四葉のクローバー (HirakeGoma)
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01 桜の季節はもうすぐそこに

窓から差し込む陽光で目が覚めた。

――最悪だ。

徐々に覚醒していく意識の中で、ふとそんなことを思う。外は快晴。少し肌寒くはあるけど、間違いなく桜の季節には向かっているようだ。

ベッドの上で軽く伸びをする。今日も一日がはじまる。けれど、身体は起きたくない、もう少し寝ていたいと拒否反応を示す。もう一度目を瞑ったり寝返りを打ったり…最後には大きな溜息をついた。

 

どうしてだろう? 昔はだれよりも早く起きれたはずなのに。

 

朝、目を覚ますと、とても憂鬱な気分になる。そんな日が、ときどきある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、俺と付き合ってください!」

 

またこのパターンか。私は内心うんざりしていた。高校三年の3月、もう卒業式も終わっているのだから本来なら学校に来なくていいはずだけど、今日は同級生からの呼出しで登校した。なにやら手伝ってほしいことがあるとかないとか…そんな話だった。

 

それでいざ来てみればこの状況。二人きりの教室で同級生の男の子から告白を受けている。今月はこれで二度目だ。先月も同じようなことがあったから、合計すれば三度目。つまりは目の前の彼で三人目だ。

こうも立て続けに告白されるのには驚いた。高校卒業というある種の通過儀礼がそうさせるのだろうか、とそんな達観した感想が思い浮ぶ。

 

「ごめんなさい。気持ちは嬉しいけど、そういう気持ちにはなれないから・・・」

 

この言葉を口にするのもこれで三度目。もうお決まりのセリフと言っていいのではないだろうか? 頭の中でそんなどうでもいいことを考える。彼はその後も何か言っていたけれど、言葉は全く頭の中には入ってこなかった。

 

正直に言うと、私はイライラしていた。想いを打ち明けてくれた彼のせいじゃない。このイライラがどこから来るものなのか。それは未だにわからないでいる。

大学進学への不安からか? それとも、高校生というこの時期特有の何かがそういった感情を抱かせるのだろうか?

わからない。だけど、朝起きるのが嫌だと感じる日は前よりも多くなったような気がする。

そんなもやっとしたことばかり、最近は考えている……

 

しばらくして、彼は教室を出て行った。私は教室の中で本日二度目の溜息をつく。それと同時くらいか、今度は二人組の女の子が教室の中へと入ってきた。

 

「ちょっと四葉! 東野くんまで振っちゃったの?」

「もったいなーい!」

 

二人は私の同級生だ。一人は椎原明里。3年間ずっと同じクラスだった子で、面倒見がよくお姉さん的な存在だ。もう一人は隅田花苗。二年生から同じクラスになった子で、とにかく明るく、誰とでもすぐに仲良くなれちゃうようなそんな雰囲気を持っている。この二人とは高校で一緒に行動することが多かった。

 

「もったいないじゃないよ。今日学校に呼び出したのはこのためでしょ?」

 

私は二人の顔を交互に見た。

 

「うっ…だって、ねえ?」

「向こうから相談してきたから、どうしようもなく……」

 

二人はなにかばつが悪そうな顔をしていた。その顔が少し可笑しくて、私は「さあ、帰ろう」と言葉を続けた。

 

 

 

 

 

「でも四葉さあ、これで三人目でしょ? 本当にだれとも付き合う気はないの?」

 

帰り道。明里が話を切り出した。三人並んで歩いていると、自然とそんな話になってしまう。

 

「ないよ」

「なんで?」

 

なんで? と言われても……そりゃ、私だって、彼氏がほしいと思ったことはある。体を持て余すことだってある。だけど、その度に比較してしまうのだ。自分の中にある名前も知らない誰かと。そんなことを昔、二人に思わず話してしまったことがある。すると二人からは、四葉は相手に求める理想が高いんだよ、と呆れられた。

自分でもそうなのかな、とは思う。だけど、こればかりはどうにもならない。

 

つまるところ、私にはどうやら男女それぞれに理想像というものがあるようだ。

一つ目は女性の理想像。これは簡単で…ここだけの話、私は実の姉――宮水三葉に憧れている。本人の前では絶対にそんなことは言えないけど、姉のようになりたいとここ最近は強く意識するようになった…ように思う。本当に、ここだけの話だけど……

ただ、当の本人は最近――というよりは、あの彗星災害以降、どことなく元気がないみたいだ。心ここにあらずといった感じで、いつも何かを誰かを探しているような、どこか遠くを見つめるような、そんな表情を浮かべることが多くなった。

 

一応社会人だから、働いてはいるものの、休日に職場の人と遊ぶといった話はまるで聞かない。地元の親友である名取紗耶香と勅使河原克彦とはときどき会ってはいるようだけど、それでも姉が心から笑う姿をここ数年は見たことがないような気がする。

 

そんなふうに、ずっと姉を見てきたからだろうか。姉が時折見せる微笑みや淡く切ない表情にドキリとする。心をギュッと掴まれたような感覚になって、そうなるともう姉からは目が離せなくなる。どうしようもなく淡く切ない気持ちになるのだ。

 

もう一つは男性の理想像。これが少し厄介だ。漠然とし過ぎていて自分でもよくわからない。よくわからないのだけど、考え出すと誰か特定の人がいるような、もやもやした感情が込み上がってくる。これが本当に気持ち悪い。この感情は、小さいころ、まだ彗星が落ちる前の糸守町にいたころに抱いた……そんな気がするのだけど、今となってははっきりしたことは覚えていない。

 

あれからもう8年、長いような短いような……すごく複雑な気分だ。

 

「ちょっと四葉! 聞いてる?」

 

隣を歩く明里の声で現実に引き戻された。

 

「あーごめんごめん。で、なんだっけ?」

「もうっ、四葉の話でしょ!」

 

明里は少しあきれ顔だ。

 

「どうしたの? 最近ボーっとすること多くない?」

「ちょっと寝不足…かな」

「夜更かしでもしたの?」

「いつも通り寝たはずなんだけど」

 

それは本当だ。たけど、

 

「何か、夢を見ていたような気がして」

「夢?」

「そう。夢の中でもう一人の自分が出てくる…そんな夢」

 

夢を見ていたときの記憶はほとんどない。それでも感情は覚えている。夢を見た日の朝は、決まって不思議な気持ちに襲われるからだ。その気持ちがいったい何を意味するのか、私は未だにわからない。

なんか考えるのも嫌になってきた。億劫な気持ちから脱出しようと私は別な話題を振ろうとする。するとタイミング良く私よりも先に今まで静かだった花苗が話題を変えてくれた。

 

「でもいいなー、四葉は。いろんな人に告白されて。失恋の味を知らずに人生過ごせそうじゃん!」

「あんたは味わい過ぎなのよ」

 

すかさず明里が突っ込む。ひどーい!と抵抗の声を上げる花苗だけど、その顔はどこか笑っていた。

 

 

 

 

 

その後、二人とは適当な話をして別れた。お昼を一緒に食べようと誘われたけど、今日は気分が乗らないので断った。

このまま家に帰っても良かったけど、少しあたりをふらついてみることにする。気分を道草モードに切り替えて、東京散策開始といった感じだ。といっても、目的なんてないけれど……

 

適当に電車に乗って適当な駅で下りて適当なお店に入る。悠々気ままな東京散歩。たまにはこういうのも悪くない。

 

どれくらいの時間が経っただろう? 気づいたらもう夕方だった。

よくもまぁ、一人でこんなに時間を潰せたものだと感心しながら、駅近くの公園に立ち寄った。園内の一角、階段上に腰を下ろして、赤色に染まりつつある空を見上げてみる。

 

「もうすぐカタワレ時やなー」

 

少しだけ空を眺めていよう。ゆっくりと流れる雲を眺めながら、私は少しだけ赤い太陽に身を預けていた。

 

 

 

 

 

夕方になると公園を横切る通行人が増えた。このままここにいたら邪魔かもしれない。少し風もでてきたため、日中よりも寒くなったようにも感じる。お腹も空いてきたし、もう帰ろうと決心して腰を上げた。

そうしてそのまま階段を下りようとしたときだった。

 

ものすごい風が公園の中を吹き抜ける。春一番。風は瞬間的に私の背中にぶつかった。階段を下りる最中だっただけに、突発的な風に煽られて身体のバランスが大きく崩れる。予想と違う場所に片足が着地し、グキっと嫌な感覚が身体中を駆け巡った。階段上で尻餅をつくように転び、そのまま横になって数段転げ落ちた。最悪だ。朝起きた時に思った言葉が頭の中で何度も繰り返される。

 

「いたた・・・」

 

弱々しい言葉しか出てこない。

なにやってるんだろう。惨めだな・・・

マイナスの感情しか出てこない。

 

「あーやばいなー、これ完全に足ひねってるよ」

 

足の痛みを我慢しながら、それでも、これくらいのケガで済んだことにホッとした。もっと長く高低差のある階段で転んでいたらと思うとゾッとする。もしかしたら死んでいたかもしれない。そんなことを一瞬でも考えたら、なぜか泣きたくなった。

だめだ。考えるな。そう自分に言い聞かせるけど、なぜか歯止めが利かない。転んだ際の全身の痛みとひねった足の痛みも重なって涙が零れてきて仕方がなかった。

 

「もうっ、泣くなよ私……ッ」

 

強がっては見るものの、自分の声は完全に涙声だ。いっそ、このまま本気で泣いてみようか、そんな馬鹿げたことを考えた。

 

だけど、そのときだった。

 

「大丈夫?」と一人の男性が声をかけてきたのだ。声の持ち主めがけて顔を上げるけど、夕日が逆光になって顔があまりよく見えない。

 

スーツ姿のその男性は片膝をついてこちらに手を差し伸べている。その姿に思わずドキッと心臓が跳ね上がった。

どうしてだろう? 顔も判然としない男性に何か懐かしいものを感じる。この人を見たことがあるような、この人と会ったことがあるような……

 

私がそのまま何も答えないでいると、男性は「大丈夫? 痛いところはある?」と、優しげな声でもう一度尋ねてきてくれた。

 

「あ、はい! だ、大丈夫です!」

 

素っ気ない答え。でも内心、私はその返事ひとつで手一杯だった。

 

高校三年の3月。春の気配を感じる公園での出来事。

寒いと感じたさっきまでの風は、今はなんだか心地いい。空は真っ赤に染まっていて、あたりには既に世界の輪郭を大きくぼやかす時間帯―――カタワレ時が訪れていた。

 

 



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02 カタワレ時の出逢い

夕日に染まった公園で、夢でも見ているような感覚にとらわれていた。

今起こっていることは現実だろうか。周りの音は何も聞こえず、目の前に佇む男性からは目が離せない。身体がふわりと浮き上がるような不思議な感覚。まるで異空間にでもいるようだった。

 

けれど、差し伸べられた手を見ていると、身体は自然と反応してしまう。私はそっと、その掌の上に右手を重ねた。

 

それを確認すると、男性はひと回り以上も小さいこちらの手をぎゅっと握って、身体を引き起こそうとする。

まただ。手を握られた瞬間、心臓がドキリと跳ね上がる。いったい私はどうしちゃったの!? 身体の内側で起こる現象に戸惑う私。でもそのとき、下から鋭い痛みが襲ってきた。

 

「イタッ!」

「どうかした?」

 

男性は心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。

 

「足をひねちゃったみたいで……」

 

目の前の出来事に気を取られて足の痛みを忘れていた。ひねった足に顔を向け、少しだけ力を入れてみるけれど、このままだと両足で立って歩くのは無理そうだ。

さて、どうしたらいいだろう? そんなふうに思っていると、背中と足に腕が回され、あっという間に身体は宙へと浮いてしまった。世に言うお姫様だっこの態勢だ。持ち上げられた瞬間、口から「あっ」と変な声が出てしまう。

 

「そこのベンチまでだから。ごめんね。ちょっとだけ我慢して」

 

助けてもらっているのだから、我慢だなんてとんでもない。男の人に抱きかかえられているという事実よりも、むしろ、自分の姿が気になってしまってしかたがない。

転んだのだから服は汚れて、泣いたのだから顔は涙でぐちゃぐちゃのはずだ。それに……

 

(ああ、スカートなんて履いてくるんじゃなかった。見えてないかな? きっと大丈夫だよね…?)

 

そう心の中でつぶやいて、自分で自分を励ました。

 

階段近くのベンチまで移動すると、男性はそっと身体を下ろしてくれた。触れていた手が離れるのに不思議な寂しさを感じながら、このとき初めて私は助けてくれた男性の顔を確認できた。

 

とても優しそうな人。それが彼を見た時の第一印象だった。端正な顔立ちだが、気取った感じはしない。年齢はいくつぐらいだろう? 年上なのは間違いないように思うけど、それほど私と離れているようには見えなかった。

 

「ええと、どうしようか?近くに病院があるから、見てもらった方がいいかな?」

 

彼は私と同じ目線まで頭を下げ、私のことをとても心配してくれる。

 

「あっ、いや…そ、そこまでしていただかなくても、大丈夫です!」

 

対する私の返事は噛み噛みだ。

 

「それじゃ、タクシーでも呼ぶ? その足じゃ、家まで帰れないでしょ?」

「そ、それも、大丈夫です!」

 

心なしか声が上ずっているような気がする。

 

(しっかりしろ! わたし!)

 

「近くに姉が住んでいるので、姉に迎えにきてもらいます!」

 

即座に携帯を取り出して私は問題ないよのアピールをする。それを見て納得したのか、彼は安心した表情で公園の水飲み場の方へと向かっていった。

その隙に携帯で現在の時間を確認。もう終業時間を過ぎているから連絡しても大丈夫だろう、と考えて私は姉の番号をコールした。

 

 

 

 

 

結論から言うと、姉はすぐにでもここに来てくれるらしい。階段で転んで身動きが取れないことを伝えたとき、最初はとても驚いていた。大丈夫かと何度も同じことを聞かれたが、平気だと伝えたら安心したのか、すぐに行くから場所を教えてと返された。仕事が終わり帰り支度を整えていたところだという。本当だろうか? 私が気にしないよう嘘をついている感じもするけど、今日はありがたく姉の厚意に甘えることにする。

 

この場所が姉の暮らすアパート近くでよかったと思う。もしかしたら無意識に足を向けていたのかもしれない。頭の片隅でそんなことを考えるものの、水飲み場から戻ってきた彼に気付いて思考を一旦停止した。

 

「これで少しは楽になると思うから」

 

どうやら彼は足を冷やすために自分のタオルを水で濡らしてきてくれたらしい。大丈夫ですから、と断る私をなんのその。彼はこちらの正面にしゃがみ込むと、ひねった方の足首にタオルを巻き付けてくれた。ひんやりした感触。それがすごく気持ちいい。

 

彼はクスリと微笑んだ。

 

その笑顔に私の心臓がまた跳ねる。今回のはとびきり大きい。私の心臓よ、そろそろ落ち着いてくれないか?

 

「お姉さんと連絡はとれた?」

「はい! すぐに迎えに来てくれるそうです。たぶん30分もかからないかと」

「よかった。それじゃお姉さんが来るまで俺はここにいるから。あっジュースでも飲む?」

「そ、そんな、悪いですよ!」

 

見たところ、仕事終わりじゃなさそうだ。そう思って聞いてみたところ、来月から新社会人だという。これから会社の研修が泊まりがけであるのだそうだ。それなら、なおさら私になんて構っていられないはず。私は彼からの申し出をできるだけ丁寧に断るけれど、彼も先方に連絡しておけば大丈夫だからと言って譲らない。でも、これ以上の迷惑はかけられない。そう強く決心して、再度その厚意を拒絶した。

その結果、最終的には彼が根負けしたようだった。私があまりにも粘り強く断ったからだろう。「それなら」と、しゃがんでいた身体を起こすと、バッグを肩にかけ直した。

 

「それじゃ、気を付けて」

 

彼は私を見て別れの挨拶をする。

自分からこうなることを望んだのだから、覚悟はできているはずだ。だけど、そのとき私は、夕陽に照らされるその姿を見て、その声を聞いて、なぜかとてつもない焦燥感に襲われた。まるで心が叫んでいるかのように心臓が脈打つ。このままでいいのかと。このまま別れても悔いはないのかと。不思議な感覚が全身を駆け巡る。なんだろう、この気持ちは……いったい私に何をしろというのだろう。

 

彼が背中を向けて駅方向に歩き始めたその瞬間、これまでで一番大きな波が押し寄せる。何か見えない力に背中を押されているような得体の知れない感覚。その見えざる力のせいなのか、私の口元は宿主に断りもせずに勝手に動きしていた。

 

「タオル!」

 

声は完全に裏返っている。恥ずかしくてたまらない。

 

えっ? という表情で彼は振り返る。もうどうにでもなればいい。半ば諦めの気持ちで私はさらに言葉を重ねた。

 

「あ、あとで洗って返しますから! だ、だから、携帯の番号、教えてください!」

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 

今しがた起こったことは現実なのか夢なのか。そんな感覚が抜けきらなかった。

 

公園の中をまた風が吹き抜ける。何となく空を見上げた。

カタワレ時がもうすぐ終わる。一日の終わりが始まる。赤みがかった空も今はその色を失っている。けれど、未だに、

 

――私の顔は、真っ赤なままだった。

 

 



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03 姉が見つめるその先は、

「四葉!」

「あっ、お姉ちゃん!」

 

男性と別れてほどなくしてから、私の姉――宮水三葉の声が聞こえた。ハッとしてその方向に顔を向けると、息を切らして走ってくる姉が見える。本当に急いで駆けつけてくれたみたいだ。仕事で疲れているのに、なんだか申し訳ない。

 

「ごめん。遅くなった!」

「そんなことないよ」

 

いつのまにか太陽は地平線の彼方に沈み、公園の街頭には照明が灯っていた。いつ点いたのかは記憶にない。ずっと空を見ながら考え事をしていたからだろうか、時間が過ぎた感覚もあまりなかった。

 

「階段から落ちたって、身体は本当に大丈夫なの?」

 

姉は心配そうに電話越しのやりとりをまた繰り返す。

 

「大丈夫だって。足を少しひねっただけだから」

 

私はひねった足を軽く持ち上げ、大きなケガではないことをアピールする。

 

「それよりお姉ちゃん。今日家に戻るのしんどいからさ、お姉ちゃんの家に泊まってもいい?」

「それはいいけど……」

 

と、そこまで言い終えると、姉は私を観察するような不信な目で見つめてきた。

 

「なに?」

「…あんたさ、なんでそんなに嬉しそうなの?」

「えっ」

「携帯とか、大事そうに両手で抱えちゃってるし」

「な、なんでもないよ!」

「それに、そのタオル」

 

姉が足に巻かれたハンカチを指差す。いつもの私だったら、今しがた起こったことを正直に話していただろう。でも、このときばかりはなぜか、宮水三葉にすべてを打ち明ける気にはなれなかった。

 

 

 

 

 

その日の夜、私は姉が暮らすアパートの中にいた。あれから、姉にサポートしてもらいながら移動し、部屋に転がり込んだ。部屋にお邪魔するのは何も初めてじゃない。むしろけっこう頻繁に遊びに来ているので、部屋の勝手はよく把握している。

 

姉は大学卒業と同時に一人暮らしを始めた。わざわざ一人暮らしをしなくても、と最初は思ったけど、どこか思うところがあったらしく、また強く反対されることもなかったため、こうして自分のプライベートルームを持つようになった。正直うらやましいと思う。私もしてみたいなぁ、一人暮らし。

 

「これで、よし!」

 

右手に持っていたドライヤーを洗面所の定位置へと戻す。今日はいろいろなことがあり過ぎた。不意に気を抜くと、一日の出来事がフラッシュバックして頭の中がパンクしそうだ。

それでもこの部屋はどこか安心感がある。もしかしたら自宅以上にリラックスできるかもしれない。身体もぽかぽかだしね。

 

部屋に入ってまず優先したのはシャワーを浴びることだった。足の手当てが先でしょ!と姉にたしなめられたけれど、もう我慢ならない。早く身体を綺麗にしてさっぱりしたかった。ひねった足は最初こそ痛かったけど、案外たいしたことはなさそうだ。それに残りの擦りキズくらいなら我慢できる。昔、明里からは「四葉は男勝りな性格だ」と言われたことがあるけれど、こういうところが男の子みたいな印象を与えるのかもしれないな、とふと思う。

 

洗面所を出て姉の待つ部屋へと向かう。終わったら呼んでくれと言われたけれど、これくらいの距離なら普通に移動できそうだ。

そうして部屋の前まで来たはいいけれど、目の前のドアは少しだけ開いていて、そこからベッドの淵に腰かけている姉が見えた。

 

姉は右手をおもむろに覗き込んでいた。目線からして掌を見ているのは間違いない。けど、心はどこか遠くを見つめているような、そんな表情だった。

 

まただ。私はそう思った。

彗星災害以降、何度となく見た、姉のあの顔、あの表情。あの寂し気な表情を見る度に、心臓を鷲掴みにされる感覚に陥ってしまう。

いったい何が、宮水三葉をあんな表情にさせるのだろう。彼女はいったい、何を見ているのだろう。

 

一瞬、部屋に入るのを躊躇った。けど、ずっとこうしているわけにもいかないので、意を決してドアを開けた。それに気づいた姉は立ち上がってこちらに駆け寄ってきてくれた。

 

「終わったら呼んでって言ったやないの!」

「大丈夫やよ、お姉ちゃん」

 

言葉は自然と地元のそれになっていた。

 

 

 

 

 

ひねった足にテーピングをするというので、今度は私がベッドの上に座り、姉がベッドの下で両膝をつく格好になった。タオルで軽く私の足を拭いた後、スルスルとテープを巻き始める。マメな人やなー、とそんなことを思いながら、そして今日出会ったあの男性のことを思い出しながら、テープで固定されていく足先を眺めていた。

 

ただ、無言の時間が過ぎていった。姉はテーピングの作業に集中しているのか、何も話さない。別に無言の時間が気まずいわけじゃない。一緒にいて無言の時間が気にならない。それは家族の証だ。他人だったらこうはいかない。

ただ、今だからこそ、聴けること、話せることがもしかしたらあるんじゃないか、そんな考えが頭をよぎったのだ。

 

「…お姉ちゃんてさ」

 

なんだろう。今日の私は何かがおかしい。普段ならちゃんと自制できるはず。物事を考え、話すべきではない、そう判断すれば、例え家族だろうと話題には出さない。少なくとも普段の私ならそうしているはず。なのに、今は考えるよりも先に口が動いてしまう。

 

「ん? なあに?」

 

姉は手を動かしながら返事をする。対して私はこう続けた。

 

「お姉ちゃんてさ、ときどきものすごくボーとしとるときがあるよね、さっきもそうみたいやったし」

 

姉の動きが止まる。下を向いていた顔がゆっくりと持ち上がる。

 

「そういうときって、何を考えとるの?」

 

聞いてもいいことなのか、そんな想いが今更ながら浮かんでくる。踏み込んではいけない領域に入ってしまった感じがして、どうにも気分が落ち着かない。ただ、

それでも、私は、姉のあの切ない表情を、苦しそうな表情を見たくはない。それだけは確かだった。

 

姉と目が合った。目の奥の瞳はとても綺麗で、今にも吸い込まれそうだ。姉は何か躊躇しているみたいだったけど、こちらの目をもう一度見返したとき、意を決したように「ちょっと待ってて」と声を振り絞った。

私が冗談半分でそんな質問をしたわけじゃない、と受け止めてくれたみたいだった。

 

テーピングが終わり、姉は私の隣に腰を下ろした。ベッドがギシっと小さな音を立てる。

 

「…四葉とこういう話をするのは初めてやね」

 

私は無言のまま待った。姉は続けて口を開く。

 

「正直に言って私もよくわからんのよ」

「わからないって?」

「うん、何か大切なこと、大切な人を忘れているような、そんな感じがするんやけど、それが何なのか全然思い出せんの」

「大切な何か?」

「そう。絶対に忘れたくなかったことを、忘れちゃダメな人を記憶から消してしまったような、自分でもよくわからない不思議な感じがするんよ」

 

姉は目を細めて、とても優しげな表情を浮かべた。淡く切ない姉の顔。そんな顔は反則だ。妹の私でも、そんな顔をされたらこれ以上先のことを聞ける気がしない。

私が何を返せばいいのか迷っていると姉はさらに話の先を続けた。

 

「でもこれだけはわかる。私はその大切なことを、大切な人を、もう一度知りたい、思い出したいと思ってる。これだけは確かなんよ」

 

表情が苦悶の表情へと移り変わる。姉の両手に力が入るのが隣からでも見てとれる。

 

話の内容はあまりのも漠然としている。だけど、妙な説得力があった。

納得できてしまうものがある。頷いてしまうものがある。

姉も悩んでいるのだろうか? 整理のつかない自分の感情に。私が感じていた最近のイライラと同じように、彼女もまた正体不明の感情に悩まされているのだろうか。

 

それをどうしたら取り払うことができるのか、私にはよくわからない。ときどき感じる憂鬱さも自分ではどうすることもできない。なおさら姉にアドバイスできるものなど…ない。

 

でも、

 

隣に座っていた姉がハッと我に返って立ち上がった。

 

「ごめんね! 何言うとるのかね私は」

 

ご飯をつくると言って、そそくさとキッチンに向かう姉。私はその背中に言葉を投げかける。

 

「大丈夫やよ、お姉ちゃん」

 

その言葉に姉は振り向く。

 

「きっと見つかるんやさ。その探し物」

 

こんな励ましは無意味かもしれない。適当なことを言っていると思われるかもしれない。

でも、彼女にはできるだけ笑っていてほしい。宮水三葉にはずっと笑顔でいてほしい。なぜかって? 彼女は私の――理想なのだから。

 

それに、なんとなく予感があった。私の姉ならきっと大丈夫、なんとなくだけど、そんな気がした。

 

その言葉に姉は微笑む。

 

「何それ? 本当やの?」

「人生経験豊富な私が言うんだから間違いないわ。今日だってな、素敵な出会いがあったんやから!」

「四葉、あんた生意気ー」

 

久しぶりの姉妹の会話。楽しい時間が過ぎていく。昔はこれが当たり前だと思っていた。姉がいてお婆ちゃんがいて、ときどきお父さんが私たちの様子を見に来てくれる。もちろんいつもお婆ちゃんやお姉ちゃんがいないときだけど。

 

そんな暮らしがこれからも続くと思っていた。大きな転機はあの日。糸守を襲った彗星災害。あの災害で糸守町はなくなった。私たちの家も、神社も、帰るところすべて。

 

家族がバラバラになることはなかったけれど、大きなしこりを残したのは間違いない。姉は心から笑うことがなくなったし、お婆ちゃんも町と神社を失って以降、しばらくの間は意気消沈していたように思う。

 

みんな何かを抱えて生きている。

 

そんな中、姉と一緒に過ごす時間は大切だと思うし、ずっとずっと続けばいいとそう思う。おかしいなぁ。こんなことを考えるようになったのって、いったいいつからだっけ?

 

家族を感じながら、今夜はたくさんの話をしよう。私の中の小さな決心が花開く。願わくば、姉も同じことを想っていたら嬉しいけれど……キッチンで動き回る姉を見つめて、私はそんなことを思うのだった。

 

 



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04 再会は、突然に

公園での出来事から数日が経過した。私はあれ以降、悶々とした日々を過ごしていた。足をケガしているため、行動範囲は家とその周辺に限られる。自由が利かないってこんなにも窮屈なのかと、時間を持て余す日々に飽き飽きしていた。

まあ、来月から大学生なので、入学の準備などを進めてはいたけれど。

 

そんな我慢が功を奏したのか、足のケガは順調に回復に向かっているようだ。歩く分には何も問題はなく、テーピングも取れた。少し力を入れるくらいなら痛みもない。この調子ならすぐに走ることも可能だろう。

 

なので、今日は久しぶりに外出しようと思い立った。電車と徒歩で早速東京散歩の開幕だ! と、そのはずだったんだけど……

 

「…また来てしまった」

 

思わず声が漏れる。ここは数日前に立ち寄ったあの公園。足をケガし、不自由の元凶になった公園だ。

にも関わらず、なぜまた来てしまったのかと言うと……

 

「わぁッ…違う違う! そんなんじゃないってば―――ッ!」

 

それを考えると、途端に恥ずかしさが込み上げてきた。なので別なことを考える。

目の前にはあのとき座っていたベンチ。そこに腰を下ろすと、数日前と同じように遠くの空を見上げた。日は高く、天気は快晴。春の陽気を含んだ風が気持ちいい。いい感じだ。これなら考え事もはかどりそうだ。

 

考え事……そう私には懸案事項があるのだ。

それは何かというと、先日の彼にお礼をすること。つまりは、

 

――どうやってあの人に、あのとき貸してくれたタオルを返すか?

 

というものだった。うん、これしかない。将来の不安とか、夢の中の話とか、今はいったん置いておこう。今日この瞬間、私が抱える懸案事項はこれしかない。

さてどうやって解決したものか、とても由々しき事態だ。

 

(いや、待って。わかってはいるんよ)

 

心の中で自分自身に言い聞かせる。

 

(携帯の番号を教えてもらったんやから、連絡すればいいってことくらい。それくらい、わかってはいるんよ)

 

実際、ここ数日の間、私は何度も彼に連絡しとうと試みた。

だけど、仮に相手が通話に出たとして、また会う約束をうまく取りつけられるのか? タオルなんて返す必要はないと断られたらどうするのか? そもそも相手だって忙しいだろうから、電話をかけても問題のないのか? 考えれば考えるほど泥沼にはまってしまう。色々なことを考ては、連絡をすることを躊躇していた。

 

だけど、何度考えても同じ気持ちに行きつく。そして、この気持ちだけは嘘をつけない。

 

――私は、もう一度、あの人に会いたい。

 

あの日、公園での別れ際、後でタオルを返すからと言って、半ば強引に携帯の番号を聞き出したのは私だ。相手は私の番号を知らない。つまり、相手から連絡が来ることは絶対にない。あの人に会うためには、こちらから連絡するしかない。

 

頭の中でイメージする。通話に出たとして、まずはこちらが公園で助けた相手――私だとわかるように名乗る必要がある。それから、助けてくれたことへのお礼を述べて、さりげなくタオルを返す旨を伝えて、待ち合わせの日付と時間と場所を決めなくてはいけない。あくまでも自然に、流れるように。こちらの緊張を相手に悟らせないように。

 

「……」

 

そこまで考えて私は頭を抱えた。

 

「ハードル高ッ!!」

 

隣のベンチに座っていた女性がビクリとこちらを見た気がしたけれど、できるだけ気にしないようにする。どうしたものかだろう? と誤魔化すように頬をかいた。

 

こんなこと、普段の私なら事務作業のように淡々と進めているはずだ。だけど、この件に限ってはそれができない。こころがそれを許してくれない。

 

「ハァ…ほんと厄介……」

 

青空を眺めながら大きな溜息を漏らした。

 

「…名前くらい聞いておくんやったなぁ」

 

名前も知らない彼を思い出す度に、溜息が止まらなかった。

 

 

 

 

 

それから三時間ほどが過ぎた。結局は連絡を取れずに今に至る。はぁ、私ってこんなヘタレだったっけ? 自分の煮え切らなさに落ち込む。

ずっとこうしていても仕方がない。そう思ってベンチを立って駅方向へと向かった。なんだか妙に疲れた。ベンチに座っていただけだけど……

 

駅に入り、改札を通り、階段を登って、ホームへとたどり着く。すると、ホーム内は多くの人でごった返していた。

 

(あれ?この駅、普段こんなに人が多かったっけ?)

 

あたりを見回すと、大勢の人が、自分の腕時計や携帯を取り出して、時間を気にするような素振りを見せている。どうやら、電車が予定通りに来ていないらしい。見るからにイライラする人、困ったというように溜息を漏らす人、ホームのベンチに腰を下ろして目を瞑る人、電車を待つ人の態度はそれぞれだ。

 

しばらく周囲の様子を伺っていると構内放送が流れた。内容は数駅先の踏切で「線路内人立ち入り」のトラブルがあって、その影響で電車の運行を見合わせている、というものだった。ものの数分前の出来事のようだ。

 

放送が流れてもホームはざわついていた。「何があったんだろう?」「自殺じゃないだろうな?」と構内放送に対して憶測が広まっている。

 

放送を聞いた後、私は一旦ホームから降りることにした。「トラブル」という言葉を駅員は使っていたけれど、もしかしたら事故かもしれない。事故ならしばらくは電車が動ごくことはないと思ったからだ。

 

登ってきた階段を今度は下へと降り始める。構内放送を聞いた他の乗客たちも、私と同じように考えたのか、その場を移動する人の数が目立った。きっと、ホームで待っていても仕方がないと思ったのだろう。タクシーや他の路線を使おうと考えたのかもしれない。

 

人の波に交じって、階段を一つ一つ降りていく。そうして、下まであと少しのところで、その出来事は起こった。

 

大方、タクシーも混むと予想して急いでいたのだろう。一人の中年男性が人の波を掻き分けながら階段を駆け降りてきたのだ。

私は避けようとするも、運悪く男性の持っていたカバンに肩がぶつかった。後ろから勢いよくぶつけられたため、身体のバランスを崩し、重心が前の方へと傾くのがわかった。

嫌な予感がした。ここ最近、本当についていない。また転ぶ。しかもまた階段でだ。身体が前へと傾く中、私は恐怖で目を閉じてしまった。

 

ああ、せっかく足が治ってきたのに、本当についていない。

 

そう思ったときだった。ボフッと音を立てて何か柔らかい壁に当たったのだ。当たったというよりは、受け止められたといった方がいいだろうか。あれ?と思って顔を持ち上げ、目線を上へと移動させる。

 

するとそこには、私を抱きかかえるようにして転倒する身体を支えてくれる男性の姿があった。その男性がすかさず声をかけてくる。

 

「っと、危なかった。気をつけないと……って、あれ?」

 

男性は目を丸くした。私の瞳も揺れ動く。たぶんその人の100倍は私の方が驚いていたに違いない。あいた口が塞がらない。ことわざの使いどころとしては間違っているけれど、このときの私はまさにそんな状態だった。

 

その人は私の身体を起こして、なおも気さくに話しかけてくれた。

 

「この前、公園でケガしてた子だよね? 覚えてない?」

 

忘れるもんか。忘れられるはずがない。だけど、声が口から出てこない。男性から話かけられても、いまだに私は口ポカーン状態だった。

 

 

 

 

 

ほどなくして、私は駅近くの喫茶店にいた。店内はとても混雑していたように思う。電車を待つ人たちが喫茶店を利用しているようだった。ちなみに、なぜ混んでいたように思う、と曖昧な表現なのかというと、正直に言ってこのときの私には周りを観察する余裕などなかったからだ。

 

原因はもちろん目の前の男性だった。

 

「良かった。足、治ったんだ」

「あ、はい! この前は本当にありがとうございました」

 

なんだか、返しがぎこちない。これは認めるしかないだろう。私は今、とてつもなく緊張しているということを。

 

「俺は何も。君をベンチまで運んだだけだよ」

 

そんなことを言ってくる。

 

(さわやかな人やなー、って、わたし何を考えてるの…!?)

 

二人で喫茶店に訪れたのは駅で助けてもらったすぐ後のこと。目の前の彼も電車に乗ろうとしていたみたいで、待ちぼうけを食らった私たちはこうして喫茶店で時間を潰す流れとなった。

 

(でもこんなことってあるんやなー)

 

未だに心がざわついて落ち着かない。彼の顔を盗み見ては視線を外す動作を繰り返している。端から見たら完全に挙動不審だ。

 

彼はコーヒーを飲みながら、窓の外を見ていたけれど、ちらりと私の方に視線を向けた。

思わずドキリとする。やめてほしい、そういう不意打ちは。私はすぐに視線を外してしまった。

 

さっきからその男性は私の顔を伺うようにして見てくるときがある。見られる度に心臓が跳ね上がるような感覚がして、なかなか会話に集中できない。

 

二度も階段から落ちかけて(うち一回は完全に落ちたけど)ドジっ娘と思われてるんじゃないかとか、この前といい今日といいもう少しマシな服を着て来ればよかったとか、変なことばかりに考えが回ってしまう。頭の中は軽くパニック状態だ。

 

「電車、早く動くといいね」

 

男性はコーヒーカップに口を付けた後、そんなことをつぶやいた。

 

「そ、そうですね」

 

はぁ、だめだ。会話が続かない。どうしよう。この前のお礼を伝えたり、タオルのことも話したりしないといけないのに。

 

こちらが不審者みたいに瞳を泳がせていると、男性はまたちらっと私の顔を伺った。その行為にドギマギするも、いつまでもこうしていても仕方がないと覚悟を決める。そして私思い切って私は自分の方から話を切り出した。

 

「わっ、わたしの顔に何かついてますか?」

 

えっ?という表情を浮かべる彼は、意表を突かれた様子だった。

 

「さっきから、顔を見られているような気がして……」

「ああ、ごめん。ちょっと、昔会った子に似てるかなーと思って」

 

そんなことを言って苦笑する。

 

「知り合いに似てるってことですか?」

「いや、知り合いではなくて、似てるっていうか、君に、昔会ったことがあるような、そんな気がして……」

 

そう言って、彼は右手で後ろの首筋を擦り始めた。

その変な物言いに私は思わず笑ってしまう。

 

「変なの?私はお兄さんとは公園で初めて会いましたよ?」

「そ、そうだよね」

 

いつの間にか会話のぎこちなさが逆転している。なんだろう? すごく楽しい。気分が高揚する。人と話してこんなに暖かい気持ちになれるのは家族と話すとき以外初めての経験だ。

 

「でも不思議です。お兄さんと会ったのは確かにこの間が初めてなんですけど、私も昔お兄さんと会ったことがあるような、そんな気がします」

 

えっ?という表情を彼はまた浮かべた。

 

「冗談です!」

「あっ、やられた」

 

彼が笑い、釣られて私も笑う。

 

それからしばらくの間はこちらが話題を振っては向こうが答え、向こうが話題を振ってはこちらが答える、といったやり取りが続いた。ぎこちなさは相変わらず、だけど、これはこれで悪くない。

 

時間を確認すると、喫茶店に入ってからもう一時間近くは経っていた。楽しい時間はあっという間だと心の底からそう思った。

そろそろ止まっていた電車も動き始めているだろうか。そう考えた私は、ふと窓の外に目を向けた。

 

(あっ……)

 

女の子が立っていた。ガラス越しにこちらを凝視している。絵面的にはホラーだけれど、もっと厄介なのがこちらを覗いていたその子が知り合いの隅田花苗だということだ。彼女は目をキラキラさせながらこちらの様子を見つめていた。何?その期待に満ちた瞳は? 別にこっちは喫茶店でお茶してるだけですよ? 年上の男性と二人っきりという状況ではあるけれど……

 

というか、むしろ、なんであんたがここにいるのかと、私の方が無性に突っ込みたいくらいだった。

 

「友達?」

 

彼もその子に気づき、私に尋ねる。

 

「ええ、まあ」

 

曖昧な返事で濁しておく。とても面倒なことになった。後で彼女たちから追及を受けるのはこれで間違いないだろう。はぁ、なんて言い訳しよう?

 

そんなことを考えていたとき、彼が伝票を持ってゆっくりと立ち上がった。電車も動いているだろうから、そろそろ店を出ようかと提案する。楽しい時間は本当にあっという間だ。彼は友人に会う約束をしていると言っていた。大体の行き先もさっきの会話の中で聞くことができた。残念ながら私の乗る電車とは逆方向だ。

 

ということは、実質ここでお別れということになる。なんだか寂しい気持ちになったけど、こうして彼とまた会うことができて、話をすることができたのだから、これ以上を望むのは欲張りというものだ。そう言って自分自身に言い聞かせた。

けど、最後にどうしても聞いておきたいことがあったので彼を少しだけ引き留める。

 

「あっ、あのっ」

「ん?」

「良かったら、お兄さんの名前を教えてもらえませんか?」

 

その問いに彼は穏やかな声音で答えてくれた。

 

「あれ? まだ言ってなかったっけ? 立花だよ。“立花瀧”」

 

ようやく聞けた。知りたかった人の名前を。緊張の糸が解け、なんだか胸が暖かい。

もう少しで開花する桜の蕾のように、私の心にも春が訪れたようなそんな暖かさがする。

 

立花瀧。立花瀧。立花瀧。とても綺麗でいい名前だ。

 

何度か名前を復唱して、心の底でこう思う。

―――この名前は一生忘れないと。

 

 



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05 四つ葉のクローバー

「それではこれより、宮水四葉容疑者の取り調べを開始しまーす!」

「えーなにそれ?」

「ちょっと明里!少しはこっちにノリを合わせてよ!」

「だってー」

「男の子紹介してあげるからっ、ね?」

「そっ、そんなのいらないわよ!」

 

私はこの場に必要なのかな? 目の前の楽しそうなやり取りを見てそんなことを思った。

公園で助けてくれた彼―――立花瀧との再会を果たしたのが昨日で、今日はその翌日だ。二人で喫茶店にいたところを花苗に目撃されたため、いずれこうなるだろうと予想はしていたけど、まさかこんなに呼出しが早いとは思っていなかった。ねえ?二人とも暇なの?

 

ここは私の家の近くにあるファミレスだ。私もときどき食べに来るから馴染みの店と言ってもいい。私たちが座っているのは四人掛けのテーブル席で、店の出入り口側に私がいて、テーブルを挟んだ反対側に彼女ら―――椎原明里と隅田花苗が座っている。時刻はちょうどお昼を過ぎたところだ。

 

二人からは一緒にお昼を食べようと誘われた。昨日のことを追及されるのは間違いないので、連絡があっても断ろうとそう思っていた。でも、話を聞くと、二人はなんと既に私の家の近くに、まで来ているというのだ。逃がしてくれる気はないということか…でもそもそも私が外出していたらどうしていたんだろう?

 

そんなこんなで私は二人と待ち合わせて、このファミレスで彼女たちの取り調べ?を受けている。

 

「それでは四葉さんっ!昨日会っていた例の男の人…ずばりあの人は誰ですか!?」

 

花苗がノリノリでいきなり直球を放ってくる。

隣の明里も私の方に向き直った。それぞれノリに温度差はあるものの、二人ともその瞳は輝いている。これは本当に逃げらそうにない、かも……

 

だけど、花苗の質問に対する答えは明確だった。公園で転んだところを助けてもらい、昨日駅で偶然再会して、電車を待つ傍ら喫茶店でお茶していた、考えてみればこれしかない。これ以上でも以下でもない。それに名前を知ったのも昨日だったわけだし、彼女たちが望むような話も展開もまったくない。

 

そんなことを二人に話したら、花苗から意外な言葉が返ってきた。

 

「そこは重要じゃないんだよ」

「えっ」

 

思わず固まる。何それ?どういうこと?

花苗に続いて明里の方にも顔を振ったけど、彼女も終始にこやかな表情を浮かべていた。なんだろう? 私だけ疎外感半端ないんだけど……

 

「四葉はどうしたいの?」

 

花苗は私に質問をする。

 

「わたし?」

「そう。これまでの経緯は今の説明でだいだいわかったよ。だけど、一番重要なことを聞いてない」

「…重要なことって?」

「四葉がその人と今後どうしたいと思っているか?」

 

グラスに入ったストローを上下に動かしながら、花苗は少しだけ真剣な表情をつくった。グラスの中の氷が涼し気な音をたてる。

 

私はその質問に息が詰まった。花苗の質問はひどく直線的だ。しかもこの子のこんなに真剣な表情は初めて見るかもしれない。

 

「わたしがどうしたいか、か……」

 

それを明確にするのは、正直に言って難しい。頭の中が整理できなくて、考えるのがなんだか怖い。

あの日、公園であの人と会った日、彼に対してどこか懐かしいものを感じた。“立花瀧”という一人の人間に対して、私の心がざわついたのは紛れもない事実だ。

だけど、その気持ちがどこから来るものなのかはわからない。本当にわからないのだ。

 

そして、駅で再会したあの日、昨日のことだけど、このときの私は彼にまた出会えて、彼とまた話すことができてすごく嬉しかった。と同時にすごく安心した。とても暖かな気持ちになった。

 

この気持ちに名前が付くのなら何がいいだろう? 頭の中に浮かぶ名前の候補はあまりにも多すぎる。数多くの候補の中から一つを決めることが今の私にはできそうにない。

 

だけど、

 

「……また、会いたいとは、思う、かな……」

 

そう言葉にするだけで、私の顔は今にも沸騰しそうだった。恥ずかしさのあまり、二人の顔すら直視できない。

やっとの思いで声には出したはいいものの、尻すぼみに小さくなってしまった声。正直、二人に聞こえているのかも怪しい。

 

と思ったけれど、

 

「ん~この可愛い奴め!」

「今の表情写メっておけばよかったよ!」

 

そんな言葉一つで十分だというように、二人は満面の笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

だけど、そのあとが地獄だった。何をやったのかと言うと、例の彼――立花瀧とまた会う約束をしたのだ。というよりは、させられたと表現した方が適切か。明里と花苗のバックアップには感謝だけど、二人の前で彼と連絡をするのがこれほど恥ずかしいものだとは思わなかった。軽い公開処刑だ。

 

何はともあれ、彼に伝えたのは公園で助けてもらったお礼を改めてしたいという内容だった。ただ、それだけではダメという彼女たちからのアドバイスも加わり、一緒にお昼を食べるというオプションまで獲得。嬉しい反面、正直今から緊張ものだ。

 

「はい! では後日よろしくお願いします!」

 

通話を終えて、緊張の糸が解ける。すると、疲れが一気に押し寄せた。そこに明里と花苗のニヤニヤ顔が加わるのだからたまったものじゃない。きっといつもの私なら鬱陶しいと一蹴していたに違いない。でも、今日はなんだかそんな気分にはなれなかった。

正直言うと、私は二人に感謝していた。おそらく、明里と花苗が背中を押してくれなければ、彼とまた会う約束なんてできていなかったかもしれない。そう思ったからだ。

 

喉を潤すために目の前の水を一気に飲み干す。はあ、と一息つくと、花苗がバッグの中を漁っているのに気が付いた。

 

「花苗?」

「あった!」

 

そうして彼女は中から一冊の本を取り出す。

 

「なにそれ?」

 

隣の明里が手元に視線を送るけど、花苗はいいからいいからと言って、本をぱたぱたとめくりはじめる。やがて、あるページのところでめくるのを止めると、その隙間からあるものを取り出した。

 

「これ、四葉にあげるね」

 

そこには、四つ葉のクローバーの押し花があった。お姉ちゃんからもらったんだ、と花苗は言う。綺麗な緑色をしたクローバー。四つ葉というだけでとても縁起がいいものに思えてくる。

 

「四つ葉のクローバーは幸運っていう意味があるんだって」

 

今の四葉にはぴったりだと明里が言った。

 

「幸運があらんことを」

 

と、花苗もその話にのってくる。

 

私は花苗から押し花を受け取ると、光が差し込む窓側へとかざした。深い緑色のその押し花はまるで地面に咲いているかのように生き生きとした輝きを放っている。

私は二人に「ありがとう」とお礼を言って、また花に視線を戻した。

 

「でもね、四葉」

「ん?」

 

・・・・・・

 

それからしばらく、二人とは雑談をしていた。

 

けれど、私は花苗の放ったある言葉が気になって、その後の会話にはあまり集中できていなかった、ように思う。

 

 

 

 

 

その夜。お風呂上りにリビングでアイス片手にくつろいでいると、不意にお婆ちゃんが声をかけてきた。

話によると、明日この家に遠い親戚が来るらしい。名前を聞いても、誰だかまったくわからなかった。おかしいな。糸守のひとならほとんど覚えているはずなんだけど。

 

「糸守やない。ここの人や」

「東京の?」

「そうや」

 

どうやら昔糸守町から出ていった人たちなんだとか。あまり付き合いもなかったけど、お婆ちゃんに相談したいことがあってここを訪ねてくるのだという。なんでも高校生くらいの男の子らしかった。

 

「あんたとは確か、三つ下ぐらいやったかな。年も近いんで四葉もどうかと思うてな」

「明日かー」

 

明日は大学関連の用事がある。家の用事もできるだけ優先したいと思うけど、できることならそっちを優先したい。

 

私はそう思って、お婆ちゃんに明日は学校関連の予定があることをそれとなく伝えた。するとお婆ちゃんは、元々わしに用事があって来るのだからと、ええよ、ええよと気遣ってくれた。ありがたい。ここはその厚意に甘えておこう。

 

明日は大学関連の予定がある。そして、来週には彼―――立花瀧との約束がある。

 

そのことに顔を綻ばせながら、私は棒に残った最後のアイスを口に入れるのだった。

 

 



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06 二人だけの東京散策

桜の花が咲き始めた三月の終わり。今日は高校生最後の日でもある。厳密にいつまでが高校生でいつからが大学生なのかはわからないけど、三月の最終日までが高校生、そして四月からは大学生に切り替わると、私はそう思っている。

 

ここは、例の公園だ。先週、明里や花苗に促されるまま彼と連絡を取ったとき、待ち合わせの場所はここに決めた。彼と初めて会った思い出の場所。時間は十時半集合にしている。けれど、私はその三十分も前に公園に着いてしまった。

 

あの時と同じベンチに座って、あたりを伺ってみる。当然彼はまだ来ていない。だけど、また会えると思うだけで、胸が暖かくなり、なんだか顔がにやけてしまう。一人でニヤニヤしている姿を他の人に見られでもしたら、気持ち悪がられるのは間違いないので、出来るだけ無表情をつくる。

 

(今日も天気は抜群やね)

 

空を眺めると果てしない青空が広がっていた。雲一つない快晴。彼と会う日はいつもこうだ。

 

(神様が気持ちを読み取ってくれてるんかなー)

 

浮かれた気持ちを抑えられないためか、普段の自分だったら考えないようなことまで頭の中に浮かんでくる。ダメだ。このままじゃいけない。今からこんなに浮かれていてどうするね! と、自分自身に喝を入れる。それでも、彼に早く会いたい気持ちだけは我慢できなかった。

 

しばらくして、彼―――立花瀧が現れた。約束の時間よりは少し早い。白を基調にしたスフェットに、春物の黒いジャケットを羽織り、下は深い青色のジーンズだ。けっこうラフな格好に見えるけど、大人っぽく落ち着いた印象は依然と変わらない。彼の姿を見ているだけで、なんだか顔に熱がこもる感じがする。

 

「こんにちは」

「きょ、今日はよろしくお願いします」

 

私はすかさずベンチから立ち上がって挨拶した。

 

「こちらこそよろしくね。ええと、行きたいお店があるんだっけ?」

「はい!イタリアンのお店なんですけど、よ、良かったらどうかなと思って」

「いいよ。行こうか」

 

心の中でガッツポーズする。行きたいお店があることは事前に電話で伝えていた。最初は、助けてくれたお礼をしたいからお昼を奢ごらせてほしいというシナリオ(脚本:明里)を考えていた。だけど、年上の男性にごはんを奢るというのは相手が気にするし、絶対に断られるという話になり、行きたいお店があるけど友達同士では行きにくいので付き合ってほしい、というシナリオ(脚本:花苗)を採用したのだった。

 

本日行く予定のイタリアンレストランの場所を伝え、電車で移動するために二人で駅へと向かう。

 

その途中、私はバッグの中身を確認した。足を痛めたとき、彼が足首に巻いてくれたタオルと、もうひとつは彼に対するお礼の品だ。両方バッグに入っているのを確認すると、目線を前に戻して彼に渡すタイミングを考える。タオルは最初に渡してしまおうかと思ったけど、彼は手ぶらでバッグも何も持っていない。ここで渡されたら迷惑かもしれないと思って、帰り際に渡すことにする。s

 

改札を通ってホームへと移動し、電車に乗り込んだ。今日は遅れているようなことはないみたいでホッとする。

 

電車内は平日の昼間ということもあってか比較的すいていた。だけど、一人が座れるスペースはまばらにあるものの、二人が並んで座れるスペースは乗り込んだ車両にはなかった。なので私たち二人は入り口付近に立つことにする。

 

「四葉ちゃん、だっけ?座らなくても平気?」

 

彼はそんなふうに気遣ってくれる……え?

 

「わたし、名前言いましたっけ?」

「電話の向こうから聞こえてきてたよ、四葉頑張れしっかりしろーって」

 

それだけ言うと彼は笑った。

 

当の私はと言うと恥ずかしくて昇天しそうだ。みるみる体温が上昇するのがわかる。まさか、あの一連のやりとりをすべて聞かれていた? やばい。それはやばすぎる。

恥ずかしさに耐えきれず、私はすかさず別な話題を振って話を逸らした。

 

「た、立花さんは、イタリアンとかよく行くんですか?」

「瀧でいいよ」

 

一瞬私はキョトンとした表情を浮かべてしまった。

 

「名前、瀧でいいよ。そっちの方が呼びやすいでしょ?」

 

彼はそんなことを平気で言うものの、それはちょっとハードルが高い。でも、親しくなれるチャンスなので、

 

「それじゃ、“たき”さんで」

 

勇気を出してそう呼ぶことに決めた。

 

 

 

 

 

イタリアンのお店は、昼と夜の二回に分けて営業している。今は昼の部で、上品そうな奥様方が多い印象を受けた。お店のことは明里や花苗と前から話題にしていたこともあって、ある程度のことは知っている。なんでも昼と夜でお店の内装をがらりと替える徹底ぶりなんだとか。値段もそれなりにするため、学生同士が学校帰りに気楽に入れるような店ではない。けれど、とにかくお洒落な外観や雰囲気には目を惹かれるものがあった。

 

少し昼には早かったけれど、私たちはお店に入ることにした。ウェイターに案内された席へと座る。何だか少し緊張してきた。

差し出されたメニュー表を受け取り注文しようとするも、一覧表には私が知らない料理名がけっこう並んでいた。

 

「この、アクアパッツァってどういう料理なんですかね?」

 

メニューの一覧を見ながら瀧さんに話を振ってみる。

 

「魚料理だよ。魚介類をトマトやオリーブオイルと煮込むんだ」

「へぇー」

 

私は感心していた。料理にではなく、料理の説明をしてくれる彼に。

 

「瀧さんて、もしかしてイタリアン詳しいんですか?」

「昔、イタリアンレストランでバイトしてたから、そのときにね」

 

二人とも注文を終えると、ウェイターがメニュー表を回収した。料理が運ばれてくるまで時間があるので、私はここで彼に例のものを渡すことに決めた。バッグの中からそれを取り出し、両手で彼の方へと差し出す。

 

「これは?」

「助けてくれたお礼です。よ、良かったら受け取ってもらえませんか?」

 

だめだ。やっぱり緊張する。彼は少し困惑した表情だったけど、私の手から四角い箱を受け取ると「ごめんね。気をつかわせて」と優しげな表情をつくった。

 

「開けてみてもいい?」

「どうぞ!」

 

彼がゆっくりと包み紙を解くと、掌に納まるくらいの白い箱が現れる。包み紙を手元に置くと、続けて白い箱を開封した。

 

「あっ」

 

箱の中身を見た彼は、小さく驚いたような反応をした。

 

「ちょうど欲しかったんだよ。ネクタイピン」

 

四つ葉のクローバー絵が入ったネクタイピン。散々悩んだ末に選んだ彼へのプレゼントだった。

 

「ありがとう」

 

彼はとても落ち着いた声でお礼の言葉を返してくれた。喜んでもらえて私も嬉しい。男の人にプレゼントを贈るなんて初めてだった(お父さんは除く)だけに、目の前の瀧さんの反応を見てつい私も笑顔になってしまう。

 

少ししてから料理が運ばれてきた。それまでの間、そして料理を食べる間、瀧さんとはいろいろな話をした。最近見たテレビのこと、学校帰りに見つけたおもしろそうなファッション雑貨店のこと、電話をかけたときに後ろで騒いでいた友達のこと。途中料理の話題で話を繋ぎながらも、私は夢のような時間を過ごすことができた。

 

たいした話はしていない。当たり障りのない話をずっとしていたと思う。お互い遠慮があったのかもしれない。それでも私は、彼と過ごす時間がたまらなく大切で、大袈裟かもしれないけれど、私にとっては一生の思い出だった。

 

だから、店を出たとき、とても寂しい気持ちになったのは本当だ。これでお別れなんだと思うと視線が下へと向いてしまう。何も今生の別れというわけじゃない。電話すれば連絡だって取れる。でも、なぜか、今日という日に会えなくなるのがとても寂しかった。

 

そのとき、私のそんな雰囲気を感じ取ってくれたのかもしれない。

 

「このあと、どうする?この近くにいい喫茶店があるから寄ってみる?」

 

彼の方からそんな提案をしてくれた。下に落ちた視線が一気に逆側へと移動する。私は無言のまま、何度も何度も頷いていた。

 

 

 

 

 

 

帰り道。私たちは電車の中にいた。あれから二件ほど喫茶店をはしごした。彼は喫茶店を巡りが好きなのだそうだ。

最初に入ったのは瀧さんが勧めてくれたお店だった。パンケーキがあまりにもおいしくて、つい明里や花苗に自慢したくなった。もう一件は彼と散歩をしながら見つけたお店だ。ちょっと食べ過ぎたかなと反省しながらも、今日の楽しい思い出を心の押し入れに大事に大事にしまい込む。

 

電車内は来るときと同じであまり混んではいないようだった。けれど、私たちは来るときと同じように、出入り口付近に立つようにしていた。ガタンゴトンと電車が揺れる。なんだか眠ってしまいそうなくらい、気持ちのいい揺れ方だった。

 

「今日は無理を言ってしまってすみませんでした」

「んや、俺の方こそ楽しかったよ。誘ってくれてありがとう四葉ちゃん」

 

どうしようか。どのタイミングで切り出そうか。頭の中で考える。

 

  『デートが終わったら、必ず次の約束もすること!』

 

これが明里と花苗の二人からのアドバイスだった。と言っても、終わったばかりで次の約束もするってどうなのよ?うざくない?それに相手は来月、つまり明日から社会人である。そんな余裕はないのでは?

いつもの悪い癖が出たのか、考えすぎて結論が出ず、なかなか話を切り出せない。

 

そのとき、彼が私の顔をじっと見ていることに気が付いた。考えている最中、変な顔でもしていただろうか?

 

「あの……やっぱり私の顔に何かついてますか?」

「えっ? ああ、ごめん。おれ、また見ちゃってたね」

 

彼は照れたように目線を窓の外へと向けた。私の頭にははてなマークしか浮かんでこない。だけど、窓の外を見ている彼の顔はどこか苦しそうで、何だか放って置けないものだった。

何かを探しているけれど、その探し物は見つからないくて……

誰かを探しているけれど、誰を探しているのかもかわらなくて……

私は知っているその表情、その苦しみを。

 

そう、それは……

 

「次いつにしましょうか?」

「えっ」

 

その表情に耐えきれず、私は思わず話しかけた。

 

「もちろん、喫茶店巡りです!」

 

少し強引過ぎたと思ったけれど、結果的に彼はまた会う約束をしてくれた。来週の平日、仕事が終わってから会うということになった。今日楽しませてくれたお礼に、今度は晩御飯をご馳走してくれるという。この前の喫茶店といい、奢らせてばかりで申し訳ない。と思いながらも、嬉しさのあまり心がスキップしてしまう。

 

駅で彼と別れとも、気分は高揚したままだった。高鳴った心を落ち着かせるために、いつものように空を見上げた。相変わらず天気がいい。だけど、少しだけ雲が出てきているようだった。

 

 

 

 

 

「で? どうだった?」

 

家に帰った後、私は明里と連絡を取っていた。夕飯を食べた直後、明里から電話があったのだ。

 

(タイミングいいなー。私のこと、監視してるわけじゃないよね?)

 

もちろん話の内容は今日の瀧さんについてだった。わざわざ電話じゃなくてもいいように思ったけれど、それは藪蛇なので聞かないでおく。

まぁ、向こうも心配して連絡してくれたのだろう。そう思うことにする。半分興味本位な気もするけれど……

 

「まぁ、うまくいったとは、思う……」

 

ずいぶん漠然としたことを言う私だが、それでも彼女は何かを察したのか「よく頑張ったじゃん!」と明るい声を返してくれた。まったく本当にお姉さんキャラが似合うやつである。

 

「それで次はいつ?」

「来週、かな」

「ちゃんと後で報告してね!」

 

明里は妙にテンションが高かった。彼に会っているときの自分も、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。

 

少しだけ恥ずかしさが込み上げてきたところで、私は机の中からハンカチを取り出した。中を開くとそこには四つ葉のクローバーの押し花。先日、花苗からもらったものだった。

手で摘まんで上へとかざす。深い緑色をした花はとても綺麗で見る人を飽きさせない。そんな力を秘めている。

 

だけど、その花を見ているとき、一つだけ失敗したことに気が付いた。

 

「あっ」

「ん? どうしたの?」

 

携帯越しに明里の声が聞こえる。私は思わず四つ葉のクローバーに向かって口を開いたのだった。

 

「…タオル返すの、忘れた」

 

 



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07 夢の中のもう一人の自分

四月。私は晴れて大学生となった。学校指定の制服を着る必要はなくなり、毎朝どの服を着ていくか悩む日々が続いている。

通学途中の風景も様変わりし、学生服を着た子たちを見かけると、つい最近まで自分自身がそうだったというのに、なぜか懐かしい気持ちになった。

 

そんな環境の変化が著しい四月のとある夜。私はお風呂に入りながら、彼―――立花瀧と一緒に食事をしたときのことを思い出していた。

無理もない。次の約束の日が明日に迫っていたのだから。

 

『今度は晩御飯を食べようか』

 

彼はそう言っていた。明日は平日だけど、夕方に待ち合わせることになっている。平日でも大丈夫なのかと尋ねると、新人は定時で帰るように言われているから問題ない、とそんなことを言っていた。

 

一方で私は大学の入学式も終わり、今は学校生活関連のガイダンスなどが続いている。本格的な講義が始まるのはもう少し後になるかもしれない。

 

大学生活に期待していないかと言われれば嘘になるけど、今の私は正直明日のことで頭がいっぱいだった。

どこで食事をするんだろう?どんな話をしようかな?服は何を着て行こう? そんな他愛もないことを何度も何度も考える。彼とまた会えることが嬉しくて楽しくてたまらなかった。

 

(やばっ、このままだと違う意味でのぼせそう……)

 

浴室から出て、髪を乾かし、キッチンまで移動する。そのまま冷蔵庫からアイスを取り出し、幸せの時間を満喫しようとリビングへと向かった。

 

だけど、部屋の奥から何やら物音が聞こえてくる。どうやら先客がいるようだ。先客と言っても、私以外で先客と言ったらお婆ちゃんしかいない。

どうやらテレビを見ているようで、少し離れた場所に正座して、テレビの内容に「ほぉ」とか「へぇ」とか相槌を打っていた。

 

自分の部屋以外でこういうことするのは珍しいなと思いながら、私はソファーに座ってアイスを食べ始める。食べながら視界の片隅でテレビの内容を見てみると、どうやら公共放送の特集番組を見ているようだった。

「イジメ」とか、「子ども」とか、なんだか難しそうなキーワードがずらりと並んでいる。なんでこんな番組を見ているんだろう?とそんなことを思った。

 

しばらくして番組が終わり、お婆ちゃんがリビングマットの上から腰を上げる。自分の部屋まで移動しようとするが、途中何かに躓きそうになったので心配になって手を貸した。そのまま部屋まで付いていく。

 

「ここまででええよ。四葉も明日は学校なんやから、はよ寝んといかんよ」

「まだ十時やないの」

 

お婆ちゃんとそんなやりとりをしながら、寝るにはまだ早いかなと思っていると、部屋のテーブルの上にあるものを見つけた。

 

「なんでこんなところに口噛み酒があるん?」

 

テーブルの上には確かに口噛み酒を保存するための酒器が置いてあった。ヒョウタンのような形をした酒器はまるで遺跡から発掘されたかのような年季具合だ。

 

「あんたが昔つくった口噛み酒や」

「それがなんでここにあるの?」

「この前知り合いが家に来たのは知っとるな」

「うん、私が大学の用事があって家にいなかったときやね」

 

瀧さんとイタリアンで食事をするよりもずっと前の日のことだったように思う。

 

「その訪ねてきた子に少しだけ持たせたんや」

「……え……ええっ!!」

 

うそ。信じられない。よりにもよって、“私”のを他の人にあげちゃうなんて。

体が少しだけ熱くなる。同時に変な汗が出てきて、全身の毛が逆立った。

 

「お婆ちゃん!それどういうことやの!?」

「ほんのお清めや。その子からいろいろと相談されてな。変な夢にも悩まされとる言うてたもんで、つい」

 

はははとお婆ちゃんは笑った。そんな呑気な……おそらく相手はこのお酒の作り方を知らないはずだ。知っていたらもらうわけがない。確か、家に来たのは高校生くらいの男の子だっけ?

 

「四葉、これもムスビや」

「…はぁ」

 

なんとも言えない複雑な気持ちを抑えつつ、私はもう一度シャワーを浴びることを決めたのだった。

 

 

 

 

 

その夜。久しぶりに夢を見た。現実のようなリアルな夢だ。夢の内容はうっすらとしか覚えていない。

 

 

 

 

 

===

======

=========

 

カンッカンッカンッと甲高い音が響く。

 

(……)

 

音は次第に大きくなっていく。

 

(…んー?)

 

カンッカンッカンッと無機質な音は鳴り止んではくれない。私は耐えきれずに口を挟んだ。

 

(…うるさいなぁ)

 

聞いたことのあるひどく耳障りな音が睡眠を邪魔する。

 

(いったいなんなの?この音は……)

 

突然聞こえてきた騒音に悪態をつき、重い瞼をゆっくりと開いていく。そして私は唖然とした。

 

あまりにも突然のことで、どう反応していいかもわからない。それでも、辛うじて残る冷静な思考が今この状況を理解しようともがいている。どうやら私は自分の部屋ではない別な場所にいるようだった。

とても明るい場所だった。屋外なのは間違いない。空気は割と暖かく、上に視線を移すと見渡す限りの青空が広がっている。雲一つない快晴。太陽の位置からして昼付近といったところか。

 

整理のできない複雑な気持ちをそのままに、次に私は自分の異変に気がついた。なんだか身体が気持ち悪いのだ。どうやら汗をかいているようだった。しかも大量に。

中の服が肌に引っ付き、気持ち悪さの原因になっている。おまけにさっきから肩が大きく揺れる。息が切れる。まるで全速力で走った後のように。

 

(ああ、わたし、また夢を見ているんやなぁ)

 

そう理解する。けれど、現実のようなリアルな感覚が私の頭を刺激する。これは本当に夢なのかと……そして、さっきから耳を突き破るように聞こえる音の正体。

 

私は音がする方向に目を向けた。やっぱりそうだ。誰もが見慣れた、黄色と黒の縞模様。赤い光が交互に揺れる。棒状の筒は目の前に降りていて、道と道とを分断している。

 

なぜここにいるのかはわからない。本当に変な夢だ。そう思うと同時に、ようやく私は状況を理解した。

 

―――私は踏切の前に立っていた。

 

 



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08 満開の桜は、

一定のリズムで刻まれる警報音が耳の奥を突き抜ける。寝起きには厳しい音だった。今は夢の中だから寝起きとは呼べない気もするけれど。

 

さて、ここはいったいどこだろう? 私はもう一度あたりを注意深く見渡した。踏切には違いない。周りを見るにどこかの住宅街のようだ。とても閑散とした場所だった。

 

私はなぜここに立っているの?

 

疑問が次から次へと湧き上がるも、答えてくれる人は誰もいない。

 

そうこうしているうちに、遠くの方に電車が見えた。今は日中。走っていても何ら不思議ではないだろう。そう思って、視線を正面の踏切に戻した。すると、

 

(あっ!)

 

線路を挟んだ向こう側に人が立っていた。女の子のようだ。中学生、いや、高校生くらいだろうか?

 

俯いているため、表情まではわからない。けれど、その口元は笑っていた。その瞬間、私の背中に悪寒が走った。

 

(あの子は……誰?……)

 

目の前の女の子から視線が離せない。こんなところで何をしているの? そう声をかけたくても口から声は出てこない。

 

しばらく私はその子を見つめていた。だけど、その子は急に身体を動かした。何の前触れもなく突然に。

 

次の瞬間、私は目を疑う。

 

その子は遮断機をくぐって、踏切の中に飛び出したのだ。踏切の警告音が大きくなる。耳をつんざく。危ない! このままだとあの子は…ッ!

 

「ちょっと…ッ!!」

 

焦燥感に駆られて私は叫んだ。けれど、いつもの自分の声じゃない。低い声音は女のものには思えない。状況は未だに理解できていない。

だけど、今は先にやらないといけないことがある。

 

とっさに身体が動いていた。

 

目の前の遮断機をくぐり、線路を渡って女の子に駆け寄った。その手を引いて彼女が跳び出した方向へと連れ戻す。遮断機をもう一度くぐって、舗装された道路にへたり込んだ。

 

瞬間、電車はスピードを緩めることなく駆け抜けていく。

 

(危なかったぁ……)

 

動悸はなかなかおさまらなかった。身体中から汗が噴き出す。心臓の鼓動が大きく聞こえる。

 

息も絶え絶えに女の子を確認する。相変わらず顔は俯いていた。私はイラついた。文句を言いたかった。なんで、あんな危険なことをかと。一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていたのだと。

けれど、彼女の顔を見てその感情は消え去った。

 

彼女の顔には生気がなかったのだ。目は虚ろで唇は真っ青。生きているのも疑わしいほどの存在感。少し触れただけで崩れてしまいそうな、そんな雰囲気を孕んでいる。

 

どうしたらこんな表情になれるのだろう。彼女の身にいったい何があったというのだろう。

 

「……あなたはいったい」

 

そこまで声に出して違和感の正体に気がつく。私は踏切近くのカーブミラーまで走った。その一心で鏡を覗き込んだ。

 

そして、私は自分の状況を理解する。

 

「わたし、男の子になってる……ッ!」

 

=========

======

===

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝、目を覚ますと、とてつもなく憂鬱な気分に襲われた。こういう日はときどきあったけど、今日のそれはとびきり大きい。

 

(…今のは、夢?)

 

頭はひどく混乱している。私が見ていたのは何だったのだろうか。

 

(別の人の、人生の夢?)

 

その結論を即座に頭が否定する。まさか、そんなことない…よね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学の講義が終わり、すぐさま帰り支度を整えた。講義棟から外に出た頃には時刻は夕方と呼べる時間帯になっていた。

 

満開の桜が咲き誇る構内を駆け足気味に走り抜ける。

 

(本当にきれいやなぁ)

 

桜の花を横目で眺めながら、はやる気持ちをグッと抑える。朝に感じた憂鬱感はもうない。気持ちはすでに今日のイベントに切り替えていた。

 

これから私は彼に会う。立花瀧との約束がある。また彼に会えるという高揚感がマイナスの感情を別な場所へと追いやっている。

 

待ち合わせ時間は19時だ。時間的にはまだまだ余裕。なのだが、それでも私はできるだけ早く待ち合わせの場所に行きたかった。

 

歩くスピードは次第に速くなり、姿勢は自然と前のめりになる。交差点の信号待ちがもどかしくて仕方がない。

身体は止まっていても、気持ちが前に前にと進んでしまう。待ち合わせの場所に近づけば近づくほど、顔に熱を帯びていくのがわかった。

 

しばらく歩くとまた交差点の信号に捕まった。今日はやけに信号待ちが多い。焦る気持ちを抑えつつ、手慣れた動きでバッグから携帯を取り出す。

時間を確認したかった。まあ、時間的にはまったく問題ないけれど、なんとなくそうしたかった。

 

すると、着信が3件入っていることに気が付いた。

 

(やばっ!確認するの忘れてた!)

 

急いでタッチパネルを操作して履歴を確認。案の定、発信元は瀧さんからだった。かれこれ3回も電話をかけてきている。

何事だろうと思った。少しだけ不安な気持ちになりながらも、彼の電話番号を呼び出す。もしかしたら、まだ仕事中かな?

 

信号が赤から青へと替わり、隣の人が横断歩道を渡り始める。私はその場所に立ち止まって、彼の声をひたすら待った。

 

1コール目、2コール目……そして5コール目が終わると同時に彼は出た。

 

「四葉ちゃん!?」

 

その話し方から何か急いでいるように感じ取れる。だけどその声質からはどこか嬉しそうな、弾んだ様子が窺い知れた。

 

「瀧さん、どうしたんですか?」

「ごめん。今日の食事のことだけど」

 

周りの人が横断歩道を渡る中、私は彼の話にそっと耳を傾ける。内容を要約すると、これから会うことはできない、という内容だった。

大事な人に会うことになったと彼は言っていた。どうしても外せない大事な約束があるんだと。

 

「大丈夫ですよ。食事ができないのはちょっと残念ですけどまた今度にしましょう」

 

謝る瀧さんに私は努めて冷静に返事をした。もともと私の強引な提案でまた会うことになったのだ。彼が謝るようなことじゃない。彼に迷惑はかけられない。

 

「また今度」その言葉を最後に電話を切った。瞬間、携帯を持った手がだらんと下がる。上がっていた体温は通常の位置へと戻り、弾んだ気持ちは一気にしぼんだ。ずっと楽しみにしていたせいか、反動はあまりにも大きかった。

 

率直に言おう。私はものすごく落ち込んでいた。また会える。この約束が今日までの私の心を支えていたのだから当然だ。

 

(しょうがない。しょうがないよ。しょうがないって……)

 

また今度がある。また会う約束をすればいい。楽しみが少しだけ後ろにずれたと思えばいい。落ち込んでいてもしょうがない。

 

呪文のように次の約束に目を向ける。「よし」と声に出して気持ちを切り替える。

それと同時に横断歩道を渡り始めた。急に暇になってしまった。これからどうしよう。そんなことを考えながら、いつもの癖で空を見上げた。

 

 

 

 

 

横断歩道を渡り終え、平ビルの角を曲がると、そこには神社の鳥居があった。小さい鳥居だけど、造りは年季が入っていた。私は知っている。この先に大きな桜の木が植えてあるということを。

 

この場所は大学に通うようになって発見したお気に入りの場所だ。私はここの桜の木を見るのが好きだった。もともと糸守では家が神社だったし、こういった神聖な場所にいると自然と心が落ち着いた。

 

鳥居をくぐり、桜木の前で足を止めた。根元から徐々に目線を上げていく。

とても立派な御神木だった。そして桜の花は満開だった。淡紅色の花が所狭しと咲き誇る大木は見る者に力を与えてくれる。そんな気がする。ただただ綺麗で、とても幻想的で、思わず魅入ってしまう。

 

「きれいやぁ……」

 

一輪一輪が競い合うように咲く様は命の強さを感じさせてくれる。この瞬間のために一年間を耐え抜いてきたのだと、そんな叫びが大木からは聞こえてきそうなほどに。

 

だけど、桜を見つめる私の心はなぜかざわついた。

 

今、目の前にある花は確かに綺麗で見るものを飽きさせない。けれど、満開の桜は…そうだ……満開の桜は、あとは散っていくしかない。

 

そう思うと、途端に寂しさが込み上げた。

 

 



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09 こころはいつも複雑で

彼との約束が延期になった結果、時間を持て余すことになった。時計の針はちゃんと動いているのかと疑いたくなるほどに時間の経過が遅く感じる。

 

寄り道をする気分でもなかったけど、朝に家を出るとき、今日は遅くなることをお婆ちゃんに伝えてしまった。

 

時間を見るに、すでに晩御飯の準備を始めているころかもしれない。今から連絡して、もう一人分の準備をしてもらうのも手間なので、晩御飯は外食で済ませることにした。

 

適当に電車に乗って適当な駅で降りて適当なお店を探そうと、いつもの散策を開始する。

ガタンガタンと揺れる電車の中で、これから何を食べようかと考える。でも正直なことを言えば、食べるものなんてなんでもよかった。

 

彼と会えていたら今日は何を食べていただろう。そんな気持ちばかりが浮かび上がる。顔を横に振っては、引きずる気持ちを振り払った。

 

電車がガタンガタンとまた揺れる。座席に座れたのはいいものの、独特の揺れが眠気を誘い、次第に意識が薄らいでいく。なんだか少しだけ疲れてしまった。

 

思い返せば、今日は朝からバタバタしていた。夢から目を覚ました時、時間はいつもよりも遅い時間で、慌てて身支度を整えたことを思い出す。

ほんとに何だったのだろう?あの夢は。

 

そうこうしているうちに、電車はどんどん進んでいく。だめだ、本格的に眠くなってきた。

ぼんやりとする意識の中で、窓の外を眺めていたときだった。

 

「あっ!」

 

ガバッと座席から立ち上がる。ほんとに一瞬だった。

だけど、目に移り込んできた景色には見覚えがあった。そう、あれは確か、夢の中で見た景色。あの踏切によく似ている、そんな気がした。

 

実在の踏切だった?それとも今のは私の見間違い?眠りつつあった頭に鞭打って、必死で思考するものの結論は出ない。

 

(…まさかね)

 

気になる衝動を抑えつつ、私はもう一度座席に座り直したのだった。

 

 

 

 

 

数十分後。

私は例の踏切にいた。別に何か目的があるわけでも、何をするわけでもない。だけど、この踏切が気になって仕方がなかった。

 

はじめて来た場所。でも、なんだろう。とても不思議な感じがする。とてもはじめて来た場所には思えない。

夢の中で見たからかな?そんなばかな、と頭が何度も否定する。

 

「…そんなわけ、ないよね」

 

踏切は車一台がやっと通れるくらいの道幅だった。なんの変哲もない、どこにでもある普通のものだ。

 

周りをもう一度よく眺めてみる。

夢の記憶は曖昧だけど、やはりあの踏切によく似ているような気がする。確信はないけれど……

 

その場でしばらく考え込む。

 

すると、髪がふわりと揺れ動いた。何事かと思ってみると、後ろからきた数人の女の子たちが私の横を通って、走りながら踏切を渡ったところだった。

そう言えば、さっきからずっといるけれど、人とすれ違ったのは初めてかもしれない。

 

そんな些細なことがきっかけとなって、私はフッと我に返った。

 

「はぁ……何やってるんだろう、わたし」

 

今自分がしていることが、ひどく無意味なことに思えてきて、思わず溜息が漏れてしまう。

考えてみれば、夢の中の踏切に似ているからといって、それがいったいどうしたというのだろう。今日この場所まできたのは言ってみれば完全に興味本位の行動だ。何があるわけでもない。そう思うとドッと疲れが押し寄せた。

 

携帯で時間を確認し、引き返すことを決意する。日は沈み、あたりは暗い。周りの家々も、まだ人が帰ってこないのか、電気がつく様子はない。

 

私はそのまま方向転換をして元来た道を帰ろうとした。そのとき。

後ろから走ってきた人とぶつかりそうになった。辛うじて避けるも、手に持っていた携帯を落としてしまう。

 

「ごめんなさい!お姉さんっ!!」

 

中学生か高校生くらいの男の子だろうか。謝ったはいいけれど、こちらを振り向きもせず、走りながら踏切を渡って反対側の道路に行ってしまった。

 

(もうっ、なんなの…!)

 

頭の中で悪態をつきつつ、携帯を拾って着いた汚れをハンカチで落とす。壊れていないかひやひやものだ。携帯に問題のないことを確認すると「よし!帰ろう」そう思ってカバンを肩に掛け直した。

 

 

 

 

 

帰る道すがら、私はまた晩御飯のことを考えていた。何を食べようかと、少し前まで考えていたことをまた考える。正直なんでもいいのだが、外食に対してあまり気分が進まない。

 

元々二人で食べる予定だったから、一人で食べることに気が乗らない部分があるのかもしれない。どうしたものか、そう考えていると、ふと一つの案が閃いた。

 

(お姉ちゃんの部屋に行けばいいか)

 

人と会う約束が流れ、人恋しさが出たのかもしれない。頭の中に降ってきたその案は、一瞬で確定事項へと変わっていった。

 

そう言えば、最後に姉の部屋にお邪魔したのはいつだっけ?

確か公園で足をケガした時だから、まだ一か月も経っていないはず。あの日は姉の部屋に泊まって、翌日家に帰ったんだった。また今日も泊めてもらおうかと、そんなことを考えた。

 

 

 

 

 

「はぁ、やっと着いた…!」

 

目の前には姉の住むアパートがあった。なんだろう? ここまで来るのが嫌に長かったように感じる。まぁ、寄り道していた私のせいではあるのだけど……私は早速階段を上って姉の部屋へと向かった。

 

帰ってきているだろうか。私が訪問することは事前に連絡なんてしていない。半分サプライズのようなものだ。

 

ただ、姉は普段あまり外出しない。仕事以外ではたいてい家にいるものだから、連絡もしないでフラッと上がり込むことが今までに何度もあった。

だから、今までと同じように今回も大丈夫だろうと思っていた。

 

ようやく玄関前に辿り着く。いなかったら、まぁ、その時は潔く帰ることにする。私はインターホンを押そうと人差し指を扉へと近づけた。だけど、そのときだった。

 

扉がガバッと目の前で開き、家の中から人が飛び出してきたのだ。

 

「あっ、お姉ちゃん!」

「えっ、四葉?どうしたの!?」

「いや、ちょっと遊びにきたんやけど……」

 

とそこまで声に出してみて姉の異変に気が付く。

 

「ごめん。人と会う約束があってこれから出掛けないかんのよ。ってどうしたの? 四葉?」

「えっ、ああ、ううん、なんでもない。急に来たのはこっちやし、まぁ、また今度にするわ」

「ほんとごめんなっ」

 

姉は、宮水三葉は端から見ればいつも通りに見えただろう。だけど、私にはわかった。もう一度表情を確認する。間違いない。

 

―――彼女は笑っていた。楽しいことがあって笑顔を堪えきれない子供のように。

 

声は弾み、息を切らし、その表情は満開の桜のようだった。

私はというと、急に落ち着かなくなった。心の中が突然にざわめき出す。姉の身にいったい何があったのだろう?とつい勘ぐりを入れたくなる。

 

「…お姉ちゃん、人と会うって何かあったの?」

「あー、えーとな、今日の朝な、電車でちょっとな…って、もうこんな時間! 説明は後でするから、また今度ね、四葉っ!」

 

そう言い終わる前に姉は動き出していた。空気を切るように階段高校へと駆けていく。本当にこれがあの三葉なのだろろうか? その後ろ姿はまるで別人のように見えた。

 

だけど、懐かしい気持ちにもなった。私は昔、今の姉の姿を、あの背中を、見たことがある。いや、厳密に言うのなら昔の雰囲気に戻ったと言うべきか。

 

いったい姉に何があったのだろう。姉が浮かべる晴れ渡る笑顔の理由を、私はどうしようもなく知りたかった。

 

(これから人に会うって言ってたっけ? もしかしたら……)

 

そこまで考えてある可能性に行き当たる。けれど、まだ確証はない。後で説明してくれると言っていたから、それまでは心の中に留めておこう。玄関前にぽつりと取り残された私はそう心の中で決意する。

 

すでに姿は見えなくなっている。姉が走り去った通路は静かなものだ。パチパチと通路を照らす蛍光灯の音だけが耳の奥を刺激した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日が経過した。今日は休日だ。玄関前で鉢合わせたあの日から、姉とはまだ会えていない。加えて言うのなら、彼――立花瀧とも今日まで連絡をとれないでいた。

 

その理由は簡単だ。どうしても、いつもの悪い癖が出てしまうからだ。

忙しかったらどうしよう?連絡したら迷惑なんじゃないか?そんなことを考え出すと、携帯を持った腕を下げるしかなかった。

 

(はぁ、しっかりせい! わたし…!)

 

ただ、向こうに連絡する気になれなかった理由は他にもある。私は、姉のことが、宮水三葉が気になって仕方がなかったのだ。

 

落ち着かない日々が続く。なんだか気分がそわそわして他のことに集中できない。なぜこんなにも心が揺れ動くのか、自分でも理解できなかった。

 

ただ、ずっとこうしているわけにもいかないので私は行動することを決意する。今日は待ちに待った休日。この機を逃すまいとそう思った。

 

私はもう一度姉の部屋を訪ねてみることにした。

 

時刻はもう夕方近く。あまり遅い時間に行くのも迷惑なので早々に準備をして家を出る。

 

途中、彼女に事前に連絡するかどうかで迷ったけれど結局連絡はしなかった。

姉は休日に外出するようなことはあまりない。少なくとも今までの彼女はそうだったはずだ。だから今日も家にいる確率は高いとそう思った。

 

勢いよく最寄りの駅に飛び込んで素早く電車へと乗り込んだ。目的地は馴染みのアパート。

ゴトンゴトンと身体を揺らしながら、これからのことを考える。姉が笑っていたその理由。あれは、もしかしたら……それしかないよね?

 

(いけないいけない。まだそうだと決まったわけじゃないんだから。でも本当にそうなら……)

 

素直に祝福してあげよう。ちょっと寂しい気はするけれど、とても素敵なことだと思うから。家族として、妹として、私は応援しようと強く思った。

 

ただ、一方で不安もあった。姉に本当にふさわしい人なのか。相手方のイメージが湧かなかった。まぁ、姉が選んだ人なのだから決して悪い人ではないだろう。それだけは確かだと自分自身に言い聞かせた。

 

移り変わっていく景色を眺めながら、またゴトンゴトンと電車は揺れる。車窓から見える景色は今日はどれもパッとしないものばかりだった。

 

 

 

 

 

それからほどなくして思いがけない出会いがあった。姉の住むアパート近くである人たちから声をかけられたのだ。

 

「四葉ちゃんやないか!久しぶりやな」

 

そう言って手を振りながら道路の向こう側から歩いてきたのは、姉の糸守町時代からの友達である“テッシー”こと勅使河原克彦だった。

 

「ほんま、元気しとった?」

 

少し後ろからはもう一人の友達、“サヤちん”こと名取早耶香も挨拶してくれる。

 

本当に久しぶりだ。こんなところで会うとは思っていなかった。思いがけない出会いに私は目を丸くした。

糸守にいた頃は、ときどき会っていたけれど、東京に出てきて以降、特に姉が一人暮らしをはじめて以降は、二人とはほとんど付き合いがない状態だった。

 

でも、その二人がどうしてここに? 考えられるとしたら、姉のところに遊びにきたのだろうか?

 

「その通りや」

 

勅使河原がオーバー気味に首を縦に振る。

 

「そのつもりやったんやけど、今日はちょうどいないみたいで」

 

早耶香はどこか残念そうだ。

 

姉が休日に外出している? まぁ、そんなに驚くようなことではないけれど、休日に夕方まで外出する予定とは何だろう?

糸守町時代の親友は目の前にいる。ということは、勅使河原や早耶香と遊びに行っているわけではない。では、会社の人と? う~ん、その線は薄いだろう。

 

つまりはやはりそういうことか。さっきの私の考えは正しかったということか。

 

頭の中でそんなことを考えていると、勅使河原がさらりと私の予想と同じことを聞いてきた。

 

「なぁ、おまえんちの姉ちゃん、彼氏できたんか?」

「ちょっとテッシー! いきなり失礼やよ」

 

いきなりと言っても、私も考えていたことだったからか、驚くようなことは何もなかった。むしろ、ああ、やっぱりかぁ、とそんな感想だ。

 

「なんでそう思うんですか?」

「ええと、さっきな、私が三葉に連絡したんよ。そしたら今な、外で人に会ってるみたいやったから」

「人に…誰かはわかりますか?」

「そこまでは聞けんかったんやけど、なんか相手の人は男性みたいで…それでつい…そうなのかなーって」

「まぁ、近くに来たからっていきなり三葉の家に押しかけたおれらも悪いんやけどな」

 

二人は苦笑いを浮かべた。

 

「でも、あの三葉に男かー」

「こらテッシー!それこそ失礼やよ。それにまだ決まったわけやないんやし」

 

感慨深そうな顔をする勅使河原を早耶香が厳しく戒める。なんだか微笑ましい光景だ。

 

「でも、ほんとはどうなんやろね」

「ほれ、おまえも気になっとるやないか」

「だってぇ、あの子ずっと一人やったから」

 

早耶香はどこか寂しそうな表情だった。きっと親友である姉のことが心配してくれていたのだろう。姉のあのひどく切ない表情に、彼女もきっと気づいていたと思うから。

 

そんな勅使河原と早耶香を眺めていると、二人に会ったら言おうと思っていたことをふと思い出した。

「それはそうと」と一旦話を区切った後、唐突にも心のこもったお祝いの言葉を贈る。

 

「お二人ともご婚約おめでとうございます!」

 

その祝辞に、二人は私の方に向き直る。両者とても照れくさそうに顔を赤くし、「ありがとう」と返してくれた。その声は狙ったかのように揃っていた。

 

(さて、これでほぼ確定やね)

 

私はというと、俄然、姉に会いたくなった。そして、いろいろなことを聞いてみたくなった。

 

早耶香によると、夜には戻ると言っていたらしい。勅使河原と早耶香は用事があるみたいで帰ってしまったけど、私はしばらく粘ることにする。

 

近くの店で時間を潰して、夜になったら部屋に押し入ろう。イタズラ心に火がついたのか、姉が顔を赤くしながら問い詰められる姿を想像するとワクワクした気持ちになった。

 

姉に起こった変化が素敵なもので良かったと思う。私だって彼女の幸せを誰よりも望んでいる。その気持ちに嘘はなかった。

 

 



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10 あの日の続きを

ピンポーンと玄関前で呼び鈴を鳴らした。時刻は夜の8時を回っている。これだけ待ったのだから、さすがに帰っているだろう。私はそう思って、扉の前で返事を待った。

 

いなかったらどうしよう? そのときは諦めて帰るつもりだったけど、何やらパタパタと中から足音が近づいてくる。その音に私はホッとした。次第に足音が大きりなって、そうこうしているうちに目の前の扉がバタンと大きく開け放たれる。

 

「おかえりっ!どこまで行ってた…の……?」

 

姉は満面の笑顔で出迎えてくれた。しょうがないなぁ。ここは私もその素敵なお出迎えに答えるとしよう。目の前で固まっている彼女に向かって、こちらも満面の笑顔で返事をした。

 

「ただいま。お姉ちゃんっ!」

 

 

 

 

 

さてさて場面は変わって部屋の中。彼女に尋ねたいことは山ほどある。というわけで、私の姉―――宮水三葉に全神経を注ぐ。

姉は何だか挙動不審だった。

 

「どしたの?」

「…四葉、今日うちに来る予定なんてあったっけ?」

 

恐る恐るこちらに質問を投げかけてくる。それに対する答えは明確だ。

 

「サプライズやよ!」

 

わざと顔を綻ばせながら、どう?驚いた?と言わんばかりに答えを返す。

 

「えーー」

 

姉はなんだか不満顔だった。態度もどこかそわそわ気味だ。ときどき視線が玄関に移るのを私は当然見逃さない。

 

そんな姉の反応はおもしろくて仕方がなかった。ついついイタズラ心に灯る火が大きくなる。

 

私は視界の隅で、もう一度部屋の中を観察した。今日はいつも以上に部屋の中が綺麗に整頓されている。小物関係はすべて見えないところに隠れていて、テーブル周りもテレビ周りも塵一つない徹底ぶり。特にベッドメイキングなんかはバッチリに見える。洗面所やトイレだって隅から隅まで掃除が行き届いている。

同性の知り合いが来るくらいではまずここまではやらないだろう。ということはだ、いよいよそれは本当らしい。

 

「ねえ、お姉ちゃん」

「何?」

「なんで今日はこんなに部屋がきれいなの?」

「……」

 

まずは変化球を投げてみる。しばらくはこれでカウントを整えるつもりだ。

 

「えっと、ほ、ほらっ、今日は時間があったから、たまには掃除に力を入れるのも悪くないかなーって」

 

ほうほう、そうきたか。なかなか苦しい言い訳だ。たまたま時間があったからって普通こんなに几帳面に掃除をするものだろうか。ましてや一人暮らしなのに。

 

「さっきさぁ、玄関前で出迎えてくれたじゃん。よくわかったね。わたしだって」

「そ、それはほらっ、こんな時間に部屋に来るのは四葉ぐらいかなーって」

 

うちに来る予定なんてあったっけ?ってさっき思いっきり私に聞いてましたよね?

あははと姉は笑って誤魔化しているけれど、目が泳いでいるので嘘をついているのはバレバレだ。しかも、言葉は東京の標準語。気を抜いていない警戒モードなのは手を取るようにわかる。

 

やれやれ、お姉ちゃんも意地っ張りな人やなー、なんて思いながら、最後に三振を取るべくストレートを投げつけた。

 

「それより、彼氏さんは今はどこにおるの?」

 

その言葉に姉の体が跳ね上がる。ほんとわかりやすい人やなー

 

「四葉! あんた知っとったの…!?」

 

この状況で気付いていないとでも本気で思っていたのだろうか。部屋は隅々まで掃除されていて、キッチンには一人じゃ食べきれないほどの食材が買い込んである。

物証はすべて押さえた。探せばもっと出てくるような気さえする。

 

姉は「あー」とか「うー」とか、まるで小動物のような反応をしていた。彼氏の存在を知られたことで恥ずかしい気持ちが込み上げたらしい。すごく初々しい。なんだかこっちまで照れ臭くなってくる。

 

でも、間違いない。私は少し安心した。姉のこんなにも幸せそうな表情は見たことがない。「もうっ四葉は意地悪やね」なんて言っているけど、心の底から彼女は笑っている。

 

目を伏せるようした、あの苦しそうな表情も、淡く切ない表情も、今の彼女からは消えている。悲しさを紛らわすための笑顔ではなく、心の底から嬉しくて、楽しくてつくる本当の笑顔を、こうして彼女は浮かべている。

 

その事実が私にはとても嬉しかった。

 

「それでその彼氏さんとはいつから付き合っとるの?」

 

そう聞いたはいいけれど、もしかしたら、彼氏なんて呼ぶのはまだ早いのかもしれない。姉はちょっと抜けているけれど、身持ちは固い方だと思っている。

もし男性とお付き合いをするとしても、しっかりとした手順を踏むだろう。告白したのがどちらなのかはわからないけれど、まずは友達からはじめて、交流を深めた上で付き合い始める、そんなイメージだ。

 

「ええと、はじめて会ったのが、そう、四葉と玄関前でばったり会ったあの日やね」

 

やっぱりそうだったか。だから、あの日はあんなに急いでいたのかと頭の中で納得した。なるほどねぇ。

 

「…えっ?」

 

でも待って。その日に初めて会ったということは、まだ数日しか経っていない計算になる。そんな人をもう自宅に上げているのかこの人は?

 

「それでな、会ったその日の夜にお付き合いすることになったんやけど」

「…は?」

 

姉の話に思考が追いつかない。おいおいちょっと待って。初めて会ったその日に付き合うことになった? えっ…?

 

「それでね、今日は付き合ってはじめての休みやから、昼間お出掛けして、夜は部屋でご飯を食べようってことになってな。あっ、それで今はね。買うのを忘れてた食材があったから、今買いに行ってもらってるんよ。私はまた買い物に行くのも面倒やから別にいいってゆうたんやけど、すぐに買ってくるからって……」

「ちょ、ちょっと待って!」

 

なんだろう。お姉ちゃんてこんなにおしゃべりだっけ?

 

「ということは、付き合ってからまだ1週間も経ってないの!?」

「……はい」

 

姉はみるみる顔を赤くした。

 

「会ったその日のうちに付き合ったのもびっくりやけど、付き合って早々彼氏を家に上げるとか、お姉ちゃんてけっこう大胆なんやね」

「ちっ、違うの! これには深い事情があって!」

 

姉は両方の手をあわあわ。その動きが可笑しくて、私はつい笑ってしまった。

 

「深い事情って?」

「うっ」

「何?何?」

「…別に、ないです」

 

赤くなっていた顔がさらに赤くなるのを確認。あの姉が、宮水三葉が、こんなにもハイペースに男性と付き合っていることには正直驚いた。もしかして、今日はこの部屋に泊めるつもりなのだろうか?

 

だけど、ここまでの話を聞いて別な不安が頭の中に浮かんだ。失礼とは思いながらも、私はそっと尋ねてみる。

 

「お姉ちゃん、正直、大丈夫なん?」

「大丈夫って?」

「……変なもの買わされてない?」

 

すると、姉は頬っぺたを大きく膨らまし、こう断言したのだった。

 

「騙されてなんていませんッ!」

 

そのあと、姉は彼と付き合うことになった経緯を話してくれた。さっきの話だけでも驚きの連続だったけれど、その話を聞いて私は再び衝撃を受けた。

 

なんでも、朝の通勤中、並走する電車の中で目が合って、お互いが次の駅で降りてそれぞれを探していたなんて、それなんてドラマ?と突っ込みたくなるというものだ。

 

でも、姉がその人の話をするときの表情はとても魅力的で、その人のことを深く想っていることが直に伝わってくる。好きという感情が私の方にまで流れ込んでくる。そんな雰囲気を放っている。

 

“運命の人”そう言葉にするのは簡単だろうけど、姉にとってその人は本当に会うべくして会った人なのだろうと私は思う。

 

  『絶対に忘れたくない大切な人』

 

かつての姉が言っていた言葉を思い出す。

 

もしかしたら、彼女はその大切な人に会うことができたのかもしれない。そうじゃないとこんなにも優しげで強さのある表情をつくれるはずがない。姉が話している間、私は終始、彼女のそんな表情に見惚れていた。

 

「それで、その彼氏さんはいつ帰ってくるの?」

「そうやね。もう少しで帰ってくると思うんやけど」

 

私は会ってみたかった。姉をここまで変えてくれたその人に。宮水三葉に笑顔を戻してくれたその人に。心の底から会ってみたかった。

 

そして、そんな姉を近くで見ていたからだろうか、姉の姿をつい自分自身に重ねてしまった。私もあんなふうに笑えたらいいな、とそんなことを考える。

 

「どうしたの?急に黙り込んじゃって」

 

姉がこちらの顔を覗き込む。その幸せそうな顔を見ていると、何か無性にちょっかいを出したくなってくる。よし、ここは。

 

「それより、あれ何やの?」

 

右手で指し示した先には、服を掛けるためのポールハンガ―が置いてあった。その中に見慣れた服がかけてあった。他の洋服と一緒になっているため一見するとわかりづらいけど、私はそれを見逃さない。

 

「はっ、そっそれはな……ッ」

 

姉は動揺しまくりだ。ちょ!とか、あ!とか言葉になっていない言葉が口から漏れる。やれやれと思いつつ、私は例の服、高校時代の制服を確認した。

 

「あっあれは、ほら!たまたま見つけたから懐かしいなーて思って」

「たまたま見つけた制服にアイロンまでする?普通」

「うっ」

「もしや着ようと思ったんやないの?」

 

私の顔はニヤニヤ顔だ。

 

「うっ…は、はい」

 

姉はまた真っ赤になった。両手で顔を隠しているけど、耳まで赤いので相当恥ずかしがっている様子が窺える。つまりはそういうことなのかな。

 

「彼氏さんに着てほしいとか言われたんやないのー」

 

まさかと思いつつも、軽い気持ちで聞いてみる。すると、

 

「うっ…だ、だって、か、彼が見たいって言うから~」

 

ゆでダコ状態の姉からまさかの返事。図星だったか。正直びっくりだ。そんなことを頼む彼氏も彼氏だけど、その頼みを受け入れる姉も姉だ。

ここまでラブラブだとは思わなかった。なんだか私まで恥ずかしい気持ちになってきた。どうしてくれるわけ?この熱気……

 

「お姉ちゃんてほんっと大胆やねっ!」

「ちょっと待って四葉!!これには深いわけが~!!」

 

いつも通りの姉妹の会話。楽しさからかつい時間を忘れて話し込んだ。次はどんな話をしようかと、そんなことを考えながら。

 

でも、そのときだった。

 

ピンポーンと玄関の呼び鈴が鳴らされた。いよいよ彼氏の登場のようだ。

「はーい」と大きな声で姉は玄関へと駆けていく。なんだか新婚さんみたいなやり取りだと思った。

 

「…良かったね」

 

姉が部屋から出ていった瞬間、私は心の底から安堵した。きっと今の彼女なら、これからどんなことがあろうと乗り越えられる。それを確信する……

 

でも、同時にチクチクとした痛みに襲われた。それがきっかけとなったのか、途端にあの人の姿が頭の中のスクリーンに映し出された。

 

公園で助けてくれて、電車を一緒に待ってくれて、私のわがままに付き合ってレストランで食事をしてくれた彼。姉ののろけ話に触発されたのか、私も居ても立ってもいられなくなる。

 

姉が笑顔になれたように、私も彼と一緒に笑えたらいい。そんな日常が過ごせたらどんなに幸せなことだろう。彼と過ごす日々を考えるだけで心の中はぽかぽかで、彼と過ごしだ時間がかけがえのないものに思えてくる。

私はあの人に、“立花瀧”に会いたかった。

 

そのとき、部屋のドアが開けられた。「四葉、お待たせ」と言って最初に姉が現れる。まったくもうそんなに嬉しそうな顔せんでも…と私の口からは溜息が漏れる。

 

そして次に彼氏の姿の一端が垣間見えた。どうやら姉は、右手で彼の左手を握っているようだ。まるで、早くこっちに来てと、子どもが駄々をこねているようにも見えるその光景に、私は頬を染めたのだった。

 

そして――――――

 

「四葉、紹介するね。この人が   くんだよ」

 

 

 

 

 

姉の言葉は聞き取れなかった。

 

私のまわりは一瞬の静寂に包まれる。耳に奥に届くのは心臓の鼓動一つだけ。ドクンドクンという大きな鼓動が耳の奥を刺激して頭の中を引っかき回す。

 

姉は引き続き何かを話していたようだけど、その声はまったく届いてこなかった。同じ部屋の一角で、こんなにも距離は近いのに、私と彼女の間には大きくて厚い壁が存在するかのようだった。

 

私は思う。自分の周りだけ別な世界に変わってしまったのだと。そうであってほしいと強く願う。

 

身体を動かしたくても動かせない。声を出したくても口がうまく動いてくれない。そして、目の前の状況を理解したくても、頭はそれを拒絶する。

 

私の心は真っ白だった。

 

だってそうでしょ?

 

姉の隣に立つ彼は…彼氏だと紹介された彼の姿は……

 

私がたった今心の中で思い浮かべた“あの人”のものと―――まったく同じだったのだから。

 

 



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11 もう一つのカタワレ時

私は走っていた。ただ、ただ、走っていた。走ることしかできなかった。

 

気を紛らわすために、何も考えないようにするために、歯を食いしばってひたすら走る。腕を大きく振って、足を目一杯前に出して、顔は下を向きながら、ただひたすらに走っていた。

 

部屋を飛び出してどれくらいの時間が経っただろう。いったい私はどこへ向かっているのだろう。

 

その答えは自分自身にもわからない。

 

あの時、部屋を出た瞬間、背後から名前を呼ぶ声が聞こえた。だけど、振り返らずにそのまま走った。

彼女の、幸せそうな顔を見ているのがつらかった。彼の、驚いた顔を見ているのがつらかった。

 

もう、だめかもしれない。息が続かない。全身汗でびっしょりだ。足が痛い。痛くて、痛くて、たまらない。だけど、何よりも、

 

――心が痛かった。

 

立ち止まったら、もっと大きな痛みが襲ってくる。その恐怖のせいで、足は常に前へと踏み出すことしかできずに、私をさらに追い込んだ。

 

家の灯りが眩しくて、人の賑わいが鬱陶しくて、静かな暗闇を求めて走ってしまう。靴を通して伝わってくるコンクリートの感触だけが、今はひどく安心できた。

 

  『並走する電車の中で目が合ったんやけど』

 

うそだ。

 

  『向こうも次の駅で降りたみたいで、私を探してくれてたみたいなんよ』

 

そんなこと、あるはずがない。

 

  『会ったその日の夜にお付き合いすることになって』

  『ということは、付き合ってまだ1週間も経ってないの!?』

 

どうしてそんなことになってしまうの?

 

だって、その日初めて会ったんでしょ?今まで会ったことも、話したことも、食事をしたことだってないはずなのに、名前も知らないはずなのに。

 

そんな彼のことを、どうして?

 

  『でもこれだけはわかる。私はその大切なことを、大切な人を、もう一度知りたい、思い出したいと思ってる。これだけは確かなんよ』

 

いつかの光景が蘇る。足をケガして、部屋に泊まったときの彼女との会話。

 

どんなに考えないようにしていようと、瞼の裏にそのときの光景が浮かんできてしまう。

 

あの日、私の姉は確かに言った。苦しそうな表情を浮かべながら、儚い声に力いっぱいの想いを込めながら、彼女は確かにそう言ったのだ。

 

 『大切な人』だと。

 

彼女にとって大切な人。それがいったい誰なのか。今ではもうわかりきっている。

 

それは―――立花瀧、その人だ。

 

姉の、彼女の、宮水三葉の、あの嬉しそうな顔を、楽しそうな表情を、弾むような声を聞いていれば、もう納得するしかない。姉を変えたのは彼なんだと、本能的にわかってしまう。

 

でも、どうして、どうして……

 

「彼じゃなきゃいけないの……ッ!?」

 

この言葉が何度も何度も自分自身に突き刺さる。身体中から悲鳴が聞こえる。足はすでに限界だ。それでも唇を噛む力だけは、より一層強くなった。

 

コンクリートで塗り固められた道の上をただひたすらに走っていく。どこに向かっていようとかまわない。たとえ人や車とぶつかったとしても、立ち止まるのだけは嫌だった。だって、もし立ち止まってしまったら…私は……

 

だけど、そのとき、道路の凹凸に足をとられて、バランスを崩して前から転んだ。ズサッと嫌な音が響き渡ると、硬い床に全身を打ち付けられ、大きな衝撃に襲われた。

 

ここがどこかもわからない。あれからどれだけ経ったかもわからない。時間も場所もわからずに、ただ、うつ伏せになって転んでいる。この事実が、ひどく馬鹿らしく思えて仕方がなかった。

 

起き上がる気力なんてなかった。もうすでにガス欠状態。だけどそれでも、今は走らなくちゃいけない。どこまでも、いつまでも、進み続けないといけない。

 

痛みで閉じていた瞼を少しずつ開いていく。目の前には右手があって……

 

  『四葉、紹介するね。この人が立花瀧くんだよ』

 

あのときの光景を思い出す。部屋に彼を連れてきたとき、彼女の右手は彼の左手を固く握りしめていた。もう絶対に離さないと、強い意志が込められているかのように、二人の手は繋がっていた。

 

右手を少しだけ動かしてみる。空気を掴むように、何度も何度も握っては開いて、握っては開いてを繰り返す。誰かの手を掴んでいたかった。それが彼なら……そう思っていた。でも、

 

「空っぽだよ」

 

私に掴めるものなんて何もない。途端に視界はぼやけて、一瞬で前が見えなくなった。ほら、みろ。だから、言ったこっちゃない。

 

もし、立ち止まってしまったら、わたしは、私は

 

「泣いちゃうじゃんか……ッ」

 

震える声に刺激され、涙はもう止まらない。彼女が彼に出会う前の、あの淡く切ない表情と、彼が彼女に出会う前の、どこか遠くを見つめる表情が、心の中で重なった。

 

やめてくれ。認めたくない。認めたくないよ。運命なんて信じない。けれど、二人の出逢いは、運命としか言い表せない。それ以上の言葉が見つからない。

 

嗚咽が漏れる。

 

顔も心もぐちゃぐちゃのまま、時間だけが過ぎていく。季節はすでに春だというのに、暖かみなど感じない。冷たい道路をベッド代わりに身体を丸めて泣くしかない。今の私には、そうすることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

車のライトがこんなにも眩しいと感じたことはなかった。その光に照らされるだけで、身体がなぜか萎縮する。どこかもわからない街の中を、私はただひたすらに歩いていた。

 

さっき転んだ影響だろうか、ひざは擦り剥け、口の中には鉄の味が広がっている。心も体もくたくただ。

 

両手で自分の身体を抱えるようにして移動する。走ることはできなくても、じっとしていることが嫌だった。

 

歩く。歩く。どこまでも歩く。

 

次第に地平線の一部はうっすらと白み始め、もうすぐ朝が来ることを教えてくれる。どうやら私は一晩中歩き回ったようだった。

 

どこに行こうとも、どこに行きたいとも思わない。けれど、止まるのだけは身体が拒否反応を示している。

 

でも、ある住宅の角を曲がったところで、ぴたりと足が止まってしまった。私の視線はその先の一点を見つめている。この場所には見覚えがあると、頭の中で呼び止めがあった。

 

閑静な住宅街を貫く線路と、なんの変哲もない普通の踏切。どこにでもある光景に、なぜか胸がざわついた。

 

「……夢の中の、踏切」

 

いつの日か、私が学校帰りに偶然見つけて、興味本位に訪れた踏切でもある。

 

歩き回っているうちに、偶然ここに来てしまったのか、それとも無意識にここを目指していたのか。その踏切を眺めているだけで、なんだか不思議な感覚にとらわれた。

 

疲れ切った身体を前へと進めて踏切を渡る。道路間を移動する。あたりはだいぶ明るくなって、もう夜ではないことを実感できた。

 

敷板の隙間に足をとられないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと踏切内を歩いた。そうして渡り終えると、タイミングを見計らったように警告音が鳴り響いた。どうやら電車が通るようだ。少ししてから遮断機も下りて、道は完全に分断された。

 

こんな時間に電車が通るなんて珍しい。乗客なんて乗っているのだろうか。それとも貨物運搬でもやっているのか。

 

そんなことを考えているうちに、電車が徐々に目の前へと迫ってきた。ガタンゴトンと大きな音があたり一帯に響き渡って、強い風が私の髪を掻き乱した。風も音も、今の私には邪魔なものとしか思えない。それでも、電車が通り過ぎるまで、その場所に立ち止まっていた。

 

そうやって電車が通り過ぎた頃、私はあることに気が付いた。

 

線路を挟んだ反対側に男の子が立っていたのだ。

さっきまでいなかったはずの男の子。その子はこちらを見て、何か驚いた表情を浮かべている。私の今の表情も、もしかしたらあの男の子とまったく同じかもしれない。

 

私はあの子に会ったことがある。いや、もっと正確に言うのなら、あの男の子だったときがある。

 

夢の中で私は彼だったと、心が勝手に語りかけ、私の頭を混乱させた。

 

警報音が鳴り止んで、遮断機が勢いよく上へとあがる。道路を分断するものは何もない。だけど、私たちはしばらくの間、身体を動かすことなくお互いの顔を見つめていた。

 

夕方の黄昏時を、糸守の人はよく「カタワレ時」と呼んでいた。

人の輪郭がぼやけて、彼が誰だか分からなくなる時間帯。人ならざるものに出会うかもしれない時間帯、それがカタワレ時だった。

 

でも、もし、

 

“片割れの、もう一人の自分に会える時間帯”をそう呼ぶのだとしたら、この夜でも昼でもない時間帯――明け方もまた、もう一つのカタワレ時と呼べるのかもしれない。

 

踏切の前に立つ男の子を眺めながら、私はそんなことを思うのだった。

 

 



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12 鏡の中の女の子

あの顔を知っている。

 

男の子を見て最初に思い浮かんだ言葉がそれだった。知っているというよりは、私は彼だったと言った方が適切かもしれない。

 

線路の向こう側に現れた男の子の存在が心を大きく揺さぶる。あれは確かに夢だった。夢の中の出来事のはずだった。だけど、今、目の前にいる彼は本物だ。

 

彼の口元がぴくりと動く。何かを言おうとしているのは間違いない。釣られて私も声を掛けようとするけど、何を言えばいいのかわからない。彼もそんな感じだろうか。

 

「「…君は、だれ」」

 

やっとの思いで振り絞った言葉は見事に同じものだった。

 

 

 

 

 

踏切近くのガードレールに腰を預けながら二人並んで立っていた。無言の時間がひたすら続く。無理もない。夢の中の自分がいきなり目の前に現れたのだ。わけがわからなくても当然だ。

 

あたりは依然として静かなままで、音という音も聞こえない。住宅街だというのに、家に人が住んでいるのかも怪しくなる。まるでこの踏切だけ、別の時空に飛ばされたみたいな感覚だ。

 

彼の横顔をときどきちらりと盗み見る。正直、嫌な感じはしていない。むしろどこか安心する。彼もチラリとこちらを見ては、視線を正面に戻す行為を繰り返していた。お互い探り合っているのがバレバレだ。

 

(どうしよう。何か話さないと……)

 

そう思った私は、思い切って口を開く。

 

「私、君を知ってるんだけど」

 

だいぶぶっきらぼうな言い方だったと思う。疲労のせいかもしれない。あんなことがあった直後だからか、他人を気遣う余裕なんて今の私にはまったくなかった。

 

彼に投げかけた言葉はなんの脈絡もない唐突な話だ。こいつ何を言っているんだ、と思われても仕方がないもの。辛辣な言葉を覚悟してはものの、彼からの答えは意外なもので……

 

「お姉さんも!?」

「えっ」

 

お姉さんもということは彼も同じ私を知っているということだろうか。

 

「どういう意味?」

「おれもお姉さんを知ってます! 知っているというか、おれ、夢の中でお姉さんになっていたから…っ」

 

第三者からしたら、彼の話はむちゃくちゃに違いない。だけど、私は自然とその言葉に耳を傾けてしまう。とても嘘を言っているようには思えないし、彼の話をもっと聞いてみたい。そんな気持ちが大きくなった。

 

「知り合いの後を追いかけていたときなんです。その子を追ってこの踏切まできて、ようやく追いついたと思ったら、急に意識が飛ぶような感じがして。それで気がついたら、ベッドの上に寝ていました」

 

彼は言った。事態が飲み込めなかったと。知らない部屋の中で、知らないベッドの上で、自分は寝ている。さっきまで走っていたのも関わらずに。わけがわからず、しばらくの間じっとしていたと。

 

「でも、いつまでもそうしているわけにもいかないから、部屋にあった鏡の前まで移動したんです。そしたら」

 

鏡には私の姿が映ったのだそうだ。彼はガードレールから身体を離して、身振り手振りを交えて力説していた。嘘じゃないと言わんばかりに、彼はとても必至だった。

 

「そのあとすぐにまた意識が飛ぶような感覚が襲ってきて、気づいたら元いた場所に、ここに戻っていたんです!」

 

変な汗が身体から滴り落ちる。落ち着いたと思った矢先に、また頭の中に混乱の渦が押し寄せる。彼の話は理解できるようなものじゃない。

 

でも、嘘を言ってはいない。それだけは私が一番理解している。だって私も、まったく同じ体験をしたのだから。

 

踏切の前に立つ自分。線路を挟んだ反対側にたたずむ女の子。迫りくる電車の中、女の子は踏切の中へと飛び出していった。無表情。今思い出しても心臓がバクバクと脈打って寒気すら感じてしまう光景だ。

 

夢の記憶はとても曖昧だった。でも今は忘れていたことが嘘のようにすべてのことを思い出せる。まるで記憶が蘇ったかのように、頭の中に映し出されるあのときの光景は鮮明だ。

 

息も絶え絶えに説明してくれた彼に向かって、私も似たような経験をしたことを伝える。彼もまた、私以上の驚きぶりだった。目を丸くして、言葉にならない言葉を漏らす。

 

あの日、踏切で起こった一連の出来事。夢と思っていた出来事が現実に起こった出来事なのだと、今なら少しだけ確信が持てる。

 

“入れ替わり” 突然そんな言葉が思い浮かんだ。あの日、あの瞬間、私は彼に、彼は私になっていた。

つまりは、お互いの意識が入れ替わるという現象を私たちは経験したことになる。そんなこと普通に考えれば有り得ない話だけど、彼と私の体験は他には説明がつかないものだ。

 

「…頭が痛い話やね」

 

彼に向かってではなく、自分に向かって、ポツリとそんな言葉を呟く。

 

あのとき、お互いの意識が入れ替わるという謎の現象に見舞われた。でも、それは何のためだったのだろう。疲れた頭に鞭を打って考えるも答えはまるで出てこない。おそらくこの現象に関してはこれ以上わかることは何もないとそう思う。なので、私はもう一つの気になっていたことを彼に直接尋ねることにした。

 

「なんで君は、あのとき、女の子を追いかけていたの?」

「…それは……」

 

普段の私なら、こんなことは絶対に聞いていない。ある意味、今は肝が据わっているのだ。無神経と言われればその通り。まぁ、どう思われようと、今の私には正直どうでもいいことで……

 

男の子は再びガードレールに寄りかかった。私に顔を向けては、再び正面へと向き直る。どうやら心の中で葛藤しているようだった。

 

しばらく時間が経過する。私は無言のままに待っていた。彼が口を開いてくれるまで、話してくれる決心がつくまで、ずっと待つつもりだった。無理に聞く方法もあっただろう。だけど、彼はもがいていたから、悩んでいたから、彼からの言葉をひたすら待った。

 

「…おれ」

 

男の子はゆっくりと、それでいてはっきりとした声で話し始める。

 

「おれ、好きな子がいたんです」

 

その言葉を聞いて、心の中がズキリと痛んだ。彼の話は過去形だった。

 

「もしかして、踏切にいた女の子?」

 

声には出さないものの、彼は前を向いたまま顔を少し縦に振った。

 

「…その子とは昔から仲が良くて、よく一緒に遊んでいました。小学校でも、中学校でも、そして高校でも……だけど、その子、最近になって変わっていったんです。人前ではすごく大人しくて、落ち着いているように見えるんですけど、おれは知ってます。根はすごく明るくて、人懐っこい子だってことを。でも、今は……」

 

彼の表情が苦しげな表情へと移り変わる。

 

「最初はおかしいなと思いました。違うクラスだから学校ではたまにしか会えないけど、それでも見ていればわかります……きっとあいつは」

 

“イジメにあっていた”と彼は確かにそう言った。複数の子たちから嫌がらせを受けるようになったのだと。ドラマや漫画などではよくある話。でも、実際に目の前で起こったとき、仮に当事者だったとしたら、その衝撃はやはり計り知れないものがある。

 

「その子は小さい時にお母さんを亡くしていて、それからはずっとお婆ちゃんと暮らしていました。もちろん父親はいます。でもあいつの父親ってめちゃめちゃ偉い人で、あいつはずっと誰かに監視されながら生きてきたんです。何かをする度に、さすがは○○さん家のお子さんだ、なんて言われて……あいつのやろうとすることは、そのまま家や父親の評価に直結する。あいつはそれがわかっていて、自分の本当の性格を人前には出さないようにしていたんです」

 

彼が話し聞かせるのは、私が一度しか会ったことのない女の子のことだ。でも他人ごととは思えなかった。その感覚がどこから来るものなのか、私はできるだけ考えないようにする。

 

ふと踏切近くのカーブミラーに目が止まった。誰も通らない今の時間帯。鏡はその役割を果たせていない。

 

もし、彼の“言葉”に形があるとするならば、あの鏡にはいったい何が映るだろうか。男の子がその鏡を覗いたとして、そこに映るのはきっと彼が気にかける女の子の姿に違いない。だけど私が覗くとしたら、あの鏡の中に映るのは……

 

周囲の静寂は変わらない。太陽が昇ってはいるものの、朝と呼ぶ時間帯はまだまだやってきそうにはなかった。

 

 



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13 きっと、君なら大丈夫

「家でも、学校でも、どこへ行こうとも、あいつは本当の自分を人前では決して見せません。ずっと我慢していました。ほんと、いつか壊れちゃうんじゃないかってくらい、ずっと……」

 

男の子はゆっくりと、言葉の一つ一つを噛みしめるように言葉を紡いだ。前を向いてはいるものの、見つめている先はきっとここではないのだろう。

 

「だから少しでも気分転換になればいいと思って休みの日にはよく遊びに誘っていました。おれと一緒のときくらいは本当の自分を出してもらいたくて、気を遣ってほしくなくて……でも」

 

男の子が話すそれは、それほど昔でもない記憶の中の出来事。そこに少しだけ興味を持ったのは、きっと私の気まぐれ。

 

私は疲れた頭に鞭を打って、その思い出の世界に同伴することを決意する。言葉を頭の中で噛み砕き、同じイメージをつくりあげ、そうやって少しだけ、彼らの世界に意識を向けた。

 

 

 

 

 

===

 

最初は3人組の男女から何か嫌味を言われるとか、そんな些細な感じでした。ええと、これはあいつと同じクラスの子から教えてもらった情報なんですすけどね。

 

だけど、あいつは…って、何か名前を付けましょうか?

 

(……よつは)

 

えっ?

 

(よつは。誰の名前でもないから、この名前を使って)

 

…わかりました。それじゃあ、ヨツハで。

 

だけど、相手の嫌がらせに対して、ヨツハは何も言い返しませんでした。物事が大きくなることを嫌って、目立ってしまうことを恐れて、きっといつものように我慢してしまったんだと思います。

 

でも、ヨツハの何でも我慢する、そんな性格が気に入らないと相手は感じたのかもしれません。それからもずっと嫌がらせは続きました。

 

おれがそれに気づいたとき、ヨツハには言ったんです。嫌なら嫌だと、やめてほしいならやめてほしいと、そう言った方がいいって。なんならおれが話をするからって。

 

でも、ヨツハは首を振るばかり……加えて必死になって「余計なことは絶対にしないで!」って怒ってきたんです。

 

きっと反発するのが怖かったんだと思います。ヨツハはああ見えて不器用な性格だから、いつもと違った解決方法を取るのが怖かったんだと思うんです。

 

正直に言って、おれは不機嫌になりました。あからさまな嫌がらせを受けているのだから、そいつらに「ふざけるなよ」と凄めばそれで終わる話じゃないか、そう思っていたから。

 

でも、ヨツハはその方法がいいとは考えなかったみたいです。彼女に手を出すなと言われてしまって、おれは何もできませんでした。

 

あいつはずっと耐えていました。本当に我慢強いや奴なんです。だけど、いつか心が折れてしまうんじゃないかと心配でした。だから、学校でもできるだけ声をかけたりして、ヨツハをなるべく一人にしないようにしていました。

 

それが原因かもしれません。

 

(……何かあったのね?)

 

嫌がらせの対象がおれにも広がったんです。学校でもヨツハと一緒にいる時間が長かったから、まぁ、当然ですよね。

 

最初は良かったと思いました。これで、あいつの苦しみの半分をおれが負担できると思ったから。

相当相手の嫌がらせもエスカレートしていたし、しんどい部分はあったけど、いざとなれば相手に食ってかかることもできると思って、おれはそれを受け入れました。

 

でも、この頃からヨツハの様子が少しずつ変わっていきました。

 

ずっと下を向いて、何か考え事する仕草が増えました。二人だけのときでも笑わなくなって、誰かに怯えるように不安げな表情を浮かべるようになりました。急にそっけない態度を取るようになって、次第におれを避けるようになりました。

 

正直、おれは意味がわかりませんでした。何か悩んでいるのかと聞いても無言のままで…おれが近づこうとすると露骨に嫌な顔をして……そんな日々がずっと続きました。

 

おれはものすごく焦りました。だけど、どうしていいのかもわからなくて…そこからヨツハとは徐々に疎遠になっていきました。

 

そして、ある出来事が起こったんです。

 

(ある出来事?)

 

はい。3月の下旬くらいだったと思います。まぁ、何というか…起こったと言うか…起こしてしまったと言うか、微妙なところです。完全に自分が原因ですから……

 

その日の天気は快晴で、春らしい暖かい日だったことを覚えています。春休みということもあって、おれは親の手伝いで外出していました。

 

ええと、補足しますけど、その頃ヨツハは頻繁に学校を休むようになって…でも中高一貫校なので受験の心配はなくて、二人とも無事に高校には上がれることになっていました。

 

すみません、話が逸れましたね。

 

あの日は、外出していて、帰り際にこの踏切を通ったんです。そしたら、普段はあまり人が通らないにも関わらず、そのときは大勢の人が集まっていました。女の子が電車に轢かれそうになったとか、その子が踏切の中に飛び出したとか、そんな話をしていたんです。

 

おれはすごく不安になりました。もしかしたら?と思いました。ここ最近あいつに全然会えてなかったし、携帯に連絡しても返信もなかったから。

 

結果的にトラブルに巻き込まれた女の子がヨツハでないことはその場で確認したんですが、でも、実際にそういった現場に居合わせていると頭の中に変な考えが浮かんできて、気が付いたらヨツハの家に立ち寄っていました。

 

きっと、おれは単純にヨツハに会いたかったのだと思います。家の前まで来たおれは居ても立ってもいられなくなって、強引に家に入って、部屋に上がり込みました。ヨツハはひどく驚いていました。当然ですよね。

おれの顔を見た途端、早く出て行け!ってものすごく怒ったことを覚えています。

 

ええと、後で聞いた話ですが、その踏切事故は事故と呼べるようなものではなかったみたいです。どうやら踏切で待っていた女の子が線路上に何かを落としてしまってみたいで……それを遠くから見ていた誰かが非常ボタンを押してしまった。それで周囲が騒然となったと聞きました。

 

すみません、また話が逸れましたね。話を元に戻します。

 

部屋に上がり込んだとき、久しぶりにヨツハの姿を確認しました。正直、すごく驚いた。本当にあいつなのかと疑ってしまうくらい以前の面影なんてなかったから。

 

突然部屋に押しかけたおれが一番悪いんですけど、ヨツハはものすごい勢いでこちらを拒絶しました。

 

だけど、しばらくしてから突然静かになったかと思うと、俯きながら不意に口元だけで笑ったんです。

 

そのときのヨツハを見たとき、おれは背筋が凍りました。そのあと今まで以上に不安になっていろんな人に相談したんですけど、なかなか難しくて……

 

それで……それで………3月の最終日に……

 

(……どうかした?)

 

いえ、大丈夫です。

 

忘れもしません。その日もよく晴れた日でした。

 

ただ天候とは裏腹に、その日のおれはどこか心が落ち着かなくて、朝からずっとそわそわしていました。

時間が経てば経つほど心のざわめきが大きくなるような感じがして……結局、途中で耐えきれなくなってヨツハの家に行ったんです。

 

そしたらついさっき外出したことがわかって、仕方がないので一旦家に戻りました。

でも、やっぱりどこか心は落ち着かなくて、もしかしたら?そう思っておれは真っ先に家を飛び出しました。時間は確か、午前中の10時くらいだったと思います。

 

自分でも不思議なんですけど、自然と足はこの踏切に向かっていました。虫の知らせと言うんでしょうか、なんだかとても悪い予感がして、とにかく急いだのを覚えています。

そしたら、踏切を渡るヨツハを見つけて。すぐに後ろから追いかけました。でも、タイミング悪く踏切の警告音が鳴り始めてしまって……

 

またどこかに行ってしまうとそう思いました。だけど、ヨツハはその場で立ち止まったまま、踏切の前でこちらを振り返ったんです。

ホッとしたと同時に、あいつの様子がおかしいことにそのとき初めて気が付きました。

 

周りの様子がまるで視界に入っていないような感じで、ずっと踏切の前に立っていた。そんな姿を見ていたら、なんだか心臓の鼓動が速まって……

 

でも、その直後でした。急に眠気に襲われ、意識が飛ぶような感覚があって、気が付いたら

 

===

 

 

 

 

 

「知らないベッドの上に寝ていました」

 

“入れ替わり”が起こったということだろう。私はとっさに理解した。

 

「意識が戻ったとき、おれはヨツハの側にいて。何が起こったのかは覚えていませんが、あいつが踏切の中に飛び出して自分がそれを止めたのかもしれないと直感しました」

 

夢の中で出会った女の子。その子のことを思い出す。見るものの背筋を凍らせる無機質な顔。死んだような光のない瞳が印象的だった女の子。

あの日、彼女は踏切の中に飛び出した。まるでそうすることが当たり前だと言うように。

 

「おれは……」

 

男の子の口が一旦止まる。そしてゆっくりと瞼を閉じると、少し声に力を入れて言葉の続きを話し始める

 

「おれはやってしまったと思った。四葉の部屋に上がり込んだとき、もしかしたら、あいつに何かのきっかけを与えてしまったんじゃないかって…そうでもないとあいつがあんなことするわけないから……」

 

「話はこれですべて」と彼は言った。私は出かかった言葉を飲み込む。

 

「結局……おれはあいつに何もしてやれなかった……ッ」

 

男の子は笑った。寂しく卑屈な笑顔。そうじゃない。そうじゃないんだよ。そんな機械の笑いなんてただ人を不快にさせるだけだ。こちらの心をただイラつかせるだけだ。

 

 

 

 

 

話がひと段落して以降、静寂の時間が続いた。私も彼も無言のまま、お互い身動き一つしなかった。

 

やがてそんな空気に耐え兼ねて私が大きく息を漏らした。ヨツハの本当の気持ちなんてわからない。私は彼女でもなければ、話したことだってないのだ。見ず知らずの女の子のことを考えろと言われても無理がある。

だけど、想像するくらいはできるだろうか。

 

難しくはないと思う。彼の話を聞いた時点で大事なポイントはわかっている。そのポイントさえ見失わなければ、そんなに複雑な話ではないとそう思うのだ。

 

男の子の横顔を盗み見る。彼は唇を噛み締めていた。きっと後悔しているのだろう。ヨツハに何もしてやれない自分の不甲斐なさに。

 

おそらくこの子はわかっていない。彼女の本当の気持ちを。

偉そうなことは言えないけれど、この子がヨツハの気持ちに気づかなければ、この話はスタートラインにも立てはしない。物語は始まらない。

もしかしたら彼は確信を持てないだけかもしれない。例えそうだとしても、彼女の気持ちと自分の想いを自覚しなければ、どれだけ考えたところでそれは無意味なものになってしまうだろう。

 

男の子が確信を持てないもの。それを一言で言うのなら

 

―――その女の子にとって“いっとう大切なもの”が何であったかだ。

 

このポイントさえ押さえることができれば、物語は自然と収束していく。女の子の行動の理由を少しは理解できると思うのだ。

 

あっけない話だ、とつい心が毒づいてしまう。

でも、同時におかしな話だとも思う。お互いがお互いのことを考えているのに、僅かなすれ違いでこうも物事が悪い方向へと向かってしまう。人の心の脆さを実感する。

 

だからこそ、私は不意に笑った。不謹慎に思われるだろうか。

男の子が私の顔を覗き込む。唖然とした口がとても可愛く思えてしまう。

 

「…君はどうしたいの?」

「…おれが?」

 

男の子の肩が揺れる。この想像が正解だとは限らない。私はヨツハではないのだから当然だ。アドバイスなんて大それたことをするつもりもない。けれど、彼に問わなくてはいけないこと。それが一つだけある。

 

おそらくヨツハは雁字搦めの状態なのだ。動きたくても動けない。簡単に言ってそんな状態。彼女が動けないのならどうするか。

 

答えは一つしかない。その答えは彼自身が見つけるしかない。

 

明里と花苗の3人で交わしたいつかの会話を思い出す。

 

「今までのことは今の説明でだいたいわかった。だけど一番重要なことを私はまだ聞いてない」

「…一番重要なこと?」

「そう。君は今後どうしたいと思っているか?」

 

少し間。その後、彼は「わからない」と答えた。苦渋に満ちた表情が彼の苦悩を映し出す。

 

答えは今は見つからない。これから見つかる保証もない。

 

だけど、きっと―――君なら大丈夫なんだろうな。

 

と胸の中でつぶやいた。

 

わからない、と彼は答えた。だけど、きっと想いは明確なのだ。あの日、女の子が踏切に飛び出したそのとき、君はちゃんとその場にいたのだから。

 

本当に必死になって探していたんだとそう思う。そうでなければ、あんなに汗をかくはずがない。肩が大きく揺れるほどに、あんなにも息を切らせるはずがない。

一瞬だったけど、かつて“君”だった“私”が言うのだから間違いない。あのときヨツハを助けたのは私だけれど、あの場に駆けつけた時点で、きっと君の決意は固まっていたに違いない。

 

ほんと、あっけない話だ。

 

しばらくしてガードレールから身体を離した。しばらく彼の話に付き合ったけれど、正直もう体力は限界だった。身体も心もくたくたで、これ以上この場に留まるのも辛いほど。

だから早めに立ち去ろうと思った。だけど

 

「お姉さんは大丈夫?」

 

そう男の子は告げた。その言葉に瞳が揺れる。

 

「……」

「何か想い悩んでいるように思えたから。それにその恰好……」

 

こんなボロボロの姿を見たら疑問に思うのも当然と言えば当然か。

男の子に指摘されて自分の現状をこれまで以上に自覚する。恥ずかしさと惨めさで胸はいっぱいで……

 

「…私、大丈夫なのかな?」

「それって…?」

「…私にもね、気になる人がいたの。一緒にいてね、楽しいと思えるような、ずっと近くにいたいと思えるような、そんな素敵な人が……」

 

男の子はじっとしていた。話の続きを待っているのだろうか。表情一つ変えないためか、感情は読めなかった。

 

「でもね。その人には別の私じゃない別の相応しい人がいたみたい。別に浮気されたとか、そういうのじゃないんだよ。私とその人はね、何も、そうだね…何もなかったから……」

 

これまで思い出が鮮烈によみがえる。彼と会ってからの日々は本当に楽しい時間の連続だった。満開の桜のような可憐な日々。本当に夢のような日々だった。

 

「その人の側にいるだけで胸が暖かくなった。その人の名前を呼ぶだけで優しい気持ちになれた。だけど、それは自分一人の思い上がり。その人は私のことなんて…なんとも…なんとも思ってなかったんだ」

 

ひたすらに冷静さを装った。自分の気持ちを読み取られるのが嫌だった。もうこの辺でいいだろうか? そう思って話を適当に終わらせる。そうして右足に力を入れた。

 

そのときだった。

 

「お姉さん…ッ」

 

それは突然のことだった。後ろから弾む大きな声に、私の身体がびくりと反応する。あの子の声だとわかってはいたけれど、今までと異なる晴れやかな声に私は少し戸惑った。

 

静かに後ろを振り返る。微笑み。そして私に向かって彼は言い放った。

 

「お姉さんなら、きっと、大丈夫だよ」

 

朝日に照らされる小さな存在。桜の花を想わせる満開の笑顔。事情なんて何も知らないはずなのに、自分のことであんなにも悩んでいたはずなのに、今この瞬間の彼は強さと優しさに満ちている。

 

遠くの方で警告音が鳴り響いた。近くの踏切でも甲高い音が鳴り始める。

男の子は慌てて線路を渡り向こう側へと戻っていった。直後に電車が通過する。私の髪を大きく揺らす。

ようやく通り過ぎたと思ったときには、彼の姿はどこにもなかった。

 

 

 

 

 

ふと我に返る。線路を挟んだ反対側。一点をずっと眺めている自分に気が付いた。その場所にはもう誰もいない。だけど、その場所には確かに誰かがいた。

 

今のは夢?そんな考えが浮かんでは消えていく。頭の中を整理するもさっきの出来事をうまくは思い出せなかった。

 

ふと何かの拍子で足元に目を奪われる。

 

(あっ…!)

 

ハッとした。踏切内に見覚えのあるものが落ちていた。線路内のレール上に移動して、敷板の間からそっとそれを拾い上げる。汚れを落とすために服の袖で表面を擦った。

 

「これがどうしてここに?」

 

深い緑色をした四つ葉の花。以前、花苗にもらった四つ葉のクローバーの押し花がそこにはあった。どうしてここに落ちていたのだろう? それともこれは違うものだろうか。少しだけ考えを巡らせる。

心当たりがあるとすれば、あの時しか考えられない。

 

(ここで携帯を落としたときだ……)

 

男の子とぶつかりそうになったとき、踏切内で携帯を落としてしまった。ハンカチで汚れを拭いたから、そのときに一緒に落ちたのだと理解する。

あの日の朝は遅刻しそうでバタバタしていた。押し花を挟んだハンカチを誤って持ってきていたとしても不思議じゃない。

 

もう一度、軽く吐息を漏らした。踏切の敷板の上に立ちながら、どこまでも続く線路を眺める。

このレール先にはあの人との大切な思い出が詰まっている。彼と最初に出会った公園。彼と再会した駅。私にとって幸せだった時間。

 

でも、同時にこのレールの上で“彼”と“彼女”は出会ってしまった。並走する電車の中で目が合って、そのまま二人は探し合い求め合った。立花瀧と宮水三葉は出会ってしまった。

 

唇をそっと噛み締める。そうしながら、手元の押し花を見つめ直した。

 

「……きっと大丈夫、か」

 

気が付いたら、そんな言葉を口にしていた。言葉の意味はわからない。誰に言われたのかも覚えていない。

大丈夫は励ましの言葉。前向きな言葉。

だけど今の自分は自然とこんな答えを返してしまう。

 

「もう、どうにもならないよ」

 

 



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14 生と死の選択

ある場所を目指して歩いた。目的もなく彷徨ったさっきまでとは違い、私はその場所に行きたくて仕方がなかった。

高度を上げる太陽が疲れた身体を容赦なく照らす。目に入る光が鬱陶しくて、瞼を閉じて歩けたらどんなにいいか、と益体もないことを考えた。

 

「…また来ちゃった、か……」

 

私が目的とした場所、それは例の公園だった。

 

着いた途端、記憶の波が押し寄せる。あの人と初めて出会った場所。足をケガして助けてもらった場所。彼を想うきっかけとなった場所。ここはそんな場所だった。

 

公園に入ると迷うことなく、特等席だったあのベンチへと向かった。当然のようにそこにある。そんな当たり前のことに安堵する。心なしか古びたように見えるのは、きっと疲れのせいもあるだろうか。

 

ベンチに座り、あたりの様子をうかがった。休日の朝だからか、公園の中はとても静かで、人の姿は見当たらない。昼間の公園とはえらい違いだ。

 

(ほんと、何をやっているんだろうね。わたしは……)

 

自分の行動がわからなかった。自分の気持ちを整理できなかった。今のことも、先のことも、今はまったく考えられない。彼と過ごした思い出だけが、途切れることなく頭の中をループする。

 

ベンチに座ってしばらくすると、これまでの疲れが身体に押し寄せた。一晩中歩いていたのだから無理もない。姉の部屋を飛び出して以降、立ち止まることが怖かった。立ち止まることで、泣いてしまうことが怖かった。不条理な現状を受け入れてしまうことがもっと怖かった。

 

(もう、だめかもしれない)

 

疲れがピークに達している。このままでは眠ってしまいそうだ。今、この公園は静か過ぎる。風もなく、木々が揺れる音も、電車の音も聞こえない。

 

右手に持った四つ葉の花を眺めつつ、ゆっくりと瞼を瞑っていく。“幸運”なんて起こらなかった、そう心の中でつぶやきながら、私の意識は薄れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、この場所に立っている。

 

最初に抱いた感情は、とても素っ気ないものだった。

ぼんやりとする意識の中に、見覚えのある景色が広がっていることを理解する。

 

(ここは確か……)

 

突然、一人の男の子の姿が頭の中に浮かび上がった。太陽が昇る前――明け方ごろに出会った少年。ガードレールに寄り掛かりながら、二人で話をしていた記憶がよみがえる。忘れていた。僅か数時間前の出来事だというのに。

 

周囲の様子を改めてうかがう。そうして間違いないと確信する。今の状況を理解する。

 

私は再び―――あの踏切の前に立っていた。

 

 

 

 

 

===

======

=========

 

驚きはしない。だってこれで二回目なのだから。

 

いつかの夢の中で見た踏切が今こうして目の前にはある。そして、ほんの少し前、私はあの男の子と実際にここで話をしていた。

話の内容も男の子の姿も、今ならはっきりと思い出せる。どうして今まで忘れていたのかと思えるほどに、記憶の中の映像はとても鮮明だった。

 

でもちょっと待って。もう一度ここにいるということは、もしかしたら……

 

「……やっぱり、また入れ替わってる」

 

今度のものも女のそれではなかった。脚も、腕も、声だって、身体はすべて男の子のものだ。

どうやら私はまたあの男の子と入れ替わったようだった。身体から噴き出す大量の汗も、肩が大きく揺れるほどの息切れも、それらは以前とまったく同じだ。

 

そこまで確認してから、踏切を挟んだ反対側に視線を泳がせた。

 

(やっぱり……)

 

そこには女の子が立っていた。以前とまったく同じ場所に、同じように立っている。同じ時間を繰り返しているのかと思ったけれど、どうやら前回とは違うらしい。まず、着ている服が以前とは違っている。それともう一つ。

もう一度、反対側の女の子に視線を向けた。以前見た無表情からは一転して、今の彼女は泣いていた。彼女に何があったのかはわからない。けれど、痛々しいほどの泣き顔に、私の胸は苦しくなった。

 

「…ッ……いったい何がしたいのよ…ッ!」

 

気が付けば、大きな声で叫んでいた。女の子に対してではない。この現状をつくった何者かに叫んだつもりだった。神様のイタズラにしては度が過ぎていると心底思う。泣きたいのはこちらの方だ。

 

こんな余裕のないときに、こんな悪夢を見せられて、こんなわけのわからない状況に置かれている。いったい私にどうしろと言っているのか。またあの子を助けろとでも言うのだろうか。

 

だけど、今は以前と状況が違うのだ。まず電車なんて来ていない。あのときの経験からすると入れ替わりはすぐに終わってしまうはず。だから今回は私の出番なんてない、そう思った。

 

だから、その場でじっと待つことにする。もう、こんな現象に見舞われるのは嫌だった。

 

彼女はなおも泣いていた。そんな彼女を視界の隅に捉えながら、私はただひたすらに待っていた。

頭の中で「カチカチ」と時計の針が動いている。時間の流れが遅く感じる。心は妙に落ち着かない。入れ替わりはまだ終わらないのか、と気持ちだけが焦った。

 

でもその中でふと小さな疑問が湧いた。

 

(……そう言えば、今は、いつなの?)

 

私は確か、朝の公園にいたはずだった。だけど、今は確かに朝っぽいけど少しだけ太陽の位置が違う気がする。

それに思えば前回の入れ替わりの際もそうだった。私は寝ていたはずなのに、男の子と入れ替わったとき、この場所は太陽のある真昼間で、とても暖かかったのを覚えている。

 

前回は余裕がなかったこともあって、そんなところまで頭が回らなかった。なので、今がいつなのか、不意に浮かんだ疑問に答えを出そうと私は行動を開始する。

 

即座に服のポケットに両手を突っ込む。男の子だったら、ズボンのポケットにあれを入れていると思ったからだ。右手と左手で同時にポケットを探ってみる。すると、薄くて四角い物体が左のポケットに入っていた。すかさずその物体―――携帯を取り出して、今日の日付と時間を確認する。さて、今はいったいいつなのだろう。

 

「…これは?」

 

―――2022年、4月某日。朝、7時23分。

 

それが、現在の日時だった。

 

「…どういう、ことなの?」

 

頭の中が混乱する。

 

“日付が違う”

 

この事実を理解するまで、少しだけ時間を要してしまった。

 

何度見ても変わらない。携帯の日付は四月上旬の“ある日”を示している。私がベンチで瞼を閉じたのは、これよりも数日先の、そうだ、四月も中旬になろうかという日だったはず。

 

「……時間が……戻ったってこと?」

 

一つの仮説。携帯が壊れたのではないか、と疑心暗鬼に陥るも、そんなことはない、これは事実なのだと、直感にも似た何かが目の前の出来事を肯定する。

 

“入れ替わり”という謎の現象が発生する以上、こんなこともあるのだと、誰かが私の心に語りかける。

落ち着け、と自分自身に言い聞かす。慌てるんじゃない、と強い口調で言葉が飛び交う。状況を整理しろ、と自分自身が叫び出す。

 

考えないといけないのは、まずは一回目の入れ替わりだ。

 

  『3月の最終日に……忘れもしません。その日もよく晴れた日でした』

 

ついさっき、男の子と交わした話の内容を思い出す。あのとき、彼は確かにそう言った。

想いを寄せる女の子が踏切の中に飛び出した日。男の子に入れ替わった私がその女の子を助けた日。入れ替わりの現象が発生した日。それが「3月の最終日」だと、彼ははっきりと言った。

 

だけど、考えてみればそれはおかしいのだ。私が夢を見た日。あれは四月に入ってのことだった。

その日のことはよく覚えている。だって、その日は朝から寝坊して大変だった。それにその日は“彼”との大事な約束があった。結局、約束は流れてしまったけれど、その帰り道に満開の桜を見て一抹の寂しさを抱いたのを覚えている。

 

身体から汗が噴き出す。たぶん、これは普通のそれではないのだろう。携帯を持った手が震えてしまう。頭がズキンと痛くなる。

 

次に考えないといけないのは今回の入れ替わりについてだ。

 

携帯の日時は確かに四月の“ある日”を示している。だけど、私は数日経った例の公園にいたはずなのだ。

 

「……時間が、ずれていたんだ」

 

そこまで考えて、ようやく一つの答えに辿り着く。私と少年、少年と私の入れ替わり。それぞれの時間はまったく異なる別のもの。

だから、時間が戻ったというよりは、入れ替わりによって別の時間に移動したと言った方が表現としては適切だろう。未だに信じられるものではないけれど……

 

現実を大きく超えた現実に唖然とする。息を呑む。そしてそれはやってきた。

 

「カンカンカン」と大きな甲高い音が鳴り響いた。聞き慣れたもののはずなのに、身体はビクリと過剰に反応する。この心は何かを恐れている。

 

もう一度、今の状況を整理する。ここまでは理解した。ここまでは理解したさ。でも、なぜ心はこんなにも取り乱しているのだろう。

 

時間がずれていることはわかった。今日がいつかもわかった。だけど、本題はここからだ。

 

私はもう一度手元の携帯に視線を落とす。無機質な物体が映し出す4月の文字。この日、この時間、何があったのか。それこそが問題の核心だ。

 

そう、そうさ、今日は、今日という日は、彼―――立花瀧と夜に食事の約束をした日だ。果たされなかった彼との約束があった日。それが今日という日のはずだ。

 

そして私は理解する。入れ替わりの時間がズレているのだとしたら、この世界には本物の宮水四葉が存在するはずだと。

 

彼女は今の時間帯、きっと家で焦っているはずだ。

あの踏切の夢を見て、憂鬱な気分で目が覚めて、そして遅刻しそうなことに気が付いて、急いで身支度を整えているに違いない。

そして大学へ行き、講義を受け、その帰り道、彼からの電話に落ち込んだ。そんな一日が今日という日だった。

 

心の中に懐かしい気持ちがよみがえる。あの幸せだった時間を、この世界の宮水四葉は満喫している。数日後に、あんなことになるとも知らずに。

 

そして続けて私は考える。本物の宮水四葉が何をしているか、それは大して重要な情報じゃない。そう、この場に置いて最も重要な事実。それは私以外の別の人物たちの行動に他ならない。

この日、この時間、何があったのか。その答えは明確なのだ。忘れようとしても忘れられない。姉の家を飛び出してから一晩中ずっと考えていたのだから、忘れようにも忘れられるはずがない。

 

宮水三葉は確かに言った。

 

  『朝の通勤中にな、並走する電車の中で目が合ってやね。何やお互いに惹かれるところがあったんやろね。向こうも次の駅で降りてくれたみたいで、ずっと私を探してくれたみたいなんよ』

 

そうだ。間違いない。

 

  『会ったその日の夜にお付き合いすることになって』

 

そうだ。その通りだ。今日という日は他でもない。―――宮水三葉と、立花瀧、彼ら二人が出逢った日。それが今日という日に他ならない。

 

朝の通勤中に彼らは出会った。このレールの先で彼らはお互いを知った。今から30分後なのか1時間後なのかはわからない。けれど、この後すぐに彼らは出会う。出会ってしまう。

 

携帯を持つ手が震えた。身体から大量の汗が噴き出して、心臓の鼓動は瞬く間に速くなる。目線は大きく泳ぐが、意識は正面の女の子に釘づけだ。

 

「カンカンカン」と警告音が鳴り響く中で、当たり前のようにその女の子は踏切の中へと入っていった。前回と同じ光景がまた目の前に広がっている。

 

声が出ない。その子に何かを伝えようとしても、何かがそれの邪魔をする。

 

こんなこと考えたくない。考えたくないんだ。それでも、たった一つのある考えが頭の中から離れてくれない。何度も何度もその考えを捨てたとしても、誰かがその考えを拾ってまた私の中に置いて行ってしまう。さっきから続く葛藤が心をさらに苦しめる。

 

その考えは、一つの可能性に過ぎなかった。

 

入れ替わりによって時間がずれていると知ったとき、今日が災厄の日だと気付いたとき、どこからともなくやってきた小さな可能性だった。

本気になんてしていなかった。ばかばかしいとさえ思った。

 

でも

 

こうして女の子が動き出すのを見ていると、その可能性は強くリアルなものに変わっていった。心の中で悲鳴と歓声が湧き起こる。異様な興奮が私を包む。

 

私は一心不乱に仮定する。もしも、もしもだ。私がこのまま何もしないで、じっとしてさえいれば、間違いなく、間違いなく

 

―――彼女は死ぬ。電車は止まる。ダイヤが乱れる。

 

電車の運行は必ず異常をきたす。そうすることで

 

―――立花瀧と宮水三葉の出逢いを変えられる。なかったことにできる。

 

魔法のように、夢のように、彼らの運命を変えられる。

 

悪魔の囁きだと一蹴しても、頭の中にはその悪魔が居座って、私にずっと囁きかける。じっとしていろ、そこにいろと……

 

やめてくれ!

 

そう叫んでも、未だに身体は動かない。足は前へと動いてくれない。

 

うるさいっ! やめろ!

 

右左の耳を両手で塞ぐ。踏切の警告音は和らぐも、囁き声はやんではくれない。

 

悪魔は私にこう言うのだ。これはおまえにとっての“幸運”なんだ、と。

おまえは今まで悩みながらここまで来た。あんなにも傷ついて、あんなにも苦しんで。救いなんて欠片もなかった。だからようやくつかんだチャンスを手放すなと。

これはおまえの人生にとっての分かれ道。生か死かの選択なんだと。

 

頭を振っても、声を上げても、そいつは私から離れてくれない。最後のチャンスと言わんばかりに、畳みかけるようにそいつは捲し立ててくる。

彼女を助けようと行動を起こすのはおまえの自由だ。でも、それをやったらおまえの幸せは訪れない。立花瀧と宮水三葉が出会ってしまったら、おまえの“こころ”は死んでしまうのだと。

 

どうしろと言うの!? 私にいったい何をしろというの!? 私は……どうなりたいの…ッ!?

 

頭の中はぐちゃぐちゃで、呼吸はひどく苦しくて、左右の足は震えていて、大粒の涙だけが目から零れ落ちていく。

 

揺れる視界の中で女の子を注視する。彼女は今も泣いている。私と一緒に泣いている。彼女はゆっくりと歩んでいく。静かに一歩ずつ着実に。そんな彼女を見て私はふと理解する。

 

(ああ、そうか……)

 

少年の話を聞いたとき、その子の言う女の子はずっと姉に、宮水三葉に似ていると思っていた。我慢強いところとか、相手を思いやれるところとか、姉と同じだとずっと思っていた。

 

でも、違った。

 

あの子に似ているのは姉じゃない。わたしの方だ。

脆くて危ういところがそっくりで、いつも何かに迷い悩んでいる。

今だってそうだ。どちらかに決めなければいけないのに、どちらかを選ばなければいけないのに、未だに私は二つの選択肢に答えを出せないでいる。

 

対して彼女はどうだろう。ゆっくりと踏切内を歩く彼女。この子の選択が正しいものだとは思わない。だけど彼女は決断した。彼女は選んだ。

 

きっと彼女なりに必死に考えた結果なのだろう。それが今の行動に繋がっている。

 

だったら、私も決めなければいけない。一晩中歩き続けてずっと悩み続けた。涙は枯れて声はもう出そうにない。

彼女が私に、私が彼女に似ていると言うのなら、私も彼女のようにどちらかを選ばなければいけない。

 

頭の中で警告音が鳴り響く。身体の震えは依然として収まらない。もう、私には耐えられない。耐えられないよ。

 

そう思ったとき、ぷつりと私の中で何かが弾けた。

 

 

 

 

 

 

三月の下旬。明里と花苗による取り調べ。ファミレスでの会話。

この日、彼女たちから四つ葉のクローバーを贈られた。深い緑色をした四つ葉の花はとても綺麗で、ずっと見惚れてしまうほどに輝いていた。

 

今日まで忘れていたけれど、ずっと気になっていた会話があった。なぜ忘れていたのだろう。あれほど気になっていた言葉なのに。

 

今ようやく思い出す。確か、会話の続きはこうだったはずだ。

 

  『四つ葉のクローバーは幸運っていう意味があるんだって。今の四葉にはぴったりだね!』

  『四葉にも幸運があらんことを』

  『ありがとう。二人とも。この押し花大事にするね』

  『でもね、四葉』

  『ん?』

  『四つ葉のクローバーにはね、もうひとつの意味があるんだよ』

  『もうひとつの意味?』

  『そう。その花のもうひとつの意味。それはね―――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  『復讐なんだよ♪』

 

 



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15 ある日の出来事

昔、こんなことがあった。

 

 

私がまだ、糸守に暮らしていたころ、小学四年生ぐらいの時だろうか。姉の行動がおかしくなったときがあった。

 

何がおかしいかというと、スイッチが切り替わったように別人になる日があるのだ。例を挙げると、まず、身だしなみが雑になる。髪なんて一個所をヘアゴムでまとめて「はい終わり!」くらいの適当さ。他にも、食事の量がいつもより増える。言葉遣いが男っぽくなる。自分の胸をよく触る。など、挙げれば本当に切りがない。

 

今思うと、あのときの姉は何だったのだろう。そんな姉を見て、おかしな人やなぁ、と一歩引いていた記憶を思い出す。遠い昔の忘れていた記憶。楽しかったあのころの記憶だ。

 

 

それは、学校からの帰り道だった。その日、私は上機嫌で家路を急いでいた。理由は単純で、友達から借りたマンガを早く読みたかったからだ。おもしろいとみんなが言うものだから、前々から気になっていた。

 

学校にマンガなんて持ってきていいかって?案ずるなかれ。わざわざ友達の家から借りてきたのだ。気負うことなく読むことができる。

 

でも、手提げ袋にマンガを入れていると、どんな内容なのか、すぐにでも中身を確認したい衝動に駆られるのが少年の心というものだ(私は女だけど)。少しぐらいいいかと思って、一冊だけ手に取ってその場でパラッとページをめくった。

 

なるほど。こんな感じなんやぁ。と納得していると、数人の女の子が後ろから走ってきて、私の横を通り過ぎていった。一学年ぐらい下の子たちだろうか。何をそんなに慌てているのだろう?

 

最初は不審にも思わなかったけれど、よくよく見てみると、二人の女の子を、一人が必死に追いかけているようにも見える。何かの遊びかなと思いつつ、マンガを再び袋の中に戻そうとした。そのときだった。

 

「わぁっ!!」

 

誰かがまた、私の横を猛スピードで走り抜けていったのだ。「待てこらあ!」と何やら大きな声まで上げるものだから、驚いてマンガを落としてしまった。

 

やばいやばい。人から借りたものなのに汚したら大変だ。そう思って、すぐに拾い上げてハンカチで汚れを拭いた。でもよくよく考えてみると、今の声には聞き覚えがある。そう思って、最後に走り去っていった人をもう一度よく見ると……

 

「お、お姉ちゃん!?」

 

私の姉、宮水三葉が走って小学生を追いかけていた。髪を適当に結んでいるから、今日は“おかしな日”だと理解する。何をやっているの?そう思って、私も彼女の後ろを追いかけていった。すると、少し先で女の子三人に、いや、二人に対して何やら説教をしているようだった。

 

「お、お姉ちゃーん!?」

「えっ、四葉?なんでここにいるの?」

「それはこっちのセリフやよっ……お姉ちゃんの方こそ何やっとるの!?」

 

姉は「あー」とか「うー」とか唸っていたけれど、やがて右手の人差し指で頬をカリカリと掻きながら、こんなことを言い出した。

 

「まあ、ちょっと、見ていられなかったから…」

 

何が何だかわからず、私は終始キョトンとしていた。

 

あとで聞いた話だけど、どうやら姉は、女の子二人組の嫌がらせ現場を目撃したらしい。その二人はある女の子の大事なものを奪ってしまった。それで追いかけっこになったというのだ。二人にしてみれば遊びのつもりみたいだったけど、やられた方は泣きながら必死に追っていた。そんな光景を見て、つい我慢できなくなったとか。

 

姉の話を聞いて、「なるほどなぁ」と納得する反面、とても驚いたのを覚えている。お姉ちゃんてそんな行動力のある人やった?子供同士とはいえ、人様のケンカに踏み込むような人だとは思っていなかった。

 

でもその翌日。不意に昨日の話題を振ってみると、なんだか忘れてしまったかのような反応が返ってきた。そればかりか、もう少し詳しく教えてと、逆に事の内容を聞かれてしまった。

 

昨日のことをすべて話し終えると「あの男は~!!」なんて言って憤慨していた。なんだろう。情緒不安定なの? さらに自分が説教をした女の子を教えてほしいと言ってくる。ますますわけがわからない。昨日こと覚えとらんの?

 

その後、姉が取った行動も不思議だった。昨日叱った二人の元を訪れると、また説教しているような感じなのだ。ただ今回は、昨日の勢いに任せた感じではなく、優しく言い諭すように形なのだ。まるで、自分の行いを今日の自分がフォローしているようにも見えて、つい私は可笑しくなって笑ってしまった。

 

思えば、この時の姉はいつもこんな感じだったと思う。姉の身に何が起こっていたのかはわからない。そんな姉を見て、当時の私は「ほんとおかしな人や」としか思っていなかったように思う。

 

でも、今なら言える。

 

あの頃の彼女は、本当に、本当に―――魅力的だったと。

 

うまくは表現できないけれど、あの頃の彼女には、今までにはなかった“何か”があった。宮水三つ葉にはなかった何かを、宮水三葉自身が手に入れたような、そんな感じがするのだ。

 

仮に今まで持っていたものを「優しさ」とするならば、そこに「強さ」が加わったような。強さに裏付けられた優しさを、優しさの中で光る強さを、彼女は持つようになった。今だから言えることかもしれないけれど、姉に憧れを抱くようになったのは、たぶん、このときからだと思う。

 

だけど、あの彗星災害によって環境は変化した。あの事故以降、彼女は心の底から笑わなくなった。何かを失ってしまったような、暗い表情を浮かべることが多くなった。そのときの彼女の様子は今になってもはっきりと覚えている。

当たり前だ。だって私は、姉の一番近くで、ずっと後ろ姿を見ていたのだから。

 

そして、今―――

 

彼女は再び心の底から笑うようになった。正直、信じられなかった。誰かが彼女を変えたのだと確信した。誰かが心に踏み込んだのだと思った。あの小学生3人の問題に自ら率先して踏み込んだ、あの頃の姉のように……きっと誰かが宮水三葉の問題に足を踏み入れ、そして彼女を変えたんだ、とそう思わずにはいられなかった。

 

彼女が笑顔を取り戻してくれた。本当は喜ぶべきことなのに、彼と並んで浮かべる笑顔を見た途端、私の心は嫉妬の炎で真っ赤に燃えていた。

 

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===

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意識はまだぼんやりとしている。太陽の光が眩しすぎて、瞼がなかなか開けられない。

この瞳を晒したとき、私の世界はどう変わっているのか、それを思うと途端に不安になった。

 

あの選択は女の子の決断を裏切る行為に他ならない。でも、これが私の選択。宮水四葉の選んだ答えなのだ。

 

遠くの方で誰かが名前を呼んでいる。夢と現実の狭間にあっても、それだけははっきりとわかる。

その声を聞いていると、無性にあの言葉を口にしたくて居ても立ってもいられなくなる。

それは、誰かに対する謝罪。

誰かに対する想い。

 

私はそっと小さな声音に乗せて心の形を表現した。

 

「ごめんね。お姉ちゃん」

 

 



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16 笑顔の理由と秘めた願い

四月下旬のとある休日。私はコンビニに立ち寄っていた。

 

なんてことはない。お婆ちゃんにおつかいを頼まれたからだ。適当に商品棚を物色しては、気に入ったものをかごの中へと入れていく。途中、ファッション雑誌に目が止まったけれど、読みたい衝動をグッと抑えてレジに向かった。

 

「ありがとうございましたー」

 

お会計が終わって、店員の挨拶をバックに自動ドアの扉をくぐる。すると、

 

「あっつ~」

 

外に出た途端、強い日差しに襲われた。ついお決まりの言葉が漏れてしまう。今日は夏日になると天気予報で言っていた。四月でこんなに暑いのだ。今年の夏が不安になる。いやだなぁ、汗をかきながら通学するのは……

 

そんなことを考えながら、右手をかざして太陽の光を遮った。容赦のない陽光に春の終わりを感じる。季節は少しずつ、でも確実に夏へと向かっているようだ。

 

「わるい。待たせちゃって。電話がなかなか終わらなくて」

 

季節の移り変わりを感じながら、コンビニの前で待っていると、隣から声がかけられた。おれが荷物を持つからと言って彼は私に近づく。その行動に心臓がドキリと跳ねる。目線をそっと上げて、声の主を確認した。

 

立花瀧が、そこにいる。

 

私の目の前、手を伸ばせば簡単に届く距離に、今、彼は立っていた。

 

「それじゃ、帰ろっか。瀧くん!」

 

 

 

 

 

お婆ちゃんの待つマンションまで二人並んで歩いた。歩くと言っても距離的にはほとんどない。時間はだいたい5分程度。

彼が荷物を持ってくれるので自然と両手は空いてしまう。手持無沙汰を隠すため、手を前後に移動させる。

 

「仕事忙しいの?」

「仕事と言ってもまだ研修中だから。たいしたことはないよ」

 

振った話に彼はすぐに答えてくれる。

 

「さっきの電話は会社というよりは同期からかな。今度新人だけで飲みに行くからその話でちょっとね」

「そうなんだ。楽しそうだね、飲み会って。わたしも早くお酒飲みたいなー」

「あれ?サークルの新歓とか行かなかったの?」

「全部無視した!」

 

片道5分の短い時間だけど、会話はまったく途切れない。隣を歩く彼の横顔をそっと覗き込んでは、視線を前に戻す行為を私は繰り返していた。

 

 

 

 

 

「ただいまー」

「おや、早かったな」

 

家に帰るとお婆ちゃんが出迎える。

 

「飲み物とか、お菓子とか、適当に買ってきたから」

「おつりは四葉が持っておき」

 

そう言ってお婆ちゃんはもう一方の人物に顔を向ける。

 

「一緒に行ってもらって、ありがたいことや」

「おれは何も。四葉がすべて選んでくれたので」

 

彼はそう言うと私の方に視線を送った。モノを選んだのは確かに私だ。けれど、ここまで荷物を運んだのは彼なのだ。そういう意味では完全にお相子だ。

 

そんな押し問答を見ていたからか「そうかそうか」とお婆ちゃんは笑っていた。

そうしてくるりと背中を向けると、リビングへと戻っていった。玄関の扉を閉めて、私たちも家の中へと入る。靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて、廊下を移動。でもその途中で……

 

どこからともなくガサゴソとした音が聞こえてきた。どうやらキッチンで何かをやっているようだ。何事かなと思っていると音の正体を確認することもなく、彼は、立花瀧は、私の元を離れていった。

 

「みつは」

「あっ瀧くん。おかえりなさい!」

「ただいま。なにやってるの?」

「ちょっとハサミを探してて。使ってなかった料理用のハサミがあったはずなんやけど」

「料理用のハサミ?普通のじゃなくて?」

「探しても見つからんのよ。まぁ、この際、切れれば何でもいいかなーって」

「おれも探すの手伝うよ」

 

ちょっとしたやりとり。なのに既に二人の空気感が出来上がっている。二人並んでキッチンに立つ姿は、恋人と言うより、もはや夫婦のそれに近い。そんな二人を眺めていて実感するのは、宮水三葉と立花瀧、この二人の出会いはきっと偶然ではないということだ。奇跡と呼べる二人の出会い。それはきっと、必然なのだ。

 

だって、二人にとってのそれぞれは“もう一人の自分”だと思うから。

 

四月上旬のある朝に二人は出会った。でも、もしあの日に出会っていなくても、きっといつの日か、また出会っていたに違いない。お互いが“もう一人の自分”である以上、何度となく惹かれあっていたに違いない。

どんなに距離が離れていようと、住む世界が違ったとしても、きっと、二人はムスビによって繋がった。確信にも似た何かが私にそんな考えを抱かせる。

 

(まったく敵わんなぁ)

 

そう思った矢先に、リビングから声がかけられる。

 

「切りのいいところで休まんかぁ?」

 

お婆ちゃんが呼んでいる。私たちは3人一緒に口を開く。「はーい」というその声はものの見事に揃っていた。

 

 

 

 

 

状況を説明すると、現在は部屋の模様替えの真っ最中だった。模様替えと言ってもリビングマットを交換する簡単なものだ。前のものはだいぶ痛んでいたから、満を持して交換することにした。それにお婆ちゃんが足を取られて転びそうになっていたしね。

 

ただ、交換のためにはソファー等の家具類を移動させる必要があるので、姉と、そして瀧くんにも手伝ってもらうことになった。

今はリビングマットの交換も終わって家具も元の位置に戻してある。あとは、小物類を片付ければ終わりという状況だ。

時間は午後2時半を回ったところ。早めに終わってよかったと心の中でホッとした。

 

「四葉、もうここはええよ。用事がある言うてたな。あとはお婆ちゃんがやっておくで」

 

休憩が終わった後、お婆ちゃんはそんなことを言ってくれた。

 

「四葉、何か用事があったの?」

「あー、ちょっとこれから、高校のときの友達と会うことになってて」

 

用事の内容を簡単に説明してから勢いよく腰を上げる。このあと明里と花苗に会う予定になっている。なので、自分の部屋に戻ってから早速服を着替えた。途中洗面所でひと通りの身支度を整える。

 

「よしっ、と。こんなものやね」

 

洗面所を出て玄関に移動する。靴を履き替え、目の前の扉に手をかけた。

でも、そのタイミングでふとあることが気になった。何の前触れもなく頭の中に浮かんだそれは、扉にかけた手を引っ込めさせる。今更私はなぜこんなことを気にしているのだろう? そんな感想を抱きながら、私は一旦身体をUターン。リビングにいたお婆ちゃんに再び声をかけた。

 

「ねえ、お婆ちゃん?」

「なんや?」

 

お婆ちゃんは手元の作業を止めて顔をこちらに向けてくれた。

 

「お婆ちゃんに相談に来た男の子の話、覚えとる?」

「はて、そうやなぁ」

「ほら、前にいろいろと教えてくれたやないの」

 

お婆ちゃんは右手で顎を触りはじめた。あれ? 忘れちゃった?

 

「何か気になることでもあるんか?」

「うん。一つだけ教えてほしいんやけど、男の子がうちに来たときに口噛み酒を渡したって言うてたよね。そのときにな、お婆ちゃんはその子に何て言うたのかなって思って」

「はて、そうやなぁ……」

 

お婆ちゃんは記憶を探る態勢に入った。こんなことを聞いたところでどうなるわけでもないのだが、気になってしまったので仕方がない。

 

お婆ちゃんは少しだけ考えていたけれど、すぐにあのとき男の子に伝えた言葉を教えてくれた。

 

「いっとう大切なものを守りたい。そう思うたときに飲むように、なんてことを言うたかもしれんなぁ」

 

それを知ってどうなるの?という話だが、このときの私はその答えに、なぜか妙に納得したのだった。

 

 

 

 

 

しばらくして、私は高校時代の友人――椎原明里と隅田花苗と住宅街の一角を歩いていた。二人に会うのは久しぶりだ。まあ、ちょくちょく連絡は取っていたから、懐かしい感じはしないのだが。

 

「なんか何もないところだね」

 

花苗は周囲をキョロキョロしている。なぜこんな場所に来たのか不思議に思っているようだった。

 

「四葉が行きたいところって、もうすぐなの?」

「うん。もうちょっと先かな」

 

明里も同じ気持ちだろうか。ここに来た理由を不信に思っているように見える。

 

でも、正直に言うと、私も明確な理由を持ってはいないのだ。待ち合わせ場所に指定された駅が、たまたま“あの場所”の最寄り駅だったので、彼女たちに無理を言ってここまで付き合ってもらうことにした。

 

「花苗のお勧めのお店ってこの辺?」

「逆!逆!ここからは駅を挟んだ反対側!」

 

今日の待ち合わせ場所を指定したのは花苗だ。なんでも気になるお店を見つけたらしい。なので、これからそのお店に行く流れになっている。そのお店が駅の反対側にあることは知っていた。なので、何の理由もないまま二人を付き合わせていることに多少なりとも罪悪感がある。

 

それでも、“あの場所”に行きたい、というこの気持ちが私の中で変わることはなかった。

 

私が目指す場所。それは何の変哲もない“ただの踏切”だった。

 

閑静な住宅街の中にある普通の踏切。そこは一度だけ訪れたことのある場所だ。あれは大学からの帰り道、満開の桜が咲き誇る春らしい日だったことを覚えている。

 

ほどなくして、例の踏切が視界に入った。瞬間、私の心臓が速度を上げる。もしかして緊張しているのだろうか? 心の動きに自分自身が困惑する。

 

空はよく晴れていて太陽の光がとにかく眩しい。今の時間はカタワレ時には程遠い。

 

ふと、人の気配を感じて私はその方向を振り返った。線路を挟んだ反対側から誰かが近づいてきていた。高校生くらいの男の子と女の子のようだ。彼らも踏切を渡るためか、徐々にこちら目がけて歩いてくる。そうして、踏切内の敷板の上で私たちはすれ違った格好になった。

 

時間にすれば、僅か一瞬の出来事。なのに、瞬間、私の心は大きくかき乱される。

踏切を渡ったところで立ち止まるとそっと後ろを振り返った。二人の後ろ姿を何となく見つめてしまう。

 

「どうしたの? 四葉?」

「あの二人、知り合いだったりする?」

 

急に歩くのをやめたものだから、明里と花苗は不思議そうな表情だ。

 

「知り合いでは…ないかな」

 

その返事に明里と花苗はお互いの顔を見つめた。

 

あの日、私は姉の部屋を飛び出した。目的もなく一晩中街の中を歩き回り、公園のベンチに辿り着いた。そして、何か大切な夢を見た。

目が覚めたとき、目の前には涙を流す姉がいて「ずっと探していた」と泣きながら怒られたのを覚えている。

 

あのときの夢の内容は今ではもう覚えていない。

 

踏切の先を見つめながら、私はお婆ちゃんから聞いた男の子の話を思い出していた。あのあと少し気になってお婆ちゃんから教えてもらったのだ。男の子から受けた相談の内容。その子の苦悩と葛藤を。

 

話の内容はこうだった。その子には大切な人がいたらしい。その大切な人とは同い年の女の子で、男の子とは昔からよく一緒に遊んでいたと言う。

でも、ある日を境に男の子は悩むようになった。それはなぜか? 女の子の行動の真意がわからなくなったからだった。

 

なぜ、彼女は自分を避けるようになったのか。なぜ、彼女は変わってしまったのか。なぜ、冷たく笑うのか。

その理由を男の子は知りたかったというのだ。

 

きっと男の子なりの苦悩があるのだろう。だけど、私はその話をきいたとき、あっけない話だと思った。

 

答えは決して難しいものではない。そう思った。まぁ、これは単なる私の想像で、根拠なんてないけれど……

 

女の子が男の子を避けるようになった理由。それはきっと、男の子の身を守りたかっただけなのだ。

 

彼女は自分の性格を決して表には出さなかった。いろいろなものに縛られながら生きてきて、彼女はずっと孤独だった。本当の自分はこんなものじゃないと思いながらも、本当の自分を表に出すことを恐れていた。

周りが褒めてくれるのはいつだって偽物の自分で、本物の自分は誰にも見せられないでいる。それは家族も同じ。

 

でも、たった一人…男の子だけは違った。

 

彼はどんなときでも自分の側にいてくれて、唯一本当の自分を認めてくれて、彼女にとっては自分以上に大切な人だったと私は思う。彼女にとって彼の存在は救いのようなものだった。

 

けれど、女の子の元に不運が訪れる。まわりからイジメられるようになったのだ。最初こそ嫌味を言われる程度だったそれも日を追うごとにエスカレートしていく。そして、彼女は当然恐れた。“イジメ”の対象が彼にまで広がることを。

 

そしていつの日か、その心配は現実のものになってしまう。男の子にまで危害が出るようになったのだ。

 

その事実を知ったとき、彼女は相当ショックを受けたに違いない。自分の救いだったその人が―――大好きな彼が、自分のせいで大きな危害を受けている。その事実が彼女はどうしても許せなかったと思うのだ。自分のせいで…好きな人が……

 

だから彼女は距離を取った。男の子を守るために男の子から離れることを決断した。それが彼女の選択。

 

だけどきっと彼女は想い悩んだはずだ。

 

できることなら男の子の側にいたい。その気持ちは本当で、それが嘘偽りのない本当の自分。けれど、私が近づけば男の子はまたイジメの標的にされてしまう。“一緒にいたい”という気持ちが男の子を苦しめる。そのジレンマに彼女はずっと苦しみ想い悩んだ。きっと心も体もひどく疲弊してしまうほどに、苦悩していたことだろう。

 

ある日、男の子が強引にも彼女の部屋に押しかけてしまったことがあったと言う。彼女の笑う姿を見て、彼は背筋が凍ったと話していたと言う。

きっとその笑顔の裏には、罪悪感があったのだ。彼と会えた嬉しさよりも、彼と会ってしまった、その罪悪感が先行してしまうほどに彼女は追い込まれていたのかもしれない。女の子の決断と男の子の苦悩。お互いがお互いを想う気持ちが二人をさらに苦しめた。その現実に私は胸が苦しくなった。

 

 

その後、二人がどうなったのかまではわからない。お婆ちゃんも知らないらしい。

 

私なりに考える。

 

男の子を傷つけないための彼女の決断が正しかったとは思わない。でも、そこに至る彼女の苦しみと葛藤。その末に決断したことだと言うのなら、私はその選択を尊重したいとそう思う。

彼女の選択は彼女だけのもの。誰かが踏み込んでいいものでは決してない。誰かがその選択を捻じ曲げるようなら、それは彼女の気持ちを踏みつける行為だ。そんなことは絶対にやるべきではない、と。

 

きっと、以前の私だったら、そう強く思っていたに違いない。

 

だけど、最近少しだけ思うのだ。

 

男の子と女の子の進む道が少しでも明るいものであったらいいなと。お互いがお互いのためを想って取った行動が幸せに結びつくとは限らない。それは理解しているつもりだけれど、それでも、少しでも幸いに近づいていることを願わずにはいられない。

この1か月で私は学んだ。人の幸福を願うことが、どれほど難しいことであるかを。これは一つの教訓だ。きっとこの教訓だけはこの先何があっても忘れることはないだろう。

 

 

あれから、私はずっとすれ違った二人の後ろ姿を眺めている。

 

線路の向こう側に歩いていった男の子と女の子。お互いが手を繋ぎ、女の子は彼の腕に身体を寄せている。あれほど仲の良さそうなカップルもそうはいないだろう。幸せを絵に描いたような光景に私は口元を緩ませる。

踏切の上ですれ違ったとき、女の子は笑っていた。嬉しそうに、幸せそうに、その笑顔はまるで満開の桜のようで……

 

私は願う。

 

あの笑顔が今後散ることがありませんように、と。言葉になんて出さないけれど、心の底でそう願う。

 

「ちょっと四葉…大丈夫?」

「どしたの?ぼんやりしちゃって」

 

明里と花苗の声が聞こえる。私は足に力を入れると、勢いよく身体を反転させた。

 

「ううん、何でもない!」

 

不思議そうに首を傾げる二人。

 

「私さ、今日はどうしてもこの場所に来たかったんだよね」

「この場所って…この踏切のこと?」

「うん。この場所で何か大切なことがあって、何か大切なこと決めた気がするの。だけどときどき思うんだ。本当にその選択は正しかったのかなって」

 

いや、違う。正しいかというよりは、後悔していないか、その表現の方がしっくりくるだろうか。

 

明里と花苗からしてみれば、私が何を言っているかなんてわからないだろう。でも、二人はお互いの顔を見つめた後、こんなことを言ってくれた。

 

「どうかなー でも間違ってないんじゃない?その選択」

「どうして?」

「だって四葉、今すごくスッキリした顔してるし」

 

言われて初めて気が付く。その事実に正直驚く。

 

(はぁ、この二人には敵いそうにないなぁ。もしかして、今日遊びに誘ってくれたのも私を心配してのことだったりして?)

 

心のギアを入れ直す。

 

「よしっ! それじゃ早くそのお勧めのお店とやらに行きますか!」

「その言葉を待ってました!」

「今日は四葉をとことん励ましてあげるからね!」

「励ますって…え?どういうこと?」

「例の人とうまくいかなかったんでしょ!?」

「はぁあ!?」

 

思わぬ言葉に唖然としながらも、なんだか気分は高揚気味だ。

 

「だったら今日は二人の驕りねー」

「えーそれとこれとは別でしょー」

 

これから行くお店に心をわくわくさせながら、私たちは3人一緒に歩き始めたのだった。

 

 



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17 桜の季節の終わりとともに

四月の最終日。私は姉の暮らすアパートにいた。キッチンの一角で話をしながら、夕食の準備を手伝っていた。

 

「それで式はいつになったんですか?」

「えっと、今年の秋口かな。後で四葉ちゃんにも招待状送るから。都合がよかったら来てほしいなぁ」

「絶対行くに決まってますよ~」

「本当は6月が良かったんやけど、予定がなかなか噛み合わなくて」

「へぇ、それじゃもう準備は万端って感じですね」

「それがなかなか進まんのよぉ。三葉、あんたのときは計画的に進めんといかんよ」

「えっ、わたし!? わたしは、ほらっ、まだ早いと言うか。まだ付き合って1か月も経ってないわけやし」

 

照れに照れながら、満更でもないような顔をする。そんな彼女を見ていると、私も名取早耶香もニヤニヤ顔を崩せない。

 

私たち3人はこの後のイベント?に備えて料理の下ごしらえをしていた。手元を動かしつつも、このメンバーが集まると自然と会話も弾む。まぁ、料理半分、話半分といったところだ。東京に出てきて以降、3人で何かをすることなんてなかったから、昔に戻ったような感じがしてこれはこれでなんだか楽しい。

 

ただ、そんなとき。三人の笑い声に触発されたのか、除け者扱いになっていた人がするりとキッチンに顔を出した。

 

「なあ、三葉、おまえの彼氏はいったいいつになったら来るんや?」

 

勅使河原克彦がもう待ちくたびれたと言わんばかりに思ったことを口にする。どうやら相当暇なようだ。

 

「文句の多い男やな。立花くんは今日仕事なんやから、多少遅くなるのは仕方がないんよ」

 

早耶香はそう言って、勅使河原のことを戒める。その答えに、勅使河原は納得できないといった表情をつくった。

 

「仕事?今日は土曜日やぞ」

「瀧くんの会社は完全週休二日制なんやて」

 

もっともな疑問を口にする勅使河原を見て、すかさず姉が説明を加える。

 

「週休二日制?だったらなおさら今日は休みやろ?」

「んー 日曜日が休みなのは他の会社と同じなんやけど、祝日とかで平日が休になると、必然的にその週の土曜日が出社日になるみたい」

 

漠然とした説明だったけれど、勅使河原はおおよそ理解したようだった。でも、自分がまた暇になるのが嫌だったのか、私たち3人にこんなことを提案する。

 

「おれも何か手伝う?」

 

まぁ、昔馴染みとは言っても、一人暮らしの女性の部屋で男一人がぽつんと待たされるのは考えてもみれば苦痛かもしれない。そんなことを思ったけれど、きっぱり「いらない」と早耶香に言われてしまったものだから、気を落とすようにして彼は部屋の中に戻っていった。がんばれ彼氏さん…!

 

勅使河原と早耶香の二人が瀧くんと対面するのは、それから二時間ほど経ってのことだった。でも、正直なことを言うと、私は少し心配していた。姉の親友とは言っても、この二人と彼は初対面のはずだ。だから、最初から宅飲みなんてハードルが高いんじゃないか、とそう思ったのだ。

 

最初はどこかに食べに行くとか、軽く喫茶店でお茶するとか、別な方法があるのでないか、と。でも目の前の光景を見て、そんな心配はいらなかったことを理解する。

 

最初こそ固さがあったものの、この3人、いや、姉を含めれば4人か、はあっと言う間に打ち解けていた。男の勅使河原とは、まぁ、それなりに馬が合うのかもしれないけれど、早耶香も瀧んに対して心を許しているように思える。本当に初対面なのか疑わしいくらいで、まるで、昔からの友達であるかのように仲良しに見えた。

 

まぁ、お酒も入っていたからその影響があるのかもしれない。お酒ってスゲーとずれたことを考えつつも、4人がつくる暖かな雰囲気は私にとってもすごく心地のいいものだった。

 

「それホンマか!?」

 

いつの間にか、話題は宮水三葉と立花瀧の出会いの件に移っている。勅使河原が驚いたのは、どうやら電車で目が合って…のくだりを聞いたからだろうか。

 

「ほんと信じられんよね。なんやの、その運命的な出会いは」

「そ、そうかな」

 

早耶香の言葉に姉は相当照れている。相変わらずわかりやすい人や。

 

「だけど三葉、ほんとは彼のこと、もっと前から知っとったとかやないの?」

「んー……違うと思うよ。ほんとにその日にはじめて会ったんやから」

「おれも、大学の頃から同じ電車に乗ってたけど、その日にたまたま三葉を見つけて」

 

早耶香の言葉に、二人は否定の言葉を繰り返す。でも「もっと前から知っていた」という言葉を否定する際、どことなく自信なさげに見えたのは私の思い過ごしだろうか。

 

「私もいつもあの電車で、同じ場所から外を眺めていたんやけど、瀧くんを見たのはその日がはじめてやね」

「だったら、もっと前に会っていても不思議やないやろ?」

 

勅使河原はニヤリと笑いながら、そんなことを言っている。何か裏がありそうだと半信半疑のようだ。何かにつけて裏の事情を考えるのはオカルト好きの特性だろうか。

 

「んー、その日は確か、ちょっとだけ電車が遅れていたから、それでタイミングよく会えたのかもしれんなぁ」

「事故があったってこと?」

「事故ではないみたいよ。数駅先の踏切でな、学生二人が踏切の中に入っちゃったみたいで、それで、安全点検のために電車が止まったみたいなんよ。その男の子と女の子にケガはなかったみたいやし、すぐに運行も再開して―――」

 

私はそっと立ち上がった。

 

「四葉?どうしたの?」

 

「ちょっと、友達から連絡が」

 

姉からの問いに答えると、そのままベランダに出た。部屋の中はなんだか室温が上がっているのか、少し暑いような気がする。一人暮らしの部屋に5人も入っているのだから、まぁ、当然と言えば当然か。外の風がとても心地よく感じる。

 

携帯を見ると、花苗からのメッセージが届いていた。次はここだ!の文字。どうやらまた気になるお店を見つけたらしい。昨日の今日だと言うのに、行動力のある子だと、つい感心してしまった。

 

そんなとき、ガラガラと窓を開ける音がした。振り返ると瀧くんがそこにいた。少しビックリしたものの、努めて冷静さを装った。

 

「どうしたの?」

「いや。ちょっと、外の空気を吸いたくて」

 

彼はそんなことを言う。

 

ベランダに出てから窓を閉め、そっと私の隣に並ぶ。携帯をいじりながら、彼の横顔をちらりと盗み見るものの、何を考えているのかまではわからない。そのまましばらく無言の時間が続く。

 

「……四葉ちゃんは」

 

沈黙を最初に破ったのは彼だった。

 

「今は平気?」

 

その質問にすぐには答えられなかった。別に答えたくないとか、そういうのではない。彼の発したその一言には、たぶん、多くの意味が込められている。それを理解したからこそ、空返事にはしたくなかった。ちゃんと自分が納得する言葉で返したい。そう思ったのだ。

 

だけど、なかなか答えは見つからなかった。思えば、彼は私のことをどう思っているのだろう? 公園で助けて、また会って、食事をして、そして、好きな人の妹だとわかった。そんな私をどう見ているのだろう。直接聞いてみたい気持ちもあるけれど、それは少し、勇気が出ない。

 

彼には彼の事情があって、私には私の事情があった。お互いがお互いのことを考えていたわけではない。つまりは、そういうことなのかもしれない。

 

「その名前、禁止ね」

「え?」

「四葉ちゃん呼び禁止。これからは四葉でいいから」

 

質問の答えにはたぶんなっていない。だけど、彼にはこの言葉だけで十分だろう。

 

「…そっか」

 

彼は一言つぶやくと、顔を上げて空を見上げた。大都会の夜にもかかわらず、今日は星々が輝いている。

 

その隙を見て、私は一旦部屋に戻ると、自分専用のバッグを持ってまたベランダへと戻った。彼には返さなくてはいけないものがある。渡すとしたらこのタイミングがいいだろう。そう判断したからだった。

 

「瀧くん、これ」

「これって…」

「公園で助けてもらったときに、足に巻いてくれたタオル。今まで渡せなかったけど、返すね。あのときはありがとう。すごく助かった!」

 

これはひとつの区切りだ。私が彼のことを「瀧さん」と呼ぶことはもうない。彼が私のことを「四葉ちゃん」と呼ぶこともないだろう。あのとき借りたタオルはここで返す。

 

そうすることで、これからは家族として新たな関係をつくっていける。今までのことを精算し、また前へと進んでいける。

 

私はそう思った。なのに、

 

「あれ?」

 

彼をなんとなく眺めていたら、お腹のあたりに何やら光るものを見つけた。

 

「瀧くん、それ」

「ああ、これ? 四葉が前にくれたネクタイピン。便利だから使わせてもらってる」

 

四つ葉のクローバー絵が施されたそれは、確かに以前私からプレゼントしたものだ。いつの日か、イタリアンレストランで食事をしたときのことを思い出す。彼は「ちょうど欲しかったものだから」と嬉しそうにもらってくれた。

 

(やれやれ、これじゃすべてを清算できそうにはないかな)

 

彼女と彼が出会う前の、彼と私の思い出のひとつ。それが、彼の使っているネクタイピンには込められている。私は不意に笑った。

 

(ごめんね、お姉ちゃん。でも、これくらいは許してね)

 

ガラガラとまた窓が開く音がする。

 

「瀧くん?四葉?二人で何やっとるの?」

 

姉が声をかけてくる。戻ってこないから心配になったのだろうか。やれやれ、まだ数分しか経ってないんですが……

 

そんな姉の表情を見ていると、私のイラズラ心がくすぐられる。なので、つい私は調子に乗ってしまい、咄嗟に瀧くんの腕にしがみついた。

 

「邪魔せんといて! せっかく瀧くんと密談をしてたんやから! ねっ瀧くん!」

「ちょっ、ちょっと四葉! あんたくっつき過ぎやないの!?それに密談てなんやの!」

「内緒の話なんやからそれは内緒やよ! それに、もう瀧くんは私のお兄ちゃんなんやから、これぐらい普通やない!?」

「お、お兄ちゃん!?」

「えっ違うの?」

「い、いや、違うことはないけど、まだ先のことやないかと~」

 

姉はもうしどろもどろだ。ほんとに可笑しな人や。その返答や仕草を見て、私も彼もつい笑ってしまった。

 

「おーおー 四葉ちゃんが相手なら強敵やなー」

 

気が付いたら、勅使河原と早耶香までベランダに顔を覗かせていた。勅使河原の顔はもう真っ赤。酔っぱらいのおじさんみたいだ。

 

「あんた飲み過ぎやないの?」

 

そんな勅使河原に呆れつつも、早耶香も満更じゃない顔をする。

五人集まってのイベントは、まだまだこれからが本番だとでも言うように、尽きることのない笑いに溢れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日。五月一日、日曜日。姉の住むアパートからの帰宅途中。私は、あの場所を訪れた。ここに来るのはこれで何度目だろう?

 

私がいる場所は例の公園だった。立花瀧とはじめて出会った場所。

 

当然、いつものベンチに腰を降ろしてまわりを見渡す。駅近くの公園にしては、人がいないといつも思う。通勤通学で人が増える朝と夕方以外は、いつもこんな感じなのだろうか。

 

桜はピンクの花びらをすべて落として今は青く色づいている。ひとつの季節が終わりを迎え、新しい季節がやってきていることを実感する。

 

「ん~~」

 

私は大きく伸びをした。ベンチに座りながら、両手両足を大きく広げ、今まであったいろいろなこと出来事に思いを馳せる。ここ1か月半あまり、忙しい日々の連続だった。心も体も揺れ動き、何かを捨てて何かを拾うことの連続だった。

 

思い返せば……とても幸運な出来事ばかりだった。

 

立花瀧に出会えたこと。それもただの出会いじゃない。宮水三葉よりも先に出会えたこと。それ自体がとても幸せなことだったように思う。

 

もし、あの二人が先に出会っていて、今の恋人関係になっていたら、私は心の整理をつけられないまま、ずっと彼のことを想い続けていたに違いない。姉に遠慮して一歩引いてはみるものの、それでも諦めきれなくて。毎日鬱屈とした日々を過ごしていたのかもしれない。

 

あの日、立花瀧が姉の彼氏だと知ったとき、とてつもなく落ち込んだ。現実に押しつぶされそうになった。でも、それがきっかけで区切りを付けられたのも事実だ。

 

私は確かに立花瀧の側にいたかった。彼の隣にずっといることができたならどんなに幸せだっただろう。

 

でも、それ以上に強く願うことがある。

 

それは、お姉ちゃんの、宮水三葉の幸福だ。彼女には幸せになってもらう必要がある。そうじゃないと私が困る。

 

なぜかって? だって彼女は私の憧れであり理想なのだから。

 

私が目標にしている以上、幸せになるのが彼女の義務だ。そうじゃないと、彼女を目指す私だって幸せになんてなれない。彼女を目標にすることもできなくなると思うから。

 

8年前から、いや、それ以上にずっと前から、私は彼女を見続けてきた。当たり前だよね。家族として、いつも彼女のそばにいたのだから。

彼女が彗星災害以降、何かに苦しみ、何かに悩み、何かを探す姿を、ずっと見続けてきた。8年という長い間、私はずっとそうやってきた。

 

でも、私がやったのはそれだけだ。

 

“見るだけ”

 

それが私の取った行動で、踏み込むことをしなかった。彼女が苦しんでいることを知っていながら、彼女の問題に踏み込むことができなかった。

 

でも、立花瀧は違った。彼は彼女の問題に踏み込んだ。私にはそう思える。

 

ここ最近、大人になるにつれて感じることの多かったイライラは、もしかしたらこれが原因なのかもしれない。理由がないと動くことができない自分に、きっと私は飽き飽きしていたのだ。

 

 

もう一度言う。とてもとても幸運だった。

 

宮水三葉よりも先に立花瀧に出会えたことが。そしてそんな彼に

 

―――恋をしたことが。

 

私は立花瀧が好きだった。大好きだった。

 

今だったらこの気持ちに名前をつけることができる。頭の中に浮かぶ数多くの候補から一つを選ぶことができる。

 

私のそれは間違いなく“恋”だった。

 

桜の季節の訪れとともに始まったその物語は、桜の季節の終わりとともに終わりを迎えた。

 

とても素敵な物語だったと思う。あんなにいい人に出会えて、好きになれて、本当に“幸運”だったとそう思う。

 

後悔なんてしていない。

 

だって桜の季節は終わったけれど、季節はまた巡ってくる。ここの公園の桜の木だって、来年にはもっと綺麗な花を咲かせてくれる。

 

季節が巡るのと同じように、人との出会いもまた巡る。ムスビは決して途切れることはない。新たな出会いに私は胸を弾ませる。もう私は大丈夫。きっと私は大丈夫。

 

私は立ち上がった。瞬間、公園の中を風が吹き抜ける。突発的に吹いたその風は私の背中にぶつかった。

 

「背中でも押してくれるわけ?」

 

つぶやいた独り言に答える者は誰もいない。桜の季節の終わりと共に私は前へと歩きはじめる。この先に何が待っているのかはわからない。

 

だけどこれだけは言える。

 

私の物語は―――今、ようやくはじまったばかりだ。

 

 



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