それでもその影響力は大きく、国内の自由な航空網というものも、ムツキの言うとおり同盟軍からの承認が出ないことで難航していた。今、『そらをとぶ』の権利を持つ権利者と技マシンは全て協会に把握され、そのデータは同盟軍にも流れているようだ。無許可での『そらをとぶ』使用やその技マシン保持は固く禁じられていて、違反者の捕縛の権利は警察だけでなく同盟軍も持っている。外国の軍隊がカントーの人間を問答無用に拘束する権利を持っているというのも、馬鹿げた話だった。そんな有り様であるから、最盛期ほどの勢いはなくとも、いや、勢いのない分、反同盟軍の活動は地下で活発に動いているようだ。

 サカキの父も、活動家の一人だった。サカキが地面タイプを使い始めたのは父の影響だが、父が地面タイプを使い始めたのは、当時クチバの進駐軍の中核となっていたのが電気タイプのトレーナーだったことに依るものが大きいようだった。電力を用いて最新鋭機器や航空機などを動かし、ポケモンと連携するのが進駐軍のスタイルだったのである。マチスなどは、その進駐軍の気っ風が産み出したトレーナーと言えた。

 

「クチバか。忌々しいものだ」

 

「サカキ様、そのようなことは」

 

「わかっている。あまり、口にはすまい。私は活動家ではないのだからな」

 

 父は、活動家として大きな仕事をした。クチバ近郊にあった小さな洞窟を拡げ、それからディグダが住みやすいような環境に整備していった。かなりの時間をかけてだ。同盟軍が気付いた時には、二番道路まで開通したこの洞窟はディグダの穴として一般に認知され、民間事業者なども活用する場となっていた。例えその成り立ちが同盟軍中核部隊との戦闘を見据えた、アンチ電気タイプとしての拠点作りであろうと、簡単に取り潰すことはできなくなったのだ。

 そして、父は死んだ。オツキミ山へ登山中に滑落したとのことで、遺体さえも帰ってこなかった。捜索隊にはなぜか、ニビの救助隊だけではなく同盟軍の部隊も派遣されていた。まだ幼かったサカキの手にチョコレートを一つ置いていった軍人の表情を、サカキは忘れたことがない。

 

「とにかく、ピジョットは用意します。一度タマムシ大学の携帯獣学の学部棟へ顔を出してください。手の者がおります。トキワの出身です」

 

「わかった。地元の若者に目を掛けていて、度々タマムシに足を運ぶ。そのついでにゲームセンターにでも寄ってくる。これでいいな?」

 

「しばらくは。新しい理由も、準備しておきます」

 

「愛人がいる、というのが楽な気もするがな」

 

「それなりに容姿が整っていなければ説得力がありません。そして、秘密を守れることも」

 

「君はどうだ、ムツキ君?」

 

 サカキがからかうと、ムツキは顔を伏せた。僅かに見える頬は染まっている。

 

「サカキ様に愛人となりますと、その、マスコミの目を引きますので」

 

「そうだな。それに君には補佐をして貰わなければならない」

 

 冷めたコーヒーを呷り、サカキは立ち上がった。

 

「どちらへ?」

 

「トレーニングだ。午後から挑戦者が来るのだろう?」

 

「はあ。サカキ様のお手を煩わせることはない、と思いますが」

 

「私はトレーナーなのだよ。来る、来ない、強い、弱い。そんなことは関係なく、勝負の前には昂ってしまう。トレーナーとはそういうものだ」

 

「今後は、影武者などを用意してジムを任せることもあるかと思います」

 

「その時はその時で構わん。今私の頭にあるのは、目の前のことだけでね」

 

 偽りではなかった。挑戦者の手持ちを、それに対する選択を、読みを外した際の対応を、サカキは頭に思い浮かべては消した。思考は固めず、かといって無策にはならない。ボールが震え、ニドキングの昂りが手のひらに伝わった。

 ジムリーダーという役職も、ロケット団総帥という立場も、今だけは忘れていられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 フミツキは、一つ息を吐いた。ゲームコーナー地下。アジトのトレーニング場である。

 普段は、喫茶店でバイトをしている。

 学生ということにしてあった。実際、籍は残してある。タマムシ大学とは比べるのも烏滸がましいような専門学校だが、就職には太いパイプがある。ありがちな進路といっていいだろう。

 秀才と言われてきた。ニビシティ東部の村の一つに生まれて、十歳頃までは敗北を知らずに過ごした。ニビに出ると流石に負けたが、埋められないほどの差ではなかった。

 はっきりと壁を感じたのはタケシだ。試合自体は勝ったが、それはジムチャレンジャーとジムリーダーだったからである。

 自分が長じても、彼に勝つような才能はない。そう悟った。あるいは、そう悟ってしまうことこそが、才能の無さだったのかもしれない。

 バトルを専門とする学校は見ずに、就職率だけを考えてタマムシに出てきた。ロケット団と出会ったのはその頃だ。

 汗を拭う。

 

「よろしく」

 

 対面に立った団員がズバットを繰り出してきた。フミツキの相棒はサンドパンである。相性は微妙だが、ポケモン自体の強さはこちらが上だ。

 飛行タイプを仕留めるには、焦らないことだった。機動戦には応じず、近寄って来るのを待つ。特に、視覚に難を抱えるズバットは、動かない相手との戦闘が苦痛な筈だった。

 

「『ちょうおんぱ』」

 

「『まるくなる』」

 

 温い応酬だった。自分がズバット側なら、リスクを冒してでも攻め込んだだろう。持久力に欠けるズバットが『ちょうおんぱ』などを飛ばしているのは、いかにも悠長だった。その悠長さに付き合わざるを得ないのが、今の自分の力量であり才能だ。

 『まるくなる』を幾度か繰り返してからは、特に指示も出さなかった。相手の焦りがはっきりと伝わってくる。ズバットの高度が下がってきていた。今攻めかければ、押しきることもできるかもしれない。それでも、フミツキは待った。

 周囲が騒がしかった。フミツキの試合運びは、同僚からも冷ややかな目で見られていた。陰口を叩かれたことも一度や二度ではない。臆病者、凡人。その通りだ、という思いしかなかった。模擬戦の勝率は良い。それがまた、陰口を加速させているようだ。

 

「『つばさでうつ』」

 

「サンドパン、伏せて」

 

 ズバットの翼が空を切った。低い位置への降下は、ズバットには恐怖でしかないだろう。目が見えない上に足も発達していないのだ。よほどトレーナーとの信頼関係が出来上がっていない限り、地に伏せたサンドパンを打つことはできない。

 相手が声を荒げて、再び『つばさでうつ』を指示した。先ほどよりは高度が下がったが、やはりサンドパンに当たるほどではない。

 

「『つばさでうつ』。もっと低くだ」

 

 怒鳴りながら、相手が細かい指示を出し始めた。ズバットが少しでも浮かび上がる度に、怒声が飛ぶ。フミツキは意識を集中させた。ズバット。向かってくる。唾を飲み込んだ。待つ。相手の怒声が、なんとかズバットの高度を抑えている。サンドパンは伏せたままだ。もうしばらくだけ、耐えて。心の中で呟いた。

 交錯する。不意に周囲が湧き、怒声も途切れた。ズバットの挙動が不安定になる。全て、フミツキの意識の外だった。一瞬の機。

 

「『きりさく』」

 

 サンドパンが跳ね上がった。交錯したズバットが地に落ち、瀕死状態の特徴である躰の縮小を始めた。そこまで見届けて、周囲が静まり返っていることに気付いた。

 

「何をやっている。ボスの前だぞ」

 

「ボス?」

 

 トレーニング場の入口に、一人の男が立っていた。黒のハットにロングコート、それから仮面。襟元には、品の良い白のシャツが見えている。フミツキも、遠目に幾度か見たことのある、ロケット団総帥の姿だった。

 対戦していた相手は、直立でボスに躰を向けていた。最後にズバットへの怒声が途切れたのは、ボスへ挨拶することを優先したかららしい。遅れて、フミツキも頭を下げた。

 

「なぜ、試合を止めなかった?」

 

 低い声だった。

 

「君の相手はすぐに私に気付き、指示を中断した。君はなにも気付かずにズバットを切り裂いたな。トレーナーからの指示の途切れたズバットをだ」

 

「あの、すみません。試合の方に集中していて」

 

「集中?なぜだね」

 

「えっと、サンドパン対ズバットは飛行と地面ですから、その、近付くことが難しくて、機会は僅かしかないと」

 

「なるほど。しかし私の見るところ、君のサンドパンにはまだ余力がある。次を待っても良かったのではないか?」

 

「必要ならば、待ちます。ただ、無駄に待つことはしません」

 

 口にしてから、何か失礼な物言いのような気がしたが、どうしようもなかった。

 

「ふむ」

 

 ボスが近付いてくる。大きな男だ、と思った。体格ではなく、存在感のようなものの話だ。圧倒されている自分を、フミツキは自覚した。厳重に顔を隠しているのも納得できた。一度見たら忘れられないタイプの人間だ。

 

「君は、正しい」

 

「え?」

 

「戦いの中で集中を切ることは死を意味する。自分が死ぬのならばそれも良いだろう。しかし、戦っているのはポケモンだ。傷を負うのもな」

 

 ボスがズバットを見て、それから対戦相手に顔を向けた。呆けたような表情をしていた相手が、大慌てでズバットをボールに戻した。

 

「良いサンドパンだ」

 

「え?」

 

「ズバットが頭上を飛び回っても、決して頭を上げなかった。君の指示で初めて、勇ましく飛び上がった」

 

「昔から、よく私の言うことを聞いてくれます」

 

「信頼しているからだ。そして君も信頼に応えた。決して、勝負から目を離すことはしなかった」

 

「気付かなかっただけです」

 

「名は?」

 

「フミツキと言います」

 

「視野は、広く持ちなさい。そして、最後の最後まで勝負を見続けなさい。例え私が入ってきたとしてもだ。私が、それを許す」

 

「はい」

 

「励みなさい、フミツキ君」

 

 軽く肩を叩かれた。なにか、どうしようもないほど熱い物が触れたような気分に、フミツキはなった。

 タケシと戦ってから、ずっと冷めていた。ロケット団というヤクザ紛いの団体に飛び込んだのも、順風な進路を進んでいる自分がある日突然つまらないものに思えたからだ。しかし飛び込んだ先で出会ったのは、冷めた自分にすら勝てず、陰口を叩くような連中だった。

 胸の中が熱かった。経験はないが、あるいは恋というものはこんな感じなのかもしれない。

 最後の最後まで勝負を見続けなさい。呟いてみた。なにか、締め付けられるような気分に襲われて、訳もわからずフミツキはサンドパンを抱き締めた。

 

 

 

 

 

 



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2話

 

 

 

 

 ノートを捲る。前のページは、余白すらないほどに書き込んでいて、サカキ以外の人間では読むことも困難だろう。構わなかった。どの道、他人が読むことなどないのだ。

 内容はジムトレーナーについてである。手持ちはもちろん、選出の傾向や交換のタイミング、指示の方向性、ボールを投げる際のコントロールと肩の力まで、バトルに関わる全てのことを網羅していた。僅かな変化がある度に、書き足している。

 書き始めた当初は一冊のノートに全員の情報を書き込んでいたが、ほんの数年で一人一冊の状態になった。サカキの着任時からいる古参に至っては三冊目も埋まる勢いだ。

 他のジムがこういう記録を取っているのかは知らない。やるべきだと思ったから、やっているだけだ。

 ふと思い付いて、一冊のノートを開いた。先ほどまで、ポケモン協会のトキワ支部長と机を囲んでいた。そこに同席していた一人のノートである。

 料理は、流石に豪勢だった。油ものが多くサカキはあまり箸をつけなかったが、若いジムトレーナー達は掻き込むように食べていた。一人だけ、サカキと同じように食が進んでいない若者がいた。

 パートナーのサイホーンのために、持って帰ってやりたいんです。尋ねたサカキに、彼はそう答えた。

 トキワ支部長は乗り気ではなかった。余り物を包んで貰うなど意地汚い。その言葉に、サカキはかっとした。

 ポケモンに旨い物を食わせてやりたい。トレーナーならば持って当然の感情で、意地汚いことなどある筈がない。怒鳴りつけるのをこらえながら、サカキはそう言った。

 結局、いくつかの使い捨て容器に包んで貰うことになった。当たり前のことをしたつもりだったがジムトレーナー達はそうは思わなかったようだ。特に、サイホーンの彼はいたく感動したようで、しきりに頭を下げていた。

 ノートに、ポケモンを思いやれる者、と書き込んだ。その文字はサカキの胸に、気持ちのいい若者を見た晴れやかな想いと、微かな自嘲を同時に呼び起こした。良心が咎める、というのではない。真面目腐った顔でこんな文言を書き綴れる自分が、滑稽なだけだ。

 ポケモンを友とする、ポケモントレーナーのサカキと、道具や商品として扱うロケット団総帥のサカキ。二つの貌は、特に矛盾することなく同居していた。人間など、そんなものだろう。

 

「入ってもよろしいでしょうか?」

 

 サカキが返答すると、ムツキが入ってきた。手には書類の束を抱えている。

 夜分遅いが、サカキとムツキの間に色めいた事情はなかった。ただ、ジムに出入りする人間の中には邪推する者もいる。殊更に否定もしていない。男と女というのは、根拠や過程を必要としない便利な方便だった。

 

「ヤマブキからです。例の観測データの」

 

「三回目だな。結果は?」

 

「数値上はどれも上昇しています。ただ、やはり読み解ける者がおりません」

 

「まあ、わかっていたことだ」

 

 差し出された資料にサカキは目を通した。可視化された状態にあるので、変動自体はサカキでも易く読み取れる。

 

「エスパータイプのポケモンの波長に符号する、と言った研究者がいるようです。ただし、数値の規模から懐疑的な見方をされているとのことです。前例がないと」

 

「ほう。抱き込んである研究者かね?」

 

「いえ、純粋なシルフカンパニー勤務の者です」

 

「気質は?」

 

「研究が第一でしょう」

 

「よし。こちら側に取り込むよう指示を。ロケット団とは無関係にな」

 

「グループ内で孤立させるよう命じておきます。その後に引き込めば、あくまで研究グループを移っただけ、という格好を作れます」

 

「余計な情報は与えなくていい。ハナダの洞窟の観測データだけを渡しておくことだ。根っからの研究者ならば、それで事足りる」

 

 再び資料に目を落としたサカキに、ムツキがおずおずと声をかけた。

 

「サカキ様、それでこのデータは、その、一体何のデータなのか尋ねても?」

 

「これかね。そうだな。神、のようなものさ」

 

「神、ですか?」

 

「並外れたエネルギーを神と称するならば、だがね」

 

「それほどに」

 

「もっとも、悲しい神だ。人の業に生まれている」

 

「サカキ様はどこでそれを?」

 

「殿堂入りをした直後に、ハナダの洞窟に入った。そこで戦ったよ。なんとか退けたが、あそこで死んでいてもなんの不思議もなかったな。いや、今生きている自分こそ不思議という気さえしてくる」

 

 ミュウツー。その名は、父の書斎の隠し床にあった手帳で知った。武力決起を目指した活動家達が目をつけ、詳細な調査をしたようだが、肝心のハナダの洞窟に入れるような力量を持った者がいなかった。

 

「とにかく、解析を進めるしかない。一つだけ当てがあるが、協力を得られるかは疑問だな」

 

「お聞きしてよろしいですか?必要と判断したら、私の方で手配します」

 

「いいだろう。シオンタウンのフジという老人だ。元々は研究者で、その神を造りだしたのも戦時中の彼らだ。今となっては、唯一の生き残りだな」

 

 頷いて、ムツキが手帳を開いた。とにかくメモを取る、というところがある。勿論、直接の名称は避け、いくつかの符丁を用いて読み解くタイプの暗号になっている。

 

「タマムシはどうでしたか?」

 

 一段落したらしいムツキが顔を上げた。

 

「資金ルートは、今のところ安全だろう。馬鹿馬鹿しいカラクリで、遊技場の経営者が一儲けしている、という形はできている」

 

 ポケモンの売買は違法だが、譲渡については大して拘束力もない条例があるだけだった。ある程度の年齢に達した子供にポケモンを譲渡して旅立たせるというのは、ほとんど文化となっている。その文化と上手く折り合いをつけられなかったために、有名無実の条例だけで済ませたのだ。杜撰な仕事というべきで、穴はいくらでもあった。

 ゲームコーナーの隣に老婆が住んでいる。年老いて面倒を見切れなくなったポケモンの引き取り手を探していて、たまたま通りがかった青年にポケモンを譲渡する。青年は感激して、お礼の気持ちとして何らかの品物を置いて去る。

 譲渡されるのがやたらと希少なポケモンで、置いていかれる品物がゲームコーナーのコインであることを除けば、ありがちな話といっていい。

 

「同種の遊技場を作ろうという動きもあるようです」

 

「タマムシならば潰せ。ヤマブキもだ。それ以外の場所ならば放置でいい」

 

「クチバは?」

 

「あそこでやる度胸があるなら支援してやってもいい」

 

「同盟軍お膝元では阿漕なことはできませんね」

 

「やるだけならば簡単だ。ただ、揉めた時の収拾がつかない。鼻薬も効かないとあってはな」

 

 ゲームコーナーの利益は莫大だった。おしぼりや花束などとは桁が違うのだ。しかも、曲がりなりにも正業としてそれができる。

 ただ、そこで得た資金をロケット団に動かすことには苦労した。今は、クチバに一つカラクリを仕掛けてある。ゲームコーナーの資金は一度クチバを通ることで、まったく新しい金としてロケット団の手元に入るようになっていた。

 いつかは、手繰られるだろう。その時はゲームコーナーを完全に切り離していい、とサカキは思っていた。資金があるに越したことはないが、金稼ぎを主眼にこんなことをやっている訳ではないのだ。

 

「ああ、そういえば、一つ拾い物があった。フミツキというトレーナーだが、知っているかね?」

 

「彼女ですか。昨年に入団した者ですね。少々変わった経歴をしていたので覚えております」

 

「経歴?」

 

「ニビの郊外に生まれています。幼少期から頭角を現し、将来について期待されていたようです。実際にニビの少年大会では複数回の優勝歴があります」

 

「華々しいことだ。それで?」

 

「十四歳で旅に出て、一度の挑戦でニビジムを破っています。続くハナダジムでは、タイプ的に不利なサンドパンのみで突破したことで、ローカル誌に取り上げられたりもしたようです」

 

「その頃ならば、カスミ君のジムリーダー初年度か。大したものだ。彼女は、手加減が下手なのだがな」

 

「当然、電気タイプのジムであるクチバジムは易く突破するものと思われていました。しかし、クチバに挑戦することなく、彼女は地元に帰っています。それ以降は、そこそこ優秀な学生として暮らしていたようです。正直なところ、トレーナーとしての力量がどれほどなのか私には読みきれませんでした。模擬戦の成績が優秀だという報告は受けていますが」

 

「優秀か。そうだろうな」

 

「拾い物、ということはやはり才が?」

 

「いや、ない」

 

「ない?」

 

「全く、ではない。部分的には人に先んずることもあるだろう。特に観察眼は、人よりも優れている。それだけに、哀れでもあるが」

 

 タケシやカスミと戦ったというのならば、その力量をおおよそ理解できてしまっただろう。きわどく勝つ、あるいはきわどく負ける。ジムリーダーは、役職としてそういうことをするが、本来の能力は一般人とは隔絶したものがある。フミツキは、その本来の能力まで見通してしまったに違いない。

 才は、サカキの見る限りなかった。遺漏は、まったくない試合運びだった。それだけに、サカキが入ってきたことにすら気付かない異常さが際立つ。

 『きりさく』のタイミング。あれほど優位な状況なら、二、三の意識配分でも捉えられた筈だ。彼女は、意識の全てをそこに注いでいた。才は、そういうところに現れる。

 勘違いであってくれ、と望んだことも一度や二度ではない。しかし、サカキが才がないと見た者で、トレーナーとして大成した人間はいなかった。

 

「ハナダジムまで突破したのは、恐らく意地だろう。彼女の絶望はニビから始まっているはずだ」

 

「そういうものですか。しかし、拾い物だと」

 

「君も、トレーナーとして優秀ではあるまい。彼女も似たようなものだ」

 

 ロケット団にいるうち、トレーナーとしての才に溢れている者が何人いるか。多くは、多少の得手不得手を抱えた凡人だ。そしてフミツキは、とりわけ優れた、凡人である。

 

「ハナダの洞窟の観測は続けなければならん。陽動の一つや二つは必要だろう」

 

「いくつか、事件を起こす計画をしています。警察が動かざるを得ず、かといって殊更遺恨の残らないもの。例えば、盗みとかを」

 

「もう一つだ。オツキミ山で一暴れさせる。名目は化石の収集でよかろう。多少問題になるぐらい横暴にさせて、機を見て引けばいい」

 

「その機を見る役をフミツキに?」

 

「状況を、よく読む。その能力だけは私も感嘆するほどだ」

 

「わかりました。ハナダの桟橋の団員にも、観測の用意をさせます」

 

 ムツキの言葉に、サカキは笑った。桟橋の名称はとかく女性受けが悪い。あれを恥ずかしげもなく口にするのは、カスミぐらいのものだろう。

 何を笑われたのかは、ムツキにもはっきり伝わったようだった。むっつりとしたまま、顔を上げずに書類に没頭し始めた。

 夜が更けている。早朝にトレーニングをしよう、とサカキは考えていた。その時間だけ、サカキは煩わしい物事から解放される。あらゆるものを些事と思えるようになる。甘美というには程遠く、花の露でも吸っているような僅かな時間だが、欠かせるものではなかった。

 仕方のないことだ。自分自身で、こんな道を選んだ。義侠心や道徳ではなく、ある種の狂気とともにだ。

 サカキも書類に目を落とした。ゲームコーナーの支配人から、サファリゾーンのポケモンをもっと、という要望が出ている。幾度か検討したが、キョウの目を掻い潜れないという結論を動かしようがなかった。サファリゾーンの密猟者に目を光らせるのが、キョウの仕事の一つでもある。実力はジムリーダーの中でもサカキの次に頭一つ抜けていて、サファリゾーンのことさえなければ四天王になっていてもおかしくはなかった。

 書類には、カイロスやラッキー、ケンタロスを取り扱った時の利益予想まで、根拠やグラフとともに載せてある。思わず、検討したくなるような数字ではあった。実現は不可能と思っていても、サカキはしばらくその夢想に熱中した。

 不意に、顔を上げた。気配。深夜に差し掛かったジムの入り口に、誰かの気配が近付いてくる。やがて、インターホンが鳴った。

 

「誰でしょう、こんな夜更けに」

 

「私が出よう」

 

「いえ、サカキ様はそのままで。こちらの書類は、サカキ様でなければ判断できないものです」

 

「やれやれ、うんざりとしてくるな。大丈夫かね?」

 

「いざとなったら声をあげます」

 

 気配は一つで、不審な動きもなかった。ムツキが応対している間、サカキは再びサファリゾーンの資料に向き合った。やはり、防備に穴はない。正攻法の検討もしてみたが、サファリボールの捕獲率と、一度の入場に掛かる費用はどうしてもプラスに転じさせようがなかった。ゲームコーナーのミニリュウは、全て竜の穴産である。

 気配が動いた。やがて、ムツキがサカキの部屋へと戻ってきた。

 

「子供でしたわ。どうも、ジムに挑戦する順番を知らなかったようで」

 

 ムツキが呆れたように言った。そのどこかに、サカキは違和感を覚えた。

 

「バッジを賭けなくてもいい、と言っていましたが」

 

「野良でのバトルということか」

 

「そういうものは受け付けていないと教えたら、しぶしぶ帰っていきました」

 

「随分と時間がかかったな」

 

「口下手というか、無口な少年でした。暗がりで姿もよく見えなくって。赤い帽子と連れているヒトカゲの尻尾だけが、やたらと明るかった」

 

「熱意のある若者か。顔ぐらいは見てもよかったかな」

 

「本当に、子供ですよ」

 

 それきり、ムツキは資料に向かい始めた。サカキもまたサファリゾーンの資料を見ながら、しかし先ほどのようにのめり込めずにいた。

 気配が鋭かったのだ。唐突に、サカキは違和感の正体に思い当たった。鋭い気配で、バッジの二、三個は持っている実力者が来たと思ったのだ。挑戦の順番を知らないということは、まだバッジを持っていないということである。

 惜しいことをしたかもしれない。才あるトレーナーならば、引き入れてもよかったし、それが叶わぬなら潰しておくのもありだった。

 しかし、気配はもう遠く過ぎ去っていた。もう一度書類に目を落とす。目を通すべきものはいくらでもあった。やがてサカキは、少年のことを忘れた。

 

 

 

 

 

 



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3話

 

 

 

 

 

 

 ノックをすると、入室を促された。ゲームコーナーの店長とアルバイト、という風になりすましているが、ロケット団の実態はヤクザのようなものだ。気軽にドアを開ける訳にもいかない。

 組織の実態ということについて、フミツキはあまり興味がなかった。つまらない人生から脱出できるならなんでもよかったのだ。そして今は別の理由から、組織について気にしなくなった。最後まで勝負を見続けなさい。ボスの言葉を思い出しては、胸を熱くする。自分でも不思議なほどだ。カリスマ、というべきなのだろうか。あのボスがいるのなら、組織の実態などなんでもいい。

 

「来たな。喫茶店のバイトの方はいいのか?」

 

「大丈夫です、本部長」

 

「本部長はやめろ。ここはゲームコーナーだ。支配人でいい」

 

「失礼しました、支配人」

 

「呼び出してすまんが、少し待ってくれ。飲み物は好きに取っていいぞ」

 

 支配人が、机の資料に視線を落とすのに釣られて、フミツキもちょっと目を向けた。呼び出された理由に関係するのなら気になるが、だからといって覗き込むほど軽率ではない。ボスの側近、という意味では秘書の女性がナンバーツーといっていいが、組織としての位置付けではこの支配人こそがナンバーツーである。機密書類なども当然扱っているだろう。

 だが、フミツキの目線に気付いた支配人は、気安く書類をはためかせた。

 

「気になるか?」

 

「いいんですか?」

 

「大して重要な書類じゃない。正確に言えば、重要になり損ねたってところかな。却下されてな」

 

 軽く流し見る。ケンタロスという名前が見えた辺りで、大体のことは察せた。サファリゾーンのポケモンを取り扱いたいというのは、支配人がよく言っていることだ。

 

「ま、頭じゃわかってるんだが、どうしても惜しくてな。挙げてみるだけは意見を挙げたってとこだ」

 

「やっぱり無理ですよね、キョウの腕前は四天王級だと言いますし。力ずくではどうにもできない」

 

「本当にどうにもできないなら惜しくもなんともないさ。やりようがあるからこそもどかしいんだ」

 

「キョウを相手に、やりよう、ですか?」

 

「ボスにご出陣願うことになるがな。まあ、無理だ。ボスを今表に出す訳にはいかん」

 

「ボスはそれほどに?」

 

「そういえば、お前が入ったのは去年だったか。三年前の山吹組との抗争は知らんのだな」

 

「ニュースで見たくらいです。三年前なら私はまだニビにいましたから」

 

「指揮は俺が執っていたんだが、一進一退だった。ただ、ヤマブキに長年巣食っていた山吹組と新興のウチじゃ体力が段違いだったんだ。負け戦だった。それをあっさり覆したのがボスさ」

 

「確か、一晩で終わったんですよね」

 

「警察なんざハイエナみたいなもので、どっちかが負けるのを遠巻きに待っていた。だからあの時、ボスは自由に動けた。奇襲作戦だが、俺達は包囲してるだけで良かったよ。ボスが、喫茶店にでも立ち寄るように山吹組の本部に入って行って、出てきた時にはすべて終わっていた」

 

 俄かには信じ難い話だった。ヤマブキはカントー最大の都市で、そこを本拠地にしている山吹組の構成員は直系だけでも百は下らないだろう。その百人が、それぞれ別で部下を率いていて、カントー全土でどれほどの人数がいるのかは計り知れない。その本部に一人で襲撃をかけるなど、あり得るのだろうか。

 しかし、三年前に山吹組壊滅のニュースが世間を賑わせたのも事実だった。逮捕者の数も尋常ではなかった記憶がある。

 

「半信半疑、という面だな」

 

「そんなことは」

 

「いいのさ。情報は、自分で選べ。聞いたことをそのまま受け取るような奴は好きじゃない」

 

「山吹組の規模を考えると、少し」

 

「それでいい。ボスの戦いを見たこともない奴なら信じられなくて当然なんだ」

 

 支配人はゲームコーナーについての書類を脇にどけると、茶封筒から別の書類を取り出した。開きつつ、セーラムに火を点けている。メンソールの匂いが室内に広がった。支配人はキュウコンを相棒としているが、煙草に火を点ける時は必ずライターを使う。ポケモンに火を点けさせようとする団員がいると、激しく怒鳴りつけるので、喫煙者全員がライターを持つようになった。

 

「ゲームコーナーの収益は絶大だが、いずれは目を付けられる。別の手段を講じておく必要がある。それも、いくつもだ。わかるな?」

 

「はい」

 

「それに、ロケット団の存在感が世間から消えても困る。自称ロケット団が下らない悪さをしてるだけの状態は避けたい」

 

「最近は多いそうですね」

 

「厳しく取り締まろうという気はないからな。俺達は正義の味方じゃない。連中が暴れてこちらから目が逸れるなら大歓迎さ」

 

「ただ、チンピラの集団とは思われたくない、と」

 

「話が速いじゃないか」

 

 茶封筒ごと、書類を渡される。

 

「化石ですか。オツキミ山ですね」

 

「小金稼ぎだがな」

 

 オツキミ山での化石採集は禁止されていない。あくまで、個人の範疇ならばだ。集団で動けばニビの自警団が出動することになるし、ロケット団だと知られれば警察も動き出すだろう。ニビ自警団の実働部隊トップは、あのタケシである。勝負にすらならないことは、誰よりも自分自身がよく知っている。ただ、支配人が相当の手練れだという話も聞いていた。

 

「化石採集の部隊に参加すればいいんですか?」

 

「惜しいな。お前は、指揮さ」

 

「え?」

 

「戦闘要員十名、発掘運搬要員二十名、計三十名。アジトから好きに選抜して連れていけ。ハナダ近郊で待機、こちらからの指示が届き次第オツキミ山に突入し作戦行動を開始しろ。突入からハナダへの撤退までは全てお前の裁量でこなせ。作戦前後に関してはハナダの団員が受け持つ」

 

「冗談ですよね?」

 

「大真面目さ。俺はここに残って通常業務と中継点を務める」

 

「そんな馬鹿な」

 

「書類の下までよく読め」

 

 言われて、目を走らせた。簡素な書類である。下部には、作戦の総責任者として支配人の名前があり、現場指揮としてフミツキの名があった。最下部には、円に罅割れが走ったような印が捺してある。見間違える訳はない。ボスの印だ。

 

「ボスが、私を?」

 

「理由はボスにしかわからん。ただ、人の能力を見抜くということについてボスが間違えた記憶はほぼないな」

 

 多幸感に似たものが、フミツキを襲った。自分でも戸惑うほどで、フミツキは必死にタケシとの試合を思い出そうとした。圧倒的な才の隔たり。その壁を感じながら、機械的にジムリーダーを打ち倒す自分と抗わないタケシ。不甲斐なささえも、どこへ吐き出すこともできない絶望。今でも、寸分違わずに思い出せる。しかし、多幸感は消えなかった。逆に、過去の影が光を際立たせるかのように、それは顕著になっていく。

 なぜなのか。ボスに認められたからか。一人の上司に認められただけで舞い上がるほどに、承認欲求は肥大していたのか。あるいは、ボスのカリスマが自分を誑かしたのか。

 想いは方々に伸びては消え、そして、たった一つだけが残った。自分の為すべきことだ。

 

「支配人。質問しても?」

 

「いくらでも」

 

「誰でも、と仰られましたが、階級の高い方は」

 

「俺以外なら好きにしろ。例え副支配人を連れていったとしても、指揮はお前だ。好きに使え」

 

「オツキミ山周辺の、現在の情勢は?」

 

「悪いが、それはハナダで訊いてくれ。ただ、ニビの自警団には未だタケシが所属しているようだ。週に一度、オツキミ山にも顔を見せている」

 

 タケシと聞いても、フミツキに動揺はなかった。絶望は忘れていない。しかし、多幸感は治まった今の状態でも、絶望がフミツキの身を切ることはなかった。

 

「交戦はできませんね」

 

「当たり前だ。ジムリーダーと正面から切った張ったをやる馬鹿がどこにいる」

 

「支配人ならできるのでは?」

 

「やらんよ、俺は」

 

 できないと言わないのは、流石にロケット団のナンバーツーだった。

 考える。集団での採掘が目撃されたら、ほぼ間違いなく自警団へ通報が飛ぶ。ということは、まず周辺のトレーナーのポケモンを瀕死に追い込み、ポケモンセンターに追い返した後に採掘場を囲む形がいいのか。

 自警団がやってくるのは避けようがなかった。しかし、時間は稼ぎたい。ただ、フミツキの記憶にある採掘場は、少人数で隔離できるようなものではなかった。どう配置しても、隙間が空くはずだ。

 

「ズバットを使う団員がいましたね」

 

「悪くない。腕はへっぽこだが、地形と作戦次第では使い道があるはずだ。オツキミ山なら尚更」

 

 ズバットの超音波ならば、広い範囲の人やポケモンをカバーできる。群れによって超音波が微妙に違うので、野生のズバット達を煽動して暴れさせることもできるかもしれない。

 ぼんやりとだが、形は見え始めた。しかし、一つだけ確認しておくべきことがあった。

 

「この作戦、化石を捨てることは許可されますか?」

 

「おいおい。化石を売って金を稼ごうって作戦だぞ。それを捨てるってことは失敗と一緒じゃないか」

 

「ですので、この質問は一度だけです」

 

「愚問だと思わないか?」

 

「あるいは」

 

 じっと、支配人がフミツキを見つめてきた。セーラムの紫煙が揺れている。見当違いを言ったとは思わなかった。見つめ返した瞳が閉じられ、ふと煙が途切れると、支配人はくつくつと笑った。

 

「ボスがお前を指名した理由、なんとなく俺にもわかる気がしてきたぞ」

 

「それで」

 

「構わん。化石なんぞ適当に捨てていい」

 

「やはり、陽動ですか、私達は」

 

 支配人が中継点と言ったのが、なんとなく気になったのだ。ボスと現場との中継と聞こえなくもないが、現場の細かい事情に遠距離から指示を出せる訳がない。また、化石の収支なんぞをボスに逐一報告するとも思えなかった。

 オツキミ山以外にも動いている作戦がある。そちらについては現場と支配人、ボスでやり取りをする。その間、フミツキ達が陽動になる。それならば、話はわかる。

 

「ハナダの方で一つ動きがある。お前達とは別に、ハナダの東部でも騒ぎを起こすつもりでいる。俺は三ヶ所の情報をまとめなきゃならん」

 

「東部でも」

 

「これ以上は言えん。お前の仕事は騒ぎを起こして、しばらく粘り、ハナダ側へ撤収すること。逮捕者を出さずにだ」

 

 ニビの自警団から要請が入れば、ハナダ警察はある程度の人員をオツキミ山方面に割かざるをえなくなるだろう。東部でも騒ぎが起きるのなら、北から南へと手薄な線が出来上がる。ロケット団が活動している場所としてぱっと思い付くのはゴールデンボールブリッジだ。しかし、あそこに何があるのか。

 そこで、思考を切った。明らかにフミツキの領分を超えている。

 

「どれほど、時間を頂けますか?」

 

「三日後の午後には発ってもらう」

 

「わかりました。できれば、名簿を頂きたいのですが。手持ちまで載っているものをです」

 

「ここにはゲームコーナーの名簿しかない。後で届けさせよう。念のため言っておくが、出立が三日後だぞ。人員の提出は」

 

 支配人は突然言葉を切ると、キュウコンを繰り出した。炎が、フミツキの手に絡みつく。熱いとは感じなかった。ただ、手の中で書類だけが燃えていく。書類が燃え尽きると同時に、キュウコンの火も消えた。凄まじい技量だったが、それに感嘆する暇もないまま、フミツキは自分の意識をただの専門学生に切り替えた。外から、誰かが近づいている。

 

「おい、待てってんだよおっさん」

 

「邪魔するよ」

 

 扉から現れたのは、茶色のロングコートを羽織った男性だった。髪が全体的に白く、老齢に見えたが、顔を見るにそこまでの歳ではない。なんとか止めようとしているのは、カウンターを任されているスタッフだ。

 

「君が、ここの店長さんかね?」

 

「お客様、ここは従業員以外立ち入りをお断りしています」

 

「ほう。私服の子もいるようだが」

 

 男がフミツキを見て言った。

 

「面接を受けに来た子でしてね。それより、お引き取りを」

 

「私はこういう(もん)だよ」

 

 男は懐に手を入れて、何かを取り出した。警察手帳(パス)。フミツキのところからもそれは見えた。

 

「これは、警察の方でしたか」

 

「旦那と呼べ。阿漕な商売をしている連中は、みんなそうする」

 

「真っ当な商売をさせて頂いております」

 

「真っ当だと?あちらこちらに賄賂を撒いて、グレーを見逃して貰っているだけだろう」

 

「それは、あんまりなお言葉ですよ」

 

「私が気に入らんのはな、私の元に賄賂が渡ってこないということさ」

 

 男が言うと、支配人は苦笑いした。

 

「贈賄で挙げる。そういう手は勘弁して頂きたい」

 

「詳しいじゃないか」

 

「多少の世の中は見てきました」

 

「名乗っておこう。タカギという」

 

「タマムシのタカギ警部。『老いぼれ犬』の。あ、いえ、失礼を」

 

「面接と言ったが、履歴書もないようだね」

 

 状況はよくわからなかった。そして、それを隠さずに顔に出した。今のフミツキは、バイトの面接を受けに来ただけの少女、ということになる。不安が顔に出て当然だろう。

 

「履歴書不要とは、求人チラシにも載せていますよ。ホールスタッフでしてね。若い女の子が回ってくれるだけでいいというところがありまして」

 

「あの、私、帰りましょうか?」

 

「ああ、ちょっと待ってくれ。おい、どう思うかね?」

 

 タカギが背後の誰かに呼び掛ける。現れた顔を見て、支配人の表情がはっきりと変わった。

 

「そちらの女の子は、それほど。そこの男はできるな」

 

 キョウ。ジムリーダーのユニフォームではなく、ワイシャツに身を包んでいるが間違いなかった。

 

「これは、お会いできて光栄です」

 

「私は君の顔に見覚えがない。バッジ五個程度の実力じゃなさそうだが」

 

「ジムチャレンジはタマムシで止めました。そのまま燻っていたら、こんな商売に行き着いた身で。まさか、キョウさんにセキチク以外でお会いできるとは」

 

「長男が長じてきて、サファリの仕事をさせても良さそうでね。ジムもいずれは娘に継ごうと思っているが」

 

「なるほど」

 

「今はちょっとした縁で、タカギ警部の捜査を手伝っている」

 

「それは何を、いえ、失礼しました」

 

 支配人と二人は、それから話を始めた。タカギという刑事の質問に、支配人が当たり障りのないことを答えるだけの時間だった。フミツキは、なにも知らない少女として、時たま左右に視線を走らせながら終わるのを待っていた。

 他愛ない話も交えながら、二人は事務所を観察しているようだった。事務所はゲームコーナーカウンターの裏で、アジトの入口は全く別のところにある。見られて困るものは何も置いていない。

 

「もう、勘弁して頂けませんか。点数稼ぎなら、ジムの覗きでも捕まえればいいでしょう。仕事がありましてね」

 

「ま、今日のところはこの辺りにするか」

 

「それでは」

 

「邪魔をしたね。ああ、あの親父はジムリーダーの要望で放置しているのだよ。異性の目がないと、人間弛んでしまうようでね」

 

「お嬢様の考えることは、私どもにはわかりませんな」

 

「同感だ」

 

 立ち上がり、出ていこうとしたタカギが、ちょっと振り返った。

 

「煙草は好きなのかね?メンソールの匂いがする」

 

「禁煙をとは思っております」

 

「なに、私もゴロワーズをやるよ」

 

 それだけ言い残して、タカギとキョウは出ていった。支配人に目をやると、もう帰っていいというように手を振った。微かな疲れが滲み出している。

 

「老いぼれ犬に、キョウだと」

 

 扉を閉める寸前、絞り出したような声がフミツキに届いた。

 

 

 

 

 



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4話

 

 

 

 

 ランニングは、欠かしたことがない。

 今でこそ人対人のスポーツと化した節があるが、トレーナーの本分はルールもなにもない野生の戦いの中にある。体力がないのは致命的だった。キクコでさえ、たまの帰省には歩いてイワヤマトンネルを抜けるという。

 ジムの若者にも、体力で劣らないし劣るつもりもない。歳だから仕方ない、という考え方もある。しかしそれは、やがて負けることそのものすら肯定しかねないとサカキは思っていた。

 トキワの森の手前で折り返す。コースはいつも決まっていた。走るペースはバラバラで、ダッシュをしばらく繰り返してみたり、小走り程度で数キロ進んだりする。ペースを変えることを繰り返すと、自分の余力がどれほどかを見誤ったりするのだ。ポケモンの余力を、どんな状況でも確実に見極める。それはトレーナーに必要な能力で、そのためにはまず自分の余力を見極められるようになるべきだった。息も絶え絶えになるほど全力を尽くし、それでいてトキワジムに到着する時間を誤差三十秒以内に収める。いつ頃からか、サカキはそんなことができるようになった。ポケモンの力を引き出せていると感じるようになったのも同じ頃だ。

 トキワシティに戻ってきた。ジムには向かわず、西へと走る。八割の力で走り続け、二十二番道路へと入ったところで、早歩き程度に速さを落とした。躰への負荷は軽くなったが、直前の疾走で息は激しく乱れている。走りながら腕や脚の疲労を確かめた。呼吸の激しさがそのまま消耗に直結する訳ではないのだ。

 思ったよりも、疲労は軽かった。人工池まで全力で走っても保つだろう。

 

「あら、サカキさん」

 

 ウォーキングをしていた中年女性が声をあげた。トキワの住民で、名前の思い出せない程度の間柄だ。ジムリーダーには、よくあることだった。

 

「もう、暗くなりますよ」

 

「本当は走るつもりだったんだけどねえ。疲れちゃって」

 

「なに、運動をしようというだけ立派なものです」

 

「そう言ってもらえると嬉しいですねえ」

 

「ところで、どの辺りまで?」

 

「道が左に曲がる辺りですよ。そこから折り返そうかと」

 

 女性が答えた場所までは、まだ距離があった。ウォーキングのペースでは、トキワに帰りつくのは夜中になるだろう。空の真ん中はもう暗く、遠くトキワの森の上に夕焼けの紅が走り抜けるのが見えているだけだ。セキエイ高原に遮られて、西日の当たらない二十二番道路は、既に方々が薄暗くなっている。

 

「私はそろそろペースを上げます。貴女はこの辺りで折り返した方がいいですな」

 

「そうですかねえ?」

 

「女性が出歩くには、些か危険な時間になりますよ」

 

「あらまあ。でも、ちょっと心配しすぎでは?ほら、カントーは治安がいいじゃないですか。同盟軍もいますし」

 

「良からぬ組織の噂も、最近は聞くようになりましたよ」

 

「ロケット団でしたかしら?うーん。でもやっぱり、平気だと思いますわ」

 

「まあ、お気をつけ下さい」

 

 サカキが足を速めると、女性はあっという間に見えなくなった。少しずつ速度を上げ、曲がり道を抜けたところで一気に回転を上げた。ほとんど全力疾走だ。目的の人工池まで、保てるのか。保てる。そう判断した。判断したのならば、後は実行するだけである。ポケモンに命令できて、自分の躰に命令できない筈がない。

 呼吸を止めた。人工池。サカキがトレーニングのために作らせたもので、畔には休憩スペースも取ってある。そこまで、駆け抜けた。到着した時には、顔を上げることさえ苦しくなっていた。それがどこか、快感でもある。

 

「ニドキング、行け」

 

 呼吸が整ってくると、サカキはニドキングをボールから出した。ちょっと頷いたニドキングが、池の中央に向かって進んでいく。広いが深さはなく、真ん中まで行ってようやくニドキングの顔が浸かる程度だ。

 サカキはベンチに腰掛けると、グラスを拭くのに使われるクロスを取り出した。そっとモンスターボールに当てる。乱暴に擦ることはしなかった。少し当てると、ペンライトで照らし、また別の場所を磨く。塗料や自動型のブラシは一度も使ったことがない。昔からできるだけ綺麗な布を用い、ジムリーダーとなって生活に余裕ができてからは、高品質のクロスを取り寄せている。

 なぜモンスターボールを磨くのか、サカキ自身にもはっきりとした答えはなかった。汚れを落とすぐらいは誰でもやるが、ここまで拘るトレーナーは自分以外には知らない。綺麗に磨きすぎたからか、若年の時には新米と勘違いされることもあったほどだ。

 光沢が出始めた。ここから更に磨くと、どこかで光は鈍くなる。鈍く、しかし決して光が途切れることはない。そうなったモンスターボールには、どこか風格さえ漂うのだ。

 不意に、水柱が上がった。ニドキングだ。

 サカキやワタルは、時に災害級とも称された。この間のエキシビションでは、主催が予算をかけて造り上げたという対戦会場をものの十分で壊滅させた。鍛え上げられたポケモンの技とは、そういうものである。

 トキワジムは地下に衝撃吸収の構造を拵えることで、サカキのポケモン達の技にも耐えられるようになっている。それでも『じしん』などを使えば表層は酷いことになるのだ。

 再び水柱が上がった。一度目のものよりも高く、そしてサカキの足元にも揺れが来た。踏ん張りの効かない水中でなお、ニドキングの『じしん』はこれだけの力を持つ。

 ボールにクロスを当てる。北の空には、もう紅は残っていなかった。夜がもうそこまで来ている。

 

「カントーは治安がいい。だから大丈夫、か」

 

 なんとなく、女性の言葉を思い出した。

 平和である。それは、間違いがなかった。山吹組のようなヤクザや、ロケット団のような犯罪組織があっても、人々の危機意識にはどこか漫然とした安心があった。

 同盟軍がいるからだ。その圧倒的な武力は、古くは恐怖と反発を呼んだ。しかし今、地下に潜んだ活動家達以外の多くの人間が、同盟軍を安心の素材としていた。そして、同盟軍の存在する日常を受け入れた。自分達が無力な存在であることすらも、同盟軍がもたらす安寧とともに許容した。

 カントーのトレーナーを世界最強にしたい。記者に語った言葉に、嘘はなかった。そのために必要なのは、支配の下にある安寧ではなく、呼吸さえ苦しくなるほどの自由だ。

 同盟軍に拮抗するほどの、悪の組織。そんな存在があれば、人々は選択を強いられることになる。誰も守ってくれない世界で震えているか、それとも強くなるかだ。

 強くなる。カントーの人間には、それだけの意思がある筈だ。そして、力を得た人間は戦いを始める。その相手が同盟軍ならば、ロケット団が先陣を切ればいい。ロケット団を相手にするというなら、カントーの人々と同盟軍を相手に国盗り戦でも始めればいい。どう転んでもいいと、サカキは本気で思っていた。戦いは、誰かを強くするからだ。

 今日一番の高さの、水柱が上がった。立ち上った波と共に、強烈な揺れが陸地に届いた。サカキは、特に踏ん張ることもなく立っていた。地面タイプのエキスパートが、地震で慌てていては話にならない。揺れが収まった頃、こちらに泳いでくるニドキングが見えた。

 モンスターボールを月に翳してみた。鈍く、しかしはっきりと、月光を照り返している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう一度、言ってみろ」

 

 顔を真っ赤にしているのは、ズバットを使う団員だった。クリードという名前であることは、名簿で確認している。クリードの後ろにいる九人も、似たような表情をしていた。全員、フミツキが選んだオツキミ山部隊の戦闘要員である。

 

「ですから、走ってくださいと言いました。誰かが走れなくなるまでです」

 

 フミツキの返答は、彼らを更に怒らせたようだった。クリードが一歩前へ出てくる。明らかに威圧しようという動きだったが、誰も止めなかった。

 

「俺達はポケモントレーナーだ。わかるか?馬車馬じゃねえ」

 

「当然です」

 

「じゃあなんで、俺達が走らされなきゃならねえ?」

 

「逮捕者を出さないよう、支配人に命令されています」

 

 支配人の名前は効いたようで、彼らの勢いが一瞬衰えた。

 

「そのためには、全員が団結して動く必要があります。部隊の移動速度も統一しなければなりません」

 

「それで?」

 

「最も足が遅く、体力のない団員。その人に合わせないといけない、ということです」

 

「おい、その間抜けは、まさかお前じゃないだろうな?」

 

「ですから、私も走ります」

 

 そう言って、フミツキは上着を脱いだ。運動用のノースリーブシャツに、短パンとレギンス。シューズの紐を締め直し、ストレッチを始める。男達は、露骨に気勢を削がれていた。女相手に居丈高になることもあれば、奇妙に紳士を気取ったりする。フミツキの経験上、互いに詳しくない面子が集まると、取り敢えず表面を取り繕う人間が多かった。

 アジトのトレーニング場である。走り出したフミツキの後ろを男達はなんとなくという感じで付いてきた。十周する頃、一人が遅れ始めた。振り返ったフミツキと目が合う。クリード。フミツキがちょっと笑うと、顔を真っ赤にしながら速度を上げてきた。そのまま横に並んでくる。

 

「おい、今、何分だ?」

 

「二十分」

 

「馬鹿言うな。もう、三十分は、走ってる」

 

「まだまだですよ」

 

「クソが。鍛えて、やがったな。お前」

 

「人並みには」

 

 タマムシには、ほどほどの勉学とほどほどの就職を求めてやってきたのだ。それほど打ち込める訳もなく、空いた時間にするような趣味はトレーナーとしてのそれしか知らなかった。目的などなくても、走れば勝手に躰が体力を付ける。

 クリードの呼吸が荒い。それでも、横並びの形は変わらなかった。後続の方が遅れ出している。

 

「ペースを落とした方がいいと思います」

 

「お前の、貧相なケツなんぞ、見たかないね」

 

「そう悪くないと、自分では思ってるんですけどね」

 

 ロケット団も大概、男所帯である。この程度の話題なら、顔色も変えずに返せるようになった。

 

「ボスの秘書なんか、大したもんだったさ。俺は、たまらなかったね」

 

 自分でも知らぬまま、フミツキはむっとしたらしかった。クリードが笑みを深めるのを、フミツキは無視した。

 

「最前線には、私が立つことになります。私と並ぶなら、そういうことになりますよ」

 

「俺のズバットで、前線に立つ、っていうのかよ」

 

「怖いですか?」

 

 言いながら、怖い、とフミツキは思った。タケシには勝てない。選抜した十名全てでかかっても、勝負にもならないだろう。それほどに、ジムリーダーと一般トレーナーの間は隔絶していた。

 

「怖いに決まってるだろ」

 

 思わず、横を見た。クリードは走ることに精一杯で、フミツキの視線に気付いた様子もなかった。

 

「勝てる訳のない奴が、この世にはいくらでもいる。それが当たり前なんだ」

 

「じゃ、なんで勝負するんですか?」

 

「馬鹿を言うな。勝てないからって逃げて、なにがトレーナーだ」

 

 言ったきり、クリードは走ることに専念し始めた。

 フミツキはまだ余裕があった。ペースを上げる。後ろはさらに遅れたが、クリードはそれでも付いてきた。

 ペースを上げる。それでも、クリードは振り切れない。苛立ちのようなものが、フミツキを襲った。

 

「負けず嫌いなんだな、おい」

 

 クリードの言葉は、はっきりとフミツキの琴線に触れた。駆ける。一瞬追い縋ろうとしたクリードが、あっという間に後方に遠ざかっていった。距離で言えば、タマムシから七番道路を抜けるぐらいの距離を走っている。ポケモンならともかく、トレーナーの体力としては圧巻だった。

 負けず嫌いという顔を、している筈はなかった。

 精々苦しいか苦しくないかの瀬戸際だろう。それは、フミツキにはよくわかった。今の自分は、人に見せられる顔ではない。色々な意味でだ。鏡がない。それは、救いだった。

 誰かが転倒した。最後尾の人間で、フミツキだけなら気付きもしなかっただろう。気付いたのは、フミツキに追い付こうと必死だったクリードである。ストップウォッチを、止めた。

 

「どうするんだ、おい」

 

「先頭に。撤退の際は、後続が入れ替わりに補佐します」

 

「つまり、俺達だな」

 

 頷いた。遅れた団員を中心に、人が集まっている。あそこが、実戦では主戦場になる。フミツキはもう一度、頒布の地図と目の前を見比べた。遅れたのが誰かということは、気にしなかった。

 

 

 

 

 

 




 HGSSは未プレイで、LPLEは流しでクリアしました。なのでアポロの存在をすっかり忘れていました。今さらアポロを出すのもあれなので、クリードと名前を変えて出すことにします。アポロ・クリードです。大して重要なキャラではないので、忘れてもらっても大丈夫です。
 ロッキーは1と2が好きです。


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5話

 

 

 

 

 ハナダの町に来たのは、ジムチャレンジ以来だった。

 もっとも、フミツキ自身はハナダに踏み入れはしなかった。カスミをサンドパンのみで突破したことは、当時多少の話題になったからだ。

 ジムチャレンジを完遂しようという意思は、タケシとの試合で折れていた。それでもカスミに挑んだのは、タイプ相性から逃げ出したと思われたくないというつまらない意地だった。巡りめぐって自分の行動を制限されたと考えると、本当につまらない真似をしたものだ。

 ハナダにもロケット団の団員が潜んでいる。最も、タマムシのようにアジトがある訳ではなく、それぞれで住居を見繕って、連絡を密にしているだけだった。オツキミ山での作戦をタマムシの団員であるフミツキ達がこなさなければならないのは、その辺りが理由らしい。集団での行動など、指揮も実行もできないようだ。フミツキ達の支援を担当してくれたのも二人組の団員で、似たような少数のチームがハナダの方々に散らばっているらしいことを教えてくれた。

 タマムシは、唯一のロケット団アジトである。組織としての集団行動を可能とするのは、タマムシの団員だけだろう。つまりロケット団の本部と言って良いのだが、誰もタマムシを本営扱いはしない。ボスがいないからだ。

 自分が、なぜボスに選ばれたのか。作戦を考える傍らで、常にその疑問はあった。支配人が動けないとしても、幹部級の団員が何人かいる。中には、三年前の山吹組抗争で少なくない働きをした者もいるはずだった。

 ハナダの団員は、指揮官であるということでフミツキとそれ以外の団員の扱いに差をつけ始めた。媚びなどではなく、組織の一員として当然の行動として、フミツキを上官扱いし始めたのだ。それも、苦痛だった。苦痛だが、訂正することもまた許されない。指揮官の役目を、果たさなければならないのだ。指揮系統がいたずらに混乱するような言動はできなかった。

 

「おい、買ってきたぜ」

 

 クリードが、手に持った袋をちょっと掲げた。

 

「私の分は?」

 

「ある。本当に男物で良かったんだな?」

 

「大丈夫です。ありがとうございます」

 

「服屋をあんなに回ったのは初めてだぜ」

 

 クリードが肩を竦めた。発掘、運搬担当まで含めた服の購入である。一店舗で購う訳にもいかず、ハナダの服屋を回らせることになった。

 ロケット団の団服は使う。作戦の意味合いまで考えればどうしても必要だからだ。それはそれとして、変装用の服が必要だとフミツキは考えた。逮捕者を出してはならないのだから、なにも最後まで団服を着用する必要もないだろう。

 

「クリードさんも、最初は私服にしてください。採掘場付近のトレーナーとの戦闘直前に団服に着替えるつもりで」

 

「ま、今回はてめえの言うことに従ってやるよ」

 

 認められた、という感じはなかった。ただ、今回連れてきた戦闘員は普段の模擬戦でもフミツキが勝ち越している面子で、幾度かの走り込みでも前を走らせることはしていない。流石に、あからさまな反抗を見せる者はいなくなった。手並みを見る、ぐらいのつもりにはなったのだろう。

 

「しかし、化石か。多少の金にはなるのかねぇ」

 

「今までとは異なる地層で発見されたもの、らしいですよ。ニビ博物館で限定的に公開されてますが、世間にはまだ流通していないようです」

 

「好事家って奴に売り付ける訳か」

 

「あるいは、研究施設ですかね。グレンタウンなんかは、中央の目が届かないのをいいことにかなりグレーな実験をやっている所もあるようです」

 

「悪の組織に違法な研究施設か。そりゃあいい」

 

 化石は捨てよう、とフミツキは考えていた。撤退の際の負担が減るし、再度の陽動作戦が必要になった場合は名分にできる。化石を持ち帰っても小金稼ぎにしかならないことは、支配人もわかっているのだ。

 フミツキだけが考えていればいいことで、クリードなどはきちんと化石を持ち帰るつもりでいる。わざわざ水を差す必要もなく、化石の使い途などについても、適当に話を合わせていた。

 ハナダの団員が駆け込んできた。

 

「来ました。作戦開始は本日の夕刻からです。厳密な時刻は再度連絡が入るようですが、とりあえず夕刻を目処に準備をお願いします」

 

「夕刻?夜じゃねえのか」

 

「はあ。どうもそうらしいです」

 

「なんだそりゃ。わざわざ日のあるうちに行動する理由があるか?」

 

「支配人の差配です。それ以上の理由が必要ですか?」

 

 フミツキが言うと、クリードは横を向いた。

 採掘場はタマムシ大学の研究チームが必要分の採集を行った後に、保存されている。簡易なもので、クリードの言うとおり日が沈みきった後ならば事はもっと易く進むだろう。夕刻というのは、本命の作戦に合わせた時間帯に違いなかった。

 多少の不合理があるぐらい、最初からわかっていたことだ。

 

「全員を待機状態に入らせてから、次の指示を待ちます。それで構いませんね?」

 

「そうして頂けると」

 

 連絡役の団員がほっと息を吐いた。クリードはまだ横を向いている。

 

「クリードさん」

 

「ちっ。わかってるよ。通達してくる」

 

「ストレッチを欠かさないよう言っておいてください。出動命令が来たら、オツキミ山までひた駆けます。街道を避けてです」

 

「そんぐらい、全員心得てる。アジトで、てめえにどんだけ走らされたと思ってるんだ」

 

 クリードが部屋を出る。フミツキは、改めて書類に向き合った。周辺の地図から、ニビの自警団の情報までこと細かく書き留めてある。タマムシやヤマブキの団員は戦闘要員といった色合いが強いが、ハナダは諜報的な側面を持っているのかもしれない。そう考えてみれば、集団で密集するのではなくチーム毎にバラけているのも頷ける。

 

「タケシが不在というのは確実な情報なのですか?」

 

 資料で一番気になっていたことだ。ジムリーダー同士の会合が行われるらしい。それに出席するため、タケシは不在。本当であれば随分とやり易くなる。

 

「ご存知ないんですか?その情報はタマムシから受け取ったものですよ?」

 

「支配人が?」

 

「私達は本部長とお呼びしていますがね。どうも、信頼できる筋の情報だそうで」

 

 支配人がそう言うのなら、まず間違いはないだろう。バトルでは果断と聞くが、普段の経営を見る限り実に手堅い人間だ。

 

「なんだ、ジムリーダーはいねえのか」

 

 戻ってきたクリードが、横から覗き込みながら言った。強気な物言いだが、安堵の響きもある。

 

「ただ、代理がいますよ。どうも、ニビジムのジムトレーナーらしいです」

 

「面倒だな」

 

 クリードが渋面を作った。

 世界で最もポピュラーな娯楽は間違いなくポケモンバトルだが、日常的にバトルを行う人口がそれほど多い訳ではなかった。スクールを出てからは一度もバトルをしていないという人間も、決して少なくない。

 綿密なトレーニングを普段から行っているものなど、一握りだろう。そして、ジムトレーナーはその一握りの一部だ。

 

「こいつが出てきたら、全員で叩くしかねえか」

 

「いえ、私がやります」

 

「お前が?おい、お前バッジは?」

 

「二つ」

 

 クリードだけでなく、ハナダの団員も渋面を浮かべた。ジムトレーナーなど、どう見積もってもバッジ三つ程度の腕前はあるだろう。カントー最精鋭のトキワジムなどは、ほぼ全員がバッジ六つ以上を持つという。

 自分の腕がバッジ二つ程度だと、フミツキは思っていなかった。同時に、六つは無理だろうとも思う。四つか五つ。ジムトレーナーとの力量差は、際どいところだった。

 

「万一私が敗れた場合は、クリードさんを隊長にして撤退してください」

 

「本気で言ってるんだな?」

 

「ボスの顔に泥は塗れませんよ」

 

「よし。存分に見捨ててやる」

 

 言いながら、クリードはにやりと笑った。さっきよりも、どこか親しみを感じさせる笑い方だ。

 不意に、ドアが激しくノックされた。

 

「来ました。指令です。ハナダ駐留中のタマムシ部隊は作戦行動を開始してください」

 

 クリードと目が合う。まだ、にやけが浮かんでいた。

 

「出ます」

 

 短く告げて、フミツキは腰のモンスターボールをちょっと触った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 入って、おや、と思った。既に七人が、席についていたのである。

 ヤマブキシティにある料理処だった。金をかけて照明や壁に豪奢な装飾を施す店が、最近は多い。ムツキなどは、サカキをそういった高級店へ行かせたがるが、どちらかと言えば落ち着いた暗色の室内がサカキは好きだった。もっと正確に言えば、夜の森や洞窟の中などでポケモン達と食べる食事が一番好きだ。

 大した器具もない中で、きのみを擂って溶かし込んだりきのこを煮込んだ汁に、野草や薄く削いだ肉を入れる。米や餅があれば、一緒に煮込む。そうやって出来上がった料理を、ポケモン達と冷ましながら食う。

 サカキもポケモン達も、最初の一杯だけは平等に同じ量を注ぐ。旅の間、一度も変えたことのないルールだった。もう何年前のことになるのか。今は、こうやって会合に呼ばれれば、サカキだけ旨い飯を食う。

 

「どうやら、お待たせしてしまったようだな」

 

「いや、そんなことはありませんよ、サカキさん」

 

 答えたのはタケシだった。律儀な性格で、ジムリーダーの会合にも大抵一番速く到着する。サカキは三番手辺りが多く、遠方のカツラなどは稀に大きな遅刻をする。

 酷いのは女性陣で、特にナツメはヤマブキシティでの会合でさえ遅れてくることがあった。花の多い町だと大抵エリカが遅れ、カスミは特に理由もなくどこでも遅れてくる。軍人上がりのマチスにはその辺りが耐えられないらしく、カスミと口論している姿を頻繁に見た。ただし、マチスも遅れてくることが多い。彼にとって大事なのは、理由の有無なのだ。

 

「実は、エキシビションマッチで我々はあることを考えていてね。果たせなかったので、反省会をしておる」

 

「カツラさん、それは?」

 

「君とワタル君を、全く五分五分の状態から闘わせたい、と思っておった。四天王のうち三人を倒してワタル君を引き摺り出した後、降参し君にバトンを託す。無傷の君とワタル君が向かい合うことになる。それがきっと、カントーの全てのトレーナーが見たい光景だと思った。しかし、為せなんだ」

 

 順番は自由で、カツラが先鋒で次がタケシだった。向こうはカンナである。氷と見れば有利だが、水と見ると不利になる難しい組み合わせだった。結局は水タイプの良さを出されて、二枚抜きされることになった。後続のマチスが破ったが、続くシバにエリカ共々突破された。

 あの試合の一番の誤算が、イワークを残されたままエリカが突破されたことだと言っていい。続くキョウとシバの試合は壮絶な消耗戦となり、勝利したキョウにキクコと争う余力はなかった。

 キョウ、カスミ、ナツメを破ったキクコと、サカキが対峙することになった。一発のシャドーパンチ。それで、万全の態勢でサカキとワタルが試合をする機会は失われることになった。

 ことポケモンバトルに於いて、キクコに妥協の二文字はなかった。あのシャドーパンチは、正にキクコの生きざまと言っていい。

 

「会場は崩壊したのですよ、カツラさん。試合は一時中断された。ポケモンバトルではあってはならないことです。私とワタル君が全力で闘う機会など、初めからなかった」

 

「そう言ってくれるか。正直なことを言うと、あれは私達にとって多少の慰めであった」

 

「食事にしましょう。ジムリーダーがこうやって集まれる機会は、年に数回しかない貴重な時間だ」

 

 サカキが促すと、カスミが真っ先に料理に食らいついた。空腹を堪えていたことを隠しもしない姿勢で、全員が苦笑いしながら料理に手を付けた。

 

「そう言えばサカキ君、この前のチャレンジャーはどうだったね?」

 

 カツラが言った。ジムを巡る順番は決まっているので、グレンを突破したトレーナーはトキワに来ることになる。

 

「残念ながら、私のところまでは来ていませんよ」

 

「ふうむ、そうかね。まあ、トキワジムのトレーナー達はみな一角の腕前ではある」

 

「あんまり追い返してると、支給金が減らされるぜ」

 

「金のことで勝負をどうこうしようとは思わんよ、マチス」

 

「いいじゃねえか、通してやれば。カンナ、シバ、キクコ、ワタル。万に一つも勝ち抜けやしないんだから」

 

「君のところは三つ目だからな。素養ありと認めたら渡さねばなるまい。私は、これでも最後のジムリーダーを務めているのだよ」

 

「ふん」

 

 マチスがウイスキーを呷った。突っかかられるのはいつものことだ。同盟軍の顧問のような立ち位置にいるので、サカキの方にも無意識のうちに隔意があるのかもしれない。

 

「最近はエリカ嬢もあまり挑戦者を通していないようだね」

 

「あら、そうでしたかしら?」

 

「エキシビションの後からだと聞くぞ。お陰で私は暇になったが」

 

「良いことではありませんか。暇な時間があれば、花を慈しむことができます」

 

「うむ、そうかな。しかし、ウチにあるのは毒花ばかりだ。慈しむと言ってもな」

 

 キョウの言葉に、エリカは微笑みだけを返していた。キョウが肩を竦める。

 エキシビションでシバのイワークを倒しきれなかったことを、悔やんでいるのかもしれない。シバ側が格闘ポケモン達で上手くいなした形だったが、もしエリカが踏ん張りきれれば、サカキの前にキクコを倒すことも不可能ではなかっただろう。

 

「まあいいか。私も最近はやることがあってね」

 

「ご子息の鍛練ですか?」

 

「いや、実は捜査協力なのだ。タマムシの警部でね」

 

「まあ。でしたら、私の知っている方かしら?」

 

「どうかな。タカギという。『老いぼれ犬』と言えば、そっちの界隈では通る名前らしい」

 

「ああ、タカギ様ですね。あの方のウツボットはとても素敵ですわ。特に、下から上に掬い上げるように打つ『つるのムチ』はかなりのお手前で」

 

「ほう、それは良いことを聞いた。掴み所のない男で、実力の方もはっきりしなかったのだが」

 

 食事をしながら、サカキはエリカ達の会話に耳を立てていた。

 タカギという警部とキョウがゲームコーナーを訪れたことは、報告を受けていた。腐れ役人が鼻を膨らませてやってくるようなものとは、全く違う、という感じだった。探りを入れにきたと、支配人などは言っている。

 ロケット団とゲームコーナーを繋ぐパイプが露呈するような要素は、今のところない。もしパイプの存在に気付いたとしても、掘り起こすことはできない筈だ。この国の役人が手を出せない所に、それは埋まっている。

 しかし、ロケット団繋がり以外でゲームコーナーを探る理由などないのもまた事実だった。あそこの遣り口が阿漕なことくらい、多少世間を知っている者なら誰にでもわかる。今さら警部が現場に現れるようなものではないのだ。

 老いぼれ犬というのは、普段から口ずさんでいる鼻唄から取られたあだ名らしい。ただ、捜査の方の鼻も犬並みに利きそうだ。

 そこまで考えて、サカキは思考を切った。情報が足りない。そういう時、敵は大きくも小さくも見える。幻に囚われるぐらいなら、自分の最善を探すべきだった。

 店員が慌ただしく個室に駆け込んできた。タケシを見つけると、耳打ちをして連れていった。

 

「申し訳ない。ニビで少し問題が起こったようで、僕はここで下がらせて貰います。最も、間に合いはしないでしょうが」

 

「問題?タケシ君、一体どうしたのだね?」

 

「どうも、ロケット団のようです。オツキミ山の化石を狙っているようで、採掘場は既に占拠されていると。ウチのジムトレーナーが自警団を率いて向かったというので、大丈夫だとは思うのですが」

 

「私達も手を貸そうか?」

 

「いえ、それには及びません。ああ、カスミ君だけはちょっと。ハナダ警察に連絡を入れて欲しいんだが」

 

「ええ、お安い御用よ」

 

 二人が、連れだって出て行く。サカキは座椅子に背中を凭れ、ブランデーをちょっと舐めた。

 作戦が、始まっていた。フミツキがどう乗り越えるか。作戦の成否よりも、サカキはそれが楽しみだった。首領として間違った考えだとわかっていても、そういう気分になってしまうのだ。

 もう一度、ブランデーを舐めた。氷が、ゆるゆると溶けだしている。

 

 

 

 

 






誤字の報告、ありがとうございます
勢い任せで書いている部分も多いので、大変助かっています


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6話

 

 

 

 

 一番最初にしたことは、発掘の目処をつけることだった。

 フミツキにはよくわからなかったが、タマムシ大学の発掘跡からある程度の絞り込みができるらしい。いくつを、どれくらいの時間で。それだけははっきりさせなければならない。時間制限のない防衛は必ず気持ちの糸が切れるからだ。

 発掘担当の団員が提示してきた時間を、フミツキは半分に切り捨てた。どれだけ言い募られようとも、時間に関して妥協する気はなかった。同士から逮捕者を出す訳にはいかない、というフミツキの言葉で相手もしぶしぶ意見を引っ込めた。

 発掘場の周辺は、タマムシ大学が拡張を行ったために広場のようになっている。フミツキは八方に斥候を送った。傍にはクリードが控えていて、斥候に異常事態があれば、石を打ち鳴らすことでクリードのズバットに連絡が取れるようになっている。中が空洞の石で、一度で敵の発見、二度で交戦、三度で撤退の知らせだ。

 

「ま、交戦は無理だろうな。自警団が来るとしたら一団となってだろう」

 

 クリードが頬を掻きながら言った。身元を隠す為に、全員に仮面を付けさせている。それがうっとうしいのだろう。

 

「その場合は、ここで一度止めます。発掘部隊の撤退を待たなければなりませんから」

 

「二人でか?」

 

 その問いには答えなかった。策はある。ただ、実際にどういう行動を取るかはその場で判断しなければならないだろう。その時、事前に話した策と別の動きをする可能性は充分にあるのだ。認識を共有できる利点よりも、混乱を招きかねない欠点の方が大きい、とフミツキは判断した。

 本当は、あまり口にしたくないだけだとも、思っている。自分なりに考えているつもりだが、なにか間違いがあるのではないかという不安が常にあった。口に出して説明などすると、その不安が抑えきれない気がしたのだ。

 否定して欲しい。その思いを、抑え続けた。否定されて、なにか代案を出されたら、良し悪しも考えずに自分は飛び付くだろう。それが一番、楽なことだからだ。

 クリードがまた頬を掻いた。どこかヤドンを思わせるような緩慢な仕草で、不安や緊張とは無縁に見えた。最初は頼もしいような気もしたが、段々と腹立たしい気分になってきた。それも、抑えた。

 

「今頃、ニビの自警団に連絡が入っている頃かね」

 

「まだ早いと思いますね。精々、横暴なトレーナーがいた、というぐらいでしょう」

 

「お前、お国はニビなんだって?」

 

「郊外の方ですよ。自警団の集会所はニビ中央の方で、私が見る機会はあまり」

 

「全く知らないって訳じゃないんだな」

 

「話し合いのための少人数が最初に来ると思います。いきなり武力行使というのは自警団のやることではありませんから」

 

「俺達がロケット団だとわかれば?」

 

「一旦引き返して、まとまってくるでしょう」

 

「なるほどな。その辺のトレーナー共を厳しく追い散らさない理由は、わかった」

 

 そんなことをすれば、最初から自警団の主力が出てくる。今必要なのは戦闘での勝利ではなく、時間だ。

 名目上の作戦も、本命の任務も、共に時間を稼ぐことが重要になる。偶然ではないだろう。支配人か、あるいはボスが、そういう作戦を立案したということだ。作戦を実行しているだけで、任務の方も達成することができる。それも、違和感なくだ。

 この作戦を立案した人間はどういう人間か、ふと考えた。新地層での発掘作業にある程度目処を付けられる人間でなければ、この作戦は出てこない。作業時間を想定できないからだ。それはつまり、ボス、あるいはボスに近しい人間がタマムシ大学の研究チームにいる、ということになるのだろうか。

 弾かれたように、顔を上げた。石の音。一度。しばらく待ったが、次の音はしなかった。

 

「さて、俺らの正体は割れたようだな。次は本隊か」

 

「斥候の半数を、音のした位置に回します」

 

「全員合流させちまえばいいだろう」

 

「一人が一気に八人になるより、四人になり八人になる、という方が効果的でしょう。もし上手くできそうならば挟み込んでもいい」

 

「お前、本当にトレーナーが本職だったのか?どっかで野盗でもやってたんじゃないだろうな」

 

「トレーナーですよ。本職などといえる腕ではないですが」

 

 クリードのズバットに指示を持たせて斥候へ飛ばした。発掘部隊から、延長の懇願が来た。フミツキは取り合わなかった。

 

「カブトやオムナイトの一部なんですよ。それも、ただの化石じゃない。過去に見つかった化石よりも、明らかに後の年代の物です。恐らくですが、ポケモンの力によって出来た地層ですよこれは。この化石なら、下手したら、明確な遺伝子情報も残されているかもしれません。隊長さん、大発見なんですよこれは」

 

 発掘部隊を任せている団員が、熱に浮かされたように喋り続けているのも、無視した。

 こういう団員がいるのは、ロケット団の変わった所だった。タマムシアジトには研究者のような人間もいて、最近ではシルフ生産のスコープを改造したりしていた。戦闘員であるフミツキにはどういう意図の作業なのかはわからなかったが、金儲けのためでないことぐらいはわかる。それどころか、ゲームコーナーの売上が研究費として回ってきている気配もあった。

 無為なヤクザ集団などではない。熱量を取り戻したフミツキにとっては、それはいくらか救いだった。

 ただ、今は作戦行動中である。この化石に、学会をひっくり返すような価値があったとしても、フミツキの考えは変わらない。

 それが相手にも伝わったのだろう。激しく捲し立ててから、フミツキを一睨みして持ち場へと戻っていった。

 

「誤射ってのも、珍しくはないらしいぜ。特に、後ろからの誤射はな」

 

「いざという時はお願いしていいですか?クリードさん」

 

「なんだ、いざという時ってのは」

 

「撤退する時です。逮捕者は出さない、と決めているんですよ」

 

「ふん。発掘部隊の中に、顔見知りが何人かいる。さっきの奴がごねても、無理矢理連れていくよう伝えといてやるよ」

 

「ありがとうございます」

 

 クリードを副官のような形に据えたのは、単純にフミツキの次にスタミナがあるというだけの理由だったが、共に行動するうちに、悪くない抜擢だったことがわかってきた。

 とにかく顔が広い。それに見合う程度には人望もあるようだ。フミツキが作戦を考えている間、他の団員に声をかけて回っていたのもクリードだった。それで集中が切れるのを防げた、というところがある。

 口調や態度は品行方正とは言えないが、互いの不利益になるようなレベルの言動はしない。今のフミツキにとっては、生真面目に付き従われるよりもずっとやり易かった。

 

「ところで、本当にその格好で行くのかよ?女物にしろとは言わねえが、動き辛いだろそりゃ」

 

 そして、意外とフミツキのことを気にかけてくる。最初は下心でもあるのかと思ったが、どうやら生来の質らしかった。

 

「目立つんですよ、ロケット団に女性がいると」

 

「そりゃそうだろうが」

 

「それに私は、ゲームコーナーで『老いぼれ犬』に顔を見られているので」

 

 男物のジャケットを羽織った上に、団服を着込んでいた。下はダブついた作業ズボンをベルトできつく留めている。あまり近くで見られるとどうしようもないが、遠目には小柄な男性に見える筈だ。

 

「腕っこきの刑事(でか)らしいな。しかし、タマムシだろう?」

 

「念を入れて困ることもないでしょう。幸い、今日のオツキミ山は涼しい」

 

「まあ、干からびてミイラにでもなってなけりゃいいのさ。お前には、ジムトレーナーへの当て馬になってもらわにゃならないんだからな」

 

 そう言って、クリードは口を閉じた。フミツキは一度だけ時計を見て、前を向いた。

 オツキミ山は立地的にも、生息するポケモンの強さとしても、交通に使うには悪くない道だった。というより、ニビとハナダの間に横たわる山は険しく、この洞窟以外に道と呼べるものはないのである。オツキミ山、という名は山全体の名称だが、専ら洞窟を呼ぶ時に使われるのは、この洞窟以外に住民が親しむような場がオツキミ山にはないからだ。

 当然整備が進んでいて、昼夜を問わず方々に明かりが灯されている。その多くは間接照明のような形を取っていて、環境をできる限り荒らさないように配慮されていた。

 照明を破壊するという手もないわけではなかった。ただ、それをすると復旧作業員が常駐しかねない。それはフミツキにとって、というより上層部にとっては目障りだろう。再度の囮作戦が必要になる可能性があるのだ。

 なんとなく、壁に目をやった。照明の関係か、一人の影が四方に伸びている。それが壁にかかると、表面の凹凸が影を引き伸ばしたり縮めたりするので、全く予測できない動きをしている。影ではなく人を見れば、ただ歩いているだけである。

 どの道、もうなにかを始めるほどの時間は残っていない。そのことは、フミツキにもよくわかっているのだ。サンドパンを手招きして、頭を撫でた。影ではなく、人を見る。サンドパンと触れあっていると、不思議とそう心を定めることに苦労はしなかった。

 石の音。一度だけだ。待った。呼吸を数える。クリードが姿勢を低くしながら、耳を澄ましている。

 三度。撤退を始める合図だった。呼吸にして五つほどの間があった。

 

「どうやら、それなりの人数で来たようですね」

 

「どうする?」

 

「斥候は合流させてください。一度ぶつかって押し返します。その後は、殿を務めながらハナダまで駆け通すことになりますね」

 

「へっ、お前に散々走らされたのがようやく活きるって訳だ」

 

「発掘部隊に撤退の指示を。私はクリードさんと前線に行きます」

 

 近くの団員へ手短に指示した。クリードもなにがしかを言い含めている。恐らくは、先程頼んだ件だろう。

 

「さーて、行くか」

 

 クリードが頬を掻いた。ヤドンのような感じは、どこにも残っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 斥候の姿が見えたところで、フミツキは足を止めた。向こうもこちらに気付いたようだ。一人が駆け寄ってくる。

 

「合流しねえのかよ?」

 

「撤退中なら即合流するつもりでしたが」

 

 駆け寄って来た斥候は、汗こそ掻いているが、追い込まれてるようではなかった。

 

「膠着しています。相手は二十人」

 

「そりゃ変だろ。膠着する要素はない」

 

「最初、押してこようとしていたんですよ。こちらは四人でしたから。でも、二人合流してきて、しばらくしてまた二人来て。どうも、向こうも人数を測りかねているようです」

 

 フミツキ達の位置からは、自警団の姿は見えなかった。斥候の場所までは平坦な道だが、その先は下り坂なのである。

 

「坂を登り切ったら囲まれていました、ってのは相手も嫌だろうな」

 

「とは言え、向こうは採掘場の奪還に動いているのですから、このまま膠着を続けはしないでしょう」

 

「どうする?」

 

「待ちましょうか。動き始めたら、私とクリードさんが出る、ということで」

 

「みんなにそう伝えます」

 

「ひとつだけ。ニビジムのジムトレーナーらしき人がいたら、特徴を教えてもらえますか?動き始める時がわかりやすいと思います」

 

「指示を出している人ってことですね。わかりました」

 

 団員が、斥候達のところへ戻っていく。クリードが訝し気な顔をした。

 

「二十人いて、率いているのはニビジムで鍛えられたトレーナーか。どうする気だよ、おい」

 

「手信号、覚えていますか?」

 

「あん?」

 

「進む、退く、集合、散開。タマムシでやったと思いますが」

 

「覚えてるよ。クソみたいに走らされた後に、目の前で延々とやられりゃあな。思い出したくもないが」

 

 不意に、斥候の半数がこちらを向いた。フミツキは迷わず撤退の指示を出した。

 

「行きますよ」

 

 道の半ばで合流した。自警団からは、まだ見えていないだろう。声は発さず、手信号だけで合図をした。散開。八人は、きちんと反応した。フミツキとクリードだけは前に進む。離れ際、団員の一人がフミツキに耳打ちした。ボーイスカウト。フミツキは小さく頷いた。

 視界が開けた。自警団が坂を駆け登ってくる姿が見える。二十人とその手持ちが一斉に向かってくる光景には、流石に圧力があった。フミツキは集団を見回した。先頭。ゴローンを連れたボーイスカウトが、勢いよく駆けて、集団を先導していた。

 

「おい、結局どうすんだよ。押し切られるぞ」

 

 返事は、手信号で送った。声だけは、女であることを隠しきれない。クリードが躰を密着させてきた。

 

「さっきの道に誘い込んで、挟み撃ちにします」

 

 囁くように言った。

 

「先頭のゴローンに突っ切られたら終わりだ。止められるんだな?」

 

「必ず。クリードさんは、ズバットを集団の中に突っ込ませてください。攻撃はしなくて構いません。ただ、連中の間を飛び回ってくれれば」

 

 下がった。ボーイスカウトは、坂を登り切ると、全員の到着を待って進みだした。目が合う。フミツキは速度を落として、クリードを先に行かせた。ボーイスカウトが猛然と駆けだした。後続との間に、僅かだが距離が生まれた。

 手を挙げた。集合の合図。フミツキはボーイスカウトへ向き直ると、サンドパンを繰り出した。『ころがる』。ゴローンも、同じ技で向かってくる。中央で、激突した。小石や塵が二匹の周囲で巻き上げられ、視界を遮った。

 待った。クリードのズバットが、砂煙を切って飛び込んでいった。見えた。サンドパンとゴローン。互いに睨み合っている。勢いは、止まっていた。

 その後方では、ロケット団が包囲を敷いていた。人数差が倍以上あるので、まとまれば容易く突破できる包囲だったが、二、三人がまとまろうとしているところへ必ずズバットが飛び込んで乱している。

 ボーイスカウトが反転すれば、瞬く間に包囲は崩壊するだろう。一瞬たりとも目を逸らさなかった。反転した瞬間後ろを突く、という意思をはっきりと表に出した。

 

「ロケット団みたいなチンピラが、僕と一対一でやり合う気か。ジムトレーナーを相手取ろうなんて、一万光年速いんだよ」

 

 ゴローンが跳びあがる。『のしかかり』。サンドパンの対応は速かった。跳び退き際に、『きりさく』まで見舞っている。フミツキは立ち位置を変えた。サンドパンの視界に入る位置にだ。目さえ合えば意思が伝わる自信があった。

 幾度か、ゴローンとサンドパンが交錯した。攻撃を受けてはいない。ただ、サンドパンの攻撃も大したダメージにはなっていないだろう。それでも、積み重ねればやがて勝敗を左右するものになる。

 

「足を止めろ、『がんせきふうじ』」

 

 ボーイスカウトの対応も速かった。素早さが両者を分けていることを、見抜いたようだ。

 ゴローンが地を叩く。浮き上がった小石がくっつきあい、いくつかの岩石となってサンドパンに降り注いだ。フミツキはじっとサンドパンを見つめた。サンドパンが躰を丸めていく。『まるくなる』。それで、ダメージは最小限に抑えられる。フミツキの考えは、伝わったはずだ。

 大小様々な岩石の山に、サンドパンが埋まった。『まるくなる』を使った以上、致命的なダメージはない。ただ、素早さは落ちる。

 

「悠長な選択だ。所詮素人だな。ゴローン、『ロックカット』」

 

 ゴローンがその場で回転するようにして、自分の躰を地面に擦り付け始めた。素早さ関係は、これで逆転することになる。サンドパンにとっては、アドバンテージが一つ消えることになるだろう。むしろ、不利な要素の一つになった。勝負が続けば続くほど、それは重くのしかかってくる。

 そんな悠長な戦いをする気は、フミツキにはなかった。

 ゴローンが不意に動きを止めた。

 

「なにをやってる。まだ」

 

 言い掛けたボーイスカウトが目を見開いた。ゴローンは、瀕死時の特徴である躰の収縮を始めていた。その後ろからサンドパンが姿を現した。足元には、穴が開いている。

 

「馬鹿な。『あなをほる』だって」

 

「お前ら、今だ。ジムトレーナーは敗北したぞ」

 

 クリードが声を張り上げた。自警団に動揺が走るのが、見ていてはっきりとわかった。フミツキは、サンドパンを突撃させた。誰かが、悲鳴とともに逃げ出した。一人が逃げてしまえばそれで終わりだった。サンドパンが向かうだけで、自警団は散り散りになった。ボーイスカウトがなんとかまとめようとしていたが、下り坂に入った辺りで諦めたようだ。

 

「退きます」

 

 心情的には、追い打ちをしたくなる場面だった。追撃に走りそうなら、何としてでも止めなければならない。そう思っていたが、意外に団員はみな素直にフミツキに従った。

 化石の採掘場まで下がった。一人だけ、団員が待っていた。状況把握のために、足の速い人間を数人選んであったのだ。

 

「化石は?」

 

「いくつかは。ただ、掘り出せていない方がずっと多いです。特にあのカブトとオムナイトの化石らしいものは、皆惜しがっていましたが。自警団は?」

 

「一度追い返しました。といっても、戦闘不能にしたのは精々数人です。クリードさん?」

 

「四人だ。ジムトレーナー合わせて五人だな。こっちは二人やられてる。俺のズバットも正直、あまり余力はないな」

 

「ということです。残りの化石は置いていきます」

 

「なんとかなりませんか。ウチの人間は、血相を変えてましてね。特に、化石に心血を注いでるのが一人いるんですよ」

 

 誰のことかは、なんとなくわかった。ただ、これ以上の時間はない。

 

「撤退します。先行してる部隊に追いついて、指示を伝えてください。それと、運搬部隊が衣料品をもっている筈です。前もって指示した場所に置いておくように、と」

 

「そんな話が?」

 

「オツキミ山を出る時には、一般人になりきれるようにしておこうと決めてましたから」

 

「どうも、隊長さん以上に考えている人間はいないようですね。わかりました」

 

「俺達は?」

 

「念のため、もうしばらくここで待機します」

 

 不満が出るかもしれない、と思った。しかしこれも、特に反対されることなく受け入れられた。

 思い思いに、岩や壁に腰かけた。

 フミツキは、なんとなく埋まっている化石に触れた。カブトの姿は昔、本で見たことがある。記憶のそれと触れている化石とがあまり結び付かず、見るともなく見続けて、躰の一部分しかない、ということに気付いた。恐らく、甲羅だ。中身に当たる部分がどうなったのかは、フミツキには想像もつかない。

 

「まあなんだ、上出来だろう、隊長さんよ」

 

 始め、誰に言っているのかわからなかった。自分に言っているらしいと思ったのは、クリードが正面に立っていたからだ。

 

「そりゃ、その化石は随分貴重なもんなのかもしれねえけどな。ジムトレーナーを追っ払ったってのも、貴重な評判だと思うぜ」

 

 化石を撫でているフミツキを見て、惜しんでいると思ったようだ。化石など、大した興味はなかった。手慰みに触っていただけである。

 

「また、機会はあるでしょう。その時にでも持っていきますよ」

 

「おう。ま、その時は手を貸してやる」

 

「手を貸すって。私の指揮と決まった訳じゃありませんよ」

 

「隊長はお前さ。俺達は、そう思ってるよ」

 

 それだけ言って、クリードは離れていった。クリードに隊長と呼ばれるのが初めてであることに、フミツキは気付いた。

 サンドパンが寄ってくる。フミツキはバッグから木の実を取り出すと、半分に分けてサンドパンに差し出した。仮面を外して、もう半分は自分で食べる。水は小型のキュービテナーに入れていて、フミツキがコックを回すと、サンドパンが口元を寄せて飲む。フミツキも、いつでも走りだせる程度に口を湿らせた。

 見回すと、全員がフミツキに倣っていた。不意にこそばゆくなって、フミツキはサンドパンを抱き上げた。

 

 

 

 

 





オリキャラだけの回というのに若干の拒否感があるので一万光年の彼に出てもらいました。初代のモブでは警備員さんの次に好きです
次はレッドさんかサカキ様出すつもりです。あと老いぼれ犬



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7話

 

 

 

 

 ライターを、分解していた。

 オイル式の年代物で、僅かにゴミが混じっただけで火の着きが悪くなる。フリントの減りも速かった。

 写真機用のドライバーとピンセットを使いバラし、オイルを染み込ませた脱脂綿で各部を丁寧に拭う。手順を考えたりすることはほとんどない。躰に染み付いているのだ。組み立てまで合わせても、三十分もかからなかった。

 月に一回は、作業を行う。それでも、一週間もしないうちに火は着きづらくなるのだった。

 使い捨ての安いライターを持ったこともある。その時期、煙草の量はなぜか減った。いつの間にか失くし、いつものライターを持ち出すと、再び煙草を頻繁に吸うようになった。ライターを変えようという気はそれでなくなった。

 今日の朝刊を開く。一面の内容は避けて、読み進めた。オーキドの研究についての記事が載っている。疑問を投げかける、という体だったが、どう読み解いても批判的な意図が透けていた。

 

「見るべき記事を飛ばしているんじゃないかね?化石強奪事件は一面にあるぞ」

 

 キョウだった。もう九時か、とタカギは思った。この男は、時間に関して遅れることも早く来ることもない。

 

「馬鹿馬鹿しい研究だ、と書かれてあるな。まあ、ポケモンの種類が百五十一程度で済まないことは、子供でもわかる話ではある」

 

「ふむ。オーキド博士の記事か。どうせ、批判的な内容だろう?」

 

「私も、なぜ、と思うがね」

 

「君、ポケモンという生き物が世界に何種類いるか知っているかな?」

 

「さあ。少なくとも、百五十一ではないだろう」

 

「確かにな。答えは、三十種類だよ」

 

 タカギは、束の間口を噤んだ。揶揄われているとしか思えなかったのだ。キョウの目に遊びの色はなかった。

 

「ずっと昔、タジリンという外国の貴族が研究をし、三十種類の生物をポケモンと認めた。しかし、所詮は貴族の道楽でね。研究はもっと実践的な分野に移っていき、ポケモンという生き物そのものへの問い掛けは途切れた。オーキド博士の肚は、大変なものだよ。辺鄙な町の研究者が、貴族の研究を五倍に膨らませようというのだからな」

 

「実践的ではない、原義的な研究か」

 

「それを行うのが、かつてトレーナーとして実践を極めたオーキド博士だというのも、面白いところだ」

 

 タカギは、ゴロワーズを取り出した。オイルライターの火が、一度で点く。手入れを行った日はこんなものだ。これがほんの数日でじゃじゃ馬になってしまう。

 

「訊いてみたいことがあった」

 

「ほう」

 

「三年前、山吹組が一晩で壊滅した。あまりの出来事で現場も混乱していてね。三百人に襲われたという者から、たった一人の奇襲だったと言う者までいた。警察は、三、四十人の精鋭による作戦だろうと結論付けたがね」

 

「それで?」

 

「一人で山吹組を陥とせるトレーナーは、この世に何人いる?」

 

「現実的な話ではないな」

 

「わかっている。すぐに忘れることにしよう」

 

 捜査に先入観を持たない、という意味でタカギは言った。キョウがしばらく腕を組んだ。

 

「カントーで、という意味に解釈するがね。可能性があるのは三人だろう」

 

「多いな」

 

「可能性の話だ。私の気持ちとしては、零だよ」

 

「誰かね、その三人は?」

 

「ワタル、サカキ、オーキド」

 

「わかった。忘れよう」

 

 若い刑事が、手招きしていた。それから、隣室を指差した。課長の部屋だ。まだ吸い始めたばかりのゴロワーズを消した。

 課長室には三人の人間がいた。課長以外の二人にも、見覚えはあった。一人は組対で、もう一人は窃盗を担当している部署の人間だった。タカギの専門は殺人で、つまりは畑違いになるのだが、他所でも優れた刑事は多少記憶していた。優れた刑事が集まっているというのは、大抵厄介事である。

 

「君も災難だな、タカギ警部」

 

 言ったのは、組対の男だ。体育会系に見られればマシな方で、ほとんど暴力団員のような見た目をしている。

 

「公安が機能していれば、君が引っ張り出されることもなかったろうに。なんせ、ロケット団は殺しだけはやらん」

 

「同盟軍に文句でも言いますか」

 

「やめてくださいよ、お二人とも」

 

 窃盗担当の男が口を挟んだ。こちらは神経質そうだ。

 

「連中、公安と秘密警察の区別もついておらん」

 

「捜査権はこちらです。専門部署設立と情報共有について、向こうに権利があるだけです」

 

「三課は、そんな形に納得している訳だ?」

 

 二人の言い争いを、タカギは耳に入れないようにした。

 特定団体を担当する部署がない。それで、殺人が専門のタカギにお鉢が回ってきたりするのだ。オーキドの研究記事など目じゃない程に議論されている話題で、いささか倦んでいるところがあった。

 課長が立ち上がった。階級はタカギよりも二つ上で、流石に静まり返った。歳は五つ以上、下である。

 

「とりあえず、情報の共有をしましょう。タカギ警部、認識は?」

 

「新聞程度ですかね」

 

「化石強奪事件と窃盗が、ほぼ同時に起きました。化石の方は被害軽微、しかしジムトレーナーが撃退された件が耳目を集めているようです。窃盗は金品多数に、技マシンも持っていかれました」

 

 それならば、被害額は決して少なくないだろう。技マシンの取り引きは国が厳しく取り締まっていて、その価格決定について市場経済から切り離されている。その分、闇に出回った時の価値は大きかった。

 

「上は、いよいよロケット団が食うに困ったのだと考えているようですがね」

 

「つまり、ただの窃盗グループだと思っている訳ですか。山吹組との抗争については?」

 

「なにかの間違いだろうと」

 

 組対が、苦虫を噛み潰した顔をした。

 

「今回被害に遭った金品、技マシン、化石については三課の方でルートを暴いて欲しいそうです」

 

 男は、眼鏡を外し丁寧に拭っていた。やたらと擦っているが、曇りが付いているようには見えなかった。

 しばらく話をしてから、二人が退出し、タカギだけが残された。課長はゆったりと椅子に背を凭せると、タカギに煙草を勧めた。

 

「苦情が来ているんですがね」

 

 火を点けた瞬間に切り込んできた。

 

「ゲームコーナーに、ちょっかいをかけたんですね」

 

「遊びに行っただけですよ」

 

「それについての苦情ですよ。上からですが、大元はタマムシの議員ですね」

 

 ならば、苦情などではなく圧力ということだった。

 タカギはゴロワーズを咥えた。そちらのルートからの圧力ならば、成り上がった小悪党の動きとして不自然はない。ゲームコーナーという商売で一山当てた男が、利益を守るために当然の動きをした、というだけだ。

 しかし、あの支配人と呼ばれていた男は、そんなにつまらない人物だったか。あまりにも無難すぎる気もした。次期四天王と言われるキョウが、できる、と表現した男だ。

 

「もし、タカギさんに何かしらの確信があるのだったら、この程度の苦情は僕の方で止めようと思うんですがね」

 

 そう言って、課長はじっとタカギを見つめた。

 エリートは、こんなものだった。恩を着せて、手柄を持っていく。そして、切る時は平然と切る。

 それを悪と言うつもりはなかった。こういう上司を利用して、独断的な捜査を行ったことも一度や二度ではない。手柄を渡せばいいだけ、道義的なことを言い始める上司よりも楽とも思えた。

 ジムバッジを三つ。それがいつからか、警察にとっての暗黙の了解のようになった。タカギは終戦直後に警察に入ったクチで、その頃はそのような慣習はなかったのである。そして、戦時中のタカギに、ジムを巡る余裕もなかった。若者が取り立てられたと思ったら、慣習ができ、タカギ達の世代は置いていかれたのだった。年下の上司にも、既に慣れてしまっている。

 

「ニビに、行ってみたいんですがね」

 

 休暇でも取るように、タカギは言った。課長が頷く。捜査許可を出すとは言わなかった。この辺りの呼吸は馴染んだものだ。

 部屋の外ではキョウが待っていた。

 

「資金の流れがあるはずだ。しかし、見えない」

 

「金か」

 

「山吹組との抗争は、決着の一晩ばかりが口に昇るが、それ以前から暗闘はあった。ましてロケット団は、勝利した後もこれといった縄張りを引いた訳でもない」

 

 組織としての体力が持つ筈はなかった。しかし現実として、ロケット団は存続し、ジムトレーナーを撃退するほどの集団を養っている。

 糧道がどこかにある。捜査の命令を受けた時、始めにタカギが考えたのがそれだった。

 企業を当たった。しかし、ロケット団のバックにいそうな企業は見つからなかった。ゲームコーナーに目をつけたのは、勘といっていい。

 支配人という男が、やはり引っ掛かった。あんな、腐った商売の差配で満足していられる手合いとは思えなかったのだ。

 

「当たってみよう。あまり得意ではないがね」

 

「忍だろう、君は」

 

「忍にも色々ある。鷹狩りの時、警備についたというのがうちの家でな」

 

「鷹狩り?」

 

「鷹匠と御庭番の間に生まれたのが祖先でね。わかりやすく言えば、武闘派という訳だ」

 

 その時、どこからかゴルバットが舞い降りて、キョウの肩に掴まった。ゴルバットがどこから出てきたのか、タカギにはさっぱりわからなかった。自分の頭の上から出てきたような気さえしたのだ。

 

「君は、山吹組を壊滅できるのではないかね?」

 

 キョウは、小さく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヤマブキから帰って来た結果は、衝撃だったと言っていい。

 ハナダの洞窟の観測結果である。

 

「サカキ様、これは」

 

 ムツキが、唖然としていた。それほどに、前回の結果との差が大きかったのだ。

 全体を流し見て、それから細部に目を通した。ミュウツーの波長は、ほとんど進化としか言えないほどの上昇を起こしていた。

 抱き込んである研究者の見解も添えられていた。興奮そのままに書いたのか、文章には粗が多い。はっきりわかるのは、既存のどのポケモンよりも強い生命体が誕生しようとしていることだけだった。

 

「こんなことがあるのですか?」

 

「研究は、途中で投げ出されていた。理由についてはっきりとは書かれていなかったが、科学者の理解を越えたのだろうな」

 

「これがポケモン、ですか」

 

「以前、私が戦った時よりも既に強くなっている。自己進化だな。放棄された研究、計画は、ミュウツー自身の手をもって完成しようとしている」

 

 トキワジムの一室だった。いつもなら、資料はムツキが上手く振り分けている。それが今は、堆く積み上がっていた。

 作戦は、予想を遥かに越える成功を見せた。特に大きかったのはフミツキの存在である。発掘部隊を逃がしながら、ニビジムのジムトレーナー率いる自警団を軽く蹴散らした。

 報告書を見る限り、作戦勝ちという趣が強かった。ジムトレーナー含めた自警団全体を混乱と焦りに叩き込んだ、という感じだ。

 サカキや支配人が感心したのは、化石を置いてきたことだった。それで、次の動きの幅はずっと広くなる。フミツキの動きは全体的に部下に譲歩する流れが強かったが、その点に関しては自身の意思を通した、という感じだった。指揮官としての柔軟さと強さが垣間見える。

 これで一トレーナーとして優秀なら、幹部にでもすぐに上げたいくらいだった。しかし、どう好意的に解釈しても、ジムバッジ五つが限度というところだ。

 サカキはもう一度資料に目を通し、それから父の遺したメモを見た。

 ミュウツーの波長は、当時から激しい上下が起こっていたようだ。最高値の時には、周囲百キロに妨害の念波を飛ばすことも不可能ではなかったらしい。この念波が、同盟軍が用いるような電子機器の機能を狂わせる能力がある、とされていた。

 つまりは、切り札になり得る、ということだった。問題は、安定しているか否かだ。

 

「再度の調査がいるな。それも、可及的速やかにだ」

 

「今なら、化石採掘場にもそれほどの警備体制は敷かれていません。あちらの言い分としては、ロケット団を撃退した、ですから」

 

「注目も集まっている。一ヶ所でも、陽動としての役割は充分に果たせるな」

 

 そして、タケシ本人でも出てこない限りは、フミツキはやってのける筈だ。あるいは、タケシが出てきても上手く躱すかもしれない。

 フジに会う必要があるかもしれないと、サカキは思った。データの進行が、サカキ達の予想の先を行っている。サカキの計画のために必要な要素はいくつかあり、ミュウツーは欠かせない存在だった。読み解ける人間を放置している余裕はない。

 

「もう一度、オツキミ山に行かせてみよう。その裏で計測、その後はタマムシに帰還でいい」

 

 ムツキは一礼すると、部屋を出ていった。サカキは、ちょっと天井を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 思ったよりも、ニビは平穏だった。オツキミ山の事件は、ニビの住民に取っては近くて遠い出来事だったようだ。

 タカギは、しばらく観光をした。課長には、休暇とも仕事とも言わないで来ている。微妙なやり取りで、どちらに転んでもいいような手回しはしておくべきだった。

 博物館に来た。眺めるともなく、見て回った。化石の標本がある。それは貴重な古代の軌跡なのかも知れなかったが、タカギにとっては、白骨化した死体の人形だった。月の石も、進化に使える便利な石というだけだ。

 化石採集の地層についてのコーナーに差し掛かった。古いものから、最新の発見まで網羅してある。最新の地層について、文章を最後まで読んだ。末尾には当然、この文を書いた人間が記してある。キョウの挙げた三人の中の一人の名前が載っている。先入観は持たない。それは、キョウとの約束のようなものだった。

 博物館を出て、ジムに向かった。全体として静かな町で、博物館以外の名所はジムと花畑ぐらいだった。花畑も、普段タマムシで暮らしているタカギにとっては決して華やかなものではない。白や紫の花たちが、まばらに立ち並んでいるだけだ。

 タカギが着いた時、ジムからは大きな歓声が響いていた。受付の横にある部屋で、しばらく待った。

 やってきたのは二人の男だった。片方には見覚えがある。ニビジムのジムリーダー、タケシだった。もう一方の少年は知らない顔だ。二人はいくらか言葉を交わし、やがて少年がジムから出ていった。

 タカギはなぜか、その背を目で追った。いや、凝視していたといっていい。自動扉が開き、特徴的な赤の帽子とジャケットがその向こうに消えた。それでようやく、タカギは目を離すことができた。

 

「どうも、こういう者ですがね」

 

 警察手帳を見せてから、タカギはタケシに話を聞いた。流石にタケシは、自分のところのジムトレーナーの不始末も隠さず話した。奇襲で、あるいは多人数で無理矢理襲ったというような報道も少なくなかったが、タケシは負けるべくして負けたと思っているようだ。

 

「それほどですか、ロケット団は」

 

「強いというのと、試合巧者というのはまた違いましてね。上手くやられた、というしかない」

 

「もう一度やれば勝てると?」

 

「まさか。巧者というのは、常に上手いから巧者なんですよ。強いて言えば、相性が悪い、ということですかね」

 

「なるほど」

 

「勝負というのは、残酷なことが起きるもんです」

 

 タケシはちょっと笑うと、なにか良いことでも思い付いたような声を出した。

 

「タカギさんは、すぐにタマムシへ帰られるんですか?」

 

「一応、オツキミ山も見てみるつもりですよ。あんまり言うとなんですが、手掛かりすらも足りない状況でしてね」

 

「じゃ、彼と一緒に行ってみるといいですよ」

 

「彼?」

 

「レッドという子でね。正直なところ、試合中、僕は本気で彼を倒すつもりになったんですよ。全て躱されましたがね」

 

 ジムチャレンジは、あくまでも加減したレベルのポケモンを使うものだろう。それでも、ジムリーダーが本気になることは珍しい。加減したジムリーダーさえも突破できないトレーナーの方が、この世にはずっと多いのだ。

 

「その子は?」

 

「さっき出ていった筈ですけどね。一日二日は、ポケモンセンターで準備を整えるんじゃないかな」

 

 先程の赤い少年だ。そう思った時、なぜかタカギは頷いていた。自分でも、理由は説明できない。タケシは、ちょっと頷くと、ジムに戻っていった。

 ポケモンセンターにいると言ったか。考えるともなく、タカギはそう思った。すれ違う人が、時折タカギの方を振り向く。自分が鼻唄をやっていることに気付いて、タカギは口を閉ざした。昔からの、忌々しい癖だ。いつの間にか、ポケモンセンターの前に着いていた。

 

 

 

 

 

 

 



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8話

 

 

 

 ポケモンセンターには、姿はなかった。少し考えて、タカギはフレンドリーショップへ向かった。

 レッドは、商品棚を眺めていた。タカギはその背をしばらく見つめていた。どう見ても、ただの少年である。それでもなぜか、引き込まれるような気分が寄せては返しながらタカギを襲ってきた。

 今まで、色々な男を見てきた。いそうもない男が、この世にはいる。そういうこともよく知っていた。しかしこのレッドという少年は、今まで見た誰とも違う部分で、タカギの心に触れてくる。

 頭を振る。考えて、わかることではない。

 

「ちょっといいかね?」

 

 警察手帳を見せながら声を掛けると、レッドはぎょっと目を見開いた。やはり子供なのだ、とタカギは思った。

 

「いや、物騒な話じゃない。実は、ニビジムのタケシ君に君を推薦されてね」

 

「推薦?」

 

「ある捜査でオツキミ山を通りたいんだが、パートナーがいない。警察には、最低でも二人一組で行動しないといけない決まりがあるんだよ」

 

 原則としてはその通りだが、この程度の規則を破ることぐらいタカギは慣れたものだった。つまりは、レッドを誘うための方便である。なぜこの少年を連れていこうとしているのかについて、タカギは考えないことにした。

 

「タケシ君は忙しいらしい。そこで挙がったのが君の名前だったということだ。まあ、あまり面倒なことを求めるつもりはない。オツキミ山を抜けるまで行動を共にする、というだけの話なんだが」

 

 しばらく考える様子を見せてから、レッドは小さく頷いた。そのまま、再び商品棚へ向き直る。無口な少年だった。

 ショッピングカートの中身を、タカギは覗き込んだ。

 

「なんだね、これは」

 

 思わず声を挙げた。モンスターボール。一つや二つではなく、二十以上のボールが縮小された状態でカゴの中に転がっていた。その横には、申し訳程度に携帯食料や傷薬などが入っている。

 ジムチャレンジは、賞金が出る。トレーナーの前途を応援するという名目で、ポケモン協会が出資している補助金だ。金額は後のジムほど大きくなるので、ニビジムの賞金は大したものではない。

 タカギの計算では、ニビジムの賞金を丸々使ってもまだ、カゴの中身には足りないだろう。

 タカギの驚きからしばらくして、レッドがああ、と声を出した。

 

「なにか、ハナダまでのポケモンで狙っているものがあるのかね?」

 

「いえ。行けるところまで、リザードだけで行くつもりです」

 

「しかし君、このボールは」

 

 レッドが懐から何かを取り出した。赤い手帳のように見えたが、よく見ると紙などではなく、もっと硬質な素材でできていた。どこかで見たことがある。

 新聞。どの記事だったか。

 

「ポケモン図鑑、だったかな?」

 

「そうです」

 

 オーキドの記事。思い出した。百五十一匹の生き物をポケモンと認定するにあたって開発された専用のマシン、だったか。詳しくは思い出せなかった。ほとんど流し見ていたのだ。

 

「君は、オーキド研究所に勤めているのか?」

 

「いえ。頼まれただけです」

 

「君だけが?」

 

「もう一人。グリーンといって、オーキド博士の孫ですけど。俺の幼馴染です」

 

 年齢さえ考えなければ、身内に研究を託すというのはおかしいことではなかった。孫ならば、ありえない話ではない。しかしこのレッドという少年は、身内でもなければ研究者でもないのだ。

 キョウの言葉を思い出した。山吹組を一人で壊滅できるとしたら、ワタルにサカキ、そしてオーキド。それほどの実力者が、一体何を思ってこの少年に図鑑を渡したのか。

 

「オーキド博士の研究は、大変有意義なものらしいね」

 

「そうなんですか?」

 

「知人の意見だがね」

 

「よくわかりません」

 

「そうか」

 

 レッドがカートを押していく。途中で甘味を手に取り、しばらく眺めてから棚に戻した。レジに着いた時、タカギは後ろからカゴの中に甘味を投げ込んだ。財布を取り出す。

 

「安いが、依頼料とでも思ってくれ」

 

 レッドがちょっと頭を下げた。

 一旦別れてから、タカギはポケモンセンターの公衆電話に向かった。

 

「ダミーが多すぎるな」

 

 電話に出たキョウは、いささか疲れた口調で言った。

 

「それほどか」

 

「タマムシをたらい回しにされたよ。ペーパーカンパニーだらけさ。四つ追ったが、全て行き止まりだった」

 

「他の当ては?」

 

「あるとも。うんざりするほどな」

 

 ゲームコーナーからの資金の流れは、タカギの思った以上に方々へ伸びているようだ。いかがわしい商売をしていると名乗っているようなものだが、それはある意味、それなりの悪党としては当然の姿ではあった。疑われる程度のことは、言うまでもなく計算しているだろう。

 タマムシ議員を動かして、圧力を掛けてくる。課長が守ってくれるなどという期待を、タカギは持っていなかった。ある一点を越えれば、平然とタカギを切ってくるに違いない。

 ゲームコーナーに踏み込むのは、当面無理と判断するしかなかった。それに、ゲームコーナーを潰すのはあくまで手段であって、目的ではなかった。

 

「ロケット団と繋がっている道。それが判明するだけでいいんだが」

 

「まあ、容易くはあるまい。君の勘の通り、ゲームコーナーがロケット団の下部組織ならば、繋がりは一番強固に隠すだろう」

 

「他に手繰れる糸はない」

 

「やってみるさ」

 

 受話器を置いて、タカギは考え込んだ。

 ロケット団とはなんなのか。それが、一番の謎だった。

 過去に起こされた事件は二つに分類できる。窃盗や強盗が本業ならば、そちら方面の犯罪組織だし、山吹組との抗争が本性ならば暴力団だろう。

 しかし、捜査の命令はタカギに来た。殺しの線がない以上、特定団体という疑いがかかっていると思わざるを得なかった。

 この手の命令はいくつかあるが、出所がはっきりしないものは大抵反同盟軍絡みの団体だった。

 そういう想定で物事を見ると、ロケット団は恐ろしい組織だった。表面上を取り繕ったまま、地下に深く潜行している。それが一瞬、力の一端を見せたのが山吹組との抗争だということになる。それ以降、ロケット団が武力を見せたことは一度もない。

 山吹組を壊滅させる力を持ちながら潜行した、反同盟軍組織。それはカントーの治安に置いて、過去類を見ないほどの脅威だろう。下手すれば、先の戦争の続きをカントーで始めかねないのだ。

 考えても、現実味はなかった。資金ルートの有無で、それは形を見せる筈だ。現実的な脅威なのか、あるいは過去いくつもあったような、理想だけ掲げて立ち消えていく団体なのか。

 タカギは地図を眺めた。オツキミ山に、ロケット団の目的となりうるなにかがあるとは思えない。あるいは、何かの陽動なのか。

 それでも今は、オツキミ山から始めるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 再度の命令は、予想以上に速かった。

 クリードは、前回持ち帰り損ねた化石の催促だと考えたようだ。戦闘要員の団員達を相手に、動きの確認などを繰り返している。化石担当の技術者達も意気を揚げていた。

 化石などである筈がない。そう思っても、フミツキは言葉にしなかった。意味のあることでもないからだ。

 先の作戦は陽動だった。これほど速く再度の陽動作戦が必要になったのならば、本命の動きが失敗したか、あるいは大成功を収めたかだろう。どちらにしても、フミツキのやることに変わりはない。

 クリードがやって来た。全身に、軽く汗を掻いている。

 

「よお、隊長。いつも通り、難しい顔してるじゃねえか」

 

「トレーニングは終わりですか?」

 

「まあな。化石、持って帰れるぜ、今回は」

 

「拘りはしませんよ。逮捕者を出さない。今のところ、それが一番です」

 

「まあ、いいじゃねえか。みんなやる気になってる。悪いことじゃないだろう?」

 

「それはそうですが」

 

「わかってるよ。暴走しそうな研究者については、周りの奴に声を掛けてる。いざとなりゃ取り押さえて無理矢理連れ帰るさ」

 

 副官としては、やはりクリードは優秀だった。自分で考えることはしないが、こちらの言葉をしっかり覚えていて、先に手を回してくる。それがスムーズなのは本人の人望だろう。フミツキが同じことをしようとして、これほど手際良くいくとは思えなかった。

 ハナダの隠れ家である。フミツキは椅子に腰掛けながら、地図に目を落とした。オツキミ山の内部図だ。

 前回の勝利は、地の利が大きかった。相手の慢心もあっただろう。

 世間ではロケット団が撃退されたということになっているが、ニビのジムトレーナーがそう思っている筈はなかった。勝ちすぎた、という気もする。慢心はもう期待しない方がいい。

 

「顔の造りは悪くねえが、そのうちに皺まみれになるな、これは」

 

「褒められてると思っておきます」

 

「大事なのは、ケツと度胸さ」

 

 クリードの後ろに、団員達が駆け込んでくる姿が見えた。全員汗を掻いていて、ドアを通り抜けた順に大の字に転がった。クリードが頭を蹴っ飛ばしながら、水を渡している。

 

「どれだけ走ったんですか」

 

「長くはねえよ。ただ、ペースは速かったな。ほれ、さっさと起きろ」

 

 一人二人と、起き上がっては涼みに行く。といっても、外で寝っ転がるだけだ。その呑気さが、フミツキは羨ましかった。

 自分の気持ちが浮わついていないか、フミツキは何度も自省した。前回は、クリードの呑気さに対して羨みと苛立ちが同時にあった気がする。今、苛立つような感情は湧いてこなかった。しかし、油断のようなものも、自分の中に見当たらない、と思う。

 漠然とした不安だった。オツキミ山に、なにか得体の知れない、それでいて突拍子のない隕石ような存在が降ってこないか。馬鹿げた考えが、時折頭を過る。それは初めてのことだった。

 やるべきことは決まっている。地図を見、それから引き連れている団員を一人一人思い浮かべた。なにも、新しいことは思い浮かばない。

 一般トレーナーを蹴散らし、採掘場まで歩みを進め、発掘班を背に斥候を出す。後は、どこで退くかというだけだ。

 団服を脱いで薄手になると、フミツキはストレッチを始めた。最初はどぎまぎしていたクリード達も、流石に慣れたようだ。

 

「躰は、適度に休めていてくださいね」

 

 それだけ言って、フミツキは駆け出した。周囲を一、二周すれば、きっと振り切れる。

 何を振り切るのか、フミツキ自身にもよくわからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 オツキミ山までの道のりには、多くのトレーナーがいた。

 その全てを、レッドは圧倒した。別段、難しいことではない。ニビを抜けたばかりのトレーナー達は練度が低く、やろうと思えば自分でも同じことができるだろう、とタカギは思った。

 本当の意味で同じことができるかはわからない。同じタイムで勝つだけなら、タカギにもできる。その程度だ。

 

「フレンドリーショップでの購入代ぐらいは取っただろうな」

 

 からかうように言うと、レッドは財布を開いて中身とレシートを見比べ、それから頷いた。

 無口だが、暗い性格ではなかった。タカギが警察での苦労話をいくつかすると、レッドもマサラタウンでの思い出をぽつりぽつりと語った。旅立ちの日、母親は映画に夢中でまともに見送られなかったというエピソードにタカギが笑うと、レッドも顔を綻ばせた。

 

「夕方までには、オツキミ山に着きそうだな」

 

 本来なら、もっと早く着いていてもおかしくなかった。ただ、道中でレッドは度々草むらに入り、ポケモンの捕獲を試みていた。そちらの方は、バトルほどの手際は発揮されなかった。リザードが、強すぎるのである。

 見かねたタカギが手を貸した。タカギのウツボットもこの辺りのポケモンに対しては強すぎたが、リザードよりはずっと搦め手が利いた。手加減にも慣れている。容疑者を死なせるようでは、警察は勤まらないのだ。

 

「そろそろだな」

 

 夕焼けが射していた。タカギは、微かな疲労を感じた。ここ数年は、こういうことがある。いくらかのポケモンを捕獲したレッドは、それら全てを転送装置で送ったことで、旅立ち前よりもむしろ身軽になっていた。下手をすれば、祖父と孫ほどに歳の差があるのだ、とタカギは思った。

 ゴロワーズを取り出した。ライターは火花を散らすばかりで中々着火しなかった。レッドがリザードを指すのを無視して、ライターを擦り続けた。火が点いた時には、オツキミ山の前に着いていた。

 

「今、立ち入り禁止になっています。近場のポケモンセンターまで戻ってください」

 

 洞窟の入り口近くで、赤色の警棒を回している青年がいた。警察ではない。ニビの自警団だろう、とタカギは当たりをつけた。

 

「どういうことだね?立ち入り禁止とは」

 

「どうってね、おじいさん。どうもこうもないよ。とにかく、今オツキミ山の洞窟は立ち入り禁止なんです」

 

 タカギは警察手帳を突き付けた。青年が、肩を跳ねさせた。

 

「警察?」

 

「タマムシの、タカギという者だよ。こちらの子は協力者でね。タケシ君のお墨付きでもある」

 

「はっ、いえ、失礼しました」

 

 青年が敬礼をした。不恰好なことは指摘せず、タカギも敬礼を返した。時間が惜しい。

 

「それで、オツキミ山が封鎖とはどういうことだね?」

 

「それは」

 

 ゴロワーズの煙が青年の顔にかかった。青年が小うるさそうに手で煙を払っている。点けたばかりのゴロワーズを、踏み消した。全く、面倒なことばかりだ。

 

「ロケット団ですよ。連中、また来やがった。あの化石を今度こそ持っていこうってんだ」

 

「いつだ?」

 

「ほんの一時間前に、次々中のトレーナー達が出てきたんですよ。集団に、いきなりバトルを仕掛けられたとかで。それも、普通の格好をしたトレーナー達にですよ」

 

 前回、ロケット団が使ったと思われている手口と同じだった。

 脱出も同じ手口だろうとタカギは睨んでいた。自警団は、団服を着たロケット団と交戦している。しかし、そんな格好の人間がオツキミ山から出てきたという証言はなかったのだ。

 化石の運搬、それから率いていた人物が使ったという『あなをほる』から、別ルートで脱出したという認識が警察内では強かった。しかし、化石の運搬を任せられる人員が他にいれば話は変わる。要は、ロケット団にそれだけの人員がいるかどうかだ。他に資金源があるかどうかも、それである程度は測れるだろう。

 レッドが、不思議そうにこちらを見た。鼻唄をやっていることに、タカギは気付いた。『老犬トレー』。子供の頃からの癖だ。元々は、同盟軍の兵士が口ずさんでいたという唄だ。

 

「自警団は?」

 

「今、人を集めているところです。前回のことで、みんな尻込みしちゃって。もう二時間もすれば、タケシさんも来れる筈ですが」

 

 あまりに遅すぎた。ロケット団が撤収するには、充分過ぎる時間だろう。

 レッドを見た。瞳は望洋としていて、感情が読めない。

 

「リザードは?」

 

「平気です」

 

 傷を負ってないのは、タカギもわかっていた。疲労の度合いを見極めるのはトレーナーの役目だろう。

 事も無げに言って、レッドは歩きだした。慌てて遮ろうとした青年の鼻先に、タカギはもう一度警察手帳を突き付けた。

 

「ロケット団は犯罪組織だ。それも、世間の誰もが予想していないような、とんでもない力を秘めている可能性がある」

 

 レッドは振り向かなかった。僅かに逡巡してから、タカギはレッドに並んだ。

 とんでもない力を秘めている可能性。それは、この隣の少年からも感じているものだった。

 

 

 

 

 






5万文字越えました。
当初の予定では5万でシルフカンパニーぐらいまではいってるつもりでした。
ままならないものです。


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9話

 

 

 

 

 

 

 化石は、簡易な保護ケースがつけられていた。鍵が掛かっている。いささか杜撰な仕事で、自警団が咄嗟に施したものと思えた。壊そうと思えば壊せるのだ。ただし、中身の化石も破損するだろう。解錠も不可能ではないが、時間が掛かるらしい。都合がいいと、フミツキは思った。

 斥候の一人に私服を着せ、蹴散らしたトレーナー達に紛れ込ませていた。その方が、出口により近付ける。前回の斥候を出した範囲は、後になって思うと狭すぎた。たまたま有利な地形が戦場になったから良かったが、不本意な遭遇戦が起きてもおかしくはなかったのだ。

 斥候が次々と戻ってくる。頭の中にある地図を、フミツキは黒塗りしていった。

 発掘班の団員がやってきた。

 

「大した施錠でもないんですが、何分用意がない。隊長さんなら、なんとか中身を傷付けずに破壊できませんか?」

 

 フミツキは苦笑した。この団員は、バトルというものをよく知らないのだろう。ジムトレーナーは世間一般で言えばバトルの専門家だが、達人ではない。それになんとか勝っただけのフミツキも同様だ。

 支配人のキュウコンを思い出した。フミツキの腕に炎を絡ませながらも、決して肌を焼くことはなく、手の中にあった書類だけを燃やしてみせた。フミツキでは想像もつかないほどの技量である。まず、できることではない。

 

「無理ですね」

 

 地面ごと掘り返すぐらいならサンドパンはできるだろうが、そんな岩を運搬するような用意はない。いざとなれば、ハナダ側に敷かれた警戒を突破しなければならないかもしれないのだ。

 

「時間さえあれば、あの程度の鍵ぐらいどうにでもなるんですが」

 

 そう言って、団員はフミツキの顔を窺った。フミツキはまた苦笑した。どうやら、本命はこちららしい。

 

「時間について妥協の余地はありません」

 

「前回はかなりの余裕があったじゃないですか」

 

「全てが上手くいった結果ですよ。もう一度同じ事をやれと言われても、できるものではない」

 

「やって頂きたい。研究員の幾人かが目立って見えるでしょうが、あの化石を完全な状態で掘り返したいというのは全員の想いなのですよ」

 

 やはり勝ちすぎた、とフミツキは思った。団員の目に浮かんでいる火は、明らかに前より強くなっている。なんとか説得しようとフミツキが口を開いた時、最後の斥候が帰って来た。私服の斥候だ。

 

「どうも、自警団は出動が遅れているようですよ、隊長」

 

「本当に?」

 

 フミツキより先に、団員が声を挙げた。困惑している斥候に、フミツキは続きを促した。

 

「前回のこともあって、少なくない自警団員が二の足を踏んでいるようです。ニビ側の出口では、集合の遅さに地団駄を踏んでいるトレーナーがいましたよ」

 

 警察は、自警団よりずっと出動が遅い。ポケモンバトルの可能性がある現場については、出動前に会議が義務付けられているのである。ロケット団の規模を考えれば、捜査本部の立ち上げが必要と判断されてもおかしくはない。

 自警団は、ポケモン協会やジムリーダーの影響を強く受けた組織で、フットワークの軽さを公的に認められている立場にある。

 自警団が遅れるということは、しばらくの安全が確保されているということだ。

 団員がフミツキを見詰めている。その足はずっと重くなったように見えた。色好い返事を貰わなければ、動きそうにもない。

 フミツキは洞窟の天井を見上げた。断る理由を、思い付ききれない。

 

「一時間です。撤収準備だけは元の予定通りに開始して、最低限の道具で作業を進めてください」

 

 団員が飛び上がった。駆け去っていく背中に、フミツキは言葉を投げた。

 

「これ以上は延ばしません。暴走しそうな研究員については、事前に監視をつけていてください」

 

「承知していますよ、隊長さん。クリードさんにも言われていますから」

 

 フミツキは頭を振ってから、斥候の方を向いた。

 

「服は着替えてきてください。洞窟の入り口が見張れるポイントは?」

 

「いくつか見繕ってあります」

 

 斥候は、一度頭を下げてから奥へ進んだ。替えの服は運搬要員の団員が持っている。撤退の際にはそれに着替え、フミツキ達戦闘要員の分はいくつかの岩影に隠すことになっていた。それで、ハナダ側に抜けるのは難しくなくなる筈だ。

 斥候と入れ替わりで、クリードがやって来た。念のため、ハナダからの追跡も警戒する必要があったのだ。ここまで来たということは、ひとまず後方に問題はないのだろう。

 

「連中、腰が引けてるって?」

 

「そこまでは。あるいは、タケシが出てくるのかもしれません」

 

「どんだけ強かろうと、足が遅せえってのは致命傷だ。そうだろ?」

 

 クリードの言うとおりだった。ニビジムからタケシがやってくるほどの時間があれば、撤収を終える自信がフミツキにはあった。

 あるいは、意表を突いたのかもしれない、とフミツキは思った。少なくとも、自警団は態勢を整える余裕すらなかったのだろう。前回の勝利の余韻が、そのまま時間に繋がったということか。

 それならそれで良かった。この作戦の後は、タマムシに帰還することになっている。今回だけ乗り切れればそれで良いのだ。

 斥候が定期的に戻ってくる。目新しい報告はなにもなかった。

 

「お前、なんでロケット団に入ったんだよ?」

 

 クリードが言った。一度動き始めると、隊長のやることなどない。並んで躰を休めている格好だ。

 

「クリードさんはどうしてですか?」

 

「そりゃ、世間に馴染めなかったからよ。ガキの頃から、気に食わねえことを見ると突っかかっていっちまう。そんなことやってると、たまに、どうしようもなく不利益なこともやっちまうんだな」

 

「不利益ですか」

 

「偉い人のガキだったらしい。俺の親は頭ぺこぺこ下げてよ。しばらくして、親父はホウエン地方に飛ばされた。俺は、縁を切ったよ。多分、俺がよくねえんだ」

 

「私も似たようなものですよ。世間には、多分馴染んでいなかった。突っかかることはありませんでしたけど」

 

「わかんねえな。お前なら、良い企業で良い顔してられるような気がするが」

 

「できたと思いますよ。できるということと、馴染むということは結構違うんじゃないかと思います」

 

「頭が良いんだろうな。頭が良い奴は、ろくでもない奴が多い。お前は違うが」

 

 フミツキは笑いを堪えた。ロケット団ほど、ろくでもないという言葉が似合う組織もそうそうないだろう。

 

「ま、お前のことは嫌いじゃないさ、隊長。そしてボスのことは、なんだ、尊敬してるってやつだ。それでいいと、俺は思ってる」

 

 斥候が戻ってきた。入り口を見張っていた筈の斥候だ。

 

「二人組?」

 

「そうなんですよ。ガキと年寄りです」

 

「なんだそりゃ。ただのトレーナーなら、追い返せばいいだろう」

 

「いや、ニビ側の入り口は自警団が固めてるんですよ。一般人は、もう通れない筈なんです」

 

 クリードが声を一段落とした。

 

「ジムトレーナーか?」

 

「あるいは。タケシじゃないのは、はっきりと確認しました」

 

 しばらく腕を組んでから、クリードがちらりとこちらを見た。当初予定の時間には達しているが、延長の一時間はまだ過ぎていなかった。

 ジムトレーナーが二人来たのなら、選択肢はない。

 

「退きましょう」

 

「発掘は終わったかな?」

 

「例え途中であっても退きます。クリードさん、通達をお願いできますか」

 

「仕方ないな。言い聞かせてみるさ」

 

「俺は?」

 

「もう一度確認に出てください。戦闘は徹底して避けるように」

 

「了解です」

 

 二人が、反対へと駆けていく。フミツキは壁に背を預けた。

 ジムトレーナーが二人で来たのなら、相手は少数精鋭を選んだということだ。

 戦うとなれば、厄介なやり方だった。しかし、こちらが退けば、相手は追いきれない筈だ。少人数では、万が一不意を突かれた時に建て直しが効かないので、不用意な動きはできないだろう。

 オツキミ山の洞窟は、わかりやすい経路こそあるものの、脇道も少なくない。潜めるところもいくつかある。追う側には負担の大きい地形だ。

 クリードから、撤退を開始したという合図があった。斥候が戻ってくるのを待って、フミツキもその場を離れた。

 人のいなくなった採掘場には、掘り返そうとした跡のある岩肌の地面と保護ケースだけが残してあった。解錠は上手くいかなかったようだ。カブトとオムナイトと言われている化石を横目に、フミツキは駆け抜けた。しばらく走って、フミツキは立ち止まった。クリードが立っていたからだ。横には、発掘要員の団員を一人連れている。半ベソを掻いていた。なにか嫌な予感が、フミツキの脳裏を掠めた。

 

「すまねえ。一人、逃がした」

 

「逃がした?」

 

「以前、隊長に突っかかった研究員を覚えてるか?いかにも、理科系の男といった顔をしたやつだ」

 

 それは覚えていた。発掘時間を妥協しないフミツキに対して、露骨に不快感を顕にしていった男だ。

 

「野郎、どうもいつの間にか抜けてたらしい。すまねえ。無理矢理連れて帰ると言ったのに」

 

「俺が悪いんです」

 

 隣の団員が言った。

 

「今度駄々を捏ねたら強制的に連れていくって言ってしまったんです。そうすれば大人しくなると思ったんだ。でも」

 

 片手を挙げて、フミツキは言葉を遮った。理由など、もうどうでもいい状態になっている。

 見捨てるどうかだった。これがトレーナーならば、フミツキは見捨てただろう。しかし、発掘要員の連中は、本質的に研究員だった。

 他愛もない一研究員かも知れず、あるいは、ロケット団にとって大いに有益ななにかを産み出せる研究員かもしれない。その判断が、フミツキにはつかなかった。

 後ろを向いた。ジムトレーナーが二人なら、あるいは戦えるかもしれない。勝たずとも、時間を稼いで逃げるだけでいいのだ。人数差があれば、それほど難しいことではない筈だ。

 

「発掘、運搬要員の方々はそのまま撤退してください」

 

 クリードが並んできた。駆け始めた。採掘場はそう遠くない。しかし、どこで抜けたのかがわからなかった。脇道も一つ一つ覗き込む。奥までは確認しなかった。向こうにも、そんな精神的余裕はないだろう。

 人影はどこにもない。間接照明から伸びる影は、フミツキ達のものだけだった。影は先端が揺らめいて、どこか、頼りない陽炎のように見えた。それが、間接照明の位置によって右往左往している。追い越し、あるいは追い越されるように、影は無尽に四方を回転した。

 採掘場へとやってきた。視界の端に、怯えるような白衣の男が見えた。化石を一つ、抱えている。発掘要員の団員だったが、フミツキにはそちらを見るような余裕がなかった。

 二人。老人の方は見覚えがある。老いぼれ犬だった。なぜ、老いぼれ犬がここに。考えようとしたが、まとまらなかった。

 老いぼれ犬の隣にいた少年が、一歩前へ出た。それだけで、なにか重苦しいものがフミツキに襲い掛かった。

 赤い少年だった。目や口元は、どこか望洋としている。背は、フミツキよりも低いだろう。しかし、なにかが違う。この感覚を、フミツキは知っているような気がした。

 白衣の男が、意を決したように立ち上がり、こちらへ駆け抜けた。それが合図のようになった。

 フミツキがサンドパンを繰り出すのと、少年のリザードが跳び上がるのがほぼ同時だった。相性は悪くない。先手を取ろうとフミツキは口を開いた。

 

「『ひのこ』」

 

 フミツキの指示よりも先に、攻撃が飛んできた。離れた距離からの『ひのこ』など、大した脅威ではない。しかし、出鼻は挫かれた。

 一度、受けるべきかもしれない。指示を出そうとした。

 

「『えんまく』」

 

 薄い煙が広がった。『まるくなる』を指示しようとした矢先だった。少年は位置を変えて、煙幕に遮られない場所でこちらを見ている。一方的に遠距離技を撃たれかねない。

 『こうそくスピン』や『スピードスター』で牽制するべきだろうか。しかし、咄嗟に判断がつかなかった。

 

「スピー」

 

「『きりさく』。それから『りゅうのいぶき』」

 

 煙から、リザードが飛び出してきた。フミツキの指示を聞こうとしたサンドパンは、どちらにも対応できなかった。切り裂かれ、息吹に晒されたサンドパンが体勢を建て直した時には、リザードはまた煙の中へ姿を消していた。

 何が起きているのか、フミツキははっきり把握しようとした。その時、リザードが再び煙から姿を現した。『ひのこ』。今度は直撃した。サンドパンの足がぐらついている。

 不意に、フミツキは恐怖に襲われた。なにかがおかしい。この少年は、なにかがおかしい。

 

「『ころがる』」

 

 指示を出してから、悠長な判断だと思った。しかし、ほかにどんな選択肢があったのか。とにかく突っ込んで、煙を晴らすべきではないのか。

 サンドパンが回転を始める。回転が最高潮に達する前に、唐突に煙が四散し、その真ん中でリザードが口を開いている姿が見えた。フミツキは立ち竦んだ。

 はっきりと思い出した。タケシとの戦い。あの時に感じた絶望的な差が、あるいはそれよりももっと酷いなにかが、今フミツキの前にあった。

 

「『かえんほうしゃ』」

 

 視界一面に炎が拡がり、サンドパンを包み込んだ。洞窟の中の空気が一気に温度を上げ、フミツキは激しく噎せ返った。広がった火柱が壁に跳ね返り、荒れ狂う津波のように無造作に散らばった。

 目は、閉じなかった。最後の最後まで、勝負を見続けなさい。あれは、誰に言われた言葉だったか。はっきりとは思い出せなかった。サンドパンが、炎の中を必死に振り切ろうと転がっている。少年は、小刻みに指示を送っているようだった。サンドパンの転がる先々で、火柱が上がっている。

 何を指示すればいいのか。少年の指示は、全てにおいてフミツキの一歩先を進んでいた。自分がなにかを指示することは、もっと大きな不幸を呼び寄せる切っ掛けになるのではないか。

 呼吸が激しくなった。息を吸う度に、熱された空気が喉と肺を焼いている。噎せ、吐き出した空気を補うように更に息を吸った。余計に激しく噎せ返るだけだった。咳と共に息を吐き出す度に、意識も紛れていくような気がした。

 誰かが、フミツキの腰をまさぐった。払おうとしたが、躰は自由に動かなかった。別の誰かが、フミツキの躰を掴んだ。いや、抱えられているのか。

 再び、腰に手が来た。ベルトに、なにかを填められた。モンスターボールだ、と思った。サンドパンの入ったモンスターボール。

 誰かが、少年と相対していた。その周りを、小さなポケモンが飛んでいる。クリード。呼ぼうとしたが、喉がひりついて声は出なかった。

 その背が、段々と遠ざかった。クリード。もう一度呼ぼうとした。やはり、声は出なかった。

 再び炎が燃え上がり、洞窟内を真っ赤に照らした。クリードの背も、見えなくなった。

 やがて、フミツキは目の前が真っ暗になった。

 

 

 

 

 

 



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10話

 

 

 

 

 

 

 ムツキが、部屋を右往左往していた。

 サカキは報告書を眺めた。ハナダの洞窟の計測結果である。全ての数値が、安定的な上昇を見せていた。昔、サカキと交戦した後に一旦は力を落としたようだが、下手をしたらジムリーダーですら対抗できない存在まで、今のミュウツーは進化している。これがチャンピオンの力を超えた時、ミュウツーという存在は人類の軛から抜けることになる。

 間違いなく脅威だったが、ムツキが狼狽しているのは全く別の理由からだった。

 

「コーヒーをくれないか」

 

 弾かれたように、ムツキが顔を挙げた。それから真っ直ぐに給湯室へと向かう。その動きには、狼狽などなかった。仕事さえあれば落ち着けるのだ。

 逮捕者を出したことが、ない訳ではなかった。暗闘だったとはいえ、山吹組との抗争は組対にもしっかりと見張られていたのだ。ただ、捕まったのは下級の団員で、さしたる尋問もなく懲役に送られた。あの時、組対が考えていたのは山吹組の力を削ぐことだけだったのだろう。ロケット団は、有象無象の組織の一つとしか認識されていなかった筈だ。

 クリードという団員の階級は、決して高くない。しかし、本部と言っていいタマムシのアジトに所属していた。捕まえたのは老いぼれ犬である。一人の団員が懲役に行って終わり、などと楽観する訳にはいかなかった。

 ムツキが、サカキの前にコーヒーを置いた。途端に、表情から落ち着きがなくなった。

 

「どうなるでしょう?」

 

 サカキは苦笑した。あまりにも漠然とした問いで、普段は冷徹な秘書然としたムツキが、幼子のように見えた。

 

「フミツキ君はどうしている?」

 

「ハナダの隠れ家で養生しているようです。負傷などはありませんが、酷く憔悴しているようで。タマムシへと帰させますか?」

 

「憔悴か」

 

「やはり、荷が重かったのでしょうか?」

 

 報告書は上がってきていた。戦闘要員として連れていった一人と、発掘要員の研究員からそれぞれ届いている。

 ほとんど成功しかけていた、と言っていいだろう。人員の配置や時間のコントロール、安全マージンの取り方も悪くはない。

 研究員の一人が、暴走した。それが、まず一つだ。それを見捨てる判断をせず、追いかけた。これがもう一つ。

 研究員がニビの自警団に捕まる程度なら、どうでもよかった。組織にとって損失ではあるが、痛手ではない。自警団の認識なら、精々窃盗集団の一人として処理されるだけだったろう。あるいは、火事場泥棒を企んだ名もなき理科系の男として扱われたかもしれない。

 しかし、そこにいたのは老いぼれ犬だった。これも一つだ。

 フミツキの作戦を破綻させた大きな要因はこの三つだろう。ただ、そこに駄目押しをした存在がいる。サカキが一番興味を惹かれたのは、そこだった。

 

「この、レッドという少年について調べはついたのかな?」

 

 ムツキが、自分の机から封筒を一つ手に取った。ただ、厚みはない。

 

「駆け出しのトレーナーで、数日前にタケシを破っています。特に、終盤タケシがかなり厳しめの攻勢を見せたようですが、なんなく捌いて勝利したようで、観戦した者の間ではちょっとした評判になっているようです」

 

 ジムリーダーとしてのタケシの試合は、とにかく受けだった。それは挑戦者の手並みをしっかりと見定めるためで、『がまん』などといった一風変わった技を選ぶのも、状況を把握して攻めを中断できるか確かめるためだ。

 つまりは一つ目のジムリーダー、教育者としての試合運びである。苛烈な攻勢に出るのは、タケシ本来の戦闘スタイルだった。

 当然、レベルを抑えたポケモンを使用してはいるだろう。それでも、まだバッジも持っていないようなトレーナーに捌けるものではない。

 

「それ以前は?」

 

「それが、その、マサラタウンの出身のようで」

 

 ムツキが、躰を縮こませながら言った。

 

「まあ、そんな気はしていた。気に病むことはない」

 

 マサラタウンは、ナナシマやグレンを除いたカントー本土では唯一の、ロケット団が全く手出しできていない町だった。

 オーキド一族の町なのだ。町長こそ違うものの、警察所長と郵便局長をそれぞれオーキド家の長男と三男が務めている。その背後にいるのが、次男であるオーキド・ユキナリだった。役場でポストを占めているのも一族の者で、町長などはただのお飾りでしかない。

 実質的には一族による独裁と言ってよかったが、有能かつ善良な者が治めている限り、独裁に欠点はない。何度か諜報員を潜入させてみたが、全く身動きが取れないまま、やがて怪しまれ帰還させるだけだった。

 

「ただ、ポケモンの捕獲に勤しんでいる姿が随分と目撃されています。恐らくは、オーキド博士の例の研究かと。それらしい機械を持ち歩いているという報告もあります」

 

「ポケモン図鑑だったか。ということは、やはり博士の秘蔵っ子という訳だ」

 

 サカキは報告書に目を落とした。戦闘員から上がってきた方の報告書だ。

 報告者の所感として、何が起きたのかわからない、という言葉が添えられていた。フミツキがほとんどマトモな抵抗もしないまま、負けていったと見えたらしい。裏切りとは思えず、という文言は部下からの信頼と取るべきだろう。

 どういう動きで戦闘が展開されていったのかが、淡々と記してあった。ムツキなどは首を傾げていたが、サカキにはどういった駆け引きがあったのか手に取るようにわかった。

 全てを、叩き潰されていた。それも、行動をではない。一手を思考に浮かべた瞬間に、更に先回りした一手をレッドという少年が打っている。

 魚の泳ぐ先々にガラス板を打ち込んで、いつの間にか水槽のように覆ってしまう。そういう試合運びだ。魚は動くことを恐怖し、やがて藻掻くことすらできなくなる。呼吸をすることすら躊躇する心境に陥る。

 過呼吸を引き起こしたフミツキに代わって、クリードが飛び込んだ。現場の混乱からか内容は途切れ途切れだが、フミツキのサンドパンを回収して撤退させるぐらいの奮闘をクリードは見せたようだ。あるいは、あくまで民間人であるレッドが無理押しをしなかったのか。

 とにかく、クリードが捕縛されフミツキ達はニビまで撤退した。ロケット団はミュウツーについて確度のあるデータを得た。結果を見れば、そういうことだろう。

 コーヒーを口に運んだ。カフェインの摂取を目的とした、作業的な飲み方だった。コーヒーに拘りはない。ただ、気紛れで薫りを嗅いだりしても、ムツキの手抜きを感じたことは一度もなかった。

 

「余裕が出来たら、フミツキ君をトキワに呼んでくれ。無理はさせるな、使い物にならなくなる。それから、ジムの備品を頼む」

 

 ジムリーダーとしての貌で、サカキは言った。この辺りの切り替えはムツキも心得たもので、帳簿の用紙を用箋挟に挟むと、サカキに一礼して部屋を出ていった。どこから見てもジムリーダー付きの秘書、あるいは事務員といった姿だ。

 しばらく、椅子に背を凭せた。大仰なソファーなどを拵えるジムリーダーもいるが、サカキが使っているのは何の変哲もないオフィスチェアだった。質素で、頑丈である。

 タマムシのアジトに行けば、四、五人が優に座れるようなソファーが準備されている筈だった。サカキにとっては、飾りのようなものだ。

 ニドキングをボールから出し、それからグラスクロスを手に取った。ライトはデスク用のものがある。

 ニドキングが手持ち無沙汰に床に寝転んだ。天井は高く造ってあるが、それでも多少窮屈だろう。普通のニドキングと比べて、かなりの巨体だった。角まで合わせると三メートル近くなるのだ。

 自分が入ったままボールを磨かれることを、ニドキングは嫌がる。旅をしていた頃はそうではなかった。サカキが磨くボールの中で眠っていたこともあったのだ。そうせざるをえないような状況が、旅の途上ではいくつもあった。

 ジムリーダーになってしばらくしてから、ボールを磨く時は必ずニドキングを出すようになった。本来ポケモンを出せないような場でも、サカキが頼めば許可は降りた。

 

「脂肪が付いたのかもしれんな、俺やお前にも」

 

 ニドキングがちらりとサカキを見て、それから小さく唸り声をあげた。威嚇のようにも見えるが、本当は呆れているのだ。サカキは苦笑した。

 付き合いは長かった。二十二番道路で、生まれて初めて捕まえたポケモンがニドラン♂だ。父の葬儀の三日後だった。どういう経緯で草むらに飛び込んだのかは、もう覚えていない。手持ちのポケモンも居らず、偶然手に入れたモンスターボールを一つだけ持っていた。捕獲に失敗したら、毒針で死んでいてもおかしくはなかった。

 ニドキングにだけは、不思議と弱音のようなことも言えた。他人や、他の手持ちポケモンの前では、一度もそういう姿を見せたことはない。殿堂入りしてからも、ニドキングだけは常に連れ歩いている。

 心の底からの弱気は、もう何年も感じていない。それでも時折こうやって、弱音のようなものを吐いてみたりする。いつも、呆れられるだけだった。

 ボールに、光沢が出てきていた。四方から光を当て、僅かに光線の強い部分をグラスクロスで擦った。もう一度光を当てる。反射とも拡散ともつかない鈍い光を、ボールは湛え始めている。

 気配。事務室に向かってくるのはムツキだろう。しかし、もっと複雑な、あるいはもっと深い気配が、玄関の辺りにあった。

 

「サカキ様、お客様です。その、タマムシのタカギ警部だと」

 

 頷いて、ニドキングをボールに戻した。厶ツキの額に、汗が一筋流れている。

 

「私、席を外します」

 

「取り調べではない。秘書が席を外す理由もないだろう」

 

「ですが」

 

「お呼びしなさい」

 

「はい」

 

 入ってきたのは、若い男と初老の男だった。若い方には見覚えがあった。トキワ署の刑事で、年二、三回ほどある講習会で顔を合わせている。

 タカギは、老いぼれなどと言われる程の歳には見えなかった。ただ、髪はほとんど白くなっている。そして、眼には不思議な光があった。頻りに、コートの中で何かを擦っている。それがなぜか、神経質には見えなかった。

 

「いや、サカキさん、いきなり申し訳ないですね。こちら、タマムシ警察のタカギ警部。今、ロケット団について追っているとかでね」

 

 ムツキは、無心に書類に向かっているようだった。前日の在庫表と先ほど確認した在庫を見比べている。そして、所々でペンを走らせていた。

 若い刑事が、話を始めた。タカギはその後ろでなにか身じろぎをしている。

 

「実は、オツキミ山で色々ありましてね。まあ、新聞でも大きく取り扱われたからサカキさんも知っていると思いますが」

 

「化石でしたか。学術的価値を軽視し、好事家への売り物とする。嘆かわしいことだと思っていましたよ」

 

「ま、所詮こそ泥連中で。こちらのタカギ警部が姿を見せると尻尾を巻いて逃げたようだが。実は、タカギ警部はちょっとした有名人でね。凄腕なんですよ」

 

「心強いことです。それで、私には何を?」

 

「ああ、そうだった。その化石が見つかった場所がですね、なんだ、地層というのかな?とにかく、そこについてサカキさんがなにやら詳しいとかでね」

 

 若い刑事は、誰かに指図されていることを露骨に態度で表していた。演技ではないだろう。そこまで器用な男ではなかった筈だ。

 あの地層についてサカキが触れているのは、ニビ博物館の展示に寄せたコメントだけだ。そこに目を留めてトキワまで来たのならば、老いぼれ犬の洞察は噂程度のものではない。

 

「実に、興味深い地層でしたよ。露頭を見ても、オツキミ山の他の場所とは明らかに違う。時間間隙と言われたりもするが、ポケモンに依るものは特に携帯獣性の不整合と呼ばれましてね。地質学だけでは読み解き難いのですよ。そういった地形はいくつかあるが、オツキミ山は隕石の影響を多分に受けたとも言われますから」

 

「ああいえ、講釈は勘弁してください。自分は、学もありませんから」

 

「私も、まともに学んだ訳ではない。ただ、地面とはなにか、と時折思いますよ」

 

「いや、弱ったな」

 

 若い刑事がちらりとタカギを見た。手を背広のポケットに突っ込んだまま、タカギは何をするでもなく立っていた。

 若い刑事が二、三質問をして、サカキはそれに対して完璧以上の解答を返した。意地の悪いやり方で、若い刑事も途中で自分がからかわれていることに気付いたようだ。

 

「トキワジムのトレーナーは皆優秀でしてね。あまり、こういった講義をする機会もない」

 

「本当に、勘弁してくださいよサカキさん。自分も一応は刑事ですから、情けない姿ばかり晒せないですよ」

 

「知らないものは知らないでいいんですよ。特に専門知識はね。人生で一度、役に立てば御の字でしょう」

 

「随分、綺麗にモンスターボールを磨くんですね、サカキさん」

 

 タカギが割って入った。タイミングよりも、その内容にサカキは不意を突かれた。

 

「若い頃から、磨く習慣が付いてましてね」

 

「ボールに思い入れでも?」

 

「いや。ない、と思いますよ。勿論、中に入っているポケモンとの思い出は語りきれないが」

 

「尋常な磨き方ではないという気がするな。その光沢を見てると、私は一瞬、気圧されたような気になるんですよ」

 

「これは、お目障りでしたかな」

 

「理由を知りたいと、ふと思ってね」

 

「理由か。どうだったかな。そんな話を聞いて、どうされるんです?」

 

「つまらないことが、時々気になる。無性にね」

 

 そう言った割に、タカギの顔には興味の色もなかった。

 

「煙草、構わないかね?」

 

 サカキは、なんとなく頷いた。タカギがライターを擦る。火は、中々点かなかった。幾度か繰り返され、やっと火が灯る。その間、誰も口を開かなかった。

 

「随分、骨董品のようですな」

 

「古い、ということだけが取り柄になりつつある。若い者が安売りのライターを使っていたりすると、時々腹立たしくなりますよ」

 

「ライターにですか?それとも、ご自分に?」

 

「どうかな。サカキさんのボールと、似たようなものじゃないかと思いますがね」

 

「腹立たしいと思ったことはありませんよ」

 

「そうですか。考えてみれば、私もないかも知れない」

 

 タカギがちょっと笑って、煙草を吸った。

 唄。タカギが、鼻唄をやっていた。どこか、物悲しい曲だ。暖かい陽光の中で別れを告げるような、物悲しさだった。

 ムツキが顔をあげていた。タカギは、自分が鼻唄をやっていることに気付くと、忌々しげに口を閉じた。ムツキが慌てて顔を伏せた。

 

「化石とは思えないんだな」

 

 どうでもいいことでも呟くように、タカギが口にした。

 

「化石を好事家に売り付けるようなつまらないことで動くとは、どうにもね」

 

 それだけ言って、タカギは立ち上がり部屋を出ていった。

 ムツキが顔をあげた。書類は全く進んでいないようだ。

 サカキは灰皿を見た。ゴロワーズ。いがらっぽい煙を出す煙草だった。窓を開けた。既に、タカギ達の背中は遠ざかっていた。

 

「タマムシのアジトは、必要最低限の人員にしろ」

 

 ムツキが目を見開いた。

 

「それは、人員は移動できますが、設備や開発品は」

 

「仕方あるまい。機密は隔離のうえ、常時痕跡を残さず移動できるように。最重要機密さえ保持できれば削除でも構わん」

 

「資金ルートも、削除対象に含まれますが」

 

「構わん。残ったものも即時退却できるようにしておきなさい。クリードが知っている逃走口は?」

 

「二番と五番です」

 

「二番と五番出口は破棄。その二つしか知らされていない団員には三番と六番を案内しなさい」

 

「クリードは喋りますか?」

 

「易々とは喋るまい。しかし、老いぼれ犬の前では無理な話だな。想像以上に鋭く、そして人の心を突く」

 

 ボールを磨くことについて問い質された時、自分でも意外なほどの不快感がサカキを襲った。自分の中の何かにタカギは触れ、そして足跡を残すような形で去っていった。

 キクコの試合運びと、どこか似ていた。ああいう手合には、安易に動かない方がいい。しかし、既に団員が一人、あちらの手に陥ちているのだ。

 

「ヤマブキ周囲の通行所に手は回してあるな?」

 

「はい」

 

「差配しているのは?」

 

 ムツキが挙げた名は、サカキも知っていた。幹部の一人で、バトルの腕前は良い。しかし、部下に配慮できないところがあった。休息を取らせずに任務に就かせて、失敗を引き起こしたこともある。

 

「他にいないか?できれば、人望の厚い人物で」

 

「タマムシ所属だと本部長ぐらいしか。クリードも慕われていたと聞きますが」

 

 どちらも、動かしようがなかった。本部長、タマムシでは支配人と呼ばれている男は、それこそタマムシ近辺の要である。クリードは牢屋の中だ。

 フミツキならば、とも思う。しかし、今は心失すに近い状態にある。

 

「そのまま、進めるしかないか」

 

 一度、目を閉じた。

 サカキの計画が全て完了すれば、ロケット団はおいそれと手出しできるような組織ではなくなる。活動家に限らず、反同盟軍的な思想の人物はいくらでもいる。それこそ、政治家にもだ。それに、ゲームコーナーの利権に溺れている者も少なくない。

 時間の勝負かも知れなかった。ただ、まだ仕掛ける訳にはいかない。

 

「シルフカンパニーの開発中のボールは、まだ完成しないだろうな」

 

「恐らく、ですが。社内のネットワークからも独立しているとのことで、詳細は。ただ、特殊研究室の動きはここ最近特に活発なようです」

 

 特殊研究室は、特殊とは名ばかりの何でも屋だと思われていた。そこで極秘の、そして全てのボールを過去にするような物が開発されているとわかったのが数年前だ。

 

「スケジュールに、まとまった時間を取ってくれないか。三日ほどだ」

 

「三日となりますと、多少無理な調整でも二週間は先になりますが」

 

「構わんよ」

 

「わかりました。いくつか、キャンセルを出します」

 

 フミツキはいくつかのバインダーを手に取ると、外に駆け出して行った。

 サカキはしばらく天井を見上げていた。それから、グラスクロスをボールに当てた。ニドキングは、嫌がる素振りを見せなかった。

 

 

 

 

 



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11話

 

 

 

 

 

 取り調べに手間取っていた。というより、タカギにその役を回すことに手間取っているのだ。

 二度の化石強奪事件で、ニビ警察がまともに出動すらできなかったことが先日の朝刊に大々的に載った。即日の記者会見では、警官の命を守るための慎重さを強調したことで一時追及は治まったが、結果として年端もいかぬ少年が矢面に立たされたことが報道されると、批判は益々の勢いをもって再燃した。

 レッドのことを新聞社に密告(タレコ)んだのはタカギだった。具体的な特徴など伝えなくとも、少年というだけで新聞社は沸き立ったようだ。裏取りも、ニビ自警団で簡単に取れる。

 あとは、課長がどれだけ圧力を掛けられるかだった。管轄内で逮捕された犯人への取り調べを自分達の手で行いたいのは、当然のことだ。多少の圧力ならなんとしてでも抗うだろうが、これだけ世論を敵に回した状態で圧力をはねのけ続けるのは苦しい筈だ。

 毎日、ニビ警察署へ顔を出した。名目としては、自ら逮捕した容疑者の経過が気になる、という訳だ。どれだけ苦々しい視線を向けられても、タカギは平然とベンチに腰を降ろした。今のところ、他にやることはなかった。

 一度だけ、トキワに行った。サカキという男に会うためだ。

 明るい男だった。小難しい講釈を聴かせて、若い警察官を揶揄ったりもする。それでも、ふと暗い影を纏う瞬間がタカギには感じられた。そして、影を背負ったサカキの姿は、明るく弁舌を振るう姿よりもずっと強く印象に残った。

 惹き付けてくるものがある。それは、全く正反対の筈のレッドにどこか似ていた。

 憂鬱な気分になった。好ましい人物に手錠を掛けたことが、何度かある。いつも、隣人を絞首台に送るような、胃の裏返るような不快感があったものだ。

 階段から刑事が降りてきた。憔悴していて、タカギを見つけると露骨に顔を背けた。取り調べの機会はそう遠くなさそうだ。

 ニビ警察署を出て、町を歩いた。昼食時をいくらか過ぎている。町は閑散としていて、草葉から照り返す日差しが瑞々しかった。ここ数日通っていた定食屋の前で、タカギは顔をしかめた。定休など気にもしていなかったのだ。特別旨い訳でもないが、夜まで続けて営業していて、そのまま喫茶店のように使える店だった。

 当てもなく歩き出した。人通りが段々と増え、建造物には背の高いビルもちらほらと見えてきた。ニビの繁華街で、余所者のタカギでもあまり目立たなくなる。

 尾行(つけ)られていると確信したのは、飲食店の集まった区画を二周した時だった。それも、敢えて知らせてきた、という感じだった。

 ロケット団なのか。しかし、今ここでタカギを消すことに大きな意味はない筈だ。

 通りを逸れて右へ曲がった。路地裏。さりげなく、腰元のモンスターボールを確認する。開閉スイッチの向きだけははっきりさせておかなければならない。

 五歩。それから前方に跳びつつ、タカギは振り向き様にボールを構えた。男。臨戦態勢のタカギを見ても、悠然と笑みを浮かべている。その顔を確認してから、タカギはボールを腰に戻した。ポケモンで勝負をして勝てる相手ではなかったのだ。

 

「クチバジムは社会活動を免除されているというのは本当らしいな。ジムリーダーが、こんなところにいるようでは」

 

「どのジムだってあくまで目標を課せられているだけさ。馬鹿正直に取り組む連中の気が知れねえぜ。そっちこそ、警察ってのは税金貰って散歩する組織なのかい?老いぼれ犬さんよ」

 

 マチスは、皮肉げな笑みを浮かべて言った。

 

「テレビなんかじゃ片言だった気がするがね」

 

「ちょっとしたサービスさ。臆病者が多くてな。もっとも、軍人上がりをその程度の愛嬌で受け入れちまう危機感のなさは笑えるがな」

 

「終戦は遥か昔だ」

 

「俺はそうじゃねえ。世界ってのはいつだって戦争をやっている。勝ち目もねえ戦をしたがる馬鹿はうようよしているさ」

 

 マチスは一度言葉を切って、タカギの顔を伺った。

 

「この国にも、そんな馬鹿がいる。わかるか、老いぼれ犬?」

 

「何が言いたいのかよくわからんな」

 

「わかってる筈さ」

 

「言い直そう。私に何を言わせたいのかが、よくわからんよ」

 

「目星は付けてるんだろう?ロケット団の正体ってやつによ。それを教えろってことさ」

 

 タカギは腕を組んで、それからゴロワーズを取り出した。オイル式ライター。ニビに来てからは一度も手入れしておらず、着火には時間がかかる。

 ロケット団の捜査命令については、どこから出たものなのかある程度予測はしていた。マチスが来たことで、それはますますはっきりとした。しかし、軍籍を離れたマチスがやってくるというところは、どこか引っ掛かった。

 現役と比べても実力では頭抜けているだろう。それでも、あくまで退役した身であり、ジムリーダーという歴とした立場を得ている人間でもある。公に動かすことは同盟軍も避けたい筈だ。

 ロケット団は、それほどの危機感を同盟軍に抱かせているのか。山吹組を一晩で押し潰したのは秀逸な出来事だったが、それもあくまでヤクザ同士の抗争という形だった。軍隊の前では子供の喧嘩のようなものだ。

 火が点いた。ゴロワーズを咥え、一度煙を吐き出した。

 

「精強な武力を持った窃盗集団。そんなところかな」

 

「本気で言ってる訳じゃあねえだろ」

 

「反同盟軍的な意味を持っているかもしれない、と思っているよ。お陰様でね」

 

「そんなことはどうでもいい。ボスは誰なのか、ってことさ」

 

 消すつもりなのかもしれない、とタカギは咄嗟に思った。反同盟軍の気運が、国内で潰えている訳ではないのだ。事を荒立てて糾合されるぐらいなら、首領を消す方が手間は少ないだろう。

 

「連中の手口は巧妙でね。確かなことは何も言えん」

 

「推測でもいいぜ」

 

「私の主義に反するな」

 

「どうも、履き違えているようだな。俺は言えと言ったんだぜ、老いぼれ犬」

 

「言えん、と言ったよ、私は」

 

言葉が途切れた。日は、いつの間にか傾き始めている。それがちょうどビルとビルの間に来て、タカギとマチスの影をずんぐりと揺らめかせた。表情を消していたマチスが、にやりと笑った。

 

「骨無しではないみたいだな。大したもんさ」

 

「やり口が随分荒いようだな、マチス」

 

「南方の戦線じゃこんなもの挨拶代わりだったぜ。俺は、二十歳から従軍していた。退役前には、勲章をいくつもぶら下げていた」

 

「英雄という訳だ」

 

「人殺し、と言っているように聞こえたぜ。気に食わねえな、その言い方」

 

「私も、老いぼれ犬と呼ばれることが好きではなくてね」

 

「ま、いいさ。ボスが判明したらいつでも連絡してくれ。特別に、深夜でも受け付けてやるよ」

 

「言えることはなにもない」

 

「そう言うな。明日には、取り調べの許可も下りるさ」

 

 事も無げにそう言って、マチスは路地裏を出て行った。タカギはゴロワーズが燃え尽きるのを待ってから、その場を後にした。

 マチスの発言については、深く考えなかった。同盟軍がその気になれば、取り調べの許可ぐらいは簡単なものだろう。同盟軍が直接行うのは難しいだろうが、逮捕の当事者であるタカギならば、ニビ警察も面目が立つ。

 同盟軍がなぜそれほどにロケット団を警戒しているのか。

 歩きながらいくら考えても、答えはでなかった。ホテルの自動ドアを潜る。受付が一礼して、鍵を差し出した。

 

「タカギ様に、お電話がありました。不在をお伝えしたところ、タカギ様の方から折り返して欲しいと」

 

「誰だね?」

 

「キョウ様と名乗っておられました」

 

 キョウからの電話。不意に、タカギの頭の中に思考が走った。なにかが、繋がりかけている。

 部屋に戻ると、コートも脱がずに受話器を取った。外線をダイヤルする。キョウがどこを拠点に動いているのか、タカギは知らなかった。電話番号だけを教えられていて、そこにかければ必ずキョウに繋がるのだ。

 待った。その間も、思考はもどかしげに揺れている。

 

「戻ったか。報告がある。良いとも悪いとも、私には見えないがね」

 

 キョウの声。頭の中で、はっきりと物事が繋がった。

 

「恐らく、資金ルートだろうと思える道を見つけた。表面上の額は小さいが、途中で別の資金が合流している節がある。様々な資金の動きは撹乱だと思っていたが、違うな。罅から水が零れるように、少しずつ逸れて本命のルートと合流しているんだ。行き先は」

 

「クチバ、かね」

 

「わかっていたのか?」

 

「いや。そうかも知れない、という気がした」

 

「大した嗅覚だ。しかし、問題はそれだけではないんだ」

 

「わかっている。同盟軍だな」

 

「そこまでわかっているなら、私の説明は必要ないかな?」

 

「推測でしかないさ。聞かせてくれ」

 

「港湾に出入りしている業者のいずれか、だろうな。それも、同盟軍と関わりのある業者だ」

 

「どこまで潜り込んでいると思う?」

 

「下士官程度で転がせる金額じゃない。かといって、あまり上を抱き込むのはいくらなんでも無茶だ。参謀部のどこか、といったところか」

 

「他国のマフィア組織の資金洗浄に使われていた。それも、参謀クラスが。スキャンダルどころの騒ぎではないな。本国の方では海外派兵に反対する派閥も根強いらしい」

 

「平静を装っているが、同盟軍内部はぶち切れているだろう。しかし事が事だ。大手を振って内部捜査をする訳にもいくまい」

 

「資金ルートの絞り込みはできるか?」

 

「ふたご島で寒中水泳するようなものだ、それは。飛び込んだ瞬間に身動きも取れなくなるさ。今のクチバで動き回るのは遠慮したい」

 

「出口は?」

 

「それこそ無理だ。一度基地内に入ってしまえば、どれがどの金かなど見分けられる筈もない」

 

 タカギは、電話機を持ち上げてベッドに置き、自身も腰を降ろした。

 資金ルートは行き詰まった、とみるしかなかった。同盟軍の中に入り込んでいる以上、この国の役人で手を出せる訳はない。

 

「明日、取り調べをする。こちらまで来れないかね?」

 

「ほう、許可が下りたのか。もう少しかかると見ていたのだが」

 

「事情がある。それについては来てから話そう」

 

「一室、取っておいてくれ。夜には着く」

 

 通話を切る。疲労していた。横にもならないまま、タカギは目蓋を閉じた。どれほどそうしていたのか、よくわからなかった。眠ってはいない。しかし、再び目を開いた時には、窓から夕焼けが射し込んでいた。

 ボールが揺れている。草タイプのポケモンの多くが、日光浴を好むのだ。

 苦笑して、窓際にウツボットを出した。葉をうんと広げる姿を見ながら、タカギはフロントに電話をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それなりに勾留されている筈だが、クリードの表情に堪えたような色はなかった。タカギを見上げてくる視線には、ふてぶてしさが隠れもせずに出ている。

 

「前口上は要るかね?」

 

「いいのかよ、おい。隣室にはニビの警官が控えてんだろう?」

 

「あいにく、身内だ」

 

「老いぼれ犬の身内っていうと、タマムシの警察ってことか」

 

「私のことは知っているようだな」

 

「昨日まで取り調べしてたおっさんが教えてくれたぜ。お前を逮捕した陰気なジジイが老いぼれ犬だってな」

 

 昨日、タカギから目を逸らした刑事だろう。良く思われている訳もなかったが、随分な言い草をされたものだ。

 

「煙草、やるかね?」

 

 タカギが市販の煙草を差し出すと、流石に怪訝そうな表情をした。

 

「喫わないなら構わんが」

 

「高くつきそうだな」

 

「煙草屋をやろうとは思わんよ」

 

「なら、一本貰うか」

 

 クリードが箱から煙草を抜き出す。タカギはライターを差し出した。昨日手入れをしたばかりで、着火の調子はいい。

 タカギもゴロワーズに火を点けた。

 威圧したり、長時間拘束することで口を緩めるようなタイプではなかった。仲間を庇ってレッドに立ち向かってきた男だ。

 ニビ警察は、あと少しで口を割らせられたと言っていた。クリードが、会話に応じるからだろう。黙秘していないというだけで手応えを感じる刑事も、少なくはない。ただ、タカギの見る限り、何日にも及んだニビ警察の取り調べは何の痛痒も与えていなそうだった。

 

「名前の由来は、何かね?」

 

「あん?」

 

「君の、クリードという名前だ」

 

「なんだよそりゃ」

 

「お袋さんとも、ホウエンにいる親父さんとも似てない名前じゃないか」

 

 クリードの表情が一瞬強張った。ただ、すぐにふてぶてしさを取り戻している。

 

「流石に老いぼれ犬、って訳か。ニビの田舎警察どもは、化石をどこに運んだかってがなりたてるだけだったが」

 

「私はタマムシの人間でね。化石の行方には、正直なところ興味がない」

 

「親子の縁は切ってあるぜ。由来なんざ、訊いたことがねえな」

 

「切ろうと思って切れるものでもないだろう。書類を出したところで、情は残る」

 

「書類の上だろうがなんだろうが、切れちまってるんだからしょうがねえ。情ってほどもねえな」

 

「大切にした方がいいぞ。私の父は随分前に死んだよ」

 

「勘弁しろよ。お涙頂戴なんて聞きたくねえぜ」

 

「言いたくもないさ。ただ、人は死ぬ」

 

「何の脅しだよそりゃあ」

 

「ロケット団のボスは、殺されるぞ」

 

 クリードは、反射的になにか言い返そうとしたようだった。その前に、タカギが言葉を被せた。

 

「同盟軍が動いてる。連中は、ボスを暗殺することで全てを消し去っちまうつもりだ」

 

「何を言ってる」

 

「ただ、事実を言っているのさ。お前らのボスは大したタマだよ。同盟軍をコケにするようなやり方で金を洗っていた。それがそのまま、同盟軍の弱味を掴むことにもなった。だから消される。それだけの話だ。そして、同盟軍に顎先で使われているのが私という訳だ」

 

「意味がわからねえな」

 

 素っ気なく言いながらも、クリードは考えているようだった。ふてぶてしさは消えている。

 

「わからない筈はない」

 

「俺をどうしたいんだ、あんた」

 

「私がやりたいのは、ロケット団のボスを捕まえることさ。それがそのまま、同盟軍に対する意趣返しにもなる」

 

「俺に得はねえな」

 

「ボスの命が助かる。証言が欲しいという人間がいくらでもいるだろう。全力で守ってくれるさ」

 

「そういうことか」

 

「ロケット団の拠点はどこにある?」

 

 クリードが腕を組んだ。しばらくして、くつくつと笑い始める。

 

「笑えるところがあったかね」

 

「いや、いい話さ。筋も通ってる。嘘じゃないという気がするぜ」

 

「なら、なぜ笑う?」

 

「前提が違うのさ。ボスは殺せねえよ」

 

「同盟軍だぞ」

 

「なんでもさ。腕っぷしでボスをどうにかなんてできねえ。できる訳がねえ」

 

 虚勢を張っているようではなかった。当然のこととして、クリードはそう思っているのだろう。

 

「それほどかね」

 

「わかるまいよ。会ったこともねえ奴にはな」

 

「ボスは誰だ?」

 

「知らねえ。嘘じゃねえぜ」

 

 嘘ではない、とタカギは判断した。本当に素性も知らないまま、信頼を置いているのだ。

 タカギはちょっと窓を見た。憂鬱というほどのことはない。そう思いながら、意識して口を閉じた。鼻唄をやってしまうような気がしたのだ。

 

「ズバットというポケモンは、随分と神経質らしいね。明かりの点いた部屋に放置されたりするとすぐ参ってしまうらしい」

 

 クリードは一瞬、何を言われているのか理解できないようだった。それから、眼を怒らせながら顔を真っ赤にした。

 

「どういう意味だ、おい?」

 

「言葉の通りだ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

「ふざけるなよ」

 

「何日かすると拒食が始まるそうだ。それから飛べなくなる。一度飛べなくなると、本来の環境に戻しても元通り飛べる個体の方が少ないらしい。そのまま衰弱して、死んでしまう例も少なくない」

 

 クリードが机に拳を打ち付けた。手錠がじゃらじゃらと音を立てる。しかし、殴りかかってくるような真似はせず、ただ俯いていた。タカギは立ち上がって、飛び散った煙草の吸殻を拾いあげると、灰皿に捨てた。再び、パイプ椅子に腰を降ろして腕を組んだ。目を閉じる。

 待った。互いに、微動だにしなかった。クリードの拳だけが、時折強く震える。無音の時間が、長く続いた。

 

「許されるのかよ、こんなやり方が」

 

 やっと絞り出したような声で、クリードが言った。

 

「わからんよ。わかった時には、全て手遅れになっているだろう」

 

「仲間は、売れねえ」

 

「調書は録らん」

 

 クリードが顔を挙げた。

 

「隣室に控えているのは、信用できる者だよ」

 

「どういうことだ?」

 

「言ったろう、意趣返しをすると。下手に報告をあげると、同盟軍に漏れてしまいかねんからな」

 

「本気で、ボスを逮捕する気なのか?」

 

「そう言っている。方法はわからんがね。少なくとも、お前の証言で令状が出ることはない」

 

 落とし所は、この辺りだろう。調書にサインさせるには、死にかけたズバットを連れて来るぐらいはしなければならない。できることではなかった。

 

「他の団員のことも訊かない。拠点の場所だけでいいぞ」

 

 クリードが再び俯いた。今度の沈黙は、長くは続かなかった。

 

「タマムシだ」

 

 消え入りそうな声だった。タカギは目を見開いた。

 

「なんだって?」

 

「アジトは、タマムシにある」

 

「お前達は、三年前に山吹組とやりあっただろう?縄張りを争っていたんじゃないのか?」

 

「なぜ山吹組と抗争になったのかは、知らねえ」

 

 警察では、ヤマブキに拠点があるという見方が強かった。しかし、具体的な証拠はない。当然の帰結として、ヤマブキにあるだろうと思われていたのだ。組対も三課も、その認識は一致していた。

 資金源と思われるゲームコーナーから、金が流れていく。つまり、タマムシからだ。それがまた、タマムシに戻ってくるということがあるのか。

 ない、とはいえなかった。同盟軍の中を使って資金洗浄をしようという組織だ。しかし、それならば山吹組は、ただ警察や世間の目を眩ますためだけに潰されたことになる。

 カントー最大の暴力団は伊達ではない。それを撹乱のためだけに潰すなど想像できるものではなかった。

 タカギはいくつか質問を続けた。クリードは言葉少なに、拠点の場所に関することだけ答えた。

 タカギが腰をあげた時、ようやくクリードも顔を持ち上げた。口元には、自嘲的な笑みが浮かんでいる。

 

「やっぱ、駄目だな俺は。学がねえし気が短けえ。真っ当な世界じゃやっていけねえと思ってこっちに来たが、やっぱ駄目だ」

 

 言葉はかけなかった。扉を出ると、一人の警官がいた。見覚えのない顔だ。連れだって、タカギは歩き出した。

 

「先に言っておくが、軽蔑したりはしていない」

 

 警官が言った。姿がまるっきり違っても、声はキョウのままだった。

 

「ポケモンを盾に脅す。非人道的なやり方だ。取り繕おうとは思わんよ」

 

 キョウは答えなかった。取り調べを終えたことを告げ、ニビ警察署を出た。キョウは、いつの間にか普段通りの姿に戻っていた。

 

「ジョウトのウツギという博士が発見をしてね」

 

 唐突に、キョウが切り出した。

 

「クロバットというポケモンは、ゴルバットの進化形だと思われていた。しかし、条件がわからなかったんだ。レベルとも、進化の石とも違った」

 

 タカギは、キョウのゴルバットを思い出した。レベルという点では、極まっているポケモンだろう。

 

「なつき度、だと言うのさ。ゴルバットが真にトレーナーに心を許せば、進化するのだと。まだあまり知られていないが、そのうち世間にも広まっていくだろう」

 

 キョウは、飄々とそう言った。

 残酷な発見をするものだ。タカギは素直にそう思った。人とポケモンの信頼を、そこまで白日に晒してしまうのか。

 

「密猟者との戦いを、私は悔いていない。それだけ苦しい戦いだった。卑怯なことをいくらでもしたし、されたさ」

 

 にやりとキョウが笑って、一軒の屋台を指差した。

 

「飯でも食おう」

 

 頷いて、タカギは暖簾を潜った。

 

 

 

 

 

 






もう少し早く投稿したかったのですが遅れてしまいました。待っていてくださった方に申し訳ない気持ちです
また、1月から3月にかけて職場が繁忙期に入るので再びペースが遅れるかもしれません。できる限り頑張ります
話自体は折り返しも過ぎているので、エタることはないと思います。気長にお付き合いくだされば幸いです
今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。よいお年を


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12話

 

 

 

 

 

 

 旅というほどのものではなかった。素性を隠したままの『そらをとぶ』は発覚した場合が面倒なのだ。だから、自分の足で歩くことにした。

 トキワからタマムシまでは『そらをとぶ』で来た。ポケモンバトルを中心に取り扱っている月刊誌からの依頼で、地面タイプについて一つ書かなければならなくなったのだ。今サカキは、ホテルに缶詰めで原稿を書いている、ということになっている。

 参考にと見た先月の特集は水タイプで、カスミの文章が載せられていた。水タイプの強みがこれでもかと書かれていて、炎、岩、地面タイプには負ける要素がないとまで豪語してある。その次にサカキを持ってきた編集部の意図は透けていた。大会やエキシビションで、カスミに負けたことはない。理論などなくとも、サカキが反論するだけでカスミはやり込められることになるだろう。

 サカキが書いたのは、カスミの言をほぼほぼ肯定する内容だった。草や氷、飛行タイプとの対面についても書き綴った。地面タイプの弱味について一通り書き出したといっていい。

 強味など勝手に活きてくるものだ。対戦の最前線ならばともかく、一般トレーナー達が理解すべきはポケモンの弱味だとサカキは考えていた。弱味を知らなければ、いつか必ず不幸になる日がくる。ポケモンも、トレーナーもだ。

 出版社に持ち込めば渋い顔をされるだろう。どう言われようと、書き直す気はない。

 空が暮れなずんでいる。サカキは、変装用のロングコートの前を掻き合わせた。こういう日は、不意に夜がやってくるものだ。

 既に地下通路は抜けて、八番道路に入っている。夜通し歩けば、朝方にはシオンタウンに着くだろう。それはわかっていたが、サカキは夜露を避けられる場所を探し始めていた。

 鞄二つにもなろうかという大荷物を準備しようとしたムツキを尻目に、サカキが持ち出したのは最低限の医薬品と火を起こすためのライター、保存食、飲み水だけだ。テントだの寝具だのを持った旅など、旅ではない。安物のレインポンチョにくるまって、いざとなればポケモン達と身を寄せあって夜を越える。それがポケモントレーナーの旅であり、サカキもずっとそうやってきた。

 ベルトに固定した二つのモンスターボールのうち、手前のものを掴むと、縮小を解いた。第一関節程度の大きさだったモンスターボールが掌大に膨らむのを確認してから放り投げる。

 

「風を凌げる所はあるか?」

 

 飛び出したペルシアンに、サカキは問いかけた。ペルシアンが目を閉じる。敏感な髭は僅かな空気の動きまで感じとることができるのだ。目を開き、一つ頷いて歩き始めたペルシアンの後ろをサカキはゆっくり追いかけた。気ままな性格で、急かされることも歩みを遅くさせることも嫌う。生半可なトレーナーでは振り回されるだけになるが、それが却って富裕層や一部トレーナーに人気になったのがペルシアンというポケモンだった。

 サカキのニドキングは、いくらなんでも目立ちすぎた。身から離すつもりはないが、ロケット団の総帥として大っぴらに使用することは憚られる。そういう時に用いるのがペルシアンだった。額の宝石を理由に乱獲された過去があり、現在でも闇市に多くの個体が出回っている。足が付きそうになれば、形だけ闇市を経由することで追跡を躱すこともできる。

 見えてきたのは、丘の麓にある大人ほどの高さの土肌だった。同じようなものが土肌を登った先にもあり、何段か続いたさらに向こうには地下通路の入り口が小さく見えていた。サカキが降ってきた道も元々は険しい段差が続いていたのだろう。半分ほどが道として整備され、残ったもう半分がここという訳だ。人目はそうないだろう。

 サカキは干し肉を一つ千切ってペルシアンに与えると、周囲の枝を集めた。懐に抱えようとしたサカキから、ニドキングが枝を奪う。サカキは苦笑いした。今着ているのは安物のレインポンチョなどではなく、機能美に富んだロングコートだった。

 集め終わる頃には既に日も沈んでいた。雨を凌げそうな場所を選び火を起こす。ひっそり漂い始めた宵の冷気が、それで霧散していく。

 小さい鍋を一つだけ持ってきてあった。湯を沸かし、三等分にした干し肉を柔らかくなるまで茹でると、逆さにした鍋の蓋に取り出して胡椒を一振りした。それを、無造作に口に運ぶ。火はしっかり通っているが、簡単には噛み切れなかった。噛み続ける。最初は強い塩味が段々と軽くなり、肉の旨味がでてくる。ニドキングも同じようにしていた。ペルシアンだけが、僅かに戸惑ったように干し肉とニドキングとサカキを見回していたが、意を決したように干し肉を咥えた。野宿などさせたこともないポケモンなのだ。はっきりと顔をしかめている。

 肉を胃に納めると、サカキは鍋の湯を飲んだ。塩と旨味が溶け出していて、なにより躰が暖まる。ニドキングが続くと、ペルシアンも恐る恐る口を付けた。肉とは違い、こちらは気に召したようだ。

 やがて、火が燠になると、ペルシアンはその横で丸くなった。寝息が小さく聞こえる。土の上では眠れないなどという柔な鍛え方は、流石にしていない。

 

「懐かしい、などと思うのはポケモントレーナー失格だろうな」

 

 夜空を見上げていると、自然に言葉が出た。星空など、飽きるほど見た筈だった。しかし今、散らばった星々はどこか新鮮さを伴って映る。

 ニドキングは横になりながら、時折耳を動かしていた。ニドラン♂の頃からの癖だ。旅を始めた頃、まだ一人と一匹だけだった夜には、ひっきりなしに耳を動かして周囲を警戒していたものだ。

 眠気はやってこなかった。これといった疲労も感じてはいない。まだ若い、ということか。

 

「同盟軍と戦闘になるのも、そう遠くはないだろう。俺もお前も、まだ若いままだろうな」

 

 資金ルートに誰かが触れた気配があった。十中八九、老いぼれ犬だろう。

 ルートは、同盟軍内部の参謀部を通っていた。はっきりと誰を通しているのかはサカキも知らない。それを知っているのはタマムシの支配人だけだ。同盟軍のどこを通そうが、この国の役人には手が出せない筈だった。ただ、内部調査で浮かぶ危険性はある。

 しかし、大々的に行うことはできないだろう。同盟軍は、あれこれと理由を付けてクチバ港を締める動きを見せた。内部調査の動きが取れていない証拠だった。内側ではなく入り口を絶とうという動きだったが、締め付けの後も資金ルートは事も無げに稼働していた。

 そろそろ、外に出てくる筈だ。本来殺人を担当する一課の老いぼれ犬がロケット団を嗅ぎ回るのも、同盟軍の影がちらついていた。資金洗浄に使われたなど、あってはならない不祥事だろう。その事実を消すためならば、強引な手段も厭いはすまい。

 戦うための算段はついている。しかし、必要な要素がいくつかあった。今、サカキがシオンタウンに向かっているのも、そのうちの一つを固めるためだ。

 諸々の事情を、ニドキングに喋ったことはない。聞きたいとも、思ってはいないだろう。

 高みを目指す。サカキの立場がどのように移り変わっても、ニドキングとの間にあるのはただそれだけだった。それ故に威厳も尊敬もいらず、弱音を話すことも厭わなかった。

 

「俺は、まだ強くなっている気がする。お前もそうだろう。しかし、いつかは老いるだろうな」

 

 弱音を吐いているのだろうか。自分でもよくわからなかった。老いるというのがそれほどの弱味だとは思わない。キクコなどは今でも最前線で力を振るっているのだ。

 ふと、一つだけ思い当たった。ニドキングに見せたくない姿。いや、見たくない姿か。高みを目指せなくなった姿。

 ニドキングの耳に触れた。背中を中心に刺々しい印象の強いニドキングだが、耳の先は意外なほど柔らかい。

 

「もしお前が死ぬ時は、俺の前から消えてくれるか?」

 

 ニドキングが体勢をそのままに見上げてきた。不満げな色がある。

 

「わかっているさ。俺が先に死ぬ時は、お前の前から姿を消そう」

 

 鼻息を一つ吐き出して、ニドキングが目を閉じた。ペルシアンはすっかり寝入っているようだ。サカキは燠の様子をちょっと確かめてから、コートを襟元まで掻き合わせて一本の木に背を凭せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静かな町だった。町全体がどこか澄明で、煌めく朝の日射しにも騒々しさがない。音もなく息を吐けそうな町だ。

 ポケモンセンターにも寄らず、ハットを目深に被って町の中心地へ向かった。建物は全て背が低い。最初に霊園があり、その後に町ができたのだ。遥か昔はヤマブキの一部だったようだが、ハナダやセキチクなどから山や海を越えて人が訪れるようになり、シオンタウンとして独立した。

 便宜上町となっただけで、村の規模を出るほどの人口はいない。それでも今では、カントーのどの町の人間でもポケモンを亡くせばまずシオンを目指すようになった。

 一軒の家で、サカキは訪いを入れた。応答はない。敷地内に気配もなかった。足を北東に向ける。十分と経たない内に、ポケモンタワーが見えてきた。

 ポケモンを亡くしたという記憶が、親族を含めてもサカキにはなかった。その分、父が幼い頃に死に、母もサカキがジムチャレンジを終えた頃には逝った。両親が持っていたポケモンは親族に引き取られ、今ではどうしているのか見当もつかない。

 菊を買ってから入った。知人のポケモンの墓に一輪ずつ添えるなら、これで不自然はないだろう。

 ゴースがうろうろとしている。それは別に、珍しいことではなかった。力量差がわかるのか、サカキに突っかかってくることもない。ただ、祈祷師がいないのは不自然だった。

 祈祷師というと仰々しいが、要は人の通るルート上から野生ポケモンを排除するのを生業としている人間だ。警備員やレンジャーなどが行うことが多いが、ゴーストタイプの特異性とシオンという町の性質からポケモンタワーでは祈祷師がその役を務めている。

 その祈祷師が見当たらず、建物内をゴースやゴーストが我が物顔で徘徊している。何か異常があったと見るべきだろう。

 階段。はっきりと、気配を感じた。

 靄。離合集散しながら、時折、手や躰のようなものを形作っては崩れていく。

 

「新種のポケモン、という訳でもなさそうだな」

 

 目ができている。というより、靄が形作った中で欠け落ちている部分が目に相当していると言うべきか。

 前に出た。靄が揺らめき、それから猛ったように押し拡がった。

 

「土の匂いがするな。カラカラ、いや、ガラガラか」

 

 靄が止まった。

 

「何に憤っているのかは知らん。それなりに、不幸な身の上だったのだろう。そのまま、死んだのか」

 

 サカキは、持っていた菊の花を供えた。どこの墓でもない、ただの道の真ん中にだ。

 

「存分に恨むがいい。ただ、全てを自分で決めろ。恨むも、消えるも、託すも全て自分で」

 

 それだけを言って、サカキは階段に足をかけた。靄はもう遮ってはこなかった。

 地面タイプを選んだのは、様々な成り行きからだった。今では、不思議と心が通う部分がある。それは理解とは違って、わからないままに共鳴できるなにかだった。

 あのガラガラに必要なのは意志だ。なんとなくそう思い、口にした。そして、もうガラガラのことは考えなかった。

 最上階に足を踏み入れた。弾かれたように、二人の男が振り返った。その間には老人が踞っている。サカキは思わず苦笑した。二人の男は、ロケット団の団服を着ていた。

 一人がマルマインを繰り出してきた。サカキへ向かって猛然と回転しながら、点滅を始める。

 『だいばくはつ』。咄嗟にしては、随分と思いきりのいい判断だ。サカキごと吹き飛ばすつもりでいる。常人に下せるものではなかった。

 

「『ねこだまし』」

 

 飛び出したと見えた時には、もうペルシアンはマルマインの目前にいた。攻撃を受けたマルマインが点滅を止めた。

 

「『きりさく』だ」

 

 ペルシアンが跳びあがる。不意に、もう一人の男がサカキへ距離を詰めてきた。

 拳。退こうとしたサカキの肌に、なにか嫌な直感が走った。その直感に逆らわず、前に出た。

 男のパンチが途中で軌道を変え、サカキの腕に絡みつこうとしてくる。掴まれる寸前をすり抜けながら、肘打ちを飛ばした。上体を仰け反らせながらも、男は蹴りを飛ばしてきた。足を折り曲げることで、太腿の外側で受けた。タックルに移行しようとした男が束の間棒立ちになる。サカキは今度こそ退いた。

 

「『スピードスター』」

 

 既にマルマインを蹴散らしたペルシアンが、サカキの指示に素早く反応した。額の宝石が一瞬光を帯びると、無数の星形を宙に噴き出した。その全てが不規則に、時には星同士で衝突して方向を変えながら拡散していく。横に飛ぼうとした男を流星が薙ぎ払った。

 

「躊躇なく『だいばくはつ』を敢行するマルマインとトレーナー。それに今の動きは、多少の差異こそあるもののクラヴ・マガか。お里が知れるな」

 

 呟きに反応したマルマインのトレーナーが、隠すこともなく殺気を見せている。見せかけだけで退くだろう。ペルシアンを呼び戻すと、サカキはポケットに手を入れ、姿勢も崩した。男達は顔をはっきりと歪めたが、冷静に撤退していった。軍人らしい動きだ。

 老人が顔をあげた。腫れぼったい目と真っ白の眉が左右に振られ、やがてサカキに焦点を合わせた。

 苦悶も恐怖も怒りも、その目にはなかった。小うるさい蝿が飛び去った時のような、ささやかな不快の余韻だけだ。

 

「助かった、と思っていいのかな」

 

「さて、どうですかね。先程の連中が去ったのは確かですが」

 

「正義の味方という訳ではないか」

 

「残念ながら、悪党ですよ。先の二人組と同じ程度にはね」

 

「腕っぷしは、比じゃなさそうだね。あの二人も随分な遣い手に見えたが、勝負になってはいなかった」

 

「ならば、私の方がタチの悪い悪党かもしれません」

 

「正直、君の方が怖いという気持ちはあるよ。私に、なんの用だね?」

 

「先の二人は何を?」

 

「お金だよ。これでも昔は、ちょっとした学者でね。その頃の資産を残していると思われたのだろう。先に言っておくが、私はほとんどの資産を寄付した。ポケモンタワーや、だいすきクラブや、なんらかの愛護団体なんかにね。今持っているのは、年寄りが細々暮らすだけのお金だ」

 

「あの二人にもそう仰ればよろしかったでしょう」

 

「信じてはくれまい。ロケット団というらしいね。金に強欲な者は、他人も強欲で秘匿的だと思い込む」

 

「ロケット団とは、そんなものですか」

 

「ポケモンを金稼ぎに使う、ろくでもない悪党集団と聞く」

 

「悪党が三組も集まった、ということですな」

 

「三組?」

 

「遺伝子から人造兵器とでも言うべきポケモンを生み出す。それは、悪党の所業でしょう、フジ老人」

 

 感情の薄い目元に、束の間鋭い眼光が走った。すぐに、加齢と諦念がそれを覆い隠した。

 

「ありそうもないことが、人生には時々おきる。大抵は過去に起因するというがね。この齢になって、過去が追いかけてくるとは思わなかった」

 

「金などではないな、やはり。あの二人も、ミュウツーのことで来たのでしょう?」

 

「ロケット団がミュウツーを求める理由など、見当もつかないよ。碌な理由ではあるまいが」

 

「ロケット団でないとすれば?」

 

「どういうことかね?」

 

「例えば、同盟軍。いえ、あえて進駐軍と呼びましょうか」

 

 フジが沈黙した。目尻から頬を通り首に至るまで、細かい皺が刻まれている。俯きがちになると、それは一層深く見えた。

 急かさなかった。フジが考え込んでいる間、サカキはペルシアンの点検をした。マルマインに直接攻撃をしたポケモンは麻痺を受けることがあるのだ。個体によっては麻痺状態にならないペルシアンもいるが、サカキのペルシアンはそうではなかった。そういったことは、世話をすると決めた時に徹底的に確かめる。

 

「ここに来るまでに、なにかを見なかったかね?怨霊のようななにかを」

 

 顔をあげたフジは、全く関係のないことを言った。ペルシアンの筋肉を触診しながら、サカキは答えた。

 

「怨霊は見ませんでしたよ」

 

「そんな筈はない」

 

「本当です。私が見たのは、一匹の憐れなガラガラだけだ」

 

「馬鹿な。ガラガラを見たのかね?」

 

「言い直しましょう。ガラガラだと、私にはわかった。ガラガラは私を通してくれましたよ」

 

 フジが、大きく長く息を吐いた。

 

「彼らがロケット団ではないという根拠は?」

 

「簡単な話です。私が、ロケット団だからですよ」

 

「なるほど。確かに簡単で、明瞭だ」

 

「あの二人は何を?」

 

「何も。ただ痛めつけてくるだけだったよ。ミュウツーのことだというのは、なんとなくわかったが」

 

 そういう拷問のやり方があると、聞いたことがある。求める物を提示すればそこには駆け引きが生まれるのだ。駆け引きならば手札の切り方がある。ただ痛めつけられると、どの手札をどう切ればいいのかすらわからなくなってしまうのだ。やがて、手当たり次第に手札を明かすようになってしまう。

 ペルシアンがくすぐったそうな声をあげた。気位の高いポケモンで、無遠慮に撫で回せば爪の餌食になる。サカキだけは受け入れるが、他人が手を出せば五秒も触らせたりはしないのだ。大抵のペルシアンがそうで、撫で回すサカキをフジは珍し気に見ていた。

 筋肉のどこにも強張っている部分はなかった。サカキは干し肉を取り出し、一切れを与えた。木の実があれば食べさせるところだが、生憎手元にはなかった。トレーナーとしての心構えが、やはりどこか弛んでいる。

 ペルシアンをモンスターボールに戻してから、資料をフジに差し出した。何枚もの書類が留められている。怪訝そうな顔で受け取ったフジの両腕が、読み進めるほどに震えを帯びた。

 

「なんだ、これは」

 

「我々がハナダの洞窟で、ある波長を観測し続けたデータです。あまりに危険なので、洞窟の外から計測したものですがね」

 

 フジの目がサカキを見上げてくる。ハットのつばで、その視線を遮った。表情を読もうとしたのか、それともサカキの正体を見定めようとしたのかがはっきりしなかったからだ。

 

「一つお訊きしましょう。それは、完全体ですか?」

 

 フジは返答を躊躇っている気配だった。それも、サカキは辛抱強く待った。

 

「違う、とは言えない。しかし、これが完成かと言われれば、私にはわからんよ。慮外の存在になっている」

 

「訊き方を変えましょうか。そのデータの生物は、電子機器への干渉能力を獲得していると思えますか?例えば、進駐軍の電子機器にね」

 

 はっきりと、フジは絶句した。父の書斎で見た資料は、あるいは研究の深部にまで迫った情報だったのかもしれない。

 次の言葉は絞り出すようだった。

 

「電子機器に干渉できたとしても、同盟軍に勝つ力はない」

 

 ロケット団という存在の目的を、フジは察したようだ。声の響きには、宥めるような音が含まれていた。そして、真実が表面に表れていた。

 ミュウツーという存在の根源を考えれば、進駐軍相手のシミュレーションは数限りなくやっただろう。現在のミュウツーのデータを見ても、すぐに結果が想像できるほどに。

 ミュウツーでは同盟軍に勝てない。その言葉を聞いて、サカキは笑った。そうだろうと思っていた。いや、そうであるべきだと思っていた。

 

「よければ、ロケット団にお越しいただけませんか。研究は好きなようにしていただいて結構」

 

「私は死んだ、と思っている。世の中に影響しようという気が、ある時すっかり消えてしまった。今はただ、肉体の死を待っているんだ」

 

「ポケモンタワーに足を運んでおられる」

 

「贖罪などという気はない。この場は、世の中ではないと思い定めたよ。あの世でも、この世でもない」

 

「残念です。もう少しお若い時にお会いしたかった」

 

「私が死んだのは、もうずっと昔だよ。死人の戯れ言としてもう一度言おう。君たちは勝てない」

 

「先程と言っていることが違いますよ。勝てないのはミュウツーでしょう」

 

「ミュウツーでなくば手段はない。万に一つも。いや、ミュウツーですら無理なのだから、つまり手段など最初からないのだ」

 

 不意に、サカキはフジが哀れに見えた。それは生きている人間の哀れとも、死んだ人間の哀れとも違う。生きたままに停止した人間に対する哀れみだった。フジは現世を断ち切ったような物言いをするが、サカキの眼には、現世へ干渉する力を失った老いぼれとしか見えなかった。

 現世に干渉できないならば、知識を持った骸も同然だった。そんな存在に訊いてみたいことが、サカキには一つだけあった。

 

「ミュウツーを使い強力な野生ポケモンを捕獲する。それこそ、ハナダの洞窟のポケモン達を。そのポケモン達を団員に配備し、ミュウツーで電子機器を抑える。それでは、戦えませんか?」

 

「ただの博打だろう」

 

「そうですかね」

 

「他人から譲り受けたポケモンは、トレーナーの指示を受け付け辛くなる。それは、錬度が上がれば上がるほど顕著になる。ハナダの洞窟に住むようなポケモンであれば、携帯獣学の観点から見てほぼ野生と変わるまい」

 

「全く、ごもっともですよ」

 

 サカキは フジに背を向けた。フジという老人は予想以上に見識が深く、そして無価値になった存在だった。その答えだけでサカキには充分だ。

 知識だけは持っている。そして、知識を持っているということを同盟軍も知っている。それは、ムツキに人を派遣させればいいだろう。ロケット団に成り済ましていた所に、同盟軍の微妙な動きや立場が読み取れる。本物のロケット団がフジの周りをうろついていれば、動きは取りづらい筈だ。

 他人から貰ったポケモンは言うことを聞かない。誰でも知っていることで、どうすれば解消できるかも誰でも知っていた。

 階段を降りた。靄のような姿も、菊の花も既になかった。菊の匂いと、僅かな土の薫りだけがサカキを迎えた。新品のロングコートなどよりは、ずっと鼻に馴染んだ薫りだった。

 

 

 

 

 

 

 







もう2週間ほどで職場が一段落しそうです。


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13話



Twitter始めました。モチベーションにでもなればという気持ちです。よろしければフォローお願いします。正直使い方わかってないです。




 

 

 

 

 

 タマムシに戻って最初にしたことは、ゲームコーナー周辺を歩くことだった。

 クリードが語ったアジトは、ほとんどゲームコーナーに隣接しているようなものだった。入口と、緊急時用の出口を確かめると、証言通りの場所にそれらはあった。アジト自体は地下施設だという。

 見た目は小さな倉庫のような建物だ。扉の近くまで寄ってから、タカギは引き返した。人の気配がある。

 ゲームコーナーへ行き、コインを購入してスロットの台に座った。昼飯時で、人の姿はまばらだ。絵柄に集中しながらボタンを押す。十五分ほど、勝ったり負けたりを繰り返した。コインの量は微増といったところか。コインは端が煤けていて、指先が僅かに黒ずんだ。その黒ずみを、次のコインの清潔な部分で擦りおとしてから投入する。

 絵柄が回転する。機械的に、タカギは回転を止めていった。七が二つ。最後のボタンを押そうとした瞬間に、隣に誰かが座った。

 

「楽しんで頂けているようで、なによりですよ」

 

 タイミングが微かにずれ、最後の七が画面外に消えていく。タカギはちょっと息を吐いて隣を見た。ゲームコーナーの店長だった。

 

「客が大当たりを出しそうになると声をかけるのかね?」

 

「これは、お邪魔をしてしまいましたか。お見かけして、思わず声をかけたもので」

 

 特に悪びれた様子もなく、店長は椅子をこちらに回転させると、どこからともなくコインを三枚取り出し、タカギの手元に置いた。当然、手は付けない。

 

「決して、深い意味のあるものではないのですが」

 

「煤けているような気がした」

 

「はい?」

 

「いや、なんでもない」

 

 コインを取り、投入する。絵柄も見ずに押した。店長は苦笑している。

 

「君は、この街でジムチャレンジを辞めたんだったな」

 

「レインボーバッジは持っていますよ。エリカさんではなく、先代のジムリーダーから貰ったものですが」

 

「キョウはもう現役だったろう?」

 

「サカキ、カツラ、キョウのお三方は当時から挑戦者の壁として立ちはだかっておいででした」

 

「そのキョウの見立てでは、君はもっとバッジを得られるようだが」

 

「自分で言うのもなんですが、バッジのコンプリートぐらいは不可能ではなかったと思います。挑まなかった癖に何を、という話ですが」

 

「なぜ」

 

「反抗心のようなものだったんですよ、上の世代に対しての。しかし、下の世代にワタルさんが天才少年として登場し、そのまま天下を取った。それを見たとき、なにかが宙ぶらりんになって消えてしまった。恐らくは、挑戦者として在るために必要ななにかが。ジムチャレンジは、そこでやめました」

 

 タカギは店長の顔を盗み見た。スロットに向かう横顔には、出任せを言っている気配は全くなかった。

 

「それで、こんな商売に漕ぎ着けた訳か」

 

「すぐにこうなったんじゃありませんよ。やるせないとでもいうんでしょうかね。真っ当なことをしようという気力は湧かなかった」

 

「何をしていたんだね?」

 

「サイクリングロードを走り回っていましたよ。セキチクまで何時間で行けるかってね。似たようなことをしてる連中が他にもいて、最短コースを取り合ったり、時にはバトルになってました」

 

「今でもそういう連中はいる」

 

「若さですね、あれは」

 

 くつくつと喉を鳴らしながら笑う姿は、やはり嘘を言っているような気配ではなかった。

 小綺麗に澄ました経営者という顔は、完全に消え去っている。過去と現在の清濁が、過ぎた時間として顔の陰に浮かんでいた。

 

「阿漕と言ったのは、取り消そう」

 

「それはまた、どうしてです?」

 

手錠(わっぱ)をかけれそうにはない」

 

 資金ルートの線は完全に詰んでいた。強引に逮捕(あげ)ようとしても、末端のペーパーカンパニーをいくつか消すだけに終わるだろう。それについても、ゲームコーナーの責任を問えるとは思えなかった。ペーパーカンパニーの名義上の責任者は別にいて、現在は海外に渡航している。国際手配を敷けるほどの罪状はなかった。実体があるのかもわからず、そもそも、刑事訴訟にあたるかも微妙なところだ。被害者はいないのである。

 アジトの中に、証拠が残してあるかどうか。望み薄だろう、とタカギは思っていた。

 

「そのうち、タカギ警部から手錠を戴くかもしれないと思っていますよ」

 

 思わず、タカギは店長の方を見た。さっきまでと変わらない、事も無げな顔をしながらコインを取り出している。四、五回目でスリーセブンを引いた。

 誘い。あるいは、裏切りを匂わせているのか。暴力団の捜査ではよくあることで、組織に見切りをつけた組員はこういう駆け引きをやる。

 ただ、すぐに洗いざらい吐くのは小物だった。匂わせだけはしておいて、一番高く売れる時に情報を売る。その辺りには微妙なやり取りがある。

 クリードの逮捕がそれほどの衝撃を与えたとは思えない。しかし、同盟軍と向き合う心労は、いつ分水嶺を超えてもおかしくはなかった。特に最近はクチバの動きが活発になっている。タカギのところにマチスが現れたのも、同盟軍内部が事の深刻さをはっきり認識している証拠だろう。

 もう一度、店長の顔を見た。何も言葉を続けてはこない。

 すべてが仮定でしかない。ゲームコーナーとロケット団の繋がり、それから同盟軍との対立。見えそうで見えない、薄靄の中にそのすべてが暗躍している。

 

「このスロットには必勝法のようなものはないのかね?」

 

 様々な言葉を呑み込んで、タカギはそう言った。店長はもう一度大当たりを当てている。

 

「勝てる台を、見つけることですよ」

 

 笑いながら店長はそう言った。タカギは、指先の煤をコートの端で拭った。

 しばらく打って、タカギは席を空けた。店長は何も言わず、小さく会釈をして見送った。

 ゲームコーナーを出て裏手に回る。アジトの入口。相変わらず、人の気配はある。

 

「どうも」

 

「おい、なんだよおっさん」

 

「景品に交換して欲しいんだがね」

 

「景品?なにか、勘違いしてんじゃないか」

 

 口調は粗野だが、景品と言った瞬間から雰囲気の棘は抜けていた。

 

「ゲームコーナーのコインだよ」

 

「だから、勘違いだよ。ここは倉庫でね。それも、ゲームコーナーとは違う会社の倉庫だ」

 

「ここはゲームコーナーのすぐ隣じゃないか。隣に行けばいいと聞いたんだがね」

 

「逆だよ、逆。反対側だ」

 

「そこに行けばいいのかね?」

 

「いいとか悪いとかは知らねえよ。ただ、ゲームコーナーの客はよくそこに入っていくぜ」

 

 白々しいが、言質は取らせない言葉選びだった。タカギは困惑した様に周囲を見回してから、建物を出た。

 景品所の前をうろうろとしている若い男がいた。コインの枚数を数えてはため息を吐いている。手持ちのコインをケースごと、その男に譲った。

 

「思ったより出てしまってね」

 

 そう言うタカギに男は卑屈なほど礼を言い、景品所へと入っていった。そのうち、身を持ち崩すだろう、と思った。

 煙草に火を点ける。ライターはいつも通り、調子が悪かった。

 入って右奥の段ボール。その下に、地下への階段がある。

 クリードの証言は今のところ信用できそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出頭命令は翌日に来た。四課辺りがゲームコーナーを張っていたのだろう。タマムシ警察内部ならば、タカギの顔はよく知られている。

 出勤したが、課長室へとすぐには向かわなかった。コーヒーを淹れ、いなかった間に起こったことに目を通す。タマムシシティには、取り立てるべき事件は起きていなかった。

 目を惹いたのは、ハナダシティとシオンタウンだった。ハナダの北部で、ロケット団による強引な勧誘が行われている。勧誘自体は化石強奪事件より前から始まっていて、近隣ではトラブルになっていたようだ。ロケット団によるものだと発覚したのは、あるトレーナーが勧誘していた男を散々に打ち倒したかららしい。レッドだろう、と思った。具体的な情報は出ていないが、略式の聴取内容と日付を見比べると、そういう結論になる。

 シオンタウンの方は、よくわからなかった。そもそも警察の出るような事件にはなっていない。ポケモンタワー内部でポケモン達の異常な活性化が起こっている、という内容だった。タマムシ署にその資料があるのは、墓参りへ出向く人間への注意喚起の要請からだ。

 別の資料に目を向けた。タカギと付き合いのある若い刑事が、気を利かせてまとめておいたものだ。

 ロケット団の本部について、ハナダ説が浮上していた。主に三課の主張で、ヤマブキ説を唱える四課とは対立という形になる。互いに証拠不十分の主張は、僅かだが不和の芽を生んでいた。

 立て続けにハナダで起こった犯行は、タマムシから目を逸らすため、ということになるのか。

 コーヒーを啜る。煙草を喫いたかった。しかし、今呼び出されれば点けたばかりの煙草を消すことになりかねない。

 結局、一時間ばかり待つことになった。待ったというのはタカギの主観で、周囲から見れば、言い出せないまま呼び出されたというところだ。

 

「ニビくんだりまで行って貰ったのは、申し訳ないと思いましたがね」

 

 タカギを見るなり、課長が言った。行って貰った。つまり、課長の命令でタカギは捜査に出た、ということになっているようだ。

 あえてあやふやにしていた物をはっきりと明言するからには、手柄の気配でも感じ取ったのだろう。

 自分の嗅覚で稼いだ手柄以外は信用しない。年季を入れた刑事なら誰でも知っていることで、その点で課長はまだ若かった。

 

「久しぶりに羽を伸ばさせてもらいましたよ。いい休暇でした」

 

 課長が曖昧な笑みを浮かべた。タカギは、ただ微笑み返した。課長の目尻がひきつるまで、大した時間は掛からなかった。

 ライターを擦る。二度で、火が点いた。全く、調子の良いものだ。

 

「博物館ぐらいしか見るものはないだろうと思ってたけんですがね。なかなかどうして、立派な花を養っているところがありまして。植物園などではなく、町の中にポツンとあるのも良かったな」

 

「タカギさん」

 

「赤い花があったな。ラフレシアをもっと鮮やかにしたような赤でしたよ」

 

「私に、何か報告することがあるんじゃないですか?」

 

「休暇を終えて、本日から復帰します、ということならば」

 

「取り調べでは何も聞き出せなかった、という風に解釈しますよ」

 

「休暇でしたよ」

 

 そこまで言ってから、タカギは横を向いた。目を逸らす。後ろめたい時は、誰だってそうするだろう。

 処分されることはない、という自信があった。あのタイミングでタカギがニビにいた理由を、誰も説明できないからだ。ニビ警察の管轄である化石強奪事件にタカギが職務として首を突っ込んだとなると、問題はややこしくなる。当然、指示を出した課長まで巻き込んでだ。

 休暇というのも疑わしい理由ではあった。しかし、休暇の申請自体は二度目の襲撃前で受理されているのである。博物館で観光しているタカギの姿も、ニビの住人には見られている筈だ。

 

「事件後、タカギさんから私に電話がありましたね。電話番の人間はそのことを知っています」

 

「トキワまで足を伸ばしたくて、休暇の延長をお願いしましたよ」

 

「そうですか。いや、そうでしたね」

 

 肘をデスクに突いたまま、課長が行っていいという仕草をした。軽く会釈をしてタカギは部屋を出た。

 クリードの取り調べについて、タカギが参加できるよう取り計らってもらうための電話だった。勿論、課長も忘れている訳ではない。口裏合わせというやつだ。

 自分の席に戻ってから、いくつかの資料を広げた。数ヶ月前にタカギが逮捕した被疑者の公判が、二週間後に入っていた。有罪はほぼ確定していて、求刑がどの程度まで通るかというだけの裁判だ。傍聴するつもりもなかったが、もっともらしくメモを取ったり、記録と資料を見比べたりした。休暇明け、という感じにはなる。

 本当にただの休暇だったと思っている者など、タマムシ署にはいないだろう。仕事をしていると、滑稽な役をやらなければならないことが時々ある。

 昼食時になってから署を出た。

 店は指定されていない。人通りは多かった。この人混みの中で、とは思うが、なにかしらの技はあるのだろう。何度か周囲を窺ったが、尾行の気配はない。

 表通りを二、三軒覗き込み、結局は路地を二つ縫った場所にある定食屋に入った。

 

「何名様でしょうか?」

 

「二名で」

 

 答えたのはタカギではなかった。キョウ。何食わぬ顔で、隣に並んでくる。タカギは肩を竦めた。

 

「いつから、後ろにいたんだね?」

 

 ざる蕎麦を二枚、ビールを一杯頼んでから水を飲んで尋ねた。

 

「これでも警戒していたんだがね」

 

「何度か周囲を見回していたな」

 

「見ていたのか」

 

「君の視界に二度入ったよ。もっとも、一度目と二度目で顔は違ったがね」

 

「この分ならば、私の命など大したことはないな」

 

「なかなか鋭かった。同盟軍程度の尾行なら気付けるだろうさ。正直言って、少し安心したよ」

 

 蕎麦が運ばれてきた。ワサビを半分ほど取り、つゆに溶かす。キョウは少量を直接、麺に乗せながら食べていた。刺身でも食べるかのようなやり方だ。

 お新香が付いていた。ビールを飲み、お新香をつまむ。蕎麦を食べる。キョウが笑っていた。

 酒はよく飲んだ。普段はブランデーをやっていて、飲む時に食料はほとんど口にしない。一本を空にして、ようやくまどろむといった感じだ。

 妻はその辺りを心得ていて、本当に食事をさせたい時はビールしか出さない。ビールで酔うことはまずなかった。仕事中に飲むことはないが、絶対に飲まないと決めている訳でもなかった。

 

「警察が普段、同盟軍のどの辺りまで手を出せるか知っているかね?」

 

 ビールはまだ半分ほど残っている。キョウが自分のお新香をタカギの方へ押しやった。

 

「さて。佐官、というのは高望みなのだろうな、恐らく」

 

「そうだな。正解は、伍長だ」

 

「なんだって?」

 

「それも現行犯という前提がつく。それ以上の階級になると、任意同行が限界だ。現行犯ならば一時拘束できるが、引き取りが来たら身柄を明け渡すしかない。後は検察官任せだが、ほぼ不起訴で終わるよ」

 

 キョウが箸で一度空を掴んだ。箸の先端がタカギに向いていることに気付いたのか、ざるの上に放り投げた。からんと音を立てた箸が片方、ざるから落ちた。

 

「条約と違いすぎる」

 

「しかし、現実でね。巣食っている、という言葉が近いかもしれん。連中はこの国に巣食い、表に見えない根を張っている」

 

 ビールを呷る。それは冷たい塊のように、タカギの肚に沈殿した。

 クリードの取り調べについて、課長に依頼した。課長とニビの署長が交渉し、その成否がタカギに伝えられる。断られたのならば、もっと上に話を持っていく。そうなる筈だった。

 やってきたのは、同盟軍の名代となったマチスだった。

 同盟軍に情報が漏れる程度ならば最初から想定していた。上へ上へと行けば、どこかに横道はあって当然だ。

 その横道がすぐ上にあるかもしれない。マチスを見た時に、そう思った。

 

「伍長が精々。それが、参謀部か」

 

 キョウが呟いた。

 ロケット団が行っている、同盟軍を通した資金洗浄。証拠次第では、ずっと先まで手を伸ばせる筈だ。少なくとも、伍長などで止まることはない。

 

「話は、わかった。警察内部の状況まで含めてね。私達二人で、仕掛けるかね?」

 

「私は警察だよ。そして君は、警察関係者ということになる」

 

 情報には守秘義務が課せられる。そしていざという時、その証言は証拠能力を失う。

 

「ならばどうする?」

 

「待つさ。私は、待つ刑事でね」

 

 グラスを持ち上げて、微かに残ったビールを呷った。キョウが腕を組んでいる。

 何を待つのか、キョウは訊かなかった。

 

 

 

 

 






月曜日にもう1話あげます



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14話

 

 

 

 

 

 一日が速かった。

 苦しみが短い訳ではない。むしろ、苦痛ほど長く感じた。一日を振り返ると、なにも成したことがない。だから、その日の終わりには速く過ぎたように感じるのだ。

 躰はとっくに癒えている。元々、洞窟内での炎と過呼吸によって酸欠を起こしただけなのだ。数ヶ所の切り傷と、倒れた時に右足首の軽い捻挫。数日大人しくしているだけで充分の負傷だった。

 窓の外を見た。数本の街路樹と隣家の屋根があり、そのずっと向こうにトキワジムの外壁が見えた。

 トキワにロケット団が潜伏していると、フミツキは知らなかった。なぜハナダの隠れ家からトキワに移されたのかも知らない。知らないままに、流されてきたのだ。

 最初に目が覚めたのはハナダの一軒家だった。ハナダ団員の隠れ家の一つである。見舞いと称して、代わる代わる団員が訪れた。クリードの顔が見えないことに気付くのに、大して時間は掛からなかった。

 自分に才能がないことなど、ずっと昔からわかっていた。

 勝ち続けるなど不可能で、悪の組織の敗北にはきついリスクが伴うことも承知していた。

 部隊を任された時は、自分の敗北に他人を巻き込んでしまうと思った。しかし、ロケット団に所属するならば誰でも覚悟するリスクでもある。他人を巻き込むことが心に重かっただけだ。

 自分が助かり、他人だけがリスクを負う。それは、全くの埓外だったと言っていい。

 共に戦った団員達はそれぞれの持ち場へと戻っていったようだ。一人だけ、フミツキに付き添うように療養していた団員がいたが、それもトキワに移る際に離れていった。

 誰もフミツキを責めなかった。直接率いた戦闘員の面々は、むしろフミツキを慰めようとしていたぐらいだ。

 仕方がなかった。やれるだけのことはやった。誰にも責任はない。

 慰めの言葉はそんなものだった。誰も悪くなくとも、結果に対して責任を負うのが隊長ではないのか。そう思ったが、口にはしていない。居たたまれなくなるだけなのはわかっていた。

 束の間、眠ったようだ。躰を起こした。いつの間にか掛けられたカーテンの隙間から、うっすらと一筋の夕陽が床からベッドを這い、フミツキの躰に迫っていた。もっと伸びて、脇腹から肩へと両断していけばいい。そう思ったが、それ以上陽射しは迫ってこずに、輪郭を薄ぼんやりとさせて、やがて消えた。

 躰を倒す。再び眠った。今度は三十分ぐらい眠っただろうか。

 深く眠ることができなくなっていた。長くても一時間で、酷いときは十分と経たずに目が覚める。短すぎる眠りは疲労と倦怠感をやたらと際立たせた。今の自分の顔は病人さながらだろう。

 ドアが開いた。フミツキは一度掛け布団に頭を伏せて、顔を揉みほぐした。

 

「おかえり」

 

 のっそりと顔を覗かせてから、サンドパンが入ってきた。フミツキが寝込んでいる間は自由にさせていて、昼にどこかへ出かけては、日が沈む頃にこうやって戻ってくるのが日課となっている。

 ベッドの傍までやってきたサンドパンが挨拶代わりに両手を挙げる。片手でそれに応えながら、フミツキはサンドパンの手の付け根、人間で言う左肩に当たる部分を盗み見た。

 負傷したのだということは、トレーナーとしての勘が教えてくれた。扉を押す時の重心の位置、歩き姿、右に比べて僅かに動きの鈍い左手。それら全てが、フミツキのトレーナーとしての勘に働きかけてくる。

 勿論、傷が残っている訳ではない。メディカルマシーンを使えばポケモンの傷はたちどころに治癒できる。よほど深い傷や、負傷してから長い時間が経過した場合を除けば傷痕が残ることはないのだ。

 ただ、それは形としては残っていないということで、負傷した記憶そのものが消える訳ではない。

 負傷部位を庇いながら動いていたポケモンが、傷が癒えた途端に元の動きに戻れるということはまずなかった。重傷の場合は一時的に幻肢痛に近い症状を発症した例もある。メディカルマシーンは、決して万能ではないのだ。

 

「おいで」

 

 ベッドを軽く叩きながら言うと、僅かに躊躇した様子を見せてからサンドパンが飛び乗ってきた。やはり、動きはぎこちない。

 首元や鼻先を柔らかく擦ってやる。背中の棘が春風に捲られた外套のようにふわりと膨らみ、ゆっくりと元に戻った。サンドパンにどこか漂っていた緊張や警戒は、それで解けたようだった。

 どこで、何をしてきたのか。フミツキの懐に戻ってきてもなお容易には解けない緊張感など、いったいどんな怪物と(まみ)えたというのか。

 問い質すことがトレーナーとしての責務だと、頭ではわかっている。しかし、言葉はいつまでも口を衝かなかった。

 サンドパンを抱き寄せて、フミツキは躰を倒した。サンドパンがするりと腕の中を抜け出して、器用に部屋の明かりを落とすと、再びフミツキの腕へと戻ってきた。

 久しぶりに深く眠れそうな気がした。安堵と自己嫌悪を、ほとんど同時にフミツキは感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 日差しが深々と突き刺さる気がした。盛りはとうに過ぎて、いよいよ沈むのを待つばかりの太陽でも、今のフミツキには厳しい光線だった。

 手洗いや入浴以外はほぼベッドの上で過ごしていたのだ。屋外に出たのは、トキワに来た日以来だった。

 サンドパンの後ろ姿が建物の陰に消えた。呼吸を四つ数えてから、フミツキはその背を追った。

 トキワの町並みが次々にフミツキの視界を通りすぎる。この数日間のうちにサンドパンは随分とトキワに精通したようだ。迷いのない足取りで進みながら、時折、住人に声をかけられている。

 散歩をしている男性、夕方に備えて掃除をしているポケモンセンター職員、道端に蹲っている酔っぱらいの老人。

 一言二言の言葉を投げ掛けてくる彼等と、それに反応するサンドパンを、フミツキは建物の陰から盗み見ていた。

 私は何をしているのだろう。それはサンドパンを尾行し始めた時から。いや、もっと前に、ハナダのベッドに躰を横たえている時から考えていたことだ。

 自分は一体何をしているのか。復帰していく同僚を見送った。わざわざ見舞いに訪れた人を前に、怪我人らしく振る舞った。掛け布団を少し捲れば、完治して捻挫の痕もない脚を見せることもできたのだ。

 また、サンドパンが誰かと話していた。トキワの住人達は地面タイプに対して親しみを持っているらしい。トキワ周辺には生息していないサンド系列についても、ある程度の理解はあるようだった。

 サンドパンが動き出す。いくつか呼吸を数えてから、フミツキも建物の陰を出た。

 サンドパンと話していた男とすれ違い様、会釈をした。男はどこか戸惑うようにフミツキを窺いながら会釈を返してきた。

 サンドパンのトレーナーだと認識されなかったことに、しばらく歩いてから気付いた。滑稽な話だ。トレーナーらしからぬ行動をしながら、トレーナーであるという自認だけはある。

 町中を抜けると、サンドパンは真っ直ぐ西へ進んでいった。遠方にはセキエイ高原へと連なる山々が日差しの中で影を伸ばしていて、風向くままに空から地へと落ちる雲の影を、無造作に呑み込んでいた。道は意外なほど拓けていて、山に至るまでの数キロを見渡せる。

 サンドパンが足を止め、木陰に座り込んだ。何をするでもなく、フミツキはその姿を見守った。

 一時間ほど経っただろうか。サンドパンが立ち上がり、遠く一点を見詰めた。フミツキも目を凝らした。

 男。山と雲の影が入り交じった大地から、不意に湧き出てきたように見えた。トキワへ向かって走っているようだ。トレーニングかなにかだろう。興味を失いかけたフミツキは、男の走りに目を見開いた。

 速い。それも、ただ速いというだけではない。脚力自慢の男が八百メートルを走るような速度を、既に二キロ以上続けていた。遥か遠くに見えたと思った姿は、あっという間にサンドパンの前まで来て足を止めた。

 

「また君か。あれだけ打ち倒されて、よく気力が続くものだ」

 

 息を整えながら話しかける男の顔を見て、フミツキは声をあげそうになった。サカキ。カントー最強のジムリーダーの姿がそこにあった。

 サンドパンが臨戦態勢を取る。サカキが仕方なげに、しかし、どこか楽しげな雰囲気も醸しながらモンスターボールを投げた。

 現れたニドキングの威容には、声を出そうという反射すら起きなかった。とにかく、大きい。並のニドキングの倍近い大きさの躰には、余分なものがほとんど見受けられない。小柄なサンドパンとの対比は、どこか悲劇的にすら見える。

 

「出てきてやってはどうだね?君のサンドパンは、例え一匹でも戦うつもりのようだが」

 

 フミツキが身を隠している木を横目に見ながら、サカキが言った。姿を見せると、サンドパンが驚いたように跳び跳ねながら駆け寄って来た。フミツキはその頭を撫でた。

 

「私のニドキングと戦いたがるものはそう多くない。まして連日挑みかかるなど、トキワジムの者でも稀なことだ」

 

 サカキが言う。フミツキは慌てて立ち上がった。

 

「構えなさい」

 

「あのっ、サカキさん」

 

「君のサンドパンは力に飢えているよ。それも、随分と真っ当な飢え方だ。つまり、トレーナーの為に強くなろうというのだな」

 

「私は」

 

「君がトレーナーであるならやるべきことは、いや、サンドパンの為にしてやれることは一つしかない」

 

 言い切って、サカキは目を閉じた。その佇まいは、鞘から放たれる前の刃に似ていた。

 サンドパンの為にしてやれることが私にあるだろうか。してやれる力が、私にあるだろうか。

 サンドパンと目が合う。無邪気に笑顔を見せると、サンドパンはニドキングに向き合った。しかし、動こうとはしない。フミツキから指示が出ると信じて疑わないのだ。

 私は何をしているのだろう。ここしばらく、ずっと繰り返した疑問だった。今でも、自分の感情に整理はつかない。しかし、何をすればいいのかは、目の前にはっきりとした形で示されている。

 力は足りないかもしれない。いや、サカキという相手を考えれば足りる筈もないだろう。

 それでいいとは思わなかった。ただ、サンドパンのトレーナーとすら認識されない滑稽さは、もう耐えられないという気がする。それならば、力不足のトレーナーとして認識される方がずっとマシだ。

 

「フミツキといいます。ジムバッジは、二つしか持っていません」

 

「構わんよ。目と目が合った。そういうことにしよう」

 

 サカキが目を開く。思わず、唾を飲み込んだ。今まで出会ったどのトレーナーでも比類できないほどの、圧倒的な存在感だった。それでも、あくまで一人のトレーナーなのだ。そしてフミツキは、サンドパンのトレーナーだった。

 

「行きます」

 

 試合は一方的という言葉では表せないほど、無惨に進んだ。フミツキが声を張り上げる。答えるようにサンドパンが駆け、時に跳び、時に這う。それら全てが、サカキとニドキングによってあっさりと受け止められた。咄嗟に反応しているのではない。ほとんど未来予知としか思えないほどの先読みで、こちらの行動を潰しているのだ。オツキミ山で赤い帽子の少年が行った試合運びとどこか似ていた。違うのは、先手を取ることで行動を潰した少年に対して、サカキはあくまで後手で対応していることだった。絶対に読み間違えない自信がサカキにはあるのだろう。事実、サンドパンの攻撃は爪の先すら掠っていなかった。

 『こうそくスピン』で突撃しようとしたサンドパンが、明後日の方向へと動き、木に接触しながら止まった。『おだてる』だろう。いつ技にかけられたのかは全くわからなかった。尾の一撃にサンドパンが弾き飛ばされる。辛うじて受け身を取ったようだが、追撃を躱す余力はどこにもなかった。

 ニドキングが迫ってくる。不意に、眼を閉じてしまいたい衝動がフミツキを襲った。

 

「最後まで勝負を見続けなさい。私は、そう言った筈だ」

 

 声。弾かれたように顔をあげ、フミツキは眼を閉じそうになったことを恥じた。サンドパンが爪を振り上げている。迫りくるニドキングに一矢報いようと、力を振り絞っている。

 

「『ひっかく』」

 

 叫んだ。最後の一撃を加えようとするニドキングの尻尾を、確かにサンドパンの爪が捉えた。それで終わりだった。瀕死による躰の収縮を始めたサンドパンへ、フミツキはモンスターボールを向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ボス」

 

 呼びかけたフミツキを一瞥して、サカキはニドキングの尻尾を観察していた。その横顔を、フミツキはぼんやりと見遣った。

 最後まで勝負を見続ける。フミツキがボスから言われた言葉だった。

 考えてみれば、サカキがボスであるというのは想像できることではあった。ゲームコーナーの支配人は、ボスが出陣すればキョウを突破できると言ったのだ。キョウが四天王級の腕前とされる以上、それを成し得るのは他の四天王かチャンピオンであるワタル、そしてワタルと互角とされるサカキぐらいだろう。

 サカキがニドキングを触診している。その姿は僅かな不調も見落とすまいとする誠実なトレーナーそのもので、事実を知った今でも悪の組織の首領とは到底見えなかった。

 やがて、ニドキングをボールに戻すとこちらに向き直った。口を開こうとして、慌ててフミツキは周囲を見回した。

 

「心配するな。付近には誰もいない。ピクシーが聞き耳を立てている、ということもないさ」

 

「しかし」

 

「修行をしていた頃に敏感になってね。本気で気配を消したキョウを察知できるというのが密かな自慢でもある」

 

 そう言って、サカキは道沿いの小岩に座った。促され、フミツキもその向かいに腰を降ろす。

 いざ対面に座ると、言葉は出てこなかった。訊くべきことがあるという思いと、なにも知らずにいるべきだという考えが頭の中で打ち消しあい、言葉まで巻き添えにしている。

 

「君は多分、苦しむだろうな」

 

「え?」

 

「逃げるべき時というのが人間にはある。弱ければ弱いほど、その機会は多いだろう。私の見る限り、君が直面した問題は逃げるに足るものだった」

 

「そう、なんでしょうか」

 

「ロケット団にいればもう一度レッド君と立ち合うことになるかもしれんぞ。君が敗北した、赤い帽子の少年だ」

 

 レッド。赤い帽子の少年。圧倒的な才覚で、フミツキが育んだすべてを擂り潰した少年。名前を聞いただけで、フミツキは鳥肌が立った。

 

「マサラタウンには時々ああいうのが生まれるそうだ。古くはオーキド・マサラが、直近ではオーキド・ユキナリがそうだな。レッドという少年もその類いだろう」

 

「天才、ですか」

 

「怪物というべきだろう。ワタル君などもそうだ。私もあまり、人のことを言えた義理ではないがね」

 

 そう言って、サカキはニドキングが入っているボールを撫でた。確かに先ほど感じた威圧感は、真剣勝負ではないにも関わらずレッドのそれを凌駕していた。

 

「目を覚ました時、逃げるべきだったんでしょうか?」

 

「逃げて当然、と言っただけだ。君は観察力があり、自身の身の丈も知っている。君の自己認識は、私から見ても間違っているものではない」

 

「私は」

 

 言葉が詰まった。サカキは急かすでもなく、時折地面を見詰めていた。

 

「自分は何をしているんだろうと。そればかり考えていました」

 

「そうか。ならば私は、見誤ったということだな」

 

「そんな」

 

「何をしているのか悩むというのは、何をするべきか考えていたということだ。逃げる者の思考ではない。ただ、苦しむことになるだろうが」

 

「弱いから、ですか」

 

「君の場合は立ち向かうべき相手が悪い」

 

 サカキが笑った。ふと、フミツキは動悸が速くなるのを自覚した。

 なぜロケット団に集まった人間がこの男に惹かれるのか。それが、なんとなくわかった気がする。

 複雑なのだ。サカキという男は、強者が持ち得ない筈の複雑さを持ち、理解し得ない複雑さを理解しているのだ。それも、物事を単純に処理するだけの力と精神を持ちながら。

 道を踏み外す人間はどこかに弱さを持っている。社会に理解されずに切り捨てられるような、そんな弱さだ。

 クリードは自制ができずに踏み外した。フミツキも、才能の壁に向き合えずに踏み外した。どちらも、社会から理解は得られないだろう。内面の動きが複雑だからだ。そんな人間が縋りたくなるものを、サカキは備えていた。

 笑みを収めたサカキが、枯れ枝を拾い地面に何かを描き始めた。

 

「ハナダの洞窟の最奥にミュウツーというポケモンがいる。それを観測するために、陽動が必要だった。ハナダの洞窟は協会の職員が常駐しているのでね」

 

「え?」

 

「敗北は君の弱さ、あるいはレッド君の強さに依るものだ。ただ、君が作戦の全体像を知っていれば違う展開が拓けた可能性はあると思っている」

 

 地面に丸が二つ描かれ、その中心に星形の図が置かれた。

 

「聞くかどうかは任せよう」

 

 枝が動く。星形にハナダの洞窟という名が彫られると、二つの丸にもそれぞれ内容が描かれていく。一つはオツキミ山だ。

 今さら、背を向けようという気はなかった。ただ、気になることはある。

 

「機密になるのではありませんか?私が聞いていい領分を越えているように思います。機密の保持に関しても正直、自信はありません」

 

「心配はいらん。ロケット団に残っているのはこれだけだ」

 

「これだけ?」

 

「次の作戦が成功しなければ、ロケット団は解散ということになる。成功すれば全てが新たな段階に進む。成否を問わず、今ある機密など役に立たなくなる訳だ」

 

 事も無げにサカキは言った。

 

国家(システム)に目を付けられているのが一つ。目的に対する最適化、言い換えれば先鋭化が進みすぎたのも一つだな。次の作戦が成就しなければ、その後の展望はない」

 

「わかりました」

 

「ほう、なにがわかった?」

 

「ただ、全力を尽くすだけだということが」

 

 サカキが頷いた。やはりどこか、気のない表情をしている。

 

「恐らくは終戦直後、一匹のポケモンが研究施設を脱走した。名はミュウツー。ミュウの遺伝子を用いて生み出された、対進駐軍用の人造ポケモンだ。類稀な戦闘力と、同盟軍が用いる電子機器、兵器に対して強い妨害能力を保有している」

 

「同盟軍の兵器、ですか」

 

「連中は電気タイプのポケモンを主力として電子機器や兵器と連動した作戦行動を主眼としている。手持ちの電気タイプ一匹だけで、複数の戦闘車両などを無人走行させることが可能と言えば、その厄介さはわかるだろう」

 

「つまり、ミュウツーを用いてそれらを妨害、撃破するというのが最終目標ですか。私たちの作戦はミュウツー捕獲の下準備だった訳ですね」

 

「捕獲については想像の通りだ。だが、私は同盟軍をもう少し優秀に捉えている。ミュウツー一匹でどうにかなるのならば、旧軍が敗戦を喫することもなかった」

 

「ミュウツーでは勝てない、ということですか?」

 

「私はそう考えている。ミュウツーを生み出したフジという研究者も同意見だった」

 

「では」

 

 どうするんです、というフミツキの言葉をサカキの枝が遮った。地面に描かれた図を枝がなぞり、やがて一点を指して止まった。ハナダの洞窟。

 

「まさか」

 

「ハナダの洞窟の野生ポケモンを捕獲し、団員に支給する。同時に溜め込んだ技マシンを開放することで、野生ポケモンにありがちな技の不足を補う。高レベルで技の揃ったポケモン軍団ができあがる訳だ。ミュウツーの役割は、同盟軍の兵器を抑え込んでポケモンでの勝負に持ち込むことだな。これで、同盟軍と五分五分の勝負を展開することができる」

 

「賭けの要素が強すぎる気がします。高レベルのポケモンを支給されても、指示を出すことは」

 

 そこまで口にしてから、フミツキは愕然とした。ある。高レベルで、他人から貰ったポケモンであっても、指示を聞かせる手段が一つある。そのことに思い至ったのだ。

 

「ジム、バッジ」

 

「ポケモンを落ち着かせる作用を持った、特殊な鉱石でできている。特にグリーンバッジは、鉱石そのものと言ってもいいだろう。最低限の信頼関係は必要になるが、ハナダの洞窟のポケモンであろうと指示を出すことはできる」

 

 そして、グリーンバッジを大量に所持しているのはこの世にただ一人。トキワジムジムリーダーであるサカキだけだろう。

 フミツキは条件反射のように、なにかの欠点、落ち度を見つけようとした。しかし、見つけきれなかった。目の前の男は、ハナダの洞窟のポケモンであろうと問題なく捕獲できるだろう。大量の技マシンはロケット団が蓄えており、グリーンバッジは他ならぬサカキ自身が唯一の保有者といってもいい。作戦に必要な要素のほとんどは、既に手中に収まっていた。不確定な要素は一つだけだ。

 

「ミュウツーは類稀な戦闘力を持っているのですよね?捕獲は可能なのですか?」

 

「無理だな」

 

 あっさりとサカキが言う。

 

「一度、ハナダの洞窟で戦ったことがある。まだ自己進化の途中だったが、私の手持ちを壊滅させてくれたよ。ニドキングがいなければ、今頃私はこの世にいないだろう」

 

「それほどに」

 

「再生能力も持っている。あれを弱らせて捕獲など夢のまた夢だろう。全霊を尽くせば瀕死に追い込めるかもしれんが、そうなるとキャプチャーネットにかからない」

 

 モンスターボールは、瀕死時に躰を縮小させるポケモンの性質を利用したものだった。モンスターボールに依って縮小を起こすことで捕獲するのだ。先に瀕死にしてしまうと、捕獲は不可能になる。

 ミュウツーが捕獲できないのならば、作戦は成り立たなくなる。そう危惧したフミツキを尻目に、サカキが枝を動かした。表情は相変わらず、興醒めて見える。

 枝が止まった。ハナダの南。ヤマブキシティ。

 

「三年前、ある情報が入った。シルフカンパニーが新型の、これまでにない性能を持ったボールを開発するという噂だ。実際はもっと前から動いていたのだろうな。噂が入った頃には既にプロジェクトの立ち上げも終わり、スケジュールも稼働し始めていた」

 

「三年前というと、もしかして」

 

「競合他社が山吹組を動かして、シルフカンパニーを妨害しようとした。私は山吹組を叩き潰すことに決めたよ。それだけの価値が、シルフカンパニーのプロジェクトにはあった。警察の眼をタマムシから逸らせたのは副産物のようなものだな」

 

 地面に文字が描かれる。M。

 

「Mプロジェクトは箝口令が敷かれるようになった。息のかかった研究員を送り込めたのは幸運だったな」

 

「そのボールなら、ミュウツーでも?」

 

 サカキが頷いた。

 

「マスターボール、と呼称されているらしい。もっとも、こちらの研究員は末端になんとか潜り込んだだけだがね。ボール本体や研究資料には近付けもしないようだ」

 

「マスターボールを盗み出すのが次の作戦ですか」

 

「いや」

 

 サカキが首を振る。口の端に、ちょっと楽しげな笑みが浮かんでいた。

 

「シルフの現会長は一角の人物だよ。警備の徹底は当然として、盗まれた場合のことも想定している筈だ。マスターボールにはセーフティが掛かっている可能性が高い。それも、自壊しかねないようなセーフティがね。我々が狙うのは設計図だ」

 

「設計図の場所は?」

 

「わかっていない。データのみなのか、紙媒体に出力されているのかすら不明だ」

 

 それでは、盗み出すのは不可能だ。見つけるだけでも随分な困難だろう。シルフカンパニーの本社ビルを、上から下までしらみ潰しに探さなければならない。

 そこまで考えて、フミツキは一つの方法に思い至った。まさか、という思いと、この男ならやりかねないという納得が同時に浮かんだ。

 

「シルフカンパニー本社ビルの占拠」

 

 サカキが笑みを深めた。

 

「悪くはない。しかし、スケールに欠けるな。シルフ周辺の区画は通行をゲートで制限されている。本社ビルと言わずとも、区画まるごと孤立させることも不可能ではない」

 

「それならば、撤退時にも余裕ができます」

 

「ゲートには既に手を廻してある」

 

 フミツキはため息を吐いた。自分の頭で思い付くような懸念など、もうなにも浮かばない。全て、自分に想像できる範疇を超えた勝負となっている。スケールの差は、そのまま人間としての器の差だろう、とフミツキは思った。

 

「一つだけ、お訊きしても構いませんか」

 

「言ってみなさい」

 

「同盟軍を倒したとしてロケット団は、いや、ボスは何に成るのですか?」

 

 それだけが、フミツキにはよく見えなかった。これだけの器を持った男だ。非合法な手段など用いなくとも、いくらでも成り上がることはできるだろう。

 現時点でも、カントーを代表するスターの一人といっていい。これだけの思慮とカリスマがあれば、政治家になって首長を目指すことも容易いように思える。

 

「ふむ。私の目指すところか」

 

 サカキが枝を小刻みに動かした。なにかを描いている訳ではない。形を成さない線が、訥々と地面に横たわった。

 

「重力というものがあるだろう。これは人々の自由を奪うと同時に、生活を安定させてもいる」

 

 語りだした内容は、質問となんら関係ないように思えた。フミツキは一つ相槌を打って、続きを促した。

 

「それを悪いというつもりはない。自由などというものが、世間が標榜するほどに甘美な豊かさを備えている筈もない。重力の中で身を低くしていれば世界は、まあ優しいものだろう」

 

 枝は動き続けている。描かれる線は全て直線で、鋭角に曲がっていく。それは全て内側へと入り組んでいき、やがて塗り潰された円のようになった。

 重力というのが同盟軍を指すのは、フミツキにも理解できた。彼らの存在はカントーを締め付け、同時に安定ももたらしている。

 不意に、枝が激しく動こうとした。円の中心から一気に外側へ突き抜けようとし、耐えきれずに手元から折れた。サカキがちょっと苦笑した。

 

「私は、この重力を無くしてしまいたい。多くの人々が無重力という、自由の苦しみに藻掻く羽目になるとわかっていてもね。自由で、苦しく、懸命に生きなければいけない世界を作ってしまいたい。そして、戦いたい。懸命に、戦いたい。不自由の安穏を我慢できなくなってしまったのさ」

 

「そのために同盟軍を倒すのですか?」

 

「ロケット団が新しい重力になってしまうだけだな、それは。ロケット団と同盟軍という逆方向の力が互角に向き合うからこそ、無重力は生まれる」

 

「なるほど」

 

「私が生まれたのは終戦後だ。進駐軍のいない時代を、私は知らない」

 

「私などは、在って当たり前の存在でしたよ。同盟軍がいない世界を考えたことがありません」

 

「考えても意味はない。そういう時代に放り出されれば、それなりに身を処すだろう。君は私が何に成りたいのかと訊いたが、成りたいものなどないのだよ。一人のポケモントレーナーとして全身全霊で、無重力の世界に挑みたい。そのために世の中を苦しめようとしている」

 

「人々を無重力の世界へと連れていく。ロケットとは、そういうことですか」

 

「言い出したのはゲームコーナーの支配人だ。なかなか洒落たことを言うと感心した」

 

 サカキの口元が綻んだ。それはどこか少年のような、無邪気な笑みだった。心のどこかが、弾んだ。

 

「微力ながら、お手伝いします」

 

 笑みはもう消えていた。どこか望洋とした表情でサカキが頷いた。

 

「まあ、しばらくはゆっくりするといい。君のサンドパンはトキワジムでも人気でね。稽古をつけてやろうという者が何人かいる」

 

「ヤマブキに移動しなくともいいんですか?」

 

「タマムシの動きを待っている。老いぼれ犬はアジトの存在を掴んでいるだろう。多少警察に手柄を立てさせてやった方がこちらも動きやすい。それに、タマムシ次第で老いぼれ犬の肚も読める」

 

「肚、ですか」

 

「まともな刑事なら警察組織の力を頼るだろう。そして、同盟軍の介入を招く」

 

「頼らなければ?」

 

「無重力に生きている男が一人、という訳だ」

 

 笑いながら立ち上がったサカキが、腰のモンスターボールを宙に翳した。どこか凄惨な予感を孕んだ鈍い斜光が、フミツキの爪先を横切った。

 

 

 

 

 



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15話

 

 

 

 

 三日も屯っていると、住民の顔や町の性質も見えてくる。刑事の習性のようなものだ。

 昔ながらのタマムシと言ってよかった。閑静な町に、背の低い家が軒を連ねている。行き交う人々の足並みは緩やかで、ちょっと会釈を交わしながらすれ違って行く。十一時を過ぎる頃になってようやく、個人経営の食堂が暖簾を店先に掲げた。これがタマムシの中部から北部ならば、二十四時間営業のチェーン店がいくらでもあるのだ。

 サイクリングロードができる前のタマムシは、都市全体がここと同じような空気感を持っていた。ヤマブキに近いということがほぼ唯一の取り柄で、これといった産業もなく、無駄に広い土地になんとなくという感じで植えた花畑だけが、街の特色だったのだ。

 サイクリングロードができ、その利用者を待ち構えるような位置にタマムシデパートができた。タカギが少年の頃の話だ。

 そこからは速かった。タマムシを東西に走っていた旧道沿いの家々に一斉に立ち退き交渉が行われ、完了を待たずに建物の取り壊しが始まった。周囲が次々と更地と化していく中で、立ち退きを拒否し続けることができる者はいなかった。拡張された旧道はメインストリートなどと呼ばれ、タマムシはカントー第二の都市となった。

 決して悪いことではないが、失ったものはある。ここには、その失ったものがまだ静かに息づいていた。

 男が一人、タカギをちらりと見て、下卑た笑みを浮かべた。同類を見る眼だ。馴れ馴れしく近付いてきた男の鼻先に、タカギは警察手帳を突きつけた。飛び上がった男が曖昧な愛想笑いを浮かべると、風でも避けるように身を縮ませながら立ち去っていった。タカギはコートの襟を一度立たせてから、丁寧に折り込んだ。

 

「もう。あの方は放って置いてくださいとお頼みしましたのに」

 

 ジムから出てきたエリカが、着物の袖を揺らしながらちょっと周囲を見回して言った。

 

「異性の視線が大事だというのはなんとなくわかるが、刑事としては賛同できんよ。もう少しマシな方法はないかね?好色な中年男の覗きなど不快極まるだろう」

 

「だからこそ、ですわ。不快な視線を意識しないのは不可能ですから。うちの子達、スカートが翻らないような歩き方をすっかり身に付けてしまいました」

 

「作法というよりは、自衛手段だね」

 

「あら。作法がただの見栄え造りだと思われているのなら、とても心外です。なにかしらの手段、合理的な理屈から作法は生まれるものですよ」

 

「そういうものかね。傍目には、合理性など見つけられんが」

 

「タカギ様が古いライターをお使いになられているのと同じですわ」

 

 クスリと、エリカが品の良い笑みを溢した。

 警察では年に二回、ポケモンバトルについての講習があり、ジムのある町はジムリーダーが、それ以外は協会が認めた有力なトレーナーが指導を行うこととなっている。

 タマムシは当然エリカを教官に迎える訳だが、彼女の指導は当初難航した。

 警察では、炎タイプや飛行タイプをパートナーとする者が多かったのだ。特に、初代警視総監の相棒だったとされるウインディに憧れる者が多く、ガーディ、ウインディは警察のシンボルとも言われているほどだ。

 不慣れな環境で不慣れなポケモンについて指導することがエリカの大きな負担になっていた。

 白羽の矢が立ったのが、タカギだった。ウツボットを相棒とするタカギはエリカにとっても指導しやすく、練習台には最適だったのだ。講習前にエリカが訪ねてくるのが通例のようになり、多少話をする間柄になった。

 若い刑事などは、羨望の眼差しでタカギを見たりする。苦笑いするしかなかった。遅くに出来た息子と一つ二つしか変わらない年齢で、並んで歩くと滑稽な気分さえするのだ。羨望に添うような実態がある筈もなかった。

 

「それで、ご用件は?覗きに来た、というのなら、(わたくし)としては歓迎いたしますが」

 

「現役の警部が覗きか。洒落にならないな、それは」

 

「それは残念。今日はミニスカートでも穿こうかと思っていましたのに」

 

 タカギはエリカの横顔を盗み見た。薄く浮かんだ笑みを手の甲と袖で隠している。

 

「どうも、機嫌が良くないらしいな」

 

「ポケモンセンターへ行ってみることをお勧めいたしますわ。タカギ様の探し物はそちらです」

 

「探し物?」

 

「待ち人、と言った方がよろしかったでしょうか。タケシさんから、色々とお話は伺っていますので」

 

「そうか、ニビのジムリーダーから」

 

 オツキミ山への道中にレッドを同行させることを勧めたのがタケシだった。当然、新聞に出た少年という文字が誰を指しているのかもわかっただろう。

 

「有力な挑戦者について、事前に連絡を頂いたりすることもありますわ」

 

「試合はもう?」

 

「今朝早くに。私が一蹴されただけの試合でしたが。三日も張っていらしたのに、タカギ様の到着まで持たせられず面目もありません」

 

「張り込みが無駄になるなど、刑事をやっていれば日常茶飯事だよ。それより、君の目から見てレッド君の実力はどれほどだね?」

 

「バッジ三つ用のパーティーではどうしようもありませんわ。私が岩や水タイプのポケモンを使ったとしても勝負にはならなかったでしょう」

 

「それほどか」

 

「これでも抑えられている方なのですよ。あの方の瞬発力、自由な発想はむしろルール無用の戦いでこそでしょう。試合形式の枷を外せば、バッジ八つのトレーナーでもどうなることやら」

 

「バッジ八つとなると、一流のトレーナーになるが」

 

「ですから、そう申し上げているのです。ルール内であっても既に六つは軽く取れる実力だと思いますわ。あのリザードが進化する頃には、ジムリーダークラスのトレーナーになることでしょう」

 

 タカギは腕を組んだ。エリカの言葉が、真に迫ってはこなかったのだ。

 間違いなく天才ではある。しかし同時に、子供でもあった。

 

「オツキミ山の頃にどれほどのお手前だったのかは存じませんが、おそらくタカギ様の想像とは別物となっておりますよ」

 

「男子三日会わざれば、ということか」

 

「タケシさんの言葉を信じるなら、元々阿蒙などとは程遠いでしょう。そこから更に躍進したのですから」

 

「私の想像など超えていく訳だな」

 

「タカギ様があの方をどうしたいかは存じませんが、恐らくは、期待の上を行くと思いますわ」

 

 含みを持った流し目を送りながら、エリカはそう言った。タカギは礼を言い、足を北東へ向けた。

 まだ十一時になったばかりだ。ポケモンセンターは空いていて、壁際の椅子に腰かけているレッドはすぐに見つかった。

 

「やあ」

 

 片手を挙げたタカギのことを、レッドは一瞬思い出せなかったようだ。僅かに目を白黒させてから、思い至ったように、ああ、と声を漏らした。

 

「タカギ、さん?」

 

「思い出して貰えたかね」

 

「その、はい」

 

「改めて名乗っておこうか。タマムシ警察のタカギだ。ジムリーダーとは多少の仲でね。君のことは色々聞いたよ」

 

「タマムシの方だったんですね」

 

「旨い飯屋ぐらいなら、いくつか案内できる。オツキミ山では随分助けられたことだし」

 

「いえ、そんな」

 

「好意には甘えるものさ。どうせ、今回の賞金もモンスターボールへ消えるのだろう?」

 

「はい」

 

「タマムシではまともな食事もできなかった、などと思われるのも地元民として看過できんね」

 

 レッドがはにかんだ。了承の意と受け取ったタカギが歩きだそうとするのをレッドが手で制し、傍らのリザードを観察し始めた。特に右腕は、細かく触診している。

 

「『まきつく』を受けたんです。右腕だけ、ちょっと引っかかってしまって」

 

「メディカルマシーンの治療は受けたのだろう?」

 

「なんとなく」

 

 そう言って、レッドは視線をリザードに集中させた。

 なんとなく気になる、あるいは不安になる。そういうことだろう。言葉を切ったのは口下手故か、それともポケモンセンターの職員に配慮したのか。

 タカギも近くの椅子に腰を降ろした。言葉こそ丁寧だが、頑なな気配をレッドは滲ませている。梃子でも動きはしないだろう。

 コートの内側を探った。煙草とライター。タカギは周りを見回して、苦笑いした。ポケモンセンターは当然禁煙で、喫煙所は外、という案内が天井からぶら下がっている。煙草を内ポケットに仕舞い直して、コートの襟を掻き合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いくつかの候補の中からレッドが行きたがったのはラーメン屋だった。それも、手頃な値段とメニューの豊富さを売りにした大衆店である。

 レッドの前に運ばれてきたラーメンを見て、タカギは閉口した。秘伝のタレにマトマの実の絞り汁を混ぜたというラーメンは、真っ赤な表面から立ち上る湯気ですら、咳き込みそうなほどの刺激臭を漂わせていた。

 

「辛いものが好きなのかね?」

 

「いえ。でも、慣れました」

 

 レッドは一回り小さい丼にラーメンを取り分けながらそう答えた。横には、目を輝かせたリザードが座っていて、その手にポケモンでも使いやすいように改良されたスプーンフォークを握っている。

 辛味と渋味の合わさったマトマの実は、戦闘を得意とするポケモンに好まれることが多いようだ。レッドのリザードの好物でも不思議はなかった。

 タカギは自分のラーメンに口を付けた。なんの変哲もない、醤油ベースのラーメンである。

 

「そういう特訓方法でもあるのかね?つまり、手持ちのポケモンと同じ食事を取るとか」

 

「さあ。聞いたことはないです」

 

「君のオリジナルという訳か」

 

「特訓ってつもりもないんです。ただ、同じものを食べたいと思っただけで」

 

 事も無げに言って、レッドはラーメンを啜った。その横では、リザードが器用に麺を口に運んでいる。

 不意に、タカギは羨望に襲われた。タカギが子供の時分には、旅などする余裕はなかった。タカギがではなく、国全体がそうだったのだ。だから、旅を羨むことはなかった。若い刑事などがジムバッジをちらつかせながら昇進していくことも、苦々しくはあっても羨ましいとは思わなかった。出世コースに乗るためにジムバッジが必要などという風潮ができ、いつのまにか慣習となって若い連中を押し上げた。それだけのことだった。

 先に食べ終えたリザードが、物足りなさそうに一つ鳴いた。レッドが自分の蓮華に麺を乗せ、リザードの器に移した。そこには慣習もなにもなかった。

 これが、旅か。一人と一匹を眺めながら、タカギは胸中で呟いた。麺を啜っていたレッドが、顔を上げてタカギを見た。いつの間にか鼻歌をやっていた。誤魔化すように、タカギはコップの水を飲んだ。

 

「一つ、頼みがある。付いてきてくれんかな」

 

 食事を終え、人心地ついていたレッドへタカギは言った。レッドは束の間、望洋とした眼でタカギを見つめ、行き先も訊かずに頷いた。タカギは伝票を手に取り店員を呼んだ。

 昔ながらのタマムシが左右に広がっていた。背の低い家々が密集し、窓から道路へと昼食時らしい喧騒が溢れている。内緒話をするように肩を寄せあった主婦達が、その距離からは想像もできないような大声で世間話を交わしていた。その横では手持ちらしいラッタが時折髭を揺らしながら眠っていた。

 レッドが意外なものでも見るように辺りをキョロキョロと見回した。想像の大都会、タマムシシティとは様相が違ったのだろう。どんな街も、いくつかの貌を持っている。タマムシはその落差が激しいというだけのことだ。

 不意に、視界が開けた。道幅は広く、ビルが建ち並び、ネクタイを締めたサラリーマンやヒールのオフィスレディが混雑の中をうつむきがちに、しかし器用にもぶつかることなく行き交っている。ポケモンを連れ歩いている者などおらず、モンスターボールは窮屈そうにベルトやカバンの内側に収まっていた。

 振り向けば、すぐ目の前に古いタマムシが広がっている。南北の境界線となるこの通りは、タマムシという街に走った亀裂のようでもあった。その亀裂に忍び込むように、ゲームコーナーは建っていた。

 この三日間、心のどこかで燻っていた逡巡が消え去っていた。当たり前のことだ、と思った。間違いなくレッドは子供だ。しかし、ジムリーダーからジムバッジ八つのトレーナーと互角と評され、タカギに羨望を抱かせた男でもあるのだ。

 ゲームコーナーを通り過ぎ、裏手の建物へ向かった。

 

「入って右奥の張り紙に開閉スイッチが隠されているらしい。入口は手前の床で、つまりは地下アジトという訳だな。ロケット団というのは大変な組織だよ」

 

 レッドに背を向けたまま、タカギは続けた。

 

「色々と事情があって、私は入ることができないんだ。公に君に頼むこともできない」

 

 レッドが自身の判断で突入し、そこで起きる全ての出来事の責任を自分で負わなければいけない。それで初めて、同盟軍の介入を防いだままアジトを世間に晒すことができる。

 無責任としか言いようがなかった。断られて当然の話だ。タカギは振り向いた。望洋とした眼で見上げてきたレッドが小さく顎を引いた。頷いたとも、そうでないとも取れる仕草だ。

 

「オーキド博士にも、できるだけロケット団を倒してほしいと頼まれてますから」

 

「何?」

 

 擦れ違い様に呟かれた言葉に、タカギは顔をあげた。まるで見知らぬ他人のように、レッドはタカギを無視したまま建物へと歩いていった。その背をしばらく見送ってから、タカギはゲームコーナーへと向かった。

 エントランスに公衆電話があった。受話器を取り、小銭を投入した。

 

「始めるぞ。彼はアジトへ行ってくれた」

 

「わかった。予定通り、私は脱出ルートを張っておこう」

 

「小者は捨て置いていい。必要なのは資金ルートに関する証言だ」

 

「精々、善意の第三者をやってくるさ。暴力組織の幹部級だけを狙う、第三者をね」

 

 受話器の向こうで、キョウが笑いを洩らした。二、三個の決め事を確認して、タカギは受話器を置いた。ポケモンや盗品の技マシンの扱いなどで、改めて確認するほどでもなかったが、なにかを声に出しておきたい気分だったのだ。

 自動ドアを潜り抜けると、不意に活気づいた騒音がタカギを包んだ。

 

「いいかね?」

 

 ゲームコーナーは盛況だった。スロットの列を覗き込み、最奥に二つ並びで空いている台を見つけてから、店長に声をかけた。

 

「これはタカギ様。何かご用でしょうか」

 

「スロットを打ちたくてね」

 

「それはもう、ご存分に」

 

「ところが、コインケースを失くしてしまった。コインケース無しでは打てない決まりだろう?」

 

「困りましたね。確かに、あれが許可証を兼ねている部分はあります。紛失された場合は再度のご購入をお願いしているのですが」

 

「生憎手持ちがない。そこで、君に三枚の貸しがあったことを思い出してね」

 

「あれはお返しした筈ですよ」

 

「君が勝手に置いた。私は拾っただけさ」

 

「それはまたご無体な」

 

 店長が苦笑いした。

 

「なにもコインケースを渡せと言っている訳じゃない。一緒に打とうと誘っているのさ」

 

「勤務中なんですがね」

 

「接客は立派な勤務だろう」

 

 タカギが歩きだすと、ちょっと肩を竦めてから店長も付いてきた。二つ並びのスロット。タカギが何かを言う前に、店長はコインを一山、タカギの目の前に積んだ。

 

「意外に几帳面だね。灰皿にでもぶちまけられると思っていたよ」

 

「灰皿はきちんと磨いていますよ。お客様への礼儀として置かなかっただけです」

 

「灰皿からコインを取るのは、お断りだな」

 

「そう仰るだろうと思いましたよ。巷の成金などよりはずっと小綺麗でいらっしゃる」

 

 言ったきり、店長はスロットに集中しだした。タカギもコインを入れた。てんでバラバラな絵柄が、画面に散らばった。何十回かの回転の間、互いに無言だった。

 時間を稼げればそれでよかった。サカキがトキワにいるのは確認が取れている。タカギが目を付けている中で、レッドを負かすとしたらこの男だけだ。少なくともキョウは、この男をジムリーダーに迫る実力者と見なしている。

 一時間ほど、スロットを続けた。コインは微減といったところだ。タカギは店長と時折言葉を交わしながら、コインを入れてボタンを押す作業を繰り返した。店長も微減だろう。ただ、タカギの負けまで合わせると多少の損にはなるかもしれない。

 店内放送が流れた。タカギの名前が呼ばれている。

 

「お電話だと思いますよ。お客様のお名前をお呼びするのはその場合だけですので」

 

 頷いて、タカギはカウンターへ向かった。名乗ると、口元を押さえた受話器が差し出された。

 

「やられたよ」

 

 キョウ。どこか投げやりな言い方だった。

 

「何があった」

 

「何も。脱出口からは、誰も出てこなかった」

 

 咄嗟に、クリードが虚言を弄した可能性が頭に浮かんだ。しかし、あの直情な男がタカギとキョウをまとめて欺けるのか。むしろ、欺かれていたという方が自然だ。

 

「脱出口は一つじゃないな」

 

「やはりそう思うか。クリードが知っていたのはいくつかあるうちの一つ、ということだろうな」

 

「そして、クリードから情報が漏れる可能性を考慮していた。誰も出てこなかったならば、そういうことになる」

 

「重要な証拠など、まず残っていないな。そちらに動きは?」

 

「ない。ずっと横並びでスロットを打っていたよ」

 

「刑事の横にいたか。大したアリバイだ」

 

「今から行く。どちらだ?」

 

「脱出口の方さ。入口にはもう、野次馬が集まり始めている」

 

 受話器を店員に返した。いつの間にか後ろに立っていた店長が、接客業の笑顔でタカギを見ていた。

 

「用事が入ってね。損をさせちまったな」

 

「いえ、私もいい気分転換になりました」

 

 何か一言言おうとして、タカギは口を閉じた。出る言葉は負け犬の遠吠えにしかならないだろう。ただ頷いてゲームコーナーを出た。

 脱出口はそれほど遠くなかった。真ん中に溜め池のある小さな公園の裏手で、ゲームコーナーから数分歩けば行ける場所だ。管理人用の小さな小屋。壁に背を預けるように、キョウは立っていた。

 

「通路は見た目だけが残っていてね。気付くのが随分遅れた。中は物理的に塞がっているんだ」

 

「鍵かね?」

 

「それならば開けてみせるさ。完全に埋め立てられているよ」

 

「レッド君は?」

 

「先に逃がした。今頃、ポケモンセンターの辺りではないかな。ああいう若者の時間を、マスコミなんぞにくれてやるのはカントーの損失だよ」

 

 キョウに倣って、タカギも背を壁に凭せた。煙草を咥える。硬質な音を立てながら、ライターがたった一度の着火で火を点した。煙を一度吐いてから、ちょっと雑な手つきでタカギは火を消した。

 

「中にはほんの少数の団員が居ただけだそうだ。その割には盗品と思しき物が散乱していたという」

 

「餌だな。三課辺りが喜んで飛びつくだろうさ。そして、タマムシをひっくり返すような捜査を始める。ロケット団がとっくに捨てたタマムシを」

 

「霊視用のスコープとやらがあって、拝借したと言っていた。丁度必要としていたらしい」

 

「報酬としては不足なくらいだ。技マシンを持っていっても、私は目を瞑るよ」

 

「そう言うだろうと思っていた」

 

 煙を吐いた。それは一瞬だけタカギの前を漂い、やがて千々に吹かれて消えていった。落ちそうになった灰を、携帯用の灰皿で受け止めた。

 四課ならば、アジトを一つ潰してやったと誇るだろう。普通の組織が相手ならば、タカギも多少は得意になったかもしれない。

 潜行された。そうとしか思えなかった。逃走や撤退ではなく、潜行。それも、手繰れる糸を全て振り切っての潜行だ。

 次にロケット団が浮上してくる時は、半端な事件では済まないだろう。それは予感というよりも確信だった。

 

「新米の頃以来だな」

 

「なにがだね?」

 

「ここまで後手を踏まされることがさ」

 

「かの老いぼれ犬にも、そういう時代があった訳だ」

 

「不甲斐なさに酒を呷ったことも、何度かある。どれも若い頃のことだがね」

 

「今は煙草を吹かすだけか」

 

「不甲斐ないと感じなくなった。次があるとも、思うようになった。捜査については、そうだね」

 

 風が強くなった。みるみる短くなっていく煙草をしばらく眺め、それから念入りに消した。

 

「トキワに行く」

 

 キョウがちらりと、横目にタカギを見た。

 

「何かができるとは思わんよ。証拠はなく、向こうには社会的地位がある。腕っぷしでどうにかなる相手でもないだろう」

 

「まあ、やめておいた方がいい。彼は間違いなく最強のトレーナーだ」

 

「チャンピオンには僅差で劣ると聞いたぞ」

 

「ワタル君は最強のドラゴン使いであると同時に、最強の飛行使いでもあってね。本来ならば地面タイプでは勝負にもならない程の相性差があるんだよ」

 

「それが僅差か。なるほどな」

 

「地面技の奥義に『じわれ』という技がある。途方もない威力だが、超一流トレーナーでも三割当たるかどうかという技でね。彼とニドキングは、これをほぼ確実に当ててくる。何度苦い思いをさせられたか数え切れんよ」

 

 言葉と裏腹に、キョウは楽しげに語った。そこには、優れたトレーナー同士が持つのであろう親近感、理解、尊敬があった。

 

「私がサカキを疑うのは、不快かね」

 

 思ったことをそのまま口にしていた。意味のない問いだった。警察とはそういうものだ。幼い子供の目の前で、父親に手錠をかけた経験もタカギにはあった。バディを組んでいた刑事に白い目を向けられようと、気にはしなかった。警察とはそういうものだからだ。

 どんな犯罪者も平等に逮捕する。それが犯人に対して刑事が持てる唯一の誠意だと、若い頃は思ってもいた。

 

「いや」

 

 顎に手をやったキョウが、僅かに思案してからそう言った。

 

「君は、評判通りの腕っこきの刑事だ。私だって、密猟者達の奸計を見破ったことは一度や二度じゃない。それが二人揃ってこうもあしらわれている。これほどの人物がカントーに何人いるか、と考えざるを得ないよ」

 

「思い当たるのは、サカキだけか」

 

「残念ながら、そうだ。トキワに行ってどうするつもりだね?」

 

「サカキに会う」

 

「それから?」

 

「それだけだよ。もう一度、あの男と言葉を交わしてみたくなった」

 

「同盟軍の尾行は、今はない。しかし君がタマムシから出れば流石に気付かれるだろうな。恐らくはトキワに行ったことも」

 

「わかっている」

 

 同盟軍がサカキに目を付ける。あるいは、ずっと直接的で過激な手段に出るかもしれない。

 ボスは殺せねえよ。クリードの言葉が、頭の中に甦った。危険な賭けになるのかもしれない。クリードの言葉に、タカギは賭ける気になっていた。私が逮捕するまでは、殺されない。分が悪いのかどうかも、判断が付かなかった。

 

「私は一度セキチクに戻るよ。レッド君が来るだろう。彼とは、腰を据えて対戦してみたい」

 

「そうか」

 

「待つ刑事というの、中々のものさ」

 

 それだけを言って、キョウは背を向けた。見えなくなるまで、タカギは見送った。

 もう一本、煙草に火を点けた。ライターはやはり、素直に一度で火を点した。煙は西へ、小綺麗で新しいタマムシへと流れていった。

 

 

 

 

 



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16話

 

 

 

 

 眼下の競技場を、サンドパンが転げ回っていた。

 トキワ郊外に建ったジム別館である。元々はここがトキワジムだったというが、サカキが就任する遥か前に今の地点に本館が新設され、こちらは練習場となっている。いつでも指導できるよう、事務室の壁はガラス張りになっていた。巻き上がる砂埃の内側にサカキは目をやった。

 サイホーンがサンドパンを追っているが、紙一重で捉えきれずにいた。元々、直進以外は苦手としているポケモンなのだ。フミツキとサンドパンは実に巧い試合運びをしていた。競技場というフィールドをよく利用しているのだ。

 サイホーンの突進が躱される。屋外ならば遠くまで距離を取ってから反転すればいいが、室内競技場には必ず壁というものがある。急停止し、振り返ろうとしたサイホーンの背をサンドパンの爪が捉えた。既に何度も繰り返された光景だった。サイホーンのトレーナーが唇を噛んでいるのが、サカキのところからも見えた。

 後ろ足で『ふみつけ』を狙う手があった。サイホーン側はそれを狙っているが、タイミングを外されている。フミツキにではなく、サンドパン自身の判断に因ってだ。

 フミツキは観察力や判断力に優れる代わりに、機を捉える力や反射で劣る。それが、彼女がそこそこのトレーナーにしかなれない理由だったが、サンドパンがその欠点を埋めていた。

 

「強さとは、不思議な物だな」

 

 デスクにかじりついていたムツキが顔をあげた。作成しているのは、来年度の予算について協会に提出する資料だった。一昨年までトキワジムに在籍していたトレーナーが、どこかの大会で入賞したという。それを、トキワジムの実績として高く評価してもらう為の資料作りだった。試合内容を羅列して、サカキの薫陶が活きていると思える点を抜粋する作業を朝から続けているのだ。

 ジムリーダーとしてのサカキに来年はない。それがわかっていても手を抜けないのは、ムツキらしくはあった。

 音が止んだ。サイホーンのトレーナーがフミツキに一礼し、自分のポケモンに駆け寄った。屋外ならば、という考えは当然あるだろう。それをおくびにも出さず、サイホーンの手当てをしていた。

 

「彼女が、一番の若手とはいえトキワのジムトレーナーに勝てるとは思いませんでした」

 

 ちらりと階下を窺って、ムツキが言った。不思議という言葉をフミツキの勝利と結び付けたようだ。そんなつもりで言ったのではなかった。

 

「私やワタル君は、強みを活かす。自分の強みをポケモンの強さに上乗せする。私があのサイホーンを指揮すれば、恐らくフミツキ君には勝てるだろう」

 

「サカキ様やチャンピオンの強さは誰もが知るところです。疑う者などいませんわ」

 

 もし、サンドパン同士の戦いになったらどうなるのか。サカキが考えたのはそれだった。それも、フミツキのサンドパンがこの世に二匹存在したらという、荒唐無稽な考えだ。

 客観的に見て、トレーナーとしての能力でフミツキに劣る部分はない。それでも、負けた自分の姿がふと頭を過った。ジムリーダーどころか、四天王相手でもそんな姿が浮かぶことはなかった。全く同じ条件で戦って負けるとしたらワタルぐらいのものだろう。そう思ってきたのだ。

 考えても意味はなかった。フミツキのサンドパンはこの世にただ一匹しかおらず、自分とフミツキが戦えばニドキング対サンドパンの構図にしかならない。勝負にもならないだろう。

 強さとは。トレーナーとしてのサカキとロケット団総帥としてのサカキにはっきり共通することがあるとすれば、その問い掛けぐらいのものだ。常に問い続けてきたといっていい。意味のない仮定だなどと、簡単に割り切るには時を重ねすぎた。

 考え込むサカキを見てムツキが困惑気味に首を傾げた。サカキは苦笑して、なんでもないという風に手を振った。どんな理由にせよ、フミツキに負けるかもしれないと考えていたなどと知られれば、団の命運を決める戦いを前に怖じ気づいたようにしか見えないだろう。ムツキを相手に、強さとは、などという問答をする気はない。

 ふと、一つの気配がサカキに触れてきた。建物まで数十メートルといったところか。誰の気配かということも、なんとなくわかる。特徴的な男だ。

 

「ムツキ君。下に降りて、フミツキ君を下がらせてくれるか。女子更衣室まで踏み込むようなことは流石にすまい」

 

「はあ。その、何かありましたか?」

 

「来客だよ。老いぼれ犬だ」

 

 ムツキの表情に、はっきりと緊張が走った。

 

「フミツキ君は一度顔を見られている筈だ」

 

「すぐに下がらせます」

 

「君も下がっていい。老いぼれ犬とは、私だけで話そう」

 

「アジトには何も残さなかった筈ですが」

 

「私を拘束するつもりならジムリーダーの一人でも連れてくるだろう」

 

「ではなぜ?」

 

「嗅覚というやつだろうな。面白い男だ。何かしら、私を追い詰める道筋を見つけたのかもしれん」

 

 ムツキの顔がますます強張った。サカキは笑って、手を払った。表情をそのままにムツキは退出した。

 席を立ち、コーヒーを淹れようとした。といっても、半分以上は機械が勝手にやってくれる。サカキのやることは、豆を挽いて機械に放り込むだけだ。カップとビターチョコレートを二つずつ、コーヒーメーカーの横に置いた。

 デスクに戻ってグラスクロスを取り出し、モンスターボールに当てた。光沢が鋭かった。宥めるように、サカキは少しずつグラスクロスを遣い、光に翳しては別の箇所を擦った。光沢が鈍くなるのを待っている。そんな気分になってきた。

 コーヒーメーカーが完成を告げた。サカキはボールを擦り続けた。光。まだ、くすんだ中に射してくる筋がある。慎重にグラスクロスを当てた。鋭さをボールの中に押し込んでいく。光沢が曖昧になってきた。これがはっきりと鈍くなるのは、いつなのか。光が鈍くなる前にボールが磨耗してしまうことも、あるのではないか。それでも、擦り、磨き続けるしかない。

 コーヒーの薫りが室内に立ち上って、サカキは顔をあげた。タカギだった。

 

「邪魔をしちまったかな」

 

 どこか気安い感じで、タカギが言った。サカキはちょっとボールを確かめ、布でくるんだ。目元に微かな疲労があった。

 

「訪いを入れたが案内がいなくてね。悪いが、勝手に上がらせてもらった」

 

「秘書は出払っていましてね」

 

「若いトレーナー達がいるだろう」

 

「来客を気にしていられるような、悠長なトレーニングはさせていませんよ」

 

「確かに。凄まじいもんだね」

 

 タカギが階下に目をやった。ガラス張りの向こうでゴローンが飛び上がり、それから地面を叩いた。衝撃を逃す構造でなければ建物の一つぐらいは軽く崩せるほどの『じしん』だ。競技場はかなり揺れた筈だが、バランスを崩すようなトレーナーは一人もいなかった。

 トキワジムの特訓は地獄の苦しさだと言われていた。体幹のできていないトレーナーは話にならない。そして体幹とは、躰の一部分だけを鍛えれば身に付くというものではなかった。ポケモンに求める以上のストイックさをサカキは己に課し、トキワジムのトレーナー達にも求めた。それが周りには地獄のような特訓に見えるようだ。

 地獄のようなものは、決して地獄ではない。サカキはそう思っていた。だから、他人に求めることも許される。

 

「我々警察も年に何回か、護身術程度の訓練はするがね。私ぐらいの歳になると参加している態を装っているだけで、まともに組みやしないが」

 

「それで充分でしょう。警察の方にはもっとやるべきことがある。苦しいトレーニングとは、ある意味で合理性から外れるのですよ」

 

「強くなるのだろう?」

 

「ほんの僅かに。一個人のほんの僅かな強さは、世間に何の影響も持ちませんよ」

 

「しかし、君たちはそのほんの僅かの差を競っている。違うかね?」

 

「まさしく。トレーナーの宿運のようなものでしてね。誰でも一度は悩むのですよ。この僅かな差に何の意味があるのかと。いや、強さそのものにかな」

 

 立ち上がり、コーヒーを淹れた。薫りはどこか統一性をなくし、まばらに浮かんでいた。不味くはない。しかし、旨くもなかった。ムツキが淹れたものと同じ銘柄とは到底思えない。タカギも一度口を付けたきり、机に放り出してしまっている。

 

「私が準備しまして。お口汚し、と言っておくべきでしたか」

 

「そう悪くもない」

 

 言ったが、タカギはコーヒーに手を伸ばそうとはしなかった。サカキは灰皿を勧めた。タカギが軽く会釈し、煙草を咥えた。オイルライター。フリントホイールから火花が散っている。三度やっても火は着かなかった。焦った様子もなく、タカギがホイールを回す。なかなか火を見せないライター。老いぼれ犬にはぴったりだ、という気がした。

 着火した。タカギの目尻に僅かな影が走った。それが消えると共に、いがらっぽい煙が拡がった。

 

「強さとは、なんなんだね?」

 

 俯きがちにタカギが問うた。サカキは内心で笑みを溢した。強さの価値ではなく、もっと観念的な問い。清々しいほどに、人の心の内を突いてくる男だ。

 

「禅門問ですか」

 

「君がどう答えるか、ふと気になった」

 

「戦うことですよ」

 

「それで?」

 

「それだけです」

 

「戦って、終わりかね?」

 

「次の戦いがどこかにあるでしょう。終われば、またその次が」

 

「負けたらどうする?」

 

「死ねば終わりますよ。死ななければ、次の戦いが」

 

「戦うだけの人生が強さか。軍人でももう少しマシな答えを出すだろうな」

 

「ポケモントレーナーなのですよ、私は」

 

 言ってから、酷い欺瞞のように思われてサカキは自嘲した。表向きは最強のジムリーダーとして栄誉を受け、裏ではロケット団の総帥として暗躍している。純粋さを持ってポケモントレーナーなどと名乗る資格がある筈もなかった。

 本当のポケモントレーナーとは、ポケモン達と旅をし、粗末な食料を分けあい、身を寄せ合って眠る人間のことだ。そういう人間こそがポケモントレーナーを自称することを許される。サカキはそう思い続けてきた。

 タカギが気のない表情をしながら煙草を吹かした。コーヒーの湯気はもうか細くなっている。

 

「父親を、子供の頃に亡くしているね」

 

「幼いといってもいい頃でしたよ。登山中に滑落したと聞いています」

 

「なぜ、オツキミ山で登山を?」

 

「さあ。父の物はなに一つ帰って来ませんでしたので。遺体すらもね。損傷が激しかったらしいと、母が言っていましたよ」

 

「捜索にはなぜか同盟軍が出動しているね」

 

「チョコレートを一切れ貰いました。そのことだけは、今でもよく覚えています」

 

「仇をか」

 

「チョコレートを貰ったことを、ですよ」

 

「私は同盟軍に見張られている」

 

 タカギが煙草を置き、コーヒーに口を付けた。それも、熱いコーヒーでも飲んでいるかのようにゆっくりとだ。

 

「ロケット団についての捜査情報提供を求められたが、拒否した。連中は私を泳がせて、最後の獲物だけを横取りすることにしたらしい」

 

「ご苦労はお察ししますよ」

 

「奴らはロケット団の首領を殺したがっているだろうな。私は警察だ。生きたまま逮捕し、取り調べ、全ての悪事を明るみにしなければならん。全ての、だよ」

 

 タカギはコーヒーカップを持ったまま語っていた。本心を語っている。それは見ていてわかった。

 全ての悪事。つまり、同盟軍を介して行われた資金洗浄も明るみにすると言っているのだろう。ロケット団は勿論、同盟軍にとっても大きな痛手となる。本国でも海外派兵の賛否がわかれているという。不祥事は大きな火種になり得るのだ。

 並みの刑事なら圧力に揉み消されて終わりだろうが、老いぼれ犬ならあるいは遣り通すかもしれない、とも思えた。

 

「私がトキワに来たこともすぐに掴まれるだろう。君の滑落死体を、見つけたくはない」

 

 一瞬だけ、サカキはタカギに好感を覚えた。

 悲しみを抱えた男なのだ。決してまともな刑事とは言えないが、その一点だけでこの男を嫌いになりきれない気がした。

 

「謂れのない話ですよ。しかし、もし」

 

 煙草の煙がうねって、そのまま消えていく。コーヒーの薫り。

 

「もし私が死んだとすれば、力の限り戦ってのことでしょう。例え不本意な形であろうとも」

 

「そうか」

 

 タカギは頷くと、煙草を灰皿に擦り付けて消した。コーヒーも律儀に飲み干して、タカギが腰を上げた。

 

「君と一度、勝負をしてみたかった。刑事としてではなくポケモントレーナーとして」

 

「ジムへの挑戦に年齢制限はありませんよ。これから各地を周られれば良い」

 

「無理さ。私は刑事なのだから」

 

 ドアを開けながら、タカギはちょっと笑ってそう言うと、丁寧にドアを閉めて去っていった。

 サカキは自分のコーヒーを時間をかけて飲むと、流しに持っていってスポンジを泡立てた。戻ってきたムツキが慌ててスポンジを取り上げた。

 

「私が洗いますから」

 

「そうか。すまないな」

 

 椅子に腰を降ろし、グラスクロスを手に取った。しかし、ボールを磨く気にはなれなかった。ぼんやりと虚空を眺める。

 

「最低限の団員を各地に残して、それ以外は総員ヤマブキに集結させる。シルフカンパニー内部に潜入している者にも連絡を取ってくれ」

 

 洗い物を終えて戻ってきたムツキに言った。ムツキが表情を強張らせた。

 

「配置については以前から話していた通りだ。シルフ周辺やゲートを押さえる部隊と内部に突入する部隊に分かれる。内部組は更に制圧班、設計図の捜索班、シルフ社員等を拘束隔離する班へと分かれ、全工程を同時に進行する」

 

「フミツキ隊員は?」

 

「制圧班だ。制圧完了後は半数を捜索に回し残りを警戒に当てる。彼女には警戒を担当してもらう」

 

 ムツキが何かを言いかけ、ためらったように口を閉じた。サカキは無言で促した。

 

「ゲートの方へ彼女を回せないでしょうか?今の担当者は細かな配慮に欠けるところがあります。彼女が適任という気がするのですが」

 

「もっともな意見だな。私の見方とも近い」

 

「ならば」

 

「彼女とサンドパンは戦おうとしている」

 

 一度区切り、それから諭すようにサカキは続けた。

 

「戦う意志を遮ってしまえば、ロケット団はロケット団ではなくなる。わかってくれるな」

 

 一瞬口を開きかけてから、ムツキが項垂れた。

 

「私はどうも、理屈ばかり先走ってしまうようです。大事なことがなにかを忘れて」

 

「我々は悪の組織だ。一つだけ他の組織と違うことがあるとすれば、戦う意志だろう」

 

「お言葉は忘れません。本部長と連携して作戦の体制を整えます」

 

「頼む」

 

 ムツキが駆け足で部屋を出ていった。

 サカキはガラス窓へと身を寄せ、階下を見下ろした。ジムトレーナーがサイホーンを駆け回らせ、その動きに合わせて自身も走ることで指示を出すのに最適な位置取りをする訓練をしていた。公式戦では大して役に立たない技術だ。しかし、これをこなすことこそがトレーナーの実力とされる時代もあったのだ。

 苦しいトレーニングだが、サイホーンは活力に満ちていた。もう数ヶ月もすれば進化するだろう、とサカキは見た。

 サイホーンとサイドンでは戦い方が全く異なる。

 サカキはノートを手に取り、サイホーンとサイドンの扱い方の違いについて思い付く限りの注意点を書き込み、参考になる書籍や映像のタイトルを付け加えた。そして、棚の目に付きやすい場所にそのノートを仕舞った。

 

 

 

 



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17話

 

 

 

 

 からりと晴れ上がっていた。シルフカンパニーを横目に見ながら、フミツキは首を滴る汗を拭った。

 

「隊長、水です」

 

「ありがとうございます」

 

「こう暑いと参っちまいますね。合図が来ればすぐ突入するのに」

 

「北との兼ね合いもありますから」

 

 ペットボトルを一度呷ると、蓋は閉めずに隣へと渡した。全員で回し飲む。汗は全員が等しく掻いているのだ。

 ジムリーダーのナツメはタレント業を始めるとかで一時的に海外に行っているらしい。ただ、古くはヤマブキのジムリーダーを務めていた格闘道場があり、支配人がそちらに備えることになっていた。ジムトレーナーや自警団の方が警察よりも身軽なことは、フミツキも実感をもって覚えている。

 全員私服だった。だから見た目にはわからないが、今この区画を歩いている人間の半数以上はロケット団が占めている。ゲートを担当する班が少しずつ人の入出をコントロールしているのだ。やがて、シルフカンパニーが社外秘の実験を行うという名目で完全にシャットダウンされる筈だ。ボスや支配人の手腕を考えれば、政治的な部分からも手を回しているだろう。

 そういった事情や、ボスの持っている遠大な計画についての一切を、フミツキは頭から追い出した。

 シルフカンパニーにも警備員などの戦力はいる。事前に知らされた情報によればバッジ持ちも少なくはないようだ。そういった相手を無力化し、拘束隔離を担当する班へと引き渡す。それだけに集中すべきだった。

 トキワでは、ひたすら自分の限界へ挑むような訓練を続けた。走り、筋力トレーニングをし、ポケモンバトルをし、また走った。途中から自分が何をしているのかも怪しくなってくる。それでも、指示されるままに続けた。トキワジムの誰一人とて、トレーニングに不満はなかった。サカキ本人が一番キツいトレーニングを自身に課していたからだ。それを見ながら泣き言など言えなかった。

 今、バッジ持ちのトレーナーと戦えと言われても、フミツキはさほどの恐怖は覚えなかった。

 

「もう躰の方は大丈夫なんですか?」

 

「ええ。トキワの方でしばらく療養させてもらいましたから」

 

 訊いてきたのはオツキミ山でも一緒だった隊員だ。あの時の隊員で突入部隊になった者は全員、フミツキが指揮するメンバーに入っていた。フミツキを含めて五人の部隊だ。

 やりやすくはある。それと同時に、いなくなった顔のことも思い出された。

 今の自分があの時のレッドと相対したらどうなるだろうか。勝てる、と思えるほどの自信はフミツキにはなかった。しかし、撤退ぐらいはできたのではないか。

 全て終わってしまったことだ。次の機会があるかもしれない。その時に、自分にできるだけのことをすればいい。脇に抱え込んだ上着に、フミツキは目をやった。

 

「隊長」

 

「ええ」

 

 二十人程の人間がシルフカンパニーの入口に集まっていた。シルフ内部に潜入している団員が、建物内のセキュリティや外部との通信を切ることになっている。

 腰を上げた。ドアが開き一人の男が出てきた。男が合図すると、二十人が一斉に飛び込んでいった。一瞬の静寂の後、何かが割れるような音と悲鳴が街をすり抜けた。動揺したような気配を見せた通行人が、数人の男達に包み込まれた。

 三十秒待った。警報は鳴らない。周囲の部下に目線を送ってから、フミツキもシルフカンパニーへ向けて駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 入ってすぐにフミツキはマスクで顔を隠し、抱えていた上着を団服の下に着込んだ。

 明るい照明と真っ白な壁、磨きあげられたタイル張りの玄関フロアにはいくつかの噴水と受付があり、その奥に階段が見えていた。先に突入した二十人が社員達を壁に追い詰めて一纏めにしている。数人の警備員は軽く蹴散らしたようだ。

 二十人を横目にフミツキは階段へと駆けた。外の通行人は粗方押さえたのか、後続も次々とシルフカンパニーに突入してきている。

 二階に上がり後続を待った。警備員が二人、立ち向かってきた。ケーシィとスリープ。サンドパンが容易く蹴散らした。トキワのジムトレーナーと比べればまるで素人だ。

 

「こちらは終わりました」

 

「こっちもです、隊長。順調ですね」

 

「そろそろポケモンバトルに手馴れてる人間が出てくるはずです。気は抜かないようにしてください」

 

「やっぱりいますかね?」

 

「専門家というほどではないようですが、事前情報によればバッジ持ちがいます。一番多い人でバッジ四つ持ちとか」

 

「そりゃ、俺達から見れば専門家と一緒ですよ」

 

「できる限りは私で受け持ちますが、いざという時はお願いします」

 

 遅れてやってきた団員達が散らばっていくと同時に、いくつもの足音が一階から駆け上がってきた。フミツキは五つ息を数えて、それから階段に向かった。すぐ後ろにフミツキが率いている団員が、さらに後ろには三階の制圧を担当する部隊が続いていた。

 後ろが遅れ始めた。シルフカンパニーは大型のポケモンや飛行タイプでも不自由しないように設計されていて、天井はイワークが躰を起こせるほどに高い。一つ階を昇るだけでもかなりの負荷になる。フミツキ達五人だけが突出している格好になった。

 

「復帰したばかりとは思えないな、隊長の体力は」

 

「みなさんも、以前よりずっと体力が付いたように見えます」

 

「オツキミ山以降ずっと、隊長にやらされたメニューを続けてたんですよ」

 

「俺達の頭じゃ他にやることなんて思い付きませんでしたから。走ってる方がずっと性に合ってるってもんです。なぁ?」

 

「違いない」

 

 療養中は私が隊長だった訳ではない。それぞれ、直属の上司がいただろう。そう言いそうになって、フミツキは口をつぐんだ。

 私が隊長なのだ。上がる笑い声を聞きながら、フミツキはそう思った。自分がどう思うかも、組織の形式も関係ない。私を隊長と呼ぶ人間がいる限り、私は隊長なのだ。自分が、サカキのことを何があってもボスだと勝手に思っているように。

 重かった。心地よい重さでも、あるのかもしれない。

 サンドパンのトレーナーとして相応しくあろうとするだけでも苦労するというのに。そう思いながら、フミツキは薄く笑って三階に飛び込んだ。

 制服を着込んだ男が三人、待ち構えていた。左の二人が手強い。そう判断した瞬間にはフミツキは左に跳びながら、後ろにハンドサインを送った。四人がフミツキとは逆に駆けていく。

 

「オコリザルっ」

 

 左の男がオコリザルを、真ん中がモルフォンを繰り出してきた。残りの一人は四人と相対している。

 どちらのポケモンも等しく鍛えられているように見える。一瞬、迷った。フミツキが指示を出すよりも先にサンドパンがモルフォンに躍りかかり、『きりさく』を見舞った。そのまま、オコリザルのことなど忘れたかのように追撃を加えている。

 フミツキはオコリザルのトレーナーと相対して、腰元のボールに手をやった。ハッタリだったが、相手は一瞬二の足を踏んだ。サンドパンがモルフォンを倒すには充分な時間だった。

 

「なにをやってる。そいつ、一匹だぞっ」

 

 仲間からの叫び声に、オコリザルのトレーナーは顔を紅潮させた。フミツキは敢えて笑みを浮かべてから、これ見よがしに空のモンスターボールを放り捨てた。

 

「『こうそくスピン』」

 

 怒りのままに飛び出そうとしたオコリザルの横っ面を、サンドパンが弾き飛ばした。

 『きりさく』でも悪くはなかったが、オコリザルの中には急所への攻撃で怒りを増幅させ力を発揮する個体もいる。素早さを上げつつ攻撃できる『こうそくスピン』がベターだろう。

 自分の指示を振り返り、そう評価を下した。本当の意味での実戦はオツキミ山以来だが、戦況ははっきりと見えている、という気がする。

 

「オコリザル、『かたきうち』だっ」

 

 怒りに筋肉を膨張させたオコリザルが向かってくる。ここが競技場ならば『あなをほる』だろう。しかし、タイル張りの床が素早く潜れるような構造になっているとは思えない。

 

「『まるくなる』、それから『きりさく』」

 

 サンドパンが飛び上がりながら、空中で躰を丸める。オコリザルの拳がその上部を殴り付けた。芯は外している。躰を開いたサンドパンがそのままオコリザルに飛びかかり、その爪で逆袈裟に切り裂いた。オコリザルの躰が瀕死時の収縮を始めた。

 

「馬鹿な、俺がロケット団なんかに」

 

 相手のトレーナーが愕然としている。恐らく、バッジ四つ持ちのうちの一人だろう。

 男は目を剥くと、怒気を撒き散らしながらフミツキに向かってきた。数歩踏みしめるように歩き、それから勢いを付けて走りだそうとしたその躰を、横から数人の男達が取り押さえた。ロケット団の団員達だった。後続もようやく追い付いてきたようだ。

 反対側に目をやった。四対一の戦いは、流石に数の利で圧倒している。問題無しと判断したフミツキがサンドパンに傷薬を塗っているうちに、勝負は終わっていた。

 

「ジム巡りでもしてたんですか、隊長?」

 

「特にはなにも。いい環境でトレーニングできた、とは思っていますが」

 

「あのハンドサインは速く倒して加勢しろ、の意味だと思ってましたよ。まさか隊長の方が先に終わっちまうとは」

 

「逡巡みたいなものが一切見えなかったな。プロのトレーナーかと思いましたよ」

 

 逡巡はあった。サンドパンが咄嗟に判断したおかげで、周りからはそう見えなかっただけだ。

 そのことで自分を卑下しようとは思わなかった。サンドパンが判断してくれることまで織り込んで、フミツキは動いているのだ。

 フミツキが人並み以上の実力を発揮できるのはサンドパンとのコンビでだけだろう。それならそれで構わなかった。自分は、サンドパンのトレーナーなのだ。サンドパンのトレーナーとして優秀であれば、それでいい。

 

「このまま、最上階を目指します」

 

 三階の制圧完了の報告を受けてから、フミツキは言った。フミツキの隊だけでなく、その場にいた団員皆が神妙な顔でフミツキの言葉に応答した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 やるべきことはなかった。

 タマムシでは、三課が血眼になってロケット団が盗品を捌いていたルートを洗っている。四課は残党狩りで、タカギの出番はどこにもなかった。

 ゲームコーナーも表向きは何事もなく営業している。あくまでロケット団とは無関係だという態度を貫いていた。店長など、被害者面でマスコミのインタビューに答えていたぐらいだ。

 アジトを壊滅させたのは謎の少年ということになった。タカギはたまたまゲームコーナーにいて、現場に急行した格好だ。信じてもらえる訳もなく、課長からはロケット団の案件から外れることを命じられた。

 

「タカギ警部、また独断専行ですか?」

 

 歳の近い同僚が揶揄してくるのを無視して、タカギはコーヒーを淹れた。デスクに着き、新聞を広げる。

 捜査ではロケット団の痕跡が至るところで見つかっていた。マスコミもこれを大きく報じ、捜査の進捗はお茶の間の娯楽と化している。警察が犯罪組織を追い詰める、ドキュメンタリー番組のような扱いだ。捜査関係者の証言として、大物幹部の逮捕が近い、などと書いてあった。

 これ以上進展はないだろう、とタカギは見ていた。出てくる情報はどれも単体のもので、初見のインパクトこそあるものの捜査状況を大きく前進させるものではなかった。他の情報と一切連動しないのだ。意気込んで出かけていった捜査員はみな、尻切れトンボの内容に首を傾げながら帰って来た。

 痕跡は意図的に残された物だと判断するしかなかった。課長もここ数日は憔悴しているようだ。ここで逃せば警察の威信に関わる。かといって、有力そうな情報はなにもなかった。

 

「課長もずいぶん焦ってるみたいですねえ」

 

「そうだろうな。手がかりがない」

 

「やっぱりタカギ警部から見てもまずい状況だと思いますか?」

 

「間違いなくな」

 

「ですよね。これで逃げられたら大変なことですよ」

 

 タカギが懸念しているのは、逃げられることではなかった。このまま消えてくれるのなら有難いくらいだ。

 ロケット団が大きく動くとしたら、警察や世間の目がタマムシに向いている今ではないのか。そして、潜行し続けたあの組織がその力を全て顕したら、一体どういうことになるのか。

 暴力団やマフィアと抗争を起こすぐらいならばいい。しかしもし、ロケット団が同盟軍と争う覚悟を決めているのなら、どこかで大きな勝負に出る筈だ。

 

「まあ、一課(うち)が気にしたって仕方ないんですがね、本来なら。課長もなんだって首を突っ込んだんだか」

 

 同盟軍絡みなどと言う訳にもいかず、曖昧に頷いてからタカギはコーヒーを口に運んだ。

 サカキの淹れたコーヒーは誉められたものではなかった。ふと、そう思った。

 トキワジムでそれを飲んだのだった。以前見た秘書はおらず、サカキ自らコーヒーを淹れた。

 どこかに、無骨さがあった。優れた銘柄に優れた機械を使って淹れても、薫りの中に一本の線があった。それは、サカキが磨きあげているモンスターボールから時折射してくる鋭い光線に似ていた。

 上品な薫りや磨きあげた鈍い光で誤魔化そうとしても、どうしようもないものだ。あの男の中には、獣染みた意思が一本の線となって通っている。

 

「警部、どこか出るんですか?」

 

「歳を取ると、じっとしているのも腰が辛くてね」

 

「やだな、そんな歳でもないでしょう。外に行ったって暑いだけですよ」

 

 部屋を出た。行く宛はない。今さらタマムシを歩き回っても、まともな手がかりなど出てくる筈もなかった。コーヒーと新聞を手に、管を巻いているのが馬鹿らしくなっただけだ。

 

「はあ、それは、国からの許可は降りているってことですよね?」

 

 声が聞こえた。交通部だった。受話器を耳に押し当てている警官の横で、スーツに身を包んだサラリーマンが大声で喚いていた。

 

「なあお巡りさん、こっちは困ってるんですよ。なにせ急なことで」

 

「ちょっと待ってください、今問い合わせていますから」

 

 一旦受話器から耳を離した警官はサラリーマンにそう言うと、再び通話に戻った。タカギはそちらに近寄った。

 

「どうしました?」

 

 タカギが警察手帳を見せながら言うと、サラリーマンはちょうどいい話し相手を見つけたとばかりに口を開いた。ハンカチで額の汗を頻りに拭っている。

 

「いや、本当に困っているんですよ。シルフカンパニーの区画が全面通行禁止って連絡が急に回ってきて。同僚は朝から出かけていったってのに、ゲートの所で止められましてね」

 

「シルフの区画が通行禁止?」

 

「そうですよ。それで今、こっちのお巡りさんに色々訊いて貰ってるところ」

 

 タカギはそちらを見た。若い婦警で、顔にははっきり迷惑そうな表情が浮かんでいた。

 

「一課のタカギだ。君、相手は?」

 

「シルフ区画の西口ゲートです。行政の許可が降りてるのは確認したんですが、そちらの方がダメ元で訊いてみて欲しいと」

 

「ちょっと替わってもらえるかな」

 

 言いながら、タカギは受話器を奪い取った。

 

「あのね、お巡りさん。いくら言われたって駄目なものは駄目なんですよ。わかるでしょう」

 

「ちょっと聞きたいんだがね。ああ、私はタカギって者だ。刑事だよ」

 

「刑事さん?」

 

「こちらでも確認はした。ずいぶん、急な話のようだね」

 

「そんなこと、こっちに言われたってわかりませんよ。下っ端ですから」

 

「こちらの方はシルフカンパニーとも取引があるようだ。それでも駄目なのかな?」

 

「ですからね、刑事さん。ただでさえ暑いのに同じ事を何回も言わせないでくださいよ」

 

「そりゃ申し訳ないが、こちらも仕事でね」

 

「通りたけりゃ、タマムシでもなんでも連絡取って許可取ってきてくださいよ。こっちもね」

 

 そこで一度、男が言葉を切った。

 

「ああもう、ちょっと待っててください。子供が入ってきたんで」

 

「構わんよ」

 

 タカギは受話器を強く耳に押し当てた。何か急かすようなことを喚き立てているサラリーマンを一睨みし、手錠を取り出して見せた。サラリーマンが口をつぐんだ。一言も聞き逃したくなかった。聞き逃してはならない、という気がした。

 

「だから、さっきも通せないって言ったじゃねえか。聞き分けのねえ坊主だな」

 

「あの、そうじゃなくて」

 

「何だよ。忙しいんだよこっちは」

 

「これを」

 

「なんだよこれ?お前これ、水か?ずいぶんあるじゃねえか」

 

「キツそうにしてましたから」

 

「買ってきたってのかよ、お前」

 

「水分は補給した方がいい、と思います」

 

 しばらく声が途切れた。

 

「友達に会いに行くって言ったな、お前」

 

「幼馴染がちょうど、昨日から来てるって聞いて」

 

「友達に会うだけなんだな?」

 

「その予定です」

 

「ああもうっ、ちょっと待ってろ」

 

 受話器が持ち上げられたような音がした。タカギは何も聞かなかったような声音を心掛けた。

 

「とりあえず無理なもんは無理ですよ、刑事さん。これ以上時間取らせないでくださいよ」

 

「そのようだね。忙しい時に悪かったな」

 

「じゃ、これっきりでお願いしますよ」

 

 電話が切られた。縋り付いてこようとするサラリーマンを無視して、タカギは外に出た。日差しが強かった。

 電話口から聞こえてきた声は間違いなく、知っている少年の声だった。縁、というやつだろうか。

 ヤマブキで何かが起こっている。それは間違いないだろうが、タカギが行ってもゲートを通れはしないだろう。交通規制自体は正規のルートから出ているのだ。

 歩きだした。待つ刑事か。口の中で呟いた。

 

「最後にもう一度、待ってみるか」

 

 今度は、声に出していた。

 

 

 

 

 



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18話

 

 

 

 

 五階を制圧した頃には、バッジ持ちの警備員は全て拘束し終えていた。

 ほぼ、フミツキが相手をしたようなものだ。他の団員達も力関係を途中で呑み込めたようで、手強い相手が出てくると真っ先にフミツキを呼ぶようになっていた。

 事前に潜入していた団員からもたらされた資料に目をやった。残りの警備員は、年数回の講習を受けているだけの半分アルバイトのような人間だけだった。

 

「隊長、制圧済みの階はエレベーター回りも固めたようです」

 

「そうですか」

 

 エレベーターは停めていた。社員の逃走に使われる可能性があったからだ。バッジ持ちの警備員も一緒になれば、一般の団員では対抗できず逃がしてしまう可能性が高かった。

 しかし、バッジ持ちの警備員はもういない。

 

「私は五階に留まって、いざという時のため待機します。手強い相手がいた場合は連絡をください。それから、セキュリティルームに連絡を取ってください。エレベーターを再稼働してもらいます」

 

 上階に手練れがいた場合、あるいは下の階から相手への応援が入ってきた場合。そのどちらにも、エレベーターが動いていれば即応できる筈だ。

 越権に近かったが、異論は出なかった。それなりの力を示せたのだ、とフミツキは思った。フミツキの隊の団員は胸を張り、どこか晴れがましそうな表情をしている。

 それぞれが散っていった。一人だけ、フミツキの補助のために残っている。一瞬、オツキミ山でクリードと話している時の記憶が頭を過った。なぜロケット団に入ったのか。そんな話をしたものだ。

 弾みのようなものだった。今考えれば、そうとしか言えなかった。真っ当に生きていくのも、恐らくは無理ではなかった。

 真っ当な世界で、バッジ三つが精々のトレーナーとして生きていく。そのことに否やはない。

 サンドパンがバッジ三つ程度の実力のポケモンと見なされる。それも昔のフミツキならば受け入れただろう。

 受け入れられる筈がない。今ははっきりとそう思う。そしてサンドパンも、フミツキが低く見られることを受け入れはしないだろう。

 

「強さとは、不思議なものですね」

 

「隊長、何か言いましたか?」

 

「いえ、なにも」

 

 怪訝そうな団員に笑みを見せて、フミツキは前を向いた。

 サカキの理想は、案外悪いものではないかもしれない。そんな気がした。

 自分は強くなった。それは、サカキやワタルといった天上人からすれば誤差のような強さだろう。少なくとも弱者のカテゴリから抜け出すほどの進化ではない筈だ。

 それでも、悪い気はしなかった。自分もサンドパンも、僅かでも強くなったのだ。サンドパンを撫でていると、なおのことそう思った。

 自分達が何を手に入れたのか、上手く言葉にできなかった。それでいい、とも思う。

 

「隊長っ」

 

 駆け込んできた団員は、顔色を変えていた。

 

「落ち着いてください。どうしました?」

 

「七階に、化物みたいなトレーナーが」

 

「わかりました。案内してください」

 

 なんとか息を整えようと肩を上下させながら、その団員は頷いた。流している汗は疲労からくるものばかりではなさそうだ。

 駆けた。七階ならば、階段の方が速い。先行する団員の背中を見ながら、フミツキはモンスターボールの開閉スイッチの位置を確認した。

 見えてきた。数人の団員が、壁に背を預けながら座り込んでいる。不意に水音がして、ラッタが吹き飛ばされた。ラッタのトレーナーである団員が下がってくる。入れ替わるようにフミツキは前に出た。

 カメックス。全身に、鳥肌が立った。サンドパンが飛び出し、低い唸り声をあげた。

 

「ほう。意外に、強そうなやつもいるじゃねえか」

 

 カメックスの後ろにいる少年が、口角をあげながら言った。

 誰なのか、一瞬考えた。シルフカンパニーにこれほどの使い手がいる筈がない。考えても意味はなかった。現実に目の前にいて、ロケット団と敵対しているのだ。フミツキにわかるのは勝てそうにない、ということだけだった。

 

「大人しくして貰えれば、危害は加えません」

 

「面白いね。抵抗したらどうなるって言うんだい?」

 

「力尽くでも、拘束します」

 

 滑稽なことを言っていた。しかし他に、やるべきことはなかった。今ここで、自分の全存在を賭けてでもこの少年を止めるしかない。この作戦はロケット団の全てなのだ。

 少年が頭を掻いた。

 

「どうしようかな。爺さんの使いは完全に無駄足だったし、これ以上骨を折っても損なだけではあるんだが」

 

 交渉の余地があるのか、と一瞬考えた。しかし、情報がない。そして相手には、交渉しなければいけない理由もない。

 あと一手が足りなかった。それは少年もよくわかっているようだ。カメックスが一歩前に踏み出した。

 

「抵抗の意思ありとみなしますよ」

 

「構わないぜ。止めておいた方がいい、と思うが」

 

「同感だな。止めておいた方がいい」

 

 背後から聞こえた声に、フミツキは弾かれたように振り返った。サカキ。いつもの仮面にハットを被っている。控えるように歩いていたペルシアンが、サンドパンの前に出た。

 

「なかなか、頭は回るようだな。ここで争っても仕方ないと思わないかね?」

 

 少年が腰を低くした。額に汗が一筋、伝っている。

 

「なんだ、あんたは」

 

「ロケット団の総帥とだけ言っておこう。いいカメックスだ。ペルシアンよりも少々、力が上のようだな」

 

「少々だって?」

 

「ペルシアンはなんとか相討ちに持ち込めるだろう。そして、君は一人だ」

 

「俺の手持ちは一匹じゃないぜ」

 

「私もだよ。潰し合いになるな」

 

 空気がひりついていた。誰かが唾を飲み込む音が聞こえた気がした。

 フミツキはもう気を抜いていた。目の前の少年は優れたトレーナーだが、サカキに勝てる筈はない。

 

「瀕死のまま回復してもらえないというのも、ポケモンには酷なことだよ」

 

 束の間、睨みあっていた。少年がカメックスをボールに戻した。

 

「何日も拘束されるってのはごめんだぜ」

 

「そこまで時間をかける気はない。しばしの不自由は我慢してもらうしかないがね」

 

「ポケモンを取り上げられるってのもお断りだ」

 

「よかろう。丁重に隔離させてもらおう。フミツキ団員」

 

「はっ」

 

「これより上は私が行く。君は警戒班を担当してくれ。下の階になにかあった時は、君の判断で事に当たれ」

 

「わかりました」

 

 サカキの背を見送ってから、フミツキは振り返った。

 

「拘束させてもらいます。といっても、あなたを本当の意味で無力化することは私にはできませんが」

 

「好きにしろよ。ところで、あんたらのボスってのは何者だ?」

 

「お答えできません」

 

「ただ者じゃねえな。爺さんと向き合ってるような気分になったぜ」

 

「あなたのお爺さんよりは、優れたトレーナーだと思いますが」

 

 隔離を担当している団員が少年の両脇に付いた。隔離する場所は事前に決まっていて、シルフカンパニーの制圧が終わり次第、防火シャッターを降ろすことになっている。

 少年がフミツキの顔を見つめ、それから肩を竦めた。

 

「まあいいさ。どうせ、あんたらの野望も爺さんの願いも叶いやしないんだから」

 

 フミツキがハッと顔を上げ、言葉の意味を尋ねようとした時には、少年はこちらに背を向けていた。負け惜しみだろう、とフミツキは自分に言い聞かせた。警戒班の団員達が、指示を仰ぎに集まってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 左後ろに控えている秘書は顔を青ざめさせていたが、シルフカンパニー会長は流石に泰然としていた。皺が刻まれ、目蓋はやや厚ぼったくなってはいるものの、大きく開かれた眼には知性が光っていた。

 サカキは椅子を引き、会長の対面に腰かけた。

 

「無作法はご勘弁ください。なにせ、こういうやり方しか知らない人種でしてね」

 

「全てが力尽くかね?」

 

「力、というものを複合的に考えるのであれば」

 

「君達は無作法ではない。ただの無法だよ」

 

「返す言葉もない」

 

 殊更に下卑て見えるように笑った。秘書の方は更に顔を歪めたが、会長の表情は変わらなかった。いい目だ、と思った。戦いに挑む男の目だ。

 

「私で手配できるものは全てくれてやろう。それで帰ってくれないか。いや、社員を解放してくれればそれでいい。人質が欲しければ私一人で足りる筈だ」

 

「会長とはいえ、シルフカンパニーの資産のうちあなたの一存で即座に動かせる物は決して多くない。総資産から言えば一パーセント以下でしょう」

 

「債権や手形についてもいくらかは私の権限が及ぶ。しかし、君達ではそれらの現金化は不可能だろう。このような形で移った債権の取引など」

 

「凍結されてはね。まあ、腰を据えて探らせてもらいますよ」

 

 足を組む。一番恐れているのは、こちらの目的を察した会長がなんらかの手段でマスターボールの設計図を廃棄することだった。金が目的だと思われているのなら、こちらにとって悪い状況ではない。精々、拝金主義の悪党をやるべきだろう。

 

「コーヒーを淹れてくれ。会長さんと、そちらの秘書の方の分も」

 

「結構です」

 

 秘書が固い声で言った。部下が運んできたコーヒーをサカキは飲み、会長も一口で呷った。秘書は毒でも見せられたかのように、目を背けた。

 会長が躰を前のめりにした。意思の光。並外れた光だった。毒など、皿ごと飲み干そうという強さだ。

 

「海外資産がある。イッシュとガラルでそれぞれ現地通貨に株、それから私名義での投資銀行への出資だ。海外経由ならば横槍を入れられることなく資金を動かせるだろう」

 

「雲の上のお話ですよ。我々では真偽すら確かめられないような」

 

「私もただ椅子に座っているだけではない。世の中のことに目は通しておるよ。細かいことはわからんが、君達は随分金の動かし方が巧みなように見える」

 

「ほう。我々をご存知でしたか」

 

「それなりの悪党だろう。しかし、私の若い頃は悪党などいくらでもいた。悪党でなければ、成り上がれなかった」

 

「終戦直後のお話ですか。様々な媒体で目にしましたよ、小さな町工場がモンスターボールの量産と縮小機能開発を成功させてのしあがっていくサクセスストーリーを」

 

「物語になったのは綺麗事だけだ。あの時、無惨なことはいくらでもあった」

 

 会長が腕を組んだ。意思の光は輝きを増している。

 やはり、マスターボール本体を手に入れるのは不可能だろう。どれほどの苦痛を与えようとも、屈するタイプの男ではない。フジ老人とは全く別の意味で、死を受容することができる男だ。

 しかし、生きていた。それもまた、フジ老人とは別の意味合いで事実だった。あちらは現世を諦めた生だが、目の前の男に諦念はない。

 

「悪党でしたか、シルフカンパニーの会長が」

 

「昔のことだよ。無辜とは思わないが、殊更に露悪するつもりもない」

 

「そしてシルフカンパニーを作り上げた。手に入れた価値を鑑みれば、一級品の悪党ですな」

 

「善人では何一つ手に入らない時代だった。ささやかな衣食住を求めることすら悪党にしかできなかったのだ。君達のような現代の小悪党とは何もかもが違う」

 

「衣食住ね。確かに、そんなものは求めてなどいない」

 

 サカキは机に深く肘を突き、会長に応じるように躰を前のめりにした。会長が僅かに目を見開いた。

 卑しい悪党などを演じても意味はない。言葉を交わしていくなかで、それがはっきりとわかった。この男と向き合うのに、拙い演技などしていても仕方がない。いずれ見透かされるだけだろう。

 

「言うなれば手段ですよ、会長。自由になるための手段」

 

「小癪なことを言うな。現代に不自由などどこにもない。我々が体験したような不自由はな」

 

「いつの時代も人間は不自由で空腹だ。そういうものでしょう」

 

「人間の欲に際限などないと、そう言いたいのかね?」

 

「そんなことは改めて口にするまでもない。欲が尽きればそれは死者だ。不自由というのは全く別の話ですよ」

 

「金で解決できる不自由か。くだらんな」

 

「さて、解決できるかはわかりません。ただ、戦う自由は得られる」

 

「戦うだと。金で、不自由と戦うというのかね」

 

「あるいは」

 

 サカキは仮面越しに微笑んで見せた。会長は束の間思案げに手を顎にやり、それから勢いよく顔をあげた。

 

「まさか、同盟軍と戦うつもりか」

 

 答えなかった。会長が、呻くように声をあげた。

 

「馬鹿なことを。今更、そんなことに何の意味がある」

 

「不自由が我慢できない。そんなところです」

 

「止せ。金で勝てる相手なら、私がとっくにやっている」

 

「ほう。会長は同盟軍のなんたるかを知っておられると」

 

「我々の時代がどれだけ苦渋を嘗めたと思っている。あの頃、どんな悪党であっても反進駐軍という一点では必ず結束できた。告白すれば、私も反進駐軍の活動には参加していたのだ」

 

「そうでしたか」

 

「彼奴らがいくつかの権限を手放し、同盟軍へと変化したのは我々の働きが多少なりと作用したと思っている。極々僅かだったかもしれんがね」

 

「なるほど」

 

「なるほどだと?いったい、何をわかった気になったのだ?」

 

「私のような者が、不自由になっていく過程ですよ」

 

 会長が歯軋りし、それから肩を落として脱力したように椅子に躰を凭せた。

 団員が近付いて来て、サカキの耳元で囁いた。

 

「一から五階まで探索を終えました。電子データの方も進めていますが、今のところは何も」

 

「研究ごとにクローズドなネットワークがあるかもしれん。物理媒体を探している団員に、そちらにも目を向けなさい」

 

「はい。それから」

 

 団員が口ごもった。

 

「報告ははっきりとしろ。内容で、人をどうこうしようとは思わんよ」

 

「はっ。どうやら、ゲートの方が手違いで人を一人通したらしく」

 

「何が気になる?」

 

「赤い帽子を被った、少年だというのですが」

 

「そうか」

 

 サカキは束の間、目を閉じた。因縁。そういうこともあるのかもしれない。それが自分との因縁なのか、あるいはフミツキとレッドの因縁なのか。

 残酷な因縁になるのかもしれない。そう思ったが、それを遮る選択肢はサカキにはなかった。

 

「万が一シルフカンパニーにやってきたら、フミツキ団員に相手をさせるように。通路毎の防火シャッターはどうなっている?」

 

「事前の計画通りに降ろしています」

 

「広い通路は三枚のシャッターが横並びになっていたな」

 

「はい」

 

「一枚を降ろし、一枚を中間で止め、もう一枚は開けておけ」

 

「完全に封鎖することもできますが」

 

「本当に行き詰まれば、防火シャッターを食い破ってでも進んでくるだろう。本末転倒だ」

 

「しかし、かなりの耐久性ですよ」

 

「無駄だ。遮蔽物を作るだけでいい」

 

 それで、炎タイプの攻撃を捌くのは容易になる筈だった。フミツキならば、遮蔽物を上手く使った戦いをやってのけるだろう。その手の才は元々悪くなかった。

 団員が二人駆け出していく。フミツキへの連絡とセキュリティルームへだ。サカキは会長をちらりと盗み見て、それから肘掛けに片肘を突いた。人を包み込むような柔らかな椅子だった。

 こういうもので人は癒されたりするのだろう、と思った。ペルシアンがカーペットを爪で擦りながら、退屈そうに一鳴きした。

 

 

 

 



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19話

 

 

 

 

 

 それらしきものが、どこにもなかった。

 下の階を探索していた団員達は、見落としを疑って二周目に入っている。ネットワーク上のことはフミツキにはわからなかったが、行き交う団員の顔を見るにそちらも芳しくはないようだ。

 

「隊長、駄目です。上階も見つかってはいません」

 

「手がかりは?」

 

「研究室や開発メンバーについてはデータがあったようなのですが、設計図はどこにも」

 

「わかりました。警戒に当たっている人員も半数を探索に割いてください」

 

「まさかとは思いますが」

 

 言いかけた団員が、周囲を窺って口をつぐんだ。

 何を言おうとしたのかはよくわかった。マスターボールの情報が誤りであった可能性を考えたのだろう。

 フミツキの知る限り、サカキとゲームコーナーの店長は図抜けた切れ者だった。この二人が揃って存在を信じたのだから、マスターボールの実在についてフミツキは疑っていなかった。それに厳重なセキュリティが掛けられ、強引に奪えば自壊するだろうという予測についてもだ。

 そして、開発に成功した以上設計図も存在する筈だ。商業的な話ではなく、研究者の性がそうさせるだろう。研究者という人種が持つ情熱が半ば狂気的なものであることを、フミツキはオツキミ山で嫌というほど思い知った。

 

「私達にできることは探索を続けることと、外部からの横槍を跳ね除けることだけですよ」

 

 フミツキの言葉に団員がはっきりと表情を固くした。

 オツキミ山でフミツキが率いていたうちの一人だ。レッドに敗北したフミツキを、安全な場所まで退避させてくれた団員の一人でもある。

 ゲートを担当していた班がなぜか子供を一人通したこと、その子供が赤い帽子の少年だったことは既に連絡を受けていた。なぜ、ということは考えなかった。そういう縁だった、と思うだけだ。

 トレーナー同士の才能だけを比べれば勝負にもならないだろう。それだけのものを、フミツキはオツキミ山で見た。絶望したといってもいい。

 立ち向かうべき相手が悪い。サカキはそう言っていた。逃げて当然だ、とも言った。逃げろとは言わなかった。それがフミツキを思ってのことなのか、サンドパンのためなのかはわからない。それでもこの、否定されて当然の戦いを肯定してくれたのだ。

 

「隊長、俺達にできることは?」

 

「できることと言っても」

 

「なんでもいいんです。囮になれって言われりゃなります。ピッピ人形でも投げながら」

 

 ちょっと冗談めかしながら団員が笑って、それからフミツキを見つめた。退きそうな気配はない。

 

「それでは、相手を誘導して貰って構いませんか?できれば五階の広い通路で戦いたいのですが」

 

「命に代えても」

 

「そこまでは頼みません。とにかく、探索班を避けながら誘導してもらえれば充分です」

 

「わかりました。二階辺りで待機します」

 

 団員が駆け出していく。その背を見送ってから、フミツキはサンドパンを出した。

 爪の先、頭、背の棘、お腹、脚と順番に観察し、それから触診していく。表面上の傷だけでなく疲労などまで考慮しながらだ。メディカルマシーンは傷を癒すが、傷付いた時の感触や違和感まで拭いさってくれるような万能機器ではない。

 爪の内側に凝りがあったのでピーピーエイドを塗った。同じ技を使い続ければ当然その箇所に疲労が溜まり、凝り固まっていく。それを解す薬品だ。トキワジムでは、ジムトレーナー全員がこういった回復薬を複数常備していた。そういった環境で特訓を積めたことは、フミツキにとって幸せなことだった。

 一通り終えてから、サンドパンを仕舞い階段を降った。七階である。一段一段、ゆっくりと降りていった。静まり返った中で壁に足音が反響した。

 捜索を担当している団員がフミツキを見て軽く会釈した。五階だった。行き交っていく団員達を見送りながら、フミツキは大きい通路の真ん中を歩いていった。外は真夏日といってよかったが、シルフ内には冷房が効いていた。サンドパンを出し、躰を小刻みに擦る。寒さに強い種族ではないのだ。

 されるがままのサンドパンの爪を握り、フミツキは自身の頬へと当てた。最初の数秒には冷気が漂ったが、その後からサンドパンの体温がじんわりと広がってきた。サンドパンが目を閉じている。フミツキは額を合わせた。

 階下が騒がしかった。叫びと、技の余波が壁を押し拡げる音。ポケモンが自由に過ごせるように作られたシルフカンパニーの建物をもってしてなお、その音は低い唸りを響かせながら近付いて来ていた。フミツキはまだ目を閉じ、サンドパンと額を合わせていた。

 行き交う足音が激しくなった。目を開き、立ち上がった。

 

「隊長さん、こんなところに。今、下が大変なことになってて」

 

「わかっています。私の」

 

 言葉が途切れた。重い言葉だ。しかし、背負ってしまったものだった。

 

「私の部下が、こちらに誘導してくる手筈になっています。五階にいる他の団員達は退避をお願いします」

 

「わかりましたっ」

 

 団員が大声で退避を叫びながら走っていく。人の気配が段々と遠ざかっていく。入れ替わるようにして、数人の男達が近付いてきた。

 

「隊長」

 

「みなさん」

 

 フミツキの隊の団員だった。服はところどころ破れ、壁にでも擦ったのか白く汚れていた。ポケモン達も瀕死に陥っているようだ。疲労困憊なのか、壁に躰を預ける者もいる。

 

「あの少年は?」

 

「もうすぐ来ると思います。二階で暴れまくってましたよ。横からバトルを吹っ掛けて逃げながらなんとかここまで来ようと思ってたんですが、四階で捕捉されちまって。階段手前までは来てたんでそのまま上がってくる筈です」

 

「ありがとうございます。みなさんは上階に退避を」

 

「冗談よしてくださいよ。ここにいます。何のお役にも立てませんがね」

 

 一人がそう言って笑った。他の団員も同調するように頷いた。フミツキはわざとらしく肩を竦め頷きを返すと、後方を指した。流石に団員達も従い、大人しく後方に待機した。

 フミツキは団服の上着を脱ぎ、ベルトのモンスターボールや躰の可動を確認してから、黒いフェイクレザーのジャケットの首元までファスナーを閉めた。長袖が手首までを覆っている。手袋は着けなかった。ボールを投げる時の感覚が狂うのだ。

 不燃性の上着だった。しっかりとした想定の元で買った訳ではない。偶然見つけ、衝動的に購入したのだ。

 こうなることをわかっていたのかも知れない。自分の躰を見下ろしながら、フミツキはそう思った。緩やかな団服と違い躰にフィットする形状で、女性的な体型が見てわかるようになっている。

 今まではロケット団として活動する時、頑なに性別のわからないような服を選んでいた。そんなことを言っていられない相手に、自分は挑むのだ。

 まともに戦えば勝負にならない。覚悟は決めていた。

 

「来ましたか」

 

 影が伸びていた。子供と、翼を持った巨体の影。巨体の尻尾が揺れる度に、影も左右に揺れた。一人と一匹が壁に突き当たり、こちらに向き直った。レッドとリザードン。目が合った。

 最初に動いたのがサンドパンだった。火を噴こうとしたリザードンを止めて、レッドが前に出た。防火シャッターの位置が微妙だったのだ。

 レッドの側に一枚目が、僅かにフミツキ寄りの位置に二枚目がある。初撃は楽に凌げる、とフミツキは計算していた。事前に計算していたフミツキと同等の判断を、レッドは瞬時に下したのだろう。

 走る。レッドとリザードンが一枚目を潜り抜けた。二枚目のシャッターが、フミツキにはまだ遠い。

 

「サンドパンっ、『スピードスター』」

 

 サンドパンが跳び上がり独楽のように回転し、そこから星形の光線が飛び出して行った。レッドが下がると同時に前に出たリザードンが、尻尾の一振りで星を凪ぎ払う。効いた様子はないが、出足は奪えた。フミツキはシャッターの陰へ飛び込んだ。僅かに遅れてサンドパンがやってくる。その向こうを巨大な炎の綱が過ぎていった。

 膠着した。二度サンドパンが飛び出し『スピードスター』を撃ったが、まともなダメージにはならなかった。お返しとばかりに撃たれる『かえんほうしゃ』は防火シャッターが遮っている。シャッターの上げ下げはサカキが指示したのだろう、とフミツキは確信した。適度に遮り適度に逃がし、それでいて視界は確保できている。競技としてのバトルが主流の現代らしからぬ、実戦的な配慮だ。

 『かえんほうしゃ』が通り過ぎる。フミツキは躰を低くしてから息を吸った。腰より上は熱気で覆われている。

 力は圧倒的に向こうが上だった。それで膠着に持ち込めているのだから、フミツキにとって悪くはない。この応酬がいつまでも続くならばだ。

 汗が額から鼻、そして首筋へと伝ってきた。前髪が張りついている。

 膠着が続く筈がない。それはわかっていた。フミツキはただ、相手が状況を動かすその瞬間を待っていた。

 『スピードスター』を撃ったサンドパンがシャッターの陰へ飛び込んでくる。しかし、反撃はこなかった。

 異様な音が、通路の向こうから響いてきた。フミツキはシャッターから僅かに顔を出した。

 火の粉。それもただの火の粉ではない。無数の火の粉が、風もない筈の室内で渦を巻きながら通路を埋め尽くすようにゆっくりと迫ってきていた。『ほのおのうず』。

 『かえんほうしゃ』のような直線の動きではない。あれならば、防火シャッターを越えてサンドパンを捉えることも可能だろう。

 フミツキは膝を付いてサンドパンと目を合わせた。どこか鉱石を思わせる瞳が、フミツキを見上げている。

 

「最後まで、見続けるから」

 

 渦の先端が、防火シャッターを叩いている。飛び越えてきた小さな火の粉が、フミツキのジャケットに付着して、消えた。

 

「最後まで、戦い続けて。ただ、あなたらしく」

 

 言ってから、フミツキは小さく笑った。サンドパンが抗議するように爪を打ち鳴らした。

 

「私達らしく、にしておこうかな」

 

 サンドパンが頷いた。もう一度笑ってから、フミツキはサンドパンをモンスターボールに戻した。それを、右手にしっかりと握った。

 できるかどうかは考えなかった。やれなければ、ただ無抵抗に負けるだけなのだ。

 シャッターを乗り越えてきた『ほのおのうず』の中に、フミツキは迷わず右手を突っ込んだ。左腕で目鼻を覆い、口は固く結んでそのまま右半身まで躰を突き出す。

 熱いとは感じなかった。全身に鳥肌が立ち、強烈な吐き気が胃と肺腑を駆け巡った。目蓋の裏に閃光が走り、酷い頭痛がした。皮膚の上を不快ななにかが這っている気がした。その全てを無視して、フミツキは力一杯振りかぶった。

 不意に渦が散り、視界が開けた。視線の先。フミツキははっきりと見た。リザードンの足下に落ちたモンスターボールから、サンドパンが踊り出る。リザードンは応戦しようとしていたが、間に合わなかった。サンドパンの『ころがる』がまともに胴体を捉え、リザードンがたたらを踏んだ。再度の『ころがる』。飛んで距離を取ろうとしたリザードンを再び捉え、地面へと引き摺り落とした。オツキミ山で傷一つ付けることのできなかった相手を、サンドパンが圧していた。全てを、フミツキは見ていた。

 右手の感覚がなかった。足が痙攣を起こしている。喉は耳障りな音を立てていた。世界が、ぐるりと横に回転した。自分が倒れたのだと、しばらくして気付いた。躰を起こしたかったが、どちらが上でどちらが下なのかもよくわからなかった。

 サンドパンはフミツキを顧みることなく、懸命に食らいついていた。複数の足音がフミツキへと駆け寄ってきた。

 オツキミ山の時と同じだ、と思った。違うのは、サンドパンがまともに戦っていること。そしてそれを、フミツキが見続けていることだった。

 『えんまく』を張られたサンドパンが『ころがる』を外した。壁にぶつかり、無防備に回転を解いたサンドパンを『かえんほうしゃ』が飲み込んだ。炎から飛び出してきたサンドパンはまだ立っていたが、震える両脚は明らかに限界だった。

 近寄ってきた団員達が、フミツキの手を脱いだ上着で叩いていた。まだ火が残っているのかもしれない。

 最後の力を振り絞るようにして、サンドパンが飛び掛かった。レッドの指示は素早く、リザードンもよく反応した。尻尾に弾き飛ばされたサンドパンが、壁にぶつかり床へ落ちた。うつ伏せでピクリともしないまま、やがて瀕死状態の収縮を始めた。

 最後の最後まで、勝負を見続けなさい。それがサカキに掛けられた言葉だった。

 最後まで、サンドパンは戦った。そんなサンドパンを、自分は最後まで見続けたのだ。そう思った。

 不意に、全ての感覚が曖昧になった。最後まで見続けた。もう一度そう思い、それからフミツキは目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マスターボールの設計図が、見つからなかった。

 連れてきた団員は勿論、唾を付けていた研究者達も総出で捜索していた。数十億の価値があるであろう研究成果も、シルフカンパニーを揺るがしかねないような契約内容も、厳重に鍵を掛けられた顧客情報も、その全てを今ロケット団が掌握していた。マスターボールを造り上げたというM計画についての資料も見つかった。その成果だけが、どこにも見当たらなかった。

 

「もう良いだろう、ロケット団。君達が手に入れられるものは全て手に入れた筈だ。これ以上何を望む?奪った金を手に、同盟軍に突撃するといい」

 

「玉砕する、と思われていますね」

 

「むしろ、君がそう思わないのが不思議だよ。話していてわかったが、君はずいぶんと理性的な人間だ。知性もある。それでなぜ、同盟軍と武力衝突することの無意味さを理解できないのだ」

 

「無意味ではないからですよ。少なくとも、私にとっては」

 

 会長が眉間に皺を寄せた。サカキは顎を引いて、なんとはなしに机を見詰めた。

 

「自由とはそれほど尊いものかね。敗北のための戦いに、賭ける価値があるかね?」

 

「敗北のためではない、と言っておきましょう。自由が尊いものかどうかは、各人が判断すればいい」

 

「傲慢だ、君は」

 

 その通りだ、とサカキは思った。自分はとんでもなく傲慢なことを考え、実行しようとしている。

 戦いたかった。力の限り、戦いたかった。

 無謀なだけの勝負は、戦いではない。この国の全てを巻き込んでの、一筋の光明を握り締めるような、そんな戦いの場に身を投げ出したかった。誰もが吼え声をあげるような戦場を、おのがポケモン達とともに這いずり回りたかった。

 そんな戦いなどどこにもないことは、ポケモンリーグを勝ち抜いたまだ若かりし頃で既にわかっていた。

 夢だと思った。それを、夢ではないものにしてしまいたかった。

 

「ボス、隊長が」

 

 飛び込んできた団員はすっかり憔悴していた。フミツキの指揮下の団員だ。

 

「敗れたか」

 

「はい。それから、酷い火傷を負って意識が戻りません」

 

「火傷だと」

 

「『ほのおのうず』に躰ごと突っ込んだんです。右腕を中心に酷い状態で」

 

「服は無理に脱がせるな。生地と肌とが癒着している可能性がある。服の上から冷やせるだけ冷やせ。それから抗生物質を」

 

「もう退け、ロケット団」

 

 低く、会長が言った。俯きがちで、独り言のようだった。

 

「重度の火傷を治療するような設備や技術はシルフカンパニーにはない。気管支に損傷がある可能性も捨てきれんだろう。命に関わるぞ」

 

 フミツキ指揮下の団員が一瞬言葉を失い、それから壁を拳で叩いた。

 

「マスターボールの設計図はどこに。それさえ、それさえあればいつでも」

 

「マスターボール?まて、マスターボールの設計図と言ったか?」

 

 別の団員が抑えようとしたが遅かった。マスターボールという単語に反応した会長が立ち上がり、見開いた眼でサカキを見詰めた。

 サカキは頷きを返すことで肯定した。放心したように会長が虚空を見詰め、それから椅子へと腰を落とした。

 

「なんということだ。あんな、あんな神の気紛れがこんな事態を」

 

 会長が蹲るようにしながら頭を掻き毟り、それから顔をあげた。ふと、不吉な予感にサカキは襲われた。会長の表情にあったのは深い憐れみと、見通せぬほどの後悔だった。

 

「よく聞け、ロケット団。マスターボールの設計図などという物は、この世に存在しない」

 

「馬鹿な。マスターボールは実在する」

 

「そうだ。マスターボールは間違いなく実在する。キャプチャーネットの強靭性、ポケモンの収縮機能を喚起する能力、外殻硬度。その全てが従来のモンスターボールを圧倒的に凌駕した。既存の捕獲指数に間違いがなければ、どんなポケモンでも捕獲できるボールと言っていいだろう」

 

「それならば」

 

「なかったのだよ。あのボールには、再現性が一切なかった。同じ素材、同じ技術者、同じ設備、同じ環境。果ては月の満ち欠けまで揃えたが、マスターボールが再び完成することは終ぞなかった。あれは神の気紛れ以外の何物でもないのだ」

 

「マスターボールの製法は存在しない?」

 

「そうだ。そして唯一のマスターボールもここにはない。厳重なセキュリティとセーフティの元に眠っている」

 

 会長が真っ直ぐにサカキを見据えた。相変わらず、瞳には憐れみと後悔が鈍く漂っている。そこに嘘の一欠片さえも、サカキは見つけることができなかった。

 

「本当、なのでしょうね」

 

「誓って、嘘は言わん。私にとっても無念なことだった」

 

 沈黙が降りた。団員達が固唾を飲んでいるのを、サカキは感じた。壁に備え付けられた時計の針音が、やけに大きく響いた。

 ミュウツーのデータを集め復活を待つ。技マシンを収集しながら資金を集め、組織を成長させていく。マスターボールによってミュウツーを捕獲、対同盟軍の切り札としつつハナダの洞窟のポケモンを捕獲し団員に配給する。ジムバッジと技マシンを同時に配ることで戦う態勢を整える。

 それから同盟軍との戦端を開く。誰もが己の力を磨き続ける、戦いの時代。

 ロケット団の戦略に、欠けていい要素は一つもなかった。

 天井を見上げた。柔らかく光る蛍光灯の中に、光の中に全てが吸い込まれていった。

 

「夢か」

 

 呟いた。声は罅割れ、乾燥して、空間へとほどけていった。

 

「全ては、夢だったか」

 

 ぼんやりと、光の輪郭が霞んでいた。それは全ての色を飲み込んでしまったように、色とりどりの残映を目蓋の裏に焼き付けた。

 振り向いた。団員達が顔を伏せる。

 

「撤退する。各階の団員達を階段付近に集め、点呼を取らせろ。揃った階から順に下っていく。一階で合流後ヤマブキを脱出し、ロケット団を解散する」

 

 告げて、サカキは声を和らげた。

 

「済まなかったな。どうやら、幻影を追うのに付き合わせてしまったようだ」

 

「ボス、俺は。いや、俺達は」

 

「いいんだ」

 

 誰かが堪えきれないように嗚咽を漏らした。やがてそれは部屋中の団員達に伝播した。恥もなにもない、男泣きだった。それをみっともないとは、サカキには思えなかった。

 会長が机の上で腕を組み、空を睨んだ。

 

「私は神を恨もう。私と君達に偽りの夢を見せた神を」

 

「つまらないことですよ、会長。夢は人が見るものです」

 

「どこへ行く、ロケット団。まだ、夢を見るのか?」

 

「さて、どうでしょうね。いくらか現金を頂戴していきますよ。その方が都合がよろしいでしょう」

 

「好きに持っていけ。黒い交際や自作自演などと書かれてもつまらん」

 

「だそうだ。お言葉に甘えるとしよう」

 

 サカキは団員達を促し、金を持たせた。差し出されたそれを、サカキは受け取らなかった。

 

「ボス」

 

「君達が持つといい。行くぞ」

 

 会長室を出る。既に八階までは集合が完了し、下を目指して下っているらしい。エレベーターは止めてあった。階段へ向かう途中、一人と一匹の影が道を遮った。フミツキ指揮下だった団員が悲鳴をあげた。

 赤い帽子とジャケット。背後にリザードンを控えさせた少年が、レッドがそこにいた。

 

 

 

 

 



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20話

 

 

 

 

 

 子供としか思えなかった。

 それが見た目だけであることも、サカキにはよくわかっていた。強者の気配。今まで数多く見たそれと同じものを、レッドは放っていた。

 一人だった。サカキの後ろには数多くの団員達がいる。それでも、臆することなくレッドは歩みを進めてきた。

 ぺルシアンが前に出て唸り声をあげた。レッドが足を止める。ぺルシアンの間合いの、ほんの僅かに外だった。非凡な位置取りだ。

 

「こうして会うのは初めてだな。私がロケット団の首領だ。君には、随分と苦渋を嘗めさせられた」

 

「そうですか」

 

 なんでもなさそうにレッドは答え、それきりぺルシアンの様子を窺っていた。まともに会話をするつもりはなさそうだ。

 団員の一人が激昂し、前へ出ようとするのをサカキは片手で制した。レッドが半身ほど躰を引いている。仕掛けても、軽く受け流されるだろう。

 

「一つだけ訊いておきたい。サンドパンのトレーナーは強かったかね?」

 

「え?」

 

「部下でね。君に敵わないことは、恐らく本人が一番よくわかっていた。それでもなお、挑もうとした」

 

「強かった、と思います」

 

「君はジムリーダー達を何人も破っている。もっと強いトレーナーもいくらでも知っているだろう」

 

「それは」

 

 レッドが考え込んだ。言葉に迷っているようだった。

 

「思った通りのことを言っていい。勝者の特権であり、義務だ」

 

「やっぱり、強かったと思います。意志が、強かった」

 

「そうか」

 

 サカキは一歩前へと踏み出した。レッドとリザードンが目を細める。強者の目だった。

 

「止めておいた方がいい。君には、まだ早い」

 

 ぺルシアンをボールに戻す。そのボールを仕舞いながら、別のモンスターボールに手をかけた。鈍く光るモンスターボール。

 現れたニドキングを見て、団員達が絶句した。多少バトルに詳しいものなら間違いなく見覚えのある個体だろう。体長は普通のニドキングの倍近く、三メートルほどもあるのだ。

 レッドが大きく後ろに跳んだ。入れ替わるようにリザードンが飛行しながら前に出てくる。悪くはないが、遅かった。

 炎。ニドキングが姿勢を低くして躱しながら、リザードンの下へ潜り込んだ。尻尾を掴み、レッドの方へと投げ返す。壁に叩きつけるつもりだったが、上手く空中で体勢を立て直していた。姿勢の制御は中々のものだ。

 レッドがさらに距離を取った。ニドキングは巨体だが、鈍重ではない。踏み込みを一度見ただけでイメージを修正したのだろう。

 フミツキが立ち向かうには、あまりにも強大すぎる相手だった。トレーナーとしてのセンス、瞬発力、判断力と決断の果敢さ。その全てがフミツキを大きく上回っていた。

 そういう相手に挑めることを、一瞬だけサカキは羨ましく思い、それから苦笑いした。傲慢がすぎる考えだ。

 リザードンが尻尾を振る。一振り毎に無数の火の粉が空中に散らばり、どれからともなく集まるとやがて渦を巻き始めた。『ほのおのうず』。本来隙の大きい技だが、サカキの目から見ても仕掛けるタイミングは見つからなかった。後ろの団員達に至ってはいきなり『ほのおのうず』が出現したように見えただろう。

 渦が放たれる。捕らわれれば面倒だが、サカキは焦ってはいなかった。

 

「『だいちのちから』」

 

 ニドキングが両手を床へと付ける。高層階では大地のエネルギーを汲み上げるのに手間取るが、今更その程度を苦にするレベルではない。

 放たれたエネルギーが『ほのおのうず』を霧散させ、余勢を駆ってリザードンへと迫った。

 リザードンが飛び上がる。同時に、レッドが反対側へと駆け出した。それで視界が広く取れる。ニドキングが後手を踏めばだ。

 

「『エアスラッシュ』」

 

「『ふいうち』だ」

 

 ニドキングが、一瞬姿を見失うほどに加速した。空中のリザードンへと打撃を与えると、縺れ合うようにしながら地面へと落ちてくる。

 

「『ほのおのキバ』」

 

 躰を起こしながら口角から溢れるほどの炎を生じさせたリザードンが、ニドキングの肩へと噛み付いた。ニドキングは一瞬仰け反ったが、すぐに躰を前に出した。越えてきた場数が違うのだ。火傷や怯みといった状態異常など、数えきれぬほどに受けてきた。

 全てを、踏み越えてきた。自嘲と共に、サカキはそう思った。

 

「壁に押し付けてやれ。『とっしん』」

 

 リザードンに噛み付かれたまま、ニドキングが猛然と前進を始めた。リザードンの口元からもう一度炎が溢れ出す。ニドキングの勢いは一切弱まらなかった。

 壁にぶっつけられたリザードンが、流石に頤を開いた。甲高い音と共に、リザードンの背中を中心として蜘蛛の巣状の罅が壁に拡がった。ニドキングが尻尾を地面にべたりと付け、三本目の足として前進を強くする。罅が更に細かくなった。

 

「叩き落とせ」

 

 耳障りな音を叫びながら、壁が崩壊した。飛び散る瓦礫が擬似的な『いわなだれ』となってリザードンの躰を打った。痛撃に力を失ったリザードンが押し出されるままに後退し、建物から弾き出されて落下を始めた。

 ニドキングの横を小さな影が駆け抜けた。

 

「あのガキ、何をっ」

 

 団員達から悲鳴があがった。一切の逡巡を見せることなく、レッドはリザードンを追って壁に空いた穴を飛び出した。シルフカンパニーの最上階である。サカキは穴へと駆け寄った。

 落下しながらなんとかリザードンの背に取り付いたらしいレッドが、その口元に木の実を押し込んでいた。サカキは目を凝らした。レッドがリュックへ手を突っ込み、取り出した何かをもう一度リザードンの口元へと持っていった。なんなのかはよく見えなかった。既に六階近くまで落ちている。

 不意に、リザードンが翼をばたつかせた。もがくようにしながら空中で体勢を整えると、束の間旋回し、ヤマブキ郊外へと進路を取った。再浮上するほどの体力は戻らなかったようだ。風に乗り、滑空するように遠ざかっていく。尾の炎が、遠い地表を断ち切るように薄く線を引いていた。

 一連のレッドの動きには、束の間の迷いすらなかった。尋常な決断力ではない。団員達が唖然としていた。

 

「いそうもない人間が、この世にはいるものだな」

 

 リザードンの背で、レッドが振り向いた。標的を見定めるようなその視線を、サカキはただただ受け止めた。それも、勝者の義務である。雪辱を期す眼光が、静かにサカキを貫いた。

 やがてレッドが前を向くと、サカキはニドキングをボールへ戻して踵を返した。困惑と畏怖を湛えた団員達がサカキを見つめていた。

 

「撤退する。行くぞ」

 

 それだけを、サカキは告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一階では作戦に参加した全ての団員が集まっていた。その中に、輪を作っている集団がいた。

 

「隊長っ」

 

 後ろにいた団員が声をあげて輪に駆け寄った。サカキもそれに続いた。

 輪の中心で、フミツキが仰向けに寝かされていた。袖から覗く右手が焼け爛れていた。レザージャケットも右腕部分は原型を失っていて、皮膚と癒着していた。左側も表面は熱に変形している。意識は戻っていないようだ。首まで迫る火傷と対比するようなあどけない顔は普段よりもずっと幼く見え、その分だけ残酷な光景となっていた。

 

「服を脱がせろ。右腕以外だ」

 

「え?」

 

「急げ」

 

「は、はいっ」

 

 女性の団員、などと言っている場合ではなかった。フミツキの隊の団員が、恐る恐る服に手をかけた。

 サカキはぺルシアンをボールから出した。ぺルシアンが鼻をひくひくと動かし、嫌そうな表情をした。肉の焦げた匂いがしているのだ。人間のサカキですらわかるのだから、ぺルシアンにとっては相当な悪臭だろう。

 

「ボス、これでいいですか?」

 

「ああ。下がっていなさい」

 

 黒いノースリーブのスポーツインナーを晒したフミツキの右側に、サカキは無造作に立った。足元ではぺルシアンが髭を揺らしている。

 

「集中しろ、ぺルシアン。斬るのは袖と腕の間だけだ」

 

 ぺルシアンが目を細め、フミツキへと向き直った。呼吸を、サカキは測った。自分のものではない。ぺルシアンの呼吸。フミツキの呼吸。あるいは、その空間にあるなにがしかの呼吸。

 ぺルシアンが姿勢をゆっくりと低くし、反対に体毛を少しずつ逆立てる。呼吸。本当に呼吸と言えるのかはわからない。成功の機微。

 体毛が逆立つ。ぺルシアンの髭が、地面に付きそうになっている。

 

「『きりさく』」

 

 動きは決して大きくなかった。ジャケットの袖に一筋の線が走り、やがて枯れ葉が木から落ちるようにフミツキの躰を離れた。

 

「消毒、それから包帯を巻いておけ」

 

「はいっ」

 

「誰か、フミツキ団員を運べるか?」

 

「俺達で、隊長は俺達で運びます」

 

 数人の団員が名乗りをあげた。全員、オツキミ山でフミツキが率いていた団員だ。

 サカキは頷いて、それから外へ出た。男が一人駆け寄ってきた。

 

「支配人か」

 

「一応、本部長ってことになっているんですがね」

 

「これからは支配人で構わん。正式にだ」

 

 ゲームセンターの支配人が苦笑いをした。

 

「北は?」

 

「格闘道場の連中なら今頃てんてこ舞いになってますよ。道場破りをしてきましたんで。マスターボールの設計図は?」

 

「存在しなかった。どうやら、道化を演じてしまったようだ。シルフカンパニーの会長は、神の気紛れなどと言っていたが」

 

「そうですか。そんなこともあるんじゃないか、という気はしてました」

 

「ほう」

 

「神って奴はたぶん人間が怖いんでしょう。だから、優れたリーダーが生まれそうになると陥穽を掘る」

 

「ならば、やはり道化だな。まんまと陥穽に嵌まり込んだ」

 

「言ってみても仕方ないことですね。とりあえず、ヤマブキを抜けますか?」

 

「ああ。そこまでは私が突破口を開く。その後は散開することになるな。私以外への追跡は厳しくはないと思うが」

 

「ボスはタマムシへ向かってひた駈けてください。そこからは身を隠してサイクリングロードへ」

 

「セキチクか?」

 

「いえ。サイクリングロードの手前に『そらをとぶ』を使える人間を待機させてます。あそこからならすぐに海上へ出れるので目撃されることもないでしょう。私はもうしばらくこっちへ残って、情報を錯綜させておきます」

 

「わかった。もう一つ問題があるんだが、フミツキ団員が負傷している。酷い火傷だ」

 

「ロケット団の被害者ということにして病院にでも持ち込みましょう。私のキュウコンで適当に放火をしておきますよ。火傷を負った人間が出ても不思議はないでしょう」

 

「そうしよう。すまない、最後まで面倒をかけるな」

 

「願わくはもう一度、ボスの元で。そう思い続けます」

 

 支配人はそう言って、小さく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 勘が良いと、よく言われた。

 半分は褒め言葉で、もう半分は嫉妬を含んだ陰口だった。独断的な捜査を行うタカギのやり方は、同僚から理解を得られるものではなかったのだ。

 本当は捜査の根拠があることも少なくなかった。しかしその根拠は、その瞬間にしか活きないものだったりするのだ。タカギは根拠の共有よりも有効活用を重視した。それが同僚からの軽蔑の視線と、何枚かの賞状となってタカギの評価を形作った。

 なぜ自分はここで待っているのか。今、根拠はなにもなかった。勘が働いた訳でもない。何気なくタマムシを出て、適当に腰を降ろしたのだった。

 七番道路。もうしばらく進めばヤマブキシティに達するそこで、タカギは足を止め、煙草に火を点けた。オイルライターは相変わらず火花ばかりを飛ばし、中々着火しなかった。

 フィルター近くまで燃えると煙草を丁寧に消し、携帯用の灰皿へと捨てた。しばらく待ち、もう一本煙草を取り出した。

 三本。四本。調子が出てきたのか、いつになくオイルライターが快調に火を点した。ボールから出したウツボットが一杯に葉を広げていた。陽射しの強い、暑い日だ。

 五本目。待った。自分は待つ刑事なのだと、言い聞かせ続けた。ロケット団に関しては常に追っていた、という気がする。タマムシのアジトの時でさえ、結局は飛び込む形になった。

 根拠もなにも持たずにただ待つ。捜査とは言えなかった。だからこそ、駆け引きの外側で勝負が決まる。運のようなものだ。

 六本目。煙がタカギの目の前を横切った。遥か遠くに砂煙が上がっていた。近付いてくる。

 七本目。砂煙が更に近付いた。誰かがポケモンに騎乗して駆けている。豆粒ほどの大きさだったその人間が、段々と大きくなってきた。

 立ち上がり、タカギは煙草を消した。ぺルシアンに騎乗した男。顔はわからなかった。仮面を着けているのだ。その後ろを数十人の人間が走っている。ロケット団。タカギはそちらを意識せずに、先頭の男だけを見つめ続けた。男も、タカギを見ていた。

 

「ロケット団」

 

 肚の底から、タカギは吼え声をあげた。まだ距離がある。それでも、男には届いている筈だ。ウツボットが前に出る。

 

「勝負だっ」

 

 叫んだ。男がぺルシアンの上で立ち上がり、跳んだ。片手でぺルシアンを戻し、もう一方でモンスターボールを投げた。

 現れたニドキングの背に男が着地した。三メートル近い、どこか見覚えのあるニドキング。圧力は凄まじいものだった。ほとんど小山のような物体が、自分を目掛けて駆けてくる。退きそうになる脚を、タカギは抑え込んだ。

 ここだけだ。拳を握り込みながら、タカギはそう思った。自分がロケット団の首領に接触できるとしたら、今この時だけだ。ここが、分水嶺だ。

 ウツボットが蔓の先端を結び、瘤のようにした。この瘤を、下から掬い上げるように打つ『つるのムチ』がタカギが持つ唯一の技だった。レベルの高いポケモンを従えた犯罪者を、悉く打倒した技だ。

 ニドキングが、その巨体からは考えられないほどの速度で迫ってくる。息が詰まりそうだった。指先が震えている。

 叫んでしまいたかった。速く『つるのムチ』を指示して楽になりたかった。待つ刑事。もう一度言い聞かせた。最後の一瞬まで、待てる筈だ。

 地面が揺れている。風が肌を打った。堪えた。動きだそうとする全てを、タカギは堪えた。

 何かが弾けた。

 

「『つるのムチ』だ」

 

 ウツボットの蔓が稲妻のように迸り、ニドキングの下顎を捉えた。ニドキングが前につんのめった。タカギは勝鬨をあげそうになった。

 ニドキングがもう一段加速した。咄嗟にタカギは横に跳んだ。ウツボットが、まるで触れてはならないものにでも触れたかのように弾き飛ばされ、地面に倒れ付した。砂埃が、タカギとウツボットを覆った。

 砂埃が晴れた時、ロケット団は既に遠く離れていた。タカギはワイシャツを点検し、入り込んだ砂をはたき落とした。それからウツボットをボールに戻し、煙草に火を点けようとした。

 

「自分から体勢を崩すことで『つるのムチ』の衝撃を殺したか」

 

 呟いて、タカギは苦笑した。どうせ待つのなら罠でも仕掛ければ良かったのだ。

 真っ向から、勝負をした。そうしたいと、なぜか思わされてしまった。困ったものだ。あの男には、どうにも人たらしの才能がある。

 

「追い詰めきれんかもしれんな」

 

 どれだけサカキのニドキングに似ていても、メタモンの『へんしん』という可能性は捨てきれない。戦前に冤罪を複数出したらしく、警察組織はその辺りに慎重になっていた。ヤマブキがどういう展開になったかによるが、即座に逮捕することは難しいだろう。

 砂でも入ったのか、オイルライターはまた渋くなっていた。八本目の煙草はしばらく喫えそうにない。ライターを擦りながら、タカギは遠ざかる砂煙に目を細めた。

 

 

 

 

 






一旦ここまで
もう一、二話で完結できると思います。できるだけ速く続きを投稿できるよう頑張ります


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21話

 

 

 

 

 

 日常の変化は少なかった。

 事務作業をし、トレーニングをやり、挑戦者がいれば試合を受ける。それだけだ。ムツキが元団員達のアフターフォローのために各地を飛び回っているので、スケジュール調整は多少面倒になったか。

 数日前に、シルフカンパニーで会った少年が来た。オーキドの孫で、血筋に見合うだけの実力があり、あるいはワタルに届くかもしれないと思えた。刺激的な出来事はそれぐらいだったろう。

 変化がないのはあくまでもサカキの周囲に限った話で、世間は天地をひっくり返したような大騒動になっていた。タマムシで壊滅したはずのマフィア組織がヤマブキに姿を現し、世界的企業であるシルフカンパニー本社を襲撃したのだから当然と言えば当然だった。

 サカキはリモコンを操作し、テレビの電源を点けた。試合映像を見返す以外には使ってこなかったジムのテレビも、ここ数日はニュース番組ばかりを映している。

 報道はひっきりなしに事件を取り上げ、事の全容や責任の所在、今後の見通しなどを侃々諤々に言い合っていた。新聞やワイドショーを流し見しながら、サカキは一つのことを探していた。ロケット団総帥についての報道だ。

 老いぼれ犬はロケット団総帥の正体を完全に突き止めているはずだ。自分を逮捕しに来るとすれば、あの喰えない老警部だけだろう。

 しかし今のところ、サカキの名が報道に挙がることはなかった。水面下で事が進んでいる気配もない。

 自惚れでもなく、警察部隊の包囲なら軽く破れる自信があった。サカキを捕らえるならば、ジムリーダーか四天王を複数人招集しなければならないだろう。その動きを見落とすほどに落ちぶれてはいない。

 警察内部で老いぼれ犬の発言力が低いというのはありそうなことだった。本当の意味で組織に馴染むことは決してない男だ。捜査本部の会議が紛糾する中で、サカキの逮捕を強引に推し進めることは難しいだろう。

 捜査の手がサカキに伸びるまで、まだ時間があるかもしれない。

 そこまで考えて、思考は停止した。

 時間があったとして、何をするのか。逃げるべきなのはわかっている。しかしサカキは、ただ普段通りの日常を惰性のまま続けていた。状況は刻一刻と悪化していくにも関わらずの停滞は、思考が停止しているとしか思えなかった。

 頭を振って、本棚へ目を向けた。一昨日、ジム別館にあった重要な書籍を全て本館へと移した。ジムトレーナーには整理のためだと言ったが、本当はいずれ警察が押収に来るのを防ぐためだった。別館ならば私物扱いされかねないが、本館の物品は全て協会及び各ジムの公的な持ち物となる。帳簿や目録も細かくつけてあり、サカキ個人への令状では持ち出すことは叶わないはずだ。

 ここにあるのはロケット団に一切関係しない、純粋にトレーナーの成長の糧になるものだけだ。警察の押収を対策しておくのは、かろうじて残ったジムリーダーとしての責務だろう。

 別館を空っぽにしておきたい自分がいる。そのことに気付かないフリをして、サカキは椅子から立ち上がった。

 

「リーダー、どちらに?」

 

「少々町を散策してこようかな」

 

「それはいい。ここ数日は籠りっきりでしたからね。トレーニング以外は机にかじりついて」

 

「ムツキ君がいない以上、私が事務作業をするしかあるまい。挑戦者の予定は入っていないね?」

 

「大丈夫です。ゆっくりしてきてください」

 

 ジムトレーナーの言葉に頷いて、サカキは外へ出た。微かな冷気を伴う風の中で昼の陽光は暖かく、雲のない青空がどこまでも高かった。トキワの町。見慣れた田舎町だが、考えてみればもう見る機会はあまりないのかも知れない。

 擦れ違う人々は、サカキを見かけると笑顔で会釈をした。暇を持て余した主婦やバトルに関心を持つ学生などは、立ち止まって言葉を投げ掛けてきたりする。サカキも立ち止まって雑談に応じ、質問や相談にはそれなりの答えを返した。見覚えのある顔が大半だったが、中には記憶にない人間も混じっていた。この田舎町でさえ、人も時間も流れ続けているのだ。見回すと、新しい住宅や店舗などもちらほらと目につく。

 

「あんなところに家があったかな」

 

「あれはついこの間建ったものですよ。サカキさんはお忙しいでしょうから知らなくとも無理はありませんわ。お店なんかも、新しくできたものもあれば潰れてしまったところもあって」

 

 そう言って笑った主婦が、いくつかの店を教えてくれた。小料理屋、雑貨店、婦人向けの衣料品店に喫茶店。フレンドリィショップよりもバトルに特化した専門店もできているらしい。どれも個人経営で規模は小さいが、商品やサービスには意欲的な面が見られるようだ。

 サカキは礼を言って別れ、しばらく散策してから一軒の店に入った。教えて貰ったばかりの喫茶店だ。

 

「これは、サカキさん。いらっしゃいませ」

 

 ドアベルの音に反応して新聞から顔を上げた店主が、慌てて立ち上がって頭を下げた。細身の青年だ。顔見知りのトキワの住人で、一度はチャンピオンを目指し旅にも出たはずだ。サカキも片手を挙げて挨拶した。

 木製のテーブル二つに椅子が二脚ずつ、テーブルと同じ材質でできたカウンターという小ぢんまりとした店内に客の姿はなかった。人の気配は残っているので、閑古鳥が鳴いているという訳でもなさそうだ。カウンターの端よりのスツールにサカキは腰を降ろした。店主は慣れた動作で軽くテーブルを拭くと、木の実の種子を荒く砕いたものを出した。匂いからして、恐らくオレンだろう。

 

「うちのコーヒーには合うんですよ、深みのある味でね。さて、どうしましょう?」

 

「おすすめを頼む。しかし、君の店だったとは」

 

「最近始めたんですよ。こんなに早くサカキさんをお迎えするとは思いませんでした」

 

「お父さんは元気かな。子ども達にポケモンの捕まえ方をよく教えてくれていた。本来はジムの人間がその辺りにも気を配るべきだったんだが」

 

「いつも通り、酒を飲んで酔っぱらってますよ」

 

 店主は快活に笑って、コーヒーの準備に取りかかった。サカキはオレンの種子を一つ噛みながら、その背をなんとなく見やった。ドアベルが鳴った。

 

「コーヒーを貰えんかね。今作っているものと同じで構わんよ」

 

 入ってきた男は、迷いなくサカキのすぐ隣のスツールに腰掛けた。店主が驚いた顔でオレンの種子を持ってくるのを尻目に、男はこちらを向いた。

 

「奇遇じゃのう、サカキ君」

 

 サカキは苦笑いした。

 

「トキワにいらしているとは存じませんでしたよ、オーキド博士」

 

「マサラタウンはなにかと不便での。トキワのフレンドリィショップに色々便宜を図ってもらっておる。必要な機材を取り寄せて貰ったりとな」

 

「博士自ら受け取りに?」

 

「以前は孫に任せておったが、今は忙しいじゃろうからのう」

 

「グリーン君ですか。この間、私のジムにも来ましたよ。ワタル君に届き得る才ですね、あれは」

 

「身内贔屓かもしれんが、チャンピオンになれると思うておるよ。もっとも、短い天下じゃろうが」

 

 オーキドがちょっと寂しそうに笑った。不意に芳ばしい香りが立ち昇り、コーヒカップを載せたお盆を持った店主が緊張した面持ちで後ろに立った。

 

「豆の表面や割れ目に残った薄皮を、ピンセットで一つ一つ取り除いてから挽いています。蒸らしにも工夫があって、雑味のないクリアな味わいに仕上げています」

 

 説明とともに配膳されたコーヒーを手に取り、香りを味わい、口に含んだ。豊かな風味、という訳ではなかった。むしろさらりとした苦味が、仄かな酸味を携えているようなシンプルな味だ。一口飲み干してから、オレンの種子を齧る。こちらは豊かな味わいをしている。再びコーヒーを飲む。組み合わせが抜群に上手かった。

 

「旨いな、これは」

 

 オーキドの呟きに、サカキも頷いた。店主は顔を綻ばせると、頭を下げてカウンターの向こうへ行き、サカキ達の対角に腰を降ろしてなにか機械をいじり始めた。しばらくすると店内に低い、穏やかな曲調の音楽が流れだした。ボリュームは抑えられていて、隣同士で話をする分にはちょうど良い。気を利かせたのだろう。サカキはカウンターに肘を付いて、曲に耳を澄ませる素振りをした。

 巧い手を考えたものだ。呟きは、心の中でのことだった。

 サカキを捕らえるならば四天王かジムリーダーを動員する筈で、そちらの方には充分注意を払っていた。僅かな動きも見落とさないよう注視していたのだ。むざむざとトキワに接近されるなどありえなかっただろう。

 オーキド・ユキナリを動かす手は正に盲点だった。

 サカキの少年時代、オーキドのガルーラは最強の象徴だった。今なお四天王に君臨するキクコさえも、オーキドとガルーラのコンビには常に後手を踏まされていたものだ。

 母親が攻撃する間にお腹の子どもが変化技を使う。海外をヒントに会得したというその反則染みた戦法は、特に接近戦で無類の強さを誇った。まともに受けきれたのはゴーストタイプの使い手であるキクコだけだ。

 第一線を退いてから長い時が経っている。ニドキングが負けることはないだろうが、それも通常の位置関係での話だ。この距離ならばガルーラがサカキの躰を抑える方がずっと速いだろう。

 ガルーラの初撃をサカキが躱せるか。分が悪い賭けだが、分が悪いだけでしかないとも言えた。不可能と思えるような賭けをしなければならないことも、勝負の世界には度々ある。

 

「どうやって儂に勝とうか、計算しておるなぁ」

 

 眼を閉じて、音楽に聞き惚れているような緊張感のない表情のままオーキドが言った。

 

「これは失礼しました。どうにも、性のようなもので」

 

「トレーナーの性じゃな。外道に堕ちた者ならば、もっと違うことを考える」

 

「なんです、それは?」

 

「この老いぼれの首根っこを抑えるとかじゃな。誉められる手段ではないが、一番手っ取り早い。しかし君はそうせんかったのう。まだ、腐ってはいないようじゃ」

 

「なるほど。そういう手もありますか」

 

「君が外道に堕ちているのならば、儂のような年寄りが引導を渡さねばと思っておった。若者に任せるのは酷じゃからな。しかし、その必要もなさそうじゃのう」

 

「博士は警察の要請で来たのでは?」

 

「君は人を過大評価しすぎるな。こんな老いぼれなど、警察連中は思い出しもせんよ。儂は、儂の意思でここに来ただけじゃ」

 

「引導を渡しにですか」

 

「そうなるかもしれん、と思うておった。そうでなければ、懺悔にでも付き合って貰おうかと考えて来たが」

 

「懺悔?」

 

「秘密を墓場まで持っていくというのは中々難しいもんじゃ。誰かに聞いて欲しいという気持ちはどうしても出てくる。かといって、親しい者に言う訳にもいかん。神父という柄でもないしのう」

 

「それで私に、というのもどうかと思いますが」

 

「適任じゃろう。これから君はお尋ね者になり、全ての信用を失う。君の口からどんな内容が洩れても誰も信じまいよ」

 

 オーキドが眼を開き、揶揄するようにサカキを流し見た。

 

「やはり、私のことはご存知でしたか」

 

「フジは古い友人でな。あれはバトルはからきしじゃが、見る目は肥えておる。フジから見ても相当な手練れのペルシアン使いがいると聞いて訝しんではおったのじゃ。あれほど気難しいポケモンを縦横に従えるトレーナーはそうはおらん。確信したのはレッドからシルフカンパニーでのことを聞いてからじゃが」

 

「そこまでわかっていて懺悔とは酔狂なことだ。まあ、私で良ければ聴きましょう」

 

 コーヒーを飲み、オレンの種子を一つ口に放り込んだ。ムツキ辺りならば、細かい感想が出るのだろう。淹れ方なども推測できるかもしれない。サカキはただ、旨いと思うだけだった。

 オーキドはなにかを噛み締めるように、数秒口を噤んだ。音楽がゆったりと流れている。それが途切れ、再び頭から流れ始めた。

 

「儂が今行っている研究は知っているかね」

 

「ポケモン図鑑でしょう。取り上げた記事を見ましたよ。記事は批判的な論調でしたが、ああいった事業を個人で行うというのは大変なことだと思いますよ」

 

「そのポケモン図鑑じゃが、一体何種類のポケモンを記録するかは?」

 

「それこそ批判の中心でしたよ。百五十一種類。少なすぎる、というのが世間の反応のようですね」

 

「儂は気にしておらん。というより、儂にとって必要なのがその程度の数だったというだけじゃ。なんなら、もう少し減らしても良かった」

 

「必要な数、ですか」

 

「内訳までは知らんじゃろう。カントー地方で頻繁に見られる百四十九種類に幻のポケモンであるミュウ、それからホウオウじゃよ」

 

 思わず、サカキはオーキドに顔を向けた。

 

「ホウオウ?あれはジョウトの伝説では?」

 

「マサラタウンでは昔からホウオウの言い伝えがあってな。偉大なトレーナーが旅立つ日には、ホウオウが門出を祝いに来るというのじゃ。恥を恐れず言えば、儂も旅立ちの日にはそれらしい鳥ポケモンを見た。何十年も前の話じゃが」

 

「博士が見たというのであれば、あながちただの言い伝えという訳でもないのでしょう。それでホウオウを」

 

「しかし儂は、ホウオウが見つかるとは思っておらん。ミュウもな。片や他地方の伝説、片や幻とあっては出会うことすらままならんじゃろう」

 

「ではなぜその二匹を図鑑に?」

 

「そこが懺悔じゃよ。あるいは君ほどの知恵者ならば、推測できるのではないかな?」

 

「これはまた無理難題を」

 

「ミュウは見つからん。見つからんが、見つかる。そういうことじゃな。ホウオウの方はあくまでカモフラージュとして入れただけじゃ」

 

 謎かけを残して、オーキドはコーヒーを呷った。答えを言う気はなさそうで、呑気に流れている曲に相槌などを打っている。

 見つからないが、見つかる。それだけならば訳がわからなかっただろう。ただ一つ、サカキには引っ掛かっていることがあった。オーキドの孫であるグリーンがシルフカンパニーにいたことだ。

 

「フジ老人は古い友人だと言いましたね」

 

「歳は向こうがずいぶんと上じゃがな。儂が研究の道を志したのは、ナナカマドとフジという二人の影響じゃった。幾度も頼り、助けて貰ったものじゃ。友人であり、恩人でもある。考えようによっては師とも言えるかもしれん」

 

「そうですか」

 

 スツールを回し、オーキドに向き直った。オーキドはちらりとサカキを横目に見て、それから天井を見上げた。音楽は続いている。赤を散りばめたステンドグラスの窓から射し込む光が、音に乗せられたように慎ましく乱反射している。

 

「ミュウツーを、ミュウにしてしまうつもりだったのですね、オーキド博士」

 

 オーキドが喉をくつくつと鳴らしながら、お見事、と笑った。乱反射した光が、カウンターの上に手の形の影を落としていた。骨ばった手の甲の形が、赤に縁取られてくっきりとしている。

 

「それほどに、フジ老人はミュウツーの存在を気に病んでいたのですか」

 

「見ておられんかったよ。儂が若い時分にはあれこれと世話を焼いてくれたが、決して自分で研究に携わろうとはしなかった。どこかに、強烈な自己否定を抱えておった。その原因が戦時中に生み出された人工ポケモンにあると知ったのはずっと後のことじゃ」

 

「そこで、ミュウツーというフジ老人の汚点を消し去ろうと考えた。ミュウにしてしまうことで」

 

「ミュウの本当の姿など、現代では誰にもわからんよ。文献に残っている内容と差異があったとしてもそういう適応、進化があったと思うのが普通じゃろう。今ならば、ミュウツーはミュウとして世に出ることができる」

 

「それで、フジ老人の気は晴れるのでしょうか」

 

「晴れんじゃろう。だからこれは、儂の自己満足でしかないよ」

 

 コーヒーの湯気がか細くなっていた。口をつける。温度が下がった分、味の透明度は更に増していた。頭の中で、色々なことが浮かんでは消えた。

 

「グリーン君がシルフカンパニーにいたのはやはり」

 

「君達と同じじゃよ。正確には、もっと前から君達と同じ動きをしておった」

 

「もっと前?」

 

「ハナダ北部でハナダの洞窟のデータを取り、シオンタウンでフジに確認して貰う。そしてシルフカンパニーへと向かい、新開発のボールをなんとか譲り受けミュウツーを捕獲する。それが儂の計画じゃった。大まかにじゃがな。ところが、ハナダとシオンで儂らよりも先に騒動を起こしている連中がいた。あの時は驚いたもんじゃ。ロケット団の狙いも、そこでなんとなく読めた」

 

「我々は、意図せず先回りをしていたのですね。動いていたのはレッド君とグリーン君ですか?」

 

「グリーンだけじゃよ。こんなことは身内にしか頼めん。レッドは純粋に図鑑完成を目指して旅をしているだけじゃ。ロケット団を見かけたら蹴散らしておいて欲しい、とは頼んだがの」

 

「それでタマムシのアジトに」

 

「あれは儂にも想定外のことじゃった。レッドの向こう見ずな強さじゃな。あとはどうやら、タマムシの刑事が背後にいたようじゃが」

 

「タカギ警部。老いぼれ犬と呼ばれる、タマムシ警察の腕っこきですよ。曲者というのがぴったりな男です」

 

「その腕っこきには感謝せねばなるまいな。おかげで、グリーンは初めて君達に先んじて行動することができた。シルフカンパニーへたどり着き、そして」

 

「そこにはなにもなかった。少なくとも、博士や我々の希望に沿うものは」

 

 オーキドがゆっくりと頷いた。

 

「あるいは儂が真に一途な探究心から図鑑を作っていたのであれば、交渉の余地もあったかもしれん。ボールがただ一つだけであり、量産に失敗していることを知ったグリーンは交渉を諦めたよ。会長に交渉するしかなかったが、儂の計画を知っているグリーンでは誠意を持って相対することはできんかった」

 

「シルフ会長は鋭い人でしたよ。邪念があればすぐ悟られたでしょう」

 

「じゃろうな」

 

 曲は続いている。心の芯を弛めようとするような、生暖かく柔らかい音楽だ。低音が揺蕩い、時折主張する鍵盤楽器の音が空間を丸くしている。粘土のように間延びした弦楽器の震える音が、人を包み込もうとしてくる。優しい奏。不意にサカキは、その音楽を聴いているのが嫌になってきた。

 

「老いましたね、オーキド博士」

 

 オーキドは一瞬口を結び、それからコーヒーを飲んだ。再び見えた口元は、苦く歪んでいた。刻まれた皺が数本深く走り、自嘲の影を色濃く落としていた。

 

「やはりそうかのう。これでは懺悔でなく傷の舐め合いではないか、と自分でも感じていたところじゃ。知らずに、慰めなんぞを欲しておったのか、儂は」

 

「いつからそんな計画を考えていたのですか?」

 

「わからん。ミュウツーの存在を知った時には、ぼんやりと頭の中にあったという気がする。二十年というところかな」

 

「二十年後ならば、まだ博士は生きているでしょう」

 

「酷なことを言うのう、君は。戦い続けろ、と言っているようなもんじゃぞ」

 

「そう言っているのですよ」

 

 立ち上がり、サカキはレジへと向かった。店主が頭を下げ、恐縮しながらお金を受け取った。

 

「旨かったよ。ただ、もう少し明るい音楽も入れてくれると助かる」

 

 再び頭を下げる店主に笑いかけて店を出ようとしたサカキを、オーキドが手招きした。表情から自嘲の色は消え去っている。好好爺というにはいささか若々しい笑みで、一瞬見えた弱さは拭い去られていた。サカキの知っているオーキドの顔だ。

 

「ジムに行ってみてくれんか。あの子が待っておる。儂の勝手な想像じゃが、君もあの子を待っていたのではないかと思っておるよ」

 

 返答しようとして、一瞬サカキは言葉に詰まった。

 待っていた。待つ理由などなにもなかったが、確かに自分はレッドを待っていた。オーキドの言葉を聞いた瞬間に、はっきりとそれがサカキにはわかった。あのシルフカンパニーで戦った少年ともう一度相見えることをどこかで心待ちにしていた。

 奇妙なものだ。呟いた。因縁、ということだろうか。

 頷いて背を向けたところで、一つお節介を思い付いて振り向いた。

 

「図鑑は修正した方が良い、と思いますよ。あの少年ならばあるいは、本当にミュウと出会うこともあるかもしれない」

 

 そうなれば、ミュウツーをミュウにするなどどの道できなくなる。それにレッドがチャンピオンになれば、ミュウツーと会うこともあり得なくはない。ミュウとミュウツーが同時に記録されることも可能性としてはあるのだ。

 オーキドは困ったように頷いた。

 

「君もそう思うか。実は、それがここしばらくの悩みの種じゃった」

 

 嬉しい悩みじゃがの。そう笑うオーキドは、研究者の顔をしていた。

 

 

 

 

 



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最終話

 

 

 

 

 

 ジムの入口に佇む背中は、想像していたよりもずっと小さく見えた。当たり前といえば当たり前のことだ。彼はまだ少年なのだ。 

 困り顔で応対していたジムトレーナーが、サカキを見つけて手を挙げた。振り向いたレッドの瞳が、茫洋とした光の中にサカキを捉えていた。サカキも真っ直ぐに見つめ返した。

 シルフカンパニーで戦った時とはなにもかもが違っている。立ち姿を見ただけで、それがはっきりとわかった。敵。そう思った。サカキのこれまでの人生の中で、最高の敵だ。それが今サカキのみを見据え、容易に見通せぬほど深い心の奥底で闘志を滾らせている。それは、サカキ自身の内にもあるものだった。

 ジムトレーナーが表情を強張らせた。自分は今、笑みを浮かべているだろう。他人事のように考えてから、サカキは二人に近付いた。

 

「すいませんリーダー、今説明しているところです。この子がすぐにでもリーダーと戦いたいと言うもので」

 

「構わないよ。私が相手をしよう」

 

「え?しかし、勝ち抜き戦は」

 

「オーキド博士から頼まれてね。勝ち抜き戦などしなくとも実力は保証できるそうだ」

 

「オーキド博士が。それはまた」

 

 ジムトレーナーが曖昧に笑う。相対していればわかる筈だ、という言葉をサカキは飲み込んだ。力の差を皮膚感覚で感じとる能力など、サカキが若い頃でも必要とされなくなっていたのだ。不必要な物を持っていないのは当たり前のことだった。

 レッドを見る。持ちすぎている、と思った。

 戦うことについて、必要以上の力を持ちすぎている。彼の旅に図鑑完成という目的を持たせたオーキドは、あるいは少年への思い遣りからそうしたのかもしれなかった。ジムを巡るだけならば、機械的に勝利を重ね続けるだけの旅だっただろう。

 

「場所を変えよう。ついてきたまえ」

 

「リーダー、どちらに?」

 

「別館を使う。少々派手な戦いになりそうなのでね。今日はみんな本館でのトレーニングだろう?」

 

「確かに別館は空ですが、お手伝いは」

 

「必要ない」

 

 切り捨てるように言って、サカキは歩き始めた。ジムトレーナーは困惑しているようだったが、ついてはこなかった。レッドだけがいくらかの距離を取って後ろを歩いている。

 ポケモン図鑑の存在がレッドの旅に幅を持たせ、ロケット団とぶつかることになった。その図鑑がミュウツーをこの世から消し去ることを目的に作られたのならば、レッドとサカキの対峙はもはや因縁とも呼べないだろう。

 必然。ただただ、起こるべくして起こったことだったのだ。これまでのことも、そして、今から始まる戦いも。

 歩くうちに建物が少なくなり、やがて絶えた。トキワ郊外のさらに外れだ。人通りはとうに絶えて、左右には野原が広がっている。ここまでくるとジム別館に用事がある人間以外は滅多に見ない。

 ジムとしては小ぢんまりとした別館は、静けさの中に佇んでいた。ここ数日で書籍やトレーニング用具などは全て本館へと移し終え、建物としての機能以外はなにも残っていない。静けさは、老衰した生き物が息を潜めて最期の時を待っているかのような、どこか緊張を孕んだものだった。

 解錠し、ブレーカーを上げて照明を点ける。競技場を刺すように、幾筋もの光線が降り注いだ。建物が、不意に目を覚ました。競技場へ入ってすぐのところで、レッドが足を止める。サカキは光の中をゆっくりと横切り、ジムリーダーの定位置へ着いて振り返った。

 

「初めまして、と言っても白々しいだけか。私がサカキだ。トキワジムジムリーダーであり、ロケット団の総帥でもある」

 

「シルフカンパニーで会いました」

 

「そして、戦ったな。君はまだ未熟だった。隙を隠しきれていなかった」

 

「もう、敗けません。敗けないと思えるぐらい、鍛えました」

 

「口先だけ、という訳ではないな。見違えたよ。この短期間でよく研ぎ澄ましたものだ」

 

 レッドが腰に手をやり、モンスターボールを握った。

 

「リザードンだったな、君の相棒は」

 

「はい」

 

「私はニドキングだ。子供の時分からの付き合いで、語ろうと思えばいくらでも語れるぐらいには同じ時を過ごした。しかしまあ、今言葉は必要ないだろう」

 

 レッドとリザードンはまだそれほどの時間を共にしてはいないだろう。だからサカキが有利、ということはない。強さがそれほど単純なものではないことぐらい、嫌というほど知っている。

 サカキもモンスターボールを手に取り、収縮機能を解除した。磨きあげたモンスターボールが照明に鈍く照り返した。

 

「一対一だ」

 

「はい」

 

 同時に、モンスターボールを放った。ニドキングが地を踏みしめるのとリザードンが宙へ舞い上がるのも、また同時だった。

 リザードンの動きもシルフカンパニーの頃とは別物だった。真下に潜ろうとしたニドキングを容易く置き去りにし、天井付近まで飛び上がる。炎。『かえんほうしゃ』が二発、間髪入れずに飛んできた。

 

「風だ、ニドキング」

 

 軽く躱したニドキングが、サカキの声でもう一段後ろへ跳んだ。『エアスラッシュ』。炎の裏に潜んでいた風が地を切り裂く。巨大な斧でも叩きつけられたかのように、地面がぱっくりと口を開けた。

 

「『ヘドロウェーブ』」

 

 応ずるような雄叫びとともに、桔梗色の波動が放たれる。サカキはリザードンの動きだけを見ていた。翼を小刻みに動かすと、僅かな上昇と下降だけで波動を躱している。横の動きはなく、天井すれすれに競技場の中央を維持していた。

 何を警戒しているのか、見当はついた。シルフカンパニーで見せた、壁を崩しての疑似的な『いわなだれ』だろう。確かにリザードンにとっては致命打足りえる攻撃だ。

 炎が飛んでくる。ニドキングが躱し、ヘドロを返した。それはやはり、最小限の上下移動だけで避けられた。とにかく壁に近付くのを避けるつもりらしい。

 

「経験不足か。力はあるが、スケールがまだ足りんな」

 

 呟いて、サカキは競技場を見回した。

 古くはジム本館として使われていた建物だ。その頃からトキワは地面タイプのジムで、地下には衝撃を緩和する緩衝用の機構が整備されている。地面技を打ち込んだとしても建物が崩れる心配はなかった。

 あくまでも、過去のジムリーダー基準での話だ。

 

「ニドキング、『じしん』だ」

 

 指示を受けたニドキングが尻尾を高々と持ち上げ、地面へと力強く振り下ろした。

 凄まじい音とともにニドキングを中心とした円形が陥没し、僅かに遅れて衝撃が建物全体を襲った。窓ガラスが音を立てて割れ、陥没した地面から八方に地が裂けていった。レッドが体勢を崩し、手を付いた。サカキは競技場へ踏み入ると、ニドキングの背へ飛び乗り棘に手足を掛けた。

 

「外だ、ニドキング。崩れるぞ」

 

「リザードン、こっちに」

 

 地を走る亀裂が壁に達し、滝でも遡上するかのように登り始める。まだ激しく揺れていて、レッドは立ち上がれないようだった。リザードンが急降下してくるのを横目に、ニドキングが壁をぶち抜いて外へ飛び出した。ほとんど同時に亀裂が天井へ達し、芯を失ったように別館が崩れ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「東へ移動しよう。もう少し開けた場所がいい」

 

 駆け始めたニドキングの背で、サカキは後ろを窺った。砂煙がもうもうと立ち込めていて別館の姿ははっきり見えない。煙の向こうからは瓦礫がずれ落ちていく音が微かに聞こえるだけだ。

 

「多少のダメージになっていればいいがな」

 

 崩落から逃れる時間はなかったはずだ。レッドとリザードンは建物の下敷きだろう。それでもサカキは、勝負が決したとは思っていなかった。そんな普通の考え方が通じる相手ではない。

 目を凝らした。風のある日で、砂煙は北東へ流れるように薄まっていく。それが晴れる頃、別の煙が瓦礫の下から漂ってきた。黒煙だ。最初一筋だった煙は、やがて二つ三つと数を増やしていった。

 黒煙が十を超えた時、突然瓦礫の山が歪んだ。それが陽炎だと気付いた瞬間、別館全てを飲み込むほどの火柱が空へ迸り、周囲の瓦礫を悉く焼き払った。いくらか遅れて光と熱波がサカキの頬を撫でる。雲へ届かんとする火柱はやがて渦を巻き、周囲の空気を引き込みながら猛った。その中を一人と一匹の影が昇っていくのが、サカキからも見えた。

 渦が真ん中から霧散する。レッドとリザードンは、真っ直ぐにサカキを見つめていた。痛手を負っているような素振りはない。

 

「勝負はここからか」

 

 ニドキングが駆ける。リザードンが姿勢を前傾にし、追走してきた。二百メートルはあった距離がみるみる縮まり、半分ほどになる。攻撃の気配がサカキの肌を打った。

 リザードンが空へと火を吹いている。それはぐるりと円を描くと上空から空気を引き込み、螺旋を作りながら地上へと降りてきた。一つではない。別館を飲み込んだものと同じ規模の渦が三つ、野原に点在する岩や木々を消し炭にしながら迫ってきた。

 

「無数の火の粉ではなく『かえんほうしゃ』で渦を作ったのか。巻き込まれればただでは済まんな」

 

 速度は向こうの方が速い。ニドキングが進路を右に取ると、三つの渦も連動しながら追ってきた。

 

「制御を手放してはいないのか。面倒だな。ニドキング、消すぞ」

 

 ニドキングは反転すると、先頭の渦へ向かって一直線に駆け出した。その躰を砂塵のベールが、サカキごと覆っていく。

 近くで見上げる渦は呆れるほどに巨大だった。上は空まで届き、横はジムを丸呑みにできるほど広い。小山のようなニドキングがちっぽけに見えるほどだ。それでも、逡巡はなかった。

 

「『ドリルライナー』」

 

 何かに触れた。そう思った次の瞬間には衝撃が空間を走り抜けた。鍔迫り合い。一息で押しきったニドキングが、サカキが促すままに抵抗の一番強い所へ迷わず突っ込んでいく。抜けていた。渦。二つ目三つ目も同じく突き破る。真芯を破られた渦は行き場を失くしたように千切れていった。

 

「さあ、次はどうする」

 

 空に浮かぶレッドを見上げながら、サカキは呟いた。

 遠距離で撃ち合っている分にはいくらでも対処できそうだった。『ほのおのうず』は掻き消し、『だいもんじ』ならば躱せばいいのだ。消耗はリザードンの方が大きいだろう。

 近付いてくるか。あるいは、まだ技を持っているのか。

 リザードンが口を開けた。炎か。そう思ったが、なにも出てこなかった。それどころか、周囲の空気を凄まじい勢いで吸い込んでいる。吸気は長く、首から胴体にかけて一回り膨らんで見えた。

 サカキはニドキングの背から飛び降りた。あれはどう見ても尋常な技ではない。

 呼吸を止めたリザードンがその口を真下へ向けた。滝のような炎が、そこから吐き出されてきた。それは真っ直ぐに地へぶつかると跳ね上がり、後続の炎に押されて再び地面へと叩きつけられる。縦の渦。先程までの渦とは全くの別物だ。『ほのおのうず』のように周囲を引き込むのではなく、むしろ純粋なエネルギーで押し潰すような渦だった。

 炎の津波。あるいは、炎で出来た巨大なローラー。そうとしか形容できないものが地を埋め尽くすように広がり、サカキとニドキングを踏み潰そうと迫ってくる。

 初めて見る技だが、思い当たるものはあった。

 

「ナナシマで編み出されたという炎の究極技か。お伽噺だとばかり思っていたがな」

 

 ニドキングがサカキを見た。頷く。この状況で思い付く技は一つしかない。

 ニドキングが足を持ち上げ、地面を踏み抜いた。丹田に響く振動と共に無秩序な亀裂がニドキングを中心に広がっていく。その一つ一つをサカキは素早く見回した。

 道だった。衝撃を通し、絞り、加速させるための道。熟練のトレーナーでも見誤ると言われたそれを、サカキははっきりと見分けることができた。

 見えた。ニドキングが両手を握り合わせ、高々と振り上げた。

 

「『じわれ』」

 

 サカキが示した亀裂へ、ニドキングが全霊の一撃を叩き込む。地中から呻くような轟音が響き、次いで衝撃の波が地を裂きながら迸った。炎の津波へと真っ直ぐに向かっていく。咄嗟にサカキはニドキングの背後へ転がり込んだ。

 世界が弾け飛んだ。そうとしか思えないような振動と音が、二つの力がぶつかった地点から爆発的に拡散した。空気が暴力の塊となって、近くの木を根元から薙ぎ倒していった。目を閉じ、肚に力を込めた。有り余ったエネルギーの飛沫が過ぎていくのに、短くない時間が必要だった。唇を噛み、頭を低くしながらそれに耐えた。

 立ち上がる。視界に、ホエルオーが数匹は楽に入れそうな巨大なクレーターが見えた。その中では、行き場を失った炎がぶつかり合いながら地を焦がしている。サカキは苦笑した。

 

「大した威力だ。『じわれ』と真っ向から打ち消し合うとはな。これ以上撃ち合えば地獄絵図だが」

 

 空を見上げる。リザードンがその翼で薄い雲を引きながら、一気に距離を詰めてきた。レッドの判断は、どこまでも果断だった。

 『どくどく』を使うか。一瞬頭を過った案は、レッドの表情を見てすぐに捨てた。一切の隙がない。そして恐らくは、自分も隙を見せてはいないだろう。奇策を弄する余地はこの戦いにはない。純粋な力の勝負だけだった。

 ニドキングの背へ飛び乗った。リザードン。僅かな減速もないままに馳せ違った。ニドキングの肩口に一撃を貰っていた。代わりに、相手の脇腹を突いている。リザードンが旋回した。口が開いている。炎の下を潜り抜けようとしたが、読まれていた。炎を吐かずにリザードンは地に足を付け、『エアスラッシュ』を飛ばしてきた。避けようがなかった。

 三ヶ所、まともに喰らった。被弾しながら突き進んだニドキングを、リザードンが受け流そうとする。今度は、サカキが先読みした。上へのフェイントから右に逃れようとしたリザードンを完璧に捉えた。弾き飛ばす。打ち上げたが、追撃は躱された。

 振り向いた。サカキは一度息を吐き、大きく吸った。高速の近接戦では呼吸のままならない状況も多い。リザードンも一度上空へ逃れ、息を入れている。

 ほとんど垂直にリザードンが降下してきた。引き付けて躱すのがセオリーだが、レッドが地上に激突するイメージは湧かなかった。

 どこでブレーキを掛けるのか。リザードンは翼を折り畳んだままだ。呼吸を数えた。一つ、二つ。

 止まる気がないのだ、と気付いた時には激突していた。ニドキングの足先が地面へめり込んだ。サカキは背から飛び降りた。足を取られた時、トレーナーは邪魔でしかない。

 サカキの動きをわかっていたかのようにニドキングが躰を捻った。尾。リザードンの胴体をしたたかに弾いた。しかし足が抜けていない。

 

「『かえんほうしゃ』」

 

「『だいちのちから』」

 

 どちらも当たった。ニドキングが右へ体勢を崩しそうになる。リザードンが空中で立て直し、尻尾の炎を猛らせて全身に纏いながら向かってきた。『フレアドライブ』。

 サカキはニドキングの背に取りついて、重心を左へ寄せた。ニドキングが雄叫びをあげながら、尾まで使って地を蹴った。砂塵が巻き起こった。『ドリルライナー』。叫んだ。互いの距離が縮まっていく。

 リザードンの背にレッドが見えた。レッドも、サカキを見ていた。吸い込まれていく。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 低い唸り声をあげながらリザードンがサカキを威嚇した。その横ではレッドが倒れている。気を失っているようだ。あれほどの強者も、目を閉じると幼い印象が先立った。

 近付いた。リザードンが唸りを強くした。動きは鈍い。ほとんど限界に近いのだろう。しかし、倒れる素振りはない。

 サカキはちらりと後ろを見た。ニドキング。俯せに突っ伏した姿が、やがてゆっくりと収縮し始めた。瀕死状態なのは明らかだった。元気の欠片を与え、モンスターボールへと戻す。状態が落ち着いたら傷薬を使えばいい。

 レッドの方へ足を進める。リザードンが首を持ち上げた。

 

「妙な心配をするな。お前も主人の容態は気になるだろう」

 

 頭のすぐ傍で膝を折り、瞳孔を確かめた。それから関節。どこも異常はない。一時的に気を失っているだけだろう。所見をそのまま伝えると、リザードンは小さく頷いて地に伏せ、躰を横たえた。疲労の色が濃い。本当は目を開けているのすら億劫な筈だ。

 上着のポケットからバッジケースが覗いていた。引き抜き、空いていた窪みにグリーンバッジを嵌め込んだ。ぱちん、という小気味のいい音が鳴った。その音で気がついたのか、レッドがゆっくりと目を開いた。

 

「意識ははっきりしているな。手足の指をゆっくり動かしてみなさい。頭はそのままで」

 

 レッドは素直に応じた。何度か手を握ったり開いたりして、それから足首を回した。

 

「俺は」

 

「衝突の衝撃で気を失ったようだな。リザードンに感謝すると良い。君を落とすまいと、必死にバランスを取りながら地上まで降りてきた」

 

「リザードンが」

 

 どこかおずおずとしながら顔を寄せてきリザードンへ、レッドが手を伸ばし頭を撫でた。戦闘中とはまるで別の存在であるかのように、リザードンの表情が柔らかく綻んだ。

 少し待ってから、サカキはバッジケースを差し出した。レッドが向き直り、真っ直ぐにサカキを見上げた。

 

「見事だった。レッド、リザードン。君達の勝ちだ」

 

 受け取ったレッドが二、三度バッジを触り、ケースごと無造作にポケットへ押し込んだ。

 対等な勝負で敗れたのはいつ以来だろうか。ふと、考えた。実感が湧いてこなかったのだ。以前負けた時がどうだったのかも、あまり思い出せない。実感などなかった、という気がする。

 レッドがリザードンをボールへ戻した。横たわっていたからか、レッドのモンスターボールは酷く汚れてくすんでいた。サカキはグラスクロスを取り出し、レッドへ渡した。

 

「君に譲ろう。ボールを磨きたいと思った時に使えばいい。使い古しで申し訳ないが、品質は保証する」

 

 ボールへグラスクロスが当てられる。くすんだ色が拭い去られ、紅白が鮮やかに照り輝いた。レッドが衒いのない驚きを、それから笑顔を浮かべた。どこまでも純真な姿だった。

 

「君は」

 

 無意識に口が開いた。レッドがボールを仕舞い、グラスクロスをポケットへ入れた。

 

「君は何にでも成れるだろうな。それだけの力があればチャンピオンにも四天王にも、勿論ジムリーダーにも成れる」

 

 何を言おうとしているのだ。サカキは自分自身に戸惑った。考えがある訳ではない。言葉が勝手に口を衝いていた。

 

「競技者だけではない。強さはそれだけでカリスマ性でもあるからだ。君にその気があればタレントにだって成れるだろう。政治の世界に進出もできるかもしれない。自警団にも、軍人にも、悪の組織の首領にだって成れる。君の力はそれだけの選択を可能にする筈だ」

 

 言葉が途切れた。レッドの瞳の中に、サカキが映っている。嫌というほどに、それがよく見えた。

 

「ポケモントレーナーでいてくれないか。ただの、ポケモントレーナーで」

 

 何を言っているのだ。また、そう思った。この少年は無限の可能性を秘めている。名誉や栄光に満ちた未来を間違いなく掴み取れるだろう。それを全て台無しにしてしまいかねないことを、サカキは言っていた。

 訂正するべきだ。それがわかっていても、言葉は喉につっかえたように出てこなかった。

 レッドが困惑していた。ただそれは、当たり前のことを殊更言われたことへの困惑に見えた。それから、控え目に頷いた。

 不意に、サカキの胸の内を何かが満たした。願いが聞き入れられた歓喜などとはまるで違う。這いつくばりたくなるような、胸を掻き毟りたくなるような、言葉にならない声を口の端から漏らしたくなるような、そんな衝動だ。止めどなく湧き上がるそれら全てを、サカキは目蓋の裏に呑み込んだ。

 敗北か。ニドキングの入ったボールを軽く撫でる。自分の指先に郷愁が籠っている気がした。

 

「礼は言わないでおこう。私を捕まえるかね?」

 

「いえ。警察じゃないですから」

 

「そうか。そうだな。ならば、私は行くとしよう」

 

「また、戦えますか?」

 

「いや。残念だが、もう会うことはないだろう。良い勝負だった。今日の戦いを私は生涯忘れまい。さらばだ、ポケモントレーナーのレッド」

 

 歩きだす。風のある日だった。レッドの横を通り過ぎてから、サカキは空に目をやった。戦いの余波で雲は散り、青々とした層が幾重にも広がっていた。空の果てまで、見透けてしまいそうな青だった。何もない空。

 

「さようなら」

 

 声が追ってきた。サカキは足を止めず、振り向きもしなかった。

 

「さようなら、ポケモントレーナーのサカキさん」

 

 応えずに、サカキはただ空を見ながら歩いた。どこまで行っても、何もない空だった。それでも、歩き続ければやがて散っていった雲が見えてくるだろう。

 雲が見えてきたら、ニドキングの手当てをしよう。そう思った。

 それまでは、ただ歩いていたかった。短くとも、旅のように。

 

 

 

 

 





本編はこれで終了です
非常に時間がかかってしまったのですが、見てくださる方々のおかげで完結まで漕ぎ着けました。ありがとうございました
世間や登場人物のその後をざっくりと描いた話を蛇足として三つ、明日投稿します。全て合わせても一万文字程度ですのでよろしければ


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蛇足 二時間後

 

 

 

 

 

 どこへ行こう、と考えている訳ではなかった。

 逃げるならジョウトだろう。ただ、老いぼれ犬がそれを読んでいない筈はない。しばらくはカントーに潜伏して、期を見てジョウトへ向かうべきだ。

 そんなことは大して考えずとも浮かんできた。だからどの町に潜伏するかに意識を回すべきだろうが、サカキはただ足の向くままに歩いてきた。

 空はもうとっくに雲が戻り、日差しを和らげている。ニドキングの手当ても既に終えた。疲労は癒えていないだろうが、野生ポケモンを蹴散らすぐらいならば造作もないだろう。

 

「強い相手だったなぁ、ニドキング」

 

 時折、モンスターボール越しに声をかける。ニドキングも、対等な条件での敗北を味わったのは何年も前のことなのだ。思うところはあるだろう。

 人と擦れ違った。サカキの顔を見て、その虫取り少年は大きな声で挨拶をした。トキワの子供だ。自分がいつの間にか街道へ戻ってきたことに、サカキは気付いた。

 ぽつぽつと人の姿が見え始めた。サカキへ声をかけてくる人間もいる。大抵トキワの住人で、一定の尊重を見せつつも口調は親しげだった。

 

「しかしサカキさん、こんなところで何を?ニビへでも行かれるんですか?」

 

「そうか。この先はトキワの森でしたね」

 

「まさか、何も考えずに?」

 

「たまにはね。近頃、デスクワークで出不精になってしまって」

 

「なるほど、それで散歩ですか」

 

「せっかくだし、森まで行ってみるかな」

 

「良いと思いますよ。森は今、ちょうど過ごしやすい季節で」

 

 そう言って笑う男に別れを告げ、歩みを進めた。どうせどこへ行こうとは決めてなかったのだ。トキワの森へ向かって、気が向けばそのままニビまで行ってもいい。その先のことは、ニビに着いてから考えることもできる。

 太陽はそろそろ傾いてきたところだった。風は相変わらず吹いていて、日が落ちれば多少肌寒いかもしれない。構いはしなかった。寒ければ、身を震わせればいいのだ。

 トキワの森に入った。日差しは疎らになり、木々が戦いでいた。人の気配はない。森の息遣いだけが静かに足元を流れていた。

 どこかに身を潜め、いつかジョウトに逃れたとして、そこで何をするのだろうか。

 考えて浮かんでくることでもない、という気はした。逃亡生活でも強さは物を言うだろう。旅の経験はあり、人里離れた場所で寝起きすることにも抵抗はない。だから野垂れ死ぬことはないだろうが、新しいことを一から始めることもできはしないだろう。

 無為の、ただ一人の人間としての人生。そんなことを束の間思い浮かべて、それからサカキは失笑した。我ながら甘美な妄想をしたものだ。

 囲まれていた。当たり前のことだった。自分はロケット団の首領なのだ。安穏な逃亡生活など、許される筈もない。

 気配は次々と湧き出してきた。百人は優に超えている。正面から、よく見知った男が歩いてきた。

 

「やあ、マチス」

 

「まったく、堂々と歩いてきやがって。あんたらしいぜ、サカキ」

 

「よく包囲できたな。自分で言うのもなんだが、私は気配には鋭い方だ」

 

「知ってるよ。民間人に擬態したうえで、半径一キロ以上の距離からじわじわ詰めた。いくらあんたでも気付くのは遅れるだろうよ」

 

「無関係な人間を巻き込んでいないだろうな」

 

「極秘作戦だよ。国にも極秘のな。あんたはただ行方不明になる。目撃者なんか出さないさ」

 

「そうか。安心したよ」

 

 マチスが横を向いた。

 

「あんたが黒幕だったとはな。知ってりゃ、こんな面倒な仕事は受けなかったんだが」

 

「私はむしろ、君が居てくれて嬉しいがね。戦い甲斐がある」

 

「馬鹿を言うなよ。まともに勝負するつもりなんてこっちにゃない。ただなぶり殺しにするだけさ。ニドキングは平気でも、人間まで地面タイプってことはないからな」

 

「電気タイプの精鋭か。同盟軍の特殊部隊だな」

 

 マチスの背後から、軍服を着た男達が姿を現した。サカキの後ろにも姿を見せている。サカキの感知できる範囲にいるのは、本当に軍人だけのようだ。

 政府がいくら弱腰とはいえ、特殊部隊が百人規模で作戦行動を取ることを許可はしないだろう。

 

「同盟軍側の独断か。世間に知られれば大問題になるぞ」

 

「無駄な心配さ。十分後にはいつも通りのトキワの森に戻ってる。ちょっと荒れてるがね」

 

「本気で言っているようだな」

 

「ニドキング一匹でいつまでもあんたを守ってられる訳がねえだろう」

 

「鈍っているんじゃないか、マチス。君らしくない失態だぞ」

 

「なにを」

 

 言い掛けたマチスが口をつぐんだ。地が揺れていた。

 

「まさか」

 

「いずれ、誰かが私を狙ってくることはわかっていたんだ。まさか、何の備えもないと思ったか?」

 

「総員撃て、やれっ」

 

 電撃。ニドキングがボールから飛び出し、瞬時に五つを打ち消した。抜けてきた二つをサカキは自分で躱した。後ろからも四つ。ニドキングが反転して消し、サカキも地面を横へと飛んだ。外れた電撃が木に直撃し、不愉快な音とともに幹を叩き折った。

 嫌な直感に導かれて、サカキはもう一つ横へ飛んだ。脇腹を衝撃が抉っていった。『ソニックブーム』。マチスが電撃の影を縫うように撃ってきたものだ。血が噴き出してきた。すぐに死ぬようなものではないが、浅くもない。サカキは傷口に手を当てた。

 マチスのレアコイルが、サカキに狙いを定めている。焦りはなかった。既に、下まで来ている。

 レアコイルが吹き飛んだ。その下からニドクインが顔を覗かせ、もう一度地面に潜ってサカキの元までやってきた。

 サカキを囲むように次々土が盛り上がっていく。そこからポケモン達が、一斉に飛び出した。

 ニドクイン。ゴローニャ。ダグトリオ。ガラガラ。サイドン。

 そのどれもが、サカキが信頼を置く手持ち達だ。

 

「フルパーティーだと」

 

「トキワ周辺に潜伏させていた。甘かったな、マチス。私を消すのなら、海の上にでも誘い出すべきだった」

 

「あのガキとの勝負は手を抜いていたのか」

 

「全力だったさ。君ならわかる筈だ」

 

 ニドクインが心配そうにサカキの側へやってきた。脇腹からは血が流れ続けている。

 特殊部隊を殲滅するのが先か、それともサカキの力が尽きるのが先か。そういう勝負になりそうだった。

 

「ああクソ、やっぱり引き受けるんじゃなかった」

 

 マチスは毒づくと、後ろの軍人達へ顔を向けた。

 

「人間だと思うな。災害か何かを相手取るつもりでやれ」

 

「はっ」

 

 サカキは周囲を見回した。前後左右、軍人達に囲まれている。全員が殺気だっていて、僅かな隙にも電撃を撃ち込もうという構えだ。そして、この間にもその数をどんどん増やしていた。

 全てを諦めた途端に、素晴らしい戦いが二つ続けてサカキを襲ってきた。人生は儘ならないものだ。こういう巡り合わせが、これからもあるのだろうか。あるいはこれが、最後の機会なのか。

 ニドキングがちらりとサカキを見、脇腹から流れる血へ目をやった。らしくなく、心配をしているようだ。

 

「いつだったか、お互いの死に目には立ち会わないと約束しただろう。お前の目の前では、俺は死なんよ」

 

 サカキは微笑んだ。あれは、シオンタウンへ向かう途中だったか。あの時も旅をしている気分になっていたものだ。

 呆れたように前を向いたニドキングが、一切の躊躇なく地面を踏み抜いた。地面が抉られ、木々が倒れた。亀裂がニドキングを中心に縦横に走っていく。脇腹の痛みを無視しながら、サカキはその亀裂の先へ目をやった。

 

「総員待避」

 

 マチスが叫んでいる。ニドキングが両手を握り合わせ、高々と振り上げた。周囲から放たれた電撃を、ニドクイン達が軽々と掻き消している。

 勝敗は読めない。それこそが、戦いだった。サカキはニドキングへ、ある一点を指示した。ニドキングが両手を振り下ろす。衝撃とともに地が裂けていった。

 自分以外頼るもののない、無重力の世界。生きていた。サカキは笑いながら、ニドキングの背へ飛び乗った。

 

 

 

 

 



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蛇足 二週間後

 

 

 

 

 暇だった。それはタカギだけで、周りの人間は目の回るような忙しさの中にいた。

 ロケット団に関しての捜査は独断専行を続けてきたと言ってもいい。課長がロケット団の案件からタカギを外そうと考えたのは当然だろう。シルフカンパニーから逃走中のロケット団と一戦交え取り逃がしたのが決定打となり、口頭ではなく正式な指令として外されることが決まった。その矢先に、あの事件だった。

 同僚達の捜査状況を覗き込みながら、コーヒーを淹れた。恨みがましい視線がいくつか飛んできたが気にしなかった。

 世間は大混乱の中にいた。その発端がタマムシに潜んでいたロケット団である以上、この騒乱は仕方のないことではあった。こうやってコーヒーを啜っていられるのは、多少の幸運でもある。指令を撤回するべき課長は、自己保身のために走り回っていた。

 

「タカギ警部、お電話です」

 

 電話番が心底迷惑そうな顔で告げてきた。もう十二時間は電話対応を続けている。マスコミから善意の個人まで、タマムシ署の電話は休む間もなく鳴り続けていた。

 

「相手は?」

 

「さあ。店長と言えばわかるとか」

 

「回してくれ」

 

 電話番がいくつか操作をして、それから合図を送ってきた。タカギは受話器を取った。

 

「お忙しいところ申し訳ありません。ゲームコーナーの者ですが」

 

「店長だろう。いつかのコインでも回収する気になったかね」

 

「ああ、タカギ警部。ご無沙汰をしておりました。お時間よろしいでしょうか」

 

「忙しい。手短にしてくれ」

 

 同僚達から視線が飛んでくる。見ていたかのように、店長が低く笑った。

 

「タマムシ警察は大忙しでしょうね。トキワ戦争について、世間の誰もが知りたがっています」

 

「『トキワの森大規模テロ事件』だよ。間違えてもらっては困る」

 

「そういう名前になったんですか。ワイドショーなんかでは、トキワ戦争としか呼ばれていませんが」

 

 同盟軍の特殊部隊二百人、ポケモン総数四百匹超。戦争と言われても仕方なかった。

 これだけの人員が市井の人々の目を盗んで軍事行動を行っていた事実は、世間に大きな衝撃を与えた。それでも、普段の同盟軍ならば功績を盾に批判を押し切れただろう。

 問題は、負けたことだった。瀕死に追い込まれたのはもちろん、モンスターボールの開閉スイッチまで残らず破壊され、にっちもさっちもいかずにトキワシティまで撤退してきたのだ。トキワの住人達の驚きと恐怖は想像するまでもない。大批判が巻き起こった。

 

「映像を見ましたが、トキワの森は酷い有り様のようですね。トキワシティの人間がいきり立つのもわかります」

 

「壊滅状態だよ。再生計画は十年単位だ」

 

「抗議運動なんかは益々激しくなっているようですよ。何より本国の方でも、海外派兵について論争になっているようで」

 

「次回選挙の争点らしいな。同盟軍は苦しい立場だろう。場合によっては大幅縮小もあり得るというが」

 

「創設以来の危機でしょうね」

 

「それで、用件はなんだね?世間話ならば切るぞ」

 

「以前、話していた件を実行しようかと思いましてね」

 

「以前の件?」

 

「タカギ警部から手錠を頂戴するかもという話ですよ」

 

 言われて、タカギはスロットを打った時のことを思い出した。店長は確かに、そういう言い方で自首を仄めかしていた。

 犯罪組織について捜査していると度々、こういう話が持ちかけられてくる。大抵は落ち目の組織を見限った構成員による密告混じりの自首だ。

 ロケット団だろう、と睨んでいた男ではあった。しかしなぜ、今頃自首をする気になったのか。情報の売り時を待っていたというならあまりに遅かった。タカギの見る限り、ロケット団は逃散してしまっている。

 

「何を考えている」

 

「良心の呵責に耐えきれなくなった、ということにしておきましょうか」

 

「別に理由があるということか。しかし」

 

 そこまで言って、タカギは一つの可能性に思い至った。今売れる情報。それはロケット団ではなく、同盟軍の情報ではないのか。

 

「君は、どういう地位にいた?」

 

「ナンバーツーと言って良い位置だったと思いますよ。組織にとって重要な仕事をいくつか任せて貰っていました」

 

「君達の資金源については」

 

「まさしく、私の管轄でした。タカギ警部はボスではなく、私を追うべきでしたよ」

 

 店長がちょっと笑った。タカギは一度腰を浮かせ、椅子に深々と座り直した。長くなる気がした。

 

「資金は、同盟軍を通したマネーロンダリングで賄っていたのだな?」

 

「ご明察です。参謀部のお歴々の力をお借りしましてね。私の自首で彼らが苦境に立たされると思うと心苦しいばかりですよ」

 

「証明はできるのかね?」

 

「書類がありますよ、先方のサイン付きで」

 

「書類?そんなもの、よく連中が応じたな」

 

「この国のマフィアは形式に拘る、とお願いしましてね。契約さえ終わればすぐに燃やす約束で」

 

「燃やしたのかね?」

 

「目の前で火に投げ込みましたよ。ところで私のキュウコンは、燃やさないまま炎で紙を包めるほど器用でしてね」

 

「誰の目にも明らかな形で書いてあるんだな?」

 

「それはもう。なにせ、燃やす筈のものでしたから」

 

 タカギは背凭れに躰を預け、一つ息を吐いた。

 苦境に立っている同盟軍を辛うじて支えているのは、ロケット団という悪と戦ったことだった。正義という大義名分が越権行動を正当化する最後の砦といっていい。しかしこの資金洗浄が表沙汰になれば、正義の戦いは不祥事の隠蔽へと成り下がる。

 以前ならば適当な人間を本国に左遷する程度で済んだだろう。しかし今、トキワの森への甚大な被害とともに敗北を喫した同盟軍には、批判を封じ主張を通すだけの権威は残っていない。

 失墜は免れないだろう。あるいは、事実上の撤退も考えられる。

 

「この戦い、君達の勝ちか」

 

「それは勘違いですよ。ボスは同盟軍を潰したい訳ではありませんでしたから。これはあくまで、私の八つ当たりです」

 

「同盟軍を狙っていたんじゃないのか?」

 

「誰もが戦う意志と力を持たざるを得ない世界。ボスは無重力の世界と言ってましたがね。そんな世界で力の限り戦いたかっただけですよ、あの人は。同盟軍はそういった世界でバランスを取るための都合の良い重りといったところです」

 

「無重力の世界を目指すか。なるほど、ロケットという訳だな」

 

「団の名前は私が言い出したものですがね。ボスも案外気に入っているようでしたが」

 

「君達の夢は、同盟軍を倒すことではなかったか。協力を得られないのも道理だ」

 

「ボスの夢は、ですよ。我々の夢はボスそのものでしたから。ボスが同盟軍打倒に拘ればそれが夢ということになったでしょう」

 

「彼が夢?」

 

「自分の全てを賭けても良い。そう思わせてくれる存在でした」

 

 一瞬、受話器の向こうで気配が遠ざかった。僅かな沈黙。タカギは何も言わなかった。自分の全てを賭けられる存在。確かに、それは紛れもなく夢だ。

 

「ボスは、どうなりましたか?」

 

 戻ってきた店長の声は常と変わりなかった。

 

「不明だ。捜査範囲を拡げているが足跡すら掴めんな。ただ」

 

「ただ?」

 

「現場には多量の血痕が残っていたが、そのほとんどが彼のものだと判明した。誰が見ても致死量だそうだ」

 

「そうですか」

 

「死んだとは思っていないようだな」

 

「戦って死ぬのは私のような半端者の特権ですよ。本当に強い人間は死ねません。ボスはそういう末路を羨望しているでしょうが」

 

「そうか、彼は死ねんか」

 

 言われると、タカギにもそんな気がしてきた。あのニドキングと相対した記憶が甦る。彼らが敗れて死ぬなどあり得ないことのような気がする。なにより、死ねないというのがどこかサカキらしかった。

 

「今から向かう。旨い料理を用意してくれ」

 

「食事ですか?」

 

懲役(つとめ)は長くなるぞ。どうせ金はあるんだろう?今のうちにたらふく食べておく方が利口だ」

 

「最後の晩餐ですか。悪くないですね」

 

「二人前だ。忘れるなよ」

 

「やれやれ。とんだ刑事もいたもんだ」

 

 店長の苦笑いを聞きながら、受話器を置いた。周りから不審げな視線が突き刺さってくる。素知らぬ顔をしながら、タカギは上着を手に取り立ち上がった。

 

 

 

 



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蛇足 一年後

 

 

 

 

「天気予報、どうなってます?」

 

 若い刑事がこちらを見ながら訊ねてきた。三ヶ月前に配属されたばかりの新人で、今はタカギのパートナーということになっている。その前は田舎で派出所勤めをしていたようだ。

 タカギは日付が見えやすいように新聞を掲げてやった。

 

「一年前の新聞じゃないですか。なんで今更」

 

「いつの新聞を読もうと私の勝手だろう」

 

「そりゃそうですけど。ああ、あれか。トキワ戦争の頃ですね」

 

 反応せずに新聞を読み進める。もう今では、例の事件はトキワ戦争としか呼ばれなくなった。一々訂正するのも馬鹿らしくなってしまった。

 

「俺、まだ地元の派出所でしたよ」

 

「出身はグレンだったな」

 

「島でも人の少ない地域で、話題なんてほとんどないですから。トキワ戦争だけで一ヶ月ぐらいは喋ってたな。誰が悪いとか悪くないとか」

 

「全員、悪党だよ」

 

「そうですよね」

 

 横で机に向かっていた刑事がちらりとタカギを見て、すぐに逸らした。当時からいる人間はみなタカギとロケット団が因縁浅からぬことを知っている。

 知らないのは、呑気に記事を眺めている新人ぐらいだ。

 

「ニュースを見た時は驚いたし、がっくりきたな。事件のちょっと前にサカキのインタビュー記事を読んだんですよ」

 

「ほう。何が書いてあった?」

 

「今後の目標で、カントーのトレーナーを世界最強にしたい、だったかな。それが実は同盟軍と繋がって金儲けでしょう?よくあんな殊勝なこと言えたなって思いましたよ」

 

「カントーのトレーナーを最強にか」

 

「大法螺吹きですよね」

 

 同意を求める視線に、タカギはただ肩を竦めた。

 自身が全力で戦いたいという大目標を抜きにすれば、記事の内容も嘘ではなかった。

 ロケット団と同盟軍が並び立つことで、安穏の許されない世界を作り人々に強さを求めさせる。サカキが考えていたというその無重力の世界は今、全く逆の形で完成に近付いていた。ロケット団と同盟軍は、人々に危機感だけを植え付けて共に消えてしまったのだ。

 タカギは次の新聞を手に取った。

 

「ああ、こんなことあったあった。同盟軍、事実上の撤退。号外出ましたよね」

 

「グレンでか?」

 

「いや、どこか都会の方で。ニュースで号外を配ってる映像見たんですよ」

 

 自分で言っていて馬鹿らしくなったのか、新人がちょっと笑った。こういう素朴なところは、派出所で愛されていただろう。

 

「クチバ港から次々船が出ていくのが、なんだかとんでもないことが起きてるって感じしましたよ」

 

 新人の感想は、当時多くの人間が抱いたものだった。その次には不安が湧いただろう。同盟軍はもうおらず、ロケット団のような組織がいつ現れるかわかったものではない。警察はロケット団関係の事件において、まったく頼りにならない姿を晒し続けていただけだ。

 人々が目を向けたのが、自警団だった。

 

「このちょっと後でしたよね、自警団の大改造が始まったの」

 

 まず人員を増やし、次に訓練の本格化が行われた。試合形式に飽きていたキクコと地元への帰郷を望んでいたカンナが四天王を辞し、それぞれ本土とナナシマで特別講師となった。シルフカンパニーが会長の鶴の一声で自警団への支援を始め、物資や設備の拡充を図った。これらのことがほんの一、二週間の間に連続したのだ。

 入隊していない者でも、講習や訓練などは自由に参加できる。カントーのトレーナー達は急速に力を付けつつあった。

 サカキがどこまでを計算に入れていたのか、今となってはわかりようもない。思慮深さを持ちながらも、バトルについてはどこか子供のように無邪気なところもあったのだ。戦うということについて、純粋ですらあった。

 ヤマブキの外れで彼らの前に立ちはだかったことを、タカギは時々思い出した。一蹴されたが、彼らなら駆け引きにすら持ち込まないこともできただろう。それでも、真っ向から勝負してきて、タカギの狙いを綺麗に外していった。

 サカキは、自身の純粋さを自覚していたのだろうか、とふと思った。初めてサカキと会った時、快活に振る舞いながら、どこか影を背負っていた。その影が一番強く感じられたのが、自身をポケモントレーナーだと称した時だった。言葉の端々に、自嘲が滲み出していた。

 誰かが、彼をポケモントレーナーだと認めてやるべきだったのではないか。考えると何かに切なくなって、タカギは煙草に手を伸ばした。新人が躰を逸らす。嫌煙家なのだ。ちょっと迷って、タカギは煙草の箱を置いた。

 

「いいですよ、喫っても」

 

「良い刑事になりたいならもう少し表情を隠すことだな」

 

「タカギ警部、品が良いですよ。親父なんかのべつまくなしに喫ってますから」

 

「長生きするよ、きっと」

 

「週末会うたびに運動しろって言ってます」

 

 新人が笑った。孝行息子で、毎週末にはグレンへ顔を見せている。

 半年ほど前に『そらをとぶ』が解禁された。技能講習を受けるか規定数のジムバッジを獲得している必要があるが、以前のような厳格な申請と登録を乗り越える必要はなくなった。タマムシからグレンも、今では決して遠くない。

 なぜ解禁されたのかについて、世間はあまり関心を持っていない。同盟軍が『そらをとぶ』登録者の名簿を把握していたこともあまり知られてはいないのだ。

 最後の新聞を読み終え、タカギは腰を上げた。新人が新聞を覗き込む。

 

「キョウさんが四天王に就任した時の。まだゴルバットでしたよね」

 

「ああ。クロバットに進化したのは二ヶ月後だった」

 

 その時、タカギは祝いの電話をかけた。常に底の見えないキョウがはっきり狼狽えたのが、タカギには面白かった。私のことを、好いてくれたようだ。思春期の少年のように、キョウはそうこぼしたのだった。

 

「少々、出てくる」

 

「どうぞ。新聞は片付けておきましょうか」

 

「捨ててくれ。必要なものは読んだ」

 

「必要?」

 

「世間から隔離されていた人間には、多少説明しなければいかんだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 長い塀に背を凭れて、タカギは腕時計を確かめた。降りだしそうな曇り空で、蒸し暑さがある。襟を少し緩め、もう一度時計を見た。

 時間だ。すぐ横の門扉から、男が一人出てきた。見送りにきていた刑務官と挨拶を交わした男が、タカギを見つけて顔をしかめた。

 

「勘弁しろよ、おい。出所して最初にあんたを見た人間の気持ち、考えたことねえのか」

 

「あるさ。身が引き締まるだろう」

 

 クリードがうんざりした表情を浮かべ、横を向いた。

 

「当てはあるのか?」

 

「世話焼こうってのか。罪滅ぼしならいらねえぞ」

 

「罪か」

 

「はったりだったんだろう?ポケモンを盾にした尋問を避けるため、容疑者のポケモンは警察とは違う組織が管理してる。友達(ダチ)から手紙で教えてもらったよ」

 

「そうだな。お前のズバットをどうこうする権限は私にはなかったよ。あれははったりだ。悪かったな」

 

「騙される方が悪いさ」

 

「騙す方が悪いだろう」

 

「警察の理屈ならな。俺の理屈は俺が決めるもんだろう。騙される方が悪いのさ」

 

 本当に気にしてはいないようだった。ロケット団内でも慕われていたというのは、あながち間違いでもなさそうだ。竹を割ったような性格で、人には好まれただろう。

 

「親父さんのところへ帰るのか?」

 

「冗談言うな。どの(ツラ)下げて帰れるってんだよ」

 

「当てがないなら、当座の働き口ぐらい探してもいいぞ」

 

「余計なお世話さ。友達(ダチ)が迎えに来てくれる」

 

「手紙のかね?」

 

「ああ。おっと、噂をすりゃだな」

 

 クリードが手を翳して遠くを見た。五、六人の集団が歩いてくるのが見えた。

 近付いてきた集団を見て、タカギは揶揄するように振り返った。先頭が女だったからだ。それもなかなかの美人だ。細身だが華奢ではなく、しなやかだった。表情は理知的だが、冷たい印象はしない。庶民受けの良いモデルといったところだろうか。

 

「隅に置けないじゃないか」

 

「年寄りはこれだからよ。ただの友達(ダチ)さ。俺の好みはもっとケツのでかい女だ」

 

「私、そこまで小ぶりという訳でもないですけどね」

 

 女が自然に口を挟んだ。向き合って、タカギは違和感を覚えた。女の服装。ジーンズにブラウスはそこまで奇抜ではないが、黒のタートルネックインナーが首もとを覆っていた。それから右手にだけ、これも黒の皮手袋をしている。

 タカギの視線に気付いたのか、女がちょっと笑ってインナーを捲った。変色した皮膚が覗いた。

 

「以前、火傷を負いまして。首から右手にかけて跡が見苦しいのでこうやって」

 

「いや、すまないね。職業柄、つい観察から入ってしまう」

 

「気にはしません、タカギ警部」

 

「私を知っているのか。会ったことがあるかな」

 

「ゲームコーナーで。私が面接を受けに行った時に、キョウさんと一緒に見えられました」

 

「あの時の。結果は?」

 

「残念ながら。後の事件を思えば落ちて良かったかもしれません」

 

 話しながら、タカギはちょっと身構えた。クリードの友人がゲームコーナーに縁のある人間だったのだ。偶然ということはないだろう。

 タカギが警戒しても、女は自然体に微笑んだままだった。女が相当な手練れらしいことに、タカギは初めて気付いた。

 

「君、ジムバッジは」

 

「一応全て。私というよりも、ポケモン達の力ですが」

 

「八つか。大したものだ。どんなポケモンを使うんだね?」

 

「サンドパンとペルシアンを。ペルシアンの方は、トレーナーと離れ離れになってしまったのを私が勝手に預かっている形ですけれど」

 

 ペルシアンは、サカキが使っていたポケモンだ。そしてサンドパンも、タカギには覚えがあった。オツキミ山での戦い。ただ、あのトレーナーはそこまでの遣い手ではなかった筈だ。

 なにかがあった。そうとしか思えなかった。なにかが、あのトレーナーを大きく変えた。

 

「まあ、そういう訳でだ。変に気を遣って貰う必要はないぜ、老いぼれ犬」

 

 クリードが前に出て、彼女の斜め後ろに控えた。さらに後ろの男達は既にタカギから目を切り、歩き出そうとしている。

 

「どこへ行くのか訊いても?」

 

「ジョウトへ行こうかと思っています。観光で」

 

「ジョウトか」

 

「予定もありますので、それでは」

 

 女がタカギに背を向けようとした。ロケット団残党。ほぼ間違いないだろう。それがジョウトへ行って何をするのかも、多少は想像がついた。サカキが生きて身を隠しているとしたら、ジョウトのどこかだろう。

 彼女達は、サカキを探すつもりなのか。既に夢破れたサカキを追おうというのだろうか。

 

「苦しむぞ、君は」

 

 女が足を止め、振り返った。その表情にはちょっとした驚きと、どこか納得している感じがあった。

 

「以前、同じ事を言われました。恩人と言っていい人から」

 

「その人は、他には」

 

「なにも。やれとも、止めろとも言われませんでした」

 

「そうか。厳しい人だな」

 

「優しい人でもありました」

 

 女がタカギを見つめた。止めるべきか。しばらく考えて、タカギは頭を振った。今止めるに足る理由はない。そして彼女達が何かを起こすとしたら、それはジョウトでだろう。ならば、ジョウトの人間が止めるべきだった。カントーの事件で、レッドが戦ったように。

 

「もう一つ、その恩人から言われたことがあります。最後まで、勝負を見続けなさいと」

 

 そう言って女は頭を下げ、タカギに背を向けた。その背が視界から消えるまでタカギは見送り、それから煙草を取り出した。雨が降りそうだった。ライターを開き、フリントホイールを擦る。火花は散るが、火は点かなかった。

 サカキそのものが夢。ゲームコーナーの店長がそう言っていたのが、タカギの脳裏に甦った。

 

「サカキという、夢か」

 

 擦る。火は点かない。ぽつりぽつりと、雨が肩を叩いた。

 降りだした雨の中、通行人が走り去っていく。タカギはただひたすらに、ライターを擦った。ホイールが、寂しげに空回った。

 

 

 

 






これにて罅割れた夢は完結です。ジョウトはやりません
ここまで読んで頂きありがとうございました。またいつか


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