戦火の巫女 (溜め無しサマソ)
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登場人物紹介・主な参考資料

 本編執筆にあたって登場人物の覚書を作っておりましたので、少し改稿したものをアップします。刀使ノ巫女原作ですがオリジナル作品なので最初から付けておくべきでしたね…。
本編を読む・読まないの判断、また読んでいる途中の参考資料にでもしていただければと思います。

2021年1月、参考資料を加えました。半藤一利さんのご冥福をお祈りいたします。


<本作オリジナルの登場人物>

 

来栖 直(くるす なお)

生年月日:昭和3年1928年3月24日

登場話 :一章~

御刀  :義元左文字(宗三左文字とも)

流派  :北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)

主人公。東京生まれ東京育ちだが、父と母の実家は新潟県長岡市になる。父は元陸軍軍人、兄は現役陸軍軍人、母方の祖母は元刀使という家庭で育つ。主人公らしく元気で素直、そして強い。12歳で刀使に選ばれ、その後、日本中から優秀な刀使を選抜した組織「護国刀使」に入隊する。少し人とは違った視点、自分の物差しを持っている。戦争で過酷な体験を重ねることになるが、それを自分なりに克服し、成長していく。

身長はだんだん伸びて、護国刀使の中では3番目に高くなる。髪型は高めの位置にまとめたポニーテール。

モチーフは可奈美。素直が来るから来栖直。

 

 

沢 泉美(さわ いずみ)

生年月日:昭和3年1928年1月

登場話 :一章~

御刀  :蛍丸

流派  :鏡心明智流(きょうしんみょうちりゅう)

護国刀使では直と同期で同部屋、刀使に選ばれたのも同じタイミング。

直とは違い現実的かつ常識的な考えの持ち主のしっかり者。家族と上手く行っていなかったが、それが改善されて剣の腕も上がる。直とは最初から最後まで良き友、良きパートナーという関係。身長は護国刀使の標準程度、髪は腰までのロング。

胸の成長が控え目な人をモチーフにしようかと思ったものの、あれほどの危うさはさすがに無い。

ついでに御刀はとじともの変態と一緒だが、大型の御刀を持たせたかっただけで泉美は変態では無い。

 

 

四条 吉乃(しじょう よしの)

生年月日 :昭和2年1927年4月4日

登場話  :一章~

御刀   :童子切

流派   :京八流(けいはちりゅう)

直、泉美と共に刀使となった姉妹の姉、京都出身。剣術は姉妹揃って源義経とつながりがあるといわれている京八流。実は弓、槍の扱いも上手い。妹を深く愛しており、構ってもらわないと機嫌が悪くなる。立ち居振る舞いが美しく、美しい黒髪の持ち主。大抵のことはそつなくこなすいわゆる天才型の人間で、高い洞察力、身体能力とひらめきを持つ。

金剛身、八幡力は護国刀使トップクラスだが迅移は今一つというパワーファイター。しかし頭がいいのでゴリ押しのような戦い方はしない。

身長はやや高め、髪は肩より少し長い。

モチーフはエレン。

 

 

四条 八重(しじょう やえ)

生年月日 :昭和3年1928年2月23日

登場話  :一章~

御刀   :大包平

流派   :京八流

吉乃の一つ下の妹で、直、泉美とは同い年。姉とのコンビネーションは曲芸レベルであり、二人に狙われた荒魂は全く対応出来ずに屠られる。世間離れした感のある姉とは違いリアリストの一面を持ち、貯金を趣味としている。刀使の仕事は実入りがいいので気に入っているが、命が懸かっているためコストパフォーマンスがいいかといわれれば実はそうでもないなとも思っている。大局観を持っており、戦争について懐疑的。この戦争は国を滅ぼすのではないかと考えている。天才の姉を小さい頃から見て育っているため、人にはいろんなタイプがいる、と達観しているところがある。

身長はやや低め、髪型は肩に届かないくらいのショート。

モチーフは薫。

 

 

霧島 由良(きりしま ゆら)

生年月日:大正14年1925年

登場話 :一章~

御刀:同田貫正国

流派:柳生新陰流

護国刀使最年長、穏やかな性格で隊員たちに親しまれている。刀使としての実力は既にピークを過ぎているが、強靭な写しを長時間張ることで知られている刀使で、その実力はまだ一線級である。守りに徹して長期戦に持ち込み、相手の隙を突いてカウンターを決めるという戦い方を得意としている。

実質的な護国刀使のリーダーであり、戦時下にあって隊員の命を守る事を何より重視している。普段はトロく見られがちだが実は非常に頭の回転が速く、いざという時の判断力に富んでいる。

身長は標準程度、髪型は先っぽ結びのロング。

モチーフは「響け!ユーフォニアム」の小笠原部長。

 

 

武田 千鶴(たけだ ちづる)

生年月日:大正14年1925年10月 

登場話 :二章~

流派  :未定

御刀  :豊後国行平

由良とは同学年。華族の出身ながら、幼い頃から剣術を仕込まれており、御刀に選ばれる。実力はあるが根っからの美食家であり、さらに料理も自分でしないと気が済まないという変わったお嬢様であるため、実戦に赴くことはほとんどなく、護国刀使の烹炊長として隊舎の厨房に君臨している。烹炊長である自身が献立作りや調理指揮を行い、日替わりの炊事当番が4人、彼女の下について日々の食事を作っている。幼い頃から栄養状態が良かったためか、身長、胸囲ともに隊では最も大きい。

快活なお嬢様、ということで特にモチーフとなっているキャラクターはいない。

 

 

早乙女 凪子(さおとめ なぎこ)

生年月日:昭和元年1926年12月28日 

登場話 :一章~

流派  :直新陰流(じきしんかげりゅう)

御刀  :髭切

年長組で常に先鋒を担う斬り込み隊長。剛剣で知られ、重い一振りで一撃必殺の戦いをする。明眼持ちであり、最前線で味方を鼓舞しながら戦う姿は多くの仲間たちから頼りにされている。表向きは非常に厳格な面を見せるが、私生活では意外とだらしない。由良と組むことが多く、互いの弱点を補い合うコンビになっている。

身長は隊で2番目に高い。すこしクセの毛を束ねている。

モチーフは獅童さん。昭和元年は1926年12月25日から31日までの7日間しかない。

 

 

鷹司 京(たかつかさ きょう)

生年月日 :昭和2年1927年

登場話  :四章~

流派  :京八流

御刀  :三日月宗近(みかづきむねちか)

藤原道長に連なる五摂家出身の刀使、京都出身。折神家とは古くから付き合いがあるが、五摂家から見れば格下であり、当然のように見下している。刀使の力を軍に提供することに積極的で、折神香織と組んでノロを接種させた疑似刀使を作り、それを指揮している。

プライドは高いがそれなりの実力も兼ね備えており、能力も無いのに威張っているだけの人間を非常に嫌う。また、美食家で食べ物にうるさいという一面をもっており、同じ刀使で同じ華族、そして料理上手の千鶴には昔から一目置いている。四条姉妹とは同門、お互いに面識があり、それなりに認め合ってはいる。

ノブレスオブリージュの思想に傾倒しており、力無き貴族を嫌う。愛国主義者でもあり、この美しい日本を守るためなら命も惜しくはないというある意味軍国少女。

そうした純粋さが他人を惹き付ける要素となっており、熱烈なファンが男女を問わずに存在する。子供の時から厳しい稽古を続けており、その結果刀使となった努力型の人物。

神功(じんぐう)刀使という組織を作って護国刀使と対立する敵方の人物ではあるが、確固とした信念を持っており、またユーモアを解する人物で、悪人ではない。

モチーフはタギツヒメというか、「ガルパン」のアンチョビというか…。

神功刀使の「神功」の由来はかつて海を渡って朝鮮を制圧したという神功皇后から。神功皇后はその後、応神天皇を産み、これが現在の皇室直系の血筋と言われている。

 

 

<原作とのコネクションがある人物>

 

折神 碧(おりがみ みどり)

生年月日 :大正8年1919年

登場話  :二章~

御刀   :未定

流派   :未定

綾小路折神家当主。折神家は明治初期の廃仏毀釈運動の際、京都の綾小路折神家と、鎌倉の錬府折神家の2家に割れる。

碧は劇中で最も美人。既に刀使としての力は失っているが、折神家当主として政治向きの仕事にも携わっている。その一方で早く跡継ぎを産むよう、うるさく言われており、昭和18年に結婚。軍事利用から刀使たちを守りたいと思っているが、国難に対してはそれも止む無しなのかと揺れ動く。

 

 

折神 香織(おりがみ かおり)

生年月日 :大正3年1914年

登場話  :四章~

折神家の分家、鎌府折神家の出だが、刀使ではない。明治維新の廃仏毀釈の際に折神家の内部で御刀合祀に関して諍いがあり、その頃に別れた。その後、表面的には本家と和解している。

碧のよき理解者としての立場を装っている。穏やかで笑みを絶やさない人物だが、本家に対しては怨念に近い感情を持っている。

陸軍の一部2・26事件で粛清された旧皇道派と結託、というかそのうちの青年将校の一人と男女に仲になっていた。が、彼は事件後に処刑される。これが彼女にとって大きな心の傷になる。天皇機関説 昭和維新、そんなことはどうでもよかった。

軍刀を使った量産型の御刀を作り、実験的にノロを与えた少女たちにそれを持たせて疑似的な刀使部隊を作るなど、軍に協力して暗躍する。

 

 

柊 真知子(ひいらぎ まちこ)

生年月日 :未定

登場話  :八章

御刀   :小烏丸

流派   :鹿島神當流

胸の成長が控え目な人と関係がある刀使。落ち込んでいた直に立ち直る切っ掛けを与える。

胸の成長が控え目な人とは対照的に、元気でやかましい子。

スポット登場ながら書いていて楽しかったお気に入り。

 

 

エリザベス・フリードマン

生年月日 :未定

登場話  :十二章

非刀使、リチャード・フリードマンの母、つまりエレンの曾祖母。戦後処理のためGHQがアメリカ本国から召喚した知日派。呼び出した直と由良にデスマス口調で話し掛ける。

日系の血が入っており黒髪、体型は曾孫と同様。

 

 

 

 

 

主な参考史料

 

・新版 山本五十六     阿川弘之 新潮社

・米内光政 上・下     阿川弘之 新潮社

・日本のいちばん長い日   半藤一利 文藝春秋

・華族令嬢たちの大正・昭和 華族史料研究会編 吉川弘文館

・餓死した英霊たち     藤原彰      ちくま学芸文庫

・ドキュメント東京大空襲  NHKスペシャル取材班 新潮社

・写真版東京大空襲の記録  早乙女勝元 新潮文庫

・地図で読む東京大空襲   菊池正浩 草思社

・空から見る戦後の東京   竹内正浩 実業之日本社

・海軍さんの料理帖     有馬桓次郎 ホビージャパン

 

・伍箇伝計画 刀使ノ巫女コンセプトワークス

・刀使ノ巫女 デザインワークス

・コミック版刀使ノ巫女1~3巻 さいとー栄 角川書店

・刀使ノ巫女 琉球剣風録 朱白あおい 集英社

 

その他、映像作品や戦時猛獣殺処分い関する論文など。

 

 



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序章、一章

序章

 

 昭和15年、西暦1940年は皇紀2600年にあたる年だった。「皇紀」あるいは「紀元」というのは、もう使われることの無くなった日本独自の年の数え方で、初代の天皇とされる神武天皇が即位してからの年数をこれにあてている。つまり、西暦1940年は神武天皇が即位してから2600年目にあたる年であったということだが、残念ながらその神武天皇の存在は架空とされている。ではこの暦は一体何なのかというと、日本には西暦よりも長い歴史を持つ暦がある、ということを世界に示す明治維新後の日本が強く持っていた西洋コンプレックスの現れ、だったといえる。

いずれにしても、この節目の年には日本全国で様々な祭祀が催された。そしてそれら祭りの雰囲気に御刀の神性も浮かされたのかどうかはわからないが、この年には多くの刀使が誕生している。主を持たない御刀が、何かに導かれるようにして刀使となる少女たちを選んだ…そんな年だった。

 

 その十一月、芝の増上寺台徳院殿では今まさに新たな刀使たちが生まれようとしていた。後に空襲で失われたこの荘厳な社は、徳川二代将軍秀忠の菩提を弔うために建てられた。朱塗りの廊下を真っ直ぐに進むと拝殿がある。廊下と同様に一面が鮮やかな赤で彩られたこの空間に、神職と思しき男たちの姿があった。束帯姿の彼らの顔は、妙な文様の描かれた布で覆われ、その表情を窺い知ることは出来ないが、いずれも老齢に差し掛かっていることは、垣間見える頭髪に白い筋が多く混じっていることが示していた。そして、拝殿に供えられるようにして置いてあるのは四振りの御刀ー童子切、大包平、蛍丸そして義元左文字…いずれも名にし負う名刀だった。一人の神職の男が前に進み、拝殿に一礼してから廊下の方を振り返る。それを受けて、四人の少女たちが一列になってゆっくりと進んできた。いずれもまだ十代の初め、幼さの残る顔立ちをしているが、巫女装束に身を包み、作法通りに歩みを進めるその様子には年齢を超えた神秘的な様子が窺えた。

四条吉乃には童子切、四条八重には大包平、沢泉美には蛍丸、来栖直には宗三左文字が、順に下賜された。

 

四振りの御刀に同時に選ばれた四人の少女たちは、こうしてこの日、刀使となった。

そして、このほぼ一年後となる昭和16年12月、日本は太平洋戦争に突入する。

これは、最も過酷な時を刀使として生きた少女たちの物語である。

 

 

 

 

 

 

 刀使の巫女外伝 戦火の巫女

 

 一章

 

「では、確かにお預かりします」

「よろしくお願いします。あなたがたの御刀ほど貴重なものではありませんが、それでもこの神社の護り刀として受け継がれてきたものです。どうか…」

そういって差し出された御刀を、直は両手でしっかりと受け取る。これで何度目になるだろう。どこの神主さんも、この時は本当につらそうだ。

「お任せ下さい。こちらの御刀は間違い無く折神家に管理されます。どうぞ、ご心配なく」

直の傍らに立つ泉美がそう答えると、中年の神主はようやく口元に笑みを浮かべ、

「そうですね、このご時世、折神家に…お国にお預けして役立てていただけるならば、これに勝る幸いは無いでしょう…。御役目、ご苦労様です。護国刀使の皆様にも幸あらんことを」

「はい、ありがとうございます」

二人は声を揃えて一礼し、社殿を後にした。

 

 昭和18年4月、戦局は悪化の一途を辿っていた。食糧は既に配給制となっており、国民生活は慢性的な物資不足に陥いろうとしていた。さらに、そんな世の中の不穏な空気にあてられたのか、荒魂の出没件数が増加していた。

戦時の国民生活にこれ以上の混乱が拡がるのを憂いた政府は、刀使たちの頂点たる折神家と有識者を交えた会合を何度か開いて、各地の社に祭られている御刀とノロの回収を決定する。それはいわゆる「金属類回収令」に付随した法令として整えられ、回収には全国から選抜された刀使たちが充てられた。彼女たちは新たに結成された内務省神祇院付けの特別組織「近衛祭祀隊」に所属することになり、隊員たちは「護国刀使」と呼ばれ、表向きには御刀とノロの回収、及び荒魂討伐を任務としていたが、その実、帝都東京の有事に備えて配備された防衛部隊としての一面も持ち合わせていた。近衛歩兵連隊や皇宮警察ほどの規模は無いものの、「近衛」の名の通り宮城(皇居)の敷地内に宿舎を構え、回収した御刀やノロを祭っていた。

そのため、年端も行かぬ少女たちが宮城の内外を駆け回る事になったのだが、そもそも巫女としての神性を併せ持つ彼女らの存在は無粋な軍人や警察などよりよほど宮城の空気に合っており、また、健気にお国のために働く少女たち、という観点からも「少国民」といわれた当時の少年少女たちの模範として広く国民の人気を集めていた。

 

 街を行く彼女らの存在は嫌でも目立つ。戦時下であるため決して派手さは無いが、それでも軍服に巫女服の意匠を盛り込んだ制服、腰に帯びた御刀に加えて回収した御刀も携えているとなれば当然のことだった。子供たちに手を振られるのはいつものことだし、大人たちからもよく頭を下げられる。

「私、やっぱりこういうの少し苦手です」

大人たちの会釈に応じながら泉美がそういう。

「そうですか?そんなに気にすることもないと思いますよ。『見タカ華麗ナ一本差シヲ、アレゾ帝都ノ護国刀使』って皆さん、応援してくれてるわけですし」

直は子供たちに手を振りながら屈託のない笑顔でそう答えた。確かにそんな謳いがある。本当に応援されているのか、それとも少女たちが日本刀をぶら下げて歩いている姿を揶揄されているのか、わかったものではないのだが、いずれにしても、

「それ聞くと結構恥ずかしいんですよね…」

それが泉美の率直な思いだった。

「そうだ、泉美さん、うちのおばあちゃんの家がこの近くなんです。少し寄っていきませんか?」

何が「そうだ」なのか、直が唐突におかしなことを言い出した。

「え?それはちょっと…お役目の最中ですし…」

「大丈夫ですよ。おばあちゃん元刀使ですし、それに多分甘い物食べさせてくれますよ!」

「いえ、あの、そういうことを言っているのではなくて…ちょっと、直さん!?」

「ほら、こっちですよー」

泉美は一つ、溜息をついて直の後を追った。全くこの、能天気ともいえる同期の刀使のこういう所は呆れる思いではあったものの、同時にうらやましくもあった。そもそもさっさと先を行ってしまう身のこなしが既に並ではない。刀使になって二年と少し、直は文句無く同期で最強の刀使だった。それどころか今や全国から選抜された護国刀使の中でも最強ではないかと目されているほどだ。

「ああいう、物事を深く考えない所が良いんでしょうか…」

泉美はぼやくように直の悪態を突きつつ、甘い物が食べられるかもしれないという誘惑に自分が完全に負けていることにも気が付いていた。

 

 直の足が止まったのは、日本橋でも知られた乾物問屋だった。さっさと暖簾をくぐって行く背中を追いかけて、慌てて泉美も店に入る。

「こんにちは!」

「おお、これは神田のお嬢、よくいらっしゃいました。ちょいとお待ちください。大奥様!」

法被をまとった店番の男がいそいそと店の奥に入っていく。

「神田のお嬢?」

「実家が神田なんです」

「そう、でしたね」

また、自分の聴きたい答えとは何となく違うような気がするな、と思っていると、

「おや、これは護国刀使の方々、突然のお越しだね。けどうちには御刀もノロもないよ」

「おばあちゃん!」

現れたのはおばあちゃん、というには随分若く見える女性だった。スラリと背が高く、立ち姿が美しい。そこへすかさず、直が飛びついた。

「こらこら、お役目の途中なんじゃないのかい?」

「すぐ近くで御刀の回収があったからちょっと寄っただけだよ」

「全くこの子は…ああ、そちらは?」

「あ、沢泉美と申します。直さんとは同室で、よく組ませていただいております」

「ああ、あなたが…お話はよく聞いておりますよ」

いいながら、泉美は自分がじっと観察されていることに気付いていた。それは、初手合わせの相手と接した時の感覚によく似ていた。

「失われた鏡心明智流を使うとか…どうです、奥で少しお話を聴かせてくださらない?」

続く言葉は本心からのもの…元刀使の好奇心なのだろう。

「あ、はい…」

それにしてもお役目中であることを咎めるのではなかったのだろうか。さすがこの孫にしてこの祖母ありだな、と思いつつも泉美はいわれるがままに店の奥へと入っていった。

二人が通されたのは、凡そ乾物屋というイメージからは程遠い革張りのソファが置かれた洋風の客間だった。普通の客間と少し違うのは、部屋の奥に一振りの短い刀が祀られるようにして置いてあることだった。

「へえ、ご実家は長野なの。けれどそれで何故、鏡心明智流?」

「はい、うちの曾祖父が幕末の頃に武市瑞山先生から剣を習ったことがあるとかで…お恥ずかしい話、事実かどうかも定かではないのですが、それを真に受けて我が家はそれから地元で小さな剣術道場をしているんです」

「へえ、あの勤皇家の武市半平太…先生ね?そんなことがあったなんて知らなかったわ」

「いえ、ですから本当かどうかもわからないので…」

「ねえ、たけち何とかって誰のこと?」

それまで祖母と同僚の顔を交互に見るだけだった直が口を開いたと思えばそんなことを言い出したので、二人の興は何となく削がれた。

「あんたはもう…呆れた子だよ全く。明治の御一新における土佐の雄だよ」

「ふーん。ま、そりゃあおばあちゃんは刀使の歴史編纂なんかをしてたから詳しいかもしれないけどさ」

「そんなことは常識です。全く、藤十郎さんも佳代もあんたを甘やかすから…」

「ああもう、そんなの今は関係ないでしょ!」

そのやりとりはなかなかに微笑ましい。最強の刀使も祖母にかかれば完全にお子様扱いだ。泉美はくすりと笑いながら、そういえば、と思い立つ。

「あの、おばあ様のお名前、旧姓もよろしければ教えていただけませんか?」

「ああ、そうですね。まだ名乗りもせず、失礼いたしました。私は向島タツ、旧姓は河井と申しました。直は私の娘の娘です」

「河井…タツ…さん」

泉美は口の中で呟くようにそういった。河井タツ、この時代の刀使であれば、聴けば思い当たる節のある名だった。

「え、あれ、あの、『対荒魂教本』の…!?とういうことはあの奥にあるのは毛利藤四郎!?」

「はい、拙著が未だに刀使たちの教本に使われているとは何とも気恥ずかしい限りですが、あれは私がまとめたものです。それからあれは確かに藤四郎ですが…」

そういって、タツは微笑みながら振り返る。

「模造刀です。刀使を引退する時に打ってもらったものですよ」

「ああ…」

刀使が刀使でいられる期間は決して長くはない。多くの場合その力は十代後半を頂点にして減衰していく。力を失うと御刀を返上して刀使を引退するが、その時に自分の御刀を模した刀を打ってもらい、記念にするという刀使が少なくなかった。

だが、それはそれとして、

「驚きました。まさか直さんのおばあ様があの河井タツさんだなんて…」

日頃、自分たちが座学で使っているあの教科書の作者が目の前にいる。これは何とも驚くべきことだった。

「すごいよねえ、おばあちゃん。私は座学なんて全然駄目なのに」

「私だって自分の得意分野以外は苦手でした。でもあんたと違って真面目にやってました」

「もう、意地悪だなー」

「ははは、まあ座学も実技もしっかりね。あら、出来たみたいね」

広い窓から、廊下を渡ってこちらへ向かってくる人影が見えた。間もなく、ドアがノックされる。

「はい、どうぞ」

「失礼しますよ。直さん、いらっしゃい」

「あ、伯母さま、どうもお邪魔してます。泉美さん、こちらは私のお母さんのお兄さんの奥さんで富美子さん」

泉美は立ち上がり、

「どうも、お邪魔しております」

礼をとった。富美子はそれを見て穏やかに笑いながら、

「ああもう、いいんですよ。それよりほら、お二人共どうぞ」

そういってテーブルにガラスの器を置いた。

「わあ!みつ豆だ!」

「…!」

泉美は思わず息を呑んだ。器の中にはたくさんの寒天があり、陽の光を受けてきらめくそれは、宝石にさえ見えた。実際、みつ豆どころかあんこが既にぜいたく品になっている昨今、宝石というのもあながち言い過ぎではない。

「うちは商売柄、まだテングサが結構手に入るのよ」

泉美の様子を察したのか、富美子がそういった。

「あ、あの、いただいても…いいんですか?」

「もちろんよ。遠慮なく召し上がれ」

意を決して泉美は匙を手に取った。隣の直はその様子をにやにやしながらじっと見ていたが、それを気にしている余裕は無い。

「いただきま…」

す、と最後まで言う前に、奇妙な音が響いた。直と泉美の顔色が変わる。

「おや、スペクトラム計が反応しているね」

元刀使の言葉に現役刀使の二人は溜息をつき、懐から方位磁針のようなものを出してテーブルに置いた。小さな二つの円盤の中にある血のように赤い半液体状の物質が、揃って同じ方角に伸びていた。

「おばあちゃん…今はね、荒魂類探知計っていうんだよ」

「ああ、敵国語は使うなということかい。それにしても随分味気の無い名前になったもんだね」

タツはそういいながら、少し懐かしそうにその円盤を眺めた。

「ま、私たちはノロ磁針って呼んでるんだけどね」

「はは、そっちの方がなんぼかいいんじゃないかい?それより、随分近いみたいだね」

荒魂が検知されたら、たとえ親の葬式の最中であってもすぐに駆け付けなければならない…それが護国刀使の隊規だ。

「はい…至急、現場に向かいます」

「うう…物凄く残念だけど、おばあちゃん、伯母さん、いってきます」

「ええ、気を付けていっといで」

「ああもう、こんな時でなくてもいいのにねえ…」

二人はその言葉に深く同意しながら、もう一度溜息をついて、席を立った。

 

 日本橋の周辺はかつて、隅田川とつながる掘割と呼ばれる水路が縦横に走り、江戸の頃から物流の拠点となっていた。そしてそれは、江戸から東京となって70年が経つこの時代においてもさほど変わりは無く、隅田川の川岸まで行けば多くの倉庫が立ち並んでいた。ところが、この水路は時として荒魂が利用することがあった。彼らにとっても便利なものであったらしい。

「泉美さん、この反応…多分、掘割からですね」

「ええ…とにかく、まずは周辺の方たちを避難させましょう」

「水の中だとどこから飛び出してくるかわかりませんから、もう備えておいたほうがいいですね」

直は腰の御刀の鯉口を切り、抜刀した。目を瞑って集中すると、手にした御刀から全身に霊力が巡って行くのがはっきりとわかる。

「写シ」

小さく呟くと、全身がうっすらと光に覆われる。気力の充実を感じ、目を開ける。いい状態だ。隣では同様に泉美が抜刀し、写シを張っていた。

「では私は海の方に向かいます。泉美さんはこのまま流れを上って下さい」

「わかりました」

二人は逆方向に駆け出した。幸い、船はほとんど川岸に係留されていて、人の姿はない。直は義元左文字を脇構えに、水路沿いを進んでいく。既に花の終わった後の桜が、所々で風に揺らぎながらまだ生え揃っていない緑の葉を揺らしている。

「結局今年はお花見にいけなかったな…まあ、不謹慎っていうのもわかるけど…」

戦地で戦う兵隊さんのことを考えればお花見で浮かれている場合ではないし、そんなところを人に見られでもしたら特高や憲兵に引っ張られる。そもそも、花の下で広げる弁当もお酒も無い。戦争が国を挙げての一大事ということはわかっているが、一体いつまでこんな生活が続くのだろう…そんなことを考えていたら、不意に大きな水音が、すぐそこで起きた。見ると既に、間欠泉のように一筋の飛沫が上がっている。そしてそれは、大きな放物線を描きながら、再び水路の少し先へ飛び込んでいく。その動きはまるで、

「うわあ…龍みたい」

そう、さながら龍のようであった。しかし、龍であるわけが無い。龍でなければそれは、

「あんな荒魂、いるんだ」

そういうことになる。直が水路に向かって正眼に構えると、すぐにまた水しぶきが高々と上がった。今度は直を目掛けて襲い掛かって来る。荒魂独特の『ギィィ』という叫び声が耳に届いた。

「ふうん…そういう真っ直ぐなの、嫌いじゃないよ!」

直は怯むことなく、龍の頭の部分で橙色の光を放つその荒魂を刀身で受け止めた。鍔迫り合いのような恰好になったが、随分直線的な動きの荒魂だな、と思った直は、両手の力をふっと緩めて御刀を背後に反らした。不意に拮抗する力が無くなった龍の荒魂は、勢い余ってそのまま刀身を滑って行き…地面に激突した。

ギャアアア、というような声が響き、長い水の身体がきらきらと輝きながら四散した。美しい眺めではあったが、足元に目を移すと、その水の身体を失った貧相な龍の頭が転がっている。どうやらこれが本体であったらしい。

「こういうの何て言うんだっけ…あ、そうそう、竜頭蛇尾だ。まあそういうことで荒魂さん、相手が悪かったわね。みつ豆の恨み、とくと味わってもらうからね」

そういって、やっと起き上がった荒魂に切っ先を向けると、竜頭蛇尾であり、羊頭狗肉であったそれは、人間のようにビクリと身体を震わせた。

「んん…何か調子狂うなあ」

「直さん!大丈夫ですか!?」

そこへ、泉美がわざわざ迅移を使ってやって来た。

「ああ、泉美さん。大丈夫ですよ。全然、全く問題ありません」

「でも随分大きな荒魂に見えましたけど…って、もしかしてそれが?」

「ええ、これなんです」

最早、直は完全に警戒を解いて、荒魂に背を向けて泉美に話しかけていた。その時、

『ギギギ』

と、荒魂が何やら反応した。だがそれは、別にこちらを襲う、というわけでも無いようだった。

「何?何か言い遺すことでもあるの?」

即座に切っ先を向けると、再び荒魂は萎縮する。

「直さん、怖いですよ…。あれ?もしかしてその御刀に反応しているのでは?」

「え、これ?」

それは、先程この近くの神社から回収して来た御刀だ。自分の御刀とは別に、腰の後ろに括り付けていたのだ。直は少し首を傾げるようにしてから、義元左文字を収め、その御刀を鞘ごと腰から抜いて見せた。

「ほれほれ、これが欲しいのか、荒魂さん」

『ギギ、ギギギ』

「あはははは、ギイギイいってる、おもしろーい!」

「ちょっと、直さん?」

「わかってますよ。いい、荒魂さん。これは私たちが仮にお預かりしている大事なものなんです。あなたにあげるわけにはいきません。その代り…この義元左文字を喰らわせてやるわ!」

再び抜刀した直におののいて小型の荒魂はすかさず跳ねて距離をとったが、それでもやはり、完全に去ろうとはせず、こちらを見ている。

「何なんでしょう?こんな荒魂は初めてです…」

「そうですね、私も初めてですけど…でも、何となくわかるかな」

「え?わかるんですか?」

問い返した泉美に微笑みながら、直は左文字を収めて荒魂の方へ歩き、左手に持っていた御刀をそっと地面に置いた。

「さ、別に斬ったりしないから、おいでなさい、荒魂さん」

荒魂は直の方をうかがう様子を見せつつも、じわじわと御刀の方へ寄って来た。そして、前足がかかる所まで来ると、御刀を揺すりながらまた「ギギギ」と鳴いていた。それは戯れのようでもあったのだが、しかし、どう見ても嬉しそうにしているのがわかる。

「変なの。荒魂さん、笑っているみたい…」

直はその様子をしゃがんで見ていた。普通なら、とてもありえない光景だった。荒魂を目の前にしてこれほどの無防備をさらすなど、刀使としては考えられない。

「あの、直さん…?」

「荒魂さん、あなた、この御刀から生まれたノロから生まれたの?」

「え?」

荒魂は、その直の言葉を受けてかどうか、ギ、ギ、ギと声を上げた。

「直さん、わかったっていうのは…そういうこと?」

「え?ああまあ多分、ですけどね」

「なるほど…確かに、そういうことがあっても不思議ではない…かもしれませんね。それにしてもよくそんなことに気付きましたね」

「え?何いってるんですか、この御刀に反応してるみたいって教えてくれたのは泉美さんじゃないですか」

「それは、そうですけど…」

「この御刀、明治のご一新の頃に打たれたものらしいですから、まだまだ新しいんですよね。だからきっと、この荒魂さんもまだ子供で、この御刀が離れていっちゃうのが嫌で襲って来たんじゃないかと思うんです」

直は、御刀の側を離れようとしないしない荒魂を段々可愛く思えるようになっていた。これが人に仇なす物の怪だとはとても思えない。甘えん坊の子供のようだ。

「でも、それは荒魂ですよ?私たちはそれを斬って祓わないと…」

「それが刀使のお役目ですものね。わかってますよ」

直は義元左文字を抜刀して立ち上がった。

「良く聴きなさい、荒魂さん。この御刀は私たちが持って行きます」

そして、そういって荒魂から御刀を取り上げる。またギイギイと騒ぎ始めたので、すかさず左文字を向けると、すぐに大人しくなった。

「でも、あなたが今後、人を襲わないと約束出来るなら…またこの御刀を持って来てあげてもいい」

『ギギギ』

「…これ、会話として成立しているんですか?」

横からの泉美の問い掛けに、

「さあ、わかりません」

直は短く答えた。確かにわからない。だが、荒魂は基本的に人の行動を理解しているものだという。中には高い知能を備えたものもいる、と祖母の教本にも書いてあった。

「でも、もし約束を違えるようなことがあったら…」

直は、折よくひらひらと舞って来た桜の葉を、ほとんど何の予備動作も無しに真っ二つに斬ってみせた。

「わかってるわね?」

『ギ…ギギギ…』

多分、伝わっているのだろう。直は何となくそう思いながら再び左文字を荒魂に向けた。

「さ、わかったら掘割に戻りなさい。あそこが住処なんでしょう?」

荒魂は少したじろいでから、直と、泉美の横をカサカサと通って、最後に一度こちらを振り返ってから、水路にドブンと飛び込んでいった。

「やれやれ、おかしな荒魂でしたね」

左文字を収めながら直がいうと、

「対応した刀使も大分おかしいと思いますけど…いいんですか?」

「ええ、大丈夫。折神家にお願いしてこの御刀を借りようと思っているんです。ここはおばあちゃん家の近くだからたまに来ますので。約束は守りますよ」

「いえ、荒魂を見逃してもいいのか、ということを聞いたんですけど…」

「んーそっちですか…。そうですねえ…泉美さんは前に、益子の刀使の方が来てお話されたの、覚えていますか?」

直は、いいながら歩き始めた。

「ええ、私たちが護国刀使に選抜されてすぐ、でしたよね」

「そうです、そうです。私、その時のお話を聞いて、ああそうか、って思ったことがあるんですよね」

「確かに色々と面白いお話をされていましたが…」

「ええ、その中でですね、『大事なのは荒魂を斬ることではない、そのケガレを祓うことだ』っていうのがあったんですよね。荒魂は人の身勝手で生まれているわけですから、それをただ斬るっていうのは違うなって私も常々思っていたんです」

「荒魂が人の勝手で生まれている…ですか?」

「だってそうじゃないですか。人が御刀と刀使の力を欲しいと思うからノロが生まれて、それが荒魂になるんですから、それは人の勝手ですよね。御刀も刀使も別に要らないやっていうことになれば荒魂は出て来ないんじゃないですか?」

「それは確かに…そうかもしれませんけど…」

「もちろん、そんな単純な話じゃないことは私にだってわかっています。ただ、ですね、斬るだけが荒魂を鎮める方法ではない、そう思えばもっといろいろと可能性…っていうんですかね、そういうのがひろがると思うんですよね」

もしかしたら荒魂と付き合っていく、ということは可能かもしれない。直は、さっきの荒魂の様子を見て、割と本気でそう思っていた。

横を歩く泉美は、呆気にとられたような顔をしてから、

「本当に、おかしな刀使ですね」

そういって笑った。

 

 

 護国刀使の少女たちが「寮」と呼んでいる「近衛祭祀隊舎」は宮城北の丸、大手門に近い外濠川に面した木立の中に位置していた。ここは宮殿から見て鬼門の方角になる。地上二階、地下は二階もある珍しい構造の建物であったが、もちろんこれには理由がある。

 在席中の護国刀使たちに緊急招集がかけられたのは、その日の昼を少し過ぎたあたりだった。全部で48名の護国刀使のうち、半数以上が外に出ており、集まったのは20名にも満たなかったが、その中に直、泉美と共に御刀を授かった吉乃と八重、四条姉妹の姿があった。

「これから話すことは国家の大事である。いずれ、広く国民にも知れ渡ることになると思うが、今はまだ君たちと、君たちの同僚の心の内に留めておいてほしい」

その、地下一階に集められた少女たちは、前に立つ中年の軍人からいきなりそんなことをいわれた。軍属で無い彼女たちは休め、の体勢をとってはいなかったが、一応全員帯刀して直立不動の姿勢でいる。

「一体どんなお話なのでしょう?」

「さあ…わかりかねますねえ…」

「あの方、随分沈痛な面持ちをされていますけれど…」

「姉様にわからないことが私にわかると思います?」

「そうだとしても、もう少し姉の話に乗り気だと嬉しいのですが」

「…いい加減静かにしないと怒られますよ」

案の定、二人はその軍人から睨まれた。八重がそれ見ろ、とばかりに姉を肘でつついたところ、吉乃は笑顔でその軍人に軽く頭を下げた。今一つ適切とはいいかねる所作だと思うのだが、軍人の方は一つ咳払いをしただけで済ませてしまった。全く、折神家の人間がこの場にいないことが幸いだったと八重は思う。

「あー、これは諸君らが刀使、神職でもあるが故に話すことだ。心して、聞いてほしい…」

そこで、中年軍人は目を瞑ってしまった。随分ともったいぶる人だな、と八重は思った。出来ればこんな陰気臭い所には長く居たくない。言いたいことがあるなら手早く、手短にお願いしたい。今日は非番なのだ。午後から街をブラつこうと思った矢先にこれだ…考えていたら段々と腹立たしくなって来た。そんな八重の様子を知る由も無いだろうが、ようやく軍人さんは目を開き、追って口も開いた。

「去る4月18日未明、山本長官が戦死を遂げられた」

それは実に簡潔な言葉であった…が、その場にいた少女たちに与えた衝撃は大きかった。暫くの沈黙、というよりは硬直の後で、護国刀使最年長、今年で20歳になる数少ない大正生まれの霧島由良が、

「あの…それはあの、軍神山本五十六長官のこと…なのでしょうか…?」

やや取り乱しながらそう質問をした。それは、この場にいる全員の思いを代弁したものだった。

「…そうだ」

軍人さんは頷きながら短く答え、全員を眺め回してさらに言葉を続けた。

「山本長官の御霊は国葬をもって送られることとなる。ご遺体の回収は難しかったそうだが、遺品は戻ってくることになった。その遺品を、国葬までの間、この近衛祭祀隊舎で保管してもらうこととなった」

「なっ…」

思わず八重はそう声を上げてしまったのだが、同じくして場の刀使たちのどよめきが起きていたため、目立つことはなかった。むしろ、当然の反応だったといえるだろう。

「信じられますか…八重…」

「信じられません…けど…」

山本五十六、真珠湾攻撃の作戦立案、実行を指揮したこの戦争における海軍の、いや日本における最大の英雄と呼べる人物であった。親しみやすい性格で国民は元より花柳界の女たちからも愛された人物であったが、その大英雄が戦死した、というのだ。しかもその遺品を預かれ、という。

「津島中佐殿、それは海軍からの正式な要請なのでしょうか」

霧島由良と同じく年長組の早乙女凪子が、はっきりとした口調でそう尋ねた。

「海軍どころではない。これは陛下よりの勅命である。先程、折神碧殿が陛下の御前で詔勅を賜った」

さらに、どよめきが強くなった。

「これはまた…」

「とんでもないことになりましたねえ…」

姉妹はそういって肩をすくめた。どうにも大き過ぎる話になってきた。

「それでその、遺品というのはどのようなものが、どれくらいあるのでしょうか…?」

霧島が再びそう尋ねる。

「長官が最後まで手にしていたという軍刀、一振りだ」

その答えで、刀使たちは腑に落ちた。八重は、改めて周囲を見回した。この地下一階には、彼女らが集っている広間を囲うようにして十重二十重に全国から回収された御刀が祀られているのだ。

「尚、その軍刀は今夜のうちにここへ運ばれる手筈となっている。しっかりと祭壇を整えてお迎えするように。以上だ」

 

 予定外の事態に見舞われた直と泉美は日本橋から市電と呼ばれていた路面電車に乗り、大手町で降りると、そこから走って宮城に向かった。陽は既に傾きかけている。大手門で警備をしている皇宮警察に敬礼をして、曲がりくねった入り口を進み、敷地に入った。

「うーん、荒魂を退治していたら遅くなった、という言い訳は通用しますかね?」

「実際には退治していないのですから、まずいと思いますよ」

「ですよねえ…」

言い訳を考えながら帰って来た二人であったが、幸か不幸か隊舎の中はそれどころではなかった。入るなり、同僚たちが慌ただしく動き回っている。

「あれ、みんなどうしたんでしょう。右往左往していますけれど…」

「いえいえ泉美さん、地上と地下を往復しているみたいですから右往左往というよりは上往下往といったほうがいいのではないかと思います」

「…そういう冗談はいいですから、あ、吉乃さん!」

直の言葉はあっさりあしらわれ、吉乃を見つけた泉美はそちらへ歩いてく。直も続くと、吉乃の後ろから八重も姿を現した。

「あらあら泉美さんに直さん、御刀の回収は…無事終わったみたいね」

「やっとのお帰りか。神主に愚図られたのか、それともどこかで道草か?」

「えーっと、まあ色々ありまして…ところでこれは何の騒ぎですか?」

直の言葉を受けて、吉乃と八重は顔を見合わせた。

「外出組はあなたたちで最後みたいね。とりあえず学習室に行って。霧島先輩から話を聞いてちょうだい」

「…ま、それ以上のことはいえないか」

姉妹の様子に少し含むところがあるなと思った直と泉美ではあったが、黙って頷き、吉乃の言葉に従って学習室へ向かう。普段は座学が行われるその部屋のドアを開けると、今日外出していた刀使たちが、授業の時と同じように着席していた。

「すいません、遅れました…」

「直さん、泉美さん、お帰りなさい。空いている所にかけて」

前に立つ霧島にそう声を掛けられ、二人は後ろの方に腰かけた。いつも穏やかな笑みを浮かべている霧島の表情が硬い。それにつられて場の雰囲気も、重い。

「さてこれでお揃いね。敢えて皆にここに集まってもらったのは大事なお知らせがあったからなんです。実はね、昼過ぎに海軍の中佐がこちらにみえて…」

霧島はそこで一つ溜息をついて間を空けた。

「連合艦隊司令長官の山本五十六大将が戦死された、とお知らせ下さいました」

その場にいた少女たちが一斉にざわめきはじめる。

「本当なんですか、それは!」

直は思わず立ち上がり、大声を上げていた。

「直さん。声が大きいですよ…。ええ、本当なんです。4月18日の未明、前線の視察に海軍の大型攻撃機で向かう途中、ブーゲンビルの上空で撃ち落とされてしまった、とのことです…」

直はがっくりとうなだれて、

「そんな………」

崩れるように席へ腰を落とした。

「ああ…そういえば直さんは長岡に縁がありましたね…。皆さんも衝撃を受けていることかと思いますが、しっかりとこの事実を受け止めて下さい。それからこのことはまだ機密です。いずれ長官は国葬で送られる、とのことでしたが、政府からの発表があるまではたとえ家族といえども絶対に口外はしないで下さい。そして…ここからが私たち護国刀使にとっての本題です」

霧島はそういって、全員の顔を見回した。

「山本長官が最後まで手にしておられた愛刀を、その国葬までの間、この近衛祭祀隊舎で預かることとなりました。今、隊舎内が慌ただしいのはその御刀を祀るための祭壇を新たに用意しているからです。御刀の到着は今夜未明、とのことなので、交代で不寝番を立てます。帰って来た皆さんはこれからすぐに食堂で夕食を済ませてから自室で待機、しっかりと休んで夜間勤務に備えておいて下さい。以上です」

 

 この近衛祭祀隊舎も、「隊舎」というからには隊員を全て収容できる施設になっている。一階には食堂、学習室、道場と2人部屋が10室、二階には二人部屋が20室備えられており、地下一階には回収した御刀を、地下二階にはノロを祀る祭壇が用意されていた。比較的大きな建物ではあったが、全国から集めた御刀やノロをこの一箇所にまとめてしまうには、いささか無理のある広さでもあった。もっとも、日本各地へ遠征に出ている刀使もおり、常に全隊員が揃っているというわけでもなかったため、一階と二階の居住空間はそう窮屈というわけでもなかった。

「大丈夫ですか、直さん」

「はい…何とか…」

直は部屋に戻るなり、ベッドに伏してしまった。

「あの、長岡って新潟ですよね、お父様の出身地なんですか?」

「はい、といっても向こうにはもう家はないので、私もお墓参りに何回か行ったことがあるくらいなんですけどね。でも同郷の誇りだって、お父様から山本長官のことはよく聞かされていたので…」

「そうですか…確かお父様は陸軍の方、でしたよね?」

「ええ、あんまり海軍さんのことはよくいいませんけど、山本長官は別…ですね。父はもう予備役ですけどね。あ、でも兄も陸軍に入って、今は市ヶ谷にいます」

「すごい…軍人一家なんですね」

「え?別にすごいってことはないと思いますけど。『戊辰の役で敗れた我々に残された職業は少なかった』ってお父様はよくいっていましたから」

幕末の戊辰戦争で長岡藩は会津藩と共に旧幕府側の中心となって明治新政府軍と戦い、壮絶な敗北を味わった。以来、中央官庁から遠ざけられたというのは世代を越えて、周知の事実になっている。

「でも今はそんなことないじゃないですか。山本長官だって長官ですし、確か前の米内総理大臣だって旧幕府側出身の総理大臣っていってませんでしたっけ」

「ええ、そう…らしいですね…。あの、すいません…もう休みます…」

「あ、はい。おやすみなさい」

泉美がまだ話をしたそうだったので悪いかな、とは思ったものの、直はもう何も話す気にはなれなかった。実際に会ったことはなかったが、父からよく聞かされていた人が死んだというのは、身近な人の死を体験したことのない直にとっては大きな衝撃であった。そんなことを考えていたら、どっと溢れ出た疲れに捕えられていた。

「何か、嫌だな…」

そう口の中で呟きながら、直は眠りについた。

 

 海軍からの使者が隊舎を訪れたのは、日付が変わってからだった。一人は若く、軍服を着ているのですぐにそれとわかったが、もう一人はスーツを着込み、ボーラーハットを目深に被った大柄な男で見た目には軍人とは思えなかったが、若い将校の慇懃な様子を見るとかなり身分のある人物らしい。ちょうど交代の時刻と重なり、二人の来訪者は多くの刀使たちが見守る中、地下1階へと進んでいった。遺品が入っていると思しき包みは若い将校が持ち、洋装の男はその後をゆっくりとついていく。新たに築かれた祭壇の前では、霧島由良と早乙女凪子が待っていた。左右には刀使たちが列を作っており、その中には直と泉美の姿もある。若い将校が後ろを振り返ると、洋装の男は大きく頷いた。

「では、こちらをお願いします」

「わかりました。凪子さん、お願いします」

凪子が頷き、祭壇の前で包みが開けられるとそこには、

「あの、二振り…ですか?」

二振りの刀が現れた。霧島の問いに若い将校が、

「はい、こちらが長官が最後まで身に付けておられた新発田の刀工、天田貞吉の作、それとこちらは海軍元帥刀です」

「元帥刀…」

華麗な装飾の施されたその拵えを見ながら霧島がそういうと、

「こちらは海軍の元帥が各式典の際に用いるものでしてな。この度の国葬の際にも使われることとなるでしょう。申し訳ないが、こちらも併せてお預かりいただきたい」

後ろにいる洋装の男が進み出てきてそういった。直はその姿を見てあれ、と思う。この人は、確か…。

霧島は凪子と目を合わせた。早乙女凪子は護国刀使の実戦指揮を担当する刀使で、霧島の二つ年下の昭和元年生まれになる。凪子は少し表情を曇らせながら、

「きちんとお祓いをすれば問題無いかと思いますが…」

そういった。

「何か、問題でも?」

若い方の将校の言葉を霧島が受ける。

「そう、ですね…見た所、こちらの、山本長官が最後までお持ちになっていたという御刀からはかなり強い力を感じます。もしかしたら長官の、この世に対する未練のようなものが移っているのかもしれません。まあそれだけであれば、お祓いをすることもそう難しいことではないのですが…こちらの元帥刀がその未練のようなものを増幅しているように感じられます。さすがは元帥刀、別の御刀の力を鼓舞している、とでもいいましょうか…」

「ほう…そういうものですか」

洋装の男は感心した様子であったが、

「よくわかりませんが、それが何か問題なのですか?」

若い将校の方はやや苛立った様子でそういった。刀使の存在に懐疑的な人というのは少なくない。荒魂でも現れない限り、刀使の力を間近で目にすることは無いため、こうした神懸かり的な話を胡散臭く感じてしまうのは無理もないことだ。気付かれないくらいに短く溜息をついて、霧島が答える。

「私たちが御刀から力を借りる際に不安定だな、と感じる御刀があるのですが、そういう御刀は大抵、刀工が何かを念じて打っていたか、それともそれまでの所有者の想いが残っているかのどちらかなんです。そして、荒魂はそういう御刀により強く反応します」

「反応する、というのは…つまり…」

「ええ、荒魂が出現する、ということです。御覧になったことは?」

若い将校に、今度は凪子が応じた。

「いえ、ありませんね」

「でしょうね…いずれにしても荒魂のような物の怪は、人知の及ばぬ力が生み出すものです。理屈でわかるものではありません。しかし我々は常に、そういった理屈では計れない力と共にあるのです」

「それは…存じておりますが…」

洋装の男が、若い将校の肩に手を置く。

「そういうことだ。この娘さん方はただの娘さん方ではないのだ。でなければ、わざわざ元帥刀や山本の遺品を預けることはないだろう?この軍刀に山本の怨念が残っているというならなおさら、ここに預けておくのが最良だと、そういうことだ」

山本長官を呼び捨てにしたこと、そして篝火に照らされたその目を見て、直を始めその場の刀使たちはこの洋装の男が誰なのか、はっきりとわかった。若い将校はまだ何かいいたげではあったが、それを飲み込んで、

「わかりました。よろしくお願いします」

そういって頭を下げた。

「すまんな、皆さん。何しろ軍神山本五十六の遺品だ、我々としても自分たちの手で保管したいというのが人情なんだよ。…まあ山本自身は軍神などといわれるのは、はなはだ迷惑であったようだがね」

「お察しいたします…米内元総理」

凪子がそう答えると、米内と呼ばれた男は口元にニヤっと笑みを浮かべた。

「今夜私が来たことはくれぐれも内密にな。それも併せてお願いするよ、お嬢さん方」

そういって帽子をとって頭を下げた男の顔は、間違いなく米内光政その人であった。

「きょ、恐縮です。我々としましても粉骨砕身、お役目を果たす所存です…!」

カチカチになった霧島がそういう姿を、米内は穏やかな笑みで眺めていた。

「うん、私にも娘がいてね……」

米内は再び帽子を被りながら左右の刀使たちを見遣り、うんうんと頷く。

「いや、色々と思うことはあるが、よろしく頼む」

列を成していた刀使たちがその言葉を受けて礼をしたその時、ノロ磁針を持って来ていた数人の刀使が、一斉にそれを取り出していた。

「凪子さん…!」

「ええ、今出て来た交代要員は私に続け、残りはここで待機、米内元総理をお守りしろ!」

凪子の言葉に「はい」の合唱が続き、

「では、ここはお願いします」

「ええ、暗いから明眼が発揮されるまでは十分に気を付けて」

凪子が頷いて駆け出すと、それに直や泉美たち、その場にいた半数の刀使が続いた。

「これは…まさか…?」

若い将校がそういうと、

「ええ、早速ご登場のようです。しばらくここにいて下さい。ここは日本で一番刀使が揃っている、ある意味一番安全な場所ですから…」

そういってから、霧島は若い将校の方を見て、少しいたずらっぽく笑った。

「ああ、でもどうしても、とおっしゃるのでしたらご案内いたしますよ。折角の機会ですしね」

 

 

 宮城前広場、ノロ磁針…こと荒魂類探知計の指した先は、彼女らの隊舎から目と鼻の先だった。直、泉美、凪子を合わせた7人の刀使が、既に抜刀して写シを張っていた。

「さーて、荒魂さん方はどちらにいらっしゃるんでしょうかね…凪子先輩」

直の隣で、明眼の使い手である凪子がゆっくりと目を開けた。

「前に3体、向かって右から大・中・小、といったところか」

猫のように光るその目を、直は素直にかっこいいと思う。彼女の明眼には、闇夜に蠢く荒魂の姿がはっきりと捕えられているのだ。

「泉美、そちらはどうだ、聴こえるか?」

「はい。確かに3体…まだこちらには気付いていないようですね」

明眼と並ぶ刀使の特技の一つに「透覚」がある。こちらは聴覚が著しく効くようになるもので、泉美の透覚は護国刀使の中でも抜きん出ている。宮城前広場には一面、玉砂利が敷かれており、これは美観もさることながら、侵入者対策にも一役買っている。刀使の透覚をもってすれば、わずかな石コロの音から侵入者の動きは手に取るようにわかるのだ。泉美の言葉に、凪子が頷いた。

「ならば、先手を取る。直、春江、ついてこい!」

いうが早いか、凪子は左の、一番小型の荒魂に向かって迅移で駆け出した。

「あ、待って下さいよ!春江さん、行こう!」

「はい!」

凪子の迅移はあっという間に二段階に達するが、直と、共に呼ばれた北見春江であれば追いつける。単純に独断先行をしているわけではない辺りはさすがだ。荒魂がこちらに気付いたが、身構える間も与えずに凪子が一の太刀を入れた。続けて直、春江が二の太刀、三の太刀を浴びせると、断末魔の叫びを上げながら小型荒魂は倒れた。

「さすが凪子先輩、やりますね!」

と、直がいったところへ、真ん中にいた中型荒魂の爪が飛んで来た。三人ともバラバラの方向に跳んでそれをかわす。

「直、ムダ口を叩いている暇があったら泉美を見習え!」

「え?」

そういわれて振り返ると、泉美たち残りの4人が、右側にいた一番大型の荒魂を引き付けていた。一部隊の遊撃に合わせてもう一部隊による陽動、教本通りの見事な各個撃破の形が整った。

「おお、さすが泉美さん!」

「コラ、よそ見もするな!春江、お前はそのまま後ろに回り込め!三方から一気に行くぞ!」

「はい!」

「はあああっ!」

春江が答えるや否や凪子の御刀が気合と共に一閃し、それから間髪入れずに直、春江の太刀が入った。連携の斬り込みに成すすべもなく、中型荒魂が崩れ落ちる。

「止まるな!そのまま残りのヤツの背後に斬り込む!」

「了解!」

「はいっ!」

切り返しは直が一番速かった。力強く地面を蹴って、今度は負けない、とばかりに泉美たちが対していた大型荒魂の背に一太刀浴びせ、その左右を凪子と春江が斬り付けた。たまらず、大型荒魂が後ろを振り返った、そこへ、

「よそ見はいけないって、聴こえてなかったの!」

正面の泉美が跳んでいた。自分の背丈より遥かに高い荒魂の頭の位置で、刀使の力を得てその名の通りうっすらと光を放つ蛍丸の長い刀身が、一文字に閃く。光の帯を残し、荒魂の胴体だけがドウ、と倒れた。泉美が長い黒髪をふわりとなびかせながら着地するのと、舞っていた荒魂の頭がドサリ、と落ちるのがほとんど同じだった。

「お見事!泉美さん!」

ちょうど、自分たちの目の前に下りて来た泉美に、直がそう声をかけると、

「いえ、この程度、どうということはありませんよ」

泉美はそういって、蛍丸を鞘に納めた。

「そうですね、こういう迷いがない時の泉美さんは本当に強いですよね」

「え、何ですか、私、普段は迷っているんですか?」

「こらそこ、無駄口をたたく暇があったらさっさとノロの回収に移る!」

背中から凪子の雷を受け、直はピクリと身体を硬直させてから「わかりましたからあんまり怒鳴らないで下さいよー」などといって泉美と共にノロの回収に入った。

 

「瞬く間に3体か…見事なものだな」

「すごい…何て力だ…」

少し離れた場所に、霧島は二人の来訪者を連れてきていた。もちろん、数名の刀使が護衛について来ている。

「あれが荒魂、そして刀使の戦いです。ご参考に…」

「閣下、何故軍はこの力を放っておくのです?これこそはまさに我が国に与えられた神の力ではありませんか!」

霧島の言葉を遮って、若い将校が興奮気味にそういった。周囲の刀使たちは、冷ややかな視線を向けたが、宵闇のせいもあって、それが彼に届くことはなかった。

「年端もいかぬこんな娘たちを、戦場に送れというのか?」

その米内の言葉に、刀使たちは今度は少し意外な目を向ける。これまでにも刀使の軍事利用に関する話が無かったわけではない。無論、彼女らとしてもお国のために戦う覚悟はある。が、それは刀使の本懐ではない。

「お気持ちは理解できますが、これほどの力があれば前線の将兵たちがどれだけ救われることか…!」

「そういうことをいう者が多いのは事実だ。気持ちは…わからんでもないがな。彼女らの力はそういうものではない。彼女らの御刀は荒魂に向けるものであって、決して人に向けるものではない。人の道を外すようなことを…彼女らにさせてはならん」

霧島を始め、場にいた少女たちは皆、米内の言葉に軽く感動を覚えた。偉い人の中にも、こういう人がいるのだ。

「今のは、決して簡単な戦いではありませんでした」

霧島は静かに切り出した。

「確かにあっという間の出来事でしたから、圧勝に見えたかもしれません。しかしここは私たちにとって地の利があり、上手く不意を討つことができたからそう見えただけです。これがもし、全く知らない場所で荒魂らの方に先に気付かれていたとしたら、斃れていたのは私たちの方でもおかしくはなかったのです」

そこで、若い将校が口を挟もうのするのを、米内が無言で制し、霧島が続ける。

「現に、刀使の殉職者は毎年出ています。荒魂はまだまだ未知の存在で、どのくらいの数がいて、どこからやって来るのか、何も把握出来ていません。しかも、この戦争が始まってから出現回数が増えています。現状、残念ながら私たちだけでなく一般の市民の方々にも犠牲が出ており、とても十分に対応出来ているとはいえないのです。もちろん、お国のためとあればいつでも戦地へ赴く覚悟は出来ております。しかし、荒魂を祓うことが出来るのは私たちしかおりません。そこの所を、どうかご理解いただければと思います」

霧島の淀みない言葉に、一番驚いたのは一緒に来ていた刀使たちであった。当の霧島は言い終えてからはっと気付いたようにオロオロし始め、それを見て刀使たちは胸を撫で下ろす。

「ふふ、なるほど確かにその通りだ。実に筋の通った意見ではないか。なあ?」

「…はっ」

「うん…それでは刀使のお嬢さん方、我々はこれで失礼するよ。ちょうどそこに車を停めてあるのでね」

「はい、あ、あの、出過ぎたことを申し上げてしまい誠に申し訳ないことで、その…」

「ははは、気にすることはない。皆さんがしっかりと自分なりにこの国のことを考えているのを知り、頼もしく思ったよ。山本の刀、しばしの間頼むよ」

「は、はい!お役目お疲れ様でした!」

刀使たちの礼に手を振り返し、米内と若い将校は去って行く。

霧島が頭を上げて大きく溜息をついたところで、ノロを回収した直たちがこちらに駆けて来た。



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二章

 

 

 山本五十六の戦死が発表されたのは昭和18年5月21日のことで、翌日の新聞各紙はこぞってこの事件を大々的に取り上げている。「生せ・この壮烈な精神」「海軍微動もせず」などといったこの折特有の勇ましい言葉が紙面には並んでいるが、この人的損失は大きな痛手であった。もちろん、一個人が生きていただけで戦況が大きく変わるということは無かったにしても、3年と9か月に渡った太平洋戦争における緒戦、真珠湾攻撃という出来事は、日米双方において衝撃的事件であったことは疑いようが無く、その作戦を立案した山本長官の影響力というものは戦争を経験していない現代人からするとちょっと想像が出来ないほどのものであったようだ。そんな影響力を持ちつつ、米英をよく知っていた山本が生き残り、この後の作戦指揮にも関わっていたなら、戦争の経緯はもう少しはマシなものになっていたかもしれない。

 山本の国葬はそれから15日後の昭和18年6月5日に執り行われた。斎場は日比谷公園内にあり、列席者の中には皇族、軍人に混じって刀使たちの姿もあった。皇居から比較的近いこともあり、この日ばかりは遠征組も呼び戻され、護国刀使たち全員が揃っての警備となった。午前中の葬儀の際に、これまで保管してきた軍刀が引き渡された。午後からは一般の人々が斎場を訪れて弔意を表したのだが、その数は2万人に及び、とても警備が追いつくものではなかった。

ただ、幸いにも弔問客の間に大きなトラブルは無く、荒魂の出現も無かったため、怪我人も無く、無事に任務を終える事が出来た。陽が落ちる頃には警備が終って全員が隊舎に戻っていた。

 

 

「あー、疲れましたね」

そういって食堂のいすにどかっと腰を降ろす直の表情はすっかり弛緩している。

「ええ、でもお役目がきちんと果たせて本当に良かったです」

泉美もまた、心底ほっとした表情でそういった。

「あらあら、長官の葬儀が終ったばかりだというのにそんな晴れ晴れとしたお顔をしていていいのかしら?」

「ま、そういわないで姉様。実際、皆ほっとしているというのが正直なところでしょう」

姉妹がそういいながら直と泉美の向かいに座った。食堂には続々と刀使たちが集まってきていた。遠征組から改めて土産話を聴いたり、最近戦った荒魂の話をしたり、どこそこの神社がきれいで良かった…などなど、話題は尽きない。ここに来るまであまり同世代との関わりがなかった泉美にとって、こういう女子特有の、何でも話題に上げて、そしてさしたる結論も得ない…いうところの「他愛のないおしゃべり」は最初こそやや抵抗があったものの、いつの間にか楽しみの一つとなっていた。

そんなことを思っていたら、霧島由良、早乙女凪子、武田千鶴の年長組3人が揃って入って来た。霧島と武田の二人はそのまま前に進み、早乙女は入り口で立ち止まる。今日のお役目に関して話がある、ということだったので労いの言葉でもあるのかと思っていたが、

「あれ、何だかお姉さま方、緊張の面持ちですね」

直のいう通り、3人揃って妙に表情が硬い。確かに、そんなに浮かれて良い状況ではない。集まった少女たちの表情は、進む霧島と武田を視線で追いながら、自然と引き締まっていく。ちょうど全員が居住まいを正して正面を向いたところで、霧島と武田がこちらに向き直った。二人は無言で頷き合い、霧島が向こう正面の早乙女を見てから、口を開いた。

「皆さん、本日は…いえ、これまでの一月余り、大変お疲れ様でした。海軍の方々からもお礼の言葉をいただいております。…ええっと、本来であればこの場でそれについてお話をしないといけないんですが…」

出だしは霧島らしからぬしっかりとした口調だったのだが、後半は実にそれらしいものいいになり、さらに少し目が泳いだところで、隣の武田千鶴に無言でその様子を咎められる。華族の出で、護国刀使で一番の長身である武田は迫力十分だ。泉美はその目力に感心しつつ、さらにその胸部もまたすごい迫力だと改めて感心した。

「…その前に、ですね。本日はご当主様に来ていただいております」

その言葉を聞いて、緊張の理由はそれだったのか、と思う。おおっという声がそこかしこで起こった。

「どうぞ、お入り下さい」

早乙女がそういいながら扉を引くと、そこにはご当主様こと、折神碧様の姿があった。全ての刀使の頂点に立つ、美貌の現折神家当主…既に現役からは一線を退いていて、今は主に政治向きの仕事をしているのだが、圧倒的なカリスマ性は少しも色褪せることはない…どころか、その色気に関しては最近ますます増してきている。

折神碧は頷くようにしてその場の刀使たちを見渡す。少女たちはただただ、その姿に見入るのみだった。軽やかに進む碧の後ろを、凪子が続く。由良と千鶴が中央を空け、そこへ碧が入った。

「皆さん、御役目お疲れ様。海軍から多大な感謝と、お礼をいただきました。この私も皆さんの働きを見て、とても晴れがましく思いました。ありがとう」

少し低目でクセのある声音だが、それがむしろ唯一無二の品格とでもいうべき雰囲気を醸し出している。全く、この人も自分と同じ人間だということが泉美には少し信じられなかった。

「もったいない御言葉です。ご当主様」

凪子がそういって首を垂れると、碧は、

「よしてください凪子さん。皆さんと一緒の時は碧さんで構いませんといっているでしょう?」

実に親し気な様子でそういった。

「ああ、何と…もったいない御言葉です」

「ちょっと凪子、あなたそれしか言えないの?碧様も困惑してらっしゃるじゃない」

「な、千鶴先輩、少し気安いのではないですか!」

「まあまあ二人共落ち着いて、まだ碧様の御言葉の途中ですよ」

由良のとりなしで二人は取りあえず引き下がる。

「ささ、碧様、どうぞ」

「ええ、ありがとう。そう、それからですね、実は皆さんに報告しておかなければならないことがあるんです。私事で恐縮なのですが、私この度、その…」

そこで、碧は俯いてしまった。どうしたのだろうか、と泉美は思ったが、吉乃をはじめ数人の刀使は、口元を押さえて何やら色めき立っている。碧はもう一度その場の全員を見渡し、大きく深呼吸をしてから口を開いた。

「この度、しゅ、祝言を上げることになりました!」

その瞬間、正しく黄色い声が、この食堂…どころか隊舎全体を揺るがした。

続いて「おめでとうございます!」の連呼が起きる。

「あ、ありがとう、皆、ありがとう」

そういってはにかみながら対応する碧の様子は実に乙女そのものであり、そこで拍手が巻き起こった。お祝いムード一色となった場であったが、

「聞いておりません!」

そんな空気を切り裂くようなその言葉に、一同が沈黙した。声の主は…早乙女凪子である。場の全員が何となく納得したような様子で凪子の方を見ていた。

「何が聞いておりません、よ。碧様のご結婚にあなたの許可が必要?」

千鶴が溜息をつきながらそういうと、

「いや、そういうことをいっているのでは…ただ、その…碧様、相手は一体誰なのです!」

凪子は半ばヤケになったような口調でそういった。が、それは一同にとってもとても興味深い質問であったので、凪子に向けられていた視線はそのまま、隣の碧に移った。

「え、ああ、それは、ですね。子供の頃、京都に住んでいた時によく遊んでいた…今は刀鍛冶をしている方でして…」

幼馴染ということか。ひゅー、という声が起きた。

「それはその、結構なことですが…碧様は、その、その相手にはご満足されているのですか!?」

凪子の質問を受けた碧は頬を染めつつ…ややあってから無言で頷いた。またしても、少女たちの歓声が起きるが、凪子はそれでも食い下がる。

「政略婚だということは、無いのですね?」

「はい、そういうことは全くありません。互いに気持ちの確認はしております」

凪子にはもう、続く言葉が無かった。その、うなだれる友人の肩に、由良が苦笑しながら手を置いた。千鶴がポンと一つ、手を叩く。

「はい皆、そんなわけで碧様のお祝いと私たちへのお礼ということで、海軍からお米や小麦粉をたっぷりといただきました。明日はお料理をたくさん作ってお祝いをしますよ!」

続いたその言葉に育ちざかりの刀使たちは最早、狂喜していた。

「やったね、泉美さん!」

「はい、みつ豆の無念もこれでようやく晴れるというものです!」

「あははは、無念って、もう、おおげさだなー」

「あ、いえ、それはものの喩えということでして…」

そんな二人のやり取りは、向いの四条姉妹に捕捉される。

「何?みつ豆って何よ、あなたたちやっぱりどこかで寄り道しているね?」

「そうねえ、まさかお役目中にそのようなことをしているのであれば、これは問い詰めなければなりませんね」

「いえ、それは、あの…そうだ、千鶴姉様のお手伝いを申し出ませんか?明日はお忙しくなるでしょうし!」

「そうですね、はい、早速伺ってみましょう」

「あ、こら逃げるな!」

直と泉美は慌てて、姉妹の追撃をかわした。

 

 翌日、早朝から直と泉美を始めとして7人の刀使たちが、武田千鶴の元、厨房に立っていた。この寮の厨房では通常、朝・夕の食事が用意され、日中は外で任務をこなす者が多い関係上、昼食は希望者に弁当を作っている。半数近くが常に遠征しているとはいえ、それでも20人を超える刀使たちの食事を日々毎食用意するのはなかなかの重労働なのだが、この護国刀使という組織に専属の調理師はいない。厨房を一手に仕切っているのは年長3人組の一人、武田千鶴であった。

皇国の守備の一角を担う少女たちの胃袋は、この華族の令嬢たる武田千鶴が完全に掌握していた。護国刀使の表向きの隊長は霧島由良で、実戦の指揮は早乙女凪子が執ることが多いが、千鶴の発言力はこの二人をも凌ぐ。正に影の支配者、とでもいうべき存在だ。千鶴自身、もちろん刀使ではあるのだが、幼少の頃より食への興味関心が剣術以上に強く、実家では最新設備の厨房に籠り、専用にあつらえた調理器具を用いてコック顔負けのフルコースを作ることもよくあった。護国刀使に選抜されてからは実際に厨房に立たない日でも献立は一手に引き受けている。味はもちろん栄養面に関しても造詣が深い彼女が作るその献立は、物資が少ないなりによく工夫されており、戦う少女たちの健康面をよく支えていた。

そんな少し変わったご令嬢の指揮で、9時前にはご馳走の下ごしらえは終わっていた。

「うん、こんなものでしょう。皆さん、ありがとう。後は火を通すだけですから今できるのはここまでです。折角のお休みですから夕方まではゆっくり過ごして下さい」

千鶴の言葉に全員「はい」と答え、料理の数々を大型冷蔵庫へとしまっていく。

「いいですよねえ、この冷蔵庫って。こんなのがうちにもあったらなあ」

直がポツリというと、

「無理ですよ。物凄く大きな電源装置がいるからとても普通の家には入りませんよ」

「ですよねー。でもこんなのがあったら夏は最高でしょうねえー」

「それは、確かに…」

泉美はそういって笑った。その大型冷蔵庫に全ての料理をしまい終えると、泉美の発案で下ごしらえで余った小麦粉で生地を練り、そこに余り物の具材を入れて「お焼き」を作り、全員で遅い朝食を摂った。

「ふう、直さんはこの後どうするんです?」

「ちょっと実家に顔を出して来ようかと思っています」

「神田の、ですか?」

「はい。今日帰るとはいってないんですけど、日曜だから家族も揃っていると思いますし、父様に今度のお役目では山本長官の御刀を預かったことをお話ししたいんですよね」

「へえ…ご家族と仲がいいんですね」

「へ?それはまあ、家族ですから」

直のその、本当に自然な様子に泉美は呆気に取られてしまった。

「そう、ですよね。家族は仲がいいのが当たり前…」

「どうしたんですか?」

「いえ、直さんらしいな、と思いまして」

「そう、ですか?あ、良かったら泉美さんも来ます?お昼くらいなら出してくれると思いますよ」

「え?いえいえ、いいですよ。折角の家族団らんの邪魔はしたくないですからね」

「まあまあそういわずに来て下さいよ。今日はあんまりいられないから来てくれると助かるんですよ」

「はい?」

「ああ、いえいえこちらの話です。それで、どうです?これから何か予定はあるんですか?」

「随分押しますね…いえ、特に予定はありませんから…まあ、いいですけど」

「良かった!そうと決まればすぐ準備ですね!外出届け出しておきますんで先に部屋に戻っていて下さい!」

泉美が返事をする間もなく、直は食堂を出ていってしまった。泉美は何となく解せないながらも、苦笑しながら席を立ち、手ぶらというわけにもいかないかな?などと思いながらもう一度厨房に向かった。

 

 この当時、東京市内の代表的な交通機関は路面電車、通称「市電」であった。既に鉄道は現在の路線と変わらないくらいの線路網を持っていたが、運賃が安く、停留所を多く擁している市電を利用することの方が多かった。最も、関東大震災ではほぼ全ての路線が断線してしまった路面電車は問題視され、その後交通の主役は徐々に自動車に移っていくのだが、不景気を理由に戦争に突入したような国の国民が自動車を持つことなど難しいのも事実であるため、まだまだ、市電の地位は揺らいでいない。

直と泉美の二人は、大手町からその市電に乗って直の実家である神田までやってきていた。

 二人が停留所に下りると、不意に鐘の音が聴こえてきた。大小複数の鐘が入り混じっているのだろう、独特の重厚感を伴った和音のような一定の音色が、繰り返し響き続けている。

「これって…」

「ああ、ニコライ堂の鐘ですよ。日曜日の礼拝の時に鳴るんです。ちょうど聴けるなんて運がよかったですね。とういうことは10時、か」

直の指す方を見ると、大きなドーム状の西洋建築が見える。任務の途中で目にしたことはあったが、こうしてじっくりと眺めるのは初めてだった。

「でも、大丈夫なんですか?このご時世に…」

「耶蘇は敵国の教え…ですか?うーん、そうですよねえ。クリスマスもやらなくなっちゃいましたし…でもあの建物は特別なんですよね。震災の時に大きな被害を受けたんですけど、この辺りの人たちが協力して建て直したっていう話ですしね」

「そうなんですか…何だか不思議ですね、そういうの」

泉美は鳴り止まない鐘の重奏に聴き入りながら、そんなこともあったのに何で今は戦争をやっているのだろう、と不思議な気がした。そんなことを考えながらぼうっとしていたのだろう。「こっちですよ」という直の言葉がかかるまで泉美はその場に立ち尽くしていた。

「泉美さん、たまにそんな感じになりますよね」

横に追いつくと、直がそんなことをいった。

「え?そうですかね?」

「まあ、自分で気付くようなことじゃないですよね」

そういえば直に「迷いがある」といわれたことを思い出し、それと何か関係があるのかとまたぼんやり考えていると、直が止まった。見れば一軒家の前だった。

「あ、ここですか?」

来栖、という表札を見ながら泉美が言うと、直は頷いた。

「はい。そうですよ。直でーす。只今帰りましたー」

直はそういいながら、引き戸をバシャバシャと叩いた。するとすぐに家の中から軽い足音が響き、ガラリと戸が開く。

「あら本当に直ちゃん!どうしたの、こんなに急に!」

そういいながら出て来たのは、先日会ったの河井タツの体型によく似た細身の女性だった。察するまでも無く、

「へへ只今、母様」

ということだ。

「もう、帰って来るなら知らせなさいよ。この子は…」

そういいながら、母は娘の髪を愛おしむように撫でた。

「おい、佳代、後ろにお客様もいらっしゃるようじゃないか。早く上がってもらいなさい」

「あ、父様、只今!」

いつの間にか現れた口ひげを蓄えた恰幅のいい初老の男性は、直にそういわれて破顔していた。直の父、藤十郎だ。佳代と呼ばれた直の母は、泉美に向かって軽く会釈しながら、

「ああ、ごめんなさい。ささ、そちら様も上がって下さいまし。大したお構いもできませんが、どうぞ」

そういって、泉美を招き入れた。

「あ、はい。失礼します」

泉美はそういって玄関に入り、戸を閉めた。

「こちらは沢泉美さん。話したことあるでしょ?同室の同期です」

「まあ、あなたがあの鏡心明智流の!直の母の佳代です。いつも娘がお世話になっております」

どうやら直の近親者にはすっかり自分の略歴が知れ渡っているらしい。

「いえ、こちらこそ。あの、すいません。これは今朝隊舎で作ったものです。手作りでお恥ずかしいのですが、こんなものしかご用意出来なくて…」

「え、泉美さん、その包みってそういうことだったの!?」

「まあ!まあまあ、何てしっかりしてらっしゃるんでしょう!直ちゃん、あなたも見習わないと!」

「ね、泉美さんは大人でしょう!」

「お前たち…玄関先で騒ぐのもいい加減にしないか。ほら、早くお通ししなさい」

藤十郎に再度そういわれると、母娘はさもおかしそうに笑いながら、泉美に上がるよう促した。

「では、お邪魔します」

仲がいい、というよりは直が可愛がられているのだな、ということがよくわかる。こういう空気は悪くないな、と思いながら泉美は靴を脱いだ。

 

 通されたのは床の間だった。震災後に建てたのだろう。比較的新しい家に見える。畳の上に置かれている座卓をはじめ、家具がどれも丈夫そうで飾り気が無いのはその震災の教訓か、それとも軍人の家系といっていたから、そういう質実剛健を貴ぶ趣味なのだろうか。いずれにしても自分の実家とは違う部分が多いな、などと泉美が思っている間に、父娘の会話は既に弾んでいる。

「ほう、では護国刀使で山本長官の軍刀と元帥刀をお預かりしたのか」

「はい、それで、その二振りの御刀を持ってこられたのが…誰だと思います?」

「さて…私でも知っている人かな?」

「もちろん!父様もよく知っている方ですよ!」

直の父がうーんと唸りながら考えているところへ、襖が開いて佳代が入って来た。

「はい、粗茶ですがどうぞ」

「ありがとうございます…あ、おいしいですね」

香ばしいほうじ茶だった。

「ふふ、ありがとう。煎れる前に少し、焙じているんですよ」

そういって、佳代も場につく。

「なるほど、おいしいわけですね」

「うーん、わからないな、直。誰が来たんだ?」

「へへー、それはですね、はい、では答えは泉美さんから!」

「え、私ですか?」

別々の会話をしていたと思ったら突然話を振られて泉美は少し戸惑ったものの、内容は聞こえていたので、

「米内元総理、です」

と、そのままを答えた。直の両親が揃って驚きの表情を見せる。

「そうか、米内さんが…山本長官とは懇意だったからな…ということは二人共米内さんに会ったのかな?」

直と泉美は顔を合わせ、泉美が頷いた。

「はい、私も直さんも、お会いしました。何というかあまり軍人らしくない、素敵な方でした」

「背が高くて、洋装がよく似合っていましたよね」

藤十郎は頷きながら、

「うん、海軍にしては話のわかる方だ。うちや山本長官の長岡藩と同じく、戊辰の役で苦渋をなめた盛岡藩の出だからな」

そういった。

「海軍にしては…ですか」

泉美が何となくそういうと、直がニヤリと笑う。

「泉美さんも陸軍と海軍の仲が悪いのは知ってますよね?父様もよく『海軍のええかっこっしい共は信用ならん!』なんていってるんですよ」

「ああ、直さんのお父様とお兄様は陸軍の方なんですよね」

それを聞いた藤十郎が一つ、咳払いをする。

「誤解の無いようにいっておくが、国家の大事にそういった感情を交えはしないぞ」

「あら、でも米内さんを総理の座から引き摺り下ろしたのは陸軍の方々の共謀ではありませんでしたか?」

佳代の言葉に藤十郎は苦しそうな表情を浮かべながらお茶をすすった。その辺りの政治向きの話は泉美にはわからなかったが、確かにそういう足の引っ張り合いがずっと続いているというのはよく聞く話だった。

「ともかく…だ。この戦争は既に引き際を逸してしまったと私は思っている。このまま長引いて行けば資源の乏しい我が国はジリ貧一方だろう。米内さんはその辺りのことがよくわかっている人だから…確かに陸軍のやり方はよくなかったな、うん」

泉美はその藤十郎の言葉に驚いた。予備役とはいえ、軍人の口からこんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。

「僭越ですが、そのような発言はお控えになったほうがよろしいかと思います」

言外に少し不愉快さをにじませて、泉美はそういった。

「うん?そうか、そうだな…君は沢さん、といったね?」

「はい」

「今の私の言葉が、体制批判であると、そう思ったかね?」

「そう、聞こえました」

「そうか…うん、とりあえず、戦争に勝つ、負けるという話は置いておいて、だな。体制批判という理由で、そんな風に誰かの意見を封じ込めてしまうような、自由に言いたいことも言えないような状況にあるこの国は、沢さんはまともだと思うかね?」

「え?」

「疑問にすら思わないかもしれないが、今、この国はただ一つの目標を達成するために他の全てを犠牲にしている。それは決して悪い事ではないかもしれない。だが、少し離れた所から見てみると、その姿というのは一種異様に見えるのではないかな?」

「異様…?私はそのようには思いませんが。必勝を期してこの暮らしを堪えている人たちの姿を…異様などとは私は決して思いません。国民が一丸となって協力し合い、一つの目標に向かうのは悪いことでしょうか?」

つい、語気を荒げてしまった。場の空気も静まってしまう。だが、泉美は自分が間違ったことはいっていないという自信があった。ややあって、

「沢さん、誤解を招いていまったようだが、私が言いたかったのは物事を一つの視点からだけ見るのはいかがなものか、ということなんだ。まあ、いささか喩えが不謹慎であったかもしれんがね」

藤十郎がそう答えた。泉美には、この答えが今一つ納得できない。一つの視点云々はともかく、結局この人は今のこの国をどう見ているのだろうか。直といいこの父親といい、会話の意図がズレるようなことがよくある。もしかしたらこういうのを感性の違い、というのだろうか。

「おかしいでしょ、沢さん。この人、軍が嫌いなんですよ。元軍人なのに。現役の時もこんなことばかりいって内部の体制をしょっちゅう批判するものだから、煙たがられて早々に予備役に追いやられてしまったの」

そんな泉美の様子を察したのか、佳代の答えは的確だった。そういうことか、と思う。

「なるほど……あ、いえ、失礼しました」

「いいんですよ、泉美さん。私は父様のいうこともよくわかりますけど、それってこのご時世にあってはやっぱり不謹慎で不適切です。大体こんなことをお国を守るために日々奔走している私たち護国刀使に向かって言いますか?普通?」

「わかったわかった。私が悪かった。この話は終わりにしよう」

「もう、仕方の無い父様ですね。まあいいですけど」

泉美はそんな来栖家のやり取りを見て、思わず笑ってしまう。

「沢さん、すいまぜんね。うちはやっぱりちょっと変わっているかしらね?」

「ああ、いえ、直さんから聞いてはいたんですけど、本当に仲が良いんだなと、思いまして…うちはこんな風に家族で話をすることがあまりなかったもので…」

「ふーん…でもあるにはあったんですよね?どんなことをお話していたんですか?」

「え?ああ、そうですね。うちは皆さんもうご存知だと思いますが…道場だったので、剣術の話が多かったですね。ただこんな風に意見を言い合うようなことは無くて…父のいうことに私も母も黙って従っていました。稽古も毎日厳しかったですし…」

泉美は、そこで言葉を区切った。自分の家のことなど話したくもないのだが…。

「それは泉美さん強いから、お父様も期待してらしたんですよ」

「そう、だったんでしょうね。確かに私は父の期待によく応えていたと思います。私の腕が上がっていくにつれて、道場の入門者も増えてきましたしね…」

「それでさらに御刀に選ばれたんですからすごいことになったんじゃないですか?」

直の言葉に、泉美はピクリと眉を動かした。そう、自分が刀使に選ばれたことでさらに状況は変わった。

「…もちろん、道場は大きくなりました。生活も子供の頃から比べると大分よくなりました。でも、私はその頃にはもう、父と母が私を利用しているということに気付いていて…何とかこの家から出ていきたい、そればかり考えていました」

「え?利用…?」

「そう考えるしかないような出来事がいくつかあったんです。まあ、その後に護国刀使に選抜されたおかげでこうして大手を振って家を出ることができましたけどね」

少ししゃべり過ぎたかな、と思いながら泉美はお茶を口に運んだ。

「ねえ、沢さん」

少しの間の後で、佳代がそう声を掛けてきた。

「はい、何でしょう」

「私の母、直のおばあちゃんが刀使だったことはご存知?」

「河井タツさん、日本橋のおばあ様でしたら先日お会いしました」

「あら、そうだったの。だったら話は早いわね。母は、河井タツは娘の私がいうのもなんですけど、とても優秀な刀使だったの。でも…私が御刀に選ばれることはなかった」

何となく、そうではないかと思っていたが、やはりそうであったらしい。

「刀使の娘が必ずしも刀使になれるとは限らないのだけど、それでも周りは期待するものでね、私は子供の頃から、腫物に触るというか、そういう扱いを受けて育ったのよ」

何と受け答えしたものか泉美は困惑したが、直も、藤十郎も何食わぬ顔で話を聴いている。当の佳代も笑顔だ。

「それはその…なかなかつらいことではなかったのでしょうか?」

「そうね。段々大きくなって、結局御刀に選ばれなかった、ということがはっきりしてくると、私の存在自体が周囲の人たちを落胆させる原因になっていることに嫌でも気づくから…そうなるとさすがにつらかったわね。でも母はね、そんな私に何もいわなかった。一度、いったことがあるの。『刀使になれなくてすいません』ってね」

「おばあ様は…何と?」

「『親としてはあんな危険な仕事に子供を取られなくてホッとしている』なんていったんですよ」

佳代はそういいながら笑った。

「まあそうだよね。危ないし、いろいろ大変だし」

直の言葉に、泉美もクスリと笑う。

「それでね、母は気晴らしに実家のある長岡の花火大会に連れていってくれたんです」

「そこで父様と出会ったんですよね?」

佳代が頷き、藤十郎が一つ、咳払いをした。

「母と同郷の人たちが仕組んだことだったんですけど、この人、今はこんなですけど昔はスラっとした好青年でね。母がすっかり気に入ってしまって」

「へえ…あの、お母様はどうだったんですか?」

「私?いやねえ、泉美さん。嫌いだったら結婚なんてしないわよー」

藤十郎が口にしていたお茶にむせた。直は足をパタパタさせて笑っている。

「この人ったらね、事前に私のことを調べていたみたいなのよね。御刀に選ばれなかったことなど気にすることはありません、なんていっちゃって」

「おいおい、何の話がしたいんだ」

「ええ、ですからね、親というのは意外に子供のことに気付いているものなの。あ、ごめんなさい、泉美さんでいいかしら?」

「あ、はい」

「ありがとう。泉美さんはご両親が自分を利用して経済的に豊かになろうとした、とそう思っているのよね?」

「ええ、まあ…」

「それは確かにそうかもしれない。でも、それはあなたのためでもなかったのかしら?少なくともあなたの才能を伸ばそうとされたのは確かなことだと思うけど」

「それは…そうかもしれません。でも、私は…」

「そっかあ、実家のことが嫌いなのに、その実家のおかげで刀使になって家を出て行くことが出来たっていうのは…それが泉美さんの迷いの正体ですか」

「え?」

と言い返してから、泉美は直の言葉を反芻する。そう、言われてはっきりわかった。自分に迷いがあるのだとすれば、それに他ならない。

「直、我が家の恥をさらす分には構わんが、憶測で人のことをあれこれいってはいかんぞ」

「あ、はい。すいません泉美さん、ずけずけと」

「いえ、いいんです…そういうことなのだと、思いますから。私は、自分の中にそういう矛盾を持っているんだと思います」

会話がかみ合わないと思っていたら突然正面から斬り込んでくる。それは直の太刀筋と同じだ。つまり、自分も同じ…知らず知らず、そんな矛盾から生まれる迷いが、自分の言葉や太刀筋に出ていたのだろう。もちろんそれは、今まで何度となく立ち合ってきた直だからわかったことなのかもしれない。剣を通じて語り合う、とはよくいったものだ。

「泉美さん、これはおせっかいを承知でいわせてもらいますが…利用されていたと思っていたご両親を自分が利用してしまったと思って気に病んでいるのなら、そんなことは何も気にしなくていいんですよ。親なんていうものはね、子供に利用されてなんぼなんですからね」

そういう佳代と頷いている藤十郎を見て、泉美は両親が東京に発つ自分を送り出してくれた日のことを思い出した。あの時の両親も、確かこんな顔をしていた。

「あの…ありがとうございます。何か、自分の中の気持ちに整理がついたような気がします。お盆休みは帰ってみようか…と思います」

自然と笑みがこぼれていた。

「そうなさい。こんな時代だ。会える時にはきちんと会っておくといい」

「ええ、そうね。あら、もうこんな時間。二人共、お昼は食べていくんでしょう?」

「はい!」

「あ、お邪魔でなければ…お願いします」

「泉美さん、うちにも遠慮は無用ですからね。日頃から直が散々ご迷惑をお掛けしているでしょうし、ね」

「いやあ、それほどでもないと思うんですけど」

そういう直の頭をポンと叩いて、佳代が立ち上がるのと同時に、

「只今帰りました」

若い男の声が聴こえて、玄関の戸が開く音がした。

「あ、兄様だ!」

そういって、直が襖を開けて玄関へ駆けていく。

「本当に間のいい子ねえ」

そういって佳代が襖をきれいに開け直すと、直に腕を引かれて軍服姿の青年が現れた。

「紹介しますね泉美さん、兄の司です」

「どうも、初めまして。妹から度々お話は伺っています。同期で同室、鏡心明智流の沢さんですね。よろしくお願いします」

その一連の台詞に、もう泉美は驚きはしない。司、と紹介された直の兄は軍帽を取り、短く刈り込んだ頭を見せて一礼した。

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

泉美も立ち上がり、頭を下げた。お互いに顔を上げると目が合う。司は軍人には似つかわしくない、直と同じ屈託の無い笑顔を見せた。男性からのそんな反応に泉美は耐性が無い。はにかみながらもう一度礼をするのがやっとだった。すらりとした背格好は両親からの遺伝だろうか。泉美のいた田舎ではちょっと見かけない、都会的な風貌だ。

「じゃあ皆でお昼をいただきましょうか。少しお待ち下さいね」

佳代が一礼して出て行くのを、直がすぐに追いかける。

「母様、私もお手伝いします!」

「あら、泉美さんの前だからって無理しなくていいのよ」

「違いますよ!寮にすっごく料理の上手い先輩がいて教わっているんです!それで、今朝だって…」

奥へ消えていく二人を見送り、泉美は元の、司は佳代の座っていた座布団に腰を降ろした。

「どうだ、少しはマシな情報があったか?」

「いえ、大陸の方はよくやっていますが、南方はどうも…」

藤十郎の問いに、司が渋い口調で答えた。

「そうか。北方もアッツ島の玉砕があったばかりだしな…ガ島も、既に取られているのだろう?」

「父様、あの…」

司が泉美の方を見て、父を制するようにいった。泉美は苦笑いをする。

「軍機、ですよね。気が回らなくてすいません。あの、私もお台所を手伝ってきてよろしいでしょうか?」

「いやいや、お客様がそんなことを気にする必要は無い。こちらの配慮が足りなかったな。この話題はよそう」

「そうですね…うん。ああ、そうだ。折角ですから沢さんに直の働きぶりでも聞いておきましょうか」

「はっはっは、それはいいな。うん。どうです沢さん、直はきちんとお役目を果たしておりますか?」

泉美は少し考えた。今回の山本長官のこともともわざわざ話に来ているほどだ、多分任務のことについてもいろいろと話をしているのだろうが…直の任務のこなし方というのは独特のものがある。どう答えたものか図りかね、

「えーと…それについては直さんからどのように聴いてらっしゃるんですか?」

和泉は敢えてそう問い返した。二人は少し顔を見合わせてから、司が口を開いた。

「妹はああいう子なので、まずこちらから機密事項は話すなよ、と釘をさす所からいつも始めています」

泉美は思わず笑ってしまった。

「なるほど、それは大事なことですね」

「ええ、こちらが気を遣ってどうする、とは思いますが…ともかく本人の話を聴く限りでは、一応、それなりの働きはしているようですね。沢さんにはよく助けてもらっている、とも聞いております」

「そうなんですか、何だか気恥ずかしいですね。ああ、でも私の助けなんてほとんどいらないくらい直さんは任務達成率の高い優秀な刀使です。といいますか…おそらく今、護国刀使の中では最強の一人だと思います」

二人は揃って、目を見張っていた。

「最強?あの子が、ですか?」

藤十郎の言葉には泉美の方が少し驚いた。そういうことは話していないのだろうか。

「はい、とにかく強いです。動きは速い、斬撃は重い、しかもその、なんといいますか戦い方が上手いんです」

「ふうん…昔から妙に勘のいい子でしたが、そうですか…いや、お役に立っているのであればいいのです」

「それはもちろん、ご安心いただいて構いません。まあその、たまにおかしなことをしていますけど、任務に支障はありませんので…」

二人はまたそこで顔を見合わせ、今度は藤十郎が口を開き、

「そうですか、うん、何となくわかる気がします。ご迷惑をお掛けしますが、今後とも、直をよろしくお願いします」

そういって、二人揃って頭を下げた。

「ああ、はい、こちらこそよろしくお願いします」

泉美も慌てて頭を下げる。顔を上げると司が、そんな泉美の様子をじっと見ていた。よく見れば直と同じ形をしているその目に見られていると、なかなか落ち着かない気分になってくる。勝手に気まずくなって何かいおうとすると、先に司が口を開いた。

「それから妹は…必ずいなくなった仲間の話をしていきます」

「え?」

「昨日まで一緒だった子が刀使を辞めてしまった、だとか、荒魂にやられて大けがをして国へ帰ってしまった子がいる…という話をしていくんです」

それは、全く予想外の言葉だった。

「直さんが、そんなことを…?」

「ええ、正直、母は聞くのがつらい、といっていますがね。それはそうです。いつ、妹がそんな目に遭ってもおかしくないわけですからね」

「それは…そうでしょうね…お父様とお兄様が軍人で、直さんは刀使…お母様の心中お察しします。本当になぜ、直さんはそんなことを…」

「あの子は…少しでも多くの人に、いなくなった仲間のことを記憶に留めておいてほしいと思っているようです。それは…軍人としてわからない話ではない」

藤十郎はそういって、すでに中身のない湯のみを手の中で回していた。

「そうですか…」

直とはもう、2年近く同じ部屋で寝起きしているがそんな話にはなったことがなかった。続く言葉が浮かばないでいると、襖が開いた。

「はい、お待たせしました!来栖家謹製きつねうどんです!」

「泉美さんのお土産、おいしそうね。これもいただきましょう」

直はいつも、こうやって明るく元気に笑っている。この笑顔のどこかで、今はもう共に戦うことのできなくなった仲間たちのことを想っているのだろうか。泉美はこの、同期の刀使に敬意に似た気持ちを抱いた。

 

「そーれそれそれ荒魂さーん」

直が御刀を振ると、呼びかけに応じてあの小さな荒魂が姿を現し、独特の鳴き声を発しながら直の方へすり寄っていく。泉美はその様子を見て驚き半分、呆れ半分といった具合で彼女に対して抱いていた敬意などすっかり忘れて嘆息した。

来栖家での昼食の後で、二人は日本橋の掘割に来ていた。あの時回収した御刀は結局、直の預かりとなっている。

「よくその御刀を手元に置いておくの、許してもらえましたね」

「『二刀流の練習がしたい』って由良先輩にお願いしたら割とあっさり許可が下りましたよ。おかげで実技に充てられる時間も増えたんで一石二鳥でしたね」

事も無げにそういう直だったが、通常一人の刀使に与えられる御刀は一振りと決まっている。逆にいえば複数の御刀に選ばれる刀使はまず、いない。ただ、例外的に主のいない御刀に限って、希望する刀使に補助的な役割として預けられることがある。遠征に出る際などにそういったことが認められる場合はあるが、いずれにしても相性の悪い御刀を手にした所で、当の刀使がその力を十分に引き出すことができない。滅多なことがなければ刀使が複数の御刀を所有することは無いのだ。

「それは、直さんだから許されたんだと思いますよ…」

実力者である上に破天荒なところがある直だからこそ、突然二刀流などといいだしても、それが上に受け入れられるのだろう。

「いやー、単純に地下が一杯になって来たからだと思いますけどね」

「まあ、それもあるかもしれませんけど…」

遠征組の働きもあって、地下一階は全国から回収されてきた御刀で一杯になりつつある。それはそれでなんとかしなければならないのだろうが、それにしても、直がこうしてあの時以来約束を違えず、荒魂に会いに来ているというのは驚きだった。確かに今日、腰に帯びているのが義元左文字ではないことに気付いてはいたが…。

「あれから何度か来ているんですか?」

「ええ、こうやって小さいうちから教育しておけば、聞き分けのいい荒魂になるかもしれないと思いまして。それ!」

直が投げた御刀の鞘を、荒魂は軽く跳ねてぱくりとくわえ、また跳ねるようにして直の所に戻って来た。

「ほんと…見事に手なずけましたね…でも大丈夫なんですか?こんな所を見られたりしたら問題になりませんか?」

「んー、なるでしょうね、やっぱり。この非常時に荒魂と戯れている刀使がいる、なんていわれたら大問題になってしまうのではないかと思います」

「わかってるじゃないですか…なら何で…」

といいかけて泉美は口をつぐんだ。もしかしたら直は、本当に荒魂との戦いを無くそうとしているのかもしれない。失った仲間たちのことを考え続けているうちに、そういう結論に至ったとしても不思議ではない。

そんな泉美の思いを知ってか知らずか、直は荒魂を見つめながら話し始めた。

「前に、荒魂は人の勝手が生みだしたものだって、いったことありましたよね」

泉美は頷く。

「御刀が造られ続ける限り、荒魂が出現し続ける可能性があるなら…私たち刀使はずっと荒魂と戦い続けないといけなくなります。実際、大昔からそうだったんですよね。私は刀使も荒魂も、つまるところ御刀から生まれていると思っているんです。ですから、同じものから生まれている者同士なら仲良く出来るんじゃないかなって、思うんです。思うんですけど…あの、わかってもらえます?」

少し、論理の飛躍があるような気もしたが、それは泉美にとってもわからない話ではない…それどころか、妙案のようにさえ思えた。

「わかります、直さん。それは…もしかしたらとてもすごい考え方かもしれません。御刀・刀使・荒魂…その連鎖はもっときれいな、というか…正常な形に出来るのかもしれません」

「そう…そうです、そういうことなんですよ!良かったあ。こんなこと考えるなんて私っておかしいのかなって思っていたんですよね!」

直は目を輝かせながらそういった。隣の荒魂までこちらを見ている。

「まあ、おかしいとは思いますけどね…あの、直さん?」

直が泉美の手を取った。

「このことが問題になったら、私は護国刀使から追い出されてしまうかもしれません。でも、私は私の考えを貫くつもりです。ただ…泉美さんに迷惑を掛けてしまうことがあるかもしれません…その時はご容赦願います」

泉美は大きなため息をついた。

「何を今更いうのかと思えば…別に構いませんよ、そんなことは。それに直さん一人が護国刀使を辞めさせられたなんてことになったら、私は直さんのおばあ様やお父様、お母様に合わせる顔がありませんからね」

「泉美さん…!とっても嬉しいです!感動です!けど…あの、別にそんなことは気にしなくてもいいですよ?」

「私が気にするんです!私のことはもう、直さんのご家族にすっかり知られていますからね。直さんの奇行の面倒を見切れなかったのかと思われるわけにはいきません」

「奇行って、ええー…すごいといわれた割には随分ないわれようの気もしますけど…まあ、いいです。それにしてもなんだか泉美さん、うちの家族になったみたいですね!」

「え?またそんなよくわからないこと…」

「あ、いっそのこと本当の家族になるっていうのはどうです?うちの兄様、泉美さんになら差し上げます!」

「え、な、何をいってるんですか!?」

「まあ刀使は引退した後引く手数多といいますから余計なお世話かもしれませんけど、でも結構イイ男だったでしょ?ご近所の評判もいいんですよ。ね、是非!」

「そ、そういうことはですね、家同士の問題もありますから…」

「ということは泉美さん本人は問題無いということですかね?うん、これからはお姉さんと呼ぼうかなー」

「ちょ、直さん!いい加減にしないと本気でおこりますよ!」

「ああー、そろそろ隊舎に帰りましょうか。千鶴姉様のお手伝いもありますしね!またね、荒魂さん!」

泉美が何か言おうとしているのを完全に相手にせず、直はそういって御刀を鞘に納めた。すると荒魂はかしこまった様子でこちらにちょこんと頭を下げ、すすす、と静かに掘割の前へ進み、そこで一度振り返った。直がそれを見て手を振ると、荒魂は安心したかのように頭を振って、ドブン、と水の中に消えて行った。その様子を見て、和泉は何やら怒気を削がれてしまった。

「…ああなると、可愛いものですね」

「でしょう?」

 

 今日はいい夜だ、霧島由良は心からそう思った。仲間たちの輪を離れて隊舎を出て、夜空を見上げる。ふわりとやってくる初夏の風が心地良い。千鶴の料理はどれも美味しかったし、荒魂は出ないし、何よりいつも離れ離れの皆が、揃っている。窓の向こうの食堂では、そんな皆の笑顔が見えた。きっと全員、同じ思いでいるだろう。

「せめて、今夜くらいは、ね…」

隊長格である由良は、少女たちの集まりであるこの組織のこれからを、多少なりとも先んじて知っている。それは決して楽なものではない。この少女たちが刀使でさえなければ、経験せずに済むことばかりだろう。

「どうしたの、由良。こんなところで」

「ええ、ちょっとね…それよりあなたこそ、こんなところに居ていいの?」

武田千鶴が、ソーダ水の入った瓶と、グラスを2つ手にして、由良の前に現れていた。

「いいのよ。後はあの子たちだけで何とでもなる。後片付けもお願いしてあるしね」

二人は顔を合わせて笑いながら、草の上に腰を下ろした。互いにソーダ水を注ぎ合い、グラスを重ねた。

「今日はありがとう。あなたのおかげで最高の慰労会になった」

「私は出来ることをしただけよ。それに私一人で作ったわけじゃない。皆、よく手伝ってくれたからね」

「あなたって…華族様の割には謙虚よね」

「あのね…今時は華族なんていってもロクなもんじゃないのよ。そんなことをいって威張れたのは明治の頃までよ」

そういって、千鶴は長い髪をすくった。その動きだけでも何となく優雅に見える、といいかけてやめる。

「何?」

「ううん、別に」

「そう…。それで由良、この先の任務のことなんだけど…」

千鶴の言葉に、由良は少し憂鬱な気分になる。そこへ、

「やあ、大正生まれのお二人さん、こんな所で密談ですか?」

早乙女凪子が現れた。

「うるさいわね。数日しかない昭和元年にいわれたくないものですけど」

「そうよ。真面目な話の最中なんですから茶化さないで」

「ふふふ、何を話していたかは知りませんが、これよりも重要ですかねえ?」

そういって、凪子は竹皮の包みを取り出した。窓から漏れる灯りに照らされたそれは、

「羊羹じゃない!」

大正生まれの二人は声を揃えていった。

「この間、米内元総理と一緒に来ていた海軍の方がですね、海軍で雇っている菓子職人が作った特製の品だ、といって置いていったんですよ。あの隊長さんに渡してくれって」

そういって、凪子はそれを霧島に手渡した。

「え、隊長って私のこと?」

「あなた以外に誰がいるっていうのよ…で、由良さん、どういうことかしら?」

「本当に…由良先輩も隅に置けませんね。詳しく話を聴かせてもらいましょうか」

「え?ええー!?」

霧島にはこんな貴重なものをもらう理由が全く思い当たらない。むしろ、何であんな大それたことをいってしまったのかと後悔したほどだというのに…。

「さ、由良さん、何もかも吐いてきれいな身体におなりなさい」

「そうですね…先輩、あの時我々が荒魂と戦っている間にあなたは一体何と戦っていたのか、聞かせてもらいましょうか」

「あ、あの…ええと、あの時は…戦争に行けと言われればいきますけど、荒魂を祓うことができるのは私たちだけですって…言い切ってしまって…」

千鶴と凪子はそこで顔を見合わせた。

「米内元総理と、その軍人さんに?」

「先輩がそういったんですか?」

「はい…」

千鶴と凪子は、また顔を見合わせてからどちらからともなく笑い出した。

「ちょっと、何ですか、二人共」

「いやー、何ですかって、さすがは私たちの隊長だけのことはあるなって、ねえ、凪子?」

「ええ、本当に。大したものです。ああ、それで『あのお嬢さんには参りました』なんていっていたんですね」

「え?そんなことをいわれたんですか…ああもう私、時々ああいう風になってしまうことがあるんですよね…外弁慶っていうんですかね。恥ずかしくて死んでしまいそうです…」

凪子も頭を抱え込んでしまった由良の隣に座り、千鶴と二人で挟む形になった。

「いやいや先輩、ありがとうございます。やっぱり先輩が隊長ですよ」

「そうね、私たちはいい隊長をもったわ…ほら、しゃんと顔をお上げなさい」

千鶴が無理矢理由良の頭を両手で掴んで引っ張る。

「痛いですよ、もう…」

「あなたは相手が誰であろうと、隊員のためならひるむことなくいうべきことをいうし、やるべきことをやる。それって、誰にでも出来ることじゃない」

「ええ、妙なところで度胸がありますからね。いざという時に頼りになると、皆思っているはずです」

「うう…何だかよくわかりませんが、ありがとうございます…羊羹、食べます?」

「あれ、いいんですか?」

「どうせ皆に行き渡るほどはありませんし、ここで食べてしまいましょう」

「その話、乗った!」

「では早速斬りわけましょうか?」

そういって御刀を抜こうとする凪子を、由良は苦笑しながら手の平を向けて制し、包みを開いた。そして、

「一度、やってみたかったんですよね…」

そういって、その漆黒の甘味にかぶりついた。

「おおっ!」

「何とはしたない!」

口中に広がる小豆の香りと、まったりとした舌ざわり、そして脳をとろかすのではないかというその甘さにうっとりとしながら、

「ああーなんてぜいたく、何て美味しい!」

羊羹をかぶりついて食べるという背徳感も合間って最早恍惚とした、しまりのない笑みを浮かべていた。

「さあ、次は千鶴の番ですよ」

「おお、これぞ正に悪魔の誘惑…」

などというものの、特に躊躇する様子もなく、千鶴は手渡された羊羹にかぶりついた。

「ああ、これ…いい…!」

口元を押さえながらそう言う千鶴の様子は妙になまめかしい。

「千鶴先輩、少し自重しろ」

「うふ、由良、ちょっと凪子を押さえて」

「はいはい」

「な、ちょっと、何を!んっ!」

凪子の両肩はさっと由良に押さえられ、千鶴が羊羹の残りを凪子の口先に入れる。

「ん、んん…!」

先輩二人の様子を見てもなお抵抗があるのか、凪子は口先にあるそれに歯を立てようとはせず、舐め回すようにして苦しんでいる。

「それそれ、諦めて自分に素直になりなさいな」

「ん…んっんっ…」

そういわれてようやく、凪子は咀嚼しはじめた。

「ああ…あま…い…」

「ふっふっふ、かわいい声をだすのう。それそれ」

「ああ、もう…んっ…」

さらに羊羹を押し込まれた凪子はもう、由良が押さえるまでもなく、脱力していた。

「刀使を殺すに刃物は要らぬ、羊羹一つあればいい、ってとこね」

由良はそういって笑い、傍らに置いていたソーダ水のグラスをあおった。こんなに自然に笑えたのはいつ以来だろう。戦争が始まって、護国刀使が組織されて、少しずつ、仲間達が減って…心から楽しいと思ったことなどもう、ずっと無かったような気がする。そして、そんな状況はこれからも変わらない。それどころかもっと、任務は過酷になっていくだろう。はからずも隊長と呼ばれるようになってしまった以上、自分は何とか、この少女たちを少しでもいい方向に導かねばならない、とは思う、のだが…。

「でもまあ、私だからなあ…この先もきっと、いろいろ失敗するんだろうなあ…」

「どうしたの由良、また暗くなるようなことでも考えているの?」

「またって…ええ、まあそうなんですけど…」

「考えても仕方のないことを考えても仕方がない。どうにもならないことなど所詮はどうなってもいいことなのだ」

「どうしたの、凪子。羊羹に何か入ってた?」

「失礼なことをいわないで下さい。ヘーゲルの言葉を私なりに解釈したものです」

「ドイツの哲学者でしたっけ…あなた、見かけによらず読書家よね」

「剣術のことをいろいろと調べていくうちに派生しまして。あと見かけによらず、というのは余計です」

「剣術からヘーゲルって一体どういうことかまるでわかりませけど…でも、いい言葉ですね。確かに、その通りかもしれません。あの、二人共…」

由良はそういって正座になり、二人の方に向き直る。二人も、それを受けて同じく正座になった。

「この先、私たち…どころかこの国そのものがどうなっていくのかわかりません。私たちは与えられた任務をこなしていくだけですが…でも、もしかしたらそれだけではいけない、私たちが自分の考えで動いていかなければならない、そういう時がくるかもしれません」

二人は黙って、由良を見ていた。

「そうなったら私は…私は、何よりも皆の命を優先した判断をすると思います。後から考えたら間違っていた、ということもあるかもしれませんし、いろいろと反対もあると思うんですけど…多分、私にはそういう判断しかできません。だから、命に代えてもやらなければいけないことがあるなら、私の指示にはしたがわなくてもいいです。あなたたちはそういう意見の隊員たちをまとめて行動を起こしてもらって構いません」

千鶴が溜息をつき、凪子が後ろ頭をかいていた。

「何を突然…そんなことを考えていたんですか、先輩」

「本当、心配性もそこまでいくと一つの思想ね。でも、言いたいことはよくわかる。いいんじゃないかしら。私はあなたの考え方に賛成よ。お国のため、も大事だけれど…正直、これ以上仲間が減るのは嫌ですからね」

「ええ、この先どうなるかわかりませんが、今の所は私もお二人に同感ですよ」

「何よ、今の所って?」

「この非常時に絶対は無いっていうことですよ」

「本当、見かけによらず理屈っぽいわね」

「あなたの方こそ、意外と野放図ですね」

「もう、二人共…でもありがとう、随分、気が楽になった」

千鶴と凪子はそれを聞いて、やれやれ、という風に笑ってから、また由良の両脇に座った。

「ちょっと、二人共?」

「ほら、もう足を崩しなさいよ。いいじゃない。こうなった以上、護国刀使は一蓮托生、運命共同体ってことなんだから、隊長がダメなときはきちんと支えてあげるわよ」

「そうですね、皆、護国刀使になるために、覚悟を決めて故郷を後にしてここまで来たんです。何が一番護国刀使にとって大事なことかと問われたら、多少の違いはあっても皆同じ答えに達するんじゃないでしょうか?」

「そう…そうかもしれませんね。私たちはもうずっと、同じ思いでいるんですものね」

今更ながら、こんな特異な状況に置かれた自分たちに強い連帯感が芽生えないわけがない、ということに由良は気がついた。ならば、気負うことはない。彼女たちは自分であり、自分は彼女たちなのだ。

「うん、それじゃあこれから護国刀使は一人はみんなのために、みんなは一人のために、これでいきましょうか!」

「デュマですか。先輩は哲学より文学、ですね」

「いいじゃないの、あれ、剣を持つ身としては一度やってみたかったのよね。今度やってみましょうよ」

「え?御刀を重ねて、ですかぁ?」

「何よ、嫌なの?」

「いえ、ただあいいう芝居がかったことはちょっと…」

「何ですってぇ!」

今にもつかみ合いになりそうな二人の肩を、笑いながら、由良は抱く。それから、その背中をばんばんと叩いた。

「ちょっと由良?」

「痛いですよ先輩」

「ほんと、私たちはずっと、このままでいましょう!」

それからまた、由良は笑った。千鶴と凪子はしかめっ面を合わせてから、苦笑した。

 隊舎の灯りへ目を遣ると、仲間達の影が元気に動き回っている。本当にいい夜だと、改めて由良はそう思った。

 



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三章

 

 

 昭和18年7月1日、明治以来続いていた東京府と、東京府の中心部が独立した形となって形成されていた東京市が改めて一つとなり、東京都が誕生した。これは戦時下における行政単位の統合が目的であったようだが、現代の視点からすればさしたる効果があったとも思えず、むしろ「東京都」という名がこの時に誕生した、ということの方が、大きな意義を持っていたといっていいだろう。

 8月下旬、その生まれたばかりの東京都の中心にいる少女たちに、また新たな任務が課されようとしていた。

 

 

 熱く、湿気を帯びた空気が息苦しい。だが、それ以上に道場全体を包む緊張感に息が詰まりそうになる。来栖直と沢泉美、御刀を構えて対峙する二人から発せられる裂帛の気合が、その場に居並ぶ刀使たちの呼吸をも奪ってしまったかのようだった。

しばらく様子見をしていた両者だったが、「ふっ!」という泉美の短い声とともに立ち合いが動き始めた。

泉美が一気に二段階まで上げた迅移で下段から斬りかかる。正眼に構え、北辰一刀流独特の動きで切っ先を揺らしていた直は、右足からやって来る刃に自分の御刀を合わせて切っ先を流し、ス、と泉美の懐へ滑るように入りながら返す刀で胴を一文字に切り払った。が、既にそこに泉美の姿は無い。一足下がって間合いをとっていた泉美は、大振りをして体勢を崩している直の右腕へ向けて真っ直ぐに刃を振り下ろす。これは一本か、と思われたその瞬間、直の右足首が力強く返って蛍丸が真上に弾かれていた。凄まじい強打に泉美は身体を伸ばされた格好になったが、御刀を握り直して振り下ろす。合わせる直。互いに迅移で間合いを測りながらそのまま二合、三合と切り結び、鍔迫り合いになる。

「やりますね、泉美さん。まさかあの胴切りをかわすとは思いませんでした」

「わざと浅く斬り込んだんですよ。それよりさっきの弾き返し、相変わらずの力技ですね」

「以前までの泉美さんならねじ伏せられたんですけどねえ。本当に、何もかも良くなってますね」

「お陰様で、迷いがなくなりましたので」

二人はそこでふっと笑い、同時に退いて間合いを空けた。

「いやー、すごいわね、あの二人。もう私じゃ歯が立ちそうにないわ」

千鶴がそういって溜息をついた。

「ええ、確かに強い…。特に泉美は力も技も、それに刹那の判断も少し前とは比べ物にならないくらいだ…」

護国刀使最強といわれている凪子も、以前から直の剣には一目置いていた。いずれ、自分を超えるだろうとも思っていたが、この泉美の剣の冴えには目を見張るものがある。

「あら、そろそろ最強剣士の座も危うくなってきたかしら?」

「ふふ、まだまだ負けられないですけど…頼もしい、本当に頼もしい限りですよ」

「何言ってるの、嬉しいだけでしょ?強い相手がいるのが。そんな血走った目をして」

そういわれて自分の身体にかなり力が入っているのに気が付き、凪子は頭をかいた。

「あら、泉美さんの構え…」

千鶴の声に視線を戻すと、泉美が御刀をゆっくりと振り上げていた。

「ほう…諸手上段か…」

「泉美さんの上段、初めて見たわ。ふうん…なかなかきれいな構えね」

「かつて『位の桃井』といわれた鏡心明智流ですからね。しかしあれは有効かもしれません。直の籠手は鋭くてうるさいですからね」

「なるほど、面白くなってきたじゃない」

道場には、先程までの緊張感を押し流すほどの熱が満ちてきた。見ている刀使たちが明らかに興奮してきているのがわかる。ただ、そんな中でただ一人、渦中にいる直だけが変わらぬ様子で義元左文字を正眼に構えていることに、凪子は気付いていた。あの子はどんな時でも周囲の空気に流されず、自分の精神状態を保っている。冷静というか肝が据わっているというか、あるいはただの馬鹿なのか…いずれにしても刹那の間に命のやり取りをすることになる剣士にとって、それは最も必要とされる素養だ。つまり、頬を赤くして少し上気しているように見える泉美との差は、まだ大きい。

仕掛けたのは直だった。「てえっ!」という掛け声で左膝を上げるのと同時に、御刀を振り上げた。上段対上段、だが元から構えていた泉美の方が、予備動作が無い分打ち下ろすのは速い。同じ面打ちでも泉美の方が先に入る。泉美の方でもそういうつもりで打ち合いに応じ、踏み込んでいた…のだろうが振り下ろした御刀が、届かない。

周りの刀使たちから見れば、それは不思議な決着であった。構えを上げただけの直に向かって泉美が突っ込んで空振りをし、その泉美の頭の上で直の御刀が止まる…直の一本だった。

「そこまで!」

審判をしていた由良の声で、二人は御刀を引き、写シを解く。

「え?あれは…どういうことなの?」

「虚の剣…とでもいえばいいですかね。泉美には直が打ち込んでくるように見えていたはずです。しかし、実際には直はその場で構えを上げて、膝を上げただけ…」

「そんなこと、あり得るの?」

「ええ、直が泉美を呑んでいた、そういうことになりますがね。全く、いつの間にあんな芸当が出来るようになったのか…」

さっきまでの血の騒ぎが一転して、冷や汗に変わる。虚実入り交ぜた剣など、十代の少女がそうそう行えるものではない。

「ふうん…あの河井タツさんの孫娘、というだけのことはあるってことね」

「河井タツさんってあの教本の?直が?」

「あら、知らなかったの?」

「ええ…しかし、そうですか、なるほど…」

御刀を収めて、由良を交えて笑いながら話をしている直と泉美…二人の成長を目の当たりにして、凪子は剣術というものの奥深さを改めて知ったような気がした。いずれ刀使としての力は無くなっても、剣術は続けられる。成長し続けることはできる…そんなことを思った。それから、そんな妙なことを考えている自分に苦笑する。

「何、どうしたの?」

「いえ、あの二人はいい盆休みを取ったのだな、と思いまして」

「そうね、きっとそうなんでしょう…あら、そのお二人さんがお見えよ」

千鶴の言葉通り、直と泉美がこちらへやって来た。

「凪子先輩、どうでしたか、今の立ち合い」

直が笑顔でそう問い掛けて来る。

「ああ、二人共強くなった。特に泉美は一皮むけたな」

「ありがとうございます。それでも…直さんには敵いませんでしたけど」

「へへー、お盆休みの間におばあちゃんから色々と教わってきましたからね」

「河井タツさんか、今度お招きして講義でもしてもらおうかな」

「え、本当ですか!それならすぐにでもお願いしてきますけど!」

「直さん、いかにかつて刀使であった方とはいえ、このご時世に宮城の中へ入るにはそれなりに手続きがいるのよ。おばあ様にだってお考えがあるでしょうし」

興奮する直を、千鶴が笑顔でたしなめた。残念ながら確かに、そう簡単な話ではない。

「そうですね、でも事前に話をしておくくらいならいいですよね。もしかしたら、そういう依頼が来るかもしれないって」

「はは、そうね…ああそうだ、講義といえば吉乃と八重は上手くやってるかな?」

「え、二人共遠征に出ていたんじゃなかったんですか?」

「直さんと泉美さんはお休みから戻って来たばかりだから知らせていませんでしたね。実は今、あの二人には小学校の、国民学校の先生をお願いしているんです」

「学校の…?」

「先生、ですか…?」

そういって不思議そうな顔をする直と泉美を見て、千鶴と凪子は顔を見合わせる。

「実はいくつか新たなお役目を仰せつかっていてね」

そういいながら、審判の役目を終えた由良がやって来た。

 

 

「さあ皆さん、準備はできましたか?」

「はい!」

子供たちの元気な声に、吉乃は大きく頷く。

「それではいきますよ。『秋の田のぉかりほのいほの苫をあらみぃ』」

上の句を読み終えてから、吉乃は片目で子供たちの様子を伺う。「はい!」という元気な声と共に札を取る子もいたが、まだ半数の組では動きが無い。

「『わが衣手は露に濡れつつぅ』」

下の句が読み終わるとようやく、はい、はい、という声が響き渡る。その様子を見て、吉乃は満足気に頷いた。

「うんうん、いいわねえ。少国民カルタなんて無粋の極みよ。かるた、といえばやっぱり百人一首よ。ねえ、八重?」

「…いいんですか、姉様。そりゃあ得意なことを教えていいとはいわれてきましたけど、本来であれば剣術の基礎でも教えておくべきじゃないんですか?」

「はい、では皆さん、次の札を読み上げますよ」

子供たちの「はーい」という声に、吉乃は嬉しそうに次の札を読み上げ始めた。

「『あしびきのぉ山鳥の尾のしだり尾のぉ』」

「…私はともかく持統天皇も無視ですか」

八重はそうボソリと呟いてから子供たちの様子を見に歩き出す。

 子供たちの夏休みにも、戦争という現実は容赦が無い。「国民学校初等科」と言われていた当時の小学校では、課外活動と称して夏休み中の子供たちといえども国のために働こう、という風潮があった。とはいえまだこの頃は休みの期間も課外活動の内容もある程度学校の裁量に任されており、畑作りという体を取った林間学校など、イベント行事と合わせたような企画を設ける学校も多かったという。そんな中にあって、少国民からの人気が高い護国刀使を招いて課外授業を任せたいという学校がいくつか出て来た。文部省を通じて要請を受けた内務省がこれを認可し、護国刀使たちに出動命令が下ったわけだが、教育内容については剣術に限定されることは無く、「戦時下ニオケル適切ナ指導ヲ施スベシ」という大まかな方針をとっていた。もっとも、子供たちの方からすれば、まさか刀使に百人一首を教わるとは思っていなかっただろうが。

「あのー、お姉さんたち刀使なんでしょう?剣術を教えて下さい」

故に、そういう声が上がって来るのはまあ当然だろうと、八重は思った。その発言で、かるた大会の進行が止まる。八重は頷きながら、手を挙げている男の子の方へ行く。

「えっと、君は?」

「はい、4年2組の川崎鉄也です」

「川崎くん、君のいうことは至極最もなことだとお姉さんも思う。しかしそれはまた今度にしよう。今日のところは一つ、百人一首ということでわかってくれないかなあ」

「はい…でも何で百人一首なんですか?」

あ、と思った時には遅かった。

「川崎くん、それはね、百人一首からは素晴らしい我が国の文化を学ぶことができるからなのよ!」

吉乃のよく通る大きな声が教室中に響いていた。

「わが国の、文化…?」

「いい?そもそも私たちが一般にいうところの百人一首は小倉百人一首といって、これは選者である藤原定家が住んでいた…」

「ああ、姉様姉様、そういうのはまだお子様たちには早いですから。ええっとですね、つまり、今みんなの中でかるたといえば『少国民カルタ』ですよね?でも本来かるたといえば百人一首のことを指すもので、これは昔の言葉を使っていたりするから少し難しいんですけど、でもみんなくらいになれば十分わかるはずなので、これからはこちらのかるたを学んでいけば我が国の伝統文化にも理解が深まり、よりよい帝国臣民になっていける、そういうことなんです」

わかってもらえたのか、もらえなかったのか、ともかく場は静かになった。因みに「少国民カルタ」というのは「愛国イロハカルタ」とも呼ばれる、当時の子供たちに推奨されていたカルタで、とかく軍事国家の色が強く出た内容になっている。現在の目で見ればよくもこんな内容を子供たちに詠ませていたものだと思うような文面が並んでいるが、当時の模範的な考え方や生活というものが知れるという意味では、興味深いものだ。

「…わかりました。でも、『こうとうか』はこの間の課外授業、剣術だったんですけど…」

何とかわかってもらえたらしいが、また妙な情報が入って来た。

「高等科で剣術の授業…?八重、聞いていますか?」

「いえ…まあともかく、来年、みんなが高等科になったらその時は剣術の授業を行いましょう。それでいいですね?」

やや歯切れの悪い「はーい」という返事が返ってきて、八重は安堵の息をもらす。

「ほら、姉様続き続き」

「ええ、でもおかしいわね。少なくとも護国刀使にそんな指令はなかったと思いますけど…」

全く、誰のためにこの場をとりなしたと思っているのだこの人は、と思いつつ、

「姉様、今日は存分に歌を詠むんじゃなかったんですか?」

そういうと、ようやく吉乃は笑顔を取り戻した。

「そうね、とりあえず今はそうしましょうか」

突然わけのわからないことで悩みだすから天才と呼ばれる型の人間は困る、と思いながらも「ながながし夜をひとりかもねむ」という下の句が詠まれたのを聞いて八重は一安心し、また子供たちの間を歩き始めた。

だが、

「『吹くからにぃ秋の草木のしおるればぁ』」

と、吉乃がお気に入りの歌の上の句を詠んだところで、

「お姉さんたちは、本当に刀使なんですかぁ?」

再びそんな声が子供たちのなかから聞こえて来た。さっきの中断から数歌分の時間しか経っていない。八重は子供の集中力の持続時間を侮っていた。そう、そんなものはあってないようなものなのだ。

「はーいそうですよ、刀使ですよ。後で御刀も見せてあげますから、今はかるたをしましょうねえ」

ふと見えた吉乃の笑顔が凍っているのを確認しつつ、八重はそういって子供たちをなだめにかかる。あの人の機嫌が悪くなるとあとが面倒だからね…という思いを言外に滲ませたが、当然子供には忖度の心などはない。だから、子供なのだ。

「えー!?今見せてよ」

「だから、後でって…」

「いえ、今すぐに見せてあげましょう。八重!」

そういって、吉乃は教室の前に安置していた童子切を手に取った。姉のその、尋常ならざる様子に、八重は慌てた。まさか、初等科の子供に脅しをかけるつもりなのか。

「姉様、大人げないですよ、ちょっと落ち着いて下さい!」

「荒魂よ。川崎くん、だったわね。すぐに職員室にいって先生を呼んで来て。皆は下がって、絶対に窓側に立ってはダメよ!」

「え!?」

と、返事をするのと同時に、八重も懐のノロ磁針から小さな音が出ているのがわかった。川崎くんは大きく「はい!」と返事をして教室を出て行く。八重は大包平を手に取り、窓を開けて外を見た。今、二人がいる教室は2階だ。白昼堂々、2体の荒魂の姿が、校庭の端に現れていた。妙に落ち着きが無く、首を前後左右にさかんに動かしている。

「ええー…、何だって学校に…」

「八重、大きさは?」

「頭が二階に届くくらいありますね。大型、といってもいいかもしれません。それが、2体」

「そう…取りあえず抜刀して、写シを張っておきましょう」

「心得ました」

二人が御刀を抜き放ち、目を瞑って小さく「写シ」と口にすると、薄い光に身体が包まれる。子供たちからは「おおっ」という声が上がった。そこへ、

「先生呼んで来たよ!」

川崎くんが中年の男性教諭を伴って戻って来た。

「先生、荒魂が現れました。子供たちを避難させて下さい」

吉乃がそういい、八重が窓の外を指すと、教諭はそちらへ少し歩いて行き、すぐに血相を変えて戻って来た。

「あれが、荒魂ですか…よりによって私が当番の日に…ああ、ともかく、子供たちは避難させましょう。裏口からなら問題無いでしょうか?」

「いえ、足の速いモノだと危険です。そうですね、すぐに外に出られるように一階の、できるだけ広い場所にいて下さい」

「わかりました。それでお二人は…?」

吉乃と八重は目を合わせて頷き合う。

「ここで一旦失礼します」

「失礼します」

二人はそういって教諭と生徒たちに一礼してから窓の方へ駆け出そうとして、吉乃が一度振り返る。

「あ、かるたはそのままでいいですからね。また後で続きをしますから」

「あ、はあ…」

吉乃はそのはっきりしない教諭の返事ににっこりと笑い、それから二人は既に開け放たれていた窓枠を蹴って、跳んだ。

後ろから子供たちの甲高い声が聴こえる。二人の身体は八幡力の力で空高く舞っていた。

「八重、着地と同時に金剛身、手前の方の足を斬りますよ」

「了解ですよ」

八重は前方2体の荒魂を見据える。どちらもさすがにこちらに気付いたようだが、まだキョロキョロと周囲を伺っている。

「私たちを相手によそ見とはね…!」

二人はほぼ狙い通り、手前の荒魂の足元に着地する。衝撃は金剛身を使えばどうということはない。そこへすぐに、まるで虫でも払うかのような素振りで荒魂が足元の二人にかぎ爪を振り回して来た。吉乃は右に、八重は左に軽く跳んでそれをかわし、着地と同時に今度は荒魂の左脚に向けて跳び、吉乃、八重の順に寸分違わぬ箇所を斬り付ける。再び降って来たかぎ爪を吉乃が金剛身で受け止めると、その荒魂の腕に八重が飛び乗って、そのままぴょんぴょんと荒魂の身体の突起から突起へと飛び移っていく。京都出身の四条姉妹が使う京八流は、かの英雄、源義経と関わりがあるといわれている。その様はさながら八艘跳びであった。肩口まで飛び上がった八重は、そこから一段と高く飛び、

「はあっ!」

という短い気合いと共に、大包平を閃かせた。荒魂は斜めに首を切り裂かれ、不気味な声を上げながらよろめく。

「浅いか…?」

そういいながら八重が荒魂の右肩に着地すると、奥にいたもう一体が猛然と突進してきた。彼らにも仲間意識があるのかどうかは定かではないが、刀使たちのことを厄介な害虫だ、くらいには思っているのかもしれない。そんな害虫であるところの八重を目掛けて、荒魂が鋭い爪を振り上げた…その時、文字通りの激震が走った。校庭が、そして校舎が揺れた。

 

「何だ、地震か!?」

先生の言葉に川崎くんは、それが校庭の荒魂によるものかと思い、さっきの刀使のお姉さんにダメだといわれた窓際に向かった。

「こら、そっちはダメだ!」

という先生の声など子供たちの耳には届かない。その場の全員が窓際に駆け寄り、そこで悪の巨大怪獣と正義の剣士たちの戦いを目にした。そして、地震を起こしたのがさっきまで歌を詠んでいたあのお姉さんだとわかった。金色に輝くその雄姿に、子供たちは息を呑み、次に吐き出されたのは、声援だった。

 

 吉乃は渾身の八幡力で右脚を大きく振り上げて、地面へ接地の瞬間、全身を金剛身に変えた。それが激震の正体だった。中国拳法にある「震脚」のような技だが、三段階を超えると言われる吉乃の八幡力と金剛身が生み出すそれは、まさに震源と成り得る。手前の荒魂も、仲間思いの奥の荒魂も揃ってたたらを踏み、奥の荒魂が振り上げていた爪は大きく反れて手前の荒魂の後頭部を力無くはたいていた。

「そこっ!」

吉乃は金剛身を解き、体勢を崩している奥の荒魂の胴を真一文字に切り払った。それとほぼ同時に、

「これは僥倖…!」

手前の荒魂の肩にいた八重はそう呟いて大包平を横に構え、小さく跳んで今度は荒魂の背中側の首筋を切り裂いた。断面積の大きくなった荒魂の首は、先程奥の荒魂にはたかれた勢いも合わさって、自重で千切れながら落ちていく。耳を覆いたくなるような苦悶の叫び声が上がったが、幸いにも刀使の二人の耳に届いたのはそれだけではなかった。

「姉様、子供たちが!」

宙を舞ったままの八重がそういうと、

「ええ、いいつけを守らない、いけない子たちですね!」

吉乃は口調とは裏腹に、笑いながらそう答えた。子供たちの声援がはっきりと聞こえる。二人共、腹の底から力が湧いてくるのを感じていた。吉乃の目の前では、胴を払われた荒魂がそこを折り目にして身体を「く」の字に折る。荒魂の顔が、振って来るようだった。

「行きますよぉ、八重!」

吉乃は御刀を左腕に持ち替えて、落ちて来た顔の、顎に向けて正確に狙いを定め、

「『むべ山風を』!」

渾身の八幡力を発動して右の掌底を打ち込んだ。烈風のような衝撃と共に、荒魂の巨体が、わずかに浮いた。それがちょうど、空中にいる八重の正面に来る。

「『嵐といふらん』!」

くるりと身体を一回転させて大きく振りかぶった八重が、落下の勢いも借りて荒魂の正中線を真っ直ぐに切り裂いた。吉乃の横に着地して、一つ短く息を吐く。

「よーし、さすが我が妹、素晴らしい一撃だったわ」

吉乃が後ろから肩に手を回して来た。

「いえ、姉様の馬鹿力あってこそです。本当に…」

本当に、凄まじい技と機転だ。とんでもない姉をもったものだと八重は思う。

「まあ、乙女に向かって馬鹿力はないんじゃないかしらぁ?」

「それよりあれ、まだ動きますかね」

「うーん、大丈夫でしょう」

目の前に立つ十字の刀傷を負った荒魂は、何かを言おうとするように空を仰いで口を開く…が、そのまま固まって仰向けに倒れた。さっきよりは大分軽い、しかし十分に大きな地響きの後で、子供たちの声援が歓声に変わった。

 

 二人の課外授業は一旦中止となって子供たちは家に帰され、代わりにノロの回収のために三名の護国刀使が応援にやって来た。作業が一段落したところで吉乃と八重が職員室へ赴くと、先程の男性教諭の案内で応接室に通された。

「これは護国刀使の方々、本日は誠にありがとうございました。子供たちにも校舎にも被害は無く、何とお礼をいっていいものか…」

待っていたのは年配の男性教諭だった。

「いえ、気になさらないで下さい。これもお役目ですから」

八重がそう答えると、

「恐れ入ります。私、この学校の教頭を務めております相模と申します。どうぞ、おかけになって下さい」

二人は軽く会釈をして、座る。

「それで、聴き取りというのはどういったことでしょうか?」

「…以前に、高等部を対象に剣術の授業があったらしいですね?」

吉乃がそういうと、先程の中年教諭が3人分の水を湯呑に入れて持って来た。お茶は、既に入手が困難になりつつあった。

「お菓子の一つも出せず申し訳ない。夏休みということもあって出勤しているのは私と彼だけなもので、今一つ勝手がわからないところもありまして…」

中年教諭が退室するとそういって、教頭先生は慇懃に頭を下げた。薄くなった頭頂部がよく見える。

「いえいえ、それこそお気になさらず…」

吉乃にそういわれて教頭はもう一度頭を下げてから、切り出した。

「剣術授業の件、ですか。高等部の女子生徒の中には刀使に憧れている者もおりますし、男子生徒は元々剣術には興味津々ですから、指導の一環にと申請をしていたところ、それが通りまして…確か1週間ほど前にそういった授業を行っております」

「そうですか…それで、派遣されて来たのは刀使、だったのですか?」

「ええ、それはもちろん…ああ、しかし護国刀使の方ではありませんでしたね。内務省神祇院から派遣されてきた、ということでしたが…」

そこで、吉乃と八重は顔を見合わせる。刀使自体は護国刀使に限らず全国にいる。だが、内務省神祇院付けとなっているのは近衛祭祀隊のみのはずだ。

「そうだったんですか。その時に才能がある、といわれた生徒はいましたか?」

また妙なことを聞くな、と八重は思ったが何かしら考えがあるのだろう。何食わぬ顔で黙っておく。

「はい、詳しい指導の内容は聞いておりませんが、鍛錬次第で刀使になれるかもしれない、といわれた生徒は何人かおりました。それで御刀を貸し出していただきましてね、今後それで訓練してみるようにといわれたということで、大変に名誉なことだと皆喜んでいるんですよ」

八重は口を挟みたくなるのぐっと堪えた。姉の笑顔が、今日二度目となる凍り方を見せていた。

「そうだったんですか、それは喜ばしいことです。ところでその御刀は今、どうされているんですか?」

「ああ、それでしたら普段は奉安殿に奉納させていただいております。あそこであれば鍵もかかりますし、失礼もないでしょうから」

奉安殿、というのは御真影、つまり天皇、皇后の写真や教育勅語などの「賜りもの」を納めていた祠のような施設だ。当時の国民学校であれば校舎の内外を問わず、必ずどこかに設置されていた。

「そうですか…あの、その御刀、見せていただいても?」

「え?ええ、それはもちろん…今すぐ、ですか?」

「はい、今すぐ、です」

長い髪をかき上げながらそういう吉乃の姿は、折神碧様程ではないかもしれないが、それでも十分に美しく、そしてそれが有無を言わせない圧力を備えている。私も髪を伸ばしてみようかな、などと八重は思ったが、戦闘の邪魔になるし手入れが面倒だな、とすぐに思い直した。教頭先生は頷きながらフラリと立ち上がる。

「では、こちらへ…」

姉妹も頷いて、立ち上がった。

 和風なのか洋風なのかよくわからない、しかしひどく丈夫そうなのは間違いないコンクリート造りのその建造物…奉安殿は、校庭の一角にあった。さっきの男性教諭が鍵を持って来て、ノロの回収が終わった応援の刀使3人も合流する。

「香澄、あなたがいてよかったわ」

吉乃が、その応援の刀使の一人に話しかける。

「ええ、よくわかりませんけど御刀があるんでしたら是非拝見させていただきたいですね」

青砥香澄がそういってから欠伸をした。青砥家は代々砥師を出している家系で、多くの刀使がお世話になっている。

「あ、すいません。夜勤明けなもので…」

香澄はそういってさらに背伸びをした。緊張感は無いが、多くの御刀を幼い頃から見て来たこの娘の鑑識眼は確かなものがある。事実、近衛祭祀隊でも大抵の御刀は香澄の目を通した後で地下に奉納されている。そのため滅多に遠征に出ることは無く、隊舎の夜勤番や今回のような緊急の応援に出動することの多い、少し特殊な刀使だった。

そんな少女たちのやりとりを大人たちは特に気にする様子も無く、男性教諭によって奉安殿の鍵が開けられる。

「へえ、奉安殿の中って初めて見ましたね」

香澄がそういうのに、刀使たちは頷き、教頭が笑った。男性教諭が一礼して中に入り、安置されていた一振りの御刀を両手で捧げるようにして持ち上げ、また一礼をしてからこちらへ振り返った。

「これです。どうぞ」

香澄が目で仲間たちに確認を取ると、全員が頷いた。香澄も頷き、

「では、お預かりします」

そういって男性教諭から御刀を預かり、一礼してから静かに抜刀した。香澄には一瞬にして、これがどういう御刀かわかった。というよりこれは刀使たちがいうところの「御刀」ではなかった。だが、不思議なことに、刀使が御刀を握った時に感じる霊力が身体を巡る感覚が微かに、ある。

「ふうん…なるほど」

刀身をじっくり見据え、柄や拵えの様子も見てから、

「はい、結構なものでした。皆さんはどうします?」

そういうと、

「あなたがわかったのならそれでいいわ」

吉乃がそう答え、他の皆も頷く。香澄以上に御刀に造詣のある者はいない。

「そうですか…では、お返しいたします」

そういって、香澄は少し神妙な顔で「それ」を男性教諭へ返した。

「教頭先生、突然無理をいってすいませんでした」

「いえいえ、それで、疑問は晴れたのですか?」

「はい、ありがとうございました。今日はこんなことになってしまい残念でしたが、また、必ず続きをしようと子供たちにお伝え下さい」

「ええ、間違いなく伝えておきましょう。今日はこれで?」

「はい、色々と上に報告をしなければいけないことができてしまいましたから…」

そこで刀使の五人は改めて教員の二人に一礼し、返礼をされて、その場を辞した。

 

「とんだ課外授業でしたね」

校庭を歩きながら八重が溜息と共にそういった。が、

「そうね…ところで香澄、あれは、何だったの?」

吉乃は大分さっきの「御刀」にご執心らしい。

「ああ、あれは紛い物…というか軍刀だったわ」

「軍刀…ですか?」

応援の刀使の一人、甲斐百合子がそういった。

「ええ、でも大量生産品の軍刀にしては随分といい出来だった。あれは美濃関の刀工の技ね。大したものよ」

「そう…それで、あれで鍛錬すれば刀使になれると思う?」

「うーん、皆には微かすぎてわからなかったかもしれないけど、一応、刀使に反応するあの感覚はあったのよねえ…不思議なことに」

吉乃はますます難しい顔をして「軍刀なのに反応した…」ぶつぶつと独り言を言い始めた。またこれは面倒なことになったなと思いながら、校庭を眺めていた八重はふと閃いた。そういえば、あの荒魂どもは何かを探していたように見えた。

「あ、だとしたらあの御刀に反応して荒魂が現れたんですかね」

吉乃の真顔が、こちらに向けられる。

「それよ!さすが我が妹!え、待って、だとしたらあの軍刀には…まさか…!」

「ちょっと、姉様?」

また考え込んでしまった姉はもう放っておくことにして、4人は歩き始める。すると校舎を出たところで、さっきの子供たちが数人立っているのがわかった。どうやら刀使のお姉さんたちを待っていたらしい。

「おや君たち、帰ったんじゃなかったのかな?」

八重がそういうと、子供たちはまず、一礼した。

「お姉さんたち!」

「今日はありがとうございました!」

八重は少し面喰いながら「はい、どういたしまして」などと返事をする。そこへ吉乃が追いつき「あらまあ」などという。

「それからすいませんでした!お姉さんたちはあんなに強い刀使だったのに、おれたちあんな無礼なことをいって…」

そういったのは、見覚えのあるいがぐり坊主だった。

「ああ、川崎くん、だったね。別に気にすることは無いよ。みんなもそんなことは気にしなくていいから、もう帰りなさい。あんなことがあったんだ。ご両親も心配しているでしょう」

「はい、それで、あの…」

そういって口ごもる川崎くんに代わって、

「やっぱりおれたちは刀使にはなれないんですか?」

そういったのは、御刀を見せてくれといってきた少年だった。どう答えたものかと八重が迷っていると、吉乃がニッコリ笑って進み出て来た。

「そうね、今のところ刀使になっているのは女性だけだから、ちょっと難しいかもしれないわね。でもどうしてそう思うの?私たちが強かったから?」

男の子たちは頷いた。

「あんなバケモノをあんな風に倒してしまうなんてすごいです。おれたちも強くなって、お国の役に立ちたいんです」

男の子たちの眼は、真剣だ。それは強い意志の光を秘めた立派な眼ではあったが、見ていると何だか悲しみがこみ上げてくるのを八重は感じていた。

「そう…そうね。うーん、皆は私たち刀使があんな風に戦えるのはどうしてだと思う?」

吉乃は少ししゃがんで少年たちの目線になる。少年たちは揃ってふっと顔を赤くした。

「それは…刀使の力は神懸かりだから…」

さっきとはまた違った緊張した面持ちで、川崎くんが答えた。

「なるほど、神懸かりね。確かにそう見えるかもしれない。でもね、刀使が戦えるのは、刀使がそんな神懸かりの力を使えるのは、多くの人たちの協力があるからなの。たとえばこの御刀」

吉乃はそういって腰を上げて抜刀する。童子切の美しい刀身に少年たちの顔が写り込んだ。

「御刀の手入れは私たちだけではできないの。簡単に磨いたりすることはできるけど、強い衝撃がかかって柄がずれてしまったり、少しでも刃こぼれが出てしまうと、もう私たちの手には負えない」

香澄が笑顔を見せて後を継ぐ。

「そうですね、そんな時は砥ぎ師を始めとした人たちが元の状態に戻すために仕事をします。その刀使のクセに合わせて調整もしたりするんですよ」

少年たちがしっかりと話を聴いて頷いている。

「そう、他にも私たちが市中で御刀を振るってもいいように法律を定めたくれた人たちもいるし、訓練のための場所を整えてくれた人たちもいます。もちろん、そういう人たちは刀使の力を使えません。でも、そういう人たちの力がなければ、私たちは刀使の力を使うことが出来ないんです。わかりますか?」

吉乃はいいながら童子切を鞘に収めた。少年たちはその動きを目で追いながら「はい」と答える。

「これは、戦地で戦う兵隊さんたちも同じことです。兵隊さんたちは、銃後を預かる私たちや皆が、それぞれに出来ることをしているから安心して戦うことができるんです」

少年たちは少し考える風を見せた。少しの間の後、

「おれたちは別に…何もしていません」

川崎くんの隣の少年がそういった。何となく、いつも姉の背中を追っていた小さい頃の自分を思い出し、八重はその少年の肩に手を置いた。

「何もしていない、ということは無いよ。勉強をして、身体を動かして、そうやって立派な大人になるために頑張るのが今の皆がやるべきことなんだよ」

「そのお姉さんのいう通り、今はたくさんのことを学ぶこと!それが皆のお仕事なんです。だから百人一首もしっかり覚えましょうね!」

少年たちに顔を近づけて吉乃がそういうと、

「は、はい…」

完全に気圧されつつも、彼らは何とかそう答えた。垂れた黒髪を耳にかけながら「よろしい!」といって吉乃が頷く。

「まあ…約束通り高等部になったら剣術の稽古もするから、それまではそのお姉さんのいうことも聞いて上げてね」

八重の言葉に今度はまともな「はい」という返事があった。

「じゃあ少国民の皆さん、お姉さんたちはこれで帰るから、皆さんも真っ直ぐに帰るように、ね」

香澄がそういうと、少年たちはまた礼をしてから散っていった。

「…こういうのってやっぱり、おかしいんじゃないでしょうか?」

少年たちの背中を見ながら、八重はぽつりとそうつぶやいた。

「こういうのって、どういうこと?」

「何ていいますか、あんな子供たちが、夏休みを遊んで過ごせない…遊んで過ごすのが悪いことのように思えてしまうっていうのは…どうなのかなと思うんですよね」

5人の刀使は、歩き始めた。

「そうね、それをいうなら私たちだってまだ法律上は子供ですけど…確かに八重のいう通り、今は子供が子供でいることが許されない時代なのかもしれませんね」

「それはやっぱり…悲しいことだと思うんですよね」

八重は、校舎を振り返る。最近はこんなおかしなことばかりが積み重なっていっているような気がする。これで本当に、この国は良い方向に向かっていくのだろうか?などという妙な疑問がよぎったが、頭を振ってそれを打ち消す。そんなことを考えてはいけない、それは、非国民の考えることだ。

 

 

 その日、四条姉妹をはじめとした5人の刀使が隊舎に戻る少し前に、霧島由良、早乙女凪子、来栖直、沢泉美の四人は出動していた。目的は荒魂討伐でも御刀の回収でも無い。

「久し振りに来ました。上野動物園…」

上野動物園は日本最初の動物園として明治15年に上野恩賜公園にその原型ができた。以来、多くの動物たちが集められて広く国民から愛される施設となっている。

「私は初めてですが…直さんは何度か来たことがあるんですか?」

「はい、おばあちゃんに連れられて…刀使になる少し前にも来たことがあります」

「そうか…今回の件、直と泉美は無理をしなくてもいい。私と由良先輩に任せて今からでも帰っていい。いや、そうしてくれないか?」

凪子の言葉に、由良も頷く。

「ええ、今回の要請はちょっとね…あなたたちに経験させるべき内容でもないと思う」

「いえ、大丈夫です」

直はきっぱりとそういって、二人の先輩をしっかりと見据えた。由良と凪子は顔を見合わせて少しの間目でやり取りをしてから、

「わかった…行こう。園内の管理室で詳しい話が聞けるはずだ。それからでも遅くはない」

「そうね…取りあえず、入りましょうか」

普段ならまだ閉園時間には早い時刻であったが、今日はもう「臨時閉園」の横断幕が入り口に張られている。4人の刀使は係員に挨拶をして、園内へ入った。

 この年の8月17日、現在でいえば都知事にあたる東京都長官より、上野動物園に対し「戦時猛獣殺処分」の命令が下った。今後の空襲などで動物園が被害を受けた際、飼育している猛獣が街中へ逃げ出し、人的、または物的な被害が出ないようにするために予め殺処分をしろ、という命令だが、同時に動物たちが消費する飼料の量がばかにならなかったということや、戦時下にあっては動物園のような娯楽施設そのものが不謹慎であるという指摘もまた、この命令が下された背景にはあったらしい。いずれにしても人の都合で生まれ故郷から離されて人工施設での生活を余儀なくされていた動物たちを、また人の都合で殺してしまおうという命令が何の臆面も無く下されたということだ。

「園内の動物たちは、危険度に応じて第一種から第四種に分類されています。そしてこの最も危険度の高い第一種に該当する動物たちを本日中に……殺処分、する予定です」

管理室内には動物園の職員たちが集められており、刀使の四人はその中に入る。動物園の園長代理だという男からの今の説明に加え、渡された手元の資料を見ると、第一種に指定された動物にはヒグマ、トラ、ヒョウ、ライオン、ニシキヘビなどの名前があった。そして次に、制服姿の女性の飼育員が立った。

「殺処分…には、毒を使います。硝酸ストリキニーネという猛毒を餌に混ぜます。大抵の動物はこれで即死するかと思いますが…致死量は動物によって異なるので、実際のところはどうなるかわかりません。加えて、都からは今回の殺処分に銃を使うな、という命令が来ていますので…」

その女性は感情のこもらない声で淡々としゃべっていたのだが、最後のところで刀使の少女たちを見ながら言葉を詰まらせてしまった。そこで再び園長代理が立つ。

「今、沢田のいった通り、銃は禁じられています。発砲した際の音が周辺に漏れると住民に不安を感じさせる、とのことでして…つまり、護国刀使の皆さんをお呼びしたのは…」

「毒で死にきれなかった動物たちの介錯をしてくれ…そういうことですね」

由良がそう答えると、園長代理や飼育員たちは様々な反応をとった。彼女たちから目を反らす者、黙って頭を下げる者…。いずれにしても、それこそが今回の任務であった。愛玩動物を斬れ、という任務が刀使に与えられたのは史上、初めてのことだろう。

「どうかお気になさらず。我々であれば噛みつかれても問題ありませんし、音を出さずに動物たちを処理できるでしょう。確かに、適任です。しかし、この数を今日中となると…何組か作って対応する、ということでしょうか」

極めて事務的に凪子そういうと、園長代理が頷いた。

「はい、2組に分けて行動します。刀使の方々はお二人ずつ、ということでいかがでしょうか?」

「直、泉美、本当にいいんだな?」

二人の「はい」という声に由良と凪子も頷いた。最早異存などない。四人は頷き、それぞれの組のメンバーを紹介されて席を立った。

 

 「処分」は順調だった。直は泉美と、それから飼育員四人の合計六人で園内を回った。順調、というのはよく毒が効いた、ということだ。クロヒョウを処分し、チーターが痙攣しながら、やがてピクリとも動かなくなるのを飼育員の後ろから見届けて、直は冷ややかなおかしさを堪え切れなくなった。

「見て下さいよ、泉美さん。動物たち、何の疑いも無く餌を食べてますよ」

「ええ、そうね…」

「遠い異国に連れて来られて、でも信頼できる飼育員さんたちに毎日餌をもらってそれなりに暮らしていたのに…その飼育員さんたちからまさか毒を盛られるなんて夢にも思っていなかったんでしょうね」

「ちょっと直さん…?どうしたんですか?」

「別に…本当に人間は勝手だな、と思いまして」

「直さん…一番つらいのはあの方たち、なんですよ…」

「わかってますよ…そのくらい…」

直は、心がかき乱されているのを自覚している。荒魂と対峙している時でさえこんな風に心がけば立つことはない。今まで自分はちょっとしたことでは動じない人間だと思っていた。だがそうではなかったらしい。どうしようもないくらいに気分が悪い。

「あなたのいう通りよ。今まで私たちを信じてくれた動物たちにこんな非道な仕打ちをするなんてね…私たちは間違い無く地獄行きね」

管理室で話をした、あの沢田という女性飼育員だった、さっきまで毒餌を与えていたが、今はもう二人の横に立っていた。泉美が慌てる。

「あ、すいません。決して、皆さんのことをいっているわけではなくて…その、普段はあんなことをいう子ではないんですが…」

「気にしないで下さい。こんなことに巻き込まれてしまえばナーバスになるのも無理はないでしょう…本当に、あなたたちには申し訳ないと思っています」

直も泉美も、返す言葉が見つからず、ただ、黙った。

「さあ、行きましょうか…」

動物たちの遺骸をまとめて、手を合わせていた飼育員たちが戻って来た。一行は、無言のまま次の檻に向かう。

「次は…虎、ですか」

直の言葉に沢田が頷きながら尋ねる。

「虎、お好きなんですか?」

「別に…」

そっけなく返事をする直を、泉美が睨んだ。それを見て、直は鋭い溜息をついた。

「私の祖母が辰年で、名前もタツっていうんです。祖母は昔からここに来ると必ず虎と並んで立って、『龍虎図』よ、なんていって…」

その後の言葉が続かない。その場の全員の耳には入っているはずだが、誰も何も言うことが出来ない。ただ、蝉の声だけがやかましく響いている。

そうして何の比喩でもなく、お通夜のような一行は虎の檻の前に辿り着く。その場の様子を目にすれば、やはり、直にとっては懐かしいと思える場所だった。そんな場所を、これから壊さなくてはならない。これまでと同じように、飼育員が毒を餌に混ぜ、檻に持って行く。だが…同じなのはそこまでだった。毒入りの肉を一口かじった虎は、すぐにそれを吐き出した。頭を振りながら低く唸り、威嚇の体勢をとる。

「まあ、気付く子もいるか…」

「どうします…」

飼育員たちの様子は困惑したようでもあり、できればこのままにしておきたいというためらいも感じられる。だが…このままというわけにはいかないのだ。

「よろしいですね」

泉美が抜刀しながら進み出た。

「ちょっと、泉美さん、待って下さい!」

「直さんにこの虎は殺せないでしょう?皆さん、少し退がって下さい」

4人の飼育員たちが檻から離れ、虎の姿が後方にいた刀使の二人にも見えた、その一瞬だった。泉美は写シも張らず、迅移を発動させて一気に、鉄格子越しに虎の喉を刺し貫いた。何が起こったのかもわからぬまま、虎は血の泡を口から吐きつつ、ドサリと倒れた。

泉美は無表情のままポケットから手ぬぐいを出して蛍丸の長い刀身をぬぐう。呆気に取られていた飼育員たちだったが、少女が血塗られた刃を手にしているという有様を見て、自分たちの仕事を思い出したようだった。

「あ…ごめんなさい、私たちがやらなければならなかったのに…」

「いえ、私たちの仕事でもありますから」

「すいません。私たちが躊躇してしまったばかりに…」

「お気になさらず……皆さんだけが地獄行きになるのは気が引けますので」

泉美は、そういってうっすらと笑った。その笑顔を見て、直の腹も決まった。

動物たちがどの程度の毒を服用すれば死に至るか、それは個々の動物の体重から算出されていたようだが、随分曖昧な数字であったらしい。その後は直、泉美共に何度も御刀を振るう羽目になった。そしてそれは由良と凪子も同様であったらしく、二組に分かれていた死神たちがゾウの檻の前で合流した時、お互いの憔悴した顔を見てそれを確認できた。

「二人共、随分ひどい顔をしているな…」

「そちらも…大変だったみたいね」

抜き身の御刀を携えたままの由良と凪子は、それでも後輩たちを気遣う様子を見せた。

「はい…そちらも…」

泉美がそう答えると、両方の組の飼育員たちが揃って頭を下げた。その横の大きな檻には、3頭のゾウの姿があった。

「あの…ゾウも、なんですか?」

直がそういうと、合流した園長代理が渋い顔をした。

「ゾウは、毒を嗅ぎ分ける上に刃物で殺すのが難しいので…」

「今日の所は対応しません。さあ、行きましょう」

煮え切らない園長代理の言葉に沢田が早々に結論を付け、一行を促した。刀使たちは顔を見合わせたが、飼育員たちが先に進むのでそれについて行くしかない。

「どうしたんでしょうか?」

「さあ…でもああ仰っている以上、私たちが無理に関わる事もない、と理解するしかありませんね。ゾウは大人しい動物だとも聞きます。私たちが手を下さなくてもいいのかもしれません」

直の言葉に由良が答える。

「それって…殺処分から除外されているということでしょうか?」

「それは、無いだろう。これだけ大きい動物だからな…。別に、直接手を下さなくとも殺す方法はある、そういうことじゃないかと思うが」

泉美の言葉に、凪子が答えた。そこで直は、今までの動物たちの様子を思い出す。どの動物たちも少し、痩せているように見えた。

「それってつまり…餌を与えない…とか?」

「…これ以上考えるのはよしましょう。あの方たちはきっと、私たちを気遣ってくれたんです。せめて、そう思いましょう」

由良がそういい、凪子と泉美は頷いた。だが、やはり直には納得がいかなかった。人間だって食べるのに苦労しているご時世だから、餌を減らされるのは仕方がない、というのは何とか理解できる。しかし、餓死させる、というのはあんまりだ。

「荒魂も動物も、人間は自分たちの都合で…勝手過ぎるよね…」

ゾウの檻を振り返り、直はぽつりと呟いた。

 

「ここで最後です」

ライオン、と書かれた札の前で、沢田がそういった。三頭のライオンは屋外展示のための放飼場とつながった狭い室内で身体を休めていた。処分のため、ここに移されたのだろう。

殺処分実行部隊は全部で12名の大所帯となったため、飼育員たちだけが一旦その室内へ向かう。彼らは既に刀使たちの鬼神の如き「奮戦」を目にしているため、できるだけ自分たちだけで何とかしたいと思っているのだろう。

「無事に…終わるといいですね」

「ええ…死に切れない動物にトドメを刺すなんて、もう御免だわ」

そんな彼女らの期待は、3分の2だけ叶えられていた。不意に飼育室の方で喧騒が起き、沢田が、落胆した様子でやって来る。そして、

「お願い、力を貸して」

それだけいった。4人の刀使は顔を見合わせて頷き、飼育室へ向かう。独特の臭いが漂うその飼育室の中では既に、雄と雌のライオンが一頭ずつ、横たわっていた。

「3頭のうち、2頭はこの通り…まあ、もう弱っていたんだけど…ただカテリーナが…雌の一頭が、隣の放飼場、広い方へ逃げてしまったの。鍵を掛け忘れていたみたいで…」

「毒餌に気付いた、ということなのでしょうか?」

「多分、そう…。あの子はこの雄、アリと夫婦だったの。アリが最後に…伝えたのかもしれない…」

由良の問いに、沢田は途切れ途切れに答えた。大分感傷的になっているようだ。

「わかりました…それでは園長代理、私たちが隣の放飼場に入ります。いいですね?」

「ええ…申し訳ない」

それを聞いて由良と凪子が先に行こうとするのを、直が止めた。

「待って下さい由良先輩、凪子先輩、ここは私に任せてくれませんか?」

由良と凪子が、しかめ面を見合わせる。

「いや、いい。ここは私と由良先輩で対応する」

「ここまで、私は全て一太刀で動物を殺しています」

直の言葉に由良も凪子も泉美も、動きを止めた。

「なに…?」

「私がやります。私が一番、苦しませずに殺せます」

直は自分でも何故ここまでこだわっているのか、はっきりとはわからない。しかしおそらくはこれが、勝手過ぎる人間のやり方に対する自分なりのけじめのつけ方だと思っている。この殺処分を人間の勝手だと理解している者が、せめて苦しませずに殺す…これは小さな、しかも独りよがりの反抗のようなものだった。自己満足、と言い換えてもいいかもしれない。だが、身勝手な決定を下した人たちに代わって、せめて自分が動物たちの命を背負ってやりたい…そういう、直の覚悟でもあった。

「本気、なのね…?」

由良の問いに直が頷く。その眼に揺るぎない光があるのを察し、凪子が折れた。

「…わかった。まかせよう…。但し…私と泉美が援護につく。それでいいな?」

直と泉美は頷いた。

「あれ、私は…?」

「由良先輩はここでもしもの時に備えていて下さい。いいですね?」

「はい…」

消え入りそうな由良の返事を持って、話は決まった。直を先頭に、凪子、泉美が放飼場に入る。

放飼場は広く、ある程度自然環境が再現されている。草が茂り、小さな起伏もあるが、ライオンのような動物が全身を隠せる場所は無い。剣を持った三人の侵入者は、すぐにこの場の主と相対した。

義元左文字を正眼に構えた直、その後ろに少し離れて泉美と凪子が立つ。雌のライオンは低い姿勢をとって、低い唸り声を上げた。揺れる切っ先越しに見る獅子の眼は、夕闇迫る周囲の様子とは対照的に光を湛えている。まるで明眼のようだ、と直は思う。その眼をじっと見ながら、鳴り止むことの無い蝉の声に打たれ続けながら、自分の中の感情が完全に空になるのを待った。北辰一刀流の「北辰」とは北極星を指す。中天にあって決して動くことのない北辰、暗い夜の道を、海を、進む人々の標となった星…今自分が進んでいる道は、この星の光が届かない道なき道なのかもしれない。しかしその暗闇に道を見出したのなら、自分の目でしっかりと見なくてはいけない。どんな暗がりの中でも、足を踏み外すことがなければ進んでいける。

 自分の定めた北辰が見えたその時、直の迅移は発動と同時に三段階に達した。ライオンの身体とすれ違いざまに接触し、その横首から喉を、正確に斬り下ろした。一瞬のうちに呼吸と声を奪われたライオンは、目を見開いたまま致命傷となった切り口を大きく広げるように背筋を伸ばしてから、倒れた。

冷たい汗を感じながら、直はゆっくりと振り返る。やり遂げた…そう思った瞬間、目の前に飛び込んできた光景に息を呑み…再度御刀を構え直す。雌のライオンの遺骸に、子供のライオンが3頭、しがみついていたのだ。

「直、よくやった…どうしたんだ…ん…!」

「直さん…?あっ…!」

後ろからやってきた凪子と泉美も同時に言葉を失って立ち止まる。

「このライオン、お母さんだったんですね。この子たちを護りにここに来たんでしょう…二人共、退がっていて下さい」

小さな、ぬいぐるみのような子供のライオンたち。もう動かない、自分が殺した母の身体にすがって鳴いている。だが、その声は直には届かない。泉美と凪子の声も、今の直には届かなかった。

今更何を迷う必要があるというのだろう。どうせこの子たちもすぐに大人になる。その時にまたこんな思いをする人たちが出るのなら…それなら今ここで、殺さなくてはならない。

一頭目を定め、義元左文字を振り上げた。その時、

「直さん、やめて!」

「もういい!その子たちは、いいの!」

由良と沢田が駆けて来た。沢田は身の危険も顧みずに、刃を振り上げた直の身体に飛びついた。

「ごめんなさい、ごめんなさい。もういいの、ありがとう…」

そういって、直を強く抱きしめる。

「どういうことです?由良先輩…」

凪子が尋ねた。

「さっき、園長ご本人が電報を持って駆けて来てね、名古屋の動物園から『コガタジュウ アズカル』っていう返信が来たと知らせてくれたの」

それを聞いて泉美は疑問に思う。

「でもライオンの子供ですよ?本当に大丈夫なんでしょうか…」

「ええ、コガタジュウっていうのはあの子たちのことを指す隠語みたい。本来は命令違反なのでしょうけど…そこは意地、なんでしょうね。だからライオンの殺処分を最後に回して、こんなギリギリまで交渉を続けて…」

直には、何も考えられず、何の言葉も口から出てこなかった。ただ、自分の眼から滴った涙が沢田の肩を濡らしているのを見て、それから、堰を切ったように溢れる涙を止められなくなった。

 

 

 その後、直たちは9月4日に動物たちの慰霊祭が開かれたことを新聞と、沢田からの手紙で知った。犠牲になった動物たちにはせめて安らかに眠ってくれと思うのは皆同じであったろうが、新聞に紹介されていた慰霊祭に寄せられた子供たちからの手紙を食堂で読みながら、直と八重は強い違和感を覚えていた。

「『ぼくが大きくなったらね、アメリカ、イギリスをぶつつぶす、ライオンたちのかたきを、きつととつて上げませう』仇討ちに燃える少国民…か。どう思う、直?」

「動物たちを殺したのはアメリカやイギリスの人たちじゃない…」

「だな…由良先輩やお前たちがどんなにつらい思いをしてきたか察するに余りあるけど、まさか、こんな風に戦意高揚にすり替えられるとは…」

「ええ、本当に、何かとても嫌な気分です」

直はそういって、大きく溜息をついた。あの、心のけば立った感覚は今でも正確に自分の中に蘇らせることが出来る。

「動物園の人からの手紙には、何て書いてあった?」

「自分たちで手を下しておきながら慰霊祭だなんてよくいえたものだと思うけど、でも、こうでもしないと私たちもやり切れないって…」

「それはまあ、そうか…本当に、どうなってるんだろうな、この国は…」

「この国か、八重さんはすごいですね。私はそんな大きなことは考えもしませんでした。ただ…」

「ただ?」

「人間って、いざとなったらどんな酷いことでもできちゃうんだなって、そう思いました」

直が少し笑いながらそういう。八重は、そんな直の様子に不安と危うさを感じる。

「直、あんまり自分を追い詰めるなよ。こんなの、命令するやつの頭がおかしいんだ。みんな、由良先輩やお前たちにだけつらい思いをさせてしまったって思ってる。だから、いいたいことがあればいくらでもいってくれ。いくらでも聴く。それくらいのことしか…できないから」

「うん、ありがとう。でも大丈夫ですよ。私、そんなに弱っているように見えますか?」

確かに、直のその強さには微塵の翳りもない。だが…。

「刀って…斬れ味だけを求めていくと刀身が脆くなる、そんな話を聴いたことが無い?」

「何ですか突然、まあ、聴く話ですけど…」

「上手くいえないけど、今の直は感覚が鋭くなり過ぎていて、何かの拍子に折れてしまうんじゃないかって…私がいいたいのはそういうことなんだけど」

「私、そんなにやわじゃないつもりですけどね…」

「…私たちは一人じゃない。そりゃあ任務の内容が偏ることはあるかもしれないけど、誰かが苦しんでいるのを見過ごすような子はいないでしょう?それは、忘れないでほしい」

八重は、直のきょとんとした様子を見て柄にもないことをいったかな、思った。が、

「ふふ、そうですね、全くありがたいお仲間たちです」

その言葉を聞いて少し安心した。

「はは…ほんと、私たちも因果な縁よねえ」

八重はそういって、すっかり紙面の薄くなった新聞をたたんだ。

 

 

 

 

 

 



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四章

 

 

 昭和18年も暮れに入ると、日本陸海軍は戦況と大きくかけ離れた作戦を立案するようになる。正確な情報を入手できなかったことは大きな原因だったが、それにも増して問題だったのは現実を直視せず、あまりにも的外れな希望的観測だけに基づいて戦局を判断していた将官クラスの軍人が多くいたということにあるだろう。そうした夢想家たちにより、日本は破滅への道を確実に進んでいくことになる。

 

 鷹司京は立ち上がり、窓の外で降り続く雨を見ながらその暗い天気とは対照的に、終始笑顔を浮かべている目の前の女を見て短く溜息をつく。

「落ち着いて下さい、鷹司様」

そう、声をかけられて苛立ちを隠せなくなる。この自分が、落ち着いていないように見えるとでもいうのだろうか?

「言葉を慎めよ、香織。折神家の分家の、しかも刀使ですらない貴様ごときが、一体何のつもりでこの私に意見をする」

「は、これは過ぎたことを申し上げました。ご容赦下さい」

困ったような顔をしながらも常に絶やさないその笑顔からは、真意が読み取れない。こうして行動を共にしているとはいえ、気味の悪い女だ。何も言う気になれず、再び窓の外を見ると、部屋のドアがノックされた。

「折神碧です。よろしいでしょうか」

「どうぞ、お入りになって下さい」

「失礼します…」

そういって、開かれたドアからは3人の女が現れた。一人は名乗りを上げた折神碧、そして知っている刀使が一人と、知らない刀使が一人。

「お久しぶりです、鷹司様」

知っている刀使ー四条吉乃がそう、挨拶してきた。

「四条吉乃か…そう久しいということもないだろう。精々一年振りといったところか。妹御は息災か?」

「ええ、元気にやっています。お気遣いいただきありがとうございます」

「ふん…まあ、座れ」

「はい、失礼します」

「香織姉さん、失礼しますね」

「どうぞ、碧さん。どう、新婚生活は?」

「はい、何かと忙しいので一緒に過ごせる時間はあまりないのですが…その、こんなご時世に不謹慎かもしれませんが、幸せに過ごしております」

「あら、それは何よりね。綾小路折神家は安泰、というところかしら?」

「もう、香織姉様…!」

隣では両折神家のそんな遣り取りがあってから碧がテーブルについた。だが、一人だけ、知らない刀使が突っ立ったままだ。

「そこの刀使、どうかしたか?まさか耳が聴こえぬのか?」

「い、いえ、その、五摂家の方と同席などと、畏れ多く…」

「ん?妙なことをいうな。護国刀使にも華族はおろう。ああ…そなた、名は?」

「は、はい。霧島由良と申します」

「そうか。霧島、一応そなたらは客人でもある。遠慮はいらん。話ができんから早くかけよ」

「きょ、恐縮です。では、失礼いたします…」

今時そんなことを気に掛けるとはおかしなやつだ、と思いつつも、おそらく年上であろうこの刀使に京はなんとなく好感を持った。いや、霧島だけではない、相変わらず美しい折神碧と、四条吉乃も好ましい。この二人には気高さが感じられるのもまたいい。少し、機嫌を直してから京もテーブルについた。

「して、わざわざこの神祇院まで何の御用かな、護国刀使の方々?」

内務省外局神祇院は霞が関の官庁街にある。護国刀使の隊舎からほど近く、折神碧は執務の都合上、毎月顔を出しているが、護国刀使の隊員がここを訪れることはほとんど無い。一応隊長格の由良でさえ、護国刀使が結成された際に一度、挨拶に来たことがあったくらいだ。故に、この石造りの堅牢な庁舎の中では気後れしてしまうのも無理からぬ話だった。

「では、よろしいでしょうか?」

吉乃がそういって座の一同を見渡す。全員が頷き、吉乃もまた頷いた。

「単刀直入に伺います。神祇院は私たち、護国刀使とは別に刀使たちを抱えた組織を持っているのですか?」

「ほう、刀使だけに単刀直入と申すか。ほっほっほ」

京の発言に香織だけが笑顔のまま口元を押さえるような動きを見せたが、残る3人は絶句している。

「そ、そういう所は本当にお変わりありませんね…あの、お答えをいただいてもよろしいでしょうか?」

「つれないな、吉乃。まあいい、香織、答えてやれ」

「はい…しかし、よろしいのですか?」

「構わん。別に後ろめたいことなど何もない。ありのままを答えてやるがよい」

「それでは…」

折神香織は、そういって護国刀使の面々を見回しながら、改めて口を開いた。

「神祇院は、あなたがた護国刀使とは別に、刀使を有しています。全国の神社と共に刀使の管理も行っていますので、それは当然のことと思いますが…?」

「そうですね…質問の仕方を変えましょうか。刀使の持つ御刀に近い軍刀が美濃関で生産されているようなのですが、これについて神祇院の関与はあるのでしょうか?」

「うーん、それは、ですねえ…」

香織は口ごもりながら、京の方を見て来た。

「ふん、ありのままを話せばよい、といっただろうに…いや、さすがだな、吉乃。察しの通りだ。我々は今、軍からの資金提供を受けて美濃関の刀工たちに『御刀』を打たせている」

碧と吉乃はわずかに顔を歪めただけであったが、由良は明らかに取り乱している。可笑しいやつだと京は思う。

「その『御刀』というのは…本当に刀使の力を引き出すもの、我々が持っているものと同じものなのですか?それから軍の資金提供というのは…」

「おいおい、今は戦時下、非常時なのだぞ?軍に協力をしなくてどうする。軍が刀使を欲している、この戦いに勝つためには刀使の力が必要だ、というのなら、それに出来得る限り応じるというのが我々の役目ではないのか?」

「…そのためならば、ノロを注入した紛い物の『御刀』を量産しても問題は無い、と?」

吉乃の言葉に京はすっかり嬉しくなった。全くこの刀使たちはよく調べている。自分にカマを掛けて来たのだ。

「そうだ、吉乃。ノロはそもそも御刀を打つ際に珠鋼から弾かれた「不純物」だ。だが打った後の御刀に、この「不純物」を再度戻すとどうなるか?考えたことはあるか?」

吉乃は碧に目を遣ると、碧が口を開く。

「珠鋼から生まれた御刀の神性はいわば正、対してノロの神性は負です。この二つの神性が再び合一することはないでしょう」

碧の答えに、京が頷く。

「その通りだ。刀使の使う御刀に、ノロが再び宿ることはあり得ない。だが、そも神性を帯びぬ単なる鋼から生まれた刀であれば、どうか?」

今度はさすがに3人共色を失った。

「可能だったのだ、それがな。美濃関の刀工は実に優秀でな、ごくわずかだが、一般の日本刀にノロを含ませることが出来たのだ。しかもその刀は刀使の力に反応し、御刀ほどではないにしろその力を引き出すことができた。いわば御刀の量産化に成功したのだ」

大きく見開かれた六つの眼が、京を見ていた。

「そういう…ことだったのですか。しかしノロを利用するなんて…そんなことをして、もしものことがあったら…」

「ノロの量は微々たるものだ。しかも刀に憑いている限り、寄せ集まることもできない。ある意味安全な処し方といえる。それにいったであろう。これは軍からの要請なのだ」

そこで、今まで黙っていた霧島由良がおずおずと口を開く。

「あ、あのよろしいでしょうか…?」

「何だ、言いたいことがあれば何でも申すがよい」

「は、はい、では僭越ながら…その、鷹司様はこの戦争に、刀使の力を使っても構わないと、そうお考えなのでしょうか…?」

「さっきも言ったであろう?勝つために刀使の力が必要ならば、そこに疑問を挟む余地はない。大方お前たちは荒魂を斬るのが刀使の役目であるから、この力を人に向けるべきではない、とでもいうのであろうが、そんな悠長なことをいっていられる状況ではない」

「しかし、刀使の大半が十代の少女たちです。それを人殺しのために使うというのは…」

「何をいっているのだ?では成人した男ならばいくら人を殺してもよいのか?」

「いえ、そういうことでは…しかし、まだ心身の未熟な子供のうちにそんな体験をさせてしまうと、その後の人格形成に悪影響を及ぼすのではないでしょうか?」

「それは成人でも同じことだ。戦地から帰ってきたら別人のようになってしまった、という話は珍しくもない。無論、子供の方が影響が大きい、ということは否定せんがな。しかし、そのような心配はもっと余裕のある連中のすることだ」

「余裕…ですか」

京は席を立ち、窓際まで歩く。窓の外は雨が続いている。冷たい、雨だ。

「世間から隔絶された宮城での生活ではそういうことはわからぬか?」

「鷹司様、護国刀使はそこまで世間知らずの集まりではありませんよ。それなりに辛苦を舐めているということは、報告書を御覧になればわかるはずです」

先程までとは様子の違う霧島の言葉に京はちらりと振り返り、それからまた窓の外を見てからふっと溜息をついた。

「確かに、民の生活はわかっていよう。だが、この日ノ本の外…世界のことをわかっているか?大陸、東南アジアの島々、そして欧州の情勢をわかっているか?」

おそらく、そんなことをよくわかっている日本人は、この当時ほんの一握りであったろう。もちろん訪れた3人にも、そこまでの考えはない。

「まあ、無理からぬことだ。そういうことは一切明かさぬのだからな、今のこの国は。だがな、知っている連中も少なからずいるのだ。ここの、霞が関の連中をはじめとしてな」

そういって京は、革の長靴のつま先で床をコツコツと叩いた。それからその場の者たちに向き直り、テーブルに寄って顔を突き出す。

「この国はな、このまま戦争が続けば遠からず毛唐共に蹂躙されるぞ」

護国刀使の3人が声にならない声を上げると、京はさも愉快そうに笑った。

「もう少し大きな視点から物事を見よ。この国が無くなってしまえばそれで終わりなのだ。子供を戦場に出すかどうかなど、それに比べれば些末なことだと思うがな」

「そ、それは、しかし…」

口ごもる由良を、京は笑って受け流す。

「力を向ける相手は本来荒魂であり、人であってはならんだろう。そして、強き心を保ち続けるというのも難しい。だがな、力を持つ者は、その力を弱き者のために使わねばならん。少なくとも我々刀使は、市井の民よりも力を持つ者だ。この力に誇りと責任を持って、この国を、弱き民を護らねばならんのだ」

 

 雨の中、庁舎を去って行く折神碧と護国刀使たちの姿を見下ろしながら、

「お前たちとやり方は違えども、我らも我らのやり方で国を護ろうとしていのだ。それは、わかってほしいものだが、な」

京は誰に云うとでもなく、呟いた。

「お察しいたします。鷹司様…しかし、あのことには触れなかったのですね」

「ふん、聞かれてはおらぬし、そう愉快な話でもない故な」

京はふと顔を歪めたが、先程までのやり取りを思い出して笑顔になる。

「しかし面白い連中であったな。うん、一度あやつらのところへあそびにいくのも面白いやもしれん」

そういってさらにくすくすと笑った。

 

「あれが鷹司京様に折神香織様…さすがにお二人共迫力がありましたね」

由良は、全身の緊張がようやく解けていくのを感じて大きく息をつく。傘の下で、それは白い固まりとなった。

「吉乃さんと八重さんはあの鷹司様とは同門、なのよね?」

「はい、京都で同じ京八流の道場に通っていました。まあ、あの道場自体が鷹司様の家人のものでしたけどね」

吉乃はそう、懐かしそうにいいながら笑った。

「あの、一度聞いてみたかったんですけど、そんなところに通えるなんて四条家ってやっぱり公家か何かなの?」

「いえいえ、うちは単に四条通に面した商家で、それで四条と名乗っただけだそうですよ。ただ、お公家様とは取引がありまして、そのご縁で道場を紹介されたんです」

「はあ…まあどっちにしても良家なのね。それで、あの鷹司様は昔から、そのなんといっていいか、あのような方、なの?」

また、吉乃は可笑しそうに笑う。

「ええ、あのような方なんです。面白い方でしょう?誇り高くて公明正大、押しが強い所もあるんですけど、ユーモアもわかる方で…それにかなり腕も立つので道場では人気者でした。ほとんど信者のような子もいましたね」

「へえ…」

由良にとっては別世界のような話だった。由良の家もかつては東京で商売をしていたらしいが、関東大震災で家財を全て失ってしまい、その後は土地も売って今では千葉県の船橋で細々と暮らしている。

「碧様と香織様は遠戚、なんですよね?」

吉乃が隣の碧に尋ねた。

「ええ、由良さんも吉乃さんも知っているとは思うけど、折神家は明治初期の廃仏毀釈運動の頃に意見の違いから家が分かれてね。香織姉様たち鎌倉の鎌府折神家と私たち京都の綾小路折神家…一時は対立していたこともあったのだけど、今では協力して刀使の管理育成にあたっているわ。香織姉様にも昔はよく遊んでもらったものだけど…」

そこで少し、碧の表情が曇ったのを由良は、はっきりと見た。

「鷹司様に比べれば少しわかりづらい人、といった感じでしたね。あの方は、刀使ではないのですか?」

「ええ、香織姉様は刀使ではありません。昔から剣術はたしなんでおられて、かなりの腕前ではあるんですけど御刀には選ばれませんでした。折神家に生まれた女子で刀使になれなかったというのは、決して口にはされませんでしたが悔しかっただろうと思います。それでも、あの笑顔が崩れたのを見たことがありませんけどね」

「そう、だったんですか…でも今は香織様も神祇院で働いてらっしゃるんですよね?」

「働いている、というよりは折神両家は顧問ですから、都度助言をさせていただいているという立場ですね。香織姉様は鎌府折神家の用意した東京の屋敷で暮らしていると聞いています」

「なるほど、そういうお役目なんですね」

「それはそうと…由良先輩、今日の事、皆にはどう話をします?」

「うーんそうですね、もう皆帰省してしまっていますし…」

由良の様子を見て、碧が微笑んだ。

「この話はひとまず私が預かりましょう。折を見て、皆さんにお話しします」

それを聞き、由良の傘の下に、また白い固まりができる。今度は安堵の溜息だ。

「あ、ありがとうございます。そうしていただけると助かります。さすがに私には話が大き過ぎます」

「はい、助かります」

吉乃も横からそういい、由良と顔を合わせて笑った。

 

 

「それじゃ悪いけど、よろしくね」

由良がそういって鞄を肩にかけた。

「ええ、こちらのことは気になさらず、よいお年を」

凪子がそう答えると、由良も笑って「よいお年を」と答え、手を振って行った。

 昭和18年12月31日、年の瀬を迎えた近衛祭祀隊舎はひっそりと静まり返っていた。ほとんどの刀使たちが正月休みで帰省し、残っているのはいざという時のための留守番と、特に帰る必要のない者たちだけだった。

「さて、これで隊舎に残ったのは私たちだけってことね。直、あなたは本当に帰らなくてもいいの?」

千鶴がそういうと、

「私は近所ですからねぇ。しょっちゅう帰ってますし…年が明けてから少し顔を出せば十分です。こんな時くらい、皆の都合を優先しないとバチが当たりますよ」

直はお下げ髪の下で両手を組んで、そう答えた。

「あら、それなら心置きなく大掃除の仕上げをお願いできるわね?」

「ええ!?いや、それはちょっと…ああ、そうだ凪子先輩、稽古納め、稽古納めやりましょう!」

「稽古納め?それなら昨日…」

凪子はいいながらチラ、と千鶴を見る。稽古納めはすでに昨日の朝に全体で終えている。さらにいえば大掃除は一昨日に終わっている。だが、千鶴の表情を見るに冗談では無さそうだ。このままでは自分までとばっちりを食いかねない。いや、そもそも千鶴の中では最初から自分も大掃除の頭数に入っているのかもしれない。だとすれば確かに、ここは直の提案に乗るのが正しい戦術的判断だろう。それに、直と立ち合いをするにも絶好の機会だ。

「うん、しょうがないな。よし、なら今年最後の立ち合いといくか!道場に行くぞ、直!」「そうこなくっちゃ!」

凪子と直が駆けだす。

「あ、ちょっと待ちなさいよ、この剣術バカ共!」

千鶴の声が背中にかかるがここは逃げるに如かず、だ。二人の刀使は迅移かと見紛うばかりの速さで隊舎の中に消えて行った。

「あいつら…」

千鶴は去って行く二人の背中をしばらく睨みつけていたが、やがて諦めたかのように大きく溜息をつき、

「ああ寒い。何か温かいものでも作ろうっと」

そういって隊舎の中に入っていった。

 

 護国刀使たちにあって、正月休みは一年のうちで最も長い休暇を与えられている。これは未成年の多い刀使たちが年末年始くらいはゆっくり故郷に帰れるように、という配慮でもあるのだが、それでも留守番は必要であり、例年数人の刀使が隊舎で年明けを迎える。直が帰らないのは実家が近いからで、凪子が帰らないのは実家が福岡と、遠いからであった。そして千鶴が帰らないのには、また別に理由がある。彼女の家は東京にあり、直と同様にいつでも帰れるのだが、帰れば大量の見合い話が待っているのだ。それがあまりにもうっとおしいため、敢えて帰らない、というわけだ。

「さーて、つゆの仕込みでもするとして、あとは…どうしようかな」

千鶴はカツオ、昆布、しょうゆの在庫を確認する。決して潤沢な量があるわけではないが、今夜の年越しそばには十分だろう。

「それにしても、かけそばっていうのはさみしいかな…」

天ぷらのようなぜいたく品はとても無理だとしても、何か代わりになるようなものはないかと考えていたら、

「もし!」

という若い女の声が玄関の方から聞こえて来た。大きい声ではなかったが、はっきりとした発音だったのでなんとか千鶴の耳に届いた。こんな日に誰だろうかと思い、念のため御刀を携える。板張りの廊下をきしませながら玄関に出てみると、いかにも品の良さそうなコート姿の少女が立っていた。腰に一振り刀を帯びているから刀使だろうということはわかるが、よくみるとコートの下は和装で足元は軍靴、そして左手にしめ縄で吊った干し魚をぶら下げているというのが奇妙といえば奇妙だった…が、その顔には見覚えがある。

「ここは近衛祭祀隊の隊舎で間違いないか?」

「はい、間違いありません」

と、答え、相手の腰の御刀がはっきりと見えたところで、その刀使の名を確信する。

「あの、鷹司京、様ですよね?」

「うん、やはり、そなた武田千鶴だな?近衛祭祀隊に入ったとは聞いていたが…」

「はい、ご記憶いただき光栄です。女子学習院以来ですか…本当にきれいになられて…そのコートも小袖もいいものですね。腰の御刀はあの三日月宗近ですよね?いやあ、本当にお懐かしい」

華族生まれの女子はほぼ例外なく、女子学習院へ入学する。現在は私立学校となっている学習院だが、当時は宮内省管轄の国立学校であり、華族であれば入学のための試験も学費も不要という特殊な学校であった。彼女らはそこで現在の小・中・高にあたる11年を一貫して過ごした。千鶴は京の2歳上であるため、二人は同じ時期を同じ学び舎で過ごしていた時期があったが、京は京都住まいが長く途中編入であった上、二人共刀使に選ばれて学校を離れたため、共に過ごした期間は短く、相手のその後についても噂程度にしか知らなかった。

「ふふ、全くだ。もう皆里帰りをしたかと思っていたが、思わぬ御仁に会えたものだ。来てみるものだな」

「はは、光栄です。今は私を含め3人だけ、この隊舎に残っているんですよ…あ、まだご用件を伺っておりませんでしたね。本日はどういった?」

「ああ、別に気にするほどのことは無い。年の瀬で誰もいなくなり、何もやることが無くなった故ふらりと遊びに来たまでよ。ああ、手ぶらでは何だからな、身欠きニシンだ。納めておけ」

そういってずい、と差し出されたその魚がニシンであると何故そうされるまで気付かなかったのか、千鶴は己の不明を恥じると同時に、目の前がぱっと明るくなるのを確かに、感じた。

「ニシンそば!」

そういうなり、千鶴は京を抱きすくめていた。

「な、何をす…むぐ…!」

長身の千鶴に抱かれて京はその顔を、圧倒的な二つの弾力に埋めることになった。

「ありがとうございます鷹司様、最高のお土産です!」

「ええい、わかった、わかった故、離さぬか!」

京は千鶴の胸を鷲掴みにして、その身体を押し出した。

「ああん、もう、痛いです」

「何が『ああん』だ!全く、相変わらずふしだらな身体をしおって!このご時世、何をどれだけ食べればそうなるというのか…全くけしからん!」

「あらまあ、酷い言われよう。でもそうですね、私は食べるものにはうるさいんですよ。ご紹介しましようか?こう、なるかもしれませんよ」

千鶴が京の前に、胸を突き出した。

「な…!私をからかっているのか!」

「いえいえ、からかうなどと畏れ多い。是非鷹司様にも私と同じものを食していただき、このような体型になっていただければ、と」

「こ、このような…体型…だと…」

赤面しつつこちらを見る貴族様の顔が、実にかわいらしい。また、抱きしめたくなる衝動をこらえて、そういえばこの刀使が、かなりの腕前であるという話を思い出した。

「そうだ、鷹司様、今うちの剣術バカ二人が道場で稽古納めをしているんです。よろしかったら一つご指導していただけないでしょうか?」

「ん?稽古…か、そうか、いいだろう。よし、案内いたせ」

「はい、ではどうぞこちらへ」

少しからかい過ぎたかと思ったのだが、さすがは日本有数の血統、胸は小さいが懐は大きいらしく、大して気にした素振りが無い。そういえば少し変わった子だという噂を聞いたことがあったな、と思いつつ千鶴は軽やかな足取りで道場への廊下を先に進んだ。

 

 京が千鶴の先導で道場へ入ると、二人の剣士が対峙していた。年長と思われる刀使の方が体格が良かったが、年下と思われる方も少し背が低いくらいで、御刀の長さもほぼ同じ、よって間合いは似たようなものだろう。その二人が行っているのは、立ち合いではない。

「剣道形か、なるほど稽古納めには相応しいな」

剣道形、こと「大日本帝国剣道形」は、大正期に各流派の代表が集まって考案し、流派を越えた剣道の「形」として生まれた。現在も「日本剣道形」と名を変えて受け継がれている。全国から集められる刀使たちの流派はそれぞれであったが、この形に関してはほぼすべての刀使が共通して身に付けているため、納会などには持って来いなのだ。

二人が道場に入って来たことには、打太刀の年長と思われる刀使も、仕太刀の年下と思われる刀使も既に気付いている。それでも集中を切らすことなく繰り広げられる演武にはかなりの迫力があり、これだけ見てもこの二人の実力が生半ではないことがよくわかる。

「あの、鷹司様?」

「うん?何だ?」

剣道形は小太刀の形の三本目を迎えていた。太刀七本、小太刀三本で構成される剣道形はこれで終わりになる。いつの間にか見入ってしまったらしい。隣にいた千鶴に声をかけられて京は我に返る。

「これが終ったら紹介しますので」

「そうだな。わかった」

そういっている間に、仕太刀が軽やかな動きから打太刀の懐に入り、技が終る。互いが離れて蹲踞の姿勢をとり、形が終った。すぐに、京は拍手と共に歩み出た。

「いや、見事なお点前だ。良いものを見せてもらった」

「あ、鷹司様!」

紹介する、といったのにさっさと前に出て行く京を追う千鶴の声に、二人の刀使の眼光が煌めいた。

「鷹司様…?」

「あの、鷹司様…!」

その視線を受けて、京はゆったりと立ち止まった。

「そう、こちらはあの五摂家刀使の鷹司京様よ。鷹司様、こちら、打太刀をしていたのが直新陰流の早乙女凪子、それから仕太刀の方が北辰一刀流の来栖直です」

「お初にお目にかかります。早乙女凪子です」

「来栖直です。よろしくお願いします!」

「ああ、よろしく頼む。二人共見事。特に仕太刀、小太刀の扱いが上手いな」

直は自分が褒められていると一瞬気付かなかったらしく、少し間を空けてから、

「あ、ありがとうございます!」

そう答えた。京がうんうんと頷く。

「この二人は今、護国刀使で一、二を争う実力者なんですよ」

「ほう、なるほど。道理でよい太刀筋をしていたわけだ。では早速だが、稽古をつけていただこうかな。早乙女、一つ相手を頼めるか?」

「は、私、ですか…?」

「そなたはにはとても敵わぬであろうが、胸をかしてもらいたい。どうだ?」

「はい…私でよろしければ…」

京は頷き、三日月宗近を抜刀する。直が慌てて千鶴と一緒に下がる。それから凪子が愛刀の髭切を抜刀するのに合わせて、二人は写シを張った。

「直、立会人を頼めるか?」

凪子の言葉に「あ、はい」と直が応じ、再び駆けてきて二人の間に入った。二人は蹲踞の姿勢から、共に正眼に構える。そして、

「はじめ!」

直の掛け声に応じて、双方共に一歩、間合いを離した。京は切っ先の向こうにいる刀使❘早乙女凪子を見て、口元をほころばせた。

京が凪子を相手に選んだのには理由がある。早乙女凪子といえばかつて九州最強の刀使として名を知られた剣豪だ。実力者も曲者も多い九州で早くからその名を知られていたこの、確か一つ年上の刀使は、京にとって密かに目標としていた存在だった。その相手が確かに強者であることが、こうして対峙しているとはっきりとわかる。心地よい緊張感と共に、京は、自分の見立ての正しさにまた口元が緩んでくるのを押さえられなかった。

そんな京の胸中など知るはずもない凪子が、迅移で迫って来た。それは、あまりにもきれいな正面からの打ち込み。合わせた御刀に、重い手応えが走る。

「随分、楽しそうでいらっしゃいますね」

剣撃の余韻が響く中、思いがけず話しかけられて京はますます面白くなってきた。

「それはそうだ。これほどの剣士と立ち合いが出来るのだから…な!」

京は巻き返しで籠手を打つが、凪子は迅移で退いてかわす。京はそれを追いかける。二人の迅移が少しずつ速度を上げていく。少し間合いを空けようとする凪子を、京がどこまでも追っていく。心が躍る。待て、待て、待て、待て…!

 

「いやー、ほんと、すごい速さでしたね。鷹司様の迅移、三段階を越えているんじゃないですか?」

直がそういうと、

「いや、速さだけではどうにもならん。現に見事に打ち負かされたしな」

京はそういって、いかにも嬉しそうに微笑んだ。

「いえいえ、速さもさることながら、底無しの気力、体力をお持ちだ。全く生きた心地がしませんでしたよ」

凪子はそういってふっと溜息をつく。

「ははは、しかしあの早乙女凪子と立ち合いができるとは思わなかった。よい記念になった…上に、本当によいのか?夕餉まで馳走になって?」

「それはどうかお気になさらず。あの千鶴先輩が是非に、といっているのですから」

冬の夕暮れは短い。昭和18年最後の日も、宵の口を迎えていた。

3人は食堂でただ、待っている。厨房からは既に出汁の香りが漂ってきており、少女たちの食欲は否が応でも高まっている。

「そういえば武田千鶴の料理好きは評判だったな。あのニシンにあそこまで反応した理由がわかった」

「すごいんですよ、千鶴先輩は。ここの厨房を完全に仕切っていますからね。ある意味護国刀使最強です。誰も逆らえません」

直の言葉に凪子が少し顔をしかめて、無言で頷いた。

「さあ出来たわよ、取りにいらっしゃい!」

すかさずそんな声が厨房から届いたため、京を含めた3人はピクリと背筋を震わせた。

「なるほど…この間合い、最強というのはあながち間違っておらんようだな」

そう、京が小声でささやくと、直と凪子は吹き出した。しかし、そんな厨房の最強刀使を待たせるわけにはいかない。京はいち早く腰を上げてカウンターへ向かった。遅れて立とうとする二人を制する。

「このご時世に馳走になるのだ。これくらいはさせてくれんか」

凪子と直は顔を見合わせ、

「それでは…」

「お願いします」

そういって大人しく座った。京は大きく頷く。

4つ並んだ大き目のどんぶり鉢にはたっぷりのそばと、渋い金色をしたぶつ切りのニシンがそれぞれ3片ずつ、入っている。

「ほう、見事な甘露煮だ。これは美味そうだな」

京はそれらと箸を、置いてあった大きめの盆に並べてテーブルまで運ぶ。それを見てすぐに、直が歓声を上げた。

「うわあ、ほんとにニシンそばだ!」

「鷹司様、ありがとうございました。この甘露煮は自信作ですよ。でも、このそばは凪子に打ってもらいましたので、お口に合うかどうかわかりませんが…」

厨房で若草色の、しゃれたエプロンを外しながら千鶴がそういった。

「はいはい、そばが不味かったら私のせいにして下さい」

「あんたのそういうところが可愛くないのよね」

「かわいげのない後輩ですいません」

「先輩方、せっかくの年越しそばが冷めますよ」

「そうだ、料理は出来立てが最上だ」

それを聞いた千鶴が、笑いながら脇の暖簾をくぐって3人の方へ回って来た。

「そうね、それじゃ早速いただきましょうか」

テーブルの一角を使って4人が座り、そばを前に手を合わせた。

「いただきます」

 立ち上る湯気と、ずるずるという音が広がる。京はいったんつゆだけを少し口に含み、それから少しそばをすすって、感嘆した。

「うまい…甘露煮の甘味とつゆがよく合って、味に奥行きが出ている。そばも、決してそば粉が多くは無いが、程よくコシがある。ボロボロにならないそばを食べたのは久し振りだな」

「良かった!この味の組み合わせがわかっていただけるとはさすがです。そばの方はですね、なかなかそば粉が手に入らないもので、つなぎが多目ではあるんですけどいろいろと配合を工夫していまして、それに凪子はそば打ちだけは上手いんですよ」

千鶴がやや興奮気味にそういう。

「そうか、うん、このような食事が毎日食べられるとは護国刀使の皆は幸せよの」

「ちょっと二人共、聞いた?今の聞いた!?」

千鶴に呼び掛けられた護国刀使の二人が、面倒臭そうにそばをすするのを中断する。

「聞いてますよ。私だって日頃から感謝していますよ?」

「ええ、私も感謝しています。さらにそば打ちに励みたいと思います」

「奥行きよ?奥行きのある味なのよ?本当に頼むわよ、あなたたち」

そういって千鶴はどんぶりを持ち上げてつゆをすする。一連のやりとりを見て京は堪え切れなくなり、高笑いを上げた。

「いや、すまぬ。そなたらを見ておったらつい、な。歳の近い仲間というのはいいものだな。余計に食事も美味くなるというものだ」

それを聞いた直が、

「たかつかささ…あれ、すいません、えーっと鷹司、様は同年代の方と一緒に暮らしていないんですか?」

早口でそういった。早くしゃべりたいのに口が追い付いていない、という様子だ。京はまた、微笑んだ。

「よいよい、鷹司がいいにくければ京と呼べ」

「え、いえ、それはその、畏れ多いといいますか…」

「もうそんな時代ではないよ、なあ、武田よ?」

「はい、全くです。華族だの何だの、もう付き合いが面倒なだけの古臭い存在よ」

「はは…あの、では、京様…で、よろしいでしょうか?」

「様付けもどうかとは思うが…まあ、よかろう。それと、同年代と暮らしていないのか、であったな?」

直が頷く。

「うむ、今は神祇院勤めである故、同世代の者と話すことはあまり無いな。以前はそこな武田千鶴と同じ女学校に通っていたのだが刀使に選ばれてからすぐに神祇院付けになってな。それ以来、煙たい部屋でお勤めの日々よ」

「そうだったんですか…刀使で貴族っていうのはやっぱり目立つから…使われてしまうんですね」

どうやら、この刀使もバカではないらしい。

「そういうことだ。こう見えて、私も刀使の印象を良くしようと日々懸命に働いている、というわけだ」

直がひとしきり頷き、箸を置く。いち早く、そばを平げていた。次に凪子が口を開く。

「剣術の鍛錬は、どこでされているんですか?」

「ほう、私の鍛錬に興味があるのか、早乙女」

「ええ…そうですね、あれだけの力を継続させるには日頃からかなりの時間を鍛錬にあてているとお見受けしましたが、同世代がいないということは刀使を相手にしていない、ということになるのではないか、と思いまして」

「はっはっは、護国刀使の皆は賢いな。そうだ。私は別に刀使を相手に稽古をしているわけではない。軍人や警察の道場で世話になっている」

護国刀使3人が絶句した。刀使相手ではないとしても、それはおそらく日本最強の剣士たちだ。

「なるほど…合点がいきました。道理で剣筋が鋭いわけだ…」

「まあ、連中相手に刀使の力を使うわけにもいかぬでな、防具と竹刀で普通に稽古をしている」

当然のようにそういう京に、またしても護国刀使たちは呆けたようにしばらく口がきけなくなったが、何かに気付いたように千鶴が口を開く。

「でも、それでは京様の可憐なお姿が汗にまみれてしまうではありませんか!もったいない!」

「いや…それは特に問題ではあるまい」

「そうだ、それでしたら是非ここにいらして下さいな。ここでしたら刀使の力を思う存分発揮できますし、剣術バカが佃煮にするほどおりますので飽きることもないかと」

「剣術バカ…」

「いえいえそれより佃煮って…」

千鶴の提案と罵詈雑言に、凪子と直がさすがに反応せざるを得ない。

「はっはっは、そうだな。そうできれば…そうさせてもらいたいが…」

京はそういってチラリと壁かけ時計を見ると、19時を回っている。少々長居し過ぎたようだ。

「さて、そろそろいい時刻になってきたな。お暇するとしようか」

「京様、帰っちゃうんですか?泊まって行けばいいじゃないですか。今日は部屋もたくさん余っています…し…ん…ふあ…」

直は、そこで小さく欠伸をした。

「あ、すいません。お腹も一杯になったからかな。少し眠くなってきちゃいました」

「もう、直、一応今夜は見張りの御役目があるんだからね。鷹司様にも無理をいうもんじゃないわよ。ああでも…もし、よろしければ、こちらは一向に構わないんですよ」

「ええ、むしろ歓迎いたします」

直の言葉に千鶴、凪子も同意を示したが、京は首を横に振った。

「いや、そうまでいってくれるのは本当に嬉しいのだがな、そうも…いかぬのだ」

「こんな日にもお役目が?」

「ああ、厄介なのがあってな…」

そういって京が立ち上がって進むと、3人も続こうとする。

「いやいや、見送りはここで結構、それより早く食べてしまえ」

「あ…ふぁい、また来て下さいね!」

「またいい食材お待ちしていますね!」

「すいません、ではここで」

直は既に目をこすっている。京は笑って頷いた。

「ああ、また馳走になりに来るとしよう。ではな、よい年の瀬を」

頭を下げる3人へ手を振り、食堂を真っ直ぐ進んで玄関に置いていたコートを羽織り、外に出る。そして少し歩いてから、周囲の様子を窺った。

大晦日の夜、宮城内は静まり返っている。空気は冷たく澄んでおり、見上げれば多くの星が瞬いていた。人の気配は、無い。京は振り返り、近衛祭祀隊舎を見上げた。木とコンクリートで構成され、社殿をモチーフとしながらも西洋の神殿のような趣もあるなかなかしゃれた意匠のその建物は、うら若き少女たちの住まいとしてもしっくりくる。この宵闇の中にあっても独特の壮麗な存在感を放っていた。

「ふむ、護国刀使か…面白い奴らではあるが……もう少し人を疑うことを知るべきだな。あの様子なら、もう十分効いている頃合いか」

京はそういってから一つ溜息をついて、三日月宗近を抜刀して迅移を発動し、またその少女たちの住処へと駆け入った。

 

 テーブルに突っ伏して寝入ってしまった直のどんぶりも持って、二人は厨房へ入った。

「あの子、随分疲れていたようね」

「そうですね、しかしこんなところで寝てしまうなんて子供でもあるまいし…」

「あら、子供じゃない」

「それはまあ、そうなのですが…千鶴先輩、直の事はお願いしてもよろしいでしょうか?これから戸締りと警邏に出ようと思うのですが」

千鶴は腕をまくりながら頷いた。

「そうね、悪いけれどお願いするわ。ここのことは任せておきなさい。ふぁあ…直を見ていたら何だか私も眠くなってきちゃった」

千鶴が一つ、欠伸をした。

「それなら先に休んで下さい。夜中に交代しましょう」

「ええ、そうさせてもらおうかしら」

「はい、失礼します」

凪子は千鶴に一礼して食堂に戻り、御刀を手にする。寝息をたてている直に苦笑して、玄関へ向かった。居残り組にとって隊舎とその周辺の警邏は大事な仕事だ。いつ荒魂が現れるかもしれないことに加え、この建物の中に保管されている品々のことを考えればそれは当然のことといえた。だが、そんな大事な任務を前にして、

「ん…何だ、私まで…」

じわ、と睡魔が襲ってくるのがわかる。頭を振ってみたが、どうにも感覚が鈍って来ている。おかしい、何かがおかしい…。このままでは、あっという間に眠りに落ちてしまいそうだ。凪子は、思考を口に出すことにする。

「何だ、何がおかしい…おかしいのは…3人同時に眠くなること…ん、まさか…!」

思いついた答えに、感覚が少し覚めてくる。

「ここにあるもので、狙うとすれば…」

凪子は何とか意識を繋ぎとめて、地下階へと続く階段へ進む。ただの取り越し苦労であってくれることを、祈った。

 

 予め手に入れて確認していた図面と実物に寸分の狂いも無い。京は、地下二階の入り口である頑丈そうな扉の前へとたどりついていた。

京の目的は最初からノロの強奪にあった。そのためには、最も刀使が少なくなるというこの日を狙わない手は無い。いろいろと手は考えて来ていたが、そばを振る舞われたのは好都合だった。折神香織が陸軍経由で手に入れたという薬を使ったのだ。

御刀を収め、用意していた入り口の鍵を懐から取り出すと、ゆっくりと、その扉を開けた。

「ほう……さすがは全国からのノロを集めているだけのことはあるか…」

そこには、広大な地下空間が拡がっていた。天井が高く、扉から真っ直ぐ伸びた通路の先に大きな社がある。そしてそれを基準にして高い棚が列を成して並んでいた。京はゆっくりと進み、その社に一礼してから棚に目を遣る。そこには金属製の箱がびっしりと並んでいた。躊躇なく、その一つを手に取る。

「まとめて合祀するというのは確かに悪くはないかもしれんがな…いささか不用心だな」

コートの中からたたんでいた布袋を取り出し、その箱を無造作に投げ入れた。

「さて、では頂けるだけ頂いて行くとするか…」

京は適当に間隔を空けながら次々とノロの入った金属箱を奪っていき、空いた間隔がわからないように、左右の箱を寄せておく。袋がほとんど一杯になった所でまた社に戻って一礼した。

「何、決して悪いようには扱わぬ。これもお国のためと思ってくれ」

「何が、お国のため…ですって…」

扉の開く音と共に、聞き覚えのある声が響いた。

「早乙女か?」

京は振り返らずに、そういった。

「鷹司様…残念です、あなたがこのような…ことを…」

京は振り返ってその姿を確認する。閉めた扉にほとんど寄りかかるようにして、早乙女凪子が立っていた。やはり、自分の前にはこの女が現れるのだ。

「ふむ、出来れば穏便に奪って行きたかったのだがな…こうなれば最早是非も無し。抜け、早乙女」

京は抜刀し、写シを張る。遅れて凪子もまた抜刀し、大きく深呼吸をしてから、写シを張った。

「随分無理をしているようだな」

「あなたに…一服盛られたから…でしょう…」

「そうだ。全く、よくここまで堪えているものだ。その精神力は賞賛に値するな」

「それは…どうも」

凪子は渋面のまま、切っ先を京へ向けた。

「だが心配するな。ただの眠り薬だ。そなたをはじめ、護国刀使はこの国の宝、それを損なうような真似はせんよ」

「な、何を…言って」

凪子の言葉を待たず、京は迅移をかけて一気に斬りかかった。凪子はそれを辛うじて受け止め、弾き返す。

「はっはっは、その状態で全く大したものよ!そなた、私の元へ来ぬか?」

「戯れ、言を…!」

「戯言などではないよ。早乙女凪子。そなたはこの国のために、我ら刀使に何ができると思う?」

凪子はもう、相手の言葉を聞き取るだけで精一杯だった。構わず、京は続ける。

「この国は限界だ。持ってあと一年、といったところだろう。陸軍は南方の孤島に部隊を置き去りにし、海軍は船を動かすための重油が底を尽きている。米英の鬼畜共がこの神州に殺到するのも時間の問題であろう」

京は、写シを張ったまま、凪子に近づいていく。

「そうなればどうなると思う?男は殺され、女は慰み者になるのだ。そなたも、そなたの大事にしている者たちも皆、そのような目に遭うのだ。そして、この国は亡くなる…わかるか?」

京は、凪子と顔が接する程に近づく。

「だが我々ならば、刀使ならば、この戦況を打開することができるかもしれんのだ。戦争は勝って終わらなければ意味がない。最早この戦争に勝つことは出来んだろう。しかし、やつらをこの国におびき寄せれば、最後に一太刀、浴びせてやることができる。最後の最後でこの国を倒すことは容易ではないと、思わせる事が出来るのだ」

「…最後に…一太刀…」

「そうだ、その上で少しでもよい条件でこの戦争を終わらせるのだ。だがそのためには、刀使の数が足らぬ。いかに刀使といえど多勢に無勢ではどうしようもない」

「それとノロを奪うことと、どう関係が…」

「大ありなのだ、これがな。折神碧らから聞いてはおらぬか?我々は、軍刀にノロを含ませることに成功した。それがな、御刀に近い働きをしてくれるのだ。つまり、本来の力には及ばぬとはいえ、多くの刀使を生み出すことが可能になるのだ」

凪子の顔色が変わる。

「どうやら聞いていなかったようだな。後日確かめるがよい。いずれにしてもノロが、この国を救う一手と成り得るのだ。そして、刀使が増えれば今度はそれを使いこなす指揮官が必要になる。早乙女、お前こそ、その指揮官に相応しい」

京は、空いている手で凪子の手をとった。そして、

「今の護国刀使は、お国のために十全を尽くしているか?その能力は本当に活かされているのか?よく、考えてみることだ…」

最後にそれだけいって、凪子の鳩尾に三日月宗近の柄を入れる。「く…」という小さな声を残して、凪子はその場に崩れ落ちた。同時に写シが消える。

「本来ならばこのような手は使いたくは無かったのだがな…ふふふ、また会おう、早乙女凪子、そして護国刀使の皆よ」

京はそれだけ言い残すと再び迅移を発動し、隊舎の外へと躍り出た。そしてそのまま、灯火管制の敷かれた宵闇の中へと消えて行った。

 

 

 薄暗い照明の下で、折神香織は3人の少女たちを前に、おもむろに口を開いた。

「美佐さん、明日香さん、香苗さん、最後に聞きます。本当に、いいのですね?」

「はい、香織様。私たち3人、刀使としてもっとお国のために働きたいんです。どうか、よろしくお願いします」

江戸時代までなら下着にあたる一重の白装束に身を包んだ少女たちが、そういって頭を下げた。香織はそれを受けて頷く。

「わかりました。ありがとう…。大丈夫、心配することはありません。今までこの施術で失敗はありませんから…」

こんな時でも笑顔を崩さない香織のその言葉に、少女たちは安堵した様子を見せた。

「では、こちらに」

剥き出しのコンクリートの壁に沿うように立って、そのやりとりを聞いていた白衣姿の女が先導し、鉄の扉を開けて少女たちを部屋へと招き入れた。香織も、それに続く。部屋には多くの寝台が並んでおり、少女たちはそれぞれ指定された寝台で横になる。白衣の女はその間に三角巾で髪をしまい、マスクと手袋を身に着けていた。その様子を見ながら、香織は少女たちに声をかける。

「それでは最初に筋弛緩剤を投与します。身体の自由が効かなくなりますけど、これはノロを接種した時のショックで自傷行為を起こさないようにするためのものです。大丈夫、何も心配は要りませんよ」

少女たちは頷き、白衣の女が注射器を手にして3人の腕へ順に薬を打っていく。それは実際には筋弛緩剤などという生易しいものではない。俗に言う自白剤に近い代物だ。一口に自白剤といっても多くの種類があるが、いずれも脳機能に影響を与え、打たれれば意識は混濁し身体の自由も奪われるという点ではほぼ共通する。場合によって深刻な後遺症や中毒を引き起こすこともある危険な薬だ。今、少女たちに打たれたものもまた、多少効果が薄められてはいたがほぼ同様の薬効がある。間もなくして、横になった少女たちの目から、光が消えた。

「では、香織様…」

「ええ」

白衣の女は、一度手袋をとって、足元にある金属製の鞄を寝かせて左右の止め金具を同時に外す。中には、3本のアンプルが入っていた。その小さな筒の中で、何かの生き物が蠢いているかのように、橙色の鈍い光が不規則に煌めいている。女は再度手袋をしてからアルコールを含ませた脱脂綿で注射器の内外をよく拭った。それからパキン、という音を立ててアンプルの口を折り、注射器へ中身を移して押子を当てる。そして、一番近くで横たわっている少女の左腕をさすりながら血管を探し、針を当てた。注射器の中の橙色の光が、ゆっくりと少女の腕の中へと消えていく。注射を終えるとすぐにその少女が喘ぎ出すが、白衣の女はそれに構う素振りを見せることなく、残る二人にも全く同じ行動をそれぞれ繰り返した。部屋中が、苦悶の声に満ちていく。意識は無くしているはずで、身体も動かしようがないはずだが、少女たちは何かに取り憑かれたかのように寝台の上で蠢いた。やがて、その股間が濡れ始め、臭気が漂い出す。失禁しているのだ。全身の筋肉は、既に肉の塊に成り果てている。

「さて…どんな具合かしら?」

初めてではないにしろ、決して見慣れたとはいえないその光景を目にしながら、香織が白衣の女に尋ねる。

「問題ありません。直におさまるでしょう。これは決して拒絶反応ではありません。体内の組織がノロを受け入れて新しく生まれ変わっているのです」

「ほう…そういうこと…前の3人からわかったのかしら?」

「はい。次々と興味深い結果が出ています。前の3名は病弱な者ばかりで、特に一名は結核を患っていたのですが、症状が改善しています」

「病気が治った、というの?」

「はい、病気だけではありません。たとえば…視力なども回復しています。ノロを受け入れることにより細胞が活性化し、身体の劣った部分が補われ、失われた部分が復旧しているようなのです。実に、興味深い結果です」

香織は素直に驚いたが…異物を取り入れているのだ。そんなにうまい話だけではないだろう、とも思う。

「そう…しかし副作用も出ているのでしょう?」

「現在の所、問題となるような症状は出ていません。もちろん、前例の無い事ですから、長期間の後追い調査が必要となるでしょうが…それよりも、一つご報告があります」

「報告?何かしら」

「アンプルを取る際に確認したのですが、保管していたノロの総量が計算よりも減っていました。おかしなこともあるものです。これからは定期的にノロの数量を記録しておく必要があるかもしれません」

女は、実に淡々と事実と対策を口にした。

「そう…ノロは結合するともいうけど、それが原因ではないの?」

「はい、確かにノロ同士の結合については確認されています。が、ノロにおいても質量保存の法則は確認されています。一体何が起きたのか…」

「隠世に逃げた、という線はないの?」

「荒魂化した場合であれば、あるいはそういったことがあるかもしれませんが、ノロの段階ではどこかを目指して行動を起こす、といった明確な意思は存在しません。そのようなことは考えにくい、といえます」

「そう…わかりました。この件は私が預かります。もしかするとノロや荒魂の新たな性質が発露しているのかもしれません。くれぐれも内密にしておいて下さい」

「わかりました。では、私はここでしばらく『被験者』の様子を見届けます。香織様はどうぞ、お休み下さい」

「ええ…そうね、悪いけど、御言葉に甘えさせてもらいます」

香織はそういって部屋を出て、頭を下げている白衣の女に頷いて見せてから、退室する。ドアノブを閉めると先程までの喧騒と臭気が一気に遠いものになり、ふっと短く溜息をついた。

「面倒なことに気付いたものね…」

いいながら、やはり口元に笑いを残して廊下を進んでいくと、向こうからコツコツと硬質な足音を響かせて見慣れた人影が現れた。

「これは鷹司様…首尾は、いかがでしたか?」

「ふん、造作もないことだ。当分ノロに困ることもなかろう。あまり、気分のいい仕事ではなかったがな」

「申し訳ない次第です。深謝いたします」

「ああ…それで、やったのか?」

京が薄暗い廊下の先を、顎でさした。

「はい、予定通り3名…投与の段階では特に問題はありませんでした」

「そうか…今回も担当はあの浜塚とかいう女か?」

「はい…研究熱心なのはよいのですが、少々問題行動が見られるようです」

「うん?そうか?ああいう人種はそもそも企みなどはできぬと思うがな」

「そうかもしれません。しかし、くれぐれも用心は怠りませんよう。軍のお墨付きを得ているとはいえ、我々の行っていることは…」

「いわれるまでもない。私は様子を見に行ってくる。ではな」

「はい、あまり遅くなりませんよう…」

京はそれには答えず、廊下の奥へと進んでいく。あの五摂家刀使は、ノロを取り込んだ少女たちが落ち着くまで、ずっと付き合うのだ。曰く、自分の手足となって働く人間の苦しみは自分の苦しみと同じ、なのだそうだ。香織にはわかりかねる思考であった。鷹司京という貴族様は、民を護るためであれば自らが率先して戦場に立つ、という勇ましい考え方を持っている。血の穢れを忌み、結果として武士の台頭を許した日本古来の貴族観からはかなり異なった赴きを持つお方なのだ。それ故に、多くの人たちから支持されているのだが…香織にはそれがひどく白けたものに見えている。そして京の方でもそんな香織の様子を察しているのだろう。二人の間柄はとても良好とはいえないものだった。

詰まる所、究極的な目的が同じことと、その目的に至るためには手段を選ばない、という二点でのみ、二人は繋がっている。言い換えれば互いを利用し合っている、ということになるが、むしろそれこそが正常な人と人との関係であろうと香織は考えている。

廊下を進んで建物の出入口まで来ると、壁掛けの時計が目に入った。時刻はもう23時を回っていた。戦争が始まって丸2年、昭和18年が暮れようとしている。

「まだまだ…こんな中途半端では終われないわね…」

戦乱は、望むところだった。香織は一度立ち止まって廊下の奥を振り返ったが、すぐにまた、歩き始めた。

 

 

 護国刀使の3人、特に早乙女凪子にとっては最悪の年明けであった。三が日明けに戻って来た霧島由良、そして折神碧には凪子から全てを報告した。凪子が京と対峙していた頃、直と千鶴は既に意識を失っていたからそれは当然のことであった。

事の次第を聞いた由良と折神碧はこの事実を重く受け止め、正式に神祇院へ抗議を申し立てたが、当の鷹司京、そして折神香織までもがその姿をくらましており、神祇院からは護国刀使の警備体制を不問に付す代わりに抗議を取り下げるよう、お達しがあった。さらにこの一件は護国刀使の間でも一切口外しないよう指示があったため隊員の間で秘密を知る者、知らない者が生まれてしまう。結果として留守番の3人は責められることはなかったものの、秘密を知る隊員たちにとっては非常に後味の悪い事件となった。

さらに凪子は心にしこりを残していた。地下二階で京にいわれた言葉がいつまでも頭の中から消えないのだ。報告をする際にも、自分が黙っておけば誰にもわからないのではないか?という思いすらわずかに生じたのだ。

『今の護国刀使は、お国のために十全を尽くしているか?その能力は本当に活かされているのか?よく、考えてみることだ…』

あの時その言葉を受けて、朦朧とする意識の中で自分は何らかの結論に思い至っていたのではなかったのか…。そんな思いに捕らわれることが多くなっていた。

そして新たに迎える昭和19年、時代はそんな少女たちの心身ををさらに追い詰めていく。

 

 

 



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五章

 

 

 大将を討ち取れば終わりであった中世までの戦争と違い、近現代における戦争の大半は当事国同士による講和条約の締結、もしくは一方の国による敵戦力の完全な撃滅によって終結する。この物語のこの時点において日本は圧倒的に不利な状況に陥っているが、米英との戦力差を考えた場合、このまま戦争が進行していくと「戦力の完全な撃滅」を受ける可能性があった。それは、国が亡びることと同義であるため、絶対に避けなければならない。そうであれば何とか講和の道を探るべきだが、中世までのように単純ではない近現代の戦争では、どの時点で見切りをつけて講和に持ち込むか、そのタイミングを判断するのは簡単ではない。戦況が優勢か劣勢か、国内情勢が安定しているか不安定なのか、といった様々な要素がその判断には関わってくるからなのだが、こと戦況に限っていえば優勢と劣勢を判断する基準が一応存在する。それはいわゆる制空権・制海権と呼ばれる戦場の支配率だ。

 核兵器が出来るとまた話は違ってくるのだが、少なくともこの物語のこの時点においては制空権・制海権を奪われている限り、どれほど戦い続けても戦況が覆ることはない。そして制空権・制海権を奪還することが不可能であるほど戦力差に開きがあるとわかった時点で戦争を終わらせる道を探さなければ、待っているのは「戦力の完全な撃滅」、そして亡国ということになる。

 昭和19年(1944年)、日本は本土の制空権・制海権を完全にアメリカ軍に奪われる。7月にサイパン島を占領されたことで日本全土が大型爆撃機B-29の航続距離に入り、10月にフィリピンのレイテ沖で行われた一連の海戦によって、海軍の連合艦隊は壊滅する。空と海へ戦力を投入できなくなったこの時点で、事実上戦争の決着はついたのだ。

つまりこの後、日本はどんな局地戦でも絶対に勝つ事が出来なくなる。常識的に考えればそういう結論になるのだが、未だ、神国日本には逆転の一手があると本気で考えている人々がいた。

 そして、そういう人々がその拠り所としたのが、他でもない刀使の少女たちの存在であった。

 

 

 直はゆっくりと目を開ける。見慣れた天井、畳、そして馴染み深い匂い。自分が今、生まれ育った家の自室で寝ていたことを改めて実感する。

「ふあぁ…よく寝たな」

厚手の布団と毛布をたたみ、寝間着からタンスにしまってある普段着に着替えて居間へ向かう。

「おはよう、父様、母様」

「何がおはようだ、今何時だと思っている」

新聞を読んでいた父にそういわれ、壁の時計を見ると既に10時を回っている。確かによく寝たようだ。

「10時かあ。うーん、やっぱり実家は最高だなあ」

大きく背伸びをしてそういうと、

「直ちゃん、朝ご飯はどうするの?」

土間の方から母の声が聴こえた。

「もうお昼と一緒でいいよ」

そう答えて、父の横に座る。

「兄さまは?」

「とっくに出た。近頃は毎日帰りも遅いな…」

「ふーん。この戦争、いつまで続くんだろう…」

「あまり滅多なことは口にするなよ。近所でも特高にしょっ引かれた人がいるからな」

藤十郎が新聞から顔を覗かせながらそういった。特高というのは特別高等警察のことだ。元々は左翼運動を取り締まる秘密警察として組織されたが、戦時中は政治批判をする者をことごとく捜査対象とした。ちょっとした政府の陰口を世間話の合間にしていただけで連行されるほど、その取り締りは苛烈を極め、市民からは大いに嫌われた。当時は密告制度も存在したため、特に都市部では隣人にも気を許せないような雰囲気が次第に醸成されていたという。

直はいかにも面白くなさそうに、ちゃぶ台の上に顔を寝かせて父の読んでいるぺらぺらの新聞をのぞき込んだ。天気予報すら載らなくなってしまった紙面には「国民精神総動員」だの「不退転の決意で勝ち抜け この聖戦」などと、いつ見ても似たような文句ばかりが並んでいる。ただその日付が、3月24日であることだけが特別だった。

「はい、直ちゃん。金柑湯」

母がそういって湯呑を持って来て直の横に座る。

「あ!まだあったんだ、金柑のハチミツ漬け!」

直はさっと顔を上げて、それを受け取った。金柑のハチミツ漬けは来栖の家に常備され、風邪の引き初めにこうして湯に入れて金柑湯として飲んでいた。甘酸っぱい味わいで、直の好物だった。

「折角の誕生日なのにこんなものしか用意できなくてごめんね」

「もう、何言ってるの母様。こうやってのんびりできるだけで十分だよ」

護国刀使では盆暮れと並んで誕生日にも休暇が与えられる。これは子供の成長を見たいという親の希望から採られた措置だった。地方に住む刀使は他の休みと組み合わせて帰省することが多いが、直は昨日の勤務が終了してから帰っていた。

「そう?それならいいけど…」

「まあ、今日はゆっくりしていけ。16になったのか」

「うん、そうだね。護国刀使になってから4月で2年か。早いね」

「そうねえ、あれから2年なのねえ…戦争が終われば直ちゃんも帰って来られるのかしらねえ?」

「さあ、それはわからないけど…」

直はそういって金柑湯をすする。

「いつ終わるか、か…そういえば直、米内さんに会ったといっていたな?」

「うん。でもあれから一度も会ってないけどね。どうしたの、急に?」

「ああ、この戦争を終わらせることができるのは、あるいは米内さんのような海軍の人かもしれないと思ってな」

「え、どういうこと?」

「司からもいろいろ話は聞いているが…やはり陸軍はダメだ。未だに参謀本部の無茶がまかり通っている。奴らはまだ犠牲者を出すつもりでいるらしい」

さっき、滅多な事をいうな、といっていたのは誰だったか、と思いながらも直は黙って続きを聞く。

「元々陸軍はドイツとの繋がりが深くてな、三国同盟にも積極的だった。だがどうやらそのドイツもソ連に手を出してからはかなり雲行きが怪しいようだ」

「そうなんだ…あの人、ヒトラー総統はダメなの?」

「いいウワサは入って来ない。やはり同盟に反対していた米内さんや山本長官が正しかったのかもしれん」

三国同盟は直たちが刀使になったのと同じ年、昭和15年(1940年)に当時破竹の勢いでヨーロッパ全土を攻略しつつあったドイツに乗り遅れるな、という雰囲気が国全体を包む中で締結された。日本、ドイツ、イタリアの三国によるその軍事同盟は、最初から新たな世界大戦の火種となることは明らかであり、締結前から反対を唱える人々が多くいたというが、反対する者は「腰抜け」として襲撃されるなど国民感情は同盟締結に傾いており、さらにそれに迎合して勇ましい文句を吐き続ける政治家たちによって反対意見は公式にも抹殺され、結果として日本はこの同盟を嬉々として受け入れた。だがその後、太平洋戦争開戦直前、アメリカとの間で何とか戦争を回避するために行われた交渉で、この同盟の存在は大きな足枷となっている。後になって考えれば、この条約締結が成った時に、日本は引き返すことの出来ない道に足を踏み入れてしまったということになるのだろう。

因みに同盟のもう一方の片割れ、イタリアはというと、既に昭和18年(1943年)の9月に一旦降伏、その後ドイツ軍よって作られた傀儡国家、イタリア社会共和国が戦争を継続していた。

「ふうん…」

「何とかこれ以上悲しむ人が出てほしくないものだけど…手前勝手な言い方だけど、司が内地の勤務で良かったと思うわ…」

母の言葉は本心からのものだろう。

「そうだね。御骨が運ばれるの、結構見るからね…」

「名誉の戦死だ。我が子かわいさはわかるが、そういうことは決して表で口にするな。それに、司もいつ外地に向けられてもおかしくはない。覚悟だけは、しておけ」

直も母も、それには答えない。重い空気だけが残る。

「ああ…まあ、今日する話でもなかったな…」

と、父がいってまた静かになってしまった所へ、

「ちょいと、ごめん下さいよ」

玄関から聞き覚えのある威勢のいい声が響いた。

「あれ、この声って…!」

「ええ、どうしたのかしら?」

そういって玄関に向かう母に、直もついていく。引き戸を開けると、そこには祖母のタツと、その後ろに使用人らしき男が立っていた。

「おばあちゃん!」

「どうしたの、お母さん?」

「どうしたのじゃないわよ。今日は直の誕生日だろ?帰っているだろうと思ってお祝いに来たんじゃないか。ほら」

すでに草履を脱ごうとしているタツが後ろに顔を向けると、男が平身低頭、といった様子で入って来て、「ちょいと失礼しますよ」といい、手に持っていた木桶を三和土に置いた。全体を覆うように手ぬぐいがしっかりと巻かれて結わえられているので中身はわからないが、水が入っているのは置いた時の様子でわかる。

「これは…?」

「見てごらん」

手ぬぐいをほどけ、ということらしい。直は頷いてその通りにすると、中には、

「あ、ウナギ!!」

2尾の大きな鰻が、身体をくねらせていた。

「あら、すごいじゃないお母さん。どうしたんですか、これ」

「この日のために手を回しておいたんだよ。2尾がやっとだったんだけどね…それじゃ、台所を借りるよ」

「そいじゃ大奥様、あっしはこれで」

「ああ、ご苦労だったね。ほら、帰りに一服していきな」

玄関に上がったタツは、そういって気前よく、煙草を一箱、その男に与えた。

「こりゃあ…ありがとうございます!」

「ああ、気を付けて帰りな。こっちの帰りは夕方になるからね」

「へい、大奥様もどうぞお気をつけて」

男が頭を下げて出て行くのと入れ替わりに、奥から藤十郎がやって来る。

「これはお義母さん…おお、これは見事な鰻だ。久し振りに見たな」

「今日は直の誕生日だからね。ちょいと奮発させてもらったよ」

「はっはっは、良かったな、直」

「はい!おばあちゃん、ありがとう!」

タツが満足そうにふんぞり返る脇で、佳代が小さく呟く。

「実はうちもお刺身を用意していたんですけど…」

「え、すごい!それも嬉しいよ母様!」

「よーし直、それじゃあ今日は包丁の使い方も教えてあげようね」

「はい!お願いします!」

その日の来栖家の昼食は、このご時世にあるまじき豪勢なものになった。そしてそれ以上に、直にとっては家族での食事の時間が何よりの誕生日祝いになった。いつもの仲間達との食事もいいが、祖母、父、母に祝われての食事は他には代え難いものであった。

 

 楽しい時間は過ぎるのも早い。後片付けを母に任せてタツと二人で来栖の家を出た時にはもう、すっかり夕暮れ時になっていた。最近運行を始めた木炭バスに乗って日本橋まで行き、祖母と孫娘は並んで掘割沿いの道を歩いていた。

「おばあちゃん、今日はありがとう。ウナギ、すっごく美味しかった」

「ああ、白米で食べられなかったのが残念だったけど、いい鰻だったねえ」

「お兄ちゃんも喜んでくれるといいね」

「そうだねえ、もう1尾いれば司にももっと残してあげられたんだけど」

夕焼け色に染まった並木道の桜はまだ七分咲き、といったところだが、幼い頃から祖母に連れられて歩いたこの道を二人で歩くのはとても思い出深く、それだけで心がじわりと温かくなってくる。タツもまた、ずっと穏やかな笑みを浮かべていた。

「ねえ、おばあちゃん、昔おばあちゃん教えてくれたよね、荒魂と刀使は表裏一体の関係だって。教本にも書いてあったけど」

「ん?ああ、そうだね」

「それでそのことを私なりに考えてね、刀使も荒魂も元は同じなら仲良くなれるんじゃないかって、思うようになったの」

「どうしたんだい、急にそんなこと…まあ、面白い考えだとは思うけどね」

「それでね、おばあちゃんに見てほしいものがあるんだ」

「見てほしいもの?何だい?」

直はニィっといたずらっぽく笑い、腰に下げていた御刀を抜いた。ぞして、

「荒魂さーん、出ておいで!」

そう、掘割に向かって声を出し、御刀を振ってみせた。

「ちょっと、直、あんた何を…」

タツがそういったその時、掘割の流れの中に渦が現れる。渦は段々大きくなり、そこから大きな水しぶきが上がった。回転しながら降って来たそれは、

「な!荒魂!」

紛うことなき荒魂だった。

「ほう、今回はまた凝った登場の仕方だねえ」

二人の前に着地した荒魂は、一礼するような動きをとってから、直の持っている御刀に向かってピョンピョンと跳ねた。タツは唖然としていたが、そこはさすがに元刀使、その荒魂に害意がないことをすぐに見て取った。

「こりゃ、たまげた…あんた、荒魂を手なずけているのかい?」

「へへー、何かこの子、意志が通じるんだ」

「ふーん…ケガレの抜けた荒魂ってのは確かに存在すると聞いたことがあるけど…そんな感じなのかねえ…」

「この御刀にご執心なんだ。よくわからないんだけど、この御刀から生まれたんじゃないかって思うんだよね」

「なるほどねえ…」

タツは興味深そうに中腰になって荒魂を見ている。直はその様子を見て安堵した。

「よかった。怒られるかなーとも思ったんだけど」

「はは、別に怒りゃしないさ。そうかい、私の言葉を覚えててくれたのかい。それで今日は宗三左文字を持ってなかったんだね」

「うん、一度おばあちゃんに見てもらいたかったんだ。それで、この荒魂…というか、こういうことって、どう思う?」

「ああ、今いろいろと思い出していたんだけどね、物の怪や妖怪を使役したという刀使の話は少なからず民間伝承に残っているんだ。ただ、それは公式の記録にはまず載っていない。つまり、それを公式には認められない理由があったということだろうね」

「その物の怪が、荒魂だった、から…?」

「だろうね。本来祓うべき対象である荒魂と、刀使が仲良くするというのは、とんでもない逆説だからね。刀使を取り巻く体制を含めた全てを否定することになりかねない。そんなものは認めるわけにはいかなかったんだろうさ」

「まあ、そうだよね…でも、そっかあ、やっぱり前例はあったんだ」

「ああ、今でも益子の家では平安の昔に退治した祢々とかいう荒魂と付き合っているようだね。詳しくは明らかにされていないけど」

「益子の家の人からは話を聴いたことがあるよ!それって、同じことを考えている人たちが昔から少しはいるってことだよね?」

「そうだね、うん。ふふふ」

「うん?どうしたの?」

「いや何、自分の言葉や書いたものが受け継がれて、そこからまた別の考え方が生まれて来る…そういうのは嬉しいもんだね。自分の生きて来た証が残ったような気がする」

タツはそういって直と、荒魂を交互に見て、また微笑んだ。

「何いってるの、それだけじゃないよ、おばあちゃん。河井タツといえば未だに語り継がれてる刀使だよ。どんなに強い相手でも引き分けに持ち込むのが上手いから『不敗のタツ』と呼ばれていたって!」

「ははは、いや、孫娘にそんなことをいわれるのはなんだかこそばゆいねえ。でも、そうだね、私の戦い方、剣術の方もそうやって残っているんだったらそれも嬉しいもんだよ」

「うん、『相手になれ』だよね。ちゃんと覚えてるよ」

「そう。剣を構えて対峙するっていうのはお互いが剥き出しの自分をさらけ出しているのと同じだからね。相手をよく見て『相手になれ』ば、必ず何を考えているか、わかる一瞬がある。そこを上手く使えば何とかなるもんだよ」

「あ、だからおばあちゃんは商売上手っていわれてるのかな?」

「ははは、それはどうだかね。私よりあんたはどうなんだい?こんな風に荒魂を手なずけるなんて、まさか荒魂になったっていうのかい?」

そこで、直は呆けたように口を開けた。

「ちょっと、どうしたんだい?」

「あ、うん。そうか、と思って。私、この荒魂さんになってたのかも…」

「は…こりゃあ驚いた。私の剣術が人間意外にも有効だとはね。まだまだ勉強することがありそうだよ」

タツはそういって少し神妙な顔になり、直の頭を撫でた。

「いつどうなるかもわからないこんなご時世だ、悔いの残らないようにはしておかないとねえ…」

「ん、どうしたの?何だか辛気臭いじゃん、おばあちゃん」

「ふふん直、そういう時はね『感傷的』っていうんだよ。まあでもそれとも少し違うんだけどね。私がいったこんなご時世だからっていうのはね、年の順に死ぬってわけじゃないってことをいったんだよ。あんたもしっかりね!」

そういってタツはニイッと笑う。それは、さっきの直とそっくりの笑顔だった。

「あ…ははは、そっか、そうだよね。さっすがおばあちゃん!うん、私も思いっきり生きるよ!それじゃあ、私とこの荒魂さんの連携技をお見せします!」

「連携技?だって?」

「うん、名付けて『荒魂けん玉』!それっ!」

直は御刀を返して柄を上にすると、そこへ荒魂がぴょんと飛び乗る。「それそれ」といって今度は切っ先を水平に構えると、その刀身の上に荒魂が飛び乗る。直がひょいひょいと御刀を構え変える度に、荒魂もまた上手くそれに飛び乗る。

「ははは、何だいそりゃ?」

「どう、おばあちゃんもやってみる?」

「ばかなこといってんじゃ……うーん、ちょっとやってみようかね」

祖母と孫娘の笑いは絶えることなく、それを見守るように春の陽はゆっくりと暮れて行く。

直にとって、生涯忘れることの出来ない16歳の誕生日となった。

 

 

 暑い。今ので今日何匹目の荒魂だったろう。ここの所の荒魂発生数は異常だった。直は、義元左文字を構え直してこの雑木林にまだ潜んでいるであろう荒魂に備える。ふっと溜息をついて、隣の泉美に声をかける。

「まだ、出ますよね?」

「ええ、もう少し、といったところだと思いますけど…」

泉美はそういって額の汗を拭っていた。8月も終わりだというのに暑さが収まる気配が無い。炎天下での荒魂討伐任務は、過酷だった。

『てえええい!』

その時、そんな、暑さを吹き飛ばすような元気な声が木々の向こうから響いてきた。

「あ、見つけたみたいですね…行きますか?」

「ええ、行きましょう」

直と泉美が迅移を使って茂みを抜けて行くと、二人の刀使が中型の荒魂に対峙していた。荒魂からの攻撃を、長い髪を先端で束ねた一人が何とか防ぎ、もう一人のおかっぱ頭が元気な声を出して斬りかかっているが、荒魂に上手くかわされてしまっている。文字通りの悪戦苦闘、といった感じだった。

「ああ、五十鈴さん、間合いが全然読めてませんねえ…」

「そうですね。美千代さんの方も…もう少し早く動かないと主攻撃手の邪魔になってしまいます。副攻撃手としては今一つですね…」

直と泉美はそんなことをいいつつ、木陰から観戦する。程なく、美千代と呼ばれていた髪の長い副攻撃手の後ろから、鳥型の荒魂が現れた。目の前の二人が全く気付いていないのを察し、直と泉美は頷き合う。一直線に飛ぶその荒魂の進路に泉美が割って入り、下段から切り上げると、鳥型の荒魂は急停止してそれをかわす。そこへ、「はっ!」と短い気合いと共に跳んできた直が、空中で止まっている目標を両断した。

「え?」

悪戦苦闘の二人が振り返った時には既に、鳥型の荒魂は地面に落ちた後だった。

「美千代さん、余所見をしない!前の荒魂に集中しなさい!」

「あ、はいっ!」

「大丈夫、五十鈴さん。二人なら倒せる。多分それが最後だからしっかり集中して!」

「はい、ありがとうございます!」

泉美と直の言葉に、二人が本来の敵に向き直る。そこへ、中型の荒魂が毒々しい色をした霧のようなものを吹いた。直が「危ない!」と叫んだその瞬間、前に立つ五十鈴は荒魂の右に、後ろに立つ美千代は左にそれぞれ迅移で回ってその霧を避け、

「はああああっ!」

「せいっ!」

同時に左右から荒魂に斬り込んだ。「ギイイイィ」という断末魔の叫びを上げて、荒魂は倒れる。

「や…やった!?」

「やった、やりましたよ美千代さん!」

すぐに駆け寄って手を取り合う二人を見て、直と泉美はとりあえず、胸を撫で下ろす。

「お見事…とはまだいえませんが、まあ、最後の連携は及第点ですかね」

「ははは、泉美さんは厳しいなあ。でもそうですね、二人共まだ、目の前しか見えていないし、何より自分たちの攻撃が届く間合いが計れていませんね。それじゃ大けがしちゃいますよ?」

「は、はい!」

「ご助力いただきありがとうございました!」

篠原五十鈴と穂高美千代、二人はこの4月に護国刀使へ入隊した新人刀使だ。同い年で、直と泉美の2つ下、14歳になる。二人共、特に剣術をやっていたわけではなく授業の一環で行われていた竹槍を始めとした武術指南の際にその適正を認められた。何とか刀使を増やそうという試みは様々な形で行われており、それが実を結んだ形であった。が、ここ数年かけて日本全国から見つけ出せたのがようやくこの二人、といった有様である。刀使の発掘は、やはり至難の業なのだ。

ノロの回収を終えると、泉美は荒魂類探知計を取り出して周囲の荒魂の反応が消えたのを確認する。

「よし…討伐完了のようね。市の方に報告して帰りましょう」

「はー疲れた。ねえ泉美さん、少し休んでいきませんか?ここ、すぐ近くが海じゃないですか。有名な砂浜らしいですよ」

今、4人がいる雑木林の丘を下りれば、海は確かにすぐそこだった。風向きによってはふわりと潮の香りがやってくる。

「うーん、でもすぐに帰らないと遅くなってしまいますし…」

「わざわざ神奈川まで来たんですよ?夏の海ですよ?」

「うーん…」

そう、夏の海なのだ。堅物とはいえ泉美も一人の少女だ。少しは寄って行きたい気持ちはあるだろう。

「少し潮風に当たって行けばいい具合に汗も乾いて気分も一新するでしょうし、もしかしたら食べ物も手に入るかも知れませんよー。お魚とか、貝とか海藻とか…千鶴先輩喜ぶだろうなー」

新人二人は先輩たちの会話には口を挟んでこないが、それでも、その様子からどうしたいのかはよくわかる。

「…ああ、もうわかりましたよ!でも少しだけですからね!」

「さっすが泉美さん、話がわかりますね!それじゃ行きましょうか!五十鈴さん、美千代さん!」

そういい終わる頃にはもう、直は駆け出している。二人の後輩は弾けるように「はい!」と大きな声を出し、直に続いた。泉美は大きなため息をついて、それから3人の後を追った。

 

 丘を下りて目には入って来たのは、強い日差しに反射して輝いている砂浜だった。その美しい砂浜と青い海が前方の視界の端から端まで一杯に拡がり、振り返れば松林がある。白砂清松とはまさにこのことだろう。

「うーん、いい気持ち!やっぱり東京の海とは違いますね!」

潮風を吸い込みながら大きく背伸びをして直がそういう。

「あの、少し足を浸してきてもいいでしょうか!」

「いいですよ、でも転ばないように気を付けて下さいね!」

「はい!」

二人の後輩たちが歓声を上げながら裸足で駆け出していく。その後ろ姿を見ながら、

「もう、いいんですか?任務の途中ですよ?」

泉美が恨めしそうな声を出した。

「いいじゃないですか。まだ遊びたい年頃なんですよ。まあ…私もですけどね!」

言うや否や、直もまた御刀を置いて靴を脱ぎ捨て、裾をまくって駆け出した。

「ちょ、直さん!」

泉美の声はもう聴こえない。直は先行していた二人に混じり、海に足を踏み入れる。水はさほど冷たくはない。が、気持ちいい。

「ほら、泉美さんも!気持ちいいですよー」

大きく手を振って泉美を誘うが、泉美の方にその気は無いらしく、はいはい、という風に頷くだけだった。3人はしばらく歓声を上げながら、水辺を歩き回った。

「あ、直先輩、あっちの岩場の方にいってみませんか?何か生き物がいるかもしれませんよ?」

五十鈴が指差す先には確かに岩場がある。

「あ、そうだね。何かお土産になるようなものでもあればいいけど…」

そういって振り返った直の視界の隅、海の向こうの上空にきらりと何かが光った。

「あれ…」

「どうかしましたか、先輩?」

美千代が直の側に寄って来る。

「あれ…なんだろう」

直は眉に手を当てて強い陽射しを防ぎながら空の一点を注視する。美千代もそれに倣った。

「あれって、飛行機…?」

「みたいですね」

だんだんとその姿がはっきりしてくる。たった一機で迫るその機体の曲がった翼に、星のマークがあるとわかったその瞬間、直は青ざめた。

「敵機!?二人共、逃げるよ!」

直がそういうと二人の後輩もそれに気づいたのだろう、3人は慌てて駆け出した。その直後、もうすぐそこに迫っていた星のマークの飛行機が、文字通り火を噴いた。ダダダダダッという轟音と共に、海面が2列の飛沫を上げる。その飛行機ーアメリカ海軍の戦闘機F4Uコルセアーによる機銃掃射だ。3人は悲鳴を上げながら必死に駆けた。そこへ、

「早く、これを!」

3人の御刀を携えて泉美が迅移でやってきた。一旦通り過ぎた飛行機が、空中で大きくターンしている。3人はそれぞれの御刀に飛びついて柄を握る。再び迫って来たコルセアの機銃掃射も、迅移で逃げる刀使には届かない。4人は何とか松林まで逃げおおせ、事無きを得た。

「はあ、はあ…こんなところにまで敵機が来ているなんて…すいまぜんでした。私が海に行こうなんていったばっかりに…」

「いえ、結局賛成したのは私も同じですから…でも、恐ろしいものですね…あんなものが飛んでくるようになるなんて…」

「はい…」

「どうなってしまうんでしょうか、これから…」

泉美に答える後輩二人はすっかり血の気を失っている。直は溜息をつき、ふと、裸足のままでいることに気が付いた。砂浜を見ると幸い靴は脱いだそのままの所に転がっている。さすがにこのまま帰るわけにもいかないので、後輩たちを促して再び砂浜へ歩いていった。

 

 隊舎に戻れたのは丁度夕食時であった。食堂の一角に一人分の食事が乗った盆が人数分並べられており、各々がそれを手にとって食堂の好きな所で食べるのだが、大体各自が座る場所は決まっていた。直と泉美は、由良と凪子がいつもの所で向かいに座っているのを確認すると、後輩たちと分かれてそこへ向かった。

「お疲れ様です」

二人は声を合わせてそういいながら、直が凪子に隣に、泉美が由良の隣に座った。

「お疲れ様、やっぱり遅くなっちゃったわね」

「ああ、お疲れ様。首尾はどうだった?」

「報告のあった周囲の荒魂退治は無事にできました。五十鈴さんと美千代さんもそなかなかの動きでした」

泉美がそう応じると、由良と凪子は頷いた。

「ただ、ですね…」

直が切り出しながら水団汁を口にする。

「ただ、何かあったの?」

「はい、少しだけ海に寄ったんですけど、その時に敵機から機銃掃射を受けました。幸い迅移で逃げられましたが…」

直に代わって泉美がそう答えると、由良と凪子は顔を見合わせた。そして由良が少し考えるような素振りを見せてから口を開く。

「そうだったの…飛行機にもいろいろ種類があってね、2人…じゃなくて4人がやられたのは戦闘機かしらね。偵察にでも来ていたんでしょう。でもここのところ、それよりもっと大きな、とんでもない量の爆弾を積んだ飛行機、爆撃機があちこちに現れているらしいの」

「え?あれよりひどいことになるんですか?」

「あなたたちがどんな風にやられたかわからないから答えようがないけど、ただ都市を狙うような規模の編隊を組んでくるようだから…そりゃあもっとひどいことになるのでしょうね」

「私たちが襲われたのは一機だけでしたから…そうですか…」

直はふかしたジャガイモに醤油をかけ、その醤油差しを由良に手渡す。

「ありがとう。ああ、それでね、そういう爆撃機が落とす爆弾の中には不発のものがあるんだそうだ。今度それを撤去する作業に協力してほしいって軍から話があった」

「ええ!?なんですかそれ…」

「刀使は写シを張れるからね。不意の爆発にも耐えられる…適任ということなんだろう。それに合わせて爆弾を処理するための座学も行うらしい」

凪子からそう言われて、直は大きな溜息をついた。

「直さん、これも大事な任務ですよ。でも本当に…あまりいい話がありませんね」

そういって、泉美が2尾与えられている焼き鰯をかじった。今日の夕飯はこの3品で全てだ。彩に欠けるとはいえ、幸い護国刀使にはジャガイモ、サツマイモ、小麦の備蓄が多くあり、量そのものは決して少なくない。一人当たりの配給量が決まっている一般の人々から見れば十分に恵まれた食事内容であった。

「そうね…ああ、そうだ。もう皆には話をしたんんだけど、この週末に碧様が見えられるの。いろいろとお話があるから出来るだけ集まるように、ということよ」

「ふうん…何か、いいお話でもあるんでしょうかね?」

「碧様が来て下さるというだけでも十分いいお話ですけどね」

凪子の言葉に一同は頷き、それから笑った。あのお姿を拝めるというのは、確かにそれだけで楽しみというものだ。

「大変なことも多いと思うけど、あなたたちにはこれからの近衛祭祀隊を背負ってもらわないといけないんだから、しっかりね」

「後輩たちのことも頼むよ」

由良と凪子の言葉に、二人は大きな声で「はい」と返事をした。

 

「いやー今日はまいったまいった。疲れたなー」

五十鈴がそういって湯船で大きく背伸びをした。

「おおげさね、私たちは直先輩と泉美先輩にくっついてただけじゃない」

美千代は、手ぬぐいで長い髪を頭の上にまとめて、五十鈴の横に入る。

「いや、でも最後のはよかったって先輩たちほめてくれたじゃない」

「まあ、ね。でも私たちがやれたのはあの一匹だけだし、足を引っ張ってたのも間違いないと思うけどね」

「それは…そうですね。お二人だけで10匹以上ですもんね。ふうむ、人は、一体どこまで強くなれるものなのでしょうか」

五十鈴が顎に手を当てて、おどけた様子でそんなことをいった。美千代はくすりと笑う。4月に共に入隊した、たった一人の同期。この子はずっとこんな調子だが、この明るさは美千代にとって幾度となく救いとなった。

「そうねえーどこまで強くなれるのかしらねー」

などといい加減に答えながら、美千代は段々気分が良くなっていく。理屈抜きで、五十鈴と一緒にいるのは楽しい。かてて加えてこの湯、だ。

隊舎の風呂は銭湯ほどではないとはいえ、大きい。風呂当番になると大変ではあるし、薪を節約しなければいけないから入れる時間は制限されていたが、それでもこうして手足を伸ばしてゆっくりとお湯につかれば、一日の疲れが抜けていく。時間帯も良かったらしく湯加減もちょうどいい。徐々に、細かいことを考えるのが面倒になってくる。

「あ、美千代さん、もうちょっと真面目に答えて下さいよねー」

「何をいいよんなら。真面目に答えとるじゃろう」

突然、美千代の口調が変わった。その顔にはいつもの引き締まった表情は微塵も無く、頬を赤らめて呆けたように緩んでいる。ほとんど酔っぱらっているかのようだ。

「あ、出た出た、美千代さんの広島弁。またお風呂に酔ってますね?」

「はあ、この程度は広島弁にも入りゃあせんわ。まあ風呂には酔うとるかもしれんけどな。全くここの仕事はえらく大変なけど、食事と、この風呂はええよねえ」

「美千代さんは見た目は女っぽいのに、中身はおじさんみたいですよねえ」

「うちはおじさんに囲まれて育ったけんの」

「実家で海の男たちを雇っていたっていってましたもんねえ。お金持ちだったんですか?」

「なーんが。ぼっこうもうかりもせんのよ。野郎らからはお嬢、お嬢いわれっとたけど」

美千代はそういって両手いっぱいに湯をすくい、顔を洗う。

海の男たち、というのは正確にいうと港湾労働者のことだ。美千代の家は広島港で港湾荷役の元締めを生業としていた。気性の荒い男たちを離れの寮に住まわせ、母や他の手伝いの者と一緒に彼らの世話をしていたのだ。自然、彼らの言動が育ちに影響し、美千代はその心のうちに義理と人情、仁義と任侠の精神を宿す娘に成長した。多少、同年代の他の子供たちと違った価値観を有するようになったわけだが、それは自体は決して悪いことではない…だろう。

「見よ東条のハゲ頭~♪」

気分のいい美千代は、おじさんたちが歌っていた歌を口ずさんだ。当時よく歌われていた、愛国行進曲の替え歌だ。

「アハハハ」

五十鈴がそういって笑っていると、じゃぶじゃぶとお湯をかき分けながら色白でふっくらとした体形の先輩刀使がやってきた。

「ちょっとダメじゃない、そんなの歌ったら」

「あ、すいません、春江先輩」

「すんません」

ざばっと音を立てて二人は立ち上がり、やってきた先輩、北見春江に頭を下げた。

「ああ、そんなに気にしなくていいわよ。ここには憲兵も特高もいないんだから。ほら、浸かって浸かって」

そう春江にいわれ、2人は再び湯に浸かり、春江もまた2人に並んだ。

「二人共、本当に仲がいいのね。うらやましいな」

「それはまあ、たった二人の同期ですので」

五十鈴がそう答え、酔いが醒めたらしい美千代が続ける。

「そういえば春江先輩の代もお二人ですよね?」

春江はそれを聞いて少し口の中で言葉を転がすようにしてから、

「そう…今は、ね。最初は6人いたんだけどね…」

「あ、それって…」

「すいません、もしかして嫌なことを思い出させていましましたか…?」

「いえ、そんなことはないわよ。皆、それぞれ理由があって辞めただけだから。まあ、一人は任務中に大けがをしてしまって、それで続けられなくなったんだけど…」

「そういうことって、やっぱり多いんでしょうか…?」

「そうね…記録を見る限り、少ないとはいえないかもしれない。でも護国刀使に殉職者は出ていないから、その点ではまだいい方かもしれない」

「殉職って…死んじゃうってことですよね…」

五十鈴がぽつりとそういった。

「ええ、私たちの仕事はそれだけ危険だってこと…まあ、その分お給料はいいし、食べる物にも困らないし、悪いことばかりじゃないわよね。実のところ、うちも私の仕送りがないと生活厳しいし…」

「あ、うちもそうです。うちは下に弟が一人と妹が二人いて、結構苦しかったので、ここのお給料を見て驚いて…で、すぐに入隊を決めました!」

五十鈴はそういってまた、けらけら笑った。

「うちも似たようなものです。私が仕送りをするようになってから大分資金繰りがやりやすくなったって…」

「ふふふ、そうね、ここは生まれに関係無くそれなりの刀使の力さえあれば入隊できるから、似たり寄ったりの事情を持っている人が多いわね。まあ、千鶴先輩みたいな例外もいるんだけど」

「あ、それほんと驚きました!まさか華族様とお話できる日が来るなんて!」

「そうよね、私も驚いたわね。驚いたといえばご当主様を初めて見た時も驚いたわね」

「ええ、そうですね。私たちは4月の入隊の時にお会いしたきりですが、何てきれいな人なんだろうって…こう、後光がさしているような方ですよね…」

3人はそこで揃って溜息をついた。美への崇拝、とでもいうべきか、折神碧の姿を思い出しながら、3人はその女性特有の感性に全く支配された。

「週末に隊舎に見えられるそうだから、楽しみね」

「え、そうなんですか!?」

「ええ、いろいろとお話があるそうよ」

「そうですか、わざわざお越しになるということは重要なお話なのでしょうけど…」

「そうね、いいお話だといいんだけど…」

春江がそういってから、「うーん」といって背伸びをしたので、五十鈴と美千代もそれに倣った。それを見て春江がくすくすと笑い出したので、釣られて2人も笑った。

 

「すいません、遅くなりました」

「やれやれ、間に合ったー」

道場に駆けこんできた四条姉妹の姿を見て、その場の全員が胸を撫で下ろす。

「はあ、良かった。間に合ったわね。ほら、早く列に入って」

由良にそういわれ、二人は直と泉美の隣に並び、これで全員が揃った。

「どうでした、見送りの方は?」

直が小さな声で、まだ息の荒い二人に尋ねた。

「ああ…あの歳で親元を離れるっていうのはやっぱりつらいだろうねえ。泣いてる子が多かったよ」

八重の答えに、泉美が頷く。

「そうですよね。親御さんだって疎開なんて…できればさせたくないでしょうし」

「涙々のお別れでね…皆、向こうで元気にやってくれればいんだけど…」

そういう吉乃の目元は、よく見ると少し赤い。聞いていた周りの刀使たちも神妙な顔つきになった。吉乃と八重は昨年来付き合いのあった国民学校の生徒たちが地方に疎開する、というので先程まで警護を兼ねてその見送りに東京駅まで行っていたのだ。二人が子供たちに懐かれていたというのは直も聞き知っており、それだけにつらい別れだったのだろうと想像がつく。

「そうですね、姉様。私たちもあの子たちに負けないように頑張りましょう。あの子たちが帰って来る所を、しっかり守っていきましょう」

「八重…!あなたがそんな立派なことをいうようになるなんて…姉さまは、とっても嬉しいです。ううう…」

「ああもう、姉様はすぐ泣くんだから…あ、皆さん、気にしないで下さい。ってあれ、ご当主様!」

全員がその言葉で道場の入り口の方を向くと、そこには折神碧の姿があった。一度、皆の方を見てにっこりと笑って礼をする。刀使たちもそれに合わせて姿勢を正して礼をした。

碧がゆっくりとした足取りで正面に回ると、由良、千鶴、凪子の3人が真ん中を空ける。碧は一礼してそこに入り、一つ、小さな咳払いをしてから口を開く。

「皆さん、任務多忙の中お集り頂いてありがとう。本日は、二つお話があります…そうね、まずは任務のお話からです」

直はその言葉におや、と思う。任務と関係無い話が、何かあるのだろうか。

「先週、陸軍から話がありまして、11月に軍関係者同席の上で護国刀使の紅白戦を執り行うこととなりました。場所についてはまだ明かせない、とのことでしたが、実戦形式で行うということです」

全員、無駄口は発しないが、周りの者と顔を見合わせている。直も、泉美と視線を交わしていた。

「実戦形式、というのは…皆さん御刀を手に取り、写シを張って戦ってもらう、ということです」

碧が険しい表情で続けたその言葉に、さすがに動揺が広がった。

「あの、ご当主様」

「何、千鶴さん」

「その、それは公開稽古、ということではなく、本気で斬り合えと、そういうことなのですか…?」

碧はわずかの間、目を瞑ってから、

「そうです。軍はいよいよ刀使を戦場に出そうとしているようです。皆さんも、この戦が大変厳しい局面を迎えているということはおわかりかと思います。ですから…これから刀使は、荒魂だけではなく、人とも戦う…そういうことになりそうです」

碧の口調は有無をいわさぬような響きと共に、わずかに自嘲があった。ただ、その迫力に少女たちは言葉を失う。

「ごめんなさい。私の力が足りず、こんなことになってしまって…皆さんをお預かりする時、決してこんなことにはならないようにしようと神明に誓っていたのに…本当に…何といって謝ればいいのか…」

碧はそういって深く頭を下げた。その顔には、生気が無い。この一件のためにかなりの心労が溜まっているのかもしれない。一瞬、言葉を失っていた刀使たちであったが、

「お、おやめになって下さいご当主様!私たちは、そんな…」

由良がそういい、全員を見回す。

「皆、そういうことみたい…。私たちは軍人ではないけど、これからそういうことを…させられるのかもしれない」

由良はそこで大きく溜息をついて、続けた。

「ここからは、私がご当主様に代わってお話をさせて頂きます。あの、よろしいでしょうか?」

折神碧は青白い顔のまま、無言で頷いた。

「はい…実は、私はこれから話すお話を少し前に碧様から伺っていました。それで、先に少し準備をさせてもらっています」

「準備って…何の…?」

千鶴の言葉に、由良は力なく笑う。

「近衛祭祀隊を退職したいという希望があれば、私が間違いなく手続きをします。こんなんの、最初の話とは違うものね。だから、きちんと退職金もでるし、その後の身の振り方、勤め先についてもいくつか用意をしています。だから、一度よく考えてみてほしいの。あまり時間は無いんだけど、ご家族の方たちともお話をしてみて下さい」

「あの、二つ目のお話っていうのは、これのことなんですか?」

直が手を挙げてそういった。

「ええ…そうよ」

「そうですか…あの、つまり、このままだと私たちは人殺しをするかもしれないって、そういうことなんですよね?」

直の率直な質問に、さすがに周りがざわつく。由良が答えようとするのを手で制して、碧が直の方を向いた。

「そういうことです。いざ戦場にでてしまえば、こちらからはどうすることもできません。生きて帰るためには、敵を…人を殺すしかない、そういうこともあるでしょう」

「…わかりました」

直はふーっと大きく息をつく。全く大変なことになったものだ。

「由良先輩、あまり時間が無いといっていましたが、その辞める辞めないの結論はいつまでに?」

凪子もまた、率直な質問をした。

「ああ、そうね。できれば先程ご当主様がおっしゃられていた模擬戦の前、だから正確にはわからないけど来月中に、ということになるかしら」

「来月中、ですか…」

凪子はそういって腕組みをした。その横では、千鶴がさっきからずっとすごい形相で由良を睨んでいた。

「あの、千鶴さん、何かおっしゃりたいことでもおありで?」

由良がおそるおそるそう尋ねると、

「あなたねえ、何でそんなことを私に相談も無く進めているのよ!」

今にも噛みつかんばかりの勢いでそう、答えた。

「え、それは、その…」

「どうせあなたのことだから余計な心配をさせたくないとか勝手に気を回したんでしょうけどね、これでも私は華族なのよ?そういう話なら紹介できる仕事の一つや二つあるんだから!」

「ふえ、ごめん。でもそんなに怒らなくても…」

「怒るわよ!こんな大事な話を一人で抱え込んでいたなんて…」

「いえ、碧様と考えていたから別に一人っていうわけじゃないんだけど、ああ、あのわかってる。ごめんというか、ありがとう。ほんとに、そんな風に思ってくれて…」

碧が、そんな由良の肩に手を置いた。

「千鶴さん、ごめんなさいね。確かに、あなたにも…いえ、皆にも最初から相談するべきでした。そうすればもっといい知恵が出たかもしれないのに…」

「あ、いえ、それは…上の判断にまで口を出すつもりはありませんので…って、碧様!」

由良の肩に手を置いたまま、碧の膝が不意に折れた。もう片方の手で口元をおさえ、苦しそうな声を出している。

「碧様!」

刀使たちが一斉に駆け寄るのを、

「待って!」

由良が制して、碧と同じようにしゃがんでその様子を見る。

「千鶴、ちょっと!」

呼ばれた千鶴が駆け寄って同じくその場にしゃがみ、小声で碧と話をする。次第にその目と口が大きく開いていく。

「ねえ、千鶴、これってやっぱり…?」

「ええ、多分…」

二人はそういって頷き、碧を両側から支えながら立ち上がる。

「よし、皆、碧様を部屋にお運びします。何人かこっちに来て。後は一階の開いている部屋の準備をお願い」

「ああ、それとお医者様の手配を!」

由良と千鶴の言葉に、刀使たちは「はい」と大きな声で返事をして散っていく。直と泉美は由良の方に残った。

「あの、ご当主様、大丈夫なんですか?」

「ええ、多分ね…うん、そういえば泉美さんいってたわね、最近いい話がないって」

「え?あ、はい…」

「久し振りに、いい話…かもしれないわよ」

そういって由良が笑うのを見て、泉美をはじめその場の刀使数人が弾かれたように口元を押さえた。

「え、まさか…!」

「え?まさかって何?え?泉美さん!」

直の問い掛けには誰も答えず、皆で抱えるようにして碧を寝台のある部屋まで運ぶ。

しばらくしてやって来た医者の診断によれば、碧は妊娠三ヶ月、ということであった。

 

 東京都王子区、現在でいう北区の一角には広大な軍用地があった。陸軍被服本廠をはじめ様々な施設が立ち並ぶその一帯を貸し切って、10月のある日、護国刀使の紅白戦が行われていた。

正午から開始されたその模擬戦に参加した刀使は全部で30人で、15対15に分かれての集団戦となった。一応ルールとして定められたのは2点のみ、

・写シを剥がされたら退場

・紅白どちらかの最後の一人が倒された時点で終了

ということであった。いわゆる殲滅戦形式がとられた上、身を隠す場所が多いということもあって、戦闘は長引いていた。

「最初の斬り合いで半分以上退場になりましたけど、それからもう一時間以上、ですか。なかなか動きがありませんね」

直は、隣に座る凪子にそう声をかけた。

「そうね、やはり乱戦は犠牲が大き過ぎるから…お互いに慎重にならざるを得ない、といったところでしょう。それにしてもこれだけ長時間写シを張り続けるのはさすがにきついでしょうね…」

「ほう、あの写シというのは制限時間があるのかね?」

「いえ、そういうわけではありませんが、精神力を消耗するといいますか…まあ、通常あまり長い時間張り続けることが無いものです」

中年軍人の問いに、凪子が答えた。

「しかし、本当に斬られても無傷とはな。しかもあの速さ…全く、刀使はまさに神の使いだな!」

革張りのソファにふんぞり返った丸眼鏡の軍人が興奮気味にそういうと、周囲の軍人たちも賛同する。直と凪子は複雑な思いでそれを受け止めた。

二人は、この戦闘に参加していない。戦場に定められた区域にある建物の3階の窓から、仲間達の戦いを観戦していた。本来この場にいるべきであった折神碧の代理、という立場であった。

「あーあ、何で私がこんな所に…」

直が、隣の凪子だけに聞こえるよう、ボソリと呟いた。

「私たち二人をここに配置したのは由良先輩だ。文句があるなら直接いってくれ」

それを聞き、直はさらに大きな溜息をつく。全く、どういう考えがあるのかはわからないが、由良は二人を実戦から外して軍人たちへの解説役に回した。直自身はむしろ紅白戦に参加したいと思っていたのでかなり不服があったが、命令とあれば致し方ない。

「多分、由良先輩は直に戦場を俯瞰して見てほしいとでも思ったんだろう。これから戦闘の指揮をすることもあるだろうから」

「そういうことなら泉美さんの方が向いてると思うんですけど…」

「ぶつくさいってないでよく見る!ほら、動きが出て来た」

下を見ると、確かにしばらく膠着していた紅白両陣営に動きが出て来た。おそらく、これ以上の長期戦は不利だと双方が考えたのだろう。軍人たちも窓際に寄って来た。

「ほう、またあの刀使が斬り込んできたな。お、一人やったか」

赤い鉢巻をなびかせた泉美が突出して、一人斬った。これで紅白共に残り4人だ。その泉美の前に、白組の大将である由良が駆けて来た。初太刀を泉美が受け止め、そのまま二人は二合、三合と切り結ぶ。紅組の千鶴を先頭にした3人が横から由良を狙って来たが、すかさずそこへ白組の春江が単身で割って入り、残る二人がすぐに追いついて千鶴を狙う。一対一と三対三の戦いになってきた。

「いや、何という速さだ。とても目で追えるものではないな」

「しかも、一人一人が戦闘に使う面積が広い。一般の歩兵とは比べ物にならない制圧力を誇るぞ…!」

直は、なるべく軍人のおじさんたちのいうことを聞かないようにしていた。しかし、さすがに残っているのは実力者ばかりで、その戦いを見ていればおじさんたちが感心するのもわかる話だった。

三体三の戦いは白組が春江を残してやられてしまったものの、その後春江が奮戦して千鶴をあと一歩というところまで追いめた。が、泉美が由良の隙をついて救援に周り、千鶴と二人で挟み打ちにして春江を斬った。直後、

「おお、さすが泉美さんって、後ろ!」

「直、少し声を抑えなさい…」

追いついてきた由良が泉美の背を取り、斬り伏せた。これで残るは由良と千鶴だけになる。

「ほう、護国刀使は若年者が多い印象があるが、あの二人は成人かな?」

「二人共21になりますかね。確かに護国刀使の中では最年長です。まあ、刀使はより若い方が御刀の力を引き出せる、というのですが…実戦となれば経験の差は出るでしょう」

「なるほどな…しかし、紅組の方は大分息が上がっているようだが?」

凪子と直は苦笑いを浮かべた。千鶴は道場より厨房にいる方が長い刀使だ。さすがにこれは勝負あったか、と思われる。

その時、部屋の電話がけたたましく鳴り響く。あの丸眼鏡の将校がすかさずそれを取った。

「ああ、そうだ。今からでも構わんぞ」

大きな声で慌ただしくしゃべり、何やら笑い声を立ててから、受話器を置いた。それからすぐ、直と凪子の方へ歩いてきた。

「お二人共、実はこの演習に参加したいという部隊がいてな。これから参加させても構わんかね?」

「は?どういうことでしょう?今回は護国刀使の紅白戦と聞いておりましたが…?」

凪子が不審の眼を向ける。直も同じく、妙なことをいうな、と思う。

「お、もうご到着のようだぞ。護国刀使の残存戦力では不利だろう。ほら、君たちも行って戦いたまえ!」

凪子と直が振り返ると、護国刀使とはまた異なる灰色の制服に身を包んだ一本差しの少女たちの姿があった。全部で20名ほどが、由良と千鶴の方へ向かっている。

「あれって…刀使ですか!?」

驚く直の言葉に、凪子は何かに勘づいたかのように、険しい表情を作った。

 

「さあ、千鶴さん、もう降参なさい。そんなに息を切らせて」

「そうですね……でも、まだわかりませんよ。捨て身の攻撃だってあるんですからね」

「なら、先手必勝!」

そういって由良が斬りかかると、不意に千鶴の写シが切れた。

「あれ、あ、待って!降参!降参します!」

由良はたたらを踏んで止まる。

「あっぶないな…ほら、いわんこっちゃない」

「いや、こんなに長い間写シを張り続けても平気なんてあなたの方がどうかしているのよ。

さてと…ごめんなさいね、紅組の皆!負けてしまいました!」

あちこちで静かな笑い声が起こり、退場していた者たちも集まろうとしていたその時、

「あれ、何ですか?」

泉美がそういって指す庁舎の陰から、少女たちの集団が迫っていた。

「何って…あの恰好、刀使っていうこと…?」

凪子の言葉を裏付けるように、その刀使らしき少女たちは、腰の刀を抜き、身体を淡く光らせて迫って来た。

「写シを張った…?…全員、一応抜刀して待機!まだ写シが張れる人は前に!」

由良がそう言い終わるのと同時に、灰色の刀使たちの先頭が斬りかかって来た。すかさず泉美が前に出てその胴を切り払う。灰色の刀使の写シはあっけなく切れ、仲間の方へ吹き飛びながら倒れた。それを見た灰色の集団は足を止め、すぐに距離をとって3人ずつが固まって紡錘の陣、とでもいうのか、中央が突出した並びをとった。

「ちょっとあなたたち!どこの刀使!どういうつもりなの!」

由良が泉美の横に出てそういったが、灰色の刀使たちからの返事は無い。

「問答無用ということでしょうか…この人たち、本当に刀使…なんですか?」

泉美は困惑した様子でそんなことをいった。そこで、由良には一つ、思い出せることがあった。

『美濃関の刀工たちに『御刀』を打たせている』鷹司京が、そんなことをいっていた。

今倒れた刀使が取り落とした御刀、そして前に立つ刀使らしき少女たちの持つ御刀…それらは、長さ、反りの形、そして柄の拵えまで全てが同じだった。

「吉乃!いる?」

声をかけると、後ろの方から四条姉妹がやって来る。

「はい、ここに」

「あれ、全部同じ御刀みたい」

そう、短くいうと吉乃は口を丸めてのけぞるような恰好をした。

「これは驚きました。あの御刀もどきですか…!あれを使ってここまで部隊を編成してくるとは…あの方たちは本気のようですね」

「ええ…私たちを使って仕上がり具合を試験しようってことかしらね。千鶴、写シを張れるのは何人いる?」

「20人ってところね、全く皆、大したものだわ。私は退がらせてもらうけど、いい?」

「ええ、後ろの皆をよろしく。それじゃ、行くわ…」

と、由良が最後まで言い終わらないうちに、複数の、何か破裂したような音が響いた。ほぼ、本能のような動きで構えた御刀の刀身が、銃弾を受け止めていた。陣形をとっている灰色の刀使たちの隙間、その先に、射撃体勢のままでいる兵士たちの姿が見えた。構えた銃の口からは、細い煙の筋が伸びている。

「ちょっと何、どういうこと…!」

さっと両脇を見回すと何人かの仲間たちが銃で撃たれ、写シをはがされている。考える間もなく次の銃声が響き、同時に灰色の刀使たちが襲い掛かってきた。

 

「な…!あれはどういうことですか!」

凪子が丸眼鏡の将校に詰め寄った。

「だから君たちも早く行ったほうがいいといったのだよ。あれはな、我々が考案している刀使と軍の混成部隊だ。前衛の刀使が斬り込みと防御を行い、後方の狙撃部隊が援護をするという二段構えの布陣だ」

「そんなことを聞いているのではありません!あなたたちは、ここで私たちに本気で殺し合いをさせる気ですか!」

「何、使っているのは演習弾だ。致命傷になることは無い。だが、写シとやらをはがすには十分のようだな」

「な…正気ですか…!」

凪子が絶句する。その様子に、丸眼鏡の将校は激昂した。

「何を下らぬことに拘泥しておるか!全てはお国のため、刀使が真に戦力となるかを測るためだろうがっ!調書によれば貴様ら二人は護国刀使トップの実力なのだろう!能書きを垂れる前にさっさと行って、その力を見せてみろ!」

その剣幕に一瞬呆気にとられたものの、すぐに凪子はその軍人をせせら笑うかのように、鼻を鳴らした。

「ではその力、今、ここでお見せしましょうか?」

「何ぃ…?」

周囲の軍人たちが色をなし、凪子の手が柄に回るが、直が手を重ねて首を左右に振る。

「直…!」

「行きましょう凪子先輩。この人たちに何を話しても、無駄です」

その言葉に凪子は柄に伸びた手を放す。この人たちは、自分たちを人として見ていない。ただの兵器か何かとしか見ていない。直にはそう思えた。二人は、睨みを利かせる軍人たちの間を抜けて、部屋を出た。

 

 階下に降りて見ると、写シを張っている仲間はさらに減っていた。前線を泉美と由良が支えているが、その動きは精彩を欠いているように見える。

「みんな、動きが鈍い…」

「それはそうだ。疲れが溜まっている上に銃弾が飛んで来ることも考えて戦わなければならないんだから…直、敵がどんな風に攻撃して来たか、見ていたか?」

「ええっと…三人一組で動いていたように見えましたけど…」

「そうだ。動きを見るに一人一人の力は私たちには及ばないのだろう。それがわかれば」

二人はそこで抜刀し、写シを張った。

「戦う術はある。私は由良先輩に合流する。直は泉美に」

「わかりました!」

二人は迅移をかけて一気に最前線へと躍り出る。

「敵は三人一組でかかってきている!こちらは背中を合わせて二人一組になるんだ!」

気迫の剣で灰色の刀使たちを押し返し、由良の脇に立った凪子の声が、稲妻のように戦場に響く。

「あら凪子さん、いらっしゃい」

「すいません、遅くなりました」

「あなたたちは秘密兵器にしておくつもりだったんだけど…」

「秘密兵器ですか…いいですね。私たちが彼らの手に負えるような兵器でないことをしっかり見せてやりましょう」

「ふふ、怖い人ねえ。ほんと」

そういって、由良と凪子が背中合わせになって構えると、残っていた護国刀使たちはすかさず全員、それに倣った。四条吉乃と八重、北見春江と篠原五十鈴、穂高美千代は3人組、そして、

「あら、ようやく真打登場ってところかしら?」

「へへ、私と泉美さんが組めば無敵です。行きますよ!」

来栖直と沢泉美、4組の護国刀使が一気呵成に反撃に出た。

「敵は単体では敵わないから三人一組でこちらを狙っている。二人で相手をすれば負けることはない!二人の眼で全方位を見るんだ!そうすれば銃弾も必ず見える!」

凪子の声に、全員が「はい!」と答える。

二人一組での動きは円を描く舞いのようだった。流れるように攻守を入れ替え、戦力差をものともせずに少しずつ、灰色の刀使たちを討ち取っていく。しかし、やはり狙撃が厄介であった。直撃は無いにしろ動きを制限させられる。そこで、敵に体勢を立て直す暇を与えてしまうのだ。

「うーん、泉美さん、引き金の音って拾えますか?」

「あ…!なるほど、やってみます!」

迫って来る一人目を直、二人目を泉美が受け流す。三人目の攻撃が直の足元を払いにくるが、それを跳んでかわした、その時、

「直さん、来ます!」

次いで響いた銃声より早く、泉美の御刀が振るわれ、直の足元に真っ二つになった銃弾が転がった。着地を狙われたのだ。

「うわ、危なかった…!泉美さん、ありがとう!」

「ええ、引き金の音、聞こえましたよ。これで完全に銃に対応が出来ます。私は少し前に出てみんなを護ります」

「いいですね、それなら思いっきり戦えますよ!」

直と泉美の剣筋に余裕が生まれる。こうなればもう、付け焼刃の刀使たちなど敵ではなかった。あっという間に目の前の二人は斬り伏せられる。泉美にいたっては他の護国刀使たちを狙った銃弾も次々に叩き落としている。

「ねえ、あなたたち、何で私たちと戦ってるの?」

残る一人の剣を軽くあしらいながら直はそう、問うた。相手は一瞬驚いたような表情を浮かべてから、

「何を今更、全ては…お国のため、です!」

そういって上段から大きく振りかぶって来た。直は瞬時に身をかがめて懐に入ると同時に、頭上に見える相手の両腕を斬り払った。

「うあっ!」

灰色の刀使はそう叫んで御刀を落とし、突っ伏した。同時に写シが切れる。激痛に顔を歪ませているその姿を見下ろして、

「お国のため、お国のためって…」

そう呟きながら、上野動物園でのことを思い出していた。

「それって、自分で考えることを止めてるだけなんじゃないかな」

そう言い残して、仲間達の援護に向かった。

 

 護国刀使たちが灰色の刀使たちを全て倒し、後方に配置していた狙撃兵たちに刃を向けると、彼らは銃を置いて両手を上げた。観戦中の軍人たちは、皆、我が目を疑っている。

「何だこの有様は?奴らの前には銃も無力だというのか?まるで歯が立たんとは…我らの部隊が弱いのか、それとも護国刀使が規格外なのか…どういうことか説明してもらおうか、折神香織殿」

丸眼鏡の将校は、戦闘が終わった眼下の様子を眺めたまま、振り返りもせずにガラスに写った女にそう尋ねた。そこには、行方をくらませていたはずの折神家の片割れ、折神香織が相変わらずの微笑を湛えて立っていた。彼女は、

「護国刀使は全国の刀使から選りすぐられた精鋭部隊です。残念ながら今の彼女たちでは手に負えないでしょう」

そう、特に動じた様子も無く、答えた。

「何…?わかっていたことだ、とでもいうつもりか?」

「あら、そんなに怖い顔をなさらないで下さい、辻野作戦班長。まあ、おっしゃる通りなのですけど…これで終わりではありませんよ?」

辻野、と呼ばれた丸眼鏡の将校は、怪訝な顔を香織に向ける。

「狙撃兵の方々を退かせて下さい。巻き添えを食いますよ」

「何だと?」

「我々の本命はここからです。しかと、ご覧あれ」

笑顔を崩す事のない香織の様子に半ば気圧されて、辻野は兵たちを撤退させるよう、命を下した。

 

 伝令の兵士は狙撃兵たちと灰色の刀使たちに退却を命じたが、まだ戦える護国刀使はその場に残るよう命じられた。

「まだ続けるつもりなんですかね?まあ、私と凪子先輩は行けますけど…」

「直先輩、私たちもまだやれます!」

直の言葉に五十鈴が応じる。頼もしい後輩たちの声を聞きながら、由良は苦笑した。

「はは…でも本当に、どういうつもりなのかしらね?」

「直のいう通り、私はまだまだ動けますが…そもそも護国刀使は陸軍の命令系統には属していません。これ以上付き合う必要は無いと思いますが?」

「そうね、でも…そうもいっていられないみたいよ」

伝令の兵士と入れ替わりに建物から全部で10人の刀使と思しき少女たちが出て来た。そしてその先頭には、この場の護国刀使の何人かは嫌でも忘れることのできない顔があった。

「久しいな、護国刀使の皆」

他の刀使と同じく灰色の制服に身を包んだ鷹司京、その人であった。

 

 

 



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六章

 

 

「まさかそちらから現れるとはね…探しましたよ、鷹司様…!」

凪子がそう、京に食ってかかった。直はまた止めようかと思ったが、この貴族様が何をしでかしたかは知っている。それを思うと、身体は動かなかった。

「そう睨むな、早乙女凪子。私は逃げも隠れもしたつもりはないのだがな。まあ、ここの所はこやつらの育成にかかずらっていた故…あまり表に出られなかったのは確かだが」

京はそういって、細い首を少し後ろに回した。その先に、9人の少女たちが控えている。もれなく同じ御刀を帯刀しているところ見ると、彼女らもまた「刀使」なのだろう。

「随分と沢山、その御刀もどきを打たせたようですね」

「もどき、とは手厳しいな、吉乃。大量生産品とはいえ、隠世からの力は手に入る、という点でみればこれも立派な御刀だぞ?それはそうと、八重、久しいな」

「あ、はい。お久しぶりです…相変わらずお元気そうで何よりです」

「ああ、そちらもな…で、霧島由良、何かいいたそうだな?」

「……今年に入り、貴女様と折神香織様をずっと探していました。まさか、このような所でお会いすることになるとは…いろいろお聞きしたいことがありますが、まずは手合わせ、ということでしょうか?」

そこで、京は大きく溜息をついた。

「そうだな。本来であればそなたらが万全の状態で戦いたかったのだが…」

「…先程までの戦い、ご覧になっていなかったのですか?促成栽培の刀使では、我々には敵いませんよ」

凪子がまた、敵意をむき出しにしてそういう。

「ふふふ、そうだな、その通りだ。ならば見た所こちらの方が一人多いようだが、それでよしとしてもらおうか。もっとも、ここの9人は先程そなたらが刃を交えた連中とは別物だがな」

そういって、京は後方の刀使たちを引き連れて、護国刀使と距離をとった。丁度、庁舎の真下、上で見物している軍人たちが最も見やすい場所で、再度対峙する。

「全員抜刀、写シ」

京の号令で、灰色の刀使たちが御刀を構えた。護国刀使たちもそれに合わせる。

「では、始めようか」

京がそういうと、灰色の刀使たちは頷き、やはり3人ずつ、3組に分かれる。どうやらあれが彼女らの基本戦術らしい。護国刀使も先程と同じ組み合わせになり、直と泉美、由良と凪子が前方に立って構えを取り、対峙する。

「泉美さん、あの子たちの眼って…」

「ええ、なんでしょうね。赤く光りましたよね…」

彼女らが抜刀し、写シを展開したとき、確かにその目が赤く輝いた。護国刀使の全員がそれには気付いていただろう。そして、無意識のうちにその異質の気配にも気付いていた。人のものとは違う、だがよく知っている気配…。

「目標前衛左、突撃」

京の静かな声に、3組の刀使たちが動き出した。一瞬のうちに迅移がかかり、9人の刀使が由良と凪子に殺到していた。

「え!?」

「速い!」

直と泉美、後ろの2組もすぐに援護に向かったが、既に由良が討たれていた。

「散開」

京の声に、3組の刀使たちは躊躇無く間を空ける。

「しまった!全員外に向かって円陣を作れ!」

「突撃っ!」

何とか初撃を受け止めいていた凪子の声に続いて、京の声が響く。一箇所に集められた護国刀使に向かい、京を含めた灰色の刀使たちが襲い掛かった。五十鈴と美千代が短い悲鳴を残して倒れたが、残りの6人はすんでの所で対応が間に合った。背中を取られないように円陣を組んでいるものの、数的優位をとられた以上、一箇所にまとめられたのでは分が悪い。そして、それを見逃す京ではなかった。

「それ、一気に片を付けるぞ!」

瞬きすら許されない猛攻が降りかかって来た。

「押し込まれると身動きがとれなくなる、少しずつでも前に出るんだ!」

凪子のいうことは最もだが、10対6ではさすがに手数が足りない。

「くうっ…姉様、あれ、できませんか」

剣撃の合間を縫って、八重が地面をトンと蹴ってそういった。

「ああ!そうですね!」

吉乃はそう答えると大きく息を吸って、右脚を半歩下げた。

「皆、姉様が足を上げたら一気に跳んで」

小声でそういった八重の言葉に、全員が頷く。吉乃が何か仕掛けてくる、というのを感じ取ったのか、灰色の刀使の一人が御刀を振り下ろしてきたが、その刃が届く前に、吉乃の身体が輝き、上段前蹴りがその刀使の顎を捉えていた。カウンターで八幡力の蹴りをもろに浴び、写シまで剥がされてしまったその刀使は、悲鳴を上げながら取り巻いていた仲間の刀使を二人ほど巻き込みつつ吹き飛んでいった。そして、

「そーれっ!」

蹴り上げたその脚で、吉乃が地面を踏みしめる。もちろん、脚が地面に触れる直前にまた金剛身を発動させている。金色の震源から周囲に激震が走り、京を含めた灰色の刀使たちが体勢を崩していた時には既に、護国刀使たちは地面を蹴っていた。彼女らは空を舞いながら、ビリビリと震える窓ガラスの向こうで慌てふためく軍人たちの姿を見た。思わず笑いが漏れたが、

「あれ、女の人…?」

直はその中にさっきまではいなかったはずの女の姿を認めた。その女もまた、こちらを見ていた。眼が合ったその刹那、女の眼が灰色の刀使たちと同じように赤く光った…ように見え、そこで直は、それが何の光なのかはっきりとわかった。一体あの女は何者なのだろうと思ったが、跳んでいる刀使たちの中で、それが誰だかわかる者はいない。

10メートルほどの距離を跳んで着地した所で、迅移でやって来た吉乃と合流し、護国刀使の6人は何とか仕切り直すことに成功する。前方を見ると倒れていた由良と五十鈴、美千代が何とか起き上がろうとしていた。怪我はないようだ。直はほっとして凪子を見る。

「さて凪子先輩、どうします?」

「残念だが、あれほどの腕前があるとなると4人も差があってはどうもこうもない。吉乃、八重、二人はあの鷹司様と知り合いなんだろう?何か打つ手はないものかな?」

そこで、吉乃と八重は顔を見合わせる。

「打つ手、ですか…相手の打っている手ならわかりますけどね。あの3人一組の戦い方は天地人の構え、ですね」

「天地人…?」

吉乃の答えに泉美が聞き返し、

「そう、集団戦で取られる戦法で、前の二人がかく乱と防御を担当して、残る一人が確実に敵を討つ…そういう戦法、ね」

それに八重が答えた。

「なるほど、確かにそうだったかもしれませんね…うん、そういわれると何だか同じように見えていた相手の顔がそれぞれ別に見えてきますね」

春江の言葉は最もだった。前方で身構えている刀使たちに、それぞれ個性が見えて来る。

「うん…その3組をさらに束ねているのが鷹司様、ということか」

凪子が感心したように軽く頷きながらそういった。

「となれば京様一点狙い、ですかね。皆疲れていますし」

「あ、それ同感です。あの方を獲れば何とかなるんじゃないでしょうか?」

直の言葉に、春江が同意すると凪子は笑った。

「まともに戦っても勝ち目は無い…それしかないな」

「では、私たちで道を開きます。凪子先輩と直さんは大将首を狙って下さい」

泉美がそういうと、全員が頷いた。

「よし、皆、護国刀使の意地、見せてやろう。突撃だっ!」

泉美と春江が前に、吉乃と八重が両翼、その後ろに凪子と直がついた。迅移の段階を上げつつ、全員が一本の矢となる。

「ふ、その意気や良し!全員で受け止めろ!」

どこか弾んだ様子の京の声が響くと、灰色の刀使たちが壁を作った。顔が見えるということを意識して刀を合わせてみれば、その処し方は自然と分かるようで、先程までとは打ち合いの様子が違う。仲間たちは敵を倒すのではなく、流すようにいなしている。凪子と直の道を開くこと、それが目的になっていることが後方にいる直にはよくわかった。しかし敵は強く、数的な不利は覆しようがない。灰色の刀使たちの眼が赤く光る度に、削ぎ落されるように仲間達が倒されていった。それでも、最後に泉美が京へのわずかな隙間を作る。直と凪子はその風穴へ、御刀を伸ばした。

「御覚悟っ!」

「見事だ!早乙女凪子!」

が、凪子の御刀は京に届くことなく三日月宗近に遮られ、

「そして来栖直!」

直の義元左文字は、京が腰の後ろから逆手で抜いた脇差に弾かれた。

「なっ!?」

「二刀!?」

予想外の京の動きに二人の体が泳ぐ、そこを、後方から迫った刀使たちが躊躇なく斬った。

二人は苦悶の叫びを上げて膝を付いたが、すぐに立ち上がって再度写シを張る。が、その瞬間に四方から複数の斬撃を受けて再びその場に崩れる。

「…さすがに、もう写シは張れまい。よく戦ったが…ここまでだ。皆、御刀を納めよ」

京がそういって自らも二本の刀を収めながら灰色の刀使たちに命令すると、彼女たちも安堵した表情を見せ、写シを解き、御刀を収めていった。だが、

「く…まだまだ…!」

直が片膝をついて立ち上がり三度、写シを展開した。そこへ、持ち直した由良、それに五十鈴と美千代が駆け寄って来た。

「直!無茶はやめて!もう終わりよ!」

由良の制止に直は応じる様子を見せず、血走った眼を京へ向ける。

「…直?」

「直…さん?どうしたんですか?」

凪子と泉美の言葉も届いているようには見えない。直と京の視線が、真っ直ぐにぶつかった。

「…なるほど、私も恨まれたものだな…。皆、手を出すな。いいだろう来栖直、天下人の元を渡り歩いたというその宗三左文字の冴え、とくとみせてもらおう」

京のその言葉は、どう動くべきか決めあぐねていた灰色の刀使たち、そして直の様子をはかりかねた護国刀使たち、その両方の動きを制止した。京が三日月宗近を再度抜いて写シを張ると、直はそれを待っていたかのように斬りかかった。御刀が真向からぶつかり合い、火花が散る。

「京様、お仲間の刀使のあの赤い眼…あれは、荒魂のものですね。奪ったノロを、あの子たちに投与したんですか?」

その言葉に、灰色の刀使たちと護国刀使たちでは双方意味合いの違う衝撃を受けた。

「そうだ。御刀の神性を引き出すことのできる刀使は、ノロの力をその身に宿すこともまた、可能なのだ。ノロの力を宿した刀使の力は跳ね上がる。身をもって知ったろう?」

「ノロの力って…それは、荒魂の力っていうことじゃないですか!」

直は合わせたままの御刀に力をかけ、京を押し出す。京は両足を堪えたまま後ろに流され、そこへ直が猛烈な追い打ちをかけた。上段からの打ち込み、中段の切り払い、さらに上段からの袈裟懸けを続ける。京は迅移で退がりながらそれらを何とか受け止めるだけで精一杯だった。圧倒的な速度と打ち込みの強さを前に、顔を歪ませる。

「くっ、何という膂力…!」

「それも、お国のためっていうんですか!荒魂の力まで利用して…お国のためなら何をしてもいいっていうんですか!」

直の中で、やり場の無かった数々の激情が揺り起こされ、渦巻いていた。傷ついて去って行った仲間たち、殺さなければならなかった動物たち、刀使を戦争の道具にしようとする人たち、人の都合で生まれてしまったノロを、荒魂を、その上さらに利用しようとする人たち…。

もう、自分でも自分を抑えきれない。さらに烈しさを増していく直の剣撃に、京の受けが間に合わなくなって来たのを見て、突っ立っていた灰色の刀使の一人が我に返る。御刀を抜いて直の背後から斬りかかった。

「直先輩、危ない!」

そこへ、五十鈴が迅移を使って間に割って入った。

直後、直の視界が、右端から一気に赤く染まる。振り返って、全身が凍り付いた。

血まみれの御刀を握って茫然と立ちつくす灰色の刀使と、倒れた五十鈴の姿がそこにはあった。五十鈴の身体は、自身からゆっくりと流れ出る血液に浮かびつつある。直は自分の右頬にぬめりを感じてそこへ手をやると、べっとりと生温かい血がついた。

「バカ者が!何をしている!」

「五十鈴さん!」

京と美千代が叫んだのがほぼ同時で、すぐに周囲の刀使たちが五十鈴の周りに駆け寄って来た。美千代が五十鈴を抱き起すと、五十鈴は軽く目を開けた。

「へへ…写シを張るの…失敗しちゃいました…」

由良が傷の状態を確認するために、横から手を入れて五十鈴の身体に触れる。

「脇腹ね…大丈夫、あばらを二、三本やられているみたいだけど、そこで止まってる。急所は外れているわ。すぐに止血を」

それを聞いて安心したのか、五十鈴は気を失ってしまった。先に建物の陰に避難していた千鶴をはじめとした護国刀使たちもやってきて、五十鈴を囲んで止血の処置を施し、倒れたままの四条姉妹や春江を助け起こした。

直は立ち尽くしたまま顔を上げ、窓を通して見える軍人たちの姿を睨みつけていた。

「直さん、何をしているの?五十鈴さんはあなたをかばったのよ?」

先んじて立ち上がっていた泉美が、ほこりを払いながら直の横にやってきた。

「ええ、わかっていますよ。ねえ、見て下さいよ…こうやって被害が出てしまったのに、あの人たちは誰一人として下りてこようとしない…!」

「え?ああ…」

泉美が聞きたいのはそういうことではないのだろう。だがそれが、直の答えだった。京が御刀を手にしたまま、直と泉美の方へ歩いてきた。

「済まなかった、このようなことになるとは…」

「思っていなかったんですか?御刀を持って斬り合うのに?」

「お前たちに怪我をさせても我らには何の得もない。それは信じてもらいたいものだがな」

直はやはり、厳しい視線を京へ向け続けたが、京もまたそれを逸らすことなく受け止めた。そこへ不意に、自動車のエンジン音が響く。五十鈴を運び出そうとしていた者たちも皆、その車の方へ目をやる。その特徴的な丸っこい車体は、軍が採用している「くろがね四起」という車種だ。正面には碇のマークがあり、海軍所有の車両らしいことがわかる。車は軍人たちがいる庁舎のすぐ近くに停まり、運転席と助手席から二人の青年将校が降り立つ。一人は海軍の制服、もう一人は陸軍の制服をまとっており、その両者共に直の見知った人物であった。

「あれ、米内さんと一緒だった人と…兄さま…!?」

「え?あ、本当に…」

直はそう答えた泉美の傍で京が小さく舌打ちをしたのを聞き、由良が、何故か安堵したような顔つきで溜息をついているのを見た。

「止め!この演習はここまでだ!全員御刀を収めるんだ!その怪我をした刀使は病院まで運ぶ。すぐに車に乗せてくれ!」

海軍将校の方がそういって両手を拡げ、陸軍将校の方、直の兄である司が直の方へ駆け寄って来た。

「ひどいことになったな。お前は大丈夫か?」

「はい、私は大丈夫です…兄さま、何でここへ?」

「ああ…この、刀使による演習は参謀本部の…作戦課の独断でな。海軍に察知されたんでこの際だから圧力をかけてもらったんだ。大きな被害が出る前に止めたかったんだが…」

司はそういって軍帽の鍔に手をやりながら、五十鈴の流した血の跡を渋い表情で見つめた。それから、直の隣に見知った刀使がいることに気付いたらしい。

「ああ、泉美さん。お久し振りです。泉美さんもお怪我はありませんか?」

「は、はい!大丈夫です!えっと…お兄様もお元気で…?」

「ええ、それが取り柄のようなものですので」

司がそういって笑うのを見て、泉美も少し下を向きながら笑っている。

「さて…それでは上官に物申してくるか…。深津大尉、ありがとうございました」

司が振り返りながら、海軍将校の方へ声をかけた。

「いや、気にすることは無い。来栖中尉の方こそ気を付けてくれ」

深津大尉と呼ばれた海軍将校は、由良と五十鈴、美千代を乗せて再びくろがね四起のエンジンを起動させた。護国刀使たちに見送られて車は去って行く。

「上官に物申すって、どういうことですか?」

「お前が気にすることじゃない。それより撤収準備を進めておけ。そちら様も、ここまでですよ」

司は直にそういいながら、後半は京の方を見ていた。

「そのようだな…。全員、集合だ。戻るぞ」

京が御刀を収め、軽く片手を上げてそういうと、灰色の刀使たちが集まって来た。その様子をみた司は一つ頷き、直に手を振って建物の中に入っていく。

「さて…来栖直、すっかり話の腰を折られてしまったが、お前にいっておかなければならないことがある」

「はい、何でしょう」

司を見送っていた直と泉美は改めて、京に向かい直った。

「この者たちは皆、不治の病や身体の障害に悩まされていた」

「え…?」

「結核、難聴、弱視、身体の一部が麻痺していた者もいたな。ともかく健常者と同様の生活を送ることが難しい…そういう者たちだったのだ」

京はそういって、後ろに控える9人の刀使たちを振り返った。彼女たちは何も、言葉を発さない。

「だがどうだ、ノロを与えることによりそうした病も、身体の異常も改善していったのだ。この者たちがつい数か月前まで自由に身体を動かせなかったということが信じられるか?」

「ノロが、治療になった…?」

泉美がそういいながら直に顔を向けたが、直は京の方をじっと見たまま、何も答えない。

「…なるほど、無暗にノロを与えていたわけではない、そうおっしゃりたいんですか?」

泉美の隣に、車を見送った凪子が加わった。

「そうだ。この者たちは、こうして自由に動けるようになった身体を使って、この国のために働きたいと望んだ。今まで決して叶うことの無かった願いが、ノロを取り込むことで果たすことが出来たのだ。この非常時に国のために何も出来ず、人を頼ることでしか生きられないことに、この者たちが、どれだけ負い目を感じながら生きて来たかわかるか?自殺を考えていた者もいるのだぞ?」

「確かにそれは察するに余りある話ではありますが…しかし、華族のあなたが何故そこまで…」

凪子がそういうと、京はふ、と笑った。

「私が華族だからだろうよ。広く世の中を見れば、自分の生まれ育った環境が普通でないことにはすぐ気が付く。ならば、自分とは真逆の境遇で暮らしている者もいるのではないか、と思うのも自明だろう?そうして少し目線を違えて探していたら、この者たちに出会ったのだ。最初は同情もしたがな、しかし今は呆れている。この者たちの生きる意志は、通り一遍ではない」

そういってまた、京がふ、と笑うと、後ろの刀使たちも笑顔を見せた。晴れやかな、笑顔だった。

「それが、あなたたちの正義、だというんですか?」

「そうだ、早乙女。無論、これは邪道なのかもしれん。この先、副作用も出てくるかもしれん。だが、どう思われようとこれが私の、この者たちにとっての正義だ」

建物の中から、伝令の兵士が再び現れて演習の終了を告げた。京と灰色の刀使たちは、踵を返して去って行く。それを見て、凪子が一つ溜息をついてから護国刀使たちへ撤収を命じたが、直はしばらく、その場を動けなかった。

さっきまでの激しい感情が、冷めて行くのがわかる。京の言葉が、直の熱を奪ったのは間違い無い。直はそこに少なからず共感したからだ。しかし、その全てを納得できたわけではなかった。だが、一体何に納得ができないのか、京の何が違うと感じているのか…結局また、答えの出せない疑問が残っただけだった。

それにしても、自分はこんなに思い悩む人間だっただろうか、などと思う。泉美に迷いがある、などと指摘したことを思い出し、笑ってしまった。しっかりと自分の迷いに決着を着けて来た泉美は、自分などよりよほど立派な人間だ。

「ちょっと直さん、何を一人で笑っているんですか?」

「あ、はい。いや、泉美さんはやっぱり大したものだなあ、と思って」

「はい?またよくわからないことを…ほら、いい加減に行きますよ。皆待っているんですからね」

「ああ…すいません。ちょっと考え事をしていて…」

「考え事はもう少し時と場所を選んでなさって下さい…あ、お兄様」

振り返ると、庁舎の入り口から司が出て来た。上から見ていたのだろう。直の方へまっすぐ歩いてきた。

「何をしているんだ。話はついた。早く隊舎に戻れ」

司はそういいながら左頬を押さえている。よくみると、そこが腫れあがっているのがわかる。

「兄さま、どうしたんですか!」

「何、軍というのは上官にたてつけば鉄拳で修正される所なんだよ。まあ、今回はどちらかというと海軍の力を借りたことのほうが気に食わなかったようだがな」

司はそういって不敵に笑った。

「あの、血が…大丈夫、なんですか?」

泉美にそういわれ、司は口の端から出ていた血を拭う。

「お、これはみっともない所をお見せしましたね。ええ、これくらいはいつものことです。どうということはありませんよ。泉美さんは優しいですね」

「え、いえ、そんなことは…」

そういって目を伏せて恥じらう泉美の様子に、直は同性ながらときめくもの感じざるをえない。もう少しこの二人のやりとりを見ていたい気もしたが、向こうから千鶴の呼ぶ声がする。

「それじゃ兄さま、また帰ります。父さまと母さまによろしく」

「ああ、わかった」

「あの、ありがとうございました。これ以上刀使同士で戦うのは嫌でしたから…助かりました」

そういって下がった泉美の頭を見て、司はニイっと笑う。

「まあ、そもそも女子を戦場に送ることは違法なので…ともあれ、お役に立てたようで何よりです」

「兄さま、今度また泉美さんを連れて帰りますね?」

「そうだな。是非そうしてくれ」

「え!あの…」

兄妹は、戸惑う泉美を見て同時に微笑んだ。

 

 

 折神香織は小さな墓石の前にしゃがみ、手を合わせる。

昭和20年2月も終わろうとしていたある日、都内の一等地にある寺を、折神香織は一人で訪れていた。

気温は低いが良く晴れていて、焚いたばかりの線香から昇る煙が、ゆっくりと澄んだ空気の中に消えて行く。さる大名家の菩提寺にもなっているこの寺の墓地は広く、格式も高い。多くの政治家・軍人たちの墓があったが、そんな中にあって香織の面前にある墓石は一際小さく、そして異質なものだった。墓石には戒名はもちろん名前も家名も無く、ただ「二十二士之墓」という文字だけが刻まれていた。そもそも墓石としての形をとっていないそれは、墓石というより墓標、といったほうが正確かもしれない。

「あれからもう9年、早いものですね…」

ぽつりとそういう香織の顔に、いつもの笑顔は無かった。

ここには、彼女の想い人が眠っている。墓に名が無いのは、故人が世に憚られる人物であったから…罪人であったから、だ。この墓には9年前、すなわち昭和十一年に起きた二・二六前事件の首謀者たちが葬られている。

二・二六事件については陸軍皇道派青年将校によるクーデター事件、として一般には知られている。皇道派、というのは天皇親政による国造りを目指した陸軍の一派であり、その主張の急先鋒であった青年将校たちが部下の兵を率いてそれを実現するため、雪の舞う昭和十一年2月26日、実力行使に出た。政府要人たちを襲撃して暗殺、または重傷を負わせ、陸軍首脳部に自分たちの正義を説いて政治改革を迫ったのだが、彼らが政権を握ってほしいと切望していた当の昭和天皇が彼らに対し激烈な怒りを示した。昭和天皇にとって彼ら青年将校たちは自分の忠臣たちを殺傷し、東京を混乱の渦に叩き込んだ許し難い存在であったのだ。結果、青年将校たちは「叛乱軍」の烙印を押され、鎮圧のために派遣された陸・海軍の部隊と一触即発の状態となる。だが、「朝敵」となった彼らの戦意は急速に衰え、投降する者が現れたり、首謀者の一部が自決したことにより収束に向かう。

日本軍同士のぶつかり合い、いわゆる「皇軍相撃」の危機は回避され、「叛乱軍」は瓦解し、捕らえられた青年将校たちはごく簡単な裁判の後、迅速に処刑された。

折神香織の想い人はそういう最期を遂げた人だった。

「あなたは…あなたが、私の人生を狂わせてしまうことになるのを考えなかったのですか?」

香織は、静かに立ち上がってそのちっぽけな墓標を見下ろす。

「でも、そうですね、あなたにとっては私の存在なんて大したものではなかったのでしょうね。あなたは…あなたの信じるもののために死んで本懐を遂げた…そうなんでしょう?」

香織の顔は、もういつもの笑顔に戻っている。

「嫌ね…ここに来るとどうしても恨み言ばかりいってしまう…あなたはもう、十分な罰を受けたというのに…ね」

一礼してその場を去ろうかと思ったその時、敷石をこするような足音が二つ、近づいてくるのがわかった。少し警戒気味に右を向くと、そこには夫婦、だろうか。壮年の男女の姿がある。振り向いたこちらに気付いた彼らは小さく頭を下げて、そのまま近づいてきた。

「いや、まさか同じ目的の方がいらっしゃるとは思いませんでしたな」

老人はまだ煙を上げている線香をちらりと見てから、そういった。一体何者だろうか?見覚えのあるような顔ではあったが、誰であるかはわからない。だが、この墓の意味する所を知っている、というなら少なくとも害意のある人たちではないだろう。香織は少し考えてから、二人に話しかけた。

「あの、失礼ですが…」

「ああ、私は鈴木貫太郎と申します、こちらは妻のたかです」

老人がそう名乗ると、夫婦揃って頭を下げてきた。その名は、香織にとって返礼するのも忘れるほどの衝撃であった。

「あ…あの、侍従長の…!」

やっとそれだけ言うと、老人は笑みを浮かべながら頷いた。

鈴木貫太郎、海軍大将まで上り詰め、数々の要職を歴任して天皇の側近である侍従長に就いた政府要人であり、そして…この墓に眠る香織の想い人に襲撃された人物である。

「ああ…不躾な物言いをお許し下さい。私は折神香織と申します」

香織がそういって一礼すると、鈴木夫妻は驚いたように顔を見合わせた。

「おお、どこかでお見受けしたと思っていたが…そうですが、鎌府折神家の…しかし貴女のような方が何故この墓に…?」

「ええ…侍従長を襲撃した須藤とは、その、個人的な付き合いがありましたもので…」

鈴木貫太郎が相手であれば、何も隠す必要はなかった。何故ならば彼は、

「何と、これは驚いた。あの須藤大尉にそういう方がいたとは…いや、確かにあの事件の折、彼の部隊は私の家に上がり込んできましたがね、彼は私の命の恩人でもあるのです。ですからこうして、あの事件のあった頃には参らせていただいておるのですよ」

そういって憚らないのを、香織は人づてに聴いていたからだ。

「襲撃した部隊の隊長を命の恩人というのはいささかおかしな気もしますが…」

「ははは、あの時私は彼の部隊によって既に4発ほど弾を撃ち込まれておりましてな。まさに瀕死の状態でしたが、遅れてやって来た彼は私にとどめを刺さなかったのです。まあ、家内が止めてくれた、というのもあるのですが」

鈴木侍従長はそういって、傍らの女性を見た。既に老齢、といっていい鈴木と比べると若く見える夫人だ。

「ええ、あの時は必死にお願いしましてね…それで須藤大尉殿が思いとどまってくれたのです。しかも帰り際に、侍従長には何の恨みもなかった、などとおっしゃられて…」

「須藤が、そんなことを…」

「はい、奇妙な心地でした。あの方からは敵意をまるで感じませんでしたからね」

夫人がそういうのを聞いて、侍従長がまた笑う。

「もともと彼とは旧知だったのです。事件より何年か前に私の家を訪ねてきたことがありましてね。君側の奸と名高い私の実物を確かめようとしたのでしょう。陸軍にしてはなかなかに柔軟な思考を持つ若者だと思いましたよ。それに話しているとね、心根に優しさを持った男だということがよくわかった…」

香織は静かに頷き、墓前を空ける。鈴木は帽子を取って一礼し、夫人と共に墓の前に腰を下ろし、合掌した。

「全く、惜しい若者を失くしたものです。しかも、こんな人を残して逝くとは…」

香織は黙ったまま、二人の背中を眺めていた。あの人がこの老人を殺せなかったということが、香織にはよくわかる気がした。詰めの甘い人だった。人に感化されやすい人だった。そして、軍人にしておくには優し過ぎる人だった。

「須藤は…軍人には向いていなかったのでしょう。それがこういう結果になったのだと思います」

鈴木夫妻は立ち上がり、墓を背にして香織の方を向いた。

「そうですね、確かに軍人には向いていなかったかもしれない。しかし…彼が軍人だったからこそ、あなた方は出会う事が出来た、違いますか?」

「それは…その通りです」

「鎌府折神のお姫様と陸軍青年将校の出会いとはどのようなものだったのですか?」

夫人がにこにこしながらそういってきたのを侍従長はたしなめたが、香織は笑ってその問いに応じる。

「お気になさらず…そうですね、あの人と出会ったのは私が陸軍から軍刀の製作について相談を受けて、第一師団を訪れた時でした。私はまだほんの小娘で…士官の方々の前でいろいろとお話をしたのですが、いくら折神家の当主といっても私の話はあまり真に受けられていない、という感じでした。私の供をしていた者など帰り際に憤慨していたほどです。しかしそんな中で須藤だけが、私の話を聴いてくれていました」

二人は黙って、話を聴いている。

「二度目に訪れた時には何かと質問をしてくるようになって…それから二人で相談して一振りの御刀を参考に試作品を打つことになりました。出来上がった試作品はあまり良いものではなかったのですが、それを見た彼は、とても嬉しそうでした」

「それでその後も会うことになったのね?」

夫人の言葉に、香織は頷いた。あの日々のことを思い出すと、今でも胸が熱くなる。須藤も、自分も若かった。自分たちの提案したものを上に認めさせるために意見を出し合い、時に激論を交わした。そしていつの間にか、第一師団を訪れる目的が須藤と会うことに変わっていた。それは香織にとって、幸せな日々だった。

「私は…鎌府折神家に生まれながら、刀使にはなれませんでした。本来折神家の当主は刀使、または刀使経験者であるべきなのですが…」

「そうでしたな。親類に適当な者がなく、あなたが当主となられた。綾小路の折神家とは少し問題になっていたようですが…」

「さすがに、よくご存知で。そうです。綾小路では立派な跡取りが出来ましたから、鎌府を吸収しようという話もあったそうなのですが…最終的には私が暫定当主ということで認められたのです。私はそういう中途半端な人間で…しかし、須藤は『それがあなたの本質ではないだろう』と、そんなことをいったんです」

夫人が頷いて、

「そういうことでしたか…須藤大尉はあなたという人を見てくれたのですね」

そういった。

「少し自分のことをわかってくれるような男にころっといってしまうなんて、私も仕方の無い女だと思います」

香織はそういって自嘲気味に笑ったが、夫人は真面目な顔をして首を横に振った。

「いえ、そんなことはありませんよ。そういう方と出会えたのは、とても幸運なことです。ただ、そうですね…もし、須藤大尉がもう少し長く生きてあなたと一緒にいられたなら、貴女は須藤大尉を通して自分自身をもっとよく知ることができたかもしれませんね…」

「私自身を…知る…?」

「ええ、自分の知らない自分を人から教えられる…そういうことがあるんですよ」

「おい、何を言っているんだ。折神さんが困っているではないか。禅問答でもあるまいし、それくらいにしておきなさい…まあ、ここは確かに禅寺だが」

侍従長がそんなことをいうと、夫婦は二人揃ってくすくすと笑った。海軍特有のユーモアセンスだろうか。陸軍の軍人なら決してこういうことはいわないだろう。香織は少し、戸惑った。

「あの…」

「ああ、ごめんなさいね。私にはね、何といえばいいか…あなたが本当に望んでいること、願っていること…それをあなたが自身が見失いそうになっているように見えたの」

妙なことをいう人だと思ったが、別に不快ではなかった。香織が黙ったままでいると、

「そんなに深く考えるものでもないのよ。そんなことは、考えるまでもなくわかっていることなんですからね。ただ、その笑顔が気になって…」

香織は、夫人のその指摘に、わずかに顔を歪める。

「折神さん、あまり気になさらないで下さい。これの戯言は今に始まったことではないのでね。いや、すっかりお邪魔をしてしまったようだ。それでは、私たちはこれで…」

「ここで出会ったのも何かの縁です。もしお時間があったら、うちにいらして下さいな。お待ちしておりますよ」

「ありがとうございます」

鈴木夫妻は去って行く。一人残った香織は、軽く溜息をついて墓標に目を遣った。

「こういっては何ですが、あなたもおかしな方を救ったものですね…。それとも、私をあの方たちと会わせたかったのですか…?」

もちろん、墓標は何も答えない。その墓標に、ふわりと雪が舞って来た。見上げれば先程までの青空がすっかり雲に覆われている。

「雪…か。それでは、また来ます」

そういって、香織はいつもとは少し違う顔で笑った。

 

 

 東京の街並みはまだよく分からなかったが、次第に車窓からの景色が馴染み深いものになって来るのがわかる。食い入るように眺めていると、その景色を白いものがちらちらとかすめはじめた。

「あ、雪…ですね」

五十鈴のその言葉から一拍おいて、

「そうですね」

それだけの短い言葉が運転席から返って来た。軍人さんというのは無口なものなのだろうか、と五十鈴は思ったが余計なことは口に出さず、そのまま景色を眺めていた。

あの模擬戦から3か月、ようやく傷の癒えた五十鈴は今朝、新宿の陸軍病院を退院することになった。緊急で運び込まれたのは最寄りの病院であったが、応急処置が終るとすぐに陸軍病院に移された。機密漏洩を恐れてのことであったらしい。面会もほとんど許されない部屋に半ば閉じ込められていたつらい3か月であったが、治療自体は最上級のもの受ける事が出来た。栄養状態も、このご時世にはありえないほど良好だ。

これならいくらでも戦える、早く遅れを取り戻したい…入院中はそんなことばかり考えていたが、いざ戻るとなれば不安もあった。入隊してまだ半年しか経っていなかったのに、怪我をして3か月も抜けてしまったのだ。果たして自分の戻る場所はあるのだろうか?そんな考えも頭をよぎっていた。

程なく、車は宮城大手門の近くに停まる。

「あの、ありがとうございました」

荷物を持ってそういい、車を下りる。返事は無い。ドアを閉めてからもう一度頭を下げると、運転席の軍人は一つ、頷くように礼をして、車はすぐに走り去っていった。代わってやってきた近衛兵に護国刀使の身分証を見せると、彼らは笑顔で敬礼を返してくれた。

「よし」と一言声に出してから大手門をくぐる。曲がりくねった道を歩きながら、改めて周囲を見渡す。白い息の向こう側に目指す護国刀使の隊舎が見え始めると、居ても立ってもいられなくなった。半ば駆け足になって隊舎の前まで来ると、玄関からどっと刀使たちが出て来て二重の横列を作った。全員がきれいに気を付けの姿勢をとっている。対する五十鈴もまた、荷物を脇に置いて姿勢を正した…のだが、並んだ刀使の面々に、違和感を感じる。

「お帰りなさい、五十鈴さん」

由良が進み出てそういった。そこで、気が付いた。皆、髪が短くなっているのだ。

「はい、篠原五十鈴、ただいま戻りました」

護国刀使は軍人ではないから敬礼はしない。五十鈴は以前に習った作法通りに一礼してそう答えた。が、形式張った挨拶はそこまでで、

「お帰り五十鈴さん、良かったわあ!」

美千代がそういって飛び出して来ると、もうなし崩しとなった。仲間たちに囲まれ、五十鈴の感情は急激に昂ぶった。

「ありがとうございます。皆さん…私、こんな風に迎えてもらえるなんて、私…」

わずか半年、されど半年、だったということだろうか。自分はここにいてもいい…そういわれているのだと思うと、こんなに嬉しいことはなかった。そして一つ安心したからだろうか、今度は急に、皆の髪のことが気になり始めた。

「ところで、その、皆さん髪を切ったんですか…?」

やはり、長い髪の刀使は一人もいなくなっていた。長くても肩の上、といったくらいだ。

「ああ、これね…もう一月前になるかしら。銀座に荒魂が現れてね、春江さんと美千代さんが対応していたんだけど、その荒魂を祓ってすぐに、空襲があったの」

「え?銀座に空襲、ですか…!」

「ええ、軍は出来るだけ隠そうとしていたから知らなくても無理はないわね。でも、有楽町駅が直撃を受けて、100人以上の方が亡くなったひどい空襲だったのよ。二人はそのまま避難の手伝いに加わったんだけど、至近距離の爆撃があって…」

由良がそこまでいってから、

「髪に火がついちゃったんです。写シがなければ危なかったんですよ」

美千代がそう続けた。五十鈴は一瞬言葉を失ったが、すぐに、

「ええっ!それで、どうなったんです!?」

「この通り、二人共怪我はなかったわ。ただ、その話を皆にしたら長い髪は空襲があったら危ないかもしれない、ということになってね。全員が髪を切ることにしたのよ」

春江が、短くなった後ろ髪をなでながらそんなことをいった。

「そうだったんですか…そんなことが…」

改めて、長い髪が似合っていた吉乃や泉美の髪が短くなっているのを見ると、何ともいえない悲しい気持ちになった。そこへ、

「あの、五十鈴さん、あの時は本当にありがとう」

そういって、直が五十鈴に頭を下げて来た。直の後ろで束ねている髪も、短くなっている。

「え!?直先輩!そんな、止めて下さい!お見舞いに来ていただいただけでも十分なのに…その、あの時は直先輩まだ写シがありましたし、私が勝手に飛び込んだだけで…」

「ううん、そんなことない。思いもしない方向からの攻撃だったから、無事には済まなかったかもしれない…あの時は軍の人たちに腹が立って考える余裕が無かったけど…本当にありがとう。五十鈴さんに何かあったら、今度は私が守るからね!」

「直先輩そこまでいっていただかなくても…」

直のあまりに真剣な様子が、出迎えの明るい雰囲気に水を差す格好になった。見かねた泉美が、割って入る。

「五十鈴さん、直さんはそうでもしないと気が済まないみたい。まあ、笑って受けておきなさい」

「え、あ、はい。あの、直先輩、では…その時は、よろしくお願いします!」

そういって頭を下げる五十鈴に、皆がどっと笑った。そこへ、

「五十鈴さんお帰り!さあ皆、お汁粉が出来たわよ。食堂にいらっしゃい!」

千鶴の声が掛かかる。全員が歓声と共に隊舎へなだれ込んだ。

 

「さて皆さん、食べながらでいいので聞いて下さい」

由良がそういって、座ったまま皆に語り掛けた。皆、大事そうに汁粉の椀を手の中に持ってその言葉を聞く。

「これまでいろいろと上の方から入って来た話について、私は私の判断で皆に敢えて伝えていないことがありました。余計な心配をさせて剣を鈍らせたくない、そう思っていたからです。でも、この前の模擬戦、それに最近の戦況を鑑みるにそれはもう意味のないことだと思うようになりました。こんな、毎日のように荒魂が現れて、空襲警報が鳴って緊急出動が繰り返されるような状況では、いつ、私が死んでもおかしくない…だから、これからは全ての情報を知らせます。もしもの時には自分で考えて、自分の判断で行動できるようになって下さい」

その場がシンと、静まる。

「あ、ごめんなさい。そんなに大げさに考えてもらわなくてもいいの。ただ、私がもう私にだけに何かと情報が入って来ることに耐えられなくなったということでもあるの。ね?」

その様子に、凪子が苦笑した。

「そうですね。由良先輩だけに面倒事を背負わせるのは考えものです。何、大丈夫ですよ。ここにいる皆なら何を伝えても大丈夫です。護国刀使に残る覚悟を決めてくれた者たちですから」

全員が、頷いた。模擬戦の後も、護国刀使を抜けた者はほとんどいなかった。それは彼女ら自身が選んだことではあったが、背景に経済的な事情があったこともまた事実であった。この戦争はまさしく総力戦だった。あらゆる物資が優先的に戦地へ流れていくため国内の経済活動はほとんど麻痺しており、どの家庭も等しく貧しくなっていたのだ。

「それで、そんなことを話し出すということは何かあったのかしら?新しい情報が」

千鶴がそういうと、由良が頷く。

「ええ、ご当主様、折神碧様が臨月を迎えられました。それもあってかあまり体調が優れないご様子で、公務はしばらくお休みされます。滅多なことはないと思いますが、近衛祭祀隊はご当主様に何かと便宜を図っていただいていますのでこれから影響が出て来るかもしれません」

「何かと便宜、っていうと…例えば食糧、とか?」

千鶴の問いに少女たちがざわつく。無理もないことだ。

「それもあるでしょうね。それから、任務についてもより厳しいものになるかもしれない…ご当主様のところで跳ねのけていただいていた依頼は結構あるみたいだからね」

さらに、少女たちがざわついた。

「あの、美千代さん、私がいない間の任務って、やっぱり大変だった…?」

五十鈴が小声でそう尋ねると、

「そうですね…ここのところ全国で空襲があって、護国刀使もあちこちに派遣されているの。避難誘導のためだとか、不発弾の処理だとかでね。それで、結構ケガ人も出ているのよね…空襲警報の度に起こされるからあまり休めていないし…」

美千代もまた、小声で答えた。

「そう、だったんですか…」

五十鈴は、改めて周囲の刀使たちの顔を見回す。確かに、皆に疲労の色が見える。状況は思った以上に良くないようだ。

「私…休んでいた分、しっかり働きます」

「そんなに気負わなくてもいいけど。でも、そういってくれるのは頼もしいわね」

美千代はそういって笑った。そこで突然、

「鷹司京様や折神香織様、それからあの灰色の刀使たちはどこにいるんですか?」

直が立ち上がってそういった。「ちょっと直さん」といって泉美が諫めているが、直は座ろうともしない。

「よくわかっていません。ただ、模擬戦が行われたあの軍の施設のどこかにいるのではないかとはいわれていますが…」

由良が、険しい顔でそう答えた。

「…直先輩、何だか雰囲気が変わった?」

「ええ、やっぱりそう見える?何だかね、ちょっと怖い感じなのよね…」

五十鈴と美千代がやはり小声で遣り取りをしている間にも、

「あの人たちは軍と協力して何をしでかすかわかりません。早く居場所を突き止めないと…!」

そんなことをいい続けている。

「それでどうするんだ?討ち入りにでも行くつもりか?確かに彼女らは何とかしなければいけないが、彼女らが陸軍はもちろん政府の一部の人間たちと繋がっているのは間違い無い。私たちだけで何とかできる相手じゃない。碧様がいない今は猶更、ね」

凪子が、強い口調でそう返した。

「それはそうかもしれません。でも、あの人たちのやっていることは…!」

「そうね、確かに許せることではないわね。人に、ノロを入れるなんて…でも直さん、凪子の言う通りよ。今、私たちがやるべきことはあの人たちをどうこうすることじゃない。この空襲と、荒魂から少しでも多くの人たちを守ること…目的を見誤ってはだめよ」

「はい…」

そこでようやく、直は引き下がる。隣の泉美が溜息をついていた。

「あの…」

代わって、五十鈴が小さく手を挙げた。

「あら、何かしら五十鈴さん?」

由良がそういって続きを促す。

「はい、あの、結局あの灰色の刀使たちを使って、軍は何をしようとしているんですか?私、よくわからないんですよね。あの人たちの目的が…」

「え?それは、刀使を軍事利用しようってことじゃないの?あちこちの戦地に兵隊さんたちと私たちを一緒に送り込もうっていうことでしょ?」

隣の美千代が、そう答える。

「まあ、そうなんですけど、それがよくわからないんですよね。護国刀使だって今年新たに入ったのは美千代さんと私だけですよね?いくらあんな御刀っぽいものを使って刀使を集めたとしても、そんなに人数は多くはならないと思うんです。その程度の刀使を大陸や南方に送り込んだとしても、大した戦力にはならないと思うんですよね…」

五十鈴のその言葉に、場の全員が感心の声を漏らす。四条吉乃が頷きながら口を開く。

「確かにそうですね。いくら刀使が白兵戦で有効な戦力になるといっても、それはあくまで局地的な戦闘の話でしかない…日本全国の刀使をかき集めても万の数には達しないでしょうから、そんな戦力をあてにするというのはちょっとどうかと思いますよね」

それから青砥香澄が続く。

「それに、戦闘中に御刀が折れたり、手から離れればそれまでだしね。私たち、決して安定した戦力ではないわよね」

香澄がそういって乾いた笑い声を上げると、その場の全員も苦笑する。そこへ、じっと腕を組んで考える様子を見せていた凪子が、口を開いた。

「確かに、そういう外地へ向ける、という運用には向いていないでしょうけど…でも、ある拠点を守るために集中して配備しておけば、どうかな?」

「それって、防衛目的で刀使を使う、ということ?」

千鶴の言葉に、凪子が頷く。

「そうです。実は…以前、あの鷹司京様がいっていました。米英の敵をこの国におびき寄せて戦うのだ、と…」

「本土決戦…最近よく聞くわね」

由良の言葉に、全員が言葉を詰まらせる。本土決戦、「一億玉砕火の玉だ」などという合い言葉とともに、ここ最近聞くようになって来た言葉だ。いよいよとなれば米英と、日本本土を舞台にして最終決戦を行おうというのだ。竹槍300万本あれば列強恐れるに足りず…当時、そんなことが本気でいわれていた。

「そうです。つまり、彼女らはこの日本本土で米英を迎え撃ち、そこで最後にこの国を倒すことは簡単ではないと思わせて少しでも有利な講和条約を結ぼうと、そんなことを考えているようです」

「何それ?私たちが…最終兵器っていうこと?ちょっと待ってよ、あの人たちの後ろに軍人や政治家がいるのだとしたら、この国は本気で、私たちに命運をかけようとしてるっていうの?」

千鶴が半ば怒りながらそういった。

「刀使は、ある意味規格外の存在、加えて外国にもほとんど知られていません。まさに最終兵器にして秘密兵器…そう考える人たちがいてもおかしくはないのでは?」

「あの人たちの真意がそんなところにあるのだとしたら、やっぱり放ってはおけない…」

また、直がそんなことを言い出したのを見て、由良が眉間にしわを寄せた。

「はい、わからないことをいってもしょうがないから、ここで私からの話はお終いよ。皆、お汁粉なんてもうこれから食べられるかわからないから、しっかり味わって食べてね」

少女たちがそれに気の抜けた返事をすると、由良と千鶴は顔を見合わせて苦笑した。

 

 直の様子が妙だと思うようになったのは模擬戦の後からだったが、よくよく考えればそれ以前から兆候はあったかもしれない。泉美はそんなことを思いながらまだ稽古を止めない直を見て、溜息をついた。二人を除いて誰もいない道場には、直の荒い息遣いと御刀の走る音だけが響いている。

「直さん、もういい加減にして下さい。毎日毎日そんなに長い間稽古をしていたらいざという時に疲れが出てしまいますよ」

「もう、少しっ!」

素振り、転身、型、一人で出来る稽古の種類はいくらでもあるが、量をいくらでもこなせばいいというものではない。この所、直は日々の任務に加えて自主稽古を過剰なまでに行っていた。何故そこまで、と他の隊員たちから思われているのを泉美は知っていたし、おそらく直も知っている。そして、このまま過ぎた振る舞いが続けば、仲間たちとの和を崩す可能性すらあるのではないかと泉美は思っている。だが、一番近くで直のことを見て来た泉美には、直の気持ちがわからなくは無かった。直はこの世の理不尽と、闘っている。身勝手な大人たちを呪い、無力な自分自身に怒りを覚えている。それがこの、無茶な稽古に結びついているのだ。何を言ったところで通じはしない。自分で答えを見つけるまではどうにもならないのだろう。そのように半ば諦めている泉美としては、せめて直がはみ出し者にならないように見守る、ということにしていたのだが…。

そうはいっても、もう3月の9日になるというのにまだまだ寒い道場に動かないままじっとしているのはさすがにつらい。

「はあ…もう、じゃあ手合わせしましょう。今日は不寝番なんですからそれで終わり、いいですね!」

「え、あ、はい。お願いします」

案外素直なその返事に泉美はとりあえず安心し、御刀を手にして直と向かい合う。

「そういえば泉美さんと立ち会うの、久し振りですね」

「そうですか?一緒に出動したり長時間稽古に付き合わされたりで直さんが御刀を振るっているのをずっと見ていますから、あまりそんな気はしませんが」

「あれ、それってもしかして皮肉ですか?」

「ふふ、そうですね、でもお陰様で私も強くなっている実感はあるんですよ。さ、やりましょうか」

二人は御刀を構え、目を瞑って写シを張る。それが、合図だった。

直の上段からの打ち込みを泉美が半歩動いて最小限の動きで捌き、そのまま上段に構えをとった。直はそれに合わせて、一気に段階を上げた迅移で泉美の胴を払いに来る。この動きは知っている。あの時、最後にライオンを斬った動きだ。だが、わかっていても間に合わない。泉美は自分の左腕を直の剣に合わせ、右手の御刀を突き出した。

泉美の左腕が斬られ、直の喉が突かれる…そのままいけばそうなっただろう。無論、写シを張っているからそうなっても問題は無い。だが、二人の動きはその直前で止まった。

「見事です、泉美さん…肉を斬らせて骨を断つ、私の負けですね」

「これだけ直さんの動きを側で見ていて、しかも今のは知っている動きだったのに、合わせるのだけで精一杯なんて…どこまで強くなる気ですか?」

二人はそういってからどちらともなく笑い合い、ゆっくりと身体を戻し、写シを解いた。その時、直の顔が一瞬歪んだ。

「ん?どうしたんですか、直さん?」

「え?いえ、何でもないです」

「何でもないということはないでしょう。どこか身体の調子がおかしいんですか?やっぱり稽古のし過ぎなんじゃないですか?」

「いえ、そういうことじゃないんです。ただ…」

「ただ?」

直はそこで「うーん」とうなり、頭をかいた。

「あの、泉美さんだけにいいます。秘密にしておいてほしんですけど…その、刀使の力が、不安定になっているみたいなんです」

「え?どういうことですか?写シや迅移は何ともないようですけど?」

「御刀が…この宗三左文字との一体感が何となく前ほどじゃないというか…そんな感じなんです」

それを聞き、泉美も顔色を変えた。御刀との親和性が失われていくのを自覚するというのは、刀使がその力を失う兆候なのだ。それは刀使ならば誰もが、引退していった先輩刀使たちから聞いて知っていることだ。

「いえ、そんな…まだ直さんは16でしょう?」

「もうすぐ17です」

「ええ、でも、そんなに早く刀使の力がなくなるわけ…」

「だと思うんですけど、わからないんです。人によっては早々に刀使を引退することもあるそうですし…このまま刀使の力が無くなったら私は…」

泉美はそこで初めて、今まで直が自分の知らない悩みを抱えていたことに気が付いた。直の様子がおかしかった最大の原因はこれなのだろう。

「自分がいつまで刀使でいられるかわからないというのは…不安、ですよね」

「正直、不安と焦りがすごいです。刀使として出来ることは何とかしてやっておきたい、そんなことばかり考えてしまって…」

「それは、そうでしょうね…」

泉美はそこで、自分が直に言わなければいけないことがあるのを確信する。

「ねえ、直さん?」

「はい?」

「直さんは前に、私の剣筋に迷いがあるのは私と私の両親の間にある確執が原因だといってくれましたよね?」

「え?ああ、うちの実家でそんな話をしましたね」

「その話のおかげで私は今、両親とは上手くいっています。わだかまりが解けた、といいますか…」

「ええ、もう一昨年前ですか、お盆休み明けにそれを聞いて、私も嬉しかったです」

「はい。だから直さん、私だけが悩みを解決してもらうのは不公平です」

「え?」

「直さんの悩みは大きいので何ともならないかもしれませんが…でも二人で話をして、考えていけば、力が無くなる速度を抑えられるかもしれない…その、完全には無理かもしれませんが、半分くらい、何とかなるかもしれないじゃないですか」

それを聞いた直は、ぽかんとしてしまった。

「そ、そりゃあ、私に相談したところで直さんの刀使の力が戻るわけでもないですし、別にどうにもならないかもしれませんけど…」

「…ふふっ、そうですね。うん、半分くらいは何とかなるかもしれません」

直はそういって、満面の笑みで泉美の手をとった。

「そう、泉美さんはそういう人ですもんね!何で私もっと早く言わなかったんだろう」

「え、直さん…?」

「たとえこの力が無くなったって、ここの皆と一緒に過ごした日々が消えるわけじゃないですもんね」

「ええ、それに遅かれ早かれ刀使の力は無くなるんです。そんなに深刻に考えるのは止めにしましょう」

そこへ、

「直先輩、泉美先輩、片付かないから早くしてくれって千鶴先輩がいってますよー」

そんなのんびりした声を出しながら道場に入って来た五十鈴は、目の前の光景を見て硬直する。

「はっ、お二人共、何を…!」

手を取り合って見つめ合っている少女二人…尋常ならざる様子にしか見えない。

「あ、五十鈴さん!?これはその、稽古の途中で直さんの様子がおかしかったから…!」

泉美はとっさに直の手を離した。が、五十鈴が大きく目を見開いたまま立ち止まっているのを見て、良からぬ誤解をされていると思い、取り乱した。

「五十鈴さん…実は私たち…」

「ちょっと直さん、何を思わせぶりなことをいっているんですか!五十鈴さんが誤解してしまうじゃないですか!」

「す、すいません。お邪魔しましたー!」

「ちょ、五十鈴さん!」

泉美が片手を伸ばしてそういったが、五十鈴の姿はあっという間に見えなくなってしまった。振り返ると、直がくすくすと笑っている。

泉美は一つ大きなため息をついたが、その直の様子を見て、まあいいか、などと思った。

 

 不寝番の荒魂退治ももう慣れたものだったが、その夜の荒魂の出現数は多く、しかも広範囲だった。直、泉美と五十鈴、美千代の4人は通報を受けて日本橋から荒魂を追いながら人形町の付近で、追って出撃した吉乃、八重と合流、荒魂の群れを囲い込んで何とか周辺に被害を出さずにこれを鎮めていた。

「ふう、助かりました。吉乃さん、八重さん、応援ありがとうございました」

付近に荒魂の反応が無くなったところで、直は額の汗を拭いながらそういった。泉美、五十鈴、美千代も同様に息を切らしながら、頬や首筋を拭っている。気温は5℃にも満たず、風も強いが、十数体の荒魂を相手にすれば汗ばむのは当然のことだった。

「ええ、とりあえず何とかなったみたいね。でも隅田川の向こうからも連絡があって凪子先輩たちが向かったのよね。向こうは大丈夫かしら…」

「向こうは8人向かってますからね。まあ大丈夫でしょう。それより、今回は姉様の仮説は外れましたね。警戒警報、解除されたみたいですよ」

「あ、解除されたんですか。吉乃さんの仮説っていうと、荒魂が現れた所に空襲があるっていう…あれですか?」

泉美がそういうと、吉乃は頷いた。

「ええ、まあそんなもの外れるにこしたことはないんですけどね。ただ、そういう事実があまりにも重なるものですから…」

「そういえば、私たちが神奈川に行った時も荒魂を退治した後に敵機が来ましたね」

「あれは偶然だと思うけど…でも、今までは大体吉乃先輩のいう通りでしたよね。明日は陸軍記念日だからまさか、とは思いますけど…」

五十鈴と美千代がそういうと、やや重い空気が流れる。直は川向こう、本所区(現墨田区)の方面を眺めた。灯火管制下にあるため街は真っ暗で何も見えないが、一応、応援に行った方がいいかもしれない。そう思った矢先、その方面がぱっと明るくなった。

「あれは…!」

直がそういった瞬間、泉美が腰の蛍丸を握り、透覚を効かせる。

「え、何、この数!?」

「泉美さん、どうしたの?」

絶句する泉美が指す方をみると、次第にチラチラと舞う火の短冊のようなものをなびかせて、敵機の群れが近付いてくるのがわかった。あっという間に、本所区の方面にいくもの火柱が上がる。けたたましい空襲警報が鳴り始め、敵機の大群が自分たちの頭上にも近づきつつあった。

 時刻は0時を回り、日付は3月10日になっていた。史上最悪の無差別都市爆撃、東京大空襲の夜が、始まろうとしていた。

 

 

 



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七章

 

 

 昭和20年(1945年)3月9日の22時半頃、2機の米軍大型爆撃機、B29が現れ、東京・千葉の上空を旋回したが一発の爆弾も落とさずにそのまま飛び去った。当初、警戒態勢を敷いていた日本側はこれを見て「(敵機ハ)洋上ハルカニ遁走セリ」などといって警戒警報を解除、市民は安心して眠りについたという。だが、この2機の本来の目的は後続機への無線誘導であった。それから程なくして、サイパン、テニアン、グアムの3か所から東京上空に集った325機ものB29が、この一晩だけで38万1300発もの爆弾を都内に投下した。

この時投下された爆弾は日本側では単に焼夷弾といわれていたが、正確にはM69焼夷弾という。大型の親爆弾の中に38個の子爆弾があるクラスタータイプで、爆弾の種類についてはナパーム弾に分類されるものであった。ナパーム弾というのは粘度の高い油脂を大量に内包した爆弾のことで、炸裂すればその油脂に沿って炎が伸び、周囲に親油性可燃物があれば瞬時に広範囲を火の海にすることが可能という代物で、さらに、この爆弾の火は油脂に直接点いているため水で消す事が出来ない。化学消火、などという概念すらないこの当時、一度落とされればどこまでも伸びる炎の帯を弱める事すらままならなくなるという、実に恐るべき兵器であった。木造建築の多い日本の家屋には特に有効な爆弾とされてアメリカで研究が進み、ローコストでありながら多大な戦果が見込めるとして採用された。後にアメリカは、ベトナムの原生林を焼き払うためにもこれを使用することになるが、それは、この東京大空襲を始めとした日本での「成功例」があったからに他ならない。

 米軍の的確な計算により本所・深川から日本橋、神田にかけて落とされた焼夷弾が周囲の家々を焼き尽くして炎の柱を幾重にも立ち昇らせ、それらが次々と一つに重なり今度は炎の壁となっていく。そしてその壁となった炎が下町一帯を囲むのに30分もかからなかったという。この一帯に住んでいた人々に、逃げ場など無かった。

 

 火の海、などという喩えですら生ぬるい、そんな光景が目の前に広がっていた。幼い頃から見慣れていた景色が一面、燃えている。とにかく「暑い」というより「熱い」。その感覚が、これが現実の出来事であるということを直に嫌でも突き付けた。

足元からも異常な熱が伝わってくる。土の上はまだましだが、敷石の上などはとても立っていられない。熱せられた空気と直接触れている皮膚が、そしてその空気を吸い込む喉が、灼け付くようだった。昔、鬼たちに釜の中で炒られる人たちの絵を見たことがあったが、ほとんどそんな状況だ。要するに今、東京の下町は地獄の釜の底と化した。

着の身着のままの人々があふれ出し、少しでも火の無い方へ逃げようと右往左往している。

「あんたたち、護国刀使の人たちだろう!どっちに逃げればいいかわからないか!」

そんな中で突然、五十鈴が男から声をかけられた。彼もまた家を焼け出されたのだろう。防空頭巾を被った小さな女の子の手を引いている。

「え?どっち?どっちっていわれても…私たちにもわかりません!」

そんな風に混乱気味に答えると、男は戸惑ったように手元の女の子を見下ろす。女の子は五十鈴をじっと見て首を傾げる。男は溜息をつき、そのまま足早に去って行った。

「そんなこといわれたって…」

うつむく五十鈴の肩に、泉美が手を置く。

「仕方ないですよ。私たちだってどこに逃げればいいかなんてわからないんですから」

「そうですよねえ…これはもう、隅田川に飛び込むのもありかもしれませんね。このままじゃ全身が火傷をしてしまいそうです…」

美千代がそういうのを聞いて皆、隅田川の方を向くと、何となくその方面へ向けて人の波が出来ているのがわかった。

「飛び込むかどうかは別として…皆で行ってみますか?」

泉美がそういうと、

「いや、ここは部隊を分けましょう。もしまとまって移動して、そこがダメだったらまずいですからね。それより私たちは迅移が使えるんだから…全員で安全な場所と道順を探して、それを出来るだけ多くの人たちに伝えましょう。さっきみたいに私たちを頼って来る人もいるでしょうしね」

八重が火の粉を払いながらそういった。

「さすが我が妹ね!そういうことでいいんじゃないかしら。ただ手分けと言っても一人での行動は危険過ぎるから、二人一組で、いいわね?」

全員が頷く。

「では、五十鈴さんと美千代さんはこのまま宮城の方へ行ってみて。私たちは隅田川、両国方面に行ってみます。凪子先輩たちも心配だしね。それから直さんと泉美さんは日本橋から神田の方へ…いいわね?」

それまで黙っていた直が、顔を上げた。直個人としては、一刻も早く祖母と両親の無事を確かめたいと思っていた。どちらの家も、この火の海の中にあるのだ。吉乃が何もいわずに直を見て頷いた。この場の皆が、直の気持ちを察してくれていたようだ。

「でも、任務中なのに…」

「いいから行きなさいよ。大体その辺りの道は直が一番詳しいでしょう?だったら適任じゃない?」

八重が、笑ってそういった。そのすぐ奥で、2、3軒の家屋が連なるようにして倒壊する。

「おっと、これはいつまでもじっとしていられないわね」

吉乃がそういうと、直は意を決して皆に向かって頭を下げた。

「みんな、ありがとう…厚意に甘えます。それじゃ、必ずまた生きて会いましょう!」

全員が大きな声で返事をして、それから6人は3組に分かれて迅移をかけた。

 

 隅田川の方へ駆けて行くと、どうやら両国橋は無事であることがわかった。だが、明らかに川向こうは火勢が強い。

「どうします、姉様?これは…行ったところでどうしようもないかもしれませんよ?」

「そうね…あら…」

二人は、そこでノロ磁針が橋の向こうを指しているのに気付く。

「はあ…これじゃあ、行くしかない、ですね」

「ええ…」

返って踏ん切りがついた二人は人波に逆らいながら両国橋へ辿り着く。そこで、目を疑った。

「何ですか、これ…川が、燃えてる…!?」

隅田川の川面を、火が走っている。信じられない光景であったが、それは紛れもなく現実の出来事であった。

「水の中なのに火が消えないなんて…」

この時の様子については、「川の中まで火が追って来た」という体験談が多く残っている。ナパーム弾の特徴が顕著に表れているが、当時の人たちにとってはとても理解できないことであったろう。そして理解出来ない脅威は、恐怖を増幅させる。川の中で溺れるようにして火に巻かれている人たちがいるのを見て、二人は完全に色を失った。さらに川の両岸へ目を移せば、びっしりと黒焦げの焼死体が並んでいる。そこへ家屋や草木、そして人の焼ける臭気が混ざり合って鼻に届き、八重は吐き気を覚えた。まさに酸鼻を窮める惨状だ。それらの光景は川に沿ってずっと続いており、明々と炎に照らし出されているため、目を背ける事すらできない。

「こんな、こんなことって…!」

口元を押さえながら八重がそういうと、その肩に吉乃が手を置いた。

「…行きましょう、八重。この上荒魂による被害を出すわけにはいけません…」

二人は、無言で人の流れをかき分けて両国橋を渡り終える。するとすぐに、見慣れた建物が炎に包まれているのがわかった。

「姉様、国技館が…!」

「ええ、何てこと…回向院まで全焼じゃない…!」

両国国技館が焼け落ちようとしていた。大相撲の場所が始まると沢山の幟が立ち、この辺りで一番の賑わいとなる国技館、そしてその国技館一帯の敷地を有し、江戸時代から多くの人々を弔って来た浄土宗回向院の本尊もまた、焼けていた。

半ば茫然としている二人の視界に、黒い影が横切る…といおうか、空に昇って行く。

「あれ、荒魂…?どういうこと?荒魂が空に向かって行く…?」

空まで伸びている炎と、軍のサーチライトに照らされて、上空のB29の姿は良く見えた。数体の小型荒魂がその場にはいたが、逃げ往く人々には目もくれず、ひたすら空を見上げてその特有の鳴き声を上げたり、跳ねたりしている。どうやら敵機を狙っているらしい。いくら跳ねても単体では無理と悟ったのか、そのうち一匹が跳ね、二匹目がその上に乗ってさらに跳んでいくという曲芸まがいのことも始めたが、とても届くものではない。コウモリのような飛行型もいたが、こちらも届かないらしく、途中で羽ばたくのをやめてすーっと降りて来る。何拍か置いた後、再び空に向かって飛んだが、やはり結果は同じだった。

二人がその動きに唖然としていると、

「吉乃、八重!何でこんなところにいるんだ!」

凪子がこちらを見つけて駆けて来た。

「凪子先輩!春江さんも!」

「まあ、こんなにあっさり会えるとは思いませんでした。荒魂のお導きですかね?」

集まって来た全員が抜刀している所を見ると荒魂を追った結果、ここに来たということだろう。

「何にしても良かったあ…皆さん、無事なんですか?」

そういう八重の言葉に、凪子の表情が固まる。

「実はね、百合子さんと希美さんが…どこにいったかわからなくなってしまったの…」

凪子に代わってそう答えた春江の言葉に、吉乃と八重は一瞬、言葉を失った。

「二人が荒魂と戦っていたすぐ近くに焼夷弾が落ちた。それで、はぐれてしまった…」

「写シを張っていたから大丈夫だとは思うんだけどね…」

そうはいっても、爆発で写シをはがされて、そのあと火に囲まれればどうなるかわかったものではない。新たな荒魂の反応があるにもかかわらず姿を見せないとなると…。

「まさか、とは思いますけど…」

吉乃がそういうのを凪子が遮った。

「それより二人共、何でこんな所に来たんだ。人形町の方がまだましなんだろう?」

「ええ、それはそうなんですけど…さすがに心配になりましてね。荒魂の反応もありましたし…で、あれは何なんです?こちらを襲って来る様子がないのは幸いですけど」

八重が、また空を目指していく荒魂を見ながらいうと、

「うん…もしかしたら奴らは荒魂にとっても敵なのかもしれない。荒魂たちは奴らを自分たちの居場所を脅かす存在、と思っているのかも…」

凪子もまた同じように空を見上げた。

「なるほど、敵の敵は味方、ということですか。奇妙な心地ですけど…しかしそういうことであれば、あれは放っておいてどこか安全な場所に避難しませんか?」

吉乃がそういうと、

「逃げるとすると…錦糸町方面は風下になっているから危ないわね。両国駅の方にある被服廠跡地、それからあなたたちが来た両国橋方面かしらね…」

春江がそう答えた。

「被服廠跡地はここから近いけど、確か、関東大震災の時に大きな被害が出たはずじゃ…」

八重が北の方角を見ながらそういった。総武線両国駅のガードをくぐった先には、かつて陸軍被服廠があった。被服廠とは文字通り、軍服・軍靴を始めとした軍関係の衣類を製造していた工場のことだ。大正12年(1923年)に先だって模擬戦が行われた辺りに移転したため、現在でいう東京ドーム1,5個分に及ぶ広大な空き地を当時の東京市が買い取ったのだが、その直後に関東大震災があった。

「そうでしたね。広場は風通しがいいから火の回りが早くて避難して来た多くの人が焼け死んだという話でした…」

北と、東の選択肢は消えた。凪子が、そこで口を開く。

「よし、橋を渡って浜町公園へ行こう。あそこは軍がいるから情報も多少は集まっているはずだ。避難している人も多いだろうし、出来ることがあるだろう」

その言葉に8人の護国刀使たちは頷き、火の粉をかいくぐりつつ、両国橋へ向かって走り出した。

 

 泣き叫ぶ子供たち、全身に火傷を負って彷徨う人たち、そして黒焦げになって動かなくなった人たち…最早地獄、という言葉でも足りないこんな状況だというのに、それでもまだ飽き足らないのか、B29はより低空を飛んで焼夷弾を落として来ていた。どこかに爆撃がある度、地面が揺れ、大きな音が響き、人が死んでいく。

「まだ焼夷弾を落としてくるんですね…一体どれだけやれば気が済むんでしょう…」

「本当に、呆れますね。撃ち漏らしを潰すために往復しているんじゃないですか。ここまで徹底して来るなんて…」

直と泉美は日本橋のやや北側に位置する例の掘割辺りに来ていた。ここまでくれば祖母の乾物問屋はすぐそこなのだが、さすがに直は躊躇した。

「だめですね。向こうまではちょっといけそうもありません…神田の方に向かいましょう」

「え?ここまで来て何いってるんですか直さん、何とかなりますよ。行きましょう」

「でもこの熱さですよ…?わざわざこんな危険なところに泉美さんまで…」

「もう、今更何いってるんですか…って、あれ!」

目の前の掘割から、「荒魂さん」が飛び出した。あの、龍のような姿だ。

「あれ、あの『荒魂さん』ですよね!」

「ええ…あ、すごい、水を撒いてくれてるの…?」

荒魂さんは水の身体を周囲に撒いているらしい。そのせいか、この辺りは少し、火の勢いが弱い。その様子を眺めていると、こちらに気付いたらしく直と泉美の頭上を飛んで水を降らせた。焦げかけている髪や肌に水が染みて、かすかに痛いものの心地いい。荒魂さんは、それから二人の前に滑空するようにして着地した。

「ありがとう荒魂さん、水を撒いてくれていたんですね」

荒魂さんはギイ、といって頷くように身体を動かした。

「直さん、荒魂さんに手伝ってもらいましょう。水を撒きながらなら、きっと行けます」

「そうですね…荒魂さん、おばあちゃんのお店に行きたいの。手伝ってくれる?」

荒魂さんは今度は二回ほど頷くような動きを見せてから、掘割へ飛び込んだ。そして、日本橋方面へ向けて大きく水の弧を描きながら飛んで行った。

「行きましょう、あの下を走れば」

「ええ、いくらかましでしょうね」

荒魂さんはかなり正確にタツの店の近くまで飛び、それから走る直の肩に着地した。

「ありがとう、おかげで何とかなったよ」

「あ、見えましたよ、直さん!」

多くの建物が既に倒壊していることもあって、タツの店は比較的早く見つかった。幸い、店舗には火の手が上がっていない。伯父と伯母、住み込みの従業員二名が店の前に出て来ていた。直は、たまらず走る速度を上げた。

「伯父さん、伯母さん!大丈夫ですか!」

「直さん!どうしてこんな所に…あらやだ、その肩に乗っているのは何?」

伯母の富美子が驚いた様子で駆け寄って来た。

「あ、これはちょっと…それより、早く逃げないと!隅田川の向こうは酷い事になってますよ!」

「やっぱり向こうが危ないのね。わかったわ」

富美子がそういう後ろで、タツが店の中から顔を出した。

「おや、直じゃないかい、それに鏡心明智流の沢さんだね?」

「おばあちゃん!良かった。無事だったんだね!」

「当たり前じゃないか。富美子さん、全員表に出たね?」

「はい、お義母さん。いわれていた証紙の類も全て持ち出しました」

「よし…それじゃ、最後にあれを取って来ようか」

タツはそういって、再び店の中に入っていく。

「ちょっとおばあちゃん、あんまりのんびりしてると危ないよ!」

直も、追って店の中へ入る。暗い店の中は、がらんとしていた。もう取り扱う商品もほとんど無いのだろう。ずんずんと進んでいく背中を、直は追う。着いたのは、泉美と共に通されたこともあるあの客間だった。

「あ、やっぱりそれだったんだ」

タツは奥に据えられていた御刀を手に取った。

「ああ、模造刀とはいえ、大事なものだからね」

「毛利藤四郎か…おばあちゃんが引退して以来、適合者はいないんだってね。近衛祭祀隊で保管してるよ」

「そうらしいね」

タツはその短刀をしっかりと握る。

「御刀ってやっぱり、刀使にとってはいつまでも大事なもの…なのかな」

「そうだね。輝かしい日々を共に過ごした…過ごさせてもらった大事なものさ。引退してから特にそう思うようになったね…まあ、あんたもそのうちわかるさ」

「そう、なのかな…」

直は、そういって少し複雑な思いで佩刀を抜いた。自分は一体いつまで刀使でいられるのだろう、その刀身にそんなことを尋ねたくなった。

「それじゃ、行こうか」

「うん」

二人が、店の入り口へと向かっていたその時、

「直さん、写シを!」

泉美の大声が響いてきた。すぐに直にも、空気を斬り裂く轟音がわかった。

「おばあちゃん!」

写シを張り、祖母の身体を抱きしめる。その瞬間、頭上の全てが爆ぜた。

 

 両国橋を渡ってすぐ南に浜町公園がある。そこには陸軍の施設があり、空襲に備えてサーチライトや高射砲が設置されていたが、既にその位置は米軍に察知されており、ほとんどが先制攻撃を受けて空襲の前に無力化していた。

「だめだ!ここは入っちゃいかん!」

公園に着くと、駐屯している若い下士官兵がそういって逃げ込んでくる人々を追い返していた。それを見て、凪子はさすがに嫌気がさした。荒魂との戦いに始まり、この火の中を時には迅移をかけながら逃げ回っていたこともあって、仲間たちの疲労は頂点に達している。そこでまた、こんな諍いを見せられるのだ。皆、凪子の後ろで息を切らし、汗を流しながらウンザリした表情を見せていた。

「すいません、近衛祭祀隊…護国刀使の者です。よろしいでしょうか?」

かなり苛立った調子で凪子は人々と兵員の間に割って入る。

「これは、どうもお勤めご苦労様です」

「はい、そちらも…それで、これはどういうことです?何故ここに避難できないんですか?」

「御覧の通り、ここには高射砲があるんですが、爆撃を受けていましてね。誘爆の可能性もあるんです。そんな所に避難させるわけにはいかんでしょう?」

確かに、それはそうかもしれない。聞いていた避難民たちと共に、凪子はふっと細い溜息をついた。

「しかし、どうするんです。この人たちは…」

「すぐ向こうに明治座があります。あそこは震災の後に建て直して鉄筋になっているから多分大丈夫でしょう。そちらへ逃げていただきたい」

凪子がそれを聞いて振り返ると、吉乃が頷き、八重が、

「兵隊さんのいうことには一理あると思います。明治座ならここからすぐですし、我々もそっちに行きますか。あっつ…」

そういって握っていた御刀を鞘に納めた。刀身から、かなりの熱が伝わってきているのだ。気温がどれくらい上がっているのか、想像もつかなかった。

凪子は、空を見上げる。B29は、さっきよりもずっと低い高度で飛んでいた。無辜の都民まで巻き込みながら今なお、爆撃を続けるその巨大な機影を見ていると、収まっていた苛立ちがよみがえって来た。

「避難するのもいいが…このままやられっぱなしというのはしゃくだな…」

「あら?凪子先輩、今なんておっしゃったの?」

そういう吉乃に、凪子は不敵な笑みを返す。

「よし、四条姉妹はここに残ってくれ。残りはここの方たちを明治座まで案内するんだ。指揮は春江、君が執ってくれ」

「え、はい。それは構いませんが…あの、何をなさるおつもりで?」

「連中に一矢報いてやる…すいません、まだ使えるサーチライトはあるんですよね?」

「え?ええ、そりゃあまだありますけど…」

また突然話を振られた若い下士官兵はそういいながら改めて護国刀使の面々を眺めた。

「案内して下さい」

凪子はそういって公園内に入っていくと、

「ちょっと、待ってくれ!」

下士官兵がそういって凪子を追っていく。

「やれやれ…ついていかないといけないみたいね。じゃあ、私たちはあっちに行きます」

「春江さん、そちらはよろしく」

姉妹がそういうと、春江も頷く。

「ええ、それじゃ…あまり無茶はしないでね?」

「それは、あの人次第ですねえ…」

姉妹は苦笑して、凪子を追った。

 

 サーチライトはもちろん、高射砲もまだ使えるものがいくつかあった。光の帯の先に照らし出されて輝く銀色の機体を見て、凪子は薄く笑った。

「結構よく見えるものね。あれなら…行けるかもしれない」

「何が行けるんですか?」

「私たちに何をしろっていうんです?」

姉妹が揃って怪訝そうな顔をしている。凪子は上空の敵機を見つめたまま、

「あれを、叩き斬る」

そういうと、姉妹は黙ってしまった。

「奴らは完全に油断して高度を下げている。あれなら届く。私を打ち上げてくれ」

そんな二人に構わず、凪子は平然とそういった。

「な…!う、打ち上げるって、花火じゃないんですよ!?」

「そうです。いくら凪子先輩が無茶苦茶な人でもそれはさすがにありえませんよ!」

「二人の八幡力で私を打ち上げるんだ。私が助走をつけて跳ぶから手で受け止めて、一気に放り投げてくれ」

「凪子先輩!話を聴いて下さい!いくら何でもそりゃ無茶ですって!」

八重がたまらずそう叫ぶと、凪子は空を睨んだまま目を瞑る。それから、ゆっくりと姉妹の方を見据えた。

「百合子と希美は、多分死んだだろう。護国刀使、初めての殉職者だ」

「…状況を見ていないので何ともいえません」

「そうだったとして、それが凪子先輩を打ち上げることと、どうつながるんですか?」

八重と吉乃のいうことはいちいち最もだ。凪子は熱く、焦げ臭い空気を大きく吸い込んだ。

「二人を預かったのは私だ。だから、私が責任をとらなければならない。仇を討つ」

その、あまりにも簡潔な言い切りに、四条姉妹はまた言葉を失った。

「お前たちがいいたいことはわかる。これが私の独りよがりの自己満足だということもわかっている。だが…頼む、やらせてくれ」

姉妹は顔を見合わせて、同時に溜息をついた。そして吉乃が切り出す。

「もちろん、その気持ちはわからないではありません。それにあの高さなら…まあ、届くでしょう。でも、それでどうするんです?仮に上手く斬れたとしても機銃で撃たれるかもしれないし、爆発に巻き込まれるかもしれません。それにあの高さから落ちたら、いくら金剛身や写シがあっても無事で済むかどうか…」

「最近ラジオでよく聴く特攻隊をやろうっていうんですか?そういうことなら手は貸しませんよ」

凪子と姉妹は、黙って見つめ合う。それは剣を構えたまま互いの出方を窺っている時の様子とよく似ていた。仕掛けたのは凪子だった。

「この国はもう、終わりだとは思わないか?」

二人は、まだ無言でいる。

「ある人から聞いた話だが、この国はもういくらも持たないそうだ。どういう意味か、わかるか?」

「敵がやって来て、本土まで蹂躙される、ということですか?」

八重の答えに凪子は頷いた。

「そうだ。そしてこの国は滅びる。日本という国が、無くなるんだ。とても信じられないかもしれないが、そういう国は歴史上決して珍しくない。私たちは殺されるか、鬼畜共の奴隷になって世界中に売られていくんだ。例外なく全ての日本人が、だ」

大きな音と共に地面が揺らぐ。また、どこかに焼夷弾が落ちたのか、それとも大きな建物が焼け落ちたのか。

「だが、最後に、私たちが意地を見せてやることは出来る。奴らが本土に上陸したとしても、簡単に日本はやられない。刀使の力を見せつけてやれば、多少はマシな形で講和条約を結んで、この国を息長らえさせることができるかもしれない」

「…私たちの力を見せるために、B29を斬る、ということですか」

八重がまんじりともせずにそういった。

「そうだ。この日本には、B29を落とせる『人間』がいることを奴らに見せてやるんだ」

「そんなことを考えていたんですか…」

「そういえば、前に刀使は防衛には向く、というようなことをおっしゃってましたね…」

「私の考えに賛同してくれとはいわない。だが他に、もう道は無いと思う。協力してくれ」

姉と妹は互いを見て、その表情からどうやら同じ結論に至ったこと知った。

「わかりましたよ…個人的は他に道が無い、とは思いませんが、今は何も思いつきません。不承不承、やりますよ」

八重がそういうと、吉乃も頷く。

「ただ、一発勝負です。狙い通りに行くとは限りませんからね。外してしまったその時は、大人しく諦めて、下りてきて下さい」

「わかってるよ。それじゃ、頼む」

凪子は抜刀し、吉乃は右手を、八重は左手を空けて指と指を絡ませた。それぞれ反対の手は御刀の柄を握っている。少し後方に下がった凪子が、サーチライトの先に現れたB29を視認し、指さす。

「あれを狙う…行くぞ!」

駆け出した直後に迅移をかける凪子、吉乃と八重の身体にも八幡力が宿る。軽く跳んで、凪子は二人の手の平によるカタパルトに着地する。そして、

「はあああっ!」

渾身の力で飛び上がるのと同時に、

「やあああっ!」

「てえええっ!」

姉妹の八幡力がその身体を押し出した。刀使たちが隠世から授かった力が、淡い光の奔流となって目に見えた。その光の航跡を中空に残しながら、凪子は一瞬にしてB29の機体を眼下に捉えていた。圧倒的に巨大な機体…これほど巨大な飛行機など存在自体が信じられなかった。自分たちはこんなものを大量に造る国と戦っているのか…そう思うと背筋が凍る思いであったが、すぐに御刀を上段に構える。

「やあああっ!」

強風に煽られながらも、気合と共に落下する勢いで左の主翼に2発あるエンジンの、外側に斬り付けた。プロペラと主翼の間、ぎりぎりの所だ。手応えはあった、が、

「浅いか…!」

装甲が斜めに裂けたに過ぎなかった。歯噛みして悔やんだが一発勝負だったのだ。もう落ちるしかない…あきらめかけたその時、足元から黒い物体が浮かんで来た。空を狙ってしつこく跳んでいた荒魂だった。

「ふ…今日ばかりは、感謝するぞ…!」

荒魂を踏みつけ、既にかなり先に行ってしまっていたB29を睨んだ。

「届くか…!?」

そう口走った、その時だった。全身に、衝撃が駆け巡る。身体が分裂するかのような奇妙で激しい感覚…ほぼ一瞬で収まったものの、その瞬間に隠世と現世の境が曖昧になったのを、凪子ははっきりと感じた。そして、自分の身体に力が流れ込んでくるのを実感する。今なら、届く。

「逃がすかあっ!」

荒魂を踏み台にして、切っ先を向けて飛ぶ。先に斬り付けた時に生まれていた裂け目に、刃を突き刺した。刀身のほとんどがエンジンに埋まり、凪子は笑みを漏らす。その瞬間、爆発が起き、そこから炎が噴き出した。

 

「姉様、今の感覚は一体…!?」

「わかりません。八重、凪子先輩は…!?」

「一度斬り付けた後で、また取り付いたように見えましたが、その後は…」

二人は、火を吹きながら見えなくなっていくB29の姿を辛うじて見つけることが出来たが、凪子が果たしてそこから離脱することが出来たかまではわからなかった。

 

 

 店のすぐ近くに集中して焼夷弾が落ちた。咄嗟に張った写シ、そして発動した金剛身のおかげで泉美はほぼ無傷であったものの、周囲にいたはずの店の人たちが消えていた。激しい戦慄を覚えながらも、泉美は半壊している店舗へ駆け入る。

「直さん!おばあ様!」

「泉美さん、こっちです!」

すぐに返って来た直の声にほっとして進んでいくと、ガレキに半ば埋もれている二人の姿があった。

「直さん、大丈夫!」

「泉美さん…私は大丈夫だけど、おばあちゃんが…」

直の右手にはしっかりと宗三左文字が握られている。泉美と同様に、写シと金剛身で何とかなったのだろう。だが、その腕の中にいるタツは、爆風で飛び散ったガラス、くずれた家屋のガレキを下半身に受けて、身動きがとれない状態になっていた。

「あ、ああ…いや、こりゃあ…もうだめだ」

「おばあちゃん!しっかりして!」

「なっ…!おばあ様…!直さん、近くに焼夷弾が落ちました!すぐに火の手が迫って来ます!急いでおばあ様を!」

「はい!」

二人は八幡力を用いて必死にタツの身体を動かそうとガレキをどけていくが、どうやら腹部から下にいくつもの材木が刺さっているらしい、出血がおびただしい量になっていた。

「もういい、私はどの道助からない…二人共、早くお逃げなさい。店の連中はどうした?」

「わかりません。爆風をもろに受けたようで…」

タツは、その答えに力無く頷いた。そして、手にしていた毛利藤四郎の模造刀を直に手渡した。

「行きなさい、直。あなたは刀使として、まだやることがあるでしょう」

「え?何いってるのおばあちゃん…そんな、やだよ…!」

「あんたは本当に…優しくて、いい子に育ってくれたよ。私の自慢の孫だ…。せめて、あんただけでも生き残ってちょうだい…泉美さん、直を、頼みます…」

「おばあ様、まだ諦めないで下さ…!」

その時、泉美の透覚が新たな異音を捉えた。泉美は顔を上げ、それがさっきと全く同じ、いや、もっと近くに焼夷弾が落ちる音だと確信する。

「くっ…!おばあ様、直さんは、絶対に死なせません!」

そういった瞬間に泉美は渾身の八幡力で直の腹を抱え、その音から遠ざかるために迅移を発動した。一瞬だけ振り返ると、タツが笑って頷いたのが見えた。そして、次の瞬間には、全てが炎に包まれた。

 

 荒い息をつく泉美の腕から離れ、四つん這いの恰好で直は炎の中で崩れ落ちていく店の様子を見届けた。写シが切れ、火傷を負っていた身体のあちこちが正常に戻る。

「おばあちゃん…伯父さん、伯母さん…」

涙が、次々と溢れてくる。その後ろで、泉美が御刀を納める音がした。

「ごめんなさい、直さん。私の事は恨んでくれてもいい、でも…」

泉美もまた、顔を伏せて泣いている。直は、振り返りもせずに、首を振った。

「わかってる。ごめんなさい、泉美さんにまで辛い思いをさせてしまって…本当に…」

膝をついたまま半身を起こし、傍らに置いていた宗三左文字を納め、毛利藤四郎の模造刀を抱きしめた。そこには、祖母の血が残っていた。それを見て、何かが外れる。

「う、うぅ…ああああああ!」

炎の中に、直の慟哭が響いた。

「おばあちゃんが、おばあちゃんが何をしたっていうの!ここでただ暮らしてた人たちが、何をしたっていうのよ!」

それは悲しみのようで、怒りのようでもあったが、

「こんなの酷い…酷過ぎるよ…」

実際にはあまりにも深い絶望、であった。

「直さん…行きましょう。ここは危険です…」

泉美はがっくりと首を垂れた直の腕を掴み、その身体を引っ張り上げようとしたが、直はその手を振り払った。

「だめ、おばあちゃんが…お店の人たちが…」

「直さん……。しっかりなさい!ここで直さんまで死んでしまったらどうするの!おばあ様たちはそんなこと、望んでない!」

直には、何も言葉が浮かばなかった。今、この現実を受け止めきれていないのだ。これからどうするべきかなど、考えが及ぶはずもなかった。

「あなたをここで、死なせるわけにはいかないの!」

泉美は再び直の腕を掴む。もう、直には抵抗する意思すらなかった。引かれるまま、その場を離れる。するとすぐ後ろから、荒魂さんが飛んで来た。

「あなた、無事だったのね…!」

泉美がそういうと、荒魂さんは「ギギ」と短く返事をして、直の肩に止まった。

「荒魂…さん?」

直がそういうと、荒魂さんは何度も頷くような素振りを見せた。よく見れば、尻尾の一部が欠けている。

「そっか、荒魂さんも…」

直は、そこで頭を振り、立ち止まった。

「泉美さん、大丈夫です。自分で走れます」

「そう、ですか…わかりました。でも、はぐれないようにしないと」

泉美は一旦直の腕を離したが、今度は手を繋いだ。

「これじゃ、すぐに御刀を抜けないんじゃないですか?」

「いいから、行きますよ!」

泉美の口調が少し強かったのは照れ隠しのようだった。直は大人しく従い、それから二人と一匹は、掘割の辺りまで駆け戻った。そこで、

「泉美先輩、直先輩!」

聞きなれた声に呼び止められる。

「五十鈴さん、美千代さん!何でこんなところに!」

宮城方面に向かったはずの後輩刀使たちだった。

「何でって荒魂の反応があって…それ、荒魂ですよね?」

立ち止まった直の肩でぴょんと跳ねた荒魂さんを指して、五十鈴がそういった。

「え?ああそうね。でもこれは気にしなくていいわ。害意のない子だから。それより、どうしたの?宮城の方は大丈夫なの?」

「害意が、ない…?」

五十鈴はそういって、同じく不思議そうな顔をしている美千代と顔を見合わせたが、

「えっと、とりあえず宮城は大丈夫みたいです。ただ…」

「東京駅が燃えていて大分遠回りしないといけないんです」

取りあえず荒魂の話は置いておき、質問に答えた。

「そう…だったらどこに逃げれば…」

「上野の方面が空襲を免れているそうです。警察の人たちがそちらに誘導していました」

美千代の答えに、泉美は考え込む。ここからだとほぼ真北に進むめば上野に出るだろう。炎に包まれて周囲の様子はすっかり変わっているが、ここ数年数えきれないほど警邏をしてきただけあって、方角に迷いは無い。だが、

「上野、ですか…ここからだと結構距離がありますね」

「でも、丁度神田を通ることになります。直先輩もその方が…」

「あれ、直先輩、どうかされたんですか…?」

さすがに後輩たちも直の様子に気付いたと見える。泉美は溜息をついて繋いでいた手を揺すった。

「ほら、直先輩、しっかりして下さい。神田にいってみましょう」

泉美がそういい、直の肩にとまっている荒魂さんもなにやらギイギイとわめく。ようやく、直が口を開く。

「ああ、そうですね…はい…行きましょう」

泉美はまた、溜息をついて手を離し、直の両肩をつかんだ。

「直さん、割り切れ、なんていいません。でも、私たちは生きているんです。だから今は…生き延びる事だけ、それだけを考えることにしませんか?」

「泉美さん…はい、すいません。わかりました」

何か余程のことがあったのだろうと、五十鈴と美千代は思ったが、今はそれを聞く時ではないらしい。二人は顔を見合わせて頷くと、先輩たちの前に立った。

「私たちが先に進みます。行きましょう」

「ええ、お願い」

美千代の言葉に泉美が答え、後輩二人が頷いたその時、

「あれ、子供の声…?泉美先輩、どこかわかりませんか?」

五十鈴がそういった。確かに燃え盛る炎の音に混じってか細い泣き声が聴こえる。

「ええ、ちょっと待って…あそこね!」

蛍丸の柄を握りながらそう答えた泉美の言葉通り、細い路地の奥に入ると、バケツの水に足を浸している小さな女の子の姿があった。

当時、どこの家の前にも防火用に水の入ったバケツを置いていた。いざ空襲の際にはこうした防火用水を使ってバケツリレーを行い消火に努めるよう、当時の「防空法」という法律で定められていたのだ。もちろん、焼夷弾の火がそんなもので消えるはずもないことは文字通り火を見るよりも明らかであったのだが、実際にはこの法律を守って消火活動を優先したばかりに犠牲となってしまった人が多く出た。

「あれ、あなた…」

五十鈴がそういって駆け寄り、しゃがみ込む。

「あ、さっきの…」

間違い無い、五十鈴に声をかけて来た男が連れていた女の子だった。

「どうしたの、お父さんは?」

「とちゅうではぐれちゃって…足があつくてもうあるけなくて…」

女の子は涙声で、だがはっきりとした口調でそういった。

「そっか…よし、じゃあお姉ちゃんがおぶってあげる。一緒に逃げよう」

五十鈴がそういって、くるりと背を向けた。

「え…でも…」

「いいからいいから、私ね、弟や妹のことよくおんぶしてたから慣れてるの。ほら、遠慮しないで、おいで」

女の子は、他のお姉さんたちの様子を窺う注意深さを見せてから、

「はい、よろしくおねがいします」

そういって、その身を五十鈴の背に預けた。

「うんうん、あ、そうだ名前をまだ聞いてなかったわね。私は篠原五十鈴っていうの。あなたは何ていうの?」

「橿原サトっていいます」

「かしはら…かしって、あの難しい字?」

「そうです。木へんのむつかしい字です。でももう、わたし、かけるんですよ」

「へー、すごいじゃない。サトちゃんは今いくつなの?」

「5つです」

「お、それでそんな字が書けるんだ、すごいね」

その五十鈴の様子を見て、刀使のお姉さんたちは感心する。なるほど、確かに小さい弟と妹がいるというだけあって子供の扱いが上手い。あっという間にサトちゃんは五十鈴の背中で笑顔になっている。

「それじゃ、改めて行きましょうか。五十鈴さん、サトちゃんは交代でおぶりましょう」

「そうですね。よかったねサトちゃん、いろんなお姉さんにおんぶしてもらえるよ」

「はい…ありがとうございます」

この新たな道連れが加わったことで、直は少し落ち着きを取り戻した。

「こんな小さな子だって、頑張ってる…この子たちを守るためにも、私も頑張らないと…」

自分に言い聞かせるようにそういうと、隣で泉美が笑っていた。

 

 どうやら、上野の方が無事という情報は多くの人たちにもたらされていたらしい。直が後ろを振り返ると、また、人波が大きくなっていた。既に千人単位になっているだろう。走る刀使の少女たちの後ろには、いつの間にか多くの人々が付いて来ていた。

「何だか妙なことになってきましたね…」

「ええ、まあそれはともかく…これじゃ直さんの実家を確かめに行くのは難しいですね…」

泉美の言葉に直は頷いた。今は丁度神田の辺りだが、留まる所を知らない炎に視界が遮られ、周囲の様子が全くわからない。こうなってはもう、両親が無事に生き延びてくれていることを祈るだけだった。兄が一緒ならきっと大丈夫だろう、そう思うしかない。

「ああ、もう無理はしなくていいです。この火の回りじゃあ…今更行った所でどうなるものでもありません」

燃え上がる炎の脅威はもちろんであったが、空気中には大量に火の粉が舞っており、それがまた衣服や髪に引火するため、非常に恐ろしいものだった。周辺の空気はこの火の粉が濃いか、それとも非常に濃いかのどちらかでしかない。刀使たちは写シを張り、火の粉を払いながら進むので、多くの人々がその後を追って来るのはわかる話だが、もう一つ、人々が付いてくるのには理由があった。

「周りの荒魂も、増えていますね…」

美千代がポツリとそういった。いつの間にか、人々を囲むようにして大小様々な荒魂たちが、直たちに付いて来ていたのだ。しかもどういうわけか、人を襲う素振りは一切ない。よくわからないが、たとえこの荒魂たちに襲われることがあっても刀使と一緒ならば問題は無い…そう考えるのも普通だろう。つまり多くの人々からすれば、少女たちに付いて行くのが最善の選択だったのだ。

「ええ、一体何が目的なんでしょう…荒魂さん、どういうことなの?」

直は、相変わらず肩に止まっている荒魂さんに、同類たちの意図を尋ねた。荒魂さんはたまに左右を見渡してギイギイと鳴いているので、何かしら意志を疎通させているようなのだが、直の問いには首を傾げるような様子を見せるだけだった。

「それにしてもB29の高度が随分下がっていますね…高射砲も味方の戦闘機も何をやっているんでしょう…」

「あの、泉美先輩、こんな時とはいえ発言には気を付けて下さいよ…」

それを聞いた美千代がクスリと笑い、五十鈴ににらまれる。

「ちょっと美千代さん、私がこんなこというの、おかしいですか?」

「いえ、五十鈴さんはこんな時でも真面目なんだな、と思いましてね…えーっと、あれ、万世橋ですよね?ということはあれを渡れば秋葉原、ですか?」

話題を逸らそうとする美千代の様子に直は少し笑いながら後ろを振り返った。この速度で走り続けるのは子供やお年寄りには厳しいだろう。だが、上野が無事だというなら、秋葉原から向こうは、少なくともこの辺りよりはマシな状況だと思われる。それまでは、何とか頑張ってほしい。直は、後ろの人々に向かって大声を張り上げた。

「皆さん!神田川を渡れば火の勢いも収まってくるはずです。もう少し、頑張って下さい!」

その声に、おおっという返事が響き、人々の表情が明るくなった。

「ええ、そうですね。もう少し、頑張りましょう」

泉美が頷いてそういう。刀使たちもまた、直の一声に明るい顔になった。

「はい、ここまで来て死ぬのは御免ですよ。ね、サトちゃん!」

五十鈴が美千代の背にいるサトの頭に手を置いてそういうと、

「あ…はい!」

サトは元気に返事をした。誰もが、きっと何とかなる…そう思った矢先だった。

烈風、とでもいえばいいか、全員の足を止めるほどの風が北から吹き付けた。

「くっ、息が…!?」

呼吸すらも許されないほどの空気の激流に顔をしかめ、確かめるようにその風の向かった先を見て、直は我が目を疑った。

「え…?火の、竜巻…!?」

渦巻く炎が編み出した天を衝くほどの巨大な竜巻が、突如として現れていた。

「何ですか…あれ!」

「え、こっちに向かって来る!?」

後輩刀使二人が狼狽する。後方の人波が、混乱と共に崩れつつあった。

火災旋風、という現象は大規模な火事の際に起こることが知られている。

この夜、周辺の可燃物を巻き込んだ炎が次々と合わさり、あまりにも巨大になってしまったその炎は、自らの存在を維持するために酸素を欲して周囲の空気をも吸い込み始めた。結果として四方の空気がこの炎に巻き込まれ、はるか上空にまで達する巨大な火の渦が発生した。まさに火災の極致、とでもいうべき現象であった。

「何かわかりませんけど、あんなのに巻き込まれたらお終いです!とにかく急ぎましょう!」

泉美がそういったが、完全に取り乱してしまった人々が立ち止まっている刀使たちを我先にと追い越し始めた。人波にもまれ、身動きが出来なくなっている間にも炎の渦は近づいてくる。

「ちょっと、皆さん落ち着いて!きゃあっ!」

転びそうになる五十鈴の手を、直が取る。

「……皆さんも、このまま行ってください。殿は、私が務めます」

「ちょっと直さん、殿って、何を…」

ゆっくりと、左右にうねるように動きながら迫って来るその火の渦が、実家の方角からやって来ているのが、直にはわかっていた。どうやらもう、失うものは無くなったようだ。

「せめて、あれに一太刀浴びせて火の勢いを鈍らせようと思います」

「な…何をいってるんですか!そんなことであの火が収まるわけないでしょう!?」

「じゃあ、逃げ切れると思いますか?あれから」

直がそういうのを、泉美は否定できない。彼女らの合間を縫っていく人々の波が万世橋を一度に渡り切るのは、残念だが、不可能だ。橋の手前には人が溢れ、身動きが取れなくなるだろう。どの道、あの炎の渦に呑まれるのは時間の問題、ということだ。

「だったら、ちょっとあれに斬り付けてみよかと…こう、物凄く速い斬り込みで真空を作れば、火が消えるかもしれませんよ?」

「真空って…はあ…でも、そうですね。もうこうなったらやってみますか」

泉美は溜息交じりにそう答え、直の隣で蛍丸を構えた。それを見て、美千代が背にいるサトを下ろす。

「よいしょっと…ごめんね、こんな所で下ろしちゃって」

「サトちゃん。お姉さんたち、ちょっと頑張ってみるから、ここで待ってて」

サトはひどく不安そうな表情を浮かべたが、それでも、お姉さんたちの表情に合わせて、ぐっと口をつぐんで、頷いた。

「あれ、泉美さんはともかく、五十鈴さんと美千代さんはいいんですよ?」

「いえ、真空斬りなんて時代劇みたいで格好いいじゃないですか。ちょっと、やってみたいんですよね」

「真空斬りはともかく、人々を護るのが刀使の役目ですから。御付き合いいたします」

五十鈴と美千代がそういって、それぞれ直と泉美の隣について構えた。

「もの好きな方たちですね…それじゃ直さん、いいですか?」

「ええ…あ、荒魂さん、あなたもお仲間を連れてお逃げなさい」

直がそういって肩の荒魂さんの頭をつつくと、荒魂さんは直たちの前方に飛び降りた。そして、「ギイッ、ギィッ!」と左右に呼び掛けるように、嘶く。

「え?荒魂さん?」

直がそう声をかけると、荒魂さんは一度こちらを振り返って、大きく口を開いた。

「あれ…笑っている…んですか?」

泉美の言葉に直は構えを解いた。

「荒魂さん!ちょっと、何をする気!」

荒魂さんは直の言葉を待たず、炎の渦に向けて駆けた。その後を追うように、大小様々な荒魂たちが刀使たちの横をすり抜けて荒魂さんの方へ集まっていく。そして、

「んっ!?」

「何ですか、これ!?」

刀使たちを奇妙な現象が襲う。自分の前と後ろに自分が見える…そして、全身に不思議な感覚が宿っていた。この場の4人は知る由も無かったが、これは大荒魂が現れる時、刀使だけに発生する現象であった。隠世からの力が一時的に大量に現世に流れることで二つの世界の境界が曖昧になり、隠世から力をもらっている刀使たちに影響が出るのだ。それを証明するかのように、目の前では多数の荒魂たちが折り重なり…巨大な龍のような姿をした大荒魂が現れていた。

「あ…荒魂さん…」

巨大な龍の大荒魂は、もうギイギイとは鳴かない。低い咆哮を上げて、炎の渦にその身を絡ませながら上昇していく。竜巻に、龍が巻き付いていく。同時に、その場の4人の刀使たちの頭には、その巨竜の意志が流れ込んできた。

「斬れ…?」

「自分を斬れ…?」

「何これ、あの龍の荒魂が、そういってるっていうんですか!?」

泉美、美千代、五十鈴が直の方を見る。

「そうですね、そういっているようです。自分を斬って、この炎を、周囲の熱エネルギーを隠世に送れ、そういっています」

直は宗三左文字を一度振り、構え直す。

「信じましょう、あの荒魂たちを」

「刀使が荒魂を信じる…ですか。そうですね。荒魂を斬った時に、荒魂の意志は霧散して隠世に流れる、という説もあります。その時に熱を持って行ってくれるのかも…賭けてみましょう、荒魂たちに。五十鈴さん、美千代さん、あなたたちは下半分を斬って下さい。私と直さんは、龍の身体を昇ります」

「ええ、行きましょう。五十鈴さん、美千代さん、よろしくね!」

直がそういった直後に、二人は後輩刀使たちの返事も聞かずに共に迅移で龍の身体が描く螺旋を、跳びながら昇って行った。

 

「全く…とんでもない先輩たちですね…」

美千代がぽつりと呟く。

「ええ、あの二人って何だかんだで少し似ているんですかねえ?」

「ふふ、そうかもしれません。さ、私たちもやりましょうか」

「ええ、とんでもない先輩の後輩ですからね!」

美千代と五十鈴はそういって笑い、荒魂に斬り込んでいった。

 

 直と泉美は龍の身体を斬り付けながら、跳躍を繰り返す。

「何ででしょう、あんまり熱くないですね」

「そうですね、やっぱり隠世との関係があるんでしょうか」

炎のすぐ脇を跳んでいるにもかかわらず、不思議とさほど熱を感じない。ふと、周囲を見回すと既にかなり高い所まで上がってきているのがわかる。そして、東京の下町が少しの隙間も無く焼かれていることも、よくわかった。驚いたことに、同じような炎の渦が他にも数本上がっている。

「ここの炎がなくなれば、逃げ道ができる…!」

「ええ…!直さん、見えましたよ、頭です!」

二人は炎の頂点と、龍の荒魂の頭にまで上り詰めた。龍の頭は、何となく荒魂さんに似た形をしていた。

「首は私が狙います。直さんは、頭を!」

「了解です!」

まず泉美が跳び、横一文字に首を斬る。そして、直が飛んだ。

「ごめんね、荒魂さん…。私の刀使の力を全部あげる。だから…この炎を連れて行って!」

空中で対峙した大荒魂の頭は、やはりそこでも大きく口を開けた。

「はあああっ!」

全身全霊の力を込めて、直は宗三左文字を斬り下ろした。龍の頭が真っ二つに分断され、それより下、刀使たちによって全身に入れられた斬り込みからノロが弾けだす。それはほとんど爆発のようであった。身体の各部でノロが噴き出し、荒魂としての形を保てなくなるその一瞬に、抱いていた炎が、削り取られるようにして消えて行く。

直と向き合っていた巨大な頭もそうして炎を呑み込んだ…その時、直の目の前にここではないどこかの空間が広がった。

 

 前をひょこひょこと進む荒魂さんの行く先に、よく知った後ろ姿が3つ、並んでいる。

「父様!母様!おばあちゃん!」

直の呼び掛けに、3人はこちらを振り返り、驚きながらも笑顔を見せた。

「よかった、よかった…もう、会えないと思ってたのに…!」

駆け寄る直に父と母は顔を曇らせ、首を横に振った。直の足が、そこで止まる。3人の足元には何か霞のようなものが流れていて、それが明確にこちらと向こうを隔てていた。ここがどういう場所なのか、直にはわかった気がした。

「そう…私はまだ、そっちには行っちゃいけないのか…」

タツが片手を上げて、ニイっと笑った。3人との距離が、ゆっくりと開いていく。

「おばあちゃん…」

直はいつの間にか溢れていた涙をぬぐい、祖母と同じ笑みを浮かべた。

「私もそっちに連れていってほしいけど…でも、そうじゃないんだよね。大丈夫、私、父様、母様、おばあちゃんの分もしっかり生きて行くよ」

父と母が、涙を浮かべて何かを言っているようだが、何も聞こえては来ない。直は今、伝えなければいけないことを必死に考えて、叫んだ。

「ありがとう、今まで育ててくれて、本当にありがとう…!」

声の限りにそう叫び、懸命に手を振った。

最愛の両親と祖母は、やがて霞の向こうに見えなくなる。手を下ろしまた涙を拭いながら足元を見ると、そこには荒魂さんがいる。直の様子を、黙って見ていたようだ。

「荒魂さん、ありがとう。最後に父様と母様、おばあちゃんに会わせてくれたんだね…ごめんね、斬っちゃって。でも、あなたたちのような荒魂がいたこと、忘れないよ。いつかきっと、また現世に出て来てね。刀使と荒魂は分かり合えるんだって、みんなに見せてあげよう」

荒魂さんは欠けた尻尾を振って「ギギィ」というと、お前は向こうだ、とばかりに顔を向けて示した。直は頷いて、踵を返した。

 

「大丈夫ですか、直先輩!」

「ん…私…」

気が付くと、五十鈴に抱えられていた。五十鈴の腕から身体を起こして地面に足をつけ、それから目尻に涙が残っていてるのに気付き、急いでそれを拭き取る。

「そっか…落ちて来たのを受け止めてくれたんだ、ありがとう」

「いえ、ケガが無くて何よりです。それより見て下さい。この辺りの火が本当に消えました!今のうちです!」

周囲を見回すと、確かに火も火の粉も無い。少し距離を置いたところに泉美と美千代の姿もあった。直は何も無くなったその一帯を少し、眺めてから、

「そうですね…行きましょう」

上野の方へ、前へ、顔を向けた。4人は足を引きずりながら歩いて来たサトを迎えて、全員で上野へ急いだ。

 

 

 多くの人々が、半ば茫然としながらその光景を眺めていた。上野恩賜公園から望む東京の下町は、昼間のように明るい。幾筋もの煙が立ち上り、ここまで焦げた臭いがやってくる。あの中にまだ、どれほどの人がとり残されているのだろうか。

「アメリカ人も…人なんですよね?」

無数の煤と火傷にまみれた手足を見ながら直がそんなこというと、

「どうでしょう…鬼畜、というのもあながち言い過ぎではないのかもしれませんね…」

灼けた髪を押さえながら、泉美がそう答えた。

「人が、人にここまでのことができるなんて…いくら戦争だからって…」

「ええ、サトちゃんみたいな、何も知らない小さな子だって沢山いるのに…」

美千代と五十鈴が、サトを抱きながらそういった。そして、全員がその場に座り込んでしまう。もう、疲労の限界を超えていた。

 この夜、東京では10万人以上の人が死に、100万人以上の人が家を失った。火は夜明けまで燃え続け、燃える物が無くなってようやく収まるという有様だった。街は文字通り灰燼に帰し、辛うじて生き延びた人々もその多くが家族を失い、財産を失って、過酷な生活がだけが残されることとなる。

だが今は、明日のことさえ考える余裕もなかった。

「何とか、隊舎に帰らないと…」

「ええ、でも、身体が、もう…」

直と泉美がそんな遣り取りをしている横で、五十鈴と美千代、それにサトは既に舟を漕いでいた。直と泉美はそんな様子を見ながら笑い合い、そして、そのまま意識が眠りに絡め取られていった。

 

 

 



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八章

 

 

 一夜明けて、白日の下にさらけだされた被災地の惨状は目を覆わんばかりだった。最早建物らしい建物は残っておらず、燃え続けて黒焦げとなった死体が至る所に転がっていた。未だ、燻っている火もあり、街全体が焦げ臭い。生き残った人々は自分の家を、家のあった場所を目指して足をひきずるようにして歩いていた。

大火を逃れた刀使たちもまた、隊舎への帰路を急いでいた。途中、街の復旧のために出動していた仲間たちと出会えば、再会を喜び合ったが、結局その日の夜になっても戻らない刀使たちがいた。甲斐百合子、島田希美、そして早乙女凪子の3名だった。

 

 一体どれほど眠っていたのだろう。目を開けて周囲を見回すと、そこは4床のベッドが並んでいる明るい部屋だった。ただ、自分の分を除く3床は空いている。こんな部屋は隊舎には無いから、どうやら病院にでも運ばれたらしい。

空襲の翌朝、やっとの思いで隊舎まで戻ったことは覚えている。だが、直にはそこから先の記憶が無かった。上半身を起こしてみると、誰かが寝間着に着替えさせてくれたということと、腕にいくつもの火傷の跡があることがわかった。あの夜のことは、悪夢では無いらしい。小さく溜息をついて窓の外を眺めると、木々の間で鳥がさえずっている。

「東京じゃない…のかな?」

少なくとも、あの地獄絵図のようになってしまった町並みは窓からは見えなかった。そんなことを考えていたら、部屋のドアノブが回り、

「あ、直さん!目が覚めたんですね!」

「直、無事だったか!」

泉美と、兄の司がそういいながら雪崩れ込んできた。

「泉美さん、え、兄さま…なんで?」

「何で、じゃない、全く心配したんだぞ!近衛祭祀隊の隊舎に行ったら意識不明で病院に運ばれたというから…!」

「ああ、でも本当に良かったです。あれから全く目を覚まさないからもうどうしようかと思っていたんですよ…!」

二人の様子は真剣そのものだった。

「ええっと…ご心配をおかけしたようですいません。何とか隊舎まで戻った所までは覚えているんですけど、その後…どうなったんですかね?」

「ああ、そうね…直さんはその時倒れてしまったんですけど、私たち…私と五十鈴さん、美千代さんも似たような状態で、結局4人でこの市川の陸軍病院に運ばれたの」

「ああ、ここ、市川だったんですか…とういうことは空いてるベッドには…」

「ええ、私たちがいました。昨日までは、ね。私たちは一両日ゆっくり寝たらほぼ回復しました。ただの疲労だったみたいです。でも、直さんは全然目を覚ましてくれないからどうしたんだろうって…一旦隊舎に戻ったら今朝、お兄様が見えて…」

泉美がそういいながら、上半身を起こしたままの直の背中に毛布を掛けた。

「まあ、何にしろ無事でよかった…。直、俺が何故隊舎に行ったか、わかるか?」

「うちのことと、おばあちゃんのこと…かな?」

兄は頷いた。

「おばあ様のことは…ここに来るまでに泉美さんから聞いた。それで、父様と母様のことだが…」

「大丈夫です兄さま、わかってる。助からなかった…んだよね?」

兄と泉美が驚いたように顔を見合わせた。

「何だ、知っていたのか?」

「知っていたというか…兄さまの様子を見ればわかるし…」

「そうか…そう、そういうことだった。遺体はニコライ堂に運ばれていてな。昨日、確認して来た。運んでくれた人の話では、父様と母様は折り重なるように倒れていたそうだ…」

「そっか…兄さまは、あの時、どうしていたの?」

「前の日からずっと市ヶ谷台に詰めていてな…俺がいれば、こんなことには…」

直は、首を振った。

「兄さまだけでも生きてくれてて良かった…」

それ以上は、言葉にならなかった。父と母は、もうこの世にはいない。はっきりと突き付けられてみれば、やはりこれほどにつらく、悲しいことはなかった。だが、不思議と涙は出てこなかった。自分の感情の輪郭が、ぼんやりと歪んでいる。つらい、悲しい、それは理解できている。わかっている。だが、それだけだった。

「直…?」

俯いている直に、司が怪訝そうな様子を見せた。兄としては妹が泣きついてくる、くらいに思っていたのかもしれない。

「あの、直さん、何といっていいのか…」

目を伏せてそういう泉美が、宗三左文字を持って来ていることに直は気付いた。

「いえ、何とか大丈夫です…。泉美さん、左文字、貸してくれませんか?」

「え?ああ…ごめんなさい。目が覚めない以上、ここに置いておくわけにはいかなくて」

「そうですね…でも、今日持って来てくれたんですよね」

直は愛刀を受け取りながらそういい、柄に手をかけた。半ばわかってはいたが、嫌な感覚だ。目を瞑り、刀身を一気に引き抜く。鞘を傍らに置き、両手で構えるが、何の変化もなかった。泉美がすぐにその様子に気付く。

「直さん…!」

「やっぱり…ダメみたいですね、もう…」

「ん?どういうことですか?」

司がそういって直と、泉美を交互に見た。

「兄さま、私、刀使の力を使い切っちゃったみたい」

諦めたように笑いながら直はそういい、ふっと溜息をつきながら、納刀する。

「直さん、そう判断するのはまだ早いですよ。きっと、力がまだ完全に戻っていないんです。少しゆっくり休めば…」

「どう、ですかね…」

あの時、大荒魂の頭を割った時に垣間見たのは幻ではなく、隠世の入り口だったのだと、直は思っている。いわゆる「あの世」と隠世が同じものかどうかは知らないが、そんなところへ一瞬でも足を踏み入れるためには膨大な力が必要だったとしても不思議はない。

「直さん、ともかく左文字は置いていきます。また折を見て試して見て下さい」

「そうだな…一週間はゆっくり休んでおけ。入院の手続きは俺がしておく」

「入院…か…」

直は、ぼんやりとそういった。確かに、それも悪くないかもしれない。こんな自分が戻ったとしても、何の役にも立たないだろう。

「はい。ゆっくり休んで下さい。着替えも持って来ています。隊には私から報告しておきますから」

「はい…あの、泉美さん、凪子先輩と百合子先輩、希美さんは…?」

泉美は、沈痛な面持ちで首を振った。

「まだ…戻りません。春江さんたちも大けがをしていて、しばらくは動けない状態です。あ、でも吉乃さん、八重さんは元気です。サトちゃんも直さんにお礼がいいたいって、いってますよ」

「そう、ですか…」

そういって、直はぼんやりとした頭で天井を仰いだ。心に大きな穴が空く、とはよくいったものだと思う。

「今は余計なことは考えるな。とにかく休め」

「ええ、そうして下さい…」

泉美がそういって、直の上半身を寝かせて布団をかけた。直はされるがまま、再び横になる。

「わかりました…兄さま、泉美さん、ありがとう…」

兄の言う通り、何も考えていたくなかった。直はゆっくりと目を瞑る。

「ああ、また来る」

「ええ、お休みなさい…」

二人が出て行く。直はまた、ゆっくりと眠りに落ちて行った。

 

「済まなかったな、泉美さん。付き合ってもらって」

病院の廊下を進みながら、三歩先を歩く司が振り返って、そう声をかけてきた。

「いえ、着替えを持ってこようと思っていましたから、こちらこそ助かりました」

泉美はそういって、頭を下げる。二人は、ここまで司の出した車で来ていた。一応、軍の病院の様子を見に行くという名目らしく、司は陸軍の公用車を借りていた。

「いやいや、こういう時、男は気が回らなくて…いつも気遣いいただいて感謝の言葉もありませんよ」

司が軍帽の鍔に手をやりながら一礼し、それからまた歩き始める。泉美は、それを受けて立ち止まったまま、動けなくなった。こんな風に年下の女に向かって頭を下げるなんて、やはり変わった人だと思う。そして、今日はずっと自分の胸が高鳴っていることに今更ながら気が付く。

「お兄様、あの…」

無意識に、言葉が出ていた。しまった、と心の中で思う。

「ん?何です」

司が再び立ち止まり、振り向く。いいたいことはいくらでもあった。だが、頭の中まで熱くなって考えがまとまらない。司はそんな泉美の様子を見ながら完全にこちらに向き直った。穏やかな笑みを浮かべていた。それを見て、泉美は自分の言いたかったことが、ごく簡単なことだとわかった。

「いえ、その…直さんもいっていましたが、お兄様が生きていてくれて良かった…です」

もう、まともに司の顔を見ることも出来ない。泉美の視線は完全に病院の床に落ちていた。

「はは…ありがとうございます。しかし正直、父や母と一緒にいられなかったのは悔やまれます…これからもずっと、そのことは考え続けるでしょう。全く、運がいいのか悪いのか…」

「そんなこと…」

司は自嘲気味に笑い、

「私の同期や友人たちは大陸や南方で立派に戦死を遂げています。なのに自分は…ぬくぬくと内地で暮らしているにもかかわらず、祖母や両親すら守れなかった…傷心の妹にも何もしてやれない…。こうして自分だけおめおめと生き延びているのが嫌になります」

そういって、前を向いて進もうとする。その背中に、泉美は思わず叫んだ。

「そんなことを言わないで下さい!」

司が、振り返る。今度は、その司の眼をしっかりと見据えて、泉美は続ける。

「あの空襲は、本当に酷いものだったんです。お兄様がいても、お父様やお母様を助けられたかどうかなんてわかりません!私たちだって、何度ダメかと思ったか…!」

「泉美、さん…」

泉美は、あの日の光景をまざまざと思い出していた。

「私は、お兄様が生きてくれて良かったって、いったんです!だから、そんなこと、そんな悲しい事をいわないで…下さい…」

咄嗟に爆発してしまった感情のせいで、泉美の目からは涙があふれていた。

「私だって…刀使なのに、友達のおばあ様やお父様、お母様を、助けられなかった…!」

そういった次の瞬間、泉美の顔は司の胸にあった。

「すまない、泉美さん。俺は本当に、なんてつまらないことを…」

その胸で少しだけ泣き、それから身体を離す。

「あの、すいませんでした…取り乱してしまって…それに、失礼なことを…」

「いえ、お陰で目が覚めました。俺は俺なりに、この戦争に向き合ってみます」

「はい…」

司は、泉美の両肩に手を置いた。

「こんな思いは…もう誰にもさせたくないですからね」

泉美は涙を拭いながら、しっかりと頷いた。

 

 三日が過ぎた。直の身体はもう完全に回復していたが、やはり刀使の力が戻る兆候は無い。直は、自分の精神状態があまり良くないことを自覚していた。夜中に息苦しくて起きることがあった。自分のいうことを聞かなくなってしまったこの御刀で、いっそ自分の命まで断ってしまえば楽になるのではないか、という考えまで頭をよぎったことすらあった。祖母、父と母、さらに刀使の力まで失ってしまったことが、自分で思っている以上に深い心の傷になっているのだ。さすがに鬱々としたこの気分を晴らさなければどうにかなってしまいそうになってきたので外に出てみようとしたが、軍の病院だけあって外出には面倒な届け出が必要らしい。聞けば屋上が解放されているとのことなので、草履を履き、どてらを羽織ってそちらへ向かった。

少し肌寒いがよく晴れていて風も無い。大きく深呼吸をして眼下に広がる景色を見ると、少しずつ、草木が芽吹いているのがわかる。思わず、背伸びをする。

「ああ…やっぱり出てきてよかった…。ん?この音…」

その時、聞き慣れた鋭い音が耳に入って来た。大きな貯水槽を回って音の方へ向かうと、一人の少女が真剣を振っている。完全に同業者と思われたが、見たことの無い顔だ。上は制服、下はもんぺという一般的な女学生の出で立ちで、どこかの組織に所属している刀使には見えない。陰からじっと観察していると、かなり独特の動きをしているのがわかる。古流だろうか、見慣れない構えから繰り出される突き技が鮮やかだ。

「何か、御用ですか?」

一連の動きが終ると、刀使と思しき少女が、振り向きもせずにそういった。とっくに気付かれていたらしい。直は、少しばつが悪そうに前に出る。

「あ、お気づきでしたか…。あの、すいません。別に盗み見する気は無かったんですけど、きれいな型だったもので…」

「あら、そうですか?私、そんなにきれいでしょうか?」

「いえ…その、何というか、剣捌きの方です…」

「ああ…」

「あ、いえ、もちろんとてもおきれいですよ、はい!」

奇妙な沈黙が、二人の間に流れる。相手の少女は直と同じくらいの年頃だろう。つやのあるおかっぱ頭に、赤みがかった大きな瞳が輝いている。身長は直より少し低い程度だが、細身のために小柄に見えた。そして特徴的なのはその御刀だった。刀身の先端から半分が、両刃のような造りになっている。そんな御刀を、直は見たことが無かった。

「ええっと、すいません、私は刀使…というか一応刀使で、そう、護国刀使をやっています、来栖直といいます。お見かけしたところあなたも刀使のようですが…」

それを聞いて、少女の顔がぱあっと明るくなった。

「護国刀使の来栖直さん!?本当ですか!」

少女は、御刀を手にしたまま駆け寄ってきた。

「あなたが、護国刀使でも屈指の実力者といわれる…」

少女は、目をきらきらと輝かせて直の身体をすみずみまで見る。直としては、少しいたたまれず、その目を反らしにかかる。

「あの、それ、珍しい御刀ですね。銘は何ていうんですか?」

「ああ、これですか?小烏丸っていうんです。面白い作りでしょ?平安時代に打たれた古い御刀なんですよ。あ、すいません、まだ名乗ってもいませんでしたね。私は柊真知子、と申します。どうぞ、よろしくお願いします」

柊真知子と名乗った少女は息もつかせぬ勢いでそういってから御刀を納め、頭を下げた。なかなかに、元気な子のようだ。

「あ、はい、こちらこそよろしくお願いします。ところで、あなたも刀使、なんですよね?どうしてこんな所に?どこかケガでもされたんですか?」

「ああ、別に私がケガをしたとか病気だとかそういうことではないんですけど…んー私としては来栖さんがここにいることの方が疑問なのですが、質問に質問で返すのは無礼ですから…そうですね、では私からお答えしましょう。私は、ある方のお供でここに来ています。ただそれが誰かは、お教えすることはでいないんですけどね…さ、次は来栖さんの番ですよ。来栖さんは何故ここにいるんですか?」

いつの間にかどんどん会話を進められてしまっている。だが、それが今の直にとっては楽だった。

「私は…この間の下町空襲で力を使い果たして体調を崩してしまったんです。御刀を持っても何の反応もなくて…それでしばらくここで休め、といわれまして…」

「力を失ったと…?失礼ですが、ちょっと私の御刀を持ってもらっていいですか?」

「ええ…」

真知子が再び小烏丸を抜刀し、それを直に握らせた。だが…やはり直には何の変化もなかった。

「ほら、普通の刀使なら自分の御刀でなくても変化はあるはずですよね?」

「ふうん…なるほど、確かに何も起きませんが…妙な感じですね」

「妙な感じ…ですか?」

直は小烏丸を真知子に返し、真知子はそれをゆっくりと鞘に納める。

「ええ、妙な感じ…来栖さん、私はある方のお供で来ている、といいましたよね?それが誰だか、知りたくありませんか?」

「え?いえ、それは明かせないんですよね?任務上の秘密ということであれば無理に教えていただかなくても…」

「もー、そんなつまらないことを言わない出くださいよ!知りたいでしょ?ね、本当は知りたいんでしょ?」

真知子がずいずいと直に迫る。直としてはむしろそれを自分が知ってどうするんだ、という気がしたが、そんなことをいうとさらに詰め寄られそうだ。

「え、ええ、そうですね、はい、是非知りたいです。どなたなんですか、一体?」

そういうと、ようやく真知子は満足したように両手を組んでふんぞり返った。

「ふーん、ようやく素直になってくれましたね。うーん、本当は決して明かしてはいけないんですけど、護国刀使の来栖直さんであれば特別に教えて差し上げます。付いて来て」

真知子はそういうと、何とも楽しそうな様子でさっさと屋上の入り口まで行ってしまう。半ば呆気にとられながらも、直は慌てて、揺れるおかっぱ頭を追いかけた。

 

「こんな所にも病室があったんですね…」

入り口のドアの造りからして違うその病室は、通常の病棟と隔離された場所にあった。

「いわゆる貴賓室、ですね。さ、入って下さい…私が部屋の主ではありませんけど」

そういって悪戯っぽく笑う真知子の後について部屋に入ると、大きな窓の側にある立派なベッドに、よく知る人物が半身を起こして、こちらを見ていた。

「来栖…直さん?」

「え、碧様!?どうしてここに!?あ…」

いいながら直は、碧が腕に赤ん坊を抱いているのに気付いた。横合いから、真知子が顔を出す。

「ふふーん、どうです?驚きましたか?」

果たしてそれはどちらにいっているのか、直も折神碧も、さっと真知子を見据えた。

「おお、さすがに刀使と元刀使のお二人、眼光が鋭い…来栖さん、碧様はここで二日前にこの、葵様をお産みになったんです」

直は、絶句していた。

「それで、碧様、来栖さんはこの間の空襲の際に力を使い果たしてここで養生しているそうです」

「ええ、昨日、由良さんからの報告書が陸軍経由で入っています…直さんはご家族も失ったとありました。あの河井タツさんも…お悔やみ申し上げます…」

「いえ、そんな…」

「でも、ありがとう。あなたたちのお陰で多くの人たちが避難できたと聞いています」

「いえ、ただ、無我夢中で…」

直の表情が自然と強張ったのを碧は見て取ったのだろう、

「あ、ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまいましたね…」

そんな言葉をかけられたのだが、気を遣われるのは返ってつらいことだった。

「いいえ…それよりも碧様、おめでとうございます。女の子、ですか?」

「そうです、立派な折神家の跡取りですよ!]

真知子がそういって、碧の腕の中にいる赤ん坊に満面の笑みを向けた。

「ごめんなさいね直さん。護国刀使の皆にも知らせたいのですけど、出産は極秘扱いといわれていてね、どの病院にいるかも知らせてはいけないらしいの」

「碧様は本来ならば綾小路の本家で出産されるべきところなんですけどね。それを最後まで近衛祭祀隊の側を離れるわけにはいかない、なんていわれて聞かないんですから…この病院を香織様に紹介していただけたからよかったようなものの…」

「極秘扱い…なんですか?」

直の問いに、碧は苦笑する。

「ええ、軍は私がとんでもない兵器を生み落すとでも思っているようね。まあ、実際の所、去年から元刀使が出産する際には届け出をするよう言われているのだけれど」

そういわれて、直はあの模擬戦のことを思い出す。

「やっぱり軍は…刀使を戦争に使おうとしている、ということですか…」

「ええ、そのようね…この子が御刀に選ばれるような歳になるまで戦争を続ける気なのかしら?」

血相を変えた真知子が、碧の手から赤ん坊を取り上げる。

「冗談じゃありません。葵様は絶対に戦争なんかにやりませんから!ねー?」

「ちょっと真知子さん…本当に、おかしな子でしょ?柊の家の人たちはもっとこう、厳格な方が多いんですけど、どういうわけかこの子は昔からこんな風なのよね」

碧が笑いながらそういった。そこで、直は少し思い出したことがあった。

「柊の家…そういえば昔から折神家とは縁が深いと聞いたことがありますね」

「ええ、うちはいろいろと辛気くさい家なんですけどね、でも、こうして碧様と赤ちゃんのお世話を任せてもらえるということだけは、最高ですね。あーもう、葵ちゃんかわいくてかわいくて」

そういいながら真知子は頭を揺らして色々な角度から葵をのぞき込んでいる。生まれたばかりの赤ん坊はまだ表情らしい表情を浮かべることもなく、かといって泣くようなこともなく、あー、うー、と声を発していた。

「直さん、良かったらあなたも抱いてくれない?」

「え?」

「あ、そうですね。ほーら、葵様、強い刀使のお姉さんですよー」

「え、ちょ…!」

直は、思いの外戸惑いながら、次期折神家当主となるであろう赤ん坊をその腕に抱いた。思っていたよりずっと重く、そして温かい。

「葵…様…」

「生まれたばかりの赤ん坊に『様』は不要よ。ああ、まだ首が座っていないから、揺すってはだめよ?」

「あ、はい、わかりました…」

答えてから再度、葵に目を向ける。赤ん坊は頭を動かしながら、直の顔をじっと見ている。白目が真っ白で、肌も髪も、何もかもが新しい。

「新しい…命…」

直には、この赤ん坊が何か信じられないもののように見えた。失われた多くの命があったのに、人はまたこうして新たな命を生み出すのだ。

「そうね、新しい命…直さん、あなたはたくさんの消えゆく命を見て来た。でも、またこうして生まれてくる命もある…」

「はい…」

葵が、うー、といって手を伸ばしてきた。葵の手に、自分の人差し指を持っていくと、葵はそれを掴んだ。そして、笑った。

自分という人間が、新しい命に繋がった…そんな思いと共に、無意識に涙が溢れた。炎に包まれた祖母、その祖母と一緒に別れを告げに来た両親、そして凪子や百合子、希美…その人たちの記憶は、自分が受け継いで行く。そして今度はそれが、自分の指を確かに握っているこの新しい命に受け継がれて行く。

二度と戻ることは無いと思っていた人たちの思いは、共に生きた人々に受け継がれているのだ。自分がその人たちの死を哀れむなどということは、とんだ思い上がりだった。死んでいった人たちは、あんなにしっかりと生きて、今生きている者たちの記憶に刻まれているではないか。受け継ぐ者がしっかりしなければ、あの世でその人たちにあった時に顔向けできないというものだ。

自分の身体を巡る全身の血が全て入れ替わったかのような感覚、腕の中の赤ん坊の温かさを護るための力が、確かに宿っていくのがわかった。

「来栖…ああ、もう直さん、でいいですよね?」

それまで黙っていた真知子が、直の名を呼んだ。

「はい」

「うん、じゃあ直さん、今度はこれを握ってみて」

真知子がそういって直の腕から葵を受け取り、自らの御刀を鞘ごと手渡した。直は、鞘からその特徴的な刀身を抜いていく。全身に、これまでとは少し違う、しかし同質の力が行き渡るのを、しっかりと感じた。

「これは……」

「やっぱり、まだ器がちゃんとありましたね。葵様が気付かせてくれたんでしょう」

真知子がそういってウンウンと頷いている。

「器…?葵様が?」

「そうです。力が無くなっても、器さえあればまた隠世からの力を受け入れることはできるんです。赤ちゃんはみんな隠世の記憶を持って生まれて来るみたいで、もしかしたら何かのきっかけになるかも、とは思ったんですが…こうも上手くいくとは思いませんでした」

「そうだったんですか…」

「さすがね、真知子さん」

碧に褒められて、真知子はにやけながら続ける。

「ありがとうございます。刀使は年が若い程御刀の力を引き出せる、というのもその辺と関りがあるのかもしれません。よくわかってはいないんですけどね…ともかく直さん、これであなたはまだ刀使としてやっていけることがわかったわけです。ただ、今までの力は全て無くなっているから、今までと全く同じ、というわけにはいかないかもしれませんが」

真知子の言葉に、碧が頷いた。

「直さん、あなたは今、亡くなった人たちの思いを受け継ぐので精一杯なのかもしれない」

葵がまたうー、といって母に向かって手をばたつかせたので、真知子が碧の腕に葵を返す。

「でも、それが一段落したら、これからこの子たちが生きるこの国を、未来を、どうか護ってほしい…」

直は、涙を拭って、真っ直ぐに碧と、葵を見た。

「碧様、私は護国刀使、国守りの刀使です。葵様たちが生きていくこの国を、きっと護ってみせます…!」

「ありがとう、お願いします」

碧がそういって、直に礼をとる。

「真知子さん、ありがとうございました。私、行かなきゃ」

直が小烏丸を真知子に差し出すと、

「はい、そのようですね」

真知子は笑顔でそれを受け取った。

 

 同じ頃、由良は一人、焼け野原の一角で人を待っていた。

ここに来るまで、黒焦げの死体を満載にしたリヤカーを何度か見ていた。あちこちの公園や寺の境内へ一時的に埋葬されるらしいが、もうどこも一杯になっているという。生き残った人々は、そんなリヤカーを横目に何とか手に入った食糧を煮炊きして食いつないでいる。人の死は、それが近親者や知り合いの場合も含めて、もう日常の出来事になりつつあった。

「いつまでこんなことが…」

由良はそういいかけて口をつぐむ。そこへ、待ち人が現れた。

「…約束通り一人、御刀も持っていないな、霧島由良」

「はい…今後の相談というのは一体何ですか、鷹司様…」

砕けた表情と恰好をした貴族様の姿があった。由良も、鷹司京も、制服は身に付けず、一般的な和装にもんぺ、という出で立ちである。由良にとっては華族の京がそんな姿をしているのが何とも滑稽に見えるのだが、そうして身分を隠して、しかも外で会うというのは何か余程のことだと思われた。

「うむ…まずは護国刀使の殉職者にお悔やみ申し上げよう」

「痛み入ります…ついに護国刀使にも殉職者が出てしまいました…鷹司様のところの刀使はご無事で?」

「ああ、我が神功刀使は出動が間に合わなかった…護国刀使には悪いことをしたと思っている」

「…ジングウ刀使?」

「そうだ。かつて朝鮮半島に攻め入り、これを平らげた神功皇后の武威にあやかった命名だ」

「それはまた、ご大層なお名前ですね…」

あの、模擬戦の時の刀使たちはさらに軍に近い存在になっているようだ。

「ふ…それはさておき、今日はその護国刀使の殉職者について話をするためにお前を呼んだ。今、殉職者は何人を数える?」

「正確にいえば殉職、というより未帰還ですが…3名、です」

「うん…ではその数は1名減だ。2名、ということになるな」

「え?」

聞き返す由良に、京がぐっと顔を近づける。

「早乙女凪子は生きている。我々のところで保護している」

由良は、一瞬言葉を失い、それから、

「ほ…本当ですか、それは!」

京につかみかからんばかりの勢いでそういった。

「落ち着け、あまり大きな声を出すな。本当だ、早乙女凪子は生きている。あの下町空襲の翌朝、軍から報告があったのだ。とある山中でB29の墜落が確認され、その近くに帯刀した若い女性が倒れている。刀使ではないか、とな。現場に向かった隊員の一人が早乙女の顔を覚えていた。それですぐにこちらで保護したのだ」

「そう…!そうだったんですか…!ありがとうございます。それで、凪子は今どこに?」

「そう逸るな。そこまでいい話でもないのだ…早乙女は確かに一命は取り止めた。だがな、瀕死の状態なのだ。意識も無い」

「え…?」

「今、どこにいるかを教えることはできん。だが、相応の医療が受けられる施設にはいる

と答えておこう。そこで霧島由良、お前に確認をしたいのだ」

「確認…?何を、ですか…?」

京は深呼吸をして、それからゆっくりと由良を見据えた。

「早乙女凪子は、このままでは助からない。だが唯一つ、助かるかもしれない施術がある」

由良はそこでようやく、今日、ここに呼び出された理由がわかった。

「ノロを接種させれば助かる可能性がある…そうおっしゃりたいんですね…?」

「そうだ…だが、そのためには早乙女に護国刀使を…近衛祭祀隊を抜けてもらわなければならん。これはあくまで我々の隊員にのみ許され、施されている処置だからな……だが、早乙女本人はさっき言った通り、意識がない」

「私に決めろ、と?」

「少なくとも近衛祭祀隊から除籍させておかねばならないのでな。どうする、霧島?」

「凪子が…その処置で助かったとしても、その時にはもう私たちの仲間ではない、そういうことになるんですね?」

京が頷いた。由良の中では答えはとっくに決まっている。だが、凪子のことを思うとその結論を簡単に口に出すことは出来なかった。

「悪いがあまり時間は無いぞ…それと、ここまで私が話したことに嘘偽りは一片も無い。それは、我が誇りにかけて誓おう」

「はい、わかっています。そうですね…では、申しあげます。どんな手段でもいい、あの子が助かる見込みがあるのならそれを施して下さい」

由良と京はじっと、見つめ合った。

「わかった…では手続きは頼むぞ」

「はい…ただ、一つ、お願いしたいことがあります」

「何だ?」

「この決断をしたのは…早乙女凪子の身体にノロを入れることを決めたのはこの私だと、それだけは、はっきりとあの子に伝えて下さい」

「…なに?」

「仮に助かったとしても…あの子は自らの身体にノロが入ったことに悩むでしょう。むしろそのまま死んだ方がよかったといい出すかもしれません。だから、伝えて下さい。こうまでしてお前を生かしたのは霧島由良だと。呪うなら霧島を呪え、と」

京は険しい表情で由良を一瞥して溜息をつき、そして、

「全く、護国刀使の女共は…ふん、その覚悟や、よし。確かに早乙女にそう伝えよう。手間を掛けた」

それだけ言い残して去って行った。由良はその場を動かず、貴族様の背中を目で追うこともしなかった。

「もう、隠し事は無しっていったけど…さすがにこんな話は皆にできないな…まあ、千鶴だけには話しておこうかな…」

そういって、遮る物もないため良く見えるようになっていた宮城を眺めた。

 

「それじゃ、気を付けてね」

「はい、真知子さんも。本当にありがとうございました」

かろうじて焼け残った東京駅の近くで車の後部座席から降り、真知子に頭を下げる。

「気にしなくてもいいわよ。どうせお使いのついでだったしね」

「いえ、ここまで送ってもらったことだけじゃなくて…」

「ふふ、それこそ気にすることはないわね。あなたにはそういう力があったんだから…ああ、でも、その御刀はもうダメかもね」

直は、左手に持った宗三左文字にチラリとと目を遣る。あの後、試してみたのだが、わずかに反応はあったものの、左文字が以前のように直に応えることはなかった。

「ええ…でもそれはそれですから…それじゃ、碧様と葵様にもよろしくお伝え下さい!」

「ええ、いずれまた会いましょう」

真知子がドアを閉め、窓から手を振るとそれを合図に折神家所有の車は走り出す。今や貴重品となったガソリンだが、あるところにはあるのだろう。

直は、すっかり風景の変わってしまった街並みに目を遣りながら、皇居の敷地へ入る。隊舎の前で一つ深呼吸をして、扉を叩いた。

「来栖直です!只今戻りました!」

そういうと、軽い足音が近付いてきて、扉が開く。直の眼下に、麦わら帽子に軍手をした小さな女の子の姿があった。

「あ…!お帰りなさい!」

「サトちゃん!よかった、元気なのね?」

「はい!あの時はありがとうございました。ちょと、まっててください!」

サトは麦わら帽子の頭をちょこんと下げると、そういってまた奥へ駆けて行く。そして、寝ぼけたような顔をした青砥香澄を連れて来た。

「へ…あれ、ほんとに直さんじゃないの、え、大丈夫なの…?」

「ええ、もう大丈夫。寝てばかりもいられませんから」

「そう…なの。うん、おかえり」

「はい、ただいま帰りました。この時間じゃ、みんな、出てますかね?」

時計の針は14時を回ったところだ。

「そうねえ…千鶴先輩も裏の畑に行ってるし、上で寝てる子たち以外は出てるわね」

「もしかして香澄さん、今起きたところですか?」

「ええ、昨日は夜勤で…」

香澄はそういって欠伸をした。直はくすりと笑う。この人の、こういう所は嫌いではなかった。

「今日はこれからどうするんです?」

「ああ、ちょっと御刀の管理というか手入れというか…随分増えちゃったから…」

そういう香澄の手には、確かに御刀の台帳があった。

「あ、ちょうどよかった。私の義元左文字、見てくれません?ちょっとご一緒させてもらっていいですかね?」

「ええ、構いませんよ。それじゃ、荷物を置いたら階段の所に来て下さい」

「はい、ありがとうございます」

直は一つ頷いて、靴を脱いだ。

「サトちゃんはこれから畑かな?」

「あ、はい。ちょっと行ってきます」

「うん、よろしくね」

サトは香澄と直に頭を下げて、靴を履いて出て行く。

「サトちゃん、結局ここで暮らしているんですか?」

小さな背中を見送りながら、直がそういうと、

「ええ、色々手は尽くしているんだけど、お父さんが見つからないみたいなのよね…元々お母さんはいないらしいし…」

香澄がそう、少し暗い声で答え、さらに続ける。

「それで、五十鈴さんと美千代さんが面倒を見ることになって、二人の部屋で寝起きしてるの。二人がいない時はああやって、畑の草取りやら雑用を進んでやってくれてる」

「そうだったんですか…」

「それにあの子、どうやら適性があるみたいなのよね」

「適性って…刀使の、ですか?」

「ええ…一度それとなく御刀に触れさせたことがあったんだけど、その時、反応があったの。それにあなたたち、あの晩にあの子に2度会ったんですって?」

「ええ、そういえばそうでしたね…」

香澄はふっと小さな溜息をつく。

「何万人もの人たちが逃げ惑っていた中で、刀使のあなたたちに2度も会うなんて…それはやっぱり単なる偶然じゃないかもしれない、と私なんかは思うのよね」

「そうですね…そうなのかも…。でも、あんな小さな子を巻き込みたくはないですね」

「それは、そうね…」

香澄と直は、顔を合わせて苦笑した。

 

 直は一旦二階の自室に荷物を持って行き、それから一階で待っていた香澄と共に地下一階の祭祀場に下りる。ここはあまり湿気が籠らないように、という配慮の元に設計されており、通気口がいくつかあるため昼間でも光が入り、灯りは最小限の電灯で事足りる。見回すと香澄の言う通り、以前に下りてきた時より祀られている御刀の数が増えていた。 

「はあ…聞いてはいましたが結構な数になっていたんですね…何だかすいません。ほとんど手伝えなくて…」

「いえいえ、皆、任務で忙しいし、自分の御刀の手入れだけで手一杯でしょうからね。私にとっては子供の頃からの習慣のようなものですし」

そういいながら、香澄は祠の前にある御刀と台帳を順々に照らし合わせ、そのうち何本かに一本は実際に手に取って抜刀し、「ああ…これは少し砥いでおくかな…」などと言いながら刀身の様子を眺めている。

「あの、何かお手伝いしましょうか?」

直がそういうと、香澄は万年筆を舐めながら、

「うーん、そうですね…あ、そういえばさっき見てほしいっていってましたよね、義元左文字。どうかしましたか?」

「ああ、いえちょっと、反応が鈍くなったというか…そんな感じで」

直は、腰の御刀を差し出す。

「ほう、どれどれ、ちょっと拝借しますよ」

香澄はそういってゆらりと刃を引き抜き、その乱れの無い刃文を眺める。

「うーん…きちんと手入れしているようですね。特に問題は無いようです。反応が鈍くなった、というのは今までのような一体感が無くなったと、そんな感じですかね?」

「そうです、そういう感じです」

香澄はそれを聞き、また「うーん」と唸ってから、

「どうやら、適合性が薄れたようですね。義元左文字は新たな主を見つけたのかもしれません」

そういって、直に義元左文字を返した。受け取った直は、硬直してしまう。

「………え?」

「そういうことがあるんです。特にこう、何人もの人の手を渡って来たことで知られる御刀には、そういう傾向が見られますね。義元左文字といえば三好、武田、今川、織田、豊臣、徳川と、そうそうたる実力者の元を渡り歩いてきた『天下取りの刀』ともいわれる御刀ですから」

直は、その知識に感服しながらも、

「あの、それって私が弱くなったから義元左文字に見限られた…っていうことですか?」

そんな風に思わざるを得ない。

「いやいや、そんなことはないと思いますがね。ただ自分の力をより引き出してくれる、相性のいい刀使を見つけた、ということは考えられます」

「はあ…そうですか」

「ま、全く使えないというわけでも無し、それに直さんはもう一振り御刀を持っているでしょう?当面はそれで糊口をしのいで下さい。それじゃ、私が御刀の銘をいうので、直さんはその台帳の確認欄に印を入れてくれませんか」

香澄は、そういって台帳と万年筆を直に差し出す。

「あの…私今、結構ショックを受けておりまして…」

「あら、手伝いができなくてすいません、というのは私の聞き違いでしたか?」

直は「う」と短くいってから溜息をつき、義元左文字を鞘に収めて素直にその台帳を受け取る。これだけの数を確認するのは大変だな、と思いながら台帳をパラパラとめくっていると、ふと、目に留る銘の御刀があった。

「あ…『毛利藤四郎』!あるんですね!見せてもらっていいですか!」

「え?ええ、構いませんけど…何でまた?」

「おばあちゃんの、河井タツの御刀だったんです!」

「ああ、そういえばそんな話を聞いたことがありますね…はい、こっちですよ」

ついて行くと、脇差のような短い御刀が多く並んでいる一角がある。「確かこの辺り…」といっている香澄の後ろで、直は早々にそれを見つけた。台帳と万年筆をその場に置いて、手に取る。

「あった!これ…これですよね!?」

「ああ、よくわかりましたね。そう、それです。毛利家重代の由緒ある御刀です」

「おばあちゃん、模造刀を打ってもらってて…今はそれ、私が持っているのですぐわかりました…抜いてみても?」

「ええ、構いませんよ」

右手で柄を握ると不思議な感覚が伝わって来る。ゆっくりと鞘から抜き、その刀身と対面した瞬間、直の中に不思議な感覚が流れ込んできた。戦うための身体能力が上がっているというより、感覚器が鋭くなっているような、これまで握って来た御刀とは違う力の馴染み方だ。頭の中が澄んでいくようなこの感覚は、悪くない。

「ほう…これはこれは、どうですか?直さん?」

「え、あ…はい。いいですね。これ、使ってみたいな」

直は手元で柄を回しながらそう答える。この御刀を使うとどんな戦い方が出来るのか、急激に興味が湧いていた。

「いいでしょう、それは持って上がりましょう」

「え?いいんですか?」

「傍目にも適合性は十分に見えますから…一応、あちこちに許可を取る必要がありますし、由良先輩にもいっておかないといけませんけど、でも、おばあ様の御刀を受け継ぐなんて、いい話じゃないですか」

「はい、ありがとうございます」

「ほんと、こんなの滅多にないことなんですけどね。血の為せる業…なんですかね」

香澄はそういって、直と毛利藤四郎を眩しそうに見つめた。

 

 使用者と共に所在不明となった御刀が三振り、そして新たに適合者を失った御刀と、発見した御刀が一振りずつ、という報告がなされ、それがそのまま通った。直としては義元左文字とのお別れはなかなかつらいものではあったのだが、その後に現れた新たな適合者は、自分にとって一番身近な刀使…沢泉美であった。直も泉美も驚きを隠せなかったが、義元左文字は直の側で泉美を認識していたのだろう。病院に運ぶ際、ずっと一緒であったことも影響したのかもしれない。それまで手にしていた大剣、蛍丸についてはやや扱い辛い場面もあったため、場合によって使い分けるということで直と理由は違うものの、泉美もまた二刀の所持が許可された。これには、人数が減った護国刀使にあっては、一人一人がより多様な任務をこなす必要がある、という厳しい台所事情も影響していた。

行方不明者3人と重傷者5人の抜けた穴は大きく、何とか日常を取り戻そうとそれぞれが努力する中、下町空襲のあの日から2週間が経った3月24日、直は17歳の誕生日を迎えた。

 

 その日、直は外出許可を取り、背嚢、つまりリュクサックを背負って隊舎を出た。いろいろなことがあり過ぎて、未だ自分の家を確認していなかったのだ。親の形見が欲しかったわけではないが、何か残されているものがあれば…と思っていた。

電車はほぼ走らなくなっており、ガソリン不足のために生まれた木炭バスも故障が多い上に馬力が無く、あまりあてにならなかったため、徒歩で移動することにする。皮肉なことに建物が無く、迂回の必要が無いためそこまで苦にはなりそうにない。ぼちぼち歩いているとそれほど時間もかからず神田までたどり着いた。だが、そこからが厄介だった。

「ここまで何にも残っていないなんて…」

自宅の近くまで来ているのは間違いないが、建物が無い、ということがこうも方向感覚を狂わせるとは思わなかった。少し迷いながらも道の様子を頼りにしながらついに自宅跡を見つけると、思わず走り出していた。自宅は文字通り、跡形もなくなっていた。

「関東大震災の後に作った頑丈な家だって、父さまいってたのに…」

自分の生まれ育った家が無くなった、というのは大きな衝撃ではあったが、こうまでやられては最早、諦める他なかった。

とはいえ、そうして突っ立ってばかりもいられない。消し炭と化した柱や、ぼろぼろに砕け散った壁や瓦をどかしながら、埋もれた家財を探しにかかる。

「何か道具を持って来ればよかったな…」

今持っている役に立ちそうな物といえば、荒魂さんが懐いたあの無銘の御刀くらいだが、さすがに御刀でガレキをかき分けるのも、刀使の力を使うのも気が引けた。結局、あまり大きなガレキをどけられず、焼けた衣服や割れた皿などしか見つけることが出来なかったが、台所に半地下の食糧貯蔵庫があったのを思い出し、その辺りを探っていく。

「あった!これ…開くかな」

見つかった小さな取っ手に手をかけると、貯蔵庫の引き戸は案外楽に動いた。そして、その中には、蓄えてあった食糧がそのまま残っていた。

「うわあ…塩、味噌、醤油、砂糖まで…」

既に配給が止まっている品もそこにはあった。焼夷弾の熱で蒸し焼きになることもなく残っていたのは、この貯蔵庫が少し深目に掘られていたことが幸いしたのだろう。関東大震災の教訓であった。

それらの品々を背嚢に詰めていきながら、さらに奥を探るべく手を伸ばすと、滑らかな感触がある。肩を入れて掴むと、それが小ぶりな瓶だとわかった。引き上げて目にして、

「…これ…」

声が詰まった。金柑のハチミツ漬けが入った瓶だった。瓶には確かに母の字で「直」と書かれている。中身は三分の一程度しかない。もしかしたら今日、直に与えようと残していたのかもしれない。

「お母さん…ありがとう…」

直は、その瓶を抱きしめた。

 

 昼前に自宅を離れ、少し重くなった背嚢を背負い直して日本橋へ向かう。

どこまでも廃墟が続いていた。この二週間ほどの間に片付けられたのは死体くらいのもので、あとはガレキの山がほとんどそのままになっている。食糧があったという倉庫や店舗は荒らされた痕跡があったが、それを誰が責められるというのだろう。皆、生きていくのに必死だった。途中、水筒の水でうがいをする。埃っぽい空気で喉が荒れていた。それから千鶴が用意してくれた蒸かし芋をかじる。道すがら、そんな直の様子を見ている汚れた身なりの子供たちが嫌でも目に入ってきた。家と親を失った戦災孤児たちだろう。皆一様に飢えている。直の芋に、その視線が集まっていたが、今の直にはどうすることもできない。あまり目立たないようにしようと気を付けながら、道を急ぐしかなかった。

日本橋の祖母の店は、あの日見た時よりもさらにひどい状態になっていた。多くの人々に踏み荒らされた痕跡がある。兄の手配で祖母の遺体は既に引き取られていたのが救いだった。

「人の心が…荒んでいくんだ…」

ぽつりとそんなことをいいながら、周囲を見回す。未だ伯父や伯母、店の人たちの安否についてはわかっていない。ただ、伯父と伯母には疎開している息子と娘、直にとっては従弟妹にあたる兄妹がいる。このまま誰も帰ってこなければ、直と司で何とかしなければならないだろう。

「おばあちゃん、伯父さん、伯母さん、昭人君と美樹ちゃんのことは心配しないで…また来るね」

直はそれだけいって、その場を離れた。今日はまだ、行かねばならない場所がある。

 

 街の様子が一変した、と感じられるのは家や建物が無くなったから、だけではない。街路樹や植え込みなどの緑の色合いが失われているのも大きな原因だった。。

「桜並木も無くなっちゃったか…」

直は、掘割の道を進みながらそんなことをいった。あの日、荒魂さんと初めて会った日は桜の葉が青々としていた。そして、ちょうど一年前、祖母と歩いた時には七分咲きだった。

たくさんの思い出があるこの道も、もう以前の名残は無い。掘割もあちこちが崩れていた。

「この辺…だったかな」

去年、祖母と、荒魂さんと一緒に過ごした場所に着いた。直は、背嚢からサラシを巻いていた御刀を取り出す。

「荒魂さんには、本当にお世話になったね…」

抜刀して刃を寝かせ、掘割に向けて捧げて見せる。

「初めて会ってから2年か…ほんと、色んなことがあったね…。今、私がこうして生きているのは荒魂さんのお陰だよ。ありがとう。荒魂さんは今、隠世にいるのかな…?また、こっちに出て来ることはあるのかな…?」

これまでのことを思い出しながら口をついて出て来るまま、言葉を重ねる。

「荒魂さん、私ね、いつの日かきっと、荒魂と人が分かり合える日が来ると思うんだ。私たちができたんだから、他の刀使と荒魂だってきっとできる。そうしたら、日本中の刀使と荒魂が仲良くなったら…すごくいい世の中になると思うんだよね」

直は段々と想像の中の風景に没入していく。そのせいで、何やら水面にぶくぶくと泡が浮かび始めていることに全く気が付かなかった。

「うん、そうだ、そうしたらね…」

といったところで、目の前に水柱が上がった。直は口を中途半端に開けたまま、固まってしまう。あの、水の龍だった。大きくアーチを描いた水の身体はしぶきを散らしながら、直の頭上を高く超えていった。慌てて後ろを振り向くと、そこにはあの、荒魂さんと同じくらいの大きさをした「何か」が背を向けて4つ足で立っていた。

「え…うそ…荒魂さん、なの…?」

直は、その小さな背に話かけると、その「何か」は犬や猫がそうするように、全身を素早く回転させて水を振るった。そして、こちらを振り返り、

「ぎぃ」

とだけいった。姿形は全く違う。全身が体毛で覆われていて、少し胴が長く、イタチのようにも見えなくはない。そして、その長い尻尾は一部が欠けていた。

「生きて…生きてたの…!」

直が左手で口元を押さえながら涙声でそういうと、その「何か」は大きく跳ねて、右手に握られている御刀の元へやってきて、それから肩に跳び移り、直の顔を覗き込んでまた「ぎぃ」と啼く。その声には以前のような硬質な感じが無いが、間違い無い、あの荒魂さんだ。直は堪らず御刀を手放し、その小動物を抱きしめた。

「良かった、荒魂さん!良かった…!」

直の腕の中で荒魂さんは「ぎぃぎぃ」といっている。それが何を言っているのか、直にははっきりとわかった。

「そっかあ…あの時確かに荒魂さんは『こっち側』にいたもんね…ケガレが祓われた状態で隠世から出てきたらこういう実体になった…そういうこと…」

荒魂さんはしきりに頷き、あの時見せたように大口を開けた。表情がついたせいで、それが笑っている、ということがはっきりわかる。

「また、一緒にいてくれる?荒魂さん」

直の言葉に「ぎぃぎぃ」といって同意を示す荒魂さんを見て、

「うーん、それにしてもこの姿で『荒魂さん』っていうのは少し違うかな…」

直は違和感を覚えた。人外の物の怪、という印象とは程遠いのだ。

「そうだ、名前をつけましょう。うん、いつまでも『荒魂さん』じゃ何だしね。えーっと、そうね、『タツ』はどうかな?」

荒魂さんは一応、自分の身に何が起ころうとしているかわかっているらしい。直の言葉を聞いて、首を捻るような素振りを見せた。

「うーん、そうだよね。荒魂さんは龍っぽいからちょうどいいかな、とも思ったんだけど、おばあちゃんの名前だから私もさすがに呼び捨てにはしづらいし…」

というと、荒魂さんが直の言葉に反応して「ぎぃ」と啼いた。

「え?何?『龍っぽい』?」

「ぎぃ」

「それだ…?え、『龍』…?」

「ぎぃぎぃ」

「ああ…『龍』がお気に入りなの?」

荒魂さんは大きく頷いた。

「うーん、そうか。そうですか。じゃあ…龍っていうのも大げさだから片仮名で『リュウ』にしましょう。よし、あなたは今日から『リュウ』!です!」

荒魂さん、改めリュウはぎぃーっといいながら飛び上がり、直の頭の上を旋回した。

「ふふ…良かった…。本当に、生きててくれてありがとう…」

リュウの動きを追って雲も敵機もない青空を見上げると、そこへ桜の花弁がフワリと舞って来る。咄嗟に見回すと掘割の脇で黒焦げになって倒れている桜の木が、小さな花を咲かせていた。歩み寄って間近にそれを眺めた後、ゆっくりと立ち上がる。

「大丈夫。おばあちゃん、父様、母様…私、まだまだ頑張ってみるよ」

 

 

「折神さん、お久し振りです。唐突に申し訳ない」

4月7日早朝、折神香織は表向きには秘されている神功刀使たちの拠点で、急な来客の対応をしていた。

「いえ、あれからお礼にも伺えずこちらこそ非礼をお詫びいたします」

「はは、それについては気になさらなくてもいい。辻野中佐はあの一件で外地に飛ばされました。こちらとしてもやつの鼻を明かしてやれて留飲が下がったというものだ。須藤もやつとは確執がありましたからね。あの世で喜んでいることでしょう」

「ええ、そうあってほしいものです…。それにしても驚きました。まさか稲田中佐が須藤の教官だったとは」

香織の目の前にいる稲田という男は、陸軍省軍務局の中佐で、かつて士官学校で須藤の教官であった時期があったという。

「惜しい男でした…。しかし、こうして神功刀使、折神家の方と知己を得られた、ということでは感謝をしなければいけないかもしれません」

「そうですね…あのまま参謀本部付き、というのは我々としても少々厳しいものがありましたので…しかもこのような施設までいただき…」

陸軍、と一口に言っても、その組織は細かく分かれる。政治と人事に関わる陸軍省、作戦立案をする参謀本部、組織内の教育機関である教育総監部、の3組織がいわゆるお役所組で、それとは別に各地に師団などの実働部隊が置かれた。神功刀使は神祇院で発足後に陸軍参謀本部へ所属を変え、この時点では陸軍省預かりとなっていた。因みにこの陸軍省のトップが陸軍大臣になる。

「ここは陸軍省管轄の兵器庫ですから住み心地は今一つかと思っておりましたが、建物自体は新しいものですから…うん、改装は上手くいったようですね」

「はい、快適な環境になりました。深謝いたします」

「それはよかった。しかしここはあくまで陸軍省の『秘密基地』です。お忘れなきよう」

「わかっております。ここの情報は軍事機密と隊員たちにも伝えております」

「結構です…時に折神殿、あの鈴木侍従長が首相になったという話はもう耳にされましたかな?」

今日の来訪の目的はそれか、と香織は直感した。

「ええ、うわさ、程度ではありますが…」

「ならば話は早い。今回の内閣、海相は米内大将が留任、さらに豊田大将に左近司中将と海軍出身者が4名も入閣しております。終戦内閣、などと早くも囁かれているようで…」

「…その陣容ならば、考えられる話かと」

稲田中佐が頷く。

「本土決戦に臨むこともなく、このまま降伏、ということにでもなればこれまでの尊い犠牲は水泡に帰す、といってもよいでしょう。終戦など、まだ絶対に認められる話ではありません」

「その通りです、中佐。我々刀使の力を本土決戦で見せる前に終戦など、ありえないことです」

「折神殿…全くその通りだ!この国にはまだ力が残っている。だが、今回の内閣、終戦派の勢力が表舞台に上がった、と考えるのが妥当でしょう。彼奴等はあるいは、ご詔勅を使ってまで終戦への道を拓くやもしれん。そうなれば、我々皇国軍人としてはそれに順う他ない。それは、絶対に防がねばならん。この危急の折、真の忠義とは何かを我々は示さねばならないのです!」

話をしている間に熱が入って来たらしく、語気が荒くなっていたが、自分でも気が付いたらしく、中佐はそこで一つ、深呼吸をした。

「今日は、それに伴い今後の協力体制について鷹司様にお話しをさせていただきたく、こちらに伺った次第です」

「なるほど、そういうことでしたか…しかし申し訳ありません、鷹司様は本日こちらにおりません」

それを聞き、稲田中佐は改装されたての建物内に目を泳がせた。

「そうですか…では明日は?」

「何かとお忙しいお方ですから…今日聞いた予定が明日変わることもしばしばございまして…」

稲田は、そこで小さな声を立てて笑った。

「いいでしょう。ではまた明朝、伺います。お会いできるまで伺うとお伝え下さい」

「申し訳ありません…」

そう答えた香織の相変わらずの笑顔に、稲田の鋭い視線が一瞬、向けられた。

「本日小官がここに来たことをお伝えする際に一つ、鷹司様に言い添えおいてほしい」

香織が何を、という前に稲田中佐は話し始めた。

「神功刀使は神祇院付の賓客扱いとはいえ、陸軍省はあたながたに命令できる立場にある。貴族様のわがままも平時であれば結構だが、このような危急の秋にあってはほどほどになさいませ、と」

香織はその笑顔のまま、稲田中佐の丸い顔を少しだけ眺めてから、

「わかりました。確かに申し伝えておきます」

そういって、頭を下げた。

「では、今日のところはこれで…。ふふ、それにしても須藤も…厄介なお方の命を助けたものですな」

「ええ、今となってはそうも思えます」

稲田中佐はその答えに満足したのか、そのまま感慨深そうな顔をして去って行った。

香織はその後ろ姿を完全に見送ってから、執務室へ戻る。

「ご苦労だったな。帰ったか」

将棋を指している京が、こちらを見もせずにそういった。

「ええ、少々ご立腹のご様子でしたよ」

「そうか。まあ大方、鈴木内閣誕生を呪っていたのであろう?」

そういって、京はパチリと歩を進めた。

「そうです…しかしよろしいのですか?このような対応で。一応、彼らと我々は戦争継続、という点では意を同じくしているはずですが?」

京は、香織の方をちらりとみてから、

「そうだ。だがな…あの稲田といったか、あ奴は暑苦しくて敵わん。陸軍省もう少しイイ男を寄越してもらいたいものだ」

「それには同意いたしますが…明朝、また来るといっておりました。今度は居留守など使われませんよう」

「そうだな…それ、王手だ」

盤上、京の金銀が、相手の玉を包囲していた。

「将棋の腕は剣術ほどではないようだな。早乙女凪子」

「恐れ入ります」

京と対戦していたのは紛れもなく、早乙女凪子であった。新たに与えられた神功刀使の制服を着こみ、神妙な顔付きを崩さずにそういった。

「ふん、しかし棒銀一辺倒の攻め筋は実にお前らしい。愉快だったぞ。また付き合え」

「はい」

京は立ち上がり、三日月宗近を携えた。

「鷹司様、どちらへ?」

「わざわざ来た、ということは余程のことなのであろう。明朝ここに来られるのも面倒だからな」

「こちらから出向かれる、ということですか…。お供いたしましょうか?」

「そうだな…いや、我々が共に留守というのもまずい。凪子、付き合ってもらおう」

「了解しました」

ゆらり、と凪子が立ち上がる。京は満足そうに微笑むと、凪子を連れて部屋を出て行った。

「全く、大層な入れ込みようですね…」

誰も居なくなった執務室で香織は一人そういって、将棋盤を片付けた。

 

 この日、歴代最高齢の総理大臣となった鈴木貫太郎は、大きな目的を持って組閣した。戦争終結、である。だが、戦争継続を望む勢力は陸軍を中心に多く存在し、下手にそんな意思を表明すれば暗殺される可能性があった。その真意を巧妙に隠しながら、いかにして和平への道を探るか…鈴木総理や米内海相の、まさに命を懸けた駆け引きが始まろうとしていた。

同日、日本海軍が誇る世界最大の戦艦、大和が沖縄へ向かう途中で米軍空母艦載機の猛攻を受け、為す術もなく沈没した。最早、勝つどころか、このまま戦争を続ければ日本という国が亡びる、というところまで来ていた。

 

 

 

 

 



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九章

 

 

 昭和20年(1945年)4月の終わり、イタリアとドイツでは戦争を主導していたムッソリーニ、ヒトラーがそれぞれ処刑、自殺という形でこの世から消え去り、5月8日にドイツは降伏文書に調印、ヨーロッパにおける戦争は終結した。完全な孤立無援となった日本では、直接交戦をしていないソ連を仲介とした和平の道が模索されたが、ソ連はすでにアメリカ、イギリスなどと密約を結んでおり、対日参戦の機会を虎視眈々と狙っていたため、この工作は失敗に終わる。

そしてその間にも本土への空襲は続いており、日本全国の地方都市も無差別爆撃の標的となっていた。東京では度々3月10日を上回る規模の空襲があり、特に5月25日の山の手方面の空襲は規模が大きく、皇族の住まう明治宮殿までが全焼した。東京はほぼ半分の地区が焦土と化していた。

刀使たちはこれらの空襲に度々出動し、市民の避難を手助けしていた。焼夷弾の火が消せないとわかった以上、消火よりも避難が優先されるようになったため、人的被害だけは抑えられるようになってきていたが、それでも大規模な空襲では一度に数千人単位の死者が出る。刀使たちも無傷というわけにはいかず、常に欠員が出ていた。一旦実家に帰る者、入院する者、隊舎で休む者…まともに動けるのは20人にも満たないという状況に陥っていた。

 

 近衛祭祀隊自慢の冷蔵庫の中身も、随分と寂しくなった。千鶴は溜息をつきながら在庫の確認をする。魚はおろか大豆まで手に入らなくなってきた。タンパク源となる食材の供給が減っているのは、育ち盛りの刀使たちには痛い。しかし、何より問題なのが、

「まさか塩まで手に入りにくくなるとはね…」

そう、塩の不足だった。手伝いをしている美千代が、隣で不思議そうな顔をする。

「海に囲まれた日本で、何で塩が不足するんですかねえ…?」

「あ、それ私も不思議だったからこの間あちこちに聞いてみたらね…浜辺で塩なんか作っていたら、敵機に狙い撃ちにされるそうよ」

「あ…そうでした。前に私たちも浜で遊んでいたら狙われました…」

美千代は、昨年の夏のことを思い出してブルっと震えた。

「そういえばそんなことをいっていたわね…しかもね、海の上にはものすごい数の機雷が浮いていて、漁に出るのも難しいみたい」

「機雷…船が触れると爆発する、あれですか…瀬戸内海も危ないのかな…」

「ああ、美千代さんは広島でしたね…内海はきっとまだましなのでしょうけど…ただ、潜水艦も近くをウロウロしているらしいから、滅多なことでは船は出せないでしょうね」

美千代は、ふるさとの海を思い出していた。あの海の男たちもほとんど戦争に取られたと聞いている。実家は、今頃どうなっているのだろう。

「いろいろと心配事はあるでしょうけど…今は、今夜の夕食の心配をしましょう」

「あ、はい、そうですね…」

そういって、美千代はいつの間にかじっとりと額に滲んでいた汗をぬぐう。6月も終わろうとしており、蒸し暑い日が多くなっていた。

千鶴が、限られた種類と量の食材から何とか今夜の献立を捻り出そうとしていたその時、玄関の戸が開く音がする。仲間たちの帰還にはまだ早い。時刻は14時を過ぎたばかりだ。

「こんな時間に…誰でしょうね?」

「美千代さん、ちょっと行って見てきてくれる?」

「了解です」

そういって軽い足取りで玄関へ向かった美千代が、早足に血相を変えて戻って来た。後ろには、霧島由良と、何と折神碧の姿があった。いずれも、渋い表情をしている。

「碧様…!ちょっと由良さん、どうしたっていうの?」

「また…皆を集めて話をしないといけないの」

由良の様子が明らかに暗い。

「そう…でもまだこんな時間よ?皆が帰って来るまでどうするの?夕飯の準備でも手伝って行く?」

「ああ、それもいいかもしれませんね」

「え!?」

千鶴の冗談半分の言葉を、碧が真に受けた。

「少し、気が滅入っているから、いい気分転換になるかもしれません。千鶴さん、是非手伝わせて」

「え、いえいえ、冗談ですから!碧様は戻って葵様のお世話をして下さい!」

「それは気にしなくていいわ。うちには優秀な子守がいるからね。それに今日は皆が帰って来るまで戻るつもりはありません」

碧がそういって、千鶴を見据えた。そういえば、このお方はこれで結構言い出したら聞かない所があるのだ。千鶴は判断をしかねて由良の方を見ると、由良は苦笑して頷く。それならそれで思わぬ人手が得られた、と考えることにする。

「わかりました…。それではお手伝いいただきましょうか」

「ええ、お願い。それで、献立は?」

碧、由良、美千代の視線が千鶴に集まる。

「そうですねえ…幸い、今日はアサリが手に入ったので…あれ、作ってみようかな」

千鶴はそういって、3人に笑顔を返した。

 

 このご時世に、まさかこんなしゃれたものを食べられるとは思わなかった。直は嬉々としてそれをすすった。

「はあ…おいしいですね、これ!」

「ええ、こんなものが食べられるなんて、千鶴先輩には本当に感謝、だね」

直の言葉に、向かいに座る八重が答えた。

各自の前には2つの椀が並んでいる。一方には水で締めた細めのうどん、もう一方にはアサリの入ったホワイトシチューが入っていた。これを、つけ麺のようにして食べるのだ。

「ホワイトシチューうどん、ですか…こんなの初めて食べました」

その隣で吉乃も頬を押さえながらそういうと、

「どう、気に入っていただけたかしら、皆さん?」

エプロンを外しながら、厨房から千鶴がやって来た。全員の喝采が上がる。

「作っている時は大丈夫かと思ったけど…アサリの旨味とシイタケの出汁がすごくよく合ってる。ほんと、こんなのどこで知ったの?」

由良がそういって、隣の席に千鶴を迎える。

「ふふん、海軍考案の料理で、本当はうどんじゃなくてそうめんなんだけどね。そうめんなんてもう手に入らないし、前に家で作った時、少し太麺の方が合うような気がして…こんな風にしてみました」

そこでまた、全員の感嘆の声が上がった。

「ホワイトシチューそうめん」は戦艦「伊勢」で兵員に出されていた料理だ。ボンゴレやカルボナーラといったパスタ料理の存在を考えれば、確かにこの組み合わせは成立する。実際、このメニューは兵員の間で大変好評であったという。

「さすが千鶴さん。限られた材料での創意工夫、本当に大したものです。私も参考にさせてもらっていかしら?」

「もちろんです、碧様。後でレシピ、お渡ししますね」

食堂には折神碧を合わせて20人程の少女たちの姿があった。かつては長机を4つ、部屋を狭しと使っていたのだが、今はその半分程度だ。おかげで全員の顔も見えるし声もよく聞こえる。

 おそらく今日は何かあるのだろう、と全員が思っている。この、珍しい料理をじっくりと味わいながら、皆互いの顔色をそれとなく伺っていた。

「さ…皆さん、大体食事の方は終わり、かしらね」

大半が椀のシチューも飲み干して一息ついているところで、碧が切り出した。いよいよか、と全員が背筋を伸ばした。中には立ち上がろうした者もいたので、碧がそれを制した。

「ああ、いいの。私もこのまま話をさせてもらいます。この人数ですから…」

そういわれ、大人しく全員が座ったまま、碧の方へ身体を向けた。

「私がいるんだもの、何かあったと思うわよね…そう、いろいろとお話があるんです。まずお話しておかなければならないのは…沖縄のことです。3月下旬から始まっていた沖縄での戦闘が終わりました。沖縄は…敵の手に落ちました…」

全員の顔色がサッと変わる。沖縄では本土侵攻までの時間稼ぎ、という作戦指示の元、持久戦の構えが取られていた。離島を含めた各地で少年少女を含めた民間人も戦い続け、町ごと消滅する地域がいくつも発生するという凄惨な状況を経て、沖縄はアメリカ領となる。軍属・民間を合わせて20万人以上の死者が出たとされるが、家族・地域の人々がまとめて戦死したため伝える者が残らなかった、という壮絶な理由で、今なお、犠牲となった人々の名前も数も正確にはわかっていない。

「3か月…沖縄の方々は私たちの先駆けになって…」

泉美がそういって、全員が言葉を失う。

「ええ…いよいよ、敵はこの本土に迫って来るでしょう。それで、ということなのでしょう。『義勇兵役法』という法律が施行されることになりました」

「義勇兵…民間の義勇軍ならもう、あちこちで組織されていると聞いていますが…」

美千代がそういうと、碧は頷いて続ける。

「ええ、確かにそうね。ただ今回の法律では、15歳~60歳の男子、17歳~40歳までの女子に兵役が課されることになったの。義勇兵というのは本来希望者がなるものですけど、今回のものは強制です。従わなければ刑罰があります」

さすがに、場がざわついた。

「ちょっと待って下さい、それってただの徴兵じゃないですか!」

「八重、落ち着きなさい…でも、そうですね。いよいよ国民皆兵、ということですか。それに私たち刀使を合法的に軍に組み込める、というわけですね」

立ち上がって言葉を荒げた八重を吉乃が諫めつつ、そういった。由良がそれに応じる。

「そうね…こうなった以上、状況は以前とは大きく変わったといっていいでしょう。この、近衛祭祀隊を辞めたところで兵役からは逃れられないわけだから…」

来るべきものが来た、といったところだろうか。「まともな武器もないのにどうやって戦えっていうんですかね」などとごちながら、八重は、憤懣やるかたない、という様子で座り直す。実際、国民義勇軍などといっても、手に持つ武器は竹槍や弓矢、火炎瓶といったものでしかったという記録が残っている。

「それで、私たちはどうなるんですか?」

直が、冷静な声を上げた。

「護国刀使はこれまでの神祇院から、政府の預かりとなりました。これからは政府の要請に応じて、御刀を振るうことになります」

その碧の言葉から少しの間を空けて、

「あの、よくわかりませんけど、そうなるとどうなるんでしょうか…?あと、今までの荒魂退治についても、どうなるんでしょうか…?」

五十鈴が碧に向け質問をした。

「政府要人の警護をすることがあるみたいよ。荒魂退治の方はこれまで同様、ということになってる」

碧に代わって由良がそう答えたが、五十鈴はまだ合点していない様子で、

「そうですか…でも政府要人の警護って、そんなのは別に本職の人がいるんじゃないんですか?軍の人だっているんですよね?」

そういった。由良が言葉に詰まり、碧が代わる。

「そうね、正確にいうと、要人の警護を行うのは憲兵の方々です。ただ、憲兵司令部は陸軍の配下にある組織でね…」

碧がそこで言葉を区切る。直は、父のことを思い出しながら、何となく察しをつけた。

「もしかしたら今の内閣は海軍出身者が多いから、憲兵の警護を断っている…ということですか?」

碧と由良が、顔を合わせて苦笑した。

「そう、直さんの言う通りです。鈴木総理、米内海軍大臣の警護を憲兵には任せられない、という風にいっている人たちが海軍の一部にいるらしいの」

「米内海軍大臣…一度ここに見えた?」

「ええ、そうしたらその米内さんがね、だったら俺の警護はあの子たちにお願いしたい、なんておっしゃったそうで…こんな話が浮上したと、そういうことらしいわ」

由良の説明に、全員が「ほー」とも「へー」ともつかない声を出した。その反応は、概ね好意的だ。山本長官の軍刀を預かった一件以来、米内は、隊内において評判が良かった。

「あの、一つ質問してもいいですか?」

直が、さらに声を上げた。

「どうぞ、直さん」

「ありがとうございます。あの、今回の内閣は終戦のための内閣だ、なんて話を聞きますけど、それは本当なんですか?今の政府は終戦を目指しているんですか?」

「ちょっと、直さん…!」

ぎょっとして泉美がそういったが、既に刀使たちの視線が直に集まっていた。由良も慌てて碧の方を見たが、当の碧は落ち着いた様子で少し考えるような素振りを見せてから、

「そういう噂があるのは聴いています。そして、そうなってもおかしくはない、と私個人は思っています、が…残念ながらその辺りの正確なことは全くわかりません。ただ、そんな噂があるからこそ、鈴木首相や米内海相が狙われているのは間違いありません」

そう、はっきりといった。

「そうですか…では、もしその任務が入ったら、私に担当させてくれませんか?毛利藤四郎は短いし、警護の邪魔にならないと思います」

「そうね…いいかしらね、由良さん?」

「私に依存はありませんが…泉美さん?」

「はい」

「義元左文字もそう長い御刀ではありません。その時は、あなたも一緒に就いて下さい。いいですね?」

「承知しました。いいですね、直さん?」

泉美は当然のことのようにそう返事をして、隣の直に鋭い目を向けた。

「へへ…ありがとうございます」

直が頬をかきながらそういうのを見て、碧は微笑んで、由良を見た。由良が頷いて口を開く。

「もしかすると街の人たちに向けて剣術指南のようなことをやるかもしれないので、その時はまた、お願いね。それから…」

全員が、改めて由良に注目する。

「例の、鷹司様と折神香織様が抱えている刀使たち…神功刀使がね、どうやら陸軍省に組み込まれたようなの」

昨年の模擬戦には、この場にいる刀使全員が参加している。皆の顔つきが一様に険しくなった。

「私たちが終戦派といわれている海軍の方たちの護衛につくということになると…つまり、あの人たちとまた戦うことがあり得る、そういうことですね?」

吉乃が、少し強い口調でそういった。

「同じ日本人、まして同じ刀使同士で争っている場合ではない、ということは向こうもよくわかっているはずです。でも…互いの立場の違いが明確になれば、あるいはそういうこともあるかもしれません」

碧の答えに、刀使たちの反応は様々だった。考え込む者、不敵な笑顔を浮かべる者、そして、怒りを露わにしている者…。直は、出来る事ならもう一度あの人たちと戦いたい、と思っていた。ノロを身体に宿らせたあの人たちともう一度戦えば、あの日、自分の中で出せなかった答えが出て来るのではないか、と思っている。そして今度は、必ず勝ちたい、とも思っていた。

「それとね…もう一ついっておかなければならないことがあります」

ざわめきが続く中、由良がポツリといった。千鶴がすかさず由良を見た。

「いうのね?」

「いいます」

そんな短いやりとりの後で、由良は皆の方を見た。

「凪子さん…早乙女凪子がね、もしかしたら神功刀使の中にいるかもしれません」

全員が、一瞬言葉を失う。

「え、それ、どういうことなんですか?凪子先輩はあの空襲で…」

重傷を負いながらも復帰していた北見春江がそういった。

「あの下町空襲の後、鷹司様が私一人で、という条件で接触を求めて来たの。瀕死の早乙女凪子を預かっている、といってね…」

そこで直と泉美は何かに打たれたかのようにハッと気づくものがあり、顔を見合わせた。泉美が口を開く。

「まさか、凪子先輩にノロを接種させたっていうんじゃ…!」

全員の注目を浴びた由良は、一呼吸置いてから、頷いた。

「その時の凪子は意識もなかったらしくてね、鷹司様が私に判断を委ねて来たの。凪子が助かるにはもうそれ以外に手が無い、ってね」

「それで、由良先輩は……」

「ええ、あの子が生き残る可能性があるのなら、何でもやってくれ、といいました。ノロを接種させるという特殊な処置は、神功刀使にしか許されていない、ということだったので、凪子を近衛祭祀隊から除籍にもしています」

由良の、強い口調と真っ直ぐな表情に、泉美も直も、皆も何も言えなくなった。

「ただ、その後のことがわからない…凪子が生きているかどうか、それがわからないのよね。うちの実家でも調べてもらっているけど、鷹司様の情報は今のところゼロ、よ」

千鶴がそういうと、由良は溜息をついた。

「あれ以来、神功刀使との接触が無くてね…それについては碧様も同じだそうですけど…」

「ええ、残念ながら今、あの人たちは表立って行動をしなくなりました。軍が存在を秘匿していて、私の要請でも会うことはできないんです」

「いやな感じですねぇ…まるで秘密結社じゃないですか」

香澄の口調は冗談めかしたものだったが、残念ながらあまり冗談には聞こえなかった。碧は苦笑した。

「そうですね…もしかしたら、もうそういう組織に近いのかもしれません…。とにかくいつ、あの方たちと…それから凪子さんと遭遇してもおかしくはない、そういう心づもりでいて下さい」

全員が複雑な面持ちで「はい」と答えた。

 

「直さん、何でまたあんなことをいったんですか?」

風呂から上がり、部屋に戻ってから、泉美が尋ねて来た。

「あんなことって…米内大臣の護衛のこと、ですか?」

直は寝間着の裾を少しまくりながらそう答える。最近、夜も暑くなってきた。

「そうです。要人の警護なんてきっと大変なことばかりですよ?決まり事がすごく多そうだし…」

泉美は直がどういうつもりなのか図りかねているのだろう。

「そうですねえ…」

どういったものかと直が考えていると、部屋のドアがノックされる。

「はあい、開いてますよ!」

直がそう、大きな声を出すと、

「ちょっといいかしら?」

「お邪魔しまーす」

そういって、四条姉妹が入って来た。

「あ、いらっしゃい。そうか、みんな今夜は非番だね」

「ええ、それでちょっと、色々と話をしたくなりましてね」

隊舎2階の二人部屋はベッドと押し入れのスペースとは別に六畳の広さがあり、直も泉美も荷物はさほど多くないので客を迎える余裕はある。吉乃と八重は、持って来たそれぞれの座布団を敷き、4人は中央の学習机も兼ねたちゃぶ台を囲んで座る。

「ん?もしかして取込み中だったかな?」

「いえ、それほどのことではありませんけど…」

八重の問いに直がそう答えると、泉美に睨まれた。

「いや、ええっとですね、何で私が要人警護に興味を示したのかと、泉美さんに聞かれていたんですよ…んー、ちょうどいいからお二人にも聞いてもらおうかな。いいかな、泉美さん?」

「何がちょうどいいのかわかりませんけど…私の疑問に答えてくれるなら、別に構いませんよ」

「はい、それじゃあ、ちょっとお話させていただきますね」

直はそういって、3人の顔を見回し、一つ咳払いをした。

「私は、もうこの戦争は終わりにするべきだと思っています」

3人がじぃ…と直を見る。それから、

「あら、驚いた。また随分唐突ね」

言葉とは裏腹に、さほど驚いた様子もなく吉乃がそういった。

「もうずっと思っていたことなんですよね。空襲で死んだ父が前にいっていたんです。『この戦争は、引き際を逸してしまった』って」

「確かに、そんなことをおっしゃってましたね」

「へえ…直のお父様って、陸軍の軍人だったんでしょ?そんなことをいうんだ…」

八重の言葉に、直は思わず笑ってしまう。

「そうですね。本当に、変な軍人ですよね…でも父はそういう人で、それからこうもいっていました。この戦争を終わらせることができるのは米内さんのような海軍の人かもしれないって…」

「お父様が、そんなことを…」

泉美がそういい、直が頷く。

「私はこの間の空襲で祖母、父、母を亡くしました。でも、兄は軍人をやっているし、私はこうして刀使になっていて兄妹共に住む所にも食べる物にも困っていません。でもこの間、街を歩いていたら同じように親と家を失ったと思われる子供たちがいました。私が芋を食べているのを、じっと見ていました」

直はそこで言葉を区切り、頭の中でいいたいこと整理する。皆、黙ってそれを待ってくれている。

「すごく理不尽だって、思うんですよね。おばあちゃんが目の前で死んだ時もそう思いましたし、サトちゃんを見ていても思うんですけど、何も悪いことをしていない、ただそこで暮らしていただけの人が突然、爆撃されて死んでしまったり、大切な人を奪われてしまうなんて…日々の、当たり前の生活があったのに、それが一方的に奪われてしまうなんて…。だから、思ったんです。こんな世の中はやっぱり間違ってる。戦争を終わらせるためにどんな条件があるかわかりません。戦争に負けたらどうなるかなんて…怖くてわかりません。でも、普通の人たちが普通の暮らしを取り戻すためには、まず、この戦争を終わらせないといけない…私は、そう、考えているんです」

聞き終えた泉美が、

「だから、戦争を終わらせられそうな人の警護をやりたい…そういうことですか?」

そういうと、直は頷いた。八重が「なるほどね…」といいながらそのまましゃべり始める。

「この間、芝の増上寺の台徳院に行ってきたんだけどね」

そこは、この場の4人が御刀を賜った場所だ。そして、その台徳院もまた、空襲で焼けてしまっていた。

「聞いていた以上に酷かった。あのきれいな朱塗りの伽藍が本当に跡形もなく、黒焦げになっていたよ…思い出も何もあったもんじゃない」

八重はそういって苦笑する。

「あれからもうすぐ5年経つのね。八重と一緒に東京に来て、御刀を賜って、近衛祭祀隊に入って…」

「あっという間…でもないか。いろいろなことがあり過ぎましたしね…」

「そうですね。ものすごい5年間でした」

感慨に浸る3人をみながら、八重が続ける。

「いやほんと、私なんか刀使に選ばれるとは思ってもみなかったから、すごい体験をしてるなと、我ながら思う時があるわ」

「え?刀使になると思ってなかったの?」

「全然。姉様は昔から凄かったから絶対に刀使になるといわれていたんだけど、私は別に、そこまででもなかったし…」

「あら、そんなことはなかったのよ。鷹司様も八重には一目置いていたしね」

「え?そうだったんですか?」

「気付いてなかった?あなたと立ち会う時はいつもやりづらそうにしていたのよ。私なんかは逆にやりやすかったみたい。実際あなたは鷹司様に勝ち越しているしね」

「あれ、そうだったかな…まあいいや。とにかく、私は別に刀使になれるとも、なろうとも思っていなかったし、しかも護国刀使にまで選ばれるなんて自分でもちょっと信じられなかった。でも、なれた」

「護国刀使に選ばれて、嬉しくなかったっていうことですか?」

直の質問に八重は首を横に振る。

「いやいや、そんなことはないよ。そりゃあ嬉しかった。給料もすごくいいしね」

「まあ、それは確かに…でも、四条家は結構お金持ちなんでしょ?」

泉美の質問に、今度は吉乃が首を振る。

「いえいえ、昔はそれなりに華やかなりし頃があったそうですけれども、今はもうそんなことはないんですよ。ただの雑貨屋に成り果てています」

「そう、姉様の言う通り、そんなに大層なものじゃなくてね。一応宮中儀式で使うものなんかを献上したりもしてるけど、このご時世それだけじゃ何ともならないから新しい商売を起こさないといけないかなと思ってて、その資金集めのためにせっせと貯金しているの」

「八重は本当に、そういう所しっかりしてますよね。父と母はね、八重が男だったらいい跡継ぎになったのに、って未だにいうんですよ」

吉乃がそういって笑うと、八重は軽く溜息をついた。

「ま、それはともかく…何で私がこうして自分の話をしたかというと、刀使なんてなりたいと思ってなれるものでもなし、別になりたくないと思っていても選ばれればやるしかない、そういうものじゃない?いってみれば普通の子供が突然こんな立場になってしまっただけなのに、そんな子供たちをあてにして戦場に送り込もうとするなんて、そんな大人が政治をやってるからこの国はこんなところまで追い詰められたんじゃないかって、そういうことをいいたかったの」

一気にそういった八重が、ふーっと息をついた。他の3人は半ば、唖然としていた。

「はあ…何か、やっぱり八重さんはすごいですね。私はただ、酷い世の中だって思っただけなのに…」

「八重さんってたまにそういう…社会的なことをいいますよね」

直と泉美の言葉に、吉乃が頷く。

「八重は視野が広いのよね。うん、でもその通りかもしれない。あまり大きな声ではいえないけれど、今の大人たちは自分のやって来たことのツケを子供たちにまで支払わせようとしているのかもしれないわね…」

「はあ…政治なんかのことはよくわかりませんけど、『お国のため』といっておけば大人も子供も従うしかないっていうのは、やっぱりおかしいんでしょうね」

「そういえばこれも直さんのお父様がいっていましたけど、国が一つの方向だけを示して、他の意見を許さない…そんなのはおかしいことだって」

八重がぽん、と膝を打つ。

「それなのよね。国が一つの方向だけを国民に強要するから、国民も他のことは全部悪いと思ってしまう。護国刀使の皆だっていい子過ぎる。皆、わけのわからない任務にはもっと不満をぶつけたっていいんじゃない?確かに高い給料をもらっているけど、うら若き乙女たちが命を懸けて働いているんだから、いうべきことはもっといっていいと思うけど」

直が、「うーん」といって両手を上げ、そのまま畳の上に寝転ぶ。

「そっかあ、別の道があったっていいのかあ…。そりゃあそうですよね、これだけ色んな考えを持っている人がいるわけですもんね」

「どうしたの、直さん?」

「うーん…八重さんの体制批判はともかく、私も私なりに思う所があるなあ、と」

「あ、ちょいと直さん、体制批判だなんてあんまり外ではいわないでよ?」

「あれ?そういうところは空気を読むんですね…うーん、どうしようかなー」

「ふふふ、そうね、心得違いの妹を泣く泣く訴える姉…マスコミが飛びついてきそうだわ。国からご褒美がもらえるかも!」

「うあー、姉様、勘弁して下さいー」

皆で笑い合いながら直の胸中には、この仲間達だけは守らなければならない…そんな思いがよぎっていた。

その時不意に、防空対策のため縦横斜めにテープを貼っている窓がコツコツと鳴った。

「ん、何…?ここ、2階よね?」

そういう八重を横目に、直はすかさず身体を起こして窓を見て、苦笑した。

「直さん、まさか…」

「ええ、そのまさか、みたいです…あのー、吉乃さん、八重さん?」

「はい」

「何?」

「お二人は、人間に友好的な荒魂がいる…と思います?」

姉妹は顔を見合わせてから、微かに笑った。そして、

「直、最近この宮城のお堀に奇妙な生物が出る、という噂があるのは聴いている?」

「え?本当ですか…噂になっちゃってるんですか…?」

「ええ、鵺が出たんじゃないかって噂になってるわね」

直が横目で泉美の方を見ると、泉美は溜息をつき、窓を開けた。「ぎぃー」と鳴きながら、リュウが入って来る。一度窓際に着地してから、また跳んで、直の肩に止まった。

「えーっと、この子は荒魂の…いや、元荒魂って言った方がいいのか…まあ、ともかくケガレのなくなった荒魂で、『リュウ』っていいます。ほら、ご挨拶」

リュウは、そこで吉乃と八重に向かって「ぎぎ」と鳴きながら頭を下げた。四条姉妹はまた顔を見合わせ、それから直の方にすり寄った。

「まあー、可愛いじゃないの!」

「ほう、これが鵺の正体か…やっぱりお前たち、知っていたんだな」

四条姉妹の反応が思ったより良かったので、直はほっとした。泉美も同様らしく、安堵の笑顔を見せる。

「前々から直さんが手なずけていた荒魂なんです。下町空襲の時にもこの子が力を貸してくれたおかげで、私たちをはじめ多くの人たちが助かったんです」

「そうなんです。今私たちがあるのはリュウのおかげなんです!」

「そうかそうか。リュウ、世話になったな」

八重の言葉にリュウは頷き、それから吉乃の肩に跳んでエリマキのようにその首をくるくると回った。

「なになに、もうくすぐったいじゃない!」

「おお、荒魂が姉様に懐いている…」

「直さん、リュウって結構面食いなのかもしれませんね」

「そうですね、碧様には会わせない方がいいかもしれません…まあ、それはともかく、日本橋の掘割がやられてしまった関係で、最近宮城のお堀に移り住んだみたいなんです。一応隊の皆さんに話そうとは思っているので、その時には、その…援護射撃をお願いします」

「了解」

「ええ、私も異存ありません」

直と泉美は、姉妹の返事を聞いて一安心し、4人はその一匹を交えて、夜が更けるまでおしゃべりを続けた。

 

 7月も終わろうかという頃になって、要人警護の依頼が正式に海軍から入った。同時に海軍の軍服が何着か送られてきていた。任務初日の朝、直と泉美はその軍服に袖を通し、互いの恰好を見て笑う。

「うん、泉美さん、なかなか素敵じゃないですか」

「いえいえ、身長があるからそちらのほうがお似合いですよ、来栖少尉」

そういってから、また二人で笑う。濃紺の制服に御刀を差し、軍帽の中に髪をしまうと、二人の姿は一応軍人らしく見えた。送られて来た制服にはどれも少尉の階級章がついており、それぞれを名字と階級をつけて呼び合うよう注意も受けていてた。一応、護国刀使の警護担当者は士官待遇で扱われるらしい。

「おお、来栖少尉に沢少尉、ご出勤ですか?」

「うんうん、男装の麗人、いいじゃない!}

隊舎玄関までの廊下を進んでいると、四条姉妹がやって来る。

「へへ、いよいよ今日からです。通常勤務に穴を空けちゃいますけど、よろしくお願いします」

「といっても、この宮城周辺にいることが多い任務ですので、すぐに戻れますけどね」

二人がそういうと、八重が何か思い出したかのように全員の身体を両手で寄せる。

「どうしたんですか、八重さん?」

「実は、由良先輩とあの深津っていう海軍士官が怪しいとのウワサがある。貴官らは極秘にその辺りについても探ってきてくれたまえ」

直と泉美は思わず吹き出し、

「了解です八重隊長。ばっちり探りを入れてきます!」

「はは…追加任務、心得ました」

そう答えて隊舎を後にした。

大手門に回るとそこには見覚えのある車があり、見覚えのある人が立っていた。

「おはようございます。来栖さんと沢さん、でしたね」

これで会うのは三度目か、件の深津大尉からそう声を掛けられた。

「はい。おはようございます。来栖直です」

「おはようございます。沢泉美です。本日からよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします…護国刀使とは浅からぬ縁になったものだ」

深津大尉はそういって微かに笑い、、大手門の警備に就いている近衛兵に礼をとり、それから二人を車へ促した。

「今日はまず米内大臣のお住まいに伺い、その後また、宮城に戻ります」

車中で、運転席に座る深津大尉がそう切り出した。直が早速尋ねる。

「米内大臣は、どこにお住まいなんですか?」

「5月25日の空襲で麹町三年町のご自宅を焼失されましてね、今は芝の白金にお住まいです」

「毎日送り迎えをされているんですか?」

「ええ、ご本人は面倒がられていますけど、さすがにそういうわけにもいかないので」

後部座席に座る直と泉美はそこで顔を見合わせた。

「お命を狙われているというのは…本当なんですね?」

泉美がそういうと、

「ええ…何とか我々だけで警護は出来ていたのですが、ここに来てまた事情が一変してきまして…」

深津大尉がそう、言葉を濁しながら答えたので、直も泉美もそれ以上話すのを止めた。

永田町から霞が関の官庁街は、国会議事堂と大蔵省を除き、ほとんどが5月25日の空襲で焼けていた。その後も大小の空襲で国家の中枢はほぼ、灰と化していた。今となっては空襲警報のサイレンが鳴らない夜の方が珍しく、人々は疎開をしたり、家が残っている親類縁者を頼ってなんとか暮らしていた。戦争が始まる前は7千万人を数えていた東京の人口は、この頃はその半数、3千5百万人程度にまで落ち込んでいた。

そんな荒廃した帝都の様子を車窓の向こうに見ながら、車は米内海軍大臣が住んでいるという家の付近で停まる。3人はそこで車から降り、直と泉美は深津大尉の後についていく。後ろから観察してみれば、深津大尉の動きに隙が無いのがよくわかる。おそらくこの人自身も何かしら武道を修めていて、こういう任務をよくこなしているのだろう。そんな、隙の無い足取りが急に早まった。直と泉美は半ば駆け足でついていく。

「困ります、勝手に出てもらっては!」

そう、深津大尉が言葉向けた先には、長身の男が立っていた。

「オウ、そろそろかと思ってね。おお、お嬢さん方、これから頼むよ」

ふらりと散歩にでも出て来たかのような気安さで、その男が声をかけて来た。

「あ、はい、よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

二人は揃ってそういいながら礼をして、それから頭を上げてまじまじとその護衛対象ー海軍大臣米内光政の顔を拝み、軽く衝撃を受ける。頬が削げ、目は窪み、顔色も良くない。その目には確かに強い光があったものの、かつての穏やかでふくよかな面影はすっかり消え失せていた。

「うん?どうかしたかな、お嬢さん方?」

そんな二人の様子を気取ったのか、米内が声をかけて来た。

「いえ、その、少しお痩せになられたのかな、と思いまいして…」

米内はその言葉に片眉を少し上げてから、

「ああ、これでも病人なんだ。血圧が高くてね…なかなか難儀をしておる」

それだけ言って、また歩き始めた。まだ何かいいたそうであった深津大尉は仕方なく「こちらです」といって先導をする。直と泉美は、米内の後についた。

助手席に泉美が座り、直と米内は後部座席に座る。車は再び宮城に向かって走り出した。

「すまないな。本来ならば荒魂の相手をしなければならないのに」

暫く進んだ所で突然、米内がそういったので、

「いえそんな…大事なお役目と心得ております」

直が慌ててそういうと、前の泉美もこちらに半身を向けて頷く。

「うん…何分大きく状況が変わって来てね……今日もこれから御文庫で最高戦争指導会議なんていうものに出ないといけない」

「状況が変わったというのは…あの、何かあったんですか?」

さっきも深津大尉が似たようなことをいっていた。機密なのかもしれないが、直は聞かずにはいられなくなった。

「米・英・支の三国連名で我が国への降伏勧告があった」

「大臣…!」

直と泉美は目を見開き、深津大尉は警戒の色を成したが、

「早晩国民にも発表することだ。問題は無い」

米内大臣はそれらを気にする風でもなくそういった。

「降伏勧告…日本は降伏するんですか!?」

たまらず泉美がそういうと、米内は首を振る。

「まだわからんよ。それをどうするか、決めようというのが今日の会議だ」

直も泉美も言葉を失った。まさか、そこまで事が進んでいるとは思っていなかった。

そのまま、車中では会話はなく、車は宮城へ入る。一旦宮内省の前で停まり、米内はそこで車を乗り換えて行ってしまう。3人は残されたまま、ここで待機することになる。

「御文庫って、この奥にあるんですよね?」

直がポツリとそんなことをいうと、深津大尉が頷いた。

「ええ、この森を越えたずっと奥です。地下室もある頑丈な建物で、本来は皇室の方々の避難所として作られたものだったのですが…」

「まさか、本当に使うことになるとは、といったところですか…」

宮城内に焼夷弾が落ちた時は、大変な騒ぎだった。護国刀使の隊員たちも消火に向かったが、結局消し止めることはできなかった。直と泉美は、別の空襲現場にいたため後からこの時の話を聞いたのだが、その際に、こんなところにまで爆弾を落とされてしまうなんて、もういよいよダメなのかもしれない…仲間達がそんな話をしていたのが印象に残っている。

「うーん、それにしても、ここでどれくらい待てばいいんでしょうか?」

直はそういいながら腕をパタパタと動かして袖から空気を入れた。軍服は暑い。だが、上着を脱げば女だということがすぐにバレる可能性がある。一応海軍としては、それは避けたいらしいので、二人は我慢していた。

「正直なところ、わかりません。何時間にも及ぶ、ということも珍しくはありません」

「そう…なんですか」

直は気が遠くなりそうになった。その横で、泉美は顔を引き締めている。

「やはり激務なんですね。米内大臣の変わりようには驚きました」

「ええ、かなり心労が溜まっているようです。元来無口な方なのでなかなかお心のうちまではわからないのですが…かなり苦しい立場にあることは間違いありません」

そんな、深刻な顔をしている二人の横で、直は大変なことに気が付いて顔を上げた。

「あの、深津大尉!」

「はい、なんですか」

「私たち、その…お手洗いはどうすればいいんでしょうか…?」

二人の深刻な顔が、そのまま引きつっていた。

 

 結局、二人は交代で隊舎に戻り、休憩を取ることになった。そして夕方になってようやく米内大臣が戻ってきた。帰りの車の中では降伏勧告を黙殺、つまりは無視することが決まったということを聞き、むくんだ足を引きずって隊舎に戻ったのは結局夜遅くになってからだった。決してきつい任務ではないが、身体にべっとりと疲れがこびりついている。翌日も同様の任務になるので、二人は早々に床に就いた。自分たちの関わっていることが、国家の大事であるということに気付くのは、翌朝の新聞の内容を見てからだった。

「『笑止、対日降伏条件』ですって。連合国からこんな勧告が来ていたのね」

朝食を摂りながら新聞を読んでいた由良の言葉に、直と泉美は顔を見合わせ、すぐに由良の席に回る。

「ちょっと、どうしたのよ二人共」

「すいません、新聞、ちょっと見せてくれませんか?」

「うわ、昨日いわれたことがそのまんま書いてある…」

嫌でも自分たちがこの国の政治の最前線にいたのだ、ということを思い知らされた。これはどうやら、大変な任務のようだ。

「直さん、これって…」

「ええ、ちょっと、気合いを入れ直さないといけないみたいですね…」

二人はそこで、軍服の詰襟をきちんと合わせた。

 この降伏勧告こそが「ポツダム宣言」であった。これは連合国側から日本に対する最後通牒であったのだが、日本側ではこれを「何ら重大な価値があるとは考えない」と公式に発表してしまう。この発表は戦争継続派の目を欺くための鈴木首相によるスタンドプレーであった、と考えることもできるが、まさかこれが最後通牒とは認識していなかった、というのが実際のところであったらしい。

しかし、そんな日本側の事情など連合国側には関係ない。彼らは日本に降伏の意志無し、と見るや、速やかに次の手段に打って出た。

 

 8月6日、篠原五十鈴と穂高美千代は、サトを連れて、街を歩いていた。下町空襲の後から定期的に街中へ出て、尋ね人の掲示板を確認したり周囲に聞き込みをしているが、依然としてサトの親族に関する手掛かりは掴めなかった。

「ふー、今日の捜査もボウズか」

隅田川の川べりで五十鈴がそういって腰を下ろすと、

「ボウズかー」

サトもそんなことをいって五十鈴の隣に座った。

「何それ、刑事にでもなったつもり?」

サトを間に挟み、美千代も座る。

「いやー、あれからもう5か月、こうも手掛かりが無いと嫌になってきますね」

「そうね…でも、頑張りましょう。サトちゃん、伯母さんが近くに住んでいたのよね?」

「うん…お父さんのお姉さん。タミおばさん…」

もう、難しいのかもしれない、と五十鈴は思っている。この調査はサトの親族は元より、あの日行方不明になったままの二人の先輩、甲斐百合子と島田希美の捜索も兼ねている。だから、正式に任務扱いにしてもらっているのだが…いくらなんでも生きていれば何かしらの連絡があるだろう。そんなことを考えながら、そのまま寝転ぶ。空には灼熱の太陽、風も無く、ただ、じりじりと暑かった。そこへ、嫌な音が耳に届いた。制服の胸ポケットに入れていたノロ磁針が、反応している。

「五十鈴さん、この反応、近い…」

「ええ、川下の方…みたいですね」

二人はサトを連れてい行くべきか一瞬躊躇した後、ここに置いていくのも危険なので、連れて行くことにする。サトの足に合わせて急いで行くと、川の流れを抑えるために幾つか打たれた杭の辺りで、泳いでいる子供たちが鳥型の荒魂に襲われているのが見えた。

「五十鈴さん、先に行って!」

「了解っ!」

五十鈴はそこで石田政宗を抜き放ち、迅移で駆けながら、川に向かって跳んだ。

「てえええっ!」

荒魂としても予想外であったのか、3体いたうちの1体が、不意を討たれて真っ二つになった。残りの2羽はすぐに高度をとる。派手な飛沫とともに五十鈴の身体は一旦川に落ちたが、すぐに近くの杭に掴まって、その上に立つ。

「さあ、早く!川から上がって!」

子供たちは突然現れたずぶ濡れの刀使の命令に、取りあえず従い、必死に岸へ泳いで行く。

「よーし…さて、どうしようかな」

鳥の荒魂たちは、ギャアギャアと騒ぎながらまだ上空を旋回している。そこへ、背中から美千代の声が届く。

「五十鈴さん!その少し先に、御刀があるって!」

子供たちから何か聞いたのだろうか。その言葉通りに少し先に目を遣ると、杭に引っ掛かっている刀の柄らしき物が見えた。

「あれは…!」

上空を警戒しながら、その杭に飛び移ると、確かにそれが御刀であることがわかる。左手で掴むと、その瞬間に2体の荒魂が同時に急襲してきた。

「うわっ!」

さすがに、避けられる体勢ではなかった。写シは張っているがこれは多少の怪我は覚悟しないといけないか、と思っていたところへ、

「飛び込んで、五十鈴さん!」

美千代が御刀に手をかけて杭の上を跳びながら迫って来ているのが見えた。なるほど、このままでは自分が邪魔になるらしい。五十鈴は再度、川に飛び込む。そして次の瞬間、五十鈴が立っていたその場所に急降下して来た2体の荒魂たちは、美千代の抜き放った大和守安定にまとめて両断されていた。

「お見事、美千代さん!」

頭を出した五十鈴がそう叫ぶと、それに答えるように美千代が微笑み…そのまま着地に失敗して川に落ちた。

 

「いやー、参った参った」

「あー、もう、色んなゴミでいっぱいじゃない…」

川から上がって来た二人を、サトを含めた子供たちが囲む。

「すげえ、お姉さんたち、刀使なの!?」

「そうよー、刀使なのよー」

「五十鈴さん、その御刀…」

五十鈴が左手に握っている御刀は、切っ先が折れてあちこちが焦げ、新しい錆びが浮いている。

「ええ、これ、多分…」

「それ、オレがみつけたんだぜ!」

一人の男の子がそう、無邪気に得意気な声を上げた。宝物を見つけて、それを友達と一緒に取ろうとしていたのだろう。

「そうなんだ…うん、でも、ごめんね、これはお姉さんたちの仲間の物なんだ…」

「ああ、刀使の刀だったんだ。じゃあしょうがないな、持ち主に返さないと」

一番年長と思われる男の子がそういうと、他の子供たちも頷いた。

「ありがとう…。これね、お姉さんたちずっと、ずっと探していたものだったの」

自分たちの調査は無駄ではなかった、ということだろうか?五十鈴は言葉に詰まってしまった。

「本当にありがとうね。でも、あんな危険なことはもうしちゃだめよ。荒魂は御刀を狙って現れることもあるの。荒魂が現れたらすぐに逃げること、いいわね?」

美千代の言葉に「はい」と答えるその子供たちの中に一人、ずっとサトを見ている女の子がいる。ふと、それに気づいた五十鈴は、

「ん?あの子、もしかしてサトちゃんの知り合い?」

「え…」

「あ、やっぱりサト、橿原サトね!」

その女の子がそう大きな声を上げて、サトに近づいてきた。五十鈴と美千代は顔を見合わせる。サトの様子が、少しおかしい。

 

 サトの名を知っていたその女の子は石塚タカ、と名乗った。

「え、タミ伯母さんの娘…ってことはサトちゃんの従姉っていうこと!?」

「はい…」

サトの消え入りそうな声を聞きながら、美千代はその従姉に確認を取り始める。

「石塚タカ…ちゃん、お父さんやお母さんは元気なの?」

「はい…お父さんは出征してるし、家は空襲で焼けちゃいましたけど…」

「そう…サトちゃんは私たちが預かっているんだけど…良かったら、今住んでいる所を教えてくれないかな?」

石塚タカはサトの顔を覗き込むようにしてから、あまり子供らしからぬ笑みを浮かべ、

「いいですよ。それじゃ付いて来て下さい」

そういって歩き始めた。

着いた先は、戦災に遭った人々が協力して作っていた長屋のような集合住宅だった。共同の土間のような所で、タカは数人で炊事をしている女性の一人へ近づき、何やら話をした後、その女性がこちらを振り返って歩み寄ってきた。

「あら、本当に…サト、生きていたのね」

「おばさん…あの…こんにちは…」

おばさん、と呼ばれたからにはこの人がサトの父の姉、タミ伯母さんなのだろう。

五十鈴が声をかけようとすると、

「びしょ濡れの所悪いけど、お二人共、ちょっといい?タカ、サトを見ておくんだよ」

女性はそういって、五十鈴と美千代に外に出るよう促した。二人はあまりいい空気でないことを察しつつ、その女性の後についていく。

外に出ると、女性は三角巾を外した。頭を振ると、緩やかに波打った髪が落ちて来る。そうすると随分若く見えた。まだ30になったばかり、といったところだろうか。

「まさか、刀使に拾われて生きているとはね…悪運の強い子だわ…」

「あの、あなたがサトさんの伯母さん…なんですよね?」

「ええ、石塚タミ、といいます。あの子の伯母かどうかはわかりませんけど」

その含みのある言い方の理由を尋ねようと思うのをぐっと堪えて、二人は自己紹介をする。

「私は篠原五十鈴、と申します。近衛祭祀隊の刀使をしています」

「同じく穂高美千代といいます。サトさんはあの下町空襲の時、私たちが見つけて、保護しました」

「ふうん…本当にあの護国刀使なんだね。それで、あの子を引き取れ、そういいに来たの?」

タミは、そういって刀使の二人をねめつけるように見据えた。刀使の少女二人を向こうに回して、堂々たるものだった。

「…先程から随分と引っ掛かる言い方をされていますけど、サトさんには何か問題でもあるんですか?」

五十鈴がやや苛立ちを見せながらそういうと、タミはふっと口の端で笑った。

「ええ、さすが刀使さん。鋭いわ。問題大ありなのよ、あの子はね」

タミは二人の顔をよく見ながら、やはり、薄笑いを浮かべて続ける。

「あの子の母親と私の弟がどういう出会い方をしたのか知らないけど、そういう仲だったのは間違いない無いらしいわ。ただね、あの女はある時プイといなくなって、それから何年かして突然戻って来たの。あの子を連れて、ね」

五十鈴と美千代はそこでようやく、この人の態度がわかったような気がした。顔を見合わせてから、美千代が尋ねる。

「…そうですか、それで、その、お母さん…は?」

「サトから聞いてないのかい?あの女はそれからまた、すぐにいなくなったんだよ。サトはあんたの子だって、弟に押し付けてね」

「それっきり…なんですか?」

「ああ、それっきり、だね。あの女、他に男がいたんだろう。顔形だけは良かったからね.」

タミは、それだけ言って黙ってしまった。後は解れ、ということなのだろう。しばしの沈黙の後で、五十鈴が口を開く。

「それで、弟さん、サトさんのお父さんは…もう?」

タミは、黙ったまま頷いた。五十鈴は、もうこれ以上話をしたいと思わなくなっていた。

「そうですか…わかりました。ではサトさんは引き続きこちらでお預かりします。それで、よろしいですね?」

「いや…そういうわけにもいかないだろう。うちで面倒をみるよ」

それは、五十鈴と美千代にとっては意外な言葉だった。

「え?」

「え、じゃないよ。あの子はあんたたちとは無関係だ。これ以上、あんたたちに迷惑を掛けるわけにはいかない。置いていきな」

「いえ…失礼ですが、先程までのお話をうかがう限り、私たちがお預かりした方がサトさんのためだと思います」

五十鈴が半ば怒気をはらませてそういうと、タミの顔色が変わった。

「あの子のため?小娘が知ったようなことをいってくれるじゃない。子供を養っていくのはあんたたちが考えているほど簡単なもんじゃないんだよ。大体あんたたち、今はいいかもしれないけど刀使を引退したらどうするんだい。あんな子を連れてたんじゃ嫁にだっていけやしないよ!」

タミのその言葉には、迫力と共に説得力があった。確かに、今の自分たちは小娘でしかない。二人がたじろいだそこへ、言い合っている声が聴こえたのだろうか、サトとタカが姿を現した。

「タカ、サトを見て置けっていったでしょう」

タミは少しバツが悪いのか、かなり声の調子を抑えてそういった。

「ごめんなさい、お母さん。でも、どうしてもって…」

そういうタカの横からサトが進み出て、五十鈴と美千代に向かって頭を下げた。

「今まで、ありがとうございました!」

「え、ちょっと…」

「何いってるの、サトちゃん…?」

それから、

「おばさん、タカお姉ちゃん、これからよろしくお願いします」

今度はそういって、タミの方に向かって頭を下げた。

「全く、この子のこういう所が…」

タミはそういって、そんなサトから顔を逸らしながら、

「刀使のお嬢さんたち、もういいだろう。そういうことだから」

そういって再び長屋に戻ろうと歩き始め、タカとサトがそれについてく。だが、

「待って下さい!」

五十鈴が、その背に声をかけた。タミが振り向く。

「今おっしゃった、こういう所ってどういうことですか?」

「わかるだろ?人の顔色をうかがって、こういう芝居がかったことをする所だよ」

五十鈴は、真っ直ぐにタミを見据えた。

「私たちは…確かに小娘です。でも、だから、子供の時のことはあなたよりよく覚えていて…それに私には小さな弟や妹がいるからわかるんです。子供がこんな態度を取るのは…相手の大人のことが怖いから、でもその大人と上手くやっていかないといけないと思っているからです」

タミが完全にこちらに向き直った。五十鈴はさらに言葉を探す。

「私たちのことまで考えていただいて、それは感謝します。でも…あなたの所に行くと、サトが無理をしてしまう。あなたも無理をしてしまう。だったら、サトは私たちに預けてくれないでしょうか…!」

「…あんた、何を…」

タミが明らかに戸惑った様子を見せた。そして、サトが必死に涙を堪えているのに美千代は気付き、ニンマリとほほ笑んだ。

「タミさん、この子、この数か月ずっとサトと一緒に寝ていたんです。きっと、サトがいないともう寂しゅうていけんのです。理屈に合わない、おかしなことをいっているはわかってます。でもこういうのは、理屈やないけん…サト、あなたは本当はどうしたいん?」

水を向けられたサトは、タミと、五十鈴の顔を交互に見る。美千代は腰を下ろし、サトと視線を合わせた。

「誰の顔色を気にすることもないんよ。あなたが今、一番一緒にいたい人の所に行けばええの」

サトの顔がみるみるくしゃくしゃになり、五十鈴の方へ駆けだした。五十鈴がしゃがみ、サトを受け止める。

「サト!」

「お姉ちゃん!」

二人共、声を上げて泣き始めた。美千代も微かに目に涙を浮かべ、立ち上がる。

「タミさん、こういうことですから」

美千代がそういうと、タミはふっと溜息をつき、

「全く…まあいいよ、それじゃ、その子のこと、頼んだよ」

「はい。わかりました」

「サト、刀使のお姉さんたちを困らせるんじゃないよ」

「はい、おばさん、ありがとう…」

ぐずぐずになった鼻声でサトが答え、五十鈴も頭を下げた。

「さ、タカ、行くよ」

「うん!」

タミはそういって戻っていく。美千代もまた、その背に頭を下げた。

頭を上げてから、そういえば、あの人は旦那さんが戦争に取られているとは一言も言わなかったな、と思った。あえて、何もいわなかったのだろうか?だとすればあの人は、自分たちが思っている以上に誇り高い立派な大人なのかもしれない…そんなことを考えていたら、ようやく五十鈴が立ち上がる。

「どう、気が済んだ?」

「はい、美千代さん、ありがとうございました」

五十鈴とサトが、同時に美千代に頭を下げた。

「大げさね…まあ、私もサトちゃんがいなくなるのは寂しいからね」

そういうと、五十鈴とサトは満面の笑みを浮かべた。みんな、何とか今を生きている。そんな中でも、こうして人間らしさを失わないというのはとてもすごいことなのかもしれない。美千代は、篠原五十鈴という人間のことが改めて好きになった。

 

 サトを間に、3人は手を繋いで歩いていく。宮城まで帰り着いた頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。警護の近衛兵たちは、笑顔で道を空けた。石段を上り、隊舎が見える高台に来ると、夕日が鮮やかに見える。

「きれいな夕焼けだね、サト」

「うん、きれい」

「そうね、随分遅くなっちゃいましたね」

3人は笑いながら我が家へ急いだ。

声を揃えて「ただいま帰りました」と、玄関でいうと、すぐに戸が開く。現れたのは八重だった。

「ああ、3人共お帰り…。美千代、ちょっと話がある。すぐに学習室の方に来てくれる?」

「え?はい、わかりました」

八重がそれだけいって先に行ってしまう。

「なんでしょうね?私は一旦この御刀を青砥先輩に見せてこようと思うんですけど…」

川で拾った御刀を手にしながらそういう五十鈴に、美千代は頷く。

「ええ、そうして下さい。お風呂も、入れたら入っておいて」

「わかりました」

二階へ上がる五十鈴とサトを見送って、美千代は学習室へ向かう。一体何の話だろうか。

学習室では座学用に並べられた一番前の席に、八重と、由良が座っていた。

「お待たせしました。あの、どういったお話でしょうか…?」

由良が、取りあえず座るように勧めたので、美千代は二人の後ろの席についた。

「美千代さん、落ち着いて聞いて下さい」

由良がそう切り出してから、一つ、大きく深呼吸をして改めて口を開いた。

「広島に新型爆弾が落ちたとの情報が入ってね…市内の被害は甚大、らしいの…」

「…え?」

「まだ公式に発表もされていないけど、間違い無いらしい。海軍では広島に調査団を派遣したと聞いてる」

「新型爆弾って…どういう…」

家族や共に住んでいた人たちの顔、家や周りの風景を思い出しながら、美千代の頭の中は次第に混乱してくる。

「細かいことはわからない。でも…厳しいことを言うようだけど、楽観はしない方がいい。普通の空襲ならこんな知らせは入ってこない」

八重の言葉は、純然たる事実だった。

「何がどうなっているかわからない以上、あなたを広島に帰すわけにはいきません。でも、新しいことが分かり次第あなたには必ず伝えます。だから決して、早まった行動はとらないで」

「わかり…ました」

「今はただ、ご家族のご無事をお祈りしましょう…」

由良がそういい、美千代は頷いた。

 

 だが、その新型爆弾の恐るべき威力の前には人の祈りなどは無力でしかなく、広島の被害の凄惨さは、この場の3人の想像など到底及ぶものではなかった。

もちろん、それがわかるのはもっと先のことになる。

 川で見つかった御刀は、行方不明のままになっている島田希美のものであることがわかった。傷ついたその御刀を見ながら少女たちは希美の最期を思って涙し、それでも、御刀だけでも帰って来たことに微かな救いを見た。

刀使たちはその御刀を地下の祠に収め、島田希美と甲斐百合子の御霊の弔いをしめやかに行った。まだ彼女たちが生きていると思いたかったが、今生きている自分たちのために、けじめをつけたのだ。

 希美が最後まで握っていたであろう、その柄の拵えは青砥香澄によって丁寧に外され、後日、希美の家族に送られた。

 

 

 



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十章

 

 

 広島に落とされたのは、アメリカが当時世界最高の科学者たちを集め、二十億ドルという巨費を投じて作られた全く新しい爆弾、原子爆弾であった。現地での被害調査が進むに連れてその脅威は日本の中枢にも知れ渡っていく。たった一発で、当時40万の人が住んでいた広島市を壊滅に追いやった新兵器…それは日本にポツダム宣言の受諾を再考させるには十分な要素となっていた。

そして8月9日、突如としてソ連が対日参戦を発表、中国東北部への侵攻を開始し、さらに同日、2発目の原子爆弾が長崎市を焼き尽くした。

 鈴木内閣は天皇の意志「聖断」を巧みに引き出して無条件降伏を受け入れることを最高戦争指導会議の場で決定する。そしてこの降伏、つまり日本の敗北と終戦を伝えるために採られた方法が、天皇の肉声によるラジオ放送、いわゆる「玉音放送」であった。

8月15日の正午から重大な放送があるので必ずラジオの前にいるように、と国民には繰り返し告げられていたが、内容については明かされておらず、その放送の音源たる天皇の肉声も当時のNHK職員らによって8月14日午後23時を過ぎてようやく録音された。念のため同じ内容で二度録音され、正・副二枚の録音盤(レコード)が作られる。

一般の国民はその内容を知る由もなかったが、既に天皇の「聖断」が下ったことを知る者たちからすれば放送の内容は自明であった。そして、戦争継続を主張する者たちからすれば、これは絶対に阻止しなければならない放送であった。

8月14日から15日にかけて、宮城を舞台に最後の騒乱が始まろうとしていた。

 

銃声が二発、響いた。

鷹司京は嫌な空気を感じ、配下の刀使に中の様子を見て来るよう命じた。時計は既に午前一時を回り、日付は8月15日に変わっている。鷹司京と早乙女凪子、そして彼女らに率いられた9人の神功刀使たちは、宮城北の丸にある近衛師団司令部前に集っていた。

しばらくして、数人の陸軍将校たちが出て来る。その中には、稲田中佐の姿もあった。使いに遣った刀使が、近づいてくる。

「鷹司様…」

「何があった?」

「その…近衛師団長が、殺害されました…」

「何…?」

京はすかさず、共に出て来た軍人たちを睨みつけた。

「貴官ら、どういうつもりだ?森師団長を説得して宮城を占拠するのではなかったのか?」

稲田中佐が進み出る。

「すまない…血気に逸った連中を止めることができなかった…。しかしこうなればもう、やるしかない。近衛師団長の名を借り、近衛兵を掌握して宮城を占拠、録音盤を探し出す」

その後ろでは、半ば茫然とした数人の将校がいる。新しい血の匂いが、その男たちから漂っていた。

「ばかな…!偽りの命を発するのか。それこそ逆賊ではないか!」

「…あなたのいうことは最もだ。だが、これが偽命と暴かれるまでの時間こそが我らの味方だ。その間に陸軍大臣、東部軍司令を説得できさえすれば、これは偽命では無くなる」

「何を…録音盤を廃し、陸軍大臣、近衛師団長、東部軍司令官を動かして、改めて継戦の詔勅を発していただく…それこそ、この蹶起の目的であろう!その一点を欠いて、事が成るのか?残る両者を説得することもかなわんのではないのか!?」

稲田が項垂れる。図星なのだろう。

近衛師団、東部軍共にお役所組とは異なる陸軍の実働部隊で、特に宮城付近を護るのが近衛師団、関東甲信越を防衛していたのが東部軍であった。この蹶起はつまり、お役所組の陸軍省トップと、東京における実働部隊組の両トップを動かそうという実に壮大なものだった。実現すれば戦争継続の道が開かれる可能性はある、が…。

「…最早是非も無い事です。偽命であろうとなかろうと、我々は用意した命令書に近衛師団長の印を押した。これを警備指令所に持って行けば近衛歩兵連隊は動く。賽は投げられたのです。既に東部軍司令、陸軍大臣の所へは仲間が説得に向かっています。あなた方は打ち合わせ通り近衛兵と共に宮城内へ進んでいただき、抵抗する者を押さえていただきたい。日比谷の放送会館へ行っている仲間達もおります。とにかく録音盤を何としても探し出してほしい」

確かに、もう後戻りはできない。京は舌打ちをして、部下を集める。

「気に入らんが…それより他に術はないか…凪子!」

呼び掛けに応じ、闇の中から、長身の刀使が現れる。

「お前は…そうだな、3人連れて近衛の連中と宮内省へ向かい、録音盤の捜索にあたれ。この宮城に隠しているとすれば、あそこだろう」

「わかりました。では鷹司様が…あちらへ?」

京はそこで微かに笑う。

「そうだ。あそこは私もよく知っているしな、お前がかつての仲間たちとやり合うのも忍びないゆえ」

「…お気遣い、恐れ入ります。では3名、付いて来い」

凪子はそういい、案内役の将校と共に用意していた車に向かう。

「どれ、それでは行動開始といこうか…」

先頭に立つ京に従い、神功刀使たちは宮城へと向かった。

 

「あら…今隊舎の方で何か光りましたけど…って直さん、聞いてますか?」

泉美の言葉を、半ば朦朧とした意識で聞いていた直は、そこでさっと頭を上げる。

「寝てません、私、寝てませんよ!」

「もう…まあ、仕方がありませんけどね…ちょっと、外の空気にあたりましょうか」

「そうですね、うん、そうしましょう」

そういって、二人は席を立つ。二人がいるのは、いつも米内大臣を送った時に待たされる宮内省内の侍従武官室だ。侍従武官というのは簡単にいえば天皇に直接仕えている軍人のことで、職務の性質上、宮内省に部屋を持っている。その宮内省の建物から出てみると、玄関前で深津大尉が立っていた。庁舎前には照明があり、二人に気付いた深津が軽く礼をした。

「どうですか、不寝番は?」

「なかなかに睡魔が手強くて…」

直がそういうと、深津は笑って懐中時計を取り出す。

「もう2時になりますか…護国刀使にも不寝番はあると聞いていますが、その時はどういった任務内容なのですか?」

それには泉美が答える。

「そうですね、大体この宮城一帯や夜の街の警邏です。最近は空襲の対応に追われることの方が多くなりましたが…」

「ああ、なるほど…確かに、空襲警報が鳴らない日の方が珍しいですからね」

「だから、同じ不寝番でもこんな風にじっとしていることは無くって…ふっ…あーあ」

直はそこで大きく背伸びをしつつ欠伸をした。前方の宵闇に目をやると、自動車が走っているのが見えた。いつもの夜とは違う雰囲気が、確かに感じられる。

「うーん、やっぱり今日は何かあるんですか?」

そう尋ねると、深津も頭を捻る。

「わかりません。今夜の不寝番は米内大臣からの命なのです」

泉美は何か言いたい様子であったが、直は軍人がそういうものだとはよく知っている。上の者が命じれば、それは絶対なのだ。理由など必要ない。だからそれ以上何もいうことはなかったが、何もすることがないというのはやはり厳しいな、などと思っていたら、周囲から大きな物音が聞こえ始めた。

「何だ…?ちょっと見てきます」

そういって深津がすぐ前にある坂下門の方へ行こうしたその時、慌ただしく入り乱れた多数の軍靴の音が響いてきた。暗くてよくわからないが、軍人の一団が駆け足で近付いて来ているようだ。直と泉美は、軍帽を目深に被り直す。異変に気付いたのか、宮内省詰めの近衛歩兵たちも出て来た。

「師団長命令だ。これより宮内省内の捜索を行う」

到着するなり、軽く息を切らせながら先頭の軍人がそういった。電灯に照らされて見える彼らの出で立ちは、護国刀使たちも見慣れた近衛歩兵の制服、それに白のタスキをかけていた。所属を同じくする警備の近衛兵たちは道を空けたが、深津が待ったをかける。

「お待ち下さい。これは一体何事ですか」

「海軍の方か?侍従武官警護であれば心配には及ばない。我々はここにある物を探しに来ただけだ。繰り返すが、これは近衛師団長命令だ。道を空けるように」

「ある物…?一つ確認しておくが、貴官らは戦争継続を望む者たちか?」

「だったらどうしたと…」

近衛歩兵の男がしゃべり終わる前に、

「あまり手を患わせないでいただきたい、深津大尉」

凛とした女の声が響く。直と泉美は、深津の後ろで息を呑む。

「あなたは…護国刀使の…!何故…?」

早乙女凪子が、神功刀使たちを連れて前に出て来た。そう思った次の瞬間、抜き放たれた髭切の切っ先が深津の喉元に伸びる。しかし、直と和泉が深津の左右からそれぞれの御刀を振り上げ、それを真上に弾き返した。咄嗟の動きに二人の軍帽が落ち、しまっていた髪があふれる。今度は、凪子が驚く番だった。

「何…!直に、泉美か…!」

「ええ、お久し振りです…」

「凪子先輩…!」

 

 ちょうど、警邏から戻った五十鈴と美千代は、隊舎に向かう細い石段で下から迫るただならぬ気配に振り向いて立ち止まる。

「刀使…!?あの時の…!」

「灰色の刀使…!」

あの模擬戦の後に現れた刀使たち、そしてその先頭に鷹司京がいるのがわかった。五十鈴は、暗闇の中でもはっきりと認識できる京の存在感に戦慄を覚えた。脇腹の傷痕が疼く。やがて、追いついた京が、声を掛けて来た。

「ほう、その声…あの折に怪我をした刀使だな…。傷は癒えたようだな。何よりだ」

「え…?あ、はい、どうも…恐れ入ります」

「ちょっと五十鈴さん、何いってるの?」

「え、だって心配してくれたみたいだし…」

そういいながら、二人は腰の御刀に手をかけて身構えた。ここは道が狭く、二人で塞げば先には進めない。一体何を考えているのかわからないこの人たちを、隊舎へ通すわけにはいかなかった。

「おいおい、そう警戒せずともよい。私は話をしに来たのだ。そのまま、お前たちの隊舎へ案内してくれぬか?」

「お話の内容次第、ではありますけど…」

「それだけの数の刀使を従えてきて、しかもこんな時間に、ただ話をしに来たというのはちょっと信用いたしかねます」

二人の様子を見て、京は諦めたように腰の三日月宗近を引き抜いた。

「ならば推し通るまでだ。しかしこのような閉所では存分に御刀を振るえまい。隊舎の前でやろうではないか」

「ふふ、その手には乗りませんよ。ここなら多少の戦力差は問題になりませんからね」

そういいながら、五十鈴は美千代を見てから、隊舎の方をへ目を遣り、頷く。美千代は一瞬戸惑った様子を見せながらも、小さく頷いた。

「ふん、小癪な…まあいい、こちらも数でなぶるのは趣味ではない」

「それは、どうもっ!」

五十鈴はそういうや否や、京に斬りかかった。受けた京の横についていた刀使がすぐに抜刀して斬りかかって来たのを、後ろに跳んでかわす。そしてその時にはもう、美千代の姿はなかった。

「ほう、知らせに走らせたか…一人で我らを足止めしようてか?」

「そこまで大それたことは思っていませんよ…でも、時間は稼がせてもらいます」

京が小さく舌打ちして退がるのと同時に、左右の刀使が斬りかかって来る。五十鈴はそれらを順に払い、さらに正面から振って来た刃を逸らし、それからじりっと一歩、後ろへ下がる。とにかく、真っ直ぐに受けて動きを止めたらおしまいだ。目の前の刀使たちの肩、つま先、かかと、そして腰の切り具合を見ながら一定の距離を保つ。冷静になれ、相手の動作の「起こり」を見逃すな、と自分にいいきかせる。この道ならば、二人以上が斬り込んで来ることはできない。それに、自分がいつも打ち合っている直や泉美ほどの剣士はそういない。今こそあの時の借りを返してやる…五十鈴は全身を研ぎ澄ませながら正眼に構え、切っ先をかすかに揺らめかせる。

わずかな膠着が生じたが、神功刀使たちにとってもここで余計な時間をかけるわけにはいかないのだろう。すぐに攻撃が再開された。一人の刀使が斬りかかって来る。五十鈴はそれに合わせようとした瞬間、その後ろから左右同時に迫って来る気配を感じた。咄嗟に御刀を鞘にしまって後ろに跳ねて距離を取り、初撃をかわす。そして感じた通り斬り込んできた左右からの刃が重なる瞬間を、

「てえっ!」

気合一閃、居合で同時に跳ね上げた。体勢を崩して後ずさる二人の刀使たちに押される恰好で神功刀使たちも後退する。五十鈴はすぐに御刀を振り下ろして右手を前に、左手は鞘を掴んだまま、半身で構える。

「はっ、たった一人でこの人数を押し返すとは見事!だが、遊びは終わりだ!」

そこへ、京が突出してきた。その直線的な振り下ろしは、半身の姿勢なら捌くのは難しくない。五十鈴は京の剣に自分の剣を合わせてそれを受け流そうとしたが、

「ぬるいっ!」

京の速度がそこで一段階上がった。

「なっ!?」

剣撃が、途中でその速度を変えた。前に出していた右手をくぐられ、京の身体が五十鈴のすぐ目の前で、左のつま先を軸にしてきれいに弧を描く。舞うように優雅なその動きを、五十鈴は恐怖を覚えながらも、見とれた。その直後、伸びていた身体に三日月宗近の切っ先が走った。カウンター気味に決まったその袈裟斬りの威力は凄まじく、写シも剥がされたが、何とかその場に膝を付くだけで堪える。

「うっ…!く…!」

声にならない声が漏れるように出て来る。意識が飛ぶかと思うほどの激痛だった。

「剣捌きも咄嗟の閃きもなかなかのものだが、まだ及第点はやれんな」

京は流れる黒髪を左手でさっとかき上げて、五十鈴の喉元に刃を突き付けた。

「ここでじっとしていろ。命まではとらん」

「そう…ですかっ!」

五十鈴はそういった瞬間に、渾身の八幡力で足元の石段を踏み抜いた。金剛身を上手く使えないので自分の身体にも衝撃が走ったが、石段が崩れて神功刀使の足並みが乱れ、自身は大きく跳んで間合いを取ることが出来た。

「ええい、またこの手かっ!」

京の怒声が聴こえて来たが、構ってはいられない。五十鈴自身、もう戦える状態ではない。そのまま転げ落ちるようにして高台を駆け下りる。足がもつれて転ぶ寸前、柔らかな感触に救われた。

「五十鈴さん、よく頑張ったわね。後は任せて、少し休んでいなさい」

「んん、千鶴先輩…」

千鶴の胸から顔を上げて見ると、隊舎前の灯りに照らし出されて、仲間達が立っている。由良、春江、香澄、それに美千代がいた。これほど心強い眺めもない。

「五十鈴さん、中でサトちゃんを見てあげて。さ、お出ましみたいよ。全員、抜刀!」

由良の号令に合わせて全員が抜刀し、写シを張った。もう写シを張ることもできない五十鈴は、仲間達の後ろに下がる。

「五十鈴さん、お疲れ!」

「うん、美千代さん、気を付けてね!」

途中で美千代と言葉を交わして隊舎に入ると、サトが立っている。

「お姉ちゃん、大丈夫!?」

「うん、ちょっと疲れただけだよ」

五十鈴は大きく深呼吸をすると、そこへスっとリュウが飛んできてサトの肩に止まった。

「お姉ちゃん、このこと直さんや泉美さんにも伝えた方がいいんじゃ…」

「ああ、そうだね…でも、どうしようかな…」

そういっていると、表から声が聴こえ始めた。五十鈴はそっと、戸を引いた。

 

 先頭に立っているのは鷹司京、そしてその後ろにあの灰色の刀使、神功刀使が5人確認できる。全員が御刀を構え、写シを張っていた。

「あの連中が模擬戦の後半に出て来た刀使だとちょっと厄介ね」

千鶴が、そういって来る。

「そうね…でも今、状態は万全だし、ここは私たちの庭だしね、あの時のようなことにはならないでしょう」

由良が答えたその時、京が御刀を鞘に納め、写シを解いた。それに倣い、後ろの刀使たちも全員、構えを解いた。護国刀使たちが戸惑っていると、

「我らは決して戦いに来たわけではない。まずは話を聞いてもらいたい」

そう、京が話しかけてきた。由良は少し迷ったが、鷹司京という人が決して嘘をつく人物ではないことは知っている。

「…わかりました。みんな、いい?」

由良がそういって納刀すると、全員それに順った。

「礼をいうぞ、霧島」

「それには及びません。これからのお話次第では再度、抜くことになるのですから…。それで、お話の前に一つ、よろしいですか?」

「早乙女凪子のことか?」

「そうです。あの子は今、どうしているんですか?」

京はそこで少し考えるような素振りを見せてから、

「それも併せての話だ。聞いてもらうぞ」

そう、有無を言わさぬ口調でいった。護国刀使は全員、黙るしかない。京が話始める。

「ポツダム宣言などという降伏勧告を受け入れることになったということは、お前たちも聞いているな?」

「ええ、ここの全員、知っていますよ。ご聖断によって受け入れることが決まった、ということもね」

千鶴がそう答えると、京はそれを一笑する。

「そういえば海相の警護をしているのだったな…情報は入っているか。ならば話は早い。我々は、そのような決定を断じて認めない。陸軍の者たちと申し合わせ、これを覆すべく今宵、蹶起した」

護国刀使の一同は、そこで互いに顔を見合わせた。千鶴がさっきより厳しい顔つきになって口を開く。

「何をおっしゃられるかと思えば…鷹司様、これはご聖断なのですよ?それを覆すなどと、あなた方は叛乱を起こすおつもりですか?」

「叛乱か…せめてクーデターといってもらいたいところだがな。だがこれは叛乱でもなければクーデターでもない」

京はそういって、その場の護国刀使たち、そしてわずかに開いている戸の向こうにいるであろう刀使にも聞こえるよう、声を張り上げる。

「無条件降伏など、この国の未来を考えた上での結論とはとても思えん。お前たちもよく考えてみるがいい。我ら大和民族が欧米の鬼畜共に隷属し、国を明け渡すことなるのだぞ?神代の時代から続く国体を失えば、最早この国が再生することはない。我らは亡国の民としてこの世界の底辺をはいずり回り、やがては全ての血統が駆逐されていくのだ。見たであろう、帝都へ執拗に焼夷弾をバラ撒くB29を。聞いたであろう、広島と長崎を襲った新型爆弾の話を。奴らは我々を殺すことになんの躊躇もない。今を生きる我らが決断を誤れば、我らの子や孫は、生まれながらに決して報われることのない塗炭の苦しみを味わうことになるのだ!」

由良が振り向くと、美千代が歯を食いしばっている様子が見えた。京の言葉は、続く。

「だが今ならばまだ、間に合う。本土決戦に持ち込み、我らの、刀使の力を見せつけてやるのだ!さすれば降伏には幾分かの条件を付けることができるであろう。早乙女凪子は今、我らと行動を共にしている。護国刀使の皆よ、お前たちも力を貸してほしい。今こそ、この国の未来のために我らとお前たちが協力し、毛唐共に一矢報いてやる秋だ!」

京の意志は、護国刀使の皆も少なからず知っている。そして今、改めて凪子が生きているという事実と共に熱っぽい口調に乗ったそれを受け止めてみれば、心が動いた。それもまた国を思えば一つの選択ではないのか…。護国刀使の中に無言の動揺が広がった。

「凪子、元気みたいね…」

千鶴がそう、絞り出すようにいい、

「そのようね」

由良はそう答えながら、自らの意志をぶつけてきた京に対し、護国刀使の隊長として何を答えるべきか、考えた。自分の意志、信念といえそうなものは、仲間達の命を何より優先する、ということだけだ。それは京の語る大義ほど立派なものではないし、常に必ず正しいとも言い切れないものだろう。だが、それがこれまで殉職者の数を抑え、凪子の命も救うことに繋がった…そう由良は信じている。京の言葉に従えば、仲間達も、この国の人々もまだまだ犠牲になる。由良としては、これを認めるわけにはいかなかった。

「鷹司様、おっしゃりたいことは…わかりました。凪子のことも、御礼申し上げます。しかし…」

「しかし?」

「いかに刀使が奮戦したところで、この力には限界があります。とても、一騎当千とはいかないでしょう。結果は、同じことです。みすみす仲間達の命を危険にさらすことはできません。どのようなお考えがあろうと、戦争を継続しようというお考えに、私たちが同調することはありません」

由良は澱みなく、そう言い切った。京の背後の刀使たちが柄に手をかけたが、京がそれを制した。

「我らは…近衛師団長の命令書で動いている。陸軍大臣、東部軍司令官への説得も行っているところだ。それが成れば、ご聖断は覆るぞ」

その言葉に、どことなく歯切れの悪さがあるのを由良は感じる。

「私たちは確かに近衛祭祀隊と名乗っています。近衛師団長の命を無視するわけにはいかないでしょうが…直接の命令は政府から受けることになっています。今はまだ、そのような…神功刀使と共に行動をしろ、というような命令は受けておりません」

さすがに、数人の神功刀使が抜刀し、それに合わせて護国刀使の面々も柄に手をかけた。

「待て!この者の理屈は最もだ!」

京の怒声を受けて、双方が再び構えを解く。

「残念だ、霧島由良。だが…そうだな。護国刀使がせめてここから動かないことを約してはもらえんか?」

「それは…」

「先程も言った通り、我々は近衛師団長の命令書で動いている。お前たちには命令がないのであれば、別に問題は無いのではないか?」

そういわれてしまえばその通りであった。しかし…妙な違和感が拭えない。

「そうですね…それであれば、その師団長の命令書というのを見せていただけませんか?」

一瞬、京の顔が曇った。

「命令書は警備指令室だ。わざわざ持って来ることはできんよ。疑念を持っているのであれば誰か遣いにやればいい。うちの者に先導させるぞ」

「それは…」

どうも先程から宮城全体が慌ただしく感じる。こんな時間だというのに自動車の音も時折響いてくる。こんな時、明眼や透覚を使える者がいればいいのだが…。

「どうした、何を迷っている?」

「迷ってはいませんよ。ただ、周りの様子がわからないもので、遣いを出すというはちょっと…」

「おい、こちらが下手に出ているからといってあまり調子に乗るなよ」

「そう怖い顔をしないで下さい。今こうして私たちが動かないでいる、ということは結局、鷹司様の意に沿えている、ということにもなるのでしょう?」

そう答えると、京は黙った。神功刀使たちは指をさかんに動かしたり、所在無げにあちこちを見回している。間違いない、彼女たちは何か焦っている。こうなれば腹の探り合いだ。もうしばらく、のらりくらりと会話を交わして行けば、何かわかることがあるかもしれない。由良は、じわりと流れて来た額の汗を拭った。

 

「何だか難しいこといってるね、お姉ちゃん」

「うん、それににらみ合いになっちゃったよ…あ、でも私も回復できるし、ちょうどいいかな」

戸の隙間から覗いている五十鈴とサトには、会話の全てが聞き取れているわけでは無い。一体どういう状況なのか今一つわからなかったのだが、決して悪い状況ではないようだ。

「うーん、やっぱり何か起きてるんだ。外の様子を見て来たほうがいいのかな…」

五十鈴がそう呟いたその時、

「うん、とんでもないことになってるぞ」

予期しない返答があり、五十鈴とサトはビクリと身体を震わせて振り返った。

「吉乃先輩、八重先輩!?あれ、いつの間に…」

二人が、廊下を進んでこちらに向かって来ていた。

「いつの間に、じゃないわよ全く。さっき裏の勝手口から帰ってきたの。刀使ならそのくらい気付きなさいよね」

「何だか隊舎前でもみ合っているようだったから回って来たの」

二人はそういって、靴を玄関に置いた。

「そうだったんですか…それでその、今、外では何が起こっているんですか?」

「実は私たち、今日は有楽町の方を回っていたんだけど、途中で軍人さんに捕まってね。連行されちゃってたのよ」

「え!捕まって連行!?え!?」

「いやいや、東部軍の軍人さんにね、今宮城では大変なことになっているようだが何か知らないかって聞かれたの。何でも陸軍省の将校が不穏な行動を起こしているってね…それで頼まれて司令部の方へ行ったら、偉い人に凄いこと聞いてね。急いで戻って来たの」

「エライ人にスゴイ事…ですか?」

「うん。で、五十鈴はここで何をしているの?」

「私はその、あの灰色の刀使たちを引き付けて先に少し戦っていたんです。でもあの華族の鷹司様にバッサリやられちゃいまして…」

「なるほど、それでここで聞き耳を立てながら回復待ち、というわけね…まあ丁度よかったわ。五十鈴さん、これから私たちは外に出て、東部軍司令部で聞いたことをあなたにも聞こえるように京様たちにしゃべります。それを、直さんと泉美さんに伝えに行ってほしいの。いいかしら?」

「それは構いませんけど…」

「よし、かなり重要な役割だからな。頼んだぞ。それじゃ、姉様」

「ええ、行きましょうか」

二人は靴を履き、がらりと戸を開けた。五十鈴とサトは、その陰に隠れる。

 

「吉乃さん、八重さん!二人共どこから…」

「何やら御取込み中だったようなので、裏口から入ってきました」

「お久し振りです京様」

二人の飛び入りに、京は微かに口元を引き締めたように見えた。

「吉乃に八重か…随分遅れてのご登場だな」

「ええ、ちょっと…東部軍司令部に寄っていたんですよ」

八重のその答えに、神功刀使の様子が目に見えて変わる。余計な動きがピタリと止まり、こちらを注視し始めた。

「ほう…それで、何を聞いてきた?」

吉乃と八重はそこで顔を見合わせてから、吉乃が大きく深呼吸をした。

「京様、あなた方はこの企てにどこまで関わっておられるのですか?」

「この企て…か。陸軍省の連中に協力している、という立場だな。残念ながら主導的立場には無い」

「そうですか。それであれば、罪は軽く済むでしょう」

吉乃はそこでさらに一呼吸置き、

「近衛師団長の殺害、及びその師団長印を無断使用して近衛歩兵連隊を動かしたこと、既に調べがついています。東部軍から私たちに協力依頼がありました。大人しく縛についていただくならばそれでよし、さもなければここで…身柄を押さえさせていただきます」

吉乃がゆっくりと大般若長光を抜き放った。

「近衛師団長の殺害って…それ、間違い無いのね?」

驚きのあまり口を開け放している由良に代わって千鶴がそう聞くと、

「はい、陸軍省青年将校の暴発です。もうじき東部軍が鎮圧に乗り出すでしょう」

八重が落ち着き払った大きな声でそう答え、千鶴が頷く。

「ですって隊長さん。ご指示を」

「あ、はい…鷹司様、残念ですが…吉乃さんと八重さんが加わって戦力的にもこちらが優位です。御刀を、置いていただけませんか…?」

神功刀使の少女たちの眼が、京に集まる。黙って話を聞いていた京が、肩を揺らし始めた。

「ふふふ、はははは、いや、案外早かったな。少々お前たちにこだわり過ぎたか…霧島、確かにお前の言う通り、このままではこちらが不利だ。だが、ここで我々を止められるなどと思うなよ」

京はそういうと、隣の刀使に何やら合図を送った。護国刀使たちが全員その動きに注視して身構えたその瞬間に、その刀使が何かを取り出して投げつけて来た。ボン、という音と、強烈な閃光がそこから発せられたのが、ほぼ同時だった。

 

 五十鈴は背後から発せられた膨大な量の光に気付き、腕で顔を押さえながら少し、振り向く。

「何これ…!?隊舎の方から…!?」

眩しくてとても光源を特定できないが、間違いなく何か仕掛けられたのだろう。五十鈴は今、直と泉美に吉乃と八重が語ったことを伝えるため、隊舎の裏口から宮内省庁舎に向かっていた。一旦戻るべきか、と躊躇したその時、

「ぎっ!」

リュウが飛んで来た。口には直が予備で持っているあの御刀を咥えている。

「あなた、ちょっと、直先輩のところに行こうっていうの!?」

リュウは五十鈴の頭に止まってから、また大きく跳んだ。

「あ、待って!…まあ、皆ならきっと、大丈夫、行こう!」

五十鈴は一人頷き、草木をかき分けながら進む。一応、抜け道として用意されてはいる道だが、あまり使うこともないため夏草に覆われていた。吉乃と八重が通って来たと思われる形跡があるのが救いだった。さらに、頭上を飛んでいくリュウがこの暗闇にもかかわらず正確に宮内省に向かっている。遠回りにはなるが、どうやら迷う心配は無さそうだ。

 

「お前たち…そうか、海軍要人の護衛をしているとかいう話だったな」

凪子は髭切を構え直す。すかさず、後ろの3人の神功刀使たちも抜刀した。直も泉美も、正眼に構えを取る。

「そういうことです。凪子先輩、本当に神功刀使…の一員になっちゃったんですか…?」

直の問いに、凪子はうっすらと笑う。

「そうだ。命を救われてね」

「先輩と戦いたくなんてありません。本心、ではないんですよね?命を救われたから仕方なく、協力しているだけ…なんですよね?」

「私は鷹司様のご意志に納得してこの場にいる。お前たちとはもう、敵同士だよ。それに…私はお前たちと戦ってみたい、そう、思っているがね…」

凪子はそこで言葉を区切り、後ろを振り返った。

「さあ、ここは私たちが預かります。早く中へ」

そういわれて我に返ったのか、弾かれたように近衛歩兵、そして陸軍将校たちが対峙する刀使たちの横を通り、深津大尉を押しのけて宮内省へ入っていった。

「さあ直、泉美、お前たちの相手はこっちだ」

凪子がそういいながら写シを張る。後ろの3人もそれに続く。

「直さん、これはもう…やるしかないみたいですね」

「ええ…深津大尉は中の様子を」

「残念だが…ここではお役に立てそうもないな。ご武運を」

深津が溜息をつきながら宮内省の中に入っていくと、直と泉美も写シを張った。それが合図とばかり、神功刀使たちが斬りかかって来た。迅移は徐々に段階を上げて行かねばならないという制約があるため、刀使の戦いは早く動いた方が有利になる、というのが鉄則だ。文字通り先手必勝、自分を除く3人が明らかに直、泉美に劣るということを踏まえた凪子の判断だろう。しかも、前衛と後衛に分かれているらしく、先に前の二人が斬り込んできた。それを受けた所で後衛の二人がとどめを刺す、そういうことらしい。直も泉美も、この直線的な攻めが瞬時に理解できた。これもまた、凪子の考えそうなことなのだ。二人は目くばせをして、まずは前衛の斬り込みを受けた。その後ろから凪子ともう一人が斬りかかって来るのを見て、直と泉美はニヤっと笑う。直はすかさず毛利藤四郎の短い刃を引いて、隣で泉美に太刀を受けられていた刀使の脇腹へ、腰でぶつかるようにして肋骨の下から刃を押し込んだ。臓器を裂く感触が手に伝わる。刃を抜くと写シがはがれ、崩れ落ちようとするその身体を、直は肩口で押し出す。迫る後衛の刀使は味方の身体に弾かれた。

同時に、泉美も突然相手が消えて一瞬の狼狽が生じていた隣の刀使の胴を払い、すぐに凪子の剣を受けた。その間、直は突き飛ばした前衛の刀使の身体を回り込んで、体勢を崩していた後衛の刀使の喉を、一突きにしていた。

4対2が、あっという間に1対2に変わっていた。直が構え直したの見て、凪子はさすがに後方に跳び、間合いを取った。

「…しっかり鍛錬を積ませてきたんだが…お前たちはやはり別格だな」

「お褒めに預かり光栄です」

「先輩にさんざん鍛えられましたからね」

それを聞き、凪子は微かに笑ったようだった。

「…二人共、御刀を変えたのか」

「はい、いろいろありまして…私はおばあちゃんの毛利藤四郎を継ぎました」

「私は直さんの義元左文字を使っています」

「確かに…いろいろとあったようだな。しかし直、随分物騒な技を使うようになったな」

「要人警護任務のために暗殺者の手口を色々と学びまして…こんな風に自分で使うことになるとは思いませんでしたけど」

「なるほど、必殺の剣というわけか…注意しよう」

直と泉美は、ゆっくりと構え直す。いかに護国刀使最強といわれた凪子であっても、二人で掛かれば間違いないだろう。

「ええ、必殺です。凪子先輩、あなたに手加減なんてできませんからね。覚悟して下さい…」

「二人掛かりでいきますけど、悪く思わないで下さい」

「気にすることは無い。お前たちが相手なら、私も全力を出せるというものだ…お前たちの方こそ、悪く思うなよ…」

直と泉美は、そこで凪子の目が赤く光るのを確かに見た。

 

「割合に上手く撒けたようだな…奴らの御刀はどれくらい奪えた?」

「全部で4振りです。これですぐには追って来られないでしょう」

京はそれを聞いて、一息つく。京と6人の刀使たちは近衛祭祀隊舎前を脱し、宮内省庁舎のすぐ側まで駆けて来ていた。事前に用意していた照明弾の効果はてきめんであり、どさくさに紛れて護国刀使たちが握っていた御刀まで強奪していた。

「宮内省で凪子らと合流し、撤退だ。真っ直ぐ乾門まで駆けるぞ」

宮内省から乾門まではほぼ一直線に通り抜けられる。その先の近衛師団司令部には何台か使える車が置いてあり、そこまで逃げてしまえばあとは何とかなる。

「しかし、良いのですか?稲田中佐をはじめ陸軍の方々を放っておくことになりますが…」

「我々はだまされたも同然だ、このままでは大儀無き戦に巻き込まれ、罪人になる。まさかこれほどに頭に血の上りやすい連中とは思わなかった…」

京は失望感を露わにしていた。実際のところ、今夜を逃せば終戦への流れは止められないと思い、蹶起に協力したのだが、近衛師団長殺害が露呈し、東部軍司令部が動き出したとなれば計画は完全に破綻だ。

「真夏の世の夢、であったか…」

手詰まりであることは否めない。だが、ここで諦めるわけにはいかないのだ。

「京様…?」

「ふん、まあいい。行くぞ」

駆け出すとすぐに、真剣のぶつかり合う音が聴こえる。凪子と、軍服を着た刀使たちが戦っていた。妙な相手だと思ったが、凪子につけた3人が既に倒れているのがわかる。

「あの二人…そうか、来栖直と沢泉美、ここにいたか!」

凪子から事前に聞かされていた要注意の刀使二人だ。京としても直の方ははっきりと覚えている。全員の表情が引き締まった。

「全員抜刀…いや、一人は倒れている者たちの様子を見に行け!残りは着いて来い!」

迅移で駆け出す京の言葉に6人の刀使は「はっ!」と声を揃えて返事をし、一人をその場において後に続く。前方三人の戦いは、凪子の力技が功を奏しているらしく、二人の軍服を着た刀使を一合ごとに大きく弾き返していた。同時に相手をせず、確実に疲労とダメージを蓄積させるつもりなのだろう。京と5人の刀使が間合いに入って来ると見るや、軍服の刀使二人は大きく乾門の方へ退いた。

「これは、鷹司様。どうされたのですか?」

凪子は息一つ切れていない上に笑顔だった。

「どうもこうも無い。近衛師団長殺しがもう東部軍にバレた。我々は宮城を離脱する」

「そうですか。今いい所なのですが…」

凪子は、京の言葉に大して驚きもしない。そもそも戦争が続こうが終わろうが興味が無いのだろう。それよりも目の前の戦闘のほうがよほど大事らしい。京は、凪子のそういう純粋な戦士たる気質を好ましく思っている。

「だろうな。来栖直と沢泉美、お前を楽しませるには十分、というわけか」

「ええ、この力を得てからというもの、まともにやり合える者がいなかったもので」

「ふん、それは何よりだ。しかし残念だが時間が無い。一気に片を付けるぞ」

「そうですか…この人数なら、私抜きでもやれますか?」

明らかに有利な戦いに興味は無いらしい。局地的な戦闘ならばそれでもいいが、一刻も早くこの場を離れたい今の状況でそんなことを言い出すのは少々問題がある。京は苦笑した。

「やってみよう。だが、こちらに被害を出したくない。危いと思ったら割って入れ」

「かしこまりました」

凪子の目の中で、赤い光が血のようにぬるりと動いた。

 

「あれ、あの時の鷹司様ですよね?」

泉美の言葉に直は大きく息をつく。二人共、既に呼吸が荒い。

「ええ、間違いないです。こりゃあ、ちょっとマズイですね。明眼持ちの相手との夜戦がこんなに厳しいとは思いませんでした…」

「そうですね、行けると思ったんですけど…全部で何人いるか見えますか?」

「凪子先輩を合わせて7人?いや8人かな…」

「はあ…いずれにしてもこれだけの人数差がついてしまったらちょっとまともには戦えないですね…逃げますか?」

「いえ…向こうはそうさせてくれないみたいですよ!」

京が斬り込んで来た。直が咄嗟に受けたが、京に次いで4人の刀使たちが一斉に斬りかかって来る。泉美がそれに合わせて数人分の御刀を払ったが、直はかわす途中で左腕を落とされた。まだ写シは張れるし、短い刀なので片手でも十分扱えたが、体捌きに影響が出てしまうのは如何ともし難い。こういう時の定石として何とか一人ずつ減らして行きたいのだが、京の号令で引いては返す波のような動きをとる刀使たちを前に、直と泉美は休む間もなく防戦一方となった。京の指揮の巧みさと、それを信じている刀使たち…これでは活路を見出すことは難しい。どんどん流れ落ちてくる汗も厄介だった。せめてこの攻勢が一瞬でも途切れれば…と思うものの、そんなに甘い相手ではない。いよいよか、と思ったその時だった。

「ぎぎっ!」

と、刀使であれば反応せざるを得ないその奇妙な嘶きが、剣撃の金属音に紛れた。その場の全員がその嘶きの方、空を見上げる。

「リュウ…?」

「何でここに…あっ、直さん、左手を戻して!」

泉美がそういうのと同時に、直は写シを解く。左腕と切り傷の数々が一瞬にして元に戻り、

その左手に毛利藤四郎を持ち替える。

「リュウっ!」

「ぎいっ!」

直は跳んで右手を伸ばし、リュウが咥えている御刀の柄を握った。

「隙あり!」

神功刀使の一人がそういって空中の直に斬りかかったが、その刃は毛利藤四郎に弾かれ、直は右手の御刀をリュウの口から抜き放つ。

「はあああっ!」

気合いと共に空中で半回転しつつ、かかってきた刀使を一刀のもとに切り捨てた。それは、両の翼を巧みに操って夜空を舞うような動きだった。着地と同時に左手を前に構え、その脇に泉美が迅移でやって来る。

「お見事、直さん。写シ、張って下さいね」

「おおっと、忘れてました」

直は再度写シを張り直す。そこへリュウがやって来て、直の肩に止まった。

「来栖直、それは荒魂か…?」

さすがに尋ねずにはいられない、といった様子で京がそういった。

「ええ、そうです。全ての荒魂が悪いモノとは限らないんですよ」

「何と…荒魂を飼い慣らしているのか…」

京が、リュウをじっと見ている。

「鷹司様は、戦争に刀使と、ノロの力を使おうとしているんですよね?」

「何だ、何が言いたい…?」

この短いやりとりの中で、ずっと直の中にわだかまっていた疑問に答えが出たような気がした。刀使にノロを投与すること、そして刀使を戦争に使うことは間違っている…その理由がぼんやりと頭の中に生まれていた。頭の中を整理しようと考えを巡らせていると、そこへ、凪子が駆けつけた。

「申し訳ない、出遅れました。仕切り直しといきましょう」

そういって髭切を構える。

「そうだな…」

といって京も構え直した、その時、

「いた!直先輩、泉美先輩!」

五十鈴が西詰橋から飛び出してきた。再度の闖入者に、再び皆の気勢が削がれる。

「五十鈴さん!?」

「ちょっと、どうしたの!?」

「はいっ、伝言です!近衛師団長が殺害されて、今、近衛兵は偽の命令で動いていますっ!」

五十鈴は空に向けて大声でそれだけいうと、両手を膝について荒い息をついた。対峙する刀使たちが気色ばむのがわかる。直と泉美は顔を見合わせ、とりあえず五十鈴を後ろに退がらせた。泉美が口を開く。

「どういうことですか、鷹司様、凪子先輩…まさか、宮城を占拠してクーデターでも起こそうという気ですか?」

「はっはっは、当たらずとも遠からず、といったところだな。今夜蹶起しているのは陸軍省の将校共、そしてそ奴らが偽命で動かしている近衛兵たちだ。我々としても当初は同調していたのだがな…聞いた通り、連中、少々おイタが過ぎてな。我々神功刀使は袂を分かつことにしたのだ。よって、我々は宮城から撤退する。お前たち、道を空けてくれ。無用な戦闘は避けよう」

「え?何を突然…」

「少々ムシが良過ぎるのではありませんか?いずれにしてもその企てに加担していたということであれば、あなた方を見過ごすわけには行きません」

泉美がそう、きっぱりと言い放つ。

「ふっ…そうだな。ならば是非もない。お前たちを蹴散らして行くのみだ」

「ま、そうなりますよねえ…」

直はそういいながら振り返ると、五十鈴がうんうんと頷いているのが見えた。

「五十鈴さん、行ける?」

「あ、はい。多分…」

五十鈴はそういって石田正宗を抜き、構える。何やら念じるような様子を見せたあと、写シが展開された。

「あ、できた!よかった!」

そういって、泉美の隣についた。前を見ると、さっき直に斬られた刀使が、別の刀使によって脇に避けられていた。入れ替わりで凪子が入ってきたため、対峙するのは同じく5人、五十鈴が入って5対3と多少はマシになったが、相変わらず厳しい状況だ。

「私が二刀で受けに回るので二人は左右に付いて下さい」

直がそういって左前の半身から、真身に構え直す。泉美と五十鈴が頷いた。

「ほう、鶴翼か?凪子、お前は勝手に動け。お前たちは三人一組だ」

護国刀使の陣形を見て、京がそう命じた。

「了解です」

そう凪子が答えるのと同時に、泉美と五十鈴が打って出た。泉美には凪子が、五十鈴には三人組がそれを迎え撃つ。空いた中央を、京が突進してきた。

「それ、来栖!あの折の決着を着けようではないか!」

「もう二人共!私の話聞いてないじゃない!」

直はそういいながら京の初太刀を左で合わせ、右の御刀の切っ先を、ほぼ無意識のうちに京の心臓へ突き出す。その動きに合わせて、リュウが直の肩から京の方へ飛んでいった。その瞬間、直の頭の中に京の動きがはっきりと見えた。この突きは当たる…そう思った次の瞬間、右手に確かな感触があった。直の突きは、まともに京の身体を刺し貫いていた。

「え…?」

「ぬ………」

完全な致命傷だった。突きを放った直自身が信じられなかった。御刀を京の身体から抜くと、京は写シを切らして後方へよろけていく。

「鷹司様!」

凪子が叫んでその身体を受け止め、すかさず動ける刀使たちも京を護るように退がる。直だけでなく泉美、五十鈴もまた急な展開に戸惑い、動きが止まった。そこへ、

「直さん、泉美さん!五十鈴さんもいるのね!」

神功刀使たちの後ろから由良の声が響いた。護国刀使たちが、隊舎から駆けつけたのだ。凪子が、ゆっくりとそちらを振り向く。

「これはこれは…みなさん、お久し振りです」

「凪子…!」

千鶴がそう声を上げ、護国刀使たちは同時に抜刀する。由良、千鶴、吉乃、八重、春江、香澄、美千代…挟撃の形になり、形勢は完全に逆転した。

 

「すまん凪子、大丈夫だ…」

京は朦朧とする意識を何とかつなぎとめ、三日月宗近に力を求めた。が、写シは張れなかった。

「鷹司様、写シが…」

「フ…何たるザマだ…しかしお前たち、私一人が落ちたくらいで動じるな」

「それは無理というものでしょう。我々はあなたの手足だ。頭がいなくては手足は動けませんよ」

「そんな、組織では…」

またふらつくのを何とか堪える。自分一人が討ち取られて、それで終わってしまうようでは神功刀使に先はない。だが、今の自分が組織の要になっているのも紛れもない事実だ。

「よし、二人共、鷹司様を頼むぞ」

凪子が小声でそういったのを聞いて、自分の両脇に仲間がついたのがわかる。桜と雅、幼い頃から共に道場に通い、京都から付いて来た最も付き合いの長い二人だ。

「桜、雅、お前たち何を…」

「京様…」

「失礼します…」

二人が京を抱えて迅移をかけた。同時に凪子と残りの刀使二人が後ろの護国刀使たちを無視して前方の直、泉美、五十鈴に斬りかかる。もう乾門までは50メートルほどで、血路を開けば一気に駆け抜けられる距離だ。幸いに虚を衝く事が出来、桜と雅に抱えられた京は護国刀使たちから抜け出す事が出来た。意地でも自分を逃がそうという仲間たちの心中を京は察した。それならば、必ずここを脱しなければならない…と思ったその時、自分の左についていた桜が崩れた。その背に、矢がささっている。

「く…飛び道具まで…吉乃か…!」

振り返ると、吉乃が、次の矢を弓につがえていた。確かに、吉乃の大包平は強奪していた。だが、別の御刀を用意し、そこから力だけをもらって弓を使っているのだ。吉乃の多才振りは3人共よく知っている。弓の腕前も相当なものだった。さらに目を移せば、先を取った凪子たちも既に後方から護国刀使たちに追いつかれて乱戦になっている。

「もういい、私を差し出せば奴らも満足するだろう」

「何を弱気な!」

京の左についていた雅が、吉乃の第二矢を払った。

「そうです、こんなことで…」

桜が立ち上がり、再び京の腕を取った。背に矢を受けたまま、写シを張り続けている。

「お前たち…!」

「私たちには代わりがいます。しかし、あなたを失えば神功刀使は終わりなのです。行って下さい!」

雅はそういうと、桜の背の矢を抜いた。そこで桜は写シを解く。

「桜、あなたは運転が出来るでしょう。京様を頼みます。行って下さい」

「そんな、雅さん!?」

「行きなさい!写シも張れない刀使が残っても足手まといなだけです!」

雅がそう一喝すると一瞬、妙な間が流れ、

「す、すまん…雅…」

京が謝る。

「あ、いえ、京様のことをいったのでは…」

桜はそこで吹き出し、それから真顔に戻って軽く咳払いをする。

「ん…わかりました。京様のことはお任せ下さい。雅さん、あなたも死なない程度に、ね」

「ふ…承知した!」

飛び出した雅が乱戦に割って入る。それを見届け、京と桜は乾門に向かって駆けだした。

 

「逃げられる…!」

由良としては、あの貴族様を逃がすわけにはいかないと思っていた。彼女がいる限り、神功刀使は活動を続けるだろう。あのカリスマは戦争継続を画策する勢力に利用される可能性もある。後ろを見ると、吉乃が矢を放つのを躊躇していた。さすがに、写シを張れない相手には攻撃しづらいのだろう。

しかし、この場を離れて追いかけるのも難しい。護国刀使は全部で10人、対する神功刀使は途中から仲間を看ていた一人が加わっても5人と、その戦力差は明らかだったが、自分の御刀を奪われていた吉乃、千鶴、香澄、美千代は本来の力には遠く及ばない。凪子を軸に死にもの狂いで抵抗してくる神功刀使は手強かった。双方譲らず打ち合いが続いていた、そこへ、

「貴様ら何をやっている!御刀をしまえ!」

後方の宮内省庁舎の方面から白いタスキをかけた近衛兵の一団が駆けて来て、周囲をランプで照らす。

「刀使共が内輪揉めを起こしていると聞いて来てみれば…倒れている者もいるではないか!一体どういうつもりだ!」

何を思ったか、そこで凪子が真っ先に御刀を納めた。

「申し訳ありません。いざとなるとこの蹶起に及び腰になる者が出て来たもので、少々取り乱してしまいました」

「なっ!あなた何を言ってるの!」

千鶴がそう叫ぶと、

「刀使が刀使でない者に御刀を向けるのは厳罰ですよ。すぐに御刀を納めて下さい」

凪子がたしなめるようにそういった。護国刀使の面々としては納得がいかないが、止むを得ず御刀をしまう。どうやら、近衛連隊から見れば同じ刀使にしか見えないらしい。

「待って下さい!私たちは護国刀使です。何度かお会いしていますよね?」

由良がそういうと、

「ああ、そうだな。今回の蹶起にはあなた方も参加していると聞いている」

そんな答えが返ってきた。

「謀ったわね…?」

千鶴がそういって凪子を睨むが、その表情は暗闇の中では窺い知れない。ただ、明眼の効果でまだ輝いているその目が、ふっと揺れた。

「何をいっているのか知らんがあまり揉め事を起こされると面倒だ。だが君たちは重要な戦力だ。警備司令部の方で話を聞き、再配置する。倒れている者の手当もしなければならんだろう。付いて来なさい」

「はい、承知しました」

凪子がそう答えると、「全くこれだから子供は困る」といって近衛兵たちは踵を返して歩き始める。神功刀使たちは倒れている仲間を抱えに行った。その、一瞬だった。

「千鶴、後、お願い」

 

「ちょっと、由良!」

千鶴がそういった時にはもう遅い、由良が迅移をかけて乾門の方へ駆けて行った。

それを見た凪子が、舌打ちをしてすぐに追いかけに行く。全員がそれに続こうとした時、

「何をしている!付いて来いといっただろう!」

近衛兵の怒声が飛んで来た。千鶴は溜息をつく。

「皆、神功刀使たちを押さえて!これ以上行っても行かせてもだめ!吉乃、八重、あなたたちが東部軍司令部から聞いてきたことを話してわかってもらいましょう!」

千鶴がそういうと、ようやく全員の動きが落ち着いた。近衛兵の一人が千鶴に聞き返す。

「東部軍司令部で聞いてきたこと…だと?」

「ええ、あなた方も踊らされているのかもしれません。責任者の方とお話をさせてもらった方がいいでしょう」

並んで立つと、千鶴の背はその兵と同じくらいあった。

「…いいだろう。少々気になる点もあるからな」

近衛兵たちはそれ以上何も言うことなく、進み始める。千鶴は一度、由良の消えた乾門の方を見てから、

「あんな風に独断で動くのは…初めてかな」

そういって歩き始めた。

 

 

 



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十一章

 

 

 この、8月14日から15日にかけて皇居で起きた一連の騒動を、「宮城事件」という。一時は近衛兵を扇動して宮城を占拠した陸軍青年将校たちであったが、結局、自らの手で近衛師団長を殺害したことが痛恨の悪手となった。録音盤を探し出すことも出来ず、日が昇って来るのと同時に宮城へ入った東部軍により偽の命令書の効果は幻の如く消え失せた。近衛兵たちは正気に返り、首謀者の青年将校たちは自決するなどして事件は慌ただしく過ぎ去り、そしてこれよりほんの数時間後、その録音盤を使用した正午のラジオ放送による衝撃が、この事件の記憶をあっという間に風化させた。

 日本人が辛うじて自ら定めることのできた時代の節目がやってこようとしていたこの日、刀使の少女たちの戦いもまた、一つの決着を迎える。

 

 

 乾門を出てすぐのところで、由良は凪子に捕捉された。

挨拶代わりに一合、二合と打ち合ってから、互いに間合いを離す。

「また…一段と打ち込みが強くなったわね」

「ええ、あなたのお陰でノロの力を得られましたからね」

「話は聞いているようね…そう、ごめんなさい。あなたがそうなったのは、私のせいよ」

凪子はそこで一笑したようだった。

「謝る必要はありませんよ。私だってあのまま死にたくはなかったし…この力も悪くはありませんからね」

「それで、どうなの?そんなものを…ノロを身体に取り込んで、本当に平気なの?」

「おや、こんなところでおしゃべりをしていていいのですか?鷹司様を追うのでしょう?」

由良は一旦構えを解く。凪子にはその様子がはっきりと見えているはずだ。早乙女凪子は、そういう相手に刃を振るう人間ではない。

「もう、間に合わないでしょう。だったらあなたときちんと話をしておきたい。私のことは恨んでくれても構わない。でも、本当のところはどうなの?今、あなたは…」

「ふふ…かつての仲間に御刀を向けて、何か思う所はないかと?」

「ええ…あなたは本心から鷹司様の意志に同調しているの?」

凪子もまた、そこで構えを解いたようだった。

「あの方のいうことには…一理あるとは思いませんか?」

「そうね…それは認めるわ。でも、この期に及んで戦争を継続するなんて…本土決戦なんて、あり得ない。これ以上人が死んで、国土が荒廃したら、それこそこの国は二度と立ち上がれなくなる」

「ふ…あなたらしい答えだ。何よりも人の命を尊重する、あなたのその考えのお陰で私は今、こうして生きている。異物を体内に入れられたなどということは大した問題ではありませんよ。私はあなたに感謝している。それは確かなことです。但し、一つ、誤解しているところがあるようですね」

「誤解…ですって?」

「ええ。私はね、この命果てるその時まで、御刀を握っていたいんです。猛者たちと刃を交えて、鎬を削って、ヒリヒリとする緊張感の中に身を置いていたいんです」

凪子は下ろしていた御刀を持ち上げて八相に構え、続ける。

「つまり、私は本質的には戦士なんですよ。鷹司様の考えやあなたの考えは理解します。でも究極的にはそんなことはどうでもいいんです。さらにいえばかつての仲間だとか友だとか、そういうこともどうでもいい」

「ただ戦う場を与えてくれれば、それでいい、と?」

「そういうことです。そして、そういった意味では鷹司様は私をよく理解しているといえるでしょうね」

「あの人があなたの何を理解しているのか知らないけど…少なくとも私は、そんな抜き身の御刀のような子を、このままにはしておけないわね」

由良は、そういって正眼に構えた。

「抜き身の御刀か、それはいい。この髭切は、かつての名前を『友切』といったそうです。おあつらえ向き、といった所ですか」

「小賢しいことを…いわないでちょうだい!」

由良は凪子の左籠手狙いで、浅めに斬りかかる。凪子は横振りでそれを払うと、これまた浅めに面を狙ってきた。由良は半歩下がってそれをかわし、踏み込んで面打ちに行くが、凪子は右手一本で髭切を振り上げてそれを弾く。これもやはり、踏み込みが浅かった。

互いに、互いの間合いを知っている。有効打の取れる間合いにはなかなか入れない。二人はじりじりと、円を描くように動きながらにらみ合う。一連の動きは、とても刀使の力を使っている立ち合いには見えない地味で静かなものだった。お互い、呼吸を悟らせないよう息を殺し、周囲の空気に互いの殺気が満ちて行く。じわじわと全身が汗にまみれてゆき、その汗が、微かな気流の動きを教えてくれる。

由良は、違和感を覚えていた。この暗闇では明眼持ちの優位は揺るぎようが無く、さらにノロの力を取り入れたことでその力が底上げされているのはここまでの動きでわかっている。いかに手の内が知れている相手とはいえ、凪子が全力で来れば由良に勝ち目はないだろう。それなのに、打ってこない。

凪子の性分、これまでの動き…そこから一つの仮説を立てる。大きく深呼吸をしてから、由良は打って出た。

 

 身体の動きが徐々に鈍っているのがわかる。限界が近づいている、という感覚だろうか。凪子は額を伝うのがただの汗なのか、それとも冷や汗なのかわからなかった。暴れれば暴れるほど身体に無理がかかってくる。直と泉美の二人を相手にしていた時の疲労がどっと出て来ているようにも思えた。いずれにしても、もうそう長くは戦えそうにない。無駄な動きは省き、残り少ない力で渾身の一撃を与える…狙いをそこだけに絞る。

打ち込んできた由良の動きはよく見えた。最小限の動きで丁寧に捌くことを心掛け、じわじわと押していく。予想外の動きは一つも無い。約束組手のような展開でついに、由良の背を宮城の壁に付けた。これでもう、後ろには逃げられない。ただ、万一のことを考えると、斬撃は咄嗟に身体をよじられて、刃を壁に打ち付けてしまう可能性がある。だとすれば、この距離なら刺突あるのみ、壁ごと貫く覚悟の一撃を見舞えば、由良の強力な写シもはがせるだろう。

一瞬の間にそれだけのことを頭の中で組み立て、凪子は必殺の突きを放った。

 

 全ては狙い通り、凪子は完全に誘導に乗って来た。やはり、一撃必殺を狙っていたのだ。後は、由良自身の度胸一つだった。

同田貫を右手に持って両腕を広げ、凪子の突きに身体ごとぶつかっていった。

「何!?」

という凪子の声が聴こえた時には、凪子の髭切が由良の下腹部を完全に刺し貫いていた。由良はすかさず、凪子の身体を抱きかかえるようにして同田貫を自分に向けて構えた。

「これで、逃げられないでしょう…!」

顔と顔とが接する距離で、由良は鬼気迫る笑顔を凪子に見せてやる。そして、

「であぁっ!」

声にならない声を上げた。全身が八幡力の発動で薄く輝く。由良の同田貫は凪子と、自らの身体を貫いた。

「が…あ…」

凪子の開いた口からもれたそんな声を聞きながら、由良は意識が飛びそうになるのを必死に堪えていた。二本の剣が身体を貫通している。痛みなどはもうよくわからない。ただ、目の前の景色が黒く塗り潰されて行く。写シがもう持たないが、自分からは動けそうに無かった。すると、凪子が由良の胸を押しながら身体を引き離した。由良の身体からずるりと二本の御刀が抜け、その瞬間、由良の写シが消える。その場に膝を付いたがすぐに立ち上がり、ふらついている凪子の肩を押して背中を向けさせ、自分の御刀を抜いた。同時に凪子は髭切を落として写シが消え、由良が凪子の背中を抱くようにして、二人は折り重なってその場に崩れた。

 

「よくも…」

散らばった二本の御刀を見ながら、凪子は背中の由良に話しかけた。

「え…?」

「よくも、こんな無茶を…一つ間違えば、あなたは本当に死ぬ所…でしたよ…?」

「そうね…でも、あなたを、取り戻すためだもの…」

由良がそういって、凪子を抱く腕に力を込めた。

「もう、どこへもやらないから…」

結局、自分はこの人には敵わない、凪子はそんなことを思った。今の自分の顔を見られていなくてよかった、と思う。

「全く、あなたという人は……碧様、女の子を出産されたそうですね…」

「ええ…葵様というのよ…ご挨拶に伺いましょう、今度、一緒に……」

由良の腕の力がそこでなくなり、その顔ががくりと凪子の肩に落ちた。

「そうですね…この身体、いつまで持つかわかりませんが、一緒に…行きましょう…」

凪子もまたそこで、眠るように意識を失った。

 

 近衛祭祀隊舎の2階の空き部屋に倒れた神功刀使たちが運び込まれ、護国刀使たちはその手当に追われていた。奪われていた御刀も、無事に回収していた。

警備指令部で吉乃と八重による説明が終わった後、おそらく判断がつきかねたのだろう、刀使たちはまとめて蚊帳の外に置かれることになった。護国刀使も神功刀使も、隊長を欠いてはいたが、千鶴の判断で全員が一旦隊舎に入った。いかに「敵」とはいえ、倒れている刀使をそのままにしておくのは何とも決まりが悪い。もちろん、写シがあるから重傷者はいない。だが、受けたダメージに写シの強度が追いつかない場合は、強いショック症状が生じる。そうなると、しばらくは絶対安静が必要になるのだ。 

そんな陣営を越えた刀使同士の助け合いが行われている二階とは対照的に、一階の食堂では神功刀使たちへの尋問が行われていた。時刻は5時を回り、夏の朝日が既に窓に届いている。

「雅さん、いい加減に教えてくれませんかね?」

5人の神功刀使たちを前に、吉乃がそういった。尋問の内容は神功刀使の規模、そして拠点の位置だ。追い詰められた彼女らと戦争継続派が組めば今度は内戦になってしまうことも考えられる。そうなる前に、何とか彼女らの武装解除をしなければならない。

京都の道場で顔見知りであった雅がいたため、四条姉妹が尋問の中心になっていた。直と泉美も万一の際に備えて帯刀して同席している。

「何度いわれても同じこと。仲間を売るようなマネは出来ない。それよりも我々の御刀を返してもらいたい」

「そんなのダメに決まってるでしょう。自分の立場がわかっているの?雅?」

八重がそういうと、

「ふん、偉そうに…全く、なんであんたみたいのが護国刀使に選ばれたんだか…」

「お、何だ、やるか、この鷹司様の腰巾着!」

「何を!」

八重と雅がつかみ合いになりそうになるのを、吉乃が止める。

「もう二人共、いい加減にしなさい。ここは京都の道場じゃないのよ?」

「ははは、吉乃、大変そうねえ。はい、ちょっと早いけど朝ごはんよ」

そこへ、千鶴がおにぎりと味噌汁を5人分持って来た。もちろん、これは捕虜たちのものではない。自分を含めた護国刀使たちのものだ。千鶴は直の隣に座る。

「皆、昨日の夜からよく頑張ってくれたから白米のおにぎりよ。おいしいわよ」

「うわあ!すごい、おいしそうー!」

「いただきます!」

味噌汁の香りと、炊き立ての白米の香りが食堂に充満する。

「さすが千鶴先輩…」

「これはもう拷問ですね…」

四条姉妹はそういいながら、握り飯を口に運ぶ。みずみずしい食感が口中に広がり、白米は噛むほどに、甘い。向かいの神功刀使たちから、生唾を飲み込む音が聞こえた。

「うーん、実はまだお米もお味噌汁もあるのよねえ。ここにいる人数分くらいは余裕でお出し出来るんですけど、でも私たちに協力してくれないんじゃしょうがないわよねえ」

千鶴がゆったりとした口調でそういうと、

「こ、この程度のことで屈するわけがないでしょう!我らを甘く見ないでほしい!」

雅が過剰に反応した。千鶴はそれを受けて目を瞑りながら頷いている。

「そうねえ、だったら本格的に拷問しましょうか」

味噌汁の椀に口をつけていた直は咳き込みそうになった。

「え?千鶴先輩、拷問って…」

神功刀使たちも無言で千鶴を見つめていた。

「ええ、戦国の昔からある拷問について我が家には色々と記録が残っていてね…簡単なところでいうと、爪と肉の間に千枚通しを入れていくとか…でもそうね、女性に効果的なのは赤くなるまで熱した火箸を顔に押し付ける、っていうやつかしら。あ、頭に押し付けるっていうのもあるのよね。頭皮がただれてそこからは髪が生えなくなるの。そんなことになったら大変よね、とてもお嫁に行けなくなっちゃう」

千鶴はそういってケラケラと笑うが、護国刀使たちは食欲を失い、神功刀使たちは顔色を失っていた。その時、食堂入り口のドアが開く。

「千鶴先輩…その辺にしておいてくれませんかね…」

「そうね。うちがそんな悪趣味な事をする組織だと思われるのは心外だわ」

肩を組み、二人三脚のような恰好で由良と凪子が帰って来た。

その場の者たちが口々に二人の名を呼ぶ。直と泉美は思わず立ち上がっていた。

「あら、お帰りなさい。二人共、話はついたのかしら?」

千鶴が口元に笑みを浮かべながらそういうと、

「ええ、何とか、ね」

「捨て身の説得を受けましてね…」

「そう。さ、座りなさいよ」

千鶴のその言葉があまりにも自然だったのでそのまま流されそうになったが、神功刀使たちからすればそうはいかない。

「ちょっと、あなたどういうつもり!」

雅がそういうと、神功刀使たちも厳しい目を凪子に向けた。

「どうもこうも…負けたんですよ、私たちは。残念ながら、ね。吉乃、八重、これは尋問、ということだな?」

「はい、そうです」

「皆さん京様シンパでなかなか口を割ってくれないんですよ」

「ふ、まあそうだろうな…。では、私から話そう。神功刀使が拠点にしているのは赤羽の陸軍兵器補給廠だ。他に聞きたいことは?」

雅が机を打った。

「早乙女凪子!あなた、まさか最初から内通していたの?」

凪子はそこで溜息をついた。

「まさか。私はこれでも鷹司様のおっしゃることには概ね同意していますよ。しかしね、どうやらこの蹶起は失敗です。加えて帰る事ができたのは鷹司様と桜さんだけで、我々は捕らわれの身です。戦力が半減した神功刀使ではもう作戦行動は起こせない。鷹司様の身を案じるのであれば、ここで全てを話して護国刀使を頼った方がよいでしょう。このままでは、あの方は罪人になってしまう」

「罪人…ですって?」

「それはそうでしょう。ご聖断に抗ったとなれば、その罪は重い」

雅は黙った。

「戦力が半減、ということはその本拠地にいるのも10人程度なんですか?」

吉乃の言葉に凪子は頷く。

「そうだ。折神香織様と共に12人、模擬戦で最後に出て来たあのノロを宿した連中だ。私と同じように、ね」

八重が、一つ溜息をつきながら、

「だとすると、かなり手強い連中、ですね?」

そういうと、凪子はまた頷いた。

「ああ、お前たちなら負けはしないだろうが…危険な相手だ。今回の作戦は二段構え、というか…こちらが囮だったんだろう。折神香織様と彼女らは厚木の航空隊と共に蹶起するつもりでいる」

「厚木の航空隊…ですか?」

泉美がそういうと、

「あそこの基地は熱烈な戦争継続派ばかりらしいわ。地理的にも鎌府折神家と近いから、ここよりもずっと大きな動きになるかもしれない…」

由良がそう答え、

「そういうことです。私たちの方の状況を見てから動くつもりのようですけどね」

凪子が補足した。

「え、それって…大変じゃないですか!」

直がそう叫ぶと、また、入り口のドアが開いた。

「あの、先輩方、深津大尉がお見えです…」

美千代がそういうと、後ろから深津が顔を覗かせた。軍帽を取って、一礼して中に入って来る。由良が立ち上がって応じた。

「大尉、どうされたんですか?」

「ええ、皆さんが隊舎に戻られたと聞きましてね…どうですか、お怪我はありませんか?」

「はい、私たちは大丈夫…」

そういって、由良は一つ思いついたように手を打つ。

「深津大尉、一つお願いがあるのですが…」

「はい、何でしょう?」

「実は危急の用がありまして…車を出していただけないでしょうか?」

由良が、伏し目がちにそういうと、

「ええ、わかりました。ではすぐに車を回してきます。少しお待ち下さい」

深津は二つ返事でそれに応じ、上機嫌で隊舎を去って行った。

「軍人を手玉に取るなんて、ほんと怖い女だわぁ…」

千鶴がそういうと、凪子が同意する。

「そうですね、私ではなく、由良先輩が神功刀使についていたらどうなったか…」

「ちょっとあなたたち、黙ってて。直さん、泉美さん、吉乃さん、八重さん、あなたたち4人で赤羽の陸軍兵器廠に先行してくれる?早く動かないと、手遅れになるかもしれないから…」

直たち4人は立ち上がり、お互いの顔を確認してから、「了解しました」と声を揃えた。

 

 目覚めると、赤羽の拠点のすぐ目の前だった。

「ん…すまん、眠っていたようだ」

小一時間ほど意識を失っていた。京はそういって運転席の桜に声を掛ける。

「いえ、少しでも休んでいただけてよかった…具合はどうですか?」

京は、三日月宗近の柄を手に取ったが、力はわずかしか感じられない。写シなど当分張れそうもなかった。

「ダメだな。これでは厚木行きの連中に合わせる顔が無い…」

「京様がこうして戻って来られたことに意味があるんです。さあ、着きましたよ」

まだ足元がおぼつかない京を桜が支えながら兵器廠に入る。桜が「戻りました」と声を上げると、数人の仲間と共に香織がやってきた。

「お疲れ様です。鷹司様…!どうされたのです…!」

足取りのおぼつかない京に、香織が近付く。

「見ての通りよ…蹶起は失敗だ。私と桜以外の者はおそらく捕らえられただろう」

「何と…護国刀使が出て来たのですね?」

さすがに、香織は笑顔を曇らせながらそういうと、京は頷いた。

「香織、作戦は変更だ。捕えられた者たちを奪回しに行く」

「何をおっしゃるのです!厚木航空隊とはもう話が済んでいるのですよ!?鎌府折神家の刀使たちも加わる段取りだというのに!」

「宮城の制圧に失敗し、録音盤も出て来ない…いくら武力を誇示してもご聖断が発せられた後では世論が着いてこぬだろう。それでは…ただの内戦になる。これ以上、国力を疲弊させるわけには…いかん」

香織の笑顔が、凍り付いた。

「これまでの工作が全て無になりますが…?」

「…断腸の思いではあるが、このままでは捕らえられたあの者たちだけが反逆者として罰せられる恐れがある。あの者たちを、捨て置くことはできん」

「…本気で、おっしゃられているんですね?」

「何だ香織、不服か?」

そこで、香織は視線を落とし、それからゆっくりと肩を震わせた。泣いているかのように見えたが、それは違うとすぐにわかる。

「ふ、ふふふ…はははは!」

香織が顔を上げ、大声をたてて笑い始めた。

「おい…何だその態度は…」

「折神様、聞いているのですか!どういうおつもりですか!」

京と、桜がそういっている間にも、香織は笑っている。ひとしきり笑い続けてから、大きく溜息をついた。

「所詮は貴族のお嬢様…ここまでか。この二人を捕えなさい」

「なっ!折神香織、あなた…!」

桜がそういって京をかばうように前に出たが、二人はあっという間に香織の命を受けた刀使たちに押さえられた。

「あなたたちも、どういうつもり…!」

「どういうつもり、ねえ…わかりませんか?本当に?」

香織の、やはり崩れることのない笑顔が京を見据えていた。

「だったら敢えていいましょうか。この神功刀使はそもそも、あなたの作った組織ではない。あなたの元に刀使が集まった、という体になってはいますが、あなたとあなたの従者を除いては全て鎌府折神の集めた者たちなのですよ。あなたは血筋といいその性分といい、神輿としては適格だった。しかし…これほど惨めに負けてくるとは…あなたには退場していただきます」

京には、何一つ言葉が浮かんで来なかった。ただ、結局のところ自分はこの女のことをよくわかっていなかったのだな、と、それだけ思った。

「フ…敗軍の将は語らず、ですか?しかしご心配無く、直ちにあなたを害するようなことはいたしませんよ。とはいえこれ以上しゃしゃり出られても面倒ですので、しばらくは地下で大人しくしてもらいましょう…連れて行け」

灰色の刀使たちは、その香織の言葉に無言で従い、京と桜は御刀を奪われて地下の一室に放り込まれた。資材庫にあてがわれている薄暗い部屋だ。

「京様…お加減は?」

無言が続く京を、桜が気遣う。京は、それを聞いて少し微笑む。

「ああ、大丈夫だ…すまないな、桜…お前まで付き合わせてしまって…」

覇気の無いその言葉を聞いて、桜は表情を引き締めて京を見据えた。

「それは、この場に連れて来られてしまったこと言っているのですか?それとも、京都からずっとお供をして来たことについて言っているのですか?」

「何だ、どうした…?」

「いいですか京様、私も雅も、誰かに命じられたから付いて来たのではありません。好きでやっていることです。ですから京様が謝るということは、私たちの生き方まで否定することになります。あなたの口からそんな言葉を聞きたくはありません!」

一瞬、京は呆気にとられ、それから…つくづく自分は幸せな人間だと思った。こんなことを思ってくれる者が、友が一人でもいる限り、自分は自分を見失ってはならない。

「そうだ…そうだな、桜、お前の言う通りだ。私はお前たちのようなのがいる限り、そやつらのために先頭に立って戦わねばならん。それが貴種たるものの義務であり、誇りだ!」

桜がぽん、と手の平を合わせる。

「その単純な思考と不遜なものいい、流石です!それでこそ私たちの京様です!」

二人がそんなやり取りをしていると、部屋の陰で何かが動く音がした。

「何だ!誰かいるのか!」

すっかり強気に戻った京の言葉に反応した人影が確かにあった。それが、近寄ってくる。

「騒がしいと思ったら…本当に鷹司様…何故ここに…?」

「お前は…浜塚律か。何、香織のやつに足元をすくわれてな…お前こそこんな所で何をしている?」

「そうですか、やはり折神香織様…危険ですね、何とかあの方を止めなければ…」

「ちょっと浜塚さん、話を聞きなさい?何であなたはここにいるの?」

桜にそういわれて、考え込むような様子を見せていた浜塚律は顔をあげる。

「ああ、すいません。実はノロの使い込みを発見してしまいましてね。しかもそれ、香織様が使っていたんです。危険です、と忠告をさせて頂いたのですが聞き入れられず、ここに軟禁されています」

浜塚の答えは実に端的だった。

「何、香織が…自分にノロを注射していたとでもいうのか?」

「はい、その通りです」

「刀使でもない人がそんなことをして…無事で済むの?」

「済みません。しかし、残量から推測すると既に相当量をその身に取り込んでいるようです。もしかしたら折神家の血がノロを受け入れているのかもしれませんが…いずれにしても古来『冥加』といわれているこの力を宿して天寿を全うしたという記録はありません。あの方が一体何をしたいのかはわかりませんが、早く止めなければお命にかかわります」

浜塚もまた、鎌府から連れて来られた者なのだろう。こんな目に遭っていても香織の身を案じているらしい。

「さて、そうはいっても、この囚われの身ではな…」

京と桜は、思案顔を突き合わせた。

 

 

 陸軍の敷地内に海軍の車が入ると面倒なことになりかねない。深津に車を少し手前に停めてもらい、4人の刀使たちは陸軍省の建物が林立する一帯へ忍び込んだ。

「凪子先輩の言う通り、この辺りは全然歩哨がいませんね」

「ええ、そういう警備の隙は見逃さない人よね」

直の感想に、八重が応じる。そこへ、ふわりとリュウが飛んで来て直の肩に止まった。

「リュウ、見つかったらいろいろと面倒だから、ちょっと隠れてて」

直がそういうと、リュウはおとなしく制服の襟の合間から懐に潜っていく。

「あ、もう、なんでそんな所に入るかな…それにしても着替えてきてよかった。やっぱりこの制服が一番よね」

「ええ、海軍の制服で陸軍の施設に忍び込むのも危険過ぎますしね」

直と泉美がそういっていると、吉乃が少し先の道を指差した。

「あれ、凪子先輩のいっていた物資搬送用の線路じゃない?」

「お、そのようですね。ということは後はあれが道案内してくれるわけですか」

八重が頷き、4人はその線路に向かって駆けて行く。この広大な敷地は一帯が陸軍の所有になっている。工兵大隊の拠点を中心に、被服本廠、火薬庫、そして兵器補給廠が広く分布していた。かつて模擬戦を行ったのは北側に位置する工兵大隊の演習場であり、今、目指しているのは最も南側にある兵器補給廠だ。それらの庁舎は輸送用に作られた軍用鉄道によって結ばれ、いわば一つの街のようになっている。かつてはその鉄道も多くの武器弾薬を運ぶために使われていたが、この時点ではもう、動くこと自体が稀になっていた。事実、関東の防衛を担当する東部軍の武装充足率はこの頃、銃剣30%、小銃40%、弾薬は定量の5%という有様だったという。兵器補給廠などといっても開店休業のような状態で、さらに早朝ということも幸いし、4人の侵入者たちは思いの外簡単に目的の建物まで辿り着く事が出来た。もちろん、途中で何人かの軍人たちとすれ違ったが、彼女たちの一本差しを見て勝手に何かを察してくれたらしく、挨拶程度で済んでしまった。

「ここ…で間違いないわね」

吉乃がそういって見上げる建物は、凪子に説明された通りの比較的新しいものだった。コンクリート製の頑丈そうな造りをしている。

扉の前で4人は顔を見合わせ、意を決してそれを開けて中に入る。入ってすぐ吹き抜けの大広間になっており、奥に階段が見えた。脇に入館者を取り締まる詰所のようなものもあるが、人の気配は無い。

「遅かった…?」

「いえ、まだわかりませんけど…」

直と泉美が御刀に手を掛けながら見回す。

「とりあえず、我々は不審者ではありませんから、名乗っておくのがいいかしらね?」

「そうですね…近衛祭祀隊の者です。鷹司京様、折神香織様、面会に参りました!」

八重が声を張り上げたが、反応が無い。

「泉美さん、どう?」

「ん…上から誰か来るみたい。下からも何か音がするけれど…」

すると泉美のその言葉通り、帯刀した少女が二人、階段を下りて来た。彼女らはこちらに一礼して、

「どうぞ、こちらへ」

それだけいってまた戻って行こうとする。4人はまた顔を見合わせつつ、他に選択肢もないのでついて行く。吹き抜けの2階を通過して3階まで上がり切った所にある大きな二枚の扉の前で、二人の刀使が恭しく一礼し、観音開きになっているそれを開けた。

足を踏み入れると、そこには見たことのある、といおうか自分たちの知るものとよく似た景色が広がっていた。

「ここは…」

「隊舎の地下二階と同じ…?」

そこは確かに、ノロを祀っている近衛祭祀隊舎の地下二階とよく似ていた。中央に社を備え、その左右に高い棚が並んでいる。4人が左右を見回していると、その後ろで扉が閉まる。そして、前方の社の中から刀使たちが出て来た。4人の後ろにいた2名もそこへ合流し、向かって右に6名、左に6名が縦列を作った。

「ようこそ、近衛祭祀隊の方々」

最後に、そういって他の刀使たちとは違う和装の女が現れ、その縦列の奥に立った。

「折神…香織様…」

吉乃が、他の仲間たちにも聞こえるようにそういうと、残りの3人はその女を凝視する。そこで直は、前にこの人を見たことがあることを思い出した。あの模擬戦の時、軍人たちと共に観戦していた、あの人だ。

「ええ、確か四条吉乃さん…鷹司様とは旧知でしたね。このように早くからどういったご用向きですか?」

「ご記憶いただき恐れ入ります。あなた方がこれから蹶起されるという情報を掴みましてね…もう、この戦争が終わるのを止めることは不可能です。どうか、思いとどまって下さいませんか?」

吉乃の声が、とても室内とは思えない広い空間に響き、止んだが、折神香織からの返事は無い。吉乃が続ける。

「軍や鎌府折神家の戦力を使って立ったところで、日本中があなたたちの敵です。勝ち目はありません。叛乱軍として鎮圧されれば、罪に問われることにもなります。鷹司、折神の家名に泥を塗ることになりますよ」

その声が響き終わってからようやく、折神香織は口を開いた。

「ふふふ、お気遣いありがとう。もうそこまで話が知れているということは…鷹司様の言う通り、宮城へ向かった者たちは捕えられたのね」

「捕えた、というより保護していますよ。それで、鷹司様はどちらに?」

八重がそういうと、香織はまた、笑った。

「ああ…あの方は…ご自分が負けて来たのに先程そちらが言われたようなことばかり…もう戦争継続は無理だ、というようなことばかりいうものですからね、別室で少し大人しくしていただいています」

それを聞き、護国刀使の4人だけでなく、神功刀使の方でも数人の者が香織の方を仰ぎ見た。知らされていなかった者がいたようだが、それでも彼女らは一言も発しなかった。

「ここへ来て仲間割れ、ですか?どうやらあなたは私たちの話を聞くつもりは無いようですね」

泉美がそういって柄に手をやる。

「待って泉美さん…あの、折神香織様、ここにいる刀使はみんなノロを宿しているんですよね?」

直が泉美を制してそういうと、リュウが懐から出て来て直の首に巻きつくようにして右肩に止まった。

「ん、それは…荒魂…なの?」

神功刀使たちが、一様に赤い眼を光らせて身構えた。直は一歩、前に出る。

「ええ、そうです。ケガレの抜けた荒魂、私の大切な友人です」

「ケガレの抜けた荒魂…そんなものが…いえ、そういえば聞いたことがあるわね」

「ええ、珍しい例だとは思いますが、決してありえないことじゃない…人と荒魂がこうして分かり合えるのだとしたら、私たちはノロの扱い方を考え直すべきです。折神香織様、あなたはこれからもノロを、こんな風に刀使に使っていくおつもりですか?」

「あなた、名前は?」

「来栖直、といいます」

直が名乗ると、神功刀使らの視線が険しくなった。よく見れば、模擬戦の際に見た顔ばかりだった。

「ああ、あなたが要注意刀使の来栖直さんね…それでその来栖さんは、さっきから何を言っているの?それは今、話すべきことなのかしら?」

「ええ、とても大切なことです。あなたがこの戦争を止める気が無いことはもうわかりました。でもあなたは全ての刀使の頂点に立つ折神家の方です。その人が刀使と荒魂についてどう考えているか、それを知りたいんです」

「知って、どうする?」

「もし、これからもこんなことを続けて行くというのなら…その先に刀使と荒魂にとって良い未来があるとは思えません。戦争を続けて行くおつもりで、刀使と荒魂の行く末も考えていないということであれば、あなたを捕らえることに躊躇いはありません」

折神香織の笑顔はそこで途切れた。実に不思議そうな、珍しいものを見るかのような顔で、直を見た。

「刀使と荒魂にとって良い未来…?刀使は荒魂を斬って祓うもの、荒魂は人に仇名す物の怪…あなたたちがそれ以上のことを考える必要はありません。そんな荒魂が現れたから余計な考えが回ってしまったのでしょうけど、平安の昔、あるいはそれ以前からずっと続くこの関係性は一つの均衡を得ています。刀使として働ける期間が終わればこの世界との関りが消えるあなたたちが、そんなことに気を回す必要はありません」

香織はきっぱりとそう答えた。

「均衡を得ている…ですか。私は決してそんな風には思いませんが…私たちがそんなことを考える必要は無い、というのがあなたの答えであれば、これ以上お話することはありませんね」

「そのようね。全員抜刀、この4人を排除します」

神功刀使たちが抜刀し、写シを張った。直たち4人もそれに合わせる。

「かかれっ!」

香織の号令で、12人の神功刀使が一斉にかかってきた。

「皆、後ろを取られないように、それだけ気を付けて!」

その直に声に合わせて、直と泉美、吉乃と八重が対になる。神功刀使たちの攻勢は、先の模擬戦の時以上だった。そして、所々に凪子の指導を受けていたことを感じさせる動きがあり、刃を重ねているとそれがわかる。確かに強い、だが、

「はあっ!」

直が次々と神功刀使たちを斬り伏せて行く。直の側を飛んでいるリュウが、神功刀使たちの動きを教えてくれる。さらに、宮城で京を一突きにしたあの瞬間から、直には相手が動き出した直後から、その次の動きが何となく見えるようになっていた。一体どういうことなのか、自分でもよくわからない。だが左手の毛利藤四郎が相手の太刀を受ける瞬間には、後の先を取れることが確信できた。泉美、吉乃、八重も並の腕ではない。直を中心に、戦いは一方的な展開となった。残りが2人になったところで、その2人が一旦引き、香織の前についた。さすがに、色を失っている。

「ちょっと直さん、あなた強過ぎませんか?」

「そうね、まるで相手の動きが見えているみたい…」

「まあ、こっちは助かるけど」

またリュウがふわりと飛んできて、肩に止まった。

「皆からもそう見える?何だろう、リュウが教えてくれるっていうのもあるんだけど…」

「ふうん…まあ、それはまた後でね…折神香織様、まだ抵抗されるおつもりですか?」

吉乃が、社の前で動かない香織に向けてそういった。

「そうね、さすが鷹司様を退けただけのことはある、といったところね…ただこちらもまだ、最後の処置を施したばかりだったのよ…そろそろ、かしら?」

香織がそういうのと、倒れている刀使たちが動き出すのがほとんど同時だった。

「え、何?起き上がれるわけが…!」

泉美の言葉が、残る3人の思いを代弁していた。5人の刀使が、再び立ち上がった。立ち上がれずにいる5人も、床の上で蠢いている。

「あら、少々クスリが強かったかしらね…まあいいでしょう。新たな力を試すには十分な相手です。全力で向かいなさい」

灰色の刀使たちは、香織に対して確かに返事をしたようだったが、それは残念ながら人の言葉とは程遠い獣の咆哮のようなものだった。両の眼が禍々しく赤く輝き、護国刀使たちに飛びかかって来た。

「速いっ!?」

八重の言葉通り、灰色の刀使たちの動きは確実に二段階の迅移を越えていた。剣撃の重さも先程までとは段違いだ。一人一人に合わせていたら対応が追い付かなくなる。

「さっきまでとは別物じゃない!これは…一体どういうことなのっ!」

吉乃は悲鳴を上げながら襲い掛かって来た一人の腹に柄を入れ、そこからさらに蹴飛ばして数人を吹き飛ばす。その間に間合いを確保するが、一人一人に集中できないため、決定的な一撃を与えられない。それでも直と泉美は多少有利に戦いを進めていたが、まだ一人も倒せていなかった。

「ふふ、予想以上の力ね。この子たちにはさっきね、特別なノロを与えたの。どんなノロか、わかるかしら?」

香織が、勝手に何かしゃべっている。4人共それを聞いている暇はなかったが、そのねっとりとした発音は、嫌でも耳に入ってきた。

「実はね、一度私の身体に入れたものを取り出して、それを与えているの。折神家の血とノロの相性がいいことは昔から知られていてね…ふふ、私の身体を経たノロは、より人の身体に馴染むものになっているのよ。ノロと人との高次の融合…いこの子たちは今、人を、刀使を超える存在となったのよ」

その、人を超えた存在に成ったらしい者たちの勢いは増すばかりだったが、成り損ねた、起き上がれなかった5人の刀使たちは床に横たわったまま、痙攣し始めた。

 

「…狂ってる、わね」

「ええ、しかし姉様、このままでは…」

直と泉美が4人引き受けてくれているおかげで、八重と吉乃が相手をしているのは3人だが、かなり厳しい戦いになっていた。

「何とかこの3人を倒してしまえば、今の直さんなら何とかしてくれるんじゃない?」

「そうですねえ…でも、どうやって…くっ…!」

徐々に、受けが間に合わなくなってきた。八重は、背中越しに姉の呼吸が乱れているのを感じる。

「確かに強いけれど…どうも攻撃が直線的になって来たわね。今一つ頭が働いていないのか…八重、次の攻撃、一瞬でいいからあなたが3人分受けてちょうだい」

吉乃はそういうと、迅移でさっと距離を取ってしまった。

「ちょっと、姉様!」

と、八重が叫んだの同時に、機を逃さず3人の刀使が斬りかかって来た。八重はもう、やけっぱちになって「おおお!」と叫びながら前に出る。3人の剣撃が完全に繰り出される前に、曲芸のように大包平の刀身を蛇のようにくねらせて出鼻を打って行った。3人の動きが、そこで一瞬固まる。

「そこっ!」

八重の後ろから、全身を金色に輝かせた吉乃が両手を広げて跳んで来た。八重は吉乃と入れ替わるようにそれをかわし、3人の刀使が吉乃の金剛身に捕まった。

「八重っ!まとめて斬りなさい!」

八重はそこでようやく、この姉の考えていることがわかった。自分が敵を束ねるから、自分毎まとめて斬れ、そういっているのだ。いくら写シがあるとはいえ、実の姉を斬らせるとはまたとんでもない発想だ。背筋に冷たいものが走ったが、迷っている暇はなかった。

「うわああああっ!」

八重は絶叫と共に跳躍する。今は、姉を斬ることが問題ではない。この3人を確実に斃すことが最優先…そう念じながら大包平を、渾身の力で振り抜いた。

着地の瞬間に4人分の絶叫がまとめて聞こえたが、同時に八重の脇腹にも御刀が刺し込まれていた。直と泉美の方にいた刀使だ。

「ぐ…あ…!」

5人の刀使が、その場に崩れ落ちた。

 

「ちっ!」

泉美が舌打ちをして、八重を突いた刀使の背中を斬る。その泉美を狙って来た斬撃は、直が弾いた。

その場にいた11人の刀使が、この一瞬の間に5人になっていた。神功刀使の一人が、香織の所まで下がる。何か、耳打ちしているようだ。

「泉美さん、聞こえます?」

「ええ…私たちを何とか押さえておくから、その隙に鎌倉へ、といっているようね。何だかおかしなしゃべりかた…」

「そうですか…それはちょっとまずいですね。先手を打ちますか…?」

その直の言葉を聞いたわけでもないだろうが、折神香織が進み出て、腰に差していた御刀を抜いた。直と泉美は、困惑した。

「あの人は刀使ではない…んですよね?」

「ええ、そう聞いています。仮に刀使であったとしても確か30代のはず…普通、引退している年齢です」

「ふふ…不思議そうな顔をしているわね。そう、あなたたちも知っての通り、私は刀使ではありません。ですが…確かに折神の血を引いている…ノロの馴染む、折神の血を、ね…」

香織はそういって、手に持つ御刀を構え、目を瞑る。

「宇佐美駿河守定満…さあ、行きましょう…」

香織は刀使ではない、だが、その御刀と身体から鮮烈にほとばしる力は、間違い無く刀使のそれだった。しかもそこへ、荒魂の気配が自然に溶け込んでいる。直の肩で、リュウが「ぎいー!」と声高に鳴いた。香織の長い髪が、不自然に波打ち始める。そして、その額には二本の角のようなものが、現れていた。

香織が目を開く。同時に額の二本の角もまた左右に開き、そこから赤い眼玉が現れた。

もうノロ云々の話ではない。それは確かに荒魂だった。直と泉美は戦慄した。刀使と荒魂、相反するはずの二つの存在が、一つになっている。

「その姿は…」

「あなたが気にしている刀使と荒魂の関係ね、こういうのも一つの答えではないかしら?刀使と荒魂の一体化…これほど荒魂と分かり合うことはないと思うけれど」

「それを分かりあっている、などというのは…断じて否定します」

直は毛利藤四郎を前に半身で構え、泉美がその背中についた。

「そう…ならこの力も、全て否定してみせなさい!」

香織の持つ4つの眼が真赤に輝くと、立っていた3人の刀使たちの身体に異変が現れた。苦悶の声を上げながら、全身を震わせている。倒れている刀使たちまで、身体をビクビクと動かしている。

「これは…折神香織の中にあったノロが共鳴しているとでもいうの…?」

泉美が顔をしかめながらそういった。

「かかれっ!」

一瞬の出来事だった。泉美が、3人の斬り込みを集中して受けていた。

「なっ…!泉美さん…!」

泉美がその場に倒れた。3人の刀使はすでに直に刃を向けている。まずい、と本能的に感じ、すかさず後ろに下がる。だが、泉美を一瞬で倒すほどの動きから逃げることはできない。一人の太刀を受けると、その両脇から刃が降って来た。右手の御刀でしのげるのはどちらか片方だけだ。確実に斬られる、そう思った瞬間、向かって左側の刃が直に届く前に沈んだ。直は右側の刀使の御刀を受けてから左右で受けている御刀を強引に押しやり、反動で距離をとった。少し離れたおかげで、何が起こったのか分かった。

「危ない所でしたね、直さん」

吉乃がそういって、童子斬を振っていた。直の左側にいた刀使は倒れており、残る二人も慎重になったのか、間合い空けた。

「吉乃さん…え、無事だったんですか!?」

「八重が上手く斬り込んでくれたのね。軽く気を失っただけで済んだみたい。倒れていた子たちが震え出して突っついてくれたので目が覚めました」

吉乃は、こんな時でもそういって明るく笑う。

「はは…それで起き上がるタイミングを計っていたんですか?」

「ふふ、まあ、ね」

全く恐ろしい人だ。この人が味方で良かったと直は思う。

「さて、それじゃ仕切り直しましょうか」

吉乃の言葉に「そうですね」と直が答えた瞬間に、吉乃は倒れていた刀使を一人掴み、前方の二人の刀使に向けて投げ飛ばした。

「それっ!逃げますよ、直さん!」

「え?ええっ!」

吉乃が直の手を引き、一気に迅移をかけて出入り口に向かう。内鍵を開けて、部屋の外に出て、3階から跳んだ。

「着地と同時に金剛身!いいですね?」

「ええっ!?」

わけもわからず金剛身を展開して、建物に入ってすぐの広間に着地した。

「吉乃さん…泉美さんと八重さんは…」

「大丈夫、仮にも折神家の人間が刀使を殺すようなことはしないでしょう」

「それはそうかもしれませんけど、でも…」

「このままあんなのと戦っていたら大変よ。『正道が通らなければ奇道を用いよ』河井タツさんの教本にあった言葉よ。あんな力、そう長く続かないんしゃないかしら?」

吉乃のいうことは最もかもしれなかった。目の前の敵に、意識が集中し過ぎていたのかもしれない。

「あ、そうか…まともに相手をすることはなかったのかも…。気付かないうちに相手の術中にはまっていたんですかね…」

そこで、二人の頭上を旋回していたリュウが「ぎぃっ!」と鳴いて警戒を促した。

「来るわね…二手に分かれましょう。私は地下に行きます。直さんは表に」

「地下?」

「ええ、泉美さん何か聴こえるっていってたでしょ。囚われの人って大体地下なんじゃないかしら?ほら、来るわよ!」

二人の刀使と、折神香織はもうすぐそこまで迫っていた。二人と一匹はそこで分かれる。「逃がすな」という香織の声を、二人共背中で受けた。

 

 直が表に飛び出すと、追手が一人、付いて来る。折神香織は中にとどまっているようだ。入り口を出て、門の手前で振り返って二刀を重ねて追手の刃を受けた。やはり強烈な打ち込みだった。強烈過ぎて不自然、といってもいいだろう。直は「あんな力はそう長く続かない」といった吉乃の言葉を思い出す。これはノロの力、そして折神香織から加えられた何らかの力が上乗せされた状態に違いない。こんな打ち込みを続けていたら、身体の方がもたないはずだ。直は全力で二刀を振り切り、間合いを空けて大きく深呼吸をし、

「あなたの攻撃は全部受けてあげます。さあ、いくらでも打ってきなさい」

そういって、どっしりと両足を地面につけた。相手からの返答はなかったが、殺気がみなぎっているのは感じられる。ようやく、相手をじっくりと見る余裕が生まれていた。そしてその余裕があれば、今の直ならばどんな剛剣でも防御に徹すればしのぎ切れないことはない。その場から動かず、ただ相手の打ち込みを弾いて追い返す。本来ならかなりの腕の差がなければできない芸当だが、リュウとの感応、毛利藤四郎が与えてくれる頭の冴えと自分の中で確かに生まれつつある感覚がそれを可能にしていた。やがて、灰色の刀使の動揺が見え始め、その打ち込みも、動きも鈍ってきた。

「そこ…っ!」

直は小さく呟くと、精細さを欠いた灰色の刀使の打ち込みを左で流し、右で心臓を突く。冷静にさえなれば、呆気ないものだった。ぐったりとその身体が崩れ落ち、御刀が手を離れると、写シが切れた。直はそれを確認して一息つき、念のためその御刀を奪う。空いている背中の方の鞘にそれを押し込んで、再び建物に入った。

 

 聞き覚えのある声が耳に届いた。京はふと顔を上げてドアに耳を近づける。

「京様、今の声は…」

「ああ、おそらく…吉乃、ここだ!」

京はそういってドアを叩いた。すぐに足音が近付いてくる。

『鷹司様…!この中にいらっしゃるんですね?』

「そうだ。開けられるか!?」

『お任せ下さい。少し退がっていて下さい!』

京たちがドアから離れる。少しの間の後で、甲高い金属音が響くと共に、御刀の切っ先が一瞬見え、それからドアが弛緩したようにこちら側へだらりと開いた。

「ご無事ですか!鷹司様!」

「ああ…ん!吉乃、後ろだ!」

吉乃が「え?」という間も無く、迅移でやってきた神功刀使によってその右腕が斬り落とされた。吉乃が悲鳴を上げ、その場に童子切を取り落として体勢を崩し、写シが切れる。

「…お前、何をしている!」

京が飛び出した。立っていた刀使は京の姿を認めてぴくりと身体を震わせ、その赤い目を大きく見開いた。

「美佐か…。もういい、御刀を納めろ」

元に戻った右腕を押さえながら立膝をついている吉乃を横目に京がそういったが、美佐と呼ばれたその刀使は京の言葉に反応を見せたものの、構えを解かずそのまま立ち尽くしている。京は、それを見て、落ちていた童子切を手にした。

「京様、まだ写シが…!」

そういって諫めようとする桜を睨みつけて黙らせ、構えを解かない美佐に向き合う。

「もう一度言う。美佐、御刀を納めろ!」

言葉を重ねたが、美佐は動かない。よく見れば何かぶつぶつと言っているように見える。京の姿を見て、動揺しているのは間違いないようだ。

「お前…正気を失っているのか…?ノロに乗っ取られたか…!」

美佐が打ち込んできたが、それはひどく腑抜けたものだった。京は童子切でそれを上に弾き、返す刀で胴を薙ぎ払った。

「そんな自分自身すら律することのできない剣では、何も斬れん…!吉乃、香織はまだいるのか?」

「はい、まだいますよ。荒魂のようになってしまっていますが…」

「そうか…護国刀使が押さえてくれたということか…何人で来た?」

「4人です。残念ながらもう動けるのは直さんだけでしょうけど…ただ、周りの刀使は多分、全員片付いているはずです」

京は少々複雑な気分で頷く。桜も部屋から出て来た。

「どうも、吉乃さん。あなたの矢、とっても痛かったわよ」

「はは…それはどうも…。ああ、安心して下さい。宮城で倒れたお仲間は全員、こちらで保護しています。雅さんも元気ですよ」

京と桜にとって、それは何より嬉しい情報だった。

「あの、今香織様が荒魂のようになっている、と聞こえましたが、どのようなことになっているのですか?」

浜塚も出て来た。吉乃が京に、これは誰なのか、と眼で尋ねる。

「ノロの研究をしている者だ。問題無い」

京はそういって、童子切を吉乃に返し、美佐の御刀を握る。

「そうですか…ええっと、信じていただけるかわかりませんが…角が、2本生えています。しかもその角から目まで現れていて…もう、見て頂いたほうが早いですかね…」

「本当に荒魂化…!急ぎましょう、手遅れになる前に!」

そういって駆け出した浜塚を、3人は追う形になった。

 

 最後の2人も倒された。広間に立つ香織にはそれがはっきりとわかった。

「何故、人生というのはこうも上手くいかないものなのかしら…?」

気付けば思わず口に出していた。それは、本当に疑問だった。事を成すために努力を怠ったことは無い。信じる事、愛する人を裏切ったことも無い。

だが折神家に生まれながら御刀には選ばれず、刀使にはなれなかった。そんな自分に対する世間の風当たりは厳しく、やっと自分のことを認めてくれて、愛してくれる人ができたと思えば、その人はよくわからないモノのために死んでしまった。残された自分はせめてその人の意志を継ごうとしていただけなのに、それすら潰えようとしている。

「折神香織様…さあ、やりましょう」

正面から、護国刀使の戦闘狂いが入って来た。

「香織、貴様…!そんな姿に成り果ておって!」

地下に続く階段からは、やかましい貴族様たちが上がって来る。

 香織は溜息をついて、宇佐美駿河守を見つめた。この御刀で命を断つのも悪くは無いか、そう思った瞬間だった。

『それは困るな』

奇妙な声が聞こえた。見回してももちろん、刀使たち以外には誰の姿も無い。お前は誰だ、と念じるようにして問い掛けると、

『誰、とはまた随分他人行儀だな。ずっと一緒にやって来たではないか。最も、こうして意志を現すのは初めてだがな…』

そう、頭の中で「何か」がいった。香織には、それの正体が分かった気がした。

『お前が忘れているのなら、その記憶を呼び起こしてやろう。そうすれば、折神香織という人間は、私のような荒魂と同じく、本質的には人を呪わざるを得ない存在であるということも思い出すだろう』

その「何か」の仕業なのだろう。香織の頭の中に映像が浮かび上がり始めた。

 

 

 



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十二章

 

 

 女が、泣いている。

その腕から生まれたばかりの赤子を奪われ、泣き叫んでいる。女の顔には見覚えがある。実の姿はほとんど忘れてしまったが、写真では何度も見た。先代鎌府折神家当主…香織の母親だ。赤子を奪ったのは神官のような装束の男たちと、医療関係者と思しき白衣の男たちだった。赤子は、儀式を行うような祭壇に連れて行かれ、そこでその小さな腕に、「何か」を注射された。

 

 今度は少女が泣いていた。

葬儀の場だった。泣いているのは自分、弔われているのは母だ。香織はこの数日前に初めて公式の場を用意されて御刀に触れたが、御刀は何の反応も示さなかった。そしてその様子は、分かる者から見れば御刀がその子を拒絶している、そのように見えた。翌日、母は自ら命を絶った。

『鎌府折神家もお終いだな』

そんな声が響く。

 

これは一体何だ、何を見せている…?

『私が見て来たものだ。お前は生まれてすぐにノロをその身に入れられた。そのノロはお前と共に成長し、やがて大きな力と高い知性を持つに至る…』

それが、お前だと…?

『そうだ。お前が何故、その身にノロを、私の元となったものを入れられたか、わかるか?』

何か理由が…あるというの?

『お前を刀使にしないためだ。ノロは御刀に焦がれるが、御刀の方はそうではないらしい。自分の身を離れた穢れ、とでも思うのだろう。既に刀使の力を得た者はある程度ノロの力を制御できる。故に、御刀も刀使に従うが、敢えて最初からノロのいる者と共にあろうとする御刀はいないらしい』

…私が刀使になれなかったのはそれが理由…?何故…何故なの、何故そんなことを…!

『鎌府折神家を取り潰すためだ。折神家の存続には膨大な金と手間がかかるらしい。跡継ぎが不適格、ということを理由に西と東の折神家をまとめようという動きがあったようだ。つまりお前は、仕組まれた子供だったんだよ』

そんな…そんなはずは…ない!だったら何故、刀使の力もないこの私を暫定当主としてまで鎌府折神家を存続させている…!

『くだらん人間同士の争いが本格化して刀使を利用しようという者たちが現れたからだ。そういう者たちからすれば、西と東の折神家が各地の刀使を発掘してくれるのは都合が良かったからな。しかも、その暫定当主様は軍の意向に協力的、と来れば急いで取り潰す必要も無くなったというわけだ』

……

『言葉も無い、か。だがこれでわかったろう、香織。お前は生まれながらに人の悪意の犠牲となってきたのだ。そしてそれは我らノロ、荒魂も同じ。人の都合で住処を追われ、穢れなどと称され、刀使共に斬られてその存在を否定される…。香織、お前は我らと同じだ。お前の孤独を理解できるのは我らだけだ。さあ、力を与えよう。この者たちを、我らを否定する憎き刀使共を蹴散らせ。お前の想い人の願いを成就させてみろ…』

 

 泉美は跳び起きた。これは、あの時の感覚だ。自分の前後に自分が見える。周囲を見回すと倒れている刀使たちにも同様の現象が起きていたが、苦しそうに呻き、蠢いているだけで起き上がれる者はいないようだ。と思っていたら、

「うわっ!」

と大声を上げて八重が起き上がった。泉美は顔をしかめながら立ち上がり、八重の方へ歩く。身体を動かすと激痛が走った。

「八重さん、良かった。気が付きましたね」

「おお、泉美さん…いや、さすがに気が付くでしょう…これって…」

「ええ、あの3月の下町空襲の時と同じ…これが起きるということは何か大変なことが起きているはず…」

「そうですねえ…ここも十分大変なことになっていますけど、姉様や直さんの姿がありませんね。ここの連中は放っておいて、探しに行きますか?」

「そう…ですね」

泉美がそう答えたのとほぼ同じくして、地震のような揺れが建物全体を襲った。二人はそれが収まるのを待って、痛む身体を引きずりながら歩き始めた。

 

 地響きと共に、折神香織の身体からドス黒い影のようなものが天井に届くほど立ち昇り、その奔流で姿が見えなくなる。同時に、その場の刀使たちに異変が起きた。

「これは…あの時と同じ…」

直は地下から上がって来た吉乃、京ともう一人に同様の現象が起きているのを確認する。目の前の真っ黒な影に、隠世からの力が怒涛のように流れ込んで、この空間が歪んでいる…リュウを通して直にはその力の流れがよくわかった。やがて、地響きが収まってくると、その影が螺旋を描いてほどけて行く。中から現れたのは、折神香織の服を着た荒魂…そうとしかいいようのないバケモノだった。手足にはウロコのようなものが見え、二本の角が大型化して、半ば顔を覆っている。そこから覗く目玉もまた、大きくなっている。

「何ということ…!香織様!聞こえますか、香織様!」

京の連れらしい少女がそう叫ぶが、聴こえているのかいないのか、はたまた言葉を理解しているのかいないのか、香織の反応は無い。

「吉乃さん、京様、写シは張れますか?」

直がそう叫ぶと、

「ごめん、もう、無理みたい…」

「同じく…ダメだな」

二人の答えに直は頷く。

「すぐにここから離れて下さい!これは……おかしいです!」

そう、この存在はおかしい。ここ数年、色々と信じられないものを見て来たが、これほどの違和感を覚えたことは無い。

「逃がしは…しない…」

折神香織の姿をしたそれは、そういって御刀を振り下ろす。天井に溜まっていた黒い影が床に落ち、拡がっていく。荒魂の気配、それも膨大な量だ。直は本能的にそれを感じ取り、食い止めにかかる。

「こんな、荒魂と同化してまで戦おうっていうんですか!」

左、右の順で斬り付けると、香織はその連撃を難なく弾き返した。それはおよそ、人の反応速度とは言い難い。よく見ればその身体にはいつの間にか写シのような物が現れている。

「隠世の力…そうか、荒魂を通して使っているっていうこと…!」

「ふん…お前たちに語る言葉は無い。ここで全員片付ける。私たちの進む道を、これ以上邪魔させはしない」

「私…たち?」

一体誰を指して私たちといっているのか疑問だったが、そんなことを考えている場合では無かった。香織が放った足元の黒い影から、数匹の荒魂が湧き出て来た。そしてそれらは直ではなく、吉乃や京の方へ向かっていく。

「なっ!そっちに行かないでっ!」

吉乃も京も、もう写シが張れないのだ。直は青ざめながら迅移で駆け、一体を切り捨てる。前を見ると、既に構えていた吉乃と京が応戦を始めていた。

「二人共、早く退がって!」

「そうはいかんだろう!」

吉乃と京の後ろには二人の少女がいる。一人は見覚えがある。神功刀使の一員だろうが、御刀を持っていなかった。もう一人は知らないが、この場にいるということはかなり深い関係者なのだろう。この人たちを逃がすためにも何とか血路を開きたいところだが、

「お前の相手は私だよ」

明らかに迅移と思われる動きで、香織が斬りかかって来た。左右の御刀を交差させて、それを受け止める。

「正気ですか?あの二人はもう写シが張れないんです。京様は少なくとも敵では無いでしょう?本当に人殺しをする気ですか?」

「語る言葉は無いといったでしょう…」

香織の剣捌きがさらに早くなる。吉乃たちを助けに行きたいが、とてもそんな余裕は無くなった。そうしているうちに、さらに、荒魂が湧いて出て来た。焦る直は攻勢をかける。二刀流についてはいろいろと勉強をしてきた。左右の御刀の相性も悪くない。だが、直の攻めは悉く弾かれる。香織を押し返すことさえ出来ない。無意識のうちに同じ技を似たような間隔で繰り出しており、左、右のつなぎが途切れた。そこへ、

「大仰に二刀振ってみたところで、その程度か…」

香織の胴切りが直の身体を一閃した。完全に、読まれていた。直は呻き声を上げて膝を付く。写シが切れた。

「さあ、終わりだ…」

吉乃と京はさすが同じ流派だけあって見事な連携で戦っているが、荒魂の数は減らず、次第に囲まれ始めていた。諦めに似た気持ちを感じたその時、

「やあああっ」

「はあっ!」

突如降って来た二人の刀使が直と京・吉乃らの間にいた荒魂と、香織の背中に斬り付けた。数体の荒魂が消滅し、香織が怯んだ隙に荒魂の包囲に穴が空く。そこを突いて、刀使たちは一堂に会することができた。

「泉美さん、八重さん、無事でしたか…!」

「ええ、写シはもう張れませんけど…この程度の荒魂ならどうということはありません」

泉美がそういい、八重が頷く。

「良かった、八重…もう一踏ん張り、お願いね」

「合点承知です姉様。京様もご無事のようで何より…ってあれ、桜もいたの?」

「ええ、いますよ。役に立ってはいませんけどね」

「はは、まあそういうな、八重。御刀が無いのでな…」

京が苦笑いをしながらそういうのに、直はさっき回収した御刀のことを思いつく。

「あ、それでしたらこれ、使えませんかね?ええっと、桜…さん?」

直は背中の御刀を桜に示した。

「え…?この御刀は…」

「さっき戦った刀使から回収したものです。使って下さい」

桜が「わかりました。ありがとうございます」といってそれを引き抜く。リュウが桜に頷いて見せ、それを見た桜が眼を白黒させた。

「あの、ちょっとよろしいでしょうか…」

そこへ、それまで無言でじっと何かを考えている風であった浜塚律が割って入った。同時に、持ち直したらしい香織が黒い影を放って来る。

「何だ浜塚、手短にな」

京がそういいながら構える。

「はい、あの…香織様の持っているあの御刀、宇佐美駿河守なんですが、あれを香織様から奪うか、もしくは使えないようすることはできないでしょうか?」

「刀使から御刀を簡単に取り上げられれば苦労はせんが…どういうことだ?」

発生した荒魂を皆で祓っていく。この人数なら、何とか対応できる。浜塚は後退しながら声を張り上げる。

「要するに、刀使で無い香織様は刀使以上に御刀に依存しているはず、ということです。あの御刀は、神功刀使が使っている軍刀の元になっていますし、隠世からの力の媒介役としてとても優れたものになっていると仮定できます!」

「なるほど、香織様本人ではなくあの御刀を狙え、と…」

泉美の言葉に、直はさっきの強い違和感の正体がわかったような気がした。御刀に操られている存在、そう考えると納得できる。。

「そうか、そういうこと…!」

「ふむ…それに賭けてみるか…来栖、お前まだ写シは張れるのか?」

「あ、はい、行けます」

直はそこで写シを張り直す。昨晩から何度目だろう。これ以上は無理かもしれない。

「よし…すまんがお前を頼りにする他ないようだ。私が援護しよう。他の者は荒魂の駆除だ、行くぞ!」

「あ、待って下さい京様、危険…」

です、と桜が言い終わらないうちに京が迅移で飛び出した。苦笑しつつ直が相手にしている荒魂を斬り伏せて後を追う。残りの者たちは周囲の荒魂にかかった。

「香織っ!折神家当主たる者が荒魂に乗っ取られたのでは笑い話にもならんな!」

京の打ち込みを香織が払い、香織の打ち込みを京が払う。

「あまり無理をなさらないほうがいいのでは?写シが張れないのでしょう?」

「ああ、それゆえ細工を弄する!」

京の影から駆けて来た直が現れて、香織に斬りかかったが、すんでの所でかわされる。

香織が後退して間合いを空け、京と直が並んで立つ。

「すいません、外しました」

「いや、惜しい所だった。よし、もう一度だ。今度はしっかり狙いを定めろ」

そういって、また返事も聞かずに京が飛び出した。全く恐ろしいとは思わないのだろうか?京の闘争心は本当に見事なものだ。こんな姿を見せられたらついて行かざるを得ない。前方で、京の打ち込みが香織に弾かれる。京の身体が大きくのけぞり、そこへ香織の袈裟斬りが躊躇無く入ろうとしていた。直の目の前の出来事であったが、一足、間合いが遠い。

「京様っ!」

直が叫ぶ。間に合わない、御刀を投げるべきか、とそんな考えが巡った瞬間、

「今だ来栖!やれっ!」

京の声と、激しい金属音が耳をつんざいた。京の身体が、金色に輝いてる。金剛身で香織の斬撃を受け止めたのだ。信じられないものを見た思いだった。あの瞬間に金剛身を展開するなど、並の度胸で出来ることではない。

「はあああっ!」

直は京の身体で止まっている香織の御刀めがけて、渾身の力で二本の御刀を振った。

日本刀はその反りのついた形状と2種類の異なる硬度の鋼を内包する構造により、しなやかな剛性を持っていて斬撃を加える分には強いが、受けには向いておらず、さらに横からの衝撃には滅法弱い。直の一撃が香織の御刀を粉砕することは十分に有り得ることであった。が、香織はそこで京の身体を押した。

「なっ!?」

慌てたのは直の方だった。放った二重の刃の横振りは、香織が前に進んだことによってその狙いが御刀から逸れ、香織の胴をまともに切り払う格好になった。

「ぐっ…!」

香織は呻きながらよろめき、迅移で後ずさる。写シは切れていた。京の方も力を使い果たしたらしく、御刀をついてその場に膝を折った。

「京様!大丈夫ですか?」

「ああ、こんな御刀で少々無理をし過ぎたようだ…しかしよくやった。それ、この好機を逃すな…!」

「はい!」

直は踏み込んで、香織に御刀を向ける。香織は写シを張り直した。

「どうして自分から斬られるような、あんな動きをしたんですか?」

「ふ…あなた、この御刀を狙ったでしょう」

直はジリっと間合いを詰める。

「ええ、その御刀こそが香織様の力の源だろう、という話になりまして」

「嫌な子たちね…人の大切なものを何だと思っているのかしら?」

「そんなにその御刀が?ご自分の身体よりも大切なものなんですか?」

直は打ち込む隙を探すが、なかなか難しかった。刀使でなくともその実力は一流、ということらしい。

「そうね、あるいはそうかもしれない…あなたは違うの?」

「私の御刀は祖母から引き継いだものです。大切なものですよ、とても…」

「そう…それで戦わないといけないなんて、刀使というのもつらいお仕事ね」

「いえ、刀使だから、受け継ぐことができたんですよ」

それを聞いた香織の顔が一瞬歪んだのを、直は見逃さなかった。それはとても酷い顔だった。が、いい顔だったと直は思う。少なくともずっと浮かべ続けていた薄ら笑いよりは、余程まともな顔に見えた。

その、薄ら笑いに戻った香織が、無言で打ち込んできた。咄嗟に合わせた毛利藤四郎から、不思議な感覚が伝わって来る。二合、三合と打ち合ううちに、その感覚が段々とはっきりしてくる。これは、香織の意識らしい。

「いつもそうして笑みを絶やさないのは、本心を悟らせないためですか?」

香織は何も答えない。打ち合いを続けながら、自分の感覚がさらに澄んでいくのを実感する。実際に刃を交えている相手のことだけでなく、周囲の仲間たちの戦う姿も感じ取れる。溢れ続ける荒魂を相手に皆、そろそろ限界だ。このまま長引けばいずれ大けがをしてしまうだろう。

「リュウっ!」

そう叫ぶと、リュウが飛んできて直と香織の間に割って入り、香織が一瞬怯んだ。その隙に、直は左脚の爪先を返して香織の腹に右脚で横蹴りを入れた。香織の身体が小さく吹き飛び、間合いが離れる。

「荒魂を出し過ぎたから…力が落ちている?皆が頑張っているから…?」

直はそんなことを思ったが、今の香織は隠世と繋がっている。そこから得られる力はほとんど無尽蔵といっていい。その香織を、直は容易く蹴飛ばしたのだ。リュウが飛んできて、直の肩に止まる。

「こっちの御刀があると、ちょっと雑念が入るか…ごめんね、リュウ」

直は右手の御刀をくるりと回して鞘に納め、毛利藤四郎を正眼に構え直した。初めてこの御刀を手にした時の感覚がより強力になって自分の身体を巡って来る。

「これ以上長引かせるわけにはいかない…これで、終わらせる…」

今ならこの場にいる者たちの呼吸による空気の流れさえ感じ取れる。祖母の、「不敗のタツ」の戦い方を、はっきりと思い描くことが出来た。

「忘れてないよ、おばあちゃん。『相手になれ』、だよね」

ふっと鋭く息を吐き、直は香織に打ち込んだ。香織が応じ、互いに迅移を使って間合いを計りながらの打ち合いになる。刃が重なるその瞬間毎に御刀が共鳴するようになり、直の中にはっきりと香織の意識が流れ込んでくる。刀使と御刀の深い一体化が、それぞれの長所を飛躍的に伸ばしているのだ。

「香織様…なんで…こんなに悲しい…」

「何…これは何だというの…!」

互いの記憶まではわからない。だが、剣に込められた感情が互いに通じ合う。しかも、直にとってはそれだけではなかった。躍起になってかかってくる香織の動きの少し先が、はっきりと見えるようになっていた。正確にいえば動きの可能性が全て、わかった。香織の刃が、次第に直に届かなくなる。一時代に一人、その使い手が現れるかどうかという刀使の能力、「龍眼」の発露だった。

「あなた、一体…!」

直自身の意識は最早自我の内にとどまらず、現世と隠世、世界の普く空間と同化しているような、無我の状態になっていた。

「香織様、私の祖母は刀使でしたが、母は刀使ではありませんでした」

直は、香織の剣を軽くいなしながら話し始めた。

「母は、自分も祖母のような刀使になるとずっと思っていて…でも、結局御刀に選ばれることはありませんでした」

「何なの、何が言いたいのっ!」

「母は、私が刀使に選ばれた時とても喜んでくれました。本当に、自分のことのように喜んでくれたんです。自分は否定されてしまったけど、自分の娘が刀使になってくれた…母は多分、それが自分の役目だったのだと理解したんだと思います」

直は、自分が祖母の遺伝だけで刀使になったのではないと思っている。母の中で一世代分眠っていた力を受け継いだからこそ、自分は刀使になった…そう、思っている。

「私にはまだよくわかりませんが、人間は世代を超えて何か事を成すことができるんじゃないんでしょうか?今焦らなくても、自分たちよりずっと後の子孫たちが結果を出してくれる、そういうことだってあるんじゃないでしょうか?」

「何を…!」

香織が御刀を振り上げたその瞬間に、直はすかさずその胴を払った。写シが切れ、荒い息をつきながら、香織はその場に崩れる。

「ふ…随分素敵なお話をするのね。そう…喩え刀使になれなくても、そんな風に子供に未来を託せたのならそれは幸せなことでしょうね…」

「香織様、あなたは神功刀使たちを『この子たち』っていってましたよね。自分から取り出したノロを与えて…それを受け入れて戦っている彼女たちを見て、あなたは何を思っていたんですか?」

「あの者たちは鎌府折神家から着いてきた者たち…単に利用していたに過ぎないわ。あの子たち…の方でもそれを望んでいた。ノロを得て、国のために働くことを望んでいた…」

「それだけじゃないはずです。あなたから伝わって来た悲しみは、それだけじゃない。あなたは、あの子たちとご自分を重ねていたんじゃないんですか?何もかも思い通りにならないあの子たちにノロを与えて、その力で世間を見返してやれ…そんな風に考えていたんじゃないですか?」

「ふ…人の心をのぞき込んで、べらべらとよくしゃべるものね…確かにそれも当たっているかもしれない。でもね、私は…あの子供たちのことを考えて何かをしていたというような、そんな立派な人間じゃないのよ」

香織が立ち上がり、再度写シを張る。その顔に、中途半端な笑みはない。心からの、会心の笑みを浮かべていた。

「私が本当に果たしたいのは、私たちが作った御刀の力を世に認めさせること…それとついでに、のうのうと折神家本家を継ぐあの女を、折神碧を斬ることなのよ」

一点の曇りもない笑顔でそんなこといってのける香織のことを恐ろしい、とは思ったが、御刀を通じて感情を交わしても結局、直にはこの人のことがよくわからなかった。

「本当なんですか?あの子たちを利用して、しかもそんな私怨のような感情でまだ戦いを続けようっていうんですか…?」

「御刀を通してわからなかった?私はそういう人間なのよ」

湧いてくる感情の九分九厘は怒りであったが、微かに惑いがあった。やはり、この人の考えていることがわからない。これまで接してきた大人の中に、参考になるような人はいなかった。

「…あなたのような大人が、この戦争をここまで取り返しのつかないものにしてしまったんじゃないんですか?戦争が続けば、どれだけの人たちが犠牲になるか、考えていないんですか?」

「私たちを否定した世界など、消えてしまえばいい」

「…もう、結構です…!」

香織の声に幾ばくかの物悲しさが潜んでいたことなど、子供の直に気付くべくもなく、微かな惑いは簡単に怒りに塗り潰された。それが子供故の単純さであり、残酷さだ。

「御刀を通じてわかりあえると思ったんですが…本当に、もう話すことは無いみたいですね……御覚悟を」

直はボソリとそれだけ言ってから、迅移で一気に駆けた。振り払った毛利藤四郎の刃が、折神香織の身体を一閃した。

 

『ばかな、人間風情がここまで…!』

ふふ、これが…本当の刀使の力、というわけね…。

『いや、それだけではない。あの小さき同胞の力も関係している…!何ということだ、お前という器が、月日をかけて育てた最高の器が…』

そう…あの子はあの荒魂と通じ合ってこれほどの力を出しているということ…私とは別の、もっと良い方法で…ふふ、そう、私のような紛い物は精々ここまで、ということね…。

『…香織?そうか、所詮お前も人間か。ここまで…だな』

うっ!何を…!

『脱皮、だよ。世話になったな』

 

「が!ああああああっ!」

振り返った直のすぐ目の前で、香織が絶叫を上げていた。頭から生える二本の角が盛り上がってさらに大きくなっていく。さらに刀使たちと戦っていた周囲の荒魂たちが香織の身体に集い始め、背中からは赤黒い巨大な両腕が、香織の腕を取り込んで伸びて行く。

「何、何が起こっているの!?」

泉美がそういって、直の横に駆けて来た。荒魂と戦っていた刀使たちが集まって来る。

「香織様が宿していた荒魂が…香織様を食い破って出て来ようとしているのかもしれません…!何とか、何とかなりませんか!」

浜塚律が、ほとんど泣きそうな声を出した。

「冗談じゃない、これ以上のバケモノが出て来るっていうの?」

「八重、言葉を選んで…でも、何とかするといっても私たちはもう写シどころかほとんど力を使い果たしています。この隙に逃げて応援を待つのも手だと思いますけど?」

姉妹の言葉に、

「かもしれんな…」

そういって京が同意を示したが、直が一歩、踏み出した。

「皆さんは行って下さい。私があれの足止めをします。香織様の意志が無くなるのであれば、あれは人を襲うことに躊躇しなくなるでしょうから…」

「そうですね、この辺りの施設にはたくさんの人が詰めていますから、下手をすると取り返しのつかないことになるかもしれません。私もお供しますよ」

泉美が、そういって直の隣に立ち、宗三左文字を構えた。

「いいんですか?泉美さん」

「ええ、全部はだめでも半分くらいは何とかなるかもしれませんよ?」

「ふふっ、そうでしたね…それじゃ、お願いします!」

直と泉美はそういって笑い合う。

「ちょっと、二人で勝手に話を進めないの!」

八重がそういって来た時には、二人は最早、人としての姿を失いつつあるそれに飛びかかっていた。その時、

「香織、やめろっ!」

香織が、奇妙な声を発した。直と泉美は咄嗟に立ち止まる。形ができつつある巨大な両腕が、その手に握った宇佐美駿河守を大きく振り上げた。皆がそれを見上げると、刀身がくるりと返り、逆手持ちになる。そして次の瞬間、その巨大な腕は自らの胴にその御刀を突き立てていた。全員が絶句しているその間に、その巨腕は自らの腹を一文字にかっさばく。香織は叫びながら、笑っていた。その腹からは、真っ赤な血潮と共に鮮やかな橙色の、血のような何かが溢れ出す。

「え、どういうこと…」

「香織様の意識が残っている…?」

直と泉美は、息を呑んだ。

 

脱皮なんて寂しいことを言わないで頂戴。私とあなたは一心同体、死ぬも生きるも一緒よ…

『き、貴様…人間と荒魂が一心同体などと…抜け!この御刀を抜け!動けんではないか!』

この宇佐美駿河守定満はいつもあの人と共にあった御刀…あなたも見ていたのでしょう?あの日々を…。さあ、早く、あの日々を、あの人をもう一度見せて…。

『ふ、ふざけるな!このままでは隠世の入り口が閉ざされる…!力が枯れ果て、共倒れになるぞ!』

それは重畳、最後の最後に、ようやく本当の刀使らしいことができるというわけね…あなたも一人では寂しいでしょう?さあ、共に、沈みましょう…。

 

 一体何が起きているのか、その場の刀使たちにはわからなかったが、香織の身体は空気が抜けて行くかのようにしぼんでいった。流れだしたノロはもう、ノロでしかなく、すぐに回収すれば荒魂化することは防げそうだった。

直と泉美を先頭に、刀使たちは香織の元へ歩み寄る。浜塚がその身体に触れて行く。

「死んで…しまったんでしょうか…」

泉美がそういうと、浜塚が顔を伏せて頷いた。香織は笑顔のまま、その身体に深く埋めている御刀を抱くようにしていた。直はそれを見て、香織は本当にこの御刀に執心していたのだな、と思った。

「この御刀、本当に大事なもの…だったんですね…」

「こ奴にはかつて、言い交していた男がいたらしい。その男とその御刀が関わっているようだが、詳しくは知らん。しかし…香織…お前は…」

京がそう言葉を詰まらせると、桜がふと気付いたように顔を上げた。

「京様、上の連中の様子を見に行きましょう」

「ああ、そうだな…すまんがお前たちも付いて来てくれ」

京の言葉に護国刀使たちは頷く。全員で、何か急かされるように階段を昇る。悪い予感がしていた。泉美と八重が飛び出して来た時に開け放していたはずの扉が、しっかりと閉まっている。京がそれを押し開けると、信じられない光景が広がっていた。

「なっ…!何をしている、お前たち!」

神功刀使たちが、互いに互いの胸を突いていた。床の血溜まりが、ゆっくりと広がっている。この場に残っていたのは10名、5名ずつ、組になっていた。ある者たちは床に伏し、ある者たちは折り重なるようにして倒れている。皆で側に寄って確認したが、既にほとんどの者が絶命しているようだった。手足に感じるまだ温かい血とその鉄のような匂いに、皆言葉を失った。

「香苗、しっかりしろ、何故こんなことを…!」

京が一人の少女を抱き起し、血まみれになりながら胸の刃を抜いた。まだ息がある。わずかに心臓を外していたらしい。

「かはっ…ああ…京様…」

香苗と呼ばれたその少女は、血の泡を吹きながら京に応じた。

「何故だ、何故こんなことを…!」

「…感じました、香織様が…荒魂になるのを…あんな風に、なってしまっては…」

「それで死を選んだというのか…!」

「京…様、お願いです、介錯を…御刀の力で祓ってもらわなければ…私は荒魂に…なってしまい…ます……」

直が歩み寄り、毛利藤四郎を抜くと、迷わずに、そして正確に脇腹から心臓にそれを刺し込んだ。

「ああ…ありが……」

香苗の眼から赤い光が消え、首ががくりと落ちた。

「すまん…来栖…」

「いえ、こういうのは慣れていますから…」

直は、ゆっくりと毛利藤四郎を引き抜く。

血糊と脂で光るその刀身を見て、

京の胸で眠ったその刀使の顔を見て、

あの動物たちの死に顔を思い出して、

空襲後の街に転がっていた遺体の顔を思い出して、

折神香織の笑ったまま固まった顔を思い出して、

祖母の最期の顔を思い出して…

心の底からこの戦争を憎んだ。

「もう、こんなのは沢山です。これから先の刀使たちが、こんな思いをせずに済む…そういう世の中を私は作りたいです…」

泉美が隣に寄ってきて毛利藤四郎を取り、懐から手ぬぐいを出してその刀身を拭いた。

 

 地下と、表に倒れたままの刀使をそれぞれ保護し、遺体を出来るだけきれいにして寝かせ、さらに散らばっていたノロを集めているとようやく、護国刀使の第二陣が2台の車に分かれて到着した。後の処理は彼女らに任せて、直、泉美、吉乃、八重の4人は隊舎に戻ることとなる。京と桜、浜塚と保護された2人の刀使たちは別に取り調べを受けることになり、そのまま陸軍の施設に預けられることになった。

激しい疲労に襲われていたが神経が昂ったままで、帰りの車中までは4人共緊張がとれなかったが、隊舎に着いてようやく、気分が落ち着いてきた。

「お帰り。さっき電話があってある程度のことは聞いてるから、報告はとりあえず後でいいわ。それよりもうすぐ正午だから、学習室に集まって」

由良にそう言われて4人は学習室に行くと、通路を挟んで2人掛けの机が並ぶ配置の座席は既に前から埋まっており、4人は最後尾の座席に直と泉美、吉乃と八重分かれて座る。

「さあ、そろそろ、ね…」

前に立つ由良がそういい、千鶴がラジオの電源を入れた。この日、この放送のためにわざわざ強い電波が流されたという。同時刻、国内国外を問わず、多くの日本人がラジオの前にいた。

『ただいまより重大なる放送があります。全国の聴取者の皆さま、ご起立願います』

ラジオからの声に、全員が立ち上がる。「君が代」が聴こえ始め、それが終ると、不思議な抑揚の言葉が聴こえて来た。

直は開け放たれた窓の外を眺めていた。強い日差し、入道雲、蝉の声…夏は小さい頃から何も変わらない。時折流れて来る爽やかな微風が柔らかに身体を包む。気持ちがいいな、と思った時には、ほとんど眠りかけていた。

 

「ちょっと由良、一番後ろの4人…」

千鶴が小声でそういって来る。

「立ったまま寝るとは器用ねえ」

「そうじゃなくて、さすがに不謹慎だと思うけど」

「玉音放送」は既に終わり、続いてその内容に関する解説が行われている。日本は、負けた。連合国に降伏をして、戦争は終わるのだ。

泣く者も現れ始めた。一体これからどうなるのか、不安はある。だが、これでもう仲間達が危険な目に遭うことは無いだろう。空襲も無くなるはずだ。由良としては安堵感の方が大きかった。4人の姿を見ながら、

「いいじゃない。もう戦争は終ったんだから」

そう、答えた。

 

 その日から、宮城前は大変な騒ぎとなった。玉砂利には多くの人たちが集まり、涙ながらに平れ伏していた。「敗戦」というこの事態を、天皇に詫びたのだ。自分たちの忍耐が足らないばかりに戦に敗れ、天皇陛下に苦渋の決断を強いてしまった…そういう気持ちからだった。当初は警備の者たちもそれを見逃していていたが、やがてその場で自決する者が現れ始め、刀使たちもこれを止めるのに協力した。日本全体でそんな混乱がしばらく続いた後、8月30日に連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に降り立ち、9月2日には横須賀に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリの艦上で降伏文書が調印され、戦争は公式に終結、日本は連合国の占領下に置かれることとなり、事実上、大日本帝国という国は消滅した。

 連合国軍といってもその実、大半を米軍が占めており、その米軍がまず手を付けたのが新憲法の作成と、戦争犯罪者の割り出し…つまり戦争責任を取るべき者を明確にすること、だった。戦争責任となればまずやり玉に挙がるのが軍であり、実際に陸海軍は政治に深く関与していたため、米軍はこれら軍人たちの無謀かつ強引な行いを問題視した。特に開戦時、陸軍中枢にいた者たちには厳しい処分が科されることになるのだが、それは刀使たちの物語とは直接の関係はない。

ただ、この調査のかなり早い段階で日本刀を使い、神懸かり的な力を操る少女たちの存在が明らかになる。すると米軍の関心はそちらにも向けられた。調査が進み、護国刀使や神功刀使といった刀使の組織があったこと、そして彼女たちを実戦に投入しようとしていた形跡があったことが判明すると、刀使という存在に対し、遂に独立して調査組織が立ち上げられることとなる。

 9月のある日、その調査組織から護国刀使に対し、隊員名指しで招聘がかかった。

「ミス ユラ=キリシマ、それからミス ナオ=クルスで間違いないな?」

軍服姿の外人さんが随分流暢な日本語を使うので、直と由良は少し驚いた。

「はい、間違いありません」

「OK、座って待っていてくれ。調査員を呼んでくる」

そういって、その外人さんは部屋を出て行ってしまう。二人は、顔を見合わせてから、言う通りに座る。窓の外には日比谷濠が見えた。二人が今居るのは宮城にほど近い有楽町の第一生命館だった。ここは米軍に接収され、連合国軍最高司令部、いわゆるGHQの拠点となっている。

「どういう用件なんですかね?」

「さあ…でも米軍が刀使に興味を持っている、というのは聞いています。碧様や鷹司様もいろいろと取り調べを受けているみたい」

「鎌府折神のこともありますしね…それより、いつまで御刀を取り上げておくつもりなんでしょうか?荒魂が出て来るのは止められないのに…」

「そうね、武装解除というのはわかるけれど、そういうのとはちょっと違うものだって…まあ、わかってもらうのは難しいでしょうね」

そんなことを話していると、後ろの扉が開く。二人は振り返り、また少し驚く。現れた人物もそんな二人を見て、小さく「OH」と声を上げた。書類を手にした、背も胸も千鶴を一回り大きくしたような体型の女性が立っていた。

「本当にあなたたちのような子が『TOJI』なのデスね…」

日本語が通じる相手らしい。由良と直は立ち上がって礼をし、

「私が霧島由良、こちらが」

「来栖直です」

二人でそう名乗ると、

「はい、ありがとう。私はエリザベス=フリードマンといいマス。今日はいきなり呼んでスイマセン。ちょっとお話、きかせてくだサイ」

エリザベスと名乗ったその女性もまた頭を下げた。それから、ツカツカとハイヒールを響かせて二人の前にある机につく。おしゃれだな、と直は思った。黒髪のショートボブに白いシャツとタイトスカートという、そう目立つ出で立ちでもなかったのだが、清潔感に溢れ、いかにも仕事ができそうに見える。ただ、思ったより日本語は怪しいのかもしれない。「座ってくだサイ」といわれて再び腰掛け、エリザベスと向かい合った。

「サテ、二人から聞きたいのは、この資料が本当か、ウソか、ということです。ルックアットディス」

最後に何をいわれたのかわからなかったが、エリザベスが掲げて見せた書類の表紙には、

『刀使ノ白兵戦闘能力ニ関スル考察』

という記載があった。

「陸軍の資料、ですか…」

泉美がそういうと、エリザベスは頷いてそれをパラパラとめくり始めた。

「ハイ、ここにあるのは普通にかんがえれば信じられないことばかりデス。あなたたちがジャパニーズソード、御刀を手にすれば超人になる…本当デスカ?」

由良と直は顔を見合わせ、由良が答える。

「そうですね…。超人、そうかもしれません」

「かもしれません…日本人らしい答えデスね。ではその力を軍が使う、これはどう思いマスか?」

二人は再度顔を見合わせ、また由良が口を開く。

「刀使の御刀は荒魂にのみ向けられるものです。人に向けてはいけないと思っています」

「ハイ。あなたは?来栖直さん?」

「私も由良先輩と同じです。ただ、私は…実際に御刀で人を斬りました。人だけでなく動物も斬りました」

エリザベスの表情が変わる。咄嗟に、由良がとりなした。

「止む無く、です。人を斬ったのも、動物を斬ったのもそういう命令があったからで…」

「わかっていマス。直さん、続けてくだサイ」

「刀使の力を使えば、人を斬ることは簡単です。戦場に出ればきっと戦果を上げられると思います。でも、そんなことを命じる大人たちが動かす国はまともじゃない、そう思っています」

「ふーん、ナルホド、ね。ファーストルーテナン!」

エリザベスがそういうと、先程の流暢な日本語を話した男が、ドアを開けて敬礼した。その手には、二振りの御刀があった。

「それを私と、直さんに」

エリザベスの指示に従い、男は御刀をそれぞれに手渡す。エリザベスは立ち上がった。

「ここにいる間の会話は日本語で」

「了解です」

「それと、少しここにいなサイ」

「了解です」

「さあ、直さん、それを抜いて、刀使の力を見せてくだサイ」

不安そうな顔をしている由良に頷いて見せて、直はその御刀を抜く。一体どこで手に入れた物か知らないが間違い無く玉鋼を使って打たれた御刀だ。なかなかの業物らしく、握った手から霊力が宿っていく。

「写シは張れマスカ?」

「はい…」

直はそう答え、御刀を正眼に構えて写シを展開する。男の方が感嘆の声を上げた。

「ハイ。では、行きますよ」

エリザベスは前に出ながら身構えると、間髪入れずに御刀を抜き放った。それは明らかに訓練を積んだ者の動きだった…が、直には見えている。軽く迅移をかけて構えを崩すことなく転身し、その太刀筋をかわしつつエリザベスの懐に入った。

エリザベスと軍人の男の表情が凍り付く。

「なるほど…すごいものね、写シの力を見せてもらおうと思っていたのだけれど、まさかこの間合いの斬り込みを外してくるなんて…参った、降参よ」

エリザベスが笑顔でそういった。

「え、あの…」

直が戸惑っていると、

「うーん。怪しい日本語で油断を誘っていたつもりだったんだけど、それも効果がなかったわね」

そんなことを言いながら御刀を鞘に納める。確かに、口調もすっかり変わっていた。

「エリザベス特別調査員は日本にとても造詣の深い方です。剣道・柔道共に段位をお持ちで、刀使のこともよくご存知です。ああ、申し遅れましたが私はアメリカ陸軍中尉、バーンズといいます」

男の軍人がそういってエリザベスから御刀を受け取る。直も慌てて納刀し、それを預けた。

試された、ということらしい。直と由良はまた、顔を見合わせた。

「私の髪、黒いでしょう?両親はブロンドなんだけど母方に日系人がいたの。それで興味を持ってね、学校を出てから何年か日本に住んでいたのよ」

「そう、だったんですか…しかしそれなら何でわざわざ私たちを呼んだんですか?」

由良がそういうと、エリザベスは少し、暗い顔をした。

「実際の刀使を見たことがなかったからね。日本で一番強いといわれている護国刀使の隊長と最も戦闘経験がある隊員は一体どんな少女たちなのか見てみたかった、ということが一つ、それともう一つは…、米軍が刀使を利用しようとしている、ということを知ってほしかったから、ね」

「米軍が、刀使を利用する…?」

「それはどういうことですか?」

直と由良の言葉に、今度はバーンズが答える。

「戦争はまだ終わっていない、ということです。日本の戦争は終わりましたが、これから世界は自由義国と社会主義国に分かれて戦うことになるでしょう。そう遠くないうちに、また世界を巻き込んだ戦争になるかもしれない。その時、極東アジアにおける日本の存在は非常に大きく、米軍としては刀使を秘密裏に抱え、諜報活動に利用しようという動きがあるのです」

「まさかこんな少女がスパイだとは思わないだろう、ってことね。でもバーンズ中尉、そこまで言ってしまってよかったの?」

「構いません。いくら特殊な存在とはいえ、このような年端も行かない子供たちを利用しようなどと、反吐が出ます」

「さすが、人権派軍人はいうことが違うわね…まあ、そういうことなの。私たちは日本暮らしがある者として、あなたたち刀使に対する調査を命じられた。でも、実態をある程度知っているからあなたたちを利用したいとは思っていない。だから、できるだけ私たちの調査に協力してほしいの」

直は、改めてこの二人のアメリカ人を見た。本当に、これがついこの間まで敵として戦っていた人たちなのだろうか?敵国であった日本のことをよく知り、よく考えてくれている…日本には、少なくとも自分たちにはとてもこんな余裕はなかった。

「あの、荒魂の被害については今、どうなっているんですか?」

由良の質問に、エリザベスが頷く。

「日本にはこんなモンスターがいるのかって、あちこちから悲鳴が上がっているわ。今の所、連合国の足並みを乱さないよう極秘扱いにしているけれどね。早いうちにあなたたちに御刀を返しておかないと大変ことになる、まずはそれを報告するつもりよ」

由良と直は頷き合う。ひとまず、この人たちの事は信用してもよさそうだ。

「わかりました。そもそも負けた私たちにそこまで気を遣っていただいて…ありがとうございます。護国刀使としては調査に協力していきたいと思います」

「ありがとう、決して悪いようにはしない。それは信じてちょうだい」

直にはもう一つ、聞いておきたいことがあった。

「あの、神功刀使と、鎌府折神家についてはどうなっているんですか?」

エリザベスの表情が曇る。顔に出てしまう人らしい。やはりこの人は信用してもいいかもしれない、と直は思う。そんな表情のまま、エリザベスは話し始めた。

「あちらに関しては…別の者たちが調査に当たっているのだけど…おそらく、鎌倉の折神家は取り潰されるでしょう。当主が死亡、しかも積極的な軍への協力が問題になっているから…。神功刀使は事実上壊滅しているけど、隊員に対して非人道的な行為を行っていた、という罪状は問われるかもしれません。最も、それも鎌倉折神家の管理責任ということになるかもしれませんが…」

既に、人体にノロを注入していたこともわかっているのだろう。直が横を向くと由良が複雑そうな顔をして笑った。

「折神家は京都の本家にまとめられるだろう、というのが今の所の見方だ。しかし…米軍の中に、その非人道的な行為を用いて最強のソルジャーを作ろうという動きがあるのも事実だ」

口を挟んできたバーンズに、エリザベスが苦笑する。

「そうね、あなたがいう反吐の出る奴ら、ね。それを防ぐためにも私たちは迅速に行動しなければならない。刀使は荒魂に対する備えである、という結論に持って行きたいと思っているの」

「ふ…、あなたが急ぐ理由はもう一つ、クリスマスには愛しい我が子に会いたいから、でしょう?」

エリザベスは破顔し、直と泉美を手招いた。二人が歩み寄ると、胸のポケットから一枚の写真を取り出して見せる。エリザベスと、乳児が一緒に写っていた。

「かわいいでしょう?リチャードっていうの」

「こんな小さな子がいるのに…日本へ?」

直は、折神葵のことを思い出していた。

「ええ、この国の人たちにはお世話になったもの。しっかり恩返しをして、胸を張って息子に所に帰る、それが今の私の使命よ」

エリザベスの笑顔に、直も由良も魅せられた。

 

「あんなアメリカ人もいるんですね」

帰り道、直はぽつりとそういった。

「そうね…私たちは一体何と戦って来たんだろう…そんなことを考えてしまうわね」

その通りだと直は思う。鬼畜米英、とは何だったのか。

「沢山の人が死んで、街はこんな焼け野原になってしまって…」

「直さんは本当に大変だったものね…。ああ、それにしても鎌府折神の人たち、どうなるのかしらね…」

自分でいって気まずくなったのか、由良が話題を変える。

「おかしなことにならなければいいんですけど…何だか変な話ですよね。この間までは戦争に協力的でないと非国民だといわれていたのに、戦争が終ったら今度はその非国民の人たちの方が正しかった、なんてことになって…」

「歴史ってそういうことの繰り返しともいえるけど…実際にそういう時代の転換点にいるということなんでしょう、私たちは」

歴史の転換点、時代の節目…確かに今の自分たちはそういう所に立っているのだろう。

「そういうことの繰り返し…ですか。そうやって、時代が変わる度にこうしてたくさんの人が死んで来たんでしょうか…」

直の言葉に由良が思案顔をして立ち止まり、

「ちょっと、大楠公にご挨拶していきましょうか」

そういって行き先を少し変えた。直は大人しくついて行く。

大楠公、とは楠木正成のことを指す。南北朝時代、最後まで後醍醐天皇のために戦ったこの忠臣は、宮城南東の一角に銅像となって今もなお、宮城を守護している。

「いつ見てもすごい迫力ですよね」

台座を含めると8メートルにも及ぶその像を眺めながら、直はそういった。隆々とした馬の筋肉が今にも動き出しそうで、圧倒される。

「そうね。直さんは…この大楠公がこれから先の時代で評価が変わることがあると思う?」

「え?」

「考えてみればこの方も歴史の転換点にいて、たくさんの人を殺してきたのよね。室町幕府の頃は逆臣だったけど段々見直されて、明治のご一新の後は忠臣の代名詞にまでなった」

「そう、だったんですか…」

直は、そんなことは全く知らなかった。ただ、大楠公、楠木正成といえば国民が手本とすべき忠臣、として教わって来た。

「ふふ、直さんは着眼点は鋭いところがあるけれど、ちょっと勉強が足りないわね」

「そうですね、私は刀使に選ばれてからまともに学校には行けませんでした。まあ学校に通っていてもまともな授業はあんまりなかったそうですけど…」

「そうね、仕方がなかったんだけど…きちんと学校で授業を受けられたのは私たちくらいまでか…これも戦争の爪痕なのかもしれないわね」

由良がそういって眩しそうに銅像を見上げて黙ってしまう。

「由良、先輩…?」

暫くしてから直がそういうと、由良はようやくこちらを向いた。

「いろいろと考えていたんだけどね…ようやく結論が出たわ」

「何の結論、ですか…?」

由良は一つ頷いて、ゆっくりと語り始めた。

「私は凡庸だから、護国刀使の隊長なんていってもただ皆の命を護りたい、敢えて死を選ぶようなことだけは絶対にしないしさせない、それだけを思って今までやってきたの。でも、さっき直さんがいったでしょう?時代が変わる度に人が死ぬ…って。それは、確かにその通りなの。戦争や革命で時代は変わって来たけど、そのどちらも結局は人の死を前提として含んでいるものなのよね…」

由良自身、考えながら話しているようだ。何だか難しい話になりそうだが、今の所は直にとってもよくわかる話だ。

「その延長線で考えると、私は死刑すらも望んでいないと気が付いたの。人が人に死を与えるなんておかしいって、ね」

「え?でも死刑とかはやっぱり必要なんじゃないでしょうか…そうしないと…」

「悪い人たちを止められなくなる、わよね。それはよくわかる。でも、今の罪が果たしてこれから先の世界でも罪になるかしら?そういう判断も結局、今の時代の人が勝手に決めた法や正義が前提なのだとしたら、それこそ大きな罪よね」

直は、由良の言葉を精一杯考えた。確かに、それは一理ある。沢山の人が死んで、時代も常識も変わろうとしている今なら、そういう考え方はよくわかる。

「でも、そんなことをいっていたら…その、今の時代を生きて行けなくなりませんか?」

由良は、そこで笑った。

「そう、その通りなのよね。人の死が時代を変えるということを否定するなら、世捨て人にでもなって時代の流れとは関係なく生きて行くしかないんでしょう…だから、ね」

「だから…?」

「私は護国刀使から身を引く」

その言葉に、直はさして驚かなかった。そしてそんな自分が少し不思議だな、と思った。

「…護国刀使を辞める、ということですか?」

「ええ…実はね、凪子が…あの子の状態が良くないの。持ってあと1、2年というところらしいわ」

直は言葉を失う。ノロを身体に受け入れても、それが限界…ということなのか。

「それで…直さん、あなたは知っていると思うけど、ノロを身体に入れた刀使が事切れると、その時に体内のノロが活性化して荒魂化することがあるそうなの。もしあの子が死んだら、その時に御刀で介錯をしてやる人間が必要になる…。だから私は、あの子を連れて実家に帰ることにしようと、そう決めたの」

「随分…一方的に決めてしまうんですね」

「ごめんなさい…でも、それが一番だと、私は思うの。それで直さん、あなたはどうするの?」

そういわれて直は、自分がこれからどうすべきなのか、ということについてはもう自分の中で答えが出ていることに気が付いた。

 

 

 米軍は刀使に関する調査レポート「Toji ~Japanese sword master gairls~」を極秘にまとめ、その中で荒魂を祓うために刀使の力は不可欠である、との結論を出した。これにより護国刀使はその存続が認められ、解体された内務省、軍に代わり警察組織に属することとなる。一方で神功刀使が行っていたノロの利用については問題視され、責任を取る形で鎌府折神家は取り潰しとなった。ただし刀使たちに責任は無いと判断され、京都から折神本家が鎌倉に移ることでこの混乱には一応の終止符が打たれる。

 だが、米軍は敢えて神功刀使と旧鎌府折神家でノロと御刀の研究をしていた者たちを排除しなかった。それどころか一部の研究については米軍主導の元で継続をさせた。

 

これがまた新たな災厄の火種となっていくのだが、それはまた、後の話になる。

 

 

 



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終章

 

 

「国破れて山河在り、か」

秋晴れの空、遥か向こうに望む富士山を見て、直はそういった。

「ええ、こうも遮る物が無いとよく見えますね」

泉美が伸びてきた髪をかき上げながらそういう。二人は宮城内にある江戸城天守台に上っていた。江戸城の天守閣は江戸時代初期の明暦の大火で焼け落ちた後、結局再建されず、今二人のいる石垣のみが残っている。

「面白いですよね、ここ。火事の後に石垣だけ作った後で、結局江戸の街の復興を優先させたいから天守閣を造らなかった、なんて」

「ええ、だから天守閣では無くて天守台、なのよね。確かにその時代にそういう判断をした人がいたんなんて、ちょっと驚きよね」

泉美はそういってから、じとっと直を見つめた。

「あの、泉美さん?」

「何となく、ここに連れて来られた理由がわかりました。本当に、辞める…んですね」

そういって暗い顔をする泉美の横顔を見て、直は穏やかに笑う。

「すいませんね。でもやっぱり、私のやりたいことは宮城の外にあるのかなって思いまして…ああ、でもこれからも東京にはいるんですから、いつでも会えるじゃないですか」

リュウがふわりと飛んできて、直の肩に止まる。

「その御刀、青砥先輩が持って行くのを許可してくれたそうですね?」

「ええ、毛利藤四郎はお返ししますけど、これについては『戦災で失われてしまったことにしておく』といわれました。由良先輩も同田貫を持って行くの、許してもらったそうですし、まあ、何もかも折神家の一元管理っていうのもどうかと思いますし」

「由良先輩は…事情がちょっと違うと思いますけど…ただ、そこなんですね?折神家の一元管理…直さんが引っ掛かっているのは」

直は苦笑した。

「この、リュウのこともあるんですけどね。これから刀使の組織を再編成しようって時に、こんな荒魂がいたんじゃ何かと問題になるかもしれませんから」

「荒魂と仲良くすることで荒魂の被害を減らす…それが直さんの考えですものね。今の折神家を頂点とする体制ではそういうことには決してならないでしょうから…やっぱり、離れるしかない、と?」

「そうですね、まあそのために具体的に何をすればいいのかのなんてまだ全然考えていないんですけど…ただ、あちこちを巡ってみたいとは思っています」

「あちこちって…旅でもするつもりなんですか?」

「はい、御刀のふるさと、伍箇伝を回ってみるのもいいかな、と思っているんです。それで、いろいろと勉強したいんです。一応座学はあったけど、私たち、まともに学校に行けてないじゃないですか」

「そうね、でもその辺りはこれから整って来ると聞いています。刀使が未成年である以上、教育にも力を入れる。刀使の学校を作ろうという話も出ているみたいですよ」

「そっかあ…これからの刀使たちは皆、そういう風にきちんと教育が行き届くなら…いいですね、うん」

「私としては、直さんに残ってもらってその体制作りを手伝ってほしかったんですけど…」

泉美がぽつりとそういった。直としても、後ろ髪を引かれる思いはある。

「すいませんねえ…でもきっとそれは、私のような考えを持っている人間が関わらない方がいいと思います。だから、頑張って下さい!」

そういって、直は泉美の肩を叩いた。

「はあ、全く…それで、住む家はどうするんですか?」

「あ、それは大丈夫、兄さまが海軍の伝手で用意してくれることになっています」

「そう、それならまあ…」

「ふふ、泉美さん、本当にいつでも来て下さいね?兄さまも待ってますから」

直がニンマリと笑ってそういうと、泉美はわかりやすく頬を赤らめた。

「なっ!もう、私は本気で心配しているのに…!」

「私だって別にふざけていってるわけではありませんよ」

「も、もう…ほら、用が済んだなら戻りますよ」

「ああもう、そんなに怒らないで下さい。用はまだ済んでないんです」

「え?」

泉美が聞き返すと、直はそこで深々と頭を下げた。

「ちょっと、直さん?」

少しして直は頭を上げ、満面の笑みを泉美に向けた。

「泉美さん、ありがとう。今まで、ずっと…泉美さんのお陰で私は今、生きているんだと思ってる。これからも、よろしくね」

泉美は一瞬言葉を失い、それからふっと小さく溜息をついた。

「そいうことを臆面もなく言えるのが来栖直、という人よね…ふふ、ええ、こちらこそ、よろしくお願いします」

泉美もそういって、頭を下げる。顔を上げてから二人で笑い合った。

「さ、隊舎に戻りましょう。いろいろと準備があるでしょう?手伝います」

「はい、ありがとうございます。あ、そうだ。もう一つ、いいですかね?」

「何ですか?」

答えた泉美に、直はニイっと笑う。

「戻る前に、一戦、どうですか?」

「いいですね、やりましょう!」

二人は、天守台を駆け降りる。リュウが「ぎいぃー」と鳴いて直の肩から、空に向かって飛び上がった。そのまま澄んだ空をゆっくりと旋回する。その目には、街の姿が映っていた。がれきの山はどんどん整理されて、道には人が溢れ始めている。灰色だった街並みには少しずつ、緑が戻って来ていた。

やがて下の方から軽やかな金属音が、歌うように響いてきた。リュウは満足そうに大口を開けると、空を駆けるように街の方へ飛んで行った。

 

 

                                  

 

 

                                  (了)

 

 

 

 



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