八月某日の台風の夜、
「……マスクをした小太りの男で、黒い帽子を被って作業着を着ていた。手袋をして懐中電灯を持っていた。……他に何か思い出しませんか」
煙たそうに煙草を
「……熟睡してましたからね。もう、何が何だか」
「真夜中の二時じゃ、無理もありませんよ」
山根も同じように腕組みをした。
「……そう言えば」
その言葉に山根は
「足元が妙だった……」
森崎は記憶を
「…………」
山根はじーっとして、森崎の“あっ、そうだ!”と言う言葉を待った。
「……あれは、革靴でも地下足袋でもなく、かと言って運動靴や長靴でもなかった。……あっ、そうだ、下駄だ!」
「……下駄?」
あっ、そうだ、まではよかったが、まさか、回答が下駄になるとは山根は予想だにしなかった。
……暴風雨の中を下駄を履いて強盗?
山根は調書を取っていた、相棒の井川宣夫と顔を見合わせた。
――台風の真夜中に出歩く者はいないだろうが、念のために山根は井川を伴って近所の聞き込みをした。
三軒目の松島春代宅で、奇妙な話を耳にした。
「えっ、下駄を盗まれたんですか?」
井川が興奮気味に
「ええ。下駄だけじゃなくて、主人の作業着も」
「どんな下駄ですか」
井川が続けた。
「男物の、普通の。あ、持ってきましょうか?」
「……持ってくるって、盗まれたんじゃないんですか」
井川が間の抜けた顔をした。
「ええ。盗まれたんですけど、台風の翌日に、裏庭に戻ってました」
井川は合点のいかない顔を山根に向けた。
「どう言うことなんですかね?」
「分からんよ」
井川の問いに山根は冷たく答えた。
春代が持ってきたのは、綺麗に畳んだ作業着と、泥一つ付いてない下駄だった。
「……洗ったんですか」
井川が嘆いた。
「だって、気持ち悪くて……」
二人は落胆の表情をし合った。
春代から下駄を借りると、鑑識に回した。
結果、森崎宅の畳にあった、二の字の下駄の跡と春代宅の下駄の歯が一致した。つまり、強盗犯は、盗んだ春代宅の下駄を履いて森崎宅に侵入したと言うことになる。下駄の歯の痕跡から、五十キロ足らずの体重であることが判明した。かなりの
山根は更に聞き込みを続けた。森崎宅から歩いて十分ほどの所にある、〈句会
「……俳句か。ちょっと訊いてみるか」
山根は独言のように呟くと、井川を置いて、さっさと歩き出した。
平屋の硝子戸を開けると、数足の履物が
「ごめんください!」
「はーい!」
山根の呼び掛けに女の返事があると、玄関に近い一番手前の襖が開いた。
そこから現れたのは、
「あ、突然に申し訳ありません」
山根は予期せぬ事態にしどろもどろしながら、内ポケットを
女は山根の手にした警察手帳を認めると、何か?と言った表情をした。
「え、あ、台風の夜、この先で強盗事件があったんですけど、ご存じですか」
「はい。ニュースで知ってます」
女は簡潔だった。
「で、当夜、何か不審な物音とか、何か気付いたことはありませんでしたか」
「台風が来るのはテレビのニュースで知ってましたから、その日は午後の三時ぐらいから雨戸を閉めました。ですから、もし、何か物音がしてもすべて台風のせいにしたと思います」
笑みを浮べて語る女の、その無駄を省いた言い回しは、まるで、刑事との受け答えを
「……そうですか。どうも、お忙しいところ、ご協力ありがとうございました」
山根は軽く会釈をすると、戸を開けた。
井川が名残惜しそうに、女に愛想笑いを向けていた。
「いい女ですね」
井川がにやけた。
「……なんか、釈然としないな」
山根が冴えない顔をしていた。
「えっ、そうですか?理路整然としてましたよ」
「だから、気に食わんのだよ。まるで、用意した台詞を読み上げたみたいだった」
「……そうですか?」
翌日、山根は一人、〈句会 撫子〉に行った。昨日の小生意気な女に興味があった。
看板の横の表札に〈広田〉とある玄関を開けると、今日は一足の履物も無く、廊下の片隅に置かれた
「こんにちは!」
「はーいっ!」
奥から女の声がすると、やがて、廊下を小走りでやって来る衣擦れの音がした。
笑顔で待ち構えている山根を認めた途端、女は笑顔から一変してキツイ顔になった。
「まだ、何か?」
「いぇ。今日は俳句を教えてもらおうと思って」
山根は
「……本気ですか」
女は疑う目をした。
「ええ。お願いできますか」
山根は
「もちろんです。さあ、どうぞ」
女は俄然、愛想が良くなると、山根の前にスリッパを揃えた。
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2
通された部屋の床の間の花器には、
「お名前を教えてください」
山根が訊いた。
「広田キョウコです。キョウはアンズの杏です。雅号は〈
と、思い出したように、杏子は傍らにあった自分の句集を手にすると、
「よろしかったら、どうぞ」
と、山根に差し出した。
「いただいていいんですか」
遠慮がちに言った。
「ええ。どうぞ」
杏子が微笑んだ。
バツイチの山根は
手に掬ふ 乳房の如き 牡丹かな
来ぬ人を 待てば散りたる 薔薇の花
初雪や 人肌呑みて 頬を染む
緋牡丹に 気付きし月や 妬きをりぬ
名刹に 湯文字の如き 紅葉かな
手のひらに 源氏蛍を 遊ばせし
漁り火を 宿から眺む 白牡丹
花冷えや ただ逢ひたくて 逢ひたくて
雨垂や 窓辺に馨る フリージア
乱れ髪 鏡の月が 見てをりぬ
――
そこには、あだっぽい情景が克明に詠まれていた。山根も一句、詠むことにした。
翌日の午後、
「なかなか、色っぽい句ですね」
山根が句集のことを言った。
「恥ずかしいわ」
恥じらうように杏子が顔を伏せた。
「僕も一句、詠んでみました」
「あら、ぜひ、お聞きしたいわ」
杏子が興味を示した。
「いいですか?」
山根は軽く咳払いをすると能率手帳を出した。
「物証を 消してしまひし 台風過」
と、詠んで直ぐに、杏子を視た。
「うーん……。いかにも刑事さんの句ね。少し堅いわ」
杏子は涼しい顔で、そう言い放った。
「……はぁ」
強盗事件に関わっているか否かを確認するために、故意にこの句を詠んでみた山根だったが、
「そうね。例えば……」
杏子は半紙と筆ペンを手にすると、何やら呟きながら、すらすらと書き始めた。
その杏子の白い
「いかがかしら」
杏子が、書いたものを見せた。そこには、〈恋までも 奪ひ去りたる 台風禍〉と、あった。
「……なるほど、綺麗な句になりましたね」
「俳句は、外見だけではなく、内面も詠んでみるといいですよ」
杏子が小学校の先生みたいな物の言い方をした。
「はぁ……」
そこに、井川から連絡のポケベルが鳴った。
句の書かれた半紙を杏子から貰うと、山根は現地に急いだ。
最近、羽振りが良いという、森崎から金を借りている小柄な男を追及したが、競馬で儲けたことが判明した。
山根が、杏子の書いた半紙を眺めていると、ハンドルを握っている井川が、
「……なんですか?」
と、声を掛けた。
「うむ……。俳句の先生が書いた句だ」
「えっ、見せてくださいよ」
「危ないよ、ちゃんと運転しろ」
井川は山根の言うことを聞かず、車を停めた。
「どれどれ」
井川は山根からそれを奪うと、
「コイマデモ、ウバヒサリタル、タイフウ、……なんとか」
と、詠んだので、山根が笑った。
「なんとかじゃなくて、カ、って読むんだよ。タイフウカ」
「へぇー。……でも、達筆ですね」
「ああ、確かに」
山根も同感だった。
「俺も、俳句を習おうかな」
「お前なら、やっても川柳どまりだな」
山根が馬鹿にした。
「……どう、違うんですか?」
井川が真面目な顔で尋ねた。
「ハッハッハ……。こりゃ、駄目だ」
次の日の夕方、仕事を終えた山根は杏子の家を訪ねた。食事の支度でもしていたのか、
「すいません、こんな時間に」
山根が恐縮した。
「そう言う約束ですから、構いませんよ。どうぞ」
杏子はいつもの会員用の部屋に山根を案内すると、花瓶に生けた百合を席題にし、半紙と筆ペンを置いて出て行った。
開いた雪見障子の縁側から、涼しい風が廊下に吹き抜け、隅にある蚊取り線香の煙がその風に揺らいでいた。山根は、壁にぶら下がったハンガーに、麻の上着を掛けると、机の前に正座した。
山根は俳句など、どうでもよかった。杏子に興味があって入会したまでだ。
……参ったな。
ない頭を
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3
「できましたか?」
タイミングよく、杏子が戻ってきた。
「……どうにか」
山根は苦心の
杏子は最初の句を詠んで噴き出したが、他の二句では真剣な顔をしていた。それには、
百合の花 ラッパみたいに 口広げ
白百合や 黄色き花粉 落ちにけり
白百合に 愛しき人を 重ねけり
と、あった。
「この、二番目の句には切れ字が二つあるわ。だから、どちらか一つを省いた方がいいわね。例えば、
白百合の 黄色き花粉 落ちにけり
もしくは、
白百合や 黄色き花粉 落しをり
とか。……でも、この最後の句はとてもいいですね」
と、杏子が褒めた。
「はぁ、ありがとうございます」
山根が素直に礼を述べた。
「お仕事は、今日は終わりですか」
「……ええ」
「じゃ、奥様の手料理がお待ちね」
「いぇ、独身です」
「まあ、失礼しました」
「先生は?」
「その、先生はやめてください。刑事さんと同じ独身です」
「その、刑事さんはやめてください」
「……プッ、ふっふっふっ」
杏子が噴き出すと、山根も笑った。
「ハッハッハ……」
「よかったら、食事を一緒にいかがですか」
それは、思いがけない誘いだった。
「えっ、いいんですか」
「ええ。一人で食べても美味しくないし。これを切っ掛けにこれからもよろしくお願いします」
「では、遠慮なく」
杏子の好意を素直に受けた。
客間に案内すると、サイドボードからガラスの灰皿を出した。
「吸われるんでしょ?煙草」
確認するようにそう言って山根を見ると、テレビを点けて出て行った。――
……この厚待遇は一体何だ?俺が刑事だから特別扱いしてるのか?……これを切っ掛けによろしく、とはどう言う意味だ?
次から次に料理が運ばれ、酒も付いてきた。
杏子の酌で飲む酒は
――頬をピンクに染めた杏子が、立ち上がった途端、山根の膝元によろめいた。
「おっと」
翌日から、杏子の家が自宅になった。会員になりきって堂々と玄関から入ると、
一方、捜査の方は進展がなかった。もう一度、最初からやり直すつもりで、山根は一人、春代宅に出向いた。
「あれから、何か思い出したこととか、何か変わったことはありませんか」
「うむ……。これと言って、特にありませんね。主人が少し痩せたぐらいですかね。ガンじゃなきゃいいんですけどね。……“餅ほどの亭主残せし遺産かな”なんちゃって」
「!……俳句をやるんですか」
山根は
「……ええ。以前少し。そこの〈撫子〉で。でも、ちょっとあって、辞めたんです」
「ちょっと、って?」
山根は早口で訊いた。
「……私、見ちゃったんです」
「何を?」
山根は興奮した。
「森崎さんが俳句の先生を口説いてるのを」
「!……」
「先生は嫌がってましたけどね。それを見てから行きづらくなって……」
杏子と森崎が繋ってしまった。
「森崎さんも俳句を?」
「ええ。最初の頃いましたよ。でも、あの人の目的は俳句じゃなくて、先生だったみたい」
「……」
山根はその足で杏子の家に向った。――帰りの早い山根から背広を脱がそうとした杏子の手を、山根は無言で払った。
「……あなたっ」
杏子が目を丸くした。
「どうして、森崎のことを言わなかった」
居間で
「……森崎さんの何を?」
杏子は、山根の怒っている理由が分からなかった。
「会員だったんだろ?」
「ええ」
「アイツと何があったんだ」
「何もないわよ」
「だったら、ここに証人を連れてこようか」
山根は杏子の腕を掴んだ。
「痛っ」
「正直に言え、何があった」
「何もないわ。信じて。……あなた」
杏子は、訴えるような
一度、署に戻った山根は帰途、森崎宅に立ち寄った。高利貸しをやってる割には、通された応接間には高価な調度品はなかった。合成皮革のソファに腰を下ろすと、ミシミシと木工の接着剤が剥れるような音がした。
「突然ですが、広田杏子を知ってますか」
山根は大きく股を開くと、前屈みになり、煙草を一本抜いた。
「……キョウコ?ああ、俳句の先生」
森崎にわざとらしさが
「あの人を口説いてたそうですね」
森崎を睨み付けた。
「……ああ。プロポーズをね」
「プロポーズ?」
「ええ」
「で?」
「いゃ、見事にフラれましたよ。ハッハッハッ……」
森崎は高笑いをした。
「ところで、話は変わりますが、強盗は間違いなく男でしたか」
「ええ。間違いなく男です」
森崎は断言した。
「犯人はマスクをしていた。そうでしたよね?」
「……ええ。してました」
「マスクをすれば、声はこもる。マスクをして声を殺せば男の声に聞こえないこともない。女の可能性はないですか」
「はぁ?どうしてまた」
「犯人が杏子という可能性は?」
「……ない」
「どうして、そう、はっきり言えるんですか」
「……臭いが。汗臭い作業員のような臭いが」
森崎のその言葉は
「ほぉ、臭いですか?臭いは物証に値しませんからね?本人しか知り得ない証拠という訳だ」
「……」
……どうして、ここまで杏子を
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4
杏子の家に帰った山根は不機嫌な顔で、山根の大好物を献立にしていた杏子の手料理を
「美味しくない?」
杏子がわざとらしく訊いた。
「……不味かったら不味いって言うよ」
そう言いながら、豚なすピーマンの味噌炒めを頬張った。
「じゃ、美味しいのね」
「……後で話がある」
「……何?」
杏子が不安げな顔をした。
「後だ。
夕刊を捲りながら食事をしている山根は、一度も杏子に顔を向けなかった。
――片付けを済ませた杏子は、煙草を吹かしながらテレビを観ている山根の前に正座すると、叱られる時の子供のような表情をした。
「……杏子」
「……」
山根の呼び掛けに顔を上げた。
「……結婚するか」
山根がぽつりと言った。
思いがけない山根の言葉に感極まったのか、杏子は泣きべそをかくと、
「うん」
と返事をして、山根に抱きついた。そして、
「……あなたの子供が欲しい」
と耳元に囁いた。山根は目を閉じると、無言で承知した。高齢出産のリスクは高いが、杏子に子供を授けてやりたかった。――
「俳句の先生の方はどうですか」
ハンドルを握った井川が山根の顔を見た。
「……まだ分からんが、シロとは言い切れん」
「まだ、疑ってるんですか?いくら、森崎が寝惚けてたって男と女の区別はつくでしょ?」
「うむ……。だが、数センチの高さの下駄を履いても小柄と言うことはかなりの小柄と言うことになる。女の線は捨てがたい」
杏子に興味があった山根は、井川には杏子を調べるために近付く、と話していた。
「ミイラ取りがミイラにならないでくださいよ」
井川がからかった。
「……バカ言え。それより、サッちゃんとはどうなってるんだ?」
深入りされたくなかった山根は、話をすり替えた。
「え?……なんか、イマイチなんだよな」
井川が浮かない顔をした。
「どうして?いい子じゃないか。純朴で可愛くて」
「……俳句の先生ぐらい色っぽかったらな」
井川が、憧れている杏子を例に挙げた。
「……二十二、三の子に色気を求めるのは無理だよ」
「……でも、なんか、物足りなくて」
「早く結婚しないと、誰かに
「脅かさないでくださいよ」
井川が慌てた。
「ハッハッハッ……」
――「高利貸し強盗事件捜査本部」の指揮を執る山根が、森崎と繋ってしまった杏子に疑いを持ち始めたのは確かだった。だが、仮に杏子が強盗犯だとしても、それを揉み消す方法は幾らでもあった。山根はただ、杏子の賢さの度合を知りたかったのだ。変な言い方だが、ここまで俺達を翻弄し、煙に巻きながら、捕まらずにいる杏子を同志のようにも思えた。
「――森崎氏の供述は二転三転している。就寝中の事件だけに確実性に乏しいのはしょうがないだろ。犯人がなぜ、下駄を履いていたのか。身長を誤魔化すためなのか、それとも、足のサイズを分からないようにするためなのか。いずれにせよ、女の線は捨てがたい。
そこでだ、松本清張の『天城越え』のように、犯人が少年という可能性もある。先入観を捨て、幅広い捜査を頼む。以上!」
「はいっ!」
一同が声を揃えた。
山根は故意に捜査を
――山根はマスクの件を思い出すと、独断であることを試してみた。山根が署で待機していると、狙いどおり、森崎から電話がきた。
「へ、変な電話がありました」
森崎は
「なんて?」
「犯人を知りたければ、一千万用意しろ、と」
「男?女?」
「男です」
森崎のその返答に、山根はニタッとすると、
「直ぐ行きます」
と言って、受話器を置いた。
――森崎は、訳の分からない顔をしながら、禿頭を摩っていた。
「で、どうするんですか」
ソファに腰を下ろした山根は悠然と煙草を
「どうもこうもないですよ。犯人は警察が捕まえてくれればいい。一千万なんてやる道理がない」
「ごもっともです。電話の声は確かに男でしたか?」
「ええ。間違いありません」
森崎は、「わしの耳は、まだ
「犯人を知りたければ、一千万用意しろ!」
と、襖の向こうから声がした。
「……この声だ」
森崎は唖然とした。
「篠原くん、入って」
山根に呼ばれて襖を開けて現れたのは、マスクをした婦人警官だった。森崎は
「篠原くん、もう一度頼む」
篠原は頷くと、
「犯人を知りたければ、一千万用意しろ」
と殺した声を出した。森崎は自分の耳を疑っている様子だった。
山根は篠原を帰すと、煙草を一本抜いた。
「いかがですか?あなたが男だと断定したのは紛れもなく女でした。犯人は女だった可能性がある訳です。誰か、心当たりはありませんか」
「……さあ」
「……広田杏子はどうですか」
「えっ?」
森崎がやじろべえのような動きの目をした。
「あなたは彼女にプロポーズしたんでしょ?断られたそうですが。そこまでの経緯で、何か弱みを握られて、その報酬として、金を奪われたんでは?」
山根は当てずっぽうで言ってみた。
「いや、ない」
森崎は邪念を振り払うかのように言い切った。その行為は却って、何かあったことを教えていた。――つまり、杏子の犯行であることが濃厚になった。
これ以上訊いても、森崎からは何も得られないと判断した山根は、そこを後にした。
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5
二ヶ月が過ぎた。杏子の容疑が強まった今、いよいよ、相棒の井川を手中に収める必要があった。
「……結婚しようと思ってる」
山根が
「えっ?……先生とですか?」
ハンドルを回した井川が首も回した。
「……ああ」
「僕は大賛成です。あの人なら、デカ長とお似合いです」
井川が自分のことのように喜んだ。
「……だが、犯人が捕まってない。……もし、アイツが犯人なら罪は償ってもらう」
山根は真顔だった。
「……デカ長」
井川は我が身の如くに憂える表情をした。
……よし。これで、
旨い手料理と酒、帰りの車代をやることによって、井川は山根に恩を着る格好になる。
「井川さんはお幾つになられるの?」
顔を赤くしている井川に杏子が酌をした。
「二十八です」
「えっ、じゃ、
「そうです」
「じゃ、私と同じ
「ええ、とっても」
井川は満足そうに
「美味しい、って言ってもらうと作り
手酌をしている山根を横目にしながら杏子が嫌味を言った。
井川と同じ立場だった刑事成り立ての頃を思い出していた山根には、杏子の話は耳に入っていなかった。――
俺を相棒にしてくれた巡査部長の溝口はスポーツ刈りにサングラスをして、肩で風を切りながら
溝口には、三味線の師匠をしている元芸者の乙音という愛人がいた。俺は溝口に連れられて何度か乙音宅でご馳走になった。そこで聴いた
そんな時、乙音が無理心中を図った。定時になっても出署しない溝口を不審に思った俺は、俺しか知らない乙音宅に急いだ。
――そこには、背中を血で染めて俯せに倒れている溝口と、首から血を流して壁に寄り掛かった乙音の姿があった。乙音の傍らには、血の付いた包丁と、俺宛の遺書があった。
〈溝口と別れたくなかった ただそれだけです 奥さんと別れてほしくて 私は嘘をつきました 子供ができたと 溝口は産んでもいいと言ってくれました 私は嬉しかった でも 嘘はすぐにバレました どうしてそんな小細工をしたのかと溝口は怒りました だから私は言いました 子供ができたら私と結婚してくれるかと思ってと すると溝口は言ったんです 女房と
山根さん ご迷惑をお掛けして申し訳ありません 溝口の名誉のために 私とのことは内密にお願いします
山根様へ 乙音〉
俺は、溝口の
〈ベテラン刑事、強盗犯を追跡中に刺殺される!〉
――ふと気付くと、杏子と井川が何やら楽しげに喋っていた。
「おい、
「あ、はい」
山根から注文を受けた杏子は、井川との話に腰を折ると、大儀そうに自分の腰を上げた。
井川がトイレに立とうとした時だった。
「へぇー、ドストエフスキーにカフカ、スタンダールにバルザックか……。文学が多いですね」
と、居間の隅にある書棚のトルストイを手にした瞬間、
「駄目っ!」
鮭茶漬けと香の物を運んできた杏子が大声を出した。吃驚した井川がポカ~ンと口を開けていた。
「……へそくりしてたの」
井川の手から奪った単行本の一
……井川は騙せても俺は騙されないぞ。
井川が帰ると早速、棚の書物を片っ端からパラパラと捲った。すると、出るわ出るわ。山根の足下に舞い落ちた万札が約二百枚。――
「……やっぱり、お前か」
山根は
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6
「……残りはどこだ?」
「……下駄箱」
山根は急いで玄関に向かった。
靴の空き箱に万札が約千枚。単行本の二百万円と合わせて、一千二百万円。盗まれた金額と一致した。
山根は大きく溜息を吐くと、
「……お前さん、頭がいいね」
と褒めてやった。
「ヘヘヘ……」
杏子が子供のような笑い方をした。
「バカ、これは犯罪なんだぞ。分かってんのか」
「犯罪にはならないわ」
自信満々に含み笑いをした。
「……どう言う意味だ?盗んだんだろ?」
「ええ、盗んだわ。でも、大丈夫よ。私の
「どうしてだ?どうして訴えないんだ、答えろ!」
山根は杏子の肩を掴んで大きく揺すった。
「父親だからよっ!」
杏子は顔を向けると、山根を睨んだ。
「……何?」
杏子は山根の手を払うと横を向いた。
「生まれたばかりの私と母を捨てた男よ。……ここに越してきて、句会のチラシを近所に配って間もなく、アイツが入会した。チラシに印刷された私の名前を見て、自分の実の娘だと分かったんでしょ。広田は母方の姓。〈杏子〉は自分が付けた名前だものね。他人を装って入会したのはいいけど、全然センスないの。“バラバラになって散りたるバラの花”だって。バカみたい。ダジャレ川柳じゃないっちゅうの。
そんな時、突然、アイツが父親だと名乗り出た。顔も名前も知らなかった私は戸惑いながらもアイツに対する憎しみだけははっきりしていた。
アイツを困らせるために金を盗んだ。一千二百万なんて、養育費にしたら安いもんよ。一億貰ったって足りないわ」
「……強盗なんかしなくたって正々堂々と貰えばいいじゃないか、父親なんだから――」
「認めてないからよっ!」
杏子は怖い顔をして山根に振り向いた。
「私と母を捨てたあんな奴、父親なんかじゃない。でも、この体に流れてる血は紛れもなくアイツの血なのよ。手段はともかく、金を貰う権利はあるわ」
「……寒いよ。布団に入ろ」
山根が大袈裟に身震いした。杏子は表情を和らげると肩の力を抜いた。そして、その肩に山根の手が触れるのを待った。――
「……さっきは凄い迫力だったな。一億貰ったって足りないわよ!」
山根が枕元の灰皿に吸いかけの煙草を置いた。
「もう、……意地悪」
杏子は山根の横で、口を尖らせた。
「……犯行は念入りに計画したのか」
「……まあね。でも、下駄は失敗しちゃった」
珍しく杏子が弱音を吐いた。
「……どうして?」
「だって、却って小柄をアピールしちゃたもの」
「……まあな」
「思い付いた時はグッドアイデアだと思ったのにな」
「犯行は得てしてそう言うものだ。必ず手抜かりが生じる。だから、完全犯罪は成立しないのさ」
「ね、刑事さん?」
「……何だよ」
「犯行方法、知りたい?」
「……ああ。教えてくれ」
「どうしよっかな……」
杏子が子供みたいな喋り方をした。
「お願いします」
山根は煙草を消すと仰向けになって、聞く体勢を整えた。
「じゃ、出血大サービスで教えちゃう」
杏子も天井を向いた。
「――犯行は台風の日に決めてた。人も歩かないし、物音もかき消される。
「どうして、春代さんちのを盗んだんだ?」
「春代さんちには何度か遊びに行って、春代さんが洗濯物を取り込み忘れる癖を知ってたから。それに、どうせ雨風で汚れてしまうし、たった一度の犯行のためにわざわざ男物の作業着を買うのも勿体ないじゃない」
「うむ……」
「ウエストに太いゴムを巻くと、それに春代さんちの下駄を挟んだ。その上にポンチョの黒のレインコートを
足袋で歩くのは快適だった。暴風雨なんてなんのそのって感じ。幸運にも、誰とも遇わなかった。
アイツんちの雨戸が壊れてるのは、会員との会話を小耳に挟んで前から知ってた。あのケチのことだから絶対直さないって思った。
案の定、雨戸を閉めてない窓は今にも割れそうに激しく音を立ててた」
「もし、雨戸が修理されて閉まってたら、どうした?」
「裏に回ったりして、開いてそうなとこを探したわ。……それでも無かったら、諦めて帰ったかもしれない」
「……雨戸を修理しなかったのが運の尽きか」
「マスクを付け、ナイフとゴミ袋を作業着のポケットに入れると、コートを縁側で脱いで、足袋の上から下駄を履くと懐中電灯を手にした。庭にあった
懐中電灯を左手にして中に入ると、
『金を出せ』
アイツはキラッと光ったナイフに
『これに入れろ』
金庫が開くと、それを放った。――入れ終わったアイツに、
『後ろを向け』
と命令した。言われた通りにしたアイツの首の後ろを石で軽く殴った。アイツは、ウ~と唸ると、頭に手を当てて前に倒れた。金の入った袋を背負うと急いでそこを出た。
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7
石を庭に捨て、下駄をゴムに挟むと、コートを着て、袋を背負った。再び足袋のままで暴風雨の中に飛び込むと、歩き出した。
私の格好はまるで、サンタさん。煙突の
こんな格好を誰かに見られたら一巻の終わりだと、
でも幸運にも、帰りも誰にも遇わなかった。勝手口から入ると、一仕事終えた感で台所に腰を下ろし、徐に服を脱いだ。
ポリエステルのズボンに着替えると、脱いだ作業着と下駄をビニール袋に入れて、また、嵐の中に出た。
春代さんちの裏庭の縁側に借りた物をお返しすると――」
「どうして、わざわざ返したんだ?」
「そう言うとこが男の人って無頓着なのよ。春代さんは普通の主婦よ。ご主人の作業着や下駄が幾らするか知ってる?新しく買わせたら家計に響くでしょ?」
「……なるほどな」
「それに、捨て場所に迷うのも面倒だもの。以上です」
喉が渇いたのか、杏子は台所に行った。
「……上手くいったから良かったが、下手したら捕まってたんだぞ」
トレイに蜂蜜牛乳を載せてきた杏子に忠告した。一気に飲み干すと、
「大丈夫よ、あなたが居るもの」
あっけらかんとそう言って山根の布団に潜ってきた。
「……俺とこうなったのも、意図的なのか」
「あなただったから意図になった」
「……どう言う意味だ」
「あの時、聞き込みに来た刑事さんが、あなたじゃなかったら、こんなふうにはならなかった。あなたで良かった」
杏子はニコッとすると、山根にしがみついた。
「……杏子」
「ね、耳、貸して」
「何だよ、誰も居ないのにコソコソ話なんか」
「いいから、耳」
杏子は強引に山根の
「痛てぇ、何だよ」
山根は杏子にされるがままだった。
「……あのね」
「何だよ」
「……赤ちゃん」
「えっ!できたのか?」
山根は反射的に体を起こすと、杏子の顔を確かめた。杏子はニコッとすると、恥ずかしそうに山根の胸に顔を埋めた。山根は褒め言葉の代わりに杏子の頭を優しく撫でてやった。
……四十二にして初めての子供だ。やったーっ!
山根はその喜びを心の中で叫んだ。
翌日の帰り道、森崎宅に寄った。杏子の父親だと分かった今、森崎の名称は、
「杏子さんはあなたのお嬢さんだそうですね?」
「えっ?……ええ、まあ」
「どうしてそれを最初に話してくれなかったんですか」
「娘が、父親だとは認めないと。あんたなんか、赤の他人よ。なんて言われたもんですから。警察に喋ったりして後でバレたら怖いもんですから、つい」
……俺と同様に杏子には頭が上がらないか。
「……娘さんが犯人だと気付いたのはいつからですか」
「……婦警が声音を真似た時、もしかして、と」
「娘さんを犯人にしたくなくて、曖昧な供述をした訳ですね」
「はぁ、まぁ」
「……どうして、籍を入れてあげなかったんですか?」
「……若かったんです。子供の顔を見た途端、自由を奪われる気がして、恐ろしくなって逃げました。……しかし、どんな女とも上手くいかず、結果、信じられるのは金だけになっていた。……」
「……娘さんが十九の時にお母さんが亡くなられたそうです」
「……娘から聞いて、知ってます」
森崎は肩を落とした。
「正直なところ、娘さんとはどういう形にしたいんですか」
「……できれば、父親だと認めてほしい」
「……実は、杏子さんと結婚します」
「えっ!」
森崎は小さな目を見開くと、
「……あなたと?」
と呟きながらまじまじと山根の顔を見た。
「来年には子供も生まれます」
「えー?そうですか。……それは良かった」
孫の話が出た途端、森崎は顔を
「腹が目立つ前に式を挙げとかないと、後々どんな嫌味を言われるか分かりませんから。ああ見えても気が強いですからね。お父さんに似たんですかね?」
「いぇ、女房です」
森崎のその即答に、二人は顔を見合わせて笑った。
「近々、
「……しかし」
「杏子は嫌な顔をするかもしれませんが、本心は嬉しいはずです。子供ができれば、また変わりますよ」
「……ええ」
「ではこの辺で、今回の事件に終止符を打ちますか」
山根は二本目の煙草を吸った。
「……えっ?」
「杏子に容疑が及ばない画策をするんですよ」
「あ、はい」
森崎は山根の提案を快諾した。
翌日、署で待機していると、早速、森崎から電話がきた。
「何っ!金が戻った?」
山根は大袈裟な声を上げた。
「直ぐに伺います」
受話器を置くと、
「森崎氏、金が戻ったそうだ」
皆に教えてやった。
「えー?」
一同は驚きと落胆の入り交じった声を上げた。
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8
「井川、行くぞ」
「はいっ!」
井川がクリーニングから出したばかりのコートを手にした。
森崎の家に行くと、黒いビニール袋を、ソファの横に置いていた。
「どういうことですか」
山根が訊いた。
「電話で言った通りですよ。刑事さんに電話するちょっと前、玄関のブザーが鳴ったんで行ってみたら、誰も居なくて、金が入ったこの袋があったんですよ。ビックリしたのなんのって」
井川より後方に居た山根は、森崎の名演技に噴き出しそうになるのを堪えていた。
「で、メモか何かありましたか」
井川の手前、山根は真剣な顔をした。
「あん、あ、いぇ」
台本にはなかった山根の質問に森崎はあたふたしていた。それがまた
「で、金は全額戻ったんですか」
山根が真面目な顔に戻した。
「はい。一千二百万、ピッタリありました」
「うむ……」
山根は考える顔をすると、几帳面にメモを取っている井川を横目に、森崎と目を合わせてOKサインのジェスチャーをした。
「どう言うことですかね?」
ハンドルを握った井川が腑に落ちない顔を向けた。
「うむ……。分からんが、金が戻って、本人も被害届を取り下げたんだ。事件解決と言うことになるだろ。打ち上げて呑むか?」
「そうですね」
井川が白い歯を覗かせた。
居酒屋で呑んで帰った山根は、上機嫌の
「おーい。親父さん、金が戻ったそうだ」
ネクタイを外しながら杏子に教えてやった。
「えっ?」
杏子が訳の分からない顔を向けた。
「……自分の金を用意したんだろ。いいとこあるじゃないか。親父さんに感謝しろよ」
「フン、自分の不始末だもの、当然じゃない」
冷たく吐き捨てた。
「そんな冷たいこと言うなよ。可哀相に。……ちょっとおいで」
山根が手招きした。
「何よ?わっ、臭い」
杏子が鼻をつまんで臭いを手で払った。
「キムチ鍋食べてきた」
「わっ、酒臭い。お腹の子も臭いって言ってるわ。ね、
杏子は嫌な顔をして、寝室から出て行った。
「チェッ。あの頃の色気はどこに行ったので
山根は
――式は杏子の家で執り行われた。署長夫妻に仲人を頼むと、山根は井川を筆頭に数名の上司と同僚を招いた。杏子の方は、春代ら句会の会員を数名招いた。娘の晴れ舞台のために奮発したのか、森崎は真新しいスーツを着ていた。だが、それをひけらかすこともなく、壁際の座卓の隅で
「あれっ、森崎氏が居ますよ」
酒で顔を赤くした井川が余計なことに気付いた。杏子と森崎が親子だと言うことは伏せていた。正直に喋って、わざわざ余計な邪推をさせる必要もない。
「ああ。女房が主な会員を招いたからな。だから、ほら、春代女史も居るだろ?」
「……なるほど。どうりで知った顔があるわけだ」
井川は納得すると、署長の女房と語らう
「……綺麗ですね」
「……いつもああやって、お
山根が
皆が帰った後、森崎だけが残り、寂しそうに升酒を傾けていた。そんな森崎に、杏子は声の一つも掛けてやらなかった。森崎は
「……ご結婚、おめでとうございます。……お幸せに」
森崎は俯いたままで、頭を下げると、ゆっくりと背を向けた。
「……野菜をたくさん食べて。風邪予防になるから」
杏子が森崎の背中に声を掛けた。森崎は足を止めると、背を向たままでお辞儀をした。
「……寝る前に、牛乳を飲むといいわ。骨を丈夫にするから」
杏子の更なる言葉に、森崎は再びお辞儀をした。
「……子供が生まれたら、……連れて行くから」
杏子は涙を溜めて、精一杯の言葉を掛けた。森崎はゆっくりと頭を下げると、客間を出ていった。憂いに沈んだ横顔の杏子を、山根は優しく抱き寄せた
――金太郎の腹掛けを手土産にした森崎が杏子の家に訪れたのは、青葉の頃だった。
そっと手を添ふ
野菊かな
のちに山根が詠んだ句である。――
完
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