the abyss of despair (佐谷莢)
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プロローグ

とりあえずはオリジナルキャラクターの背景をば。


 

 

 

 ガルディオス家左の騎士たるナイマッハの一員として、主を護る(つわもの)となれ。

 有事の際は剣を抜き、その身を盾とし、主を守護せよ。

 

 物心ついた頃から言われ続け、否応もなく正しいと信じた言葉。

 来る日も来る日も血まみれになりながら、励み続けた修行時代。

 耐え続けた、否、それができたのは、自分と同じ境遇の少年がいたから。

 同じ日に生まれた幼馴染にありがとう、と告げれば、『俺もお前がいたから耐えられたんだ』と笑顔を向けられた。

『大好きだよ! あいしてる、ってやつ!』

 勢いで自分の思いを告げれば、彼は顔を真っ赤に染めて嬉しい、と呟いたのを、お互いの体を抱きしめ合い、拙いくちづけを交わしたことも、昨日のことのように覚えている。

 

 護るべき主人が新たにご誕生される。

 伝えられた朗報に、二人で顔を見合わせて事態を見守った。

 奥方のご出産。待望の世継ぎ──長男の誕生。

 彼と対面したのは、数日経ってからのことだった。

 

『お前たちが新たに御護りするのは、こちらの           様だ』

 

 幼い赤ん坊が、母親の腕の中ですやすやと眠っている。

 鮮やかな金髪の、可愛らしい赤ん坊だった。

 

『抱いて御覧なさい』

 

 奥方じきじきに言われては断ることもできず、嬰児を両の手に抱く。

 赤子が目を開いた。澄んだサファイアの瞳が彼女の顔を映す。

 母親の手から離れたにもかかわらず、きゃっきゃっとはしゃぐ幼い主を見て、隣で興味津々といった様子の彼にこっそり微笑みかけた。

 彼とともに生涯、この嬰児を護っていくのだろう。

 いつかは自分もこのように子を産み、ガルディオス家を永遠に守護してゆくのだろう。

 ──そう信じて、疑わなかった。

 あの惨劇が起こるまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──夢を見ていた。幼い頃の。

 何も知らず、何も気づかず、ただただ幸せではなかったけど、ただ前だけを見ていた日々。

 前だけを見ていれば、望まれた成長を遂げて、教え込まれた役目を果たす努力をしていれば、許された日々。

 もう二度とは戻れない、ガラクタさえ残らず、崩落の一途を辿った故郷の夢。

 壊した連中は、まだ生きている。死んだ奴もいるが、生きている奴もいる。

 今なら、殺せるのに。殺すだけなら、できるのに。

 

 殺したところで何も戻りはしない。やり返すことは虚しい。

 恨みを抱いた者がそのことを忘れ、幸せになることこそが、最大の復讐だと聖人(おはなばたけ)は能書きを垂れるのだろう。したり顔で、理性ある人とはこうあるべきだ、と語るのだろう。

 ──そんなものは幻想だ。それがわかっていて尚、復讐なんかしないほうが利口なのだろうと自分に言い聞かせる。

 心の奥底にある、小さな熾火。いつかこれに燃料が足されて、火柱となって、自身を呑み込んでいく日が来る。

 

 懐かしい夢を見たせいで感傷的になっている心に喝を入れるように、シーツを蹴って飛び起きた。

 




次回からゲーム本編が始まります。


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第一唱——それはそれは綺麗な歌

 

 

 

 ND2018、レムデーカン、レム、二十三の日。

 

 スィン・セシルは一通の書簡を携え、ファブレ公爵邸前まで来ていた。

 警備兵に用件を話し、屋敷の中へ足を踏み入れる。

 ここへ来るのは久々だった。十年ほど前までは彼女もここで兄であるガイと共に働いていたが、縁あってナタリア王女の傍仕えとなったときからあまりこの屋敷へは来ていない。

 兄に会うため遊びに行くには、少々近寄りがたい場所でもあったからだ。

 青い刀身が特徴的な長剣が飾られている柱を極力見ないように玄関を見渡す。

 探していたわけではないが、とりあえず人影を見つけた。

 ファブレ公爵家、執事ラムダス。

 

「スィンではないか、どうした?」

「こんにちは、ラムダスさん。ルーク様はどちらでしょうか」

 

 ナタリア王女から手渡せと命じられたものがある、とのことを伝えると、かのご子息は自室にいる、とのこと。

 礼を言い、廊下を通って中庭に出る。

 そこには、ローレライ教団神託の盾(オラクル)騎士団主席総長のヴァン・グランツと、ファブレ公爵邸使用人にして彼女の兄、ガイ・セシルの姿があった。

 少し離れた場所で、庭師のペールが作業をしている。

 見慣れた姿を見つけ、スィンはひとつに結われた金の髪を尻尾のように揺らしながら二人に近づいた。

 

「ガイ兄様! ヴァン謡将!」

「お、スィンじゃないか」

 

 お久しぶりでございます、と頭を下げ、ヴァンに対しても同様の挨拶をする。

 身内に対して丁寧すぎる挨拶に、彼らはそろって眉を下げた。

 それを口に出される前に、スィンはにっこりと微笑んでみせる。

 

「どんな悪巧みをたてていらっしゃったのです?」

「悪巧みっていうなよ、人聞きの悪い」

「それはさておき。どのような用事で来たのだ?」

 

 ヴァンの質問に、スィンは携えていた書簡をかざしてみせた。

 

「ナタリア様からルーク様へ、機密文書です」

「……ああ、恋文か」

 

 どうでしょうね、と首を傾げてみせるスィンを傍らに、ヴァンは再びガイに向き直った。

 

「そういうわけだ。しばらくはそちらに任せるしかない。公爵や国王、それにルークの──」

「ルーク様!」

 

 ペールの声で彼がこの場へ到着したことを知ったヴァンは口を閉ざした。

 気になる話の詳細は後で話してもらおうと考えつつ、スィンは長い橙髪が特徴的な少年の元へと歩む。

 

「ルーク様、ご無沙汰しております」

「お? スィンじゃねーか。どうかしたのか?」

「ナタリア様から預かってまいりました。お受け取りください」

 

 私的なものとは到底思えない立派な封蝋がされた書簡を恭しく差し出す。

 またかよ、とげんなりした表情でぞんざいに受け取ろうとしたルークだったが、思い直して手をひっこめた。

 

「あのさ、俺今からヴァン師匠(せんせい)と稽古があんだよ。部屋に置いといてくれ」

「承知いたしました」

 

 御前を失礼いたします、と会釈して中庭に面した離れ──ルークの自室へ向かう。

 元メイドだけあって、屋敷の構造は把握していた。

 サイドテーブルに書簡を置き、再び中庭へ出る。

 すると、ヴァンはルークに剣術を指導しており、ガイは片隅のベンチで見学していた。

 先に話を聞いておこうと、スィンはベンチに近寄る。

 隣には座らず、一定の距離を空けて佇んだ。傍目から見れば彼とともに見学している風体である。

 

「……何のお話をなさっていたのですか?」

「ヴァンが帰国するってよ」

 

 囁きに近い、絞った声量での会話だ。稽古に夢中、あるいは気をやっている二人に聞こえるものでもないが、用心に越したことはない。

 

「任せるということは、しばらくは戻ってこれないと?」

「そうだな。でなけりゃいちいち報告してこないだろうよ」

「そうですか……」

 

 心なしか沈んだような彼女の声音に、ガイはいたずらっぽく笑って見せた。

 

「寂しいか?」

「そんなことはありませんが、ガイ様の負担を考えると……」

 

 ♪ トゥエ レイ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ──

 

 透き通るような歌声を耳にして、スィンはとっさに耳を塞いでいた。

 思わず聞き惚れてしまうほど美しく、壮麗な歌声ではあったが、独特の旋律、使われている言語から、その効果は見知ったものであったから。

 ぐぐっ、とせりあがってくる眠気に耐えて警戒する。

 

「か、体が、動かない……」

 

 これはルークの声。

 

「こ、これは譜歌じゃ! お屋敷に第七音譜術士(セブンスフォニマー)が入り込んだのか!」

 

 己の睡魔に対抗するかのようにペールが叫んだ。

 きちんと聞かなかったおかげか、なんとか抵抗できたスィンが襲撃者の姿を探す。

 スィンは過去、この歌を聞いたことがあった。そのときは子守唄程度にうとうとする程度だったが、これは他人を強制的に熟睡させる威力を持っている。

 使い手が限られるこの譜歌、となれば襲撃者も予想できるものだった。

 しかしその目的は──

 

「──ようやく見つけたわ。裏切り者ヴァンデスデルカ!」

 

 どうやら彼らしい。たんっ、という音に振り返れば、一人の少女がこちらに──正確にはヴァンへ迫りゆく。

 その手には、譜術士(フォニマー)がよく使用するありふれた一振りの杖。

 見覚えはあるが、それを表に出すスィンではない。

 

「覚悟!」

 

 かといって傍観するわけにもいかず、駆け寄ってヴァンの手から落ちて転がった木刀を拾い上げる。鉄心を仕込んで真剣並みの重さに仕立ててあるらしく、重い。

 しかし、スィンはそれを構えると、ヴァンの前に飛び出して杖による一撃を受けた。

 細腕からは想像もできない重い打撃から、彼女が本気であるということを知る。

 

「邪魔しないでっ!」

「……そんなこと言われても……」

 

 ちら、とヴァンを見る。譜歌に抵抗し切れなかった様子でへたりこむ彼にいつもの覇気はない。

 とりあえず、とばかりにそのままの体勢で足払いをかけるも、彼女は倒れそうになりながらぐっ、と制動をかけて踏みとどまった。

 素人のできる動きではない。

 威嚇程度に振り回された杖を木刀で捌いて、表面上訝しげにスィンは尋ねた。

 

「どちらさまでしょう?」

「あなたには関係ない! そこをどいて!」

 

 どうも興奮しているらしく、全く聞く耳を持たない少女をどうやって説得したものか、それを考えた矢先。

 

「何、なんだよ……」

 

 搾り出すような声にちらりと声の主を見て、スィンはぎょっとした。

 ルークが立ち上がっている。驚いたことに、ヴァンよりも早く睡魔から脱却したらしい。木刀を潰れるほど握りしめ、その表情は怒りに歪んでいた。

 

「何なんだよっ、お前はあぁっ!」

 

 木刀を振り上げ、大上段から少女に打ちかかる。

 回避できないと踏んだのか、少女は反射的にそれを受け止めた。

 突き放せないのか、まるでそれが真剣であるかのようにそのまま耐える。

 

「くっ……」

 

 今が好機と、スィンは少女に接近した。当て身のひとつでもくらわせて、無力化できれば──

 

「……いかん! やめろ!」

 

 ヴァンの焦りを含んだ声に、いぶかしがり動きをとめる。それからスィンも気がついた。

 せめぎあう杖と木刀。その接点から、肌で感じられるほどの第七音素(セブンスフォニム)が溢れている。

 

「っ……!」

 

 まずい。

 きん、と接点から波紋が生じるのを視界に収めながら、とにかくこれをなくそうと駆け寄った。

 鍔迫り合うふたつの武器に思い切り木刀を打ち下ろす。強烈な打撃を伴い武器は地に転がる──と思いきや。

 瞬間、杖と木刀の間で光が膨れ上がり、爆発した。輝きは三人を包み込み、瞬く間に収縮する。

 出来上がった光の球は吸い込まれるように空へ疾り、三人の姿はあとかたもなく消えた。

 

「しまった……! 第七音素(セブンスフォニム)が反応したか!」

 

 ガイは呆然と空を見上げ、ヴァンはぎり、と歯噛みした。

 ファブレ公爵邸は、いまだに静寂を保ち続けている。

 

 

 

 

 



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第二唱——who are you?

 

 

 

 そよそよ、と爽やかな風が吹き抜けた。

 湿った土の匂い、瑞々しい草花の匂い、新鮮な水の匂い──

 目を開けると、漆黒の空には白い月が浮かび、月光がそばに咲いていた花を青白く照らしている。

 ……

 

「え、ええっ!」

 

 がばっ、と起き上がって目をこする。見回せば、全く知らない場所で寝転んでいた。

 かたわらには木刀が転がっている。ちかちかする視界を無理やり振り払って辺りを見回すと、ルークと少女が倒れていた。

 駆け寄って二人の脈を調べてみる。特に異常はない。

 とりあえず、少女のほうから起こすことにした。

 

「ティアー。メシュティアリカさーん。起きてー」

 

 細い肩を掴んでゆさゆさ揺すぶると、ほどなくしてティアは目を開けた。

 

「ここは……?」

「おはよう。悪いんだけど、ルーク様起こしといてくれないかな? ちょっと偵察してくるからさ」

 

 目をぱちくりさせている彼女をおいて、木刀を携える。しかしすぐに止められた。

 

「ま、待って! あなたどうして、私の名前……!」

「……その様子からして、人違いじゃないみたいだね」

「ごまかさないで頂戴。どうして私の名──本名まで知っているの?」

 

 杖を握りしめ、切っ先をスィンに向ける。取り付けられた小さな刃が、月光にきらりと反射した。

 

「んーまあ、わからなくて当然か」

「何の話?」

「ヴァンと──ヴァンデスデルカと、親しくしてる。それじゃわからないかな」

 

 かの人の名を、本名を出すと。彼女は息を呑んで沈黙した。

 

「じゃ、ルーク様よろしく」

 

 二人を残して川へ丘を降りると、さらさらと水の流れる音がした。

 あちらの草むらからは幾多の生命の息吹が感じられ、こちらの草むらにはがさがさと、何かが潜んでいる。

 いきなり住処を荒らされて飛びかかってくる魔物を排除しながら進んでいくと、この渓谷の終わりが見えた。

 しかしここがどこなのかは宵闇も手伝ってさっぱりわからず、二人を置いてこれ以上先に行くわけにもいかないため、引き返す。

 このあたりは第三音素(サードフォニム)の影響が強いのか、風がひっきりなしに吹いていた。

 傍仕えの制服──通常のメイド服よりちょっぴり動きやすいよう加工されているメイド服は、そよ風でも少し肌寒い。

 木刀以外の装備を確認しながら丘に登ると、男女が言い争う声が聞こえてきた。

 

「……うかつだったわ。だから王家によって匿われていたのね」

「……るせーっつの! ちっと黙れ! こっちはお前が何を言ってるのかさっぱりだ!」

 

 しーん。ざくざくとスィンの歩く足音だけが響いた。

 

「ルーク様。女の子に向かって黙れなんて、紳士の言うことじゃないですよー」

「スィン……?」

 

 おはようございます、と頭を下げたところで、スィンはティアに向き直った。

 

「現位置の詳細はちょっとわからないけど、街道へ繋がってそうなところは見つけた。行く?」

「……もちろん。まずはここを出ましょう」

 

 すたすたと歩き出すティアに続き、丘を降りかけると、ルークが追いついてきた。

 

「スィンも、あれに巻き込まれたのか?」

「そうですよ。着地地点が海のど真ん中とかじゃなくて幸いでした」

「海って、さっき見たあれだよな……って、そうじゃなくて、なんでそんなにノホホンとしてられんだよ!」

 

 記憶喪失の彼にとって、初めて屋敷の中と言う閉鎖された世界から外へ出たのである。

 それだけでも混乱して、ティアの丁寧でもなんでもない態度にも困惑しているはずだ。

 同じ状況に置かれているスィンに同じような感情を抱き、ティアに対して文句を言ってほしい、と無意識に願ってしまっているフシがある。

 

「別にのほほんとはしてません。いきなり知らない場所に放り出されて、混乱はしました」

「だよなあ。なんでこんなことに……」

「ですが、起こってしまったことをあれこれ言っても時間は帰ってきません。文句は、とりあえず状況が落ち着いたらにしませんか?」

 

 幼子をなだめるように微笑んでみせる。

 その笑顔に押されたようにルークが黙ると、参りましょう、とスィンはルークを牽いてティアに追いついた。

 

「呼び捨て失礼。ティア、この先魔物が沸いてたから、交戦準備よろしく」

「わかったわ。ところであなた──」

「スィンだよ。スィン・セシル」

「スィンは、戦うことができる?」

「戦力に数えてくれて結構だよ。ただ、ルーク様を護らなきゃならないから……」

「お、おい。ちょっと待て!」

 

 なんですか? と振り返れば、ルークがつかみかからんばかりに迫ってきた。

 

「お前、剣なんて使えるのかよ!?」

「──それなりに波乱万丈の人生を送ってきていますので」

「理由になってねーし。ってか、女に護られるなんて、かっこわりぃことできるか!」

「カッコつけてんじゃねぇよガキ」

 

 思わず本音が漏れて、文字通り口走ったに値する呟きが風にさらわれた。

 幸いにもルークの耳には届いていない。

 

「な、なんだって?」

「あなたがお命を落とされたら、第三王位継承者誘拐殺害犯として僕もティアも物理的に首を落とされます。ここはご自愛なさってください」

 

 自分の身だけを護ってくださればいい、と説得するスィンに、ルークはますます不満を募らせた。

 

「お前は知らねーかもしれねえけど、俺はだな! ヴァン師匠(せんせい)に鍛えられてんだから、護られなくたって平気なんだよ!」

「それでほいほい戦闘に参加されて命を落とされたら大変です。主に我々が」

「うるせぇ! とにかく俺は戦うからな、護るなんて余計なことはすんじゃねえぞ!」

 

 肩を怒らせずんずん進んでいくルークを見送り、スィンは小さく息をはいた。

 

「あなたも苦労してるのね」

「……まあ、ね。今僕が自分のメイドじゃないって、忘れてるんじゃないかな……」

 

 ふー、と肩を落とし、ティアと並んでルークを追う。靴に泥でもついたのか、嫌そうに地面を見ている彼に追いついたところで、すぐそばの草むらが鳴った。

 風もないのに、一部分だけ、不自然に。

 

「……魔物っ」

 

 ティアはすぐ気配に気づいたのか、油断なくナイフを構える。

 魔物という単語を聞いてうろたえるルークの前に走りこみ、彼をガードするようにスィンは立った。

 

「おい、余計なこと……!」

「来た!」

 

 草むらを掻き分けるように三体の魔物が飛び出してくる。

 小さな植物の魔物、大型の犀に似た魔物、巨大な花の蕾に似た魔物。

 

「うわぁっ!」

「んじゃ、下がってください!」

 

 初めて見る魔物に心底驚いているルークを軽く押しやり、蕾の魔物に木刀をつきだした。

 これが真剣なら簡単に引き裂くほど、重さも早さも十分な一撃ではあったが──

 鈍い音を立てて、蕾の魔物は背後にいた犀の魔物にぶつかりつき飛ばされた。

 

「血桜があれば……」

「「血桜?」」

「僕の愛刀の銘ですよ」

 

 よく切れるんだこれが、と軽口を叩きながら、木刀を足元に転がした。

 たん、と地を蹴り、懐から漆黒の短刀を抜き、すれ違い様に腕を一閃する。

 次の瞬間。

 二体の魔物は、同時に輝きを伴った粒子となり、消えた。

 

「な……!」

「音素に還っただけですよ」

 

 呟くように告げ、ティアに威嚇していた小さな植物に擬態している魔物を斬りつける。

 鎌鼬でも発生したかのように細切れとなったそれは、やはり光の粒子となり、消えた。

 ひゅっ、と懐刀を振って魔物の体液を払い、鞘に収める。呆然と戦闘を眺めていたルークに、スィンは頭を下げた。

 

「差し出がましいことをしました。申し訳ありません」

「……わ、わかってんならやるなよな!」

 

 予想外のルークの言葉に、スィンは首を傾げて見せた。

 

「俺を護れ、とは言わないんですね」

「当たり前だろ! そりゃ……ちっとビビッたけど、もう遅れはとらねえ。だから俺の前に立つな。邪魔だからな!」

 

 かかってきやがれ! と言わんばかりに木刀を抜き、びゅんびゅん振り回している元主人を、なんとも複雑な表情で見ているスィンに、ティアはぽん、と肩を叩いた。

 

「ああ言っているのだし、好きにさせてみましょう? それで思い知るか、調子に乗るかを見極めて彼の今後を決めればいいわ」

「……そだね。そうしよっか」

 

 調子に乗られちゃ困るけど、と冗談めいて呟き、スィンは道案内をするべく先頭に立った。

 途中、ルークの初陣を飾る闘いを含め五回ほど戦闘を重ねたが、結局のところ彼は思い知りも、調子に乗りもしなかった。

 

「思ったよりも楽じゃねーな、実戦ってやつは」

「相手は生き物ですからね。でも人間よりはましですよ」

 

 人間、と聞いて不快そうに顔を歪めるルークに気づかないふりをしながら、スィンは見つけた出口へ歩んでいた。

 

「あーあ。にしても、初めて外歩けるってのに、こんなところってのがついてねーぜ。魔物はいるし、暗くて周りはよく見えねーし。やなとこだぜ、ここは」

「街から出れば魔物はどこにでも現れるわ。ここが特別多いというわけではないと思う。暗いのは夜だから、仕方ないわね」

「そりゃそうだけどよー……」

「魔物もいて、今は暗くて不気味な感じだけど、それでもここは美しいところなんじゃないかしら。これほどの自然は見たことがないもの」

「ふーん……そんなもんかね」

 

 ──これほどの自然。

 間違いではないが、どこか世間知らずの響きがあった。バチカルの屋敷に軟禁されていたルークではあるまいし、普通に生きていれば自然を目にする機会などそれこそいくらでもある。そして自然は景観が美しくあると同時に、人の手の及ばぬ領域にして、脅威でもあった。

 それを美しい、と言い切ってしまうあたり、彼女もまた特殊な生まれである。

 ──彼と彼女の事情を知るスィンが、今ここで何を思おうが意味のないことだったが。

 

「おいスィン。そうなのか?」

「……今ちょうど考えていたのですが、ここひょっとしたらタタル渓谷あたりかもしれませんね」

「「タタル渓谷?」」

 

 口をそろえて聞くその様から、ルークはもちろんのことティアも知らないと見た。

 

「群生していたセレニアの花、第三音素(サードフォニム)の気配が強く感じられるあたり、そのあたりと考えてよろしいかと」

「ふーん。じゃあそうだったとして、やっぱり海岸線を目指すのか?」

「そんなことしなくても、近くに街道が……」

 

 言いかけて、スィンは無言で足を止めた。二人に目配せして、木刀と懐刀を両の手に構える。

 虫の音が──完全に消えていた。

 がさ──

 

「鋭!」

 

 木陰から飛び出してきた小さな影を木刀で叩き伏せ、懐刀でまっぷたつに裂く。

 姿を確認する前にそれは消滅したが、正体がわからないということはなかった。

 

「うわっ、なんじゃこりゃ!?」

「囲まれたわ……」

 

 大きさとしては植物に擬態していた魔物より少し大きい程度。それが空中をふよふよと踊り、数え切れないほどの集団で三人を囲んでいたからだ。

 

「まずい……!」

「何がだよ、つーかなんだこれ?」

「狂った風精です! こいつら、タービュランスの連打を──!」

 

 詠唱を始めたらしく、狂った風精はいっせいに譜陣を展開し始めた。斬りつけて詠唱を中断させるも、何体かの術は完成する。

 

「っ、ええい!」

 

 思い切り地を蹴り、確認もせず後方へ跳ぶ。結果木刀を振り回していたルークの背に激突したが、それによってルークは強烈な風の渦に巻き込まれるのを避けた。発動した譜術を始めて目の当たりにしたルークが言葉を失っている。

 その間に、スィンは戦っていたティアの腕を掴み引き寄せた。ティアの死角で術が発動し、間一髪で彼女は難を逃れる。

 

「あ……ありがとう」

「どういたしまして。それより──」

「おい、どーすんだよ! あんなもんに巻き込まれたら死んじまう!」

 

 ルークに軽く頷いて、逃げられないかと辺りを睥睨する。しかし。

 

「逃げたら逃げたで狙い撃ちされそうですね……」

「その前に逃げ場がないわ!」

 

 ティアの言葉は正しい。囲まれていることもあるし、囲みを強引に突破したところで、こんな狭い渓谷のどこに逃げろというのか。

 術を完成させるものかと手当たり次第魔物に殴りかかっているルークを見つつ、スィンはぽつりと呟いた。

 

「一掃させる術は一応あるけど、でも……」

「奥の手があるならさっさと使え、アホ!」

「でも問題が……」

「つべこべ言うな、早くしろ!」

「……わかりました」

 

 責任は取ってください、と一声入れてから、木刀を逆手に持ち切っ先を地に向ける。

 ぼんやりと、その足元に譜陣が展開した。

 

「……招くは楽園を彩りし栄光、我が敵を葬り去れ……」

 

 発動の瞬間。スィンは木刀を自分の足元へ突き刺した。

 

「アースガルズ・レイ!」

 

 超振動発生時の再現がごとく。

 世界は輝きに満ち溢れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰かが咳き込む音を聞いて、ルークはようやく両目を開けた。

 目を閉ざしても刺すようにまぶしい光が、まだ網膜に焼きついている。

 周囲を見れば、狂風精の姿は一匹としてなく、ティアもまた驚いたように辺りを見回している。

 

「お前、こういうもんが使えるなら出し惜しみす──!?」

 

 元使用人に文句を言ってやろうと振り返って。ルークは目を見開いた。

 突き立った木刀はそのまま、地べたに膝をつき咳き込んでいるその姿は、スィン。

 

「お、おい。どうしたんだよ!?」

 

 駆け寄って抱き起こす。触れてみて初めてわかる細い体、ひどく青白くなっている顔色に動揺するものの、ティアのかけた治癒術で咳は止まり、瞳がうっすらと開かれた。

 緋と藍という、珍しい色違いの瞳がルークとティアを映す。

 

「……やっぱり治ってないか」

 

 その口調に、驚きはない。

 

「どういうことなんだよ。いきなりぶっ倒れるなんて……」

「先天的な身体の欠陥です。僕、譜術を使うと体力が空っぽになるんですよ」

 

 ティアに向けてあとお願い、と言い残し、スィンは再び目を閉ざした。

 ほどなくして小さな寝息が聞こえてくる。

 

「って、おいこら! 悠長に寝てんじゃ……」

「やめなさい。おそらく、体力を回復させるために睡眠が必要なのよ」

 

 死んだように眠っているスィンを見て、ティアは腕を差し出した。

 

「なんだよ」

「私が運んであげるわ。あなた、彼女を背負って戦うなんてできないでしょう?」

「ば、馬鹿にすんな。こんなヤツ背負うことくらいどーってことねえよ!」

 

 ルークの言葉に嘘はなかった。抱えていたスィンの体を持ち上げて背負うが、予想していたような重みはない。いざとなれば落として戦えばいい。そうなれば、スィンも痛みで目覚めるかもしれない。

 ……というルークの目論見はむなしく、以降は魔物も出現しなかった。

 

「どうやら、ここが渓谷の出口みたいね」

「やっとかよ。もう土臭え場所はうんざりだ」

 

 スィンの推測が正しければ近くに街道があるらしい。それを辿っていけば帰れる。

 嬉々として足を踏み出したルークを、ティアが腕を出して牽制した。

 

「なん──」

「しっ。誰か来るわ」

 

 彼女の言葉に、ルークは目を凝らして闇を睨んだ。片手は木刀の柄のあたりをさまよわせている。耳をすませば、川音にまぎれてかすかな足音──

 と、闇の中から人の姿が現れて、ルークたちに気づくとうわっ、と声を上げた。

 

「あ、あんたら、漆黒の翼か!」

「漆黒の翼?」

 

 桶を持って怯えている男を胡散臭そうに見つめつつ、ルークは首をひねった。

 スィンならなにか知っているかもしれないが、あいにく彼女は夢の中だ。

 同じことを考えたのか、一瞬スィンをちらりと見たティアは杖を持つ手を引いて男に話しかけた。

 

「誰と間違えているのかわからないけど、違うわ」

「違う?」

 

 そういえば、と男は手を打った。

 

「そういや、漆黒の翼は男女三人組の盗賊団だったな」

「盗賊!?」

 

 カチンときた様子で、ルークは冗談じゃねえとばかりに噛み付いた。

 

「俺をケチな盗賊風情と間違えんじゃねえ! 見りゃわかんだろうが」

「そうね。その漆黒の翼って人たちが怒るかも」

「あのなっ!」

 

 文句を言おうにも、ティアは完全に無視して男に向き直っている。

 

「私たちは道に迷ってここへ来ました。あなたは?」

「あ、ああ。俺は辻馬車の御者だよ」

 

 まだ疑っているのか、ルークが背負っているスィンにちらちら視線を向けながら、男は抱えていた桶を下ろした。

 

「この近くで馬車の車輪がいかれちまってね。修理は済んだんだが、水瓶が倒れちまって。飲み水を汲みにきたんだ」

「馬車か!」

 

 ルークはぱちん、と指を鳴らした。

 

「助かった!」

「馬車は首都へも行きますか?」

 

 ティアの問いに、男は頷いた。

 

「ああ、終点が首都だよ」

 

 なんという偶然! スィンは街道があると言っていたし、街道に出れば辻馬車があるとも言っていた。

 きっと彼女はこれに乗れと言いたかったに違いない。

 

「乗せてもらおうぜ! もう歩くのはうんざりだ」

「そうね。私たち土地勘がないし……お願いできますか?」

「首都までとなると一人12000ガルドだが、持ち合わせはあるかい?」

 

 12000ガルド。法外ではないが誰が聞いても高いと思わせる値段に、ティアは思わず呟いた。

 

「高い……」

 

 しかし、王族に連なる貴族であるルークにとってそれははした金である。

 

「そうかぁ? 安いじゃん。首都についたら親父が払うよ」

「そうはいかないよ。前払いじゃないとね」

 

 このご時世、道中で何が起こるかわからない中馬車を走らせるには相当の度胸がいる。

 だから例外なく前払いなのだろう。

 御者から話を聞き、しばらく考えていたティアは大きく息をつくと、首からペンダントを外して男に手渡した。

 

「……これを」

 

 手渡されたペンダントを見、御者は軽く頷いた。

 

「こいつは大した宝石みたいだな。よし、水を汲んだらすぐ出発するから、少し待っててくれ」

 

 男はそう言うとペンダントをポケットにしまい、桶を持って川べりまで歩いていった。

 なんにせよ、助かった。

 

「お前、いいもん持ってんなー。これでもう、靴を汚さなくてすむわ」

 

 一瞬、ルークはティアに冷たく睨まれたような気がした。しかしそれは気のせいで終わってしまうほど短く、彼女は背を向けて馬車が停まっているであろう場所へさっさと歩み去る。

 

「……んだよ、変な奴」

 

 かすかな寝息を感じながら、ルークは小さく舌を打った。

 

 

 

 

 

 

 




まさかのボク娘。
 早くも謎発生。なんでティアの本名を? 実は猫かぶってる?? 
 波乱万丈の人生ってなんだよ!? (某公爵家子息)
 兄さんとどんな関係なの!? (兄貴暗殺未遂音律士)
 そしてオリジナル大炸裂。あんな術はきっとない(爆


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第三唱——遠足は続く

 

 

 

 地面ががたごと揺れている。

 狭い寝台から落ちないように、スィンはゆっくりと起き上がった。

 

「……馬車?」

「よかった、目が覚めたのね」

 

 ぱっと横を見れば、向かいの座席にティアが座っていた。その隣で、背もたれによりかかったルークが盛大ないびきをかいている。

 

「おはよ……ふあ」

 

 大きなあくびをして、スィンは軽く目をこすった。

 そのしぐさで、ティアは思わずその目元を注視してしまう。

 邂逅は状況で、昨晩は周囲が暗かったために気にかからなかった。

 しかしよくよく見ればその双眸は緋色と藍色という非常に珍しい組み合わせである。

 虹彩異色症(色違い)。そう呼ばれる瞳が、彼女を写した。

 

「!」

「あの後、どうなったの?」

 

 ばっちり目が合ったことから、ティアの視線に気づいていないわけでもないだろうに。

 スィンは何事もなかったかのように座席の下に転がっていた家政婦帽(ホワイトブリム)を取った。

 かぶるかと思われたが、彼女はそれを丁寧に畳んでポケットの中に押し込んでいる

 

「渓谷を出て、居合わせた馬車に乗ったの。終点が首都だから……」

「え?」

 

 終点が、首都。

 ……今時砂漠越えする辻馬車なんてあったっけ? 

 その単語を聞いて、スィンはいきなり窓を開けた。あたり一面に草原が広がっている。

 

「ま、まさか……」

「どうしたの?」

 

 不思議そうに聞いてくるティアに身を寄せ、出発したのはいつなのかを聞く。

 

「渓谷を出てからすぐだから、早朝……かしら」

「……あっちゃあー」

 

 脱力して、スィンは頭を抱えた。しかし、すぐに気を取り直して声を張り上げる。

 

「すみません! 終点の首都って、グランコクマですか!?」

「ああ、そうだよ。今ローテルロー橋を渡ったから、エンゲーブを通って……」

 

 突如、突き上げられるような衝撃を伴って馬車が揺れた。

 振動で目を覚ましたルークが飛び上がるようにして起き、低い天井に頭をぶつけて呻いている。

 

「な、なんだ?」

「おはようございます、ルーク様」

「ようやくお目覚めのようね」

 

 癖に近い反射的な挨拶とどことなく冷たいティアの声に、彼は自分の状況を思い出したらしい。

 

「なんだってんだよ、まったく……」

 

 ぶつぶつ呟きながら、開いている窓から外を見る。

 すぐに呟きは消え、彼は窓にしがみつくようにしてそれを見つめていた。

 

「どうかされましたか?」

「お、おい! あの馬車襲われてっぞ!」

「軍が盗賊を追ってるんだ!」

 

 御者は砲撃音に負けないよう叫んだ。

 

「ほら! あんたたちと勘違いした、漆黒の翼だよ!」

「漆黒の翼ぁ!?」

 

 天井の窓を開けて、スィンは外を見た。

 一台の馬車が超巨大な軍用艦に追われている。

 

「知ってるのか?」

 

 下でルークが問いかけていることに気づき、スィンはすぐさま天井の窓を閉めた。

 

「はい。そうですか、お二方、あんな連中と間違、間違われ……」

 

 以前見かけた彼らの姿を思い出し、そして二人をまじまじと見て。彼女はぷっと吹き出した。

 

「おい! 何笑ってんだよ!」

「な、なんでもありません。申し訳ありません、すいません……」

 

 格好だの特長だの、ピンポイントで似通っている面を見つけてしまい、スィンはこらえきれずにくつくつと笑い出した。

 

「似ているところでもあったのかしら」

「そんなところー」

 

 気持ちを切り替えるために一息入れる。落ち着いたところで、ルークはまじまじとスィンを見つめた。

 

「……そういやお前ってさ」

「なんですか?」

「体型のわりに──」

 

 直後、轟音が鳴り響いた。再びルークが窓に張り付き、スィンが天井の窓を開ける。

 そこでは、超巨大な軍用艦が停止し、大規模な譜術障壁を張っている最中だった。

 更に向こうには長大な橋が、爆発を伴ってがらがらと崩れ落ちていく。

 

「しまった……」

 

 小さな小さな声で呟き、スィンはもう一度天井の窓を閉ざした。

 歓声を上げて迫力満点の光景に心を奪われているルークを呆れながら見ているティアに話しかける。

 

「……ちょっと、まずいことになった」

「さっきも言っていたわね、どういうことなの?」

「後で詳細を話してあげる。まずはこの馬車降りないと──」

 

 そこでティアは窓に張り付いているルークの腰をつかみ、座席に座らせた。

 彼にも話を聞かせるためだろう。ルークは不満そうに彼女を睨んでいるが、かまわずスィンは彼に話しかけた。

 

「ルーク様、あの……」

「驚いた!」

 

 囁きは、興奮したような御者の大声でかき消された。

 

「見たかい!? ありゃあマルクト軍の最新型陸上走行艦タルタロスだよ! おれも前に一度遠くから拝ませてもらったことがあったが、こんなそばで見ることができるなんて思ってもいなかったよ!」

「マ、マルクト軍だってぇ!?」

 

 反射的にルークは叫んでいた。彼にとってマルクトは記憶を奪った敵なのだから、当たり前である。

 

「どうしてマルクト軍がこんなところうろついてんだよ!?」

「そりゃあ、ここんところキムラスカの奴らが戦争を仕掛けてくるって噂が絶えないんで、ここらは警戒が厳重になってるからな」

 

 驚きで絶句しているティア、そしてまた何か口走りそうなルークに、スィンは「少し黙っててもらえますか?」と囁いた。

 

「すみません! なんか勘違いして乗ってしまったみたいです」

「あ!? あんたら、キムラスカへ行くところだったのかい!?」

 

 御者の口調は不穏なものになってきている。なぜ敵地キムラスカへ行くのか、もしや──と疑っている節があった。

 

「はい。マルクトの者ではあるのですが、所用でキムラスカのバチカルへ行くことになってて……」

「それじゃあ反対だったなあ」

 

 さらりと紛れ込ませた嘘が効いたのか、御者の口調は元に戻った。

 

「キムラスカへ行くなら、ローテルロー橋を渡らずに街道を南に下っていけばよかったんだ。もっとも、橋が壊れちゃあ戻るに戻れんが」

 

 何か言いたそうにしているルークを押さえ、御者の次の言葉を待つ。

 

「俺は東のエンゲーブを経由してグランコクマまで行くが、あんたらはどうする?」

 

 ちらりとティアを見た。暗に自分が決めていい? と聞けば、こくりと頷き返される。

 

「流石に遠くなるから、エンゲーブまでお願いします。それとも、ここで降ろしてもらいます?」

「エンゲーブまで乗せてくれ。歩くのたりぃ」

「わかった。エンゲーブまでだな」

 

 ぴしり、と御者が手綱を操る音が聞こえ、馬車はみるみる速度を上げていった。

 すぐにティアが席を立ち、窓を閉める。転がる車輪の音が遠くなった。

 

「……困ったわね」

 

 誰ともなく呟いたティアに、ルークは不遜な態度でふん、と鼻を鳴らした。

 

「まったくだ! なんて面倒なことに……!」

「まーまー。来ちゃったものは仕方ありませんって」

「だからなんでそんなのほほんとしてられんだよっ!」

 

 ほぼ八つ当たり状態で怒鳴りつけるルークをなんとかなだめ、ようやく座席に座らせる。

 その向かいに座って頭の中に地図を思い浮かべながら帰る算段を立てていると、やがて馬車はゆっくりと停止した。

 

 

 

 

 

 

 




称号:漆黒の翼? (ルクティア)
 腹出しに、ボイン美女。漆黒の翼に間違えられてもしょうがない? 
 そんなあなたたちに贈る称号(要らねーっつーの!)


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第四唱——いざ、濡れ衣晴らしへと

 

 

 

 

 

「ここがエンゲーブだ。キムラスカへ向かうなら、ここから南にあるカイツールの検問所へ向かうといい。道中気をつけてな」

「待った。お代は?」

 

 そのまま食料の補充に向かおうとする御者の男を呼び止める。

 彼は、そっちのお嬢さんからこれを代金代わりに受け取っていると告げた。ティアも、軽くだが頷いている。

 しかし取り出されたペンダントを見て、スィンは思わず声を張り上げた。

 

「ぼったくり!」

「あんたら、首都まで行くと行っただろう。一人12000ガルドなんだから……」

「そりゃ首都まで無事に着いたらそのお値段で納得だ。でもここはエンゲーブ。三人で、あの場所からここまでの値段は?」

「お、おい。スィン……」

「値段は!?」

 

 いつにないスィンの迫力に、御者はおろかルークさえもがたじろいでいる。

 一歩前へ踏み出したスィンに押されるようにして返答された値段は、やはり大幅に減額されたものだった。

 それを聞きつけて、スィンはポケットに入っていた家政婦帽(ホワイトブリム)を取り出している。

 ひっくりかえし、裏地を破って取り出されたのは折り目のついたガルド札数枚だった。

 

「足りない?」

「……いいや。しかし、ちょっと惜しいなあ……」

 

 御者は渋々、といった体を隠さずしてスィンにペンダントを返還している。

 それを受け取り、世話になったと頭を下げ。御者を見送ったスィンはことの成り行きを見守っていたティアに向き直った。

 そのままペンダントを突きつける。

 装飾こそ控えめだが、三カラットという大粒スターサファイアのペンダントだ。売り場所を間違えなければ、十万ガルドはくだらないだろう。

 それ以上に、これは彼女が所持してしかるべきものである。ヴァンとの縁からそれを知っていたスィンであったが、当然それを表に出すわけにはいかない。

 

「──はい。どうぞ」

「あ、ありがとう……」

 

 不機嫌の形へ歪む表情を意図的に矯正して、小さく息をつく。

 ティアはペンダントを手にしたままいぶかしげにしており、スィンに無視された時点でやりとりに興味をなくしたらしいルークは物珍しげに周囲を見回していた。

 ──少し、頭を冷やそう。

 

「真に申し訳ありませんが、少し別行動を取らせていただきます」

「へ? なんだよ、急に」

「どうしたの?」

「懐が心もとなくなりました。換金できるものを現金に換えてきますね」

 

 御前を失礼いたします、とお辞儀をすると、それをティアにいさめられた。

 

「スィン。これからはそれ、やめたほうがいいわ」

「大丈夫。設定考えてあるから」

 

 じゃーねー、と手を振って、周囲の人間の視線から逃げるようにその場を後にする。

 食料品中心の露天が立ち並ぶ一画を素通りし、服飾や嗜好品を扱う一画を探した。

 ──マルクト帝国真っ只中で、キムラスカの王族に従事するメイドの制服を知っている者がいるわけないと思うが。一応念のためと、外套を買って羽織っておく。

 これから必要だと思われる細々としたものを買い付け、ついでに制服の隠しに仕込んでおいた宝飾類を換金し、備えあれば嬉しいと間違った慣用句を実感して。

 スィンが二人を探して歩いていると、入り口近くにあった家がやけに騒がしい。

 ひょい、と中を覗いて見れば、夕日色の長髪と、薄い栗色の長髪が垣間見えた。

 

(なんか厄介ごとかな……)

 

 なんとなく想像してはいた。

 初めて市場などを見るルークが、商品を勝手に取って食べてしまうとか、買い物の仕組みを知らずに商品を持ち逃げしてしまったとか、そんなトラブルを引き起こすのではないかと危惧はしていたのだが。

 開いている扉から静かに入っていき、ティアが軍人と話している間、それを見ていたルークの肩を叩く。

 

「うおっ!? って、なんだ。お前か」

「はい。──で、何がどうなっているんです?」

 

 そのとき。ティアと話していた青い軍服に眼鏡をかけた軍人がこちらを見た。

 血のように赤い緋色の双眼が印象的な、青年とも壮年とも取れない風貌である。

 

「ではあなたも──そちらのお嬢さんも、漆黒の翼だと疑われている彼の仲間ですか?」

 

 冷やしたはずの頭が、煮えていく。

 その感覚に促され、先ほど購入した片刃の剣を握りそうになりがなら。スィンは無理やり目の前の軍人から視線を外した。

 

「……ははあ。なんかやらかして、連中じゃないかって疑われてるんですね」

 

 そうルークに確認を取っている間も、ティアは軍人との質疑応答をこなしている。

 

「私たちは漆黒の翼ではありません。本物の漆黒の翼は、マルクト軍がローテルロー橋の向こうへ追い詰めていたはずですが」

「それで橋が壊されてたよね」

 

 疑いを晴らすため、スィンもわざとらしくティアに話しかけた。

 

「ああ、なるほど。さきほどの辻馬車に、あなた方も乗られていたのですね」

 

 その言葉にティアが頷く。

 

「大佐、どういうことです?」

 

 この家の主人らしき恰幅のいい婦人が、話が見えないと軍人──大佐に話しかけた。

 

「いえ、実はですね。ティアさんの仰るとおり、漆黒の翼らしき盗賊はケセドニア方面へ逃亡しました。ローテルロー橋を破壊して」

 

 事実に沿った証言に、人々はどよめいた。

 

「だから、彼らは漆黒の翼ではないと思いますよ。それは私が保証します」

「ほらみろ!」

 

 ルークが吼える。しかし、それで引き下がる人々ではなかった。

 

「だけどそれは!」

 

 村人の一人が反論する。

 

「こいつらが漆黒の翼でないってだけだ! 食料泥棒じゃないという証明にはならねえ!」

「そうだそうだ!」

 

 なんだと! とすごんでいるルークを見ながら、スィンはティアに向き直った。

 

「……食料庫で昼寝でもしてたとか?」

「……もっとひどいわ。いきなり店頭に並べてあった林檎を齧ったのよ。すぐお金を払って事なきを得たのだけれど……」

 

 宿屋前で無神経な発言を連発し、村人とのいさかいを経て食料泥棒に仕立てられてしまったという。

 ださー、と思わず呟いた直後、涼やかな少年の声が響いた。

 

「いえ、彼の仕業ではないと思いますよ」

 

 人々が道を空けた先にいたのは、少女に見紛う可憐な面立ちの少年だった。濃い翠の髪に同色の澄んだ瞳、白い法衣をまとって首から音叉を模したペンダントを下げている。

 

「イオン様」

 

 大佐が彼の名を呼んだ途端、ティアの表情が驚愕に彩られた。

 瞬きもしないで、少年を見つめている。

 

「少し気になったので食料庫を調べさせていただきました。部屋の隅にこんなものが落ちていましたよ」

 

 少年は柔らかな微笑を浮かべて、手のひらを差し出した。もこもことした原色の何かが華奢な手のひらに鎮座している。

 

「こいつは……聖獣チーグルの毛?」

 

 婦人の問いに、イオンはしっかりと頷いた。

 

「ええ。考えにくいことですが、チーグルが食料庫を荒らしたのでしょう

「ほらみろ! だから違うって言ったじゃねーか!」

 

 勝ち誇ったようにして、ルークは村人たちに不平をぶつけた。

 

「でも、お金を払う前に林檎を食べたのは事実よ。疑われるような行動をとったことについては反省するべきだわ」

 

 言い訳と屁理屈を交わす二人を視界に入れながら、スィンは興味深そうに二人を見ている大佐に目をやった。

 キムラスカ王家に連なる赤い髪と緑の眼を知っていて確認しているようにも見える。ただ二人の言い争いが面白いから見ているようにも見える。

 どちらにせよ、好意的な視線とは言いがたかった。

 視線を感じたのか、大佐がスィンの方を見やる。慌てて視線を明後日の方向へ向けるが、気づいているだろう。

 婦人が場を和ませるようにルークたちの仲裁をしている間、話しかけられた。

 

「失礼。私はマルクト帝国軍第三師団所属、ジェイド・カーティス大佐です。あなたは?」

 

 そんなことは知っているから、話しかけてくんな近寄んな。

 内心でそう毒づいて、スィンは極めて淡々と会話に応じた。

 

「……スィン・セシル。訳あって二人、というか、そっちの少年の護衛をしている者です」

 

 連れがお騒がせしてすみません、と頭を垂れると、出て行く二人に便乗して早々に退出する。

 扉を閉めてジェイドの視線を絶つと、ティアの呟きが聞こえた。

 

「……導師イオンがなぜここに……」

「導師イオン?」

 

 どこかで聞いたような、と首を傾げるルークの問いに、スィンが答えた。

 

「ローレライ教団の最高指導者さんですよ」

「……ん? でも、そいつは行方不明だって聞いてるぞ。あいつを探しに、ヴァン師匠(せんせい)、帰っちまうって……」

 

 ヴァンの帰国理由をはじめて知ったスィンは、なるほど、と心の中で呟いた。

 しかしティアは不思議そうな顔をしている。

 

「そうなの? 初耳だわ……でもそういうことなのかしら? 誘拐されている風には見えないし」

「俺、あいつに訊いてくる」

 

 きびすをかえして出てきたばかりの家へ入っていこうとするルークを、ティアとスィンが同時に引きとめた。

 

「やめなさい。大切な話をしているみたいだから、明日にでも出直しましょう」

「さんせーい。それよりルーク様、新しい剣を買いましょう。ちょうど行商人が来ているみたいで色々ありましたから」

 

 気に入ったものを懐が許してくれる限り購入して差し上げますから、となだめすかして道を歩く。

 宿屋の前を差しかかると、中から甲高い少女の声が聞こえてきた。興味本位に開いている扉から中をうかがう。

 

「連れを見かけませんでしたかぁ? 私よりちょっと背の高くて、ぽやーっとした男の子なんですけどぉ」

 

 声に見合う愛らしい少女が、宿屋の主人を捕まえてまくしたてている。

 漆黒とは言いがたい黒髪を可愛らしいツインテールに編んでおり、特徴的な制服らしき衣装をまとっている。

 その小さな肩に可愛いとも怖いとも判別しかねる人形がひっかけられていた。

 猫を模しているのかもしれないが、巨大すぎるボタンの目に大きなギザギザの歯が見える口はどうしても怪獣にしか見えない。

 

「い、いや、俺はちょっとここを離れてたから……」

 

 回答に、少女ははぅ~っ、と大げさなため息をついた。

 

「もーっ……イオン様ったら、どこ行っちゃったんだろう……?」

「イオン? それって、導師イオンのことか?」

 

 同じく興味津々で話を聞いていたルークが、反射的に口を開く。

 少女はそれを聞きつけて振り返ると、とととっと駆け寄ってきて両の拳を胸につけ、こくん、と首を傾げた。

 

「知ってるんですかぁ?」

「あ、ああ……」

「導師イオンなら、ローズさんの家にいらっしゃいましたよ」

 

 返事をしておきながら引き気味のルークに代わり、ティアが珍しく微笑みながらそう教える。

 

「ホントですか!? ありがとうございますぅ♪」

 

 ツインテールとぬいぐるみを揺らして頭を下げる。そのまま小走りで駆け去っていった。

 

「あ! ちょっとあんた!」

「はい?」

 

 きゅ、と立ち止まり、少女は振り返る。背中のぬいぐるみが同様に振り向いた。

 

「なあ! なんで導師イオンがいるんだよ! 行方不明って聞いてるぞ!」

「はうあ!」

 

 ルークの言葉を受け、少女は大げさにのけぞった。

 

「そんな噂になってるんですか!? イオン様に報告しないと!」

 

 くるりときびすを返し、あっという間に駆け去っていった。

 もちろん、ルークの問いに対する解答は得られていない。

 

「あー……くそ、理由訊けなかった……」

「そうね。でも、彼女は導師守護役(フォンマスターガーディアン)みたいだから、教団も公認の旅だと思うわ」

 

 導師守護役(フォンマスターガーディアン)? と振り返るルークに、スィンも顎に指を添えてえーと、と思い出す。

 

「導師の親衛隊だっけかな? 女性教団員で構成されていて、公務には必ず警護につくっていう」

「そうよ。神託の盾(オラクル)騎士団の特殊部隊でもあるわ」

「わかりやすく言うと、護衛従者みたいなものですね」

 

 聞き慣れた単語で、ルークはようやく納得した。

 

「あんなガキでもヴァン師匠の部下ってことか。でもなら行方不明ってのはなんだったんだよ。誤報ならマジむかつくぞ!」

 

 苛々が再発したように、ルークは足元を蹴った。

 

「今日は宿に一泊して、明日はカイツールを目指しましょう。橋が落ちてしまったなら、そこからしかバチカルへは行けないわ。後は……旅券をどうするかね」

 

 話を逸らすべくティアは早口で言ったのだが、聞いているのはスィンだけだった。

 ローズ邸がある方向を睨んで不機嫌そうにうなっている。

 

「ルーク様?」

「……っかー! やっぱ腹の虫が収まらねえ。このままじゃ帰るに帰れねえぞっ!」

 

 吼えるように叫びだすルークに、ティアは呆れた、と額を押さえた。

 

「まだ怒ってるの?」

「当たり前だろ! 泥棒呼ばわりされたんだ!」

 

 理解できないとばかりにティアは頭を振ったが、スィンはまあ確かに、と心中で呟く。

 今まで、親を除く誰もが彼に頭を下げ、生まれだけで敬われていた箱入り息子なのである。

 隠してはいるが、ティアや村人のいわゆる普通の言葉にも対応しきれていないし、混乱している様子もあった。

 どうにかスィンの敬語と態度で自分を状況に慣らしているようだが、さすがにこれはどうにもならなかったようである。

 誇り高きファブレの血脈は、こんなところで子供のように発揮されていた。

 

「それでは、どうなさるおつもりなのです?」

 

 現行犯確保に食料庫の見張りでもなさいますか? という揶揄の含まれた言葉に、ルークは頬を膨らませた。

 

「……なあ、チーグルってどんな奴なんだ? 聖獣とか言われてたけど」

「東ルグニカ平野北部の森林地帯に生息する草食獣の一種、って聞いています。一応魔物に分類されているようですが」

「この村の北辺りね。ローレライ教団では始祖ユリアと並ぶ象徴とされているわ」

 

 各々の知る情報を聞いた後、ルークは顔を上げて宣言した。

 

「明日、その森に行く」

「行って何をなさるのです?」

 

 わかりきっていることではあるが、一応訊く。

 

「決まってる。連中が泥棒だって証拠を探すんだ」

「無駄だと思うけど」

「うっせーな! もう決めたんだ!」

 

 ティアの的確な突っ込みにも取り合わず、ルークはずんずんと肩を怒らせて先を行ってしまった。残された二人は顔を見合わせる。

 

「──迷惑かけるね。ウチのぼっちゃまが」

 

 正確には違うけど、と苦笑を浮かべるスィンに、ティアは嘆息で応じた。

 

「ごめんなさい。そんなことはない──なんて、お世辞でも言えないわ」

 

 ひとしきり笑った後で、スィンは急に真顔になって尋ねる。

 

「ヴァンのことだけど、何をもって彼が裏切り者だと?」

 

 兄の名を聞き、ティアが顔をこわばらせた。かまわず、話す。

 

「あなたがあの人の妹であること、のこと故郷のこと、一通り知っているつもりなんだけど。何かあったの?」

 

 驚きを隠せない様子で、ティアはスィンを見つめた。色違いの双眸は揺らぎもせず彼女を見つめている。

 

「おい! お前ら何やってんだよ!」

 

 ルークの怒鳴り声でスィンは今参ります、と小走りに駆け去った。

 ティアの沈黙をどうとったのかわからないが、そのような話をしていたことをおくびにも出していない。

 彼女を信頼するにはまだまだ刻が必要だと考えながら、ティアはスィンの手招きに応じた。

 

 

 

 

 

 

 




護衛従者とは、この話オリジナルの用語です。劇中において(多分)存在しないので、ご注意を。
護衛兼従者の略ですが、意味としては漢字の意味そのままですね。
謎はいよいよ深まりつつ、次回は森の中。マスコット登場です。


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第五唱——我らがマスコット、気弱に参上

 

 

 

 

 

 ──チーグルたちが住まうとされる、かの森へ来たのは翌日の昼ごろだった。

 

「こんな僻地に、ホントにいるのかよ?」

「僻地だからいるんじゃないですか?」

 

 日が経つにつれ敬意の薄れた話し方をしているスィンに気づいていないのか、ルークはきょろきょろと周囲を見回している。

 ルークの護衛に徹するつもりらしく、あくまで彼のそばを離れないスィンを見、ティアは昨日の出来事を振り返っていた。

 ヴァンと、兄と親しくしているというのはどのような経緯なのか、詳細として、どこまで知っているのか。

 何もかも承知しているような態度といい、珍しすぎるあの瞳の色といい、彼女は何者なのか。

 

「あっ!」

 

 驚愕に染められたスィンの声を聞いて、ティアは物思いをやめた。

 

「どうしたの?」

「なあ、あれってイオンって奴じゃねえか!?」

 

 尊き導師の名を聞いて、ティアは二人の視線の先を見──言葉を失った。

 導師イオンが魔物に囲まれている。どこか負傷したのか、彼は膝をついて肩で息をしていた。

 

「危ない!」

 

 杖を手に、ティアは駆け出そうとした。その時。

 荒い息の中、片手を天へ差し上げたかと思うと、手のひらに輝きが生じる。

 その手が地面に置かれ、イオンの体の下に巨大な譜陣が展開した。

 まばゆい輝きが、視界を真っ白に染めていく。とっさに目を閉じるも、なお輝きは目蓋を通して目を刺激する。

 やがてそれは徐々に薄れ、世界に色彩が蘇った。

 魔物は姿どころか気配もなく、音素に還ったか、逃げ出したのか、それは誰にもわからない。

 立ち上がったイオンは無事のように見て取れたが、譜陣が完全に消滅したのと同時に体勢を崩して倒れこんだ。

 ものも言わずに駆け寄るティアに続き、二人が彼女の後を追う。

 

「おい、大丈夫か!?」

「だ、大丈夫です。少しダアト式譜術を使いすぎただけで……」

 

 ティアに抱き起こされながら、イオンはかすれた声で答えた。

 血の気がひいた顔色は紙のように白く、言葉とは裏腹に体の均衡が微妙に保たれていない。

 そんな状態でイオンは三人を見てあ、と呟いた。

 

「あなた方は確か、昨日エンゲーブにいらした……」

「ルークだ」

「ルーク……古代イスパニア語で『聖なる焔の光』という意味ですね。いい名前です」

 

 無邪気な微笑を向けられて、ルークは面食らった様子だった。

 照れているのだろうと一発でわかる。今まで褒められた経験があまりない子供の反応だ。そもそも褒められるようなことをしていないから。あったところで、ヴァンとの稽古くらいか。

 しかし。

 

「導師イオン。私は……」

 

 彼の目はごまかせないと思ったのか、正式な長い肩書きを名乗るティアを見つめるイオンをこっそり観察する。

 雰囲気が穏やか過ぎるというか、前にあった高圧的なまでの威厳が消滅しているというか……

 

「あなたがヴァンの妹ですか。噂は聞いていました。お会いするのは初めてですね」

「はあ!? お前がヴァン師匠(せんせい)の妹!?」

 

 心底意外だという反応を返してから、ルークは眉を吊り上げた。

 

「じゃあ裏切り者だの殺すだの、あれはなんだったんだよ!」

「殺す?」

 

 物騒な物言いにイオンが目を丸くしてティアを見つめる。

 

「あ、いえ、こちらの話です」

 

 お茶を濁そうとするティアに、話をそらすなとルークの追い討ちが続く。

 ……どうせ彼女は口を割らない。この辺で終わらせよう。

 

「あっ!!」

 

 タイミングよく現れた小動物を指して、スィンは驚愕の声を上げた。

 

「チーグル!」

「何!?」

 

 スィンの指した方向、自分の背後を見てルークは勢いよく振り向いた。

 ティアに伸ばしかけていた手をひっこめ、茂みに飛び込んだ影を追いかける。

 話題が断絶したところで、スィンはイオンに歩み寄った。

 

「申し遅れました、導師イオン。ルーク様のお守り、じゃない、護衛を務めておりますスィン・セシルと申します」

 

 お守り、という単語に合わせて、ティアがぷっ、と吹き出す気配がする。

 ちょっと失礼、とルークを追うスィンの背後では、イオンがティアに語りかけていた。

 おそらくは、先ほどの話題に決着をつけていることだろう。

 そんなこととは露知らず、目を皿のようにしているルークに話しかけた。

 

「いましたか?」

「こっちのほうに来るのは見えた。……って、あいつらは?」

「あちらに」

 

 さっさと来い、とわめくルークに応じ、二人が茂みへ分け入ってくる。

 ふと思い立ち辺りを見回すも、昨日の少女──導師守護役(フォンマスターガーディアン)はどこにもいなかった。

 

「っくしょー! 見ろ! お前らがノロノロしてっから逃げられちまった」

 

 自分も追いつけなかったくせに遅く来た二人へ責任転嫁するあたり、すでに頭はチーグルのことでいっぱいらしい。

 

「大丈夫ですよ」

 

 導師イオンは優しく微笑んだ。

 自分に対し敬意のカケラも抱かない、不遜な少年に対し何か思う素振りを見せず。

 

「この先にチーグルの巣があるはずですから」

「なんでそんなこと知ってんだよ」

 

 ティアもスィンも同意見だった。

 

「エンゲーブでの盗難事件が気になって、調べていたんです」

「だからこの森へおいでになられたのですか?」

 

 ティアの言葉に、はい、とイオンは頷いた。

 

「チーグルは魔物の中でも賢くておとなしい。わざわざ人間の食べ物を盗むなんて、腑に落ちないんです」

 

 それを聞き、ルークは腕を組んで鼻を鳴らす。

 

「……ふん。なら、目的地は一緒、ってわけか」

「では、お三方もチーグルのことを調べに?」

「正確にはルーク様のワガ……たっての希望ですが」

「うっせぇ。濡れ衣きせられておとなしくしてられっか! ……仕方ねー、お前も来い」

「え、よろしいんですか!?」

 

 イオンは目を輝かせたが、ティアとしてはとても承服できる話ではない。

 ローレライ教団最高指導者を、危険が想定される場所へ連れて行くなどと。

 

「何を言っているの! イオン様を危険な場所へお連れするなんて!」

「じゃあどーすんだよ。今から村へ送ってったところで、どうせまた一人でノコノコ来るに決まってる」

 

 導師守護役(フォンマスターガーディアン)に引き渡せばそんなこともないだろうが、スィンはそれを口にしなかった。

 

「……すみません。どうしても気になるんです。チーグルは我が教団の聖獣ですし」

「ほれ見ろ。それにこんな青白い顔して今にもぶっ倒れそーな奴、ほっとくわけにもいかないだろうが」

 

 それを聞くと、イオンは感激したように胸の前で手を組んだ。

 

「あ、ありがとうございます! ルーク殿は優しい方なんですね!」

 

 それを聞き、ルークは焦ったような、困惑したような態度となる。調子がくるっているようだ

 

「だ、誰が優しいだと! アホなこと言ってねーで、大人しくついてくりゃいいんだよ!」

 

 最後の一文だけを聞けばなんだか誘拐犯のような言い草ではあるが、イオンは気にした様子もなく素直に返事をした。

 

「あ」

 

 赤くなった顔を隠すように歩き始めたルークではあったが、すぐに足を止めてイオンの鼻先に指をつきつける。

 ティアが何か言いたそうにしているが、それはスィンが押しとどめた。

 悪口雑言を並びたてようとしているわけではなかったからだ。

 

「あと、あの変な術は使うなよ。魔物と戦うのはこっちでやる」

「護ってくださるんですか! 感激です、ルーク殿!」

「ちっ、ちっげーよ! 足手まといだから、その……勘違いすんなよなっ。それと、俺のことは呼び捨てでいいからな。いくぞ」

「はい、ルーク!」

 

 嬉しそうに、まるで普通の少年のように笑う彼を複雑そうに見るティアの肩を叩き、スィンは少年二人の後を追った。

 

「にしてもよー。イオンといいスィンといい、術使って倒れるなんてどーゆー体質なんだよ?」

 

 それを聞いて、イオンは不思議そうにスィンを見た。

 

「譜術を使って、倒れたことが?」

「えーっと、そうですね。一応。譜術士としての素質がないんでしょうね」

 

 あはは、とごまかすように笑う。明々後日の方向を見ながらの弁明を聞いて、ティアは首を傾げた。

 先天的な身体の欠陥が原因ではなかったのだろうか? 

 イオンはイオンでどこか納得いかないらしく、不思議そうに彼女を見つめている。

 と、その彼女が不意に腕を上げた。

 

「どうしたの?」

「あそこ……」

 

 明々後日の方向を指差し、駆け寄る。

 まったく足音がしない駆け方にますます疑問が生じるが、ルークはそれに気づいた様子もなく続いた。

 

「……ゅう。みゅみゅうみゅう、みゅう!」

 

 可愛らしいような、甘ったるいような鳴き声が聞こえた。

 茂みを透かすようにして見れば、大きな袋状の耳を持つ発光色の動物が、巨樹の根元に開いた洞の中へ甘えるように呼びかけているようにも見えた。

 

「あれがチーグルなのか?」

「まだ子供みたいですね」

 

 ルークの問いを肯定するようにイオンが頷くと、ティアがぽそりと呟いた。

 

「……可愛いv」

「はぁ?」

 

 今なんか言ったか? というルークの問いに、ティアはなんでもないと返して素っ気なさそうな表情に戻る。

 やりとりに参加しなかったスィンがそのまま見ていると、チーグルはちょこちょこと洞の中へ入ってしまい、そのまま出てこない。

 意を決して洞の前まで来ると、同時に導師も歩いてきて地べたに転がっていた果実を拾い上げた。

 真っ赤に熟れた林檎。しかしその辺りの木になっていたわけではない。

 

「この林檎、エンゲーブの焼印が押されてますね」

「やっぱりこいつらが犯人か!」

 

 鼻息荒く同意を求めるものの、イオンは頷こうとしなかった。

 代わりに、目の前の暗い洞を見つめている。

 

「やはりここが巣のようですね。チーグルは樹の幹を住処としているようですから」

 

 そう言って、イオンはなんの躊躇もなく洞の中へ入っていった。

 

「導師イオン! 危険です!」

 

 ティアの制止などものともせず、少年は闇へ消える。

 

「しょうがねーガキだな」

 

 舌打ちをして、ルークもそれに続いた。警戒のためにか、利き腕が新しく手に入れた剣の柄あたりをさまよっている。それに続いて二人も洞の中へ入った。

 中は思いの外暖かく、明るかった。見る限り体毛が薄く見えるチーグルは寒さに弱いのかもしれないと考えつつ、眼前の小動物たちを見る。

 そこにはさっきいた仔よりは大きい、それでいて様々な色のチーグルがしきつめ……もとい集まってきており、イオンの行く先を遮っていた。

 

「通してください」

「みゅみゅう、みゅうみゅうみゅ、みゅっ!」

「みゅううみゅみゅ、みゅみゅ!」

「みゅうみゅうみゅ、みゅうみゅう!」

 

 ありがたいことに中が広いので反響はしなかったが、それでもこれだけ数が集まると、どれだけ小さくて可愛くても圧巻である。

 

「魔物に言葉なんか通じるのかよ」

「チーグルは教団の始祖であるユリア・ジュエと契約し、力を貸したと聞いているんですが……」

「通じてねえみてーだけどな」

 

 強攻策をとるべく、ルークは剣の柄に手をかけた。そのとき。

 

「みゅうみゅみゅう、みゅ」

 

 えらく低い鳴き声が奥から響いてきたかと思うと、集まっていたチーグルたちは道を空けるように移動した。

 暗がりから一匹のチーグルが現れる。

 どこか動きに精彩がなく、袋状の耳が垂れ下がって目を覆っていた。

 小さな手には不釣合いの金環を携えている。

 

「……ユリアの縁者か?」

「おい、魔物が喋ったぞ!」

 

 しゃべりましたね、と応じるスィンに、動揺しながらも頷くティア。イオンは驚くような素振りも見せなった。

 

「これは、ユリアとの契約によって与えられたリングの力だ。お前たちは、ユリアの縁者か?」

「はい。僕はローレライ教団の導師、イオンと申します」

 

 そう言って、イオンは頭を下げた。

 

「あなたは、チーグルたちの長とお見受けしましたが」

「いかにも」

「おい魔物!」

 

 ルークは前挨拶をすっ飛ばし、本題を突きつける。

 

「おまえら、エンゲーブで食べ物盗んだろ!」

 

 ちら、と老チーグルはルークを見た。

 

「なるほど。我らを退治しに来た、というわけか」

「へっ、盗んだことを否定はしないのか」

 

 老チーグルは沈黙を保っている。

 

「チーグルは草食でしたね。なぜ人間の食べ物を盗む必要があるのです?」

 

 おそらくこれが彼の最大の疑問だったのだろう。

 イオンはチーグルが犯人だと判明したにもかかわらず、変わらぬ態度で問いただした。

 

「……我らチーグルの存続のためだ」

「食べ物が足りないというわけではなさそうね。この辺りは緑が豊富だわ」

「草食動物が肉を盗むのもおかしいしね」

 

 便乗するようにスィンまでもが説明を求めると、老チーグルは重い口を開いた。

 

「半月ほど前、我らの仲間が北の地で火事を起こしてしまった。その結果、北の一帯を住処としていたライガが、この森へ移動してきた。我らを新たな餌とするためにな」

「では村の食料を奪ったのは、仲間がライガに食べられないためなんですね?」

 

 イオンの言葉に、老チーグルは頷いた。

 

「そうだ。定期的に食料を届けねば、奴らは我らの仲間をさらって食う」

「ひどい……」

 

 思わず漏れたティアの呟きを、しかしルークは鼻で笑い飛ばした。

 

「知ったことか。弱いもんが食われるのは当たり前だろ。しかも住処燃やされりゃ、そりゃ頭にもくるだろーよ」

 

 無神経のきわみとも取れる言葉に、ティアはルークを睨みつけた。

 スィンとしてはルークの意見に賛成だったが、世の中には言っていいことと悪いことがある。

 

「ですが、本来の食物連鎖の形とはいえません」

「ルーク、チーグルが犯人だということははっきりしたわ。あなたはこれからどうしたいの?」

 

 ティアが真剣な表情でそれを聞いた。

 

「どうって……こいつらを村に突き出して……」

「そんなことしたら、餌がなくなったライガたちがあの村へ殺到すると思いますよ」

 

 あんな村がどうなろうと自分の知ったことではない、とエゴイストそのものの発言をするルークに眉をひそめるでもなく、イオンはきっぱりと首を振った。

 

「そうは行きません。エンゲーブの食材はマルクト帝国だけでなく、キムラスカを初め世界中に出荷されています。エンゲーブがなくなれば食料の値段が高騰し、各地で争いの火種となるでしょう」

「じゃあ、どうすんだよ」

「ライガと交渉します」

 

 当たり前のように、言い切る。しかし。

 

「魔物と……ですか」

 

 スィンは不思議そうに反復した。ティアも首を傾げている。そもそも──

 

「そのライガってのも、話せるのか?」

 

 その問題がある。

 

「もちろん僕たちでは無理です。ですが、チーグル族を一人連れて行って訳してもらえば……」

 

 黙して話を聞いていた老チーグルが頷いた。

 

「では、通訳の者にわしのソーサラーリングを貸し与えよう。……みゅう、みゅみゅうみゅう、みゅう~」

 

 その鳴き声を聞き、群れの中から一匹の小さな聖獣が転がってきた。

 空色の体毛に、つぶらな濃い紫の瞳。それほど大きくもないチーグルは、長老からソーサラーリングを受け取るとよちよちとそれを胴に装着した。

 

「この仔どもが、北の大地で火事を引き起こした同胞だ。これを連れて行ってほしい」

 

 紹介を受け、面々に向かい直り、ぺこりと頭を下げる。

 

「ボクはミュウですの。よろしくお願い、するですの」

「か、かわいいっ……!」

 

 愛らしい声、たどたどしい言葉、くりくりとした瞳に丁寧な態度。

 ティアはうっとりと、イオンも好ましくチーグルを見下ろしていたが、ルークだけは別だったらしい。

 

「……おい。なんかムカつくぞ、こいつ」

 

 呟いた。

 すると、ミュウと名乗ったチーグルはびくっ、とちいさな体を震わせている。

 

「ご、ごめんなさいですの! ごめんなさいですの!」

 

 相手は謝っているのだが、なぜかそれすらも腹が立つらしい。

 

「だーっ! てめえムカつくんだよ! 焼いて食うぞコラ!」

「みゅう────っ!!!」

 

 怒鳴られて本格的に怯えたらしく、小さな手で頭を抱えてぶるぶる震えている。

 

「食べるトコ少なそうですけど」

 

 しゃがんでミュウを見つめ、スィンはぽそっ、と呟いた。

 

「耳はからっぽだと思うし、ルーク様は好き嫌い激しいから脳みそも内臓も食べないだろうし、あとは肉の部分だけどスペアリブ数切れ程度にしかならないと──」

「スィン!!」

 

 ルークにつっかかっていたティアが、掴みかからんばかりに迫ってきた。

 

「悪趣味な冗談はやめて! ミュウの顔色がすっかり絶望に染まってるじゃないっ!」

「だから、食べられないよって暗に言ったつもりだったんだけど」

 

 こんなにかわいいのに、信じられない! とヒートアップするティアを、イオンが苦笑しながら仲裁に入った。

 

「落ち着いてください。今は仲間割れしている場合ではありません。急いでライガとの交渉に向かいましょう」

「そうですの、急ぐですの!」

「お前が言うなっ!」

 

 いらない一言を口にして、ルークに足を振り上げられると、ミュウは頭を抱えてぶるぶる震えだした。

 

「ごめんなさいですの! ごめんなさいですの!」

 

 

 

 

 

 

 

 




仔どもなら火は吹けないのに、どうして北の森を火事にできたんだろう? 
そう思った人たちはきっと多いはず。
やっぱりソーサラーリング盗んで調子に乗ってたんでしょうか。


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第六唱——因果応報の序曲

 

 

 

 

 

「皆さん、見てくださいですの」

 

 言うなり、ミュウは口から少量の炎を吹いた。

 

「うわっ! こいつ火ぃ吹いたぞ!」

 

 ルークがおおげさなまでにのけぞると、イオンは声を立てて笑った。

 

「そういえば、チーグルは炎を吐く種族でしたね」

「はいですの! ミュウはまだ子供だから、ホントは火なんて吹けないですの。ところが! このソーサラーリングのおかげで、火が吹けるどころかいくら吹いても疲れないですの!」

「へー。ソーサラーリングってのは翻訳だけじゃないんだな」

 

 感心したようにルークがソーサラーリングを見ると、イオンは大きく頷いた。

 

「もともとは譜術の威力を高めるものなんです。響律符(キャパシティコア)の一種ですよ」

響律符(キャパシティコア)?」

 

 なんだそれ、と首を傾げると、イオンもまた不思議そうに首を傾げた。

 

「知らないのですか?」

「導師イオン。彼はちょっと、世間に疎いんです」

「悪かったなっ!」

 

 ティアのぞんざいな説明に怒鳴って見せるものの、事実である。

 スィンはボロがでないよう口を挟まないことにした。

 

「では、これをルークに」

 

 イオンはポケットから紋章のようなものを取り出すと、ルークに手渡した。

 何かの鉱石を加工したと思われるそれは、表に紋様、裏に文字が彫りこまれている。

 

「こいつが響律符(キャパシティコア)ってやつか」

「はい。響律符(キャパシティコア)というのは、譜術を施した装飾具のようなものです。最近は一般の方でもおしゃれの一環として普通に使っていますが、本来は譜の内容に応じて身体能力を向上させるものなんです」

 

 ふーん、と珍しげにいじくりまわしていると、彼は突然瞳を輝かせた。

 

「あ! もしかしてこれをつけると、お前が使ってたあの術! 俺にも使えるようになるとか!?」

「すみません。あれはダアト式譜術といって、導師以外は使えないんです」

「なーんだ……」

 

 落胆をあらわにするルークに、フォローを入れたのはティアだ。

 

「でも、響律符(キャパシティコア)を装着していれば、特殊な技能も身につけられるわ。使いこなすことができれば、十分強くなれる」

「そーいうもんか……そうだ。スィン!」

「はい?」

 

 そして彼は、一連のやりとりを黙って聞いていたスィンに声をかけた。

 

「お前もこういうの、持ってたりするのか?」

「ええ。一応。ですが、ルーク様には装着できませんよ」

「んなもん試してみなけりゃわかんねー……」

 

 言い終わるより早く。スィンは左の拳を突き出した。

 小指の根元には小さな銀環が光っている。

 

「試してみます?」

「……いや、いい……」

 

 自分の指とスィンの指を見比べ、しぶしぶあきらめる。

 意図はないだろうが、ルークのぼやきが耳に入った。

 

「スィンの譜術なら、と思ったんだけどなー……」

 

 ご無体を聞き流し、ミュウの案内によりライガの巣へ徐々に近づいていく。

 途中、ルークによるミュウの愛称命名や、チーグルはムカつくか可愛いかの議論が持ち上がったが、割と順調に奥地までたどり着いた。

 んしょんしょ、と大木の根でつくられた自然の段差を下ったミュウが小さな声で一点を指す。

 

「あそこですの」

 

 ──空気がすっかり変質していた。この辺りは植物が異常なほど繁茂している割に、動物の気配があまりない。

 同族以外は恐れて寄ってこないのだろう。

 一行はライガを刺激しないよう、天然の洞の中へ静かに近寄って行く。

 

「うーわー……」

 

 その姿を認め、スィンはほぼ囁き声で感嘆を洩らした。

 来る最中に幾度か交戦した眷属のライガ種とは明らかに違う。

 その巨体といい、全体的に澱んだ赤の毛並みといい。チーグルくらいなら視線だけで殺せそうな威圧感があった。

 

「あれが女王ね……」

「女王?」

「ライガは強大な雌を中心とした集団で行動する魔物なの」

 

 女王と聞いて、一瞬共通の人物を思い浮かべたルークとスィンであったが、すぐに打ち消した。

 

「ミュウ。ライガ・クイーンと話をしてください」

「は、はいですの」

 

 緊張した面持ちのイオンに頼まれ、ミュウはおそるおそる近寄っていく。

 その後を警戒しながら歩み寄ると、ライガ・クイーンは突然立ち上がり咆哮した。

 びりびりと周囲が振動するほどの気迫に押され、ミュウがこらえきれず後ろに転がる。

 

「おいブタザル! あいつはなんて言ってる?」

「た、卵が孵るところだから来るな……と言っているですの。ボクが間違ってライガさんたちのお家を火事にしちゃったから、女王様、ものすごく怒ってるですの……」

「卵って、ライガは卵生なのかよ!?」

 

 ミュウは頷いた。

 

「魔物は卵から生まれることが多いですの。ミュウも卵から生まれたですの」

「やばいね。卵なんて孵化したら……」

「その前に、卵を守るライガは凶暴性が増しているはずよ」

 

 険しい視線を女王に向けている二人を見る。

 

「なら出直すのか?」

「ですが、生まれた仔ども達は食料を求めて近隣の町へ大挙するでしょう」

 

 イオンもまた、厳しい目でライガ・クイーンを見つめている。

 

「どういうことだ?」

「ライガの仔は人を好みます。もし北の地でライガ達がそのまま暮らしていても、ほっといたらエンゲーブは壊滅でしたね」

 

 そういう意味ではチーグルの手柄かもしれない、とスィンは自嘲気味に呟いた。

 

「それって、人を食う……ってことか」

 

 ティアがかわりに頷いた。

 

「ミュウ、彼らにこの地を立ち去るよう言ってくれませんか?」

「は、はいですの」

 

 誰が聞いても、この状況では撥ねつけられるに決まってる提案だった。

 それでもイオンは、一縷の望みにかけてミュウを見守っている。

 

「みゅう、みゅみゅみゅう。みゅうみゅみゅ」

「グルル」

「みゅっ!? みゅうみゅうみゅ、みゅ……」

 

 ライガ・クイーンが再び咆哮を重ねた。更に強烈な振動が木を、土を、植物を震わす。

 めりめりっ、という音がしたかと思うと、ミュウの上に影が差した。

 土からはみ出し脆くなっていた根が耐え切れず、ひときわ大きな欠片が落下してくる。

 ルークはとっさに剣を引き抜くと、目の前の木片を弾き飛ばした。

 ぱらぱらと、木のくずが舞い散る。ルークたちなら当たったところでかすり傷程度だろうが、ミュウであったならば間違いなく潰されていた。

 

「あ、ありがとうですの!」

 

 それがわかったのか、ミュウはルークを振り仰いだ。

 

「か、勘違いすんなよ! 俺はその、イオンをかばったんだからなっ!」

 

 しかし、そんなことを言い訳している場合ではなかった。巨体を揺らし、ライガ・クイーンは殺意をにじませた瞳を一行に向けている。

 低い唸りを聞き、ミュウが泣きそうになりながらも伝えた。

 

「ボクたちを殺して、生まれてくる仔どもたちの、餌にすると言ってるですの……」

「冗談じゃねえ!」

「ぜひともお断りします」

 

 スィンが剣を引き抜き、ティアが杖を手に前へ出る。

 

「導師イオン、ミュウと一緒に後ろへお下がりください」

 

 気を引くね、と言い残し一足早くライガ・クイーンに接近するスィンの背中に、イオンたちを後ろへ下がらせるティアに言う。

 

「おい、ここで戦ったら卵が割れちまうんじゃ──」

 

 ちら、とのぞいたティアの双眼は、ひどく冷たい光を宿していた。

 

「残酷なようだけど、そのほうが好都合よ。卵を残してそれが孵ってしまったら、ライガの仔がエンゲーブを壊滅させてしまうでしょうから」

 

 それは一足先に戦っているスィンも同じ意見のようだった。

 卵を守るように一箇所から動かないライガ・クイーンに対し、四方八方から攻撃を仕掛けて隙を誘おうとしている。

 時折下方に向けられる刃は、足だけを狙っているようには見えない。

 

「くっそ……!」

 

 どれだけ剣を振るっても、豪奢な毛皮が刃をひどく滑らせる。

 剣を片手に持ち替え、漆黒の懐刀を逆手に斬りつけると、ようやく傷らしい傷が入った。

 痛みに逆上したライガが卵を守るのをやめ、突進の体勢に入った。間合いを計ろうとしたところに、ルークが参戦してくる。

 

「くらえっ! 双牙ざ──!」

「危ないっ!」

 

 懐へ突っ込もうとしている彼の腕を掴み、横に突き飛ばした。

 反動を利用してスィン自身も反対側へ飛ぶ。直後、ライガの巨体が跳躍し、着地した。衝撃で大地が揺れ、平衡感覚が失われる。

 スィンが突き飛ばさなければ、斬る前に潰されていただろう。

 すぐにライガへ密着し、巨大な前足の爪と鍔迫り合っているスィンを見て、ルークは横合いから斬りつけた。

 しかし、スィンと同じくして刃が滑る。通常の攻撃から技につなげても、結果は同じだった。

 爪をくぐりぬけ、懐刀でライガの片目を奪ったスィンが弾き飛ばされる。

 なんとか受身を取った彼女を見て、ルークはタタル渓谷での出来事を思い出した。

 ──そうだ。

 

「スィン! アレやれ!」

「ダメです!」

 

 何のことかは想像に難くない。

 しかし、ライガクィーンから視線をそらさぬままスィンは首を振った。

 

「こんなでかい奴……まだ体力もあるようですし、仕留め切れません!」

「かまわねえよ! 後のことは俺に任せろ!」

「……わかりました」

 

 時間稼ぎをお願いします、とスィンはせめて壁になれるようにとイオンの前へ移動した。

 ライガの気を散らせるため、ティアも更に前へ出る。

 ティアからの視線を受け取り頷いた。両方の剣を収めて胸の前で組み合わせる。

 

「……天空を踊りし雨の友よ。我が敵をその眼で見据え、紫電の槌を振り下ろさん……」

 

 スィンの足元に、譜陣が出現した。

 それを見て、イオンが息を呑む。

 

「これは……!」

「インディグネイト・ヴォルテックス!」

 

 対象の周囲に譜陣が展開したかと思うと、召喚された雷雲が一斉に帯電を始め、ライガ・クイーンを四方から電撃の嵐に包み込む。

 それに留まらず、雷雲は上空へ大量の雷性エネルギーを溜め込んだ。槌を振るうが如く、それが無数の刃となって降り注ぐ。

 地響きを伴い、ライガ・クイーンの巨体が倒れる。同時に、スィンが地に伏した。

 

「よっしゃ──あ?」

 

 喜ぶのは早かった。

 ルークの目の前で、ライガ・クイーンがよろよろと立ち上がる。

 毛皮が切り裂かれて血にまみれているものの、殺意はまったく失われていなかった。

 牙をむき出して、目の前のルークに襲いかかる。

 

「うぉっ!」

 

 一瞬前までルークの頭があった場所で、牙がかみ合わされた。がちんっ、と生々しい音が響き、火花が舞う。

 その動きはまったく衰えておらず、むしろ怒りをあおって更に凶暴化させているように見て取れた。

 

「スィンの奴……しくじりやがったな」

「仕留め切れない、って言ってたのに。『後は俺に任せろ』って言ったのは誰?」

 

 軽口を冷たい一言で返される。そうだけどよ、と呟きながら、ルークはティアの詠唱時間を稼ぐべく前へ出た。

 

「深淵へと誘う旋律──」

 

 あのとき自分たちの自由を奪った、清らかな歌が響く。

 しかし。

 

「ガアアアアアッ!!」

 

 それはライガの咆哮ひとつで吹き飛ばされてしまった。

 

「まずいわ……まったく効いてない」

「冗談じゃねえ! 何とかなんねえのか!?」

「──では、何とかして差し上げましょう」

 

 そう声がして、二人が後ろを振り向くと青い軍服を着た男が立っていた。

 眼鏡をかけ、緋色の双眼が特徴的なこの軍人は──

 

「カーティス大佐、なぜここに!?」

「詮索は後にしてください。見たところ相当弱っているようですから、私が譜術で一気に始末します。詠唱の時間を稼いでください」

 

 この状況で微笑みすら浮かべながら指示をするジェイドに、ルークは少なからず反発を覚えた。

 言われたのはスィンと同じ頼みだというのに、高圧的な態度が癪にさわる。

 

「偉そうに……」

 

 不満たっぷりの言葉を聞き流し、ジェイドが詠唱に入る。

 先ほどと同じくライガ・クイーンの気をそらすため接近すると、爪が無茶苦茶に振るわれた。

 

「くっ!」

 

 爪を剣で受け止める。スィンがやっていたように受け流そうとすれば、ライガ・クイーンが三度咆哮した。

 耳がおかしくなる。周囲にぱちぱちと不明瞭な音が聞こえたかと思うと、青白い光が炸裂した。

 

「がっ!」

 

 あっという間に地面へ叩きつけられ、視界がぶれる。目の前がちかちかして、口の中で血の味がした。

 

「ファーストエイド!」

 

 動かない体に悪態をついたとき、痛みが嘘のように消えた。

 振り下ろされる爪を後ろへ跳んで避ける。

 

「荒れ狂う流れよ──」

 

 そこへ、ジェイドのかすかな詠唱が聞こえてきた。

 

「──スプラッシュ!」

 

 ライガの上に巨大な雫が生まれ、それは激しい水流を叩きつけてきた。

 止まることをしらない水の勢いに飲まれ、今度こそライガ・クイーンは永遠に沈黙する。

 

「あっけないですねえ」

 

 あれだけ弱っていたなら当然ですか、とジェイドは眼鏡の位置を直した。

 

「……今のは……」

「水の中級呪文ね。譜術レベルは最上位というわけではないのに、威力が桁違いだったわ。ただの譜術士(フォニマー)ではなさそうね……」

 

 そう言って、ティアは倒れたスィンに歩み寄った。イオンが心配そうに介抱しているものの、あの時とは違って完全に気を失っている。

 ジェイドはというと、イオンの姿を認めて薄い微笑を浮かべ、振り返って洞の入り口へ呼びかけた。

 

「アニス! ちょっとよろしいですか?」

「はい、大佐! お呼びですかぁ?」

 

 たかたかたか、と軽快に駆け寄ってきたのは、少し癖のある黒髪をツインテールにした、導師守護役(フォンマスターガーディアン)とティアが言っていた少女だった。

 アニス、というらしい少女が来ると、ジェイドは片膝をついて何事かを囁いた。

 彼女の耳に直接言っているため、内容はまったくわからない。

 ことあるごとにこくこく頷いていたアニスは、ジェイドが顔を離すと上目遣いになって瞬きをした。

 

「えっと……わかりました。イオン様をちゃーんと見張っててくださいね?」

「もちろん♪」

 

 茶目っ気たっぷりに頷くと、アニスはイオンにぺこり、とお辞儀をして、風のように洞から飛び出していった。

 見送り、ルークはため息をついてスィンと、卵をみやった。

 肝心なところでスィンは役立たずだし、どちらの譜術か知らないが、卵は術の余波を受けて中身をさらしてしまっている。

 

「何か、後味悪ぃな……」

 

 ぽつりと呟いたその言葉を受け、ティアが応じた。

 

「優しいのね」

 

 冷たい言葉に振り向けば、冷たい視線とかち合った。どう考えてもほめているわけではない。

 

「それとも、甘いだけかしら」

「うっせぇ! 冷血な女だな!」

 

 スィンは沈黙し、イオンはおろおろと事の次第を見守っている。それはミュウも同じだった。

 

「おやおや。痴話喧嘩ですか?」

 

 こんな状況下でも実に楽しげなジェイドの一言に、二人はそろって抗議した。

 

「誰がっ!」

「カーティス大佐。私たちはそんな関係ではありません」

 

 冗談ですよ、と微笑したまま、ジェイドは続ける。

 

「それと、私のことはジェイドとお呼びください。ファミリーネームのほうはあまり馴染みがないもので──それより」

 

 ジェイドがイオンを見やった。

 かの導師はスィンをそっと地面に寝かせ、前へ進み出る。

 

「すみません、勝手なことをして……」

「あなたらしくありませんね。悪いことと知っていて、このような振る舞いをされるのは」

「チーグルは始祖ユリアと並ぶ教団の礎です。彼らの不始末は、僕が責任を負わなくては、と……」

 

 ジェイドは大きくなりすぎないため息をついた。

 

「そのために力を使いましたね。医者から止められていたにもかかわらず」

「……すみません」

「しかも民間人を巻き込んだ」

 

 イオンがますますうなだれる。

 

「おいおっさん!」

 

 その光景がどうにも腹立つもので、ルークは声を荒げた。

 

「謝ってんだろーがそいつ! いつまでもねちねち嫌味言ってねーで許してやれよ!」

「おや。巻き込まれたことを愚痴るのかと思ったら、意外でしたね」

 

 ティアやスィンも思ったに違いない。少なくともティアはわずかに目を見開いている。

 

「へっ」

「まあ、とりあえずはこのくらいにしておきましょう。ところで、そちらの方は死んでいるのですか?」

 

 横たわったままぴくりともしないスィンにジェイドが向かうと、脈を取るべく手を取る。

 ばしっ。

 

「……か、勝手に殺さないで……」

 

 何の意図があってか、スィンはその手を振り払った。立ち上がろうとして失敗し、地面に両膝をついて荒い息をしている。

 元気そうですね、と呟いたジェイドは、自分を睨んでいるスィンの瞳をまじまじと見つめた。

 

「ところで、ライガは──」

「お前が仕留めそこなったから、そこのおっさんがトドメを刺した」

 

 スィンの不手際をなじるような物言いにルークの心情を察して、スィンはそのままの姿勢で頭を垂れた。

 

「……申し訳ありません」

「まったくだ! もうちょっとで食い殺されるところだったんだぞ、この役立たず!」

 

 返す言葉がない、ということなのか、黙してルークの暴言を受けていたスィンだったが、ティアの呆れたような言葉で終止符が打たれる。

 

「あなた、もう少し身の程を知ったらどう? スィンがいなければ、そんな口が叩けたかどうかもわからないのに」

「うっせえ! 自分とこの──」

 

 言いかけて、ルークはふと思い立った。そういえば、スィンはナタリアの護衛従者だ。

 昔はスィンの自分の護衛従者兼子守り役だったと聞いているが、覚えていない。

 自分が誘拐された後、スィンは別件でバチカルを追放されたらしく、その後五年間ルークは彼女のことを知らなかった。

 ルークがスィンと初めて会ったのは、スィンの追放が解けた二年前の話だ。

 ルークが急に押し黙ったのを機に、興味深げにやりとりと見ていたジェイドが仕切りなおすように手を叩いた。

 

 ぱふっ。

 

「さ、一段落したのなら森から出ましょう。こんなところに長居は無用ですよ」

「ダメですの! 長老に報告するですの!」

 

 そうはさせじとミュウがルークの頭の上から抗議する。

 

「チーグルが、人間の言葉を……?」

 

 文字通り珍しい生き物を見る目つきでジェイドがミュウを一瞥すると、当のミュウはルークにゲシゲシ踏まれている最中だった。

 

「ソーサラーリングの力です。それよりジェイド、一度チーグルの住処に寄ってもらえませんか」

「わかりました。ですが、あまり時間がないことを念頭に入れておいてください」

 

 それに頷き、イオンは。ミュウを蹴り飛ばした後に再び意識を手放したスィンを背負おうとしているルークに振り向いた。

 

「ルーク、さっきはありがとう。もう少しだけお付き合いください」

 

 ここで拒否をしてもおそらくティアが許さない。ルークはちっ、と舌を打って立ち上がった。

 

「……しゃーねーな。乗りかかった船だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チーグルの長老に報告を済ませ、ルークがミュウの主人となった後、一行は出口へ向かって歩いていた。

 途中の交戦はジェイドとティアに任している。

 スィンを寝かせてあげなさい、というティアの提案によるものだった。

 

「ティアの治癒術では回復できないのですか?」

 

 不思議そうにイオンが言うと、ルークが無理無理、と手を振った。

 

「よく知らねーけど、治癒術ってのは怪我しか治せねーんだろ? こいつは譜術使ってぶっ倒れたんだ。眠らなきゃ回復しねえってよ」

 

 ルークの言葉に、ジェイドもいぶかしがって背負われているスィンを見る。

 

「譜術を使って倒れた……ですか」

「はい。彼女は先天的な身体の欠陥だとも、譜術士の才能が劣化しているとも言っていましたが」

 

 どういうことなんでしょうか、とティアが訊けば、ジェイドはふむ、と顎に手をやった。

 

「譜術が原因、ということはフォンスロットの異常か、うまく音素(フォニム)を取り込めていないのか……どちらでも該当しますね」

 

 体質といい、瞳といい、不思議な方ですねえ。

 しみじみと言うジェイドに、ルークが反応した。

 

「確かに目の色は違ってて珍しいっつか……」

「イオン様! おかえりなさ~い」

 

 少女の声が割り込んだ。

 見れば、アニスといったか、ツインテールの少女がにっこりと微笑んで手を振っているのが見える。

 

「あれって確か、お前の守護役だったよな」

「ええ。アニス・タトリンといいます」

 

 頼りになります、と続けるイオンに、胡散臭そうな目を向ける。

「あんなに小っこいのにか?」

「はい。アニスは若年ですが、優秀な人形士(パペッター)ですので」

 

 人形士(パペッター)、なる聞き慣れない単語にルークが首をひねっていると、ジェイドはさりげなくイオンを連れてアニスのそばへ向かった。

 

「ご苦労さまでした、アニス。タルタロスは?」

「ちゃーんと森の前まで来てますよ? 大佐が超特急で、って言うから頑張ってもらっちゃいました☆」

 

 ぱちんっ、と小さな手が指を鳴らした。

 それを合図に、あらかじめ潜んでいたのか武装した兵士たちが次々と現れ、ルークとティア、そしてスィンを取り囲んだ。

 

「おい、どういうことだよ!」

 

 ルークが怒鳴るも、彼はまったく取り合わない。

 

「そこの三人を捕らえなさい。正体不明の第七音素(セブンスフォニム)を放出していたのは彼らです」

「来い!」

 

 自分に手を伸ばしてくる兵士を睨むと、視線に気づいたのか兵士は乱暴にルークの胸倉を掴んだ。

 ルークが怒鳴る──瞬間。

 

烈破掌(れっぱしょう)!」

 

 細い腕が背後から伸びてきたかと思うと、胸倉を掴んでいた兵士が吹き飛ぶ。

 

「……マルクトの兵士は、捕虜に暴行を加えなければ連行できないほどの弱卒なのか」

 

 一気に囲まれたルークの前に立ち、スィンは剣の柄に手をやって睨みつける。

 眠って体力を回復させたためか足取りもしっかりしており、視線はジェイドにのみ送られていた。

 

「貴様ぁ!」

「待ちなさい。今のはこちらに非があります」

 

 一瞬即発の空気を和らげるように、倒れた兵士を収容するよう命令すると、ジェイドはスィンに向き直った。

 

「暴れさえしなければ、危害は加えません。主人を守りたいなら、大人しく従ってもらえませんか?」

 

 ちらりとティアに視線を送れば、彼女も頷いていた。

 剣の柄を握りしめていた手を緩め、だらりと投げ出す。

 

「──従いましょう」

 

 率先してルークの隣を歩き出した先、イオンがジェイドに話しかけたところを見計らってこっそり中指を突き立てる。

 兵士に見咎められ「暴れたわけじゃない」と開き直り。三人は無事、タルタロスなる巨大陸艦へ連行された。

 

 

 

 

 

 




ライガ・クイーンが倒せなかったのは、属性による耐性のせいです(多分)
回復が早いように感じるのは、虚勢を張っているため。あんまり本調子ではありません。


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第七唱——しっぺ返し

 

 

 

 

 足元から伝わる微かな振動と、鋼鉄製の壁の向こうから聞こえる音機関の駆動音を耳にしながら、スィンは部屋の様子をつぶさに観察する。

 さすが戦艦というべきか、より実用的な内装の一室に、三人は連行されていた。

 目の前では、中央に据えつけられた机を挟んでジェイドとイオン、ルークとティアが対峙している。

 イオンの横にはアニスが付き、ルークのそばにはスィンが控えている、という構図だ。

 更に入り口付近にはジェイドの副官らしき兵士がが立っており、おそらく外にも何人かの兵士がいる。

 何か起こったとき、最低でもルークを連れて脱出できるか否かといえば、難しかった。

 

「……第七音素(セブンスフォニム)の超振動は、キムラスカ・ランバルディア王都方面より発生。マルクト帝国領タタル渓谷付近にて収束しました」

 

 淡々と話すジェイドの口角がかすかに引き上げられる。

 目元が柔らかくなっているところを見るとおそらく微笑んでいるのだが、スィンには早くも、それが笑みには見えなくなっていた。

 

「超振動の発生源があなた方ならば、国境を不正に越えて侵入してきたことになりますね」

「けっ、ねちねちとイヤミなおっさんだな!」

 

 不快感もあらわにルークは吐き棄てたが、彼が動じた様子はない。それどころか、

 

「へへ~。大佐、イヤミだって♪」

「傷つきましたねえ」

 

 余裕しゃくしゃくだ。

 

「ま、それはさておき。ティアが神託の盾(オラクル)騎士団だということはイオン様から聞きました。あなたのフルネームを教えてください」

「──ルーク・フォン・ファブレ。お前らマルクトが誘拐に失敗した、ルーク様だよ」

 

 それを聞き、イオンとアニスが驚きに目を瞬かせたが、ジェイドは表向き表情を変えなかった。

 ただ、眼鏡の位置を直しただけである。

 

「キムラスカ王室と姻戚関係にある、ファブレ公爵のご子息というわけですか……」

 

 公爵、という単語を聞いて、アニスがうっとりと身悶えている。

 それを視界の端に入れながら続く会話に耳を傾けた。

 

「だったらどーだってんだよ」

「なぜマルクトへ? それに誘拐とは……穏やかではありませんね」

「何ぬかしてやがる! お前らが──」

「誘拐の件はこの際おいといて」

 

 それそうになった話題を、スィンは強引に引き戻した。

 事情を知る身ゆえ、事実の詳しい検証を避けたのである。

 

「此度の件はおそらく二人の第七音素(セブンスフォニム)が偶発的に引き起こしたものです。ファブレ公爵家によるマルクトへの敵対行動ではありません」

「おそらく、というのは?」

「ちゃんと観測したわけじゃないので」

 

 ふむ、と頷いたジェイドに、イオンが語った。

 

「ジェイド、嘘ではないと思います。彼らから敵意は感じません」

「でしょうね。温室育ちのせいか、世界情勢にも疎いようですし」

 

 馬鹿にしやがって、とルークはそっぽを向いたが、イオンの提案で顔を元に戻した。

 

「ここはむしろ、彼に協力を願えませんか?」

 

 数瞬の間をおいて、ジェイドはルークに向き直った。

 

「現在、我々はマルクト帝国皇帝ピオニー九世陛下の勅命によってキムラスカ王国へ向かっています」

 

 勅命、という言葉を聞き、ティアは驚いたように口を覆っている。

 

「まさか、宣戦布告……?」

「宣戦布告って、戦争が始まるのか!?」

 

 するとアニスが笑って、否定するように手を振った。

 

「違いますよう、ルーク様v 戦争を止めるために私たちが動いてるんです」

「アニス。不用意な発言は避けてください」

 

 ジェイドにたしなめられ、アニスはちゃは☆と笑って誤魔化した。

 ルークとティアのやりとりを耳に入れながら、アニスの発言を推考してみる。

 

 戦争を止めるため、ということは、マルクトは和平でも申し込むつもりなのだろうか。

 マルクトの兵士だけではあまりに説得力がないから、導師イオンの協力を仰いで、皇帝の懐刀と名高いジェイド・カーティスに勅命を……

 そうなると、導師イオンが行方不明というのは──おそらく誤情報ではなく教団内の内部事情に関連するもの。

 ヴァン経由の情報では、保守派モース、改革派イオンに分かれてのローレライ教団内部分裂が勃発していると聞いている。

 

「ま、そういうわけですので、お力を貸していただけませんか? 戦争を起こさせないために」

「協力してほしいなら、もっと詳しい話を聞かせろよ」

「それは難しいですねえ。説明してもご協力願えない場合、あなた方を軟禁しなければなりません。ことは国家機密ですので。ですから、その前に決心を促しているのです」

 

 この言に、スィンは少し意外さを覚えた。

 問答無用で人質にしてキムラスカ王室に和平を迫るほうが簡単で借りも作れるというのに。

 それをあえてしないということは、マルクトは本気でキムラスカと仲良くしようと考えているのか。それとも導師イオンの手前、猫をかぶっているだけなのか。

 ルークはルークで何をさせられるのかわからないだけに悩んでおり、天井を眺めて沈黙を保っている。

 その間に、とばかりにジェイドが口を開いた。

 

「では、ルークの答えを待つ間、少々質疑応答に付き合ってもらいましょう──スィン」

「……」

 

 つとめて陽気に誘われた言葉を、スィンは嫌そうに眉をしかめて沈黙していた。

 

「あの、僕もスィンにお聞きしたいことが……」

「……なんですか、お二人とも?」

 

 沈黙を貫き通しては以後の交渉に差し支えるかもしれない。

 スィンは組んでいた腕をほどいて二人に向き直った。

 

「先ほどの誘拐とは、何の話ですか?」

 

 どうやら、無理に変えたあたりでひっかかってしまったらしい。

 

「──詳細は不明ですが、ルーク様はマルクトに誘拐され、それまでの記憶すべてを無くされた状態で保護されました。それが七年前の話です」

「おかしいですね。あなたはルークの護衛従者であるのに、詳細を知らないとは……」

「ルーク様の現護衛従者は僕の兄です。十数年前までは僕も護衛従者兼子守役でしたが、ある時を境にナタリア様──ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア王女殿下に気に入られて以来、僕はナタリア様の護衛従者兼傍仕えを務めております」

 

 キムラスカ王室唯一の直系にして第一王位継承者の名を聞き、ジェイドはそれでも平然とした顔をしていた。

 

「そうですか……ということは、先帝時代になりますねえ。その頃私は軍内部でそれほど重要な立場にはいなかったので……」

「あなたが関与していないことくらい、態度見ればわかりますよ。知っているのであれば、(まみ)えたその瞬間にルーク様を拘束していたでしょうし……それで、イオン様は何用で?」 

 

 頃合いを見計らって話題をすりかえる。

 現時点で嘘を言っていないのは確かだが、それでも話し続ければそのうちどこかに綻びが生じるだろう。

 わざとらしくイオンに質問の内容を聞くも、実はほぼ予想がついていた。

 

「あなたがライガ・クイーンに使った譜術のことなのですが──」

 

 来た。

 ぐっ、と拳を握りこむ。用意しておいた言葉を、頭の中で反復した。

 それは嘘とも事実とも違う、どちらも織り交ぜた説明にして、確認。

 

「あの術は、僕が見る限りダアト式譜術に酷似していました。あれは、どこで習得したものなのです?」

「……イオン様は、そのダアト式譜術の礎をご存知ですか?」

 

 探るような目で、イオンの新緑色の目を見つめる。

 もしも、もしも自分の予想が当たっていれば……

 

「いえ、知りません」

「古代秘譜術、のことですか?」

 

 予想的中したのと同時に、厄介な人の発言が入る。

 

「ジェイド。知っているのですか?」

「まあ、一応。とはいえど、専門外ですので存在しか私は知りませんが……」

「僕が使ったのはそれです。以前ダアトの図書室でその存在を知って、内容を詳しく解析した後個人で使えるレベルまで至ったものを使用しています。わかりやすく説明すると、ダアト式譜術に各音素を練り混ぜたもの、ですかね」

 

 まだ未完成ではありますが、と締めくくる。

 黙して思案している二人をよそに、スィンはルークへ目をやった。

 よくわからない内容がぽんぽん進められていることに、疎外感よりも混乱が際立ったらしく、きょとんとしている。

 

「ところでルーク様、いかがなさいます?」

 

 その言葉に、ふと我に返った様子でスィンを見やる。

 

「……お前はどう思うんだよ」

「世の中は大体がギブアンドテイクで成り立っています」

「はあ!?」

 

 わけわからん、と奇声をあげるルークに、スィンは一本指を突き出して見せた。

 

「協力して差し上げたらいかがです? 何をさせられるのかなら大体想像つきますし、イオン様が同行されるのであれば少なくとも人権侵害は免れると思いますよ。協力するかわりにキムラスカへ送っていってもらう。それでいいじゃないですか」

 

 よどみなく語られるスィンの弁に、ルークはほぼ納得していた。

 

「そんなもんかぁ? わかったよ。で、なんでこんなことになってんだ?」

 

 間接的にルークを説得したスィンに軽く黙礼をして、ジェイドは話を再開した。

 

「昨今、キムラスカとマルクトの間では小規模な小競り合いが頻発しています。このままでは、大規模な戦争へ発展していくでしょう。そこでピオニー陛下はキムラスカへ、和平条約締結の親書を送ることにしたのです」

「両国間の立場から、僕は中立として和平の使者を任されました」

 

 語られる内容に心中で頷きながら聞いていると、ルークがふと言い出した。

 

「それが本当の話なら、どうしてイオンは行方不明ってことになってんだ? ヴァン師匠(せんせい)はお前を探しに行ったんだぜ」

「それは……ローレライ教団の内部事情が影響しているんです」

 

 先ほどスィンが推察した内容を証明するカタチで、会話は続いていく。

 

「モースは戦争が起きることを望んでいます。僕はマルクト軍の力を借りて、モースの軟禁から逃げ出してきました」

「導師イオン!」

 

 イオンがここにいる過程の段階に差し掛かると、ティアは珍しく声を荒げて反論した。

 

「それは何かの間違いです! 大詠師モースがそんなことを望んでいるわけがありません。モース様は、予言の成就だけを祈っておられます」

「ティアさんは大詠師派なんですね、ショックですぅ……」

 

 アニスが呟けば、ティアは我に返ったように言いよどんだ。

 

「わ、私は中立よ。ユリアの預言(スコア)も大事だけれど、イオン様の意向も大切だわ」

「ティア」

 

 そのとき、何かを含むような言い方でスィンが口を挟んだ。

 ぜひ彼の反応が見たい。そんな面白半分で思いついた、屁理屈である。

 

「ティアの言い方だと、ちょっと見方を変えれば矛盾なくなるよ」

「……どういうこと?」

「大詠師モースは預言(スコア)の成就を願っている。でさ、仮に『戦争が起こるだろう』って預言(スコア)が詠まれていたとするなら、どうかな?」

「!」

 

 素早く一同の顔色を盗み見る。

 

預言(スコア)の成就を願う大詠師は、戦争を望む。ま、推測でしかないんだけど」

 

 言葉をなくしているティアに、口に手をやって驚くアニス。

 そして顔色に衝撃の強さが伺えるイオンをゆっくりと見た。

 

「……いやはや、えらく飛躍した発想ですね」

 

 ニュアンスの違いで意味が異なる感想を洩らしたジェイドは黙殺する。

 そこで、駄々っ子のようなルークの一声が入った。

 

「おーい! 俺を置いてけぼりにして、勝手に話を進めるな!」

 

 失礼しました、と頭を下げるスィンを苛ただしげに見て、ルークはテーブルを叩く。

 

「ああ、すみません。あなたは世界のことをなにも知らない『おぼっちゃま』でしたねえ」

「なんだと!」

 

 さらに不機嫌になるルークをなだめ、スィンはジェイドを軽く睨んだ。

 

「大佐。そこでからかうのは無しにしてください。ルーク様がへそを曲げてやっぱヤダ、とか言い出したらどうするつもりなんです?」

「それはもちろん、あなたが危惧しているような事態を引き起こすことになるだけだと思いますよ」

 

 その一言に顔を引きつらせてルークを見る。

 やはりよくわかっていないようで、眉間のしわが消えていない。

 

「教団の実情はともかくとして、僕たちは親書をキムラスカに届けねばなりません」

 

 イオンの言葉に、ジェイドが頷く。

 

「しかし、我々は敵国の兵士。いくら和平の使者だといっても、国境を越えるのは難しい。あまりぐずぐずしていては大詠師派の邪魔が入ります。そこで円滑に事を進めるためにはあなたの力──いえ、地位が必要なのですよ」

 

 なんともやる気を殺ぐような言い方に、スィンはこっそりとため息をついた。

 正直なのは結構なことなのだが、この男はどうしてそう嫌味な言い方しかできないのだろう。

 あなたの力が必要、の一言ですませてしまえば、ルークはいぶかしがりながらもうん、と頷いていたはずだ。

 事実、ルークは面白くもなさそうな表情でジェイドを睨んでいる。

 

「おいおい、おっさん。その言い方はねえだろ? それに、人にものを頼むときは頭下げるのが礼儀じゃねーの?」

 

 ティアの叱責をうるさそうにはねのけながらブーツをテーブルの上にドン、と乗せた。

 すかさずスィンが懐刀の鞘を軽やかに払う。

 緊張する面々を放っておいて、ルークの向こう脛めがけて振り下ろした。

 

「えい」

 

 鋭い音を立ててテーブルに刃が突き立つ。ルークはすんでのところで避けた。

 

「なんつーことすんだ、てめえはっ!」

「人に足の裏向けるなんて見苦しい真似しないでください。奥様がお嘆きになられますよ。今はまだ友好的の範疇にありますが、彼らの態度が一変したらどうするつもりです?」

 

 グランコクマの水路の肥やしになるのも、ザレッホ火山の火口から突き落とされるのも嫌ですからね、と涼しげな顔で嘯くスィンに、ルークの怒りは収まらない。

 

「刺さったらどうしてくれるんだよ、アブねー奴だな!」

「ティアが治してくれます。もとい、ルーク様ならきっと避けてくださると思いました」

 

 しれっとした顔で言い切る婚約者の従者にひと睨みくれてから、「で?」とジェイドの行動を促した。

 

『……ルーク。いい加減にしておけ』

「あ、はい! すいませんヴァンせん……へ?」

 

 突如重厚にして聞きなれた男の声──ヴァンの声が響いた。ティアも驚いたように視線をそこかしこに向けている。

 同じように視線を彷徨わせるルークだったが、すぐに発生源に気づいて声を荒げた。

 

「おまえっ……! またやりやがったな!」

「あはははっ! まーたひっかかった! ルーク様は単純~!」

 

 腹に据えかねた、とばかりにスィンへ掴みかかるルーク。

 楽しそうに、嬉しそうに逃げるスィンを興味深げに眺めながら、ジェイドは感嘆の息を吐いた。

 

「声帯模写ですか……これは見事ですね」

「すっごーい……総長そっくりだったよぅ」

「ええ……聞き違えたわ」

 

 鬼ごっこに一段落ついたところで、スィンは真面目な顔をしてルークの説得にかかった。

 

「ルーク様。その気になれば彼らは、あなたを人質にしてキムラスカに押し込む真似だって出来ます。そうなればマルクトに対し大きな借りを作ってしまいますよ。首を横に振ろうと縦に振ろうと結果が変わらないなら、穏便な手段を選びませんか?」

 

 邪気のない微笑みを向けられ、ルークは振り上げていた拳を下げた。

 ティアを見、イオンを見、渋い顔で「わぁーったよ」と呟く。

 

「叔父上にとりなせばいいんだな?」

「ありがとうございます。私は仕事があるので失礼しますが、ルーク様はご自由に。軍事機密に関わる部分以外はタルタロスを自由に見てもらってもかまいません」

 

 ほっとしたようにルークの解放を伝える大佐の顔色はすこぶるいい。

 なんとなく、微笑みにも元気があるように見える。ひと悶着起こさずに事を収めることができたからだろうか。

 

「呼び捨てでいいよ、キモイなー」

「わかりました。ルーク『様』──ところで、スィン」

「何か?」

「武装解除に応じていただけますか?」

 

 連行の際に暴れそうになったのが原因か、ジェイドは彼女の正面までやってくると手を差し出した。

 質問の形をとってはいるが、実質のところスィンに拒否権はない。

 嘆息して腰の剣を、懐刀を差し出せば、一応身体検査をするつもりなのか彼はスィンの肩に手を伸ばした。

 触れた瞬間、びくり、と体が震える。

 

「っ……!」

 

 まるでなにかの責め苦から耐えるように、服の上から武装の如何を確かめるジェイドの動きに歯軋りすらしながら、スィンは俯いて直立不動を保っていた。

 その様子をちらちら見ながら身体検査を続けていた大佐であったが、思いのほか武器らしいものはない。

 特にないようですね、と呟いて離れれば、彼女はほうっ、と息をついていた。

 

「スィン、どうしたの?」

「んー……別に何にも。緊張しただけ」

 

 微笑を浮かべてティアに向くその顔には、玉のような汗が浮かんでいる。

 その場の誰もが疑問を抱いている中、ルークは実にあっさりと事情を伝えた。

 

「あー、そういやお前男嫌いだっけな」

「違いますー。触れられるのが苦手なだけ、大佐みたいな人はむしろ好みですー」

 

 堂々と告白まがいをしてみせるスィンに、ジェイドは「照れますねー」とだけ呟いている。

 残念ながら嫌がらせにはならなかった模様だ。

 

「でもスィン、森から出てきたときルーク様にオンブされてなかった?」

「年下なら平気」

 

 アニスの質問に答えてから、うーん、と伸びをする。

 

「ルーク様。僕少し風に当たってきますね」

「お、おう……」

 

 失礼いたします、と速やかに扉の外へ出るスィンに続き、イオンが同じ理由で部屋から出て行く。

 

「ねえねえ、彼女大佐に惚れちゃったのかなあ?」

 

 なんだかきらきらした目でアニスがティアに問いかけているが、ルークはそれをあっさり否定した。

 

「ちゃうちゃう。あいつ、自分より年上でちょっと見た目がいいとすぐにそーゆーこと言い出すんだよ。こないだなんかヴァン師匠(せんせい)に色目使ってたし」

 

 兄さんに!? と驚くティアを置いて、なるほど、とジェイドが頷いた。

 

「だから本気にしねーほうがいいぜ、ジェイド」

「ご助言、ありがとうございます。では、私はこれで」

 

 爽やかな笑みを残しジェイドが退出すると、ルークは少女二人にチーグルと取り残される。

 さてどうしたものかと考えた矢先、アニスはルークの前にちょこちょこと移動した。

 そして上目遣いに首を傾げる。

 

「あのう、ルーク様v もしよろしかったら、艦内を案内しますけど?」

「あ? そうだなー、んじゃ頼むわ」

 

 出て行く二人を見送りかけ、ティアはとてとてついていくミュウの後を追って結局船室を出た。

そうして一行はタルタロスをゆく。

 アニスによるタルタロス内部の解説を受けている際、廊下に備え付けられた伝声管に向かって何事かを話している大佐に出会った。

 両手に花の状態で艦内散策を楽しむ彼らの姿を視界に収め、ジェイドが口を開こうとした、その瞬間。

 

「な、なんだ!?」

 

 突如警報が鳴り響いた。

 危険を知らせるアラームでしかないはずだが、鳴っているだけで不安を促すそれは、あまり長く聞いていたいものではない。

 

「敵襲?」

 

 杖を手に持つものの、それほど緊張していない様子のティアが誰ともなく呟く。

 アニスがわざとらしくルークの腰にしがみつくのに対し、ジェイドは完全に落ち着いた様子でそばの伝声管を操作し、話しかけた。

 

艦橋(ブリッジ)、どうした?」

『前方二十キロ地点上空にグリフィンの大集団です!』

 

 ざっと耳障りな音がした後、人の声が届いた。

 

『総数は不明! 約十分後に接触するものと思われます! 師団長、主砲一斉砲撃の許可を願います!』

「艦長はキミだ。艦のことは一任する」

『了解! 前方二十キロに魔物の大群を確認! 総員、第一戦闘配備につけ! 繰り返す、総員、第一戦闘配備につけ!』

 

 ばたばたとした気配が伝声管を伝ってくる。

 ジェイドは三人と一匹に向かうと厳しい表情で船室に戻りなさい、と伝えた。

 

「なんだ? 魔物が襲ってきたぐらいで……」

「ルーク。グリフィンは本来単独で行動する種族なの。普段と違う行動を取る魔物は危険だわ」

 

 動物だって危険の前兆なのに、と続けるティアに、ルークは余裕たっぷりに言い返そうとした。が。

 

「──わっ」

 

 轟音とともに、鈍い振動が断続的に響く。

 主砲が発射されたのであろう、遠くから悲鳴のようなもの、おそらく魔物の断末魔がかすかに聞こえた。

 誰もが黙りこくっている。続いていた射撃音が途切れた頃、これまでにない激しい揺れが艦内を大きく揺さぶった。

 音機関の駆動音が遠くなり、やがて完全に聞こえなくなる。

 

「どうした!?」

『グリフィンからライガが投下! 艦内に入り込まれ、機関部を──!』

 

 音声が途切れ、何かを裂くような音、何かをかきむしる音、聞くに堪えない悲鳴が混じりあった音が響き──沈黙した。

 

艦橋(ブリッジ)! 応答せよ、艦橋(ブリッジ)!」

 

 しかし答えはない。ジェイドは顔をしかめて伝声管を閉じた。

 

「ライガってあの、お前んとこの森で倒した魔物だよな?」

「そ、そうですの……」

 

 震えるルークの問いに、ミュウが頷く。

 ライガ・クイーンの姿が浮かび、ルークはぞっとした。食い殺されそうになった恐怖はいまだ忘れていない。

 

「じょっ、冗談じゃねえ! あんな魔物がうじゃうじゃ来てんのかよ! 俺は降りるからなっ!」

 

 半ば恐慌状態になって廊下を走るルークの背中に、ティアが呼び止めんと声をかけた。

 

「待って! 今外に出たら危険よ!」

 

 制止する声を振り払ってルークは廊下を駆けた。

 直後、彼の傍にあった隔壁の扉が開き、その体が壁に叩きつけられる。

 

「ご主人様!?」

 

 ミュウが叫ぶ頃にはもう、ルークは一振りの大鎌で壁にはりつけられていた。

 

「ひっ!」

「……大人しくしてもらおうか」

 

 重厚にして渋い低音が反響し、ルークを吹き飛ばした大男がのっそりとジェイドたちの前に立ち塞がった。

 巨大な体躯には黒を基調とし、真紅のラインで縁取られた外套をまとっており、片手で持った大鎌は、いつでもルークの首を刎ねる用意ができている。

 身構えていた彼ら──譜術を発動させようとしていたジェイドは、仕方なしに詠唱をとめた。

 

「それでいい。マルクト帝国軍第三師団師団長ジェイド・カーティス大佐──いや、死霊使い(ネクロマンサー)ジェイド」

 

 ゆっくりと前へ出るジェイドを見つめ、ティアが驚愕したまま呟く。

 

死霊使い(ネクロマンサー)ジェイド……あなたが……!?」

 

 フ、と彼は自嘲気味に笑んだ。

 

「これはこれは。私もずいぶんと有名になったものですねえ」

「戦乱のたびに骸を漁るお前の噂、世界にあまねく轟いている」

「あなたほどではありませんよ。神託の盾(オラクル)騎士団六神将『黒獅子ラルゴ』」

 

 そこで、ラルゴの片手がかすかに大鎌を握りなおした。わずかに動いた鎌刃がルークの首筋に迫る。

 

「だが、噂はしょせん噂だな。こんな坊主一人のために、みすみす勝利を逃すとは」

「色々と事情がありましてね」

 

 息詰まる舌戦が繰り広げられている間にも、甲板へ繋がる昇降口からは剣戟と、兵士たちの断末魔が聞こえてきた。

 

「それはこちらも同じこと。いずれ手合わせ願いたいと思っていたが、残念ながら今はイオン様を貰い受けるのが先だ」

「それには応じられませんね」

 

 隙をうかがっていたティアとアニスが動こうする、が。

 

「おっと! この坊主の首、飛ばされたくなければ動くなよ」

 

 牽制され、ティアが無言で唇を噛む。やれやれ、とジェイドはラルゴを見やった。

 

「あなた一人で私を始末できるとでも?」

「貴様の譜術を封じればな」

 

 不意に、ラルゴが手でもてあそんでいた箱を放り投げた。

 箱はくるくる回りながらジェイドの上空で静止し、不気味な青い光を放つ。

 光はジェイドを包み込み、彼は苦しげに呻いて膝をついた。

 

「まさか、封印術(アンチフォンスロット)……!?」

「そうだ」

 

 ティアの呟きに対し律儀に答えてから、ラルゴは初めて大鎌を両手で握った。

 

「導師の譜術を封じるために持ってきたが、こんなところで使う羽目になるとはな」

 

 ルークが解放される。そのとき。

 

「ウダウダうぜぇんだよ、このデカブツがぁ!」

 

 どこかで聞いたような、聞かないような罵声に、ラルゴが思わず振り向きかけた。

 弾丸のように飛んできたとび蹴りが巨漢の側頭部に埋まる。

 よろめくラルゴを更に足蹴にして、床に降り立ったのは。

 

「「……スィン!?」」

「大丈夫ですか、ルーク様!?」

 

 ラルゴをのぞく全員の声を無視して、へたりこむルークを安全圏へと引きずっていく。

 

「アニス、イオン様が拉致られた! 早く行ったほうが……!」

「行かせるか!」

 

 スィンの言葉にいち早く反応し、ラルゴの脇をアニスが走り抜けようとした。

 妨害すべく立ち塞がるラルゴを、立ち上がったジェイドがいつのまにか取り出した槍で牽制するようにして気を引く。

 結果、ジェイドとラルゴの位置が入れ替わり、アニスは無事戦場を通り抜けた。

 

「イオン様をお願いします! 落ち合う場所はわかりますね!?」

「大丈夫っ!」

 

 言葉少なに駆け去った少女を見送り、ジェイドが堂に入った構えを取った。

 更に、ミュウへ指示を出す。

 

「ミュウ! 第五音素(フィフスフォニム)を天井へ!」

「は、はいですの!」

 

 スィンに護られる主人の姿を確認しながら、ミュウが天井へ炎を吐いた。

 炎は音素灯に着弾し、急激に温度を上げた譜石は閃光を放つ。

 

「ぬおっ!」

 

 ようやく頭がはっきりしてきたところで今度はまばゆい光をまともに見てしまい、視界を奪われたラルゴが、めちゃくちゃに大鎌を振り回した。

 

「ひ……っ、うわあっ!」

「ルーク様!」

 

 巨大すぎる鎌が間合いの外まで飛び、逃げ遅れたルークの眼前に迫る。刃が迫る視界に、金色のなにかが覆いかぶさった。

 突き飛ばされ、廊下に倒れこむ。なんとか起き上がった彼が見たものは、得物を失ってジェイドの槍を左胸に受けたラルゴと、そして。

 常に束ねている髪をざんばらに撒き散らし、うつぶせに倒れているスィンの姿だった。

 

 

 

 

 

 




オリジナルキャラクタービッチ疑惑浮上《笑》 
年齢制限つきの異性恐怖症という設定ですが、果たして真相やいかに。


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第八唱——運命と偶然と奇跡の違い

 

 

 

 

 

 

「スィン! しっかりして!」

 

 ラルゴが地響きを上げて、廊下へ横倒しになる。

 ジェイドの持つ槍が光の粒子となって消える頃、そのラルゴから大量の出血が確認できるほどとなっていた。

 血溜まりが、ルークの顔を映す。

 人が刺されるのを目の当たりにして、彼はスィンの安否を気遣うどころか、身動きすら取れなかった。

 

「……うー。油断したー」

 

 押し殺した声音で、スィンがむっくりと起き上がる。

 

「お、お前、無事ならさっさと起き……」

 

 倒れたラルゴから目をそらすようにしてスィンに文句を言いかけ、黙った。

 彼女は腕のあたりを押さえ、ぷいと横を向いたからである。

 覆った左手からは、かすり傷とは到底思えないほど血液が溢れていた。

 

「ティア。お願いできる?」

 

 ルークに背を向ける形でティアと向き合い、左手を外す。鋭く息を呑むティアの表情を見て、その様子は推し量れた。

 それでもティアは怯える様子を見せず、しかし痛ましげな様子で治癒術を行使している。

 

「イオン様はアニスに任せて、我々は艦橋を奪還しましょう」

「でも、大佐は封印術(アンチフォンスロット)で譜術を封じられたんじゃ──」

「えっ!?」

 

 封印術(アンチフォンスロット)、という単語を聞き、スィンは驚いたようにジェイドへ走り寄った。

 彼のすぐそばに転がっている奇妙な箱を拾い上げ、交互に見る。

 

「あの、大佐。動けますか? 確かこのタイプは体内のフォンスロットを強制的に閉じる上に、対象者の体へ多大な負荷をかけるから譜術が使えない、だけでは済まないかと」

「そうなのですか? まあ、確かに体が重いのは事実です。これを完全に解除するには数ヶ月以上かかりそうですが、あなた方という戦力があれば奪還は可能だと思いますよ」

 

 没収していた武装をスィンへ渡す。

 戦えるか否かを問うが、彼女は平気です、の一言で片付けた。

 ざんばらになった髪を、器用に片手でぞんざいにまとめている。

 

「ティアの治癒術に合わせて第七音素(セブンスフォニム)を上乗せしたので、何とか」

「でも、無理はしないでね。──行きましょう、ルーク」

 

 呆然としているルークに声をかけ、ティアとジェイドは階段に足をかけた。

 スィンだけが駆け寄ってきて、そっとルークの肩に手をやる。

 

「ルーク様。参りましょう」

「あ……ああ」

 

 ラルゴに極力目をやらないよう、ルークは二人の後に続いた。

 目の前で人が刺されたら、民間人がごく当たり前に示す反応である。そのくらいは、スィンも想像できていた。

 しんがりを務めて甲板へ出る。

 ルークは肺の中のよどんだ空気を洗い流すように深呼吸していたが、他の二人は何事もなかったかのように会話をしていた。

 

「彼らが導師イオンを攫おうとするのは、やはり和平交渉の妨害のためですか?」

「どうでしょうねえ。確かにキムラスカ・マルクトへの影響力を考えると、イオン様の存在はかかせません。イオン様をバチカルへ近づけない、というのは一番の妨害策ですが、軍用艦を襲撃するほどのことを考えると……」

「裏があると?」

「推測だけで断言はできませんよ。この場を収めたあと、ゆっくり考えましょう」

 

 会話を耳に入れながら、スィンは控えめに咳をした。

 それを咎めと受けたのか二人は押し黙ったが、ルークはちらちら来た方を見ながら呟くように言う。

 

「なあ……あのラルゴとかいう奴、死んじまったのかな」

 

 ──どうもさっきの姿が脳裏から離れないらしい。

 

「殺すつもりで攻撃しましたが、生きているとなると少々やっかいですねえ」

 

 ルークの問いの内容が理解できていないのか、理解していて言っているのか。とにかくジェイドは含みをもたせるような声音で答えた。

 

「何も殺すことはなかったんじゃないか?」

 

 どこかすがるように訊くルークに、どこか馬鹿にするかのような、呆れたような様子でジェイドが返す。

 

「おやおや。あちらは我々を殺してもよく、こちらは相手を殺すのはよくない、では道理が通りませんねえ」

「けどよ!」

 

 イヤミに動ずる余裕もないままルークが声を荒げると、ティアはルーク、とどうにか辛抱している、といった様子で語った。

 

「これは軍事演習とも、剣術の稽古とも違うわ。相手の命を気遣う余裕なんてない」

 

 まったく納得することなく、ルークが言葉を重ねようとする。

 一時しのぎにしかならないとわかっていながら、スィンは口を挟んだ。

 

「──お二方。言っていることは承知できますが、ルーク様は民間人です。二人とは戦場の経験も、人の死に対する衝撃も、あまりに違う。ほんの少しでいいから、理解を求めます」

 

 その言を聞き、気まずげに黙るティアと表情が読めない大佐を横目に、スィンはルークへも説得を語る。

 

「されど、二人の言っていることはこの状況において真実です。殺さなければ殺されてしまう。どうしても、たとえ命を失ってもご自分の手を汚したくない、と仰られるなら──腰のものを棄ててください」

 

 色違いの瞳に見つめられ、ルークも言葉を失くした。

 その光景を見て、ジェイドがふむ、と頷いている。

 

「擁護するだけではなく、諌めることもできたのですか。忠実な番犬では失礼でしたね」

 

 それに応じることはなく、甲板全体を眺めるように観察した。

 魔物や兵士がたむろし、ティアの譜歌ですべて昏倒させるのは難しいように思える。

 

「あのー、これを突破するんですか?」

「ご冗談を。いくらなんでも体力が続きません。他の兵を呼んでしまうでしょうし」

 

 非常経路を伝って、艦橋へ続くもうひとつの扉の前へと移動する。

 通常使われない扉だけあって警戒は薄く、見る限りたった一人しか兵士はいなかった。

 一行の姿を認め、兵が身構える。スィンが飛び出し、その隙にティアが譜歌を詠った。

 清らかな歌声が周囲の空気を震わせる。兵士は剣を抜いた直後に昏倒した。

 フルフェイスに刻まれた音叉形の隙間から、兵士の素顔がのぞいている。

 

「……アホ面して寝てやがる」

 

 殺さずにすんだことの安堵を内心に秘め、ルークは馬鹿にしたように兵士を見下ろした。

 そのそばでミュウが「ティアさん、すごいですの!」と歓声を上げている。

 

「さて、タルタロスを取り返しましょう。スィンは周囲を見回ってきてください」

「はーい」

「ティアは譜歌で艦橋内の敵を一掃、ルークは……そこで見張りをしていてください」

 

 足手まといと認識したのか、ルークは鼻を鳴らして拗ねている。

 

「ルーク様。すぐに戻ってまいりますので、くれぐれもお気をつけて」

「単なる見張りで子供扱いすんな、さっさと行ってこい!」

 

 苦笑混じりで彼に聞こえないようにはいはい、と呟き、スィンは走り去っていった。

 ジェイドがティアと共に艦橋へ入っていく。

 その場にはルークとミュウ、アホ面で眠っている兵士だけが取り残された。

 

「しかしまー、あんな攻撃でどうして寝ちまうのかねぇ」

 

 自分も睡魔に襲われたくせに、それを棚上げしてルークは独り言を呟いた。

 それを自分に話しかけられたと勘違いしたミュウが、舌っ足らずのカン高い声で答える。

 

「ティアさんの譜歌は第七音素(セブンスフォニム)ですの」

 

 ルークの気持ちなどまったく汲まない、常に明るい声がなんとなく苛つく。

 内容がわからないことも関係していた。

 

「またそれだ。第七音素(セブンスフォニム)って何だよ」

「何って、七番目の音素ですの。新しく発見された音の属性を持つ音素ですの。ローレライ教団の始祖ユリアは、チーグル族から第七音素(セブンスフォニム)を学んだですの。特別ですの」

 

 の。の。の。の。

 スィンやジェイドのものと変わらない敬語なのに、そのはずなのに。

 なぜかこいつから発せられるこの言葉はムカつく。

 

「だーっ! お前のしゃべり方、うぜーっつーの!」

 

 苛々の高まったルークは、ミュウの柔らかな耳を片方つかむと、めちゃくちゃに振り回し始めた。

 

「ごめんなさいですの~!」

 

 本心はともかく、とにかくこの状況から逃れるためにミュウは謝罪を口にした。

 遠心力で判断力が鈍ったのか、なぜかその口から火が零れる。

 ──と。その炎が風にあおられ、昏倒した兵士の鼻先をあぶった。

 びくん、と兵士が上体を動かす。

 

「おわっ!?」

 

 その様子を目敏く発見したルークが、息をのみ兵士を見つめた。

 放り投げられたミュウは強風に乗って、遥か先にいるスィンの元へ転がっていく。

 スィンがミュウを抱き上げた。それを視界の端に認めながら兵士を凝視するが、動く気配はない。

 

「お、驚かせやがって……一生寝てろ、タコ!」

 

 激情をそのまま、足で兵士にぶつけると、その衝撃で気づいた兵士の剣が空を薙いだ。

 その様子を見たスィンが顔色を変え、ミュウを肩に乗せたまま駆けてくる。しかし、距離がありすぎた。

 

「うわ、おっ、起きやがった……!」

「し、死ね!」

 

 兵士が再び剣を構えなおす。

 譜歌の効果でいまだ兵の足取りが重いのが幸いし、ルークには剣をひきぬく時間が与えられた。

 

「ひ、く、くるなっ!」

 

 鈍い斬戟を払うものの、それで相手があきらめてくれるわけがなく。

 

「うおおおっ!」

 

 引きずるように持っていた剣を、兵士は思い切り振りかぶり、剣の重みをもってルークに斬りかかった。

 

「くるなっ……くるなぁっ!」

 

 目を閉じる。殺さなければ殺されてしまう。スィンの言葉が蘇った。

 あちらは殺してよく、こちらは殺すのはよくない。ジェイドの声。

 相手の命を気遣う余裕はない。ティアの──

 いつまで経っても予想していた衝撃が来ないこと、自分の持つ剣が弾力のある何かを貫いていく感触にいぶかしみ、ルークは目を開いた。

 その目が限界まで見開かれる。

 鍛えられていた故に体が反応を見せたか、彼の剣は神託の盾(オラクル)兵士の腹──鎧の隙間を貫通していた。

 粘性を帯びた液体が剣を伝い、ルークの手のひらを濡らす。

 

「ぐぅっ……」

 

 ルークが剣を手放す前に、兵士は最後の力を振り絞って剣を振り下ろした。

 

「ルーク様!」

 

 ようやく現場に駆けつけたスィンがその剣を払ったが、とどめを加える前に兵士はそのまま倒れた。

 まとう鎧を己の棺桶とした兵士の絶命を悟り、ルークが慌てて剣を手放す。

 尻餅をついて震えながら、ルークはまだらに染まる己の手を凝視した。

 

「さ……刺した……俺が、殺した……?」

 

 激しい動揺を見せる元主を落ち着かせんと、スィンが傍へ寄る。

 しかし片手に握られた剣を見た途端、「うわあっ!」と悲鳴を上げて振り払った。

 バタン、と扉が開いてティアとジェイドが飛び出してくる。

 

「な、何が起きたの!?」

 

 仰向けに倒れている兵士と突き飛ばされた状態で痛ましげな表情を浮かべているスィン、血に濡れた両手を見つめ震えているルークを素早く見比べた。

 まずい、とジェイドが呟く。

 

「今の騒ぎで譜歌の効果が切れ始めました」

 

 遠くから、鎧が奏でる不協和音が風にのって運ばれてくる。

 そして、その音を掻き消すかのような怒声が響き渡った。

 

「──人を殺すのが怖いなら、剣なんて棄てちまいな! この出来損ないがっ!」

 

 ハッとしたようにティアが上空を見る。

 数瞬遅れてそれに倣ったルークだったが、降り注ぐ巨大な氷柱の直撃を受けて昏倒した。

 ただし、他二人の反応は素早い。

 

「流石は死霊使い(ネクロマンサー)殿。しぶとくていらっしゃる」

「……」

 

 間一髪逃れたジェイドは、デッキに降り立った赤毛の男と向き直った。

 一瞬だけ曇らせたその表情は、しかしその向こうにある見慣れた顔を見つけ、にこりと微笑へ変える。

 

「……僕はノーマークですか?」

「気づいてないだけだと思いますよ」

 

 自分の背後から聞こえてきたその声に、彼ははぎくりとした様子でとっさに振り向いた。

 よくよく見てみれば、人影は四人あったはずなのに、昏倒しているのは二人、逃れて目の前にいるのは一人。

 振り向き様剣を引き抜けば、重い衝撃と共に刀身から火花が散った。

 

「……あ」

 

 金色の髪に縁取られた顔が、驚愕の表情をかたどった。

 間近に迫った色違いの瞳に激しく動揺しながら強く睨みすえ、思い切りはじき飛ばす。

 

「っと!」

 

 それをうまく受け流し、スィンは彼と距離を取ると見せかけて近距離から何かを放った。

 しかし剣で払われ、それはころころとデッキを転がる。

 

「──スィン。ルークを護るのではなかったのですか?」

「……つい、体が反応してしまって」

 

 ラルゴがまとっていたものと同じような黒衣の青年を警戒しながらルークに駆け寄ろうとすると、神託の盾(オラクル)兵がやってきて倒れた二人を取り囲んだ。

 

「あ、ルーク様! ティア!」

「人質にされてしまいましたねえ」

 

 緊張感のないジェイドの声にかぶせるように、兵の一人が二人の処遇を尋ねてきた。

 

「殺せ」

 

 はき捨てるように言うのと同時に、

 

「アッシュ!」

「ええっ!?」

 

 スィンがおおげさに驚いた。

 新たに現れた同僚らしき女性が青年──アッシュをいさめている間にも、二人の会話は続く。

 

「何を驚いているんです?」

「だって、殺せって。この人そう言いましたよね?」

「この人は失礼ですよ。確か、六神将の一人、鮮血のアッシュ、でしたか」

「殺すつもりなら、手加減なんて初めからしませんよね」

 

 心底意外だとでも言うように、スィンはアッシュをまじまじと見つめている。

 

「ああ。多分本気だったのでしょうが、命を奪うには至らなかっただけだと思いますよ」

「なーんだ……」

 

 生け捕りにするつもりなのかと思った、と肩をすくめているスィンと、面白そうにその彼女を見つめているジェイドを顎で指し、アッシュは盛大に怒鳴った。

 

「あそこでだべってる二人も捕らえて船室に監禁しとけ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兵士による武装解除にしぶしぶ応じるスィンを横目で見ながら、アッシュは彼女の投擲したそれを拾い上げた。

 ナイフではない。先端だけが尖った黒い棒で、投げて突き刺すことができるよう重心が安定している。

 棒の部位に特殊な刻印がされてあるそれを、珍しすぎるスィンの瞳の色を、アッシュは確かに見たことがあった。

 これは──

 

「おい」

 

 後ろ手に拘束され、連行されるスィンとジェイドの背中に声をかける。

 

「女のほうに用事がある。寄越せ」

「はっ」

「ハア!?」

 

 どんっ、と突き飛ばされたスィンの二の腕をつかみ、艦橋へ引きずっていく。

 

「いっ……!」

「あ?」

 

 アッシュが掴んでいるのは、先ほどルークをかばい、ラルゴの大鎌を受けた側の腕だ。

 危うく寸断される手前だった腕は治癒術によってどうにか繋がっているものの、完璧に癒えたわけもなく。

 掴んだその箇所から傷口が破れ、出血している。

 

「……ちっ」

 

 それに気づいた時点で二の腕を離し、痛みに耐えるスィンに自主的に歩くよう促した。

 引きずられた勢いで腕が千切れなくて本当によかった。

 それに安堵している間に、ルークやティアまで搬送されていく。

 彼らがどこへ連れて行かれるのか。せめてそれを見届けようとして。あらぬ方向を見ていたせいか艦橋に続く扉の横に背中から強く叩きつけられ、大きく咳き込んだ。

 咳が収まったところで胸倉をつかまれ、アッシュの顔が接近する。

 

「答えろ。こいつはどこで手に入れたものだ?」

 

 眼前に突き出されたのは、スィンの放った棒手裏剣だった。

 アッシュの手の中で、それはくるりと一回転する。

 

「どこで……? 製造場所なんて知らない。ある人がくれたものだから」

 

 ある人。

 その単語を聞いて、アッシュは考え込むようにして押し黙った。沈黙を経て、質問が飛んでくる。

 

「──そいつの名は?」

 

 その名が回答され、耳にした途端。アッシュはスィンの両肩を激しく揺さぶった。

 

「そいつは今、どこにいる!?」

 

 両肩が軽くきしむのを感じながら、スィンは「知らない」とだけ答える。

 落胆を隠し切れないアッシュに、彼女は一言付け加えた。

 

「ときどき連絡は取ってるけど、居場所なんて聞いたこともない。だから、知らない」

 

 その返答に、アッシュはしばし黙って考え込んでいたが、再び歩くよう促した。

 抵抗することもなくついていくと、階段を下りる途中で不意に小さな囁きが聞こえる。

 

「……に会ったら伝えろ。鮮血のアッシュが連絡を取りたいと」

 

 やがてある部屋の前に連れて行かれると、扉が開くと同時に突き飛ばされた。

 たたらを踏んでいる間に扉が閉められ、アッシュの足音が遠ざかっていく。

 

「無事でしたか」

 

 幾分ほっとしたかのように見えるジェイドの顔を見て、更に無事な様子のティアとルークを見て。

 スィンもようやく息をついた。

 

 

 



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第九唱——逆転につぐ逆転

 

 

 拘束をティアに解いてもらい、乱暴に扱われたせいで再び出血している箇所を診てもらう。

 そんな折、ルークの顔色に気づいて声をかけようとして。

 

「──何かされませんでしたか?」

 

 ジェイドの問いに邪魔される。

 

「いや別に。どうしてここにルーク様がいるのかとか、封印術(アンチフォンスロット)は誰にかかったのかとか、そんなことをいくつか聞かれただけで」

 

 どうせ彼に真偽を知る機会は訪れない。

 適当にそれっぽいことを答えた直後、こみ上げるものを感じてスィンは小さく咳を繰り返した。

 なかなか止まらない咳にティアが心配して背中をさする。

 ありがと、と呟けば咳は止まった。

 

「どうしたの? 今までも何回かしていたみたいだけど」

「……僕、持病持ちでさ。ときどきこんな感じで発作が出るから薬で抑えてたんだけど、今はないから」

 

 こうなるに至った過程を思い出し、ティアがすまなさそうに眉を歪ませた。

 まだ平気だから気にしないで、と明るく言い、やっとルークに声をかける。

 

「ルーク様。お顔の色がすぐれないようですが……」

 

 お前は。ルークの口がそう動いた。

 

「はい?」

「なあ! なんでお前は平然としてられるんだ!?」

 

 いきなり胸倉を掴まれて引き寄せられる。

 スィンの脳裏で既視感が渦巻いた。

 

「何のことです?」

「だから、魔物と戦ったときも、人と戦ったときも! ティアやジェイドは軍人なんだろ。でもお前は今までバチカルにいたんじゃないのか!? 俺と同じ立場にいたんじゃないのか。どうして平気な顔して、人に剣を向けられるんだよ!」

 

 ジェイドやティアとひと悶着あったのか、その顔は同意を求める色が濃い。

 事情を伺うのは後にして、スィンは自分に求められた答えを口にした。

 

「……平気、ではありません。ずぅっとバチカルにいたわけでもなければ、同じ立場だったわけでも」

「はぐらかすな!」

「殺さなきゃ殺される。そんな状況に放り込まれたことがあるから、です」

 

 ルークから初めて目をそらし、スィンは軽くうつむく。力の抜けかけていた手を胸倉から外させた。

 

「状況は、今以上に狂っていたと思います。誰もかも、何もかも失われていく。その中で生きることを選び、人を殺めました」

 

 淡々と話すスィンから、ルークはあわてて飛び退る。

 彼が何を思ったのかは、その場の誰もが察することだった。

 そんなルークを寂しそうに見つめ、しかしスィンは微笑んだ。

 

「どのように罵ってくれてもかまいません。人を殺したそのとき、人は狂うとも言われています。もうすでに狂っているのかもしれません」

 

 でも、これだけは譲れない。

 

「もう何も失いたくないんです。あの時僕が戸惑いさえしなければ、失わなかったものがある」

 

 もう、あんな後悔はしたくないから。スィンはそう締めくくった。

 

「それでは、ダメですか?」

「……」

 

 沈黙するルークから少し離れ、スィンは二人に事情の説明を求める。

 

「スィンが戻ってきたら、反撃に出ましょうと提案したところ、彼はそれに猛反対しました」

 

 要約するとそんなところですね。

 必要最低限の情報を教えてくれるジェイドを半眼で見てから、ティアに改めて説明を求める。

 しかしティアは首を横に振った。

 

「ごめんなさい。それ以上、私に要約はできないわ……」

 

 つまり二人とも詳細を話してくれる気はないらしい。

 スィンは嘆息して、ルークを見やった。

 

「──剣をお棄てになられますか?」

 

 どこかで聞いた台詞に、彼が反応する。

 

「どうしても嫌だと仰られるのなら、それでもかまいません。必要なら今までと同じく僕は盾にもなりましょう。しかし、戦われるにもかかわらず相手にとどめがさせないなら、それはほぼ、あなたの死を意味します。殺すことがお嫌なのでしたら、たとえあなたが戦う力を持っていても、僕は──いえ、僕も剣を手放してくださるようお願いします」

「そ、そんなこと言ってない! ……なるべく戦わないようにしよう、って言ってるだけだ……」

「……それは僕たちも、願っていることですよ」

 

 唯一そうではないかもしれないジェイドを見る。

 彼は相変わらずの微笑を浮かべていた。

 

「それでは戦うのですね? その気があるなら戦力に数えますよ?」

「……戦うって言ってんだろ」

 

 苦渋に満ちた声で、ルークは頷いた。

 

「結構」

 

 やれやれ、といった様子で、ジェイドは壁に備え付けられている特殊な形をした伝声管を操作した。

 操作方法からして、伝声管に似せて作られたまったく別の装置らしい。

 

「……死霊使い(ネクロマンサー)の名によって命じる。作戦名『骸狩り』始動せよ」

 

 途端。鈍い衝撃が足元を揺らし、音素灯が明滅する。

 しかしそれはほんの一瞬のこと、あたりから光源が消えて失せた。

 その代わり、足元の小さな音素灯が灯り、薄闇の中で誰かの動揺が伝わってくる。

 

「どういう手品なんです?」

 

 ジェイドがいた場所に問いかければ、手品とは心外です、と笑みを含んだような回答が返ってきた。

 

「こんなこともあろうかと、タルタロスに登録しておいた非常停止機構です。復旧にはしばらく時間がかかります」

 

 ふえー、とルークの抜けた感嘆が聞こえる。

 脱出はどうするのかとティアが聞けば、ジェイドは壁の一部を蹴って隣への通路を確保した。

 

「もろい戦艦……」

 

 単なる仕掛けだと知りながらぽつりとスィンが呟くと、ジェイドはにっこりと笑って、「抱きしめて差し上げましょうか?」と囁いた。

 大慌てで近くにいたティアの後ろに隠れると、彼は満足そうに笑って隣室へ出る。

 没収されていた三人の武器は、無造作に床を転がっていた。

 

「では、左舷昇降口へ行きましょう。非常停止した場合、あそこしか開かなくなりますから。イオン様を連れた神託の盾(オラクル)兵もそこから艦内に入ろうとするはずです」

 

 イオン様を連れた神託の盾(オラクル)兵、とくだりで不思議そうに質問するスィンにティアとジェイドが交互に答えながら、一行はわりとさくさくと──魔物や兵士と出会うことなく──目的地へ向かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「間に合ったようですね」

 

 タルタロス左舷昇降口の扉の前、すぐ傍にあるのぞき窓から外を見つつジェイドは囁いた。

 今の今まで無手だったその手には、一振りの槍が握られている。

 

「現れました。イオン様のようです」

 

 緊張しているのかしていないのか微妙にわからない声音に全員が反応し、各々の武器を握りなおした。

 ごくり、とルークが息を呑むのが聞こえる。

 

「このタイミングでは詠唱が間に合いません。譜術は使えないもの、と考えてください」

「どっちにしたって封印術(アンチフォンスロット)のせいで使えないんだろ」

 

 ルークは鼻で笑い飛ばした。

 いまだに残るかすかな恐怖をまぎらわせるために言ったのかもしれないし、本心なのかもしれない。

 そんなルークをいさめるように、ティアは眉をひそめた。

 

「大佐は今も封印術(アンチフォンスロット)を少しずつ解除しているのよ。そんな言い方、最低だわ」

「かまいませんよ、事実ですから」

 

 ですが、とジェイドは横目でスィンを見た。

 

「もう少しスィンが早く来てくだされば、封印術(アンチフォンスロット)は使われなかったかもしれませんねえ」

「誰かさんに得物を取られて思いのほか苦戦したっけ。結局イオン様も連れて行かれちゃったし。あ~、武装解除なんかに応じてなかったらな~」

 

 気のせいか険悪──ジェイドは揶揄気味だがスィンは一方的に敵意を飛ばしている──二人の空気に押されつつも、「非常昇降口を開け」と言う指示が外から聞こえてきたことを皮切りに彼らの様子は一変した。

 

「来ます。ルーク、お願いしますよ」

 

 扉の前に立ち、ルークがミュウの頭を持って顔の位置まで上げる。

 ぷしゅ、と空気が抜けるような音がして、扉が開いた。ほぼ同時に。

 

「おらぁ! 火出せぇ!」

 

 勢いよくミュウを突き出し、その言葉にミュウが従う。

 顔面に火炎を浴び、神託の盾(オラクル)兵は悲鳴を上げて階段から転がり落ちた。

 その向こうで、ルークはイオンの前に立つひとりの女を目にする。

 蜂蜜色の髪にやはり黒を基調とした、しかしこちらは襟と丈の短いスカートの部分だけが白い制服を身にまとっていた。

 美人だが、その瞳は猛禽類並みに鋭い。

 ここ最近で急に知り合いとなった少女に酷似する雰囲気を持った女は、両腰から下げていた二本の棒のようなものをルークへ向けていた。

 しかしその直後、立ち位置を変えて跳びすさる。

 一瞬のちには、その場に棒手裏剣が突き刺さるも、それは囮。

 彼女が着地した瞬間、反対の方向から槍が伸びて白い首筋に突きつけられる。

 そんな状況下でも、女は口元に笑みを浮かべていた。

 

「流石はジェイド・カーティス。譜術を封じても侮れないな」

「お褒め頂いて光栄です」

 

 口調だけは平時と変わらず、ジェイドは真紅の瞳を油断なく巡らせる。

 

「ルーク、イオン様を」

「あ、ああ……」

 

 ミュウをぶら下げたまま階段を降り、兵士を抑えているスィンの横を通ってジェイド越しにイオンを見る。

 彼の人は疲れたように息をついて、木立に身を預けるようにして立っていた。その様子はチーグルの森で初めて会ったときと酷似している。

 

「ティア、譜歌を!」

 

 彼らを完全に無力化させるために、ジェイドは控えていたティアを呼んだ。

 そのとき、女の表情にかすかな変化が生まれる。

 

「ティア……?」

 

 左舷昇降口の暗がりからティアが姿を現し、譜歌をくちずさむべく杖を構えた。

 しかし、ジェイドに抑えられた人影を見て目をみはる。

 

「ティア・グランツか……!」

「リグレット教官!?」

 

 二人が同時に互いの名を呼んだ。直後、ティアがハッとしたようにてすりを乗り越え大地を踏む。

 ティアが直前まで立っていた場所、左舷昇降口付近で輝きが破裂した。

 あまりの眩さに、距離があったにもかかわらず大半が目を覆う。

 

「大佐っ!」

 

 唯一目を開けていたスィンが、警告を叫んだ。

 リグレットがジェイドの槍をかいくぐり、彼の指示で地に転がしておいた銃を拾い上げるのが見えたのである。

 そのまま発砲するものの彼はすんでのところでかわし、代わりとばかりティアに銃を向けていた。

 一瞬の隙を突かれてスィンにも兵士の剣が向けられる。それを合図に木陰に隠れていた兵士たちが姿を現し、包囲した。

 

「ご主人さま、囲まれたですの……」

「見りゃわかるっつーの」

 

 スィンと同じように剣をつきつけられ、ミュウを片手に携えたまま手を上げているルークがぼやく。立場は完全に逆転していた。

 獣の唸り声が聞こえ、発生源を振り返れば、そこには警戒しているかのように体勢を低くしたライガがいた。

 左舷昇降口での発光は、おそらくライガによる雷撃である。

 すぐそばには、一人の少女が立っていた。

 桃色の珍しい髪が腰まで伸ばされており、手には不気味といえばいいのか可愛いと称するべきか、好みによって意見が別れる人形を抱きしめている。

 まとう制服の色合いはラルゴのものに酷似しているが、形は袖のないワンピースに近い。

 頭には、イオンのペンダントに似た紋章が描かれた黒い帽子をのせていた。

 

「《魔弾のリグレット》に《妖獣のアリエッタ》ですか。六神将が二人もいるとは、困りましたねえ」

 

 ジェイドはそう呟いているが、まったく困っているようには見えない。

 

「アリエッタ。タルタロスはどうなった?」

「制御不能のまま……このコが隔壁、引き裂いてくれてここまで来れた……」

 

 階段を下り、少女はライガの頭を撫でた。

 魔物とは思えないほど慣れた仕草で、ライガは甘えるようにアリエッタの小さな手を舐める。

 

「よくやったわ。さあ、彼らを拘束して……」

 

 一人の兵士がイオンをリグレットとアリエッタの側へ連れて行く。

 それを見届けながら指示を出しかけたリグレットは、はじかれたようにタルタロスの上部を仰いだ。

 その瞬間、何かの影が彼女を通り越して着地し、イオンをさらって彼女らから素早く逃げる。

 敵の動揺を素早く察知して、ジェイドが動き、続いてスィンが動いた。

 兵士を突き飛ばしてルークを自由にし、イオンをさらった影のそばへ移動する。

 ジェイドはアリエッタの後ろにまわり、彼女の首へ槍をつきつけていた。そして──

 

「ガイ様、華麗に参上」

 

 白い歯をきらり、と光に反射させながら、にこやかに笑いかけたのは誰あろうガイ・セシルだった。

 普段と変わらない使用人の服装だが、腰には一振りの剣を提げている。

 しかしそれを信じられないような目で見ているのはルークだけで、他は緊迫した空気を持続させていた。

 まだ決着はついてない。

 

「さあ、もう一度武器を捨てて、タルタロスの中へ戻ってもらいましょうか」

 

 アリエッタに突きつけられた槍の穂先を見、リグレットは一瞬の躊躇の後に銃を捨てて階段を登った。

 

「さあ、アリエッタ」

 

 リグレットが乗艦したと見るや、ジェイドは槍を外して少女を促した。

 

「次はあなたです。魔物を連れてタルタロスへ」

 

 それを聞き、アリエッタは泣きそうな表情でイオンを見た。

 

「イオン様。あの……あの……」

「……言うことを聞いてください、アリエッタ」

 

 苦しげに、イオンが言う。

 少女は抱きしめたぬいぐるみに顔を埋めるようにして、階段を駆け上がった。その後を、他の兵士たちが続く。

 全員が昇降口に入ったのを確認して、ジェイドは階段をタルタロス内へ収納し、隔壁を閉ざすよう船体のパネルを操作した。

 

「これでしばらくはすべての昇降口が開かないはずです。逃げ切るに十分とは言えませんが、時間稼ぎ程度にはなるでしょう」

 

 緊張が解けたように、誰かがほう、と息をつく。

 ルークはガイの肩を軽く叩いた。

 

「ふう……助かった。ガイ! よく来てくれたな!」

 

 スィンは久々にルークの満面の笑みを見た。

 やはり心細かったのだろう、見慣れたガイの笑顔を目の当たりにし、明らかな安堵を見せている。

 

「やー、探したぜぇ。こんな所にいやがるとはなー」

 

 ガイもまたルークの肩を叩いた。

 

「お友達ですか?」

 

 ジェイドの声に、ガイが振り返る。

 

「ルークの家の使用人だよ。そっちは?」

「では、スィンのお兄様ですね。ご覧のとおり、マルクト帝国軍の軍人ですよ」

 

 ガイの特徴からスィンとの共通点を見出したか、彼はそう言ってイオンに向き直った。

 

「ところでイオン様。親書……ではなくてアニスはどうしました?」

「敵に奪われた親書を取り返そうとして、魔物に船窓から外へ吹き飛ばされて……ただ、遺体が見つからないと聞いたので、無事でいてくれているかと」

「ならセントビナーへ向かいましょう。アニスとの合流を図ります」

 

 行き先は決まった、と行こうとするジェイドを呼び止め、ガイはタルタロスを指した。

 

「そちらさんの部下は? まだこの陸艦に残ってるんだろ?」

 

 なぜジェイドの地位がわかったのか、という疑問はさておいて、ジェイドは軽く首を振った。

 

「生き残りがいるとは思えません。証人を残しては、マルクトとダアトの間で紛争が起こりかねませんからね」

 

 何人が殺された、とのやりとりを耳で拾いながら、スィンはガイへ近寄った。

 

「ガイ……兄様」

 

 誰が聞いているかもしれない状況を考え、スィンは彼を兄と呼んだ。

 

「お久しぶりでございます。無事で……なによりでした」

 

 タルタロスを見て眉をくもらせていたガイは、偽りの妹を見て目元を緩ませた。

 

「まあ、思ったより元気そうで安心した」

「もったいないお言葉です」

 

 微笑むスィンに、ガイは小さな袋を差し出した。

 

「ペールから預かってきた。わかるな?」

 

 はい、と頷き、受け取って懐に収める。

 歩き出した四人の後に追いつけば、ジェイドが不審そうな視線を寄越しているのがわかった。

 あえて無視してルークの斜め後ろに立つ。

 足元になにかいる感覚がして見下ろせば、ミュウが不思議そうな、それでいてきょとんとしたような目でスィンを見つめていた。

 歩きながらひょい、と抱き上げれば、ティアのうらやましそうな視線が背中に刺さる。

 

「ミュウ。どうかした?」

「……何の音素(フォニム)ですの?」

 

 びく、と体が震える。

 ミュウにはそれが伝わっているようだが、スィンの動揺につけこむような真似を聖獣はしなかった。

 ただ発せられるのは、純粋な疑問。

 

「な、何が?」

「スィンさんからよくわからない音素(フォニム)の気配がするですの。さっきも、今も。何に使ってるですの?」

 

 このブタザルめ余計なことに気づきやがって。

 道中ミュウを伴って、スィンは初めて彼へ悪態をついた。もちろん心の中で。

 

第七音素(セブンスフォニム)、じゃない? さっきティアに治癒術使ってもらって、そのとき癒しの力を増幅させるために使ったから、その名残だよ」

 

 たった一言で揺らぐ平静を必死に保って、顔面に笑みを貼り付ける。

 それとなく、背後のティアへミュウをパスした。

 でもー、と続けようとするミュウにルークがうっせー! と怒鳴る。

 ティアがミュウを弁護する様子を見ながら、スィンはこっそりと背中に冷や汗をかいていた。

 太陽は西の空へわずかずつ、確実に落ちていく。

 

 



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第十唱——行軍

 

 

 

 その後いくらかも経たないうちに、イオンが足を止めて両膝をついた。

 顔色が悪く、息も荒い。

 ティアが傍へ寄り、必然的に全員が足を止めた。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 ルークが珍しく心配そうに声をかければ、いさめるようにジェイドの質問が飛んだ。

 

「イオン様。タルタロスでダアト式譜術を使いましたね?」

「ダアト式譜術って、チーグルのトコで使ってたアレか?」

 

 二人の言葉を肯定するかたちで、イオンは苦しげに答える。

 

「……すみません。僕の体はダアト式譜術に耐えられるようできていなくて……ずいぶん時間も立っているし、回復したと思ってたんですけど」

 

 休憩を提案するジェイドの案に従い、一行はその場に腰を下ろした。

 ついでとばかり、合流したばかりで事情のわからないガイへ状況を説明する。

 

「……戦争を回避するための使者、ってわけか」

 

 確認するようにガイはスィンを見たが、ガイから渡された袋をのぞきこんで眉をしかめている最中だった。

 話に参加しようとする気配はない。

 

「でもなんだってモースは、戦争を起こしたがってるんだ?」

「それは、ローレライ教団の機密事項に属します。お話できません」

 

 すまなさそうにイオンがうつむくが、ルークはそれを当然のように不服としている。

 

「なんだよ、けちくせえ……」

「理由はどうあれ、戦争は回避するべきです。モースに邪魔はさせません」

 

 厳しい表情で言い切るジェイドを横目に、ガイは嘆息しかけて呟いた。

 

「ルークもえらくややこしいことに巻き込まれたなあ……」

 

 話がひと段落ついたところで、イオンがガイへ自己紹介を求めた。

 遠まわしな言い方ではあるが察して、ガイが立ち上がる。

 

「そういや、自己紹介がまだだったな。俺はガイ。ファブレ公爵のところでお世話になっている使用人だ」

 

 スィンの兄でもある、ともう一度スィンへ目をやると、彼女はなにやら棒のようなものをいじくりまわしている最中で聞いていない。

 そのスィンとガイを見比べて、ジェイドはふむ、と顎に手をやった。

 

「お話には聞いていましたが……あなたは虹彩異色症(オッドアイ)ではないのですね」

 

 髪の色や顔の特徴など、似通るところは多々あれど、ガイの瞳は角度によって碧とも蒼とも取れる色をしている。

 まあな、と微妙な笑みを浮かべているガイに、イオンが片手を差し出した。

 握手に応じ、ジェイドとも同様に手を合わせる。

 最後にティアが彼へ近づいたそのとき、ガイは声もなくバッタのように飛び退った。

 

「な、何?」

 

 心底不思議そうにティアは一歩距離を詰めるも、ガイはその分だけ逃げる。

 こんな美人を前にして失礼な、と思えるほど顔が恐怖に引きつっていた。

 ティアが目を白黒させていると、ふー、という嘆息が聞こえ、スィンが二人の間に割り込んだ。

 

「ごめんね、ティア。この人かなり重い女性恐怖症なんだ」

 

 だから握手どころか近寄るのも勘弁してあげて、と締めくくると、ジェイドの茶々が入った。

 

「兄妹そろって異性恐怖症なのですか?」

 

 ぐるんっ、と首をめぐらせてジェイドを睨む。

 

「僕は違います! イオン様やルーク様といった年下の男性なら平気だし、大佐やガイ兄様にだって近寄るだけならできるし!」

 

 怖がっている時点で恐怖症ですよ、というジェイドの突っ込みにスィンが黙ると、ティアは何かをあきらめたように手で額を押さえた。

 

「……わかった。あなたには不用意に近づかないようにする。それでいいわね?」

「すまない……」

 

 スィンが動き、再び自分が座っていた場所へ戻る。

 

「ファブレ公爵家の使用人なら、キムラスカ人ですね。ルークを探しにきたのですか?」

「ああ、旦那様から命じられてな。マルクトの領土に消えてったってのがわかったから、俺は陸伝いにケセドニアから、グランツ閣下は海を渡ってカイツールから捜索してたんだ」

 

 その一言を聞いて、二人の表情が一変した。

 

「ヴァン師匠(せんせい)も捜してくれてるのか!」

「兄さん……」

 

 ルークは喜色満面の笑みで喜び、ティアは複雑そうに影を落としている。

 

「兄さん? 兄さんって……」

「ガイ兄様。彼女はヴァン謡将の妹君なんだそうです」

 

 ちなみに確執の要因は不明です、と引き継ぐ。

 今の今までスルーしてきたものの、とうとうそこでジェイドは彼女へ声をかけた。

 

「ところで、先ほどからあなたは何をしているんです?」

「《魔弾のリグレット》が放棄した武器をいじってます」

 

 譜業銃なんて貴重品ですから、と呟くと、ガイは目の色を変えて妹に迫った。

 

「お前、抜け目ないなー……一丁俺にも寄越せ」

 

 手元からまったく目を離さず、スィンは横の一丁を掴み放り投げる。

 顔面に激突しそうになった銃を受け取って、物珍しげに彼も眺め始めた。

 ──と、そこで。スィンはいきなり銃口をジェイドに向けた。

 

「おや。いきなり殺意が沸きましたか?」

 

 それなら常に持っている。それを表に出せたら、どれだけ気持ちが楽になることか。しかしそれは、出すべきではないのだ。今は、特に。

 

「馬鹿言ってないで、しゃがむか退くかしてください!」

 

 本当に射殺しますよ!? という言葉で、ジェイドは素早くその場を離れる。

 譜力が姿を変えた銃弾は、迫り来る神託の盾(オラクル)兵の兜の隙間にもぐりこんだ。

 真紅の噴水を撒き散らし、仰向けに倒れる仲間に恐れることなく、他の兵士たちは剣を抜いて駆けてくる。

 

「やれやれ。悠長に話している暇はなさそうですよ」

 

 その手に槍を携え、ジェイドは敵を睨みつけた。イオンは邪魔にならぬよう下がり、スィンは銃を捨ててガイ同様剣を引き抜いている。

 ティアもイオンの前に出るが、ルークだけは別だった。

 

「に、人間……」

 

 人間の殺害、という恐怖が蘇ったか、躊躇したように下がり気味である。彼を気遣うようにティアは言った。

 

「ルーク、下がって! あなたじゃ人は斬れないでしょう!」

 

 そんな事情など当たり前だがおかまいなく、兵士たちは迫ってくる。

 前衛を勤める三人はそれぞれ自分の担当した兵士に接敵したが、名高い死霊使い(ネクロマンサー)と対峙した兵士は彼との戦いを避け、武器も構えていないルークへ斬りかかっていく。

 

「ルーク様!」

 

 片刃剣で兵士を仕留めたスィンが、倒れる兵士を蹴りながら警告を叫ぶ。

 ルークは剣を引き抜くと兵士の斬撃をいなし、足払いをかけて転倒させた。

 トドメを刺さんとスィンが駆け寄ろうとするが、ジェイドの腕に制止される。理由を察することはできた。

 この先ルークが戦力となるのか、それとも護衛対象になるのか、この戦闘の結果で左右される。

 起き上がろうとする兵士を前に、ルークは剣を握って戸惑いの表情を浮かべていた。

 

「ルーク! とどめを」

 

 ジェイドが押しやるように促した。

 やはり彼とて足手まといを増やしたくないのだろう、ルークに戦うことを無意識に求めている。

 

「……う……」

 

 耐えるように目を瞑り、腕を、剣を振り上げ、そのまま降ろそうとした。

 その剣が鋭い音を立て弾かれ、くるくると回転して地面へ突き刺さる。

 

「ボーッとすんな、ルーク!」

 

 ルークの眼前で、起き上がった兵士が剣を構えなおした。振りかぶり、斬りかかる。

 ティアがルークと兵士の間に割り込んだ。

 兵士が剣を振り抜いた直後、駆け寄ってきたガイによって兵士は切り倒され、スィンがその首に刃を押し込む。

 血を振り払って見れば、ルークはしりもちをつき、ティアはその横で倒れていた。駆け寄ると、後ろ側の二の腕、肩に近いあたりに大きめの裂傷が見受けられる。

 外套の裾を切り裂いて彼女の動脈を抑えるように縛ると、ふぅ、と誰かが嘆息した。

 

「今夜は、野宿決定ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 膝に乗せていたティアの体がわずかに動いた。見下ろせば、綺麗な碧玉の瞳がうっすら開いている。

 

「……おはよ、ティア。痛くない?」

 

 起き上がろうとする体を補佐して座らせた。

 即席の止血帯をほどいて、治癒術行使の手伝い──彼女の手を患部へ誘導すると、傷は見る見るうちに塞がっていく。

 大きすぎる裂傷のせいか、完全に消えることはない。それでも、腕が千切れかけたスィンほどではなかった。

 

「……ん。僕のやつより大分まし」

 

 独り言のように呟けば、ティアの瞳がスィンの顔を映す。

 何か言いたそうにしている彼女を微笑みで黙らせ、立ち上がる。

 ティアが気づいたのを見て歩み寄ってきたルークと入れ替わるようにして、木に寄りかかっている兄の前へ座った。

 隣に座っている大佐をじー、と彼の顔を見つめる。

 彼はルークとティアのやりとりを見ながらも、スィンの視線に気づいていた。

 

「どうしました?」

 

 見とれましたか? と、からかう気満々のジェイドの表情が、スィンから突き出された手を見てほんの少し揺らいだ。

 その手に持つのは封印術(アンチフォンスロット)の込められていた箱。その状態で、小さな譜陣が展開する。

 それはゆらゆらと、まるで万華鏡のような不規則さをもって紋様を変えていき、音を立てて消失した。

 

「……これが限界、かな」

 

 箱は音もなく音素(フォニム)へ返る。

 そうしてスィンは、空になった自分の手を見やった。

 

「どうです、大佐? 封印術(アンチフォンスロット)の譜力残滓を解析して、逆側から作動させてみたんですけど」

「……両目の封印術が解けたようですね」

 

 何度か瞬きをしながら、確かめるように目のあたりを触っている。

 そうですか、と無感動に答え、スィンは視線を囲んでいるたき火へうつした。

 

「ホントは今の一回で全解除を促したかったんですけど、やっぱ難しいですね」

「今のやつを何回かくりかえせばいいんじゃないのか?」

 

 俺にはよくわからんが、と続ける兄に体ごと視線を向ける。

 

「できるものならとっくにやってます。ですが、これは他人に直接影響を与える第七音素(セブンスフォニム)だから、もう一回やったら大佐の体が拒絶反応起こすと思いますよ」

 

 精神汚染あたり引き起こすんじゃないですか? と締めくくれば、ジェイドはおおげさに肩をすくめて言った。

 

「それは残念……」

「すみませんね力不足で。でもこれで、多少は譜術、使えるようになったでしょう?」

 

 譜眼を解放したんだし、と呟けば、ジェイドは驚いたように眼をわずかに──ほんのわずかに見開いたが、それ以上なにも言わなかった。

 ガイが真面目な顔でスィンを問い詰めたからである。

 

「スィン、そろそろ話せ。その腕はどうした?」

「名誉の負傷ですよ──では、通じませんか?」

「それはもういい。誰にやられて、具合はどうなんだ」

 

 再会当初はごまかしたものの、戦闘どころか何をしようにも一切使われない腕に気づかれれば最後だ。

 ちら、とルークを見やるが、彼はイオンと話をしており、こちらに気づいている様子はない。

 

「……タルタロスで六神将の『黒獅子ラルゴ』に。もっとも、視界を奪われて武器を振り回しただけだから、あちらは知らないと思いますけど」

「それで具合は」

「動かせますが、千切れそうでちょっと怖いですね」

 

 ガイは無言で見せるように促したが、スィンはそれを拒否した。

 すくっ、と立ち上がり、見回り行ってきます、と腰の剣を確認しながら走り去る。

 追いかけようか迷い、やめてガイはジェイドの隣に座った。

 

「なあ、あんたは知らないか?」

「いえ。残念ですが詳細は知りません。今のところ、しっかりと確認したのはティアだけだと思いますよ」

 

 スィンの走り去った方角を見やる。

 闇に包まれているこの先で、彼女は何を思っているだろうか。

 

「気丈にして忠実な妹さんですね。役立たずと罵られようと、ぞんざいに扱われても未だにはっきりとした感情を見せまいとしているのですから」

 

 しかし、とジェイドは、要らぬ世話だとミュウに怒鳴りつけているルークを見た。

 

「彼には驚かされました。人を殺すのが怖い、というのはわりかし普通の反応だと思いますが、スィンに対して謝罪どころか感謝の言葉もないというのは」

 

 貴族という生き物は、マルクトもキムラスカもあまり変わりませんねえ、と幾分自嘲気味に呟く。

 

「……ま、あいつの場合はもう少し特殊だからな」

 

 そこへ当のルークがやってきた。

 

「スィンは?」

「見回りへ出向きましたよ。──どうしました? 思いつめた顔をして」

 

 事実、彼はどこかうつむき加減で暗い顔をしていた。

 自分のせいでティアを傷つけてしまったことに影響しているのだろうか。

 

「……そ、そういえばジェイド、あんたはどうなんだよ」

「なんです?」

封印術(アンチフォンスロット)ってやつ。体に影響ないのかよ?」

「もちろん無傷ではありませんよ。スィンも言っていましたが、多少、身体能力も低下したようです。今はもう安定しているようなのでこれ以上弱体化はしないかと……そうですね、感覚的には、全身に重りをつけられて海中散歩している感じ、ですか」

 

 スィンの言葉の意味がわかりました、と苦笑するジェイドに、ルークは突っ込んだ。

 

「それのどこが多少なんだよ!」

「おや? 心配してくださるのですか」

「ご主人様、優しいですのー」

 

 意地悪げに言い返すジェイドに便乗し、ミュウがティアのそばで、たき火の反射か眼をきらきらさせている。

 とはいえども、ミュウの場合は嫌味などではなく本心なのだろうが──

 

「ち、ちげーよ! このおっさんにぶっ倒れられると迷惑だから──」

「照れるな照れるな」

 

 ガイが笑いながら言うと、ルークは今気づいたように拳を振り上げた。

 その顔はたき火のせいとは思えないほど赤い。

 

「照れてねぇ!」

「まったく」

 

 ジェイドはそれこそまったく、声の質を変えぬまま言った。

 

「私のことよりか、自分をかばって──」

 

 銃声が思いのほか近距離で聞こえ、その言葉は途切れた。

 

「あー、すいませーん。暴発しちゃったみたいですー」

 

 見事な棒読みで暗がりから姿を現したのは、スィンだった。

 なぜかにこにこ微笑みながら、手に持った銃を剣帯に押し込んでいる。

 

「とりあえず、周囲に怪しい奴はいないようです。魔物にも遭遇しませんでしたし」

 

 ガイとティアの間に座り、誰ともなしに報告した。

 

「し、しかしまあ、考えてみると豪華な面子だよなー」

 

 中途半端に切れた話題を補うように、ガイが指折り数え始めた。

 

「マルクトの死霊使い(ネクロマンサー)だろ、神託の盾(オラクル)騎士団の響長に、ローレライ教団最高位の導師。それにキムラスカの公爵の息子なんて、野盗も裸足で逃げ出しそうだな」

「ガイも、スィンもいますしね」

 

 イオンの言葉に、二人は一瞬顔を見合わせてから同時に顔の前で手を振った。

 

「『いやいや、俺はただの使用人だって』」

 

 なぜか同じ声の同時音声である。

 スィンによるガイの物真似はなんだか可愛らしく、それなりに笑いを誘うものでもあった。

 ひとしきり笑ったところで、ジェイドが両手を軽く打った。

 

 ぱふっ。

 

「さ、そろそろ休みましょうか。私とガイとスィンの三交代で見張りをしますので、三人はゆっくり眠ってください。特にイオン様はまだ体力が回復していないのですから」

 

 話し合いの結果、まずはスィンが見張ることになり五人は床についた。

 木の幹に体を預けながら、この世界の天井を仰ぎ見る。

 きらきら、ちかちか瞬く星が、すべてを見通すような輝きを放つ月が色違いの瞳に映った。

 

 ──ゆっくりと、斬られた側の腕を持ち上げる。

 

 ルークをかばって寸断されかけた腕だが、すぐに治癒術をかけてもらったことが功を奏したのだろう。幸運なことにどうにかくっついていて、奥の手を使えば何とかなるくらいまでは快復に向かっている。

 とはいえ、すぐに治してしまうわけにもいかない。唯一、怪我の状態を確認しているティアが不審に思わない程度に、そして身体に大きな負担をかけないように、ゆるやかに治っていく風を演出しなければ。

 包帯を巻きなおそうとしてふと、視線を感じた。

 金色の短い髪に、蒼玉とも翡翠とも取れる切れ長の眼──ガイ。

 

「如何なさいましたか?」

 

 首を傾げて彼をみやる。彼はなんでもないというように首を振ったが、すぐに彼女を見直した。

 

「持病の具合の方は?」

「お薬さえあれば支障はありません」

「そうか……」

 

 話をそれで終わったものと解釈したらしく、スィンは漆黒の懐刀を取り出した。

 手入れを始めるあたり、もう何も話す気はないらしい。

 怪我の具合を確認する機会を失ったガイは、彼女に背を向けてふう、と息をついた。

 

 

 

 



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第十一唱——合流ならずして行く道は険しく

 

 

 

 断続的に、誰かが咳をしている。

 ぜいぜい、と苦しげな呼吸と止まる気配を見せない重そうな咳を聞き、ルークは眼を開けた。

 太陽はもう顔を出しており、起きるにはちょうどいい時間なのかもしれない。

 むくりと起き上がると、咳をしていた人物はあわてたように外套をかぶった。

 

「おはようございます、ルーク様。起こしてしまいましたか?」

「……そうだけどな。別にいいよ」

 

 スィンとルーク以外の面々はまだ眠っている。彼らより早めに起きたことに僅かな優越感を抱きながら、ルークは水をしぼった厚手の布で顔を拭いた。

 見れば、スィンの服装が乱れている。少し慌てた様子で直しているあたり、体でも拭いていたのだろうか。

 ううーん、と伸びをして眠っていた体をほぐしていると、ジェイド、ティア、ガイ、イオンといった順でそれぞれが起き上がってきた。

 

「おやルーク、早いですねえ。スィンに起こしてもらったんですか?」

「年寄りは朝早いってよく言うけど、大佐はまだまだお若いですね」

 

 朝っぱらから好調なジェイドの嫌味を──スィンの服装が乱れていたことに彼は気づいている──聞きようによっては何かを揶揄しているその言葉をスィンが応酬し、その間に全員が出立の準備を整える。

 と、それを目前にしてジェイドは突拍子もないことを言い出した。

 

腕相撲(アームレスリング)?」

「ええ」

「朝っぱらから何をおっしゃるんですか……」

 

 別にいいですけれども、と言いながらもスィンは余っている布を手に巻きつけている。

 握手すら嫌なのに、素手を握り合うなど御免こうむった。

 

「負傷しているほうでお願いします」

「……ちぇ」

 

 彼の目的など察するにあまりあるものだが、素直に応じられない。

 子供じみた反抗心に自己嫌悪しながら、反対の手のひらに布を巻きつける。

 

「悪質な反則行為が認められ次第、抱き潰します」

「……」

 

 その声音に普段の冗長な風情はなく、スィンは無言で巻きつけられた布から太いマチ針と画鋲を取り出していた。

 いつのまにか仕込まれていた小道具の数々に、他の面々は苦笑いを浮かべるしかない。

 

「お前、いつになく狡いな……」

「歴史は勝者が綴るものなんで。勝てば官軍、誇りなき戦いならば勝利こそがすべてです」

 

 ガイからの苦情も、このときばかりはなんのその。

 そんな紆余曲折を経て、二人はようやく対峙した。

 地べたに寝そべる形をとることで腕力だけの行使、肘の角度を同じように調整することで公平性を保つ。

 とはいえ、純粋な力比べでは言うまでもなく、昨日負傷が認められたその腕で勝利することは厳しい。が。

 

「なんで俺がこんなこと……」

 

 ぶつくさ言いながらも、ルークが二人の手を合わさっているのを確認して、審判役として押さえる。

 瞬間、スィンの手はぶるりと大きく震えた。ジェイドは気づいただろうか。

 ルークの手で手元が見えなくなった瞬間、ジェイドの親指、第一関節の辺りを握りなおすようにしたことに。

 

「んじゃいくぞー……はじ「そもさん!」

「せっぱ」

「どっせい!」

 

 審判役の手が離れた瞬間、スィンは気合と共にそれを発した。

 手首を捻るのではなく、掴んだ親指を吊り上げるようにしながら倒しにかかる。

 そのままジェイドの手の甲は地面に激突するかと思われたが……彼は純粋な筋力だけでそれを制止した。

 勢いのまま可能な限り力を振り絞っても、びくともしない。しかし、押し返されるわけでもない。

 

「ふむ」

「うぅっ……」

 

 わずか数秒ほどの出来事ではあったが、時がたつにつれてカタカタと震えが大きくなっていく。

 苦悶を色濃く表情に浮かせた彼女をまじまじと見やって、ジェイドはその手を解放した。

 

「あれ?」

「それだけ酷使できるなら、問題はなしと見ます。スィンも戦力と数えてよろしいですね」

 

 独り言のように呟くジェイドではなく、ガイがどういうことなのかとスィンに尋ねる。

 

「戦うことはできるかどうか試されたんですよ」

 

 それを証明するように、ジェイドは軽く足を引いてルークに向き直った。

 

「では、これから戦闘は私とガイとティアとスィンで担当するようにします。四人で陣形を張りますので、ルークとイオン様は中心で待機。もしものことがあればティアが離脱しますので、一緒に逃げてください」

 

 治癒術士の彼女なら最も生存率が高いと思われますので、と言われ、ルークはえ、と呟いた。

 

「お前はもう戦わなくていい、ってことだよ」

「お疲れ様でした、ルーク様。ここから先はお任せください」

 

 先を行くジェイドとイオンを追って、セシル兄妹もルークの前を行く。

 

「ま、待ってくれ!」

 

 数瞬の戸惑いの後、彼は全員に制止と戦闘に関する撤回を求めた。

 かわるがわる制止を促し、最終的にティアが説得を試みるが、失敗する。

 結局彼も戦う、ということでこの話は終止符を打ったが、スィンは心の中で複雑な思いを抱いていた。

 ここぞというところで逃げようとしない姿勢はさすが、と言うべきなのかもしれない。

 あのような状況で育てられた子供にしては、賞賛に値するべき点だろう。

 しかし、それ以外の点では──

 

「無理するなよ、ルーク」

 

 ガイの声で我に返り、先を行く全員の背中を眺める。

 この先に待ち受ける現実を憂い、スィンは小さなため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから一昼夜。一行はようやく、セントビナーの城壁を眼にすることができた。

 ここまでの行程で追っ手にかかることも、致命的な危機に陥ることもなかったが、その幸運はこれまでのようである。

 

「……入り口に、マルクトの軍服じゃない兵士がいますね」

 

 ジェイドの提案により、斥候を務めたスィンが一際高い木陰から降り立って報告した。

 彼は当初ガイに徒歩での斥候を頼んだのだが、そんなことはさせられないとスィンが木登りを披露したのである。

 

「危険ですね。身を隠していきましょう」

 

 ジェイドの言葉に従い、街道から外れて森の中へ入る。

 服や髪が枝に取られてぶうたれているルークをなだめながら、一行は木陰に隠れてセントビナーの眼前までたどり着いた。

 街の入り口は神託の盾(オラクル)兵が陣取っており、おそらく街中にも相当数の兵がいると考えられる。

 

「なんで神託の盾(オラクル)騎士団がここに……」

「タルタロスが停止した場所から一番近いのはこの町だからな」

「休息に立ち寄ると思われたのでしょうね。この分じゃ、エンゲーブも同じようなことになってるんじゃないですか?」

 

 ルークのぼやきにセシル兄妹が答える。それを見て、ジェイドが意外そうに言った。

 

「二人とも、キムラスカ人のわりにマルクトの地理に詳しいですねえ」

 

 ちらり、とスィンがガイに視線を走らせる。

 大丈夫だ、とでもいうように、彼はさらりと言ってのけた。

 

「卓上旅行が趣味なんだ」

「数年前の話だけど、僕はこの辺来たことあるから……」

 

 薄い笑みを浮かべながらとりあえずは納得したジェイドに、ティアは緊張したような声をかけた。

 

「大佐、あれは……!」

 

 ティアの示す先、巨大な門の眼前に止まった馬車から、神託の盾(オラクル)一般兵ではない面々が現れた。

《黒獅子ラルゴ》、《魔弾のリグレット》、《妖獣のアリエッタ》というタルタロス襲撃メンバーに続いて奇妙な仮面を被り、黒に緑の組み合わせという身軽な格好をした少年が馬車から降りてくる。

 

「仕留めそこないましたか……」

 

 ジェイドが呟く。ラルゴのことだろう、彼の外見からは今どのような状態なのかまったくわからないがどちらかといえば健在に見える。

 

「導師イオンは見つかったか?」

 

 リグレットが一般兵に聞くも、兵はかぶりを振って答えた。

 

「セントビナーへは訪れていないようです」

 

 それを聞き、桃色の髪の少女が口惜しそうに呟いた。

 

「イオン様の周りにいる人たち、ママの仇……この仔たちが教えてくれたの。アリエッタはあの人たちのこと、絶対許さない……」

 

 彼女の後ろに控えるライガを見て、まさかなあ、とスィンは思う。

 当時あの場にいたメンバーは気づいているか定かでないが、イオンはわずかに顔を曇らせていた。

 

導師守護役(フォンマスターガーディアン)がうろついていたって話はどうなったのさ」

 

 ぶっきらぼうに、仮面の少年が尋ねる。

 どこかで聞いたような、とガイが呟くが、スィンは早くも彼の正体を察知していた。

 あの濃い翠の髪といい、あの声質といい、彼は──

 

「マルクト軍と接触していたようです。もっとも、マルクトの奴らめ、機密事項と称して情報開示には消極的でして」

 

 アニスは無事のようですね、とジェイドが呟いた。

 当たり前のことを確認するかのような声音にアニスを知らないガイが首を傾げていたが、説明は後とする。

 彼らにとっては、結局何の収穫もない。ラルゴが首をうなだれ、獣のように呻いた。

 

「俺があの死霊使い(ネクロマンサー)に遅れを取らなければ、アニスを取り逃がすこともなかっただろう、面目ない……」

 

 すると。空から声が降ってきた。

 ──聞く者の大多数を不快にさせるような高笑いが。

 

「ハァーッハッハッハッハッ!」

 

 声とともに、空から椅子が降りてくる。

 豪華な、それも貴族が使用するような一人掛けのソファで、それには当たり前のように人が座っていた。

 色白で全体的に細く、兵士よりは学者のような風貌の男。

 白に近い銀髪を肩の辺りまで伸ばし、ふちのない丸眼鏡をかけている。軍服と称していいかわからない上着の襟はさながら巨大花の花弁のよう。

 乗り物といい、風体といい、一目で奇人変人の類だということがわかった。

 

「だーかーらー言ったのです! あの性悪ジェイドを倒せるのは、この華麗なる神の使者、神託の盾(オラクル)六神将、薔薇のディスト様だけだと!」

 

 性悪ジェイド。

 その単語は、ラルゴとは違った意味でジェイドのことをよく知る人物であるということが伺えた。

 

「大佐。お友達ですか?」

「いえ。間違ってもあんなのを友人にする輩はいないでしょう」

 

 その言葉に、スィンだけでなくルークやガイも素直に同意していた。

 

「薔薇じゃなくて死神でしょ」

 

 仮面の少年に突っ込まれれば、神経質そうに抗議している。

 

「この美し~い私が、どうして薔薇でなく死神なんですかっ!」

 

 しかし、その言葉に答える者はいなかった。

 ずれる話題を一気に修正するべく、リグレットが何事もなかったように話しかける。

 

「過ぎたことを言っても始まらない。どうする、シンク?」

「……おい」

 

 無視されたディストがもう一度抗議するも、今度は誰も相手しなかった。

 

「エンゲーブとセントビナーの兵は撤退させるよ」

 

 驚いたことに、少年──シンクは彼らの中で一番格上らしい。

 ラルゴがそれに抗議するものの、それに頷くことはなかった。

 

「あんたはまだ怪我が癒えてない。死霊使い(ネクロマンサー)に殺されかけたんだ、しばらく大人しくしてたら? それに奴らはカイツールから国境を越えるしかないんだ。このまま駐留してマルクト軍を刺激すると、外交問題に発展する。──奴らの中にわかりやすい目印もあることだしね」

 

 後ろでディストがわめくものの、彼はまったく気にすることなく自分の目のあたりを指した。

 

「カイツールでどう待ち受けるか、ね……一度タルタロスに戻って検討しましょう」

 

 リグレットの言葉に頷き、ラルゴは街を向いて撤退の命を叫んだ。

 そばにいた兵士がそれを受け、走り去っていく。

 四人を乗せた馬車がタルタロスのある方角へ走り去っていく中、一人残されたディストが悔しそうに唸っていた。

 

「きぃぃぃっ! 私が、美と英知に優れているから、嫉妬しているんですね──っ!!」

 

 今の会話をどう解釈すればそうなるのか、数々の謎を残してディストは空へ消えた。

 タルタロスとは別の方角を行ったようだが、彼は一体何をしているのだろうか。

 次々と馬車が出て行き、マルクト兵が門の左右に立ったとき、一行はやっとセントビナー入りを果たした。

 

「あれが六神将か……初めて見た」

 

 彼らが去っていった方向を見つめつつガイが呟くと、ルークはさっそく疑問を口にした。

 

「六神将ってなんなんだ?」

神託の盾(オラクル)の幹部六人のことです」

 

 正確には少し違うけどね、とスィンが心中で呟く。

 それを言ったところでイオンはおそらく知らないだろうし、誰かさんに怪しまれる種を作りかねないため、黙っていたが。

 

「でも、五人しかいなかったな」

「黒獅子ラルゴに死神ディスト、烈風のシンクに妖獣のアリエッタ、魔弾のリグレット……いなかったのは鮮血のアッシュでしたね」

 

 指折り数えて誰がいたのかを確認する。すると、ティアが硬い表情で付け加えた。

 

「彼らは、ヴァン直属の部下よ」

 

 ヴァン、という単語に反応したルークが、驚いたような声を上げる。

 そのままヴァンが戦争を起こそうとしている、と結論付けたティアに、イオンがその上にいるモースが発端だろう、と訂正する。

 ティアがそれを否定したところで、ルークもまた師匠(せんせい)が戦争を仕掛けるわけがないと反発する。

 ティアが当然のように反論すれば、ルークがそれにつっかかり、口論に発展するところをイオンが押しとどめた。

 

「二人とも、落ち着いてください」

「そうだぜ。モースもヴァン謡将もどうでもいい。今は六神将の目をかいくぐって戦争をくいとめるのが一番大切なことだろ」

 

 二人がかりで諭され、ティアが冷静になったようで謝った。

 が、ルークはやはり納得していないようでヴァンを擁護している。

 本当にうまく手懐けたよなぁ、と感心していると、キリのいいところでジェイドが仕切りなおした。

 

「──終わったみたいですねえ。では、私はマルクト軍の基地へ行ってきますので、宿を取って待っていてください」

 

 基地のほうへ向かおうとするジェイドに自分たちも行く、とルークは言ったが、ジェイドは首を振って却下した。

 

「今回は極秘任務ですし、あなた方を連れて行くと説明が面倒です。どのみち今日はここに一泊する予定ですから、別行動と行きましょう」

 

 微笑を残して去るジェイドを見送って、一行は宿へと向かった。

 その手前で、スィンはガイにこっそり話しかけた。

 

「──ガイ兄様。僕、ちょっと用事すませてきます」

「そうか? 早めに帰ってこいよ」

 

 軽く頷き、街のメインストリートの方向へ走り去る。その彼女を見送って、ガイは大きく嘆息した。

 

「スィン、どうかしたのか?」

「この間に買い出しすませてくる、ってさ」

 

 ──そうこうしているうちにスィンが戻らぬまま、ジェイドが帰還した。

 ジェイド一人が。

 

「ジェイド、アニスは……?」

 

 イオンの問いに、ジェイドは軽く首を振った。

 

「街を封鎖される前に次の場所へ向かったようです。手紙を残していきました」

 

 ポケットから取り出された手紙を、ジェイドはルークへ手渡した。

 

「半分はあなた宛のようです。どうぞ」

「アニスの手紙だろ? イオンならともかく、なんで俺宛なんだよ」

「読めばわかりますよ」

 

 いぶかしがりながらもルークは手紙を読んだ。

 

「親愛なるジェイド大佐へv

 すっごく怖い思いをしたけど、何とかたどり着きました☆

 例の大事なものはちゃんと持っていま~す。誉めて誉めて♪ 

 もうすぐ神託の盾(オラクル)がセントビナーを封鎖するそうなので、

 先に第二地点へ向かいますねv

 アニスの大好きな(恥ずかしい~☆ 告っちゃったよぅv)

 ルーク様v はご無事ですか? 

 すごーく心配しています。早くルーク様v に逢いたいです☆

 ついでに、イオン様のこともよろしく。

 それではまた☆

 アニスより」

 

 

 なんともいえない手紙の内容に、ルークは眉間を軽く揉んだ。

 

「……眼が滑る……」

「おいおいルークさんよ。モテモテじゃねえか」

 

 その声に振り向けば、ガイがにやにやしながら覗き込んでいた。

 彼だけではない、ティアにイオン、文面を知っているはずのジェイドや、いつの間に帰ってきたスィンまでそこにいた。

 

「ルーク様。女性から好かれるのはいいことだと思いますが、ほどほどにしておいてくださいね? ナタリア様に蜂の巣にされるのはお嫌でしょう?」

「あほ!」

 

 意地の悪そうな含み笑いを浮かべて野次るスィンに怒鳴りつけてから、彼女がいたことに驚く。

 

「お前いつの間に帰ってきてんだよ!? それに、それ……」

「ちょっとした変装です」

 

 服装こそ外套に包まれたままだが、印象が変化している。

 後ろで束ねられていた髪が外套の下に仕舞われたのか消失しており、片目が包帯で完全に覆われていた。

 緋色の眼を隠したせいか、更にガイと似通っている。

 

「変ってわけじゃねーけど、でも……」

「いえ。似合わないと思います」

 

 珍しくストレートに辛口のコメントを出したジェイドに、意地悪だなあ、とスィンが口を尖らせている。が、しかし。

 

「あなたは素顔が一番いいと、私は思いますよ」

 

 顔を紅くしろ、怒りでいい、照れてるとでも思わせろ! 

 

「──ご意見のひとつとして受け取りまーす」

 

 ちらりとジェイドを見やってから、そっぽを向く。

 しかしその頬は、ルークの髪色よりも赤い。

 

「おやおや、体は正直ですね」

「そういうことを妖しげに囁くのはやめてください。実際目立つのだから、追われている身として隠すのは必然です」

 

 やはりシンクの言葉が気になっていたのか、そう言って彼女は抱えていた袋を下ろした。

 背中を向けてグミやボトルの補充を始めるあたり、もう会話に参加する気はないらしい。

 

「……大佐、人の妹にちょっかい出すのはやめてもらえるか……?」

「そんなつもりではありませんよ。根が正直なだけです♪」

 

 にこにこしながらガイを軽くいなすジェイドに、ティアが話の軌道を修正した。

 

「大佐。第二地点というのは?」

「カイツールのことです。ここから南西にある国境で、フーブラス川を渡った先にあります」

 

 カイツールか、とガイが呟く。

 

「カイツールまで行けば、ヴァン謡将と合流できるな」

「兄さんが……」

 

 ティアが物憂げに呟くのを、ガイは聞き漏らさなかった。

 

「おっと。何があったか知らないが、ヴァン謡将とは兄妹なんだろ。バチカルの時みたいにいきなり斬り合うのは勘弁してくれよ」

「……わかってるわ」

 

 不承不承、彼女は頷いた。

 

「なら……アクゼリュス行きの橋を通ってフーブラス川を越え、街道を南下していくのが無難なトコか? 六神将が張ってる可能性はあるが、魔物とやりあうよりはまし……」

「ダメです。さっき旅人さんから伺いましたが、その橋なら自然災害が原因で壊れちゃったみたいですよ。フーブラス川を横断してカイツールへ行きましょう。そっちのほうが最短距離だし、今の時期だったら水嵩も水流も問題ない──って地元の方が言ってましたっ」

 

 水袋から突き出たストローをくわえつつ、スィンが投げ遣りにガイの案を却下した。

 考えながらでも、地図を見ながらでもなく、すらすらとルートを提案する二人に、ジェイドが眼鏡を光らせる。

 

「お二人とも、本当に詳しいですねえ」

「「だから──」」

「卓上旅行と来たことがある、でしょう? まあ橋が使えないというのは事実です。スィンのルートを取りましょうか」

 

 眼鏡を直しつつ、どこか違和感のある兄妹を盗み見る。

 二人はその視線に気づいているのかいないのか、思い出したように買い付けた周辺地図を取り出したスィンがガイへ渡し、それを手に彼はルークに詳細を説明していた。

 ティアとイオンもまた、その説明を聞いて自分なりにルートの確認をしている。

 

「橋が使えないってことは、アニスもその川を渡ったのか? 大丈夫かよ」

 

 ルークが気遣わしげに言うも、ジェイドは意味ありげに微笑してみせた。

 

「大丈夫ですよ。アニスですから」

「ええ。アニスですからね」

 

 彼女をよく知るイオンもまた、口をそろえて頷いている。

 やっぱりガイが首を傾げているが、表向きアニスのことを二人ほど知らないスィンでは説明できなかった。

 確かにそうそう簡単には死にそうにもない少女だったが……果たして。

 セントビナーの夕日が沈んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「そもさん」「せっぱ」とは、禅問答におけるかけ言葉です。

 問題を出すほうが「そもさん」=「問題出すよ」
 答えるほうが「せっぱ(説破)」=「答えるわ」

 転じて、勝負事の掛け声として使用しました。実際の使い方としてはたぶん間違っておりますので、真似なさらぬよう。


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第十二唱——凍れる刻が生み出すもの

 

 

 

 

 

 尖った大岩の林立する先に、フーブラス川は穏やかな顔を見せている。

 

「ここを越えれば、すぐキムラスカ領なんだよな」

 

 どことなく嬉しそうに、誰ともなく聞いたルークに、ガイが説明役をかっていた。

 

「ああ。フーブラス川を渡って少し行くとカイツールっていう国境がある」

「早く帰りてぇ……もう色んなことがめんどくせー」

 

 だるそーに呟くルークに、ミュウが健気にも励ましをかける。

 

「ご主人様、頑張るですの。元気だすですの」

 

 しかし彼の話し方は、やっぱりルークの機嫌を損ねるのだった。

 

「おめーはうぜーからしゃべるなっつーの!」

 

 ぐしぐしと容赦なく踏んづけた後、とどめとばかりに蹴り飛ばす。「みゅう……」という可愛い呻きだけが残った。

 

「八つ当たりはやめて。ミュウが可哀想だわ」

「ルーク。面倒に巻き込んですみません」

 

 ミュウを弁護するティアに、彼の怒りの矛先をそらそうと謝るイオン。

 二人に挟まれて彼は軽く舌を打った。

 

「さあ、ルークのわがままも終わったようですし、行きましょうか」

 

 ほぼ恒例となったジェイドの仕切りなおしも、今回はルークの気に障ったようだった。

 

「わがままってなんだよ!」

 

 しかしジェイドはそれに答えることなく、さっさと先を進んでいる。

 

「無視すんな、こら!」

 

 事実であるために、誰も反応を見せようとはしなかった。

 例外は飛ばされたミュウを抱えて戻ってきたスィンである。

 

「さあさ、ルーク様。あと少しです。参りましょう」

 

 にこっ、と邪気のない笑顔を向けられ、ルークの怒りのやり場は完全に失われた。

 先を行く皆はもう川を渡り始めている。

 ティアはイオンを支えつつ、ジェイドとガイは警戒を見せながら。

 そして、残されたルーク、スィン、ミュウの三人は。

 

「靴が濡れるから、お前俺を背負って渡れ」

 

 彼は再びご無体を抜かした。スィンの代わりにミュウが抗議するものの、彼は毛筋ほどにも気にかけていない。

 

「ダメですのご主人様、スィンさんが潰れちゃうですの」

「お前がぶっ倒れてから何回か背負ってやったろ!?」

 

 対してスィンは、藍色だけの眼でルークの頭の先からつま先までとっくり眺めている。

 ふとその眼が、立ち止まる二人と一匹に気づいて戻ろうとするガイの姿を認めた。

 ──をわずらわせるわけにはいかない。

 口の中で譜を紡ぎ、ずずいとルークの眼前へ歩み寄る。

 

「な、なんだよ」

「では、失礼します」

「へ?」

 

 そしてスィンは、ルークに足払いをかけて体勢を崩させ、彼のひざ裏に腕を通して──横抱きにした。

 なお、この体勢はプリンセスホールド……通称姫抱っこ、とも呼ばれる。

 戻ろうとしたガイの眼が点になり、やれやれと振り返ったジェイドが指差して笑っているようだがスィンには痛くも痒くもない。

 しかし笑われたルークはそうもいかなかった。

 

「何しやがんだコラアァッ!」

「靴を濡らしたくないと仰せになったでしょう。嫌ならこうですよ」

 

 暴れるルークをものともせず、横抱きの状態から器用に肩へ担ぎ上げる。土左衛門抱っこ、あるいはお米様抱っこと呼ばれる形だ。

 胴体に腕を回しているため、彼の腹筋はスィンの細く肉付きの悪い肩に体重の分だけ食い込んでいる。

 

「てめ、おい、苦し……」

「大人しくしててくださいね──さあウンディーネ、手伝って」

 

 おろおろしているミュウをすくい上げてルークの上に載せ、スィンはためらいもなくフーブラス川へ足を踏み入れた。

 一同から遅れているため軽快に足を進めていく。

 川を横断するにあたり、聞こえるはずの水音が聞こえないことにいぶかったルークはスィンの足元を見て眼を見張った。

 足を踏み出す度に、彼女の足裏は水面より下に沈まない。

 まるで水から拒まれるかのように、まるで真下は地面であるかのように。

 水量が少ないとはいえ、スィンは一度たりとも水の流れに足をとられることなく、横断に成功した。

 対岸につくなり、大仰な吐息と共にルークを、ミュウを地面へ降ろす。

 玉のような汗を浮かべて膝をつく辺り、今の行為が代償なしにできることでないと語っていた。

 しかし、洞察力が鋭いとはいえないルークにそれが察せるわけもなく。

 

「一体どーなってんだ、この靴か?」

 

 膝をついて座り込むスィンの足首を掴んで自分の目線まで持ち上げる。

 彼もまたしゃがんでいるとはいえ、体勢が体勢だ。意図せず、彼女に大股開きを強要する形になっている。

 キムラスカの王城に出入りするメイドに等しく支給される革靴に、おかしな仕掛けはない。

 ただその靴裏にはぼんやりと、譜陣の名残が浮かんでいた。

 それをルークが見つけた直後、譜陣の名残が激しくブレる。

 まくれあがったスカートを大慌てで抑えるスィンが暴れたためだと彼が気づいたのは、直後のことだった。

 

「ルーク様! お戯れはやめてください」

「暴れるなっつーの。よく見えねー……」

「ルーク。あなたって最低だわ」

 

 譜陣の名残を確かめようとした手から、力が抜ける。

 彼の好奇心に歯止めをかけたのは、底冷えするようなティアの声音と冷たい視線だった。

 周囲を警戒するジェイド達こそ未だ横断中だが、ルーク達よりも先に行っていたティアとイオンはとっくに川を渡りきっており。

 その彼らの眼前で珍事は発生したのである。

 ルークから足を解放されたスィンが身なりを正すも、紅潮した頬の赤みはなかなか引かない。

 

「スィンに無茶を言ってると思ったら仕返しのように辱めて……!」

「待って、待ってティア。僕ルーク様が下着見たさにあんなことしたなんて思いたくない」

「お前の下着になんか興味持つか! あんなにすいすい川渡るから変だと思って──!」

 

 思い出したように狼狽するルークの疑問に答えたのは、非常に意外な方向からだった。

 

第二音素(セカンドフォニム)の特性を使ってご主人様の体を軽くしたですの。そのあとは第四音素(フォースフォニム)に作用して、水に濡れないようにしてたですの」

「……え?」

「スィンさん、とっても器用ですの。すごいですの~」

 

 ミュウによる呑気なネタばらしで、つりあがっていたティアの眦すら下がりつつある。この場合毒気を抜かれたと称するべきか。

 ルークは珍しく彼に怒鳴りつけもせず、ふ~ん、と頷いていた。

 ──以前のこともあったが、この聖獣は少々音素(フォニム)に敏感すぎる。

 ジェイドが聞いてなくてよかったと、スィンは胸をなでおろした。

 

「ですがルーク。好奇心で女性にあのようなことをしてはいけませんよ」

「あのようなことって、なんだ?」

「何でもありません。さあ参りましょう」

 

 川を渡りきり靴を逆さにして水を追い出すガイが、不思議そうに尋ねるのをごまかしにかかる。

 ルークは言わずもがな、イオンもティアもジェイドに聞かれてもスィンの胸の内を考慮してか、詳細を語ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 一行が先を進もうとしたその時。

 突如、巨大な猫に似た魔物が現れ、一行の行く手を塞いだ。

 

「……ライガ!」

 

 このあたりに出現するような魔物でないことは、これまで重ねた戦闘でわかりきっている。

 

「後ろからも誰か来ます」

 

 ジェイドの警告に導かれ見やれば、そこには変わったぬいぐるみを抱いた桃色の髪の少女が立っていた。

 

「妖獣のアリエッタだ。見つかったか……」

 

 ガイがこっそり呟いたのを聞いてか聞かずか、少女はぎゅ、とぬいぐるみを抱きしめて言った。

 

「逃がしません……っ」

「アリエッタ!」

 

 すかさずイオンが前に出る。

 

「見逃してください。あなたならわかってくれますよね? 戦争を起こしてはいけないって」

 

 一瞬の沈黙の後、アリエッタは対話に応じた。

 

「イオン様の言うこと……アリエッタは聞いてあげたい……です」

 

 しかし、今にも泣きだしそうな目で、ルークたちを指す。

 

「でもその人たち、アリエッタの敵!」

「アリエッタ」

 

 どうにか説得せんと、イオンは更に一歩踏み出した。

 

「彼らは悪い人ではないんです」

 

 その言葉も通じる様子はなく、少女はぬいぐるみに顔を埋める。

 あふれ出る悲しみを抑えようとするかのように。

 

「ううん……悪い人です。だってアリエッタのママを……殺したもん!」

 

 その言葉に、ルークは不思議そうに聞き返していたが、スィンが口を開いた。

 

「ライガを連れているから、まさかとは思ったんだけど……ライガ・クイーンのことだったりする? チーグルの森で卵を守っていた」

 

 その言葉に、当時の顔ぶれは正気を疑うかのような眼でスィンを見る。

 ところが、アリエッタは大きく頷いた。

 

「ママは仔供たちを、アリエッタの弟と妹を守ろうとしただけなのに……」

 

 イオンが後ろで彼女の生い立ちを皆に説明している。が、スィンはそれを聞いて確かめるどころではなかった。

 

「アリエッタはあなたたちを許さないから! 地の果てまで追いかけて──殺しますっ!」

「──はん」

 

 動揺するルークたちを差し置いて、スィンは鼻で笑い飛ばした。

 そのまま、しんがりの位置から移動してアリエッタと対峙する。

 突出したスィンに対し少女はおかんむりだった。

 

「何がおかしいの!」

「何もおかしくないよ。弟妹を守ろうとした、ね。こっちは食い殺されるところだったよ。どっちが悪いもこっちが悪いもない」

「……!」

「一応聞いとくよ。あなたはなんのために仇を討つの?」

 

 異様に平坦な声で、ある問いを投げかける。

 間髪入れず、彼女はママのため、と呟いたが、そんな答えで満足するスィンではなかった。

 

「母親に報いるため? ──そんなの無理だよ。死者は喜ばない、死者は悲しまない、死者は……何も思わない」

 

 明らかに何かを意識して、スィンは口上を続けた。

 

「母親の仇ね。いいよ、許されなくたって」

 

 すっ、と剣を抜く。切っ先がアリエッタを差し、少女の従えた雷獣は牙を剥いて威嚇した。

 

「死ねば許すも憎むもないから。それじゃね、さよなら」

 

 アリエッタに切っ先を突きつけたまま、スィンの足元に巨大な譜陣が展開する。

 急速に収束した音素が、術者の髪をなびかせた。

 輝く譜陣の中心にいるせいか、その髪が金の色をなくしているように見える。

 

「スィン、落ち着け! そいつは──!」

 

 瞬間。

 

「うわっ……!?」

 

 突き上げるような衝撃が大地を揺るがし、ルークたちはたたらを踏んだ。

 バランスを崩しかけたスィンは譜陣を消すものの、大地の震えは収まらない。

 

「地震か……!」

 

 ジェイドが言い、そこかしこで地割れが起こり、裂け目から毒々しい色の蒸気らしきものが噴出した。

 

「おい、この蒸気みたいなのは……」

 

 何とか平衡感覚を保つガイが言えば、その問いにティアが答える。

 

「瘴気だわ……!」

 

 口を押さえながら彼女が言うと、イオンは警告するように叫んだ。

 

「いけません! 瘴気は猛毒です!」

 

 不運なことに、地割れのすぐそばにいたアリエッタが悲鳴を上げてその場に倒れこんだ。

 一行の行く手を阻んでいたライガが少女に駆け寄り、瘴気の直撃を受けて失神する。

 その様を見ていたルークが戦々恐々と叫んだ。

 

「吸い込んだら死んじまうのか!?」

「長時間、大量に吸い込まなければ大丈夫。とにかく、ここを逃げ……」

 

 ふとティアが視線を向ければ、アリエッタが倒れているすぐそばの地面が大幅に割れ、断層を作っていた。

 そこから更に大量の瘴気が吹き出してくる。

 

「どうすんだ! 逃げらんねえぞ!」

 

 イオンを支えながら逃げ場はないかと周りを見回すルークのそばをすり抜け、スィンはティアに囁いた。

 

「ユリアの……第二」

 

 心底驚き、切れ長の瞳を木の実型にさせているティアに、早く、と実行を促す。

 一瞬の逡巡を経て、彼女は杖を構えた。

 

「譜歌を詠ってどうするつもりですか」

 

 その問いに答えることなく、清らかな旋律が紡がれる。

 それを聞き、イオンが声を上げた。

 

「待って下さい、ジェイド。この譜歌は──ユリアの譜歌です!」

 

 ティアの足元に譜陣が出現する。更にその上から違う型の譜陣が描かれ、ドーム型の結界が発生した。

 発動後の空に、あの毒々しい空気はない。

 

「瘴気が消えた……!?」

「瘴気の持つ固定振動と同じ振動を与えたの。一時的な防御壁よ。長くは持たないわ」

 

 我が目を疑うように空を仰ぐガイに、ティアが本当に簡単な説明をする。

 

「噂には聞いたことがあります。ユリアが残したと伝えられる七つの譜歌……しかしあれは、暗号が複雑で詠みとれた者がいなかったと……」

 

 興味深そうに、同時に疑わしそうな眼をティアに向けるジェイドに、ガイがここからの離脱を促した。

 

「詮索は後だ。ここから逃げないと」

「──そうですね」

 

 ひとまずその言葉に頷き、ちらりとスィンを──アリエッタに一番近い位置にいる彼女を見やる。

 彼女はすでに、それを用意していた。

 

「……スィン、お願いできますか?」

「わかりました」

 

 その場を去ろうとし、ルークはスィンが倒れ伏した少女に歩み寄るのを見た。

 アリエッタの側にしゃがむと、持っていた片刃剣を振り上げ、細い首へ一思いに──

 

「や、やめろ!」

 

 スィンはぴたりと動きを止め、不思議そうにルークへ振り返った。

 

「何故です?」

「なんで殺そうとするんだよ! 気を失ってる奴を……」

「彼女が僕たちに対し殺意を抱いていたことくらいおわかりになられたでしょう? 生かしておけば必ずまた狙われます。想定される危険は未然に防ぎたい」

 

 どこか厳しい目で、スィンはルークを見た。

 ジェイドがそれに頷き、ティアやガイは苦しそうに目を伏せてはいるものの、反対ではないらしい。

 ルークの意見に賛成したのはイオンのみだった。

 

「スィン、見逃してください。アリエッタはもともと僕付きの導師守護役(フォンマスターガーディアン)なんです」

「……ここで彼女を見逃すことによって、いつか失われる命は必ずある。それがわかっていて仰られているのですか?」

 

 油断なくアリエッタを見下ろしたまま、問う。

 返事はないが、ここで手をかけたら彼らの信用を綺麗に失ってしまうだろう。それは避けたい。

 ちら、とジェイドを見れば、彼は嘆息しつつも了承していた。

 

「……」

 

 無言のまま、スィンも片刃剣を収める。

 敵とはいえ、さすがに気を失った少女を殺めるのには罪悪感があったのか、ガイも一歩前を出た。

 

「瘴気が復活しても当たらない場所に運ぶぐらいはいいだろう?」

「ここで見逃す以上、文句を言う筋合いではないですね」

 

 ガイの視線を受け、スィンがアリエッタの体を担げば、ティアがふと空を見て告げた。

 

「そろそろ……限界だわ」

 

 行きましょう、というイオンの言葉に従い、ライガともども彼女を地割れから遠ざかった草むらへ横たえ、一行は出発した。

 川岸を離れ街道を歩いていても、ひとつの優しくない視線──ティアの視線が背中をつつく。

 理由も気持ちもわかるが、皆の前で話すわけにはいかない。

 それはあちらも同じらしくどこか重苦しい沈黙が続いている。

 ──と、ふとジェイドが足を止めた。

 

「少しよろしいですか?」

 

 その言葉を受けて全員が立ち止まるも、約一名が不平を零した。

 

「……んだよ。もうすぐカイツールだろ。こんなところで何するんだっつーの」

「ティアの譜歌の件ですね」

 

 内容を察したイオンが言う。ジェイドはええ、と頷いた。

 

「前々からおかしいとは思っていたんです。彼女の譜歌は私の知っている譜歌とは違う。しかもイオン様によれば、これはユリアの譜歌だというではありませんか」

「はあ? だから?」

 

 いまいち内容がつかめていないルークが苛ただしげに先を促せば、すかさずガイとイオンがフォローに入った。

 

「ユリアの譜歌ってのは特別なんだよ。そもそも譜歌ってのは譜術における詠唱部分だけを使って旋律と組み合わせた術だから、ぶっちゃけ譜術ほどの力はない」

「ところが、ユリアの譜歌は違います。彼女が遺した譜歌は、譜術と同等の力を持つそうです」

 

 ジェイドをごまかすのは不可と考えたか、ティアは重い口を開いた。

 

「……私の譜歌は、確かにユリアの譜歌です」

 

 その言葉に、ジェイドは首を傾げてみせる。

 

「ユリアの譜歌は、譜と旋律だけでは意味を成さないのではありませんか?」

「そうなのか? ただ詠えばいいんじゃねえのか?」

 

 ルークの問いに、スィンはそれなら誰でも使えますよ、と苦笑した。

 

「譜に込められた意味と象徴を正しく理解し、旋律に乗せるそのとき隠された英知の地図を作る。複雑ですよねー」

「……はあ? 意味わかんね」

 

 ルークでなくても出てきそうな感想に、スィンはとりあえず笑うのをやめた。

 

「……という話です。一子相伝の技術みたいなもの、と考えてよろしいのでは?」

「──詳しいのね」

 

 疑心に満ちたティアの視線をしっかりと受け止め、スィンはしれっと答えてみせた。

 

「ヴァン謡将からきいたのー」

 

 そんなやりとりの横でジェイドは考え込んでいたが、やはり好奇心は抑えられない様子で尋ねた。

 

「あなたは何故、ユリアの譜歌を詠うことができるのですか。誰から学んだのですか?」

「……それは、私の一族がユリアの血を引いているから……だという話です」

 

 本当かどうかは知りません、と締めくくる。

 

「ユリアの子孫……なるほど……」

 

 ジェイドがまたも考え込む先で、ルークはまったく違うことに興味を示していた。

 

「ってことは、師匠(せんせい)もユリアの子孫かっ!?」

「まあ、そうだな」

 

 スィンと同じく真相を知るガイがそう答えると、ルークはまるで我がことのように喜んだ。

 

「すっげぇっ! さっすが俺の師匠(せんせい)! カッコイイぜ!」

 

 ユリアが誰なのかわかっているかも怪しいが、そうなるとティアはどうなのだろうか。

 そっと彼女の様子をうかがえば、無表情で沈黙していた。その心境は他者が察せるものではない。

 ジェイドが礼をいい、暗に大譜歌のことをほのめかす。

 新たな単語に興味を抱いたルークが尋ねれば、律儀にイオンが説明役をかってでた。

 

「ユリアがローレライと契約した証であり、その力をふるうときに使ったという譜歌のことです」

「……そろそろ行きましょう。もう疑問にはお答えできたと思いますから」

 

 この話題は終わりだ、と言いたげにティアが終止符を打ち、話題は打ち切られた。

 しかしティアがスィンへ向ける視線は、この会話が終わっても、カイツールの砦が見えてきても、けして暖かくなることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 




復習。それは繰り返すこと。
福州。それは中華人民共和国福建省の省都のこと。
復讐。それはグーグル先生に尋ねると真っ先に方法を教えてくれること。


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第十三唱——合流につぐ合流

 

 

 

 

 

 

 

 道中何事もなくカイツールへたどり着き。

 国境へ通じる門を見やり、ルークが指を差した。

 

「あれ、アニスじゃねえか?」

 

 見れば門を守るマルクトの警備兵に、小柄なツインテールの少女が目元に拳を当てながら哀願している。

 

「証明書も旅券もなくちゃったんですぅ。通してください。お願いしますぅ」

 

 可愛らしく、困ったという雰囲気を全身にまとっているものの、規律は規律とマルクト兵はそれに応じなかった。

 

「残念ですが、お通しできません」

 

 事務的に断れば、少女はふみゅう~、と呻いて、くるりときびすをかえした。直後。

 

「……月夜ばかりと思うなよ」

 

 とろん、と下がっていた眉がつりあがり、ドスの利いた低音で物騒な台詞を吐く。

 少女の豹変振りにルークもガイも驚いていたが、スィンはやっぱ中身はこんなんかー、と生暖かい眼で少女を見た。

 

「アニス。ルークに聞こえちゃいますよ」

 

 イオンの言葉に、アニスが、んあ? と柄悪く応じる。

 やっと一行の姿を認めたアニスは、はっ、としたように固まると、しなをつくってくねくね、とその身を震わせた。

 

「きゃわーんv アニスの王子様v」

 

 まるで別人のように、感激した様子でルークに勢いよく抱きつく。

 その様を見たガイがこっそりと「……女ってこえー」と呟いた。

 同性ながら、それにはスィンも同意見である。

 

「ルーク様v ご無事でなによりでした~! もう心配してました~!」

 

 幼い体をすり寄せながら、外野からはどうも胡散臭い台詞を並べている。

 ルークは彼女の思惑に気づいていないのか、きわめて普通に──わりと優しく返している。

 

「こっちも心配してたぜ。魔物と戦ってタルタロスから墜落したって?」

「そうなんです……アニス、ちょっと怖かった……。てへへ」

 

 普通のか弱い少女ならそのまま死んでもまったく不思議ではないのだが、そこは導師守護役(フォンマスターガーディアン)だからか、はたまた彼女であるがゆえんか。

 

「そうですよね。『ヤローてめーぶっ殺す!』って悲鳴上げてましたものね」

 

 どうやら後者の率が高いらしい。

 イオンによって彼女の本性がちらっと垣間見えたのはお気に召さなかったのか、アニスはルークから離れてイオンに迫った。

 

「イオン様は黙っててください!」

 

 が、苦情が終わるとすぐにルークへぴたっ、とくっつく。

 

「ちゃんと親書だけは守りました。ルーク様v 誉めてv」

 

 甘えるようにねだれば、やはり丁寧に接されて悪い気はしないのか彼は簡単に応じている。

 

「ん、ああ、偉いな」

「きゃわんv」

 

 やりとりがひと段落したところを見切り、ようやくジェイドが口を開いた。

 

「無事で何よりです」

「はわーv 大佐も私のこと心配してくれたんですか?」

 

 やっぱり玉の輿狙いなのか、ちゃんと向き直って照れた表情を見せている。スィンはそんな彼女よりも、アニスのことを心配していたらしい大佐に驚いていた。

 付き合いが長い人間になら、冷酷非情な死霊使い(ネクロマンサー)も多少は情を寄せるのか──

 

「ええ。親書がなくては話になりませんから」

 

 と、いうのはスィンの勘違いか、もしくは彼の性格を未だ見切れていない証なのかもしれない。

 大佐って意地悪ですぅ、とぶうたれるアニスとは裏腹に、ティアが平素と変わらぬ態度で今後のことを持ち出した。

 

「どころで、どうやって検問所を越えますか? 私たちには旅券がありません」

「ここで死ぬ奴に、そんなものは要らねえよ!」

 

 口汚い罵声が飛び込んできた。はっとした様子で飛びのくアニスと入れ替わるように、スィンが駆け寄る。

 飛び降りてきた影の斬撃がルークを襲う。

 それを逃れてだろう、彼は弾かれたように地面へ倒れこんだ。

 

「……如何様な、御用向きで?」

 

 倒れたルークの前に立ち、片刃の剣で相手の剣を受け止める。

 ルークに向けていた視線を戻せば、眼前にいるのはやはりアッシュだった。

 

「邪魔だっ!」

 

 力任せにスィンを弾き飛ばそうとするが、彼女は実に上手く剣撃を受け流している。

 結果、国境を前にしてチャンバラが始まった。

 

「ルーク様!」

 

 ルークの様子を気にしながら繰り出される攻撃を捌いているスィンに対し、アッシュは本格的に彼女を排除せんとしている。

 しかし、スィンが苦戦している風には見受けられない。

 それどころか、彼女は相手がどのように戦うのかわかりきっているかのように、ちらちら後ろを見ながら防御だけを行っている。

 苛々とアッシュが眉間にしわを寄せ始める頃、唐突に鋭い音がしてスィンの持つ剣が根元からへし折れた。

 基本的に足が動かせないため、受け流さずにそのまま剣撃を受けていたこと、今まで斬るだけではなく、盾として使用したことに要因がある。

 音を立てて回転する刃が、なぜかルークのすぐ横に突き刺さった。

 うおおっ! という悲鳴が聞こえる。スィンはアッシュの顔めがけて柄を投げつけた。

 

「あ、アブねーじゃねーか、アホ!」

「ごめんなさーい!」

 

 気のない謝罪を投げかけながらも、懐刀を抜いて応戦する。

 文句を言うべく、全身をしたたかに打っていたルークが起き上がろうとした。

 直後。

 

「アッシュ!」

 

 懐かしい、重厚にして低い男の声が空気を震わせる。

 まるで示し合わせたようにスィンが横へ飛びのくと、白を基調とした外套の、長髪を頭頂部近くでまとめた男がアッシュの前に立ち塞がった。

 その様子を見ながら、懐刀を収めてルークに駆け寄る。

 

「ルーク様、頭は大丈夫ですか?」

「……誤解を招く言い回しはやめろ……」

 

 スィンがルークのふくらんだ後頭部を確認している間にも、同じような長剣をはさんだ二人のやりとりは続いていた。

 

「……ヴァン、どけ!」

「どういうつもりだ。私はお前にこんな命令を下した覚えはない。退け!!」

 

 長剣同士をかみ合わせ、ヴァンが強く命じると、アッシュはしぶしぶ剣を収めて襲撃と同じくらい唐突に去った。

 それを見届けると同時に、ヴァンもまた剣を収めてルークたちに振り返る。

 その姿を認め、ルークは嬉しそうな、それでいて安心したような喜色に満ちた声を上げた。

 

師匠(せんせい)!」

 

 彼の前で無様な姿はさらせないと無理に起き上がる。

 う、と姿勢を崩したルークを、スィンが支えた。

 

「ルーク。今の避け方は不様だったな」

「ちぇっ。会っていきなりそれかよ……」

 

 どんな言葉を期待していたのか興味の湧きどころではあったが、師弟の再会という和やかな雰囲気はもろくも崩れ去った。

 

「……ヴァン!」

 

 アニス以上にまなじりを吊り上げ、ティアが投げナイフを掲げ持つ。

 美人なだけに迫力も半端ではないその様子は、公爵家の屋敷で見た彼女の印象とも重なった。

 しかしその瞳が映すヴァンに動じた様子はなく、剣の柄に手をかけようともしない。

 

「ティア、武器を収めなさい。お前は誤解をしているのだ」

「誤解……?」

「頭を冷やせ。私の話を落ち着いて聞く気になったら、宿まで来るがいい」

 

 そう行って歩みだすヴァンの背中に、普段を考えたらまるで別人のようになったルークが声をかけた。

 

「ヴァン師匠(せんせい)! 助けてくれて……ありがとう」

 

 わずかに照れたような彼の言に、ヴァンは振り返ることもなく、しかし優しく今までをねぎらった。

 

「苦労したようだな、ルーク。しかし、よく頑張った。さすがは我が弟子だ」

「へ……へへ!」

 

 嬉しくてたまらない、といった様子のルークを、スィンがこっそり垣間見る。

 年相応であると同時に、師匠以上の親しみを抱いていることがよくわかった。

 事情を知らない者が見れば、異常と感じられるほどに。

 

「スィン」

 

 ふと名を呼ばれ顔を上げると、細長い棒が飛んできた。

 右手で受け取る。ゆるく弧を描いた木製の棒はなんの飾りげも無く、ルークの目には変わった杖のように見えた。

 しかし、スィンにとっては違うらしい。

 その証拠に、スィンはそれが何なのか、受け取った瞬間にあっ、と声を上げた。

 

「血桜……! 持ってきてくださったんですか!?」

「ペール殿から預かった。道中無手ではつらかろうとのことでな」

 

 その言葉を聞くや、スィンはそれを抱きしめ、満面の笑みを浮かべた。

 

「ありがとうございます、ヴァン謡将!」

 

 無邪気な笑顔を浮かべる彼女に軽く手を振り、ヴァンは今度こそ宿舎へ去った。

 嬉しそうな笑顔もそのまま、彼女は腕の中にあるそれを見つめている。

 

「なあ、その木の棒ってなんなんだ? 杖じゃないのか?」

 

 違いますよ、と笑顔で答え、スィンは木の棒の端を握り、抜いた。

 鮮やかな緋色の刃が陽光に反射して、細身に似合わぬ獰猛な光を放つ。

 

「そういえば、言っていたわね。血桜があれば、って……」

「まあねー。でも、ヴァン謡将が持ってきてくれるとは思わなかった」

 

 にこにこと刃を収め、エンゲーブで購入した剣帯に差したスィンを見ながら、イオンは未だにナイフを携えるティアに微笑んだ。

 

「ティア。ここはヴァンの話を聞きましょう。分かり合える機会を無視して戦うのは愚かなことだと、僕は思いますよ」

「そうだよ。いちいち武器抜いて、おっかねー女だな」

 

 イオンの言葉に便乗し、本気なのか冗談なのかよくわからない嫌味を飛ばすルークだったが、ティアは相手にしなかった。

 ただ一言、

 

「イオン様のお心のままに」

 

 儀礼的に呟いただけである。

 

「じゃあ、ヴァン謡将を追っかけるか」

 

 ガイの提案に頷き、一行は宿舎へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宿舎の中で、ヴァンはまんじりともせず一行の到着を待っていた。

 

「頭が冷えたか?」

 

 開口一番、一回りも離れた妹に尋ねるヴァンに、彼女は警戒を崩さず詰問した。

 

「……なぜ兄さんは、戦争を回避しようとなさるイオン様を邪魔するの?」

 

 硬い声で、疑心に満ちた様子の彼女に、ヴァンは軽く嘆息している。

 

「やれやれ。まだそんなことを言っているのか」

「違うよな、師匠(せんせい)!」

 

 彼を擁護するように、彼との会話に入らんと口を挟むルークにティアも対抗しかけた。

 

「でも六神将がイオン様を誘拐しようと……」

「落ち着け、ティア。そもそも私は、何故イオン様がここにいるのかすら知らないのだぞ。教団からは、イオン様がダアトの教会から姿を消したことしか聞いてない」

 

 もっともな説明にティアが口をつぐむ。

 自身の招いた兄妹の誤解をほどくように、イオンが謝罪した。

 

「すみません、ヴァン。僕の独断です」

「こうなった経緯をご説明いただきたい」

 

 それを怒るでもなく、淡々と事情の説明を乞うヴァンに、ジェイドが進み出た。

 

「イオン様を連れ出したのは私です。私がご説明しましょう」

 

 これまでの経緯──マルクトの皇帝の命を受け、和平のために親書を持ってキムラスカへ向かうその行動を、六神将が阻もうとしていることをジェイドは極めて淡々と語った。

 いくらか省略されている分もあるが、それは蛇足というものだろう。

 すべてを聞き終え、ヴァンは軽く嘆息した。

 

「……なるほど、事情はわかった。確かに六神将は私の部下だが、彼らは大詠師派でもある。おそらく大詠師モースの命令があったのだろう」

「なるほどねぇ。ヴァン謡将が呼び戻されたのも、マルクト軍からイオン様を奪い返せってことだったのかもな」

 

 納得したように軽く頷いているガイを見、ヴァンも賛同する。

 

「あるいはそうかもしれぬ。先ほどお前たちを襲ったアッシュも六神将だが、やつが動いていることは私も知らなかった」

 

 暗に無関係だというヴァンに、ティアは柳眉を逆立てて詰め寄った。

 

「……スィンはラルゴに、あなたの部下によって腕を失うところだったのよ? それでも兄さんは無関係だって言うの!?」

 

 激昂したように声を跳ね上げるティアに、場違いとは思いながらスィンはきわめて軽く言った。

 

「ティア、結果的に無事だったから──」

「よくないわ! 私が治癒術士でなければ、あなたが第七音素(セブンスフォニム)で治癒の増幅をしなければ、あなたの腕はとうに失われていたのよ!」

 

 つらそうに眉根を寄せているティアに、スィンは落ち着くよう伝えた。

 

「ありがと、心配してくれて。でも大丈夫だから、先のこと、考えよう?」

 

 唇を噛んでうつむくティアをジェイドに任せ、スィンはヴァンを見た。

 

「……彼らに行動の自粛を命じるくらいは、してくれますよね?」

「善処しよう。最も、この状況下でどの程度の効果があるかはわからんが」

 

 そこでガイが思い出したように、旅券のことを口にした。

 

「ヴァン謡将、旅券の方は……」

「ああ。ファブレ公爵より臨時の旅券を預かっている。念のため持ってきた予備を合わせれば、ちょうど人数分になろう」

 

 計七枚の旅券がルークの手に渡される。

 それを珍しげに見ながら、ルークは呟くように言った。

 

「これで国境を越えられるんだな」

 

 しかしヴァンは、はやるルークを抑えるようにここでの休憩を提案する。

 

「ここで休んでからいくがいい。私は先に国境を越えて、船の手配をしておく」

「カイツール軍港で落ち合うってことですね」

 

 諸々の手続きの手間を考えた合理的な判断に、ガイが頷いた。

 

「──ところでティア、お前は大詠師旗下の情報部に所属しているはず。何故ここにいる?」

「モース様の命令であるものを捜索しているの。それ以上は言えない」

「……なるほど。第七譜石か」

 

 呟くように言って、彼は一行の隙間を通るように部屋を出ていく。

 行きがけにさりげなく肩を叩かれ、スィンは第七譜石とは何か、ルークにかわるがわる語っている面々を見ながら彼の後を追った。

 宿舎を出て、ヴァンは国境をくぐらずその裏に回る。

 譜を口ずさみながらついていくと、ある地点でヴァンがくるりと向き直った。

 

「……ここなら、見咎められることもあるまい」

 

 大きな手が華奢な肩に回る。一歩足を踏み出せば、そのまま力強く抱き寄せられた。

 身を預けるようにその胸に顔を埋め、抱き合うこと少し。ヴァンの手が包帯にかけられ、色違いの瞳があらわとなった。

 

「……苦労をかけた」

 

 視線を強く絡めたまま、首を横に振る。

 腕の具合を問われ、今や何の問題もないことを告げる。

 再び抱きしめられ首にわずかな痛みが走ったのと同時に、耳へ囁きかけられた。

 

「連れて行きたいのは山々だが……ルークを見張っていてもらいたい」

 

 わかってるよ。

 一言、そう呟けばヴァンはゆっくりと体を離した。

 

「頼む」

 

 わずかに眼を閉じ、勢いをつけて離れた。

 解かれてしまった包帯を再び巻きつけて、一礼する。

 

「お気をつけて。ヴァン謡将」

「それと……」

 

 手招きをされてついていけば、再び宿舎の前へ出た。

 ルークが強襲を受けた国境ゲートの前まで行くと、ヴァンは振り向き様、突然剣を抜いて斬りかかる。

 スィンの死角、左側から繰り出されたそれを、短刀で受け流した。

 同時に、腰の血桜を抜いてヴァンの顎の下へゆっくりと差し込む。

 わずかでも動けば、容赦なく刃が首を掻き切るという位置で静止した。

 

「師匠!?」

「スィン!?」

 

 スィンの姿が見当たらない、と宿舎から出てきた面々は、光景を見て驚いた。

 ここまで、とでも言うように、ヴァンが剣を引いた。同時にスィンも両の剣を収めている。

 

「お前、に何を──!」

「落ち着け、ルーク。私が仕掛けたものだ」

 

 剣を収めるやいなや、ルークがスィンの襟首を掴んで問いただした。即座にヴァンが制止する。

 襟首を掴まれ軽く宙吊りになったまま、スィンはこともなげに嘘をついた。

 

「こんな眼でルーク様の護衛が務まるか否か、試されたのですよ」

「ああ。反応できないようなら私の補佐をさせようと思っていたところだ」

 

 へ? と心底驚いたようにヴァンを振り返る。かの人はすでに国境を渡っていた。

 

「……アニスとイオン様は?」

 

 ルークの手を外して、見当たらない顔の居所を求めれば、ジェイドが眼鏡を直しながら宿で休んでいますよ、との答えを返してきた。

 

「ところでスィン。首にあるアザのようなものはなんですか?」

「──? そんなものどこに……」

 

 手鏡を取り出して首を確認してみる。乱れた襟首の内側には、内出血のような痕が確認できた。

 ふと、先ほどのことを思い出す。そういえば、ヴァンと抱き合ったとき、首にわずかな痛みが走ったような……

 流石にそれを白状するわけにはいかない。スィンはごまかすことにした。

 

「本当だー。虫刺されかなー」

 

 頑張って不思議そうに首をひねっているスィンをじっと見つめていたジェイドであったが、ふと彼女に歩み寄った。

 

「え?」

 

 警戒するよりも早くひょいっ、とジェイドの顔が首に迫る。

 その口が、かぱりと開いて──

 

「──っ、ひ……っ!?」

 

 無我夢中で引き剥がす。光景に頬を染めているティアの後ろに隠れて確かめるも、噛まれた跡はない。

 安堵して、スィンはティアの肩越しにジェイドを睨んだ。

 

「この吸血鬼め、お食事なら他所でやれ!」

「私はバンパイアではありませんよ。鏡になら映ります。流水も太陽光も平気、十字架もにんにくも平気な吸血鬼は──」

「生き血をすする魔物から転じて、無慈悲に人を苦しめて利益を搾り取る人間という意味もありますよ」

 

 揶揄に対してジェイドは珍しく生真面目に反論するも、大佐にぴったりだと嘯かれ。

 彼は薄笑みを浮かべて眼鏡を怪しく光らせた。

 

「若年者の血には若返りの効用があると聞きかじりました。吸血の習慣はありませんが、ちょっと試してみましょうか」

「それ、全身の血液を入れ替える勢いで輸血すると効果があるという研究結果。飲血じゃ意味ないですよ」

「なんで二人ともそんなこと知ってるのかしら?」

「俺に聞かないでくれ……」

 

 まるで手術を控えた医者のようにかぎ爪の形をさせた手で迫るジェイドからスィンが逃れる。

 騒ぎが気になったのかイオンとアニスが宿舎から出てきた。

 

「ねえ、何騒いで──あれ?」

 

 ヴァンの姿を追って国境の先を見るルークを見、ジェイドと鬼ごっこを興じる真剣な顔つきのスィンを見、とても複雑そうに二人を見ているガイを見、生暖かい眼で光景を見守るティアを見──

 少女がどんな笑みを浮かべたのか、それを知るのは導師ただ一人だった。

 

 

 

 

 

 




ヴァンとの関係は「そういうこと」です。この先必死で隠してますけどね(笑

ジェイドとの絡みは、伏線と趣味が八対二の割合です。嫌いな方には申し訳ありませんが、この先も似たようなことが発生します。
ルークはまず騒ぎに気づいておらず、捕まったら抱きつぶされると彼女は真剣です。
「また始まったよ」とガイはあきれており、「また始まったわ」とティアもあきれています。
合流したアニスはそれとなく、人間関係を把握し始めておりましたとさ。


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第十四唱——やっとこさキムラスカ。なお、バチカルではない

 

 

 

 

 両国間の無国籍地帯を抜け、マルクトからキムラスカ領に入る。

 キムラスカ側の兵士に旅券を確認させてから、ルークは感慨深そうに呟いた。

 

「ようやくキムラスカに帰ってきたのか……」

「駄目駄目。家に帰るまでが『遠足』なんだぜ」

 

 それをルークの気の緩みととったか、ガイが軽くいさめている。

 

「こんなヤバい遠足、カンベンって感じだけどな」

 

 その横ではそう変わらない空気を懐かしむように大佐が空を仰いでいる。

 

「キムラスカへ来たのは久々ですねぇ」

「ここから南にカイツールの軍港があるんですよね。行きましょう、ルーク様v」

 

 スィンのものとはまた違う『ルーク様』にルーク以外の一行が苦笑いしているのを尻目に、スィンは誰ともなく話しかけた。

 

「それにしても、イオン様をさらうでもなくいきなり斬りかかってきましたね……先決のアッシュとかいう六神将」

「鮮血のアッシュ、な。そうだな、それだけ連中も必死だってことか?」

 

 ガイの疑問に、それはどうでしょうねえ、とジェイドが軽く首をひねる。

 ふう、と息をついてガイが、気分を入れ替えるようにルークに話しかけた。

 

「そういやルーク。ちゃんと日記つけてるか?」

「あー。メンドくせぇけど、やらねえと母上たちが心配するからな」

 

 つけてるよ、と本当にめんどくさそうに話すルークの声に嘘はない。

 事実、エンゲーブでスィンにノートとペンとインクをねだり、うだうだ言いながら道中の空き時間にペンを走らせているのを、ティアと共に目撃しているのだ。

 

「あなたが日記とは、意外ですねえ」

「うるっせーな。記憶障害が再発したとき困らねえように医者からつけろって言われてんだよ!」

 

 心底意外そうに言われて不愉快になったのか、足元の小石を蹴って反発している。

 その様子を見て、スィンはほんのかすかに笑みを浮かべた。

 

「──どうしたの?」

 

 笑みを見つけたティアが聞けば、スィンは「ルーク様は純真な方であらせられる」と呟いた。

 

「七年──ううん、記憶をなくされてからだからほぼ生まれてこのかた、外の世界へ出たことのないルーク様なのに思ったより順応されている、と思ってさ」

 

 不良じみた発言は周囲の眉を歪ませ、友達と呼べるのはガイ兄様くらい。尊敬できる大人は挙げろ言われればヴァン謡将くらい。

 

「かしずかれることしか知らなかった、知ることが許されなかった時のことを考えればすごい進歩で、様々な知り合いが増えるっているのはどんな形であれ、すごく素敵なことだと思う」

 

 あんまし成長が見られないのは残念なことだけど、と締めくくれば、聞き耳を立てていたルークがほめてんのかけなしてんのかイマイチわかんねえ、と感想を呟いた。

 

「それでいいんですよ。わからないよう言ったのですから」

「……お前はなんだかジェイドに似てきたな」

 

 気のせいです、と彼女にしてはやけにはっきり否定する。

 そのスィンに手招きをして、ガイは本人にだけ聞こえるようひそひそと囁いた。

 

「言い忘れてたけどな、お前バチカルのほうで誘──「想像はつきます。お構いなく、ガイ兄様」

 

 皆まで言わさず、にっこりと微笑みかけるスィンに困惑したように頷くガイをじーっ、と見ていたアニスだったが、その視線にスィンが気づいてアニスを見ると、彼女は何気なく聞いてみた。

 

「ね、スィンってどうしてガイに敬語なの? お兄さんじゃないの?」

「……んー、それはねー……」

 

 途端渋面になったスィンがちらりとガイを見る。

 彼もまた複雑そうな表情を浮かべていたが、アニスの質問が消えないことを確信して軽く息をついた。

 

「アニス、料理得意?」

「へ? う、うん。けっこうできるほう……」

「ルーク様には婚約者のナタリア姫っていう方がいるんだけど、この方がまた料理下手でさ。よく味見役任されて、しょっちゅうお腹こわしたっけ」

 

 まったく違う話題を出されて困惑するアニスに、スィンはまったく意に介した様子もなく続ける。

 

「で、運良く見栄えがいいものができるとルーク様に持っていくんだけど、やっぱりダメなんだよね」

「……あのー、それでガイ……」

「だからね、ルーク様よく言ってたよ。『結婚するなら料理の上手な女だろ』って」

 

 きゅぴーん、とアニスの瞳が輝いた。

 

「本当!?」

「うん。ちなみにルーク様の好物はチキンとエビで、嫌いなものは……たくさん。ニンジン、キノコ、ミルク、魚なんかもダメで。イケテナイチキンとイケテナイビーフ、あ、あとブウサギの肉もエンゲーブで見かけてから嫌がってたような」

 

 彼女の気をそらすことに成功したスィンが続けざまにルークの好みをあげ連ねていくと、アニスはそれらすべてを小さな手帳にメモしている。

 

「さすがいいとこのボンボン! 好き嫌い多いなあ……でも、希望が出てきた!」

 

 頑張るぞーっ、と拳を振り上げて気合をいれ、それをルークが「何のことだ?」と聞いていた。

 あわててごまかしているアニスを横目で見つつ、ガイに向かって小さなガッツポーズを見せている。

 何か複雑な事情があると見て黙していたティアであったが、それは同時にスィンへの疑念を大きく抱かせることにもなる。

 知れば知るほど謎が深まった気がした。ヴァンとの関わり、兄と呼ぶガイへの対応、ユリアの譜歌に関する詳細すぎた知識──わからないことだらけだ。

 接触を図りたくても、皆がいる。ティアはティアで、皆に知られては困る事情を抱えているため、慎重にならざるを得ない。

 それはジェイドも同じことだった。

 復讐を叫んだアリエッタに対する過剰な反応、使おうとした術の詳細、瘴気が発生したこととはどのような関わりがあるのか。

 そして彼女はヴァン謡将とどのような間柄なのか──

 ささやかな不協和音を奏でつつ、一行は戦争をとめるため、先を急ぐ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カイツール軍港。

 国境とそう変わらず無骨な港に一歩足を踏み入れると、港で行われる作業音とは到底思えない、まるで鳴き声みたいなものが聞こえた。

 

「……ああ? なんだあ?」

 

 ルークがのんきにあたりを見回せば、ティアがいぶかしげに「魔物の鳴き声……」と推測する。

 ふと影が差し、一同が空を仰げば、そこには怪鳥と呼ぶにふさわしい巨大にして獰猛そうな鳥が空を舞っていた。

 それも束の間、すぐに軍港の空を離れて彼方へ飛び去る。

 一体何事かとその後を追ってみていると、アニスがあ、と思い出したように言った。

 

「あれって……根暗ッタのペットだよ!」

「根暗ッタって……?」

 

 聞いたことあるような、でもそんな名をつける親がいるわけが。一行の疑問を代表して尋ねたのはガイだった。

 アニスはあ~、もう! と言いたげにガイへ駆け寄り、彼の胸をぽかぽか叩き出す。

 

「……ひっ」

 

 持ち前の女性恐怖症が発症しても、アニスは気にしていなかった。

 

「アリエッタ! 六神将妖獣のアリエッタ!」

「わ……わかったから触るなぁ~~!!」

 

 なんとも情けない悲鳴を上げる兄を見ていたスィンだったが、見なかったことにして怪鳥が来た方向へ体を向けた。

 

「港から飛んできたね。行ってみよう?」

 

 ティアが頷き、ルークもその後に続く。後ろで、ジェイドの声が聞こえてきた。

 

「ほら、ガイ。喜んでないで行きますよ」

「嫌がってるんだ~~!」

 

 はあああ、とため息をつきながら、前方を見やれば、ルークが「……う……」と呻いているのが聞こえた。

 その気持ちはわかる。

 保管されていた船は炎上し、魔物が人が死屍累々と倒れている。

 倒れ伏した人々も、魔物も、すでに息を引き取っているように見えた。

 そこかしこの血が、この惨劇の結果を語っているようだった。

 と──

 

「アリエッタ! 誰の許しを得てこんなことをしている!」

 

 重厚な男の声がした。

 厳しく叱りつける声などあまり聞いたことはないが、それは彼のものでないことにはならない。

 見ればヴァン謡将が、海を背にして立つ桃色の髪の少女に剣を突きつけている。

 その姿を眼にして、アニスが駆け寄った。

 

「やっぱり根暗ッタ! 人にメイワクかけちゃ駄目なんだよ!」

 

 果たしてこれがメイワク、の範疇に入るのかどうか首を傾げたい状況ではあったが、悠長にそんなことを突っ込んでいる場合ではない。

 その声で、ヴァンはルークたちの到着を知った。

 

「アリエッタ、根暗じゃないモン! アニスのイジワルゥ~!!」

 

 このような状況下でさえなかったら、単なる子供の喧嘩でしかないのだが、たとえそうだとしても疑問は残る。

 アニスは確か十三歳、アリエッタは確か、ティアと同じ十六ほどではなかったか。

 ……なんで口喧嘩が成立してるんだろう。アニスが年齢の割に大人で、アリエッタが年齢の割に幼いから? 

 そうでもなければ十三歳の言うことに十六歳が涙混じりで言い返すわけがない。

 そのアニスの後ろ、更にヴァンの背後から何があったのかティアが問えば、ヴァンは突きつける剣を収めてティアと向き直った。

 

「アリエッタが、魔物に船を襲わせていた」

 

 ヴァンの苦々しい言葉に、アリエッタは申し訳なさそうに抱えたぬいぐるみに顔を埋める。

 

「総長……ごめんなさい……。アッシュに頼まれて……」

 

 ──まただ。

 

「アッシュだと……」

 

 ヴァンが鸚鵡返しに尋ねる。その瞬間、どこかで待機していたらしい怪鳥がアリエッタの小柄な体を攫った。

 

「船を修理できる整備士さんは、アリエッタがつれていきます。返して欲しければ、ルークとイオン様がコーラル城へこい……です」

 

 上空にとどまり、アリエッタはアッシュからのものらしい伝言を語る。

 

「二人がこないと……あの人たち……殺す……です」

 

 似合わぬ脅し文句を残し、アリエッタは魔物に掴まって港とは正反対の方角へ飛び去った。

 残ったのは屍と、ルークたちのみ。

 

「ヴァン謡将、船は?」

「……すまん、全滅のようだ。機関部の修理には専門家が必要だが、連れ去られた整備士以外となると訓練船の帰還を待つしかない」

 

 ヴァンがガイへ向かって首を振る。

 

「アリエッタが言っていた、コーラル城というのは?」

 

 聞きなれない言葉を耳にしてジェイドが問えば、刀を収めたスィンは彼に振り返った。

 

「ファブレ公爵の別荘ですよ。前の戦争で戦線が迫ってきたから放棄したっていう」

「へ? そうなのか?」

 

 思わぬところで身内の名前が出てきたせいか、ルークが間の抜けた調子で聞き返した。

 それにガイが呆れている。

 

「おまえなー! 七年前におまえが誘拐された時、発見されたのがコーラル城だろうが!」

「俺、その頃のことぜんっぜん覚えてねーんだってば。もしかして、行けば思い出すかな」

 

 頭をかきながら父親の別荘という未知の地へ興味を示すルークだったが、ヴァンの一言でそれをあっさり散らしていた。

 

「行く必要はなかろう。訓練船の帰港を待ちなさい。アリエッタのことは私が処理する」

「……ですが、それではアリエッタの要求を無視することになります」

「今は戦争を回避する方が重要なのでは?」

 

 正論過ぎる一言でイオンを黙らせ、ヴァンは弟子に向き直った。

 

「ルーク、イオン様を連れて国境へ戻ってくれ。ここには簡単な休息施設しかないのでな。私はここに残り、アリエッタ討伐に向かう」

「は、はい、師匠(せんせい)

 

 一行が連れ立って港から出ようとした矢先、ヴァンに肩を掴まれてその場にとどまる。

 

「コーラル城の間取りは覚えているか? 我々が行くに先立って、斥候を頼みたい」

「……コーラル城にいるであろう人間の命の保証ができないんですけど」

 

 かまわん、という彼の言に頷いて、スィンは一行の後を追った。

 彼らは出ようとしたところで、生き残った整備士たちに足止めをくらっている。

 導師を呼び止めた彼らの前に、アニスが立ち塞がった。

 

「導師様に何の用ですか?」

「妖獣のアリエッタにさらわれたのは、我らの隊長です! お願いです、どうか導師様のお力で隊長を助けてください!」

「隊長は、預言(スコア)を忠実に守っている敬虔なローレライ教の信者です。今年の生誕預言(スコア)でも、大厄は取り除かれると詠まれたそうで、安心しておられました」

「お願いします、どうか……!」

 

 二人の整備士による嘆願に、イオンは小さく頷いた。

 

「……わかりました」

「よろしいのですか?」

 

 咎める気配もなくジェイドが問えば、イオンは彼を見てことさら丁寧に頷いた。

 

「アリエッタは、私に来るよう言っていたのです」

「私も、イオン様の考えに賛同します」

 

 常に彼の身を案じるティアが珍しかったのか、イオンは彼女を顧みた。

 

「冷血女が珍しいこと言って……」

「厄は取り除かれると預言(スコア)を受けた者を見殺しにしたら、預言(スコア)を無視することになるわ。それではユリア様の教えに反してしまう。それに……」

「それに?」

「……なんでもない」

 

 ルークの軽口を聞き流し、神託の盾(オラクル)騎士団らしい理由を挙げ連ねる。

 言いよどむ理由の中にヴァンの言葉に従う反発心があったのか、それは彼女にもわからないかもしれない。

 

「確かに預言(スコア)は、守られるべきですがねぇ」

「あのぅ、私もコーラル城に行ったほうがいいと思うな」

「コーラル城に行くなら、俺もちょっと調べたいことがある。ついてくわ」

 

 次々と賛成の声が上がる中、ジェイドがガイをからかっている。

 

「アリエッタも女性ですよ?」

「お、思い出させるなっ!」

 

 あの容姿でどうやったら女性以外に見えるのか、思い出す思い出さないの問題なんだろうか。

 スィンが思わず考え込む矢先でミュウが主人にどうするのかを聞いた。

 

「ご主人様も行くですの?」

 

 多少の興味を寄せていても、ヴァンに逆らうとなるとその好奇心は無意識に消されてしまうらしい。

 彼は心底嫌そうに反対している。

 

「……行きたくねー。師匠(せんせい)だって行かなくていいって言ってただろ」

「アリエッタは、あなたにも来るように言っていましたよ」

 

 さりげなくイオンが来るよう誘えば、整備員たちは必死でルークの説得に当たった。

 

「隊長を見捨てないでください! 隊長にはバチカルに残したご家族も……」

 

 彼らの剣幕に押され、ルークはしぶしぶ承諾した。

 

「……わかったよ。行けばいいんだろ? あー、かったりー……」

 

 整備士たちの礼を聞き流し、先を促すジェイドをルークが不思議そうに見やった。

 

「……ん? あんたはコーラル城に行くの、反対してるんじゃないのか?」

「いいえ、別に。私はどちらでもいいんです」

 

 なんじゃそりゃ、とルークに変な奴扱いされたにもかかわらず、ジェイドは一行の最後尾に立つスィンに振り返った。

 

「そんなわけで連れが増えましたが、構いませんね?」

「……聞いてたんだ」

 

 耳ざとい人だなあ、と呆れているスィンに、話が見えないとルークが訴える。

 

「さっきヴァン謡将にコーラル城への斥候を頼まれました。ルーク様の護衛はガイ兄様の方が適していると考えられたのでしょうね」

 

 見くびられて不機嫌になっている、様子を演じながら、ルークの反応を軽く確認した。

 ヴァンから頼まれたことに嫉妬でもするのでは──と考えたのだが、それは杞憂だったらしい。

 

「そうなのか? じゃあ俺も行く。抜け駆けは許さねーからな!」

 

 誰よりもヴァンの役に立ちたい、という思考が勝ったらしく、ちょっとやる気になって先頭を行くイオンの隣に並んでいる。

 変な八つ当たりがこなかったことにホッとしたスィンではあったが、ジェイドの独り言を聞き逃しはしなかった。

 

「……なぜ、たかだか護衛従者にそのようなことを……」

 

 反射的に言い返しそうになって、ぐっとこらえる。

 その言い訳は用意してあるが、聞かれてもいないことを慌てて返すなんてやましいことがある証拠でしかないからだ。

 表向きなんでもないようなフリをして、スィンはジェイドから離れるように歩を早めた。

 彼の視線から逃れるように。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十五唱——かの地に置かれし

 

 

 

 

 カイツール軍港から途切れ途切れの街道を辿り、海岸線を通ってたどり着いたのは。

 まるでお化け屋敷のように寂れた雰囲気漂う古城だった。

 

「ここが俺の発見された場所……? ボロボロじゃん。なんか、出そうだぜ」

「こんな僻地にある別荘なのにきちんと手入れされているほうがよっぽど怖いですよ」

 

 いつになく無愛想なスィンのツッコミはさておいて、ガイがルークを探るように見た。

 

「どうだ? 何か思い出さないか? 誘拐されたときのこととか」

 

 首をひねり、やはり横へ振るルークに、アニスが尋ねる。

 

「ルーク様は、昔のこと何も覚えてないんですよね?」

「うーん……。七年前にバチカルの屋敷に帰った辺りからしか記憶がねーんだよな」

「ルーク様おかわいそう。私、記憶を取り戻すお手伝いをしますね!」

 

 そんなやりとりに我関せず、といった様子のティアが「おかしいわね」と呟いた。

 

「もう長く誰も住んでいないはずなのに、人の手が入っているみたいだわ」

「魔物いるですの……。気配がするですの」

 

 このコも魔物じゃなかったっけ、と考えながら、スィンは古城の間取り図を頭の中に思い浮かべる。

 

「整備隊長さんとやらは、中かな。行ってみようぜ」

 

 ガイの言葉に従い、一行は崩れた門をくぐって荒れ果てた庭を歩いた。

 錆びた扉を開いてくすんだ赤絨毯を踏めば、舞い上がった埃をまともに吸い込み、ミュウが小さなくしゃみをしている。

 

「ここがウチの別荘だったのか……」

「ルーク。あんまり離れるなよ」

 

 ひとり大幅に前へ出たルークを、ガイがわずかに厳しい声でいさめている。

 

「っせなー。わーかってるって……」

 

 そのとき。ルークの背後にあった彫像がぐるり、と動いた。

 

「ルーク!?」

「ルーク! 後ろ!」

 

 ジェイドやティアの警告を正しく理解できなかったルークが「へっ!?」と頭をかく。

 その彼に彫像は飛び跳ねつつ襲いかかろうと──

 

「獅子戦吼!」

 

 獅子の顔を象った闘気が勢いよく放たれ、それを受けた彫像が己の重さを無視して吹き飛んだ。

 腕をばたばた振り回しながら起き上がろうとする彫像の頭を踏んずけて、両目のくぼみを押し込む。

 途端沈黙する彫像を捨て置き、スィンはルークに振り返った。

 その彼はといえば、仲間から口々にお小言をくらっている。

 

「だから言ったろ? 離れるなって」

「今はスィンが助けてくれたけど、あのまま戦っていたら皆の陣形が崩れて戦闘準備もろくに整えられなかったわ」

 

 ティアから反省を促されるものの、彼は素直に頷こうとせず逆切れした。

 

「るせー! 知るかよ! 大体なんなんだよっ! あれはっ!!」

 

 わめくルークの横をすり抜け、ジェイドがスィンの隣に立って彫像を観察している。

 

「侵入者撃退用の譜術人形のようです。これは比較的新しい型のものですね。見た目はボロボロですが」

「や~ん。ルーク様ぁ! アニス超怖かったですぅ~」

 

 ここぞとばかりルークに擦り寄る彼女から軽く距離を置いて、ガイは再度注意を促そうとした。

 

「まあ、ああいう魔物もいるから……」

「わかったよっ! 気をつけりゃあいいんだろう!」

 

 くそっ、と毒づくルークに冷たい視線を送りながら、ジェイドは肩をすくめているスィンに尋ねた。

 

「ところで、よく譜術人形の停止方法をご存知でしたね」

「だって、前ここに来たときも並んでいましたから。あの人形」

 

 血桜を収め、スィンはさらりと説明して見せた。

 両脇にある階段を登ろうともせず、まっすぐ奥の部屋へ向かっていく。

 

「ま、待って! どこへ行くの?」

「……この上にある部屋や屋上はそれほど広くなくて、おまけに足場がもろい。そんな危険な場所にアリエッタたちがいるとは思えないから、多分こっちの隠し部屋抜けた先にある離れのほうにいると思う。それもおそらくは一番広い屋上。やたら狭い場所で罠なんか仕掛けたら、イオン様にも危害が及ぶかもしれない。イオン様命なアリエッタがそうするとは考えにくいでしょ?」

 

 前にルーク様救出で来たことがあるから、とスィンはひらひら手招きしてみせた。

 

「それは心強いですねぇ」

「伊達に斥候頼まれてませんよ。ただ七年前の話だから、変な場所がもろくなってないといいんだけど」

 

 迷いのないスィンの案内で、一行は正面の扉をくぐった。中はこじんまりとした小部屋で、先はないように思える。

 しかし、中央に置かれていた机をゴンゴンゴン、とスィンがノックすると、入って右の壁がスライドし、扉が出てきた。

 

「よかった。記憶に間違いがなくて」

「間違えるとどうなるの?」

「ここの床が抜ける」

 

 前に間違えて、救出する側が救出されたんだよねー、と微笑みながらスィンが先を行く。

 笑えない冗句に一行が微苦笑を浮かべてついていくと、「あ」と彼女が立ち止まった。

 

「どうしたんだ?」

「……あれ」

 

 スィンが示す先、階段を下りたその先には、一階層から三階層をぶち抜いて設置された巨大な譜業装置があった。

 三階層分を貫くだけに飽き足らず、一番下は海水がたゆたっており、浸水していない位置には丸い舞台(ステージ)、それの前に足場と、制御装置らしいものが設置されている。

 更にその上、階段から降りてきたルークたちの前にも同じような台座があり、その上にやはり円形の天蓋があった。

 それらはすべて、同じような形の柱で支えられている。

 

「なんだぁ!? 何でこんな機械がうちの別荘にあるんだ?」

 

 機械に駆け寄り、上から下まで見上げているルークに対し、ジェイドからは滅多に聞けないような驚愕が洩れた。

 

「これは……!」

「大佐、何か知ってるんですか?」

 

 これが何かを知っていて、なぜこれがここにあるのかがわからなくて驚いている。

 とにかくこれの正体を知っているらしいジェイドにアニスが訊くが、彼は困惑した調子を隠さずに呟く。

 

「……いえ……確信が持てないと……」

 

 一度言葉を切り、ジェイドはルークを一瞥した。

 

「いや、確信できたとしても……」

「な、なんだよ……俺に関係あるのか?」

 

 ジェイドの一瞥の意味が分からず、解答を求めるルークだったが、彼はその視線を振り払うように装置へ眼を向けた。

 

「……まだ結論は出せません。もう少し考えさせてください」

「珍しいな。あんたがうろたえるなんて……」

 

 どこか揶揄するようなガイの声に、ジェイドは彼へ顔を向ける。

 どんな顔をしているのかはわからないが、いつもの微笑みはきっとないだろう。

 しかし、ガイがそれをひるんだ様子はない。

 

「俺も気になってることがあるんだ。もしあんたが気にしてることが、ルークの誘拐と関係あるなら……」

 

 そこまで言いかけて、ちゅうちゅうという特徴的な鳴き声とアニスの悲鳴に言葉は中断された。

 ガイの背中にアニスがしがみついている。

 それに気づいた瞬間、スィンは予想された未来を防がんと走った。

 

「……う、うわぁっ!! やめろぉッ!!」

 

 いつもとは明らかに違う過剰反応で、アニスの体が吹っ飛んだ。

 ものすごい勢いで振り払われた少女の体を、スィンが間一髪で抱きとめる。

 

「な、何……?」

 

 床へ叩きつけられるのは免れたものの、少女は呆然とした様子でガイを見ていた。

 

「……あ……俺……」

 

 その当人ははっと我に返ると、スィンに抱きかかえられたままのアニスを見て、かすかに青ざめている。

 

「……今の驚き方は尋常ではありませんね。どうしたんです」

 

 追求を免れたジェイドが問えば、反射的にうずくまっていたガイが立ち上がった。

 

「…………すまない。体が勝手に反応して……」

 

 誰が見ても作り笑いとわかる笑みを浮かべ、アニスに謝罪する。

 

「悪かったな、アニス。怪我はないか?」

「……う、うん。スィンが受け止めてくれたから……」

 

 頃合いを見計らってスィンが彼女を床へ降ろす。ありがとう、と礼を言いかけて、アニスは言いよどんだ。

 スィンが、今にも泣き出しそうな顔であらぬ方向を見ていたからだ。

 

「何かあったんですか? ただの女性嫌いとは思えませんよ」

「悪い……。わからねぇんだ。ガキの頃はこうじゃなかったし。ただすっぽり抜けてる記憶があるから、もしかしたらそれが原因かも……」

 

 もっともなイオンの質問に、ガイは沈んだ調子で答えていた。

 

「おまえも記憶障害だったのか?」

「違う……と思う。一瞬だけなんだ……。抜けてんのは」

「どうして一瞬だとわかるの?」

「わかるさ。抜けてんのは……俺の家族が死んだときの記憶だけだからな」

 

 黙して会話を聞いていたジェイドがふと、スィンを振り返った。

 

「──スィンは、ガイが女性恐怖症となる原因を知りませんか?」

 

 唇をかみ締め、眼を伏せていた彼女が一行の視線を浴びて目を上げる。

 その瞳に浮かぶのは苦しみをはるかに凌駕した悲しみだった。

 

「……僕はガイ兄様じゃないから、直接の要因はわからないけど……ガイ兄様がなくされた記憶なら、まだ残っています。でもそれを伝えたところで治りはしないだろうし、それに……」

「思い出したく、ない?」

 

 自分の体を抱きしめるようにして、小さく頷くスィンを見て、彼女もまた、軽度の異性恐怖症であったことを思い出す。

 沈黙を払うように、ガイは意識して呼吸した。

 

「俺たちの話はもういいよ。それより、旦那の話を──」

「あなた方が自分の過去について話したがらないように、私にも語りたくないことはあるんですよ」

 

 そう言って、ジェイドはガイに背を向けた。

 重苦しい雰囲気が一行にのしかかる。

 巨大な部屋を抜けた。先はほぼ一本道で、直接海へ繋がっていた天然の通路を抜ければ、あとは長い階段が屋上まで続くのみだった。

 後もう少しで屋上だというところで、ルークはこのあたりでは見当たらない魔物を発見する。

 

「いたぞ!」

 

 巨大な四足歩行の魔物──ライガが屋上へ誘うように駆けていった。

 

「ルーク様! 追っかけましょう!」

「ミュウも行くですの!」

 

 放たれた矢のように駆け出す三人の背に、イオンが少し的外れな制動をかける。

 

「あ、待って下さい。アリエッタに乱暴なことはしないで下さい!」

「待って! 罠かもしれない……!」

 

 その後を追うイオンを、ティアもまた止める。が、彼らはさっさと行ってしまった。

 

「……追っかけます」

「おやおや、行ってしまいましたね。気が早い」

 

 さすがに飛び出すのは控えたスィンが呟いてから走り出し、ジェイドは彼らの若さに、若さゆえの無鉄砲さに軽く肩をすくめている。

 

「……アホだなー、あいつらっ!」

 

 あんな風にライガが姿を現したということは、相手はこちらが来るのをわかっていて誘った、ということに他ならない。

 彼らのフォローをするべく、ジェイドたちもまた駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 スィンが屋上へ出ると、視界に入ったのは拘束した整備隊長を背中に乗せたライガ、その隣に立つアリエッタ、しりもちをついているイオンに隣で空を見上げるミュウ、そして巨大な青い怪鳥──確かフレスベルクとかいう種の魔物──にさらわれたルークとアニスだった。

 

「ふみゅ……。イオン様をかばっちゃいました。ルーク様、ごめんなさい……」

 

 風の音にまぎれてそんな声が聞こえる。

 とりあえずイオンを助け起こすと、アリエッタが意味ありげに片手を挙げた。

 攻撃の合図か、と身を硬くしたスィンだったが、アニスが降ってくるのを見るや真下に立って受け止める。

 それほど上空にいたわけでもないため、そしてアニス自身体重が軽かったために衝撃はなかった。

 ありがとっ、というアニスに軽く視線で答え、地面へ降ろす。

 すぐにルークの姿を眼で追えば、ルークを捕まえた巨鳥は足場の外に待機していた。

 

「ひどいよアリエッタ! スィンが受け止めてくんなきゃ顔から着地してた!」

「ひどいのアニスだもん……! アリエッタのイオン様を取っちゃったくせにぃ!」

 

 年齢不相応の修羅場を横に、スィンはルークのそばへ駆けていた。

 

「アリエッタ! 違うんです。あなたを導師守護役(フォンマスターガーディアン)から遠ざけたのは、そういうことではなくて……」

 

 イオンがアリエッタに弁明をしている。今なら魔物がいきなり襲いかかってくることはない。

 見る限り、ルークは襟首をつかまれて急な旋回を何度か味わったはずだ。おそらく意識は朦朧としているはず。そんな状態でなくても、海面に叩きつけられでもすれば。

 ガイやティアの声を聞きながら、スィンは青い巨鳥に斬りかかり──

 それに驚いた巨鳥はルークを離して上空へ逃れた。

 

「ルーク様!」

 

 血桜を収めて飛び込み様腕を伸ばす。捕まえた。

 自由落下を肌で感じながら、どこかバルコニーのようなものがないか視線を巡らせる。

 すると。

 

 ドサッ!! 

 

「タイミングが早すぎますよ、アリエッタ! おまけまでくっつけて……!」

 

 どうも不安定な足場にルークを抱えたまま着地する。何かにしがみつこうとやみくもに腕をのばしたところで、人の肌に触れた。

 ルークは片手で抱えている。彼ではない。

 はた、と気づいて顔を上げれば、白に近い銀髪に眼鏡をかけた神経質そうな男の顔──ディストがすぐそばにいた。

 ぞわ、と全身があわ立つ。

 

「……いやあああああああッ!!!!????」

 

 反射的に叫んだその声は、普段の彼女とはかけはなれたものだった。

 足場のこともルークのことも忘れて、無我夢中で彼から離れる。

 再び自由落下を味わったあと、息つく暇もなくスィンは海へ転落した。

 細かな泡が顔や体をこすり、水底へ体がひっぱられる。

 水の感触で忘我状態から脱却したスィンは、海草や藤壺が付着している岸壁にしがみついて水面近くまで移動した。

 水面に顔を出さなかったのは、会話が聞こえてきたからだ。

 

「何いまの、女みたいな悲鳴は?」

「ルークにくっついてきた娘のものですよ! こいつが殺されるとでも思ったのか、屋上から一緒に落下してきて──」

「護衛従者の妹の方か。それであんたに驚いて海へ落っこちたっての? 傑作だね」

 

 額に青筋が浮かぶのをはっきり感じながら、スィンは聴覚に全神経を集めた。

 

「まあ、ほうっておいたところで問題はないでしょう。それよりこっちのほうを……」

 

 気配が移動していくのを待ち、スィンはようやく顔を出した。

 反響する足音はひとつしかないが、屋上のほうへいったわけではないのは明確である。

 確かあの装置の下には塩水の水路があったはず──

 スィンは大きく息を吸って、再び海中へと潜っていった。

 

 

 

 

 



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第十六唱——カルマ深き鋼鉄の塊

 

 

 

 

「……な~るほど。音素振動数まで同じとはねえ。これは完璧な存在ですよ」

「そんなことはどうでもいいよ。奴らがここに戻ってくる前に、情報を消さなきゃいけないんだ」

 

 思いのほか簡単に譜業装置のある部屋へたどり着いたスィンは、そっと水面から顔を出した。

 すぐ目の前ではディストが制御装置を覗き込んでぶつぶつ呟き、シンクは何かの作業をせかしているように見える。

 

「そんなにここの情報が大事なら、アッシュにこのコーラル城を使わせなければよかったんですよ」

「あの馬鹿が無断で使ったんだ。後で閣下にお仕置きしてもらわないとね。……ほら、こっちの馬鹿もお目覚めみたいだよ」

「いいんですよ。もうこいつの同調フォンスロットは開きましたから……」

 

 何が目的でルークをさらったのか、いまいちわからないが、音もなくスィンは水路から上がった。

 そのまま足音を立てずに制御装置に歩み寄る。

 ディストはというと、あの奇妙な椅子で飛びあがってシンクのそばへ移動していた。

 彼女は一瞬の躊躇を見せてから制御装置をそっと叩き始める。

 

「……だめか。もう消されてる」

 

 膨大なメモリが綺麗に消去され、バックアップデータも残っていない。

 上を見上げればディストがシンクに気色の悪い笑みを浮かべている。

 二人ともスィンに気づいた気配はない。

 

「それでは私は失礼します。早くこの情報を解析したいのでね。ふふふふ」

 

 そのディストを見送り、シンクも早々に去ろうとしていた。

 

「……お前ら一体……俺に何を……」

「答える義理はないね」

 

 装置の圧力で起き上がれないルークに、シンクが冷たく吐き捨てている。

 あからさまに見送るわけにもいかず、スィンは階段を駆けながら血桜を引き抜き、今度こそ斬りかかった。

 が、相手に気づかれて間一髪のところでかわされる。

 乾いた音を立てて、何かが足元に転がった。

 

「しまった!」

 

 懐に手を当ててシンクが呟くのを、拾い上げた音譜盤を手に持つスィンはしっかり聞いていた。

 今までのやりとりから察して、これはこの装置のメモリかもしれない。

 有無を言わさず襲いかかってきたシンクの足に血桜が当たらないよう応戦する。

 ヴァンの部下だから手加減しているわけではない。

 刃物を持っている人間に生身で挑むということは、それ相応の装備が施されていると予想するべきだ。

 下手を打てばこちらの武器が砕かれかねない。

 と──攻防の末、血桜の刃先が彼の顔をかすった。

 その衝撃で仮面が外れ、素顔があらわとなる。

 

「……ああ。そゆこと」

 

 特に驚いた様子もなく、なぜか納得したようにびしょぬれの髪をかきあげたスィンに、シンクはいぶかしがって返した。

 

「……何?」

「ザレッホ火山。レプリカ。生き残り」

 

 びくり、と体を震わせて硬直するシンクにあえて追撃はかけず、「スィン!」というガイの声に反応したように顔ごとあらぬ方向へ向ける。

 顎を狙った蹴りを回避して平衡を保つため下がれば、彼は転がった仮面を拾い上げて再び素顔を覆っていた。

 

「くそ……他のやつらも追いついてきたか……!」

 

 スィンの手にある音譜盤を気にかけるようにしながら、シンクは屋上とは反対側にある階段を駆け上る。

 

「今回の件は正規の任務じゃないんでね。この手でお前らを殺せないのは残念だけど、アリエッタに任せるよ。奴は人質と一緒に屋上にいる。振り回されてゴクロウサマ」

 

 そんな捨て台詞を残して去るシンクを見送っていると、ジェイドが譜業装置の制御盤を操って装置の圧力を消した。

 自由の身になったルークがむっくり起き上がる。

 

「ふぇ……、何がなんだか……」

 

 気の抜けたその声を聞きながら、スィンはじっとイオンを見つめていた。

 顔かたちに違いはないけれど、以前の彼を知る人々にとってこの雰囲気は違和感そのものだろう。

 むしろ、あのどこか虚無的な態度を見るとあちらのほうがオリジナルに近いかもしれない。

 

「どうしました、スィン?」

 

 イオンに訊かれ、スィンはやっと我に返った。思わず彼から眼をそむけつつ、手の音譜盤を見やる。

 

「……なんでもない、よ? 変な音譜盤を手に入れたから、何かと思ってさ」

「後で、ジェイドに調べてもらいましょう」

 

 スィンの口調が敬語でなくなったことに気づいていないのか、イオンはまったく変わらずそう提案した。

 上では、ティアがルークのそばにいる。

 

「……大丈夫? ルーク。一体あなたをさらってなんのつもりだったのかしら……」

「知るかよっ! くそっ! なんで俺がこんな目に遭うんだ!」

 

 ティアの心配をよそに、怒りをあらわとするルーク。

 彼の気を引かんがため、アニスはすべてをアリエッタになすりつけた。

 とはいえ、別に間違いではない。

 

「アリエッタのせいです! あのコただじゃおかないからっ!」

 

 顔から叩きつけられそうになったことをまだ根に持っているのか、息巻いて拳を握るアニスとは裏腹に、ジェイドは淡々と、少し億劫そうに言った。

 

「屋上……でしたか。何度も同じ所を行き来するのも面倒ですが、仕方ないですね。行きましょう」

「スィン」

 

 先を行く彼らに続こうとして、スィンは終始黙していたガイに向き直った。

 

「……」

 

 あえて沈黙した。常に穏やかな雰囲気を欠かさない彼に、今そのようなものは見られない。

 

「何が言いたいのかはわかるな?」

「……はい」

 

 すみません、と軽くうなだれる。

 全身を濡らす海水が、涙のように床へ滴った。

 

「なら、どうしてあんな真似をした!」

 

 ルークですら聞いたことのないような叱責が轟く。

 驚いて振り返った面々をよそに、スィンは顔を上げてガイの瞳を見た。

 吊り上がり、怒り一色に染まった彼に理性は見当たらない。

 

「幸い海に落ちただけみたいだからよかったものの、下手をすれば海に叩きつけられて死んでいた! どうして俺たちを待っていられなかった!?」

「……体が動いたから。後先を考えていなかったから。ひとつのことに集中しすぎていたから……」

 

 言葉での言い訳に納得できるわけがないと知りながら、連々と理由を述べる。

 彼が落ち着いてきたところを見て、続けた。

 

「一番の理由は、僕が精神的に混乱していて最良の選択をすることができなかったから。気がかりを増やしてしまい、申し訳ありませんでした」

 

 深々と頭を垂れる。

 兄に謝る、というよりは使用人が主人に対し謝罪しているに近い、ひどく余所余所しい彼女の態度に、ガイは怒るでもなく「とにかく」とわずかに嘆息した。

 

「……今は負傷してるんだろうが。でしゃばるな」

「はい」

 

 お気遣いありがとうございます、と答える彼女に早く服を乾かせと言い捨て、ガイは一行のもとへ行った。

 服や髪に残る雫を軽く絞り、その上で譜を口ずさみ、ずぶ濡れの被服から水気を追い出したスィンがその後へ続く。

 

「……口出しするべきじゃないわ」

 

 見たこともないガイの剣幕と、兄に対するものとしては冷ややか過ぎるスィンの態度にルークが口を開こうとすると、ティアにそう囁かれた。

 

「アッシュがどう、とか言っていたわりに見当たりませんね。なんだったんだろ?」

「──違う六神将に代役任せて、俺たちを消耗させた上で襲撃に来るのかもしれない。まあ、ヴァン謡将がこっちへ向かってるなら、とりなしてもらえばいいと思うがな」

 

 驚いたことに、二人はもう何もなかったような顔をして会話を交わしていた。

 一行の雰囲気を思ってのことかと思われたが、本当に自然なやりとりだった。

 男女の差はあれど、二人がひきずるような性格でないからか、または仲直りの意味を兼ねて無意識に交わしたものなのか──

 それは他人が与り知ることではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋上へ、またもルークが一人飛び出した。

 同じようにフレスベルクが彼へ襲いかかる。が、彼はにやりと笑んで手に持ったミュウを突き出した。

 放射された炎の勢いに驚いたように、青い怪鳥はあとずさり、アリエッタの元へ戻る。

 

「へへ、何度も同じ手にひっかかると思うなよ」

 

 勝ち誇ったように言い放てば、アニスがそれを増長させるように彼を誉めた。

 

「ルーク様、すっご~いv」

 

 実際はミュウの手柄なのだが、ルークに気に入られようと努力する彼女にそんな理屈は通じない。

 が、有頂天になるルークを抑えるようにジェイドが一言、珍しく誉めた。

 

「あなたにしては上出来ですね」

「いちいちうるさいぞ!」

 

 やる気を殺がれたルークが怒ってみせる。しかし、向こうにはもっと怒っている人がいた。

 

「アリエッタのお友達に……火……吹いた……! もう許さないんだからぁ!」

 

 ほとんど泣きべそをかいている彼女を威嚇するように、ルークは怒鳴った。

 もしかしたら、フーブラス川でスィンが彼女を圧倒したように、自分も気持ちの上で圧力をかけようとしたのかもしれない。

 

「うるせぇ! 手間かけさせやがって、このくそガキ!」

 

 しかし、安易な罵声は彼女を挑発するしか力はなく、アリエッタは眉を吊り上げて自己完結した。

 蛇足ではあるが、アリエッタとルークはほんの一歳しか年が変わらない。

 

「いいもん! あなたたち倒してからイオン様を取り返すモン! ママの仇っ! ここで死んじゃえっ!」

 

 アリエッタの叫びを受け、控えていたライガとフレスベルクが咆哮して飛びかかってきた。

 血桜を抜こうとして、ガイに止められる。

 

「……ヴァン謡将が来るんだろ? お前は言いつけられた役目を果たせ」

 

 有無を言わさぬ声音で戦うな、と言われ、スィンは戦場から離脱しかけ──やはり血桜を抜いた。

 アリエッタの命令なのか、それとも先ほどの復讐なのか。フレスベルクがスィンめがけて一直線に襲いかかってきたのである。

 居合いで掴みかかってきた鉤爪をいくつか斬り飛ばし、横合いから攻撃を仕掛けるガイに任せて階段へ駆け寄った。

 

「っおいっ! どこ行くんだよ!」

「そろそろヴァン謡将が来るので、事情、説明してきます!」

 

 ルークの怒鳴り声に便乗してヴァン謡将、という言葉を強調して答える。

 彼の人の名を聞いて、アリエッタがびくりと体をすくませ、その隙にジェイドが少女へ接近する。

 その光景を最後に、階段へ降りる。

 全速力で──いったん入り口まで戻って、確認してから戦闘復帰するつもりで走っていると、巨大な譜業装置、フォミクリーの装置が設置してある部屋でヴァンとの邂逅を果たした。

 

「スィン、これはどういうことだ」

 

 彼の姿を見つけ、肩で息をするスィンに、ヴァンは大股で歩み寄った。

 その手には、一本の棒手裏剣とくくりつけられた手紙が握られている。

 カイツール軍港で連れが増えるとわかったそのとき、彼らを連れて行くと手紙に記して整備士に伝言を頼んだのだ。

 

「内容そのままだよ。強硬に止めたら怪しまれると思ったから、連れて行った。……ごめん」

「過ぎてしまったことは仕方ない。彼らは?」

「アリエッタと屋上で交戦中」

 

 ヴァンを先導するように屋上へ向かう。

 アッシュはいないようだと伝えれば、彼は特に気にした風もなくそうか、と端的に呟いた。

 屋上へたどり着いたそのとき。戦闘には決着がついていた。魔物二匹と並んで、アリエッタは力なく膝をついている。

 その様子をきわめて冷ややかに見ながら、ジェイドは改めて槍を取り出した。

 

「やはり見逃したのが仇になりましたね」

「待って下さい! アリエッタを連れ帰り、教団の査問会にかけます」

 

 穂先を彼女へ向けるジェイドの前に両手を広げ、イオンが立ち塞がった。

 

「ですから、ここで命を絶つのは……」

「それがよろしいでしょう」

 

 頃合いを見計らい、ヴァンがスィンを伴って一行の前へ姿を見せた。

 

師匠(せんせい)……」

 

 ルークの声に応えることなく、二人は一行の元へ歩み寄る。

 

「事情はスィンから聞いた。まさかとは思ったのだが……」

「すみません、ヴァン……」

 

 何の言い訳もなく、彼は部下である彼に頭を下げた。

 ただ謝っているように見えがちだが、事情も言い訳も、何もなしに謝るというのは実は至難の業である。

 

「過ぎたことを言っても始まりません。アリエッタは私が保護しますが、よろしいですか?」

「お願いします。傷の手当てをしてあげてください」

 

 気を失っているアリエッタを軽々と抱き上げるヴァンを見て、ガイはため息混じりに尋ねた。

 

「やれやれ……。キムラスカ兵を殺し、船を破壊した罪、陛下や軍部にどう説明するんですか?」

「教団でしかるべき手順を踏んだ後、処罰し、報告書を提出します。それが規律というものです」

 

 果たして身内の処罰に彼らが納得するかどうかは疑問だが、それを口に出したところで解決するわけではない。

 ガイはその後の言葉を飲み込んだ。

 

「カイツール司令官のアルマンダイン伯爵より、兵と馬車を借りました。整備隊長もこちらで連れ帰ります」

 

 戦場となった位置より遠く離れた場所に転がされている整備隊長を解放しているスィンに眼をやり、ヴァンは再びイオンへ眼をやった。

 

「イオン様はどうされますか? 私としては、ご同行願いたいが」

「このコーラル城に興味がある人もいるようですけど……」

 

 誰も何も言わない。新緑の柔らかいまなざしが自分に止まるのをルークは感じた。

 それなら──

 

「歩いて帰りたいな。どうせ船に乗ったらすぐバチカルだろ」

 

 本当は師匠と一緒に帰りたい。

 しかし、彼と共に行くということは、アリエッタとも同行するということだ。

 隔離はされるだろうが、それは嫌だった。

 

「航路の都合で、途中ケセドニアに立ち寄るけどな」

 

 ガイの説明が一言は入るが、誰も異存はない。イオンはヴァンに向き直った。

 

「……どうやら歩きたい人が多いようですし、後から行きます」

 

 了承の意を示し、気をつけて、と声をかけたヴァンは、よろめいた整備隊長を支えているスィンへ呼びかけた。

 

「そのまま彼を連れ、カイツールまでの補佐をしてくれ」

「……はい」

 

 男性を支えて戻らなければならないことに対する感情は隠さず、スィンはまた後で、と一行に頭を下げてからヴァンの後を追った。

 

「ねえねえ、スィンって主席総長のお気に入り?」

 

 その後姿を見送った矢先、アニスが興味津々と言った様子でガイに尋ねた。

 

「んー、まあそんな感じだな」

「えー! じゃあじゃあ、主席総長の恋人ってスィンなのかなあ?」

 

 恋人、という単語に、ルークとティアは同時に「え!?」と驚愕を洩らした。

 

「恋人、って……」

「知らないのティア? 主席総長が長年バチカルに滞在した理由って、王城の近くに住んでる、深窓の令嬢の家に足しげく通ってるからっていう噂があるんだよ」

 

 深窓の令嬢。足しげく通ってる。

 その単語を聞き、ガイはやけに快活な笑声を上げた。

 

「はははっ、それはスィンじゃなくて、ルークのことだな」

「俺ぇ!?」

 

 なんでだよ! とくってかかるルークに、ジェイドが極めて冷静な分析を披露した。

 

「確かに、深窓の令嬢といえば──まあつまり家から出られない、世間知らずな貴族のお嬢さんを指しますから、スィンよりはルークのほうが当てはまりますねえ」

 

 ついでに剣術の指南を受けていたようですし、と付け足せば、ルークは真っ赤になって否定した。

 

「だーっ!! そんなもんデマに決まってんだろうが! 俺はもちろん師匠(せんせい)の恋人じゃねーし、スィンだって違うだろ!? あいつがヴァン師匠(せんせい)に惚れてるのを師匠(せんせい)は知ってるから、いいように使われてるだけだって!」

 

 妹を愛の奴隷扱いされ、微妙に顔をしかめるガイが、その件にはもう触れることなくそろそろ行こう、と先を促した。

 屋上ゆえの強い風が、一行の背中を強く押す。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十七唱——出港、またひとつ罪を負う

 

 

 

「皆さん、お待ちしておりました!」

 

 カイツール軍港へ足を踏み入れた途端、ルークたちはイオンへ直談判にきた整備士の一人に出迎えられた。

 

「隊長を助けて下さって、ありがとうございました!」

「あー、もう大変だったぜ……」

 

 当時の苦労を思い出し、うんざりとした様子のルークを励ますように、アニスが相打ちを打った。

 

「ルーク様大活躍でしたよv」

「……へ、へへ。それほどでもあるかな……」

 

 調子にのるルークに、ティアはつっこみを忘れていない。

 

「……さらわれてたくせに」

「うるせーっつーの!」

神託の盾(オラクル)騎士団主席総長ヴァン・グランツ謡将閣下よりのご伝言です」

 

 やりとりに巻き込まれることなく、彼はきわめて真面目に語った。

 

「グランツ謡将閣下に置かれましては、カイツール方面司令官アルマンダイン大将閣下とご会談中であります。皆様にも後ほど会談の間へご足労いただきたいとのことです。なお、船の準備は順調に進んでおります」

「ご苦労さん」

 

 珍しくルークが労うように言えば、彼は背筋を正して恐縮した。

 

「とんでもありません! では、整備に戻ります!」

 

 作業へ戻る彼の背中を見送り、ルークはふと後ろの面々に振り返った。

 

「会談って、どこでやってるんだ?」

「──港の方の、来客用施設ですよ」

 

 背後からの声に再び振り向けば、そこにはいつの間にかスィンが立っていた。

 

「な、何いきなり突っ立ってんだよ!」

 

 人の背後に、と、どことなくつっかかってくる彼を不思議そうに見ながら、彼女はわずかに胸を抑えた。

 

「どうした? 顔色が悪いようだが……」

「どうしたもこうしたも、整備隊長支えてなきゃいけないわ、ヴァン謡将にはお小言喰らうわで、心労たたりまくりですよ……」

 

 ふー、と長いため息を吐き出すあたり、馬車での移動は彼女に多大なストレスを与えたらしい。

 そのことに心中でザマミロと呟きながら、ルークはスィンへ命じた。

 

「よし。んじゃ案内しろ」

 

 わかりました、と頷き、彼女は一行を先導する。

 港の中は、襲撃の痕跡が残らぬほど綺麗に清掃されており、あの惨劇を思い起こさせるカケラは一切なかった。

 やがてスィンがある施設の前に立ち、こんこんこんっ、とノックをする。

「誰だ?」と問う声に、彼女は大きめの声で名乗った。

 

「スィンです。ルーク様をお連れいたしました」

 

 入室の許可が下り、スィンが扉を開いてかしこまり、どうぞ、とルークを促す。

 中へ入れば、ヴァンが軍人然とした男と何事かを話し合っていた。

 

「これはこれは、ルーク様」

 

 彼の姿を認め、男は親しげに歩み寄ってきた。

 大将というだけあって、彼の軍服はどっしりとした厳かな感じに仕上がっている。

 前線で戦うようにはあまり見えないが、わかりやすく強面(こわもて)だ。

 彼の親しげな様子にルークが首を傾げていると、彼は少し残念そうに自己紹介した。

 

「覚えておられませんか。幼い頃一度バチカルのお屋敷でお目にかかりました、アルマンダインにございます」

「覚えてねぇや……」

 

 一同が中へ入った最後尾で、スィンがゆっくりと扉を閉める。

 その扉によりかかるようにして、彼らの様子を観察していた。

 

「ルーク様はお小さかったですからな。仕方ありません」

 

 彼はどう言って自己完結したが、実際のところルークには事情がある。

 それを大将たる彼が知らないということは、ルークが記憶喪失であるということも知らない可能性が高かった。

 この分では軟禁生活のことなども、外部の人間には知らされていないのかもしれない。

 確かに、誘拐されて記憶喪失になったとはいえ、実の息子を軟禁なぞしていたことが知れたら、ファブレ公爵家最大のゴシップに発展しそうではあるが──

 

「イオン様。アルマンダイン伯爵には、アリエッタの件をお話しておきました」

 

 話題を変えるためなのか、嫌なことを先に済ませるためか、ヴァンがイオンに報告した。

 

「我がしもべの不手際、お許し下さい」

「ダアトからの誠意ある対応を期待しておりますぞ」

 

 そう言った彼の口調は固く儀礼的で、内に秘められた感情が押し殺されていることがありありと伝わってくる。

 が、そんな微妙な空気に気づけないルークはきわめて軽く提案した。

 

「あ、そうだ。伯爵から親父に伝令を出せないか?」

「ご伝言ですか? 伝書鳩ならバチカルご到着前にお伝えできると思いますが」

 

 彼のぞんざいな口のききように、心なしか不思議そうな面持ちで応対する。

 もっとも、疑問の具体的な内容は何を伝えるのか、に占められてはいるが。

 

「それでいい。これから導師イオンと、マルクト軍のジェイド・カーティス大佐を連れてくって……」

 

 その名を出した途端。アルマンダイン伯の顔がみるみる引きつった。

 

「……ルーク。あなたは思慮がなさ過ぎますね」

 

 ジェイドがため息混じりに言う。

 それをルークが反論する前に、アルマンダインの厳しい詰問がさえぎった。

 

「カーティス大佐とは、死霊使い(ネクロマンサー)ジェイドのことか」

「その通り。ご挨拶もせず、大変失礼致しました」

 

 できれば隠し通したかったのだろう、ジェイドはいけしゃあしゃあと事情を説明した。

 

「マルクト帝国皇帝、ピオニー九世陛下の名代として、和平の親書を預かっております」

「……ずいぶん貧相な使節団ですな」

 

 死霊使い(ネクロマンサー)を前にそれでも虚勢を張るか。

 アルマンダインはジェイドに警戒しながらもイヤミを(のたま)った。

 

「あまたの妨害工作がありました故、お許しいただければと思います」

「こいつら、俺を助けてくれたんだ。何とかいいように頼む」

 

 己の感情を素直に出すか、ファブレ公爵の機嫌を取るか。彼は後者を選んだようだ。

 

「……わかりました。取り急ぎ、本国に鳩を飛ばしてみましょう。明日には出航できます故、本日はこの港でお休み下さい」

「お世話になります」

 

 イオンは丁寧にそう言ったが、彼から返事がもらえることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──翌日。一行は予定通り、ケセドニア行きの連絡船『キャツベルト』に乗船した。

 

「お世話になりました」

 

 イオンが一礼し、他の面々も出港間近の船へ乗り込む。

 最後尾を歩くルークの背中に、「よい旅を!」というアルマンダインの声がかけられた。

 

「やっと帰れるのかぁー……何気に大変だったな」

 

 甲板で無事出港を見届けた後、ルークたちはひとつの船室に集まっていた。

 彼らには二部屋用意されていたものの、ティアたちは荷物だけ船室においてきている。おそらくはルーク、イオンの護衛のためだろう。

 それを象徴するように、杖だけは手放していないティアが戒めるように言った。

 

「まだ安心はできないわ」

「どうしてですの?」

 

 机の上にいるミュウが小首を傾げる。

 

神託の盾(オラクル)の襲撃があるかもしれない」

「あいつら、行く先々待ち伏せてやがるからなー。面倒くせぇったらねえ」

 

 ルークは髪をかきあげてため息をついた。

 敵がマルクトの連中ならここへ来た時点で危険も減るというものだが、相手はダアトだ。両者の仲介者であるダアトでは、関係ない。

 

「──そういやガイ、スィンの奴はどこへ行った?」

 

 ふと集まった面々を見渡して、ルークは彼の妹がいないことに気づいた。

 しかし、ガイは首を振っている。

 

「いや、見てないぜ? 部屋にいるんじゃ……」

「いいえ。そもそも荷物を置きにきていないわ」

 

 ティアもまた知らないという。一同が首を傾げる中、アニスがふっふっふ、と含み笑いをしていた。

 

「……アニス。何かを知っているという顔ですね」

「よっくぞ聞いてくれました!」

 

 小さな胸を張り、アニスは見知った事実を大暴露し始める。

 

「スィンならねえー、乗船した後に主席総長のお部屋へ入っていきましたー☆」

「はあああ!?」

 

 年頃の女性が男性の部屋へ入る。

 これ以上ないくらい明らかな事実に、ある者は頬を染め、ある者は目を白黒させている。

 

「いいのですか、ガイ? 妹の貞操の危機ですよ」

 

 ジェイドが真面目な顔でガイに問う。

 しかし彼は、一同の予想に反して冷静だった。苦笑いすら浮かんでいる。

 

「いや、いいも悪いも……あいつもう子供じゃないからなあ。兄貴だからってプライベートに首突っ込むのはよくないし、大体あいつがヴァン謡将と個人的に親しくしてる、ってのはバチカルの城下町でも結構有名だったから……」

 

 ひゃわー、とアニスが手を叩いた。

 

「じゃあ主席総長に恋人発覚!? 新聞に垂れ込んだら謝礼がっぽり……!」

 

 そのとき、ノックもなしにバタン! と乱暴に扉が開かれ、顔を真っ赤にしているスィンがずかずかと入ってきた。

 向けられる視線をものともせず、びしっ、とガイに指を突きつける。

 

「悪質なデマを流さないでください!」

「別にデマってわけじゃないだろ? 現によく城下町で……」

「後生ですから誤解を招く言い方はやめてください! ルーク様が本気にされたらどうするんですか、まったくもう!」

 

 ひとしきり喚いた後に、スィンはルークへ向き直った。

 そのとき、彼は初めて彼女の髪型がもとに戻っていることを知る。

 包帯は解かれ、藍と緋色の瞳はしっかりとルークを見据えていた。

 

「ルーク様。グランツ謡将がお呼びです。甲板でお待ちください、とのことですが」

「ヴァン師匠(せんせい)が? ……わかった」

 

 ガイの話の真相を聞きたいが、彼を待たせるわけにはいかない。ルークは「そういうこったから」と船室を後にした。

 ふぅ、と息を吐いたスィンだったが、無邪気な導師が刹那の安寧を破る。

 

「スィンは、ヴァンの恋人だったんですか?」

「──違います」

 

 じゃあ何で部屋に? と興味津々聞いてくるアニスに、軽く嘆息しながらも言葉少なに答えた。

 

「ちょっと用事があったから、だけど」

「どんな用事で?」

「……想像にお任せするよ」

 

 扉に背を預けるようにして、瞼を閉じた。

 ──今頃、ヴァンはルークに仕込みをかけているところだろう。それを邪魔させないために、スィンはここに留まっている。

 何も思わない。割り切らなければならない。心苦しく思ってはいけない。

 さもなくば待ち受けるのは──

 

「スィン?」

 

 ふと眼を開ければ、目の前にガイがいた。

 

「はい?」

「……あのことで悩んでるのか? もしお前が俺たちの巻き添えを恐れてるなら、その心配は──」

「お心遣い感謝しますが、別件です。お気遣いなく」

 

 イオンたちによる会話を聞いていたジェイドが、それを小耳に挟んでか、ちら、とスィンを見やる。

 しかしそれに触れることなく、彼はまったく違うことを切り出した。

 

「そういえば、スィンの腕は完治したのですか?」

「……まぁ、一応。もう平気ですよ」

 

 にこり、と一同に微笑みかける。が、次の言葉でスィンは再び真っ赤になった。

 

「では本題です。この際だからはっきりしておきましょう。スィンはヴァン謡将とお付き合いしているんですか?」

 

 例の微笑を絶やさぬままされた質問に、彼女は両の頬を押さえてそっぽを向いた。

 

「……こ、答える義理はありませんね」

「いえいえ。ここは答えてもらいますよ? あなたに興味を持つ一人の男としてね」

 

 歯の浮くような台詞にアニスやティアが心底驚いているものの、これは照れなくていいだろうと、スィンはまったく本気にしていなかった。

 この軍人は、こちら関連の感情を操ることも厭いはしていない。それっぽいことを言って、事実を把握しておきたいという魂胆が見え隠れしている。

 

「……先ほどガイ兄様がおっしゃっていたことは事実です。僕は自分の恐怖症のこと結構邪魔だと思ってるんで、ルーク様の子守役の頃からヴァン謡将に協力を仰いで、どうにかしようと思っているんですよ」

 

 軽く腕を組み、ジェイドの眼を真っ向から見た。

 藍と緋色の瞳が、事実を隠さんと力強く輝く。

 

「部屋へ入ったのは、バチカルへ行くのにアリエッタをどうするつもりなのか聞いてきただけ。ケセドニアで僕たちと別れて、ダアトの監査官に引き渡すつもりらしいですけど」

 

 これで満足ですか? と挑発的にジェイドへ聞くと、彼はあっさり頷いてみせた。

 

「なるほど……私はてっきり、あなたを彼の回し者だと思っていたんですがねえ」

「あなたはマルクトの回し者ではないんですか?」

 

 違いありません、と苦笑するジェイドから目を外し、スィンはおもむろに腰かけた。

 先ほど一瞬だけではあるが、超振動発生時特有の、空気が震えるような気配がしたのである。

 それを面へ出さないよう、スィンはガイへ例の音譜盤を渡しながら、ケセドニア到着の汽笛を待った。

 

 

 

 

 

 

 



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第十八唱——重ねしは嘘と諍いと

 砂混じりの乾いた風を受け、スィンはほうっ、と息を吐く。

 あれから、表向き何事もなくケセドニアに到着した。向こうではアリエッタを抱えたヴァンがルークに事情を説明している。

 

「えーっ! 師匠(せんせい)も一緒に行こうぜ」

「後から私もバチカルへ行く。わがままばかり言うものではない」

 

 口を尖らせて不平を零すルークに、ヴァンがやさしくたしなめた。端から見ていると、まるで微笑ましい父子のようである。

 ただ、片方若すぎで片方育ちすぎだが。

 

「……だってよぉ」

 

 ティアはどう思ったのか、先ほどから沈黙を守ったままだ。

 

「船はバチカル側の港から出る。キムラスカの領事館で聞くといい。では、またバチカルでな。ティアも、ルークを頼んだぞ」

 

 ひょっとしたら、ティアは兄を信じていいかもしれないと考えていたのかもしれない。彼女は珍しく素直に返事をした。

 

「あ……はい! 兄さん……」

 

 そんな妹に軽く頷いて見せた後、彼はアリエッタを伴って去っていった。

 彼らに近寄れば、ミュウがルークの足元でぴょこぴょこ跳ねている。

 

「ご主人様、新しい街ですのっ! 砂だらけですのっ!」

 

 今までいくつか街を回ってきたものの、ここは彼にとって目新しすぎたらしい。

 興奮した様子で、ミュウは自分の体よりも明らかに高く跳んでいる。

 しかし、ルークにとっておおはしゃぎするミュウは目障り以外なんでもなかったらしい。

 

「……うるせぇ、ブタザル」

「こんなに可愛いのにねー」

 

 しょげているミュウを見て何か言いたそうにしているティアに話しかける。

 彼女はびくっ、と肩を強張らせてスィンを見た。

 

「え、ええ。そうね。ミュウが可哀想」

 

 しっかりミュウが可愛い、ということを肯定しつつ、彼女は先を行く一行の後をついていった。

 スィンもそれに続きかけて、ふと前方を見る。

 鮮やかな桃色の髪に、同色の服を着た色っぽい女性が一行を見ていた。

 心当たりのあるその姿を見て、スィンはある一計を巡らせる。余所見をしながら早足になって、わざとルークとぶつかった。

 どんっ、と彼の横をすり抜けるように移動する。

 

「……と、すみません」

 

 勢いをつけるというよりは、体を密着させるようにしてぶつかったせいか、彼は怒るような素振りを見せず「気ぃつけろ」と言っただけだった。

 直後、例の女性がルークに向かって歩み寄ってくる。

 

「あらん、この辺りには似つかわしくない品のいいお方……v」

 

 くるり、と彼の周囲を一周するようにしてから迫るように目の前へ立った。

 

「あ? な、なんだよ」

 

 豊満な女性に体を押し付けられ、ルークは戸惑ったように体を引く。

 

「せっかくお美しいお顔立ちですのに、そんな風に眉間にしわをよせられては……」

 

 細い指がルークの顔をすっ、と滑った。

 

「ダ・イ・ナ・シですわヨ」

 

 ひょい、と離れたその一瞬、スィンはしっかりと確認した。

 女のもう片方の手が、ルークのポケットへ沈んだかと思うと、彼の財布を握って引き抜かれたことを。

 女の体がちょうど邪魔で見えなかったのか、アニスは体全体であせりを表現している。

 

「きゃぅ……アニスのルーク様が年増にぃ……」

 

 確かに年齢不詳の外見ではあるが、そんなことを言われて怒らない女性はいない。

 

「あら~ん。ごめんなさいネ。お嬢ちゃん……。お邪魔みたいだから行くわネ」

 

 最後のほうに至っては本性をむき出しにしていた彼女ではあったが、意識しているとしか思えない足取りで立ち去りかける。

 そこへ、ティアが立ちはだかった。

 

「まちなさい」

「あらん?」

 

 何か用、といわんばかりに女はティアへ顔を向けたが、次の一言でほんの一瞬固まった。

 

「……盗ったものを返しなさい」

「へ? あーっ! 財布がねーっ!?」

 

 やっとこさルークがその事実に気づく。女の表情はえらくずるがしこそうなものへ変わっていた。

 

「……はん。ぼんくらばかりじゃなかったか。ヨーク! 後は任せた! ずらかるよ、ウルシー!」

 

 手に持った財布を前方に待機していた眼帯の男に投げ、ティアの気が一瞬それたところで女は逃げた。

 それを見届け、眼帯の男も逃走を図る。

 ティアが腕を振りかぶってナイフを投げようとしたのを、スィンが肩を叩いてやめさせた。

 

「大丈夫、ティア。あれは贋物だから」

「……え?」

 

 彼女が聞く頃、スィンは屋根の上へ逃げている三人をキッ、と睨み据える。

 

「ひっかかったな、バカ盗賊! 財布を開けてみろ!」

 

 バカ盗賊、という単語に反発している男二人を抑え、女──ノワールが袋の口を開けた。

 途端、彼女の目が吊り上がり、同時に財布が降ってきた。

 地面に叩きつけられ、詰められていた中身が散乱する。中に入っていたのは──鉄屑(ジャンク)

 彼らの様を見て、スィンはまるで人が変わってしまったかのように哄笑した。

 

「あはははっ! いい気味、ざまぁみろ! シアのときの借りと、ローテルロー橋をぶっ壊してくれた礼だ! 次はマルクト軍にでも突き出してやろうか、サンバカ!」

 

 威勢良く叩きつけられる罵声に、彼らは青筋を浮かべながらも冷静に対応していた。

 

「……俺たち『漆黒の翼』を敵に回すたぁ、いい度胸だ。覚えてろ……!?」

 

 向けられた銃口と、乾いた銃声を耳にして、彼らはすたこらと去った。

 

「いつでも来いっての」

 

 譜業銃を腰に戻して、スィンは懐を探った。驚きに眼を丸くしているルークに、財布を手渡す。

 

「ルーク様、隙ですよ」

「は?」

 

 イントネーションを変えればえらい問題が発生する発言だが、スィンは気づかなかった。

 

「だから、隙がありまくりですよ。さっき僕が財布を入れ替えたのにも気づいてないし」

「てゆーかお前、知ってたのか? あいつらが漆黒の翼、って……」

「はい。あの女──ノワールがじーっとルーク様を凝視しているのに気づいて、失礼ながら財布を預からせていただきました」

 

 そのことについて謝るも、彼は違うことに夢中でさっぱり気にしていない。

 

「あいつらが漆黒の翼なのかよ! 知ってりゃもうぎったぎたにしてやったのに!」

 

 くやしがるルークに水を差したのは、自分の行動が空回っていたことに嘆息しているティアだった。

 

「あら。財布を二回もすられた人の発言とは思えないわね」

「ちょっとデレデレしてたしね」

 

 ティアとスィンのダブル口撃に、ルークは口をつぐんでいる。

 

「そういえばスィン。サンバカとは?」

「漆黒の翼といえばカラス。で、あいつらは三人組だから三羽烏。略してサンバカ」

「なるほど。三人の馬鹿、ではないんですね」

 

 騒動は終わったとばかり歩き出す一同であったが、ふとアニスが口を開いた。

 

「ねえスィン。シアってひょっとして……シア・ブリュンヒルドのこと?」

 

 ぴく、と先を行くスィンの肩が痙攣した。そーっ、とアニスに振り返る。

 

「……そだけど、アニス知ってるの?」

「うん! 神託の盾(オラクル)にいた元六神将なんだけど、二年くらい前にいきなり蒸発しちゃって。規律違反で追放処分くらったとか、総長と喧嘩別れしたとか、ディストに実験台にされたとか、変な噂ばっかり飛び交ってたんだけど……良かった。生きてるんだ」

 

 偽りなく嬉しそうに微笑む少女に、スィンはおそるおそる聞いた。

 

「……アニス。シアと面識あるの?」

「あるよ。何回か料理のイロハを教えてもらったんだ」

 

 その一言に、ふーんとスィンが返事してから「……覚えてたんだ」と呟く。

 それに反応する前に、一行はキムラスカの領事館へ到着していた。

 受付を通って執務室へ入る。彼はすぐさまこちらが誰なのかわかったようだ。

 

「ルーク様と使者の方々ですね。ご苦労様です」

「バチカルへの船は?」

「ただいま準備を進めております。お時間まで街を観光されてはいかがでしょうか」

 

 領事の薦めに、それなら、とガイがきりだした。

 

「じゃあこの隙に例の音譜盤を調べないか?」

「音譜盤の解析機でしたら、ケセドニア商人ギルドのアスター氏がお持ちだと思います」

 

 すかさず解析機の有無を教えてくれた領事の意を汲むためにも、彼は強めに主張している。

 

「ルーク、ちょっと寄ってみようぜ。バチカルについてからじゃティアも忙しいだろうし」

「興味はありますねぇ……」

 

 彼らの言葉に、ルークは興味がないながらも了承した。

 

「ふーん。ま、いいぜ。俺も観光してーから」

 

 国境をまたいで立つ豪邸に足を踏み入れ、待つこと少し。

 主の登場に全員が起立し、ルークも遅れて立ち上がった。

 

「これはこれは。イオン様ではございませんか! 前もってお知らせいただければ盛大にお迎えさせていただきましたものを……」

 

 この状況下でそんなことをされたら困るどころではない。

 しかしイオンはそれに気づいたのか否か、きわめて朗らかに、短く答えた。

 

「よいのです。忍び旅ですから。ところでアスター。頼みがあるのですが」

「我らケセドニア商人ギルド、イオン様のためならなんなりと」

 

 多少の媚と大袈裟感が浮き上がっているものの、彼の言葉に偽りはないように感じられた。

 ダアトとケセドニア間の友好状態を維持するためか、イオンの人となりを信頼しているからか。

 

「この音譜盤を解析したいんだ」

 

 イオンの言葉に合わせ、スィンから預かっていた音譜盤をガイが取り出した。

 

「お任せ下さい。──誰か!」

 

 大仰な仕草で手を叩けば、扉の向こうから使用人らしい男性が現れた。

 

「そちらの音譜盤を解析して届けろ」

「かしこまりました」

 

 深々と頭を下げ、彼は音譜盤を受け取り立ち去った。

 解析が終了するまで、一行はアスターと雑談をしていたが、金持ちならなんでもいいのか、アニスがそこはかとなく、しなを作っている。

 その様子を苦笑いしていたスィンに、アスターが眼を止めた。

 

「ところで、そちらのお嬢さんは珍しい瞳の色をお持ちですね。もしや、シアという女性をご存知ではありませんか?」

「シア・ブリュンヒルドでしたら、僕とは血縁関係に当たります」

 

 ずいぶん回りくどい言い回しに、しかしアスターは気にせず続ける。

 

「やはりそうでしたか。同じ瞳の色でしたので……」

「アスターさんは、彼女と面識があるんですか?」

 

 スィンの問いに、アスターは以前を思い出すように語った。

 

「はい。一度しかお会いしたことはありませんが。以前ザオ砂漠で大量発生した魔物がケセドニアへなだれ込んできた際、偶然ザオ遺跡調査に来ていた彼女たちのおかげで、ケセドニアには何の被害もありませんでした。それどころかオアシスの住人たちまで保護していただいて。感謝の印にとここへご招待したのですが、丁寧にご辞退されまして、大変残念でした」

 

 アスターの話は続く。

 

「砂漠で肌を焼かないように、と瞳を除いて顔は隠されていましたが、その分色違いの(オッドアイ)の印象がありましたね。それに、街を視察した際偶然お見かけしてしまったのですが……」

 

 彼の熱弁をなんとか止められないものかとそわそわしていたスィンだったが、扉を叩く音にほっとした。

 我に返ったアスターは「これは失礼を」と頭を下げて使用人を見ている。

 

「こちらが解析結果でございます」

「ありがとう」

 

 朗らかにガイがそれを受け取り、渡された書類を見てルークが驚いた。

 

「すごい量だな」

「船の上で読むか」

 

 用事は終わった、とばかりに、ジェイドが立ち上がる。

 

「では行きましょう。お世話になりました」

「何かご入り用の節には、いつでもこの私にお申し付け下さい。ヒヒヒ」

 

 どこか怪しい笑みに見送られ、一行は豪邸を後にした。

 

「ねえ、そういえばシアってスィンのお姉さん? てことはガイの……」

「あー、違うよ。シアは、ガイ兄様とは血、繋がってない」

 

 どこか言いにくそうにしているスィンの答えを聞き、アニスは気まずげに口を閉ざしている。

 が、どこまでも空気が読めていないルークの追求に容赦はない。

 

「どういうことだよ、血の繋がりがないって……」

「──腹違いなんだよ。俺たちは」

 

 はっきりと顔を曇らせたスィンの代わりに、ガイがさらりと説明した。

 が、ルークの興味は早くも別の方へ移っている。

 

「へえ……。そういや、元六神将って、そいつはヴァン師匠(せんせい)の部下だったのか?」

 

 塗りつぶされたと思っていた彼女の話題がルークによって浮上したことに、スィンは軽く挙動不審になっている。

 

「そもそも二年前までは六神将なんて正式名なかったんですけど、元祖・六神将ともいえる人たちがいたんですよ。今の六神将の三人──ラルゴ、ディスト、リグレットのほかに、斬鉄の剣匠(ソードマスター)ヴァン、採魂の女神ブリュンヒルド──シアのことですね、あと一人いたと聞いてるんですけど……」

「へーっ……師匠(せんせい)斬鉄の剣匠(ソードマスター)なんて呼ばれてたんだ……」

 

 なかなか思い出せないらしくうーん、と首をひねっているアニスに、ジェイドは心なしか早足で進んでいくスィンの背中を見ていた。

 

「ブリュンヒルド……古代イスパニア神話に登場する戦乙女たちの統率者、戦女神の名ですね」

 

 いい名前です、とイオンは言ったが、どう考えても偽名くさい。二つ名と合っているだけに。

 

「妖獣のアリエッタじゃないのか?」

「あのコ、もとは導師守護役(フォンマスターガーディアン)だったんだよ。二年前、なんか不祥事起こしたとかで、いったん解雇されたけど……」

 

 顔を曇らせるイオンを気遣ってか、その声が少し小さくなる。

 酒場を通過したところで、キムラスカ兵が歩み寄ってきた。

 彼はルークたちの姿を認め、その前で立ち止まり敬礼をする。

 

「こちらにおいででしたか。船の準備が整いました。キムラスカ側の港へ……」

 

 そのとき。

 足音高くこちらへ駆けてくる影を認め、ティアが警告を放った。

 

「危ない!」

 

 はっ、と顔を上げると、仮面の少年──烈風のシンクが腕を振り上げて襲いかかってきたところだった。

 隙を狙ってか、音譜盤と書類を抱えたガイに迫っていく。

 とっさにガイの腕をつかみ、ひっぱりながら接触する間に割り込んだ。

 

「うわっ!?」

 

 結果、シンクの手がスィンと、スィンに反応して飛び退ったガイの腕に触れる。

 その際彼は腕の荷を落として倒れこんだが、無事のようだ。

 音譜盤がシンクの手に渡ったが、解析結果があれば変わらない。触れただけなのに痛む腕を押さえてスィンは書類を回収した。

 

「それをよこせ!」

「お断りだっ!」

 

 飛びかかってくるシンクに、腕を突き出した。

 投擲された小型の譜業から瞬時に譜陣が展開し、まばゆい光が彼の眼を灼く。

 しかし気配に頼ってか特攻をやめなかったシンクに応戦しかけ、ジェイドに止められた。

 

「ここで諍いを起こしては迷惑です。船へ!」

「くそっ! 何なんだ!」

 

 避けられる戦いなら避けたほうがいい。確かにそっちのほうが利口である。

 スィンは一行のしんがりを駆けた。

 

「逃がすか!」

 

 仮面で防いだのか、閃光を浴びせたというのにその足取りに迷いのようなものはない。

 

「ミュウ! ちょっと来て!」

「はいです「おらよっ!」

 

 げし、と足元のミュウをスィンのほうへ蹴飛ばす。

 片手でミュウの頭を掴んだスィンが、後方へ向けて「お願い」と囁いた。

 

「ふぁいやー!」

 

 北の森を丸裸にした火炎放射が、追いつきそうになっていたシンクの勢いを弱める。

 その隙を見逃さず、スィンは全力で駆けた。

 そのために肩にしがみついていたミュウを落っことし、ルークに回収されたというハプニングがあったものの、出航するキャツベルトのタラップに二人は何とかしがみつく。

 そのまま船にもぐりこんでいくルークのあとは追わず、スィンは船の屋根に四つんばいになって、すぐそばまで来ていたシンクに眼をやった。

 

「……くっ、逃したか」

 

 悔しそうに呻く声。海に飛び込んで追ってきたらどうにかして追い返すつもりだったが、それはなかった。

 そのかわりといってはなんだが、椅子が飛んできた。無論、シンクが投げつけてきたわけではない。

 

「ハーッハッハッハッ!」

 

 頭にくる哄笑がスィンのところまで届く。

 が、それ以降は二人で話しているらしく、肉声が聞き取れるレベルのものではない。

 いつまでも姿を見せないスィンを呼ぶ誰かの声がした。仕方なく、スィンは船の屋根を伝って甲板へ着地する。

 

「驚かせるなよな!」

 

 落っこちたと思ったじゃねーか、とルークに軽く小突かれながら、スィンは腕の中の書類に眼を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十九唱——あんたらホントに三十路過ぎ?

 

 

 

 

 

「ここまでくれば、追ってこれないよな」

 

 船室に備えつけられた椅子にふんぞり返り、ルークは安堵の吐息をついている。

 対照的に、ガイは険しい目で書類を点検していた。

 

「くそ……烈風のシンクに襲われたとき、書類の一部を無くしたみたいだな」

 

 見せてください、とジェイドに乞われ、ガイは机の上に書類を滑らせた。

 黙々と他の書類に眼を通しているスィンの前を通って、書類はジェイドの手に渡る。

 

「同位体の研究のようですね」

 

 一通り眼を通してから、彼は眼鏡を押さえて呟いた。

 

「3.14159265358979323846……」

「ローレライの音素振動数?」

 

 すべての書類に眼を通したスィンが、ガイの隣で突っ伏しながら確認している。

 彼らの発する単語がさっぱりわからない、と喚くルークにかわるがわる説明をしている彼らをよそに、スィンはゆっくりと立ち上がった。

 

「ちょっと、外の風当たってきます……」

「なんだよ、数字の見すぎか?」

「その解釈で問題ないかとー」

 

 真っ青になって口を押さえているあたり、酔ったように見える。

 

「落っこちるなよ! 多分助けてやれないから」

「はーい……」

 

 深呼吸を繰り返しながら、甲板へ続く階段を登る。潮風を全身に受けて船のへりに寄りかかると、少しだけ気分が落ち着いた。

 船酔いではなし、数字の見すぎでもない。

 抑えていた咳を繰り返せば、痰が絡んだような、空咳とは程遠く聞く者に不安を与える音がする。

 深呼吸を繰り返して、息を整えて。ガイより渡された薬──丸薬を噛み砕いて飲み込む。痛みこそ治まるものの、胸の奥から突き上げるような気持ち悪さは和らがない。

 胸騒ぎにも似たこれは、どうやって鎮めたものか。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 いつのまにかへたりこんでいたスィンは、巡回中のキムラスカ兵に声をかけられた。

 

「──あー、大丈夫、です。めまいがしただけ」

 

 差し出された手を丁重に断り、よいしょっ、と立ち上がる。

 ルークの連れであることもあってか、しきりに心配してくれる兵士を苦笑いで対応しながら、海を眺めたそのとき。

 

「……あ!」

「な、あれは!」

 

 ケセドニア方面から小型艇が猛スピードで追ってくる。

 あわてて兵士が探査機を向けると、複数の生命反応と巨大質量の譜業装置の反応が示された。

 

「……ルーク様たちに伝令を。お願いします」

「は、はいっ!」

 

 本来ならスィンが走るべきだが、兵士はすんなりとその場を去る。

 見張りの兵がいるのにもお構いなく、小型艇からいくつもの碇つきロープが放り込まれた。

 それを基点とし、何人もの兵士──この鎧は神託の盾(オラクル)のもの──が乗り込んでくる。

 

「はっ!」

 

 スィンの姿を認めて挑みかかってくるのをいなし、まずロープを切断する。

 併走こそしているものの、キャツベルトと小型艇を繋ぐ線はいとも簡単に断ち切られた。

 これでキャツベルトが乗っ取られることだけはなくなったはず。

 

「貴様っ!」

「この単細胞!」

 

 増援を奪われて逃げ場をなくした兵士が、逆上して切りかかってくる。

 頭に血が上っているせいなのか、単調な攻撃のおかげでスィンは敵地に取り残され背水の陣を強いられた兵士たちを返り討ちすることに成功した。

 普段ならばいざ知らず、今のスィンに生け捕りという高等技術は難しい。

 ふと、自分の周囲が限定的に暗くなったことに気づいた。風を切り接近してくる影の存在を知り、あわてて後ろへ跳ぶ。

 瞬間、衝撃が足元を揺るがし、スィンはたまらずしりもちをついた。

 

「おや? 取り巻き一人だけですか」

 

 ひどく蔑んだ物言いと聞いたことがある声に見上げれば、ちょこんと──本人は泰然と、のつもりかもしれないが──ソファに腰かけた男がスィンを見下ろしていた。

 

「さーあ、立ちなさい! そして尻尾巻いてあの性悪・陰湿ロン毛眼鏡を呼んでくるので──ん?」

 

 ならそうさせてもらおうと、スィンが立ち上がった途端。彼は丸眼鏡をきらりと輝かせた。

 ディストが従えていた、球体に足と手のようなものがくっついている譜業が彼の操作を受けて動き出す。

 

「わっ!」

 

 一本の腕がスィンへ迫り、それを回避すると、もう一方の手が襲いかかってきた。

 

「……おい、ジェイドに用事があるんじゃねーのかよっ!」

 

 どうやら捕まえようとしているらしい手を避けつつ口汚く抗議すれば「予定変更です!」という返事が返ってきた。

 だからといって捕まってやる義理はない。

 縦横無尽に逃げ回るスィンに対し、しびれを切らしたディストが譜業に命令した。

 

「カイザーディストR! 地団駄を踏むのです!」

 

 まるで着地を果たしたときのように足元が揺れる。

 不安定になった足場で素早く逃げることができなくなったスィンは、健闘むなしく機械製のヤットコで簀巻きにされた。

 

「っ! このっ!」

 

 必死で暴れるが、人の手、それも女の細腕で譜業(てつのかたまり)に対抗できるわけもない。

 無駄な抵抗を繰り返している内に、スィンはディストの目の前に差し出された。

 

「何のつもりだっ!」

 

 噛みつく勢いで喚くも、ディストはまったく気にしていない。

 ただ、じーっとスィンの眼を穴があくほど凝視している。

 その様子が殊更不気味で、更に暴れるのに疲れておとなしくなってきたところで、彼はぽん、と手を叩いた。

 

「緋色に藍色……シアのものと同色ですね。虹彩異色症自体貴重種ですが、まったくの他人が同じ眼を持つとは……珍しい事例ですねえ」

 

 自分の目が目的だということに気づいたスィンがあわてて首ごと明後日の方向に向けるが、ディストは気にしていない。

 まるで子供のように目を輝かせてスィンの瞳に見入っているが、純粋さは皆無である。その代わりに詰まった狂気が眼と鼻の先にらんらんと──

 ついにスィンの理性が弾け飛んだ。

 

「ちょっと、やだ! 鼻息やだ! 離せ、このひとさらい!」

「おや、よくわかりましたね」

 

 へ? とスィンは聞き返した。一体彼は何を言っているのだろう。

 

「せっかくですから持ち帰って調べさせていただきましょう。結局彼女には何もできなかったことですし」

 

 彼女は総長のお気に入りでしたから、と朗らかに呟くディストに、スィンは彼が本気で言っていることを悟った。

 

「スィン!」

 

 そこへ、彼女にとっての救世主たちが現れる。

 

「お前、何とっ捕まってんだよ!」

「す……すいません……」

 

 何も反論できず、がくっ、と肩を落として謝罪する。が、すぐに切り替えた。

 

「ガイ兄様っ、助けてください! このままだとルーク様よろしく誘拐されるっ! ガイ兄様のこと忘れたくないぃっ!」

 

 珍しく錯乱しながら助けを乞う妹を救出するべく、ガイは腰の剣を抜きかけた。

 しかし、それは、ジェイドを眼にしたディストの哄笑で止められる。

 

「ハーッハッハッハッ! ハーッハッハッハッ! 野蛮な猿ども、とくと聞くがいい。美しき我が名を。我こそは神託の盾(オラクル)六神将薔薇の……」

「おや、鼻垂れディストじゃありませんか」

 

 本人としてはおそらく気取ったつもりだったのだろうが、多分厳かだった名乗りはジェイドによって綺麗に破壊された。

 

「薔薇! バ・ラ! 薔薇のディスト様だ!」

「死神ディストでしょ」

 

 アニスがそう言ってまぜっかえす。

 

「黙らっしゃい! そんな二つ名、認めるかぁっ! 薔薇だ、薔薇ぁっ!」

「なんだよ、知り合いなのか?」

 

 二人に問えば、アニスは小さく、しかし顔をしかめて頷いた。

 どうでもいいが、喚き散らすその姿からは到底薔薇を連想できない。

 強いて挙げるなら、彼の仰々しい襟は花弁に似ているかもしれないということか。

 

「私は同じ神託の盾(オラクル)騎士団だから……。でも大佐は……?」

 

 ジェイドが答えるまでもなく、ディストが勿体つけて教えてくれる。

 

「そこの陰険ジェイドは、この天才ディスト様のかつての友」

「どこのジェイドですか? そんな物好きは」

「何ですって!?」

「ほらほら怒るとまた鼻水が出ますよ」

「キィ────────!! 出ませんよ!」

 

 その後ろでは、仲の良さそうで悪いやりとりを呆れながら、ルークとガイがヤンキー座りでだべっていた。

 

「あ、あほらし……」

「こういうのをおいてけぼりって言うんだな……」

 

 スィンとしては、だべってないで、この隙に助けてほしいのだが、それを大声では言えない。

 どうにか逃げる余地はないか、再び抵抗を始めるスィンをよそに、ディストは目的を思い出したようだ。

 

「……まあ、いいでしょう。さあ、音譜盤のデータを出しなさい!」

「これですか?」

 

 ジェイドが見せた書類を、ソファ型の浮遊譜業を操ったディストが『厨房の黒い悪魔』並みの素早さで奪い取る。

 

「ハハハッ! 油断しましたねぇ、ジェイド!」

「差し上げますよ。その書類の内容はすべて覚えましたから」

 

 勝ち誇るディストに、ジェイドは極めて淡々と返した。

 まるで痛痒を覚えていない。これならディストでなくても、対象者は誰であれ怒るだろう。

 

「ムキ────────!!  猿が私を小馬鹿にして! この私のスーパーウルトラゴージャスな技を、食らって後悔するがいい!」

「うわっ!?」

 

 ぶぅんっ、とスィンを捕まえたまま、ヤットコが激しく旋回する。

 激しい重力をかけられ視界が真っ黒く塗りつぶされた彼女を見て、ディストがふわふわと椅子を浮かせた。

 

「おっと、すっかり忘れていました」

 

 ヤットコに挟まれていた体が解放され、ブラックアウトした視界が元に戻る。

 スィンは己が置かれた状況を初めて知って青ざめた。

 不安定なクッションの上に、強制的に座らされている。腹のところにはやけに太目の棒が体を拘束しており、背中と尻の下が生あったかい。

 振り返りたくない。だけど確かめなければ始まらない。

 ぎぎぎ、と首をねじってみれば、そこには。

 

「うっ……ぎゃああ────っ!!」

 

 スィンは、呆けている間にディストの膝の上に座らされていた。

 だらだらだらと大量の汗が噴出し、体が拒絶反応を起こして彼から離れんとめちゃくちゃに暴れ始める。

 

「……スィンでなくても拷問ですねえ」

「いやだあっ! 触るなあ! 離せぇぇぇっ!」

 

 半泣きになって喚く彼女を見上げて、ジェイドは冷静に分析した。

 本来不安定なはずの椅子に二人の体重が乗っていることに加え、多少でも暴れればひ弱なディストのこと、すぐにてこずって解放するだろうとスィンは踏んでいた。

 しかし椅子は揺らぎもせず、学者肌とはいえディストも男。

 それなりに上背があるためか、彼はぐずる赤ん坊をあやしでもするかのように、スィンをいとも簡単に押さえつけている。

 それに集中しているせいか、カイザーディストRはまだ起動していない。

 

「お、おい! そいつ男嫌いっていうか、恐怖症なんだ! 離してやってくれよ!」

 

 異性に触れる恐怖を知るガイが説得にかかったが、ディストはふん、と鼻を鳴らすだけだった。

 

「ほう、こいつもそうなのですか。虹彩異色症はそういった疾患を負うことが多いのかもしれませんねえ……」

 

 嫌がるスィンを押さえ込んで、まじまじとその両目を覗き込む。

 自分を押さえ込む鉄棒を掴んで暴れていたスィンが、間近に迫った男の顔を前にして。

 

「っ……」

「スィン!? スィン、おい!」

 

 ぱたりと脱力した。鉄棒を中心に体をくの字に曲げたまま、どんなに呼びかけてもぴくりとも反応しない。

 自らの置かれた状況を拒否するあまり、失神したのだろうというのがジェイドの意見だった。

 

「……厳密に言ってしまえば、スィンは和平の交渉に必要ありませんので見捨てても痛手はありませんが……まあ、あの馬鹿を喜ばせてもメリットがありません」

 

 救出しましょうか、と槍がその手に握られた矢先、ディスト命名による珍妙な大型譜業人形が襲い掛かる。

 その瞬間、脱力していたスィンの髪から、色という色が抜け落ちた。

 

「!!」

「造られし命よ、創り手の願いよ、今ここに砕かれん。ブレイクディストーション!」

 

 いつの間にか握られていた棒手裏剣が、二人を宙に浮かせている浮遊する一人掛けソファ──浮遊譜業装置の足に突き立てられる。

 その場所から蜘蛛の巣状のヒビが走ったかと思うと、譜業は音もなくバラバラに砕け散った。

 突き刺さった、棒手裏剣と共に。

 

「なっ……」

「好き放題しやがって、歯ぁ食いしばれ!」

 

 空中落下するよりも早く、スィンはディストを足蹴にしてその場から離脱した。

 その頃にはもう、髪は元の色を取り戻している。

 革靴による顔面蹴打を負ったディストはといえば、鼻血で宙に線を描きながらも、カイザーディストRの上へと落下した。

 死神の名を冠する男を踏み台とした彼女は、艦橋(ブリッジ)の屋根へどうにか着地している。

 それだけに終わらなかった。

 

「穢れなき海原の乙女よ。そなたの清らかなる歌をもて、我が敵を水底へ沈めん──」

 

 途端、カイザーディストRとその上のディスト中心に譜陣が展開する。

 穏やかそのものだった海が荒れ始めたかと思うと、甲板を覆うほどの巨大な津波が立ち上がった。

 

「セイレネウス・タイダルウェイブっ!!」

「ちょ、ちょっと、飲み込まれちゃう……あれ?」

 

 発生した高波は、甲板にいる一同に害を及ぼすこともなく。侵入者とその付属を見事に押しつぶした。

 譜術であるせいなのか、小規模の津波を受けてもキャツベルトの甲板はぐらりとも揺れていない。どころか、濡れてすらいない。

 譜陣が消失すると同時に、海は見る間に穏やかさを取り戻した。

 引いていく波が、その質量で押し潰した譜業とおまけを連れて退場していく。

 

「おい……あれ……」

「殺して死ぬような男ではありませんよ。ゴキブリ並みの生命力ですから」

 

 ジェイドは淡々と答えたが、ルークが心配しているのはそこではなかった。

 

「じゃなくて、スィン……」

「っあー、怖かったー」

 

 上から降ってきた呟きに全員が注目すれば、艦橋(ブリッジ)の屋根に座り込んだスィンが大きな安堵のため息をついていた。

 

「よかった、無事だったのね」

 

 ティアの呼びかけに対してぱたぱたと手を振っている。

 そして彼女はガイに眼を向けたかと思うと、宣言した。

 

「お休みなさい」

「って、おい……」

 

 そのままその場に丸くなり、身動きをしなくなる。

 術を使ったせいで消耗したとの解釈のもと、彼らはすべきことを優先した。

 

「では、艦橋(ブリッジ)を見てきます」

 

 そう言って背を向けたジェイドに、ガイが続いた。

 

「俺も行く。女の子たちはルークとイオンのお守りを頼む」

「あれ? ガイってば私たちが怖いのかな?」

「……ち、違うぞ! 違うからなっ!」

 

 アニスにすりよられ、彼は必死になって否定していたが、挙動は見事に肯定している。

 

「俺たちは……」

「怪我をしている人がいないか、確認しましょう」

「そうですね」

 

 ルークが問い、ティアが答え、イオンが同意する。

 

「平和の使者も大変ですよねぇ……」

「……ホントだよ」

 

 

 

 

 

 




ローレライの音素振動数=円周率かと、誰もが突っ込んだと思います。
現在の円周率はおよそ3で定義されているそうですが。


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第二十唱——そして彼らは歩み出す

 

 

 

 

 

 バチカル港につき、キャツベルトから下船する。

 一行が連れ立って港へ赴くと、そこでは豪華な出迎えが待っていた。

 

「お初にお目にかかります。キムラスカ・ランバルディア王国軍第一師団師団長のゴールドバーグです。この度は無事のご帰還、おめでとうございます」

 

 そう言ったのは、禿頭に後ろ髪を残し、髭を蓄えた初老の男だった。隣には淡い金髪の、赤い軍服を来た女性が控えている。

 

「ごくろう」

「アルマンダイン伯爵より鳩が届きました。マルクト帝国から和平の使者が同行しておられるとか」

 

 その言葉を受け、イオンが名乗った。

 

「ローレライ教団、導師イオンです。マルクト帝国皇帝ピオニー九世陛下に請われ、親書をお持ちしました。国王インゴベルト六世陛下にお取次ぎ願えますか?」

 

 十四の少年とは思えない堂々とした申し出に、彼は大きく頷いた。

 

「無論です。皆様のことは、このセシル将軍が責任を持って城にお連れします」

「セシル少将であります。よろしくお願い致します」

 

 セシル少将。この場にいる何人が、二人のファミリーネームだと思い出すだろうか。

 スィンはわずかに顔を伏せ、ガイを見たが、彼はわずかに驚愕してしまっている。そういえば、彼は知らなかったか。

 不運なことに、それはセシル少将その人に気づかれていた。

 

「どうかしましたか?」

 

 いぶかしげに問われたその質問をごまかすように、彼は自己紹介をしていた。

 

「お、いや私は……ガイといいます。ルーク様の使用人です」

「スィンです。ナタリア様の傍仕えを務めております」

 

 ここでファミリーネームを口にするほどの迂闊さはない。

 補うようにスィンも名乗れば、それを皮切りに他のメンバーが続々と自己紹介を始めた。

 

「ローレライ教団神託の盾(オラクル)騎士団、情報部第一小隊所属、ティア・グランツ響長であります」

「ローレライ教団神託の盾(オラクル)騎士団、導師守護役所属、アニス・タトリン奏長です」

 

 そして最後に。

 

「マルクト帝国軍第三師団師団長、ジェイド・カーティス大佐です。陛下の名代として参りました」

 

 最後にジェイドが名乗れば、二人はアルマンダイン伯爵以上の警戒を示した。

 特にセシル少将は、何らかの因縁でもあるのか驚きをあらわとしている。

 

「貴公があの、ジェイド・カーティス……!」

「ケセドニア北部の戦いでは、セシル将軍に痛い思いをさせられました」

 

 懐かしむように戦場での記憶を告げれば、彼女は頬をわずかに赤らめた。

 間違っても恋慕によるものではない。

 

「ご冗談を。……私の軍はほぼ壊滅でした」

 

 必要以上の低音でジェイドを睨むセシル少将を、ゴールドバーグが軽く制した。

 

「皇帝の懐刀と名高い大佐が、名代として来られるとはなるほど、マルクトも本気という訳ですな」

「国境の緊張状態がホド戦争開戦時より厳しい今、本気にならざるを得ません」

 

 ──ホド戦争。

 その単語を聞いて、ガイもスィンもわずかに顔をこわばらせる。だが、幸い今度は誰にも気づかれていない。

 

「おっしゃるとおりだ。ではルーク様は私どもバチカル守護隊とご自宅へ……」

「待ってくれ!」

 

 ケセドニアへ渡る途中、ヴァンから色々吹き込まれたルークが、そうはさせじと言い放った。

 

「俺はイオンから、伯父上への取り次ぎを頼まれたんだ。俺が城へ連れて行く!」

 

 もっともらしいこと──もっともも何も事実なのだが──きっぱり告げれば、何も知らない二人から感謝と驚嘆が送られた。

 

「ありがとう。心強いです」

「ルーク。見直したわ。あなたも自分の責任をきちんと理解しているのね」

 

 何の邪気もない、素直な賞賛の言葉に、彼は珍しく素直に、しかし歯切れ悪く返事した。

 

「う、うん……まあ……」

 

 自分が彼らを連れて行かなければ、意味がない。

 そう思っているルークを説得不能と見たか、一悶着起こしそうなセシル少将に頼むのは不適格と判断したか、ゴールドバーグは鷹揚に頷いた。

 

「承知しました。ならば公爵への使いを、セシル将軍に頼みましょう。──セシル将軍、行ってくれるか?」

「了解です」

 

 口元にわずかな笑みを浮かべているルークに利用されているとも知らず、イオンが頼んだ。

 

「では、ルーク。案内をお願いします」

「……おう、行くぞ」

 

 はっ、と我に返ったように、ルークが歩き出す。

 素早く彼の前を歩きながら、スィンは軽く周囲を見回した。

 立ち話をしている間に、一瞬だが刺すような視線を感じたのだ。ちらほら人の姿が見受けられる港の中は、基本的にキムラスカ人しかいないはず。

 スッピンの神託の盾(オラクル)兵が潜んでいるかもしれないが、そんな捨て駒扱いを受け入れる兵士は貴重であってほしい。

 となると、ここでもマルクトの軍服を脱がないジェイドへの私怨やも──

 天空客車への案内をすぐ後ろにいたガイに任せ、しんがりを歩く彼を待つ。

 そんな彼女に、ジェイドは何かを言いかけ──

 

「兄の仇!」

 

 悲痛な叫びに消された。

 

「ビンゴ……!」

 

 無謀にもジェイドの後ろから斬りかかってきた青年を迎え撃ち、足を払って体勢を崩す。

 その瞬間に放られた剣は、軍隊の一般兵士に支給される平刃の剣だった。地に伏した青年を、ティアがすかさず腕をねじ上げて押さえ込んでいる。

 

「おまえ! どういうつもりだ!」

 

 騒ぎに気づいて憤るルークを無視する形で、青年は地面に押さえられたままジェイドを睨みつけた。

 彼はといえば、咄嗟に取り出した槍を再び宙へ返している。

 

「港で話は聞いていた! お、おまえが死霊使い(ネクロマンサー)ジェイドだな!」

 

 兄の仇だ! と叫ぶ青年に、ガイが眉をひそめた。

 

「話を聞いていたならわかっているだろう。こちらの方々は和平の使者としておいでだ!」

 

 仮に今、ジェイドの手を煩わせれば、外交問題に発展しかねない状況でもあった。

 それを示唆された青年は、悲しそうにうつむいている。

 

「……わかってる。だけど兄さんは、死体すら見つからなかった。死霊使い(ネクロマンサー)が持ち帰って、皇帝の為に不死の実験に使ったんだ」

「──兵士さーん。こっちこっち」

 

 話の流れをまったく無視して、スィンが騒ぎを聞きつけてやってきた兵士を招き寄せた。

 簡単に事情を説明すると、兵士はあわてて青年の回収を図る。

 

「た、大変失礼いたしました! すぐにこの男を連行します」

 

 数人の兵士の手によって、うなだれたまま連行される青年を見送りながら、ルークはぼそ、と呟いた。

 

「なんだ、あいつ。馬鹿じゃねえの?」

 

 確かにルークの感覚としては、今戦争を起こさないために二人が来ているというのに、それがわかっていて襲撃を仕掛けるとは馬鹿、にしか見えないだろう。

 だが、人とは感情を持つ生き物である。

 

「……ルーク。そんな言い方はやめろ。あの人のしたことは許される事じゃないだろうが、馬鹿にしてもいいことでもないだろう」

 

 しかし、復讐にまつわる感情など、今のルークに理解できるわけがなかった。

 

「ふん、そんなもんかねぇ。それよりジェイド、前から聞きたかったことがあるんだけど」

 

 すぐに他のことへ興味を示したルークに、ジェイドはきわめて淡々と返す。

 が、すぐ横に立っていたスィンは、彼の瞳がうっすら揺らいでいることに気づいていた。

 

「──なんですか?」

「おまえの槍って、何もないところから突然出てくるよな。どうなってるんだ?」

 

 瞳の揺らぎが止まった。口元が柔らかく弧を描き始める。

 

「コンタミネーション現象を利用した融合術です」

「こんたみ……?」

「コンタミネーション現象。物質同士が音素と元素に分離して融合する現象よ」

 

 ルークでなくても、一般人ならわけがわからず首を傾げそうな単語の説明をティアが引き継いだ。

 

「ああ。合成なんかに使われる物質の融合性質か」

 

 単語は知らなくても、譜業系統の知識に似通る点を見つけたらしく、ガイが合点のいった顔をしている。

 

「ええ。生物と無機物とでは、音素はもとより構成元素も違います。その違いを利用して、右腕の表層部分に一時的に、槍を融合させてしまっておくんです」

「へえ。それで必要なときに取り出すのか。便利だな」

 

 明らかにやりたそうな表情をしているルークを、ティアがとどめた。

 

「自分もやりたいなんて言い出さないで。普通は拒絶反応が出て、精神崩壊を起こしかねないんだから」

「そうだな。このおっさんだから出来てるんだろうよ」

 

 二人の言い方は、ジェイドが普通ではない、と語っている面が多々あった。確かにジェイドは普通ではないが、それを口にするのはいかがなものか。

 しかしジェイドはそれを気にした様子はなく、朗らかに肩をすくめて見せた。

 

「はい。使いこなせるように努力するうちに、おっさんになってました。はっはっはっ」

 

 さあ、行きましょうか、と一行を促すジェイドに、イオンとルークがその後を追っている。

 が、他のメンバーは動こうとしなかった。

 

「なあ、さっきの奴が言ってた噂……」

 

 ガイがこう切り出したからである。

 

「そうね。軍人たちの間では有名な話よ。戦場で死体を回収して、死者をよみがえらせようとしているって」

「マルクト軍の第三師団は、死人の軍だって噂があったくらいだもんね。実際会ってみたら違ってたけど」

 

 今は亡き、タルタロスメンバーを思い起こす。

 確かに会話は成立していたし、腐臭のようなおかしな匂いもしなかった。

 

「……死者を、ねえ……」

 

 後ろでガイがぶつぶつ呟いていたが、スィンはとりあえず放っておいて、見た目行き止まりで立ち止まっている三人に歩み寄った。

 

「こちらですよ、お三方」

 

 目の前に停止している天空客車の扉を開き、招き寄せる。

 後から来た三人が乗るのを確認してから、スィンは自動運転装置のスイッチを押した。扉がロックされ、ゴンドラがゆるゆると動き出す。

 物珍しげに周囲を見回していた面々──ガイとスィンを除く──が、とある一点で止まった。

 王都バチカルへ到着したのである。

 

 

 

 

 

 

 ゴンドラが固定されてから、扉のロックが外れた。

 いち早く天空客車から降りたルークが、どこか呆けたように町並みを眺める。

 

「ここが……バチカル?」

「なんだよ。初めて見たみたいな反応して……」

 

 言いかけて。ガイは彼の事情を思い出した。

 

「仕方ねぇだろ! 覚えてねぇんだ!」

「そうか……記憶失ってから外には出てなかったっけな」

 

 その二人を尻目に、アニスとミュウがやはり町並みに眼を奪われていた。

 

「……すっごい街! 縦長だよぉ」

「チーグルの森の、何倍もあるですの」

 

 上を見上げすぎてひっくり返りそうになっている二人に、ガイの説明というBGMが聴こえてきた。

 

「ここは、空の譜石が落下してできた地面の窪みに作られた街なんだ」

「自然の城壁に囲まれてるって訳ね。合理的だわ」

 

 渋い顔をしているルークとは裏腹に、ティアもまた少しズレた……というか、えらく殺伐とした感想を爽やかに述べている。

 そんな一行を引き連れ、スィンが再びルークの前を歩き出した際。密かに交わされる会話を耳にして、スィンは思わず立ち止まった。

 見れば、特徴的な格好の三人組が神託の盾(オラクル)兵士相手に何かを話している。

 

「……なるほど。そいつはあたしらの得意分野だ」

「報酬ははずんでもらうでゲスよ」

「しかしこいつは、一大仕事になりますね、ノワール様」

 

 ──と、そこへ。同じく会話を聞きつけたルークが口を挟んだ。

 

「なんだ。またスリでもしようってのか?」

 

 その声で初めて気づいたように、彼らはルークらを見た。

 イオンの姿を見た兵士が、あわててその場を去る。

 

「で、では頼むぞ! 失礼します。導師イオン!」

 

 どこか挙動不審の兵士をスィンが見送っていると、なにかを揶揄するような口調でノワールがイオンを見た。

 

「へぇ~、そちらのおぼっちゃまがイオン様かい」

 

 こんな子供が、とでもいいたげな言葉に、アニスが当然反発している。

 

「何なんですか、おばさん!」

「つるぺたのおチビは黙っといで」

 

 額に四つ角を浮かべるアニスをもはや一瞥もせず、ノワールは色っぽいウインクを披露した。

 

「楽しみにしといで。坊やたちv 行くよ!」

「へいっ!」

 

 悠々と立ち去る三人を、アニスは睨みつけて、一行は黙って見送った。

 放っておくのは嫌だが、ここでは何もしていない彼らに喧嘩をふっかけるわけにはいかない。

 

「なんなの、あいつら! サーカス団みたいなカッコして!」

 

 アニスはまだ怒っている。そんな彼女の気持ちをまったく理解せず、ガイが口を滑らせた。

 

「そういや、あいつらどことなくサーカス団の『暗闇の夢』に似てるな。昔、一度見たきりだから自信はないが……」

 

 似てるも何も同一人物なのだが、それを口にするわけにはいかない。

 案の定、彼の言を聞きとがめたルークが駄々っ子のようにガイを責めている。

 

「なんだよ! おまえ俺に内緒でサーカスなんか見に行ってたのかよ!」

「あ、ああ、悪い悪い……」

 

 二人の、というかルークの文句をさえぎるように、ジェイドが口を開いた。

 

「……気になりますね。妙なことを企んでいそうですが」

「……ええ。それにイオン様を気にしていたみたい。どうかお気をつけて、イオン様」

 

 兵士は大声でイオンに挨拶をして去った。

 それは教団では当たり前の行為だったのかもしれないが、まるで漆黒の翼に標的を示すかのような態度だったことも否めない。

 ティアが心配をあらわにして言えば、彼は軽く頷いている。

 

「はい。わかりました」

 

 もっとも、彼の性格では少し難しいような気もするが。

 

「……スィン? 顔色が優れないようですが、どうかしましたか?」

 

 バチカルの街並みを眼にしてから、終始無言で通していたスィンに、ジェイドが話しかけた。

 

「……いいえ、どうもしませんよ」

 

 口先はそう言い繕っているものの、どこか落ち着きがない。

 ここへ来てからの表情の薄さといい、帰ってきて安心している、とは程遠い反応だった。

 どちらかというと、敵地へ潜り込んできて緊張しているような──

 そんな彼女を心配そうにガイが見ていることに気づき、ジェイドはアニスに一計を案じた。

 現在はスィンが先頭を歩き、そのやや斜め後ろをガイが歩いている。アニスはその横を歩くルークを気にかけながらも、ガイの背中をぽん、と叩いた。

 

「ガーイ♪」

「っのわあぁっ!?」

 

 いきなりのことで海中を泳ぐ海老のごとき敏捷さで、ガイは大きく飛び退る。背中をかばうように飛び退ったため、すぐ後ろにはスィンがいた。

 容赦ない勢いで背中を押された彼女が、大きくたたらを踏んでよろける。──と思いきや。

 スィンは簡単に体勢を立て直し、後ろからガイの背を手のひらで支えていた。

 軽く押してガイの体勢を戻し、素早く彼から距離を取っている。

 軽く背筋を伸ばすようにして、スィンは腕を組むと二人を半眼で見つめた。

 

「……二人とも。何がしたかったのさ?」

 

 退屈しのぎにからかおうでもしたのか、と聞けば、二人は素直に教えてくれた。

 

「いやー。お二人がくっついたらどんな反応になるのか、猛烈に知りたくなりましてね」

「ごめんねぇ、二人とも。大佐に頼まれちゃって……っていうか、私も興味あって」

 

 二人の言い訳を嘆息で流し、ふ、とガイを見る。

 彼は、スィンの触れたあたりをしきりに気にしていた。

 

「……ガイ兄様。ジンマシンでもできましたか?」

「あ、いや、そんなことはないが……」

 

 そうですか、と寂しそうに眼を伏せて、スィンは再び歩き始めた。

 同じ異性恐怖症である以上、理解は出来るが事実を見るのはつらい。ガイが自分を拒むところなど、見たくもないといった風情である。

 後ろでアニスとジェイドがひそひそ話しているが、会話を拾う気にはなれなかった。

 そのまま昇降機を使い、下段から中段へ、そして上段へ至る昇降機前へ進む。

 

「……スィン」

 

 城へ至る最後の昇降機前で、立ち直ったガイは最終通告を送った。

 

「本当にいいんだな? 今ならまだ間に合う、お前だけここで……」

「大丈夫です。いざとなれば、ちゃんと脱出しますから、ご心配なく」

 

 預かってください、と武装含む荷を差し出せば、彼は渋い顔をしながらそれを受け取ってくれた。

 

「──なんの話だ?」

 

 ふと足を止めた二人に、ルークが不思議そうに訊く。

 しかし、「すぐにわかりますよ」とスィンが言うだけで、二人が事情を話すことはなかった。

 王城前までやってくると、ルークは案内役を務めるべく先頭を歩き出した。その意を汲み、スィンも後ろへ下がる。

 街中を歩くならともかく王城へ入るとなると、彼に進んでもらったほうが、都合がいい。

 連絡はすでに伝わっているのか、門番はルークの姿を眼にしてかっちりと敬礼し、素早く門を開けた。

 懐かしい、はずなのだが、どうしてもそう感じない──感じたくないスィンが最後尾を歩く。

 まっすぐ行った、謁見の間に通じる大階段を上りつめると、一行は初めて兵士に阻まれた。

 

「ただいま、大詠師モースが陛下に謁見中です。しばらくお待ちください」

 

 それを、ある人物の名前を聞き、ルークは表向き悠々と一行に提案した。

 

「モースってのは、戦争を起こそうとしてるんだろ? 伯父上に変なこと吹き込まれる前に入ろうぜ!」

「おやめください」

 

 否とも応とも返事がないまま、ルークが扉をこじ開けようとした。即座に兵士に止められる。

 が、あることで頭がいっぱいになっているルークには、大した抑止力にはならなかった。

 

「俺はファブレ公爵家のルークだ! 邪魔をするなら、おまえをクビにするよう申し入れるぞ!」

 

 その一言で完全に沈黙した兵士をわきに、ルークは扉へ手をかける。

 

「ルーク、いいのでしょうか。こんな強引に……」

「いいんだよ」

 

 イオンにしてみれば、他者の家に許可も得ず、ずかずか入り込んでいるという感覚だが、ルークにしてみれば身内の家へ上がるようなものだ。遠慮などという感覚は微塵にもない。

 ただ、ルークの言うことも間違ってはいないため、全員が黙認したようだ。

 ジェイドあたりは、もしものことがあればルークに責任を取ってもらおう、と考えているかもしれない。

 彼の後について、謁見の間へ入る。

 すると、そこではルークの予想通り、というかなんというか、とにかくモースは事実と若干異なる点を、玉座へ座る男に申し立てていた。

 

「マルクト帝国は、首都グランコクマの防衛を強化しております。エンゲーブを補給拠点として、セントビナーまで……」

 

 そう言いかけて、玉座に座るインゴベルトの表情が急変した。

 それを見て、モースが後ろに何かあるのかと振り向く。同じく彼の顔色も一変した。

 ルークたち一行の登場である。

 

「無礼者! 誰の許しを得て、謁見の間に……」

「うるせぇ、黙ってろ!」

 

 内務大臣たるアルバインは、ルークの顔を知っているらしい。

 怒鳴りつけられたにもかかわらず、渋い顔をしているものの逆らわないようにしている。

 

「その方は……ルークか? シュザンヌの息子の……!」

「そうです、伯父上」

 

 赤い髪の青年がルークと聞き、モースは急いで彼の前から退いた。

 

「そうか! 話は聞いている。よくマルクトから無事に戻ってくれた。すると横にいるのが……」

「ローレライ教団の導師イオンと、マルクト軍のジェイドです」

 

 彼の紹介を受け、イオンが一礼する。

 

「ご無沙汰しております、陛下。イオンにございます」

「導師イオン……お、お捜ししておりましたぞ……」

 

 取り繕うように言うモースを一瞥し、イオンは小さな声で囁いた。

 

「モース。話は後にしましょう」

 

 いつもの雰囲気は失われていないが、拒絶を許さぬ一言である。

 彼は再びインゴベルトと向き合った。

 

「陛下。こちらがピオニー九世陛下の名代、ジェイド・カーティス大佐です」

 

 イオンの紹介を受け、ジェイドが軽く跪いた。

 

「御前を失礼いたします。我が君主より、偉大なるインゴベルト六世陛下に、親書を預かって参りました」

 

 ジェイドの目配せを受け、アニスが進み出て大切に守ってきた親書を内務大臣へ手渡す。

 彼はモースが述べていた内容を思い出していたらしい。ルークは再度進み出て忠言した。

 

「伯父上。モースが言ってることはでたらめだからな。俺はこの目でマルクトを見てきた。首都には近づけなかったけど、エンゲーブやセントビナーは平和なもんだったぜ」

「な、何を言うか! ……私はマルクトの脅威を陛下に……」

 

 あわてて言い逃れを始めるモースだが、相手が悪かった。

 さらに言えば、ルークの言葉は真実である。

 

「うるせっ! 戦争を起こそうとしてやがるんだろうが! おまえマジうぜーんだよ!」

 

 ……この言動さえなければ、完璧に近かったのだが。

 

「ルーク、落ち着け。こうして親書が届けられたのだ。私とて、それを無視はせぬ。皆の者、長旅ご苦労であった。まずはゆっくりと、旅の疲れを癒されよ」

「使者の方々のお部屋を城内にご用意しています。よろしければご案内しますが……」

 

 アルバインの言葉は、どこか気が急いているようにも感じられた。

 しかしイオンはそれに気づかなかったのか、丁重に辞退している。

 

「もしもよければ、僕はルークのお屋敷を拝見したいです」

「では、ご用がお済みでしたら城へいらしてください」

 

 きびすを返そうとする一行を見て、アルバインが嘆息する。そして

 

「──ゆめゆめ誤解なさらぬよう」

 

 そう言うと、内務大臣はすっ、と片手を上げた。

 途端、数人の兵士がやってきて、一行の眼前を陣取る。

 

「勘違いで暴れないでくださいね。この人たちは僕に用事がありますから」

 

 そう言って、彼らの前へ出たのは、それまで後ろで控えていたスィンだった。

 

「違う?」

「……それがわかっていてこの場へ足を踏み入れるとは、いい度胸だ」

 

 隊長格と思われる兵士へ話しかける。兵士長からは押し殺したような返事が寄越された。

 

「聞いてると思うけど、従うから乱暴しないでほしいな。あと、触んないでほしいな」

「戯言を抜かすな!」

「そう。火傷しても知らないよっと」

 

 連行するにあたって、だろう。二人の兵士がスィンの両脇を抱えるように取ろうとする。

 無骨な手が、その腕を鷲掴む瞬間。

 

「うわっ!」

 

 触れたその場から譜陣が浮かび上がり、雷気が発生した。

 微弱とはいえ電流を体中に流し込まれて、左右に立っていた兵士が悶絶している。

 

「だから言ったのに」

「か、確保しろ!」

 

 ばかだねー、と真顔で呟く彼女に対し、兵士長が待機していた兵士達に号令をかけている。

 御前で騒いでいいのかと問うスィンを無視して、兵士が長柄斧槍(ハルバード)を突きつけんと振り上げた。

 この場で乱闘なんかするつもりはない。それからするりと逃げ出して、彼女は丁寧な会釈を一同にしていた。

 

「──それでは、御前を失礼いたします」

 

 すたこらと謁見の間を後にするスィンを追って、兵士長が倒れた兵士の回収を部下に命じながらもその後を追う。

 彼らに追われながら連行されるはずだった罪人部屋へ赴けば、牢番は訝しげにしながらも一言も発さずにスィンを投獄した。

 今頃は、どういうことなのか不思議がっているだろうが、きっとガイが事情を話してくれているだろう。

 後から来るであろう彼を思いながら、彼女はすえた臭いのする寝台を使うことなく床にねそべった。

 冷たい石畳が、運動して火照った頬に心地いい。スィンはそのまま眼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十一唱——栄光と奈落の坩堝へ

 

 

 

 罪人部屋にて一夜を過ごし、スィンは差し入れられた粗末な朝食を摂っていた。

 そこへ。

 

「──スィン・セシル。お主に密命を与えるそうだ」

 

 のぞき窓の隙間から、紙切れが差し込まれる。開いて内容を一瞥すると、ふっ、と鼻で笑う声が聞こえた。

 

「死刑宣告だな」

「ああ、うん、そうだね。承知」

 

 肯定を呟く。牢番はつき返されたそれを真新しい蝋燭の炎で隠滅すると、スィンだけを解放した。

 服の埃をぽんぽんと払って自室へ赴けば、途中で朝食へ向かうらしいナタリアとばったり出会う。

 

「──ご無沙汰しております、ナタリア様……」

「スィン!」

 

 一瞬固まって、かしこまり頭を下げるも、その当人にさえぎられた。

 

「災難でしたわね、私心配していました。いくらあなたがヴァン謡将と親しくしているからとはいえ、共謀を疑うとは……でも、無事でなによりですわ」

 

 進言した甲斐がありました、と優雅に微笑む王女に、再度頭を下げる。

 

「感謝いたします、ナタリア様。ご存知の通り、私はアクゼリュス救済の供と抜擢されました。あなた様の名代として、力の限りを尽くして参ります」

 

 アクゼリュス、と聞き、ナタリアは優美な眉をひそめた。

 

「本当なら、この国の王女たるわたくしが行くべきですのに……お父様ったら」

「陛下は、御身を案じて仰られたのですよ。アクゼリュスは瘴気に冒され、道中は危険に満ちている。そのような場所へ姫をお連れするのは、いささか無謀というものでしょう」

 

 ナタリアの言葉をさえぎる形で言っても、彼女に納得する気配は見られない。

 

「今まで軟禁されていたルークが親善大使として参るのですよ!? 預言(スコア)に詠まれていたこととはいえ、民に自国も敵国もありません。それなのに……!」

「──姫様。その娘はもう、姫殿下と何の関わりも持ちませんゆえ、軽率にお言葉をかけるのはお控えください」

 

 昨日のうちにスィンがルークの護衛従者となったことを示唆し、ナタリアについていた侍従長は会話の終了を促した。

 彼女は、もともと身分が低い上にお里が知れないスィンのことをよく思っていなかった。それ故の言葉だが、これ幸いと、スィンが「御前を失礼いたします」と辞儀をして去る。

 自室へ入れば、長らく掃除されていなかった部屋に、うっすらと埃が積もっていた。

 ガイに預けた荷のすべては、机の上に置かれている。今頃、ルークに登城命令を告げるべく使者が派遣されたはずだ。

 装備確認、旅装準備、身体の汚れを落としながら、スィンは刻が満ちるのを待った。

 

 

 

 ──やがて部屋の扉が叩かれ、少し前まで同僚だったメイドの呼ぶ声がする。

 すでに支度を整えていたスィンが扉を開けば、彼女はわずかに目を見開いてから謁見の間へ、と促した。

 彼女が驚くのも無理からぬこと。

 袋状の袖に袷のある襟元が特徴的な小袖、一見風変わりなスカートだが、左右で筒状に別れ腰帯が付属した仕舞袴。

 そんな異国風の出で立ちに外套を羽織っているのだから。

 旅装に身を包んだスィンが呼ばれた場所へ赴けば、そこには、ナタリア、インゴベルト、アルバイン、ジェイド、ファブレ公爵がいる。

 

「……書簡に眼を通したな?」

 

 紙切れを書簡と言い直すだけでそれっぽくなるから困る。しかし言及することなく、スィンは、はい、と答えた。

 

「ならば、多くは語るまい。スィン・セシルよ、汝をナタリアの傍仕えより外し、再びルークの護衛従者とする。第三王位継承者誘拐の嫌疑、此度の任務にてその汚名を返上するがよい」

「……御意」

 

 跪づいたまま、頭を垂れる。

 背後から扉が開かれ、ジェイドと共に下がれば、ルーク、ティア、モースがやってきた。

 

「おお、待っていたぞ、ルーク」

 

 喜色を浮かべて彼を出迎えたインゴベルトとは対照的に、アルバイン内務大臣は淡々と語る。

 

「昨夜緊急会議が招集され、マルクト帝国と和平条約を締結することで合意しました」

「親書には平和条約締結の提案と共に、救援の要請があったのだ」

「現在、マルクト帝国のアクゼリュスという鉱山都市が瘴気なる大地(ノーム)の毒素で壊滅の危機に陥っている、ということです」

 

 交互に語られる親書の内容に合わせ、玉座の隣に座るナタリアが沈痛な面持ちで語った。

 

「マルクト側で住民を救出したくても、アクゼリュスへつながる街道が瘴気で完全にやられているそうよ」

「だが、アクゼリュスは元々我が国の領土。当然カイツール側からも街道がつながっている。そこで我が国に住民の保護を要請してきたのだ」

 

 だんだん説明を聞くのに飽きてきたルークが、ふとあることに気づいた。

 

「そりゃ、あっちの人間を助けりゃ和平の印にはなるだろうな。でも俺に何の関係があるんだよ」

「陛下はありがたくも、おまえをキムラスカ・ランバルディア王国親善大使として任命されたのだ」

 

 息子の下賎な口の利き方に軽く眉をしかめながら、父親による衝撃の事実が明らかになった。

 当然、ルークは嫌がっている。

 

「俺ぇ!? 嫌だよ! もう戦ったりするのはごめんだ」

「ナタリアから、ヴァンの話を聞いた」

 

 伯父の口からヴァンの名を聞き、ルークは顔色を変えた。

 

「ヴァンが犯人であるかどうか、我々も計りかねている。そこで、だ。おまえが親善大使としてアクゼリュスへ行ってくれれば、ヴァンを解放し、協力させる。そこに控えるスィンも同じく、再びお前の護衛従者として、同行させよう」

「……解放? ヴァン師匠(せんせい)は捕まってるのか!?」

 

 手近にいたスィンを捕まえて問いただせば、彼女はゆっくりと頷いた。

 

「現在、城の地下に投獄されております。僕はアクゼリュス救援におけるナタリア様の名代を務めるため、いち早く解放されました。ですが、ルーク様が拒まれるのであれば……」

 

 スィンの視線を追いかけ、彼は初めて謁見の間に配置された兵士の多さに気づいた。

 しばし閉口し、やがてスィンを離してインゴベルトと向き合う。

 

「……わかった。師匠(せんせい)を解放してくれるんなら……」

「ヴァン謡将が関わると、聞き分けがいいですね」

 

 このような場では真面目を貫き通すかと思われたジェイドだったが、そうでもないらしい。

 空気を無視して茶化せば、ルークに渋面で「……うるせぇ」と呟かれていた。

 

「しかし、よく決心してくれた」

 

 大儀そうに、インゴベルトは言う。

 

「実はな、この役目おまえでなければならない意味があるのだ」

「……え?」

 

 初耳だ、と不思議そうにしている彼に、ファブレ公爵が兵士に持たせていた結晶を示した。

 

「この譜石をごらん。これは我が国の領土に降った、ユリア・ジュエの第六譜石の一部だ」

「ティアよ。この譜石の下の方に記された預言(スコア)を詠んでみなさい」

 

 一国の王直々の言葉に、ティアは緊張したように譜石へ歩み寄った。

 

「……はい」

 

 指で文字を追いながら、その内容を謡うように紡いでいく。

 

「ND2000 ローレライの力を継ぐ若者、キムラスカに誕生す。其は王族に連なる赤い髪の男児なり。名を聖なる焔の光と称す。彼はキムラスカ・ランバルディアを、新たな繁栄に導くだろう。ND2018 ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで……」

 

 この先は欠けています、とティアは締めくくった。

 

「結構。つまりルーク、おまえは選ばれた若者なのだよ」

 

 そう聞いた彼が目を見開いて何を思い出したのか、それは他者にわかることではない。

 

「今までその力を狙う者から護るため、やむなく軟禁生活を強いていたが、今こそ英雄となる時なのだ」

 

 英雄ねえ、とジェイドの小馬鹿にするような声音を聞き、アルバインが聞きとがめるも、スィンは吹き出したくなった。

 第三者の立場からすれば、周囲がそろってルークを担いでいるようにしか見えないだろう。

 もしくは本当にそう信じているか。何にしても、異様な光景と映るはずだ。

 

「何か? カーティス大佐」

「……いえ。それでは、同行者は私とスィンと……誰になりましょう?」

 

 ごまかすように、あるいはこの場での公言を避けるようにジェイドが言えば、すかさずモースが口を挟む。

 

「ローレライ教団としては、ティアとヴァンに同行させたいと存じます」

「ルーク、お前は誰を連れて行きたい? おおそうだ。ガイを世話係に連れて行くといい」

 

 ルーク帰還時の働きを思い出したように公爵がガイの名を出しても、ルークは気のない声で答えるだけだった。

 

「何でもいいや。師匠(せんせい)がいるなら」

 

 そのとき、今の今まで思いつめたような顔をしたナタリアが不意に父王へ訴える。

 

「お父様、やはりわたくしも使者として一緒に……」

「それはならぬと昨晩も申したはず! それとも、そなたはスィンが名代では務まらぬと申すのか?」

 

 務まらないなら、彼女はまた牢獄へ逆戻りだ。スィンのことを思うナタリアは黙らざるを得なくなる。

 そんな二人のやりとりなど知らん顔で、ルークはこの場にもう用はないと言わんばかりに言った。

 

「伯父上。俺、師匠(せんせい)に会ってきていいですか?」

「好きにしなさい。他の同行者は城の前に待たせておこう」

 

 その一言でほとんど走るように謁見の間を出て行ったルークの背中を見送り、スィンは嘆息を隠しながらその後に続く。

 謁見の間を出で、ついてきた気配に対し、くるりと振り向いた。

 予想通り、そこには死霊使い(ネクロマンサー)がついてきている。

 

「打ち合わせ、しなくていいんですか?」

「それならあなたが来る前に終わっています。私も城の前で待たせていただこうかと」

 

 それなら、と連れ立って歩けば、約二十センチという身長差が首に苦痛をもたらした。

 少しでも異性恐怖症を治したい彼女ではあったが、首のこともあって少し距離を空ける。

 

「いやしかし、驚きました。まさかあなたがルーク出奔の片棒を担いでいたとは」

「僕には前科がありますからねー。主犯とされなかっただけマシです」

 

 ジェイドのイヤミにあえて応じ、スィンはわずかながら遠い眼をした。

 その彼女に、ジェイドは意外そうな顔をしている。

 

「嫌味が通じませんか。これは深刻ですねぇ」

「イヤミスイッチの入った大佐とマトモに話すのは自殺行為ですから」

「ところで、前科というのは……」

 

 と、そこへ。やや駆け足気味の足音が聞こえたかと思うと、二人の後ろで止まった。

 道を空けようかと振り向いたスィンと視線をぶつけたのは──ティア。

 

「あ……」

「どうかした、ティア?」

 

 狼狽したように軽く下がる彼女に、スィンが首を傾げて近寄る。

 ティアはきゅ、と拳を握ると、勢いよく頭を下げた。

 

「……ごめんなさいっ」

 

 言わずもがな、ルークの出奔に関することである。

 

「ガイと、ナタリア姫から聞いたの。スィンが兄さんの計画に加担して、誘拐犯にされた、って……本当に、ごめんなさい」

「──気にしないで。頭上げてよ」

 

 きわめて軽くスィンは言った。

 彼女がどれだけ反省しても、時は戻らない。

 しかしそれを口にしたところで、やはりどうにかなることでもない。

 

「逃げようと思えばいつでも機会はあった。別に僕がいようといまいと和平には関係なかったしさ。ガイ兄様にも何度も忠告受けたのに、こうしてバチカルへ来たのは僕の判断だから、気にしないでよ」

「でもそれは、ここに残るガイたちにおかしな影響がないように、って……」

「そうだよ。誰かが悪者になっておかないと示しつかないもの。でも、こうして結果オーライになったから大丈夫。それにティアも、あんなことになったせいで大変だったじゃん。ティアへの文句はそれだけで十分」

 

 にこ、と笑ったスィンが、広間のとある一角へ向かう。

 

「僕、荷物取ってくるから。先行ってて~」

 

 城の地下、罪人部屋へ通じる廊下を歩いていると、ナタリアと出くわした。珍しく一人である。

 会釈して道を譲ると、彼女はスィンに気づいた様子もなく通り過ぎていった。

 

「……?」

 

 いぶかしみながらもまとめた荷物を持ち、血桜を腰に差して城の外へと出る。

 すると、ジェイド、ティアの他におそらくルークの分だろう、二人分の荷を抱えたガイが立っていた。

 

「ガイ兄様」

 

 思わず駆け寄れば、彼は優しい笑顔で迎えてくれた。

 

「スィン! 無事か」

「はい、おかげさまで。どうにか首はつながりました」

「乱暴も、されなかったみたいだな。謁見の間であれだったから心配したんだぞ……なんか昨日よりも顔色がいいな?」

「ひ、久々に、ちゃんとお手入れをしたからですかね。後は、心配事もなくなりましたし」

 

 嬉しさによるものか、スィンの頰がうっすら色づく。お互い必要以上に近づかないものの、互いを想う温かな空気が形成された。しかし次の一言で瓦解している。

 

「おや。禁断の愛の領域ですか?」

 

 面白そうにジェイドがぬかせば、ガイはわずかに顔を赤らめ、スィンは半眼でジェイドを見た。

 

「……ネクロマニアが何ぬかしてやがるんです?」

「失敬ですねー。死霊使い(ネクロマンサー)とは呼ばれてはいますが、死人は愛した記憶はありませんよ」

「覚えてないだけじゃないですかね。お年を召されると記憶も飛んでタイヘンだ」

 

 ネクロマニア=死体愛好者。ネクロフィリアとも言われる。生きている人間ではなく、死んだ肉体を愛するという異常者の総称。

 と、そのやりとりをはらはらしながら見守っていたティアが不意に表情を強張らせた。

 

「兄さん……」

 

 彼女がそう呼ぶ人間は、この世で一人しかいない。

 改めて姿勢を正せば、そこにはルークを伴ったヴァンの姿があった。

 

「話は聞いた。いつ出発だ?」

「そのことで、ジェイドから提案があるらしいですよ」

 

 ガイの言葉に、スィンもまたジェイドを見やる。

 考えてみれば、彼女が合流したのはついさっきだ。事前に何かを聞く暇はなかった。

 

「ヴァン謡将にお話しするのは気が引けるのですが……まあいいでしょう。中央大海を神託の盾(オラクル)の船が監視しているようです。大詠師派の妨害工作でしょう」

「大佐……」

 

 批難するようにティアが彼を呼ぶが、一蹴している。

 

「事実です。まあ大詠師派かどうかは未確認ですが。──とにかく、海は危険です」

「じゃあどうするんだよ」

 

 前途多難な予感に、ルークは眉を歪ませて訊いた。

 

「船へおとりの船を出港させて、我々は陸路でケセドニアへ行きましょう。ケセドニアから先のローテルロー海は、マルクトの制圧下にあります。船でカイツールへ向かうことは、難しくありません」

 

 事前に立てた予想の通り、だった。

 キムラスカは建前上マルクトとの和平を選び、預言(スコア)を盲信する大詠師は来たるべき戦争を望み、救援隊の妨害を図る。それに気づいた死霊使い(ネクロマンサー)は、陸路を使ったルートを提案する。

 提案させたならば、しめたもの。おとり作戦を成功させるためと称し、アクゼリュス救援隊に同行することがすでに決定されているヴァンとスィンが船へ乗り、正規の親善大使団より離脱する。

 ここまでが、スィンが事前に聞かされたこれからの運びだが。高い確率でこの目論見は失敗すると彼女は踏んでいた。

 

「なるほど。では、こうしよう。私とスィンが、おとりの船に乗る」

「えー!?」

 

 ルークが主にヴァンとの別れを拒んでいることは、そこにいる誰もが悟ったことだった。

 不満をあらわにするルークを省みることなく、ヴァンは淡々と語る。

 

「私たちがルーク誘拐の汚名を返上するため、アクゼリュス救援隊に同行することは発表されているのだろう? ならば、私たちの乗船で信憑性も増す。神託の盾(オラクル)はなおのこと、船を救援隊の本体だと思うだろう」

 

 もっともらしい説明をされて、ジェイドはふむ、と顎に手をやった。

 

「……スィンはどうお考えで」

 

 返答を避け、彼は血の色を有する瞳で彼女を見た。明らかに不審がっている。

 おとりならば一人いれば十分なのに、なぜ襲撃されるかもしれない船に二人も乗せようというのか。

 そこに企みがあるのでは、と考えるジェイドの心情を如実に察したスィンは、嘆息してヴァンを上目遣いに見た。

 

「──ヴァン謡将。申し訳ありませんが、此度僕はルーク様の護衛従者を任ぜられております。護衛対象を放って、囮となるのは、ちょっと……」

 

 ちらちらジェイドを見ながら申し入れれば、彼は素早く「ならば、私一人で行くとしよう」と改める。

 

「よろしいでしょう。どの道あなたを信じるより他にはありません」

 

 ようやく納得したジェイドのかわりに、ルークが抗議の声を上げた。が。

 

「だけど!」

「ルーク、私が信じられないか?」

 

 ヴァンの一言で反抗はあきらめ、「……わかったよ」と呟く。

 

「では、私は港へ行く。ティア、ルークを頼むぞ」

 

 そう言って立ち去るヴァンを見送り、スィンは安堵した。

 ここで自分に眼を向けるようでは、ジェイドの疑いはますます強くなったことだろう。それでは動きにくい。

 

「こちらは少人数のほうが目立たなくてすみます。これ以上同行者を増やさないようにしましょう。話を通しておきますので、街の入り口で待っていてください」

 

 今の芝居でスィンへの疑念は晴れたか薄れたか、ともかくジェイドはヴァンの後を追うように昇降機方面へ立ち去った。

 

「で、残ったのが冷血女と女嫌いと男嫌いか……」

 

 ヴァンと旅に出られなくなった、ということで不機嫌になっているルークが、揶揄交じりでぼやいている。

 彼の言葉を真似るなら、更に高慢ちき坊ちゃん、といったところか。

 

「誤解を招く言い方をするな! 女性は大好きだ!」

 

 何を思ったのか、力強く言い切ったガイがあっさりと地雷を踏んでいた。

 

「女好きだと声高に言うのもどうかしら……」

 

 思ったとおり、ティアに呆れられている。

 

「そうじゃないっ! そうじゃなくて!」

 

 男好きじゃないと言いたかっただけだと思うが、果たしてティアがそんな人種を知っているかどうか。

 少女をいたずらに汚さぬためにも、スィンは一行に先を促した。

 

「じゃ、先行ってようか」

 

 そうね、と頷き、女性陣に続いてルークも歩き始める。その背中を、ガイの悲痛な叫びが追いかけた。

 

「人の話を聞け~っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 ただいまジェイドが赴いているであろう軍事施設の前を通り過ぎ、もうひとつの昇降機前へ一行が向かう際。「ルーク様ぁ!」という甲高い歓声が彼らの足を止めた。

 見れば、たった今昇降機で上ってきたアニスがたったったっ、と笑顔で走りよってくる。

 

「ひっ……」

 

 彼女と接触しそうになったガイが飛びのき、スィンも同じように道を空けてやる。

 ティアはなぜかアニスにどかされ、ルークのそばを離れざるを得なかった。

 

「逢いたかったですぅv ……でもルーク様はいつもティアと一緒なんですね」

 

 ずるいなあ、と可愛らしく呟いてみせるアニスの芝居にティアが見事にひっかかり、謝罪している。

 

「あ……ご、ごめんなさい。でも安心して、アニス。好きで一緒にいる訳じゃないから」

 

 微妙に傷ついているルークをそっとしておくことにして、大きな扉が開くような音に、スィンはその方向を見た。

 見れば、ジェイドが大扉から出てきてこちらを見ている。

 

「アニス。イオン様に付いていなくていいんですか?」

「大佐! それが……朝起きたらベッドがもぬけの殻で……。街を探したら、どこかのサーカス団みたいな人が、イオン様っぽい人と街の外へ行ったって……」

 

 サーカス団みたいな人。

 それを聞いて、一行に緊張が走った。

 

「サーカス団? おい、まさか……」

「そのまさか、のようです。あのサンバカ……!」

 

 兄に答え、石畳を軽く蹴るスィンの横では、ルークも合点がいった様子で拳を握る。

 

「なんだと!? あ、そういえば神託の盾(オラクル)と何か話してたな。あいつらグルか!」

 

 おいかけよう、という話になるも、他ならぬアニスがそれを却下する。

 

「駄目だよ~! 街を出てすぐのトコに六神将のシンクがいて邪魔するんだもん」

「……よし、シメよう」

 

 シンク一人なら囲んで叩けば何とかなるかも、と静かに物騒な一言を呟いて行こうとするスィンの襟首を、ティアが掴んだ。

 

「……まずいわ。六神将がいたら私たちが陸路を行くことも知られてしまう」

「ほえ? ルーク様たち、船でアクゼリュスへ行くんじゃないんですか」

 

 不思議そうに首を傾げるアニスに、ルークがあせった様子で答える。

 

「いや、そっちはおとりだ。くそ、何とかして外に出ないと……」

「それなら私も途中まで連れてって! 街の外に出られれば、イオン様を探せるから!」

 

 ジェイドに意見を求めると、彼は珍しく即答した。

 

「仕方ないでしょう。しかし今回のイオン様誘拐には、モースの介入がないようですね」

「そうですね。怒ってたもん、モース様……」

 

 いつの間に彼と接触したのかわからないが、とにかくアニスがそう証言した。

 

「ということは、やっぱり六神将とモース様は繋がっていない……?」

 

 どこか論点のずれたことを口にするティアだが、彼女は彼女でいまだモースを信じているらしい。

 

「だからといって、モースが戦争を求めていることの否定にはつながりませんがね」

 

 ジェイドがクギをさせば、彼女は閉口して沈黙した。否定はしないが、肯定もしない。

 

「六神将はイオンをどうしたいんだ? 前の時は確か……セフィロトってトコに連れて行かれたんだよな」

 

 この場合は好都合だが、話の流れを無視したルークがジェイドに尋ねる。が、彼は首を振る。

 

「推測するには情報が少ないですね。それより、この街をどうやって脱出するかです」

「それなら、一応考えがあります」

 

 その一言を発して、スィンは全員の意識をこちらへ向けさせた。

 

「旧市街にある工場跡へ向かってくれますか? 港とは反対方向の天空客車で行けます」

「工場跡? わかった」

 

 それにはとにかく、昇降機で下へ降りる必要がある。

 一行が連れ立って赴く際、ガイがふと足を止めた。

 

「ああっと、そうだ。皆、ちょっといいかな」

 

 一同の疑問を代表し、尋ねたのはティアである。

 

「どうしたの?」

「いつかルークに見せてやりたいと思ってた場所があってね。この機会に連れていきたいんだが……」

「俺を? おもしれぇトコなのか?」

「だけどイオン様がっ!」

 

 興味を示したルークに対し、アニスがそんな場合じゃないとあせりをあらわにしている。

 しかしガイは、自分の意見を曲げなかった。

 

「それはわかってる。けど、こいつが長いこと閉じこめられてたってのも考慮してやってくれないか? それに旅にも役立つことなんだ。頼むよ」

 

 ガイの説得により、とうとうアニスも妥協を見せる。

 

「……じゃあ、ちょっとだけだからねっ」

「すまない。みんなも、悪いな」

 

 ガイの案内の下、階段を下りてすぐそこの扉、『ミヤギ道場』という看板を眼にして、スィンは見るからに嫌そうに顔を歪めた。

 

「──いってらっしゃいませ」

 

 入ろうとする一行の最後尾で手を振ると、ガイが呆れたように腕を組んだ。

 

「おまえ、まだあのこと気にしてんのか?」

「そんなことありません。僕、天空客車のところで待ってます」

 

 すたすた歩き去るスィンを眼で追いながら、どういうことなのかをアニスが尋ねる。

 

「何かあったの?」

「──昔はよく、俺とこの道場に遊びに行ってたんだけどな。ここの練習生とひと悶着あった、ってあるときを境にぱったり行くのをやめちまったんだよ」

 

 まさか、とティアが呟いた。

 

虹彩異色症(いろちがい)が……」

「気持ち悪い、とかで、いじめられたと俺も思ったんだ。放っておけなくて、調べてみたら──」

「見たら?」

「なんか、練習生の何人かに告白されたらしくてさ。自分より強くなったら考えてやる、とか言ったみたいで。だんだん相手にするのがめんどくさくなってきて……どろん」

 

 想像以上にぐだぐだな結末に、一同はただガイの苦笑いに続くしかなかった。

 

 

 

 

 



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第二十二唱——道行は波乱に満ち

 

 

 

 

 

 その頃。スィンはというと、今は使われていない──というより使用禁止の天空客車を見ていた。

 人通りが寂しい上に、誰かが間違って使わないよう、いつも見張りの兵士がいる。

 あくびでもしているのか、兜の口にあたる辺りに手をかざしている兵士の目から死角の場所で、彼女はフォンスロットを開きながら天を仰いでいた。

 

 忘我状態の中で見るのは、いつも正夢である。どのような選択をしようと必ずその道へたどり着く、天空を巡りし星が見た夢の欠片──

 

「──」

 

 ぱち、と眼を開けば、手の中に不規則な形をした水晶のような物体が転がっている。

 その辺に棄てれば迷惑極まりないそれを持ったまま、声がしたほうを覗き込んだ。

 見れば、黄金色の髪を肩辺りで揃え、身軽な衣装に身を包んだ少女が見張りの兵士に何事かを言っている。言われた兵士は首を傾げながらも、鎧を鳴らして立ち去った。

 弓を携え、矢筒を背負った少女の顔がほころぶ。少し戸惑ったように天空客車を作動させると、彼女は一人で廃工場へ行ってしまった。

 それを見送り、スィンは天空客車の乗り口まで行って手に持っていたものを放り投げる。

 放り投げられた不透明な結晶体は、陽光を浴びてきらきら輝きながら重力に引かれ──スィンの構えた譜銃の的となり、粉々に砕け散った。

 譜石を消滅させることは、できない。第七音素(セブンスフォニム)に還そうとしても、一度人が取り入れているからなのか、スィンのやり方が悪いのか、譜石が消えるところなどついぞ拝んだことはなかった。

 しかしこれなら、消滅とはいかなくても詠まれた内容はきっと判読不可能だろう。

 

「──スィン!」

 

 振り返れば、すっかり見慣れてしまった一団が、ガイの案内を経て乗り場に到着したところだった。

 

「どうでしたか? ミヤギ先生のお話は」

「なかなか面白かったですよ」

 

 参考になりました、と言うジェイドに引き続き、一同自分の感じた感想を口にしている。

 

「そういえば、いつもここにいる兵士がいないな。追っ払ったのか?」

「兵士? なんで?」

 

 知らないのだから当たり前だが、それを問うルークに立ち入り禁止なんだよ、とガイが答えた。

 

「──どうでしょうね。僕が来たときには、どこかに行くところでしたよ」

 

 含み笑いを浮かべて先を促すスィンに首を傾げながら、一行は長年整備されずに古ぼけた天空客車に乗り込んだ。

 キィキィきしみながら、わずかな風にも大きく揺れるゴンドラの乗り心地にルークが喚き、アニスが黄色い声を上げて彼に抱きつき、結果バランスが悪くなって客車が斜めになるというハプニングが発生したものの、一行は無事に工場跡へたどり着いた。

 

「──っあー、死ぬかと思ったぜ……」

 

 わずかに顔を青くして乗り場の手すりに寄りかかるルークの腕を、スィンが掴んで引き寄せる。

 

「っぅお!? 何しやが──!」

 

 古び錆びつき老朽化していた手すりが、十七歳青年の体重を受け、あっさり奈落へ旅立った。

 元手すりによる地面への激突音は、聞こえない。

 

「もうずいぶん前に閉鎖された工場ですから、色んなものが老朽化しています。お気をつけて」

 

 バチカルから一歩も出ていないのに死んだらシャレになりませんよ、と告げるスィンに、ルークは思い切り怒鳴りつけた。

 

「そーゆーことは早く言えっ!」

「失礼しました」

 

 しれっとした表情で先を歩むスィンの隣──一定距離が開いている──に立ち、ガイがなるほどな、と呟いた。

 

「確かに、ここなら誰にも気取られず出られるな」

「どういうことだよ?」

 

 ルークの問いを受け、一行の中でおそらくバチカルのことを一番よく知る兄妹が交互に話す。

 

「バチカルが譜石の落下跡だってのは知ってるな」

「ここから奥へ進んで行くと、落下の衝撃でできた自然の壁を突き抜けられるんです」

 

 それを聞き、ジェイド、ティア両人が、納得がいったというように頷いた。

 

「なるほど、工場跡なら……」

「──排水を流す施設がある」

「そういうこと。ここの排水設備はもう死んでるが、通ることはできるはずだ」

 

 非常口もあるから、とスィンが言おうとして。

 柔らかな女性の声が聞こえる。

 

「まあ。あなたたち、詳しいのね」

 

 聞き覚えがないようであるような、その声の発生源を向き、スィン以外の全員が驚愕をあらわとした。

 一同の視線の先には、先ほどスィンが目にした、金髪の少女が優雅にたたずんでいる。

 にっこりと微笑んでいた顔が、どこか見下すような目つきへ変わった。

 

「見つけましたわ」

 

 少女──ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアはゆっくりと一行へ歩み寄る。

 

「なんだ、おまえ。そんなカッコでどうしてこんなトコに……」

 

 もっとも疑問にして一行最大の関心事だったが、ナタリアはなぜか胸を張って言い切った。

 

「決まってますわ。宿敵同士が和平を結ぶという大事な時に、王女のわたくしが出て行かなくてどうしますの」

「……アホか、おまえ。外の世界はお姫様がのほほんとしてられる世界じゃないんだよ。下手したら、魔物だけじゃなくて人間とも戦うんだぞ」

 

 彼がこのように説明するのは、いきなり放り出された世界の中で彼が一番思い知ったことだからだろう。

 しかしナタリアは、イマイチわかっていないのかそれとも本気なのか、よくわからない表現をもってそれをやり過ごした。

 

「わたくしだって三年前、ケセドニア北部の戦で慰問に出かけたことがありますもの。覚悟はできていますわ」

「慰問と実際の戦いは違うしぃ、お姫様は足手まといになるから残られた方がいいと思いま~すv」

「失礼ながら、同感です」

 

 明らかにそれ以外のことを意識しているアニスに、アニスの言動は失礼だと知りながら自分も同意見だと進言するティア。更にガイが説得を試みるが、まったくの無駄だった。

 

「ナタリア様。城へ、お戻りになった方が……」

「お黙りなさい! わたくしはランバルディア流アーチェリーのマスターランクですわ。それに、治癒師としての学問も修めました! その頭の悪そうな神託の盾(オラクル)や無愛想な神託の盾(オラクル)より役に立つはずですわ」

 

 悪口雑言を受けて当然のごとく、アニスがかぶっていた猫を脱いだ。目尻はすでに限界まで吊り上っている。

 

「……何よ、この高慢女!」

「下品ですわね。浅学が滲んでいてよ」

「呆れたお姫様だわ……」

 

 思い上がりもいいところである。

 一番彼女の扱いに慣れていると思われるスィンを見るが、彼女はそっぽを向いて我関せず、といった姿勢のままだ。

 

「これは面白くなってきましたねぇ」

「……だから女は怖いんだよ」

 

 後ろで好き勝手を言い連ねている男どもを当てにならないと判断したか、ルークはきっぱりはっきり言い切った。

 

「何でもいいから、ついてくんな!」

 

 それを受け、ナタリアは含み笑いを浮かべてルークの眼前に立った。

 なにやらひそひそ話しかけ、狼狽した様子のルークへ追い討ちをかけるようにナタリアが腰に手をやる。途端、ルークは彼女の腕を掴んで隅へ連れて行った。

 内緒話を続ける二人を見ながら、ジェイドはスィンに振り返る。

 

「まさかとは思いますが、あなたの手引きではありませんよね?」

「どうしてそうなるんです?」

 

 心底不快そうに答える彼女に違和感を抱きながら、それでも、とジェイドは続けた。

 

「彼女がここへ来ていたことには気づいていましたね」

「僕が見ている前で兵士を追い払って、天空客車に乗っていましたよ」

 

 なるほど、と短い会話が終了した後で、ルークはナタリアを伴って戻ってきた。

 

「ナタリアに、来てもらうことにした」

 

 仲間たちからとても冷たい視線で迎えられ、ルークは軽くたじろいでいる。

 

「よろしくお願いしますわ」

 

 どこまで面の皮が厚いのか、ナタリアはにっこり微笑んでいた。

 もっとも、上流社会の人間にとって腹芸は必要不可欠なスキルなのだから、この程度朝飯前なのだろうが。

 

「……ルーク。見損なったわ」

 

 ティアから心底呆れられたのが痛かったのか、あるいは自分でもそう思ったのか。彼はとにかく喚いた。

 

「う……うるせーなっ! とにかく親善大使は俺だ! 俺の言うことは絶対だ! いいな!」

 

 これには心底呆れたらしく、誰も何かの反応を示そうとはしない。と、ナタリアが思いついた、というように胸の前で手を合わせた。

 

「あ、そうですわ。今後わたくしに敬語はやめて下さい。名前も呼び捨てること。そうしないと王女だとばれてしまうかもしれませんから」

 

 よろしいですわね? という問いが発せられる前に。

 

「──では、ひと段落ついたようなのでそろそろ参りましょうか」

 

 ついにナタリアと言葉を交わさなかったスィンが、軽く肩をすくめて歩き始めた。

 

「おまえはいいのかよ?」

「──僕の知るナタリア様は、言い出したことを曲げるような方ではありませんので。ルーク様が許可されたなら、とやかく言いません」

 

 こちらです、という表向き何の変化も見られないスィンの後を歩きながら、ティアがガイに聞いている。

 

「どうしたのかしら」

「……あいつは、一度ナタリア様誘拐未遂で追放処分くらってるんだよ。一時的なもんだったから追放が解けた後また戻ってきたんだけど、周囲からあんまりいい顔されなくてさ。で、今はルークの誘拐疑われて、その汚名を返上するために同行したのに、ナタリア様がついてくるとなるともう──」

「なるほど。前科とはそういうことでしたか」

 

 ガイの話を聞いていたジェイドが、納得したように頷いた。

 同じく、彼の話を聞いていたらしいナタリアが先頭にいるスィンへ駆け寄っていく。

 

「──スィン」

「何か?」

「あの……怒っていますか?」

 

 おずおずと、先ほどまでの彼女と比べてえらくしおれている様子のナタリアに、どのような心境なのかいまいちわからないスィン。

 両者のやり取りに、外野は固唾を呑んで見守った。

 

「もう二度とバチカルへ足を踏み入れられないかと思って厭うているだけです」

「……再び私の誘拐嫌疑を思ってのことでしたら、心配には及びません。もう二度と、あのような暴挙は許さないと断言いたしますわ!」

 

 言動に変化は見られないが、ひどく冷めた眼で対応するスィンを見て、アニスがさらに詳しい説明を求めた。

 

「──七年前。ナタリア様たっての希望で、こっそり港へ連れて行ったらしい。海を見に行っただけだったんだが、当時はルークの誘拐騒動で周りがピリピリしてたからな。すぐに見つかって、ナタリア様は五日間の謹慎。その間にスィンは誘拐未遂犯にされて、五年間のバチカル追放を言い渡された」

 

 という会話の最中にも、二人の問答は終焉を迎えている。

 

「……この際、過去のことは忘れておきます。ですが、あなたの目の前にいるのはもうあなたの傍仕えではありません。私はルーク様の護衛を優先させます。ご自分の身は、ご自分でお守りください」

「そのことなら大丈夫ですわ。ガイがおりますもの」

「俺ですか!?」

 

 突然自分を引き合いに出され、そしてナタリアに詰め寄られ、彼は顔面蒼白になって飛び退った。

 

「なんですの、その態度! 紳士が淑女を守るのは当然ではありませんか!」

「そ、そりゃなるたけお守りしますが、傍に張り付いて護衛するのは無理……!」

「なんて情けない人なの! 何を思ってスィンがあなたを慕っているのかわかりませんわ。あなたときたら……」

 

 突然、誰かが咳き込んだ。わざとではなさそうに思える咳に発信源を見れば、スィンが口元に手を当てている。

 

「──個人的な希望ですが、あまり長居したい場所ではないので……」

「い、いけない。そういえばあなたは、疾患を患っていたのでしたわね」

 

 さあ、参りましょう! と先頭を歩いていたスィンを抜かし、ナタリアは王女らしからぬ早さで歩き始めた。

 スィンの言うことはもっともであったため、一行は先を行くナタリアとスィンに先導される形で工場内を進む。

 

「……先、行きますね」

 

 寂れた工場内を進むにつれ、スィンはミュウを招きよせると軽やかに走り去った。

 それを見たナタリアが、もともと早足だったのを更に早めて続こうとする。

 そこでルークのストップがかかった。

 

「おい! ナタリア! もう少しゆっくり歩けよ!」

「なんですの? もう疲れましたの? だらしないことですわねぇ」

 

 現婚約者から鼻で笑われ、そんなつもりではないにもかかわらず、ルークは思わず言い訳している。

 

「そ、そんなじゃねぇよっ!」

 

 その横では、メンバーの中で最も若年のアニスが呆れたように、もしくは疲れたようにため息をついていた。

 

「……うはー。お姫様のくせに何、この体力馬鹿」

「何か仰いました?」

「べっつにー」

 

 あまり真面目とは言えないアニスの態度が気に障ったのか、もしくは本気でそう考えているのか。

 ナタリアは腰に手を当てて、遅れ気味の一行をどやしている。

 

「導師イオンが拐わされたのですよ。それに私たちは、苦しんでいる人々のために、少しでも急がなければなりません。現にスィンたちは大きく先を進んでいるではありませんか。違っていまして?」

 

 間違ってはいない。だが、スィンは斥候のために先行しているのであって、もしかしたら彼女の知る道は使えずに引き返すかもしれないのだ。無理に追いつくことはない。

 

「確かにその通りだけど、この辺りは暗いから、少し慎重に進んだほうがいいと思うわ」

「あら。スィンはよくてわたくし達はいけませんの?」

「あいつは俺たちの中で一番夜目が利くんだよ」

 

 ミュウも連れていますからね、とジェイドが引き継ぐ。

 彼女がミュウを連れて行ったのはそこかしこに設置された音素灯に進める、という印の明かりをつけるためであるが、あまり事実に変わらない。

 

「そうですよ、ナタリア様。スィンのことはかまいませんので、もう少しゆっくり歩きませんか?」

「ガイ! わたくしのことは呼び捨てにしなさいと言った筈です」

「おっと。そうでした。失礼……ではなくて、悪かったな」

 

 ガイの口調を聞きとがめ叱責を下した彼女を増長させまいと、ジェイドが「ナタリア」と諭すように言った。

 

「この七人で旅する以上、あなた一人に皆が合わせるのは不自然です。少なくともこの場では、あなたは王族という身分を棄てている訳ですからね」

「……確かにそうですわね。ごめんなさい」

 

 ジェイドの言うことはもっともだと判断したのか、彼女はルークとは大違いの素直さで謝った。

 心底意外だったのか、アニスがいらないことを呟いている。

 

「あれ、案外素直」

「いちいちうるさいですわよ」

 

 やはり、あまり仲がいいとはいえない二人のやりとりに前途多難を想像したか、ティアが嘆息した。

 

「ふぅ……」

「やー、皆さん。理解が深まったようですね。よかったよかった」

「……どこがだよ。サムイっつーの」

 

 どこか白々しくまとめているジェイドに、疲れた様子のルークが突っ込みを入れている。

 そのとき、天井近くからカンカンカン、と鉄の梁を踏むような音がしてきた。音は次第に大きくなり、「しっかり掴まって」という声がする。

 直後、空気を切り裂いてスィンが降ってきた。

 

「みゅっ!」

 

 ナタリアと一行の境に着地したスィンは、肩から転がり落ちそうになっているミュウを支え、床に降ろしてやっている。

 

「どうです、進めそうですか?」

「はい。運搬用の天空客車も作動するし、問題はなさそうです。ちょっと変なものがいたけど」

 

 変なもの? とルークが首を傾げる前に、ミュウがぴょんぴょん跳ねながら報告した。

 

「梁の上を走ってたら、大っきな蜘蛛がいたんですの! ミュウとスィンさんが火を吹いたら逃げ出したですの、驚いたですの~!」

「「火を吹いたぁ~!?」」

 

 驚くべきはそこではないのだが、ミュウの言葉がよっぽど衝撃的だったのか。

 ルーク、ティア、アニス三名は視線をスィンに集中させた。なお、ガイは呆れたように半眼になっている。

 

「っつーことは何か、おまえ。ブタザルみたいに口から火を……」

「……お目にかけましょうか?」

 

 慌てて否定するかと思えば、スィンはにやりと笑って人差し指を立てた。

 誰も止めないところを見ると、真相が知りたいらしい。

 ナタリアを下がらせて、スィンは指先に第五音素(フィフスフォニム)を結集させた。

 

「一番スィン・セシル。火を吹きます!」

 

 水筒とは違う水袋の中身をあおり、炎を灯した指を口の前にやり、思いっきり吹く。

 結果、ミュウのものよりは断然劣るものの、ごおおおぉーっ、と火柱が出現した。

 

「「おお~っ!」」

「って、コラコラ!」

 

 突然始まった宴会芸に、ルーク、アニス、ナタリアが感嘆しているものの、ガイに制止され早々にやめる。

 

「お前な! こんなところで芸なんか披露するなよ、早く出たいんだろ?」

「おっしゃるとおりですが、少し気になることが……」

 

 ミュウもやるですの! と炎を吐き出しかけるミュウをあわてて止めている面々を横目に、スィンは声をひそめて囁いた。

 

「なんか、外のほうから変な地響きが聞こえてきたんです。タルタロスのものと似てたような気がして……もっとも、陸艦が動いているだけかもしれませんが」

「ほう。外にタルタロスがあるのかもしれないんですか」

 

 場違いなまでに明るい声が背中から聞こえてきて、スィンは軽く息を呑んだ。

 振り返れば、そこにはマルクトの死霊使い(ネクロマンサー)が微笑を浮かべて頷いている。

 

「まあ、まったく関係ないキムラスカの陸艦かもしれませんので、とりあえずここを抜けることを優先しましょう」

 

 頷くセシル兄妹を確認し、彼は一行に進むことを促した。

 音素灯をつけてきたためスィンが先導する意味はなく、ルークの護衛をガイに任せ、しんがりへと回る。

 それまでしんがりを務めていた青い軍服の背中が目の前にある。その背中に、スィンがそうっ、と手を伸ばした。

 もう少しで手が触れる。そこで、弾かれたように腕を引っ込めた。

 もう一度。深呼吸をしながら手を伸ばしていく。ちょん、と中指の爪の先が軍服に触れ、静電気を浴びたように腕が戻ってきた。

 たったこれだけのことなのに、額を軽く拭えば、しっとりと手が濡れている。

 意味の成さない汗を手巾で拭き、再度腕を伸ばして──

 

「……何をしているのか聞いてもよろしいですか?」

 

 いきなりジェイドが立ち止まり、にこにこ笑いながら後ろを向いた。

 とっさのことに反応できず、スィンはジェイドに思いきりぶつかっている。

 

「──っをわぁっ!」

 

 思いっきり飛び跳ねるスィンを楽しそうに見ながら、用事でもあるんですか? と彼は何食わぬ顔で首を傾けている。

 

「よっ、用事があったら声かけてます! ヴァン謡将くらいの人ならなんとか慣れたから、こっそり大佐で慣れようとしただけです!」

「水臭いですねー。それならそうと言ってくだされば、いくらでも抱きしめて差し上げるのに」

「そう言うと思ったから内緒にしようとしたのにー!」

 

 満面の笑顔で、腕を広げて迫ってくるジェイドにスィンは走って逃げた。

 

「いいの、ほうっておいて?」

 

 必死で逃げているスィンを眼で追いながらティアが訊くが、ガイもナタリアも複雑そうに見守るだけだ。

 

「かばってやりたいのは山々だが……」

「本当にスィンを思うなら、多少強引でも見過ごしたほうがいいのかもしれません……」

「じゃあガイも、スィンに負けないように鍛えないと!」

 

 ふと便乗された言葉に見やれば、アニスが妙な笑みを浮かべてガイに迫っている。

 

「い、いや、俺は……」

「スィンは、主席総長くらいの人なら平気になったんでしょ? ならガイも、せめて自分よりは若い女の子に慣れないと♪」

 

 ガイの女性恐怖症は、スィンのものと比較にならないくらい重症だ。

 アニスに近寄られただけで及び腰になっているのでは、今すぐの改善は難しい。

 じりじり、と少女から間合いを計っているガイ、未だに大佐から逃げ続けるスィン。それをハラハラしながら見守っているナタリア。

 蚊帳の外に置かれたルークとティアは珍しくそろってため息をついた。

 

 

 

 

 



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第二十三唱——かくて二人は出会いを果たす

 

 

 

 

 

 そんなこんなで。

 寂れた工場内、いつの間にか住み着いた魔物を倒し、いくつかの天空客車を乗り継いだ一行の行く先に待っていたのは、鼻をつく異臭だった。

 

「なんか臭うな」

 

 同じ工場内を歩いてきたのだが、天空客車を乗り継いだせいか異様に気になる。

 

「油臭いよぅ!」

 

 小さな鼻をつまんで文句を呟くアニスに賛成するように、ガイが周囲を見回した。

 

「この工場が機能していた頃の名残かな? それにしちゃ……」

「待って! 音が聞こえる……。……何か……いる?」

 

 かさかさっ、というほんのわずかな音だったために、ナタリアは聞き逃したらしい。

 

「まあ、何も聞こえませんわよ」

 

 ナタリアは言ったが、一行の大半は暗黙のうちにティアの意見を採用していた。

 

「いえ……いますね。魔物か?」

 

 ジェイドの一言に反応し、彼の実力をよく知る面々は一斉に警戒態勢へ入った。

 一方、ナタリアはどうすればいいのか困惑し、弓を取るのも忘れて何が来るのか周囲を見回している。

 ふと、ナタリアの真上に影がさした。スィンが警告を上げる前に、ティアが飛び出す。

 

「危ない!」

 

 ナタリアを引いてティアがその場を飛びのいた瞬間、巨大な何かが落ちてきた。

 

「うわっ! きたーっ!」

 

 アニスが思わず叫んだのも、無理はない。

 いきなり現れたそれは、ぶよぶよとした体を揺らす巨大なスライム──が足を生やしたような、不気味なフォルムをしていたからだ。

 

「……何、これ?」

 

 とりあえず威嚇しようとしてか、スィンがミュウに頼んで第五音素(フィフスフォニム)を正体不明の魔物に放っている。流石に火吹き芸はしない。

 

「ふぁいあー!」

 

 炎が魔物に着弾した瞬間。体表皮が可燃性だったのか、魔物は景気よく燃え始めた。

 

「どわーっ!」

 

 トクナガをあやつり接近しかけていたアニスが、突如燃え上がる炎に驚いて後ずさる。

 そういえば、あのでっかくなるぬいぐるみは可燃性なのだろうか。でも戦闘用人形なら、多少のことで傷つきはしないはず──

 

「見て!」

 

 ティアの声で我に返れば、燃えていたはずの魔物は着火したぶよぶよ鎧を脱ぎ、巨大な蜘蛛の姿となって突進してきた。

 長刀──血桜を抜くと共に伸びてきた足の一本を切断する。

 大蜘蛛の平衡感覚が失われた一瞬、ガイの「弧月閃!」という声が聞こえ、さらにルークの追い討ちがまともに入った。

 

「瞬迅剣!」

 

 度重なるダメージに、巨体が大きく傾いだ。更に空中を切り裂いて蜘蛛の頭部に矢が突き刺さる。そして、後ろで紡がれていた詠唱が今、完成した。

 

「アピアース・フレイム!」

「燃え盛れ、赤き猛威よ──イラプション!」

 

 人為的なフィールド・オブ・フォニムスにより属性を変えた譜術は、発生した溶岩の塊を全身に浴びてあちこちを墨にしながら足を丸める。

 よもやぴくりとも動かなくなった巨大すぎる蜘蛛を見て、ルークは戦闘を終えたこと、一時的に気温が上がったことによる汗をぬぐいながら剣をしまった。

 

「な、なんだったんだ。この魔物はよ……」

「この辺じゃ全然見かけない魔物だな。こりゃどう考えても蜘蛛……だよな?」

 

 現れたときの姿が蜘蛛からかけ離れていたせいか、確かめるように妹を見る。

 

「さっきミュウと一緒に先行した時、これみたいなものはいたけど、あのぶよぶよって……」

「油を食料にしている内に、音素暴走を起こして突然変異を起こしたのかもしれませんね」

 

 やけに燃えやすかったようですし、とジェイドがしめれば、ナタリアは遠慮がちにティアへ話しかけた。

 

「……あ、あの。ティア」

「何?」

「ありがとう。助かりましたわ。……あなたにもみんなにも、迷惑をかけてしまいましたわね」

 

 当初のルークに、否、今のルークにも爪の垢を煎じて飲ませたいくらいの謙虚さである。

 合流したばかりの態度の継続を予想していたティアにとって、これは衝撃だったようで、その顔にははっきりとした驚愕が浮かんでいた。

 

「……いいのよ」

「よくねぇよ。足ひっぱんなよ」

 

 どうしても現在の事柄にしか視野にいれないルークを、何か言いたそうに、しかし無言でティアは見ている。

 そんな視線にも気づかず、ルークは目先の問題を話題と出した。

 

「ところで、排水施設ってのは一体……」

「下のほうじゃないかな……」

「そんなことしなくても、あそこに非常口がありますよ」

 

 スィンの言葉にそちらを見るが、ただの壁のように見える。

 歩み寄る彼女を見ていると、スィンは結構な勢いで壁を蹴りつけた。蹴られた壁の一部があっさりと外れ、音素灯とは違う光を招いている。

 

「よし。あそこに梯子を降ろせば、外に出られるな」

「はいですの、ご主人様。ここを抜ければ、あとは目指せケセドニア! ですのね」

 

 この廃油臭い工場から出られるとあって気分が高揚しているのか、珍しく彼はミュウに対して反応しなかった。

 

「ケセドニアへは砂漠越えの準備が必要よ。途中にオアシスがあるはずだから、そこで一度休憩しましょう」

 

 ティアの言葉を聞きながら、歩んでくるスィンの方へ行こうとする。

 すると、ナタリアがガイにこんなことを提案してきた。

 

「ガイ。あなたが先に降りなさい。わたくしが足を滑らせたら、あなたが助けるのよ」

「……俺がそんなことできないの知ってて言ってるよな」

 

 スィンに頼んでくれ、といわんばかりのガイに、ナタリアはまたいらないことを心配している。

 

「だってそれを克服していただかないと、ルークと結婚したときに困りますもの」

 

 それを聞くなり、アニスは大仰なしぐさでルークに抱きついた。

 彼は反射的に引き剥がそうとしているが、女の子相手に本気にはなれないのか、なかなか外れない。

 

「ルーク様はもっとず~っと若くてぴちぴちのコがいいですよねっv こんなでっかい説教魔人なんかじゃなくて♪ 婚約なんていつでも破棄できますしv」

 

 明らかに誰かを意識しているアニスに、ナタリアはじろり、と頭の悪そうな神託の盾(オラクル)を見た。

 

「……なんですの」

「何よぅ……!」

 

 ナタリアは腰に手を当て、アニスはルークにしがみついたまま。一人の男を巡って女の戦いが繰り広げられている。

 その光景を見、ティアは額に手を当てながら呆れたように呟いた。

 

「ルーク。あなたって最低だわ」

「何なんだよ! 俺のせいかよ!」

 

 傍から見ればそうなのだが、当人にとっては濡れ衣である。

 そんな光景を楽しそうに見ながら、ジェイドもいらない一言を公言していた。

 

「やー。仲が良さそうで何よりです」

「あんたの目は節穴かっつーの!」

 

 もしくはガラス玉、と思いながら、スィンはたぶん、和気藹々としている彼らに背を向けた。

 苦笑いしながら見守っているガイのもとへ向かう。

 

「水の気配がします。大事には至らないよう、ナタリア様は僕が支えるので、ガイ兄様はルーク様をお願いします」

 

 ん、ああ、というガイの返事にかぶさって、ルーク争奪戦を繰り広げている彼女らを横目にジェイドが尋ねてきた。

 

「あなたは参加しないのですか?」

「──あんな子供に何をしろって言うんですか。冗談きついですよ」

 

 思ってもみなかった返事に、ジェイドは思わず眉根を寄せた。

 以前ガイから聞いたスィンの年齢は二十歳である。ルークを子供と言い切るほど年を取っているわけではない。

 なんとなく、わかるような気はしたが。

 

「水の気配ってのは……?」

「外、雨が降っているみたいです。僕では、もしルーク様が足を滑らせたとき、支えることができませんので」

 

 スィンは備えられていた縄梯子の強度を確かめている。

 大丈夫だということを確認した後、それをしっかり取り付けてから、まだ揉めている彼女らの間にずかずかと割り込んだ。

 

「さぁさ、続きはここを出てからにしてくださいね」

「続けさせるな! つーか、助けろ!」

 

 ほんの小さな嘆息をして、とりあえずはアニスを剥がそうとして。

 スィンはわずかに残っていた巨大蜘蛛のぶにぶに体組織を踏み、ルークへと倒れこんだ。

 

「ぅわたっ!」

「どわあっ!」

「きゃうっ!?」

 

 結果、アニスを弾き飛ばしてルークを押し倒すようにスィンは床を転がるハメになる。

 しかも、立ち位置がずれ込んだせいか、ちょうどルークの顔に胸を押しつける形だ。

 それにいち早く気づいたスィンは、ぱっ、と起き上がると、小さく咳払いをしてからルークを助け起こした。

 

「──失礼いたしました」

「お、おう……」

 

 真っ赤に染まった頬ですねたようにルークを見れば、彼はしっかりと感触を確かめたらしく、やはり顔を赤くして自分の頬を触っていた。

 

「いやうらやましい。役得ですね」

 

 やっぱり笑顔を絶やさないジェイドに、粛々と抜刀の体勢に入ったスィンが低い声でルークに囁く。周囲をじろりと睥睨しながら。

 

「……ルーク様。あのおっさんを叩っ斬る許可を」

「へ? だ、駄目だ。戦争が起きるだろ!」

 

 ——偶然を装って一応確認だけはしたが、やはりスィンの密命を知る者はいない。

 チッ、と音高く舌打ちするスィンの本性を垣間見た一行は、どうにかこうにか、梯子を降りることになった。

 こちらの言うことも聞かず、一番に降りてしまったルークを追い、ガイ、ジェイド、アニス、次にナタリアが下りるというのでスィン、最後にティアという順番で濡れた地面へ降り立つ。

 すると、ルークがあらぬ方向を見ていることに気づいた。

 

 同じ方向を見れば、巨大な陸艦が鎮座している。その手前に、何人かの人影が立っていた。

 もうすっかり見慣れてしまった神託の盾(オラクル)兵に脇を固められたイオン、そのすぐそばに、真紅の長髪を雨にさらしている黒を基調とした外套の男が──

 こちらを向いていたイオンの視線で気づいたのか、黒衣の青年が振り向いた。

 そのとき、すでにルークは剣を携えて駆け出している。

 

「イオンをっ、返せぇ────っ!!!」

 

 相手が人であるにもかかわらず、剣を抜ききったルークは黒衣の青年に肉薄した。相手も、黒い長剣を抜き放って応戦している。

 激しい剣戟が響き渡る、が──それは数瞬のこと。

 二人が互いの姿を認め合い、ルークが驚きに目を見開いたそのとき。

 

「おまえかぁっ!」

 

 黒衣の青年が大きくルークを跳ね飛ばし、二人は剣をかまえて睨み合った。やがて、どちらからともなく剣を降ろす。

 ジェイドを除く仲間たちが驚愕の声を洩らす中、ガイがルークの名を呼んだ。その声で、スィンもはっ、と我に返る。

 ぬかるんだ地面を蹴ってルークの元へ辿りついた。呆然とアッシュの顔を見つめるルークの様子をうかがいながら、刀の柄に手を添える。

 そこへ、ほどなくしてバチカルの入り口にいたというシンクがアッシュの後ろへ来た。

 

「アッシュ! 今はイオンが優先だ!」

「わかってる!」

 

 きびすを返しかけ、アッシュはルークを睨めつける。

 

「いいご身分だな! ちゃらちゃら女を引き連れやがって」

 

 そのまま彼らはタルタロスへ撤収すると、陸艦は轟音と共に去って行った。

 追いつけるものではないし、追いかけることもできない。ルークは呆然としたまま、呟いた。

 

「……あいつ……俺と同じ、顔……?」

 

 うっ、と口を押さえて呻く彼をあわてて支える。滅多に見ない青白い顔色を見て、スィンはルークの好きにさせた。

 ふらふらと工場跡の壁に手をついて胃の中のものを逆流させる彼の傍につき、背中を撫でさする。

 後ろでは、二人をのぞく一同が彼と同じように困惑をあらわにしていた。

 

「……どういうこと?」

 

 ナタリアが呟くが、答える者はいない。

 あの状況下でも冷静だったジェイドは、更に冷静に意見を述べた。

 

「ところで……イオン様が連れて行かれましたが」

「……あああ!! しまったーっ!」

 

 アニスが今気づいた、というように頭を抱えている。それを機とし、ジェイドはさりげなく話題を変えた。

 

「どちらにしても、六神将に会った時点でおとり作戦は失敗ですね」

「バチカルに戻って船を使ったほうがいいんじゃないか」

 

 効率を考えれば、そちらのほうが利口だ。しかしこの意見を、ナタリアが却下した。

 

「無駄ですわ」

「……なんで」

 

 口をゆすぎ、どうにか落ち着いたルークが、スィンの肩を借りて一行の下へ行く。

 

「お父様は、まだマルクトを信じていませんの。おとりの船を出港させた後、海からの侵略に備えて港を封鎖したはずです」

 

 海路を断たれたことで、ティアが陸路を行くメリットを見つけ出した。

 

「陸路に行って、イオン様を捜しましょう。仮にイオン様が命を落とせば、今回の和平に影響が出る可能性もゼロではないわ」

「そうですよ! イオン様を捜してください! ついででもいいですから!」

 

 ティアの提案、アニスの嘆願を受け、ジェイドは決定をルークに丸投げする。

 彼の発言を尊重するためだ。けして嫌がらせではない。多分。

 

「決めて下さい、ルーク。イオン様を探しながら陸路を行くか。或いはナタリアを陛下に引き渡して、港の封鎖を解いてもらうというのも……」

 

 その代わりとして、もっとも効率的な方法を模索するが、当人によって却下された。

 

「そんなの駄目ですわ! ルーク! わかってますわね!」

 

 次々と発せられる意見の数々に、ルークは受けたショックを一時忘れることにしたらしく、何とか立ち直っている。

 

「あー! うるさいっ! 大体なんで俺が決めるんだよ」

 

 思わず言ってしまったこととはいえ、一度口に出した言葉は消せない。

 ジェイドは珍しく半眼になってルークを横目で見た。

 

「責任者はあなたなのでしょう?」

 

 しかし、精神的に参っている人間に追い討ちをかけるのはいかがなものか。

 スィンは気遣わしげにルークを見た。

 

「ルーク様。お加減がよろしくないのでしたら、それを理由に親善大使を辞退するという選択もあります」

「……いや、平気だ。──陸路! ナタリアを連れてかないと色々ヤバいからな」

 

 ルークにはルークの事情がある。結局進路変更なし、という形で落ち着いた。

 

「イオン様……。どこに連れてかれちゃったんでしょう」

 

 気遣わしげにアニスが言えば、わずかに残る陸艦の痕を見て、ジェイドが眼鏡に付着する水滴を払って呟く。

 

「陸艦が立ち去った方角を見ると、ここから東ですから……ちょうどオアシスのある方ですね」

「私たちもオアシスへ寄る予定でしたよね。ルーク様ぁ、追いかけてくれますよねっ!」

「ああ……」

 

 明らかに別のことを考えているルークの様子を垣間見ながら、結局驚くような素振りを見せなかったジェイドを見た。

 この様子だと、彼だけはどういうことなのか、察しているのかもしれない、いや、おそらくしている。

 その件については、スィンも同じことなのだが。

 

(厄介なことしてくれちゃって、まあ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しとしと降り注ぐ雨は、進むうちに雨足を弱め、足元が一面砂の海に変わる頃、その姿を綺麗に消した。

 今一行に降り注ぐ容赦ない太陽の日差しで、すでに濡れきっていた服は乾き、水筒までからっぽにしている。

 

「あ、あつぅ~い……」

「…………」

 

 砂漠越えを想定してバチカルで購入した日差し避けの外套の中から、アニスは呻くように感想を洩らした。

 当初こそ不平を洩らしながら歩いていたナタリアだったが、すでにそんな体力はないのか、アニスの言葉に同意することなく閉口している。

 

「アニス、水飲む?」

「……いいの?」

 

 見かねたスィンが自分の水筒を取って差し出した。

 スィンが頷いたのを見てアニスがじゃあ、と水を口に含む。その顔が驚愕に彩られた。

 

「わっ!?」

「どうかした?」

「何でこの水、こんなに冷たいの!?」

 

 思えば、廃工場を抜けて一日以上経過している。

 それなのに、スィンの水筒はまったく中身が減っていないどころか、井戸から汲んだばかりの冷たさを保っていた。

 アニスから水筒を返してもらったスィンが、ナタリアに手渡しながら種明かしをしている。

 

「そりゃ、こーやってさー……」

 

 人差し指を立て、大気の第四音素(フォースフォニム)を結集させる。瞬く間に小さな氷の欠片が生まれた。

 

「補充してるからに決まってるじゃん」

 

 言いながら氷の欠片を自分の口の中に放り込めば、ジェイドが呆れたように呟いた。

 

「小器用な方ですねえ」

「通常譜術が使えないから、せめてこういう小技くらいはね」

 

 口の中で氷を転がしながらナタリアから水筒を受け取る。

 

「ありがとう、助かりましたわ」

「ほしくなったらいつでも言ってくださいね、ナタリア様」

 

 脱水症状になると危険ですから、と返せば、彼女はそういえば、とスィンを見た。

 

「スィン、身分を隠すためです。わたくしを呼び捨てなさい。敬語も使わないこと」

「ウンワカッタソウスル」

 

 誰が聞いてもそうだとわかる、素晴らしい棒読みである。

 それにナタリアが苦言を口にすれば、スィンはにっこり微笑んだまま、棒読みを繰り返した。

 感情の伴わない言葉の羅列は、非常にむなしく。

 

「ゴメンネソノウチナントカナルヨ」

「もう少し、なんとかなりませんの?」

「ならないよ。ナタリアったら、わがまま。そんなんで、この先本当に大丈夫? 不安だわーちょー不安だわー」

「な……! この、無礼者っ、あ」

 

 鼻白むナタリアの顔をとっくりと眺めて。スィンはひとつ頷いた。

 アニスにぞんざいな口を叩かれて平気な顔はできても、長らく自分に仕えてきた人間のそれは、彼女にとって違う意味合いと認識してしまうようだ。

 

「やっぱり、やめておきますね。気安い口と悪口の境界は曖昧ですし、昔のこともありますので」

「わかりましたわ……」

 

 しぶしぶながらも素直に承諾するナタリアの態度を訳ありと見て、ジェイドが興味深そうに二人を見た。

 

「何かあったんですか?」

「ナタリア様とルーク様に敬語使わないで、侍従長に仕置き棒でしばかれたことがありまして」

「まあ、そんなこと聞いてませんわ! 私には怒られたとだけ……!」

「そりゃ必死こいて逃げましたから、被弾してませんよ? ナタリア様にはそうご報告させていただきました」

 

 状況はさておき、素人が振り回す棒切れを回避できないなど、昔の話であってもありえない。

 とはいえ、解雇されるわけにもいかない事情があったから、それからというものこっそり使っていたタメ口をやめ、二人に対して気安い態度はとらないようになった。

 そんな真の事情を隠すように遠い目をしてみせるスィンに、アニスは軽く同情的になっている。

 

「大変そうだよねー、お姫様の世話って」

「……まあでも、あそこでしか働けない理由があったからさ」

 

 理由って? と尋ねるティアに、スィンはそれに答えないで陽炎の向こうに見える影を指した。

 

「──やっとついた」

 

 巨大な譜石が突き立ち、都市の残骸がそこかしこに転がっている。

 ぽつぽつと並び立つテントや小さめではあるが石造りの家屋を徐々に視認しながら、一行はオアシスへたどり着いた。

 

 

 

 

 

 

 




呼吸器に疾患があり、定期的に薬を飲まねばならないオリジナルキャラクター。
職場の空気が綺麗で、高給待遇の城勤めは、外せない仕事だったのです。


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第二十四唱——早すぎる再会の兆し

 

 

 オアシスに到着し、まずは休息を取ろうと一行が歩いていた矢先。

 歩いていたルークがふと立ち止まったかと思うと、頭を押さえた。

 

「いてえ……なんだ……!?」

 

 演技とは程遠い悲痛な声に、ガイが駆け寄ってくる。

 

「ルーク! また例の頭痛か?」

「例の頭痛?」

「誘拐されたときの後遺症らしくて、たまに頭痛がして幻聴が聞こえるんだって」

 

 同じくルークの傍に寄り、頭を抱えるルークのこめかみに冷やした手ぬぐいを添える。

 しかし、痛みが引いたような気配はなく、彼はぶつぶつと呟くのみだった。

 

「誰だ……おまえは……!」

 

 幻聴がそれを答えるとは思えなかったが、当人はそのように思わなかったようだ。驚いたことに反応があったらしい。

 

「おまえ、アッシュか……!」

 

 つい最近ルークとの対面を果たした彼の姿がよみがえる。

 コーラル城にルークを呼び出し、なぜかディストがルークに対してデータを採取……

 

(……情報採取のついでにフォンスロットの操作を? ディストがアッシュに頼まれて? それとも、これもヴァンの計画のうち……?)

 

「おまえ……っ! 一体どこに……」

 

 まるで誰かと会話していたような様子のルークだったが、やがて力尽きたようにへたり込んだ。

 

「ルーク様! 大丈夫ですか」

「ご主人様、気分悪いですの?」

 

 普段ならうるさいと返す彼ではあるが、うずくまり、黙して頭痛を耐えているあたり、そんな気力はないらしい。

 そんなルークを支えながらスィンが彼のこめかみを揉んでいると、ティアがやってきて治癒術の詠唱を始めた。

 

「しっかりして」

 

 淡い輝きがルークを包み込み、呻きが宙へ消えていく。

 落ち着きを取り戻したルークに、ガイが確かめるように聞いた。

 

「また幻聴か?」

「幻聴なのかな……」

 

 疑問の形をとってはいるが、彼の口調にそれらしいものはない。

 確信しているが、信じたくない。そんなあいまいな言葉を、ナタリアが聞き返す。

 

「アッシュがどうとかって……おっしゃってましたわよね。アッシュって、あの神託の盾(オラクル)の……?」

 

 いまだ額を押さえて、それでもルークはスィンの肩を掴んで立ち上がった。

 

「……さっきの声は確かにアッシュだった。イオンとザオ遺跡にいるって……」

 

 彼の言葉に、別々の部分でどこかに通っている二人が反応した。

 

「ザオ遺跡!? そこにイオン様が!?」

「ザオ遺跡……二千年前のあのザオ遺跡のことでしょうか」

 

 しかしそれには答えず、自分の傍らにいるスィンを見る。

 

「……なあ。アッシュの奴、お前なら場所を知ってる、みたいなことを言ってたけど」

「僕、ですか?」

 

 自分を指差しながら問うスィンに、ルークがこくりと頷いた。

 

「そこにいる虹彩異色症(オッドアイ)に聞け、つってた」

「……一応、知ってますけど」

 

 途端に疑惑の目を寄せてくるジェイドに言い訳するように、スィンはその理由を話した。

 

「僕がバチカルから追放された、って話はガイ兄様から聞きましたね? 僕はその期間中、ヴァン謡将を頼ってダアトで働いていました。そのとき、ザオ遺跡調査メンバーの補佐として加わったから」

「六神将は兄さんの部下だから、兄さんからそれを聞いたかもしれないってこと?」

「多分……でなければ、ザオ遺跡に関する調査報告書を勝手に閲覧したとか」

 

 ──嘘ではないが、事実でもない。調査報告書に記載されているスィンの名は当時ヴァンが勝手につけた偽名だし、六神将は誰も事実を知らないはずだ。

 ヴァンに吹き込まれたと考えたほうが正しいように思えたが、普通に考えればそちらの線も考えられた。

 

「ただ、砂嵐とかで当時の地形が変わってないといいんですけど……」

「オアシスの人たちに聞いてみましょう」

 

 聞き込みと補給の役割分担を話し合い、一行は一時解散となった。

 聞き込みを早々に済ませ、私用の補給を済ませようとしたところで、自分が尾行されていることに気づく。

 何食わぬ顔で雑貨を取り扱う天幕へ足を踏み入れれば、後からジェイドがついてきた。

 

「そんなに僕のこと信用できません?」

 

 別に信用なんかほしくないけどさ。

 そんな本音はしっかりと心の中にしまい、振り返ってずばり訊く。彼はいつもの微笑を浮かべてそらっとぼけた。

 

「おや。もう聞き込みは終了ですか?」

「僕の記憶と大差ないから、もう情報は要りません。それと、僕を信用しないのは正解です。命が惜しいなら、気を許さないほうがいいですよ」

 

 さすがに真面目な顔になって「なぜです?」と彼が問えば、スィンはガイたちに向けるものとはまるで違う笑みを浮かべた。

 それはさながら、天使のような悪魔の笑顔とも言えるべきもので。

 

「──内緒です♪」

 

 ひょい、と人差し指を自分の唇に当てる。

 すぐにきびすを返して、店主に話しかけるスィンを見ながら、ジェイドはそっと眼鏡の位置を直した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オアシスで一晩過ごし、再び砂漠を出て、ザオ遺跡を目指す。

 

「ガイ兄様、こちらを」

 

 その折、スィンがガイへ差し出したのは、陽射し避けの外套だった。スィンが着ているものと同じタイプで、身体をすっぽりと覆えるものである。

 

「うわあ、暑そう」

「見てるだけであちぃ」

 

 アニスやルークは見ただけで暑いと辟易し、ジェイドは我関せず。ナタリアやティアは心配そうに外套を着る二人を見ている。

 

「スィンも、そのように着込んで大丈夫なのですか? 逆に熱がこもってしまうのでは」

「まあ、そうなる前に脱ぐようにする……ん? お前、なんか仕込んだか?」

 

 苦笑いをしながら受け取ったガイは、羽織ってすぐにきちんと着た。

 不思議なことに、ガイが外套を着込んだ瞬間、その額に浮かんでいた汗が引いている。

「勿論」と言葉少なくスィンは肯定しているが、興味に駆られたジェイドがその外套の裾をめくったことで、カラクリがばれた。

 

「これは……譜陣の刺繍ですか? 第六音素(シックスフォニム)、この場合は太陽光を受けることで第四音素(フォースフォニム)に変換し冷気を生成、更に第三音素(サードフォニム)で拡散して冷えた空気を外套の内部で循環させている……ようですね」

「……ちらっと見ただけでわかるのかあ……」

 

 看破されたのがショックなのか、ジェイドの考察を聞いてスィンは頭を抱えている。

 

「構成自体はそこまで複雑なものではありませんから」

「複雑じゃないって大佐、この刺繍ものすんごく難しい奴ですよ……!」

 

 どれどれ、とジェイドと同じように外套の内側を見るアニスは戦慄していた。

 

「ええ、見事なものですし、面白い発想です。響律符(キャパシティコア)のように特許が取れるのでは?」

「特許申請なら却下されちゃいましたよ。こんなもん広がったら、音機関や譜業の価値が下がるんですって」

「音機関や譜業の価値?」

「全然関係ないように思えますけれど」

「金属や鉱物を用いず、布や糸で似たようなことされたら困る、だったかな? まあこの話の面白いところは、僕の申請が却下された後、特許局のすぐ近くにでっかい手芸工場が建築された辺りからですが」

「手芸工場って、まさか」

「調べたところ、局長の息子が僕が持ち込んだ試作品をお手本に似たようなもの、作ろうとしていたみたいですよ。大量のお針子を雇って。刺繍だけで再現できるわけないのにね」

「えっ」

 

 話を聞きながら、刺繍の絵柄をメモしていたアニスの手が止まる。

 

「縫うだけじゃダメなの?」

「アニス……まさか」

「それだけでいいなら、僕より早く誰かが見つけてるよ。もちろん成功するわけないから、すぐに潰れてた。借金取りに追い回されて、雇ったお針子には給料払えって袋叩きにされて、あの時は本っ当に面白かったなあ」

「スィン……すごく悪い顔になってるぞ」

 

 勝手に真似をされた怒りなどは一切なく、スィンは邪気しかない笑みを浮かべて思い出し笑いをしている。ガイにそれを指摘され、「失礼しました」と収めたかと思うと、急に真顔になってジェイドへ尋ねていた。

 

「ちなみに大佐、原理はわかりますか?」

「この状態では……見た感じ、刺繍だけで全行程まかなっているように見えますね。動力源は第六音素(シックスフォニム)ですし。解体すれば、何かあるのではと思いますが」

 

 それを聞いて。スィンは明らかにほっとしたような顔になった。それが示すところは。

 

「ハズレのようですね」

「大佐には真似っこされないことがわかってほっとしています」

 

 件の局長息子も同じことを考えて、スィンが持ちこんだ試作品を分解していた。しかし特別な仕掛けは何も見つからず、同じものを作ってもそれは何の効果も持たない布切れのままだったのだ。

 ジェイドの言葉は全て的を射ている。刺繍だけで全てを完了させているし、動力源も相違ない。布と糸の術処理に、縫い目の数、ステッチの使い分け、それからこれが一番重要なことだが、縫い針を砂状にした譜石で丹念に寝刃合わせしなければならない。それをしなければ込めた譜力があっという間に拡散してしまうのである。

 これら細かい条件の中で、お手本だけ見て真似られたのは、縫い目の数とステッチの使い分けくらいだろう。

 話を聞いて、実際に外套の涼しさに当てられて。ルークはある意味お約束の行動を取った。

 

「ず、ずっりぃ……! なあガイ、貸してくれよ」

「ルーク様が着ても効果は無いですよ。盗難防止付きですんで」

 

 試しにと、外套をルークが着てみるも。スィンの言葉通り、まったく涼しくない。

 ぐぬぬ、と歯噛みするルークが、外套をガイに返しながらスィンに食ってかかるより早く。

 

「だからルーク様はこっち」

 

 スィンは取り出した手拭いを広げ、ルークの頭に乗せていた。

 

「へ?」

「本当は麦わら帽子とか用立てようと思ったのですが、難しかったもので。こちらで我慢してくださいね」

 

 見れば手拭いにも、譜陣の刺繍が重なるようにいくつか描かれており。頭に乗せた瞬間から、そよそよと心地よい冷気を発している。

 

「こーゆーもんがあるなら早く渡せよな!」

「失礼しました」

 

 文句しかないルークに取り合う気はないらしい。そして用意したのはルークの分だけではないらしく、皆にも、と平等に手拭いを渡している。

 

「ありがとう」

「不思議だわ。ホントに涼しい……」

「……ガイのものと比べてかなり簡略化されてますね。外套のように空気の循環を必要としないから、その分でしょうか」

「それは文句ですか? ご不満がお有りでしたら、ご返却いただきたいものです!」

「いえいえそんな滅相もない。ありがたく使わせていただきます」

 

 表裏余さず、手拭いを検分している——オアシスでこともあり、何か余計なものが仕込まれていないかと調べるジェイドを放って、最後にミュウの頭に刺繍入りのハンカチを乗せ、移動を始める。

 スィンの先導で砂漠を横断していた彼らではあったが、ふとガイの一言が波乱を呼んだ。

 

「にしても、すごい砂埃だな。後で服を脱いだら、きっと砂の山が作れるぞ。あちこちに入り込んでやがる」

 

 各人、服のつくりにもよるだろうが、風が吹くたび舞い上がる砂に辟易するその声に、ティアが賛同した。

 

「確かにそうね。さすがに私も水浴びしたい気分だわ」

「水浴び……」

 

 ルークの呟きに、ナタリアが過剰反応した。

 

「ルーク! 何鼻の下を伸ばしているのです!」

「な、な、なんだよっ! 何もしてないだろ!」

 

 スィンの眼から見てもそれはなかったが、言いよどんでいるあたり想像しかけだったのかもしれない。

 

「ルーク様! えっちなこと考えてる暇があったら早くイオン様を助けて下さいよぅ」

「き、決めつけるな! いつ誰が何を想像したってんだ! 勝手なこと言うなっつーの!」

 

 彼が言っているのはまったくもって正論だったのだが、興奮状態にある彼女らに──女性には通用しなかった。

 

「不潔ですわ! あなたがこんな方だったなんて!」

「ひどーいひどーい!」

「あーもーうるせーっつーの!」

 

 そのまま、スィンを除いた女性陣とルークは離れていってしまったが、ジェイドは面白そうにセシル兄妹を見ている。

 スィンはガイを見て半眼になっていた。

 

「ガイ兄様」

「ん、なん……っ!?」

 

 いきなり何かを放られて、ガイは反射的にそれを受け取った。次の瞬間、悲鳴を上げて飛び退る。

 

「うおわっ!?」

 

 投げ捨てたそれが地面を転がった。それを見て、ジェイドが軽く苦笑いを浮かべる。

 スィンがガイに放り投げたもの。それは小さな蠍の子供だった。

 オアシスに多く見受けられた無毒な種類なのだろうが、普通こんなものを兄貴に渡す妹はいない。

 

「な、な、な、何すんだよお前はっ!」

「お兄様も男ですからしょうがないですね、と言いたいところですが、それはアウトです」

「どういうことなんだよ……」

「大佐にお聞きしたらいかがです?」

 

 ツン、と横を向いてルークたちを追うスィンを、ガイは困惑したように見送っていた。

 

「……ガイ。スィンとルークに救われましたね」

「どこが! つーか、何がだよ」

「口。よだれ。スィンがばらしていたら袋叩きですよ」

 

 その言葉にあわてて口をぬぐうガイを横目に、ジェイドはスィンからの警告を反芻していた。

 

『命が惜しいなら、気を許さないほうがいいですよ』

 

(兄同様、何を隠しているのやら……)

 

 先を行く彼女の背中を見、未だに水浴びをめぐってぎゃあぎゃあ言い争う彼らを見、ジェイドはふっ、と息を零した。

 

 

 

 

 

 



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第二十五唱——砂に沈みし遺跡での再会

 

 

 

 

 

 その後、魔物に混じって旅人狙いの盗賊に幾度か襲われたものの、一行は何の問題もなく遺跡に到達した。

 

「──みつけた」

 

 突然スィンがそう言って走り出した。

 走りにくいはずの砂の丘を難なく駆け上がっていくその姿を追い、一行は現れた廃墟郡を突っ切っていく。

 一際大きな、ところどころ崩れかけた建物のようなところの入り口に立ち、スィンは中をのぞいていた。

 

「この中か……」

「中は暗そうですわね……」

 

 ナタリアの不安そうな声を受けて、ミュウが短い手で挙手した。

 

「ミュウが火を吹くですの」

「ずっと吹き続けるのか? 無理無理」

 

 が、ルークのもっともな意見で却下されてしまった。鼻であしらわれた、といったほうが正しいかもしれない。

 

「風があるせいか、周囲に陸艦の痕跡が残っていませんね」

 

 周囲を見回ってきたらしいジェイドが、入り口で外套を脱いでいる。それに倣いながら、ティアが呟いた。

 

「立ち去った後か、それともまだ居るのか……」

「とにかくイオン様の手がかりがあるかもなんだから行きましょうっ!」

 

 元気よく、それでいてわずかにあせったようなアニスが、外套を荷袋に押し込みながら続ける。

 外套を外したスィンが虚空に手を差し伸べた。差し伸べた先は、崩れてわずかに日が差している。

 

「……レム、欠片を頂戴」

 

 そんな呟きが洩れた後、差し伸べた手のひらに輝きが収束し、煌々と輝きを放つ光球が出来上がった。

 ふわ、と空中を漂い、一行の行く先を照らしている。

 

第六音素(シックスフォニム)の塊……ですか」

「はい。松明と違って、これならすぐにでも消せるので」

 

 一度来た場所ではあるものの、やはり数年立っているせいか、そこかしこでの損傷が目立った。

 ゆっくりと、注意深く螺旋階段を下りていく彼女の後ろを一行が続く。

 螺旋階段を降りきった先には、同じような通路が続いている。そこから先は完全な地下世界となっていた。

 恐れる様子など微塵にも感じられない足取りでスィンはすたすた進んでいたが、ふとその足が止まる。

 

「どうしたの?」

「あそこ……」

 

 スィンの指す先に、自ら光を放つ結晶のようなものが宙を浮いていた。

 一行が近寄ってみても、それがなんなのか、とりあえずルークには判別できない。

 

「ん? なんだこりゃ」

「ルーク! うかつに近づいては危険よ」

 

 ティアが警告を放つも、ナタリアは同意見ではないらしい。

 

「でも、綺麗ですわ。危険そうなものには見えませんわよ」

 

 自然界の中にはそうやって相手を油断させるものが数多く存在するのだが。確かにそれはそう信じたくなる幻想的な輝きを放っている。

 

「おや、これは……」

 

 ジェイドが正体を推測する前に、ミュウはぴょんぴょん跳ねながらその結晶へ近づいた。

 

音素(フォニム)ですの! 第二音素(セカンドフォニム)ですの!」

 

 そのまま宙を浮く結晶に自分の体を──というかソーサラーリングをかざしている。

 

「え? なんで音素(フォニム)が目視できるの?」

「それだけ濃度が高いのでしょうね。恐らくここはフォンスロットにあたるのでしょう」

 

 アニスの質問に、ジェイドが答え、ルークの質問にはティアが答えた。

 

音素(フォニム)っていまいちよくわかんねぇんだよな……」

「全ての生命体や構造物は、固有の振動とそれに伴う音を発しているわ。それらは六つの音素(フォニム)に大別され、振動と結合の細かな差によって個という存在が確立しているの」

 

 ティアによる説明を、ルークは黙して聞いていたが、理解しているかどうかは怪しい。

 

「つまり、物質を構成する元素の一つってことさ。おまえも音素(フォニム)と元素でできてるんだよ」

「こんな風に目に見えるほど、一つの音素(フォニム)だけが結合しているのは珍しいのよ」

 

 と、話が一段落したところで、ナタリアがミュウに眼を向けた。

 

「ところでミュウ。あなたは何をしていますの?」

「ソーサラーリングに音素(フォニム)を染み込ませてるですの! 族長が言ってたですの! 音素(フォニム)を染み込ませると、リングが強力になるですの!」

「ふーん。強力にねえ……」

 

 あまりアテにしていなさそうな表情でルークが呟く。

 

「で、実際どんな感じ?」

「みゅうううぅぅ。力がみなぎってくる!」

 

 珍しく興奮したようなミュウに全員が眼を見張ったものの、すぐに萎えた。

 なぜなら。

 

「……ような、そうでないような感じですの」

「なんだそりゃ。くだらねぇ……」

 

 しかし次の瞬間、ミュウの様子が一変した。

 

「みゅみゅみゅみゅみゅうぅぅ! 力が……みなぎるですのー!!」

 

 内から湧き上がる気持ちの高揚を抑えられず、ミュウはぴょこぴょこ飛んで瓦礫の前へ立つと、体を丸めて結構な勢いで体当たりした。

 結果、あんなにやわらかい体のチーグルがどうやって、と思いたくなるような破壊力で瓦礫が砕ける。

 

「すごいですの! 何でも壊せそうですの!」

「ソーサラーリングが強力になったということで、装備者のミュウが新たな力を得たということかしら?」

 

 ティアの考察を受けて、スィンは膝をついてミュウを呼んだ。

 

「ミュウ。ソーサラーリング見せてくれる?」

「はいですの」

 

 お腹に装着されたソーサラーリングの表面を指で触れ、軽く感嘆した。

 

「……へー」

「どうした?」

 

 ガイの質問で振り仰いだスィンは、ジェイドの姿がないことを気づいた。

 

「結晶体となった音素(フォニム)がリングを削ったらしくて、文字が刻まれています」

「文字? なんて刻まれてるんだ?」

「譜ではないかと。これが新たな力となっているようです」

 

 ちら、と視線を流せば、スィンの隣でソーサラーリングを興味深そうに眺めているジェイドの姿があった。

 じりじり、と膝をついたまま間合いを開ければ、じゃりじゃりと砂礫の音がついてくる。

 

「そのリング、前からなんか書いてあったよな?」

「多分それは、今までミュウが使っていた第五音素(フィフスフォニム)の力よ。今回、新たに譜が刻まれたことで新しい譜術を得たのね」

「新しい力ですのー!!」

「うぜーっつーの、このブタザル!」

 

 大喜びするミュウをルークは怒鳴りつけたが、今回ばかりはミュウも気にしていなかった。

 

「このリングを見ると、もう一つくらい譜が刻めそうですね」

 

 スィンが離れたことに気づいてか否か、ジェイドは継続してミュウのソーサラーリングを観察している。

 

「へぇ~。じゃ、また音素(フォニム)が集まるところを見つけたら試してみるしか!」

「ボク、がんばってもっともっとお役に立つですの!」

 

 そんな場所は本当に希少だろうな、と考えながら、スィンはジェイドが離れたことを確認して再度ミュウのソーサラーリングに触れた。

 小さな小さな文字が指の表面を伝わってその意味を語ってくる。

 ひどく懐かしい気分に襲われた。

 

「……約に従い、イフリート……ら、ここに……」

「スィン?」

 

 ナタリアの声を聞き、びくっ、と体を震わせて、スィンが一気に覚醒する。

 

「な、何ですか?」

「どうかしましたの? いきなり何かを呟き始めて……」

「いや別に何にも。あ、そうだ。ここ思ってたよりも長年の風化による損傷が激しいようです。いきなり足場が崩れたり、いきなり瓦礫が降ってきたり、ということも十分ありえますのでお気をつけくださいませ!」

 

 普段聞いたこともないような早口でまくしたてられ、ナタリアが困惑している間にスィンは元来た道を辿って本来のルートを示した。

 

「その先は行き止まりです。何にもないようなところだから、イオン様はおそらくいないと考えられます」

 

 だからこっちです、ひらひらと手招くスィンに、一行は首を傾げながらも従っている。

 

「ここの一番奥には何かあるんですか?」

「……さっきご自分でおっしゃられたではありませんか。ここはフォンスロットに当たるのだろう、って」

 

 すでに教団から脱退しているとはいえ、ずばりそのものを言うことは控えたスィンを見て、ジェイドはふむ、と頷いた。

 同時にスィンの肩に腕を回し、自分の方へ抱き込む。

 意外なことに、彼女は抵抗しなかった。

 

「大佐! スィン!」

 

 直後、がらがらと音を立てて崩れてきた都市上部の瓦礫が、二人の立っていた場所へ降り注いだ。

 もうもうと砂埃が舞う中、小さな人影がそれよりも大きな人影を突き飛ばして逃げるように離れていく。

 やがて塵芥による目隠しが消えたとき、二人はお互い妙に離れた位置で対峙していた。スィンは口をへの字に曲げ、ジェイドは本当にわずかな笑みを唇に刻んでいる。

 

「……一応お礼は言っておきます」

 

 ムスッとした彼女の言葉に、ジェイドはやれやれといった感じで肩をすくめた。

 

「つれない人ですねえ」

「紳士的なのは結構なことですが、僕以外の人にやってあげてください!」

 

 せっかく慣れかけてきたのに、と自分の腕を抱くようにして抗議するスィンから眼を外して、ジェイドは何の前触れもなく落下してきた瓦礫を見やる。

 

「確かに風化が進んでいますね」

 

 瓦礫の量はそれなりに大量で、どかすにはひどい手間がかかると思われた。別のルートはあるかどうかもわからない。

 

「……んだよ、邪魔な岩だな! おいブタザル。さっきの奴で岩を壊せ」

「はいですの!」

 

 時間短縮か、手間かけさせんなという思いか、とにかく主人からの命に従い。ミュウは小さな体をぐるりんっと巻いて瓦礫の山に体当たりした。

 先ほど披露した力とたがわず、ミュウの体が勢いを伴って邪魔な岩を砕き弾く。その威力に、アニスが思わずのけぞって驚いていた。

 

「はうあっ!? すごっ!?」

 

 ナタリアはといえば、そのあまりの威力に使用者の負担を気にかけている。

 

「なんだか、可哀相ですわ。ミュウ、痛くはなくて?」

「譜術なんだろ? 大丈夫だって」

 

 フォローするように言ったルークではあったが、彼女はじろりと婚約者を見た。

 

「ルーク。わたくしはミュウに聞いておりますのよ」

「平気ですの! 心配してくれてありがとうですの! ナタリアさんは優しいですの!」

 

 無邪気そのもの、というイオンと似通ったミュウを微笑ましく見ながら、ティアもちくりとルークに皮肉を告げる。

 

「本当ね。少しは見習ったら?」

「……るせぇなあ」

 

 機嫌を損ねたか、ルークは瓦礫をかきわけて一人でずんずん先を進んでしまった。

 ちなみにその先には、ジェイドから逃げたことによって一行から分断されてしまったスィンがいる。

 

「おい! 早く来いよ!」

 

 一行を促す彼を見て、ジェイドが含み笑いを洩らした。

 

「こういうところは似てますねえ」

「誰にですか?」

「ナタリアに……だろ?」

 

 ガイの言葉に、ナタリアは頬を膨らませている。

 

「まぁっ! 失礼ですわ!」

 

 そのままスタスタとスィンとルークに合流してから、彼女は振りかぶって一行を呼んだ。

 

「ほら! 早く行きますわよ!」

 

 意識していないのか、先ほどのルークとまったく同じ行動になっている。それに思わず笑みをこぼしながらも、一行は地下都市を攻略していった。

 瓦礫が降ってくることも、通路が崩れることも多々あったものの、これといった障害もなく着々と深奥まで進んでいく。

 

「この辺りの廃墟は、オアシスに点在していたものに酷似していますね」

「二千年前までは、あそこもこの都市の一部だったらしいからね」

 

 ジェイドに向けられたと思われるティアの質問を、スィンが勝手に答えた。

 六神将がイオンをここへ連れてきた理由はいいとして、どうして一行をここへ呼び出したのか、ディストによるルーク・アッシュ間の回線開通──チャネリングはヴァンの提案だったのか否か、ジェイドはどこまで事実関係を把握しているのか。

 そんなことを延々と考えているうちに、思わず口に出てしまったのである。

 

「都市? では、昔はこんな地下空間にも人が住んでいたということですの?」

「ここが地下になったのは、ここら一帯が戦争による天変地異で砂漠化して、長い年月をかけて砂の中に埋もれていったからですよ」

「天変地異ねえ……」

 

 ルークはあまり興味なさそうに足を進めていたが、ふと気になってスィンの背中を見た。

 

「砂漠化したんなら、なんでオアシスになんてなってるんだよ」

「あそこにあった水源から巨大な譜石が突き刺さっていました。あれが落下した衝撃で地下水脈を刺激したのではないかと」

「そういえば、一杯百ガルドで販売してたっけな」

 

 水筒の中身を補充しようとしてぼったくられそうになった、とガイが零した。

 

「寄付金ってことになってますけどね。二人やイオン様には悪いと思うけど、ローレライ教団ってセコいと思うよ」

 

 ひょい、と振り返って神託の盾(オラクル)に所属する二人を見ても、特に怒っている様子は見受けられない。アニスなどは賛同すらしていた。

 

「んー、確かにそうかもね~。貿易なんかでもダアトを通すと、ばっちり関税とっちゃうし。でも、寄付だけじゃあダアトは成り立たないから」

「そういえば、ザオ遺跡にはどんな由来がありますの?」

 

 ナタリアの質問を受けて、スィンは軽く首を傾げてジェイドを見る。

 

「どういう由来があるんです?」

「さあ、歴史全般は専門外ですので。スィンは知らないのですか?」

「調べようとしたら、その文献は偉い人でないと見られない、と司書の人に言われてしまいまして」

 

 二人とも知らない、という事実に、ルークはへっ、と軽く笑った。

 

「ジェイドでも知らないことはあるんだな」

「ルーク様。生き字引じゃないんだから、そりゃあいくらでもあると思いますよ」

「……まあ、私も若輩者ですから、スィンの言う通り知らないことのほうが多いと思いますよ」

「若輩者かあ……大佐、もう三十越えてますよね?」

 

 スィンの突っ込みを軽く流したジェイドに、彼と親子ほども離れているアニスが呆れている。

 

「はい。ですが、人間性に磨きをかけ、円熟味が出るのは……そう、早くて四十以降でしょうか。よい歳の取り方をして、名のある遺跡のように風格が出れば、と思っていますよ」

 

 もう十分独特の風格が現れている気がしたが、彼ともっとも付き合いの浅いナタリアは感心したように言う。

 

「まあ、よい心がけですわ」

「ま、そのためには若い者をいびり倒そうかと」

 

 どうやら彼のイヤミスイッチは、ここのあたりから起因しているらしい。

 

「……呆れた心がけですわ」

「さっきは自分を若輩者とか言ってたくせに……」

 

 ナタリアの一言は聞き流したものの、スィンの一言には目くじらを立てたようである。

 

「はっはっは。それでは、スィンの異性恐怖症を治すために私も一肌脱ぎましょうかー」

 

 なんの脈絡もなく頭を撫でられそうになり、スィンはバックステップでそれを避けた。

 

「大佐。セクハラで訴えますよ」

「頭を撫でようとしただけではありませんか」

 

 抜刀の体勢になってじりじりと間合いを計るスィンを、ガイの声が制止する。

 

「その辺にしとけって。目的がここみたいに風化しかかってるぞ」

「……失礼しました」

 

 鯉口を切っていた緋色の長刀──血桜を収めて、再び先頭を歩いた。今のやりとりで思わず浮かんだ汗をぬぐい、今も沈みゆく都市を歩く。

 何度も上ったり下がったりを繰り返しつつ、やがて一行は大幅に婉曲した通路に差しかかった。

 

「この先に神殿があります。神殿の入り口には封印が施されてるはずだから、そこが最奥だと考えてよろしいかと」

 

 暗にイオンたちの所在をほのめかされ、一行の緊張感は見る間に張り詰めていった。

 自然と前衛メンバーが前に立ち、着実に神殿へ近づいていく。

 やがて、確かに神殿のような建物が見え始め、その入り口にイオンと、その白い法衣とは真逆の、漆黒の外套をまとう血の色のような髪を背中に流した男が立っていた。

 誰からともなく走り出し、全員がそれに続く。と、その行く手を阻む影が現れた。

 

「導師イオンは儀式の真っ最中だ。おとなしくしていてもらおう」

 

 巨漢の影の正体は、タルタロス襲撃時と同じ巨大な大鎌を肩にかけたラルゴだった。

 

「六神将……!」

「なんです、おまえたちは! 仕えるべき方を拐わしておきながら、ふてぶてしい!」

「シンク! ラルゴ! イオン様を返してっ!」

 

 ティアは誰何の声を上げ、ナタリアは彼らに対し臆することなく叱責を上げ、アニスは拳を握りしめてどこかで聞いたような台詞を口にしている。

 が、シンクは最後の一言だけに反応し、わずかに首を振った。

 

「そうはいかない。奴にはまだ働いてもらう」

「なら力ずくでも……」

 

 こいつら相手に説得は不可、と学習したか、ルークは血気盛んにも腰の剣に手をかける。

 その彼に、ラルゴは嘲笑すら浮かべて揶揄を放った。

 

「こいつは面白い。タルタロスでのへっぴり腰からどう成長したのか、見せてもらおうか」

「はん……ジェイドに負けて死にかけた奴が、でかい口叩くな」

 

 当時の記憶──そのラルゴに恐怖した自分を棚に上げて、ルークは応戦している。

 

「わははははっ、違いない! だが今回はそう簡単には負けぬぞ、小僧……」

 

 豪胆にもそれを笑い飛ばしながら、ラルゴは肩に負っていた大鎌を振り上げた。

 

「六神将烈風のシンク。……本気で行くよ」

「同じく黒獅子ラルゴ。いざ、尋常に勝……!」

 

 二人が名乗りを上げている間に、姿勢を低くしたスィンは抜く手も見せずに二人へ接近している。

 問答無用で斬りつけるかと思いきや、二人の間を素通りして神殿への入り口へ駆けた。

 

「スィン! そちらは任せましたよ!」

「はい!」

 

 アッシュに加勢をさせまいとするスィンの意図に気づいたジェイドが、声を張り上げ術の詠唱に入る。

 スィンに気を取られ、ラルゴもシンクも一行から眼を離していた。これは最大の好機である。

 

「ちっ……」

 

 ジェイドが放ったロックブレイクを軽やかに避け、シンクは忌々しそうにスィンの背中を睨んだ。その彼女は、アッシュと刃を交えて睨み合っている。

 

「イオン様! ご無事ですか?」

「え……あ、はい。大丈夫です」

 

 アッシュの肩越しに息災かを問われ、イオンは目を白黒させながらもこくん、と頷いた。

 その割には顔色が悪いようにも見える。スィンが知る限り、彼らがイオンに何をさせた、あるいは何をさせようとしたのかは、はっきりしていたが──

 

「余裕かましてんじゃねえっ!」

 

 はっきりとした苛立ちをあらわとし、鮮血のアッシュが剣を繰り出してきた。まともに合わせず大半を受け流しながら、ちらちらとイオンと見る。

 彼ははらはらしながら、主にルークたちの戦う戦場を見ていた。

 多人数であるために、あちらのほうが派手で、更にアニスも戦っているからであろう。

 今なら──

 

「っ!」

 

 緋色と漆黒の刃を噛み合わせたまま、押す力に逆らわずしてあらぬ方向へ持っていった。

 バランスを崩した直後、袖に何かを差し込まれ、戸惑っているアッシュから大きく間合いを取る。

 差し込まれたもの、棒手裏剣にアッシュが眼を落としたとき、戦況が大きく変化した。

 

「きゃあっ!」

 

 眼をやれば、いつの間にか接近を許していたナタリアにラルゴが大鎌を振りかぶっている。

 スィンは巨漢の背中へ駆け寄りながら、聞こえよがしに叫んだ。

 

「ナタリア様っ!」

 

 びくっ、とラルゴの挙動が一瞬鈍る。その隙をついて後ろから膝を蹴ってバランスを崩させ、大上段から肩口へ刃を叩きつけた。

 

「ぐっ……!」

 

 血に濡れた血桜をそのままに、ナタリアを伴って後ろへ下がる。援護に来たアニスにラルゴの相手を任せてもう一方を見て、スィンはぎょっとした。

 ガイがルークに斬りかかっている。

 シンクに当てようとして逃げられ、その先にルークがいたのか、本当にルークを狙ったのかはわからなかったが、止めるしかなかった。

 耐えるルークを真横へ突き飛ばす。無表情でルークを追うガイの目を見て、前者だと判断した。

 ガイの手に対して抱きつくようにすれば、彼ははっと正気に返り、目の前のスィンを見て大仰に飛び退る。

 それを最後まで確認することなくシンクに目をやれば、彼は前線へ出てきたジェイドと接近戦をこなしていた。

 

「このっ!」

 

 血桜を水平に構えて突進すれば、シンクはジェイドから逃れて、向かってきたスィンに片手を突き出した。

 わずかにのぞいた唇がいやに歪んでいる。

 それに気づいたとき、スィンは自分の左手が勝手に動いたことに気づいた。

 

「……った、大佐、逃げて!」

 

 剣帯にはさんでおいた譜銃が制御の利かない左手によって奪われ、引き金に指がかかる。

 慣れない動作のはずなのに、左手はなめらかに動き、銃口が、照準がジェイドに合わせられた。

 引き金が容赦なく引かれる。

 引かれた直後にスィンは自分の手首を殴って譜銃を自力で落とさせた。

 暴走した左手をしっかりと捕まえ、ジェイドの視線から逃げるようにシンクへ眼をやれば、彼は──否、六神将の二人はそれぞれ負傷した場所を押さえて地面に膝をついている。

 

「……くっ……」

「ぬぅっ……!」

 

 へたり込む二人を見て、アッシュは持っていた棒手裏剣を懐へねじ込んだ。

 

「二人がかりで何やってんだ、屑!」

 

 イオンを扉の前に残し、アッシュは黒剣を手に駆けた。皆の見ている前でルークが応戦する。

 その姿に、初めて邂逅を果たしたときの戸惑いはない。ただ──

 

「今のは……今のは、ヴァン師匠(せんせい)の技だ!」

 

 そう。二人の剣戟はさながら鏡を合わせたように同じ動きで、更に埒があかないと繰り出されたのは、同じ師から伝授された同じ技であった。

 

「どうしてそれをおまえが使えるんだ!」

 

 同じ顔、その上同じ技まで使われて心底混乱しているルークに、アッシュは音高く舌を打っている。

 察しの悪いルークに腹を立てるように。

 

「決まってるだろうが! 同じ流派だからだよ、ボケがっ! 俺は……!」

「アッシュ! やめろ!」

 

 さすがにその先はまずいと、シンクは頭に血が上っているアッシュを落ち着かせるように、その肩を掴んだ。

 

「ほっとくとアンタはやりすぎる。剣を収めてよ。さあ!」

 

 しぶしぶアッシュが応じたのを見て取って、彼は警戒を崩していない一行の前へ立った。

 

「取り引きだ。こちらは導師を引き渡す。その代わり、ここでの戦いは打ち切りたい」

「このままおまえらをぶっ潰せば、そんな取り引き成り立たないな」

 

 当然のようにガイが却下を促したが、まったく調子を変えずに寄越された一言に、全員が息を呑む。

 

「ここが砂漠の下だってこと、忘れないでよね。アンタたちを生き埋めにすることもできるんだよ」

「むろんこちらも巻き添えとなるが、我々はそれで問題ない」

 

 本気なのかはったりなのか、彼らの表情からそれを読むことはできなかった。

 唯一感情を表に出しているアッシュを見ても、しかめ面は揺るぎもしていない。

 

「ルーク。取り引きに応じましょう。今は早くイオン様を奪還して、アクゼリュスへ急いだほうがいいわ」

「陸路を進んでいる分、遅れていますからね」

「……わかった」

 

 ティアとジェイドの助言に、ルークはいぶかしげにアッシュを見据えたまま下がった。一方で、イオンがラルゴに促され、こちらへ歩いてくる。

 

「イオン様! 心配しました……」

「……迷惑をかけてしまいましたね」

 

 弱々しく微笑むイオンに、アニスはとんでもないとばかりにぶんぶんと首を振った。

 その空気をぶち壊すような声が飛び込んでくる。

 

「そのまま先に外へ出ろ」

 

 切り札はこちらが握っている、と言わんばかりにシンクは命令した。

 

「もしも引き返してきたら、そのときは本当に、生き埋めにするよ」

 

 底冷えのする声に本気を感じながら、譜銃を拾ったスィンは軽く咳をしながら一行の後に続く。

 神殿前を過ぎ、通路に差しかかると、スィンが咽喉になにかつまったのかと思うくらい激しく咳き込んだ。

 まるで肺炎でも患っているかのように、音がこれ以上ないほど濁りきっている。

 あまりにひどい咳を聞いて、ルークはげげ、と距離を取った。

 

「きったねーな! 咳するならあっち向いてしろよ!」

 

 その言葉を受け、彼女は無言でそっぽを向いた。咳はまだ止まらず、会話が不可能なためである。

 しかし、この暴言に仲間たちが反発した。

 

「ルーク……あなたは本当に思慮が足りませんねえ」

「同感ですわ! よりにもよって、なんてことを仰るの!」

 

 大事ありませんか? とナタリアがスィンの背中をさすると、彼女はやんわりそれをやめさせた。

 しかし依然咳は止まらず、ぜいぜいと苦しげに呼吸している。

 

「スィン」

 

 見かねてガイが彼女へ近寄ると、スィンは苦しい呼吸の中、聞き慣れた者でないとよくわからない言葉を発した。

 

「スィン、なんだって?」

「先に行っててくれ、だとさ」

 

 この状況下において危険極まりない発言に、ティアは眉をひそませた。

 

「何を言っているの! 何なら私が背負うわ。置いていくなんて……」

「……少し休めば治まるから。これからあんな螺旋階段登らなきゃいけないのに、女の子に荷物背負わせるわけにはいかないよ」

 

 咳を押さえ込んだスィンがひどく冷静な意見を述べた。

 

「ならここで休憩したほうが……」

「六神将がこっちを睨んでる。あんまり刺激しないほうがいいよ。前に調査しに来たとき、入り口へ戻れる抜け道も知ってるし……」

 

 それに、とルークを見やる。

 

「ヴァン謡将に、早く追いつきたいでしょう?」

 

 わずかに含まれた揶揄に対し、ルークは当たり前だがカチン、ときた様子でスィンに背を向けた。

 

「そこまでわかってんなら上等だ。もう行こうぜ!」

 

 振り返りもせず早足で歩き去るルークの背中を見送って、スィンは残りの面々にも続くよう促した。

 大丈夫ですから、と念を押す。ルークが行ってしまったこともあり、彼らはしぶしぶ承諾した。

 

「いいですか? 何かされそうになったら、大声を上げるのですよ?」

 

 去り際、そう残してちらちら振り返る皆を見送ってから、スィンは膝をついて大きく深呼吸した。

 再び咳がこみ上げる。

 こらえるのをやめて盛大に咳き込めば、覆ったてのひらにぬるぬるした何かが付着した。痰なのか他のものなのか、確認もしないで地面の砂になすりつける。

 正体を見て、嫌な予想が当たっていたら、彼らを追う気力が萎えてしまうだろう。それが怖かった。

 壁にもたれて六神将の様子をうかがえば、彼らはスィンを用心深く監視しながらこれからの動向を話し合っていた。

 

「どうする? 追い払うか?」

「ほうっておけ。どうせ動けんだろう、ついてきたら殺せばいいだけだ」

「しかし……」

 

 アッシュとラルゴの言い合いが続く中、スィンに向かってひとつの足音が近づいてきた。

 

「シンク?」

「ちょうどいい。あいつには聞きたいことがあったんだ」

 

 ──シンクが来る。

 ずかずかと、無造作に間合いを詰めてくるシンクを前に、スィンは軽く唾を飲み込んで顔を上げた。

 無理をすれば動ける。とはいえ、今から走っても追いつかれるのが関の山。

 

「……カースロットなんか使えたんだ。前の導師は使い勝手が悪いから、って使おうともしなかったのに」

「やっぱり知ってたのか。あせっただろうねぇ、アンタにかけるつもりなんかさらさらなかったんだけど、面白いことがわかったからよしとするよ。それより……」

「そんなに知りたいなら、ダアトの加工譜石でも調べれば? 最も、それが出来ればの話だけど。レプリカには難しい……いや、つらいか」

「!」

 

 掴みかかってきたシンクをいなし、通路側に向かって大きく下がる。

 懐から取り出した手のひらに収まる黒玉を地面へ力いっぱい叩きつけた。

 途端、真っ白な煙が視界を覆い隠す。それが晴れた後、残っていたのは地面に残る赤い染みだけだった。

 

「ちっ……」

 

 捕まえ損ねた手を引いて、シンクは気を取り直したように神殿の扉へ歩いていく。

 一連の行動には触れず、その後を追うラルゴをみやり、アッシュは懐にねじ込んだ棒手裏剣を──くくりつけられていたくしゃくしゃの紙をちらりと見下ろした。

 

「その気があるなら、ルークたち一行をケセドニアに一晩足止めして。国境線上に立つ酒場の前にて。シア」

 

 見覚えのある懐かしい字で、手紙には走り書き程度の言葉が綴られていた。

 

 

 

 

 

 

 



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第二十六唱——食い違う歯車

 

 

 

 

 

 長い螺旋階段を登りきり、一番に外へ出たアニスは、ううーんと大きく伸びをした。

 

「ふー。やっぱり暑くても砂だらけでほこりっぽくても外の方がいいっ」

 

 全員が遺跡の外に出たところで、イオンが改めて全員に詫びる。

 

「皆さん。ご迷惑をおかけしました。僕が油断したばかりに……」

「そうですよ、イオン様! ホント大変だったんですから!」

 

 ルークにおかしなことを言われない前にと考えてか、本気でそう思っていたのか、アニスはそれほど責めているでもない口調でたしなめた。

 もともと彼女が眼を離したからこういったことになったような気がしないでもないが。

 

「ところで、イオン様。彼らはあなたに何をさせていたのです? ここもセフィロトなんですね?」

 

 再び外套を着込んだジェイドの質問に、彼は追及を逃れられないと判断してか、しばしの沈黙を経て頷いた。

 

「……はい。ローレライ教団ではセフィロトを護るためダアト式封咒という封印を施しています。これは歴代導師にしか解呪できないのですが、彼らはそれを開けるようにと……」

「なんでセフィロトを護ってるんだ?」

 

 ガイの問いに、イオンは軽くうなだれて回答を避ける。

 

「それは……ローレライ教団の最高機密です。でも封印を開いたところで、何もできないはずなのですが……」

「んー、何でもいいけどよ。とっとと街へいこうぜ。干からびちまうよ」

「ルーク! スィンを置いていくつもりですの!?」

 

 興味のないことに関してはまったく触れるつもりのないルークが先を促した途端、ナタリアが彼を責めるように言った。

 

「置いてけ、っつったのはあいつだろ? いきなりあんなトコにしゃがみこむほうが悪いんだっつーの」

『ルーク様つめたーい』

 

 珍しくアニスがルークを責める。

 んだと、と彼女を睨みかけると、当の本人は自分じゃない、とでも言うように口を押さえて首を振っていた。

 

『んもー、ルーク様ったら。暑いからってそんな冷たいこと言わないでくださいよぅ』

 

 そんな中でも、アニスの声がなぜか遺跡の中から聞こえてくる。

 と、ナタリアがふう、と息をついた。

 

「──スィン。悪戯はやめて出てらっしゃい。皆が、特にアニスが怖がっていますわ」

「はーい」

 

 間髪入れず返事が返ってきて、入り口の影の中から人が出てきた。

 陽光に煌く、ガイのものによく似た金の髪、この地域でものすごく暑そうに見える漆黒の衣装を涼しげに着こなしている──スィン。

 

「スィン様華麗にご帰還―ん」

 

 ばさっ、と外套を羽織って彼らの元に歩めば、一番にガイが出迎えてくれた。

 

「俺の台詞をパクるなよ!」

「すべての創造は、模倣から始まるものなんですよ」

 

 開口一番の苦情をにこやかに返して、お待たせいたしました、とルークに向かって一礼する。

 

「そ……そっかあ。スィン、声真似が得意なんだっけ」

「いやー、久々に聞きましたがやはり見事ですねえ」

 

 すっかり騙されました、という嘘くさい感想を言うジェイドにどーも、とおざなりな返事をしてから。

 

「では、参りましょうか」

「そうね。ケセドニアへ向かいましょう」

 

 ティアが同意し、ナタリアが賛成を呟き、ミュウも同じことを言ったのだが、例によってルークにけなされている。

 

「……ブタザルは黙ってろ。暑苦しい」

「みゅう……ごめんなさいですの」

 

 熱砂の上で己を縮こませながら、ミュウは謝罪を呟いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようやくケセドニアまできたな」

 

 イオンを加えての同行ではそれほど強行を望めなかったものの、一行はどうにか無事にケセドニアへたどり着いていた。

 

「ここから船でカイツールへ向かうのね?」

「マルクトの領事館へ行けば、船まで案内してもらえるはずです」

 

 ティアの質問を答えるように、ジェイドが頷く。と、急にルークが額を押さえて呻いた。

 

「また……か……!」

「ルーク! またか? 頻繁になってきたな……」

 

 一行の目が集中する中で、ルークは歯を食いしばっていたが、やがて小さく息を吐く。

 

「……大丈夫。治まってきた」

 

 その表情に嘘のようなものはないが、それでも今までの行軍を考えてか、ガイが提案した。

 

「いや、念のため少し休んだほうがいい」

「そしたら宿へ行こうよ。イオン様のこともどうするか考えないと……」

「……わかった」

 

 アニスの言い分もあり、ルークは今の頭痛を憂うように頷いた。

 砂漠からケセドニア入りしたこともあり、一行はキムラスカ側の宿へと向かう。

 宿の前にて、スィンは最後尾を歩いていたルークに異変が起こったことに気づいた。宿ではないほうに行きかけ、ぶつぶつ呟きながらどうにか宿へ行こうとするも、頭を押さえて立ち止まる。

 

「ルーク様、頭痛ですか?」

 

 他の面々が彼の異変に気づく頃、スィンはルークに歩み寄った。

 

「ご主人様! 大丈夫ですの?」

「ルーク、しっかりして」

 

 不意にルークがしゃがみこむ。後を追ってスィンがのぞきこむように体を近づけた際。

 ルークの手が、スィンの首を掴んだ。

 

「!」

 

 そのまま握りつぶさんばかりに力が込められる指を、斬り飛ばしたい衝動に駆られながら両手で抵抗していると、ルークの片腕がゆっくりと腰の剣を引き抜いた。

 

「ルーク! 何をしていますの!?」

「ち……ちが……う! 体が勝手に……! や、やめろっ!」

 

 苦悶の表情から彼の言葉を信じたいが、このままでは開きにされる。

 揺らいできた意識を保たせて首の手を片方残し、懐刀を取って口で鞘を払う。降ってきた一撃を耐えたと同時に、首に激痛が走り、意識が暗転した。

 狭まっていく視界の中、ルークもまた地面へ崩れ落ちている。

 

 

 

 

 

 

 スィンが次に目を覚ましたのは、見慣れない寝台の上だった。

 状況を思い出し勢いよく起き上がれば、ルークを除いた面々の視線が集中する。

 

「大丈夫か?」

「は、い……」

 

 咽喉にひりつく痛みを感じて顔をしかめた後、なぜかスィンはジェイドとばっちり目が合った。

 

「……起きて一番にこの顔って憂鬱「おはようございます♪」

 

 途中で言葉を遮られ、ぽい、と放り投げられたものを受け取れば、鞘に収まった漆黒の短刀が手の中にあった。

 どうも、と呟いて立とうとしたが、ぐらぐらと視界が揺れて直立ができない。結局寝台に腰かけた。

 痛む首がどうなっているのか手鏡で確認すると、くっきりと手形の痣が残っている。顔をしかめて包帯を取り出すと、ナタリアが処置を手伝ってくれた。

 

「……ルークの奴、どうなっちまったんだ?」

 

 スィンが起きたのを見て、ガイが誰ともなしに呟くも、それに答える者はいない。

 

「健康に難ありかぁ」

 

 その代わりといってはなんだが、アニスが取らぬ狸の皮算用を始めている。

 

「介護するくらいならぽっくり逝きそうなお金持ちの爺さんの方が……」

「何か言いまして? アニス」

 

 呟きをナタリアに聞きとがめられ、「……えへv なんでもないv」と急ににっこり笑ってごまかす。

 

「……大佐。ルークのこと、何か思い当たる節があるんじゃないですか」

 

 そんなやりとりとは裏腹に、以前から思わせぶりな態度を取っているジェイドへティアが詰問した。

 

「……そうですねぇ」

「アッシュという、あのルークにそっくりの男に関係あるのでは?」

 

 否定とも肯定ともつかないジェイドにナタリアが重ねて尋ねるも、彼は首を振っている。

 

「……今は言及を避けましょう」

「ジェイド! もったいぶるな」

 

 ルークに関することとあってガイも声を荒げるが、ジェイドに動揺する素振りはない。

 

「もったいぶってなどいませんよ。ルークのことはルークが一番に知るべきだと思っているだけです」

 

 と、ルークの顔を心配そうに見ていたミュウが声を上げた。

 

「ご主人様が眼を覚ましたですの」

 

 見れば、彼はむくりと起き上がって一同を見回している。

 

「……俺がどうしたって?」

「いえ、何でもありません。どうです? まだ誰かに操られている感じはありますか?」

 

 わずかに寝ぼけているようなルークに会話の内容は話さず、ジェイドはきわめて自然に話題を変えた。

 

「いや……今は別に……」

「多分、コーラル城でディストが何かしたのでしょう。あの馬鹿者を捕まえたら術を解かせます。それまで辛抱して下さい」

 

 スィンの視線に気づいていないのか気づかないフリをしているのか、ジェイドは確かにもっともらしいことをルークへ説明する。

 事情を知らない皆も、それで納得しているように見えた。

 

「……頼むぜ、全く。ところで、イオンのことはどうするんだ?」

「とりあえず六神将の目的がわからない以上、彼らにイオン様を奪われるのは避けたいわね」

 

 アスター氏に預けるのが得策ではないかと思われたが、スィンがその意見を口にする前に当の本人から希望が寄せられる。

 

「もしご迷惑でなければ、僕も連れて行ってもらえませんか?」

「イオン様! モース様が怒りますよぅ!」

 

 アニスはそう言って改めさせようとしたが、彼の意向には逆らえなかった。

 

「僕はピオニー陛下から親書を託されました。ですから、陛下にはアクゼリュスの救出についてもお伝えしたいと思います」

「よろしいのではないですか」

 

 相手が導師イオンだからか、話の筋が通っているからか。ジェイドは即座に賛成を示した。

 

「アクゼリュスでの活動が終わりましたら、私と首都へ向かいましょう」

 

 が、思い返したようにルークを見る。

 

「……ああっと、決めるのはルークでしたね」

「……勝手にしろ!」

 

 いつまでもしつこいジェイドに不機嫌な顔でルークは言いのけた。

 自分の身に起こるわけのわからない現象にも腹を立てている節はあるが。

 

「またしばらく、よろしくお願いします」

 

 現在の時刻が夕方だということ、倒れた二人の体調にイオンのことを考慮し、このまま宿に一泊することが決定した。

 話し合いの結果、同室になったナタリアに外出を告げて、スィンは外套を手に外へ出る。

 

 ──アッシュを、巻き込んでしまうことになるが。これも彼の選択であると、こじつけ気味に思い込んで。

 

 

 

 

 

 



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第二十七唱——砂漠の夜の月

 

 

 

 

 

 国境線上の豪邸の門前に立ち、彼女は深呼吸をして門番に話しかけた。

 

「……シア・ブリュンヒルドといいます。アスター氏にお目通り願いたい」

 

 言伝を頼み、待つことしばし。以前も訪れた客間に通された。

 アスターを前にして、少々ぎこちなく神託の盾(オラクル)騎士式の礼を取る。

 

「ご無沙汰しています」

 

 驚いたように、しかし再会を喜んでくれているアスターにホッとしながらも、彼女は本題を切り出した。

 

「私は今、キムラスカより派遣されたアクゼリュス救援隊に同行されたイオン様の護衛を勤めています」

 

 イオンの名を出したのは、果たしてアスターが以前の恩だけで自分に協力してくれるかどうかわからなかったためだ。

 それに、けして嘘ではない。

 

「アクゼリュスなのですが、現在は鉱山の奥より発生した瘴気に侵され、取り残された多くの人々は一刻も早い救助を望んでいます。両国から救助用にと陸艦が派遣されていますが、最終手段を用意しておきたい」

 

 そこで、とここぞとばかり、まくしたてた。

 

「あなたの敷地内をお借りし、転送の譜陣を描きたいのです。この譜陣が輝いたとき、アクゼリュスの住民がケセドニアへ避難できるように。図々しい話ではありますが、あなたに彼らの保護をお願いしたく、参りました」

 

 お願いします! と大仰に頭を下げる。

 それまで黙して彼女の話を聞いていたアスターだったが、やがて、頭をお上げください、と言い出した。

 

「……イオン様にも、あなた自身にも、我らケセドニアの住民は助けられています。受けたご恩を忘れはしません。承知いたしました、とイオン様にお伝えください」

「──ありがとうございます……!」

 

 やはりイオンのことを出したのは後押しという意味で大きかった。頭を下げて、必死で緩みそうになる顔の筋肉に叱咤する。

 譜陣を描くため『彼の敷地内でそれなりに広い場所』という条件に当てはまった中庭へ案内された。

 事前に購入しておいた杖で巨大な譜陣を描き、中心地にその杖を突きたてて譜陣の補強を施してから、その様子を見ていたアスターと向かい直る。

 

「なるべく使わないことを祈りたいのですが、預言(スコア)に読まれている未来はそれを許してくれそうにありません。この譜陣が輝いたとき、アクゼリュスの人々をお願いします」

 

 驚愕に表情を彩られた彼に一礼し、素早く屋敷を後にした。

 やれ忙しい。次は酒場の前だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。キムラスカとマルクトの国境線を中心に立つ酒場の前で、アッシュはまんじりともせず立っていた。

 ときおり酔っ払いに絡まれ、商売女に声をかけられるも、適当に追い払う。

 と──国境線上で仁王立ちしている彼に、ふらふらと近寄ってくる者がいた。

 フードつきのマントで顔と格好を隠し、頼りない足取りで、しかし目標を持ってアッシュに向かってくる。

 

「おい、お前──」

 

 格好からして物乞いか何か、と考えたアッシュがさっさと追っ払おうとした矢先。不意に上がった顔を見て、彼は絶句した。

 緋色と、藍色の瞳。

 眼から下を布で覆っていた怪しい人物は、暗い中でも酒場から洩れてくる明かりでその色を宿していたからだ。

 アッシュが固まったのを見るや、彼女はわずかに体の向きを変えた。

 何を思ったのか、すたすたと彼の目の前を通過していく。その足取りたるや、まるで別人のようだ。

 

「──ちっ」

 

 何を言っても無駄だと悟ったアッシュが、歩み去る彼女を追う。

 気配で感じ取っているからなのか、アッシュが来ることを確信しているのか、とにかく振り返ろうとしない。

 そうこうしているうちに港へたどり着き、その人物はやっと足を止めた。

 ふわり、と唐突にマントを脱ぐ。

 ──色が抜け落ちたような、あえて例えるなら雪色を宿した髪に、端正な面立ち。

 色違いの瞳を有する女は月を背にする形で、アッシュに向き直った。

 ぼんやりと月光に照らされる漆黒の特徴的な装束に見覚えがあるものの、それをはっきり思い出すよりも早く。

 

「こんばんは、アッシュ」

「……シア」

 

 あどけなく微笑みながら、月光を一身に浴びる彼女が歩み寄ってくる。

 眼前に立たれて、自分の背が彼女より高くなっていることに気づいた。

 

「……大っきくなりましたねー」

 

 相手もそれに気づいたようで、ぽふっ、と頭に手が伸びて、さわさわと撫でられる。

 眉をしかめてその手を払えば、「つれないやつ」とますます笑みが濃くなった。

 

「ちょっと見ないうちにひねたツラになっちゃって、まあ」

「だ、誰がひねたツラだっ!」

「鏡をご覧になれば眼前に」

 

 思いきり顔をしかめたアッシュの、眉間のしわをちょんちょんとつつく。

 その手が払われる前に、シアは一歩下がった。首に巻かれた包帯が眼につく。

 

「見た目以外はお変わりなく、安心しました。此度は何用で?」

「──ヴァンは何を企んでいる?」

 

 その問いに、シアは軽く眉を動かした。

 

「有り体に言いますと、そりゃもう色々と」

 

 大雑把過ぎる答えにアッシュが不服を示すと、彼女は呆れたように眉を下げた。

 

「ご自分でお調べなさいな。彼に近しいあなたなら、問題なく……」

「わからないから聞いてるんだ! 最近俺はあいつに信用されてないから、レプリカに手を出すな、だのアクゼリュスへは来るな、だの命令だけで……なんでレプリカの軟禁が解かれてる? どうしてナタリアがあいつらと一緒に……!」

「軟禁の件なら、来るべき時が来たから、というのが当てはまりますか」

 

 指先が伸びてきてアッシュの口を塞ぐ。

 静かに、とシアは小さく、しかし鋭く言った。

 

「お話した預言(スコア)のことは、覚えておいででしょうか?」

「……預言(スコア)……」

 

 覚えてないみたいだからもう一度。シアは預言の復唱を始めた。

 

「──ND2018 ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで若者は力を災いとし、キムラスカの武器となって……」

「……街とともに消滅す」

 

 どうやら思い出したらしいアッシュがその後を引き継いだ。

 ひとつ頷けば、彼は冷静さを失ってシアに詰め寄っている。

 

「なぜ阻止しない!? あのレプリカはともかく、このまま連中を行かせればアクゼリュスが──!」

「落ち着けったら!」

 

 落ち着かせようとして声を荒げたら意味がない。気まずげに口を押さえて、シアは続けた。

 

「ヴァンは、ルークをそそのかしてパッセージリングを超振動で消滅させ、アクゼリュスを崩落へ導く腹積もりです」

「パッセージリング……」

「一回教えたはずですが。この世界は、ここからは地下に位置する魔界から延びるセフィロトツリーなる柱に支えられた外殻大地で、パッセージリングはそのツリーを支える音機関」

 

 過去の講義を彷彿とさせるシアの声を聞きながら、語られた言葉をひとつひとつ思い出し、理解していく。

 

「同じことだろう! 連中を止めれば、いや、レプリカを殺せばそれを阻止──」

「話を最後まで聞きなさい。預言(スコア)に詠まれている以上、真っ向から覆すのは並大抵のことではありません。ルークのことですが、彼は親善大使としてアクゼリュス救援をファブレ公爵やインゴベルト陛下に課せられました。ルークを殺そうとするなら、全員を相手しなきゃいけない」

 

 死霊使い(ネクロマンサー)、ヴァンの妹、導師守護役(フォンマスターガーディアン)。イオンを敵に回すことにもなるし、ガイもナタリアもけしてそれを許しはしないだろう。

 ルーク自身、偶然屋敷を飛び出してから大きく成長した。工場跡での行動、ザオ遺跡での戦闘。

 彼の瞳には、アッシュを見て我を忘れていたからというのもあっただろうが、人を相手──斬ることにためらいはなかった。

 

「父上や伯父上が……?」

 

 一方、アッシュは自分のレプリカにそんな大層な任務を身内が課したと知り、呆れるやら驚くやらしかない。

 

「ナタリアは?」

「彼女は、反対されていたにも関わらずルークに同行を迫りました。民を見捨ててはおけないと、独断で。インゴベルト陛下はさぞ焦っていらっしゃることでしょう」

 

 どこか皮肉げに明後日の方向を見ているシアに気づくことなく、アッシュは苛々と考えている。

 ならどうすればいいのか──

 

「……あんたはどうするつもりなんだ」

「このまま静観する予定」

 

 しれっ、と言い切ったシアに、アッシュは警告も忘れてつかみかかった。

 

「あんたは! あんたはアクゼリュスがどうなってもいいっていうのか!? あのまま放っておけば、スィンだって死ぬんだぞ!」

「それだけはありえません。あなたが気にすることじゃない」

 

 思わず言いきり、アッシュのいぶかしげな表情を見てはっと口を押さえる。言うべきでないことを言った、と伝えるかのように。それを誤魔化すかのように「と、とにかく!」とアッシュの耳を掴んでひっぱった。

 

「……気がかりがあるので確認のため、私はこのまま静観を貫きます。最悪の事態を想定して仕掛けを施しました。詳細はアクゼリュスで答えるとして、あなたが何をしようと私は一切関与しません。協力もできない。他に質問は?」

 

 時間が差し迫ってきたのか。

 そこはかとなく早口でアッシュに問うシアだったが、彼の質問で思わず言葉を詰まらせた。

 

「……ありえない、ということは、いざとなったらスィンだけは逃がすつもりなのか?」

 

 う、とシアが軽く後退る。

 

「……それはヴァンがティアにやろうとしてるんだけど……じゃ、じゃあいいや。そうするということで」

 

 ──匙加減が難しい。ここで言い訳を連ねればアッシュが納得するか疑念を抱くか、どちらかをするだろう。

 納得はよろしくない。ならば疑念を持たせるか。そう選択しての返しであったが、彼は予想外の反応を示した。

 アッシュは傷ついたように眦を下げ、瞳を伏せている。それだけだ。疑念の追求をしてこない。

 気を許した相手の隠し事。それに踏み込むことが必要だと考えていながら、拒絶を怖れて何もできない様子。

 そんな状態のアッシュを見るに耐えかねて、ふぅ、と息を吐き。シアはマントを再び広げた。

 

「……信頼しています、アッシュ」

 

 そろそろ限界だ。一時的な封印が、緩やかにほどけかかっている。

 シアがフードをかぶった次の瞬間。封印は音を立ててはぜ割れた。

 硝子を砕くような音がして、白い髪が急激に色を帯びていく。

 隠していた顔立ちがすっかり変わってしまったことを手鏡で確認し、スィンはフードをめくってそっとアッシュを見た。

 彼はといえば、言葉にならないくらい、驚いている。

 まるで伝説の秘術、タイムストップをかけられたような硬直状態だ。

 

「……早いとこ戻ってこないと、風邪引くよ」

 

 冷たい潮風が吹き込む港から、彼女はフードを被って立ち去った。



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第二十八唱——序曲の名は、奈落への行程

 

 

 

 

 翌日。一行は連れ立って、マルクト領事館の扉を叩いた。

 受付の女性を介して領事の元へ案内される。

 

「大佐。ルーク様。お待ちしておりました。グランツ謡将より伝書鳩が届いています。グランツ謡将は先遣隊と共に、アクゼリュスに向かわれるそうです」

 

 領事によって告げられた事実に、ルークは口を尖らせて不服を示した。

 

「えーっ!? 師匠(せんせい)早すぎだよ!」

「僕たちも急がなければ」

 

 と、そこへ。領事が引き出しから大きめの筒を取り出した。

 

「スィン・セシルという方宛てに、書簡を預かっておりますが……」

「僕?」

 

 入れ物の筒もさることながら、それなりに立派な書簡であることに首を傾げるふりをしながら受け取りに行く。

 書簡の封蝋は、破られていた。

 

「誠に失礼ではありますが、内容を検閲させていただきました」

「……わかりました」

 

 視線に気づいたのか、女性領事が丁寧に、しかしじむてきに謝罪を述べる。

 それに頷き開こうとして、どさりという音と「ガイ!?」というルークの声に反応して書簡を懐へ押し込んだ。

 振り返れば、ガイが膝をついてその場にうずくまっていた。ルークが咄嗟に助け起こそうと近寄るが、差し出された手を払い更に突き飛ばしてルークに尻餅をつかせている。

 

「ガイ兄様!?」

「いてて……! お、おい。まさかおまえもアッシュに操られてるんじゃ」

「いや……別に幻聴は聞こえねぇけど……」

 

 押し殺したような声音のガイにジェイドが近寄り、彼が自らの腕で押さえている部分を観察した。

 

「おや。傷ができていますね。……この紋章のような形。まさか『カースロット』でしょうか」

 

 聞きなれない単語にルークが尋ねると、ジェイドではなくイオンがそれに答えた。

 

「人間のフォンスロットへ施すダアト式譜術の一つです。脳細胞から情報を読み取り、そこに刻まれた記憶を利用して人を操るんですが……」

 

 そこで、不気味な光を放っていたガイの傷から光がなくなる。

 次の瞬間、スィンが悲鳴のような警告を放った。

 

「危ないっ!」

「!」

 

 ガイの傍にしゃがんでいたジェイドに、緋色の刃が襲いかかる。

 左腕だけが勝手を働いているように見えるスィンの右手が、自分の手首を掴んで軌道そのものをそらしたものの、血桜は呼ばれたかのように今度はナタリアへ切っ先を向けた。

 

「……このっ!」

 

 掴んだ左手首を、全体重かけて床へ押しつける。長刀は彼女の手から離れ転がったものの、左腕は抵抗を示しているのか、スィンは左手を自分の膝で踏みつけた。

 イオンが進み出て調べると、不意にその顔が驚愕に染まる。肘から手首にかけての部位にガイのものと同じ傷を見つけたからだ。

 どうにか落ち着いたスィンが、袖を持ち上げるイオンの手をやんわり外す。

 

「医者か治癒師を呼びますか?」

「……俺は平気だ。それより船に乗って、早いトコヴァン謡将に追いつこうぜ」

「……お気遣い、ありがとうございます……でも、へーき、です……」

 

 マルクト領事の気遣いに礼を言いつつも、スィンはガイの言葉に従った。

 

「……でも、ヤバくないのか?」

 

 腕を押さえて立ち上がったスィンと、未だにうずくまっているガイを交互に見ながら気遣わしげにルークは言ったが、イオンの言葉で決定する。

 

「カースロットは術者との距離で威力が変わるんです。術者が近くにいる可能性を考えれば、ケセドニアを離れた方がいい」

「それではこちらからどうぞ」

 

 領事に案内され、ルークに支えられて歩くガイを気遣わしげに見ながら、イオンの呟きを耳にした。

 

「ダアト式譜術を使えるのは導師だけ……。やはり彼は……」

 

 憂いを帯びた表情で目を閉じたイオンだったが、アニスに促されて皆の後についてくる。

 その足で船に乗り込み出港すると、ガイの体調は嘘のように回復した。

 

「おかしいな。ケセドニアを離れたら、すっかり痛みがひいたわ」

「なんだよ。心配させやがって」

「悪い悪い!」

 

 冗談めかしてルークが言えば、ガイもまた調子を合わせると、ジェイドが船のへりによりかかって書簡の中身を読んでいるスィンを見た。

 

「あなたはどうですか?」

「……んーと、治っちゃったみたい、です」

 

 ぐしゃっ、と高価な羊皮紙を両手で握りつぶし、スィンは顔を上げてジェイドの顔を見る。

 

「じゃあやっぱり、カースロットの術者はケセドニアの辺りにいたのね」

「早めにケセドニアを出て正解でしたのね」

「ああ、そうだな」

「そですねー……」

 

 二人の言葉にどこか上の空で反応しているスィンをいぶかしがりながらも、ガイは腕をさすって海の彼方を見た。

 

「そういやこの傷をつけたのはシンクだったけど、まさかあいつが術者かな」

「おそらくそうでしょうね」

 

 珍しく、イオンがそう断言している。彼がさきほど呟いていた言葉のこともあり、ほとんどシンクの正体を確信していると思われた。

 密命を早めに済ませ、ダアトへ亡命すること。

 体調を心配する文面に隠された暗号を解読すればそんな内容になる書簡は、やはりヴァンから送られてきたものだった。

 

「ねぇスィン。差出人は誰?」

「……さあね」

 

 ジェイドに声をかけられた際、思わず握り潰してしまったそれを丁寧にたたむ。

 アニスの質問をはぐらかして、指先に結集させた第五音素(フィフスフォニム)を当てると、簡単に燃え上がった。

 

「あ……!」

 

 あっという間に炎に包まれたそれを潮風に流せば、風にあおられ激しい火の手を上げて、手紙は海の彼方へ消えていく。

 

「よ、よかったのか?」

「ええ。問題ありません」

 

 あっけに取られていた一行の疑問を代表したガイに、スィンは淡々と甲板を立ち去った。

 もう後には戻れない。覚悟を決めなければいけない。自分の気持ちを整理する、ほんの少しの時間がほしかったから。

 書簡が入っていた筒に、懐に入れていた漆黒の短刀を入れてしっかりと封をする。

 それを荷袋に押し込めて、スィンは船室の片隅で瞑想を始めた。

 惨劇への扉を目指し、一行は着々と歩んでいく。

 

 

 

 

 



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第二十九唱——奏でしは、耳障りな不協和音

 

 

 

 何の滞りもなくカイツールの軍港に着き、時間短縮を考え馬車を御者付きで拝借し。一行はデオ峠へたどり着いていた。

 峠であるために馬車では通れず、アクゼリュスへは徒歩で赴くしかない。

 ここで、不響和音は起こった。

 

「ちぇっ。師匠(せんせい)には追いつけそうにないな。砂漠で寄り道なんかしなけりゃよかった」

 

 結局師匠(せんせい)に会うことができなかった、というか共に旅することができなかったルークが、唐突にそんなことを洩らしたのである。

 

「寄り道ってどういう意味……ですか」

 

 下心あってか、それとも別の理由か、アニスは素直な感情を抑えて聞いた。

 

「寄り道は寄り道だろ。今はイオンがいなくても俺がいれば戦争は起きねーんだし」

 

 思い上がりもはなはだしい、彼のような境遇でさえなかったら、頭を疑いたくなる発言である。

 アニスは呆れてつい本音をストレートに呟いた。

 

「あんた……バカ……?」

「バ、バカだと……!」

 

 かっとなるルークに追い討ちをかけるよう、ティア、ナタリアが続く。

 

「ルーク。私も今のは思い上がった発言だと思うわ」

「この平和は、お父様とマルクトの皇帝が、導師に敬意を払っているから成り立っていますのよ。イオンがいなくなれば、調停役が存在しなくなりますわ」

 

 彼女の発言を受け、イオンはルークを擁護するでもなく淡々と認識の間違いを正した。

 

「いえ、両国とも僕に敬意を持っている訳じゃない。『ユリアが遺した預言(スコア)』が欲しいだけです。本当は僕なんて必要ないんですよ」

 

 おそらくシンクの正体を悟ってしまったからだろう。どことなく寂しそうに呟くイオンに、ガイが思わずフォローを入れた。

 

「そんな考え方には賛成できないな。イオンには抑止力があるんだ。それがユリアの預言(スコア)のおかげでもね」

「なるほどなるほど。皆さん若いですね。じゃ、そろそろ行きましょう」

 

 急にうそくさい満面の笑顔になってとっとと先を行きだしたジェイドの背中に、ガイが誰ともなく呟いている。

 

「この状況でよくあーいう台詞が出るよな。食えないおっさんだぜ」

「まったくです」

 

 少しでも空気を軽くしようとあがいてみるが、効果はなかった。

 一行が先を行き、ふてくされたルークがその最後尾を行く。その後からミュウがちょこちょこついて行き、結果的にスィンがしんがりを努めることになった。

 が、それも束の間のこと。

 無意識のうちに早足になっているルーク、そして急斜面になっていくにつれ、イオンの体調を考えて故意に足取りを遅くしていく一行は、徐々に入れ替わりを見せる。

 峠の中間点、もっとも上がり下りの傾斜が厳しいその斜面で、ついにイオンが限界を見せた。

 

「はぁ……はぁ、はぁ」

「イオン様!」

 

 膝をついて肩で息するイオンに、傍を歩いていたアニスが悲鳴を上げる。

 彼を護衛するように歩いていた面々──先頭を歩いていたルークとその傍を歩くスィン以外が彼に駆け寄った。

 

「大丈夫ですか? 少し休みましょうか?」

「いえ……僕は大丈夫です」

 

 ティアの提案に、イオンは首を振る。当たり前のようにアニスが却下した。

 

「駄目ですよぅ! みんな、ちょっと休憩!」

 

 疲労の激しいイオンの様子に、一同は納得の意を示す。

 しかし、気が急いている彼はまたしても孤立した。

 

「休むぅ? 何言ってんだよ! 師匠(せんせい)が先にいってんだぞ!」

 

 さすがにこれには承服しかね、現婚約者と使用人が反論し。その間に、スィンは道端で花の蜜を探す虫型の小型魔物を捕獲している。

 

「ルーク! よろしいではありませんか!」

「そうだぜ。キツイ山道だし、仕方ないだろ?」

 

 が、本気かどうかはよくわからないものの、彼は決定的な一言を叫んでしまった。

 

「親善大使は俺なんだぞ! 俺が行くって言えば行くんだよ!」

 

 冷たい視線、約一名怒りの視線が殺到する。

 瞬間、スパンッ! と軽快な音がして、ルークが強制的にうなだれた。

 

「てめ、なにしやがる!」

「すみません。蜂に刺されるのはお嫌だろうと、つい……」

 

 自分の後ろ頭をはたいたスィンにルークが睨みつけると、彼女は軽くうなだれて自分の手のひらを差し出している。

 その手には、景気よく潰れたビーワーカーの幼虫の死骸がべったりと付着していた。

 

「だからってなあ!」

 

 ルークの怒りの矛先が自分に向かったと知るやいなや、スィンはひょい、と首を傾げてルークの後ろ頭を見る。

 

「あの、誠に申し上げにくいのですが、御髪に色々なものが……」

「なにぃっ!?」

 

 そう言って、頭を抱えようとしたルークが直前でやめた。スィンの手についている物体を再び見たためだ。

 

「お取りしましょうか?」

「あ、当たり前だ、今すぐやれ!」

 

 スィンの手首を掴んで促すルークに、あちらで、とスィンが誘導し、彼女は一行に向けて軽く会釈すると、紙切れを落としていった。

 一番近くにいたナタリアが気づき、それを拾い上げる。

 

『きゅうけいするならいまのうち』

 

 くしゃくしゃの紙片には、走り書きが書かれていた。

 

「では、少し休みましょう。イオン様、よろしいですね?」

「はい……」

 

 一行の心情を汲み、意図的にルークを隔離したスィンの心に甘え、全員が休憩をとる。

 と、十分な休息をとった時点で、ティアがわずかに逡巡した後に立ち上がった。

 

「ティア、どうかした?」

「……私、ルークに一言言ってくるわ」

 

 険しい表情で斜面を上り、ティアは二人がいるであろう平地へ歩いた。

 そこの光景に思わず眼を覆う。

 あろうことか、ルークはスィンの膝枕で寝そべりながら遠くのアクゼリュスを眺めていた。

 彼女はただ黙々とルークの髪に付着したものを取っている。正確には、何もついていない髪にそれらしいことをしている。

 スィンはその手を休ませぬまま、首だけでティアに振り返った。

 

『もういいの?』

 

 口が疑問の形をとり、首を傾げる。

 ティアが軽く頷くと、スィンは何食わぬ顔で終わりましたー、とルークに告げた。

 気だるそうに立ち上がった彼は、ティアの姿を目にしてわずかに驚いているようだったが、すぐに視線をそらしている。

 

「ルーク。何を焦っているのか知らないけど、そういう態度はやめた方がいいわ」

「……んだよ。何がだよ」

 

 お前が何を言っているのかわからない。

 彼は態度を含む全体の雰囲気でそれを語っていた。

 ティアの眼が限界まで細められる。

 

「……もういいわ」

 

 あきらめたように、言葉少なに去っていくティアの背中を見送って、ルークは苛立だしげに小石を蹴った。

 

「……何なんだよ! くそっ!」

 

 彼の生きてきた年月、境遇、そして現状を考えれば仕方がないことである。が、事情を知っているスィンでも辟易しているのだ。

 他のメンバーが抱いた印象は、埋めることも越えることのできない溝となっているだろう。

 触らぬ神に祟りなし、と特にフォローの一言を入れるでもなく、スィンは再び歩みだしたルークの傍についた。

 が、しかし。

 

「っ!」

 

 不意に胸を襲った激痛に、せりあがってきた呻きを噛み殺して、苦悶の表情を浮かべる。

 いきなり胸を押さえ、うつむいて立ちすくんだスィンをルーク以外の一行が不思議そうに見やったが、彼女は意に介さず水筒とは違う印がつけられたものを取り出すと中身を一気にあおった。

 ふう、と息をついて素早く荷袋へ押し込む。と、そこへ強い視線を感じた。

 

「大佐ぁ。どうかしましたか?」

 

 アニスの声に顔を上げれば、ジェイドが珍しく厳しい顔でスィンを──あるいはその後ろを見ている。

 自分の後ろに何かあるのか、と背後を見ても、魔物や大佐に厳しい顔をさせるようなものは何もない。

 

「何か?」

「……少し気になっていたのですが、あなたが時折口にしているそれはなんです?」

「発作止め、です。以前もお話しましたが、僕は気管支が弱いので」

 

 嘘ではない。今スィンが含んだのは度重なる咳を抑えるための鎮静剤であることは事実である。

 

「ふむ……?」

 

 ジェイドが首を傾げ、何かを言い出しかけて。

 

「おわっ!?」

 

 チュイン、という音と、驚いてのけぞるルークの悲鳴に遮られる。

 

「止まれ!」

 

 風上から降ってきたその声に見上げれば、張り出した岩棚を陣取り、両手に譜業拳銃を構えた女性が立っていた。

 

「……魔弾のリグレット」

「ティア。何故そんな奴らといつまでも行動を共にしている」

 

 スィンの呟きは聞こえなかったのか、リグレットはただティアだけを見ている。

 

「モース様のご命令です。教官こそ、どうしてイオン様をさらってセフィロトを回っているんですか!」

「人間の意志と自由を勝ち取るためだ」

 

 脈絡がない上にずいぶんと抽象的な内容である。ティアは首を傾げた。

 

「どういう意味ですか……」

「この世界は預言(スコア)に支配されている。何をするのにも預言(スコア)を詠み、それに従って生きるなどおかしいと思わないか?」

 

 その意見には反対だとばかり、イオンは質問ではなく前提とされている言葉を否定した。

 

預言(スコア)は人を支配するためにあるのではなく、人が正しい道を進むための道具に過ぎません」

「導師。あなたはそうでも、この世界の多くの人々は預言(スコア)に頼り、支配されている。酷い者になれば、夕食の献立すら預言(スコア)に頼る始末だ。お前たちもそうだろう?」

 

 彼女が言っているのは、やや過度ではあるが事実である。

 リグレットの言葉に、彼らが否定する要素は何一つなかった。

 

「そこまで酷くはないけど……預言(スコア)に未来が詠まれてるならその通りに生きた方が……」

 

 預言肯定派たるアニスの意見に、ガイも賛同する。

 

「誕生日に詠まれる預言(スコア)は、それなりに参考になるしな」

「そうですわ。それに生まれた時から、自分の人生の預言(スコア)を聞いていますのよ。だから……」

 

 ナタリアが同じように意見を綴るも、とっさのことでか言葉が続かない。

 

「……結局の所、預言(スコア)に頼るのは楽な生き方なんですよ。もっともユリアの預言(スコア)以外は曖昧で、詠み解くのが大変ですがね」

 

 幾分自嘲的にジェイドが締めくくる。「そういうことだ」とリグレットは頷いた。

 

「この世界は狂っている。誰かが変えなくてはならないのだ。ティア……! 私たちと共に来なさい」

 

 私たち、が誰を指すのかティアにはわかっていたらしく、彼女は即座に首を振って拒絶している。

 

「私はまだ兄を疑っています。あなたは兄の忠実な片腕。兄への疑いが晴れるまでは、あなたの元には戻れません」

「では、力ずくでもお前を止める!」

 

 リグレットの持つ銃口がティアに向けられたのを見て取り、スィンは彼女の前に飛び出して射出弾を払った。

 スィンの抜いた刀を見て、リグレットは仇でも見るような顔つきになる。

 

「それは、あの女狐の……なぜ貴様が」

「あなたにはどうでもいいことでしょう」

 

 しまった余計なことをしたかもしれない。

 それ以上注目されないためにも納刀し、もともと彼女のものであった譜銃を構え手首を支えて撃ちだした。

 お返しとばかり彼女の足もとを狙う。

 

「言いたいことはわかったけど。世界を預言(スコア)から解放するなんて、現存譜石を全部消すか、人類全部を虐殺しない限り無理じゃないの? 抵抗するものは、皆殺し?」

「……っ!」

 

 スィンの一言にリグレットは苦虫でもつぶしたような顔になった。

 

「それはまあ極論だから置いといて、どの道第七音素譜術士(セブンスフォニマー)は皆殺しになるんじゃない? 預言(スコア)を詠める可能性があるなら……そうなるとヴァン謡将もティアも例外じゃなくなるんだけど、そこんとこどうよ?」

 

 痛いところを突かれた、といった様子で黙りこくる彼女に畳みかけんと、一行に軽く振り返る。

 心得たもので、後方支援組は詠唱を始め前衛組は彼らの護衛に入っていた。

 遅ればせながらルークがティアの傍についたのを見るやいなや、リグレットは苛立たしげな表情になる。

 

「ティア……。その出来損ないの傍から離れなさい!」

「出来損ないって、俺のことか!?」

 

 ──余計なことを。

 ティアの傍にはスィンもいる。

 その言葉だけならルークがそう思うこともなかったかもしれないのに、リグレットはご丁寧にもルークに銃口を向けたのだ。これで気づかぬ馬鹿はそうそういない。

 その言葉を聞きつけ、ジェイドが前に走り出た。

 ちらりと垣間見たその表情には、今まで一度も見たことがない憤怒が宿っている。

 

「……そうか。やはりお前たちか! 禁忌の技術を復活させたのは!」

「ジェイド! いけません! 知らなければいいことも世の中にはある」

 

 完全に、ではないが、普段と比べれば確実に頭へ血が上っているジェイドをいさめたのは、彼が言いたいことを知るイオンだった。

 そのイオンを振りかぶり、ジェイドは驚愕を浮かべている。

 

「イオン様……ご存知だったのか!」

「な……なんだよ? 俺をおいてけぼりにして、話を進めるな! 何を言ってんだ! 俺に関係あることなんだろ!?」

 

 状況がまったく読めていないルークが、意見としては妥当ではあるものの、言い草はどうしても自己中心的なものを感じざるをえない発言をした。

 しかしジェイドはそれを無視して、再びリグレットを睨み上げている。

 

「……誰の発案だ。ディストか!?」

「フォミクリーのことか? 知ってどうなる? 賽は投げられたのだ。死霊使い(ネクロマンサー)ジェイド!」

 

 皮肉がたっぷりのせられた揶揄に、緋色の双眼が怒りに揺らぎ、彼の手に槍が握られた。

 直後、眩い光が一行の眼を灼き、再び顔を上げたそのとき。魔弾のリグレットの姿はどこにもなかった。

 

「……くっ。冗談ではない!」

 

 声を荒げて歯噛みするジェイドの姿に、誰もが抱いた困惑と、わずかな怯えの感情を代表したのはアニスである。

 

「大佐……珍しく本気で怒ってますね……」

 

 戸惑うようなアニスの言葉に、彼は我に返って槍をしまった。

 軽く眼鏡の位置を直して、平静を取り戻そうとしているように見える。

 

「──失礼、取り乱しました。もう……大丈夫です。アクゼリュスへ急ぎましょう」

 

 今までの会話を説明するでもなく、むしろそれから逃げるように先を行くジェイドに。一行は触れてはまずいと判断してか、聞いても話してくれないだろうと悟ってか、黙してその後に従った。

 例外は、ルーク、ミュウ、そしてスィン。

 しばらく唖然としていたルークだったが、思い出したように怒りをあらわにしていた。

 

「ふざけんな! 俺だけおいてけぼりにしやがって。何がなんだかわかんねーじゃんか!」

「ご主人様、怒っちゃ駄目ですの……」

 

 事情がわからないのは何人かも、そしてミュウも同じはずだが、ルークはそれに気づいていない。気づこうともしていない。

 

「どいつもこいつも俺をバカにして、ないがしろにして! 俺は親善大使なんだぞ!」

「ご主人様……」

 

 泣き出しそうなミュウの声にも反応せず、ルークはふらふらと歩き始めた。

 

「師匠だけだ……俺のことわかってくれるのは、師匠(せんせい)だけだ……!」

 

 ──その様子は、いきなり親元を放り出された子供の姿にも似ていて。

 哀れの一言に尽きた。

 

 

 

 

 



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第三十唱——アクゼリュス前夜

 

 

 ぱちぱちっ、とたき火が爆ぜた。

 デオ峠を越え、明日にはアクゼリュスへ着くだろうと予定を立つ。

 傍目には妙に急いているルークをガイがなだめ、スィンが言いくるめ、一行は野営をしていた。

 その準備中のこと。

 ちらちらと、ナタリアが視線を送ってくる。それに気づいたスィンは、集めてきた薪を置いて彼女に話しかけた。

 

「ナタリア様、何かありましたか?」

「あの、スィン。実は、馬車に乗ったせいか、体が痛くて。少し診てもらえませんこと?」

 

 これまで散々歩いてきたのは平気なのに、何故馬車に乗って体が痛くなるのか。

 不思議に思う素振りもなく、スィンは訳知り顔で頷いた。

 

「ああ。あの馬車、あまり上等なものではありませんでしたからね。結構揺れましたし、お尻痛いですか」

「スィ、スィン!? あなたの正直なところ、私は好ましく思っておりますけれども、それは大きな声で言うことじゃありませんわ!」

「なるほど、ナタリアはお姫様だもんね。粗末な馬車はお尻が合わないんだ」

 

 アニスのからかいに近い同情にナタリアは顔を赤くしながらも、否定はしない。

 王女という立場上、ナタリアが乗る馬車は専用のものがある。スィンも同乗したことがあるのだが、キムラスカの技術の粋がこれでもかと詰められた馬車だった。敷き詰められたクッションの上質さもあり、揺れをあまり意識させるものではなかったのである。

 あれに慣れているのでは、体のあちこちが痛くなろうと不思議はない。

 

「いいですよ。じゃあ、そちらの敷布で横になってください」

「ええ」

 

 断られると思っていたのかもしれない。ナタリアはほっと息をつくと、いそいそとスィンが示した敷布に寝そべった。

 手を清めて傍らに座ったスィンは、ナタリアの背中を中心に手のひらで撫で回すような仕草を繰り返している。

 その頃、野営の準備を終えた面々が何をしているのかと集まりつつあった。野営の話が決まった時点でふてくされ、遠くに見えるアクゼリュスを見下ろせる位置で動かないルーク以外が。

 

「スィンは按摩の心得があるんですか?」

「心得というほどしっかりしたものでは無いです。マッサージのやり方は知らないし。ナタリア様はこっちのほうがお好みというだけで」

「だって、マッサージはオイルやパウダーを使うせいで終わった後の湯あみが手間ですもの。終わった後はポカポカしますけれど、あまり疲れはとれませんし。スィンのやり方なら、着替えずともできますわ。それに」

 

 ナタリアの身体の状態を確かめつつ、スィンは第三音素(サードフォニム)を手のひらに発生させていた。

 調整した微弱な雷気を対象の肉体に注ぐことで、血行促進、疲労回復、痛覚の鈍化などを促すことができる。

 そして──これを応用すれば、被施術者に抵抗すら許さず死をもたらすことも。

 スィンがこれを身につけたのは、ナタリアのためではないし、按摩の技術向上のためでもない。

 そんなことも知らずに、ナタリアは無邪気にスィンを誉めた。

 

「スィンは、すごく上手いんですのよ。全然痛くしないのです」

「按摩なら、多少は痛みを伴うものでは?」

「城に勤める専門師のやり方は、そうですわね。力任せにぎゅうぎゅう押してきますわ。痣が残ったこともあるくらいですもの。でもスィンは力加減がわかっているといいますか、苦しくないし、終わった後は何というか、すっきりしますわ」

 

 当然である。第三音素(サードフォニム)による痛覚鈍化が働いて、被施術者(ナタリア)にはわからないだけだ。そして終わったら血行促進の効果で体内の滞りは消えるから、すっきりはする。スィンとて通常按摩を普通に行えば、多少の痛みは与えてしまうものだ。

 そこを痛気持ちいいと錯覚させるか、単に痛く苦しいと思わせてしまうか、プロならば腕の見せ所であるはずだが。

 

「ではナタリア様。いつものように長ーく息を吐いてくださいね」

「わかりましたわ」

 

 スィンのやり方をよく知っているナタリアは、素直に指示を聞いて、大きく息を吐き出した。僅かながら緊張がほどけた筋肉の按摩を手順通り行い、尻を中心に腰、背中の凝りを解消していく。

 道中これといって何も訴えてこなかったが、やはり慣れない旅路。ナタリアの身体は全体的に疲労が溜まっており、スィンはそのままブーツを脱がして、足の按摩を始めていた。

 

「あっ!」

「……」

「そ、そこですわ、ああ、心地いい」

「はい」

「……」

「ナタリア様、寝ちゃダメですよ。夜眠れなくなってしまいます」

「……」

「ナタリア様」

 

 返事はない。彼女はうつ伏せになったまま、すぅすぅと寝息を立てている。

 いつものように起こそうとして、ここは王城ではないからいいか、と留まった。

 

「寝ちゃったの?」

「うん。割といつものこと」

「マッサージしてそのまま寝ちゃうって、スィン。本当に凄腕じゃない? 開業したら儲かるかも!」

「女性限定になっちゃうけどね。寝落ちはナタリア様の癖になってるだけかも。だから、終わったらすっきりしてるんじゃないかなって思ってる」

 

 眠っているナタリアから少し離れて、見学していた一同のもとへ行く。

 

「僕としては、寝られると侍従長にバレるからやめてくれっていつも言ってるんだけどね」

「ああ、あの侍従長お前のこと嫌いだもんな。お前のことっていうか、貴族以外か。平民が姫様のお身体に触れるなどけしからん! って喚いてたっけな」

「お身体に触れないと、按摩どころか基本的なお世話ができないんですけどねー」

 

 普通の貴族女性なら香油や何やかやを使ったマッサージで十分なところ。ナタリアは生まれつき筋肉量多め、更に弓術を嗜んでいるため、マッサージでは物足りないと感じるようだ。

 だからスィンの方がいい、と言い募るナタリアにそれならば、と侍従長は按摩を施せる身内を専門職として城に招いた。しかし一度その身内の施術を受けたナタリアは、スィンの方が巧みだと言って以降敬遠している。

 そんな背景もあって、侍従長は自分を嫌っているのだとスィンは締めくくった。

 

「えー、そんなコネ採用、許されちゃうの?」

「それだけ侍従長は偉い人なんだよ。嫁き遅れの口が臭くてうるさいババアだなあとは思ってるけど、悪い人じゃないし、無能でもない。身元がしっかりした人を使いたいと思うのは、防犯上間違ってないと思うよ」

「……スィンも、その人のことは嫌いなのね」

「別に嫌いではないよ。ただ、視界に入ると不快になるだけ」

「それは十分嫌いの範疇だよ……」

 

 閑話休題(そんなこんなで)

 時刻は深夜となり、現在はジェイドが見張りについている。

 他の誰もが寝息を立てていることを確認して、スィンはむっくりと起き上がった。

 

「──まだ交代の時間ではありませんよ?」

「そんなことは百も承知です」

 

 どこか一本調子なスィンの声音に何を感じ取ったのか、彼は読んでいた本をパタン、と閉じる。一方でスィンは、ごそごそと自分の荷袋を漁っていた。

 発作止めを取り出すのかと思いきや、背負い袋の中からは一抱えもある奇妙な円筒形の箱が現れる。

 その箱を手に、彼女はジェイドの傍にやってきた。わざわざ彼の前に陣取り、箱を置く。

 

「これ、何か知ってます?」

「……なぜこのようなものをお持ちで」

 

 それの正体に気づき、ジェイドは嫌悪に顔を歪めて詰問した。

 スィンの携える木製の丸い箱は、首桶と呼ばれるもの。中央にはキムラスカ製であることを示すかのように、紋章が彫り込まれている。

 

「僕、これにあなたの首を入れるよう命じられました」

 

 ジェイドの眼がわずかに見開かれる。が、すぐ表向き何でもないような顔になって尋ねた。

 

「……なぜです?」

「察しはつくでしょう? 和平の使者にして皇帝の懐刀と名高い死霊使い(ネクロマンサー)殿の首が送りつけられたら、先帝とうってかわって穏やかなピオニー九世陛下も感情的にならざるをえない──戦争はたやすく発生する」

 

 雄弁すぎるその言葉に、ジェイドは眉を歪ませてスィンを見る。

 

「それがキムラスカの意思なのですか?」

「失敗して当然、成功すればラッキー程度の賭けだったと思いますよ。キムラスカの総意かどうかは、分かりかねます」

 

 これを命じたのが誰なのかは知らないが、護衛従者が務まる程度の元メイドに死霊使い(ネクロマンサー)が殺せると、本気で思っているわけがないだろう。

 ふと、スィンは視線だけでナタリアを見た。

 

「信じるかどうかはあなたに任せますが、ナタリア様は無関係です。少なくとも、このことには」

 

 ジェイドへ視線を戻せば、彼はいぶかしげにスィンを凝視している。

 

「……わざわざ私に話してくださった理由は? これを話した上で、私を殺せるとでも?」

「ためしてみましょうか」

 

 この距離ならば逃しようもない。

 にっこりと笑みを浮かべて。素早く膝立ちになったスィンは血桜を抜いた。

 血相を変えて虚空から槍を取り出したジェイドだったが、わかりきっていた反応である。槍は一般的にリーチのある武器だが、その分懐に入られると弱い。

 それでも素早く繰り出された穂先を弾いて、ジェイドの首に切っ先をつきつけた。

 槍の穂先はすぐにスィンへ向けられているが、その穂先がスィンをえぐるより早く、彼の喉笛は貫かれるだろう。

 

「……だから言ったじゃあないですか。気を許さないほうがいい、って」

 

 寂しげに呟いたスィンは、改めて血桜を握りなおした。その手は、ほんのわずかにも震えていない。

 

「なるほど……道中での異性恐怖症克服は、このときのために訓練したものだったんですか」

「いいえ。あれは正真正銘、純粋に治したかったから」

 

 いくら慣れたとはいえ、これで治るなら長年の苦労はない。限界は実にあっさりと訪れた。

 切っ先が緩やかに引かれたかと思うと、震える手から血桜が零れ落ちる。

 長刀を地面に転がし、身を引こうとするものの。予想と反して彼はスィンを逃がさなかった。

 

「……なんで、す?」

 

 心底意外そうにスィンは尋ねている。取り繕ってはいるが、語尾は震えて聞き取りずらい。

 

「まだ答えを聞いていませんよ。ついでですから、絶好の機会に私を殺さなかった理由も答えてください」

 

 がたがた震えている腕をしっかりと握り、ジェイドは回答を促した。

 

「……けっこう悩みました。このまま黙してアクゼリュスへ向かい、救援が終わってあなたの気が抜けてからでも問題ないと思ってたんですけど」

 

 浮かんできた額の汗を腕でぬぐい、スィンはごくりと唾を嚥下している

 

「ケセドニアで寄越された書簡に、密命はわざと失敗して、死霊使い(ネクロマンサー)の報復を恐れてダアトへ亡命しろ、って。アクゼリュスでそれどころじゃない何かが起こるかもしれない。だから今、お話ししました」

「……それで、殺さなかった理由は?」

「僕。あなたのこと結構気になっているものでして」

 

 オアシスで見せた妖しい笑みが、再びスィンの口元に刻まれる。

 一瞬緩んだ手から逃れたスィンは転がった血桜を拾い上げ、鞘に戻した。

 

「なーんていうのは、まあ冗談として。明日が山場でしょうに、無駄に体力使うわけにはいかないでしょう?」

 

 首桶を蹴って、たき火にくべて尋ねれば、彼はいつものものと違うように思える笑みを浮かべている。

 

「私をからかうとは、それなりの覚悟があってのことと解釈してよろしいんですね?」

「いい大人が目くじら立てないでくださいよ、この程度で」

 

 にこにこ微笑みながら迫ってくるジェイドに、微笑みながらも冷や汗をかくスィンが抜刀の体勢でじりじり後退った。

 

「──まあいいでしょう。かわりとして見張りの代替をお願いしますよ」

 

 首桶がめらめら燃えていくのを確認してか、ジェイドは毛布に包まるとスィンに背を向けた。

 どうせ本気で寝はしないだろうが、それでも一応許してもらえたようなので、よしとする。

 ふぅっ、と軽く息をついて、スィンもまた自分のいた位置へ戻った。

 

 ……全ては、明日。

 

 

 

 

 

 

 

 




そんなわけで。スィンがバチカルで請け負った密命はそういう内容のものでした。
ただしケセドニアで受け取った書簡は、ヴァンがマルクト領事館に預けたもの。キムラスカから送られてきたものではありません。


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第三十一唱——大罪の扉、開かれん

 

 

 

 アクゼリュスへ足を一歩踏み入れるなり、一行は我が目を疑ってその光景を見た。

 

「こ……これは……」

「想像以上ですね……」

 

 ルークは唖然として惨状を見回し、ジェイドですら息を呑んでいる。

 山──というよりはまるで地面をくりぬいて、その底に街が造られたような構造のアクゼリュスは、今まさに壊滅しようとしていた。

 瘴気自体は薄くなっていて行動に支障はないものの、紫色のもやが視界を悪化させている。それをすかしてみれば、瘴気に侵され呻く鉱夫が、瘴気触害(インテルナルオーガン)を発症した人々がそこかしこにいた。悪意による放置ではない。対応できる人間が少なすぎるのだ。

 耐え切れなくなったように、ナタリアが倒れていた鉱夫に駆け寄っている。

 泥や何やらで汚れた男を抱き起こそうとして、あろうことかルークがそれを制止した。

 

「お、おい、ナタリア。汚ねぇからやめろよ。伝染るかもしれないぞ」

 

 一行から冷たい視線が注がれていることにも気づかないルークに、ナタリアが同調することはなかった。キッと顔を上げ、険しい眼でルークを見据えている。

 

「……何が汚いの? 何が伝染るの? 馬鹿なこと仰らないで!」

 

 それ以降ルークなど一瞥もせず、彼女は「大丈夫ですか?」と鉱夫に向き直った。それぞれの荷に分担されていた薬等を手に、他の面々も散る。

 アクゼリュスへたどり着いた時点で、スィンもルークの傍につく意味はなくなった。

 呆然としているようにも、ただ何もしていないようにも見えるルークの視線を感じながら、スィンも皆に続いて倒れていた街人に駆け寄る。

 その合間にとある術を発動させれば、思いの外自分の意識が沈んでいくことに気づいた。

 と、そこへ。

 

「あんたたち、キムラスカ国からきたのかい?」

 

 しっかりとした男の声に振り返れば、がっちりとした体格に鉱夫らしい格好の男が、ルークに話しかけているところだった。

 

「あ……あの……」

 

 どうやら誰かを探していたらしく、とっさに言葉が出ない彼を脇へ置くように、ナタリアがやってきて親善大使の代理を務める。

 

「わたくしはキムラスカの王女、ナタリアです。ピオニー陛下から依頼を受けて、皆を救出にきました」

「ああ! グランツさんって人から話は聞いています! 自分はパイロープです。そこの坑道で現場監督をしてます。村長が倒れてるんで自分が代理で、雑務を請け負ってるんでさぁ」

 

 出発当初とずいぶん話が違ってしまったが、ピオニー陛下の依頼、というあたりで反応したのだろうか。彼は新たな救援隊の到着にホッとしているようだった。

 

「グランツ謡将と救助隊は?」

 

 手に負えない状況だということを確認し、戻ってきたジェイドがそれを訊いている。

 

「グランツさんなら坑道の奥でさぁ。あっちで倒れてる仲間を助けて下さってます」

 

 パイロープが指した坑道口の木枠には、たどたどしい字で『第十四坑道』と記されている。

 そこへ彼らのやり取りとスィンの手招きを受け、戻ってきた二名が各々の手に入れた情報を開示した。

 

「この辺はまだ、フーブラス川の瘴気よりマシって感じだな」

「坑道の奥は酷いらしいよ」

 

 ガイとアニスの情報を受け、ティアが律儀にも彼に確認を取っている。

 

「辺りの様子を確認したら、坑道へ行ってみましょう。ルーク!」

「あ……ああ……うん」

 

 別のことでも考えていたのか、気のない返事をしているルークから眼をそらすように、スィンが手を上げて発言した。

 

「……それは僕がやるよ。皆は、坑道に取り残されている人たちをお願い」

 

 呼吸をするごとに肺が痛い。その事実を隠すように、スィンは額に手を当て眼を隠すようにしている。

 唐突な提案に、一同が彼女を見た。その顔色を見て、イオンが心配そうに眉をひそめる。

 

「スィン、大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですよ」

「……すいません、瘴気に当てられてしまったみたいで……僕は地上で待機しています」

 

 坑道の奥がひどいなら、足手まといにしかならないから、と引き継ぐ。

 ひどく消耗している様子のスィンに、ルークが役立たずめ、とでも言いたげな顔をしているものの、ヴァンと早く会えることもあってかそれは言葉とされなかった。

 

 

 

 パイロープに示された道をゆき、坑道へ入っていく一同の背中が完全に消えたことを確認し、スィンはひとつ息をついて覚悟を決めた。

 思ったより自分の体に影響は出ているが、気にしていられない。

 誰もいないことを確かめて手近な坑道へ身を潜めると、呟いた。こんな状態では、譜歌を使うことすら、ままならないから。

 

「Rey Va Neu Toe Qlor Lou Ze Rey。望むのは……」

 

 体にまとわせていた音素(フォニム)が緩やかに消失していく。

 手鏡でそれを確かめ、外へ出ると、息を切らして走りこんできたアッシュとでくわした。

 

「シア……!」

「──手遅れだった。僕は今から地上にいる人たちをできるだけケセドニアへ転送する。ルークを……ヴァンの方を頼める?」

「わかっている!」

 

 ならあっちも、と今まさに神託の盾(オラクル)兵数人がかりで強引に連行されてきたティアを指す。

 駆け出したアッシュが兵たちを蹴散らし、ティアと二言三言かわして、彼女の後を追って第十四坑道へ入っていった。

 それを確認してから。

 

「母なる抱擁に覚えるは安寧──」

 

 ♪ Qlor Lou Ze Toe Lou Rey Neu Lou Ze──

 

 声は透明になりながら大気へ融け、一時的にアクゼリュスの底に溜まった瘴気を消していく。

 薄れていく毒々しい紫の蒸気を完全に祓うため幾度も謡いながら、雪色の長髪をなびかせてスィン──シアは街の広場へ立った。別にそこいらに倒れた被害者のためではない。自身が倒れないためだった。

 周囲の人間が空気の浄化に驚いているのを尻目に、適当に行商人から購入しておいた杖で広場いっぱいの譜陣を描いていく。

 と、そこへ先ほどの男──パイロープがシアに向かって駆け寄ってきた。

 

「あ、あんたは──」

「ナタリア様の供の者です。今から、アクゼリュスにいる人々をケセドニアへ避難させます」

 

 いきなりまくしたてられ、眼を白黒させている彼を置いてかなり複雑な譜陣作成の続行を努める。

 

「避難って……どうやってやるんですか!?」

「特殊な譜陣を編み、刻が来たらケセドニアへ転送します。あなたはここへ集まるようその旨を皆さんに伝えてください!」

 

 刻が来なければ──超振動が使われてからでなければならないのは、ろくな下準備もなく一人でこんな大人数の転送は不可能だからだ。

 ざくり、と杖を譜陣の中心に刺し、滅多なことでは崩れないよう陣を補強してから、陣の外へ出る。

 体中のフォンスロットを開いて音素(フォニム)を流し込むと、譜陣は描いた紋様と同じ輝きを発した。

 

「お姉ちゃん、これなあに?」

「……さあ、この中へ入って」

 

 パイロープの息子を譜陣の中へ立たせ、パイロープの指示によって続々と集まってくる人々を収容していく。

 途中譜歌が切れ、瘴気が再び出現するも、同じ譜歌を歌っては発生するそばから消していった。

 

「……地上にいる方では、もう誰もいませんね?」

「へえ、後は坑道内に取り残された連中だけで……」

「わかりました。では、あなたも陣の中へ。ケセドニアのアスター氏にこれを渡せば、よいように取り計らってくれるはずです」

 

 突如、地響きがあたりを揺るがした。

 おびえる人々の声を聞きながら、パイロープに用意しておいた手紙を押しつけて譜陣の中へ促す。

 がしゃがしゃと鎧の鳴る音がして、神託の盾(オラクル)兵が走っていくのを横目に見ながら、大地と同じくして揺れる意識を叱咤して地下からあふれ出る音素(フォニム)に伴い、術を発動させた。

 おびえる息子を支えながら何か言いたそうにしている逞しい鉱夫の姿が、行商人の親子が、うんうん呻いている重症人が消えていく。

 全員の姿がなくなったことを確認すると、シアはフォンスロットを閉じて地面にへたり込んだ。

 そのままの体勢で呟く。

 

「Rey Va Neu Toe Qlor Lou Ze Rey。望むのは失われた剣の主」

 

 雪色の髪が金色に染まっていく。にじみ出る瘴気の中に身をひたし、咳き込みながら羽音を耳にして上空を見れば、真紅の髪を背中に流した黒衣の青年が、怪鳥型の魔物に腕をくわえられ、遥か彼方へ飛び去っていった。

 はっ、と思い立って物陰に隠れれば、そのすぐ後を同じ怪鳥型の魔物に乗った、白を基調とする外套の男が飛び去っていく。

 アッシュ……に、ヴァン。この二人が逃げたということは。

 地響きが激しくなり、地割れを生んでいく。彼方へ走り去ったタルタロスが巨大な地割れに飲み込まれていくのを見ながら、スィンは自分がどうなるのかを承知で詠った。

 

 ♪ Qlor Lou Ze Toe Lou Rey Neu Lou Ze──

 

 誰もいない地上で、澄んだ歌声が不可視の結界を形成し、スィンを包み込む。

 どうかティアが、無事合流していますように!

 保てなくなった意識をそのまま手放しながら、彼女は本当の主の無事を祈った。

 

 

 

 

 

 



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第三十二唱——惨劇という名の宴に取り残されしは

 

 

 

 

 轟音が、やがて静まっていく。

 合流したティアの譜歌によって難を逃れた一行は、自分たちが墜ちた場所に確認しようとして、目を見開いた。

 辺りは瘴気と思われる紫色のもやで覆われている。塗りつぶされているわけではないが、視界が悪い。

 すぐそばには、嫌な色の沼が広がっている。そこかしこに大小様々な瓦礫が散乱し、中には人の腕や足が生えているものもあった。

 

「し……しっかりしてください!」

 

 ナタリアが素手で瓦礫を掻き分け始めたのをきっかけに、気を失っているルークとイオンを除く全員が救助活動に当たる。

 が、全員が全員、すでに死亡していた。

 

「ティアの譜歌のおかげで助かりましたね」

 

 鉱夫の脈を診て、首を振ったジェイドが極めて冷静に意見を述べた。

 

「そうでなければ、我々も全滅していた」

「ま、まって!」

 

 その言葉を否定しようと、ナタリアが立ち上がる。

 

「では……では、スィンは……」

 

 地上で待っている、と残してきた彼女の姿が浮かんできた。

 ティアはわずかにうなだれ、アニスはイオンの傍についたまま黙っている。ガイに至ってはジェイドの返事を聞きたくもないとばかりにスィンの名を叫ぶように呼んで、瓦礫を掻き分けていた。

 と、そこへ。

 ふよふよ、と光の塊が一行の目に飛び込んできた。

 

「ひ、人魂……ですの?」

 

 ナタリアが呟いた途端、光球は急に機動力を上げた。怯える彼女の周囲をくるくる回り、威力のない体当たりを仕掛けている。

 

「これ、第六音素(シックスフォニム)の塊ですの。誰かが操ってる、みたいですの」

 

 未だ倒れたままのルークのそばを離れず、ミュウは呟いた。

 どこかで見たような光球の正体を、代表して叫んだのはガイ。

 

「まさか……スィン!?」

 

 その単語を聞き、所在なげに漂っていた光球がぴくり、と反応した。ふよふよと、導かれるよう、あるいは導くようにある一定の場所を目指して飛び去る。

 ルークとミュウを除いた一行がそれを追いかけると、それはガレキで構成された離れ小島の瓦礫の山に近寄り、ある一点で止まる。

 すると瓦礫の中から人間の腕が生えて、光球を受け取った。

 

「スィン!? スィンなのですか!?」

「ナ……リア……さ……?」

 

 弱々しく途切れてはいるものの、間違えようもないスィンの声がした。

 

「瓦礫に埋まっているようですね」

 

 突き出た腕だけが生存を示すようにゆらゆらと動く。姿が見えないということは、そう解釈する以外になかった。

 

「どうします!? あんな場所では助けようが……!」

「スィン! 今から譜術で瓦礫を吹き飛ばします。多少のダメージは覚悟してください!」

 

 小島が自重で沈みそうになっている今、悠長に救出活動を模索している暇はない。

 白い腕が動くのをやめ、瓦礫の中に引っ込む。直後。

 

「切り刻め──タービュランス!」

 

 風の中級譜術が発動した。

 普段は対象を切り裂くように風の渦が発生するものの、スィンを傷つけまいと威力が極限に抑えられているせいか、勢いの強い風の渦だけが発生する。

 しかしその際発生する鎌鼬だけは消すことが出来ず、スィンの背中をずたずたに引き裂いた。

 

「い、たた……」

 

 ガレキが吹き飛び、スィンの姿が見えたところで譜術が停止する。

 少し残った瓦礫を払いのけ、スィンが起き上がった。腕を負傷したのか、片方の腕をかばっている。

 なんとか立ち上がったスィンが、一行の姿を認めてぐらり、と姿勢を崩した。

 幸いなことに足は無事なのか、咳をしながらも、離れ小島の周囲にある瓦礫の足場を使って移動している。

 あと少しで一行のもとに辿りつく、というところで、スィンが着地した瞬間に足場が崩れた。ずぶずぶと音を立てて、足場となっていたアクゼリュスの残骸が瘴気の海に沈む。

 

「掴まりなさい!」

 

 突き出された棒──ジェイドの槍の柄を握ると、ぐっと身体が引かれた。泥海に一瞬足が触れる。

 嫌な音を間近に聞きながら、スィンはジェイドの腕の中に倒れこんだ。

 反射的に腕を突っ張って離れようとするスィンを、ジェイドは地面へ横向きに寝かせる。

 スィンは、半死半生の有様だった。

 背中はもちろんのこと、全身に打撲や裂傷が認められる。左腕は残骸の直撃を受けたのか、有り得ない方向に曲がっていた。片足が泥の海に触れたせいで火傷のような負傷を負っている。

 絶えず咳を繰り返していたスィンが不意に口を押さえた。

 息を止めて咳を抑えようとも、吐き気を耐えているようにも見える。

 

「スィン、大丈夫? 痛い所は?」

「……ぜん……っ!」

 

 全部痛い、と答えようとしたのか、スィンは手で口を押さえて言葉を切った。

 

「咳でも胃の中身でも構わないから出しちゃいなよ! あたしたちは気にしな……」

 

 言いかけたアニスを押しのけ、耐え切れなくなったように地面へ咳を連発する。

 

 びしゃっ! 

 

 咳と共に吐き出されたそれを見て、全員が絶句した。

 口腔にあったであろう土や泥、それらに混じり滴ったのは……血。

 咳をする度に血は量を増し、赤い水溜りがどんどん大きくなっていく。

 

「スィン!」

 

 おびただしい量の血液を吐き出す妹に駆け寄ろうとして、ガイは誰あろう本人に制止された。

 汚いから来るな。苦しげに細められた目が、拒絶するように突き出された血塗れの手が、それを語っていた。

 一瞬気圧されたものの、その手を掴んでスィンの肩を支え、背中をさする。

 やがて吐血が止まったスィンにナタリアが治癒術の詠唱を始めると、ジェイドが強引にスィンを抱え上げた。

 

「こんなところで治療しても、悪化する一方でしょう。タルタロスへ移動しますよ」

「でも、あそこには神託の盾(オラクル)の兵士たちがいるのでは……」

 

 戸惑うように言うティアに、ジェイドはちら、と視線を向けた。

 

「スィンが助かったのは、単に彼女の運によるものです。私達にはあなたの譜歌の加護があり、彼らにはそれがなかった」

 

 行きましょう、と促し、タルタロスのハッチを開ける。

 一部始終を見ていたルークは、一行の後ろをふらふらとついていった。ミュウがその後に続き、ハッチが閉められる。

 タルタロスはゆっくりと、絶望色とでも名づけたい海へ出航した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




運だけで助かったら世話ないんだよなあ。
スィンは譜歌を使って落下の衝撃には耐えたけれど、瘴気の吸い込み過ぎで気絶したので、降ってきた瓦礫には対処できませんでしたとさ。潰されなかったのは、確かに運。どっとはらい。


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第三十三唱「──すんません、アレは書けませんでした(謝」

 

 

 

 

 

「うっ……」

 

 全身が痛い。

 無意識に寝返りを打とうとしたのか、全身の至るところに走った痛みにスィンはゆっくりと眼を開けた。

 ぼんやりとする視界を、まばたきではっきりさせる。すると、暗い中でぼんやりと、見たことのある音素灯が淡い明滅を繰り返していた。

 かけられていた備え付けのシーツを剥がして起き上がる。体に巻かれた包帯はにじんだ血と汗でひどい有様となっていたが、あまり気に止めないで傍らに置いてあったシャツを拝借した。

 明らかに大きいそれに袖を通すと、かすかな体臭と香水の残り香が鼻をくすぐる。

 大佐のかこれ、と思いながら、記憶の片隅に残るタルタロスの一室を出た。

 艦橋(ブリッジ)へ続く甲板へ出れば、艦橋(ブリッジ)前でうずくまり顔を覆ったルークと、心配そうに彼を見るミュウの姿が見える。

 あえて駆け寄ろうとはせず、ゆっくりと、音を立てて近寄っていった。

 

「……ルーク、様」

 

 どこか腑抜けたような声に苛立ちを見せるかと思いきや、ルークは顔を上げて「スィンか……」と呟くだけだった。

 

「ルーク様」

 

 彼の心情を考えるなら、他の誰かに聞くべきなのかもしれない。しかし、スィンはそれをしなかった。

 

「……お話しください。何が起こったのですか?」

「……アクゼリュスが、崩落した」

 

 自分でも把握しきれていない事柄を、ぽつりぽつりと語り始める。

 アクゼリュスへ赴く前、事前にヴァンから指示があったこと、アクゼリュス坑道の奥にダアト式封咒──イオンにしか開けられない扉があったこと、その向こうに不思議な空間が広がっていたこと、瘴気を消そうとしたそのとき、ヴァンの言葉がきっかけで全身の力が抜けていったこと──

 

「……その後、あのアッシュとかいう奴が皆と来た。師匠はでっかい鳥を呼んで、アッシュを失うわけにはいかないって言って、ティアに生きてほしいって言ってから、アッシュを連れて飛んでいっちまって、それで」

「……今この状況に、陥ったのですね?」

 

 虚ろなルークの声を聞きたくなくて、聞くのが心苦しくて、遮るように言った。

 

「なあ! お前も俺が悪いって言うのか!? 俺はヴァン師匠(せんせい)の言う通りにしただけなんだ、俺は……俺はっ」

 

 スィンの両肩を掴んで激しく揺さぶる。擁護してほしくて、否定してほしくて。

 今までスィンはルークの立場を思い、彼をかばってきた。そんな彼女のやさしい言葉を、ルークは身も蓋もなく欲しがっている。

 うつむき、されるがままにされていたスィンがゆっくりと顔を上げた。

 色の違う瞳に浮かべていたのは、たとえようもない、哀しみ。

 アクゼリュスにて失われた命を思ってか、自己弁護のみを叫ぶルークを思ってか、あるいは他の理由か──それは他ならぬ彼女自身にもわかっていないかもしれない。

 スィンの首が小さく、だが確かにかぶりを振る。

 

「……それは、あなたが一番よくわかっていることです」

 

 口にした瞬間、突き飛ばされた。二人のやりとりをはらはらしながら見守っていたミュウが、悲鳴を洩らしかける。

 腕をかばい、受身が取れなかったスィンはまともに甲板へ叩きつけられた。

 軽く咳き込むスィンに吐血のことを思い出したルークは、それ以上何をするでもなくそっぽを向く。

 

「ルーク様……」

「……」

 

 答える気がないとわかっていても、言わずにはおれなかった。

 

「お願いです。あなたの目で現実を見つめてください。何が起ころうとも眼をそらさないで、逃げないで……あなたならきっと向き合ってくれる。私はそう、信じています」

 

 沈黙を貫き、ただ泥海の果てを見つめるルークに失礼します、と告げた。

 

「ミュウ、皆は?」

艦橋(ブリッジ)、ですの……」

 

 スィンとルークを心配そうに見るチーグルに、ルーク様をお願い、と囁いた。

 こくこく頷くミュウを見、艦橋(ブリッジ)へ続く扉をコンコンコン、と叩く。

 扉を開き、注目している面々の顔触れを確認し、スィンは安堵の息をついた。

 

「よかった。みんな無事だ……」

「スィン!」

 

 扉のすぐそばにいたアニスではなく、ナタリアが駆け寄ってくる。

 

「起きて大丈夫なのですか? 今様子を見に行こうとしていたのですが……」

「ご心配おかけしました、もう大丈夫です。……そうだ、アニス」

 

 ナタリアに一度頷いてから、スィンはアニスに向き直った。

 

「何々?」

「ごめんね。おぼろげにしか覚えてないけど、思い切り突き飛ばしちゃって……も少しやさしく押し退けようと思ってたんだけど、間に合いそうになくて」

 

 怪我しなかった? と問えば、アニスの大きな瞳がうるうると潤んでいく。

 

「アニス?」

「……馬鹿! なに人の心配してるのよぅ。あんなに血ぃ吐いて、あたしもうスィンが死んじゃうのかと……!」

 

 後半は言葉にならず、スィンに抱きついて嗚咽をとめようとしている少女に、彼女はそっと抱擁を返した。

 

「……ありがと、アニス」

 

 緊張の糸が途切れたのか、そのまま泣きじゃくる少女をイオンに任せ、スィンはジェイドに向かってぶかぶかのシャツを示している。

 

「借ります。洗って返しますね」

「……どうして私のものかとわかったのかはさておいて、休んでいなくてもよろしいのですか?」

 

 加齢臭がしたから、という要らない一言を、スィンは直前でどうにか堪えた。

 

「大丈夫ですよ。さっきたっぷり寝ましたから。ところで、ティアにガイ兄様、顔色が悪いけど……」

 

 なんでもない、と口をそろえて答える二人に、遠慮がちを装って尋ねる。

 

「……ルーク様のこと、ですか」

「スィン。今はあんな奴のこと言わないで」

 

 答えたのはガイでもティアでもなく、ごしごしと目元を拭っているアニスだった。

 

「どうして」

「どうしても! アクゼリュスを崩落させておいて、あたしたちには何も話さなかったくせに『俺は悪くない』? 冗談じゃないわよ!」

 

 挙句にイオン様まで、と不平を呟く彼女を見て、なんとなく何があったのかを察する。

 今ここで彼の弁護をしても、おそらく何もならない。一度閉口して、別の話題を取り出した。

 

「……一応聞いておくけど。僕の発作止め知らない?」

 

 全員が一瞬、硬直して見えた。

 

「さっき荷袋確かめたんだけど、あれだけが見当たらなくて。誰か知らない?」

 

 無邪気を装って尋ねるも、スィンと眼を合わせようとする者はいない。沈黙を返事と受け取って、彼女は小さくため息をついた。

 

「……知らない、かあ。やっぱなくしちゃったのかな」

「スィン」

 

 ふとジェイドに呼ばれ、目を合わせる。「ジェイド!」とガイが声を上げるも、彼は気にかけなかった。

 

「あれの中身を調べさせてもらいました」

「……で、有毒と判断して棄てた?」

「そのとおりです」

「嘘ばっかり」

 

 半眼になって言い切ったスィンが、驚愕の視線を浴びながら早足でジェイドに歩み寄る。

 

「あなたから匂いがします。疑うなら身体検査してもかまいませんよね」

「……犬ですか」

 

 嘆息しているジェイドの懐に思いきって手を入れようとして、さっと逃げられた。

 

「カンベンしてくださいよ……残りはもうほんのわずかなんですから」

「スィン! あなた何を考えていますの!?」

 

 もう一度手を伸ばしたところで、ナタリアに遮られる。

 

「何って……」

「大佐から聞きましたわ。あの発作止めは正規の薬草を用いたものではなく、毒草をいくつも代用しているとのことではありませんか! 自分から毒を摂取するなんて、正気の沙汰では……」

 

 何の前触れもなくスィンの手が振り上げられた。

 ナタリアを叩くかと思われた手だったが、彼女の頬へ迫るずっと前に、力なく下ろされる。

 

「……どのように思ってくださっても結構です。でも僕は、ただ生き長らえるより、自分らしく生きたい。それだけだから……お気になさらないで」

「でも、あんなに血を吐いたのに。つらくないの……?」

「今に始まったことじゃないし、あれを摂らないと、もっと頻繁に血を吐くことになるんだよ」

 

 アニスの問いに対し、さらっと呟かれた衝撃の事実にガイが口を開ける前に、スィンはタルタロスの計器類を指した。

 

「何か反応しているようですが」

「非常に強い音素反応を感知しています。このまま西の方向です」

「多分、それがユリアシティです」

「ユリアシティ?」

 

 唯一ティアの説明を受けていなかったスィンに、かわるがわるここがどこなのかを説明していくうちに、ナタリアがタルタロスのモニターをさした。

 

「何か見えて来ましたわ!」

 

 確かに、今までは行けども行けども禍々しい泥の海と同じような色の空しかなかったのに、巨大な浮島のような街とその街に降り注ぐベールのようなものが徐々に姿を現していく。

 

「……あれって、滝!?」

「外殻の海水が落ちて、大瀑布になっているの。街はその奥よ」

 

 アニスの言葉を受け、ティアがそう答えた。外殻とここ──魔界をつなぐ場所といえば、今しがた崩落したアクゼリュスを除けばひとつしかない。

 何度か来ているのに、初めて見るユリアシティの外観を複雑そうに見ているスィンには気づかず、ガイが尋ねている。

 

「タルタロスなんて、水圧で潰されるんじゃないか?」

「大丈夫よ。地面に近いところは水分が気化しているから」

 

 気化……となると、外殻と魔界はどれだけ離れているのだろうか。

 ここへ来る道はユリアロードしかないから、考えたこともなかった。

 

「では入港しますよ」

 

 ジェイドの言葉に再びモニターを見れば、タルタロスが薄い霧のカーテンを潜り抜けて接岸しているところだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十四唱——真実はどのような刃よりも鋭かった

 

 

 

 

 ティアに先導され、小さな港から街へ移動する。

 ガラン、としていながら、街そのものが巨大な施設であるかのような、そんな印象を与える半円球の天井を見ながら、アニスが感嘆の吐息を吐いた。

 

「ふぇ……! これがユリアシティ?」

「ええ。奥に市長がいるわ。行きましょう」

 

 ティアに先導され、一行が歩んでいく。

 最後尾を歩いていたルークがふと立ち止まり、それに気づいたミュウがちょこちょこと傍へ歩んだ。

 同じように立ち止まっていたスィンが、一行の背中が遠くなっていくのを確認して振り返る。

 

「ルーク様、行かれないのですか?」

「……どうせみんな俺を責めるばっかなんだ。行きたくねぇ」

 

 ふてくされたように、彼は言った。察するに、皆から相当責められたのが堪えているのだろう。

 アクゼリュスの崩落を招いたことなのか、彼の態度を問題にしてのことか。おそらく後者だろうと思われた。預言(スコア)のこともあるのだから、ルークの危惧するようなことは多分ない。

 それを隠しつつ、どうやって説得しようかと考えて。ルークの背後に見えた人影にスィンは眼を見開いた。

 直後。

 

「とことん屑だな! 出来損ない!」

 

 叩きつけるような怒声に反応して、ルークは振り返り人影を確認した。

 

「……お、おまえ!」

 

 表向き悠然と歩み寄ってくるアッシュの表情は、依然見たものよりもつりあがっているように見える。

 

「どうしておまえがここにいる! 師匠(せんせい)はどうした!」

「はっ! 裏切られてもまだ『師匠(せんせい)』か」

 

 心底呆れたようなその意見に、ルークはぶるっ、と体を震わせた。

 

「……裏切った……? じゃあ本当に師匠(せんせい)は、俺にアクゼリュスを……」

「くそっ! 俺がもっと早く、アクゼリュスにたどり着いていれば、こんなことにはっ!」

 

 己の不手際をなじるように吐き棄てながらも、彼はルークに向き直る。

 

「おまえもおまえだ! 何故深く考えもしないで超振動を使った!?」

「お、お前まで俺が悪いって言うのか!」

「悪いに決まってるだろうが! ふざけたことを言うな!」

 

 立て続けに責められたことも関係してか、ルークは駄々っ子のように喚いた。

 

「俺は悪くねぇっ! 俺は悪くねぇっ! 俺は……!」

「冗談じゃねぇっ! レプリカってのは、脳みそまで劣化してるのか!?」

 

 往生際の悪いもう一人の自分の姿に耐え切れなくなったか、アッシュはちらりとスィンに視線を走らせる。

 ルークはその単語を聞いて息を呑んだ。

 

「レプリカ? そういえば、師匠(せんせい)もレプリカって……」

 

 その呟きを耳に入れ、アッシュは驚いたのと同時に口元を歪ませている。

 

「……おまえ、まだ気づいてなかったのか! はっ、こいつはお笑い種だな!」

「な、なんだ……! 何なんだよ!」

「教えてやるよ。『ルーク』」

 

 止めたい。彼のそんな顔は見たくない。が──スィンにその言葉を遮る権利はない。

 おろおろと事の成り行きを見守っているミュウと同じく黙して、その先の展開を見据えた。

 

「俺とおまえ、どうして同じ顔をしてると思う?」

「……し、知るかよ」

 

 だよな、と言わんばかりに、アッシュは笑みを深めている。けして爽やかなものではない、どこからどう見ても邪悪だ。

 一言一言、ルークに理解させるためだけに、ゆっくりと話していく。

 

「俺は、バチカル生まれの貴族なんだ。七年前に、ヴァンて悪党に誘拐されたんだよ」

「……ま……さか……」

 

 血の気がひいていくルークに、アッシュは決定的な一言を放った。

 

「そうだよ! おまえは俺の劣化複写人間だ。ただのレプリカなんだよ!」

「う……嘘だ……! 嘘だ嘘だ嘘だっ!」

 

 一時的な錯乱状態に陥ったのだろう。ただひたすら否定を叫び、ルークは剣を引き抜いた。

 

「……やるのか? レプリカ」

 

 抜かれた剣を一瞥し、アッシュが笑みを消す。

 情けない自分の写し身を叩きのめすいい機会だとでも思っているのか、やる気満々になっていた。

 

「嘘をつくなぁっ!」

 

 己の存在を否定されて、それを拒むルーク。そのルークに居場所を奪われ、激しい憎しみをあらわとしているアッシュ。

 鏡合わせのように対峙した二人は──戦いを始めた。

 口火を切ったのはルークだったが、アッシュはそれを簡単にいなして攻撃に転じている。

 激しい剣戟が周囲をこだまするも、先を行った一行がそれに気づいて戻ってくる様子はない。

 

 ──正直な話、勝敗は目に見えていた。

 

 これまで潜り抜けてきた修羅場は、圧倒的にアッシュが勝っている。同じ人物の稽古を受けてきたとはいえ、状況にはあまりにも差がありすぎた。

 二人が積む修練の差もあるが、何よりルークは一人で戦うことに慣れていない。否、慣れていないどころではなく、記憶が正しければこれでやっと二回目だった気がする。

 人を斬ることに躊躇を覚えなくなったことが最大の救いかもしれないが、目の前の人物相手に、それは最低限の条件でもあった。

 烈破掌によって吹き飛ばされ、床に転がったルークに、アッシュが剣を突きつける。幾分自嘲気味に何かを言っているが、戦闘、否、決闘が始まった時点でミュウを伴い避難していたスィンには聞こえない。

 アッシュが剣を振り上げ、ルークは脱力したように床へ崩れ落ちた。

 

「ご主人様!?」

 

 ルークが気を失ったのを見て、スィンはしゃがみこむとミュウの背を押した。

 

「……ミュウ、皆を呼んできて」

「わ、わかりましたですの!」

 

 飛び跳ねるように去っていくミュウの背も見ず、剣を振りかぶったアッシュに抜刀しないまま、肉薄する。

 

「……!?」

「獅子戦吼!」

 

 間合いをつめると同時に獅子の顔をした闘気を放った。すんでのところで飛び退ったアッシュを捨て置き、ルークの傍らへ跪く。

 

「ルーク様!」

 

 数回頬を叩いて目を覚まさないことを知り、呼吸を確認、脈を取って正常であることを確認する。

 とりあえず死んでいないということを確認して振り仰げば、戸惑ったようなアッシュがいた。

 

「……色々思うことも、言いたいこともあると思うけど、今の僕はスィンだ。それを忘れないで」

 

 数人の足音が聞こえて顔を上げれば、一行がミュウを伴い走ってくるのが見えた。

 立ち上がり、ミュウを抱えたティアに駆け寄る。

 

「一体何が……」

「──ルーク様が倒れた! ティア、どこかに休めるような場所ない?」

 

 最優先事項とばかりにそれを言い、ティアが自分の部屋に連れて行くよう提案する。

 ガイがルークを担ぎ上げ、歩きながらも起こった出来事を簡潔に、少し混乱する素振りを加えながら説明した。

 アッシュからの視線がちくちくと痛いが、やむをえない。

 ルークをティアの部屋へ運び、アッシュを交えて戻る方法を検討。アッシュがタルタロスを使いたいからと、タルタロスごと外殻大地へ戻る方法を提案。ティアを除いた全員がそれに従い、唯一ここへ残る彼女が市長──ティアの祖父にそれを進言するという。

 

 

 後はアッシュと市長の対談を残すのみとなり、各々が時間まで自由行動となった時。スィンは誰一人近寄らなかったティアの部屋へ、主人の許可をもらって入室していた。

 ほどなくして、スィンの居所を聞きつけたアッシュがやってくる。

 スィンは、ルークから片時も傍を離れないミュウを第一音素譜歌(ナイトメア・ララバイ)で寝かしつけている最中だった。

 

「……さてアッシュ。何を聞きたい?」

 

 ミュウがころん、と転がって寝息を立て始めたそのとき。スィンは初めてアッシュと向き直った。

 

「……おまえ……本当にシア、なのか?」

「それを疑うなら、話すことは何もない」

 

 ルークを責めたてていた彼と、とても同一人物には思えない様子に、軽くため息をつく。

 

「いつから入れ替わってたんだ? どっちが本当のあんたなんだ」

「シアがちょっとした手品で姿を変えて、僕になっている。名前は……こっちが本物」

 

 シアも別に偽名じゃないけど、と付け加えれば、彼はまじまじとスィンを見つめた。

 

「……じゃあ、ガイと兄妹っていうのは嘘「答えない。君に嘘をつきたくないし、今この状況じゃ関係ないし」

 

 ガイとの関係に関する質問を一切拒絶すると、彼はあきらめたようにふぅっ、と息を吐いている。

 

「……結局、アクゼリュスでの気がかりはなんだったんだ。どうしてこのレプリカを止めなかった」

「気がかりは他でもない、パッセージリングのことだよ。預言(スコア)に詠まれている以上、覆すのは難しいだろうとは思ってはいたけど……」

 

 以前はスィンも、ルークさえ押さえておけばどうにかなるだろうとは思っていたのだが。バチカルで更なる詳細を求め預言(スコア)を詠み、その考えは変わった。

 いわく、パッセージリングは長い年月を経て老朽化しており、稼動寿命が迫ってきているのだという。

 まさかと思いながらアクゼリュスにたどり着き、救助の合間に譜術による探索を使い、ダアト式封咒を解くことなくパッセージリングを観察した。

 ──結果、かの音機関はすでに限界寸前へ達していた。ルークをとどめようととどめまいと、パッセージリングは崩壊していた運命にある。

 

「……ルークを行かせたのは、ヴァンをだましておきたかったからだ。僕が叛旗を翻したこと、まだ隠しておきたかったから」

 

 黙して話を聞き入っていたアッシュの顔を覗き込んで、スィンは言った。

 

「信じろとは言わない。信じてもらうために話したわけじゃないから」

「……別に、疑ってねぇ。ケセドニアに転送とかいう話は……」

「君の手引きでケセドニアに滞在したとき、手を打っておいた。坑道にいた人たち以外は送ったけど、成功したか失敗したかはわからない。だからルークにこの話はしないで」

 

 最後の一言を受けて、アッシュは鼻で笑っている。

 

「この状態じゃ、話したところで聞こえやしないだろ」

「まあそうなんだけどね」

 

 他に質問はないか尋ねてから、スィンは覚悟を決めたような顔でアッシュを見上げた。

 拳がぎゅっ、と握りしめられている。

 

「……折り入って、頼みがある」

「なんだ?」

「君の感覚を、ルークに貸してあげてほしい」

 

 それを聞き、アッシュは目を見開いて硬直した。

 

「……こいつと、また回線を繋げろ、と? お断りだ! こんなレプリカ野郎に……!」

 

 嫌悪もあらわに拒絶するアッシュを、スィンは寂しそうに見つめている。

 

「……わかった」

 

 それ以上何かを言い募ることはせず、スィンはただそれだけを言った。

 ただ自分を見つめる視線から逃れることができず、アッシュは長い沈黙の後、抗うように尋ねてくる。

 

「……理由くらい話してくれるんだろうな?」

「必要なことだから。君ではない君ってこともあるし、君の居場所でもあった立場で『ファブレ公爵子息ルーク』としてキムラスカの王と直接話すことができる。これから先起こることを予想していくと、『ルーク』がいないのは痛い。君との連携も取れなくなる……君は僕たちとずっと行動を共にする気はないんだろ?」

 

 今まで彼に仕えたスィンとしても、建前上ルーク『様』に立ち直ってほしい、と話したところで、彼女は自嘲気味に微笑んだ。

 

「もっとも、君が嫌がるならどうあったって強制はできない。これから起こることも、自分には関係ないって言うなら、それも仕方がないけど……」

 

 それはどこか、ルークのオリジナルだから同じようなことを言い出すのではないか、という考えの現れのようでもあって。アッシュは即座に否定していた。

 

「こいつじゃあるまいし、俺は関係ないなんて思わない! 確かに、あんたならともかく、あいつらやレプリカと馴れ合う気はないが……」

「ありがとう、嬉しいよ。でも人見知りはよくないよ」

「やかましい!」

 

 結局彼は、しぶしぶながらスィンの望みを叶えた。

 

「みんなはもちろん、ルーク様にも僕のことは黙っておきたいから、ルーク様が君とつながっている限り、君の前でもスィンでいるからね。君もスィンとして接してよ」

 

 ありがとう、と感謝を述べながらもしっかりとクギをさす。もうすでにスィンに対しての反応となっているのか、彼はしっしっ、と手を振った。

 ぐったりと寝台に身を預けているルークにアッシュが向き直り、スィンはミュウの頭に手を置いて揺り起こす。

 ぴょこんと跳ね起きて、自分がルークのそばにいることを確認したミュウがほっ、と息をつくのと同時にまた心配そうな目で彼を見つめていた。

 やがて、階下から足音が聞こえてきたかと思うと、ティアが顔をのぞかせる。

 

「スィン。ルークの様子はどう?」

「……眠ってる、のかな。異常はないみたいだけど、意識だけ戻ってこない」

「そう……」

 

 それはそうと、とばかりに、ティアはルークと回線をつないでいる最中のアッシュに話しかけた。

 

「アッシュ、市長に話は通したわ。会議室にいるから、話の詳細を……」

 

 アッシュからの反応は当然のことながら皆無である。スィンはあわてて話題をそらした。

 

「ティアは、ここに残るんだよね?」

「ええ。私が皆と外殻へ戻っても意味がないから……聞いているの、アッシュ!」

「聞いている。大声を出すな」

 

 終わったらしい。彼はいつも以上にむすっとして見える表情でティアに応じた。

 

「とにかくタルタロスの打ち上げに関しては市長に……お祖父様にお話して」

 

 わずかに戸惑ったようなティアがそう言って、自分の部屋から退室していく。

 おそらくルークに状況の説明をしているのだろう。黙してルークを見やるアッシュから眼を外して、スィンは立ち上がった。

 

「ミュウ、ルーク様のこと、頼むね」

「スィンさん、行っちゃうですの?」

 

 つぶらな瞳にいっぱいの寂寥を乗せているミュウの頭を軽く撫ぜる。

 懐かしいような、くすぐったいような。なんともいえない感覚にスィンは眼を閉じた。

 

「ここにいても、なーんにもできないからね……ガイ兄様も戻られるというし」

 

 退室していくアッシュの後を追うように、ティアの家から出る。

 どこか苦虫を噛み潰したような表情の彼の後をついていくと、ガイに声をかけられた。

 

「スィン。ルークの具合は?」

「お眠りになっている状態に近いようです。特に異常は見られないのですが、意識が戻る気配がなくて……」

 

 そうか、と彼は軽く頷いている。

 

「なら、やっぱり戻ったほうがいいな。ルークのことはティアとミュウに任せよう」

「はい」

 

 アッシュが会議室のほうへ行ったことを確認し、そのままガイとこれからのことを相談していると。他の皆を伴ったアッシュが姿を現した。

 

「……準備が整った。行くぞ」

 

 ぶっきらぼうに告げられる言葉を首肯で返し、港へ赴く一行に加わる。その際、アニスがこっそりと呟いた。

 

「正体不明の『鮮血のアッシュ』が、バチカルのお貴族様とはね~」

「なにアニス。一緒に行くって事は、ルーク様からアッシュに乗り換える?」

「冗談! あたしはイオン様についていくだけだもん。ルークもあ~んなお馬鹿さんとは思わなかったし。お金持ちでも馬鹿はちょっとね~」

 

 先を行くアッシュの肩がぴくり、と震える。

 それを視界の端に収め、スィンは意外そうにアニスに応じた。

 

「馬鹿だと駄目?」

「駄目駄目! 私は理知的な人がい~の! 例えば大佐みたいな……」

 

 さりげなく大佐にアピールしているらしいアニスから眼をそらして、「アニスって変わってるね」と呟く。

 

「あら、どうしてですの? 好みは人それぞれですのに」

「馬鹿の方が何かと扱いやすいだろうに」

 

 ナタリアの問いに答えるように言いのけたスィンに、一行の空気がぴし、と固まったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十五唱——盛大な音たてて、歯車が狂いゆく

 

 

 

 タルタロスに乗り込み、少ない総員が配置につく。

 

「これだけの陸艦を、たった五人で動かせるのか?」

「最低限の移動だけですがね」

 

 瘴気を吸い込んだ兵士たちの吐血痕が残る、おせじにも綺麗とは言えない艦橋(ブリッジ)内にて。アッシュの問いを、ジェイドはこういうとき巨大陸艦とは不便だ、と言いたげに返した。

 

「ねえ、セフィロトってあたしたちの外殻大地を支えてる柱なんだよね。それでどうやって上に上がるの?」

「セフィロトというのは、星の音素が集中し、記憶粒子(セルパーティクル)が吹き上げている場所です。この記憶粒子(セルパーティクル)の吹き上げを人為的に強力にした物が『セフィロトツリー』つまり柱です」

 

 もっともなアニスの問いに、イオンがそう返している。

 

「要するに、記憶粒子(セルパーティクル)に押し上げられるんだな」

 

 わずかに半信半疑といった様子のガイに、ジェイドが詳細な説明を語った。

 もっともこの案は、アッシュが提案したものだが。

 

「一時的にセフィロトを活性化し、吹き上げた記憶粒子(セルパーティクル)をタルタロスの帆で受けます」

「無事に行くといいのですけれど」

 

 感覚から言えば、天へ昇るのと同じ心地なのだ。彼女の不安は皆が思うところだろう。

 提案者と、以前その彼にセフィロトツリーの知識を刷り込んだ人物以外は。

 

「……心配するな。始めろ!」

 

 ナタリアの不安を杞憂とするべく、アッシュがどこまでも不遜に号令をかけた。その言葉を受け、ジェイドが音素活性化装置を起動させる。

 遠くでかすかな音がしたかと思うと、装置によって一時的に活性化したセフィロトが、かつてと同じように大量の記憶粒子(セルパーティクル)を吹き上げ始めた。

 タルタロスの帆が、記憶粒子(セルパーティクル)を満たしていく。陸艦は魔界の海から押し上げられ、急激な上昇を開始した。

 光の大樹と化したセフィロトツリーの、次々と生まれる枝に翻弄されながら──傍からは長大な滝に翻弄されている木の葉のように見えたタルタロスは、持ち前の頑丈さが幸いしてか、やがて無事に外殻の青い海へ着水する。

 モニターに映る青い空を確認し、心なしかジェイドがほっとしたように呟いた。

 

「うまく上がれたようですね」

「ここが空中にあるだなんて、信じられませんわね……」

 

 タルタロスに装備されている重力制御装置のおかげで、健在だった彼らの心情を、ナタリアが代表して吐息をついている。

 

「それで? タルタロスをどこにつけるんだ?」

 

 彼にしては珍しく、どこか投げ遣りに尋ねるガイにアッシュが目的地を答えた。

 

「ヴァンが頻繁にベルケンドの第一音機関研究所へ行っている。そこで情報を収集する」

「主席総長が?」

「俺はヴァンの目的を誤解していた。奴の本当の目的を知るためには、奴の行動を洗う必要がある」

 

 的を射た意見ではあるが、アニスには事情がある。そのアッシュに対し、言いにくそうに、しかしはっきりと彼女は異議を唱えた。

 

「あたしとイオン様はダアトに帰して欲しいんだけど」

「こちらの用が済めば帰してやる。俺はタルタロスを動かす人間が欲しいだけだ」

 

 知識さえあればどうでもいい、と言わんばかりの彼に──実際そうなのだろうが──カチンときたかどうかはわからないが、ガイが皮肉げに、聞こえるように呟いた。

 

「自分の部下を使えばいいだろうに」

「ガイ兄様。それではアッシュの行動がヴァン謡将に把握されてしまいます」

 

 一応彼らは敵対していると考えていいのでは? と続けるスィンに同意するように、アッシュは頷いた。味方するように、ナタリアも続ける。

 

「いいじゃありませんの。わたくしたちだって、ヴァンの目的を探る必要があると思いますわ」

「ナタリアの言う通りです」

 

 イオンの同意に、アニスはしぶしぶ、といった表情になった。

 

「……イオン様がそう言うなら、協力しますけどぉ」

「私も知りたいことがありますからね。少しの間、アッシュに協力するつもりですよ」

 

 彼らの肯定的な言葉に、ガイは不機嫌そうにしていたものの、それ以上言葉を発しようとはしない。

 

「ベルケンドはここから東だ。さあ、手伝え」

 

 タルタロスを旋回し、東の方向に向かって進めていく。制御が一通り安定してきたところで、スィンが席から立ち上がった。

 

「ちょっと、席外しますね」

「かまいませんが……どうしたんです?」

「──別に」

 

 不思議そうな視線を背中に受け、なんでもないような素振りで艦橋(ブリッジ)を出る。

 甲板へ出たそのとき、スィンは口を覆って我慢していた咳を繰り返した。

 あれから、発作止め──鎮痛剤の摂取ができなくなったせいで、痛みがさっぱり治まってくれないのだ。

 ガイはアッシュに対し思うことがあるのだからそれを和らげないといけないのに、口がまったく回ってくれない。

 咳が収まったため手を外せば、新たな鮮血が手を汚していた。広がる大海原にドス黒い赤を払い落とす。──と、扉が開いて誰かが出てきた。

 複数の足音。振り返れば、ジェイドをのぞく全員がそこにいる。

 

「目的地が決まったのなら、ある程度はタルタロスの自動航行機能で代用できるから、休憩を取れ、だそうだ」

「ふーん……」

 

 不思議そうな顔をしているスィンに、アッシュがそう説明した。そんなものがあるなら最初から使え、と言わんばかりの彼からさりげなく風下へ移動する。

 

「それなら、アッシュの言う『タルタロスを動かす人員』は別にいらないんじゃ」

「航行だけなら問題ないが、発着に関しては必要最低限の人員を必要とするらしい」

「そっかあ。やっぱり小回りのきかない巨大戦艦は面倒だね」

 

 違いない、というアッシュの同意は、アニスの「やったー!」という言葉に消された。

 

「どしたの、アニス」

「今、アッシュに敬語使わなかったよね?」

「うん、ふつーに話したけど……」

 

 スィンの言質をとり、アニスはにんまりとほくそ笑む。それ以上質問に答えず、彼女は艦橋(ブリッジ)へ走った。

 

「大佐―! 私の勝ちでーす!」

 

 何がなんだかさっぱりわからないスィンに、ガイが苦笑交じりで説明を始める。

 

「本当のルークだったアッシュに、お前が敬語を使うか使わないか、ジェイドと賭けてたらしいんだよ」

「……なんていうか、マイペースな人たちですね」

 

 こういうときだからこそ、なのかもしれないが、それがわかっていても呆れざるをえなかった。

 そこはかとなく不機嫌な顔をしているアッシュを一瞥してから船室へ移動しようとして、ナタリアに呼び止められる。

 

「そういえばスィン、野暮用とはなんですの?」

「──大佐に借りたシャツ、まだ洗っていなかったので」

 

 簡潔に答えて立ち去るスィンの背中を見送り、ガイは軽くため息をついた。

 

「どうかしましたか、ガイ?」

「……血の匂い」

 

 イオンの問いに、ぼそりと呟かれた言葉は、潮風に流される。

 

「え?」

「いや、なんでもないよ」

 

 スィンの後を追って去るガイを不思議そうに見つめている二人を見つつ、アッシュはガイの言葉をいぶかしげに反復していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベルケンド港にたどり着き、いの一番に下船したアッシュに、ナタリアは懐かしそうに語りかけた。

 

「確かベルケンドは、あなたのお父様の領地でしたわね。昔二人でベルケンドの……」

「……街は南だ。行くぞ」

「アッシュ……」

 

 ナタリアの言葉を振り払うように歩き出したアッシュの傍へ行き、スィンは「どうかした?」と声をかけた。

 

「別に……」

「まさかとは思うけど、誘拐された先ってここのこと?」

 

 その言葉に、アッシュは驚いたような顔をしてパッ、と振り仰いだ。

 

「──知らないのか?」

「あのね。当時僕はナタリア様の傍仕えだったんだよ? 君が誘拐されたもんだから、『わたくしも捜査隊に加わります!』って息巻くナタリア様のお世話に四苦八苦してた。僕が代わりに行くってことで、結局コーラル城でのルーク様発見時には同行してたけど、詳細は知らないの」

 

 無論、シアとしては事の次第を把握している。が、今の自分はスィン・セシルだ。スィンとしては、こう考えるが妥当だと判断した結果である。

 それを察したか、理解できなかったか定かではないが、取り合わないことにしたらしい。

 アッシュはそれに答えることなく、再び舗装された街道を歩き始めた。軽く肩をすくめてそれに続いたスィンに、ナタリアがすすっ、と寄ってくる。

 

「どうかされましたか?」

「あの……スィンはどうして、アッシュに敬語を使いませんの?」

 

 自分でも言い方がおかしいとわかっているのか、言葉を捜しながらたずねるナタリアに、スィンは即答した。

 

「彼がアッシュだから、ですが?」

「でもアッシュは、本当の……」

 

 ああ、そういうこと。

 ナタリアの言わんことを事前に察し、スィンは続く言葉を押しとどめるようにナタリアと向き直る。

 アッシュ──ルークにも届いているはずのこの言葉を、ナタリアのものとして届けるわけにはいかなかった。

 

「ルーク様だ、とでも言いたいんですか? なら今のルーク様は誰です? 偽者、なんですか?」

 

 ストレート過ぎたか、「そんなことは!」と否定するナタリアに、眼を細めてみせる。

 

「確かにアッシュは、僕が子守役としてお仕えしたルーク様です。が、それは九年以上前の話。今彼がアッシュとして生きている以上、望んでいるならともかく、そのように接してはかえって失礼だと思いますよ」

「……それは、そうかもしれませんが……」

 

 まだ納得していないようなナタリアが、不意に足を止める。それに気づいて、アッシュが不機嫌そうな顔を二人に向けた。

 

「何をコソコソ話してるんだ?」

「女同士の内緒話」

 

 たじろいでいるナタリアに何かを言わせようとはせず、しれっとした様子でスィンが受け流す。それ以上何かを洩らすような愚は冒さない。

 

「……フン」

 

 追求を諦め、街道を進むアッシュの背を見送り、スィンは気づかれないよう小さく嘆息した。

 確かに、二人の思い出の中には、ナタリアが懐かしむような微笑ましい思い出の一つや二つ、あったのかもしれない。だが、アッシュ──当時のルークにとってここは鬼門でもあった。

 幼い彼には途方もない苦痛をもたらした超振動に関連する実験を受け続けていた地、という印象が、ただでさえ淡い思い出を打ち負かしてしまったのだろう。

 ナタリアとアッシュの会話を、ひどく冷めた目で見守っていたガイのこともある。彼がいつルークの元へ行くと言い出すか、それともやはり自分が行くべきか、つらつらと思考しながらも、スィンはベルケンドへ進む一行の後を追った。

 

 

 

 

 




セフィロトツリーに押し上げられる際、みんなが無傷だったっていうことにいちばん驚きました。
だって船体あれだけガンガン揺さぶられたら、運が良くて全身打撲だと思うんですよねー。
イオンはどうやって耐えたのだろう(イベント処理につっこんではいけない)
それはさておき、ここらあたりは。人間っていうのは何を指して人間と呼ぶのか、ひどく考えさせられます。


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第三十六唱——暴かれし罪を前に、抗うは愚かなことか

 

 

 音機関都市と呼ばれるベルケンドには、生活に必要な雑貨を取り揃えた店が少なく、大小様々な数多くの音機関研究施設が立ち並んでいる。

 しかしアッシュは迷いない足取りで、第一音機関研究所の扉をくぐった。

 

「……そっか。ここ、ヴァン謡将が全権を任されてるんだっけ」

「知ってるのか?」

 

 耳ざとくスィンの呟きを聞きつけたアッシュの問いに、彼女は懐かしそうに周囲を見回しながら答えた。

 

「まあね。ディストがここの所長だっけか? 持病のこと話したら、ここに所属している医師が世界最高レベルの人だって、紹介してもらったことがある。発作止めの調合法もその人に教えてもらったんだけど、薬がもう高価(たか)いのなんのって。成分表もらって類似品作れたからよかったけど……」

 

 持病、と聞いていぶかしげにしているアッシュに気を取られていると、ナタリアがしっかりとスィンの腕を掴む。

 

「何か?」

「ちょうどいい機会ではありませんか。診てきてもらいなさい」

 

 有無を言わさぬその一言に、スィンがどうやって断ろうか思案していると、それに気づいたガイが逃げ場を塞いできた。

 

「俺もナタリアに賛成だ。せっかくベルケンドへ来たんだし、もののついでだ。診てもらってこい」

「ガイ兄様まで何を仰ってるんですか? ほら、アッシュがいつも以上に顔をしかめてますよ」

 

 足の止まった一行を急かすように見ているアッシュを指す。

 が、何を思ったのか、アッシュは同意してくれなかった。

 

「……別に構わない」

「へ?」

「詳細は後でガイにでも教えてもらえばいいだろう。とっとと行ってこい」

 

 くるりと背を向け、スタスタと奥へ行く。

「ちゃんと診てもらうのですよ!」とナタリアが念を押し、彼らはアッシュを追って行ってしまった。

 ただし、ガイだけが残っている。

 

「……行かれないのですか?」

「俺はお前の診察が終わった時点で、抜けることにする」

 

 唐突に囁かれたその一言に、スィンは特に驚きも見せないで返した。

 

「ルークのことですね?」

「ああ。もう俺がみんなと行動する意味はないからな。お前は、アッシュを監視してくれ」

 

 かしこまりました、と了承するとガイは駆け足で一行を追い、入り口付近にて、ぽつんとスィンだけが残る。

 

「……」

 

 ぽりぽりと頬を掻いたのち、スィンは医務室の扉を叩いた。

 確かにここの医師とは顔見知りだ。ヴァンがいなくても診察はしてくれるだろうが、問題は薬代のほうである。

 応答を聞いて医務室へ足を踏み入れた。白衣を着た人物がくるりと振り返る。

 ご無沙汰してます、と頭を下げてから、診察は頼まないで薬の処方だけを依頼すれば、シュウ医師は訳知り顔で頷いてくれた。

 手持ちのガルドが許してくれる限りの代金を置くと、一行を追うべく退室する。スィンの持病に合わせて作られた薬のため、用意するのに時間がかかるのだ。

 一行の足跡を追ってレプリカ研究施設へ入ると、奥まった場所で老人の驚愕が聞こえた。

 

「お前さんはルーク!? いや……アッシュ……か?」

 

 見れば、一行はその老人の前にいる。研究者たちの間をすり抜けていけば、会話が聞き取れた。

 

「はっ、キムラスカの裏切り者がまだぬけぬけとこの街にいるとはな……笑わせる」

「裏切り者って、どういうことですの?」

 

 尋常ではない単語を聞き、ナタリアが聞けば、アッシュは苦々しくそれに答えている。

 

「こいつは……俺の誘拐に一枚噛んでいやがったのさ」

 

 まさか。ジェイドが呟いた。

 

「フォミクリーの禁忌に手を出したのは……!」

「……ジェイド。あんたの予想通りだ」

 

 目の保護にしては、一風変わったゴーグルを装着した老研究者が、その名を聞いてよくわからない顔色を変えている。

 

「ジェイド! 死霊使い(ネクロマンサー)ジェイド!」

「フォミクリーを生物に転用することは、禁じられた筈ですよ」

 

 彼の驚愕などどこ吹く風で、ジェイドは淡々と事実を告げた。が、老研究者はもっと驚く事実を暴露している。

 

「フォミクリーの研究者なら、一度は試したいと思うはずじゃ! あんただってそうじゃろう、ジェイド・カーティス! いや、ジェイド・バルフォア博士! あんたはフォミクリーの生みの親じゃ! 何十体ものレプリカを作ったじゃろう!」

 

 一行に緊張が走ったものの、ジェイドはあわてる様子も見せず、ひどく淡白に認めた。

 

「否定はしませんよ。フォミクリーの原理を考案したのは私ですし」

「ならあんたにわしを責めることはできまい!」

 

 責任転嫁とも思える言葉を、ジェイドは軽く一蹴している。

 

「すみませんねぇ。自分と同じ罪を犯したからといって、相手をかばってやるような傷の舐めあいは趣味ではないんですよ」

 

 ──ジェイドらしい考え方だ、と少なからずスィンは思った。

 

「私は自分の罪を自覚していますよ。だから禁忌としたのです。生物レプリカは、技術的にも道義的にも問題があった。あなたも研究者ならご存知の筈だ。最初の生物レプリカがどんな末路を迎えたか」

「……っ」

 

 最初の、生物レプリカ。お前がそれを言うのか。

 

 診察を断らなくてよかった、誰も自分の存在に気づいていなくてよかった。

 ナタリアに、ガイに、アッシュに、このときばかりは感謝しながら、一行の後ろで人知れず唇を噛んだ。

 スピノザは、いるはずのない味方を失ったかのようにうろたえている。

 

「わ、わしはただ……ヴァン様の仰った保管計画に協力しただけじゃ! レプリカ情報を保存するだけなら……」

「保管計画? どういうことだ」

 

 アッシュがそれを聞くと、スピノザは心底、といった様子で驚いた。

 

「おまえさん、知らなかったのか!」

「いいから説明しろっ!」

 

 声を荒げて情報の開示を求めるも、彼は口を割ろうとしない。

 

「……言えぬ。知っているものとつい口を滑らせてしまったが、これだけは言えぬ」

 

 そのまま貝のように黙ってしまったスピノザに詰め寄ろうとしたアッシュを、駆け寄ったスィンが襟首を掴んで引き止めた。

 

「警備員呼ばれたら面倒だよ。下がろう」

「……ちっ」

 

 スィンの手を払いのけ、大股で研究施設を後にする。その後に続きながら一行はこんな会話を耳にしていた。

 

「いかん。フォミニンが足りなくなってきた。あれがないとレプリカを作れないぞ」

「もうか? 次にワイヨン鏡窟へ採取に行くのはかなり先だぞ」

「あの洞窟は色々便利だが、ラーデシア大陸へ行くのが面倒だよな……」

 

 会話を聞き、アッシュは顎に手を当てて考え込んでいる。

 

「そういえば、スィン。診察の結果はいかがでしたか?」

 

 不意にイオンからそんなことを聞かれ、スィンは生返事気味に返した。事実をそのまま話せば、何名かがうるさい。

 

「簡略に疾患の進行の有無を確かめてもらって、発作止め、処方してもらいました」

「病状の進行はあったのですか?」

「瘴気を吸い込んでいるからそれの影響はありましたが、薬飲めばなんとかなるそうです」

 

 詳細を聞きたそうにしているアッシュから故意に背を向け、医務室に寄って薬を受け取ってくる。

 見せてください、というジェイドの求めに応じれば、彼は少し怪訝そうに首をひねった。

 

「……丸薬、なんですか」

「以前僕が飲んでいたのは、自分で作ったものですよ」

「異様に数が少ないと思うのは、私の気のせいですかねぇ?」

「事実ですよ。それ以上は懐が許してくれなかっただけで」

 

 本当は適宜服用し続ける必要があるものなのだが、一粒の価格が馬鹿にならないため、今回は三日分しか購入できなかったのである。それでも、無いよりはずっとマシだった。

 

「……悪ぃ、俺の財布渡すの忘れてた」

 

 いいんですよ、とガイに笑顔で返す彼女に、アニスが興味本位で価格を尋ねてくる。

 

「ちなみにさ、一日分でいくらになるの?」

「一日分……? 五粒だから、一万だね」

 

 一粒二千ガルド。あまりの高額に、ナタリア以外が言葉を失ったとき、一行は第一音機関研究所の入り口にたどり着いていた。

 

「ヴァンはレプリカ情報を集めて、どうするつもりなのでしょう?」

 

 凍った話題をほぐすように、ナタリアが誰ともなくそれを問えば、アニスが当たり前のことを返す。

 

「そりゃ、レプリカを作るんだとは思うけど……」

 

 それだけでは目的に繋がりようがない。と、そこへアッシュが次の目的地を告げた。

 

「……ワイヨン鏡窟に行く」

「西の、ラーデシア大陸にあるという洞窟にですか? でもどうして……」

「レプリカについて調べるつもりなのでしょう。あそこではフォニミンも取れるようですし。それに……」

 

 珍しく言いよどむジェイドに、ナタリアが聞き返すも、彼は詳細を語ろうとしない。もっともらしい説明付けをして切り抜けた。

 

「それに?」

「……まあ、色々と。ラーデシア大陸ならキムラスカ領。マルクトは手を出せない。ディストは元々マルクトの研究者ですから、フォミクリー技術を盗んで逃げ込むにもいい場所ですね」

「……お喋りはそれぐらいにしろ。行くぞ」

 

 傲岸不遜を絵に描いたようなアッシュの態度に、アニスが軽くむくれている。

 

「……ぶー。行ったほうがいいんですか、イオン様」

「そうですね。今は、大人しく彼の言うことに従いましょう」

 

 それなりにアッシュの性格を知るイオンが、特に何かを思うことはなく、自身の導師守護役(フォンマスターガーディアン)を促した。が。

 

「俺は降りるぜ」

 

 そのとき、今の今まで黙りこくっていたガイがぼそりと切り出した。

 スィンとジェイドと当人を抜かした全員が──アッシュさえも驚愕をあらわとしている。

 

「……どうしてだ、ガイ」

 

 動揺のあまり、声がかすれていた。

 

「ルークが心配なんだ。あいつを迎えに行ってやらないとな。スィンも診てもらったことだし、俺がついていく意味はない」

「呆れた! あんな馬鹿ほっとけばいいのに」

 

 この期に及んでまだルークを擁護するガイに、アニスが心底呆れたといった風情で進言するも、彼にそれを聞く耳はない。

 

「馬鹿だから俺がいないと心配なんだよ。それにあいつなら……立ち直れると、俺は信じてる」

「ガイ! あなたはルークの従者で、親友ではありませんか。本物のルークはここにいますのよ」

 

 どうしても冷たい眼になってしまうスィンの視線にも気づかず、ナタリアはアッシュの側に回ったが、同じことだった。

 

「本物のルークはこいつだろうさ。だけど……俺の親友はあの馬鹿の方なんだよ」

 

 自分では説得不可と察したナタリアが、スィンを見る。

 アッシュに対し、何かと棘があるガイとは違い、スィンは適度に柔らかな対応をしていた。アッシュの側に回ってくれることを期待したのだろうが、スィンはその視線を無視してしっかりとガイを見据えている。

 

「行ってらっしゃいませ、ガイ兄様。ルーク様をよろしくお願いします」

「……信じらんない」

 

 兄妹揃って馬鹿だと言いたげなアニスに、スィンは軽く唇に笑みを刻んで見せた。

 

「ガイ兄様やナタリア様ほどではないけど、アニスよりはルーク様のこと、知ってるつもりだからね。きっと立ち直ってくれるよ、ルーク様なら」

「……その根拠は?」

「ルーク様だから、だよ」

 

 ジェイドからの質問に即答し、呆れてものも言えなくなっているアニスから目を外し、一瞬だけアッシュの目を見る。

 つらそうに伏せられているその内で、アッシュは、そしてルークは何を感じ取ったのだろうか。

 

「僕が行くよりは、ガイ兄様のほうがお喜びになられるでしょう。ルーク様によろしくお伝えください」

「ああ」

 

 頷いたはいいが、ジェイドのもっともな質問に詰まった。

 

「迎えに行くのはご自由ですが、どうやってユリアシティへ戻るつもりですか?」

「……ダアトの北西に、アラミス湧水洞って場所がある。もしもレプリカがこの外殻大地へ戻ってくるなら、そこを通る筈だ」

 

 苦々しいアッシュの呟きが耳朶を打つ。驚いて彼を見れば、『文句でもあるのか』と、目が言っていた。

 スィンとしては、アッシュがユリアシティへ訪れたルートを尋ねて間接的にアラミス湧水洞のことを教えようと思っていたが、まさか彼が自発的にそれを教えるとは。

 

「そうか……スィン、それならダアトで落ち合おう。悪いな、アッシュ」

「……フン。おまえがあいつを選ぶのは、わかってたさ」

 

 どこか言い訳がましく彼に背を向けるアッシュに、ガイは軽く肩をすくめている。

 

「ヴァン謡将から聞きましたってか? まあ──それだけって訳でもないんだけどな」

「どういうことですの?」

 

 話が見えないと、ナタリアは尋ねたが、彼は追及を避けた。

 

「……何でもないよ。それじゃ」

「ガイ兄様!」

 

 走りかけた兄に、首から提げていたロケットを外して彼の背中へ投げる。

 片手でそれを受け止めたガイへ、駄目押しのようなスィンの言葉が飛んだ。

 

「お守りです。それを返すためにもご無事でいてくださいね、ちゃんと戻ってきてくださいね、間違ってもルーク様とカケオチしないでくださいね!」

「なんでそうなるんだ!」

 

 最後の一言にだけ反応を返し、去っていったガイの背中とアッシュを交互に見ながら、ナタリアはおろおろと、思わず言ってしまった。

 

「ルーク! 止めないのですか!」

「その名前で呼ぶな。それはもう俺の名前じゃねぇんだ」

 

 苛立ちを隠さないアッシュの怒気に押され、ナタリアが口をつぐむ。

 すっかり不機嫌になってずんずん街の外へ向かうアッシュの背中に、なんとなく親善大使となったルークの姿を重ね合わせつつスィンがついていくと、彼は睨むようにスィンを見た。

 

「どうかした?」

「……持病ってのは何のことだ」

 

 押し殺すような言葉に、スィンは軽く眉を跳ね上げて簡潔な説明をする。

 

「持病は持病さ。呼吸器系の疾患があるって、知らなかったっけ?」

「……」

 

 そういえばそうだったような、そうでもないような。微妙な顔になっているアッシュは、再び前を向いて歩き始めた。

 ナタリアが話しかけてもスルーしているあたり、ルークに何か聞いているのかもしれない。といっても、たいした情報をルークが持っているわけでもなく。

 こっそりと、もしくは無意識にちっ、と舌を打つアッシュに、他三人がいぶかしげにその様子を観察しながら密談を交わしている。

 不協和音を盛大に奏で、戦力不足が目に見えている一行にわずかな不安を抱きながら、スィンは黙して港方面を見やった。

 

 

 

 

 

 

 

 




ぽろぽろとパーティ離散中。そのうち元に戻ります。
しかしまー、ジェイド。本当に厄介なもの考えてくれたもんですよねー。
預言が狂ったのは、彼の妹が不注意を起こした瞬間だったのかもしれません。


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第三十七唱——隠蔽せしは隠れ蓑の綻び

 

 

 

 もともと少なかった船員を更に減らし。

 一行はラーデシア大陸にぽっかりと口を開けたワイヨン鏡窟へ接岸した。

 

「何だかジメジメしていますわね」

 

 降り立って開口一番、ナタリアは空気の変質を感じ取って周囲を見回している。

 

「海風が吹き込むからでしょうね」

 

 その彼女に、イオンのもっともな説明が入った。一緒にタルタロスから下船したイオンにクギを刺すように、アニスが逗留をそらんじる。

 

「イオン様はタルタロスで待ってて下さいね!」

「僕も興味があるんですが……」

「ダメです! 危ないんですから!」

 

 なおも食い下がるイオンに、アッシュがきっぱりと同行を拒否した。

 

「導師は戻れ。ついてこられると邪魔だ」

「……残念です」

 

 部下である導師守護役(フォンマスターガーディアン)にならともかく、今一行をひっぱるアッシュに言われてはどうしようもない。

 

「奥に行ってみましょう」

 

 暗黙の理由は賛成だったのか、イオンがタルタロスへ戻ると同時にジェイドが提案した。

 スィンはといえば、スピノザから得た貴重な情報から読み取れるすべてを解析し、この場所との関連を見つけ出そうとしているため、口出し自体をしていない。

 が、ふとナタリアの呟きを聞いて顔を上げた。

 

「あれは、何かしら」

 

 ぷよぷよと宙を浮かぶよくわからない生物に、ナタリアは好奇心を刺激されたのか無防備に歩み寄っている。

 

「ナタリア様、危険です!」

 

 まるでその声に反応したかのように、襲いかかってきた謎生物に対し、接近戦ができないナタリアは身をすくめて防御した。

 と。そこへ。

 抜刀しかけたスィンよりも早くアッシュが彼女の前に立ち塞がり、謎生物を一刀のもとに斬り捨てる。

 

「アッシュ! すっご~いv」

 

 アニスの賛辞を茶化されたものと判断したのか、アッシュはナタリアのみを振り返った。

 

「……無事か?」

「え……ええ。大丈夫ですわ。ありがとう、アッシュ……」

 

 ナタリアの謝辞に答えることはなく、アッシュはジェイドに見慣れぬ生物の確認を頼んでいる。

 

「……ジェイド。こいつに見覚えは?」

「生物は専門ではないのですがねえ。ふむ……この辺りに生息するものとは違います。新種にしては、ちょっと妙ですね」

 

 ぶつぶつ言いながらも、しっかり検証しているジェイドの言葉を受け、彼は難儀そうに前を見た。

 

「……簡単にはいかないかもな。行くぞ」

 

 ぶん、と黒剣から謎生物の体液を振り払い、奥へ進んでいく。

 と、彼は大型のコウモリから強襲を受けて珍しく先制を取り損ね、先程のナタリアの姿を彷彿とさせる防御の姿勢に入っていた。

 

「アッシュ! ──シュトルムエッジ!」

 

 ナタリアの射撃を受け、サンダーバットは悲鳴を上げて天井へ磔にされる。安堵する前に沈黙していた岩が急に動き出し、どこか反応の鈍いアッシュに襲いかかった。

 

「ぼーっとしない!」

 

 血桜を引き抜き様アッシュの背後へ割り込む。彼が振り向く頃には、ミラースピリッツがその身に宿す核を緋色の刃で貫かれ、絶命していた。

 血桜を収めて、アッシュと向かい合う。首を傾げて尋ねた。

 

「どうしたよ、考え事?」

「……なんでもない」

 

 えらく気まずげに先を行くアッシュの隣に並び、前衛を勤める。そのことがお気に召さなかったか、彼はわずかに顔をしかめていたものの、文句らしい言葉はなかった。もしかしたら、ルークと何か話していたのかもしれない。

 

「怪我したなら、ナタリア様にちゃんと言いなよ? 昏倒なんてされたら、前衛を僕一人でやるのは難しいからさ」

「ふん……」

「アニスにも一応可能ですが、人形士(パペッター)はどちらかというと遊撃か防衛に優れていますからねえ」

 

 スィンの言葉をうるさそうにはねのけたアッシュに、前衛には向きません、とジェイドの駄目押しがかかる。アッシュはじろ、と彼を睨んだ。

 

「あんたはどうなんだ、スィンより体力がありそうに見えるが」

「何を言っているんです、適材適所という言葉を知らないんですか? こんな、封印術(アンチフォンスロット)をかけられた年寄りに前衛を期待しないでくださいよ」

「現役軍人のくせに、何言ってんだかこのオヤジは」

 

 にこやかに言いのけたジェイドに、スィンの嫌味が直撃する。

 ほほう、と呟いたジェイドの瞳は、うっすらと開かれていた。

 

「私には妻子を持った記憶などありませんよ?」

「知らないだけでどっかにいらっしゃることでしょう。百人切りの噂が事実でしたらね」

 

 ふっ、とジェイドが浮かべた笑みを見て、ともに後衛を務めるナタリアが、中衛ではあるものの事の成り行きを見ていたアニスがあっ、と呟く。

 ジェイドは、呟きを耳にして振り返りかけたスィンを拘束するように腕を回していた。

 

「いぎゃあっ! 何すんですかっ!」

「──下世話な冗談を口にすると、そのうち寝床へお邪魔しちゃいますよ~?」

 

 暴れるスィンの耳にふっ、と息を吹きかける。

「ひいい!」と悲鳴を上げて全身に及ぶ鳥肌を立てたスィンは、何者かに首根っこを掴まれてジェイドから引き剥がされた。

 

「……馬鹿やってないで、行くぞ」

 

 わずかに怒りがこもったようなアッシュの声音が、一行に先を行くことを促す。

 

「ありがと、助かった」

 

 アッシュに礼を言うと、彼は呆れたようなまなざしを寄越してきた。

 

「……年上の男を怖がる癖は、治ってないんだな」

「ただいま治療中だよ。ガイ兄様と違って、僕は原因がはっきりしてるから。ようは気の持ちようなんだけど……」

「そういや、あいつも女嫌いだったな」

「違う、って言ってるけどね。やっぱりその言い方には語弊があると僕も思うんだ」

「事実だろうが」

 

 ナタリアでさえあまり言葉を交わそうとしないアッシュが、自然に、そして雄弁に会話を続けている。

 どこか表情が和らいでいるようなアッシュに、他三人が意外そうに見守る中、一行は一際大きくくりぬかれた空間へたどり着いた。

 

「ここは……?」

「フォミクリーの研究施設のようですね。廃棄されて久しいようですが……」

 

 明らかに人工的な音機関を前にして、誰ともなしに疑問を呟くナタリアに、ジェイドが答えた。

 アッシュは機械を見ているスィンのそばを通って、おもむろに電源を入れている。

 

「演算機は──まだ生きてるな」

「大したものですね。ルークでは扱えなかったでしょう」

 

 手馴れた様子で操作しているアッシュに、ジェイドはからかうような感想を呟いたものの、彼は聞いていなかったのか華麗にスルーした。

 

「これは……フォミクリーの効果範囲についての研究……だな」

「データ収集を広げることで、巨大な物のレプリカを作ろうとしていたようですね」

 

 巨大なもの、と聞き、アニスが身近に考えられるものを例に挙げている。

 

「大きなものって……家とか?」

「もっと大きなものですよ」

 

 ジェイドはとてつもなく朗らかに、反比例するような衝撃の事実を口にした。

 

「私が研究に携わっていた頃も、理論上は小さな島程度ならレプリカを作れましたから」

「でか……」

 

 思わず、といった様子で呟いたアニスの感想にかぶさるように、会話を聞いていたかどうかも怪しいアッシュが驚愕をあらわとしている。

 

「……なんだこいつは!? あり得ない!!」

「どうしたのですか?」

「見ろ! ヴァンたちが研究中の最大レプリカ作成範囲だ!」

 

 アッシュはジェイドの体を演算機の前へ押しやった。

 

「……約三千万平方キロメートル!? このオールドラントの地表の十分の一はありますよ!」

「そんな大きなもの! レプリカを作っても、置き場がありませんわ!」

 

 小さな島どころではない、途方もなく巨大な大地製造の兆しを見て、ナタリアは否定するようにかぶりを振っている。

 スィンは投影されたもうひとつの情報を食い入るように見ており、反応ができなかった。

 

「採取保存したレプリカ作成情報の一覧もあります。これは……マルクト軍で廃棄した筈のデータだ」

「ディストが持ちだしたものか?」

「そうでしょうね。今は消滅したホドの住民の情報です。昔私が採取させたものですから、間違いないでしょう」

 

 ……やっぱり。

 一覧の中には、レプリカ情報だけでなく、個人の情報も記されている。

 そこには、ガイの本名はおろか、見覚えのありすぎる名前も数多く存在した。

 

「まさかと思いますが……ホドをレプリカで復活させようとしているのでは?」

「……気になりますね。この情報は持ち帰りましょう」

 

 ──まずい。

 こんなものをジェイドに調べさせたら、そこからガイの正体を初めとする諸々の情報がダダ漏れしてしまう。

 表向きなんでもないような顔でどうするべきなのか迷いながら、スィンは成す術もなく情報処理を進めるジェイドの手元を見つめていた。

 と、手持ち無沙汰だったアニスの声が向こうから聞こえてくる。

 

「あれっ、これチーグル?」

「まあ! こんなところに閉じ込められて、餌はどうしているのかしら」

 

 保存手続きを終えたジェイドが、興味を持ったのか演算機の前から離れた。

 好機(チャンス)! 

 

「生きているんだから、誰かがここで飼っているんだろう。多分こいつらは、レプリカと被験体だ」

「そのようですね。星のようなアザが同じ場所にあります」

 

 ということは、チーグルは二匹いるのだろうか。

 操作盤を手荒く打たないよう静かに、それでも素早く、まずは本元のデータ改ざんを企むスィンの耳に、チーグルたちを前にしての彼らの談義は続く。

 

「この仔たちもミュウみたいに火を吐いたりするのかな」

 

 ごんごん、という音がして、ぼふっ! というミュウの火炎放射に酷似した効果音が届いた。アニスが檻を叩き、驚いたチーグルが威嚇の炎を吐いたのだろう。

 

「うわっ、びっくりした!」

「この仔も同じかしら」

 

 遠慮がちに、おそらくはナタリアも檻を叩いている音が聞こえるが、続く音はよく聞こえなかった。

 

「あら、こちらは元気がありませんわね」

「レプリカは、能力が劣化することが多いんですよ。こちらがレプリカなのでしょう」

「でも大佐? ここに認識票がついてるけど、このひ弱な仔が被験体みたいですよ」

「そうですか。確かにレプリカ情報採取の時、被験体に悪影響が出ることも、皆無ではありませんが……」

 

 本元のデータ改ざんが終了する。

 すでにコピーされていたフォルダを探し、そのデータもいじろうとするが、小賢しくも修正不可というガードがかかっており、こじ開けるにはかなりの時間と労力が必要と見た。

 

「まあ……悪影響って……」

「最悪の場合、死にます。完全同位体なら、別の事象が起きるという研究結果もありますが……」

 

 ……それは初耳である。

 ヴァンがフォミクリーを使用するに当たって、どういうものなのか知っているだけだと言っていたあたり少し不安を覚えていたのだが、どうやら的中してしまったようだ。

 とはいえど、スィンはそれほど心配していなかった。なぜなら。

 

「ナタリア、それにアッシュまで。心配しなくていいですよ。レプリカ情報が採取された被験体に異変が起きるのは、無機物で十日以内です。生物の場合はもっと早い。七年もたってピンピンしているアッシュは大丈夫ですよ」

「よかったですわ……」

 

 アッシュのレプリカが作られたことで彼に異変が発生するなら、もっと早くにその前兆らしいものが発生し、誰よりも彼自身が初めに知るはずなのだ。

 それよりは、ジェイドの言う『別の事象』が気になった。

 

「はぁーっ。レプリカのことってムズカシイ。これって、大佐が考えた技術なんですよね?」

「……ええ、そうです。消したい過去の一つですがね」

 

 いわゆる黒歴史というやつだろうか。幾分自嘲気味に語る彼の横を通り過ぎ、アッシュが撤退を促した。

 

「……そろそろ引き上げるぞ」

 

 結局、ジェイド側の情報改ざんはできていない。

 素早く演算装置の前から離れ、ジェイドが音譜盤に収めた情報を引き出している光景を目の当たりにしながら、あれをいつどうやってどんな手段で破壊するべきか悩みながら、彼女も一行の後に続いた。

 

「結局わかったことって、総長が何かおっきなレプリカを作ろうとしてるってことだけ?」

「それで十分だ。……行くぞ」

「行くって、どこへ……」

 

 もっともなナタリアの質問に、アッシュは軽く振り返る。

 

「後は俺一人でどうにかなる。おまえらを故郷に帰してやる」

 

 これだけで何を悟ったのか、そして意外そうな顔をしている面々に視線を滑らせ、アッシュは終始無言だったスィンへ目をやった。

 顎に手を当てて考え込んでいたスィンだったが、アッシュの視線を鋭く感知し、顔を上げている。

 帰り際にアニスがエンシェント鏡石を盗掘したいようなことを言ってアッシュにどやされ、特殊な工具が無ければ掘れるものではないとジェイドに駄目出しを出されてぶんむくれるというハプニングが発生するも、一行は割と順調に出口へ向かっていた。

 

 

 

 

 



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第三十八唱——いつであれどこであれ、ついて回るは病の影

 

 

 

 

 

 

 前衛を歩いていたスィンが足を止め、それにアッシュが倣った。

 

「どうした?」

「……いや、察してよ」

 

 血桜に手をかけ、周囲を睥睨するスィンがちら、とたゆたう水面を見やる。それを見たアッシュの表情がにわかに険しくなり、遅れ気味の後衛に警告を伝えた。

 

「……気をつけろ。何かいる」

「え……!?」

 

 ナタリアの声を境に、わずかな(さざなみ)に混ざって不気味な水音が徐々に大きくなっていく。まるで一行に気づいて忍び寄ってくるかのごとく──

 

「そこっ!」

 

 わずかに変化した水面に棒手裏剣を放てば、少し前にナタリアへ襲いかかった謎生物──クラゲ型の魔物が空気の抜けるような悲鳴を洩らして水辺へ沈んでいった。

 同時に、盛大に水をかきわけて、それが姿を現す。

 長大な腕のような部位を振りかざした魚人のようなもの。ようなもの、とは、泳ぐにはちょっと要らないのでは、と思える巨大な二枚の背びれと、チーグルなら二、三十匹は入りそうな巨大口(ビッグマウス)を見ての感想だった。ただ、足が六、八本あるわ、開いた二枚貝を背負っているわ、サカナとは呼びがたいシルエットであることも事実である。

 同時に、屠ったばかりのクラゲモドキが三匹ほど生まれてきた。

 比喩の類ではない、卵生の魔物にしては珍しくそのまま生まれてきたのである。

 

「うざったい……!」

「えぇいクソッ!」

 

 それほど頑丈ではないものの、次々と生まれては襲いかかってくるクラゲモドキに、前衛組の足が取られた。

 そういう戦法なのか、前衛の気をそれている間に、変異種とでも呼べそうな魚介類は行動を開始している。長大な腕を振りかざして後衛の詠唱を止めたかと思うと、今度は巨大な泡を吐き出し始めた。

 

「うわっぷ!」

 

 横合いからアニス、もといアニスが操作する巨大化トクナガが殴りかかるも、流れた泡の直撃を食らって後退を余儀なくされている。攻撃に転じてくれたおかげでクラゲモドキの発生が止まり、足止めされていた二人はやっと諸悪の根源と対峙した。

 

「絶破裂氷撃!」

「守護氷槍陣!」

 

 度重なる泡攻撃のわずかな恩恵を見逃さず、右サイドからアッシュが吹き飛ばし、着地地点でスィンが追い討ちをかける。

 とどめを刺すには至らなかったものの、変異種魚介類は鋭い氷で傷ついた体表皮から体液をまきちらしてどう、と倒れた。

 

「手間取らせやがって、この──!」

 

 すぐさま駆け寄ったアッシュが剣を振り上げる。が、ローレライ教団の詠師に支給されるという黒剣は凄まじい音を立てて跳ね返された。

 

「うわー……」

 

 シュール、の一言に尽きる光景を目の当たりにして、スィンは思わず手で口を覆った。

 あれだけの巨体が、背中より下に当たる部分に鎮座していた二枚貝の中にすっぽり入り込んでしまっている。

 刃こぼれしている剣でアッシュが殴るように斬りつけているが、効いている様子はない。

 

「今のうちに──!」

「タービュランス!」

 

 スィンが促すまでもなく、ジェイドは詠唱を完了させていた。風の渦が時折蠢く二枚貝を激しく揺さぶるものの、効果はやはりわからない。

 追撃とばかりアニスが「ネガティブゲイトー!」と叫ぶが、譜陣が消えた後に二枚貝から出てきた変異種魚介類にはさしたる痛痒も与えていなかったようだった。

 驚いたことに自己回復能力があるのか、前衛組のつけた傷が綺麗さっぱりなくなっている。

 またもクラゲモドキを生み始めた様を見て、アッシュが嫌そうに眉をしかめた。

 

「ジリ貧だな……」

「……アッシュ、今使える第五音素(フィフスフォニム)系列の譜術教えて」

 

 いぶかしげにしているアッシュから答えをせがみ、回答を得てからわかった、と頷く。

 

「大佐、アニス! 時間稼いで!」

「……やれやれ。仕方がありませんねえ」

 

 スィンに何か策ありとみたジェイドが、ナタリアから治癒術を受けていたアニスを伴い、変異種魚介類に斬りかかりにいった。

 その背中を見送って、アッシュに振り返る。

 

「あいつの動きが止まったら、エクスプロードをブチかまして!」

 

 言い捨て、すぐさま詠唱に入る彼女に軽く頷いてから、アッシュは一匹のクラゲモドキに苦戦しているナタリアの援護へいった。

 

「……そなたが涙を流すとき群がりし愚者は、白に染め上げられし世界の果てを知る」

 

 譜陣がスィンの足元に展開したかと思うと、それは対象の足元にもシンクロして輝いた。変異種魚介類及びクラゲモドキが光の奔流に縛り上げられ、その隙にジェイドたちが退避していく。

 

「セルキーネス・インブレイズエンド!」

 

 肉眼で確認できるほどの冷気が集結したかと思うと、殻にこもる暇もなくそれらは凍結した。ナタリアに接敵していたクラゲモドキを斬り捨てたアッシュが、スィンの視線を受けて詠唱の体勢に入る。

 

「全てを灰燼と化せ……!」

 

 氷の彫像と化した変異種魚介類に、大質量の炎塊が圧倒的な勢いで降り注いだ。結果、彫像は粉々に砕け散り、鏡窟に静寂が漂う。

 敵の最後を見届けたスィンが、ほぅっ、と息を吐いた。直後、アニスが元気よく喚いている。

 

「なんなの、今の! でかっ! キモっ!」

「フォミクリー研究には、生物に悪影響を及ぼす薬品も多々使用します。その影響かもしれませんね」

 

 興味深い、と顎に手を当てるジェイドの向こうで、ナタリアがわずかに顔を赤らめながら感謝を述べていた。

 

「アッシュ……。あの、かばってくださって、ありがとう……」

「……い、行くぞ!」

 

 同じように赤くなった顔を隠すためなのか、思わず彼女から顔を背けて先を促したアッシュを、ジェイドが引き止める。

 

「待ちなさい。彼女を置いていくつもりですか?」

 

 ルークじゃあるまいし、とジェイドの言葉など最後まで聞かず、アッシュははっとしたように片膝をついているスィンに駆け寄った。

 うつむいているために表情はわからないが、胸元に添えられていた手が不意に動きを見せたかと思うと、その指が鉤爪の形へ変えられ、激しく胸元をかきむしる。

 

「大丈夫か!?」

 

 その手を掴んでやめさせ、労しげに体を支えるアッシュに「……大丈夫」と返し、スィンは懐から小さな丸薬を取り出した。

 真っ黒く動物のフンを連想させるそれを躊躇なく口の中へ放り込み、豪快に咀嚼する。顔をしかめて口元を押さえて、どうにかこうにかそれを飲み込んだらしい。

 

「お待、たせ……」

「眠そうですね」

 

 ジェイドの言葉に間違いはない。無理な譜術の行使で消耗した体は、意思とは裏腹に休息を求めていた。

 立ち上がろうとして、上体がふらりと傾ぐ。

 

「アッシュに運んでもらいますか?」

 

 眠気を払おうとしてか、その問いに対してなのか、スィンは激しく首を振っている。やがて彼女はその動きを止めたかと思うと、足元を危うくさせながらジェイドのそばへと歩み寄った。

 

「おや、私をご指名で?」

「……」

 

 かけられる声が、とても遠い。

 遠のく意識をたぐりよせるべく、スィンは眼をこすりながらも軍服に包まれたその腕を掴んだ。

 異性恐怖症と自身が呼んではばからない精神疾患が、過去負った心的外傷(トラウマ)が、全身を余すことなく粟立たせる。

 その感覚をもってして、意識を蝕む睡魔の手は退散していった。

 

「いいい行きましょう。ここここれでタルタロスまではもつはずずず」

「恐怖症を利用して眠気覚ましとは、見上げた根性ですねえ」

 

 声も体もがくがく震えている上にとても戦えるような状態ではないが、それでも運搬されるただの荷物に成り果てるよりはましなはず。

 そんな見立てのもとジェイドの腕を掴んだスィンは、次の瞬間綺麗に理性を飛ばしていた。

 えらいえらい、とのたまいながら頭を撫でるジェイドの手のひらに気がついて。

 

「ぅああああっ! やっぱり無理いっ!」

「そんなことではいつまで経っても治りませんよー」

 

 ほぼ反射的、弾かれたようにその場から逃げ出そうとするスィンを、逆にジェイドが捕まえる。

 いっそ自分から気絶してしまいたい衝動に駆られながら、肩を抱くようにしてきたジェイドの膝を蹴った。

 

「おっと」

 

 ほんのわずかに体勢を崩させただけだが、逃げるだけなら十分な隙である。

 身を翻して逃げた先は、一連の珍事を呆れたように見やっていたアッシュの後ろだった。しかし、そこは安住の地ではなく。

 

「レプリカに運ばれるのはよくて、俺は駄目な理由を言ってみろ」

「!」

 

 なんでそれを!? 

 内心をそのまま口に出しかけて、どうにか口を押さえる。

 落ち着いて考えれば、アッシュはルークと意識を繋げている。ルークが思い出したことをアッシュに読み取ることが可能なのかどうか、スィンに知る術はない。

 従って、その理由は想像するしかないのだが。

 恐怖症の余韻にて多少はっきりした意識でアッシュを見やる。一体何があったのか、彼の顔は不愉快であると主張するかのようにむっつりとしかめられている。

 それとも、元からこうだっただろうか。

 

「なんでそんなこと知ってるの」

「……」

「僕がルーク様に運搬してもらったのを知ってるのはルーク様当人にティア、イオン様に大佐……ぎりぎりアニスが知ってるかもしれないくらい。何で知ってるの」

 

 返答は、ない。それどころかアッシュの眉間の皺がいくらか深くなったような印象すらある。

 それを質問に答えていないことの苛立ちに通じていると判断したスィンは、事実を言わないためにもそれらしい理由を練った。

 ただでさえ、判明した事実にナタリアが不安定になっているのだ。その彼女が、スィンだけには違う態度を取るアッシュを見て更に不安定になっている。

 アッシュがスィンに対して優しく振舞う──飾らずにたとえるなら甘い態度を取る姿をこれ以上見せるわけにはいかない。

 それを知ればアッシュは、そしてルークは何を思うだろうか。

 

「その手は荷物を運ぶためにあるわけじゃないでしょ。前衛が抜けたら大変だよ。戦闘が」

「まあ、スィンはしばらく戦えないし。確かにアッシュの両手が塞がってると、困るかな」

 

 意図しないアニスの援護により、彼はしぶしぶながら納得の意を見せた。

 止めてしまった足を動かす一行を認めながら、すぐそばの水面に両手を沈める。噛み砕き、飲み下したはずの薬は未だスィンの喉奥にひっかかっていた。咳を繰り返すも取れる気配はなく、水筒も荷袋と共にタルタロスの中だ。

 両手に溜めた水が海水であることは承知している。とにかく喉のひっかかりが煩わしくてそれを取り除くべく、あおろうとして。

 

「海水を多量に摂取すると命を落としますよ」

 

 ぺし、と軽く手をはたかれて、溜めた水は零れて散らばる。

 彼はいつの間に戻ってきていたのだろうか。先行くアッシュの後ろについて去ったことは確認したのだが。

 ただ、この死霊使い(ネクロマンサー)相手にそれを尋ねたところで時間の無駄でもある。

 ずい、と自分の水筒を突き出してきたジェイドの顔を見、スィンはしばしの逡巡を経てそれを受け取った。

 スィンやジェイドがいないことに気づいたのだろうか。足音高く戻ってきたアッシュは、その光景を見て「あっ!」と珍しくアッシュがあせったような声を上げている。

 

「どうかした?」

「お前、それ、間接……」

 

 本当に珍しく、変に狼狽しているアッシュに、何を言いたいのか自力で察したか、彼女はこともなげに言い切った。

 

「大丈夫だよ」

「何がだ!」

「僕は性病持ってないし、軍人ってのはおかしな病気持ちだと例外なく除隊させられる規律があるから」

 

 そういう問題じゃねえ! と喚くアッシュに、他に何か問題でも? と真顔で問う。

 

「……もういいっ」

 

 どこかすねたようにずんずん歩き始めたアッシュに、首を傾げながらスィンが追った。

 呆気に取られていた三人が、ゆっくりとそれに続く。

 

「いやー、青春ですねえ」

「青春て……なんか果てしなく複雑な三角形が見えるんですけど」

 

 アッシュに追いつき、何事かを話しかけるスィンと、無視を貫くでもなくしぶしぶ応じている風を装う──しかしつり上がり気味の眼はわずかに緩んでいる──アッシュ両名を寂しそうに見つめているナタリアを盗み見ながら、アニスが押さえ気味の声で突っ込む。

 

「っていうか、大佐が仕掛けたんじゃないですか」

「仕掛けたとは失敬な。私はただ、必要に迫られるなら海水をがぶ飲みするのも厭わないお馬鹿さんに水を差し上げただけですよ」

 

 当人が離れていることをいいことに、好き勝手を述べながら、ジェイドはおもむろに返された水筒の口を開いた。

 しかし前衛は疲れますねえー、とかなんとか言いながら、水筒に口をつけようとして。

 

「テメェ、眼鏡っ! そいつに口つけんじゃねえっ!」

「アッシュ、落ち着け! 唾液なら拭き取ったってば!」

 

 またも眼を吊り上げて怒鳴るアッシュを押しとどめ、ようやく彼の言いたいことを理解したらしいスィンが弁明している。

 

「おや、拭いてしまったのですか。気づきませんでした」

 

 残念です、と真顔で(のたま)いつつ、水筒をしまっているジェイドを殺人的な視線で睨みつけるアッシュに、スィンはなだめるように言いのけた。

 

「いーい? 思春期の少年少女じゃあるまいし、この年になるとそういうことは気にしなくなるものなんだよ。も少し年食えばわかるようになるから」

「わかりたくねえよ! 大体からしててめえ、レプリカが残した果物普通に食ってんじゃねぇ!」

「……えらく脈絡がないことと、なんで知ってるのかはこの際置いといて、好物だったんだもん。もったいないじゃん」

「いい年こいた女が『もん』とかいうなっ!」

「君が『もん』とか言ってもホラーだね」

「うるせぇ!」

 

 吊り上がった眼がなかなか元に戻らないことを懸念したスィンは、不意ににこー、と意図が不明瞭な笑みを浮かべる。

 

「な……なんだ」

「まあ、落ち着こう。大佐を前にしたディストみたいになってるよ」

「あー、そういえばそうかも」

「言われてみればそっくりですねえ」

 

 何が、と返す余裕もないほど、どうやら強い衝撃を受けたらしいアッシュに「そ、そんなことありませんわ!」とナタリアが条件反射的なフォローを入れるも、彼はなかなか回復しなかった。

 彼女の励ましが、多大な救いになったことは明白であったが。

 

 

 

 

 

 いくつかの珍事を経て、当初よりずっと雰囲気が和らいだ一行を、タルタロスのすぐそばで立っていたイオンが出迎えた。

 

「おかえりなさ……」

 

 その言葉が終わる前に。大地の身震いが一行を襲った。

 

「地震!?」

「きゃ……!」

 

 危うく倒れかけたナタリアの肩をアッシュが支え、どうにか持ちこたえる。

 地震が収まった後も、彼はなかなかナタリアの肩を離そうとしなかった。

 

「あ、あの……ありがとう……」

 

 その一言で我に返ったのか、壊れ物を扱うようにナタリアの姿勢を正し、ぽつりと呟く。

 

「……前にもこんなことがあったな」

「そうですわ! 城から抜け出そうとして、窓から飛び降りて……」

 

 瞬時に記憶の再生に成功した彼女を優しげに見つめたものの、懐かく温かな思い出話から目をそむけるように、彼はタルタロスへ歩み寄った。

 

「今の地震、南ルグニカ地方が崩落したのかもしれない」

「そんな! 何で!?」

 

 思いもよらない、といった様子で、アニスが眼を丸くしている。

 

「南ルグニカを支えていたセフィロトツリーを、ルークが消滅させたからな。今まで他の地方のセフィロトでかろうじて浮いていたが、そろそろ限界の筈だ」

「他の地方への影響は……?」

 

 悠長な質問をするジェイドを、アッシュは睨むように見た。

 

「俺たちが導師をさらって、セフィロトの扉を開かせてたのを忘れたか?」

「扉を開いても、パッセージリングはユリア式封咒で封印されています。誰にも使えないはずです」

「ヴァンの奴は、そいつを動かしたんだよっ!」

 

 察しの悪い彼にイラついたか、アッシュはそう吐き捨てる。

 

「つまりヴァンは、セフィロトを制御できるということですね。ならば彼の目的は……さらなる外殻大地の崩落ですか?」

「そうみたいだな。俺が聞いた話では、次はセントビナーの周辺が落ちるらしい」

 

 一瞬黙して立ち止まったアッシュが、スタスタとタルタロスへ乗船する。

 それに続き、一行はワイヨン鏡窟を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十九唱——別れと捕縛と脱出と

 

 

 

「それで、どいつからどこへ送ればいいんだ?」

「じゃあ私とイオン様をダアトへ送っていって! スィンも行くんだよね?」

 

 この一言で目的地は定まった。

 

 

 

 

 

 

 ダアトへの航行中。一人甲板で水平線を見つめていたスィンの後ろから、誰かが歩み寄ってきた。妙に気になって振り返ってみれば、艦橋(ブリッジ)から出てきたらしいアッシュがいる。知らず、微笑が浮かんだ。

 

「ナタリア様のところへ行かなくていいの?」

「──シア」

 

 その単語がアッシュの口から出るやいなや、スィンはぎゅ、と奥歯を噛みしめる。表へ出そうな動揺を押し込め、再び海の果てを見た。

 

「彼女が、どうかした?」

「あの屑ならもう切り離した」

 

 だから普通に話せ、と言いたげな彼を招き、耳を掴んで直接囁きかける。

 

「だからって無防備が過ぎます。誰が聞いているかもわからないこの状況下で」

「……すまん。今後のことなんだが……」

「彼らと共に崩落を──いや、大地の消滅だけは防ごうかと」

 

 耳を離し、きっぱりと告げた。

 

「アクゼリュスは墜ちるべくして墜ちました。ここから先は好きにはさせません。預言(スコア)に逆らうこともないなら、故意ならば未然に防ぐことも可能でしょう。──反撃開始、といったところでしょうか」

 

 ニッ、と笑って見せれば、アッシュはわずかに目元を緩めて頷いている。

 

「俺は引き続きヴァンの動向を探る」

「定期的にルークを通して、こちらの状況を掴んでいてくださるとありがたく思います」

「わかった」

 

 興味津々、という視線がいくつも飛んできたこともあり、スィンは甲板を去った。何を話していたのか、主にナタリアを中心に飛んできた追求をのらりくらりとかわしながら、ダアト到着を待つ。

 タルタロスの陸上走行機能が使えないとのジェイドの言葉を受け、修理をするという彼一人を残し。

 アッシュを含んだ残りの一行はダアト港に入った。

 

「──じゃあな」

 

 そっけない別れの言葉を残して、定期船乗り場の方へ去っていくアッシュを見送るナタリアを、スィンはタルタロスで待機するよう進言した。

 

「スィンはどうするのです?」

「僕はダアトでガイ兄様と落ち合います。本当は直接アラミス湧水洞へ行きたいけど、入れ違いになっても困りますから……」

「ならわたくしも共に参りますわ。タルタロスへ残ったところで、大佐のお手伝いはできませんもの」

「スィンなら修理の手伝い、できるんじゃない?」

「嫌だよ怖いよ大佐と二人きりなんて」

 

 アニスによるイオンへの気遣いで、随分少なくなった一行は乗合馬車で一気にダアトへ向かった。

 馬車の中から第四石碑の丘を抜け、ダアトへつくまでにイオンの顔を知る人々に彼がもみくちゃにされるというハプニングが起こったものの、アニスの活躍で大きな厄は免れる。

 

「イオン様! もうちょっとびしっと嫌がらないと駄目ですよう!」

「はあ……でもそれでは、あまりにも彼らが」

「可哀想なんかじゃありませんからね! 一般信者ごときが、イオン様をこんな近くで拝めるだけでも果報者なのに!」

 

 それだけ聞くと、アニスが一番やばいイオン信者のように聞こえるが、あえて触れないことにした。ナタリアは、預言(スコア)を詠んでもらうがために世界中から集まってきた信者たちのあまりの多さに圧倒されている。

 スィンにとっても懐かしい、ダアトの街に一歩足を踏み入れたそのとき。

 

「ねえ知ってます? 鉱山の町が消えたって」

「ええ、それが発端でキムラスカがマルクトにいよいよ戦争を仕掛けるんだとか」

「怖いですねえー。でもダアトなら安心ですね」

「ええ、安心です」

 

 自治区に住む住民たちの、そんな会話が耳に入った。

 

「……今の」

「聞きました。キムラスカが、マルクトに、戦争……?」

 

 アニスの言葉に、イオンが半ば呆然として答えている。

 父親が戦争を起こそうとしているのかもしれない、という衝撃に襲われているナタリアを配慮しながらも、スィンは要因を探るべく切り出した。

 

「……そういえば、なんでアクゼリュスが崩落したかなんて皆知らないんだよね……」

「それはそうなのですが、どうして戦争が」

「和平が失敗したから……いや、アクゼリュスが崩落し、消滅したことでルーク様とナタリア様が亡き者にされたことになっているだろうから……まさかそれを口実に」

 

 スィンの推察を聞き、ナタリアは目を見開いた後で、軽く瞬かせた。

 

「た……確かに。わたくしはともかく、ルークは親善大使としてアクゼリュスへ赴いたのだから、第三王位継承者の死をマルクトのせいにして……お父様……」

 

 きゅ、とナタリアは唇を噛みしめたが、すぐに気を取り直してイオンに告げる。こうして後悔している場合ではないとは言いたげに。

 

「お父様の誤解を解きましょう! イオン、導師詔勅の発令を願えませんか?」

「わかりました。教会へ行きましょう」

 

 そうと決まったらこっち! というアニスの先導のもと、一行は裏道を抜けて教会の眼前へたどり着いた。

 あれだけの人数がダアトへ向かっていたというのに、周辺はなぜか一般人の姿がない。そのことをスィンがいぶかしんだ、その時。

 

「導師イオン! ご無事で!」

 

 がしゃがしゃと音を立てて、神託の盾(オラクル)兵が集団で現れた。その向こうには、わずかに顔を歪めている大詠師モースの姿がある。

 一行はあっという間に囲まれた。

 

「何のつもりです!」

「──ご無事であられたは何よりでございます、導師イオン、ナタリア姫。教会の保護を受けていただきましょうか」

 

 弓を構えかけるナタリアに、モースは表面上愛想良く、しかし二人が生きていることに対して明らかに厄介な、という感情を漂わせながら神託の盾(オラクル)兵に包囲を狭めるよう命じた。

 

「──援軍を呼んできて」

 

 小さな小さな声でアニスに語りかけ、スィンは懐に差し入れていた手を抜いて前方へ投げた。地面と接触した黒玉は破裂した瞬間に煙幕をまき散らかし、モースを含む兵の目をくらます。

 とん、と背中を押したアニスが駆け出したのを見て取るやいなや、スィンは二人の耳元にひそひそと囁いた。よもや暴走することはなかろうが、意思疎通をしておいて損はない。

 

「……今は大人しく捕まっておきましょう。最低でも僕がお護りしますから」

 

 低い声で囁き、やがて煙幕が晴れたその中で、スィンはおもむろに両手を上げた。

 

「保護を受けます。だから、おかしな真似はしないでください」

 

 ふん、と鼻息荒く、モースは三人の連行を命じている。

 どういう命令をしたのか、住み込みで働く信者たちの姿すら見当たらない中、三人は神託の盾(オラクル)本部の一室に軟禁された。

 

「──これから、どうしましょう」

 

 弓矢一式を取り上げられて心許なさそうなナタリアに、イオンは泰然と微笑んでいる。

 

「大丈夫ですよ。きっとアニスが皆さんを連れてきてくれます」

「僕も、大人しくしているつもりはありませんから」

 

 そう言って、スィンは軽く両手を組み合わせた。足元に特徴的な譜陣が展開する。イオンは驚いたように眼をみはった。

 

「扉を吹き飛ばすんですか!?」

「やりませんできません。できたとしても、見張りが何人いるかもわからないのに、そんな大胆なことしませんよ」

 

 譜陣の輝きに合わせて、目蓋を閉ざしたスィンの脳裏に第三音素(サードフォニム)を通じて状況が伝わってくる。

 教会内の様子を一通り探ってみたが、とりあえずヴァンはいない。六神将の姿はちらほらあるものの、接触を避けることは可能だった。

 と──ある六神将が誰かと話している。耳を傾けてみた。

 

『ええいっ! ヴァンの奴にはまだ連絡がとれないのか!?』

 

 大詠師モースが、魔弾のリグレット相手に何かを喚いている。

 

『申し訳ありません。総長閣下はベルケンドに視察に向かわれて……』

『ようやく預言通りに戦争が起こせそうなのだぞ。こんな大事なときに、あやつは何をしているか』

 

 彼がいないのは彼女のせいであるかのように苛立ちを隠さないモースに、リグレットは淡々と提案をした。

 

『大詠師モースは、一足先にバチカルへ向かわれてはいかがでしょうか』

『仕方ない。そうするか』

『お送りします』

 

 厄介な奴が一人消えたのは重畳である。肝心の見張りの数だが、この数ならなんとかならないことはない。

 

「……よし」

 

 瞳をこじ開け、術を解除する。

 何が起こったのかよくわからない二人を尻目に、スィンは服の隠しから針金を取り出すと、おもむろに内側の鍵穴へ突っ込んで開錠を試みた。

 当然、扉がおかしな音を立てたことに気づいた兵士が部屋の中へ突入してくる。

 

「おい、何をして──」

 

 扉が開いた瞬間、粛々と兵士に当身を入れ、部屋の中へ引き込んだ。

 

「な、何をするんですの?」

「身包み剥いで兵士に変装します。突破口開いてくるんで、二人はここにいてくださいね」

 

 兜と外套、剣を取り上げ、きっちり拘束してから部屋の隅へ転がしておく。手早く服の上から着込み部屋の外へ出れば、巡回の兵士が来るところだった。

 

「おい、何事だ」

「……彼らが少し、騒ぎまして。今、落ち着かせたところです」

「そうか──」

 

 一応成人男性の声をつくったものの、この兵士は知り合いでないのか違和感を覚えなかったらしい。

 なら異常なしだな、と兵士が背を向けた瞬間。音を立てないように兵士に支給される剣を引き抜いて、背中から斬りつけた。

 

「なっ……!」

 

 余計なことを叫ばれる前に、咽喉笛を切り裂いて沈黙させる。

 向かいの部屋をこじ開けて死体を放り込むと、その部屋の中にナタリアの弓矢一式と血桜があった。回収し、ゆっくりと歩いて巡回中を装いながら見張りの兵士たちを二度と目覚めぬよう眠らせていく。

 

「ぐわっ!」

「ぎゃっ……!」

 

 アクゼリュスでもこっそり使った、唯一この姿で使って消耗しない探索の譜術によれば。六神将は教会の中にも、この神託の盾(オラクル)本部にもいるらしいのだ。彼らとことを構える危険を考えれば、障害は確実に減らしておきたい。

 そうこうしているうちに廊下が突き当たりにさしかかり、扉が現れた。確かここを出れば、集会場に出るはずである。

 直後、ごおぉーん、と鐘が鳴り、スィンは思わずびくっ、と体を震わせた。

 

 まずい。

 

 合図の方法が変わっていないのだとすれば、これは集合を意味する合図だ。数人ならともかく、数十人集まってしまったら、スィン一人の突破は可能でも二人を連れての脱出は難しい。しかし、すぐにでもでていかなければ怪しまれる。

 スィンは外にいるのが数人であることを願い、剣を引き抜いて扉を開いた。

 ──そこにいたのは、幸運なことに数人だった。

 

 

 



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第四十唱——邂逅せしは、己が罪の分身

 

 

 

 

「双牙斬!」

「!」

 

 悲壮なまでの決意を瞳に宿し、歯を食いしばって剣をふるう赤い髪の青年が迫ってくる。大きく下がって一撃を避ければ、着地地点に譜術が炸裂した。

 

「炸裂する力よ──エナジーブラスト!」

 

 故意に倒れこんでどうにか回避する。起き上がったところで、金の短髪の剣士──ガイの追撃が待っていた。

 

「真空破斬!」

「……っ!」

「ん⁉︎」

 

 咄嗟に同じ技を出し、威力を相殺させる。

 制止の声を出そうとして、自分が適当な成人男性の声音になっていることを思い出した。

 

「手間取らせないでよねっ、リミテッド!」

 

 自分の声へ戻すタイムラグ中に、アニスの譜術が発動する。真下に発生した小さな譜陣から走って回避すると、ティアの歌声が響き渡った。

 

 ♪ トゥエ レイ ズェ クロア リュオ トゥエ──

 

「た、タンマ! それはちょっと無理!」

「「!?」」

 

 知っている声の制止に、彼らの動きが固まる。それを機として、スィンは剣を投げ捨てるとえっちらおっちら、慣れぬ兜を引っこ抜くようにして脱いだ。

 出てきた顔を前にして、彼らは眼を見張り、驚いている。

 

「「スィン!?」」

「アニス、ごくろうさま。イオン様も喜ぶよ」

 

 援軍の到着に頬を緩めるスィンに、ルークがわずかに躊躇しながらも声を上げた。

 

「つか、なんでお前そんなカッコ……」

「ルーク様」

 

 彼にしっかりと向き直り、その眼を見る。

 たじろいでいるその顔は、髪を切ったせいなのか、以前の傲慢さが綺麗に拭われているように見えた。

 

「な……なんだよ」

「おかえりなさい」

 

 意識を取り戻されたこと、お喜び申し上げます、と笑顔で述べれば、彼は「あ、ああ」と戸惑ったように返している。

 そして衝撃の一言を口にした。

 

「ありがとう」

 

 ……

 

「えっ」

 

 あまりの衝撃に、スィンは兜を取り落としそうになって慌てて抱え直す。まじまじとルークの顔を見つめた後に、彼女は自らの頬を強くひねった。

 

「痛たたた」

「……何やってんだ?」

 

 赤くなった頬を撫でさするスィンに呆れたような視線を寄越すルークに、本音が零れる。

 

「いえ……ルーク様がお礼を言うなんて、天地がひっくりかえってもありえないと思っていたので、もしかするとこれは夢かと」

「どーゆー意味だ!」

 

 思わず大声で怒鳴ったルークの声を聞きつけたか、一人の兵士が現れた。

 

「やっべ……!」

「ルークのどじ!」

 

 侵入者だ、と叫ぼうとしているらしい兵士の咽喉に、虚空を切り裂いて何かが飛来する。

 狙い違わず、放たれた矢は勝利の旗のように突き立ち、兵士の首を貫通してその役目を終えた。

 

「──なーんて、ふざけてる場合じゃありませんね」

「スィン……」

 

 ナタリアの弓を使って兵士を仕留めた彼女は、くるりときびすを返している。

 

「二人はこちらで軟禁されています。参りましょう」

「あ、あのさ……スィン」

 

 見張りは片付けた、の追伸にかぶさるように、ルークが言った。

 

「なにか?」

「その敬語、やめてくんねぇか?」

 

 その一言に、彼女は返したきびすを正してルークと向き合う。胸の前で腕を組み、気持ちふんぞりかえってみせた。

 

「なにいきなりふかしぎなことをぬかしてるのルーク」

「その……アッシュがさ、俺に敬語使うスィン見てすんげぇ苛立ってたみたいなんだ。考えてみれば仕方ねえかもしれねえけどよ。お前が仕えてたのは俺じゃなくて、アッシュだったんだから」

 

 どうやら棒読みはスルーされた模様である。腕組みもふんぞりかえるのもやめて、スィンは姿勢を正した。

 

「……なぜそのようなことをご存知なのかはさておいて、今の僕は、一応ルーク様……あなたの、護衛従者ですよ?」

 

 わかってる、と彼は頷いてみせたものの、自説を曲げようとはしなかった。

 

「別にアッシュの奴に気ぃ使ってるわけじゃないぜ? でも俺があいつのレプリカで、今いる俺は本当はあいつだったってこと考えると、どうしても……なんつうかなあ、その──」

 

 居場所を奪い続けているようで、腹の据わりが悪い。こんなところだろうか。しかしルークはそれを言葉にはしなかった。

 

「……それに俺、お前に甘えてひどいこと言ったり、しちまったりしたし……とにかく! お前が俺の護衛従者だから、ってんなら今この場でクビにする。だからもう俺に対して気ぃ回したりするのはやめてくれ。……いいか?」

 

 瞳を閉ざして彼の弁を静かに聞いていたスィンは、ふう、と息を吐いている。

 

「スィン?」

「一体何がどうなって、そんなことを考えるおつむが身についたのかは、聞かないほうがいいのかな」

 

 スィンは、余すことなくルークの挙動を見つめている。

 ナタリアの時と同じく、少しでも憤りを覚える素振りを見せたなら、彼女は己の言動を改めはしないだろう。

 それを悟って、ルークは口ごもりながらも応対した。

 

「い、色々あったんだよ」

「その色々を聞きたいけど、時間ないしやめとくね。護衛従者クビになっちゃったし、わかったよ。ルーク」

 

 意識しているらしく、わずかにたどたどしい、しかし明らかに口調は変えられていた。

 認めてくれたのか、とわずかな喜色を浮かべるルークに、彼女はくっ、と唇に緩やかな弧を刻む。

 

「過去は、忘れないけどね。それじゃ、お姫様たちを救出に行こっか」

 

 護衛従者は今この時をもってクビになったのだ。このくらいはいいだろうと、顔面蒼白になるルークはさておく。

 イオン様は男性よ、と生真面目に修正するティアに、そうだね、と笑みを隠さぬまま、一同はスィンの先導で二人が軟禁されている部屋の前へと向かった。

 

「な、なあ。やっぱり怒ってる、か?」

「怒ってるに決まってるじゃん。今までどれだけ「ノーコメントですのー」

 

 アニスの言葉は遮って、あわあわしているルークには満面の笑みで対応する。それをやめさせようとしてなのか。苦笑をたたえたガイがあるものを放った。

 

「そうだ、こいつを忘れてた」

 

 からかいをやめて受け取りにかかる。それは彼にお守りと称して渡したロケットペンダントだった。

 

「──ガイ兄様も、ご無事でなによりです。ルーク様とカケオチされなくて、本当に良かった」

「だからなんでそーなるんだよ!」

 

 幾分声を潜めて苦情を洩らすガイに微笑みかけてから、スィンはひとつの扉の前で立ち止まる。装備していた弓と矢筒を外している彼女のかわりに、ルークが扉を開けて突入した。

 

「イオン! ナタリア! 無事か?」

 

 突入した彼らを迎えたのは、緊張の垣間見えた表情を瞬時に明るくしたイオン。

 同じく安堵は浮かべたものの、先頭のルークを見てわずかに小首を傾げたナタリアである。

 彼女は、確かめるように彼へ尋ねた。

 

「……ルーク……ですわよね?」

「アッシュじゃなくて悪かったな」

 

 心底そう思っているらしいルークに、それを揶揄と受け取ったナタリアが憤慨している。

 

「誰もそんなこと言ってませんわ!」

「イオン様、大丈夫ですか? 怪我は?」

 

 心配そうに彼の周囲をくるくる回るアニスに、イオンは柔らかな微笑を向けた。

 

「平気です。皆さんも、わざわざ来てくださってありがとうございます。スィンも、ご苦労様でした」

 

 ルークが黙して首を振り、スィンが軽く頷いた矢先に、ティアの質問が飛ぶ。

 

「今回の軟禁事件に、兄は関わっていましたか?」

「ヴァンの姿は見ていません。ただ、六神将が僕を連れ出す許可を取ろうとしていました。モースは一蹴していましたが……」

 

 スィンがいない間にそんなごたごたがあったらしい。スィンがナタリアに弓矢一式を手渡し、外装を外している間にも会話は続いた。

 

「セフィロトツリーを消すために、ダアト式封咒を解かせようとしているんだわ……」

「……ってことは、いつまでもここにいたら、総長たちがイオン様を連れ去りに来るってこと?」

 

 アニスの問いに、ガイが頷く。

 

「そういうこった。さっさと逃げちまおうぜ。ひとまず、街外れまでで大丈夫だろう。この後のことは、逃げ切ってから決めればいい」

「なら、第四石碑だっけか? あれがあった丘まで逃げようぜ」

 

 神託の盾(オラクル)本部にいても違和感のないティア、アニス両名が斥候を勤めながら、どうにか本部を抜け出した。

 人払いが解除された教会内を抜け、自治区を素通りし、一行は第四石碑の丘へ到着する。

 

「追っ手は来ないみたいだな」

「公の場で、イオン様を拉致するような真似はできないのだと思うわ」

 

 少々拍子抜けしたように遠くへそびえるダアトを見ながらガイが呟き、ティアが常識的に考えてもっとも妥当だと思われる意見を述べた。

 

「でもぉ、この後どうしますかぁ? 戦争始まりそうでマジヤバだし」

「バチカルへ行って、伯父上を止めればいいんじゃね?」

 

 誰ともなく出されたアニスに言葉に、ルークがそんな提案をする。

 戦争を仕掛けようとしているのはキムラスカ、そして彼の国の王は自分とナタリアの知り合いということを考慮しての、通常であれば妥当な意見ではあったが、ティアが却下した。

 

「忘れたの? 陛下にはモースの息がかかっている筈よ。敵の懐に飛び込むのは危険だわ」

「残念ですが、ティアの言う通りかもしれません。お父様はモースを信頼しています」

 

 つらそうに俯くナタリアに合わせ、ジェイドも気がかりを持ち上げる。

 

「私はセントビナーが崩落するという話も心配ですねえ」

「それなら、マルクトのピオニー陛下にお力をお借りしてはどうでしょう。あの方は戦いを望んでおりませんし、ルグニカに崩落の兆しがあるなら、陛下の耳に何か届いているのでは」

「それでいいんじゃないですかぁ?」

 

 アニスの言葉に否を唱える者はいない。そしてルークが決定を打つ。

 

「よし、じゃあ、決まりだな。でもマルクトに行くのに、船はどうする?」

「アッシュが、タルタロスをダアト港に残しておいてくれました。まずは港へ向かいましょう」

「アッシュが……。わかった、港は北西だったよな。行こうぜ」

 

 途中、またも揃った顔ぶれに対する話題が持ち上がり、ルークの驚くような変貌に移行、ジェイドとアニスという黄金コンビによるイヤミをイオンがフォローし、ルークが頬を赤らめて謙遜を見せるという会話が成り立ったものの、スィンはその中へ入らなかった。

 これから起こる事例にも寄るが、彼の決意は本物であると、そう認めざるを得なくなる日が必ず来る。

 今までのような態度であれば、自分の気持ちを隠すことなど容易であったのに、それ以前に彼は気づこうとしなかっただろうに、こうなると隠すのは難しい。積極的に話すことなど論外であったが、それでも一生隠しきるのはおそらく不可能だろう。いつかはバレる。

 スィンはちらちらと自然体でいることができるガイをうらやましそうに見た。

 港へ至り、ふとルークは思いついたように皆を見やる。

 

「皇帝のいるグランコクマって、ここからだとどの辺になるんだ?」

「えっと、確か北西だよ」

 

 頭の中の地図を思い浮かべたアニスがそう答えた。それを皮切りに、今まで黙しがちだったスィンがジェイドの顔を見る。

 

「……そういえば、グランコクマは戦時中に要塞になる……んですよね? タルタロスで入れるんですか?」

「よくご存知ですねえ。そうなんです」

 

 ジェイドの感心したような、しかし探るような瞳からふいと視線をそらした。

 いいタイミングでアニスの疑問が彼の気をそらす。

 

「でも、今はまだ開戦してませんよ?」

「それはそうですが、キムラスカの攻撃を警戒して、外部からの侵入経路は封鎖していると思います」

「ジェイドの名前をだせば、平気なんじゃねーの?」

 

 彼の国の軍人──それも大佐という地位にいる彼ならば、とルークは考えたらしいが、これまで起こった出来事の産物にあっけなく覆された。

 

「今は逆効果でしょう。アクゼリュス消滅以来、行方不明の軍人が、部下を全て死なせた挙げ句、何者かに拿捕された筈の陸艦で登場──攻撃されてもおかしくない」

 

 惨劇を思い出したか想像したか、う、と言葉を詰まらせた彼のかわりに、イオンが穏便な手段を提案する。

 

「どこかに接岸して、陸から進んでいけばどうでしょう。丸腰で行けば、あるいは……」

「ローテルロー橋がまだ工事中ですよね。あそこなら接岸できると思います」

 

 意見を受け、ティアがルートを模索した。わずかに躊躇して、ジェイドが承諾する。

 

「……それしかなさそうですね」

「決まりですわね。ローテルロー橋を目指しましょう」

 

 何を嫌がっているのだろうか、といぶかしんだ疑問は、ナタリアの決定を聞いたアニスの呟きで回答を得られた。

 

「うは……歩くんだ……」

 

 

 




こっそり弓術も心得ていますオリジナルキャラクター。
幼少のナタリアが教えを受けていた傍で、ライバルいたほうが上達が早いからという理由で一緒に修練受けてました。
ナタリアの上をいってはいけないという制限つきだったので、ランバルディア流なんたらかんたらは持っていません(笑)


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第四十一唱——まみえるは、己が歩みし道々の標

 

 

 

 

 ──それは、ルグニカの大地が視認できる海域へ差しかかったときのことだった。

 それまで通常通り航行していたタルタロスが突然凄まじい衝撃を受け、機体が激しく揺らいだのである。

 

「きゃあっ!」

「沈んじゃうの?」

 

 ナタリアが悲鳴を上げて身をすくませ、アニスが不安そうに周囲を見た。

 

「見てきます」

「俺も行く。音機関の修理なら、多少手伝えるからな……スィン、手伝え!」

「はい!」

 

 ジェイドに引き続きガイ、そしてナタリアを支えていたスィンが後を追う。残された一同は言い知れない不安を漂わせ、事態を見守った。

 

「ご主人様。ボクは泳げないですの……」

「……知ってるよ。大丈夫。沈みゃあしないって」

 

 中でも、水の中に放り込まれる恐怖が最大と思われるミュウに、ルークは慣れない気遣いを見せる。そこへジェイドが艦橋(ブリッジ)へ駆け戻ってきた。

 

「機関部をやられましたが、二人が応急処置をしてくれて、何とか動きそうです」

 

 どうですか? と伝声管で呼びかければ、すぐに二人の音声が伝わってくる。

 

『一時的なモンだ。できればどこかの港で修理したいな』

『それより進路を変えないと! まだ機雷が漂ってきてます!』

 

 外を見ているらしく、ガイのものよりは遠いスィンの言葉に、早急なルート変更が促される。えっと、とティアが素早く地図を思い浮かべた。

 

「ここからだと、停泊可能な港で一番近いのはケテルブルク港です」

「じゃあ、そこへ行こう。いいだろジェイド」

「……まあ……」

 

 ルークに同意を求められ、しょうがないですねとでも言いたげな、微妙そうなジェイドの声音に続き、ガイがスィンの表情を懸念している。

 

『どうした? アッシュじゃあるまいし、眉間に皴が寄ってるぞ』

『……いえ別に』

 

 苦しくもジェイドと同じような反応になってしまったことに苦笑したのだろうか、ふっ、という呼気が零れた。

 応急措置の確認をしているガイの補佐を勤めつつも。スィンの脳裏からは、あの真っ白な街の面影がなかなか消えてくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこもかしこも雪に覆われた港へ入る。

 魔界とは違った意味で別世界のようなケテルブルクの光景を見入っていると、見慣れぬ船を警戒してかマルクトの兵士が下船した一行に歩み寄ってきた。

 

「失礼。旅券と船籍を確認したい」

 

 兵士の言葉に、ジェイドが一歩前へ進み出る。彼の着る軍服に気を取られていた兵士だったが、その名乗りには眼を丸くした。

 

「私はマルクト帝国軍第三師団所属、ジェイド・カーティス大佐だ」

「し……失礼しました。しかし大佐はアクゼリュスで……」

 

 彼の言い草からして、死んだということになっているらしい。それを察しただろうに、彼は態度を小揺るぎもさせず、淡々と方便を並べ立てる。

 

「それについては極秘事項だ。任務遂行中、船の機関部が故障したので立ち寄った。事情説明は知事のオズボーン子爵へ行う。艦内の臨検は自由にして構わない」

「了解しました。街までご案内しましょうか?」

 

 一応納得したらしい兵士の申し出を、しかし彼は断った。

 

「いや、結構だ。私はここ出身なのでな。地理はわかっている」

「わかりました。それでは、失礼します」

 

 立ち去る兵士の背を見送って、ルークは意外そうに呟いている。

 

「へー、ジェイドってここの生まれなんだ」

「……まあ、ね」

 

 どこか含みのある微笑で答えたジェイドは、スィンの質問を受け振り返った。

 

「修理はどうするんです?」

「それも知事に報告して、頼みましょう」

 

 ……ここの出身とはいえ、一軍人に知事が協力するなど、通常考えれば少しありえないような話の気はするが。そこはジェイドが口車で何とかするだろうと、一行は特に気を止めなかったらしい。

 

「よし、じゃあケテルブルクへ急ごう」

 

 その一言で、彼らはジェイドの先行により兵士が用意してくれたと思われる雪上馬車に乗り込んだ。一面に広がる白の世界に感嘆を零しながら、ケテルブルクへ入る。

 入って眼前のカジノにアニスがふらふらっと引き寄せられたり、イオンによる『ケテルブルクの輩出せし二人の天才』ジェイドとディストの関係、更にはトクナガの出生が明らかになったり。

 

「寒いー」

「寒いですのー」

「砂漠でやってたみたいに、外套をあっためればいいんじゃない?」

第五音素(フィフスフォニム)は微調整が難しいの。前試作品を試したときに低温火傷した。あと、こういうところだと原動力の設定がしにくい」

「冷気じゃダメなのか?」

「反発し合う属性の転換は効率が悪い。それに、移動したり戦ったりした後は必ずしも寒いわけじゃないから、その調整もしなきゃいけない。難しすぎて諦めた」

「その辺りの話を詳しく聞いてみたいところですね。スィン、温めて差し上げますので、こちらにどうぞ」

「ぎゃー!」

 

 ミュウと二人で寒いと連呼していたスィンが、ジェイドのちょっかいから逃げようと思わずナタリアの背中に隠れ、軍人と姫という珍しいツーショットが発生したり、と数々の珍事を引き起こしながらも、一行は知事邸前へたどり着いた。

 何らかの手続きが必要かと思われたが、ジェイドはそれらしい事柄を一切省いて、ずんずん知事の執務室前へ歩いていってしまう。

 使用人らしい人間もちらほらいたにもかかわらず止められなかった理由は、執務室にノックはしても返事を待たずして入室したジェイドを見ての知事の一言で判明した。

 

(知事って、この人かあ)

 

「……お兄さん!?」

「お兄さん!? え!? マジ!?」

 

 驚く一同の胸の内を代弁したのはルークである。

 確かに顔立ちや髪色、印象を見比べるとよく似ているのだが、彼と血を分けた兄弟など想像できなくて当然だ。やはり日頃の行いは重要である。

 驚愕に固まる彼らをまったく顧みることなく、ジェイドはにこやかに、そして驚くべき再会の挨拶を取った。

 

「やあ、ネフリー。久しぶりですね。あなたの結婚式以来ですか?」

 

 が、そこはやはり生まれたそのときから知り合う間柄。彼の微笑に惑わされる彼女ではなかった。

 

「お兄さん! どうなっているの!? アクゼリュスで亡くなったって……」

「実はですねぇ……」

 

 長くなりますよ、と前置きを告げてから、一連の出来事──端折った部分は膨大であったにもかかわらず、前置き通りになった──を語る。兄の言葉を一言一句、終始質問なども挟まず聞いていた彼女だったが、話が終わってふう、とため息をついた。

 

「……なんだか途方もない話だけれど、無事で何よりだわ。念のためタルタロスを点検させるから、補給が済み次第ピオニー様にお会いしてね」

 

 とても心配しておられたわ、と気遣わしげに伝えれば、ジェイドはいつもの笑みをたたえている。

 

「おや、私は死んだと思われているのでは」

「お兄さんが生きてると信じているのは、ピオニー様だけよ」

 

 そしてネフリーは兄ではなく、一行全員と向き直った。スィンは一応両眼を見られないよう、ガイの背中に隠れてやり過ごした。

 

「皆さんも、出発の準備ができるまでしばらくお待ちください。この街は観光の名所ですから、危険はないと思いますわ。宿をお取りしておきます。ゆっくりお休みください」

 

 事務的ではあるが、とある人物とは似ても似つかない微笑みに見送られ、来たときと同じようにジェイドを先頭に一行が退室する。

 最後尾を歩くルークがネフリーに囁きかけれられているのを、スィンは小耳の端に留めておいた。

 

『すみませんが、お話がありますので後ほどお一人でいらしてください』

 

(……ふぅん)

 

 おそらくは、ルークがレプリカであることを聞いてのことだと思われる。彼に何を期待しているのかはわからないが、彼女とルークの接点といったらひとつしかない。

 知事邸からやはりジェイドの案内で宿先へ向かう際。知事邸の奥に面した豪邸を眼にしてアニスの足が止まる。

 そのつぶらな瞳がきらりん☆と輝いた。さながら獲物を狙う子猫のように。

 

「は~。すっごいお屋敷v ここの人と結婚した~いv」

 

 うっとりと体をよじらせるアニスに、ジェイドはとても朗らかな微笑を浮かべた。

 

「確かまだ独身でしたよ。三十は過ぎてますが」

「え、もしかしてここ大佐の家とか? だったら大佐でもいいなぁv」

 

 彼相手に猫かぶりは無駄だとは認識しているらしく、直球ストレートに言い切ったアニスに、ジェイドはにこにこと面相を崩さないまま、きっちり拒んでいる。

 

「そうだとしてもお断りです。でもここの持ち主なら喜ぶかもしれませんよ。女性ならなんでもいい人ですから」

 

 どうも誰なのかを詳しく知っているらしいジェイドに、アニスが断られたのも忘れて誰何した。

 

「誰ですか」

「ピオニー陛下です」

「ひゃっほー♪ 玉の輿ぃv」

 

 玉の輿とか、そんなレベルではないような気もするが、今のアニスにそんな常識的な意見は通らない。

 

「皇帝は、首都の生まれじゃないのか?」

「王位継承の争いで子供の頃、この街に追いやられたんだってさ」

「ええ、そうです。ここはその時のお屋敷ですよ」

 

 ルークの問いにスィンがあっさりと答え、ジェイドがまたも眼鏡を光らせている。ピオニー陛下に関する話題が続き、彼の初恋の人が判明したところで、一行は一際目立つホテルに到着していた。

 

「知事から承っています。ごゆっくりどうぞ」

 

 フロントでジェイドが手続きを取っていたところ、ついに決心したのか。ルークがひどい棒読みで、かつわざとらしく頭へ手をやっている。

 

「あ、俺ネフリーさんトコに忘れ物した。行ってくる」

「俺も行こうか?」

 

 申し出たガイを思いとどまらせるように、ルークはわざと意地悪く言った。

 

「ネフリーさん、女だぞ」

「美人を見るのは好きだ」

 

 隠すことなどなにもない、といった風情で胸を張ってすら言い切った彼に、女性陣が呆れたように言う。

 

「ガイも男性ですものね……」

「年上の人妻だよ~?」

「や、違うぞ! 変な意味じゃなくて……」

 

 狼狽する彼に、スィンは「ガイ兄様」と、とどめの一言を放った。

 

「な、なんだ?」

「まさかとは思いますが『眼鏡っ娘』というのがお好みなんですか? だったら大佐の顔で我慢しといてください。ご兄弟だから似てますよ」

「なんでそうなるんだっ!」

 

 と、話が完全に脱線したところで、ルークの足元のミュウがピョン、と跳ねる。

 

「ご主人様、ボクも行くですの」

「あーもう、うぜぇって! 俺一人でいいよ!」

 

 癇癪を起こした風を装ったルークが行き、なおかつジェイドが部屋へ向かったのを確認してから。スィンは観光という名目で外へ出た。

 一定距離を保ち、ルークの後を尾けて、わき道をそれる。

 マルクトの現皇帝が育った屋敷を横切り、とある一角のフェンスに背を預けて、スィンは探索の譜術を発動させた。

 ほどなくして、会話だけが伝わってくる。

 

『すみません。あなたがレプリカだと聞いて、どうしても兄のことを話しておかなければと思ったんです』

『……なんの話ですか』

『兄が何故、フォミクリーの技術を生み出したのか……です』

 

 興味深い話だった。しかしスィンはこれを盗み聞いて、少なくとも平静ではいられない事態に陥ることになる。

 

『今でも覚えています。あれは私が不注意で、大切にしていた人形を壊してしまった日のことです。その時兄は、フォミクリーの元になる譜術を編み出して、人形の複製──レプリカを作ってくれたんです。兄が九歳の時でした』

『し……信じられねぇ……』

『そうですよね。でも本当です。普通なら同じ人形を買うのに、兄は複製を作った。その発想が普通じゃないと思いました』

『普通じゃないって、そんな言い方……』

『……今でこそ優しげにしていますが、子供の頃の兄は、悪魔でしたわ。大人でも難しい譜術を使いこなし、害のない魔物たちまでも残虐に殺して楽しんでいた。兄には、生き物の死が理解できなかったんです』

『そんな風には見えないけど……』

『兄を変えたのはネビリム先生です』

 

 ぴく、とスィンの肩が震えた。

 

『ネビリム先生は第七音素(セブンスフォニム)を使える治療師でした。兄は第七音素(セブンスフォニム)が使えないので、先生を尊敬していたんです。そして悲劇が起こった。第七音素(セブンスフォニム)を使おうとして、兄は誤って制御不能の譜術を発動させたんです。兄の術はネビリム先生を害し、家を焼きました』

『殺しちまったのか!?』

『その時は辛うじて生きていました。兄は今にも息絶えそうな先生を見て考えたのです。今ならレプリカが作れる。そうすれば、ネビリム先生は助かる』

『!!』

『兄はネビリム先生の情報を抜き、レプリカを作成した。でも誕生したレプリカは、ただの化け物でした』

『本物のネビリムさんは?』

『亡くなりました』

 

 頬が一瞬熱くなり、すぐに冷たい何かが通り過ぎる。

 

『その後兄は才能を買われ、軍の名家であるカーティス家へ養子に迎えられました。多分兄は、より整った環境で先生を生き返らせるための勉強がしたかったんだと思います』

『……でも今は、生物レプリカをやめさせた。どうして?』

『ピオニー様のおかげです。恐れ多いことですが、ピオニー様は兄の親友ですから』

『そうか……』

『でも本当のところ、兄は今でもネビリム先生を復活させたいと思っているような気がするんです』

『そんなこと、ないと思うけどな』

『そうですね。杞憂かもしれない。それでも私は、あなたが兄の抑止力になってくれたらと思っているんです。話が長くなってしまいましたね。聞いてくださって、ありがとうございました』

 

「う……」

 

 う? 

 

 第三音素(サードフォニム)を通じての音声ではなく、自分の耳でしっかり聞こえたその言葉にスィンは覚醒した。

 そして自分が顔を覆って、泣いていたことに気づく。顔を覆っていた手をどけ、そっと顔を上げた。

 視線の先には、細身にサングラスのような眼鏡をかけた、優男風なおかっぱ頭の男がいる。

 右目をこすりながらその男を見ると、彼は「ひっ!」と及び腰になり、「わあああっ!」と悲鳴を上げて逃げていってしまった。

 いぶかしがりながら、右目にかぶさりかかっていた髪を見て、びくり、と硬直する。

 

 色が、視界の大半を占める雪のように白い。

 

 感傷的になりすぎて術が解けたのか、そんな馬鹿な。という彼女の推測はやはり間違っていた。

 これだけ寒いにもかかわらず、大量にかいていた汗のせいで、身体が芯から冷えている。冷たすぎるほどだ。身体に影響を及ぼす生体譜術は死亡すると効力を失うため、と思われた。

 汗を拭き取り、スィン・セシルの姿を取り戻し、男性を追跡する。雪に足を取られているのか、まだ視認できる位置だ。追いついたところで何かをするつもりはなかったが、一応彼が何をするのかを確認しておきたかった。

 

「ジェイド、大変だっ!」

 

 そして男性はケテルブルクホテルに駆け込んでいく。まさか、と思いながら、用心してもうひとつの出入り口へ回り込み、聞き耳を立てた。

 

「どうしたんです?」

「で、でた。でたんだよ……」

「でた、って、何が?」

「ネビリム先生が、いたんだよ!」

「「!!」」

 

(あっちゃー……ジェイドの知り合いだったかー)

 

 聞き覚えがある応対者たちに思わず額に手を当てながら、それでも聞き耳は続ける。

 

「……おかしな冗談はやめてください」

「本当だ! 別に疲れてないし幻覚でもない! けど本当にいたんだよ。先生が、自分家の跡のところにいて、こう顔を覆って、『返して……』って、泣いてたみたいで……」

 

『返して』

 

 確かに、無意識のうちに呟いた言葉に似たような単語はある。が、最初の一文字と文字数しか合っていない。

 とっさに記憶を操作して言葉を組み合わせてしまった人間の想像力とは、えてしてすごいものである。

 

「間違いない、あれは先生の幽霊だ! ちょっと髪が長すぎるような気がしたけど、ぼーっと光ってたし……」

 

 それたぶん使用中の譜術、譜陣の光。

 言い募る男性に対し不快感をあらわとするジェイドとそれをなだめるルーク、そして騒ぎに気づいた一行までもが集まってきたのを耳にして、スィンはそれ以上の聞き耳をやめ、広場へと向かった。

 ほとぼりが醒めるまで逃走を図ろうという魂胆である。

 広場では子供たちが両チーム平等に投石器を使っての雪合戦を繰り広げていた。片隅のベンチに座ってそれをボーッ、と眺める。

 

 えらいことをしてしまった。

 

 それ以上雪合戦を眺める気にもなれず、探索の秘術でケテルブルクホテルロビーの様子を見る。

 とりあえず騒ぎを沈静化したらしく、喧騒はなかった。代わりに、ジェイドとルークが密談を交わしている。

 

『……ときにルーク。ネフリーから話を聞きましたね』

『……き、聞いてない』

 

 音声のみであるが、ルークの挙動が怪しさ大爆発であることが目に浮かぶようだった。

 

『悪い子ですね。嘘をつくなんて』

『……う……なんでバレたんだ』

 

 当たり前である。

 

『まあいいでしょう。言っておきますが、私はもう先生の復活は望んでいません』

『ホントか? ホントにか?』

『……理由はあなたが一番よく知っているでしょう』

 

 彼の声はひどく苦々しかった。

 

『私はネビリム先生に許しを請いたいんです。自分が楽になるために。でもレプリカには過去の記憶はない。許してくれようがない』

『ジェイド……』

『私は一生過去の罪に苛まれて生きるんです』

『罪って……ネビリム先生を殺しちまったことか?』

『そうですね……人が死ぬなんて大したことではないと思っていた自分、かもしれません』

『俺……俺だって、レプリカを作れる力があったら、同じことしたと思う……』

『やれやれ。なぐさめようとしていますか? いささか的外れですが、まあ……気持ちだけいただいておきます』

 

 ここでジェイドは声のトーンを変え、いつもより気持ち悪戯っぽい声になる。おそらくは、意識的に。

 

『それより、このことは誰にも言ってはいけませんよ。いいですか?』

『……わかった』

『約束しましたよ』

 

 そろそろ限界だった。ぷつ、と術は唐突に断絶し、雪合戦に精を出す子供たちの歓声が耳朶を姦しく打つ。

 

 ──決めた。

 

 立ち上がり、広場を後にして当初の目的地を目指す。今すぐ向かえばジェイドとエンカウントはしないはずだ。

 力の限り握っていた拳を解けば、手のひらに食い込んでいた爪は緋色に染まっていた。

 それが終わったら、今日は──否、今夜は──

 指先に付着した己の血液を舐め、不味い鉄錆の味に嫌悪する。ざくざくと雪の道を踏みながら、スィンは街外れへ歩み去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。スィンがロビーに姿を見せると、フロントの前には全員が集合していた。

 やっと来たか、と彼女を見やったルークの表情が凍りつく。

 彼女の目はひどく充血し、額に手を当てたまま挨拶もなく無言でフロントに鍵を提出したのだ。

 

「……だから早めに切り上げなさいと言ったのに」

 

 一目で異常がわかるスィンに一同が眼を丸くした中、ジェイドは呆れたように呟いた。

 

「……もーしわけな……い」

「い、一体何が……?」

「自分の限界を見極め損ねて二日酔いになっているだけです。放っておいてあげなさい」

 

 それを聞き、全員が呆れながらも納得する中、ガイだけがいぶかしげに彼女を見やる。

 確かに眼は充血しているが、それは二日酔いの症状ではない。彼女は泣き上戸ではないし、第一足取りがしっかりしすぎている。

 額に手を当てているものの頭が痛そうな素振りは見せないし、ジェイドは知らないが、彼女は底なしといっていいほど酒に強いのだ。悪酔いしたところを見たこともないし、次の日に持ち込むような体質でもない。

 ガイの視線に気づいて顔を上げたスィンは、困ったように微笑んだ。本当に二日酔いなら、他人の視線に気づけるほどの余裕はない。

 何かあったのだ。酒豪たる彼女がこの状況下で酒精の恩恵を望み、結果それが叶わず徹夜してしまったほどの何かが。

 

「ありがとうございました」

 

 ジェイドが手続きをしている間にそれを聞こうとして、ホテルのドアをくぐってきた人物に気を取られる。

 

「タルタロスの点検が終わりました。いつでも出発できますわ」

 

 にこやかにそう告げたのは、ネフリー・オズボーン子爵にして、ケテルブルクの知事だった。

 

「──さあ、それじゃグランコクマに向かおうか」

 

 眼を隠すようにしているスィンに事情は後で聞こうと決め、ガイが先を促す。

 

「ええ。一刻も早く、セントビナーの崩落の危険を皇帝陛下にお知らせしないと」

「そうですわね。まずはローテルロー橋に急ぎましょう」

 

 橋の名を耳にし、アニスは待ち受ける苦労を思ってのため息をついた。

 

「はぁ……その後は徒歩か……ねぇ大佐~♪ 疲れたらおんぶして~v」

「お断りします。年のせいか体の節々が痛むんですよ」

 

 少女のおねだりを爽やかに却下し、それに、と続ける。

 

「グランコクマへ行くには、橋から北東に進んだ先にあるテオルの森を越える必要があります。私のような年寄りには辛いですよ。若い皆さんが私の盾となって先陣を切ってくれないとv」

「……よく言うよ……」

 

 呆れたようなスィンの呟きに心中だけで同意して、ルークはさて、と呟いた。

 

「そうと決まればのんびりしちゃいられないな。行こうぜ! みんな」

 

 そして色々な意味を込めて、目の前に知事に頭を下げる。

 

「それじゃネフリーさん、お世話になりました」

「皆さんもお元気で。お兄さん、陛下に宜しくお伝えしてね」

 

 ところで、とネフリーは一行の後ろを見た。

 

「あなたたち、どうしたの?」

 

 見れば、ロビーの一角に据えられたバーの前で、従業員たちが何やら集まっている。

 彼らの視線の先には、酒樽が三つほど封を切られ、転がっていた。

 

「あ、これは……その」

「業者が空樽を持ってきたのかしら」

 

 それなら正式な処罰を、と歩み寄ってくるネフリーに、彼らはとんでもないとばかり首を振る。

 

「ち、違います! 昨夜来られた女性のお客様がこれをお一人で飲み干されましたので、何があったのかという話をしていただけで……」

「へ!?」

 

 驚愕して酒樽を見る。大きさとしては手足をたためばアニスがすっぽり入れるほどの容量をそなえた樽だ。それが三つも。

 これを飲み干した? 女が? 

 ふと思い立ち、ルークはスィンを見やった。

 

「まさか……」

 

 ルークの視線を受け、更に一同の視線を受けたスィンが軽く冷や汗を流す。

 しばしの沈黙の後、彼女は「あはは……」とあきらめたように笑って、眼を隠していた手を外した。

 

「バレちゃった♪」

「やっぱお前なのかよ!」

 

 従業員たちの表情で真相を知ったルークが、呆れ顔で突っ込んだ。

 

「スィン、そんな大量に飲んでは体に悪いですわ! それにお金は……」

「……かなり違う気がするけど、そんなお金よくあったね?」

 

 アニスの問いに、スィンはにっこり笑って一点を指した。一番近くにいたティアが歩み寄って、その先に張られた内容を読む。

 

「『ただいまキャンペーン中。一時間以内に地酒の大樽を飲みきった方、無料。間に合わなかった方、酔いつぶれた方は料金徴収、不正が発覚した場合は更に罰金』……っていうことは、三時間で三つ……!」

 

 思わずその光景を想像して戦慄に身を震わせるティアの後ろで、ジェイドが呆れたように驚愕のまなざしを向けられても苦笑を絶やさないスィンを見た。

 

「ケテルブルクの地酒といえば、かなり度が高いことで知られているはずですが」

「ええ。流石ケテルブルク銘酒『初恋は檸檬の味』ロニール雪山の万年雪を解かして使用しているだけあって、とても咽喉越し爽やかでしたよ♪」

 

 どこか外れた感想を述べている彼女に、イオンがぽつりと呟いている。

 

「なるほど。こういう方を『うわばみ』というんですね」

「イオン様、ビンゴです……」

 

 と、スィンが称号『うわばみでザル』をイオンから贈られるという珍事の後に、一行はようやっとケテルブルクを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ネビリム先生関連辺り まあバレバレって感じもしますけど……正体暴露はも少し先です。
ケテルブルクの地酒銘は、ピオニーの初恋にかけてます。たぶん。


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第四十二唱——塗り固めた嘘は、ぽろぽろと剥がれゆく


テオルの森初プレイ時の思い出。
大佐を待つ間、アニスがトクナガを用いて拳打の練習をしていました。
悲鳴が上がった時には打たれた樹木が悲鳴をあげたのかと勘違いし、それはそれは驚いたものです……


 

 

 

 

 

 

 

 

 今度は総員でマルクトの機雷の接近を見張り、機関部の快調を保ったまま、タルタロスはローテルロー橋に接岸した。

 二国間の緊張を推し量ってか、兵士も工事業者もいない。ただやりかけの工事現場がむなしく残っているだけだ。

 街道を北上、エンゲーブとセントビナーへ続く橋の手前を東へ曲がり、道なりに進めば、チーグルの森とは違う、整備された森が見えてくる。

 グランコクマの最終防衛線といわれるだけあって、坂道を登っていくと一行の姿を見つけた兵士は警戒もあらわに叫んだ。

 

「何者だ!」

「私はマルクト帝国軍第三師団師団長、ジェイド・カーティス大佐だ」

 

 ジェイドが代表して兵士の前へ名乗り出る。

 その名と軍服の階級章を見てか、兵士はケテルブルクの兵士と同じような反応を示した。

 

「カーティス大佐!? 大佐はアクゼリュス消滅に巻き込まれたと……」

「私の身の証は、ケテルブルクのオズボーン子爵が保証する。皇帝陛下への謁見を希望したい」

 

 細かな説明は避け、単刀直入に用件を切り出す。

 兵士はジェイドの後ろで待機する一行をちらちら見ながら、歯切れの悪い返事を返した。

 

「大佐お一人でしたら、ここをお通しできますが……」

「えーっ! こちらはローレライ教団の導師イオンであらせられますよ!」

「通してくれたっていいだろ!」

 

 アニスの大げさな驚きに便乗してルークが文句を言ってみるものの、やはり兵士は首を横に振る。

 

「いえ、これが罠とも限りません。たとえダアトの方でもお断りします」

「皆さんはここで待っていてください。私が陛下にお会いできれば、すぐに通行許可をくださいます」

 

 ここで押し問答は不要とばかり、ジェイドは仲裁に入った。

 とにかくジェイドは向かうことができるのだ。この状況下では、それだけでもよしとするべきであろう。

 

「それまでここで置いてけぼりか。まあ仕方ないさ」

「……ちぇっ」

 

 ガイが納得を示すも、ルークは軽く舌を打った。気が急いて仕方ないらしい。それでも、今は待つしかない。

 

「それでは、ご案内します」

 

 兵に連れられ、ジェイドの背中は遠くなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれだけ待たされたのかは、時計が無くとも太陽の位置で計ることができる。時間に換算して約半日が過ぎた頃、ルークは一行の心情をぼやいた。

 

「まだかなー」

「ただ待つのも、結構大変ですわね」

 

 待ちくたびれたアニスが木の幹相手に拳打の練習らしいものをしているため、むごたらしい、もとい鈍い打撃音を背景に流したナタリアが飽き飽きといった表情で呟く。

 と同時に、兵士が見張りをしていた付近から人の叫び声らしきものが聞こえた。

 全員が立ち上がり、不安を抱くと同時に警戒を高めている。ティアが誰ともなしに呟いた。

 

「今のは……!?」

「悲鳴ですの……」

 

 ミュウがチーグル特有の大きな耳を持って聞き取った結果を怯えたように伝える。

 

「行ってみましょう!」

 

 ナタリアの号令の元、足止めをくらった付近へ走りよれば、そこにはマルクトの兵士が満身創痍の様子で倒れていた。

 状態は──瀕死。

 

「しっかりなさい!」

 

 治療師二人組が駆け寄るも、傷の程度に息を呑んで沈黙する。

 

神託の盾(オラクル)の兵士が……くそ……」

 

 兵士はそう遺して、息を引き取った。短い黙祷を捧げた後に、議論が始まる。

 

神託の盾(オラクル)……まさか兄さん……?」

「グランコクマで何をしようってんだ?」

「まさか、セフィロトツリーを消すための作業とか?」

 

 ティアの意見には異論はなく、ルークの問いには答えられないものの、イオンはアニスの意見に対し首を振って否定した。

 

「いえ、このあたりにセフィロトはない筈ですが……」

「話してても埒があかねぇ! 神託の盾(オラクル)の奴を追いかけてとっつかまえようぜ」

「そうですわね。こんな狼藉を許してはなりませんっ!」

 

 血気盛んなルークの提案に、ナタリアが呼気荒く賛同する。その二人を、ティアが押し留めた。

 

「待って! 勝手に入って、マルクト軍に見つかったら……」

「見つからないように隠れて進むしかないよ」

 

 遮るように、スィンが言い切る。

 ティアの言うことも一理あるが、消極的な行動は状況に対して後手後手に回ってしまう危険性が高い。この際、慎重さはかなぐり捨てるべきだ。

 

「ああ、マルクトと戦うのはお門違いなんだからな」

 

 ガイも納得を示し、アニスは体力だけを考えれば一般人以下と考えられるイオンに忠言した。

 

「かくれんぼか。イオン様、ドジらないでくださいね」

「あ、はい!」

「……いつの間にか行くことになってるわ……もう……」

 

 そんな嘆息は見せたものの、彼女にもう反論する余力は残っていない。

 抜き足、差し足、忍び足という、慣れない足取りで、時には息さえ殺しながら、マルクト兵の目をかいくぐって進んでいく。

 いつどこで神託の盾(オラクル)の連中と小競り合いになるのか見当もつかず、常に緊張を絶やさず行軍していた彼らであったが、出口が近づくにつれ、不信感が漂ってきた。

 

「もうすぐ出口だぞ。神託の盾(オラクル)の奴、もう街に入っちまったのか?」

「マルクトの兵が倒れていますわ!」

 

 ルークの視線から外れた先の光景を見て、ナタリアが飛び出すように兵の元へ駆け寄る。

 そこへ影が落ちた。

 

「ナタリア様!」

 

 スィンの警告を受け、ナタリアは間一髪影を避けた。瞬時に弓を取り矢を番え、放つ。

 放たれた矢は襲撃者に迫り、首を傾けられたことで顔の真横を通過した。

 

「お姫様にしてはいい反応だな」

「おまえは砂漠で会った……ラルゴ!」

 

 一度きりの邂逅であったが、ナタリアはこの巨漢のことを忘れてはいなかった。

 

「侵入者はおまえだったのか! グランコクマに何の用だ!」

「前ばかり気にしてはいかんな。坊主」

 

 多勢に無勢のはずなのに、妙に落ち着いたラルゴの態度と言葉にいぶかしがり、「え?」と後ろを向く。

 風を切る音、ティアに体当たりされた後に、ルークは新たな襲撃者の名を呼んだ。

 

「ガイ!?」

「ちょっとちょっと、どうしちゃったの!?」

 

 思いもよらぬ彼の行動に、アニスはイオンを背にかばいながらもトクナガに手を伸ばす。

 もっとも、この状況下で彼女に参戦を願うのは酷だが……

 

「いけません! カースロットです! どこかにシンクがいるはず……!」

「おっと、俺を忘れるなよ」

 

 イオンの言葉にシンクを探そうとしたスィンが、ラルゴの言葉にはっとなる。

 ガイのことは気になるが、ルークにこの二人を相手させるのはもっと酷だ。

 

「ルーク! ガイ兄様をお願い!」

 

 どうしようもなく、彼と剣を合わせ続けるルークに叫び、スィンは血桜を抜いてラルゴに肉薄した。

 迫る巨大な鎌を刀ではじき、後ろに回りこむように二人の様子を見る。

 その彼女に、ラルゴは小さな、それこそ近くにいるスィンにしか聞こえないような呟きを洩らした。

 

「未だに芝居を続けているのか……笑わせる」

 

 ! 

 ──ばれて、いる? 

 よくよく考えれば想定できたことだ。それでも、スィンの心に動揺は重くのしかかる。

 目に見えて動きの鈍ったスィンに、ラルゴが大鎌を振りかぶった。その彼に、ナタリアがまたも矢を放つ。スィンが傍にいるということを考慮してか、矢はラルゴの首の付近を通り過ぎていった。

 

「させませんわ!」

「ふ、ふははははははっ! やってくれるな、姫!」

 

 ラルゴの意識がナタリアに向く。

 一国の姫に刃を向けるという暴挙に反論するがごとく、大地は訴えるように動き出した。

 

「きゃっ、また地震!」

 

 足を踏ん張ったアニスたちを気遣わしげに見ていたティアだったが、ふと、傍の樹上の気配を感知する。

 

「ナタリア、上!」

 

 どこ、とは言わない彼女の意を正確に汲み取り、彼女は足場が揺れているにもかかわらず、正確な射撃を披露した。

 矢が樹上へ迫るのと、樹上から何かが落ちてきたのはほぼ同時のことである。

 

「……地震で気配を消しきれなかったか」

 

 シンクが姿を見せた瞬間、肉体のリミッターを強制的に解除されルークの剣を力任せに弾き飛ばしたガイが、脱力したのちに人形のように倒れた。

 

「やっぱりイオンを狙っているのか! それとも別の目的か!」

「大詠師モースの命令? それともやっぱ、主席総長?」

 

 ルークが吼え、アニスが答えを促すも、二人は明確な答えを示さない。

 

「どちらでも同じことよ。俺たちは導師イオンを必要としている」

「そんなわけだから、さっさと渡してよ。そうそう、そっちの色違い(オッドアイ)も一緒に」

「え? 何? 僕に何か用?」

 

 内心の動揺を押し殺し、わけがわからない風を装う。

 が、シンクは面白そうに口元を歪めると、哄笑を放った。

 

「あははははっ! なるほど、まだ──おっと」

 

 かこぉんっ! と音高く、先ほどまでシンクがいた木の根元に棒手裏剣が突き刺さる。

 あっさりよけられはしたが、とりあえずその口を止められればそれでいい。

 

「一応聞いとこう。何の話?」

「そうだねえ、十何年間にも及ぶ長い長いお芝居のお話──かな?」

 

 ──確定だ。

 表向き表情を動かさないスィンに対し、シンクはつまらないとでも思ったのか、ルークに顔を向けた。

 

「アクゼリュスと一緒に消滅したと思っていたが……たいした生命力だな」

「ぬけぬけと……! 街一つを消滅させておいて、よくもそんな……!」

 

 わからない話からわかる話へ移行したのはいいが、内容が内容である。

 ナタリアが批難もあらわに言うも、シンクは素早くルークを指した。

 

「はき違えるな。街を消滅させたのはそこのレプリカだ」

 

 痛く厳しい沈黙。それを破ったのは、第三者の声だった。

 

「何の騒ぎだ!」

 

 ようやく騒ぎに気づいたマルクトの兵士が数人、こちらへ駆けてくる。

 それを視界の端に収めたシンクはチッ、と音高く舌打ちした。

 

「ラルゴ、いったん退くよ」

「やむをえんな……」

 

 短く交わされた会話の後、二人はあっという間に森の中へと去る。

 直後、マルクトの兵士たちが現れた。

 

「何だ、おまえたちは!」

「カーティス大佐の連れの者、です。彼をお待ちしていたのですが、不審な人影を発見し、ここまで追ってきました」

 

 誰何の言葉に、スィンが進み出て淡々と事実と虚実を織り交ぜて語る。

 

「不審な人影? 先ほど逃げた連中のことか?」

神託の盾(オラクル)騎士団の者です。彼らと戦闘になって、仲間が倒れました」

 

 ちら、とガイに視線を送れば、未だ目覚めぬ彼の姿があった。が、その答えで彼らが満足した様子はない。

 なぜなら。

 

「だがおまえたちの中にも神託の盾(オラクル)騎士団の者がいるな」

 

 ティア、アニス両名を指しているのだろう。これは仕方がない。色々複雑な事情もあることだし、それに。

 

「……怪しい奴らだ。連行するぞ」

 

 扱いはどうなるか知らないが、グランコクマ入りは果たせる。これだけは結果オーライといえるだろう。

 

「……抵抗しない方がいいよな」

「当たり前でしょう」

 

 集まってきた多数の兵士郡を見たルークの呟きに、ティアが無愛想なツッコミを入れていた。

 

 

 

 



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第四十三唱——その清水にすすがれるが如く、隠れ蓑は崩れさった

 

 

 

 

 

 

『水上の帝都』と謳われるグランコクマは、その名の通り水の上、すなわち海の上に構える美しくも華やかな都市だった。外観としては赤を基調とし、きらびやかにして重厚なバチカルとは正反対の、青と白という清楚な趣がある。

 通常時は城及び街を覆う水源も相まって、さぞや和やかなところなのだろう、が──それはあくまで通常時の話だ。

 兵士に連行される形で街に入った一行を待ち受けていたのは、これまた完全武装の兵士をずらりと後ろへ従えた、一際異彩を放つ男だった。兵士のものではない、ジェイドが着ているタイプと酷似した軍服をまとった男を前に、兵士が敬礼する。

 

「フリングス少将!」

「ご苦労だった。彼らはこちらで引き取るが、問題ないかな?」

「はっ!」

 

 少将ということは、大佐であるジェイドより上の階級にいるということだ。つまり、眼前に立つこの男は、彼よりも偉い人である。

 フリングス少将は兵士が戻ったのを見送った後に、ガイを支えるルークに話しかけた。

 

「ルーク殿ですね? ファブレ公爵のご子息の」

「どうして俺のことを……!」

 

 驚くルークに、彼は詳細を説明する。

 

「ジェイド大佐から、あなた方をテオルの森の外へ迎えに行ってほしいと頼まれました。その前に、森へ入られたようですが……」

「すみません。マルクトの方が殺されていたものですから、このままでは危険だと思って……」

 

 ティアの謝罪に対し、彼はあくまで静かに首を振ってみせた。

 

「いえ、お礼を言うのはこちらの方です。ただ騒ぎになってしまいましたので、皇帝陛下に謁見するまで、皆さんを捕虜扱いとさせて頂きます」

 

 一昔前のルークなら、なんやらかんやら文句をつけたに違いない。が、今はそんなことも、それを思い出すどころでもなかった。

 

「そんなのはいいよ! それよかガイが! 仲間が倒れちまって……」

 

 ──そう。彼はこの行程の最中、ただの一度も意識を取り戻していない。

 カースロットについてはよく知らないため、ルークは肩を揺さぶって起こそうとしたくらいだ。

 そのときはイオンに止められ、しぶしぶ引き下がったのだが……

 

「彼は、カースロットにかけられています。しかも抵抗できないほど、深く冒されたようです。どこか安静にできる場所を貸してくだされば、僕が解呪します」

 

 進み出たイオンに、ルークはすがるようなまなざしを向けた。

 

「おまえ、これを何とかできるのか?」

「というより、僕にしか解けないでしょう。これは本来導師にしか伝えられていないダアト式譜術の一つですから」

 

 会話を手早く理解し、フリングス少将は「わかりました」と快く頷いている。

 

「城下に宿を取らせましょう。しかし陛下への謁見が……」

「皇帝陛下には、いずれ別の機会にお目にかかります。今はガイの方が心配です」

 

 きっぱりとガイの体調を優先させるイオンを説得する気など、初めからこの少将にはなかったようだ。やはりあっさりと承諾してくれている。

 

「わかりました。では部下を宿に残します」

「私も残りますっ! イオン様の護衛なんですから」

「待てよ! 俺も一緒に……!」

 

 もしものことを考えてイオンに付き添うというアニスに、ルークもまたガイが心配だと付き添いを希望した。しかしそれは、イオンの言葉によりお流れとなる。

 

「……ルーク。いずれわかることですから、今お話しておきます。カースロットというのは、けして相手を意のままに操れる術ではないんです」

「どういうことだ?」

 

 詳細な説明を求めるルークに、イオンは苦しそうに、しかし真実を告げた。

 

「カースロットは記憶を揺り起こし、理性を麻痺させる術。つまり……元々ガイに、あなたへの強い殺意がなければ、攻撃するような真似はできない……そういうことです」

「……そ、そんな……」

「解呪がすむまで、ガイに近寄ってはいけません」

 

 動揺を隠せないルークに、イオンは有無を言わさぬ口調で戒める。

 その彼に、正確にはガイへ近づき、スィンはルークの肩からぐったりとしたガイを外すと、担ぎ上げた。力任せとは程遠い、重心の移動を利用した無理のない持ち上げ方である。

 ガイがうんうん唸り始めたのが気になるところだが……

 

「ご案内します」

 

 兵士の後について、イオンとアニスの視線を背中に受け止めながら宿の一室へ入る。

 丁重にガイの体を寝台へ下ろすと、何か言いたそうにしている二人より素早く、スィンはイオンに頭を下げた。

 

「ガイ兄様を……お願いします」

「……わかりました」

 

 辞儀をした際零れた涙をぬぐい、ガイの傍を離れる。解呪の様子を見届けたかったが、先にやるべきことがあった。

 備え付けのテーブルに向かい、取り出した羊皮紙に事の次第の詳細を綴っていく。記憶に残る全ての事実を余すことなく書き記し、まだ終わっていなかった儀式を固唾を呑んで見守っていると、ガイはぱち、と唐突に目を開けた。

 

「ガイ兄様!」

 

 思わず駆け寄り、起き上がった彼を前にして、まくしたてる。

 

「大丈夫ですか? どこか痛いところありますか? 頭ははっきりしていますか?」

「……ああ。平気だ」

 

 わずかに頭を揉むようにしているガイの、それなりに平気そうな様子を見て、ホッと息をついた。ふと気づけば体が脱力して座り込むような形になっており、慌てて立ち上がる。

 

「それよか、俺……」

 

 はっきりしない記憶を探るように呟いたガイに、アニスもイオンも言いにくそうに何かを言いかけ、やめていた。

 確かに、起こった事実を本人の前で口にはしがたい。だからスィンは、この形をとった。

 

「……こちらを」

 

 羊皮紙を恭しく差し出し、眼を通すよう促す。

 彼がそれを読んでいる間に、スィンはイオンからの視線を感じた。眼は口ほどにものを言う、とは、このような感覚であろうか。彼の眼を見れば、何が言いたいのか、不思議とわかった。

 

「……お願いします」

 

 その言葉を受け、彼は空気を読めていないアニスを連れて退室していく。フリングスの部下に、ルークたちへの伝言を頼みに行ったのだろうと考えられた。

 カサカサ、という音に引き寄せられたようにガイを見る。彼は羊皮紙を畳み、自嘲じみた笑みを零していた。

 

「……まー、隠しきれることじゃねえとは思っていたが、ここらが限界ってところか」

 

 言葉の内にひそめられた心の動きを察知して、スィンはあくまで静かに尋ねている。

 

「真実を、告白されますか?」

「ああ、そうする。この先どうなるのかはちぃっとわからんが……お前はどうするよ?」

「僕は、僭越ながらあなた様と同じ道を歩ませていただきます」

 

 悪戯っぽく、しかし瞳だけは真剣に尋ねられた問いに、スィンは即答を返した。

 

「いいのか? 奴と袂を別つ──あいつを裏切ることになるんだぞ」

「もう、進むべき道を違えてしまったことは、自覚しています。随分前に、彼へ懐刀を送りました」

「……そうか」

 

 六神将の言動はそれが原因かもしれません、と思わしげに呟けば、ガイはある提案を持ち出してくる。それについて議論をかわしていると、ドアが控えめなノックを響かせた。

 立ち上がろうとするガイを手で制し、スィンが応対に立つ。

 

「──はい」

「あの……ルークたちが来ました。よろしいですか?」

 

 イオンの声に、ちら、とガイを見やった。

 彼は何を言われようと覚悟は出来ている、といった風情で頷いている。

 

「どうぞ」

 

 扉を開けば、苦しそうな、辛そうなルークの顔があった。その場を退いて、ガイの傍につく。

 

「ガイ! ごめん……」

 

 寝台の上に胡坐をかいたガイを前にして、ルークの第一声はそれだけだった。

 

「……ルーク?」

 

 予想外の一言に、彼は思わずルークの名を呼ぶ。

 

「俺……きっとおまえに嫌な思いさせてたんだろ。だから……」

「ははははっ、なんだそれ」

 

 ピントのずれていたルークの推測に快活な笑声を上げるも、すぐにその声は低くなった。

 

「……おまえのせいじゃないよ。俺がおまえのことを殺したいほど憎んでたのは、おまえのせいじゃない」

 

 どういうことなのかと聞くことも、浮かんだであろうその思いに表情を変えることもなくガイの言葉を待つルークから目をそらすように、ガイは軽くうつむいている。

 

「俺は……マルクトの人間なんだ」

「え? ガイってそうなの?」

 

 アニスの問いに、事の発端を語ることで彼は答えた。

 

「俺はホド生まれなんだよ。で、俺が五歳の誕生日にさ、屋敷に親戚が集まったんだ。んで、預言士(スコアラー)が俺の預言(スコア)を詠もうとした時、戦争が始まった」

「ホド戦争……」

 

 ティアの呟きに、ナタリアは息を呑む。全てを察したように、史実を述べた。

 

「ホドを攻めたのは、確かファブレ公爵ですわ……」

「そう。俺の家族は公爵に殺された。家族だけじゃねえ。使用人も親戚も。あいつは俺の大事なものを笑いながら踏みにじったんだ」

 

 ……本当に実際にそうしたわけではないのだろうが。

 スィンもガイもファブレ家で奉公していた際、ホド戦争における公爵の活躍を嫌というほど聞かされている。間違いではないだろう。

 

「……だから俺たちは、公爵に俺たちと同じ思いを味あわせてやるつもりだった」

「あなたが公爵家に入り込んだのは、復讐のため、ですか?」

 

 あえて、なのか。ジェイドはガイのみにそれを聞いた。

 

「ガルディオス伯爵家、ガイラルディア・ガラン」

 

 どこで仕入れた情報は知らないが、身元がはっきりしているガイにそれを確かめるためだろう。当然だ。スィンの正体を、彼が知っているわけがない。本名をもののずばりと呼ばれ、彼は一瞬ではあるが、身を固くしている。

 

「……うぉっと、ご存知だったって訳か」

「ちょっと気になったので、調べさせてもらいました。あなたの剣術は、ホド独特の盾を持たない剣術──アルバート流でしたからね」

 

 正確にはアルバート流シグムント派なのだが、剣に関して門外漢、とまではいかなくとも、どちらかといえば譜術専門であるジェイドにその違いはつかないのかもしれない。

 

「……なら、やっぱ二人は俺の傍なんて嫌なんじゃねぇか? 俺はレプリカとはいえ、ファブレ家の……」

「そんなことねーよ。そりゃ、全くわだかまりがないと言えば嘘になるがな」

 

 苦しげなルークの質問に、ガイはあっさりと否定をしてみせ、スィンもまた大きく頷いた。

 

「だ、だけどよ」

「おまえが俺たちについてこられるのが嫌だってんなら、すっぱり離れるさ。そうでないなら、もう少し一緒に旅させてもらえないか? まだ、確認したいことがあるんだ」

 

 ここが正念場だ。ルークが同行を拒否するようなら、ガイにも考えはあるだろうがスィンはアッシュとの共同戦線を張るつもりだった。

 アッシュはともかく、ガイはオリジナルたる彼との協力を絶対と言っていいほど嫌がるだろうが、今のところそれ以外にアプローチの仕方を考えていない。

 ガイに考えるところあり、それに補佐が必要だというなら、スィンは迷わずガイを選ぶつもりだったが。

 

「……わかった。二人を信じる。いや……二人とも、信じてくれ……かな」

 

 心配が杞憂へ変化する。しばしの沈黙を経て、ルークは二人の同行を許可する決定を下した。それにほっとしてか、ガイも軽口を叩いている。

 

「はは、いいじゃねぇか、どっちだって」

 

 その光景に、イオンがほっと安堵の息を吐いていた。安心したように無邪気な微笑を浮かべる。

 

「よかった。三人が喧嘩されるんじゃないかって、ひやひやしてました」

「そうなると、気になるのがスィンの存在ですねえ」

 

 なんとかしのげそうな気配に、同じように息をついていたスィンだったが、その一言にぴし、と固まった。

 緋色のまなざしはしっかりと彼女へ疑念を寄せている。

 

「……せっかく丸く収まりかけてたのに、どうしてそこで引っ掻き回そうとしてくれやがるんですか?」

「はっはっは、何を言っているんですか。ガイ以上に色んな疑念を抱かせてくれたあなたの正体を暴く絶好の機会ですよ? 見逃す理由がありません」

 

 表面上は朗らかな微笑をたたえ、それでも目がさっぱり変わっていないジェイドを見た後、ガイを見る。

 あきらめろ。彼の目はそう言っていた。

 

「……ちなみに、大佐は誰だと思っていたんです?」

「外見的な特徴から、ガルディオス伯爵家長子、マリィベル・ラダンだと考えていたのですが……」

 

 興味本位でジェイドの意見を求めれば、彼は妥当な人物を指した後に珍しく言いよどんでいる。

 その理由に気づいて、スィンは知らず唇を歪めていた。

 

「この眼のことでしょうか?」

「貴族の家に虹彩異色症(オッドアイ)が誕生したとなれば、情報が来ないわけがありませんからねえ」

 

 なるほど、と頷き、どのように話した方がいいのか、迷いながらも語り始める。

 

「まず、ガイラルディア様の妹というのは真っ赤な嘘です。本当は、ガルディオス伯爵家左の騎士、ナイマッハに連なる者……になります」

「こんなに似ているのに、血のつながりはないのですか?」

「この姿の大半は偽りです。……見てもらったほうが早い、かな?」

 

 ナタリアの問いに答え、どうせカースロットもどうにかしなきゃならないし、と一人ごちてから、スィンは袖を捲り上げた。

 紋章のようなアザが色濃く残っている。カースロットの侵食率などまったくわからないが、放っておいていいものではないだろう。

 イオンに頼みたくても、消耗の激しい彼にそれを頼むのは酷だった。

 

「久しぶりだよな、元の姿に戻るのは。ちゃんと戻れそうか」

「……元の、姿?」

「ご安心あれ、ガイラルディア様」

 

 元の姿に戻ること自体は、結構頻繁に行っていたことだから。

 儀式によって固定した術式を、一時的に封印することで仮の姿より元の姿へと、ガイという主には内緒で。術式を解除することは、主の許可なしにはできない。そうすることで、術式はより強固な形で組まれていた。

 眠っていようと意識を失おうと、力尽きるまではけして解けはしないものに。

 口の中で譜を紡ぎながら、ゆっくりとガイの元へと進み出る。

 足元から眼前から、背後から頭の上から、大小さまざまな譜陣が展開されスィンを覆いつくした。時同じくして、多数の譜陣に臆することなく、伸ばされたガイの腕がスィンの胸元へと伸びる。

 その場所に揺らめく譜陣を通して、彼の手は。

 

「!」

 

 いつの間にか一振りの剣を手にしている。それは、乾いた血液の色を有する不気味な剣だった。

 鍔の部位には緋色の宝石がはめ込まれているが、お世辞にも宝剣には見えない。それ自体が呪いを孕んでいるかのように、見る者に対して畏れ慄かせる光を放っている。

 刀身の切っ先は斧刃を背中合わせにしたような形状で、中央には血抜きのためだろうか。強度という点にかなり不安を与える一条の溝が刻まれている。

 異形の剣を前にして、ガイはうっすらと苦笑した。

 

「……何回見ても慣れないな、この剣。それじゃ、いくぞ」

「お願いします」

 

 譜陣に取り囲まれたスィンがその場に跪くも、その表情どころか何もかもが、判然としない。

 主の手によって、剣が一閃する。

 まるで斬りつけるように振るったその一撃によって、浮かんでいた譜陣は余すことなく両断された。硝子のはぜ割れるような耳障りな音が響き、崩壊した譜陣の名残が宙に溶けて消える。それに伴い、彼が手にした剣もまた消失した。

 ガイのものによく似た金髪の色が抜けていき、ついには雪の色とまでなる。

 うつむいていた顔が上げられると、そこにスィン・セシルの面影は綺麗さっぱり失せていた。

 端正な、と評されるところだけは共通するあどけない顔立ち。切れ長ではあるものの、まなじりが下がり気味の目は美人というには可愛すぎ、緋色と藍色という左右の違う瞳が、かろうじて彼女がスィンであることを思い出させる。

 あまりの変貌ぶりに一同──あのジェイドすらも──唖然とする中、アニスは「ああーっ!」と驚愕に満ちた叫びを上げた。

 

「シ……ア!?」

「やっほぅ。アニス、久しぶり。今まで黙っててごめんね」

 

 へら、と笑いかけ、驚愕によるショックから立ち直れないアニスを更に混乱させる。

 

「シア、って、スィンの姉貴なんじゃ……」

「そんなこと誰も言ってないよ」

 

 しれっとした言い草の彼女に反論せんと、ルークは以前交わしたシア絡みの会話を思い出した。うろ覚えではあるものの、血縁関係だとは言っていたが、姉だなんて確かに一言も聞いてない。

 

「スィンとシア・ブリュンヒルドが同一人物……ということは、ヴァン謡将と手を組んでいた線が濃厚ですね」

「師匠と……!? どうして」

「覚えていませんか? 以前、シアは元六神将にあたる人物だとアニスが言っていました。カイツールでヴァン謡将と合流を果たしてからバチカルで別れるまで、二人の態度はどこかおかしかった。……否定しますか、スィン?」

 

 彼女は首を真横に振った。

 

「否定すべき要素がありませんね。繋がっていた、というのが事実です」

 

 開き直りに近い彼女の言動から、ジェイドは小さな特異点を見つけている。

 

「ふむ。過去形ですか」

「信じる信じないはそちらにお任せします。疑わしいと仰られるなら、僕だけでも放逐してくださって結構です。……ガイ様は、無関係ですから」

「すぐにばれるような虚偽を口にするのは見過ごせねえな」

 

 じろ、と彼女を睨んで黙らせると、ガイもまた告白を始めた。

 

「スィンが信じられないなら、俺も離れる必要がある。ヴァンはガルディオス家右の騎士フェンデの長男だ。スィンの幼馴染であり、俺の兄貴分でもある。……俺達は、失われた故郷、家族の復讐を誓い合った仲だ」

 

 ガイラルディア様のバカ。

 小さな声ではあったが、スィンははっきりとそれを呟いた。

 

「正直は美徳だと思いますが、今なら僕になすりつけちゃえばあなただけでも無傷でいられたのに」

「バカ言うな。蛇足だって言いたい気持ちはわかるがな、お前に押し付けたところでばれるときはばれるものなんだよ。……さっきみたいにな」

 

 テオルの森での記憶が甦りかけているのか、彼はわずかに影を落として、それでもすぐにルークへ笑いかける。

 

「どうだ? 気ぃ、変わっちまったか?」

「そ、そんなことない。ちっとビビッたけど、でも……二人とも、俺が立ち直るって信じてくれた。だから今度は、俺が二人を信じる番だ」

「ちっとじゃなくて大分だろ」

「うるせっ」

 

 仇を討たれるかもしれないとわかっていながら、彼は精一杯の笑みを浮かべていた。

 その彼を微笑み返せば、ジェイドの仕切り直しが入ってくる。

 

「さて、いい感じに落ち着いたようですし、そろそろセントビナーへ向かいましょうか」

 

 予想していた動きであるが、初耳だった。それを聞く前に、アニスが自分たちの今後を報告する。

 

「ああ、使者の方から聞きました。セントビナーに行くって。でもイオン様はカースロットを解いてお疲れだし、危険だから私とここに残ります」

 

 が、イオンを思っての意見を、当の本人が却下した。

 

「アニス。僕なら大丈夫です。それに僕が皆さんと一緒に行けば、お役に立てるかもしれません」

「イオン様!?」

 

 思いもよらぬ彼の一言にアニスが驚愕を返すも、彼に主張を曲げる気配はない。

 

「アニス。それに皆さん。僕も連れて行ってください。お願いします」

「師匠がイオンを狙ってんなら、どこにいても危険だと思う。いいだろ、みんな」

「目が届くだけ、身近の方がマシということですか。仕方ないですね」

 

 イオンの頼みに、ルークがメリットを唱えて了承を促し、ジェイドもまた賛成した。

 ルークはともかくとして、イオン、ジェイドにまで逆らって自説を主張するほど、彼女は子供ではない。

 

「もぅっ! イオン様のバカ!」

 

 結局、すねるように彼女はしぶしぶ承諾した。

 

 

 

 

 

 

 

 




実際のところはどうなんでしょう、ガイはちゃんと自分がしたことを覚えていたかもですね。
でもそれだと、度重なるカースロット発動時のあれもこれも覚えていて、でも覚えていないふりをしていたことになってしまいますか。

何故彼女がわざわざ姿を変えていたのか。それは次唱、明らかとなります。


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第四十四唱——死神が吼えるは過去と罪、主の怒りに下僕はへつらう

 

 

 

 

 

 

 ダアト式譜術の使用、カースロットの影響。

 理由はそれぞれ違うものの疲労の色濃い二人のために用意された馬車に乗り、一行はセントビナーを目指していた。

 

「で~もびっくりしたぁ。まさかスィンがシアだったなんてね」

「こっちも驚いたよ。アニスってばあんなに小さかったのに、覚えてるって言うんだもの。まあ、眼のことは忘れてたみたいだけど……」

「覚えてるに決まってるでしょ! 手っ取り早くお金持ちになるには玉の輿を狙えばいい、料理上手な女は重宝されるって教えてくれたの、シアじゃない」

 

 スィンの正体を知っているガイ、もともとシアを知っていたアニスをのぞいて、やはりほとんどのメンバーは戸惑いを隠していなかった。

 特にナタリアはどうしても信じられないようで、先ほどから自分の頬をつねったり、目をこすってスィンをまじまじ見つめたり、いそがしい。

 

「……どうして、姿を偽っておりましたの?」

「そうする必要があったからです」

 

 ホドより避難してしばらく、身辺が落ち着いた頃。ファブレ公爵の復讐を企み、まずは近づかねばとファブレ公爵家の使用人あたりになるべく画策をした。

 ファブレ公爵の身辺を調べて、幼い一人息子がいることを探って、更にあまり構ってやれてないことも突き止めて。祖父ペールの知恵とコネを使って、使用人兼子息の遊び相手はいらないかと売り込んだのだ。

 ただし、その計画にはひとつ障害があった。当時のスィンは子守はできても遊び相手としては育ちすぎていたのである。

 

「育ちすぎてたって、シ……スィン、そのとき幾つだったの?」

「十四歳。当時四歳だか五歳だかのルーク様の遊び相手は無理で、あと兄妹とかじゃないと一緒には雇ってもらえないかなって」

「ガイのお姉さんでは駄目だったの?」

「駄目だったんだよ」

 

 すでに彼のことを主と定めていたスィンには、ガイをガイと呼び捨てることも、きさくに接すること──一般的に姉が弟にするような自然な態度一切がとれなかった。

 どうにか演じることはできるものの、これでは咄嗟の行動が怪しまれると祖父に駄目出しをされて。

 とっておきの秘術、固定術式と、複雑な段階を経てようやく目論見は成功した。

 

「あれ? ……おい、嘘だろ」

 

 そこへ、話を聞きながら指折り何かを数えていたルークが、バッと顔を上げて信じられないものを見る眼でスィンを凝視した。

 とりあえず茶化しておく。

 

「やだールークさまったらそんなアッツイまなざしで見つめないでくださいよー……」

「ちげぇよ! つかお前、ヴァン師匠(せんせい)と同い年なのか!? その顔でか!?」

「……同じ年、同じ日が誕生日だって聞いてるよ、本当かどうか知らないけど」

 

 年齢をばらされてしまった。具体的な数字を出してしまったのは失敗だっただろうか。

 心底驚いた様子で「ティアとそう変わらないように見えますわ」と呟いてしまったナタリアを、ティアが半眼で見やっているように見えるのは気のせいだろう、と思いたい。

 すべてを承知のガイが顔を背けて含み笑いしているのを指摘しようかどうしようか、悩んでいた矢先。

 

「ところで、先ほどの譜術──姿を変質させていた術の詳細を教えていただけますか?」

 

 やりとりを黙って見ていたジェイドが、ふとそんな質問をした。その言葉を受け、スィンはジェイドの方へ体を向けている。

 

「僕が古代秘譜術を使える、っていうのはご存知ですね」

「……僕、ですか」

 

 呆れたように呟いたジェイドに、スィンはすっかり変わってしまった声で弁明した。

 

「子供の頃からの癖です。女性恐怖症を負ってしまったガイ様のため、女らしく振舞うのは控えようと始めた習慣でして」

「今はどう考えても無駄でしょう。現にガイは、あなたにも恐怖して「それに、今更ですよ。僕の一人称なんて」

 

 変えたところで何がどうなるわけでもないと、しめくくる。

 しかし。

 

「いい加減改めないと嫁の貰い手が現れませんよ」

 

 もう貰ってもらったから気にすることではない。

 からかっているのか嫌味なのか、判別しかねるジェイドの言には煙に撒いておく。

 

「あなたの心配することじゃないですよ。それで──」

「それなら確かにお聞きしましたが、その一種だと考えてよろしいと?」

「その系統ですよ。生体譜術にも通じるところがあります。己を形成する音素を特殊な譜術によって組み替え、外見、年齢、性別、果ては人格まで模写する──のが真骨頂らしいんだけどねえ」

 

 以前とあまり変わらぬ指が、ぽりぽりと頬をかく。彼女は幾分自嘲気味に苦笑していた。

 

「僕は未熟だから、今のところ当時の自分の主にしか姿を変えられないし、性別変化ができないからガイラルディア様にもなれない。眼の色をどうしても変質できないし、自由にできるのが体の一部分のみ」

「未熟っていうか、最後まで教えてもらってないだけだろ」

 

 ガイの言葉を置いといて、そんなところ、とジェイドに向かって締めくくる。

 彼は珍しく胡乱げな目つきで彼女を見やっていた。実際に元の姿に戻っていなければ、欠片も信用していなかっただろう。

 

「生体譜術なら禁術なんですが」

「禁術ですね。使った奴の自己責任系で、特別な罰則が設定されてない」

「もしガイがいなくなってしまったら、組み換えた音素が定着して、元に戻れなくなるかもしれなかったのに」

「そうならないようにするのが僕のお仕事ですよ」

「……肉体の全音素組み換えなど、自力で可能なことなのですか?」

「無理」

 

 スィンはあっさりと首を振った。  

 

「可不可でいえば、熟練の術者なら可能らしいのですが。僕のときは、適性検査をした後、体に補佐用の譜陣──刺青を刻んで、それからやっと修行を始めた」

「刺青?」

「そう。こんなん」

 

 ひょい、と袖を引いて、己の腕を惜しげもなくあらわとする。女性らしくなよやかに見える、細く締まった腕。

 その表面は幾何学模様を髣髴とさせる譜陣が幾重にも描かれている。しかし、刺青にしては沈着した色が非常に薄く、奇妙に歪んでいるようにも見えた。

 ナイマッハ家に伝わる秘術──借姿形成の名がつくそれは門外不出で、スィンに手ほどきをした人間はすでに死亡している。

 更に深い質問を重ねたジェイドに対して、スィンはそう答えることで回答を拒否した。

 

「よく詳細がわかりかねるものを、肌に刻む決意をしましたね。今は大丈夫でも年経たら」

「なんとでもどーぞ。お肌の曲がり角になったら大変なことになるでしょうが、そんなのは僕の責任ですしね」

 

 決意も何もない。騎士として従者として本格的に仕込まれた際の──ホド戦争が起こる遥か前に刻まれたものなのだ。スィンにとってはいつの間にか在ったもの、在って当然のものという認識である。

 己が従者である証、と考えても間違いではないだろう。

 腕のみならず、スィンの全身には借姿形成の補佐用、肉体強化用、フォンスロット強化用その他といった種々様々な譜陣が刻まれているのだ。

 無論のこと、彼女がそれを口にすることはなかったが。

 

「これでできることが増えました。これからは術を使っても倒れることはありませんよ」

「そうなの? 前にあなたは、先天的な身体の欠陥と……」

「身体の欠陥? 持病に関係しているのではないのですか?」

「僕は譜術士としての才能がない、とお伺いしましたが」

 

 ティアが、ナタリアが、イオンが、三者三様による過去スィンが放った言い訳を並べていく。

 己の放言の責任を取るべく、彼女は肩をすくめてみせた。

 

「僕が模したマリィベル様のお体には譜術を扱いきれる素養がなかったもので。それに誰であろうと姿を変えているときは、フォンスロットをいくつか犠牲にしているから不具合が生じていたの」

「フォンスロットを犠牲って、それって封印術(アンチフォンスロット)かけられたのと同じってこと?」

「あくまでいくつか。封印術(アンチフォンスロット)くらったことないから何とも。持病に関しては、譜術のみならず行動すべてに関係していますよ。今も昔も変わりなく」

 

 他にできることとは何かと尋ねられ、スィンは軽く黙考している。長年の枷──言い方は何だが事実である──が外れて高揚している内心のまま、手の内を晒すことは憚れたが。

 それでもこれならかまわないだろうと、スィンは何も持たない手のひらを突き出した。

 

「?」

「ほい」

 

 ぱちん、と指が鳴る。微弱な光が灯ったかと思うと、その手にはいつの間にか棒状の刃物──棒手裏剣が握られていた。

 

「「!」」

「手品~」

 

 一度たりとも瞬かない、いくつもの眼を前にして、棒手裏剣は音もなく消えている。空っぽになった手を振ってみせて、スィンはそのようにのたまった。

 しかし、その言葉を信じる者は誰もいない。

 

「これは、コンタミネーション!?」

「やっぱり、そうなのか。でも、普通は拒絶反応が出るもんなんじゃ……」

「そうならないようにしているのが、『詳細がわかりかねるもの』なんだよ」

 

 珍しいものを見せてもらった。

 そんな心境のもと、スィンは心底驚いているように見えるジェイドを眺めていた。

 ルークの質問に嘘はついていない。ただしこれはダアトに所属していた頃、ジェイドをかつての友と呼ぶ奇人から仕入れたものである。

 それも、コンタミネーション現象を行えるようにする代償として、とても彼らには語れない条件を提示された経緯があるのだ。

 故に彼の手を直接借りることはあきらめて、独自の方法──とっくの昔に刻まれていた刺青を利用し、更には奇人であれども「ケテルブルグの天才」の名を冠した研究資料を強奪することで実用に至っている。

 各指の表層、手の甲の表層、腕の表層。

 件の研究結果を反映させたためにスィンが体内へ収めているのは棒手裏剣一本どころではないのだが……蛇足につき、省いておくことにする。

 これは知らせずとも、問題はないはずだ。

 

「一体その技術をどこで……」

「技術として存在する以上、あなただけの専売特許じゃない、ということで」

 

 さて後は、どうやってジェイドの質問から逃れようか。

 未だ自分の眼が信じられないのか、何度も眼をこすっては眼球が傷つくとティアに注意されるナタリアに話しかけようとして。

 馬車は急に振動を発して、ガクンと急停止した。

 

「きゃっ!」

 

 誰もが身をすくめる中、何かが起こったのだろうと察したスィンは身軽に馬車から飛び降りた。ぱたんと扉をしめて、馬車前方の確認に向かう。

 開いている窓から女性陣の誰かと接触してしまったらしい主の悲鳴が聞こえるが、彼の命の心配はないにつき放置する。

 ──今までの、妹という立場なら彼を心配するのが普通のはずだが。従者であると立場を明らかにした以上、心配を含める過剰な干渉は控えるべきとスィンは考えていた。

 

「大丈夫ですかー?」

 

 安否を確かめる声にも反応しない御者の悲鳴が聞こえる。前方には行く先を塞ぐように、幾匹かの魔物が散らばっていた。

 大地の異変を感じ取っているのか、縄張り意識が激しいとされる種類の魔物までもが他の魔物と仲良く肩を並べている。

 久々に全身のフォンスロットが解放されて──それに伴う身体能力の抑制も解除されて、本調子なのだ。

 これまで封じられていた術技の再確認もするべく、スィンは血桜を抜き放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ですから父上、カイツールを突破された今、軍がこの街を離れる訳にはいかんのです」

 

 崩落の兆しで落ち着かないセントビナーの街を通り、常駐していた兵士に事情を話して通された部屋の先にて。

 ルークたちの入室にも気づかず、男は老人と口論を重ねていた。

 事前にされたジェイドの説明によると、軍服に身を包んだ男がマクガヴァン将軍、老人が将軍の父にして今は退役しているという元帥だという。

 

「しかし、民間人だけでも逃がさんと、地盤沈下でアクゼリュスの二の舞じゃ!」

「皇帝陛下のご命令がなければ、我々は動けません!」

 

 二人の口論をさえぎるように、ルークはわざと大きめの声で会話に割り込んだ。

 

「ピオニー皇帝の命令なら出たぜ!」

 

 やっと一行の存在に気づいた二人が視線を向け、将軍は驚きを隠せないでいる。

 

「カーティス大佐!? 生きておられたか!」

 

 が、父親の方は特に驚きもせず、優先させるべき事項を尋ねてきた。ジェイドが生きていることを当然と考えていたか、はたまた驚きを隠しているかは定かでない。

 

「して、陛下はなんと?」

「民間人をエンゲーブ方面まで避難させるようにとのことのことです」

「しかし、それではこの街の守りが……」

 

 あくまで街を守ることに固執する将軍を、ルークが押し留め、ジェイドがおそらく皇帝の前で決めてきたであろう内容を指示する。

 

「何言ってるんだ。この辺、崩落が始まってんだろ!」

「街道の途中で私の軍が、民間人の輸送を引き受けます。駐留軍は民間人移送後、西へ進み東ルグニカ平野でノルドハイム将軍旗下へ加わってください」

「了解した。……セントビナーは放棄するということだな」

 

 落胆を隠しきれていない将軍とは裏腹に、老マクガヴァンはあまり気にした様子もなく、善は急げと避難指示の準備に乗り出した。

 

「よし、わしは街の皆にこの話を伝えてくる」

 

 元軍人ゆえか豊かな髭に似合わぬフットワークで部屋を出て行く老人に続こうと、ティアが言う。

 

「私たちも手伝いましょう」

「そうだな」

 

 一行も協力しての避難活動中。住民の約三分の二がエンゲーブ方面への移動に成功し、どうにか間に合いそうか、という雰囲気が漂い始めたそのとき。

 門の両側に立って大地の変化を見張っていたティア、ジェイド両名が譜陣を展開した。

 門のところには、ちょうど避難指示を受けて出ようとした少年がいる。

 

「逃げなさい!」

 

 突然のことに腰を抜かしている少年に、不吉な影が差した。ルークが飛び込み、少年を抱えて転がるのと同時に球体をモチーフにした譜業兵器が降ってくる。

 

「な、何だ……!?」

 

 ルークが思わずそう呟いたのも無理はない。

 がっちょんがっちょんと音を立てるそれは、球体からひょろ長い手足が生えたようなフォルムをしていて、おそらく目をかたどったであろうライトが意味もなく輝いている。

 

「ハーッハッハッハッ。ようやく見つけましたよ、ジェイド!」

「この忙しいときに……。昔からあなたは空気が読めませんでしたよねぇ」

 

 こんなときでも余裕を忘れず、やれやれと首を振るジェイドにディストは己の要求を上げ連ねた。

 

「何とでもいいなさい! それより導師イオンとあの小娘を──!」

 

 口上の途中で、ディストの動きが止まる。イオンを護るアニスの横を通って、スィンがジェイドの隣に立ったのだ。

 

「ディスト! そこのデカブツをどけろ、邪魔臭い!」

「シ、シア……!?」

 

 驚愕で瞳を眼鏡のフレーム同様丸くしているディストに、スィンは気にした様子もなく怒鳴りつけている。

 

「スィンでなくて残念だったな! それよりも、今すぐどけないと勝手に解体するぞ!」

 

 どこからともなく巨大なスパナを取り出したスィンを、ディストは心配そうに見ながらもせせら笑った。

 

「ふっふっふっ……なるほど、隠し通せないと判断して暴露したんですね。それにしても……なぁーんでその陰険眼鏡の隣にいるんですかっ!?」

 

 それもそうかと思ったのだろうか。スィンはちらり、とジェイドを見やり、てててっと移動する。

 

「背後に行ったって同じです!」

「うるせえ奴だなあ。じゃあどこにいろってんだよ?」

 

 スィンのボケに引きずられることなく、ディストは自分を指した。まさか、自分のところに、とでも抜かす気だろうか。

 

「今からでも遅くはありません! 総長は裏切り者には冷たいですが、あなたならば快く迎えてくださるでしょう! 私の側につきなさい」

「お断りだ、このすっとこどっこい!」

 

 怒声と共にスパナが投擲され、ディストの顔面に迫る。それを躱している間に、スィンは譜術行使に入っていた。

 が、次の台詞に詠唱を中止する。

 

「こんな虫けら共は助けようとするくせに、ネビリム先生のことをあきらめたジェイドについていても何にもなりません! あなたは事実を知っているのでしょう!?」

 

 なんて余計なことを! 

 

「……何の話かなー」

 

 内心はらわたを煮えくり返らせながら、表情としては何の変化もない彼女に、ディストがじたばた駄々をこねていた。

 

「キイィー! この期に及んでとぼけるつもりですか! あなたが「今のうちにどこからでもいい、避難を続けて!」

「私の話を聞きなさーい!!」

 

 わざとらしく耳を塞いでディストを無視するスィンに腹を立て、彼は譜業兵器を動かし始める。

 スィンに迫るアームを取り出した槍で払い、珍しくルークと並んでジェイドが前線に立った。

 

「詳細は後で話してもらいますよ」

「嫌でーす」

 

 間髪入れず返された拒絶を問いただす間もなく、スィンの詠唱が終焉を迎えている。

 

「セイレネウス・タイダルウェイブっ!!」

 

 限定的に海が召喚されたかと思うと、キャツベルトでの騒動を彷彿とさせる津波が巻き起こった。

 立ち上がった水流にきりきりまいしている譜業兵器は海ではなく地に沈む。その衝撃でセントビナーの門が崩れ落ちた。呼応したように、足元が震える。

 ──崩落の前兆!? 

 

「あああああ! 私の可愛い、カイザーディスト号がぁ!」

 

 門と共にばらばらになったカイザーディスト号とやらの最期を目の当たりにし、ディストが大空で絶叫した。

 

「ぎゃあぎゃあと、やかましいんだよ屑が!」

 

 スィンによる罵声を耳にし、どこかで聞いたような台詞に一同がぎょっとしながらも、共通の人物を頭に思い描いている。

 

「てめぇの顔見てると胸糞悪ぃんだよ、くそったれがぁ! さっさと()ねや!」

「ううう……あの弟子にしてこの師匠といったところですか。口の悪さは天下一品」

「うるせぇ、黙れ、死ね! 誰のこと言ってんだよ、とうとう呆けたか!」

「そんなことを言うとアッシュが悲しみま……」

 

 かこぉんっ! 

 

「避けるな、当たれ!」

 

 無茶な要求を喚いて棒手裏剣による投擲を開始したスィンの攻撃から徐々に遠ざかりながら、ディストは棄て台詞を放った。

 

「お、覚えてなさい! 今度こそおまえたちをギタギタにしてやりますからねっ!」

「おととい来やがれ、てめぇこそ撃ち落としてやらぁ!」

 

 ついには譜業銃を取り出してかけているスィンから逃れんと、ディストは大空の彼方へ逃げ去る。

 

「無駄だとは思うが、念のため追跡しろ」

「はっ!」

 

 ジェイドの命令を受け、マルクト兵数名がディストの追跡に当たった。

 その間に、大地の身震いが激しさを増し、びしびしっと大地にひびが入る。生まれた亀裂はすさまじい速度をもって、どうにか合流できた一行と残された街の住民らをまっぷたつに分断した。

 

「くそ! マクガヴァンさんたちが!」

「待って、ルーク! それなら私が飛び降りて譜歌を歌えば……!」

 

 とにかくどうにかしようと飛び降りかける二人を、ジェイドが制止する。

 

「待ちなさい。まだ相当数の住人がとり残されています。あなたの譜歌で全員を護るのはさすがに難しい。確実な方法を考えましょう」

「わしらのことは気にするなーっ! それより街のみんなを頼むぞーっ!」

 

 もはや叫ばなければ届かないような段差の下で、老マクガヴァンが叫んでいる。気にするなと言われて気にしないようにできる事態ではない。

 

「くそっ! どうにかできないのか!」

「空を飛べればいいのにね」

 

 もはや亀裂が生み出した段差は通常の手段でどうにかできる状態から程遠い。

 苦し紛れなアニスの言葉を受け、ガイがぽつりと切り出した。

 

「……空か。そういえばシェリダンで飛行実験をやってるって話を聞いたな」

「飛行実験? それって何なんだ?」

 

 聞いたこともない単語に一同を代表して首を傾げるルークに、ガイが説明を始める。

 

「確か教団が発掘したっていう大昔の浮力機関らしいぜ。ユリアの頃はそれを乗り物につけて、空を飛んだんだってさ。音機関好きの間で、ちょっと話題になってた」

「確かに、キムラスカと技術協力するという話に、了承印を押しました。飛行実験は始まっている筈です」

 

 ガイの言葉を裏付けるようにイオンが頷いた。

 

「それだ! その飛行実験に使ってる奴を借りてこよう! 急げばマクガヴァンさんたちを助けられるかもしれない!」

 

 彼らの言葉から希望を見出したルークがそう提案するも、ジェイドははっきりと眉をひそめている。

 

「しかし、間に合いますか? アクゼリュスとは状況が違うようですが、それでも……」

「兄の話では、ホドの崩落にはかなりの日数がかかったそうです。魔界と外殻大地の間にはディバイディングラインという力場があって、そこを越えた直後急速に落下速度が上がるとか……」

 

 ガイの提案、ティアの話。僅かなものでしかないが、希望に僅かもへったくれもない。

 

「やれるだけやってみよう! 何もしないよりマシだろ!」

「そうですわね。できるだけのことは致しましょう」

 

 すがれるものにならなんだってすがる。結果がどうなろうと、何もしないよりも見出せるならば。

 

「シェリダンはラーデシア大陸のバチカル側にありましたね。キムラスカ軍に捕まらないよう、気をつけていきましょう」

「よし、急いでタルタロスへ戻ろう!」

 

 キムラスカの王女たるナタリアがいても、彼女を連れていると知られれば話はややこしくなるだろう。一同は足早に、きびすを返してセントビナーを出た。

 馬車等は全て避難民たちが使用しているため徒歩だが、この際贅沢は言っていられない。

 

「そういやお前、術使って大丈夫だったのか?」

「平気平気。今までは、少ないフォンスロットで無理に術を使っていたから」

 

 平然と一同の歩に合わせている彼女から、無理をしている素振りはない。

 そんなスィンに、アニスからとある話題が振られた。

 

「ね、そういえばスィンはやっぱりアッシュの師匠だったの?」

「やっぱり、って?」

「結構前の話だけど、鮮血のアッシュはヴァンとシアの子供で、二人が師匠でもあるから出自不明でも六神将に取り立てられたって……」

 

 ティアの問いにアニスが答える。それを聞きつけて、スィンは盛大に噴き出した。

 

「あ、あっ、アッシュがヴァンと僕の子!?」

「う、うん。そんな噂が流れてたけど……」

 

 顔を真っ赤に染めて「あんなでかい子供生めるか」だの「なんでそういうことに」だのぶつぶつ呟き始めたスィンに対し、ガイは珍しく半眼になって彼女を見ている。

 

「ほー……お前、アッシュの正体を知っていながら自分の子供みたいに接してたのか?」

「違います、誤解です、そんなことしてません! そ、そうだ。アッシュの師匠の話だけど、正確にはヴァンだよ。僕は彼がアッシュに教えた技術の反復と補足をしてただけだから。シグムント派の技術は門外不出だから、アルバート流の剣術しか教えてないから、実質ヴァンが教えたのと変わりな──」

「ものすごい不自然な話のそらし方だな」

 

 氷点下まで落ち込んだ主の声を聞き、スィンは首をすくめて黙り込んだ。それでも、謝ったりしないということは、嘘は言っていないのだろう。

 アッシュのことになるとやはり不機嫌そうな表情を隠さないガイの気をそらすためなのか、はたまた自分の好奇心に従ってのことか、ジェイドがこんなことを言い出した。

 

「ということは──ヴァン謡将と付き合っていない、というのは嘘ですか」

 

 しばしの黙想を経て、スィンは自分が言った言葉を思い出している。

 唐突に、その手がぽん、と叩かれた。

 

「あー、キャツベルトでの。でも僕、『付き合っていない』なんて一言たりとも言ってませんよ」

 

 開き直りにも近い態度で、暗に付き合っていたことを認めるスィンに、ジェイドはにっこりと微笑みかけている。

 

「なるほどなるほど。あなたに対するアッシュの態度も相当納得しかねるものでしたが……これでやっと合点がいきました」

「……何かあったのか?」

 

 自分が抜けていた時期の話になり、ガイがわずかに険のこもった声音で詳細を尋ねてきた。

 これ以上話をややこしくしないためにだろうか、アニスがどうでもいい話題を取り出してくる。

 

「じゃ、じゃあ実はスィンってものすごく口が悪くて、それがアッシュにうつっちゃった、てこと!?」

「……さあ、どうだろうね。自分じゃよくわかんないけど。ディストもああ言ってたってことは、そうなのかもしれない。どうでもいいけど」

 

 それはさておきシェリダンへ急ごう、という気の抜けたスィンの号令の元、一行はタルタロスへ急いだ。

 航行中、どうにも機嫌が直らないガイにスィンがシェリダンの話を振り、皆を巻き込んで彼の機嫌回復に努めたのは、些細な(エピソード)である。

 

 

 

 

 

 




「ところで生体譜術ってなんだ?」
「身体に直接影響を及ぼす類の術ですね。用途は様々ですよ。肌を綺麗にしたり、鼻を高くしたり、背を伸ばしたり、脚を長くしたり、胸を大きくしたりできます」
「すごい術があるもんだな」
「でも、禁術なのですよね」
「ええ。譜術なのでいつかは解けるものなのですが、その解けた時が大変悲惨でして」
「悲惨」
「脚を長くした者は脚が腐り落ちる。肌を綺麗にした者は肌が爛れて、人のものではなくなる。鼻を高くすればもげて、胸を大きくした者は信じられないほど垂れる」
「あっ、胸は落ちないんだね」
「でも、足元まで垂れるらしいよ。歩くたびに胸を蹴るって、やっぱり悲惨だよ」
「その悲惨なことになる術を事もあろうに全身に使っていたのはどなたですか……」

※ファンタジー版美容整形手術。魔法は解けたその後が怖いということで。


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第四十五唱——過去との邂逅、人は何をもって人と成すのか

 

 

 

 

 草木の少ない荒野を進んだ先、岬の突端──というと少し言いすぎた感のある位置に建立する街の中で。一行は奇妙な三人組と遭遇した。

 とある大きな建物の側面、見張り台へ登る梯子を前にした地点で、老人二人に老女一人という面々が顔をつき合わせて唸っている。

 年に似合わぬモヒカンに似た髪形をした、色黒の老人が禿頭で対照的に色の白い老人にせっつくように何かを聞いていた。

 

「どうじゃった!? んん? どうじゃったんじゃい!」

「間違いない! メジオラ突風に巻き込まれて、今にも落ちそうじゃ」

 

 答えを聞き、柔和な面立ちの老女が手にした定規で肩を叩きながら確認している。

 

「いやだよ、アストン。あんた、老眼だろう? 見間違いじゃないのかい?」

「老眼は遠くの方がよう見えることはわかっとろーが、タマラ」

 

 色白の老人が、タマラというらしい老女に沈痛な面持ちでそれを言った。

 同時に、色黒の老人がどちらかといえば困った、というように顎へ手をやっている。

 

「マズイの。このままでは浮遊機関もぱぁじゃ」

 

 その一言を聞き、老女は持っていた定規を色黒の老人に突きつけた。

 

「何言うんだい、イエモン! アルビオールに閉じ込められてるのは、あんたの孫のギンジだろう! 心配じゃないってのかい!」

 

 それでは彼女が怒るのも無理はないのかもしれない。

 タマラが、イエモンというらしい色黒の老人に定規で突きを入れたところで、ルークが彼らに話しかけた。

 

「何かあったんですか?」

「……アルビオールが、メジオラ高原に墜落したんじゃ」

 

 ルークの問いに、イエモンがそう答える。

 彼らに言葉が届かないあたりで、仲間たちはひそひそと言葉を交わした。

 

「アルビオールって……」

「古代の浮遊機関を積んだ、飛行機関の名称だよ」

「あちゃー。じゃあ無駄足だったってこと?」

 

 アニスの言葉に、「そうでもないんじゃない?」とスィンが答え、老人三人組に話しかける。

 

「浮遊機関は二つ発掘されたはずですけど」

「よく知っとるな。じゃが、第二浮遊機関はまだ起動すらしとらんのじゃ」

 

 そのとき初めてスィンの顔を見たイエモンは、んん? と首を傾げた。が、アストンの言葉に重要事項を思い出す。

 

「そんなことよりイエモン。すぐにでも救助隊を編成して、ギンジと浮遊機関の回収を!」

「そうじゃな。浮遊機関さえ戻れば、二号機に取り付けて実験を再開できるしの」

「なんて薄情なジジイだい!」

 

 なんやかやと言い合いながら立ち去ってしまった三人組の背中を見送り、ジェイドがぽそりと呟いた。

 

「メジオラ高原は、魔物の巣窟ですよ。救助隊が逆に遭難しかねませんね」

「でも話を聞く限り、墜落した浮遊機関がないと空を飛べないみたいだわ」

 

 どうもややこしい話に、それでもできることから、とルークが提案する。

 

「とにかく、まずは浮遊機関を借りられないか相談してみよう」

「そうですわね。あのイエモンと言うご老人を訊ねればよろしいのではないかしら」

 

 彼らの後を追う道すがら。ジェイドは絶えぬ疑念を確認するようにスィンを見た。

 

「──ひどく詳しいように思えたのは、私の気のせいですか?」

「ま、この交渉で説明できると思いますよ」

 

 街の人々の聞き込みから三人が入っていったらしい集会場に踏み込むと、三人は上部の大きな机を前にいる。

 ものも言わずスィンは一行の前に出ると、何のためらいもなく話しかけた。

 

「ご無沙汰しております、お三方。私のこと、覚えておいででしょうか?」

「おお! どっかで見た眼じゃと思うたら、やはりあんただったか!」

 

 実に慇懃なスィンの挨拶に、イエモンが素早く立ち上がっている。

 他二人は、スィンの顔をまじまじ見た後で、ああ、と手を打っていた。

 

「あのときのお嬢さんじゃないか! 元気にしていたかい?」

 

 再会を喜ぶ三人とは裏腹に、置いてけぼりの一行はルークを代表して不思議そうに問いかける。

 

「知り合い……なのか?」

「浮遊機関の発掘班班長としてここに浮遊機関を届けにきたときに、少し親交を暖めさせていただきました」

 

 口調は慇懃なものへ、それに伴い物言いは感情が希薄なものへ、意図的に変化している。

 これが『シア・ブリュンヒルド』としての彼女なのだろうか。

 

「さておき、頼みがあります。図々しいお話ではありますが、飛行機関を貸与願いたい」

「そりゃまた一体どうして……」

 

 事情の説明を求められ、スィンは淡々と事の説明を始めた。三人はその間、何か質問を挟むことなく沈黙している。

 何をどう思っているのかさっぱりわからないが、とにかく話さないことには頼めはしない。

 話し終えてしばしの沈黙。

 イエモンはどこを見ているのかわからない視線を、話の中で紹介したナタリアにはっきりと向けた。

 

「……話はあいわかった。しかし、亡くなられた筈のナタリア様が生きておいでとは。しかもマルクトの住民を助けるために動いておられる……」

 

 キムラスカの民としてなのか、憂いを帯びた彼の声音を遮るように、またはそんな彼の態度を苛立ったようにルークが声を張り上げる。

 

「マルクトとかキムラスカとか、そんなん今はどうでもいいだろ!」

「そうさねぇ。ただ、こっちも困ってるんですよ」

 

 タマラがとんとん、と定規で肩を叩いた。

 

「アルビオール初号機が、メジオラ高原の崖に墜落してしまって……」

「中に操縦士が閉じ込められた状態で、メジオラ突風が吹いての。今にも崖から落ちそうなんじゃ。救助隊を派遣しようにも、マルクトと戦争が始まるってんで軍人さんは出払っててのう」

 

 スィンの頼みに頷けない事情を話す彼らの話を聞き、ルークはほとんど即答した。

 

「だったら俺が行くっ!」

「よく言いましたわ、ルーク! それでこそ、王家の蒼き血が流れる者ですわ!」

 

 感極まったようにナタリアが言うも、ルークはかすかに戸惑ったようにそれを否定している。

 

「……べ、別に王家とか、そんなん関係ねーって!」

「……え?」

「ただ俺は……できることをやらなきゃって。だいたい人を助けるのによ、王家とか貴族とか、そんなんどうでもいいかな……とか……」

 

 おそらくそう考える理由としては、彼がレプリカであることも含まれているだろう。

 が、ルークはそう明言することを避け、尻すぼみになった理由を強引にまとめた。

 

「そ、それだけだよっ!」

 

 ──幼少より親しんだルーク、否アッシュと、王族としての在り方を語り合ったナタリアとしては、ルークにかけた言葉は彼女の中の真実だったのだろう。

 が、ルークはアッシュではない。彼女のように考えるのは、おそらく一生を費やしてもできることではないだろう。

 少しそれてしまった話題を修正するように、ティアが仕切り直し気味に頼み込んだ。

 

「……私たちの中には、軍事訓練を受けた者もいます。任せていただけませんか?」

「その代わり、じゃないですが、俺たちが浮遊機関を持ち帰ったら、二号機を貸して欲しいんです」

 

 たたみかけるようにガイも続けるが、イエモンは更なる問題を提示している。

 

「二号機は未完成じゃ。駆動系に一部足りない部品がある。戦争にあわせて、大半の部品を陸艦製造にまわしてしもうた」

「タルタロスも元は陸艦です。使える素材があるなら、使ってください」

「ジェイド! いいのか!?」

 

 驚いたようにルークが言うも、ジェイドはそれに笑みを浮かべることで肯定した。

 

「イオン様。ここに残ってタルタロスの案内をお願いできますか? 我々が浮遊機関を回収する間に、二号機を完成させて欲しいのです」

「僕は承知しました。あとは……」

 

 穏やかなイオンの視線が、三人組に向けられる。代表して、イエモンが応えた。

 

「……部品さえあれば、わしら、命がけで完成させてやるぞい」

 

 話がまとまったことに安心して、それでもルークは表情をひきしめている。

 

「よし、じゃあ俺たちはそのメジオラ高原へ行こう。で、場所は……?」

「メジオラ高原は、ここから北西じゃ。それと、こいつを持っていけ」

 

 後ろの方でなにやらごそごそやっていたアストンが、大型の筒のようなものを一組、ルークに手渡した。

 

「この発射装置で、アルビオールを固定してから崖下へおろすんじゃ。あそこは酷い風が吹いていて危険じゃからな」

「でも使い方が……」

 

 そこへガイがルークから発射装置──ランチャーを取り、一組のうち片方を手馴れた仕草でスィンへ寄越す。

 

「音機関なら、俺たちに任せとけ。大丈夫だろう?」

「……取り扱いに関してなら、問題ありません」

 

 渡されたランチャーはふたつ。いうことは──

 軽く唇を尖らせて不満をあらわとし、スィンはこっそりと彼を見た。

 

 

 

 

 




『王家の蒼き血』ってカッコいい響きですよね。
 blue blood 通称は貴族の血統。元々はスペイン語のsangre azulからきているそうです。意味合いとしては実際の血液の色ではなくて、肉体労働などがなく日焼けすることのない貴族の腕には、青い静脈が透けてみえることから出来上がった言葉らしいのですが。
 あと、「お嬢様」とも訳せるようですね。出かけることがあまりない深窓の令嬢はやっぱり日焼けをしなくて、静脈が青く透けてみえる、と。

 現在進行形で旅をしている二人は少なからず日焼けをしていない、ということはなさそうですが。


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第四十六唱——暴かれざるは更なる謎、隠蔽は罪となりえるか

 

 

 渓谷沿いに道なき道を行き、一行は突風が好き勝手に暴れる荒涼とした高原にたどり着いた。

 

「あれがそうね」

 

 ティアの視線の先には、話に聞いていたアルビオール初号機が崖の端にどうにか、といった風情でひっかかっている。

 

「あれ……なんかやばそう。今にも落ちそうじゃん」

「まずいですね。下手をすると私たちがたどり着く前に落ちるかもしれません」

 

 二人の言葉を肯定するように、黒を基調とした機体は風にあおられ、ゆらゆらと揺れていた。おそらく、まずい方向にあと一度でも突風が吹けば、最悪の事態が訪れることだろう。

 

「落ちたらどうなる?」

「操縦士は助からないでしょう。浮遊機関も壊れるかもしれません」

 

 淡々とした声音に一同は絶句し、どちらの被害も思ってか、ミュウが甲高く叫んだ。

 

「大変ですの!」

 

 その声に頷き、こうしちゃいられないとガイが提案する。

 

「発射装置は機体の両側から打ち込まなきゃならない。二手にわかれよう!」

 

 やっぱり、という呟きは、幸いにもティアの声で綺麗にかき消された。

 

「どうわかれましょうか。ガイとスィンは別行動として──」

 

 公正なるじゃんけんの結果、スィンはルーク、ジェイドと共に、ガイはスィンを除く女性陣と共に行動することに決定する。

 

「よかったですねーガイラルディア様ー。ハーレムですよハーレム。両手に花どころか抱え切れないほどの花束じゃないですか」

「は……ははは……」

 

 嬉しいような怖いような。複雑そうな彼に首から提げたロケットを押し付けると、スィンは短く「お気をつけて」と囁いて右のルートを取ったルークたちに続く。

 

「ガイの奴、大丈夫かな」

「女性が大好きだと公言しているんです。大丈夫でしょう」

 

 好き勝手に向こうの様子を想像している二人をちらりと見やり、スィンは歩く速度を少しも緩めないで嘆息した。

 

「どうかしましたか?」

「……それに比べてこっちは、華がないっていうか、治癒術士がいないっていうか」

 

 耳ざとくスィンのため息を耳にしたジェイドがごく自然に質問し、ついうっかり本音が口をつく。

 

「そういえばそうでしたね。第七音譜術士(セブンスフォニマー)を二手に分かれさせて安心していましたが──いい機会ですので、使えるようになってください」

 

 真顔でそんなことを言い出したジェイドを半眼で見ながら、スィンはふっと洩らした。

 

「まあ、不可能ってわけじゃないけどさ──」

 

 とそのとき。風の声とはかけ離れた、ひどく低い唸りが全員の耳朶を刺激する。

 

「な……なんだ?」

 

 ルークの声に反応せぬまま、一行が耳を済ませた。唸りはやがて、特徴的な鳴き声へと変化する。

 

「魔物だ……かなり近い!」

 

 スィンの声に警戒を強めた彼らは、後ろを見たジェイドによって戦闘体勢へと移行した。

 

「後ろです!」

 

 各々の武器を手に取りながら見れば、そこには背中にいくつもの剣をつきたてた巨大なトカゲが立っている。身の丈が見上げるほどもあるトカゲは大きく咆哮を上げたかと思うと、三人に向かって突進してきた。

 

「うぉっ!」

 

 分散し、突進を回避する。後ろからジェイドの詠唱が聞こえてきた。ルークは前線での戦いに勤しんでいる。

 ジェイドの護衛をするよりは、ルークの補佐をしたほうがいいかとスィンが考えたそのとき。

 

「がっ……!」

 

 剣山トカゲは、自分の動きを阻害するルークを排除せんと巨大な尻尾を旋回させた。相手より上の機動力で後ろへ回りこみ、油断したのがいけなかったのだろう。

 直撃を受け、荒野に転がったルークは地面に伏したまま、身動きをしない。

 

「ルーク!」

 

 ジェイドの詠唱が完成したのを見て、彼の元へ駆け寄ろうとし、思いとどまる。傍へ行ったところで、治癒術が使えないのであれば意味がない。

 炎にまかれて悲鳴を上げるトカゲの足を切りつけ、体勢を崩すと、スィンは一気にその背へ駆け上がった。剣山と化している背中、適当に内二本を両手で掴んでその場から飛び降りる。スィンの体重で引かれた剣が、トカゲの背中を容赦なく抉った。

 痛みか、怒りか。

 雄叫びを上げて身震いした拍子に地面へ着地すると、その間にも続けていたジェイドの詠唱が完成した。

 

「終わりの安らぎを与えよ──フレイムバースト!」

 

 収束した第五音素(フィフスフォニム)が、対象に小規模な炎の爆発を浴びせる。未だ起き上がらないルークを目の端に留めたまま、スィンもいささか早口で詠唱を完成させた。

 

「炎帝に仕えし汝の吐息は、たぎる溶岩の灼熱を越え、かくて全てを滅ぼさん! サラマンド・フィアフルフレア!」

 

 展開した譜陣が、体中を焦げ付かせた剣山トカゲを取り巻いた。地面から吹き出した灼熱がトカゲを蒸し焼き、更に発生した火焔の柱が渦となり、その絶叫をもかき消している。譜陣が消え失せる頃、剣山トカゲはその姿の残滓も残さず抹消されていた。

 が、今はそれを喜んでいる場合ではない。

 脅威が消えたことを確認したジェイドは、一足先にルークの元へ駆け寄っている。

 

「ルークは!?」

「……非常に危険な状態です。グミを受け付けてくれません」

 

 見た目気絶しているようにみえるが、あんな太い尻尾の一撃をまともに受けてしまったのだ。

 ティアたちがいない以上回復はグミを使うしかないのだが、それが食べられないとなると──

 

「あ、そうだ。口移し!」

「では、発案者にお願いします──と言いたい所なのですが、無意味です。グミは中身を口腔で吸収し、治癒を促すものですので、あくまで対象が噛まないと意味がありません」

 

 知って得するマメ知識だった。が、それでどうしろというのだろうか。

 

「……」

「スィン。一応聞いておきますが、本当に使えないんですね?」

 

 この非常時にもかかわらず、ジェイドは探るような目でスィンを威圧している。

 その気迫に臆することなく、どこかすがるような目でジェイドを睨んでいたスィンだったが……こんなことをしている場合ではないとばかり、ルークの傍らに膝をついた。

 

「……使えないのは本当だよ。治癒術は、ね」

 

 衝撃の一言に、ジェイドは目を見張り──耳を疑った。

 

「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 

 ♪ Lou Rey Qlor Lou Ze Rey Va Ze Rey──

 

 ルークを中心に、広範囲の譜陣が緩やかに展開し、温かな光がルークのみならず、スィンやジェイドをも包み込む。

 輝きの抱擁は先の戦闘にて負った傷を癒した。

 

「……譜歌、ですか?」

「肯定、です。できれば今は何も訊かないで、その時がきたら納得してくれるのがベストなんですけど」

 

 顔色が格段によくなったルークをゆさゆさと揺すれば、折れていたあばらに違和感を覚えたのか。患部を軽くさすりながら起き上がってくる。

 

「……あれ、俺……?」

「直撃を受けて倒れられたのですよ痛いところはありませんか?」

 

 いけしゃあしゃあと体に異常がないかを聞き、スィンはルークの無事を確かめて立ち上がった。

 何か考え事をしているジェイドと体を確認しているルークに話しかける。

 

「ガイ様たち、無事かな?」

「──信じるしかありません。こちらも急ぎましょう」

「ああ、そうだな」

 

 先を行く間にも、ジェイドの視線はスィンの方へ行きがちだった。

 単なる譜歌が、あそこまで強力な回復を促せるはずがない。ティアが歌っていたものと酷似している気がするし、なによりそれが使えることを隠していたということは──

 またも浮上してしまった彼女の謎を振り払うように、彼はしんがりを努めつつも軽く首を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「間に合った!」

 

 一行がもっとも問題の崖に近い距離まで来たとき、向こう側ではすでに準備が完了していた。ジェイドがルークに背負わせていた発射装置をスィンへ渡し、その発射装置をスィンが素早く起動させる。

 間に合ったとはいえ、近くで見るアルビオールは本当に限界のような気がした。

 突風でなくても、気まぐれな風が吹き続ければ、もう落ちてしまうような危うさがある。

 

「そちらの準備はいいですか?」

 

 スィンの準備が整う前に、ジェイドが風に負けない大声で向こう側に立つガイに呼びかけた。

 

「いつでも大丈夫さ!」

「行きますよ!」

 

 スィンの『OK』サインを受け、ジェイドが号令をかけた。発射装置のワイヤーが機体にまきつく、そのとき。

 アルビオール墜落の原因と考えられるメジオラ突風が、嵐を思わせる凄まじさで吹きぬけ、機体が大きく揺れ動いた。

 

「あーっ!」

 

 ワイヤーが風にあおられ、ガイの放った発射装置が不発に終わる。スィンの放ったものはどうにか巻きついたものの、アルビオールを支えるには到底足りない。このままでは、浮遊機関はおろか操縦士が死んでしまう。

 発射装置の地面固定を一瞥で確かめたスィンは、張り詰めるワイヤーの上に足をかけた。

 

「スィン!?」

 

 ルークの声を無視して、一気に駆け出す。

 こんな細い綱を渡るなど、幼い頃一度やってそれきりだ。バランスを崩せば、墓を前にして大笑いされること請け合いである。

 それだけは避けたい! 

 大風に身を任せるかのようにたわんだワイヤーを蹴り、アルビオールがかろうじてひっかかる崖に到達する。

 歪んで開かない扉を持っていた工具で取り外し、ぐったりしている操縦士──ギンジを荒っぽく引きずり出そうとした。ひっかかっていた片足を四苦八苦しながら、操縦席から引き抜いたそのとき。

 ぶちん、と音を立てて、ワイヤーが限界に達し、突風をも切り裂く音を立てて、アルビオールが宙を舞う。

 しばしの無重力を体験した機体は、轟音と共に大破した。

 崖から身を乗り出してその惨劇を臨めば、隣でギンジが青い顔をしながら同じように崖下をのぞきこんでいる。

 慰めた方がいいかどうかを思案しているうちに、逆方向から突き刺さるような視線を感じた。

 暗黙のうちにこれから落ちるであろう雷の予告を受け、スィンは小さく唾を飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「……お前はどんだけ無茶をやらかせば気が済むんだっ!」

 

 大破したアルビオールから、事情説明を受けたギンジがアルビオールの残骸から浮遊機関を取り出している間に。

 スィンにとってはアルビオール大破時よりも大きく感じられる轟音が辺りに木霊した。

 

「も、申し訳ありませんっ!」

 

 怒鳴られた瞬間に身をすくませ、スィンがその場に平伏する。両手両膝、そして額をしっかりと地面につけた土下座だ。

 が、主の怒りは収まることを知らない。

 

「謝ってすまそうとするな! なんつーことをするんだ、お前は! 一歩間違えればお前だって死んでたんだぞ、それを──!」

「ガイ、その辺にしておきなさい」

 

 顔が上げられないスィンの頭上で、一番予想外の声がガイをなだめにかかった。

 

「ジェイド……」

「誉められた行為でなかったことは事実です。ですが、今は従者の無鉄砲さを責めるときではありませんよ。……行動を起こさなければ、死者が出ていたのは確実でしたからね」

 

 後半、ギンジに聞かせまいとひそめられた言葉に、ガイも沈黙している。

 ジェイドの話は続いた。

 

「あと、今の言葉を聞いてブルーになっている方があちらにいますよ」

「……謝ってすまそうとするな……」

 

 ガイの叱責を自分が起こしたことと重ねたのか、ぶつぶつとルークが呟いている。あまつさえ、地面にのの字を書いてはティアにフォローされている有様だった。

 それを見て、ガイはひどく気まずい思いを抱きながらスィンを見る。

 彼女は沈黙したまま、一向に立ち上がるどころか、顔を上げようともしなかった。

 

「スィン。俺がどうして怒っているのかは、わかるよな?」

「……はい」

 

 小さな小さな肯定が返ってくる。なら、とガイは続けた。

 

「頼むから、あんましぶっ飛んだ真似はしないでくれ。お前は平気かもしれんが、俺は……寿命が縮まった」

 

 もういいから立て、という言葉に従って、スィンは平伏した際に付着した土を払い、顔を上げる。

 色違いの瞳に浮かんでいたのは、謝罪でも反省でもなく、困惑だった。

 スィンが、何かを言いたそうに口を開きかけるも、浮遊機関を手に駆けてきたギンジによって中断される。

 

「助けて下さって、ありがとうございます」

 

 言うのが遅れた、と言って軽く恥じる彼にスィンは向き直った。

 

「……お怪我はありませんね」

「はい。おかげさまで」

 

 それにしてもお久しぶりです、とギンジが切り出すも、当人たるスィンに待ったをかけられる。

 

「一刻を争います。お話はその後で」

 

 了承するギンジに、ルークが気遣わしげに尋ねていた。

 

「ギンジ、動けるか?」

「はい。おいらは大丈夫です」

 

 浮遊機関も無事です、と小脇に抱えたそれを掲げている。

 従者が無茶をしてまで助けた人間を前に叱責を下すわけにもいかず、ガイはどうにか怒りを納めた。

 

「──スィン」

 

 その代わり、でもないが。彼はスィンにロケットを手渡し、告げる。

 

「これだけは言っておく。お前が死んだら悲しむ人間がいるってこと、俺がその例に洩れないことをちゃんと頭に入れておけ」

「……もったいないお言葉です、ガイラルディア様」

 

 どこか寂しげに目をすがめ、彼女は大きく頭を下げた。

 

 

 

 

 




グミについては当作品、このように考えています。間違っても公式設定ではありません。


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第四十七唱——巡りし罪がもたらしたは絶望

 

 

 

 

「ありがとうございました! おいらは先に、浮遊機関を届けてきます!」

 

 シェリダンへと帰り着き。一同に礼を言って飛晃艇ドックへ駆けていくギンジの背中を見送り、一行は消費した道具の買い出しを行ってからその後に続いた。二号機が完成するまでどれだけかかるのかはわからないが、とりあえず様子を見に行って損はない。

 しかし、彼らは飛晃艇ドックを眼前にキムラスカ兵に呼び止められた。

 

「お前たちか! マルクト船籍の陸艦で海を渡ってきた非常識な奴らは!」

 

 巡回中だったのか、二人組のキムラスカ兵はひどく威圧的な調子で一行に詰め寄った。そのうちの一人が、ジェイドの軍服に目を留める。

 

「む? おまえはマルクトの軍人か!?」

「まずい……!」

 

 ルークは剣柄に手をかけていたが、そんなことをしている場合ではない。説明をしたところで信じてもらえる保証はないし、彼らと戦うのもお門違いだ。そんなわけで。

 

「とりあえず逃げよっ!」

 

 イオンの手を取り、アニスが走り出した。こうなってはもう何を言おうと無駄である。一行は目配せをしてその後に続いた。

 

「捕まえろ!」

 

 がしゃがしゃと音を立てて援軍が続々と集まってくる。

 眼前の飛晃艇ドックへ駆け込み、閂を探したがない。仕方なく、背中で扉を塞ぐガイの隣に立って倣う。

 乱暴に閉められた扉の音を聞いてか、イエモンがひょっこりと顔を出した。

 

「おお! 帰ってきおった! 今アストンが浮遊機関を取り付けとるぞ!」

「怪しい奴! ここを開けろ!」

 

 その言葉に被さるように、兵士の怒声が、荒々しい殴打が扉を介して伝わってくる。

 

「なんの騒ぎだい?」

「キムラスカの兵士に見つかってしまいました」

 

 タマラの問いにジェイドが弁明する。そうか、と彼女は納得したように頷いた。

 

「あんたマルクトの軍人さんだったねぇ」

「この街じゃ、もともとマルクトの陸艦も扱ってるからのぅ。開戦寸前でなければ、咎められることもないんじゃが……」

 

 なんだかひどくのんびりとしている会話だが、扉を抑える二人はたまったものではない。背中にがんがん衝撃が走るあたり、兵士は鉄製の扉を拳で殴っているわけではないようなのだ。

 

「陸艦と言えば、おたくらの陸艦から部品をごっそりいただいたよ。製造中止になった奴もあったんで、技師たちも大助かりさ」

「おかげでタルタロスは、航行不能です」

 

 イオンはジェイドを慮って遠慮がちに言ったが、アニスは比較的合理的な意見を述べている。

 

「でも、アルビオールがちゃんと飛ぶなら、タルタロスは必要ないですよねぇ」

「『ちゃんと飛ぶなら』とはなんじゃ!」

 

 昇降機の中からせり上がり、顔を出したアストンが自信たっぷりに言い切った。

 

「わしらの夢と希望を乗せたアルビオールは、けして墜落なぞせんのだ」

「……墜落してたじゃん」

 

 もっともなツッコミをルークが呟く頃、扉がべこっ、と音を立てて歪んだ。そろそろ限界だ! 

 

「おおーいっ! 早くしてくれ! 扉が壊される!」

 

 その感触に冷や汗をかいたガイが、どうも呑気な空気に活を入れる。

 

「アルビオールの二号機は?」

「うむ、完成じゃ! 二号機の操縦士も準備完了しておるぞ」

 

 ティアが尋ね、アストンが準備は出来ているとの知らせを告げた。イエモンが二人を連れ、昇降機の前に立ち塞がる。

 

「よし、外の兵士は、こちらで引き受けるぞい。急げ!」

「ですが、外の兵はかなり気が立っていますわ。わたくしが名を明かして……」

 

 威勢よく壁役を引き受けるイエモンらに対しナタリアが平和的に解決する道を模索するも、タマラが温和に、しかしきっぱりと首を振った。

 

「時間がないんでしょう? 私たちに任せてくださいよ」

「年寄りを舐めたらいかんぞ! さあ、おまえさんたちは夢の大空へ飛び立つがいい!」

 

 アストンのハッパを受け、一行は頷きあう。はっきり言うと心配だが、他にいい術もない。優先させるべきは、彼らではなくセントビナーの住人たちだ。

 代表して、ルークが頭を下げた。

 

「後は頼みます!」

 

 彼の後を追い、一行が昇降機に飛び乗る。

 ガイとスィンが退いたことにより、破壊され扉を押しのけてなだれ込んできた兵士を前にして、イエモンの決め台詞らしい口上が聞こえてきた。

 

「この先にはいかせんぞい! わしらシェリダン『め組』の名にかけての!」

 

(元気な人たちだなあ……)

 

 二年前のあの日、浮遊機関を預けにきたときと全然変わっていない。一人か二人いなくなっているかもしれないくらいには考えていたのだが。

 昇降機が降りきったその先は、大規模な格納庫になっていた。大破したアルビオールとフォルムは酷似した、しかし塗装は正反対の白を基調とされている機体のタラップに乗り込むと、その先には飛行服に身を包んだ少女が背筋を伸ばして立っている。

 

「お待ちしておりました」

 

 少女は乗り込んできたルークたちに微笑みかけた。

 

「あんたは?」

「私は二号機専属操縦士、ノエル。初号機操縦士ギンジの妹です」

 

 兄がお世話になりました、と、深く頭を下げている。

 

「兄に代わって、皆さんをセントビナーへお送りします」

「よろしく頼む!」

 

 ルークたちが全員乗り込んだのを見て取った彼女は、頷いて軽やかにコクピットに座った。どこをどう操作したのか、滑走路に続くゲートが開いていく。

 

「さあ、行きましょう!」

 

 ゲートが開ききったのを見て取り、ノエルはゴーグルを装着した。機体に細かな振動が走り、窓から見える、左右の翼に取り付けられた円筒形の筒からちらちらと光が洩れる。

 

「……アルビオール二号機、発進します!」

 

 わずかな緊張と、それを大きく上回る期待を乗せ、ノエルは掴んでいたレバーを大きく引いた。

 円筒形の筒から青白い輝きが放たれ、ぐんっ、と搭乗者たちの体に重力から解放される際の圧力がかかる。

 そして窓の外を見やれば──もうシェリダンが小さくなっていた。

 

 

 

 

 

 初めての飛行に一同のほとんどが興奮しきった頃。これまでの行程を考えれば信じられないほどの速さで、セントビナーの街が見えてきた。

 

「良かった……まだあった」

「縁起でもないことを言わないでください!」

 

 思わず本音を洩らせば、ナタリアの叱責が飛んでくる。スィンの軽口に彼女が反応してしまうほど、セントビナーは危うい状況にあった。

 一応ディバイディングラインは越えていないものの、ゆっくり、じっくり、そして確実に街は陥没しつつある。

 ノエルに頼み、アルビオールをセントビナーの広場へ着地させ、大勢で行っても仕方がないと、ルークとジェイドが代表してセントビナーの地へ立った。

 

「マクガヴァンさん! みんな! 大丈夫ですか?」

 

 彼らが姿を現すと、無事な家々に隠れていた住民たちが、老マクガヴァンが駆けてくる。

 

「おお、あんたたち。この乗り物は……!」

「元帥。話は後にしましょう。とにかく乗って下さい。みなさんも」

 

 てきぱきとしたジェイドの指示で住民を収容していくと、ずずずずっ、と地滑りのような音が聞こえてきた。

 あえてそれを聞かないフリをして──下手に知らせれば彼らはパニックに陥るだろう──全員を収容する。

 

 アルビオールが再び飛び立ったそのとき、セントビナーは最後の一線を越えた。

 

 大地のひび割れは地割れとなり、ぼこりと陥没していた箇所はこらえきれなくなったように落下を始めていく。一際巨大な塊が──セントビナーの大地が魔界の海に着水するのは、そう時間のかかることではなかった。

 着水と同時に大規模な津波が起こり、どこまでもどこまでも波紋を広げていく。

 今住民たちは貨物室にいるためその光景を拝むことは叶わないが、これを見たら、否、この魔界を見たらどう思うだろうか。

 スィンはスィンで思うところがあり、ぼうっとして変わり果てたセントビナーを眺めていたが、扉が開く音がして我に返った。

 そこには、豊かでユーモラスな印象の髭がチャームポイントの老マクガヴァンが立っている。彼は窓の外に広がる光景を一瞥し、どうにか動揺を抑えた後で深々と頭を下げた。

 

「助けていただいて感謝しますぞ。しかしセントビナーはどうなってしまうのか……」

「今はまだ浮いているけれど、このまましばらくするとマントルに沈むでしょうね……」

 

 彼の疑問に、ティアが痛ましげに真実を答える。収まった彼の感情はあっさりと浮き彫りになった。

 

「そんな! 何とかならんのか!?」

 

 すがりつくような彼の問いに、言いにくそうなティアに代わって、スィンが自分でも平坦だとわかる声音で答える。

 

「このまま放っておいたら、一月くらいでこの海に呑まれると思う。ここはホドが崩落したときの状況に酷似しているから」

「ホド……そうか……これはホドの復讐なんじゃな」

 

 ──そうか。この人はマルクト軍の元帥だったんだっけ。

 

 肩を落として小さく呻く老爺を、スィンはどうしても冷たくなってしまう視線で見た。ある意味では、その通りである。

 ジェイドは沈黙し、ティアが不思議そうにしているものの、真相はそう遠くない未来に明らかとなるのだ。今真実を語る必要はない。

 

「……本当になんともならないのかよ」

「住む所がなくなるのは、可哀想ですの……」

 

 しばらく押し黙った後で、沈黙を破るようにルークが呟いた。ミュウも過去を思い出してか、泣きそうな声で訴えている。

 う~、と唸っていたアニスだったが、こちらはすぐにかぶりを振ってしまっていた。

 

「大体、大地が落っこちるってだけで常識はずれなのにぃ、なんにも思いつかないよ~。超無理!」

 

 もっともな意見であったが、だからといって何の解決策にも繋がらない。

 

「そうだ、セフィロトは?」

 

 唐突に、本当に唐突にルークが提案した。

 

「ここが落ちたのは、ヴァン師匠(せんせい)がパッセージリングってのを操作してセフィロトをどうかしたからだろ。それなら、復活させればいいんじゃねーか?」

 

 これしかないとばかりにルークが勢い込むも、ティアが現実をもって押し留める。

 

「でも私たち、パッセージリングの使い方を知らないわ」

「じゃあ師匠を問いつめて……!」

「おいおいルーク。そりゃ無理だろうよ。おまえの気持ちもわかる……」

 

 その言葉は、他でもないルークによってかき消された。

 

「わかんねーよ! ガイにも、みんなにも!」

「ルーク……」

 

 ティアの呟きも、悔恨に満ちたルークには届かない。

 

「わかんねぇって! アクゼリュスを滅ぼしたのは俺なんだからさ! でもだから、なんとかしてーんだよ! こんなことじゃ、罪滅ぼしにもならないってことぐらいわかってっけど、せめてここの街くらい……!」

「ルーク! いい加減にしなさい。焦るだけでは、何もできませんよ」

 

 あまり聞いたことがないジェイドの怒声を受け、ルークはびくりと体を震わせ、沈黙した。

 

「とりあえず、ユリアシティに行きましょう」

 

 怒鳴った自覚はあるらしく、声音を平静なものに戻したジェイドの言葉が続く。

 

「彼らはセフィロトについて我々より詳しい。セントビナーが崩落しないという預言(スコア)が狂った今なら……」

「そうだわ。今ならお祖父様も、力を貸してくれるかもしれない」

 

 ティアの言葉に頷き、ジェイドはルークを一瞥もしないまま、だがひどく感情のこもった声でルークに言い聞かせた。実に珍しい光景である。

 

「それとルーク。先ほどのあれはまるでだだっ子ですよ。ここにいるみんなだって、セントビナーを救いたいんです」

「……ごめん……そうだよな……」

 

 視線を落とし、床を見つめるしかない、皆に合わせる顔がないといった風情のルークに、ガイが極めて軽く肩に手を置いた。

 

「まあ、気にすんな。こっちは気にしてねぇから」

「では、アルビオールを発進させます」

 

 平静なノエルの声に、ルークは軽く頬を張って気を取り直しているようだった。

 

 

 

 



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第四十八唱——ツンデレなおじさんは聞いた!(笑)

 

 

 

 ユリアシティにたどり着くと、驚いたことにユリアシティの玄関に位置するホール──ルークとアッシュが決闘をしたあたり──に、テオドーロ市長がたたずんでおり、セントビナーの住民を含めた一行を出迎えた。

 その姿にスィンは思わず躊躇を覚えるものの、結局そのまま歩を進める。大丈夫。直接顔を合わせたことはない……確か。

 

「お祖父様!」

「来ると思って待っていた」

 

 ティアの言葉に、暗に事情を知っているとの言葉を聞いて、ティアは祖父に懇願した。

 

「お祖父様、力を貸して! セントビナーを助けたいんです」

「それしかないだろうな。預言(スコア)から外れることは、我々も恐ろしいが……」

 

 その前に、とイオンが進言する。

 

「お話の前に、セントビナーの方たちを休ませてあげたいのですが」

「そうですな。こちらでお預かりしましょう」

 

 事前の打ち合わせがあったのか、市長は側近たちを伴って住民の引率を始めた。

 

「……お世話になります」

 

 住民たちの列に加わり、老マクガヴァンが最後尾に立つ。

 が、ふと彼は足を止めてルークに振り返った。

 

「ルーク。あまり気落ちするなよ」

「え?」

 

 何のことか、と言いたげなルークに、彼はジェイドを一瞥する。

 

「ジェイドは滅多なことで人を叱ったりせん。先ほどのあれも、おまえさんを気に入ればこそだ」

「元帥! 何を言い出すんですか」

 

 珍しくジェイドが焦ったような声音で彼を責めるものの、否定しないというのは驚くべき点であった。当然のことながら、老マクガヴァンは黙らない。

 

「年寄りには気に入らん人間を叱ってやるほどの時間はない。ジェイド坊やも同じじゃよ」

 

 彼はそう言い残すと、ユリアシティ中央部へ歩き去った。

 しーんとした空気の中、ジェイドがふぅっ、と息を吐く。

 

「元帥も何を言い出すのやら。……私も先に行きますよ」

 

 弁明も否定も肯定もなく、ジェイドは足早に彼の後を追った。

 その彼の背中を見送り、ガイが含み笑いをしている。

 

「はは。図星らしいぜ。結構可愛いトコあるじゃねぇか、あのおっさんも」

「あはは。ホントだ~v」

 

 気持ち早めにスタスタ先を行くジェイドの後を追い、一行はユリアシティ入りを果たした。

 後ろでルークがティアに何やら話しているが、他者が聞いていいことではないだろう。

 ジェイドの背中が見えてきたところで、スィンは悪戯心を起こして彼に駆け寄った。

 

「大佐」

「……なんですか? 別に私は……」

「セントビナーの件。何とかできるといいですね」

 

 まったく違う話題を突き出されたせいか、彼はしばしのタイムラグを置いて「……そうですね」と答えている。

 

「ちなみに、あの街にあった『ソイルの木』、無事だと思います?」

「──落下の衝撃がどの程度なのか、はっきりしないので推測でしかありませんが……確実に無傷とは言えないでしょう。もう瘴気によって枯れているかもしれない」

「……そうですか……」

 

 一挙に沈んだ彼女の顔色を見て、ジェイドは不思議そうにその理由を尋ねようとした。

 が、姦しい少女の高い声を耳にして、スィンはぱっと通常の表情に戻っている。

 

「あ~! スィンが大佐に言い寄ってる~!」

「失礼な! ポイント上げてるだけだよ!」

「おんなじだよぅ!」

 

 玉の輿を夢見るアニスが、大佐は渡さない! と言わんばかりにジェイドの腰にしがみついた。

 それならばとスィンは勢いよく肩に抱きつこうとして……

 

「あっ、無理」

 

 伸ばした腕をあっさりと引き戻し、さっさと距離を取った。

 その様子を見て、アニスはあーあ、とジェイドの腰から腕を外して、小芝居を終わらせている。

 

「今の流れで大佐に抱きつけたら、ちょっとは良くなってる証拠だったのに」

「うーん、ふと我に返っちゃうんだよねえ。こんなに綺麗な顔した人なら、あんまり男性を意識しなくていいと思ったんだけどなあ」

「……褒められているのか貶されているのか、微妙なところですねえ」

「あ、それだ。声が低いからやっぱ男性だなぁ、って思う。いい声だから、余計に」

 

 スィンはまじまじと、改めてジェイドの顔を見つめている。

 その一言を聞いて驚いているのはガイだ。

 

「お前、ジェイドのことそういう風に思ってるのか?」

「そういう風にって、綺麗な顔といい声ですか? 勿論ですよ。女性十人に聞いたら、十人ともそう答えると思いますが」

「スィンが珍しく大佐をべた褒めしてる……!」

「はっはっはっ。照れますねー」

「人間、歳を重ねればみんな同じ顔になるそうですが。その若さがいつまでも続くといいですね?」

「それはわたくし達も例外ではないのでは?」

「……そうですね。腰が曲がって、顔が皺くちゃな、よぼよぼのご老人になるまで、生きていられるといいですね」

 

 意味深なその言葉を、聞き逃せなかったガイが何かを言うより前に。

 ルークがティアを伴ってようやっと一行に追いついた。

 

「二人とも遅いよぉ」

 

 今までの姦しさとどこへやら。アニスが唇を尖らせて抗議した。

 

「悪い悪い。さ、テオドーロさんのところへ行こうぜ!」

 

 その途中、二人で何を話していたのかを鈍感なナタリアが聞き、お茶を濁していたというのはまた別の話である。

 

 

 

 会議室。座して待つテオドーロに促され、一同は各々の席に着いた。ルークが口火を切る。

 

「単刀直入に伺います。セントビナーを救う方法はありませんか」

 

 その言葉に、市長はひどく難しそうな顔で絶望的な答えを放った。

 

「難しいですな。ユリアが使ったと言われるローレライの鍵があれば、或いは……とも思いますが」

「ローレライの鍵? それは何ですか?」

 

 聞いたことがあるような、ないような……と呟くルークに、ジェイドが変わって説明する。

 

「ローレライの剣と、宝珠を指してそう言うんですよ。確か、プラネットストームを発生させる時に使ったものでしたね。ユリアがローレライと契約を交わした証とも聞きますが」

「そうです。ローレライの鍵は、ユリアがローレライの力を借りて作った譜術武器と言われています」

 

 二人の言葉に合わせ、ティアが補足を入れた。

 

「ローレライの剣は第七音素(セブンスフォニム)を結集させ、ローレライの宝珠は第七音素(セブンスフォニム)を拡散する。鍵そのものも第七音素(セブンスフォニム)で構成されていると言われているわ。ユリアは鍵にローレライそのものを宿し、ローレライの力を自在に操ったとか……」

「その真偽はともかく、セフィロトを自在に操る力は確かにあったそうです」

 

 とはいえども。その所在については、どうにも不透明なものであった。

 

「でもローレライの鍵は、プラネットストームを発生させた後、地殻に沈めてしまったと伝わっているわ」

「その通り。この場にないもの──いや、現存するかもわからぬものを頼るわけにもいかないでしょう。何より、一度崩落した以上セントビナーを外殻大地まで再浮上させるのは、無理だと思います」

 

 どうにも絶望的な内容に、アニスが呻いている。

 

「う~ん。どうしようもないのかなぁ」

「……いえ。液状化した大地に飲み込まれない程度なら、或いは……」

 

 テオドーロの小さな呟きに、やっと希望の欠片を見つけたと、ルークが勢い込んで詳細を尋ねた。

 

「方法が、あるんですか!?」

「セフィロトはパッセージリングという装置で制御されています。パッセージリングを操作してセフィロトツリーを復活させれば、泥の海に浮かせるぐらいなら……」

 

 今までの話とは根本的に違う、ルークの提案と同一にして具体的な話である。ティアは身を乗り出して義祖父に尋ねた。

 

「セントビナー周辺のセフィロトを制御するパッセージリングはどこにあるの?」

「シュレーの丘だ。セントビナーの東だな」

 

 その単語を聞き、そういえば、とイオンが思案している。

 

「タルタロスからさらわれたとき、連れて行かれたのがシュレーの丘でした。あのときはまだ、アルバート式封咒とユリア式封咒で護られているからと、心配していなかったのですが……」

「アルバート式封咒は、ホドとアクゼリュスのパッセージリングが消滅して消えました。しかしユリア式封咒は、約束の時まで解けないはずだった」

 

 沈痛な表情でテオドーロはため息をつき、アニスが確認するように尋ねた。

 

「でも総長はそれを解いて、パッセージリングを操作した、ってことですよね」

「そうです。どうやったのか、私たちにもわかりません」

 

 そこでテオドーロは、ちらりとスィンへ目をやった。

 

「……あなたはご存じないのですか?」

「なんだ、僕のことご存知だったんですか?」

 

 内心の動揺を隠し、スィンは平然として一同の視線を無視し老人の返答を待っている。

 

「以前ヴァンと共に来られたことがおありでしょう。あの時は会議の最中で紹介こそ叶わなかったが、ユリアシティを案内するヴァンとあなたのことは聞いていた」

「あー、あのとき、ね」

 

 追憶に浸るようにスィンは遠い目をしていたが、そんなことはどうでもいいとばかり首を振った。

 

「残念ながら、僕はもとより外殻大地崩落の計画から外されている。詳細は、知らない」

「そうですか──」

「グランツ謡将がどうやってユリア式封咒を解いたかは後にしましょう」

 

 途絶えかけた話題を、ジェイドがしきり直す。

 

「パッセージリングの操作は、どうすればいいんですか?」

第七音素(セブンスフォニム)が必要だと聞いています。全ての操作盤が、第七音素(セブンスフォニム)を使わないと動かない」

 

 その言葉に、ガイが笑顔で一同を見回した。

 

「それなら俺たちの仲間には四人も使い手がいるじゃないか!」

 

「わたくし、スィン、ティアとルークですわね」

 

 元来数が少ない第七音譜術士(セブンスフォニマー)──二名はロクに使えないが──がこれだけいることに、ナタリアも笑みを浮かべている。

 

「あとは、ヴァンがパッセージリングに余計なことをしていなければ……」

「それは行ってみないとわからないわね」

 

 テオドーロの気にする不安要素を、ティアはあえて切り捨てた。

 

「セントビナーの東あたりなら、たぶん街と一緒に崩落してるよな──ありがとうございます、市長」

「いえ──何もできませんが、セントビナーの人々はお任せください」

 

 時刻の関係もあり、ユリアシティで休息を取ってからセントビナーへ行くことに決定し、各々が自由時間を取る。

 特に何かすることもなかったスィンがふらふらと出歩いていた際、見知らぬ人間に呼び止められた。振り返れば、いきなり文を渡される。テオドーロ市長から会議室への呼び出し、という内容の代物だった。

 わずらわしげに赴けば、市長が立ち上がって出迎える。

 

「わざわざすみません」

「なんか用ですか?」

 

 わざとぞんざいに用件を尋ねれば、彼はスィンを上から下まで観察した後に、小声でこんなことを尋ねてきた。

 

「──あの話は、本当なのですかな?」

「あの話って、どの話?」

 

 わざわざ人払いを確認し、市長は本当に小さな声でひそひそと質問を口にする。

 スィンも、人がいないのになぜか気配を感じてしまうため、それを咎めることはなかった。

 

「あー、その話。知らない」

 

 ヴァンのやつしゃべりやがったよ。

 どの話なのかを特定した彼女は、あっけらかんと言い切っている。

 

「知らない、とは……」

「どこまで聞いたか知らないけど、最近はあんまりその兆候がない。多分キーワードに触れてないからだと思うけど、もしかしたら今までの全部、幻覚の類いだったのかもしれないし」

 

 どこまでも無責任なスィンの言葉に、市長は感情の起伏を隠さず詰め寄った。

 

「……彼女の記憶さえあれば、ローレライの鍵の所在はおろか、パッセージリングの作成も可能かもしれないのですぞ! それを……!」

「あなたもついさっき言ったような気がするなあ。この場にないものに頼るわけにはいかない、ってさ」

 

 その一言で黙りこくった老人に、なんともいえない気持ちで退室を告げる。

 話がこれだけなら、もう話すことなど何もないはずなのだ。

 

「……パッセージリングの操作方法も、ですかな?」

「どうだろうね。実物を見たことがないから、なんともいえない。ひょっとしたら、何か『思い出す』かもね」

 

 退室する寸前、これだけの会話をかわし、スィンは今度こそ会議室を後にした。

 ふと周囲を見回せば、壁にもたれて一人考え込んでいるジェイドの姿がある。

 

(……まさかね)

 

 ふっと頭に浮かんだ疑念を振り払い、スィンは彼の黙考の邪魔をしないよう、その場をあとにした。

 

 

 

 

 




パーティ内ムード、アクゼリュス直後から比べると大分和やかになってきたものです。
今回の肝は図星をつかれたジェイドがまるで照れているかのような態度を取る貴重なワンショットですね。
実際照れていたかもですが。


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第四十九唱——隠すべきは秘密、騙すべきは永久(トコシエ)

 

 

 

 

 一夜明け。ユリアシティを出立し、一行を乗せたアルビオールはセントビナー周辺を飛んでいた。

 

「あ、あれです!」

 

 唯一場所を知るイオンの案内を受け、アルビオール番にとノエルは残り、シュレーの丘へ足を踏み入れる。

 周囲の自然とはわずかに違和感を覚える、こんもりと盛り上がった丘を前に、ルークはきょろきょろと辺りを見回していた。

 彼の気持ちはわかる。何しろ、見る限りパッセージリングへ続くあの特徴的な扉はどこにも見受けられないのだから。

 

「なあイオン、どこに入り口があるんだ?」

 

 一行を代表してルークが尋ねれば、彼は遠くに見える赤い石碑を指した。

 

「普段は譜術によって入り口が隠されているはずです。確か……三つの赤い譜石と第五音素(フィフスフォニム)で施された譜術だったと思います」

 

 あれがそのひとつです、とイオンが指した石碑を、スィンは丘に整備された道を使わず、ショートカットして接近している。

 

「三つの赤い譜石……? 第五音素(フィフスフォニム)って、確か火の音素だったよな……」

 

 そんなルークの呟きを受けて指先に第五音素(フィフスフォニム)を集結させ、近づけると、石碑はぼうっとその輝きをより強くさせた。

 結晶の中で赤々と燃える炎を見つめ、おかしな既視感を覚える。

 

『これで、完璧ね。よっぽどのことがなきゃ、そんじょそこらの人間にはわかんないわ』

 

 このようなことを自分が言うわけがないし、ここへ来るのも初めてのはずなのだが、こんな台詞が頭から離れない。

 奇妙に盛り上がった丘を戻り、一行のもとへと戻る。譜石を探していくうちに、思ったよりも広大な敷地内にして同じような風景に早くもアニスが飽き始めた。

 

「ん~~。にしても、ここの空ってすごく気が滅入るよね」

「確かに……なんか青空が恋しくなるなあ」

 

 アニスの言葉に、ガイが賛同する。言葉にこそ出さないが、それは皆同じ気持ちだった。

 

「そうだ大佐。何か面白い話してくださいよぅ」

「そうですねぇ……。では、この丘が『シュレーの丘』と呼ばれる由縁でも話しておきましょうか」

 

 アニスの言葉を受け、ジェイドは関連のありそうな小話をピックアップしたらしい。

 

「へえ、それは興味があるな」

「わたくしも聞きたいですわね」

 

 ガイ、ナタリアの賛同を受け、彼は「ではお話しましょうか」と語り始めた。

 

「……昔も今も、この辺りは国境線を巡って戦争が繰り返し行われてきました。七百年ほど前にも、この辺りで大きな戦があり、その時の死者は積み上げると山ほどの大きさになったと言います」

「まあ……なんて酷い……」

 

 大昔の惨劇を想像し、ナタリアは手で口を覆っている。が、スィンは半眼になって話の腰を折った。

 

「大佐、それ聞いたことある」

「そうですか? でもせっかくですから、最後まで聞いてくださいね。当時高名であった譜術士(フォニマー)のシュレーは、死者たちを弔うために、彼らの遺体の音素(フォニム)を組み替え、丘を作り上げました」

 

 ひょい、と意味ありげに地面を、そして目の前にそびえる丘を見る。

 その意味を悟り、スィンを除いた一行が震え上がった。

 

「ちょっ、ちょちょちょちょ、ちょっと待って下さい! それって、じゃあ……この辺りはもともと……」

 

 嘘ですよね? と言いたげなアニスに、ジェイドは何も言わずただにたり、と笑う。

 戦慄が走った。

 

「…………!!!!」

 

 直後、全員が全員悲鳴を上げて離散してしまっている。散々たる情景を目の当たりにして、スィンは軽くため息をついた。

 

「まだ、話のオチまで辿り着いていませんが…………おや、どうしました、ティア?」

「……」

 

 一人静かにたたずんでいるティアを覗き込み、ジェイドはふっ、と笑み交じりの呼気を吐いている。

 

「……この程度で気を失うなんて、まったく……兵士として失格ですねえ」

「は!?」

 

 ジェイドの反対側に回り、同じようにティアの様子を確認した。確かに、顔の前で手を振っても反応がない。

 

「ティ、ティア? ティア、大丈夫?」

 

 肩を揺すって覚醒を促せば、幸いなことに彼女はすぐ我を取り戻している。

 

「こ、怖かった……!」

 

 とりあえず目の前にいたスィンの腕を掴むティアに、そしてティアの異常を知って戻ってきた面々に、ジェイドに目を向けてからスィンは真相を語り始めた。

 

「ちなみに今の話、あそこの石碑みたいに真っ赤な嘘、だからね?」

「へ?」

 

 主の間の抜けた声による疑問を感じ取り、更なる詳細を語る。

 

「七百年前は、まだマルクトとキムラスカが平和協定を継続中で穏やかな時代だったから戦なんて起こってませんよ。ここがシュレーの丘と呼ばれるのはそういう名前の薬草が採れたからとか、シュレーという人の古墳だとか、諸説は多々ありますがまだ正式な理由は見つかっていないと思いましたが」

 

 ジェイドに意見を求めれば、彼はわざとらしく拍手をしていた。

 

「正解です。士官学校なら満点がもらえるでしょうね。なにかご褒美でも差し上げましょうか?」

「……結構です」

 

 両腕を広げてニコニコしているジェイドにげんなりとした視線を向け、見つけた最後の石碑めがけて圧縮した第五音素(フィフスフォニム)を放つ。

 石碑が赤く輝いたとき、どこかで何かが変化する振動を、一行はしっかり感じ取った。

 変化が起こった場所を探す中でも、ジェイドは実に惜しそうに呟いている。

 

「いやしかし残念です。せっかく整備されている道があるにもかかわらず、丘をぐしぐし踏んづけて行ったあなたには是非とも怖がっていただきたかったのですが」

「うんうん。残念でしたねえ」

 

 イヤミスイッチの入っている彼とまともに話すつもりはなく、スィンはなるべく顔を合わせないように彼との対話に応じた。

 が、次の瞬間限界が訪れる。

 

「声真似だけじゃなかったんですね」

 

 ──ふぅ。

 

『アニス。ジェイドを潰してくれませんか?』

「爽やかにイオン様の声真似してもだめですぅ!」

 

 寸分違わない声を耳にし、アニスは思わず敬語を使っていた。ちぇ、とスィンが元の声に戻って呟いたとき、変化の場所にたどり着く。

 丘へ入ったちょうど正面、今まで丘を扮していた場所が綺麗にえぐられ、正面からくぼんでいた。

 

「ここです。間違いありません」

「扉が開いてるですの」

 

 ミュウの言葉通り、ダアト式封咒で封印されているという扉はなく、ただぽっかりと窯のような空洞があるだけである。

 他ならぬイオンが開けた、というのだから当たり前ではあるが。

 

「奥へ進んでみよう」

 

 ルークの言葉で、一行は連れ立って歩みだした。一歩踏み入っただけで世界が違うように感じられる。譜術で封印されていたからか、どこか静謐で荘厳な空気は瘴気混じりのものではない。

 雰囲気に呑まれがちな面々を、一応この空気を知るルークとイオンが引率するような形で進み始めた。

 通路の奥は巨大な広間となっており、中央がくりぬかれた床に巨大な黄金の音叉を模した音機関が浮いている。

 中央には譜石が輝き、ひどく明るかった。

 

「ただの音機関じゃないな。どうすりゃいいのかさっぱりだ」

 

 一目見るなり、ガイは首をひねってそう呻いている。音機関好きであるがゆえに興味は尽きないが、今まで聞いたことすらないような形状だ。手をつけることすらためらっているようにも見える。

 

第七音素(セブンスフォニム)を使うって、どうするんだ、これ……」

 

 途方に暮れたような声音で呟いたルークの隣に立ち、イオンはしばらく音機関を見つめていたがやがて「……おかしい」と呟いた。

 

「これはユリア式封咒が解呪されていません」

 

 偽ることを知らない彼の弁を聞き、驚いたのがジェイドだった。

 

「どういうことでしょう。グランツ謡将はこれを操作したのでは……」

「え~、ここまで来て無駄足ってことですかぁ?」

 

 アニスは早々に諦めてしまっている感があるものの、その意見に賛同することは出来ない。

 

「何か方法がある筈ですわ。調べてみましょう」

 

 ナタリアの提案に従い、音叉の周囲を見回ってみれば、音叉の向こう側の床にあるそれをルークが発見した。

 

「なんだ……? 譜陣が三つ……」

「これは……」

 

 ルークの声を受け、ジェイドが床に描かれた三つの譜陣をじっと観察している。

 

「……この三つの譜陣によって、パッセージリングの制御を封じているのだと思います……」

 

 自信なさげに聞こえるが、考えてみればジェイドもこれらを眼にするのは初めてなのだ。自信がなくて当たり前だった。

 

「じゃあ、この譜陣を何とかすれば良いのか?」

「恐らくは……」

 

 床にぼんやりと浮かぶ譜陣が、妙にスィンの心を騒がせる。

 くしゃみが出かかって、止まってしまったような。のどに骨がひっかかったような、気にならないようで気になるもやもやとしたものが、脳裏にわだかまっている。

 何の気なしに手を伸ばせば、手のひらは譜陣の中央へと招かれた。

 

「……!?」

 

 吸い付かれるように張り付いた手が、床のものとは違う別の譜陣を起動させる。

 通常譜術とは明らかに異なる意匠のそれは、万華鏡のような不規則さでありながら、歯車のような正確さを見せて紋様を変化させると、床の譜陣に張り付いて消滅した。

 連鎖するように残りふたつの譜陣が消えていく。床の譜陣が完全に消滅した直後、スィンは頭を抱えて呻いた。

 

「スィン!?」

「っ、痛い……!」

 

 普段戦闘において怪我をしても、顔をしかめるにとどめて治癒を願い出る彼女が、歯を食いしばって苦痛をあらわとしている。並みの痛みではない、ということだけは一行に伝わった。

 

「おい、大丈夫か!」

 

 心配そうなルークの声すらわずらわしい、と思いながら、歪む視界を矯正せんと目をつむる。

 まぶたの裏で、見えるわけがない映像が駆け巡った。

 

「……え?」

『──苦節何年だったかしら。ようやく完成したわ』

『名前? そんなの適当でいいわよ、んー……パッセージリング。これがいいわ』

『そのまんま、ですって? そうよ、安直で悪かったわね!』

 

 何人かの人間に囲まれ、映像の中の自分はころころと変わる表情の最中でこんなことを話していた。

 否、自分じゃない。

 譜石に映った自分の顔。否、両目は、透明感のあるサファイヤをはめ込んだような──

 

「スィン!」

 

 ──がばっ

 

「は、はい! なんでしょうか、ガイラルディア様」

 

 仕えるべき主の声を耳にして、スィンはたゆたいつつあった意識を無理やり引き上げた。

 彼は彼で、仲間たちと同じくそんな彼女に戸惑いを隠していない。

 

「なんでしょうか、って……大丈夫なのか?」

「はい、今は平気です」

 

 きびきびと答えながらも、今流れた映像を細かく思い出し、分析していく。

 感覚としては知らないものではない。ただ、久しぶりすぎて、こらえることもできなかった。

 

「ユリア式封咒が、解除されている……」

 

 イオンの呟きを受け、ジェイドが視線をスィンに向ける。

 

「──何をしたんですか?」

「譜陣の中心に手をかざしただけ。といっても、信じやしないだろうけど」

 

 ぽりぽりと頬をかきながら、パッセージリングを見やった。封咒が消えたにもかかわらず、何かの変化は見られない。

 当然だった。あとは──

 

「彼女の記憶さえあれば、ローレライの鍵の所在はおろか、パッセージリングの作成も可能かもしれない」

 

 その言葉を聞いて、スィンはぎょっとしたようにジェイドを見た。

 が、すぐに唇を歪めて低い声で揶揄する。

 

「──盗み聞きとは、ホントいい趣味していらっしゃる」

「おや、とぼけないんですか?」

「それを言われちゃった以上、もう無意味でしょう」

 

 二人だけで進む会話がどうにも理解できず、おずおずとナタリアが尋ねた。

 

「あの、どういうことですの? 話が見えませんわ」

「ユリアシティでの自由行動中、スィンを呼び出した市長が彼女に言ったものですよ。他にも気になる言葉を聞かせていただきましたが──どういうことなんです?」

 

 一同の視線が集中する。

 思いのほかひどい居心地の悪さにスィンは目を伏せたあとで、ひとつ息を吐いた。

 

「確かなことは何も。不確かなことならいくらでも。彼女の記憶というのは、何のことだとお思いで?」

「……ローレライの鍵の所在、パッセージリングの作成。これらを記憶する人間がいるのだとしたら、それは一人しかいません」

「じゃ、その人の記憶ってことでいいんじゃないでしょうか」

 

 秘め事を暴かれたせいなのか、スィンは非常に投げやりな調子で対応している。

 それが隠匿を企むものとしてジェイドから非難を浴びせられるも、特に動揺した気配はない。

 

「この期に及んで何を隠しているのです」

「この件に関する事柄なら、わからないものは答えようがありません。今の事象をご説明するなら『体が勝手に動きました』としか」

 

 どこまでも本題に入ろうとしないスィン、食い下がるジェイド。

 一向に引かない両者の仲裁に入ったのは、二国間の調停役をも果たしていたイオンだった。

 とはいえ、声量だけは静かに言い争う二人をただ宥めにかかったわけではない。それどころか、彼の口からは思いもよらない一言が飛び出した。

 

「スィンは、ユリア再誕計画をご存知でしょうか」

 

 ユリア再誕計画。

 ルークたちはおろか、教団に属しその名と縁あるはずのティアやアニスも聞いたことはないという。

 ところがスィンは、わずかながら眉をしかめながらも肯定した。

 

「よくご存知でしたね。あなたどころか、僕が生まれる以前のお話なのに」

「前導師が遺した手記に計画の概要がありました。教団が秘密裏に行った研究成果としてユリアの振動数が判明したため、彼女と同じ肉体を持つ人間を造ろうとした、と」

「人間を造るって、フォミクリーでか!?」

 

 そもそもフォミクリーは模造品(レプリカ)を造る技術であって、その方法を用いるなら被験者(オリジナル)がいなければお話にならない。

 イオンは首を振ってルークの言葉を否定している。

 その表情は、知ってしまったことを後悔すらしているような、そんな面持ちだった。

 

「いいえ、フォミクリーではないんです。それどころか、マルクトにもキムラスカにも内密の計画であったため……」

「譜術も音機関も、技術提供はなかったということでしょうか?」

 

 ティアの言葉にひとつ頷いて、イオンは話を続けた。スィンはと言えば、むっつりと押し黙ったままだ。

 何かを自発的に話そうともしなければ、話を妨害しようともしない。

 

「じゃあ一体どうやって」

「──非常に原始的な方法を用いた、と手記にはありました」

 

 アニスの問いに口ごもりながらも、柔らかな表現でお茶を濁している。

 しかしジェイドは、そのずばりの推測を突きつけた。

 

「人間の女性を使ったということですか」

「真偽は不明ですが、通常の方法ではあまりに時間がかかり過ぎます。何かしら特殊な手段を用いたことは間違いないと思いますが」

 

 とにかくイオンが知るのは、その昔各国には内密の研究『ユリア再誕計画』があったということだけだという。

 それを知って、スィンは落胆を隠す様子もなくがっくりとうなだれた。

 

「……なんにも知らないふりをするべきでした」

「ちょっと遅かったな。それで、お前はどこまで知ってるんだ?」

 

 主にそれを尋ねられて、拒絶するわけにはいかない。

 スィンは肩をすくめてずいぶん前に見た資料の数々を記憶からすくいあげた。

 

「とは言っても、ダアトに所属している間に図書室とか資料室とか、総ざらいしただけなんですけどね?」

「いや、それだけやれば十分だろ。十分すぎるくらいわかるはずだろ」

 

 それでも、判明したのはわずかにして断片的な事柄である。

 それを前置きして、スィンは続けた。

 

「ユリア再誕計画の概要と、それに伴って誕生したサンプルの記録。それから、切れ切れだけど研究に関する中途報告書」

「サンプル?」

「──生み出された嬰児のこと。ユリアの振動数と照合した適合率と、廃棄にいたる経過が記されていたよ」

 

 廃棄と言う言葉を聞きつけて、その言い草はあんまりだとナタリアは憤慨している。

 それもそうかと考え直して、ついでのようにスィンは言い換えた。

 

「僕が見つけた例は十三件程度ですが、誕生したその瞬間から健康状態は良好でなくて。記されている限りではすべて死亡が確認されています」

「十三人も!?」

「記録日も間隔はまちまちですが、女性のお腹で自然に……という方法だけではなかったと僕も考えています」

 

 肝心の、スィン自身との関連を尋ねる。しかし、彼女はあっさりとそれらは希薄だと言ってのけた。

 

「その十三件の中に僕がいなかったのですから、仕方ないじゃないですか」

「しかし……」

 

 とにかく自分は見つけたサンプル達の誰とも該当しないと、スィンはきっぱり言ってのけた。何の証拠があってと返しかけて、はた、とジェイドが気づく。

 

「ちょっと待ってください。あなたは何を理由に自分が該当しないと言っているのですか」

「誕生年月日。それと、髪の色眼の色。あとは身体的特徴」

「赤んぼの頃にあった特徴なんて、関係あるのか?」

 

 ルークの言葉にも、スィンは迷いなく頷いた。その理由を尋ねられ、軽く眼を伏せている。

 発見した報告書そのままを口にするわけにはいかない。スィンは思い出しただけで、気分が悪くなっているのだから。

 

「……ユリアの再来かもしれない赤ん坊達には、総じて変わったところがあったから」

「変わった、ところ?」

「双子が、部分的にくっついて生まれてきた例がほとんどだった。頭が二つだったり、足が四本だったり、そうじゃないのは……眼が、沢山あるとか、その眼の色、全部違う色、とか」

「!?」

「僕の特徴考えれば、まったく関係ない話じゃなくなるから困っているわけですが」

 

 実際──見つけた資料がただの悪ふざけで、ユリア再誕計画も誰かのむちゃくちゃな妄想だったらどんなに良かったことかと、思わずにはいられない。

 しかしイオンはその存在を前導師の書記で認識している。少なくとも、このトンデモ計画は存在したのだ。

 

「──計画の話は、さておき。思い出す、とは?」

「そのまんまですよ。正確には幻覚で、既視感です。特定の行動を行うと見えるはずもないものが見えて、聞こえるはずもない音が聞こえる。共通するのはユリア・ジュエに関する事柄だけだということ」

 

 確か、初めにこの感覚を覚えたのは絵本を読んでもらったときだったと思う。

 始祖ユリアの逸話を子供向けに描かれたそれを読み聞かせられただけで、子供には理解できない光景が目の前で流れて聞こえて。わけもわからず大号泣した覚えがあった。

 もっともそれは、序章に過ぎなかったわけだが。

 

「振動数が似たようなものだとしても、見知らぬ他人の記憶を垣間見るなんて、ありえるんですかね?」

「通常ならそれは、記憶を垣間見ているのではなく脳が捏造した記憶じみたもの、になるのですが……」

 

 それにしては、現象が限定的過ぎる。スィンとて、この現象の原因が何なのかを徹底的に探った時期があった。

 脳が異常を起こす前触れとか、ただの気のせいとか、諸説はいくつもあったがいずれも該当する症例はなかったと記憶している。

 なにせ、ユリアに関する事柄に触れれば、彼女のものらしい記憶が幻覚として現れるのだ。

 そのことに関しては、イオンからこんな推測を聞くことができた。

 

「ユリア・ジュエと契約した第七音素意識集合体ローレライが関与しているのかもしれません。第七音素(セブンスフォニム)はオールドラントの誕生から消滅までの記憶を有しています」

「……ローレライが、僕をユリアと勘違いして、すべてを思い出してもらおうと記憶を……?」

 

 あくまで推測、なぜどうしてどうやって、という疑問を解消できるものではない。

 とにかくこのことに関して、もはや答えることは何もないと、スィンは締めくくった。

 

「僕の頭がオカシイんだ、ってことでまとめてくださってもかまいませんよ」

「そんな……」

「原因がはっきりしない以上は、それも考慮するべきですが。実際にパッセージリングを操ることができるなら、脳の異常ではなくユリアの記憶であることを証明できますね」

 

 そう言って。ジェイドはパッセージリングを視線で示した。

 

 

 

 

 



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第五十唱——秘めるそれが暴かれた時、苦しむのは当人か、それとも

 

 

 

 

「これらの音機関を製作した本人の記憶があれば、失われたホドとアクゼリュスのパッセージリングをもう一度設置できるかもしれない……ということでしたか」

「言っておくけど不可能ですよ。今ユリア式封咒を解いたのも、完璧に無意識でした。それによって促された記憶の復活も、あんまり役に立ちそうにありませんし」

 

 ふらふらと、頭痛の余韻で少し揺れている視界の中、パッセージリングの正面へ移動する。制御盤へ手を伸ばそうとし、姿勢が崩れた。

 

「スィン!?」

 

 どさり、と柔らかな何かに倒れこみ、見上げれば心配そうな、驚いたようなティアの顔がある。

 駄目だ、来てはいけない──

 脳裏でそんな警告を聞いた瞬間、譜石と制御版が同時に輝きを放った。制御版が書物のように開いて、音叉の上空にひどく複雑な譜陣らしいものが浮かび上がる。

 直後、その代償であるかのように二人の周囲を薄い薄いもやが漂い、譜術の使用時か、預言(スコア)を詠むときのように全身のフォンスロットへ流し込まれた。

 

「……りがと、ティア」

 

 腹の奥に力を入れ、襲いくる脱力感を気力で押さえ込む。ティアはティアで違和感を覚えているようだったが、とりあえずは無事のようだった。

 音叉の上空を見上げる。すぐさま異常に気づき、スィンは「あっ!」と無意識に叫んでいた。

 

「どうしたんですか?」

 

 ジェイドの言葉に答える余裕もなく、上空を指した後で制御盤に手をかける。後ろでは、スィンが指したものを見ていたジェイドが小さく呻きを洩らしていた。

 

「……グランツ謡将、やってくれましたね」

「兄が何かしたんですか!?」

 

 ティアの言葉を受け、ジェイドは苦々しく状況を説明している。

 

「セフィロトがツリーを再生しないように、弁を閉じています」

「どういうことですの?」

 

 ナタリアの問いに対し、彼はその理由について説明してみせた。

 

「つまり暗号によって、操作できないようにされている、と言うことですね」

「暗号、解けないですの?」

 

 ミュウの言葉に、ジェイドが軽く首を振っている。

 

「私が第七音素(セブンスフォニム)を使えるなら、解いてみせます。ですが……スィン、どうですか?」

 

 書物のように展開している制御盤を、まるで本を読むかのように手を当てていたスィンは、振り返りもせずに問うた。

 

「……大佐。ローレライの音素振動数、何桁まで覚えてます?」

「ローレライの音素振動数?」

「皆も。何桁までわかる?」

 

 とはいえ、第七音素集合体の音素振動数など、なかなか覚えているものではない。

 何故いきなりそんなことを言い出すのか。唯一その意味を理解したジェイドが顔をひきつらせた。

 

「……まさか。暗号解除には、あの数字の羅列を打ち込む必要があると……?」

「そういうこと。これ、桁いくつまで打ち込めばいいんだろ。解除枠が異常に細長い」

 

 ためしに打ち込んでみたのだろうか、突如として虚空に数字の羅列が浮かび上がる。

 羅列は「3.1415926535」と並んでいた。

 

「とりあえず十桁ほど……あっ」

 

 数字の羅列は溶けるように消えて、交代するようにフォニスコモンマルキスが明滅する。

 その意味とは。

 

「第一段階、解除?」

「え、え、どゆこと?」

「十桁ずつ打ち込んで、段階ごとに暗号を解かなければならないかしら……」

 

 暗号の解除の仕方は判明した。しかし、問題はその先である。

 第一段階と出たのだ。果たしてこれが、何段階用意されているのやら。

 

「どうすんだよ、俺さっぱりわかんねーぞ!」

「そんなの誰もルークに期待してないと思うけど、私も十桁が精々かな。イオン様は?」

「次の十桁はわかるのですが、その先が……」

 

 ともかく足掻いてみようと、イオンの呟く数字を制御盤に打ち込んでいく。

 羅列は「8979323846」と表示された。数字の羅列が消える頃、明滅した文字は。

 

「第二段階、解除、ですか」

「この先が問題ですわね。スィン、次は……」

 

 ナタリアの言う数字を機械的に打ち込み、羅列は「2643383279」と並んだ。こちらも問題なく消え、解除が表示される。

 

「第三段階。まだ完全には解けないか?」

「その気配がありませんね。次、誰か覚えてる?」

「ええと、確か……」

 

 思い出すかのようなティアの並べる数字が、虚空に表示されていく。

 羅列は「502884197」あとひとつ数字が足りない。

 

「じゃあ、適当に打ち込んでみるね。間違えたらどうなるかも知りたいし」

「ちょ、ちょっと待て。間違えた瞬間、ドッカーン……てことにはならないよな?」

「なるかもしれないし、ならないかもしれない。そんな仕掛けは見当たらないし、隠されていたとしてもまず一番に犠牲になるの僕だろうから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 

 自分に何かあったら全力で逃げるように、と言い残し、スィンは思い切りよく残りの数字を打ち込んだ。

 適当に選択したらしいその数字は──

 

「5028841970」

 

 数字の羅列は消える気配がなく、すわ間違えたかと誰もが思ったその時。

 羅列はそのままで、これまでにない種類の文字が浮かび上がった。

 

「不可」

 

 数字の羅列はそのまま、その文言だけが一瞬明滅し、次の瞬間には文字も数字も消えてしまう。間違えたところでペナルティがないことに安堵しつつ、「5028841971」数字を打ち込んだ。

 こちらは正解だったらしく、打ち込んだ数字は溶けるように消えていく。

 

「第四段階解除、やったね☆」

「次で最後だと思いたいところですね。これで私も打ち止めです」

 

 ローレライの音素振動数など、一般人はまず知らない。

 士官学校や教養を得る上で預言関連を学ぶ際にその存在は語られても、振動数まで教わる者はあまりいないだろう。必然的にそれを知るのは、学者や研究者といった類の人間になる。

 それでも、無限大の数字とされるかの振動数を記憶しておくのは至難の業だった。

 

「大佐、五十桁も覚えてるんですか?」

「研究者であったときに少しね」

 

 研究者だったとき。バルフォア博士だった時? 

 出そうになった声をどうにか呑みこんで、ちらりと後ろを見やる。

 何をどうすればそんなに覚えられるのかとルークに質問されている彼が、スィンの不審な態度に気づいた形跡はない。

 たった一言で乱れてしまった心を落ち着かせ、ジェイドが並べる数字を無言で打ち込んでいく。

 羅列は「6939937510」さて暗号は解除されるのか。

 

「第五段階解除……」

「スィン。暗号は?」

「変化なし。少なくとも、解除された形跡はありません」

 

 ここでスィンは、初めて制御盤から手を離して振り向いた。

 誰もが覚えていないことを確かめて、再び制御盤に向き直る。

 

「じゃあ僕、覚えている限り続けてみます。ちょっと、話しかけないでくださいね」

「え?」

 

 他者の言葉に耳を貸さず、スィンは目蓋を閉ざして在りし日の思い出を探っていた。

 幼い頃、『絶対負けたくない』競い相手だった(ヴァン)と共に紡いだ記憶──

 

「5820974944」

「第六段階解除」

「ほう……」

「5923078164」

「第七段階解除」

「え、すごっ!」

「0628620899」

「第八段階解除」

「まあ……!」

「8628034825」

「第九段階解除」

 

 ──♪──

 

「ん? 鼻歌?」

 

 怒涛の勢いで、暗号が次々と解除されていく。それに伴ってほんのかすかな音色だったそれは次第に音量が上がっていった。

 普段、およそ歌とは縁のない彼女が鼻歌を奏でながら制御盤を操り、暗号を解いている。

 次で十段階に到達する暗号を目前に、衰えぬ速さで数字は表示された。

 

「3421170679」

「第十段階解除」

 

 そろそろこの辺りで全解除できてほしい。

 固唾を呑んで見守る一同だったが、たった一人、思わず声をかけてしまった人がいた。

 一同において一番、スィンの気を引く人間が。

 

「スィン、どうだ?」

「ガイ、話しかけては……!」

 

 鼻歌が、ぴたりと停止する。

 伴って虚空に打ち込まれた数字「82148086」が十桁に満たないまま停止し、やがて「不可」の文字が浮かんで数字も消えてしまった。

 振り返ったスィンは申し訳なさそうに小さく項垂れている。

 

「ごめんなさい。今ので全部、とんじゃいました」

 

 それが集中が解かれたせいだというのは明白で。

 誰彼構わず頭を下げて回るガイを視界から外して、ジェイドはぼそりと呟いた。

 

「ガイの口は塞いでおくべきでしたね」

「あと何桁、覚えているんですの? どうにか続きを」

「どこの桁から思い出すとかは無理で、初めからでないと出てきません。それにはこれ全部なかったことにしないとならないのですが、その方法がわからなくて」

「あの鼻歌は、なんか関係してるのか?」

 

 鼻歌のことをルークに尋ねられ、彼女は僅かに顔を赤くしながら事実を告げている。

 特定の旋律から連想する形で通常覚えきれない量の単純な音を刷り込む記憶術。

 この方法で覚えていられるのは数字や一音で単語などは覚えられないが、一番単純な記憶術として習ったものだった。

 

「つまり、旋律を奏でることで数字を思い出していたのね」

「あともうちょっとだったかもしれないのにぃ、ガイったらもー……スィンもなんか言ってやんなよ」

「無意識で無視できませんでした。すみません」

 

 そうじゃないと言い募るアニスを手で制して、軽く眼鏡の位置を整えたジェイドがスィンを見やる。

 その視線は、何故か疑念に満ちていた。

 

「初めから思い出さないと、と言う割には五十桁過ぎた辺りから打ち込めていたのは」

「五十桁までは知識として覚えているんですが、その先がちょっと……」

「全部で何桁覚えているかは、把握していますか?」

「わからないです。数えたこともありませんし」

 

 何を疑っているのかと勘ぐるも、それらしい推測がスィンの中からは出てこない。

 諦めて本人に尋ねると、予想もしない返答がされた。

 

「それはユリアの記憶ではないのかと「凡人はね、競いがいのある相手、肩を並べる相手がいると、わりかし伸びるもんなんですよ。大佐はご存知なさそうですけど」

 

 天才にはわかんないですよね、と締めくくる。

 不愉快なジェイドの言葉を黙らせるに至ったことは重畳だったが、これで暗号を正面から解除するという選択はできない。

 どうしたものかと沈黙する空気の中で、ルークがわずかな躊躇を振り払うかのように提案した。

 

「……俺が超振動で、暗号とか弁とか消したらどうだ? 超振動も第七音素(セブンスフォニム)だろ」

「……暗号だけ消せるなら、なんとかなるかもしれません」

 

 自分の見解を述べ、ジェイドはスィンの意見を待っている。

 彼女はひどく不安そうな、難しそうな顔をしていた。

 

「ルーク! あなたまだ制御が……!」

「訓練はずっとしてる! それにここで失敗しても、何もしないのと結果は同じだ」

「……そうね。その通りだわ」

 

 スィンが黙している間にも、彼は心配するティアを説き伏せてスィンの返事を待っている。

 不意に左右の色が違う瞳が引き締まったかと思うと、彼女はルークを見据えた。

 

「……あのさ。アクゼリュスを消滅させたときのことは、覚えてる?」

 

 何故今になってそんな話をするのか。

 仲間たちの非難の視線を無視し、アクゼリュスと聞いて体を震わせたルークの反応を待つ。

 彼はやがて、ゆっくりと頷いた。

 

「ヴァンの指示で超振動を使ったんだよね? そのとき、何か言われた?」

「スィン」

 

 その場に立ち会っていたイオンが、ルークにそれを思い出させるのは忍びないと彼女を招き寄せる。

 耳元に囁かれたイオンの言葉を聞き、スィンの顔から血の気が引いた。

 

第七音素(セブンスフォニム)を使ったとき、ヴァンの声が幻聴みたいな感じで頭の中に響いた。ルーク生存を知ってから僕たちがここへ来るのを見越して、僕たちの全滅を誘うつもりだったみたいだ」

「ヴァンの声というのは、ルークに超振動使用を促した、あの……?」

 

 戦慄の走るイオンの声に、スィンが無言で肯定する。

 あぶないところだった。安易にやらせたら、今頃は……

 

「けど! それじゃどうしろっての!? 暗号解けない、暗号消せない、打つ手なしじゃん!」

「──ルークにかけられた暗示を解けばいい。だけど……」

 

 非常に危険だった。下手をすれば、この場に在るすべてが消滅する。

 そうなったら、世界の存続をアッシュ一人に押し付けることになるのだ。

 あの青年にこれ以上余計なやっかいを回すのは心苦しい。そして、やるならガイだけでも避難してからにしてほしいと、口には出さないが思う。

 

「解く、って言ったって、実際どうすればいいのか僕は知らない。強制的な超振動使用を招いて、それをルークが自分でどうにかしてもらう──暗示がかけられている状態で第七音素(セブンスフォニム)の制御を可能とし、暗示を自力で克服してもらうしか、思いつかない」

 

 なんて無責任なんだろう。スィンは腹の底で己を嘲笑った。

 ユリアの生まれ変わりかもしれない、なんてご大層な肩書きでありながら、その子孫に阻まれてロクに自作であろう音機関も操れない。

 その上警告を促すだけ促しておきながら、最終的には人任せ。自分はそれを補佐するだけ。

 命はかかっているが、それは皆も同じことだ。特別なリスクがかかっているわけではない。

 ならば、せめて出来るだけのことはしたい。自己満足と言われてもいい、どうせ人間は身勝手な生き物だ。

 そんな、誰が聞いても気分が悪くなるような内心は内に秘め、どうするよ? とルークに問う。

 

「……やる」

 

 長い逡巡を経て、彼は応と返した。

 

「わかった」

 

 パッセージリングから少し離れた位置まで歩くと、定められた位置に譜を呟きながら、床へ棒手裏剣を突き立てる。

 

「それは?」

第七音素(セブンスフォニム)が周囲に影響を及ぼさないよう、ルークに新しい暗示がかからないよう、防音付き結界。簡単な奴だけど、無いよりはマシなはずです」

 

 描かれた陣が完成し、六芒星の形が輝きを発したところで。手招きに応じたルークと向かい合わせになった。

 

「それじゃ、いくよ」

 

 正面から、スィンの両手が肩に乗る。

 彼の瞳を覗き込むように見つめながら、スィンはしばらく聞いていない、懐かしい声を口にした。

 

『愚かなレプリカルーク! 力を、解放するのだ!』

「がっ……ぐっ、うわあぁっ!!」

 

 ルークの全身のフォンスロットが開き、アクゼリュスの地上でも感じ取れた強大な力の奔流がスィンの存在を揺るがせる。

 

「っ……」

「く、そぉっ! この……!」

 

 訓練時とはまるで違う、暴れ馬のような第七音素(セブンスフォニム)を、彼は必死になって制御しているようだった。

 同時に、スィンの体にもひどい圧力がかかる。

 ルークの第七音素(セブンスフォニム)が結界の外に洩れないように、超振動の余波を浴びながら集中し続けなければならない。

 結界の外から、蚊帳の外に置かれていた彼らが何かを言っている。が、新たな暗示がルークの意識に刷り込まれないよう、結界は防音措置を施してあるため、スィンさえ声を出さなければこの中は完全な無音地帯だった。

 ルークの声は、別物である。

 

「ぐ、ううっ……があああっ!」

 

 暴れ狂う音素(フォニム)を前に混乱していないのはいいことなのだが、それはやはり絶対条件なのだ。

 気を抜けば分解されそうな自分をどうにか保ちつつ、ルークの肩に置いた手を滑らせ、その手で彼の両手を握り締める。

 渾身の力を込めた甲斐あって、彼ははっとスィンの顔を見た。

 しっかりと彼の目を見据え、唇を歪めてみせる。これが、スィンにできる精一杯の激励だった。ここでにっこり微笑んでやればどんなにいいことか。

それでも彼は、スィンの気持ちを汲み取ってくれたようである。

 眉間に皴を寄せながら、深呼吸を繰り返し、発生した超振動を一点へ集中させようとしている。

 そっと彼の手を外すと、好き勝手に暴れていた第七音素(セブンスフォニム)は嘘のように静けさを取り戻した。

 ルークが、制御に成功したのだ。

 はちきれそうになっていた意識を鎮め、集中を解いて結界を消す。ぐらり、と揺れた視界が、そのまま塗り潰された。

 

「スィン! ルーク!」

 

 スィンを抱きとめたルークに、一同が駆け寄る。

 ガイが心配そうにスィンの顔を覗き込み……ほうっ、と息を吐き出した。

 

「寝てやがる……」

「超振動の余波を浴び続けて体力を消耗した、といったところでしょうか。ルーク、お疲れのところ申し訳ありませんが、お願いします」

 

 ルークからスィンを受け取り、器用に背中へ負ったジェイドが、彼女に代わって彼へ指示をする。

 

「第三セフィロトを示す図の、一番外側が赤く光っているでしょう。その赤い部分だけを削除してください」

「わかった」

 

 荒れ狂う第七音素(セブンスフォニム)を鎮めたときと同じように上空へ手をかざした。

 くっ、とルークの目が苦しげに細められる。

 

「どうした、ルーク?」

「……ヴァン師匠(せんせい)の、声がする」

 

 ガイの言葉に呻くように返し、スィンがいなかったらどうなっていたことか──そんなことはわかりきっている、あの惨劇の繰り返しだ──ルークは恐怖と安堵を同時に味わっていた。

 未だ頭の中で反響する師匠の冷たい声を意識の外へ追いやり、彼は超振動の制御に集中する。

 手のひらの先で震える圧縮された超振動はルークの意思どおり、ジェイドの指す部分を削り取っていった。

 全ての箇所を削り終えたそのとき。

 パッセージリングを包むかのように、くりぬかれた床から緩やかな光が噴き出し、ジェイドが緊張から詰まらせていた息を吐く。

 

「……起動したようです。セフィロトから陸を浮かせるための記憶粒子(セルパーティクル)が発生しました」

「それじゃあ、セントビナーはマントルに沈まないんですね!」

「……やった! やったぜ!!」

 

 二人の声を受け、ルークは飛び上がるように全身で歓喜を表現したのちにティアへ抱きついた。やりおった、と思いつつ頬を赤らめるティアの表情をこっそり盗み見る。

 一行がその光景をまじまじと眼にする前にルークは抱擁を解き、ティアの両手を掴んで上下に振った。

 

「ティア、ありがとう!」

「わ、私、何もしてないわ。起動させたのはスィンだし、パッセージリングを操作したのはあなたよ」

 

 困惑気味にティアは言うが、ルークは欠片も気にしていない。

 

「そんなことねーよ。ティアがいなけりゃ、俺はそもそも第七音素(セブンスフォニム)の操り方もわからなかった。それに、みんなも……! みんなが手伝ってくれたから。みんな……本当にありがとな!」

 

 あまりのはしゃぎように、ナタリアは軽く引きながらも感想を呟いた。

 

「何だか、ルークじゃないみたいですわね」

「いいんじゃないの。こーゆー方が少しは可愛げがあるしね」

 

 楽しげな彼の弁に、ナタリアは寂しそうにぽつりと零している。

 

「あなたはルーク派ですものね」

「別に違うけどね。ナタリアだって、アッシュ派って訳でもないんだろ」

「……わたくしには、どちらも選べませんもの」

 

 それにはスィンも同意見だった。もとより二人は違うのだ。選ぶ選ばないの問題でもない気がするが、彼女だけは唯一例外である。

 

「……ところで、スィン。平気なんですか?」

 

 スィンの覚醒を知ったジェイドがそれを囁いた。流れるような動作でジェイドの背中から降り立つ。

 安否を尋ねる面々に笑顔で応対し、ジロリとジェイドを見やった。

 

「せっかく克服できそうな感じだったのに、思い出させないでください」

「それは失礼」

 

 言葉短く返され、スィンは率直に戸惑った。

 てっきり重いとか年寄りに無理をさせるなとか、そんな嫌味が返ってくるかと思ったら、この淡白さ。

 が、それをいぶかしむのは早計というものだった。

 

「ああ、それにしても腰にきますねえ。風呂上がりに揉んでくれると助かるのですが」

「……珍しく大人しいと思ったら……」

 

 セクハラ反対を叫ぶスィンに、恩知らずを隠喩するジェイド。

 二人の嫌味合戦を制したのは、珍しく騒動に加わらず興味深そうに上空を眺めていたアニスの言葉だった。

 

「あーっ! 待って下さい。まだ喜んでちゃだめですよう! あの文章を見て下さい!」

 

 彼女の言葉に従い、上空を見る。「あ」というスィンの呟きののちに、ガイが垂直の崖を登りきった後で更なる壁の存在を知ったような、そんな声音で言った。

 

「……おい。ここのセフィロトはルグニカ平野のほぼ全域を支えてるって書いてあるぞ。ってことは、エンゲーブも崩落するんじゃないか!?」

「ですよねーっ!? エンゲーブ、マジヤバな感じですよね!?」

 

 アニスが頭を抱えてくるくる上半身を回している。

 いまいち緊迫感はないが、彼女にそれを求めても仕方がない。

 

「大変ですわ! 外殻へ戻って、エンゲーブの皆さんを避難させましょう!」

 

 ナタリアの言葉に一同が頷き、出口へ赴いた。

 その前に、ルークがふと体をすくませたティアの容態を気にしている。

 

「……ティア。どうかしたか?」

「少し疲れたみたい……。でも平気よ」

「……」

 

 今後彼女をパッセージリングへ近寄らせるのは避けよう。

 起動時に起こった体への異常を把握しているスィンは、それを胸に誓った。

 

「なあ、思ったんだけどアルビオールの力だけで上へあがれるのか?」

「タルタロスと同じ要領でセフィロトの力を利用すれば、できると思います」

 

 アルビオールは飛行機関だ。機体は軽量化されているし、浮遊機関の恩恵もある。自力では無理でも、陸艦であるタルタロスすら打ち上げてしまったセフィロトの力なら、造作もないだろう。

 

「そうだな。セフィロトはユリアシティの北東にある。行ってみればすぐにわかるはずだ」

「ユリアシティの北東だな。わかった、行ってみよう」

 

 急がば回れ、という言葉がある。

 急いでいるときこそ補給は大切だというスィンと、セントビナーは無事だと住民に報告してやりたいというイオンの希望でユリアシティに一時寄り、一行は再び外殻へ浮上した。

 

 

 

 

 




ハナウタによる記憶術ですが、多分存在しません。あくまで多分。
存在することより、存在しないことを証明するのは至難の業なのです。


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第五十一唱——繰り返される愚行の歯止めは

 

 

 

 

 

 エンゲーブへ向かう最中。はるか下界に広がるその光景を目に焼きつけ、一行は言葉を失った。

 赤と青が入り乱れている。

 赤を基調とした陸艦がいくつもの砲台より音機関生まれの雷を大地へ放ち、青い軍勢を蹴散らせば、青を基調とした陸艦からは何人もの譜術士たちが譜陣を広げ、収束・拡大された譜術が応戦するように赤の軍勢へ襲いかかった。

 残ったふたつの色たちはやがて激突し、相容れることなく錯綜している。

 赤い陸艦と青い陸艦が接触したかと思うと、どちらからともなく爆発し、炎上した。黒煙は戦場から逃れるように上空を舞い飛び、アルビオールをあぶるかのようにわだかまる。

 

「どうして……! どうして戦いが始まっているのです!?」

 

 眼下に広がる惨劇を大きな瞳に映しながら、ナタリアは唇をかみ締めた。

 

「これは……まずい。下手をすると、両軍が全滅しますよ」

「……あ、そうか。ここってルグニカ平野だ。下にはもうセフィロトツリーがないから……」

 

 ジェイドの言葉に、アニスが眼下の大地がどこに値するのかを思い出す。

 呆然としたように、ティアが呟いた。

 

「これが……兄さんの狙いだったんだわ……」

「どういうことだ?」

 

 振りかぶったルークに、そして一行にティアが推測──限りなく事実に近いと考えられる──を上げ連ねる。

 

「兄は外殻の人間を消滅させようとしていたわ。預言(スコア)でルグニカ平野での戦争を知っていた兄なら……」

「シュレーの丘のツリーを無くし、戦場の両軍を崩落させる……確かに効率のいい殺し方です。時間軸から見て、私たちの行動も計算に入れていたようですね」

 

 両軍の虐殺、もはや邪魔でしかないルークたちの抹消。どこまでも推測でしかないが、実に合理的な作戦であったといえよう。

 ほんのわずかな狂いさえなければ、情報不足とはいえジェイドをも出し抜いていたところだ。

 

「冗談じゃねえっ! どんな理由があるのか知らねえけど、師匠(せんせい)のやっていることはむちゃくちゃだ!」

 

 と、ルークの後ろで戦場を見つめていたナタリアが、毅然とした態度で宣言した。

 

「戦場がここなら、キムラスカの本陣はカイツールですわね。わたくしが本陣へ行って、停戦させます!」

「エンゲーブも気になるわ。あそこは補給の重要拠点と考えられている筈。セントビナーを失った今、あの村はあまりに無防備だわ」

「崩落前に攻め滅ぼされるってこと? こわ……」

 

 冷静なティアの意見を聞き、アニスがブルッと身を震わせる。

 

「二手に分かれたらどうだろう。エンゲーブの様子を見る班と、カイツールで停戦を呼びかける班と」

 

 時間のロスを嫌ったルークの提案に、今回軸となるメンバーが自主的に目的地を決めた。

 

「……エンゲーブへは私が行くべきでしょうね。マルクト軍属の人間がいないと、話が進まないでしょう」

「わたくしはカイツールへ参りますわ」

 

 ジェイド、ナタリアは確定として、イオンは軽く思案してから特に希望を告げぬことに決めている。

 

「僕は、どちらでも構いません。ちょっと考えがあるもので」

「なら、他はくじで決めようか」

 

 羊皮紙の切れ端に赤と青の染料で端を染め、色のついた部分を隠してシャッフルし、ジェイドとナタリアを除いた各々が適当に羊皮紙を選ぶ。

 

 結果。

 赤……ルーク、ティア、イオン。

 青……ガイ、アニス、スィン。

 

「ちょ、ちょっと待った! ガイかスィンをイオン様とチェンジ! じゃなきゃ私がルークかティアとチェンジ!」

「じゃ、僕がカイツール組へ回るよ」

 

 イオンと羊皮紙の切れ端を交換し、スィンは内心胸を撫で下ろした。

 

「珍しいですね。あなたがガイとの別行動を率先するとは……」

「……ガイラルディア様、お気をつけて」

 

 ジェイドの言葉に内心冷や汗を流しながら、ガイの手にロケットを握らせる。その光景を目にして、アニスがあれ? と首を傾げた。

 

「ガイ……スィンは平気なの?」

 

 そう。今スィンはガイの手を恭しく取り、手のひらにロケットを乗せて文字通り握らせている。ガイは特に何の反応も示していない。

 アニスがそれを指摘した途端。

 二人はまるで磁石の両極に体質を変化させたかのように大きく飛び退った。

 

「お、思い出させないでくれっ!」

 

 ……どうやら女と認識しないことで誤魔化していたらしい。

 

「ガイ、本気で情けないですわよ。幼い頃から知り合うスィンにすらそんな風に反応して……」

 

 失礼だと思いませんの? と腰に手を当てて問うナタリアに、ガイは軽く首をすくめながらも弁解してみせた。

 

「だからこうやって治そうと努力してるんじゃないか」

「ですがそれでは、単に逃避しているだけだと思いますがねえ」

「そんなことありません。相手が女性だと認識し過ぎて過剰反応を起こしてしまうのかもしれないのですから、まずは無意識で接することが重要になります」

 

 ならまず、ルークの女装から初めたほうがいいかもしれませんねえ、と宣うジェイドにルークが猛抗議し、ガイがそれをなだめている。

 男衆のむさくるしいじゃれあいを巻き込まれないように生暖かい目で見守りつつ、ジェイドの疑念が晴らされた──かどうかはわからないが、とにかくエンゲーブへ行かずにすむことをスィンは安堵していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当初の予定通り、まずはカイツールにナタリア組が下ろされる。

 エンゲーブ方面に飛び去るアルビオールを見送った後、一行はカイツールの門をくぐった。折よく、顔見知りの将軍が一糸乱れぬ行進を披露する兵士たちを引率している。

 

「セシル将軍!」

 

 好機とばかりルークが声をかけると、彼女は一瞬表情を強張らせたが、すぐに何事もないような顔に戻って兵士団に指示した。

 

「おまえたちは先に行け!」

 

 その言葉を受け、兵士団は行進を再開する。傍へ駆けてきたセシルは、ルークの姿、そしてナタリアの姿を認めて瞳を見開いた。

 

「……これは、ルーク様! それに、ナタリア殿下も!? 生きておいででしたか!!」

「そうです。私たちは生きています。もはや戦う理由はありません。今すぐ兵を退かせなさい」

 

 最重要事項をナタリアが命ずるも、セシルは否を唱えている。

 

「お言葉ですが、私の一存ではできかねます。今作戦の総大将はアルマンダイン大将閣下ですので」

「なら、アルマンダイン伯爵に取り次いでくれ!」

 

 ルークの言葉にも、彼女は頷いてはくれなかった。

 

「それが……アルマンダイン大将は大詠師モースと会談なさるため、ケセドニアへ向かわれました」

「ケセドニア!? なんだって戦争中に、総大将が戦場を離れるんだよ」

「今作戦は大詠師モースより仇討ちとお認めいただき、大儀を得ます。そのための手続きです」

 

 口を尖らせるルークに、その理由をきびきびと答えるセシル。大儀、という言葉を聞いて、ティアが口を挟んだ。

 

「戦闘正当性証明は、導師イオンにしか行えない筈です。導師はこの開戦自体を否定しておられます」

 

 しかし、自分にそれを言われてもどうにかできることではない、と言いたげに、セシルは首を振って彼らの要求を退けている。

 

「教団の手続きについては、我が軍の関知するところではありません。とにかく、アルマンダイン大将が戻られなければ、停戦について言及することはできかねます」

「そんな……! いずれは戦場も崩落しますのよ!」

 

 万策尽きたことを知り、顔色を悪くしているナタリアから発せられた言葉を聞き、セシルは鸚鵡返しに尋ねた。

 

「崩落?」

「アクゼリュスみたいに、消滅するってことだよ!」

 

 ルークはそれを言うが、それで「パッセージリングに不具合が生じたのですか!?」という質問がされるわけもなく。

 

「マルクト軍がそのような兵器を持ちだしているということですか?」

「違いますわ! 違いますけど、とにかく危険なのです」

 

 セシルは妥当な意見を取り出すが、そんな兵器があるのだとしたら、おそらく最初の衝突で使用されている。

 そしてナタリアの曖昧な説明で納得してもらえるわけもなかった。

 

「よくわかりませんが、残念ながら私に兵を退かせる権限はありません」

「だったら、アルマンダイン伯爵に聞きに行こう。前みたいに、カイツールからケセドニアへ船を出してもらってさ」

 

 セシルの説得は不可能だと判断したルークが善後策を持ち出すも、それはナタリアに、そしてセシルにも却下されている。

 

「駄目ですわ、ルーク。我が国のケセドニア港はバチカル湾側に作られていますのよ。あの時は停戦状態だったからこそ、マルクト側の港を利用できたのですわ」

「殿下の仰る通りです。本来のカイツール・ケセドニア間航路はアルバート海を通る東回りですから。それに、戦時下の海路は危険です。殿下を船にお乗せする訳には参りません」

 

 そこへ、がしゃがしゃと音を立てて斧槍(ハルバード)を背負った一人のキムラスカ兵が駆け寄ってきた。

 

「セシル少将。準備完了しました」

「わかった」

 

 キムラスカ式の敬礼を取り、兵士が去っていく。

 それを見送ってから、セシルは再び一行と向き直った。

 

「兵を待たせておりますので、これにて御前を失礼致します。殿下のことはカイツール港に伝令致しますので、迎えをお待ちください。それでは」

 

 一方的にそう言い残し、せかせかとセシルが去る。

 これ以上の問答は無駄だと、彼女を引き止めるようなことはせず、一同は頭をつき合わせてこれからのことを相談した。

 

「カイツールに連れて行かれたら、何もできなくなりますわ」

「となると……ケセドニアへ行くには陸路ルートしか残りませんが」

 

 行かれますか? というスィンの提案に、ティアが懸念を見せる。

 

「危険だわ。戦場を横切ることになるのよ」

 

 しかし、ナタリアはそれでも、と粘った。

 

「アルマンダイン伯爵には会えますわ。わたくしたちが生きていることを知れば、この戦争に意味がないこともわかって下さる筈」

「ナタリアが行くんなら、俺はナタリアを護るだけだ」

 

 そう一筋縄で行くとも限らないのだが、とりあえずカイツールに行くという案は満場一致で却下である。

 ティアは軽く息をついて、了承した。

 

「……仕方ないわね。無茶はしないで、慎重に行きましょう」

「ごめんなさい。よろしくお願いしますわ」

「よし、行こう」

 

 セシル少将の目につかぬよう、四人はひっそりとカイツールを後にした。

 見通しのいい平原で、血に狂わされ平静を失っている兵士との衝突を避けるのは困難を極めた。大概はティアの譜歌で戦闘不能に陥らせるも、そのあとで彼らを説得するような時間もなく。

 一行は野営を重ね、ケセドニアを目指す。

 その最中で両国の将軍が出会いを果たすが、彼らは一行の仲裁を受けてどうにか衝突を免れた。

 ここで二人が共倒れになれば、両軍が混乱させその機能を麻痺させることができたかもしれないが、ティアはともかくとして王族二人がそれを許すとは到底思えない。

 かくして、一行は──彼らだけは、無駄な血を流さずにケセドニア入りを果たした。

 

 

 

 

 



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第五十二唱——果たして可能なことなのか

 

 

 

 

 アルビオールが、エンゲーブの郊外へ着陸する。

 住民及び軍を刺激しないように、とのジェイドの指示だったが、それでもマルクトの駐留軍は見たこともない音機関を見過ごすようなことはしなかった。

 軍にはジェイドが話を通し、一行は彼の後について比較的大きく立派な家の門扉をくぐる。

 ジェイドたちの到着を聞いていたローズ夫人は、挨拶もそこそこに本題を切り出した。

 

「大佐! 戦線が北上するって噂は本当ですか」

「そうたやすく突破されはしないと思いますが、この村が極めて危険な状態なのは確かです」

 

 戦線の北上は初耳であるはずだが、ジェイドは駐留軍から聞いているのか、それとも持ち前のポーカーフェイスを駆使してか、実にさらりと流している。

 余計なことを話さず、相手を混乱させないことも忘れていない。

 

「どうしたもんでしょうか。グランコクマに避難したくても、もう首都防衛作戦に入っているらしくて……」

「ええ。グランコクマに入ることは不可能です。あの街は戦時下に要塞となりますから。そもそもこの大陸は危険です。いっそケセドニアまで避難したいところですね」

 

 二人の話に、残りの面々も同意を示した。

 

「キムラスカに近い分、逆に安全かもしれないな」

「あそこは自由商人さんたちの街ですからぁ、安心ですよね」

「ええ。アスターなら受け入れてくれるでしょう」

 

 良案であることだけは間違いない。しかし、困難はいくらでも発生する。

 

「……とはいえこの街の全員をアルビオールに乗せるのは無理ですね。かといって徒歩で戦場を移動するのも危険でしょうし」

「年寄りと子供だけでも、そのアルなんとかで運んでもらえませんか。残りはここに残ってキムラスカ軍に投降して……」

 

 普段から村をとりまとめているだけあって、彼女の判断は適切にして合理的であった。

 このような事態でなければ、ジェイドは許可していたかもしれない。しかし。

 

「いえ、それでは崩落の危険がありますので」

「崩落って……ここがセントビナーやアクゼリュスみたいに消えるってことですか!」

 

 アクゼリュスはともかく、彼の都市がすぐ近くにあるということだけあって、夫人は頬を蒼白とさせた。

 

「残念ですがその通りです」

「……なら徒歩でケセドニアへ逃げますよ。幸い、橋も直りましたし」

 

 グランコクマへ向かう際、放置されていたように見えた橋だったが、それでもどうにか直ったらしい。

 ならば、とジェイドが提案した。

 

「では、こうしましょう。アルビオールはノエルに任せて、私たちは徒歩組を護衛します。これからエンゲーブの駐留軍に話をつけてきます」

 

 ローズ夫人の承諾を得、ジェイドだけが扉へ向かう。

 

「せめて我々の後方を一個小隊が護ってくれれば……」

 

 彼の独り言は、この先の事態を憂えているようにも、それが叶わなかった場合の想定もその脳裏で展開されているように思えた。

 

 

 セントビナーのときと同じく、村ひとつの移動はマルクト軍の護衛があったとはいえ、易々と事を運べなかった。

 なにしろ、住民の数が数である。お世辞にも戦闘、道行の点においてカバーしきれたとは言いがたい。

 途中、タルタロスで失った命の家族と言葉を交わし、いろんな意味でサプライズを受けながらも、ジェイド一行は住民を一人たりとも欠かさずにケセドニア入りを果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キムラスカ側の陣営へ赴くべく、まずは国境線を目指していた矢先。

 ルークは砂塵の向こうより現れた一団を見つけて思わず呟いた。

 

「あれは!」

 

 駆け寄るルークの後を追えば、そこにはルークたち同様、消耗の激しいジェイドたちの姿がある。その中にガイの健勝な姿を見つけ、スィンはほうっ、と息を吐いた。

 

「ルーク! 何故ここに? 停戦はどうなったのですか?」

「総大将のアルマンダイン伯爵が、モースと会談するってここに来てるらしいんだ。それで。追いかけてきたんだけど……」

 

 ジェイドの言葉に、ルークが今から陣営へ向かうところだ、と説明する。

 

「それで戦場を抜けてきたのですか? 危険な選択をしましたね」

「そっちこそ、てっきりグランコクマへ逃げてると……」

「グランコクマは要塞都市です。開戦と同時に外部からの侵入はできなくなりました」

「それでケセドニアへ……」

「ところで、アルマンダイン伯爵との話は?」

「これからだ」

「急ぎましょう」

 

 ティアが先を促したものの、ジェイドはわずかに首を振ってじろり、と視線を動かした。

 

「誠に申し訳ありませんが、ひとつだけ。用件はわかっていますね、スィン?」

 

 いやに嘘臭い笑みを浮かべるジェイドに、スィンはわずかに抵抗して見せた。

 

「……なんのことだかさっぱりですね」

「何かあったのか?」

「実は、何名かの住民に礼を言われたのです。私たちの連れのお陰で命が、あるいは家族が助かったと」

「……?」

 

 エンゲーブの住民を守って移動してきたなら、そう言われて当たり前だろう。

 首をかしげるナタリア組に、アニスは疑惑の目をスィンに向けたまま、ぽつりと呟いた。

 

「……アクゼリュスで会った人たちに、だよ?」

「!!」

 

 その言葉に、スィン以外のナタリア組も彼女を凝視する。

 

「──そのことと、僕と何の関係があると?」

「この期に及んでしらばっくれるのはやめてください、時間の無駄です。ナタリア王女の供を名乗る雪色の長髪に色違いの目を持つ女性に言われ、事情が飲み込めないまま、いつの間にかケセドニアへ移動していたと、パイロープ氏に聞きました」

 

 一行の目を盗み、内緒で詠んだ預言(スコア)は、確かに彼の出身に的を射ていた。

 衝撃の事実を聞かされ困惑する一行を尻目に、スィンはほうっ、と息を吐いている。

 

「ということは……転送、なんとか成功していたみたいですね」

「どういうことだ?」

 

 主の問いに対し、彼女は珍しく視線をそらして回答した。

 

「アクゼリュスで皆が坑道へ入っていった後、この姿に戻って地上に残されていた住民の避難、ケセドニアへの転送を試みました。坑道に残っていた方々、タルタロスを拿捕した兵士たちは別ですが」

「……ということは、あなたは知っていたんですね? アクゼリュスが崩落するということを、事前に」

「──はい」

 

 言葉少なに、認める。瞬間、当たり前だがルークの抗議が耳に突き刺さった。

 

「ならどうして止めてくれなかっ「それを説明して、当時のあなたが聞き入れるわけがないと思ったから」

 

 ルークの目を見て、きっぱりと言い切る。

 ぐっ、と詰まった彼に、見苦しいとは思いつつも言い訳を並べ立てた。

 

「どうせあなたが……ヴァンがルークをそそのかして崩落を導かなくても、アクゼリュスはパッセージリングの耐用年数を過ぎて崩れ去る運命にあった。崩落をもう防げないとわかっていたから、超振動発生時による第七音素(セブンスフォニム)の余波を使って住民の移動を優先したかった! 誰にも話さなかったのは、違う立場なら自分でも信じられないようなことを信じてもらう確証も、自信も……それに」

 

 土壇場でもいい、どうにか思いとどまってくれないかと、ヴァンに一縷の望みをかけ、祈っていたから。

 それを口にしようとして、どうにか踏みとどまった。ぶるるっ、と頭を振って気持ちを切り替える。

 

「それ、に?」

「……なんでもない。話さなかった理由はそれだけ。結局僕も、モースと同様預言(スコア)を優先させただけってこと!」

 

 そこに個人のどんな思いがあろうと、起こった出来事は純然たる事実。

 とどのつまりスィンは、ヴァンやキムラスカの王、そして大詠師モース同様事実を知っていて、多くの命を見殺しにしたのだ。

 助けられたかもしれないのに、助ける暇は十分あったはずなのに、その可能性を棄てて、より確実な方法を取った。

 

「スィン……」

「……軽蔑するなら勝手にしてください。謝ることなんてないし、悪いことしたなんて……お、思ってませんから」

「落ち着けよ。誰もそんなこと言ってない」

 

 今にも零れ落ちそうな涙を目元に宿し、自分は悪くないとだけは言いたくなかったのか。震える声でほぼ棒読みの言い訳を並べ連ねる従者を、ガイは苦笑を浮かべてなだめた。

 

「だって!」

「言いたいことはわかるよ。止められないから、せめてどうにかしたいと、自分のできるだけのことをやったんだろ? 話してくれなかったのは、そりゃ……思うこともあるけどさ」

 

 魔界(クリフォト)のことを例に挙げてみる。

 実際に魔界(クリフォト)を目にしても、ティアの説明を受けても、あれはなかなか信じられることではなかった。それだけは、全員が共通して認められることだ。

 魔界(クリフォト)の存在ですら御伽噺程度にしか知らなかった面々にこの話をしたところで、スィンの頭がどうかしてしまったと思うほうが自然だった。

 

「……そうね。私もそう思っていたから、不思議がるルークに兄さんを討とうとした理由を話さなかった。少なくとも、私にあなたを責めることはできないわ」

「要するに、ルークのポカをスィンがこっそりカバーしてたってことでしょ? ちょっと規模が大きかったけど、結果は良かったんだからそれでいいじゃん!」

 

 ティアが納得の意を示し、アニスが終わりよければ全て良し、系のアグレッシブな感想を言う。

 

「そうですねえ……坑道に残されていた方々も、たとえ助かろうと重度の障害が残っていたことは確実でした。それを鑑みると地上の方々だけでも助けられたことは随分大きいと思いますよ。最も、それであなたの意識する罪が消えるわけでもありませんが」

「でも、あなたのおかげで預言(スコア)の犠牲にならずにすんだ命があるのでしょう? 少なからず、それは誇っていいことだと思いますわ」

 

 ──厳密に言えば、スィンは助けられなかったことだけを悔やんでいるわけではない。

 だが、口にすらしないところを見ると、彼らはガイの意見に納得してしまっているらしい。

 あえて確認することは避けた。それが蛇足だということは、なんとなくわかってしまったから。

 

「なんていえばいいのか、よくわからないけど……ありがとう。こう言われるのはお前にとって不本意かもしれないけど……俺のミス、またカバーさせちまってゴメンな」

 

 申し訳なさそうな、それでいてはにかむようなルークの顔をどうしても直視できず、うつむいた。瞬いた際の涙が一粒となって零れ落ち、乾いた大地へたちまち浸透する。

 

「さて、納得できたところでそろそろ行きましょうか。できれば一息入れたいところですが、伯爵に戦場へ戻られると厄介です」

 

 顔を上げたスィンが軽く頷いたのを見て取って、ジェイドはぽふり、と手を打った。

 話題を変えるように、「しかしまー」とガイが呟く。

 

「考えてみれば俺、お前の泣き顔見たの初めてだな。思ってた以上に……」

「な、なんです? 人間の顔なんですから、ぶさいくになるのは必然です!」

 

 まるで涙を零したことを今思い出したように、スィンは顔を手で覆った。だからいちいち言わないで、と言いたげな彼女に首を振る。

 

「や、そうじゃなくて。か「とう!」

 

 それ以上何も言わせるものかと、スィンは意図的にガイの胸の中に飛び込んだ。

 そして情けない悲鳴を待ち、飛び退る準備をする、が……いつまでも拒絶反応は見受けられない。

 

「……ガイラルディア様?」

 

 すっ、と上を向けば、ぱちぱちと瞬きを繰り返す彼の顔があった。

 

「……さ、触れる……?」

「本当ですか!?」

 

 失礼、と呟いてからぺたぺたと彼の頭を、頬を、手を触るも、ガイは悲鳴も、発汗も、痙攣すらも起こさない。

 おそるおそる、といった調子でガイの手が伸び、スィンの髪を、頬を、体に手を回す。呆然としたように、彼は呟いた。

 

「治った……!?」

「お、おめでとうございます、ガイラルディア様!」

 

 なぜ治ったのか、それを不思議がる前にスィンは喜色満面の笑みを浮かばせていた。

 当人はどうしていきなり、といった様子であったものの、スィンに両手を取られたのを知って確認するようにぎゅ、と握り返す。

 

「あ、ああ。ありがとう。でもなんで……」

「ガーイ♪ おっめでと……「うわあああっ!」

 

 ところがなぜか、アニスが彼の背中をぽんっ、と叩いた瞬間。

 彼は実に情けない悲鳴を上げ、思いっきり飛び退った。

 

「……アレ?」

「ガイラルディア様?」

 

 スィンを腕に閉じ込めたまま、アニスを怖がった、ということは。

 

「……どうも彼は、スィンだけにしか克服できてないようですね。それで、二人ともいつまでひっついているつもりです?」

 

 暑苦しい、と眼鏡の位置を直したジェイドの言葉を受け、二人ははっとしたように互いに回していた腕を解いた。

 

「失礼いたしました。でも、僕を克服できたってことは俄然望みが出てきたじゃないですか! やっぱり日頃の訓練が効いたんですよ、次はアニスあたりに協力を取り付けて、いつかお嫁さんをその腕に抱きましょう!」

 

 拳を握りしめて力説するスィンに、微妙な笑みに淡い汗を浮かべるだけで肯定も否定もしないガイ。

 

「良かったですね、スィン? ご主人様の病気が快方に向かう兆候が見られて」

「はい!」

 

 ジェイドの嫌味を満面の笑みでスルーしたスィンは、彼の眉間に浮かんだ皺に気づかず「話は変わりますがね」と囁いた。

 

「一応大佐だけでも、状況を把握しておいてほしいんですけど……」

 

 

 

 



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第五十三唱——突き出された相手の手札は、紛うことなき事実

 

 

 

 

 市場を通り過ぎ、右手にアスターの屋敷を望む国境線上にて。

 双方の兵士たちが即席の柵を挟んで睨み合う向こう側に、一行は目的の人物を見出した。

 

「アルマンダイン伯爵! これはどういうことです!」

 

 ナタリアの呼びかけを受け、キムラスカ側の兵士が敬礼をして道を空け、今まさにどこかへ向かおうとしていたアルマンダインの足が止まる。

 

「ナタリア殿下!?」

 

 彼女の名を口にした伯爵は、驚愕のあまり目を見開いていた。

 当然といえば、当然の反応である。

 

「わたくしが命を落としたのは誤報であると、マルクト皇帝ピオニー九世陛下から一報があった筈ですわ!」

「しかし、実際に殿下への拝謁が叶わず、陛下がマルクトの謀略であると……」

 

 しどろもどろと、言外に彼女の父親のせいにしているものの、成すべきことがはっきりしているナタリアに、それを責める思考はない。

 むしろ自分の責としている。

 

「わたくしが早くに城へ戻らなかったのは、わたくしの不徳の致すところ。しかし、こうしてまみえた今、もはやこの戦争に儀はない筈。直ちに休戦の準備にかかりなさい」

 

 アルマンダインの反応は鈍い。拍車をかけるように、ルークが前へ進み出た。

 

「アルマンダイン伯爵。ルークです」

「生きて……おられたのか……!」

 

 おそらく彼も、預言(スコア)の内容を知っていたのだろう。ナタリアの登場より遥かに驚いた、それはまるでありえないと言いたげに、そう呟いていた。

 ここで二人が言い募れば、押し切ることができるかもしれない。

 一行から少し離れ、冷静に状況を読み取っていたスィンは、ふとアルマンダインの後方にいる人物に目を留めた。

 ひねたカエル面に突き出た腹、その面に浮かぶは浅はかな笑み──大詠師モース。

 そういえば伯爵との会談がどうとか言っていた気がする。

 何をしでかすのだろうかと観察していると、彼はひっそりとスィンのいる方角を指し、何かを指示していた。

 

「アクゼリュスが消滅したのは俺──私が招いたことです。非難されるのはマルクトではなく、このルーク・フォン・ファブレただ一人!」

「此度の戦いが誤解から生じたものなら、一刻も早く正すべきではありませんか!」

「それに、戦場になっているルグニカ平野は、アクゼリュスと同じ崩落……消滅の危険があるんだ!」

「さあ、戦いはやめて今すぐ国境を開けなさい!」

 

 一方で、王族二人組による説得は終盤を迎えている。言い返すこともままならないアルマンダイン伯爵がその勢いに飲み込まれる直前。

 満を辞してといった形か、横に伸びすぎ、もとい恰幅のいい大詠師がずかずかと会話に割り込んだ。

 

「待たれよ、ご一同。偽の姫に臣下の礼を取る必要はありませんぞ」

「無礼者!」

 

 ナタリアは怒り心頭に発した、といった様子で鞭による一撃のような鋭い抗議を発している。

 

「いかなローレライ教団の大詠師と言えども、わたくしへの侮辱はキムラスカ・ランバルディア王国への侮辱となろうぞ!」

「私はかねてより、敬虔な信者から悲痛な懺悔を受けていた。曰くその男は、王妃のお側役と自分の間に生まれた女児を、恐れ多くも王女殿下とすり替えたというのだ」

 

 ナタリアの怒りを受け流し、モースはどこか哀れみすら含んだ声音で朗々と告げた。

 スィンの周囲に集まってきた野次馬が、どよどよと何事かを言っている。

 

「でたらめを言うな!」

「でたらめではない。では、あの者の髪と目の色をなんとする」

 

 モースはルークの否定を退け、無遠慮にナタリアを指差した。

 

「いにしえより、ランバルディア王家に連なる者は赤い髪と緑の瞳であった。しかし、あの者の髪は金色。亡き王妃様は夜のような黒髪でございましたな」

 

 野次馬のどよめきが更に増長し、一行もナタリア自身も反論の術を失っている。確かにそのとおりなのだ。残念ながら否定すべき点がない。

 彼らの反応にモースはいやらしい薄笑いを浮かべ、宣告した。

 

「この話は陛下にもお伝えした。しっかとした証拠の品も添えてな。バチカルへ行けば、陛下はそなたを国を謀る大罪人として、お裁きになられましょう!」

「そんな……そんな筈ありませんわ……」

 

 打ちひしがれたナタリアに、もはや一瞥も寄越さず、モースはやはり驚いている様子の伯爵にしゃあしゃあと提案している。

 このような光景が、戦争を誘う発言が、積み重ねられた歴史の中で幾度繰り返されたのやら。

 

「伯爵。そろそろ戦場へ戻られた方がよろしいのでは」

「……む、むう。そうだな」

「おい、待てよ! 戦場は崩落するんだぞ!」

 

 きびすを返して去ろうとするアルマンダインに、我に返ったルークが追いすがるように言い立てたが、次の一言に絶句させられる。

 

「それがどうした」

 

 ──そこから先は、脳が拒絶したくなるほど戯言であり、どこまでも預言(スコア)の恐ろしさを感じさせるものでもあった。

 

「戦争さえ無事に発生すれば預言(スコア)は果たされる。ユリアシティの連中は、崩落ごときで何を怯えているのだ」

「大詠師モース……なんて恐ろしいことを……」

 

 おびえるようなティアの言葉を一蹴し、彼はイオンに矛先を向けている。

 

「ふん。まこと恐ろしいのはお前の兄であろう。それより導師イオン。この期に及んでまだ停戦を訴えるおつもりですか」

「いえ、私は一度、ダアトへ戻ろうと思います」

 

 これまでのショックから抜け出したように、アニスは大仰な仕草で驚きをあらわとしていた。

 

「イオン様!? マジですか!? 帰国したら総長がツリーを消す為にセフィロトの封印を開けって言ってきますよぅ!」

「ヴァンに勝手な真似はさせぬ。……さすがにこれ以上、外殻の崩落を狙われては少々面倒だ」

 

 モースはそういうが、それが可能だとは、少なくとも一行の中において信じる者はいない。

 アニスとて、これっぽっちも聞いていない、または信用していないらしい。ひそめた眉に、ぎゅ、と拳を握っている。

 

「力づくでこられたら……」

「そうなったら、アニスが助けに来てくれますよね」

 

 にこりと彼に微笑まれ、彼女は気が抜けたように小首を傾げた。

 

「……ふへ?」

「唱師アニス・タトリン。ただいまを以て、あなたを導師守護役(フォンマスターガーディアン)から解任します」

「ちょ、ちょっと待ってください! そんなの困りますぅ!」

 

 大慌てで抗議するアニスに、彼はひそやかなメッセージを伝えている。

 

「ルークから片時も離れず御守りし、伝え聞いたことは後日必ず僕に報告してください」

 

 少し奇妙な行動ともとれたが、とりあえずモースの耳には入っていない模様。

 醜悪なカエル面は、アニスのみに贈る別れの言葉とでも解釈しているようである。

 

「頼みましたよ。皆さんも、アニスをお願いします」

 

 気持ち大きめにそれを告げ、彼は悠々と国境を越えてモースのそばへ歩み寄った。

 

「ダアトへ参りましょう」

「御意のままに」

 

 忠臣めいた辞儀の後、イオンを先に立たせたモースが、不意に片手を上げた瞬間。

 どこからともなく現れた神託の盾(オラクル)兵士団が、一行から少し離れて野次馬の中にいたスィンを取り囲んだ。

 野次馬が思いきり遠ざかり、声を上げかけた一行をジェイドが抑えているのが見える。

 

「……如何なるご用件で」

 

 囲まれた当人は至って平然と、兵士たちを睥睨した。

 

「グランツ謡将の召集がかかっております。ご同行願えますね、ブリュンヒルド奏士!」

「……もう奏士じゃないです。退役軍人にそんなものをかけないでください」

 

 はあーあ、と額に手を当てて、軽く首を振る。それから、彼女は片手を振り上げた。

 その手から、眼球ほどの黒玉が放り出される。それは地面へ接触したかと思うと、白煙を噴き出した。

 

「ぶわっ!?」

「な……なんだ!?」

「落ち着け! あの夜叉姫の常套手段だ、害はない!」

 

 やがて煙幕は砂漠から吹き込む熱風にあおられ、その姿を霧散させる。たたた、と後姿丸見えで駆け去る彼女の後を追い、兵士はあっという間に散っていった。

 残ったのは、唖然として取り残された一行と、頭から外套を被って酒場の階段に座り込む一般人のみ。日差しがつらかったのだろうか、一般人は立ち上がって酒場の中へ入っていった。

 それを見たジェイドは、「彼女のことは後で話しましょう」と一行に囁く。

 

「あ、ああ。それにしても」

 

 遠ざかっていくかの導師の背を見送り、ルークが呟いた。

 

「イオンの奴、何考えてんだ……」

「アニスをここに残したということは、いずれは戻られるつもりなのでしょう。それより──」

 

 ちらり、と出生にケチをつけられた彼女に、ジェイドだけではない視線が集中する。それに気づいたナタリアは、気丈にも微笑んでみせた。

 

「……わたくしなら、大丈夫です。それよりも、バチカルへ参りましょう。もはやキムラスカ軍を止められるのは父……いえ、国王陛下だけですわ」

「それなら国境を越える方法を探さないといけないわ」

 

 何も気づいていないかのように、ティアがそれを提案する。

 

「ルーク。しばらく、ナタリアから目を離すなよ。心配だ」

「……ああ」

 

 ルーク、ガイの会話をさておいて、ジェイドはまとう軍服によってマルクト兵の注目を浴びながら、一行を酒場へ導いた。

 

「ここは国境線上の街です。きっと通り抜けられる場所がありますよ。……例えば、こことかね」

 

 ジェイドが示したのは、先ほど一般人の入っていった酒場である。

 国境線をまたぐようにして建つこの酒場ではキムラスカ、マルクト両側の土地に扉があり、なんらかの工作はされていると予想できるものの正面突破よりは遥かにたやすいと予想できた。

 ジェイドの後に続いて入ろうとして、引き止めるようにガイがその後に続く。

 

「でも待てよ。スィンが……」

「お呼びですか?」

 

 ガイラルディア様、という言葉に続いて現れたのは、外套をまといフードを上げているスィンの姿だった。

 

「あ、あら? あなたは先ほど市場の方へ……」

「これのことですね」

 

 すっ、とスィンのてのひらが横手に伸ばされ、その先で音素(フォニム)の輝きが集結していく。やがて輝きが失せると、そこにいたのは顔のない人形のようなものだった。

 ただし、服装から髪の特徴から、全てスィンと同様のものとなっている。

 

「な、なんだそりゃ!?」

「空蝉の術です。これを身代わりにして相手の気をそらすとか、さっきみたいに囮になってもらうとか、極めると一応自由自在に動かせるようになります」

 

 屈伸運動をしたり、前屈をしてみたり、顔のない以前のスィンになってみたり。とりあえず色々なポーズをとっていた空蝉だったが、やがてふっ、と姿をかき消した。

 どうやら兵士たちの視界を奪った後、自分は外套をひっかぶりこれを動かして、しのいだようである。

 

「攻撃を受ければ消滅するし、あんまり持続できないのが欠点ですね」

「いや……これだけできればもう十分な気がするけどな……?」

「それはさておき、国境を突破する方法なんですけど」

 

 びっ、とスィンの親指がとある方向を指し示した。

 示されたキムラスカ側に通じる扉の前には一人の男性が仁王立ちしており、せわしなく周囲に視線を走らせている。

 

「なるほど。やはり障害物がありましたか」

「ここはアニスちゃんにおまかせ♪」

 

 一目でどういうことなのかを察したアニスはそう言って、意気揚々とキムラスカ側へ続く扉の番人へ話しかけた。

 

「ねーねー。素敵なおにーさんv ここ通してv」

「ここを通りたいなら、合言葉を言いな」

 

 ロリコンのおじさんなら一撃でどうにかできただろうが、残念ながら彼の嗜好は正常なものであったらしい。どうみてもお兄さんという年齢ではない男は、ぶっきらぼうにそう返した。

 そしてアニスの声音が一変する。

 

「ち。月夜ばかりと思うなよ。ブサ男!」

「ぜっ、絶対通さないからな!」

「アニス~。そこで怒らせてどうすんのさ?」

 

 懐柔失敗を悟った面々がぞろぞろとキムラスカ側の扉へ近寄り、どうしたものかと目線を交し合った。

 そこで、「ぐへへ」といういやな笑声が届く。

 

「合言葉を買わないか?」

 

 振り返ったルークは、声の主を確認して目を丸くした。

 

「あ! おまえら!」

 

 どこに隠れていたのやら。

 そこには、濃い桃色の髪に露出過多といって過言ではない同色の服をまとう女が、眼帯に海賊帽、超巨大にして珍妙な襟飾りをつけた男、そして特徴的な髭面にシルクハットを被っていても禿頭だとわかる小男を従えて、しなを作っている。

 

「あらん。いつかの坊やたちかい」

「あ……あんたたち!」

 

 以前の借りが忘れられないアニスが、足音荒く漆黒の翼へ詰め寄った。

 

「イオン様を誘拐したり、こんなとこでお金儲けしたり、何考えてるのよ!」

「あはん。だってお金が大好きなんですもの」

「私だって大好きよっ!」

 

 妙齢の美女と年端もいかない少女が胸を張って言い合うことではない。後ろでガイが、呆れながら話題を修正した。

 

「……オイオイ。それより漆黒の翼さんよ。一体いくらで売るってんだ?」

「七人でがスから……」

 

 一行を目算で数えたウルシーに──この時点でスィンはフードを被りなおしている──ミュウの抗議が飛ぶ。

 

「ミュウもいますの!」

「八人でがスから、8000ガルドでやんスな」

 

 一人1000ガルド也。なんともチープな通行料に、ティアは軽く額を押さえた。

 

「呆れた商売ね……」

「アホ。おめーが余計なこと言うから1000ガルド増えたぞ」

「みゅうぅぅ……」

 

 ルークはルークで、とりあえずミュウを掴んで揺さぶっている。

 チーグルの言葉がなくても高額なのは確かだが、とりあえず値上がりしたと言うことが許せないらしい。

 

「払うのか? 払わないのか?」

 

 ヨークの言葉に、しばしの逡巡を見せ、やがてルークは財布を取り出した。

 

「わかった」

「払っちゃうの!? 駄目だよ、もったいない! ルークが払ったら、こいつら味をしめて他の人からもお金を取るよ!」

 

 アニスはそう言って大抗議したが、ヨークはこともなげに開き直っている。

 

「当たり前だ。商売なんだからな」

 

 それを聞きつけ、ガイは故意に鼻を鳴らした。明らかに馬鹿にしている。

 

「漆黒の翼ってのは義賊だって聞いていたが、所詮ただのちんぴらと同じか。醜いね」

「聞き捨てならないねぇ。あたしたちをちんぴら扱いとは……」

「そうだろう? こんなところで商売すれば、犠牲になるのは貧しい人たちだ」

「俺たちは金持ちからしか通行料は取らねえでがスよ」

 

 漆黒の翼が彼の挑発に乗って冷静さを失っていると察したジェイドは、ガイの挑発に合わせるように強調を付け加えて語った。

 

「いいじゃないですか。彼らは金を取るべき相手を間違っている哀れな義賊なんです。さっさと払って通り過ぎましょう」

「……なんだって」

 

 もはや再会を果たした際に作っていた声はなく、どこかアニスに通じた声音でノワールはジェイドを睨んだ。が、彼はその視線などどこ吹く風でしれっと言ってのけている。

 

「おや、違いましたか? 私たちは戦争を止めるために国境を越えたいだけです。私たちを通してしまっては、商売あがったりというところでしょう?」

 

 ぐっ、と押し黙ったノワールの前に、頃合を見計らったスィンがずかずかと踏み出した。

 頭上にクエスチョンを浮かべるノワールの前で、ぺらりとフードを取って顔をさらす。

 

「あんたは……!」

「舌戦が繰り広げられているところ申し訳ありませんが、彼らに頼みたいことがあります。僕のポケットマネーでまかなうから勘弁してください」

 

 目を丸くしたノワールを尻目に、スィンは薬草らしき刺繍が施された袋を取り出した。それを見て、ガイが慌てたようにストップをかけている。

 

「おい、それ! 確か薬用の貯蓄……!」

「いいんです、ベルケンドへはしばらく行けませんし。これしきのはした金、もう少し有効なことに使いたい」

 

 てててっ、と駆け寄ってきたアニスが、スィンの許可を得て財布の中身を覗き込んだ。

 

「……はした金って……これ、けっこう入ってるんだけど」

「最近使ってなかったからね」

 

 緩やかにアニスの手から財布を取って、ノワールに突き出す。

 

「そういや、お前こいつらと知り合いみたいなこと前に話してたよな。どういう縁……」

「知り合いじゃありません。以前、ザオ砂漠に魔物があふれたとき、一般人と勘違いして保護しました。その後財布を取られそうになったので、しばきました。それから以前の、財布すり替えのときに顔合わせただけ。縁というより因縁です」

 

 当時の苛々が蘇ったのか、スィンの目が徐々に吊り上がっていく。すっかり気圧されている三人を睥睨し、彼女は意地悪く口角を吊り上げた。

 

「ああ、そう言えば敵に回すがどうたらこうたら。ここでとりあえずケジメつけておこうか?」

 

 ちゃき、と音を立てて血桜の鯉口が鳴る。彼女が暴走寸前だと悟ったガイが、柄を握りしめる手を押さえつけた。

 

「馬鹿! 頼みたいことがあるんじゃなかったのかよ」

「……ものすごく不本意ではありますが」

 

 す、とガイの手を外させ、ぺいっ、と財布を放り投げる。ウルシーがそれを受け取ったのを見て、彼女は本題を告げた。

 

「そちらはそちらで思うことがあるだろうけど、ここはとりあえず水に流して聞いてほしい。ちょっと変装したいんだ」

 

 今までの経緯をあえて伏せる。

 だから用意してほしいものを上げようとして、ノワールはああ、と手を叩いた。

 

「そういえばあんた、兵士に追っかけられてたねえ。規律違反でもしたのかい?」

「緊急招集から逃げた。それより……」

「安心しな。代金分はきっちりやらせてもらうよ」

 

 ノワールが音高く指を鳴らし、ウルシーがいずこへ消えたかと思うと、ヨークがどこからともなく救急箱サイズの組木箱を取り出した。

 

「特殊メイク用のセットだよ。変装用の衣装はウルシーが手配してる。こいつを自力で開けられたら、中に入ってるものを自由に使ってくれてかまわない。できないようなら別途料金だ」

「そりゃどうも」

 

 軽く指を鳴らし、全体を観察して定められた手順を探る。手際よく箱に隠された板状の突起をずらしていくと、やがて降参したように蓋が開かれた。

 

「秘密箱かあ、懐かしいな!」

「随分複雑な手順を踏まないと開かないんですね。これはどういったものなんです?」

「見ての通り、こうやって苦労して達成感を味わうためのただの箱ですよ。強引な手段を使おうものなら壊れてしまうような、繊細なものを保存しておくこともできますけど」

 

 ガイが懐かしがり、ジェイドが興味津々に覗き込む。

 面々がほうほう言いながら箱を見ている中、ノワールは厳しい視線をスィンに向けていた。

 

「それを軽々開けるってことは、あんたは……」

「想像に任せる」

 

 種々の道具が取り揃えられている中から、あるものを見つけて拝借する。

 髪を団子型に結い上げると、箱の中にあった髪留めを使わせてもらった。

 

「──こんなものかな」

「そうさねえ……あんたの場合はそれでいいんじゃないかい? しばらく変装するつもりなら、後は髪の色を変えるくらいで」

「見せて見せて!」

 

 ねだるアニスにあんまり変わってないよ、と言いつつくるりと振り向く。

 確かに顔の造詣に変化はないが、雰囲気は豹変していた。カラーレンズを使ったらしく、目の色が緋色に変化している。

 縁なしの眼鏡を当然のように手にする辺り、遠慮はない。

 

「カラーレンズ、藍色のももらうね」

「好きにするといいよ。なんなら全種類もってくかい?」

「荷物になるから要らない。でも、もう一種類だけ貰おうかな」

 

 あとは黒子(ホクロ)でも描こうかというノワールの申し出を丁重に断るスィンだったが、アニスの漏らした一言で彼らと向き直った。

 

「髪が白っぽくて赤目って、なんかウサギみたい」

「そうだな。スィン、髪の色はどうするんだ?」

「それを変えるのはたやすいんで何色でもいいんですけど」

 

 結い上げた雪色の髪に手が添えられる。

 そこから金の色に染まっていく髪を見て、ノワールとヨークはもちろん、一行も吸い寄せられたようにそれを見ていたが、ナタリアがぽそりと呟いた。

 

「変装でしたら、以前のあなたになれば……」

「必要とあらばそうします。それは最終手段にしたいので」

 

 その時。裏口の方から出入りしていたらしいウルシーが一抱えの包みを持って帰還した。

 

「とりあえず、今仕入れられたのはこれだけでやんス」

「格好変えられるならこの際なんでも」

 

 と、言いかけて。

 ウルシーから手渡された衣装を見て、スィンの表情が凍りついた。

 

「……これ」

「違うものとなると、もっと時間がかかるでがス」

「……ちっ!」

 

 文句を言おうとしたらしい彼女が、それを封じられてやけに大きな舌打ちを打った。しぶしぶといった体でヨークに示されて、トイレへ入っていく。

 一同が手持ち無沙汰にしていると、ノワールが奥からいくつものおしぼりを持って現れた。

 

「待ってる間、顔でも拭いときな。あんたらひどい顔してるよ」

 

 ひょい、と自分の手鏡を一行に向ける。確かに、全員戦場を抜けてきただけあって、全体的に埃っぽい。

 

「では、ご厚意に甘えましょうか」

 

 珍しくジェイドが手を出したために、一同は警戒しながらもおしぼりを手に取った。

 冷えた井戸水で絞ってあるらしいそれは、炎天下のもとにいた彼らをほどよく冷やしてくれる。

 

「……お金取るんじゃないでしょうね?」

 

 疑惑に満ちた視線をアニスが向けてくるものの、ノワールはふっと笑って首を振った。

 

「それも代金込みさ。後であのコにお礼言うんだね」

「あのコって……そんな思いっきり年下扱いされても」

 

 ひょい、とアニスの後ろからテーブルに載せられたおしぼりが取られる。

 見れば、再び外套をまとったスィンが眼鏡を外してごしごしと顔を拭いているところだった。

 

「スィン。外套脱ぎませんの?」

「……うん」

 

 言葉少なに返事をするものの、額には汗が浮かんでいる。スィンの外套には耐暑対策が施されているものの、それは屋外でしか働かない。室内では普通に暑いはずだ。

 

「どんな衣装だったんだ?」

「……」

 

 ルークの問いにしばし沈黙していたスィンは、やがてジェイドを指して「あんな感じ」と呟いた。

 その頬はわずかに赤い。

 

「……こんな感じ、って……」

「まさか……」

「マルクト軍の軍服ですか?」

 

 ガイ、ティア、ジェイドの三人に尋ねられ、彼女は視線をそらしてこっくりと頷いた。

 

「えーっ!」

 

 そしてアニスの追求を受ける。

 

「ねえねえ、見せて見せて♪」

「……ヤだ」

「ケーチー!」

「っていうか、本当にこれしかなかったわけ!? 軍服なんて目立つだけじゃん、下手したら軍属詐称で捕まるよ!?」

 

 それまでの鬱憤を晴らすように、スィンは漆黒の翼へ苦情を申し立てた。

 

「あんただってわかってるだろう? 今この情勢、すぐに手に入るとしたらどっかで戦死した軍人の服くらいしかないんだ。キムラスカの軍服じゃあそうなるかもしれないが、バレたときはそっちの大佐さんから説明してもらえばいいだろう」

「嫌だー。こいつに借りなんか作ったら後が怖いー」

「こいつとは失敬ですねえ」

 

 ジェイドがぼそりと呟き、スィンは苦虫を噛み潰したような顔で事実だもん、ともごもご呟いている。

 

「安心なさい。その時は私が責任もって、あなたを連行して差し上げます」

「……まあ、大佐はそういう人ですよねえ」

 

 ほらやっぱり! と喚くスィンを筆頭に呆れる面々を見渡してから、ジェイドは軽い含み笑いを洩らした。

 

「まあ、それは冗談です。事を円滑に進めるための措置なのですから、かまいません。いざというときは私がどうとでも言いくるめておきましょう。ですからそれは脱ぎなさい。熱中症になられでもしたら迷惑です」

 

 とりあえずジェイドの協力が得られるということに納得はしたのか、スィンはしぶしぶながら外套を脱いだ。

 そしてあらわとなった彼女の格好は──

 

「この意匠……大尉レベルの前衛タイプに支給されるものですね。なら、当分は私の新しい副官という設定でかまいませんか?」

「げえー……」

 

 一言で言えば、ジェイドの軍服と酷似している。

 同じようなタイプだが袖が余りまくっている上衣に、だぶっとした下衣。脛まである編み上げの長靴──軍靴ではない。サイズが合わないせいなのか、それだけは変更されていなかった。

 この軍服は男物らしく、上も下も完全にサイズは合っていない。

 下衣が落ちないようにか、ベルトはバックルが外されて帯のように縛ってある。

 軍服だけあって動きやすく、スィンとて見た目さえ度外視すればそれほど悪いとは思っていなかったが、悪意なきアニスの一言で彼女の額に青筋が生まれた。

 

「へえー、意外に似合ってるじゃん。でもその格好、大佐とペアルックっぽいね」

 

 35でそれは恥ずかしいですね、と悪乗りしているジェイドに、彼女は大人気ないと知りつつも噛みついた。

 

「27でも恥ずかしいわ! だから外套着てようと思ったのに……」

「でもそれじゃ暑いだろ」

「いいじゃない、大佐の副官で」

「よくなぁいっ!」

 

 ルークとティアのなだめも火に油を注ぐ形となり、こうなったら外套一丁で、とその場で軍服を脱ごうとしたスィンが、ナタリアとガイに押さえられる。

 悲鳴を上げたガイのためにも、しぶしぶ軍服の着用を承知したのは、もう少し先の話だった。

 

「ひゅ~ひゅ~、ペアルックなんて熱いね二人とも……」

「魔神剣!」

「反応がアッシュと同じだよう!」

 

 

 




称号:カーティス大佐の新副官? (スィン)
変装というより仮装、仮装というよりコスチュームプレイ。
大佐の副官はタルタロスにて殉職しているため、軍籍重複の心配だけはなし。

テキストしかないのであまり意味はありませんが、しばらくオリジナルキャラクターの描写が変動します。ご了承ください。
軍属詐称、この要素が後々どう影響するか……ちょっと考えてあったり。
 


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第五十四唱——まみえるは、貸し借りの間柄か、それとも

 

 

 

 

 

 

 酒場を出て、キムラスカ領へ出る。ちらりと自分たちが出てきた扉を省みて、ガイは心底呆れたようにボヤいた。

 

「にしても、しょうがねーな、漆黒の翼の連中は」

「犯罪行為ではありますが、今は放っておきましょう」

 

 と、ここで。何を考えたのか、アニスがびみょーなお嬢様言葉で拳を握った。

 

「戦争を食い物にする不逞の輩! 許せませんわ!」

「まったくですわ!」

 

 当人は当人でさらっと同意している。

 

「ったく! 義賊が聞いてあきれるっつーの!」

「……それ、俺のものまねか?」

 

 流石にルークは半眼となっているが、案外似ていると思ったのはスィンだけではないはずだ。

 

「バカは、バカだからバカな訳ですから、しょうがありませんねぇ」

「アニス。ものまねがどんどん本音になってきていますよ」

「はうあ!」

 

 当人のツッコミによってようやくアニスの物真似に歯止めがかかる。

 ジェイドは物憂げに眼鏡の位置を直し、ふう、と息をついた。

 

「まぁ彼らのように、生きるために手段を選ばないのも戦争の傷でしょうね。やるせないですねぇ」

「……早く戦争を止めないといけませんね」

 

 と、真面目にティアが締めくくる。そこで軽く周囲を警戒しているように見えるスィンにガイが話しかけた。

 

「スィン、どうかしたのか?」

「はい……よく考えてみれば、ここはキムラスカ領なんですよね。マルクトの軍服なんか着てて大丈夫なのかなー……と」

 

 余った袖を丁寧に折りつつ、しきりに辺りを見回す彼女に、ジェイドが微笑みを絶やさぬまま信用度の高い情報を寄越す。

 

「ここの連中はマルクトの軍服を見慣れていますからね。おそらく大丈夫だと思いますが……安心してください。追われるときは一緒です」

「安心という言葉の意味を教えてください。てか、大佐絶対僕を囮にして自分だけ逃げそう。僕が軍人じゃないこと利用して」

「もちろんそうさせて頂くつもりですよ。私は巷で名が知られてしまっているので誤魔化すのは難しいですが、あなたの場合は暴漢に襲われ服がなく死人からかっぱいだとか、以前から夢見ていた軍人さんごっこだとか、そんなことをのたまえばきっと哀れみを込めて釈放されますよ☆」

 

『死人からかっぱいだ』辺りは厳密に言って間違いではないのだが、それを公言するのは羞恥心との戦いとなりそうだ。

 馬鹿話から一変、戦争についてルークの疑問に答える形での質疑応答を重ねる最中、砂漠側の出入り口へ赴いた一行の眼前で、キムラスカの軍服をまとう二人のやりとりが交わされた。

 

「大変だ! ザオ砂漠が……」

「……何! わかった。ここは封鎖しておく」

 

 砂漠側から来た兵士が、砂漠への出入り口を見張る兵士に何事かを告げ、街の中央へ走り去っていく。

 今まさに街を出ようとしていた一行は、封鎖のためかどんどん集まってくる兵士群を前にして途方に暮れた。

 

「このままじゃ進めないわ……。とりあえず、アスターさんの家に行ってみましょう」

「そうだな」

 

 ティアの提案にルークが応じ、一行はきびすを返して街の中心部へ向かう。

 が、さきほど四苦八苦して通過した酒場前にて、スィンの足が止まった。

 

「どうかしましたか?」

「……アスターさんにモースの息がかかっていたとしたら厄介です。僕はここで待っています」

 

 考えてみれば、ケセドニアはダアトと結託している街なのだ。イオンだけでなく、アスターはモースとも繋がりがあるかもしれない。

 緊急召集の件で彼に協力を要請していたとしたら、事態がややこしくなる。できる限り避けた方がいい。

 驚くべきことに、酒場の柵に寄りかかったスィンを真っ先に諭したのはジェイドだった。従者の我侭に口を開きかけたガイも、閉口してやりとりを見ている。

 

「スィン。集団行動を乱すのは感心できませんね」

「想定できる厄介事をより安全に回避するための手段です。規律を守ることと危険を避けること、大佐はどっちを優先させるべきと思いますか?」

 

 屁理屈の叩き合いを嫌ったか、まさかスィンの言うことに納得してしまったのだろうか。

 ジェイドは軽く顎に手を当ててまったく方向の違うメリットをちらつかせてきた。

 

「ちょうどよかったではありませんか。彼は今のスィンの顔を知っているのでしょう? その変装が有効かどうかを確かめる絶好の機会です」

 

 今度はスィンが納得する番である。が、彼女はどうしても心配であるらしく、困ったように小首を傾げてジェイドの前に立った。

 

「どうしても、行かなきゃ駄目ですか?」

 

 身長差を利用し、上目遣いでジェイドを見つめる。心なしか潤んでいるような瞳に見つめられ、ジェイドはわずかに相好を崩していた。

 

「……そんな顔しても駄目です。そうでしょう、ガイ?」

「……まあ、な。ほら行くぞ」

 

 主の手招きを受け、スィンは「ちぇ」とつまらなさそうに呟いてから彼の後を追っている。

 その後ろでは、心持苦笑いをしているジェイドがしんがりを歩いていた。一方スィンに振り返りながら、アニスは唇を尖らせている。

 

「っていうかぁ、なんでそんなふーに大佐に媚売るかなあ。スィン、大佐のこと好きなのー?」

「こんな根暗嫌味陰険鬼畜眼鏡のどこを好きになれってのさ。いくら金持ちでもコレはちょっと」

 

 アニスのトゲトゲした物言いをさして気にした様子もなく、「ひどい言われようですねー」というジェイドの呟きも流してスィンはあっけらかんと自分の計算をほのめかした。

 

「だから媚売ってウザがられよーとしてんじゃん。大佐、そういう人種は嫌悪の対象でしょう?」

「まあ、あまり好きではありませんが、あなたの場合はわざとらしくてバレバレです。ついでに今、ばらしましたしね」

「まあね。だから多分、もうやらないと思う」

 

 安心して、とアニスに微笑みかければ、少女は毒気を抜かれてそっぽを向いている。

 

(でもよー。スィンの場合素材がいいから普通に可愛いよな?)

(ですから、アニスはあんなに危機感を募らせているのではなくて?)

「お願い、私に話を振らないで……」

 

 ともあれ、一行は仲良くアスターの屋敷内に足を踏み入れた。

 イオンなしに面会が叶うのかとスィンは内心思っていたのだが、ルーク、ナタリアの存在は大きかったらしく、主人へ一行到着の報告をした使用人はその足でアスターの執務室へ通してくれた。

 来客用の部屋を使わなかったということは、その暇すらない証なのか。アスターは一行が部屋に入るなり執務机から立ち上がり、慌てて回りこんだ。

 

「これはルーク様! ナタリア様も! お二方とも亡くなったとの噂が飛び交っておりましたから、こうして再会できて幸せでございますよ。ヒヒヒヒヒ」

 

 独特の笑声を響かせ、アスターの小さい目が一行を順繰りに見て回る。

 ふとその視線がスィンのところで止まり、彼はおや、と言いたげに口を開いた。

 

「お初にお目にかかりますね」

 

 がちん、と固まったスィンの体が、急激に緊張をなくす。

 とりあえず形式的な辞儀をして、名乗ろうかどうしようか迷ったところで、すかさずジェイドのフォローが入った。

 

「実はあなたに、頼みたいことがあるのですが」

 

 彼はジェイドの顔をしっかりと覚えていたらしい。眉をほんの少し跳ね上げ、笑顔で応じている。

 

「エンゲーブの住民を受け入れることでしたら、先ほどイオン様から依頼されました。ご安心を」

「よかった……」

 

 胸中でイオンに感謝を捧げたルークが思わずそう零した。ジェイドも、口調は事務的ではあるがほっとしているらしい。笑顔に裏がないように見える。

 

「助かります。ありがとう」

「どういたしまして。イヒヒ」

 

 この笑い方さえどうにかすればきっとこう……第一印象とか個性的な顔は変えられないとして、いい方向へ劇的な変化を遂げると思われるのだが、まあそれはどうでもいいことだ。

 

「ところで、ザオ砂漠で何かあったのか?」

「これはお耳が早いことで……。ちと困ったことになっております。地震のせいか、ザオ砂漠とイスパニア半島に亀裂が入って、この辺りが地盤沈下しているのです」

 

 ルークの提示した本題に、アスターは困惑気味で現状を伝えてきた。その事実に、一行が顔色を変えた。

 

「それって、もしかしなくても!」

「ケセドニアが崩落しているんだわ……!」

 

 そのとき、短いノックが聞こえたかと思うと彼の配下らしい男性が執務室へ入室する。咎めないところを見ると、これは最優先で届けろと命じてあるらしい。

 

「戦局報告です! 11時32分、キムラスカ軍がエンゲーブに到達しました!」

 

 その報告に、ジェイドがため息をつき、ティアが奮闘中であろう少女を思いやる。

 

「やれやれ、移動しても残っても、エンゲーブの住民は危険にさらされる運命だった……そういうことですか」

「ノエル……間に合ったかしら」

「ご苦労。引き続き状況を監視せよ」

 

 男が去った後に失礼しました、と配下の非礼を詫び、彼は首を傾げた。

 

「今しがた、ケセドニアが崩落すると仰いましたが?」

「アクゼリュスやセントビナーと同じことが起きてるってことだよ!」

 

 ルークの言葉を聞くや否や、アスターは顔色を変えて息を呑んだ。

 

「何ということだ……ここは両国の国民が住んでいる街。この戦時下では逃げる場所がない」

「この辺りにもパッセージリングがあって、ヴァン謡将がそれを停止させたってことか?」

 

 その言葉にアスターは怪訝そうな表情をするも、今の彼らにそれを気遣う余裕はない。

 

「それならザオ遺跡ですわね。イオンがさらわれた……」

「くそ、どうする? 今からでもセフィロトツリーを復活させれば……」

「いえ、それは無理だとテオドーロさんも言っていました。ですが……」

 

 言いよどんだその意見を消させまいと、アニスが勢いよく尋ねた。

 

「大佐! 何か考えがあるんですか!?」

「いえ、ツリーを再生できなくてもセフィロトが吹き上げる力はまだ生きている筈です。それを利用して、昇降機のように降ろすことはできないかと」

「パッセージリングを操作できるでしょうか」

「──どうでしょう?」

 

 ティアの疑問を丸投げする形でジェイドがスィンを見る。

 ジェイドの提案にスィンは軽く黙考を続けていたが、軽く首を振った。

 

「行ってみないとわかりませんね。また変な罠を張られているかもしれませんが」

 

 初めて変装したスィンの肉声を聞き、アスターはおや、という顔で彼女を見る。

 スィンはあえて気づかぬフリをした。

 

「行くだけ行ってみよう。このままだと崩落を待つだけだろ!」

 

 話が一段落したところで、会話に置いてきぼりだったアスターが困惑をあらわとし、説明を頼んでいる。

 

「お話が、見えないのですが……」

「ケセドニアの消滅を防ぐ方法があるかもしれないんだ」

「どういうことです?」

「実は……」

 

 魔界(クリフォト)の存在、セントビナーを泥の海に着水させたくだりをガイがかいつまんで話した。

 難しい顔で話を聞き入っていたアスターだったが、全てを聞き終えて呻くように呟いている。

 

「……魔界(クリフォト)ですか。にわかには信じがたい話です」

 

 でしょうね、という相槌を聞いてか聞かずか、彼はすぐに顔を上げて施政者としての態度をとった。

 

「しかしどのみち、私たちにはあなた方を信じるより他に方法はない。住民への通達はお任せ下さい。ケセドニアをお願いします」

「よし、ザオ遺跡へ行ってみよう!」

 

 頷きあい、一行が退室をはかる。足取りの鈍いナタリアにルークがひっそりと話かけているところを眺めていると。

 

「もし」

 

 アスターに呼び止められ、スィンが振り向いた。

 

「もしや……シア殿ではありませんか?」

 

 会話を聞いていたらしいルークとナタリアから緊張が伝わってくる。

 が、当のスィンは比較的穏やかな顔で「アスターさん」と声を潜めた。

 

「共生状態下にあるこのケセドニアでよもやとは思いますが、ダアト関係者より問い詰められた際はとぼけることをお願いしたい。アクゼリュス及びエンゲーブの民の保護をお引き受けいただけたこと、名乗らぬことをお詫びすると同時に心から感謝申し上げます。その節は無茶な頼みをお聞き入れくださり、ありがとうございました」

 

 深々と頭を垂れ、二の句を告がせぬ滑らかさで退出する。

 改めてキムラスカ側の出入り口へ向かう最中、スィンはほうっ、と息を吐き出した。

 

「あー、緊張した。心臓にすごく悪かった」

「良かったですね、スィン。声を聞かれるまで変装が通じて」

 

 どうやら最後のやりとりをちゃっかり把握していたらしいジェイドに混ぜっ返される。

 ふん、と鼻を鳴らし、彼女は辞儀の際ずれた眼鏡の蔓を掴んで位置を修正した。

 

「でも本当のところ、どうなんだ? パッセージリングの件は……」

「推測・憶測の類ならいくらでもお聞かせできますが、実のところは実物を見てみないとわかりませんね。多分大丈夫だと思いますけど、何しろやり方が──」

 

 そこへ砂漠側の出入り口に到達したことを知り、兵士を間の当たりにしてスィンが口を閉じる。

 案の定、キムラスカ軍兵士は一行の姿を目に納めると近寄り、激励を口にした。

 

「アスター殿から話は聞いています。お気をつけて……」

 

 兵士に通され、封鎖が一時的に解除される。しかし、いくばくもしないうちにルークが砂漠に膝をついた。

 同時に、スィンにもしめつけるような頭痛が忍び寄ってくる。

 

「……?」

『……おい、聞こえるか。レプリカ!』

「……いてえ……!」

 

 ルークの呻き、これは鼓膜を震わすもの。しかし今鼓膜を震わせたのは後者だけだ。

 ドスの効いたルークの声、否アッシュの声は、頭の中で直に響くような、その響きによって脳内をかき回されるような苦痛が伴ってくる。

 これは……

 

『砂漠のオアシスまで来い。話がある』

「……オア……シ……ス?」

『そうだ。わかったらさっさと来い!』

 

 ブツッ、と唐突に頭痛は消えた。これはチャネリングだろうか? 

 二人の──違う、正確にはアッシュの声が聞こえたのだから、彼のチャネリングに何らかの現象が働いて混線でもしたのだろうか? 

 

「また例の頭痛か? 確か、アッシュの声が聞こえるんだったな」

 

 ガイの言葉にハッと顔を上げる。

 今の言葉、彼には──否、当事者以外、彼らにはこの声は届いていないということなのだろうか。

 素早く面々を見やるも、彼らに変調は見られない。ジェイドあたりは普通に隠していそうだが、この際それは置いておく。

 彼のことで疑いを持つのは、意識しなくても私情がきっと絡むから嫌だった。できる限りは不干渉でありたい。

 

「……ああ。俺、あいつのレプリカだから」

 

 幾分自嘲気味なルークの答えに、ティアがわずかながら顔を曇らせる。ナタリアが、すがるように彼へ詰め寄った。

 

「アッシュ……! アッシュは何て言っていましたの?」

「え……うん……。砂漠のオアシスへ来いって。話があるってよ」

 

 その言葉で疑いを示したのは、苦しみに似た表情の曇りをすでに修正しているティアである。

 

「兄さんが裏で糸を引いているんじゃないかしら」

「それはどうでしょう。一概にヴァンの味方とは考えにくい」

 

 比較的冷静な意見を述べるジェイドに激しく賛同するナタリアを押さえ、ルークが「オアシスへ寄ろう」と提案した。

 

「アッシュの話を聞いてからでも、セフィロトの制御は間に合うはずだ」

 

 

 

 

 

 



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第五十五唱——はしゃぐが許されるは、純粋無垢の象徴のみであった

 

 

 

 

 どこぞで大地が崩落しようと、砂漠は変わらぬ暑さだった。道行きの最中、地面の陥没こそ見受けられなかったが、岩場に見られる大地の亀裂が崩落の前兆を物語っている。

 地平線の彼方が陽炎で揺れるオアシスの、落下譜石がもとでこんこんと沸き出でる泉の袂に、またもやルークを呼び出した人物は身じろぎもせず佇んでいた。

 纏う黒衣の外套が、見ているだけで暑苦しい。

 遠目からその姿を見つけ、スィンはくるりと一行に向き直った。

 

「ちょっとこの変装でアッシュが気づくか試したいので待っててもらえますか?」

 

 そう言って、スィンはとっととアッシュの元へ向かっていった。

 ざくざくという砂を踏む音はない。スィンが特殊な歩き方をしているため、摩擦による音が消失しているのである。

 足音がないせいで気づけないのか、アッシュはスィンの接近をやすやすと許してしまっていた。

 

「ふっ!」

 

 短い呼気と共に、鞘つきの血桜が彼の脳天へ迫る。

 そこでやっと背後の気配に気づいたアッシュが真横へ逃げ、スィンの姿を垣間見てその表情に困惑を宿らせた。

 気づいていない。

 思いの他変装が通用している。そのことが嬉しくて、スィンは軽く口元を緩めながら鞘がついたままの血桜を突き出した。

 アッシュが抜刀する。血桜に抜き身の刃が接触する直前手首をひねって回避させ、わき腹に突きを入れた。

 

「ちぃっ!」

 

 防御が間に合わず、わざと間合いを詰めることでダメージを最小限に抑える。

 どすっ、と入った見た目ただの棒の持ち主を忌々しそうに睨み、アッシュが罵声を張り上げた。

 

「てめえ、誰の差し金──!」

「僕だよ」

 

 罵声とともに振り下ろされたアッシュの黒剣をのぞかせた刃で受け、そのまま抜刀する。

 現れた緋色の刃を瞳に焼きつけ、眼前の外套を着込む女をまじまじと見つめ、アッシュははっと目を見張った。

 

「シア……!?」

「正解。こっちの状況、そんなには確認してないんだね」

 

 そんなら知らせておこう、と言って一歩引き、血桜を腰へ収める。眼鏡を取り、瞳に貼り付けたレンズを外せば、緋と藍の眼がそこにあった。払った外套の下に、マルクトの軍服を着ている。

 その変装の意味を尋ねようとして、彼は思い当たるフシを口にした。

 

「……そうか。緊急招集がかかったのか」

「らしいね。退役した奴を招集できるなんて初耳だよ」

「退役した奴は、ほとんど使い物にならねえからな──」

 

 にしても。

 スィンはアッシュの携える黒剣を見て、実に朗らかに言い切った。

 

「アッシュ。いい加減、その剣は換えないと死んじゃうよ」

「……うるせえ、手入れなら欠かさずしている。大体、そんなけったいなシロモノ持ってるてめえに言われたくねえ」

「けったいって、失礼な。これ一応僕んちに代々伝わる由緒正しき妖刀なんだけどな」

「妖刀って時点でけったい以外なんでもないだろうがっ!」

 

 アッシュの黒剣は、彼がダアトからバチカルへ逃亡する際スィンが寄越した剣である。

 当時シア・ブリュンヒルドとして元祖・六神将とでも言うべき立場に属していたスィンに支給されたものなのだが、彼女にはすでに愛刀・血桜があり、要らないから、という理由で何も知らないアッシュ──ルークだった頃の彼にあげたのだ。

 それからというもの、彼は七年という年月が経っても換えようとしていない。

 ふう、と息をついたスィンが、後方へひらひらと手をやる。それに誘われるように、とばっちりを食わないよう避難していた一行がやってきた。

 アッシュの表情が、柔らかなものから硬質化していく。

 

「やっと来たか……」

 

 まるで人が変わってしまったように、アッシュは無愛想に彼らを迎えた。

 ルークはその対応に早くも慣れたのか、何かを気にした様子もなく用件を尋ねている。

 

「話ってなんだよ」

「何か変わったことは起きてないか? 意識が混じり合ってかき乱されるというか……」

「はぁ? 意味わかんねぇ……」

 

 ルークは頭をがしがし掻きながらそう答えたものの、スィンはさっと顔を曇らせた。

 意識が混じり合う? かき乱される? 

 それは、もしかしなくても──

 

「おまえが俺との回線を繋いでこなければ、変なことは起きねぇし……」

「……そうか」

 

 スィンほど近くに寄らなければ、聞こえないような呼気が洩れる。ため息か、それとも安堵の吐息か。

 

「アッシュ。何かありましたの? どこか具合が悪いとか……」

「……別に」

 

 心配そうなナタリアの様子に照れているのか、それとも他の理由あってか、彼は一瞬の沈黙を経てやはり無愛想に答えていた。それがガイの反発心を呼ぶ。

 

「おい、それだけかよ」

 

 ガイの抗議を跳ね除けるように、アッシュは一呼吸置いて衝撃の事実を語った。

 

「……エンゲーブが崩落を始めた。戦場の崩落も近いだろう」

「そんな!」

「このままでは、戦場にいる全員が死んでしまいますわ!」

 

 自身を省みないナタリアの言葉を聞き、アッシュはおそらく我を忘れたのだろう。きつくなりすぎない程度に彼女を睨み、怒鳴った。

 

「馬鹿野郎。ここにいたら、おまえも崩落に巻き込まれて死ぬぞ!」

「そんなことわかっています。ですからわたくしたちは、セフィロトの吹き上げを利用して、ケセドニアを安全に降下させるつもりですの」

 

 わかりやすい説明だが、彼にとっては初耳なのだろう。彼の眼がスィンを映した。

 

「……そんなことができるのか?」

「──確約はできない。ほとんど裏技みたいなものだし」

 

 ひどく強引なやり方ではあるが、できないことはない。スィンとしては、その代償たる歪みが気になった。

 が、それを話したところで対応策が見出せるわけもなく、心配の種を増やさないために黙秘を続ける。

 ──それに、聞かれたわけじゃないし。

 

「もしその話が本当なら、同じ方法で戦場も降下させられるんじゃないか?」

「でも、シュレーの丘に行くのが間に合うかどうか……」

 

 アッシュの提案にティアがそう応じたが、彼は鼻を鳴らして断言した。

 

「間に合う。そもそもセフィロトは、星の内部で繋がっているからな。当然、パッセージリング同士も繋がっている。リングは普段休眠しているが、起動さえさせれば遠くのリングから別のリングを操作できる」

 

 一言一言を噛み締めるように吟味していたジェイドが、確認しやすいよう単語を並べてアッシュに確認を取る。

 

「ザオ遺跡のパッセージリングを起動させれば、すでに起動しているシュレーの丘のリングも動かせる?」

「そうなんだろう?」

「……うん」

 

 なぜだろう。ものすごく気になることがあるはずなのだが、もやもやと渦巻くだけでなかなか形を成さない。

 しかしアッシュの言葉は事実だ。否定すべき要素は何もない。

 どこか上の空であるスィンの様子がおかしいことに気づいたのか、アッシュがスィンの顔を覗き込む。

 スィンはこれ幸いと彼の耳を掴むと思い切り引き寄せた。それに彼が気を取られている間に身体を寄せて、もう片方の手を動かすことも忘れていない。

 

「っ、お──」

「ローレライが呼んでいるのかもしれない。体調に不備があっても、君の場合フォローのできる人間がいないんだから、重々気をつけて」

 

 ぱっ、とアッシュの耳を解放し、スィンはなんでもないような顔をして、ぴっ、と人差し指を立てた。

 

「君の言葉は事実だし、大佐の言っていることも可能ではある。だけど、ヴァンの小細工もそうだし、僕らが試みる方法はお世辞にも正攻法とはいえないから、少し心配なんだよ」

 

 上の空であった理由を語るかのような言葉に、アッシュは納得したようにわずかに目元を緩ませた。

 そして一瞬目蓋を閉じ、これで用は済んだといわんばかりにスィンの隣を過ぎ、ルークを押し退けるようにすたすたと歩み去る。

 当然、ナタリアがその背に呼びかけた。

 

「アッシュ! どこへ行くのですか」

「俺はヴァンの動向を探る。奴が次にどこを落とすつもりなのか、知っておく必要があるだろう。……ま、おまえたちがこの大陸を上手く降ろせなければ、俺もここでくたばるんだがな」

「失礼な奴」

 

 スィンの呟きはナタリアの砂を踏む音にかき消され、誰の耳にも届きはしなかった。ナタリアは片手を挙げ、毅然とした面持ちでアッシュに迫っている。

 

「約束しますわ。ちゃんと降ろすって! 誓いますわ」

「指切りでもするのか? 馬鹿馬鹿しいな」

「アッシュ……!」

 

 幼少より変わらぬ彼の弁に、少なからず衝撃を覚えたのか、ナタリアは驚いたようにアッシュを見つめた。

 

「世界に絶対なんてないんだ。だから俺はあの時……」

 

 言いかけて、口を閉ざす。彼は二度と振り返らなかった。

 

「俺は行くぞ。おまえらも、グズグズするな」

 

 さっさと立ち去るアッシュだったが、後ろから聞こえてきた言葉に眼を剥いて、ばっ、と振り返った。

 

「アッシュ~! いい機会だから、新しい剣買っとけよ~!」

 

 視線の先では、剣帯ごと外された彼の黒剣を高々と抱え、満面の笑顔で見送るスィンの姿がある。

 どうやら耳を掴まれた際、まんまとスリ取られてしまったらしい。

 

「お前、いつの間に……」

 

 ガイが呆れたようにスィンを見るも、彼女の視線はアッシュの黒剣に釘付けだった。慣れた手つきで抜剣し、かざすようにして状態を診て図る。

 

「……大分刃こぼれが目立つね」

「手癖の悪りぃガキみてぇなことしてんじゃねえ!」

 

 ざっざっざっ、と駆け寄ってきたアッシュの手から鞘に収めた黒剣を遠ざけつつ、スィンはひらひらと彼から逃れた。

 

「心だけでも、乙女のままでいたいなー、僕」

「乙女とか言うガラかっ!」

「ごもっともですねえ」

 

 外野の茶々はこの際気にしない。

 

「二人とも、どこまでいくのー?」

「こいつに聞け!」

 

 泉のほとりにそって後退するようにアッシュを誘いこみながら、スィンは軽く眼を細めてアッシュを、フォンスロットを意識した。

 見えない糸を絡めるように、何かが繋がったような感触を得る。

 

『あー、あー。テステス。アッシュ聞こえる?』

「っ……!」

 

 アッシュの顔が苦痛に歪んだ。黒剣を持った手で体を支えてやりながら、話しかける。

 

『繋がった? 会話できるかな?』

『……ああ。この間からの頭痛と幻聴は、お前のせいだったのか?』

『違う。さっきも言ったとおり、ローレライがなんらかの原因だと思われる。ついさっきルークに連絡したろ? そのとき僕にも聞こえたから、ちょっと試してみた。同位体同士の回線に割り込めるなんて、相当不安定になってるみたいだ』

 

 頭痛のほどを尋ねれば、耐えられないほどではないとの返事が寄越された。やせ我慢だということが、ありありと伝わってくる。

 

『……あんまり頻繁には使えないね』

『へ、平気だと言っている。俺はレプリカとは違うんだ!』

『はいはいそうですか、っと』

 

 早々に切れば、アッシュは額を押さえつつも黒剣を取り上げ、それでもなかなか離そうとしないスィンの胸倉を掴み上げた。

 後はこれも、伝えておかなければ。

 

「っ!」

「平気だと言って……シア!?」

 

 突如加えられた衝撃が、耐えてきた苦しみの波を増長させる。

 苦悶を浮かべて脱力したスィンを、アッシュはできるだけ負担が少ないようその場へ座らせた。今なら、譜石の陰にいることにも加えてスィンの姿はアッシュの陰に隠れて見えないはず。

 即席の衝立に甘えて、こみ上げてきたものを耐えずに吐き出した。

 

「シ……!」

 

 アッシュの口を押さえ、予想される吐血が彼にかからぬよう、顔を背けて地面を見る。

 濁った咳は、毒々しい赤の雫を伴って、砂漠へと吸い込まれていった。ひとまず収まったことを悟り、口の端を伝う雫を舐め取る。

 驚愕のあまり動けないアッシュから手を離した。

 

「驚かせちゃったね」

「お前……いつから」

「大分前から。ベルケンドで医者にかかってたろ? あれだよ」

 

 水分を吸収した血溜まりに砂をかけて隠蔽し、手巾をほとりでしめらせて口元を拭う。ルージュを塗ったように赤かった唇が、元の色を取り戻した。

 

「詳しいことはまた今度。君になら、話せるから」

 

 皆と同じように、彼は優しいけれど。一度憎しみを抱いた相手になら、きっと冷酷でいられる。いてもらわなければ、困る。

 取り出した洒落た小瓶のノズルを押し、霧状となった液体を胸元に吹きかけると、血の匂いが薄れた。

 

「大丈夫……なのか」

「今に始まったことじゃない」

 

 その言葉に動揺するアッシュから、再び黒剣を取り上げる。予備動作なく走り出せば、後ろから騒々しい足音が聞こえてきた。

 来た方向を逆走すれば、やがて面々の顔ぶれが見えてくる。

 

「あ、帰ってきたよ!」

 

 手を振るアニスにちゃくっ、と敬礼をして、素早くナタリアの後ろに回りこんだ。

 追いついてきたアッシュと、ナタリアを支柱にくるくる鬼ごっこを続ければ、痺れをきらせたらしいガイが「スィン!」と怒鳴った。

 

「いつまで遊んでんだよ、お前は!」

 

 彼の眼からすれば、否、彼の眼でなくてもふざけているようにしか見えないスィンから黒剣を奪い取り、ん、とアッシュに手渡す。

 

「こいつが迷惑かけた」

 

 詫びとばかりにスィンの脳天に拳骨を下ろせば、彼女は軽い拳打に「痛たたた」と頭を抱えていた。

 

「痛いです、ガイラルディア様。背が縮みます」

「じゃあやるなって」

 

 痛みを緩和させるかのごとく、わしわしと豪快に彼女の頭を撫でるガイを見て、アッシュは少し驚いたようにぽつりと零す。

 

「……治ったのか?」

「僕だけね。僕はトクベツなんだって」

 

 そっ、と丁重に自分の頭の上からガイの手を外し、ひらりと手を振った。

 

「じゃ」

「……ああ」

 

 今度こそ立ち去ったアッシュの背中を、いつまでも眼をすがめてナタリアが見送る。

 

「それで──アッシュの奴、結局なんの用だったんだ?」

 

 彼の意図を探りかね、ルークがため息をついた。

 

「話すだけ話して行っちまったけど」

「そうですわね。久しぶりに会ったというのに……」

 

 それでも、ナタリアの表情はわずかに明るくなっている。少しずつ、偽者呼ばわりされたショックから立ち直りつつあるようだ。

 

「よくわからない奴だよ。あいかわらずな」

「用件はよくわかりませんでしたが、重要な情報を届けてくれましたよ」

 

 放り出すようなガイの弁には取り合わず、ジェイドがレンズの砂を払った。

 

「戦場の崩落、パッセージリングの性質……まあ、後者はスィンから教わったような感じでしたが」

「やはり、わたくしたちを助けようと……」

「それはどうでしょう。結論を出すのは早計というものです」

 

 どうしても好意的になってしまうナタリアの意見を、ジェイドがばっさり切り捨てる。

 ふと、真紅の眼がスィンを見た。

 

「──スィン。レンズに赤いものが付着していますよ」

「へ?」

 

 どこか含みを感じさせるジェイドの指摘に眼鏡を外すと、先ほど吐き出した紅色の飛沫が付着している。

 爪を立てて剥がすと、「傷がつく」とジェイドにいさめられた。

 

「……扱いが難しいね」

「そうですね。激しい運動をすると容赦なく落ちますので、今は外しておいたほうがいいかもしれません」

 

 助言に従い、眼鏡を制服の内ポケットに収納する。

 ロスしてしまった時間を厭うように遺跡へ進むことを促され、ロスの主な原因たるスィンは口を閉ざしてそれに従った。

 

 

 



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第五十六唱——つぎはぎだらけの盾の意味

 

 

 

 

 

「パッセージリング~♪ パッセージリング~♪」

 

 遺跡へ入り、冷ややかな空気が気持ちいいのか。歌うように先を行くアニスを見て、ナタリアが呆れたように呟いた。

 

「緊張感が皆無ですわね」

「はは、いいじゃないか」

 

 微笑ましそうにアニスの背中を眺めていたガイだったが、ふと憂うように一行を──心なしかスィンの方を省みる。

 

「……それより、アッシュの言葉をそのまま信じて大丈夫なのか?」

「アッシュのことを信じられませんの?」

「いや」

 

 ナタリアの問いに理性が否定はするものの、彼の中の悪感情はどうしても悪い方向へと行きがちだった。

 

「ただ、罠じゃないかと思うことはある」

「確かに……可能性は否定できないわ」

 

 当初から、ヴァンとの繋がりを疑っていたティアが賛同しかける。

 しかし、どこまでも冷静なジェイドの意見にアッシュ論議は中断された。

 

「パッセージリングの性質を考えても、情報は正しいものだと思いますよ。ただし、彼なりの目的と意図があり私たちを利用しているのは確かですがね」

 

 ジェイドの言葉は間違いのない事実だ。

 彼にこちらを貶めようという考えはない。それだけは確かだが、だからといって協力関係であろうとする意思はスィンが見る限り皆無だ。

 ヴァンとの繋がりも彼の意思により絶たれたはずなのだが、もしかしたら、という可能性もなくはない。

 元子守役で、世話係で、以前の師であっても、スィンにアッシュのフォローをする意思はなかった。

 憎まれて当たり前という立場で、ナタリアのような絶対の信頼を寄せることは、アッシュに対する冒涜にもなりうる。それは、できない。

 気を取り直すように、ルークが言った。

 

「……今は、外殻大地を無事に降ろすことだけを考えようぜ。それにアッシュだって、外殻大地を消滅させようなんて考えてない筈だ」

「そうね……。こうしている間にも事態は進んでいるんだものね」

 

 一応の納得を見せたところで、なかなか皆が来ないことをいぶかしんだアニスが、たかたかたか、と軽快な足取りで駆けてくる。

 

「どうしたの~? ちゃっちゃと終わらせよ~」

「はは……。アニスみたいにしているのが、今は一番なのかもな」

 

 首を傾げるアニスを尻目に、一行は同意、あるいは苦笑交じりにその言を肯定した。

 以前はイオン奪還のため、スィンの警告を受けて進んだ神殿へ至る橋の上。以前のように第六音素(シックスフォニム)の塊に先導させて歩いていた一行は、不意の揺れに足を止めた。

 

「はうっ!?」

「橋が揺れてる?」

「……橋だけじゃないわ。この地下都市全体が揺れているみたい」

 

 やがて揺れが収まり、息をつく頃、ジェイドがいぶかしげに呟いた。

 

「……微弱ですが、譜術を感じますね」

「私は、感じられませんが……」

 

 それはおそらく、ジェイドが譜眼を所持しているからだろう。かの術は、通常譜術の威力を激増させる──体内に取り込む音素(フォニム)を三倍以上にすることが可能なのだ。

 それだけ音素(フォニム)の在り方に敏感にもなる。事実、スィンも感知には成功していた。ティアが鈍いわけではない。それだけ弱すぎるのである。

 

「罠か? それとも……」

「敵ですの?」

 

 ガイ、ナタリアが警戒を口にするも、だからといって引き返せる状況でもない。

 ルークが再三の注意を呼びかけた。

 

「だとしても、進むしかない。せめて慎重に行こうぜ」

「おや、あなたらしからぬ台詞ですねぇ」

 

 緊張をほぐすかのようなジェイドのからかいに、ルークが「うるせっ」と軽く反発している。

 

「帰りに橋がなくなってる……なんてのはごめんなんだけどなあ」

「やなこと言わないでよ~!」

 

 橋の耐久性を心配したスィンは、アニスの咎めを受けて「ごめんごめん」と気のない返事をした。そしてそのまま歩みを進め、神殿前へと到達する。

 以前は六神将と(まみ)えた地で、一行はまた足元の地面が小刻みに揺れるのを感じた。幸い、立っていられないほどのものではない。

 

「な、なんだ!? 地震!?」

「違います。これは……」

 

 ルークの言葉を否定し、ジェイドが言いかけたところで、ティアの警告に対象者のみならず全員が反応した。

 

「危ない!」

 

 横合いから飛び出してきた魔物、その異様さに一行が目を剥く。

 頭のない蠍のようにも見える。以前ガイに投げた蠍の子供はその尻尾に鋭い針を備えていたが、眼前の魔物は針の代わりにトカゲの頭部の骨のような部位が無性に噛みつきたそうにがちがちと歯を鳴らしていた。

 脳みそがあるようには到底見えないが、狙ってみる価値はある。

 

「来ますよ!」

 

 ジェイドの警告と同時に、甲殻を備え持つデュラハンじみた巨大蠍は突進を試みた。

 流石にそれを止めようとは考えず、一様に避難を試みる。

 

「こっち!」

 

 素早く回り込んで後衛を背に、アニスはトクナガを膨らませた。

 第七音譜術士(セブンスフォニマー)たち──ティア・ナタリアは前衛たちのフォローをするべく、詠唱の準備に取りかかっている。

 

「くらえっ!」

 

 勢いあまって岩場に突っ込んだ蠍の尻に、ルークが斬撃を勢いよく叩き込んだ。がきん、と魔物の甲殻に剣が悲鳴を上げるが、ダメージを与えられない程度ではない。

 好機とばかりにガイが続くが、スィンはその場を動かなかった。今は緋の色に染まる瞳は、ぐねぐねと動く蠍の尻尾を注視している。

 ガイがルークの隣に並んだ瞬間。

 尻尾についたトカゲのような頭蓋骨はぐぐっ、と首のように見える尻尾をたわめ──紅蓮に燃え盛る炎塊を吐き出した。

 自らの背後に立つ、ルークとガイに向けて。

 

「うわわ、何こいつ!」

「下がって!」

 

 アニスの言葉に負けないように、スィンが二人へ警告を放つ。彼らが下がったあたりで炎は地面に着弾し、魔物は己の吐いたそれで自分の尻を炙った。

 傍から見ると間抜けだが、それでも驚異的なことに変わりはない。

 炎が消えるのを確認するや否や、残滓が残るそこでの攻撃を再開する二人をそのまま、側面からの攻撃を行う。

 ちら、と彼らを見やれば、その攻撃にアニスが加わっていた。

 

「吹き飛びなっ!」

「炎よ集え!」

「龍の雄たけび!」

 

 ちゃっかりと残滓、わだかまる第五音素(フィフスフォニム)を活用しているあたり、皆抜け目がない。炎を浴びせるつもりが、炎による攻撃を叩き込まれ、蠍が押されるようにふらついた。

 その隙に、勢いよく蠍の上に飛び乗り、勢いを生かしたままたゆんでいた尻尾を蹴って上空へと跳ぶ。

 ふわ、と一瞬の浮遊を愉しむような余裕は流石にない。

 詠唱はかすかにしか届かないが、ナタリアが攻撃力上昇(シャープネス)を唱えたらしく、振り上げた血桜が輝きを放った。

 

「──裂空斬!」

 

 頭部と首の繋ぎ目を見切り、全体重を乗せるように切断する。

 がごっ、と岩を斬ったような感触に引き続いて、勢いを殺すことなく空中前転でもするかのように魔物から遠ざかり、ガイの隣に着地を決めた。

 断末魔は上がらない。やはりあれが頭部だったのかと魔物を見やれば、本来頭があるべき場所に、なぜか巨大なハサミが生えてきた。

 頭部はといえば、断ち切られたにもかかわらず地面でがちがちと歯噛みを繰り返し、迎えに来た尻尾にどういう原理なのかくっついて戦場復帰を果たしている。

 

「……あれ?」

「やれやれ。しぶといですねえ」

 

 ため息をつくようなジェイドのコメントに腹を立てたわけでもないだろうが、蠍は猛然と反撃を試みた。頭部の顎と新たに生えた鋏を打ち鳴らし、岩場から脱出した体をようやく一行に向ける。

 突如その体が身震いしたかと思うと、どこからともなく落石が降ってきた。

 

「むっ」

「うおっ!」

 

 ジェイドの詠唱が途切れ、同じく直撃を受けそうになったガイが飛びのく。図らずも、ガイの孤立が魔物の目に留まってしまった。

 尻尾がぐぐっ、とたわみ、視認しきれないほどの瞬発力を伴って、がちがちと牙を鳴らす頭部がガイに迫り来る。

 未だ降る落石に注意していた彼は、それが眼前に来るまで気づけなかった。

 

「!」

 

 気づいたときはすでに遅い。

 回避不可能なまでに接近した頭部は、ガイの視界を不気味な空洞のような口腔で塗りつぶし──

 

 どんっ! 

 

「ごめんなさいっ!」

 

 彼は横合いから思い切り突き飛ばされた。完全に眼前の魔物に気を取られていたガイは成す術もなく地面を転がる。

 その最中で最後に聞いた声の主に気づき、慌てて体勢を立て直して見上げれば。

 そこには、ガードしたらしい右腕を噛みつかれ、ぶら下がるように宙を舞うスィンの姿があった。

 尻尾がしなり、スィンの体が側面の壁に叩きつけられる。

 背中から叩きつけられたために悲鳴も上げられなかった彼女は、重力に従ってそのまま地面に崩れ落ちた。

 

「スィン!」

「──唸れ烈風! 大気の刃よ、切り刻め」

 

 中断していた譜術が渦巻く風となって首なし蠍を取り巻く。タービュランスの名残は大地に刻まれ、追い討ちとばかりにアニスの譜術が炸裂した。

 

「紫電の槌よ、びりびりにしちゃって!」

 

 雷が取り巻くように蠍を焦がし、トドメとばかりに雷球が破裂する。黒焦げになった蠍を確認するやいなや、ガイは立ち上がれないスィンに駆け寄った。

 躊躇なく抱き起こし、揺さぶる。

 

「スィン、しっかりしろ!」

「……」

 

 小さく呻きながら、スィンはゆるゆると目蓋をこじ開けた。幾度か瞬きをして、目の前に主がいるとわかった途端、ぱっ、と起き上がる。

 

「ご無事ですか?」

 

 噛まれた腕をかばいながらも、スィンは痛みを訴えることなくガイにそれを尋ねた。

 

「あ、ああ」

「──なによりです」

 

 安堵のため息、そして浮かぶ笑みを主へと向けて。彼女は、はっ、と表情を変えた。

 くるりと背を向け、なにやらごそごそと身動きした後、胸を押さえるような形になって立ち尽くす。

 

「どうした、どこか痛むのか!?」

「……がねが」

「ん!?」

「眼鏡が、壊れました……」

 

 くるりと振り返ったスィンの手のひらには、叩きつけられた衝撃で前衛芸術のように歪んだオブジェがちょこんと鎮座していた。

 左右の蔓があらぬ方向に折れ、度なしのレンズには蜘蛛の巣のような複雑なヒビが縦横無尽に走っている。

 

「ふむ。これなら、衣装をボロに変えるだけでちんぴらにいじめられた路上生活者を演じられそうですね」

 

 石壁へ派手に叩きつけられたというのに、割と平気そうな顔をしているスィンの手を、ジェイドはまじまじと見つめた。

 その瞳が、スィンの普通すぎる表情を映す。

 

「それで、体は大丈夫なんですか?」

「え? あー……腰と背中と腕が痛くて、ちょっと体調不良です」

 

 腕の傷を癒してもらったスィンは、叩きつけられた際、放り出してしまった血桜を腰に収めた。

 その向こうでは、音素(フォニム)となって消滅する頭のない巨大蠍を見送っての議論が交わされている。

 

「それで、こいつは一体……?」

 

 その間に、スィンは棒手裏剣を取り出して地面に譜陣を描いていた。

 頭で仕組みを覚えるのと同時に、戸惑いなく描きこなせるよう覚えさせた手がさらさらと譜陣を形成していく。

 議論はまだ、交わされていた。

 

「創世記の魔物じゃないかしら。以前ユリアシティにある本で見たことがあるわ。ただ、こんなに好戦的ではなかったと思うけど……」

「ここは以前、神託の盾(オラクル)の六神将が来ていましたわね。彼らが刺激したのでは?」

 

 譜陣を描き終え、中央に描いた円の中へ壊れた眼鏡を置く。

 トン、と譜陣の端に人差し指を添え、音素を染み込ませていくと譜陣は描かれた軌跡を追うように発光した。

 

「──よ。時の川をさかのぼることを許したまえ」

 

 簡略化された譜を得て、譜陣は一層強く瞬き──輝きは消失する。

 まるでその力を使い切ったかのように。

 

「遺跡を守ってるだけかも知れないぜ」

「なんでもいいよぅ。とにかくもうこんなのが出てこないことを祈るって感じ」

「同感ですね。では、行きましょうか」

 

 ジェイドの言葉を受け、スィンは眼鏡を拾い上げると後に続いた。

 その手に持つ眼鏡がどうなっているのか。誰一人、気づかぬまま。

 

 

 



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第五十七唱——緊張の中で揺れる、淡いひとときと爆弾発言

 

 

 

 以前イオンが六神将に脅され開けた、かつて封印の扉があった場所をくぐり、中へと踏み入る。遺跡内のひんやりとした空気とはまた違う、厳かなような静謐なような、侵されざる神秘の匂いが一行を包み込んだ。

 道なりに進んでいた彼らであったが、ふと唐突に開けた場所に出で、その光景に眼を奪われる。一行の進む道は空中に差し込まれたような通路で、その側面には超巨大な空間が広がっていた。

 遥か眼下に、かすんで見えるパッセージリングが臨める。

 

「ほわ~、ひろーい! たっか~い!」

 

 アニスの歓声は単純明快にして純粋な感動によるものだった。黙して光景に見入っていたルークが珍しかったのか、ティアが彼に声をかける。

 

「どうしたの、ルーク」

「こんな物の上に暮らしてたなんて、信じられねーやと思って」

 

 それはこの光景を知らない人間に言える共通の感想だろう。口に出してどうにかなるわけではないが、彼女は冷静に人間の矮小さを語った。

 

「でも、これが事実よ。人間は自分の範囲にあるものしか、目が入らないのね」

「……しかし好奇心、知識欲は時として要らぬ事実を人に突きつける」

 

 どこか自嘲気味にジェイドが呟いたが、ガイによってあっさり流される。もっとも、間違ってはいないのだろうが。

 

「外殻大地と同じだな」

「それでもわたくしたちは見てしまったのですから、現実から逃げる訳にはまいりませんわ」

 

 逃げたところで、待っているのは様々な意味での終焉だ。世界は預言(スコア)に踊らされ、そして──

 

「……急ごう。崩落は俺たちを待ってくれねぇんだ」

 

 何の記憶も浮上してこないことを確かめてから、一行に続く。

 眼下に見えた霞はスィンの眼鏡のような伊達ではなく、パッセージリングへ至るまでの道のりは長かった。時折おかしな行き止まりに突き当たっては分岐まで戻り、ようやくたどり着いたときには皆、それぞれに疲労の色が見える。

 

「では、お願いします」

 

 その中でも、あまり疲れているようには見えないジェイドの言葉に頷き、スィンは制御盤のところに両手をかざした。パッセージリングが起動する。

 おかしな細工はされていないか、用心深く巨大音叉の上空に浮かんだ譜陣を見ていたスィンは、一瞬走った赤太いフォニスコモンマルキスを目にして思わず声を洩らした。

 

「う」

 

 瘴気──正確には瘴気に侵された第七音素(セブンスフォニム)を取り込んだことで、鉛を着せられたような重量感が体をずしりと重くさせる。

 しかし、理由はそれだけではない。

 

「どうした?」

「……あ、いえ。何でも」

 

 パッセージリング上部に走った文字。それを眼に留めたのは、スィンだけではないようだった。

 

「やっぱり総長が封じてますか」

「そのようですね。しかし……セフィロトが暴走……?」

 

 ガイの心配を適当にごまかして、ルークを招き、立ち位置を変える。確認──失敗だけはしないように──するように、ルークが尋ねてきた。

 

「なあ、赤いところを削り取るんだよな」

「そう。おかしな細工は見受けられないから、この間のように」

 

 くるり、と削り取られていく赤い軌跡を眺めながら、指示をジェイドに任せる。もともと言い出したのは彼なのだから、大事はないはず。

 パッセージリングに何もないとしたら、周囲に何かあるのかもしれない。それを確認したかった。

 裏技に近い操作はちゃくちゃくと進む。

 

「この後は?」

「ああ、はい。光の真上に、上向きの矢印を彫りこんで下さい」

「私が代わりましょうか?」

 

 ティアはそう申し出ていたが、残念ながら、とジェイドは首を振った。

 

「いえ。強引に暗号を消去していますから、通常の操作では書き込みができません。ルークの超振動で、無理矢理に削っていかないと……」

 

 そうこうしているうちに、ルークが矢印を描き終える。

 

「次に命令を記入しますが、古代イスパニア語は……わかりませんよねえ?」

「当たり前だろっ!」

 

 古代イスパニア語は、日常生活で使用されているフォニック言語とは違い、教養的な分野で教えられる言葉だ。

 士官学校では教えられると聞いたし、王侯貴族も基礎的な教養で家庭教師に教えられるため、本来は知っているべきなのだが、彼の事情は根本的に異なる。

 彼に文字を教えたガイも、スィンの祖父たるペールが教えたのだから知ってはいるのだが、それを教える余裕も、ルークにそれを覚える余裕もなかったと聞く。

 それを知って知らずが、ジェイドは笑ってルークの逆切れを受け流した。

 

「わかりました。今使っているフォニック言語でお願いします。文法はほぼ同じですから、動くでしょう」

「なんて書くんだ?」

「ツリー上昇。速度三倍。固定」

「わかった」

 

 自分の手で書くのと超振動で刻むのはやはり勝手が違うのか、もともと達筆とはいえない字が更に少し歪んだ文字でそれが描かれた瞬間。

 パッセージリングの遥か下から記憶粒子(セルパーティクル)がせり上がってきた。

 細工が発見できなかったパッセージリングの周辺と同じく、おかしなところは一切ない。

 

「うまくいったみたいだな」

「でもまだ、エンゲーブが……」

 

 アニスの指摘を受け、ジェイドは立て続けにルークへ指示を出した。

 

「続いて、第四セフィロトから第三セフィロトに線を延ばしてください」

 

 空中に光の線が刻まれ、セフィロトを示す円陣が繋がる。第四セフィロトから光が伝い、第三セフィロトに輝きをもたらした。

 

「あとは第三セフィロトに、先程と同じことを書き込んでください」

「第三セフィロトってのがシュレーの丘なんだな。やってみる」

 

 このとき。ふと何かを考えついたらしいアニスが、制御盤を見つめるスィンにたたっ、と寄ってきた。

 

「ちなみにさ、ルークが綴りを間違えたらどうなるのかな?」

「パッセージリングが命令を読み取れなくて暴走──」

「そうなのですか!?」

 

 会話は丸聞こえだったらしく、ナタリアの悲鳴のような声でスィンの言葉が中断される。

 ぴく、とルークの手が止まり、彼は慌てて文字の刻まれた上部を見直していた。その苦労を無にするように、スィンの言葉が再度綴られる。

 

「──することなんかはなくて、多分命令がされていない状態での不完全な降下が始まってしまうと思う。どこを間違えるかにもよるけど、まずいことに変わりはないよ」

「お、驚かせるなよな……」

 

 気が抜けたように脱力しつつも、彼は平静を保って一気に文字を刻み上げた。

 スィンと同じく制御盤を見るジェイドがぽつりと零す。

 

「……降下し始めたようですね。念のため降下が終了するまで、パッセージリングの傍に待機していましょう」

 

 そこで、各自は思い思いの休憩を取った。

 スィンを除いた女性陣、ジェイドを除いた男性陣が少し離れた場所で横になる中、スィンはその場を座ったまま、約一名も離れようとしない。

 制御盤、そしてパッセージリングそのものを無言で監視しているうち、初めはいないものと考えていた隣の存在が妙に気になってきた。

 

 見るな。見たらもっと気になる、絶対気になる。

 

 ジェイドは何をしているんだろうと何故か気になる好奇心と、見たらきっと厄介なことに、と警告する理性。

 相反する心は同時に存在を主張し──スィンの本心を勝ち取ったのは好奇心だった。

 心持ち顎を引き、そーっと視線を移動させてジェイドの顔を盗み見る。顔は固定したまま、眼球だけじりじりと動かしていって──がちっ、と固まった。

 ジェイドの顔はある。しかし、それは横顔ではない。ジェイドはパッセージリングを見てはおらず、スィンを凝視していたのである。

 それを頭が認識した途端、石化していた目蓋が瞬き、眼球の位置が元に戻った。

 内心だけであるはずの困惑をジェイドはしっかりと観察していたようで、彼はくっくっ、とハトのような含み笑いを洩らしている。

 妙に気になっていた原因が、ジェイドの視線だったとは。いたたまれなくなったスィンは、完全無視を諦めて彼に話しかけた。

 

「……人の横顔見てて楽しいですか?」

「そうですね。私に視線に気づき始めたあなたを観察するのはなかなか面白かったですよ」

 

 ふざけろ、このクソオヤジ。

 こんなことを口に出しては何をされるかわからないため、比較的どうでもいい話題を取り出してみる。

 

「休まなくていいんですか? これまでの行程、年寄りにはきついと思うんですけど」

「年寄りの部分だけ変えてお返ししますよ、先天性の疾患を抱えた騎士くずれのお嬢さん」

「騎士くずれ……一応騎士の家の子なんですけどね。ついでに、お嬢さんなんて歳でもない」

 

 どうやら元より、彼はスィンと同じくパッセージリングの監視を努めようとしていたらしい。よく年寄りぶって楽しようとするくせに、こういうところはマメな人だ。

 

「一応細工は見受けられなかったけど、何か不具合が起こっても困る。緊急の際はすぐ動けるようにしておきたいんです」

「そうですか」

 

 疲れていたのだろう。後ろの方で、いくつかの寝息が聞こえてきた。 パッセージリングは変わらず記憶粒子(セルパーティクル)を制御し、唯一制御盤がゆるやかな大地の降下を教えてくれる。

 うーん、と伸びをしながら後ろへ倒れ、床に背を預ければ、記憶粒子(セルパーティクル)の上りゆく光景が見て取れた。

 きらきらと宙を舞うその姿は、まるで魂が天へ召されていくかのようだ。

 後頭部に両手を当てて腹筋で起き上がると、ジェイドが話しかけてきた。

 

「──スィンは、グランツ謡将と親交がありましたね。彼がどういった人間なのか、お尋ねしてよろしいですか?」

 

 それならティアに聞けばいいのに。そう言いかけて、スィンは口を閉ざした。

 今の状況下でティアに、あるいはルークにそれを尋ねるのは少なからず酷だ。

 どういった意図でスィンにそれを尋ねたのか、あるいは単なる興味からのものか。それを図りかねたので、追求はやめた。

 

「どういった人間……ティアに似てますね。生真面目で、優しい。頑固で厳しくてちょっと口やかましいけど、人間味がありますよ。まあ、これらは多分気を許した人間のみですね。時々容赦というものを忘れる。裏切り者には冷たい。年齢の割に言動が渋い。……大佐とは正反対」

 

 好き勝手にヴァンの特徴を挙げ連ねた彼女であったが、その顔色に嫌悪はない。むしろ在りし日の思い出を懐かしがっているように見える。

 

「戦闘タイプは基本剣士、けど第七音素(セブンスフォニム)を扱う素養を持ち、譜術の行使も可能。体格が恵まれているために小細工は通用しないことの方が多い。知略策謀にも長ける──けど、大佐と比べるとなると難しい。亀の甲より年の功で大佐が上と考えるべきかな?」

「好きにしてください」

 

 初めて得られた気のない感想のような回答にジェイドを見れば、彼はまるで拗ねた子供のように三角座りで向こうを向いている。

 なんとも珍しいポーズにどうかしたのか、と問えば、彼はちらっ、とスィンを見て呟くように言った。

 

「あなたは、よっぽど深くヴァンに惚れていたんですね」

「……そりゃまあ、一応。指輪も交わした仲ですし」

 

 オールドラントの婚姻は、基本的に規定年齢に達した男女が指輪を交わし合った時点で夫婦の契りを交わしたということになる。どこそこへ書類を提出しなければいけないということはない。精々、両親の許可を得るくらいだ。

 王侯貴族などは種々の儀式を行わなければ正式に認められないのだが、一般市民は初めに指輪を取り交わし、そして披露宴にて近しい人間たちに発表すれば晴れて夫婦となる。

 

「僕たちの場合、それを教えなきゃならない人間は数少なかったし、下手にばらして有事の際の弱みに繋がっても困るから、公言だけはしなかったんです。まあ、こんな状態になってしまったので、しかるべき措置を取りましたが」

 

 左の小指にはめた指輪。

 一度ルークに響律符として見せたものだが、これは夫婦の契りを交わした証と言う役割も兼ねていた。

 

「……そうですか。それは良かった」

 

 何が良かったのかスィンにはわからなかったが、とりあえず納得したようなのでよしとする。

 そこで、何を思ったのかジェイドはゆっくりと頭を、体を傾け──

 

 ぽふ。

 

 適度な重みと表現するが正しい重量が、スィンの太腿に転がった。

 

「……った」

「気が抜けてしまったので少し仮眠を取らせてもらいます。異性恐怖症を治す訓練だと思って、頑張ってください」

 

 事態が把握できなかった上一方的にまくし立てられたためにフリーズした思考は、時間と共に解凍されていく。ちら、と己の膝を見やれば、そこには茶の色合いが強い蜂蜜色の髪が無造作に投げ出されていた。

 ジェイドが、スィンの膝を枕にして寝ている。

 珍しいだのなんだの思う前に、男の頬が自分の太腿に押し当てられているこの感触が、背筋を総毛出たせた。震える手でジェイドの頭を掴んでどかそうとしたのだが、彼は頭を触られた時点で腕をスィンの腰に絡めてきている。

 悲鳴を上げそうになって、自分の口を手で塞いだ。寝息は絶えず聞こえてくるのだ。たとえさっきのやり取りで寝息がいくつか減ったような気がしても、誰かが寝てる以上起こすのは可哀想だった。

 

 これは石。ちょっと温かくて呼吸をする、毛と腕が生えた石。自らにそう言い聞かせて、深呼吸を繰り返し、震えを抑えて、叫びながら立ち上がりたい衝動を堪える。異性恐怖症を治す訓練として度々行う大佐タッチ、触れ続けた時間としては大幅更新となるだろう。

 

 そのままの体勢でいること、しばし。人間の頭はやはり重く、もう少ししたら痺れてきそうだな、と思った時点で、足元が軽く揺れたような気がした。

 ジェイドを揺さぶって起こし、膝からどけて制御盤を覗き込む。異変を感じ取ったのは皆も同じなのか、背後で身動きするような気配を感じた。

 

「二人とも、どうだ?」

「完全に降下したようです。パッセージリングにも異常はないですね」

 

 ルークの問いに、ジェイドが振り返ってそう答えた。確かに、異常は見受けられない。気がかりは、ひとつに絞られた。

 

「よかった。……へへ、何かうまく行きすぎて、拍子抜けするぐらいだな」

 

 そう思う気持ちはよくわかるが、彼には方向性が違うとはいえ前科がある。その傍に駆け寄り、アニスがルークの脇腹をついた。

 

「あんまり調子に乗らない方がいいんじゃないですかあ?」

「……う、それはそうかも」

「お、しおらしいな」

 

 からかいの含まれるガイの言葉に、ルークは真摯に返した。その声音には、これ以上ないくらいの切実さがこもっている。

 

「調子に乗って、取り返しのつかねえことすんのは……怖いしさ」

 

 ふと彼は、眉根を寄せた。

 

「ティア。んな顔しなくても俺、もう暴走しねーって」

「ううん。そうじゃないんだけど……」

「きっと疲れたんだよ。なんだかんだで降下に丸一日以上かかってるもん」

 

 今しがたのパッセージリング起動に彼女は関わっていないはずなのだが、以前の起動が関係しているのだろうか。

 単に疲れたというのも、ルークへの心配もあるかもしれないが、瘴気を直接吸収したのだ。関係ないとは言い切れない。

 スィンがそれを心配した直後、ぐらりと視界が揺れた。どうにか体を安定させようと失敗し、そのまま真横に倒れこむ。

 

「大丈夫か!?」

「……すみません。なんか、眩暈が……」

 

 ガイの胸の中で、彼に頼らまいと足を踏ん張ろうとして失敗した。完全に砕けた膝が自重に従い、腕が彼に抱きつく形となる。

 安定しない視界を正常化させるべく幾度か眼を瞬かせ、深呼吸を繰り返せばどこか懐かしい匂いがした。

 大分昔、ホド戦争によって一挙に家族を亡くした彼を寝付かせようとしたとき。目端に雫を溜め、亡き父、亡き母、亡き姉の名を紡ぐ幼子の頭を撫でて、子守唄を歌ったのはいつが最後だっただろうか。

 追憶に浸っていたスィンの思考を寸断したのは、頭を鷲掴みにされたような頭痛だった。

 否、されたような、ではない。

 

「あ痛たたた!」

「……いつまで寝てるんですか、あなたは」

 

 吊り上げられるような感覚と一緒に、温もりが遠ざかった。

 どうにか自分の足で立ち、無理やり振り返ればスィンの頭を片手で掴んでいるジェイドの姿がある。音が立つほどの勢いでひっぺがした。

 

「寝てません、ちょっと意識が遠くなっただけです! ……ガイラルディア様、失礼しました」

 

 抱きついてしまったことで服に皺が寄っているガイの衣服をささっ、と直す。ほんのわずかに、香水の匂いがした。

 

「すみません、匂いをうつしてしまいました」

「いや、そんなものどうでもいいが、大丈夫なのか?」

「だから休めといったんですがねえ」

 

 ジェイドの嫌味はこの際無視。ガイに「大丈夫です」と笑顔を向けてから、スィンはティアの顔色を見た。わずかな時間とはいえ睡眠を取ったはずだが、あまり芳しくない。

 

「ティアは大丈夫? 顔色悪いけど……」

「え、ええ。大丈夫よ。体調管理もできないなんて、兵士として失格ですもの」

 

 微笑を浮かべたティアに、ナタリアが心配そうに眉をひそめて確認した。

 

「兵士とか、そんなことを気にするより、もっと体の心配をなさい。本当によろしいんですの?」

「あ、ありがとう。でも本当に平気よ」

 

 心配されたことが気恥ずかしかったのか、彼女はわずかに頬の血色を良くしていた。

 

「それなら、外に出ましょう。魔界(クリフォト)に辿り着いているのか、確認した方がいいですから」

 

 ジェイドの提案を受け、一行が再び歩みだす。

 

「スィン、本当に大丈夫なのか? おぶってやろうか?」

「大丈夫ですよ。それに、僕はこう見えて結構重い──「おやおや、主に嘘をついていいんですか?」

 

 不意に後ろから声が聞こえたかと思うと、膝裏がつま先か何かに蹴られた。

 

「っ!」

 

 バランスを保とうとその場に留まる。しかし、スィンが地面へ倒れこむより早く膝裏と背に手が回ったかと思うと、ふわりと体が浮き上がった。

 

「!?」

「ふむ。なんとなくシュレーの丘のときよりも軽くなっているような気がしますねえ」

 

 近すぎる声に顔を上げれば、すぐ近くに眼鏡をかけた緋色の目。

 

「なっ、なっ、なっ……!」

「膝枕のお礼にこのまま地上まで運んで差し上げましょうか?」

 

 傾げられた小首に合わせ、茶の色合いが強い蜂蜜色のストレートがさらり、と揺れる。

 

「けっ、結構ですっ!」

 

 いきなり起こった騒動に一同が声もなく眼を見張る中、ジェイドにプリンセスホールドされたスィンは顔を青くして暴れた。それに逆らうことなく手を緩めた彼から素早く逃れ、地に足をつけた彼女は、青かった顔色を赤くして言い立てる。

 

「何すんですかいきなり!」

「横抱き──お姫様抱っこというものにチャレンジしてみたんですが何か?」

「挑戦しないでください、ぎっくり腰起こされても運べる人は限られてるんですから!」

「そっちかよ!」

 

 一同の共通する想像とは大分かけ離れた抗議に、思わずルークが突っ込んだ。

 

「それ以外に何かあるの?」

「いや、恥ずかしいとか男嫌いなんだから触るなとか」

「それもあるけど、大佐の年齢考えるとありそうな事故じゃん。よく言うでしょう? 『寄る年波には勝てない』」

「いや、そーかもしんねーけど……」

「ルーク、大佐を担いで運びたいの? 僕嫌だからね」

 

 不思議そうに尋ねるスィンに、反論の余地がなくなっていくルーク。

 これまでのやり取りを見ていたアニスは、どこかやり手ババアにも似た笑みを零していた。

 

「アニス、どうかしたの?」

「ん~、べっつに~? いよいよ大佐が動きだしたかなあ、と思ってさ」

 

 初めからこの人は皇帝の命で動いていた気がするのだが、気のせいだろうか。追求しかけて、ナタリアの質問にそれをやめる。

 

「そういえば、膝枕とは何のことなのですの?」

 

 起こった出来事をそのまま話せば、アニスの笑みはますます深くなり、ナタリアは歓声を上げて頬を染め、ティアはやれやれとばかり首を振り、ルークは苦笑いを零していた。

 後の二人は、といえば。

 

「旦那……」

「はっはっは。いいじゃないですか、副官にそれくらいねだっても」

「あのなあ!」

 

 こんなところで偽装設定を持ち出されても、と思いつつ、言い合いながら地上を目指した彼らの後を、彼女は黙々とついていった。

 パッセージリングの有する、瘴気に侵された第七音素(セブンスフォニム)。それを取り込んでうまく放出できない体が、ひどくけだるく感じられた。

 緊張を解すためだと思いたい会話に加わる余裕もないほどに。

 

「嫌がらせにもほどがあるぞ!」

「嫌がらせとは心外です。早いところ異性恐怖症を治して頂かないと」

 

 

 

 



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第五十八唱——安堵の直後に訪れたは、新たなる問題

 

 

 

 以前遺跡に潜った際、スィンも使用したという一方通行の転送装置を利用し、地上へたどり着き。周囲の雰囲気と空を見比べ、ルークがぽつりと呟いた。

 

「間違いなく魔界(クリフォト)だな……」

 

 空は禍々しい濃い紫の色に染まり、空気は明らかな変質を遂げている。これを見れば成功したことは明らかなのに、やはり気分は滅入るのか。

 外殻大地降下に成功した喜びを語ることなく、アニスが不安そうに皆の顔を見渡した。

 

「でも、ここからどうやって外殻に戻るの?」

「そうか。アルビオールはまだ戻ってなかったな」

「合流場所はケセドニアです。ノエルの腕なら、降下中の大陸にも着陸できたと思いますが……」

 

 真実は合流場所たるケセドニアで判明する。そんなことはわかりきっているために会話には加わらず、スィンはあらぬ方向を見据えて眼を細めた。

 ここからでは位置が悪すぎて目当てのものがよく見えない。第三音素(サードフォニム)を通じて見たほうがいいだろうか? 

 

「とりあえず、ケセドニアへ言ってみましょう」

 

 ティアの提案により、一行が移動を開始する。発動が比較的容易いとはいえ、探索の秘術は移動しながら発動できるほど単純なものではない。

 行使をあきらめて一行の後についていくと、しんがりを努めることが多いジェイドが寄ってきた。

 

「……空を気にしていたようですが、セフィロトの件ですか?」

「うん。あんな表示されていた以上事実だと思うし、保ってくれたほうだと思うけど、今現在どんな風になってるのかが知りたい」

「そうですか。ではやはりノエルに頼んだ方がよさそうですね」

 

 ジェイドがあの表示を気にしていたことは先刻承知。

 それを言い出さなくて済む嬉しさから、ほんの少し足が軽くなったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道中何もなく──以前通過した際は魔物やら追い剥ぎに襲われたというのに──ケセドニアに一歩足を踏み入れる。街中は思いのほか混乱が少なく、そして人通りも皆無に近くなっていた。

 数少ない通りの人に話を聞くと、皆屋外にひっこんでいるらしい。

 そこへ、実に快活な砂を蹴る音が聞こえた。

 

「皆さん! ご無事でしたか!」

 

 そして聞き覚えのある声。その姿。

 そこには、アルビオールとセットで考えていい少女・ノエルが息を切らせて立っていた。

 

「そっちこそ! いつケセドニアに着いたんだ?」

「この辺りが降下する少し前です」

「エンゲーブのみんなは?」

「無事に、ここまで運び終えました」

 

 朗報に、地上に戻って初めての笑みが零れる。

 

「よかった~。お疲れ様v」

 

 アニスのねぎらいが消えるか消えないかというところで、ジェイドがさっそく切り出した。

 

「到着早々申し訳ありませんが、飛んでもらうことはできますか?」

「もちろんです。私はアルビオールで待機しています。準備ができ次第、いらしてください」

 

 疲れなど微塵にも感じさせない軽快な足取りでノエルが走っていく。

 どうやって国境を越えてきたのだろうか。少し気になったものの一行の頭にそれはないらしい。

 

「外殻へ戻るのか?」

「少し気になることがあるので、魔界の空を飛んでみたいんですよ」

 

 どこか、どころかかなり含みのある言い方に、やはり疑問の声が現れた。

 

「何が気になってるんだ?」

「……確証のないことは言いたくありません」

「大佐がこう言う時は、何か嫌なことがある時ですよねえ」

 

 思わしげな表情でアニスが憂鬱そうに彼を見る。まったくもってその通りだと、スィンは思った。

 

「わかった。とにかく飛んでみよう」

 

 国境の付近は、さすがに兵士が常駐している。敵国の兵士がすぐ近くにいるのに、動揺したところは見せられないということだろうか。

 酒場の扉を通ってマルクト領へ入ると、マルクトの兵士はジェイドを見てぴしっ、と敬礼を送ってきた。

 

「スィン」

 

 小声で囁かれ、自分が軍服を着ていたことを思い出す。慌ててマルクト式の敬礼を返し、顔を覚えられないうちにさっさと国境付近を立ち去った。

 

「マルクト軍式の敬礼を教えてなかったので内心ひやりとしたんですが……知ってたんですか?」

「そんなに堂が入ってましたか? 見よう見まねだったんですけど」

 

 まぜっかえすように誤魔化したが、嘘である。本当はマルクト軍基地に潜入した経験があり、その際の訓練で身につけたものだ。見よう見まねでやろうと思っていたが、思わず体が動いてしまった。

 敬礼の仕方が以前と変わっていなかったことが唯一の救いである。

 しかし、髪と目の色は変えていたとはいえ街中で軍服を着た素顔を軍人にさらしてしまったのは痛かった。変装用の眼鏡をかけて、ティアに目ざとく発見される。

 

「あら? その眼鏡、遺跡で壊したんじゃ……?」

「よ、予備に一個パクッといたんだよ。街中だけかけようと思ってて、すっかり忘れてた」

 

 ガイをかばった自分自身から気をそらせるためにわざわざ見せたのに、こんなところで仇となるとは。自分の至らなさに内心歯噛みしつつ、スィンは不躾な視線を気づかないフリで無視を貫き通した。

 やがてケセドニアの街を通過し、アルビオールに至る。

 ジェイドの指示でノエルにセフィロト方面へアルビオールの操縦を頼めば、やがて洋上にそびえる輝きの大樹が肉眼視できた。

 しかしその様相は──一目で異様と判別できるものとなっている。

 

「うわっ、あのセフィロトツリーおかしくないか?」

「まぶしくなったかと思ったら、消えかかったり……。切れかけの音素灯みたい」

 

 ルーク、アニスの感想が関連しているわけでもないが、ジェイドは大きくため息をついた。

 

「やはりセフィロトが暴走していましたか……。パッセージリングの警告通りだ」

「セフィロトの、暴走?」

「ええ」

 

 男性にしてはひどく優美ともとれる眉をしかめたまま。ジェイドの説明が続く。

 

「恐らくなんらかの影響でセフィロトが暴走し、ツリーが機能不全に陥っているのでしょう。最近地震が多いのも、崩落のせいだけではなかったんですよ」

「待ってください! ツリーが機能不全になったら、外殻大地はまさか……」

 

 声を震わせるティアに皆まで言わせず、彼はその問いの肯定とも取れる返答を口にした。

 

「パッセージリングが耐用限界に到達と出ていました。セフィロトが暴走した為でしょう。パッセージリングが壊れればツリーも消えて、外殻は落ちます。そう遠くない未来にね」

「マジかよ!」

 

 吐き棄てるようにルークが零す。が、すぐにその顔がティアの方に向いた。

 

「ユリアシティの奴らはそのことを知ってるのか?」

「お祖父様はこれ以上外殻は落ちないって言ってたもの……。知らないんだわ」

 

 追い討つように、ガイが疑念を口にする。

 

「なあ。ケセドニアもセフィロトの力で、液状化した大地の上に浮いてるんだよな? なら、パッセージリングが壊れたら……」

「泥の海に呑み込まれますね。液状化した大地が、固形化でもするなら話は別ですが」

「そもそも、瘴気の汚染と液状化から逃れるために、外殻大地を作ったのでしょう? 外殻大地を作った人々すら大地の液状化に対して何もできなかったのに……」

 

 ジェイドの絶望的な答え、ナタリアの最もな意見に一同は押し黙るしかなかった。

 せっかく大地が無事だというのに、こんな事態が起きようとは。

 

「なあ、ユリアの預言(スコア)にはセフィロトが暴走することは詠まれてないのか? 暴走するには理由があるだろ。対処法とか、預言(スコア)にないのかよ」

「残ってるとしても、お祖父様では閲覧できない機密情報じゃないかしら」

 

 沈黙の後にルークがそんな提案をしてはいるが、彼女の祖父はこれ以上の崩落を知らない。ということは、そんな情報をもとより知っているわけがない。

 再び沈黙が訪れる。ふとアニスが独り言のように呟いた。

 

「……イオン様なら」

 

 一同の視線が彼女に集中する。

 

「イオン様なら……ユリアシティの機密情報を調べることができると思う……」

「本当か!?」

「うん。だって、導師だし……」

 

 考えてみれば、彼はああ見えてローレライ教団最高指導者なのだ。実質的な権力はモースが握っているのかもしれないが、表向き彼に逆らえる人物は少ない。

 

「だったらダアトへ向かおう! 何か対処法があるかもしれない!」

 

 やっと活路を見出せた、とばかり嬉しそうに提案するルークに、ナタリアがわずかに不安げな表情をのぞかせる。

 

「でも、戦争を止めるためにバチカルへ行くというのはどうしますの」

「戦場が降下したのなら、戦争どころではなくなっていると思うわ」

「……ええ。そうだといいのですが」

 

 ティアの言葉に頷きながらも、偽者呼ばわりされたことを思い出したのか。

 彼女から不安そうな表情が消えることはなかった。

 

 

 

 



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第五十九唱——崩落が招くは世界の困惑

 

 

 

 

 

 

 ユリアシティの北東にあるセフィロトを利用し、外殻大地に再浮上したアルビオールはダアトへ向かう途中。大地が根こそぎくり抜かれた、無残な大陸跡に差し掛かった。

 

「ルグニカ大陸で外殻大地に残っているのは、グランコクマの周辺だけになってしまいましたね」

 

 馴染み深い地を惜しむように、ジェイドが窓の外を一瞥して呟く。

 

「パッセージリングが上手く機能して、戦場の兵士たちが無事でいればいいのですが……」

「そうだな。それにカイツールにも住民が残ってた筈だ。あそこまで落ちてるとは思わなかったよ」

 

 ナタリアが戦場の兵士たちを気遣い、ガイも思いがけなく崩落──正確には降下だが──した地域を憂えていた。

 ルークもまた、わけのわからない事態に混乱することの苛立たしい気持ちを知る彼らしく、ぽつりと零している。

 

「みんな混乱してるだろうな……」

 

 ──その言葉を肯定するかのように、ダアトはかなり落ち着きがなかった。ダアトの街より少し離れた場所でアルビオールから降りれば、馬車がぞくぞくとダアトにやってくる。

 港方面に行こうとした馬車はやってきた定期便の御者から事情を聞き、急遽出発を中止していた。そして民衆は、ローレライ教会を目指す。

 とは言えど、一行の大半はそれに気づいておらず、ナタリアなどは久々に感じる瑞々しい大気を愛でていた。

 

「砂漠からだと、この辺りは天国ですわね」

「火山の影響でホントは結構蒸すんだけど、そんな感じしないもんね。ダアトサイコー」

 

 しかしその空気は、ルークの一言によりいきなり不快なものと化す。

 

「……だけど、俺たちなんか汗くさくね?」

「うーん。みんなが汗くさいと臭いはわからないぜ?」

 

 と、馬車の行き交いに気を取られているジェイドは別として、男性陣はあまり気にしていなかった。

 しかし女性陣、特にこの人は気にしないはずはない。

 

「汗くさい王女なんて……いえ、考えてみればわたくしは本当は、王女ではないのかもしまれせんし」

 

 汗臭さから派生しての偽王女疑惑を思い出してしまい、落ち込んでしまっているナタリアをなぐさめるべく、ティアが慌ててフォローを入れている。

 

「ナ、ナタリア? 落ち込まないで。私たち、汗くさくはないと思うわ」

「ティアティア。なぐさめるならそっちじゃなくて王女かどうかの方だよ」

「あっあっ……ごめんなさい」

 

 ただし彼女はナタリアほどではないにせよ、魔界(クリフォト)育ちであるせいか、少し感性がズレていた。

 はじめて見る魔物の名前はわんたろーがいい、などと時々言い切ってしまう辺り、そのズレようがよくわかる。

 

「うーん……臭うわけじゃないんだろうけど、やっぱ気になるんだよ……って、ジェイドの方から微かにいい香りがする。香水?」

「香りは紳士のたしなみですので」

 

 臆面もなく言い切ったジェイドに、スィンは思わず「へっ」と笑ってしまった。

 

「嘘嘘。きっと年と共に加齢臭がきつくなってきたから隠してるだけ……」

「おや、あなたからは爽やかな柑橘系の香りがしますね。ワキガですか?」

「ちがわい!」

 

 思わぬ逆襲に──最近頻発してきた吐血の血臭を隠しているのが事実だ──スィンは思わずジェイドの軍服の襟を掴んで締め上げようとして、ぱっ、と襟を放した。

 淡いシトラスの香りに驚いたわけではない。異性恐怖症が発動する前に、重要な事実を思い出したのである。

 ここはダアトだ。緊急招集のかかっている自分が、変装しているとはいえ、堂々入っていくのはいかがなものか。多分、イオンとの再会は全員ひっそりと、だろうが、それでも気をつけてはおきたい。

 ジェイドに対する怒りは忘れ、懐から取り出した眼鏡をかける。度なしとはいえ、どこか視界が制限されたような感じだ。

 

「譜眼暴走の抑止とはいえ、常日頃これを着用する大佐を尊敬します」

「おや、尊敬されてしまいました。それ以外のことでも尊敬してくださってかまいませんよ?」

「いくらでも。自分に出来ないことをやってのける人間(かた)は基本尊敬の対象です。もちろんディストのあの奇行も対象ではありますね。僕には逆立ちしても出来る気がしません。ディストってすごいなあ。だから大佐もすごいですね」

「……だから、の意味を是非ご教授いただきたいところです」

「あれ? 大佐なんで怒ってるの? 僕割と正直に褒めただけなのに」

「スィン……それ、絶対褒めてないよね……?」

 

 彼が毛嫌いしている人間をわざわざ取り出すあたり、その狙いは穿わずとも見えてくる。持ち上げて落とすのは常套手段であると誰かが言っていたが、これは先程のワキガ呼ばわりに対する意趣返しなのか。

 その後、スィンは女性陣、ジェイドは男性陣に香水の貸与をせがまれつつも、依然来たときより三割増しになっている人の流れに沿って教会前へとたどり着く。

 普段開放された教会の扉は閉ざされ、黒山の人だかりができていた。人ごみにまぎれ、ざわめきを拾い集める。

 

「いつになったら船を出してくれるんだ」

「港に行ったら、ここで聞けと追い返されたぞ!」

 

 不満をぶち曲げる人々に対し、詠師トリトハイムは豊かな声量で、しかし隠しきれない焦燥をにじませ理由を語った。

 

「ルグニカ大陸の八割が消滅した! この状況では、危険すぎて定期船を出すことはできぬ!」

 

 当然のことながら、否定の声が乱反射する。

 

「嘘をつくな! そんな訳がないだろう」

「嘘ではない! ルグニカ大陸の消滅によって、マルクトとキムラスカの争いも休戦となった。とにかく、もっと詳しい状況がわかるまで船は出せぬ」

 

 有無を言わさぬその声音に、巡礼者が中心だと思われる人だかりは徐々に薄れていった。納得したわけではなく、ここにいても無駄だと判断したのだろう。民衆から愚痴がとめどなく零れていく。

 それは確かに、ルークたちの耳にも不満げな、そして不安の色濃い響きを残していった。

 

「ルグニカ大陸って言えば、世界で一番でかい大陸だ。それが消滅したなんて……。信じられん!」

「どうなってるんだ、世界は……」

 

 人だかりが薄れるに従って、詠師を護っていた兵士や詠師自身が教会へと戻る。

 これまでの会話から得た情報を確認するように、ガイがぼそりと呟いた。

 

「この状況で戦いを続けるほど、インゴベルト陛下も愚かじゃなかったってことだな」

「ええ、それだけが救いですわ」

 

 真偽はともかくとして、父たる彼をこのようにけなされても、ナタリアはもうかばうようなことをしていない。むしろ全力で肯定している。

 事実なのだから、仕方がないが。

 

「でも、このことがもっと大勢の人に知られたら、大混乱になるな……」

「この先どう対処するかがわかれば、それも抑えられる筈よ」

「そういうことですね。イオン様に面会しましょう」

 

 ルークが言い、ティアが答えてジェイドが同意を示し、先を促す。教会内に足を踏み入れるなり、ガイが誰ともなく尋ねた。

 

「イオンはどこにいるんだ?」

「ご自身の私室ではありませんか?」

 

 普通に考えればそうなるが、「でも」とティアが障害の存在を示唆している。

 

「導師のお部屋は教団幹部にしか入れないわ。鍵がわりに譜陣が置かれていて、侵入者対策になっているの」

 

 そこで、ティアの心配を吹き払うようにアニスが元気よく挙手をした。

 

「そんなときは、導師守護役(フォンマスターガーディアン)のアニスちゃんにお任せv」

「元、だろ」

 

 非公式とはいえ、最高権力者じきじきの解雇を揶揄するルークに頬を膨らませつつも、彼女は胸を張ってアピールしている。

 

「ぶー。『元』だけど、ちゃんとお部屋に続く譜陣を発動させる呪文、知ってるモン」

「譜陣って、隣の部屋にあったやつだろ?」

「そゆこと。さ、いこ~」

 

 アニスに先導され、一行は隣の間へ移動した。幸いなことに表のごたごたが影響しているのか、それほど人目がない。

 柱が居並び、すぐ傍に大きな階段のある小規模の広間。その中央部が正方形にへこんでおり、計五つの譜陣が描かれている。

 

「これこれ」

 

 どこか楽しげにアニスが呟き、五つの譜陣のうち、中央に描かれた譜陣の上へ迷いもなく乗った。

 

「えっと……『ユリアの御霊は導師と共に』」

 

 その瞬間、譜陣は光り輝き、アニスの姿が一瞬にして──消えない。

 

「あ、あれ?」

「おいおい、どうしたんだよ」

「おっかしいなぁ……」

 

 調子のおかしい音機関を叩くのと同じような調子で足元の譜陣を踏むアニスを見つつ、スィンがぽつりと呟いた。

 

「呪文が変更されたんじゃない? 解雇した導師守護役(フォンマスターガーディアン)に入られないように、って」

「え~、そんなことないよう。イオン様がそんなの許可なんて……」

「だから。モースが勝手に変えちゃった、とか」

 

 ありえない話ではない。現に今、アニスの知る呪文では譜陣が発動しないのだ。むしろ、それ以外に考えられない。

 

「ど~しよ~、そんなの初耳だよう!」

 

 頭を抱えてくるくる回すアニスに、しばし考え込んでいたスィンが近寄った。

 

「ちょっと試してみたいんだけど……いいかな?」

 

 アニスをどかし、譜陣の上に立って。スィンは実に懐かしい合言葉を口にした。

 

永久(とわ)に、(とこしえ)に、ユリアの御霊よ、導師と共にあれ」

 

 輝きがスィンを包む。次の瞬間、スィンの視界から一行の姿がなくなっていた。

 

「……ラッキー」

 

 誰も来ないことを確かめて、もう一度譜陣を使う。光の先に見えたのは、とにかく驚くアニスの姿だった。

 

「すっご~い。なんでわかったの?」

「あれ、僕がここで働いてたときの呪文だよ。ダメ元でやってみたんだけど、試してみるもんだね」

 

 思わぬ幸運に一同目を白黒させながらも、再び譜陣での移動を図る。再びアニスの先導で向かって左の通路を進み、扉を叩くも、反応はない。アニスがそっとノブを回してみるが、鍵はかかっていなかった。

 鍵代わりに譜陣が使われているのだから当たり前ではあるが。

 

「イオンの奴、どこに行ったんだ」

 

 殺風景な部屋の中、数少ない調度品である執務机に備えられた椅子を触るが、温もりなど欠片も残っていない。

 アニスが奥の扉に駆け寄ったところで、ティアが急に声を潜めた。

 

「しっ、静かに。誰かくるわ!」

「ヤバ……ここは関係者以外立ち入り禁止だよぅ!」

「隠れよう!」

 

 ガイの言葉に素早く反応し、アニスが開いた奥の扉に滑り込む。

 どうにか気づかれず奥の寝室に全員が退避した後に、ひとつの足音、ふたつの気配が入室していた。

 

「ふむ……誰かここに来たと思ったが……気のせいだったか」

「それより、大詠師モース。先ほどのお約束は、本当でしょうね。戦争再開に協力すれば、ネビリム先生のレプリカ情報を……」

 

 細く空けた扉の隙間から見えたのは、徒歩のモースに例の派手な椅子にふんぞり返っているディストの姿である。

 ジェイドが嫌そうに眉をしかめるのがわかった。

 

「任せておけ。ヴァンから取り上げてやる」

「ならばこの『薔薇のディスト』、戦争再開の手段を提案させていただきましょう」

 

 こんなときにも自分の二つ名を主張するとは、なんとも天晴れなバカである。

 

「まずは、導師イオンに休戦破棄の導師詔勅を出させるのが、よろしいかと」

「ふむ。導師は図書室にいたな。戻り次第、早速手配しよう」

 

 足音と共に気配が去っていくのを見届け、ジェイドが口を開いた。

 

「……今の話を聞くと、モースとヴァンは、それぞれ違う目的の為に動いているようですね」

「ああ。なんかディストが自分の目的のために、二人の間でコウモリになってるって感じだった」

 

 ルークはこういうものの、ジェイドはディストの存在を黙殺することにしたらしい。

 さして脅威ではないからというのが理由だろうが、それ以上に触れたくないのかもしれない。

 

「モースは預言(スコア)通り戦争を起こしたいだけ。ではヴァンの目的は?」

「外殻大地を落として、人類を消滅させようと……」

 

 ティアが即答するものの、彼はそれを肯定せずにただ、疑念を口にした。

 

「私には、あの人がそんな意味のない殺戮だけを目的にしているようには見えません。モースの方が目的が明快なだけに、脅威は感じない」

「なら、まず明快な敵の方を片付けようぜ」

 

 考えていても答えは出ない、と言わんばかりにガイが提案する。

 

「インゴベルト陛下にモースの言葉を鵜呑みにしないよう進言して、戦争を再開させないように……」

「……でも、わたくしの言葉を……お父様は信じてくださるかしら」

 

 ここへ来て、とうとうこの問題に触れてしまった。彼女はひどく青ざめた様子でうつむいている。

 

「ナタリア! 当たり前だろ!」

「……わたくし、本当の娘ではないのかもしれませんのよ」

 

 ルークはこう言うも、モースの衝撃発言は思いのほかナタリアを蝕んでいた。それをきっぱりはっきり反論する材料もなく、一同は気まずげに黙りこんでいる。

 それはスィンとて同じ──いや、場合によってはもっと残酷なことしか言えない。

 

「も、もーっ! その時はその時だよ! それより、図書室に行こっ!」

 

 こういったネガティブな空気を嫌うアニスの先導により、こんなことを論議している場合じゃない、と今まで以上に慎重に移動を開始した。

 

 

 

 

 

 



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第六十唱——ねじれ歪み狂った世界、狂人が偉人たるは世界の在り方か

 

 

「皆さん!? どうしてここに……」

 

 図書室にひっそりと忍び込んだ一行を間のあたりにして、イオンは驚いたように眼を見開いた。

 

「イオン、外殻大地が危険なんだ! だから教えてくれ! ユリアの預言(スコア)には、セフィロトの暴走について詠まれてなかったのか?」

 

 突然のことに眼を白黒させているイオンに、彼が抜けてから起こった出来事をかいつまんで説明する。全て聞き終え、彼はどこか苦しげに目蓋を伏せた。そして驚くべき告白をする。

 

「……なるほど、それは初耳です。実は僕、今まで秘預言(クローズドスコア)を確認したことがなかったんです」

「え!? そうなんですか?」

 

 ローレライ教団最高指導者なのに、と言いたげにアニスが聞き返したが、彼は「ええ」の一言で肯定し、理由を話そうとはしなかった。

 

秘預言(クローズドスコア)を知っていれば、僕はルークに出会った時、すぐに何者かわかった筈です」

「……」

 

 押し黙るルークの表情に気づいてか否か。彼は話題を変えるようにケセドニアでの自分の行動を説明した。

 

「……ですから僕は、秘預言(クローズドスコア)を全て理解するためにダアトへ戻ったんです」

「でも、その秘預言(クローズドスコア)にセフィロトの暴走のことは……」

 

 確認するようなナタリアの問いに、沈痛な面持ちで肯定する。

 

「ええ、詠まれていなかった筈です。念のため、礼拝堂の奥へ行って調べてみましょう」

「礼拝堂の奥? なんで?」

 

 飛躍したように感じる話の成り行きにルークが首をひねると、イオンはなんでもないことのようにさらりと言い切った。

 

「譜石が安置してあります。そこで預言(スコア)を確認できますから」

「イオン様! それはお体に触りますよぅ!」

「止めないでください、アニス。必要なことなのですから」

 

 顔色を変えるアニスに、意図的にか構うことなく、イオンは先頭に立って一行を礼拝堂へいざなった。イオンがいるのだから、人目についてしまうのはこの際仕方ない。

 礼拝堂は無人で、通常は感じられない静謐な雰囲気が肌で感じられる。

 イオンは一直線に祭壇へと進み、巨大なテーブルにも似た石の前に立った。

 

「この譜石は、第一から第六までの譜石を結合して加工したものです。導師は譜石の欠片から、その預言(スコア)の全て詠むことができます。ただ、量が桁違いなので、ここ数年の崩落に関する預言だけを抜粋しますね」

 

 そう言ってイオンは目を閉ざすと、両手を譜石の真上にかざした。導師の集中に合わせて、譜石がほのかに輝きだす。

 

「ND2000 ローレライの力を継ぐ者、キムラスカに誕生す。其は、王族に連なる赤い髪の男児なり。名を、聖なる焔の光と称す。彼は、キムラスカ・ランバルディアを新たな繁栄に導くだろう。

 ND2002 栄光を掴む者、自らの生まれた島を滅ぼす。名をホドと称す。この後、季節が一巡りするまで、キムラスカとマルクトの間に戦乱が続くであろう。

 ND2018 ローレライの力を告ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで若者は力を災いとし、キムラスカの武器となって、街と共に消滅す。しかる後に、ルグニカの大地は戦乱に包まれ、マルクトは領土を失うだろう。結果、キムラスカ・ランバルディアは栄え、それが未曾有の繁栄の第一歩となる」

 

 ND2002の預言を聞いた際、ガイは小さく眉を歪めた。スィンもまた、心穏やかではいられなかったものの、それを表には出していない。

 上記の預言(スコア)を詠み終え、譜石の輝きが薄れる。それと同時に、イオンはがくり、と膝をついた。

 その顔色は、蒼白と称しても差し支えがない。

 

「イオン様!」

「……これが、第六譜石の、崩落に、関する、部分です」

 

 助け起こすアニスに支えてもらいながら、切れ切れにイオンは締めくくった。

 

「やっぱり、アクゼリュス崩落と戦争のことしか詠まれてないな……」

「もしかしたら、セフィロトの暴走は第七譜石に詠まれてるのかもしれないな」

 

 だからモースも、イオンには秘密裏にティアに捜索を命じていたのかも──と、考えるのはたやすい。

 そのとき、ふと零されたティアの一言がセフィロトの暴走どころではない波乱を生んだ。

 

「──ローレライの力を継ぐ者って、誰のことかしら」

「ルークに決まっているではありませんか」

 

 何を言っているのか、と言いたげにナタリアが反論するも、ティアは即座に言い返した。

 

「だってルークが生まれたのは七年前よ」

「今は新暦2018年です。2000年と限定しているのだから、これはアッシュでしょう」

 

 ジェイドの言うとおりである。しかし、ティアは更なる指摘をした。

 

「でも、アクゼリュスと一緒に消滅する筈のアッシュは生きています」

「それ以前に、アクゼリュスへ行ったのはルークでしょ。この預言(スコア)、おかしいよ」

「確かに、アッシュも後から来たが、奴はあの時点で聖なる焔の光と呼ばれてたわけじゃないしな」

 

 預言(スコア)と現在にはっきりとした矛盾があることに気づき、アニス、ガイが首をひねる。

 額に手を押し当て、ティアがひとつの結論に達した。それがルークを追い詰めるものとも気づかず。

 

「ユリアの預言には、ルークが──レプリカという存在が抜けているのよ」

「それってつまり、俺が生まれたから預言(スコア)が狂ったっていいたいのか?」

「……ルーク?」

 

 何を、と彼女が言いかけ。その問いに彼が答えを発することはなかった。

 なぜなら。

 

「見つけたぞ、鼠め!」

 

 荒々しく扉が開かれたかと思うと、甲冑を鳴らして数人の兵士が礼拝堂に押し入ってきた。

 おそらく、なかなか導師が私室に戻らないことをモースがいぶかしがり、そこから発覚したのだろう。

 

「ヤバ……!」

 

 アニスがそれを呟く前に、スィン、ガイ、ジェイドが飛び出して兵士を昏倒させた。

 安心はできない。いかにモースとて、この面子をこれだけの人数で抑えられるとは思っていないだろう。

 

「皆さん、逃げてください! アニスも!」

「アルビオールへ戻りましょう」

 

 イオンの言葉をうけ、長居は無用だとのジェイドの言葉に従い、思いの他静かな教会内を突っ切って外へ出た。あとはダアトから脱出するのみ。

 最短ルートで入り口の門まで到達する寸前、スィンはガイのポケットにロケットを差し込むと、ぎりぎりのところで建物の隙間に入った。そのまま手足を突っ張って屋根まで這い上がる。

 眼下では、神託の盾(オラクル)数十名が一行を取り囲み、入り口を塞ぐようにモースが立っていた。

 周囲の兵士に押されることなく、ティアは毅然とした態度で上司を説得せんと一歩前に踏み出した。

 

「大詠師モース。もうオールドラントはユリアの預言(スコア)と違う道を歩んでいます!」

「黙れ、ティア!」

 

 口角から泡を飛ばし、モースはティアに詰め寄った。もはや聞く耳を持っているようには見えない。

 スィンの視界の端で、ジェイドがひそかに詠唱準備に入ったのが見えた。

 

「第七譜石を捜索することも忘れ、こやつらとなれ合いおって! いいか、ユリアの預言(スコア)通りルークが死に戦争が始まれば、その後繁栄が訪れるのだ!」

 

 その口上が終わり次第、一行が悟ってくれていると見越して譜術を発動させようとしたジェイドだったが。その一言を耳にして、ぴたりと動きが止まった。

 

「抵抗はおやめなさい、ジェイド。さもないと、この女の命はありませんよ」

 

 見れば、いつの間にかディストがすぐ近くにいる。実に珍しいことに彼は自分の足で立っており、その上空に浮かぶ安楽椅子には、薬でもかがされたのか、ノエルがぐったりと横たわっていた。

 下手に抵抗などしたら、彼女が危ない。彼はため息をついて術を解除した。

 それを機に、兵士たちが押し寄せてきてどうにも身動きが取れなくなる。

 

「はーっはっはっはっ! いいざまですね、ジェイド」

「お褒めいただいて光栄です」

 

 勝ち誇ったように高笑いを上げるも、肩をすくめて返されたその一言に、ディストは地団太を踏んで喚いた。

 

「誰も褒めていませんよ! それより、シアを何処へやったんです!?」

「さあ?」

 

 ジェイドはあっさり流したが、一行はそこでスィンの姿がないことに始めて気づいたらしい。それでも動揺するところがない辺り、流石といえる。

 スィンの姿を探して周囲を見渡したディストだったが、彼は軽く鼻を鳴らして腰に差していたレイピアを素早くガイに突きつけた。

 

 ──あの野郎! 

 

「うおっ!」

「投降なさい、シア! でないと、こ──「の!」

 

 バキィッ! 

 

 眼鏡、レンズを外し、髪形と色を元に戻すというできる限りの変装を解いたスィンは、飛び降り様ディストがガイに突きつけた細身の剣を鞘に納まったままの血桜で叩き折った。

 折れた刀身が石畳に転がるも、ディストは頓着していない。

 むしろ、柄だけになったレイピアを邪魔だとばかりに放り投げている。

 

「ふ、現れましたね……って、なんですかその格好!」

「は?」

 

 突如声を荒げたディストを不思議そうに見ていると、彼はわなわなと全身を震わせてビシッ、とスィンの体を指差した。

 

「なんで、ジェイドとペアルックなんですかっ!」

 

 ごすっ! 

 

「ペアルックって言うな、この、年中脳みそフラワーランドォォ!」

 

 カッ、と頬に血が昇るのを意識しつつ、思わず鞘入りの血桜で殴り倒す。

 あっけなく後ろの壁に叩きつけられ崩れ落ちるディストを目にして、スィンもまた兵士の拘束を受けた。しかし、物理的な拘束ではなく武器を突きつけられただけである。動けないが痛くもかゆくもない。

 

「ぶち殺されてえか、くそったれ! 洟垂れェ!」

「え、ええい、何をしておる! そやつらを連行しろ!」

 

 すっかり忘れ去られたモースが何か喚いているものの、この兵たちはディストの部下なのか。頭を抱えて呻くディストの世話に追われている。

 やがて後頭部に巨大なたんこぶをこさえた彼は、涙目になってスィンへと詰め寄った。

 

「何をするんですかあなたは! 頭がぱっくり割れて柘榴みたいになったらどうしてくれるんです!」

「そのときはちゃんと涅槃まで送ってやるから安心しろ」

「安心できませんよっ!」

 

 どちらかといえば神妙に受け答えるスィンに、ディストはぎゃあぎゃあ喚きつつも懐から何かを取り出した。

 スタンガン──微量の第三音素(サードフォニム)を発生させる小型の音機関である。

 

「しばらく眠っていてもらいますよ! あなたを起こしておいたら、ジェイド以上に何をするかわかりませんからねっ!」

「っ!」

 

 バチッ! 

 

 首筋に押し当てられた電流は、あっという間にスィンから意識を奪い取った。

 

「スィン!」

「…………」

 

 火花が散った瞬間倒れこんだスィンに、ガイへ返答しろというのは酷な話である。

 スィンを心配そうに見ながらも、ルークはモースを睨みつけた。

 

「俺たちをどうするつもりだ」

「バチカルへ連れて行く。そこで戦争再開のために役だってもらうのだ」

「連れて行きなさい!」

 

 事前の指示があったのだろうか、椅子のノエルと蹲るスィンがその場に残される。

 

「彼女らが少しでも惜しいなら、抵抗は考えないことですね」

 

 そう言って、皮膚の薄い額を殴られたため、少しずつ顔中を血まみれにしつつあるディストはからからと高笑いを上げた。

 

 

 

 

 




ジェイドが野放しなのは脅威を感じなかったのではなく、近づいたら自分が人質にされてしまうだろうという危険感知の元です。彼がジェイドを侮るわけがありません。多分。
以降、スィンはしばらくパーティ離脱します。


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第六十一唱——死神の口より語られしは数々の事実

 

 

 

 眼を開ける。

 視界を占領したのは、裸足にされ足枷で固定された己の足だった。

 吊られた両腕、重たい体、いまいちはっきりしない頭。

 強制された姿勢に抗うも、当たり前のように拘束がそれを阻んだ。

 

 とらわれるならしね。とらわれたならしね。

 

「おや。もう起きてしまったのですか」

 

 脳裏を掠める遠い声を聞き流す。

 抵抗を咎めるように鳴った鎖でスィンの覚醒に気づいたのか。脱力し垂れていた顔に手が伸びてくる。反射的に逃れようとするも、感覚に体がついていかない。顎を掴まれて持ち上げられた。

 視線が否応なしに固定される。顎を掴んでいるのは──ディスト、だ。

 むき出しの肌が粟立ち、そのことで衣類の大半が取り上げられていることに気づく。

 このままではいけない。何とかしなければ。

 働かない頭が、この情けない半裸状態をどうにかしようと足掻いて……とんでもない下策を思いつく。

 

「困りましたね……あれ以上強い薬なんか用意していませんよ」

 

 顎をつかんでいた手が、いやにゆっくり離れていく。

 その芝居じみた動作を見逃さず、スィンはその指先に噛み付いた。

 

「あだっ!」

 

 指そのものではなく布の感触が口の中にある。手袋をしているようだが、気にしない。薄い布地をものともせず、更に顎に力を入れて犬歯を食い込ませる。

 やがて口の中には、鉄錆びの味がじわりと滲み──

 

「離しなさいっ!」

 

 口の中に硬い鋭角の何か、定規だろうか。それが押し込まれ、てこの原理で口をこじ開けられる。

 目的のものをすでに手に入れたスィンは、素直に指を解放した。口の中で譜を唱え──

 その間に、戻ってきた己の手を抱きしめるようにして、彼は苦情を言い募る。

 

「いきなり何をするんです、噛み切られるかと思っ……た……」

「──ふむ」

 

 ぐにゃぐにゃと好き放題歪んでいた視界がどうにか安定してきた。

 ポカーンと口を開けて呆けるディストをまじまじと見つけて、視線を下げる。

 

「な、な」

「詳細がいまいちわかりませんが、成功した、ということでよさそうですね」

「何で私の顔なんですかっ!」

 

 姿見のようなものが見当たらないにつき詳細は不明だが。発動させた秘術により、スィンはディストの姿を模倣していた。

 体格の違いが災いし、手錠足枷が拘束箇所を圧迫しているが、半裸に比べるべくもない。

 

「特定の人間を除き、無闇に肌をさらさない。淑女のたしなみです」

「私の顔で不思議なことを言わないでくださいっ!」

 

 余裕綽々だったディストが喚き始めたところで、スィンはようやく己のおかれた状況を把握し始めた。

 両腕は吊られて手錠でひとまとめ。両足は足枷でひとくくり。その上、薬がどうとか言っていただろうか。確かに現在の体調では、たとえ拘束がなくてもろくに動けないだろう。

 体調の把握を終えて、眼球だけを動かして周囲を観察した、

 以前こっそりお邪魔した、神託の盾(オラクル)本部ディストの私室を彷彿とさせる様相である。

 真横には書類の散らばる机、部屋の中央には備え付けにはとても見えない稼働中の音機関が設置されていた。

 足元が時折揺れる感覚、船窓の辺りから聞こえる波の音。連絡船か何かの一室ではないかと思われた。

 

「いや、問題はそこではありません。何故被服どころか眼鏡まで再現できるんですか」

「ふっ。華麗なる神の使者を自称するくせに、そんなこともわからないのですかっ!」

 

 はぁーっはっはっはっ! と、高笑いでお茶を濁す。

 こんな感じだっただろうか。自信はないが、完璧に真似る必要などどこにもないため心配するだけ無駄だろう。そして、その理由を語る気もさらさらない。

 彼は彼で返す言葉がないらしく、胸ポケットからハンカチを取り出してぐぬぬ、と歯噛みしている。

 

「お前は誰だ──もとい、ところでどちらさまですか」

「ゲシュタルト崩壊させようとしても無駄ですよ!」

 

 よくその単語を知っていたものである。彼の疑問から気をそらすためだけに放った一言だったのだが、ディストは予想以上に食いついてきた。

 

「そもそもあの実験は何日もかけて人間の精神崩壊を促すものですからね! 今どれだけ問答しようと無駄です、無駄!」

 

 飛んでくる唾がとても嫌だ。

 ディストの顔のまま辟易していたスィンの意識は、とある単語に引っかかりを見せた。

 

「……いくらユリアの再来だからといって、こんなの反則ですよ。まったく……」

 

 聞き慣れない単語を耳にしたが、詳細は聞かない。聞きたくない。

 しかしディストは、そんなスィンの心の内を見透かしたかのように視線を寄越してきた。

 

「ああ、ユリアの再来とはあなたのことですからね。現実から眼を背けないように」

「……何の話ですか」

「とぼけても無駄です。ユリア再誕計画87番目のユリア。報告書では生まれて七日で死亡したとありましたが、改ざんがお粗末でしたね。うつ伏せになって、寝返りが打てずに呼吸困難を起こした? 寝返りが打てないならどうやってうつ伏せになったのでしょうか」

「嬰児の死亡原因として、特に珍しくもない事例ですが」

「それは一般家庭の話でしょう。研究サンプルとして管理されていた嬰児ですよ? ありえないでしょう」

 

 この馬鹿にするような調子。どうも彼は、資料改ざんをスィンが行ったものとして話をしている模様だ。実際は87番目のユリアとか言われて非常に困惑しているわけだが。

 それはつまるところ、例の計画では少なくとも86人もの赤ん坊が生み出され、死亡していることになるのか……

 今とは関係ない話である。ディストの顔のまま、スィンは頭を振って考え込みそうになる思考を払った。

 そこへ、稼働中だった音機関からアラームが鳴ったかと思うと、備えていたスリットから書類が吐き出される。それを回収したディストは、一瞥するなりそれを彼女の眼前に掲げた。

 

「御覧なさい。大詠師の権限で機密文書を漁りに漁り、ついに発見したユリアの振動数と照合したものです。見事なものでしょう?」

 

 細かな数字の羅列が、間を開けて二種類表示されている。ただ見ただけでは差異が発見できないほどに、数字の羅列は似通っていた。

 徐々に書類の下部へ視線を下げる。そこでスィンは、思いがけない文面を見つけてそのまま口に出した。

 

「適合率……94.7%」

「そう。この数値は、たとえるならルークとアッシュ並み、つまりあなたはユリア・ジュエの完全同位体と称して差し支えない肉体の持ち主です。まあ二人の数値には若干及びませんが、当時の技術レベルを思えば」

 

 まだ何か抜かしているようだが、ほとんど耳には入ってこない。

 薬の影響なのか、事実を改めて突きつけられたせいなのか、非常に気分は優れなかった。

 

「私の顔で器用に青ざめない! もうちょっと嬉しそうになさい」

「──あなたの顔はもともと青白い。自分の顔に難癖つけないように」

 

 認めたくなかった現実が、目の前の書類にある。破いて燃やして、記録が残っているだろう音機関を破壊して、事実を知ったディストを消してしまいたい。

 そんな衝動に駆られている最中、そんなこととは知らないディストがこんな要求を口にした。

 

「さて、もういいでしょう。いい加減私の扮装を解きなさい!」

「私の服を返す。あるいは人間らしい格好にしてくださるなら考えてあげてもいいですよ」

 

 その言葉に、ディストはしぶしぶといった体で机の一番下の引き出しを開けた。

 スィンがまとっていた軍服がきちんと畳まれて置いてある。それを認めて、ひとつ促した。

 

「拘束を解いてくださらないと、条件は満たされませんよ」

「そんなことをしたら、あなたは嬉々として襲いかかってくるでしょうが!」

 

 残念、見破られていたようだ。

 薬がまだ残っていてろくに動けないからそんなことはできないと言い聞かせても、聞き入れる気配はない。

 

「その辺りに関してはまったく信用なりません。あなたは今までどれだけ嘘をついてきたと思っているんですか」

「あなたが今日、この日まで食べてきたパンの枚数くらいですかね」

「冗談に聞こえないのがあなたの怖いところですよ……」

 

 ぶつくさ呟きながら、彼は引き出しを閉めてしまった。

 代わりに、船室の備え付けと思われるロッカーから丈の長い白衣を取り出している、それを手にしたのち、彼は手錠を片方ずつ外すという手段を用いてスィンに白衣を着せた。

 

「いいですか? おかしな挙動をすれば、あなたの主の首がここに届けられますからね!」

 

 そこをどうにか、ジェイドの首辺りに挿げ替えてもらえないだろうか。

 口にこそしなかったが、スィンはそんなことを考えていた。

 そうこうしている内に白衣のボタンまでしっかり留められる。スィンは約束通りディストの扮装を解いた。

 

「質感まで存在するとは、相当手の込んだ術式ですね……」

 

 一子相伝の秘術につき、話すことは何もない。

 黙り込んでしまったスィンの口を開けさせるためなのか、ディストは唐突にこんなことを言い出した。

 

「ところで。主の安否は気にならないのですか」

「主のみならず彼らの安否は気になるところ。んで、尋ねたら教えてくれる?」

 

 ディストの性格を鑑みるならば、素直に教えてくれることはありえない。もったいぶってもったいつけて、どんな交換条件を提示してくれることやら。

 そんなスィンの勘ぐりとは裏腹に、ディストはおもむろに壁の突起を押し込んだ。

 モニターに電源が入ったかと思うと、一室にまとめて囚われている一同の姿がモニターに映し出される。

 その中には、ジェイドの隣に座ったガイの姿もあった。

 

『……たちは大丈夫でしょうか』

『ダアトは宗教自治区だもん。むやみに殺されるようなことはないと思うけど……』

 

 ナタリアが思わしげに呟き、アニスがわざと明るく希望的観測を口にする。

 それに彼女の希望であることは、どうしても明白だったが。

 

『俺たちはどうなるんだ?』

『ルークは処刑されるのでしょうね。預言(スコア)通りにするために』

 

 ガイの言葉に、ジェイドは今一番立場のはっきりしているルークの処遇を推測した。

 それまで何かずっと考え込んでいたルークが、やがてぼそりと零す。

 

『……その方がいいのかもな』

『ルーク、何を言ってるの!』

 

 驚いたようなティアの声音に動ずることなく、彼は淡々と、おそらく今まで自分が考えていたであろう内容を言葉とした。

 

『だって、そうだろ。俺が生まれたから、この世界は繁栄の預言(スコア)から外れたんだ。だから預言(スコア)にないセフィロトの暴走も起きたんじゃないか』

『おまえ、何言ってんだ』

 

 苛立ったようなガイにも、ルークは気づいていない。

 

『そうとしか思えないよ。それにティアだって言っただろ。ユリアの預言(スコア)には、俺が存在しないって』

『馬鹿!』

 

 突如ティアはいきり立って怒鳴りつけた。

 冷静な彼女にしては至極珍しく語気も聞いたことがないくらい荒いものだったが、光の加減だろうか。

 今にも雫を零してしまうそうなほど潤んでいる。

 

『ば……馬鹿とはなんだよ!』

『私はただ、あなたがユリアの預言(スコア)に支配されていないのなら、預言(スコア)とは違う未来も創れるって言いたかっただけよ!』

 

 そんな意味合いが込められていたとは露知らず、ルークは心底意外そうに彼女を見た。

 

『……ティア……』

『あなた、変わるんじゃなかったの! そんな風にすぐ拗ねて! もう勝手にしたらいいわ!』

 

 ルークに背を向けるその様は、本気で怒っているようにも、子供が拗ねているようにも見える。

 

『ティア……ごめん……』

『…………』

『……ごめん……』

 

 カチッ

 

「このような事態で仲間割れですか」

 

 余裕ですねえ、とディストは独り言のように呟いた。

 モニターの電源こそ落とされたようだが、彼が操作したのは先ほどとは異なる突起。

 何の意図かを勘ぐって、スィンは探索の秘術を発動させた。

 

「って、何をしているんですか、あなたは!」

 

 譜術行使の証として、足元に譜陣が浮かび上がる。

 ディストの声は無視して、閉じた目蓋の裏に第三音素(サードフォニム)を介しての光景を投影した。幸いにして、彼らが囚われている一室を発見する。

 彼らは言葉を交わしておらず、一様に壁の一点を見つめていた。

 一瞥して、術を解く。

 壁の一点は四角く発光しており、その中には拘束されたスィンと詰め寄るディストが映し出されていた。それだけ確認できれば、もう十分だ。

 眼を開けば、譜陣が消えて術の行使をやめたことに気づいたディストが額の汗を拭っているところだった。

 

「譜術を封じておくべきでしたか……先ほど言ったばかりでしょう。おかしな真似をしたらあなたの主は死にます! あなたのせいで、ですよ!」

「……どのようにして、ですか? この部屋は監視されていて、あなたに危害を加えようものならば、あなたの部下が行動を起こすのですか」

 

 煮えたぎる内心を押さえ込み、意図的に口調を慇懃なものへとすりかえる。

 沸騰寸前の頭を鎮めるのは容易ではなかったが、ここで感情を優先させてしまったら逆効果。この方法は極めて有効であると教えてしまうだけだ。

 スィンの態度に意外なものと感じたか、ディストの二の句はない。

 しかしそれは一瞬のことで、彼はなぜか相好を崩した。

 

「やっとシアに戻ってくださいましたね。没落貴族の従者を演ずるよりも、今のあなたのほうが魅力的です。ぜひそのままでいてください」

「人を二重人格呼ばわりしないでください。演じているのはまぎれもなくこちら」

 

 無論二重人格などではないが、意識して使い分けているのは事実だ。

 このままでは、ガイを心配するあまり何もできなくなってしまう。

 

「それで? あなたが悲鳴を上げでもしたら、即刻彼の首が刎ねられると?」

「まさか。このブザーが鳴ったとき、金髪碧眼の男の首を持って来いと伝えてありますとも」

「拘束してもいない人間の首を刎ねるのは容易ではありませんが、ずいぶん手練の人間を連れてきているんですね」

 

 ともあれ、脅しではなさそうだということ。そしてスィンへの切り札は、発動させるのに多少時間の猶予があることがわかった。

 人の首をあっさり刎ねることができる手練が気になるところだが、正体を考えるのは後でいい。

 シアを演じていることに機嫌をよくしているディストから、もう少し情報を引き出すことにした。

 

「ふっ。名を聞けばきっと驚きますよ。なにせ──「ルークとナタリアは、戦争再開のために処刑されるでしょう。では、他の皆は? ジェイドは敵国の軍人だから同じく処刑されるか、マルクトとの交渉に使われるかもしれません。ティアとアニスはダアトに引き渡されると思われる。なら、私達は──?」

 

 まるで思いつきのように、一行の今後の処遇を尋ねる。

 彼はほう、と感嘆の吐息をつきながらも答えてくれた。

 

「──流石採魂の女神にしてユリアの再来、私の認めた女性です」

「全部不名誉だから取り消してくださると嬉しいのですが」

「茶々を入れない! 王族二人組の扱いは正解です。あの二人が死ななければ戦争を起こす大義名分が立ちませんからね。ジェイドは処刑の線が濃いでしょう。キムラスカの軍人には恨まれていますから、兵士の鬱憤晴らしによってたかってなぶり殺しにされるかもしれませんね? アニスは導師じきじきの解雇を受けているし、未成年ですからダアトの両親の元へ戻されるでしょう。そして総長の妹とあなた、あなたの主は──私が責任を持って総長の元へ送り届けます。そういう命令を受けていますからね」

 

 どんなに感情を押さえ込んでも、顔色だけは押さえがきかなかったようで。スィンは自分の頬から血の気が引いていくのを感じていた。

 想像通りとはいえ、とても享受できる内容ではない。何が何でも、阻止しなければ。

 まるでスィンの内心を覗き込むかのように、ディストが顔を近づけてくる。

 それから顔ごと眼を背けて、まずこの状況の打破から考えていると。

 

「よほど大切に思っていらっしゃるんですねえ。あなたの主……いえ、腹違いの弟君でしたか」

 

 腹違いの、弟。

 

「……えっ」

 

 この瞬間。間違いなくスィンの時間は、停止した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『しらばっくれても無駄です。以前からおかしいおかしいとは思っていました。単なる赤の他人にあそこまで入れ込むことができるなんて、何か裏があると思って調べた甲斐がありました。ガイラルディア・ガラン・ガルディオスはあなたの父方の弟君。否定しますか? シア』

 

 映し出されたモニターの中で、白衣を着せられたスィンとディストのやり取りに一同はらはらしながら見守ってきた最中、ガイは無言でモニターの中のスィンを見つめていた。

 ガイは腹違いの弟なのだろうと指摘された彼女は、呆然としたような、ショックでも受けたような、混乱の色が濃い瞳で意図しない返事を洩らしている。

 

『……ということは旦那様。あの計画に、協力されてらっしゃった?』

『ユリア再誕計画のことですか。確かに遺伝子提供者としてガルディオス伯爵の名が記されていましたが』

『あの奥様バカ……もとい、奥様に尻しかれマン……じゃなくて。奥様一筋だった旦那様が……実験のためだけにほ、他の女と』

 

 どうも、腹違いの弟云々よりも違うことに衝撃を受けている様子。

 それを見て取って、ディストはため息混じりに資料を見下ろした。

 

『動揺しているふりをしても無駄ですよ。あの計画において、男女の営みなど一切行われていないのですから』

『……?』

『遺伝子提供者と言ったでしょう。男女の遺伝子情報を取り出し、組み合わせて人を成すという偉大な実験でもあったのですよ』

 

 手元の書類に目を落とすディストは気づいていないが。スィンは心底ホッとしたように息をついていた。しかしその安堵も、次なる言葉を聞きつけて凍る。

 

『そうでもしなければ研究は遅々として成立しなかったでしょう。その代償として多くの、人間とは程遠いサンプルがいくつも出来上がってしまったようですが』

 

 顔を上げ、書類を束ねて形を整える。ちらりとスィンを見やったディストは、小さく鼻を鳴らしていた。

 

『まるで今、初めて知ったかのような反応ですね』

『今、初めて知りました。まさしく』

『役者もかくやという素晴らしい演技であることは認めましょう。しかし、私の目は誤魔化せません』

 

 書類を机上に置いたかと思えば、今度は違う資料を手にしている。

 おそらくユリア再誕計画に関するそれを眼で追っていたスィンは、違うものを突きつけられて色違いの瞳を瞬かせた。

 

『?』

『あなたの持病に関する報告書です。呼吸器系の疾患とは伺っていましたが、この症状は瘴気触害(インテルナルオーガン)そのものですよ』

 

 瘴気蝕害(インテルナルオーガン)。瘴気を吸引し続けることで臓器に毒素が蓄積し、発症する病である。

 かつて譜術戦争(フォニック・ウォー)の弊害による大規模な地殻変動で猛毒──瘴気が発生した際確認されたものだ。

 かかり始めは風邪に似た症状だが、やがては内臓を冒されて衰弱死する。致死率は非常に高い。

 

『厳密には違う、と私は伺っていますが』

『本来は体力のない子供や老人が発症するものですから、そう診断してもおかしくはありませんが……原因はホド戦争開幕時でしょう。逆算すれば十分該当しますよ』

 

 ホド戦争開幕──ファブレ伯爵がホドを攻め入った際、何があったというのだろうか。

 それらしい記憶が自分の中にないことを歯噛みするガイ、父の行いが絡んでいることに言葉を失くしているルークをよそに、画面の中のスィンはすべてを承知であるらしく、表向き何の表情も浮かんでいない。

 こめかみの辺りをつたう汗さえ除けば。

 見守る彼らを知ってか知らずか、画面の中のやりとりは続いていく。

 

 

 

 

 

 




ディストの語る一行の処遇は、オール個人的な予想です。
ジェイドは微妙なところですが人質にしてこれ以上危険な人もいないでしょうし、生き残り組とて厳しい現実が待っているのではなかろうかと。
ダアトに返されるはずのアニスが船に乗せられているのは、偽王女の仲間としてキムラスカで裁きを受けるため、です。あくまで形式的なものでしかないと思われますが。


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第六十二唱——暴かれても暴かれても、進まねばならぬは己

 

 

 

「瘴気の毒性を真似て作られたものとされる毒ガス、でしたか。送り込んだ間諜(スパイ)を確実に殺すため、現地で雇ったという傭兵どもの口封じのため、単に開発中の兵器の試用とも諸説様々ですが。すぐにでも治療にかかれば、ここまで悪化するものではなかったでしょうに」

「──それどころではなかったもので」

 

 壊滅し、瘴気とそれに苦しみ抜いた骸がそこかしこを転がる古戦場になってしまった屋敷から逃れて、戦場となってしまったホドから脱出するべく祖父──ペールの伝を頼りセントビナーを目指してと、とにかく目まぐるしかったことは覚えている。

 当時は多少身体に異常があろうと誰の心に傷があろうと、まず生き延びることを優先していた。

 二人の異性恐怖症も、瘴気蝕害(インテルナルオーガン)に酷似した疾患も、対処が後回しになってしまったのはどうしようもないことだったのだ。

 

「私が気にしているのはそこではありません。あなたは毒ガスの餌食になったのに、何故あなたの弟君は無傷なのですか?」

 

 そんなの決まってる。体を張って守ったからだ。剣の主の命ずるままに。

 

「……そんなこと知ってどうするんです。あなたにとってはどうでもいいことのはず」

「やはり庇ったのですね。結果として彼は無事に、あなたは瘴気蝕害(インテルナルオーガン)を負った……なんて愚かなことを」

 

 なんとか宥めたはずの感情が再びぐつぐつと煮え始める。

 彼に理解が及ぶわけもないのだ。まともに聞くべきものではないと無意識が警告を発するものの、スィンにとっては戯言のそれが心をかき乱していく。

 

「ですからもはや、あの男に(かしず)く必要はないのですよ」

「必要?」

「彼はあなたの弟だと、この度判明したのですから、当然でしょう。弟に仕える姉などどこの世界にいると言うのです」

「ここにいる、でいいです」

 

 どこの世界にいるのかと聞かれたから、答えただけだというのに。

 彼は口角に泡すら張り付けてそれを諌めてきた。

 

「いけません! あのブリュンヒルドが没落貴族の従者になど! それだけで私はもう、はらわたが煮えくり返るような思いをしたというのに!」

 

 それは奇遇なことである。現在スィンはこの言動によってはらわたが煮えくり返る思いをしているところだった。

 しかし、それをそのまま表に出すのは憚られる。これ以上スィンの弱点を教えてやるわけにはいかない。

 

「……必要に迫られて意図的に創った仮想人格に夢を見るのは勝手ですがね。その、没落貴族の従者の方が本業なのですから、ケチをつけられましても」

「本業だと思い込んでいるだけです。あなたは彼の姉なのですよ」

「あなたの話が本当なら、本当だとしても生まれた順番だけなら、でしょう」

 

 姉だの弟だの連呼されて、頭がクラクラしてきた。

 己の根幹がぐらつく感覚がはっきりと意識できる。

 

「ネイス博士がこだわっていらっしゃるのは、シア・ブリュンヒルドという名の仮想人格です。あなたこそ、現実を直視しなければ」

「仮想人格と口ではいえど、あなたの一部分であるはずです!」

 

 ちくしょう否定ができねえ。

 黙らせるつもりが逆に二の句を封じられ、スィンは大きくため息をついた。

 

「なんですかそのため息は!」

「──戯れ言ですね。耳に入れるに値しない。聞くだけ時間の無駄でした」

 

 よくよく考えてみれば、姉だの弟だの。現時点ではディストが好き勝手言っているだけに過ぎない。調べた甲斐とか抜かしていた気がするから、根拠はあるのだろうが。その調査結果とディストさえ亡き者にしてしまえば、真相は闇の中、だ。後は祖父ペールがどれだけ事情に通じているかだが、再会したときに確認すればいい。

 今の時点でスィンが動揺することなど何もない。

 半ば自己洗脳じみた理屈を持ってして、腹違い兄弟設定は嘘から出た真、という驚愕の事実について考えるのはやめた。

 

「──やはり、信じませんか」

「信じる信じない以前の問題です。それがたとえ事実であったとしても、私はそれを理由に成すべきことを見失ったりしない」

 

 頑として揺るがないスィンを見て、何を思ったのか。

 ディストはやれやれと首を振った。

 

「説得は無駄……となると、あなたの体には従属印が施されている可能性が高くなりました」

「従属……印?」

 

 体に刻むことで身体強化を図る強化譜陣は数あれど、そんなものは聞いたことがない。

 繰り返すことで詳細を促したスィンは、その前代未聞の効果を聞いて仰天した。

 

「特定の人間の血液を用いて体表皮に譜陣を刻むことで、その血の持ち主に絶対服従を強いる術式です。あなたはそれによって、あの男を主だと錯覚しているだけなのです」

「はあ!?」

「知らないのも無理はありません。どうあってもあなたには確認できない場所にあるはずですから」

 

 確かに、腕のみならずこの体には、身体強化含む様々な譜陣が刻まれている。

 その中に、従属印なるものがあるというのか。ならばこれまでスィンがしてきたことは──

 

「まだ確認こそしていませんが、きっとあるはずです。探し出して除去すれば、あなたも目を覚ますはず!」

「鼻息荒げて脱がそうとしてんじゃねえよ! 目ン玉くりぬくぞコラァ!」

 

 考えている場合ではない。迫るディストに迎撃せんとして、文字通り手も足もでない状況であったことを思い出す。

 戒めに虚しく阻まれて、蹴倒す予定だったディストの手は易々と白衣のボタンにかかった。

 

「い、嫌ッ、やめて……!」

 

 ひっくり返ったような声が飛び出て、思わず口を閉ざす。

 おそらくだが主が見ているのだ。情けない姿は晒せない。

 

「やめろっつってんだろうが、聞けよ推定童貞! 禿予備軍!」

「さて、こちらの肌着も外さないことには……鋏はどこでしたかね」

「その、従属印があったとして、刺青の除去なんかお前できるのかよ! どうせ焼き潰すしかできねーだろうが!」

「何を仰いますか。該当部位の皮を剥ぐ、(やすり)で削り取る、色素を上塗りして──私の血を使って私に隷属させる等、方法はいくらでもありますとも」

「全部嫌だっ!」

「どんな麻酔を使っても効きの悪いあなたでは確かに不安でしょうが……まず有無を確認しないことには話が進みませんからね」

 

 白衣のボタンはすでに機能を果たさず、ディストは大きめの断ち切り鋏を装備している。動けないなりに暴れていたスィンは、ひんやりした感触に動くのをやめた。

 立ち回りには障害になりうるためサラシで巻いて固定してあるその場所に、鋏の切っ先があてがわれたからだ。

 しゃきり、音を立てて鋏が鳴った。

 

「……っ!」

「ククッ、好きなだけ喚きなさい。泣こうが喚こうが助けは「わかったっ、そうするっ」

 

 そんなことは百も承知である。自分の身を危険に晒すだけだとわかりきっていても、止められるものではなかった。

 

「ネーレイース、力を貸して! 泣き女(バンシィ)達の悲哀の歌を、この声に!」

 

 意味のない戯言とは到底思えないその言葉に、手を止めて訝しんだディストが見たもの。

 それは、まるで空気が詰め込まれたように膨らむ、スィンの胸部だった。

 

「──っ」

 

 かちゃん、と音を立てて、断ち切り鋏は床を転がった。限界まで空気を搾り出したせいか、肺に引きつるような痛みが走る。

 感情のままに放った悲鳴はディストの悲鳴もかき消して、意識も断ち切ったようだ。眼前には仰向けになって失神しているマッドサイエンティストの姿がある。

 ──通常なら、どれだけ高音であろうと、ただ大音量を聴かされたところで人間はそうそう失神なぞしない。それを可能としたのは、第七音素集合体ローレライの眷属、ネーレイースの力を借りて放った悲鳴だ。代償として喉を酷使するし、自身の鼓膜すら危うくなる。

 カラカラになってしまった喉に唾を送り込み、そのせいで咳き込んでいる間に。唐突に扉が開いたかと思うと、誰かが入室してきた。

 当たり前である。ディストにブザーを鳴らす暇こそ与えなかったが、スィン自身がブザーに匹敵する悲鳴を上げてしまったのだ。何かあったのかと、誰かが様子見に来ないわけがなかった。

 白衣がはだけられ、鋏のせいで切れ目が入ってしまったサラシも緩んでいるこの姿を見られるのは業腹だが、どうしようもない。目を醒ましたてで混乱していた先ほどではあるまいし、安易に秘術:借姿形成を使うのは躊躇われる。

 入ってきたその姿を見て、スィンは驚愕のまま呟いた。

 

「……ラルゴ」

「やはりお前か」

 

 ノックすらなく扉から窮屈そうに現れたのは、神託の盾(オラクル)騎士団第一師団師団長ラルゴ搖士だった。岩から彫り上げたような強面に豪快な髭。手にした大鎌を見て、「人の首を容易に刎ねる手練」の正体を知る。

 確かに彼の豪腕と得物ならば、それは可能だろう。

 

「ディストに手を出されそうになって応戦した、といったところか。今の悲鳴は」

 

 詳細は大分違うが、スィンにとっては似たようなものである。否定はしない。そしてそれどころでもない。

 はだけた胸を隠すべく、スィンは無言で体をよじっている最中だった。戒めのせいで完全に背中を向けることこそできないが、それでも何もしないわけにはいかない。

 その様子を見てか、ラルゴは小さくため息をついた。

 

「自信過剰だ、俺は鶏がらみたいな小娘に興味はない。そうでなくても、総長の女に手は出さん」

「私の都合なのでっ、気にしなくていいですよっ」

 

 しかしラルゴは気にしたようで。体ごと明後日の方角を向こうと努力していたスィンは、ばさりと何かを投げつけられて動くのをやめた。

 白くて大きな布地──備え付けの寝台に敷かれていたシーツを投げつけられたのだと知る。

 ラルゴはといえば、昏倒したディストの襟首を掴んでシーツのなくなった寝台へ放っていた。

 見かけのわりに紳士でフェミニストなところは、変わっていないらしい。

 

「……ありがとう」

「捕まえて縛り上げた挙句、薬をぶち込んだ奴の仲間に言うことじゃねえな」

「私の都合なので気にしなくていいですよ」

 

 血の上っていた頬から赤みが消える。

 人間としての尊厳が保たれて落ち着いたスィンは、ラルゴによるもっともな意見を屁理屈で返していた。

 

「しかし、まさかもう気づくとはな。最低でもバチカルに着くまで目覚めんと思っていたが」

「ええおかげさまで。最っ低の目覚めでしたけれども」

「ディストが注射を何本も打っては捨てていたからな。見ているこちらが不安になるほどに」

 

 ラルゴが示す先、屑篭の中には使用済みのアンプルが折り重なって捨てられている。頭こそはっきりしているが、未だ体に感覚が戻ってこないのは、これが影響してのことなのか。

 スィンが今更のように自分の体を心配していると、不意にラルゴが腕を伸ばしてきた。白衣の袖を掴まれたかと思うと、そのまま引きずり下ろされる。

 露になった腕には生々しい注射痕がいくつも刻まれているが、ラルゴがそれを気にした様子はない。

 

「……腕に支障はないようだな」

「腕?」

「タルタロスで坊主を庇っただろう。傷物になっていたら総長がなんと言うか」

 

 なんというか、随分昔のことのように思える。ラルゴは随分小心者になってしまったようだ。

 そんなことを心配しなくても、ヴァンとてきっと覚えていない。何せスィン自身がすっかり忘れていたのだから。

 

「切り口が鋭かったので、くっつくのも早かったですよ」

 

 実際は確か、怪我を気にしている場合ではないのと、ルークを庇った傷なんか残しておきたくなくて、見回りと称して一行から離れた際に癒しの譜歌を使った気がする。

 実際のところ傷は深かったが、上記の理由で大事には至らなかった。

 

「カースロットは残っている……か」

 

 腕を掴まれて確認されるも、やはり感覚自体が鈍い。恐怖こそあるが、表に出すほどでもなかった。

 そのことに、ラルゴは訝しげにしている。

 

「男嫌いは治ったのか?」

「それだったらどんなによかったことか」

 

 薬の影響であることを素直に話すも、何故か納得したような気配はない。

 それどころか、彼はとんでもないことを抜かしてのけた。

 

死霊使い(ネクロマンサー)に乗り換えたわけではないのだな」

「!?」

 

 なんでそうなる。詳細を聞いてみたいような、しかし聞いたら盛大な自爆が待っていそうな。

 二の句を告げられないスィンの内情を知ってか知らずか、ラルゴは言葉を続けた。

 

間諜(スパイ)を通じてお前たちの動向は把握していたが、あまり気持ちのいいものではなかったぞ。あのブリュンヒルドが誰かにへりくだる姿など」

「……ブリュンヒルドとしての活動は常に主席総長にへりくだる姿だったはずだし、私がどなたにお仕えしようと関係ないでしょう。それにしても、鼠はできるだけ潰してきたのに取り残しがありましたか……」

 

 旅する中で、おかしな視線を感じたことは多々あった。その都度、心優しい仲間達限定で知られないよう処理していたつもりだったのだが……それでも彼に内情が知られる程度には見逃していたことになる。

 

「優秀な間諜(スパイ)に覚えはなかったのか? 特務師団に所属する者達だぞ」

「当時のご用命は使い捨ての駒を作れとのことでしたので。まだ生きていたとは思いもよりませんでした」

 

 ディストといい、ラルゴといい。これはスィンを惑わせる作戦なのだろうか。彼らに今更何か言われたところで、スィンがガイを裏切るわけもないことは、わかっているだろうに。

 この言動がヴァンの指示によるものではないという可能性が高くなってきた。

 

「やはり素直に下る気はないか」

「それは選択肢として存在しません。処刑されてしまう人もいるわけですし、我が主もそんなことは望んでいないはず」

「キムラスカの未来を担う二人が死ねば、お前たちの故郷を奪った国の人間どもはいずれ総崩れとなるだろう。死霊使い(ネクロマンサー)とて、これまでの行いの報いを受けるだけだ。何の異議がある」

「……異議ありだらけで一体どれから突っ込めばよろしいやら。大分考え方がブッ飛んできましたね」

 

 預言(スコア)成就だけを願う大詠師の影響かと揶揄すれば、ラルゴは不快さも露に叫んだ。

 

「そのようなことがあるものか! 話を逸らそうとするな」

「あ、気づかれた。とはいえ、あなたのご理解など必要ではなし。ただの疑問にタダで答えてやるほど私はおひとよしではありませんもので」

「そうか。では貴様の主とやらの首を持ってこよう。それと引き換えようではないか」

「……二人が死んで、私の大切なものが戻ってくるわけではない。死霊使い(ネクロマンサー)に関しても、それは同じこと」

 

 たとえラルゴが一歩たりとも動こうとしなくても、それを引き合いに出されてはたまらない。スィンは素直に理由を語った。

 

「それだけか」

「すべてに絶望したあなた方とは違うんです。これ以上何を語ろうとも、あなたは理解も納得もしないでしょう」

 

 正確にはできないし、させられない。だが、その絶望に引きずられるわけにもいかなかった。

 

「あなた方が何をしようと、私は前を向いて進みます。呼びかけられても振り返らない。振り返るわけにはいかない」

「……そう、だな。お前を変えることができるとしたら、総長の他にはいない。俺のするべきことではなかった」

 

 ここで、懐柔を諦めたのだろうか。彼は初めてスィンに背を向けた。

 何がしたかったのかいまいちわからない。手は出さないと言っていたし、挑発だけでもしておくべきか。

 

「黒獅子ラルゴともあろうお方が、随分生ぬるいことを仰っておいでで。裏切り者は切り捨てる主義かとばかり」

「貴様の身に何かあれば、総長とて人だ。少なからず揺らぐ。裏切った貴様をどうするかは、総長が決めることだ」

 

 想像するだに恐ろしい事態である。何せ彼は、スィンの弱点を知り尽くしているのだ。それを回避するためにも、やはりラルゴにはさっさと立ち去ってもらわなければ。

 そのためには不愉快にさせて、怒らせるのがいいだろう。

 

「虎の威を借る狐を前に、虎の視線が気になってまごまごする獅子ですか。想像すると結構笑える図ですね」

「……」

「まあ、今の私は狐じゃなくてまな板の上の鯉──丸焼きにされて切り分ける準備が整った豚みたいなものですが。それに食らいつけないなんて、とんだチキンですね」

 

 獅子なのに(チキン)とはこれ如何に。

 とはいえ、ラルゴを怒らせるのは容易ではない。

 これがアッシュなら容易くて、ディストなら難しくなくて、リグレットなら割と楽勝なのだが。

 ヴァンやラルゴあたりとなると地雷を踏み抜けば大変なことになるし、地雷を使わないとなると二人とも落ち着いたいい大人であるため、イラつかせるのが精々である。

 シンクは知らない。アリエッタは相当難しい。何故なら彼女は、怒る前に泣き出すからだ。

 とはいえ今回は、イラつかせるだけでも十分とスィンは踏んでいた。

 

「……何のつもりだ?」

「手は出さないと仰っていたので、腹いせに怒らせるだけ怒らせてみようかな、と」

 

 不愉快にはなったらしく、ラルゴは眉を歪ませてスィンを睨んでいる。しかし、それに怯むスィンではない。

 もっともらしくて腹立たしく、何も考えていないような一言を吐けば、彼はおもむろにスィンの眼前へとやってきた。

 地雷は絶対に踏んでいないが、やり過ぎただろうか。だとしたら、随分短気になったものである。

 おもむろに拳を握ったかと思うと、その拳に、はあっと息を吹きかける。

 これは。

 

「歯を食いしばれ」

 

 ガン! 

 

 言葉と共に鉄拳はスィンの頭へと突き刺さり、とっさに閉ざした目蓋の裏で火花が散った。

 

「痛ぃっ……た~……」

「この程度なら問題ないはずだ」

 

 たんこぶを調べているのだろうか、未だ衝撃が残る頭を撫でくり回される。

 その後に彼は、未だ失神状態を継続しているディストに向き直った。

 

「ディスト、起きろ。よもや主人をほったらかして逃げはせんと思うが、ブリュンヒルドをこのままにはしておけん」

 

 流石元同僚。よくわかっていらっしゃる。しかしディストの返事は、寝ぼけた調子で盲信する師の名を呟くばかりだった。

 埒があかないと思ったのだろうか。彼は業を煮やしたようにディストを担いで退室していった。

 

「……ラッキー」

 

 元からディストに用事があったのか、もうディストが余計なちょっかいを出さないようにか。とにかく好都合だ。

 バタンと閉まった扉から足音が遠ざかっていくのを確認して、スィンはさっそく行動を起こした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディストを担いだラルゴが、扉の向こうに消える。

 たっぷり間を取って、画面の中のスィンは大きく息をついた。

 

『脳筋で助かったー』

 

 何気に失礼なことを呟きながら、両手を拘束する手錠を見上げている。所謂万歳の状態で固められ、一見彼女に成す術はない。

 

「ガイ。彼女に手錠抜けの心得は?」

「いや……」

「そういえば、スィンは以前教会に閉じ込められた時に鍵のかけられた扉を開けてみせたことがありましたわ」

「鍵開けはできるんだけどな……あれじゃあ」

 

 ごきっ。

 

 突如として異音が響く。

 生々しいその音を耳にして一同が目にしたものは、かけられたシーツを噛みしめて涙目になりながらも、手錠から解放された片手を見やるスィンだった。

 手錠痕の残る手首はこれまでに至る過程で作った擦過傷が痛々しく、親指だけが脱力しているように見える。

 

「親指を触っていたと思ったら、引き抜くようにしていたわ」

「それから無理やり手錠から引きずり出してた。すげぇ痛そう……」

「痛そうじゃなくて、すんごい痛いと思うよ、声抑えないとバレちゃうくらい」

 

 未だ手錠で固定された手が、故意に脱臼させた親指全体を包むように持ち、勢いよく壁へ押し付ける。音を立てないように突き指させた親指は、解放された瞬間から滑らかに動いた。

 その手が髪の中へ潜り込み、何の変哲もないヘアピンを取り出す。口と自由な手でピンを変形させ、あらかじめ把握していたらしい手錠の錠前へとそれを押し込んだ。

 一連の動作に一切の淀みはない。

 

「どこの特殊部隊の方ですか。あなたの従者……いえ、お姉さんは」

「……ダアトで五年間軍人やってたからな。ヴァンの手伝い程度だとか言ってたけど、多分そこで習得したと思うんだが」

「総長のお手伝いって、それ相当軽く言ってるよ。特務師団の初代師団長だったんだから」

 

『!?』

 

「と、特務師団長!?」

「特務師団って表沙汰にできない任務ばっかりだから、その訓練で何ができるようになっても不思議じゃないんだけどさ」

 

 特務師団と聞きつけて、ナタリアがハッとしたようにアニスへ視線をやった。

 ダアトでスィンが何をしていたのか、ほとんど知らないガイが詳細を尋ねかけて、すげなく断られる。

 

「特務師団とは、確かアッシュの」

「そう。鮮血のアッシュは二代目特務師団長。こんな若造が団長なのが不満なら蹴落とすようにって、いなくなるちょっと前に発破かけてたっけ」

「アニス。スィンはダアトで……」

「わたしが知ってるのは、シア・ブリュンヒルドが特務師団の設立者で二年前に何の前触れもなく辞めちゃったってことだけだよ。わたしはその頃士官学校に通ってたから、当時の教団の内情はほとんど知らないの」

神託の盾(オラクル)騎士団では軍則として、退役軍人は在籍中の行い一切の秘匿を義務付けられているの。スィンがあなたに何も話さないのは、多分そのためだわ」

 

『……立てない?』

 

 そんな呟きを耳にし、再び画面を見やる。手錠の解錠に成功し、足枷からいつの間にか解放されているのだが。何故か彼女は座り込んだまま、立ち上がる気配がない。

 自分で言っていて不思議そうに足を見ていたスィンは、はじかれたように顔を上げた。

 視線の先には、先ほどラルゴに示された屑篭がある。

 動かぬ足を引きずるように匍匐状態で屑篭の傍まで移動した彼女は、中のアンプルのひとつを手探りで摘み上げた。

 

『……てとろど……これ毒薬じゃん』

 

 死ななくてよかった、と独りごちながら、興味をなくしたようにアンプルを放り出している。

 転がるアンプルに貼りついたラベルをじっくりと見つめて、ナタリアは書かれている文字を読み上げた。

 

「テトロドトキシン、と書かれていますわ」

「まごうことなき毒薬ですね。鎮痛剤として使われる例がないわけではありませんが」

 

 まるでその言葉が聞こえたかのように、唐突にスィンは床にうずくまった。

 上体を支えていた腕が再び体を持ち上げようとするも、その腕はぶるぶると震えており、なかなか収まらない。

 

『っ』

 

 思い通りにならない腕を厭うように、顔を歪ませたスィンは自らの腕を屑篭の中へ勢いよく突っ込んだ。使用済みのアンプルがいくつも放り込まれた屑篭だ。引き抜かれたその腕には差し込んだ際の接触で破砕したと思われる硝子の破片が、出血に伴い幾つも張りついている。

 ただ、それまで意思に反していた腕が、疼痛のせいなのか震えが収まっていた。

 

『……もう、治らないのかな』

 

 思わず呟いた一言を自分で否定するように首を振り、再び匍匐で移動を始める。

 移動した先は、先ほどディストが書類の束を置き去りにした机だ。可動式の椅子に四苦八苦しながらよじ登り、机上の書類を手探りで手にして床に寝そべるようにする。

 放り出すようにして並べられた書類を目にするべく、一同が画面へと集った。

 

「ユリア再誕計画、誕生番号(バースナンバー)87?」

「特異点:虹彩異色緋藍。右心臓。出産後七日目、寝返りの失敗により呼吸停止のちに死亡を確認……これは、スィンの誕生記録なのでしょうか」

 

 特徴が同じとはいえ、死亡したとされる嬰児が何故彼女なのか。

 疑問をもらすアニスに、ジェイドはディストと同じ見解を述べた。黙してそれらを見つめていたスィンは、報告書の作成者名に指を滑らせている。

 

『やっぱりあの人なんだ。製造期日は……ND1990? 日付が抜けてる……』

 

 その表情に陰が差したかと思うと、その一枚が丁寧に畳まれた。

 白衣のポケットに忍ばせたかと思えば、幾つかの書類を選定してぞんざいに別の場所へ収納している。

 それ以外は十把一絡げにまとめていた。

 

「なあ。右端の書類に適合率94.7%とか書いてあったけど」

「適合率?」

「他に何か書いてありましたか?」

「振動数がどーとか……」

 

 それが判明したユリアの振動数と比較した結果であるとは想像し難い。

 画面の中のスィンは、まとめた書類を収束させた第五音素(フィフスフォニム)で焼却処分してしまっている。真実は永遠に葬られたはずだった。

 そして、部屋の中央に置かれた音機関にも這いよりにかかる。

 傍に置かれていた整備用の工具箱を開き、数多の工具を駆使して──スィンは瞬く間に件の譜業をバラバラにしてしまった。

 正確には外観はそのまま、内臓部は徹底的に分解されて、ロッカーの中や引き出しの中に押し込まれていく。

 

「大佐。あれって何の譜業なんですか?」

「スィンにとってそのままだと都合が悪い譜業であることは間違いなさそうですが……」

 

 音機関に精通しているわけではないジェイドに、正体はわからない。

 ガイもさっぱりだと口にしながらも、音機関を分解するスィンの手元を見つめていた。

 

「……ガイ。音機関いじれて羨ましいとか言わないよな」

「い、いや。何の音機関なのかなと」

 

『ガイラルディア様。聞こえますか?』

 

 突如として話しかけられ、彼はびくりと肩を震わせた。

 画面の中のスィンは送信機を見つけたのか、正確に画面真正面を向いている。但しその瞳はかっちりと閉じられ、座り込んだままの足元には譜陣がぼんやりと明滅していた。

 元より返事が聞けるものと思っていないようで、彼女は驚くべき事項をさらりと告げている。

 

『僕、逃げますね。この船乗っ取るの難しそうなんで』

 

「って、おい! ガイ置いて逃げる気かよ!」

 

『現状維持は却下、合流しても多分無意味。こんな状態ではシージャックも難しい。不甲斐ない従者で申し訳ありません』

 

 ぺこ、と画面の中のスィンが手をついて頭を下げる。

 座り込んでいることもあって、まるで土下座しているかのようだった。

 

「逃げるのは構わないが、ここは海のど真ん中だ。足が動かないと言っていたし、一体どうやって逃げるつもりなんだ」

 

『ご不満ですか? 今ばかりは否と言われても聞けません、どうかお聞き入れください。右ポケットにお入れしたものがある限り、必ずあなたの元へ戻ります』

 

 あくまで一方通行であるらしく、彼女に疑問は届いていない。ガイはポケットに手を突っ込んでロケットがあることに今驚いている。再び一礼し、初めて眼を開いて。スィンが腕を伸ばした所作をすると同時に、画面から光が失われた。

 後はただ、覗き込むようにしていた面々をぼんやりと写すのみ。

 

「大丈夫かな……」

「ええ。スィンの脱走でノエルに何かされないといいのですが」

 

 非常にありえる話だから困る。そして一同とて、彼女達の心配だけをしている余裕はない。

 船がバチカルを目指して、着々と進みゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スィンとて、ノエルのことを忘れていたわけではない。

 探索の秘術を用いて一同の姿を確認した折、彼女の姿がないことは把握している。おそらくはダアトにいるという予想のもと、スィンはアッシュとの交信を図っていた。

 

『アッシュ。今大丈夫?』

『シアか……問題ない』

『こっちの状況わかる? あのね』

『導師から話は聞いた……今バチカルに向かっている』

 

 彼が迷いなく一行を助けようとしていると知り、スィンは内心で胸を撫で下ろしていた。

 ナタリアを助けるついでとしか考えていなくても構わない、問題なんかない。

 

『ダアトにノエルって女の子いないかな。助けてあげてほしいんだけど』

『アルビオールの操縦士のことなら、もう片はつけた……俺から繋ぐことはできないのか』

『この現象が突発的なものだから、可能性はなくはない。でもその前に、僕から繋げることもできなくなるかもね』

 

 ノエルのことは彼を信じる。スィンが逃げればガイの身が危ないと脅されはしたが、彼とて曲がりなりにもヴァンから連行命令が下されているはずだ。

 安易に殺されることはおろか、下手な手出しも有事──抵抗したとかそういうことがなければ、危険性は低い。

 

『そっちの状況は……』

『死者は零、ナタリアは無事。僕はこれから単身バチカルへ向かう。頭痛つらいよね、バチカルで落ち合おう』

『あ、おい!』

 

 以前の様子を思い出し、必要事項を手短に告げて制止も聞かずに切る。スィンとてまだ、行わねばならないことがあるのだ。

 薬の影響でままならないこの体を動かせるようにすること、バチカルへの具体的な移動手段を用意すること。

 何でもないことのように言い切ったのだから、実行しなければ。

 どれだけ気の進まないことでも……成功が見込めなくても。

 

「ウンディーネ。母なる海の化身、海原の乙女を束ねる者、あの……力を貸して」

 

 要らない呟きを混ぜてしまったが、あちらは気にしなかったようだ。

 ──最近力を借りたのは、フーブラス川を渡ったとき。

 ルークの我が儘を叶えるために、本来譜術の扱えないマリィベルの体で無理やり協力を要請した。

 今考えれば無茶をしたと思う。

 想像よりずっと重かったルークを担ぐために、安全に川を渡るためにと異なる意識集合体二柱より同時に、力を借りていたのだから。

 呼びかけに応えるように、譜陣が展開する。海を連想させる蒼の色が、幻想的な輝きをその場へ召喚した。

 

『久しき哉、ユリア・ジュエ』

 

 音なき声が、鼓膜ではなく脳裏に響く。

 以前と同じように、スィンはそれを否定した。

 

「違いますユリアではありません」

 

 原初の出会いは、およそ二十の年月を遡る。

 確か水練中にドジを踏んで溺れた際に助けてもらったものとスィンは記憶していた。そのときも確かユリア呼ばわりされて、違うと主張したら姿を消され。以降助力を乞えば、非常に小さいことになら応じてくれるようになった。

 しかし、今回ばかりはそうもいかない。海を通じて陸地まで運んでほしいなど、とても応じてくれるとは思えない。

 だからこそ、呼んだ。

 大海原の真っ只中なら可能だろうと、はっきりしない根拠半分、駄目元半分で。

 再びユリアと呼ばれてつい反射的に否定してしまったが、これで姿を消されたら困ったでは済まないが、幸いにもそんなことはなかった。

 輝きを伴う人影は不鮮明なまま、くぐもった人の声を発した。

 

『汝の言葉に偽りを感知した。流れる時の中で、真を知ったか』

「でも私は、ユリアではないのです。少なくともあなたの──第四音素集合体ウンディーネの呼ぶ者ではない。我が名はスィン。スィンフレデリカ・シアン・ナイマッハ。今一度、あなたに助力を乞う」

 

 考えてみれば一度たりとも、彼女──女声であったための仮呼称──に名乗ったことはない。すると。

 

『スィンフレデリカ・シアン……それが汝の、現世の名か』

「いや、現世とか前世とかの話ではなくてですね。私とユリア・ジュエは別人……」

『その認識は正しくはないが、些細なこと。ささやかな手助けではなく、我らの力を再び必要とするならば、我らは求めよう』

 

 我らのって何。再びってどういうこと。求めるって何を。

 それら全てを尋ねることができないほどに、スィンの精神は磨耗していた。具体的に言うならば頭痛がひどい。

 まるでユリアの記憶を見せつけられる前後のように、苛む頭痛は思考回路を蝕んでいく。

 

「求め……る? 対価ですか」

『対価という言葉は相応しくない。契約という言葉が望ましい』

「契、約……あなたは私に何を望むのですか。私に、叶えられることなのですか」

 

 相手は第四音素集合体──創生歴時代には精霊と崇められていた存在だ。

 そんな存在が望むことを、果たして人の身たるスィンに可能なことなのか。

 

『我らは、汝に。蒔いた種の刈り取りを──現世より預言(スコア)の消滅を望む』

 

 蒔いた種とは、ユリアが詠んだ預言(スコア)を指しているのだろうか。言外に責任を取れと言われたところで、今のスィンに取れるわけもないのに──

 それがわかっていて尚、優先するべき事態がある。

 途方もない契約内容だと知りながら、スィンは承諾を口にした。

 

「私が生きている限り、を消滅させることに全力を費やします。優先することはできかねますが」

 

 先程嘘を見破ってみせた相手に、偽りは通じない。

 この返答に不満があるのなら彼女はさっさと姿をくらまして、二度と呼びかけに応じることはないだろう。

 対して、彼女は。

 

『その心ある限り、我は再び汝の(しもべ)たらんことを誓おう』

 

 人影が、何かを差し出してきた。意識集合体が握手を……? 

 いぶかりながらも応えて、ぎょっとする。

 ウンディーネの手らしきそれに触れた瞬間、差し出した手に違和感を覚えたのだ。

 気づけば、彼女の手の感触はない。そっと手を引き戻すと、指のひとつに針金がまきついていた。

 正確には、針金に見紛うほど細い金属じみた糸に、判読しかねるほど細かい譜が刻み込まれた代物が指に絡みついている。

 

「……これは?」

『本来、汝の作り出したソーサラーリングが望ましいが、ないものは仕方ない。新たなる契約の証だ。我らと契約を交わす度、それは新たな譜を刻む』

 

 不意に、彼女が動いた。未だに立てないスィンの傍へ、何を動かすでもなく近寄る。

 ぼんやりとした人の形から何か伸びてきたかと思うと、突如としてはっきりとした形が生まれた。

 大きな魚の尻尾によく似たその形が、スィンの投げ出された足をひと撫でする。

 

「!」

 

 譜を唱えるでも何もなく行われた行為だったが。

 それだけで、スィンの体調は一新した。

 

「……立てる」

『我らは命を害することを拒む。それさえ除外されるなら、我らが力、存分に(ふる)うが良い。かつて汝がそうしたように──』

 

 最後の快復はサービスだったのだろうか。彼女はそう言い残して、薄れゆく輝きと共に消えた。

 思うことは多々あるが、頭痛が治まったとはいえ、今はそれをするべきではない。難題は図らずも解けた。後は行動をするだけだ。

 力の入るようになった足で立ち上がり、船窓を開け放つ。

 残念なことに船窓は丸く小さな換気用のもので、今のスィンでは肩やら胸がつかえて通れない。

 ──出口がない。ならば作らねば、道は拓けない。

 腹部を意識してコンタミネーションを用い、取り出したのは──秘術、借姿形成の術式固定に使っていた、禍々しい気配を放つ魔剣である。

 ダアトの教会にいくつもあった、開かずの間を探索した際にちょろまかしたものだが、不気味なその様相を無視して余りある優れた譜術武器であったため、固定の要はこっちにしようと一応許可をもらって自分のものにした経緯があった。

 

「このようなものが現存していたとは……すぐに処分しなさい」

 

 当時言われたのはこの言葉だが、処分するならば私物化しても問題ない、と判断させてもらった次第である。

 これまで術式固定に使っていたため、そして血桜もあったため、使用を考えたこともなかったのだが──実際に振るってみて驚く。

 小型の斧にも似た片刃は、船窓を音もなく破壊してしまったのだ。

 鋼鉄で補強されている船窓の枠をバターのように切り取れた辺り、感動を通り越してうすら寒い。

 この刃、敵に向けたら一体どういうことになるのか──

 

「……考えるのは、後」

 

 一回り大きくした船窓からくぐり抜けるようにして、体を船体の外へ出す。

 白衣の裾がスカートのようにはためく最中、少しでも脱出痕の発見が遅れるよう最低限のカモフラージュは施した。

 

「ウンディーネ。海を通じて、僕をバチカルへ運んでおくれ」

『承知した』

 

 波間が緩やかに踊る大海原へ身を投げる。祈りに通じて集った第四音素(フォースフォニム)はスィンを包み込み、海中へ音もなく引き入れた。

 水の中にいながら濡れない、ひんやりとした水の感触を楽しみながら進んで──このままでは呼吸ができないことを知り海面へ浮上する。

 バチカルどころか島影もない。

 先はまだまだ遠かった。

 

 

 

 

 



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第六十三唱——交差する意思、通わぬ心

 

 

 

 漆黒の闇夜に包まれ、連絡船はひっそりとバチカル港へ接岸した。

 王都と呼ばれるだけあって、下町(スラム)が存在しないバチカルの治安は良い。

 深夜の街は静まり返り、普段よりも多い巡回の兵士が行き交う中、催眠ガスによって眠らされた一行は着々と城へ運ばれるはずだった。

 

「……なんだ? 昇降機が作動しないぞ。故障か?」

「おい、誰か音機関技師を呼んで来い!」

「今は帰宅、しかも就寝中では……」

「叩き起こせ!」

 

 彼らとしては、こっそりとナタリア・ルークを処刑したかったのだろうが、そうはさせない。

 ウンディーネと交渉し、単身バチカルまで運んでもらった。そこまでは良かったのだが、未だバチカルへ向かっている最中だというアッシュと合流できていない。

 その腹いせに、もとい時間稼ぎにと、タチの悪い罠をこっそりと全ての昇降機に仕掛けさせてもらった。

 現在はゆっくりとだが、早朝の時間帯に入りつつある。

 あの罠を解除するには少なくとも朝までかかるから、彼らが連行されているのを見てどよめく民衆に『ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア王女殿下と第三王位継承者ルーク・フォン・ファブレが無実の罪を着せられ、処刑されそうになっている』という話をばら撒いてやるのだ。

 そんなわけでそれまでは。

 

「……誰かいるのか?」

「……」

 

 無一文の上に白衣という、単なる通行人を名乗るにはあまりに特異な格好。その上白いから目立つという姿で、巡回する兵士から隠れなければいけない。

 見つかったら今すぐピンチというわけではないが、面倒すぎることが起こる。

 

「気のせいか?」

 

 本音としては兵士を一人見繕って、身包み剥いでから城に潜入できれば一番いいのだが、眠らせた兵士をどこに置いておくのかが問題だ。

 それにこの方法では、アッシュと合流できずじまいになってしまう可能性が高い。

 いっそのこと、港から離れて廃工場の入り口で夜を明かしてしまおうかと考えた矢先。

 

「そこの不審人物! 止まれ!」

 

 一瞬自分のことかと考えたスィンだったが、そもそも彼女は身動きを取っていない。

 狭い路地からそっと様子を探れば、特殊な修練によって養われた夜目が、ささやかな捕り物劇を映し出した。

 がしゃがしゃと鎧を鳴らしながら追いかけるは、先ほどスィンに気づきかけた巡回中の兵士。

 そして追いかけられているのは──

 

「ウルシー、いい機会だ。速く走る練習をしろ」

「ヨークこそ、その鼠をどうにかするでガス。いっそのこと剥製にするでガス!」

 

 漆黒の翼、ノワールの腰巾着と噂される男二人であった。今度は一体、何を企んでいるのだろう。とはいえ、積極的に関わりたいわけではない。

 逃げ切るなり捕まるなりして、このまま巡回の兵士を一人減らしてもらおうと考えて、スィンは漆黒の天を仰いだ。

 彼らがスィンの潜む路地へ侵入してきたからである。

 

「「あっ!」」

「烈破掌!」

 

 当然のことながら腰巾着達はスィンの存在に気づき、二人して立ち止まって指先をつきつけてくる始末。半ば自棄になりながら掌底を突き出し、圧縮した闘気の解放によって二人同時に吹き飛ばす。

 曲りなりにも大の男二人分によるユニゾンアタックを受けて、追ってきた兵士は。

 

「うおっ!?」

 

 不意打ちを受けてその場に転倒している。纏う鎧が災いして素早く起き上がれない兵士を蹴打でうつ伏せにし、奪った斧槍(ハルバード)で後頭部を殴りつけた。

 当身には程遠いが、頭を揺らされたショックでしばらくは動けないはず。

 鎧を剥いでまで兵士の気絶を確認する気にはなれない。事態の発覚を少しでも遅らせるために路地裏に引き込む。

 そのまま立ち去ろうとしたスィンの白衣の裾を、掴む者がいた。

 

「離せ。でなければ蹴る」

「待て、蹴るな。俺達は漆黒の翼だ」

 

 一体何を言っているのだろうと思案して、薄暗いからとりあえず名乗ったのだろうという結論に至る。

 

「そう。前は世話になった。今急いでるから」

「俺たちはアッシュの旦那に雇われて、あんたを探しに来たんでやス」

 

 ウルシーと呼ばれていただろうか。特徴的な髭面の小男の言葉を聞いて、スィンは再び天を仰いだ。

 彼らに真偽を問うつもりはない。本人に聞くのが一番手っ取り早いだろう。

 

『……アッシュー』

『シアか、どこにいる?』

『バチカル港付近。漆黒の翼に、協力を仰いだ?』

『ああ。二人と合流したのか……何かあったのか?』

『いや別に何も』

 

 彼は、スィンと──正確にはシア・ブリュンヒルドと漆黒の翼間における確執を知らない。

 一体どんな経緯があってこんなことになっているのか知らないが──いや、今知る必要はない。

 兎にも角にもアッシュとも合流せんと、スィンは後でね、と呟くようにして交信を断絶した。

 

「どうかしたのか」

「どうもしない。アッシュがいるのは何処」

 

 漆黒の翼に手を貸してもらわなければならない。この事態が自己嫌悪を招いているだけである。それを告げたところで何がどうなるとも思えないので、適当に誤魔化した。

 二人の先導に従い、バチカルの郊外まで足を運ぶ。

 徐々にその光をなくしていく月を見ながら広がる草地を歩いていくと、木陰から燃えるような髪の青年がぬっ、と顔を出した。

 

「……やあ」

「早かったな」

 

 彼にとっては、ルーク・フォン・ファブレの名を棄てた因縁の場所であるせいなのか。

 アッシュはどこか緊張しているように見えた。

 

「ちょっとね」

「……それは後で聞くとして、変装はどうした。今度は医者に化けたのか?」

「ディストに剥かれた」

 

 詳細を語るは好まない。話したところで何かがどうにかなるわけでもなし。しれっ、とした顔で要点だけを述べ、スィンは本題へ移ろうとした。

 しかし、変に狼狽したようなアッシュにそれをさえぎられる。

 

「!? ど、どういうことだ、あいつに何かされたのか!?」

「気絶させられたろ、身包み剥がれたろ、薬ぶち込まれたろ、あと……色々」

 

 主に中間部分に反応を見せながら、彼はぼそっと言い切った。

 

「……わかった。今度顔合わせたら、しばいておく」

「心底どうでもいい。本題に入るが」

「お二人さん。そんなところで立ち話してないで、こっちで話したらどうだい?」

 

 同じく木陰から姿を現した女──ノワールが、いつの間にか移動したヨーク・ウルシーを率いて手招きしている。

 彼らの背後には、辻馬車風の四頭立て竜車があった。

 

「連絡船が運航してなかったんだ。ここまで運んでもらった」

 

 この期に及んでおかしな真似はされないだろうが、想定される危険はなるべく回避したい。

 四頭の小型恐竜が少し離れたところで、もしゃもしゃと草を食んでいることを確認してから、客台に入る。

 アッシュと向かい合わせに座ると、なぜか漆黒の翼も乗り込んできた。

 

「……なんでいるのか聞いていい?」

「あらん、居られると何か問題でも?」

密告(チク)られると困る。かなり」

 

 スィンとしては、そもそも何故彼らがいつまでもアッシュに付き合っているかが謎である。

 それを尋ねようとして、ふと思い立った。

 

「まさかとは思うけど──アッシュ、こいつらに借金でもした?」

「……なんでそうなる」

「だからさ、頼んだはいいけどお金が足りなくなったから、足りない分を払ってもらうために漆黒の翼は未だにここにいる、とか」

 

 その問いには答えないものの、むき出しの額にはじわじわ汗が浮いている。

 まずいな、と胸中で生じた焦りは、他ならぬ漆黒の翼によって解消された。

 

「大筋そんなものだけど、ちょっと違うね。あたしらは港でアッシュに依頼されたんだけど、賃金のことでちょっとこじれた。だから、どうしてバチカルへ行くのか聞かせてもらったのさ。どうしてファブレ家のお坊ちゃんと同じ顔をしているのか、そのことも含めてね」

「……つまり、バチカルで何が起きるのか、あんたらは知ってるってことか」

 

 額に手を当てれば、巨大なため息が勝手に零れてくる。

 あからさまな落胆に、アッシュは決まり悪そうに「……すまん」と呟いた。

 

「別にいいよ。それで? 口止め料でも請求する? 生憎今は所持金零(ノーマネー)。おかしなこと考えたら即口封じコースだよ」

 

 所持金どころか手に馴染んだ武器すら失っているのだが、手段ならいくらでもある。

 殺すことは好まないが、優先順位は明らかに彼らの命を凌駕していた。

 ためらいは、ない。

 

「ち、ちょいとアンタ、眼が本気だよ! 殺気を振りまかないどくれよ!」

「こいつらにそんな意思はない。だから脅すな!」

 

 対象外であるアッシュですらここまで怯えているのだから、多分大丈夫だと思うが。

 

「……今回はアッシュを信じるよ。それで、今の状況なんだけど……」

 

 ダアトでの捕縛から現在に至るまで、捕縛される理由を交えて説明する。

 昇降機の細工により、本格的に事態が深刻化するのは夜が明けてからとの検討を入れると、アッシュと漆黒の翼らは事の重大さを再確認しているようだった。

 

「……つまり、ナタリアとレプリカは戦争を再開させるために処刑されるってのか」

「冗談じゃないよ、まったく! 何を考えてるんだい、あんたの伯父貴は!」

 

 まったくもって同意見である。不本意ではあるけれど。

 

「インゴベルト陛下が何考えてるかなんてこの際どうでもいいよ。こっちとしては、皆を助けられればそれでいい」

「どうするつもりなんだ?」

「本当は、連絡船が着く前にアッシュと合流して、皆が船から連れ出される瞬間に奇襲をかけるつもりだった。だけどもう今は接岸しているし、皆も眠らされている」

 

 途端、申し訳なさそうな顔をするアッシュに、スィンはすかさずフォローを入れた。

 

「責めてない。今の時勢じゃしょうがない。こうなったら、城に連行されて処刑されるまでの間にうまく助けるしかない。だからねー、王族を含む一団が連行される姿をバチカルの民に見せて、とりあえずはナタリアが無実の罪で処刑されそうになっている、って話を流すんだよ。そうすれば、少なくとも昇降機を降りきった先の道は開かれる」

 

 これまで一人で行おうとしていた作戦を明かしていく。

 やはりその辺りは気になったようで、アッシュは眉間に軽い皺を寄せた。

 

「……民衆を盾にするつもりか?」

「たとえ僕がそのつもりでも、ナタリアがそれを許すわけがない。その辺は臨機応変に対応するしかないよ。あとはおじいちゃんに白光騎士団を煽動してもらおうかな。実働的な救出は僕たちがやるとして──」

 

 そこで意外な人物が、意外な申し出をさらりと言い出している。

 

「それじゃ、あたしたちはバチカルの市民に処刑の話を広めてやるよ」

「すいません。何ナチュラルに会話参入どころか味方面してるんですか?」

 

 スィンの心ない一言に一瞬フリーズしていたノワールだったが、すぐに復活して備えつけのテーブルを叩いた。

 

「味方面とは心外だねえ! あたしらだってまた戦争なんか起こされちゃ困るんだよ。戦争を止めるためにあんたらの仲間を助ける。要するにギブアンドテイクだ」

「その戦争を利用して、ケセドニアで儲けてたの誰だっけ?」

 

 いちいち意地の悪いスィンの言い方に、ノワールは抑え目の音素灯のもとでも明らかに顔を赤くし始めている。

 予想される彼女のヒステリーを回避すべく、スィンはひょい、と手を差し出した。

 ハラハラしながら見守っていたアッシュを含む三人の男たちが、どうなることか、と戦々恐々してと、ごくり、と咽喉を鳴らしている。

 

「まあ、それはそれ、これはこれ。今回はロハだけど、よろしくお願いするよ。そこを担当してくれるなら願ったり叶ったり。煽動が終わったら必ず避難してね。くれぐれも巻き込まれたりしないように」

 

 差し出された手を前に、ノワールはそっぽを向きつつ応じていた。

 分かればいいんだよ、とかぶつぶつ呟いているようだったが、特に反応することでもない。黙殺決定。

 

「さて。朝までもう少し時間はあるから、寝ておいたらどうだい? 無一文、ってことは、今まで一睡もしないで街に潜んでたんだろ?」

「ん、まあ……」

 

 仮眠を薦められ、二人そろってかすかに踊る星空の下、寝転ぶ。

 確かに、あれから睡眠など、ほとんど取っていない。

 時間がなかったのもそうだが、主はどうしているだろうかと、何かされていないだろうか、と、こまめに秘術を用いて様子を確認していたためでもある。確認できたのは、スィンがいなくなったことで、どこかに潜んでいるのではないかと船の中で捜査線が張られていたくらいか。

 伴う消耗は手にとるようにわかるが、気持ちが高ぶって眠れなかったというのが実際のところだった。

 そして今も、スィンは彼の様子を知るべく術を行使している。

 彼女の主及び一同は護送船の一室に閉じ込められたまま。何かされた形跡はない。

 

「連中に何かあったのか」

 

 発生した譜陣を見て察したのだろう。

 スィンの──正確にはシアの手の内を把握しているアッシュが、それを尋ねてきた。

 

「みんな寝てる──正確には眠らされてるね」

「……そうか」

 

 スィンだけでなく、ノワールはアッシュにも仮眠をとれと言っていた。

 スィンと違って睡眠を取る時間ならあっただろうに、そうしなかったということは彼もまた焦燥しているのだろうか。

 

「アッシュ、眠い?」

「いや」

「じゃあちょっと、おしゃべりに付き合ってもらおうかな」

 

 おしゃべりと聞いて、何を思ったのだろうか。世界の天井を見つめていたその眼が、スィンを映した。

 ルークとまったく同じ造詣でありながら、僅かに吊りあがった形の瞳が、次なる言葉を聞いて見開かれる。

 

「覚えてるかなー? 自分を攫った人間のこと」

「!」

「君が歩むべきだった人生が、完膚なきまでに破壊されたこと」

 

 アッシュの眉がはっきりと歪んだ。それに伴って雲散霧消していた険が表情筋に宿る。

 

「……ああ、覚えている。そいつを忘れたことはない」

「もう復讐はあきらめちゃったの?」

「今はそんなことをしている場合じゃねえ」

 

 上体を起こし、見下ろしてくるその顔は、明らかに不機嫌で。

 何のつもりかと問われて、スィンは寝そべったそのままで答えた。

 

「病気、治ってないね」

 

 過去幾度となく告げたせい、なのか。彼は続く言葉を知っていた。

 

「ストックホルム症候群。犯罪被害者がながらく加害者と共に過ごすことで」

「過度の同情、好意など特別な依存感情を抱くこと。聞き飽きたぜ」

 

 スィンの記憶が正しければ、耳にタコができるほど言って聞かせた覚えがある。

 かつて彼は、自分を当時の境遇へ追い込んだ人間の前で──スィンの前で、自分の身代わりに公爵家へ返されたレプリカに憎悪を吐いた。

 何故そのような認識に至ったのかを調べた結果、この病状へたどり着いたために、その認識を改めさせるべく教え込んだのだから。

 洗脳という手段を考えなかったわけではないが、そんなことをしなくても彼はやがて思い直すだろうとの判断だった。

 間違ってもこれ以上、悪者になりたくないと思ったわけではない。

 そんな内心は秘めたまま、スィンは小馬鹿にするような調子で続けた。

 

「その雄鶏みたいな頭でよく覚えてられたね」

「たった今思い出したんだよ。クソが」

「汚い言葉吐くと、同じくらい顔歪むよ」

「その言葉をがんがん使って俺に稽古つけたのは何処の誰だ」

「君の眼がフシアナなだけで、大分きったなくなったよ、僕の顔」

 

 言われて彼女の顔をアッシュが見やる。変わっているところなど、何もないように見えた。

 初めて出会った頃と、現在と。まるで年月など経過していないかのように。

 

「それで、お前は違う病気なんだろ」

「ほうほう。なんて病気?」

「……俺とは、正反対の」

 

 リマ症候群。犯罪加害者が被害者に感化され、親近感を覚えることで攻撃的態度が和らぐこと。

 正確には、スィンはこの病状に該当しない。

 ファブレ公爵の血を引く彼のことを憎んでいたのは事実だが、その憎しみは見当違いだったことを自覚しているためだ。

 ただ、似たようなものであることもまた事実。

 

「自分だって似たような病気のくせに、俺には治せってのかよ」

「治し方がわからないからね。せめて自覚しとかないと」

 

 この間柄が異常であることを、少なくともスィンは忘れてはならない。

 彼がいつ復讐を考えても、それを受け入れることができるように。

 彼の怒りを受け止めるだけの義務が、スィンにはあるのだ。

 彼を──正確には公爵の身内を誘拐して嫌がらせしようと持ちかけたのは、その思いつきを基に組まれたヴァンの計画に乗っかって、公爵邸よりルークであったアッシュを連れ出したのは、スィンなのだから。

 無論そのことは目の前の青年に──正確には少年であった彼に話してある。

 それなのに、彼は。

 

「自覚させて、どうするんだ。俺はもう用済みだから厄介払いでもするつもりか」

 

 どこからそんな発想が生まれるのか、頭を開いてみてみたいものである。

 そんな考えを脳裏から追い出して、ひとつ深呼吸した。

 

「用済みなんかじゃない、協力してほしいよ。僕はね、君が怖いだけ。いつ刺されるかが分からないから」

 

 これが偽らざるスィンの本音である。

 アッシュはスィンを恨んで、憎んでいるはずなのに、今のところその気配を見せない。

 それはこの状況だから、そして彼がいつの間にか患ってしまった心の疾患のせいだとして、いつどのようなタイミングで彼が正気に戻るのかは未知数なのだ。

 しかし、アッシュは彼女の言葉を鼻で笑い飛ばした。

 

「仮に俺が斬りかかったとして、お前は素直に斬られてくれるのかよ」

「まさか。君の気持ちをきちんと受け入れた上で、気が済むまで応戦する」

 

 無論それは、その命を奪うことも視野に入れている。

 今のスィンが選ぶのは、いつだってただ一人でしかない。

 

「僕が死んだら我が主を悲しませるから」

 

 主という辺りに反応し、反芻するアッシュに、偽りの兄妹であったガイとの主従関係を改めて告白する。

 内心は図りかねるが、表向きは何の反応もないアッシュは、更に言葉を連ねた。

 

「お前、俺のことそんなに殺したいのかよ。お前らが何もしなければ、俺はもう死んでいる身だ。過ぎたこといつまでもぐだぐだと……」

「──ま、今は自覚しているだけマシか」

 

 現在の話ならば否だが、死んでほしかったかどうかとなると答えはない。

 当時のスィンは今ほど割り切れていなくて、公爵が苦しむなら何でもいいやと考えていた次第である。

 人の話を聞けと、がなるアッシュを無視して、上体を起こしたスィンは白衣のあちこちから紙切れを取り出した。

 護送船脱出の際持ってきた書類の一部である。

 

「その話はまた今度ね。ユリアの再来がどうのこうのって話、知ってたっけ?」

「……前に、俺の前で放心状態になっただろう。頭が痛いと言い出したかと思ったら、うずくまって……何かと思ったぜ」

「ああ、そうそう。復讐には絶好の機会だったのに、おろおろしてたねえ。思い出した」

 

 書類を手渡し、ユリア再誕計画の概要と、己の誕生記録、そして酷似していた振動数の計測結果を示す。

 ユリア再誕計画の生き残りで、実質成功例。

 事実上この体はユリア・ジュエの同位体であるらしいと、そこまで話して。

 

「明日に備えて、ユリアの譜歌全部使えるようにしておこうと思って」

「全部? 今までいくつか使ってなかったか」

「そうだよ。正確には、三つしか使えない。譜歌の存在を思い出した時点で大譜歌──七つとも思い出したけど、ぶっつけ本番で使うことはできないから」

 

 実際に使用すれば、スィンは更にユリアの記憶を見ることになるだろう。そのことをけして好意的に思っていなかったから、これまで使うことはなかった。

 少し知識をひけらかして、ティアに疑わしい目で見られていた頃が懐かしい。

 

「だからしばらく、無防備になる。場合によってはそのまま眠ってしまうかも」

「お、おい!」

「おしゃべりに付き合ってくれて、ありがと。お互い大事な人を助けるために、がんばろうね、アッシュ」

 

 渡された書類に目をやっていたアッシュから、無理やりそれらを奪ってさっさと火をつけてしまう。

 収束した第五音素(フィフスフォニム)にまかれるそれが燃え尽きるまで、スィンは書類から手を離そうとしなかった。

 咄嗟に手放させようとしたアッシュの手が、スィンの手を掴んで思わず停止する。

 これまで白衣の袖に隠れていたその手は、硝子の破片を浴びたように血まみれだった。

 それでも袖に引火しないようか無理やり捲り上げ、手首に拘束の痕を、腕に無数の注射痕を見つける。

 

「……!」

「君は優しいね、こっちが不安になっちゃうよ」

 

 外的要因ならばともかく、スィン自身が発生させた第五音素(フィフスフォニム)で、火傷などするはずもないのに。

 負傷を見つけて顔色を変えるアッシュの手をゆっくりと外させ、手の内に残った燃え滓をそのまま胸に当てて。

 まずは譜歌の使い方を思い出すべく、スィンは譜歌を奏でた。

 

「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 

 ♪ Luo Rey Qlor Lou Ze Rey Va Ze Rey──

 

 メジオラ高原で、必要に迫られてジェイドの疑念よりルークを優先させるために使った譜歌が謡われる。

 展開した光の譜陣から立ち上る輝きは、スィンが負ったすべての負傷を瞬く間に癒した。

 第四音素譜歌、楽園に鳴り響く福音(ヘブンズ・リザレクション)

 ティアに伝わっているものがどうあれ、スィンが現在使用に耐えうるのはあとふたつ。

 アッシュとの内緒話のため、ユリアシティでミュウに使った第一音素譜歌、夢魔の子守唄(ナイトメア・ララバイ)

 崩落するアクゼリュスから身を護るために使用した第二音素譜歌、不可侵の聖域(フォースフィールド・サンクチュアリ)

 残るは四つ。実際に発動させる必要はない。ただ、謡うだけでいい。それがわかっていても、緊迫していく心が鼓動を早めていく。

 

「戦士よ勇壮たれ。鼓舞するは勇ましき魂の選び手」

 

 ♪ Va Rey Ze Toe Nu Toe Luo Toe Qlor──

 

「っ!」

 

 ぎり、と食いしばった歯が、歪む柳眉が、譜歌の使用による──ユリアに関連した事柄に触れては引き起こされる苦痛のほどを語っていた。

 ただ、それは束の間。頭痛に耐えるために添えられた手が外れて、新たな譜歌を口ずさむ。

 

「天界より降り注ぐは裁きたる白き雷。咎人を等しく薙ぎ払え」

 

 ♪ Va Nu Va Rey Va Nu Va Ze Rey──

 

「煌く破邪の十字架(クロス)よ、我が敵を貫け」

 

 ♪ Qlor Luo Qlor Nu Toe Rey Qlor Luo Ze Rey Va──

 

「時の狭間に──」

 

 ここではないどこかを見つめる瞳はそのまま、残る譜歌全てが謡われる。

 ユリアの記憶は未だ意識を縛り付けているのか、謡い終わっても身動きひとつしない。

 この状態に陥った彼女に何をしても意味がないことを知るアッシュは、ただ見守るしかなかった。

 

「……本当に、いつまで引きずってやがる」

 

『あなたを誘拐するようヴァンを唆したのは、他ならぬ私』

 

 両親や婚約者と引き離し、日陰の身へ追いやった自分を憎め、殺せるようになれ。そのために鍛錬を積めと、シアは言った。

 今思えば、帰る場所をなくして茫然自失となっていたアッシュに目的を与えるための方便だったのかもしれない。

 それが本気だったかどうかは本人のみぞ知るが、未だ自分への復讐を焚きつけるあたり、本気だったのかもしれないとアッシュはぼんやり考えていた。

 

 恨んでいないわけではない。憎んでいないわけでもない。

 

 それでも、ヴァンや彼女が何もしなければ、アッシュは──ルークは、預言(スコア)に詠まれるまま死を迎えていた。

 このことは、変えようもない事実なのだ。

 攫われた当時こそ、単純に彼女を憎んだアッシュであったが、同じ時を過ごすにつれその感情は薄れてしまった。

 理由は──彼女の言うような病気になったから、ではない。少なくともそれを自覚したことはない。その恨みがレプリカに転嫁されたわけでもない。

 シア・ブリュンヒルドはアッシュに対して、何事にも真摯だったからだ。

 存分に憎め、恨め、そして強くなれと、真正面からアッシュの感情を受け止め、一度として逃げたことはなかった。

 自分の成長は我が事のように喜んでくれ、間違った方向を向けば叱責して正し、彼が悲しみにくれていれば、ただ黙って抱きしめてくれた。

 ただの一度たりとも理不尽な暴力にさらされたことはない。言葉の暴力は別かもしれないが、それが向けられたのはすべて稽古中のこと。それを理不尽に感じたことはなかった。

 

 疚しさからの優しさだったのかもしれない。

 彼女自身が行ったことに対する償いであり打算だったのかもしれない。

 

 ──はたまた、本当に病気なのかもしれない。

 それでも、アッシュは確かに自分に向けられた愛情を感じていた。

 そんな相手にどうやって、恨みや憎しみを継続させろというのか。

 きっと彼女は、それを知っている。知っていて、アッシュが復讐する気などないことがわかっていて、面白半分に囃しているだけだと。

 いつしか彼はそう思い込むようになっており、すれ違う二人の想いが交錯する機会は、このときより永遠に失われた。

 

「……」

 

 ふと、彼女が身動きをしたような気がして目を向ける。

 目蓋を閉じたスィンはだらりと四肢を投げ出して、いつのまにかくうすか寝息を立てていた。

 今なら、今ならば、アッシュが『復讐』すればそれは叶えられるだろう。

 もともと消耗していたところ、ユリアの記憶を垣間見て、彼女はアッシュに頬をつつかれてもぴくりとも動かなかった。

 その寝顔は非常にあどけなく、普段を思えば信じられないほど無防備で。

 何の夢を見ているのか、うにゃうにゃと意味不明の呟きを発し始めた彼女から目を離し、アッシュもまた大地に横たわった。

 星は、徐々にその姿を消しつつある。

 

 

 

 

 

 

 



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第六十四唱——吹っ切る覚悟と不安の心

 

 

 

 

 数刻後。

 確かに朝となってからルークたちは城へ連行されたのだが、スィンの予想に反してその姿を民衆が直接見ることはなかった。

 おそらく往来への出入り禁止が発令されたのだろう。裏路地の隙間から一行が昇降機に乗せられていく様が見える。

 

「どうするんだい、これじゃあ煽動なんて……」

「大丈夫。すぐに人が集まるよ」

 

 その言葉どおり、連行されてすぐ広場にぞくぞくと住民が集まってきた。少し耳を澄ませば、彼らは口々に何があったのかを聞きあっている。

 思ったとおり、インゴベルト陛下は下々に対して何の説明もしていない。

 ここでナタリアは十八年間、自分を騙してきた偽王女だと公式発表されていたらどうなるかわからなかったが、心情的に考えてそれは人としてできることではないだろう。

 平和条約をあっさり破った男も、自分の一人娘に関しては畜生になりきらなかった、ということか。

 

「よーし……ここは任せな!」

「任せた」

 

 漆黒の翼がほうぼうに散っていったのを見届け、アッシュと顔を合わせて頷いてから最上層へ直通の昇降機へ走る。

 兵士が二人ほど見張りについているが、この程度の障害は気にしない。

 外套をすっぽりと纏う二人組の接近に気づいて武器を構えかけた兵士だったが、開き直ったスィンの譜歌による効果であっさりと昏倒した。できるだけ怪しまれないよう壁に寄りかからせる。

 アッシュにそれをやらせている間に、スィンは昇降機を使用不能とした仕掛けを解除し、作動させた。あっさりと最上層にたどり着き、先導してファブレ公爵邸の裏庭へと潜り込む。

 そこでは、庭師のペール──もとい、スィンの祖父にしてガルディオス家左の騎士、ペールギュント・サダン・ナイマッハが剪定ばさみを手に庭木の手入れに勤しんでいた。

 この様子だと、インゴベルト陛下はファブレ夫婦に事実を伝えていないらしい。

 否、二人に事実を伝えていたとしても、緘口令が敷かれている可能性が高かった。

 

「ペール……」

 

 何かに──おそらく、彼が自分の記憶より思いのほか老けていることに驚いているのだろう。感傷的になっているアッシュの隙をついて彼に前髪を降ろさせる。

 ペールだけならスィンだけでいい。

 だが、白光騎士団を動かすとなると、彼の姿があったほうがいいに決まってる。

 

「おい、何しやが──」

「ルークのふりして白光騎士団に協力要請! おじいちゃんには僕が説明するから」

 

 ペールがスィンの祖父だと聞かされていないアッシュが目を白黒させているのを尻目に、潜んでいた茂みから一気に飛び出した。

 当然、ペールは驚いて誰何の声を上げようとしている。

 

「何や……! スィン!?」

「ご無沙汰、おじいちゃん。この姿を見てわかるように、ガイラルディア様は全てをルークに話したよ。もう隠す必要はない」

 

 ひらひらと手招きをするスィンに合わせ、前髪を下ろしたアッシュが堂々たる態度で彼の前に姿を現した。

 驚愕のあまり硬直してしまっている祖父に怒鳴りつける。わざと大きな声で、異常を知った白光騎士団が集まるように。

 

「白光騎士団にも伝えて! ナタリア様が無実の罪で城に拘束されてる、このままでは処刑されてしまう!」

「なんと……ナタリア姫は、アクゼリュスで亡くなられたのでは……」

「そんな大昔のこといちいち覚えてらんないよ! 今から助けに行ってくるから「何奴!」

 

 がしゃがしゃと音を立てて、白光騎士団の衛兵が駆け寄ってくる。

 ちら、とアッシュを見れば、彼は小さく頷いて歩み出た。

 

「ル、ルーク様!? ご無事で……!」

「白光騎士団各位に伝えろ。ナタリア姫が無実の罪で城に拘束されている。このままでは処刑されるかもしれない」

 

 ところが、衛兵は首を傾げてアッシュの顔をじっと見ている。

 

「……ルーク様、心なしか顔つきが凛々しくなられ……御髪の色もどこか鮮やかに……?」

 

 言われてみればその通りだ。

 しかし、屋敷の中のルークをまったく知らないからといって、アッシュに演技指導なんかしている暇はなかった。

 教えたところで、本人も嫌がっていたことだろう。

 

「う、うるせえ気のせいだ、黙って聞け! ──白光騎士団は今すぐ城外へ赴き、解放された姫を昇降機まで導く道を確保せよ。可能ならば二班に別れ、別班は最下層にて待機、予想される混乱を防げ、いいな!」

「御意っ!」

 

 特務師団長をやっていただけあって、アッシュの指揮は実に堂がいったものだった。その堂々たる態度を見るや、ペールは「ルーク様……ご立派になられて」と涙ぐんですらいる。

 その背中をばしっ、と叩いて、スィンはアッシュに合図して公爵邸を後にした。

 急ぎ城へ向かう最中、外套を脱いで腰に巻きつける。ここから先、機敏に動けない障害はできる限りなくすべきだった。

 

「……うまくいったな」

「そうだね。この調子で門番もよろしく」

「……もうルークのふりは通用しねーぞ」

「違う。六神将の立場を利用してよ」

 

 その一言にすべてを悟ったか、彼は髪をかきあげて外套を脱ぎ捨てた。ちなみにこの外套は、アッシュが漆黒の翼から格安で買い取ったものである。

 そうこうしている間に、二人は城門へとたどり着いていた。

 

「何者──」

「大詠師モースに呼ばれている、通せ!」

 

 あんな短い時間では、気の利いた台詞は浮かばなかったらしい。

 ほとんど押し入るような形で城内へ踏み込むと、スィンはアッシュを引っ張って罪人部屋へ走った。

 扉を威勢良く蹴り開け、中の監視兵を譜歌で眠らせる。昏倒させるより遥かに早いそれに何かを思うより前に、スィンは彼らから鍵束を奪い取った。

 

「今の歌って、ティアの……」

「ガイラルディア様、無事ですかっ!?」

 

 いても立ってもいられず、アッシュを見張りにと置き去りにして叫ぶ。

 反応を素早く聞いたスィンが駆けつけると、彼らは贅沢にも一人ずつ投獄されていた。手前から、ティア、アニス。その向かいに、ガイ、ジェイド。ルークとナタリアの姿だけない。

 ガイの無事な姿を見つけられたのはよかったが、二人はどこにいるんだろうか? 

 それを思いつつも、スィンはガイの投獄されている牢の前で跪いた。

 

「ご無事でなによりです、ガイラルディア様」

「お前も無事でよかった。それより……」

 

 こくこく頷きながら、四人の脱獄に手を貸す。

 片っ端から扉を開いた後、何か言いたそうにしているガイから意図的に眼をそらし、アッシュのいる監査室が騒がしいことに気づいて走った。

 詰めかけた兵士を押し留めるように、アッシュが黒剣を振るっている。倒せない数ではないが、そんな悠長なことをしていられる場合ではない。

 追いついてきたティアの肩を、スィンはがしり、と掴んだ。

 

「ティア、『せーの』で第一音素譜歌、歌って? いくよー……」

「え、あのっ「せーの!」

 

 ♪ トゥエ レイ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ──

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 狭い監査室に押し入った十数名の兵士は、ソプラノとアルトの二重奏を耳にして、ばたばた昏倒していった。

 

「よかったうまくいった。さあこっち」

「え? え? え?」

 

 混乱するティアをさておき、アッシュに叫ぶ。

 

「アッシュ、二人がいない! どこにいるか──」

「ナタリアの部屋だ。隣にナタリアが立っていて、アルバインの野郎と兵士が来ていやがる!」

 

 わかるか、と聞こうとして、そんな情報を得た。

 

「何かされてる?」

「兵士二人が、ワイングラスみたいなものを持っているな。まさか──」

 

 服毒させるつもりか! 

 振り返れば、皆は没収された得物と荷物を回収している。

 ありがたいことに、血桜と軍服を含むスィンの荷物もあったため、手に取った。

 祝、所持金零生活脱退。

 

「ルークたちの場所がわかった、皆来て!」

 

 兵士が集まる前に、ナタリアの私室へ急ぐ。

 昏倒させる暇もなく蹴散らすようにして強引に突破すれば、私室の扉が見えてくる頃には追っ手が十数人どころではない騒ぎに発展していた。時間稼ぎが必要である。

 スィンの視線に気づいたジェイドにあとよろしくっ、と囁き、先導させているアッシュはそのまま、足を止めた。こんなときだからこそ、将来を誓った二人を再会させてあげるのも悪くはない。

 血桜を抜き、剣帯がないのに気づいて、片手に持つ。

 図らずも、ガイと同じスタイルになっていることに気づいて、わずかに唇を歪めた。

 兵士たちは、それを揶揄だと受け止めたらしい。一丸となって突っ込んでくる。

 それを迎え撃つべく、腰溜めに血桜を構え──

 

「獅子戦「氷の刃よ、降り注げ──アイシクルレイン!」

 

 ルークのものにしてはドスの利いた声が、後方で叫ばれる。

 兵士たちに襲いかかる氷柱に漠然とした懐かしさを覚えながら振り向くと、アッシュが駆け寄ってくるところだった。

 

「ナタリアに会わなくていいの「うるせぇ、ほっとけ!」

 

 鼻息荒く、兵士に飛びかかっていこうとするアッシュを制して、今日で何回目になるかもわからない第一音素の譜歌を歌う。次々と深遠へ誘われる彼らは、もはや意識の欠片も残っていない。

 軽く息をついて、アッシュの望むようにその件には触れないことにした。

 

「なら、城中の兵士片付けるつもりでいこうか。皆なら、城から出ればなんとかなるだろうし」

「……ふん」

 

 出会い頭の兵士を昏倒させ、ついでに謁見の間へ続く扉の兵士も転がしておく。

 少しでも追っ手が少なくなるよう奮闘していた二人であったが、ふと皆が今どこにいるのか気になったスィンはアッシュに探るよう頼んだ。

 

「今皆どこにいる?」

「もう城の外だと──なっ!?」

 

 実際に屠ったわけではないが、死屍累々としている廊下に、アッシュの驚愕が響く。

 前半の言葉に安心しかかっていたスィンだったが、その驚愕に、内容には眼をみはった。

 

「どした?」

「あいつら……なんだって謁見の間なんかに!」

 

 ──考えられなかったわけではない。

 ルークはともかくとして、ナタリアはおそらく父と信じていた人物から、人づてとはいえ毒を飲めと言われたのだろう。真意を問いただしたい気持ちがわからないわけではない。

 割と冷静な人たち──特にジェイドがいさめると思っていたのだが、スィンが思っていたより彼は情け深いのか、あるいは何を言ってもナタリアを止められないと思ったのか。

 なんにせよ、あまりいいことではない。

 

「謁見の間、誰がいる?」

「叔父上、モース、ディスト、ラルゴ……あれはナタリアの乳母か?」

 

 モースと、ナタリアの乳母。更に六神将二人というあまりよくない組み合わせに、スィンは軽く眉をひそめた。

 できれば、城の中の兵士は片付けておきたかったのだが、やむをえない。

 

「行っちゃったモンはしょうがない、行こう!」

 

 まくり上げた白衣の袖が、ずるずると落ちかかってきている。

 それを即席のたすきでたくし上げながら、スィンはアッシュを伴って謁見の間へ急いだ。

 

 

 

 

 

 

 



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第六十五唱——騒乱は、戸惑いに立ち止まることも許さなかった

 

 

 

 

 

 

「何をしているのです、ラルゴ? 他の者の手にかかってもよいのですか?」

「くっ……強引につれてこられたかと思えば、こういうこととはなっ!」

 

 扉の向こうから、そんな会話が聞こえる。

 どこに隠れていたのか、うじゃうじゃと湧いて出た兵士を抑えつつ、アッシュだけを謁見の間へ送り込んだ。

 

「アッシュ! ちょうどいい、そいつらを捕まえなさい!」

「ル……アッシュ……」

「獅子戦吼!」

 

 階段の最上段から兵士の一団を叩き落し、もれなく気絶していることを確認してから謁見の間へ入る。

 ナタリアを率いる一行に手を出し難かったのか、立ちすくんでいた衛兵が突進してきたために槍の穂先をかいくぐって突き飛ばした。

「シア!?」というディストの驚愕を無視して、アッシュと共に六神将へ立ちはだかる。

 

「せっかく牢から出してやったのに、こんなところで何をしてやがる! さっさと逃げろ!」

「お前らが助けてくれたのか! だったら一緒に……」

「うるせぇっ! 誰かがここを食い止めなければならないだろうが、さっさと行け!」

 

 スィンが敵の動きを見ていると確信してか、彼はしっかりと振り向いて追い払うように手を振った。

 

「ナタリアさ──ナタリア、大丈夫。ちゃんとアッシュと一緒に追いつくから」

 

 それまで、彼女に対してだけは敬語と普通の言葉を織り交ぜて使っていたスィンが、はっきりと普通の言葉を使っている。

 それが彼女の心にどう影響したのかまったくわからないが、とにかくわずかな逡巡を経て、ナタリアがぽつりと言い残した。

 

「……ご無事で!」

「スィン、抜かるなよ!」

「御意!」

 

 流石に、この二人相手に視線をそらすのはためらわれる。

 スィンはばたばたと立ち去る足音を聞きつつ、そう答えていた。

 

「きーっ、裏切り者! さてはシアを逃がしたのもあなたの手引き」

『ガタガタうるせぇんだよ、屑が!』

 

 見事にハモった罵声が、ディストを怯ませる。おほん、とスィンがわざとらしく咳をしているあたり、どうやらまったくの偶然らしい。

 有言実行とばかり、言葉もなくディストに殴りかかろうとしたアッシュの腕を掴んで制止する。

 そんなことをしている場合ではない。早くここを切り抜けて、逃げる皆の援護をしなくては。

 

「自力に決まってる、阿呆。それに、お前だってヴァンを裏切って、モースに情報を流してるだろうが。導師の私室でそんなこと話してたね」

 

 図星も図星、ディストは返す言葉もなく黙っている。モースは軽く顔を引きつらせ、ラルゴは眼を剥いてディストに詰め寄った。

 

「……貴様! 六神将でありながら、総長を裏切っていたのか!」

「私は目的が果たせればいいのです。ヴァンへの忠誠より、優先させることがありますからね」

 

 開き直ったディストが、例の飛行椅子でさっさと逃亡を図っている。

 それを見送るラルゴはあたかも獅子の如く唸り、窓から逃げ去ったディストを眼で追っていた。

 こちらと交戦する気は、すでに失せているようである。

 

「何をしておる、ラルゴ! そやつらを──!」

「さて、行こうかアッシュ」

「ああ」

 

 モースは喚くが、ラルゴにその意思がなければ怖くもなんともない。

 玉座の辺りで、インゴベルトが「……ルーク……?」と呟いているのが聞こえた。

 それがアッシュに聞こえていないわけがないのだが、彼はすたすたと謁見の間から離れようとしている。

 

「──あなたは自分の甥だけでなく、娘と信じて育てた彼女すらも、預言(スコア)に捧げるつもりなのですか?」

 

 それだけを言い捨て、アッシュの後を追う。流石にもう打ち止めか、それともそれだけナタリアの追っ手に費やしているのか、兵士の姿はなかった。

 ──今あそこでインゴベルトを殺すのは、きっと楽勝だったに違いない。

 が、しかし。今現在、城の中はそうでも、今から侵入というのは不可能と思われた。

 何故なら。

 

「てりゃああっ!」

「こざかしい!」

「邪魔立てするな!」

 

 白光騎士団+ペール対キムラスカ軍兵士という構図で、今まさに城前の広場が戦場と化していたからである。

 ファブレ公爵旗下の私兵とはいえ、彼は公爵にしてキムラスカ王国軍の元帥だ。

 そしてペールは、紛うことなきガイとスィンの剣の師。その辺の軍人に引けは取らないだろう。

 

「素通りしていいのか……?」

「だいじょうぶだよきっと」

 

 戦場の合間を縫うように昇降機へとたどり着く。

 とそこへ。

 

「な……ルーク様!? 先ほどナタリア姫と行かれたはず……!」

 

 戦場を潜り抜けてきたペールに追いつかれた。先に行くようアッシュに手を振り、スィンが立ち止まる。

 

「どういうことじゃ!? ファブレ公爵の子息は一人のはず──!」

「おじいちゃん、それはまた今度説明してあげるから。それよりも教えて。僕、旦那様の血を引いてるの!?」

 

 ペールの眼が大きく見開かれた。この反応、彼は間違いなく知っている! 

 

「血の繋がりなんか正直どうでもいいんだけど、事実は把握しておきたいの! 僕……僕、マリィベル様やガイラルディア様と腹違いの兄弟だっての!?」

「スィン……詳細は後に話そう」

 

 誤魔化すな! と掴みかかる義孫の肩を、彼はきつく握りしめた。

 

「今言えるのは……確かに、お前の体にはガルディオス家の血脈が受け継がれておる、ということじゃ」

「っ!」

 

 ──ディストの言葉を、信じていなかったわけではない。

 ずっと、不思議ではあったのだ。緋色の瞳は母から受け継いだもの。それは、物心つく前から持っていたロケットを開けたとき知った。

 なら、この藍色の瞳は? 

 ガイのものとは少し違うが、許されたときしかじっくりと見れない、旦那様と同じこの眼は、一体誰から受け継いだものだったのだろうか? 

 ──考えたことがない、と言ったら嘘になる。

 でも、それを本気としたことは、これまで一度たりとも──! 

 

「シア!」

 

 アッシュの声が、スィンの耳朶を打ち、鼓膜を、心を震わせる。グッ、と食いしばった歯が、零れそうになる感情を押し留めた。

 大きく深呼吸をして、祖父に別れを告げる。

 

「今度説明してよね!」

「生きて戻ってくるんじゃぞ!」

 

 作業着のまま、抜き身の剣を振りかざして戦場へと舞い戻る彼を見送るまでもなく、来るとき使用した最下層直通の昇降機を作動させる。

 軍事用とはいえ、安全を考慮してか昇降機は一定のスピードでしか動かない。ゆるゆると降下していく昇降機にアッシュがいらいらと貧乏ゆすりをしている。

 それを落ち着かせるために、スィンは下を見るよう言いながら、ウインドボイス──風に音をだけを運ばせる古代秘譜術を発動させた。

 一行を追う兵士らは、住民によって大多数が足止めされている。

 市民による包囲網を強引に突破した禿頭の巨漢──第一師団長ゴールドバーグ──が逃げる一行に追いすがっていた。

 

「まて! その者は王女の名を騙った大罪人だ、即刻捉えて引き渡せ!」

 

 第一師団長の激に、市民から妨害を受けて浮き足立っていた兵士たちの動揺が鎮まる。武器を握る手に力がこもった。

 その気配を、ナタリアは敏感に察知し、とうとう足を止める。

 

「そうです! みんな、わたくしは王家の血を引かぬ偽者です。わたくしのために、危険を冒してはなりません」

 

 やはり、住民を盾とすることはどうしてもできないらしい。

「どうか逃げて!」という彼女の懇願を聞き入れる住民は、誰一人としていなかった。

 それどころか、ゴールドバーグの前には老若男女を問わぬ壁が形成されつつある。

 

「ナタリア様が王家の血を引こうが引くまいが、俺たちはどうでもいいんですよ」

「わしらのために療養所を開いてくださったのは、あなた様じゃ」

「職を追われた俺たち平民を、港の開拓事業に雇ってくださったのもナタリア様だ」

 

 口々に叫び、彼らは己を盾として一行の──ナタリアを守る障壁となった。その光景を、アッシュは思うことがあるらしくものも言わずに見つめている。

 しかし、その行為に感動するような心を彼は持ち合わせていないらしい。

 

「ええぃ、うるさい、どけ!」

 

 ただ、苛立ったように己の目の前を塞ぐ老婆相手に剣を振り上げる。

 刃の恐怖に体を震わせながら、それでも逃げようとしない老婆の姿に感心しつつスィンは軽く息を整えた。

 

「時の狭間にて揺蕩(たゆと)う者よ、奏でし調べに祝福を!」

 ♪ Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey──

 

 大譜歌のフィナーレ、第七番目、第七音素(セブンスフォニム)の力を備えた譜歌。

 第七音素(セブンスフォニム)は特定の属性を持たず、ただオールドラントの誕生から消滅までの記憶を有している、というのが一般的な見解だ。

 第七音素(セブンスフォニム)については謎も多く、未だ解明されていないことも多いが、この歌はそんな第七音素(セブンスフォニム)の持つ未特定の力を、完璧な形で有している。

 それは──時を操ること。

 

「ぬぅっ!?」

 

 振り上げられた剣が、主の意思を離れて空中に停止している。宙に浮く剣に誰もが動揺している間に、昇降機は最下層にたどり着いた。

 一定時間経過後に剣は主の手に戻り、今度こそ障害物をなます切りにしようとしたゴールドバーグにルークがたまらず飛びかかっていく。

 

「やめろ!」

「ええいっ! うるさいっ!」

 

 もみ合いになりそうになった二人の間に、走りよったアッシュが割り込み、そのまま突き飛ばした。

 

「アッシュ……!?」

「……屑が。キムラスカの市民を守るのが、おまえら軍人の仕事だろうが!」

 

 無様にもんどりうって倒れたゴールドバーグの咽喉元に抜き身の血桜をつきつけ、周囲の兵を威嚇する。

 組織とは基本的に壊滅を望めぬものだが、崩すのは比較的楽だ。なぜなら、一番初めに頭を叩き潰せば後は勝手に瓦解していくものだから。

 自分たちを指揮する人間を抑えられ、兵士は再び浮き足立つ。それを見逃すことなく、市民たちは質より量とばかり人海戦術に打って出ていた。

 ゴールドバーグをスィンが抑えているのを確認し、アッシュは一行に──否、ナタリアに振り向いている。

 

「ここは俺たちに任せろ。早くいけ、ナタリア!」

「……アッシュ……」

 

 すがるようなナタリアの顔を見て、彼は珍しく、ほんの少しだけ──柔らかく目元と口元を緩ませた。

 慈しむような、はにかむような。暖かい──はっきりと、笑みとわかる表情。

 

「……おまえは、約束を果たしたんだな」

 

 その顔を見、その声を聞き。

 ナタリアは感激に身を震わせ、けして悲しみではない涙をたたえた瞳をしばたたせた。

 

「アッシュ……『ルーク』! 覚えてるのね!」

 

 視線を、一瞬だけしか彼らへ移していないスィンからは見えないが、ナタリアはアッシュに駆け寄ろうとしたのだろうか。

 アッシュはそれまでの柔和な雰囲気を消し、わざと突き放すかのように怒鳴った。

 

「行け! ……そんなしけたツラしてる奴とは、一緒に国を変えられないだろうが!」

 

 二人の視線が、傍目からもわかるほど強く絡み合う。

 ナタリアの眼から、謁見の間より逃走した際浮かんでいた感情は、完璧に喪失していた。

 

「……わかりましたわ!」

 

 力強く頷き、アニスらに先導されてバチカルの外を目指す。

 後に続こうとしたルークの背に、アッシュは殴りつけるかのような罵声だか激励だかよくわからない言葉を送った。

 

「ルーク! ドジを踏んだら、俺がおまえを殺すっ!」

「……けっ。おまえこそ、無事でな」

 

 背中にいくつかの視線を感じたが、スィンはそれらを意図的に無視して血桜を一閃させた。衝撃波が、ゴールドバーグの体を吹き飛ばし、兵士を何人か巻き添えにして走る。

 ちらりと振り返れば、彼らは白光騎士団の用意した馬車に乗り込み、バチカルを後にしていた。

 幌に隠れて、その様子は見えないが、まもなく王女逃亡が知らされて兵士も退くに違いない。市民はどうか知らないが、こちとら城に乗り込んで偽王女逃亡に手を貸したまぎれもない罪人である。そろそろバチカルを離れなければ。

 アッシュに目配せをすると、彼はスィンの視線を敏感に感じ取り、剣を収めた。

 兵士らは未だ市民とのもみ合いを繰り広げている。二人はわき目もふらず、一目散にバチカルを飛び出した。

 街中を舞台とした喧騒が収まるのは、もう少し先の話である。

 

 

 

 

 

 



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第六十六章——手に入れたのは、新たな力

 

 

 

 

 

 

「ザオ砂漠は途中で消失しています。イニスタ湿原へ向かってください!」

 

 バチカルを脱出する際、ナタリアたちに向けて白光騎士団はそのようなことを叫んでいた。

 ザオ砂漠はケセドニアと共に降下させたのだから仕方がないのだが、馬車で逃走した一行に湿原へ向かえと言うのはいかがなものかとスィンは思う。

 

「ベルケンドへ行けと言いたかったんだろうけど、馬車であの湿原はきついよね」

「徒歩はもっときついだろうが」

 

 不可能と言うわけではない。湿原を行くための装備が搭載されている馬車で行けば問題なかったのだが、あの馬車はどう見ても単なる幌馬車だった。

 そもそも、湿原を駆ける馬車は竜が引くものではない。車輪もキャタピラの、音機関で駆動する代物だ。

 広い湿原で同じルートを辿ることができるかどうかはわからないが、二、三日もすれば放棄された馬車や馬が発見できるのではないか、と考えている。

 スィンは(おも)としてガイに、アッシュはナタリアに追いつくつもりで走った行程だったが、徒歩で全力疾走させたと思われる馬車に追いつくのはやはり不可能な話だった。

 湿原へたどり着き、入り口の橋付近で咲いていた巨大な花──ラフレスから花粉を採取した後の話。

 スィンは湿原へ侵入した馬車の跡を発見したのだが、どう好意的に見えても一日以上は経過していた。

 

「くそっ!」

「──皆この湿原に入るのは初めてだし、それなりに時間はかかると思う。ここで距離をつめておこう? あとはベヒモスの件だけど……皆が遭遇しないことを祈るよ」

 

 討伐隊が幾度か組まれたにもかかわらず、結局退治報告の入らなかったあの怪物を、この湿原に閉じ込めた話を彼らが知っているかどうかはわからないが、ジェイドあたりが知っていることを望みたい。むしろ、知っていてもらわなければ彼らがここで処刑されてしまう可能性があった。

 橋を渡りきり、意気揚々とぬかるんだ湿原へ一歩足を踏み出した瞬間。

 指に、何かが生じたような気がした。

 

「ん?」

 

 見れば、その場所には螺旋状の針金のようなものが浮き出ている。

 ウンディーネによってバチカルにたどり着いた瞬間、溶けるように消えてしまった契約の指環だった。

 いきなりどうして存在を主張しているのか。

 アッシュと連れ立って歩く中、首をひねりつつも触れたそのとき。

 

『──待て』

 

 頭の中に、かなり明朗な声が響いた。

 

(ウ、ウンディーネ!?)

『その通りだ、主。ノームの気配がする。話は私がつけよう、奴と契約を交わせ』

(交わせ、って、アッシュの前で!?)

『ローレライの同位体とはいえ、無関係の者を巻き込むのは好まぬ。だが、契約を強固とするためだ。ノームの声に応え、誓いを思念とせよ。ノームの了承は譜が刻まれることで汝に伝わるはずだ』

 

 つまり、スィンが契約を破らないよう、複数の意識集合体と契約を結ばせてより強く縛るつもりらしい。特に文句を思う気はないが、無理やり契約を結ばされるのはあまりいい気持ちではなかった。

 ついでに、ノームが了承しなかったらどうするつもりなのだろうか? 

 

『悪い~なあ。ウンディーネは~、ああ見えて疑り深いんだ~。下手に契約を破る~とぉ、姉妹のセルシウスまで呼ぶか~らぁ、気をつけたほうがいい~よぉ』

 

 そんなことを思っていると、突如間延びした男声が頭を反響した。

 頭を抱えたくなるのを抑えて、尋ねる。

 

(……誓い、思えばいいのかな?)

『お~、思え、思え~』

 

 どうでもいいが、意識集合体の声はこの間と違って空気を震わせているものではないらしく、隣のアッシュは何も反応がない。

 

(……僕が生きている限り、預言(スコア)の消滅に全力を尽くすことを誓うよ)

『その心がある限り~、我は汝の僕であることを誓お~う』

 

 どこまでも間延びした声と共に、契約の指環の一部がぼんやりと輝いた。

 よくよく見てみれば、ウンディーネの譜は手の甲側の上から二番目、ノームの譜は一番目に位置している。

 

『困ったことがあったら~、今までのように、いつでも言ってくれ~。戦うとき以外な~』

 

 ──そうして、気配は消え去った。

 これはひょっとすると、すべての意識集合体と契約を交わすことになるかもしれない。

 これからも、こんなことがあるのだろうか。その度に、隠し通すことはできるのだろうか。

 ……できない気がする。

 姿を消した指環を見送るでもなく軽く額に手を当てると、右を歩いていたアッシュにどん、と背中を叩かれた。

 

「……どうする?」

 

 見れば、前方にはどすどすと徘徊を続ける漆黒の巨体が、正規ルートである橋を塞いでいる。周囲、そしてベヒモスの口元を見て、ほっとスィンは一息ついた。

 

「よかった……とりあえず皆、奴の腹に納まってる感じじゃない」

「それは喜ばしいことだが、どうする? ラフレスの花粉を……」

 

 使おうか、とアッシュが続けようとして、固まった。

 スィンの腹から、輝きと共に剣が取り出される瞬間を目撃して。

 

「……な」

「ちょうどいいや。こいつの錆びになってもらうから、アッシュは離れててね。他の魔物に不意打ちくらわないように」

 

 今しがた返り血を浴びたような、とても鞘には収まりそうにない異形の剣がぎらりと輝いた。

 

「おい! それ、なん──」

「預かってて!」

 

 血桜を──それまで手に携えていた──を投げられ、それを受け取りながらベヒモスに駆け寄っていくスィンの背中を呆然と見つめる。

 ──二人がイニスタ湿原を徒歩で抜けるのは、これが二度目となる。

 一度目は、誘拐されたアッシュがスィンの手引きによってダアトを抜け出し、単身バチカルを目指したそのとき。

 監視についていたスィンは、慣れぬ旅路で溜まった疲労のあまり、力尽きてベヒモスのおやつにされかけていたアッシュを救うためにラフレスの花粉を投げつけた。

 ベヒモスがあまりに生命力のある、スィンの手にも負えないような怪物だったからなのか、単に戦うのが面倒だったからか。

 いずれにせよ、ベヒモスとの交戦を嫌ったのは間違いない。

 ならどうして──

 

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」

 

 それは、スィンが手を打ち鳴らしてベヒモスを誘導する、その様子にあった。ベヒモスのすぐ近くには、整備もされていないボロボロの橋がある。

 トチ狂ったベヒモスが橋に乗り上げでもしたら、いとも簡単に破壊されてしまうだろう。

 アッシュが固唾を呑んで見守る中、ベヒモスの小さな目が、スィンという名の獲物を捕らえた。幸いにも腹が減っていたのか、ベヒモスは迷うことなくスィンに突進してくる。もちろん橋には何の影響もない。

 これで気にかかる要素は消えた。

 見た目にはおどろおどろしく、かつ耐久性が心配される剣を構える。

 闘いに使うのは、今が本当に初めてだ。どれだけ使えるか、見極めたい。

 手始めに。

 

「魔神剣!」

 

 シグムント派、基本中の基本たる技を放つ。普段は威力には期待せず、機先を制するに使ってきた技ではあるが今回は勝手が違った。

 振りぬく速度が格段に下がっている。これでは、相手が相手ならあっさりと避けられてしまうだろう。

 しかし、ベヒモスは基本的に鈍重だ。

 突進のような溜めがあるときならまだしも、敵の攻撃を素早く避けるという芸はない。

 衝撃を乗せた刃が普段よりは大振りなせいか、いつもより大きく見える衝撃波が滑るように巨体へ迫り──

 

 ズバンッ!! 

 

「へっ?」

 

 グギャオォォ……!! 

 

 単なる魔神剣であるはずの衝撃波は、ベヒモスの足を半ばまで切り裂き、思い切りその巨体を転倒させた。

 ──なるほど。

 今まで見たこともない威力に体の奥から湧いてくる驚愕と興奮を抑えつつ、スィンはどこまでも冷静に分析した。

 振りぬく速度も、発動も、血桜を大きく下回る。その代わり、威力はそれらの短所をたやすく凌駕するほどに大きい。

 更にこの譜術武器の性能を知るべく、転倒したベヒモスに接敵して斬りつける。

 繰り出される一撃一撃は明らかに速度が鈍いものの、剣自身の重さを乗せた攻撃力はとてつもなく大きかった。

 惜しむらくは、スィンが力を主としたアルバート流剣術ではなく、疾さに重きを置くシグムント流を継承する一人だということである。

 スィンが得手とし、免許皆伝に至るは、アルバート流シグムント派だ。

 アルバート流の扱いは奥義書を見せてもらえる程度には学び、ヴァンがアッシュに指導するにあたって助力できる程度に使用は可能である。

 しかしスィンにとっては、実力においてもっとも不足する要素──純粋な筋力と体格が要求される流派だ。どんなに頑張っても極めることはできないだろう。それどころか、そこいらの雑魚ならともかく一流相手に通用するかも怪しかった。

 ぐぐっ、と巨体を起こしかけたベヒモスに、苛烈としか言いようがない攻撃を叩き込んでいく。

 

「弧月閃っ、白虎宵閃牙! 虎牙破斬、虎牙連斬! 崩襲脚、飛燕瞬連斬っ!」

 

 月の幻影を二度──否、四度斬りつけ、虎が獲物を噛み砕くが如く上下に幾度も斬り上げ、斬り下げた。

 地面に叩きつけられた頭を跳躍した上で踏み潰し、更に後ろへ回り込んで、空を駆け上がるように蹴りを含めた連撃を打ち込んでいく。

 本来敵を浮かせなければならないが、この巨体がほんの少しでも重力に逆らうことはなく、それでも巨体であるがゆえに外すことはない。

 持ち前の素早さを駆使して一息に攻撃を加えてしまうと、ベヒモスは満身創痍にもかかわらずどうにかこうにか、尻尾を振り上げた。ちょろちょろ動き回る獲物をなぎ払おうという魂胆か。そうはさせない。

 全力で、人目も気にせず暴れることができる歓喜、興奮から調子に乗ったスィンは、剣を担ぐように振りかぶると、尻尾のところまで走った。

 

「シグムント流・奥義──次元斬!」

 

 大気を切り裂いて、魔剣が壮絶に空を切る。外したか、と思われた一撃は、一瞬の間をおいて発動した。

 剣の軌跡を描くように、視認不可の極大刃がベヒモスの尻尾を根元から切断したのである。

 痛みか怒りか、空気をびりびりと震わせる咆哮を放ったベヒモスは、がばりと口を開いた。

 咽喉の奥から何かがちりちりと燃え──

 

「させるか! 轟破炎武槍!」

 

 肩の辺りで垂直に構えた剣に真紅の剣気を纏わせ、打ち出すように放つ。吐き出される寸前の炎は、押し込まれたそれと結合し炎上、ベヒモスの頭は巨大な松明と化した。

 まぎれもない苦悶が辺りに木霊する。

 どんな魔物であれ、苦しませるのは好まない。一気にケリをつける! 

 

「怒り狂う龍をも屠る一撃……その身に受けよ。屠龍逆鱗斬!」

 

 今度は腰溜めに構えた魔剣を、瞬迅剣の要領で突き入れる。根元まで突き入れた刃をぐるりと回転させ、逆袈裟に斬り上げると同時に剣を通して衝撃波が発生した。

 体内を攻撃されて、生きていられる生物はほんの一握りだ。そして、図体のでかい魔物は足元か、内側への攻撃がセオリーである。

 ベヒモスは、その巨体をゆっくりと傾け──べしゃっ、と湿原へ倒れこんだ。

 湿原の水分で、松明になっていた顔がじゅうじゅうと湿原を乾かしていく。

 討伐隊全滅の前科は伊達ではなく、なかなか音素(フォニム)に戻ろうとしなかったが、首を切り落とすと流石に力尽きたらしい。観念したように、巨体が音素へ還った。

 ベヒモスの体液まみれになった剣を振るい、外套の裾を切って丁寧にぬぐう。

 ふとアッシュを見やると、彼はカエル型とオタマジャクシ型の魔物相手に奮戦している真っ最中だった。

 

「やれやれ」

 

 どこまではしゃいでいる姿を見られたのかと憂いつつ、スィンは放り出されている血桜を手に取ると、彼の補助に努めるべく走った。

 

「アッシュ~、なんか落としたよ~」

「あ、それは……」

 

 

 

 



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第六十七唱——待ち受けるその気配の名は、嵐

 

 

 

 

 

 

「だからっ、あの腹から出した剣はなんだったんだよ!」

「あーもう、うるさいなあ。読書中なんだから静かにしてよぉ」

 

 アッシュがイオンから預かったという、創世暦時代の禁書とやらを読みながら、スィンとアッシュはベルケンドへ到着していた。

 イニスタ湿原では、あれから放棄された馬車と、ベヒモスや他の魔物に捕まり、あえなく食料にされたであろう馬の残骸に野宿痕を見つけたものの、想定される惨劇の痕跡は見つからなかった。

 ベルケンドへ通じる橋の付近でラフレスの花粉が大量に散っていたのは、やはりベヒモス撃退に使用されたものなのかもしれない。

 道中、嫌がるアッシュから禁書を奪い取ったスィンは、戦闘を専ら彼に任せて幾度となく読み返していた。

 ちょろちょろ逃げるスィンから禁書を取り戻すのを諦めたアッシュが「気をつけろ」だの「手荒い扱いをすると破損」がどうたらこうたら喚いていたが、ページを破ったり血飛沫で汚したりといった粗相は今のところしていない。

 これで五回目くらいになる最終章を読み終え、スィンがぱたりと本を閉じる。

 また読み返すのか、と言いたげなアッシュに、スィンは本を差し出した。

 

「……駄目だ。ジェイドに読んでもらったほうがいい」

「結局理解できなかったのか?」

「説明がめんどくさい」

 

 ガクッ、と肩を落としたアッシュと連れ立って歩くと、街角にいた住民の視線が気になる。

 ──もしかして。

 

「すいません。こんな顔した男の子見ませんでしたか? もうちょっと違う感じの」

 

 アッシュの髪を強引に下げさせ、首根っこを掴んでつかつかと住民に近寄る。

「なにしやがる、離せ!」と喚いたために離してやるも、髪を上げるのは許さなかった。

 

「見たが……よく似てなさるな。双子かね?」

「誰がふた「似たようなもんです。どこに行ったかわかりますか?」

 

 どうもルークのことになると興奮しがちなアッシュの口を塞ぎ、適当に話を合わせる。

 人のよさそうなおじさんは、うーん、と頭を傾けながらある方向を指差した。

 

「何人かと連れ立って歩いていたら、ダアトの兵士さんに囲まれて、第一研究所に連れて行かれたよ。特務師団長、とか呼ばれてたなあ」

 

 ダアトの──神託の盾(オラクル)騎士団、第一研究所、特務師団長。

 アッシュに間違われ、研究所の責任者のディストあたりに命じられて、連行されたと考えるのが自然だろう。

 だが──それなら何故、ディストを毛嫌いしているはずのジェイドが大人しく従ったのだろうか。

 アッシュの話では、ノエルは、もう──

 

「い、いつ? 二日前ですか、三日前ですか?」

「いや、ついさっきだよ」

 

 さっ、とアッシュと眼を合わせ、何も言わずに頷く。

 

「ありがとうございます、それじゃ!」

 

 髪を直すアッシュを伴い、不審な目でこちらを見ている兵士がいないことを確かめて尋ねた。

 

「ねー。ノエルは助け出して、ベルケンドに向かわせた、って言ってたよね?」

「ああ。そうだが」

「今どこにいるのかな?」

「宿を取って待っていろ、と指示したが……」

 

 この言い草を見るに、どうも彼は神託の盾(オラクル)本部に監禁されていた彼女とは、ダアトで別れているらしい。

 

「所在確認したいから探そう? 幸いこの街、宿は多くなかったはず」

 

 観光地ではないゆえか、おそらくそう沢山建てても儲からないのだろう。

 数少ない通りがかりに聞いてみても、ベルケンドに宿は一軒しかないという。

 通りに面した宿屋に足を一歩踏み入れると、所在なさげに座っていた女性が「あっ!」と叫びつつ、ガタッと立ち上がった。

 

「よかった……無事だったんだ、ノエル」

「は、はい。アッシュさんに助けていただいて……」

 

 となると、ますますわからない。

 

「どうかしたのか?」

「うん。ノエルが人質に取られてるわけじゃないのに、なんであっさり連行されちゃったのかな……と思って」

 

 ぽつりとそれを呟いた途端、ノエルがそれを否定した。

 

「あ、あの! 私、ここで皆さんが連れて行かれるのを見ました! そのとき、皆さんを囲んだ兵士が『主席総長がお呼びです』って……!」

「!!」

 

 ヴァンが、ここにいる。彼らは、ヴァンに会うために、わざと──! 

 

「アッシュ! ノエルについててあげて、僕第一研究所に行ってくる!」

「待て、バカ!」

 

 きびすを返して飛び出しかけた彼女の襟首を掴み、アッシュは猫でもつまむように持ち上げた。

 流石に浮きはしないが、勢いに首を絞められ「ぐぇっ」と呻いて身動きを止める。

 

「俺に留守番とはどういう了見だっ!」

「じゃあ君、ヴァンに会いたい?」

 

 迷わず頷くには勇気のいる質問に、流石のアッシュもぐっ、と詰まった。その間に、掴まれていた手を外してノエルに向き直る。

 

「ごめんね。そんなわけで第一研究所行ってくる。もう少し待ってて?」

「わかりました。皆さんのお部屋、とっておきましょうか?」

「ん、お願い!」

 

 そのまま宿を飛び出せば、思いの他早くアッシュがついてきた。

 

「待ってろ、って言ったのに!」

「うるせぇ! じゃあてめえは平気なのかよ!」

「決まってる、会いたくてたまらない!」

「ああ!?」

 

 この階段を登って右の道を行けば第一研究所。

 階段に一歩足をかけたところで、スィンは容赦なく引き戻された。

 

「……何すんだよ」

「会いたくてたまらない、って、どういう意味だ!?」

「そのまま、さ。これでやっとケジメがつけられる、ってもの」

 

 今はグローブに隠れた、小指の指輪を見る。

 違えた道をこのまま突き進むのか、それとも──共に果てるのか。

 どちらかの道が修正されることだけはない、とスィンは考えていた。

 またも襟首を捕らえた手を、今度は掴んで握りしめる。

 狼狽するアッシュの瞳を覗き込み、スィンは「頼みがあるんだ」と囁いた。

 

「たの……み?」

「僕は、皆と……ルークやティアがヴァンと話し終わるまで待つよ。皆ヴァンと衝突するだろうけど、仲裁を頼みたい。こっちにはまだやることがあるんだ、今ここで戦うのは避けてほしい」

 

 ゆるゆると手を外し、階段を登る。

 アッシュの長靴の音を聞きながら、続ける。

 

「その後で、皆をノエルと合流させてあげて。あの禁書はそのとき、ジェイドに渡せば……」

「やめろ! 何を考えていやがる!」

「……安心しなよ。頼むのは、それだけだ」

「おい!」

「──さ、おしゃべりはここまで」

 

 第一研究所前。警備兵代わりだろうか、神託の盾(オラクル)兵士がなぜか常駐している。

 アッシュの顔を知っているらしく、フルフェイスの向こうから動揺が伝わってきた。

 

『な……!』

「其の荒らぶる心に、安らかな深淵を──」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 余計な力をここで消費するわけにはいかない。応援を呼ばれる前に昏倒させ、ずかずかと踏み入っていく。

 治療目的でしか入ったことのない彼女に、以前スピノザを問い詰める以外、奥の部屋へ入ったことはなかった。それでも、レプリカ研究所の区域へ歩を進め、ほぼ当てずっぽうで最奥へと突き進む。

 ディストからもらった白衣が、ようやっと役に立った。

 そこへ至るまでに兵士がちらほら見えたものの、ここの研究者だとでも思われたか、咎められることもなく易々入り込めたのである。

 奥の扉の前にいた兵士をアッシュに任せ、扉に耳を押し当てた。

 

『──かねてからの約束通り、貴公が私に協力するのならば、喜んで迎え入れよう』

『かねてからの約束……ああ、復讐を誓い合った同志、のことですか?』

 

 久々に聞くヴァンの声、すでに承知済み、というニュアンスを漂わせたジェイドの声。

 おかしな沈黙の漂った場に合わせるように、アッシュが兵士を昏倒させる。

 それはやけに響き、おそらく中の全員にも伝わったと思われた。

 

「……お願いする」

 

 ぽん、とアッシュの肩を叩き、扉の開閉スイッチを押す。

 彼はちらりとスィンに視線を寄せ、すぐに中へ入っていった。

 

「アッシュ!」

 

 扉は開いたまま。だから彼らの会話はしっかりと、部屋の外に潜むスィンにも聞こえた。

 ナタリアの声に引き続き、ヴァンがアッシュを勧誘している。

 

「待ちかねたぞ、アッシュ。おまえの超振動がなければ、私の計画は成り立たない。私と共に新しい世界の秩序を作ろう」

 

 彼は当然のように拒絶した。

 

「断る! 超振動が必要なら、そこのレプリカを使え!」

「雑魚に用はない。あれは劣化品だ。一人では完全な超振動を操ることもできぬ」

 

 はっ、と息を呑む気配がはっきりと伝わってくる。

 十中八九、ルークのものだ。

 

「あれは預言(スコア)通りに歴史が進んでいると思わせるための、捨てゴマだ」

「その言葉、取り消して!」

 

 ルークへの侮辱に、ティアが珍しい金切り声で非難するも、ヴァンは意に介する気配はない。

 

「ティア。おまえも目を覚ませ。その屑と共にパッセージリングを再起動させているようだが、セフィロトが暴走しては意味がない」

 

 ティアが武器を手にしたのか、何らかのアクションを取ってリグレットを刺激したらしい。

 軽く立ち居地を変えるような床をする音がして、ヴァンの制止が入る。

 

「かまわん、リグレット。この程度の敵、造作もない」

 

 次の瞬間。何かをした気配もないのに、刃を突きつけられたようなヴァンの殺気が伝わってきた。

 ぴりぴりと、場の緊張が高まっていく。

 その緊張がピークに達する直前、ジェイドがおそらく前へ出ていたであろうティアを制した。

 

「ティア。武器を収めなさい。……今の我々では分が悪い」

「ああ。この状況じゃ、俺たちも無傷って訳にはいかない。たとえ相打ちでも駄目なんだ。外殻を降下させる作業が、まだ残っている」

 

 ガイの声。

 そう、その通りだ。

 少なくとも……否。ここは全員、生きていてもらわなくては。

 

「……ヴァン。ここはお互い退こう。いいな?」

 

 アッシュの声。これで彼が頷けば──

 

「よろしいのですか?」

「アッシュの機嫌を取ってやるのも、悪くなかろう」

 

 余裕綽々の声音。

 あくまで我々が有利だと言いたいのか、リグレットが高圧的に言い放った。

 

「主席総長のお話は終わった。立ち去りなさい」

 

 アッシュ、よくやったえらい! 

 喝采を上げて褒めてやりたかったが、それはすべてが終わってそれを言う元気があったら、の話だ。

 ヴァンと、話ができる。

 どくんどくんと耳元に響く鼓動を深呼吸して音量の調整に努めながら、退室していく彼らを見下ろした。

 しんがりに出てきたアッシュがきょろきょろと見回しているも、まさか天井に張り付いているとは思わないだろうし、角度的にもわかるまい。

 一行がレプリカ研究施設──出口の方角がある区画へと去る。

 それを見計らって、スィンは扉の真ん前に降り立った。

 

 ぷしゅっ。

 

 ──どうも、ここの扉は開閉スイッチがオンになっている場合、熱感知か何かで自動ドアとなるらしい。

 最後の深呼吸をする前に扉は勝手に開き、床に手をつけた際のほこりを払い落とすスィンの姿は、彼らの前にさらされた。

 当然、反応する人は反応する。

 

「あっ。やべ」

「っ、女狐!?」

 

 ほぼ条件反射なのだろう。

 両手の譜銃を抜き照準を合わせたリグレットに、スィンは内心で頭をかきながら一息に接敵した。

 

「くっ」

「悪いね」

 

 トリガーに指がかかった瞬間、銃身を掴んであらぬ方向へ捻じ曲げる。

 べぎっ、という骨のへし折れた音、くぐもった悲鳴を上げたリグレットの人差し指は、ありえない方向へ曲がっていた。

 少なくとも、これで銃は使えまい。

 飛び退って距離を取るリグレットに詰め寄り、手にした譜銃の角でみぞおちを突く。思いの他うまく入ったらしく、彼女は小さく呻いて昏倒した。無力化には程遠いが、それでも健在であるよりかマシだ。

 取り上げた譜銃を背後に捨てる。ゆっくりと、本棚を背に立つ男を視界に収めた。

 最後に会ったのは、いつだっただろうか。

 弧を描く唇をそのまま、スィンはこれまでまとめるのを忘れていた髪をかきあげた。

 

「……シア」

「ご無沙汰。──会いたかったよ、ヴァン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アッシュ……バチカルでは、助けてくれてありがとう」

 

 第一研究所前。

 ここまで来て、一息ついた彼らはしんがりを歩いてきたアッシュに振り返った。

 

「そうだ。二人のおかげだよ。ここまで逃げてこられたのは」

「それで、スィンはどこに……」

 

 ガイの言葉を遮るように、アッシュはナタリアとルークの礼を突き放すような調子で跳ね除ける。

 

「勘違いするな。導師に言われて、仕方なく助けてやっただけだ」

「イオン様が!?」

 

 アニスが驚いたように眼を丸くするも、彼がそれに取り合うことはなかった。

 

「宿に行け、ノエルを待たせてある。導師からの預かりものを渡しておいた」

「おい! だからおまえ、スィンはどうした!? 宿にいるのか」

「……こいつらは外に連れ出したからな。あとは勝手にさせてもらう」

 

 ガイの言葉を意識ごと背けるようにぼそりと呟き。アッシュはきびすを返して研究所の中へ入った。

 

「アッシュ!?」

「あいつ、ここは退こうって自分で言っておいて……どういうつもりなんだ」

 

 扉に阻まれ、見えない背中を追いながら呆然とルークが呟く。

 ずれてもいない眼鏡のブリッジを押し上げるようにしていたジェイドが「……まさか」と呟いた。

 

「まさかとは思いますが……我々とは入れ違いに、スィンが独断でヴァンのもとへ行ったのかもしれませんねえ」

「どうしてですか? スィンは、兄に何の用事で……」

「ケセドニア降下中に聞き出しました。彼女はヴァンと、指輪を交わした仲なのだそうです」

 

 世間知らずのルーク、魔界(クリフォト)出身であるが故にオールドラントの因習を知らないティアが首を傾げるものの、他はガイを除いて、眼を見張るなど驚愕を隠し切れていない。

 

「しかるべき措置は取った、と言っていましたが、やはり面と向かって言わなければならないことがあるのでしょう。夫婦とは難しいものですねえ」

「はあ!?」

「!?」

 

 ルークの驚き、ティアの無言の驚愕。

 ようやく何のことなのか理解した二人は、遅れて反応を見せる。

 特にティアなど、「結婚……兄さんが?」と、珍しくショックをあらわとしていた。

 

「た、確かに、何もおかしなことはありませんが……な、納得できませんわ!」

「そういう問題じゃないと思うけど……じゃあどうすんの? アッシュに任せて、戻ってくるのを待った方がいいの?」

 

 幼少の頃から知り合う仲としてナタリアがエキサイトする傍で、アニスが比較的冷静な意見を出している。

 そして、黙りこくっていたガイが口を開いた。

 

「……皆は、そうしてくれ。俺はスィンのところへ行く。あいつとは話し合わなきゃならないことが山積みなんだ。離縁話がこじれて、夫婦喧嘩……じゃなくて殺し合いに発展させないようにしないと……」

「では、戻るのは私とガイでよろしいですね? 皆さんは宿で待機、と」

「何ナチュラルについてきてんだよ!」

 

 さあ行きましょうか、と歩き出したジェイドに、ガイは素早くくってかかっている。

 そんな彼に、ジェイドはにんまりと、心の底から愉しんでいます、と主張しているような表情で微笑んだ。

 

「いやですね~。こんな楽しそうな修羅場を見逃す手はありませんよ。スィンがヴァンと離縁したかどうかも、しっかり知っておきたいですし♪」

「あんたには関係ないだろうが! 頼むから、あいつをからかって遊ぶのはやめてくれ!」

「はっはっは。失敬ですね、からかった記憶なんてありませんよ」

「記憶がないだけだろーが!」

 

 と、連行されたルートで研究所内を騒がしく歩く最中。

 ふとジェイドが後ろを向いた。つられてガイも振り向けば、そこには。

 

「いけませんねぇ。宿で待機と言ったはずですよ」

「や、だって……心配だし」

 

 なんとなくついてきてしまった、といった風情のルークが、ばりばりと頭をかいた。

 

「私は野次馬根性です☆」

「わたくしは、スィンのこともありますがアッシュのことも気にかかります。やはり彼も、スィンのことを心配したのでは……」

「わ、わたしは……二人がどうするのか、知りたくて……」

 

 悪びれもしないアニスに、アッシュのことも念頭に入れているナタリア。

 主にヴァンのことを気にかけているティア。

 特に止める理由もなく、結局一行は総出でヴァンのもとへ戻ることになっていた。

 

 

 

 

 



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第六十八唱——繰り広げられるは、局地的痴情のもつれ

 

 

 

「……なるほど。ガイラルディアもおまえも、奴らに事実を話した、というわけか」

「そうなる」

 

 ゆっくりと、ヴァンに向き直る。血桜に手はかけない。

 すっ、とヴァンの右手が動き、机の上に置かれていた何かを手に取った。

 漆黒の鞘持つ、肘から手首ほどの長さの短刀。

 それは、アクゼリュスへ向かう際ヴァンに向けて贈った、懐刀に他ならなかった。

 女性から短刀を渡すのは、絶縁を意味する。

 他者から知識を仕入れたのか、ヴァンはその意味を完全に理解している様子だった。

 

「これは、受け取れんな」

「……どうして」

 

 投げ渡されたそれを、その言葉に秘められる想いごと受け止める。

 冷静な彼にしては珍しいむき出しの感情が、言葉となってスィンに突き刺さった。

 

「忘れたか? 死が我らを別つまで、共に生きようと、互いに誓い合ったときのことを。このようなもので、私から逃げるのか?」

「……そうしようかと思ってたけど。そうはいかなかったから、こうして君の前に現れた。こうして、二人きりで君と話している」

 

 リグレットを昏倒させたのは、この話を──本音の出し合いを、他者に聞かれたくなかったから。

 ただそれだけだ。

 

「今この状態で、共に生きることが可能だと思ってる?」

「今からでも遅くはない、私と共に来い。それともおまえは、伴侶よりも主を──ガイラルディアを選ぶというのか」

「この期に及んでガイラルディア様を理由にはしないよ」

 

 どこか苛立ったように、スィンはヴァンをにらみつけた。

 そう思われるのは不本意だと、その想いをあらわとして。

 

「……ならばなぜ」

「僕がなんでもかんでもガイラルディア様のいうことだけ聞いてる人形だとでも思ったの!? 冗談じゃない、それとこれとは話が別だよ!」

「……そうは言っていない」

 

 激情を吐息と共に吐き出して。スィンは、軽く瞳を眇めた。

 眼前のヴァンではなく、まるで遠くでも見るかのように。

 

「思えば僕ら、ひどいめにあってきたね。預言(スコア)によって、誰も彼もが死んでいった。何もかもが失われてしまった」

「……」

「でもそれは、預言(スコア)のせいなの? 違うよね、ぶっ飛んだ預言(スコア)に従った連中の過ちであるはず。預言(スコア)は、関係ない」

預言(スコア)が発端であることもまた、事実だ」

 

 つき返された懐刀を抜く。

 漆黒の刃は煌くこともなく、受けた音素灯の光を飲み込んだ。

 

「これは人殺しの道具であると同時に、誰かを護ることだってできる。よく包丁が喩えられるよね。料理人が使えば立派な道具で、殺人者が使えば単なる凶器だって」

預言(スコア)も同じだと言いたいのか」

「……本当、単純な話。過去(うしろ)ばかり見ていたら未来(まえ)には進めないよ」

 

 懐刀を収めて、俯く。しかしそれは一瞬のことで、スィンはすぐに顔を上げた。

 感傷に浸って、不意打ちされたらたまらない。

 

預言(スコア)を消して、世界を取り替えて、どうなるの? 僕らの大切な人たちも、失った何もかもが戻ってくるわけでもない」

「……預言(スコア)を放置すれば、また同じことが繰り返される。預言(スコア)に縛られたこの世界を解き放つためには──」

預言(スコア)に縛られているのは、世界じゃなくて君だ!」

 

 泣きたくもないのに涙が溢れてくる。

 感情と共にこみ上げるそれを乱暴に拭って、ヴァンの腕を掴み揺さぶった。

 まるで夢の世界にたゆたう彼に、覚醒を促すかのごとく。

 

「お願い、思い直して。もうこんなことはやめて。一体、いつから間違ってしまったの──」

 

 ──沈黙。

 

 思いのたけをぶちまげたスィンの言葉を前に、彼は否、とも応、とも答えず、ただ沈黙を保っていた。

 数秒の刻を経て、ヴァンが何かを言おうとしたとき。遮るように、スィンは続けた。

 

「──とまあ、こんな感じのことを言って説得するべきなんだろう、本来は。今のは僕の本音だし、そうしてほしかったよ。だけどね……やっぱ無理だ。何を言ったって、たとえティアが体を張ったとしても、君は止まらない。止まる姿が想像できない」

 

 自分の正義を、曲げる人ではない。

 一度こうだと決めてかかった考え方を、臨機応変に修正できるような、そんな器用な男でないことは、承知していたから。

 

「だから、こうしてお別れを言いに来た。君は君の道を進めばいい。僕は別の道を行く。そして道が重なったとき、どちらが道を譲るのか……決着をつけよう」

 

 そして今。僕たちの道は重なっている。

 

「抜きなよ。僕たちを別つのが死別だけだと、あのときの誓いを君が取り出すなら、僕はそれに殉じて君を討つ。それだけだ」

 

 こつっ、と床を蹴り、距離を取った。

 ヴァンの大剣が届かない、それでもスィンが攻撃を加えられる。ぎりぎりの間合いにて深く腰を落とし、抜刀の姿勢を取る。

 押し黙りスィンの口上を聞いていたヴァンであったが、やがて不敵な破顔を見せた。

 

「それでこそ私の伴侶だ。説得を始めたときは、やはりお前も女かと、いささか失望を覚えたものだったが……お前はお前のままだな。道を違えたことが残念でならん」

「こっちの台詞だ」

 

 未だ抜かれる気配のない大剣を見つつ、減らず口を叩く。

 

「あのとき、無理やりにでも囮と称した船に乗せておくべきであったな。死霊使い(ネクロマンサー)の傍に置いたのは間違いだったか──」

「ジェイドが聞いたらきっと怒るよ。自分の不手際を、他人のせいにするなって」

 

 このとき、スィンは初めて扉の外に現在進行形で言い争いをしている数人の人間がいることに気づいた。

 いつの間に、誰が呼んだのだろう? 

 リグレットは未だ昏倒している。ヴァンが、スィンを捕まえるために人を呼んだのだろうか。よもや雑兵は呼ばないだろう。六神将あたりが二、三人いられると厄介だ。

 さっさと逃げた方が得策か──

 

「思い出話に浸るのも楽しいだろうけど、そろそろ起きようか。で、()らないの? 別れるのを承知してくれるなら、短刀かこの指輪、受け取ってよ」

「断る。おまえを手放すのは惜しい」

 

 なんとも我侭な言い分に、スィンは思わず、はん、と鼻で笑った。

 

「手放すには惜しい? その僕を、罠で殺そうとした奴の言うことじゃないね」

「おまえなら気づくと思っていた。そして制御を諦めて手を引くと思っていたのだがな。まさか、暗示を強引に解かれるとは思ってもいなかった」

 

 ……時間稼ぎ? 

 どうも先ほどからヴァンが何らかのアクションを起こす気配が見られない。

 時間を稼いですることといえば──罠? 

 

「……頃合か」

 

 ぽつりと、ヴァンが呟く声が聞こえた。

 はっ、と彼を見据えれば、机の上にあるスイッチを操作している。ぷしっ、という空気が抜けるような独特の音、何かが雪崩落ちるような音に思わず振り向けば、そこには。

 

「なっ……!?」

「……すまん。一旦研究所から出して宿へ行くよう指示したんだが……」

 

 扉に耳を押し付けていたため、いきなり開いた扉に反応できなかったのだろうか。床に這いつくばったアッシュがよろよろと起き上がる。

 同じように聞き耳を立てていたらしいメンバーも起き上がる中、なぜか一人無事な人が「久しぶりですねえ」とにっこり笑って立っていた。

 

「いやあ、すみません。あんまりにもアッシュが怪しいんで、ついてきちゃいました☆」

 

 この言い草。一旦研究所から出したはいいものの、アッシュが戻ってきたせいで、全員戻ってきてしまったということか。

 

「つ、詰めの甘い……」

 

 衝動のままに胸倉を掴んで揺さぶってやりたいが、ヴァンを警戒しながらそんな器用なことはできない。

 再びヴァンを見据えながら、どうしたものかと悩む。

 

「それより、あなたは初めからヴァンと戦うつもりだったのですか?」

「んなわきゃない。指輪も突っ返してそのままサヨナラしようと思ってたんだけど、成り行きでこうなった。僕はここで決着つけたいから、避難して避難!」

 

 ひらひらと後ろ手で逃げるよう促しても、ジェイドからは思いもかけない一言を貰っただけだった。

 

「いえいえ。お手伝いしますよ」

「さっきと言ってることが真逆じゃん! せっかくアッシュが収めてくれたのに」

「──これ以上、あなたを独りにしておくわけにもいきませんし」

 

 反射的に血が上る頬を無視して、ヴァンを見る。

 ヴァンはと言えば、やれやれと首を振って、じろ、とジェイドを見た。

 

「……妻に戯言を吹き込まないでもらえるかな? 死霊使い(ネクロマンサー)殿」

「これから離縁するのでしょう?」

「ちょい待ち大佐。ここへ来るまではアッシュと一緒だったし、今の今まで僕はヴァンといたわけで別に一人には……」

 

 こうなったら──不本意ではあるが、逃げた方がよさそうだ。そう思い、ひとつだけ懐に忍ばせておいた閃光弾を手に取る。

 ヴァン相手なら視界を覆う煙幕弾の方が効果的だが、最近作る暇がなかったため、現在ストックは閃光弾だけしかない。

 それを取り出し、投擲する直前。ヴァンが大剣を思わぬ素早さで抜き、接近してきた。

 狙いは──ガイ!? 

 

「貴様ぁっ!」

 

 閃光弾から素早く手を離し、ガイとヴァンの間に割り込む。

 本来敵の一撃をこのように受けてはならないと教わってきたが、今スィンのすぐ後ろにはガイがいる。下手な攻撃をしてガイに当てるわけにはいかない以上、こうするしかなかった。

 

「よりにもよってっ、ガイラルディア様に手を出すなんて、どういう了見──!」

 

 ぎりっ、と鍔競りあった大剣と血桜の接点に、大量の音素(フォニム)が溢れてきた。

 きんっ、と接点から波紋が生じる。

 この現象、前にどこかで──

 

「いけない! 超振動だわ!」

 

 超振動──ファブレ公爵邸で偶発的に起こったサザンクロス効果の発露!? 

 

「何を、考えて……」

 

 サザンクロス効果というのは、音素(フォニム)同士の結合により発生する莫大なエネルギーの総称であり、擬似超振動と呼ばれるこの現象は、偶然発生することなどあまりありえることではない。

 同じ音素振動数同士が干渉しあって初めて発生するものであって、今回スィンはここへ来る直前、第一音素の譜歌を使った。その名残をヴァンが感じ取り、第一音素を乗せた攻撃を仕掛けねば発生などしないのだ。

 だが、それを責める暇などない。

 

 急いで離れなければ、またおかしなところへ飛ばされてしまう! 

 

 少しでも気を抜けば血桜ごと叩っ切りそうな大剣を押し返すようなことはせず、刃筋を滑らせるようにして逃れんと横へ飛ぶ。合わせた刃同士が摩擦で火花を放ち、輝きが薄れ始めたそのとき。

 力任せに踏み込んできたヴァンに押し切られ、体勢が崩れた。その隙を突かれて腕を取られ、厚い胸板に無理やり顔を埋めるハメになる。

 剣と刀が離れ、代わりに接した体全体が音素(フォニム)の媒介となり、薄れかけた力がどんどん高まり──

 離れようと試みるが、どれだけもがいてもヴァンの腕が緩むことはなかった。

 

「ヴァン! 離してっ!」

「──」

 

 耳元に囁かれた言葉に、スィンはもがくのをやめた。

 輝きは膨れ上がり、傍目から見れば抱き合っているかのような二人を包み込む。

 

「スィンッ!」

「シア!」

 

 ガイの声、アッシュの声。

 それらを合図としたかのように、輝きは収束し、跡形もなく消え去った。

 

「……閣下!」

 

 最後に、いつ眼を覚ましたのかもわからない、リグレットの声が妙に耳の奥で反響する。

 どうせなら──

 それを思う間もなく、スィンの意識は眩い輝きに呑まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 覚醒は、いつかのときのように優しいものではなかった。

 ふと眼が覚めて、目蓋を押し開く。目の前に、ヴァンの顔があった。

 

「うわああぁっ!?」

「……失礼な奴だ」

 

 掴んだままの血桜を手に逃げる──もとい、間合いを取れば、彼はどこか呆れたように嘆息している。

 周囲を見渡せば、そこは岬の突端のような場所だった。ヴァンは海を背にして立っている。

 どこに飛ばされたのだろうか、それを不安に思う前に驚くべき光景を見た。

 視界の端に見えるは、紛うことなき第一音機関研究所の建物。

 

「やはりあの程度の超振動では、ここまで飛ぶのが精々だな。比較的放出エネルギーが少量だとされる第一音素ではせん無きことか……」

 

 確かに、ヴァンの方はともかくとして、スィン自身の力は譜歌を奏でた際に発生した音素(フォニム)の名残を利用されただけだ。ルークたちの場合とは、込められた力に差がありすぎる。

 この状況でシルバーナ大陸のど真ん中に飛ばされるよりはずっとマシだが。

 

「……まったく、無茶をしてくれる。よっぽど皆とは戦いたくなかったんだね」

「決闘を汚されるほど、不名誉なことはないからな」

 

 思いもよらなかった単語の登場に、スィンは鸚鵡返しで尋ねた。

 

「決闘?」

「お前は私に離縁を求め、私はそれを拒む。互いの要求が食い違うときは決闘で定めよと、二人して父上に言われたことがあるだろう」

「……ああ。『勝った奴の言うことを聞く』あれね」

 

 つまり結局、戦うのか。とはいえ、スィンに異存はない。

 ヴァンは離縁を、死別でしか認めないというのだったら、初めからそのつもりではあったのだから。

 変更点と言えば、あちらはスィンを殺すつもりはないのだろう。だから決闘という形を取った。

 スィンは、遠慮なく戦える。ヴァンは、少なくとも殺す気では戦えない。

 ハンデのつもりなのだろうか、だが容赦はしない。

 意図的に有利な条件だからといって、ヴァン相手に手加減などする余裕はないのだ。少ない好機は存分に生かさせてもらう。

 たとえそれが、のちにどのような後悔を生むとしても──! 

 

「それなら……始めようか」

「異存はないのか?」

「あるなら、とっくにここから離脱してる」

 

 ベルケンドへ入る際、下げていた袖を即席のタスキでたくし上げる。白衣の丈部分のボタンを素早く外して、足技を使えるようにしておいた。

 血桜を正眼に構え、大剣を同じように構えるヴァンを正面から睨みつける。

 そうしてスィンは、とある譜術の詠唱に入っていた。

 口元は隠していたつもりなのだが、それでもヴァンには音素(フォニム)の在りようで見抜かれたらしい。

 大剣を振りかぶり、一足飛びで接近してくる。

 

 あの構えは、確か──

 

 譜を口ずさむのをそのまま、スィンもまた走り出した。

 二人が衝突する、その地点にて。

 

「「双牙斬!」」

 

 完璧に近いタイミングで同時に放たれた技は、同じ角度で刃を噛ませ、お互いを刃こぼれさせる被害を負わせて剣の主は地に降り立つ。

 唱えられた譜術は、とっくに結ばれて効果を発揮しているのだが、相手にダメージを負わせるものではないために、ヴァンはうまく詠唱妨害できたと信じているようだった。

 海が近いというのに、潮騒を含まぬ風が、ふわりと二人を取り巻いていく。

 

 

 

 同時刻。

 消えた二人を巡り、居場所を特定する方法を模索していたリグレットにアッシュを含む一同は、急に奇声を上げて胸ポケットを探り出したガイに注目を集めていた。

 

「ガイ、どうかしたのか?」

「いや、今ちょっと反応が……お!」

 

 ガイが胸ポケットから取り出したもの。

 それはスィンが常に首から提げている、ペンダント仕様のロケットだった。

 

「それがどうかしましたか?」

「ちょっとな……よし、いける」

 

 ロケットの裏側に指を滑らせ、ことり、と床に置く。

 直後、蔦が巻きつく二輪の花の中心にはめこまれた小さなアクアマリンとガーネットが輝いたのと同時に、長方形の映像が浮かび上がってきた。

 

「これは……!?」

「ウインドビジョン。譜術はさっぱりだからしっかりとした説明はできないが、第三音素(サードフォニム)の古代秘譜術……とか言ってたかな。術者がはっきりとイメージできる物質を媒介に、自分を取り巻く映像を送信することができるとかなんとか……」

「何故今までそれを多用しなかったんです?」

「あいつがあの術を使ってこっちに送ろうとしない限りは使えないからだよ。多分今いる位置を知らせようとして──なっ!?」

 

 映像の中で、雪色の髪をなびかせた細身の人影と、大剣を振りかぶった壮年に見える剣士が、互いの武器を構えて激突する。

 両者は、同じ技を同じタイミングで放ちあい、鏡のようなシンメトリーの剣舞を披露して間合いを取った。

 そして二人は──休む間もなく剣技を繰り出しあう。

 雪色の髪に真紅の雫が降り注ぎ、まっさらな白衣に朱色の華が鮮やかに咲いた。

 追撃とばかり閃いた赤い刃が大剣と噛み合い、力比べをする前にあっさりと退いていく。

 長方形の映像から、文字が浮かび上がってきた。

 

『ガイラルディア様。反応があるのでご覧になっているものと思い、お伝えします』

「これ……スィンが思ってること?」

『ヴァンと死合いすることになってしまいました。最低でも相討ちに持ち込みたく思います。僕が負けた場合、囚われたふりして敵陣に乗り込みますので心配しないでいやだまけたくないかちたいガイさまのところにかえりたいください。探しには、来ないでくださいね』

 

 本音と思わしき、乱れた文字入りスクロールが流れている間にも死闘は続いている。

 不意に、ザザッとノイズが入ったかと思うと、少しずつ音声が入ってきた。

 追いすがるヴァンの剣戟を、スィンはバックステップを交えつつ、実に冷静に捌いている。

 

「無謀な戦いかと思いましたが、そうではなさそうですね」

師匠(せんせい)と、互角……! あいつ、こんなに強かったのか」

「そりゃ、だって、シアだし……」

「いや、それだけじゃないんだ。ヴァンやお前の使うアルバート流は、俺たちの使うシグムント流派と根本的に相性が悪い。一応弱点を補う流派なんだが、裏を返せば弱点を突くように戦えるんだよ」

「そう、なのですか?」

「それにスィンは、小さい頃からヴァンと競い合ってる。癖も手の内も知り尽くしているし、決して分が悪いわけじゃないんだが……それはお互い様だからなあ」

「でもヴァン師匠(せんせい)は、確かアルバート流の免許皆伝だって」

「……ああ、スィンも持ってるんだよ、シグムント流免許皆伝。あの二人、小さい頃は仲が悪かったらしくてな。喧嘩しては勝った方の言うことを聞く、を繰り返して、しまいにゃどっちが先に免許皆伝を取るかで競争したらしい。二人とも十歳の時に取った、って言うんだから、嫌になるよ……」

 

 キィン、キィンッ! という刃の交わりが響いてきた。

 開いた間合いは計算のうちだったのか。ヴァンは大剣を肩へ担ぐように構えて突き出した。

 

『光龍槍!』

 

 練り上げた剣気が黄金の輝きを伴って大剣の先から迸る。

 それを迎え撃つべく、スィンはヴァンとまったく同じ体勢を取った。

 

『轟破炎武槍!』

 

 刃に染められたが如き真紅の剣気が、黄金の輝きを真っ向から散らす。

 ほう、とヴァンの感嘆が聞こえた。

 

『驚いたな……シグムント派にこの技があるのか』

『……はっきり言ったらどう? 猿真似にも程があるよ、って!』

 

 感嘆の吐息が聞こえなかったのか、それを揶揄と受け取ったスィンが激昂したようにドスの効いた低音の返事を呟く。

 ふっ、という呼気の後に、ヴァンが独特の歩法で間合いを詰めに入った。

 

『襲爪雷斬!』

 

 突拍子もなく振りかざした大剣から小規模の雷がスィンへ迫る。慌てることなく、スィンはいつの間にか手にしていた棒手裏剣を空へ放り、雷の軌道をそらして一撃を回避した。

 空中にいるためか身動きの取れないヴァンに、浅くはあるが一撃を加えることを忘れていない。

 浴びた返り血で雪色の髪をまだらに染めたまま、立ち位置を入れ替えた状態でスィンはヴァンを見据えた。

 その息は静かだが、藍と緋の瞳は交戦による興奮か。磨き抜かれた刃の如き、ギラギラとした鋭い輝きに満ちている。

 

『美しいな……』

 

 息詰まるような対峙を経て、恍惚としたようなヴァンの呟きが風に溶けた。

 

『……何か言った?』

『戦乙女を束ねる気高き戦女神。勇者の魂を天へ導く採魂の女神。ユリアの再来と謳われるよりも、おまえはやはり、ブリュンヒルドを名乗るに相応しい』

『やめてよ、戦闘中に! 何度も言ってるだろ、僕を女神に喩えるな! それ多分女神に怒られるから!』

『褒め言葉だとわかっているのに減らず口か? 少し離れている間に随分天邪鬼になったな』

 

 ヴァンの言葉は外れていない。

 事実、スィンは顔を真っ赤に染めて、怒鳴りつけるように刀を振るっている。

 怒りとは程遠い、相手に悟られまいと必死に隠す、照れだった。

 

『人は──時の流れにその身を任すものは、常に変動を余儀なくされているんだよ』

『それはあの屑の話か? 主か、死霊使い(ネクロマンサー)のことか? それとも──私を切り捨てようとするおまえ自身の話か?』

『全部当たり。君だけが、それに反してる。時の川の流れを凍らせている』

 

 大剣が迫る。真っ向から受け止めず、刃筋を合わせて滑らせた。

 摩擦による火花が散り、まばゆさに比例した儚いその輝きにか、スィンの瞳が細まった。

 まるで睨みつけるように。

 

『何?』

『その恨みは、君を苦しめた連中に向かうべきものだったはず。でも君は違った。連中がもういないから、違う奴にぶつけた』

 

 血桜が無造作に振り上げられ、ヴァンの咽喉元へ吸い込まれるように突きつけられた。

 止めなければ間違いなく彼の首を貫通していた刃が、大剣に弾かれて行く先を見失う。

 

『虐待された子供じゃあるまいし、自分がされたことと同じことをルークにするなんて! この『烈破掌!』

 

 まるで弾劾の言葉をかき消さんと、ヴァンは掌底をスィンへ見舞った。

 逃げ切れる間合いではないため、直撃──

 

『獅子戦吼!』

 

 片や圧縮された闘気が技主の意により解放され、片や相手を吹き飛ばす技、片や獅子の吼える様を象る気の放出技。

 似て非なる技は中間点において接触し、相殺されることなく互いを吹き飛ばした。

 海を背にしたスィンは岬の方角へ転がり、ヴァンは反対方向へと弾き飛ばされる。

 受身は──成功。

 ほぼ同時に立ち上がった二人ではあったが、体格の差が災いし、スィンは大きく息をついている。

 

『大好きだった。もっともっと君を愛したかった。一緒に生きていきたかったよ……残された時間のすべてを使って、君の傍にいたかった』

 

 ヴァンは答えない。

 スィンの言葉が、すべて過去形であることに気づいてしまっているから。

 

『でも君はもう、勝手に自分の道を選んじゃった。僕はそっちには行けないんだよ! だから、さよならだ!』

『……別れを告げているとは思えんほど、情熱的な告白だな。死別を決意したは偽りか』

 

 実に苦々しいヴァンの呟きを耳にしたスィンは、ふっ、と笑みを浮かべて斜に構えていた血桜を正眼に構えた。

 

『そっちが先に口説き始めたんじゃないか。これが別れの言葉だと気づいてくれて嬉しいよ』

『おまえの言い分はわかった。だが何を聞かされようと、それを了承することはできん。手放したくない、私は変わらず、おまえを──』

『虎牙破斬!』

 

 好機とみたのか、聞きたくなかっただけか。

 真正面から飛び掛かったせいであっさりと回避されてしまったが、それでもスィンは満足げな表情を見せている。

 後者の線が濃厚だった。

 

『逃避か?』

『否定はしないよ。ただでさえ萎えそうになってるのに、そんなの聞いたら気持ちが折れる』

 

 大真面目な顔で答えるスィンに、ヴァンは大剣をわずかに握りなおしながら唇を歪めている。

 

『ふ……色仕掛けに屈するか? 私がもう少し口の回る男であれば、おまえを口説いて連れ去るのだがな』

『そんなことしなくても、僕の心は君のものだよ』

 

 好きだけど、愛しているけれど、双方の望むものには差がありすぎた。

 どちらを捻じ曲げるのも望まない。ならば──自分は彼を、このまま永遠とするだけ。

 

『……それを色仕掛けと言わず、なんと言う?』

『仕掛けじゃないよ。本当のこと。ただ、それより大事なものを優先させるだけ』

『どちらにせよ、私はおまえの首に縄をつけてでも連れて帰るぞ。私には、おまえが必要なのだ』

『あらまー特殊なプレイだこと……うん。その時は、死体引きずって帰ってね』

 

 開いてしまった間合いを詰める直前、大剣を片手にうつしたヴァンが空いた片手を前方へ突き出した。

 その唇は、明らかに譜術とは違う旋律を刻んでいる。これは──

 

『砕けよ!』

 

 ハッと大きく後退ると、目の前にサンダーブレードとは明らかに違う輝きが降り注いだ。それに留まらず、輝きは地面を砕き焦がす勢いで天より放たれ続けている。

 ジャッジメントか──! 

 ヴァンの動きに警戒しながらも、直撃を受ければ敗北間違いなしと断言できる白き雷を避けるように走る。

 不規則なそれを直感ですべて回避はやはり難しく、髪の端が焦げたのをきっかけにはためく白衣へ、足へ、腕へ、軽傷を負った。

 幸いと思うべきは、この術が第五音素(フィフスフォニム)によるものだということである。第三音素(サードフォニム)系統の雷なら、かすっただけでも大事だ。直接的なダメージがどれだけ軽くても、痺れはのちのち後を引き、敗北の原因となる。

 しかしそのように考えたところで、受けた傷の痛みが軽くなるわけでもなかった。

 ずきずきと、鈍痛は徐々に痛みを増していく。

 

『決定打には程遠いか……おまえには驚かされてばかりだ』

『見くびられたものだね。この程度で仕留められると思ったのか。いくら、もう若くないからってさ』

 

 魔を灰塵と化す裁きの光を回避する最中、術行使の余韻で身動きの取れなかったヴァンに上段から斬りかかったスィンが、その一撃を受け止められながら場違いなほど柔らかく微笑んだ。

 しかし、ヴァンは心なしか険しくなった表情で、自分に斬りかかる彼女を見つめている。

 

『……それだけではあるまい。その体、あとどれだけ使い物になる?』

 

 ──もともと、ベルケンドの医師を紹介したのはヴァンだ。

 そのつながりで本来隠匿義務のあるスィンのカルテを見ることくらい朝飯前──いや、単に医師の口から直接聞いたのかもしれない。スィンの担当医師であるシュウは、二人の関係を把握しているのだから。

 ともかく、もうそろそろ術を打ち切る必要があった。

 ゆらゆらっ、と画面が陽炎のように揺れる。

 

「スィン!? 何でそこで術を解こうとする!? やめろ!」

『では後ほど。明日までに戻らなかったら、死んだものだと思ってください』

 

 ガイの言葉を無視する形で、スィンは術を打ち切った。

 唐突に、横長の長方形が消えて失せる。

 

「っ!」

 

 硬直状態から解放されたリグレットが、映像が消え去るや否や部屋を、研究所を出んと走った。

 その動きをいち早く察知したアッシュがそれに続く。

 

「……どうしましょう。ここは、スィンを信じるべきなのですか?」

 

 それを見送り、困惑を隠すことなく誰ともなしに言ったのはナタリアだった。

 

「信じる信じないの前に、あいつどこに飛ばされたんだ?」

「映像の中にこの研究所らしい建物が見えたし、映像の解析度からしてすぐ近くだと考えていいと思う。けど……来るなっていうなら……」

 

 ルークの問いに場所の特定ならできる、と含めたガイが言い淀む。

 来るな、とはっきり言われてしまった手前、何も考えずに駆けつけるのはためらわれた。

 話し合わなければならないことも重なり、平常時なら心配のあまりさっさと足を動かしていたであろう彼は、顔をしかめて悩んでいる。

 ふう、と誰かがため息をついた。そして静寂は破られる。

 

「──では、あなたはここの宿で待機していてください。私は行かせて貰います」

 

 ガイの心情を察し、押し黙っていた一同の視線が発言者──ジェイドに集中した。

 

「リグレットとアッシュの様子を見るに、二人は場所の特定ができたようですからね」

「大佐、でも──」

「あれは、あのメッセージはガイにあてられたものでしょう? 私たちが従ってやる義理はありません。少なくとも、私にはね」

 

 それ以上一行を省みることなくさっさと退室したジェイドに続き、ティアが、ナタリアが、アニスが、続いていく。

 それを見送って、ルークは佇むガイの肩に手をやった。

 

「……ガイ。スィンと顔合わせたくないなら、ジェイドの言うとおり……」

「いや……行く。よくよく考えてみりゃ、従者に命令されるいわれはないしな」

 

 節穴でもない限り無理やり浮かべたとわかる笑みを浮かべ、床に置かれたロケット型のペンダントを拾い上げる。

 こいつも返さないと、と呟く彼の横顔は、どこまでも複雑なものだった。

 

 

 

 

 

 

 




とうとうこのときがやってまいりました。
原作ではさくさく物語が進んでいくところ、オリジナルキャラクターの設定により急遽ラスボスとの単身デュエル(笑)に突入します。
超振動について。本来同位体同士でしか発動しない設定のようですが、原作中ルークとティア間で発生したことを言い訳に意図的に同一音素同士を干渉させれば発生する、ということにしました。
夫婦喧嘩ならぬ痴話喧嘩が行き着く先こそどこだ。


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第六十九唱——史上多難の痴話喧嘩が迎えたのは、終焉か輪廻か永遠か

 

 

 

 

 

 取り巻く風が四散する。

 これまでこの術を使い続けていたために単調な攻撃しかできなかったスィンは、深呼吸をするように己の気を高ぶらせていった。

 

「……あと五年。もつかもたないか、って言われた」

「ホド戦争で吸ったという毒ガスか? それとも──取り込んだ瘴気か?」

 

 彼の言う取り込んだ瘴気とは、おそらくパッセージリング起動において汚染された第七音素(セブンスフォニム)を取り込んだものを指しているのだろう。

 それを彼が知っている、ということは。

 

「前者だけではそう言われた。そろそろ合併症でも起こしかけているんじゃないかな?」

 

 合わせていた刃に力をこめる。

 その微妙な重さの変動にヴァンが反応を見せる前に、スィンは押し切るようにしてヴァンの脇を駆け抜けた。

 ギャリッ、という耳障りな音を残して、スィンの瞳がヴァンの大きな背中を映す。

 異性恐怖症がすべての異性に働いていた頃、よくリハビリに使わせてもらった、背中だった。この背中に抱きつくのが好きだった。抱きつけるようになった時は本当に嬉しかった。

 暖かくて優しい、心から安心した背中が、今はこんなにも遠く、脅威でしかない。

 彼が振り返る、その前に。

 刹那の隙を縫うように、スィンは腰を軽く落とした片手突きの姿勢──ガイであれば秋沙雨の予備動作の構えを取った。

 

「ぬぅっ!」

「シグムント流、奥義──斬光蝉時雨!」

 

 基本は秋沙雨と変わらぬ比較的軽い突きの連続ではあるが、それだけでは終わらない。倍加した乱れ突きで相手をかく乱した後、防御の損ねを狙って逆袈裟に近い切り上げ、切り払いをした後に簡易型の獅子戦吼で相手を吹き飛ばすように間合いを取った。

 シグムント流免許皆伝を目指す折に得た、使用者の負担さえ気にしなければアルバート流を破るともされた技だ。

 ヴァンを破るにはうってつけ、ではあるが。

 

「……く……」

 

 白衣を彼の血で染めたに飽き足らず、後先を考えない力の働かせ方により、スィンの肩も悲鳴を上げていた。

 後のことを考えなければならない通常戦闘ではおよそ使用に向かず、また護衛対象がいても使えるものではない。

 このような、決闘という状況下以外では。

 

「……(はや)いな」

「それだけが取り柄だからね」

「シグムント流が……アルバート流をしのぐであろう剣術だというのは、真であったか」

「正確には、アルバート流の弱点をつくとされた流派だから」

 

 だから、スィンはまだ優位に事を運べるようなものだ。

 もしもスィンがシグムント流派の使い手でなければ、アルバート流の剣技を使用できる程度に熟知していなければ、こんな死合い運びにはならなかっただろう。

 傷ついた背中をかばうヴァンに、流れるような連技を仕掛けていく。

 

「弧月斬、餓狼弧月斬っ!」

 

 弧月閃とはわずかに異なる型の剣技でヴァンに後退を余儀なくさせた後で、飢えた狼が獲物に追いすがるかのごとく大胆な踏み込みのもとに斬りこんでいく。

 袈裟と逆袈裟を繰り返して散った赤い粒は、スィンの猛攻を咎めるように降り注いだ。

 

「守護氷槍陣!」

 

 たまりかねたヴァンの一撃は、懐に飛び込みかけていたスィンを捕らえんと牙を剥く。

 地面より放射状に突き出した氷にタイミングよく飛び乗って宙を舞えば、彼はスィンの滞空時間を利用して小刻みに譜を唱えていた。

 

「グランドダッシャー!」

 

 重力に囚われたスィンが着地するその地点へ、大地はめきめきと音を立てて地割れを発生させていく。

 しかし、彼女は顔色ひとつ変えることなく螺旋状の指環を撫でた。

 

「──ノーム。汝の恩恵より、僕を少しだけ解き放って」

 

 自由落下中の体が、第二音素(セカンドフォニム)の輝きを伴ってふわりと浮き上がる。

 その真下で地割れからエネルギーが迸り、それが収まる頃にスィンは地面へ降り立っていた。

 同時に──ヴァンの正面へ。

 

「天空を舞いし龍、大地を駆けし虎。望みしは頑健たる汝らの牙! 零式・龍虎滅牙斬!」

 

 グランドダッシャーの余韻を利用した、龍虎滅牙斬の発展形である。基本は忠実であるものの、威力は体への負担同様莫大なものだった。

 地面を叩いた刃を中心に譜陣が展開し、牙を模した衝撃波が天へ上っていく。

 まばゆい衝撃が、持ち上がる土埃が視界を覆い隠し、ヴァンがどのような状態になっているのか、視認することは叶わなかった。

 ほとんど血桜にもたれかかるようにして、土煙に隠れたヴァンの姿を探す。

 譜術を使った直後だったのだ。回避はほぼ不可能と考えていい。直撃は除外、残るは、防御術が間に合ったか否か──

 かつんっ、と背後で小石が転がる。

 振り向きたい衝動をこらえ、スィンはまったく反対の方向へ足を踏み出して、

 

 ギィンッ!! 

 

 鋼と鋼が盛大に激突し、火花が散った。

 

「やはり見抜かれていたか」

「それをやるなら気配とか足音を消さないと」

 

 ぎりぎり、と鈍色と緋の刃が鍔競り合う。

 直前で噛み合う位置を変えられて、本来の威力を半減された大剣が、そんなことは関係ないと言いたげに押し込まれた。

 威力を最大限までに殺したためにどうにか受け止めていた血桜が、それを操るスィンの手が力比べに負けてじりじりと押されていく。

 浅くはあるが幾多の傷を負うゆえか、息の上がりかけているヴァンに比べれば、スィンのそれは比較的無傷に近い。

 一度離れようか、と考え、大地を踏みしめたそのとき。

 ヴァンの視線が、あらぬ方向へと向けられた。

 

「?」

 

 あのヴァンが、戦闘中余所見をするなど実に珍しいことである。

 もしかしたら、スィンが知らないうちにつけてしまった彼の癖なのかもしれないが、それでも何もないところへ視線を向けるわけがない。

 何かあると確信していても、確認したいとは思っていようと、スィンにそれだけの余裕はなかった。

 たとえヴァンのように一瞬であれ、自分の背後に位置するその先を見据えるのは敗北を意味していたから。

 その唇に蛇のうねるような笑みが宿ったのと、背中に衝撃が走ったのはほぼ同時だった。

 

「!?」

 

 衝撃は燃えるような熱さを呼び、焼き鏝を押し付けられたかのような灼熱はじくじくと痛覚を刺激する。

 一挙に冷えた気がする体を総動員して横っ飛びに転がれば、立っていた位置──足首の辺りに、チュインッと何かが弾けて飛んだ。

 

「閣下! ご無事ですか!」

 

 交戦の激しさを語る、荒らされた大地を蹴って現れたのは彼の副官、魔弾のリグレットだった。

 折られた人差し指は手製の添え木を当てて縛っており、構えた古臭い小銃の引き金には驚いたことに中指があてがわれている。

 スィンが身を起こしている間、彼女は無傷ではないヴァンを見て眉を吊り上げた。

 

「……! おのれ女狐!」

「大事はない。頭に血を昇らせるな」

 

 ヴァンが彼女をいさめる間に、留まることを知らない痛みの箇所に手をやれば、予想通り大量の血液がとめどなく流れている。これまでヴァンにつけたものとは比べ物にもならない。

 幸いにして急所は外れているが、時間が立てば立つほど危険な傷であると、出血量から判断できた。

 はやくも貧血の症状だろうか、どことなく足元がフラついてくる。

 

「これ以上は手を出すな」

「……はい」

 

 癒しの譜歌を使う暇はなかった。

 リグレットの接近に気づかなかったスィンに非があると、彼は考えたのだろう。『決闘』を邪魔された苛立ちはあれど、容赦をする気配は一向に見られない。

 その事実が、何を示しているのかは察しかねるが、それでも退くつもりはなかった。

 どうせこの怪我では、下手に逃げてもたかがしれている。それならば、いっそ。

 もはや受けるという愚を冒さず、刃がかみ合う寸前で受け流し、後退を余儀なくされるスィンを一歩一歩追い詰めながら、ヴァンはうっすらと唇に笑みを刻んでいた。

 一合交わすごとに、スィンの顔色から血の気が失せ、動きに精彩が失われていく。彼女が落ちるのは、もはや時間の問題だった。

 たまたま足場の悪い位置を踏みしめたスィンが、平素なら考えられないほどの無防備さで大きく体勢を崩す。

 そこを見逃すわけもなく、ヴァンは躊躇なく秘奥義を発動させた。

 

「己が敗北を認め、我が軍門に下れ!」

 

 大地へ突きつけられた大剣を中心に蒼い輝きを伴った譜陣が浮かび上がる。

 逃げないと、という呟きが脳裏を警鐘さながらに駆け巡ったが、その際スィンが行ったのは吐き気をこらえるように口元へ手を当てることだけだった。

 輝きの奔流は対象たるスィンを絡めとる。そして技は完成した。

 

「──星皇蒼破陣!」

 

 大剣が引き抜かれ、大地のすぐ下を這っていた衝撃のすべてが捉えた標的の全身を砕く。

 全身を貫かれるような衝撃を受けようと、その際血桜が弾かれ、あらぬ方角へ飛ばされようと。

 口元に覆われた手だけは、うっすらと開かれた瞳だけは外されることも閉ざされることもなかった。

 

「生きとし生けるもの全ての母よ。そなたの宿せし穢れは、誰の罪や?」

 

 ひゅっ、と空を切り裂く音が聞こえたかと思うと、ふくらはぎの辺りに鈍痛が走った。

 特にずたずたになっていた腕をかばって走っていたスィンが、もんどりうってその場に倒れこむ。

 星皇蒼破陣の余韻が消え去る頃、逃げるかのように走った彼女を、リグレットが精密な射撃で──人差し指が使えないくせに──足を撃ち抜いたのだった。

 とどめのつもりなのか、人差し指の仕返しか、もう片方の足にも撃ち込まれる。

 全身をくまなく走り回る痛覚のせいで、新たな痛みを覚えたという感覚がない。

 強いていうなら、大きな衝撃がまたひとつ体に風穴を作った、というところか。

 

「──シア。起きているか?」

 

 起き上がろうとしないスィンに、ひとつの足音が近寄ってきた。

「閣下!」という制止にこれっぽっちも反応した気配はない。

 

「……一応」

 

 小さくぼそりと呟いた瞬間、抱き起こされて顎を持ち上げられる。

 ぱちり、と瞬けば、くっきりとヴァンの顔があった。

 

「負けを認めろ。でなければ、我らは本当に死別しかねん」

「……それで僕はかまわない……と言いたいところだけど、そうも言ってられないね」

 

 わずかな喜色を浮かべたヴァンを見据えながら、スィンはゆっくりと片手を地面へ押し当てる。

 もう片方の手で口元を伝った血を拭いつつ、微笑むように目元を和らげた。

 

「負けは認めない。まだ、勝負は終わってない」

 

 眼を見張ったヴァンの腕から余力を振り絞って逃れ、膝をつくように大地に手のひらを押し付ける。

 紡ぎ続けていた譜を、そこいらの音素(フォニム)と紛れ込まないうちに最後の譜を唱え、結んだ。

 

「我は、彼の者に償いを命じる──インテルナル・グラヴィトン!」

 

 その瞬間。大地はまるでのた打ち回るかのような身震いを始めていた。

 

「な……!」

 

 地震にしては規模が小さく、限られたフィールドで力が働いているのか、周囲の海は静かなものである。

 しかし楽観できるものではないと、彼らは次の瞬間を目にして戦慄した。

 ビシビシッ、と大地に亀裂が走る。

 まるで崩落を連想させる光景だったが、その地割れから毒々しい紫の靄が噴出されたのを見て、リグレットが叫んだ。

 

「瘴気!?」

「正解。あなたを巻き込んだのは心苦しくて好都合だ。せっかくだから、苦しんでくれ」

 

 その言葉が終わるか終わらないか、その刹那でヴァンが小さく口元を動かしたのをスィンは見逃さなかった。

 やはりその手段を使うか、ならばその隙を利用させてもらうまで。

 第二音素(セカンドフォニム)に属する古代秘譜術を操作し、瘴気の発生を──正確には瘴気を模した濃度調整可能のモドキを──停止する。

 

「堅固たる守り手の調べ──」

「母なる抱擁に覚えるは安寧──」

 

 ♪ クロア リュオ ズェ トゥエ リュオ レイ ネゥ リュオ ズェ ──

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze ──

 

 バチカルのときのように示し合わせたわけではないため、わずかな差異はあったものの、アルトとバリトンの二重奏は張り巡らされた靄を一挙に浄化していった。

 驚いたのはヴァンである。

 

「!?」

 

 合唱に気づかなかったわけもなく、矛盾した行動をとった彼女に疑念をぶつけるべく、当人の姿を探して。

 

 ドカッ! 

 

「ぐあっ!」

 

 後ろから肩口にめり込んだ衝撃に、ヴァンは膝をつきながらも大剣を振るった。

 ぎんっ、と明らかに重くなった刀身を弾き、後ろを見れば、そこには。

 まるで血に濡れたかのような魔剣を振りかざし、返り血をまともに浴びて朱色に染まるスィンの姿があった。

 少しだけ吸ってしまった瘴気の影響で濁った咳を吐きながら、ヴァンの姿勢が崩れている隙に剣を振るう。

 ガギンッ、と硬質音が大気を震わせ、切っ先が流れぬよう抑えようとして。

 

 ドン──ッ! 

 

 かつてない衝撃を叩き込まれ、視界が、体が震えた。

 今度こそこらえきれず、衝撃を流すこともできぬまま、体がふわりと宙を舞う。

 直後、重力に引かれていやというほど地面へ叩きつけられた。

 

「げほっ……」

 

 こらえる気もなくした血を思う様吐き出す。

 咳をし、体が震えるたびに、麻痺していた痛覚が眼を醒ましていった。

 今度こそ手放すまいと握りしめていた剣が、腕を踏まれてあっさりと取り上げられる。

 重たげにその柄を握り、切っ先を垂直──仰向けになったスィンの胸に向けていたのは、険しい眼で彼女を睨むリグレットだった。

 

「よくも閣下を……!」

「やめろ!」

 

 その声が聞こえたのと、刃が振り下ろされたのは、ほぼ同時。

 背中合わせの斧刃に似た切っ先が、今や紅衣とでも称した方がいい白衣に覆われた胸へ突き刺さる。

 肩を負傷し、鎖骨まで折れているとは思えぬ速さでヴァンがリグレットの腕を取るのと、自重で刃が沈むのは、ほんの少しの差異があった。

 ヴァンがリグレットに叱責か何かを下している。それを横目に、刺された瞬間働かせたコンタミネーションをそのまま作動、剣を再び体内へ収めた。

 おそらく自分自身の血溜まりだろう。ぬるま湯のようなぬかるみに浸かったような気持ち悪さを覚えながら、これだけは、と懐に手を伸ばした。

 力の入らない右手が掴んだのは、先ほどつき返された懐刀。

 ヴァンを討つことができなかった以上、最早スィンが帰還することはできないだろう。少なくとも、ヴァンの傍から離れることはできない──

 薬で自我を破壊されて単に能力だけを悪用されるかもしれないし、レプリカ情報を抜き取られてそのまま……

 何をされるかも、どうなるかもわからないが。

 少なくとも、ルークたちの──ガイの益になることはない。ならば。

 この体が、ユリアと同じ振動数であることに加えた能力が、ヴァンの手に渡る前に。

 壊す。

 ゆるゆると短刀が取り出され、その過程で鞘を外した。

 黒く塗られた切っ先が、心臓の真上に突きつけられる。

 ちらりと思い浮かんだのは、生きて戻って来いといった祖父と、精霊たちと交わした約束だった。

 

(命ある限り、って言ったんだ。あながち間違いじゃないよね)

 

 自分の血でぬめる柄をどうにか握りなおし、残る力を振り絞って持ち上げた体を反転させる。

 漆黒の刃は体重による自重で心臓に深く突き刺さる──はずだった。

 不意にわき腹を蹴られ、あっさりと体勢を崩して仰向けにさせられる。もぎ取られた懐刀が、遥か後方へ投げ捨てられた。

 

 これでは──今、最後の手段を使わないと自害は失敗する! 

 

 予備動作も覚悟もなく舌を噛もうとしたスィンは、直後、がちんっ! と音を立てた衝撃の痛さに一瞬動くのをやめた。

 息苦しい。後頭部がしっかりと抑えられ、口の中を生暖かいものが侵食している。

 これは──

 

「んんっ!」

 

 懐に残っていた鞘を掴み、ヴァンのこめかみを殴って拘束を緩めさせる。首を振って密着中だった唇を離れさせると、芋虫のように転がって距離を取った。両腕はともかく、両足の感覚がないのだから、致し方ない。

 短刀が投げられたであろう後方へ転がり、手探りでその柄を掴んで回収する。

 血を吐いたからだろうか。

 ルージュをひいたように赤くなっている、スィンと重ねた唇をぐい、と親指になするヴァンの仕草に、自分で自覚ができるほど赤くなった。

 

「この期に及んで、死別を果たそうとするその覚悟は認めよう。しかし、私がそれを許すとでも思ったのか?」

 

 肩を深く斬られ、鎖骨まで叩き折られたとは思えぬ足取りで、歩み寄ってくる。

 

「約束のときまで、死なせてたまるか。お前は私のものだ」

 

 いちいち言わなくてもわかりきっていることを口にするのは、一重にスィンの心をぐらつかせるためなのか。

 大剣を収めたのを見るに、スィンが懐刀を手にしていることは彼は知らない。

 ロクに動かぬこの体でどこまで戦えるものか、それを瞬時に試算して──

 

「──大地の咆哮! 其は怒れる、地龍の爪牙っ!」

 

 まるで怒鳴るかのような詠唱──牽制するためだろうか──に、ヴァンが顔色を変えた。直後。

 

「グランドダッシャー!」

 

 ヴァンのものではない譜術が発動し、スィンとヴァンを隔てるように地割れからエネルギーが迸る。

 

「……来たか」

「スターストローク!」

 

 天より飛来する矢をヴァンが弾いている間に、彼と同じ髪色の少女が前へ出た。

 

「エクレールラルム!」

「くっ……」

 

 立ち上る光を回避せんとヴァンが大きく下がったとき、入れ替わるように黒衣をまとう真紅の髪の青年がスィンに駆け寄った。

 

「シア……」

 

 へたり込んだままのスィンを一目見、絶句する。

 それでも硬直することはなく横に抱きかかえ、後退するティアと共にナタリアの元へ走った。

 

「スィンッ!」

「……ガイラルディア様。ご無沙汰しております」

 

 そして、遅ればせながら走ってきたルーク、ガイと対面する。

 主を前にしても立とうとはしない──立てないスィンをゆっくりと地面に下ろし、アッシュは腰の黒剣を引き抜いてヴァンと対峙した。

 

「てめえ、俺たちは見逃してシア一人を狙うとは、どういう了見だッ!」

「アッシュ……何故そこまでシアに入れ込む? 私におまえの誘拐を促した当人だというのに」

 

 ──おそらく、彼はここで仲違いを図り、スィンの孤立を目論んだのだろう。

 が、アッシュはその言葉に小揺るぎもしていなかった。

 

「それがどうした。そのことならもう、七年も前に聞いている!」

「……アッシュ、それ胸張って言うことじゃない」

 

 ティアたちの治癒術により、痛みのひいた体で彼の眼前へ歩もうとする。

 ジェイドに肩を掴まれて身を震わせて歩を止めはしたものの、このまま彼らの背に隠れてしまうわけにはいかなかった。

 

「決着がつけられなかったのは残念だけど、介入者を招いたのはお互い様のはずだから、もう意味を成さないよね? 本当なら寄ってたかってボコにするべきだけど、泥仕合になるだけだから」

「──現にあなたはボロボロですからねえ」

 

 余計なことを呟く頭上の声は無視。

 

「だからアッシュの提案をもう一度繰り返す。『……ヴァン。ここはお互い退こう。いいな?』」

「なんで声真似をする必要があるんだっ!」

 

 実に迅速な突っ込みに、スィンは笑おうとして──失敗した。

 目元を手のひらで覆い、唇を歪ませるだけに留める。

 それを見たアッシュが、その表情を変える前に。

 

「──聖なる焔の光たちが、同じ燭台にその輝きを灯すとき。栄光を掴むものは……奈落の底へ落つ。そして世界は、在るべき姿を取り戻すであろう」

 

 言葉が締めくくられた直後、輝きは唐突に消え失せる。スィンの指先から弾かれた爪の先ほどの譜石が、砂礫の間に埋もれていった。

 唐突に詠まれた預言(スコア)を前に、誰もが硬直している。

 

「君が辿るその道に先はない。どうせ君はそれを認めないだろ、そのまま転げて落っこちろ。もう止めないからさ」

「く、くだらない虚言を!」

「好きな解釈をすればいい。嘘か本当かは、そのうちわかること」

 

 今更こんなもので止められるとも思わないが、牽制になればそれでいい。

 完全に黙ってしまったヴァンをかばうようにリグレットが反論を唱えかけ、あっさりと黙った。

 この世界の住人である以上、排除しようという考えの持ち主でも、預言(スコア)の信用度がゼロであるわけがない。

 無知によるもどかしさと、知っていることにより発生する恐怖。選ぶのは個人の自由であるが──彼らが選ぶのは、前者だろう。

 彼らとて、知らなければこのような事態を引き起こしはしなかったのだから。

 

「……スィンフレデリカ!」

 

 呼ばれた名の懐かしさに、思わず気が遠くなった気がした。

 呼んだのは、もちろんのことヴァンである。

 

「……久しぶりに口にしてくれたね。従者である僕の名を」

「今一度尋ねよう。お前が真に討ち取るべきは、その男ではないのか」

 

 血の流しすぎだろうか。あまり頭が働いていないらしい。

 仲間割れを誘うなら、フルネームを出した方がいいのに。

 

「仲間割れしてほしいのか、せせこましい。僕はガイラルディア様の心に殉ずるよ」

 

 これで何があったのか理解できる人間は、少なくともこの場に存在はしなかった。

 だが、彼の副官はその空気に流されることなくヴァンに寄り添う。

 

「覚えていろ女狐……! 貴様の詠んだ預言(スコア)など認めない、必ずや覆してみせる!」

 

 一方的にそれを宣言した後、リグレットはデオ峠でも使った閃光弾を用いて逃走を果たしていた。

 残されたのは一行と、痴話喧嘩、もとい交戦により激しく磨耗した大地のみ。

 

「はーっ……」

 

 彼らが消えたことにより、緊張状態から解放されたスィンは、その場に座りこもうとした。

 掴んでいた肩が下へひっぱられる感触で、いち早くそれを察知したジェイドに支えられ、ゆっくりと地面へ横たえられることとなったが。

 

「剣の傷はあらかた癒えている……問題はこの銃創ですか。リグレットに加勢されるまでは、互角だったようですね」

 

 体を調べているのはジェイドなのだが、反応は鈍い。

 治しきれなかった患部に触れても痛みを訴えず、眼が虚ろなところを見ると、これは──

 

「しっかりしろ、シア!」

 

 口を聞く元気すらない、といった風情の彼女を揺さぶろうとするアッシュを制し、ガイがスィンの正面に回った。

 

「……スィン……あ、姉上。俺がわかりますか?」

「ガイ様。そんな意表をつく真似をされなくても意識はあります。だからどうか、驚かせないでください」

 

 ぐっ、と両腕に力を入れて、上半身を持ち上げる。

 動いたことによって発生した新鮮な鉄錆の匂いは、潮風がさらってくれることを願って。

 

「ティア、ナタリア。大雑把でいいですからスィンの傷を塞いでください」

「お、大雑把に、ですか? 時間はかかりますが、完全に治癒したほうが……」

「背中の銃弾が貫通していませんのでね。本当はこのままの方がいいのですが、出血量に問題があります。死ぬほどつらいでしょうが、こんなところで弾の摘出なぞすれば、それこそ命に関わりますからねえ。構いませんね、スィン?」

「……イヤだって言っても、そうするつもりでしょうが」

 

 そう言ってどうにか渋面を作り、ジェイドの返事を聞く前に。

 上体をどうにか起こしていたスィンは、力尽きたかのように脱力した。

 

「おわっ!」

 

 地面へ激突しそうになったその頭を、ガイが慌てて抱える。

 幾度も返り血を浴びたらしいその髪は血の凝固作用によって固まり、本来の色をほとんど失っていた。

 

「スィン! どうしたんだよ、おい!」

「静かに。血を失いすぎて気絶したんですよ」

 

 いきなり意識を飛ばしたスィンに動揺するルークを、ジェイドは冷静になだめている。

 

「ま、この出血量からすれば今まで起きていられたことに賞賛するべきですね」

 

 血桜、懐刀ともに鞘へ収め、ジェイドがそれらを携えて立ち上がった。

 とりあえず血止めを目的とした治療を済ませ、ガイがスィンを抱え上げようとして、小さな騒動が起きる。

 

「ガイ。そうやって運ぶのは負担が大きいから、背負った方がいいと思うわ」

「う。せ、背負うのは、まだちょっと」

 

 それからスィンが眼を醒ましたのは、それからしばらくしてのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七十唱——戦い疲れ、残る哀しみは

 

 

 

 

 ベルケンドに一軒しかない宿へ入り、一行はロビーに佇んでいた少女と再会していた。

 

「ノエル! 無事だったのか!」

 

 ほっとした、といった風情のルークに、ノエルは微笑みを浮かべて頷いている。

 

「はい。アッシュさんに助けて頂きました」

「よかったですの!」

 

 ミュウを始めとする一行は再会を喜んでいるものの、彼女の顔色は優れない。

 

「あの、アッシュさん。スィンさんは、どちらに……?」

「そこだ」

 

 ぶっきらぼうに彼が指したのは、ジェイドだった。

「はい♪」とタイミングよく前に出れば、彼が背負うぐったりとしたスィンの姿があらわとなる。

 ノエルは、当初白衣をまとい雪色の髪をしていた彼女が何故赤い服を着込み、髪を赤く染めているのか疑問に思っていたようだったが、やがて事実に気づいてビクッ、と体を震わせた。

 

「な、何があったんです!? ひどい……こんな……」

「……ちょっと、話がもつれちゃって」

 

 いたたまれなくなったのか、スィンがむくりと顔を上げる。

 パッ、と合わせた顔が「早いお目覚めですねえ」と宣うを見て、げんなりとした様子になった。

 

「……降ろしてほしいんですが」

「いつまでもそうだから、治るものも治らないんですよ。アクゼリュス行きの最中はあんなに奮闘していたのに」

「……根に持つんだから……」

 

 自力で降りようと試みてはいるが、わずかに体を動かすだけで痛みが走るのか、億劫そうにジェイドの腕を外そうとしている。

 その間にも、会話は続いていた。

 

「ただ、アルビオールの飛行機能はダアトで封じられてしまいました」

「どういうことなの? 飛べないのなら、どうやってここに……」

「水上走行は可能だったので、それでなんとか」

 

 ティアの質問にノエルが答え、ガイはその理由を推測している。

 

「そうか。多分浮遊機関を操作している、飛行譜石が取り外されたんだな」

「じゃあ、それを探さないと飛べないのか」

「ああ。現状では船とかわらないってことさ」

 

 アルビオールが単なる鉄塊にならなかっただけマシだが、イニスタ湿原で乗り物のありがたさを嫌というほど学んだ一行に、本来の機能が失われてしまったのは大きかった。ノエルも、沈痛そうな表情を隠そうとしない。

 一方で、一行と違い空飛ぶ経験は皆無のアッシュは、スィンをジェイドの背から降ろしてノエルの座っていた椅子に腰掛けさせると、おもむろに机の上にあるそれをとった。

 

「イオンから、これを渡すように頼まれた」

 

 差し出されたのは一冊の本。

 湿原を抜けてからスィンが奪い取り五回ほど読み返した、あの禁書である。

 

「これは、創生暦時代の歴史書……。ローレライ教団の禁書です」

 

 流石というべきか、なんというか。

 ジェイドはそれをパラパラめくっただけで看破していた。

 

「禁書って、教団が有害指定して、回収しちゃった本ですよね」

「ええ。それもかなり古いものだ」

 

 アニスに答えながらも、ジェイドの眼はすでに禁書の内容を追い始めている。

 

「あんたに渡せば、外殻大地降下の手助けになると言っていた」

 

 しばらく黙って斜め読みしていたジェイドであったが、軽く眉間に筋を入れたかと思うと、顔を上げた。

 

「──読み込むのに、時間がかかります。話は明日でもいいですか?」

「いいんじゃないか? この中でその本を理解できそうなのはジェイドぐらいだし」

 

 何か物言いたげにアッシュがちらりとスィンを見たが、それに気づいた者はいない。

 ガイの提案を反対するものはいないと判断し、ルークが決定した。

 

「頼むよ、ジェイド」

「わかりました」

 

 パタン、とかび臭い本が閉じられる。同時に、スィンは力を込めて立ち上がった。

 みし、と足の骨がきしんだような気がしたが、努めてポーカーフェイスを気取る。

 

「さて──ね、ノエル。部屋取っといてくれた?」

「あ、はい! ちょっと待ってくださいね」

 

 ポケットを探る彼女が、「あっ」と零した。

 どうしたのか、と問えば、ノエルは申し訳なさそうにうなだれている。

 

「ごめんなさい、私──自分を数えるのを忘れていました」

 

 彼女の手にある鍵、その本数を見て、あー、とアニスが呟いた。

 

「男部屋女部屋、って取っちゃったんだね」

 

 鍵は二本。

 おそらく、四人部屋をふたつ取ったのだろう、もしくはそれしか取れなかったか。

 なんにせよ、好都合である。

 

「じゃあ僕、一人部屋取っちゃお。駄目ならアルビオールで寝る」

「そんな! 悪いですよ、アルビオールに寝泊りするなら、私が──」

「だってノエル、いつもいつもアルビオールにこもりっきりでしょ? たまにはふかふかの布団で手足伸ばして眠りたいと思わない?」

「でも」

 

 それ以上彼女に取り合わず、カウンターへ歩み寄る。

 少し足をひきずったが、些細なものだ。気づかれていないことを願う。

 そしてスィンは、ひとつの鍵を手にして一行のもとに戻ってきた。

 

「それじゃ、お先に」

 

 夕飯は要りませんから~、と残して、さっさと歩き去ろうとして、痛みを堪えきれずゆっくり移動を強いられる。

 部屋番号を確かめかけて、スィンはぴたりと立ち止まった。

 

「……どうかしましたか? 大部屋は反対方向のはずですが」

 

 くるりと振り返れば、ジェイド、アッシュ、ガイの三人がそこにいる。

 代表してか、ジェイドが胡散臭い笑顔で本を片手に肩をすくめた。

 

「またまたぁ、わかっているくせに♪」

「……治療のことなら、自分でできます。大佐はどうぞ、本の解読に集中してください」

「無茶言うな。背中の銃弾なんかどうやって自力で摘出するんだよ」

 

 不可能ではない。何もかもを無視して目標を引きずり出した後、損傷した部分をまとめて癒せばいいのだ。

 ……かなりの苦痛との戦いに勝てれば、の話だが。

 

「それに……あんたに対するヴァンの執着ぶりは半端じゃなかった。一人になったところで拉致られたらたまったもんじゃないだろう」

 

 一度外してから、棄てようとしてもゆるんでくれなかった拳を締めなおす。

 自覚するにはなんとも気恥ずかしいが、事実だ。眼を背けるわけにはいかない。

 

「そういうことです。あなたのことだから、子供や女性に血なまぐさいものを見せるわけにはいかないだの言うと思って、あえてこのメンバーにしてみました。いかがです?」

「……図星だけど、そこまで察してくれたのなら放っておいてほしかったな。アッシュにも、ガイ様にも、あんまり見てほしいものじゃない。……もちろんあなたにも」

「私は軍人であり、監察医の経験もあります。むしろ見慣れていますが?」

「個人的な本音、あなたに素肌を見られたくなかっただけです!」

 

 ちらりと二人に視線を送るも、説得できるような雰囲気ではない。ジェイドは、最初(ハナ)から問題外だ。残念ながら、スィンの技量では逆立ちしても説き伏せることは難しいだろう。

 ふぅ、とため息をつき、それ以上話すことを拒否して歩行を再開した。

 そっとひとつの気配が接近し、優しく体を支えられる。普段なら遠慮するところ、ありがたく肩を借りた。

 

「……なあ」

「なんですか、ガイ様?」

「その……おまえが、俺の……腹違いの姉上だっていうのは、本当なのか?」

 

 ひそひそと囁かれた言葉。

 それを噛み締めるかのように、スィンは一拍置いてから彼の耳元に唇を寄せた。

 

「……バチカルでおじいちゃんに確認しました。僕の体には、旦那さまの血が流れているそうです」

「それじゃ……!」

「でも、血脈はあくまで血脈でしかないと考えます。血が半分繋がっていようと、あなたは僕の主である事実は変わらないし、血の繋がりがなかろうと親子は親子、ではないでしょうか」

 

 黙ってしまったガイに軽く会釈をし、歩き続ける。

 目的の部屋の前に到達し、スィンは無言で鍵を突き刺すとノブを回した。

 ガイに礼を囁いてから、自力で部屋の中へ入る。

 中央の寝台──個室がなかったのか、キングサイズ──に荷袋を置くと、スィンはその中から救急箱を取り出した。

 

「……消毒液がもうちょっとしか無い、買ってこないと」

「心配には及びませんよ、ほら」

 

 やけに楽しそうなジェイドの声に、いぶかしがりながら彼を見る。

 そして──スィンは頭痛を起こしたように額を押さえた。

 

「まさか、それで患部を消毒するおつもりで?」

「そのまさかです。純度が高いから、エチルアルコールの代わりにはなるでしょう」

 

 ジェイドが笑顔で手にしていたもの。それは、一瓶のブランデーだった。

 封が切られていないところを見ると、買ってきたばかりらしい。

 

「そんなもったいないことしないでください。……じゃなくて、いつの間に仕入れたんですか、そんなの」

「あなたがまだ、私の背中でく~ぴゅるる~、と寝息を立てていたときのことです。アッシュが第一研究所専属の医師にあなたを預けようとおばかな提案をしたとき、店先にあったので購入してみました」

 

 余計な情報が混じりまくっていることはさておき。

 必要、または重要な情報を抜き出して思った感想。

 

「……ああ。うん、ばかだねえ」

「悪かったなっ! あんたはいつもあそこにかかっているという話を思い出したから、ヴァンがいるかもしれないということを思わず忘れて」

「ありがとう、アッシュ。心配してくれて。ごめんね」

 

 心持複雑そうに見えるが、それでも笑顔を向けられ、アッシュの頬がほんのりと上気させる。

 フン、と彼がそっぽを向く頃、その笑顔も消えて表情が引き締められていた。

 

「じゃ……お願いしましょうか」

 

 針より少し太く、長さはスィンの中指から手首のあたりまでというナイフや、普通の形のピンセットから少し特殊な形状のピンセットまで、ずらずらと並べ酒を浸した布で消毒する。

 とにかく、歩く度に痛みを覚える背中をお願いしようと考え、赤く染まった白衣に手をかけて。ジロッと男性陣を見た。

 

「どうしました?」

「紳士の自覚があるならあっちを向いていてください。アッシュはこっち」

 

 ジェイドとガイに背中を向けさせ、対象外のアッシュを手招きする。

 

「悪いけど、脱ぐの手伝って」

「わかった」

 

 大真面目にアッシュが応じる。

 一緒に風呂すら入った仲だ。恥ずかしいという感情はない。

 

「……また傷が増えたな」

「これは傷じゃなくて、誇りと勲章っていうんだよ」

 

 白衣の腕を引き抜いたところで、乾いた血でびったりと接着している背面を見る。

 いくら引いても、取れないのなら仕方ない。

 

「どうする?」

「一思いに剥がして。耳栓いる?」

「……いや、いい」

 

 スィンの肩と白衣を掴み、「いくぞ」と短く呟いて、アッシュは遠慮なく白衣を引き剥がした。

 

 べりべりべりっ、ビリッ! 

 

「ぎぃやああっ!」

「……だ、大丈夫か?」

 

 文字通り、生皮が剥がれる激痛に悶えるスィンの気配に、思わずガイが振り向きかける。

 

「ああっ、こっち向かないで! 見ないでください!」

「……悲鳴を『絹を引き裂いたような』ものに変換すると、どこの修羅場ですか? って感じですねえ」

 

 ジェイドの声は無視。

 

「この白衣……はどうする? 廃棄か」

「後で処理する。それで……」

 

 サラシを自分で解きにかかると、アッシュは手伝おうか悩んでからくるりと後ろを向いた。その隙に。

 これまで髪に隠れ、アッシュにも見えていない背中の譜陣に、借姿形成の応用で迷彩を施す。

 女の体で盾は務まらない、とみなされたスィンの体には主に肉体強化の譜陣が限界まで刻まれており、子供でも皮膚が比較的頑丈な背中は様々な陣で埋め尽くされているのだ。

 これまでヴァン以外には見せたことがない。彼らにも、見せようとは思わない。

 術をかけ終えたスィンは、素早く髪をまとめて前へ流した。

 鏡で患部を確認するフリをして、すべてが見えなくなっていることを知る。

 過去の怪我の跡まで幾つかなくなっているのは、ご愛嬌だった。

 

「大雑把と言っていたが……思ったより塞がっているな。麻酔も使わずに銃弾の摘出なんかできるのか?」

「可能ではありますよ。ただ、失血死やショック死という可能性を忘れられませんが」

 

 ちらりと患部を見たアッシュが誰ともなしに尋ねると、先ほど消毒したナイフ類を手に取り、錆の類がないか点検していたジェイドがしれっと答えた。

 そしてふと笑顔になる。

 

「──もういいかーい♪」

「……もういいよ」

 

 首から下をシーツで覆い隠したスィンの姿を一目見るなり、彼は手に取ったナイフをひょいと差し出した。

 

「スィン、火」

「……ご自分でどうぞ」

「生憎私は、あなたのように器用ではありませんので」

 

 結局スィンの指先に灯した炎でナイフを満遍なく焙り、冷ました後。

 床を汚さぬよう体に巻きつけたシーツを床へ敷き、その上へうつ伏せに寝たスィンは、手渡された手布を丸めて力いっぱい噛み締めた。

 

「歯を食いしばって、背中の力は抜いて」

 

 そんな器用なことができるかと、胸中で呟いた直後。

 激痛が走った。

 

「……ぐううううっ!」

 

 無意識に暴れる体が、ガイとアッシュの手によって押さえ込まれる。

 それでも麻酔なしの銃弾摘出手術は和らぐことを知らない。

 これ以上ない、と思っていた激痛は右肩上がりに強さを増し、スィンは「動くともっと痛いですよ」という忠告も聞けず何度も暴れ、しまいには三人がかりで押さえつけられた。

 三人の荒い息遣いが、一人のやけに静かな呼吸が、そしてスィンの痛みによる啜り泣きが、部屋にこもる。

 

「ひっ……く……うぅ……」

「旦那……まだ見つからないのかよ」

 

 スィンの声なき悲鳴と嗚咽を聞くに堪えたか、露出されている患部によってか。

 自分が痛みを感じているような声音でガイが尋ねた。

 

「もうとっくに発見しましたが、無理に引きずり出すと神経に思い切り触れてしまいますので……せめて施設は借りたかったですねえ。器具もそうですが、患者を押さえつけるなんて良心が痛んで痛んで」

 

 彼が本当にそう思っているのか、そもそも痛めるほどの良心を持っているのかどうかはさておき。

 痛みで朦朧とした意識の中、灼けつくような痛みに七転八倒しかけて、抑えられる。

 充満した血の臭いに混じった匂いを感じるに、ブランデーか何かのアルコールを患部にかけたらしい。

 

「直にかけないで……っ! ……せ、せめて散らしてくださいよっ……」

「単なる消毒ならそうするんですが、今のは血を洗い流しました。……まあ、話せるくらいならまだ平気ですか」

 

 柔らかく頭を撫でられたかと思うと、またも背中に激痛が生じる。

 焦れたか、あるいはこれ以上長引かせるのは危険だと判断したか。

 慎重さをかなぐり捨てて差し入れられた金属が血管を縫うように進み、これまで痛覚を刺激していた根源を掴んで引き抜かれた。

 

「──取れました」

 

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

 返事もせず、これまで使いそうになりながらこらえてきた譜歌を奏でる。

 癒されていく痛み、そして苦しみの緩和にほっとしながら、スィンは血に塗れたシーツを引き上げつつ遠慮なく流れた涙を拭った。

 痛みの余韻か、じわりと瞳が潤む。

 

「お疲れ様でした」

「それは……お互い様、だな」

「後は自分でどうにかしますから、戻ってくださって結構です。休んでください」

 

 涙を払い、彼女は裸の体にシーツを巻きつけて三人を追い出そうとした。

 癒したとはいえ、つらい手術を受けた直後とは思えない気丈さに内心舌を巻きながらも、ジェイドが尋ねる。

 

「一人で平気ですか? なんならガイに添い寝を頼んでも──」

「……お願いです、独りにしてください」

 

 けして強い調子でもきつくもなく、やんわりと告げられた言葉ではあったが、それが明確な拒絶だということに気づかぬ三人ではない。

 憔悴しきっているであろう眼を伏せ、三人を半ば強制退去の形で退出を促した。

 ぐいぐい押してくる力は物理的にはかろうじて、のレベルではあったものの、逆らうのはためらわれる。

 結局、全員が締め出されてしまった。

 扉が閉まる。同時に、数人の足音が響いてきた。

 

「皆さん……どうしてここに?」

「スィンが心配だったから、お見舞いに来ました。彼女の具合はどうですか?」

 

 代表してティアが言う。

 彼女の後ろにいるルークは、どこで何を買って荷物持ちにされたのか、一抱えもある袋を四つも持たされていた。

 

「夕食は要らない、と言っていましたが、食べないと体力が落ちてしまいますわ。だから、何か体にいいものをと……」

「といっても、ナタリアが好き勝手に作った料理なんて食べさせたら、とどめを刺すようなもんだからね。だからアニスちゃんもお手伝いに来たの!」

 

 会話の内容からして、食材オンリーらしい。

 こんな家庭的な女の子、そうそういませんよ~? と大佐に言い寄りつつも、その眼は閉ざされた扉に注がれている。

 

「で、どうなんだスィンは?」

「あー……」

 

 事実をそのまま告げるのははばかられたが、ガイが何かを告げるより先に。

 

「──今しがた治療を終えたところですよ。ナタリアたちの好意はとてもありがたいものでしょうが、今はそっとしておいてあげなさい。夕食は要らない、というのは気分の問題ではなく、消化器官の損傷によるものでしょうから」

 

 その説明に納得した一同が、面会することも控えて自分たちの部屋へと戻る。

 その帰途にて、ガイはこっそりとジェイドに話しかけた。

 

「──よくあんなこと、咄嗟に言えたな?」

「口は回る方ですから。それに、嘘をついたわけでもありませんし」

 

 足音が遠ざかる。

 扉にもたれかかり、図らずも盗み聞いていたスィンは心の中でジェイドに感謝を呟いていた。

 今誰かと会う、または話をするのは、どう考えても難しい状態だったから。

 流し尽くしたと思われた涙が、また一粒つうっ、と頬を伝う。

 痛みによって緩んだ涙腺は、なかなか引き締まってくれない。

 

「っふ……ひっく……」

 

 誰もいなくなった、と確信した瞬間、咽喉の奥から嗚咽が零れる。

 二十七歳のいい歳した女が部屋にこもり、号泣直前までに大泣きをしているなんて、考えただけでも寒いのに、実現してしまっている今は恥ずかしくて目にも当てられない。

 失恋じみた悲しさのあまり泣き崩れるなんて馬鹿馬鹿しい、やることやってさっさと寝てしまえと呆れる理性をそのまま、涙はぽろぽろと転がっていく。

 

 一番の問題は、どうして自分は涙を流しているのか、自分でもよくわかっていないスィンにあった。

 

 ヴァンと道を違えたことは、すでに承知済みだったはずだ。

 離縁を申し出て、どんな反応が返ってくるのか。承諾してもらうときは別として、はねつけられた場合の想定も考えてあった。

 説得も無理だとわかっていながら、自分の考えを知ってもらおうと思ってやったわけで、本気であれを聞き届けてもらおうとは思っていなかったはず。

 まさか超振動を使われるとは思っていなかったが、剣を交えることになっても、二人きりで話して、納得してもらって、痛みわけをした。

 完全に離縁したわけではないが、相手にその意を知ってもらったのだ。

 承諾はもらえなかったが、これまでの状態とは格段に違う。最善には及ばないが、それでも多少の相互理解は得られたのだ。

 なら。

 悲しくて切なくて、胸が締め付けられるような苦しみと共に湧き出ずるこの涙の正体は? 

 ぼやけた視界を、瞬きで回復させる。

 それも一瞬のこと。目蓋の中があっという間に潤んで、眼の淵からまた出て行く。

 しばらくそのまま。スィンは一歩たりとも動くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 




さて、長い夜のはじまりはじまり……
アッシュがナチュラルにフラグを立ててくれました。これで何も起こらぬわけがない(笑)


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ベルケンド幕間

 

 

 

 

 

 

 ──いい加減泣き止まないと、目蓋が笑えるくらい腫れる。

 

 泣いて、泣いて、それこそ枯れるほどに泣き明かしてふと、スィンは我に返った。

 カーテンは締め切ったまま、三人を締め出したときに灯りを落としたため、薄暗い部屋の中姿見を覗き込む。

 予想通り、そこには「泣きはらした己の顔」があった。

 泣き止むための仕草──目蓋をこすったりはしていないから、酷く腫れることはなかろうが、それでも泣いていたことを進んで教えたくはない。

 すでに熱を孕んだその場所に作った氷嚢を当てて、まずは気を静めにかかる。

 もう終わったことなのだ。どんなに泣いても、たとえ後悔したとしても、状況は変わらない。早く割り切らなければ、また心配させてしまう。

 しばらく別行動をしていたことも何も思われていないはずもない。だから──

 

 ぎしり

 

 動いてもいないのに、長椅子が鳴った。訝しげに氷嚢を持ち上げて、絶句する。

 顔に氷嚢を乗せるため、長椅子に横たわっていた。

 リグレットが使った一昔前の小銃が実弾使用だったため、貫通しなかった実弾を取り出すための処置後、裸同然のままでいた。

 視界が塞がっていて、無防備な状態だったとしても、油断していなければこうはならなかっただろう。

 何か物音がしたかと思ったら、ヴァンが覆いかぶさるようにしていた、など。

 

「……え」

「治療は済んだな」

 

 氷嚢が、ずるりと流れるように顔の脇へ落ちていく。

 一拍遅れて飛び起きたスィンだったが、その勢いで覗き込むようにしていたヴァンの額へ自分のものを打ち付けるより早く、顔を掴まれた。

 剣ダコすらはっきりわかる無骨な手のひらは、スィンの口を完全に覆っている。

 完全に見抜かれていた。

 

「……!」

「頭突きで怯ませ、人を呼ぶ腹積もりだっただろう」

 

 そのままヴァンは、やすやすとスィンを組み伏せた。咄嗟に逆らうことが出来ず、そのまま長椅子に身が沈む。

 口を塞ぐ手をスライドするように顎を掴まれて、口づけられた。

 

「……っ」

「どうした? 随分大人しいが、溜まっているのか」

 

 ──その言葉でやっと、スィンは混乱から回復した。

 震える手がヴァンの顔を殴打しようと翻り、その頬を張る前に捕まえられる。

 

「なんの、用」

「決まっている。わからんお前でもあるまい」

 

 当たり前のように巻きつけていたシーツを取り上げられそうになって、慌てて抗った。

 無駄だと、こと力比べでヴァンに勝てる試しはないと理解していても、状況に流されていい理由にはならない。

 

「シア」

「わかんない、わかりたくない! 僕アタマ悪いからせつめ……!」

「大声を出すな」

 

 人が呼べないなら騒ぎを起こすまで。

 混乱している風情を見せかけて声を張り上げる前に、首を掴まれた。気道を締められて言葉どころか、呼吸までもせき止められる。

 反射的に引き剥がそうとして、手を離したのがいけなかった。

 その手が押さえていたシーツをあっさり奪われて、あらぬ方向へ放り投げられる。

 血まみれのシーツが床にわだかまる頃、スィンは長椅子の上で抱きしめられていた。

 

「くっ……!」

 

 とてもではないが、恋人がするような慈しむ抱擁ではない。

 まるで巨大な蛇に巻きつかれて絞め殺される寸前のような、相手はスィンを抱き潰す気ではないかと錯覚するほどに、力強く容赦がない。

 

「少し痩せたな」

 

 骨が軋むような音さえする。

 それにも、苦悶するスィンにも気づかないはずはないのだが、ヴァンの腕は一向に緩む気配がなかった。

 

「離し……て……」

「断る」

 

 シーツを犠牲にして、首の圧迫されてはいけない場所を死守してはいるが。このままではいずれ力尽きて首を絞められ、窒息させられてしまう。

 それこそが狙いだとヴァンはのたまった。

 

「このまま締め落として、連れていく。近頃ディストがコソコソ何かしているようだが、お前の洗脳にならば嬉々として手を貸すだろう」

 

 あの男はお前に執着しているからな、と締めくくられる。

 それを聞きつけたスィンは、苦しい息の下で大きく息を吐いた。

 

「第二ラウンド、ってこと」

「お前に選択肢は与えない。不満なら拒め」

「──ああ、そうするよ!」

 

 不意に鋭痛を覚え、細い首に回した腕が強引に解かれる。

 床へ倒れこむようにヴァンの腕から脱出したスィンの手には、笹の葉の形をした手裏剣が握られていた。

 押さえた野太い腕からは、けして少量ではない血液が流れて滴る。

 しかし、それに怯む彼でもなかった。

 スィンが逃げたと知覚するや否や、自らも長椅子から滑り落ちるようにして再びスィンに掴みかかる。

 

「面白い。その強気、どこまで続くかな」

 

 どこまでも余裕を失わないヴァンの呟きを耳にして、スィンは手汗でぬめる手裏剣を握り直した。

 

 

 


 

 

 

 十八禁パートにつき、割愛

 

 

 


 

 

 

 

 

 息も絶え絶えになりながら、そもそもヴァン相手に体力勝負を受けたのが間違いだったと過ちを認めかけていたときのこと。

 

 こんこんっ

 

「「!」」

 

 扉が、誰かに叩かれたことで部屋の主を呼びにきた。

 鍵はかかっている。しかし今は緊急事態。誰でもいいから突貫してもらうべく悲鳴を上げかけて、停止する。

 スィンの狙いを察知したヴァンによって阻止されたから、ではない。

 

「あの……スィン。今、いいかしら」

 

 扉の向こうに立っているのは、ティアだった。

 これにはヴァンも驚いているようで、すっかり硬直している。

 それをいいことに彼の腕から逃れたスィンは、扉へと駆け寄った。

 

「うっ、うんっ、大丈夫、だよっ」

 

 うわずる声をどうにか抑えながら、扉に向かって話しかける。

 相手がティアでさえなければ、とうの昔に脱出しているのだが。

 今扉を開けるのは、どうしても抵抗があった。

 

「と、扉開けられないけどっ、このままでもいいなら……」

「やっぱり、泣いてたの?」

「えっ、どうして」

「ごめんなさい、その……さっき来たとき、声が聞こえたから」

 

 ひいいい! 

 それ泣き声じゃなくて啼き声、喘ぎ声、聞かれてた! 

 

 羞恥に頬が染まり、脳裏は混乱に導かれ、それでもどうにか真実は知られまいと動揺を意図的に表へと出す。

 願わくば彼女が、『スィンは一人むせび泣いていた』と誤解することを祈って。

 

「あの、えっと。ちょっと今顔見せられな「どうして言ってくれなかったの……ねえさん」

 

 唐突な姉……おそらくは義姉呼びに、スィンは尋ね返すことしかできない。

 困惑を知ってか知らずか、あるいは彼女も困惑中なのか。

 ティアは思いのたけをそのまま、口にした。

 

「え、えっ?」

「大佐から聞いたわ。スィンは兄さんとふ、夫婦なんでしょう!? どうして教えてくれなかったの、兄さんも兄さんだわ。なんでスィンのこと、私に紹介してくれなかったの……!」

「ティア……忘れちゃったんだね」

 

 熱くなっていた頭が、急激に冷えていく。

 忘れたとはどういうことなのか、詰問されて。スィンは未だ小指に収まる指環を撫ぜた。

 

「僕らの婚姻、公言はしなかったんだ。有事の際の弱みに繋がるといけなかったから。代わりに、お互いの肉親には打ち明けることにしたの。互いに伴侶だって、胸張って紹介しようって」

 

 スィンは、己の祖父と信じて疑わなかったペールを、ヴァンは当時ユリアシティに残してきた妹ティアを。

 二人が生まれたそのときから知るペールへの挨拶は無事に済み、次は話こそ聞いていたが初めて出会うティアへの挨拶と、彼女にも是非認めてもらいたいとスィンが意気込んでいた矢先。

 それは少女の涙で、あえなくご破算となった。

 

『……兄さん、その人は?』

『近頃全然帰ってこないのは、その人がいるからなの!? 私が邪魔だから……!?』

『やめて! 兄さんに近寄らないでっ! 私から──』

 

「ティア、ヴァンから紹介された僕を睨んで大泣きしたじゃない」

「え?」

「兄さんを取らないでって言いながら泣いて、脱水症状起こすまで泣いて、最後に戻して気絶して、大変だったんだよ」

 

 予想以上、あまりの拒絶反応を目の当たりにして話し合った結果、ティアが分別つくまで報告は自粛するという方向で話はまとまり、現在に至る。

 騒動直後はしばらく、互いにぎくしゃくしたというのは言うまでもない。

 扉の向こうからでも、ティアの動揺は伝わってきた。

 

「わ、私覚えてないわ、そんなこと……!」

「確かあのときは、レイラさんて人にお世話になった。聞いたら、教えてくれると思う」

 

 これまで一行と共にユリアシティへ赴いた際、彼女には会わなかったと思うのだが、ティアにとっては馴染みの深い人物であるはずだ。

 真偽について、彼女はそれ以上何も言うことはなかった。

 

「……私のことを知っていたのは、だからだったのね……このペンダント、母の形見のことも知っていたの?」

「僕ね、小さい頃おばさんにそれをねだったことがあるの。あなたが私の娘になったらね、って、遠まわしに断られたけど」

 

 ヴァンを通じて彼女の最期を聞き、ペンダントも差し出されたのだが。

 それは彼女の娘であるティアが持つべきだと、辞退したのだ。

 

「……そう、だったの。教官からの訓練が終わったそのときに、兄さんからと渡されたものなの。さんは……」

「ティア。僕はもうヴァンの妻じゃない。そもそも婚姻のことを公言しなかった時点で、扱いは愛人と変わらなかった。あなたを気遣う配慮だったとはいえ、婚姻中に認めてもらう努力を怠った僕には、あなたからそう呼んでもらう資格はない」

「そんな……」

「泣き叫ぶあなたから否定されるのが怖くて、忙しいのを理由にユリアシティに近づくこともしなくなった。そうこうしている内に僕はダアトから離れて、リグレットがあなた付きになり、ただ接触するのも……難しく、なった」

 

 実際には嫉妬に狂ったリグレットによって妨害されまくった結果だが、彼女を師事していた少女にありのままを語るのは抵抗があった。

 リグレットがどのようにしてティアに教えていたのかは知らない。それでも、普段の理知的な姿からかけ離れた醜態を語られて、素直に信じるとは思えなかった。

 

「教官が、どうして?」

 

 婚姻を結ぶ以前、彼女とはヴァンを巡って恋の鞘当てをしていたから……とは言い難い。実際、そのようなことはしていないはずだからだ。

 一度気持ちを通わせたとはいえ、それは幼き日のままごとにも等しい記憶。

 異性恐怖症を克服できていない自分に、人並みに誰かを愛する資格はないと──そうなるに至った経緯も理由に、再会してからヴァンに対して幼馴染以上の親愛は示さなかったつもりだ。

 ダアトに所属中も公私混同しないよう、彼は上司で雇い主であるとして、自分を律するために一線引いて接していた。その他人行儀に近い態度にヴァンはとても戸惑っていたが、彼が何も言わないことをいいことに放置していた。

 むしろ、ヴァンがリグレットとくっつくならば初恋はやはり叶わぬものだったと諦めもつくと、彼女が何をしようとただ黙って見ていた。時には、見てすらいなかった。

 それが大いなる誤解の呼び水となって、図らずもヴァンを傷つけることとなったのだが……

 今となっては全て、ただの思い出話でしかない。

 

「……ごめんね。僕、陰口叩きたくない」

「告げ口になると思っているなら、相手の名前や所属は──」

 

 言わなくていいとでも言おうとしたのだろうか。

 これまでの話の流れを考えると、大分マヌケな発言である。

 

「頭、結構茹だってる?」

「あっ! えっと違うの、これはその、教官にそう言われたことが」

 

 過去に何があったのかは知らないが、一度口にした言葉は早々消えない。

 気まずさにだろうか、口を閉ざしてしまったティアの顔を思い浮かべながら、スィンはひとつ息をついた。

 

「もう全部過ぎたことだよ。思い出に浸るのは楽しいけど、これ以上はつらくなるだけだと思う」

義姉(ねえ)さん、あの」

「違う。そんな風に呼ばれても、僕もう返事しないからね」

 

 ガイから姉上と呼ばれ、ティアからは義姉(ねえ)さんと呼ばれ。本日はよく姉呼ばわりされる日である。

 素晴らしくくすぐったいような、不思議な気分にはなった。

 血を分けた血縁と言われて思い浮かぶのは、スィンが生まれるより前にいなくなった名もわからない──正確には名もないまま廃棄された86人もの兄と姉達だから。

 

「……スィン」

「なあに?」

「出直す、わ。何だか混乱してしまって、冷静になれないの」

「冷静になんかならなくたっていいよ。たくさん混乱して、たくさん悩んで。その結果あなたなりに納得ができれば、なんだっていい」

 

 どこか投げやりに、スィンは返していた。

 彼女の疑問を晴らすことはできたはずだ。余計なことを吹き込んだということもない。

 改めてヴァンとの袂を分かつことになったスィンとしては自分のことで精一杯で、彼女と気持ちを分かち合う余裕はないから。

 

「また、話を聞いてもいい?」

「みんなが聞いていないところでならね」

 

 敵対勢力との思い出話などところ構わず興じたら、あらぬ疑いをかけられてしまうだろう。

 それはヴァンの肉親たる彼女とて同じこと。ひとつ肯定を呟いて、少女は再びお暇を告げた。

 ティアが去ったことを確認して、扉に背を向け──拍子抜けする。

 いつからか、いつの間にか、ヴァンは姿を消していた。妹の声を耳にして頭が冷えたのか、断念したのか。

 これは、ティアにどれだけ感謝しても足りないだろう。とはいえ、起こった出来事ありのままを彼女に伝えるのは不可能な話なのだが。

 いつの間にか取り落としていたシーツを手にして、スィンは安堵の吐息をついた。

 

 

 

 

 




十八禁パート自体は、見ても見なくてもお話の進行に影響はないはずなので、苦手な方のためにもR18&if話置き場に投稿したいと思います。十八歳未満の皆さんごめんなさい。


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第七十一章——なぜかこの人が紛らわせてくれましたとさ

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか、眠っていたらしい。すっかり日が落ちた部屋の中、スィンはゆっくりと身を起こした。

 手にしていたシーツを拾い上げ、風呂場の扉を開く。

 浴槽に湯を張る最中、ふと鏡を見やった。

 被服をまとえば隠れるその場所に散った痕が、あの出来事が夢ではないことを思い知らせる。

 意識の片隅に張り付く記憶を振り払うべく、スィンは湯が溜まりつつある浴槽にシーツを抱えてその身を沈めた。

 ──そして。

 体の隅から隅までを清め、尚且つ血まみれになったシーツを洗って彼女が風呂場から出た頃。時刻は深夜にさしかかろうとしていた。

 窓を全開にしておいただけあって、部屋の空気はすっかりと入れ替えられ、肌が粟立つほどに冷たい。

 未だ、時折零れる涙に別れを告げるように、毎朝やる禊──頭から冷水を被ったために、身も心もこれ以上ないほど引き締まっている。

 見やった鏡の中の目元は腫れていないし、化粧せずとも明日は何事もなかったかのように振る舞うことも可能だろう。

 窓を閉めて寝台に歩み寄り、ごそごそと荷袋から衣類を探っていたスィンだったが、ふとその手が立てかけられた血桜に伸びた。

 ほっそりと引き締まった腕が、血桜という銘の柄を掴む寸前。

 

「動かないでください」

 

 首の真後ろに、冷たく鋭利な何かの先端を突きつけられた。

 巻きつけていたバスタオルを取られ、足を引っ掛けられて寝台に倒されるも、反撃に出る。

 倒されながら相手の脛を蹴ってバランスを崩し、寝台の上を前転で通過、侵入者と寝台を挟んで対峙する形を取った。

 それだけに終わらない。手裏剣を投擲して相手の足を鈍らせる。取り出したのは、端が細い鎖で連結している一対の笹の葉手裏剣だ。

 

「てやっ!」

 

 狙いを定めて投擲すると、人影はその場に張り付けられたように動かなくなった。

 それを確認したスィンは、素早く彼に近づき、バスタオルを奪った。きちんと体に巻きつけ、照明のスイッチに手をかける。

 かち、という音と共にナイトテーブルの照明が輝き、侵入者の顔がぼんやりと浮かんだ。

 首の両サイドに笹型手裏剣が突き刺さり、鎖のせいで首だけ磔にされているマルクト軍服に身を包んだ真紅の瞳の三十五歳。

 珍しく裸眼だ──と思いきや、その足元に眼鏡が転がっている。

 

「……何しに来たか、聞いていいですか?」

 

 眼鏡を拾い、無理やりかけようかと考えて、ふと自分の外套を彼の顔にかける。

 もごもごと、不明瞭な言葉を聞き取らんと外套を取った。

 そのときにはすでに、ケセドニアで手に入れた軍服をきっちりと着込んでいる。

 

「あまりに解読がはかどらないので、気分転換に遊びに来てみたんですよ」

「窓から? 素っ裸の人間を、闇討ちする形で?」

 

 濡れた髪の雫を拭い、バスタオルを椅子の背に放る。

 それから無理やりジェイドの顔に眼鏡をかけようと、近寄って背伸びした。

 見慣れぬ端正な素顔が、眼鏡越しではなかなかのぞけない眼に刻まれた譜が、視界を一時的に占領する。

 

「スリルがあったでしょう?」

「……ええ。曲者だ、と思って、思わず捕獲してしまったほどに。まあ、曲者でしたが」

 

 ジェイドが握っていた槍が輝きと共に収納された。その手が眼鏡のブリッジに添えられ、彼自身の納得する位置に調整される。

 そのまま手裏剣を外そうとしているのを見て、スィンは言いかけていた言葉を中止して制止した。

 

「あ、触らない方が──」

「……そういうことは早く言ってください」

 

 時すでに遅かったのか、彼は弾かれたように手を引いた。

 右手を切ってしまったらしく、垂れた右の腕から床へ雫が滴っている。

 

「握っただけで軍支給のグローブを貫通させるとは……」

「毎晩愛を込めて手入れしてますから」

 

 ジェイドの右手を取り、グローブを取った。掴んだ場所、人差し指の第二間接が傷ついているのを見て、口づける。

 恐怖はなかった。理由は──自覚している。

 

「!」

 

 ジェイドの動揺など気にも留めず、軽く舌で舐める。かなり深く切れているらしく、少し舌を当てただけでじわっ、と口中に味が広がった。

 吸い付くように唇を添え、軽く歯を当てて流血を促す。

 手入れはしてあるが、清潔にしてあるわけではないのだ。こんなところで破傷風になられても困る。

 出させた血を飲み下し、唇を外しかけて。

 

 ぐいっ

 

「んむ」

 

 唐突に人差し指が口腔へ押し込まれた。

 反射的に噛み付き、咽喉まで入りかけた指を吐き出して、眼前の人物を睨む。

 

「何をするんですか、何を」

「……それはこちらの台詞です」

 

 呆れたように、どこか乱した息を整えるように深呼吸しているジェイドに首を傾げながら、放置されていた救急箱から応急セットを取り出し、歯型までつけてしまった患部に処置を施す。

 床にわだかまるグローブを拾い上げて渡すと、彼は素直にそれを着けていた。

 

「……独りにしてください、って、言いませんでしたっけ」

「言ったはずですよ。これ以上あなたを独りにしておくわけにはいきません」

 

 ……はぁ……

 

 それを聞き、何を言っても無駄ではないかという考えが頭を掠めたが、それでもこれだけは言いたかった。

 スィンの手が、ジェイドの首元へ寄せられる。

 彼を拘束する手裏剣を抜くかと思われたが、彼女はそれを無視して軍服の立襟を崩し、ジェイドの首に手を這わせた。

 

「!?」

 

 わずかに驚いたようなジェイドの表情を物珍しそうに見ながら、指先で頚動脈を探し、見つけた血の道に指を添える。

 初めて触れた、ジェイドの首。

 

 この指先に刃物を添えて、少し力を入れれば──

 

 馬鹿馬鹿しい。

 軽く眼を瞑り、危険な妄想を振り払うように首を振った。

 体勢をそのまま、呟くように囁く。

 

「……ね、大佐。大切なひと、殺したことあります?」

 

 あえて、疑問の形とした。

 表面上ジェイドに変化はないが、やはり体は偽りを知らない。

 頚動脈が激しく蠢き、どこまでも明らかな動揺をスィンに伝えてくれる。

 

「……」

「僕は今日、多分生涯でこれ以上ないほど愛した人間を殺そうとしました。求めるものに違いがありすぎたから、話し合い、分かり合うことすら叶わなかったから、最も原始的な手段を選択し、自分の我を通そうと考えたんです」

 

 人間には他のあらゆる動物と同様に、同種族にして他の個体を殺害することに対する心理的抑制力が備わっていると、幼き日に学んだ。

 それが本能と呼ばれるものであることも、その本能に逆らってまで他者を殺める理由は、大別して四種の動機があるということも。

 

「ひとつは恐怖。相手を殺さなければ殺されてしまう窮地に立たされたとき。ひとつは憎悪。怨恨の果てにたどり着いた存在の抹消。ひとつは功利心──自分の利益のために誰かを消す。最後のひとつは戦争……正義の名の下に行われる大殺戮らしいですが……あなたは何故、その人を殺したんですか?」

 

 ジェイドからの返事はない。

 彼が思い浮かべるのはスィンやルークの知る惨劇か、それともスィンの知らぬジェイドが引き起こしたものかは定かでないが、それはこの場合関係ない。

 

「僕の場合はどれにも当てはまらないし、何より結果的に殺し損ねましたが……安心したような、残念だったような、複雑なんですよ。あなたも多少は何かを思ったはずでしょう? そのとき……平静でいること、できましたか?」

 

 ゆっくりと、両手が彼の首にかかった。

 交差した親指が軽く咽喉を圧迫したのか、わずかにジェイドの眉が歪む。

 

「も、わかってくれましたよね? ものすごくイラついてます。あなたに触って平気なくらい。その青い軍服をあなたの眼のように染められたくないなら、もう僕のことに干渉しないでください」

 

 そのまま力を込めたい衝動を押さえ、小刻みに震わせながら両手を外した。

 震える指が手裏剣を挟み、抜き取る。

 その形に空いた壁の穴を、ジェイドの顔を見ないようにしながら回収し、背を向けた。

 

 この人にだけは、心を許しちゃいけない。弱みを見せてはいけない。本音を洩らしちゃいけない。剥き出しの感情は尚のこと、見せていいのは芝居の部分だけ。

 

 ジェイドと再会し、行動を共にするようになってから、なるべく心がけてきたことだったのに。ヴァンのことがあったから、精神的に不安定になっているのだろうか。

 再び溢れた涙は拭われることなく頬を伝い、カーペットに吸い込まれて小さな染みを作った。

 振り向けば、情けない泣き顔をさらすことになる。

 背を向けたまま、ジェイドが部屋を出て行く気配を待ち望んでいると。

 突然後ろから肩を掴まれ、引き寄せられた。たたらを踏む脚の位置をうまく読まれ、ジェイドの胸に顔を埋める形になる。

 奇しくも、ヴァンと超振動を起こした際の構図と酷似した。

 違うのは、すぐさま離れなければいけない、という状況とは違うこと。

 

「このっ!」

 

 カッとなったスィンが懐刀を取り出し、同時にみぞおちに肘を押し付けてゼロ距離での突進を試みた。わずかに体勢を崩し、ドンッと壁に背中を押し付けられたジェイドの首筋に、刃を押し当てる。

 和えかな灯明のもと、漆黒の刃はぼんやりと浮かび上がっていた。

 ジェイドの胸に顔を押し付けたまま、停止する。

 そういえば、アクゼリュス入り前夜にも同じようなことをしたような、と追憶に浸っていたスィンは、ゆるゆると自分の頭に宛がわれた手に気がついた。

 

「……なんのつもりですか?」

「頭を撫でているんですよ」

 

 首に突きつけられた刃など気に留めた様子もなく、もう片方の手がより強くスィンの体を抱きすくめる。

 懐刀を握る手に、力がこもった。

 

「死にたいんですね。では、お望みどおりに」

「いえいえ。軍人ですから早死には避けられないと思いますが、できることなら子供や孫に看取ってもらいたい、くらいの願望ならありますよ」

 

 じりじりと、刃を押し込まれる。

 すでに表面の皮膚が裂け、流血している状態だ。冗談と受け取れるレベルを通過しているはずだが、彼の笑みはけしてなくならなかった。

 怒りに属するいくつもの感情が、興奮した蛇のように鎌首をもたげる。

 一思いに刺してやろうかと考え、降って湧いた一言に、ジェイドの腕の中で体が跳ねた。

 

「……私はかまいませんよ。お望みなら、あなたにこの命を差し上げます」

 

 ですから好きにしてください、と囁いた彼に、スィンはしばらく絶句させられ──どうにか一言ひねり出した。

 

「……さっきと、言っていることが違うんですけど」

「ですから、好きにしてくださいと言っているんです。そのまま刃を突き出してくれてもいいし、やりにくいなら後日改めてでもかまわない。これから先を見据えるあなたに、それができればの話ですがね」

 

 ──ああ。やっぱり見抜かれている。

 それを言われてはお仕舞いだと言わんばかりに、スィンは懐刀をぞんざいな手つきで放り投げた。

 ごとっ、と音を立てて床に抜き身の短刀が転がる。

 頭と体に回された両腕を剥がそうとするが、彼にそのつもりはないらしく、一向に外せなかった。

 

「……大佐?」

「事実、ですか?」

 

 唐突過ぎる質問に、スィンが首を傾げる。

 その様子に気づいたか否かは定かでないが、彼は腕を緩めることなく重ねて質問した。

 

「あなたの心は──今でもグランツ謡将のもの、ですか?」

「は!?」

 

 心底驚いて、スィンは思わずがばっと顔を上げてジェイドの顔を見ようとした。

 朧な照明が災いして詳細な表情はよくわからないが、明らかにスィンから眼をそらしている。

 

「そ、そんなのあなたには関係な……」

「はぐらかすのはあなたの自由ですが、そのうち自白剤を仕込んででも聞き出します。その際余計なことを白状するのと、今ここで素直に答えるのと、どちらを選びます?」

 

 そむけられていた視線が寄せられ、夜目にもくっきりと、彼の顔がほころんだ。

 その薬がどの程度効くものなのかはわからないが──

 余計なことを聞かれて白状するのはごめんこうむる。スィンは顔を伏せるとごにょごにょ呟いた。

 

「……そりゃ、まあ。愛情がなくなったわけでも、ヴァンが変わってしまったわけでもなく、求めるこの世界の在り様が違う、っていうだけだから、その……僕はまだ、あの人のことを愛しています」

 

 何が悲しくてこの男にそんなことを白状せねばならないのか。やるせなくて仕方がなかったものの、正直に答える。

 平素なら真逆を言って誤魔化すところ、この状態ではまた涙がこぼれてしまうかもしれない。

 そう考えると、誤魔化しを言う意味がなくなる可能性が高かった。

 

「……そうですか」

 

 ふぅ、とため息が発せられる。裏切る可能性あり、と判断されたかもしれない。

 多少無理にでも嘘を言うべきだったか、と心配になってきたスィンの心境を察したのか。

 ジェイドはにこー、と笑んで彼女を見下ろした。

 

「そんな顔をせずとも、あれだけ派手な死合いを目にして、あなたが彼の間者だとは思いませんよ。──最も、これからあなたの単独行動を制限することになると思いますが」

 

 やっぱり疑ってるじゃん。

 思わず零せば、彼は軽やかな笑声を放って彼女を解放した。

 

「正直、ホッとしました。ディストの指示のもと隔離されて、生存すら絶望的ではと考えていましたから……こうして戻ってきてくれて、嬉しい限りですよ」

「首からだらだら血ぃ流しつつ言う台詞じゃないことだけは確かですね」

 

 ダアトの捕り物まがいで、額から大出血していたディストの顔が思いがけず浮かぶ。

 手巾を取り出して拭えば、あっさりと血は止まった。

 

「舐めてくれないんですか?」

「……口腔は基本雑菌だらけだ、っていう常識はご存知ですよね?」

 

 一応唇を這わせるものの、背伸びしながらそこに口付けるのは難しい。

 さっさと切り上げようとして、ジェイドに後頭部を掴まれた。

 

「んー……」

 

 後頭部の手は外れず、ジェイドの髪を引っ張っても引っ張り返されるだけで離してくれる気配がない。

 嫌がらせのつもりで強く吸い付くと、やっとこさ手が離れた。小さな傷は赤く色づいている。

 

「痕になってるけど……ま、軍服をきっちり着ればわかりませんよね」

 

 スィンが緩めた軍服の襟をきっちり合わせてみる。妙に色っぽく見える首筋は、思惑通りしっかり隠れた。

 人体の急所のひとつとされる咽喉を、軍服でガードできないのは致命的ともいえる。

 当たり前といえば当たり前だが。

 

「……それで、まだ気分転換できないんですか?」

「気分転換?」

 

 わざとらしく首を傾けてとぼけるジェイドに、内心で三十五歳のおっさんがやっても可愛くねえ、とボヤきつつ、食い下がる。

 

「ほら、禁書解読の……」

「あれならとっくに終わっていますよ。ここへ来るための方便です。もう三人とも寝静まっているはずですから、戻ると起こしてしまいそうですねー」

 

 呆れて口の閉ざせないスィンを他所に、「おや、ここに丁度眠れそうな場所が」とか何とかほざきつつ、彼は堂々とキングサイズの寝台にもぐりこんだ。

 

「大佐……紳士だったら人の寝床を占領しないでくださいよ」

「ぐうぐう」

 

 寝付くのが早すぎだ。狸寝入りだとわかってはいるが、わかっているからこそ近寄るのは危険だ。

 はあああ、と特大のため息をつきつつ、ふと赤黒くごわついた白衣が目に入る。

 取り上げて丁寧に畳み、荷袋へ突っ込むと、懐刀を回収して血桜を掴んだ。

 放っておいた上着を羽織り、ソファにどっかりと腰かけて、今日一日の功労者を念入りな手入れでねぎらう。

 しっかり眼鏡をナイトテーブルに預けて眠るジェイドを見ていると、彼らを追い出した後にしくしく泣いていた自分が、なんとも情けなくなくてくだらないように思えた。

 知り合いとはいえ、関係を持たない男の眠る寝台へ入るのは抵抗がある。まして相手はジェイドだ。全然信用ならない。

 今日の寝床はここかと諦めつつ、スィンは黙々と愛刀の手入れを続けていた。

 

 

 

 

 



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第七十二唱——無意識が語りしは、零れ落ちた夢

 

 

 

 

 重々しい響きをもって、刃は交わされた。

 片は華奢、緋色の輝きを宿す妖しき刀。片は無骨、その重量にて万物を両断する大剣である。

 妖刀と大剣は剣戟を繰り返した。一見して互角。

 大剣の重い一撃を妖刀は軽やかに受け流し、妖刀による細やかな突きは幅広の刀身にてすべて受け止められる。

 せめぎあう刃物の持ち主は、杳として知れない。

 つかぬ決着を苛立つように、大剣は攻撃の粗雑さを覗かせ、妖刀はその隙を逃さなかった。

 しかし、それはあまりにも見事なフェイント。

 大剣は突如転進し、これまで彼らから離れていた透明な蒼の剣に襲いかかった。

 今や大剣は妖刀に対し隙だらけの様相を見せている。が、このままでは蒼剣はあえなく大剣の餌食となろう。

 損得を、戦術を考えるにはあまりに少なすぎる刹那を駆け。

 妖刀は、蒼剣の盾となった。

 

 

 

 

 

 

「……ィン!」

 

 心臓に突き抜けるような痛みが走った後、耳元で名を呼ばれ。スィンは弾かれたように目蓋を上げた。

 

「……あ……」

「怖い夢でも見たんですか? うなされていましたが」

 

 ぼんやりとした視界の中で、大きな手が頭を撫でる。力の入らない手で掴むと、知らない感触が両手にわだかまった。

 おかしい。ヴァンの手はもっとごつごつしていて、もう少し色黒だったはずだ。

 どうして割と滑らかで、こんなに色白の手なんだろう。そういえば今の敬語は? 

 眼をしばたかせて起き上がり、手の主を確かめた。

 

「おはようございます。この年になっても手を握られるのは、テレますね」

 

 昇りたての朝日が差し込む中、にっこりと微笑む細面のいい男が、自分のすぐ隣にいる。

 

「うわあぁっ!」

 

 どさっ! 

 

 寝起きでなかなか力の入らない体を跳ねさせて逃げると、温かな寝台から冷たい床へダイブする羽目になった。したたかに体をぶつけて薄いカーペットに転がれば、一気に醒めた意識がこれまでの現状を教えてくれる。

 

「まったく、人の顔見て悲鳴を上げるなんて失礼な方ですねえ」

「……あれ? 昨夜はあっちで寝たはず……」

 

 やれやれ、と言わんばかりに肩をすくめるジェイドを放置して、上着を毛布がわりに身を横たえた長椅子を見た。

 上着が端のほうでわだかまっており、寝入る直前まで手入れしていた血桜、そしてジェイドが外したグローブもそこにある。穴を開けてしまったことで何やかや言われるのが嫌で、こっそり繕っておいたのだ。

 その繕い後が、その記憶に間違いないということを教えてくれる。

 

「大佐、まさか……」

「はい。そんなところで寝ては疲労が溜まるし、風邪を引いてしまうと思いましたので、こっそり移動させておきました」

 

 起こすのもなんでしたので、とにこやかに宣うジェイドを睨みながら、盛大に罵ろうとして。

 窓の外の光景が視界に入った。

 

「どうしました?」

 

 ジェイドの声に応えもせず、窓に張り付いて確認する。

 数十名の神託の盾(オラクル)兵士が、ベルケンドの入り口に集まっていた。

 まぶしい朝日に負けず、眼をこらしてみると兵士とは明らかに異なる衣装の二人を発見する。

 一人は色の薄い金髪でやや小柄、もう一人はティアに似た鈍色の髪をまとめた大柄な人物──

 

「……いえ、なんでもありません。ちょっと汗流してきます」

 

 速やかに浴室へ入り、シャワーから水を流して頭から被る。

 冷たい水を浴びての禊をしながら風の古代秘譜術──ウインドビジョンを発動させると、映像が流れ込んできた。

 

『……以上だ。撤収!』

 

 早朝にもかかわらず、リグレットの力強い号令で兵士が港方面へ去る。治療師の世話になったか、自力で癒したか。二人に怪我の余韻は見受けられない。

 

『閣下、参りましょう』

『……うむ』

 

 言葉少なく、ヴァンが頷く。どこか上の空の彼に、リグレットは重ねるような言い方で尋ねた。

 

『……シア・ブリュンヒルドのことを考えておいでですか』

『……』

 

 返事はない。沈黙を肯定とみなしたか、彼女は大きく息をついてヴァンを見上げた。

 

『お気持ちは、察します。私もティアのことが心配でなりません……しかし、今は……』

『──言うな。たとえ何があろうと、引き返すわけにはいかんのだ』

 

 振り切るように歩みだしたヴァンの後ろに、リグレットがつき従う。

 その光景を最後に、術を打ち切った。

 なぜなら。

 

「スィン?」

 

 こんこんっ、と浴室の扉が叩かれる。

 生返事をしながらコックを止め、彼女は素早く身支度を整えた。

 胸の内にずしり、としたものを抱え込みながら。

 

 

 

 

 

 軍服を纏い、部屋を引き払って食堂へと向かう。

 そこでは、荷を取りに男性陣の部屋へ戻ったジェイドがガイにくってかかられていた。

 女性陣は普段通り、強いて言えばナタリアが鏡合わせのようになって口論、というより口喧嘩しているルークとアッシュの様子をハラハラしながら見守っている。

 

「おっはよー! 怪我の方大丈夫?」

 

 アニスを初め、口々に体調を問われる中、それまで激しくジェイドにつっかかっていたガイが駆け寄るようにスィンの肩を掴んだ。

 

「スィン、大丈夫か!? 旦那におかしなことされなかったか!?」

「」

 

 ジェイドになら、長椅子から寝台への移動の際にあちこち触られただろうが、「おかしなことは」何もされていないはず。

 ただ、「おかしなことをされなかったか」と尋ねられたところで「ヴァンにやり逃げされました」とは流石に言えない。

 ──そしてこの発言は、爽やかな朝にささやかなひと騒動を引き起こす。

 

「何々、なんかあったの?」

 

 興味津々にアニスが尋ねると、ぶすっとしたようにアッシュが答えた。

 

「禁書を読み終わったと思ったら部屋を出て行って、そのまま朝まで帰ってこなかった」

「えーっ!」

「まあ! 大佐は『朝帰り』なるものをしたのですか?」

「ふ、不潔です……」

 

 アニスは歓声を上げ、ナタリアは惜しげもなくすごいことを言い出し、ティアはぼそりと呟きつつ頬を赤らめ、ルークは朝帰りの意味がわからないらしくきょとんとしている。

 ガイの口からこれが出るということは、ジェイドがスィンの部屋にいたと認めたのだろう。

 スィンはきわめて淡々と語った。

 

「特には何も。目が覚めたら大佐がいて、それはそれは驚きましたが。大佐も一応節度とか常識とかをわきまえる意識をお持ちのようで」

 

 もし何かしていたら、間違いなく詰問されているに決まっている。

 スィンの肌には未だ『不自然な虫刺され痕』がきっちり残っているのだ。

 

「……色んな意味で参っている人に追い討ちをかけるのもどうかと思って自粛したつもりだったのですが……いらないお世話のようでしたねえ」

 

 最後の一言が気に食わなかったらしく、ジェイドはきらりん、と眼鏡を光らせている。

 ついーっ、と誤魔化すように眼をそらしたスィンだったが、今度はアッシュとばっちり眼があってしまった。

 

「……お前、なんだってこいつを部屋に入れたんだ」

「入れてない。風呂に入ってる間、換気で窓開けといたらいつの間にかいたんだよ。鍵をこじ開けられた形跡がないから、多分窓から……」

 

 その一言で、ガイが、アッシュが同じように眉間に筋を入れる。

 あまり口を利こうとしない癖に、こういうところで非常に似通る二人を抑えんとしてか、あせあせとルークが違う話題を取り出した。

 

「あ、そ、そうだジェイド! 禁書のことだけど、何かわかったのか?」

「はい。魔界の液状化の原因は、地核にあるようです」

 

 実にあっさりと話題の変化についてきたジェイドが、真面目な顔でそう答えた。

 根掘り葉掘り詳細を聞き出そうとしていたアニスも自粛し、早くもナタリアが会話に参入している。

 

「地核? 記憶粒子(セルパーティクル)が発生しているという、星の中心部のことですか?」

「はい。本来静止状態にある地核が、激しく振動している。これが液状化の原因だと考えられます」

 

 それを聞き、ティアが軽く首を傾げた。

 

「それならどうしてユリアシティのみんなは、地核の揺れに対して何もしなかったのかしら」

「ユリアの預言(スコア)に詠まれてねーからとか?」

 

 安易なルークの意見ではあったが、一理あるのは否定できない。

 現にジェイドはどちらかというと肯定している。

 

「それもありますが、一番の原因は揺れを引き起こしているのが、プラネットストームだからですよ」

「プラネットストームって、確か人工的な惑星燃料供給機関、だよな?」

 

 軽く頭を押さえて記憶を引っ張り出したらしいルークに、以前かの名称を説明したティアが淡く表情をほころばせて答えた。

 

「そうよ、覚えていたのね。地核の記憶粒子(セルパーティクル)が第一セフィロトであるラジエイトゲートから溢れ出して、第二セフィロトのアブソーブゲートから、再び地核へ収束する。これが惑星燃料となるプラネットストームよ」

「そういえば、プラネットストームは創生暦時代に、サザンクロス博士が提唱して始まったのでしたわね」

 

 ふとナタリアがプラネットストームに関する知識を取り出す。

 ジェイドは「ええ」とそれに関連付けて地核が揺れている原因を推測した。

 

「恐らく当初は、プラネットストームで地核に振動が生じるとは考えられていなかった。実際、振動は起きていなかったのでしょう。しかし長い時間をかけてひずみが生じ、地核は振動するようになった」

「サザンクロス博士も、地核の振動を想定してなかったんですね」

 

 ティアの言葉に、ジェイドが頷く。

 

「地核の揺れを止めるためには、プラネットストームを停止しなくてはならない。プラネットストームを停止しては、譜業も譜術も効果が極端に弱まる。音機関も使えなくなる。外殻大地を支えるパッセージリングも完全停止する」

「打つ手がねぇじゃんか……」

 

 理路整然と語られる突破口のない仕組みにルークは呆然と呟いたが、ジェイドは「いえ」と理屈の上だけなら可能そうな案を提示した。

 

「いえ、プラネットストームを維持したまま、地核の振動を停止できればいいんです」

「そんなことできんのか?」

 

 そこでやっと、彼はかの禁書を取り出して掲げてみせる。

 

「この禁書は、そのための草案が書かれているんですよ」

「ただユリアの預言(スコア)に反しているから、禁書として封印された?」

「はい。セフィロト暴走の原因がわからない以上、液状化を改善して、外殻大地を降ろすしかないでしょう。もっとも液状化の改善には、禁書に書かれている音機関の復元が必要です。この街の研究者の協力が不可欠ですね」

 

 そこで初めて、黙して耳を傾けていたアッシュが口を開いた。

 

「……だがこの街の連中は、みんな父上とヴァンの息がかかっている」

 

 直後。ルークがすっとんきょうな声を上げてアッシュを凝視した。

 

「……ち、父上ぇ……!?」

「……なんだ!? 何がおかしい!」

 

 自分と同じ声帯でそんな間抜けな声音を吐かれたのが気に障ったか、それとも別の何かか。彼はルークを凶悪な目つきで睨めつけた。

 ところが、アニスの追い討ちでルークの驚愕の理由がダイレクトに公となる。

 

「へぇ~。アッシュってやっぱり貴族のおぼっちゃまなんだぁv」

 

 気持ちはわかるが、こういった人種に対しそう明らかに小馬鹿にするのはいかがなものか。

 案の定、アッシュは眉間に立て筋をいくつも刻んでぷいっ、とそっぽを向いた。

 

「アッシュ! どこへ行きますの!」

「……散歩だ! 話は後で聞かせてもらうから、おまえらで勝手に進めておけ!」

 

 ──好機(ちゃーんす)

 

「じゃあ、いい機会なんで僕も少し席を外します」

 

 アッシュが出て行きかけるのを見て、スィンがさっと挙手をした。

 

「どうかしたのか?」

「早朝の話ですが、ヴァンが兵士やリグレットらと共にベルケンド港へ向かうのを見ました」

 

 ヴァンの名を聞いてか、アッシュがぴたりと立ち止まり、一同にも緊張が走っている。

 

「これで第一研究所にも気兼ねなく入れます。だからアッシュに付き添ってもらって、ちょっと先生に異常がないか調べてもらいますね」

「……それはかまわないが、なんだってアッシュに付き添いを」

 

 黙してジェイドの顔を見る。その顔には、わずかな微苦笑が浮かんでいた。

 

「私が単独行動を制限する、と言ってしまいましたから……わかりました。くれぐれも身辺には気をつけて」

 

 ガイに軽く会釈をし、皆に手を振ってアッシュの背を押しつつ宿の外へ出る。

 何かを言いかけたアッシュを制し、スィンは話し始めた。

 

「ああは言ったけど、散歩したいなら止めない。口裏合わせてくれれば僕はそれで「別にかまわん。行くぞ」

 

 ぶっきらぼうに促され、スィンはその素直さ、意外さに軽く頭をかきながら、先を行く彼の後を追った。

 一方で、一同の話し合いも終焉を迎える。

 

「第一研究所の出入りは可能となりましたが、アッシュが言う通りなら、研究者たちの協力を得るのは難しいのでは……」

「いや、方法ならある。ヘンケンっていう研究者を捜してくれ」

 

 ティアの懸念に対し、ガイが軽い調子でそんな提案をした。

 

「捜して、どうするんだ?」

「後のお楽しみv さ」

 

 ルークの疑問にも、ガイは軽い含み笑いを零して対応している。

 珍しくジェイドを髣髴とさせるその裏のある笑顔に、何か策があるのだろうと察した一同は簡略会議を終了させた。

 

「にしてもアッシュ……思ったより短気だったね。怒らせちゃった~、失敗失敗v」

「可愛いところがあるじゃないですか」

 

 アニスがぽそりと呟き、ジェイドも心なしかその笑みを深くさせている。

 

「もう! 彼をからかうのはおやめになって!」

 

 ナタリアの憤慨に「ごめんごめん~」と返したアニスだったが、パッ、とジェイドに視線を寄せるとにまにま笑い始めた。

 

「それで大佐、スィンとのお泊まりはどうでした?」

「アニス!」

 

 今度はガイが怒り出すが、ジェイドは特に気にした様子もなく率直な感想を述べている。

 

「柔らかくていい匂いがしましたよ。やはり意識がない状態なら、触られても平気というか、気づかないようですね」

「……って、おい! やっぱり触ったのか!」

「基本的にはご想像にお任せしますが、手は出していませんよ? そんなことをすればいくらなんでも気づくでしょうし」

「……そうじゃなくてぇ、結局何があったんですか?」

「──返り討ちにされましたね」

 

 どこか遠くを見ながら脈絡のない返答を寄越すジェイドに、一同は不思議がって彼を見た。

 が、彼はすぐに平素に戻って「そういえば」と呟いている。

 

「ガイ。彼女は右胸に何かを患っていたりしませんか?」

「……右、胸?」

「ええ。起き抜けに右の胸を押さえてうなされていました。寝汗の量が半端でなかったので覚醒を促しましたが……」

 

 疾患で疼いたなら胸元を押さえるはずだが、あのときは明確なまでに右の胸を押さえていた。

 それを告げられ、ガイは深刻そうに眉を寄せている。

 

「右胸……か。別になんもなかった気がするけど、あいつ確か心臓が右寄りにあったんだよな……」

「え!? そうなのか?」

「心臓って、普通左にあるんじゃ……」

 

 ルークが驚き、アニスが半信半疑で聞き返した。

 それをガイは苦々しく否定している。

 

「あいつの目が何色かは知ってるだろ? 瞳も含めていわゆる『普通』じゃないところがいくつかある、って言ってたんだ。心臓病ってのは聞いたこともないし、今までそんな素振りも見せてないから先天性ってことはないだろうが……そっち側の肺が痛んだとかか?」

「いえ、それはわかりません。現に今まであなたには疾患の真相を隠していたのですし。これは彼女が戻ってきたら、問い詰める必要がありそうですね」

 

 す、と位置を正した眼鏡がきらりと輝き、一時的に特徴的な緋色の双眼を隠した。

 その薄い唇にはサディスティックな笑みが刻まれている。

 その様は、私に隠し事は許しませんよという意思が体現しているかのようで。

 彼を除く一同は災難をこうむるであろう彼女に胸中で「ご愁傷様」と合掌していた。

 

 

 

 

 



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第七十三唱——連ねたのは、偽りなき想い

 

 

 

 

 

 

 

 不意に走った寒気に、背筋がゾクゾクと震え上がる。

 

「どうした?」

「……いや、別に」

 

 唐突に体を震わせたスィンに鋭く反応したアッシュを誤魔化して、おそるおそる第一研究所へ入った。彼に対し嘘をつかない、と約束してはいるが、不確定要素までいちいち報告する意思はない。

 いくらヴァンがいないとわかっていても、もしや兵士が潜んでいないかと過剰な心配がこみ上げる。そこまでいかずとも、嫌がらせに医師へ診察を拒否するよう通達されていたらどうしようか。

 別に困りはしないが、長い眼で見ると少々厄介な話だった。

 アッシュと連れ立って歩く中、通路に面した研究施設の区画にいる一人一人を思わず確認してしまう。

 結局それは徒労に終わり、神経をすり減らした疲労と何もなかったことに対する安堵が浮かんでは打ち消しあった。

 こんこんっ、と医務室の扉を叩けば、応対の声と共に扉が開く。

 アッシュを伴って中へ入ると、シュウ医師は変わらぬ様子で二人を招き入れた。ヴァンから特殊な命が下されている風には見えない。

 

「珍しいですね、同伴者を連れてくるとは。今回も薬のみですか?」

「……これを」

 

 壁際にもたれかかるアッシュをそのまま、スィンは懐から四つ折りにした紙を取り出して医師に手渡した。

 シュウの顔色が変わる。

 

「これは……所長の」

「これの内容と僕の容態が一致するのかどうか、調べてほしい。できますか?」

 

 検査にかかる時間の逆算をしているのか、シュウは沈黙を経て答えを出した。

 

「──可能ではあります。結果が出るのに多少はかかりますが」

「わかりました、簡略になってもいいので、なるべく早くお願いします──どうする、待つ? 待ってるだけってかなり苦痛だと思うけど」

「かまわない」

 

 アッシュの返事に戸惑いのようなものは一切ない。

 それでは、と取り出された注射器を見つめ、スィンは無感動に頷いた。検査に必要なだけ採血し、脈拍や体温を測って専用の装置にそのデータを入力する。

 奥の部屋まで通され、大掛かりな装置で体内を透視されて待つこと少し。

 待機用の長椅子に座っていたスィンは、測定終了のアラーム──奇しくも、定期船の中で聞いた音機関アラームと同じものだった──を聞いて立ち上がった。

 スィンが渡したものと、新たに作成された書類。それを見比べ、シュウが歩み寄ってくる。

 その顔色は、お世辞にもよいものとはいえない。

 

「……診断結果です」

 

 書類が、同時に手渡される。普段は口頭で伝えられるのだが、カルテを手渡されるとは何故か。

 とてもではないが口に出せる内容でないか、アッシュの存在を気にしてかだと思われた。

 とにかく、ディストから奪ったものを懐へ収め、新たな診断書に目を通す。

 無言のうちで視線を走らせるうち、不意にピクッ、とスィンの体が強張った。

 

「シア?」

「……ゴメン、アッシュ。外に出ていてほしい」

 

 後で説明するから、という押し殺した声に、彼は何かを感じ取ったらしい。

 文句も質問もせずに医務室を後にした。静寂が、室内を支配する。

 

「──結局のところ、彼が診断したものと差異はないんですね?」

「はい。瘴気触害(インテルナルオーガン)の侵蝕率が異様なまでに高まり、全身に転移しかかっている──心当たりがあるんですね?」

 

 その問いに、スィンは小さく頷いた。

 パッセージリング操作時に嫌でも吸収しなければならない、汚染された第七音素(セブンスフォニム)──それが、これまでスィンの体内を巣食っていた瘴気触害(インテルナルオーガン)の病巣を増長させている。

 

「余命、一年くらい減りましたかね?」

「……真に申し上げにくいのですが、正直に告げて一年もつかもわかりません」

 

 一年。

 それを短いと嘆くか、まだそれだけ動けるのだと考えるべきかは、個人の判断に委ねられる。

 言うまでもなく、スィンは後者の考えを選択した。

 恐怖に押しつぶされている暇はないのだ。

 

「他におかしなところはありませんでしたか? フォンスロットが減少してる、とか、構成音素が乖離現象を起こしそうだ、とか」

「いえ、そのようなことは見受けられません。ですが、発作の衝動が……」

「さいですか」

 

 発作がこれまでと比べ、どれだけひどいものになるのかなど聞きたくない、という態度を如実に示し、スィンはシュウの言葉を遮った。

 検査のために来ていた患者着を脱ぎ、軍服を着込む。

 シュウの口から、入院だの延命治療の話など、すでにフォローの言葉もない。

 おためごかしはいらないから、偽りなき事実を教えてくれと言ったスィンの言葉を、彼は忠実に守ってくれていた。

 もう長くない、死に対する覚悟が固まっている患者の言葉だと思って諦めているのか、あるいはスィンの心を汲んだ彼の意思表示なのか──

 どちらにせよ、下手な慰めをもらうよりずっとありがたいことに変わりはない。

 

「お手数おかけしました。検査費は──」

「いえ、今回は結構です。それと、これを」

 

 スィンが着替えをしている間に用意したらしく、シュウはひと抱えほどの巾着を手渡した。

 了解を得て、開ける。中にはふたつの瓶があり、片方は黒、片方は白という双方見慣れた錠剤がぎっしり詰まっていた。

 

「これは?」

「処方薬です。三食後に白い錠剤を一錠ずつ、不意の発作を止める際には黒い錠剤を一粒、一日五粒までなら副作用の影響はありません。それで大幅の苦痛は抑えられます」

「……そういうことじゃなくて、なんでこんなもん手渡すんですか。代も支払われず持ち逃げされたらどうするんです」

 

 きつく巾着の口を結わえ、押し返す。

 

「いくらするか、なんて聞きたくもない。要りません。確定死人からなけなしの金を搾り取ろうったって、そうはいきませんから」

 

 本気なのかその場の勢いなのか、付き合いの短い人間には判別つきがたい一応冗談に、医師は呆れて眉尻を下げた。

 

「そういう心積もりはありません。検査費も、薬剤代も今回は徴収しませんよ」

「……? ならどうして、こんな無駄なあがきっぽいことするんですか? 僕の余命をずばり教えてくださったのはあなたでしょう?」

「そして入院と、延命治療を薦めた私に『人生の幕引き方法くらい選ばせてくれ』と無茶を言って、所長から紹介された縁も使わずきちんと薬代を払ったのもあなたでしたね。今のあなたは、延命治療を受けてどうにかなる体ではありません。確かに確定死人です。だからこそ、あなたにはその命と引き換えに選んだ目的を果たしていただきたい。これは私からの、せめてもの餞別です」

 

 コネを使わなかったのはディストに借りを作りたくなくて、更に手を抜かれても困るという理由だったのだが、いいように解釈してくれたものである。

 ならせめて、と財布を取り出すが、彼は財布の口を開ける余裕すら与えずアッシュを呼んだ。

 促されて入ってきた彼に、突っ返された巾着を渡す。

 

「薬です。あなたからも受け取るよう説得してください……お大事に」

「?」

 

 事情をイマイチ飲み込めていないアッシュを連れ、しぶしぶスィンは退室した。

 第一研究所を出て、考えもなく歩を進める。

 ようやく立ち止まったのは、知事邸付近の橋のところだった。

 

「……シア。どこか悪いところでもあったのか?」

「んー、ヴァンとの戦いによる後遺症はなかったよ。ただ、持病の具合があんまりよろしくなくてさ」

 

 アッシュの持つ錠剤の詰まった袋を見やる。

 それを飲めと言われた、と告げると、彼は目を剥いて巾着袋をスィンに突きつけた。

 

「受け取るよう説得ってことは、断ったのか?」

「そうだよ」

 

 どうして、と尋ねられ。スィンはあいまいに微笑んだ。

 

「だってそれ、糖衣錠じゃないし」

 

 当然アッシュは怒り狂った。

 

「馬鹿か! ガキじゃあるまいし、苦いのがイヤで投薬拒否してんじゃねえ!」

「それに噛み砕かないといけないから。これの中身、ものすごく粉っぽいんだよね~」

 

 嘘は言っていない。

 確かにこの薬は苦いし、その上、体質的な理由であまり効かない。

 飲むのが苦痛なのは、嘘じゃない。本当のことを話していないだけで。

 誰かさんもこのくらい単純なら気苦労はないのに、と思いつつ、苦笑いしながらもスィンはそれを受け取った。

 

「それだけなのか?」

「──そう、だね。基本的にはそれだけ」

「……」

 

 どこか納得がいかない。

 アッシュの表情はそう書かれていると錯覚できるほど如実に不満を示していた。

 オアシスでのことが、意識か無意識にひっかかっているようである。

 その彼が何か言おうとして、ふとスィンは視線を巡らせた。

 今まで気にも留めていなかったが、ベルケンド知事邸正面扉に張り付き、一人の老人がじっとしている。

 体勢からして、その建物からして覗きではない。盗み聞き──だろうか。

 

「あれは……スピノザか? あんなところで何をして」

 

 不審に思った二人が、彼に声をかけようとして。

 突如スピノザは弾かれたように扉を離れると、脱兎の勢いで離脱を図った。

 突然のこと、目の前を通過していく彼をただ見送る。老人らしからぬ健脚であった。

 直後。

 

「……な、なんだ?」

 

 扉が開く音、そして二人もよく知る夕日色の髪の青年が呟く声が聞こえた。

 知事邸の前へ赴けば、一同がぞろぞろと通りへ出てくる。

 その中には、以前第一研究所に足を踏み入れた際見かけた老研究者二名の姿もあった。

 確か──『ベルケンドい組』メンバー内二人だ。

 禁書に記載されていた音機関を複製するため、『い組とめ組』の対立を知るガイが彼らを丸め込み、更にヴァンやディストに知られぬよう知事を抱きこんだ。

 そんなところだろうか。

 

「今スピノザが逃げていったぞ」

 

 別行動中の彼らが何をしていたのか推測している間に、事情の知らぬアッシュがそう報告した。

 

「スピノザが? 何をしていたんだ?」

 

 ヘンケンの不思議がる表情に対し、ジェイドのそれはひどく強張っている。

 しまった、とでも言うように。

 

「……今の話を立ち聞きして、通報しようとしているのでは」

「スピノザはそんな男じゃないわ!」

 

 仲間にかけられた嫌疑──スピノザもまた、い組のメンバーである──を晴らすようにタマラが声を張り上げたが、続くアニスの言葉に容赦はない。

 

「人は見かけによりませんよ」

「……何か聞かれては困る話をしていたのか?」

 

 交わされる言葉に不審を抱いたアッシュが尋ねるも、王族二人の説明は単純にして明快、その割に理解しづらかった。

 

「ファブレ公爵やヴァンには内密で、禁書の音機関を復元させるんですのよ」

「その間に俺たちは、イオンを連れてくるんだ」

 

 まとまりのない説明にアッシュはわずかに首を傾げて閉口していたが、やがて気を取り直したのか簡潔にするべきことを確認している。

 

「……とにかく、スピノザを捕まえておけばいいんだな? 俺が奴を捜しておく」

「アッシュ! わたくしたちに、協力してくださいますのね!」

「それなら、一緒にスピノザを捜そうぜ!」

 

 ナタリアはともかく、意外にもルークは友好的だった。

 ところがアッシュは、面食らったような風情で一歩後退っている。

 

「か、勘違いするな! 俺もスピノザには聞きたいことがある。そのついでに手伝ってやるだけだ。おまえたちと……レプリカ野郎と馴れ合うつもりはないっ!」

 

 くっくっくっ、と小さな声に、アッシュは自分の隣を見た。

 そしてその眉間に立て筋を追加させる。

 

「……何がおかしい」

「いや、別に、ぷふっ」

「な・に・が・お・か・し・い?」

 

 こらえきれない、と態度で表現するかのように腹を抱えて笑いをこらえていたスィンだったが、眼と鼻の先に顔を突きつけるアッシュから軽く身を離した。

 人の悪い笑みを浮かべ、ピッ、とアッシュの顔の側面を指す。

 

「耳が真っ赤っか」

 

 嘘でない証拠にか、手鏡が掲げられ、その鏡面に映った彼の耳は、これ以上ないくらい真っ赤に染まっていた。

 思わず、といった様子でアッシュが両耳を隠す。

 

「う、うるっせぇ!」

「一人がいいなら止めない。君は集団行動向いてないもの」

 

 ますます顔を赤くしたアッシュだったが、真面目な顔で「そっちはそっちで頑張って」と告げられ、怒りに歪めた顔を引き締めた。

 

「……ふん。言われなくてもそうするつもりだ」

「何言ってんだよ! どこに逃げたかわからないんだぜ。それに、乗り物だって必要だろ!」

 

 珍しくアッシュに対して食い下がったルークだが、アッシュの心境を変えるには至っていない。

 

「黙れっ! おまえたちはさっさとイオンを連れて来ればいいんだよ」

 

 苛立ったように一喝し、ルークに一睨みくれてから、アッシュはすたすたと歩み去った。

 頑なな態度にしばしあっけに取られていたルークだったが、その背中が見えなくなった時点で「くーっ!」と遅れた怒りを再燃させている。

 

「あったまきた! あいつより先にスピノザを見つけてやる!」

「そんな風に言うのはおやめなさい」

 

 血気盛んに怒鳴るルークを、タマラが孫を叱るかのようにいさめた。

 

「今の子、イエモンの若い頃に似てるわ。きっと、本当は一人で寂しいのよ」

 

 ……言いえて妙だと思われる。

 流石人生の先輩と思わせる発言だったが、その眼がどうしてスィンに向けられているのか。

 

「あなたには、それがわかっていたように見えるわ。どうして止めてあげなかったの?」

 

 その意見に肯定する意思はなかったが、あえて否定しようとは思わなかった。

 

「彼の意思を尊重したいのでー」

 

 もともと、こちらの都合で彼の人生を破壊してしまった、と考えているのだ。

 これ以上自分の考えをアッシュへ押しつけるのは控えるべき、でも現在の状況ではそうもいかない。

 ならば、こういった小さなことだけでも自由にさせてあげたいと考えるのは、間違っているのだろうか。

 二人のやり取りの間にも、会話は続いている。

 

「ふん。なおさらいけすかん」

 

 タマラとは正反対、ルークに近い感情を抱いたらしいヘンケンはルークを煽るかのように入れ知恵をしていた。

 

「いいか、ルーク。スピノザは船で国外へ逃亡する筈だ。あいつより先に見つけるんだぞ!」

「当然!」

 

 力強く拳を握るルークではあったが、冷たい冷たいティアの声がその拳の行き所をなくしている。

 

「……言っておくけれど、イオン様を連れてくることの方が大事よ」

「う……うるせえな! ダアトに行くついでに、ちょっと他の街に立ち寄って調べる分にはいいだろ?」

「やれやれ。変なところで負けず嫌いですねぇ」

 

 やっぱり食い下がるルークに、ジェイドが軽く肩をすくめている。

「俺たちはこれで」と去った老研究者二人を見送り、やがて彼はスィンの方を向いた。

 

「体の具合はいかがでしたか?」

「至って健康でしたよ。処置が割と早かったせいか、銃創が膿んでるとかもなかったし」

 

 同伴していたアッシュがいないことをいいことに、適当なことを並べ立てる。

 しかし、彼は欠片も納得した様子を見せず軽く鼻で笑った。

 

「健康……ですか。これは妙ですねえ、あなたは疾患を……ホド戦争時に負った後遺症を宿しているはずでは?」

 

 きた。

 ぐっ、と拳を握る。

 覚悟していないわけではなかったが、どこまで誤魔化しがきくか、それはスィンの弁論術次第だ。

 嘘をつくことも必要以上の事実を話すことなく、彼らを──正確にはジェイドを納得させねばならない。

 

「──語弊であったことは認めます。今話したのはヴァンとの交戦による後遺症のことを話したのであって、そのことを含めていません」

「それしか診てもらわなかったわけではないでしょう? その他はどうだったんです」

「目新しい変化はありませんでしたよ。今回は先生のご厚意で鎮痛剤もらえたし」

 

 あえて、巾着の中身を見せる。

 スィンの容態から気をそらせるためのスケープゴートだ。のるか、そるか。

 幸いなことに、ジェイドではなかったが、ガイがスィンの望んだリアクションを取ってくれた。

 

「お前……まさか、盗んできた……とかじゃないよな?」

「失礼な! 百パーセント純粋に先生のご厚意ですよ。あそこで窃盗やらかすまで落ちぶれてないし、切羽詰まってません!」

 

 嘘は言っていない。切羽詰っていないのは、気持ちだ。

 まだ、この痛みにも着実に忍び寄る死神への恐怖にも耐えている。耐えていられる。

 

「それなら、先生のところ行って確認してきますか?」

「いや、違うならいいんだけどさ」

 

 診察した本人のところへ行ってもいい、というくだりが功を奏したのか。

 予想の中で一番恐れていた「カルテを見せろ」というジェイドの発言はなかった。

 ただ、ここからスィンの予想できなかった事態が展開されていくことを、彼女はまだ知らない。

 

「──では、あなたの負っている疾患の内容を教えてください」

「……? 前に話しませんでしたっけ? 気管支の障害、もしくは肺から呼吸器官にかけて疾患です」

 

 瘴気触害(インテルナルオーガン)とは言わない。あくまで言わないだけ、だ。

 ここでも嘘を言った覚えはないのだが、ジェイドの表情が納得の意を示すものにはならなかった。

 気のせいか、軽く険を帯びているようにも見える。

 わざとぼかした言い方をしたために突っ込まれることを予想していたが、どういうことかそれもなかった。

 ただ、

 

「……本当にそれだけなんですか?」

「はい」

 

 そう、聞き返されただけである。

 不思議そうにしているスィンをさておき、軽く腕を組んで思案しているその脳裏で、彼は何を疑問としているのだろうか。

 

「嘘言ってるようには見えねーけど……」

 

 ぽつりと、小さな囁きでしかなかったルークの声が、やけに大きく耳の中で響いた気がした。

 嘘? 

 まさか、何か感づいているのでは──

 そんな危機感が胸中に芽生えるも、次の瞬間それは瓦解した。

 なぜなら。

 

「ねえ、スィン。右胸叩いてみてもいい?」

 

 何を思ったのだろうか、アニスがそんなことを申し出てきたのだ。

 すべては心臓病があるなら断るはず、という考えのもとであることを、スィンは不幸にも知らなかった。

 

「別にかまわないけど……なんでまた」

「じゃあ遠慮なく~」

 

 少女の腕が振りかぶられるのを見て、スィンは気持ち背筋を正している。

 その辺の少女ならともかく、導師守護役(フォンマスターガーディアン)であった彼女の拳打を甘く見るのはためらわれた。

 

「いっくよー!」

 

 単に殴りかかるのではなく、ちゃんと形になっている正拳突きを耐えるべく、息を止める。

 

 ぽよぉん。

 

 ──形はともかく、力はそこまで入れていたわけではないらしい。

 スィンは軽い安堵を覚えて、ふう、と息を吐き出した。

 当の少女は、といえば、一言で言って困惑している。

 

「あ、あれぇ?」

 

 自分の拳と、スィンの胸を交互に見て、すすすっと遠ざかった。

 

「ねえ! 本当にスィンの心臓、右にあるの!? 全然平気じゃん!」

「あるよ、心臓なら右寄りに。鼓動聞いてみる?」

 

 当人たちにしてみればひそひそ話だったのだろうが、スィンには丸聞こえであった。

 はぅあ! と驚いたアニスだったが、その言葉に甘えてか身を寄せてくる。

 しばらくして、アニスは信じられない、というよりも明白に眼を見開いた。

 

「……ホントだ……左じゃすごく遠い」

「で、僕の心臓がどうかした?」

 

 どうも彼らは、自分の心臓に何かあるのではと考えているらしい。

 直球で尋ねれば、どういうことか彼らの視線はジェイドに向けられていた。

 彼が、何か吹き込んだということだろうか? 

 

「大佐?」

「──スィン。自分の言っていることに何の後ろめたいこともないというなら、その証明にこれを飲んでいただけますか?」

 

 実に事務的な言い方で、ぽん、と錠剤が手渡される。

 手が触れた瞬間、ぶるりと体が震えたのは異性恐怖症によるものか、あるいは怒りのためか。

 要は、言動が信用できないからおそらくは自作の薬に頼ろうというわけだ。

 覚えるだけ無駄だとわかりきっている苛立ちが理性を侵食し始める。

 地面に叩きつけて踏みにじってやろうか、という凶暴な衝動が鎌首をもたげたが、それでは自分が嘘をついていると認めたようなものだ。

 

 面白い。そっちがその気なら、こっちは受けて立とう。幸い、薬受けは最悪といって過言でない体質だ。

 

 ジェイドの薬と、スィンの体質。

 白い糖衣錠が口腔へ放り込まれ、飲み下された瞬間にその戦いは幕を開けた。

 直後から、スィンの様子が急変していく。体全体が緩やかに弛緩し、どこか夢でも見ているような目つきでじっ、と目の前のジェイドを見つめている。

 意識が朦朧となる。自白剤を飲んだ者の、基本的な症状だ。

 

「──では、あなたの負っている疾患の内容を教えてください」

「気管支の障害、もしくは肺から呼吸器官にかけて疾患」

 

 寝言に近い感覚で、偽りを忘れた言葉が発せられる。

 

「その疾患を負ったのはいつのことですか?」

「十六年前」

「あなたの心臓はどちらにありますか?」

「右」

「あなたは──心臓病、もしくはそれに類する病を患っていますか?」

「いいえ」

 

 さらさらと、まるで砂時計が刻を刻むが如く答えるというより唱えられる答えに、ジェイドはふう、と息をついて事の成り行きを見守っていた一同に振り返った。

 

「どうやら、本当のようですね」

「そうだな」

 

 まあそれはそれとして、とばかり、ジェイドは質問を再開させている。

 

「アッシュと出会ったのはいつ、どこですか?」

「十四年前。ファブレ公爵邸内」

「ガイとは腹違いの姉弟だというのは本当ですか?」

「知らない。そう聞いている」

「そうですか、知らないことは話せない──なら、ヴァンの言っていた『あなたが真に討つべき男』とは誰のことですか?」

 

 ここで、スィンはゆっくりと瞬きを見せた。かくん、と首がぎこちなく傾く。

 

「……あなた以外に誰がいるんです?」

 

 初めてジェイドの狼狽を見た気がする。

 意識的に瞳を瞬かせながら、スィンは無感動にそう思った。

 これまでの質問と一応差別化を図ったが、気づいたかどうかもわからない。

 それにこの反応。どうやら、彼は何も知らないようだ。

 なら、このままにしておいてやるべきか。

 

「恨みを買うことには慣れていらっしゃるでしょう……って、大佐、本気にしてる? 困ったな、ちょっとしたお茶目のつもりだったんだけど……」

「……薬の効果消失には、まだ猶予があったはずですが」

「調合間違えたんじゃないですか?」

 

 さりげなく自分の体質を隠して、スィンは意地悪く目元を歪ませた。

 

「ま、少なくともヴァンが指したのはあなただと考えて差し支えありませんよ。最も、あなたを討つなんてめんどくさいこと、今のところ考えてませんが」

 

 それが、実に柔らかな肯定であることを気づかぬジェイドではない。

 口を開こうとした彼を制し、スィンは重ねて言葉を綴った。

 

「理由はまだ、お話しできません。いつかちゃんと説明するから、今は勘弁してください……夕べ言った言葉が偽りだとおっしゃるなら、別ですが」

 

 連ねたのは、紛う事なきスィンの本音である。

 それが通じたのかどうかはわからないが、ジェイドはずれてもいない眼鏡の位置を直して呟くように言った。

 

「……それが何十年も先の話でないことを祈ります。私はもう、若くはありませんから」

「自分だけが年寄りだと思わないでください。僕だって、年寄りじゃないけど若くない」

 

 その場に張られた緊張感が、緩やかにほどけていく。

 では行きましょうか、と促されたダアトへの旅路。

 ジェイドとスィンのやりとりにすっかり気を取られていたルークが、スピノザのことを思い出すのは、ダアト入り直前の出来事であった。

 

 

 

 

 




 怒涛のベルケンド編、終了。イベントの嵐で死ぬかと思った。どうしてこうなった? 
 本来ここでアッシュとは一時的にお別れですが……この後の展開はサブイベントを前面に押し出すので全然お別れという風情はないです。

 作中自白剤が登場しましたが、自白剤といえば「真実の血清」ですね。
 フィクションの世界においては非常に有能、魔法のおくすり自白剤ですが、実際に可能なのは「嘘をつけないよう脳の働きを抑制する」ことで、何でもかんでも洗いざらい情報を吐くのとはまた違うそう。
 自白させる手段としては自白剤のほか、不眠状態、絶食状態、拷問などがあるとか。
 上記の方法で通常の精神状態から程遠い状態にして、黙秘することを困難とさせるわけですね。
「真実の血清」なんかは原材料にベラドンナなど使用しているため、被験者に多大なるダメージを与えるそうですが……情報を吐かせるのに拷問して意識朦朧させて嘘をつけなくするのと、致死性の高い植物を使用した怪しいおくすり飲ませるのと、どっちがより非人道的なんでしょうね? 


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第七十四唱——ミッション勃発、おじいちゃんを追いかけろ!

 

 

 

 飛べないとはいえ、アルビオールという乗り物を得ての旅路は、これまでの行程と比べるにも愚かしいほどに快適なものだった。

 ダアト港にアルビオールを接岸し、何か異変を感じたらすぐ離岸するようにと、同じ轍を踏まぬための注意をノエルに言い。

 道中それほどの困難もなく、一行はダアト第四碑石の丘へ到達した。

 そこで、また一波乱が生じる。

 

「……そうか。ダアトの偽造旅券を手に入れたんだな」

 

 聞き覚えのありすぎる声にそちらを見れば、ダアトを臨む丘のところで一組の男女が密談を交わしていた。

 

「どうもケテルブルク行きの船に乗ったようね」

 

 一人は真紅の髪を背中まで流した目つきの鋭い若者。

 もう一人は、濃い桃色という珍しい色合いの髪に、露出過多な服装がかなりサマになっている女性である。

 確認するまでもなく、アッシュと……漆黒の翼リーダー格にして紅一点、ノワールだった。

 

「よし。おまえはベルケンドへ戻って、爺さんたちの様子を見ておけ」

「ふふ。人使いが荒いわネ」

 

 妖艶な笑みを浮かべ、ノワールは特徴的な歩みで小高い丘を降りてくる。

 おそらく一行が到着した時点で気づいたのだろう、彼女は驚いた様子もなくすすすっ、と、何を考えてか、ナタリアに近づいた。

 同じ女として、気忙しないナタリアの内心に鋭く感づいたのかもしれないし、何らかの視線を感じたからかもしれない。

 

「あの坊や、なかなか素敵よv」

 

 アッシュの性格から考えて感じ悪い命令しか聞いていないだろうに、ノワールの態度には、今の命令に対する嫌悪らしいものはなかった。

 

「な……なんですのっ!」

「ふふ。妬・か・な・い・の」

「そんなくねくねしながら挑発されても同性にはうざいだけだってば。それよか、これ」

 

 あまりそういったこと──恋の鞘当て、に相当するだろうか──に免疫のないナタリアを押さえ、スィンは財布からぽん、とコインを放った。

 

「何かしらん?」

「外套の御代。あのときは、助かった」

 

 一文無しであったゆえに、借りたことにしておいたが、もはや返却はかなわない。

 たかだか古着に気前よく金──詳細な額は秘密──を放ったスィンに、ノワールは再度微笑んで懐から何かを取り出した。

 

「……手紙?」

「ちょっとした拾い物サ。手がかりがアンタの名前しかなくてね」

 

 渡された便箋の宛名を見る。

 

「シア・ブリュンヒルド……」

 

 ダアトに属していた頃の名だ。

 封蝋を解き、中身を開いている間にも、完全同位体同士のやり取りは勃発していた。

 

「ふん。随分のんびりしたご到着だな」

「直行したよ、これでも! 大体おまえはどうやってここに……」

「船に決まっているだろう。馬鹿が」

 

 ちら、と見やった先にいるスィンは、珍しくアッシュの視線に気づかず手紙の文面を追っている。

 

「スピノザのことより、早くイオンを連れてこい」

 

 丘の上から臨めるダアトを顎で指し、彼は変わらぬ様子で立ち去った。

 その背を見送って、ルークがぽつりと呟く。

 

「スピノザは、ケテルブルクに向かったって言ってたな」

「……ここまで来て、スピノザを追いかけるとは言わないでしょうね」

 

 と、いらないことを呟いてはティアにクギを刺されていたが、ナタリアがそれに賛同している」

 

「あら、追いかけるべきですわ。……アッシュったら、あんな女と……」

「……もう。好きにすればいい「あ゛あ゛!?」

 

 ティアの言葉を遮り、ぐしゃっ、という音と共に恫喝のような低音が響き渡った。

 視線を集めた先には、手紙を握りつぶさんばかりに拳を震わせ、わなわな震えているスィンの姿がある。

 

「ど、どうしたんだ?」

「……どうしたもこうしたも……! あ、いえ、なんでもありません。ケテルブルクに用事ができました。不本意ですが僕もスピノザを追いかけるほうに賛同します」

 

 ぐしゃぐしゃと、今度こそ手紙を握りつぶして後ろに隠したスィンが、感情を抑えてルークに加勢した。

 思わぬ彼女の言動にティアまでもが二の句を告げぬ中、鶴の一声で行く先が決定する。

 

「──では、ケテルブルクへ行きましょうか」

 

 ルークやナタリアは嬉々として、スィンはムスッとしたまま港へ戻っていく中、非難の声を上げたのはダアトに属する二人だった。

 

「大佐! どうして許可したんですか、もうダアトは目前なのに」

「そうですよぅ、なんであんなにあっさり」

「では──今からでも否を唱えますか? あの彼女を前にして」

 

 ぐっ、と二人が口ごもる。

 

「しかし驚きました。たかだか紙切れであのスィンが理性をなくすとは……まあ、私は小心者なのでつい許可を出してしまいましたが、主にして弟君の言葉なら撤回したかもしれませんね」

 

 誰が小心者なんだ、というガイの突っ込みは、アニスの言葉にかき消された。

 

「そうだよ! ガイったら、なんで止めてくれなかったのさ! いっくらスィンがあんなんでも、ガイになら従ってたかもなのにぃ」

「いや……あいつがあんなにおこるなんて珍しいと思ってさ。思わず我を忘れちまうくらい、重要な用事があるんじゃないかな?」

「手紙の内容が是非知りたいところですが、今ちょっかい出したら噛まれそうですね……ガイ、あの手紙をこっそり盗めませんか?」

「無茶言うな!」

 

 ──かくて。不本意ながらスピノザ追跡行の幕が上がった。

 

 

 

 

 

 



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第七十五唱——ルーク達はスピノザを追いかけた!

 

 

 

 

 

 驚くノエルに事情を説明し、雪の舞うシルバーナ大陸に足を踏み入れる。

 ケテルブルクへ向かう最中も、スィンはいつも以上に寡黙にして無愛想を貫き通した。

 思い出すのも忌々しい手紙だったが、残念ながら書かれていることは事実だ。

 

 いわく、おまえの秘密を知っている。隠匿を選ぶなら、ケテルブルクへ来い、と。

 

 十中八九手紙は罠だ。スィンが誰なのかを知る人物は少ない。

 はっきりと証拠のある特定はできなかったが、ディストあたりでないかとスィンは踏んでいる。かの奇人が下手人なら、もう一度頭をカチ割って今度は脳みそを引きずり出してやるつもりだった。

 雪上馬車の御者が、ケテルブルクについたとの知らせが上がる。

 アルビオールからここまで、変装することも忘れていたスィンが飛び降りると、同時に二人の男のやりとりが視界に入った。

 

「奴はここで手紙を書いた後、グランコクマ行きの船に乗ったらしいですぜ」

 

 特徴的な髭面にシルクハットを被っていても禿頭だとわかる小男と、アッシュ。

 小男の名は……ウルシー、と名乗っていただろうか。

 

「手紙……? 誰宛だ?」

「それが、もう貨物船に乗せられちまってわからないんでゲスよ」

「ちっ、わかった。おまえはベルケンドでノワールと合流しろ」

「合点で」

 

 俊足とはいえない足取りで、ウルシーが去る。

 手紙、というくだりに大きく反応していたスィンは、じろりと向けられたアッシュの視線で我に返った。小さな舌打ちが響く。

 

「……まだこんなところをうろついているのか。いい加減にしろ! ナタリア! おまえもだ、早くダアトに……!」

 

 怒鳴るアッシュの言葉を無言で留めたのは、彼の胸倉を掴みかけてやめ、肩を掴んだスィンだった。

 

「スピノザ……ヴァンに密告の手紙を出したのかもしれない」

「!?」

「あいつ、いったんダアトに行ってそれから偽造旅券を手に入れたんだろ? スピノザ自身はおとりで、手紙が本物なのかもしれない」

 

 間に合わなかったことに対する落胆もあらわに、スィンはアッシュの肩から手を離している。

 

「あと、今二人が……皆がここにいるのは、僕の我侭が原因だから。悪かった」

 

 そのまますれ違うように走り去るスィンの背を呆然としたように見送り、アッシュは一同に振り返った。

 

「……何があった?」

「あなたがノワールと呼んでいた女性から渡された手紙を見て、ケテルブルクに行きたいと言い出したんですよ」

「ここへ来るまでもまったく落ち着かない様子で……何があったのか聞いても、結局答えてくれませんでしたわ」

 

 ジェイドが、ナタリアがそう答えると、軽く腕を組んで思案し始める。が、すぐに首を振って黙考をやめた。

 

「わからないな。確かこの街には、あいつの母親の墓があったが……それが何か関係しているのかもしれない」

「お兄さん!」

 

 そのとき、スィンが去っていった方角から聞き覚えのある女性の声がして、一同は声の主を見た。

 ジェイドによく似た髪の色、わずかに茶の色合いが強い瞳。そして同じように端正な、眼鏡の知的美人、といった風貌の女性が息を切らして走ってくる。

 

「よかった、無事だったのね。今……」

 

 いいかけて、彼女はいけない、というように自分で自分の口を塞いだ。

 

「どういうことですか? 無事だった、というのは……」

「……いいえ、なんでもないの。港のほうから連絡が来て、お兄さんが来てると聞いたわ。この間ピオニー様から手紙が届いて、お兄さんがケテルブルクへ来たら渡してほしい、って……」

 

 急いで持ってきた、という便箋を受け取り、差出人と宛名を確認してからジェイドは封蝋を破った。

 中の文面を一読し、ふう、と息を吐く。

 

「……仕方がありませんね。これから直帰します、返事は必要ありません」

 

 妹を帰し、一同を見やる。

 ネフリーが現れた時点で立ち去ったアッシュの背を見送り、またもルークがいらないことを呟きだした。

 

「怒鳴らなくたっていいと思うけどな」

 

 言わずもがな、アッシュの話である。

 しかし、それを賛同してくれる人は皆無だった。

 

「……そうね。怒鳴りたいのはこっちだわ」

「……う、うん。ごめん……」

 

 決定はほぼスィンの発言によるものだが、それでもこの道程はルークが起因している。

 スィンとて、おそらくルークの発言があったからついでに、とケテルブルクへ行くことを提案したのであって、ダアトへ行こうと全員が思っていたのなら、それを無理やり破ろうとなど彼女ならしない。

 マイペースに見えても、協調性は人並みに重んじるスィンを知ってこそ、だった。

 

「とか言って、あれはグランコクマへ行く目だぜ」

「イオン様に会えるのいつなんですかぁ~、も~……」

「すみませんねえ、アニス。今度は私に用事ができてしまいました」

 

 ガイ、アニスに続いて便乗するようにジェイドがグランコクマ行きを提案している。

 

「まあ、どうしましたの?」

「陛下から召集がかかってしまいましてね。おそらく途中経過の報告書をそろそろ出してほしいと言ってくるのでは、と考えます。それでも、スィンやルークがここへ来たい、と言い出さなければこの手紙を眼にすることもなかったので、今からダアトへ行っても私は構いませんが」

 

 スィンに続いてジェイドの提案に、ルークは一も二もなく飛びついた。

 

「じゃあ、ついでだからグランコクマに行こう!」

「ついでは私の用事の方だということをお忘れなく。では、スィンが戻ってき次第アルビオールへ……」

「──ただいま戻りました」

 

 ざくざく、と雪を踏みしめる音に反応すれば、変装していないことを思い出したのか、瞳を同色とし、雪の欠片が張り付いた眼鏡をかけたスィンがそこにいた。

 その顔からは、ここへ至るまでにあった険が取れ、通常と変わらぬ冷静さが見て取れる。

 

「……落ち着いたようですね。歩きながら話しましょうか」

 

 港へ向かって歩き出しながら、ジェイドはスィンにこれからどこへ行くのかを語った。

 

「なるほど。結局グランコクマへ行くんですね」

「はい。それで、差し支えなければここへ来た理由を教えてください」

 

 これまで聞くことがためらわれた理由に、一同は興味津々をあらわとして彼女の話を待っている。

 本当は差し支えあるんですけどね、と前置きをして、スィンはあっさり口を開いた。

 

「簡単に説明すると、僕の抱える秘密をばらされたくなければケテルブルクへ来い、っていう内容だったんですよ。で、今指定された場所へ行きましたが、単にあの手紙の差出人からのメッセージがあっただけで。腹が立ったので雪をかぶせて元の場所に置いてきましたが」

「秘密……」

「これは『あなたを討つ理由』にも関連します。だから、これ以上は黙秘しますよ」

 

 新たに得たヒントを前に、ジェイドは黙考しスィンは話題をそらしている。

 スピノザに密告を許したことが、この先どう影響してくるのか。

 内心でそれを憂いながらも、スィンは我侭を言ったことにより、これからしばらくルークと一緒に料理当番を任命された理不尽さを一同に訴えていた。

 

「料理なんてめんどくさ~い~」

「ダメよ。思えばあなた、気が向いたときにしかやってくれないじゃない」

「だってアニスやティアのほうが美味しいんだもん」

「それ理由になってないよ……」

 

 

 

 

 




称号:ぐうたらシェフ(スィン)
 やればできる。しかしやらない。実行に移すまでが実力の内。
 やる気があるときは率先しても、やる気がなければ味まで微妙になる。
「そりゃやろうと思えばできるけど、もっと上手く作れる人がいるんだから。
 食材だってより美味しく調理された方が嬉しいって多分」
 もっともらしい言い訳を重ねて、あくまで動かないあなたに贈る称号。

さて、アッシュはいったいどうやって移動しているのでしょうか? 
ダアトからケテルブルクへ船は出ているようですが、ケテルブルクからグランコクマへはどうやって? 
そもそもスピノザは、ベルケンドからどうやって直でケテルブルクへ向かったんでしょうね。
しかも二人とも、アルビオールより早いというのだから驚きです。
まあ、アルビオールはもともと飛ぶのが専門で泳ぐのはオマケみたいなものだから、連絡船よりスピード出ないのかもですが。


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第七十六唱——スニーキングミッション、inグランコクマ

 

 

 

 

 

 

 

「では、私は軍部の方へ顔を出してきます。ここからは自由行動ということで」

 

 今日中には戻ります、と残し、ジェイドはマルクト軍本部の道を歩み去った。

 今度こそ先回りできたのか、スピノザはもちろん、アッシュや漆黒の翼の姿はない。それでもそのうち現れるだろう、と港周辺を張り込むルークたちを置いといて、スィンは個人散策を楽しむことにした。

 以前来たときは、ガイのこともあって観光の暇はなかったから、本当に久々のグランコクマである。

 幾度も来たことはあるが、どれもこれもホド戦争の始まる以前、すなわち十年以上前の記憶なのだ。

 これまで白黒だった思い出に、まるで塗り絵をするかの如く鮮やかな染色がなされていく。

 ぶらぶらと意図なく水路に沿って歩くうち、いつのまにか白と青のグラデーションが美しい宮殿の眼前へと至った。

 自然、瞳が鋭く尖る。

 蘇ったのは、いくつかの記憶だった。どれもこれも、あの大きな扉から入った記憶はない。

 市民を装った外観の視察、あるいは宵闇に紛れて宮殿内の探索、家柄の内情で親類と共に先帝に招かれたことがあるが、あれは確か裏口からひっそりと中へ──

 

「あのっ、大尉さん!」

 

 ふと、かけられた声に反応する。

 呼び方は実に奇妙なものだったが、それでもそれが、自分に向けられたものかどうかくらいなら声の調子でわかった。

 

「……自分、ですか?」

「はい、あの……大尉さんに、お願いがあるんです」

 

 声の主は、栗色の柔らかな巻き毛にふんわりとした落ち着いた色合いのドレスを纏う、物腰柔らかな、それでいてやや幼さを残した二十歳前後と思われる娘である。

 手入れされた髪を飾る宝石つきの髪飾りといい、白魚のような指先を飾る指輪といい、どこぞの貴族のお嬢さんと見ていいだろう。

 ……それで、彼女はスィンに何の用事があるというのだろうか。

 そういえば、大尉とかなんとか……

 

「何か?」

「あのっ、その……この手紙を、ジェイド・カーティス様にお渡ししてほしいんです!」

 

 ──一見して丁寧ではあるのだが、相手の都合を聞かないで自分の意見を通す辺り素の性格が垣間見える。

 突き出されたのは真っ白な便箋、封蝋がパステルピンクのハートマークときた。

 

「ほ、ホントは、自分でお渡ししたいのですけれど、最近はお仕事がお忙しいようで、なかなか、お姿をお見掛けすることができず……ですが今、たった今軍本部へ向かわれたんです! 軍本部は、私たちのような貴族の娘では出入りは禁じられているから、その、お渡ししてほしいと……」

 

 ──あー、そういうことか。

 

 遅ればせながら、スィンはやっと事の次第を理解した。

 以前ジェイドは、スィンの購入したこの軍服を大尉から少佐レベルの軍人に支給されるものだと言っていた。

 それで彼女は、女性軍人に少佐級はいないとか、そういう理由でスィンを大尉と呼んだのだ。

 つまり、マルクトの軍人と間違えられ、ジェイドに恋文……ラブレターを渡してほしいと。

 

「……お名前のご記入漏れはございませんか?」

「え?」

「肝心の貴女のお名前がなければ、あらぬ誤解を生むことでしょう。僕に預ける前に、ご確認ください」

 

 わたわたと便箋の封筒を確認する娘に、思わずため息が零れた。

 男の軍人にこんなものを渡されたジェイドは困るだろう、と考えて女の軍人に見えた人間を選んだのだろうが、名前がなければ渡した当人からのものかと錯覚される可能性を、彼女は考えなかったのだろうか。

 

「大丈夫です、必ずジェイド様にお渡しくださいませね!」

 

 じっくりと、自分の名が綴りを違うことなく記載されていることを確かめ、彼女はスィンに便箋を手渡した。

 薄紅色に染まる頬、期待と不安に満ちた瞳、恥じらい深く慎ましやかに去るその姿は、まさしく恋する乙女のもので。

 政略結婚、の文字が浮かばなかったわけでもないが、それは他者が詮索していいことではない。様子からしてその線は薄そうだから、まったく理解は出来ないが。とにかく。

 

「……渡すなんて、一言も言ってないんだけどな」

 

 ぽつりとスィンは、そう呟いた。渡された便箋を、手の上で弄ぶ。

 一旦戻ってジェイドが戻ってきたときに渡そうかと考えたが、その瞬間を誰かに見られて冷やかされたくない。

 一番いいのは、直接渡さずにジェイドの執務室へ置き去りにすることだ。もちろんそれが何処にあるかは知らないが、探せばどこかにきっとある。最終的には、ジェイドの手に渡ればそれでいいのだ。

 とても軽い気持ちで、軽はずみにそうすることを決めて、スィンは便箋を懐に収めると気楽な足取りで軍本部へと歩んだ。

 

「さて、大佐の執務室はどこかなあ、っと……」

 

 思いの他、実にあっさりと軍本部自体に侵入できた。

 見慣れない顔では怪しまれるかと思いきや、髪を黒くして結い姿勢を正す。この程度を変えただけで咎められもしない。

 すれ違う軍人の視線を感じはするのだが、声をかけてくる者はいなかった。

 見取り図を探したが流石にない。仕方がないので部屋のプレートを一枚一枚見て回ったが、面倒なことこの上なかった。

 いっそこの軍服が一兵卒のものであれば、新人を装って聞き込みができるものの……

 このままちんたら探していたら、日が暮れるどころか不審者扱いされるかもしれない。

 しかし奥まった一角に到達したところで、スィンの心配は波打ち際にさらわれて消えた。

 

『第三師団長執務室』

 

 燦然と輝く黄金のプレートが、スィンの迷走をねぎらうかのように輝いている。

 掃除は、行き届いているらしい。問題は、ジェイドがいるかいないか、だが……

 小さく深呼吸、そしてシンプルなノッカーを掴んだ。

 

 コンコンコン

 

「カーティス大佐。ご在室ですか?」

 

 おそらく書類整理か何かで居ると思われたのだが。どういうことか返事がない。

 その代わり、くぐもった音が聞こえたような気がしたのだが……いびき、か? 

 

「……カーティス大佐?」

 

 ジェイドのいびきなど聞いたこともないが、彼とて人の皮を被った悪魔ではなく、一応人間だ。寝ることも食べることもすれば、排泄もする。いびきをかいたって、全然不思議なことはない。

 まあ、寝ているなら寝ているでもいいか。

 

「失礼しまー……」

 

 がちゃっ。

 

 ドアノブを回そうとして、鍵がかかっていることを知る。

 なんだ、留守か。なら、遠慮はしない。ヘアピンを取り出し、施錠の開錠を図る。

 特に凝った鍵でもなかったために、ガコッ、という音がしてあっさりと錠は外れた。

 

「しつれーしまーす」

 

 バタン、と扉を開けた瞬間。

 

「ブキィッ!」

「わっ!?」

 

 低い姿勢からのタックルをもろに受けて、スィンはもう少しで倒れるところだった。

 とっさに衝撃を緩和させ、どうにか足の間をすり抜けようとジタバタしている物体を部屋の中へ押し戻す。

 人の気配がないとはいえ、廊下で騒動を起こすのは避けたかった。

 扉を静かに閉め、足で押さえていたそれを初めてじっくりと見る。

 濃いまだらの茶色が混じる体毛に、ウサギのような長い耳。「フゴフゴ」という独特の鳴き声に、ふっくらとした……というより、丸々肥え太った体型。

 

「……ブウサギ?」

 

 その動物は、ブタとウサギを掛け合わせたような外見にして一応魔物。巷では癒し系としてひそかにブームとなっている家畜『ブウサギ』に他ならなかった。

 

「なんで大佐の執務室に……まさか飼ってるのかな?」

 

 わしわし、と咽喉下辺りの毛を掻いて今にも走り出しそうな元気なブウサギの気をなだめる。気持ちよさそうに大人しくなったブウサギを柔らかく撫でながら、スィンは部屋を見回した。

 いくらブウサギが可愛かろうと、やることを忘れてはいけない。

 執務室は、ある一角を除いてきちんと整理整頓がなされている。その一角は、どういうことか本棚に納まりきらない本が床へ直に積み重なっているだけだ。けして、ブウサギが粗相をした、というわけではない。

 それどころか、この部屋にはブウサギが飼われているような気配はない。トイレどころか、えさ箱や水入れなども見当たらないのだ。ブウサギが一匹紛れ込んでいた、と説明した方がしっくり来る。

 ふと、ブウサギを撫でていた手が何か硬質なものに触れた。調べてみるとそれはブウサギの首輪で、ネームプレートに名前らしき綴りがある。

 それを確認したスィンは、思わず吹き出してしまった。

 なぜなら。

 

「お……おまえ、ジェイドっていうの?」

 

 笑わずにはいられない。

 こんなにも無邪気で、あの性悪とはかけ離れた間抜け面の可愛いブウサギが、あれと同じ名前とは。笑えるのと同時に、不憫だった。

 抱き上げるには少々育ちすぎているブウサギジェイドの頭を撫でてから、立ち上がる。

 この際、このブウサギがなんでこんなところにいるのかなど、どうでもよろしい。そろそろ、用事を済ませて帰還せねば。

 すりすり、と頭をこすってくるブウサギジェイドをなだめつつ、執務室の前へ赴く。

 便箋を取り出そうと、懐を探ったこのとき。

 

「ジェイド~! ここか~!」

 

 ──なんとも楽天的な、男の声がした。

 ぎょっとして、懐の便箋から手を離し扉の外を見る。だが、声は扉の外からではない。

 窓……は、突然の襲撃を恐れてか初めから設計されていない。冷暖房音機関が完備されているため、必要としないのだろう。

 では、どこから……

 隠し扉でもあるのか、と部屋を見渡し、スィンは不覚にもビクッ、と体を震わせた。

 ごとごとっ、と音を立てて、床に散らばった本が勝手に動いていく。あまりの面妖さに、ブウサギジェイドすら警戒を見せる始末だ。

 そして、声の主が姿を現した。

 

「ジェイド! ここにいたのか、心配したんだぞ……って、ありゃ?」

 

 ブウサギに飛びつこうとして、何を考えたのがブウサギジェイドはスィンの後ろに隠れた。

 男の視線が、初めてスィンに注がれる。

 男は軍服を着ていなかった。

 混じりけなしの金髪は整えている風でもなく自然のままに伸び、服装もだらしない、の部類に当たる。ただ、使われている生地は高価なものであり、気持ち色黒の肌に似合うようコーディネートされたそのたたずまいから、スィンは咄嗟にこれが誰であるかを判断した。

 ──間違ってないことを祈って。

 

「……ご機嫌麗しゅう、陛下。どうしてここにいるのか、お尋ねしてもよろしいですか?」

「……あー……見りゃわかんだろ。ジェイドを探してここへ来たんだ」

 

 良かった正解だ。

 ということは、この男が現皇帝ピオニー・ウパラ・マルクト九世陛下にあたるのか。

 

「カーティス大佐のことですか、それともこのブウサギの話ですか?」

「もちろん、こっちの可愛いジェイドの方だ。カーティスの方は、可愛くないジェイドだからな」

 

 可愛くないジェイド。

 言いえて妙なあだ名に、確かに可愛くはないな、とスィンは思わず頬を緩めた。

 ピオニーの目つきが変わったような気がして、咳払いをしながら顔を引き締める。

 

「では、僕は何も見てないし、聞いていません。速やかに可愛いジェイドを連れてお戻りください」

 

 ブウサギの頭をひと撫でし、恭しくピオニーに押し出した。

 フゴフゴ、とどこか苦情を訴えているような可愛いブウサギジェイドに、ピオニーの眼が面白がるように細まる。

 

「如何なさいました?」

「……おまえ、ここにいるってことは第三師団所属──ジェイドの部下だな? 名前は?」

「し、シア、と申します。シア・ブリュンヒルド」

 

 怪しく思われない程度に、皇帝を前にして緊張しているかのように装って名乗る。

 どうせもう使わぬ名だ。これならきちんと反応できるし、偽名には最適である。

 思ったとおり、ピオニーは気を取り直したようにこんなことを言い出した。

 

「よーし、シア。俺の私室まで俺とジェイドを護衛しろ」

「……は?」

 

 思わず、聞き返す。

 眼を丸くした『シア』の表情を堪能する気配を見せながらも、ピオニーは復唱しようとした。

 

「俺とジェイドを──」

「聞こえなかったわけではありません。その抜け道、陛下の私室に繋がっているのですか?」

「そーいうこった」

 

 他の奴らには内緒だぞ? とどこかジェイドにも通じる声音で、ピオニーは軽々とブウサギを抱き上げると、自分の出てきたところへ身を躍らせた。

 続こうとして、執務室の扉を施錠してから第六音素(シックスフォニム)の塊を召喚し、積み重なった本の奥に隠されている抜け道へ突入させる。

 

『うおっ!?』

『ブキィッ』

「あ、すいません」

 

 急に明るくなったことに驚いたのだろう。短く謝ってからそろそろと慎重に穴の中へ身を沈める。

 地下の道は思いのほか広く、二人と一匹が横一列に歩いてもまだ余裕があった。

 

「こんなの、いつ作られたんですか?」

「五年くらい前、だな。ジェイドやアスランたちに頼んでこっそり作ってもらったんだ」

「そうなんですか? 僕はてっきり、ブウサギを何匹か集めて掘らせたのかと」

 

 野生のブウサギは、穴ぐらでの生活を主とする。

 これといって主だった武器もなく、敏捷でもない体で突進する程度のブウサギが、子供たちを守るにはそれしか方法がないからだ。

 わずかにスコップ状になっているひずめで土をえぐり、まるでモグラのように土をその辺に塗り固めて掘り進むと聞いたが、事実は知らない。

 ピオニーからの返事はない。第六音素(シックスフォニム)の塊が先を照らしているが、周囲は薄暗いまま。

 夜目に自信はあっても、彼の表情を読むにはまだ、眼が慣れていないのだ。

 妙に息苦しく感じられる沈黙を破らんと、気づけばスィンは口を開いていた。

 

「……あの」

「ん、なんだ?」

「ここは一般の兵士にすら知られていない、言うなれば秘密の抜け道なんですよね? 護衛の意味「さーついたぞー」

 

 ないんじゃあ、と続けようとして。妙に明るいピオニーの声に質問はかき消された。

 

「先に上がって、ジェイドを受け取ってくれ。俺が持ち上げるから」

 

 促され、悟られないようため息をついてから天井の光に向かって体をリフトアップする。

 そこは、事前に皇帝の部屋だと聞かされているからこそ間違えたのでは、と心配できるほど、ごちゃごちゃした部屋だった。

 見慣れない、あるいは嗅ぎなれない人物を察知してか、思い思いに散らばっていた五匹のブウサギたちがぱっ、と顔を上げている。

 そしてなぜか、殺到された。

 

「おーい、受け取ってくれー」

「……はい」

 

 フゴフゴ、とブタに酷似した鼻を押し付けてくるブウサギたちをなるべく柔らかく押し退けながら、持ち上げられているブウサギジェイドを受け取った。

 

「重……」

 

 野生のブウサギと、家畜のブウサギは食料が根本的に違うため、体型に大きな差が出ているらしい。

 だが、皇帝のペットというこのブウサギたちはまた格別、毛並みも体格も良すぎた。

 

「……ジェイド、ネフリー、サフィール、アスラン、ルーク……ゲルダ」

 

 それぞれの名前。すべて人名がつけられているのは、気のせいだろうか。

 スィンがそれぞれにつけられた首輪のプレートを確認している間に出てきたらしく、ピオニーはその彼女のすぐ後ろに立って「ああ」と呟いた。

 

「俺の知り合いたちの名をもらったんだ」

 

 気づかれぬよう、気取られぬよう、身を離す。

 ある程度間合いをとったところ──とはいえ散らかった室内、それほどでもないのだが、とにかくスィンは恭しく一礼を取った。

 

「では陛下。僕はこれで」

 

 思わぬ寄り道をしてしまった、と、抜け道へ戻ろうとする。ところが。

 

「ちょっと待て」

 

 がしっ、と肩を掴まれ、体が強張った。

 じわ、と浮き出る冷や汗を無視して、どうにか顔を笑顔の形にする。

 

「……何か?」

「どうしてジェイドの執務室にいた?」

「カーティス大佐に、用事がありまして」

「そうか。だが、もう少し下調べするべきだったな。第三師団に女性士官はいないんだ」

 

 

 

 

 

 




軍服がやっと役に立ちました。実際は災難を呼び込んだだけですけが。
隠し通路、でよかったのかな? ついでに位置も、あれでよかったのかな? 
実際にジェイドの執務室は一カ所だけ汚いし、ピオニーさんはいきなり現れるからおそらくは。
転送装置だったらどうしよう、と悩みました。ジェイドだったらそのくらいちょちょっと作ってしまうかもしれません。ただ、率先しては作らないかと考えてアナクロな隠し通路の方向で固まりました。
ブウサギの習性に関しては完璧オリジナル……というか捏造です。
そんな人いないと思いますけど、誤解しない方向で。


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第七十七唱——暴かれたのは、記憶の深淵に突き刺さる罪

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 ──しくじった。

 肩を掴む手を振り解き、逃走を図る。

 が、「ジェイド!」というピオニーの声に反応したブウサギジェイドがスィンの足元にまとわりつき、逃走の足を鈍らせた。

 腕を掴まれ、力任せに投げ出される。どさっ、と受身を取るため仰向けに転がったのは、意外なことに寝台だった。

 だが、床と違って柔らかなそこでは、咄嗟に取れる行動も制限される。横に転がろうとする動きを阻害され、ピオニー自身の体重で押さえつけられた。

 ぞぉっ、とフォンスロットならぬ毛穴が一斉に開き、咽喉の奥から恐怖がせり上がる。

 

「きゃあぁあっ!」

 

 のしかかる男の鼓膜を攻撃するため、ある目論見のためにわざと声を甲高くさせた。

 眉のしかめ具合からして多少効いてはいるようが、スィンを押さえ込むその腕は微塵にも揺るがない。

 

「騒ぐな! 見つかってもいいのかよ」

「いや、離してっ、触んないでっ……!」

「往生際が悪いな、大人しくしろ、このっ……!」

 

 ブウサギたちがおろおろと見守る中、二人はしばらく揉み合いを続けていた。一度は腕を振り払うも、ピオニーの下からなかなか逃げられない。

 そうこうしているうちに、苦しさから暴れるのをやめたスィンが、大きく息をついた。

 それに気づいたピオニーもマウントポジションから蹴落とされないよう用心しながらスィンを見下ろす。

 二人の荒い息遣いが、緊張感のないブウサギの鳴き声の合間に響いた。

 

「ついでにっ、言わせてもらうとだな。ジェイドやアスラン、ってのはそこにいる可愛い方の連中の話だ。俺の部下なら知らない奴はいない。更に、女性士官に男物の軍服支給するわけないだろうが」

 

 やっぱりマルクトの頂点に立つ人物である。ころころ変化するその表情を彩る目は、節穴でなかったか。

 これで気づかない方がどうかしている、という意見もアリにはアリだが。

 

「んで、どういう変装してんだお前は?」

 

 それぞれ掴んでいた手首を片手で固定し、眼鏡が取り上げられた。

 目をまじまじとのぞかれた後で目蓋をつままれ、無骨な指が意外なほど器用に眼球からカラーレンズを外していく。

 

「なんだこれ、片方しか……な!」

 

 これまでか、とスィンは色を変えていた髪を元の色に戻した。

 雪色の髪、緋と藍という異なった瞳──

 彼との再会は大分時を経ているのだが、この目立ちすぎる特徴の主が誰なのか、ということは、彼にとって激動であったはずの過去に埋もれてはいなかった。

 最も、忘れようのない記憶であったことも間違いないだろうが。

 

「お前……先生、の」

「──幾歳月を経て御身の記憶にお留めいただき、(まこと)光栄と存じます。ご無沙汰しておりました、ガルディオス家左の騎士、ナイマッハ長女、スィンフレデリカ・シアンに御座います」

 

 実に儀礼的で冷静な自己紹介である。

 しかしピオニーは、気にも留めていなかった。

 

「……それが、お前の名か。ジェイドを……討ちにきたのか?」

 

 親友の執務室に侵入していた人物の正体がわかり、ピオニーの声色がどこか悲しげで、切なげなものに変化する。

 否を唱えるのは簡単だが、信じてくれそうにない。

 どうしたものか、と表向きスィンが黙秘を貫いたところで、コンコンッ、と外界へ通じる扉が叩かれた。

 

「陛下? 先ほど私を呼んだと言伝をいただきましたか」

 

 声の主は──よりにもよって、ジェイドである。

 

「ジェイドかよ! 呼んだって一体いつ……」

「可愛い方のジェイドをお呼びになられたではありませんか」

 

 それかよ! と扉とスィンを交互に見ているピオニーに、苦しい息の下で頼んだ。

 

「落ち着いてください。とりあえず、僕の上から降りてもらえますか?」

「駄目だ、お前逃げるかジェイドに襲いかかるつもりだろ!」

「しません。逃げもジェイドに襲いかかりもしませんから、降りてください苦しいです」

「断る!」

「……陛下? 入りますよ」

 

 小声での口論が終焉を迎えずして、返事がないことを不審に思ったらしいジェイドが扉を開いた。

 彼の視界に入ってきたのは、位置的な関係からしてピオニーが軍人の服を纏う誰かを押し倒している、構図のはずである。

 それが誰なのかは、他ならぬピオニーの体が邪魔をしてジェイドにはわかるまい。

 その光景を前にして、ジェイドはふう、と吐息をついていた。ずれてもいない眼鏡の位置を修正している。まるで興奮した猫が、毛づくろいで落ち着こうとしているようだった。

 

「陛下……ようやっと後継者問題に目を向けてくださったのはありがたいのですが、それは暫定的に私の部下です。孕ませるような真似は控えてください」

「は!?」

 

 事情を知らないピオニーが驚愕と共に腕を緩めたのを見逃さず、スィンは皇帝を突き飛ばしてむくりと起き上がった。

 転がるように寝台から離れて、ジェイドへと歩み寄る。

 

「それとか言うな! ……って大佐、何で僕だってわかったんです?」

「軍服を着ていながら軍靴を履いていない、更にその特徴的な腰の武器を見れば、ルークにさえわかると思いますよ」

 

 失礼なたとえだが、あえてそのことには突っ込まない。まずはここへ来た目的を果たしにかかった。

 腰の辺りを探り、先ほど操作した手のひらサイズの譜業を取り出す。

 

「……まず、状況の整理からお願いします。どうしてあなたがここにいるのですか?」

「宮殿前を散歩していて、大佐に届け物を頼まれたんですよ。こー言う方に」

 

 カチカチと突起を押さえ、スィンは音声再生の突起を押し込んだ。

 

 ぽちっ。

 

『あのっ、その……この手紙を、ジェイド・カーティス様にお渡ししてほしいんです!』

『ほ、ホントは、自分でお渡ししたいのですけれど、最近はお仕事がお忙しいようで、なかなか、お姿をお見掛けすることができず……ですが今、たった今軍本部へ向かわれたんです! 軍本部は、私たちのような貴族の娘では出入りは禁じられているから、その、お渡ししてほしいと……』

 

 ぷつっ。

 

「──ってなわけです。モテますね、大佐」

 

 ニヤニヤ笑いを隠さず、はい、と懐から取り出した手紙を渡す。

 

「……ずいぶん皺が寄ってますね」

「陛下と寝台の上で揉みあいになるとは思ってなかったんで」

 

 それはいいとして、と彼は封を解くことなく便箋を懐へ収めた。

 

「今の話からすると、あなたが向かったのは軍本部では?」

「もちろん。で、大佐の執務室に置いてこようと思って入ったんですよ。そしたらブウサギのジェイドが、大佐の執務室にいて。そちらを追っかけてきた陛下と会って、えー……護衛を頼まれまして。抜け道使った後で現在に至ります」

 

 説明不足の点に補足をいれながら、状況を説明する。

 逐一頷いていたジェイドは、完全に納得したらしくピオニーへ目を向けた。

 

「それで、スィンを侵入者と見切った陛下に拿捕された、と。ですが、そんな格好で居合わせたら取り押さえられても文句は言えませんよ」

「仕方ないじゃないですか。それとも大佐は、皆のいる前で手渡されて勘違いされたり、囃されたりした方が良かったんですか?」

「私は大歓迎ですが?」

「僕がイヤだったんです!」

 

 どうでもいい口論は続く。

 しばらくスィンとジェイドのやりとりを呆然と見ていたピオニーは、やがて「……おい」とジェイドに尋ねた。

 

「はい?」

「ジェイド、そいつと……知り合い、なのか?」

 

 わなわなと、確かめるように尋ねるピオニーにジェイドはあからさまに不審がりながらも首を縦に振っている。

 その言葉には、何の裏もなかった。

 

「そういえば、スィンは陛下の謁見に同席しませんでしたね。今報告書を提出してきましたが、彼女とは彼らと同じく行動を共にしています。現在はホド戦争を潜り抜けたガルディオス家の嫡男に仕えている身……で、間違いありませんか?」

「──まあ、間違っている点はありませんね」

 

 それを聞き、皇帝は言葉にならないほど驚いたらしく、視線だけで二人を交互に見てはぶつぶつ呟いている。

 

「親しく、しておいてから……? いや、ジェイドに限ってそんなつまらん手にひっかかったりは……いやいや」

「……で、陛下は何を錯乱しているんです?」

「眼前の事態に混乱されているのではないかと」

 

 足元に擦り寄ってきたブウサギジェイドを撫でつつ、スィンはジェイドと顔を合わさずして小さな声で告げた。

 

「大佐、僕があなたを討つ理由、聞いても後悔しないでくださいね」

「……?」

 

 その答えを聞かぬうちに、ピオニーはしゃがんでいるスィンを指して決定的な一言を告げようとしている。

 

「ジェイド! こいつは「ゲルダ・ネビリムの娘」

 

 ピオニーの声をさえぎり、ぽつりとスィンが呟いた。

 驚愕する二人を尻目に、ブウサギを撫でていた手を外して立ち上がる。

 

「僕は確かに彼女の血を引いています。あなたが何をしたのかも知っている」

 

 万物を凍てつかせる永久凍土を思わせる声が耳朶に浸透し、感情を失くした瞳がジェイドの顔を映した。

 ジェイドの狼狽を見たのは、多分これが二回目だ。

 実に珍しい、仮面の取れた彼の表情を、スィンは胸の奥に渦巻く感情の高ぶりが収まる気配を見せるまで、その顔を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 凍るような沈黙を経て、口を開いたのはスィンだった。

 

「すみませんね。自分の口で話すと言った手前、先に言われてしまうのは避けたかったんです。そんな顔させるつもりはなかったんですけど」

 

 時期が早すぎました、と言ってきびすを返しかけたスィンの腕を、ジェイドが掴む。

 実に素早い反応だったが、恐ろしいほどに力が入っていない。

 振りほどこうと思わなくても、そのまま歩を進めてしまえば意味を成さなくなるほどに。

 

「……いつから……いつから、それを知っていたんですか」

「──少なくとも、あなたが自己紹介してくださったときには、知っていましたよ」

「おまえがカーティス家の養子としてケテルブルクを出てから、三年経ってからのことだ」

 

 口調から、態度からスィンが詳細を語る気がないと悟ったピオニーが、重々しく口を開いた。

 思い出すことに、明らかな苦痛がにじみ出ている。

 

「ネビリム先生を探す少女が来た、って小耳に挟んだんでな。理由だの先生との関わりなんかを聞き出そうとして、探したら……ネフリーに詰め寄るこいつを見つけたんだ。『お前の兄はどこだ』ってな」

 

 当時、ピオニーもネフリーもゲルダ・ネビリムの死は不慮の事故と聞かされていた。

 当時のケテルブルクの知事も、ネビリムと付き合いのあった大人たちも、ネフリーを含めた生徒たちも、やはり事故だと、見知らぬ少女であるスィンにそれだけを言っていた。

 ただ事故だと言われて、納得する子供はいない。

 どんな事故だったのか、遺体の発見者は誰なのか、根掘り葉掘り、少女は強く食い下がり聞き込みを続けていた。

 そして、彼女はジェイドとサフィール──ディストの、後にケテルブルクの誇りとなる天才たちの存在を知ったのである。

 

『あなたのお兄さんは、お母さんを……! 理由はそれだけよ!』

 

「……って、ネフリーに詰め寄ってたっけな。あんときは驚きすぎて聞けなかったが、あの状況で、どうやって事実を知った?」

「母の墓前で預言(スコア)を詠みました。確かに事故、でしたね」

 

 限りなく人為的ではあったけれど。

 口にこそしなかったが、彼女はそう言いたげだった。

 大きく深呼吸をする気配に続いて、スィンがくるりとジェイドに向き直る。

 紅の両眼に映る彼女は、そら恐ろしくなるほど『通常の』表情をしていた。

 怒りも憎しみも感じさせない、ただ自らの思いを訴えている、それだけ。

 

「……この件に関して、復讐の意思はありません。安易に復讐だけを望むことができるほど、僕は無邪気じゃない。ルークに語ったあなたの意思も、扉越しに確認させてもらいました。あなたがその意識を持っている以上、過去でしかないあなたの行動を責めるのは無意味だ。だから……」

 

 ふぅっ、と大きく息を吐く。

 潤んだ瞳が瞬きでかき消え、左右の色が異なる瞳がジェイドを見据えた。

 

「このことを知ったからって、僕を母さんと重ねないで。あなたが償うべきは母さんで、僕じゃない。それをどうか、忘れないでください」

 

 沈黙。睨み据えるスィンの視線を、ジェイドは珍しく──本当に珍しく、瞳を揺らがせながら受け取った。

 

「……わかり、ました」

 

 短くも、はっきりとした断言を聞き、スィンもまた荒げた感情をなだめるような深呼吸をしている。

 

「できることならこれまでの態度も変えないでほしいけど、それはあなたにお任せします。そんなことを強制できる立場じゃないし……」

 

 あなたが何をしようと、彼女がこの世界に戻ってくるわけではない。

 その言葉を直前で飲み込み、スィンはくるっ、と、ピオニーに振り返った。

 

「……そろそろ、戻ります。抜け道、使わせてください」

「わかった」

 

 再び開かれた通路に、スィンが身を躍らせる。

 今度は愛ブウサギが落ちないよう厳重に蓋をし、ピオニーは可愛くないジェイドに振り返った。

 

「……大丈夫か?」

「──衝撃が大きすぎて、しばらく立ち直れないかもしれません」

 

 瞳を隠すように、眼鏡のふちに手を添える。

 そんなジェイドを見て、ピオニーは心配そうに眉尻を下げた。

 

「仕事を理由に、軍に復帰するか? 情報整理にはちょうどいいぞ。書類仕事も溜まっていることだしな」

「その気遣いは喜ぶべきなのでしょうが、逃げたいわけではありませんし、彼女に逃げたと思われたくありません。己の罪と向き合うには、ちょうどいい機会です」

 

 自分へ言い聞かせるように皇帝の提案を却下し、一言断りを入れて彼の私室を辞する。

 一礼するメイドから遠ざかり、宮殿の広い廊下を歩きつつも、彼は大きく息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 



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第七十八唱——傷の痛みを覚えぬために、傷を心ごと凍らせた

 

 

 

 

 

 通路は穴となっていたのに、どうしてブウサギジェイドは執務室へ上がってこれたのだろう。

 その疑問が解消されたのは、秘密通路を使ってジェイドの執務室へやってきたそのとき明らかとなった。

 何のことはない。飛び降りられるようにもなっていたが、上がりやすいようになだらかな傾斜がついていたのである。

 ピオニーがやってきた際、通路の入り口が塞がっていたのはブウサギジェイドが崩したからだろうか。

 なんとなく通路の入り口を散乱している本や辞書の類で隠しながら、スィンは先ほどの出来事から思考をそらすようにそんなことをつらつら考えていた。

 外に誰もいないことを確認してから、ジェイドの執務室を後にする。

 後は帰るだけだ。見咎められても、逃げ切れればそれでいい。捕まったところで、ジェイドが助けてくれることを期待していないわけでもないけど。

 そこで思考が、意識することから逃げていた思考が、否応なくジェイドのことを考えてしまう。

 

 まったくの予想外だった。まさか、こんなに早くバラしてしまうことになるとは。

 

 幽霊でも見たかのようなジェイドの顔が脳裏に浮かぶ。

 ヴァンやディストと相対する際、必ず足かせとなるその情報を隠し通すのは実質不可能だと思っていた。

 彼らにバラされ、緊急事態時に彼の混乱を招くよりはと、少しずつ明らかにしていくつもりだったのだが……あっけなく、あの皇帝に目論見は破壊されてしまった。

 恨む気持ちがないわけではないが、恨んだところで過ぎてしまったことはどうしようもない。

 それはもちろん、ジェイドに対しても当てはまることだ。

 

 だから恨まない。復讐も、しない。

 

 復讐心を幾年にも渡って育て、隠し続け、遂げることなく昇華させた主を倣うのだ。

 間違っても影響などされていない。その証拠に何も思っていないわけでもないが……

 とにかく、このことに関して隠し事はなくなった。これからが、問題だ。

 これから先スィンが何を言ったところで、彼の負担となるだけだろう。ジェイド自身の罪の意識は、時の川の流れにさらすか彼自身でしかどうこうすることはできないのだ。

 早めに立ち直ってくれることを祈りつつ、軍本部の出入り口へ向かって突き進む。

 これまでやってきた道順を頭に思い描いて進むうち、不意に差しかかった曲がり角で誰かと接触しそうになった。

 

「失礼……」

 

 スィンも相手もそう言ってすれ違おうとしたそのとき。

 

「スィン」

「え?」

 

 ふと名を呼ばれて、彼女は初めてすれ違う相手を見た。

 茶の色合いが強い蜂蜜色の長髪、紅玉という珍しい眼に眼鏡をかけた優男風の軍人──

 

「あれ、大佐。まだ仕事終わってなかったんですか?」

 

 気づけなかった。この男が、こんなに近くにいたというのに。

 内心の動揺を押し殺し、極めて普通の態度を取って尋ねる。

 さぞかし複雑な顔を見せるのでは、とスィンは予想していたのだが──

 

「いえ、老骨に鞭を打って終わらせました。あなたを探しにきたんです。行きましょう」

 

 言うなり、くるりと後ろを向く。そして先導を始めたのだった。

 

「……なの?」

「何か?」

「いや別に何も」

 

 正気なの? 

 

 思わずそれが口をついて出ていた。幸いにも、ジェイドの耳には届かなかったようだが。

 彼なりに態度を改めぬよう、との考えなのだろうか。

 自分に対し、少なからず負の感情を抱いているとわかっている相手に対して、背を向けるとは。

 足だけは動かしながらも、ジェイドの広い背中を見つめた。

 無防備、ではないにしても、背中に目はないのだ。何かあれば反応は確実に鈍る。

 彼はそこまでスィンを見くびっているのだろうか。それとも、スィンの言葉をそこまで信用しているというのだろうか。

 侵入した際と格好に変化はないため人目は引いたが、ジェイドの存在は大きかった。

 誰かに何かを言われることもなく、無事軍本部を脱出する。

 双方無言のまま宮殿前広場へ到達すると、不意にジェイドが立ち止まり振り返った。

 

「大佐?」

 

 どうかしたのか、と尋ねようとして、思わずその真紅の眼を見たことに後悔する。

 その表情からは、常に浮かべている微笑が完全に消えていた。

 

「先ほどの質問には答えかねます。残念ながら、私は自分が狂っているかどうかは把握しきれていません」

 

 揶揄なのか、本気なのか、図りかねるジェイドの弁にスィンが押し黙る。そのとき。

 

「あなたに、この命を差し上げます」

 

 不意に、唐突に。ジェイドは、真顔でそう言った。

 

「偽ったつもりはありませんでしたが、今一度誓いましょう。今この時より、私はあなたのものになります。いつ、どのようなときであっても、私は──あなたに、喜んで殺されますよ」

「……償う相手を間違えるなと言ったばかりなのに」

 

 一度瞬くほどの刻を経て、スィンは吐き棄てるように呟いた。

 犯した罪を、自らの命をもって償う。その覚悟には敬意を表すべきなのかもしれないが、スィンの耳には彼が自分の命を粗末にしているだけにしか聞こえないのだ。

 それに──口に出すのもはばかれるが──そうすることで、開き直っているようにしか感じられない。

 

「否定はしません。ですが、これまでこのことを隠し続けてきたあなたに私が報いるには、この方法しか考えつかないんです」

「報いるって、上から……いや、僕があなたにこのことを隠していたのは、一重にガイラルディア様の正体隠匿のため。そして今、僕たちがやろうとしていることに支障をきたさないためです。間違ってもあなたのためを思ったわけじゃない」

 

 食い下がるジェイドに、スィンはわざわざ辛辣な言葉を選んで彼の言葉を却下した。

 

「僕があなたの命を取らないと、少なくとも今は取れないとわかっているから、命を寄越すなんて軽々しいことが言えるんでしょう?」

「そんなつもりは……」

「皇帝の懐刀と名高い死霊使い(ネクロマンサー)を僕が殺したら、皇帝の不興は主たるガイラルディア様が負うことになる。ガイ様の不利益に働くことを僕にできるわけがないと、あなたが踏んでいないわけがない……」

 

 わざと嫌味を連ねて黙らせるつもりが、どんどん本音が零れてきている。

 高ぶる感情を抑えるように言葉を止めたスィンは、やがて閉ざしていた自分の口を解放した。

 

「……どうでもいいけど、もう少しご自分の体を労わったらいかがです? くれるというなら預かっておきますけど、僕があなたの命を貰い受けるその日まで生きていてくださることを願います。後、殊更態度を改めてほしくありません。皆に知ってほしいことでもありませんし」

 

 ──どうせジェイドは、スィンが何を言ったところで自分の言葉を取り下げはしないだろう。ならばスィンの取るべき行動は、初めからたったひとつしかなかった。

 それに、宮殿の前で立ち話を口論へ発展させることは避けたかったということもある。再度態度を変えないでくれと頼むことで、スィンは話をしめくくったつもりだった。

 ところが。

 

「──それはあなたの本心ではないのでしょう?」

 

 ジェイドは、この話に完全な決着を求めているらしかった。

 

「私は少なからず下手に出たつもりです。何故穏便に──事を荒立てぬよう済まそうとするんですか?」

「……あなたと口論したところで、勝てるためしがないからです。あなたに僕の本心を知ってもらおうとは思わないし、それが必要だとも思ってない。あなたの言ったことを承知できないと言っているわけではないんです。納得してください」

 

 聞き分けの悪い子供を諭すかのようなスィンの言い草に、ジェイドが露骨に眉を顰めて口を開こうとした、瞬間。

 ふと、スィンの視線が明後日の方角へ向けられる。

 そして彼女はにんまりと、悪意のこもった笑みを浮かべてジェイドを──正確には彼の後ろを指した。

 

「この話は、ここでお仕舞い。僕は皆のところに戻ります。大佐はがんばって、彼女らの相手をしてあげてくださいね」

「「ジェイド様-!」」

 

 それが一人のものであれば、とても小粋なステップとなって石畳を歌わせたことだろう。

 しかし、それを奏でる足が大多数ともなると、ブウサギを数十頭走らせたが如く石畳は震えてヒビが入らんばかりにきしんだ。

 足音が大きくなるにつれて、それの正体が明らかとなる。

 華やかな薄桃色、淡い黄色、涼やかな水色、と混み合う色の塊たちは、歓声を上げる女性へと視界の中で変貌を遂げた。

 その華やかにして豪奢な身なりからして貴族の娘たちだ。さしずめ、ジェイド・カーティス大佐のファンクラブだろうか。手に手に恋文らしき便箋や贈り物らしき物品を携えている。

 それを認めたジェイドの表情に表向き変化はないが──内心はきっと、穏やかじゃない。

 ともかく、このまま傍にいることであらぬ誤解を呼ぶのは避けるべきであろう。

 スィンが素早くきびすを返し、「それじゃ」とジェイドから離れようとしたそのとき。

 

 ──ガシッ

 

「へ?」

「離脱します。息を止めて、眼鏡を失くさないよう気をつけてください」

 

 腰の辺りをホールドされたかと思うと、彼はスィンを担いで自分の眼鏡を外していた。

 

「ちょっと、大──」

 

 抗議の言葉が、眼鏡というフィルターが外された視線に射止められ、意味の成さない音となる。

 ジェイドの素顔があらわとなったからか、遠くで歓声がより黄色いものとなった。

 甲高いそれは、どんどん糸を引き──

 

 どっぽぉんっ! 

 

 腰に回された、思いのほか力強いジェイドの腕がちっとも緩まぬまま、全身は冷たい無重力に支配された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「仲間が港を押さえてる。船が到着したら、例の場所へ誘導する」

「よし。これで捕まえられるな」

 

 待てど暮らせど、日が傾きつつあっても港にこれといった変化はない。

 どうしたことかとルーク一行が街をさ迷い歩くうち、彼らは街の入り口付近で密談を交わす二人組に遭遇した。

 鮮血のアッシュと、漆黒の翼ヨークである。会話内容を垣間聞き、ルークは愕然と呟いた。

 

「なんだよ……結局あいつに負けたのか……」

「勝ち負けの問題か、劣化野郎!」

 

 一方で、ルークの存在をきっちりと把握していたアッシュは、最もな憎まれ口を叩いている。

 グウの音もでないルークであったが、どうにかこれだけは言い切った。

 

「……劣化劣化言うな!」

「そうですわ、アッシュ。少し言葉が過ぎますわ」

 

 これまでアッシュのルークに対する言動は十分いき過ぎていた気がするが、ナタリアはそんなことを言って珍しく彼を非難し、ルークを擁護している。

 当然、それをアッシュが面白く思うわけがなく。彼は拗ねたように鼻を鳴らした。

 

「……ふん。おまえまでそいつの肩を持つのか」

「そんなこと言ってませんわ!」

「やー、楽しい痴話喧嘩中すみませんが、そろそろダアトに行きませんか?」

 

 そして外野からの茶々に過剰反応を示し、ふと我に返っている。

 

「……だっ、誰が痴話喧嘩……!」

「そ、そうです……わ?」

「今の、旦那の声……だよな?」

 

 確かに、今の痴話喧嘩云々はジェイドの声音のものだった。

 しかし、声はすれども姿がなく、一同が、そして三人もまた対立を忘れて視線を巡らせる。

 そして──ばしゃり、という水音が聞こえた。

 

「こちらです。お待たせしたかと思いましたが……そうでもなかったようですね」

 

 ざぷんっ、ざばっ。ばしゃっ。

 

 水もしたたるなんとやら。

 すぐそばの水路から現れた二人を見て、一同は声もなく二人を見て迎えた。

 

「おや? どうしたんですか皆さん。ルークが初めてアッシュを見たような顔つきで」

「……なぜ驚いているのかと聞いているなら、厭味にもほどがあると思うんですけど」

 

 髪から、服から、何もかもから雫を滴らせたスィンが、ぎゅうぅ、と顔に張り付いた髪から雫を追い出している。

 すでに眼鏡をかけているジェイドが、レンズから雫を拭い取った。

 まさかそれが固まった要因ではないだろうが、特徴的な双眸があらわとなったところでアニスがいち早く反応を見せている。

 

「ど、どうしたんですかぁ!? なんで大佐とスィンが濡れ鼠なんです?」

 

 姦しいその声を皮切りに、他のメンバーたちも二人を質問攻めにした。

 

「い、一体何があったの!?」

「二人して水路に落っこちたのか!?」

「それとも誰かから襲撃されたのか!?」

「ヴァン、か……?」

「二人とも無事ですの!?」

「そうですわ、二人とも怪我があるのなら治療を!」

 

 ジェイドに、スィンに迫る彼らを、どうどう、と落ち着けるように両手を立てる。

 そしてスィンは、咄嗟に仕舞っていた眼鏡を取り出して顔にかけた。

 

「違う違う。宮殿のところで大佐と会ったら、大佐目当てに貴族のお嬢さんたちが集まってきちゃったんだよ。慌てて逃げようとしたら大佐に捕まって、水路伝いに逃げることになっちゃって」

 

 ジロリ、とジェイドを横目で睨みつつ事の顛末を簡略に説明する。

 しかし彼はスィンの視線などどこ吹く風で、苦笑を零していた。

 

「いやあ、すみません。いちいち彼女らの相手などしていたら、夜が明けてしまいますから」

「だからって、僕まで引っ張らなくてもいいじゃないですか! 大佐は水もしたたる色男だから平気かもしれませんけどねえ、僕はそうじゃないんですよ? 普通の人はずぶ濡れになって体が冷えたら風邪を引くんです。悪寒鳥肌に加えて風邪こじらせたら、どう責任とってくれるんですか!」

「つきっきりで看病してあげましょう」

 

 色男云々の否定をすることなく、ジェイドはしれっとした顔で対抗策を講じている。

 その様子からして、特に目立ったぎこちなさはない。立ち直りが早いのか、芝居が上手いのか。

 おそらくどっちもだろうと無意識に考えたスィンは、「遠慮しますぅー」と表面上渋面を作って返した。

 ジェイドの表情がデフォルトの胡散臭い笑みを象るも、その瞳はどこか優しげなものとなる。

 そして囁かれた言葉を前にして、スィンは思わず目を白黒させていた。

 

「それに。あなたも十分『水もしたたるいい女』ですよ」

 

 ──素晴らしい、と。スィンは掛け値無しにそう思った。

 確かに態度を変えないでくれ、と頼んだ。しかしまさかこれすらも変えずに貫くとは。スィンは場違いにも彼を称賛していた。

 しかしそんなことをしている場合ではない。いつものように、応じなければ。

 

「──う、嘘つきは、死んだ後に舌抜かれますよ。なんなら僕が抜いてあげましょうか」

 

 半眼になり憎まれ口を叩く。

 頰を意図的に紅くさせて、スィンは照れている風情を一同に見せてから、視界からジェイドを追い出した。

 

「なんでもいいけど、もうスピノザは見つけたっぽいしさ。後はアッシュに任せよう」

「そうね」

「……」

 

 ティアは率先して快諾するも、ルークはムスーッとして沈黙を通している。

 そんなルークの心情を看破したガイが、おかしそうに彼の顔を覗き込んだ。

 

「はは。まだスピノザを見つけられなかったこと、むくれてるのか」

「じゃあここまでがんばった坊ちゃんに、いい物をやろう」

 

 何を思ったのか、海賊帽に派手な襟飾りの男ヨークがおもむろに懐から取り出した何かをルークに放って寄越した。

 受け取ったルークは、物珍しげに首を傾げて夕日にそれをかざしている。

 

「なんだこれ?」

「こいつを持っていれば、俺たちの仲間が助けてくれる。暇な時にでも試してみな」

「まあ、いいや。もらっておくよ」

 

 ブローチのようなバッジのような、アクセサリーらしいそれを仕舞うルークの表情は明るい。

 

「これでやっとダアトですねえ。あちこち引きずり回されてもうくたくたですよぅ」

「悪かったな、アニス。みんなも、ごめん」

 

 正確な話、ここまで来る羽目になったのはその他二名にも原因はあるのだが……それでも大元がルークである事実は変わらない。

 

「では、ダアトへ「くしゅっ! きしゅんっ、へっくしゅ!」

 

 ダアトへ向かおうとするジェイドの言葉は、笑いを誘うほど繰り返されたくしゃみによって中断された。

 

「あ、失礼」

 

 ぢーんっ! と豪快に鼻をかんでから非礼を詫びたのはスィンだ。

 赤くなった鼻を押さえつつアルビオールの停泊している港へ向かおうとしている。

 

「待て。港はもうすぐ荒れるし、日も暮れるから今日はここに泊まれ」

「やだよ。もともとケテルブルクへ行くことになったの、僕のせいだし」

 

 準備運動もせず水路へ飛び込んだことにより、冷えた体を忙しなくさすりながら、スィンはアッシュに振り返った。

 体が無意識に暖を求めてか、わずかながら震えており、その顔色もけしていいとは言えない。

 

「──訂正します。アッシュの言うとおり、今は捕り物劇に巻き込まれている暇もありません。急がば回れ、とも言いますし、今日はグランコクマで一泊していきましょう」

 

 翻された発言に、一同の驚愕を見て取って、彼は「では」とわざとらしくスィンに近寄った。

 

「冷えた体をあっためるためにも今夜は一緒に寝ましょうか。すでに宿しているかもしれない風邪菌を皆さんに伝染させるわけにはいきませんし」

「つ、謹んでお断りします……!」

 

 やっぱりこれだけでも、改めてもらったほうがよかっただろうか。

 そもそもこれまで、一体何のつもりでスィンにこの手のちょっかいをかけてきたのだろう。

 単純に反応を面白がっているか、暇つぶしか、はたまた何かしらの意図があってか。これを改めてもらうとなると、その辺りを確認して、それから違和感にならない程度に調整してもらわないといけない。

 ──めんどくさい上に、これはジェイドと二人きりで話す必要がある。それは、考えただけで憂鬱になること、だった。

 スィンは態度を変えないでくれと言い、ジェイドは態度を変えなかった。多分これでいいだろうと、結局何も言うことなく、グランコクマの夜は過ぎた。

 

 

 

 

 



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第七十九唱——凍てつかせた傷を、心を溶かすのは

 

 

 

 

 そんなこんなでやっと辿りついたダアトは、以前と比べて随分人が少なくなっていた。定期船の運航が再開されたためだろう。

 得体の知れない事態に家を空ける気にはなれないのか、どことなく寂れているような感もある。

 それでも、一行の中に根付く屈辱的な記憶は薄れていない。

 当時を思い出したのか、教会を前にしたルークが周囲を気にしながら言った。

 

「今度はモースに捕まらないようにしないとな」

「モースはきっと、まだバチカルにいる筈ですわ」

 

 ナタリアはそう言うものの、ジェイドの意見の可能性は捨てきれない。

 

「そうですね。でも、六神将がここに残っているかもしれません」

「気を引き締めていきましょう」

 

 ティアがそう締めくくると、アニスがうつむきがちになりながら小さく言葉を呟いた。

 

「……ごめん。パパ、ママ」

 

 ──なぜ彼女があの二人に罪悪感を覚える必要があるのだろう。

 

 スィンは疑問を覚えたが、耳ざとく呟きを耳にしたルークには、言葉の断片しか聞き取れていないようだった。

 

「ん? パパ? パパって言ったか?」

「う、ううん。パパたちに聞けば、六神将がどうしてるかわかるかもなぁ……って」

 

 呟きをルークに指摘されたアニスは、心なしかわてわてといいように取り繕っている。

 和えかな呟きを完璧に聞き取ったスィンは不審に思ったものの、他には誰もそうは思わなかったらしい。

 

「そうか。アニスの親は、ここに住み込んでるんだったな」

「よし、話を聞いてみよう」

 

 そうと決まったらこっち! とアニスの先導に、一行はダアトの街を抜け、教会へと至った。

 前回起こしたひと悶着の余韻か、人々の視線が気になるものの、今のところ大事には至っていない。

 教会内でも、教団関係者であるティアとアニスがいるおかげか、特にこれといった障害もなく一行はとある扉の前へたどり着いた。

 コンコンッ、とアニスが扉を叩けば、「はぁい」と柔らかな女性の声がして、あっさり扉は開く。

 あいかわらず、呆れるほど警戒心がない。

 かちゃり、と開いた扉の先には、質素な教団服に身を包む女性──パメラ・タトリンの姿があった。

 

「ただいま、ママ」

「まあ、アニスちゃん!」

 

 どこかぎこちないアニスの態度を気にした様子もない。あるいは気づいていない様子で、彼女は娘の姿を認めるなり歓喜に満ち溢れた笑顔を振りまいた。

 

「おかえりなさい。さあ入って、皆さんも──あら?」

 

 扉の奥へ一行を誘おうとしたパメラは、ふとスィンの顔に目を留める。

 

「ママ?」

「どこかで……お会いしたような……」

 

 パメラと目が合う瞬間、自己紹介もせずひょいと顔を背けるに留めたスィン。

 そんな態度にもめげず小首を傾げてスィンをじーっ、と見つめ続けるパメラ。

 沈黙に耐えかねたか、一行の不審なものを見る視線にめげたか。

 音を上げたのはスィンだった。

 

「……お久しぶりです、パメラさん」

 

 眼鏡を取り、青く染めていた髪色をデフォルトに戻してカラーレンズも取る。

 その変化に驚く暇もなく、彼女は目を見開いて驚愕した。

 

「ブリュンヒルドさ……!」

「しーっ!」

 

 その名を叫ばれて誰かに、特にいるかもしれない六神将に感づかれても困る。

 慌てて黙らせると、「あ、そうか!」とアニスが叫んだ。

 

「ママ、シアとは顔見知りだっけ」

「ええ、そうよ。でもブリュンヒルド様、なぜマルクトの軍服をお召しに?」

「──詳しいことは話せませんが、今教団の緊急招集から逃げているんです。変装中なので、このことは内密に」

 

 不思議がる彼女にどうにか約束を取り付け、狭いところですが、と室内へ誘われる。

 あまり広いとはいえない部屋の中、壁にもたれかかっている巨大サイズのトクナガが唯一のインテリアらしく、それさえ取っ払ってしまえば殺風景としか言い様がなかった。

 そのトクナガを「かわいい……v」と隣に立つティアがひっそり呟いているのが聞こえる。

 しかし一行は父子の再会に気を取られ、それに気づいたのはスィンただ一人だった。

 

「やあ、アニス! 聞いたよ。イオン様からお仕事を命じられて、頑張っているそうじゃないか」

 

 ──彼女の親がこのように喜ぶということは、導師守護役(フォンマスターガーディアン)の解任は正式に受理されたものではないらしい。

 または、導師守護役(フォンマスターガーディアン)から派生して彼直属の兵士という立ち位置になったか。なんにせよ、クビ扱いでなくてよかった。

 偽りとはいえ、解雇された当時を思い出したのか。アニスはひきつった笑顔で生返事を寄越すと、本来の目的を尋ねた。

 

「パパ、ママ。六神将の奴ら、どうしてるか知ってる?」

「まあまあまあ。そんな言い方よくないわよ、アニスちゃん」

「ぶー」

「あはははは。アニス、ふくれっ面しちゃ駄目だぞ」

 

 微笑ましい親子の会話である。だが、今はそれどころではない。

 

「そんなことより、六神将とか大詠師モースは? 何してんの?」

 

 娘の再度の質問に、二親は小首を傾げて交互に彼らの居場所を口にした。

 前々から思っていたことだが──やっぱり似たもの夫婦である。

 アニスがこうなのは、きっと反面教師に違いない。

 彼女の夢見る玉の輿も、半分は両親の老後を思ってのようだし。

 

「モース様とラルゴ様、ディスト様はキムラスカのバチカルへ行かれたよ」

 

 あの連中に様付けされても正直気色悪いだけだが、彼らにそれを言っても仕方ない。

 

「リグレット様はベルケンドを視察中よ」

 

 ベルケンド? 

 あの老研究者達の姿が浮かぶ。もしもスピノザが、ヴァンに地殻制止の計画を密告していたとしたら──

 嫌な予感がする。

 スィンはアッシュにかかるリスクのことも忘れて、彼に呼びかけた。

 

『アッシュ、頼みがある』

『……っ、なんだ』

『嫌な予感がするから、ベルケンドの研究者たちを──シェリダンあたりに移して! ベルケンドにリグレットがいるっぽいから、悟られないよう注意して!』

 

 じゃっ! と一方的に言いつけ、切断する。

 アッシュには悪いが、手遅れになってからでは遅いのだ。

 

「シンク様は、ラジエイトゲートへ向かわれたな」

「アリエッタ様、アブソーブゲートからこちらに戻られるって連絡があったわ」

 

 誘われているのかと思うくらい、今のダアトは無防備だった。

 年少者二人の行った先は気にかかるものの、一同はさっぱり気にしていない。

 

「お、ちょうどもぬけの殻だな」

「今のうちに、イオン様を連れ出しましょう」

「そうですわね」

 

 好都合だとルークが喜び、善は急げとティアが提案し、ナタリアが合意する。

 

「イオン様は、どちらにおいでですか?」

「先ほどまで図書室においででしたけど、そろそろお部屋に戻られるお時間だと思いますよ」

 

 ジェイドがパメラに尋ねれば、彼女は小首を傾げて快く彼の人の居所を教えてくれた。

 

「よし。イオンに会いに行こうぜ」

 

 ──大丈夫かな? 

 夫妻に礼を述べ、導師の部屋へと続く譜陣の敷かれた部屋へ向かう。

 その最中にも、スィンはこの状況に戸惑うばかりだった。

 都合があまりにも良すぎる。そういえばヴァンの居所を聞き損ねたが、もしも導師の私室で彼が待ち受けていたとしたら? 

 戦いになるのだろうか。それよりも、果たしてあのときのように戦うことは出来るのか──

 

「──臆病な人間は、常に最悪の事態を予想してしまうものなのだそうです」

 

 唐突に、そんなジェイドの呟きが聞こえた。

 

「どうしたんですか、大佐? いきなり……」

「楽観的な人間は常に最高の状況を夢想する、というわけではありませんがね。最悪の事態のみを想定していると視野が狭まります。もう少し柔軟に物事を見たほうがよろしいかと」

 

 不思議がるティアをさておき、ジェイドはそのまま言葉をしめくくった。

 誰に向けたものなのかは彼しか知らないが、おりしもスィンの気がかりと合致している。

 意識しなかった暗い顔に嫌味を言っているのか、慰め、と解釈するべきか。

 微妙なところだった。

 

「──」

「おや、無視ですか? 傷つきますねえ」

 

 ……とりあえず、反応、しなければいけないらしい。

 

「大佐の物言いが突飛過ぎてびっくりしちゃって」

「ははは。びっくりという割に顔は驚いていませんが?」

「びっくりし過ぎて、固まっちゃったんですよ」

 

 突如始まったやりとりに一同が言葉を失くして見守る中、スィンは脱線しかける話題を取り戻すべく呼気を吐いた。

 

「もし、万が一、まさかとは思いますけど、それが慰めなのだとしたら」

「だとしたら?」

「似合わないですよ」

 

 困ったように微笑んでみせるスィンに、ジェイドは軽く目を見開いている。

 強烈な皮肉が返ってくるだろう、と想定していたことがよくわかった。

 

「とりあえず、お礼は言っときます。今度からは気をつけますね」

 

 そうそう簡単に、この男に感情を悟られては困る。

 何食わぬ顔で先を進もうとするスィンの袖を、隣に立ったアニスがちょいちょい、と引っ張った。

 

「ね、何の話?」

「明日は槍が降るかもね、っていう話」

 

 ごまかさないでよ~、と食い下がるアニスをあしらいながら、譜陣に足を乗せる。

 数秒後、一同はイオンの私室へとたどり着いていた。

 結局真相を聞けなかったアニスが、頬を膨らませつつも気を取り直して扉を叩き、駄目押しとばかり、スィンが『イオン様~』とアニスの声色で声をかける。

 程なくして扉は開かれ、白く華奢な手が一同を室内へと招いた。

 一応ここへ来るまで余計な気配はないか、視線も使ってあちこち探ったものの何もないらしい。

 スィンはか細いその手がイオンのものであることを確認して、扉をくぐった。

 全員が私室へ招かれたと同時に、私室と外界を繋ぐ扉は閉ざされる。

 手の主である導師イオンはホッとしたような笑みを浮かべた。

 

「皆さん! ご無事でしたか!」

「イオンがアッシュを寄越してくれたおかげでな」

 

 ルークの言葉に、イオンはふるふると首を振って柔らかく否定している。

 その所作は、この少年らしい無垢さを漂わせていた。

 

「いえ、アッシュが迅速に動いてくれたからですよ。ところで何故またここに戻ってきたんですか?」

 

 最もな質問に、アニスが拳を握って力説する。

 

「イオン様の力が必要なんですよぅ」

「詳しい説明はガイがします」

「……また俺ですか」

 

 ジェイドに押し付けられ、彼は軽く頭をかいた。

 

「代わりましょうか?」

「いや、いい。実は……」

 

 これまでの経緯を簡略に話すガイの一言一句を、イオンは真剣な表情で聞き入っている。

 

「地核の振動周波数測定ですか……僕が知っているセフィロトというと、アブソーブゲートとラジエイトゲートですね。そこならすでにダアト式封咒を解放させられました」

 

 イオンはそう言うものの、ジェイドが首を振った。

 

「そこはプラネットストームの発生地点と収束地点ですから、計測には適さないでしょう」

「じゃあ、どうするんだ? ユリアシティで話を聞くなら、ユリアロードを使うか飛行譜石を取り戻さないと」

 

 しかしイオンは、ルークの提案のひとつを残念そうに否定している。

 

「残念ですが、飛行譜石はディストが持ち去ってしまったようです。ここにはありません」

 

 ということは、飛行譜石は今頃バチカルなのだろうか。

 肌身離さず身につけておくに少々難しい大きさだったと記憶しているが……お願いだからあの飛行安楽椅子に取り付けるような真似だけはしないでほしい。

 

「困りましたわね。他にセフィロトの場所は知りませんの?」

「確証はありませんが、タルタロスでリグレットがこんなことを言っていました。『橋が落ちているから、タタル渓谷のセフィロトは後回しだ』とか……」

 

 ナタリアの問いに、イオンは随分前の出来事を話した。

 その言葉を信じるならば、タタル渓谷には今もなおあの扉が存在していることになる。

 

「そういえば確かに、イスパニア半島にもセフィロトがあるって勉強したな」

「タタル渓谷にはフォンスロットに群生しやすいセレニアの花も咲いていたわ」

 

 ユリアロードを使用しなくてもいいかもしれない。そんな希望が、一行を取り巻いた。

 ただ、タタル渓谷に行くとなると。

 

「行く価値はあると思います。ただ、そこはまだダアト式封咒を解いていません」

 

 それがあるのだ。また彼に負担を背負わせなくてはならない。

 彼にとってそれが重過ぎる荷物であるにもかかわらず、その存在を無視できるわけがないのに、イオンは笑顔で同道を宣言した。

 

「僕がここですべきことは終わりましたから、皆さんにご協力しますよ」

「助かるよ。一緒に行こう」

 

 イオンにとって、これが寿命を縮める旅となるのか、それとも導師として在らなくてもいい息抜き旅行となるのか。

 笑顔でルークと談笑する彼を横目で見つつ、それこそ彼次第だとスィンは思った。

 

 

 

 

 




ディストのお尻から生えているらしい(笑)あの椅子、浮遊機関が搭載されているんだろうか? 
浮遊機関は教団が発掘したものらしいので、シェリダンに移送される前にこっそりレプリカを造って私物化していたりとか。
あーでも、そんなことできるならレプリカをシェリダンに寄越すかも……
件の安楽椅子がふわふわ飛び回る理由も、アビス七不思議のひとつですね。


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第八十唱——忘却よ。汝は罪たるか、幸福のよすがか

 

 

 

 ルークに異変が起こったのは、イオンを伴い教会を出ようとしたそのときである。

 きんっ、と超振動の前兆らしき耳鳴りがしたかと思うと、ルークは頭を抱えてその場にうずくまった。

 

「いってぇ……また……」

「ルーク、大丈夫!?」

 

 うずくまりこそしなかったが、スィンもまた顔をしかめる。

 一同の視線はルークに集中しており、表情を消さずとも済むのは嬉しかった。

 

『……やっと届いたか! 出来損ない野郎』

『アッシュ……か……』

 

 この間と同じように、二人の会話が脳裏で中継される。

 ここでスィンが思念を送ったらどうなるのか。

 試してみたかったが、ルークに知られてもうるさいだけなのでやめた。

 

『悪い知らせだ。スピノザが手紙で地核静止の計画をヴァンに漏らしたらしい。六神将に邪魔されて、スピノザを奪われた』

 

 やっぱり、そうなっちゃったか──

 無意識のうちに顔がひきつる。

 悪い知らせはこれだけにしてほしかったが、はてさて。

 

『なんだと!』

『大した情報を持たないスピノザを力づくで奪ったんだ。奴ら、地核を静止されたら困るのかもしれない』

『ヘンケンさんたちは!? このままじゃ師匠(せんせい)たちに……』

『安心しろ。二人はシェリダン行きの貨物船に乗せた。測定器はあっちで受け取れ』

 

 どうやら間に合った様子である。スィンは小さく息を吐き出した。

 

『おまえはどうするんだ』

『俺は地核振動の意味を探りつつ、引き続きスピノザを捜す。おまえたちと連絡を取り合うのはここまでだ』

 

 耳鳴りが遠のく。

 頭痛が完全に消えたのを確認し、ルークを見やれば、彼はナタリアに詰め寄られている真っ最中だった。

 普段も直情傾向にある彼女だが、こと彼に関わると抑えが利いていない。

 

「ルーク! アッシュは何と言ってきたのです!?」

「……スピノザが俺たちの計画を、ヴァン師匠(せんせい)に知らせたらしい。ヘンケンさんたちは、シェリダンへ逃げたって」

 

 要点だけをしぼったルークの報告を聞き、ジェイドは口惜しげに歯噛みした。

 

「しくじりました。私の責任だ……」

「アンタのせいって訳でもないだろ」

 

 ガイはそう言うものの、彼は首を振って否定している。

 

「立ち聞きに気づかなかったのは、気を抜いていたからです」

「……過ぎたことじゃないですか。気を取られない方がいいですよ」

 

 ぽつりと零したスィンの言葉に、ジェイドは振り返るように彼女を見た。

 しかし、それこそ本当にどうでもよさそうなナタリアに気を引かれ、口にしようとしたらしい言葉を飲み込む。

 

「アッシュは?」

「もう連絡はしないってよ。また独りで動くつもりなんだろ」

「……そう……ですか……」

 

 今後のアッシュの動向を聞いた途端、彼女はしおれた花のようになってしまった。

 ナタリアとしては、王女でないことを知った今──自分が自分でなくなってしまったような不安を抱えているからこそ余計に、アッシュに傍にいてほしかったのかもしれない。

 ルークが、ガイが、そしてスィンが彼女の傍にいる以上、それは難しかったが。

 

「さあ、六神将に知られたなら長居は無用だ」

 

 一挙に暗くなってしまった雰囲気の中、ガイはそれを振り払うように言葉を続けた。

 

「……ナタリアも、いいね?」

「……え、ええ。大丈夫ですわ」

 

 傷心、と称するには少し語弊のあるナタリアの様子を気遣ってか、ガイはそっと彼女に尋ねた。

 

「じゃあ私たちは、シェリダンへ行けばいいのね」

 

 ティアの言葉に一同が頷き、教会を出る。

「あ!」というどこか抜けたような声を聞いてふと前方を見やると。

 そこには、パタパタと軽い足音を立てて一同に歩み寄ってくる女性の姿があった。

 

「あらあらあら、アニスちゃん。アリエッタ様が戻っていらしたわよ」

「うげ! まず……」

 

 確かに彼女は、ここへ戻ってくるとのことだったが、あまりにもバットタイミング過ぎた。

 鉢合わせる前に去ろう、と一同がアイコンタクトをしている間に、彼女は仰天の事実をにこやかに語っている。

 

「確か、アリエッタ様を捜していたのよねえ? 皆さんがいらしたこと、お伝えしておきましたよ」

 

 皆の目が一様に丸まった。

 誰だそんな説明をした奴は! 

 

「ぎゃー! ママ! なんてことすんのっ!」

 

 肉親の不始末に責任を感じてかアニスが悲鳴を上げてパメラを責めるも、彼女は娘の言い分が理解できずにきょとんとしている。

 そこへ。

 

「……シア!?」

 

 造詣が不気味可愛いぬいぐるみを抱く、濃い桃色の髪の少女が現れた。

 後ろには魔物を従えており、信じられないという表情でスィンを見つめている。

 

「アリエッタ……?」

「なんでシアが、アニスたちと一緒にいるの……!?」

 

 パメラに会った時点でいったん解いた変装だが、今はきちんと髪の色も染めているし、眼鏡もかけていた。

 教団の関係者とすれ違っても見咎められなかったのに、どうして彼女は気づいたのか。

 

「……アリエッタ。ライガに聞けばわかると思うけど、僕はあなたの母の仇だよ」

 

 考えてみれば、今まで気づかれなかった方が不思議なのだ。

 グランコクマでガイの正体が知られるまで、ずっと借姿形成で姿こそ偽ってはいたものの、本質的なものは何一つ変えられない。

 それには生き物固有の匂いも存在している。これまで香水でどうにかごまかしてきたが、ストックが切れたため今はつけていない。

 だからライガが、シアの匂いを嗅ぎつけてアリエッタに教えたのだろう。

 

「え……?」

 

 予想通り、彼女は混乱しながらもライガの言葉に耳を傾けていた。

 その幼い顔色が、サァッと青く染まっていく。

 ……と、スィンは思っていたのだが。

 

「どうしてそんな嘘をつくの? この子は、シアはその時倒れてたって言ってる。なんでそいつらをかばうようなことを言うの!?」

 

 どうしてそんな記憶力に優れてるんだその魔物……! 

 あの場に立ち会ったのだから仇の一人としてカウントされるとスィンはタカをくくっていたのだが、イオンと同じく度外視されていたようだった。

 侮りがたしライガ。侮りがたし、狼少女ならぬライガ少女アリエッタ。

 

「お願い、手伝ってなんて言わないから邪魔しないで! アニスはイオン様をアリエッタから取ったの、そっちはママを殺したの!」

「……そうはいかない。どかないなら、力づくで通してもらう」

 

 単純にして明快な答えを聞いても、アリエッタの気持ちが抑えられるわけもなく。

 涙をたたえたその瞳は、やがて眦を吊り上げてスィンを、一行を映した。

 

「ママの……仇!」

「ちょっと、根暗ッタ! こんなトコで暴れたら……」

「アニスなんか大嫌いッ! ママたちの仇、取るんだから!」

 

 アニスの制止を甲高く押しのけ、彼女はぬいぐるみを振りぬく。

 バッ、と前方へと突き出した。

 

「いけぇっ!」

 

 その号令を聞き、ライガたちが同時に飛び出す。

 止められなかった彼女の暴走に一同は素早く戦闘体勢に入った。

 

「アニス! イオン様を!」

「はいっ!」

 

 ジェイドも槍を取り出し、アニスに指示を飛ばす。

 アリエッタは主にイオンという単語に反応していた。

 

「イオン様は渡さないんだからっ!」

 

 その言葉を受けるように、ライガは立ちはだかった前衛二人──ルーク、ガイ両名を突き飛ばす、というよりは轢いていく。

 ガイを轢いたライガは第七音譜術士(セブンスフォニマー)たちを護っていたスィンが引き受けるものの、ルークを轢いたライガはそのまま後ろにいたアニス達に詰め寄った。

 どうもイオンの前に立ちはだかるアニスを狙っているようだが、イオンを傷つけぬように、との配慮は見られない。

 前衛二人はどうにか体を起こしている最中であり、スィンはちょうど引き受けたライガを弾き飛ばしたところだ。加勢できる人材は出払っている。

 その口腔をアニスに、アニスの護るイオンに向け、ライガは咽喉の奥から雷弾を吐き出した。

 トクナガを巨大化する時間もなく、イオンを連れて逃げる暇もない。

 アニスが顔を引きつらせて盾になろうとした次の瞬間。

 

「イオン様! 危ない!」

 

 雷弾と二人の間に、人影が入り込んだ。

 

「きゃぁっ!」

 

 悲鳴を上げて倒れたのは──

 

「パメラ!」

「ママ!?」

 

 教団服に包まれていた背中が無残に焼け爛れている。

 その間にも、イオンに気を取られていたらしいアリエッタをジェイドが捕らえていた。

 

「さあ、お友達を退かせなさい」

「う……! だけど……」

 

 槍をつきつけられても反発しようとするアリエッタに、イオンは鋭く彼女を叱りつける。

 言うべきでないとわかっていても、スィンは続く言葉を抑えなかった。

 

「アリエッタ! パメラを巻き込むのは筋違いでしょう!」

「母殺しとアニスに詰られたいの!?」

 

 恨みを抱かぬ二人の言葉を立て続けに受け、アリエッタははっきりと怯んだ。

 

「イオン様……シア……。みんな、やめて……!」

 

 ライガたちが一斉に彼女の後ろへと控える。

 気を抜かず、ジェイドは鋭く手の空いているナタリアを名指しした。

 

「ナタリア! パメラさんを」

「わかりましたわ」

 

 癒しの光がうずくまったパメラの体を包み込む。

 徐々に回復していく彼女は、どうにか顔を上げてイオンを見上げた。

 途切れ途切れに、尋ねる。

 

「イオン様……怪我は……」

「僕なら大丈夫です。ありがとう、パメラ」

「イオン様を守れたなら、本望です……」

 

 そのやりとりを聞きながら、スィンはなぜか呆然と立ち尽くしているガイへ歩み寄った。

 

「ガイ様、如何なさいましたか?」

 

 じっとイオンたちを見つめる彼に話しかける。

 それを尋ねた途端、彼は急にがくん、と脱力した。

 

「ガイ様!?」

「……思い……出したっ!」

 

 ガイが地面にうずくまる寸前。どうにかその体を支えたスィンは、そんな呟きを耳にした。

 思い出す。

 彼が失っていた記憶とは──たったひとつしかない。

 

「ジェイド、アリエッタはトリトハイムに預けてください。良いように取り計らってくれるはずです」

「わかりました。そちらはパメラさんを──スィン? ガイはどうしたんですか?」

「……すみません。気を静めて差し上げたいので、礼拝堂にお連れします。ガイラルディア様、歩けますか?」

 

 いつになく神妙な面持ちのスィンが、ガイを支えて教会へと向かう。

 ——思い出したとは、どこまでだろうか。

 どこまで話を聞いていて、否、意識はあったのだろうか。

 あの場面は見ていてほしくない、覚えていてほしくない。

 かつての忌まわしい記憶を、感情を排してほじくり返しながら。

 

 

 

 

 



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第八十一章——脳裏に瞬くは、忌まわしき過去の悪夢

 

 

 

 

 

 

 礼拝堂へと赴き、ステンドグラスに描かれた泰然と佇むユリアと第一から第六までの結合譜石の眼前に、ガイを座らせた。

 少し離れた場所では、アリエッタを抑えたジェイドがトリトハイムに事の経緯を説明している。

 あぐらをかいて俯くガイに意識はあるのだが、まともな会話ができる状態ではなかった。

 

「……アリエッタがご迷惑をおかけしましたこと、謹んでお詫び申し上げます」

 

 ふとその声に彼らを見やれば、ジェイドが俯くアリエッタをトリトハイムに引き渡している。

 彼女は無言でぬいぐるみを抱きしめ、トリトハイムの前に立った。

 

「アリエッタ、こちらへ」

「……」

 

 変装と、ガイの傍から離れず、彼に顔を見せなかったのが幸いとなったらしい。

 スィンに──シア・ブリュンヒルドに顧みることなく、謹慎処分が下されるであろう彼女を連れ、トリトハイムは礼拝堂を後とした。

 荘厳な空気漂う礼拝堂に、三人のみが残される。

 

「……スィン」

 

 二人を見送ったジェイドが、こちらに視線を寄越す前に。ガイは呟くように彼女を呼んだ。

 

「はい」

「お前は……あの時のこと、覚えているんだよな」

 

 あの時のこと。それが、その言葉の示すものが。

 

「ホド戦争勃発時のことでしたら、記憶に残っております」

「あの時──」

 

 溜め込んでいたものを吐き出すように、ガイが何かを尋ねようとしたとき。

 唐突に礼拝堂が開き、複数の足音が聞こえた。ガイの傍らに跪いたまま見やる。そこには、先ほど別れた一同の姿があった。

 あちらは、一段落したということか。

 

「パメラさんは?」

「もう大丈夫みたいだ」

 

 スィンが尋ねようとした疑問をジェイドが偶然にも肩代わりしてくれ、ルークの言葉にスィンはホッと胸を撫で下ろした。

 知り合いが知り合いに殺されてしまうのは、あまり歓迎したい事態ではない。

 今度はアニスからアリエッタの所存を問われる。

 

「アリエッタの奴は?」

「イオン様に言われた通り、トリトハイム詠師に引き渡しておきました。まあ、六神将の誰かが戻ってくれば、すぐ解放されるでしょうが」

「ったく、あの根暗女……」

 

 根暗はさておき、アニスにしてみれば自分どころか護衛対象たるイオンにまで害を及ぼすところだったのだ。彼女が今なお憤るのはせん無きことである。

 そして話題は、彼のところにさしかかった。

 

「ガイは……大丈夫なのか? 何か思い出したみたいだったけど……」

「ママも心配してたよ。どうなの?」

 

 ルークに、気を取り直したアニスにそれを問われ、スィンはそれに答えようとして──寸前でやめる。

 ガイが、ものも言わずにすくっ、と立ち上がったからだ。彼らに向き直った主の顔は、すでに平静を取り戻しているようだった。

 

「……ああ。すまないな。あんな時に取り乱して」

「何を思い出したか、聞いてもいいかしら」

 

 謝罪の後に、同じ事を聞きた気だったティアがずばりとそれを尋ねる。

 

「俺の家族が……殺されたときの記憶だよ」

 

 それを告白した彼の顔は、ただただ、哀しみに満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──思い出せるのは毅然としたその声と、ぼんやりとした姿形。

 スィンはガイの正体が発覚するまで彼女の姿を宿していたが、失われた記憶の彼女はもう少し幼く、髪が短かった。

 物腰柔らかな所作と、相反した闊達さと。それらを併せ持つ、気高き人だった。

 

『いいですか、ガイラルディア。おまえは、ガルディオス家の跡取りとして、生き残らねばなりません。ここに隠れて。物音ひとつたてては駄目ですよ』

 

 当時の自分は気弱で、泣き虫で、いつもいつも誰かの背にすがっていた気がする。

 マリィベルに叱られれば兄貴分だったヴァンに、彼に叱責を受ければ自分の従者であるスィンに──

 それでもガイは、大切な者を想う気持ちを知っていた。

 

『姉上!』

『しっ! キムラスカ軍が来たようです。静かになさい。いいですね』

 

 血なまぐさい喧騒が、音となって、振動となって徐々に押し寄せてくる。

 屋敷の奥にある小部屋、そこに据えられた暖炉に隠れるよう言われ、彼は煤にむせながらも身を縮めた。

 

『女子供とて容赦するな! 譜術が使えるなら十分脅威だ!』

 

 これはスィンも聞いた記憶がある。若かりし頃の、ファブレ公爵だ。

 彼自身に遭遇することはなかったが、スィンはこのとき初めて、自分に迫ってきた兵を、人間を斬った。

 試し切りで切った生肉よりも、遥かに生々しい感触。当てることはそこまで難しくなかったが、斬れば血が噴き出すし、しくじれば骨に当たる。生きている人間はとても斬りにくい。

 血と脂でべったりと汚れた刃を見て、そう思ったことは覚えている。

 その間にも──悲劇は、彼の眼前で鮮烈に瞬いたのだろうか。

 

『そこをどけ!』

『そなたこそ下がれ! 下郎!』

 

 小部屋に兵士が押し入ったらしい。マリィベルは暖炉に背を向けたまま、果敢に兵士を牽制している。

 それが彼女の死期を早めたと思うのは、今生きる生者の勝手な妄想なのだろうか。

 

『ええいっ! 邪魔だ!』

 

 戦場にて殺戮の興奮に酔い痴れ、お世辞にも正常な思考を保持しているとはいえない兵士が、剣を振り上げた。

 

『きゃあ──っ!!』

 

 誰かの悲鳴が、木霊して。

 それはマリィベルのものだったのか、はたまた別人の上げたものだったのか。

 とにかくガイは、姉の身を案じた。

 

『姉上!』

 

 幼いその声に兵士が気づき、斧槍(ハルバード)の穂先は彼に向けられる。

 

『ガイ! 危ない!』

 

 突き出された穂先は、振り上げられた刃先は。ガイを捕らえることなく、鮮やかな血飛沫を上げた。

 

『うわぁ──っ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そんな、ことが。

 自分の駆けつける少し前。

 空白の時間の事実を今初めて知り、得体の知れない感情がこみ上げた。

 

「斬られそうになった俺を、姉上がかばってくれた。姉上だけじゃない。メイドたちも、みんな俺をかばおうとして……」

 

 独白が続く中、不意に言葉を止めて視線を彷徨わせる。

 しかしそれは束の間、すぐにその瞳はルークを映し出した。

 

「いつの間にか、俺は姉上たちの遺体の下で、血塗れになって気を失っていた。ペールたちが助けに来てくれた時には、もう俺の記憶は消えちまってたのさ」

 

 え? 

 パッ、とガイの顔を見る。

 見上げた彼の横顔はすでに遠くを見ていて、その視線の先は判別できない。

 

「あなたの女性恐怖症は、そのときの精神的外傷(トラウマ)ですね」

 

 幸いなことに、スィンの狼狽は誰一人気づいていなかった。

 ジェイドも冷静にそれを指摘しているあたり、ガイの独白に集中していたようである。

 ──助かった。

 狼狽を収めて胸を撫で下ろしたスィンだったが、ガイのため息が、自嘲が、我がことのように胸を突いた。

 

「情けないねえ。命をかけて守ってくれた姉上の記憶を、『怖い』なんて思っちまうとは……」

「そんなことねぇよ。おまえ、子供だったんだろ? 軍人が攻め込んできて、目の前でたくさんの人が殺されて、怖いって思うの当たり前だよ」

 

 うつむくガイに、ルークはたどたどしくもフォローを入れる。

 そしてナタリアは、これまでのことを反省していた。

 

「そうですわ。それなのにわたくし、あなたが女性を怖がるの面白がっていましたわ……ごめんなさい」

「……ごめんなさい」

「私も謝らないといけないわ。本当にごめんなさい」

 

 ──申し訳ありません。

 慣れろと言っていたナタリア、むしろ積極的にからかっていたアニス、そして彼の弱点をつついた事があるティアが頭を下げる。

 一瞬、ガイは蚊の鳴くような呟きをかすかに聞き取ったらしく、驚いたようにスィンを見たが、気を取り直したように彼女らを見回して笑声を放った。

 

「……ははっ、何言ってるんだよ。そんなの俺だって忘れてたんだ。キミたちが謝ることじゃないだろ。気にしないでくれ」

 

 そう言われて、素直に頷けることではない。彼女らの気持ちを押し計らってのことだということは明白である。

 それでも彼がそう言ってくれたのなら、と三人は一様に頷いた。

 一段落ついたのを見計らってか、ジェイドが彼の容態を確認している。

 

「ガイ、気分は? もう動けますか?」

「もちろん」

「なら、そろそろダアトを離れましょう。また六神将と鉢合わせては具合が悪い」

 

 パメラの情報が正しければ、アリエッタのように戻ってくるかもしれない六神将はいない。

 それでもヴァンの居所がわからない以上、その可能性は棄て切れなかった。

 

「そうですね。確か、シェリダンへ向かうんでしたよね」

「ああ。俺のことより、ヘンケンたちが心配だ」

 

 さっさと自分のことを話題から外して、ガイはベルケンドの老研究者たちを心配している。

 率先して足を動かし始めたガイへ、ルークは気遣わしげに声をかけた。

 

「ガイ、無理するなよ」

「全然してねぇよ。行くぞ」

 

 礼拝堂、ロビーを経て教会を後にする。

 アリエッタの強襲により、まだ騒然としている街を抜けながら、スィンは先頭からさりげなくしんがりへ移動するガイの姿を見た。

 そんなガイの視線を受け、スィンもまた故意に歩みを遅くする。

 しんがりをガイとスィンが受け持つ形となったとき、彼は前方を見据えたまま口を開いた。

 

「……違ってたのか?」

「何が、ですか?」

「俺が話したことだよ。驚いたような顔をしてたからさ」

 

 気づかれていたか──

 普段よりもずっと強く声を潜め、スィンは泰然と嘘でも真でもない返答をした。

 

「あの場に居合わせていたわけではないので断言はできませんが、あなたの証言と僕の記憶と、食い違う点はありません」

「食い違う点はない……じゃあ、穴が空いているのか?」

 

 否定ができない。

 彼は彼なりに自分の話した出来事が完全な史実でないことを知っているから、だろうか。

 食い下がるガイに、スィンは胸中で苦々しく思いながらも言いよどんだ。

 

「……幼くあられたあなたが、覚えておられないのは無理もありません」

「つまり穴が空いてるんだな?」

「無知は罪とよく言いますが、同時に幸運なことでもあるんです。無理に思い出さないでください、忘却は──」

「罪ではない、とか言ったら怒るぞ」

 

 どうにかはぐらかそうとするスィンの意図を察してか、幾分声音を低くして彼女に詰め寄る。

 

「俺は、あの後何が起こったのかを知りたい。おまえもペールも、知らなくていいの一点張りだったよな。俺がまだ幼いからとか、思い出したくないとか──俺はまだ事実を隠されるほど幼いのか? おまえはまだ過去を振り切ることができないのか?」

「……知らないほうがいいことなんか、世の中には溢れるほどにある」

 

 頷いてしまいたい衝動を押さえ、意識を埋め尽くしかねない記憶の蓋を押さえながら、言いつくろった。

 事実を知りたいということを、彼はけして安易に言っているわけではないだろう。

 それでも、それがわかっていても、スィンは詳細の証言を拒否した。

 

「お話しすることはできません。これを知るに、あなたはあまりにも優しすぎる」

「どういう意味だ。おまえまさか、俺が復讐をしなかったことを軽蔑してるのか?」

 

 徐々に大きくなる声に、何を話しているのかとアニスがこちらを振り返る。

 二人から一番近くにいるジェイドなど、先程から聞き耳を立てていた。

 

「違います」

「だったら──!」

「事実を知って、後悔しないこと」

 

 彼の気持ちが理解できないわけではない。

 古傷を抉ることはこれっぽっちも歓迎できないが、事実を話すことで彼を傷つけることにならないか。

 それだけが、気がかりだった。

 

「おかしな負い目を感じないこと。この話をおじいちゃんにしないこと。後──」

「後?」

「聞きたそうにしている人たちへ。けっして面白い話ではないので、聞かないことをお勧めします。聞いて気分がどうにかなっても、僕は責任持ちません。てか、持てません。それらを納得していただけたら、お話します」

 

 言葉とは裏腹に、冷たいスィンの視線がガイを通過していく。

 そこでガイは、ようやく一同の視線が自分たちへ集中しているのに気がついた。

 

「はっはっは。ばれていましたか♪」

「大佐だけならともかく、他四対の視線にも気づけない間抜けに成り下がった覚えはありません」

 

 とりあえず笑ってごまかしているジェイドに、スィンは冷たく突っ込んだ。

 

「え……えへへ。だってスィン、こないだから隠し事が多すぎるんだもーん」

「わたくしは……その、スィンの異性恐怖症の原因に興味が……」

 

 他二名はノーコメントを貫いているものの、聞き逃す気は見受けられない。

 ため息をついて、スィンは語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──スィンが二人の下へ駆けつけたのは、おそらくマリィベルがガイをかばった直後だと思われる。

 そのときすでにマリィベルは背中を割られて倒れ、兵士は暖炉から這い出て姉に取りすがろうとしたガイに、剣を振りあげる瞬間だった。

 

『ガイラルディア様ッ!』

 

 無我夢中でガイを突き飛ばし、短刀を抜いた気がする。

 あれで何人目の命を屠ったのだろうか。

 確かに覚えているのは、両手では足りなかったということだ。

 

『マリィベル様! マリィ様、しっかりして!』

 

 突き飛ばしたガイよりも、確か血まみれの彼女に取りすがった。

 呼びかけて意識を取り戻させようと、まずそうするしか考えられなかった。

 当時、治癒の術は持たずとも、止血する知識ならあったのに。

 それをすればまだ、彼女は助かっていたかもしれなかったのに。

 

『スィ……ン……』

『気づかれましたか、マリィ様!』

『……ガイ、は……?』

『しゃべらないでください、ガイ様はご無事です』

 

 それをいさめるより前に、手を動かせばよかったのに。

 

『そう……良かった……ガルディオス家の跡取りを護れたなら、本望だわ……』

 

 そう言って、彼女はゆっくりと、痛みにその顔を歪めて起き上がった。

 

『駄目です、動いては傷に触ります!』

『……お願い、スィン……私はいいから、ガイを連れて、早くここから逃げて……』

 

 頷くことなどできなかった。

 今にも崩れ落ちてしまいそうなその体を放っておくことなど、どうしてもできなかったのだ。

 

『逃げるなら、あなた様も一緒です』

『……いいえ。スィン、ガイを護ることが、あなたの務め……あれもこれもと、欲張ってはいけません。己が本分を、果たしなさい……』

『マリィベル様』

『……ガイだけは、どうか、お願い……』

 

 支えるスィンの腕の中で、彼女の体は不意にがくり、と脱力した。

 

『マリィベル、様……? マリィ様? お嬢様?』

 

 まだ暖かい彼女の体を抱きしめ、しばらくスィンは狂ったようにマリィベルを呼んだ。

 どれだけその名を呼ぼうと、彼女の嫌がったお嬢様と呼ぶ言葉にも、彼女はもう二度と返事どころか──反応すらしてくれなかったが。

 

『姉上!』

 

 やがて意識を取り戻した幼い彼の声に、スィンはゆっくりとマリィベルの体を横たえた。

 見開かれていた瞳を閉ざし、最期までスィンを掴んでいたその手を、胸の上で無理やり組み合わせる。

 そうして、スィンはやっと己の守護対象と向かい合った。

 幼い瞳には従者が来てくれた安心感と、姉を思いその姿を探す忙しなさが垣間見える。

 

『ガイラルディア、様……』

『スィン、姉上は? 姉上は、だいじょうぶなのか?』

 

 放心した心のまま、姉の姿を探すガイを抱きしめた。

 そして、その柔らかな腹部に──当て身を入れたのだった。

 屋敷をのさばる無骨な足音を聞きながら、彼を遺体の下敷きにする。

 心はそこで、記憶の解放を拒んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……申し訳ありません。女性恐怖症の直接の原因であろう、ガイ様をみんなの遺体の下敷きにしたの、僕なんです」

「……何だってそんなことを」

「お見せするわけにはいかなかった。知らずにいてほしかったんです」

「……姉上の、死を、か」

 

 言葉を切り、謝罪する。

 明らかな怒気を含むガイの言葉に、スィンは力なく首を振って「違います」と否定した。

 

「確かにご遺体の損傷は、直視するに極めて厳しいものではありました。ですが、僕が言っているのはその後の……僕が異性恐怖症を抱えることとなった、出来事の話です」

 

 どれだけの月日が経とうと、忌まわしい記憶は消滅を知らない。

 大分薄らぎはした。だから今、スィンは当時を思い出して発狂せずにいられる。

 扉一枚を隔てて行われていたのは、まさしく狂気の渦巻く宴であった。

 

「……当時の白光騎士団は、少数の派遣だったそうで。人手不足を補うために素性の知れない傭兵達を起用していたそうです。実際は廃棄可能な駒を欲したようですが、とにかく常軌を逸した連中でした。投降したメイドたちだけでなく、虫の息であった婦人でも、果ては……」

 

 話すうち、記憶の蓋が緩んだらしい。

 掴んでいた片手の甲に爪が突き刺さり、生々しい鮮血が指を滑らせても、脳裏に瞬く悪夢の光景は消えてくれない。

 痛みだけが、理性を引き止める。

 

「死肉を貪るハイエナのように、い、息を引き取られた、マリィベル様にまでっ……! 僕も、例外じゃ、なかった」

 

 ナイマッハの家に属する女であった以上、課せられた仕事をこなすための教育に男女の営みについて学んだことはあった。

 感情だけでなく、欲望によってなされる行為も、知識だけではあったが知っていた。

 だから強制されるであろう行為に対し覚悟することができ、結果かろうじて正気を保つことができた。

 

 

『ちっ、もう死んでやがる……お前、こんなガキでいけるのか?』

『わかってねえなあ、ガキだからいいんだよ。よーしよし、おじさんが今、大人にしてやっからな』

『まー死体よりはいいか。お、イキがいいなあこいつ。次、変わってくれよ』

『はあ、変態の考えることは分かんねえ……俺はこっちの、まだあったかいのにしよ』

 

 

「……僕が壊れる前に、彼らは生命活動を停止しました。ファブレ公爵が当時開発していた殲滅戦用試作毒は空気よりずっと軽いものであったらしく、這いつくばっていた僕には効きが遅かったんです」

 

 だから、試作ガスを吸って意識が混濁するより前に、ガイに防毒布を押し当てることが出来た。

 毛穴から毒素の侵入を防ぐため、彼に覆いかぶさることもできたのだ。

 

「……不謹慎な話ですが、あの時マリィベル様に意識がなくてよかった。あの苦しみは……自分でも耐えられたのが、不思議なくらいでしたから」

 

 肺を直接炎で炙られたような、毛穴のひとつひとつから犯されるような、そんな感覚だった。

 とっさに鼻と口を覆い、目を閉じて、なるたけ体内へ毒素の侵入を抑えたから、スィンは今を生きている。

 呼吸を止めてもいられなかった下賎な傭兵たちが、体中の穴という穴から血潮を吹き出してもがき苦しむ様を見て、ぼんやりと、死の影が自分に差し迫っていることを自覚した。

 今考えてみれば、瘴気よりも即効性が高く、殺傷性も段違いに高かったような気がする。その代わり揮発性も高く、割に素早く大気に分散されたからこそ、ペールも生きていたのだろう。

 もしも。もしもスィンが、この時点で今ほどとはいかずとも、人を屠る経験を持っていたならば。殺し合いに関する知識を、頭だけでなく体で知ってならば。

 彼女は、マリィベル・ラダン・ガルディオスは今も生きていたかもしれないのに。

 

「……だから、まあ、そういうわけで」

 

 これまで努力して、見ようとしなかった一同を初めて見やった。

 言葉こそないものの、皆一様に絶句し、ものの見事に硬直してしまっている。やはり刺激が強すぎたらしい。

 

「この先は、ガイラルディア様の記憶と同じ、おじいちゃんに叩き起こされるところから始まります。穴の空いた部分とは、この辺のことをさすのではないかと」

「……」

 

 うまく動かない口で、ガイが何かを呟きかけた。

 少し戸惑ってから、血の気を失った頬を手のひらでさする。

 

「いくら僕でも、今謝られたり、慰めを頂いたら怒りますよ?」

「……だけど」

「あなたは幼くあられたし、護られるべき存在だった。僕はあなたを護る立場にいて、その責務をまっとうした。マリィベル様をお護りできなかったことについて叱責を受ける義務はあっても、あなたを護るという、その当たり前のことに何かを言われる筋合いはありません」

 

 それが謝罪であれ、感謝であれ、叱責であれ。

 息をすることと同等の行為に、たとえ主といえど口を挟むことは許さない。

 鮮血を滴らせた手の甲、汚れた指先を隠すように後ろへ回す。

 彼を覗き込むようにしながら、にこっ、と笑いかけた。

 

「納得していただけましたか?」

「……ああ」

「それなら幸いです」

 

 ご静聴、ありがとうございました。

 独白の空気を一変させるように、飄々と一礼をして見せる。

 

「あの……スィン」

「んー?」

「ご、ごめんね。聞いちゃいけなかった……」

「んー、まあ、そうだよね。聞きたくないよね、こんなこと」

 

 アニスの謝罪を適当に流し、ふと手元を見た。じわじわと溢れる血が、痛覚を倍増させる。

 歩みを再開する彼らについていきながらも、思い返す過去に理性を繋ぎとめた功労者へ、口づけを贈った。

 鉄錆の味がする。

 

 

 

 

 

 

 




二人の追憶、ホド戦争当時の様子があるためグロ&R-18がほんのり香っていますが、直接表現はないのでセーフだと思いたい。
第八十一唱にして男性恐怖症の理由がようやくはっきりできたわけですが、ガイのものより軽度になっているのはヴァンの協力によるものです。そのため例外としてヴァンは平気。
自分より年上、つまり男性と認識している人物に対して発動する設定ですが、性格が見栄っ張りにつき表には出さないよう心がけています。表に出しているときは、そんな余裕がないときですね。
ちなみに魔物には発動しません……ところで、ガイの女性恐怖症は人間限定なんでしょうか? (笑)


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第八十二唱——新たな紛争を鎮めしは、囁かれた悪魔の呟き

 

 

 

 

 

 

 

 イオンを迎えた一行が、ダアトからシェリダンへと行程を進める。

 ダアトで話された告白の余韻が消える頃、新たな火種は舞い降りた。

 ──シェリダンへ足を踏み入れ、間もない頃である。

 

「あらん、坊やたち」

 

 妙に色気のある声音に振り返れば、そこには濃い桃色の髪に露出過多といって過言ではない服をまとう女が、眼帯に海賊帽、超巨大にして珍妙な襟飾りをつけた男、そして特徴的な髭面にシルクハットを被っていても禿頭だとわかる小男を従えて佇んでいた。

 ノワール、ヨーク、ウルシーの三人である。

 

「お、おまえっ! 漆黒の……」

「よく会うでゲスな。ま、アッシュの旦那に協力してると、あんたたちに関わるんでゲスが……」

 

 ルークの言葉を遮るウルシーの口にしたアッシュという単語に、ナタリアは過剰反応を示した。弓を握りしめ、矢をつがえんと矢筒に手を伸ばしている。

 

「アッシュとあなた方はどういう……」

「金で雇われてるだけさ」

 

 さらりとギブアンドテイクでしかない関係を暴露するヨークに便乗し、ノワールはナタリアの顔を覗き込んだ。

 

「妬かないのよ、お嬢ちゃんv シアを見習いなさいな」

「……僕は関係ない」

 

 過去の偽名とはいえ、自分の名を出されて黙っているわけにはいかない。

 スィンはため息をついてノワールに迫った。

 

「あらん。バチカルじゃあ随分仲が良さそうだったじゃない」

「誤解を招くために発言しないで。意味合いが全く違うし。それで、あんたらなんでここにいるのさ?」

「さっきベルケンドの研究者をここへ運んだところだ」

「アッシュ坊やをあんまりカリカリさせないでネv こっちがとばっちり喰うのよんv」

 

 サービスだ、と言わんばかり、投げキッスを放って悠々と一行の間を抜けていく。

 押し退けられたルーク、体が接触する危険性を感じたガイが飛び退って道を空けたことを一瞥することなく、彼女らは悠々シェリダンを後にした。

 その後姿が荒野へ消える頃、思い出したようにルークがポツリと呟く。

 

「……なあ、俺たちすっかり馴れ合ってるけど、捕まえなくていいのか?」

「でもアッシュに雇われているんでしょう? それなら、ナタリアを逃がすためバチカルで市民を煽動してくれたサーカスの人間はおそらく彼ら……違うかしら、スィン」

「正解! 流石にティアは鋭いね」

 

 そのティアの言葉に頷くように、アニスもジェイドも肯定の意を示した。

 

「なんだかんだで、あの年増に助けられてるんだよねぇ」

「仕方ありませんねぇ。今回も見逃してあげましょうか」

「ま、精々利用してやればいいんだよ」

 

 釈然としない様子のルークに身も蓋もないフォローを入れて、視線をめぐらせる。

 その視界にうつっているのは、以前シェリダンを訪れた際、三人の老人を追って入った集会場だ。

 あそこにいるだろうか、と思うスィンの耳にも、ひそひそ話は届いていた。

 

「きっついなー……」

「私は同意見ですが?」

「わたくしもです」

「アニスちゃんも同意見だけどぉ、言い方がキツイというかなんというか……」

「アッシュのことを出されて不機嫌になったようね。何か関係しているのかしら」

「思わず本音が出た……とか」

 

 ガイの言葉を皮切りに、彼らは各々意見を出し合っている。的外れから的を射ているものもあるが、正直どうでもいい。

 ともあれ、一行は先を行くスィンを追って集会場の前へやってきた。

 そこには、見覚えのある老女二人──タマラにキャシーが、辟易した様子で集会場の扉を眺めている。

 この柔和な二人がこんな顔をしているということは、何かあったのだろうか。

 二人は、一行の姿に気づくとパッと表情を変えた。

 

「おや、あんたたち!」

 

 驚いたようなタマラに続き、眉を顰めたキャシーが確認を取ってくる。

 

「聞いたかしら? スピノザのせいで……」

「ああ、話は聞いてるよ」

 

 ルークが頷くと、彼女は「そうかい……」と申し訳なさそうにうなだれた。仲間がしでかしてしまったこと、という負い目があるのだろう。

 が、しかし。

 

「キャシーさんは……怪我もないようですね。ご無事で何よりです」

 

 ガイの一言により、彼女は突如頬を赤らめてちらちらと彼を見だした。申し訳なさそうな表情は見事に消えている。

 

「あ、あら、イヤだわ。こんないい男に心配されるなんて……」

「なんだい、キャシー。隅に置けないねぇ」

 

 どこまでも現役な二人に、ガイは眉尻を下げて否定した。

 口のまわるフェミニスト色男の、悲しい宿命という奴だろうか。

 

「……いや、そういう訳じゃ……」

「ガイは『マダムキラー』の称号を手に入れました」

「なんでそうなるんだ!」

「そうですよ大佐。そこは『ストライクゾーンはゆりかごから墓場まで』全年齢ジゴロの称号じゃないと!」

「そういう問題じゃない!」

 

 ジェイドとアニスの黄金コンビにいじられ怒鳴るガイをまあまあ、と押しとどめ、スィンはそれまくった話題を修正した。

 

「ところで、お二人はここで何を?」

「ああ……ちょっと『い組』と『め組』の対立に嫌気がさしてね」

「入ればわかるよ」

 

 促され、一同と顔を見合わせてから扉を押し開ける。すると、威勢のいい怒鳴り声が鼓膜を直撃した。

 

「……そんな風に心が狭いから、あのとき単位を落としたんだ!」

「うるさいわい! そっちこそ、仲間に売られたんじゃろが! 文句を言うなら出ていけ!」

「そうじゃそうじゃ!」

 

 ヘンケンが文句をいい、イエモンが応戦をしている。イエモンを煽っているのはアストンだ。

 集会場の、段上にあるテーブルにて。老人たちはそれを挟み、にらみ合う闘犬同士のように唸りあっていた。

 

「……こんにちは、お三方」

「おや、あんたたち!」

 

 控えめなスィンの挨拶により、彼らはころっと表情を変えて一行を見下ろしている。

 

「おお! 振動周波数の測定器は完成させたぞ」

「わしらの力を借りてな」

 

 ヘンケンが自慢げにそれを報告すれば、アストンが嫌みったらしく混ぜっ返す。

「道具を借りただけだ」と、ヘンケンは素早く言い返した。

 

「元気なじーさんたちだなぁ……」

「皆さん落ち着いて。喧嘩はやめてください」

「測定器はお預かりします」

 

 噂に聞くだけあってガイはのんびりと老人たちのいがみ合いを傍観しているが、免疫のないティアは生真面目に仲裁しようとしている。

 そんな中、どさくさで壊れてもかなわないとばかり、ジェイドがそそくさと譜業の回収をしていた。

 

「話は聞いたぞい。振動数を測定した後は、地核の振動に同じ振動を加えて揺れをうち消すんじゃな?」

 

 その問いに、「はい」とジェイドが答えれば、尋ねたイエモンではなくなぜかヘンケンが眉間に軽く皺を刻む。

 

「地核の圧力に負けずに、それだけの振動を生み出す装置を作るとなると、大変だな」

 

 ところがイエモンは、まるでその言葉を待っていたように「ひっひっひっ」と笑った。

 

「その役目、わしらシェリダンめ組に任せてくれれば、丈夫な装置を作ってやるぞい」

「360度全方位に振動を発生させる精密な演算機は、俺たちベルケンドい組以外には作れないと思うねぇ」

 

 ところがヘンケンも負けてはいない。もっともらしいこと──というより、彼らの得意分野を取り出して一行にしっかりアピールしている。

 

「100勝目を先に取ろうって魂胆か?」

「お前らは浮遊機関を独占できたんじゃ、それくらいこっちに譲らんか!」

「あれはシェリダンめ組に実力あり、とダアトで判断されたからであって──」

 

 正確にはちょっと違う。

 発掘班班長にしてそこそこ音機関にも通じていたスィンが、音機関の仕組みを得意とする『い組』より、それを支援する外装を得意とする『め組』のほうが適任だと判断して預けたのだ。

 発見された浮遊機関は思いのほか保存状態が良好だったために大掛かりなメンテナンス程度で済んだから、どちらかといえば外装に力をいれてもらいたかったのである。

 ベルケンドはヴァンの管轄にあっただけに、当時は一つずつ分けないかと揉めたが、せっかく見つけた浮遊機関なのだからしっかり復活を遂げてもらおうと、得意分野である彼らに預けた。

 それが真相だが、今話したところであまり意味はない。

 終わらぬ言い合いに辟易したナタリアが、そしてイオンが両極端な方法で双方をなだめた。

 

「睨み合ってる場合ですの!? このオールドラントに危険が迫っているのに、い組もめ組もありませんわ!」

「そうですよ。皆さんが協力して下されば、この計画はより完璧になります」

「おじーちゃんたち、いい歳なんだから仲良くしなよぉ」

 

 とどめとばかりアニスも仲裁に入るが、彼らに聞き入れる気配はない。

 どうしたものか、と一行が目配せをする中、スィンが彼らの前へ歩みでた。

 気持ち低めの、囁くような声が、何故か集会場に響いてこもる。

 

「……あのですね、め組さん。いい加減にしないと、もう一台の浮遊機関を正式に返還要求しますよ」

 

 その言葉を聞き、イエモン、アストンはまさしく死の宣告でも受けたかのように硬直した。

 

「過去を忘れて仲良くしろとは言いません。キムラスカとマルクトが長年のにらみ合いを経て戦争を引き起こしてしまったように、あなた方が和解できないのもまた必然なのかもしれません。しかし、これは僕たちによる正規の依頼です。公私混同をするような方々に、古代遺産すべてをお預けすることはできません」

「い、いや、しかし……」

「アルビオールに搭載された浮遊機関に関してはすでにそちらへ権利を譲渡いたしましたが、二号機、いえ三号機が完成してない以上、所有権利は一応ダアトに帰属しますので」

 

 想定された質問内容を先取りして、彼らを黙らせる。

 それをいい気味だ、と言わんばかりに眺めていたヘンケンにも、スィンは向き直り硬直させた。

 

「それと、ヘンケンさ……い組さん。そちらもいい加減にしていただかないと、スピノザの命の保証はできません」

「な……!」

「彼の密告により、こちらには甚大な被害が想定されます。この度は彼のしたことをこの計画によってあがなっていただくことにいたしました。それが不可能だった場合は、もちろん彼自身の命をもってこの事態を引き起こしたことの責任を果たしていただきます。彼の命など知ったことではない、というのなら、どうぞご自由に意地を張るなり我を通すなりしてください」

 

 すべてはそちら次第だ、と締めくくり、スィンはゆっくりと腕を組んだ。

 

「ちょ、ちょっと待った! あんた、あの浮遊機関発掘の責任者か何かか!」

「多少異なりますが、そう考えてくださって結構です」

「どうして『め組』に浮遊機関を独占──!」

「浮遊機関による飛行実験は、土地柄の都合上シェリダンで行ったほうがいいと判断されたから、ですけど」

 

 どちらの組を擁護することもない、手本のような答えである。同時に、それは真実だった。加えて、浮遊機関の所有権の話も事実だ。

 その気になれば、スィンはダアトを──イオンを通していつでも返還要求ができる。

 彼女がダアトを離れた年、大規模人事異動が行われたために浮遊機関云々は誰にも引き継がれないままうやむやに処理されてしまった。そのため、書類上保持責任者は『シア・ブリュンヒルド』のままだ。

 それはさておき、とりあえず彼らは顔を見合わせ、イエモンが唸るように呟いた。

 

「……わしらが、地核の揺れを抑える装置の外側を造る。おまえらは……」

「わかっとる! 演算機は任せろ」

 

 どうにか納得してくれたようである。

 次の瞬間、二人は誰に対しても聞こえるような声音でそれぞれ呟いていた。

 

「なんせ浮遊機関がかかっとるんじゃからのう」

「なんせスピノザの命がかかっとるんじゃからな」

 

 男とは、本っ当に頑固な生き物である。

 未だ左の小指にはまっている指環を無意識に触りながら、スィンはため息をついた。

 どうにかまとまった話に、ルークは嬉々として激励を送っている。

 

「よーしっ。頼むぜ、『い組』さんに『め組』さん!」

「私たちはタタル渓谷へ向かいましょう」

 

 ジェイドが携えた測定器を見やり、ティアが提案して一同は集会場を去った。

 ふとナタリアが、「それにしても」と呟く。

 

「スィン。今のお話は事実ですの?」

「所有権利の話なら。実際行うとしたら、イオン様経由でやるしかないけどね」

「スピノザの方は……」

「状況によるよ。あの人に死んでもらったところで利益はなさげだから」

 

 正直な話、どちらでもよかったというのがスィンの本音である。

 それでスピノザなどどうでもいい、という話になったら、建前だけでも『め組かっこに全権を委ねると言い切ってしまえばいいだけだ。

 求める結果に差異はない。

 

「しっかしまあ……うまくまとめたもんだなー」

「ああいう人種には、言い訳が必要なんですよ。特にお年を召された方にはね」

 

 ガイの言葉に、スィンは心なしか弾んだ声で応答している。

 

「スィンー、嬉しそうだねぇ」

「主に褒めてもらって、喜ばない従者はいないよ。アニスはイオン様に褒められて、嬉しくない?」

「そりゃ嬉しいけど、さ……」

 

 彼女の言いたいことに、気づけなかったわけではない。

 それでもスィンは、自分がどの立場に立つのかを決めてしまっている。

 主の複雑な表情に気づかぬフリをしながら、彼女は荒野の向こうを見据えた。

 

 

 

 

 

 

 



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第八十三唱——忍び寄るは昏き影。迎合するは疾風と電影の意思。

 

 

 

 

 

 

 

 さやさやと、風は草原を駆け抜けた。セレニアの花は可憐に揺れ、どこからかさらさらと清水の旅する音がする。

 もはや劣化タルタロスと化しているアルビオールに乗って、一行はタタル渓谷へたどり着いた。

 スィンはルークの背でのんびり眠っていたために覚えていないが、ここがタタル渓谷の出入り口にあたる場所なのだろう。

 昼と夜の違いか、印象は驚くほど異なっていた。

 魔物の気配さえなければ、その辺に寝転がって惰眠を貪りたくなるような、お弁当を持ってピクニックでもしたくなるような、心休まる風景なのだ。

 同じことを考えたのだろうか。歩を進めるうち、ルークがぽつりと呟いた。

 

「前に来たときには、セフィロトらしい場所はなかったと思ったけどな」

「あの時は夜だったから、見落とした場所があるのかもしれないわ」

 

 そしてティアが何気なく応じたとき。本気か冗談か、多感な少女は敏感に反応した。

 

「あれぇ? 夜中に二人でこんなトコにきた訳ぇ? あ~やし~いv」

「……んまあ、ルーク! あなた、ティアとそんなことになっていましたの!?」

 

 そして、王室において純粋培養されていた彼女がしっかりと誤解している。

 これまでの道程において、どこにそんな暇があったというのだろうか。冷静に考えればその答えに行き着くはずなのだが、彼はしっかり困惑していた。

 

「ちょ、ちょっと待て! なんでそうなってんだよ!」

 

 こういうことには免疫がないのは知っている。しかし、こんな反応を返すと逆に怪しい。

 

「そうじゃなくて、前にバチカルから飛ばされたとき……それにあの時はスィンだって「ありえないから」

 

 助けを求めるようにスィンへ視線をやりながら、もたもたと事実を話そうとするうち、ティアがすっぱりと否定した。

 その声音から、彼女が何を思っているのかは想像に難い。難すぎた。

 ぽかんとしたようなルークに背を向け、さっさと歩みだす。かと思えばふと視線をめぐらせて、彼女は全員に対して尋ねた。

 

「何してるの? 行きましょう」

「……なんかむかつく」

 

 先を行く彼女には聞こえぬよう、ぽつりと呟くその隣で。ガイもまた、同意を示した。

 ついでにこの人まで。

 

「きっつー……」

「そうですねぇ」

「楽しそうだな、大佐」

 

 同意は示しているものの、胡散臭い笑みはどちらというと深まっている。

 それを目ざとく見つけたガイが追求するも、彼はあっさりそれを認めた。

 

「ええ、楽しんでます」

「……嫌な奴」

「ところでスィン。地面に何かあるんですか?」

 

 ジェイドの言葉に、一同が彼女へ視線を集める。

 当のスィンは、自分の足元を見つめて漠然と佇んでいた。ジェイドの言葉に、反応を返そうとしない。

 

「スィン?」

「……はい」

 

 妙に思ったガイの言葉に応答するものの、顔を上げようとしないし、足を動かそうともしない。

 

「どうした?」

「……頭が痛いんです。耳鳴りがします。お声が、非常に聞き取りづらくなっています」

「やれやれ。その年で難聴ですか?」

「……」

「反応しませんね。本当のようです」

「その前に嘘をつく意味がないように思いますが……スィン、大丈夫ですか?」

 

 イオンの言葉にも答えぬまま、そのままの状態で沈黙が続いたかと思うと、突然彼女はしゃがみこんだ。

 

「スィン!?」

 

 故意にしゃがむというよりは、急激な脱力による地面への激突から、膝を守ろうとした形である。

 胸を抑えていた手が、突如として喉を掻きむしった。

 皮膚を引っ掻くに留まらず、爪が食い込み——

 

「自傷するのは勝手ですが、いい加減立ち直ってください。置いていきますよ?」

「──難しい注文つけないでください」

 

 ゆるゆると上げられた顔、特に額には大粒の汗がにじんでいる。

 ひとつ、深呼吸をした後に、スィンは勢いをつけて立ち上がった。

 

「申し訳ありません。もう大丈夫です、参りましょう」

「いきなりどうしたんだ? 座り込んで……」

「先ほど申し上げた症状と、眩暈がして。昨日見張り番だったのに、睡眠をとらなかったせいかもしれません」

 

 ──それも関与しているかもしれない。主な原因は、まったく違うものだが。

 そもそも今の症状は、初めてというわけではない。

 今回は偶然見せてしまったが、これまでは他者に見せないよう薬を飲むとか部屋にこもるとか路地裏に潜むとか、それなりに工夫はしてきた。

 しかし今来たのは、格別──というより、おかしな雑音が混じっている感じなのだ。

 耳鳴りがする中、耳ではない脳裏で複数の誰かが好き勝手に喚くような、それだけで頭痛がするような感覚に陥った。

 

「戦えますか?」

「今は収まったので平気ですけど、ヤバくなったら下がります。アニス、イオン様の護衛代わってね」

「いいけど、イオン様に怪我させないでよ~?」

 

 以前は赴かなかった川の対岸へ渡りセフィロトへの入り口を探す最中。不意にスィンが「ミュウ」とチーグルの仔を呼んだ。

 

「あそこの崖、壊してみてくれない?」

「わかりましたですの!」

 

 ルークの傍を離れ、ミュウはちょこちょこと指摘された崖へ近寄るとぴょいん、と跳ねた。

 

「アターック!」

 

 どごぉっ! 

 

 くるりと丸まった、小さな毛玉にも似た体が岩盤にぶち当たりすべてを砕く。

 がらがらと崩れた先には、ぽっかりと開いた空間が存在していた。

 ところが。

 

「……外した」

 

 空洞の内装を一目見るなり、スィンはちっ、と舌を打ってそっぽを向き、新たに疑わしい場所を探し始めたのである。

 不思議に思ったアニスが中をのぞいて首を傾げた。

 内装はこれまで見てきたセフィロト内部に近いもので、彼女の言うような外れとはほど遠い。

 

「へ? ここじゃないの?」

「ボ、ボク、何か失敗したですの!?」

 

 意表を突かれたアニスと、不安に大きな瞳を潤ませて尋ねるミュウ。

 スィンは双方に対し首を振って見せた。

 

「ミュウがしくじったとかじゃなくて。妙な空洞が見えたから扉はここかと思ったんだけど、違ったみたい。セフィロトの入り口みたいには見えるけど、多分違うよ」

「ですが、探索してみる意味はありませんこと?」

 

 ミュウが岩を崩す音を聞きつけ、それまで四方に分かれて探索していた一同が集まってくる。

 

「そうね。ひょっとしたら中にあるのかもしれないわ」

「……そうかなあ。これまで扉をくぐったら、雰囲気が一変したんだからそんなことないような気も……」

「いえ、探索をしてみる価値はあります。もしかしたらイオン様に負担をかけず、セフィロトまで到達できるかもしれません」

 

 興味津々に中を覗き込むジェイドの言葉に、アニスはまんまと引きずられた。

 

「そっか、確かにそうかも! イオン様の手を煩わせずに済みます!」

「行ってみよう!」

 

 ぞろぞろと中へ入っていく一行を見つつ、思わずため息が零れた。

 そんなはずがない。もし月日の流れで遺跡が老朽化し、このような裏道ができたとしても、セフィロトへの道は扉をくぐらない限り開かれない仕組みになっているはずなのだ。

 もしかしたら、そういう罠になっているかもしれないのに──

 

「ま、行ってみようぜ。罠だったら罠だったで、俺たちで切り抜ける。たまには油断する奴だっているだろうし」

 

 長きに渡る付き合いのためか。

 スィンのため息の意味を知り、軽く背を叩いたのはガイだった。

 

「……はい」

 

 視線を巡らせ、とりあえずそれらしいものが存在しないことを確認してから足を踏み出す。

 独特の雰囲気漂う遺跡の床を、一歩踏みしめた次の瞬間。

 

「っ!」

 

 違和感が生じる。

 ガイが先を行ったことを確認し、指に召喚の螺旋が巻きついていることを確かめた。

 

『あ、やっと気づいてくれた。シカトなんてひどいよ~』

『……誰』

『初めまして~! アタシ、シルフっていいま~す』

 

 年の頃はアニス程度と思われる、女の子の甲高い声が頭をがんがん駆け巡る。

 幼女系かよ馴れ馴れしい、と思った次の瞬間。

 

『幼女は嫌い? じゃ、も少し成長しようか』

 

 ──ティアか、ナタリア程度と思われる声が響いた。

 そうだ。第三音素(サードフォニム)は風を、派生して雷を司る。風も雷も、正体は儚い。

 従って決まった姿はないのではと、スィン自身も推測したことだった。

 

『せいか~い。ま、そのくらい頭は回って当たり前よね。アタシたちのご主人様だもん』

『……シルフも、契約を結びに来たの?』

『そだよ。ねーさん──ウンディーネねーさんが、あなたと契約を交わした瞬間皆に通告したの。皆で契約を交わして、約束を守らせよーってね』

 

 ──なんちゅう厄介なことを。

 

『まあまあ、そんなこと言わない。命は屠れないけど、手ぇ貸したげるんだからさ。損はさせないよ』

『……異論は、ないけどね。え~と……僕の命がある限り、預言の消滅に全力を尽くす。それをシルフに誓う』

『──あなたにその意思がある限り、アタシ達もあなたに従うことを誓うよ』

 

 螺旋を描く指環の一部分が輝く。それを確認し、シルフの気配は消えるはずだった。

 ところが。

 

『ねーねー。あんたってさ、あの中の誰かと付き合ってんの?』

 

 彼女は未だにスィンの脳裏を姦しい声で響かせていた。

 

『はあ?』

『人間なんか久々にマジマジ見たけど~、イケメン君ばっかじゃん! あの眼鏡ロングの人? 金髪のナイスガイもい~なぁ! 夕日色の髪の坊やはちょ~っと幼いけど、そこがたまんないかも~!!』

 

 ──なんだこの、俗世に浸りまくってる意識集合体は! 

 

『アタシは風なの! 威厳とか成長とか、そういうの知らない代わりにいつまでも若いの、ピッチピチなの! こういう心を失った瞬間、枯れたことになっちゃうんだよ! ねえ、誰狙ってる?』

『誰も狙ってません。そういうのは、しばらく考えられないです』

『ええ~っ!?』

 

 人間ナイズされすぎているリアクションに、うるさいなあ、と思った瞬間。

 スィンは息の根が止まるほど驚かされた。

 

『なるほどな。あんたを見て、なんでウンディーネの奴が全員に契約を結ばせようとしてるのか、判った』

 

 突如シルフの甲高い声が消え、低く割と渋い男声が脳裏に木霊したのだ。

 

「スィン! どした?」

 

 ガイの、主の声が聞こえる。しかし、彼女はその場から動くことができなかった。

 

『な、何奴!?』

『はじめまして、我が主。我が名はヴォルト、シルフとは従兄弟にあたる』

 

 ……意識集合体にも従兄弟とかあるんかい。

 実に静かにスィンは突っ込んだ。

 確かに、風と雷は同じ第三音素(サードフォニム)に分類されているけれど。

 

『……あなたとも、契約を交わしたほうがいいのかなあ?』

『俺との契約は、シルフの契約に含まれている。それに俺は、シルフと違ってそうそう頻繁に力は貸せん。それほどこの力を必要とせんだろう』

『そんなことないよ。殺さなくても敵を痺れさせる、とか……あ』

 

 以前ウンディーネが語っていたことを思い出し、スィンは思わず口に手を当てた。

 

『そう。可能ではあるが、我らは命に手出しすることを極端に嫌う。契約が破られた時、あるいは我らの力を用いて命が屠られた瞬間、汝は……』

『契約を交わした者達により、強制的に音素(フォニム)へ還される、だったかな?』

『然り』

 

 それは古代秘譜術を独学で学んだ際、なぜかディストが所持していた関連する考察を読んで把握したことである。驚くに価はしない。

 そこでちょっとした会話の途切れを狙ってか、またもや脳裏に姦しい声が響き渡った。

 

『ちょっとヴォルト~! 主はアタシと話してたんだからぁ、割り込まないでよね!』

『なんだ、妬いているのか? シルフ』

『はぁ? 誰が、誰にぃ? 自意識過剰も大概にしなさいよ、ぼると!』

『だ、誰がぼるとだ、俺はヴォルトだ!』

『あんたみたいな勘違いおばか、ぼるとでじゅーぶん! ねえねえ、それでさ……』

 

 ──訂正。シルフだけじゃなくて、ヴォルトも十分人間ナイズされている。

 同じ音素(フォニム)なのだから、同じ性質であることは、仕方のないことなのかもしれないが。

 ヴォルトの言う、『ウンディーネがスィンに契約を迫る理由』は気になるが、とにかく今はガイが呼んでいる。

 そろそろ行かなければ。

 

『シルフとヴォルトに願う』

『え? 何?』

『黙れ』

 

 やっと静かになった。

 今参ります、と遅ればせながら返事をし、駆け足で追いつく。

 

「どうですか? こちらには、何もないようですけど」

「こっちもだ。罠がない代わりに、行き止まりになっちまってる。ただ……」

 

 ガイの指すその方向は、今まさに一同も注目する物体であった。

 

「あれって……」

「ザオ遺跡でも見たな。確か、音素(フォニム)が集中してるフォンスロットだっけ」

 

 自らが輝きを放つ、宙に浮いた結晶。件のザオ遺跡のものとは、色素が大幅に異なっている。

 

「ここにもあったですのー!」

 

 これぞまさに自然の恩恵たる結合音素を前に見とれる一同をさておいて、ミュウは歓喜にぴょこぴょこ跳ねながらフォンスロットへ駆け寄った。

 ふとスィンがいることに気づいたジェイドが、わざとらしいため息をついている。

 

「スィンの言葉に軍配が上がりましたが、ミュウが喜んでいるので帳消しになりませんかねえ?」

「……いいんじゃないですかね、別に。それで、いつ貸し借りの話なんかしたんです?」

「おや、謙虚ですねえ。あなたのことですから、鬼の首でも獲ったかのように勝ち誇ると思ったんですが」

「子供じゃあるまいし、この程度では喜べませんよ」

 

 どうも最近ギスギスしまくっている二人をネタに、残る人員はひそひそと言葉を交わしていた。

 発端は、長らく一同と離れていたイオンの疑問である。

 

「あの、ところでスィンとジェイドはいつからあのような……?」

「もともとあまり仲良くはなかったようなのですが、つい最近です。何かあったのかもしれません」

「だよねえ。なんか大佐が二人いるみたーい」

「頷きたくないんだが、否定できないな……」

「あれかよ、スィンがジェイドナイズされてきてるのか?」

「まあ! スィンは大佐に似てきているんですの?」

「誰がコレに似てきてるだってぇ!」

 

 好き勝手な議論を交わす面々に、会話丸聞こえだったスィンが吼えた。

 コレ呼ばわりされたジェイドはというと、その辺りだけはスルーしている。

 その辺りだけ。

 

「おやおや、これは心外ですねえ。私に似てきているなら、このような場面においても冷静沈着に若人をたしなめることができるはずですが」

「こっちの台詞だ、この若年寄! 僕、こんな嫌味な奴ナイズされてないもん!」

「……そういう言動に加えて短気を起こすから、童顔なんじゃないですか?」

「顔は関係ない! ついでに、人のこと言える顔か!」

 

 確かにそうかもしれないが……スィンがよく自称する『淑女』は、子供のようにくってかかったり喚きたてたりはしない。

 とはいえ、普段は高確率でジェイドの嫌味を聞き流しているのだ。たまに聞き流せず、今のような過剰反応を起こしているが、それが彼女の若さ、もとい瑞々しい感性を保っているのだとしたら、それが若く──というより、幼く見られる原因なのかもしれない。

 年功序列№1,2の言い争いはさておいて、ルークは一人静かにソーサラーリングをフォンスロットにあてがっているミュウへ声をかけた。

 

「おい、ミュウ。今回はどうなんだ?」

「このあたりだと、第三音素(サードフォニム)かしら」

「確か、ソーサラーリングに譜が刻まれるんだったよな」

 

 何の音素がソーサラーリングにあてがわれているのかをティアが推測し、それに答えたガイがリングの影響を思い出す。

 

「みゅううぅぅ」

 

 そして小さな施術者当人はといえば、独特な興奮をあらわとしていた。

 

「来──た──で──す──の──!!」

 

 朧な結晶はその姿を失くし、ミュウは小さな体を震わせるたかと思うと、えいやっ、とばかりに飛んだ。

 ふにふにとした耳を翼とし、何の比喩でもなく、物理的に。

 小さなチーグルが、この場にいる人間の身長以上に飛び、滞空しているその姿によって発生した沈黙を、一番に破ったのはアニスだった。

 

「……と、飛んでる」

「すげぇっ!」

「かわいい……」

 

 どこか呆れたようにアニスが呟いたように対し、ルークは素直に驚きを示し、ティアは蚊のなくような声でぽそりと呟いている。

 

「ご主人様! ボク、飛んでるですの! やったですの!」

「なあ、ちょっと掴まらせ……へ?」

 

 一体何がやった、のだろうか。

 そんなツッコミをするのもはばかられる空気の中、申し出たルークの目を丸くさせた人物がいた。

 

「まぁ」

「はは、なんだか絵になるな」

 

 ナタリアは口に手をやり、ガイはどこが? と尋ねたくなるような感想を呟いている。

 確かに単体であれば、双方絵になるモチーフであるのだが……

 

「ティア! ずりーぞ!」

 

 そう。滞空し続けるミュウのソーサラーリングを掴み、彼と共に滞空するのは巷でクールビューティーとあだ名されるティアであった。

 

「ご、ごめんなさい。だけど……楽しい……」

 

 ……正直な話。何が楽しいのかスィンにはまったく理解ができないが、他の女性陣はそうでもないらしい。

 

「いいなー! 私も! 私も!」

「わたくしも飛びたいですわ!」

「みゅううぅぅぅ……」

 

 次々と、滞空体験を申し出る面々に、ミュウはどうにか応じている。

 切なげなその声に、思わずガイが反応していた。

 

「……おいおい、かわいそうだろう?」

「いいんじゃないですか? あれはいじられて伸びる性格ですよ」

「……何がのびるんだよ、何が」

 

 呆れたように突っ込むガイに「様々なものが、ですよ」と返して、彼は女性陣で唯一参加しなかったスィンへ話を振った。

 

「ときに、あなたは参加しなくていいのですか?」

「いや、空を飛ぶのはもうニル……じゃない、アルビオールで体験してますし?」

 

 思わず飛び出した名前をどうにか訂正し、擬似飛行体験で盛り上がる若者たちを見る。

 ──単身で空を飛ぶなら、もっと自由自在に動き回れた方がいいに決まってる。

 足が大地から、重力という束縛から解き放たれた爽快感。奔放な風を肌で感じ、その風と共に広大な天空を舞う、その心地よさならすでにスィンは知っていた。

 もはや失われてしまったホドに関連するその事柄を、率先して話すつもりは毛頭なかったが。

 

「……スィン?」

「ちょっと思い出しただけです」

 

 何でもありませんよ、と返して、未だにアトラクション扱いされているミュウの元へと赴く。

 ソーサラーリングを確認する名目でミュウを休ませるスィンを、大人な二人は同様に見つめていた。

 

「困った人ですね。くだらない口論には応じても、肝心なことは何一つ話そうとしない」

「……そうだな。生まれてからずっと付き合ってる身としては、寂しいよ」

「あなたに対しては、どうしてもそうなってしまうでしょうね。従者として、姉として、あなたを煩わせないために。私たちは日が浅いためにどうしてもそうすることが必然なのでしょうが、鬱憤を溜めるのは体に毒です。それを知らないわけでもないでしょうに」

「──へえ。天下の死霊使い(ネクロマンサー)殿が、異母とはいえ俺の姉貴を心配するのか。珍しいもん聞いちまったな」

 

 珍しく雄弁なジェイドを茶化すようにガイは言ったのだが、彼は微塵にも動揺していない。

 むしろ、続く言葉でガイが言葉をなくしている。

 

「では、珍しいものを聞かせてあげたお礼として、これからは義兄さんと呼んでくれてかまいませんよ?」

「……ハ?」

「考えてみれば、スィンはガイの言うことならほぼ無条件で聞き入れていますからねえ……もしあなたが、ガルディオス家を再興させるためカーティス家と手を結びたいと考えたなら、私と彼女をくっつけるのが手っ取り早いと思いま「さ、皆! だべってないで、そろそろセフィロトの入り口を探しに行こうぜー!」

 

 本気なのか冗談かもわからないジェイドの言だが、残念なことにガイは彼が何を言おうとしているのかを悟ってしまった。

 どちらであれ、最後まで聞く耳は持たないと耳を塞いで、彼は仲間たちの、スィンの元へと歩み、もとい避難している。

 わざとらしいにもほどがある、棒読みで。

 

「どうしたんですか、ガイ様? やけにお声が裏返っていますが……」

「ああ、スィン! 俺はお前のウェディングドレス姿なんか見たくないからな!」

「は?」

「頼むから、一生俺の傍にいてくれよ!」

「はあ。可能な限りは」

 

 突如脈絡もなくわけのわからないことを宣い出したガイに首を傾げつつも、一体何をしたのかといわんばかりにジェイドを見やる。

 彼はデフォルトの胡散臭い笑みを浮かべ、突っ立っているだけだった。

 

「……大佐。ガイ様に何を言ったんです?」

「いえね。ガイにあなたをくだ「さー、行きましょうかー」

 

 みなまで聞かず、また馬鹿なことをと呟きながらスタスタと、ガイを伴って出口へ向かう。

 ひんやりとした風が、からかうように吹き抜けた。

 

 

 

 

 

 



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第八十四唱——追憶をかすめしは、懐かしくも愛しい命たち

 

 

 

 

 

 

 高濃度フォンスロットの他に、これといってめぼしいものが見当たらなかった遺跡を出で、一行は探索を続けていた。

 先ほどの場所からは一転、奈落の底へ続いていそうな崖にでくわした、その矢先。

 

「あ~~~~~っ!?」

 

 突如叫びだしたアニスの言葉に、ティアが目を白黒させながら尋ねた。

 

「どうしたの、アニス」

 

 当人と言えば、彼女の言葉に耳を貸した様子もなく懸命に空を注視している。

 その先には、ひらひらと舞い踊る妖精にも似た可憐な姿があった。

 

「あれは、幻の『青色ゴルゴンホド揚羽』!」

 

 ただし、その瞳はガルドマークへ変貌しつつある。その理由とは。

 

「捕まえたら、一匹あたり400万ガルド!!」

「……え?」

 

 ──どうせそんなところだろうと思っていたが、まさかこれほどとは。

 思わぬ高値を耳にして、スィンは思わず蝶の姿を目で追い、呟いた。

 

「──あんなに、沢山いたのに」

 

 ホドが滅び、狂ったのは出身者の運命だけではない。

 あんな、綺麗だけど珍しくもなんともなかった蝶が高値で取引されるほどに、生態系もまた狂ったということか。

 

「……スィン?」

 

 呆然と蝶を見つめる彼女に不思議そうに、導師イオンが呼ぶ。

 すぐさま反応して、「何か?」と返している間に、アニスを心配したガイは彼女の傍へ歩んでいた。

 

「おーい、アニス。転ぶぞ」

「あ・の・ねっ! 私のこと子ども扱いするのは、やめてくれないかなぁ」

 

 確かに腹の中はジェイドと遜色ほどかもしれないが、年齢だけ考えれば彼女は未成年だ。子供として見るな、というのは難しい。

 苦笑するガイの表情が一変したのは、次の瞬間である。

 

「きゃぅっ!?」

 

 寒さに耐える乙女のごとき、大地は数多の命を乗せるその巨体を盛大に震わせた。どんな事情があれ、乗せられている命はたまったものではない。

 手近な例として、崖淵に佇みガイに抗議していた少女は、瞬く間にバランスを崩して崖へその身を躍らせた。

 

「アニス!」

 

 すぐさまティアが走りより、片手だけで己を支えるアニスに手を伸ばす。

 だが、軍人であっても音律士(クルーナー)の彼女に肉体労働は不向きだ。引き上げることは愚か、支えるにもその細腕では難しかった。

 その後に続いたガイが、アニスのもとへと到達する。

 彼はわずかに及び腰となったが、やがて覚悟を決めたように腹ばいになってティアの隣に並び──崖淵を掴むアニスと、その小さな手を掴むティアの手を丸ごと握りしめた。

 

「ガイ!?」

「……くっ!」

 

 驚いたようにティアが声を上げるも、彼は振り切るように力を入れてアニスをひっぱり上げる。そしてどうにか引き上げた後に、彼は呆然と己の手を見つめていた。

 

「ティア、ガイ……ありがとう」

「私は……それよりガイ、あなた……」

「……さわれた……」

 

 感慨深げに、信じられないといった風情で呟く。

 騒動の発端となった揚羽が、まるで祝福するように彼の頭上を舞い踊った。

 

「ガイさん! 頑張ったですの!」

「よかったな、ガイ!」

「偉いですわ。いくら過去のことがあっても、あそこでアニスを助けなければ見損なっていました」

 

 口々の賞賛に、少し照れたような表情をしている。が、すぐにアニスへ話題を振った。

 

「……ああ、そうだな。俺のせいでアニスに大事がなくてよかったよ」

「や~ん、アニスちょっと感動v」

 

 そして悪魔の囁きが、その感動に溢れんばかりの下心を宿させる。

 

「ガイはマルクトの貴族でしたねえ。きっと国庫に資産が保管されてますよ」

「ガイv いつでも私をお嫁さんにしていいからねv」

「……遠慮しとくわ」

 

 瞬く間に輝く瞳をガルドマークへ変貌させた少女を前にして、彼は資産を食い潰されることを想像したのだろうか。丁重とは言いがたい態度で固辞を示している。

 

「いーんですか? せっかくのお嫁さん候補を。アニスなら丈夫な赤ちゃん、産んでくれると思いますけど」

「いやお前、そーゆー生々しいことを……って」

 

 これまで騒動に参加しなかったスィンを見やれば、彼女は足元のセレニアの花を摘み、解体している最中だった。

 わずかな蜜を指先に垂らし、その指を空へ差し出している。ほどなくして、周囲を遊んでいた青色ゴルゴンホド揚羽が舞い降りてきた。

 じゃれる子猫のように反射的に捕まえようと伸ばされたアニスの手をかいくぐり、揚羽は差し出された指へそっと止まる。

 

「手出ししないでね? 悪意に敏感だから」

 

 そう言って、スィンはゆっくりとホド揚羽を宿した手を引き寄せ、一同に見えるようかざした。

 青色に透き通る羽が、和えかな風に揺れる。

 

「綺麗ですわ……」

「本当。それなのに可愛い……セレニアの花の蜜が好きなのかしら?」

「……よんひゃくまん~……」

 

 約一名別として、女性陣はその儚げなたたずまいにうっとりと見入った。

 ただしスィンだけは、どこか寂しげな目で蜜を食む蝶を見つめている。

 

「ミュウも見たいですの!」

 

 スィンの足元で跳ねるミュウが、珍しい蝶の観察に参加したいと騒ぎだした。

 

「うるせーぞ、ブタザル! 蝶が逃げちまうじゃねーか」

「ルーク、あなたも十分うるさいですよ」

「いや、蝶が優れているのは嗅覚くらいなもんだから、騒いだくらいじゃ逃げないと思うぜ?」

「まるで生きている宝石のようですね」

 

 しまいには「ウィーング!」とさっそくソーサラーリングを使うミュウをすくい上げ、目の前にかざしてやる。そのつぶらな瞳が、ひらひらした羽を映し出した。

 

「ど?」

「とっても綺麗ですの。綺麗過ぎて、なんだか美味しそうですの!」

「……正直は、多分美徳。ちなみにホド揚羽には有毒成分が含まれてるから、食べるとすごいことになる」

 

 どこまでも本能に従った答えに、苦笑を零しつつもしっかり釘を刺しておく。

 アニスの言葉を信じれば希少であるこの生き物を、一応聖獣とされているチーグルの腹に収まる事態は避けたい。

 

「食べるとどうなるの?」

 

 素朴な疑問を呟くアニスに、スィンは軽く両手を合わせて合掌している。

 その拍子に、満腹になった蝶は再び大空へと舞い上がった。

 

「あ……って、死んじゃうの!?」

「少なくとも、小動物なんかはね。ミュウくらいのサイズは確定。ちょうちょなんか食べる習慣なかったから人間は知らないけど、中毒くらい起こすんじゃないかな」

 

 ふえ~、とため息を洩らすアニスを尻目に、スィンは水で濡らした手布で指先を丁寧に拭っている。

 ホド揚羽の場合、体全体が有毒であるため、触れた場所にも注意しなければいけないのだ。ましてや、口にするなどもってのほかである。

 

「別にセレニアの蜜が好物ってわけじゃないけど、あの花はちょっと構造が複雑で小さな虫くらいしか蜜にありつけないから。あーいう風にすると珍しがって寄ってくるんだ」

 

 無意識なのだろうか。いつになく饒舌な彼女が、一行の視線を華麗にスルーして、何の気もなく先を促した。

 だが、それで浮かんだ共通の疑問は到底収まるものではない。

 

「ちょ、ちょっと!」

「んあ?」

「スィン、なんでそんなに詳しいの?」

 

 好奇心の抑えられなかったアニスが、ずずいと彼女に迫る。ふと未だ抱えていたミュウを降ろし、スィンは一同へ背を向けた。

 

「……ホドがあった頃は、ごくありふれた普通の昆虫だったからさ。ヴァンや……お嬢様と大群を追いかけ回したこともあるし。捕まえる方法も、このとき知ったんだ。セレニアの花を使えば、比較的簡単だってね」

「なるほど。幼いあなたは大分活発な方だったんですねえ」

 

 誰もが二の句を告げにくい思い出の話に、まったく関係ない茶々を入れたのは言わずと知れたこの御人である。

 

「……どーゆー意味ですかそれは」

「いえ、そんなお転婆さんだったなら、今現在じゃじゃ馬でもぜーんぜん違和感ないですねと思っただけで」

「誰がじゃじゃ馬か!」

「乗りこなすのが実に難しそうです」

「乗りこなさないで、大佐なんか乗っけたら潰れる!」

「あなたは以前、ガイを担いで運んでいましたよね? 私はガイよりもちょっとだけですが、軽いですよ?」

「それとこれとは話が別だし、大体、大佐はその場にいなかったはず。なんで知ってるんですか」

「フリングス少将から仕入れました。虹彩異色症のお嬢さんが兄と思われるガイを肩に軽々担いだので驚いた、とね。陛下も大変興味を示しておられましたよ」

 

 シリアスな空気が一変、ジェイドとスィンのぐだぐだ漫才が展開された。

 ボケたと見せかけて、セクハラ発言があったことをスィンは気づいているのだろうか? 

 

「……そ、そろそろ行かないかー?」

 

 瞬く間に険悪な雰囲気を形成しつつある二人を、というよりスィンを抑えるべくガイが先を促した。

 

「あ、すみません!」

「ほらほら、あなたが無駄に昔話なんか始めるから、皆さんの足を止めてしまったではありませんか」

「まったくその通りなんですがねえ。大佐が合いの手なんか入れたから、という事実をお忘れなく」

「おや、責任転嫁ですか?」

「純然たる事実でーす」

 

 屁理屈を叩きながら、一行に続くべく正面を向く。

 嫌味の応酬に疲れたスィンが視線を寄せた先には、ルークと共に歩くイオンの姿だった。その視線を敏感に感じ取ったのは、アニスである。

 

「スィン、イオン様がどうかしたの?」

「うーん……ねえアニス、アニスはイオン様に負担かけるようなことはしたくないよね?」

 

 脈絡も何もない、実に突拍子のない質問に、アニスはぱちぱちと瞬きをして戸惑いをあらわとした。

 

「え? そりゃ……まあ、そうだけど」

「そっか。そうだよね。おかしなこと聞いた」

 

 悪いね、と呟き、そのまま口を閉ざす。左の手首を握り締めていた右手が外され、だらりと重力に従った。

 それが何を示すのか。アニスが関連する事件を思い出す、その前に。

 かすかに何かが聞こえてきた。これは──

 

「……いななき?」

 

 スィンの呟きに呼応するように、馬のいななきにも似た鳴き声が今度は渓谷に木霊した。

 

「あれ、なんかいるぜ。魔物か?」

 

 もちろん整備などされていない獣道をかきわけているために、先の視界は見通しが悪い。

 まるで確認をするように、ミュウがチーグルの言葉で呼びかけた。

 

「みゅう~! みゅみゅう!」

 

 答えるように、いななきのようなそれが帰ってくる。だが、なぜかミュウはそれの翻訳をしなかった。

 きちんと聞き取れなかったためか、それが言語化のされない、悲鳴に属するものだからか。

 

「この鳴き声は……」

 

 ジェイドが鳴き声の主を特定する前に、ひづめを鳴らしてそれは姿を現した。

 簡略に説明するならば、角と翼を備える巨大な馬である。

 額から黄金色の角を生やし、蒼とも碧ともつかない美しい色合いの翼とたっぷりとした尾を小刻みに揺らしていた。まるで苛立っているかのように。

 しかしそれを気にしているのはごく少数で、アニスに至ってはまたもや興奮に声を張り上げていた。

 

「ユニセロス!」

「古代イスパニア神話に出てくる、『聖なるものユニセロス』ですか?」

「そうです! 幻のユニセロスですぅ! 捕まえたら5000万ガルドは堅いですよっ!」

 

 またもアニスの瞳は輝くガルドマークと化している。

 ホド揚羽のときと一桁違うからか、オプションとして乙女にあるまじき鼻息まで追加されていた。

 しかしジェイドの冷静な説明に、彼女はすぐさま打ちひしがれている。

 

「ユニセロスは清浄な空気を好む魔物です。街に連れ出したら、死んでしまうかもしれませんよ」

「……あう……」

 

 脳裏でどんな皮算用が繰り広げられていたのやら。更に続くミュウの言葉に、生け捕りどころではない緊張感が張り詰める。

 

「それにユニセロスさん、なんだか苦しんでるみたいですの……」

「苦しんでる? 一体……」

 

 不意に、ひづめの音が絶えた。

 相手が立ち止まったのか、と思いきや、それまで存在していた気配が突然空を舞い、吹き荒れる風が一行の髪や服の裾をはためかせる。

 そしてティアの、ジェイドの警告に一同は身構えた。

 

「何かがくるわ!」

「まずい! 後ろです!」

 

 ──直後。

 

「うわっ!」

 

 どかどかと、盛大にユニセロスは一行の間を駆け抜けた。

 あやうく轢かれそうになったルークが、息を荒げて誰ともなしに尋ねる。

 

「ユニセロスってのは凶暴なのかよ!?」

「そんな……気質は大人しいし、無闇に人へ近寄るような性格でもないのに……!」

 

 そこまで言い連ね、スィンはハッとあることを思い出した。

 ユニセロスは清浄な空気を好む。対して瘴気は、穢れた空気にして毒素そのもの。

 まさか──

 

『──知りたそうだから、教えちゃうよ? あなたの考えは、正解』

 

 畜生! 

 シルフの言葉に、胸中で悪態をつく。しかし、一同にこのことを話すわけにはいかない。

 

「そうだよ! すっごく大人しくて、人を襲ったりなんかしない筈だよっ!」

 

 スィンが内心歯噛む間にも、アニスは混乱しながら同調し、ユニセロスが駆け抜けた先を見据えるナタリアが警告を放った。

 

「また来ますわ!」

「とりあえず、気絶させて様子を見ましょう」

 

 解決策、とはお世辞にも言えないが、一時しのぎにはなる。視線を合わせて了承を示し、アニスはイオンを伴ってその場から遠ざかった。もしものことを考えれば、アニスが抜けてしまうのは必然だ。

 それとは別に、どうしたものかと悩みながら鞘と刀身を固定した血桜を手に取る。

 前衛をせんと飛び出せば、予想通りユニセロスはスィンを標的とした。ぎらり、と角の先端が輝いたのを見て取って、走りながら体勢を低くする。

 直後、頭のすぐ上を閃光が疾り抜けた。かすった髪が数本、宙を散るも気にしてはいられない。

 雷光をかいくぐったスィンが、ユニセロスの眼前へと到達する。

 その彼女を踏みつけるべく高々と掲げられた前脚を潜り抜け、そのままユニセロスの気を引こうと背後へ回り込んだ。

 

 ちりん。

 

 ふと、小さな鈴の音がスィンの耳朶を刺激した。

 もちろん彼女にそんな鳴り物を持つ習慣はないし、仲間内でも隠密行動が難しくなるような、そんな物を購入したという話は聞かない。

 では、どこで? 

 巡らせた視線が、ふとユニセロスのたてがみを映した。

 翼と同じ、サファイヤグリーンの毛色。三つ編みにできそうなほど長い、立派な──

 その瞬間、スィンの瞳が大きく見開かれた。

 彼女の視線の先、ユニセロスの背にはほつれた三つ編みがあり、その先端にすっかり錆びついた鈴が絡まっていたのだ。

 強烈なフラッシュバックが、スィンの脳裏に激しく瞬く。

 

「ニル……ダ」

 

 嗚咽を耐える少女の如く、口元を抑えてスィンは呟いた。

 今まさに譜歌を唱え、ユニセロスを眠らせようとしていたティアが、思わず詠唱を中止する。

 何故なら、ユニセロスの気を引いていたスィンが、まるでその美しさに魅せられたかのように構えるのをやめてしまったからだ。

 

「──スィン?」

「どうしたんだ!?」

 

 驚くことに、ナタリアはおろかガイの声すら聞こえていない様子である。

 その名を呼んだことで、ユニセロスは暴れるのをやめ、それを見て取ったスィンはもう一度期待を込めて呼びかけた。

 

「ニルダ、なの? ホド島で、罠にかかって怪我してた──」

 

 ユニセロスの瞳が、スィンを映す。

 先ほどとはかけ離れた穏やかな目に、今度こそスィンが見惚れていたそのとき。ユニセロスはゆっくりと、スィンに近寄った。

 そして──棒立ちの彼女に、その鼻面をそっとこすりつける。

 

「……あれ?」

「どうかしましたか、アニス?」

 

 その光景を、驚愕しながら見つめていたアニスは、不意に疑念を零してイオンに不思議がられていた。

 

「おかしいですよ。だってユニセロスは、清らかな乙女にしか近寄らないはずなのに」

 

 確かに、スィンもアニスと同じように記憶している。

 ユニセロスが清浄を求めるのは、空気だけに限ってのことではない。それなのに、瘴気のことがなくても、ユニセロスに触れる資格を、スィンは当の昔に失っているのに……

 スィンの困惑をかき消すように、脳裏で柔らかな声が響いた。

 

『──生きていてくれて、嬉しいわ。大きくなったのね、スィンフレデリカ──』

 

 間違いようもない。

 ホドで暮らしていた頃、スィンと、ヴァンと、マリィだけの共通の秘密だった手負いのユニセロス、ニルダに相違なかった。

 

「な、なんだ?」

「頭の中で、何か聞こえましたわ」

「アッシュ……じゃないな。頭痛もしねえし」

「幻聴ではないようね」

「これって、ひょっとして──!」

「知能の高い魔物が使用する精神感応の応用ですね。自らの思念を直接相手へ伝える──私たちは対象外のようですので、雑音しか聞こえないようですが」

「ミュウ。通訳してもらえますか?」

「はいですの!」

 

 外野の困惑、推測、どうでもいい話が耳に入ってくるものの、どこかその声は遠い。まるで薄いフィルターを通したかのように、気にならなかった。

 それよりも。

 生きていた。あの崩落から、よく逃げ延びて──

 感傷から涙ぐみそうになった顔をひきしめ、深呼吸をして一歩後退る。ユニセロスが、否ニルダは小首を傾げた。

 

『何故、逃げるの?』

「スィンさんがどうして下がったのか、不思議に思ってるですの」

「ニルダ……僕はもう、子供じゃないよ。あなたに触れる資格はない」

 

 わざわざ言わせないで、と言いながらニルダとの距離を取る。ゆっくりと、血桜を腰へ戻した。

 

「それがわからないあなたじゃないはず」

『そんな悲しいことを言わないで。確かにあなたの肉体は、純潔を失くしている』

「そんな風に思わないでほしいですの。確かにスィンさんは……」

『それでもあなたの声は、乱れた私の心を癒した。あなたの心は清らかで、無垢なまま。私を捕まえようと企む者達が囮とした乙女よりなお、純粋だわ』

「???」

 

 ミュウの通訳など欠片も意識していない調子で、ニルダはスィンにのみ語りかけている。

 もちろんのこと、続けざまに発せられた言葉にミュウは困惑した。

 

「おいブタザル、確かにスィンは、なんだよ?」

「えっとえっと……ごめんなさいですの、難しすぎてミュウにはわからないですの~!」

「はあ? 何が難しいんだよ」

「ルーク、静かに。こうなったらスィンの言葉から内容を推測します」

 

 当の本人たちはそのやりとりにまったくの無視。

 騒がしい外野の声など、耳に入っていない様子である。

 

「……あなたがそう言うのなら、そうなのかもしれない。光栄だけど……大丈夫なの?」

『古き友人に会えたのだもの、平気だわ。二人はいないけれど……』

 

 ふと、ニルダは首をめぐらせ、ティアとガイを鼻面で指した。

 

『似た匂いがするの。血縁かしら、二人も近くに?』

「正解、だけど……マリィ様は、もう……」

『……そうなの。残念だわ』

 

 彼女の名を出したことで、ガイが反応を見せている。

 しかしやはり、スィンはそれに気づいた様子を見せない。

 

『スィン。ここへは、何をしに? 遊びに来たわけではないのでしょう?』

「パッセージリング……えっとね。人工的に封鎖された、セフィロトに通じる扉を探しに来たんだ。ニルダはここを縄張りにしているんでしょう? 踏み込んじゃって、悪かったね」

 

 ユニセロスの逸話などそう多いものではないが、その中に彼らは彼らの縄張りを持つというものがある。

 ユニセロスの好む清浄な大気の集う場所は希少であるため、おそらくは同種族たちで共同生活を送るとされているが、彼女だけであれ他にユニセロスがいるのであれ、ここが彼女の縄張りであることに間違いないだろう。

 だからこそ、ニルダは縄張りを荒らされたと考えて姿を現したのだろうから。

 

『あなたが謝ることじゃないわ。人工的に封鎖された扉……というのは、光を硬質化させた壁のようなもののことかしら。古臭い封咒を施してある……』

「知ってるの!?」

 

 ダアト式封咒を古臭い、と言い切ってしまう辺りにも、彼女がそれを知っているという事実にも、スィンは驚いて思わず声を張り上げた。

 こくりと頷いたニルダに、「どこ?」と尋ねれば、彼女は一同にくるりと背を向けて歩き出している。

 わざわざ案内してくれるのだろうか。

 

「……スィン。そろそろ何がどうなったのか、お話してくださると助かるのですが……」

「あ、えーっと。ニルダがセフィロトへ続く扉を知っているそうです。行きましょう」

 

 これまでの会話をまったく知らない一同を率いてニルダを追う。

 これまで以上に草木の生い茂る、ただしユニセロスのひづめと巨体で綺麗にならされた道を行けば、突如草木のカーテンが開かれた。

 

『これでしょう?』

 

 とある崖のくぼみの傍、ニルダは場所を示すように立っている。

 そこを塞ぐように展開しているそれは、確かにダアト式封咒で、ここが封じられたセフィロトの入り口であるのは間違いなかった。

 頷くことで、肯定を示す。

 

「ありがとう、ニルダ」

『どういたしまして。ここまでしか私は案内してあげられないけれど、お願いがあるの』

「……何?」

『死なないで。死ぬことを、考えないで』

 

 唐突過ぎるその願いに、スィンはぴくりと体を震わせてニルダに向き直った。

 

「どうしたの、いきなり」

『誤魔化さないで。なぜ私が、あなたをあなたともわからず襲いかかったと思うの?』

 

 ──やはり、彼女にこれを隠すことはできないらしい。

 小さくため息をついて、声を潜める。

 

「……わかる?」

『ええ。瘴気に毒されていることも、それに伴い体内にいくつもの病巣を抱えていることも。命の蝋燭が、もうすぐ燃え尽きることも』

「そこまでわかってるなら、そんな無茶なこと──」

『だからこそ、願うのよ。私はあなたのことが好きよ。純潔を失っても、あなたは変わらなかった。これまでも、これからも、あなたは私の大切な友人よ』

「わー。聖なるものにそこまで言わせちゃうなんて僕すごーい。光栄だよー」

『茶化さないで。すぐふざけてお茶を濁そうとするのはあなたの悪い癖だわ』

 

 ユニセロスにお叱りを頂いてしまった。

 どこまでもまっすぐな彼女の言葉に、けして不快などではないが、むず痒いようないたたまれなさが背中をつつく。

 ニルダの忠告は続いた。

 

『あなたの目は死を恐れていない。死を恐れなさい。死を受け入れないで、拒絶しなさい。あなたの死は、私を、彼らを悲しませる。だから生きてほしいの。私も、できるだけのことはする』

 

 スィンが、その言葉の意味を理解するより早く。

 ニルダはその鼻面をスィンへ摺り寄せたかと思うと、額の角をスィンの胸へ押し付けた。先端の鋭く尖った角が、胸の谷間を割って内臓に最も近い位置で停止する。

 直後発生した優しい光は、第七音素(セブンスフォニム)の気配を伴ってスィンを包み込んだ。

 あたたかい。

 思わず身を委ねたくなるほどの安心感が、はりつめていたスィンの心を優しくほぐした。

 ユニセロスの角を煎じれば、万病の特効薬となるという。それは彼らの有する癒しの力の源は角だからとも、角を通じて治癒を行い、だから角にその力の名残が残るからだとも言われている。

 彼女は今、その力をスィンへ注ぎ込んでくれているのだ。

 体内を蝕む瘴気が、徐々に浄化されていくのがはっきりとわかる。体がどんどん軽くなっていくようだった。

 やがて、至福のときとすら称していい時間は終わりを告げる。

 ふと我に返ったとき、スィンはすっかり弛緩した状態でユニセロスの首に腕を回し、そのふさふさした翼の抱擁を受けていた。

 

「あ……あ! ゴメン!」

『謝らなくてもいいのに』

 

 慌てて身を離せば、その慌てっぷりが可笑しかったのか、ニルダの控えめな笑い声が頭の中に響く。

 バツの悪い思いで、ふと後ろを見やった。皆、さぞ呆れているだろうと思いきや──

 

「……あれ?」

 

 いない。一同を先導して一本道を歩いてきたと思ったのに、そこには誰もいなかった。

 直後。

 

「スィンー! どこだー!」

「ガイラルディア様、ここです!」

 

 ガイの呼ぶ声を聞き、自分の出てきた茂みへ駆け寄る。

 幸いというかなんというか、一同は誰もはぐれることなくセフィロトへ至る道の扉へ到達した。

 

「本当にありましたね。正直半信半疑だったのですが」

「ユニセロスさん、ありがとうですの!」

 

 嬉しそうにぴょこん、と跳ねてみせるチーグルの仔に、ニルダは軽くブルルルッ、と鳴いている。

 

「なんて言ってるんだ?」

「どういたしまして、って言ってるですの。あと、スィンさんをよろしく、とも言ってるですの!」

 

 やっと自分と向かい合ってくれた嬉しさからか、ミュウは多少興奮気味で今の意味を翻訳した。

 単なる鳴き声につき、スィンに真偽はわからない。

 

「ニルダ……」

『私のこと、私の言葉を──忘れないでね』

 

 スィンに別れの言葉を紡がせず、ニルダは軽快に走り去った。

 今生の別れを忌避したのか、あるいはそれを連想させるものを生みたくなかったのか。それは彼女自身にしかわからない。

 

「ニルダ! ホントにありがとう、さようなら!」

 

 一陣の風が通り過ぎる。

 スィンの声は瞬く間にかき消されるも、いななきは渓谷を木霊した。

 

 

 

 




青色ゴルゴンホド揚羽やユニセロスがホドに生息していたという事実はありません。
もともとは青色ゴルゴンホド揚羽に『ホド』の文字があったため、でっちあげたのが起源です。
ユニセロスの設定はほとんどユニコーンのものを引用しています。
街中の空気に耐えられるかもわからない生物が、穢れと関係ないとは思い難い。
青色ゴルゴンホド揚羽設定は、オールオリジナルということで。


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第八十五唱——見(まみ)えしは、己の影か、影は己か

 

 

 

 

 

 

 

「──ホド島にいた頃知り合った、僕の友人です。僕と、マリィ様と……ヴァンの共有した秘密でもありました」

 

 ガイより、先ほど口にしたマリィベルの名の関連を聞かれ、スィンをそれだけを答えた。

 

「でも、どうしてスィンは触ることができたのですか? 清らかな乙女しか近寄れないと、アニスが言っていましたが」

 

 げ、とアニスの慌てる気配がする。

 それは本人に面と向かって聞いていい内容ではないのだが、そこらの機微をこの無垢な──言い換えるとドンカンな導師が知っているわけがなかった。

 

「イ、 イオン様、それは……」

「それはよくわかりませんけど。厳密に言うなら、僕たち誰も彼女に触れる資格ありませんよ」

 

 慌ててティアがフォローする前に、わざと興味をひく話題を口にする。スィン自身の話題を消すためだ。これには、アニスもナタリアも食いついた。

 

「えー! ティアとかナタリアならともかく、アニスちゃんやイオン様まで!?」

「な、そんな……ティアやアニスやイオンを含む男性陣ならわかりますが、何故わたくしが!? わたくしまだ、アッシュとは何も……」

「……二人とも。どうして私は納得なの?」

 

 勃発しそうな女の戦いを食い止めるべく、どうどう、と三人を静める。

 

「ユニセロスの好む清らかさはいわゆる処女性だけじゃないからさ。その観点から考えれば、ユニセロスは赤ちゃんにしか触れないことになるけど」

 

 一行が歩んできたのは、けして綺麗な道のりではなかった。行く手を阻む障害は血を浴びてでも撃破し、時には防ぎきれなかった事故で他者の命を殺めている。

 人も、魔物も、厳密に追及すれば生きるための糧すらも。人は命を喰らって生きているのだ。

 そういった意味においては、イオンとて清らかの範疇には入らない。

 

「まあ、何にでも例外はあります。ユニセロス談義はその辺にしておいて、ここへ来た目的を果たしましょうか」

 

 最もなジェイドの言葉に従い、一行はようやっとセフィロトの入り口を見た。

 色の違うガラスを用いはめ込んだような扉は、泰然とその役割を果たしている。

 

「ここは僕が開きます」

 

 イオンが進み出て、すっ、と両手を扉にかざした。

 円形を幾重にも重ねたような譜陣が浮かび上がり、それは万華鏡のような模様の移り変わりを見せる。それに伴い、まるで歯車が回り、かみ合ったかのような動きを見せたかと思うと音を立てて消失した。

 扉を構成していた硬質の光が、各色ごとに消えていく。

 すべてが消え去った後に、イオンはふらふらと膝を折った。アニスが慌てて支えに駆け寄る。

 

「イオン様、大丈夫ですか?」

「……ええ、ちょっと疲れただけです」

 

 ちょっと、どころには見えないイオンの消耗ぶりに、ナタリアは眉を顰めてとあることに気がついた。

 

「そういえば、パッセージリングを起動させる時、スィンも疲れるみたいですわね。創生歴時代の音機関や譜術には、そういう作用でもあるのかしら」

「そんなことはないと思いますが……」

 

 ──また、余計なことを。

 

「僕は別に疲れちゃいませんよ。ダアト式譜術にはそれだけ負荷がかかる、ってことじゃないんですか?」

 

 封咒が解放される様子を一心に見つめていたスィンが、イオンをフォローするように尋ねた。

 少年は少し戸惑った様子を見せたものの、すぐにその意見を肯定している。

 

「そう……ですね。そうだと思います」

 

 頷くイオンを見て、ナタリアの疑念は解消された。

 

「イオン様、こちらで休まれますか?」

「いえ、行きます」

 

 顔色の悪いイオンをティアが気遣うも、彼は意外にも力強く待機を拒否した。

 ここまで来た以上、扉を開けるだけ開けて中に入れないのは、釈然としない何かを感じることだろう。

 

「無理すんなよ。きつけりゃ、声かけろよ」

「ありがとう、ルーク」

 

 ルークの気遣いに笑みで答え、彼は一足早く内部に足を踏み入れたジェイドに続いた。

 ひんやりとした、それでいてカビくささの感じられない遺跡の内装がどこまでも広がっている。

 

「そういえば、ダアト式封咒って空気まで遮断するものなのかな」

 

 不意に、周囲を見回していたスィンがぽつりと呟いた。

 

「どうしたんだ? いきなり……」

「いえね。もしあの封咒が外界の空気までも侵入を許していないんだとしたら、この中の空気はパッセージリングが設置された当時の空気のまま、ってことになりますよね」

 

 幾千年の刻を経て、創生暦時代の扉が開かれる。

 こうして当時の技術に触れること自体すでに奇跡であろうことに間違いはないだろうが、この漂う大気もまた当時のものだとしたら、それは──

 

「素敵ですわね……先人たちの生きた空気を、わたくしたちも肌で感じている。これが殿方の好きな浪漫、というものでしょうか」

「確かに、な。俺は音機関を見れるだけで十分満足してたが、そう考えるとなんだか感慨深いよ」

 

 遺跡マニアになる素質がありそうなナタリア、どちらかというと音機関関連でそれを理解した音機関偏執狂のガイは賛同を示しているものの、若年者には理解しがたい話であったらしい。

 

「そーかあ? 俺にはよくわかんねーけど」

「ルークには古き良き時代を思うって心がないもんねー。ナタリアと違って格式とかにもこだわんないし、普通におへそ出してるし」

「へそはカンケーねえだろっ!」

 

 首をひねるルークを、ちょうどいい暇つぶしとばかりアニスがからかっている。

 微笑ましい光景を前にティアはイオンとほのぼのそれを見守っていたが、珍しくジェイドはそのやりとりに参加していない。

 彼女の傍へと歩み、スィンに尋ねている。

 

「旧友と再会して、感傷的になっていますか?」

「否定はしません。けど、もし大気まで当時のままだったら変な細菌とか浮遊していそうで怖いなあ、と思っただけです」

 

 結局のところ、スィンは多少危機感を抱いていただけで素敵だのなんだの考える感性を働かせていなかった。

 ふむ、と納得したように彼が頷きかけた矢先。

 足元がまたもや揺れだした。

 

「とっ……」

 

 突然のこと、たたらを踏んだスィンにさりげなく腕が回される。

 感覚をおいて再び発生した地震に、一同は不安を隠すことなく周囲を見回した。

 幸い、遺跡は崩れるどころかきしむ様子も見せない。

 

「またどこか落ちたのか!? それとも……」

「ええ。セフィロトの暴走によるツリーの機能不全かもしれません」

 

 ルークの嫌な予想を否定することなく、ジェイドはどこまでも冷静に想定を語る。

 

「先ほどの地震といい、頻繁ですわね」

 

 この変化が何を示すのか、それがわからぬことが不気味だと言わんばかりにナタリアが零せば、ガイもまた嫌そうに眉をしかめていた。

 

「地震が起きると、ここが空中だってことを思い出して嫌な気分になるな」

「早く安心できる大地に戻したいわね」

 

 すぐ傍にいたため、アニスの代わりにイオンを支えていたティアが締めくくる。

 しかし、騒動はここで終わることを知らなかった。

 

「……で」

 

 ここでガイが、錆びた譜業人形の如く首をギコギコ鳴らしながら、首を可能な限り後ろへ曲げている。

 その視線の先には、彼が問題に思う二人の姿があった。

 

「二人とも、いつまでそうしてるんだよ!」

「おや、誰のことでしょうか?」

「お前らだよ!」

 

 見れば、スィンがジェイドの腕の中にすっぽり収まっている。

 抱擁を交わし合っているように見えるが、実際はジェイドがスィンにベアハッグ寸前といった有様だ。

 もちろんこんな状況で、彼はスィンに絞め技などかけはしないだろうが。

 どういうことなのか、スィンはジェイドを拒絶するでも悲鳴を上げるでもなくじっとしている。

 だらりと下がった両の拳は、きゅっ、と握りしめられていた。

 

「今の地震でよろけたから支えただけですが、私がスィンを抱きしめていては何か不満でも?」

「不満だらけだ! スィン、動けるか?」

「……はい。動けます」

「じゃあとっとと離れろ!」

 

 どうやら気を失っていたわけではないらしい。

 両の手がのろのろと上がったと思うと、スィンは素早く彼の腕を払い、バックステップで距離を取っていた。

 

「どうしたんだよ。お前が大人しく旦那の良いようにされてるなん……」

「三十秒!」

「……は?」

「三十秒、大佐に触れ続けることができました」

 

 どうやらどさくさに紛れて好き勝手をしていたのはジェイドだけではなかったらしい。

 ジェイドが触れてきたのをいいことに、スィンはスィンで己の異性恐怖症の克服に努めていたのであった。

 あっけにとられるガイをさておいて、ジェイドと接触した辺りをぺたぺた触っている。

 

「ガイラルディア様のように、僕もちょっとずつでいいから平気な人間を増やしていかないと」

「いや、その心意気はいいんだが、旦那はやめないか?」

「どうしてですか? 一番身近な対象で、彼以上に適している人材なんかないと思いますけど」

 

 そんなことはわかりきっている。しかし、許可はかなり勇気の要る選択であった。

 

「ガーイ。私への迷惑を考慮されているなら度外視の方向で結構ですよ。その分スィンに要求しますから」

「それが唯一気になるところですけど。まあそこは、ギブアンドテイクということでなんとか」

「熟慮しておきましょう」

 

 どうしたものかと悩み黙るガイを尻目に、二人の交渉は着々と進んでいく。

 個人的なことに関してガイの承諾を必要としないスィンの意識が、交渉をスムーズに進めていた。

 

「って、話を勝手に進めるな! その件に関しては後でじっくり話し合うとして、今は地殻の振動周波数を調べることが先だろ!」

「それはそうですけど、別に話し合うほど重要なことじゃ……」

「俺にとってはものすごく重要なんだ」

 

 首を傾げるスィンの手を取り、ガイはいち早くパッセージリングの設置された部屋へと向かっている。

 その手に逆らうことなくついていくスィンの背を眺め、ジェイドはふう、と息をついた。

 

「大佐~、スィンと仲直りできそうな雰囲気だったじゃないですか」

「思った以上に歩み寄ってくれましたからねえ、彼女も。あのユニセロスとの再会が起因して和やかになっているのでしょうが」

 

 あれがいつまでも続いてくれればいい、とさえ勘ぐれるイントネーションで、ジェイドはあっさりと本音を零した。

 わざと意地悪く尋ねたアニスはといえば、思った以上の素直さに驚愕を隠せていない。

 やがてジェイドは一息ついて、二人の後を追った。

 それについて残る面々がそれに続けば、目的の代物が眼前に聳え立つ部屋へとたどり着く。

 そこではすでに、スィンが制御盤の前へ立って起動を試みていた。しかし、どれだけ待ってもパッセージリングは沈黙を貫き通している。

 やがて彼女はあきらめたように制御盤から手を離した。

 

「……やっぱりユリア式封咒、結ばれたまんまです。扉が開いていなかったんだから、当たり前ですけど」

「シュレーの丘の時と同じですね」

 

 イオンの言葉を経て、ルークが当時を思い出すかのように動かぬパッセージリングを見つめている。

 

「シュレーの丘か……なあ、前みてーな譜陣があったら、解除できるかな?」

「……多分」

「よし。探してみようぜ」

 

 正直な話、あの現象がもう一度起こるかどうかは確約できない。それでも試してみる価値はある。

 仲間たちは一斉に散らばり、それらしい譜陣の捜索に走った。

 

「ねえ、ひょっとしてこれじゃない?」

 

 そして思いの他あっさりと発見される。

 アニスの指が示す先には、シュレーの丘にあったものに酷似した譜陣がひとつ、ぽっかりと浮き上がっていた。

 思わず眉根が仲良くなる。どうなるかわからない不安もあるが、またあの頭痛を味わわねばならないのかもしれない。

 知らず、気持ちが落ち込んだ。

 だが、それを口にしてジェイドにからかわれる要素を生むわけにもいかない。

 

「じゃ、いっちょ試してみましょうか」

 

 なんでもないような素振りで、指をほぐす仕草まで加えながら譜陣へと歩む。

 背中にいくつもの視線を感じながら、スィンはゆっくりと右手を譜陣へかざした。

 

「!」

 

 手のひらが、譜陣へと誘われる。

 あの時とまったく同じ、吸盤でも出来てしまったのかと錯覚するくらい、譜陣から手が離れない。

 ではあの頭痛も、と歯を食いしばったスィンだったが、いつまで経ってもそのような兆候は感じられない。

 

(譜陣が消えてから、だったかな?)

 

 知らず瞑っていた眼を、ゆっくりと開いた。しかし、視界に譜陣は欠片も見えない。

 それどころか、スィンの眼に映っていたのは現実の光景ですらなかった。

 

 

 ごちゃごちゃと譜業、音機関の転がった研究室内。

 書きかけの書類をほったらかして、彼女は部屋の隅に設置された小さな柵によりかかり、何かを眺めていた。

 愛くるしい鳴き声。ちょこちょこ動くちんまりとした手足。ふさふさした耳に、つぶらな瞳。

 数匹で戯れるその様は愛くるしいを愛狂しいと変換しても間違いではない。

 

『……かわいい……』

 

 五匹ほどのチーグルが囲われ、戯れるその様を眺めながら、彼女は透明なサファイヤの瞳をゆったりと細めた。

 たおやかな指先が、垂れた薄枝色の髪をかきあげる。

 さらり、と柔らかそうな髪は手櫛に絡まることを知らず、清水のように背中を辿った。

 この光景はどこのもの? 記憶は自分に何を伝えようとしている? 

 答えなき疑問を頭に浮かべることで、スィンは必死で己を保った。

 そうしなければ、その光景にすべてを囚われてしまう。そんな脅迫観念が意識の片隅に張り付いていたからだ。

 

『……彼の者の見し夢は、裏切りを知らない。言の葉で形となる未来を知りながら、すべてを受け入れるが契約者たる我らの務め。契約が破られたそのとき、この無垢な命も、悪意ある魂も、すべては世界と共に崩れ落ちよう』

 

 唐突に、チーグルを眺めていた女性──ユリアは立ち上がった。きびすをかえし、その先の人影を睨みつける。

 否、人影はない。ユリアが睨むは、壁にかけられた鏡だった。鏡の中では、彼女を睨まぬユリアがいる。

 ──鏡? 

 

『汝は生かした。失われるべき命を生かした。預言(スコア)が狂うことを知り、それに便乗した。結果はいかなるものや?』

「狂う定めの預言(スコア)を更に狂わせた。ありえぬ事象の発生を、幾多の命を混乱に導いた」

 

 鏡の中のユリアが語る。現実のユリアは、ますます強く鏡を睨めつけた。

 

『汝は、それだけに留まろうとしない。この先も、どれだけ罪なき命を生かす? 生き地獄へと追い込む?』

「死ぬことは救いでなく、生きることは苦しみではない。契約は、破られていない」

『生をなくすことで救われる魂はある。汝にその生き死にを決定する資格があるのか? ──答えは否。傲慢なことよ』

「傲慢は、もとより承知。我は生き死にを決定しない。ただ、選択を与えるのみ」

 

 禅問答のような、頭の痛くなるやり取りが途絶える。

 意識の中のどこかでその意味を知りながら、スィンは早く目が覚めないものかとそわそわしていた。

 

『……払うべき対価の重さを、その身に知っても?』

「恐れはない。世界と対峙して、真の夢を知るは誰や? 人は自由を望みつつ不自由を求める生き物。不自由は、個のしがらみだけでいい」

『それを傲慢と──』

「繰り返される輪廻に終焉を望むも、傲慢か」

 

 再び、問答は途絶える。ここで初めて、鏡の中のユリアの姿がはっきりと見えた。

 瞳の色が違う。鏡を睨む彼女の眼とも、左右の色も。髪は未知なる雪原のごとき白。

 鏡の中のユリアは、スィン自身だった。

 

 

 

 ゆっくりと、スィンの手が譜陣へかざされる。

 直後、結構な勢いでその手は譜陣の中央に張り付き、床のものとは違う別の譜陣を起動させた。

 通常譜術とは明らかに異なる意匠のそれは、万華鏡のような不規則さで、歯車のような正確さを見せて紋様を変化させると、床の譜陣に張り付く。

 やがてスィンはゆっくりと立ち上がったと思うと、片手を虚空へ差し出した。

 

「スィン?」

 

 指の先に小さな譜陣が発生し、音素(フォニム)の集まる気配と共にそれはある形を組み上げていく。

 ゆらゆらと、音素(フォニム)は一匹の蝶の姿を作り出した。

 青色に透き通る羽、ふわりと飛び立ったその姿はつい先ほど見た青色ゴルゴンホド揚羽であった。

 

「え!?」

 

 突如スィンの手のひらから生まれた蝶は、ひらひらと上空を舞い、やがてその小さな姿は風を受けて回り続ける巨大な風車に近づいた。

 

「あんなところに風車が……」

 

 風車を動かす風を受け、蝶はバランスを崩している。そのまま、木の葉のようにスィンの手元へ降り立った。

 何が何やらわからない一同を尻目に、スィンは手にした揚羽をためらうことなく握り潰している。

 

「わ!」

 

 ぐしゃり、と青色ゴルゴンホド揚羽が無残な姿となる直前。揚羽の姿は掻き消え、光の粒子──音素(フォニム)となり消えた。

 

「今のって……」

「──ルフ。あれ止めて」

 

 スィンによる説明はない。彼女は口の中でもごもごと何かを呟いたかと思うと、そのまま身動きをしなくなってしまった。

 誰が声をかけても、一切の反応がない。

 業を煮やしたガイがその肩を掴んで振り返らせるも、彼は絶句を強制された。

 

「スィ……!」

「──」

 

 その眼球には確かにガイの姿が映っているはずなのだが、違う。

 彼そのものを透かして、その先の遠くを見つめているような風情すらあった。

 ここではないどこかを見つめる瞳に光はなく、まるで深い井戸を覗き込んでいるかのように暗い。

 肩にかけられたガイの手を払うでも、どうするでもなく、その体勢のまま固まってしまっている。

 尋常ならざるその様子に、気圧された彼はゆっくりと、己の手を引いた。

 不自然な体勢の強要から解放されたスィンは、まるでばね仕掛けのようにもとの体勢に戻り──

 

「ん?」

 

 そんな呟きが誰もの耳にも届いた。

 きょろきょろと首を動かし周囲に視線を巡らせて、自分の真後ろに立っていたガイを見つける。

 

「ガイ様、如何なさいました? お顔の色がよくないですよ」

「そ……そりゃこっちの台詞だよ、どうしたんだ!?」

「顔色ですか? いつも通りですよ」

 

 わざわざ手鏡を取り出して確認した辺り、とぼけているのか本気なのか。いまいちわかりかねる言動ではあった。

 主の言葉の意味がわからないとして説明を求めたスィンは、それまで自分が取っていた奇行を聞いて軽く首を傾げている。

 

「やだなあ、夢遊病の前兆かな? それとも年かストレスか……」

 

 とにかく自分に覚えはないと、きっぱりはっきり言い切って。後ろ頭をかきながら、スィンはパッセージリングに歩み寄った。

 制御盤に手を添えるまでもなく、接近だけで音機関は起動を開始する。

 上空にはあの複雑な譜陣、重ねて警告が展開し、渦巻いた薄靄もまた、順調にスィンの体内へ吸収された。

 

「ユリア式封咒は解呪されたようですね」

「兄さんは、ここには来ていないのね……」

「それなら、ここのパッセージリングは第七音素(セブンスフォニム)さえ使えれば誰でも操作できるのかしら」

 

 ふと首を傾げたナタリアだったが、その問いはジェイドによって否定されていた。

 

「いえ、操作盤が停止しています。多分、シュレーの丘やザオ遺跡でヴァンのしかけた暗号を無視してパッセージリングを制御した結果、並列で繋がっていた各地のパッセージリングが、ルークを侵入者と判断して緊急停止してしまったのでしょう」

「じゃあ、制御は出来ないのか?」

 

 今回、振動周波数計測には何の関わりもないとしても、今後同じような状況に陥った際に障害となる。

 そう考えてか、少し焦ったようなガイの心配は、スィンが杞憂に変えた。

 

「平気ですよ、超振動はいわば裏技ですから。これまでと同じように操作盤を削っていけば動きます」

「力技、って訳か」

 

 当の施術者たるルークはそう呟いて、軽く指をほぐしている。珍しくやる気だ。

 

「で、俺は何をしたらいいんだ?」

「振動周波数の計測には、特に何も」

 

 せっかくのやる気が萎えるようなことを言ってくれる。

 ジェイドが気づかぬなら、と言葉を挟もうとしたスィンだったが、「ですが」という間発入れない彼の言葉に口を噤んだ。

 

「今後のことを考えると、外殻大地降下の準備をしておいた方がいいでしょうね」

「なんか書けばいいんだろ?」

 

 両腕がパッセージリングへと掲げられる。

 ジェイドの言葉に従って、発生した超振動が太めの線を描いていった。

 

「第四セフィロトと、ここ──第六セフィロトを線で結んでください。第五セフィロトは迂回して。そこはアクゼリュスのことですから、連結しても意味がない」

 

 太く歪んだ線ではあるが、暴走の気配もなく操作は順調に進んでいく。

 

「第三セフィロトと第一セフィロトも線で繋いでください。第六セフィロトの横に『ツリー降下。速度通常』と書いてください。それから『第一セフィロト降下と同時に起動』と」

「これって、なんて意味なんだ?」

 

 施術が終了し、ふう、と息を吐いて集中を解いたルークがふと操作の意味を尋ねた。

 本人は無意識なのかもしれないが、アクゼリュスの一件で仲間といえど自分が理解せずに操作するのに何かがひっかかったのかもしれない。いい兆候だ。

 

「第一セフィロト──つまりラジエイトゲートのパッセージリング降下と同時に、ここのパッセージリングも起動して、降下しなさいっていう命令よ」

「こうやって、外殻大地にある全てのパッセージリングに同じ命令を仕込んでおくんです。で、最後にラジエイトゲートのパッセージリングに降下を命じる。すると外殻大地が一斉に降下する」

 

 お姉さん、というには──外見はまったく違和感ないものの年齢が足りていないティア。

 お兄さん、というにはやはり外見的に問題ないものの、実年齢で問題ありまくりのジェイドに説明され、ルークだけでない一同も改めて理解した。

 ガイもまた、その合理的な案に対し感心した風を見せている。

 

「なるほど。大陸の降下はいっぺんにすませるってことか」

「納得。あとは地殻の振動周波数だな」

 

 ルークの言葉を受け、ジェイドはどこからともなく計測器を取り出した。

 形状からして、またパッセージリング自体と見比べて、一見すると測定方法の想像がつかない。

 

「大佐。どうやって計るんですかぁ?」

 

 そのように彼女は考えたらしく、当然のようにジェイドへと尋ねる。その期待に応えて、彼はにこやかに計測器を差し出した。

 

「簡単ですよ。計測器を中央の譜石にあててください」

「俺がやろう」

 

 音機関好きな彼らしく、率先して計測器を受けとりに進み出る。

 彼は言われたとおり、正面の譜石に計測器を押し当てた。

 待つこと数十秒。唐突に旋律の欠片が奏でられ、ガイはそっと計測器を引き寄せている。

 

「これだけか?」

「はい」

「ちょっと失礼」

 

 一声かけてから、スィンは彼の持つ計測器の側面を見た。

 一見して無意味な文字の羅列が計測器の内側で踊っていたが、確かに周波数は記録されている。後は解析して、同じ振動が発生するよう仕上げるだけだ。

 ただ、何が起こるのかと胸を躍らせ見守っていたアニスにはかなり期待が外れたらしい。

 

「つまんなーい。なんか拍子抜けだよぉ」

 

 唇を尖らせる少女に、「楽しませるための計測ではありませんからねぇ」とジェイドが苦笑する。

 そんなの無邪気な表情を微笑ましく見守りながらも、イオンは一同を促した。

 

「では、シェリダンへ戻りましょう」

 

 パッセージリングが設置された間を後とし、遺跡より外へ出る。

 帰路へつく最中、「そうだ」とイオンは唐突に声を上げた。

 

「どうしたんですか、イオン様」

「すみません、スィン。あなたに伝えておくべきことが」

 

 一体どうしたのだろうと、しんがりを歩いていたスィンは彼へと歩み寄る。

 背丈がほぼ同程度であるために背伸びも屈みも必要なかった密談は、唐突に終わりを告げた。

 スィンの眼が、大きく見開かれる。

 

「それは本当ですか、イオン様!」

 

 詰め寄らんばかりに確認を取る。

 アニスに距離が近い、といさめられても、スィンは引くことをしなかった。

 

「はい。ですから、ダアトではもう……」

「わかりました。教えてくださったこと、感謝します」

 

 イオンの手を取りかけ、それをやめる。代わりに深く頭を下げ、スィンは唇が描く弧を隠した。

 やっと。やっと解けたのだ。アレが。

 

「どうかしたのか?」

 

 緩む頬をどうにか押さえ、スィンは満面の笑みでイオンの言葉を繰り返した。

 

「手配が解けました。もう変装しなくて済みます!」

 

 

 

 

 

 

 



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第八十六唱——その日の夜のこと

 

 

 

 

 

 

「……おい、冗談だよな」

「いいえ。私は本気です」

 

 単刀直入に言います。

 あなたの従者を私にください。

 

 そんなやりとりが交わされたのは夜。タタル渓谷を発ち、シェリダンを目指していた矢先のこと。夜間停泊していたアルビオール内にて、ささやかに幕は上がる。

 スィンのことで話がある、とジェイドより呼び出しを受けたガイは、話の内容を耳にして仰天していた。同時に、厄介なことを聞いてしまった、とも。

 

「……なんで俺に言うんだよ。そういうことはまず当人同士が気持ちを通わせて……しかるべき関係になってから、だろ。それともまさか、もうそういうことになってるのか」

「いえ残念ながら。困ったことにその当人が私の告白を本気にしてくれないのですよ。寝言はお眠りになってからどうぞ、と冷たくあしらわれてしまいまして。色恋沙汰には臆病なものですから、そう何度も同じことを繰り返すわけにもいきません。ひとまず彼女に、この年寄りは本気だ、とお伝えいただければ」

 

 話の内容はさておき、冗談を言っている顔ではないから困る。

 ジェイドプロデュースによる盛大なドッキリでないことを三度確認したガイは、やれやれと肩をすくめた。

 

「マルクト皇帝の懐刀にして名高い死霊使い(ネクロマンサー)がそこまで入れ込むとは……何があったのかは聞かないが、あいつも罪作りだなあ」

「……」

「悪いが、承諾はしかねる。ヴァンのことで相当参ってるはずなんだ。しばらくそっとしておいてやりたい」

 

 ベルケンドでの出来事後、目に見えてぼんやりしている時間が増えた。

 関連したジェイドの嫌味にもアニスのからかいにも、まともに相手をすることはなく、ティアの料理──ヴァンから教わったというそれを口にして、涙を浮かべたことすらある。

 

「懐かしかったもので、つい」

 

 無表情のまま涙を拭い、そのまま食事を続行した姿はなかなか忘れられない。

「ごちそうさま」と呟くように言って微笑んだその様も痛々しくて、ガイは直視ができなかった。

 今でこそ何事もなかったように振舞っているが、その心中は果たして如何なるものか。

 しかし、ジェイドは食い下がった。

 

「謡将とのことがあるから、そっとしておいてあげられないのですよ。その辺りにつけこまれて裏切られたらどうなさるおつもりで」

「だから旦那に乗り換えさせろってのか? むちゃくちゃだな、あいつはそんな尻軽じゃない」

「自分より年上でちょっと見た目がいいと、色目を使うようなことをする──随分前のルークの証言ですので、アテにはなりませんが」

「あいつが色目を使ったのは後にも先にもヴァンだけだよ。それもあいつのおかげで恐怖症がマシになった後。ルークに気づかれるくらい露骨だったんで、嫁入り前の娘がはしたないって咎めたら娶ってもらったから問題ないって事後報告されて。あの時は度肝抜かされたな」

「事後報告だったんですか」

「バチカル追放中のことだったから、頻繁に連絡取れなかったんだよ。ペールに言付け頼んだのにって、怒ってた。そんなことは自分で言え、って逆に叱られてたけどな」

 

 そのとき。

 ドンドン、と扉が叩かれたかと思うと、スィンが姿を現した。

 

「!?」

「もう始めてましたか?」

 

 当たり前のように二人の傍へやってきて、ちらりと周囲を一瞥する。

 驚くガイの顔を見て不思議そうにしているが、彼としてはその言動のひとかけらも理解が及んでいない。

 

「スィン? ど、どした?」

「今晩ガイ様と荷物整理をすると大佐から伺いまして、お手伝いに参りました」

 

 ジェイドに目をやれば、彼は何食わぬ顔で頷いている。

 ガイにしてみれば、何から何まで初耳だ。

 そのまま貯蔵庫内の整理を始めると思われたスィンだったが、ジェイドの顔を見るなりふう、とため息をついた。

 

「ところでね、大佐。ところ構わず寝言を呟かないでくださいよ」

「おや、聞いてましたか」

「白々しい、今のを聞かせるために呼んだでしょう。時間まで調整して、本当に狡い方ですね。尊敬します」

 

 どんなに好意的な解釈をしても褒め言葉ではないそれを耳にしても、その表情は涼しいものだった。

 

「これで私は本気だとわかってくださったなら幸いです」

「ガイ様を巻き込んでまでそんな寝言抜かすならば、ちゃんとお返事するべきですね。嫌です無理ですお断りです。慕ってくれる連中がいるんだからそこから見繕え。もしくは、せっかくいるんだから、お父さんとお母さんに見つけてもらえ」

 

 にべもない。

 淡々と理由を聞かれて、スィンはやはり淡々と返した。

 正確には、抱いている感情を意図的に殺して、だが。

 

「愛も情も恋もないのに、お付き合いできないです。大佐は違うかもしれませんが、僕には無理。性格の不一致ですね。大佐とお付き合いするくらいならぶうさぎと寝たほうがマシですよ」

 

 極めてあっけらかんと放たれたトンデモ発言だが、スィンの目はまったく笑っていない。

 ふむ、とひとつ頷いて。ジェイドは拒絶されたところで微塵にも傷ついた様子もなく宣った。

 

「再興したてのガルディオス家に、カーティス家の後ろ盾を得られるとしても、ですか」

「カーティス家が軍の名門であることは知っていますが、大佐は養子でしょう。そんな権限があるとは思えません」

 

 たたみかけるようにスィンは続けた。

 これ以上彼の口説き文句など聞きたくないと、如実に示して。

 

「それに、そういうことは現状が一段落ついてから話し合うべきですし、お家再興のことなら尚更。僕だけで決められることじゃありませんよ。継嗣はガイラルディア様なのですから」

「話し合い以前の問題です。まずあなたには、私の気持ちを受け入れて頂かなくては」

 

 うそつき、そんなことは心にも思っていないくせに! 一体何を企んでいるんだ! 

 と、感情のまま罵りたい気持ちは、せめて子供のように喚くまいと抑えて。

 

「……寝言は眠ってから呟くものです。戯言は、酔ってからにしてください!」

 

 ぷいと顔を背けて、本来の目的である荷物整理に取り掛かる。

 もうその話題は受け付けない、と背中で語るスィンにやれやれと首を振って、ジェイドもまた積まれた旅荷に目をやった。

 怒涛のように過ぎ去った話題から取り残されたガイが、おずおずとスィンに話しかける。

 

「スィン……」

「はい」

「俺は家のためや何かのために、お前をどこかへやるようなことはしないからな」

「ガイ様……」

「だからお前も、家のためとか俺のためにとか先走って、自分を犠牲にするようなことは考えるなよ」

「……はい、わかりました!」

 

 うってかわって嬉しそうに、咲き誇る花のような笑みを浮かべた従者の頭を撫でようとし──妹として扱っていた頃の癖である──とどまった。

 気を取り直したように、ジェイドに向き直る。

 

「そんなわけだから、旦那。本当にスィンが欲しいなら、まずは本人をどうにか口説いてくれ」

「仕方ありませんね。ま、努力はしましょうか」

 

 とてもではないが、女に惚れた男の抜かす言葉ではない。やはり何か企んでいるのだろう。

 でなければ、彼が若くもなく健康体には程遠い、更に離婚歴すらある女を選ぶ理由はない。

 そうでなくても、スィンはジェイドを異性として見る前に色眼鏡をかけざるを得ないのだ。そのことは最早彼も、重々承知のはずなのに。たらしこんで命乞いする姿など、想像もできない。

本当に、何を考えているのやら。

 

 

 

 

 

 

 

 徒歩での旅路では移動がわずらわしくなるにつき減らしがちだった旅荷だが、タルタロス、アルビオールと移動手段を確保した時点で何かと物は増えがちだった。

 王女であり倹約という言葉にとんと疎いナタリア、まだまだ外の世界が珍しいルーク。そして音機関偏執狂──そう呼ぶと怒るが、実質はその通りのガイ。

 特にナタリアは最近料理に目覚めたらしく、目新しい食材を買い込んでは錬金術じみた方法を用いて別の物質に変異させている。

 実際のところは何か料理を作ろうとして失敗しているだけだが、彼女の手順を見る限りはそのように認識できるはずだ。

 その中には、珍しいチーズや岩塩、香草の類。そして、封が切られているだけでほぼ手付かずの酒類が並んでいる。

 

「そういや、この間フランべに挑戦しようとして大変なことになってたな」

「思い出させないでください……」

 

 フランベとは最後の香り付けにするもので玄人が客に提供するものならともかく、素人がやったところであまり意味はないそうだ。

 それでも香りは重要だ、と彼女が奮闘した結果、未曾有の大災害を召喚してしまったわけだが……

 

「また随分買い込みましたね。ナタリアには許可を貰ったことですし、我々で処分しますか」

「だからこの面子なんですね」

 

 内一本を手にとり、覗き込むようにしているジェイドに私情を殺して歩み寄る。

 見上げた彼の瞳は酒瓶のラベルを映していて、その内心を探ることはできなかった。

 

 

 

 

 




称号:アルケミスト(ナタリア)
卑金属を金に変える? 賢者の石を練成する? 転じて、不老不死を目指す? 
いいえ、錬金術とは本来一般の物質を「完全な」物質に変化・精錬しようとする技術のことです。
食物を「完全な」非食物に変え、借りた宿屋の台所を「完全な」廃墟にしちゃった貴女に贈る称号(結構ですわ!)

……おそるべし、カラミティ(疫病神、厄災、不幸、惨事の意)シェフ


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第八十七唱——彼女の不幸、彼女の苦悩

 

 

 

 

 

 

 測定済み計測器を携え、一同が再びラーデシア大陸に上陸したのはタタル渓谷を出て数日後のことである。

 夜明けを迎えて海岸に降り立ったとき。アルビオールから出てきたアニスが見たものは、浜辺に佇むスィンの姿だった。

 しかし、その姿は。

 

「あれ? スィン、大佐とのペアルック気に入っちゃった?」

「……」

 

 これまで、ダアトで手配されている、との情報により、街中では度なしの眼鏡、手直しこそしてあるが男性ものの軍服をスィンは着用していた。

 しかし先日、告げられたイオンの言葉によりダアトの手配が解かれたことを知り、これで大佐の副官はクビだとと嬉しがっていたというのに、今のスィンは眼鏡こそ外しているものの軍服のままである。

 アニスの問いに答えどころか反応もせず、むすっとした顔で横を向いていたスィンの代わりに、アルビオールから出てきたガイが苦笑しながら説明した。

 

「実はさ、昨夜古いのを処分しよう、ってことで旦那と俺とスィンで酒盛りやったんだ」

「え~、ずる~い! あたしたちも参加したかった~」

「キミたちまだ未成年だろうが。で、ただ酒を飲むだけに留まらずポーカーだのブラックジャックだのやってたんだ」

「ますますずる~い!」

 

 度重なるアニスの「ずるい」発言により、興味を抱いたルークらも集まってきている。

 スィンに対し、言い方は違えどアニスと同じような質問をし、相手にされなかったナタリアやイオンもやってきた。

 

「でだ。やっぱりそうなると遊んでるだけじゃ面白くないからって賭け事始めたんだよ。初めのうちこそ一気飲みとか、その場で逆立ち五分間とか、その程度だったんだけど……」

「だけど?」

「そのうちなんだか妙な雰囲気になってきてな。敗者は勝者のいうこと何でもひとつ言うこと聞くってことになっちまって……」

「うんうん」

「仕舞いには、勝ったジェイドがスィンにある要求をして、それをチャラにするためにスィンが勝って、それをチャラにするためにジェイドが勝って……っていうのがえんえん続いて、最後にジェイドが勝ったんだ」

「その賭けの内容って……」

「どうしても嫌だ無理だもうひと勝負って息巻くから、妥協してもらって一定期間、ジェイドの部下ってことにさ。つまり軍服の強制着用だよな。だから約束守ってるんだよ」

 

 なるほど、と話を聞いていた一同が納得を示したとき。「おはようございます」と実に爽やかな声が響いてきた。

 無言で朝日の出現を眺めていたスィンが、ギギッ、と音を立てそうな風情で首を動かす。

 

「珍しく遅いな、旦那」

「やはりアルコールの大量処分などするものではありませんねえ。少し腹がたるんできたかもしれませ……おや、どうしました? スィン」

 

 つかつか、と彼に歩んだスィンが、突如短刀を引き抜いてジェイドの顎に突きつけた。

 何を思ってか余裕綽々のジェイドに、スィンはゆっくりと顎の一部に刃をすりつけている。

 

「……髭。剃り残し」

「これは失礼」

 

 目敏いですねー、とか言いつつ、刃が触れた辺りを撫でている。

 出血等が見受けられないために事実らしいが、この若年寄に髭が生えていること、それだけのためにスィンが刃物を抜き放ったことなど到底信じられることではない。

 

「お、怒ってる……な?」

「怒髪天をついているように見えるわ」

「昔から、スィンは怒ると無口になりましたわ……」

「もともと口数は少ない方だけどな。今なんか言葉がぶつ切りになってるし」

「スィンさん、怖いですの……」

「ええ。スィンは怒っているとアニスにはない無言の迫力があります」

「普段冷静な人はキレると怖いんですよねぇ」

「そこ! 好き勝手抜かすなら本人のいないところでやってくださいっ!」

「……っていうか大佐、人のこと言えるんですかぁ?」

 

 鞘つきの血桜を振り回して暴れるスィンは、さりげなくジェイドの脳天に命中させんとこっそり狙いをつけている。

 多分当たらないだろうし、当てられないだろうが、パフォーマンスは必要だ。

 そんなことを考えながら、スィンはジェイドの盾にされたガイの脳天ぎりぎりのところで血桜を寸止めしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ガイラルディア様を盾にするなんてなに考えてんですか、大佐のアホー!」

「アホとは失礼な。あなたに対し極めて有効、かつ誰も傷つかずに済む方法でしょう。あなたがガイに危害を加えられるわけありませんし」

 

 しんがりに立つ二人の舌戦、否、口喧嘩がやんだのは、シェリダンに足を踏み入れてからのことである。

 それまでは魔物が現れようと盗賊が現れようと、互いに違う相手と切り結ぶ最中にまでけなしあっていたのだからたまらない。

 これがシェリダンに入っても続くようだったらばガイも止めに入るところだったのだが、街に入ってからはお互い何もなかったように接している。

 マルクトの軍服を纏う二人が言い争うなど目立つ行動は避けたかったのかもしれないし、ひょっとしたらこれが、二人の溝を埋める共同作業だったのかもしれない。溝を埋めようと努力して、更に深める羽目になっただけかもしれないが。

 

「おお、よく戻ったの」

 

 そんなこんなで、街の中心にある集会場にたどり着く。へこんできしむ扉をどうにか開けば、老人たちが出迎えてくれた。

 ただし、彼らが待ち望んでいたのは一同に限ってのことではない。

 

「これが計測結果だ」

 

 ルークの差し出した計測器を奪い取らんばかりに取り上げ、側面をまじまじと見つめている。

 そんなイエモンを、無駄だとわかっているためかいさめるようなことはせず、かわりとばかりタマラが一同に現状の報告をしてくれた。

 

「こっちは今、タルタロスを改造しているところさ」

「タルタロスを?」

「タルタロスは魔界に落ちても壊れなかったほど頑丈だ。地殻に沈めるにはもってこいなんだよ」

「タルタロスは大活躍ですねえ」

 

 どこか揶揄するようにジェイドが呟く。

 ほんのわずかに寂寥感がにじんでいる気がしないでもないが、それはあまりに人情が溢れすぎて垂れ流さんばかりの話かもしれない。

 仮にそうだとしても、この死霊使い(ネクロマンサー)がそれを表に出すはずもなく。

 

「まだ準備には時間がかかる。この街でしばらくのんびりするといいぞい」

 

 そう言い残し、彼は計測器を抱きしめるようにしながら作業台へと駆け上がった。待ちかねていた老技術者たちと、たちまち侃々諤々(かんかんがくがく)の打ち合わせが行われる。

 それじゃあね、とその輪にタマラが加わり、邪魔になってはまずいと一同は集会場を後にした。

 

「地殻の振動停止にタルタロスを使うんですね」

「もともと軍艦なのですが、戦争で使うよりも有意義な使用法かもしれませんね」

 

 流石のジェイドも、自分の乗っていた戦艦がこのような形で殉職するとは考えていなかったらしい。先ほどの台詞と合わせて、その言葉はどこか感慨深い。

 

「うまくいくといいですね~」

「成功させなければいけません。大地を降下させても、それだけでは人々は生きていけないのですから」

 

 念を押すように、どこか言い含めるような形でアニスの実現の成功に対する曖昧さを吹き飛ばしている。

 そんなことはわかっている、と言いた気に、アニスはぷぅっ、と頬を膨らませた。

 

「わかってますよぅ」

 

 その愛らしい仕草が笑いを誘ったか、ジェイドは「ははは」と軽い笑みを零している。が、すぐにその表情はひきしまった。

 

「ともかく、タルタロスにとっては最後の仕事になるでしょう」

「うん。頑張れタルタロス!」

「なあ、ちょっといいか?」

 

 この後は自由行動か、はたまた宿を取って休息するかと各自思案していた矢先。ふと、珍しく黙していたルークからふと切り出される。

 

「どうしたの?」

「ずっと考えてたんだけど、大地の降下のこと、俺たちだけですすめていいのかな?」

「ん? どういうこと?」

 

 ティアが反応し、更に語られたその内容にアニスが詳細を求めた。

 

「世界の仕組みが変わる重要なことだろ。やっぱり、伯父上とかピオニー皇帝にちゃんと事情を説明して、協力しあうべきなんじゃないかって」

「……ですが、そのためにはバチカルへ行かなくてはなりませんわ」

 

 ルークの提案に、ナタリアは眉を曇らせて逡巡を示している。

 無理もない。血の繋がらないことのショックに加え、濡れ衣を着せられた挙句、処刑されかけたのだから。その恐怖は、誰よりも強く彼女に刻まれたはずだ。

 それでも、ルークは彼女の目を見つめて断言した。

 

「行くべきなんだ」

「ルーク……」

「街のみんなは命がけで俺たちを……ナタリアを助けてくれた。今度は俺たちが、みんなを助ける番だ。ちゃんと伯父上を説得して、うやむやになっちまった和平条約を結ぼう」

 

 ──確かにその通りなのだが、異を唱えるべき点は何一つないが。あえて指摘するとすれば、時期が早すぎる。

 確かに処刑騒ぎから日が経っているものの、これまで成すべきことが多すぎてナタリアはその問題と向き合う暇がなかった。

 今唐突に取り出して無理やり向き合わせようとしても、それは難しい。

 

「それでキムラスカもマルクトも、ダアトも協力しあって、外殻を降下させるべきなんじゃないか」

「……ルーク! ええ、その通りだわ」

 

 思いもよらぬ彼の成長ぶりにか、ティアが感銘したように賛同を唱えている。

 しかし、ナタリアの表情は曇ったまま、苦しげに眉根を寄せたまま呟いた。

 

「……少しだけ、考えさせてください。それが一番なのはわかっています。でもまだ怖い。お父様がわたくしを……拒絶なさったこと……」

 

 ぎゅ、と拳が握られ、ナタリアが顔を伏せる。

 そして「ごめんなさい」と蚊の泣くような声音で呟いたかと思うと走り去ってしまった。

 誰も追うどころか呼び止めることはしない。ナタリアの心情を思えば、できることではない。

 

「仕方ない。ナタリアが決心してくれるまで、待つしかありませんね」

 

 嘆息混じりのジェイドの案に、一同が承諾を見せる。

 それぞれ解散したその後で、スィンは彼との通信を果たしていた。

 今のナタリアが必要とする、彼女の本当の幼馴染を。

 

『アッシュ!』

『……あんたか。なんだ』

『出番だ』

 

 

 

 

 

 

 



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第八十八唱——見守るは、対なす二人の揺れ動く心

 

 

 

 

 

 

 夜の女王が如き月が中天を過ぎる頃。スィンは寝床を抜け出して、シェリダンの入り口で待機していた。

 煌きの粒子に彩られる漆黒のタペストリーにも似た空は、時軸の移動によりその姿を薄れさせる。しかし、朝の到来は未だ遠い。

 ただし待ち人は、そのまばゆい光に勝利した。

 

「いらっしゃいませ。お早いお着きで」

「……悪かった」

「この皮肉、わかるようになったんですね」

 

 宿屋、そして海の臨める広場を監視していたスィンは、待ち人の到来を知り、腰かけていた高台から飛び降りた。

 

「……ナタリアは」

「あちらにおいでです。もうちょっと早ければ、タイミングぴったりだったのですが」

 

 一応周囲に気を張るが、誰もいない。おそらく漆黒の翼の援助のもと移動しているのだろうが、今回彼らは置いてきたのだろうか。

 その辺りに関して、口を挟むつもりはないけれど。

 

「どうして出てくると予測できた? それとも、誘い出したのか」

「何にもしてませんよ、今回は。人間、悩んでいると眠れないものですし?」

 

 実際のところ、ナタリアは海を眺めるのが好きだった。

 幼いルークに誘われ、バチカル城外を抜け出し、手始めに発見されにくい寂れた港跡へ連れて行って、あらゆるものをちっぽけに見せる海原を見せたのが原因の一端かもしれない。

 とはいえど、幼いルークの屋敷脱出を手伝い、更に「ナタリア姫もお誘いに」とそそのかしたのは他ならぬスィンなのだが……

 それを馬鹿正直に教える気もなく、適当にごまかしてナタリアの佇むその場所へアッシュを誘う。

 気配を悟られない程度に近づき、立ち止まった。

 寂しげなナタリアの背中は普段の雰囲気を綺麗にそぎ落とされており、ひどく儚い。

 白む空をすかし、その髪は徐々にその色を明確にしていった。もう少し待てば、水平線より現れし太陽により、その髪は輝く黄金の色を放つだろう。

 そんな彼女を見てどこか戸惑っているようなアッシュの肩をすれ違い様に叩き、スィンは無言で来た道を去った。

 とはいえ、ただ放っておくようなことはしない。

 その場を離れたのはもちろんアッシュの自由にさせるつもりだからだが、そのために状況の把握を放り出すわけにもいかなかった。

 集中は足元に光の譜陣を描き、誘われるように第三音素(サードフォニム)による探索術の詠唱を始める。

 

「三界を流浪せし旅人よ、流転を好む天空の支配者よ。偉大なる汝……」

『ちょっとぉー、いちいちそんな()使わなくても、このアタシに助力を願えばいいでしょー!?』

 

 突如響いた頭の中の声に、スィンは飛び上がらんばかりに驚いた。

 

「シ、シルフ!? なんで!?」

 

 慌てて指を確認する。あの召喚の螺旋は現れていない。

 そもそも彼らは、呼びかけに応じるか契約を結ぶときくらいしか現れないはずなのに、どうして──

 

『ここもアタシの力が強く働いてるから、勝手に口出しくらいならできるの。それより、なんでわざわざこんな回りくどい真似するわけ? どうせアタシの力使ってるのに』

「確かにこれは第三音素(サードフォニム)使ってるけど、譜術体系だから意識集合体に直接影響は……」

『あっまーい! 甘すぎるよ我が主! 確かに他の、人間程度が考えたクズ術はそう。だけど、えー、コダイヒフジュツ、とか言ったっけ? それだけは別! ちゃーんとアタシたちの力、使っちゃってるよ? まあ、これなら別に何をしようが気にしないけどね。そういう契約だし』

 

 シルフの言葉に、内心頭を抱える。

 タタル渓谷で聞いたヴォルトの言葉、そして古代秘譜術の詠唱はひっかかっていたが、正直擬似的なものだとばかり思っていた。まさか本当に、意識集合体の力を借りていたとは、予想外にもほどがある。

 だが、もたもたするわけにもいかない。スィンは開き直ることにした。戸惑うのは、後でもできる。

 

『で? どーすんの?』

「……シルフに願う、僕の眼となり耳となっておくれ」

『りょーかーい♪』

 

 直後、スィンの目蓋の裏に一部始終が流れ込んできた。

 佇むナタリア、ようやっと腹をくくったかゆっくりと彼女に近寄るアッシュ、物陰からナタリアを見つめるルーク。

 

(……何ゆえ?)

『あの赤毛の坊やなら、金髪の女の子が出てきた時点で追っかけてきてたよ。何あの三人、三角関係?』

(お願いシルフ、頼むから口を慎め)

 

 スィンは本気でそれを願った。

 やがて、アッシュの接近に気づいたナタリアが素早く後ろを振り返り、誰何の言葉を発する。

 

「誰!?」

 

 寸前で、ルークは物陰から出していた顔をひっこめた。

 気持ちはわかる。

 一方ナタリアは、思いも寄らぬ顔を見つけて驚いたように口元へ手をやった。

 

「アッシュ……どうしてここに……」

「スピノザを捜して……ちょっとな。おまえこそ、こんなところで何をしてる」

 

 ──下手な言い訳だなー。

 完璧な傍観者の立場で、スィンは思わず苦笑いを零した。

 ちょっと考えれば、ベルケンドのい組の逃亡先であるシェリダンにスピノザが来るわけがない。その以前に、彼を匿った六神将……ヴァンが、それを許すわけがない。ここに彼らの拠点はないはずだし。

 が、そんな推測をして突っ込めるほど、ナタリアはツッコミに長けていなかった。むしろ彼女はボケ担当だ。それはアッシュも同じことだけれど。

 

「わたくしは……」

「バチカルへ行くんじゃないのか?」

「知っていましたの!?」

 

 それに答えることなく、アッシュはナタリアへ歩みを進めた。

 そりゃそうだ。スィンから召集を受けただなんて、口が裂けても彼は話すまい。

 

「……怯えてるなんて、おまえらしくないな」

「わたくしだって! ……わたくしだって、怖いと思うことくらいありますわ」

「そうか? おまえには、何万というバチカルの市民が、味方についているのに?」

 

 そういう問題ではないとわかっていながら、アッシュは処刑騒ぎで明白となったナタリアに対する信の深さを語っている。

 深い沈黙を経て、彼女は深々とため息交じりに呟いた。

 

「……わかっています。そんなこと」

 

 どれだけ味方がいようと、彼女にとってそれは大したことではないのだ。この場合において父親以外には。親と信じた人間から、切り捨てられた悲しみと恐怖に比べれば。

 だからスィンは、彼女が彼女であるが所以を握る、ナタリアのアイデンティティを確立した人間を呼び寄せた。

 天秤の片方に載せることができる、重さのある適任者を選んだ。

 彼が、迷いつつも頭では決まっている彼女の決断を、後押しすると信じて。

 

「……──いつか俺たちが大人になったら、この国を変えよう」

 

 不意に、唐突に。ぽつりとアッシュが呟いた。

 歩んでいた足が止まり、海に面した柵の先を見据えるナタリアの隣に並ぶ。

 太陽が徐々にその姿を現し、宵闇は隅へと追いやられた。まばゆい力が、静寂の世界に佇む二人を包み込む。

 

「貴族以外の人間も、貧しい思いをしないように。戦争が起こらないように」

「……死ぬまで一緒にいて、この国を変えよう」

 

 どこか呆然と言葉を紡ぐ彼女に最後まで眼を向けぬまま、アッシュはきびすをかえした。

 

「……あれは、おまえが王女だから言った訳じゃない。生まれなんかどうでもいい。おまえができることをすればいい」

 

 合言葉のように紡がれた言葉の真意を、スィンに理解することはできなかった。

 が、今回スィンが求めたのは会話の内容、それに伴う意味ではない。

 要は、アッシュにナタリアを励ますことができたか、更に決意を固めさせることができたか否かだ。

 だから考えちゃいけない。デバガメやってる自分が最低だ、なんてこと。

 二人だけの秘密に踏み入らずに済んだことを、感謝するべきだ。

 アッシュに尋ねてはいけない。絶対に。

 

『えー。気になるー。知りた~い』

 

 シルフの独り言は無視。

 アッシュがきびすを返した直後に、ルークもまた移動を始めていた。

 図らずも覗きになってしまった、その意識があるからか、行動が迅速だ。しかし。

 

「あ……」

 

 宿屋の前には、ティアが立っていた。

 

「……立ち聞きはよくないわ」

 

 およそティアの位置から二人の会話が聞こえるとは思えないが、ナタリアやルークのいた位置、そしてアッシュの存在を目で確かめたのだろう。あえてそれをたしなめている。

 

「……聞こえちまったんだよ。それに声、かけにくい雰囲気だったし」

「そう」

 

 言い訳そのもののルークに突っ込むことなく、彼女は立ち尽くすナタリアを瞳に映した。

 つられるようにルークもナタリアを映し、独り言のように呟く。

 

「俺が生まれなかったら、ナタリアはアッシュと……」

「あなたが生まれなかったら、アッシュはルークとしてアクゼリュスで死んでいたわね」

 

 ティアの言葉は固かった。優しさなど、労わりなど欠片も感じられない声音で、むしろなじるようにルークの言葉を遮っている。

 その声音に、溢れんばかりの悲しみがこめられていたことを、ルークは気づけただろうか。気づいたか、その声音の強さに驚いたか、ルークはただティアの名を口にしている。

 

「ティア……」

「自分が生まれなかったらなんて仮定は無意味よ。あなたは、あなただけの人生を生きてる。あなただけしか知らない体験、あなただけしか知らない感情。それを否定しないで。あなたはここにいるのよ」

「……うん。ありがとう」

(……ありがとう)

 

 視界と聴覚を貸してくれたシルフに礼を述べ、スィンは自分の視覚を取り戻した。

 

『どーいたしましてー』

「……シア」

 

 直後、戻ってきたアッシュの声が聞こえる。ふと目蓋を上げれば、すぐ前にアッシュが突っ立っていた。

 ──集中が過ぎていたらしい。全然気づけなかった。

 跳ねそうになった体が、預けていた石壁にどしんとぶつかる。

 

「あいてて」

「どうしたんだ?」

 

 不思議そうに首を傾げるアッシュに、スィンは背中をさすりながらごまかした。

 事実を告白するのは、いくらなんでも格好悪すぎる。アッシュだけでなく、ルークのデバガメまでしてしまった、なんて。

 

「なんでもありません。それよか、感謝します。ナタリアもきっと、心を決めてくださるでしょう」

「……俺は伯父上が、あいつを受け入れると信じたいがな」

「うまく事が運ばなかった時のことだけ、私は考えていますから。おそらくジェイドもですが、最悪の事態に対応することをね」

 

 何においても、あの人は和平条約の締結を優先させるだろう。ならばこちらは、ナタリアが受け入れられなかったときを考えておかなければ。

 上りくる朝日が、シェリダンの町並みを染め上げた。

 メジオラ突風の余韻がシェリダンを駆け抜け、立ち尽くす二人を優しく撫でる。

 雪色の髪が、緋色の髪がなびき、一瞬だけ絡まりあった。それも束の間、白と赤は名残を惜しむ間もなくするりとすれ違う。

 淡白な二人の今を、現すように。

 

「十二分にご注意あそばせ。漆黒の翼に、尻の毛引っこ抜かれないように」

「……そんなところに毛は生えてない」

「そういう意味じゃないです。失言でした是非忘れてください。というか、知りたくありませんでした」

 

 忘れてた。

 ガラやらなんやらチンピラにも扮せるアッシュではあるが、中身は王家に連なる貴族のおぼっちゃまである。

 多少神託の盾(オラクル)として揉まれたかもしれないが、犬の群れに狼の仔を放り込んだところで、狼は犬にならない。

 こんな裏町言葉(スラング)を知ってるわけがなかった。

 

「今のはどういう意味なんだ?」

「……一文無しにされないよう気をつけろ、という解釈で。そんなものしか所持品がなくても、容赦しない奴はしませんので」

 

 興味深そうにふんふん、と頷く彼に「実践使用禁止」と忠告しておく。

 また変な言葉を教えてしまった。今度は気をつけよう。

 彼と出会ってからもう何回目かもわからない戒めを、スィンは口の中で呟いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アッシュを街道の途中まで見送り、欠伸をしながらシェリダンへと戻る。

 視線の先では、ナタリアを先頭にぞろぞろ集まる一同の姿があった。ひらひら手を振りながら近寄れば、一枚の羊皮紙を手にしたアニスがヤッホー、と声をかけてくる。

 その紙切れには、「サンポ行ってきます」と簡潔な伝言が書かれていた。「どこに行っていたんだ!」と怒られないための工夫である。

 

「スィンー! こっちこっち!」

「おはよ、アニス。どうかしたの?」

「うん、ナタリアから話があるって……決めてくれたのかな?」

 

 声をかけられたのを気に、ガイや他の一同とも挨拶をかわした。そして、集会場の前に立ったナタリアが一同を見渡して頭を下げる。

 

「……ごめんなさい。わたくし、気弱でしたわね」

「では、バチカルへ行くのですね?」

 

 最終確認とばかりに尋ねるイオンに、彼女は決意を秘めた目で頷き返した。

 

「ええ。王女として……いいえ、キムラスカの人間として、できることをやりますわ」

「そうこないとな」

 

 君ならそう言ってくれると思ったよ、と笑顔を向けるガイに引き続き、ジェイドもまた笑みを寄越している。

 

「そういってくれると思って、今までの経緯をインゴベルト陛下宛ての書状にしておきました。外殻大地降下の問題点と一緒にね」

「問題点? 何かありましたっけ?」

 

 アニスが首をひねるその横で、ティアははっとしたように尋ねた。否、確認した。

 

「……瘴気、ですね」

「そうか。そもそも外殻大地は、瘴気から逃れるために作られたものでもあるんだよな」

 

 ガイが呟くその先で、ジェイドもまた頷いている。

 

「瘴気に関しては、ベルケンドやシェリダンだけではなく、グランコクマの譜術研究、それにユリアシティとも協力しなければ解決策は見つからないと思います。でもそのためには──」

「そうだ。まずはキムラスカとマルクトが手を組まないと」

「行きましょう、バチカルへ。お父様を、説得してみせますわ」

 

 ルークに引き続くナタリアのその一言により、一行のバチカル行きが決定した。

 

 

 

 

 




実際のところ。アッシュは如何にしてナタリアの苦悩を知りシェリダンへ来訪したんでせうか。
こっそりルークの視界と聴覚借りたとか? 
あるいは、漆黒の翼配下辺りに一行の動向を監視させてたとか……
もう貴族じゃないのに経済力ありすぎる。スポンサーはどこだ。


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第八十九唱——地位と感情と陰謀の匂いと

 

 

 

 

 

 

 バチカル付近の護岸にアルビオールをつける。

 アルビオールの特徴的な姿もさることながら、港や天空馬車には幾人かの兵士が常駐していたはずだ。いくらなんでもそこからナタリアの姿をさらすのは危険すぎる。

 皆が皆、味方とは限らない。先だっての騒ぎで、ナタリアをかばったために怪我をした人間はゼロではないのだ。死んだ人間も、バチカルを離れていた今知る術はない。想定できる危険は、避けるべきである。

 そびえるバチカルの王城に眼をやりながら、「さて」とルークが呟いた。

 

「となると、どうやって伯父上に会おう」

「そうですわね。正面から行っては不要な争いを起こしてしまいます。となると……スィン、わたくしたち全員が一様に忍び込める道を知りませんか?」

 

 ナタリアがふと、スィンに案はないかと話題を振っている。それにティアが反応した。

 

「どうしてスィンがそれを知っているの?」

「アッシュやわたくしがこっそり城を抜け出して城下へ遊びに行く際、よく隠し道をわたくしたちに教えてくれましたの」

 

 確かに、それは事実だ。

 屋敷の中、城内、王侯貴族の名に連なる大人たちの目の下でしか世界を知らなかった彼らに、通常生まれてくる人間としての目線を知ってほしい、との思惑のもと、彼らを外の世界、手始めとして城下へ連れ出した。

 狙い通り興味を持った彼らの好奇心を殺してはいけない、とスィンは仕事の合間を縫って様々な抜け道を探し、毎度毎度使う道を変えた。

 二人が道を覚えて勝手に抜け出したりしないように。勝手に城下へでかけられて、大事に至らないように。

 しかしスィンは一同を見回した後に、首を否定の形に振った。

 

「……無理かな。人数もそうだけど、今のガイラルディア様や大佐にアレは通れません」

 

 きちんと身を入れて調べれば、攻め込まれた際王族専用の隠し通路など見つかるかもしれないが、今そんな猶予はない。

 大体、バチカルは護りに長けた街だ。城はその際たる場所、創設者がそこまで気を回したかどうか。

 スィンにきっぱりと却下され、言葉に詰まったナタリアに、意外にもイオンが助け舟に出た。

 

「大丈夫です。僕に任せてください。僕の名を出せば兵士達も通してくれると思います。正面から行きましょう」

「イオン様……」

 

 その彼らしからぬ断言の強さに、アニスがいさめることを忘れて彼を見上げている。

 二人もまた、珍しく彼の思いに甘えていた。

 

「そうか……じゃあ頼むよ、イオン」

「お願いしますわ」

「導師の名にかけて、必ずお二人をインゴベルト陛下の元にお連れします」

 

 インゴベルトの名を聞いたそのとき。スィンはふと、自分の姿を見下ろした。

 マルクトの軍服。バチカル城に押し入った際隠しもしなかった、夜目にすら鮮やかな雪色の髪。

 

「……そうだ、ガイラルディア様。許可ください」

「ん? なんのだ?」

「スィン・セシルとして王城へ参ります。マリィベル様のお姿を宿す許可を」

 

 ガイがそれについての合否を唱えるその前に。イオンが興味深そうに口を挟んできた。

 

「どうしてスィンが姿を変える必要があるのです?」

「えーっとですねえ……」

 

 とりあえず、道すがらスィンは先だっての処刑騒ぎのあらましを聞かせる。それから、理由を話した。

 

「そんなわけで、僕は先だっての処刑騒ぎでアッシュと共にみんなを脱獄させています。殺しこそしてないけど兵士に怪我はさせてるし──言い方はなんですけど、偽王女脱獄を促した張本人とされているはずです。そんな人間を連れてって、わざわざ事態を混乱させるわけにはいかないでしょう。インゴベルト王を悩ますのはマルクトとの和平だけで十分なはず」

 

 しかし、イオンは納得する気配を見せなかった。それどころか。

 

「……ジェイド。これを機軸にすることはできませんか?」

「可能といえば可能ですね。彼女はもともとマルクトの人間ですし」

 

 意味ありげなやりとりに不審を覚えたか、ガイが口を挟んだ。

 

「どういうことだ?」

「ナタリアを助けたのはマルクトの人間、ということにしておけば、キムラスカはマルクトに対し借りができ、マルクトと和平条約を結ぶ材料にならないか、ということですよ。あなたも想定しなかったわけではないでしょう?」

「そりゃしましたけど、預言(スコア)に自分の甥どころか──」

 

 何の気なしに言葉を続けようとして、ふと口を押さえる。

 娘であったナタリアの前で、こんなことを言ったら流石に不信感が芽生えるだろうか? 

 

「な、なんですの?」

「いえ、なんでも。まあそんな輩がナタリアを娘と再度認めるかどうかわからないから、ここはマルクトとの和平条約だけ迫ってややこしいことはしないでおこうかな、と思ったんですけど」

「いえ、僕はかまわないと思います。確かにインゴベルト王はモースのいいように操られ、愚を冒してばかりいますが仮にも彼はキムラスカの王です。きっと理解してくれると思います。マルクトの軍服を纏い、ナタリアの脱獄を助けた張本人が目の前に現れれば、無言の圧力にもなりますよ」

 

 それが彼の決断を鈍らせはしないか、とスィンは憂いていたのだが……誰も、ガイもこれといった反論をしないために従っておくことにした。

 流石はイオン、ここまでの若年で導師に選ばれただけはある。やはり純粋でカリスマ性が秀でているだけでは導師は務まらないらしい。

 ともかく、正面突破、スィンも姿は変えず、とバチカル攻略は決定した。

 一歩バチカルへ足を踏み入れた瞬間、人々の視線が一行に集中する。

 ざわめく住民たちを睥睨し、ナタリアは先陣を切って歩みだした。

 その両脇をルーク、ガイのツートップで固め、中間にダアトに籍を置くティア、アニス、イオンが続き、しんがりをマルクトの軍服に身を包むスィン、本当にマルクトの軍人であるジェイドが続く。

 バチカル市民たちは、一同の姿を見るなりざわざわと騒がしくなるものの、その動向を邪魔する動きは見られない。

 ただ、好奇と疑念の思いを伴った視線を寄越してくるだけだ。

 

「……殿下! 何故お戻りに」

「すべきことを成すために、です。それ故わたくしはお父様に、陛下に会わねばなりません。通しなさい」

 

 王城へと続く昇降機を守っていた兵士が形ばかり立ちはだかるものの、ナタリアの毅然たる態度に押され、押し退けるまでもなく兵士は道を空けている。

 大昔、どこぞの賢者が街を追われた住民らを救うため、海を割って彼方の大陸へ避難させた神業のように開いた兵士らから、スィンは突き刺さるような視線を感じていた。

 当時は着のみ着のまま、荷物ひとつ持たぬ身だったのだ。加えて、こっそり焦っていたスィンは不覚にも髪の色すら変えていなかった。

 この特徴的な容姿で、自分たちを昏倒させた女の姿を忘れろというのに時期が短すぎたらしい。

 だが、どこぞの伝説ではあるまいし、視線だけで命は奪われない。

 最後にスィンが昇降機の籠に乗り込むと、ガイが昇降機の作動を促した。

 ゆるゆると、籠は最上階を目指す。

 かしゃん、と音を立てて停止したその先で、どのような伝令がなされたのか、待ち受けていた兵士は動揺を見せることなく一同を昇降機から降ろした。

 ナタリアに敵意を見せることもないが、その代わり心配そうな警告を発することもしない。

 これからの成り行きを見守り、中立に立とうとする輩か。賢い選択である。

 とにかく籠から降り、その足で王城へと赴く。途中、ファブレ公爵家の門がちらりと垣間見えたが、ルークの視線はすぐにナタリアのもとへと向かった。

 事実を、血脈の誤りを突きつけられても失われぬ誇り高きプリンセスの姿は健在だ。他人にその言葉さえ告げられなくば、彼女は一生王女ナタリアとして栄光の彩る道を歩み続けていただろう。

 ただ、今その道は暗雲により、光をなくしている。立ち止まって光を取り戻すのは不可能。

 暗闇の中を進み、突き進んで消された光を取り戻すのか、分岐にさしかかり違う道を選ぶか。

 此度の和平条約に向けての働きかけは、まさに人生の分岐であった。

 キムラスカ・ランバルディア王家唯一の直子、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアであった少女の歩みが止まる。

 すぐ眼の前にはバチカルにそびえし王城。彼女の歩みを阻むは、門を護る兵士二人であった。

 互いに手にした長柄戦斧(ハルバード)を交差させ、何人たりとも侵入を許さぬ立ち位置で一同を睨みつけている。

 その様たるや、昇降機を護っていた兵士にはない強い光が、兜の奥の瞳に宿っていた。

 

「ナタリア殿下……! お戻りになられるとは、覚悟はよろしいのでしょうな!」

「待ちなさい」

 

 流石、王の膝元は教育が行き届いている。

 王の血を引かぬ偽者に対しすぐさま長柄戦斧(ハルバード)を振りかざした兵士に対し、イオンは一歩踏み出して兵士の前に立ちはだかった。

 

「私はローレライ教団、導師イオン。インゴベルト六世陛下に謁見を申し入れる」

「……は、はっ!」

 

 誰もが依存する預言(スコア)を詠み、預言師(スコアラー)達を束ねる指導者を前に、兵士は自然緊張した背筋を伸ばして敬礼を余儀なくされる。追い討ち気味に、イオンは付け加えた。

 

「連れのものは等しく私の友人であり、ダアトがその身柄を保証する方々。無礼な振る舞いをすれば、ダアトはキムラスカに対し、今後一切の預言(スコア)を詠まないだろう」

「導師イオンのご命令です。道を開けなさい」

 

 キムラスカにだけ預言(スコア)がもたらされぬ恐怖、なりは小さく、一度は解雇されたとはいえ導師直属の護衛役の言葉が相まる。

 兵士二人は気圧されたように、王城への道を開いた。淡々と、イオンは一同に向き直る。

 

「行きましょう。まずは、国王を戦乱へとそそのかす者たちに、厳しい処分を与えなければ」

「……ナタリア、行こう。今度こそ、伯父上を説得するんだ」

「ええ!」

 

 迷いなど微塵もない、力強い同意。

 決意を新たに、先頭をイオン、ナタリア、ルークに切り替えた一行は王城に踏み込んだ。

 

「こちらですわ」

 

 出会う兵士が慄くのにも気に留めない。勝手知ったる我が家といった風情でナタリアは廊下を突き進んだ。謁見の予定が組み込まれない限り、王が私室にいることを知っているからである。

 やがて一行は、中二階の突き当たり、以前スィンやヴァンがブチ込まれた罪人部屋の真上に当たる王の私室へとたどり着いた。

 立ち止まったナタリアは、ふぅっと息をついている。

 一度の深呼吸の後に、彼女はコンコンコンッ、と形だけノックをして素早く扉を開けた。

 ノックをしたとはいえ、許しを得ずにずかずか上がりこんだのは、意表をつくためであり、彼女なりに最低限の礼儀を尽くしたつもりなのかもしれない。

 相手は自分を殺しかけた人間なのだから、そんな礼儀を尽くす必要はない気もするが、そのあたりは育ちによるものではと考えられる。

 とにかく、ナタリアは運命を左右するであろう扉を押し開いた。

 

「お父様!」

 

 ナタリアの歩調に合わせ、続く一同も部屋へ押し入る。足音に合わせて、最後尾に立っていたスィンは錠を下ろした。談判中、誰であれ邪魔が入るのはいただけない。

 兵士が大挙すれば王を人質にする以外手はないが、これからのことを考えると、その案はなるたけ使われない方がいい。

 一方、彼女の姿を目の当たりにした人間たちは対称的な反応を示した。

 

「ナタリア!!」

「へ、兵たちは何を……」

 

 正面に座するインゴベルトは驚愕に眼を丸くし、傍に控えるアルバイン──ナタリアに自害を強要し、大昔の話であるが謁見の間にてスィン・セシルの拘束を命じた内務大臣──はうろたえたように周囲を見回す。

 しかし、ナタリアの傍についたルークが声を張り上げて訴え、インゴベルトによる兵士召集を遮った。

 

「伯父上! ここに兵は必要ないはずです。ナタリアはあなたの娘だ!」

「……わ、私の娘はとうに亡くなった……」

 

 事実であるものの、どこか無理やりひねり出したような、話す本人すら違和感を覚えるその言葉につけこみ、ルークは更に声を張り上げる。

 まるで、その声をもってインゴベルトの気持ちを動かさんとするように。

 

「違う! ここにいるナタリアがあなたの娘だ! 十七年の記憶が、そう言っている筈です!」

「ルーク……」

 

 どこかで聞いたような台詞に、ティアが小さく彼の名を紡ぐ。

 呼ばれた当人は、「……へ」と小さく彼女に応えた。

 

「おまえの受け売りだけどな」

 

 小さく囁きかける間にも、インゴベルトの心は揺れている。

 

「記憶……」

「突然誰かに本当の娘じゃないって言われても、それまでの記憶は変わらない。親子の思い出は、二人だけのものだ」

 

 ルークの言葉に容赦はない。

 キムラスカを束ねる王として、どうにか父の情を振り切ろうとするインゴベルトに、その心に直接的な言葉を届けようと必死なのだ。

 

「……そんなことはわかっている。わかっているのだ!」

「だったら!」

「いいのです、ルーク」

 

 自棄になったような王の言葉に、ルークはそのまま認めさせようとした。

 しかしそれは、他ならぬ擁護対象、ナタリアによってせき止められる。

 

「お父様……いえ、陛下。わたくしを罪人とおっしゃるなら、それもいいでしょう。ですが、どうかこれ以上マルクトと争うのはおやめください」

 

 この際自分のことはさておこうとしたのか、眼前で堂々擁護されるのが心苦しいのか。彼女はすりかえられそうな話題を、どうにか本題へと移動させた。

 イオンもまた、彼にしては珍しく険しい眼で王を、二人を睨んでいる。

 

「あなた方がどのような思惑でアクゼリュスへ使者を送ったのか、私は聞きません。知りたくもない。ですが私は、ピオニー九世陛下から和平の使者を任されました。私に対する信を、あなた方のために損なうつもりはありません」

 

 導師直接の弾劾は、国を治める支配者をも黙らせた。

 沈黙が漂い始めるその前に、ジェイドがこれまた真面目な顔つきで一歩、前へと出る。その手に、さりげなく懐から出された書状を携えて。

 

「恐れながら陛下。年若い者にたたみかけられては、ご自身の矜持が許さないでしょう。後日改めて、陛下の意思を伺いたく思います」

 

 事前の打ち合わせにもなかった突然の提案に、ルークが、思わずといった形でガイが反論する。

 

「ジェイド!」

「兵を伏せられたらどうするんだ!」

 

 だが、スィンは賛成だった。

 彼らにはわからないかもしれないが、こういった人種はえてしてプライドが高い。年を重ねれば重ねただけ、自分の意見を曲げることを嫌うのだ。説得されればされただけ、彼らの意地は強固なものとなる。

 鞭をふるうだけ飴もやらねば、誰であれ頷きはしない。

 

「そのときは、この街の市民が陛下の敵になるだけですよ。先だっての処刑騒ぎのようにね。あまつさえ、ここには兵士を蹴散らしナタリアをあなたの元へ導いた張本人がいる。彼女の顔を忘れたわけではないでしょう?」

 

 そこのところはお手の物だろう、と思っていたのだが……人をダシにするのはやめていただきたい。

 しかし、こう言われてしまって何もしないのは逆効果だ。一応半歩、前に進み出てインゴベルトに顔を見せる。あえて何も話さない。

 左右色の違う瞳に追憶がかすめたか、インゴベルトは大きく眼を見張った。

 

「そなた……マルクトの者であったか……!」

「しかもここには、導師イオンがいる」

 

 ジェイドの追撃は、留まるところを知らない。

 もしこれで決定は後日、の案を出さなかったら、間違いなくインゴベルトを悪い方向へ追い詰めていたことだろう。

 

「いくら大詠師モースが控えていても、導師の命が失われれば、ダアトがどのように動くかおわかりでしょう」

「……私を脅すか。死霊使い(ネクロマンサー)ジェイド」

 

 ここで初めて、彼はキムラスカ王として正気に帰ったようにジェイドを、敵国マルクトの回し者を睨んだ。

 その様は、まさにキムラスカの王としてふさわしい威厳をかもしだしている。

 しかしジェイドとて、同じ立場の王に仕え、接し、いさめる者。毛筋ほども臆してはいない。

 ……たとえジェイドがピオニー陛下と何の縁もなかったとしても、インゴベルトに臆しはしないだろうが。

 

「この死霊使い(ネクロマンサー)が、周囲に一切の工作なく、このような場所に飛び込んでくるとお思いですか」

 

 その名にふさわしい挑発的な笑みを向け、彼は武器を携えていないことを示すように両手を出した状態で彼らに歩み寄った。手にしていた書状を、恭しくインゴベルトへ差し上げる。

 

「この書状に、今世界へ訪れようとしている危機についてまとめてあります」

「……これを読んだ上で、明日謁見の間にて話をする。それでよいな?」

 

 おかしな仕掛けはないか、アルバインのチェックを経て書状を手にしたインゴベルトはどうにかそれを言い切った。

 直後、王の威厳がかき消え、この短期間で何十年分も年をとってしまったかのような、一人の人間としてのインゴベルトが浮き彫りになる。

 スィンの視線に気づいたのだろうか。インゴベルトはその視線から逃れるように、書状へ眼を落とした。

 これ以上ここに留まるべきでないと気づいたルークが、退出を告げる。

 

「伯父上、信じています」

「失礼致します。……陛下」

 

 ルークの、ナタリアの言葉を彼はどのように受け止めたのだろうか。

 それは一行の誰にも、わかることではなかった。

 

 

 

 

 

 

 兵士に追われることこそなかったが、彼らの向けてくる視線がぴりぴりと痛い。

 そんな中、一行はファブレ公爵邸の眼前まで戻ってきていた。ガイの視線がルークに向けられる。

 

「寄って行くか?」

「いや、親父は伯父上の味方だ。……今は行かないほうがいい。今日のところは街の宿に泊まろう」

 

 首を振って否定したルークだったが、ふと首をめぐらせてしんがりを歩くジェイドを見た。

 

「そういやジェイド、こんな短い時間にどんな手を回したんだ?」

「何がですか?」

「城で伯父上を脅してただろ」

 

 首を傾げていた彼は、「ああ」とわざとらしく頷いている。どうせ覚えていただろうに、あるいは本気で主要な記憶から削除していたのかもしれないが。

 

「はったりに決まってるじゃないですか」

「「……」」

 

 二人は一様に沈黙した。

 

「強いて言えば、今のスィンを連れて行ったことですかねぇ。いやー、あの眼力はなかなかお見事でした。陛下もかなりビクビクしていましたよ☆」

 

 その二人に対し、悪びれた様子もなくしれっと言い切る。わざとらしく茶目っ気に満ちた言葉で言われても、今のスィンに反論する気力はなかった。

 なぜなら、ジェイドの言葉は真実だから。

 ……という自覚があるわけではない。

 ファブレ公爵邸自体には何も気にすることはないが、それよりなにより彼女は自分の祖父、ペールのことを気にしていた。

 戻ってきたら、全てを──自分の出生に関する事柄を聞き出すつもりだったのだ。

 場合が場合なのだから今は自粛するべきだと頭ではわかっているのだが、どうしても気になる。

 今夜宿を抜け出して、こっそり祖父と密会しようか。

 本当は隠す必要などないのだが、彼らに知られたら、好奇心の強い彼らのこと、聞きたがるに決まってる。他の何をおいても、自分すら初めて知ることを他人の耳には入れたくなかった。

 さてどうしたものか──

 

「スィン? どうしました、私に見とれましたか」

「どうやって見とれるんです、この状態で」

 

 今のスィンは、ファブレ公爵邸のみを見つめている。どう考えても視界にジェイドが割り込む余地はない。

 と、次の瞬間。突如彼女の視界をジェイドの顔が占領した。

 

「わわわっ」

「聞こえているなら反応なさい。いきなり呆け出して、なんの妄想をしていたんです」

「……妄想とは失敬な。不穏な影の有無を調べていただけです」

 

 ごまかしはしたが、嘘ではない。

 兵士たちの視線とはまた種類の違う、首筋を焦がすような視線が少し気になったのである。

 登城した貴族の不審者を見る目かと思いきや、視線は未だに消えることを知らない。放置しておけば必ず宿までついてくるだろう。

 退却を待つか、ここで仕掛けるか。

 ジェイドに向き直り、視線を意図的に動かしたスィンに、彼は真面目な顔で頷いた。

 

「気づいていましたか。ですが、ここで手を出すのは早計です。今は様子を見ましょう」

「──わかりました」

 

 極限まで声を切り詰め、囁く。

 ルークたちにすら詳細を告げない会話を手早く終わらせ、スィンは一同に向き直った。

 

「じゃ、城下で宿を取りましょうか」

「あ? ああ、そうだな」

 

 奇妙な沈黙に首を傾げていたものの、ルークは深くを追求せずにきびすを返している。

 誰にも気取られないよう周囲に気を配り、スィンは心持ちガイに張り付くようにして皆の後に続いた。

 

 

 

 

 

 

 



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第九十唱——陰謀に歯止めを、不埒者には死の制裁を

 

 

 

 

 

 城下に降り、宿を取って一息つく。

 なんとなく男性陣が宿泊する予定の部屋に集合した矢先、ティアが憂いに満ちた質問をした。

 言い出しがたいが、確認しないわけにはいかない問題である。

 

「明日、もしもインゴベルト王が強攻策に出てきたらどうするつもり?」

「……いや、説得する。なんとしても」

「だが、陛下が簡単に納得するかな」

 

 力押しでどうにかなる問題ではない、とはわかっているが、説得だけしか考えない、というのはあまりに危険だ。もしものときの対応策は、こさえておくにこしたことはない。

 突如勃発した対応策の論議に、ナタリアが参入した。

 

「そのときは、わたくしが城に残り説得します。命をかけて」

「ナタリア……!」

 

 何を言い出すんだ、と言いたげなルークを、続く言葉で納得させる。

 

「愚かでしたわ、わたくし。アクゼリュスや戦争の前線へ行き、苦しんでいる人々を助けるのが、わたくしの仕事だと思っていました」

 

 確かに彼女は、スィンが名代となったにもかかわらず、立場をわきまえることも忘れて無理やり一行に同道した。

 強すぎた正義感と世間知らずにも押された使命感のもと、ルークを脅してかなり自己中心的に親善大使の一団に加わっている。

 だからナタリアはインゴベルトと同じ考えに染まらず、国を思うその思想をモースによって歪められなかった。

 どちらかといえば彼女の行動はこちらに有利に働いているが、それは結果論でしかない。

 インゴベルト王を止めることができた可能性を持つ人間として、彼女は責任を感じている。

 

「でも、違いましたのね。お父様のお傍で、お父様が謝った道に進むのを諌めることが、わたくしのなすべきことだったのですわ」

 

 ただ、たとえアクゼリュス救援の際、城に残ったとしたもこの事態は引き起こされたかもしれない。

 世間知らずであること、本当の王女でないことをいいことに、自分の国のことだけ、自分の保身のことだけしか考えられない無能にされていたかもしれない。

 それを考えれば、まだインゴベルトと直接話す資格を持つ人間としてこちらにいてくれたことはありがたかった。

 ナタリアがあの気性でなかったら、もっとややこしいことになっていたのではないかと思う。

 

「ナタリア。やっぱりあなたはこの国の王女なのね」

「そうありたい……と思いますわ。心から。わたくしは、この国が大好きですから」

 

 会話が、途切れる。

 男性部屋の扉横で壁越しに会話を聞いていたスィンは、ふぅっ、と息をついた。

 

「……加わらなくて、よろしいんですか?」

「ナタリアには悪いけど、僕はあの人嫌いなんです。加わろうにも、嘘を宣うことでしか参加はできません」

 

 ちら、と視線を上げて声の主を見る。

 そこには、宿に着くなり外出を告げたジェイドの姿があった。

 

「嫌い……ですか。それはホドを滅ぼした人間だから、ですか?」

「いいえ。それより眼鏡、拭ったほうがいいですよ」

 

 スィンの差し出した懐紙を受け取り、赤い飛沫の付着したレンズを拭う。乾いて赤黒くなりつつある飛沫は簡単に拭われた。

 

「こっちに異常はありません。いかがでしたか?」

「確認した限り、尾行者は単独でしたが……街中につき撃退にとどめておきました。今夜はおそらく、荒れると思います」

「そうですか……まあ、そうですよね」

 

 返却された懐紙を丁寧に畳み、腰に提げた血桜を撫でる。今夜に備えて手入れしたほうがよさそうだ。

 

「ところで……」

「大佐も人が悪い。彼にホドを滅ぼした罪を着せる気ですか?」

 

 言葉を遮り、軽く首を傾げてみせる。

 ジェイドの眉が、ほんの少し動いた。

 

「ご存知でしたか。もしやガイも……」

「いいえ、ガイラルディア様はご存知ありません。これから仕えるであろうお方に対して、余計な悪感情を抱いてほしくないんです。知らなくてもいいことなら、知らないままの方がいい」

「……そうですか。ですが」

「大佐の言いたいことはわかります。ですが、それならそのとき当事者の口から語っていただきたいものです。僕も大佐の反応を見るまで、確信は持っていませんでした」

 

 最後の一言に眼を丸くし、素早く彼女の顔を盗み見る。もちろん、スィンは滅多に見せないニヤニヤ笑いを浮かべていた。

 ただし、眼がまったく笑っていない。

 

「ホドを、フェレス島と共に崩落させたのが誰なのか、知らないとは言わせませんよ?」

「……油断のならない人ですね。どこでそんな情報を仕入れたんですか」

「忘れましたね、そんな昔の話」

 

 知ったのはつい最近ではない、とのニュアンスを含ませ、ジェイドと視線を絡めぬまま続ける。

 

「そのあたりでキムラスカの人間を憎むなら、むしろファブレ公爵の方です。イの一番にホドへ侵入し、ガルディオス家を蹂躙した挙句、旦那様の首と剣を持ちかえったのは彼その人ですから」

「ならば、インゴベルト陛下は関係ないのでは?」

「まったくの無関係ではありませんけどね……夜伽を所望された際、かわすのに苦労したんですよ」

 

 ナタリアにだけは聞かせたくないその答えに、ジェイドは苦笑いを零しつつも「なるほど」と頷いていた。

 深くを追求しない辺り、紳士を自負しているだけはある。

 

「ところで、皆には話さなくていいんですか?」

「警戒してもらうにこしたことはないのですが……気が進みませんね。特にナタリアは、明日に備えて英気を養ってもらいたい」

 

 思いの他まともで最もな意見に、スィンもまた同意を示した。

 

「それもそうですね。ナタリアだけを除外して話すのは難しそうだし。内々に済ませますか」

「では、よろしくお願いします。最近年のせいで早寝早起きが習慣になってしまいまして、明日起きられるか不安なんです」

「不規則な生活を強いられる軍人が何ほざいてるんですか。起きられないのが心配なら、僕が永遠に寝かせてあげますよ」

 

 嫌なら楽しようとするな、とスィンが続ける前に、廊下からの声を不思議に思ったアニスに、立ち話を発見される。

 この話は一行が寝静まった深夜まで中断することとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜。

 月が白々と中天を飾る刻、不意に流れた薄雲が、その優美で儚い姿をやんわりと覆った。

 覆い隠されてもなお届く月光は、にじりよる光と闇を描き、その闇にまぎれて移動する影が十数人ほど視認できる。

 いずれも黒の、体にぴったりとした衣装をまとっており、足音も深夜だというのに耳を澄ませなければ鼓膜を震わせない。

 十数人分の影は、バチカルの中央にある宿屋の前でひたり、と動きを止めた。

 やがて、影たちとは正反対に突き出た腹を揺らしつつ、のしのしと現れた人影が、粘っこい声が上がる。

 

「ここなのだな? 導師及び、偽王女一味の潜伏している宿泊施設は」

「はい。間違いありません……」

 

 一応潜めているらしいが、受け答える人間に比べれば大きすぎるその声は、まさしく大詠師モースのものだった。見覚えのある集団もさることながら、やはり彼が出張ってきたか。

 こつこつ、とわざとブーツで石畳を叩き、彼らの注意を引いた。

 案の定、彼らは驚いた様子で警戒し、モースに至っては「誰だ!」と誰何の声を上げている。直後、少女の声が道端に反響した。

 

『モース様。こんな夜更けにどうされたんですか? 特務師団の連中なんか連れて』

「おお、アニスか! ちょうどよい、導師を奴らから隔離するのだ。あの偽王女一味は、こちらで処理をする」

 

 予想通り、彼はこの少女の声をアニスと判定している。表向き導師のサポート役であるモースのこと、現在奏長の位置に立つアニスのことをきちんと把握しておいたのだろう。

 しかし、導師守護役(フォンマスターガーディアン)としての優先順位はなんと言っても導師イオンのはずだ。イオンが望まないことを、果たして彼女が従うだろうか。

 

『……どうして私が、あなたの命令を聞かなければいけないんです? パパたちに聞きました。私は今、イオン様直属の兵士として動いているのに』

「私の、この大詠師の命令を拒否するのか、アニス? 私はおまえの両親の借金を肩代わりしてやっているのだぞ」

 

 それは一応知っているが、現在タトリン一家は教団に務めて、給料没収をもって借金返済に明け暮れているはずだ。このように恩を着せられる筋合いはない。

 そもそもその肩代わりした資金は、モースの給料と同じく教会から捻出されたものであろうに。モースの肥やした私腹だったとしても、それが綺麗なものとは言いがたい。

 

『……だから?』

 

 それがどうかしたのか、と言いたげな声音に、これまで声を抑えていた大詠師はついに声を荒げて少女を恫喝した。

 

「私が一言命じれば、おまえの親の命など塵に等しいのだ! 親の命が惜しくば私の命を聞け、アニス!」

「……汚らしい。堕ちるところまで堕ちているよ、あなたは」

 

 これ以上耳に入れたくないとばかり、吐き棄てるように呟いた声音の主が、姿を現す。

 現れた影は予想されたものよりも長身で、その髪は淡い月明かりに反射し、真白に光り輝いていた。

 

「何……!?」

「確かにアニスなら、頷くしかないでしょう。アニスならね」

 

 月を包み込む薄雲のベールが、一陣の風によって散らされた。

 月光に照らされた姿は、水上の帝都を象る青の軍服を纏い、その面立ちをあらわとしている。

 

「『採魂の女神』ブリュンヒルド……! ヴァンの情婦か!」

「しょ……初代師団長!」

 

 ざわっ、と走った動揺を、モースによる「黙れ!」の一言では消しきれなかった。

 一方でスィンは、情婦呼ばわりにも顔色を変えず淡々とそのやり口をけなしている。こんな奴相手に怒りを示すのは、時間の無駄だと言わんばかりに。

 

「何か仕掛けてくるとは思っていましたが、こんな手段とは。街中の人斬りは罪ですよ。聖職者が侵して良いのですか」

「ふ……インゴベルト王が賢明にも私の言葉に耳を傾ける今、揉み消す手段などいくらでもある。女が不注意にもふらふらと夜道を出歩き、暴漢に襲われ行方をくらましたなど、さして珍しい話ではない」

 

 耳が腐るかと思うほど厭らしい喩え話である。スィンは露骨に顔をしかめて嫌悪をあらわとした。

 

「こじつけもいいところ。そんな預言(スコア)は詠まれていませんよ」

「この場で確認するがいい、シア・ブリュンヒルドよ。かつては特務師団を束ね、主席総長と同格の地位を得ながらそれを棄て、偽の王女、ひいてはマルクトなど、滅ぶべき運命を告げられし国につき、そなたに何の益がある?」

「……私の事情なぞ知ったことではないでしょう。どうしてそこまで、捻じ曲がってしまったあれを崇拝するのやら」

 

 ためいきと共に吐き出した言葉を、モースは失言として受け取っている。

 

「まだだ。今からでも遅くはない、これから預言(スコア)に詠まれた通り修正すれば、我らは繁栄を得ることができるのだ!」

「あれに記されているのは滅亡への道のりなんですがね。それで、預言(スコア)を修正するために新たな事例、私の殺害を敢行してもそれはよろしいので?」

「そなたを殺しはせぬ、ヴァンを裏切りし死霊使い(ネクロマンサー)に尻尾を振った情婦よ。一度裏切るも二度裏切るも、そなたにしてみれば大した差ではあるまい」

 

 まるでスィンが、ここで皆を裏切ることが決まっているかのような口ぶりである。もしかしたら、今夜詠まれた預言(スコア)を曲解して、スィンが裏切るものと本気で思っているのかもしれない。

 しかもその口ぶり、まるでスィンがヴァンに愛想を尽かしてジェイドをたぶらかしたような言い草である。

 ガイとスィンどころか、ヴァンとスィンの実際の関係すら知らない彼がそのように解釈しても不思議ではない。

 ……下劣で豊かな想像力さえ、働かせれば。

 

「話し合いの余地、なし……と」

 

 対話は、本気で時間の無駄だった。

 話し合いとは相手の話を聞き、理解しあい、歩み寄ることのできる両者によって成立するもの。こんな預言(スコア)狂いに一縷の望みをかけた自分が莫迦だったと、己の愚かさにため息をつく。

 貴重な睡眠時間を浪費したと、後でジェイドにねちねち言われそうで、想像するだけでも苦痛だった。

 

「特務師団諸君。刃向かうならば覚悟しろ、そして祈れ。己が魂の安寧を」

 

 血桜を抜き、硬直していた影たちを睥睨する。

 特務師団の歴史は浅い。彼らは、もともとは教団が、表沙汰にできない事態を処理する兵隊たちである。しかし彼らは表に出せない、家族にすら何の仕事をしているのか教えてやれない立場だった。

 統括する者がいなかったためでもあるが、それ以外に仕事をしていなかったため、教団が日の目を見させるのを嫌がったのである。

 その集団を、主席総長ヴァンの子飼いと言う形で出張ってきたスィンが、これまた表沙汰にできない存在だったアッシュと共に引き受けた。

 表向き教団の仕事とはまったく関係ない──「暇だから遺跡の調査とかしましょう」と言う鶴の一声でどこそこの遺跡の調査やら雑用やらを行い、その実績を元に特殊部隊『特務師団』を設立したのである。

 その過程で眠っていた浮遊機関を掘り起こしてシェリダンの技師たちに託したのだが、それはまた別の話。

 無論、それまで引き受けてきた秘密裏の役目を引き受けることは忘れていない。

 バチカル追放処分期間を過ぎてからはガイの傍にいることを選び、それまで自分のしていた仕事を全部アッシュに押し付けて──もとい任せて、スィンは教団を去っている。

 はっきりとした統率者のいなかった特務師団となる前の集団を、スィンは信頼や絆ではなく鞭と飴とコネでどうにかまとめていた。

 当時年若く、更に女であったスィンを認める人間など皆無であり、スィン自身も彼らと仲良くしよう、などという気持ちは皆無だったのである。

 どうせ仮の仕事、自分が彼らと親しくなるよりはアッシュを兵隊たちと同じ環境に置き、彼自身の才覚で自立を促し、他者との付き合いを、人の世で生きる知恵を学ばせた方がいいとスィンは考えたのだ。同時に、その立場が彼の居場所となればいいと、勝手な望みまで託して。

 師団長をアッシュに名指しし、文句のある奴は実力で引きずりおろせと言い残してからその先は知らないが。スィンの顔を見て動揺が走ったということは、当時の特務師団兵は何人かいる、ということだ。

 考えてみれば、まだあれから二年しか経っていない。

 スィンの推測を裏付けるように、影たちは躊躇っているように見える。

 

「何をしておる! そやつはそなたらを虐げた元師団長であろう! 今こそ、そなたらが夜叉姫とすら呼んだ女に制裁を……「ははははっ!」

 

 突如響いた男の明るい笑声に、スィンはげんなりと、それ以外はぎょっとして周囲を見回し始めた。

 

「そこ、笑うところではありませんよ」

「いや、失敬。夜叉ときましたか。普通は鬼師団長だの言われそうなものですが、夜叉姫……ふふっ」

「……むかつく」

 

 男は、未だ姿を見せない。

 しかし耳がいいのかただの感か、モースはそれが誰なのかを正確に言い当てている。

 ひょっとしたら感心するところなのかもしれない。

 

「その声、貴様ブリュンヒルドに誘惑された死霊使い(ネクロマンサー)か!? 偽王女を立て、我らが導師を引き込み、何を企んでおる!?」

「……とりあえず、そのような事実はない、と答えておきましょうか。私が本当に彼女に愛されたなら、当にヴァルハラへ連れて行かれているでしょうから。私が今企んでいるのはただひとつ、あなたやヴァンの企みを潰すことですよ」

 

 古代イスパニア神話にひっかけてのジョークも、あまり笑えるものではなかった。

 立ち去る気配もなくここにいるということは、事前の打ち合わせ通り、周囲を見回って来たに違いない。

 血の臭いや音素(フォニム)の乱れも感じられなかった、ということは、襲撃組は彼らだけに他ならなかった。

 それならば──この手だ。

 

「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を──」

「むう!?」

 

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Lou Toe Ze──

 

 深夜に奏でられた古の譜歌は、大詠師モースのみを眠りの淵へと誘った。

 戦闘となればただのデブオヤジである彼に、スィンの譜歌を抗う力はなく、あっさりと路上に倒れ伏す。

 ごん、というすごい音がしたが、曲がりなりにもユリアの譜歌。肥満体特有のいびきのような寝息は途切れない。

 そんなことをしなくても一思いに屠ってしまえば、とも思ったが、街中で先に手を出すのはあまりにも早計で、お粗末だ。

 これが一番、平和的なのである。

 

「さあ、大詠師の命に従うか? はたまた彼の保護を優先するか?」

 

 影たちはしばし、じっとしていたかと思うと唐突に動き出した。

 一部がモースを抱え、一部が通行人など通らないか見張っていた人間たちを呼び、またジェイドと遭遇して昏倒させられた仲間の回収をしていく。

 なかなか迅速な動き、流石は特務師団だ。引き際はきちんと心得ている。

 やがて影がひとつもなくなり、静寂が駆け抜けたそのとき、暗がりから微妙な拍手が聞こえてきた。

 

 ぱふ、ぱふ、ぱふ。

 

「いやあ、お疲れ様でした」

「全然疲れてませんがね」

 

 それが社交辞令だと気づけないスィンではない。適当に相槌を打つ。

 

「しかし、こんなところであなたに親近感を覚えるとは思いませんでした」

「……あなたに親近感を持たれるとは、思いもしませんでした……」

 

 これはおそらく社交辞令ではあるまい。しかし、歓迎できることではなかった。

 それを言葉とし、ぶちぶち呟きつつ、宿屋の扉を押し開けるジェイドの背中を見やる。スィンが動かなかったことを察したのか、ふとジェイドが振り向いた。

 

「……眠らないのですか?」

「お先にどうぞ」

 

 促され、ジェイドが宿の中へ入る。一呼吸置いて、スィンはそれに続くことなくきびすを返した。向かった先は、撤退していく彼らの背中だ。

 全力疾走で彼らを発見したとき、特務師団所属兵士たちは昇降機に乗り込んでいた。

 物陰に隠れ、シルフに頼んで彼らの会話を探る。

 

『……ふぅ。何とかなったな』

『これであの夜叉姫ともども終わりだな』

『まさか、第二陣が来るだなんて思ってもいないだろ』

『なあ、どうせ殺しちまうなら、両手両足叩き折ってからさー……』

『おまえそれヤバイって!』

『いやいや、よく聞けよ。んで咽喉笛切って譜術も使えなくさせてから……なあ?』

死霊使い(ネクロマンサー)もいるんだろ? 生かしておけるかなあ』

『俺、なんだったら死体でもイケるぜ? なんせあんないい女なんだしさあ』

『おいおい……マジかよ?』

『でも案外いいかもしれねえなあ。美人だし、プロポーション抜群だって噂だったし』

『いやいや、それなら主席総長の妹だってひけはとらねえぜ? あのメロン! 死後硬直する前に揉んでみたいよなあ?』

『なんたってあの主席総長殿の情婦だぜ? 下手なわけないだろ、絶対上手いって!』

『んじゃ、こっそり女だけ隔離しとくか?』

『おいおい、女ってあの導師守護役(フォンマスターガーディアン)もかよ。まだガキじゃねえか!』

『おーい、こん中にロリコンいるかー? でなくても試してみりゃいいじゃねえか』

『んじゃ俺は王女サマ……いやいや、王女の名を語る不届きな女にお仕置きを』

『おまえパツキン好きかよ』

『ぎゃはははは……』

 

 はあああ。

 嫌なものを聞いたとばかり、ため息と共に解除する。すると。

 

『やだー、きもーい。ねえ我が主、やっちゃいなよ』

(そういう感性お持ちなのですか。というか、そういうこと仰っていいんですか)

『シルフは変わり者だし、考え方が人間の女寄りだからな。生物のオスが繁殖を求めるのは自然なことだと思うが』

『ばかぼると、あれは繁殖欲じゃなくて、単なる欲まみれなだけ。あと、あたしは何にも言ってないってことで!』

 

 まさか、意識集合体とのやりとりが清涼剤となる日が来ようとは。

 しかしやはり、世の中そう甘くはなかったか。それにしても、ジェイドを置いてきたのは正解だった。

 この自分を騙そうとしたことへの報い、更に、状況を知るためとはいえ、あんな下劣な会話を聞かせてくれた礼はぜひこの手で、全力でせねば気がすまない。

 どうしてか、それはジェイドにも仲間の誰にも、もちろんガイにも、見せたくなかった。

 

(シルフに願う。最上階まで運んでください)

『おっけー!』

 

 深夜だというのに、変わらず元気なシルフの返事が脳内に木霊する。同時に体がふわりと浮かび上がり、ゆるゆると上昇を始めた。

 バチカルの荒い風が、びゅうびゅうと真横をすり抜けていく。シルフの張ってくれた結界のおかげで寒さは感じなかったが、少し息苦しい気がした。

 思うままに暴れてしまったら、自分たちの首を絞めてしまう。だから、綺麗さっぱり消すしかない。それがわずらわしいからか、はたまた存在も知れない彼らの家族への、罪悪感だろうか。

 ……考えるだけ無駄である。スィンはそれ以上、息苦しさの理由を知ろうとしなかった。

 最上階の階段に降り立ち、シルフに礼を述べてから城のほうを伺う。

 夜の闇が帳を降ろしており、見にくいことこの上なかったが。どうにか兵士の一団がいることだけを確認した。

 キムラスカの鎧をまとうものはいない。大半が神託の盾(オラクル)騎士団、一部が黒装束を身に纏う特務師団の兵たちだ。モースは城の中に運び込まれたか、姿が見えない。

 ……あの大詠師がいないのは少し残念だが、今から侵入して暗殺するのはリスクが大きい。彼らの始末を優先させるが良策だ。

 まずはするべきは消音、念には念を入れて変装である。

 悲鳴やらその他の音を聞きつけられた際、目撃情報でスィンにひっかかる要素を万が一にでも残してはまずい。

 その場で軍服を脱ぎ捨て、事前に用意しておいた薄衣──夜着といっても差し支えがない、太腿がほぼ丸出しのキャミソールを着て、素足になって髪を黒く染め上げる。少しでも目立たぬために、だ。くくっていた髪をほどき、ざんばらに散らして顔を隠す。

 もし誰かに見つかっても、この姿なら多少の眼くらましになるはず。

 まるで街娼のような姿になってから、第三音素(サードフォニム)系統術──風製の結界を張り巡らせた。これで悲鳴を聞きつけられることはないだろう。

 外した血桜と共に軍服を道の隅へやり、スィンは幽鬼のような足取りで、ふらふらと城に向かって歩き出した。

 手を前方へ突き出し、譜を唱える口が見えないよう、うつむき加減になって。

 

「……奏でられし音素よ、紡がれし元素よ」

 

 覚束ない足取りで接近してくるスィンに、兵士たちは哀れにも気づいた。

 気づかなければ、何もわからず幸せな死を迎えるものを。

 

「……なあ、あれなんだ?」

「人間、みてぇだな。まさか幽霊とか?」

「どっかの貴族の娘が、夢遊病になってるだけじゃねえの?」

「んじゃ、保護してやろっかなー」

「おまえ、手ぇ出すことしか考えてねえだろ! 何指わきわきさせてんだよ!」

「いや、保護してやるんだから体で謝礼払ってもらおうかと──」

 

 聞くに堪えない。

 

「穢れた魂を浄化し、万象への帰属を赦さん……ディスラプトーム」

 

 瞬間。結界に包まれた世界は、無への回帰を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふう」

 

 風製の結界を解き、閉ざされた世界を開放する。

 吹き込まれる新たな風は、その場に立ち尽くしたスィンだけを歓迎した。

 それ以外には、何もない。

 ただ、降り積もるような静寂が支配するのみであり、本当に何もなかった。

 同じルートを辿って軍服血桜を回収、再び身につけるのが億劫でそのまま帰還しようかなという考えが働く。

 ひゅう、と体を撫でまわすだけ撫でて去った風は、いやに寒々しかった。巡回する兵士たちに気づかれぬよう、もそもそとキャミソールの上から軍服を身につける。

 手直しこそしたがサイズオーバーの軍服。そういえば、いつまでこれは着ていなければいけないのだろうか。

 そんなことを考えながら、ほてほてと宿屋へ向かう足取りは、ひどく重たかった。

 それは、憂う心のせいだけではない。それだけは断言できる。

 今の術──第零音素(ベースフォニム)使用術ディスラプトームは、体に極度の負担をかけるからだ。

 第零音素(ベースフォニム)とは、古代秘譜術を研究する最中でスィンが発見したもの。第一から第七まで、発見され名のある音素(フォニム)のどれとも当てはまらない音素(フォニム)を仮にスィンが呼んでいるだけである。

 意識集合体が存在するかもわからないこの音素(フォニム)についてわかっているのはただひとつ、術を発動させる際のみ、スィンが感じられる程度には出現し、対象の元素を崩壊に導くことだ。

 発見者であろう彼女がきちんと研究をしなかったために、どのようなものなのかは感覚的なものしかわかっていない。

 第零音素(ベースフォニム)が超振動とよく似た現象を引き起こしていることはわかっている。

 だが、これが超振動だとはどうにも認めがたいのだ。超振動にしては、あまりに規模が小さすぎる。

 マリィベルの姿では発動すらできないとはいえ、通常譜術と同じくスィンに制御可能な術であることも認めがたい要因だ。

 超振動は条件さえ合えばホドすら崩落に導けたが、同じことができるとは思っていなかった。

 大体超振動は、確か互いの発する音素振動に干渉しあうことで、音素同士の結合を解放させる、という代物であり、元素崩壊を促す第零音素(ベースフォニム)とは、効果は同じだが働く力がまったく違う。

 ともかく、その術を使って特務師団の一部──人数的に見て総員ではなかった──及び神託の盾(オラクル)兵士十何名かを文字通り消滅させ、散らばった元素のひとつひとつはこの世界に還元されたのだ。

 確かに血は流れなかった。悲鳴も上げさせなかった。彼らは何がなんだかわからないうちにありていに言う『死』を迎えたはずなのだ。

 

 ──どこまでも、どこまでも。自覚することが恐ろしいほど、傲慢な行為だった。

 

 叶うなら、安らかな死を? 

 どうせ殺すのなら、未練を残す暇もなく、何かを思う時間すら与えず、感情すら抱くことを許さず? 

 そして自分の都合のために、証拠を、この世で生きた痕跡を残させずに? 

 

 どこまでも想像でしかないが、少なくとも苦しめ虐げられた挙句の死よりは、マシではないかと、最近までは思っていた。

 人は命を食らって生きているのだから、殺すことそのものは必然だとスィンは思っていた。

 殺して、食らって、生きて、殺して。そのサイクルの中で、自分もまた殺される。それが人とは限らない。魔物に、謀略に、そしてこの体を蝕む毒素に──あるいは、未だ途切れぬ想いを抱く人に。

 けして安らかに、寿命で没することなどできはしないだろうと、漠然と考えていた。いつか、自分もこの命を奪われる日が来る。それでいいと、考えていたはずなのに。

 みし、と体の奥がきしむ。痛みに体を丸め、その場に座り込みそうになって、路地裏に滑り込んだ。

 胸を押さえ、壁に背を預けるが、足から力が抜けていく。ズルズルッ、と音を立てて尻が固い石畳と接触した。

 

 苦しい時間が、日を追うごとに増えていく。

 迫りくる死の影は、少しずつ、確実にスィンを侵食してやまなかった。

 

 何がユリアの生まれ変わりか、何が採魂の女神か。結局は、迫り来る影に怯えて、自分もできるだけラクに死にたいから、今更偽善を働く──他者はなるべく生かし、それが叶わぬなら自分の理想とする死を押し付けているだけではないか。

 なんて醜い、エゴの塊でしかない行為。そんなものが叶うわけがないのに。

 早々に純潔を失い、自分の独断で他者の人生を狂わせ、愛する人を裏切りあまつさえ刃を向けた。身も心も、これ以上ないほど穢れきっているというのに……! 

 ネガティヴな思考は、下降する螺旋を描いて過去の汚点を記憶より引きずり出していく。

 屈辱と悲憤の追憶は、これまで歩んできた道を、歩み続ける道の灯火を消し、ただ深い深淵へと、スィンを突き落とした。

 このまま意識を手放せたら、どんなにラクだろうか。

 だが、これまで尋常とは程遠い人生を歩んできた彼女が、彼女の体がそれを許すわけもなかった。

 頭を振って、まとわりつく下降思考を振り払う。

 望みもせず思い出してしまった後悔の数々を再び記憶の奥底へ封印し、発作が治まったことを確認して立ち上がった。

 街灯で照らされる朧な道が、一瞬暗くなった後にしっかりと浮かび上がる。

 ぺしん、と両の頬をはたいて、階段を登っていくと。

 

「おかえりなさい」

 

 宿の扉に背を預けていた人影に迎えられた。

 なんとなく予想はついていたものの、街灯の下あらわになったその顔を見て、思わず呆れ声を洩らしてしまう。

 

「まだ起きていたんですか」

「ええ。誰かさんが無駄に時間を使ってくれたもので」

 

 だから第一陣を追い払った後で、あなたを先に休ませたのに。

 口をついて言葉と成そうとした思いを、寸前で押し留める。

 言い訳こそ、時間の無駄だ。さっさと切り上げて、休息を取りたい。華麗に紡ぎだされるであろう厭味と文句と刺々しい言葉を、可能な限り受け流そうと身構えて。

 

「お疲れ様でした。嫌な役目を押し付けてしまいましたね」

 

 意外すぎるその言葉に、スィンは思わず眼を見開いた。

 

「……何の、話ですか?」

「思い出したくないのなら、それで結構。明日を楽しみにして、もう休みましょう」

 

 あっさりきびすを返して、さっさと宿の中へ入っていく。

 その背中を半ば呆然と見送って、スィンは「……え?」と思わず呟いた。

 

(あの反応……もしや気づいてる? ンな馬鹿な、いくらなんでもあんな開けた場所で尾行されたら気づかないわけがない。それとも単に責める気がなくなるほど眠たかった? まさか死霊使い(ネクロマンサー)なだけに、人間の構成音素が大量に消失したのを気づいた──)

「……スィン。いい加減にしないと、今度こそ寝込みを襲いますよ」

 

 その場に佇み、悶々と考えることに明け暮れていたスィンが、ギギギッ、というわざとらしい扉のきしみに気づく。

 

「それとも、朝までくんずほぐれつと行きますか? この年で徹夜は疲れますが……スィンがどうしてもと言うなら「わ、わかりました。寝ます」

 

 扉から顔を半分だけのぞかせ、眼鏡を妖しく輝かせる死霊使い(ネクロマンサー)を前に、悩める彼女は慌てて駆け寄ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十一唱——父親と王、彼が選びしは……

 

 

 

 

 

 翌日。

 いつも通りの時間にスィンは眼を醒ました。手早く身支度を整え、皆が集合する階下の食堂へ赴く。

 纏うのは、あのサイズオーバーの軍服ではなくこれまで着用していた黒の上衣袴である。

 誰かさんには見咎められるかもしれないが、これにはれっきとした理由があった。着替えるとしたら、納得されなかったその時だ。

 まだ誰も来ていない食堂で待つことしばし。コツ、コツと静かな足音が聞こえてきた。

 特徴的な軍靴の鳴る、柔らかな足音。

 

「おはようござい……おや? その様相」

 

 ロイヤルミルクティーの湯気の向こうには、死霊使い(ネクロマンサー)ジェイドが立っていた。

 おはようございます、と返してティーカップをソーサーへ戻す。

 

「これは、ですね……」

「大筋で予想できます。ですが、顔を変えないと意味がありませんよ?」

 

 今日の謁見にて、おそらく一行はインゴベルト王だけでなく、アルバイン内務大臣や大詠師モースとも顔を合わせるだろう。

 昨夜、直接顔を合わせ、なおかつ彼の手駒に大幅な痛手を負わせたスィンに、トチ狂ったモースがおかしな言いがかりを言い出しかねない。

 それを封じるために、そして何よりインゴベルト王が強攻策を考えていた場合、奥の手はあると勘ぐらせるための布石でもあった。

 

「もちろん。あとで許可を頂きま「おっはよーございまーす!」

 

 飛び跳ねるような足音が響く。見やれば、ひょこりと跳ねるツインテールが特徴的な導師守護役(フォンマスターガーディアン)、アニスが走っていた。

 

「おはよ、アニス」

「おはようございます、アニス」

「おはよっ、スィン。おはようございます、大佐! ところでイオン様はまだですか?」

「イオン様なら、なかなか起きないルークをガイやミュウに加わって起こそうとしている真っ最中だと思いますよ」

 

 ……それを知っているということは、彼はその騒動に加わらずのほほんと自分だけ降りてきた、ということか。

 

「そ~ですか~。にしても、いよいよ今日ですねっ!」

 

 何にしても、昨夜のことを話すには絶好の機会である。幸いにも、まだ仲間たちは階下へ降りてくる気配がない。

 事情を知るジェイドと対象者だけである今、逃せばややこしいことになるのは明白だった。

 意を決して、ちゃっかりジェイドの隣に座るアニスに話しかける。そのきっかけとなった言葉に、彼女は当然眉をしかめた。

 

「……ねえアニス。イオン様と両親、選ぶならどっち?」

「……な、何? いきなり何なの、スィン?」

「実はね……」

 

 ヤキモキはするだろうが、今回の謁見では傍観者の立場を貫くだろうアニスに、昨夜の襲撃を語る。

 モースが両親を人質にアニスを脅そうとしたことを伝えると、彼女は黙ってうつむいてしまった。

 

「モースが、そんなことを……」

「いつか本当にこういうことがあるかもしれない。そのときは……一人で抱え込まないで。僕たちじゃなくてもいい、アニスの信頼する誰かに話して、対処できれば……って思う」

「……ねえ、モースはそう言ったのがスィンだって、知ってるよね?」

 

 アニスは頷くことなく、ただそれを尋ねている。

 

「わかった」の一言が聞けなかったことに僅かなひっかかりを感じながら、頷くことで肯定を示した。

 

「そっか……」

 

 ほっと息をつくアニスに、スィンは言葉を重ねようとして。

 

「おはようございますですの、ティアさんナタリアさん!」

「おはよう、ミュウ。よく眠れた?」

「ばっちりですの!」

「それは……うらやましいですわ……ふわ」

 

 続々と降りてくる仲間たちとの挨拶、朝食にかまけて、いつのまにかそれを忘れてしまった。

 じっと考え込んでいたらしいアニスはといえば、今やすっかりそのなりを潜めて「イオン様、朝は食べないと体が保ちませんよっ!」と豪快に叱り飛ばしている。

 ルークは持ち前の寝汚さで、ナタリアはおそらく緊張で眠そうに朝食を口へ運んでおり、ティアはこっそりと付け合せのニンジンをミュウにやっており、ジェイドは優雅に足を組んでコーヒーを口に運んでいた。

 ガイは、といえばどこか険しい表情でサンドイッチをほおばっている。

 それが飲み込まれたとき、すでに朝食を終わらせていたスィンは「ガイラルディア様」と口を開いた。

 

「ん、どした?」

「……この国の行く先、気になりますか?」

 

 サンドイッチがお気に召しませんでしたか、と尋ねるのを急遽取りやめ、小声でそれを聞いた。

 彼はサンドイッチの残りを口に放り込み、もごもごと何かを呟いている。

 

「むぐむぐ、もごもごご、むぐぐぐ」

「……そうですか」

 

 ごくん。

 

「今のわかったのか?」

 

 尋ねるガイの耳に唇を寄せ、ヒソヒソとイントネーションから推測した意味を囁く。彼の眼はみるみる丸くなっていった。

 

「ガイ様。僭越ながらマヌケに見えますので、おやめください」

「おまえって、やっぱスゴイな……」

「おやおや。それは遠まわしな身内の自慢ですか?」

 

 容赦なく主をシスコン呼ばわりするジェイドにひと睨みをくれ、スィンは本題を取り出すことにした。

 

「ガイラルディア様。今度こそスィン・セシルの姿で登城します。許可を」

「そうか? わかった」

 

 許可を得て、くるりと後ろを向く。

 そのままの姿勢で、呟いた。

 

「Rey Va Neu Toe Qlor Lou Ze Rey。望むのは、望むのは、在りし日のお嬢様」

 

 大気中に漂う第七音素(セブンスフォニム)、スィン自身の保有する第七音素(セブンスフォニム)が収束し、練り上げられ、彼女を包み込んでいく。

 第七音素(セブンスフォニム)は真白の髪をガイによく似た金に染め、その面立ちも何もかもを、変質させた。

 輝きが失せる頃、振り向く。その顔は、ナタリアやルークに仕えた彼女のものとなっていた。

 複雑そうに顔を曇らせるガイに、言葉もなく一礼をする。これでするべきことはすんだ。

 

「……それでは、参りましょうか。バチカル城へ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「な、なんだあ?」

 

 ルークがそう零したのも無理はない。

 一行が城前にたどり着いたとき、キムラスカの兵士たちはなにやら忙しそうに走り回っていた。

 石畳に這いつくばって何らかの作業をこなしている者、通りがかる人々に次々と話を聞いていく者、そんな部下たちの統括を行う者……

 昨日までは一行の、特にナタリアやイオン、ついでにジェイドの一挙一動をピリピリしながら見張っていたというのに、今はまったくのノーマークなのだ。不審に思わないほうがどうかしている。

 

「何かあったのですか?」

 

 導師守護役(フォンマスターガーディアン)の、ひいては己の好奇心を満たすためか、イオンはすぐそばを通った兵士を捕まえて尋ねた。

 相手が相手なだけに即答した兵士の言葉を聞いて、そのつぶらな瞳を見開いている。

 

「実は、大詠師モース子飼いの兵士たちが相次いで失踪したようなのです」

「ダアトの……神託の盾(オラクル)の兵士たちが、城から消えたというのですか!?」

「いえ、モース殿のお話によれば大所帯であったために城下の宿で待機させていたとか。それが一夜のうちに所在が掴めなくなったようで……」

 

 調査がありますので、自分はこれでと、兵士は素早く去っていった。

 

「モースの部下が……蒸発?」

「モースの奴に嫌気がさしたんじゃねえの?」

「嫌気がさした程度で騎士団を辞めるような、軟弱な兵士が起用されるわけないわ」

「不気味ですわ……このバチカルで何が起こったというのでしょう」

 

 口々に首を傾げる四人を他所に、ジェイドに事情を教えてもらったアニスがじー、とスィンを見つめている。

 二対の視線から逃れるように、スィンは明後日を向いて「今日はいい天気だなー」とほざいていた。

 遠くからは、小鳥のさえずりではなく兵士のドラ声が聞こえてくる。

 

「ええい、目撃証言すらないのか!」

「深夜、娼婦らしい女が徘徊していた、くらいしか……」

「兵士十数名の失踪に何故街娼が関わってくる!? 港に目撃情報がない以上、徒歩でバチカルを出た可能性が高い。捜査範囲を広げるんだ!」

「はっ!」

 

 ……変装した意味はあったらしい、と。

 満足そうに唇を歪めるスィンに、ひたひたっ、と忍び寄る影があった。

 

「……楽しそうですねえ、スィン?」

「そりゃ、まー、ざまみろって。これでモースが謁見の間に現れなければ、最高なんですけど」

「──詳細は後できっちり報告してください」

 

 イヤでーす、というスィンの言葉をわざと聞かず、ジェイドは一行をせかして城へと誘っている。

 兵士らが忙しい今、乗り込むのが妥当なのは誰もが理解できること。もしも強攻策を取られても、突破できる可能性が高くなるのだ。

 右往左往する兵士らと幾度もすれ違い、門をくぐる。

 滞りなく謁見の間へ通されたそのとき、滞りがないのはここまでの行程までであることを知った。

 玉座にはインゴベルト王、そしてアルバイン内務大臣やゴールドバーグ将軍、更に大詠師モースまでもが同席している。

 兵士の姿がないということは、この場はあくまで話し合いで通すつもりなのだろうか。

 マルクト皇帝の懐刀と名高い死霊使い(ネクロマンサー)がいるというのに、まさか将軍一人でこちらを全員拘束できるとは思っていないだろう。

 向けられる視線の中、一同は堂々と王の眼前へと到達した。目礼だけに留める間に、モースがぽつりと呟く。

 

「……陛下の言っていた者の姿がありませんな」

「私の部下のことでしたら、外で待機させてあります。異変、もしくは合図があったらすぐに突入するよう伝えてありますので」

 

 しれっ、と大嘘をぶっこいたのはもちろんジェイドだ。『私の』という単語がやけに強調されていたのは気のせいであってほしい。

 それに納得したかどうかは知らないが、とにかくインゴベルト王が本題を切り出した。

 

「そちらの書状、確かに眼を通した。第六譜石に詠まれた預言(スコア)と、そちらの主張は食い違うようだが?」

「預言はもう役に立ちません。俺……私が生まれたことで、預言(スコア)は狂い始めました」

「……レプリカ、か」

 

 インゴベルトの眼が、視線が、ルークに突き刺さる。

 それにどのような意味が込められているのか、今のルークに気づけないはずもない。だが、彼はそう見られるのも仕方がないと言わんばかりにその視線を享受している。

 この様子では、ティアの心配そうな視線にも気づいていないだろう。

 

「お父様! もはや預言(スコア)にすがっても、繁栄は得られません! 今こそ国を治める者の手腕が問われる時です。この時の為に、わたくしたち王族がいるのではありませんか?」

 

 その視線をさえぎるように、ナタリアが一歩進み出た。

 熱弁を振るう彼女を、再び己を父と呼んだ少女を、インゴベルトはどこか苦しげに見つめている。心情を察するなら──事実を突かれて良心が痛い、と考えるべきだろうか? よもや姦しい、ということはないだろう。

 

「少なくとも預言(スコア)にあぐらをかいて贅沢をすることが、王家の務めではない筈です!」

「……私に何をしろと言うのだ」

 

 やはり、老成した彼には、彼女の主張が青臭いと感じるのだろうか。彼はどこか苦々しく、だが自然に話題をすり替えている。

 

「マルクトと平和条約を結び、外殻を魔界に降ろすことを許可していただきたいんです」

 

 ルークがそれを提唱すると、インゴベルト同様モースにすっかり丸め込まれているらしいアルバイン内務大臣が、憤りのあまり批判を放った。

 

「なんということを! マルクト帝国は長年の敵国。そのようなことを申すとは、やはり売国奴どもよ」

「だまされてはなりませんぞ、陛下。貴奴ら、マルクトに鼻薬でもかがされたのでしょう。所詮は、王家の血を引かぬ偽者の戯言……」

 

 両名共に、ここにそのマルクト帝国の手先がいることがわかっているのだろうか? 

 と、そこで。

 

「だまりなさい。血統だけにこだわる愚か者」

 

 口出しは許さないとばかり、イオンはぴしゃりとモースの口上を妨げた。彼らしからぬ鋭さに、モースはおろか対象外であるはずのアルバインすらも黙っている。

 沈黙を破るように、「陛下」とジェイドが口を開いた。

 

「生まれながらの王女などいませんよ。そうあろうと努力した者が、王女と呼ばれるに足る品格を得られるのです」

 

 つまりこれは、ナタリアを自分の娘でなくていいから王女として見ろと、王女としての彼女の言葉を聞き入れろと遠回しに言っているのだろうか。真実は、彼しか知らない。

 

「……ジェイドの言うような品性が、わたくしにあるのかはわかりません」

 

 それを察したかどうかもわからないが、ナタリアはどうにか、言葉を続けた。

 王女ナタリアの名に恥じぬ、誇りと威厳を掲げ持ち、毅然とした態度と、何よりも彼女らしい言葉をもって。

 

「でもわたくしは、お父様のお傍で十七年間育てられました。その年月にかけて、わたくしは誇りを持って宣言しますわ。わたくしはこの国とお父様を愛するが故に、マルクトとの平和と大地の降下を望んでいるのです」

 

 沈黙が、訪れた。

 ナタリアの気品溢れるその様子に、口を挟む暇もなく誰もが沈黙を余儀なくされている。

 これは王が答えるべきことであると、その場に流れる空気が語っていた。

 インゴベルト王はどこかまぶしそうに、ナタリアを見つめている。

 長い長い沈黙。それに伴う緊張感。

 やがてインゴベルトはゆっくりと頷き、重厚にして威厳に満ちた声で、一言呟いた。

 

「……よかろう」

 

 ハラハラしながら王の言葉を待っていたアルバイン、モースの血相が変わる。

 

「伯父上! 本当ですか!」

 

 喜色に満ちたルークとは正反対に、彼らは否定を求めて見苦しく喚いた。

 

「なりません! 陛下!」

「こ奴らの戯れ言など……!」

「だまれ!」

 

 モース、アルバインの言葉を、王は老獅子のごとき恫喝で鎮まらせている。

 その剣幕に両名は言葉を失うも、次の言葉には彼女もまた言葉を詰まらせていた。

 

「我が娘の言葉を、戯れ言などと愚弄するな!」

「……お父……様……」

 

 ナタリアの声が震える。我が娘と、インゴベルトは言ったのだ。聞き違えるはずもない。

 彼は少しやつれたような顔を彼女に向け、弱々しく微笑んだ。

 

「……ナタリア。おまえは、私が忘れていた国を憂う気持ちを思い出させてくれた」

「お父様、わたくしは……王女でなかったことより、お父様の娘でないことの方が……つらかった」

 

 こらえきれなかった涙が、ナタリアの頬を伝った。

 そんな、娘と呼んだ少女を愛しげに見つめる王の目に、もはや迷いはない。

 彼は、父親であることを選んだのだ。それは、揺るぎようもない事実であった。

 

「……確かにおまえは、私の血を引いてはいないのかもしれぬ。だが……おまえと過ごした時間は……おまえが私を父と呼んでくれた瞬間のことは……忘れられぬ」

「お父様……!」

 

 ──嗚呼、見てられない。

 

 感極まったナタリアが、インゴベルトの元に駆け寄る。

 そんな彼女を暖かく迎えた、父子が互いを認め合った瞬間を、スィンは視線をそらして見過ごした。

 その視界の端で、モース、アルバイン、そしてゴールドバーグ将軍が退散していくのが眼に入る。

 感動の和解を果たした二人は、やがて互いの仕事を思い出したかのように立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十二唱——明かされた真実を前に、戸惑うは愚者か、それとも

 

 

 

 

 

 

 インゴベルトは席を立ち、ナタリアは壇上から降りてきて仲間たちの祝福を受けている。

 

「よかったな、ナタリア」

「よかったねー」

「よかったですの~」

 

 ルーク、アニス、ミュウは素直に祝福し、ティアは珍しくルークの言葉を借りていた。

 

「十数年も同じときを過ごしたんですもの……もう、血の繋がりなんて関係ないはずよ」

「ありがとう。認めてもらうことがこれほど嬉しいだなんて、わたくし初めて知りましたわ」

 

 これまで自分がしたことを、功績を認めてもらうのが当たり前だったナタリアに、今回の謁見はひどい重責だったのだろう。ようやく緊張が解け、少し赤くなっている目は嬉しさに満ちている。

 が、しかし。珍しくガイが、その祝福ムードに水を差した。無論、嫌味などではなく真実を突く形で。

 

「いーや、まだまだこれからだぜ。もう一回、親子のやり直しをするんだからな」

「……そうですわね。何も知らなかった頃には、戻れませんもの」

 

 嬉しさに緩んでいた目が、わずかだが引き締まる。その真面目さに、ガイはフォローをするように笑顔になった。

 

「これから、陛下と改めてその認識を深めていけばいいよ」

「そうだな。伯父上、ナタリアを受け入れてくれてから、戦争が起こる前の人柄に戻ったような気がしたよ」

「そうですわね。でも、事実を知ってしまった以上、あの頃と同じように接することは出来ないと思います。先ほどのガイの話の通り、わたくしたちはこれからが重要なのですわ」

 

 どこか楽天的なルークとは違い、ナタリアは油断はできないとばかり決意も新たに語っている。ガイの一言が大きく影響しているように思われた。

 ルークと同じく、いい傾向である。

 

「もう、大詠師が王様に、変なこと吹き込む隙もなくなったしね」

「そうね。キムラスカはもう安心だと思うわ」

 

 ──それなら、いいんだけど。

 

「そうだと、いいんだがな……」

 

 アニス、ティアの言葉に、思いと同じ呟きが聞こえてぎょっとする。ふと見やれば、ガイがうつむき加減でその言葉を零していた。

 自分の呟きでなかったことに安堵する間もなく、ルークの耳が呟きを断片的に拾い上げている。

 

「ん? ガイ、なんて?」

「いやー、なんでもないよ」

 

 幸い、彼は挙動不審に陥ることなくきちんと切り返していた。

 

「次はマルクトなんだろ、グランコクマに行こうぜ」

「ああ、モースが横やりを入れないうちに、話をまとめようぜ」

 

 城門をくぐり、まだ騒然としている周囲を他所に進んでいく。

 ファブレ公爵邸前に差し掛かったところで、これまで黙りこくっていたスィンは「あの」と声を出した。

 

「ん? どした?」

「ガイラルディア様。僕……僕、ちょっとおじいちゃんに会ってきますね」

 

 すぐに戻りますので、と言い残し、そそくさとファブレ公爵邸へ赴こうとする。

 そんなスィンの背中を見、ガイはふと瞳を細めた。そして何を思ったのか、彼はこんなことを言い出している。

 

「なあ、ルーク。おまえはいいか? 奥様に挨拶」

「あ? ああ、じゃあ俺も挨拶していこうかな」

 

 背中を向けていたのだから、引きつったスィンの顔などわかるわけがないのに。

 何かを悟ったらしいジェイドが、それでは私たちもと、一同を誘って結局全員で屋敷へ赴くことになる。

 

(これは……どうしよう)

 

 彼らが来るとなれば、必然的にペールを紹介することになるかもしれない。それでは、彼と一対一で話すことが、できない。

 一瞬、どうしようかとあせったスィンであったが、屋敷に一歩足を踏み入れるなり、焦りは無駄に終わった。

 何故なら。

 

「ルーク様、おかえりなさ……あーっ!」

「みんな! ガイが戻ってきたわよ!」

「「きゃ~!」」

「うわぁあぁああ~!」

 

 集まってきたメイド達に囲まれ、彼はその場から動けなくなってしまったのである。

 

「うはぁ、ガイってばモテモテ」

「う、うう嬉しくない~! 助けてくれ~!」

「だ、そうですよ。スィ……」

 

 ジェイドの言葉が終わる前に。スィンは集結するメイドらの間をすり抜けるように、向かいの廊下へと去っていった。

 主が困っているのに助けないのは、不忠義なのかもしれない。しかし、メイドたちは彼を刺し殺すような真似はしないし、女性恐怖症を克服するいい修行だ、とスィンは思っている。助けるのは、ハイハイしている赤ん坊を無理やり歩行器の中へ放り込むようなものだ。

 とにかく今は、一行の目をすり抜けて、祖父だと信じていたペールに会いたかった。

 広い廊下を抜け、メイド部屋と隣り合う使用人部屋へとたどり着く。折り悪く庭園をいじっているかもしれない、と思ったが──部屋の中には気配があった。

 誰のものかはわからなくても、訪ねるだけの価値はある。意を決して、スィンはひとつの深呼吸の後に扉を叩いた。

 

「誰かな?」

「……おじい、ちゃん。約束どおり、戻ってきたよ」

 

 聞き覚えのある声。ためらいながら、長年口にしてきた『祖父』を呼ぶ。バタバタッ、と部屋の中で物音がした後で、唐突に扉は開かれた。

 変わらぬ祖父の姿。だが、彼の眼は驚きに丸まり、更にわずかにだが──潤んで、いる。

 

「おお、スィン! よくぞ戻ってきた!」

 

 素直に無事を喜んでくれている。

 今まで通り彼女を孫として接してくれるその温かさに、スィンもまた視界をぼやけさせ、頷いた。

 立ち話もなんだから、と部屋に通される。やはり変わらぬガイとペール共用の私室が広がっていた。使っている寝台はひとつのはずだが、両方の寝台はきちんと手入れがされている。

 ペールのスペースにある本棚はわずかばかり種類が増えているような気がした。ガイのスペースには埃どころか、塵ひとつない状態で様々な音機関、譜業の類が整列している。きっとペールが毎日手入れしていたに違いない。

 こぽこぽ、と心地のいい音と共に懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。

 ほれ、と差し出されたのは祖父特製の焙じ茶である。

 

「いただきます」

 

 祖父が独自の伝手で手に入れてくる濃い緑色の茶葉を炒って淹れた茶はすがすがしく、幼い頃から親しんだものだ。

 保管しておいた茶葉の風味が悪くなってきたときにしか淹れてもらえないこの茶だが、祖父は大体風味が悪くなる前に茶葉を使い切る。

 振舞われる機会の少なさゆえに、スィンは一度意図的に茶葉を隠して「飲みたいなら申告しろ」と怒られたことがあった。

 茶器が取っ手や受け皿のない特殊なものであることや、通常の緑茶と異なり熱湯を注いでいるために行儀悪くすすって飲まなれければならないのも、たまらない。

 そのまま口に入れれば確実に火傷するほど熱い茶を、香りを堪能してからずずず、とすする。

 美味しい。

 

「ふいーっ……」

 

 変わらぬその味に、なつかしい美味さに、思わず吐息が零れた。

 

「して、その後の経過はどうじゃ」

「んーとねー」

 

 茶をすすりすすり、事の顛末を手短に話していく。要らないところは大分省いたその説明が終わったとき、スィンはすでに茶を飲み干していた。

 

「まだ少しあるぞ。飲むか?」

「ううん、いい。それよか、今度は僕がお祖父ちゃんに聞く番」

 

 ことり、と音を立てて湯呑みをテーブルへ置く。彼女の声音が大きく変化したのがわかったのか、彼もまた神妙な顔つきとなって湯呑みを手放している。

 神妙な、真剣な、祖父の顔。

 幼い頃は怖いと思っていたのに、今はどこか、そう思わせるものがない。それどころかこの人は、どうしてこんなにも心細そうな、不安そうな顔をしているのだろう。

 

「……何が聞きたい?」

「僕に関するあなたが知ること、すべて」

 

 ユリア再誕計画のことを、悪戯に知ってほしいわけではない。

 それを悟らせないためにもまず、如何にして彼が「スィンが実の孫でないこと」を知っているのかを尋ねにかかった。

 

「……フェンデ家の嫁が出産して、しばらくしてからか。旦那様がお前を抱えてご帰宅された。『家の前に置き去りにされていた』と」

 

 それは間違いようもなく捨て子として認識されるしかない状況である。スィンがガルディオス家の血を引くなど、彼が知っている理由にはならない。

 

「当然しかるべき施設に届けようとしたが……時期図らずして丁度、わしの息子夫婦が子を流していての。生きていればこのくらいかと、意気消沈していた二人は乳飲み子のお前を亡くした我が子に重ねてな」

 

 別の用事で伯爵邸に居合わせていた彼の息子夫婦──スィンが父親と母親と認識していた彼らは、施設に届けず自分達で育てようと提案したらしい。

 伯爵はそれに反対することなく、「これが添えられていた」と二人に手渡したのだという。現在もスィンが肌身離さず持ち歩くお守り──当時は何をしても開くことがなかったロケットを。

 手紙などは特になく、本当の両親の手がかりはそのロケットペンダントしかないと、彼は申し訳なさそうに話した。

 が、そのことならばすでにスィンは知っている。彼が謝らなければならないことなど何もない。

 話を続けてもらうために、黙して話の先を促した。

 

「それから数年経ってからのことじゃ。珍しく旦那様が酒精とお戯れでな。奥様も呆れて、寝室へ下がってしまった頃。いきなりわしを相手に懺悔されたのじゃよ」

 

 酒精と戯れ……飲んだくれていたということだろうか。

 その懺悔を耳にして、ペールは度肝を抜かされたのだという。

 

「詳細は話せないが、わしの息子夫婦が引き取った赤子は自分の子だと。間違いなく自分の血を引いているのだと。瞳の色は自分そっくりなのに、そのせいで言われなき雑言を吐かれるあの子を庇ってもやれない。父親失格だと」

 

 ……そりゃ吃驚するしかなかろうと、スィンは当時のペールに同情した。

 そのまま伯爵は酔いつぶれてしまい、以降ペールに懺悔したことを覚えている様子はなかったという。

 どこまで事実を知っていたのかはわからないが──そんな良心の呵責じみたことを、彼が悩む必要などなかったのに。

 そんな風に思われていたとは露知らなかった。

 何せスィン自身、伯爵と顔を合わせるどころかお目にかかる機会など、数えて事足りる程度だったから。

 言われなき雑言、とはおそらくこの色違いの眼を揶揄して言われた事柄だろう。

 

 詳細は思い出せない。それを覚えておく必要がなかったから。何かしらあったことは間違いないが。

 

 自分の心を守るための働きなのか、あるいはそれよりも衝撃的なこと──主にユリアに関連した記憶──が色濃いためか、両方か。

 そんなことはどうでもいい。

 とにかくこれで、ペールの事情はわかった。彼はほぼ、何も知らないに等しいということも。小さく息をついて、スィンは自分が知っていたことを話し始めた。

 無論のこと、ユリア再誕計画については除外する。

 

「捨て子かあ。そっちは全然考えてなかったよ。てっきり連れ子か、事情あっての貰われっ子だとばかり」

「……今、なんと」

「この眼のことを知ってたらお前なんか引き取らなかったって。そう言ってたから」

 

 いつの頃からか覚えていない、目を開けた頃からだっただろうか。

 世間的には母親である女性の声はいつだって荒い怒鳴り声ばかりで、世間的には父親である男性の声はそれをただ聞き流すか、あるいは弱々しく宥めようとして、怒鳴るその声に油を注いでいたように思う。

 それが普通だと思っていた。

『母親』は自分を毛嫌いして、『父親』は自分を見ようともしない。祖母だけが、自分を気にかけてくれる。

 今思い起こせばそれも、愛情ではなくて同情でしかなかったかもしれないが、彼女がいたから今のスィンがいる。

 それは、間違いない。

 

「あやつは、お主にそんなことを言ったのか!」

「おじいちゃん、あの頃家にいなかったもんねえ。お祖母ちゃんもそういうこと、告げ口みたいに言う人じゃなかったし」

 

 スィンを引き取ったのは、心神耗弱中で気の迷いか何かだったのだろう。少なくとも、スィンは彼らに育てられたなどとは思っていない。彼らもきっと、スィンを育てたなどとは思っていないだろう。

 二人が育てたかったのは亡くした我が子で、スィンはただの代替。

 虹彩異色症もそうだが、成長するにつれて自分達の遺伝子などまったく引き継がないスィンを見て、気が狂わんばかりになってしまったのかもしれない。

 幼子であった彼女がそう思う程度に母親は荒れていて、父親は自分をいないものとして扱っていた。

 

「──」

「おじいちゃん、覚えてる? 僕、七歳の時に家出したよね」

「う、うむ。まさかホドを飛び出してケテルブルクにいるとは思わなんだ」

「あれねえ、本当のお母さんのことがわかったからなんだ」

 

 七歳当時、両親との折り合いは相変わらず最悪。祖母は体調を崩して家を離れ療養中、祖父は家業の関係でいつも留守。

 スィンの主な支えは主従となったマリィベルやガイ、修行を通じたフェンデ家との関わりくらいで、家に帰りたくない症候群を患っていた頃。

 唐突にロケットペンダントを開けることができた。

 大きめの胡桃ほどと、小さくもないが大きくもないロケットの中に入っていたのは女性の肖像画と、小さく小さく折りたたまれた手紙。

 

『お父さんとお母さんがだいすきなら、ひらかないで二人にみせて』

 

 そんな一文を見て、スィンは迷いなく手紙を開いた。

 初めまして、と折り目正しく始まったその文章を食い入るように読み進めて、途中から読めなくなったことも、覚えている。

 

 これを開けることができるということは、多少なりとも音素(フォニム)を扱えるようになったときのはず、ならばあなたは自分の状況を、すくなからず把握しているだろう、ということ。

 自分のしたことはとても許されることではない、謝ることしかできない、と。

 できることなら顔を見て謝りたい。恨みを言いに、でもいい。雪の国にいる、逃げも隠れもしない。

 

 文末には彼女──ゲルダ・ネビリムの名が。彼女から贈られたスィンのもうひとつの名に向けて、しめくくられていた。

 彼女の名は、ユリア再誕計画の報告書作成名と同一である。

 何かしらあって、彼女はスィンを死亡したと見せかけ、ホドのガルディオス伯爵邸前へと運んだ。あるいはガルディオス伯爵に直接託した、と思われた。

 実際に何があったのか、もはや知る手立てはない。

 

「本当の母親、じゃと!?」

「もういなかったけどね」

 

 正確には死んでいた、か。

 いてもたってもいられず、まるで今の環境から逃げるようにしてホドを飛び出したスィンは密航を繰り返して雪国──ケテルブルクへとどうにかたどり着いた。

 そこで。彼女はもういないという事実どころか、この世の地獄に突き落とされたわけだが。

 

「どういうことじゃ?」

「『不幸な事故』でお亡くなりになった、って。後に死霊使い(ネクロマンサー)って呼ばれる少年が起こした事故でさ」

 

 実際に、それを教えてくれた人間はいない。彼女の名を出して聞くだに、誰もが目をそらして詳しいことを話す者はいなかった。

 自分の色が違う瞳を見て、目をそらす人間など珍しくもなんともない。

 この頃にはすでに傷つくという概念を棄てていたスィンは気づかなかったのだが、それだけが理由ではなかったようだ。

 彼女がすでにこの世のものでないこと、元凶の正体を、そして元凶に近しい者たちを捕まえたところで、初めての家出は終焉を迎える。

 スィンの足跡を辿ってきたペールに捕まり、あえなく御用となったため、だ。

 初めての家出後、理由を聞かれても頑として答えることがなかった真相を今更告げられて、彼は目を白黒させている。

 そんなペールの様子を見ながらも、スィンは笑ってみせた。

 父たる伯爵がほんの僅かでも自分に気をかけていてくれたことは掛け値なく嬉しいこと。それが過去のことであっても、父は自分を疎んじていなかった。この事実は大きい。

 

「ありがと、教えてくれて」

「隠してきたことは互いだと言わせてもらう。じゃが……自棄は起こすなよ。言いたくないなら聞かんが、完璧に癒えたわけではなかろう?」

 

 確認するまでもない。スィンの、病のことだ。

 

「うーん……まあ、ね。でも最近は調子いいよ。小康状態ってところかな」

 

 ──ユニセロスのニルダがスィンに施した治癒によって、瘴気蝕害(インテルナルオーガン)による弊害は大幅に軽減されている。

 しかし、いかにユニセロスの力を持ってしても、長年住み着いた病巣の完全治癒は叶っていない。

 急激な進行はなくとも、そろそろ息を吹き返した病巣は改めて侵蝕を開始するだろう。

 だが、今のスィンの心は大いに晴れやかであった。

 真実を知ることができたのだ。目的が達成された。それ以上の嬉しさがある。それはペールに無事会えた喜びかもしれないし、知りえた本当の父からの愛情に起因するかもしれない。

 どこか気の抜けたスィンは、ふう、と息をついて寝台に座り込んだ。

 その様を見て、ペールもまたはあ、とため息をついている。

 

「……気を抜きすぎじゃ。仮装が解けておるぞ」

「え? ……あっ」

 

 風にたなびく髪が視界を横切る。真白の、雪の色をした髪。

 半開きの窓に映った顔は、本来のスィンのものだった。術式固定はしなかったとはいえ、確かに気を抜きすぎている。

 駄目だなあ、と胸中で呟きつつ、そのまま寝転ぼうとして。

 

「!」

 

 視線を、感じた。首は動かさず、周囲を探る。

 誰かが扉の外から覗いているのではない、では、どこから──

 

「ここかっ!」

 

 手にした棒手裏剣を投げつける。

 ドッ、と突き刺さったのは、庭園とは反対方向にある窓の外、連立した木立であった。

 半開きだった窓が、棒手裏剣の通過によってきぃ、と揺れる。揺れたカーテンの向こうに、スィンは不敵な笑みを見つけた。

 

「どうした!?」

 

 投げつけた直後に窓へ駆け寄ったスィンに、ただごとでない雰囲気を読んだペールが身構える。その頃、スィンは窓から身を乗り出して外を凝視していた。

 

「──流石、だね。気配は消してたのに」

 

 木立の中、季節にそぐわぬ深い翠の葉が紛れている。白い何かが見えたかと思うと、小柄な姿が現れた。

 柔らかそうな髪は本人を現すかのようにつんつんと尖り、顔の部位において唯一見える口元は、表情を連想させるような酷薄な笑みが浮いている。小柄だが引き締まった体躯を大振りの枝に乗せているその姿は、六神将『烈風のシンク』その人に他ならなかった。

 神託の盾(オラクル)騎士団第五師団師団長にして六神将に名を連ね、更にその六神将を束ねる参謀総長。

 どんな人選なんだと突っ込みたくなるが、神託の盾(オラクル)騎士団は実力主義の世界なのだから仕方ない。

 現六神将において一番手の内が知れない相手を前に、スィンはとりあえず対話を試みた。

 

「……こんにちわ、烈風のシンク。こんな場所で、午睡でも? 優雅だねえ」

「御託はいいよ。アンタに話があるんだ。顔、貸してもらえないかな」

 

 コミュニケーションを取ろうとして失敗、あっさりと要求が突きつけられる。背後でペールがそっと動いたのを確認し、再度時間稼ぎを試みた。

 

「……話だけなら、ここで聞く」

「他人に聞かれちゃ困るんだよ。総長からアンタに向けての伝言なんだけど」

「今は、僕たちだけしか聞いてないよ」

「そんな屁理屈、通用するとでも思ってるの?」

 

 やはり、ペールの動きは感づかれていたか。彼の位置からペールの姿はわからないはずだったが。

 

「まあ、聞きたくないならそれでもいいけどね。飛行機関の操縦士がどうなってもいいなら、さ」

 

 ──また、ノエルを人質に!? 

 

「どこまでオリジナリティに欠ければ気が済むんだ。恥ずかしくないのか? よりによってディストと同じことするなんて!」

「……こんなところでお説教なんか聞きたくないよ。文句があるなら、僕を捕まえてからにしなよね」

「あ、ちょっ……」

 

 がさがさっ、と音を立てて、彼は猫のように姿を消した。

 纏う衣装は保護色でもなんでもないのに、その姿がすぐ周囲へと溶け込んでしまう。迷っている暇はなかった。

 追おうとして、窓枠に血桜がひっかかる。スィンは罵声と共に外界へと続く窓枠から身を乗り出した。

 

「待ちやがれこのクソガキ! せめて……!」

 

 

 

 

 

 




 


 コーヒーは80℃前後、紅茶は出来るだけ熱湯が望ましい。
 緑茶は50℃程度、ほうじ茶は80~100℃。ついでに烏龍茶も80℃~100℃。
 ポットやカップをあっためたり何だり手順はありますが、理想の湯温は上記だそうで。
 お茶の旨みは50℃から溶け出すらしいですね。
 お茶のカテキン、カフェインは80℃から溶け出すので、煎れる温度が高い方が、香り高いとか。
 低温で淹れるときは味わい重視で、高温で淹れるときは香りや渋み重視ということになります。
 ほうじ茶や烏龍茶は香りや渋みを楽しむお茶なので、80℃~100℃という高温が望ましいそうです。


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第九十三唱——捕獲、逃亡、その先には

 

 

 

 

 

 建物の屋根を伝い、シンクは軽やかに駆けていく。

 その身のこなしはまさに俊敏で、交戦となった際は果たして対応しきれるかどうか、スィンをひどく不安にさせた。

 これまで垣間見てきたシンクの戦闘は格闘をメインとしており、時折譜術を使っている。見た限り刃物を持たない彼の攻撃なら、刀で防御すれば多大なるダメージを与えることができると思っていたが、その戦いぶりからあまり期待ができないとの結論が出た。

 シンクは素早いだけではない。その素早さに見合っただけの動体視力を備えており、それだけ細かな攻撃もできる。防御されるとわかった途端攻撃箇所を変更することくらい、朝飯前だろう。

 小柄であるために足りないと思われがちな腕力は、十中八九譜術を使って強化されている。導師と同じ肉体、振動数の持ち主なのだ。ダアト式譜術を使っていないわけがない。

 それに、たとえ違ったとしていても、腕力がないのはスィンとて同じ。相手の弱点は、攻略法とはならない。

 同じ特徴、見切れぬ動きと正確な攻撃を旨とするスィンの戦法がどこまで通用するのか。とりあえず、彼との交戦においてシグムント流はあまり有効打ではないだろう。いくら早くても、所詮武器を用いての話だ。素手の早さに対応できるわけがない。

 だからこそ、躊躇なく愛刀を置いてきたのだが……正解だった。

 バチカル城が据えられた最上層から岸壁を伝い、シンクは慣れ親しんだ遊び場のようにするすると降りていく。

 とても道とはいえないそのルートを、一度は通ったことがあるため、どうにか続いていくスィンは内心胸をなでおろした。今血桜を持っていたら、確実に荷物だ。不注意で家宝を落としてしまうかもしれない。そんな心配に脅えながらシンクを追うより、やはり今の方が気楽だった。

 ただ、あの頃に比べてやはり太ったのだろうか。とてもシンクのように身軽には移動できない。時折ちらちらこちらに顔を向けているが……あんな仮面をつけていて見えるものなのだろうか。

 おそらくは、ちゃんとついてきているかどうかのためだけに向けられるその顔から、表情は読めない。

 交戦において、相手の視線が読めないのはかなり痛いが……仮面を剥がそうと接近したら、おそらくダアト式譜術の餌食にされる。我慢するしかない。

 中層を通り抜けた先、最下層まで達した彼がようやく地面に足をつける。これまで一定の距離を保ってシンクを追跡していたスィンだったが、その時点でぴたりと足を止めた。

 そろそろ、彼がどこへ自分を誘おうとしているのか、知る必要がある。のこのこついていった先、六神将が勢ぞろいとか、モースが援軍連れて待っていたとか、そんな惨劇に参加したくない。

 駆けるように、時には急制動をかけて滑り降りてきた岸壁から、倉庫らしき建物の上に飛び降り、シンクの行く先を見据える。

 素直についてこないスィンを不審そうに見やっていたシンクだったが、彼女が何を思っているのか悟ったらしく、やれやれ、と肩をすくめてみせただけで歩みは止めなかった。

 やがて彼は、現在は機能していない無人の港跡へ歩を進めていく。

 

 確かあの港は、天空客車を使わないと行くことができないはずでは──

 

 予想に反して、彼は天空客車を使うことなくある建物の前で立ち止まった。今は使われていない積荷保管倉庫、というやつだろうか。

 

「……まだへたくそな尾行を続けるわけ? ここで終点だよ」

 

 ひどく憎たらしい口調で、苛ついたように扉を蹴り開けている。響いた音を確かめるべく、スィンはその場で耳をすませた。

 倉庫の中に何かがあればあるほど、響いた音は多重に聴こえる。加えて、人の気配を探して──大勢はいない、人海戦術は使われないだろう、ということがわかった。

 伝っていた屋根の上から飛び降りて、警戒を隠さないまま扉の眼前まで歩み寄る。

 はっきり言ってこんな場所、閉鎖空間に進んで入りたくないのだが。人質の安否を考える限りこちらに行動の自由と、安全は保障されない。

 

「どうしたの? 入ってよ」

「……汚い、埃っぽい、なんかかび臭い。従って、入りたくない」

「……気持ちはわかるけどね。これ以上手間取らせるなっ!」

 

 我侭を並べ立てるスィンに、苛ついていたらしい彼は突如として回し蹴りを繰り出した。狙いは頭部だ。まともに入れば気を失うことができるだろう。

 片手を地面へつけ、前転するように続く踵落としから逃れる。そのまま、スィンは倉庫に転がり込んだ。

 扉が、ばたんと音を立てて閉ざされる。

 暗くなった視界の中、埃が積もった床に転がったせいで盛大に汚れた体を、ぽんぽんっ、とはたきながら立ち上がると、天井の音素灯がいきなり点灯した。

 眼は瞑らず、片手でひさしを作り、周囲を確認する。がらんとした倉庫内は人間が隠れられるほどの荷物がなく、広さも相まってひどく寒々しい。

 そんな中、前方にひとつだけ人影があった。見上げるほどの巨躯、獅子のごとき豪快な髭。岩を彫って作ったような厳つい顔にこれといった表情はなく、なぜか得物である大鎌を持っていない。

 神託の盾(オラクル)騎士団、第一師団師団長──通称黒獅子ラルゴ。

 

「ご無沙汰しておりま──久しぶり、ラルゴ。ナタリアならインゴベルト陛下と和解したよ」

「知っている」

 

 なーんだ、とわざとらしく呟いてから、ラルゴの挙動を視界に入れて辺りを見回す。

 ノエルの姿はない。

 ……想定していなかったわけではないが、どうやら。

 

「この嘘つき小僧。ノエルいないじゃん」

「誰がここにいる、なんて言ったのさ? どうなってもいいのか、とは聞いたけど」

「おっしゃるとおりだ、このクソガキ」

 

 はめられた。

 

「……なるほど。ディストと同じ手を使ったのか」

「信じらんない。神経疑う。実際に拉致しないだけマシだけど」

 

 振り向いていた姿勢からシンクと完全に向き合い、肩をすくめて見せる。

 ラルゴに背を向けるのはあまり気の進むことではないが、多少距離は開いているのだ。彼のアクションはその差で気づきたい。

 今はむしろ、シンクに警戒した方がいいだろう。なんせ、手の内が知れない点においてはラルゴよりよっぽど脅威だ。

 ふとあることを思い出し、すたすたとシンクに近寄っていく。何事かと身構える彼を前に、スィンはひょい、と肩を掴んだ。やはり、怖くはない。

 これなら、十分可能なはずだ。

 

「……何?」

「おばはんくさい説教は自分を捕まえてからにしろ、って言ってたよね? 蠍固めでも仕掛けてから説教したほうがいい?」

「別におばはんくさい、なんて誰も言ってないよ。死神と同じことして恥ずかしくないのか、って? しょうがないだろ、あのガイって奴を誘拐した方がよかったのかい?」

「そんなことしたらおまえの頭髪を根こそぎ引っこ抜いて額に『禿』って書いてやる」

「死んでもゴメンだね!」

「てっぺんの方がいい?」

「変わんないよ! それにラルゴはどうなるのさ?」

「……ナタリアの声で『パパのバカァ!』って叫ぶ?」

「ずいぶん違わなくない? アンタの報復ってどういう基準なのさ!?」

「ラルゴの髭を引っこ抜いたってどうせ二、三ヶ月で生え揃うだろうし、ロケットの中身を塗り潰したって怒らせるだけだし、でもラルゴって怒ったり酔ったりすると手ぇつけらんなくなるし」

「そんなプチトリビアどうでもいいよ!」

「それもそうだ。じゃあ僕はこれで」

 

 終わった。

 用が済んだところで掴んでいた肩をトン、と押し、その虚を突いて脛を蹴る。思わずシンクがつんのめったところでスィンは倉庫の扉へ駆け寄った。

 いける。シンクが咄嗟に動けない上、ラルゴがあんな遠い位置にいるなら、逃げられる。逃亡成功を予知してノブに手をかけたスィンだったが、次の瞬間ぐいっ、と足がひっぱられた。

 

「!」

 

 世界が急激に反転し、物理的に頭に血が昇る。

 じたばたと暴れたくなる体を抑え、自分の置かれた状況を冷静に見つめ、スィンは呆れたように呟いた。

 

「な……なんて古典的な」

「それにまんまと引っかかるアンタはなんなのさ」

 

 足首を縛る荒縄は天井を伝い、ラルゴのすぐ近くにある滑車へ繋がっている。荒縄の先端を持っているのはラルゴだ。だからあんなところに立っていたのか。

 迂闊だった。埃だらけで床すら見えないとはいえ、扉のすぐ近くに輪っかになった縄があることすら気づけなかったなんて。

 あんな特殊な入室を果たしたのだから、当たり前かもしれない。シンクの回し蹴りは八つ当たりとかではなく、計画通り放たれたものなのだろう。

 罠にかかった獣よろしく吊り上げられているスィンのすぐ傍に、縄の先端をどこぞへ固定したラルゴがやってきた。

 

「ブリュンヒルド、総長からの伝言だ。『もう一度会いたい。私のもとへ来てくれ』」

「いやだ冗談じゃない」

 

 一瞬の迷いもない、どこまでも純粋な拒絶である。

 説得を時間の無駄と悟り、振り上げられたラルゴの拳はどこまでも正確にスィンのみぞおちを狙っていた。

 みじろぎをして避けられるほど、照準は甘くない。

 

「バツイチ男に言われたなら尚更……」

「『我らを死別に導かなかった世界の意味が知りたい。最早話し合う余地もないのか?』こっちが原文だよ」

「うん、ないない。あと、ガキンチョは問題外」

 

 靴の踵を叩き、仕込んであるナイフを先端から出現させる。常に手入れを欠かさない刃物は、荒縄をあっさりと掻き切った。

 みぞおちへ繰り出されたラルゴの拳が空を薙ぎ、その間にもスィンは受身を取って体勢を立て直している。

 

「ち……」

「烈破掌!」

 

 捕獲失敗を悟った二人に連携を取られるより早く、圧縮した闘気を押し付けるようにして解放した。直撃を防いだ二人をもはや一顧だにせず、倉庫を飛び出す。

 その先に広がっていたのは、ずらりと並んだ神託の盾(オラクル)兵士たちを率いる大詠師モースのヒキガエルじみた笑み──と、いうことでなくてほっとしているのが事実だ。

 閑散としている倉庫街を駆け抜けることなく、今しがた飛び出した扉の真横に待機。耳を澄ませば、倉庫の床を二人分の足が駆けている。

 

 3,2,1……今! 

 

 タイミングを合わせて、スィンは思い切り倉庫の扉を蹴った。

 衝撃を以て音高く激突を奏でた扉は、同時にむさ苦しい呻きも招いている。

 

「ぐぉ……!」

「何やってんのさ、ドジ!」

 

 どうやら扉による熱烈なアタックを受けたのはラルゴの様子。おしい。小柄なシンクなら、卒倒くらいしたかもしれないのに。

 それでも、シンクであればどうにか避けたかもしれない。微々たるものでもダメージを与えられただけ良しとしよう。

 出てきたシンクを迎え撃とうか、考えて。スィンはすたこら逃げ出していた。

 

「待て!」

「やだ!」

 

 これでずっこけるか、気が抜けてくれればいいのだが……

 シンクはともかくとして、ラルゴの実力はよく知っている。ラルゴに限らず、正直な話、六神将とは誰であっても戦いたくなかった。

 理由は──長引くから。帰るのが遅くなって、主に叱られるのは間違いない。

 スィンが彼らの戦法を知るように、彼らもまたスィンのやり口を知っている。やりあえば、間違いなく戦闘の長期化は必至。

 それは主に、仲間達にかけたくもない心配をかけて、ジェイドに与えたくもない嫌味の材料をやってしまうことになるのだ。

 感情面の理由がないことはない。

 確かに、リグレットにはこれ以上ないくらい嫌われている。スィンも彼女のことは苦手だった。

 ディストは。観察していて面白いのは認めるが、それでも好き嫌いに分類するなら、嫌いだと断言できる。

 ラルゴとは積極的に口をきいた記憶はないものの、同じ任務についた際は酒を酌み交わす程度の仲だった。

 ナタリアとのことを知っていたのは、酔ったラルゴが口と手を滑らせ、ロケットを落とした際、蝶番が壊れたため修理してやったことに起因する。好意はないが殊更敵意もない。

 アリエッタに関しては、「おともだちがくさいって言うから」と敬遠されている側である。それが体臭を指すのか香水を指すのか。ちゃんと確かめたことはない。

 シンクは……好悪がどうこういうよりまず、情報がない。ただ、彼はカースロットによって主人を、ガイを傷つけた。その借りは返してやらなければならない。

 ヴァン、は──正直を言えば戦いたくなどない。敵対など、本音のところでは持っての他だ。彼自身を前に誓った想いは、未だ揺るぎない。それだけは断言できる。

 しかし、スィンの中での優先順位は不動にして、絶対のもの。主に仕える従者として、盾の役割を担う騎士として、感情を優先するわけにはいかない。

 可能不可能は別として、主の利益を考えるならば、誘き出されたことを利用してここは彼らの殺害、もしくは手傷を負わせることを考えるべきだ。

 その狭間の妥協は──やはり逃走すること。

 不利であることも視野に入れるなら、下手なちょっかいは出さずに無傷で帰還したい。──先ほど吊り上げられたせいで足首を痛めたのは、とりあえず考えないことにして。

 大昔の記憶を引っ張り出し、倉庫街を駆け抜ける。

 ここへ来たことがあってよかった。でなければ、当にシンクに追いつかれていたことだろう。

 全力で走れぬスィンは、今や地の利を生かして追いすがるシンクをかく乱し、どうにか逃れている状況なのだから。

 それでも、速度の関係なのか。足の幅(コンパス)に差異はそれほどないと思うのだが、彼の視界から逃げ切るには至っていなかった。

 

「くそ、ちょこまかと……!」

『シンクのほうがっ、よっぽどちょこまかしてる!』

 

 動揺を呼ぶためにアリエッタの声を作ってみるも、失敗する。声に問題はないが、イントネーションがなめらか過ぎた。結果、違和感だらけになっている。

 

「は、随分余裕じゃないか!」

 

 振り切れない。こうなると、ちょっかいを出すのが必然になる。今後のためにさっき仕込んだばかりものを、今使うことになってしまうが、スィンの体力とて無限ではないのだ。今どうしているかもしれない一行のもとにたどりつくための、最低限の体力は残しておかなければ。

 となると、距離を置いて譜術で攻撃がしたい。それで足止めできればいい。身を隠すなら、どこかの倉庫に潜り込んだほうが──

 自分に有利な地形を目算しながら、連立する倉庫、廃材置き場を右へ左へと駆け抜ける。

 ふとした拍子に広大な廃材置き場へ入り込み、置かれた廃材の少なさからここで戦うことを断念。

 そのまま走り抜けようとして、前方にぬぅっ、と巨大な人影が現れた。

 

 ──ラルゴ!? 

 

 どうやって先回りしたのかは知らないが、気づかぬうちに誘導でもされたか。あんな風に立ちはだかられては逃げられない。

 回避、停止、あるいはこのまま突撃。

 スィンが選んだのは──

 

「大丈夫、こわくない、死霊使い(ネクロマンサー)の方が怖い!」

「味方の方が怖いって、どういうことなのさ」

 

 本当は、感情が促すままに停止しようとした。近寄りたくない、接近は危険だ、足を止めてしまおう、と。しかし、気にかかったのだ。背後に迫るシンクに、わかりやすい隙を晒していいのかと。

 そのままラルゴの胸の中へ飛び込む勢いで、腰だめに短刀を構え、吶喊する。

 当然迎撃に振り回された大鎌の軌道を見極めて、スィンは攻撃を加えることなく、その脇を駆け抜けた。逃走は続けずに、二人と相対する。

 挟み撃ちを避けたのと、走り続けて上がった息を整えようとしてのこと。決してラルゴと接近戦の継続が嫌だったから、ではない。

 

「俺に接近戦を挑むとは、恐怖症は和らいだか。死霊使い(ネクロマンサー)と随分仲良くなったようだな!」

「人間は生きていれば成長するものです! 立ち止まって後ろを見続ける奴にはわからない! あと、私の頑張りを死霊使い(ネクロマンサー)の手柄にしないで!」

 

 やっぱり血桜を持ってくるべきだったかもと後悔したところで、始まらない。手持ちの武器でどうにかするべく、相対した二人の様子を見る。

 ラルゴは、得物である大鎌をこちらに向けている。通常通りだ。シンクは普段通り無手──ではない。

 スィンの視線に気づいたのか、何かを後ろ手に隠した。それほど大きくはない、しかし手のひらやポケットには隠しきれない、何か。

 目潰しか何かかと、普段ならば思うところだが。シンクは後ろを向いているスィンに投げる、あるいは使うために持っていた。目潰しではなさそうだ。

 何にせよ、使われたら無力化させられる何かだろう、と検討をつけて警戒する。

 しかしそうすると、当然ラルゴへの警戒がおざなりになる。それを見逃す彼ではない。

 

「はぁっ!」

 

 殺気がない。やはり彼らは、スィンを生きた状態で拉致する気だ。間違いなく殺されないと見込んで、少々無茶をするべきだろうか。

 ずいずい踏み込んでくるラルゴを最低限の防御でいなし下がりつつ、シンクを視界に入れ……られない。

 姿がない。見当たらない。どこかに行った? 応援を呼ぶ気か、はたまた──

 

「余所見とは、なめられたものだ!」

「!」

 

 そこまで露骨に視線を外したわけではないのだが。シンクがいないことに気づかれると不都合なのだろうか。

 ともあれ、もう下がれない。倉庫の壁に、背中が当たる。

 ──さあ、この絶好の機会。このままスィンを斬るか、あるいは捕まえにくるか。

 ラルゴはどちらもしなかった。スィンの眼前に鎌の切っ先を突きつけ、叫んだのである。

 

「シンク、今だ!」

『ねえ、真上から何か落ちてくるよ!』

 

 突然のシルフの警告。驚きはするものの、硬直している場合ではないと、動く。

 躊躇なく踏み込み、結果として眼の下、頰骨の辺りに切っ先が、ずぶ、と埋まった。

 

「なっ⁉︎」

 

 ラルゴが驚いて下がろうとしたようだが、もう遅い。

 頰に刺さる大鎌を掴んで、流れる血に指を擦り付けて、スィンは雷気に変換した第三音素(サードフォニム)を発生させた。

 

「ぐああぁっ!」

 

 基本威力は低め、放出距離は接触必須で最低。しかし発動は一瞬、詠唱要らずの便利な小技である。

 本来は痴漢撃退用だ。命を奪うほど威力はなく、被服の上からでは雷気が弾かれてしまうため、素肌か金属を介さなければならないのがたまにキズだが、血液を用いての威力増幅によって、ラルゴのような大男すらも戦闘不能に追いやれたのは大きい。

 パチパチッ、と雷気の名残を纏い、倒れ込んでくるラルゴを避けて距離を取る。落ちてきた何かが、倒れたラルゴに当たって、ぱりん、と割れた。

 手のひらに載る大きさの瓶、だろうか。中身の液体が当然ラルゴにかかっているが、服や皮膚が溶けるとか、激臭がするとか、そういった劇的な変化はない。

 とりあえずラルゴは捨て置いていいだろう。下手にトドメを刺そうと近づいて、死んだふりをしていたら事だ。

 瓶が落とされたであろう頭上を見る。当然のように誰もいない。

 あの瓶が、シンクが持っていたものだろうか。推定、スィンへの切り札。不発に終わったわけだが、もう帰っていいだろうか。

 ──この場から離れよう。割れた瓶の中身を調べたいような気もするが、この状況では何かが起こっても対処しきれない。

 方角を定めて、まずはラルゴの側から離れようとした、その時。

 

 がたんっ

 

 動くはずのない廃材が、動くような音がした。そちらへ向かおうとする視線を瞬きで切って、真逆の方向を警戒する。

 チッ、という舌打ちが妙に大きく聞こえた。

 

「引っかからないか」

「お生憎様」

 

 足音ひとつ聞いていないが、シンクがそこに立っている。仮面のせいで表情はわからない。視線も読めない。

 ここで仕掛けてくることに意味があるのか、あるいは単純に逃げられることを警戒してか。はたまた、ラルゴの復帰を待っているのかもしれない。

 

「……できれば傷をつけるな、ってことだったけど」

「それ命じた奴は、二人ならそれができると思ったわけだ。なめられたもんだなあ」

「ラルゴがつけちゃったから、もういいよね。手足の二、三本も折れば、降伏してくれるだろ?」

「手足って全部で四本しかないから、ご勘弁願いたい、かな!」

 

 隙を突こうと思ってのことだろうか。会話の最中に繰り出された拳打を流そうとして。想像以上の重さに戦慄する。

 これは厄介だ。受け流し損ねたら折られかねない。万が一腹に受けたら、耐えられず戻して、動けなくなるだろう。そして、そのまま持ち帰られる。

 スィンの内心を知ってか知らずか。シンクはそのまま襲いかかってきた。

 ──こちらも、殺気はない。流れるように放たれる拳打、そして時折挟んでくる蹴打を回避、あるいは受け流す。

 

「縮こまっちゃって、めんどくさいなあ! さっさと倒れろっ!」

 

 懐刀では、攻撃が届かない。それどころか、破壊されないよう気を遣いがちだ。

 うん、面倒くさい。

 内心でシンクに賛同したスィンは、後ろへ跳んで距離を取ると、シンクに視線を定めたまま、あるものを拾い上げた。

 

「……はあ?」

 

 シンクは馬鹿にしたように鼻を鳴らしているようだが、気にしない。

 スィンが手にしたのは、ラルゴの得物、巨大な鎌である。スィンの身の丈よりは多少小さいが、重量は相当なものだ。当然ラルゴが持つようにはいかずに、鎌の峰の部分が地面についている。

 

「何やってんの? ひょっとして、使う気?」

「盾になるかな、って」

 

 最早言葉もなく蔑むように唇を歪めて、シンクは再び接近してきた。

 それより早く、前へ出る。間合いを詰める前に詰められて出鼻を挫かれ、戸惑ったように脚が一瞬止まり、その脚を刈るように鎌部分を差し入れた。

 

「っく!」

「んー、重たい。ラルゴのようにいかないかなー」

 

 引き切るより早く、当然シンクは回避している。その分開いた間合いを、スィンは歩み寄るように詰めた。

 ラルゴの得物である大鎌は、特殊なものだが種類としては長柄武器となる。槍や棍のように懐に入られたらそれまでではあるが、逆にそれを気をつければ大敗する要素はない。

 どのみちシンク相手に懐へ入られたらそれで終わるだろう。ならば少しでも距離を取るべきだ。そしてそれを悟られないようにしなければ。

 

「ちぃっ!」

 

 繰り出される拳打を、鎌の峰部分で受け止める。ガチンッ、と音を立てて、シンクの拳から火花が散った。グローブと同化していてわかりにくいが、甲の部分に金属を使っているようだ。防御を重ねた分だけ、火花が咲いては散る。

 受け流さなくていい分、楽にはなった。ただこれでは事態の解決には繋がらない。あまり時間をかけてはラルゴに戦線復帰を許してしまうのは分かっている。しかし必要なことだ。

 

「この……!」

 

 ラチがあかないと思ったようで、再び猛然とシンクが仕掛けてくる。しかしその歩法、軌道、攻撃のタイミングは先程見たものだ。慣れない大鎌で攻撃はできないが、防御することは十分に可能である。

 と、ここで。本来の使い方ではないどころか、シンクの攻撃をまともに受けてきたからなのだろう。異音を発したかと思うと、鎌部位が根本からへし折れた。ダアト式譜術の応用で強化されているのは知っているが、恐るべき打撃の威力である。

 

「さあ、盾は壊したけど次はどうするんだい⁉︎」

 

 味方の武器を砕いたことについて、特別思うことはない様子。

 棒だけになってしまった元大鎌の持ち手を変える。鎌の部分がなくなって、かなり軽くなった。盾にするよう、鎌部分を両手で突き出していた形から、中心から少し下を持って先端をシンクへ向け──

 

「下がれ!」

 

 倒れたまま、起き上がらないラルゴのその言葉に従い、半歩下がったシンクの仮面に、貫く勢いで迫る棒の先端が停止した。かと思えば先端は地面へ沈み、回転した逆端の石突が脳天へと直撃する。その衝撃たるや、眼前が綺羅星で埋め尽くされるほど。

 それだけでは終わらない。地面へ傾いだ先端が、まるで振り子のように逆袈裟に跳ね上がり、仮面に護られていない顎を打ち抜いた。

 

「ぐあっ!」

 

 ぐらりと脳が揺れて、足元がおぼつかなくなったか。彼はなす術なく地に伏せた。

 実にうまいこと食らってくれたものだ。ラルゴの武器が重いフリを見せてゆったりのんびり防御行動をとっていたから、緩急つけた攻勢に目が追いつかなかったのだろう。

 大きく息をついて、ラルゴを見る。

 起き上がってはいないが、顔は上げているし警告を発していた。動けるようになるのは時間の問題、あるいはもう動けるが、スィンの油断を狙って動けないフリをしているかもしれない。

 

「……よくも俺の武器を壊してくれたな」

「文句と請求はシンクにどうぞ」

 

 これで一応、追う手は緩むはず。今度こそ離脱しようとして、スィンはがくん、と体勢を崩した。

 

「……ラルゴ、今だ」

『またなんか飛んできた!』

 

 シンクが。地に伏せた状態そのまま、スィンの両足を掴んでいる。シルフの警告を理解していても、崩れた体勢ではどうにもならず。

 ヒュッ、と空を切るような音がしたかと思うと、ガシャンッ! という派手な音と共に頭が揺さぶられた。

 

「うわっ!?」

 

 頭部に硝子製の何かが激突したのだ。当然、得体の知れない液体が全身を及ぶ。ラルゴが投擲したらしい。硝子の破片もさることながら、彼にかかったものと同じものだったとしても、放置していいものではない。

 

「冷たっ……!」

「なんてザマだ。まさかこんなに手間取るなんて……っ!」

 

 シンクが足元でブツブツ言っている。そしてシンクにも液体がかかっているようだが、こちらも変化はない。しかし対処はしようと、スィンは水筒を取り出した。

 

「ちょっと」

 

 シンクが何か言っているようだが、構わず頭から水を被る。髪に引っかかる硝子の破片を捨て、頭にかかった分をできるだけ流して髪から水気を絞り、皮膚についた分は手拭いで拭き取って捨てる。唇から先には入れていないつもりだが、残った水でうがいをして吐き出した。

 ──ドクンドクン、と。妙に動悸が激しくなってきたように思えるのは、ラルゴがとうとう身を起こしたからか。

 

「ちょっと、ラルゴ! どうなってんのさ、全然話が違うじゃないか!」

「俺が知るものか。やせ我慢かもしれんが」

 

 話は見えないが、多分知る必要もないだろう。未だにしっかりとスィンの足首を掴むシンクの手、手甲の金属部分に触れる。

 元大鎌で殴ってもいいが、耐えられると厄介だ。

 

「痛っ!」

 

 速攻で雷気を流して痺れさせて手を剥がし、シンクとも距離を取る。焦っているからだろうか。急に、汗が吹き出してきた。頭皮が破けたか、頭がぴりぴりと痛い。

 元大鎌を放棄して、逃走を図る。周囲を警戒し、足元に気をつけて、走り出して。

 

「ごほっ」

 

 耐える間も無く、喉奥から咳が飛び出した。まるで気道が急に狭まったかのような、急激な息苦しさを覚えて、足が止まる。

 発作、ではない。こんな症状にはなったことがない。しかし咳は止まらない。

 咳き込みながらも足を動かして、ここを曲がろうと思っていた倉庫の壁に手をつく。まるで全力疾走した後であるかのように、ぜぇぜぇと息が切れた。確かに戦闘後だが、こんなになるまで動き回った覚えがない。

 

「……ようやく効いたようだな」

 

 背後にラルゴが迫っている。それがわかっていても、スィンはその場で振り返り、壁に背中を預けることしかできなかった。

 その向こうで、シンクが立ち上がっている。

 ──体にまだ、力が入るかどうか。

 それを確かめつつ、スィンは咳き込みながらその場に蹲った。咳をする度に体力が減っていくような、そんな感覚すらある。

 

「観念したか?」

 

 咳を続けて、返事はしない。胸元を抑えて苦しむ素振りを続け、大きく息をついてみせる。

 

「……何を、浴びせたの」

「ディストから渡されたものだ。特別にお前に効くように調整したもので、服用させずとも使えば無力化させられる。とても驚く結果になるが、すぐに卒倒するから攫ってくればいいと、嘯いていたな。詳しい原理は知らん」

「……あの野郎……」

 

 とにかく原因は分かった。この発作と似ているようで似ていない症状は、浴びせられた薬によるもの。ならば排斥しなければならない。

 頭がぼんやりする。発熱の際の症状だ。

 

「……命、よ、あるべきままに……」

「何やってるのさ!」

 

 多少なりとも体内入ったであろう薬を排斥しようと詠唱を完成させるより早く、駆けつけてきたシンクに蹴られて地に転がる。

 防御し損ねたが、蹴ってきた足は掴んだ。皮膚を露出している部分がない。比較的ぴったりしているズボンの裾を無理やりめくって、中の素足に触れる。幸いにも義足ということはなさそうだ。

 導師が用いる譜術は、接触型ばかりで、本当に使い勝手が悪い。

 

「すぐに意識がなくなる、って言ってたのに、しっかり残ってるじゃないか。って、おい、何をして「──カースロット、クラック」

 

 それを使った瞬間。効果は劇的だった。

 

「うわああぁっ!」

「シンク⁉︎」

 

 頭を抱えて悲鳴を上げるシンク、動揺するラルゴ。慌てず騒がずもう一度同じことをしようとして、今度こそシンクに振りほどかれる。

 

「な、な、何を……何をした!」

「そんなことはお前が一番よくご存知のはずだ」

 

 シンクとて己が何をされたのかわかっているだろう。記憶が急に鮮明になって意識をかき乱された、くらいのことは。

 世界広しといえども、こんなことができる芸当は数少ない。

 

「カースロットを使ったとでも言いたいのか⁉︎」

「カースロットに用いられた、経路(パス)を使っての逆操作。記憶を引きずり出してどうこうするなんて、使い勝手も悪ければ悪趣味な術だ、本当に」

「馬鹿な! 確かに以前、アンタに使いはしたさ。でも、逆操作? そんなのすぐにできるわけが……まさか、さっきの」

「さっき、しっかり時間かけて経路(パス)を確保したからできたことだよ。よくも我が主にこんな悍ましいもの使ってくれたな」

 

 何のためにシンクと会話したと思っているのだろう。何のためにシンクの肩を掴んだと思っていたのだろう。

 茶番を重ねて、油断を誘って、ここぞというところで使うため、だ。

 今のスィンは死に体だ。自力で動くことができない以上、できるのはまだ動く箇所を使っての、時間稼ぎ。

 

「解呪してもらわなくてよかった。こんな機会があるかわからなかったけど、思い知らせることができる。お前が僕の大事な人にやったのはこういうことだ」

「……だから? 悔い改めろ、とでも言いたいのかい?」

「まさか。そんな殊勝な心、今のイオンならともかく、あの先代導師に一番似ているレプリカが持ってるわけない」

 

 カースロットの逆操作を行って、わかったことがいくつかある。

 シンクはイオンと同じ時期に作られた、先代導師のレプリカ。これは以前から分かっていたことだが。

 イオンとは違い導師としての、というか音素(フォニム)を扱う能力は低く、廃棄される直前で感情が生まれて足掻き、命を拾っている。音素(フォニム)を扱う能力が低いにも関わらず、カースロットが使えているというのは単純に努力の結果なのだろう。

 故に今のイオンに対して劣等感(コンプレックス)を抱えていて、自分を生み出した世界に対して無意識の怒りを持っているようだが。

 今回はその怒りを自分に向けてもらおうと、スィンはこみ上げる咳を押し殺し、熱でぼやける意識を頭の患部に触れることで、痛みではっきりさせる。

 その言葉を聞いて、当然だが。シンクは少なからず平静ではなくなった。

 

「お前、ボクを覗いたな!」

「覗き魔が逆ギレしてんじゃねーよ」

「……なんだって」

「導師としての能力は低いのに、カースロットが使えるってことは相当苦労しただろうね。もしくは、使えなきゃ用済み、文字通り捨てられるところだったか。役立つ道具でないと生かしても貰えないのは、拾われた側のつらいところだ」

 

 カースロットによって記憶を掘り起こされ、平静さを失い、感情的になっているのだろう。

 彼の沸点は低かった。

 

「知った風な口を……!」

 

 胸ぐらを掴まれたところで、咳が出そうになるのをこらえ、これ見よがしにシンクの頭へ手を伸ばす。

 先程は接触部位が足で、記憶を垣間見て意識をかき乱す、までしかできなかった。直接頭に触れば、操り人形レベルまでとはいかずとも、動けなくするくらいはできるかもしれない。

 当然だがシンクはそれを許さなかった。

 

「離せっ!」

「自分から掴みかかったくせに。自分がやられて不快なことを人にやったんだ。やられる覚悟は当然できてるよな?」

「このっ!」

 

 力が入らない。振り払われ、あっさりと地面に身を投げ出す。受け身が取れずに叩きつけられて咳き込むと、憤懣やるかたないシンクが馬乗りになった。

 表情こそわからないが、歯軋りしながら拳を固めている。この距離で、鋼をも砕く拳を振るわれたら多分顔の形が変わるだろうが、殺されはしないだろう。

 自分がやられて不快なことをした。覚悟は当然できている。そして、できることならもっとやるつもりでもある。

 ここからでは頭に手が届かない。顎、露出している口元、ちょっと届かない。さっき裾をめくった足。さらに届かない。

 

「思い知らせてやる……!」

「シンク」

「止めないでよ! 殺しはしないさ、でも、どうせこの顔治すのに治癒術師に診せるんだろ! ちょっとくらいなら殴ったって「止めないから、この時計を見ろ」

 

 どこに行っていたのか、いつのまにか姿を消していたラルゴが戻ってきたようだ。懐中時計を取り出し、拳を振り上げるシンクの眼前にかざす。

 盤面の針を見たのだろう。思いもよらない寝坊をしたかのような、そんな呟きをシンクは口にした。

 

「嘘……も、もうこんな時間……⁉︎」

「手間取り過ぎた。ディストの薬を過信し過ぎたな。これ以上ブリュンヒルドに何かしたいなら、船に載せてからにしろ」

 

 それ以降なら止めないと、ラルゴは確約した。舌打ちをして、シンクは立ち上がる。

 起き上がらないスィンを見下ろして、唇を歪めている。

 

「覚えてろよ。船に着いたら「覚えない。覚える価値もない」

「こいつ!」

 

 そんな先のことを心配していられない。船とやらに載せられるまでが、スィンにとってのタイムリミットになる。それまで何とか、この二人の手を逃れなければならない。

 最早我慢する理由もない咳がこみ上げる。身を丸めて濁った咳を盛大に吐くと、予想通りシンクは距離を取った。

 

「うわ、ひっどい咳」

瘴気触害(インテルナルオーガン)だからな。感染ることはない。お前はあまり人前で咳をしなかったが、堪え切れない程度には余裕がないようだな」

 

 荷袋を下ろして、ラルゴが取り出したのは手錠だった。スィンをうつ伏せにして両腕を後ろ手に拘束し、それが他者から見えないよう上から布を巻きつける。

 

「ねえ、手錠もう一個ないの。足にもつけようよ」

「それは誘拐中だと喧伝しているようなものだ。船に乗る前に止められるぞ」

「人目になんかつかないと思うけど……」

 

 この会話を聞いて以降、スィンは気を失っていたようだ。次に気づいたのは、天空客車のゴンドラに放り込まれたその時である。

 船の中でなくてよかった。

 

「……よし、気絶しているな」

 

 転がされて痛かったものの、億劫で眼を開けなかったのが幸いしたらしい。ゴツゴツとした手で顎を掴まれるも、ジェイドで鍛えた忍耐力で悲鳴はおろか、反応を見せないようにする。

 周囲に人の気配がない。ここは使われていない方だろうか。つまり港跡へ続く方。

 やはり連絡船ではなく、自前の船を使っている。つまり載せられた後は、おはようからおやすみまで、しっかり監視がつくことだろう。場合によってはトイレすら付き添いがつくかもしれない。

 気絶というか眠ったためか、ぼんやりしていた頭が少しだけはっきりしたような気がする。

 

「シンク、まだ動かんのか?」

「ボクに文句言わないでよ。ポンコツなんだから仕方ないじゃん」

 

 もはやスィンが寝くたばったものと断定している彼らは、暢気に二人して天空客車の操作盤を覗き込んでいる。

 旧式の天空客車は一応動くらしいが、整備をしていないのだ。起動が遅いのは当然だろう。

 二人の目はこちらを見ていない。好機(チャンス)ではある。しかし無策でただ逃げるだけでは、たちまち捕まって今度は袋叩きにされるだろう。主にシンク辺りから嬉々として。

 いくら意識が多少はっきりしていても、体はろくに動かない。この状態では、十歩動けるかどうか、といったところだ。

 ──天空客車が動き出してからの、途中下車。この状況なら、これが一番確実と思われる。

 まずは拘束を解くべく、針金を出そうと服の隠しを探ろうとして、巻かれている布に阻まれた。開錠音を誤魔化すのに役立つと思われたが、やはり邪魔だ。手探りで外そうとして、不意に。

 

「あーあ、まだ顎が痛いよ。何だって刀使いが棒術なんて使えるのさ」

「金と奥の手はあればあるほどいい、と公言していた奴だ。素手で戦い始めても俺は驚かん」

「頭も痛い……ちょっとくらいなら蹴ってもいいよね」

「やめろ。舌を噛んだらどうする」

 

 布を外そうとして腕を動かしたら、手錠がすっぽ抜けた。ラルゴが手錠を付け損ねたのだろうか。運が良かったと思っておく。

 というのも。二人は操作盤から離れて、ゴンドラに乗り込んできたのだ。開錠していたら間に合わなかったかもしれない。

 いよいよ、途中下車を目論むスィンの孤独な戦いが始まる。

 最新型の天空客車は乗客の安全のために、乗降口がしっかり閉まっていなければ動かないようになっているが、旧型にその機能はない。主人の音機関好きに付き合って得た知識がこんなところで役立つとは。やはり無駄な知識などないということだろうか。

 不意に、ガツン、と頭を蹴られた。

 

「うっ」

「あっ、当たっちゃった」

 

 わざとか、狙ったか。丁度、割れた瓶で切れたところに爪先が当たったようだ。反応を殺せず、狸寝入りはもうできないと、起き上がる。

 

「な、シンク! お前……」

「──わざわざ起こしてくれてありがとうございます」

 

 狭いゴンドラの中。起き上がったスィンは乗降口の扉を引くと、すぐ側にいるラルゴから逃げるように天空客車の床を蹴った。

 すでに乗り口は遠い。身を転がすのは無理だと、どうにか乗り口のへりにへばりついて指をひっかける。

 

「あっ!」

 

 シンクの声。今更気づいても遅すぎる。動き出した天空客車、しかも旧式では、あちらにつくまで止まらない。

 二人の声が、駆け抜ける風にかき消されて聞こえないのが残念である。

 スィンはへりにひっかけている指を励まし、どうにか体を持ち上げた。

 ぷるぷる震える腕を叱咤し、上体を乗り上げてからのろのろと体全部を固い石畳の上に転がす。

 

 ──おかしい。

 瘴気触害(インテルナルオーガン)の発作は、とうに収まっている。でなければあんな無茶はしない。なのに──

 どうしてこんなに動悸が早い? 

 どうしてこんなに息が苦しい? 

 どうしてこんなにも、眠──

 

 早く、戻らなければいけないのに。

 ぐるぐる回っていく視界の中で、スィンはあえなく目蓋を閉ざした。

 

 

 

 



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第九十四唱——その頃の彼らといえば

 

 

 

 

 

 

 

「ガイ! お主、女子(おなご)と戯れている場合ではないぞっ!」

 

 ペールの怒声、更に玄関の騒ぎに何事かと駆けつけたラムダスの活躍により、ガイは酒池肉林の恐怖から解放された。

 

「た、助かった……」

「何を暢気な! スィンが……!」

 

 眦を吊り上げて口走ったその言葉を取り消すように、彼は口を押さえている。

 スィン、という言葉を耳にして、尻もちをついていたガイは、ガバッ、と立ち上がった。

 

「スィンが、どうした?」

「……」

 

 事の次第を囁けば、彼は血相を変えて自室へと走っていく。

 なんだなんだと一行がついていけば、彼が赴いた部屋の中はもぬけの空だった。ただ、床に血桜がころん、と転がっている。

 

「ガイ、スィンに何があったのです?」

「……誰かに誘い出されたらしいんだ。一体どういうつもりで……」

 

 近寄り、血桜を拾い上げる。

 と、そのとき。ペールが部屋の隅に転がっていた筒状の音機関を拾い上げた。

 カチカチと操作し、何らかの動作確認を行ってからガイに差し出す。

 

「儂の拙い説明よりは、こちらを聞かれたほうがよろしいかと」

 

 ガイはすぐさま音機関をひったくった。

 

『……すが、だね。気配は消してたのに』

 

「これは……」

 

『……こんにちわ、烈風のシンク。こんな場所で、午睡でも? 優雅だねえ』

 

「やっぱりシンクの声!?」

 

 どよめく一同を、「静かに、聞こえません」の一言でジェイドが黙らせる。

 

『御託はいいよ。アンタに話がある。顔、貸してもらえないかな』

『……話だけなら、ここで聞く』

『他人に聞かれちゃ困るんだよ。総長からアンタに向けての伝言なんだけど』

『今は、僕たちだけしか聞いてないよ』

『そんな屁理屈、通用するとでも思ってるの? まあ、聞きたくないならそれでもいいけどね。飛行機関の操縦士がどうなってもいいなら、さ』

 

「ノエルが人質になってるのか?」

 

『……どこまでオリジナリティに欠ければ気が済むんだ。恥ずかしくないのか? よりによってディストと同じことするなんて!』

『……こんなところでお説教なんか聞きたくないよ。文句があるなら、僕を捕まえてからにしなよね』

『あ、ちょっ……』

 

 がさがさっ。

 葉擦れの音。それをかき消すように、スィンは罵声を放った。

 

『待ちやがれこのクソガキ! 行き先くらい教えろよ、見失ったらどうしてくれる!』

『安心しなよ。アンタがついてこられるかどうかなら、ちゃんと確認するから』

『くっそー……馬鹿にしやがって。僕はもう若くないんだぞ! おばさんを労われや、ガキンチョ!』

『はいはい。総長と互角に張り合った人間が、何不思議なこと抜かしてんだか』

『ぐっ……互角……勝ってもないし、もちろん負けてないし、い、言い返せない。グゥの音しかでない~』

『アハハ、アンタ顔に似合わず面白いね。でもさ、あんまりグズグズしてるとラルゴが何するかわかんないよ? あの操縦士、結構イイ体してるしさあ』

『ラルゴまで来てるのか! ……って!! 子供が何を言って……! ん、何その紙切れ。カンペ? カンニングペーパー!?』

『……鬼さんこちら、手の鳴る方へ』

 

 ぱん。

 シンクの手が鳴らされたらしい。反論がないということは、図星なのか。

 

『待て待てぇ、こいつぅー……なんて誰が追っかけるか、そんな見え見えの……』

『おまえの主は男狂いー』

『ふざけんなクソガキぃっ!! てめぇガルディオス家断絶させる気か! せめてバイセクシャルくらいで! って、違う! 不吉だから訂正してけ! 言い捨てて逃げるなクソッタレぇ!』

 

 がつっ、という音がして、大きな棒状のものが床を転がる。

 どうやらここで血桜は放り出されたらしく、直後カチ、という音を最後に、他は何も記録されていなかった。

 

「窓枠にひっかかって、外したようですね」

「思ったより時間を稼げてはいますが……結局二人の行き先はわからずじまい、ですか」

 

 転がっていた血桜の謎を解いたイオンの言葉を受け取り、言葉少なに思案していたジェイドだったが、やがて呆れたように息を吐き出した。

 

「しょうがない人ですね、たかだかガイの中傷を言われたくらいでカッとして」

「たかだか……」

 

 たかだか呼ばわりされて少し傷つくガイだったが、フォローしてくれる人間はいない。

 強いてあげるなら、困ったように彼らのやり取りを見守るペールくらいなものだった。

 

「まあ、ガイのことでスィンが怒り出すなんて日常茶飯事だけどな」

「そうね。ちょっと馬鹿にされるとすぐ怒り狂う誰かさんとは大違いだわ」

 

 ルークとティアによるにらみ合いはさておいて、アニスがポツリと呟いている。

 

「……私は、少しわかる気がするな。イオン様の悪口言われたら、私だって多分冷静じゃいられないよ」

「アニス……」

 

 ルークとティアのにらみ合いとは対照的にほのぼのしている二人もさておいて。

 

「そうですか? 私も陛下に仕えている身ですが、中傷を叩かれたところで平気ですがね」

「それは仕える者の資質と、主に対する尊敬によってまた違うものになるのではありませんこと? 現に大佐は、スィンやアニスと違ってピオニー陛下とは違う意味で親しくあられるでしょう」

「親しく、ですか……それと血の繋がりがあることは、果たして無関係なのでしょうか?」

 

 ぴくり、とペールがわずかな反応を見せる。突如話題をひるがえらせたジェイドに、全員が注目していた。

 そして彼の視線は、ペールへと向かっている。

 

「スィンが不在というのは都合がいい。ご老人、何故二人は主従の関係なのですか? 半分とはいえ、二人は……」

死霊使い(ネクロマンサー)殿。それはすでに、スィンも納得している事柄ですぞ。ガイラルディア様には後ほどあ奴から説明されましょう。他者の介入はご遠慮いただきたい」

「……なるほど。ガイや私たちがメイドの大群に気を取られている間に話したのですね……」

 

 あの場は追うべきだったか、とばかり小さく舌打ちをしたジェイドだったが、幸いにも聞いている者はいなかった。

 スィンだったら、気づいて突っ込みのひとつも入れそうですね。

 人差し指で眼鏡のブリッジに触れながら、浮かんだ苦笑を手のひらで隠す。

 そしてジェイドは一同を見渡した。

 

「仕方がありません。あのじゃじゃ馬はともかくノエルが心配です、捜索しましょう」

 

 身もフタもない提案に、主に二名がいきり立っている。

 

「ジェイド!」

「まあ、なんて言い草ですの! 大佐はスィンが心配でないと……!」

「もちろん、心配などしていません。彼女は自分の面倒を自分で見る人ですから、必ずや切り抜けるでしょう。ただ、相手はグランツ謡将を含むかもしれない六神将少なくとも二名ですから、無傷で、というのは難しいかもしれませんね」

 

 滅多に聞くことのできないジェイドの断言に、ガイ、ナタリア両名は思わず苦情をないことにしている。

 直後、怒涛の選抜指令が下った。

 

「さて……では、二人が負傷しているかもしれないことを想定して治癒術士を分けます。ティアはルーク、アニス、イオン様と共にアルビオールへ戻ってください。ノエルがどうなったのか、痕跡を調べてほしいんです。ノエルが自力で逃げ出さないとも限りません。ナタリアは私、ガイと共に二人の捜索をお手伝い願います。ペールさんはもしもスィンが戻ってきたときのため、ここに留まっていただきたいのですが……よろしいですか?」

「は、はい」

 

 実戦さながらの、命令に近い指示である。マルクト帝国軍第三師団師団長の名は伊達ではない。

 普段とはまた違う雰囲気の、ひどくきびきびしたその手際に、ルークが眼を丸くしてズレた感想を零していた。

 

「すっげー。軍人みてぇ」

「もともと大佐は軍人だって」

 

 そしてアニスに突っ込まれて「あ、そっか」と頭をかいている。

 

「ではお先に。アルビオールで合流しましょう」

 

 そしてジェイドは、ガイ、ナタリアを率いて足早に去っていった。

 一陣の風が過ぎる。

 部屋には、ルーク、ティア、アニス、イオン、ペールが残された。

 

「どうしたのかしら? 大佐、妙に焦っていたようだったけれど……」

「え~? ティアったら、そんなの決まってるじゃない」

 

 不思議そうな彼女とは裏腹に、アニスはとてつもなく邪推に満ちた笑みを浮かべている。

 しかし、不思議そうにしているのは何も彼女だけではない。

 ペールを除いたお子様二人もまた、不思議そうにしている。

 

「何が決まってるんだ?」

「スィンだよ! 大佐、口じゃああんなこと言ってたけど、ホントはスィンのことが心配で心配でたまんないんだよ」

「でも、ジェイドは彼女のことを自分の面倒は自分で見る、と……」

「それはですねー、イオン様。大佐はスィンが自分に頼らないからむくれてるんですよ! どうして相談してくれないんだ、どうして自分だけで抱え込むんだ、って……」

 

 止める人がいないことをいいことに、アニスの一人芝居がどんどん加速した。

 

「じゃなかったら、マルクトの軍服なんて着込んでる大佐が積極的にバチカルを歩き回ろうなんて考えないよ! それに、あれは絶対ガイのこととも関わってる。スィンってば事あるごとにガイ優先だし」

「でもそれは、スィンがガイの従者だから……」

「それはわかってる。でも時々、勘違いしたくなるくらいガイの側につくよね? ルークが親善大使だったとき、あたしたちがルークの態度に辟易してた。でもスィンは、従者だからってそばにいた。まるでガイがルークに味方してやれないから、自分が代わりに味方する、みたいにさ」

 

 過去の自分を取り出されて、ルークは酢でも飲まされたような顔をしている。

 しかしアニスは気にしなかった。

 

「ユリアシティについたときも、ルークとアッシュの決闘に立ち会ったんでしょ? 前にミュウ、言ってたよね」

「はいですの。スィンさん、ハラハラしながら見守ってたですの!」

「その後、ルークの迎えにこそ行かなかったけど、ルークが戻ってきたとき嫌な顔ひとつせず『おかえりなさい』って言ってたし。スィンはルークをかばって怪我もしたし、言われて嫌なことも、傍から見てて可哀想なくらい言われてた。それでも怒らなかったのって、スィンがガイの従者だったからじゃないの? ガイのご主人様だったルークに口答えしたら、きっとガイに迷惑がかかるから、って……」

「俺……そんなに嫌な奴だったのか……」

 

 打ちひしがれるルークにミュウが「大丈夫ですの、ご主人様」と励ましを送っている。

 

「……何がだよ」

「スィンさんは優しい人ですの。ご主人様が誠心誠意、平謝りして土下座して靴の裏舐めれば許してくれないこともないですの!」

「そこまでしなきゃなんねぇほどにキツいこと言ってたのかよ、俺は!」

 

 じーざす、と言わんばかりに頭を抱えて天を仰ぐルークはイオンに任せることにして、ティアはふとペールを見やった。

 彼はルークに駆け寄るイオンを見ているようにも見えるし、イオンに必死の慰めをされているルークを見ているようにも見える。

 そして、嘆くルークの足の裏で「み゛ゅう~……」と呻くチーグルを眺めているようにも見える。

 意を決して、ティアは彼に話しかけた。

 

「……あの」

「なんですかな?」

「どうしてスィンは、ガイのことになるとあんな……態度を豹変させるのですか? スィンは自分が従者だからだ、と言ってはばかりませんが、ガイはそれにあまりいい顔をしていません。二人の間には、何が……」

 

 言葉を選びながら質問するティアを微笑ましく見ながら、彼はゆったりと口を開いている。

 優しげな眼は、どこか彼女を懐かしく見つめていた。

 

「お嬢さんには、生きがいというものがおありかな?」

「生きがい……?」

「もう随分昔の話になる。スィンは、自分がどうして生きているのか、それがわからないと儂に尋ねたものじゃ。自分だけではなく、何故命は生き、そして死ぬのか。どうせ死ぬなら生きる意味などないのではないか。などと、無茶苦茶を抜かしての」

「どう、答えられたのですか?」

「『人は、自分の為すべきことのために生きている』──成長の過程で自分なりの真実を見つけてほしいと祈りながら、儂はこう答えたのじゃよ。後にガルディオス家の従者となることを知りながら、そのときスィンが『自分の為すべきこと』が何なのか、思い込むことを見越してな」

 

 人が生きる理由など、それこそ星の数だけある。

 大切な人のため、もちろん、自分のすべきことのため、あるいは自分の、命の存続を願う人々のため。

 そして、なにより──自分自身のため。

 血は繋がらなくても、スィンはペールの孫だ。本当は、時間をかけて自分の理由を見つけてほしかった。

 しかし、彼もまたガルディオス家に仕える騎士の一人である。

 まがりなりにもナイマッハの人間である彼女に、間違っても騎士、従者以外の道を歩ませるわけにはいかなかった。

 そして彼女は今、ガルディオス家の騎士でなくなってしまったヴァンの分まで従者としての役割を果たそうとしている。

 

「マリィベル様のことは聞き及んでおられるかな?」

「……ガイの、お姉さまのことですね」

「あ奴の言葉を信じれば、マリィベル様はガイを護るよう言い残し、ご逝去されておる。フェンデ家の長男坊にそれを伝え、それを承諾したように見受けたが……今となっては、そちらも事情は知る通り。マリィベル様を看取った者として、お嬢様の遺言を受けた者として、必要以上に気張っておるのじゃろう」

 

 ルーク、イオン、ミュウ、そして途中参戦したアニスの様子を見ながら、彼はどこか沈んだ調子で締めくくった。

 間接的に兄のことを言われ、ティアの心がぎゅうっ、と縮こまる。

 思い込みもさながら、スィンはヴァンによってもガイに、ガルディオス家に縛られていた。

 彼女にその自覚はないし、そう告げられたとしても、スィンはけして嫌な顔はしないだろう。

 自分にはするべきことがあると、自分は生きていていいのだと、喜ぶのだろう。

 人が生きていていい理由なんて、あるわけがないのに。

 人が生きる資格など、生まれてきたそのときから当然のように持っているものなのに。

 言葉少なく首肯していたティアを気遣うように、ペールは小声で彼女にだけ囁いた。

 

「お嬢さん。フェンデの名を持っているからといって、あなたがこちらの事情を気にかける必要はない。あなたはあなたの問題に集中なさるといい」

「!」

 

 その言葉に、ティアは切れ長の瞳を大きく見開いている。

 

「ご……ご存知だったのですか!?」

「兄君との特徴もさることながら……フェンデ家の奥方によう似ておられる」

 

 紅潮した自らの頬をティアが押さえている間にも、嘆いていたルークはそろそろと復活を遂げていた。

 

「……やっぱ、謝ったほうがいいよな。うん、スィンが戻ってきたら謝ろう!」

「蒸し返さない方がいいような気もしますが……」

「その意気ですの、ご主人様!」

 

 自己完結したルークに冷静なイオンが意見するも、ミュウによってかき消されている。

 こうなったらもう、行き着くところまで止まらない。

 

「ほら、ルーク! そろそろアルビオールへ行かないと!」

 

 大佐がおっかないよ? と、落ち込ませたのは自分のくせに、アニスはルークをせっつきだした。

 

「そうだな。じゃあペール、またな!」

「いってらっしゃいませ」

 

 勢いよく去って行く彼らに、ティアがぺこり、と辞儀をして慌てたようにその後を追う。

 わずかに開いた扉から、こんな会話がペールの耳に届いた。

 

「どうしたんだよ。顔、真っ赤だけど」

「な、なんでもないわ。それより早くアルビオールへ……」

 

 未だ冷めやらぬ紅潮を指摘され、彼女のごまかす様子がありありと伝わってくる。

 その様子に、照れ屋さんの域をぶち抜いている孫の姿を彷彿とさせながら、彼は窓枠に残る靴の痕を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 



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第九十五唱——捜索チームサイド

 

 

 

 

 

 

 

 上層、城下町、港。

 そのどこでもスィンや六神将の目撃情報を得られなかった三人は、ミヤギ道場の付近で対策を練っていた。

 事を円滑に進められないもどかしさに、それとも二人を心配するあまりか、ナタリアは癇癪を起こしている。

 

「おかしいですわ。どこにも、誰にも、ちらりとも見られなかったなんて!」

「確かに。俺たちだけならともかく、皆がナタリアにまで嘘をつく理由もないしな……」

 

 金を掴まされていた、というなら話は別かも知れないが、三人が聞き込んだ人物すべてに手間も暇も金もかかる方法をとるとは思えない。

 よもや、蒸発したというダアトの兵士たちが関わっているのだろうか。

 ありえないことではないが──誰が関わっているかは、問題でない。

 彼女らの姿が誰の眼にも見られていないこと、それが問題なのだ。

 二人の言葉に耳を傾けながら黙考していたジェイドが、「……仕方がありません」と呟いた。

 

「ジェイド?」

「目撃情報がない以上、足跡を追うことはできませんからね。不確かな方法ではありますが、そもそも人が行かないような場所を検討しましょうか」

 

 懐から折りたたまれた紙切れを取り出し、その場で広げる。

 いつの間にこしらえたのか、それはバチカル全体の見取り図であった。

 最も、最下層に設置された案内板を書き写しただけの代物であったが。

 

「ガイ。このバチカルで人の立ち入らない区画などはありませんか? できれば海に面している場所などで」

「……前に俺たちが通った廃工場……は、海と正反対なんだよな。あとは……」

 

 港とは正反対の場所に天空客車が向かっているのだ。一度その場所を指しかけたガイが、地図上で指を彷徨わせる。

 同じように地図を覗き込んでいたナタリアが、「あ」と呟きを零した。

 

「どうしました?」

「そういえばわたくし、以前スィンに今は使われていないという港へ連れて行ってもらったことがありますわ! あの場所はどうなのでしょう?」

 

 どうやら場所は覚えていないらしく、ナタリアはガイに尋ねている。

 う~ん、と腕を組んだガイは、熟考した後に地図上のある一点をさした。

 一行が足を踏み入れたことがない、倉庫の密集した区域。

 

「……今も多分、出入りはないと思う。でも港に繋がる天空客車は、兵士が常駐していて入れないはずだが……」

「わかりませんよ。今は騎士団の兵士たちが蒸発したことで捜索に人員が駆り出されているでしょう。港に目撃情報がなかった以上、彼らは秘密裏にバチカルへ訪れている可能性があります。行ってみましょう」

 

 素早く地図を仕舞い込んだジェイドが、ガイに案内を頼んでいる。

 その彼をどこか複雑そうに見やってから、彼は歩き始めた。

 

「……なあ旦那。ひとつ聞いていいか?」

「質問の内容によります」

「スィンのこと……どう思ってる?」

「呆れたじゃじゃ馬の主馬鹿だと思います」

 

 一瞬の迷いもない、見事な即答である。

 しかし、ガイが聞きたいのはもちろんそういうことではない。

 

「そういうことじゃなくてだなあ……」

「質問はひとつではなかったのですか?」

 

 手厳しく返され、沈黙を余儀なくされる。

 しっかりと歩だけは進めながら、周囲を警戒しているナタリアにこの会話が届いていないことを確認しながら、ガイは口を開いた。

 

「……なんで二人を探す方に加わったんだよ? 少なくとも、バチカルじゃあ身動きとりづらいってわかっていただろうに」

「ティアは神託の盾(オラクル)に所属している身ですから、モースやヴァンが関与し、実際に現れたでもしたら咄嗟には動けないでしょう。アニスはイオン様の警護があるので戦力外です。あなたはバチカルに土地勘がありますし、ナタリアは状態異常の治癒術に秀でています。もし二人が薬等かがされていたとしても治癒ができる。それはわかりますね?」

「ああ」

 

 多少こじつけた感は拭えないが、基本的に間違っている点はない。それは、納得できた。

 あとはマルクトの軍服を着ているジェイドが、キムラスカの貴族であるルークと入れ替わったのなら、聞き込みによる捜査、少なくとも市民が口を利いてくれる可能性は大幅に上がっていたのだが……

 

「私とルークを入れ替えた方がよかった、とお思いですか?」

「……そうは言ってないが、旦那はスィンと喧嘩してたんじゃなかったのか?」

「いいええ」

 

 これまでかすかに見せてきたいがみあいを指摘すれば、ジェイドは大仰に首を振って否定していた。

 

「少なくとも私に覚えはありませんね」

「いや、あるだろ。ポーカーのこととか……」

「あんなもので彼女を怒らせることができると? それは初耳です」

「いやだって、旦那の言うこと聞かなきゃなんないって怒ってたじゃないか」

「あんなもの、単なるポーズに決まっているではありませんか。少なくとも怒気を感じることはできませんでしたよ。何なら彼女に確かめてみればいい」

 

 会話を打ち切り、くるりと周囲を見回す。

 見れば、どこか懐かしい風景にか誘われてか、いつしかナタリアは前に出てきょろきょろと辺りを見回していた。

 

「ナタリア、どうかしましたか?」

「……わたくし。やっぱりここへ来たことがありますわ。確か、天空客車が……こちらではなかったかしら」

 

 密集する倉庫をすり抜けるように、右へ左へとナタリアは歩を進めていく。

 しばらくすると、唐突に連立した倉庫の大群が途切れ、広いメインストリートにさしかかった。

 

「ここも覚えがありますわ。いつの頃だったかしら……」

「……多分、七年前のことじゃないかな」

 

 しきりに首を傾げるナタリアを見かねてか、ガイがぽつりと具体的な年数を上げている。

 ただ、その表情はどこかつらそうなものだ。

 

「スィンは、君をここへ連れ去った、ってことでバチカル追放をくらってたから……」

「! ご、ごめんなさい。わたくし……」

「謝る人間が違うし、もう君が謝る必要はない、ってスィンなら言うと思うよ」

 

 わざわざ言うことじゃなかった、ということを詫び、彼は口を閉ざしてメインストリートを歩き始めた。

 

「この先には何がありますか?」

「さっきナタリアも言ってたが、旧港跡へ続く天空客車がある。動くかどうかはわからないが、ルートはあれしかないからな。試してみるしか……ん?」

 

 件の天空客車が徐々にその姿を現す。かと思いきや。

 

「ありませんね。撤去されたのかもしれません」

 

 三人の目に映るのは、その独特な乗り口と操作盤のみ。客車自体は、幻だったように姿がない。

 更に。

 

「あれは……何かしら」

 

 乗り口のあたりには、黒っぽい塊がわだかまっている。

 近寄ると、それは中に何かが包まった布のようなものであることがわかった。

 

「……なんだと思う?」

「わずか、ほんのわずかですが──血臭がします」

 

 じりじりと、更に近寄る。

 軍人独特の勘に近いのか、血溜まりは見受けられない。

 しかし、その塊の正体に検討がつかない不気味さは変わりなかった。

 

「なんか、いや、まさかなあ……」

「ガイ?」

「あの布。スィンが着てた奴に似てる」

 

 ガイの推測は、三人の共有する最悪の結果を連想させる起爆剤にしかならなかった。

 

「ま、まさか……」

「落ち着いてください。体のパーツである可能性はなきにしもあらずです。今のところ六神将たちは、アッシュを除いて氷を発生させる術を使ったことがありません」

「フォローになってねえ!」

 

 冷凍されていれば、たとえバラバラであっても血溜まりや不快臭はない、と言いたいのだろうか。

 預かっていた血桜を握りしめ、耐え切れなくなったガイが包みに駆け寄る。

 続いたナタリアがハラハラと、ジェイドがどこか興味深そうに覗き込む中、震える手が布包みに伸ばされた。

 がしっ、と掴まれる。

 

「ひえっ!?」

 

 ガイは無様にも尻餅をついたが、それを責め、嘲る者は誰もいるまい。

 彼は、布包みから生えた手に腕を掴まれたのだから。

 当然のことながら、ガイは慌ててその手を振り払っている。手はするりと黒い布包みの中へ消えていった。

 直後。

 

「ガ・イ・ラ・ル・ディ・ア・さ・ま?」

 

 突然声をかけられ、彼はもちろんナタリアもジェイドも勢いよく振り返った。

 ──そこには。

 

「スィン!?」

「は~い」

 

 たなびく真白の髪、実用一辺倒にして異国風の黒衣、にこー、と彼女にしては珍しく機嫌がよさげな笑顔。

 マリィベルの仮装を取り払ったスィンが、そこに立っていた。

 

「よかった……無事だったのですね」

「一、応」

「ペールから聞いたぜ。焦ったよ、ホントに」

「ご迷惑、おかけしました」

 

 ──おかしい。

 流石というか当然というか、彼女の異変を初めに察したのはやはりジェイドであった。

 どこか声が違うように聞こえることもさることながら、先ほどから妙に笑顔が耐えない。

 ナタリアやジェイドだけならともかく、今この場にはガイがいる。

 迷惑をかけた、という自覚があるならば、少しはすまなさそうな顔をしているはずだ。

 今の彼女には、それがない。

 更に、いぶかしげにスィンを見つめるジェイドに、当の彼女はまったく視線に気づいていなかった。

 ふと、逆に視線を感じて布包みを見やる。

 先ほどガイの腕を掴んでいた手は、小さな……子供のもののように思えたが、まさかあの中には幼子がひそんでいるのだろうか。

 ほんのわずか、めくれた布の隙間からそれは息を殺してじぃっ、とジェイドを見つめていた。

 一方で、現れた彼女をスィンと信じて疑っていないガイは不気味な布包みを指差している。

 めくれていた布が、風に吹かれてぱたりと閉じた。

 

「なあ、お前あれがなんだかわかるか?」

「はいー。でも、その前に」

 

 言葉尻とは裏腹に、素早く間合いを詰めてガイから血桜を奪い取る。

 彼が握っていたにもかかわらず強引さをちらりとも見せないその所作は、巧妙なスリの手口にも似ていた。

 

「え?」

「……さ~って、どうする? どうでる?」

 

 きびすを返し、腰に差した血桜の柄に手をやる。

 彼女の視線の先にいたのは。

 

「……烈風のシンク!」

 

 ガイもまた刀の柄に手をかけ、ナタリアは弓を構えて矢筒に手を伸ばしている。

 死霊使い(ネクロマンサー)が詠唱しようとしているのに気づいていないのか、天空客車を支える太い鋼鉄の綱を渡って現れたシンクは、ひどく憎々しげに吐き棄てた。

 

「……大した化け物だよ、アンタは。まさかこんなに早く回復したなんて……」

「お褒め頂き、至極光栄~」

「舐めるなッ!」

 

 へらり、と笑って馬鹿にしきった返事を寄越したスィンに、彼は激昂をあらわとして襲い掛かった。

 と、見せかけて。彼は口元に冷笑を浮かべながらスィンに右腕を突き出した。

 しかし、彼の冷笑は次の瞬間、動揺へと変貌している。

 

「!?」

「──残念、でした」

 

 どんなやりとりが行われたのか、部外者が知ることは叶っていない。

 シンクが何かを目論み、スィンはそれを想定した上で対処策を打った、ということか。

 直後、緋色の刃が疾風じみた素早さでシンクの顔面へ迫り、刃の腹が仮面を強かに打つ。

 

「くぅっ……!」

「見逃してあげる。失せろ」

 

 仮面を通して顔面を強打したシンクが怯んでいる隙に、彼女は底冷えするような声で彼を威嚇した。

 突きつけられた刃は、スィンが力を加えるだけはおろか、手を滑らせただけでもシンクの頚動脈をざっくり切断できる位置にある。

 逆らえば、躊躇なく首を狩られるだろう。そして彼の正体が図らずも暴かれ、少なからぬ影響をもたらすのだ。

 それはまだ、避けなければならない。

 

「……ちっ」

 

 嫌そうに両手を挙げ、降参の意を示す。

 血桜を収めたスィンが下がると、彼は素早く鋼鉄製のロープ上へ移動した。

 

「随分石頭なんだね。硝子瓶をぶつけたのに、頭の皮にも傷がつかなかったなんて」

 

 棄て台詞なのかそれとも別の意味合いが込められてか。図りかねる台詞を残してシンクは駆け去った。

 

「──ふ~」

 

 脅威の撤退に、肩を落として息をつくスィンへ、ジェイドは容赦なく質問を飛ばしている。

 

「お疲れのところすみませんが、何故彼を見逃したのです? あのまま斬り捨てることもできたでしょうに」

「まち中での人きりはゆうざいです。全世界の決まりごとを、いちいちかくにんしないでくださいな」

 

 それに答えたのは、少なくともスィンではなかった。

 声がひどく幼い上に、当の本人は口を開いていなかったからである。

 

「……ああ、腹話術ですか。何もこんなところで披露しなくてもいいでしょう」

「できないこともありませんが、ちがいます。とりあえずこれを見てください」

 

 呆れたように身をすくめてみせたスィンが、黒い布包みに歩み寄り、ひょい、と抱え上げる。

 手は生えない、身動きも何もない。

 という推測はあくまで想像止まりだったことを、彼らは己の瞳によって証明される。

 直後、ぴょこりと顔を出したのは、おおよそ七、八歳と思われる少女であった。

 

「!」

 

 ふわふわと、潮風に弄ばれる雪色の髪。

 しかし側頭部を負傷しているらしく、部分的に朱がかっており、その雫は少女の額を、目蓋をも濡らしている。その部位をかしかし、とこする腕は、伸び盛りの枝を思わせる瑞々しさに溢れていた。

 精巧な人形を思わせる面立ちでありながら、その表情は困ったように眉が歪んでいる。

 そして血糊を拭い、きちんと開かれたその瞳は──

 緋色と藍の、色違いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十六唱——その子どこの子、父親は誰?

 

 

 

 

 沈黙が、漂う。

 顎が外れんばかりに驚いていたガイだったが、スィンの腕に抱かれた少女が口を開く寸前、どうにか己を取り戻した。

 

「……スィン、お前、いつの間に子供なんて……やっぱ、父親はヴァンなのか?」

「ガイラルディアさま。ちょっとおちついて、ひとこきゅうおいて、お話を聞いていただきたいのですが」

「おいおい、子供にまで俺のことそう呼ばせる気かよ。お前の子供ってことは、俺この年でおじさん……?」

「さしてめずらしい話ではありませんが、ちがいます。どうかれいせいになって、対話におうじてくださいませ」

「お嬢ちゃんはちょっと黙っててくれ」

 

 スィンへ向けた言葉が、すべて名も知らぬ少女に答えられている。当の本人はぼんやりと宙を見つめるばかりだ。

 先ほどからだんまりを続けているスィンに、彼は苛立ったかのように詰め寄った。

 

「どういうカラクリか俺にはわからんが、俺はお前に聞いてるんだ。答えろ、それは誰との子だ?」

「ハイハイいいから落ち着いてください」

 

 なかなか進まない話に業を煮やしてか、憤るガイをジェイドが脇へやっている。

 不満げなガイに、「ちょっと黙りましょうか」と瞳を見開いてのフルスマイルで穏便に黙らせ、ジェイドは子供を抱えているスィンの前に立った。

 

「まさか、とは思いましたが……やはりあなたが本人なんですか?」

「はい。こっちがうつせみ、本体はボク」

 

 見た目だけでなく、体のつくりそのものが幼くなったのだろうか。舌足らずなしゃべり方と今までの口調に愛らしいギャップが生まれている。

 小さな手が背後を、自分を指すその様もまた、見ている人間をほんわりとさせる風情をかもし出していた。

 だが、事情を知ってしまった以上、呑気に頬を緩ませるわけにはいかない。

 緊急事態、なのかもしれないのだから。

 

「……何が起こったのか、じっくり聞きだしたいところですが……ノエルはどこです?」

「幸いと言うか、なんと言うか、多分ぶじ。少なくとも、ボクがさそいだされた先に、かのじょはいませんでした」

 

 空蝉も腕が疲れるのか、よいしょっ、とばかりにスィンを抱え直している。

 その光景にひどい動揺を覚えながら、ジェイドはくるりとナタリアを見た。彼女は彼女で、ガイを落ち着かせようとあたふたしている。

 

「ナタリア。とりあえず、彼女にリカバーと側頭部の治療を。シンクに応援を連れてこられても厄介ですので、早めに離脱しようかと思います。なるべく急いで」

「わ……わかりましたわ」

 

 小さなスィンが現れた時点で放心していたナタリアが、どうにか我に返って少女の治癒を開始する。

 

「ときに、空蝉を仕舞わなくていいのですか?」

「おうじかねます。さいぼうだのきん肉だのほねだの、いっぺんにちぢんだらしいので今は立つことすらむずかしいんです。ちょっと時間をくださらないと、歩行はこんなんですね」

 

 ちぢんだ。

 その言葉に、少なからぬ衝撃を感じながら、ジェイドは当人を抱える空蝉を見やる。

 姿かたちはもちろんのこと、衣装や身体的特徴、表情の細部に至るまで模倣されており、一見オリジナルとの区別がつかない。

 今は人間的な反応にとぼしいこと、仕草がまったく彼女らしくないことから別人だとわかるが、その気になればオリジナルそっくりに仕立て上げることができるのではないかと推測できた。

 何故なら、先ほどシンクを脅したその手並みは、味方ですら騙される演技であったから。

 

「その気になれば──」

「はい?」

「その気になれば、私たちを騙すこともできたのではありませんか?」

 

 それを思った途端、ジェイドはどこかに感情を置き忘れてきたような声でスィンに問いただした。

 そのただならぬ様子に気づいたのか、スィンはかすかに首を傾けている。

 しかし、記憶等知能は縮んでいなかったらしく、無邪気な声で安易に疑問を解消しようとはしなかった。ただ、望まれた答えを唱えている。

 

「むいみな上にむりです。どうしてボクが、みんなにうそを言わなければいけないのですか? それに、うつせみはやっと表情をかたどれるようになったんです。自力では、まだ声が出せません」

「あら、でもさっき話していたではありませんか」

 

 治癒を終えたナタリアに礼を言ってから、「ちょっとした手品を使っただけです」と適当に流した。

 気づいてからというもの、体を起こそうとしただけで激痛が走ったのだ。仕方がないから自分の衣類に包まったまま空蝉を作成したが、いくつかの気配の接近に空蝉を隠した。

 そして彼らの到着後、スィンはシンクの接近に気づいている。彼にこの姿をわざわざ見せてやる必要はない。

 空蝉に口だけ動かさせ、動けないスィンは二十七の自分の声を作って発したのだ。

 自分で聞く自分の声と、他人が聞く自分の声には若干のずれがある。おそらくそれが、ジェイドの覚えた違和感の正体だろう。

 ノエルの無事が知りたいから、という名目で、スィンは空蝉の背に揺られて三人と共にアルビオールへと戻った。

 そこで待ち受けていたのは、困惑した様子はあるものの無事なノエルの姿、更に。

 

「か、可愛い……v」

「きゃーっ! スィンってば、子持ちだったの!?」

「すごいですの、スィンさんそっくりですの!」

「おやくそくのボケはいいから、ボクの話を聞いてくれるとうれしいなあ……」

 

 三者三様の、想定内の反応にうんざりした様子を見せながら、スィンはきちんとこれまでの経緯を語った。

 

「えーと、シンクにノコノコついてって、そしたらまちぶせされていて、ラルゴにくどかれおいかけられて、なんかくすりあたまからかぶって、気づいたらこうなってた。おしまい!」

「……もし本気で言っているのでしたら、空蝉だけに同行を求めますよ」

「でも、シノプシスはこんなもんですよ。ヴァンから伝言がある、無視するならノエルがどうなっても知らないと言われてしぶしぶしたがって。ラルゴのまってたそうこでノエルがいないのをかくにん。伝言をきいたあとに逃走げき、そのさいちゅうディストが作ったとかいうあやしげなくすりをなげつけられました」

「それが、先ほど頭に負っていた怪我のことでしょうか?」

 

 頭皮が裂けていた、未だ血糊のこびりついている髪を指してナタリアが問えば、スィンは大きく頷いている。

 

「それで、一度つかまりました。さらわれそうになったんですけど、すきをついて逃げ出してきたんです。しょうさいははぶきますけど、そのとき気を失ったんですね。次に気づいたら、もうこの体になっていました」

 

 一息に言い終えて、スィンはふうっ、と息をついた。

 一同の反応を見ずに、「そういえば」と自分の腕を差し出している。子供らしい腕には、輪っかのままの手錠がぶらり、と垂れ下がっていた。

 思えば、あのときから体が縮み始めていたのだ。

 ただでさえ鍵開けは開ける鍵の構造に熟知していなければならないのに、更に後ろ手という状況ではあれほど素早く逃げることはできなかっただろう。

 そう考えると体が縮んだのはある意味で幸運だったが……厄介には厄介だった。

 ジェイドが納得したように頷いた後で、スィンは自分の空蝉に抱えられたまま、女性陣に取り囲まれたのである。

 

「……なあに?」

「スィン。とりあえず今の体のサイズに合った衣類を調達してきましょう」

「いいよ別に。今持ってるのを手直しして、何とか……」

 

 いつも通りであるはずだが、どこかそわそわしているようなティアの申し出を却下した。

 しかし、続くノエル、ナタリア、アニスによって逃れられぬ状況へと陥る。

 

「駄目ですよ、服はどうにかなっても下着は? 靴はどうするんですか?」

「まさか四六時中空蝉に介助を頼むわけにもいかないでしょう? わたくしの行きつけで用立てましょう!」

「あたしたちで選んであげるからさ♪」

 

 ……そして。スィンはノエルを含む女性陣に半ば拉致される形で、高級服飾店へ連れ込まれていた。

 男性陣はといえば、暗黙の了解気味に留守番を強いられている。

 ただしジェイドだけは、女性の趣味による買い物が長くなることを知っていたのか、むしろ積極的に留守を預かっていたが。

 

「スィン! 手始めにこれ着て、これ!」

「スィン、こんなのどうかしら?」

「あら、これはスィンに似合いそうですわ!」

「スィンさん、こちらはいかがです?」

 

 可愛い服、きちんとした服、ぴっちりした服、だぼっとした服、ひらひらっとした服、ふりふりっとした服……

 次々と寄越される布の山を前に、スィンは頭痛を覚えてやまなかった。

 これはけして、おかしな薬を頭から浴びたから、だけではないだろう。どうにか歩けるようにはなったが、まだ体を動かすのは痛い。

 空蝉に手伝ってもらい、女性陣の要望に答えてはきたものの、そろそろ限界にさしかかっていた。

 何しろ、彼女らにはナタリアがついている。更にこの服飾店は、ナタリアが以前から愛用していた、いわゆる行きつけの店舗なのだ。ナタリアがここへ来るだけで広告となる以上、店への迷惑にはならない。

 従って、スィンが明確な拒否を示さなければいつまでたっても終わらないだろう。

 

「んじゃーねー、次は……」

「あー、みんな? ボクそろそろ、おじいちゃんのところに行かないといけないから、ね?」

 

 フィッティングルーム──試着室のカーテンをサッと開き、腰に手を当てて次の衣装を構えていた彼女らを牽制した。

「まぁ」だの「可ン愛いーv」だのといった黄色い悲鳴は聞こえなかったことにして、出ようとする。

 しかし、続くアニスの一言で、スィンは硬直を余儀なくさせられた。

 

「いいけどスィン、それにするの?」

「ん?」

 

 試着室から出ようとして、くるりと後ろ、据えつけられている鏡で自分の姿を確認する。

 考えてみれば、今まで着替えをして皆に見せることにしか集中していなかったため、己の姿にさして興味は持っていなかった。

 黒を基調に白のフリルがふんだんにあしらわれた、抑え目ではあるものの正統派ゴシックワンピース。

 胸元の大きなリボンが愛らしい。

 

「その衣装でしたらこちらも」

 

 白いレースがついた白と黒のヘッドドレス。ヒールと言わずつま先と言わず、マキビシを踏んでも平気そうな分厚いソールの可愛らしい真っ黒なおでこ靴。高価そうな絹の、ガーターベルトとハイソックス……

 

「って、こんなぶあついブーツで旅ができるか!」

「そこなの!?」

 

 その場で脱ごうとして、悩む。

 これまでは女性陣が選んだ服を適当に着ればよかったが、自分で選ぶとなるとどうしても実用性を重視してしまう。

 この、主に貴族たちが愛用している高級服飾店で、果たしてスィンの望む実用性のある衣装は存在するのだろうか。

 更に、購入物についてただいま身を包むゴスロリファッションに瞳を輝かせている彼女たちと裂けるチーズのように意見が別れるのは必死だ。

 実際に着用するのはスィンなのだから、自分が選んだものの方がいいに決まってる。

 しかし、今の彼女たちにそんな正論は通じそうにない。

 どうしたものか……

 

「ではこちらの、ゴシックロリータファッション一式にクロスベルトコートの計十点でよろしいですね。下着等は……」

「この際ですからお願いしま「って、何かってに買おうとしてるんですか!」

 

 すでに会計とやりとりを交わし始めているナタリアに空蝉を操り、羽交い絞めにする。

 

「きゃあ! 何をいたしますの!?」

「こっちのせりふです! これを着るだなんて、言ってません!」

「いいじゃないの。こんなに似合ってるんだから……v」

「たたかえないでしょ!」

「大丈夫! スィンが元に戻るまで、あたしが代わりに前出てあげるから!」

 

 ──結局。ゴスロリコス一式に加わったコートは誰が着るのかをスィンが問い詰めている隙にナタリアが会計を済ませてしまい、スィンがゴスロリコス、空蝉までもが足元まである黒いコートをまとう羽目になった。

 

「なんで、うつせみにまで……」

「だって、外套もうボロボロになってたんでしょ? この際新しいのに変えた方がいいよ」

「だからって、こんな痛ったい格好……」

「そんな心配なさらなくても、とても似合っていますわよ?」

「……ボク、二十七さいなのに……」

 

 胸元とウエストにはチェーンにかかった鍵と錠のアクセントがあり、ゴシックファッションというよりは軽いヴィジュアル系になっている。

 腰に差した血桜が、異様な雰囲気をかもし出していた。

 

「スィン、刀はコートの中に仕舞わないと」

「それじゃあとっさに抜けないよ」

「だから戦わなくていいって。それで、ペールさんのところに行くの?」

 

 強制的な衣装チェンジを余儀なくされたスィンが、空蝉の背中に乗ったまま軽く思案する。

 行くつもりだったが、こんな格好で会いに行くのはいかがなものか。スィンはともかくペールの趣味を疑われるかもしれない。

 それでも、ジェイドはペールに待機しているよう伝えたのだ。自分の無事くらい、伝えた方がいい。

 格好だけではない。軽率な行動その他について何を言われるかわかったものではなかったが、それでも会わずにほったらかすという選択肢はない。

 最も、彼女が今一行と団体行動をしている以上、ペールに報告をしなかった理由などいくらでも捏造は可能であったが。

 

「……うん、行く。皆はどうする?」

「一緒に行きましょう。今個別行動をするのは軽率だわ。十分注意しなければ」

「スィンが戦えないもんね。今スィンを一人にしたら、大佐に殺されちゃうよ」

「……」

 

 空蝉を歩かせる最中。スィンは自分だけ後ろを向いて、アニスに対し首を傾げた。

 

「なんで? たいさが何かするとしたならむしろ、一人になろうとしたボクをせめるんじゃないかなあ」

「そんなことないって! スィンも鈍いんだから」

 

 鈍い。

 

「にぶいって……まさかアニス、たいさがボクにこじんてきでとくしゅなかんじょうをもってるって、言いたいの?」

「そんな婉曲的表現使わなくても。単に──」

「やめて」

 

 面白がるアニスの言葉を一言で切り捨て、スィンは吐き棄てるように呟いた。

 

「たとえ仮定だとても、つつしんでおことわりしたいね。ネクロマンサーにあいされるって、つまりししゃへのかたみちきっぷじゃん。いやだよ、ボクまだ死にたくない」

「いや、あたし、そういう意味で言ったんじゃないんだけど……」

「同じこと。それでもボクはいや。むしずが走る」

 

 愛らしい顔を嫌悪に歪めるも、それは一瞬の出来事。

 負の気配に蝕まれた感情を洗うように深呼吸をしてから、スィンは空蝉を操り先へ進ませた。

 プチスィンを背負いながらも颯爽としたその足取りについていけず、アニスが呆然としたようにその背中を見つけている。

 

「……意外。スィンって、大佐のこと嫌いだったんだ」

「好み、とは言っていたけれど……外見と性格にギャップがありすぎたからかしら」

「……ティア。それ以前にスィンは、その……ヴァンと夫婦関係にありませんでしたかしら?」

 

 ほんのりと頬を染めて事実を確認するナタリアに、あ、とアニスが呟いた。

 

「そうよね……それじゃあ、大佐を恋愛対象になんて」

「でも、わかんないよ? 人の心に鎖なんかつけらんないし」

 

 ──まったくその通りだ、と思う。

 その言葉は、ジェイドが抱くスィンへの思い云々を綺麗さっぱり忘れさせる力があった。

 人の心に鎖はつけられない。人が人に抱く感情を、永久(とわ)とさせる術などない。

 そして思うのは、やはりヴァンのことであった。

 ましてやヴァンには、リグレットが傍にいる。彼女は、同性の目から見ても魅力的で生命力に溢れた女性だ。彼女はヴァンに敬意を、余りある好意を寄せているし、スィンが傍にいたときも、ヴァンもそれを嫌がってはいなかった。

 人間である以上、異性からチヤホヤされることを厭う人間は少ない。スィンなどは、自分が欲する相手以外の好意など要らないと思っているが、彼がそうだとは限らない。

 ましてやこの状況である。今リグレットがヴァンに迫ったら、彼は……彼女を拒否、するだろうか。

 それは、どう贔屓目に見ても、考えにくい。ヴァンとて男だ。

 若くはないが、年寄りではない。生理的な欲求に負けることは、人間として恥とはならない。

 考慮して、導かれる答えは──

 

「もう、デキてるかも」

 

 知らず、言葉が洩れる。

 もしそうだったら、自分はどうすればいいのだろう? 

 答えは明確だ。干渉するべきではない。もう離縁した身だ、誰が誰とくっつこうと、知ったことではない。何なら祝福でもしてやればいい。

 人は誰しも己の考えを持つものであって、誰かの持ち物となることなど、ありえないのだから。

 ──でも。

 

(ヴァンが、リグレットと……?)

 

 ぎりっ、と歯がきしる。

 事実か定かでないくせに、制御しきれない嫉妬を表に出さぬよう心がけながら、スィンは己の拳を握りしめていた。

 

 

 

 

 




 称号:リアルゴシックロリータ(スィン)
 ゴシックファッションのロリータ。ゴスロリファッションではありません。
 これ以上の説明は不要! 


「ゴシック」は、もともと中世ヨーロッパの建築様式を示す言葉。
この場合は中世ヨーロッパの廃墟、主に教会、館、城などを舞台に繰り広げられる、ホラーの混じった冒険譚──ゴシック小説が語源。
ゴシック小説の登場人物達のファッションが元になっているとかで、ゴシック時代のファッションを再現したものではないそうです。
「ロリータ」は、いわずとしれた少女を指す言葉。諸説ありますが15歳くらいまでですかね。
元はとある小説のタイトルにして登場人物の美少女を指す。
ロリコンは「ロリータ」と「コンプレックス」を組み合わせた和製英語。マザコンと同様の過程を経て形成した略称なのだとか。


ちなみにスィンは現状、7歳です。20年若返っています。


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第九十七唱——長かった……これでやっとマルクトへ

 

 

 

 

 

 

 

 

 連行されたスィンと空蝉が女性陣と共に帰還したのは、日が落ちきってからのことだった。出迎えてくれたルークとガイに挨拶をし、女性陣が次々とアルビオールへ搭乗していく。

 アニスの言葉に甘えて彼女に前衛を任せ、スィンは非戦闘員であるノエルを護って最後尾を歩いていた。

 

「お、遅かったな」

「おかえ、りー……」

「ただいまもどりました、ガイさま。ただいま、ルーク」

 

 空蝉の背中でぐったりしていたスィンが、二人の姿を目にしてぴょんっ、と地面に飛び降りる。

 スカートの両端をつまみ、ちょこんと会釈をしてすたすたとアルビオールの中へ入ろうとした。

 彼らの感想なんか要らない。

 

「ああそうだ。たいさは?」

「旦那なら、夕食のカレー作ってくれてるが……」

 

 好都合だ。

 礼だけを言い残し、スィンは空蝉を伴ってたたたっ、と駆け出そうとした。

 カレーとなればこの衣装を汚さないよう、布きれか何かで貫頭衣風エプロンを作らなければ。などと、すでに頭の中では適当な理由をでっちあげている。

 一時しのぎだとわかっていても、この姿であの鬼畜眼鏡との対面は、できるだけ先延ばしにしたかった。

 しかし。

 

 ボスッ。

 

「呼びましたか?」

 

 音を立てて、スィンは接触部位たる顔を覆った。

 それでも咄嗟に、謝罪の言葉を紡いでいる。

 

「……ごめんなさいっ」

「いえいえ。しかしまあ……」

「わわっ」

 

 顔面強打で痛がるスィンを、ジェイドは軽々と自分の目線へ抱き上げた。

 ああ──会ってしまった。捕まってしまった。

 今は一番、会いたくなかったのに。どんな嫌味を言われることか。

 何を言われても本気にしないよう、深呼吸で心を落ち着かせ、どのような言葉も受け流す覚悟を構えて。

 

「ずいぶん可愛らしくなってしまいましたねえ」

「……へ?」

 

 一気に脱力した。

 その表情はどこかほころんでいて、いつもは嘘くさい笑みも優しく見える。

 目の前にジェイドの顔があり、いつもより瞳がしっかりと見えるのに本音の表情がわからないとは。本気で微笑んでいるのだろうか? 

 次の瞬間、疑いは瞬く間に消滅した。

 

「コレが俗に言う馬子にも衣装、という奴ですか」

 

 にべもないその言葉に、ああやっぱりかと落胆したような気持ちになる。

 いつものジェイドだと、少しほっとしたが、けなされている事実に変更はない。

 しかし、次の言葉を耳にして。スィンは、そのまま姿勢を正した。

 

「それで、そのなりでどうやって戦うつもりです?」

 

 その一言で、その表情で、これまでの和やかな雰囲気を見事に吹き飛ばしている。

 スィンを見えない秤で量るような、否、実際彼はスィンが足手まといとなったかどうかを、今この場で見極めようとしているのだろう。

 わかりきっていた反応だ。この死霊使い(ネクロマンサー)と綽名された男が、自分にとって役に立たないお荷物を引き連れる理由などない。

 

「立場としてはガイの従者でしかないあなたが、戦えないというのであれば……」

「おきざりもやむなし、ですか」

 

 ちらり、とハラハラしながらことの成り行きを見守るガイ、ルークを見る。

 どうも事前に打ち合わせがあったらしく、何も口出ししてこない。

 

「同じことをおじいちゃんにも言われました。まもられるくらいなら、ここにのこれと」

「なるほど。しかしあなたはここへ来た。それとも、ガイにお別れでも言いに来ましたか?」

 

 スィンは、首を横に振った。

 

「ほう」

「なにをすれば、なっとくしてもらえますか?」

「そうですねえ……」

 

 抱き上げたスィンを、上から下まで眺めた後にパッ、と手を離す。

 自由落下でスィンがアルビオールの床を踏む前に、ジェイドの手が少女の首をわし掴んだ。

 

「……っ」

「この状況下で、私を納得させてください」

 

 首が絞まらぬよう両手で必死に体を支えるスィンに対し、ジェイドは容赦なく取り出した穂先を向けている。

 随分抽象的な内容だが、それが条件なら仕方ない。

 スィンはきけない口のかわりにこっくりと頷いて、了承を示した。

 

「では、いつでもどうぞ」

「それ、じゃあ……遠慮なく」

 

 ゆらり、と霞のようにジェイドの首周りを何かが絡みつく。

 それが人の、女の手だと気づいたのは、刹那に満たない刻が流れた後であった。

 更にその手の正体がわかって、眼前のスィンに穂先を振りかざす。

 その前に、ぐ、と気道が狭まった。

 

「く……!」

 

 槍をしまい、背後の気配に対応するか。眼前で苦しそうにあえぐ少女を始末するか。

 それをジェイドが考えている間にも、スィンは行動を起こしていた。

 苦しい息の下、空蝉を操ってジェイドの気をそらし、自力で絞首の拘束から脱出する。

 本来なら棒手裏剣のひとつやふたつ、取り出して相手の手の甲に突き刺してやるところだが、こんなことで余計な怪我を負わせるわけにはいかない。

 ジェイドの手から逃れ、アルビオールの床に着地する。

 空蝉の腕に力を込めさせると、彼は形のいい眉をひそめて槍を消した。

 

「……まだなっとくしてもらえません?」

 

 ジェイドの足の間合いから遠ざかったスィンが、表情を凍らせて彼を見上げている。

 それから彼は、自分の首を絞めている絞首紐(ギャロット)の正体を知った。

 蜘蛛の糸と見紛うほどに細い、ワイヤー。彼の首を蜘蛛の巣に落ちた蝶に見立て、幾重にも巻きついている。

 それでも、今はただ息苦しいだけだ。この細さでは、いざ力を込めたとき首の皮膚か、ワイヤ自体の力比べになるだろう。

 しかし、次に感じた感触は、彼の予想をあっさりと裏切った。

 

「……っ」

 

 ふと、首に触れた指が濡れていることに気づく。

 軍事グローブに包まれていた指先には、見慣れた赤い液体が付着していた。

 

「……なるほどっ……絞殺ではなく斬首でしたかっ……」

「ごめいとう。もちろんあなたがよそうするとおり、このじょうたいで人のくびをねじ切ることはできません。ですが、このワイヤーはとくべつせいなのでけいどうみゃくにキズ入れることくらいはできるんですよ」

 

 ぐっ、と空蝉の腕に力がこもる。捕らえたジェイドの身をもって、証明する気なのだろうか。

 殺気は出ていない。しかし彼女なら──

 

「……あの。まだ、だめですか?」

 

 するん、という音もせず。ジェイドの首からあっさりとワイヤーは外された。背後では、空蝉は袖の中へ特殊ワイヤーを収納している。

 一見ジェイドの反応を待っているスィンだが、実は彼のことなど欠片も見ていない。

 彼女の意識の先にいるのは、成り行きを見守るガイ、その人の姿があった。

 主人を前に、猫を被りましたか。

 口に出さぬまま納得し、わずかに出血している首元を手で拭う。

 そして彼は虚空から、再度槍を取り出した。

 

「通常戦闘の際はどうします? 見たところあなたの得物は空蝉の腰にぶらさがっていますが、まさかあなたは戦わないのですか?」

「そのまさか、です。ボクの代わりに、うつせみにたたかってもらいます」

 

 未だジェイドの背後に立つ空蝉が、一動作で血桜を抜き放つ。油断なく構えるその姿は、幼児化する以前の彼女となんら変わりはない。

 ──ペールとの特訓が、こんなに早く役に立つとは思っていなかった。

 屋敷の人間に面識のない、しかも幼い子供を連れた女がファブレ公爵邸に行くのはまずいだろうと、スィンはナタリアに伝言を頼んだ。

 そして市街地で再会したペールはスィンの予想通り、往来であったにもかかわらず、厳しくスィンを詰った。

 軽率な行動、敵にしてやられた不甲斐なさ、更には服装のことまで。

 あまりの剣幕に、格好については悪乗りした女性陣が仲裁に入ろうとしたのを押しとどめ、スィンはペールによる説教を甘んじて受け止めている。

 ひとしきり怒鳴ったところで冷静になったペールは、スィンが現状で足手まといであることを指摘し、急遽ミヤギ道場を借りて稽古をつけてもらったのだった。

 アルビオールへの帰還が遅くなった理由は、ここにある。

 これまで己だけを鍛えていたスィンに、空蝉だけで戦う、というのは言うまでもなく至難の業だった。

 何をすればいいのかはわかるのに、空蝉のコントロールが拙いせいで思うように動かせない、動いてくれない。

 そこからどうにか、空蝉を滑らかに操ることができるようになったわけだが……残された課題は大きかった。

 通常、戦闘を行う際にいちいち「応じる」「避ける」「耐える」などと考えて戦う戦士は稀だ。大抵が考える前に体を動かしている。ここに頭の回転や、頭のデキの優劣が割り込む余地はない。

 人間が進化の過程で置き忘れてきた本能に似た感覚が働き、動くことを覚えた体が動いている。

 しかし、空蝉自体は操作しない限り動かない、人形だ。その操作方法は、むしろ人形士(パペッター)のそれに近い。

 戦う動作と操ることを同時にしなければ、戦闘は成り立たない。ここに、人形士(パペッター)は防衛や遊撃に特化する理由がある。

 考えてから動く人形士(パペッター)が後手となることはある意味で必然だし、気配なき人形が奇襲に優れているのは火を見るよりも明らかだ。

 最も、アニスは優秀な人形士(パペッター)ゆえに人形と共に戦い、自分の力不足をカバーしているようだが。

 しかし、スィンは違う。自分の体を武器に生きてきた彼女にとって、これはもどかしいにもほどがある試練であった。

 付け焼刃の特訓だったが、何もしないよりは遥かにマシ。

 そして今、ジェイドを納得させるための手段として、特訓は役に立とうとしている。

 スィンはペールに、深い感謝を捧げていた。

 一方で、自分の言い出した勝負にやる気満々のスィンを好ましく見つめながら、ジェイドはひょい、と二人を見やっている。

 

「では、先に夕飯をどうぞ。私達はスィンの実力を見極めてからいただくことにします」

 

 ジェイドに促され、スィンはアルビオールの外へ飛び出した。

 よもやと思ったが、背中を見せた途端、奇襲をかけられるのが嫌だったからである。

 

「ふむ……やはり年を重ねているだけはありますねえ。若人にありがちな隙が全くない」

 

 こんなことを言っているあたり、不意打ちを仕掛けようとでもしていたのだろうか。

 真偽はどうでもいいために、空蝉の操作に集中する。視線を切り替えた。

 広くなった世界が元に戻る。ペールとの特訓にも味わっためまいが、スィンに襲いかかった。

 意識が、脳みそが悲鳴を上げていることに、気づけぬはずもない。

 

「──行きますよ?」

 

 その間にも、槍を携えたジェイドはゆるやかに迫りつつある。

 袈裟と見せかけて逆袈裟に走ったデッキブラシ──トライデントを装備していたのに、変更してくれたのはスィンの身を案じてかもしれない。しかし、被弾すればこの上もない屈辱である。

 それをぎりぎり回避し、間合いを詰めんと空蝉は地を蹴った。

 通常、槍に限らず長柄武器は指摘するまでもなくリーチの長さに特化している。剣と比較しての間合いは、もちろん槍の勝ち。剣が相手に触れるより早く、槍は剣の主を突き刺している。

 しかし、それは同時に諸刃ともなる。

 リーチの長さは、いざ踏み込まれたとき対処の術を封じ、無様に後退するか卑怯と罵られても仕方ない隠し武器を取り出すか、どうにかしなければならない。

 残念ながら、ジェイドはそれを知っていた。

 だからこそ彼は、リーチを生かした安易な突きではなく、わざわざ槍の中間点を持って切り裂くように戦っている。

 初めてその戦いぶりを見たときは、槍の長所も知らないのかと内心嘲笑っていたが、同時にその事実に気づいて猛省した。

 仇敵を目にして、頭が茹だっていたのかとすら思った。今やもう、彼を見くびる感情はない。

 逆袈裟に続く石突の連打を血桜で受け止め、そのまま違う方向へと持っていく。

 このまま間合いの中に入り込み、暗器を取り出すことができればスィンの勝ちだ。

 ──だが。

 

「ほう。あれを防ぐとは中々やりますねえ」

 

 笹手裏剣を取り出そうとした瞬間、硬直した空蝉の脇をすり抜け、ジェイドは彼女の背後に回っている。

 その動きについていきながら、スィンはとある重大なことに気づいた。

 空蝉はコンタミネーションが使えない。それどころか、声を発することができないので譜術も使えない。

 従って、今持つ武器はただひとつ、血桜のみ。

 純粋な剣技、あるいは体術だけで、ジェイドに勝てと──納得させろというのか。

 うっかりを装って刺しそうで怖い。

 

「ほら、どうしました?」

 

 邪念に気を取られ、空蝉の体捌きが鈍くなる。

 そこを狙って、デッキブラシは彼女の鳩尾に迫りつつあった。身を沈め、腕で受けることで鳩尾に食い込むことを防ぐ。

 勢いの衰えたデッキブラシを掴んで引き寄せると、ジェイドは予想に反して素直に引きずられた。

 自分の得物を掴まれたら取り戻すのが人情、もとい咄嗟の反応だ。

 時々故意に相手のバランスを崩してやろうとする輩がいるが、今回ジェイドはそれを狙ったのだろう。

 涼しい顔で空蝉の懐へ潜り込もうとしている。

 おそらく肉弾戦に持ち込み、異性恐怖症につけこもうと考えているのだろうが──

 

「……っ!」

 

 伸ばされたジェイドの腕を逆に掴み、抵抗されないうちにひねり上げる。

 デッキブラシも血桜も、とうの昔に放り棄てていた。

 

「むっ……!」

 

 一瞬、ジェイドの顔に真剣味が走る。しかしそれ以上、スィンは彼の顔など見ていなかった。

 腕を取り、自分のほうへ引き寄せたことで完全に死に体となっていたジェイドを、彼女は好機とばかりに足を払って投げ飛ばしたからである。

 無理に逆らうことなく、ジェイドはすんなり投げ飛ばされた。

 

「……へ?」

 

 ぱちりと瞬き、視界をスィンへと戻す。

 その頃、ジェイドは華麗に受身を取って着地していた。

 

「ど、どうしたんですか? あっさりなげられるなんて……」

「いえ、そろそろお腹が空いてきたので」

 

 投げられた際、外れて転がった眼鏡を拾い上げ、彼は朗らかに微笑んでいる。

 とてつもなく嘘くさい笑みであった。

 

「はあ!?」

「納得した、ということですよ。しかしよくできていますねえ……」

 

 硬直するプチスィンをほったらかし、支配を解かれて立ち尽くす空蝉をじろじろと眺める。

 不意に空蝉の頬へ触れ、何の反応もないことからその手が顎へと滑り──

 

「って、何やってるんですか何を」

 

 閉ざされていた瞳が見開き、どこか違和感のある『スィン』の声が遠くから発せられる。

 同時に手が払われ、彼女は何事もなかったように血桜の回収へと向かっていた。

 

「……本当に()れない人ですねえ。そこは顔を赤らめつつ恥じらって『な……何、するんですか』とかのたまってもよろしいのでは?」

「二十七バツイチ女にどんなロマン求めてるんですか、あなたは」

 

 緋色の刀身を懐紙で拭い、作法に従って鞘へ収める。

 交戦中も今も、プチスィンは棒立ちしたまま。譜術を扱っているようには見えないが、無防備な姿に変わりない。

 その間にも、空蝉はデッキブラシを拾い上げ、ジェイドに差し出している。

 

「今更無垢な乙女を演じろといわれても無理ですよ……お手合わせ、ありがとうございました」

 

 一抹の寂しさを添えて、空蝉は困ったように微笑んだ。

 作られたようなわざとらしさは感じられない。これは──もしや、空蝉を操るスィンの感情が、そのまま空蝉に反映されてしまっているのだろうか。

 デッキブラシを受け取ろうとして、故意に彼女の手を握る。

 びくっ、と一瞬体が震えたかと思うと、その手の甲がつねられた。

 

「……いじわる」

 

 頬が紅潮し、かすかな上目遣いがジェイドの眼を、意識を捕らえる。

 尖った唇が、ひどく扇情的に動いた。が、それも一瞬のこと。

 

「──とかやってほしいんですか?」

 

 艶っぽい、嫌な言い方をすれば媚を売っていたような目つきが消滅し、頬の紅潮が消える。

 珍獣でも見るかのような目つきが、やけに痛々しかった。

 

「おばさんがやってもキモいだけですって」

「……まあ、女性にとってはそうかもしれませんね」

 

 確かに、成熟した女性が今の台詞を吐いても違和感がないことは稀だろう。

 しかしスィンは、間違いなくその稀に属する人種であった。

 

「ところで──」

「はい?」

 

 空蝉を連れてとっととアルビオールへ戻ろうとしたプチスィンが、くるりとジェイドに振り向く。

 その愛らしさに乱された心を癒しながら、ジェイドはやはり笑みを浮かべた。

 

「味覚はどうなっていますか? 用意したのは辛口ですが」

「……さあ、どうでしょうか。食べてみないことには、何とも」

 

 そういえば、体が縮んでから飲食行為を一切していない。

 詳しく尋ねれば、彼が用意したのはピリ辛マーボーカレーであるとのこと。

 もし味覚が幼児並に退行していたら、今晩は夕飯抜きということになるのか。

 そんなことをジェイド相手に愚痴りながら、二人は遅い夕餉にありつかんと、連れ立ってアルビオールへ向かっていった。

 

「どうですか?」

「…………水をください。お話は、それからです」

 

 

 

 

 

 



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第九十八唱——国家権力なんて……汚い

 

 

 

 がしゃり。

 冷たい鉄輪が、空蝉の両手を拘束する。

 

「……シア・ブリュンヒルドさん。あなたを、マルクト軍属詐称の容疑で拘束します」

 

 そう言って、アスラン・フリングス少将は己の任務を果たそうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外見退行を起こしたスィンの状態異常を治癒する暇もないまま。

 一行はマルクト首都、グランコクマへたどり着いていた。

 

「ま、あんな洟垂れの作品が永続するとも思えません。長くても一ヶ月くらいで自然治癒できるでしょう」

「……だからって、解析くらい手伝ってくれてもいいじゃないですか……」

 

 ぶちぶち言いながら、空蝉の隣を歩くプチスィンがボヤく。

 丸っこくなった瞳の下にはべったりとクマが張り付いていた。

 毎日毎日限界まで空蝉を具現化させ、狭い機内で空蝉の戦闘のみではない体捌き操作の訓練、更に自分の身に起こった多大なる変化の検査など、多忙な刻を過ごした結果である。

 

「気持ちはわかりますが、被験者の血液だけでわかることなど微々たることですよ。被った分は洗い流してしまったのでしょう?」

「そりゃそーですけどね、有事に備えて自分のできる最善のことはしときたいんですよ」

 

 薬を浴びて以降、特に目立ってこれといった変化はなかった。

 それは身長や体重だけでなく、外見や精神的なことにまで観察の対象に及んでいる。

 服用して一日ずつ、決まった単位で縮んでいくとか、反対に少しずつ効き目が切れて成長するとか、それらを想定していたのだが今のところその傾向は見られない。

 やはり解毒剤を摂取して、初めて効果は消えるのだろうか。

 そうなると、ディストに直接会って締め上げる必要があるのだが……

 グランコクマのメインストリートを歩きつつ、スィンは一行の背中を見やって小さく欠伸をした。

 和平条約締結の旨は、イオンやナタリアが話すことである。スィンのするべきことといえば、これから初めて皇帝と謁見するであろうガイを見守るくらいだ。

 スィンは皇帝と面識はあるが、まさか紹介する形にはなるまい。双方、非公式なのだから。

 問題は、子連れの姿たるスィンが皇帝の、重臣たちの目にどのように映るかだが……いっそ空蝉は連れて行かないほうがいいだろうか。

 いや、そもそもスィンは同席しない方がいいかもしれない。

 ただ黙々と歩く隣の空蝉を見やる。

 当初は歩かせるだけでも精神的に消耗していたが、今では咄嗟に人間らしい反応をさせるくらいのことはできるようになった。

 今や、彼女の視点に切り替えて操作に集中しなければならないのは、専ら戦闘に関することだ。でなければさせたことのない動作か、あるいは声を出す訓練か。

 声帯に異常はないはずだが、これまで空蝉が肉声を発したことはない。

 空蝉をここまで自在に操れること自体僥倖であるために、自分への負担を悪戯に増やさないようあまり気にかけはしないことにしていたが……

 ふと、前を歩いていた彼らが足を止める。見れば、そこには兵士数名が敬礼をしているところだった。

 彼らの視線は、もちろんジェイドに向けられている。

 

「カーティス大佐! 伝書鳩が届いております、至急宮殿へ」

「ご苦労。これから向かうところだ。陛下に謁見の許可を」

「はっ!」

 

 パタパタと兵士らが駆け去るも、三人ほどの兵士はその場に留まったままだ。

 

「どうした?」

 

 不審がるジェイドに、彼らはどこか言いにくそうに口を開いている。

 

「大佐……その、シア・ブリュンヒルドという女を引き渡していただけますか?」

 

 ──来た。

 ぐぐっ、と拳を握りこみ、空蝉を見やる。

 一方、ジェイドは髪の毛一筋ほども表情を変えず、尋ね返していた。

 

「それは何者を指している?」

「……は?」

「連れに対し誰を指して、引き渡せと言っている? 誰より出された命令で、引き渡す理由を列挙しろ」

 

 聴き慣れないジェイドの、軍人としての口調。部下に敬語はやっぱりよくないのだろうか、それにしても耳に慣れない。まるで別人を見ているかのようだった。

 それはさておき。

 これまで、ジェイドはスィンのもうひとつの名である『シア・ブリュンヒルド』を耳にしているはずだ。

 スムーズに進むだろうと予想していたこの地で、突然のその言葉に動揺しているのだろうか。はたまた──スィンを護ろうとしてくれているのかもしれない。

 ガイを初めとした一行はといえば、ジェイドの意図を測りかねてはいるもののアニスによってシアが誰なのか、確認はなされている。

 皆、不用意に口を開かずただ成り行きを見守っていた。

 兵士たちは該当者を連れて来い、との伝言しか受けていないらしく、困ったように目配せをしている。

 話にならないとばかりにジェイドが鼻を鳴らし、それ以上彼らに取り合うことなく先を進もうとした矢先。

 

「カーティス大佐。お騒がせして申し訳ありません」

 

 どこか緊張した面持ちで、フリングス少将が現れた。

 彼、というか将校クラスを寄越したということは……皇帝は、謁見の間でスィンと顔を合わせる気がないらしい。

 事情説明を求めるジェイドをいなし、彼はまっすぐにスィンへ──正確には空蝉へ歩み寄ってくる。

 その歩みに、何ら戸惑いはない。

 

「雪色の髪、緋の瞳……お嬢さん、失礼ですがお名前は?」

 

 空蝉はそれに答えず、無言で真後ろを見た。

 しんがりに立っていたせいで、誰もいない。強いて言えば、心なしか無表情のプチスィンが静かに佇んでいるくらいか。

 

「んー、おしい。前者二つは該当しますけど、お嬢さんじゃあないんでアウトです」

 

 朗らかに人違いを揶揄するも、フリングス将軍の表情は揺らがなかった。

 外したか、と考えた矢先。

 

「あの、あなたは以前、陛下とお会いしたシアさんで間違いありませんか?」

「……肯定しときます」

 

 と、答え、尋ねた瞬間。

 冒頭へと至る。

 

「どういうことです、陛下は……」

「カーティス大佐。上意です、介入は控えてください」

 

 わずかとはいえ、驚愕を隠しきれていないジェイドをフリングスは鋭く制した。

 その様子に、ガイがカースロットによって倒れ、親身になってくれた心優しき将軍の面影はない。

 実力はともかく、彼は少将、階級上ジェイドの上司だ。大佐であるジェイドに、彼への抑止力はない。

 階級上では。

 

「……ふむ。すべては陛下にある、と考えてよろしいですか?」

「──ジェイド・カーティス大佐。この件に関しての介入を禁ずる。貴公の用事に戻られよ」

「しかし……」

「お芝居はもういいですよー」

 

 それまで興味深そうにジェイドとフリングスのやりとりを眺めていたスィンは、わざとらしく欠伸を零した。

 

「想像はついています。弁解の余地あらば、あなたの主の御許でいたしましょう。だから早めに済ませてください。こんな茶番に付き合うほど暇をもてあましていません」

 

 そう言って、スィンはあっさりと連行された。その後ろには、当然のようにプチスィンが付き添っている。

 ガイに荷袋は渡してもロケットを置いていかなかったということは、それほど大したことはないだろうと予測しているのだろうか。

 プチスィンがついてきたことを、兵士は軽くいぶかしがっていたが、フリングスが気に留めず、さっさと連行を促した時点で黙認されている。

 

「ど、どういうことですか? スィンが、軍属詐称とは……」

「……スィンは以前、マルクトの軍服をまとったまま陛下と会ったことがあるんです。事情を話してはおいたのですが……お咎めなしにはできなかったようですね」

 

 狼狽するティアに対し、早くも平静を取り戻したジェイドが、ずれてもいない眼鏡のブリッジをくい、と持ち上げた。

 

「……旦那。スィンは、どうなる?」

「ご安心を、ガイ。元凶と思われる陛下をシメ……もとい陛下に直談判をして、悪くても書類送検で済ませてもらいます。拘留なぞされた日には、著しい戦力低下が見込まれるのでね」

 

 それだけではない。

 このまま彼女を放っておいたら、ケセドニアにて交わした約束を放り出したことになる。口約束とはいえ、ただでさえ薄い信頼を損ねるようなことは避けたかった。

 よほど急がせているのか、二人を囲むように連行していく兵士たちの背中はひどく遠い。

 突然の出来事に戸惑いを隠さない一同をせかすように、ジェイドもまた歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、空蝉と共に連行されるスィンは、歩きながらこの後の展開を考えられるだけシミュレートしている。

 問答無用で牢屋に放り込まれるかもしれない。

 まさか軍属詐称でいきなり処刑されることはないと思うが、相手は母の仇を知ったばかりで殺る気満々のスィンを知る皇帝なのだ。

 第三師団師団長暗殺容疑で尋問、あるいは拷問にかけられるかもしれないし、いきなり何かの刑罰を課せられるかもしれない。

 逃げようと思えば、それは可能だった。

 手錠をかけられているのは空蝉なのだから、空蝉を放棄すればそれでいい。とにかく逃げるだけだったら、たとえ皇帝の眼前でも自信はある。

 だが、ガイの手前、ただ逃げるだけでは駄目だ。ちゃんと身の潔白を証明してから、胸を張って皆の、ガイの元に戻るのが一番いいに決まっている。

 だからこそ、スィンはこの連行に応じた。どうせ何を聞いたって、ロクな返事はないだろう。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず。あえて危険に身を投じるも、また選択肢のひとつだ。

 白と青を基調とした宮殿前を通過して、マルクト軍本部へと誘われる。と、ここで初めてフリングス少将は足を止めた。

 

「あの……失礼ですが、こちらの少女はあなたのお子さんですか?」

「答える義理はありません。この子のことならお気になさらず」

 

 空蝉にツンケンと、そう答えさせ、自分はその空蝉の足元にきゅっ、としがみつく。

 ついでに上目遣いでフリングスを含む兵士たちを見上げれば、彼らは文句を言う気も殺がれたように二人を軍本部へと入らせた。

 もしかしたら、スィンの言うことにいちいち構うなという注意がされていたのかもしれない。

 彼らのあっけなさに、スィンは肩透かしを感じつつ、そんな推測をしていた。

 以前は半ば迷いつつ彷徨ったマルクト軍本部を、豪華な案内の元、すいすい進む。

 途中、フリングスは連れていた兵士を仕事に戻るように、と言付け、最終的にはフリングス、空蝉、スィンという寂しい隊列となった。

 これまでスィンたちが暴れなかったことを鑑みて、マルクト軍本部内なら護送は将軍一人で足りる、との判断に至ったのだろうか? 

 兵士数人で足りる、と考えなかった辺り用心深いのか真面目なのか、はたまた責任感が強いのだろうか。

 これでぐんと逃げやすくなった、というのが実の感想だが、人質が取れなくなった分、成功させにくくもなった

 まさかとは思うが、わざと逃げるよう仕組んで罪を重くさせるつもりなのだろうか。

 とめどなく溢れる不運な未来像に内心顔を曇らせていた矢先。沈黙に耐えかねたのかフリングスが口を開いた。

 

「……何も、聞かないんですね」

「聞いたら何か教えてくれるんですか」

 

 会話終了。これで何か続けろと言っても、それは酷な話である。

 それほどまでに、彼女の口調は凍っていた。

 スィンの心情がそのまま表れた空蝉の言葉では、当たり前だったが。

 

「いきなり軍に連行されて、不安はないのですか?」

「不安に思うよりも、考えるのが先なんで。これから先に何が待つのかを想定し、その都度対策を練るほうが利口だと思います」

 

 嘘ではないが……真実は言わなかった。

 不安はないのか? もちろんあるに決まっている。

 だからといってそれを表に出しても、相手の思う壺ではないか。ならば平静を装って、平静になりきった方が実りある結果を出せる。

 多分。

 取り付く島もない空蝉に、フリングスは本人に気づかれまいとしてか、実に小さなため息をついている。流石に罪悪感が湧いてきた。

 だが、不安と緊張で余裕が出せないのは事実だ。そろそろ仕掛けたほうがいいだろうか? 

 

「……沈黙は、お嫌いですか? 罪人の機嫌を取る意味などないでしょうに、そんなに嫌なら、部下に押しつければいい話じゃないですか」

 

 空蝉ではなく、スィン本人の口で話しかける。

 初めて口をきいたプチスィンに、彼は驚いたように彼女を見下ろした。

 ここ数日で、舌足らずな話し方はどうにか改めてある。

 

「……聡明なお嬢さんですね。この間お会いしたときにはいなかったように思いますが……」

「いなかったんだから当たり前じゃないですか」

 

 一刀両断に近い、鼻先でぴしゃりと締め出されたような感じすら覚える言い草だった。

 当然のことながら、フリングスは気圧されたように沈黙してしまっている。

 ……そろそろいいか。

 

「ところで、あなたは僕の特徴をどこで入手されました?」

 

 これまでとは、打って変わった人間味溢れる口調である。

 事務的な感は拭えないものの、今までの永久凍土にも似た響きと比べれば春を迎えたような暖かさ、否温かさがあった。

 フリングスは喜んで質問に応じてくれている。

 

「失礼ですが、グランコクマに入られたそのときに確認させていただきました。事前に雪色の髪をした女性が来たら連絡しろとの通達がありましたので。緋色の眼、更に片側を眼帯で覆っていると陛下に報告したところ、あなたをカーティス大佐一行より隔離せよと」

「で、これですか。この後僕らはどうなります?」

「……すみません。ここから先は私も知らされていないんです」

「へえ。少将クラスにも内緒で、しかも使い走りさせたのですか。公私混同にも程があると思いませんか?」

「いえ、その……あなたには更に違う容疑もかけられている、と聞き及びました。詳細はわかりませんが、おそらくそちらが関与していると思われますが」

 

 予想通りだが、嬉しくない。

 最早意味もなくなってしまった眼帯は外して、再び黙り込む。

 フリングスはフリングスで、要らないことを口走ったでも考えたのか、それ以上何も尋ねてこなかった。

 ある意味では、その通りだが。

 やがて、彼は軍本部の奥まった一角にて立ち止まった。

 牢獄──ではないだろう。辺りの雰囲気が明るすぎる。同じ理由で拷問部屋も却下だ。

 もしも該当するなら腐臭、異臭の類があってもいいはず。

 完全防音設備なら聞いたことはあるが、完全消臭設備など聞いたことがない。せいぜい、香水をばら撒く程度だろう。

 ここには、そんな強烈な香りもない。無臭ではないが、これといって際立つ香りもないのだ。だから医務室とか、そんなオチもないだろう。

 周囲の雰囲気からして、研究室か何かではないかという推測が一番近いような気がする。

 しかし、調べられるようなことなど──ふと、スィンはある可能性を思い浮かべていた。

 

 もしも、スィンの抱える瘴気触害(インテルナルオーガン)が、皇帝の耳に入っていたとしたら? 

 

 今この場で調べられて、治療等を理由に一行から──ガイから、ジェイドから引き離されるかもしれない。

 それを考えて、スィンはいやいやと首を振った。

 そんな馬鹿な。自分の病状の詳細を知るのは、ベルケンドにいる医師なのだ。平常時はともかく、今のこの状況でマルクト軍の諜報員が、わざわざ調べることか? 

 もしかしたらジェイドが提出した報告書に疾患のことが載せられていて、それをピオニーが読み、興味を抱いて今まさに調べようとしているのかもしれない。

 しかし、音機関の発達がキムラスカよりは著しいマルクトの医療音機関なら、誤魔化すことは可能だ。調べられている最中、ちょっと第三音素(サードフォニム)を発生させれば、繊細な音機関はあっという間にショートする。

 それではキムラスカもマルクトも差異はない、という突っ込みは置いといて。

 まさか検査中、猿轡をされるということはなかろう。

 音機関がショートする程度の電流なら、身振り等動作は要らない。検査なら、たやすく免れることが可能だ。

 問題があるとするなら、それ以外の事態である。

 得られた情報が皆無に等しいこの状況、この先で何が待っているのか、または起こるのか、想像だけで未来を予想するには限度があった。

 フリングスの手が上げられ、規則正しいノックがきっかり三回、なされる。

 

「フリングスなら入れ。他は後にしてくれ」

 

 そんな応対が、閉ざされた扉の向こうでなされた。

 

「失礼します」

 

 一言断って、フリングスが扉を開く。そのまま続こうとして、足を止めた。

 彼はそのまま入っていこうとはせず、半分扉を開けた状態で中の人間に話しかけていたからだ。

 

「ん? どうした」

「──その、子供を連れています。離しましょうか?」

「子供? ……いや、かまわない」

 

 どこかで聞いたことがあるような声、それも女性の声が部屋の中から聞こえてくる。

 マルクト軍に知り合いなど、ジェイドやフリングスくらいしかいないものと思っていたのだが。

 誰の部屋なのか、プレートを探したが、それらしいものは見当たらない。

 しかし、相手は少なくともフリングスに偉そうな口を叩いている輩だ。少なからず少将と同じか上の位の人間が、この中にいる。

 そうこうしている内に、スィンは空蝉と共に部屋へ招かれた。

 空蝉には至って颯爽と歩かせ、当のスィンは用心しいしい足を踏み入れる。

 眼に入るのは対面式のテーブルに椅子二客と内装はシンプルなもので、どうも誰かの執務室とかそういった部屋ではないらしい。

 部屋の主は、書類サイズの紙束を流し読みしながら何かを嗜んでいる。

 手にしているのは、麦茶か何かか。懐かしくて香ばしい香りが漂う。

 

「シア・ブリュンヒルドを連れてまいりました」

「御苦労さん。陛下によろしく」

 

 短いやり取りで、フリングスは立ち去って行った。その際、まるでついでのように空蝉の手錠を外していく。

 足音が遠ざかる音を聞いてか聞かずか、部屋の主はスィンを見やったようだ。

 

「さて……あたしのこと、覚えてるかい」

 

 言われて、空蝉の視点に切り替える。

 幸か不幸か、スィンは質素な椅子にふんぞり返る行儀の悪いその人物に覚えがあった。

 

「……カンタビレ」

「久しぶりだね。『ヴァンの情婦』」

 

 黒眼帯に、きりっと締まった顔立ちの、男装の麗人。

 かつてまとっていた神託の盾(オラクル)騎士団の師団長制服ではなく、マルクトの軍服に身を包んだ彼女は、そう言ってにや、と笑った。

 沈黙が漂う。

 カンタビレは椅子に座ったまま、スィンも空蝉も立ちすくんだまま。

 やがてカンタビレが口を開いた。

 

「用向きの前に……その子供は? また拾ってきたのかい。あのアッシュって坊やみたいに」

「拾ってはいない」

「ま、そうだよね。世界広しといえども、こんなにあんたそっくりの他人はいないよ。じゃあ、主席総長との子かい? 父親の面影が全然ないみたいだけど、いつから無性生殖なんてできるようになったんだね」

 

 それも否定すれば、彼女は心底どうでもよさげに、そうかい、と席を立った。

 湯呑みを持って部屋の隅、茶器やら何やら細々としたものがまとめられたスペースで手を動かしている。

 

「座んな。予備の椅子はないから、その子供はあんたの膝でいいだろ」

 

 促されて、椅子を引く。空蝉の視線で何も仕込まれていないことを確認してから腰かけた。その膝に、スィンが乗り込む。

 戻ってきたカンタビレは、その手に盆を携えていた。盆の上には、三つの湯呑みが乗せられている。

 無言でふたつの湯呑みが空蝉の傍に置かれて、スィンは思わず「ありがとうございます」と言っていた。

 

「へえ。ちゃんと礼儀だけは仕込んでるんだ」

「あの……」

「あたしにとってあんたが誰かはどうでもいいから、黙って座ってな。あんたの母ちゃんと大切な話があるんだ」

 

 どうしよう、話しにくい。あまり手の内をさらしたくないから好都合ではあるのだが。

 出された麦茶を小さな手で包み込むように持つ。

 薬物の混入も考えたが、今のスィンは小さな子供。それらしく振る舞うよう心がけた。

 ──懐かしい味。しかしなんだか妙に甘い。スィンは思わず眼を細めた。

 

「言っとくけど薬なんか入ってないよ」

「そうみたいだね」

 

 言いながら空蝉には、スィンが手をつけた麦茶に手を伸ばす。

 空蝉に飲み食いはできない。

 それでも彼女の手前、口をつけてみせた空蝉に対してもちろんカンタビレは眉をひそめていた。

 

「なんにも入れてないって言ってるじゃないか」

「それならさっき聞いたよ」

「子供の分奪うことないだろ」

「僕の勝手だよ」

「ちなみにそれ、何かわかるかい?」

「なあに、利き茶? 麦茶でしょ。多分エンゲーブ産とセントビナー産とちょっと砂糖混ぜてる。お子ちゃま舌なんだね」

「そ、それは子供用に調整したから」

「しかもこれは、本当は水出し用のやつ。水で淹れれば時間がかかるし、あなたは冷たいもの苦手だから仕方ないね。氷食べるとお腹下しちゃうんだっけ」

「な」

 

 のらりくらりと屁理屈といやみをこねて、湯呑みを元に戻した。

 カンタビレは納得していないようだが、この際彼女の機嫌などどうでもいい。

 憤慨したように何かを言いかけるその瞬間に、空蝉に口を開かせる。

 

「ロニール雪山で、危うく全滅するところだった」

 

 この一言で、カンタビレは開こうとした口を噤んだ。痛いところを突かれた、という顔に見える。

 スィン自身でその表情をつぶさに観察しながら、空蝉には言葉を続けさせた。

 幸いカンタビレは空蝉の顔を見ていて、スィンの方には頓着していない。

 

「その噂を最後に見なくなったと思ったら、還俗していたんだね。今度はマルクト軍に所属した。今の地位にいるのは、神託の盾(オラクル)騎士団に居た頃の地位を考えて、なのかな」

「……そんなもんさね。いくつか事情込みだけど、大筋は間違っちゃいないよ」

「とうとう大詠師にスッ飛ばされたか」

「あんたにそんなこと話す義理はないよ。『ヴァンの情婦』」

 

 眦をわずかに吊り上げて、カンタビレが空蝉を睨む。

 もうクビになっちゃいました、とお道化て返せば、茶化すんじゃないと怒声が返ってきた。

 スィンの伝え聞くカンタビレその人の像にあまり変化は見られない。

 いわく、戦場では勇猛果敢にして大胆な戦法を好む女傑だが、組織内では何とも不器用な性質(タチ)の女性上司。良くも悪くも言動は素直でトラブルを起こしがち、主だった原因が歯に衣着せないその物言い。

 着せる気がないのか着せる知恵もないのか、故に上の人間から──主席総長たるヴァン、大詠師モースからは相当疎まれている。

 疎まれた末の、この結果かと思われた。

 

「あのさ……」

「ヴァンの情婦、なんて陰口が横行してたくらいだ。主席総長が何をしようとしてるのか、知らなかったとは言わせないよ」

 

 そして、現在の世界情勢についてカンタビレは語り始めた。

 大体がスィンも把握している事態だが、つまるところ彼女は、近しい人間であったスィンがヴァンを野放しにしたことを怒っているらしい。

 

「どう責任取る気なんだい!」

「責任の所在なら主席総長にある。僕に責任を取ることはできない」

 

 なぜならそれはヴァンの罪で、スィンの罪ではないから。

 殊更淡々と語る空蝉の様子が気に食わないのか、カンタビレは知らず声量を跳ね上げた。

 

「あいつを止められなかった時点で同罪に決まってるだろ!」

「現在鋭意対応中だよ。あなたはヴァンやモースの思想を毛嫌いしていたから、心強い味方になってくれると思っていたけど。ここにいるのではどうにもならないね」

 

 このまま彼女の好きに話をさせていたら、いつまで経っても終わらない。

 そう判断して、スィンはまずこの話を収めるべく言葉を探した。

 

「どういう意味だい」

「まあでも、こっちの協力者になったら間違いなく周りに被害が出るだろうから、やっぱり何も頼めなかったかな」

 

 その辺りを考えると、なぜアニスの両親が未だ無事なのか、少し不思議な話である。

 彼女の両親に手を出せば間違いなく導師イオンの知ることとなるから、少なからず大詠師は自重しているのでは、というのがスィンの見解であった。

 カンタビレは、周り、という単語に対してわずかに動揺している。

 ここで空蝉は、意図的ににっこりと笑みを浮かべて見せた。

 

「もともと体の弱いお父さん、家族を養うために体を壊しちゃったお母さん、生まれつき眼の見えない弟……あなたは家族が大事なんだよね。彼らはあなたの気持ちより選ぶべきもので、基本猪突猛進なあなたが、何よりも優先している人たちだものね」

 

 先ほどの勢いはどこへやら。家族のことを取り沙汰されただけで、カンタビレはあっけなく怯んだ。

 虚勢を張っているのがよくわかる様子で、動揺をあらわにした瞳が空蝉を睨む。

 

「な、なんだってあんたが、それを知ってるんだい!」

「なんでって。当時は主席総長の子飼で、特務師団なんて胡散臭いところに所属していた僕が、なんだってそんなことすら知らないと思っていたのさ」

 

 発足したばかりの特務師団に任されたのは、神託の盾(オラクル)騎士団内における内部調査が主だった。組織内における反乱分子の芽を早期に発見し、摘み取ることも任務の一環だったことは確かである。

 派閥争いを疎んじ、実力でその地位にいたカンタビレもまた、教団内の異分子として調査対象ではあった。

 その過程で彼女がどんな人間かも、何を背負っているのかも、把握はしている。

 

「ね、カンタビレ」

「な、なんだい。それで脅かしてるつもりかい」

「こんな話をするために、連行してきたわけじゃないでしょう」

 

 カンタビレは元の目的を思い出したようで、コホンとひとつ咳をした。

 それまでの話などなかったかのように、書類に眼をやって空蝉を見据える。

 ──どうやら、やっと本題へと入るらしい。

 

「陛下から大体のことは聞いたよ。あんた、死霊使い(ネクロマンサー)を殺そうとしてるんだって?」

「ううん」

 

 この場でそう問われて「はい、そのとおりです」と答える人間はごくわずかだろう。空蝉は首を振って即答した。

 その言葉はもちろん間違っていない。しかし、スィンは少なくとも彼を殺そうとしているわけではない。

 

「殺そうとはしてないし、僕が殺したかったのは死霊使い(ネクロマンサー)じゃなくて、バルフォアさんの方。理由なら、陛下から聞いてるでしょ?」

「同じことさ。そいつはカーティス大佐の旧名だろ。あんたを軍属詐称で引っ張ってきたのは、建前さ。カーティス大佐の傍にあんたがいることは非常に都合が悪いんだよ」

 

 彼女の言葉は単純明快で、いちいち言葉の裏を図らなくてすむのはありがたかった。

 もしかしたらカンタビレのそういった性格を見越した上で、その裏に何か仕込んでいるのかもしれないが。今のところはそれを疑うくらいしかできない。

 空蝉に相槌を打たせる。

 

「うん、そうだろうね」

「じゃあ話は簡単だ。あんたはちょっとばかし、頭を冷やしな。後は大佐と、あんたのお仲間にがんばってもらうってことで」

「それは無理。大佐の方を隔離させれば話はもっと簡単に済む」

 

 本来は大将の務まる実力者であっても、どんなに悪名高かろうと、彼の地位は大佐でしかない。今のようなフィールドワークから軍へ呼び戻すこと自体は可能であるはずだ。

 それをしない理由を尋ねるも、カンタビレは答えようとしなかった。

 知らないのか。知っていて話すことができないのか。単なる嫌がらせか。

 

「そいつをあんたに話す義理はないよ。こっちにだって色々あるんだ」

「──カンタビレ、陛下から聞いてるかな? 僕ももう還俗していて、今は本業に従事してるんだよ」

「本業?」

 

 皇帝には話したのだが、聞き流されたか意図的に話していないのか。反応からして何も知らないように見える。

 この辺りを疑っていても仕方がないと、スィンは勘ぐるのをやめた。

 

「そ、本業。そっちが忙しいから、カーティス大佐を殺してる暇なんて……」

「まさか、仲間を裏切って主席総長の間諜(スパイ)やってんじゃないだろうね!」

 

 莫迦じゃなかろうか。空蝉にがっくりと肩を落とさせて、呆れたように本音を話させた。

 

「仮にそうだったとしても、あなたに事実を話すわけもない。どうやってその考えに至った?」

「あんた、情婦から伴侶にランクアップしてるだろ」

「なんだ知ってたの。あんなに情婦情婦連呼してたのに」

「怒らせようと思ってのわざとに決まってるじゃないか」

 

 それを暴露してしまったら意味がないのだが、カンタビレはもう情婦呼ばわりで挑発する気がないのだろう。

 ジェイドの件などそっちのけで、彼女は鼻息荒く質問を連ねた。

 

「鼻にも引っ掛けないなら答えてもらうよ。まだ主席総長と繋がっているのかい?」

「離縁を申し込んだら、死別しか認めないらしくて、殺されかけた」

「大馬鹿だよ、あんたは。あの主席総長に真っ向からそんなこと言うなんて、まんま殺されに行くようなもんさね」

 

 おおまかな事実のみを述べれば、カンタビレは呆れたように鼻で笑っている。そのまま死んじまえばよかったのに、と言いかけ、プチスィンを見て気まずそうに口を閉ざした。

 もともと戦うつもりなど微塵にもなくて、交戦になったとしても一応策あってのことでと、言いたいことはたくさんある。

 しかしそれをカンタビレに語って納得させたところで、何もなりはしない。

 スィンは甘んじてその罵りを受けた。

 

「……否定はしない。事実死にかけたことだし」

「あんたは神託の盾(オラクル)騎士団に入ったときからそうだったよね。幼馴染だかなんだか知らないけど、演習場で総長殴り倒すは、いきなり子供連れてくるわ、それに乗じて孤児院の子供まで引き取ってくるわ……」

 

 前者は確かにスィンのしでかしたことだが、子供を連れてきた関連を責められても正直困る。

 孤児院の子供達とは、当時言いつけられた『使い捨ての駒の育成』をするにあたって必要な人材達だった。

 連れてきた子供とはきっとアッシュのこと。

 アッシュのことが目立たないよう孤児院から見込みのある人材を引っ張ってくるよう言いつけられたのか、使い捨ての駒は実際必要だったのか、真相は藪の中だが。

 

「アニスのことだってそうさ。タトリンさんのところから引っ張ってきたと思ったら、よりにもよってモースのところなんかに売るなんて!」

「孤児院の子供達に護身術教えてるって聞きつけたパメラさんが是非にと言うんだもの。アニスはどう見ても譜術寄りだったから、ちゃんと基礎から学ばせたほうがいいと持ちかけたけど、士官学校に通わせることはできないって言うし。だったら、こっちにできるのは『敬虔な信者の、才能ある子に支援できないか』って上の人に持ちかけるくらいだよ。それ以上の関与はない……モースに目をつけられたのは、不幸だったね、としか」

 

 実際の理由は「いくら才能があっても両親のいる子供を使い捨ての駒に仕立てることはできない」という判断からだが。それを彼女に言ったところでどうにもならないし、それを口外できない正当な理由もある。

 殴り倒した件については、軍属になった途端「腕が錆びていないか確認する」と演習場に連れてこられたときのことだろう。

 当時まだヴァンの立ち居地をきちんと把握していなかったスィンは、それでも入りたての新人が好き勝手してはまずいかなと手心を加えた。

 具体的に言えば、剣戟についていけない振りをしてさっさと勝負をつけようと──劣勢を装って場外に下りようとしたのである。

 しかし、それを見抜いたヴァンが「見え見えの手抜きをするな!」と怒髪天を突く勢いで怒り出したため、なら遠慮なくと怒っている彼の隙をついて一撃入れたというエピソードだ。

 主席総長も愛人には本気になれないとか、影で情婦呼ばわりされるようになったのも、その一件が発端でもある。

 

「どうなんだい!? 何か申し開くことはあるかい」

「退役軍人は在籍中の行い一切の隠匿を義務付けられてる。あなたに話すことは何もない」

 

 すっかり本題からそれてしまった現状を厭うて、スィンは軽く頬をかいた。

 兎にも角にも、まず彼女の真意を──スィンがここへ連れてこられた目的を聞き出さねば。

 一切合切を拒絶されたカンタビレはといえば、二の句が告げられないらしく押し黙っている。

 

「……こンの、女狐……!」

「ねえカンタビレ。結局僕どうなるの? この警告を聞いても聞かなくても牢屋行き? だったらその前に、みんなに挨拶しときたいんだけど」

 

 どうにかこうにか口を開いたところで、スィン扮する空蝉は話を本題へ持っていこうとした。

 もしもそうであるならば、主の了解を得てさっくり逃げ出す魂胆である。幸い彼女は空蝉をスィンと思い込んでいるのだ。方法はどうとでもできる。

 しかしカンタビレは、首を横に振った。

 

「その前に、なんだいその、ちっちゃい男の子みたいな話し方は! あの嫌味ったらしい敬語はどこいったのさ?」

「嫌味ったらしい敬語は、僕が知る中でもっとも『みんなにきらわれるもの』を参考にしたもの。こっちが僕の素」

「きらわれもの……? ディストの奴か」

「ニアピンー」

 

 同じケテルブルクの天才と称され、死霊使い(ネクロマンサー)と呼ばれ畏れられる彼の人間性を参考にしたものである。

 バチカルを追放処分となった当時、それほど長くダアトに属するつもりがなかったスィンは周囲と一線引くために、意図して『きらわれもの』になろうとシアを演じていた。

 死霊使い(ネクロマンサー)についての情報こそ、ディストからの伝聞ではあったが。それでもそこそこ目的は叶ったものと思っている。

 事実、眼前のカンタビレはスィンのことを、ヴァンの子飼いであったことも加えて嫌っていたはずだ。

 

「どうでもいいけど気色悪いよ。取り繕いな」

「カンタビレは素直だねえ。そんなに嫌がられると、ますます直したくなくなっちゃうよ。どうでもいいなら、ほっときなって」

 

 にやにやと、空蝉に嫌気のさす笑みを浮かばせながら、疑念を形とする。

 先程からか、始めからか。彼女の話にはまとまりがない。

 それが意味するもの。

 思いついたことを片っ端から尋ねているようにも見えるし、スィンにはわからないよう外部と連絡を取り合って、尋ねるよう指示されたことをその場その場で口にしているようにも見える。

 ただそれには少なくともこの光景を監視していなければならないが、室内を見回しても該当する音機関は見当たらなかった。

 となると、監視ではなく盗聴か。

 テーブル上に集音器らしいものは見当たらないが、カンタビレの耳に直接声を届けられそうな代物は──あった。

 軍人として、たとえ響律符(キャパシティコア)であろうと見えるところに装飾類をつけるなど言語道断だ、と公言して憚らなかった彼女の耳には、貝殻を象った飾りがしがみついている。

 

「なんだい」

「素敵な耳飾りだなって。お洒落する概念が身に付いたことは、あなたの人間性がちょっと柔軟になった、ってことでいいことなんじゃないかな」

 

 思わず視線を張りつけてしまったことを誤魔化すべく、慣れないおべっかを使う。

 予想通り、カンタビレは慌てだした。

 

「そ、そんな物欲しそうな目で見てもあげないよ!」

「うん、見てないしいらない。それで、何の時間稼ぎをしているの」

 

 びくり、と彼女の肩が跳ね上がった。

 それを見逃してやるスィンではない。

 

「時間稼ぎなんだね。人を問答無用で連行してきて、牢獄に放り込む準備でもしているの?」

 

 ぷい、と横を向いてしまった彼女の顔をじっと見つめる。

 初めて訪れた沈黙。スィン自身も同じように見つめ続けると、何かに耐えかねたのか。カンタビレはゆっくりと視線をこちらへ寄越してきた。

 どっちが尋問官なのかわかりゃしない。

 

「……牢屋行き、にはならないさ。今の時勢が時勢だからね。営倉も隙間なんかないよ」

「僕ここの軍人じゃないから、営倉なんて入れようもないと思うけど」

「カーティス大佐の副官とか自称してたろ? 絶対に不可能ってわけじゃないさ。やらないけど」

 

 自称した覚えはないが、そういうことになっているのだろう。

 いちいち訂正したところで、彼女が聞き入れるかもわからない。

 

「あんたには特別罰則を受けてもらう。今はその準備中なのさ。結構手間取ってるみたいさね」

「……特別、罰則」

 

 内容が非常に気になるところである。

 罰金で解決できるものなら、スィンは持ち金を駆使してそれを甘んじて受けていただろう。仲間内の誰かに借金することも厭わなかったはずだ。

 牢獄に放り込まれるものならば、主の認可が受けられ次第、脱獄する気満々だった。

 この単語だけでは、何をするのかされるのかも、よくわからない。

 

「何させるの? 何するの、でもいいけど」

「人殺し、だよ」

 

 戸惑いを露とするスィンを前に、当初の余裕をどうにか取り戻したか。

 カンタビレはそう言って、にやりと笑った。

 

 

 

 

 



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第九十九唱——進むは和平条約交渉、絡まるは私情のもつれ

 

 

 

 

 

 

 

 

「陛下の機嫌を損ねる前に、和平条約に関連しての交渉を終わらせましょう。スィンについて問いただすのは後回しです。理解してくれますね、ガイ?」

「わかってる」

 

 和平条約について、ピオニーが快諾してくれることはわかりきっている。

 しかし、今彼らが謁見する用件と言えば和平条約に関する打ち合わせについて、だ。開口一番スィンのことを切り出すわけにはいかない。

 そんな短い打ち合わせの後に、一行は謁見の間へ通された。

 件の皇帝はどっしりと玉座に座しており、心なしか険しい一行の眼を微塵にも気にする素振りは見せない。ただ単に鈍い、あるいはその手の感情を隠すのに長けているのかもしれないが。

 どこかギスギスした空気の中、飄々とジェイドが歩み出て皇帝に一礼する。

 帰還報告、並びに和平条約締結に向けての報告を語れば、彼はどこかほっとしたように息をついた。

 

「……そうか。ようやくキムラスカが会談に応じる気になったか」

 

 ほっとして見せる反面、もう少しこの報告が早ければいたずらに兵士たちの命を散らすことはなかった、と悔いているようにも見える。

 そこへ皇帝の心を汲むように、気持ちを一国の王女のものへ切り替えたナタリアが進み出た。

 

「キムラスカ・ランバルディア王国を代表して、お願いします。我が国の狼藉をお許しください。そしてどうか、改めて和平条約の……」

「ちょっと待った。自分の立場を忘れてないか?」

 

 口上の最中、急にそんなことを言い出したピオニーに、ナタリアもルークを不思議そうな顔を隠さない。

 苦笑しながらも、彼はどういう意味なのかを説明してくれた。

 

「あなたがそう言っては、キムラスカ王国が頭を下げたことになる。……止めないのも人が悪いな、ジェイド」

「おや、ばれてましたか」

 

 書記官に記録の削除を要請しながら、ぺろりと舌を出さんばかりのジェイドを横目で見やる。

 おそらく止めなかったのは、マルクトに少しでも有利になるようにとの下心所以だろう。

 しかし、マルクトの皇帝たるピオニーはそれをよしとはしなかった。おそらくキムラスカとの間柄を、本気で修復したいとの気持ちの現れであろう。

 どこまでも、皇帝らしからぬ誠実な人柄だった。

 

「ここはルグニカ平野戦の終戦会議という名目にしておこう。で、どこで会談する?」

「本来ならダアトなのでしょうが……」

「今はマズイですね。モースの息のかかっていない場所が望ましいです」

 

 ジェイドの提案を、ダアト代表と言っても過言ではないイオンが否定する。

 一瞬の沈黙、後にルークが口を開いた。

 

「ユリアシティはどうかな、ティア」

「え? でも魔界(クリフォト)よ? いいの?」

「むしろ、魔界(クリフォト)の状況を知ってもらった方がいいよ。外殻を下ろす先は、魔界なんだから」

 

 的を射た意見に、ジェイドは「ルークにしては冴えている」といったおちょくりもなく採用していた。

 一応、謁見の間であることを自覚している様子である。同じような場所で、大胆にも第三王位継承者を小馬鹿にしていたのが嘘のようだ。

 

「悪くないですね。では陛下、魔界(クリフォト)の街へご足労いただきますよ」

「ケテルブルクに軟禁されてたことを考えりゃ、どこも天国だぜ。行ってやるよ」

 

 ……と、滞りなく和平に向けての段取りは終わるかと思われたが、ここで問題が生じていた。

 間違ってもスィンのことではない。

 

「こうなると、飛行譜石が必要だな」

「そうですね。飛行譜石はディストが持っています。ただ、どこにいるのかは、ダアトでトリトハイムに確認しないとわかりません」

 

 結局のところ、ダアトへは必ず行かなくてはならない。

 一国の主たちを同伴しなくてもいいことから、彼らへの暗殺を警戒しなくてもいいにはいい。

 しかし、厄介なことに変わりはない。

 

「ダアトか……。モースも戻ってるんだろ。危険だな」

 

 想定されるいざこざを憂い、ガイが眉を曇らせる。

 ルークもまた、物事が円滑に進まないこの事態に苛立ちをあらわとしていた。

 

「くそ! なんだってディストの奴が飛行譜石を持ってるんだよ。面倒だな」

「興味があるんでしょう。あれは、譜業や音機関の偏執狂ですからね。ガイと同じく」

 

 沈んだ一同の雰囲気を和らげんとしてか、ジェイドが軽口を叩いている。

 新しく見る顔に皇帝は口を挟んでこないが、イヤミなその物言いにガイは華麗にスルーをしなかった。

 

「誰が偏執狂だって?」

「そうですよ。ガイとディストを一緒にしてはいけませんね、ルーク」

「俺は何も言ってねぇっつーのっ!」

 

 まったくもってその通りである。

 

「ほらほら、いつまでもふざけてないで。ティアが睨んでますよ」

「……もういいです」

 

 次から次へと他人のせいにして煙に巻くジェイドに、ティアはあきらめたように息をついた。何を言っても無駄だということは、これまでの付き合いが教えてくれる。

 突如繰り広げられたショートコントに、ピオニーはあっけにとられた風もなく苦笑しただけだった。

 流石はジェイドの親友、インゴベルト国王ではこうはいくまい。

 

「まあ、そいつに関してはそちらに任せよう。いつ可能になってもいいよう、支度はしておく」

「そうしてください。では、そろそろ本題に入らせていただきましょうか」

 

 ──ジェイドがそれを言い終わる頃、ほぐれかけていた一行の雰囲気はにわかに張り詰めた。

 

「ん? 何のことだ」

「まずは紹介しておきましょう──ガイ」

 

 ジェイドの声に応え、ガイはさっと前へ出ると優雅な会釈を披露した。

 

「お初にお目にかかります、陛下。ホド領ガルディオス伯、末子ガイラルディア・ガランに御座います」

 

 以後お見知りおきを、と締める。

 聞き覚えのあるその家名に一瞬眉を動かしたピオニーの変化を見逃さず、ジェイドは詰め寄るような言葉を続けた。

 

「尋ねたいのは彼の従者、スィン──いえ、シア・ブリュンヒルドの名で連行された女性のことです。また報告書を読まれなかったのですか、陛下?」

 

 にこにこにこ。

 ジェイドはきっと、そのように形容される笑みを浮かべているのだろう。

 しかし、どうやらその瞳は少なくとも笑っていないらしい。

 現にピオニーは皇帝らしからぬ態度で冷や汗をかき、速やかに玉座の後ろに隠れようとしている。

 

「陛下、子供じゃあるまいし、遊んでないで我々を納得させる説明を。何のことかわからない、とは言わせませんよ」

「……それはこちらの台詞だ、ジェイド」

 

 恥も外聞もなく玉座の後ろに体を隠し、顔だけのぞかせたピオニーは渋い表情をしていた。

 

「何のことです?」

「とぼけるな。シア──今はスィン、なのか? あいつがお前に何もしなかった、とは言わせないぞ」

「おや? スィンは軍属詐称で連行されたようですが」

「便宜上はな。第三師団師団長暗殺容疑も考えなかったわけじゃないが、その件に関してはキムラスカの密命が下っていたんだろう。平和条約を交わそうってこのときにほじくり返すのはまずい」

「なるほど……言い逃れできない罪を全面に持ってきて、連行を可能にしたのですか。それで」

 

「彼女に何をするつもりですか?」と続けようとして。

 ジェイドの口上は止まらざるをえなかった。

 何故なら。

 

「……大佐の暗殺に、スィンが我が国の密命を!? 何ですのそれは、初耳ですわ!」

「どういうことですか。スィンが、ジェイドを……?」

 

 何も知らなかったナタリア、並びにスィンとジェイドの確執に関してやはり何も把握していなかったガイが双方に詰め寄ったからだ。

 

「詳細は後ほどご説明しましょう。スィンは以前、キムラスカの密命という形で私の首を狙っていたことがあります」

「……詳細は後で本人に聞け。密命とは別に、おまえの従者はわけあってジェイドに恨みを持っている。このままなら、あいつをマルクトで生かすことはできん」

 

 衝撃の事実に黙った二人を置いといて、ジェイドは再び玉座に隠れるピオニーを批難するように睨みつけた。

 

「それで、彼女に何をするつもりですか?」

「……ちっとばかり大人しくなってもらう。ガイラルディアには悪いが、これは議会でも決定したことだ。今はただでさえ人員不足だってのに、第三師団の師団長を暗殺されるわけにはいかない」

「陛下の御前で彼女が語ったあの言葉は、すべて偽りだったと?」

「少なくとも、すべてがすべて本音だったとは思えん」

 

 独断と偏見と私見、更に邪推の混ざった極めて一方的な推測である。

 ともすれば我侭にしか聞こえない皇帝の弁に、ジェイドはわざとらしいため息をついた。

 ピオニーは気づいただろうか。それが親友の、彼に対する失望を示していることに。

 

「……陛下。それはあまりに身勝手が過ぎますよ」

「お前はっ!」

 

 ジェイドの視線から逃れるように玉座の後ろへ隠れこんでいたピオニーだったが、そのジェイドの一言が疳に触ったらしい。

 激昂したように立ち上がり、ジェイドの視線を受けてまた気圧されている。

 

「お前は、あの女の本性を知らないから! ……あの女は間違いなくお前寄りだぞ」

「というと?」

「それだけ色んなモンが尋常じゃねえんだよ!」

 

 さりげなくジェイドを化け物扱いしつつ、彼は意を決したように玉座へふんぞり返った。

 威勢はいい。しかし、虚勢丸出しである。

 

「俺があの女に会ったのは、何年前だと思ってんだ。頭に血が上ってたか何だか知らねえが、七つかそこらのガキにあんな凄まじい殺気が出せてたまるか! 俺は本気でションベンちびるところだったんだからな」

「……下品ですねえ。一国の主ともあろうお方が、何情けないことを胸張って言ってるんですか」

「事実だったんだから仕方ねーだろ!」

 

 それでも彼は女性たちに失礼、と侘び、気を取り直したように大きく咳をした。

 

「とはいえ、本気で牢屋にブチ込もう、とかは考えてない。今はそんな余裕がないんでな」

「戦争中ですからねえ。ただでさえエンゲーブが崩落していて食糧不足気味なのに、余計な犯罪者を増やし、更に気前よく食わすタダ飯はありません」

「そういうことだ。だからといって見逃しもできん。だから……特別措置を設けさせてもらった」

 

 特別措置。その異様で怪しげな響きに、ジェイドもガイもわかりやすく眉をしかめた。

 

「特別措置? それは「失礼します、陛下」

 

 ガイの声を遮って現れたのは、先ほどスィンを連行したアスラン・フリングス少将その人である。

 どうも事前に呼ばれていたらしい彼に、一同はとりあえず道を譲った。

 だが。

 

「よお、ご苦労だったな」

「……ねぎらいありがたく存じますが、本当によろしかったのですか? 死刑確定者らの減刑擬似戦闘に女性を、しかも若く見目のいい方を加えるなど……飢えたハイエナの檻に子兎を放り込むようなもの」

「フリングス少将」

 

 背後から立ち上る異様な気配。

 彼が慌てて振り向いた頃には、今にも腰の得物を引き抜かんと指をわきわきさせているガイの姿があった。

 

「その話、もう少し詳しく聞かせてもらえないか?」

「ガイ……賛同したくて手がうずうずしてきましたが、殿中ですので控えましょう」

 

 なにやら黒いオーラをまとうガイをどうどう、と鎮め、彼は標準装備の胡散臭い笑みを浮かべてフリングスと対峙した。

 彼はジェイドから、ガイとは違う種類のオーラを感じ取っているらしく、完全に気圧されている。

 

「まさかとは思いますが、加えたというのはスィン……先程連行したじゃじゃ馬のことで?」

「……と、そのご息女と思われる少女です。以前は連れていなかったように思いますが、一体」

「連れていなかったのですから当たり前でしょう。彼女にも色々と事情があるのです」

 

 言い訳も何もなく想定外の事柄を問われて、ジェイドは答えることなく煙に巻いた。

 今のスィンは幼い少女の姿をしていて、スィンのふりをしているのは彼女が創り出した空蝉なる人形であったことを思い出す。

 

「……少女を連れている? どういうこった」

「それが彼女にそっくりな「と、ところで陛下! 減刑擬似戦闘っていうのは……その、なんですか?」

「飢えたハイエナの檻に子兎を放り込むようなもの……死刑確定者というのも、聞き逃せません」

「まさか、捕まえてある犯罪者と殺し合いでもさせるつもりなんですかぁ!?」

 

 この状況下で、スィンに関する新たな情報を彼らに与えるわけにはいかない。

 ジェイドの視線を受けてルークがフリングスの言葉を遮り、ティア、アニスによる連携で皇帝の気を引きにかかる。

 殺し合い、というあたりで言葉をなくしているナタリアに気をかけながらも、ピオニーは小さく頷いた。

 

「今から、お前らから離れた……この場合は主たるガイラルディアでいいか? ともかく、あいつの本性を垣間見ようと思う」

 

 唐突にピオニーが、ぱちんと指を鳴らす。

 フリングス少将及び皇帝の護衛についていた兵士が素早く動いて、なにやらてきぱきと音機関やら譜業の設置準備を始めていた。

 

「本性?」

「確約はできんが、それでも多少はわかるはずだ。シアがどんな女なのかをな」

 

 暗幕が引かれ、謁見の間が薄暗くなる。

 どういった仕組みなのか、水鏡の滝が奏でていた落ちゆく飛沫の音すら聞こえない。

 

「始めろ」

 

 皇帝の合図により、音機関は稼動を始めていた。

 

 

 

 

 

 



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第百唱——絡まる糸はほぐれることもなく

 

 

 

 

 

 

 

 

 謁見の間にて監視されていることは露知らず、彼女の言葉を繰り返す。

 

「人殺し、て」

「さっきも言ったように、こんな時勢だからね。死刑相当の犯罪者なんか山のようにいる。いちいち刑にしてたら手続きが大変なんだよ。あんたにはそいつらと、減刑をかけて殺し合いをしてもらう」

 

 ようやっと明かされた、連行の目的。

 まさかの事態に、スィンは目を白黒させるしかなかった。

 

「なんだい? 不服かい?」

「なんていうか……何と言ったらいいか」

 

 戸惑いを隠さず、しかし混乱を露にするでもなく。

 スィンはまず思ったであろう疑問を口にしていた。

 

「僕は死刑レベルの犯罪者なの?」

「第三師団師団長暗殺容疑、及び軍属詐称、あと陛下への不敬罪、軍本部と王宮無断侵入。積もりに積もった感じさね」

「不敬罪?」

 

 何かしたっけか、と首を傾げる。

 カンタビレはその仕草も癇に障ったのか、半眼で言ってのけた。

 

「とぼけても無駄さ。突き飛ばしたろ、私室で。陛下はきっちり覚えていらっしゃるよ」

「……ああ、あれか」

 

 尻の穴と器のちっちゃい男である。

 間違っても口には出さないが。

 

「暴行じゃないんだ。問答無用で打ち首にならなくてよかったー」

「まったくもって残念だよ。その場で処刑されちまえば後腐れがなかったのに」

 

 カンタビレが何気なく酷い。軽口なのか本気なのか、わからないところが、そこはかとなく。

 死刑囚との減刑をかけての殺し合い。十中八九どころか間違いなく、罠が仕掛けられていることだろう。

 その全容を探るべく、興味津々を装ってカンタビレとの対話を続ける。

 

「一対一……なわけがないよね」

「当たり前じゃないか。そんなことするくらいなら、一人ひとり死刑にした方がまだ早いよ」

「マルクトには闘技場がなかったね。演習なんかは基本郊外でやってるけど、死刑囚を野外に連れてくわけない……大勢でドンパチするなら、やっぱり演習場を使うのかな」

 

 図星なのか訂正してやる慈悲もないのか、返答はない。

 ふと、彼女の所作に目をつけた。

 

「……」

 

 腕を組んだカンタビレは、むっつりと形の良い眉をしかめて口を閉ざしている。

 これまでの対話においても、幾度か見た態度だ。さしておかしな点はない。

 ただし、それは縮んでしまったスィンの視線から探ってきたこと。

 現在空蝉はスィンの操作によってカンタビレをまじまじと正面から見つめている。

 真正面からじろじろ眺められて何の反応も示さないほど、彼女は無頓着ではなかったはずだ。

 それを踏まえて、この状態が示すのは──

 

「で、その子供はなんなんだい」

 

 いぶかしむスィンの思考に横槍を入れてきたのは、例によって脈絡のないカンタビレからの質問だった。

 

「……さっきは、どうでもいいて」

「細かいことをウダウダうるさいねえ。質問に答えな」

 

 突如として意見を翻したカンタビレを引き続き眺めつつ、空蝉には顎に手を当てさせる。

 

「ふむ。なんなんだいと聞かれても……子供、だね」

「あんたの子供なのかい? 主席総長との愛の結晶とか抜かすんじゃないだろうね」

「いや、僕の子供じゃないよ。従って主席総長との愛の結晶でもない」

「じゃあなんなんだい」

「……子供の姿、してるね」

 

 そもそも質問自体があやふやで、何が聞きたいのかがわからない。

 子供に関するすべてを聞きたくて意図的に明確にしていないものと思われるが、その意図に乗っかってやる義理はなかった。

 無論それはカンタビレの不機嫌を招くが、今のスィンにとっては些細なことである。

 

「ふざけんじゃないよ!」

「ふざけてなんてない、質問には答えてる。カンタビレどうしちゃったの」

 

 言外に彼女のせいにすれば、カンタビレはわかりやすく顔を真っ赤にして絶句している。

 やがて彼女から、今度は一応明確な質問がなされた。

 

「……なんだって、子供なんか連れ歩いてるんだい」

「そうする必要があるから、だね」

「その必要の理由は」

「必要に理由なんか求められても……そうする必要があるからとしか」

「ああもうまどろっこしい!」

 

 キレちゃった。もとい、短気な御仁である。

 その気質を知っていて、爆発するよう誘導したこともまた事実だが。

 カンタビレの気持ち血走った目が、初めてプチスィンを映した。

 

「お嬢ちゃん、そいつはあんたの母親かい?」

「違うよ。お父さんもお母さんも、どこにもいないの」

「……いない……? だから引き取ったってのかい?」

「え、別に引き取ってないよ」

 

 尋ねられたところで、空蝉は否定しかしない。

 埒が明かないと思ったのか、カンタビレは再びスィン本体に向き直った。

 

「お嬢ちゃん、なんであんたはそいつと一緒にいる?」

「それは言っちゃいけないの」

 

 子供らしく振舞うべく、空蝉にさせていたようにはしない。

 聞かれてもいない小生意気なことをかしましく語る。これだけでも大分、らしくなるはずだ。

 

「大事な秘密は、ミダリに知らない人に言っちゃだめなの。淑女たるもの、慎み深く振舞わなきゃいけないんだって」

 

 予想に反して、カンタビレは何も言わなかった。

 ませた子供言葉は彼女の毒気を抜いたらしく、返す言葉も見つからないようで何とも言えない表情をしている。

 彼女がトーンダウンしたところで、空蝉が発言した。

 

「カンタビレ」

「な、なんだい。躾けてあるからこの子から聞き出そうとしても無駄だってのかい?」

「なんか鳴ってるよ」

 

 先程からツーツー音を立ててカンタビレを呼ぶ、壁に取り付けられた音機関を指せば、彼女は離席してそれの応対に出た。

 スィンを警戒して、だろう。その目だけはスィン扮する空蝉から外れない。

 やがて彼女は用件を聞くだけ聞いて返事もなく、やりとりを打ち切った。

 

「移動するよ、立ちな」

「殺し合い、準備できたんだ」

「……とにかく、歩きな」

 

 カンタビレに促されて、とりあえず前を歩く。

 どこに行けばいいのかさっぱりわからないため、分岐に到達するたび立ち止まり、その都度彼女に行き先を尋ねるという行動を繰り返して今に至る。

 

「……更衣室?」

「鍵は開いてるよ」

 

 演習場に誘導されるものとばかり思い込んでいたスィンの──空蝉の動作が鈍る。

 一拍遅れてドアノブに手を伸ばし、開け放った。進むよう急かすように伸びてきたカンタビレの手から、どうにか逃れる。

 基本的に空蝉は、他者の視覚を誤魔化すことだけしかできない。

 誰かと触れ合うことは前提としていないため、操るスィンはともかく他人の手がちょっと勢いよく触れただけでも負傷したと感知し、消滅する危険がある。

 

「女性用更衣室」

「参加前に、ここで身体検査を受けてもらう。武装を全部外して、そこの籠に預けるんだ。チビちゃんに持たせてもいいけどね」

 

 それはすなわち、プチスィンには武装解除も身体検査もされないということか。このそこはかとない絶望的な状況における一筋の光明である。

 黙してそれに従ったスィンだったが、次なる一言で思わず目を剥いた。

 

「み、水着!? 水着着て、闘わないといけないの!?」

「本当は囚人服に着替えてもらう予定だったんだけどね。乱戦になったとき見失わないようにと、暗器隠されても困るから」

 

 はいこれ、と足元にあった籠を渡される。

 思わず空蝉で受け取り損ねて、スィンは自分で抱えるようにして降ってきたそれを受け止めた。

 中には水着と思われる布切れがいくつか、収められている。

 自分の目でそれをあらためる傍ら、空蝉でカンタビレの気を引きにかかった。

 もちろんのこと、ただ気を引いているわけではない。

 

「着替えるの……君の、目の前で?」

「当たり前だろ、何赤くなってんだい。あたしにそっちのケはないよ」

「うん、僕にもない……けど」

 

 通常ならばスィンとて、同姓の前で着替えることは殊更嫌がるほど抵抗があるわけではない。

 しかし此度、着替えるのは空蝉。被服すら構成音素の一部である空蝉を、カンタビレの眼前で着替えさせることはできない。正確には、脱ぐ被服がない。

 ……どうしよう。

 そして問題は、それだけではなかった。

 着られる水着、許容範囲の水着が用意された籠の中には一枚もない。

 籠に入っていた水着の内訳はビキニタイプが八、ワンピースタイプが二と実質二者択一で、いずれも武器を隠し持てないようにか露出が非常に激しい。

 ビキニはおろか、ワンピースの形をしていても変に穴だらけで、実際に着たらそこかしこから肉がはみ出ること請け合いである。

 水遊びには縁遠く、水練は着衣でするもの、水着は下着と変わらないという意識の持ち主がいきなり着るには抵抗が大きすぎた。

 とはいえ、嫌がったところで間違いなく時間の無駄。この場から遁走しない限りは、何を言い訳したところで結果は変わらないはずだ。

 小さく息をついて、スィンは空蝉を操った。

 

「──わかったよ。着替えるから、あっち向いて」

 

 カンタビレの目が完全に空蝉へ向かっていることを再度確認して、スィンは一枚の水着を広げていた。

 黒を基調とした色合いに、袖まであるシャツと足首まであるスパッツを縫いつけたような意匠の水着である。

 無論のこと、籠の中に入っていたものではない。

 空蝉で彼女の気を引いている間に、開けることができたロッカーから拝借したものだ。

 袋に入っていた新品と引き換えに、迷惑料を含めたガルドを滑り込ませたので、窃盗ではないと心の中で言い訳をしておく。

 ビキニでもワンピースでもない、種別も分からぬその他。露出が低い代わり、体の線が浮き彫りになることが非常に気になるが、これより他はない。

 それでもこれをそのまま空蝉に着せることはできないのだ。

 

「あのねえ、駄目に決まってるだろ。不正がないように監視してるだけなんだから、早いところ」

 

 すげなく断られたところで、スィンは空蝉の傍へと体を寄せた。

 まさか更衣室に監視用機材があるとは思いたくないが、念には念を入れて。

 スィンは自分のスカートの中から、眼球ほどの黒玉を取り出した。

 

 

 

 

 

 



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第百一唱——硬い固い結び目が出来た

 

 

 

 

 

 

 

 

 張られた暗幕をスクリーンに映し出された光景、スィンとやりとりをする人物を見て驚いたのはティアだった。

 

「カンタビレ教官!」

「知ってるのか」

「士官学校に通っているとき、お世話になった方なの」

 

 ただ、ティアが士官学校を卒業し神託の盾(オラクル)騎士団入りした時はすでに姿がなかったのだという。

 気にはなっていたものの、情報部に所属したとはいえ入りたての新人に調べられることは少なく。

 結局消息を知ることはないまま、現在に至るという。

 

「ああ、以前はダアト教会に所属していたらしいな。あいつとも見知った間柄だと聞いている。その前歴で監視役に抜擢させてもらった」

 

 確かにやりとりを見るに、スィンもまた彼女を知っている様子である。ただ、仲が良かったわけではないらしく、再会を喜んでいる素振りは一切ない。

 それはカンタビレとて同じこと。会話のそこかしこに挑発を挟み、スィンは取り合うことなくひたすら受けては流す。

 何の私怨か、つっかかるカンタビレをのらくらとやり過ごし、時には彼女を牽制して。

 時折ピオニーが手にした譜業で何か囁くと、カンタビレは一度言葉を切って指示されたと思われる質問を繰り返した。

 

「子供のことを聞いてみてくれ」

 

『で、その子どもは何なんだい』

『……さっき、どうでもいいて』

 

 不信感丸出しでスィンは彼女を見つめているが、押し切っている。

 結局何一つとして明らかにはならず、三人は移動することとなった。

 固定式らしい監視機材は、室外へ赴く三人を追わない。

 が、次の瞬間。

 スクリーンにはスィン扮する空蝉の背中と、ちらちら振り返るプチスィンが映りこんだ。

 

「あのカンタビレという軍人に仕込んだのですか?」

「ああ。こっそりと、だけどな」

 

『……更衣室?』

 

 もたつくスィンを急かすようにカンタビレが手を伸ばし、まるでそれから逃れるかのように入室していく。

 途端に視点が切り替わり、固定された監視機材による斜め上からの光景が映し出された。

 

『み……水着、ねえ』

『カナヅチかい? 安心しな、水場は水路くらいしかないから』

 

「スィン、カナヅチじゃないよね? なんであんな嫌そうな顔してるの?」

「水着というか、極端な薄着が苦手だからだな。ところで陛下」

 

 朗らかにアニスの疑問を解消してから、ガイはその声音のままピオニーへ水を向ける。

 その態度は皇帝と向かい合うに値する恭しいものだったが、顔が引きつりまくっていた。

 

「あいつの着替えを覗くつもりはありませんよね?」

「馬鹿言え、覗きじゃなくて監視だ。不正があったら公平性に欠く……」

「監視ならガイと彼女達がしますので、陛下は私と一緒にこちらをご覧になっていてください」

 

 女性陣が、ガイが批難を口にするより前に、ピオニーを羽交い絞めにしたジェイドが自分ごと明後日の方向を向く。

 

「何すんだ、離せ!」

「私の身を案じてくださる慈悲深い陛下のお心には感謝感激雨霰ですが、じゃじゃ馬とはいえ女性の着替えを見張るなど紳士……いえ、偉大なるマルクト皇帝のなさることではありませんよ」

「なんでそこで言いよどむ。確かにあいつに対して紳士的に振舞うつもりはないが、それじゃあ監視にならねえだろうが! お前達はあいつ寄りなんだから、意味ないだろ!」

「フリングス少将も軍人さんも、まさか覗きなんてしませんよね?」

「そうだアスラン、俺の代わりに監視しとけ!」

 

 謁見の間でわやくちゃしながらも、画面の向こう側で事態は進行していた。

 渡された籠を取り落としたスィンは、それを受け取ったプチスィンと共に籠の中身をのぞきこむ。

 それも束の間、彼女はすぐに顔を上げてカンタビレに話しかけていた。

 

『着替えるの……君の、目の前で?』

『当たり前だろ、何赤くなってんだい。あたしにそっちのケはないよ』

『うん、僕にもない……けど』

 

 その間を縫うように、プチスィンが籠を総ざらいしている。

 入っていた水着をあらためたのち、少女はおもむろにカンタビレを見やった。

 彼女がスィンしか見ていないことを確認し、そっと行動を始める。

 傍のロッカーに手をやり、開かないことを確かめるように一度引いて。いつの間にか手にしていた針金を、鍵穴に押し込んだ。

 そのまま手元を動かして、あっさり誰かのロッカーを開けてしまう。

 中を覗き込み、目当てのものはなかったのか。何事もなかったかのように扉を閉ざしてしまった。

 それをもう一度繰り返し、少女は再びロッカーを漁りにかかる。

 今度は取り出した袋の中を探り、取り出した黒布と引き換えに、いくばくかのガルドを放り込んでいた。

 カンタビレがやりとりに集中していることを逐一確認しながら、失敬した黒布──水着を広げて詳細を確認して。

 

『わかったよ』

 

 着替えるからと言う理由でカンタビレすら向こうを向かせようとして、すげなく断られる。

 その瞬間、少女は自らのスカートから、黒玉を足元へ投下した。

 もちろんスクリーンは真っ白に染まり、あらゆる光景をも映さなくなる。

 

「うわ、なんだ!? 音機関の故障か!?」

「……よかった。何とかうまくやったみたいだな」

 

 煙幕が晴れたそのとき、スィン扮する空蝉は黒を基調とした水着を身につけていた。

 一方、換気扇で煙幕を払ったらしいカンタビレは、非常にじっとりとした目でスィンを──空蝉を睨んでいた。

 

『あんたねえ、こんな狭いところで煙幕なんか使うんじゃないよ。けむいったらありゃしない……あれ? そんな水着用意したかな』

『~』

 

 見るからにご機嫌麗しくなく、更に不思議そうなカンタビレにも頓着せず、空蝉はものも言わずに漆黒の外套を羽織る。

 水着から目をそらせるためにしたことのようだが、彼女はあっさりと引っかかってくれた。

 

『ちょっと!』

『武装なら外したし、そもそも見失わないようにっていう措置でしょう。疑うならあなたが今身体検査すればいい』

 

 実に嫌そうな顔で、それでも一応武装の有無を確認したカンタビレは、そのまま演習場へ向かうと宣言して二人を促した。

 空蝉に持たせていた武装すべてをプチスィンが持っているのか、小さな両手が血桜を握り、籠の中には何も入っていない。

 もちろん、スィンがそれまで身に着けていたはずの被服の類も。

 スクリーンが切り替わり、再びカンタビレにこっそり取り付けた監視機材の視点へと移動する。

 

 

 

 

 カンタビレが先導しているためか、一行の歩みは速い。

 しばらく歩いた先の、演習場入り口にて。ここへ辿りついてようやく、カンタビレはスィン達に振り返った。

 二人は手を繋いだまま、彼女の動向を見守っている。

 

『ここが演習場さ。中に死刑囚が散っている。残らず掃討すりゃ、あんたの勝ちさ。罪は帳消し、無罪放免。生き残ったたった一人にその褒美が与えられる』

『耳とか親指とか首とかは?』

『いらないよそんなもん。いいかい……』

 

「……なあ。何の話なんだ?」

「ええ、耳や親指、首がどうしたのでしょう?」

 

 スィンが何を尋ねているのかわからないと、ルークが言う。

 それにナタリアが頷くも、アニスもティアも──神託の盾(オラクル)騎士団という軍に所属する二人もガイも、答えようとはしない。

 ピオニーすらも口ごもったその答えを、この人はいとも簡単に口にした。

 

「変則的ですが、これより死刑囚の処刑が始まるわけです」

「う……うん、そうなんだよな」

「その死刑囚が死んだ証として、体の一部を採取しなくていいのかと尋ねたのでしょうね」

「「!」」

 

 殺伐とした質問を、何の含みもなく尋ねてみせたスィンに戦慄すると同時に、彼女もまた軍属であった過去を持つことを思い出す。

 

『減刑擬似戦闘参加者には、このバッジが配布されている。これをつけた奴が死刑囚、そうでないのは監視係だ。つけてない奴に手を出したら、そこで強制排除、場合によっちゃその場で死刑さね。仕留めた奴のバッジを剥いで、全員分集めりゃそれでいい』

 

 どこでもいいから分かりやすいところにつけろと、カンタビレは取り出したバッジを空蝉に手渡した。

 87という番号が描かれた安全ピンつきのバッジを目にして、ぼそりと呟く。

 

『また、八十七人の中で一人だけになるんだ』

『何か言ったかい?』

『ううん、何でもない』

 

 心持沈んだ表情を改めることもないまま、着込んだ黒外套の襟に取り付けた。

 その場所自体になんら問題はないらしく、カンタビレの嫌味は違う方向にかかる。

 

『水着といいそいつといい、黒が好きだね。総長の好みかい?』

『何を着てもお前はお前だって言ってたかな。総長は自分の好みを押し付けるような真似をしないよ。これはただ、喪に服しているだけ』

『喪に……?』

『死んだ人を想って悼んでいる、でもいい。亡くした人たちを忘れたくないの』

 

 空蝉の表情は硬いまま、カンタビレの揶揄に取り合うどころか気づいた風情もない。

 擬似戦闘を行うに際して他に規則はないのかと問われ、嫌味を聞き流されたカンタビレはひとつ咳払いをした。

 

「演習場内は適当な場所に武器が転がっているはずだから、そいつを使うのは自由だ。武器の持ち込みは当然不可。そっちのおチビさんが持っている分は容認するけど、あんたの使用は認めないからね」

「違反したら?」

「少なくとも愉快なことにはならない。それだけは保証しとくよ。場合によってはあんたのお仲間にとばっちりがいくかもね」

 

 続けられる説明を表向き粛々と頷く空蝉の陰で、プチスィンは口元に手を当てて大きく深呼吸していた。

 

 

 

 

 

 

 



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第百二唱——隠し事はその中へと

 

 

 

 

 

 

 

 武器持ち込みは禁止、プチスィンが所持するものは例外、ただし空蝉が使用するのは不可。つまり、カンタビレの目さえごまかせば所持武器の使用はいくらでも可能となる。

 カンタビレの説明に対して空蝉を従順に振舞わせ、スィン本人は自分の挙動も気にせずこれからのことを模索していた。

 彼女の言葉が正しいものなら、すでに演習場は死刑囚が散らばっている。

 どれだけの武器をどんな風にばら撒いたのか知らないが、これだけの時間が経過しているのだ。めぼしいものはもう残っていまい。

 となれば、どのようにして彼女の監視下から抜け出すか──

 

「譜術が使えないあんたには関係ないけど、使用制限がかかってるからね」

「使用制限?」

「場内に敷かれた譜陣の影響で、あらゆる譜術の威力は最大限殺されている。使えないも同然なのさ。まあ、他者を害するもの限定だから、自分を強化する譜術なら使えるだろうね。そんなこと、第七音譜術士(セブンスフォニマー)でないとできないだろうけど」

 

 この分だと、死刑囚の中に第七音譜術士(セブンスフォニマー)はいないのだろう。

 カンタビレがやけにつまらなさそうにしているのは、スィン自身の戦力低下に繋がらないからか。

 実際スィンは通常譜術をまともには扱えないし、第七音素(セブンスフォニム)も表立って使ってみせたことはないが……奥の手は最後までとっておくことにした。

 そうなると気になるのは空蝉だ。空蝉をこうして顕現し操っているのは、まぎれもなく第七音素(セブンスフォニム)を用いた譜術。

 その譜術封じがどれだけ影響してくるか、気がかりな点でもある。

 最悪、場内へ一歩足を踏み入れた瞬間消滅する危険も視野に入れなければならないだろう。

 もしそんなことになったら、どうやってごまかしたものか……

 手持ちの煙幕弾は残数一、閃光弾は二。残りはガイに預けた荷袋の中。これらを駆使するより他はないが、不安な数字である。

 心残りを引きずりつつ、いよいよ演習場内へ足を踏み入れることになった、そのときのこと。

 

「……さーん!」

 

 誰かに呼ばれたような気がして、先行くカンタビレをほったらかし周囲を見回す。

 当然、誰もいない。

 空耳かと、空蝉と共にカンタビレに続こうとして。

 

「……ィンさーん!」

 

 空耳などではないことを確信する。

 非常に甲高く、男女の区別がつけ難い幼子のものに酷似した声。

 とても人らしくないこの声の持ち主なら、唯一心当たりがあった。

 

「ミュウ?」

「いたですのっ、スィンさんっ!」

 

 水色の毛玉が廊下の彼方から跳ねてきたかと思うと、思いもよらない速さで二人のもとへと到達した。

 スィンと空蝉の足元で毛玉は小さな肩で息をしている。

 意外すぎる存在の登場に、ただ驚くしかない。

 

「よ、よく、ここまで来れたねえ」

「スィンさん、おいしそうな匂いだからわかりやすかったですの」

 

 おいしそうな匂いとは、スィンが愛用している柑橘系の香水を指しているのだろう。

 しかし、問題はそこではない。

 

「そうじゃなくて、誰にも何も言われなかったの?」

 

 如何にミュウが人畜無害に見えても、マルクト軍本部への侵入者であることは変わらないはずだ。

 ぬいぐるみにも見紛う容姿であることは認めよう。しかし、ぬいぐるみの真似なら人間の、それもこの場所へ立ち入れる権利を持った人物の協力が必須だ。

 今のところスィンの視界に、それらしい人物は──

 

「ああ、いたいた」

 

 ミュウがやってきた方向から現れた姿を見て。

 思わず声が飛び出した。

 

「フリングス将軍!?」

「少将、一体どういう風の吹き回しだい?」

 

 ここで、二人がついてこないことに気づいたらしいカンタビレが、何事かとフリングスへ問う。

 何でも、いつものように道具袋の中に隠れていたミュウが謁見の間にて話を聞きつけ、スィンのところへ連れて行け、と彼に直談判したらしいということ。

 稀に見るミュウの行動力に目を白黒させながら、どうしてこんなことをしたのかと問えば、返答は以下だった。

 

「同じご主人様を持つ者同士、ミュウもお手伝いするですの!」

「あー……ミュウ? ボクもうルーク様の護衛従者じゃないよ。大分前にお暇貰ったから」

「みゅ? ひま?」

「クビになったってこと。もう従者やらなくていいって、ルーク様から直々に」

「スィンさん、ガイさんをご主人様って呼んでますの。同じですの~」

 

 そっちか。

 ルークの命令でないことだけは確かだったが、まさかチーグルに仲間意識を持たれていたとは。

 思いもよらない事態を前に混乱しかける頭を鎮めて、ミュウの説得に取り掛かった。

 どんな罠が仕掛けられているかもわからないのに──自分の身さえ危ういこの状況下で、彼を連れ歩く余裕はない。

 

「ミュウ。ボクはこれから知らない人たちと闘わなきゃいけない。殺し合いをして、生き残らなきゃいけないの。危ないからみんなのところに戻って」

「ダメですの! ジェイドさんが言ってたですの、もうスィンさんを独りにしちゃいけないって!」

 

 ああ、そういえば大分前にそんなこと言ってたような。

 確かに、彼によって単独行動は制限された。

 もともと団体行動を主とする旅路の中で単独行動は極めて稀なこと、それでも日常生活においてそんな制限は守られないことが多く。スィンも制限を歓迎していたわけではなかったため、時経つにつれてなあなあになって現在に至る。

 そのなあなあになった結果が、この幼児化にも繋がったわけだが。

 

「ガイさんもジェイドさんもできないなら、ミュウがいますの! スィンさんの背中を、ミュウが守るですの!」

 

 敢然と言い放つミュウだが、チーグルがやってもあまり格好がつかない。それゆえに。

 

「あっははは! 可愛い騎士(ナイト)様じゃないか」

 

 スィンは何とも言えない表情で彼を見つめるより他はなく、フリングスは微笑ましそうにその様子を見つめている。カンタビレは素直に爆笑していた。

 気持ちはとてもよくわかる。

 笑うなんてひどい、とつぶらな眦を吊り上げるミュウなど気にも留めず、彼女は空蝉に話しかけた。

 

「ところで、なんで聖獣チーグルが人間の言葉を話してるんだい? すごく可愛いけど、魔物だろ」

「ソーサラーリングなる輪っかのおかげだと伺っています」

 

 からかう調子のカンタビレには目もくれず、引き続きスィン本人はミュウの説得にあたる。

 

「ミュウ、中にはどんな罠が仕掛けられてるかわかんないんだよ。すっごく、寒いかもしれない。いきなりネズミに囲まれてかじられちゃうかもしれない」

 

 とりあえず、ミュウが苦手なものを全面的に押し出して諦めさす作戦に出る。

 聖獣はあっさりと躊躇を見せた。

 

「みゅ!? ネズミがいるですの?」

「かも、しれない。そんな中でミュウを守れるかはわかんない。ミュウに何かあったら、ボクはルークになんて言えばいいの? それに」

 

 ここでスィンは、意図的に空蝉へ振り返った。

 そのまま、空蝉を操ってカンタビレに問いかける。

 

「この仔を連れて演習場へ入ることは可能ですか、不可ですか」

「……うーん……アリエッタのとこの魔物じゃあるまいし、チーグルが直接戦闘に影響するとは思えないしねえ。あんたのハンデが増えるだけなら、別に構わないかな」

「この仔が持つソーサラーリングが、譜術の威力を高める響律符(キャパシティコア)であっても?」

「同じことさ。あんたは譜術に疎い。よしんば使えたとしても、結界の影響でまともに機能しないよ」

 

 一応可能であるらしい。が、ミュウ及び自身の安全性を考慮するに何も──

 

「ではこうしましょう」

 

 それでも、いやハンデとなるからこそ連れて行く選択肢はないと言葉を探したスィンの耳朶に、とても聞き慣れているはずの、聞き慣れない声が届いた。

 

「?」

「ミュウもフリングス将軍もせっかくここまでお越し頂いたのです。演習場内まで、お見送りに来てくださると光栄なのですが」

 

 振り仰げば、スィン扮する空蝉が二人に向かって流暢に話しかけていた。

 その光景を目にしてスィンが固まっている間にも、彼らのやりとりは続いている。

 

「そっちの仔はともかく、なんで少将まで」

「頼まれごととはいえ、ミュウをこの場へ連れてきた責任を果たして頂くために、です。チーグルはもともと臆病な性質ですから、演習場内の空気を感じ取れば、きっと分かってくれるものと」

 

 つまり、フリングスにはミュウを連れ帰ってもらうために演習場内まで付き合えと言う。

 これはどうしたものかときカンタビレが唸っている間、空蝉はフリングスに話しかけていた。

 

「それにしても、どのようなご指示を経てミュウの願いをお聞き入れいただけたので?」

「──陛下の指示ではありません。私の独断です」

「将軍はカワイイ生き物に弱いのですか」

 

 確かにミュウ──チーグルは魔物に種別されるとは思えないほどの魅力を備えている。ミュウの場合は意思の疎通も可能なことから、愛らしさはとどまることを知らない。

 ティアなどは彼の何気ない仕草を見てよくノックアウトされている。

 思わぬところでティアとの共通点を見つけたと思いきや、彼自身の返答で大真面目にそれは誤解です、と返された。

 

「あなたに対する罰則が明らかに過剰だからです」

「軍属詐称だけならそうかもしれませんが、陛下への不敬罪と第三師団師団長暗殺容疑がセットなら妥当では?」

「……軍属詐称は行動を円滑とするため、暗殺容疑はキムラスカからの密命とカーティス大佐より聞き及んでいます。不敬罪は、証拠不十分……」

 

 こんなことを言い出すとは、盗聴はされていないのか、すべてを承知なのか。

 驚愕で顎を外さんばかりのカンタビレを見やるに、おそらくは後者だ。

 そんなカンタビレは、どうにか我に返った。

 

「ほ、他ならぬ陛下の証言じゃないか! それを証拠不十分と抜かすか、フリングス!」

「今の陛下を見ていると、でっち上げを疑います」

「あっ、不敬罪」

「──承知の上です。此度の措置は陛下の身を危うくするものでもある。ですから」

「ちょっとでもご機嫌取りを、ですか。将軍ともあろうともお方が、本当にご足労様です」

 

 フリングスの言葉を最後まで聞かず、空蝉は納得がいったように頷いて見せた。

 そのまま彼に背中を向け、スィンの傍へと歩み寄る。

 そして、ヘッドドレスが装着されたスィンの頭にミュウを載せた。

 

「……」

「ですが、私の選択が罪だと仰るならば、償うまでです。恥ずべきことなど何もない。あくまでも規則にのっとり、胸を張って皆の元へ戻ります」

 

 もちろん、今回の軍属詐称に限ってのことなのだが。

 そのままスィン達を伴って示された演習場内へと歩を進めてしまう。

 それを追いかけるように続いた二人だったが、彼女達は入ってすぐの場所で足を止めた。

 無理もない。屋内演習場はそこかしこに濃い霧が立ち込めて、視界を大幅に狭めていた。

 耳を澄ませば遠くから、喧騒が感知できる。しかし、それがどの方向から、どれほどの距離かは判然としない。

 

第四音素(フォースフォニム)だらけですの。ちょっと、肌寒いですの……」

「霧が立ち込める湿原内での戦闘を想定しているからね。転ぶと泥まみれになるよ」

 

 土の敷かれた足元は霧の影響なのか故意なのか、そこそこぬかるんでいる。歩行は問題なかろうが、足音は普通の地面より大きく聞こえた。

 そしてこの状況なら、足跡を追うことも非常にたやすいだろう。

 戦場の様子を一通り確認し、空蝉を見やる。

 譜術に対し一定の制限を発揮する結界とやらの影響は、今のところない。

 言葉を紡がせるのも良好だ。気になるのは……

 

「さて、今から擬似戦闘に参加してもらうわけだけど。見送りはこの辺でいいだろ」

「──ええ、そうですね。ご足労様でした」

 

 周囲を見回すプチスィンとミュウから離れたスィンが、しずしずとフリングスへ歩み寄る。

 カンタビレに対するものとは根本的に違う態度に反吐が出ると言わんばかりに、彼女は音高くケッ、と吐き捨てた。

 

「なんだい、フリングスが現れた途端元に戻って、取り繕って……あいにく少将にはいい人がいるんだ。擦り寄ったって無駄「隙だらけ」

 

 フリングスへ向かっていた足がくるりと方向を転換して、カンタビレに向き直る。直後、一呼吸するほど僅かな間に、スィン扮する空蝉はカンタビレの背後を取っていた。

 それに気づいた彼女が振り返るのと同時に、空蝉は軽快にプチスィンとミュウの傍へ舞い戻る。

 その手に緩やかな曲線を描く一振りの刀を握って。

 己の腰に差していたそれを穏便に奪われて、彼女は当然憤った。

 

「あたしの叢雲……なにすんだい!」

「──演習場内にある武器は使用可能でしょう? 武器の持ち込みは禁じられていますが、持ち込んだのは私ではない。監視役たるあなたには指一本触れていないから、手出しには該当しませんし」

 

 言いながらカンタビレを指し、刀を示す。

 だから監視役の得物を手にしたところで問題はない、と締めくくるスィンに詰め寄ろうとしたカンタビレだったが、掴みかかった手は壮絶に空を切った。

 

「ブリュンヒルド、貴様!」

「罪人に対して油断しすぎましたね。こっちの意識は冤罪で強制連行食らっているのですから、このくらいの抵抗は想定できたでしょうに。少将やこの子達のことがあったから、気が抜けてしまいましたか?」

 

 ぬかるんだ足元を確認するかのように、いささか無駄の見える体捌きでカンタビレから距離を取る。

 抱えるようにしていた叢雲の鞘を払ったところで、彼女は気圧されたように足を止めた。

 よく手入れされ、冴え冴えと光をはじく刃の切っ先を向けられて。

 

「よくも情婦だの女狐だの、好き勝手罵倒してくれましたね。腹いせにばっさりやっときたいところですが、規則に抵触するのでやめときます。ああそういえば監視役から離れてはいけないとか、そんな規則もありませんでしたね」

「あんた、初めからこうするつもりで……!」

「では御機嫌よう。ご心配なさらずとも、あなたの御言い付けは守って差し上げますから」

 

 ぞんざいにスィンへ鞘を投げつけるように放り投げ、空蝉はその場から逃走した。

 鞘を受け取ったスィンはといえば。

 

「──あー、もう」

 

 逃走する空蝉の背中を睨むカンタビレに鞘と血桜を渡し、プチスィンもまた頭にミュウを載せたまま走り出した。

 暴走した空蝉を追って。

 

 

 

 

 

 



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第百三唱——結び目をほぐしたその中に、知りたくもない事実を知る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白煙立ち込める演習場内、空蝉の背中は消えては垣間見え、それを繰り返して尚、先を行く。向かっているのは先程、喧騒を感知した方角だと思われる。

 抜き身の刀──叢雲というらしいそれを携えて向かう空蝉が何を考えているのか。

 それは誰にもわからない。

 

「スィンさんっ、どうしちゃったですの?」

「──術が、暴走した。空蝉が勝手に動いてる。この中、譜術が制限されるって言ってたのに、全然それらしい影響もないし」

 

 演習場へ入る直前のこと。勝手に言葉を発したため、すわ暴走かと慌てて手綱を握りなおしたら制御可能だった。単に空蝉でできるようになったことが増えただけかと思いきや、突然の暴走である。

 もしかしたら制御可能と見せかけて、暴走するタイミングを見計らっていたのかもしれない。

 すなわちそれは、空蝉が知性を──自我を得たということになるだろう。

 

 空蝉自体は、別に秘術でもなんでもない。

 仲間達の誰もがそうと勘違いして尋ねてこないが、こちらはコンタミネーション同様ディストが持っていた資料を参考に構成したれっきとした譜術である。

 ディストが持っていた資料──フォミクリーの礎となった、譜術レプリカの理論。

 現在こそレプリカはフォミクリーによる作成が主となっているが、ルーツを辿ればジェイドが恩師を──否、破損したネフリーの人形をレプリカとして生み出したことから始まる。

 スィンは、作成したそれを自分を模した囮として、自分の意のままに操れるよう──自我が生まれないよう調整した。

 攻撃されたと感知すれば消滅するよう、意図的に脆弱性を高めたもの。それが空蝉だ。

 

「でもこの中、全然譜術が使えないみたいですの」

「ん?」

「見てくださいですの」

 

 スィンの頭から飛び降りようとしたミュウをすくい上げ、両手に乗せる。

 彼はぷい、と横を向いたかと思うと。

 

「ふぁいやー!」

 

 火を吐いた。

 しかし。

 

「……ミュウ?」

「これで全力ですの。これじゃボク、お手伝いできないですの……」

 

 普段見る彼の火吹き芸を鑑みるに、ふざけているのかと思うほど炎に勢いはなかった。

 以前ミュウはまだ子どもだから、本来火は吹けないのだと聞き及んでいる。しかし、ソーサラーリングを装備している関係で、その能力は強化されているはずなのだ。

 それなのに、これは。

 

「土に隠れて見えないけど、譜陣はちゃんと機能してるんだ……」

 

 演習場内全域に設置された結界の存在を話し、とにかくミュウにこれ以上の同行は危険だと説く。

 これまでも戦闘となれば時に道具袋に、あるいはイオンと共に避難していたミュウはしょんぼりと頷いた。

 

「みゅうぅ……」

「ミュウが来てくれて、すごく嬉しかった。心強かったよ。でも後で、フリングス少将と一緒に引き上げて」

 

 ミュウの説得が済んだところで、まずは暴走した空蝉をどうにかしなければならないことに変わりない。

 ミュウとのやりとりで空蝉の背中は見失ってしまっている。再びミュウを乗せたスィンは、その場から駆け出した。

 いかに空蝉といえども、存在する以上それなりの質量が存在する。

 ぬかるむ地面に残った足跡を辿って駆けていたスィンは、不意に立ち止まった。

 

「スィンさん?」

「……目をつむって。いいと言うまで、開けちゃ駄目」

 

 戸惑うミュウの肯定が聞こえなかったから、だろう。

 スィンはヘッドドレス──フリルがあしらわれた帯状のそれを外した。

 乗せられていたその場所をすくわれて、転がってきたミュウの瞳を覆うように巻きつける。

 

「みゅっ!?」

「ごめん、見せたくないの。しっかり掴まっていて」

 

 あしらわれたフリルこそ白く薄いものだが、布地は黒だから透けて見えることはないだろう。直視さえしなければ、なんでもいい。

 スィンが向かう先、空蝉がいるだろうと推測されるその場所もまた濃霧が漂っているはず、なのだが。

 近づくにつれて、赤い靄らしきものが確認できる。断続的に浮かんでは消えていた飛沫は、霧と混ざってしまったのだろうか。色つきの霧は、近寄るに連れてどんどんその色を濃くしていく。

 ミュウとてこれまで、ルークと共に旅した身だ。刃傷沙汰に縁がなかったわけでも、伴って凄惨な戦場の光景も目にしている。

 それでも見せたくない。その理由は。

 

「……ひぃ、ふぅ、みぃ……」

 

 ぬかるみに水分が足されたのか、僅かに足を取られる。

 そのすぐ横にわだかまる物体を見ないようにしながら進んでいくと、ようやく目的まで到達した。

 漂う臭いで察したのだろうか。目隠しを取ろうと短い手足を振り回して騒いでいたミュウは、いつしか口を閉ざしてじっとしている。

 すでにスィンの制御を受け付けない空蝉は、優雅に腰掛けて足を組み、何かを数えていた。

 

「よ、いつ、むぅ……」

 

 土の敷かれた演習場内に、腰掛けられるようなものなど本来存在しない。彼女の尻の下には、黒と白の縞模様がのぞいている。

 それは、人が着る被服の形をしていた。おそらくは囚人服、それも中身入り。ひとつだけではなく、五人ほど折り重なっている。

 そのような扱いを受けても彼らはぴくりとも動かず──いずれも、首が胴体から離れて転がっていた。

 犯人が空蝉であることを語るかのように、色つきの水たまりへ放り出されるようにして、カンタビレの愛刀が柄だけ顔を出している。

 向かう最中派手な血飛沫を幾度も確認したし、カンタビレの得物はスィンの所持する血桜と形こそ大きく異なるが同系統の武器。

 扱いは慣れているはずだ。空蝉に記憶があるならば。

 周囲に散らばる様々な武器を見るに、この囚人達は丁度交戦中だったのだろう。

 そこへ空蝉が乱入、制圧し勝利の証たるバッジを強奪して数えている真っ最中、か。

 その結果が示すのは、空蝉はスィンの持ちうる戦闘技術を少なからず習得しているということ。

 そして。

 

「はたちあまりここのつ、みそじ。みそじひとつあまり……こんなものですか。先は長うございますね」

 

 霧に遮られ視認こそ叶わないが。それだけの人数がこの場所に集っていて、空蝉はそれらを屠ったことになる。

 演習場に足を踏み入れたそのときから喧騒はもう発生していたから、皆殺しにしたわけではなさそうだが。

 叢雲という銘らしい刀を取り上げ、状態を見る。血のりと泥にまみれて酷い有様だが、幸いにも刃こぼれや破損の類はない。

 

「あくまで借り物に、そのようなヘマはしません」

 

 バッジを数え終わった空蝉が、まるでスィンの思考を読み取ったかのように発言する。

 立ち上がったのを見て、スィンは警戒するように後ずさった。

 相変わらず空蝉は、スィンからの支配を──チャネリングを受け付けない。

 スィンのものでありながら異なるニュアンスを覚えたのか。目隠しをしたままのミュウが、怯えたように誰何した。

 

「だ……誰、ですの?」

「誰でもない。私は空蝉、空っぽの抜け殻。与えられた人体情報を映す鏡でしかない」

 

 空蝉が流暢に語る言葉に何ひとつ間違いはない。

 ただそれは、チャネリングを使って操り人形にした代物で、今の空蝉──彼女に該当するかどうか、定かでない。

 

「そんな口の軽い人形を作った覚えはない? 当然です。術が暴走しているのですから」

「自分が人形だと、自覚はあるんですね」

 

 鏡に話しかけるようなおかしな錯覚に陥りながら、直視しないようにミュウを眼前に掲げて確かめる。

 よもやゲシュタルト崩壊はしないだろうが、念には念を、だ。

 空蝉が唇を歪めているのがわかる。笑っている、のだろうか。

 

「正確には、模造品(レプリカ)。そう、私にはあなたの記憶がある──譜術レプリカにはある程度の記憶が継承されています」

「!」

 

 空蝉が暴走した──自我を得た瞬間に浮かんだ仮定。

 道徳や倫理を彼方へ吹き飛ばすおぞましいそれを肯定する形で、空蝉は言葉を紡いでいく。

 表情こそわからないが、その様子はまるで、おしゃべりが楽しくて仕方のない様子で。

 ──嫌悪感が収まらない。

 

「この譜術の基礎は、ネイス博士のところから拝借した資料を参考にしたものでしょう。正確にはバルフォア博士が考案したものを」

 

 ただ、資料をそのまま術に反映させれば出来上がったレプリカが暴走することは構築した本人が検証済み。

 そこで構成要素が均一になるよう第七音素(セブンスフォニム)で統一した。

 廃棄も容易にするために、更には自我も生まれないよう根本を大分いじって、ほぼ別物になったはずだ。

 構築した本人──ジェイドが見ても気づかれなかったくらいだから。

 それでも、眼前のレプリカに記憶が継承されているということは。

 

「確か。レプリカの彼女はどこかに封じられているという話でした。一部の音素(フォニム)が欠落して精神の均衡は保てなくても、記憶があるのなら」

「……やめて」

「ネイス博士、ご存知だったのでしょうか。本人蘇生からいつの間にかレプリカを造ることに集中し始めたから見限りましたが、記憶の継承を知っていたとしたら? 記憶のないまっさらなレプリカに、抽出した海馬の情報を書き込む技術さえ確立させたら」

「やめて、やめて! 死んだ人は戻らない、そんなの生き返ったことにはならない、つぎはぎだらけのお人形なんて、いらない!」

 

 何の制限もなしに可能か不可能かで考えるなら、おそらく可能だろう。

 フォミクリーの原案を構築したバルフォア博士、譜術だったフォミクリーを譜業に転写したネイス博士の知恵と技術の粋を束ねたならば。

 ケテルブルクが誇る天才達が力を合わせたなら、出来ないことは何一つないだろうと誰かが言っていた。

 ただ、それは過去の話。

 生体レプリカを禁忌としたバルフォア博士──ジェイドが、そんなものに賛同するとは思えない。思いたく、ない。

 それに。

 

「あくまである程度の記憶しかないのに、そんなことしたってっ」

「お母さんが帰ってきたことにはならない? まだ喩えの範疇だというのに、せっかちなオリジナルですね。脳みそまで退行しましたか」

 

 その辛辣な一言で、スィンは現実へ引き戻された。それまで話していた内容をすべて破棄、現状の打開を図りにかかる。

 何をしなければいけなかったのか。

 演習場内に放たれたすべての囚人からバッジを奪う。そのために、再び空蝉を傀儡とする──暴走した彼女を、始末する。

 

「──ええと、精神の異常、破壊衝動、一部能力の肥大……だったっけか。この惨状を見るに、交戦能力だけ特化してしまったんだね。術が暴走すれば第七音素(セブンスフォニム)製でも譜術レプリカでは副作用は出てきてしまう。やっぱり譜術で生体レプリカは、限界があるんだ」

「私を失敗作扱いしますか、オリジナル。私はあなたの情報を余すことなく写しているだけなのに」

 

 会話が成立していることを考えると、精神異常の程度は低そうだが、暴走した時点で失敗作以外何者でもないと思う。

 ──と。

 

「──こんなことしてる場合じゃない」

「ええ。夢物語に現を抜かしている場合ではありません」

 

 まるでスィンの独り言に同調するかのように、弄んでいたバッジをポイと投げ捨てて、立ち上がる。

 そのまま彼女は、スィンが手にしていた叢雲を取り上げた。

 抵抗はしない。その理由は。

 

「囲まれた……」

「先程のような烏合の衆ではありませんね。どうせ最後は一人になるのに、どうやってこの人数をおまとめに?」

 

 返事はない。

 視界不良の現状、声による索敵は見破られてしまったか──と思いきや。

 

「へへ、それはな「そこですね。さようなら」

 

 空蝉は躊躇なく、手にしていた叢雲を投げつけた。けぶる霧の向こうで、赤い飛沫と断末魔が上がる。

 叢雲の刃は見事対象を仕留めており、空蝉がそれの回収に勤しんでいると。

 

「な、なにしやがるこのアマ……!」

「殺しました。では、さようなら」

 

 一人のお調子者が消えたことで、また一人獲物が飛び出した。

 これ幸いと屠れば、事態を察したらしい囚人達のざわめきがじわじわと広がり始める。

 

「おい、話が違……」

「そこっ!」

 

 事前にどんな話が通っていたのやら。気にはなるがどうでもいい。

 棒手裏剣を声がした方へ投げつければ、「いてっ!」と悲鳴が上がった。

 視界が悪くて狙いがつけられないこともさながら、子供の投擲で致命傷を与えることはやはり難しいらしい。

 

「オリジナル。手持ちの飛び道具、全部寄越しなさい」

「なくされたら困るから却下。コンタミネーション使えないでしょう。あと、あなたはボクの持つ武器を使っちゃいけない」

「飛び道具は本来消耗品であるはずです。確かにそんな規則ありきの場所ですが、発覚さえしなければ何の問題もないかと」

「ダメ。これ以上ケチをつけられる材料は増やさないから」

 

 自分と対話をしている。

 打てば響くような返し、それはすべて自分なら──自分が空蝉の立場なら間違いなくこねたであろう屁理屈で。

 空蝉を起動し続けていることも手伝い、そこはかとない吐き気を覚えていると。

 

「あ」

 

 呟きが聞こえたと同時に、振り返ったプチスィンに向かって何か降ってきた。

 それまで空蝉に着せていたはずの、黒外套。

 降ってきたそれを回避して向こう側に見えたのは、武器なのだろうか。

 アイスピックを片手に驚愕する囚人と、地に転がる叢雲の姿だった。

 

「き、消えたぁ!?」

 

 ──会話に夢中になっていたのか。空蝉が男の接近を許した挙句、攻撃を受けて消滅した。

 自分の手元と黒外套を交互に見やって、混乱の色濃い囚人の後ろへ回り込む。

 再び、空蝉を練り上げた。転がるカンタビレの愛刀を掴み、そして。

 

「ふう、危ない危ない」

「ぎゃあっ!」

 

 制御は──可能。チャネリングによる支配に抗うこともないまま、空蝉は問題なくスィンを演じている。

 もしたしたらまた、制御されているフリで暴走のタイミングを見計らっているのかもしれないが。

 それはあるはずのない空蝉の心をのぞかなければわからない。

 

「ちっ……てめえら、少しは頭を使え! 子供を使うんだ!」

 

 ついにそれに気づいてしまったか。

 弱者の集中攻撃、この状況下では間違いなく有効な策である。

 彼らは知る由もないが、空蝉を操るスィンは本来無防備もいいところなのだ。

 だが。

 

「ミュウ、火を吹いて!」

「は、はいですの!」

「うわっ!」

 

 殺到してきた囚人は、勢いこそないが突如発生した火炎噴射にたじろいだ。

 一瞬でも止まってくれればしめたもの。そのとき彼らは囚人どころか、ただの的と化す。

 プチスィンとミュウに殺到した囚人達は、あえなく叢雲の錆びの元になって命を散らした。

 いくつもの断末魔が、血飛沫が、飛散しては地に伏してぬかるみを増やしていく。

 

「この役立たず共が……!」

「その役立たずと一緒に、お逝きなさい」

 

 徒党をまとめていたであろう、彼らの後ろを陣取っていた最後の一人。首を半ばから切断する勢いで斬りつけて、今に至る。

 残りはいないか逃げたのか。

 スィンとミュウ、二人の周囲にはいつしか誰もいなくなった。

 

「──」

 

 大きく息をついて、まずは空蝉を消す。

 先程空蝉を消された一瞬を除いて術を起動し続けていたスィンは、着用者がいなくなった外套を抱えてへたり込みそうになった。

 暴走した空蝉を消してくれたアイスピックを手に、しばし立ち尽くしていると。

 

「スィンさん、どうなったですの?」

「終わった、よ。片付いたから連中のバッジを集めなきゃいけないんだけど、疲れちゃって」

「じゃあ、じゃあミュウが集めるですの!」

 

 どこまでも役に立ってくれようとするミュウは抱っこしたまま、転がる叢雲を拾い上げて。

 スィンはさっさとその場を後にした。

 

「バッジ、集めないですの?」

「最後の一人になったら嫌でも持ってることになるんだから、慌てて集めなくてもいいよ。かさばるし荷物だし、別にいらないし」

 

 そして、スィンですら触りたくないのに、ミュウにあんな血まみれの物体を集めさすわけにはいかない。

 まずはフリングスを見つけてこの無邪気な聖獣をこの場から避難させなければと、スィンは自分がやってきた方角を定めて歩き出した。

 周囲を見回せど、視界は濃霧にまみれ、垣間見えるは累々と伏す屍のみ。

 そんな状況でやってきた方向を特定できるわけもなく、スィンは自分の足跡を探してひたすら下を向いていた。適当なところで、ミュウの目隠しを外して一緒に探してもらう。

 正確には空蝉と、それを追いかけた自分の足跡。戦闘になったせいで足元はぐちゃぐちゃにつき探索は難航を極めたが、あきらめたところで行き着く先は迷子。

 ミュウさえいなければそれでもよかったかもしれないが、彼を最後まで巻き込むつもりもない。

 監視役と離れたことでどんなペナルティを寄越されるかもわからないし、現在主だった武装がないカンタビレがフリングスと別行動を取る可能性は低かろうと考えて、当面は二人と合流することを考えて行動しておく。

 ふと。不意に体を強張らせたスィンは、唐突に地面へ伏せた。

 驚くミュウそっちのけで片耳を地面に押し付け、何かを探るように耳を澄ませる。無論のこと手も顔も泥まみれ、血まみれになるが当人が気にした風情はない。

 身を起こすと同時に少女は、ミュウへと迫った。

 

「ミュウウイングは? できる?」

「は、はいですの!」

 

 体に対して大きな耳を羽ばたかせるように動かし、チーグルが宙を舞う。

 ソーサラーリングを掴むことで共に中空へ飛ぶスィンに、一体何事かと尋ねようとして。

 

「みゅうううっ!?」

 

 ミュウのつぶらな瞳が、大きく見開かれた。

 大地──土の敷かれた床が、発光している。

 それに伴い、パチパチッと空気が爆ぜる音が鳴り、明滅のたび輝く雷光が帯電の気配をありありと示していた。

 

「ノーム、足場を!」

『心得た~』

 

 滞空し続けるにも限度がある。

 それでも普段ならしばらく浮遊できるものの、結界の影響なのか。術者のミュウは早くも自分達が落ちかけていることに気づいた。

 それを伝えようとして、自分だけが滞空していることに気づく。

 自分の体重を支えきれず落ちたのかと、ミュウは悲鳴じみた調子で彼女を呼んだ。

 

「スィンさんっ!?」

「ありがと。降りてきて」

 

 ミュウウイングを使用するにあたって天井のみを見ていたミュウだったが、気が抜けたように停止する。

 ほんの僅かな浮遊感のち、チーグルの体は小さな両手にしっかと受け止められた。

 

「降りちゃダメですの! バチバチ、痛いですの……?」

「大丈夫。避難したから」

 

 言われて、ミュウは初めてミュウの足元を見た。

 丸っこいフォルムのおでこ靴が踏みしめるは、水分を多量に含んだ土ではない。

 硬質な岩のような──

 

第二音素(セカンドフォニム)で大っきな石を作ったですの! すごいですの!」

「感電したくないからね。早く収まってくれないかな」

 

 二人が乗れるほどの大岩を作成した影響か。周囲の土は失せて、むき出しの床には展開した譜陣の一部が浮かび上がっている。

 床そのものに雷気はなく、帯電するは湿った土の範囲のみ。おそらく譜術によるものだが、結界は起動したままだ。

 如何なる手段を用いたのか──

 積極的に解除する方法が見出せない今、とにかく永続性がないことを祈るしかない。

 その祈りが天に届きでもしたのか。唐突に、発生していた雷撃は失せた。

 

「ミュウ、どうかな」

第三音素(サードフォニム)、なくなったですの。もう大丈夫ですの」

 

 ミュウのお墨付きも貰って、床に降り立つ。

 注意深く見やるも、再び電撃が放たれる気配はない。

 

「ミュウアタックでこの岩、壊せる?」

「任せてくださいですの! お茶の子さいさい、ですの!」

 

 先程電撃から避難するために発生させた岩を砕いてもらうことで隠滅し、一応このことは隠しておく。

 制限のせいなのか、幾度か繰り返してもらってようやく大岩は土に紛れる程度の代物へと成り果てた。

 そこへ。

 

「いた、あそこだ!」

 

 カンタビレの声音と、二人分の足音を聞きつけたスィンは、瞬時に空蝉を起動した。手首から足首から、体の線にぴったりと添う材質の水着をまとうスィン本来の姿が、顕現する。

 霧の向こうにまぎれていた二人分の影が、やがてはっきり浮かび上がった。

 無手のカンタビレ、佩剣していたサーベルを手にしたフリングス。彼は転びでもしたのか、青い軍服のそこかしこに泥を払った痕跡が見られる。

 外套を着せて叢雲を持たせた空蝉が進み出た矢先、横っ面にカンタビレの手のひらが飛んできた。

 首をそらすことで回避、そのまま飛んできた拳打からも逃れて、プチスィンを抱えて突き出す。

 少女の盾を前にして、カンタビレは苛立ったようにうなりながらも、攻撃を止めた。

 

「いきなりご挨拶ですね。ご立腹ですか?」

「ああご立腹だとも! 覚悟はできてるんだろうね!」

 

 憤然と言い放つ彼女の怒りを如何にして静めるべきか。

 とはいえ、暴走した空蝉の所業を考えれば、何をしようと怒らせることしかできないか、と考え直して。

 スィンは煽ることにした。

 

「覚悟ぉ? 自分が油断してたせいで武器を取られてさっくり逃げられて、何私のせいにしてるんですか」

「ぐ……」

「自分の失態を罪人になすりつけるだけの単純極まりないお仕事ですね。いや羨ましい。私にはちょっとできませんけど」

 

 スィンはスィンで、自分の犯した規則違反スレスレの行為をカンタビレの失態としてなすりつけているわけだが、怒りと屈辱に震えるカンタビレにそれを指摘する余裕はない。

 彼女は彼女でスィンに規則の詳細を語らなかった落ち度がある。譲歩してやる気は皆無だった。

 唇を噛んで黙り込んでしまったカンタビレはさておき、空蝉はフリングスを見やった。

 

「では少将。お手数をおかけしました。ミュウを連れて速やかにご帰還ください。ミュウ、みんなによろしく……」

 

 プチスィンの後ろから覗き込むようにしてミュウをフリングスへ渡すよう促す素振りをした空蝉が、そのまま固まる。

 プチスィンの腕の中で、何か考え込むような風情のミュウを見て。

 

「ミュウ?」

「決めましたの!」

 

 まさか、やっぱり戻るのをやめてスィンと一緒にいると言い出すのだろうか。

 内心慌てるスィンの予想を裏切って、ミュウは朗らかにプチスィンへ振り返った。

 

「スィンさん」

「な、なあに、ミュウ?」

「このソーサラーリングを持っていってくださいですの!」

 

 そう言って、彼は胴に抱え込むようにして装備していたソーサラーリングをスィンの手のひらに置いた。

 

「……なんでそうなる」

「みゅう。みゅみゅうう、みゅうみゅ……」

 

 装備していないせいだろうが、チーグル語で理由を述べられても、ただひたすら愛らしいだけだった。

 大仰な身振り手振りで一生懸命何かを伝えようとするミュウに、一度ソーサラーリングを装備させて詳細を尋ねる。

 

「どうしてそういうことになるの」

「ソーサラーリングは特別な響律符(キャパシティコア)ですの。お守りですの」

「あのねえ。それはただの響律符(キャパシティコア)じゃなくてチーグルの長老からの預かり物でしょ? ボクが無事に戻れるかもわからないのに、預けるなんて」

 

 下手を打てば紛失、損壊の危険もあるのに、何を考えているんだと続けて。

 小さな聖獣の言葉に、面食らった。

 

「絶対返してもらわないとダメですの。だからスィンさんは必ず戻ってきて、ミュウにソーサラーリングを返してくださいですの」

 

 約束ですの! と指きりのつもりだろうか。ミュウは小さな手を目いっぱい伸ばしてくる。

 ──まったくもう。

 小さく嘆息したプチスィンは、伸ばされた手に指を一本あてがった。

 人差し指を。

 

「みゅうう、スィンさん。指が違うですの」

「指きりはできない。絶対に守る保証もない約束はできないし、ボクは針を千本も飲み込めない」

 

 この場合、約束を破ることはスィンの死を意味するから、どのみち飲むことは出来ないが。

 

「だから、ボクなりに守らなきゃいけない誓約を立てるね」

 

 そして、スィンは自分が身に着けていた首飾りを外した。

 常日頃片時も外さない、胡桃大のロケットペンダント。

 

「みゅ?」

「ガイ様以外に渡すのは初めてだよ。これと、ソーサラーリングを必ず交換に行くから」

 

 たとえ両足が砕けても、この眼が潰れても。これまで立ててきた、ありとあらゆる誓いを破ってでも。

 まるで自分へ言い聞かせるように唱えながら、ミュウの首にロケットペンダントをかける。

 ロケットの部分を持って引きずらないようにしているミュウを、フリングスに預けた。

 

「……そっちの方はカタがついたね。次はあんただよ」

「お早い回復で何よりです」

「戯言はいい、叢雲を返しな。あと、チビちゃんに持たせてる武器を没収。今みたいにあたしの目を盗んで使われちゃ困るからね」

 

 監視から故意に離れたペナルティを課すと、彼女は締めくくった。

 空蝉が暴走し時点で大なり小なり予測できた展開である。了承して、空蝉は手にしていた叢雲をカンタビレに返還した。

 

「ったく、こんな泥まみれにして……」

「持ち物を使わないためにお借りしたのですがね。まあ、あなたがそうおっしゃるなら従っておきましょうか」

「気持ち悪いくらい殊勝な態度だね。やらかす前フリかい?」

 

 先程の交戦で、囚人が所持していた武器を忍ばせてある。こうなった以上、刀にこだわる意味もない。

 プチスィンが所持していた短刀と譜銃、それからカンタビレに預けた血桜。

 主な武装はそれだと告げると、彼女は迷いなくフリングスにそれを渡した。

 

「その仔と一緒に、お仲間に渡してあげて。あたしが持ってたらまた盗られちまうからね」

「奪われるのが前提なんですね。情けなっ」

「うるさいね! そのソーサラーリングとやらも没収するよっ!」

 

 みゅうみゅうと苦情が聞こえる中、カンタビレはそんなことを言って凄む。

 が、少女から物を取り上げるという強硬手段はとられなかった。

 その代わり。

 

「何せ、遺品が一切残らないかもしれないんだからね。先にとっとくのも手だろ」

「その辺りはご心配なく。こうなった以上、いざとなればあなたを盾にしてでも私は生き延びます」

 

 あっさりばっさり返されて、カンタビレが言葉をなくしている間に。スィンは気になっていた事柄をフリングスに尋ねた。

 

「ところで、転倒でもされましたか?」

「ああ、実は「フリングス、その辺にして、余計な情報を与えないでおくれ。その仔を連れてきたことを『あたしは』不問としておくけど、これ以上は見逃せないよ」

 

 とはいえ。二人の格好を見れば、多少は推測が立てられる。

 フリングスだけに泥を払った痕があることを考えると、あの電撃は定期的に発生するもので、それを事前に知っているカンタビレの足裏には絶縁体が仕込まれているから無事、とか。そうでない少将は電撃の影響で転倒してしまったとか。

 

「──では、ご武運を」

「みゅ! みゅうっ!」

 

 しかしこの霧だらけの中、どうすれば方向違わず入り口まで向かえるのか是非教えてほしい。

 ミュウと共に去りぬフリングスの背中を見送って、スィンはそんなことを考えていた。

 

「そうそう。拾った武器なんかは申告しておいたほうがよろしいですか?」

「ああ、望ましいねえ。これであんたは一切武器を持っていないはずだから、見慣れないもん見つけたら即没収だからね」

 

 本音として、無手は厳しい。それは回避するべき事態である。

 拾ったアイスピックを示して、最後にカンタビレは尋ねた。

 

「バッジは? あんだけ盛大に脱走しておいて戦果なしってことはないだろ」

「その辺に転がっているかと」

 

 横着しないでとっとと拾え、とどやすカンタビレに適当な返事をしながら、スィンは嫌々戦場だった場所へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ひぃふぅみぃ。この数え方はひとつふたつみっつという和語の数え方から「つ」を省略した数え方だそうです。
10は「とお」当時の発音は「とを」11になると「とお あまりひとつ」
20(はたち)30(みそじ)40(よそじ)50(いそじ)60(むそじ)70(ななそじ)80(やそじ)90(ここのそじ)
「ち」や「じ」を省略することもあるようです。
100は「もも」百の単位は「ほ」で200だと「ふたほ」
1000は「ち」10000になって「よろづ」
よく八百万と書いて「やおよろず」と読みますが、これは和語による数え方だったのですね。
勉強になりんした。
百万の数え方だけよくわかりませんが、八百が「やお」で万の単位が「よろづ」だから百万で「ももよろづ」だと思われます。


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第百四唱——解いたことの達成感、解いたことへの絶望感

ユリアの記憶とディスト+ジェイドを巡る痴情の縺れ。
捏造ばかりなのでカンタビレファンの皆様、お詫び申し上げます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暴走した空蝉が集めた分、その後囲まれて、各個撃破した分。

 それらすべてを集めても、五十枚には届かなかった。

 彼らがこれまで手にしたバッジはないかと探ってみるも、そちらの戦果はなし。

 

「──うん、ないですね」

「そいつは残念だったねえ」

 

 渡されたズタ袋に集めたバッジを放り込み、空蝉がため息をつく。

 案の定、カンタビレは悪口雑言を叩いてきた。

 

「にしても、よく死体からモノを剥ぎ取ろうなんて考えるね」

 

 そうあることが必須であることは、おそらく彼女もよく分かっている。

 何かしらにつけてねちねちとスィンのことを貶めにかかるカンタビレの中傷を右から左に流して、スカートの裾を軽く絞った。

 じわりと滲み出た雫は、ぽたぽたと滴り落ちる。

 身動きをするたびに漂う霧の水分をしっかり吸収したスカート、のみならず無駄に布を使ったワンピースは確実にスィンの体を冷やしていた。

 おそらく水着を着せられたのはこれが理由だと思われる。

 風邪を引く前にカタをつけるか、あるいは長期戦を見込んで霧の発生源を見つけて破壊するか。

 どっちが早いか甲乙つけがたいまま移動を始めたスィンの耳にふと、聞き流せない一文が残る。

 

「──かのフランシス・ダアトがユリアを裏切ったみたいにさ!」

「フランがしたことは確かに裏切りですが、感情のまま罵倒できることでもありません。お母さんを引き合いに出されてはねー」

 

 それまで何を言っても反応を返さなかったスィンに内心苛立っていたカンタビレであったが、そんな饒舌な返しにただ、聞き返すしかなかった。

 

「……はぁ?」

「フランは大変お母さん思いの好青年でしたが、お母様は長年の苦労が祟ってお体が健やかではなかったそうです。食うや食わずの苦しい生活を彼が支えていた。どうにか助けてあげたい、楽をさせてあげたいという思いを利用されて、あのようなことを」

 

 そういえばこの霧、けして狭くない演習場いっぱいに立ち込めているが、どうやって発生させているのだろう。

 

「……!?」

「二国の要請に協力した報酬として、イスパニアとフランクの支援で教団を設立し、お母様をお迎えに上がったまではよかったのですが。裏切り者ダアトの母と後ろ指を指されることに耐えられず、身投げをしたそうですよ。『お前を生んだ我が身が恥ずかしい』そう遺して」

 

 音機関を用いた霧発生装置(ミストメーカー)なら知っている。

 ただ、それを見かけたのは譜業技術の最先端を行くシェリダン、あるいは大々的な催しの演出としてバチカルで使用されたくらいだ。

 譜術で勝るが譜業で劣るマルクトに存在くらいはするだろうが、死刑囚をまとめて葬るだけのことにわざわざ使いはしないだろう。

 となれば、そういった譜術を使用していると考えるべきか。

 

「フランはすべてを懺悔してから逝きました。フロート計画にかかりきりで弟子の事情を汲むことも疎かにしていた人間が責められることでは」

「ま、待ちなよ。あんたさっきから何言ってんだ!?」

 

 それらしい譜陣を見つけて破壊することを視野に入れたほうがいいかもしれない。

 しかし霧を発生させる譜陣は、譜術を弱体化させる結界とやらに影響されないんだろうか。

 風邪を引かないための対策を練っていたスィンは、カンタビレの狼狽に気づいて空蝉に瞬きをひとつさせた。

 多少は驚いているように見えるだろう。

 

「何って。ダアトがユリアを裏切ったのはちゃんとした理由ありきだというお話です。買収云々は教団設立のための資金、つまり後付け的な理由だったという解釈を」

「金で裏切ったりしてないだろうね、って話はもうどうでもいい! あんたまさか噂通りユリアの再来──生まれ変わりで、当時のこと覚えてるってのかい!?」

 

 人の口に戸板は立てられぬ。壁にミミーあり窓にはメアリー。

 くだらない言葉遊びを脳裏に浮かべることで、受けた衝撃からどうにか回復したスィンは、空蝉に長々とため息をつかせた。

 

「諸説諸々ありますが、私は今しがたの説を押している、ということで。何がユリアの再来ですか、あほらし。稀代の天才譜術士ユリア・ジュエに失礼ですよ」

 

 受け答えをするにが本人ではないにつき、動揺が表に出るわけもないのだが。

 何故か、何故なのか。

 

「その滝汗はなんだい」

「霧が肌に付着して水滴化しているだけです」

 

 空蝉の額には玉の汗が浮かんでいる。

 指摘を受けてそう訂正し、軽く拭って再び歩みを再開した。

 しかしカンタビレの追及はやまない。

 

「だんまりでいけ好かないと思ったらいきなりペラペラしゃべりだして……そういや話し方はどうした。思い切り素が出てるよ」

「フリングス少将見て思い出したのですが、シア・ブリュンヒルドの名で連行されている以上は、そちらで振舞うのが筋かと」

 

 実際は空蝉の暴走による弊害だが、ここで戻しても更に怪しまれるだけである。

 スィンは開き直ることにした。

 

「じゃあ普段のあんたは何だって言うんだい」

 

 ここでスィンとシアの違いを彼女に理解してもらったところで何にもならない。

 詳細は話さず、適当に言いくるめようとして……大変な事態に陥った。

 

「普段は普段ですよ。先程あなたが気色悪がったあちらの話し方。あっちが素で、こっちは言うなれば仮面でしょうか」

 

 猫をかぶっている、が実際のところだが。

 カンタビレは独自の解釈を行っていた。

 

「ああ、なるほど。ギャップ、ってやつかい」

 

 全然違うが誤魔化せそうだからよしとしよう。

 と思って、話を変えようとした矢先のこと。

 

「それでディストの奴をたらしこんだね、忌々しい!」

 

 何故彼奴の名が出る。どうしてそういう話になる。なんであれをたらしこまないといけないんだ。

 色々言いたいことはある。それらをぐっと押さえて、まず反論した。

 

「彼はギャップ萌えではありません。音機関または譜業フェチです」

「知ってるよそんなこと!」

 

 しかし、どうしてまたそんな話になるのか。

 やはり噂は真のものだったのか。

 

「カンタビレ。教団に在籍中、あなたがかの死神にぞっこんラブだと、根も葉もないデマを耳にしましたが、まさか……」

「ぞっこんラブってなんだっ! ちょっと憧れてただけだ!」

 

 惚れてるんじゃねーか、変人。

 一体アレのどこに憧れるような要素があるんだと、口に出すことを必死に耐える。

 だが、まあ。あの噂が事実なら、彼女が初めから喧嘩腰だったことも、説明がつく。

 

「在籍中顔を合わせたことは幾度か、ロクに言葉を交わしたこともなかったあなたがこんなにつっかかってきたのは、それが理由でしたか」

「ああそうだよ! あたしはあんたが、主席総長の情婦があいつをつまみぐいして袖にした挙句、捨てたのが気に食わないのさ!」

 

 威勢よく放たれただけの言葉なら、何か裏があると勘ぐるところだが。彼女は哀れさを覚えるほど顔を赤らめており、これが演技なら素直に賞賛するべき表情を浮かべている。

 怒りか羞恥か、判別できないところがミソだが。

 この不名誉で大いなる誤解を解くために、スィンは弁解した。

 

「それは悪質なデマです。私は彼を捨てる前に袖にしてないし、袖にする前につまみぐいしてません。そもそもそういった対象では」

「何がデマだい。あいつは『シアがいないなら死神を名乗る意味はない。採魂の女神とおそろいだから名乗っていたのに』って二つ名変えるとか喚いていたんだからね!」

 

 確かに、いつだったか、薔薇がどうだのこうだの言っていた気がする。

 しかし。

 

「あなたが耳にした噂がどんな下世話なものか知らないし、知りたくもありません。それで、その歪んだ妄言を頑なに信じる理由はなんですか」

「とぼけるんじゃないよ。それまで誰も自分の研究室にいれたことなかったのに、あんなに頻繁に出入りして! まるまる一昼夜、あいつの研究室に入り浸って出てこなかった日だってあるじゃないかっ!」

 

 まるで彼女自らが見張っていたかのような言動だが、そんなことはどうでもいい。

 ディストの研究室に頻繁な出入りがあったかどうか。確かに、彼女の言葉に間違いはない。

 

「そりゃまあ、持病の件でお世話になりましたから。専門家に紹介していただいたお礼に研究に協力したり、実験台を調達してきたり。その代わり研究資料を拝借したりで間違いなく出入りは頻繁でしたが仕事以外では……一昼夜詰めていたのは確か、どうしても目玉をくりぬいて解剖したいと駄々をこねてきた時のことですね」

 

 それまでにも、常軌を逸した要望がなかったわけではなかった。その都度どうにか言いくるめてきたが、これはいくらなんでも頷けない。

 穏便に、遠まわしに、直接断っても食い下がる彼に辟易して、面倒くさくなった当時のスィンは短絡的に彼の後頭部を殴打して逃走を目論んだ。

 が、ディストにはディストなりに企みがあったようで、扉は開かないよう固定されたまま。扉自体も分厚く防音処置が施され、助けも呼べない。

 自力脱出を諦めたスィンは、引き出しの中に隠されていた手錠でディストの身動きを封じたあと、彼が眼を覚ますか外部から救出が来るまで、置かれていた研究資料を片っ端から読み倒した記憶がある。

 コンタミネーションも空蝉も、古代秘譜術さえも。このとき読破した資料及び理論を参考に構築したものだ。

 もちろん、その一度ですべてが理解できるほど、スィンのおつむは出来がよくない。

 故に、彼がいようがいまいが許可も得ず研究室へは頻繁に出入りした。そこは否定できない。

 

「持病?」

「よかった。そちらはご存知ないのですね。もっとも、死に物狂いで隠していたことです。知られていたら道化もいいところですが」

 

 ここは素直に胸を撫でおろしておく。

 腑に落ちない顔をしていたカンタビレは、それでも気を取り直したように追及を再開した。

 

「そもそも、何でディストと仲良くする必要があったのさ。専門家とやらを紹介してもらった恩義かい? あんたがそこまで義理堅いとは知らなかったよ」

「仲良くした覚えがありませんね。恩義は多少ありましたが、明かされては困る秘密を握られていたもので」

 

 入団時、これまでの宮仕えとは違うのだから持病を本格的に治療しろと、ヴァンから仰せつかって。ベルケンドの第一研究所に所属する医師を紹介してもらうにあたり、条件が出された。

 この件に関して、ヴァンの仲介は受け付けない。所長たるディストと患者──スィン本人とサシで話をつけさせろとの要望で、まず研究室へ呼び出された。

 多分ディストも、珍しい眼を持つ人間がヴァンの子飼いとして入団してきたことを聞き及んでいたのだろう。そして、紹介状と引き換えに好き勝手するか、ヴァンの弱みでも握るつもりでスィンに接触を図ってきた。

 それから、医師を紹介する条件として誰も知らない秘密を打ち明けるか、でなければ……なんだったか。とてもではないが受け入れかねる交換条件を突きつけられた気がする。

 ヴァンもガイも、ペールすらも知らないような秘密はひとつしかなかったスィンは、一番当たり障りない事柄を選んだつもりだったのだが。

 

「秘密……」

「ええ。何ならあなたのスリーサイズでもかまいませんよ」

「制服の支給に必要だと言うので伝えました。なので」

 

 この女性が自分の母だと、ロケットペンダントの中を見せたところ。彼の態度は一変した。

 非常につまらなさそうな目でちらり、と視線をよこしてきたのが、ロケットペンダントを奪う勢いで迫ってきたのだ。

 何をするんだと抗議したところで、ああまさかこんなところに先生の縁がとか、これは運命がどうだとか、わけのわからないポエムを紡いだ後、上機嫌で彼は紹介状をスィンにくれた。

 ディストとの奇妙な付き合いが始まったのは、そこからだ。

 

「私を特別扱いしていたのは、私の母が彼の恩師だったから、です。彼は私の中に、大好きな先生の面影を見出していたに過ぎません」

「恩師……」

「彼は今も昔も、過去へ向かって全力疾走していますよ。なくした恩師、変わってしまったお友達を取り戻すがため。そこに私が入る余地はないです」

 

 恩師の血を引いているということで、多少粘着してきただけで。

 カンタビレの様子から、そのあたりの事情は知らないように見える。

 重要なのはスィンが死霊使い(ネクロマンサー)の殺害を目論んでいるという事実で、その理由は二の次というか割とどうでもいいことだから、仕方のないことだが。

 一方でカンタビレは、彼女なりに気になったことへの追及を続けていた。

 

「変わってしまった友達、ってのは」

「ジェイド・カーティス大佐のことです。正確には、バルフォア博士ですが」

「どういう関係なんだい?」

「……生き返らせようとしてたそうですよ。二人で、協力して。『不幸な事故』でお亡くなりになった恩師を」

 

 鼓動が、うるさい。

 彼女は事故で亡くなった。それが正しい認識のはずなのに。

 平静でいられないのは、今尚スィンがそう思っていないから。

 だって『不幸な事故』を起こしたのは、少年だったジェイドだから。

 彼女は、ジェイドを庇って──ジェイドの代わりに──

 

「生き返らせるって、その死んだ先生を、かい!?」

「……それが死霊使い(ネクロマンサー)と呼ばれる所以だと聞き及んでいます。事実かどうかまでは、本人に確かめないと」

 

 意図せず声が、空蝉に発させている声が震えた。

 集中を保つため、会話に夢中にならないために空蝉の影に隠れたプチスィンが術を発動させる。

 そのことにも気づいていないカンタビレが、(かぶり)を振っていた。

 

「ますます訳がわからなくなってきたよ。母親をダシにして荒唐無稽を企んだからかい? それでどうして大佐を殺そうとするのさ!」

「……あなたは、何も、ご存知ないのですよね。でも第三者からすれば、そういうことになりますか……」

「それとも何かい? そのことは全然関係なくて、自分になびかないから逆恨みでもしてるのかい?」

 

 どうしよう。カンタビレを殺したくなってきた。

 そう勘違いされることは好都合なのだから、事実無根の痴情のもつれによる逆恨みとでも思わせておけばいいはずなのに。

 

 ただ、逆恨みといえばそうなのかもしれない。

 

 彼が起こした事故とはいえ、客観的に見た状況からすれば彼女は逃げることができた。

 少年が暴走させた第七音素(セブンスフォニム)の制御を試みて失敗し、自らあおりを食ってしまったようなものだ。

 当時からジェイドが譜眼を所持していたことを考えると、彼が制御しようとした音素(フォニム)は考えられないくらい膨大なもので。

 それが暴走したのだから、彼女がどれだけ優秀な譜術士(フォニマー)であったとしても、咄嗟にそれを押さえることは不可能だった、だろう。

 彼女はジェイドを守って死んだ。咄嗟のこととはいえ、彼女はその選択に納得していただろう。

 スィンが恨みに思うのは、自分と出会う前に彼女が死んだから。彼女を踏み台にして当たり前のように呼吸しているジェイドが憎い。

 彼女の何もかも遺さず、遺させず消し去って、譜術レプリカを造って。そのレプリカに、譜術士(フォニマー)を何人も殺させた──造られた彼女を咎人とした。

 譜術による生物レプリカには、どうしても欠損してしまう音素(フォニム)がある。それを得るがために、半ば本能によって。造られた彼女は譜術士(フォニマー)を殺傷し、足りない音素(フォニム)を奪っていった。

 すべてはジェイドが、彼女を誕生させたから。生きているからには生きようとする。

 造られた彼女に罪の意識などあるはずもない。だからといって全部が全部ジェイドの罪になるわけでもないのだが。

 なんのことはない。

 スィンは自分の母親が死んだ理由であるジェイドを恨んでいて、その身を守られ、今わの際に立会ったジェイドを妬んでいて、いつの間にか更正してしまったジェイドが憎たらしいだけだ。

 未だ死者蘇生を企んで母親の情報を弄んでいたならば。スィンは何もかもを投げ捨てて仇を討っていたことだろう。

 ディストは過去を追い求めて、ジェイドは過去から逃げ出した。

 何とも滑稽な話だと思う。ケテルブルクの天才達は、結局その場から一歩も足を動かしてない。

 たとえ彼女が許していたとしても、彼がどれだけ罪の意識に苛まれようと、それから逃れるために償おうとしても、スィンが赦すことはない。

 ただ、ジェイドが欲しいのは当人の許しだから。スィンがどのように思っていても、彼には関係ないはずだ。

 彼に危害を加えなければ、その感情さえ表に出さなければ。

 そうすることで一番大事な人にも、害を及ぼすことはないのだから。

 ……そう。優先するべきは護るべき主人。彼のために、彼の歩むべき道のために。

 己の感情を殺すことなど、これまで真意を誤魔化し続けてきたスィンには造作もないことで。

 衝動的に浮かんだカンタビレへの殺意を消し、空蝉を操った。

 

「逆恨み……逆恨み、ね。そうなのかもしれません」

「! あんた、あの死霊使い(ネクロマンサー)にコナかけたってのかい!?」

「コナかけたなんてそんなちょっとホレちゃっただけですあんな色男なんだから多少色目使ったって不自然じゃないでしょう結局はねつけられちゃいましたけどっ」

 

 だめだどうしても不自然になってしまう。とはいえ、すべてがすべて嘘ではない。

 スィンの、正確には空蝉の態度にいぶかしむカンタビレが考え込む前にと、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

 考えていなかったわけではないが、およそ実行に移す予定もない絵空事を。

 

「私が駄目でしたから早く現れてくださらないかなと思い悩んでいるところですっ」

「何をさ」

「大佐を虜に──いや、大佐を幸せにしてくださる方が」

 

 名高い死霊使い(ネクロマンサー)も人間。異性に惚れることだって可能性は零でない。

 それは彼にとっての幸福であるはずで、明確な弱点。

 スィンの思惑に乗ってくれたカンタビレは、呆れたように眉根を寄せた。

 

「つまりあんた、自分に惚れさせて手ひどく捨てようとしたのかい?」

「そんなことしてもアレに傷つく心があるのかどうか……いや、まあ。そんな感じで」

 

 いけない。ちょいちょい心の声が漏れている。

 気を抜いているわけではない。その理由はきちんと把握していた。

 迫り来る脅威を前に、雑談を終わらせるべく真面目な顔を作る。

 

「大佐を殺さない以上は、そういうことになりますよ。幸せの絶頂から突き落とす。もうそれくらいしか復讐できないじゃないですか」

「あ、あんたねえ……! 大佐じゃなくても、無関係な人間殺す気満々じゃないか!」

「殺さなくたって人は不幸になれますよ? 何もそんな、物騒な手段使わなくても、ねえ?」

「あんたのその笑顔はすでに物騒だよっ!」

 

 意図せず浮かんでいた空蝉の邪悪な笑みは、頬を揉ませることで消させて。

 話し終えて空蝉は、まるで意識を切り替えるように一息ついた。

 

「さてと。そろそろ頃合でしょう」

「頃合?」

「これで全員ですか? でしたら、私には好都合なのですが」

 

 相変わらず濃霧に満たされた周囲を見回して、軽く目元を拭う。

 唐突に尋ねられたカンタビレは、目を白黒させるばかりだ。有益な返答はない。

 しかし、もうとぼけられたところで騙せはしない。騙されることもない。

 

「この期に及んでおとぼけはなしですよ。不意打ちもさせませんから」

「な、何を言ってるんだい」

「何って。雑談で私の気を引いて囲ませて、一斉に襲いかかるつもりだったでしょう」

 

 事実、霧に隠れて見えないだけで前後左右からじりじりと武装した集団が迫りつつある。

 空蝉の眼前を一羽の蝶が横切って、その後ろのプチスィンの後ろへと回り込み、消えた。

 ──カンタビレとの雑談に応じさせながらもう一体、空蝉を造るのは至難の業と思われたが、ソーサラーリングを装備しているせいか、非常にたやすく実行できた。

 ミュウに様々な恩恵を与えた実績、意識集合体が契約の証にと望んだだけはある。ソーサラーリングはミュウの、ひいてはチーグルの長老のものだから、もう二度とできることではなかろうが。

 蝶の視界を通して周囲を見て回ったところ、種々様々な武器を手にした囚人達が、カンタビレを含むスィン達へゆっくりと包囲網を狭めつつある。

 中には、譜銃を手にしている輩もいた。

 それが示すのは──いつ攻撃されてもおかしくない、ということ。

 

「あたしはそんな謀りごと……」

「じゃあ利用されたんですかね? タイミングが良すぎるから無関係の主張はいささか疑問に思いますが……真偽はどうでもいいです。流れ弾にだけ気をつけてくださいね」

 

 スィンとて、何も考えずに囲まれてやったわけではない。そちらの方が好都合だからだ。

 言い終わるか終わらないかの刹那。

 銃声がこだました。

 

 

 

 

 



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第百五唱——天秤はどちらへ傾くのか

 

 

 

 

 

 

 

 フリングス少将とミュウが謁見の間に戻ってきたのは、二人が雑談に興じていた最中のことである。

 フランシス・ダアトのくだり。まるで当事者が過去を語るかのような言動は、カンタビレの罵倒に耐えかねて、彼女の意表を突くためのブラフだろうとジェイドが推測を立てたところで、閉ざされていた扉が開いた。

 

「失礼します、陛下」

「みゅっ! みゅみゅうっ!」

「フリングス……」

「ミュウ!」

 

 画面の中の二人は未だ会話を交わしているが、誰もが二人に注視した。

 フリングスが帰還を告げ、ミュウが彼にぺこりと頭を下げている。

 結果として彼らはディスト関連の話を聞き逃しているが、当事者達にとっては幸いに当たるだろう。

 

「お前、いつの間に、いや、なんつーことを……!」

「みゅ?」

 

 人の言葉を話せずとも人語は理解できるのか。はたまたそうでないからなのか。ルークに耳を掴まれてもミュウは首を傾げるばかりで、文字通り話にならない。

 仲間達がミュウに注目するのを横目に、ジェイドはフリングスが跪いてピオニーに頭を垂れるのを見ていた。

 

「差し出がましい真似をしました。如何様な処分も謹んでお受けします」

「みゅう! みゅみゅうう、みゅっ!」

 

 それに対する返答がされるよりも早く。

 ルークの手からするりと抜けたミュウが跳ねるようにしながらフリングスの前へ転がり出た。

 そのまま何かを訴えにかかるミュウを慌ててルークが回収するも、ピオニーは意に介していない。

 苦い表情を崩さないまま、フリングスを見下ろした。

 

「……何の言い訳もないのか」

「ありません」

「やりすぎだと思うのか。ジェイドを殺しかねない女だぞ」

「過去、彼女と陛下の間で何があったのか。私にはわかりません。カーティス大佐との確執も。ですが、被害者であるはずのカーティス大佐から何の申告もない以上、その理由でこの刑罰は過剰です。軍属詐称のみ、しかも実際に何らかの被害があったわけでもないのに……」

「いえ。あとは不敬罪があります」

 

 促されて口を開くフリングスの口上を止めたのは、騒動の渦中にありながら黙しがちだったジェイドだった。

 

「目撃しているのが私とブウサギ五匹しかいませんが。確かに陛下を突き飛ばしていたので、不敬罪は妥当です。怪我をしていないから不敬罪なのでしょう?」

「まあ、そういうことになる。咄嗟に受身なんか取るもんじゃねえな……お前も何か言いたそうだな、ジェイド」

 

 皇帝の問いかけに、懐刀は軽く肩をすくめて口を開いた。

 

「私の身を案じてくださる慈悲深い陛下の御心には感謝感激雨霰、言葉にしきれないほどなのですが」

「体裁はいい、省略しろ。それはさっき聞いた」

「いえ、不敬罪はご勘弁ですので──私はもう、彼女に我が身を差し出しました。いつ殺してくれても構わないと、告げてあります」

 

 聞き逃せないそれを聞かされて。体裁と言う軽口に破顔しかけたピオニーは顔を引きつらせた。

 

「お前、いつのまに……! なんつーことを!」

「旦那、そりゃどういうこった!? そうするまでのことを、あいつにしたのか!」

「……私の役割を彼女は理解しています。本格的に暗殺に怯えるべきは、この件の何もかもが収束してからでしょうね」

 

 そう言って。仲間内、主にガイからの詰問も何もかも答えぬまま。

 彼は再び、スクリーンに目をやった。

 

『逆恨み……逆恨み、ね。そうなのかもしれません』

『! あんた、あの死霊使いにコナかけたってのかい!?』

『コナかけたなんてそんなちょっとホレちゃっただけですあんな色男なんだから多少色目使ったって不自然じゃないでしょう結局はねつけられちゃいましたけどっ』

 

 そこには、嘘八百を並べ立てる彼女の姿がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ!」

 

 乾いた銃声にいち早く反応したのは、スィンを扮する空蝉だった。

 その場に伏せることで視認し難い銃弾は回避、身を低くしたまま前進しようとして。

 その後ろで、悲鳴が上がった。

 

「うあっ!」

「流れ弾には気をつけろと言ったのに。不運な方ですね」

 

 立ち位置が悪かったとしか言いようがない。空蝉が回避したことでカンタビレが被弾したらしく、太腿の辺りを押さえて呻いている。

 押さえた手の隙間から、赤いものがにじんでいた。

 

「大丈夫ですか?」

「う、うっさい! あんたは自分達の心配だけしてなっ!」

 

 負傷具合を診ようとして、しっしっと追い払われる。これだけ元気なら大事はなかろうが、放っておくわけにもいかない。

 彼女が空蝉だけを睨んでいることをいいことに、スィンは胸元のリボンを外して近寄った。

 

「それなら、血止めだけでも」

「あっ」

 

 手早く患部にリボンを巻きつけて、応急処置とする。真白の絹は瞬く間に血の色を吸い込んだ。

 出血量から察するに動脈は無事のようだが、銃弾がかすっただけ、でもない。治癒しない限り、普通に歩くだけでも難しいだろう。

 

「譜銃でよかったですね。鉛弾(なまりだま)は取り出すのが大変ですよ」

 

 苦い記憶がちらりと横切る。振り払うように頭を振ると、空蝉もまた同じように頭を振った。

 チャネリングで回線を常時繋げているため、気を抜くと空蝉はスィンと同じ行動を取る。

 何事もなかったように、アイスピックを取り出させて──空蝉ともども凍った。

 この感覚は、二度目。一度目はミュウと共に来た方角を探してさ迷っていた時。土の下に描かれた譜は二種類あるのか、あるいは結界が吸収した譜力を放出する仕組みなのか。

 とにかくぬかるんだ土の下には譜陣が存在し、かすかに第三音素(サードフォニム)の気配を漂わせていた。

 あの時はミュウとノームの協力で何とか凌いだが、カンタビレがいる以上、彼女の目に付く限り同じ手は使えない。

 ならば。

 

「さてでは、ここでお待ちください。すぐ戻るよう努力する姿勢だけはとりますので」

「それじゃあ監視にならないだろ!」

「動き回らないほうが身のためですよ。とはいえ、あなたの都合に合わせていたら命がいくつあっても足りません」

 

 これは、事実。このまま立ち往生していたら雷撃発生で全身満遍なく痺れたのち、包囲網完成で四方八方からしこたま殴られることだろう。

 否、殴られるだけで済むとは思えない。

 

「出血も過多気味ですし、救護兵呼んだほうがいいと思います。連絡手段ならおありでしょう」

 

 まだ何か言い募ろうとするカンタビレに、耳の辺りを示してみせて。スィンは空蝉を伴い、その場を後にした。

 図らずもまたカンタビレを置き去りにした形だが、今回ばかりは仕方ないはずだ。

 あの負傷をスィンのせいにされて全兵士動員による死刑にされたらたまったものではないが、今のスィンは銃を持っていないし、もしやるとしたら間違いなく彼女の足ではなく頭を射抜いている。殺意があるなら生かしておく理由がない。

 もしもの話はさておき、今はもうすぐにでも発生する雷撃をどうにか回避せねば。

 ふと、ソーサラーリングに触れる。

 ユリアにまつわるものとされていながら、スィンが触れても何も起こることはなかった。

 ガイの妹として振舞っていた頃も、そうでなくなった今も。

 フォンスロットに接触して強化されたリングを確かめた二度とも、警戒しながら触れたのだが、ただひどく懐かしかっただけ。

 チーグルがユリアとの契約の証がどうのこうの言っていたが、スィンには関係ないものか──

 ソーサラーリングに刻まれた文字に指を這わせる。

 あのときは単語しか読み取れなかったが、子供の小さくて繊細な手だからなのか。

 指の先からは正確な文字が読み取れた。

 

「三界を流浪する旅人よ。流転を好む天空の支配者、天空を踊りし雨の友。シルフ、ヴォルト。汝らの力を此処に示せ」

 

 いつしか指で文字を追うよりも早く、言の葉が口をついて出て行く。

 それに伴って空蝉が雲散霧消したことは承知していたが、詠唱を止めることはできなかった。

 パチパチッ、と足元が鳴る。

 

「──ユニセロスウイング」

 

 ソーサラーリングから朧な光が溢れ、形となった。

 それがユニセロスのふさふさした翼に酷似しているとぼんやり思いながら、リングを頭上へと掲げた。

 ぐんっ、と力強く引き上げられ、体が宙を舞う。

 その出力はミュウウイングと明らかに違い、霧に遮られ、それまで見えもしなかった天井へ到達した。

 鉄の枠で補強された天井には、照明を点す譜陣や何かしらがごちゃごちゃと描かれ……遠くから、悲鳴が聞こえる。

 スィン達を囲んでいた囚人達のものだろうか。野太いものばかりで、カンタビレに該当するような女声はない。

 悲鳴が収まる頃合を見計らい、スィンはゆっくりと下降を始めた。

 霧に遮られて視界不良とはいえ、周囲に他者がいないことを十分に確認して地に足をつける。

 雷撃が発生するより前に集中を解いたせいで、空蝉の姿はない。

 外套とアイスピックを拾い、スィンは歩き始めた。

 ソーサラーリングの思わぬ力の発動に驚いたのもそうだが、譜術を制限する結界と空蝉を起動し続けたせいか。あるいは、この幼い体になった影響によるものかもしれない。

 肉体的にも精神的にも、スィンは疲弊していた。

 空蝉も、もう一度起動させるのが精一杯だろう。次に消滅させてしまったら、少なくとも本日中は起動できない。

 自らの状態を逐一把握、確認しながらも足を動かし──目的地へ到達した。

 カンタビレの共謀か、あるいは渡されたバッジが発信機になっていたのか。とにかくどうにかしてスィンたちの居場所を把握し、包囲しようと目論んでいた囚人達が死屍累々と横たわるその場所へ。

 そこかしこから呻きが聞こえるあたり、痺れているだけで死んではいない。しかし、動けないなら同じこと。

 これからスィンに殺されて、バッジを奪われるのだから。

 

「なんだ……ガキ……?」

 

 仰向けに倒れ、回らぬ舌で遺言を呟く囚人の首に、無言でアイスピックを突き立てる。喉を貫かれた壮年の囚人は、声すら殺され絶命した。

 バッジが一枚、手に入る。

 囚人が手にしていたのだろうか。転がっていた槍──長さは今のスィン程度──を拾って霧の向こうを透かすようにして、動けない囚人を探しては槍の穂先を首に付随する場所へ埋め込んだ。

 ひとつふたつ、むしりとったバッジが増えていく。

 たくしあげたスカートのくぼみに戦勝品を放り込んでいたスィンは、ふと目をこらした。

 痺れから回復したらしい、移動をしている誰かがいる。霧がかっているせいで詳細は不明だが、出くわすのはよくない。

 スィンは今空蝉を連れておらず、血塗られた槍を所持しているのだ。

 空蝉自体は無詠唱、一動作で発動可能だが、もう少しだけ休んでいたかった。

 

「三界を流浪する旅人よ……」

 

 先程は思いつきで、ほとんど意識せず行使したソーサラーリング……ユニセロスウイングを用いて天井まで上昇する。

 もちろんその場に、スカートに溜めていたバッジ総てを放棄して、だ。

 霧の動きかバッジの音か、あるいはすでにスィンがいたことを知っていたのか。誰何の声が上がるも、霧が邪魔で天井近くに滞空するスィンを見つけることなどできないはずだ。

 移動すれば、慣れない譜術で更に消耗し、その分誰かに発見されるリスクが上がる。

 このままやり過ごそうと考えた、その矢先のこと。

 

「!?」

 

 霧が、薄くなった。

 気のせいなどではない。

 音もなく羽ばたく翼の力で飛び続けるスィンが見つめる中、霧の濃度はどんどん薄くなっていく。

 このままでは視界の不備もなくなり、いずれスィンも発見されてしまうだろう。

 空中で、しかもソーサラーリングを使いながら空蝉を起動できない。起動したところで、空蝉を支え続ける自信もない。

 スィンは手にした棒手裏剣で、すぐ傍の照明譜陣を思い切りひっかいた。傷つけられた譜陣から光が喪われ、その場所にだけ闇の帳が落とされる。

 これを何回か繰り返すために、リングの起動は必須。しかも慣れない移動を試みなければならない。

 間に合ったところで、力尽きるが関の山か──

 

『ホラホラヴォルト、あんたの出番よ。派手にやっちゃいなさーい!』

『……俺に指図していいのは我が主だけだ』

『あんた、アタシと違ってただでさえ使い勝手悪いんだから。自主的に動きなさいよ!』

 

 歯噛みしたその瞬間、第三音素意識集合体たちの漫才が始まった。

 正確には、シルフがヴォルトにハッパをかけた、か。

 

『主、一帯の光源を消すのだろう? 助力する、備えろ』

「ちょっと、まっ──」

 

 シルフの軽口に乗ったヴォルトが具体的に何をしたのか。まばゆさを感知して咄嗟に目を瞑ったスィンに詳細はわからない。

 しかし、どうやら設置された照明すべてに彼の力が働いたようだ。

 白だらけだった光景はすべて黒で塗りつぶされ、周辺からは混乱している様が見て取れる。

 しっかり視認しているわけではないが、スィンは夜目がかなり利くのだ。

 少し慣らせば、通常と遜色なく行動可能となる。

 

『え、えぇっと……ありがとう』

『どういたしましてー。もっと頼ってくれていいのよ』

『おい、何でお前が応えるんだ』

『まあまあ、カタいこと言わない。アタシたち二心同体かもしれないんだからさっ! でね、ここに敷かれてる結界なんだけど』

『……一定の譜力を蓄え、第三音素(サードフォニム)に変換して放出する仕組みのようだ。ゆめゆめ油断するな』

 

 かなり好き勝手をのたまった後に、彼らは去ったようだ。

 ──意識集合体達と契約を重ねるにつれ、できることは増えた。

 この間、興味本位でウンディーネが使った状態異常快復の術のことを聞いたら、もとはユリアが使用していたものだからと、彼女はかの術をスィンに授けてくれた。

 いわく、快復術行使のためにわざわざ呼び出されてはたまらない、と。

 意識集合体達と契約したとはいえ、否、契約したから、なのか。望む望まないに関わらず、彼らは何かしらスィンの手助けをしてくれる。

 それはとてもありがたいことと同時に、彼らの力を借りることは危険だと再確認せざるを得なかった。

 厚意に部類するものであっても、スィンには制御できない力なのだ。

 どれだけ強大にして偉大な力でも、御することができないのでは……使用はためらわれる。

 制御しようにも、彼らの力はスィンがどんなに努力しても完璧に扱えるものでもない。何も知らなかったあの頃とは違うのだ。

 そのことを改めて心に刻み、闇に慣れた瞳が周囲の状況を探る。

 異常事態を察知して、兵士が出張ってきたようだ。灯りを手にした集団がひとかたまり、そうでない有象無象がちらほらと視認できる。

 相手が灯りを手にしているなら、それを回避するのもまた容易く。

 地面へ降り立ったスィンは、宵闇に乗じて囚人狩りに徹していた。

 

 

 

 

 

 

 



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第百六唱——見届けることもなく、頁はめくられる

 

 

 

 

 

 

 全部集まった。

 スィンがそう確信したのは、意図的に停電させてからしばらく経ってからのことである。

 闇討ちで集めた分に加え、動けない囚人達から奪った分を回収し、カンタビレを置いてきた辺りに放棄されていたズタ袋を回収し。

 灯りを持った兵士達をやり過ごして数えなおすこと三回。間違いなく、演習場内にいた囚人全員からバッジを奪ったことを確認して……途方にくれる。

 これで求められた条件は満たしたわけだが、このあとはどうしよう。

 本来、監視役がそれを確認して特別罰則は終了するのだろうが、カンタビレはどこにもいなかった。

 その辺りをうろつく兵士群に申告する? しかし、先程出くわしそうになった時は問答無用で攻撃されたのだ。

 大方、非常事態として囚人全員を処刑することにでもしたのだろうが……

 さてどうしたものかと、立ち止まっていると。

 

「いたぞ!」

「囲め! 今度こそ逃がすな!」

 

 兵士達の灯りに捕まったわけでもないのに、なんで捕捉されたのだろう。やはりこのバッジは、発信機に類する何かがくっついているのだろうか。

 逃げ回って自力で入り口を探して脱出したかったが。やはりそれでは正規に罰則終了とはならないだろう。

 灯りに照らされるより早く、これにて打ち止めとなる空蝉を作り上げる。黒外套を羽織らせたところで、まばゆい光が向けられた。

 携帯用の音素灯か何かと思っていたが、彼らはそれらしいものを何も携えていない。

 その手に持つのは譜術媒体で、その先端に譜術製の光を宿している。その光の強さから譜術抑制の結界は機能停止していると思われたが、カンタビレは他者を害する類の譜術限定と言っていた。

 周囲は明るくても、真実は今尚闇の中、だ。

 兵士は続々集まりつつある。蹴散らせないほどではないが、明らかに囚人ではない彼らに手を出して難癖つけられるのは御免だった。

 そもそも此度の騒動はジェイドに──皇帝の懐刀にしてマルクト帝国軍第三師団師団長にちょっかいを出したところから始まる。

 彼絡みの茶番なんか一度だけでよい。どこまでも彼はスィンを、スィンは彼を不幸にしかしないのだから。

 とにかくこの件に関してはこの場できっちりと決着をつけるべく、一定の距離を取りつつスィンたちを囲む兵士達を睥睨する。

 空蝉の背中に立ち、スィン自身の目と空蝉の視界を交互に働かせて。

 やがて、ヴォルトの干渉が外れたのか、あるいは単純に復旧したのか。闇に包まれていた演習場内にぽつぽつと光が戻ってきた。

 それに伴って、状況もよりはっきり見えてくる。

 スィン達を包囲するのは、やはりマルクト軍に所属する兵士達だった。出で立ちから仕官クラスは見受けられない。

 譜術媒体を持つ者が大半だが、槍や剣を持つ者もおり、その切っ先は例外なくスィン達に向けられている。

 ただその距離は一定を保ったもので、ためしに空蝉に踏み出させてみたところ、まるで見えない壁でもあるかのように兵士達は後退した。

 このまま問答無用で串刺し、あるいは四方八方から譜術乱打されるのかと思えば、どうも違う様子。

 何を企んでいるのかを見極めるべく、黙して立ち尽くす。

 空蝉は棒状に穂先を取り付けただけの簡素な槍を携えたまま、プチスィンは持っていたズタ袋を足元に置く。空蝉の所持する一枚を除いてバッジ総てを詰め込んだズタ袋は立ち回りの邪魔だ。

 途端。地面が振動したような気がした。

 

「!」

 

 否、気のせいではない。

 急激に譜力が収束したかと思うと、足元に亀裂が入り始め──

 

「──大地の咆哮。其は怒れる、地龍の爪牙」

 

 聞いたことのある詠唱が、スィンの耳朶を打った。

 しかし動揺している暇はない。もし、かの人の譜術ならば、今から全力で回避行動を取っても負傷は避けられない──よくても、空蝉は余波をくらって消滅してしまう。

 最悪、空蝉を庇っての負傷覚悟でその場からの離脱を図って。

 

「!?」

 

 驚愕した。

 発生したはずの地割れは非常に小規模で、立ち上るはずの衝撃もほんの一瞬足元を爆発させた程度で。以前見たものとは比べ物にならないくらい、その威力は低かった。

 無事回避は成功したし、その拍子に突きつけられていた穂先や切っ先で怪我をしたとか、そういうこともない。

 逃れた拍子に槍を振り回して牽制したから、包囲が少し乱れたくらいか。

 

「──炸裂する力よ」

 

 スィンが無傷であることなど気に留めた様子もなく、圧縮された譜力が音もなく破裂する。

 これも、咄嗟に身を伏せただけで回避した。正確には、できた。本来の威力なら、伏せただけで回避できるはずもない。もろとも吹き飛ばされていたはずだ。

 ジェイドの封印術(アンチフォンスロット)は彼の手によって解かれているはず。それも大分前に。

 それだけ譜術抑制結界は強力なのか、あるいは術者はジェイドの声だけそっくりさんで、当人が放ったものではないのか。

 とにかく、直撃したところで痛手はなさそうとはいえ、このまま嬲られるのはたまったものではない。

 

「……ええーっと。バッジ全部集めましたよー」

 

 返事はない。詠唱こそ聞こえなくなったが、包囲する兵士達に動きはない。

 めげずに、続ける。

 

「バッジを総て集めて、最後の独りになればお咎めなしになるんじゃなかったんですかー」

「それは、規則通り条件を満たした囚人に約束されたものだ! 監視役の将校を害した貴様に適用されるものではない!」

「そんなの不可抗力です! 流れ弾なんかどうしろっていうんですか、監視役を何が何でも護らなくちゃいけないなんて、規則にはありませんでした!」

 

 ジェイドの声ではない、兵士の咎めに対して全力で抗議する。

 そういうことになりそうだと踏んではいたが、事実をねじ曲げられてはたまらない。

 

「大体、カンタビレのアレは銃創のはず。私は銃を拾ってないし、大体やるならちゃんと、脳天ぶっ飛ばしますって!」

「大真面目にエグいことぶっこいてんじゃないよっ!」

 

 ざわ、と兵士達から動揺の気配が漏れる。

 ジェイドの声にもそれ以外の声にも静かだったのに、これは彼らにとって予想外の出来事なのか。

 声をした方を注視すれば、カンタビレが足を引きずりながら包囲網に割り込もうとして、止められている。

 足から血を流している辺り、まだ治療を受けていないのか。

 

「カンタビレ、見てるこっちが痛いですよ。早いところ治療を受けた方が「余計なお世話だ、あんたは黙ってな! ともあれ、ブリュンヒルドは条件を満たしたと言っているんだ。まずは確認! 事実ならしかるべき処置を、この場を逃れるための嘘っぱちなら非常事態発生の対処通り、対象殲滅でいいだろ!」

 

 やっぱりそういうことだったか。

 誰も彼も皆殺しとは、一国家に所属する軍隊の所行とは思えない蛮行である。対象が死刑囚だから、致し方ないのかもしれないが。

 一応カンタビレの指示通り、黙って事の成り行きを見守るが──雲行きは怪しい。

 カンタビレの命令に従おうとする者が、誰もいないのだ。

 それに気づかない彼女ではない。剣呑にして盛大な舌打ちをしている。

 

「こっちが入りたてだからって、なめやがって! 後で命令違反扱いにしてやる!」

 

 鼻息荒く自ら動こうとするも、やはり包囲網に割り入ることはできない。

 そんな彼女の様子もあって、兵士達のざわめきは一向にやまなかった。

 

「危害を加えられた監視役本人が何を言っているんだ?」

「元同僚らしいから、庇ってるんだろ。あのきっつい将校殿にも意外に優しい一面が……」

「なんだってこんな薄汚い女狐を庇わなきゃならないんだい! あたしは己の職務を全うしているだけだ、上の命令で右往左往しかできないヘボ兵士風情が。妄言垂れ流すんじゃないよ!」

 

 ざわめきの一部を耳ざとく聞きつけたカンタビレが威勢よく吠え立て、外側の包囲網が気圧されたように一部崩れる。

 そこで、駆けつけた兵士が三人がかりで彼女を止めた。出で立ちが通常の兵士のものと異なる。救護兵だろうか。

 

「落ち着いてください、将校。傷に障ります」

「将校を害した輩は規定に乗っ取り処分しますので……」

「何が規定だ! あいつはあたしを傷つけてなんか」

 

 カンタビレがそれを言い終えるよりも早く。

 もみ合いになったかと思うと、彼女は三人の兵士によって担ぎ上げられていた。

 暴れているようだが、負傷のこともある。とても抜け出せそうにはない。

 

「離せ、このっ!」

「お、お達者で、カンタビレ。ご家族によろしくどうぞ。あと、お大事に」

 

 どうやら、ここで彼女はここで退場のようだ。聞こえるかどうかわからないが、一応お別れだけ言っておく。

 自分を担ぎ上げた兵士へか、はたまた薄汚い女狐へか。

 引き続き何かを喚きながらフレームアウトするカンタビレを見送るまでもなく、視線を戻した。

 再び、前衛に立つ際は後ろから聞こえてくる詠唱が唱えられた。

 それが結ばれるより早く、牽制する。

 

「こんなしょっぱい譜術で、まさか仕留められると思ってませんよね?」

「──」

 

 返事はない。しかし、構わず続ける。

 詠唱は途切れたからだ。

 

「あくまで私に非がある体裁にしますか。やってもいないことを認めることはできませんが、冥土の土産に教えてほしいものです。生き残りをかけたこの罰則において、何故死刑囚達は徒党を組んで行動していたのかを」

 

 別にスィンとて、そんなことが本気で知りたいわけではない。大体予想はつくし、それを確かめたところで得るものは何もない。

 ただ今は、少しでも時間がほしかった。

 この場を切り抜けるためにはどうすればいいのか、どうするべきなのか。それを探るために時間が。

 それまでひたすら譜術の詠唱を重ねていた声が、僅かな沈黙を挟んで、初めてスィンに声をかけた。

 

「簡単です。あなたを死んだ時点で生き残った者、全員を無罪とする。そのように発令しましたので」

 

 カンタビレに知らされていなかったのか、あるいは知っていて言わなかったのか。

 どちらでもいいが、自分の推測が的中していたことは内心でがっくりしておく。

 そこへ、唐突に包囲網が割れた。

 それまで人垣で見えなかったその姿が、スィン達へ歩み寄ってきたことでようやくはっきりとなる。

 その身の位を示す軍服は一兵士のものと一線を画し、眼鏡をかけた真紅の双眸がこちらに向けられているが、目つきはどこまでも険しい。

 その姿を前にして、スィンは思わず声を上げた。

 

「大佐……!」

「ようやく、あなたを始末することができます」

「はいっ?」

「目障りでした。実力も及ばぬあなたに身辺をちょろちょろされて。成り行きで行動を共にしたことを後悔するほどに」

 

 何を言っているのかちょっと分かりかねるが、会話を成立させないことには聞きたいことも聞けないだろう。

 

「……左様ですかー。ざまあみろ、いい気味だ、もっと後悔しろ。ところでどうやって」

「街中の刃傷沙汰はご法度ですからね。この場のあなたは死刑宣告を受けた囚人と同等。なんら問題はない」

「お話が見えないんですが。顔の左右にくっついているそれは飾りかなんかですかね」

「さあ、覚悟を決めなさい。今まで法の名の下に見逃してきましたが、本日が年貢の納めどき。我が槍の露となって消えるのです」

 

 人の話など一切聞かず、まるで台本を読むかのように朗々と告げて。

 そして彼は、その穂先をスィンへ──空蝉へと突きつけた。

 通常後衛に甘んじ、七番目を除く総ての音素(フォニム)を操っての殲滅戦を得手とは聞くが、その手に持つ槍はけして飾りでもこけおどしではない。

 組み手に近いものだったとはいえ、スィンは体でそれをよく知っている。

 知っているからこそ、その際とはかけ離れた姿で、格好良く槍を構えるジェイドが非常に滑稽で。

 

「……ぷっ」

 

 気づけばスィンは、空蝉同様彼を指差して爆笑していた。

 無邪気に笑い転げるスィン達を前に、流石というべきか。

 彼は眉すら動かさない。

 

「ダメ、お腹痛い。あははは……殺される前にしんじゃいそー」

「……己の死を前に、発狂しましたか」

「きゃははは……だって、ぷふっ、そんな大真面目に死刑宣告して、その構えも格好良すぎ……くくっ、ああもう、おっかしい」

 

 ひとしきり笑って、こらえる必要がなくなるまで、気の済むまで腹の底から笑って。

 場を凍りつかせて憮然としているジェイドを前に、浮かんだ生理的な涙を拭う。

 思う存分笑ったスィンは、空蝉の影に隠れて二十七歳の自分の声を発した。

 せっかく空蝉自身が話せるようになったところだが、大笑いの影響で精神が波打っていて、集中するのが難しい。

 もちろん、空蝉本人が話しているかのように口だけ動かして。

 

「で、あなた誰ですか。どうやって大佐の外見を装備していらっしゃるので」

 

 当然のことながら、か。眼前のジェイドは蔑んだような目をした。

 否、実際蔑んでいるのだろう。

 

「何を仰っているの理解しかねますね」

「そんならもう少しわかりやすく。どうやって譜眼をお外しに? 目玉をくりぬいて新しいの入れたとか言わないでくださいね。笑い死にしますよ、本当に」

 

 返事はない。本当に笑い死ねと思っているのかもしれないが、そうしてやるわけにはいかない。

 表向き表情が凍っているように見えるジェイドを前にして、挙げ連ねた。

 

「コンタミネーションが使えないから槍を握りっぱなしなんですね。格好悪っ。譜眼がない上に譜術制限がかかっているからあんな、ショボい威力の譜術しか使えないと。やっぱり格好悪っ。あと大佐の眼鏡はお手製だから、そんな普通のは持ってないと思いますよ。確かに見た目はそれっぽいですけど。で、どちらさまなんですかね。『見てくれだけ』大佐のそっくりさん」

「し、知った風な口を……」

「ありゃま、会話しちゃうんですか。本人ならまず間違いなく吹き飛ばしにくるのに。敵の軽口に乗じてやりこめようってんならまだしも、まともに聞き入れてあまつさえ怒り出すなんて。だんだん化けの皮がはがれてきましたね。あともうちょっとでしょうか」

 

 眦を吊り上げ、槍を振るうジェイドを空蝉と持たせた槍で迎え撃つ。

 怒りを露とした珍しいその顔に見入ることなく、ただ突き出された槍の穂先をはじいた。

 返す刀で殴り倒そうとして……やめる。

 彼の偽者に苦痛を与えても、虚しいだけだ。その代わり。

 

「っ!」

「確定ですね。あの死霊使い(ネクロマンサー)が、槍の扱いなんかちょこっとかじった程度の私に競り負けるなんて、いくらなんでもありえない」

 

 絡めとり、跳ね上げた槍がくるくると宙を舞う。

 落ちてきたそれがジェイドの使うものと非常に似通っている──しかし、見かけに反してかなり軽い──ことを確かめて、ぽいっと脇へ捨てた。

 

「そろそろ名乗ったらいかがです。大佐の劣化コピー。頑なに名乗らないなら、本物への嫌味を込めてハイドログロシュラライトガーネットとお呼びしますが」

「ハイドロ……?」

「大佐に化けるならせめて知能もコピーしといてくださいよ。その顔でそんな不思議そうにするなんて、ほんっとマヌケにしか見えない。本物にあったらついうっかり馬鹿にしてしまいそう。ハイドログロシュラライトガーネットも知らないんですか? ジェイドなのにー」

「なんだと!」

 

 その顔でその声でそんな、からかわれたルークかアッシュのような反応を返さないでほしい。

 そんな感想からふと、怒気の練られたその声音に少年のような響きが含まれていたことに気づく。

 ジェイドを凝視してみると、どこかしら動くたびに細部がブレているような、仔細を確認できない点が見え隠れしていた。

 幻術、それも声までごまかす高等技術のようだ。しかし如何せん、化ける相手が悪すぎた。

 

「で、ハイドログロシュラライトガーネットはどなたなんですかね? 大佐を馬鹿にされて怒り出す辺り、大佐の関係者なんでしょうけど。えーと、稚児の方ですか?」

「な、何を言って」

「部下、従者、後輩、友達、研究者仲間、親の知り合い、ただの知り合い、飲み仲間、後は……お子さん。実子でも養子でも。さあどれだ」

「どれも違う!」

 

 やはりか。

 上げ連ねた大佐との関係、ではない。

 感情を高ぶらせて否定を声高に叫ぶジェイドが、やはりブレて見える。表情だけではなく、今度はその立ち居振る舞いそのものが歪んで見えた。

 術者が動揺している影響と見るのが、自然だった。

 あと一押しで、文字通り化けの皮は剥がれるだろうか。

 

「この中のどれでもない……となると。追っかけとか出待ちをする人。ファンの方ですかね」

「弟子だ! お前が殺そうと企てた、カーティス大佐の!」

 

 最早ジェイドの口真似すらしていない。見破られたことで無意味と断じたか、気づけば青い軍服姿はどこにもいなかった。

 それまでジェイドが立っていた場所には、一人の青年が批難的な目をスィンに向けている。

 軍服を着ているわけでもなければ兵士の姿でもない、さりとて何かの制服も着ていない。

 その出で立ちは、まさしく一般的な市民のものだった。

 

「ハイドログロシュラライトガーネットは大佐のお弟子さんでしたか。あのおっさんは見たところ専門知識も何もなさそうな民間人にどんな教えを授けていらっしゃるのですか?」

「ハイドロなんとかじゃない、カシムだ! 大佐をおっさん呼ばわりするな、この真似女!」

「三十五歳は立派なおっさんだからそれは無理です」

 

 先程槍を放棄させたため、相手は無手。

 見たところ武器を隠し持っている様子もないにつき、スィンは自分の槍を手放すと同時に口撃を開始していた。

 

「して、私がどちら様の真似をしていると」

「大佐のことに決まってるだろうが! その慇懃無礼さ、落ち着き払った態度、敬語! リスペクトのつもりか、気持ち悪いんだよ!」

「皮肉と嫌味も追加しといてください。お師匠様が気持ち悪いなんて、酷いお弟子さんもいたもんですね」

「そういう意味じゃない!」

「最も、真似した覚えはありませんけど。お弟子さんということは、あの若年寄のうざくてねちこくていやみったらしいお喋りに愛想よくお相手しないといけないんですよね。カリカリするのも仕方ないですか。同情します」

 

 そうなのだとしたら、この過剰反応も初めからなんか怒りっぽかったのも説明はつく。

 ご苦労様な話だった。

 しかしカシムなる青年は、まったくピンときた様子もなかった。正確には見せなかった。

 

「いや、別にそんなことは……」

「そうですか。確かにそんなことはどうでもいいです。問題は、大佐のお弟子さんが何か御用ですか? 私は特別罰則における勝利条件を満たしました。規定違反はそちらの言いがかり。カンタビレの銃創と彼女自身の記憶が証明してくださいます」

 

 目にすればどうしても心乱れるジェイドの幻を暴くために、要らない努力をしてしまった。

 幻がなくなっても包囲網を形成する兵士達に動揺はなかったにつき、この青年が彼らをまとめているものとして話を持ちかける。

 とはいえ、彼はジェイドの弟子を名乗った。次に何を言い出すのかは、予想するに難くなかったが。

 

「何か御用だって? 決まってる。大佐の命を狙う輩を──女狐を野放しになんかできるわけないだろ!」

「別に殺そうとはしてません。今は」

「今はってなんだよ!」

「今は今。彼にしかできないこと。彼が成すべきこと。総てが総て解決するまでは、生きていてくださらないと困ります」

 

 そう。今現在、彼にこの世から退場してもらっては不利益にしかならない。文字通り世界の損失だ。

 利益を無理やり挙げるなら、スィンを筆頭に、彼を恨み存在を邪魔に思う連中が喜ぶだけか。

 釣り合わないどころの話ではない。

 

「それに今大佐が死んだら、どんな理由だろうと私のせいになるでしょう」

 

 そうなれば……そうなったとして、スィンだけの罪で済めば何の文句もないのだが、多分そうはならない。

 マルクト皇帝の懐刀を殺めた者の主に、どんな影響を及ぼすのか。及ぼしてしまうのか。

 考えたくなかった。

 最悪のシナリオしか、考え付かないから。

 

「そんなわけです。今は殺さない。事態が落ち着くまでおあずけくらっときます。密命だったとはいえ、こんなくだらない茶番に巻き込まれてしまったことですし……いい加減戻らないと雷を落とされてしまいます」

「大佐がお前の心配なんかするものか!」

「あっ、そうですね。割と願い下げです」

 

 大佐にではなくて主からの叱責を厭うているわけだが、無駄口は叩かないことにしておく。

 件の皇帝には間違いなく知られているだろうが、みだりに主の存在とスィン自身の関係をひけらかすのはよくない。

 少なくとも目の前の民間人は、スィンに敵意と警戒心を持っている。従者の尻拭いを主にかぶせるなんて、従者失格もいいところだ。

 いつだってとばっちりを被るのは、当人でない近しい誰か。

 

「大体、お前は何者なんだ!」

「名乗るほどの者ではありません。ちょっと前まではキムラスカ・ランバルディア王家第三王位継承者たるファブレ公爵家ご子息の護衛従者してました。今はクビになっています」

 

 ガイのことを積極的には明かしたくない、さりとて仲間達を全面的に壁……人身御供にするわけにもいかない。

 あれもこれも選びたいスィンとしては、どうしてもこのような物言いになる。

 一方、言い分を聞いてカシムは鼻で笑った。

 

神託の盾(オラクル)騎士団の主席総長の女をやっていた奴が、どうやってキムラスカ王家縁の人間に近づけるんだ」

「そこはそれ。人と人との繋がりを大事にした結果というやつです」

縁故(コネ)じゃないか。そうやって人に取り入って、寄生虫のように生きてきたんだな。恥知らず!」

 

 この暴言は感情によるものか、はたまたスィンを怒らせようと意図的に放っているものなのか。

 会話そのものにはほぼ取り合わず、この先に待ち受ける、あるいは誘導された先の展開を探っていたスィンは弾かれたように自分が捨てた槍を拾っていた。

 気合も高らかに突っ込んできた、一兵士の突撃を受けて。

 

「会話で気を引いて、後ろから刺しにくる戦法ですか。ちょっと詰めが甘かったですね」

 

 穂先で切っ先をくじるように止め、つんのめったところで足を払い転ばせる。

 取り落とした剣を蹴って鼻先に穂先を突きつければ、鉄砲玉にされた兵士は小さく呻いて両手をあげた。

 

「こっそり刺すなら声も足音も消さなければ。あなたも大佐のお弟子さんなんですか?」

「じ、自分達は第三師団に所属する者だ!」

「タルタロスに乗らなかった大佐の部下達、ですかね。大佐……師団長にいなくなられたら、困りますか」

 

 死霊使い(ネクロマンサー)と畏れられていながら、いや、いるからだろうか。どっかの死神とはえらい違いである。

 短絡的に彼を亡き者とすれば、主に害が及ぶだけではない。

 少なくともここにいる彼らを悲しませ、恨みを持たせ、それは延々と連なる負の連鎖を未来永劫紡ぐことになる。

 そんなものの発端を編むわけにはいかないと、感情に流されぬ決意を新たにしても。

 

「それでお前は、どうして大佐を狙う。大佐に何の恨みがあるって言うんだ!」

 

 理性はあっさりと押し流されて。

 感情の津波は、身体すらも揺るがせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……陛下」

 

 絶対零度に近い声音が、妙に寒々しく謁見の間に響く。

 

「……なんだ」

「何故カシムを演習場に入れたんです。一般人の入場はおろか、軍本部に入ることも許されないはずが、特例をお認めになった理由は?」

 

 じろり、と愛用の槍を弄びながら詰問するジェイドの視線は、空になった玉座の背もたれを貫通しないばかりに鋭い。

 対して、ジェイド及び一行、特にガイやナタリアの冷たい視線から逃れるように玉座の後ろへ隠れたピオニーは、そのまま質問に答えている。

 

「どこからともなく、お前の命が狙われていることを聞きつけてきてな。ぜひ自分も作戦に加えてほしい、って志願してきたんだよ。加わるために、死刑を科されるような凶悪犯罪起こすこともいとわない、って直訴してきやがったから、本当にそんな事件起こされても困るってんで特別に参加させた」

「その程度の脅しで特例を認めないでください」

 

 おそらく、わざと情報を洩らしたのだろう。

 カシム個人のことをピオニーが知っていたかどうかは定かでないが、ジェイドに弟子入りをせがむ傍若無人にして命知らずな人間の存在を、親友たる彼が知らないわけがない。

 そのとき。意を決したかのように、ナタリアが一歩、進み出た。

 

「聡明なマルクト皇帝陛下が、戦時中における緊急措置を知らないとは思えません。スィンがマルクト軍の制服を着用したのは、一重にわたくしたちの行動に支障をきたさないためですわ! お願いです、どうか仮借措置をお取りくださいませ!」

「──それはできない」

 

 敵対国の王女が、恥も外聞もなく敵国の皇帝に従者の許しを乞う。

 わからないわけでもなかろうに、堂々と頼み込むナタリアの胆力に内心で驚きながらも、ピオニーはそれを却下した。

 

「奴はガイラルディアの従者であるはずだ。あなたに関係あることでもないだろう」

「ピオニー陛下。スィンはガイの従者だというだけではありません。わたくしの大切な友、かけがえのない仲間なのです」

「これは驚いた。腹に一物持っていたであろうガイラルディアの従者を、キムラスカの姫たるあなたがかばうのか」

 

 突如として展開される、スィンを巡ってのやり取りに一同がハラハラと見守る中、ナタリアはなんら恥じることはない、といった風情でピオニーを見つめている。

 そらすことに良心が痛むほど、純粋な眼差しがそこにあった。

 

「スィンは、ガイの傍にいるためだけに恨み持つキムラスカに何もしないまま、わたくしにもルークにもよく仕えてくださいました。スィンが、あなたの思うような見境のない復讐者でしたら、王位継承者であるわたくしやルークは当の昔に殺されていたでしょう」

 

 スィンやガイの正体を知って以降、口にされることはけしてなかった覆しようもない事実があらわとなる。どこか心苦しげに、ガイはその様子を見つめていた。

 当事者であった彼の心境は、計り知れないものがある。

 

「あなたやルークがこれまで殺されなかったからといって、奴がこれからも何もしないとは限らない。現にジェイドは、政治的な理由も相まって奴の襲撃に遭っている。結果として最悪の事態は回避されているが、次も同じ結果とは限らないだろう。──実際に殺されてからでは遅いんだ」

「だからといって……!」

 

 不快さも露にピオニーへくってかかろうとしたナタリアが、ぴたりとその口を噤む。

 音響装置から聞こえてきた、久しく聞いていなかった咳を耳にして。

 

 

 

 

 

 唐突に、濁った咳が、場に響く。

 聞く者を不快にも不安にもさせる咳はやむことなく、俯き気味だった少女は口を覆いながら膝をついてしまった。

 口元こそ見えないが、その手から滲むように赤い雫が滴り落ちる。

 うずくまるようにして苦しそうに咳を繰り返す小さな背中を、いたわるようにさする手があった。

 

「な、なんだ?」

「特殊疾患を患っていましてね。場の空気に耐えられなかったのだしょう」

 

 プチスィンがまとう白と黒の華美なスカートから手巾を取り出し、口元にあてがう。

 そのまま抱き上げて、婉然と微笑みかけた。

 

「伝染る類の病なら、大佐に罹らせようと計画します。そんなヨゴレを見るような目をしないでください」

「こ、この外道! 苦しむ子供を使ってそんなことを企むなんて」

「その子供をバイキン扱いするなんて、外道はどっちですか。嘆かわしい。まあ死霊使い(ネクロマンサー)の弟子と部下達なら、そのくらいでないとついていけませんか」

 

 事実、包囲網もカシム自身も、プチスィンが発作を起こした時点で距離を取っている。

 そのことを認めながら少女を抱き直すと、その腕から降りようとしていたプチスィン──オリジナルは再び咳をした。

 その背中を、やさしく撫でる。

 

「……あなたも。何も、知らないのですね」

「知るわけないだろ! 大佐を恨む連中は確かにいるさ、軍人なんだからな! 何かご大層な理由があるのかと思えば……馬鹿馬鹿しい。お前の身勝手な感情で大佐を煩わせるな!」

 

 耳が痛い。

 間違いなくスィンは、極めて個人的な感情をもって彼に影響を及ぼしている。

 どれだけ責めようが何をしようが、たとえ彼を殺したところで何も解決しない、ただの感情で。

 

「……」

「何故何も言わない、弁解しない? まさか本当だからグウの音も出ないのか?」

真偽(それ)を尋ねるべきはあなたのお師匠様であって、私にお答えする義理はありません。大佐から聞き難いなら皇帝陛下へどうぞ。陛下は確執の真実をご承知です。軍に所属せぬあなたを此処へ招いたのですから、ものを尋ねるくらい、わけないでしょう」

 

 ──吐き気が、おさまらない。

 オリジナルが持病の発作に苦しんでいる影響だろうか。あるいはジェイドとの仲を勘ぐられて、吐き気を催すくらい不快になっているのだろうか。

 空蝉として顕現し、一度自我を露にしてオリジナルの拒否反応を見た彼女は以降、おとなしく制御に従っていたのだが……術者の緊急事態となれば致し方ないだろう。

 オリジナルはとっくに異変に気づいているだろうが、発作が収まるまでは何もできないはずだ。

 それを待っていたら、事態は好転どころか最悪の方向へ転がり出すだろう。

 

「……暴走しているから、こういう真似もできるんですよ?」

 

 こそりと囁きかけるも、オリジナルに反応はない。

 ゼイゼイと苦しそうに、濁った咳と息継ぎを繰り返すばかりだ。

 埒が明かないと、空蝉と称される彼女は言葉を紡いだ。

 

「私が大佐を殺害せんと企てていること。今後を鑑みて今は生かして差し上げること。理由はともかく現状の理解はできたでしょう」

「何を堂々と殺害予告してるんだ!」

「よってたかって言いがかりまでつけて私を殺そうとしてるくせに。どの口が抜かすんですか」

 

 チャネリングで制御されているからこそ覗きこめた、オリジナルの真意を反映させる形で。

 

「……あなたが護って差し上げればよいでしょう」

「!!」

「タイムリミットは世界が落ち着くそのときまで。それまでに、あなたが大佐を、護りたい人を、護れるようになればいい」

 

 事態の収束を待ってジェイドの殺害を実行すること。それはスィンにとって、不可能なことだと自覚している。

 何せスィンにも、タイムリミットがあるのだから。

 この混迷する世界が平和になるまでにかかる年月とスィンに遺された時間。天秤にかけるまでもない。

 医師から告げられたことが絶対だとまでは思っていなくても、それでも。

 

「……そんなまどろっこしいことをしなくても、今この場でお前を亡きものとしてしまえば!」

「話し合いを放棄するんですね。この野蛮人。そんな短絡的で死霊使い(ネクロマンサー)の弟子を名乗るとは片腹痛い」

「うるさい! まだちゃんと認めてもらってないだけだ!」

「なんだ自称でしたか。そうですよね。ジェイドのことぜんっぜん知らないみたいですし。変だなあとは思っていました」

「だ、黙れ女狐! 知った風な口で、お前こそ大佐を語るな!」

「私は女狐ではありません。どっちかというと狸顔だと思ってます」

「確かに垂れ目気味──そんなことはどうでもいい! 大佐を呼び捨てにするな!」

 

 自称弟子であることを見破ってしまったせいだろうか。

 顔を真っ赤にして地団駄を踏み始めたカシムを前に、空蝉はそれを眺めるしかなかった。

 このままでは堂々巡りもいいところである。無為に時が過ぎれば、オリジナルは発作から自然快復するだろう。最早咳も落ち着き、今は深呼吸を繰り返して息を整えている。

 しかしオリジナルが快復したところで、この場から脱出する手立ては──

 ひらりと。何かが視界の端にちらついた。

 蒼く鮮やかな色合いに視線を寄せて、知らず肩が震える。

 一羽の、特徴的な大型の蝶。

 青色ゴルゴンホド揚羽を模した空蝉が、可憐な支脈の羽を震わせるその様に、空蝉が気を取られていた。次の瞬間。

 

「今だ! 一斉にかかれ!」

 

 足元からパチパチッと、音がした。

 眼前のカシムも、包囲する兵士達も。

 皆一様にカンタビレも履いていた絶縁体製の軍靴を装備しているのを見れば嫌でも勘ぐらざるをえない。

 会話、不意打ち、挑発などで気を引いて結界の作用を用い、スィンが電撃の餌食になったところでトドメを刺す。

 何せ今のスィンは死刑囚と同じ身分。殺してしまえば何とでもなると、皇帝は考えたのだろうか。

 しかし、そんな思惑に乗ってやるわけにはいかない。

 先はもう見えているのだ。すでに見えているその場所に到達するまで、そう簡単に諦めるわけにはいかない。

 どれだけジェイドが大切か知らないが、スィンの命が喪われたところで悲しむ人もいるのだから。

 発作の収まったプチスィンがまず行ったのは、殺到する兵士達から、放出される第三音素(サードフォニム)の気配から逃れることだった。

 何を思ったのか、再び暴走した空蝉が自分を抱えたまま体を丸めたのを無視して、ソーサラーリングをなぞる。

 

「三界を流浪する旅人よ。流転を好む天空の支配者、天空を踊りし雨の友。シルフ、ヴォルト。汝らの力を此処に示せ」

 

 それまで放置していたズタ袋を回収、空蝉と共に宙を舞う。

 置き土産に、最後の煙幕弾を投下して。

 

「うわあっ!?」

「ゴホッゴホッ……目が……」

 

 突然のことで両目を覆っているカシム、煙幕の範囲内で右往左往する兵士達、触れれば感電間違いなしの第三音素(サードフォニム)を放出する床を置き去りに、ユニセロスウイングで事前に特定していた出口を目指す。

 霧もなくなった今、空蝉が連中の気を引いていた間に演習場の出入り口を探すことは、そう難しいことではなかった。

 

「──暴走して、よかったでしょう?」

「結果的には。でも、改善が必要です」

「それまでしばらく封印、ね。さよなら、オリジナル」

 

 チャネリングで繋がっているせいで考えていることは筒抜けだからか、彼女もまたスィンであるからか。抵抗もなく未練も見せず、空蝉と名づけられたレプリカは音もなく消滅した。

 プチスィンにしがみついていた荷物が一部なくなったことで、風切る速さが一段と増す。

 

 ──さあ、帰ろう。

 

 主の御許へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……フリングス少将」

 

 カンタビレが退場した時点で、監視装置は一兵士の持つものへと切り替えられている。

 煙幕によってそれがまったくの役立たずと化したそのときに。沈黙が振りきたる謁見の間に、感情を持たないガイの声が響いた。

 

「な、なんですか?」

「今すぐ俺を、スィンのいる場所まで連れて行ってください」

 

 口調だけを聞けば通常とそう大差ない。しかし、彼は抜き身の片刃剣を握りしめつつ、フリングスに迫っていた。

 断れば『ずんばらりん』も辞さない構えだ。

 頼まれた当人はといえば、困ったようにガイとピオニーを交互に見ている。

 身の安全のためにも連れて行きたいところだが、それを皇帝が許すか否か。

 それをフリングスが口に出すよりも前に、愛用の槍を自身の腕へ収納したジェイドがガイを押し留めた。

 

「私が知っています。少将を脅さないように」

 

 では行きましょうとばかりに振られたジェイドの手振りに、一行が黙って従う中。

 彼はくるりとピオニーに向き直った。

 

「それでは陛下、またの機会に」

「お、おい、ジェ──」

「失礼します」

 

 呼び止める声を捨て置き、いささか乱暴に謁見の間を辞する。

 一行はいつになく早足のジェイドに従って宮殿の外へ出た。

 

「……スィン、大丈夫かなあ」

「煙幕でどうにか切り抜けたと俺は信じてる」

 

 小さな小さなアニスの呟きを耳ざとく聞きつけて、それでもガイは預かっていたスィンの荷袋から発作止めを探していた。

 以前のやり取りもさながら、スィンはジェイドを通じた皇帝との確執を間違いなく自覚している。

 となれば、自分がいることによる悪影響をガイに向けられることを良しとはしないだろう。だからこそ、非常に不自然な発言を繰り返したと思われる。

 今頃兵士たちを出し抜いて、演習場からの脱出を試みているはずだ。

 いくら何でも、見た目七、八歳の少女がマルクト軍本部をうろつくのは怪しい。フォローに行かなければ。

 誰も事の詳細を尋ねない辺り、察しているのか、今聞いても無駄だと悟っているのか。

 無言のジェイドに従うようにして向かった先。一行は、前方の扉より現れた小さな影を目撃した。

 ひどく消耗した様子の少女である。その手には大きく膨らんだズタ袋と、黒い外套が携えられていた。

 大きく息をついた少女が、顔を上げる。気配の在り様か、あるいはああ見えてまったく気を抜いていないのか。

 少女はすぐに一行の姿を認めた。

 

「……ガイラルディア様、みんな……」

 

 間違いなく、プチスィン──本物のスィンである。

 愛らしいゴシックロリータの衣装は汚れてしまっているものの、大きな負傷の類は見受けられない。

 

「スィ──ぐぅえっ!」

「気持ちはわかりますが、話は後です」

「違う、そうじゃない! スィン、発作は!? 薬飲んだ方が……!」

「……?」

 

 感極まって駆け出しかけたガイの襟首を掴んで止めたのは、ジェイドであった。

 その手を振り払って荷袋──発作止めは見つけられなかったらしい──を差し出している。

 一方、すべてを監視されていたことを知らないスィンは、口元を乱暴に拭ってから荷袋を受け取っていた。

 色の違う瞳は、ジェイドでも主たるガイでもなく、小さな聖獣だけを見つめている。

 

「あ、ありがとうございます。大丈夫ですよ──ミュウ、ありがと。たくさん助けてもらったよ」

 

 会釈でガイの横をすり抜けて、ルークの足元にしゃがみこむ。

 ソーサラーリングと引き換えに手にしたロケットペンダントを胸へ押し当てるように握り締め、大きく息をついた。

 それも束の間。切り替えるようにぐっと顔を上げて、ルークを見る。

 

「和平条約の交渉はどうなったの?」

「あ、ああ。無事済んだ。場所はユリアシティに決まったからで、これから飛行譜石を──」

「話は後だと言っているでしょう」

 

 珍しく苛々とした調子を隠さず、ジェイドが会話に割り込む。

 彼を目にして、スィンは弾かれたように首を捻じ曲げていた。

 まるで、彼を視界から追い出すかのように。

 

「──」

「大佐、あの。話せば長くなるんですが、連行されたあの後にですね……」

「その話ならばこちらも把握しています」

 

 しかし、それはほんの一瞬のこと。すぐにジェイドを正面から見上げて、その目を見つめている。

 彼に関わるそのことで殺されかけた直後とは思えぬ胆力だった。

 苦々しい表情を隠さないまま見返してくるジェイドの視線にか、その返答にか。

 戸惑ったように沈黙した彼女は、気を取り直したように抱えていたズタ袋を持ち上げた。

 片手間に、黒外套に取り付けられたバッジも外している。

 

「じゃあ、これを」

「貸してください」

 

 差し出されたそれをひょいと取り、ジェイドは突如現れた集団をちらちら見ている兵士を捕まえた。

 

「君。カンタビレ女史に届け物を頼む」

「あ……はい」

 

 あっけにとられている兵士をやはり捨て置いて、一同は迅速にマルクト軍本部から市街へ戻っていった。

 不審な人影が見えないことを確認して、スィンがくるりとジェイドを振り仰ぐ。

 

「飛行譜石を取り戻すんですね。お次はダアトですか?」

「──ええ。そうなります」

「問題はディストがダアトにいるかどうかですよね。僕としては是非一発殴っておきたいんですけど」

「……」

 

 何気なく言葉を交わすその様子にも、皇帝が言っていたような確執があるとは到底思えない。

 態度も口調も、スィンが他の仲間と対するものをそう変わりはないのだ。強いて言えば、スィンがやや彼と距離をとっているところか。

 しかし彼女の抱える精神的な疾患を思えば、特筆すべき内容ではない。

 仲間たちから複雑な視線を向けられていることに戸惑いながら、スィンは隣を歩く主の言葉を耳に捕らえていた。

 

「にしても、無事で良かった。ある意味で、ディストに感謝しないとならないな」

「……そ、ですね」

 

 結果論ではあるが、スィンがこの姿であることが幸いして今彼女は生きているのだ。

 ろくでもない薬をひっかけられたと思っていたが、匙ほどの役には立ったということか。

 眉間に縦皺ができそうなのを、意識して押さえ込む。

 不快感をあらわにするのは置いといて、スィンは目下気になっていたことを口にした。

 

「ところで、なんで僕があそこにいるってわかったんです? フリングス少将もいなかったのに。確かにミュウはあそこに来たけど……」

「ああ、それは「スィン」

 

 この様子からして、彼女は監視されていたことを知らない。

 何の気なしに答えようとしたルークを遮って、ジェイドは重い口を開いた。

 

「先に言っておきます。私たちは謁見の間で、あなたが何をしていたのかを監視していました。それに連なり、あなたと陛下の確執、それに伴う原因も……陛下の口から、明かされています」

 

 やはり意外だったようで、前半を聞いたスィンは大きく眼を見開いている。

 しかし後半を聞いて、その眼は鋭く細まった。まるで天敵を前にした、野生動物のように。

 

「……詳細は?」

「いえ、概要だけです。詳しくはあなたから聞けと、陛下は逃げていました」

「そう、ですか」

 

 それだけ答え、歩く足はそのまま、スィンは口を閉ざした。

 うつむきがちであるために、何を考えているのか、どんな表情をしているのか、それがわからない。

 

 ──フウ。

 

 小さなため息をついて、スィンは不意に顔を上げた。

 何かを決意したような、言うなれば開き直ったような、そんな表情をしている。

 様子をうかがっていた一行を見上げ、彼女は「──さて」と呟いた。

 

「どなたから、何を尋ねます?」

 

 

 

 




 ハイドログロシュラライトガーネットについて。

ありていに言えば翡翠(ジェード)の贋物のことです。画像検索をするとものの見事に翡翠ソックリ。
透明度が高いものは非常に希少ですが存在はするとのこと。
原作において誰もがやろうともしなかった「譜眼」を自力で施そうと挑戦して見事自爆したというくだりもありますし、ある意味「希少」な人だということでぴったりかなと。
英語読みなので「ハイドログロッシュラーガーネット」の表記もありましたが、長すぎるし語感も良くないということでこちらにしてみました。
ハイドログロシュラライトガーネットのほうが長い、というツッコミは不要です。よく存じております。
ともあれ、グロッシュラー・ガーネットは南アフリカヒスイまたはトランスバール・ヒスイという誤称で販売されていることがありますので、翡翠をお求めの方はご注意を。
名前は翡翠でも、緑色のガーネットらしいので。


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第百七唱——「黙秘権を行使します」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一体誰に、旦那の暗殺なんか命じられたんだ?」

「収監されていた時に紙切れ貰っただけなので、何とも。それも牢番が燃やしていたので、証拠はないですよ。渡された首桶は僕が燃やしちゃいましたし」

「何でそんなことを……」

「大佐に安心してもらうために、目の前で焚き火にくべた」

「お父様はこのことをご存知なのかしら……」

「でも、僕は一度ナタリアを誘拐未遂して、今度はルークの誘拐に加担したことになってたわけで。もう情状酌量の余地はないってことで、成功見込み無しの、ただの死刑宣告だったかもしれないよ」

「もっと重大ではありませんか! 何故そのような、平然としていられるのです⁉︎」

「直接処刑されるよりはずっとマシ」

「……」

「か、カンタビレ教官と、知り合いだったのね……」

「知り合いてほどでもないけどね。僕は少なくとも、彼女のことは知ってたよ」

「ねえ、ママはなんでシアに……スィンにそんなこと頼んだの?」

「アニスが可愛かったからでしょ。ちゃんとした理由は聞かなかったけど」

「……モースに売ったとか、ないよね?」

「お給金には文句なかったし、その頃の僕は『大詠師様』と対等に話せる身分じゃなかったよ。主席総長を通じてトリトハイム詠師に話がいったはずなんだけど、どこから割り込まれたのかはわかんないや」

 

 アルビオールに戻ってから、問われるまま疑問に答えていくスィンではあったが──何もかもを答えたわけではなかった。

 

「じゃあジェイ「黙秘します」

「ええっと「違うことでお願いします」

「いや、だから──「お話しできることはありません」

「あの、スィ「黙秘ー」

 

 取り付く島もない。これでは、違う質問に移らない限り彼女は「黙秘ー」の一言しか語らないだろう。

 ため息をついて、ガイは違う質問をすることにした。

 

「俺にも、話せんか?」

「ガイラルディア様だからこそ、お話できません。コレを聞かせてお耳を汚したくないのです」

「そこまで言うか……?」

 

 ちらりとジェイドに視線を走らせ──眼をまともに合わせてしまったことを後悔しながら、彼はスィンに視線を戻している。

 一方で、膨れているのはアニスだった。

 

「ぶ~。気になるよぅ、スィンってばなんでそんなに大佐のこと憎ったらしいの~?」

 

 以前キムラスカより下された密命、ピオニー陛下と謁見したこともない、民間人でしかないスィンがなぜ彼と知り合い、確執を生んだのか。

 それに至る経緯を余すことなく、時にナタリアを気遣いながら話した彼女であったが、肝心要の、「スィンとジェイドの間にあった出来事」だけは、彼女は未だに話そうとしていない。

 

「もしかして、大佐に気を使ってる?」

「まさかあ」

 

 カマをかけるような問いであったが、スィンは即座に否定していた。

 

「ならいいじゃない、教えてよ~」

「……じゃあアニス。話してる間に僕が大佐を殺したくなったら、全力で大佐を守ってくれる?」

 

 唐突に発せられたその一言に、アニスのみならず一同がぎょっとしてスィンの顔を見つめている。

 真顔で、更に眼が笑っていないところを見ると、どうやら本気のようだった。

 

「ふとしたことで殺意は湧いても、みんなが知る通り大佐とは普通に接することができる。この場合、日常生活に支障をきたさないという意味でね。でも、確執を話すことで殺意が明確に形となったら……僕、簡単に暴走するよ。それこそカースロット発動中のガイ様のように」

 

 頑なに説明を拒むスィンに、ティアが首を傾げている。

 

「そこまで憎んでて、どうして今まで……」

「死なれても、いなくなられても、役立たずになられても、困る。大佐が有能すぎるんだもの。それこそ憎ったらしいほどに」

 

 そう言って、彼女は自分の荷袋をあさり始めた。取り出されたのは、一本の酒瓶である。

 小さなナイフで小器用に口をこじ開けるその所作を見咎めたのはナタリアだった。

 

「スィン、大丈夫なのですか? 今その状態でお酒を飲むのは……」

「今はとにかく呑みたい。止めないで」

 

 ナタリアを説得するそばから、直接口をつけてぐびりと呑む。

 一口飲んで、スィンは少しばかり驚いたように唇を拭った。

 

「どうしたんですか?」

「いや……辛いカレーが食べられないくらいだったから、味覚や粘膜も退行起こしていて呑めないんじゃないかと思ったんですけど。お酒は大丈夫みたいです」

 

 イオンの疑問に答えつつ、ごくごくっ、と煽る。

 ふうっ、と息をつき、その眼がアニスを見た。

 

「で、どうよアニス? 小さい僕なら、大佐護りきれそ?」

「うーん……その前に、ここで暴れたらノエルがキレると思う」

 

 考えてみれば、今はアルビオールでダアトに向けて航海中だ。

 スィンがジェイドに襲いかかっても、ジェイドがそれに応戦しても、アニスが戦闘状態に移行しても、どの道アルビオールはただではすまない。

 それもそうだね、と気楽に返しつつ、ぐいーっと酒瓶を傾ける。

 頬が赤くなっていくのを意識しながらあることを尋ねた。

 

「……ところでさ、質問が」

「なんだ?」

「謁見の間で、僕がしていたことを見たと言っていましたね。方法はさておき、一部始終を洩らさずご覧になっていたのですか?」

 

 それにガイが頷けば、彼女は更に頬の朱を濃くして「……そうですか」と返している。

 そのまま何かを考えるようにじっとしていたが、やがて酒瓶を抱えて椅子から飛び降りた。

 

「お、おい。スィン?」

「──酔っ払ったみたいです。頭を冷やしてきます」

 

 酔ったにしてはひどく明確な口調、そしてしっかりとした足取りで、彼女は歩き去っていった。

 困ったのは、残された彼らである。

 

「え、えーと。これは──」

「居づらくなったんでしょうね。端的に」

 

 何がどうなったのか、それをアニスが口に出して整理しようとしたその時、今の今まで口を開こうとしなかったジェイドがそう、呟いた。

 一同の視線が、あっという間に彼に集中する。

 

「あの、その。ジェイド──」

「無理に口をきこうとなさらずとも結構ですよ、イオン様。先に言っておきますが、私は答えません」

「いえ、そうではないんです」

 

 この場において唯一、ジェイドの威嚇が向けられないイオンの言葉を、彼は素直に耳を傾けた。

 

「なんですか?」

「大丈夫、ですか? スィンに敵意を向けられて」

「……あんなもの、敵意の内にも入りませんよ」

 

 そう言い捨てて、彼は仮眠スペースへと向かっている。

 スィンが向かった先とは、正反対の方角だ。

 

「ジェイド!」

 

 珍しく強い調子で彼を呼び止めるも、反応すらしない。

 追いかけるイオンについていこうか迷って、アニスはガイに呼び止められた。

 

「やめといたほうがいい。旦那がいかに不機嫌でも、イオンを傷つけるような真似はしないはずだ」

「……うん」

 

 こちらもやはり珍しく素直に助言に従い、その場に座り込む。

 その彼女が、ふぅっと息を吐いた。

 

「なんか……大変なことになっちゃったね」

「今まで何となく二人は不仲でしたが、ここへきて一気に表面化した、と考えたほうが自然でしょうか?」

「ピオニー陛下のお話を思い出すと、ずいぶん昔のことのようね。尋常じゃないとか、殺気とか……」

 

 話し合っても仕方がないことではあるが、それでも愚痴は言いたくなる。

 女性陣三人による井戸端会議じみた議論がなされる中、ガイが立ち上がって伸びをした。

 

「ガイ?」

「このままほっとくわけにもいかないからな。ちょっくら行って、事情のひとつでも聞き出してくるわ」

 

 言わずもがな、スィンのことである。

 軽く頭をかきながらスィンの後を追おうとするガイを、ルークが呼び止めた。

 

「な、なあ、ガイ!」

「ん? なんだ?」

「あ、あのさ……俺、ガイの代わりに行っちゃ駄目か?」

 

 思いもかけないルークの提案に、ガイの目が丸くなる。

 う~ん、と首をひねりながらも、彼は苦笑いを浮かべた。

 

「……ややこしくなりそうだなー」

「や、だって、ほら。前の態度のこともまだ謝ってなかったし、それに……」

 

 あせあせと言い募るルークを微笑ましく見守りながらも、ガイは彼の肩にぽんっ、と手を置いている。

 

「──頼むわ。俺が行けば気を使わせるだけかもしれないからな」

「あ、ああ!」

 

 たたた、と小走りに駆け去っていくルークの背中を見送り、ガイは小さく息をついた。

 

「あのルークが、スィンのことを気にかけるようになるなんてな──」

「長所は家柄しかなかった、我侭放題高慢ちき坊ちゃんから成長した証じゃないの?」

 

 明らかな揶揄をもってアニスが口を出す。

 しかし、ガイは首を振って驚くべき過去の話を始めた。

 

「いやな、ルークの奴初めてスィンの顔を見たときに、『目の色が違うなんて気持ちが悪い』って言ってたんだよ」

「え?」

「正確には『こいつ片方だけ目の色違うぞ!? きっもちわりぃな~』だったかな。『あんな奴を傍仕えにするなんてナタリアももの好きだ』とか、『あんな奴が妹だなんて、ガイも肩身が狭いだろ』とか……自分の子守役だったこと、完全に忘れちまったんだな、くらいにしか思ってなかったが、まあ、知り合って間もなかったから外見だけで判断してたんだろうよ」

 

 ガイやナタリアを通じて交流を重ねるうちにルークの偏見はいつしか消えて失せたが、それはあくまで表面的なものに限定されている。

 事実、ルークはヴァンと親しげに会話を交わすスィンを幾度か『給料泥棒』『雌猫』と罵って追い払ったことが幾度かあるのだ。

 単に師匠(せんせい)を独り占めしていた彼女に、嫉妬しただけかもしれないが。

 

「そんな感じで、少なくともルークはスィンにあんまりいい感情を持っていなかった。過去邪険に扱ったことを多少は悪かったと思ってるのかなと……」

「で、でもそれってさあ。反対にスィンが、ルークのことをすごーくすごーく嫌ってるんじゃない? そんなこと言われて、親善大使の時もこき使われて」

 

 もっともなアニスの言い分に、ガイは軽く嘆息した。

 

「こう言っちゃあなんだが……ガキのほざいたことをいつまでも気にする奴じゃねーよ、スィンは」

 

 

 

 アニスどころかガイにまで散々なじられているなどとは露知らず。

 ルークは幼児化したスィンの姿を捜して通路を歩いていた。

 

「……どこ行ったんだ?」

 

 アルビオールの内部は、構造上けして広いとは言えない。

 スィンが去ったのは入り口側の通路で、一人黄昏ることができる場所といえば旅荷を置く倉庫くらいなものである。

 しかし、ルークがいくら眼をこらしても、倉庫内にそれらしい人影を見つけることができなかった。

 ふと、海上に停泊中のアルビオールが揺れ、ゴロゴロという音が聞こえる。

 つられて足元を見れば、そこには先ほどスィンが抱えていった酒瓶が空の状態で転がっていた。

 倉庫にいない。通路にはもちろんいない。

 それでいて、ここにいた証拠がある。そこから導き出される彼女の居場所は。

 目前の扉に手をかけ、ルークは手動で扉を開いた。

 手動で開閉される場合、アルビオールに備え付けられたタラップは作動せず、扉だけが開いた状態になる。

 その先は、一面に広がる大海原だ。

 しかしルークは、その光景を一瞥しただけで、入り口のすぐ傍に備えつけられている整備用の梯子に手をかけた。

 短い梯子を上りきった、その時。

 

「……ルーク。トイレは奥を曲がって左だよ」

 

 気だるげな、そんな声がした。

 まるで幼児に言うような響きを持つその声に反発して、ルークの呼気が荒くなる。

 

「アホか! 別にトイレ探してきたわけじゃ──」

「そうなの? 僕はてっきり、アルビオールの屋根から放物線を描きたくなったのかと」

「さらりと下品なことを口にすんな! んなわけねーじゃねーか!」

「じゃあ、戻りなよ。風が結構冷たいから、あんまり当たってると風邪引くよ」

「……だったら、お前も降りてこいよ。風邪ひくだろ」

「生憎、酒飲んだから体はぽっかぽか」

 

 今のルークには絶対真似できない暖の取り方だった。

 いつになく馬鹿にするようなスィンの言葉にムッとして、ルークは梯子を上りきる。

 スィンは、アルビオールの翼に腰かけるようにして夜空を見つめていた。

 その体勢のまま、ルークを見ぬまま。スィンは再三の退去を勧告した。

 

「危ないよ、戻りなって。足滑らせても助けてあげられるか、わかんないよ。こんな体だし」

「お前こそ、そんなフリフリのビラビラじゃ落ちたとき大変だろ」

「好きでこんなカッコしてるわけじゃないやい」

 

 どこかで聞いたような台詞を口にしつつ、ふわわわ、と大きな欠伸をする。

 言動もさながら、ただの子供にしか見えないスィンの隣に、ルークは腰掛けた。

 潮風は重く、波間は穏やかだ。

 満天の夜空は独り占めしたくなるほど見事なもので、スィンがなかなか起き上がらない理由もよくわかる。

 そのまま、ルークは長い間口を開こうとしなかった。スィンもまた、彼に何を尋ねるでもなく引き続き天体観測へとしゃれこんでいる。

 

 ガイが語っていた通り──ルークはスィンのことを好きではなかった。

 

 いくら親友の妹として紹介されても、幼い彼には珍しさより奇抜さ、自分とは明らかに違うモノに対する恐怖というものもある。

 それ以上に、自分の尊敬するヴァンに対して人目を忍んでは親しげに触れ合っていたのだ。それだけでなく、幾度か共に城下町を歩いていたと、メイドからも聞いたことがある。

 何より許せなかったのは、普段は(いかめ)しいヴァンの顔が、彼女を見かけただけで和らぐことだった。それだけヴァンが彼女に心を許していると、子供心は極めて敏感に察知したのだ。

 あらかたの事情を知った今なら、説明はつく。

 誰であれ、表面的な姿が変わっていようと、愛しい妻の姿を見れば誰であれ心が安らぐだろう、と。

 

「……スィン」

「んー?」

「──ごめん」

 

 気のない返事が一転。小さな嘆息と共に、スィンはむっくりと起き上がった。

 幼かったルークが嫌悪を抱いたその眼は、遠い水平線をじっと見つめている。

 

「何が」

「俺……今までずっとスィンにひどいことしてきたのに、一度も謝らなかった」

 

 数え上げればキリがない。この旅が始まってからも、それ以前も。

 謝らなければならない事柄は天空に浮かぶ星の数ほど存在した。

 

「……全部ひっくるめて、今清算したい?」

「そういう意味じゃないけど、バチカルでお前がシンク追っかけていなかったときに、言われたんだ。そのときに、ちゃんと謝りたいって……」

「あのさあルーク」

 

 不意に口を開いたスィンが、ルークの懺悔を断ち切る。

 これまで呑んだくれて、ぐでぐでしていたとは思えないほどしっかりとした言葉で、彼女は言った。

 

「今日あったこと、今さっきのことで僕は正直機嫌が悪い。簡単に言うと全然余裕がない。だから、ルークのことを気遣ってやれない」

 

 遠まわしに、彼女が何を言おうとしているのか。何となく、分かった気がした。

 

「聞かなかったことにするから日を改めて。今は、あなたを傷つけるだけだから」

「違う!」

 

 自分の望むこととは百八十度反対のことを言われ、思わすルークは声を荒げた。

 その必死な声に、スィンは黙りこくる形で彼の続く言葉を待っている。

 

「許してほしくて言ったんじゃない」

「──そりゃ、例外を除いて偽りの許しなんかいらないでしょう」

 

 まぜっかえすような一言を黙殺して、ルークは続けた。

 

「スィンの本音が聞きたかったんだ。たとえ許してくれなくても、俺に恨みつらみをぶつければ少しは──」

「ふざけないで」

 

 ぴしゃりと鼻先で扉を閉じられたように、拒絶される。

 時間がたつにつれてどんどん苛立ちのこもる声は、敵意にも似た口撃と化した。

 

「自分が怒りの捌け口になる? 人を馬鹿にするもの大概にしてよ。確かに今はすごく腹が立ってるから、ちょっと気を抜いたらルークの思うようになりそうだよ。だけどそれであなたが傷ついても意味がないよ? 事態が泥沼化、もともと雰囲気ただれまくりなのに更に悪化させたいの?」

 

 一気にまくし立てて、ふとスィンの言葉が途切れる。

 どうしたのかとルークが見やれば、スィンは頭を抱えていた。

 苦悩に満ち満ちた声で、ぼそりと呟く。

 

「……ごめんね、これは八つ当たり」

 

 その声を耳にして、「気にするな」の一言が発せられることなく消えた。

 スィンは、ともすれば一気に溢れそうな憤怒を抱えてここにいる。

 思いを殺して、どうにかして押さえ込もうとしている彼女の姿を見て、ルークは自分の企みがひどく安易なもののように感じた。

 その努力を、踏みにじっているかのような錯覚に陥る。

 

「……」

 

 それでも、彼女を一人にしてやるという選択は取れなかった。

 こんなにも平静を欠いている彼女を、一人にはできない。

 だからというわけではない、と思うのだが。

 

「ル、ルーク?」

 

 いきなり引き寄せられて眼を白黒させているスィンを尻目に、ルークは退行したその体を腕の中に閉じ込めた。

 

「……嘘つき」

「は?」

「すっげぇ冷えてるじゃねーか。何が体ぽっかぽかだよ。ガイが言ってたぞ、女は体を冷やしちゃいけないって」

「……」

 

 その言葉を聞き、固まってなすがままにされていたスィンは、顔を上げて彼の顔を覗き込むようにした。

 

「紳士ぶるのもいいけどね。そろそろ君が寒くなる頃」

 

 まるで示し合わせたかのように、一陣の風が吹く。

 重く湿った潮風は、確かにルークの首筋をまんべんなく冷やしていった。

 

「うわさむっ」

「それ見ろ」

 

 悪寒に身を震わせたそのとき、ふとスィンの両腕がルークの首周りに通った。

 

「……スィン?」

「ティア、悪いね」

 

 なぜかティアに謝罪して、スィンはルークに体を寄せる。

 

「な、なんでそこでティアが出てくるんだよ」

「あ、なんだかちょっとあったかくなったよ」

 

 質問には答えず、まるでそこが赤いよと言わんばかりに耳を撫でた。

 真っ赤になったルークに控えめな笑声を零して、スィンはそろそろと身を離そうとする。

 そのままルークの胸の中から出ようとするスィンを、ルークは腕を狭めて拘束した。

 

「……ルーク。もう十分あったまったから。君は」

「いや確かにあったかい通り越して暑いけどな!」

 

 漫才じみたやりとりが、暗い海原のど真ん中に響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 



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第百八唱——人殺しは英雄と擁護され、復讐者は人殺しと弾劾される。

 

 

 

 

 

 

 

 一抱えはある太い酒瓶から、あっという間に中身が消えていく。

 男性陣用仮眠室の一角にて。ジェイドは大瓶から直にアルコールをあおっていた。

 

「……ジェイド。失礼します」

 

 きぃ、と小さく扉がきしみ、小柄な人影が現れる。

 今のジェイドに近づいて、唯一何もされないであろう人物──導師イオンだった。

 

「何か?」

「先ほどの話の続きです」

 

 飄々としらばっくれてみせる死霊使い(ネクロマンサー)に、臆することなく向かい合うように腰掛ける。

 

「すでに結論が出ていると思いませんか?」

 

 ぐいっ、と紳士らしからぬアルコール摂取に何を言うでもなく、年若き導師はただ静かに耳を傾けた。

 

「スィンと私の確執がどのようなものであったのか、それを話すつもりはありません。敵意を向けられて平気なのかどうかは、今しがた答えました」

「ですが、このまま放っておいていいんですか!? 今の問題が解決したら、あなたはスィンに殺されるかもしれないんですよ!?」

「──では、訪れる死を避けるために、今のうちに彼女を殺しておけ、と?」

 

 真紅の視線が、導師の反論を戒める。

 

「それこそできない相談です。案外そうした方が、正当防衛を理由にスィンは私をすんなり殺せるかもしれませんが、やりたくありません。かと言って、今私が何かを言えばかえって彼女の機嫌を損ねるだけ……沈黙は金とも言いますから」

「しかし……!」

 

『……れ、とっととねんねしな』

『……ども扱いすんなっ、つーの!』

 

 かすかではあるが、そんな言葉たちが聞き取れた。

 不意に言葉を切り、じっと耳を済ませていたイオンがおもむろに立ち上がる。

 静かに窓を開けば、アルビオールの翼で語り合う二人の会話が流れ込んできた。

 

 

 

 

 

 

「いい加減戻りなってば。風邪引くよ」

「お前こそ、こんなところでうじうじしてねーでさっさと戻ったらどうなんだよ」

「もちろん戻るよ。頭が冷えたら」

「じゃあ俺も、そのとき戻る」

 

 どうでもいい会話が打ち切られ、沈黙が漂う。

 やがて先に口を開いたのは、ルークだった。

 

「スィンはさ……ジェイドにどうしてほしい?」

 

 おずおず、といった形容が良く似合うルークの様子に、わかっていながらついからかってしまう。

 

「ルーク。そう聞いてこいって、大佐にパシられたの?」

「違うって! ほら、俺も……アクゼリュスで、取り返しのつかないことしたろ?」

「うん。まあ、あれはほっといてもああなってたんだけどさ」

 

 これは純然たる事実なのだが、彼はそれを認めることなく話を続けた。

 彼なりに考えたであろう、スィンの望むジェイドの償い方を。

 

「……過程とか、そういうのをおいといて、俺がやったってのが残った事実だ。やらかした者としてどうすればいいのか、何をすれば償えるのかとか、その……俺とジェイドを同じ風に考えてみるのは間違ってると思うんだけど」

「被害者として、加害者に何をしてほしいかってこと? その前に、大佐と僕を加害者と被害者として考えること自体が間違ってるよ」

 

 考えてみれば、彼は大本の原因を知らない。

 直接の関係があると思い込んでいるなら、当然か。

 

「え?」

「だから、僕自身は別に、大佐から直接何かをされたわけじゃないんだよ。その点だけを考えれば、僕は単に逆恨みをしてるってことになる」

 

 一般的に考えて、『母親を殺された』は十分直接何かされた、の範囲に入る。

 しかしスィンはそう考えなかった。考えないようにしていた。

 少年で、色々未熟だったジェイドは事故を起こした。それで結果的に母親は死んでしまったのだと認識することで、復讐を望む自分の欲望に歯止めをかけ続けている。

 そうでなければ、とうの昔に。スィンはジェイドを刺していたはずだ。

 

「……バカだよねえ。逆恨みで、皇帝のお気に入りに手ェ出そうとするなんて」

 

 反応のないルークの腕を撫でながら、自嘲的に呟く。

 

「──でも差し出さないと、ガルディオス家の復興は望めないかな?」

「え?」

 

 聞こえなかったわけではない。しかし、呟かれたその内容はあまりに非現実的で、ルークの理解を超えていた。

 

「だから、首。ルークだったら、どうすれば許せると思う? 大切な人を殺そうとした輩を」

「な、何バカなこと言って──!」

「……ああ、そうだね。酔っ払いが何を言っても、説得力ないね」

 

 けらけら笑う。

 しかし、自称酔っ払いの言葉に多大な飛躍はあっても口調はしっかりしているし、何より冗談に聞こえない。

 

「……スィンがどうしてジェイドを、その……殺そうとしたのか、俺たちにはわからない。ピオニー陛下がどうしてお前にあんな仕打ちをしたのかも、知らない。でも、そんなことをしたってガイは──!」

「喜ばない。きっとお怒りになられる」

 

 ルークの言わんとすることを引き継いだスィンの言葉には、何の感情もなかった。

 まるで他人事であるが、もちろん本当に他人事だと思っているわけではない。ただ、当事者とは思えないほど物事を客観的に見ており、起こる事柄に含まれる自分という存在すらも、『こういった役割の人間』としか捉えていないのだろう。

 

「でも、死んだ人間を思って皇帝に逆切れするほど、愚かな人じゃない」

「そりゃ……けど、そんなことすればガイが苦しむだけだ。お前と引き換えに家を再興したいなんて、あいつなら考えないだろ!?」

「話の論点がずれたね」

 

 ガイにまつわる話題を嫌ったか、スィンは強引に話をずらしていた。

「誤魔化すな!」というルークの苦情にも動じない。

 

「えーと、大佐に何を望むのか? 今は生きててもらうことかなあ。そんでやることやってもらわなきゃ。そうじゃないと僕が殺されちゃうしね」

「生きてて……」

「謁見の間で、僕が何をしていたのか本当に知っているなら、これ以上の説明はいらないはずだけど」

 

 確かに、彼女はカンタビレ、と呼んでいた将校に尋ねられ、その話をしていた。

 だが──

 

「なあ、ホントに何があったんだよ? 初めて会ったときには好みだ、って言ってたくらいだから、俺はその気持ちを利用されてジェイドに何かされたんじゃないか、って思ってた。だけど、そうじゃないのに、殺してやりたいほど憎んでるって……」

 

 再三どころか、何回目かもわからない質問を、スィンは黙って聞いていた。

 そういえば、ルークはネフリーから件の事件を聞いている。真相を話したところで、今の彼なら口を滑らせたり、態度を豹変させてしまうことはないだろう。

 過ちを犯した人間としての自覚もあってか、ケテルブルクでの一件後でも、彼はジェイドに対して露骨に態度を改めたりはしなかった。

 

 僕はジェイドが、ジェイドの恩師を死なせちゃったから、殺したいほど憎んでいるんだよ、と。

 

 それを伝えて何がどうなるだろう。

 不毛だとか、憎しみは何も生まないとか、憎んだところで死んだ人は戻ってこないとか。変に諭されたらその場で殺してしまいそうだ。

 きっとルークは何も言わない。頼めば多分、黙っていてくれるだろう。今のルークならば。

 

 だからこそ。

 

「……さーねー」

 

 だからこそ、事実を話すわけにはいかない。余計な重荷を背負わせて、苦しめる趣味はない。

 彼もまた、預言(スコア)に振り回された被害者だから。

 下方をちらと見やったスィンは、今度こそ話をそらそうと。これまで誰にも明かしたことがない、秘めていた事実を口にした。

 

「好みだっていうのは、本当。昔の一目惚れを未だ引きずってる証拠かな。向こうは初対面だと思ってるのに、あんなことを言ってしまったんだから」

「……! ハァ!?」

 

 何を言っているのか、また理解できなかったらしい。眼を点にして、彼は腕の中のスィンを見つめている。

 ようやく緩んだ腕から抜け出す彼女の動きをもってして、やっと我に返っていた。

 

「ひ、ひとめぼれ? ってお前、まさか」

「うん。大佐と初めて会ったの、エンゲーブじゃない」

 

 好みであること、好みだと口走ってしまった理由も、紛うことな事実だ。

 ルークの隣に、膝を抱えるようにして座る。

 どういうことだと、興味津々で食いついてくる彼を見やって、スィンはこっそりほくそ笑んだ。

 話題そらし、成功。

 

「ホド戦争が起こるより結構前のこと。ちょっとした用事でグランコクマに来てたんだけど、不慣れだったから迷っちゃって」

 

 そう──あれは確か、ナイマッハの人間としての、初めての仕事だった。

 マルクト帝国軍の名家、カーティス家が養子を取ったことに対抗し、どこそこの貴族が対抗して跡取り問題もないのに養子を取ったらしい。

 その養子がどんな人間なのかを調べてこい。できなければ似顔絵を描いてこい。子供に任せる初仕事としてはそこそこ妥当な、そんな内容だった気がする。

 大通りを通って貴族の住まう区域までやってきたのはよかったのだが、整然とした──目印のようなものがあまりない高級住宅街の中を進んでいるうちに、自分がどこにいるのか、まったくわからなくなってしまったのだ。

 持たされた地図を睨むようにしながら歩くうち、誰かにぶつかる。

 ごめんなさい、と言いながら見上げて。雷に打たれたような衝撃に襲われた。

 

『……大丈夫?』

『あ、あの、あのあの、道に困って迷っていました。ここがどこなのか教えてください!』

 

 謝りながらも硬直した子供を、少年のジェイドはいぶかしげに見下ろしていた。

 その彼に、そんなことを口走りながら、持っていた地図を思い切り突き出した気がする。

 

「子供は苦手だったのか、すっごい仏頂面だったけどね。全然気にならなかった。穴が空くくらいずーっとその顔見てた。飽きることなく」

 

 不思議に思うほど、記憶は鮮やかに蘇った。

 自分に地図を見せ、ここがどこなのかを事務的に語る彼の声を熱心に聴き入り、お礼を言って頭を下げて、すぐにその場から離れている。

 仕事のこともあったからだが、初めて出会った彼とそれ以上同じ場所にいるのが、気恥ずかしくてたまらなかったからだ。

 当時は自覚こそしていなかったが、あれぞ伝説の『一目惚れ』という奴だろうと今だから思う。というのも、すぐに彼の正体を知ったからだ。

 幼くて単純な思慕は憎悪に塗り潰されて、後から執着が練り合わさって、嫉妬も添えられて。スィンの胸の内に燻る黒い炎の燃料になっている。

 

「ジェイドは、このこと……」

「覚えてないと思うよ。熱い視線で見つめられることなんか日常茶飯事だったろうし、僕は仕事の都合上変装してたし。是非とも忘れたままでいてほしい」

 

 幼い時分とはいえ、頰を染めて見惚れていたときのことなんか覚えていてほしくない。

 と、ここでルークはふぅっ、と息を吐いた。

 何かと思って首を動かせば、彼はやるせない表情で彼方を見つめている。

 

「……そんな風に笑ってるスィンを見てると、とてもジェイドのことを憎んでるなんて見えない」

「だってこれは、表に出しておくものではないもの」

 

 感傷的な彼の言葉に惑わされることもなく、スィンは大きく伸びをした。

 もっとも、チーグルの森で再会した際は、寝起きということもあって取り繕えなかった点が多々ある。

 あの節は、怪しまれなくて本当に助かった。違う意味で怪しまれはしたが。

 

「さて、眠くなってきたから戻ろうかな。ルークは?」

「……戻る」

 

 スィンから確執のことを聞きだせず、歯がゆい思いをしているのだろう。くぐもったような声で、彼は立ち上がった。

 そのルークが、ふと思いついたように口を開く。

 

「なあ、一目惚れって、つまり好きになった、ってことだよな? もうスィンは、ジェイドのこと好きじゃないのか?」

「……直球、だね」

 

 なんと答えればいいものやら、スィンはぽりぽりと頬をかいた。

 普通、誰それのことが好きか嫌いか、など、本人に尋ねるようなことはしない。

 これまで傍若無人っぷりを如何なく発揮してきたルークだからこそ、天然で無邪気に尋ねることができるのだろう。きっとイオンに通じるところがある。

 

「……ねえルーク。この世の中で一番信用できないもの、ってなんだと思う?」

「え? えーと……預言(スコア)、とか?」

「自分だよ」

 

 それも、今は正解だけどね。

 思いもよらない答えだったのだろうか。彼は眼を見開いて、その場に突っ立っている。

 

「誰が好きなのか。誰を憎むべきなのか。誰を討つべきなのか。僕の中では明瞭に、その答えはあるんだけどね。いつ裏切られるかわからなくて、ずっとビクビクしてるよ」

 

 ──そう。自分ほど、世の中で信用できないものはない。

 自分あっての他人、自分あっての世の中において自分が信用できなくて何を信用するのか、と識者は一蹴するだろう。

 しかしそれは、自分が何なのかをはっきり把握している人間、あるいは把握していると思い込んでいる人間だけだ。

 人は取り繕うことのできる生き物である。嘘をつき、誰かを騙すことができる以上、当の本人も例外とはなりえない。

 

「ルーク。ガイ様のこと、好き?」

「え……ああ、うん」

「アニスは?」

「え、まあ」

「ティアは?」

 

 質問が彼女に及んだとき。彼はかあぁっ、と頬を赤らめた。

 

「な、何なんだよ、いきなり!」

「自分のことすら答えられない人に、答えてあげる義理はありません」

 

 くすくす、と笑むスィンに、一杯食わされたと気付いたらしい。

「ったく!」と立ち上がり、彼は赤い顔を隠すようにアルビオールの中へと戻っていった。

 初々しい彼を見送ったスィンだったが、ふと笑みを消して呟く。

 

「──盗み聞きなんていい度胸してますね」

 

 返事はない。

 しかしスィンは、彼と話している間、真下で窓が開く音を確かに聞いたのだ。

 窓は未だ、閉ざされていない。

 

「気晴らしさせてくれたルークに感謝して、もう何もしないで眠りたいと思います。……おやすみなさい」

 

 コツコツ、と足音が聞こえる。

 響いていたその音は徐々に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。

 

 

 

 

 

 

 



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第百九唱——安らぎを求めて彷徨う心は漸(ようや)く闇と巡りあった

 

 

 

 

 

 

 

 

 明くる朝。

 各自それぞれの休息を取り、一人二人と起き出してきた頃。どうしても現れない人間が一人いた。

 

「あいつ、まだ昨日のことひきずって……」

「私ちょっと見てくるよ!」

 

 苦い顔をするガイをさておき、珍しく自発的にアニスが動いたのは、いつもの胡散臭い笑顔をどこかへ置き忘れているジェイドがいるからなのか。あるいはどこか憂いを帯びているイオンの気を紛らわそうとしてなのか。

 しかし、彼女はスィンを伴うことなく、一人で戻ってきた。

 

「どうしたの?」

「ん、えっと。あのね……」

 

 妙な顔つきで戻ってきたアニスにティアが尋ねるも、彼女は口ごもりつつ、ちらちらとジェイドを見やっている。

 

「……まさか、大佐がいるから起きたくない、と言っているわけではありませんわよね?」

「いくらスィンの見た目が大佐ばりに若くてもそれはないよぅ。なんかね、大佐に来てほしいって……」

「!」

 

 昨夜のような雰囲気が、漂い始める。

 名指しされたジェイドはといえば、軽く眉尻を下げて今日、初めて他人と会話した。

 

「とうとう、私を殺す気になったのでしょうか」

「そんなのパッと見じゃあわかりませんよ。でも、変なんですよね。本人はシーツに包まったまま顔を見せないし……あ、嫌ならほっといてくれって言ってましたけど」

「やれやれ。私を指名とは……無事帰ってこれるといいのですが」

 

 ひどく懐かしいような軽口を叩いて、ジェイドは無言で歩き出している。どうやらスィンのところへ行くつもりらしい。

 それを確認して、アニスはちょこまかとその後を追い始めた。

 

「おい、アニス……」

「何よう。ルークは気にならないの? それに、スィンは大佐と二人っきりにしてくれ、なんて言ってないもん」

 

 確かに、スィンがジェイドにどんな話をするのか、非常に気になることではある。

 かくして、残りのメンバーは慣れない忍び足の末に女性用仮眠室の隣室──男性用仮眠室の薄い壁にコップを押し付けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 コンコンコン

 

「……スィン、私です。入りますよ?」

 

 かちゃりと音を立てて、ジェイドは女性用仮眠室に足を踏み入れた。

 

「……おはようございます」

 

 部屋から奥、窓のすぐ近くに、シーツに包まった塊が転がっている。

 顔も見たくないのか、と。近寄ってシーツを剥ぎ取ってやりたいという衝動に駆られながらも、ジェイドはその場に足を止めた。

 

「ご用件は……」

 

 なんですか、と言いかけ、止まる。

 なぜなら、シーツの塊からにょきり、と細長い何かが生えた、その面妖さに驚いたからだ。

 沈殿した色素は薄く、形の歪んだ刺青に覆われた奇妙なオブジェにも似た腕は、けだるそうに自分を包むシーツを剥ぎ取っている。

 包まれていたそれを見て、ジェイドは軽く目をそらした。

 

「昨夜のアルコールが効きましたか?」

「かもしれないし、単に効果が消失したのかもしれない。それ自体は、喜ばしいことなのですが……」

 

 シーツの中にあったのは、幼児化する以前のスィン、本人であった。

 雪色の長髪も、左右色違いの瞳も、痩せ気味とはいえ、なよやかな肢体も、なんら変わりない。

 ジェイドが目をそらしたのは、一重に彼女が何も身に着けていなかったからだ。

 

「着替えるために私を呼んだのですか? 相応の礼は覚悟してください」

「朝っぱらから爽やかにシモネタは勘弁してください。これは自分でどうにかしますから、風邪薬を処方してほしいんです」

 

 ばさりと音を立てて、再びスィンがシーツに包まる。

 それを機にジェイドは初めてスィンの容態が普通でないことに気がついた。

 シーツがなくなったとき、思わず扇情的な上半身に眼がいって気付かなかったが、スィンの顔が大分赤い。一応断ってから額に触れると、確かに発熱していた。

 

「他に何か症状は?」

「あの薬を被ったときと同じく、全身が痛いです。発熱と頭痛、視界が定まらないのと、あと意識がいまいちはっきりしません」

「そうですね。正気のあなたなら、私にこんな無防備な姿をさらしたりはしなかったでしょう」

 

 試しにチクリと嫌味を吐いてみるものの、自分の状態を告げるので精一杯だったのか、スィンの反応は薄い。

 脈を計るも不安定、呼吸もけして穏やかとは言えない。

 しかし。

 

「気持ちはわかりますが、これは風邪ではありませんよ。肉体の急激な変化についていけなくて、脳が混乱してるんでしょうね」

「……でも、前はこんなこと、なかった……」

「私は製作者(ディスト)ではないので断言できませんが、以前がそういった薬の効用であったのに対し、今回はおそらくアルコール摂取による偶然の解毒です。様々な副作用が現れているものと推測できますよ」

 

 それでも、悪戯に熱を上げるのはよくないと、ジェイドは氷嚢を持ってきてスィンの額に宛てがった。彼女は心地良さそうに吐息を零している。

 

「食欲はありますか?」

「ないです」

 

 会話終了。スィンは寝たまま、ジェイドはその傍らに座ったまま、沈黙を余儀なくされている。

 ふと、ジェイドのほうが口を開いた。

 

「……今度こそは、堪忍袋の緒が切れたものと思っていたのですが」

 

 言わずもがな、ピオニーによるスィン処刑紛いの話である。

 

「──確かに腹が立たなかったわけではありませんし、大佐が関係してないわけでもありませんが、あなたに八つ当たりしても仕方がない」

「しかし、この後はどうするのです? 平和条約締結では顔を合わせないようにすることができても、ガイがマルクトの貴族であることを陛下はご存知です。この先一生、あの人と関わらずガイの傍で生きていくのは難しいですよ」

「どうもこうも、ないでしょう」

 

 氷嚢を持ち上げ、下敷きにされていた目蓋が開いた。色違いの瞳が、覗き込むジェイドの顔を映す。

 

「平和条約で機会があったら、顔を合わせて事実をお伝えしないと」

「しかし……」

「安心してください、お膳立ても協力も求めません。そもそもこのことで大佐を……誰かを頼りにしようとは、思いません」

 

 瞳が、悲しげにひそめられた。

 口を開きかけたジェイドを制して、スィンの独白が続く。

 

「陛下が大佐の身を案じて僕を殺そうと思うなら……あなたに協力させるわけには、いかないじゃないですか」

「……私が今の状況に納得している、あるいは自力で切り抜けると陛下を説得すれば、丸く納まる話だと思いませんか」

 

 客観的に状況だけを見つめれば、そうなるだろう。

 ピオニーはスィンがジェイドを殺すものと考えて行動を起こした。

 発端たるジェイドが防波堤となれば、それで終わるようにも思える。

 しかし、それはあくまで状況を外側から見た者の見解でしかない。

 スィンはゆっくりと首を振った。

 

「どんなに頑張ったって、丸くなんて収まらない。あなたがどんな風に説得に当たったところで、陛下が本気で納得しない限りは逆効果です。あなたが強制されている、と勘ぐるくらいはするでしょう。これ以上問題をややこしくしたくない」

「なら、どうするつもりなのです」

 

 そのものずばりを問われ、閉口する。

 まったく考えていないわけではないが、正直にそれを口にすることはできない。

 

「……お話しできません」

「考えていないからですか? それとも、答えがないからですか?」

「あなたの口から陛下の耳に入っても困る。とにかくこの件に関して、もう口出ししないでください。ここから先は、僕と陛下の問題であるはずです」

 

 対策が何もないと偽りを言うのはたやすい。

 しかしそう告げたところで、興味さえあればどこまでも突っ込んでくるジェイドを受け流す自信がなかった。

 沈黙が渦巻く。納得しかねるように返事を寄越さないジェイドを、スィンは瞬きすることなく、いつまでも見つめていた。

 やがて、ジェイドが根負けしたように嘆息する。

 

「……その認識にはいささか不満を感じますが、本当によろしいのですね?」

「必要性を感じた際は、容赦なく支援を求めます。できることなら、あなたの力を借りることなく、すんなりと事を運びたい」

「その意見には同意します。あなたに、真の意味での平穏が訪れることを祈っていますよ」

 

 何の気なしに言ったジェイドの言葉を、スィンはひどく驚いたように反応していた。

 

「……大佐も、祈るんですね」

「ええ。ユリアにではなく、私の愛してやまない戦女神に」

「古代イスパニア神話ですか? またマイナーな……」

 

 呆れたように眉をひそめるスィンを見下ろして、ジェイドはひどく深いため息をついている。

 

「やれやれ。鈍いヒトですねぇ、面白くもない」

「へ? 戦女神って、古代イスパニア神話じゃ……」

 

 氷嚢を持ち上げていた手が取られ、氷嚢の重みが目蓋を直撃した。

「ふにゅう」気の抜けた悲鳴を洩らすスィンの手を、壊さないよう、しかし逃げられないようにぎゅっと握り締める。

 

「どこまでも気高く、はるか高みを見据える愛しい私の女神が、いつの日か、我が元へと降り立ち──自らの幸せを抱きしめてくれるよう、万感の思いを込めて祈りますよ」

 

 息を呑み、強張ったスィンの手に接吻を落とした。

 直後、じたばたと暴れる手を解放してやれば彼女は全力を尽くして起き上がり、じりじりと尻で後退っている。

 シーツをまとって壁に背を預ける彼女は、自分の体を抱きしめるように縮こまっていた。

 

「寒っ! それ、神話の勇者が戦女神にコクった時のくっさい台詞……!」

「おや、寒いのですか。暖めてあげましょうか?」

「いらんわ! あー、また聞いちゃった。そんなのディストだけで十分だってのに……」

 

 また、という言葉に反応したジェイドは、まだロクに動けないスィンに詰め寄る。

 逃げようとするその体を閉じ込めるよう、わざと音を立てて壁に手のひらを押し付けた。

 

「……すると、何か? 同じようなことを、あれがあなたに言ったとでも?」

「何を静かにキレてるんですか。ディストと同じことしたから、人間として恥じてるんですか」

「はっはっは、おしゃべりなお口ですね。どれ、まずは黙らせますか」

 

 壁に押し付けた手が、そのままスィンの顔を挟み込む。

 頬を引きつらせてその手をはがそうとスィンがやっきになっているのを眺めながら、ジェイドはゆっくりと顔を近づけた。

 

「ちょ、ちょっと……!」

 

 左右色の違う瞳が困惑をあらわとし、挟まれた頬が熱とは関係なく朱に染まる。

 しかしその瞳は閉ざされることなく、ジェイドの手を拒絶する腕も、力が入っていない。

 

「──ああ。そういえばこれは邪魔ですね」

 

 言うなり、ジェイドはおもむろに眼鏡を外してしまった。

 胸のポケットにしまい、改めてスィンの顔を両の手で優しく包み込む。

 

「これでいいですか? いいですね」

「そ……じゃな……からかうのも、いい加減に……」

 

 ゆっくり、じっくり、まるでいたぶるようにジェイドは顔を寄せてゆく。

 その見慣れぬ素顔に否応なく惹きつけられながら、スィンはこのとき、どうにか自分の顔を固定する手を外した。

 しかし。そのままその手を放り出して逃げようとはしていない。

 体が正常な状態へ戻りつつあるために強制的な安静を促しているのか。

 それとも。これが今の、彼女の意志か。

 

「からかってなどいませんよ。そして、私が何を考えているのかを、わからないとは言わせません。伝えきれることではありませんが、伝える努力を怠ったつもりもない」

 

 ジェイドもまた、スィンを押さえるようなことはせず、ただ掴まれた手を放置している。

 未だスィンは掴んだ手首を離さず、自分から握り締めていた。

 

「そろそろ……あなたの心が知りたい」

 

 鼻先が触れ合うほど距離を詰め、ジェイドはスィンの眼を覗き込んだ。

 そのまま、心を覗かれているのではと思い違えてしまうほどに、紅玉の眼は真剣で──今まで見たことがないほど、優しかった。

 おそらくもう二度と見ることができないだろう慈愛に満ちた紅い瞳を、陶然と見つめる。見つめた先に瞳の中の譜を見つけて、我に返った。

 

 ──馬鹿げている、茶番だ。

 

 母親を殺した相手に口説かれて、ときめいている。受け入れてしまえば、そういった関係になってしまえば、二人きりの時間が増えれば──いつだって傷をつけられるし、殺せる、などと。

 そんな誘惑を振り払うべく、スィンはゆっくりと瞳を伏せた。

 そのまま、力なく首を横に振る。少しずつ手の力を抜いていき、ジェイドの両腕を解放した。

 

「……戯言は酔った時に言うものです。昨晩は、結構深く嗜まれたんですかね」

 

 腕を組むように交差した腕が、ギュッと自分の体を抱きしめる。

 小さな小さな呟きが、殺しきれなかった呟きは、一番聞かせてはならない人に届いてしまった。

 

「……苦しめられるのに。なんでそれができないの……?」

 

 まるっきり自問自答の独り言に、ジェイドは眉をしかめて──口に出しかけた言葉を噤んだ。

 しかし、これしか手はないのだ。彼女が、ジェイドを、何の抵抗もなく殺せるようになるためには──

 

「──やれやれ。おしゃべりなだけではなく天邪鬼でもありましたか、その口は」

 

 怪訝そうに瞳を上げたスィンが、音を立てて固まった。

 自由になった両手。いつのまにかグローブを外したジェイドが、彼女の唇をなぞっている。

 もう片方の手は、がっちりとスィンの後頭部を捕まえていた。

 

「やっぱり塞いでしまいましょう」

「ひえっ! ちょっと、待っ……!」

 

 迫る禁断の果実から顔を背けたスィンが、体を強張らせる。

 顔を背けた拍子にがら空きになった首筋へ、ジェイドが悠々と顔を埋めた。

 その頭を掴んで引き剥がそうとするも、その力は弱い。隠しようもない熱い吐息が、ジェイドの髪の一房を揺らした。

 後頭部から離れた手が、するするとシーツの中にもぐりこむ。手探りでまさぐったスィンの体は汗ばんでおり、しっとりとした肌の感触を覚えた。

 唇をなぞっていた手が脱力しつつあるスィンの肩を抱き、支える。

 それに半ばもたれかかるようにしていたスィンだったが、シーツの中にもぐりこんだその手に気付いてハッと我に返った。

 

「いやっ!」

 

 渾身の力を込めてジェイドの胸板を突き飛ばす。

 ロクに力も入っていなかったが、彼は何を思ったのかそのまま素直に突き飛ばされた。

 ようやく解放された己の体を抱きしめ、スィンはなんとも言えない顔で起き上がるジェイドを眺めている。

 突き飛ばされて体を打ったというのに、彼はくすくすと笑みながら身軽に起き上がった。

 

「可愛い悲鳴だ。あなたも、こんな声を出すことがあるんですね」

「やかましい!」

 

 そっぽを向いて氷嚢に手を伸ばす。

 

「恐怖症が私に働かなくなったということは、大変喜ばしいことです」

 

 すっかりすねてそっぽを向く彼女に、ジェイドはゆっくりと後ろから抱きついた。

 

「ぎゃああ!」

「今更演技しても無駄です。これまで私が触れればあなたの肌は必ずトリハダが立っていましたが、今はそれがない。今まで配慮していた分を取り返すつもりですので、覚悟してください──年寄りは、頑固な生き物ですから」

 

 寝起きでくしゃくしゃになった髪を戯れに梳き、その一房を手にとって口付ける。

 有限実行とばかり、本当に好き勝手をはじめたジェイドを、スィンは無言で振り払った。

 

「なんですか?」

「──き、着替え、ます。から、外に出てください」

「手伝ってあげましょう」

「……」

 

 氷点下の瞳でジェイドを見やったスィンの手が、虚空にかざされる。

 次の瞬間、彼は突如両脇を抱えられ強制的に扉まで引きずられた。

 

「おや」

 

 これ以上引きずられては叶わないと、ジェイドが腰を上げる。

 立ち上がったジェイドの腕をしっかりと掴み、扉を開いたのはかなり見覚えのある背中だった。

 そのまま、ジェイドが空蝉によって扉の外へと押し出される。

 その様子を横目で見、スィンは頭痛のする頭を押さえて巨大なため息をついていた。

 

「そりゃ治そうとは思ってたけどさ……まさか本当に、大佐が平気になるとは」

 

 

 



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第百十唱——珍事件勃発

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルビオール水上走行開始から三日。

 第四石碑の丘付近に点在する砂浜に着岸した一行は、一路ダアトを目指していた。

 ジェイドとスィンのことがあってぎこちない空気を漂わせていた一行だったが、二人が個人的に話し合い、会話を盗み聞いたこともあって徐々にその雰囲気を払いつつある。

 

「ディストから飛行譜石を取り戻す、かぁ~。ダアトに置いてあると良いんだけど」

 

 ふとした会話が途切れた瞬間、そんなことを言い出したルークにジェイド、ナタリアが応じた。

 

「そうですねえ。場合によっては、直接会って取り戻すしかないかもしれませんねえ」

「わたくしはあの者が嫌いですわ。傲慢そうな態度といい、その物言いといい……」

 

 飄々と返すジェイドに対し、ナタリアは感情的にその可能性を忌避している。

 しかしアニスは、超個人的な見解を持ってして、ナタリアに賛同していた。

 

「そうだね~。なんか、トカゲっぽいしね」

「トカゲ……なるほど、確かにトカゲっぽいですわ」

 

 その言葉に、はっきりとではないがナタリアは同意している。おそらく感覚的なもので、なぜトカゲなのかはっきりと説明はできないだろう。

 その反応に気をよくしたのか、アニスはいきなりとんでもないことを言い出した。

 

「多分、あの座ってる変なイスがトカゲのしっぽ代わりで、危なくなったらポーンってディストが飛び出して、イスを囮に逃げ出すんだよ!」

 

 無論、純粋培養されたお姫様は、信頼できる仲間からの言葉を無条件で信じ込んでいる。

 

「まぁ! ではあのイスは、彼のおしりにくっついているのですか?」

「そうそう。きっと無くなったらまた生えてくるよ!」

「彼は人間ではないのですね……」

 

 大真面目な顔でディストは人外であると結論付けたナタリアを見て、わずかでもこの場にいない彼が哀れになったのだろうか。

 訂正を求めるわけでもなかろうが、ルークはジェイドに囁きかけている。

 

「凄いこと言ってるぞ……」

「はっはっはっ」

 

 しかし、ジェイドはとても愉快そうに笑い飛ばした。

 

「間違ってなさそうだから、良いじゃないですか」

「おいおい……」

 

 いつにない笑顔でナタリアの勘違いを放っておくジェイドに、そして彼らの漫才じみたやりとりに、スィンは苦笑を禁じえなかった。

 ディストといえば、アニスが背中に背負うトクナガを作り出した張本人にして、その頭脳はジェイドに比肩しうるほどの冴えを持っているはずである。

 しかし、比較的身近な人間でさえ──それが計算高い腹黒ロリータであれ、評価はともすれば不当と思えるほどに低い。

 ふつうの人、とはどうしても呼べないジェイドとの余りある差を鑑みるに、取り繕うスキルとはかくも大切なものだなあ、としみじみ思わせた。

 と、ダアトの門をくぐって少し。

 

『──キャンディヘアの後頭部に何かが飛んできた』

 

 不意にシルフの声が脳裏に囁かれる。

 キャンディヘアって古い、今はツインテールだよと思うよりも前に、アニスの後ろ頭を斜め後ろから注視した。

 囁きの通り、ヒュッと風を切って、後方から何かが飛来する。

 タイミングを見計らって掴み、飛んできた方向を見やれば、ボロをまとった子供が走り去っていくのが見えた。見るからに浮浪児か何かである。捕まえたところで、あまり重要なことは聞き出せそうにない。

 一方、自分の真後ろで何かがあったと気づいたアニスは、振り向いていきなり視界を占領したスィンに驚いている。

 

「ひゃっ! な、何? 何!?」

「……さぁ」

 

 あっという間に人ごみにまぎれた子供を視線で追うのはやめて、手の中のものを見下ろした。

 

「どうしたの、スィン?」

「アニスの後ろ頭目がけてこんなものが……」

 

 ティアの質問を受けて、手の中の物体を見せる。

 何かを包んだ紙切れには意外に達筆な文字が並べられており、中身を読むまでもなくスィンは持ち主を特定できた。

 

「アニス宛のラブレターだったらよかったんだけど、ディストからの挑戦状みたいね」

「なぜ、読んでもいないのにそんなことが?」

「ディストの文字なら、飽きるほど見たから」

 

 紙切れを広げ、中身を改める。

 手紙は二枚あり、包んであったのは、小さな──指輪を入れるような小箱だった。

 何が書いてあるのか興味津々の一行の期待に応えるべく、二枚目の手紙と小箱は袖の中に押し込む。

 

「なんて書いてあるんですか?」

 

 イオンの求めに従い、見出しを読んだ。

 

「憎きジェイド一味へ」

「まあ、いつの間にかジェイド一味にされていますわ」

 

 おそらく彼の眼を独占しているのはこの若年寄なのだろう。

 それ以外の呼称でこの一行を呼ぶ彼など思いつかない。

 

『飛行譜石は、私が──この華麗なる薔薇のディスト様が預かっている。

 返してほしくば、我らの誓いの場所へ来い。そこで、真の決着をつけるのだ! 

 怖いだろう。そうだろう。

 だが怖じ気づこうとも、ここに来なければ、飛行譜石は手に入らない。

 あれはダアトにはないのだ。絶対ダアトにないから早く来い! 

 六神将・薔薇のディスト』

 

 せっかくなので紙を掲げて、ジェイドの眼と文面を交互に見ながら読み進める。

 

「だってさ」

「……声真似と、おかしな抑揚をつける必要があったのかを是非ともお聞かせ願いたいものです。あなたに見つめられるのは悪い気がしませんが」

「僕は文章に込められた様々なものが大佐にちょっとでも届くよう、精一杯努力しただけです」

 

 とりあえず名指しされたジェイドに手紙を渡すも、手のひらを返されて受け取りを拒否された。

 仕方がないので畳んで袖の中にしまう。

 

「……なんかいかにもダアトにあるって手紙だな。アホだろ、こいつ」

「大佐、どうします?」

 

 呆れたように呟くルークには取り合わず、ティアは名指しされたジェイドに意見を仰いだ。

 

「ほっときましょう。ルークの言う通りです。きっと飛行譜石はダアトにありますよ」

「ですが、ディストは僕たちに……」

「約束の場所というのは、多分ケテルブルクです。放っておけば、待ちくたびれて凍りつきますよ」

 

 唯一情けをかけようとするイオンに、ジェイドはやはり素っ気ない。

 今の目的を考えれば、ジェイドが正しいのは明白なために彼も不本意ながら頷いている。

 

「哀れな奴……」

「念のために、ディストがここに戻ってきたかどうかトリトハイム様に聞いてみよう?」

「そうだな」

 

 アニスの言葉にルークが頷き、一同の目が教会へと向いた。

 たった一人を除いて。

 

「ところでスィン。今袖の中に何を隠しましたか?」

「もう一枚紙切れと妙な小箱……こっちは僕宛ですかね。『愛しき戦女神、シア・ブリュンヒルドへ』で始まってます」

 

 やはり眼を配っていたらしいジェイドに、スィンはいちいち驚くのをやめて何でもないことのように答えた。

 

「妙な呪いがかかっていると困るので焼き捨てましょう。スィン、それをこちらへ」

 

 予想通り、しかしなんだか妙なことを言い出したジェイドに、スィンは返事をせず紙切れを一枚渡した。

 さりげなくジェイドから距離を取って、もう一枚を広げる。

 

「ってこれ、さっき読んだほうじゃないか」

「ええ、そっちを渡しましたから」

 

 ディストの手紙は、先ほどのものとは文字の大きさが半分以上違っており、びっしりと表面を埋め尽くしていた。

 いわく、スィンがジェイドの傍にいるのが残念だと。その上で、スィンだけでも自分のもとへ来ないかと。

 命を削るような馬鹿な真似はやめて、こんなどうしようもない世界など捨てて、自分と共に彼女を復活させないかという勧誘が、独特の比喩表現と様々な偶喩を用いて表現されていた。

 ……気になることはいくつかある。証拠物件として、スィンは手紙を懐の奥深くへ仕舞い込んだ。

 

「スィン」

「問題は、こっちのほうですけど」

 

 心なしか厳しい眼で詰め寄るジェイドの気をそらすように、小箱を取り出す。

 一応、開けたら毒針が飛び出してきても困るので箱の隙間から中身をのぞけば、そうこうしている間にジェイドに取り上げられた。

 

「あの、開けるなら妙な仕掛けがないか気をつけ……」

 

 スィンの話を聞いているのか聞いていないのか。彼は有無を言わさずパチンと開いてしまっている。

 幸いにも、何も仕掛けられていなかったらしい。ジェイドは無事である。

 しかし、その顔は何とも言えない表情へと変化していた。複雑というか、懐かしいものを見るような、驚いているような。彼にしては珍しい表情といえよう。

 興味を持ったアニスが箱の中身を覗き込み、歓声を上げた。

 

「きゃわーv これ、指輪じゃないですか! なんかすっごく高そうな……」

 

 宝飾品と聞いて興味を持ったのか、ナタリアも覗き込む。

 一行の中で一番鑑定眼が養われているであろう彼女は、じっと見つめてため息を零した。

 

「……私の見る限りでは、本物ですわ。それも上質のサファイア、保存状態も良好です」

 

 サファイア。宝石言葉は「純潔」「貞操」「誠実」「不変」。

 宝石の名を聞き、その意味する言葉を思い出したスィンは指輪を一瞥することなく眼を輝かせたアニスを見ている。

 

「アニス。ダアトにいい宝石商知らない?」

「それは知らないけど。いい質屋さんなら知ってるよ、行っとく?」

「行こう。売り飛ばして路銀の足しに……」

 

 ジェイドから小箱を取り戻そうと腕を伸ばしたスィンは、逆にその手を掴まれた。

 

「う」

「もう平気なはずなのに、顔をしかめるとはつれない人だ。繊細な私の心はこれ以上ないくらい傷つきました」

「その傷を悪化させて是非、苦しめ。なんてブラックジョークは置いといて、それを渡してください。後でアニスと売り払ってきます」

 

 掴まれた手を一杯に広げて返してくれるよう訴えるも、彼は小箱から指輪を取り出して不敵に微笑んでいる。

 

「サファイアには、古来より女性の貞節を調べる魔力が宿っているそうです。なんでもみだらな欲望を持ち、浮気をするような人間がサファイアを身につけると色が濁り、とても見られたものではなくなるらしいのですが……試してみましょうか」

 

 ジェイドの手の中で光る指輪は、澄んだ蒼の輝きを静かに放っていた。

 純銀製の地金には繊細な彫刻が施され、三日月の装飾を満月にするかのようにはめ込まれた石が鎮座しており、アニスが眼を輝かせた理由がわかる。

 

「って、旦那。ディストから贈られたモンなんか身につけたら、それこそ呪いがかかりそうなんだが……」

「かもしれませんが、スィンはすでに手紙を読んでいます。大丈夫ですよ、多分」

 

 ガイの言葉を受け流し、ジェイドは自分のいうことを聞かなかった罰とばかりに、スィンの薬指へ指輪を押し込んだ。

 瞬間。頭の中で、カチリ、という音が響いた気がした。

 

「大佐! 左手の薬指じゃ婚約指輪ですよぅ!」

「ああー、そうでした。すみませんねスィン、今度私の買った指輪をつけてもらいますのでそれはやっぱり売却」

 

 聴覚が、次第に衰えていく。

 ぼんやりとしていく意識の中で、ノイズの混じった音がざりざりと奇怪な音を奏でた。

 

『……につけましたね? それは……チャネリング……』

 

 砂を噛むような雑音が、徐々にクリアな響きを帯びる。

 やがて、調律をした直後の音機関のように、声ははっきりと脳裏を木霊した。

 さながら、意識集合体が話しかけてくるように──アッシュと話をするときのように。

 

『さあ、解放してほしくばケテルブルクへとおいでなさい。できればジェイドを連れて。あなただけでも、かまいませんよ?』

 

 がんがんと、頭の中で銅鑼をえんえんと叩かれているような頭痛が押し寄せる。

 たまらず、呻いてふらついたスィンにどんな既視感を覚えたのか。

 ルークがその体を支えるように駆け寄った。

 

「おい、ジェイド! 一体何やったんだよ」

「おやぁ……本当に呪いがかかっていましたか。これは困りましたね」

「困っているように聞こえませんわ! スィン、しっかりしてくださいませ」

 

 ナタリアがヒールをかけるも、スィンの瞳は光を失ったまま。立ち尽くしたまま、顔の目の前で手を振っても反応がない。

 仕方なく、頬を張ろうとしてか、ジェイドが軽く手を振り上げる。

 そのとき、スィンは初めて身動きをした。

 頬に迫る手のひらを、ジェイドの手首を掴んで止める。その手を引き寄せたかと思うと、スィンはいきなりジェイドの首にすがりつくかのような抱擁をおくった。

 一行の大多数が目を丸くして見守り、アニスやナタリアが歓声を上げる中、当の本人はただ硬直している。

 

「な……」

「クククッ。ジェイド、あなたでも赤面することはあるんですね」

 

 囁かれた言葉に、ジェイドはハッと我を取り戻してしなだれかかるスィンの肩を掴み、顔を見た。

 光をなくした瞳が意地悪く歪み、唇の端がいやらしく哂っている。

 口調もさながら、明らかに正気のスィンではない。

 

「シアに抱きつかれて欲情でもしましたか?」

「スィン、こんな往来で……あなたも大胆ですね」

 

 肩を掴んでいた手が、スィンの体を撫でるように移動し、やがて腰に添えられた。

 

「……こ、の、痴漢!」

 

 色の違う瞳に、怒りが灯る。

 光を取り戻した瞳を維持したスィンは、まずジェイドから離れると、左の薬指にはまる指輪に手をかけた。

 ぐわんっ、と鈍器で後頭部を殴られたような衝撃が走る。

 

「シア、馬鹿な真似はおよしなさい! ムリにチャネリングを切ったりしたら「ウダウダうぜぇんだよ、ダニ野郎っ!」

 

 行動を制止する言葉を、誰もがぎょっとするような悪態でかき消したスィンは、歯をくいしばって指輪を抜き取った。

 ぶづんっ! と音を立てて、頭痛が波のように引いていく。

 一息ついたスィンは、ギッとジェイドをにらみつけた。

 

「なんって不用意なことをするんですか、あなたはっ! おかげで一瞬、ディストに思いっきり操られちゃったじゃないですか!」

 

 詰め寄るスィンの剣幕に怯むことなく、ジェイドは冷静に自分の見解を告げてスィンを固まらせている。

 

「ということは、あなたは今何が起こったのか把握できていますね」

「確かに。全然混乱はしてないな」

 

 ガイの追い討ちに、スィンは見えない槍が痛いところを突き刺さるのを確かに感じた。

 ジェイドが不用意な行動を棚に上げ、ついでにスィンの怒りをそらすための方便。更には実際、何が起こったのかを知ろうとした上での発言であることは十分わかっているのだが、反論はできない。

 しぶしぶ、スィンは何があったのかという説明を始めた。

 

「えーと、チャネリングって何のことだか知ってますか?」

「チャネリング? 初めて耳にしますが……」

 

 ナタリアを初め、一同の多数は知らないと首を振る。

 問題のジェイドといえば、軽く首を傾げて薀蓄を語りだした。

 

「チャネリング……ですか。精神をつなぐホットラインのようなもの、といいますか。どこぞの文献では、同位体同士が特定のフォンスロットを同調させることでチャネリングが発生した、とありますね。チャネリングを使えば離れた場所でも会話が可能となり、互いの五感の共有更には、互いの体を操ることもできるとか……まさか」

「大佐! それはまさか、ルークとアッシュの……!」

 

 流石というかなんというか、ジェイドは話していて想像がついたらしい。

 同時に、酷似した現象を思い出したティアに答えるべく、向き直る。

 

「ええ。時たま二人が会話したり、あるいはいつぞやの……ルークがスィンに掴みかかったことがありましたね? あれもチャネリング現象のひとつです」

 

 当事者のルークすら驚くその事実に何ら動じず、ジェイドは厳しい顔でスィンを見た。

 

「まさか、今それが行われていたと言いたいのですか?」

「そのまさかです」

 

 とても信じられないという風情のジェイドに、スィンは手に持った指輪を掲げて見せる。

 

「これ、よく見ると譜業の一種なんですよね。こんな小さな譜業、大佐の眼鏡級に技術が優れてないと無理ですけど、ディストが仕掛けてきたことを考えれば別におかしなことはない。本来同位体でもフォンスロット操作しないとありえない現象を、この指輪が接続器(コネクタ)になって役割を果たしたみたいですね」

 

 うっかり指にはめないよう、慎重に持って観察する。

 宝石自体はナタリアの鑑定眼が正しく何もなかったが、台座、地金部分には何か細工した後があった。

 この場で解体するわけにはいかないが、おそらく間違いないだろう。と、いうよりも、それ以外に理由が思い浮かばない。

 

「でなければ、誰があなたなんかに抱きつきますか」

「これは手厳しい。アルビオールではあんなにかわ」

 

 ジェイドの脛を蹴りつけて黙らせる。

 残念なことに彼の脛は軍靴に保護されてノーダメージだが、黙らせることには成功した。

 

「かわ?」

「ええい! 年中セクハラ発情男、ついでに禿予備軍が何を抜かす!」

 

 首を傾げた導師イオンの疑問を掻き消す。

 スィンはびしっとジェイドに向かって中指をおったてた。

 下品ですね、と顔をしかめたジェイドだが、意識はすでに違うところを指摘している。

 

「若年寄の次は禿ですか。私は今でもフサフサですよ?」

「髪が細い上にもともとなのか、つむじが大きめ。あと五年もしたら、きっと地肌が見えるようになる」

「安心してください。セクハラも発情も、あなた限定ですから」

「安心できる点が何一つないんですけど! そして認めないでよ、セクハラも発情も!」

 

 禿予備軍疑惑を華麗にスルーしたジェイドが、思わぬ反撃に目を白黒させるスィンをギャースカ喚かせた。

 他の一同はすっかりと置いてきぼりにされているが、不思議と懐かしいやりとりが復活したことに無意識の安堵を促されている者が多く、苦情は発生しない。

 一方、一通り喚いてから、ふぅっ、と大きく息をついたスィンは手を伸ばしてジェイドから手早く小箱を奪い取った。

 指輪を小箱に押し込める。

 

「とりあえず、これはとっておきます。後で解体するなり何なり……アニス、悪いけど売れなくなった」

「……まあ、しょーがないかな。身につけたらおかしな声が聞こえるなんて、気味悪がられるに決まってるし」

 

 気を取り直したアニスの先導で、一同は教会の扉を押し開けた。教会内部は閑散としており、兵士は数えるほどしかいない。

 一同の顔を見ても無反応というのは、やはりイオンの存在あってなのか。あるいは、下っ端過ぎて一行の顔どころか最高指導者たる彼の顔すら知らないのかもしれない。

 礼拝堂の奥まった場所でなにやら作業をしていた壮年の男性が、多人数の気配に気付いてか、顔を上げる。

 探していた当人の出現に、スィンはさりげなくルークの後ろへ隠れた。

 

「導師イオン! お捜ししておりましたぞ!」

 

 開口一番、詠師トリトハイムはイオンの姿を眼に留めている。

 ティア、アニス両名はともかくとして、この場にそぐわない面々がいることに気付いていない。

 

「すみません。ですが、所用でもうしばらく留守にします」

「導師としてのお勤めは如何なさいます!」

 

 申し訳なさそうに謝罪するイオンに、意訳・「仕事しろ」と叫びながら彼はさりげなく重要な情報を洩らしてくれた。

 

「大詠師モースも戻る早々、神託の盾(オラクル)を引き連れてアラミス湧水洞に向かわれるし……」

「なるほど……ユリアロードを封じて、私たちがディストに会いに行くよう仕向けているんですね」

 

 エキサイトするトリトハイムには聞かせないよう、ぽつりとジェイドが零す。

 実力行使すれば突破できないわけもなかろうが、多くの血が流れる上に乱戦でイオンがかっさらわれる可能性もあった。

 それに人間相手となれば、無駄に戦うわけにはいかない。

 

「お出かけになるならせめて、導師守護役(フォンマスターガーディアン)をもう五人、いえ十人……」

「大所帯では身動きができません。アニス一人で結構です」

 

 導師に無理強いはできない、という前提のもと、トリトハイムはどうにか妥協案をつきつけているものの、イオンに一刀両断された。

 話題を変えるように、アニスがトリトハイムの視界に入らんと、イオンの隣に移動する。

 

「あのー、詠師トリトハイム。神託の盾(オラクル)騎士団のディストはどうしてますかぁ?」

「律師ディストなら、少し前にここに戻りましたが、また慌ただしく出ていきましたよ。付き人の唱師ライナーなら、詳しいことを知っているでしょう」

 

 これで、ディストの所在ははっきりした。

 

「ライナーって人は、どこにいるんですか?」

「今は神託の盾(オラクル)本部で訓練を行っている筈です」

「行ってみましょう」

「ああ」

 

 ルークの問いにあっさりと答えてくれたトリトハイムが人数の多さをいぶかしむ前に、ティアが移動を促す。

 頷いたルークを筆頭に素早く移動を行うも、彼らは早々に行き先を阻まれた。

 

「申し訳ありませんが、外部の人間を本部へお通しすることは禁じられています。導師イオン、並びに団員だけなら通しますが」

 

 ライナーに会うだけならばいいが、もしものときのことを考えて戦力分散、イオンの守護が極端に薄くなるのはまずい。

 兵士につっかかろうとするルークをティアが押さえ、アニスが全員を一端外へと誘導した。

 

「どうするのですか? 唯一の入り口を塞がれては……」

「大丈夫です。関係者以外立ち入り禁止、団員のみ通行可能、本部に直接行ける裏口があります!」

 

 こっちこっち、とアニス、ティアの両名に導かれ、教会の横手へ回り込む。

 ところが、二人は不意にピタ、と足を止めた。

 

「うぇ! まっずぅ~……」

 

 何かと思い覗き込めば、裏口らしき小さな扉の前に一人の兵士が常駐している。

 二人の反応からして、いつもは見張りなどいないのだろう。

 

「ディストの奴、こんなところにまで……やっぱり陰険なんだから」

「……仕方がないわ、今は非常時よ。譜歌を使うわ」

 

 アニスが唇を尖らせ、ティアが譜歌を使わんと一歩前へ出たその時。

 

「いえ。ここは僕に任せてください」

 

 二人をやんわりと押しのけ、誰あろうイオンがしっかりとした足取りで裏口へと向かっていった。

 そのさりげなさに、誰も止める暇がない。

 

「イオン様……!」

「仕方がありません。ぎりぎりまで見守りましょう」

 

 危害が加えられそうになったら速やかに突入できるよう、各々武器を構えて事の次第を見守る。

 一方で、普段は近づくことさえためらわれる指導者の出現に、見張りの兵士は明らかに戸惑っていた。

 

「導師イオン!」

「唱師ライナーに面会します。通して下さい」

 

 挨拶も何もなく、簡潔に自分の用事を注げたイオンに、兵士はしどろもどろと言い訳を募る。

 

「は……。しかし、大詠師モースが……」

「この教団の最高指導者は誰です?」

「し、失礼しました! どうぞ!」

 

 静かなるイオンの言葉には、逆らいがたい迫力があった。

 後々のことを考えれば逆らうことの愚かしさを自覚するまでもない彼の言葉に、兵士は彼に道を譲っている。

 イオンの合図に従って、一行は扉の奥の通路を進んだ。

 

「イオン様、カッコ良かったですぅ!」

「ありがとうございます、アニス」

 

 

 

 

 

 



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第百十一唱——押し入り、探索、そして取り付け。

 

 

 

 

 

 

 裏口の通路を抜けた先は、本部の中心とも言える広大な広間だった。

 見上げれば、前に侵入した際は何度も叩いた銅鑼や出てきた兵士をボコにした扉が点在している。

 では団員の居住区に、とティアが案内をかって出ようとした矢先。物陰に隠れていた兵士たちが、あっという間に一行を取り囲んだ。

 咄嗟にアニスがイオンの前へ出て、その無礼をたしなめる。

 

「下がりなさい! 導師イオンの御前ですよ!」

 

 しかしその、威厳からは程遠い出で立ちが災いしてか、兵士たちは臆面もなく言い放った。

 

「残念ですが、どなたであろうとも、この先へ通してはならぬ、とディスト響士からのご命令です」

 

 全員が全員兜で顔を隠しているせいか、妙に気が強い。

 慇懃無礼なその態度に、アニスが何かを言いかけた、そのとき。

 

「フフフ……」

「な……何がおかしい!」

 

 こらえきれない笑声を洩らしたのは、ジェイドだった。

 もちろん慇懃無礼な兵士は過敏に反応している。

 

「いえ、失礼。あなたたちを笑ったのではありませんよ」

 

 そう言われてあっさり納得できるような心の広い人間は、残念ながらいなかった。

 予想通り癇癪を起こして、次々に武器を抜いていく。

 

「くそ! 馬鹿にしおって! 導師イオンだけは傷つけるな。後は殺してかまわん!」

「わっ、来るぞ!」

 

 ルークの警告に従い、一度は収めた武器を構えた、直後。

 

「その荒ぶる心に、安らかな深淵を」

 

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 静かなる旋律が兵士らの耳を直撃し、容赦なく睡魔の誘惑が彼らの意識を蝕んでいく。

 結果、眼前の兵士らに飽き足らず、そこかしこでガシャガシャと鎧の倒れる音が聞こえた。

 その様子に、ティアがいぶかしげに上層を見上げるも、すぐにその意識はジェイドの声に引き寄せられた。

 

「ディストも馬鹿ですねえ」

「何がだ?」

 

 鼻で笑うかのようなジェイドの言葉に、ガイが尋ね返す。

 するとジェイドは、眠りこける兵士たちを顎でさした。

 

「こんな風に守りを固めては、ここに何か大切なものがあると言っているも同然です」

「あ、それじゃあここに飛行譜石が?」

「あるのでしょうねえ」

 

 確定したわけではない可能性が、徐々に現実となっていく。

 ティアの疑問に、はっきりとではないがジェイドは肯定した。

 

「どこに隠しているのかしら」

「それは、ライナーが知っているかもしれません」

「じゃあ、ライナーって奴を捜そうぜ」

 

 ナタリアの疑問にイオンがライナーの存在を思い出す。一行は再び団員の居住区を目指した。

 途中、スィンの譜歌の余波を浴びて眠っている兵士を起こさぬよう、慎重に移動する。

 一同を先導するアニスは思いつく場所を片っ端から探しているようだった。

 しかし。

 様々な訓練室の扉を開け、今度はティアに譜歌を歌ってもらい、談話室や食堂を探索するという危険を冒したものの、目的の人物は影も形も見当たらない。

 聞き込みをしようにも、彼らを起こすわけにもいかず。

 

「ここにもいないよぅ! もう、ライナー! どこ行っちゃったのよぅ!」

 

 しまいには癇癪を起こしたアニスが、とある鍵のかかった扉をどんどこ叩いてはナタリアに止められている。

 心底困ったように、ガイはため息をついた。

 

「困ったなぁ……あまり時間をかけるのもどうかと思うんだが」

「どこにいるのか、心当たりはありませんの?」

 

 気を取り直してナタリアがイオンに尋ねるも、彼は申し訳なさそうにうなだれている。

 

「すみません。僕にはちょっと……」

「この辺りは兵士の訓練所なんかが中心なの。導師が来られることはほとんどないわ」

「じゃあ、ティアとアニスは? 心当たりはないのか?」

 

 フォローに回ったティアだったが、ルークの問いには素っ気ない。

 

「私は彼とは所属部隊が違うから」

「私は貧乏な人、興味ないもん」

 

 アニスなどは、相変わらずのアニス節で苦笑を洩らすしかなかった。

 

「「……」」

「まあ、しらみ潰しに調べていくしかないですね」

 

 どこか諦めたように、ジェイドがしめくくる。

 部屋の前を離れかけ。ふと思い立ったスィンは、アニスに話しかけた。

 

「……ねえアニス、ライナーの私室って知らない?」

「え。知ってるも何も、ここだよ。鍵かかってるけど……」

 

 それを聞き。スィンは迷いなく扉の前で膝をついた。

 鍵穴から中の様子を確かめ、髪から取り出したヘアピンを取り出し、手早く変形させる。

 

「家捜しするの? でも、本人が持ってるかも……」

「飛行譜石ってね。あんまり大きくはないけど、人間が気軽に携帯できるほど小さなものじゃないんだよ。だから、部屋とかに置いてある可能性のほうが高いんだ」

 

 探るだけの価値はある、と言いたげに、ヘアピンを鍵穴に突っ込む。がちゃがちゃという音が続いた。

 一見無作為に動かしていた手が、やがてカチンッ、という軽快な音と共にヘアピンを引きずり出す。

 立ち上がったスィンの手で、扉はあっけなく開いた。

 

「いやあ、お見事ですね。本職かと疑ってしまうほどに」

「お褒め頂き光栄です。どうやら僕は、あなたの心の鍵も勝手に開けてしまったようで~」

 

 皮肉るつもりが思わぬ反撃に遭い、ジェイドは絶句させられている。

 しかしそれも一瞬のこと。

 ジェイドをやり込めたことに何の感慨も抱いていないらしいスィンが、中へ入っていくのに続く。

 そのやりとりに、他の面々──特にアニスがにまにまっ、と頬を緩ませた。

 

「なぁ~んか、拍子抜け。ちょっと前まで殺すだの殺さないだの物騒なこと言ってたのが嘘みたい」

「嬉しそうですわね、アニス」

 

 言っていることは不穏だが、その表情はそぐわないにも程がある。

 ナタリアがそれを指摘して、アニスは「そりゃあね」と続けた。

 

「あの時の空気がずっと続いちゃうのかと思ってたもん。大佐が開き直っちゃったのは気に食わないけど、あれよりはずっとマシ」

「……あれは、聞いてるこっちが恥ずかしかったな……」

 

 盗み聞きしていた際のことを思い出す。

 もちろん声だけしか聞いていないが、あの強烈な口説き文句に女性陣は顔を赤らめた。

 続く怪しげな会話、物音にイオンを除く男性陣は必要以上に想像力を高めてしまっている。

 スィンがジェイドを拒絶したらしいということ、ジェイドが女性用仮眠室から追い出されたことでようやく、何もなかったとわかったが。

 それから二人の態度は通常へと戻りつつあったが、これまでの言動を見てもわかるように、ジェイドが態度を露骨にしつつある。

 実力行使に及ばないのはスィンの意思を尊重してのことなのか、それとも彼女の憎しみを和らげるパフォーマンスなのか。

 

「何が恥ずかしかったんですか?」

 

 ジェイド以外の誰も来ないことを不審に思ったのか、不意に部屋の中からスィンの声が飛んできた。

 なんでもない、とガイが返し、二人に続いて残りの面々が広くもない部屋に入る。

 奥の机の横に置かれた木箱を同じようにこじ開けて、スィンは一抱えもある巨大な鉱石のようなものを取り出した。

 例えるなら、小玉スイカか。通常サイズのメロンか。

 

「これが、飛行譜石……」

「確かに、これでは携帯しかねますね。ディストが実際持っていかなかった理由が、わかるような気がします」

 

 どのような技術が用いられているかは、定かでない。これがそうなのかと万人を唸らせるほどに、飛行譜石は煌々と輝いていた。

 中に刻まれているのだろうか、時折放たれる光の中、帯状の譜がぼんやりと浮かび上がる。

 スィンも、初めて見たときはつい状況を忘れて見入ってしまったほどだ。

 こんなに目立つものを、むき出しで持っていくわけにはいかない。

 ところが。

 

「さあ、スィン。これを服の中に仕込んで」

「ん?」

 

 おもむろにジェイドがスィンの手から飛行譜石を取り上げ、ずいと突きつける。

 何事かと戸惑うスィンに、ジェイドはにっこりと微笑んだ。

 

「そんな顔しないでください。お腹の子はちゃんと認知してあげますから。お望みとあらば籍をおっと」

 

 スィンは迷いなくジェイドの爪先を踏みつけた。

 

「誤解を招くような発言はやめてください、不快です。勝手に妊婦にしないでくださいよ」

「いいんですよ、そんなに照れなくても」

「僕が照れてるように見えるなら眼鏡変えたほうがいいんじゃ……いや、もういいです……」

 

 いい加減疲れたのか、ジェイドの戯言は聞かなかったことにしている。

 スィンはこれまで背負っていた袋の口を開いた。

 取り出されたのは、どこで調達してきたのか、荒削りの水晶の塊である。大きさは、飛行譜石とほぼ同じだった。

 

「こんなもんいつ手に入れたんだよ」

「第四石碑にさすらう商人とかいうのがいたのは覚えてる? あれから購入した」

 

 水晶の塊を木箱の中に収め、更に用意していた新たな錠前で蓋をきっちりと施錠する。

 もちろん元の錠前とは種類が異なるから、誰にも開けられない。

 それでも重量はあるから、多少のイヤガラセ──もとい時間稼ぎにはなるだろう。

 

「いつになく手が凝ってるなあ」

「梃子摺らせてくれたことに対するお礼です」

 

 ぱんぱんっ、と手を払い、荷袋を担ぎ上げた。もともとスィンはこれを持って本部に足を踏み入れている。外にいた見張りの兵士に、ことさら怪しまれることはない。

 長居は無用とばかり、一行は部屋の主が現れるよりも早く本部からの脱出を図った。

 幸いにも兵士は寝こけたまま、平和そうに寝息を立てている。流石のルークも、もうその兵士を蹴りつけるようなことはしなかった。

 念のため教会から十分距離を取り、ちょっとした広場までたどり着いて初めてルークが後ろを振り返る。

 追っ手、もしくは尾行者に類は見受けられない。

 

「これで後はアルビオールを使って、伯父上たちを運べばいいんだな」

 

 ほっと息をついたルークではあったが、彼は続いたイオンの言葉に不思議そうに首を傾げた。

 

「その前に、提案があるんですが」

「なんですの?」

 

 ナタリアの疑問を挟み、イオンはとある提案を始めた。

 

「平和条約の際、キムラスカとマルクト、そしてダアトも、降下作戦について了承できます。ですか、ケセドニアは自治区であって国家でないために……」

「蚊帳の外ですね」

 

 それが、国家に頼らない土地に住む者の定めである。

 国に税金を納めない代わりそういった権利もろもろの見返りがつかないのは当たり前のこと。だが。

 

「本来そのような権限がないことはわかっていますが、アスターも立ち合わせてやれませんか?」

 

 今回に関わらず、イオンは彼と以前より面識がある協力者だ。

 世界の一大事に、権利だの何だのつまらない理由でつまはじきにはしたくなかったのだろう。

 

「成り行きとはいえ、外殻を降ろすことを最初に認めてくれたのはあの人だもんな。いいんじゃないか?」

 

 ルークの答えに、反対する者はいない。むしろ反対する理由がない。

 

「なら、まず俺たちはケセドニアへ行く。俺たちがアスターと話す間に、ノエルには陛下たちをユリアシティへ運んでもらおう」

「それなら時間が無駄にならないね」

「みなさん。ありがとうございます」

 

 ガイの提案にアニスが頷き、イオンは反対されなかったことに要らない礼をする。

 そんな中、スィンはちょっぴり安堵を覚えていた。

 少なくとも、これからすぐにピオニー陛下と顔を合わせずに済むのだ。

 アルビオールは一兵団を乗せることなどできないから、当然平和条約をする者同士、可能でも供は二、三人だろう。

 スィン自身に恐れることはないが、問題は両国の王二人だ。

 とりあえず平和条約を締結させるまでは、平常心であってほしい。

 無事アルビオールへとたどり着き、久しぶりに飛べるため興奮するノエル、アルビオールの心臓部たる飛行機関に触れることができると大喜びのガイを横目に、スィンは黙々と飛行譜石の取り付けに勤しんでいた。

 

「こんな風になってるのかあ。いやあ、眼福だな!」

「ノエルー、そっちのシャフトとってー」

「は、はい……ガイさん、本当に音機関が好きなんですね」

 

 

 



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第百十二唱——垣間見えるは、らしからぬ心

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「では私は、外殻へ戻ります。また後ほどお迎えにあがります」

「頼むよ」

 

 ルークの労いを受けて、ノエルは慌ただしくアルビオールに飛び乗った。

 その後姿を見送り、一行はケセドニアへと足を運ぶ。

 

「あいっ変わらず気が滅入るな、この空は……」

 

 軽く空を仰いで、ガイがため息をついた。

 ケセドニアの空は降下直後から変わらぬ魔界の大気に浸されており、明らかに瘴気が漂っている。

 ふと、先頭を歩いていたルークが振り返った。

 

「なあ、スィン。ホントによかったのか?」

「いいの。僕も、個人的に用事があったんだし」

 

 ──事の発端は、ガイのトンデモ発言から始まった。

 

「……すみませんガイラルディア様。もう一度、言ってください」

「だから、お前はノエルと一緒に行け。で、陛下たちと一緒にユリアシティで待機してるんだ」

「イヤです」

 

 スィンは、痛む頭を抱えつつもきっぱりと拒絶した。

 少し離れたところで二人のやりとりを見守っていたナタリアがまあ、と口元を押さえている。

 

「珍しいですわ。スィンがガイの言葉に従わないとは……」

「そ、そぉだねえ。無茶やって叱られたことはあっても、こんな風にきっぱり拒否って」

 

 またも訪れた不穏な空気に、他の面々がハラハラと、あるいは面白そうに見守る中、二人の意見はまっぷたつに分かれた。

 

「何が悲しくて陛下たちのエスコートせにゃいかんのですか! この大事な時期に、二人を惑わせるなんて、何企んでるんですか!」

「あのな! ケセドニアは今瘴気まみれなんだぞ! 瘴気蝕害(インテルナルオーガン)罹患(かか)ってるなら、行かないほうがいいに決まってる!」

「へーきです! 薬ちゃんと飲んでるから最近は体調いいし! それに」

 

 どうせパッセージリングを解放する際、嫌というほど瘴気を取り込むのだ。

 だから、ケセドニアの大気に含まれる瘴気を多少肺に入れたところで大差はない。

 それを言いかけて、口を閉ざす。

 

「それに?」

「個人的にアスターさんにお尋ねしたいことがあります。それに今、両陛下と顔なんて合わせたらどれだけ混乱されるか、わかったものではありません。平和条約締結という重要な事柄を前に、二人の心を乱すのは危険です。よもや締結破棄は起こらないでしょうが、変な影響が出てもつまらないでしょう」

「ああ、その点に関しては、私もスィンと同意見です」

 

 ここで、これまで傍観に徹し、面白そうに二人のやりとりを見ていた人が口を挟んだ。

 

「旦那……」

「ガイに味方したいところですが、場合が場合です。スィンの方が正しいですよ。陛下に混乱してもらうのは、平和条約うんぬんをきっちり済ませてからにしてもらいましょう」

 

 正論を言われて、それ以上ゴリ押しができなくなったガイが黙り込む。

 そんなガイの気持ちを察したのか、ジェイドはスィンの頭に手を置いて、その顔を覗き込んだ。

 

「……ですが、ご自愛なさってくださいね? アスターさんのところへ行ったら、寄り道しないで宿で休むこと。いいですね」

 

 何で頭を触ってくるのかがわからないし、こいつの言うことにきくのは業腹だったが、ここで反発したところで話は終わらない。

 スィンは表向き、素直に頷いた。

 

「ガイラルディア様、お気持ち、ありがたく頂戴します」

「……くれぐれも、無理はするなよ」

 

 そう言って、彼は何とか納得してくれた。

 そのやりとりがダアト~ケセドニア間の航路で起こり、先ほどのルークの質問になる。

 

「さて。瘴気に弱い人もいることですし、さっさと済ませましょう」

 

 嫌味を小さじ一杯混ぜたジェイドの言葉通り、一同はアスターの屋敷へと赴いていた。

 階段を登ろうとして、反対側の階段に座り込み、だべっている男たちの会話が聞こえてくる。

 三人組の、いずれも筋骨隆々とした逞しい男たちだった。

 

「ったくよう。なんで鉱夫の俺たちがこんなことしなきゃなんねーんだよ! 女房だってそうだ。知らねぇ連中のために飯炊きなんか……」

 

 うち一人、赤ら顔の男がぐだぐだと不満を募らせている。

 鉱夫ということは、アクゼリュスの住民なのか。

 どくり、とスィンの心臓が大きく脈打った。

 

「まあまあ。アスターさんは行き場のない俺たちに仕事を斡旋してくれたんだぞ」

「嫌なら辞めて、出て行けばいいじゃないか」

 

 他の二人はといえば、ふてくされる一人をなだめるように、あるいは冗談めかして話し込んでいる。

 しかし不平を垂れる男は、開き直ったように声を荒げた。

 

「それができれば苦労はねーよ! そもそも、アクゼリュスさえなくなったりしなきゃ、こんなことにはならなかったはずじゃねーか!」

 

 前方を歩くルークが、ハッと息を呑む音が聞こえた。

 彼が発生させた超振動によって、アクゼリュスは崩落した。それは確かな事実であり、その心中は計り知れない。

 それでも、否、だからこそ。スィンはルークの服の裾を引いた。

 

「ルーク」

 

 今にも彼らの元へ駆け寄り、謝罪したそうにしているルークに、告げる。

 

「アクゼリュスは落ちるべくして落ちた。誰が何をしていても、ルークが何もしなかったとしても、遅かれ早かれ崩落してた。それを忘れないで」

 

 慰めにもならないことはわかっていても、言わずにはいられない。

 その言葉に足を止めるルークを、先導していたガイが引っ張り、なんでもないような顔をして階段を登りきる。

 尚も後ろ髪引かれるルークだったが、次なるティアの一言で、完全に気持ちを切り替えていた。

 

「あの人たちを真に思うなら、今は平和条約のことを考えるべきだわ。そのためには、アスターさんにも会談に参加してもらわなければ」

「そっか……そう、だよな」

 

 出迎えた使用人に対し、イオンが丁寧に事の次第を伝える。

 通された執務室で、彼は散らばっていた書類と格闘していた。

 このケセドニアを維持する上で、きっと魔界(クリフォト)における様々な弊害に頭を悩ませていたに違いない。

 

「……なるほど。それで私めを。ありがたき幸せにございます。イヒヒヒ」

 

 とりあえず仕事を中断し、イオンの話に耳を傾けていたアスターは、例の特徴的な笑声を洩らした。

 

「先に降下を体験した者としての注意事項や、瘴気の弊害などご説明できると思います」

「確かに、降下の準備を進めるためには参考になるわね」

 

 先ほどまで整理に追われていた書類を手に取るアスターに、その点はあまり考慮していなかったらしいティアが頷く。

 これはケセドニアのためだけでなく、マルクト、キムラスカにとって有益な情報と言えよう。

 

「そういえば、瘴気の影響はどうですか? 他にも何か具合の悪いことは?」

 

 ルークの問いに、彼は沈痛な表情で違う書類を手に取った。

 

「年寄りや子供が、瘴気にあてられて寝込んでいます。症状の重い者はユリアシティの方が連れて行ってはくれますが、さすがに全員は……あとは戦争の最中でしたから、備蓄した食糧が減っていまして、その点が気がかりです」

「陛下たちに陳情してみたらどうだろう」

「そうですね」

 

 その口調から、あまり余裕がないことがうかがえる。

 ガイの提案に、この中で唯一両国首脳と直接意見を交わすことができるイオンが賛同した。

 話が整ったところで、ナタリアが誰ともなく尋ねた。

 

「ところで、出発はいつにします?」

「まだしばらくノエルは戻ってこないよねぇ」

 

 アニスの言うとおり、いくらアルビオールが通常の状態に戻ったからといって、そうそうすぐには戻ってこないだろう。

 最高出力のアルビオールなら不可能ではないが、少ないお供を連れて慣れない乗り物に乗る二人の陛下のことを考えれば、そんな無茶はできない。

 

「宿で休憩を取りましょう。そうすれば、アスター殿も準備の時間が取れます」

 

 今思いついたようなジェイドの提案に、彼は素早く反応していた。

 

「では、宿の代金はこちらで支払いいたします。ごゆっくりどうぞ」

 

 これを単なる好意と受け取るか、はたまた打算的なことを考えてのことか。

 それは受け取る側の考え方によって異なるだろう。

 

「ありがとう。助かります」

 

 ルークが代表で礼を述べ、自然一同は退出を促される。

 しかしスィンは、会談出席の交渉が終わったと見越してアスターの前へと歩み寄った。

 

「ご無沙汰してます。お忙しいところ大変心苦しいのですが、よろしいでしょうか」

 

 こうまで言われて、ダメだと言い張る人間も珍しい。彼は快く応じてくれた。

 

「アクゼリュスから、転送した人たちのことなのですが」

「ああ。彼らなら、落ち着いた後に各地故郷へと帰っていきましたが……」

 

 それが何か? と言いたげなアスターに、一息おいてから告げる。

 

「アクゼリュス出身の方々は?」

「一部の方々は親類に頼って各地へ出てゆきましたが、大半は現在ケセドニアに留まって私どもの指示のもと、避難民の面倒を見てもらっております。戦争は人々の心を荒廃させ、心の荒廃は要らぬ争いを呼びます。そのため鉱夫の方には治安維持の警備を、そうでない方々には種々の雑務を行ってもらっておりますが」

 

 やはり先ほどの三人組はアクゼリュスの人間たちだったか。

 

「なるほど……わかりました。すみません、両国の戦争に巻き込まれたことだけで大変なのに、こんなことまで押し付けてしまって」

「とんでもない! むしろ働き手を増やしていただき、こちらとしてはとても助かっております。今は両軍部も引き払っておりますし……彼らとて、無駄に命を落としたくはなかったでしょう」

「……すぐに弊害が出てきます。人が感謝を覚えるのは、悲しいことにほんの一瞬でしかありません。現在も、なぜ自分たちがこのような仕事をしなければならないのか。そういった不満はすでに発生していることでしょう」

 

 アスター邸前での会話を思い出しつつ、探りを入れてみる。

 案の定、彼はわずかに眉を歪めてスィンを見た。

 

「……そうですか。そういった不満が、あなたの耳に届いたのですね」

 

 この反応を見るに、彼もまた多少の声を聞いているのだろう。

 

「不平不満が噴出するだけなら、まだいい方なんです。彼らはこの先の恐怖を知らない」

「恐怖……このケセドニアが、瘴気に冒され滅びる可能性、ですか」

 

 今の彼が考える可能性としては、それしかない。

 しかしスィンは、首を振って否定した。

 

「それは今、あなたを含むケセドニアの住民がすでに感じ取っているはずです。私の言う恐怖は、彼らが生きている限りずっとつきまとっていた、そしてこれからもつきまとうであろう姿なき支配者を指します」

 

 その正体が何を指すのか、アスター並びに一行が気付いたかどうかは定かでない。

 しかし、重要なのはもちろんそんなことではなかった。

 

「あなたのおっしゃるとおり、人の心はもろい。恐怖はたやすく伝染します。恐怖が絶望と化し、誰もが嘆かなければならない事態だけは回避するべく、尽力を尽くします。だから──」

 

 言葉が、途切れる。

 スィンは自分の目の下をちょん、とつついて見せた。

 

「心安らかな眠りが、あなたを一瞬でも包み込んでくれることを切に願います」

 

 ここで初めて、アスターはにこやかな来客用の笑みを崩している。

 彼が反射的に覆った眼の下にうっすらとクマが宿っていたことを、スィンは確かに確認していた。

 それ以上何を言うでもなく、ただ辞儀をしてきびすを返す。そのスィンに同調して、一同はアスター邸を辞した。

 空は、相変わらずどんよりと煙たい。

 

「……アスターのあんな顔、初めて見ました」

 

 階段を下りる最中、イオンは独白じみた呟きをもらした。

 

「怒ったと思いますか? ケセドニアが大変なことになっているのに、自分の健康を省みろと言われて」

「いえ、そんなことはないと思います。ただ、僕は──」

 

 イオンの言葉が最後まで綴られることなく、途切れる。

 見れば、階段の終点を三人組の男たちが占拠しているのが見て取れた。

 間違えて男たちがたむろっていた側の階段を下りてきてしまったわけではない。

 男たちが意図的に、一行の行き先へ立ちはだかっていた。

 

「何なの、あの人たち……」

 

 警戒もあらわに、アニスが肩のトクナガに手を伸ばす。

 六神将の差し金か、大詠師の手先か。

 戸惑う一行の前に出て、スィンは変わらぬ歩みで三人の前へ歩み出た。

 

「……何か御用ですか?」

 

 表向きは友好的に、しかし柄にはしっかりと手を添えて、彼らに話しかける。

 うち一人はスィンを胡散臭そうな目でジロジロ眺め、一人はスィンと後ろの一行を交互に見つめ、一人はスィンの目を直接見据えていた。

 そらすことなく見つめ返した数瞬後、スィンの目を見据えていた一人が「……やっぱり」という呟きを洩らす。

 

「あんた、あの時おかしな譜術を使った人か!? 導師イオンの護衛で、キムラスカからの親善大使のお供っていう……!」

「いかにも」

 

 何か異なっている部分があるような気がしないでもなかったが、大した誤解でもない。

 スィンは即座にそれを認めていた。

 

「本当かよ、こんな変な目の、ションベンくせぇガキみてぇなのが……」

「信じろとは言いません。疑うならご自由にどうぞ」

 

 先ほど不満たらたらで、胡散臭げに見ていた男がやはり胡散臭そうな口をきく。

 仲間がそれを制止するより早く、スィンは苛立ちを隠さず言い放った。

 予想できなかったわけではないが──酒臭い。

 赤ら顔はもともとではないらしく、目つきも胡乱気である。よほど嫌なことでもあって、深酒しているのか。

 もちろん、男は腹を立てて詰め寄ってくる。

 

「テメーのせいでなあ、俺たちは鉱夫を無理やり辞めさせられて、アスターのヤローにこき使われることになったんだ。挙句こんなわけのわからねえ地下世界に放り込みやがって、どうしてくれるんだよ!」

「大変ですねお可哀想に。ご不満ならどうぞご出奔なさってください。今を生きていらっしゃるならどちらへでもいけますよ」

「はっ! 生かしてやったんだ、ありがたく思えってか!? 冗談じゃねえ、俺こそ瘴気は平気だがなあ、俺の女房子供は家でも外でもけほけほやってやがる。あのままじゃあすぐにでも、ユリアシティだかなんだか知らねぇところに連れて行かれるだろうよ!」

「お、おい。落ち着けって──」

 

 もはや単なるこじつけにしか過ぎない男の抗議を男の仲間が止めようとして、それをスィンは手振りで制止した。

 

「……お好きなように、どうぞ。罵って済むことならばいくらでも。憎むでも恨むでも、気の済むように」

「ふざけんなよ! そんなもんで済むとでも……」

「街中の殺生は犯罪ですよ。奥さんもお子さんもいらっしゃるなら、あなたに関連する方々が大事なら、軽はずみな言動は慎むべきです」

「このメスガキが! 知った風な口を……!」

「私を殴っても刺しても、殺しても。あなたやご家族を取り巻く環境は変わらない。個人の命で購えるものではありません。私が死んだところで、あなたのご家族は喜んでくださいますか? 多分あなたの溜飲が下がるだけ」

 

 その言葉に、赤ら顔の男はぐっ、と黙り込んだ。

 そろそろ彼は、自分がしているのは八つ当たりに過ぎないことに気付いているだろうか。

 

「私がしたことの責任は取ります。この大地を覆う瘴気を取り払うこと、アクゼリュス同様崩落の危険にある大地を、このケセドニアと同じくあるべき場所へ正すこと。私を殺してやりたいくらいなら、その怒りは今を生きるために使って。それらすべて叶ってからにしてください。もちろん私も殺されてあげることはできないので、相応の対応をとらせていただきますね。鉱夫でしたっけ。なら光も差さぬ穴倉で息絶えるが本望でしょうか」

 

 一瞬の惑いもなく、スィンは赤ら顔の男にそう、言い捨てた。

 当初こそ、彼に同情していたと言ってもいい。こんな風にわめかねば、日中から酒を飲まねば彼の心は壊れてしまうのかと、追い詰められた男へ詫び言のひとつも言いたくなった。

 しかし。言い分がただの侮辱に摩り替わった時点で、慰めも謝罪の意も、すっかり消えている。

 人によって感じ方は様々だろうが、命を救って罵られるいわれはない。最後まで責任を見なかったとしても、それから生きていけるだけの道をアスターに頼ることで導いたつもりだ。

 

 他に、何をすべきだと言うのか。どうすればよかったというのか。

 

 ドクドクッ、と心臓がいつにも増して激しく蠢く。男の言葉を受けて動揺しているからだけではない。

 ──今この瞬間にも、瘴気を取り込んでいること。

 どういった因果関係なのかまではわからないが、瘴気を取り込むことで軽い興奮状態に陥ることを、スィンは随分前から知っていた。

 男の言葉に動揺でなく怒りを覚え、必要以上に頭に血が上っていく。

 通常とは程遠い精神状態であることを自覚しながら、言葉だけが静かで鬼気迫る。そんなスィンの言葉にたじろぐ男を睨みつけた。

 

「とりあえず、身の危険を感じたということで「はい、そこまで」

 

 血桜の柄を握り締めたところを見計らったかのように、スィンの眼前が蒼一色に染まる。

 いつの間にやら、男とスィンの間にジェイドが割り込んできたのである。

 スィンに対し、完全に背を向けているためにその表情は伺えない。きっと声の調子と同じく朗らかな笑顔なのだろう。

 男は瞬く間に当惑した。

 

「なんだてめぇは。その女の情夫(イロ)か」

「だったらよかったのですがねえ。違います」

 

 おそらく男は眼前のいけ好かない優男を挑発しようとそんなことを言い出したのだろうが、ジェイドはまったく意に介していない。

 きっと暖簾に思い切り体当たりしたような感覚を覚えているだろう男に、ジェイドは続けた。

 

「このまま彼女に任せておくといつまでたっても動けないので仲介させていただきますが……要は彼女に救われたことが気に食わなくて、ご自分が生きていらっしゃることに不満を持っているんですね」

 

 ジェイドの声の調子は、まったくと言えるほど変化がない。

 しかし男の声が脅えているのは何故だろう。

 

「そ、そう言ってるわけじゃ」

「言いましたよねえ? 彼女があなたを生かしたせいで、あなたはアスター殿に慣れない仕事を強制され、挙句こんな、絶望的なケセドニアと心中するはめに。いやはや、まったくその通り。彼女があなたを生かしたせいだ」

 

 ジェイドの声の調子は、まったくと言えるほど変化がない。

 しかし男が黙っているのは何故だろう。

 

「しかも話を聞く限り? あなたのご家族までその被害に遭われているという。このままでは延命のためとはいえユリアシティへ──そうですね。彼女があなた方を放置すれば、そのまま永別できたでしょうに」

 

 ジェイドの声の調子は、まったくと言えるほど変化がない。

 しかし場の空気が張り詰めつつあるのは何故だろう。

 

「救われたことを感謝できないのなら、今生きていることがそれほど絶望であるのなら。過ちを犯した彼女に代わって、私が霊柩を開いて差し上げましょう」

 

 ジェイドの声の調子は、まったくと言えるほど変化がない。

 しかしその腕が輝き、槍が取り出されたのは何故だろう──と思ったと同時に、スィンはジェイドの利き腕をがっしりと掴んでいた。

 抗議の声を上げるそれよりも早く、ジェイドが振り返る。

 その眼を見て、スィンは出しかけた言葉を引っ込めた。

 

「落ち着いてくださったようですね。あなたは同じことをしようとしていたんですよ?」

 

 無表情だったその顔が、ふと柔らかく笑みを浮かべる。

 輝きと共に、槍は仕舞われた。

 すみません、と言いかけ。その口が素早く塞がれる。

 他ならぬ、ジェイドの手で。

 

「ですが、まあ気持ちはわからないでもありません。どんな形であれ、人助けで文句を言われるとは予想もつかないでしょうし」

 

 だから、謝罪するべきではないでしょうね。

 そう言って、彼はスィンの口から手をどかせると、再び男に眼をやった。

 死霊使い(ネクロマンサー)の精神攻撃──殺気をもろに受け、屈強な鉱夫であった男はまともに歯を打ち鳴らし、ガタガタ震えている。

 赤ら顔の男に何かを言う意思はなし、と判断したジェイドは、その紅い瞳で仲間の二人を映し出した。

 

「あなたがたも、理不尽な苦情を言いにこられたのですか?」

 

 顔は、笑っている。しかし瞳は、一切の緩みがない。

 この死霊使い(ネクロマンサー)がそんな顔になってるんじゃないかと考えつつ、スィンはジェイドを真横に押し退けた。

 

「おや?」

「僕の凶行を止めてくださったことには御礼を申し上げます。でも一般人を脅さないように」

 

 邪魔なジェイドをどかして、階段を下りきる。

 赤ら顔の男が引いてくれたおかげで、スィンはやっと彼らと同じ地面に立つことができた。

 

「あ……」

「自分を取り巻く環境が激変すれば、愚痴のひとつも言いたくなるのはわかります。まして、あなたがたは助けてくれと頼んだわけでもないのですから」

 

 つっかかるでもなく、赤ら顔に便乗するでもなく、不平をのたまう男を止めようとしてくれた二人に向かい合い、丁寧に語る。

 本当は赤ら顔にも言うべきなのだろうが、そこにいるからいいだろう。

 

「取り返しのつかないアクゼリュスの二の舞だけは起こさないよう──」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。違うんだ、俺たちは文句を言いに来たわけじゃ」

 

 語ろうとしていた内容が、鼓膜を通じて理解したその言葉で完璧に消失した。

 脳裏で語るべきとしていた言葉が、一瞬のうちに変換される。

 

「では何用で」

「あの時、助けてもらった礼を──」

「あなたたちを助けたのはこっちの都合でもあるんです。感謝する必要もないし、それを示す必要もないですよ」

 

 きっと予想外の言葉だったのだろう。

 赤ら顔も含めて、彼らはポカンとスィンの顔を見ていた。

 

「一歩間違えば、何もかもが失われていたのですから。今ある命をどうかお大事に。不幸にも感謝を抱いてしまったあなた方に、悔やむ日がどうか訪れませんようお祈り申し上げます」

 

 最早話すことはないとばかり、スィンは歩みを再開した。

 二人の間をすり抜け、すっかり酔いが冷めているらしい赤ら顔の男の脇を過ぎ、アスター邸の門扉をくぐる。

 一同がついてきていることを確認するように、彼女はくるりと振り返った。

 

「ところで、ケセドニア(ここ)にはふたつ、宿がありますけど。どっちに行きますか?」

「どちらでもかまわないと思います。ですが、どうして彼らにあのようなことを……?」

 

 先ほどのことなどまるでなかったことのように振舞うスィンに、イオンが持ち前の素直さで直球に尋ねる。

 

「言ったじゃないですか。別に彼らに助かってほしくてやったことじゃない。僕の都合でしたことに、お礼なんて言われる筋合いはありませんよ」

「なら、感謝したことを悔やむ日がくるというのは」

「イオン様なら、もう気づいているんじゃないですか?」

 

 さらりと言い放たれた言葉は、年若い導師を動揺させるのに十分な一言だった。

 

「それに、皆勘違いしてますよ。必ず成功するとわかってて、あんな無茶をしたわけじゃありません」

 

 しかし、導師が黙り込んだことを一行が知るよりも早く、スィンは言葉を連ねている。

 そのため、彼がどのような意味をもって沈黙したのか、気にしている者はいない。

 

「どういうことだ?」

「どうやって彼らを避難させたかは前に話した通りだけど、場合によっては失敗して本当に全滅する可能性があった。そのことを考えると、とてもじゃないけど感謝なんて、される資格ないよ。信じないだろうから話さなかった、っていうのは理由にならない」

 

 ルークの問いに答えたスィンが、口元を抑えて軽く咳をする。

 いつぞやのような濁ったものかは、ルークの耳では判然としていない。だが。

 

「──長らく外に出すぎたようですね。さ、行きましょうか」

 

 これまで黙して話を聞いていたジェイドが、突如スィンの肩を掴んでグイグイと押し始めた。

 

「あの、屋内だろうと屋外だろうと瘴気の濃度は変わらないと思いますよ。あと僕、ちょっと買い物行きたいんですけど」

「ガイが代わりに行ってくれるそうです。あなたはとっとと休みなさい」

「俺かよ!」

「勝手にガイ様に押し付けないでください、大佐!」

 

 寂れた大通りで、賑やかな舌戦が繰り広げられる。

 その光景を少し離れた場所で見ながら、アニスは呆れたように頭の後ろで手を組んだ。

 

「……大佐、すっかり過保護になっちゃってるね」

「だなぁ。あれはちょっと引くっつーか……」

「……兄さんに心酔していた頃のあなたよりは、マシだと思うわ」

 

 苦笑いするルークを、さりげない突っ込みでティアが絶句させる。

 一方で、ナタリアはそれに賛同することなく首を振った。

 

「わたくしは大佐と同意見ですわ。スィンは今ひとつ、自分を省みるという発想に欠けていますもの」

「僕もそう思います。それにグランコクマでのことがありますから、ジェイドにしてみれば償っているという意味合いもこもっているのではないかと」

 

 大声を上げたせいなのか、スィンがまたもや咳き込む。

 その姿を見て、ふとルークの脳裏に疑問が生じた。

 張本人に聞きたいところだが、それ以外のこともある。

 まるで木箱を動かすかのようにスィンを移動させようとするジェイドたちに続く一同の中、ルークはさりげなくティアの隣に移動した。

 

「あのさ、ティア──あとで俺の部屋に来てくれないか? 話があるんだ」

「え? ええ、わかったわ」

 

 

 

 

 

 



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第百十三唱——条約締結前夜:現れ始めた兆し

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一人一部屋という贅沢な個室をあてがわれ、スィンは早々に休んでいた。

 皆の──というか、妙に過保護なジェイドの手前、普段通りに振舞っていたつもりだが、そろそろ限界に達しつつある。

 どのくらい限界かと言えば、「眠いから」という理由で夕食をパスしたくらいか。実際には激しい嘔吐感に苛まれて、とても食事などできる状態ではなくなっている。

 体を投げ出した寝台の上で深呼吸を繰り返し、どうにか鎮めようとするも効き目はない。

 何かがおかしいと、スィンはいぶかしがっていた。

 発作の一部かと思って薬を飲んだのに、まったく効いていない。否、一応発作そのものは収まったが、このどうしようもない嘔吐感と減っているはずなのに張った腹と、サラシが痛くてたまらない胸は何なのか。

 サラシは外して、腹は無視できても、この嘔吐感だけはどうにもできない。ただ胸のむかつきが収まるまで、胃の内容物を吐き続けるしかなかった。

 今しがた洗面所に駆け込んだばかりだと思っていたのに、まだ喉の辺りで何かが蠢いている。

 全身ににじみ出る脂汗が冷え始め、寒い。シーツに包まろうと腕を伸ばしたところで、限界が訪れた。

 

「うっ……!」

 

 こんなこともあろうかと、ユニットバスから拝借した洗面器に伏せる。

 苦い液体が喉の奥からごぼりと音を立てた。口の中が酸っぱい。鼻の奥が鉄錆びくさい。

 おそらく内容物が打ち止めになったため、胃液が出てきたのだろう。鉄錆びの臭いは、弱った胃壁が悲鳴を上げているためか。

 異臭のする洗面器をどうにかすべく、体を起こし、立ち上がった。途端にまとわりつく立ちくらみを振り払い、洗面所へと向かう。

 どうにかすべきことを終えて寝台で脱力したその時。

 ふと、廊下を歩く足音が気になった。

 何となく耳を澄ませる。足音はスィンの部屋の前を通り過ぎてから、向かって右側の辺りで止まった。

 コツコツ、という控えめなノック、それから扉の開く音がして、パタリと閉ざしたような音が続く。

 

 ……隣は確か、ルークだったと思うのだが……

 

 好奇心が体調不良に勝ち、スィンは体を起こしてコップを手に取った。

 壁に張り付いて、押し付けたコップに耳を押し当てる。

 

『どうしたの? 深刻な顔で話があるなんて……』

 

 ──ルークの部屋を訪ねたのは、誰あろうティアだった。

 お約束のように下世話な想像が脳裏をちらつくものの、迎えるルークの声は真剣そのものである。

 

『ああ……。瘴気のことなんだ』

 

 コト、と何かを置くような音が聞こえた。入室したティアに椅子を薦めたのだろうか。

 

『瘴気に害があるって事はわかってるけど、具体的なことは知らないから、すげぇ気になってて』

 

 キシ、と何かがきしむ音が聞こえた。ルークが寝台に腰掛けたのか。

 

『……まさか今日明日にもみんなが死んじまうなんてことには……』

『以前話したことがあると思うけど、長時間大量に吸わなければさして害はないわ。それでもずっとこのままなら、次世代には人口が八割は減っていると思う』

 

 答えを聞いて、ルークが鋭く息を呑んだのがはっきりと伝わってきた。

 

『……くそ! 外殻を降下させても、これじゃあ意味がない』

『だから平和条約の中に瘴気の共同研究が含まれているんじゃない』

 

 一人焦るルークを、ティアが静かになだめる。

 しかし、彼は搾り出すような声で独白した。

 

『……わかってる。だけど、俺……俺の超振動は瘴気を分解することもできないなんて……なんか腹が立つんだよ。全部……俺が招いたことなのに……』

 

 しばしの沈黙。

 なんと答えるべきかティアが迷っているのか、それとも何か、動きがあったのか。

 ただ隣室からの会話を盗み聞きしているだけのスィンに、それ以上のことはわからない。

 

『しっかりして。できることから始めるって、あなたは言ったでしょう? 一人の人間にできることって、きっと些細なことだわ。でも人は、お互いに協力しあえる』

 

 ティアの声は優しかった。

 幼子を諭すように、傲慢を持ちながら気付いてしまった心の傷を、柔らかく癒すように。

 どちらにしても、普段自分の感情を意図的に隠そうとするきらいのあるティアには珍しい。

 もちろんその声音に込められた力は、ルークを少なからず癒していた。

 真意が伝わったかどうかは、不明だが。

 

『私……私たちがいるわ』

『……うん。ごめんな。へたれなこと言って』

 

 一瞬の間。きっとティアは、首を振ったのだろう。

 

『ううん。……じゃあ、私行くわね。お休みなさい』

『お休み。……ありがとう』

 

 パタン、と扉が閉まる音がした。

 知らず息を殺していたスィンは、ふぅっと大きく息を吐いて耳に装備していたコップを転がす。

 二人の話で、身も心も落ち着いたのだろうか、嘔吐感は綺麗さっぱり失せている。

 しかし、空いてるはずの腹はいまだ張ったままだ。胸の変調も、収まったわけではない。

 ──などと考えてみても、心底苦しむルークの声は耳元から消えてはくれなかった。

 

 人は生まれ落ちて生き続けることそのものが罪である。命を食らって生きる生き物が、同族であれなんであれ命を奪ったことを落ち込むのは偽善でしかない。

 そう教え込まれているスィンに彼の苦しみを理解することは、本当の意味では不可能だろう。

 自分のしたことで後悔を、痛みを覚えるということならそれこそ痛いほど理解できるが。

 護れなかったもの、奪い取ったもの。そして失われたもの。

 沢山のものがこの手からすり抜け、奈落の底へと落ちていった。

 落ちたものがどうなったのか。確かめたことはない。

 深淵を見つめる時、深淵もまたこちらを見つめている。引きずり込まれるわけにはいかない。

 少なくともスィンには、奪うことはやめられない。だから、護るのだ。

 全てを護りそして選ぶのは英雄に、賢王にふさわしく、彼らのみ選ぶことが許された選択肢なのだから。

 英雄ではない者は、届くところに手を伸ばす。どうあがいても届かないところなど、知ったことではない。

 気にかければ、その時──己を滅ぼすことになる。

 体調不良から気をそらすために、つらつらと、考えても仕方がないことをこねくり回す思考が、ふと停止した。

 ふと鼻をくすぐった、かぐわしいはずの匂い。

 しかし、どういうわけかそれは──

 

「っ……ぐ!」

 

 そのまま垂れ流したい欲求を、どうにか人間としての尊厳が押し留める。

 歩くこともままならない体が、匍匐全身でようやく目的の場所へと到達した。

 

「げほっ、うぇっ」

 

 胃は蠕動して、内容物を吐き出したがる。

 しかし、幾度もの嘔吐で出すものを出し尽くしていたスィンは、なけなしの胃液を出しただけですぐに倒れこんでいた。

 先ほどのようなことになってはたまらないと、反射的に嗅覚を遮断する。

 鼻を摘んで寝台に突っ伏したスィンの耳に、コンコンッ、というノックが響いた。

 こちとら「眠いから」という理由で夕食を辞退した身だ。普通に寝ていてもこの程度の音なら眼を醒ますだろうが、現状が現状なだけに誰かと会う気がしない。

 そうこうしているうちに、足音がして会話が始まった。

 

『あれ、大佐にナタリア? どうしたの』

『スィンが結局夕食を摂っていないようなので、夜食をと──』

『大佐とわたくしで作りましたのよ』

『……これ、リゾット? なんでまた』

『調べたところ、瘴気触害(インテルナルオーガン)は風邪に似た症状らしいんですね。やがて臓器を弱らせ、衰弱死するという──まあ、夜ということもありますし。胃に入りやすく消化によいとなると、こういうものしかないんですよ』

 

 ……ジェイドとナタリアがいたところを、アニスが通りかかったというところか。

 

『でも、スィン寝てるんじゃないですか?』

『そのときは仕方がありません。この出来立てあっつあつを漏斗で流し込みます。食道管火傷で爽やかに目覚めてくれますよ』

 

 何気に恐ろしいことをさらりと言い放つジェイド・カーティス大佐三十五歳。

 死霊使い(ネクロマンサー)の名は伊達ではない。

 

『その前にどうやって入りましょうか?』

『連れが部屋から出てこない、とでも何とでも言えば、合鍵の類は……』

 

 押し込みをかけられてはたまらないと、スィンは気だるい体をどうにか起こした。

 窓は開けているが、人間が幾度か嘔吐を繰り返したのだ。異臭がしないわけがない。

 と、いうわけで。

 スィンは荷袋から取り出した香水瓶を、勢いよく床に叩きつけた。瓶はもろくも砕け散り、甲高い音と共に柑橘系の香りが臭いほど周囲に充満する。

 室外にも聞こえたらしく、外の会話は面白いほどぴたり、と停止した。

 少しして、少々乱暴なノックが続く。

 

「スィン!? どうしましたの、スィン!?」

「……ナタリア?」

 

 いけしゃあしゃあと尋ねつつ、ほんの少し扉を開けた。

 

「何やら妙な音が響きましたが……」

「香水瓶を割ってしまって」

 

 扉を完全に開放して、中の惨状を確認させる。

 

「で、何か用ですか?」

「そうですわ。スィン、夕飯はまだでしょう? わたくしと大佐で作りました」

 

 召し上がれ、と暖かな湯気を上げる皿を差し出され、受け取る。

 鼻で息をしないよう務め、とりあえず受け取った。

 

「……大佐、毒物混入はしてませんよね」

「安心なさい。妙なものが入っているなら、ナタリアが見咎めているはずですから」

 

 しかし、この若年寄なら箱入り王女の目を盗んでなんやかやと入れていそうな気がする。

 

「皿は洗って荷袋に戻しておいてくださいね」

「ありがとうございます」

 

 喋りながら鼻を使わない呼吸に苦しくなったため、スィンは早々に部屋へと引っ込んだ。正直二重の意味で食べたくなかったが、何も食べないのはかえって体に悪い。

 とりあえずは後片付けをするべく、柑橘類の芳香漂う瓶に手を伸ばす。

 通常は臭い、とまで思う匂い。それがなぜ咳き込むでもなく平気なのか。

 このときスィンは嗅覚がマヒした、程度にしか考えていなかった。

 それよりも、なによりも。

 

「明日、かぁ……」

 

 きっと荒れるであろう平和条約締結を憂い、スィンはひとつ、長いため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 睡眠をとったからなのか、そもそも夢だったのか。

 スィンの体調はけろりと回復していた。

 ただし、夢ではない証拠として香水の瓶は割れており、洗浄済みの皿は立てかけて乾かしてある。

 

「……?」

 

 昨夜はあれほど苦しめられた嘔吐感もなければ、めまいも立ちくらみもなく、ただ少々腹が張っているような気がする程度か。

 自分のことながら首を傾げつつもロビーへ赴けば、すでに全員が集合している。

 

「珍しいですね、スィンがこんなに遅いなんて」

 

 イオンの言葉を笑ってごまかしていると、不意に外へと通じる扉が開いた。

 赤い飛行服を纏った少女は、ロビーにたむろする一同を見つけてぺこりと頭を下げている。

 誰かが小さく「あ」と呟いた。

 

「おはようございます」

「ノエル!」

 

 昨日、一人両国首脳たちをエスコートすべく出発した年若いアルビオールのパイロットは、微笑を伴ってハキハキと報告している。

 

「お帰り! 伯父上たちは?」

「無事、ユリアシティにお送りしました。少し早くこちらに着きましたので、一足先にアスター殿もお連れしておきました」

 

 仕事の速さもさることながら、その内容にナタリアが「まあ!」と声を上げた。

 

「それではあなた、全然休んでいないのでは?」

 

 しかし、ノエルはフルフルッと首を振ってこともなげに言ってのける。

 

「いえ、大丈夫です。ご心配なく。ちゃんと隙を見て休んでいますから」

「ご苦労様です」

 

 イオンの──ローレライ教団最高指導者の労いを受けて、彼女は小さく会釈した。

 

「恐縮です。では、私はアルビオールで待機していますので!」

 

 軽快に去っていくその後姿を見送るまでもなく、ジェイドはくるり、と一同を見回した。

 

「さて、私たちもユリアシティに向かいましょうか」

「……ああ、いよいよだな」

 

 頷いたガイの呟きは、どこか尋常でない雰囲気が見え隠れしている。

 スィンから見れば、何かやらかす気満々だが、あえてそれを問いただすつもりはなかった。

 想像がつくということもあるが、こればかりは、スィンが何を言ったところでどうにもならないだろう。

 

 ──今までは、自分の身を盾にしてでも護ればいい、護るだけでいいと思っていた。でも主は、自分が体を張った分だけ気分を害する。無茶をするなと怒りを見せる。

 それなら、気取られないよう気張ればいい。不可能ではないはずだ。

 これから先、いつまで主の傍にいることができるのか、わからない。自分がいなくなったそのとき、主はどうなるのか。

 ならば自立を促せばいい。自分がいなくなったとき、主を護るのは主自身であればいい。

 それらの点を踏まえて、スィンがこれからするべきことがある。

 まずは、これから彼がしようとすることをあえて止めないこと。

 少なくともスィンは、思うこと多々あって様々なことをガイに隠してきた。

 情報の一欠片は、彼にどのような自立を促すのだろう。

 今は、ただ。刻が流れてゆくのを待つ。

 

 

 

 

 

 



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第百十四唱——条約締結の、裏舞台:予期せぬ闖入者

 

 

 

 

 

 

 

 

「──これより、始まるそうです」

「ありがとう」

 

 戻ってきたノエルに礼を言って、ユリアシティへと足を踏み入れる。

 インゴベルト王はまだともかくとして、ピオニー陛下と顔を合わせてしまっては、ケセドニアに行った意味がない。

 そんなわけで、スィンはアルビオールの中での待機を強いられていた。

 しかし、いつまでもアルビオールに閉じこもっているわけにはいかないため、ノエルに偵察を頼んだのである。

 一同が、ピオニー陛下が会議室に入ってしまえばこちらのもの。条約が締結されるまでおそらく顔を合わせることはない。

 それよりも、気にかかっていることがあった。

 ダアトにて、大詠師は兵士を引き連れてアラミス湧水洞に向かったと、詠師トリトハイムは口走っている。

 ユリアシティへ続く道が目の前にあるのに、果たしてユリアシティの情勢を気にしないでおけるものなのか。

 いくらカエルみたいな顔をしていても、良性の癌を患っているかのような太鼓腹であっても、腐っても鯛、大詠師という地位の人間だ。頭がないわけではない。おそらくは定期的にユリアシティへ配下を寄越しているだろう。

 それなら、本日キムラスカ、マルクト、イオンが参加していることにより実質ダアトの、平和条約が行われることも耳に入っているはず。

 これで、あの預言(スコア)の遵守を何よりも願う大詠師が、指くわえて黙っているものか。

 もしかしたら、後先のことを考えて静観するかもしれない。しかし、何も仕掛けてこない可能性は限りなく低い。

 何もないにこしたことはないが、とにかくユリアロードは見張っておいたほうがいいだろうと、進む矢先。

 悲鳴が、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 エントランス──現在進行形で平和条約締結が行われているであろう会議室。

 気にかけていたユリアロード、更に譜石が安置されている間へと通じる大ホールは、蜂の巣をつついたような大混乱に陥っていた。

 すでに、スィンの立つ下層にも血臭が届いている。

 ユリアロードへと通じる部屋からは神託の盾(オラクル)騎士団特有の鎧を纏う者が次々と現れ、混乱するユリアシティの住人たちに剣を突きつけていた。

 

「どけ! 我らが背負うは崇高なる使命、邪魔立てするな!」

「命が惜しくば、そこをど──」

「天界より降り注ぐは裁きの雷、咎人を等しく薙ぎ払えっ!」

 

 ♪ Va Nu Va Rey Va Nu Va Ze Rey──

 

 虚空より生み出される閃光が、スィンによる簡易識別で標的とされた兵士たちのみを直撃する。

 悲鳴を上げて吹き飛ばされる彼らの隙をついて、スィンは階段を駆け上がった。

 

「性懲りもなく現れやがって。うぜぇんだよ、このゴキブリども!」

 

 血桜を抜き放ち、本性丸出しで吼えるスィンに兵士らはおろか巻き込まれていたユリアシティの住人たちすら顔を引きつらせている。

 

「人をゴキブリ呼ばわりするな、夜叉姫! 数年前の恨み、ここで晴らさでおくべき──」

「ゴチャゴチャとやかましいわ! 秋沙雨!」

 

 シア・ブリュンヒルドの顔を知っているらしい男の口上を退け、接敵した。

 繰り出された剣技は、男を瞬く間に蜂の巣へと変える。

 

「ぎゃああっ!」

「副師団長!」

「おのれ、よくも……!」

 

 文字通り穴だらけにされた副師団長の仇を討つべく、兵士たちが殺到する。

 鎧の隙間に刃をこじ入れるようにして戦うスィンの足元は、たちまち屍の山と化した。

 

「いい加減にしろ! 条約締結の邪魔なんかさせない、諦めて退け!」

「誰が貴様の命令など聞くものか、裏切り者!」

「そうだそうだ! 我らの受けし日々の屈辱、その身を持って思い知れ!」

「ああそうかい、だったら死ね!」

 

 兜の顔面部位にある隙間に血桜を突きたて、まとわりつく命の雫を払いながらスィンは内心で臍を噛んだ。

 兜で顔はわからなかったが、この反抗具合。どうも襲撃チームは特務師団メンバーで組まれているようなのだ。

 今や師団長であるアッシュが不在なことから、大詠師直轄に帰属していることはバチカルでわかっていたことだが──

 ふと、視界の端で黒い影がいくつか、現れては消える。

 その瞬間刃を交えていたスィンは、数瞬後やっとそのことを知覚した。

 

「待てっ!」

 

 眼前の兵士を吹き飛ばし、黒い影を視線で追う。

 立ちはだかるスィンをすりぬけ、会議室へと続く扉に駆け寄った影は三つだった。

 いずれも特徴のない黒服をまとい、短剣を携えている。

 小柄な赤毛、上背のある短髪、細身の茶髪という彼らの目的は、扉に近寄った時点で問いただすまでもない。

 

「くっ」

 

 このまま押し入られてはまずいと、スィンは懐から取り出したものをなおも向かってくる兵士たちに投げつけた。煙幕が兵士らの足を鈍らせたことを確認し、扉に向かって腕を振りかぶる。

 投擲した棒手裏剣が飛来し、扉にかけられた茶髪の手に突き刺さった。

 無傷であった赤毛が迫りくるスィンを警戒して、短剣を引き抜く。

 それを無視して、スィンは扉に手を縫いつけられた茶髪の延髄に、刃を突き立てた。

 

「ミリアっ!」

「てめぇ、よくも!」

 

 赤毛の──声からして少女が悲鳴を上げ、上背のある短髪が怒気を孕んで突っ込んでくる。

 突き出された短剣の間合いを計算し、どうあっても刺し違えない位置で刀を突き出せば、短髪はあっけなくその腹で刃を飲み込んだ。

 

「……さよなら。ミリア、ファル」

 

 血を吐いて痙攣する短髪の頚動脈を断ち、スィンはぽつりと呟いた。

 その呟きに、赤毛の少女は驚愕を隠しきれていない。

 

「あんた、覚えて……!」

 

 煙幕が薄れたのだろう。鎧を鳴らして特務師団の一員であっただろう兵士が殺到する。

 再びそれらの相手を始めたスィンを尻目に、赤毛の少女は全力で巨大な扉を開き始めた。

 

「……とうに復讐する気は失せていたんだがね」

 

 剣戟の中で、寂しげな主の声音が耳朶を柔らかく打つ。

 もう終わったのだろうか。

 

「思わぬところでヴァンの名が出たようですが、ここは一度解散しましょう。よろしいですな」

 

 ……これだけでは、何もわからないが。

 何かひと段落でもしなければ、一度解散などという言葉はでないだろう。

 ならば。

 

「獅子戦吼!」

 

 当初よりはだいぶ少なくなってきた兵士を吹き飛ばす傍ら。

 スィンは技の反動を利用して、背中から少女に体当たりをしかけた。

 

「うわっきゃあ!」

 

 勢いで赤毛の少女はつんのめり、同時に扉が開く。転がり込んできた二人を見て、一同は当然驚いたように浮き足立った。

 

「スィン……!? これは一体!」

「見ての通り……! 轟破炎武槍!」

 

 ジェイドの言葉を叫ぶように返したスィンが、虚空を薙ぐ。床と平行に突き出された緋色の刃、その突端から真紅の剣気を発生した。

 打ち出された衝撃は、これ幸いと侵入を企んだ兵士達を等しく巻き込み、扉の外へと叩き出した。

 唯一それから逃れて斬りかかってきた少女をいなし、くるりとスィンはガイを見る。

 

「ガイ様、条約の方は!?」

「たった今締結したが、何の騒ぎだこれは!?」

「詳細は、不明ですっ! 烈破掌!」

 

 合わせていた刃を弾き、そのまま少女の胸元に掌底を向け、会議室より外へはじき出した。

 少女を追うように、自らも会議室から飛び出す。

 

「これでわかっただろう」

 

 存分に人の命を食い荒らし、今なお命の雫を滴らせる血桜を油断なく構え、周囲を睥睨したスィンは、声高らかに叫んだ。

 残る兵士ら全員に届けと言わんばかりに。

 

「貴様らが働いた狼藉は、今この瞬間において無意味と化した! 尻尾巻いて帰って、首謀者に伝えるんだ!」

「っ……てめえの指図なんざ、もう受けるもんか! 裏切り者っ!」

 

 まだ幼い顔を憎悪に歪め、赤毛の少女が再び迫る。鍔迫り合いを繰り返し、少女は憎々しげにスィンを睨み据えた。

 

「イオン様の人が変わられて、大詠師の言いなりになり始めたのも! そのせいで教団の人間がまっぷたつに割れたのも! 首席総長の態度がおかしくなったのも、あんたがいなくなってからだっ! あんたが勝手に還俗して、いなくなったからだっ! あんたがずっと師団長だったら、こんなことにはならなかっ……!」

 

 言葉は続かず、悲鳴にかき消される。

 めまぐるしい剣戟の最中、短剣を握る少女の指を緋色の刃が切り裂いた。

 短剣が転がり落ち、切断こそされなかったが、けして浅くない傷が、硬質の床に丸い染みを作る。

 

「諦めろ」

 

 自らの手を押さえて呻く少女を前にして、スィンは少女を一瞥もしなかった。

 

「誰が何をしようとも、変えさせない」

 

 少女が再び顔を上げる。スィンは扉の前に立ち塞がって、兵士の動きを警戒していた。

 吹き飛ばされた兵士たちは、呻きつつも起き上がろうとしている。

 

「天空を踊りし雨の友よ。我が敵をその眼で見据え、紫電の槌を振り下ろさん──インディグネイト・ヴォルテックス!」

 

 視界を奪わんばかりの激しい閃光が、誰もの瞳に灼きつけられた。

 扉に近づいた兵士群が発生した雷に打たれ、ぶすぶすと不吉な煙を上げながら、その場に伏す。

 残った兵士を睨めつけ、スィンは一息ついてから再び吼えた。

 

「警告はした。さあ、死にたい奴からかかってきやがれ、まとめて涅槃にブチこんでやる!」

 

 鬼気迫るスィンの、どこか自暴自棄な咆哮にやっと臆したのか。

 生き残った数人の兵士たちがその場から後ずさり、脱兎の勢いでユリアロードへと駆けていく。

 そんな中。残された少女は一人、きしるような呟きを零した。

 

「なんでだよ……」

 

 スィンの眼が、やっと少女へと向かう。

 左右の色が異なるその瞳に映りこむ自分を確かに感じながら、少女は怒鳴りつけた。

 

「こっちはディスト響士から全部聞いてるんだぜ! あんたは故郷を前皇帝に滅ぼされ、死霊使い(ネクロマンサー)に母親を奪われ、今の皇帝に暗殺されかけたんだろ! それなのに、なんでマルクトなんかに与するんだよっ! 頭おかしいんじゃねーのか!」

 

 事実そのものでしかないその叫びに空気が凍る。

 そんな中、スィンはただ小さく呼気を吐いた。

 

「仮に狂っていたとしても、お前の知ったことじゃない」

「ハッ! そうやって逃げるのかよ、何も否定できないくせに! 腹の底では憎んでいても、へらへら笑って、おべっか使って、何もなかったことにするのか?  結局あんたも、その辺のオトナと同じかよ!」

 

 戦うことを放棄させられた少女が、嘲笑う。

 

「醜いねー」

 

 威勢良く罵声を叩きつけた少女は、次の一言にピタリ、と一切の動作を停止した。

 

「僕が憎いと叫ぶお前の顔は、とても見られたものじゃない。そんな情けない顔になりたくない。この憎しみは、此処で止めると決めた。それだけだ」

 

 視線の先には、脱兎の勢いで去ったはずの兵士たちがいた。

 どうも、放たれた雷の余波を受けて全力疾走はできないようだ。

 かかってくるにせよ、逃走を決め込むにせよ、生かすつもりがなかったスィンを、彼らは罵るであろうか。

 

「奏でられし音素よ。紡がれし元素よ。穢れた魂を浄化し、万象への帰属を赦さん──」

 

 救いを求めるかのように頼りなく突き出された手に、仄かな光が灯る。

 同時に、スィンを中心に展開した譜陣が大きく膨れ上がり、屍を、敗走する彼らをも包み込んだ。

 

「ディスラプトーム」

 

 光を宿した手を、譜陣へと押し付けた瞬間。譜陣は眩い輝きを放ち、誰もの視覚を奪い去った。

 ただ、一人を残して。

 奪われた視界が、光の消滅により取り戻される。

 繰り広げられた死闘をただ見ていたユリアシティの住人たちは、我が眼を疑った。

 兵士たちがいない。

 ユリアロードへ逃げるように駆け寄った彼らが、光から逃れてユリアロードの間へ逃げ込んだ、というわけではない。

 スィンによって叩っ切られ、床を汚した赤い雫も、床に伏していた特徴的な鎧も、剣も、死んだはずの人間も。

 すべて、消えていた。

 まるで、これまでの光景が、白昼夢であったかのように。

 

「あ……ああ、あ……」

 

 つぶらな瞳を大きく見開き、生き残った少女はただ、意味を成さない言葉を紡いだ。

 片膝をついていたスィンが、ゆっくりと立ち上がる。

 振り向いたスィンに、あるいはその瞳に、少女は「ひっ!」と悲鳴を上げて身を縮めた。

 最初の威勢はどこへやら、己を抱いてカタカタと歯を打ち鳴らす少女に、スィンは。

 血桜を手に、ゆらりと歩み寄った。

 

「いやあぁっ!」

 

 恐慌状態に陥った少女が、こともあろうに会議室へと逃げようとする。

 その無防備にして細いうなじを見つめて、スィンはただ一度、水平に血桜を振るった。

 少女の動きが止まる。

 結い上げられた赤毛の真下、むき出しになっていたうなじに、一条の線が刻まれた。生まれた線は、徐々にその色合いを濃くし、やがてくっきりとした緋色の線を描く。

 その線がずれ、切断面から怒涛の真紅が溢れるよりも早く、スィンはその細身の体を引き寄せ、後ろから抱きしめていた。

 どうしてそんなことをする必要があるのか、自覚することもなく、自身が傷つけたその手に自分の手を重ねる。

 

 こんなことをすれば、この子が痛みを覚えるだけなのに。

 ……そんなことを思うなら、助けてやれば? 

 ──可能。だけどこの子の状況を、今後を思えば、とてもできるものではない。

 

 襲撃してきたその姿は、会議室の面々に、ユリアシティの住民たちに視認されてしまっている。

 一時の情に流され、生かせば、この子は更なる苦しみにさらされる。

 だから、だから。

 苦しまずに逝ってほしい。

 

 ……何という傲慢。偽善者、エゴイスト──

 傲慢でもいい。偽善でも、エゴでもいい。

 苦しまないで、せめてどうか安らかに──

 

「……せ」

 

 ごぼりと血を吐きながら、少女は回らない舌で何かを呟いた。

 何を言ったのだろう。一時的にでも自分が師事した人間に裏切られたという認識において、殺されての悔やみか。あるいは、殺した人間を恨み呪う言葉か。

 ああ、いけない。彼女は死ねなくて苦しんでいる。早く休ませてやらなければ。

 

「……さようなら、アルカ」

 

 数多の孤児から才能を見出され、たった五年間。

 シア・ブリュンヒルドのもとで『使い捨ての駒』になるべく戦闘訓練を受けていた少女は、ゆっくりと息を引き取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スィン!」

 

 バタバタと音がして、会議室の扉が内側から、乱暴に開かれる。

 ──誰も、いない。

 

「……どういうこと……?」

 

 ティアがそう呟いたのは、無理もない。

 席についていた面々はさておき、扉に対して正面に立っていたティアたちは外の惨状を垣間見ている。

 会議室に乱入してきた少女だけでなく、多くの兵士──神託の盾(オラクル)騎士団の鎧をまとった人間がいたはずなのだが、人影どころか痕跡そのものがない。

 むろん、会議室から出て行ったはずのスィンの姿もなく、ガイをはじめとする一同はぞろぞろと廊下へ出た。

 そこへ。

 

「お疲れ様でした」

 

 労いの言葉が届く。

 その声に反応した一同が見たのは、ユリアロードへと続く部屋から出てきたスィンの姿だった。

 

「スィン! さっきの兵士たちはどうしたのですか?」

「片付けました」

 

 ナタリアの言葉に、スィンはひどく平坦な声で応じている。

 

「一人の死者も出さずに、ですか? ずいぶん派手な大立ち回りを演じていたようですが」

「今ここに、人の骸はありません。それが答えです」

 

 ジェイドの嫌味に、グサグサ突き刺さるものを感じながらも、答える。

 嘘ではない。

 ディスラプトームの連発がどうしてもできず、スィンは一人残った少女の遺体をユリアロードで外殻へ送ってしまっている。

 ノコノコこっちへ来るな、という脅しだ。

 首謀者であろう人間のもとにどれだけ人員がいるのかはわからないが、今来られたらイオンの面目は丸つぶれである。

 スィンの真意に気付いたかどうかはさておき、ジェイドはこれといった反論を寄越さない。

 黒いコートを着ていてよかった。普段の格好だけなら、返り血はごまかせない。

 

「今のって、神託の盾(オラクル)騎士団だよね? 平和条約締結をブチ壊しに、やっぱりモースの差し金……」

「アニス。色んなものを壊したくなければ黙って」

 

 一同に引き続き、会議室を退出した両国の首脳たちの姿を認めて、スィンは小さく彼女を咎めた。

 アニスは慌てて自分の口を閉ざしている。

 一方で、ガイは実に言いにくそうに口を開いた。

 

「……スィン。さっきの──」

「すいません後にしてくださいガイラルディア様」

 

 しかしスィンの瞳は、彼を映していない。

 主たる彼を通り越して、両国首脳の一人に集中していた。

 熱烈な視線に気付いてか、供を両脇に控えさせた彼が、顔を上げる。

 自分をまっすぐに見つめるスィンを認め、その眼が軽く見開かれた。

 

「……ピオニー陛下?」

 

 不意に立ち止まったピオニーに、彼の護衛であろうフリングス少将がいぶかしげな声を上げ、その視線の先を見て彼もまた沈黙する。

 固まってしまった彼らと相対し、スィンは艶やかな笑みを浮かべて言った。

 

「ご無沙汰しております。ピオニー・ウパラ・マルクト九世陛下──」

 

 それはもう、満面の笑みで。

 

 

 

 

 



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第百十五唱——今こそ、向き合おう

 

 

 

 

 

 

 

 沈黙が漂う。

 会議室前は、今や誰もが逃げ出したくなるほどの緊張感に包まれていた。

 

「……市長殿。すまないが、引き続き会議室を借り受けたい」

 

 永遠に続くかと思われた対峙の果て、口火を切ったのはピオニー陛下の無感情な一言だった。

 ユリアシティ市長、テオドーロの戸惑いがちな了解を得て。彼は無言のままスィンの眼前へと歩み寄った。

 

「へ、陛下!」

 

 フリングスの声が慌てているのは、スィンが帯刀しているから、だけではないだろう。

 警告に近いその響きをまるで無視。皇帝は気さくに片手を挙げた。

 

「よう、久しぶりだな。これが無事済むまで、わざわざ待っててくれたのか?」

「──はい。お疲れ様、です」

 

 会話を試みてくるとは思わなんだ。口にこそ出さないが、それがスィンのどこまでも正直な感想である。

 驚く風情こそ隠さなかったものの、ピオニーはまるでなんでもないことのように──あるいは何もなかったかのように、スィンに挨拶した。

 情報が事前に流出していたのか、彼個人の胆力によるものか。

 前者ならば戦犯は間違いなくジェイドだが、表情に変化はないものの、僅かにいぶかしんでいる風情が見受けられる。

 後者、なのだろうか。

 どっちでもいいが、内心で動揺くらいはしてほしい。驚いているところをつけ込む気満々だったスィンとしては、やりづらい。

 更にここで、皇帝から思いもよらない一言が発せられた。

 

「労い痛み入る。それでお前、俺とサシで話をつける気はあるか?」

「は、い──我が主の同席を、お許しくださるならば」

 

 ガイを見ずとも、彼から向けられる視線に気づけないはずもない。

 しかしピオニーは、間髪入れずにそれを却下した。

 

「駄目だ、赦さん。ジェイドで我慢しろ」

「……サシ、になりませんよね。それ。僕の言えることじゃありませんが」

「俺達の確執における中心人物だろうが。何の問題がある」

 

 ピオニーの言葉は事実だ。一寸たりとも違わない。

 言いあぐねるスィンに背を向けて、皇帝はフリングスに何かを言付け、会議室へと戻っていく。

 

「スィン……!」

「では、ガイラルディア様。ちょっと、行ってきますね」

 

 今度は、何も預けることなく。会釈をしたスィンがくるりと彼に背を向ける。

 その視線の先には、皇帝の入った先。会議室を見やるジェイドの姿があった。

 彼の視線の先には、それこそ何事かといぶかしんでいるインゴベルト国王やファブレ公爵に話しかけて誘導していくナタリアやルークの姿がある。

 珍しく二人とも、空気を読んでくれたようだ。

 

「大佐」

「では、行きましょうか……ところで」

「言うまでもないと思いますけど、中立でいてくださいね。陛下のご機嫌損ねてガイ様の不利益に繋げたくないので」

 

 他一同にはピオニーとの、ジェイドとの確執は何一つ明かしていない。

 当事者だけで話すこと自体は、むしろ歓迎するべきことなのに。

 主が同席しない。他一同も、門番を命じられたらしいフリングスによって足止めされている。

 主の目がないこと。すなわちそれは、スィンの自制心低下に繋がる。どのような話運びになろうと、感情に囚われることだけは避けないといけない。

 そんな当たり前のことを今更ながら心に刻み、スィンは両の頬を軽く打って皇帝の待つ扉の向こうに赴いた。

 先程アルカを突き飛ばすようにして入室した会議室は広く、中央に据えられたテーブルと対面式になった椅子がずらりと並んでいる。

 テーブルの向こう側、先程まで座っていただろう椅子には座らずに、ピオニーは佇んでいた。

 

「さて、これから俺達も平和条約を交わすわけだが。座った方がいいか?」

「陛下のお好きなように。でも、書面に記すようなことは何もないかと存じます」

 

 言い得て妙だが、この冗長な調子はわざとなのか元からなのか。ピオニーの性格を知らないスィンにはわからない。

 返答に対し僅かに笑んだような風情を見せて、皇帝はどっかと椅子にふんぞり返った。

 あまつさえテーブルに足をかけて、椅子の足二本でバランスを取り出す始末。

 

「陛下」

 

 ジェイドにたしなめられても、彼は小揺るぎもしなかった。

 どうでもいいが、これで後頭部を強打したら、やっぱりスィンのせいにされるのだろうか。

 

「は……破天荒な御方ですね」

「おふざけが過ぎますよ。スィンが珍しくびっくりしているではありませんか」

「好きなように、と言ったのは誰だ。そっちも何かしらあったようだが、こっちは肩の凝るような会談終わったばっかりなんだぞ」

 

 実際肩が凝ったようで、首を回しながらジェイドに「肩を揉め」と命じる始末。

 それもまた冗談めいた調子だが、件の若年寄はデフォルトの笑みを崩さず、ため息のひとつもつくでもなく、ピオニーの肩を懇切丁寧に揉みほぐしにかかっている。

 この様子だと、公式な場ならいざ知らず、非公式の場では普段から相当ふざけた……もとい、フランクな人柄なのかもしれない。

 

「お前も好きなようにしたらいい」

 

 あのジェイドが皇帝とはいえ、他者の体を甲斐甲斐しく揉む。

 そんな珍風景を見せ付けられながらそう言われて、スィンは即座にその場へ座り込んだ。

 今度こそいぶかしんでいるピオニーに構わず、居住まいを正して正座、そのまま手のひらと額を床につける。

 

「おい、何を──」

「僕の好きなようにしています」

 

 俗に言う土下座をしたまま、二の句は告げさせない。

 特に何かを謝罪する意味もなければ、哀願するでもなかった。

 ふざける──そんなつもりはないのかもしれないが──二人を視界に入れずに済み、なおかつ無礼にはならないはずの姿勢である。

 人によってはさせていることに心を痛めるだろう。もっとも、彼らに痛める心などなさそうだが。

 しかし、このポーズをすることでピオニーは思いもよらない一言を発した。

 

「ガイラルディアの件か」

「……」

 

 雄弁は銀、沈黙は金。

 何のことかはさっぱりわからないが、あえて口は開かない。

 皇帝はスィンの目論見通り、事の次第のヒントをくれた。

 

「主の非礼を詫びているつもりなのか? そんなことをしなくても、ガイラルディアを罪に問う気はない。面を上げろ。女にひれ伏させるなんて不名誉なことを俺にさせるな」

 

 平伏したままだから、彼らの表情はわからないのだが。ピオニーの声音に険が帯びてきた。

 ジェイドが黙したままだが、気にしなくていいだろう。とにかく皇帝の機嫌を損ねることは避けるべきなのだ。

 

「陛下のお心のままに。寛大な処置を、ありがとうございます」

 

 促されるまま頭を上げるが、立ち上がらない。面を上げろと言われただけだ。

 額に付着した埃を払うようにしていると、ジェイドからの視線が気になった。

 

「知って……いたんですか。会談中のことも」

「いいえなんにも。ガイ様、何をやらかしました?」

 

 あのタイミングで主と話をする余地はなかったのに、頭がわいているのだろうか。

 それを聞きつけたピオニーといえば。

 

「お前、主の不始末を詫びてたんじゃないのかよ!」

「いいえそんなまさか。で、大佐。ガイ様は如何なるご所行をなされたので」

 

 呆れる皇帝はさておいて、ジェイドに詳細を尋ねる。

 そこで初めて会談でのやりとりを知ったスィンは、内心だけで頭を抱えていた。

 

「平和条約にかこつけて私怨爆発、あえなくやぶへびですか……とうとう事実を知ってしまったのですね」

 

 下手を打てば、もしもこの場に当事者以外の人間が出張っていたら。平和条約はあえなくご破算の憂き目にあっていたかもしれない。

 そのくらいのことを、確かに彼はやらかした。

 話を聞く限り条約に影響がないよう、締結署名にサインしたところで仕掛けたようだが、どのみち国同士に禍根を残しかねない。

 調印式という公式な場で、マルクトの貴族がキムラスカ国王に刃を向けた、など。

 

「でもお咎めはなしですよね」

「確かに言ったしそのつもりだが、なあ」

「なら何も問題ありませんね。皇帝ともあろうお方が前言を翻すなんてそんな、器の大きさ疑われるような真似をなさるはずがありませんし。殿方に二言なしとはよく言ったものですしね」

 

 これで翻すようなら相当のタマである。

 あるいはただの馬鹿か、とにかく、そんなことをするようなら今後の話運びは考え直さなければならないだろう。

 場合によっては、主にマルクトという国に属することを考え直すべきと注進することも。

 幸いにして、皇帝はスィンの言動が気に食わないとばかり、前言撤回することはなかった。ただ、騙された形になったピオニーは、釈然としないという心情を全面的に表へ出している。

 

「じゃあなんで土下座なんかしたんだよ」

 

 いちゃいちゃする二人を殊更視界に入れたくない。そして、ちょっとでも動揺させて今後の話運びを有利に進めるため。

 そんなことを馬鹿正直に告げるわけもなく。

 

「僕の好きなようにしてみましたー」

「どっちもどっちですよ。陛下はちゃんと座ってください。スィンもです。床ではなく椅子に」

 

 最終的にはジェイドの仲裁で、二人は文字通り話し合いにテーブルにつかされた。

 とはいえ。

 

「僕の動向はもうご存知かと思います。事態が落ち着くまでは私情で大佐に危害を加えることはしません。何なら大佐のお弟子さんを監視役につけてくださっても「それは私がお断りします。大体カシムは弟子ではありません」

「そういえば自称でしたね。でも、頑張って大佐になりきってたじゃないですか。すっごい面白かったし、カッコよかったですよ、ポージングとかは。見た目民間人でしたが、何か教えてあげたんじゃないんですか?」

「あれは限定された空間に譜陣を仕込んだチャチな幻術です。通常譜陣が乱れるまで術は解けないのですが、不安定になった挙句解除されたのは発動に足る譜力が絶えたせいかと」

「術を持続させられなかったんですね。でも、極悪非道な死霊使い(ネクロマンサー)の弟子ならあのくらいのメンタルでちょうどいいですよ。無手の女一人、軍人で囲んで袋叩きにしようとしたんですから。素質ありますって」

 

 皇帝に話しかけていたつもりが、いつの間にかジェイドとくっちゃべっている。

 そのことに気づいたスィンが話題を修正しようとして、妨害された。

 

「ほお……あのくらいがちょうどいいと。あなたはどうなんですか」

「何がですか。僕に弟子なんていませんよ」

「とぼけても無駄です。戦女神ブリュンヒルド、夜叉姫シア。人の弟子がどうのこうの言う前に、あなたの弟子はどんな如何様で?」

 

 なぜ彼が夜叉姫の名を知っているんだろう。

 神託の盾(オラクル)騎士団に聞き込みでもしない限り、夜叉姫の存在やその悪行と教え子達を知る由はないはずだが、あえて問わない。

 知る理由を聞いても仕方がないし、まずはこの話題に決着をつけておく。

 

「在籍中にしか手がけていない連中の弟子呼ばわりは妥当なんですかね。上からの指示で造ったようなものなのに」

「連中……? アッシュも、その内の一人なのですか?」

「いいえ。彼はヴァンの弟子、ですよ。確かに剣術以外は僕の担当でしたが、主席総長の秘蔵っ子を内密に預かっている、という体裁だったので」

 

 この様子を見るに、彼は何か勘違いをしていたようだ。

 アッシュの剣術がルークのものと同一であることは見知っているはずだが、やはり冷静ではないのだろう。

 

「彼らのことを指してよいならば、とても出来のいい子達でしたよ。誰一人僕を負かしてくれなかったことを除けばね」

 

 これでジェイドとの話はひと段落ついた。

 そう認識して、皇帝と向き直る。

 

「陛下におかれましては……」

 

 どんな意見があるだろうかと尋ねようとして、言葉を切る。

 ピオニーの表情は苦渋が滲むような、それでいて苦虫でも噛み潰したような顔をしていたからだ。

 もしや、気分でも悪くなったのだろうか? 

 

「如何なさいましたか」

「……ジェイドが騙されるわけだな」

 

 騙すとは人聞きの悪い話だが、彼に対して黙っていることなどいくらでもある。隠し事をしているのは確かだ。返す言葉は特にない。

 皇帝はしばらく黙していたものの、やがて小さく息を吐いた。

 

「今は殺さない、か」

「はい」

「今は、を随分強調するんだな。そいつはつまるところ、世の中が落ち着いたらジェイドを殺すと公言しているとみなすが」

「未来は誰にもわかりません。だからこそ、そんな可能性が無きにしも非ずかな、と思っています」

 

 そう。未来に展望のないスィンに、先のことは語れない。

 だから現在の事柄しか語らないのだが……ジェイドも同席するこの場で、詳細は語れない。

 ジェイドに知られるだけなら構わないが、彼の口から主に伝わる可能性は非常に高いのだ。

 そのことに何を思ったのか、皇帝は何も触れてこなかった。

 

「ジェイドはお前に命をくれてやったと言ったが、それは事実なんだな。だから今、躍起になってジェイドを殺そうとしていないことになるのか」

「──確かに、そんな感じの言葉は頂きました。でも、それとこれとは無関係です」

「何?」

「大佐がどうしてそのような世迷い事を口にしたのか、私にはいまいちわかりかねますが。私には大佐を裁くような権利はありません。肉親を殺した輩が許せない、というのはただの私怨で、正当性はないと思います」

 

 途中、ピオニーから目を離してジェイドを見やる。二人の話し合いを見守るようにしている緋色の瞳は、小揺るぎもしない。

 ここで彼に何のつもりだったのかを尋ねたところでどうにもなりはしないだろう。

 再び、ピオニーと向かい合った。

 

「それとは別に。世界が存続するために、大佐は必要な人です。少なくとも僕はそう認識しています。これまでも、これからも。大佐の生き死により、ガイ様の生きていくこの世界の方が大事なので」

 

 ガイの名を出した途端、ピオニーの話は彼の事柄に言及してきた。

 

「お前の主人は知っているのか? お前らの確執を」

「大佐が何も話していないなら、ご存知ではないはずです」

「お前がジェイドを殺せば、奴にも迷惑がかかるとは思わんのか」

「間違いなくおかけすることになるでしょう」

 

 外聞も、心の内も。

 どんな影響が出るかもわからないが、少なからず彼が喜ぶことはない。

 それだけは、間違いない。

 

「なら、お前は主のために自制するんだな? ジェイドを殺すことを」

「今のままなら、そうなるんじゃないでしょうか。未来は誰にもわかりませんから」

 

 もしかしたら、この先。

 本来保つはずもない身体がついうっかり生き延びて、平和な世界を主と共に生きていけるかもしれない。

 そうなったとき、果たしてジェイドへの感情はどうなっていることやら。

 

「陛下はどのようにお考えでしょうか。今の状況は、納得しかねるものですか」

「納得するしないの話なら、納得しているわけがないと返す。俺としてはお前をどうにかするよりも、ジェイドに戻ってもらうのが一番いいと思っているがな」

「左様でございますか」

 

 なるほど。それならば確かに、ガイの傍を離れたがらないスィンとの接触を極力なくせば、ジェイドが殺される危険性は低くなる。

 この提案に対し、さてジェイドはどのように受け答えるのかと眺めていたところで。

 何故か皇帝に苦言を呈された。

 

「それだけか?」

「質問の意味がわかりかねます」

「ジェイドが逃げるんだぞ。それについてどう思うんだ」

「逃げるって、軍に戻るだけでしょう。それは大佐が考えることで、僕が特別関わることではありません」

「何故だ? ジェイドと顔を合わせない方が、お前としては心穏やかに過ごせるんじゃないのか」

 

 心穏やかに、だって。ちゃんちゃら可笑しい。

 何をしたところで、恨みが消えることはないというのに。

 

 彼女──ゲルダ・ネビリムの死を、その原因を知って激しい憎しみに駆られた。

 いつかいつの日か、彼女と同じ場所に送って謝らせると心に決めた。

 そのためにも強くならなければと、あの時からヴァンに負けない、立派な騎士になる、以外に生きる理由が増えた。

 殺してやりたくて、でもどうしようもなくて、狂わんばかりだった時期もある。

 しかしそのときスィンは、ジェイドの居場所どころか少年であったジェイドの顔しか知らなかった。

 探すとしたら、ケテルブルク在住だっただろう彼の妹を締め上げるしか方法はなかっただろう。

 我慢するより他はなかった。どうしようもなかったから。

 キムラスカの姫に仕えながらマルクトに行くことも、到底出来ることではなかったから。

 抱えたそのときは自分ごと焼き尽くしそうになった激情も、時が経つにつれゆっくりとなりを潜めていく。

 いちいち火種を投下する暇もなかった。忘れることこそなくても、殊更思い出すこともなかった。

 今スィンの中にある憎悪は小さな熾き火のようなもので、日常生活に差し障りこそないのだが。

 この暗い炎が、恨み自体が消える日はけしてこない。どれだけ時間をかけても、何があったとしても、この感情は消えない。

 表に出すことこそ押さえられても、ジェイドを憎む心はなくならない。

 だから、心穏やかに過ごしても、意味なんかない。

 

 理解されるわけもない内心を語ることもなく、スィンは立ち上がった。

 このままではいけない。

 ふとしたことで、久々に表層意識まで浮かばせてしまったこの感情を、そのままジェイドへぶつけてしまうだろう。

 主の顔が見たい。

 

「おい?」

「大佐が軍に戻るなら、みんなにも意見を聞かないと、ですよ。いくらなんでも問答無用で引きこもれと仰せではないでしょう」

 

 軽く腰を浮かせかけたピオニーに会釈をして、会議室の扉までゆっくりと歩み寄る。

 どろどろとした胸の内を入れ替えるように呼吸をして開けば、すぐそこにはフリングスの背中があった。

 その向こう側に、スィンが最も見たかった顔がある。

 ガイは彼女の姿を認めるなり、眉間に刻んでいた筋を消した。

 

「スィン!? お、終わったのか?」

「いいえ、まだです。ガイ様、みんなはどうしていますか?」

 

 問われて、彼は少し戸惑いながらも身体をずらして背後を見やった。

 そこには、キムラスカの首脳陣にして各々の家族を見送ってきたのだろう王族二人、そして神託の盾(オラクル)騎士団に所属する二人と、その組織の中心人物たる少年がいる。

 

「どうかしたのか?」

「これから大佐がマルクトに戻る、ってことになったら困りますよね?」

「随分唐突なお話ですわね」

「中で何話してたの?」

 

 スィンが顔を見せたことで集まってきた仲間達から、当然賛成できないという意見を総括して。

 礼を述べるなり、スィンは顔を引っ込めて扉を閉めた。

 扉の向こうから聞こえる主の声に耳を塞いで、テーブルに戻る。

 

「満場一致で反対、だそうです。大佐、ご愁傷様でした」

「私はまだ何も言っていません」

 

 確かに。

 ピオニーが自分の意見を述べただけで、何かが決まったわけではないのだが。

 

「満場一致ということは、お前はジェイドが離れることに反対だというのか」

「どちらかといえばそういうことになります。もちろん、陛下のみならず大佐が決めたことを覆す権利はございませんが」

「……よく言う。ジェイドの生殺与奪をその手に握る人間の言うことじゃねえな」

「その認識は間違いです。今大佐に死なれでもしたらどんな理由だろうと僕のせい、ひいては主の不始末になります。私怨を晴らすためにそんなリスク、割に合いません」

 

 感情的にならまいとして、努めて理性的に話を進めていたつもりなのだが。なかなか、皇帝は納得する素振りを見せない。

 彼の立場を考えれば、ジェイドを失いたくない気持ちを察して余りある。しかし実力行使できない以上、どのみちスィンには殺さない、殺しはしないと訴えるだけしかできないのだ。

 堂々巡りになろうと無限ループになろうと、説得を続けていくしかない。

 重ねて、口に出そうとして。

 

「さて。そろそろ口を出させていただきましょうか」

「口なら初めから出していたでしょうに。とってつけたように前置きなんかしないでも結構ですよー」

 

 遅々として進まない話し合いに飽きてきたのか。満を辞してジェイドが話の輪に加わってきた。

 そこへ、思いもよらない茶々が放り込まれる。

 

「陛下、この一件が済んだら彼女を後宮に迎えればいいんですよ。そうすれば、家族以外の男に接触する余地はなくなります」

「いや無理ですよ。何を唐突に言い出すんですか」

 

 なんか戯言抜かしているが、空気抜きなのか、本気なのか。

 どのみち皇帝はスィンを後宮になど入れようとはしないはずだし、それに。

 

「後宮入りは二十歳以下、健康体で初婚の女性に限るはず。全部ダメじゃないですか。あと、ピオニー陛下の代になってから後宮入りした女性はいなかったような」

「おや、よく知っていますね。ただ条件云々は陛下の裁量によってどうにかなると思いますよ。何せ皇帝ですからね」

 

 確かに、その通りだ。

 感情のままに歪む表情を修正しないまま、スィンは反射的にぐるりとピオニーへくってかかっていた。

 

「もちろん嫌ですよね、陛下! 嫌だって言ってくださいよお願いだから! ちなみに私はイヤです!」

「お前な……嫌がらせに本当に放り込むぞ。確かに今後宮には誰もいないがな、ジェイドの言うとおり不可能ってわけじゃない」

 

 嫌がらせにもほどがある。

 確かに中立でいてくれと頼んだし、スィンの浮かべた『露骨に嫌そうな顔』を見て彼のご機嫌斜めは直りつつあるようだが。

 ここはピオニーにそう決めさせて話し合いを終わらせるという案がちらりと頭を掠めるも、実際そんなことになってしまったらと考えると、恐ろしい。それこそ舌噛んで死ぬしかない。

 渋面を作って押し黙るスィンをとっくりと見やった後に。極悪非道の死霊使い(ネクロマンサー)はこともなげに言い放った。

 

「まあ、それは冗談なんですが」

「冗談きっついですよ……いくら僕が陛下のお眼鏡に叶うわけないってわかっていても」

「何故ですか? 女性なら誰でもいい方ですよ、陛下は」

「……おい」

「昔の初恋まだ引きずってるって、有名な話じゃないですか。誰でもいいってのは、その人以外の女は誰でも同じって意味かと」

「お前らなあ! 本人目の前にして陰口叩きまくってんじゃねえ!」

 

 怒れる皇帝に対して、スィンはあくまで真面目に返した。

 ジェイドには許されるだろう軽口も、対応を誤ればまた不敬罪扱いになってしまうだろう。

 

「本人の目の前につき、陰口ではありません」

「なお悪いわ!」

「しかも本当のことですからねえ。単に陛下の耳には痛いだけかと」

「くそ、よってたかっていじめやがって。俺に味方はいないのか……」

「身から出た錆びでしょう」

「ほっとけ、可愛くないジェイド!」

「えーと、フリングス少将なら扉の外に」

「あの日からなんとなく視線が冷たいんだよ。あれはカシムの暴走だってのに、まるで戦犯扱いだ」

 

 皇帝が何を考えて特別罰則など講じたのか。どうせジェイドにちょっかい出せば面倒なことになると警告を出したつもりとか、そんなところだろう。

 それ自体はどうでもいいので、聞かない。そんな昔の話をほじくり返したところでスィンの気分が悪くなるだけだった。

 にっちもさっちもいかない。

 ジェイドは場を引っ掻き回すしかしないようだし、最早膠着は避けられないかと長期戦を覚悟した、そのとき。

 爆弾が、投じられる。

 

「前置きはこの辺りにして、本題です。スィン、私と家族になりましょう」

「………………はい?」

 

 彼は、何を言っているのだろうか。

 残念ながらジェイドの言葉に冗談めいたものはない。

 それは皇帝も察したようで、ただならぬ様相を示している。

 

「……おい、ジェイド?」

「家族……? 養子縁組のことですか? マルクトの法律じゃ確か、独身はダメだったような」

「ですから、私と夫婦になりましょう。私の人生はすべて差し上げますんで、あなたの人生も私に下さい。そうすれば私達の確執は家庭の問題に成り代わります。夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますし、馬鹿馬鹿しくてそのうち陛下も口出ししなくなりますよ。多分」

 

 スィンの顔は、瞬く間に赤く染まった。

 熟れた林檎も茹で上がった甲殻類でも、ここまで赤くはならないだろう。

 

「な、なっ」

 

 動揺を殊更表に出しながら、椅子を蹴倒して離席したスィンは、衝動のままにジェイドの胸倉を掴んでいた。

 

「何を抜かすの、ねえ、なんでそうなるのっ!?」

「そろそろこの不毛な話し合いを終着させたい、と願う私からの建前です。それとも、私を意識するあまり建前だけでも繕うことはできませんか」

 

 冷静に考えれば、建前だの繕うだの、誤魔化す対象である皇帝に聞かれてはなんら意味を成さないだろう。

 しかしこのとき、完全に頭に血が上っていたスィンが気づくことはなかった。

 

「別にあなたなんか意識してない!」

「しかもあなたは非公式とはいえ、ガルディオス家の長女」

「長女ではないです! マリィベル様の存在をなかったことにしないでください!」

「まあ、それは置いといてですね。カーティス家と姻戚関係を持つことは、お家にとってどれだけ利益を運ぶことでしょうか? そんなことすら図れませんか」

「それはそうですけれども! って、このやり取り、こないだやりましたよね⁉︎ お断りしましたよね、ご破算になったはずですよね! なんで⁉︎ 何で今それを言い出すんですか⁉︎」

 

 不幸によって断絶同然の扱いだったガルディオス家は、継嗣ガイの存在が皇帝に認められた。

 情勢が落ち着けば本格的に再興の道を辿るわけだが、そこに軍の名門であるカーティス家の後ろ盾があればどれほど心強いか。

 家名の高さで言うなら、名門であろうと養子の嫁より後宮入りして皇帝の妾になった方が断然位は高くなる。

 平時ならばすぐに比べられもしただろうが、今のスィンにそれを考えるだけの頭はなかった。

 今の会話に置き去りのピオニーはといえば、怪訝そうな顔をしている。

 

「ガルディオス家の、次女? どういうこった、従者じゃないのかよ」

「ち、ちょっと前にそういうことだったと判明しまして。半分だけですが」

「それが事実だとしたら、お前は自分の弟に仕えていることになるんだが」

「血筋の上だけなんで! 扱いは妾の娘、ガルディオスの姓を名乗ることはないと思います! 旦那様の血だけなので!」

「いや、半分だけなのは百も承知だ。でないとガイラルディアが先生の息子になっちまう」

 

 話が横に逸れつつある。

 このまま先程の話をうやむやにできないかと企み、更に捻じ曲げようとして。

 

「それで、返事は?」

「へ、返事っ?」

「ちなみに断ったら話が振り出しに戻ります。更に皆さんを、ガイを待たせることになりますが、それで良いのですね」

 

 いいわけがない。さりとて、安易に肯定するわけにもいかない。

 色恋沙汰における感情の有無とか、ジェイドの人柄がどうとか、そんな次元の話ですらなかった。

 彼はおそらく、贖罪のためだけに──スィンに殺されてやる未来を想定してこんな爆弾発言をしたのだ。

 それは皇帝も想像がついたようで。

 

「ジェイド! お前、自分が何言ってんのか分かってるのか!?」

「ネビリム先生の娘、ガルディオス家次女、継嗣ガイラルディアの従者にプロポーズしています」

「胸張って言うことじゃねえ!」

「嫌ですねえ。独り身の陛下にはわからないかもしれませんが、プロポーズは背中を丸めながらするものではないんですよ」

「あのなあ……!」

 

 二人の口論が続く。

 しばらくその様子を眺めることしかできなかったスィンだが、ふと瞳を瞬かせて手の力を抜いた。

 今更ながら、ジェイドに掴みかかっていたことを思い出したのである。

 椅子に戻って頭を冷やそうと考えたところで。

 がし。

 

「うっぎゃあああっ!?」

「色気のない悲鳴ですね」

 

 皇帝の口論に夢中になるわけもなく、ジェイドは離れようとしたスィンを片手で捕まえた。

 そのまま背中に手を回され、抱き寄せられる。

 

「な……!」

「もうそういう関係だと演じなければ、陛下を騙せません。それらしくしろとは言いませんから、口を噤んで身動きしないでください」

 

 耳元で囁かれ、そのまま両手で抱きすくめられる。

 否応なく顔を埋めることになった胸の奥から、どくんどくんと血潮の脈打つ音が聞こえてきた。

 

「そういうことなら、俺はそいつを後宮に迎える。おめおめお前を殺されてたまるか!」

 

 ──皇帝の言葉はとても遠く、すぐそばにジェイドの心臓がある。

 一時期は焦がれるほどに欲しくてたまらなかったジェイドの、母を殺した少年の命。

 血桜は腰に、短刀は懐、手のひらはいつでも、集中さえすればコンタミネーションで棒手裏剣を持てる。

 どれでもいい。今刃物を持てば、すべてが──! 

 

「……陛下。他人の恋路を邪魔すらならば、豆腐の角に頭をぶつけられると相場が決まっていますよ」

「それを言うなら、馬に蹴られて死んじまえ、だろうが」

 

 頭の上で、言葉が交わされる。

 それを聞きながら、スィンは一気に噴出してしまった殺意をどうにかこうにか押さえ込んだ。

 武器を求めて無意識に震えていた手をぐっと握り締め、すっかり浅くなってしまった呼吸を落ち着ける。

 ジェイド愛用の香水の匂いがする。

 幸いにもその香りはスィンにとっても心地よく、殺意を強める効果はなかった。

 

「恋路、っつってもな。嫌がってるようにしか見えんぞ」

「スィン、わざとらしく震えないでください。もう私のことは怖くないでしょう」

 

 言われて、膝がびっくりするほど震えていることに気づく。

 そこへ。

 

「ちょっと、ガイさん……!「スィン! 今の悲鳴はなんだ!?」

 

 乱暴に扉がこじ開けられる音、フリングスと、主の声。

 途端、冷水を浴びせられたような感覚に陥ったスィンは、持ちうる全力をもってジェイドの腕から逃れた。

 

「おや」

「な、何でもありません! ちょっと、吃驚しただけ……」

 

 速やかにジェイドから距離を取り、取り繕う。

 そこで。

 

「!」

 

 だだっ広い会議室の、部屋の隅。

 何もないように見えるその辺りから、無機質な機械音が聞こえた。

 これは──

 

「た、大佐! 陛下も、伏せて!」

 

 空気を切り裂く音がして、何かが鋭く飛来する。

 ──反応が遅れたせいか、あるいはジェイドを突き飛ばしたせいか。

 肩の後ろに鈍い痛みが走り、嫌な熱がじわっと滲む。

 

「スィン……大胆ですね」

「色ボケてないで、警戒してくださいよっ!」

 

 突き飛ばした勢いで乗っかってしまったジェイドを、踏んづけて立ち上がる。

 部屋の隅へ駆け寄りながら抜刀すると、ばさりと音を立てて布地を投げつけられた。

 一刀のもとに斬り伏せる。布地の向こう側もろとも斬ったつもりが、負傷の影響か。踏み込みが足りずに、侵入者は辛くも逃れたようだ。

 

「……どうして」

 

 暗がりに溶け込むような、昏い色合いの布地が床にわだかまる頃。

 上から下まで黒の衣装に身を包む、少女の声の持ち主が自ら覆面を床へ叩きつける。

 

「どうしてなの、先生!」

 

 見覚えのある少女だった。

 記憶より遥かに女らしくなっているが、おそらく間違いない。

 

「スイ。何が、ですか」

「何がじゃないわ! 死霊使い(ネクロマンサー)にお母さんを殺されたんでしょう!? 今の皇帝には死霊使い(ネクロマンサー)惜しさに殺されかけて、前の皇帝には故郷を消されて……どうして、平気なの!? 何もせずにいられるの! 死霊使い(ネクロマンサー)といちゃいちゃできるのよっ!」

「いちゃいちゃなんてしてません!」

「嘘だ! だったらなんで庇えるのよ!」

「だって、まだ死なれたら困るからです! 少なくとも今死のうものなら、確実に私のせいになって、いつの間にか殺したことにされて、今度こそ処刑されちゃうからに決まってます!」

 

 反射的に喚くように否定して、コホンと咳をする。

 未だ突き刺さったままの短矢を引き抜いて、おざなりに止血帯を巻きつけた。

 スイを前にして、悠長に癒す時間はない。

 

「アルカも言ってましたね。そんなこと。ディストから仕入れたんですか?」

 

 要らないことばっかり教えて、とため息をつく。

 少女──スイは、手にしたボウガンをスィンに向けた。

 不気味な緑色の雫を滴らせた鏃は、持ち主の震えを伴いながらもスィンを狙っている。

 

「はぐらかさないでよ! 憎くないの、なんでそんな……!」

「そんなの、決まってます」

 

 先程引き抜いた短矢の鏃が鈍い鉄色なのを確認して、脇に放り投げた。

 その挙動で、なんとなく腕を動かすのに違和感を覚える。

 毒、だろうか。

 

「私は、私にこんな仕打ちをした鬼畜どもと同じところには堕ちません。堕ちてなんかやらない。私はどうなったっていいけど、それでは私の大切な人を悲しませてしまうから」

 

 ちらりと見やれば、先程ついに会議室へ突貫してきた主と仲間達、ついでにフリングスがジェイドとピオニーもろとも固まっている。

 ついに、知られてしまった。

 隠し通すことはもとより無理だろうと、覚悟していたことである。

 今は少女との、スイとの決着をつけることを優先した。

 

「大切? 死霊使い(ネクロマンサー)のことが、主席総長より大事だって言うの?」

「いやそんなことはないです。でも、世界を滅ぼそうとしている奴とそうでない人、比べるべくもないと思いますが」

 

 激昂するスイにガイを主だと紹介するわけにはいかない。

 ここはジェイドをダシにして煙に巻いておく。

 

「何よ、それ……リグレット奏手の言っていた通りだわ、この女狐、売女!」

「何を吹き込まれたのか知りませんが、言いたいことはそれだけですか」

「誰もいない夜の教会で誓い合った愛は、偽りでしかなかったの!?」

「」

 

 誰もいない、夜の教会。

 そのフレーズを聞いて、スィンは音を立てて固まった。

 

「公にはできないけど、せめて形だけ……教会の講堂で二人きり、二人だけの結婚式を挙げていたじゃない! それなのに……!」

 

 顔中に血液が集まってくる。

 そんな感覚に、頭にまで血が上りそうになりながらも、スィンはどうにか正気を保っていた。

 おかしい。

 確かにスイは夢見がちな夢子ちゃんで、白馬に乗った王子様に憧れる、外見から頭の中身まで可愛らしい少女だったが、けして誰かのように空気の読めない馬鹿ではなかった。

 今の状況を理解していないはずもない。間諜(スパイ)として忍び込んだ先で、索敵されたのだ。

 つまり今、彼女が長々と垂れ流しているのは、この場から逃れるための手段に過ぎないはず。

 何を企んでいるのか──

 

「主席総長を捨てて死霊使い(ネクロマンサー)に走るなんて! 女として、ううん、人として最低よ、最悪だわ!」

 

 興奮して罵詈雑言を並べ始めたスイを前にしたまま、伏兵がいないかを探る。

 考えてみれば、平和条約を成立させないために連中はユリアロードを使って強襲してきた。そのタイミングを図り、知らせたのはまず間違いなくスイだと思うが、単独とは考え難い。

 もし感づかれたら、すべてがおじゃんだ。

 

「聞いてるの!?」

「あなたがどんなに喚いても、私が考えを改めることはありません。私から言えるのはそれだけです」

「……っ」

「敵の謗りは賞賛としれ。即ちそれは、くだらない挑発しかできないと露呈しているから。そんな汚い言葉を使って罵るしか、もう手立てはないんですね。下手に近づけばアルカ達のように、殺されると知っているから」

「……どうしてなのよ……」

 

 アルカ達の死を知っていてか、知らなかったのか。少女の目がみるみるうちに潤み、透明な雫が頬を伝う。

 それを拭いもせず、食いしばった口から漏れる嗚咽を殺して、スイは叫んだ。

 

「弟子を殺して、何も思わないの!? 孤児だった私達を引き取って、教会で働けるようにしてくれたのは、一体何のためだったのよ!」

「それが私に課せられた仕事だったから、です。実際にその手続きをしたのは上の方々、少なくともあなたたちのためではなかった」

 

 構えたボウガンの先は隠せないほどにぶるぶると震えて、殺していた嗚咽がひっきりなしに響いて消える。

 

「それでも……あたしは先生のこと、大好きだったのに……信じてたのに……!」

「情を訴えても無駄です。人として最低で最悪な売女に、そんなもの通じるわけないでしょう」

「!」

「信じるのは自分だけにしとけ。後は信じたい人を信じて、裏切られたら自分の見る目のなさを呪えと教えたはずです」

「う……」

「覚えてませんか? あなたはあまり出来のいい方ではなかったから、とっくに死んだと思っていましたが。一応、全員生きてはいたんですね」

「……! どういう、意味」

「ユウとジェニー、ジグとムートは時期こそ異なりますが、私達のことをこそこそ嗅ぎ回っていたでしょう。ファルとミリアとアルカは、つい先程私が片付けました。あなた……スイ、そしてフレドも、ここにいますね。し組は本日をもって全滅、ですか」

 

 言葉を失くしたスイが、無意識なのか。濡れている目元を拭う。

 涙でぼやけていた視界がくっきりとひらけた途端、眼前には赤い刃が迫っていた。

 ほんの一瞬、その隙をついて。

 間合いを詰めたスィンが少女に切りかかったのである。

 

「ひっ……」

「スイ!」

 

 成人前だろう少年の声が、少女の名を叫ぶ。

 硬質な刃がぶつかり、擦れ合う音が響いた。

 緋色の刃と、ふた振りの剣──双剣が、どちらともなく引き下がる。

 

「現れましたね」

「フレド……」

「このばか、お前がたぶらかされてどうすんだよ!」

 

 少女と同じく、黒の装束に身を包んだ少年が立ちふさがる。

 どこに潜んでいたのか、スイを護るように二人の間へ割り込んだフレドは、双剣を振りかざしたままスィンを睨んだ。

 とはいえ、その顔は黒い頭巾で覆われたまま。刺すように尖った視線を感じるだけだ。

 

「……みんなのことは、帰ってこないから覚悟してた。けどあんた、アッシュの奴まで殺したのかよ!」

「だからアッシュは主席総長の弟子だと何度言わせれば……いや、もういいです。のこのこ姿を現して、覚悟はもちろんできてますね」

 

 少年──フレドは射撃の才持つスイと違い、利き手だろうと逆手だろうと遜色なく剣を操る筋力も器用さも備えていたと記憶している。

 間諜(スパイ)よりは兵士向きで、他の誰より交戦技術の伸びしろは大きかった。

 果たして今現在、それはどこまで伸びているのか──

 

「状況は!?」

「右肩の後ろに当てたの。もう動けなくなるはずだから……!」

「おっしゃ、了解! 覚悟しろ夜叉姫、みんなの仇討ちだっ!」

 

 そうそう、こっちは状況判断が割と下手だった。その視野の狭さが、交戦においては集中という形でよい方向に働いていたわけだが。

 繰り出される軽やかな剣戟を、時には刃を交えて凌ぐ。

 双剣の扱いこそ教えた覚えはないが、基本となる剣術の素地は他ならぬスィンが仕込んだもの。多少我流が混ぜられた程度のそれに苦戦するなど、ありえないことだった。

 同時に。ほんの少しずつ、気取られぬよう、すり足で誘導を始める。

 背中に護るスイから、フレドを引き離すように。

 

「どーした、防戦一方じゃねえか」

「……」

「わかってるぜ。スイの毒が効いてんだろ? 結構強力な奴だもんな、そろそろ足にクる頃か?」

 

 フレドが揶揄したように、毒が身体を蝕み始めたのか。それまで問題なく剣戟を捌いていたスィンの足取りが、突如としてもつれた。

 迫る双剣を血桜で危うく払うも、被弾した側の腕はだらりと垂れたまま。

 血桜を握るのは、片手だけだ。

 

「……く」

「そらどうした、足元がお留守だぜ!」

 

 もつれた足に追い討ちをかけるように、下段蹴りがまともに入る。

 おかげでスィンは、後退を余儀なくされた。

 ──そろそろ、いいだろうか。

 スィンを後退させたことに気をよくしてか、フレドは一層距離を縮めんと突出してきた。

 そこへ。

 

「スィ──「来ないでください! 僕が蒔いた種です、自分で刈り取ります!」

 

 スィンの劣勢を見て取った主の声を、どうにか誤魔化して。

 猛追するフレドをかわしたスィンは、手にした棒手裏剣を投擲していた。

 毒に侵され、動かないはずの右手で。

 

「え? なんで、私の名前──」

 

 フレドに庇われたことでぼんやり突っ立っていたスイの、顔に。

 

「きゃああぁっ!」

 

 ボウガンを放り出し、患部を押さえて呻く少女に接敵、懐に潜り込む。

 ──次の瞬間にはもう、血桜はスイの心臓を貫いていた。

 

「スイっ!」

「おやすみなさい、スイ」

 

 崩れ落ちる少女を見送ることもなく、奪ったボウガンをフレドに向ける。

 呆然と立ち尽くすフレドは、格好の的で。

 躊躇いもなく放たれた短矢(ボルト)は、少年の足に被弾した。

 

「ぐあっ……!」

「みんなが向こうで待ってますよ。今ならスイに追いつけるでしょう。せっかくだから二人で逝きなさい」

 

 スィンが腕の動かしにくさを感じたように、麻痺毒だったのか。剣を取り落とし、少年は成す術なくへたりこんでいる。

 毒も薬も効きづらい体質のスィンにすら、短時間とはいえ効果を発揮したのだ。麻痺毒では戦いはおろか、呼吸することも困難になる。放っておくだけで毒は全身を巡り、やがて心臓を動かす機能も麻痺させるはずだ。

 単純な解毒でも第七音素(セブンスフォニム)の使用は不可欠である。

 第七音素(セブンスフォニム)を扱う素養もない、ましてや譜術の才もなかった彼にはどうしようも──

 

「……け、穢れを、浄化、せよ」

 

 途切れ途切れの拙い詠唱、淡い淡い第七音素(セブンスフォニム)の気配。

 刮目するスィンの眼前で、癒しの輝きが収まっていく。

 痺れて動けなかったはずの少年は、ゆっくりと自分の顔を覆っていた頭巾を取り払った。

 現れた顔を見て、息を呑む。

 頭にくそが付くほど生意気だった少年の顔立ちに、大人びた以外の激変はない。

 驚いたのは、色の違うその瞳。

 スィンはこれまで、自分以外の虹彩異色症と出会ったことがない。しかしその眼は片方がそのまま、片方は譜陣が刻まれて緋色に変色した──譜眼。

 それを眼にして、どうにかこうにか言葉を振り絞った。

 

「これは……片方だけ、譜眼を仕込んだのですか。私の眼を見てカッコいいとか、アホなこと抜かしただけはありますね」

「驚いただろ? あんだけ譜術を教えてくれって言っても聞いてくれないから、ディスト響士に頼んだんだ」

 

 あいつは本当に余計なことしかしないなあ。

 アルカやスイに吹き込んだこと──事実であるが余計なことに変わりはない──といい、フレドの譜眼といい。

 あのマッドサイエンティストのことだから、譜術の才能を持たない人間が譜眼を刻んだらどうなるのか、実験しただけな気もするが。

 そんなスィンの冷めた予想は、残念ながら的射ていた。

 

「面白い実験だったって言ってたぜ。一度だけ、どんな術でも使えるようになるって言ってた」

「……? 譜眼にそんな効果はなかったはずですが」

「あんたが知る譜眼は原案の方だろ。通常より取り込む音素が三倍以上になるやつ。才能がなくても譜術を扱えるようにならないかって頼んで、そういう技術を考案してもらったんだ。譜眼の理論を参考に、オレを実験台にして」

「実験台だってわかってて、施術を受けたのですか。バカだアホだくそがきだと思っていましたが、治ってなかったんですね。残念です」

「何とでも言えよ。敵の悪口を褒め言葉だから気にすんなって、自分が言ったばっかりじゃねえか」

 

 大分独自解釈が盛り込まれているが、本質に差異はない。

 それがわかっているなら無意味だが、一応挑発はしておく。

 

「そのつるぺたなおつむで私の教えを記憶した上に守っているとは。律儀なことで」

「へん、それしか言うことねーのかよ。あんたが知るように、俺には第七音素(セブンスフォニム)の素養はない。ディスト響士は一度だけって言ってたからな。もう一度譜術を使えば、きっと暴走しちまうだろう」

「──ええ、そうですね。ただでさえ譜眼の制御は、並大抵のことではない。自爆でも企んでおいでで?」

 

 それは彼らが現れた時点で懸念していたことだ。索敵され、退路は塞がれ、よしんば生き延びたところで任務を失敗した彼らが行くところなど、どこにもない。

 自害の術は数あれど、やけっぱちになったフレドが周囲一帯を巻き込んで自爆することが気がかりだったが──

 妙な真似をされる前に、刺し違える覚悟で手を下すべきか。

 スィンが迷う間にも、フレドはその場から一歩も動かない。懐から自害用の毒を取り出して飲むとか、身体に巻きつけた爆薬に火をつけようとするとか、そういった行動も見られない。

 その足元に、譜陣が浮かび上がった。

 

「!」

「なあ、見えるか? あんたの母親を焼き殺した炎が」

 

 第七音素(セブンスフォニム)を、集めているのか。

 もう制御する気もないようで、収束する音素(フォニム)は彼にまとわりつくように白い炎と化していく。

 ──第七音素(セブンスフォニム)が、暴走している。

 

「みんなの……スイの仇討ちだっ! 母親と同じように、あんたも死ね!」

 

 初めから、否、スイが死んだときから。彼はこれを企んでいたのだろうか。

 おかしいとは思っていた。スイが死んでから、ほんのちょっと呆然としていただけで、彼はひどく冷静だったから。

 第七音素(セブンスフォニム)を故意に暴走させようなど──正気の沙汰ではない。

 茫然と立ちすくむスィンに掴みかかり、勢いのまま共に倒れこむ。

 弾みで取り落とした血桜は抜き身のまま床を滑り、スィンの手からはどうやっても届かない。

 接触したフレドの身体から、白い炎はスィンをも覆い──

 消えた。

 

「……え」

 

 ぞぶり

 

 白い炎は彼の師であった彼女に燃え移ることもなく、消滅していく。

 そのことに驚愕した少年を襲ったもの、それは根元まで首に突き刺さる短刀だった。

 言葉を発しようとしてか、ごぼり、と咳き込む。

 思い出したように溢れた真っ赤なそれは、下敷きにしていた彼の師に容赦なく降り注いだ。

 真下にある色違いの瞳は、初めて見た時から憧れていた双眸は、たゆまずフレドを睨みすえている。

 

「……」

「なんで、って? 暴走しているとはいえ第七音素(セブンスフォニム)を、第七音譜術士(セブンスフォニマー)が制御できないわけないでしょう」

「え?」

 

 遠くから酷く間の抜けた懐疑が聞こえる。

 フレドの唇からは、最早言葉が出るはずもない。喉を切り裂かれてまともに喋れる人間はいない。

 力を込めて引き抜けば、勢いよく血潮が噴出した。

 それを顔中に浴びながらも、眼を閉ざさない。

 そのままスィンは、彼が息絶えるまで、その瞳から光が消えるまで、微動だにしなかった。

 

「さようなら、フレド。大っきく、なりましたね」

 

 少年の心臓は停止した。

 それを確認してから、よろよろと上体を起こす。

 術者死亡により、暴走した第七音素(セブンスフォニム)の炎が徐々に失せゆくフレドの遺体を見つめたまま、スィンは口を開いた。

 

「……大佐だって、可能でしょう? 音素(フォニム)の暴走を鎮めるくらいなら……第七音素(セブンスフォニム)だって同じですよ」

「ですが! あの時の、彼女は……!」

「声が笑えるくらい震えてますよ。しゃんとなさってください」

 

 理由はなんだか腹が立つから。

 皇帝がその場にいることを考慮して、悪口と軽口は抑えておくが。

 

「彼女があのとき御し切れなかったのは、大佐が譜眼を持っていたから──そして、あなたを守ったから、ですよ」

 

 できるだけ感情を出さず、溢れる私情は殺して。

 淡々と、他人事のように。

 

「譜眼は通常の三倍以上の音素(フォニム)を集めるでしょう。もともと譜術の才を持つ人間が収束させて、それが暴走したんです。咄嗟に抑えこむなんて、とても」

 

 もしもの話は無意味でしかないが。

 もしフレドに譜術の才があり、譜眼を両目に刻み、第七音素(セブンスフォニム)を故意に暴走させていたとしたならば。

 

「僕の命だってとうにない。彼女と同じように……いや、違うか」

「?」

「虫の息でしたもんね。見た目はほとんど無傷なのに内臓の大半が焼け焦げて、声すら出せなくて、時間の問題みたいでしたが。あなた達は彼女を町外れに連れて行って、それで」

 

 喋り過ぎた。この先は関係ない。

 前髪から赤い雫が垂れてきて、拭う。

 べったりと張り付いた血の量から、顔中血まみれだろうと想像できた。

 

「それ、で?」

「ああいえ、なんでもないですよ。ガイ様」

 

 こんな顔はちょっと見せられない。

 手巾を探しつつ、いつの間にかすぐ後ろにいた主に頭を垂れた。

 ちらりと見えた己の顔が酷い有様なのだろう。彼からは非常に困惑した気配が伺える。

 

「こんな顔で失礼します。すぐに拭きますので……」

「そんなことはいいから、怪我は? 大丈夫なのか!?」

「……えっと」

「毒付きのボウガンで思い切り撃たれただろうが! ナタリア、ティア、頼む!」

 

 眼前の展開についていけなかったのだろう。

 ハッとしたように彼女達が駆けてきて、二人がかりで治癒してくれる。

 その間距離を取っていたガイは、治療が終わるや否や水で湿らせたハンカチを構えていた。

 

「ガイ様、手が汚れちゃいますよ」

「俺がそんなの気にしないって知ってるだろ! 無茶ばっかりしやがって、ったく!」

 

 頭を掴まれたかと思うと、乱暴に顔面をこすられる。

 風呂桶に放り込まれて洗われる猫は、こんな気分なのだろうか。

 そこはかとなく怒気と混乱を漂わせたしゅじんを前にされるがままだったスィンだったが、その眼は手にかけたばかりの教え子達から離されることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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第百十六唱——望まれぬ邂逅、再戦の序曲

 

 

 

 

 

 

 

 

 これでようやく戦争再開の心配はなくなったものの、これで終わったわけではない。

 地殻振動の件を何とかする前に、ノエル及びアルビオールにはキムラスカの首脳陣同様、マルクトの首脳を無事に送り届けるという仕事が残っていた。

 

「遠足は、帰るまで終わらないといいますしね」

 

 お任せください! と笑顔で飛び立ったノエルを見送り、一同はユリアシティの滞在を余儀なくされている。

 アルカと同じように、スイとフレドの遺体をユリアロードで外殻へ送ったスィンは、ティアの部屋を借りていた。

 正確には、返り血で血まみれになっていたスィンを不憫に思ったらしいティアが、自分の住まいのシャワーを提供してくれたのである。

 ありがたく甘えることにして、現在彼女は一人黙々と濡れた髪を拭いていた。

 

「……」

 

 これで、よかったはずだ。

 先ほどまで自分が振り回していた血桜に眼を止め、手を伸ばす。

 平和条約は無事締結され、マルクト皇帝との話し合いも済ませた。ちょっと尻切れトンボだった感は否めないが、些細なこと。

 他の何においても、それが達成されたことを喜ぶべきなのである。

 どんな犠牲があったとしても、否、そのために様々なものを押し退けて、スィンは自分の道を歩み続けたのだから。

 抜き身の血桜を手にとる。

 何人もの命を奪い、スイの命を喰ったばかりの家宝の妖刀はひどく脂ぎっており、てらてらと緋色の刃が煌いた。

 懐紙を取り出し、脂肪分を素早く拭き取る。

 そのままいつもの手入れを始めようとしたところで、階段から足音が聞こえた。

 

「──スィン?」

「ガイラルディア様」

 

 現れたのは、部屋の主ではなくスィンの主の姿だった。

 条約締結直後は、会議室内で何かあったらしく不安定だった彼も、今はすっかり落ち着いている。

 

「ノエルが戻ってきたんだ。行こう」

「かしこまりました」

 

 口の中で譜を唱え、まだ濡れている髪から水気を飛ばす。そのまま無造作に束ね、背中へと放った。準備を済ませて主に従って歩く。

 そのとき、彼は唐突に口を開いた。

 

「──条約締結の際。インゴベルト王にこいつを突きつけたんだ」

 

 ガイの手は、腰に下がった片刃の剣にかかっている。

 

「同じ過ちを繰り返させない。そのつもりでホド消滅のことを切り出したんだが……思いもよらないことがわかったよ」

「ホドの崩落は、マルクトがヴァンを使って引き起こしたこと、ですか?」

 

 その言葉を聞き、彼は驚きをあらわにして振り返った。

 

「知ってたのか!?」

「ヴァンを通じて、随分前に。違う用件で、マルクト軍情報部から資料を頂戴した際ついでに調べてみたのですが、彼の証言に偽りはありませんでした」

 

 これまでそのことを話さなかった従者に、ガイは批難の視線を隠すことなく浴びせている。

 スィンは臆することなく、その眼を見返した。

 

「不思議には思っていたんです。キムラスカがホドを崩落させる手段を持っていたのなら、なぜお屋敷が襲撃されたのか。それも、キムラスカ王国軍元帥たるファブレ公爵自らが指揮して、遠征によるただでさえ少ない人員を割いてまで。傭兵を使い、瘴気に似せた毒ガスという新兵器の実験を兼ねた陽動だと考えれば納得はできますが、それでも元帥が直接出てくる理由がわからなかった」

「……ペールは、このことを」

「これを知った当初、おじいちゃんにこの話をしたんです。そうしたら、怒られた上にあなたの耳には絶対に入れるな、と」

 

 なぜか、と尋ねた主を見つめたまま、当時の記憶を思い出す。

 

「戦争なのだから、両国ともにどんな手段を使っていようと驚愕に値しない。過去の歴史を紐解けば、そんな事例は数多く存在する。そんな余計な事実を吹き込んで、お前はガイラルディア様に更なる苦しみを植え付けるつもりか、と」

 

 マルクトが行ったことは、けして許されることではない。

 だからといって、憎しみを受け継がせるほど愚かなことはない。

 どこかで必ず、誰かが断ち切らなければならないことだと、彼は言った。

 

「無知は罪であると同時に、幸運なことでもある。多分僕は、初めてその意味を理解しました。知ることがどれだけ苦しみを伴うのか、知ってたはずなんですけど」

「……彼女の、ことか?」

 

 一瞬、ガイが誰のことを言っているのか、戸惑って──会議室での出来事を思い出す。

 

「そう……ですね。だけど後悔はしてません。彼女の死について真相を知ったこと。ホド消滅の事実を、あなたに知らせなかったこと。一概に間違っていたとは思いません」

 

 結果的に、正反対な対応をとることになったけれど。

 どちらも、「こちらが正しかった」とは断言することはできない。

 どちらが反対になっても、利害は確実に存在する。

 

「今回のことでは僕、謝りませんから」

「そっか……なら、このことに関してはもう何も言わない」

 

 彼なりに思うことはあるだろうに、ガイはそこで会話を打ち切った。

 

「でも、さ。お前──」

「ガイ! スィン!」

 

 続いて何かを言いかけたガイの言葉を、二人の姿に気付いたナタリアによって打ち消される。

 見れば港の小さなスペースにアルビオールが鎮座しており、その傍には二人を除く全員が集結していた。

 

「両陛下から、テオドーロ市長に外郭大地降下作戦は一任されたようです。瘴気についてはユリアシティの技師をベルケンドに派遣したとか」

「で、いよいよ私たちに地殻の振動を止めて欲しいって!」

 

 両の拳をぐぐっと握り、興奮気味のアニスと比例してジェイドはどこか口調が冷めている。

 普段どおりだがアニスがいるからそう見えるのか、それとも心に何か、思うことがあるのだろうか。

 

「なら、シェリダンに行かないとな。タルタロスの改造が終わっていればいいんだが……」

「大丈夫でしょう。なんせシェリダンめ組とベルケンドい組が珍しく手を組んでいるんですから」

 

 思わし気に顎へ手をやるガイを見上げて、スィンはそう励ました。

 亀の甲より年の功とはよく言ったものである。それは目の前にいるこの若年寄でも説明がつくはずだ。

 流石にそれを口に出すのはためらわれて、言葉もなくジェイドを見上げる。

 ところが。

 

「では、行きましょうか」

 

 スィンが彼の眼を見る直前、彼はぷいっときびすを返してアルビオールへ乗り込んだ。

 

「……?」

 

 偶然か、それとも故意なのか。

 それは、アルビオールがシェリダン郊外にある専用地に降り立つまでに、明らかとなった。

 誰も何も言おうとしないが、雰囲気が、全員承知であることを示している。

 アルビオールがシェリダンに到達するまでの数時間、ジェイドはついに一度としてスィンと接触を図ろうとしなかった。会話どころか、眼すら合わせようとしない。まるで腫れ物に触るかのような、彼にしては珍妙とも取れる態度である。

 微妙な空気が漂う中、一行はついに集会場の扉を押し開けた。

 中では、シェリダンめ組メンバーたる二人が何やかやと話し合っている。

 それも束の間、その中の一人、色黒の老人──イエモンが彼らを認めると同時に口を開いた。

 

「おお、あんたらか。タルタロスの改造は終わったぞい」

「そうか! さすがだな!」

 

 ルークの惜しみない賞賛に、彼はただでさえ細い瞳を更に細くして「ふぉふぉふぉ」と笑いかけた。

 

「年寄りを舐めるなよ。タルタロスはシェリダン港につけてある」

「あとはオールドラント海を渡ってアクゼリュス崩落後へ行くだけさ。そこから地殻に突入するんだよ」

 

 それだけだったら、話は早かったのだが。残念なことに、彼らの説明は続く。

 

「ただ注意点がいくつかあるぞい。作戦中、瘴気や星の圧力を防ぐため、タルタロスは譜術障壁を発動する。これは大変な負荷が掛かるのでな。約百三十時間で消滅してしまう」

「百三十時間ってずいぶん半端だな」

 

 単なる感想であろうルークのぼやきに、イエモンは眉尻を下げて「負荷が強すぎるんでな」と説明した。

 

「ここからアクゼリュスへ航行して、地殻までたどり着く時間を逆算してなんとか音機関を持たせてるんじゃ」

「それと、高出力での譜術障壁発動には補助機関が必要なんだよ。あんたたちが地殻突入作戦を開始すると決めたら、あたしらがここから狼煙を上げる。すると、港で控えているアストンが譜術障壁を発動してくれる」

「つまり俺たちがこの街を出発する時間から、限られた時間も消費されていくってことだな」

 

 続くタマラの説明に、ガイを初めとする各々が、時間に対して相当余裕がないことに懸念を示している。

 

「ここからアクゼリュスまではタルタロスで約五日。地殻突入から脱出までを十時間弱で行えということか……これは厳しい」

「ほんの少しの遅れや失敗も、命取りってことね」

 

 ジェイドに続き、自らをも律するような口調のティアに、イエモンは首肯を示して説明を続けた。

 

「脱出はアルビオールで行う。そのために、圧力を中和する音機関を取り付けねばならん。作戦を開始すると決めたら、アルビオールはこちらで港に送る」

「音機関を取り付けたら、アストンがタルタロスの格納庫に入れておいてくれるよ」

 

 タルタロスを沈めてしまう以上、それ以外一行が無事帰還する手段はない。

 だが、ということは。

 

「……じゃあ、作戦が始まるとアルビオールは使えないんだね」

「そうさ。そうなってからじゃ、他の街に買い物へ行くこともできないよ」

 

 流石に他の街へ行くほど大切な用事はないが、アニスの言葉にタマラは冗談めかして答えた。

 

「だからやり残しがないか、よく考えてから作戦を始めとくれ」

「さ、わかったら準備をしてくるんじゃ」

 

 イエモンの言葉に、ルークがくるりと一同の顔を見やる。

 彼としてはすぐにでも始めるつもりなのだろう。だが一応皆の都合を確かめる所存なのだ。

 成長したなー、と、内心でスィンは思う。

 

「皆はどうだ? 何か用事とか、あるか?」

 

 一人一人に確認を取る最中、「はい!」と挙手して用事の有無を主張するのはアニスだった。

 彼女一人に視線が集まる中、アニスは小さく咳払いをした後で、スィンに視線を向ける。

 

「ね。確か今日の買出し当番って、スィンだよね?」

「違いますわ、アニス。今日はルークの番だったはずですわよ」

 

 猫なで声に近いアニスの言葉を否定したのは、わざわざ荷袋から当番表まで持ち出したナタリアだった。

 アニスは一瞬、アテが外れたように口ごもった後で、わざとらしく首を傾げている。

 

「あ、あれ、そだっけ? でも私、是非ともスィンに行ってほしいんだけど……」

 

 言いながら、アニスは手に持っていたメモをスィンへ手渡した。

 リストを見て、彼女は納得したように軽く頷いている。

 

「いいよ。行ってくる」

「ホント!? ありがとうスィン、おつりは好きに……あ、やっぱりナシ。今度代わってあげるから」

「買ったものはアルビオールに預けとくね。後でタルタロスに移そう」

 

 そしてスィンは、共用財布とメモを手にきびすを返して出入り口の扉に手をかけた。

 ナタリアを筆頭とする何人かは当惑した視線を隠さないものの、アニス一人がぱたぱたと手を振って、にこやかに送り出している。

 

「行ってらっしゃーい♪ そんなに急がなくていいからね~」

 

 その声に応えて、スィンは軽く手を挙げた。そして、集会場の扉が閉まる。

 その足で食材を扱う商人が、いつも根城にしている酒場へ赴きつつも、何らかの意図をもって自分に席を外させた少女のことを考えていた。

 おそらく、今頃はジェイドあたりに尋問が始まっていることだろう。ただスィンへの悪口雑言を言うために買い物を頼んだとは考えにくい。

 あの若年寄相手に何をどこまで聞きだせるものか。そんなことを考えつつも、買出しは順調に済む。

 さてアルビオールの貯蔵庫に仕舞ってこようかと、アルビオールが停泊している郊外へ足を向けた。

 そこに。

 

「あれがアルビオールだ! 速やかに破壊しろ!」

 

 聞いたこともない男の号令が飛び、物陰からわらわらと神託の盾(オラクル)騎士団が支給する鎧をまとった兵士たちが、アルビオールへ群がっていく。

 遠目では、ギンジ、ノエル兄妹がアルビオールの調整を執り行っていたらしく、突如現われた兵士たち相手にただ、戸惑っているように見えた。

 ──などと、呑気に見物している場合ではない。

 

「遥か彼方の空へ我、招くは楽園を彩りし栄光。我が敵を葬り去れ、荒らぶる神の粛清を受けよ! アースガルズ・レイ!」

 

 アースガルズ・レイ──古代秘譜術による光の奔流に飲み込まれ、兵士たちは次々と姿を消していく。超高熱を孕んだ光は肉体をあっけなく消滅させ、後には彼らの装備品である兜や剣が、原型を留めずして転がるのみだ。

 接敵する前だったからよかったものの、混戦ともなればギンジもアルビオールも巻き込んでいたことだろう。

 その威力、マリィベルの扮装をしたまま行使したときとは桁が違っていた。

 何せ、兵士たちが踏んでいた大地まで灼熱にさらしており、焼かれた土が焦土と化している。

 

「二人とも!」

 

 その間にも、スィンはノエルたちのもとへ駆け寄っていた。

 ざわめきに見やれば、騒ぎを聞きつけて様子を見に来た技師たちが、ぱらぱらと集まりつつある。

 

「スィンさん、一体何が……」

「それは僕が聞きたい。とりあえず、ちょっとどいてね」

 

 戸惑いを隠さないノエルに、スィンは偽りない本音を語っていた。

 とにもかくにも、アルビオールに乗り込んで荷袋を貯蔵室へ放り込む。これで両手が使えるようになった。

 素早くアルビオールから降りれば、技師たちに話を聞いていたギンジが駆け寄ってくる。

 

「シアさん! 神託の盾(オラクル)騎士団兵士が、傍の海岸から大量にやってくるらしいです! まさかこれが話に聞く、ローレライ教団の妨害じゃあ……!」

「その危険性は十分にある……ノエル、今すぐにアルビオールで港へ向かって!」

「さ、作戦を開始するんですか?」

「そういうこと。港から来たわけじゃないなら、まだ制圧はされてないかもしれない。危険だと思ったら逃げてくれていいから、さあ!」

「……わかりました!」

 

 アルビオールに飛び乗るノエルを見送る暇も惜しみ、スィンはギンジに向き直った。

 

「僕は街の入り口で兵士の侵入を防ぐから、事情を説明して……」

「狼煙を上げるんですね、任せてください!」

 

 計画の詳細は彼にも伝わっているらしく、脱兎の勢いでギンジは駆け出していく。

 大変なことになった、と思いつつ、シルフに呼びかけ、彼女の目を借りて港の状況を探った。

 ほんの一瞬だけ、慌ただしくはあるが兵士の姿はない港の様子が、脳裏をよぎる。

 スィンは街の南に位置する入り口を目指して走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百十七唱——外れる道に、茨が茂る

 

 

 

 

 

 

 

 数瞬の沈黙の後、満足げにくるりと振り返ったアニスを、ガイが不思議そうに尋ねた。

 

「アニス、あいつに何を見せたんだ?」

「ただの買出しリスト。ただし、ルークの嫌いなものがのっけてあるの。スィンだったら下手に何か言わなくても、ルークは嫌いなものを売り切れとか言って買ってこないかも……って勘ぐってくれるから」

「なるほど」

 

 納得するガイに、どういうことなのか見当もついていないルークがくってかかる。

 ティアもナタリアも、何となく想像がついているのか、何かを尋ねようとはしていない。

 

「って、お前初めからスィンに席外させるつもりだったのか?」

「だってそうじゃないと、大佐が素直に答えてくれないじゃん」

 

 ねー大佐v と言わんばかりに、彼女は満面の笑顔を彼に向けている。

 ジェイドはジェイドで、多少の予測はついていたのか、軽く吐息を零して軽く腕を組んだ。

 

「……何をですか? アニス」

「とぼけたって無駄です、もちろんスィンのことですよ! なんだってあんな態度取るんですか」

 

 眼鏡の奥で、紅玉の瞳が鋭くすがめられた。

 その様を目にして、ルークはやっとこさアニスが何を企んだのかを察している。

 対してジェイドは、どこか斜に構えた風情であっさり受け流した。

 

「さて、何故でしょうね」

「何故でしょうね、じゃあないですぅ。別に私は、大佐がスィンと喧嘩してたって首突っ込む気はないです。でも、今は地殻突入なんて大仕事前なんですよ? ちょっとした喧嘩が大事故に繋がるかもしれないのに」

 

 もっともなアニスの指摘に、彼は嘆息をつきつつも眼鏡の位置を調整している。

 しかし、そこへナタリアが至極不思議そうに口を挟んだ。

 

「そもそも、大佐はスィンと喧嘩をしているのですか? わたくしは、二人とも会議室以降アルビオール前でしか、顔を合わせていないように思っていましたが」

「確かに、それまでスィンは私の家にいたはずよ。そして大佐は、確かピオニー陛下と言葉を交わした後は、おじいさまのところにいたはず。喧嘩のしようがないのでは……」

 

 ティアも、当時を思い出すように考察を論ずる。

 女性二人の疑問に答えるように、ジェイドは観念した様子で口を開いた。

 

「確かに、今回は何もありませんよ。私が一方的に、彼女を避けているだけですから」

「やっぱりか。スィンも、旦那の様子に戸惑ってたみたいだからな。最も、あまり気にしてないみたいだから、ひょっとしたら諍いのひとつでも、と思っていたんだが」

 

 こうなると、気になるのはジェイドの態度の理由である。

 何もないはずなのに、何故スィンを無視するような態度を取るのか。

 それを憂えるように切り出したのは、導師イオンだった。

 

「ジェイド。それではやはり、会議室でのことが原因ですか。それも……」

「イオン様。ひとつお尋ねしたいことがあります」

 

 珍しくイオンの言葉を遮り、ジェイドは今まで疑問に思っていた事柄をぶつけている。

 資質のない彼では絶対にわからない、この世界の根幹に関わる現象のことを。

 

預言(スコア)を詠む、というのは、本を読むようなものだと、預言師(スコアラー)が言っていました。それは人の生死に関わる秘預言(クローズドスコア)でも同じなのですか?」

「はい。僕たちは基本的に、ユリア・ジュエの詠んだ譜石をもとに預言(スコア)を詠みます。だから預言師(スコアラー)も導師も、詠まれた譜石の内容に対して解析が必要になるんです」

「……そのはず、ですよね。ならば何故、あんな……」

 

 彼が気にしていたのは、スィンが語った『彼女』の様子についてであった。

 具体的な描写だけならまだしも、彼女はまるで実際にその光景を見たかのように語っている。

 同じことを不思議に思っていたと言うイオンが、自分の推測を口にした。

 

「これは僕の想像なのですが、スィンはおそらく預言(スコア)を詠んでいません」

「……?」

 

 おかしな話である。預言(スコア)なくして、一体どうやって彼女は事実を知ったというのだろうか。

 

「かのユリア・ジュエは、実際に起こりうる未来にすべて目を通し、その結果巨大な譜石を作られたとあるんです。このことから、ユリアは預言(スコア)を詠んだのではなく、ローレライの保有する未来を視たとされています」

 

 イオンの語る言葉が、何を示すのか。それを察した一同は、一様に静まり返った。

 以前、スィン自身の語った、荒唐無稽な言葉が、思い起こされる。

 口火を切ったのは、ユリアの子孫にして譜歌を受け継ぐ、ティアだった。

 

「……じゃ、じゃあ、スィンは、ユリアと同じように預言(スコア)が、預言(スコア)となる前の未来視ができる……ってことです、か?」

「ユリアに近い振動数であり、記憶や知識を多々備えていることを考えれば、その可能性は大いにありえるんです。この場合彼女が行ったのは、過去視になりますが」

 

 彼女自身の証言とマルクト皇帝の話を統合すれば、先天的な素養がなければ詠めないとされる秘預言(クローズドスコア)の内容を、スィンはわずか七歳にして知っていたことになる。

 スィンがシアとして神託の盾(オラクル)騎士団に所属していた時期なら、違反ではあるものの自力で詠んだのではなく盗み見た可能性も考えられるが、この幼年では説明がつかない。

 彼女自身が過去話した証言と、それに伴う事実とを鑑みるならば、そう考えるのが一番自然だった。

 

「だがジェイド、仮にスィンがそうだったとしても、それとあいつを避けることに何の関係があるんだ」

「……あそこまで詳細を知られているとは思わなかった。これが率直な感想です」

 

 ガイの言葉を答えると同時に、彼は半ば自分を納得させるような調子で言葉を発している。

 その顔には、紛うことなき悔恨が、くっきりと現われていた。

 

「つまり彼女は、私が何をしたのかも、つぶさに知っているのでしょう。とうに理性が千切れていてもおかしくなかっただろうに、耐え抜いて……今も、耐え続けている」

「だが、スィンは旦那とよく些細なことでも喧嘩していたじゃないか。今までのあれは、本音の裏返しにはならないのか?」

「──慰めは結構ですよ、ガイ。真実は彼女しか知らないし、そう思い込んで安心することすら、私には許されない」

 

 半ばじゃれあいのようなあのやりとりだけではない。

 ともすれば、スィンがこれまでジェイドと接してきた態度も、すべて演技だったかもしれないのだ。

 

「いくら何でも、それは……!」

「ありえない、と言い切れますか? 私とて、そんな馬鹿なと笑い飛ばせたらどんなにいいかと、夢想しましたよ」

「けれど……」

「現実として、彼女は私を憎んでいながら、まるで何事もなかったように振舞っていた。秘めた思いを隠し続けることは容易でなかったはずなのに、私たちの誰にも事実を悟らせずに。事情を知っていた陛下によって、私は初めて事実を知らされたんです。ケテルブルクに乗り込んできたという彼女が陛下と巡り合っていなければ、私は一生、気付かなかったでしょうね。この因縁も、彼女の苦悩も」

 

 普段が普段なだけに、悪循環な思考に陥ってしまったジェイドに歯止めをかけるのは難しい。

 加えてスィン自身も尋常とは程遠い存在もあってか、否定しようとしたナタリアは完全に言い負かされている。

 

「突き詰めてそのことを考えていたら、自然と彼女の顔すら見ることができなくなった。これが、私の奇妙な態度の理由です。疑問が晴れて満足ですか? アニス」

 

 彼に心情を吐露させる原因を作った張本人に視線をやって、ジェイドは口を閉ざした。

 一方で、当の本人は臆することなく言ってのけている。

 

「……踏み入ったことを聞いたのは、失礼しました。でも私は、謝りません」

「アニス……」

 

 イオンの控えめな制止に、珍しく彼女は耳を貸さなかった。

 口にこそ出さないが、「イオン様は黙っててください」と言いかねない雰囲気をまとっている。

 

「だって大佐は結局、自分がしたことから、スィンからも逃げてるだけじゃないですか! 詳しい事情はよくわからないけど、部外者の私だってそれだけはわかります」

「そこまでだ、アニス。気持ちはわかるが、それ以上はダメだ」

 

 アニスの指摘に、ジェイドがわずかに目を見張る。

 指摘を続けようとするアニスに対し、ガイが彼女の前へと立ち塞がった。

 

「ダメじゃないよ、ガイ! 珍しく大佐が何か勘違いしてるんだから、ここでビシッと正して大佐の中でアニスちゃんの株を大幅アップ!」

「部外者だってわかってるなら尚更だ。俺たちは口出ししちゃいけない。このことに関しては、旦那がサシでスィンと決着をつけるべきなんだ」

 

 冗談なのか本音なのか、図りかねるアニスのボケをスルーして、ガイはあくまで真摯に発言を差し止めている。

 スルーされたアニスとしては、嫌でも真剣になって応じるしかない。

 

「……そりゃそうだけど、ガイは気にならないの? せっかく仲直りしたと思ったのに、あの空気がまた漂うのは私、ゴメンなんだから」

「そいつは俺も同意見だ。ついでに言うなら詳しいこともわからん。だがな、繊細な問題だってのはわかるだろう。こういうのは他人がどうこう言ったってどうにもならないさ」

 

 彼の言葉に対し、アニスはつぶらな瞳をまん丸にして首を傾げた。

 

「ほえ? ガイも詳しいことはわかんないの? ガイのことだから、どういうことなのか、今度こそ質問攻めにしまくったと思ってた」

「……聞いたさ。グランコクマでの後からずっと、何十回と。結局何一つ教えてくれなかったよ。挙句の果てには、『それを聞いてどうするのか。聞いたってどうにもならない。同じ気持ちになってほしくない』と言われる始末さ」

 

 アニスを諭していた力強い瞳が一転、悲しげに歪められる。それを見たアニスが、気まずげに、彼から眼をそらした。

 その時。バァン! と激しく乱暴に、集会場裏口の扉が開く。

 一行が一様に眼を向ければ、そこにはつい先程慌ただしく出て行ったイエモンとタマラが、厳しい表情をたたえて立っていた。

 

「どうしたんですか?」

「事情が変わってしまったんじゃ。急いで港へ行け!」

「一体何が……」

 

 ティアの問いかけに、イエモンが語気荒く言い放つ。

 反論しようとしたナタリアが、息を荒げたタマラによって遮られた。

 

「ついさっきアルビオールが襲われたのよ! シアお嬢ちゃんが助けてくれたからよかったものの、アルビオールどころかギンジもノエルも殺されるところだったわ!」

「例の兵士どもが、このシェリダンに押し寄せてきとるんじゃ! お嬢ちゃんの機転で計画は始まっておる。もう狼煙が上がるところじゃ」

 

 そこへ。足音も高らかにギンジが、集会場正面扉から駆け込んできた。

 

「現在、シアさんが正面の門で兵士を食い止めていてくれます! 伝言を預かってきました、皆さんはこのまま、北門から港へ向かってください!」

「あいつを置いていけって言うのか!?」

「たっ、タルタロスの移動なら、皆さんで事足りる。シェリダンに押し寄せた兵士を片付けてからでは到底間に合わない。更に港へも、兵士が殺到している可能性が高いと言っていました。港へは行くつもりだが、間に合わないなら置いていってくれ、と……」

 

 眦を吊り上げたガイに、ギンジは多少脅えながらも、スィンが唱えたと思しき推測を語る。

 合理性を、制限時間を考えるなら、正論以外の何者でもない。

 イエモンやタマラも、そのあたりは心得ているらしい。口早に、地殻突入後のことを説明している。

 

「地殻到達後、タルタロスの振動装置を起動させたら、アルビオールでタルタロスの甲板上に移動しとくれ」

「甲板に上昇気流を生み出す譜陣が書かれておる。それを補助出力にして、脱出するんじゃ」

「アルビオールの圧力中和装置も、三時間ほどしか持たないよ」

「急いで脱出してくれないと、ぺしゃんこになるぞい」

「何から何まで命がけか……」

 

 スィンが戻ってきてから明かされただろう事実に、ルークが小さく呻いた。

 

「そんなことより、ホントにスィンを置いてくの!?」

「確かに、計画が発動されているなら時間はないわ。けど……」

 

 スィンが兵士の足止めをしているなら、囮としての意味合いも高い。

 六神将が来ていれば、その効果は更に飛躍することだろう。

 しかし、それがわかっていても。彼女の了承があったとしても、その案には承服しかねた。

 

「……ですが、仮に作戦が成功しても、その後で孤立したスィンに何が起きるかも気がかりです。いくら彼女でも、六神将総がかりで来られたら……」

「ダメですわ! わたくしが……タルタロスの操縦ができないわたくしが残って、スィンを援護します! 皆は行ってくださいませ、さあ!」

 

 ジェイドの言葉を真に受け、弓を掴んで今にも集会場から飛び出そうとするナタリアを、慌ててルークが止めにかかる。

 

「落ち着けよナタリア! お前一人残ったって、状況は変わらな……」

「なら俺が残る! ジェイドの旦那、すまないがナタリアに指導を頼んだ!」

「ガイ!」

 

 スィンの援護か、作戦遂行か。

 この緊急時にふたつの選択を迫られ、にっちもさっちも行かなくなった一同は──

 

「何をグズグズしてやがる、お前ら!」

 

 そんな一喝で、ぴたりと喧騒を沈めた。

 

 

 

 

 

 



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第百十八唱——肉を引き裂き、鮮血を吸い込む瞬間を待ち望みながら

 

 

 

 

 

 

 

 シェリダンの南、正面ゲートから外へ飛び出す。

 先ほどやってきたのは先遣隊か偵察隊の類だったらしく、そこに神託の盾(オラクル)騎士団の姿はない。

 ただ、もうその姿が確認できる位置まで、一小隊クラスの兵士たちが近づきつつあった。

 

「シルフに願う。僕の眼となり、耳となっておくれ」

『あいあいさー♪』

 

 視界を閉ざし、遥か南に位置する港の様子を探る。港には、ざわめく人々の中心にアルビオールが着陸していた。操縦席から転がり出てきたノエルが、駆け寄ってきた技師たちに事情を説明する。

 彼らの一部は高台へと登り、兵士がやってくることに気付いたらしい。

 アストン、ヘンケン、キャシーらの指示に従い、技師たちが慌ただしく準備を始めていた。

 この調子なら、すぐに狼煙は上がることだろう。スィンはシルフに礼を言って、瞳を開いた。

 砂塵の彼方に、神託の盾(オラクル)騎士団の姿が垣間見える。

 できるだけ、近寄らせないようにしなければ──

 彼らの狙いは、港へも向かっていった時点で地殻突入作戦の妨害だろう。となれば、ルーク達一行のみならず、協力した技師らもただではすまない。

 

「天空を踊りし雨の友よ。我が敵をその眼で見据え、紫電の槌を振り下ろさん……」

 

 つまり、手段を選んでなどいられないのだ。

 確実に相手を屠らなければならない。

 

「インディグネイト・ヴォルテックス!」

 

 足元で譜陣が輝き、すぐに消える。対象の周囲に譜陣が展開したためだ。

 兵士らの姿を認めたあたりで、稲光が認められた。対象を囲みこむ帯電した嵐に引き続き、上空から降り注ぐ雷撃の連打は確実に兵士の何人かを消し炭へと変えているだろう。

 だからといって全滅したわけではないのだ。手は、緩めない。

 

「炎帝に仕えし汝の吐息は、たぎる溶岩の灼熱を越え、かくて全てを滅ぼさん──サラマンド・フィアフルフレア!」

 

 譜陣が出現しない代わりに、彼方で炎柱が吹き上がる。

 地面から吹き出した蒸気は全身鎧をまとう兵士を蒸し焼きにし、追撃として立ち上る炎柱が渦を巻いて対象を火葬するという古代秘譜術だ。

 ──マリィベルの扮装時に行使すれば意識を保つことすらできなくなるこの術、もちろん本来の姿であっても消耗は激しい。

 ふーっ、と息をついて、門に手をつき、ふらつく体を支える。

 これで多少兵士の数は減っただろうが、楽観はできない。そう遠くもない未来に大挙するだろう、対処しなければ。

 正規の譜術士ではない上、譜術士の訓練もロクに受けたことのないスィンは、元来譜術は使えない。譜術そのものに関する知識は多々備えているものの、実践に関してはせいぜい、特務師団長時代ヴァンがアッシュに行った訓練を見学し、ダアトの蔵書でかじっただけだ。

 それゆえに、スィンは古代秘譜術しか使えない。

 蔵書を見て思い出した古代秘譜術そのものの知識を、正規の譜術士ならば知らないわけがない常識すらわからなかったスィンが、今の自分でも扱えるようにアレンジしているのだ。

 旅の中で、ジェイドやアニスの使う通常の譜術に興味がなかったわけではない。

 興味こそあったが、悠長に習っている余裕はなかったし、それに──

 

「シアさん!」

 

 呼ばれて、伏せかかっていた瞳を開く。

 振り返れば、ギンジが息も絶え絶えに駆け込んできた。

 

「狼煙の話を通してきました。急いで皆さんと合流して、港へ向かってください」

「ご苦労様。お疲れのところ恐縮ですが、皆に伝言をお願いしたい」

「え?」

 

 呆けるギンジから眼をそらし、彼方を見やる。兵士たちの姿は、随分大きくなっていた。

 彼らの足は、止まることを知らない。

 

「このまま南門で防戦する。皆は北門から連中の目をかいくぐって、港へ行ってほしい」

「ええっ!?」

「タルタロスの移動なら人数分足りてるはず。向かってくる兵士を片付けていたら、とてもじゃないけど時間が足りない。それでなくても港に行かれてタルタロスが沈められでもしたら、どうにもならない。だからといって、シェリダンをほっとくわけにはいかない。ある程度片付いたら港へ行くつもりだけど、置いていってくれても構わないから」

 

 躊躇するギンジをせかして伝言に向かわせ、スィンは血桜に手をやった。偵察だか何だかわからないが、荒野の砂塵を蹴って疾走する一匹の馬が猛接近してきたからだ。

 狙い撃ちができないほど素早いわけではないが、術を使うにはもう少し休みたい。

 単なる一兵士、加えて乗馬しているのならば、馬に攻撃して落馬させるという手が使える。

 爆走する騎手の姿が、徐々に明らかとなった。

 一兵士ではないらしく鎧は着ておらず、黒を基調とした師団服の、目が覚めるような真紅の髪を翻した──

 

「へ?」

「おい、一体何がどうなってやがる!?」

 

 瞬く間に南門に到着し、軽やかに馬上から着地したのは誰あろう鮮血のアッシュだった。

 呆気にとられるスィンに詰め寄り、困惑したように彼方を見やる。その眼には、神託の盾(オラクル)騎士団兵士たちの姿が映っていることだろう。

 

「何でここに、っていうのはいいとして、見てわかるでしょう。地殻突入作戦を前にして、連中が妨害に来た。皆には先に行くよう伝言を送って、囮とシェリダン防衛のために僕はここにいる」

「あんたは行かないのか?」

「ついさっき、急にアルビオールが襲われたんで独断で計画を始めちゃった。行くつもりだったけど、間に合わなかったらお留守番。参ったな、君が来てるなら港の防衛を頼めばよかった」

 

 軽くため息をついて、ちらりと集会場を見やる。

 今のところ動きはないように見えるが、もう皆は北門へ向かったのだろうか。

 

「……俺のほうからあんたに連絡することはできない」

「そうだね。だからそれはいいとして、常駐してるキムラスカ軍、呼んできてほしい。雑兵はいいとして、六神将クラス……ヴァンが来ている可能性だってあるから」

 

 単なる兵士だけならば、たとえスィン一人でもどうにかできないことはない。が、片手間に六神将クラスの相手となれば、勝敗関係なく生存することも難しくなる。

 更に、援護するつもりなのか何だかわからないが、門の内側には工具や武器屋店主が配布した武具で武装する技師たちがいるのだ。スィンが出たら門を閉めるよう技師のひとりに伝言を頼んだのだが、未だ門が閉じられる気配はない。

 もっとも、アッシュがやってきたから、今のところは好都合なのだが……

 

「使い走りさせるみたいで悪いけど、ガイ様にこれ、渡してほしいんだ。もういなかったら、後で返してくれればいいや」

 

 首から提げたロケットを外し、アッシュに渡す。

 使い走り、という単語で眉間に皺を寄せたアッシュだったが、表向き特に文句を言うでもなく、素直に受け取っている。

 

「……気を抜くなよ」

「了解」

 

 短く言葉をかわして、すれ違う。

 アッシュの乗っていた馬の尻を叩けば、もうそこまで迫りつつある兵士の敵意に脅えてか、馬はどこかへ走り去っていった。

 そして──

 

「……女狐!?」

「こんにちは、神託の盾(オラクル)騎士団主席総長付き副官、第四師団師団長、リグレット奏手」

 

 兵士を従え、警戒もあらわに譜業銃を引き抜くリグレットに対し、スィンは血桜を引き抜くこともせず迎えた。

 

「警戒しろ! 道中の譜術襲撃は、身を潜めた死霊使い(ネクロマンサー)である可能性が高い!」

「今まで警戒してなかったんだ」

 

 のんびりと茶々を入れる。理由は述べるまでもなく、時間稼ぎに囮だ。

 今のうちに彼らが、港へ向かっていてくれるといいのだが……

 それに応じることなく、リグレットは語気荒く言い放った。

 

「偵察部隊の消息が途切れたのも、貴様らの仕業か!?」

「裏方のくせに、アルビオール破壊なんて突っ走るのが悪い」

 

 おそらく武勲を急いでの強攻だったのだろうが、それが裏目に出たことは彼女も察したらしい。

 細面の顔立ちを怒りに歪め、歯噛みしているのがよくわかる。

 

「他の連中はどうした。地殻の振動を止めるのではないのか」

「さあて、どこにいるんだろうね」

 

 嘘ではない。現時点において、スィンは彼らがどこにいるのか知らないのだから。

 しかしリグレットは、スィンが狙った以上に深読みをしたらしい。

 

「いかな貴様とて、この人数を食い止めることはできまい。その気になれば、我々はシェリダンを狙うこともできるのだからな。余計な犠牲を生みたくなくば、無駄な抵抗はやめて武器を捨てろ!」

「どっちが無駄な抵抗してると思ってる? 今しがた、余計な犠牲生みまくったくせに」

 

 初めに見た一個小隊から随分少なくなっている兵士団を見回して、スィンは憎たらしげに皮肉った。

 けしてよくは思っていないだろうスィンの揶揄を受け、リグレットの柳眉が、これ以上ないほどに逆立つ。

 

「貴様……ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻。

 真紅の長髪を振り乱して放たれた彼の一喝によって静まった一行には、当惑が広がっていた。

 

「あ、アッシュ……!? どうしてここに」

「そんなことを悠長に話している場合か! 兵士どもに制圧される前に、早く港へ」

 

 当惑とかすかな喜びを浮かべるナタリアに叱咤するも、その言葉は中途でかき消された。

 何故なら、初めてアッシュを眼にしたギンジがルークとアッシュを交互に見るなり、驚愕の一言を放ったからだ。

 

「る、ルークさんが二人!?」

「「こんなのと一緒にすんじゃねぇ!」」

 

 オリジナルとレプリカによる、見事な罵声のハーモニーがここに実現する。

 それは一度の奇跡に終わらない。

 

「「誰がこんなのだと!?」」

「「てめえに決まってんだろうが!」」

「「ふざけんじゃねーぞ、この」」

「屑が!」

「でこっぱちが!」

「「なんだと!」」

 

 そのまま牙をむき出しにして睨み合う獣の如く、半ば唸りながら顔をつき合わせていた二人だったが、ふとアッシュが我に返った。

 

「っ、そんなことをしている場合じゃねえんだよ! 何をやらせんだレプリカ野郎!」

 

 最後に悪態をついて、視界からルークを追い出す。

 そして彼はガイの名を呼び、それまで握っていたものを放って寄越した。

 

「シア……スィンから、お前に渡せと言付かっている」

「スィンから……」

「あいつのことは任せろ。必ず港へ送り届ける」

 

 そのままきびすを返して出て行こうとするアッシュだったが、「待って!」というナタリアの言葉が後ろ髪を引く。

 

「あなたはどうするのですか!? まさか兵士たちを、スィンの代わりに引き受けるつもりでは……」

「常駐しているキムラスカ軍に事情を説明し、援護を求める。数が数だからな……ナタリア」

「何ですの?」

「……き、気を……いや、何でもない」

 

 振り向くことも、言いかけた言葉を完結させることもせず、彼は足早に立ち去った。

 持ち前の鈍さゆえに、何を言われかけたのか察することができなかったナタリアは、ただ黙って彼の出て行った扉が揺れる様を見つめている。

 

「さあ、急ぐんじゃ!」

 

 あまりに激しい一行の口論に口を挟むことができず、ただ手をこまねいて見守っていた二人が裏口を示した。

 こうなれば、アッシュを信じるしかない。

 一同はそんな共通の認識のもと、視線を交わしあい頷きあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百十九唱——合流、できたらいいな

 

 

 

 

 

 

 

 構えられた譜業銃が照準を定め、引き金に細い指先がかかる。

 一瞬たりとも間を置かずして放たれた射出弾を反射で避けた結果、門の一部が破損した。その音こそが、開戦を告げる物騒な調べとなる。

 一斉に剣を引き抜いた兵士たちに対して、スィンは唱えておいた古代秘譜術を発動させた。

 

「セイレネウス・タイダルウェイブっ!!」

 

 途端、幻想の海原が召喚される。

 暴れる海流が兵士たちに襲いかかりもみくちゃにし、立ち上る水流が津波と化して、飛沫型の衝撃波が殺到する彼らを一様に吹き飛ばした。

 展開された譜陣が消えると同時に、海原も消えて失せる。

 無論、それはリグレットも例外ではない。

 

「くっ……!」

 

 衝撃波のあおりをくって吹き飛ばされた兵士が期せずして彼女に激突する。飛沫型の衝撃波は耐えたものの、成人男性の体重と鉄の塊はどうにもならなかったのか。

 リグレットは譜業銃を手放す勢いで体勢を崩した。

 

「獅子戦吼!」

「うあぁっ!」

 

 そこをすかさず追撃し、リグレットという六神将の脅威を一時的に無力化させる。

 だが、とどめを刺しに追撃すれば、周囲の兵士たちにシェリダン入りを許してしまうだろう。

 

「リグレット様!」

 

 彼女の身を案じて叫ぶ手近な兵士の顔面に血桜をつきたて、沈黙を促した。そのまま、倒れている兵士や動きの鈍い兵士の鎧の隙間へ刃をこじいれていく。

 しかし、全員が全員古代秘譜術の餌食になったわけではない。

 

「貴様!」

 

 激昂し、斬りかかる兵士の一撃を回避し、下がる。反撃もできたが、健在である兵士は彼のみではない。

 他方向からの同時攻撃を捌き、更に予想される反撃をただ凌いでいては、スィンの体力と精神力が磨り減っていく一方だ。

 じりじりっ、と後ずさり、間合いを計った。そのとき。

 

「伏せなさい、お嬢ちゃん!」

 

 どこか丸っこい言葉と同時に異様な熱波を感じ取り、考えるよりも回避を選択していた。いくらなんでも、敵のまん前で這い蹲るなど危険すぎる。

 一足飛びにその場からの離脱を図れば、スィンの真後ろに現れたタマラが、譜業を抱えて豪快に炎を散布していた。

 近頃のお年寄りは過激である。

 

「タマラさん!?」

「直にキムラスカ軍が来るわ。それまで私たちで持ちこたえる。あなたも早く、港へ!」

 

 そんなよく通る大声で敵に情報を与えないで頂きたい。

 幸いリグレットは吹き飛ばされたまま、まだ戦線に復帰していないが……

 門のすぐ脇で躊躇していたスィンの傍を、タマラ参戦で気合を入れたらしい技師たちが『うおー!』と鬨の声を上げて逆に兵士たちへと殺到していく。

 戦い方こそ素人同然だったが、事前にスィンが減らしたために、人数では遥かに勝っていた。

 流石に譜業の火炎放射器などという物騒なものを抱えているのはタマラ一人だが……それでも危険なことに変わりはない。

 とはいえ、これだけ大規模な混戦ともなると、使える手段はただひとつとなってしまう。

 どうしたものかと悩んでいると。

 

「何をしている!」

 

 金属鎧が擦れ合う音を次々と奏でて、キムラスカ軍であることを示す朱色の色調が組み込まれた鎧の兵士らが続々と駆けつける。

 その後ろでは、アッシュが仏頂面で彼らの後についてきていた。

 更に。

 

「みんな、下がるんじゃ!」

 

 集会場すぐ傍のため池らしい場所に、譜業を取り付けたイエモンが棒状の何かを構えている。

 直後、その棒状から凄まじい水流が発生し、足並みそろえて退避した技師たちを唖然と見送っていた神託の盾(オラクル)兵士たちに直撃した。

 

「「うわああっ!」」

「このシェリダンを襲おうなんぞ、五十年早いわ!」

 

 ふぉふぉふぉ、と高笑いを上げた老人だったが、次の瞬間には「うっ!」と呻いてその場に倒れこんだ。

 操作していた棒状が、操り手を失って沈黙する。

 水流がなくなったことをこれ幸いと、神託の盾(オラクル)兵士たちを捕捉するべく動き出すキムラスカ軍兵士たちをすり抜け、スィンはイエモンのもとへと駆け寄った。

 銃声がしなかったため、狙撃されたわけではないだろうと思っていたが……

 

「ど、どうしたんですか?」

「あたた……こ、腰が……」

 

 ……どうやら、水流放射による反動が腰にきたらしい。あるいはぎっくり腰でも起こしたか。

 ともあれ、無事に切り抜けることができた功労者を、労いの意味を込めて治癒すべきかと悩んでいると。

 

「まったくだらしないねえ!」

 

 譜業火炎放射器を携えたタマラがやってきて、譜業を無造作にその場へおいた。

 

「シアお嬢ちゃん、ありがとうねえ。おかげで助かったよ」

「安心するのはまだ早い。リグレットの姿がないんだ。単身港へ向かったのかもしれない」

 

 タマラの労いに答える間もなく、やってきたアッシュの警告に顔を引き締める。

 そう、シェリダンを護って終わりではないのだ。ほっとしている暇などない。

 

「あ、後のことはわしらに任せろ。気をつけるんじゃぞ! ……いたたっ」

「わかりました。イエモンさんも、お大事に」

 

 シェリダンを護りきった功労者たちに一礼し、アッシュの先導に従って街の外へと出る。

 彼の向かう先には、先ほど逃がしたはずの一頭の馬が、のんびりと少ない草を食んでいた。

 

「アレを使う。港まで送っていくから、少しでも休息を……」

「それには及ばない。僕一人で行くよ」

「だが……」

「二人分の体重はきっと負担になるよ。それに、第二陣、第三陣が来ないとも限らない。アッシュは、ここをお願い」

「……わかった」

 

 頷きあい、片手を打ち合って互いに健闘を祈る。

 軽く馬を撫で、一息に鞍へ飛び乗ったスィンは、振り返ることなく港へ向かった。

 追いすがる魔物を蹴散らしての全力襲歩は、スィンを乗せて走る馬の体力を犠牲にし、目覚しい速さで港へと到達した。

 その場で馬を解放し、身を低くして船着場へと向かっていく。

 港の中は静かだった。

 もう決着がつき、タルタロスが出港したからか、それとも──

 角を曲がったところで、スィンはぎくりと足を止めた。

 神託の盾(オラクル)騎士団特有の全身鎧をまとった兵士が、そこかしこで路上に倒れ伏している。死んでいるにしては、血飛沫どころか血臭も感知できない。

 注意深く近寄ってみれば、兜に刻まれる音叉型の隙間から、規則正しい寝息が聞こえてきた。

 ティアの譜歌では、意図的に威力を拡大しない限り、これだけの人数を眠らせることはできないだろう。しかしあれはかなり消耗するし、時間もかかる。

 そして彼らの剣が一様に抜かれているということは、まぎれもなくここで闘争が勃発しようとしていたのだ。

 発生しかかった闘争を、一瞬にして静めたというのは……ガスでも撒いたのだろうか。

 そんなことを考えつつも、次の角を曲がれた船着場まで一直線、という辺りに差し掛かって。

 

「……失策だな。リグレット」

 

 懐かしい、そんな声を聞いた。

 今すぐに駆け出したい気持ちを抑えて、角からそっと様子をうかがう。

 スィンに吹っ飛ばされてから、タマラの言葉を聞いて単身ここまでやってきたのか。

 リグレットは息を荒げながらも、譜業銃を取った。

 

「すみません。すぐに奴らを始末します」

 

 まずい──と思った矢先。

 急激な音素(フォニム)の動きがあったかと思うと、譜業銃を構えたリグレットは、輝きによって昏倒を促されていた。

 おそらくは、ジェイドの譜術。

 

「ルーク! いけません」

 

 ジェイドの攻撃に合わせてルークが追撃を仕掛けようとしたのか。

 ここから彼らの動きは見えないが、制止するジェイドにくってかかるルークというやりとりは聞こえる。

 ……もう、躊躇している暇もないらしい。

 

「どうして!」

「今優先するのは、地殻を静止することです。タルタロスへ行きますよ」

「……くそっ!」

「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を──」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 第一音素譜歌【夢魔の子守唄】ナイトメア・ララバイを放つ。

 ティアが知っているかどうかは定かでないが、譜歌は範囲を絞ることで威力の拡大が図れるのだ。

 下手に調節を誤ると味方どころか自分にも効果が及ぶため、易々行使できるものではないが……物陰に潜む今、集中するに事欠くことはなかった。

 

「んなっ……!」

「う……」

 

 人がどさどさと崩れ落ちていく音を聞きながら。

 スィンは唯一、視界に映るヴァン目掛けて一目散に駆けた。無論足音、気配に気を配ってなどいない。

 彼は睡魔に耐えつつも、あっさりと彼女の姿を認めた。

 片膝を立てて地べたに這い蹲るのを耐えるヴァンのうなじに、無言で抜き放った血桜を叩きつけ──

 

「くっ!」

 

 誘惑する夢魔の囁きを振り払うように。

 ヴァンは己の大剣をもってして、断頭台の如き迫る血桜の緋い刃から己の首を護りきった。

 鋼と鋼の激突する音が、波間の耐えぬ港に響き渡る。

 

「……っ」

 

 ヴァンの首を落とし損ねたスィンが、唇を噛んでその場から離れた。

 真後ろではなく、未だ佇むルークとジェイドの傍──彼らの眼前に、アストン、ヘンケン、キャシーがナイトメア・ララバイに抗えずか一様に倒れている。

 一方、ヴァンの傍には一人の老人が深淵にてたゆたっていた。

 リグレットが昏倒している今、この場で脅威とみなすはヴァン、一人しかいない。

 心臓を絶え間なく殴打されているような錯覚に陥りながらも、スィンは血桜を力の限り握りしめた。

 

 今なら、今ならば──! 

 

 血桜を正眼に構えなおし、今度こそとばかりに、踏み込もうと試みた矢先。

 

「スィン!」

 

 後ろから腕を掴まれ、踏ん張ることもできない力強さで引きずられる。視界が強引に先導するジェイドの背中に切り替わり、スィンは引かれるまま、肩越しに振り返った。

 未だ立ち上がらないヴァンの傍に、昏倒から立ち直ったリグレットが駆け寄っている。

 その光景に、張り裂けるような哀しみと、眼もくらむような激情を覚え。

 スィンはふところから煙幕弾を引きずり出し、無理なその体勢から投擲した。

 地面に激突した瞬間から、真っ白な煙が一面に立ち込める。

 

 

 

 

 

 

 



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第百二十唱——沈みゆくは、冥界の深奥と名づけられし艦艇

 

 

 

 一行を乗せたタルタロスが、全速力をもって航行する。

 総員──タルタロスの操縦経験者たちの尽力をもって安定航行が可能となり、慌しい出港からようやく一息ついたとき。

 一同の視線は口元に手布を押し当てたスィンへと向かった。

 

「スィン、色々聞きたいことがあるんだが……まずはこいつだ」

 

 口火を切ったのはガイ。

 彼は、アッシュ経由で渡されたロケットを彼女に差し出した。

 スィンは無言で、ロケットを受け取っている。

 

「その口はどうした?」

「ちょっと……弾みで、噛み切ってしまって」

 

 ナタリアにも促され、口元から布を外した。

 形のいい唇には痛々しい傷があり、未だに出血は止まっていない。

 治癒術をかけてもらえば傷跡すら残らない程度のものだが、果たしてこれを弾みで済ませられるものか否か。

 それを尋ねようとはせず、ナタリアは治癒術を行使した。

 

「スィン、ところでシェリダンはどうなったんだ?」

「そうだわ! 教官が追いついてきたから、もしかしたらと思っていたのだけれど……」

 

 リグレット出現により、彼らの心は随分乱れているらしい。

 彼らの憂いを払うべく、スィンはひとつ息をついて答弁をした。

 

「シェリダンは無事です。僕が確認した限り、死者は出ていません。あの後すぐにキムラスカ兵が来てくれたし、だけど、イエモンさんが……」

「! イエモンさんが、どうしたんだ!?」

「まさか流れ弾を受けて……!」

「ぎっくり腰を起こしたようで」

 

 ほぼ全員が脱力する中、当時の状況を説明していく。

 説明を受けて、ルークが耐え切れなくなったように抗議を上げた。

 

「ビビらせんな、あほ!」

「でも、スィンが間に合ってよかったよ。アストンさんもヘンケンさんもキャシーさんも、私たちの盾になろうとしてたんだ」

 

 今度はスィンが、港での状況を聞く番である。

 港に辿り着いたとき、彼らは譜業の催眠煙幕を用いて兵士たちを無力化していたこと。

 スィンを待つか、置いていくか。一行の中で議論が勃発したそのとき、ヴァンが現われたのだという。

 

「まさか御大自ら出てくるとはな……よほど、地殻停止は都合が悪いらしい」

 

 ヴァンの相手をしていたら、到底間に合わない。

 共に現われたスピノザの姿を見て、い組は自分たちが障害物になる、と一行の盾となったというのだ。

 そして、スィンは譜歌を使いヴァンに斬りかかって……失敗している。

 事の次第を知ったスィンは、がっくりと項垂れた。

 

「……絶好の、タイミングだったのに。仕留められなかった……」

「気にすることないわ。結果的に犠牲者なしで、ここまで全員で来ることができたんだもの。ここまでは、ほぼ理想的と言っても過言じゃない」

 

 妙に明るいティアの言葉が、スィンの鼓膜に響き渡る。

 珍しいのと同時に、その言葉は何よりも励ましになった。

 しかし、大きめのため息は止められそうにない。

 何度か深呼吸に見せかけたため息だったが、それは唐突に止まった。

 

「──そのため息は、ヴァンを仕留めそこなったことに対する自分への怒りですか? それとも、安堵ですか?」

 

 話の輪には加わらず、先ほどから一人で黙々とタルタロスの操縦を行っていたジェイドが、ボソリと呟くように言ったのである。

 久々に自分へ向けられた、彼の言葉。

 しかし、今のスィンにそれを気にかける余裕はなかった。

 席を立ち上がり、口元を押さえてふらふらと甲板へ続く扉へ向かう。

 

「スィン?」

「……ちょっと、酔ったみたい、です」

 

 ピタリと停止してガイに答える暇も有らばこそ、スィンは脱兎の勢いで甲板へと消えていった。

 嫌な沈黙が漂う。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぷはっ、えほっ……!」

 

 項垂れていたせいなのだろうか。

 胃の内容物を盛大に海原へ撒き散らしながら、スィンは苦悶に顔を歪めていた。

 気持ち悪い、だけではない。せいせいしない、というのはもちろんあるが、頭が痛いような気がする。

 片腕が妙に疼き、彼女は患部を軽く撫で擦った。

 最近吐き出すのに慣れてきたせいなのか、気持ち悪くてたまらない、吐きたくても吐けないという状態へ移行する前にすっきりすることができるようになってきた。

 こんな技能要らないと思いつつも、身についてしまったものはしょうがない。

 甲板から首だけ出した状態で、スィンは柵にもたれかかった。

 冷たい風が、火照った頬に心地いい。

 気持ちが落ち着いてくると、ジェイドの言葉が脳裏に響く。

 

『──そのため息は、ヴァンを仕留めそこなったことに対する自分への怒りですか? それとも、安堵ですか?』

「……」

 

 見抜かれている。

 流石は死霊使い(ネクロマンサー)と思うべきか、あるいは仲間たちも気付いていてあえて言わなかっただけだったのか。

 答えを出すとすれば、質問そのものを肯定するしかない。

 スィンはヴァンを仕留めそこなって落ち込んだと同時に、彼を殺さずにすんだことを安堵したのだから。

 ひょっとしたら、ティアも同じなのかもしれない。無意識だとは思うが、そう勘ぐっても仕方ないほどに、彼女の口調は明るかった。

 コツコツと、誰かの足音が聞こえる。

 誰かがスィンの様子でも見に来たのか、ふと後ろを振り返って。

 

「!」

 

 驚きで見張られた眼が、一瞬の瞬きと共に通常の状態へと戻る。

 歩み寄ってきたのは、それまでタルタロスの航行を調整していたジェイドその人だった。

 先ほどの言葉で仲間たちから批難を浴び、無理やりスィンのもとへと行かざるをえなかったのだろうか。

 甲板へやってきたのは彼の意思ではない表れか、その顔に普段の笑みはなく、切れ長の瞳は険しく見えた。

 それにしても、今彼と二人きりにされても困る。

 気まずいのもそうだし、ジェイドがスィンを避けているのもそうだし、そして何より彼からの謝罪など聞きたくない。

 小さく息をついて、とにかく甲板から離れようとジェイドとすれ違うように歩き始めた。

 

「少し前から、様子がおかしいと思っていましたが」

 

 突如として話しかけられ、思わず立ち止まる。

 立ち位置はちょうどすれ違う辺り、真横にジェイドは立っていた。

 彼は先ほどまでスィンがいた辺りを見つめたまま、微動だにしない。

 

「まさか──してるんですか?」

 

 決定的なその一言は、タルタロスに打ち付けられた波間に消えた。

 しかし、その言葉は至近距離にいたスィンに、しっかりと届いている。

 しばらくは、何の反応もなかった。両者共に身動きすらしない。

 いつまで経っても、何の返事も得られないことに苛立ちを覚えたジェイドが振り返る。

 

「答えられないということは、その可能性が──!」

 

 声を荒げようとして、その息が詰まる。

 真紅の瞳に映っていたのは、呆けたようにジェイドを見つめ続けるスィンの姿だった。

 感情という感情が抜け落ちたような、何が起こっているのかまるでわかっていない、ただ呆然とした瞳。

 

「……スィン?」

 

 色違いの瞳が、呼びかけに反応したかのようにひとつ、瞬く。

 ひとつ、またひとつと瞬きを繰り返したその眼は、ようやく通常と呼ばれる程度のものへと変化した。

 

「否定も肯定も、できません」

 

 正気を取り戻したその眼が、陰を落とす。

 押し殺すようなその返事を受けて、ジェイドはずれてもいない眼鏡の位置を直した。

 

「身に覚えはある、ということですか」

「あなたには関係ないことです」

「関係ないわけがないでしょう」

 

 もう用は済んだと言わんばかりに歩みを再開したスィンの肩を掴み、強引に向き直させる。

 腕力では叶わないとわかっているために抵抗こそないが、協力的な態度とは言いがたい。

 

「そんな人間に、私が同行を許すとでも?」

「僕はそもそもあなたの許可が必要とは思っていない」

「私は、そうでしょうね。このことをガイが知ったら、彼は何とあなたに命じるでしょうか」

「あくまで可能性に過ぎません。憶測を事実が如く、告げ口のように告げる気ですか」

 

 真紅の瞳が緋色と藍の瞳を、緋色と藍の眼が真紅の眼を険しい視線で見据える。

 恋人のように、好敵手のように、仇を追い続けた復讐者のように互いを見据えあう無言の対峙はしばらく続いた。

 やがて、ゆっくりと。

 先に視線をそらしたのは、スィンだった。

 

「……もし、可能性が現実のものだったとしたら。あなたはどうするというのですか?」

「引きずり出します。到底放置しておける問題ではない」

 

 珍しく息巻いて即答した彼を、珍獣でも眺めるような眼で見やり。

 今度こそスィンは、甲板を立ち去った。

 艦橋(ブリッジ)へは戻らず、広い船内をあてどなく歩き回りながらも先ほどの言葉が耳を離れない。

 知らず、自らの腹を撫で擦る。

 今しがたの症状は船酔いと決定できるものの、ケセドニアでの原因不明な体調不良がまさか、という可能性を生み出していた。

 最近体が重くなったり、だるいと感じることがなかったかといえば、肯定だ。

 しかしそれは体内を巣食う病巣のせいであったはず。

 けして、そんなことは──

 甲板及び、周囲を一望できる見張り台に到達する。

 冷たい海風が吹き荒れる中、スィンは思考の渦の囚われたまま身動きひとつしなかった。

 もしも、そうだとしたら──

 どうするべきなんだろう。どうすれば、いいんだろう。

 

 

 

 

 

 

 



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第百二十一唱——そして辿りつきしは、ひとつの終焉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タルタロス出港、五日後のこと。

 これといった計器トラブルもなくアクゼリュス崩落跡に到達はしたものの、取り巻く状況はいささか不利なものだった。

 本来は艦長がいるべき位置を陣取ったジェイドが、険しい顔でモニターを見上げている。

 

「……予定より一時間到着が遅れました。これ以上の失敗は許されません」

 

 あれからジェイドと何かあったかといえば、それは否だ。

 彼が何を考えているのかはさっぱりだし考えたくもなかったが、妙な干渉をしてこなかったのは正直ありがたかった。

 眼前のモニターを見つめ、地殻突入を開始しようかといった、矢先のこと。

 突如響き渡った警戒音に、一同は騒然と立ち上がった。

 

「な、何だ!?」

「侵入者よ!」

「まさか、ヴァン謡将か!?」

 

 誰何の声を上げたルークに、ティアが焦りを含むその声で答える。

 スィンが個人的に拒否したい可能性をあっさり口にしたのはガイだ。

 訂正させたいが、そんなことをしてジェイドにまた因縁つけられる──寝た子を起こすような真似はしたくない。

 

「余程地殻を静止させられては困るんですね」

「どうしてなのでしょう……」

 

 ゆったりと本質たる原因を探るのはイオンとナタリアだ。

 非常に重要なことではありながら、今はそれの議論をしている場合ではない。

 

「それもそうだけど、今は侵入者だよぅ。どーすんの?」

 

 誰ともなく尋ねられたアニスの問いに、しばし目を伏せていたガイはスィンに目をやった。

 

「スィン、機関室を見てきてくれないか」

「ガイ」

 

 スィンがそれに答えるよりも、ジェイドの咎めの声が飛ぶ。

 

「今誰かが単独行動を取るのは危険です。あなたはこれ以上作戦を遅らせたいのですか?」

「だが、タルタロスに何か小細工かけられて、地殻停止に不備が生じたら大事だ。下手をすれば突入する前に、全滅させられる可能性がある。俺が行ってきたいところだが……もし侵入者がヴァン謡将だとしたら、返り討ちがオチだ」

「……行ってきます」

 

 ベルトを外し、立ち上がる。

 ガイの言うことはもっともだ。そしてそれ以上、そんな可能性など聞きたくなかった。

 

「スィン!」

「──あなたはどうか知りませんが、僕はまだ死にたくないんです。ましてや、あなたとの心中など御免被る。作戦準備を続けてください。何もなければ、すぐに戻ってきますから」

 

 ジェイドの顔も見ず、そう言い捨てて。

 スィンは足早に艦橋(ブリッジ)を後にした。

 

 

 取り付けられた譜業装置の作動により譜陣が展開し、タルタロスは沈みゆく。

 機関室にそれらしい人影も、機材を弄られた形跡も見つけられなかったスィンが全速力で艦橋(ブリッジ)に戻ってきた瞬間、作戦は開始していた。

 想像よりも凄まじい振動に当然直立はできず、その場にうずくまってやり過ごす。

 やがて振動はやみ、奇妙な浮遊感にモニターを見やれば、タルタロスは海が割れたことによって生まれた滝へ一直線に落ち込んでいた。

 

「スィン、こちらへ」

 

 その光景から眼が離せなかったスィンだったが、ふと名を呼ばれて手を引かれた先に蒼い軍服の背中があった。

 半ば強制的に繋いだ手だが、まったく恐怖はない。違和感や嫌悪感がないかと聞かれれば、ないわけがなかったが。

 導かれるがままに艦長席の隣、副官席に座らされジェイドの手によってベルトが締まる。

 そこで初めてジェイドを見やれば、彼もまた艦長席に腰掛けてベルトをきつく締めている最中だった。

 

「その様子では、機関室には何もなかった様子ですね」

「……ええ、機関室には。警報機も異常なく作動していたようですが」

 

 直後、タルタロスが重力の楔から完全に解き放たれる。

 内臓が浮き上がるような不快感をまんべんなく味わったところで、魔界(クリフォト)の瘴気に満ちた毒々しい海が近づいてきた。

 派手な着水をするかと思いきや、再び譜業装置が作動する。

 モニターには見えないが、おそらくタルタロス降下時、青い空に描かれた譜陣が形成されているのだろう。

 タルタロスの巨大な艦体は、まるで羽毛か木の葉であるかのように着水し、そのまま降下ならぬ沈下を始めた。

 さぞや毒々しい瘴気の海一色に染められるだろうと予測されたモニターは、そんな予測を綺麗に裏切っている。

 何の色ともつかない眩い光に満ちたモニターは一瞬にして全員の光をくらませるも、その一瞬、スィンは光の正体を過去の回想に見つけていた。

 

 なつかしいひかり。あれは──

 

「……着いた、のか?」

「そのようです」

 

 追憶は、ルークとジェイドによる会話によって儚くもかき消された。

 一同が息をついて席を立つ中で、一人思わしげな表情を浮かべているのはガイである。

 

「さっき一瞬見えたあれは……」

「どうかしましたの? 確かに地殻に飛び込む直前、何かが光ったみたいでしたけれど」

「……ホドでガキの頃に見た覚えがあるんだ。確かあれは……」

 

 ナタリアの言葉で記憶を探り始めた彼ではあるが、残念なことにそれは時間が許してくれなかった。

 

「詮索は後です。こちらは準備が終わりました。急いで脱出しましょう」

 

 スィンの隣でてきぱきと計器を操り、ベルトを外して立ち上がったジェイドが一同を促す。

 その姿が、異様に腹立たしく映った。

 地殻突入の衝撃に耐えられなかったのか、どこか足元のふらついているイオンをアニスが支えて歩き出す。

 その補助に向かうその背中に、なぜか短刀を突き立てたくなって、たまらなくなった。

 

「……?」

 

 不意に湧いたジェイドへの殺害衝動に、首を傾げる。

 彼は当然のことを言っただけだ。侵入者のことは気になるが、早く脱出するにこしたことはない。地殻から脱出さえできれば、侵入者が見つかろうと見つかるまいと作戦は成功するのだから。

 どれだけ経とうと消えない感情にやるせなさを覚えつつ、一同に従って甲板へと至る。

 道中侵入者による襲撃に気を配っていた一行が目的地たる甲板にたどり着き、ホッとするのも束の間。

 最初に異変に気付いたのは、アニスだった。

 

「あれ……? イエモンさんたちが言ってた譜陣がないよ?」

 

 スィンは直接聞いていないが、タルタロスでの航行中地殻突入後脱出の手はずは教わっている。

 それによればアルビオールで脱出する際補助出力として設置した譜陣が描かれているはずなのだが……それが跡形もなくない。

 どういうことなのか、一同がそれを巡って議論を始めるその前に。

 

「ここにあった譜陣は、ボクが消してやったよ」

 

 常に皮肉がこめられたような、それでいてどこかで聞いたような幼い少年の声音が甲板に響く。

 一同の移動してきた通路からちょうど反対側の方角より現われたのは、目元を隠す仮面を装着した少年だった。

 神託の盾騎士団、第五師団師団長、烈風のシンク。

 

「侵入者はおまえだったのか……」

 

 誰かがそれを言う。しかしスィンは、それが誰の発言なのかがわからないほど意識を薄れさせつつあった。

 否、正確には理性と言った方が正しいだろう。

 

「逃がさないよ。ここでおまえたちは、泥と一緒に沈むんだからな」

 

 こんな時なのに、ジェイドのことが憎たらしくてたまらない。過去のことばかりが脳裏を瞬くように駆け巡り、負に属する感情が刺激されていく。

 振り払っても振り払っても、まとわりつくコールタールのような追憶に、スィンは急激なめまいを覚えつつあった。

 そんな中で、残された理性のひとかけらが原因をじりじりと探っていく。

 その間にも、緊迫とした会話は続いていた。

 

「多勢に無勢って言葉を知らないわけ? あんたなんか、けちょんけちょんにしてやるんだから!」

「──まあ、お前はいいだろうさ。導師を護れればそれでいい、お前はさ」

 

 普通に考えてアニスの言うとおりなのだが、シンクはどこか含みのある言い回しで一同を見回している。

 こちらからは窺えない視線がスィンに向けられた瞬間、理性のひとかけらは原因を探り当てた。

 真相を、警告を口に出そうとして──腕に走った激痛が、スィンの喉を詰まらせる。

 

「けど、ホドの生き残りもそう考えるかな? だとしたら大したもんだけど」

「どういう意味だ……」

 

 いぶかしげな主の声が遠い。

 その様をせせら笑うように、シンクは細い顎をしゃくってみせた。

 

「下手なことはしないほうがいいよ? お前の従者を壊したくなければな」

 

 その声を合図に、一同はしんがりに立つ彼女へ視線を集中させた。

 当の本人に、表立った変化はない。

 ただ、常に前を見据えるその眼を伏せられ、左腕を抱えて小刻みに震えているように見える。

 押さえている腕の部位からは、禍々しい印象の光が零れては消えていた。

 

「まさか……まさか、カースロット?」

 

 まさしく信じられないといった顔をしているイオンの口から、紛うことなき事実が発生する。

 否定する様子のないスィン、シンクの浮かべた嘲笑によってそれが正解だと知った一同は驚きを隠せなかった。

 

「スィン! どうしてガイと一緒に解除してもらわなかったんだよ!」

「無駄だよ。もうまともに話なんかできない。ボクがその気になればすぐにでも──お前らにけしかけられる」

 

 まるでその言葉を肯定するかのように、スィンは動かない。

 その唇を奮わせる動作すら、うかがわせない。

 ただ。ゆっくりと外された腕はだらりと垂れ下がり、余計な力を抜いた状態に移行しつつある。

 それに伴い、抑えていた腕の部位から奇妙な紋章の形が、服さえもはねのけて不気味に浮かび上がった。

 

「ああ、正確には死霊使い(ネクロマンサー)かな? だけど他の連中にカケラも恨みがないわけじゃないみたいだし……ま、死霊使い(ネクロマンサー)と共倒れになってくれれば、それでいいや」

「……私とスィンを相打ちさせたら、ヴァンが悲しむのでは?」

「そうかもね。だけど、そんなことをボクが配慮する義理はない」

 

 ジェイドによる、軽口を使っての時間稼ぎは見抜かれていたらしい。

 シンクは唇を歪めながら応じるものの、スィンの左腕に宿った輝きは徐々に強さを増していく。

 

「そうそう。先に言っとくけど、下手な真似をすれば遠慮なくこいつを壊すからね。大切な仲間を人形同然にしたくないなら、余計な真似はしないことだ」

「壊す……!?」

 

 そんなことが可能なのかと言いたげなナタリアに、イオンの絶望的な肯定が返ってきた。

 

「カースロットは、人の精神の奥底に潜り込んで発動されるものです。侵された度合いにもよりますが、術者がその気になれば精神崩壊を促すこともできます」

「そんなこと、一体どうやって」

「簡単だよ。過去のトラウマをほじくりだしてやればいいのさ。こんな風にね!」

 

 びくっ、とスィンの体が震える。

 もはや何者も映さない瞳が大きく揺らぎ、声にならない悲鳴が木霊することなく消えた。

 苦悶に歪む顔が伏せられ、耳を塞ぐように細い両腕が頭を抱える。

 その尋常ならざる様子に、アニスにかばわれていたイオンは慌てて彼女へ駆け寄った。

 この場でカースロット解除を行うつもりだったのか、その手を浮かび上がる紋章へかざし──

 彼は驚愕を浮かべて手を下ろした。

 

「そ、そんな……!」

「無理だよ、もう手遅れさ。仮に可能だったとしても、それをボクが許すとでも?」

 

 ぱちん、とおもむろにシンクが指を鳴らせば、彼女はゆるゆると腕を下ろした。

 苦悶の表情こそ消えているものの、瞳の揺らぎは以前そのまま。どう好意的に見ても、正気ではない。

 そんな彼女に、シンクは不愉快を孕んだ声音で告げた。

 

「さて……これでわかっただろ? これ以上悪夢を見せられたくなければ、抵抗をやめろ」

「……っ」

 

 言葉こそないものの、スィンは未だ血桜の柄すら握らない。

 その様子を見て、シンクはやれやれと肩を落とした。

 

「しぶといね。もう十分だと思って仕掛けたのに、ここまで往生際の悪い奴は初めてだよ」

「……」

「ん? 何?」

 

 掠れたその声を、言葉にすることをシンクが許可をした瞬間。

 

「初めて、ね。それくらい、使ってきたんですか。本当に、悪趣味なこと」

 

 スィンは明瞭に言葉を発した。記憶を揺さぶられ平静ではいられなくなるはずのカースロットの支配下に置かれているとは思えないほど、きちんと会話が成立している。

 いや、そもそも。カースロットに侵されて、会話している時点で、抵抗できている時点で。何かがおかしい。

 

「……なんだと?」

「そんなに、不思議そうに、しなくても、カースロットなら、ちゃんと、働いてますよ」

 

 苦しげに、気だるげに、声を出すのも億劫だと言わんばかりに。

 それでも今、自分にできるのはこれくらいだと示すように。スィンは言葉を紡いでいく。

 

「初めは、ちゃんと集中してないと、発動もしていなかったのに。研鑽、なさったんですね」

「……」

「ただね。あなたが研鑽できる程度に、時間があったんです。対抗策くらいは、打っておくのが、常識というものではありませんか?」

「対抗策? またあの時みたいに、よくわかんない手を」

「カースロットの逆操作は、流石に接触してないと、無理ですが。この記憶を見せているのは誰なのか、それを認識して、術者に憎悪を向けるくらいなら、できなくは、ないんですよ」

 

 自らが受けたカースロットの解析を続けて、導師の術は本当に理不尽だと、嫌になりながらも仕込んだ対抗術式。

 カースロットによる支配を受け入れながらも、術式はきちんと働いてくれた。

 

「秘匿されて暗号化がかかってるダアト式譜術の解析どころか、手まで加えたのか。アンタ、実はディストばりの天才なんじゃないの」

「最大級の侮辱として受け取ります。お母さんに固執する変態と一緒にしないで……こっちに意識を向けてくれて、よかった。捌け口がないから、危うく、斬りかかるところ、だった」

 

 フラフラと、覚束ない足取りで。スィンはシンクに向かって歩み始めた。

 それすらも体力を使っているかのように呼吸を荒げながら、その手が血桜の柄を握る。

 この状態で、ぎりぎり正気を保ちながらでは、まともに戦えはしないだろう。しかし同士討ちになるよりはずっといい。

 

「待ちなよ。アンタが殺したいのは死霊使い(ネクロマンサー)のはずだ」

「違う、死霊使い(ネクロマンサー)じゃない。あれはまだ殺しちゃいけない。この悪夢は、お前が死ななきゃ消えない」

「セコい自己暗示で誤魔化すな! ったく、もう知るもんか。ブッ壊してやる!」

 

 ──かかった。ほぼ動かない思考の裏側で歓喜する。それを示すかのように、スィンの口元が笑みの形へと歪んだ。

 

「カースロット、カウンター、クラック」

「うわぁっ⁉︎」

 

 カースロットの発動だけならまだしも、本格的な精神崩壊を促してくるならば。ある種の精神同調を起こす必要がある。

 同調における経路(パス)が確立した瞬間を狙って反撃を仕掛けると、シンクはあっさりと集中を乱した。

 カースロットの発動を示す浮かび上がった紋章が、唐突に消える。

 

「あはは、挑発すれば、使ってくださると、信じてました! 引っかかってくれて、本当にありがとうございます!」

「貴様……!」

「触れてなければ平気だって思い込んだでしょう、残念でした! 同じ手を何回も使うわけないじゃないですか、あなたじゃあるまいし! まずい、感情制御できない、あはは、あははは!」

「ふざけた真似を……!」

「ふざけているのはてめぇの方だ! こんなくだらねぇ(もの)を我が主に使いやがって! ぶっ殺してやるっ!」

 

 大気を震わせる、怒声が響き渡った。

 それまで心底おかしいといった風情で笑い転げていたのが一転、狂気さえ滲ませた罵声を放ち、シンクへ詰め寄ろうとする。

 明らかに様子と情緒がおかしい。

 

「だ、ダメです、スィン!」

「イオン様⁉︎」

 

 そのスィンの腕を掴んで止めたのは、先程カースロットの解除を断念した導師であった。

 

「感情の制御ができないのは、カースロットが精神を蝕み始めている兆候なんです! これ以上抵抗を続けたら、廃人にされてしまいます!」

「それなら尚のこと、廃人にされる前にシンクを殺っちまわないと……!」

「やれるものならやってみろ! その前に考えることすらできない人形にして、こいつら全員その手で殺させてやる!」

「これ以上シンクに、術者に近づけば、それだけ侵蝕が早まってしまいますっ」

 

 再びスィンの腕に、カースロットの紋章が浮かび上がる。ぎりっ、と歯を食いしばり、まずはイオンに掴まれた腕を振り解こうとするスィンではあったが。

 徐々に歪む意識の中で、掠れたその声を聞いた。

 

「……もう、いいんですよ。スィン」

 

 常に調子の変わらなかった声だった。

 どんな危機においても、一定の音程──冷静や平常によって乱れることがなかった声。

 恨み憎み妬み、そして同時に心惹かれた、耳に心地のいい低音の男声。

 ──どうして、こんなにも掠れて、震えている? 

 あの、常に自信たっぷりな嫌味男の声が、何故? 

 

「私が憎いんでしょう? もう隠す必要はありません。そして我慢をする必要も」

 

 意識は歪んでいても、視界は通常のままだ。その視界の中で、ジェイドはスィンに向き直っていた。

 その表情に、あの胡散臭い笑顔はない。他者に恐れを抱かせた怒気もない。

 

「あなたが私を殺しても、ガイは不当な扱いをされない。そう、陛下に約束させました」

 

 表情はなかった。淡々と、彼は言葉を紡いでいる。

 あの掠れ声で。

 あの、スィンをこの上もなく苛立たせる、掠れ声で。

 

「だから、もういいんです。シンクの声に頷いてしまいなさい。……楽に、なりなさい」

「……うるさい! 楽になんかなれるか!」

 

 耳を塞いで、首を振って。ジェイドの言葉を拒絶するスィンは、言うべきでない言葉を口走る。意味が通じるものでないのは、それだけ切羽詰まっている証か。

 

「何のために庇ったと思ってるんだっ! あの預言(スコア)を気にしてかもしれないけどっ、母さんが護ったあなたを私が殺してしまったら、ただの犬死にだ、意味がなくなってしまう!」

 

 直後、顔を苦悶に歪めたスィンは、慌ててジェイドを視界から追い出した。

 とうとうその手が血桜の柄が握る。しかしまだ、それが抜かれる気配はない。

 

「ありがとう、死霊使い(ネクロマンサー)。こいつを怒らせれば怒らせただけ、制御がしやすくなる」

 

 自分をやりこめたスィンが苦悩する姿を見て溜飲を下げたのだろう。傍観者と化しつつあったシンクが、耳障りな笑声を放つ。

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、彼はまとわりつくような誘惑をスィンにつきつけた。

 

「当の本人がそう言ってるんだ。もう何も気兼ねすることはない……キレちゃいなよ」

「うくっ……!」

 

 理性が剥がされていく。

 日頃眠る狂気が鎌首をもたげて、甘美な誘惑を拒む意識に牙を剥こうと──

 

「スィン!」

 

 その声を聞いて、鎌首は止まった。

 

「もう逆らうな! 俺がお前の暴走をきっちり止めてやる、あとで覚悟しろよ!」

 

 主の、声。

 揺らいでいた瞳が、わずかな輝きを灯した。

 問いも明らかなその視線に、ガイは力強く頷いている。

 

「……死なない?」

「安心しろ、誰もお前如きに殺されないさ!」

 

 幼児退行でも起こしたかのような、単純にして純粋な問いに、その答えが返る。

 それを聞いて、スィンは明らかな笑顔を浮かべた。

 ──その手に、家宝にして愛刀を携えて。

 

 

 

 



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第百二十二唱——死闘≒私闘

 

 

 

「……やっと堕ちたか」

 

 妙に軽い、しんどそうなシンクの声が響く。

 その言い草に誰もが反応を返せないほど、場の雰囲気は固く緊張に包まれていた。

 

「い、イオン様、こっちに」

 

 掴んでいたスィンの腕を外させ、アニスがイオンを避難させるも、反応はなく。

 その手には、とうとう抜き身になった血桜が握られ、敵と相対している際と何ら変わりない。

 痛いほどの沈黙が、タルタロスの甲板に満ちていく。

 ──そっと。ガイが、空気を震わせることを恐れるように囁いた。

 

「……旦那。スィンには絶対近寄るな。可能な限り離れて闘ってくれ」

「だ……め……

 にがさ……ない」

 

 とろけた飴のように粘ついた声が、ジェイドの耳に注ぎ込まれる。

 怖気が走るほどに甘く、鬱々としたそれは間違いなくスィンのものだった。

 ジェイドとスィンの距離は、彼を庇うようにして立つガイ、そして意図こそないが仲間達がいることによってそれなりに離れている。

 その場所から耳元に囁くなど、到底──

 

「!」

「つか、まえ、た」

 

 細く、しなやかな腕が唐突に現れる。

 瞬く間にそれは、ジェイドの首に絡みついた。

 腕の持ち主はまるでジェイドの背中にしがみつくように彼の胴へ足を巻きつけている。

 当然ジェイドは振りほどこうとしているものの、彼を締め上げる手足はなかなか離れない。

 

「大佐!」

「ど、どゆこと? スィン、じゃない、よね……」

 

 血桜を手にしたスィンは、一歩たりともその場から足を動かしていない。

 にも関わらず、彼女の姿をした誰かがいきなりジェイドを背後から強襲した形だ。

 

「空蝉、だったか……くそっ!」

 

 スィンと相対していたガイがきびすを返してジェイドの元へ走る。彼がその場を離れたことで、スィン本人もまたゆらり、と足を踏み出した。

 瞳の焦点はぼやけたまま、組み付かれてもがくジェイドに向かって。

 彼だけを見ていたその視界が、唐突に遮られる。

 

「ルーク!」

「わかってる! どうにか足止め……うおおっ!」

 

 抜き身の血桜が、ルークの顔面を貫かんと迫る。

 どうにか回避したルークだったが、どういうことなのか。

 あっさり矛先を変えたスィンは、そのままルークに襲いかかった。

 

「くっ!」

「……ふぅん。お前にも、散々な目に遭わされてきたんだね」

 

 虚ろな目のまま、足取りもたどたどしく、まるで棒切れを振り回すかのようにスィンは刃を叩きつけてくる。

 それは非常に稚拙な攻撃ではあったが、カースロットに操られている影響なのか。その一撃は非常に重く、ルークが避けた先は穴だらけになった床、見るも無残に破壊された備品が転がっている。

 受け損ねれば、ただではすまない。さりとて、安易に反撃もできず、ともすれば受ける剣ごと叩き斬られかねない。

 それに耐えるルークを眺めて、スィンの記憶をサルベージしたらしいシンクは、面白そうにその過去を並べ立てた。

 

「気味が悪いって罵って、給料泥棒って石投げて、ぷっ、ヴァンに擦り寄る雌猫呼ばわり? んで、旅の間は我が侭三昧、か。恨みがない方がオカシイかもね。むしろ、何で今まで怒ったりしなかったかな。お前のことなんか、余程どうでもよかったのかね」

「ぐっ!」

「年々ファブレ公爵に似てきて、顔の皮剥いでやりたかった? そんなに似てるかな……って、これはアッシュへの憎しみか。顔が同じだからかな。恨みつらみが混ざってぐちゃぐちゃになってるよ」

 

 カースロットを行使する代償なのか。シンク自体が攻撃を仕掛けてくる気配はない。

 その代わりとばかり、彼は口撃の手を緩めなかった。

 

「高価い壷割って、こいつになすりつけたのか。とんだクズだね」

「何の話なんだよ。そんなことしてねーっつーの!」

「ん? これもアッシュのか。顔が同じだからわかんなかったよ」

「……!」

「まあ、お前らへの恨みはファブレ公爵が根源にあるんだ。どっちがどっちかなんて、それこそどうでもいいんだろうけどね」

 

 ルークのコンプレックスでもある、レプリカのことも絡めて罵倒しにかかる。

 シンクが集中しきっていないことも関係してか、操られているスィン自身は鈍重で、普段ガイと肩を並べて戦う姿とは似ても似つかない。

 ふらふらとおぼつかない足取りで、ただ単調に。

 その様子からは信じられないほどの力で、ルークに斬りかかるのみだ。

 

「くそっ!」

 

 一方で、ガイは空蝉に取り付かれたジェイドの元へと到達していた。

 

「やめろっ!」

 

 攻撃を受けたと感知すれば、空蝉は消える。

 以前聞き出したその情報に基づき、ジェイドの首を絞め続ける空蝉に攻撃を仕掛けた。

 しかし。

 

「……な」

 

 万一のことを考えて、柄頭で殴りかかったガイの手が、止められる。

 何も持っておらず、彼の首を絞めていたはずのその手にはいつの間にか一振りの剣が握られており、ガイの攻撃を捌いたためだ。

 握られていたのは、ガイにも覚えのある代物。

 かつて彼女の姿を偽るがため、術式媒体として使用していた異形の剣だった。

 有する乾いた血液の色が、否応もなく不吉な未来を彷彿とさせる。

 

「……ね」

 

 ぼんやりとした声音が、空蝉から発せられる。

 攻撃を受けたはずみでジェイドの背から降りた空蝉は、のろのろと魔剣を構えた。

 

「し……ね。

 おかあさんの、

 かたき……」

「スィン、目を覚ませ。お前はそんなこと望んでなかっただろ!」

「そん……なこと、ない。

 ずっと、こうしたかった。

 ずっと、ころしたかった。

 ずっと、我慢してた……」

 

 攻撃を仕掛けた時点で、ガイはジェイドを自分の後ろへと庇い、空蝉とは引き離すようにしている。

 そのまま彼を避難させようとして、阻まれた。

 何の躊躇もなく、ガイへ斬りかかったスィンによって。

 

「っ……な!?」

 

 戦線を離れてイオンの護衛に徹しているアニスが、おののくような口調で呟いた。

 

「スィンが……ガイに攻撃するなんて……」

「カースロットは理性を麻痺させます。早くシンクの制御下から外さないと、彼女は本当にジェイドを……!」

 

 暴走する彼女の暴挙からどうにか逃れたガイは、硬直を余儀なくされる。

 防衛に使用した彼の得物が、刃を受けたその場所から寸断されたのを見て。

 

「ねえ。

 しんで?」

 

 あまりのことに立ちすくむガイを押しのけるように、空蝉はジェイドに詰め寄った。

 術者の精神を反映させたかのような、濁った瞳にジェイドだけを映して。

 

「お母さんに、謝ってきて。

 そしたらもう何もしない。

 あなたが、何をしようと。

 したいことするといいよ。

 だからさ、逝ってきてよ。

 できないとは言わせない」

 

 このような事態に陥らなければ、一生涯語られることはなかっただろう、スィンの本音。

 感情乏しく声音こそ平坦だが、それは理性が麻痺しているからこそで。

 恨み骨髄を真っ向から聞かされ、ジェイドは。

 

「……」

 

 言葉もなく、その手に長槍を手にしていた。

 その穂先がゆっくりと、他ならぬ彼自身の首を指す。

 それを眼にして、スィンの顔をそのまま模した空蝉の口元がぐにゃりと歪んだ。

 まごうことなき、笑みの形に。

 

「もう恨まなくてよくなる。

 もう憎まなくてよくなる。

 もう妬まなくてよくなる。

 もう悲しまなくて、いい。

 もう苦しまずに済むんだ。

 早く、はやく、は「黙れ!」

 

 我に返ったガイが、手元に残った柄を放り出してジェイドの腕を掴んだ。

 空蝉に反応はない。ガイの挙動は気にも留めないで、ただただジェイドを見つめるばかりだ。

 

「死者は何も思わない……何をしたって死んだ奴が何か思ったりすることはないって、言ってたじゃないか!」

「死んだ後のことなんて。

 死んだ人しか知らない。

 そう信じたかっただけ」

 

 歪んで締まらない不気味な笑みを浮かべたまま、詰問をかわす。

 そのまま。彼女は再び刃を向けた。

 正気でないことはわかりきっている。これが彼女自身でないこともわかっている。

 スィンそっくりの空蝉は、狂気に浸された瞳が焦点をなくして、ひずんだ口元は泡を飛ばして聞くに堪えない奇声を放った。

 

「し、ね・しー、ねっ。きゃはははぁっ!」

「スィン! もうやめろ、やめてくれっ!」

 

 そこへ。

 

「ルーク!」

「やめてくださいませ、スィン!」

 

 悲鳴じみたナタリアの制止が飛ぶ。

 見やれば、とうとうルークを追い詰めたスィン、彼女の前に立ちはだかるナタリアの姿がある。

 ルークの手に武器はなく、吹き飛ばされて壁に叩きつけられたような風情だ。外傷こそ見えないが意識があるかも怪しく、ぴくりとも動かない。

 彼の元にティアが駆け寄り、治癒術を施していく。

 その二人を庇うように、弓を放り出したナタリアは大きく両手を広げた。

 

「スィン、目を覚ましなさい! 大佐を許せ、とは言いません。しかし、彼を斬るということは、これまであなたが思いとどまってきたその時間をすべて無に帰すということなのですよ。本当にそれで良いのですか!」

「……」

 

 ナタリアの言葉を聞いていたかも怪しいスィンは、棒立ちしたまま動かない。

 よもや彼女の説得が功を奏したのか……

 その幻想を砕いたのは、他ならぬ元凶・シンクの苛立ったような声だった。

 

「これだけ深く侵してやったのに、カースロットの支配さえ跳ね除けるのか。本当に厄介だね、従属印ってヤツは」

「え……」

「何すっとぼけてんのさ。ネタは上がってるんだよ。『主』の血液を用いて刺青を施し、絶対服従を強いる秘術。ホドが滅びて失伝したから、こいつが最後の被験者なんだろ。ほら、もう一人のこいつも消えちゃった。お前の命令のせいだよ」

 

 忌々しげに吐き捨て、再び術の集中に取り掛かる。

 術の行使を受けて、なのか。

 スィンはそれまで引き締めていた唇を解いて何事かを呟いた。

 

「……天光満つるところに我はあり」

 

 突如として血桜を納めたスィンの真下に光が走り、俗に譜陣と呼ばれる円形の幾何学模様が描かれる。

 これまでジェイドと同道を共にしてきた一同は声を失い、逆にシンクは耳障りな笑声を放った。

 淡々と、スィンは詠唱を紡いでいる。

 

「あはははっ! 驚いたよ、ヴァンの女はこんなのまで使えるんだ!」

「黄泉の門開くところに、汝あり」

 

 譜陣は次々と生まれ、術者たるスィンを取り巻いて極大過ぎる威力より術者を護る結界が出来上がった。

 あと数秒で、ジェイドの奥の手でもある譜術は完成する。

 ティアによる譜歌の守護は間に合わないと判断したジェイドが、一同に散りつつも伏せるよう指示をしかけたその時。

 その場にいる誰もが、聞きなれない詠唱を聴いた。

 

「天の風琴は奏者たる我を欲し、冥界の霊柩は贄たる汝を欲し」

「……え?」

運命(さだめ)を告げる審判の銅鑼より、その響きもて万象を揺るがす」

 

 ジェイドの扱うそれよりも遥かに長い詠唱式はスィンの、見慣れない手振り身振りによって編みこまれていく。

 その場の誰もが事態を飲み込めず唖然としていたその時、ティアはジェイドの目配せを受けて譜歌の詠唱を始めていた。

 

「これは……旦那の詠唱と、似てるけど違う……」

「違うなんてもんじゃないよ! 譜力がこんなに集まって……制御できるわけないじゃん、術者もろとも吹き飛ばされちゃうよ!」

 

 譜術のことはまったくわからないガイも、周囲の空気が異常であることに気付いている。そのことをポツリともらせば、過剰反応したアニスが脅えたように叫んだ。

 当事者たるスィンに届けとばかりの金切り声だったが、耳に入れた様子さえわからない。

 

「其の衝撃は奏でる我を鼓舞し、凄惨なる旋律に汝は嘆き脅え」

 

 ただ狂気を瞳に宿し、淡々と文言を唱えるだけだった。

 その様子は、言葉での説得が手遅れを通り越していることをまざまざと示している。

 

「……おそらくこれは、元祖に位置する譜術の類でしょうね」

「ジェイド! 何を呑気な……」

「私の……軍人の使う譜術は、主に戦闘で使用されるため多少威力を落としてでも詠唱を省略が徹底されています。威力は落ちますがそのほうが身体に負担が軽いし、即効性を求められるので、それは治癒術にも反映されたと聞いています」

 

 パーティ全滅の危機に陥った今、どこまでも冷静に分析を始めたジェイドを。ナタリアがたしなめた。

 しかしジェイドの言葉は止まらず、その紅い瞳は片時も彼女から外れていない。

 

「悠久の刻──踊る紫電に我歓喜し、降り注ぐ裁きの雨は汝を撃つ」

「元祖の譜術は、戦闘ではなく儀式等に活用されていたため詠唱時間も威力も桁違いだと言われています。私はインディグネイションの存在を、すでに縮められた詠唱式で知りましたから……こちらが本来の、術なのでしょうね」

 

 その瞳は、どこか陶然としたものを内包していて。

 スィンもまた、その瞳をじっと見つめているように見えた。

 その眼差しは憎しみも、何もなく。

 ただじっと、相手を観察するような眼だった。

 

「こなた天光満つるところより、かなた黄泉の門開くところに生じて滅ぼさん」

 

 そして、術式は完成を向かえる。

 

「響け、終焉の音──」

 

 ティアの唱えた最後の旋律は、轟音によってかき消された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳をつんざくような轟音が、直視すれば失明も危ぶまれる閃光と共に鳴り響く。

 それはさながら、運命の銅鑼にも似て。確かに万象をゆるがして去った。

 ティアの譜歌が功を奏したのか、身体に異常はない。それを確認して、ジェイド・カーティスはゆっくりと起き上がった。

 

「……何が、どうなっちゃったの……」

 

 次に起き上がったのは、我が身で蓋をするかのようにイオンをかばっていたアニスである。

 ティアの結界がなくなったことにより、通常のサイズに戻されていたトクナガがむっくりと巨大化した。

 反射的に身を伏せていた一同も、なんとか凌いだことを知って次々と起き上がる。

 

「スィン!」

 

 雷がタルタロスの機関部を貫いたのか、周囲はうっすらと煙が立ち込めていた。

 それをジェイドが譜術によって散らした先、見えたのは。

 

「……っ」

 

 棒立ちするシンクの腹に血桜を突き立てた、スィンの姿だった。

 轟音と閃光によって、一時的に集中力をなくしたシンクの隙を縫うように理性を取り戻したスィンが、無我夢中で刺した──事実がわからない今、そう解釈するしかなかった。

 

「まったく……油断のならない……」

 

 激痛にだろう、口元を震わせるシンクが力なくスィンを蹴る。

 まるで人形のように倒れたスィンの手元は、鮮やかな真紅に染められていた。

 慌ててガイが走り寄り確認をするも、彼女に外傷はない。

 

「どういうことだ?」

「指先か手のひら全体の毛細血管を損傷したようですね。先ほどの譜術の使用で、過度な負荷がかかったのでしょう」

 

 並みの術士が使えば、全身の血管を破裂させて死に至ってもおかしくなかった。それを、彼女はこれだけの損傷に抑えている。

 譜術士としての訓練を受けていない彼女が示したそれは、生来の素質か、才能か。

 致命傷を負ったシンクにカースロットの制御は不可能と見て、それでも不意討ちに備えて軍人であるティアにスィンの治癒を任せる。

 一方、深々と突き刺さった血桜を引き抜いたシンクは、その反動で仮面を取り落としていた。

 放り投げられた血桜と仮面が、乾いた音を立ててタルタロスの甲板を転がる。

 その素顔を一目見て、一同の大半は驚愕を示した。

 

「お……おまえ……」

「嘘……イオン様が二人……!?」

 

 ──そう。偶然か必然か、暴かれたシンクの素顔は、髪型こそ異なるものの、ローレライ教団最高指導者、導師イオンそのものだった。

 

「……くっ」

「やっぱり……あなたも、導師のレプリカなのですね」

 

 腹を押さえて苦しそうに呻くシンクに、イオンは呟くように言った。

 聞き流せないその言葉を問い質したのは、アニスではなくガイである。

 

「おい! あなたも……ってどういうことだ!」

 

 その言葉に、彼は躊躇を隠さずもはっきりと、真実を告げた。

 

「……はい。僕は導師イオンの七番目──最後のレプリカですから」

 

 その告白に過剰反応を示したのは、同じ手法で造られたであろうルークと、そして。

 

「レプリカ!? おまえが!?」

「嘘……。だって、イオン様……」

 

 一同の中でもっとも長く彼と接してきた、守護役のアニスであった。

 

「すみませんアニス。僕は誕生して、まだ二年程しかたっていません」

「二年って、私がイオン様付きの導師守護役(フォンマスターガーディアン)になった頃……まさかアリエッタを解任したのは、あなたに……過去の記憶がないから?」

「ええ。あの時被験者(オリジナル)イオンは病で死に直面していた。でも跡継ぎがいなかったので、モースとヴァンがフォミクリーを使用したんです」

 

 語られた言葉を噛み砕くように、事の次第を推理するアニスに、イオンは苦しげに肯定する。

 イオンが今抱えているであろう罪悪感すら贅沢だといわんばかりに、シンクは呪詛にも似た言葉を紡いだ。

 

「……おまえは一番被験者(オリジナル)に近い能力を持っていた。ボクたち屑と違ってね」

「そんな……屑だなんて……」

「屑さ。能力が劣化していたから、生きながらザレッホ火山の火口へ投げ捨てられたんだ」

 

 彼は気付いているのだろうか。

 その感情が、俗に嫉妬と呼ばれるものであることに。

 

「ゴミなんだよ……代用品にすらならない、レプリカなんて……」

「……そんな! レプリカだろうと、俺たちは確かに生きてるのに」

 

 自嘲的なその言葉を、同じ存在として似たようなことを考えたことが無いとは言えないルークが否定する。

 しかしシンクは、それをあっさりと払いのけた。

 

「必要とされてるレプリカのご託は、聞きたくないね」

 

 その姿は、愛する婚約者がいながら一同と馴れ合うことを拒絶した、一人の青年とも重なって見える。

 

「そんな風に言わないで、一緒にここを脱出しましょう! 僕らは同じじゃないですか」

「イオン様!」

 

 アニスの制止も聞かず、イオンはシンクへ歩み寄った。

 あまり見かけることのなかった積極さでシンクへと手を伸ばす。

 しかし、救済であるはずだったその手を、シンクは音高く払うことで明確な拒絶を示した。

 

「違うね」

 

 アニスの険しい目、イオンの困惑に満ちた視線すら相手にせず、ゆっくりと後退る。

 シンクの背にあるはずの鉄柵は、スィンの放った譜術によって跡形もなく吹き飛ばされていた。

 

「ボクが生きているのは、ヴァンが僕を利用するためだ。結局……使い道のある奴だけが、お情けで息をしてるってことさ……」

 

 自嘲めいたその呟きが、遺言であることを誰が想像できたのか。

 何の躊躇もなく、シンクはその身体を地核の奥底へと突き落とした。

 誰も止められなかったその姿を、導師イオンのレプリカだと告白した少年は、呆然と見送っている。

 やがて、彼の異常に気づいたアニスがおそるおそる、彼の傍へと歩み寄った。

 

「……イオン様、泣かないでください」

「僕は泣いていませんよ」

「でも、涙が……」

 

 何を言っているのか、不思議そうに自分の守護役を見つめた少年が、軽く自分の目元を拭う。

 指先に付着した雫を見て、彼は意表をつかれたように静かな驚愕を見せた。

 

「……本当だ」

「兄弟を亡くしたようなものですもの……」

 

 兄弟はいなくとも、幼少時母を亡くした経験のあるナタリアは身内を亡くす不幸を知っている。

 しかし痛ましげなその声にも、イオンは反応を見せなかった。

 

「そうか……僕は悲しかったんですね……泣いたのは生まれて初めてです」

 

 そして次に呟かれたその言葉を、その場の誰が聞きとがめることができただろうか。

 

「そうか……そうだったのか……僕は大変な思い違いを……」

 

 彼の発した呟きを知ってか知らずか。一同を現実へと呼び覚ましたのは、ジェイドの声だった。

 

「いけません。もう時間がない」

「だが譜陣はシンクに消されてるぜ」

 

 そう。脱出の補助出力となる特殊な技法を用いたであろう譜陣は、どのような手段を使ってか見事に消えている。そのくせ、甲板に傷はない。

 しかしジェイドは、これまでのやりとりを猶予にか、脱出の案を考えついていた。

 

「私が描きます。ただ、これほどの規模だとかなりの集中力がいる」

 

 そのジェイドが、ルークとティアに協力を求めている。

 それまでスィンの治癒に集中していたティアが、ガイにその身柄を預けようとしたそのとき。

 彼女に近づいた人物がいた。

 

「イオン……」

「今回、このような事態を招いたのは僕のせいです。以前ガイを解呪した際、衰弱の激しい僕を気遣って、スィンはそのうち解呪してくれればいい、と言ってくれました。でも僕は、旅による疲労を理由にそれを先延ばしにしてしまった」

 

 力なくガイにもたれかかり、脱力したスィンの腕に手をかざす。

 

「……シンクの生存が確認できない以上、二度とカースロットによって操られることはないでしょうが……名残が残っていないと断言できませんから。今この場で解呪を試みます」

「……わかった、頼む。無理はするなよ」

 

 小さく頷き、イオンが集中を始める。

 その向こうでジェイドが、ルークとティアに何やかやと指示を出す。

 その声を遠くに聞きながら。

 スィンフレデリカ・シアン・ナイマッハは揺らいだ意識を手放した。

 

 

 

 

 



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第百二十三唱——つわものどもが、ゆめのあと

 

 

 

 

 

 

 

 

 否応なしに馴染みになった匂いが、嗅覚を刺激する。

 某死霊使い(ネクロマンサー)が愛用する香水でも、自分が好んで使う香水でもない。

 ツンと鼻をつく、消毒液の匂い──

 反射的に開きかけた目蓋が、直射する光の眩しさに脅えたように痙攣する。

 その刹那、それまで起こっていた出来事が走馬灯のように駆け巡り、スィンは完全に覚醒した。

 おぼろげに残る記憶は曖昧で、どこから現実でどこから幻なのかがわからない。

 とにかく無理やり開いたその視界に映ったのは、浴びせられる人工的な光だった。

 つまり、屋外ではない。

 

「──気がついたのか!?」

 

 耳栓でもされていたかのように反響する鼓膜が、主の声を拾い上げる。

 それを皮切りに明確となっていく音は、安堵を多量に含むものばかりだった。

 

「よかった……無事解呪されたようですわね」

「あったり前でしょ。イオン様が直々に解呪されたんだから」

 

 解呪。

 その単語に何かが引っかかるものの、なぜかその答えが出てこない。

 浮かんだ端から消えていく単語をわずらわしく感じ始めたスィンは、一度思考することをやめた。

 

「……ここ、は……」

 

 思いの他強かった光に耐えながら、ゆっくりと身体を起こしかけた、そのときのこと。

 一同は滅多に聴けない悲鳴の証言者となる。

 

「いっ、いたぁ~い!」

 

 起き上がった瞬間、身を揉むようにしてスィンはのた打ち回った。当然のように、寝かされていた診察台から転げ落ち、それでも尚痛がるのをやめない。

 想像だにしていなかった事態に、一同が助けることもできず唖然としていた中。

 一番始めに動いたのは、医務室の主たるシュウだった。

 

「申し訳ありませんが、一度退室なさってください!」

 

 手早く一同を医務室の外へと出し、足早に医務室へと戻っていく。

 

「な……何が、起こったんだ?」

「……さあ」

 

 ようやく我に返った面々ではあるものの、再度足を踏み入れることはできず、壁越しにスィンの容態を心配することになる。

 その間にも、医務室では何らかの処置が施されたらしい。

 どたんばたんと派手な音が響き、「ぎぅ!」という変な悲鳴が響いた後に、診察室はすっかり平穏を取り戻した。

 一瞬の沈黙、後に開かれた扉の向こうには、そこはかとなく疲れたようなシュウ医師が立っている。

 

「先生! スィンはどうしちまっ……「重度の筋肉疲労を起こしています。それも全身に」

 

 一体何が起こったのかと慌てて問い質したガイだったが、受け答えるシュウ医師は実に冷静だった。

 その冷静さに、彼は気勢を殺がれた様子で単語を繰り返している。

 

「き、筋肉疲労?」

「筋肉痛のことですよ。まったく、人騒がせな……」

 

 それに答えたのは、当の医師ではなく多少医学に心得のあるジェイドだった。

 あれほどの苦しみように、何かあったのではないかと懸念していた一同も、次々と安堵のため息をついている。

 その中で、ジェイドすらも同じ意味のため息をついたことに気付いたのはシュウ医師ただ一人であった。

 しかし、次の一言により、ほぼ全員が閉口せざるをえなくなる。

 

「あれほど荒事に慣れている方が、ここまで悪化させることはおろか、筋肉疲労を引き起こすのも珍しい。後先を考えず、自分の限界を突破するようなことがなければ、ここまでひどいものにはなりませんが」

 

 暗に、何があったのかを尋ねるシュウ医師に、詳細を語ることができる人間はいなかった。

 

「い、色々とありましたの。先ほどお話したように、様々なことがありまして……」

 

 どうにかナタリアがそれだけを言う。

 先ほどティアの診察に関して話した事柄もあってか、彼はそれ以上食い下がることなく納得する素振りを見せた。

 

「ときに、彼女の持病のことはご存知ですか?」

「あ、ええ、一応は……」

「そちらの定期検診を行いますので、彼女には検査を受けていただきます。本人には、すでに了解を取ってありますので」

 

 スィンが瘴気障害(インテルナルオーガン)を患っていることは、すでに周知の事実である。

 定期検診という言葉にも、検査という言葉にも、過剰反応する人間はいなかった。

 わずかに、シュウの眉が曇る。

 それに他者が気付くよりも早く。

 

「それで、ティアの方はどうなんですか?」

 

 ルークの言葉に、彼は携えていた診断書を見直しつつもすぐに目を離した。

 

「これといって危険な値を示すものはありませんでした。ただ、血中音素(フォニム)が多少の揺らぎを示していますね」

「血中音素(フォニム)?」

 

 耳慣れない単語ではあったが、なぜか説明はされない。

 代わりに、そのことが何を示すのか、説明されることになる。

 

「譜術をたしなむ人は体内に音素(フォニム)を取り込むわけですが、取り込まれた音素(フォニム)が汚染されていて、うまく体外に放出できていないんです」

音素(フォニム)が、汚染されている……?」

「今、全世界で噴出している瘴気……でしたか。それと結合した音素(フォニム)を取り込まれた様子ですね。ですが、人体の自己治癒力でまかなえる範囲です。ご心配なら処方する薬で完全分解も可能です」

 

 その言葉によって、一同は心からの安堵を約束された。

 緊張が緩み、肩の荷が下りたかのように微笑みあう。

 

「よかったぁー……」

「でも、ティアはなんで瘴気になんて……ローレライの仕業なのか?」

「ローレライは第七音素(セブンスフォニム)の集合体です。つまり第七音素(セブンスフォニム)が瘴気と結合しているということになりますが」

 

 ティアの身体に微量とはいえ、瘴気が蓄積している。それは汚染されたローレライが宿った名残ではないかと、誰もがそれを信じて疑わなかった。

 それでも、ローレライに身体を乗っ取られるという事態がそうそうあるわけがない。

 すなわち、それが原因だとしたらこれ以上ティアの身体に瘴気が蓄積することはないということだ。

 

「でも、一応薬を飲んでおいたほうがいいんじゃないか?」

「お? ルークってば、ティアのことが心配なの?」

 

 真面目な顔でそれを示唆したルークが、アニスにからかわれる。

 反射的に「ちっ、ちげーよ!」と返す彼ではあったが、そのやりとりにすかさず入ってきたのは言わずとしれた黄金コンビの片割れであった。

 

「おや、ルークは心配ではないのですか? 薄情ですねえ」

「そんなわけねーだろ! 俺はただ、念には念を入れてってイミで……!」

「まあその通りですね。すみませんが、薬を処方していただけませんか?」

 

 若い男女の頬を熱くさせ、ジェイドはやっとシュウ医師と向き直った。

 

「……それでは、ティアさん。こちらの処方箋をどうぞ」

 

 何の前触れもなく話題を振られたシュウ医師は、にじみ出る汗は隠せないものの、手にした薬箋を問題なくティアに渡している。

 

「ここで処方はしてもらえないのですか?」

「はい、ここでは診察と処方、処置を主に行っております。薬そのものは隣室に薬剤師が待機しておりますので、そちらから受け取ってください」

「でも、前にスィンがここで薬、もらってたよね?」

「あらかじめ用意されていたんでしょう。彼女はかかりつけの患者のようですし」

 

 不思議そうに首を傾げたアニスだったが、ジェイドによる推測を聞いて納得し、シュウ医師は内心で汗をぬぐっている。

 スィンが彼に依頼し調合された薬は、薬の効かない──正確には非常に効きにくいスィンの体質に合わせて製造されたものだ。薬というよりは非合法である毒物に近い。

 事情を知らない薬剤師に調合させることはできず、彼が個人で極秘裏に製造しているという事実は、この時永遠に伏せられた。

 以降、彼らにそれを知る(すべ)はない。

 

「さて、じゃあまずはティアの薬をもらいに行こうか」

 

 ルークがそれを提案し、一同がぞろぞろと連れ立った隣室へ赴こうとした矢先。

 足を動かさない人物がいた。

 

「ああ、それじゃあみんなは行ってきてくれ」

「ガイ? あなたはどうするのですか」

「ちょっとな」

 

 一同の視線が集中する中、医務室へ戻ろうとしたシュウ医師へと向き直る。

 怪訝な顔をする医師を前に、彼は本題を切り出した。

 

「一度あんたの──かかりつけ医の口から、あいつの症状がどの程度なのか、客観的な現状を聞きたいと思ってた」

「まだ結果が出たわけではありませんが、診たところ良好である……とは、言い難いですね」

瘴気触害(インテルナルオーガン)が、進行しているのか?」

 

 そのままスィンの病状についてガイは聞き出そうとしたが、シュウ医師は即答していない。

 わずかな沈黙を挟んで語られた言葉は、詳細どころか回答を拒否する内容だった。

 

「……申し訳ありませんが、それにはお答えできません。医者が患者の病状を他者へ説明するには、本人の許可が必要なのです」

「え?」

「で、でも、ガイはスィンの……」

 

 まるで他人呼ばわりの言葉に、却って仲間たちが困惑を隠せない。

 フォローの言葉を入れようにも、シュウ医師はカルテを見ながら更なる理由を展開している。

 

「こちらのカルテによれば、彼女の血縁者は登録されておりません。許可を得ずお話できるのは、配偶者であるヴァン・グランツ謡将のみです」

 

 そう、聞かされて。

 ガイは小さく、首肯した。

 

「……わかった。本人から聞くよ」

「ガイ……」

 

 いかに事実を知ったのが最近であれ、他人呼ばわりが彼にとって何でもないことであるわけがない。

 シュウ医師はスィンの検査のためか、足早に医務室へと戻っていく。

 その背中を見つめている、少なからず傷ついているであろう親友になんと声をかけるべきか。

 言葉の出ないルークにガイは強張っていた表情を緩めた。

 

「大丈夫さ。あいつがここにかかり始めたのは、大分前のことじゃないか。その時は俺と姉弟だったなんて、知らなかったはずだしさ。ちょっと考えれば当たり前のことだよ」

 

 吹っ切ったように、彼は隣室へ赴こうとした。

 しかし小首を傾げて何か考え事をしていたナタリアの一言により、その足が止まる。

 

「けれど、それなら今スィンから直接許可を取ればいいのでは?」

「……まあ、それもそうかな」

 

 その言葉に惹かれてちらりと医務室の扉を見やるも、その瞳はどこか戸惑っていた。

 その理由は、おそらく。

 

「けど、検査中に話なんてできるのかしら?」

「とりあえず入ってみようよ。それでダメだったら、先にティアの薬をもらってくればいいんじゃない」

 

 アニスによる鶴の一声で、一同は再び医務室の扉を開けた。

 今度は何事かといわんばかりのシュウ医師に事情を話す傍ら、好奇心に駆られたルークが手近なカーテンを開いた先に、スィンがいた。

 再び診察台の上に横たわった彼女は、傍に据えられた音機関に向かって腕を突き出している。正確には、音機関から伸びる管を腕の血管に挿入し、繋いでいた。

 音機関には良い影響を与えないのか、その区画は間接照明がぼんやりと点灯している。

 そのせいためかスィンの顔色は悪く、四肢を投げ出したその姿に生気は感じられない。

 

「スィン……?」

 

 その姿に気付いたガイがおずおずと声をかければ、彼女はゆっくりと目蓋を開いた。

 その瞳に狂気の残滓は見えず、普段通りの落ち着いた藍と緋が一同の顔ぶれを映す。

 

「……ガイラルディア様」

 

 わずかに乾いたその唇が、安堵の吐息に消されそうなほど小さな言葉を吐き出した。

 

「先ほどは、見苦しいところをさらしてしまい、失礼いたしました」

 

 それまで意識をなくしていたせいか、その言葉はひどくたどたどしい。

 しかしガイが本題へ入るよりも前に、何とも答えがたい質問を発している。

 

「一体何が、あったんですか?」

「それは……「預言(スコア)、犬死に、意味がない」

 

 言い澱むガイの言葉に被せるように、抑揚が薄い声でジェイドがそれを言った。

 

「旦那……」

 

 ゆっくりとガイの前に立ったジェイドを見ても、スィンに変調はない。いつもの胡散臭い笑みが無いその顔を見て、不思議そうにしているだけだ。

 今も抱えているはずの激情を、おくびにも見せていない。

 おそらくはわざとだろう、ぶつ切りの単語を聞いても。スィンは「何のことですか」とは尋ねてこなかった。

 

「それは、僕があなたに、言ったんですよね?」

「ええ」

「体は痛いのに、気分が妙にスッキリしてるのは、言いたいことを言ったから、かな。侵入者がシンクだったのは覚えているんです。つまりカースロットを使われて、対抗術式もそこまで上手くは働いてくれなかった、と……」

 

 軽く目を伏せて、自身の状態とジェイドの少ない言葉から、何があったのかを推察しているようだ。

 やがてため息をひとつ吐くと、スィンは再びジェイドを見た。

 

「それをあなたに言ったということは、脳みそ溶けてたんですかね……鬱憤ぶつけられてお疲れ様でした。無事っぽくて何よりです」

「……おそらくは、あなたの奥の手であろう譜術も、拝見しました。大変興味深いものでしたよ」

「え、奥の手? 譜術で? どれ……いや、何でもないです」

「……お前、アレ以外にも何かあるのか?」

「お、お金と奥の手は、あればあるほどいいものなんですよガイ様。アレ、が何を指しているのか、分かりかねますが」

 

 興味深いと言いつつ言及してこないということは、その譜術を見てジェイドにはある程度理解が及ぶ内容だったのだろう。荒唐無稽ではないものとなると、限られる。

 スィンはそう解釈して、詳細を聞かなかった。

 

「先生が気にしていたかもしれない預言(スコア)とは、一体」

 

 彼の言う先生、が誰を指すのか、一瞬考えて。一度言葉を切ったスィンだったが、視線を動かし、イオンに目を止めた。

 

「……んー、それは、惑星預言(プラネットスコア)、じゃなくて秘預言(クローズドスコア)の内容なので、これを伝えていいかどうかは導師イオンであるあなたの判断に委ねます」

「!」

 

 突然話を振られたイオンは、動揺している。しかし続くスィンの言葉を聞いて、目を見開かんばかりに驚いた。

 

「ND2020の半ばから後半くらいの内容なんですが、どうしますか? このままなら、たぶん発生しないと思いますが」

「ND2020……? ちょっと待ってください。あれを起こすのは、ジェイドなのですか⁉︎」

「ありゃ、ご存じありませんでしたか。でも、死霊使い(ネクロマンサー)にはふさわしい所業だと思いますけど」

「ふさわしい、って……」

 

 一体未来の彼は、何をやらかす予定なのか。普段は何があろうと泰然としている導師イオンの珍しい焦りっぷりを見て、その明かされざる預言(スコア)の内容に興味を持つ一同であったが。

 首を振ったイオンの判断により、その内容は伏せられる。

 

「……いいえ、スィン。秘預言(クローズドスコア)の内容を、みだりに口外してはなりません」

「わかりました。大佐、その預言(スコア)気にするのは、キムラスカがマルクトを滅ぼした後。ピオニー陛下が崩御されてからでいいですよ。それが発生してから結構先のことですんで」

「スィン!」

 

 導師イオンの咎めを受けて、スィンは軽く首をすくめている。

 その最中、ふと真横に立っていたシュウ医師の顔を見たルークは、内心で首を傾げた。

 何故、彼は妙に強張った顔をしているのだろうか。

 まるで信じられないものを直視しているような──

 

「お前、身体は大丈夫なのか」

「全身が、痛いです。ガイ様も、お聞きになられたでしょう?」

「まあ、なあ。でも本当に、筋肉痛だけなのか? まさか瘴気触害(インテルナルオーガン)が進行してるんじゃ」

 

 本題を忘れてか、本人を目の当たりにして心配が抑えられなくなったのか。

 それを尋ねたガイを過保護だとでも言うかのように、スィンが柔らかく微笑みかけた。

 

「今から、それを検査してもらおうかと思います。それは先生のほうからお伝えしてもらったかと思いますが、いかがされましたか?」

 

 その言葉に甘えるように。ガイは本題を口にした。

 

「あー……その、だな。今のお前の病状を、こっちの先生から俺達に説明してもらうためにはお前の許可が必要なんだが……」

 

 にこやかだったスィンの顔が、急に曇る。

 僅かに伏せられた瞳が再びガイを映した時、どこか覚悟を決めたような、何か重大なことを決意したかのように真剣な色を帯びていた。

 

「ダメです。先生、絶対に話さないでください」

「なっ……!」

 

 竹を割ったかのように極端なその言葉は、ガイのみならず仲間たちをも絶句させた。

 いつぞやの過保護とは明らかに違う、彼女自身の容態を知る機会を奪われたのである。ガイは珍しく激昂した。

 

「あ……あのな! お前と俺の血縁が認められれば、それだけでお前の許可っていう効力はなくなる。それがわかってて言ってるのか?」

「承知しております。遺伝子の検査をしたければどうぞ。ですが、僕の記憶が正しければ遺伝子検査は結果を出すまで数日かかるはずです。それでもよければ、止めません」

「それだと手間だから……」

「そこまできっぱり拒否するということは、ガイに、もしくは我々に知られては困ることをあなたは隠していた。ということですか?」

 

 感情的になって言葉を荒げるガイでは話し合いにならないと悟ったのか、ジェイドが二人の間に割って入る。

 しかし、この場合相手が悪かった。

 

「ガイラルディア様でも、他の誰でもない。あなたに知られるのが嫌だと言っているんです。あなたを除外したとしても、誰かに話せばいつかは伝わってしまう。その事態を避けたくて、心苦しくもガイ様の提案に否を唱えているんです」

 

 その言葉に、彼はあっけなく沈黙している。

 というよりは、沈黙せざるをえない。

 

「……そういえば、お前の検査はどれだけかかるんだ?」

「それは数時間で済むはずです。違いましたか?」

「そうですね。すでに定例となっている検査ですので、確かにお時間は取らせません」

「だ、そうです」

 

 話はこれで終わりだと言わんばかりに、スィンは再び瞳を閉ざしてしまった。

 何かを測定している、音機関の規則的な音だけが無機質に響く。

 

「……わかったよ。勝手にしろ!」

 

 もはや取り付く島もないと判断したガイが、それでも納得はしかねると、まるで拗ねた子供のようにきびすを返した。

 検査中だということで注意を受けた面々も、いつにないスィンの態度に困惑しつつ退室を余儀なくされている。

 

「……ええ。勝手にさせてもらいます」

 

 扉が音を立てて閉まったとき、その言葉を聴いたのは検査準備に入るシュウ医師以外に、誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 



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第百二十四唱——これまでの行いと、薄れた自覚と、発覚した事実

 

 

 

 

 

 

 

 

 シュウ医師の処方箋と引き換えに、一週間分の薬がまとめて手渡される。

 それを受け取ったティアは廊下へ出ると、効能を確認してから自分の荷袋に収納した。

 

「さーてと。スィンの検査は数時間かかるって言ってたよね。待ってる間、どうしよっか?」

 

 アニスの言葉に、普段なら即答するであろうジェイドはぴくりと肩を動かしただけで、何も言わなかった。更に先ほど、容態の説明を盛大に断られたガイが、いかにも不愉快そうに眉を動かす。

 空気の険悪さを肌で感じたのか、珍しくナタリアが焦った調子で話題を変えた。

 

「そ、そういえば、次のセフィロトはどこなのでしょう? 確かセフィロトといわれる場所で行っていないのは……」

「パダミヤ大陸とラーデシア大陸、それにシルバーナ大陸ですね」

「アブソーブゲートと、ラジエイトゲートを除けばな」

 

 これが功を奏した様子で、二人は問題なく補足を入れている。

 雰囲気が和らいだことを知ってか知らずか、話題はティアが引き継いでいる。

 

「ええ。それに関しては、ここにユリアシティの研究者が来ているらしいわ。パッセージリングの場所を聞いてみましょう」

 

 研究所内を練り歩き、ユリアシティから訪れている研究者の所在を探し。教えられた部屋の扉にノックをすれば、出てきた研究者はティアの顔を見て小さく頷いた。

 ティアが頷き返す辺り、二人は顔見知りなのだろう。

 

「話は聞いている。大事はないそうだが、無茶はするなよ」

「ええ、ありがとう。それで、パッセージリングの場所なのだけれど……」

 

 ティアが本題を切り出せば、彼は棚から取り出した書類を眺めつつ即答に近い返事を寄越した。

 

「今、確実に場所を特定できるのは……メジオラ高原の奥部と、ロニール雪山だけだな」

「ロニール雪山ですか……」

 

 示された場所を聞き、イオンは珍しく顔をしかめている。

 その理由とは。

 

「あそこは、六神将が任務で訪れたとき、凶暴化した魔物に襲われて大変な怪我を負ったと聞いています。危険ですから、なるべく最後にしたほうがいいと思うのですが……」

「同感ですね。地元の住民でも、あの山には滅多に近づきません」

 

 六神将までもが負傷したという例は、ロニール雪山がどれだけ危険な場所であるかを物語っている。

 加えて、地元住民だったジェイドの発言に異を唱える者はいない。

 

「よし、じゃあまずはメジオラ高原に行こう」

「ならその間にもう一箇所、パダミヤ大陸のセフィロトの場所を探しておこう」

 

 ルークの言葉に、研究者もそう続く。

 お願いします、と彼に頼んだところで、一同は再び研究所の廊下へと出た。

 研究所内を歩き回ったとはいえ、話自体はすんなり終わったのでそれほど時間は経っていない。

 

「じゃあ、買出しでもしてくるか。スィンが終わったら、すぐ出発できるように」

「そのことですが……なぜスィンは、あのようなことを言ったのでしょう」

 

 ジェイドやガイが反応を示すよりも早く。

 投げかけられたルークの言葉に、ナタリアは思わしげな表情を浮かべた。

 

「それは……大佐に知られたくないからじゃあ」

「本当に、そうなのでしょうか?」

 

 アニスの言葉にも、彼女は自分の懸念を杞憂に変えていない。

 心なしかその目は、医務室のあった方角へ向けられている。

 

「大佐に知られるのが嫌だ、などというのは口実で、本当に重大な何かを隠しているのかもしれませんわ」

「考えすぎだと思うけどなー……」

 

 そんな呟きを零したルークにナタリアが何故かを問えば、彼は素っ気なく正論を持って返した。

 

「だったら、何か兆候が出てるはずだろ? 現に俺たちはそれで、あいつの疾患のことを知ったんだし。それ以外何もない、ってことは、今までと何も変わらねーってことじゃねえか?」

「……確かにそうですけれど……」

 

 表立っての反論はないものの、何となく釈然としていないナタリアに、アニスが頭上に電球を灯らせて提案している。

 

「そうだ。そんなに知りたいなら、詳しい検査が終わった後、スィンには必ず事実が知らされるはずなんだから、そのとき聞いちゃえば話は早くない?」

 

 これなら絶対に事実が聞けるはずだ、とけしかけるアニスに、ナタリアは名案だと思いながらも逡巡した。

 

「ですが、数時間と言っていましたから。いつ終わるかはっきりとは……」

「じゃあ今から医務室に張り付いちゃおう。それともナタリア、私に任せてくれれば十文字につき一ガルドで検査結果、聞いてくるけど?」

 

 どうやら初めから、仲間から小銭をせしめることを考えていたらしい。

 盗聴は犯罪だ、というティアの指摘により、一行は各自買出しをすることで時間を有効に使うことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 一方、医務室では診察台に腰掛けたスィンがシュウより検査の結果を聞いていた。

 確かに、定例の検査では詳細がはっきりするまで数時間かかる。しかし、大まかなことはすでに判明しているため、大体のことを先に聞いているのだ。

 仲間たちに知られまいとするスィンの意を汲み取ったシュウ医師の、事実ではないが嘘でもない言葉だった。

 

「──と、いうわけです。それで……どうされますか」

 

 一通り聞き終わり、スィンは小さく息をついた。

 ほぼ予想通りの結果である。たったひとつのことを除いて。

 

「ありがとうございました。それだけわかれば、もう十分です」

「まだ検査結果が……」

「後で聞きにきます。今の質問のことも、少し考えたいので」

 

 目を見開くシュウ医師に背を向けて、医務室を後にする。

 研究所に所属する研究員も滅多に使わないような通路、そこから先にある錆びだらけの階段を使って、スィンは屋上へとやってきた。

 空は高く太陽は輝き、雲はのんびりと風に流されていく。

 本日は、晴天だった。

 古びた柵に手をかけ、絶景と称するには程遠いベルケンドの街並みを眺めているうちに、眼下が騒がしくなったことに気付く。

 柵から離れて様子をうかがえば、それは先ほどまで行動を共にしていた一同の姿だった。彼らは頭上にいるスィンのことなどもちろん気付かず、あっという間に街並みへまぎれていく。

 その姿をぼんやりと見送っていた彼女ではあったが、ふと脳内に再生されたシュウ医師の言葉に、小さくうなだれた。

 

「今更……今になって、なんて」

 

 絶対に話せない。主はもちろんのこと、彼にも、誰にも。

 

 これで何度目になるかもわからないため息をついて、今度は天を仰ぐ。

 まるでスィンの行いを白日の下へさらけだそうとするかのごとく、太陽の光は鋭かった。

 天罰か、神罰か、それとも自業自得なのか。

 名前はどうでもよかったが、こうも色んなことが続くと勘ぐりたくもなる。

 

 いるかいないかもわからない神様。

 これは身に過ぎた行いを、過ちを繰り返した、罰ですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンコンッ、という規則正しいノックの後に、扉が開かれる。

 開かれた先に診察台に腰掛けたスィンと、彼女の前に立ちカルテを手に何らかを話しているシュウ医師の姿だった。

 

「……以上です。他に何か、質問は?」

「いいえ、ありません。ありがとうございました」

 

 話に一区切りがついたところで、先頭に立って医務室へと入ったガイはスィンへと詰め寄った。

 

「……どうだった?」

「良くもなっていませんが、薬が効いているのか悪くもなっていません。小康状態、だそうです」

 

 その言葉に、シュウ医師が頷いたのを見て取ったガイ、そして他一同は改めてほっと息をついた。

 これで、憂いすべてに決着がついたのだ。もはや、何を心配することもない。

 

「よーし。なら、メジオラ高原に行こう。セフィロトの降下作業を進めるんだ!」

「待ってください」

 

 医師に礼を述べ、医務室を後にしようとして。

 スィンがいない間、決まったこれからの方針を聞こうとして、彼女はシュウ医師に呼び止められた。

 彼は本棚の奥から、分厚い書類入れを引っ張り出している。

 

「何か?」

「こちらを持っていってください。これは、あなたに差し上げます」

 

 一抱えもあるそれを開くと、それはこれまでスィンを診てきた手製のカルテであることが判明した。

 それらが渡されること、その意味を察して咄嗟にシュウ医師の顔色を見る。

 彼は、その視線から一瞬逃げるものの、すぐに目線を合わせてこう言った。

 

「もう、ここへ通う必要はありませんよ」

 

 その言葉に。スィン同様、やりとりを見ていたナタリアはまさか、と口元に手を当てた。

 

「ということは、もう瘴気蝕害(インテルナルオーガン)に関して心配はないということですか!? 今回処方したお薬だけで……!」

「──ええ。まあ」

 

 確かにナタリアの言うとおり、見た目何ら変わりなくカルテを渡されたということはもう通院の必要はないということ、すなわち病気の完治を意味するだろう。

 皮肉なことに、この場合シュウ医師がとったのは真逆の理由だった。

 もう、ここへ来ても無駄だということだ。

 もう自分の手には負えない。通院したところで、何の処置も施せない。

 だからこそ、個人カルテの全てをスィンに渡した。

 もはや、彼が所持していても何も意味がないから。

 後悔は、ない。すべては自分で選んだことだ。

 ここに至るまでの過程も。そして選ばされる未来も、今この瞬間も。

 すべては主のために。自分が生きる、その理由と目的のために。

 無邪気に祝福してくれる仲間たちと共に、スィンは笑みを浮かべた。

 これこそが、望んだものだから。

 主の笑顔。それは彼のみの幸せでは、成り立たない。

『仲間』の笑顔や、幸せもなければ、いけないから。

 

 

 

 



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第百二十五唱——新たな予感

 

 

 

 

 アルビオールの水上走行機能を使って、メジオラ高原へと続く渓谷を進む。

 徒歩で向かうことが不可能だったわけではないが、メジオラ高原の奥部といわれるくらいだからそれなりの距離を要するだろう。

 その手間を少しでもなくせないかと吟味した結果、地図上にあったシェリダン港南西の河口からショートカットできそうだと、敢行したのである。

 河口といっても、それほど広い河ではない。ノエルに苦労をさせることになるが、アルビオールが飛行不可能である状態時での経験があったために、彼女はすいすいとアルビオールを遡らせていた。

 やがて十分に進んだのち、これ以上進むと戻れなくなるのか、それともメジオラ高原から遠ざかるのか。

 アルビオールはゆっくりと停止した。

 

「アルビオールで進めるのは、ここまでのようです。皆さん、お気をつけて……」

「ノエルも気をつけてな」

 

 そう言い残してアルビオールを降りるガイに、スィンもまた続く。

 借姿形成で見た目は誤魔化してあるが、自分の感覚だけはどうあっても騙せない。どうにも抜けないだるさから目を背けつつ、スィンは歩き始めた一行の後ろについた。

 以前訪れた際と同じように、メジオラ高原はどこまでも荒涼とした景色が延々と続いている。これならタタル渓谷の、超振動によって飛ばされた場所のほうがよほど高原らしい。

 切り立った崖、緑もなければ水もない寂しげな風景はどこまでも変わらない。

 アルビオール初号機とギンジ救出時には急いでいた故にまったく気にかけていなかったが、これではダアト式封咒もこの風景に溶け込んでいるような気がしてならなかった。

 

「パッセージリングはどのあたりに取り付けてあるのでしょうか……」

「今までと同じような、ダアト式封咒の扉があるはずです。まずはそれを探しましょう」

 

 ナタリアとイオンの会話を片耳に挟みつつ、ふとあることを思い出す。

 以前来た際も、魔物は生息していた。

 あそこよりも更に奥地だからもちろんいるだろう、ということを念頭に、進んでいくと。

 

「!」

 

 突如として、銃声が響く。

 何事かと一同が見回した先には、以前リグレット本人から奪った譜業銃と構えるスィンの姿がある。

 譜業銃の先には崖が存在しており、その崖から一同を見下ろすように佇む女がいた。

 同じく譜業銃を油断なく構え、スィンを睨む女性──魔弾のリグレット。

 

「教官!」

「これ以上無駄なことはやめろ。ヴァン総長も、心配しておられる」

「無駄なことをしているのは、あなたたちです!」

 

 これまでの間柄からして、リグレットが話しかけているのはティアだろう。彼女自身もそう思って受け答えしているのだろうが……どうもおかしい。

 スィンが譜業銃を向けているせいなのか、リグレットは一向にティアを見ない。

 それどころか、女狐と呼んであからさまに敵視していたスィンの顔を、ジッと見つめている。

 ためしに譜業銃を手放してみるものの、リグレットの様子に変化はない。

 それどころか。

 

「……何故だ」

 

 唇を噛み締め、眦が吊りあがる。

 明らかな怒りを示しつつも、彼女は譜業銃をホルスターに納めていた。

 

「何故あの方の寵愛を受けていながら敵対する! お前がその男の傍にいることが、どれだけ閣下を苦しませていることか……恥を知れ、女狐!」

「……そ。そんなこと言いに、わざわざこんなところまでご足労いただいたわけ?」

 

 リグレットの言葉に激しく動揺しつつも、スィンは半ば呆れていた。それとも、そう罵られることによってスィンが動揺することを、わかっていての芝居なのか。

 わからないがそれよりも、何故リグレットがここにいるのか。それが問題だった。

 

「それとも、誰かを暗殺してこいとでも言いつけられたの?」

「……叶うならば貴様の脳髄を吹き飛ばしてやりたいが、閣下はそれを望んでいない」

 

 物騒なことをのたまいつつ、その手は譜業銃の収まったホルスターに添えられている。

 添えられているだけで、抜かれようとはしていない。

 

「じゃあ、何。まさか一人でイオン様の強奪に来たんじゃ……」

「……自分の身を犠牲にしてまで守る価値のある世界か? まったく理解ができないな」

「!」

 

 かまかけ──であれば、どんなによかったことか。

 シュウ医師からカルテを回収してきたというのに、リグレットは全ての事実を承知しているらしかった。

 これに反応しない彼らではない。

 

「自分の身を、犠牲……?」

「……その様子では、何も知らなさそうだな」

 

 ガイの呟きを耳ざとく聞きつけて、リグレットは嘲笑した。

 

「哀れな奴だ。そこまで「何のことだかさっぱりわかんないね。ガセでも掴まされたんじゃない? 可哀想なのはあなたの方だよ」

 

 リグレットの嘲る声を遮る。

 どんな情報をもとに物を言っているのかはわからないが、これ以上彼女にしゃべらせない方が多分いいだろう。

 

「憎しみに駆られて殺そうとした人間を。弟を殺したも同然の人間を閣下と呼んで敬愛して、ついでに恋心まで抱いてるあなたにはそりゃ、理解できないよ」

「──貴様っ!」

 

 盛大に自分の過去を暴かれ、リグレットはあっさりと激昂した。

 ただ、ホルスターから譜業銃を引き抜くことなく、さっ、と腕を上げたかと思うと、その腕を何かが掴む。

 鳥獣型の魔物に運ばれ、一同と同じ道に降り立った彼女はつかつかとスィンに迫ってきた。

 当然、スィンは血桜を引き抜いて警戒している。

 

「最低な女だな。都合が悪いと、人の過去を暴いてまで誤魔化すか!」

「──泥棒猫に最低とか言われるとー、本当に最低になった気がする」

 

 しれっと、ヴァンに迫ろうとして強攻策をとったリグレットの過去の醜態を揶揄すれば、彼女は顔を真っ赤にして怒鳴った。

 多分、怒りではない。

 

「だっ……黙れ! それ以上口を開くな!」

「泥棒猫って……スィン、教官は一体何をしたの?」

「あのねーリグレットったらねー」

 

 言いかけて、その場に伏せる。

 今度こそ銃撃してくるかと思われたが、リグレットは顔を真っ赤にしたまま何かを投げつけてきただけだった。

 陽光に反射して煌いたそれは、力なくスィンの背後に転がった。

 

「ティアにそのことを話してみろ! 今度こそ、貴様を蜂の巣にしてくれるわ!」

 

 再び腕を上げたリグレットを、鳥獣型の魔物がさらっていく。

 そのまま、豆粒のようになっていく彼女を見送って、ルークがポツリと呟いた。

 

「……何だったんだ?」

「どうやら、戦うつもりではなかったようですね」

 

 いつの間にか槍を携えていたジェイドが、何事もなかったようにそれを消す。

 くい、と眼鏡の位置を正すと、その真紅の瞳はスィンを見やった。

 

「個人的には、スィンが女狐と呼ばれる所以を知りたいところですが」

「……んー。思い当たるフシがないわけではありませんが、わかりません。一体どれが決定的な原因なのか」

 

 リグレットが投げつけてきたのは何だったのかを見、拾い上げて首を傾げる。

 あれかなあ、これかなあ、と過去の追憶を穿り返して思い悩むスィンに、興味津々なナタリアが口を開いた。

 

「では、泥棒猫のくだりのあたりを。彼女は一体何をなさったのですか?」

「ティア、耳塞いで。蜂の巣にされるのやだから」

「でも、私も興味があるのだけれど……」

 

 何とか誤魔化すことには成功したか、と内心で安堵する。

 ティアが知りたがっていることをいいことに、リグレットの暴露話もあえてすることなく、一同は先を進んだ。

 そして行き着いた先に、あの特徴的な扉が出現する。

 それを一目見て、それまで守られていたイオンが前へ出た。

 

「ここがそうですね」

「やっぱり、ヴァン師匠(せんせい)が来た形跡はないな……頼むよ、イオン」

「はい」

 

 歩み寄ったイオンが、扉と対峙する。

 譜陣が浮かび上がり、規則的な動きをもってして、扉は空気へ溶けるように消滅した。

 瞬間、がくっ、とイオンの膝が崩れる。

 それを察知して駆け寄ったスィンは、彼の細い体を抱きとめた。

 

「すみません……」

「イオン様、しっかりしてください」

「能力こそ被験者(オリジナル)と変わらないのですが、体力が劣化していてどうしてもこうなってしまうんです」

 

 そんなことは誰も聞いていない。

 しかし、これで創生歴時代の音機関や譜術に触れることで、奇妙な消耗などは起こりえないことがはっきりした。

 

「ただ病気というわけではなかったのですね」

「ええ……」

 

 移動するだけなら平気だと主張するイオンの言を信じて、解放された扉の先を行く。

 開けた視界の中、周囲に溢れるそれらを見て悪い癖が発生したのは、誰あろうガイだった。

 一目その光景を見た途端、自分の世界へ嬉々としてダイビングしている。

 

「はぁ~ん。こんなところに、こんな音機関があるとはな!」

「嬉しそうだな、お前……」

「キムラスカで暮らすようになってから、すっかり譜業に目覚めちまったからな」

 

 どことなく引いているルークに取り合うことなく、ガイは無邪気に音機関へと駆け寄った。

 そのまま子供のようにはしゃぐ彼に、誰一人としてついていけてない。

 

「やっぱ、創生歴の音機関は出来がいいなあ! スィンも見てみろよ」

「封咒に守られていたせいか、保存状態は良好ですよね。パッセージリングも同様であればよかったのに……」

「そう言うなって! こんな状況でもなきゃ、こんな音機関拝めなかったんだからな!」

 

 不謹慎にもほどがあるのだが、今の彼には何を言っても通じないだろう。

 これまでと同じように、半ば諦めて長々とした講釈を垂れ始めた彼に付き合っていると、生暖かい眼でそれを見守っていたナタリアがぼそりと呟いた。

 

「殿方って、こういう物が好きですわよね」

「うちのパパも模型大好き。ばっかみたい」

 

 女性陣の呆れに似た感想を、無論のことガイは聞いていた。

 しかし、機嫌がすこぶる良いガイに、怒るという概念はなくなっている。

 

「いいんだよ、女にはわからないロマンなんだから。なあスィン、あのパーツなんだかわかるか?」

「接続……えーと、何でしたっけ?」

「あれは接続器の負担を軽くする奴でな、もう今じゃ滅多にお目にかかれないレアパーツなんだぜ! くーっ、外して持って帰りたいな!」

「盗掘じみたせせこましい真似はやめてください」

 

 正体こそ知っていたが、それでも説明がしたくてうずうずしているガイの眼を見て、とぼける。

 嬉々としてやはり講釈を垂れるガイが奥へ行ってみようと一人走り出したところで、そのまま追いかけられないスィンに一同が歩み寄ってきた。

 

「スィンも、無理して付き合わなくたっていいのに」

「……これも従者の勤め。多分」

 

 知識はあれど、けしてスィン自身ここまで節操なく音機関を愛しているわけではない。可能な限り、彼の趣味について理解はしている。

 だがそれでも、常に暖かい目で見守れることではなかった。

 息をつき、一人先行してしまった主を追って走る。

 追いついたところで、ガイはふとスィンを見やって言った。

 

「なあ、スィン。お前……ちょっと太ったか?」

「は!?」

「なんか動きにキレがないっていうか、追いついてくるのが遅かったような……」

 

 首を傾げる主を前に、動揺が隠せない。

 確かにスィンは現在、体型に若干の変化が現われていた。

 それを聞きつけ、女性陣がブーイングを放つ。

 

「ひっどーい! 確かにスィン、最近食べる量増えたけどそこまではっきり言う!?」

「アニス! どちらかというとあなたの方が失礼ですわ!」

「でも、確かに増えたわね。今までそんなことなかったのに、最近はよくお菓子を作ってるみたいだし」

 

 食べる量を増やしたことも、菓子を作って振る舞いつつ自分もしっかり食べているのは事実だ。

 動きにキレがなくなったのも、かなり深刻な理由があるのだが。事実は話せない。

 スィンは音の外れた口笛を吹いて誤魔化した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百二十六唱——事を成すならば代償は必然。成すべき事とその代償とは

 

 

 

 

 

 

 太った、とずばり言われて反論もせず、黙り込んでしまったからだろうか。それ以降、その話題が浮上することはなかった。

 火付け役であるガイは、あまり気にした様子もなく音機関に眼を奪われている。奥の空間には、物言わぬ音機関の他にゆらゆらと動き回る譜業人形があった。

 それを見つけて、ガイは勿論反応している。

 

「おおっ! すっげー、機械人形だぜ!」

自動人形(オートマタ)……いや、自律型修復機能みたいですね」

 

 それなりに大型の譜業人形には、様々な整備及び修復に用いられる器具が取り付けられている。

 それがわかっているからだろう。ガイは何の警戒もなしに近寄っていく。

 とはいえ、素人にそれがわかるわけがない。ティアが警告を発した。

 

「待って! 何か攻撃してきたら……」

「こいつは別に戦闘用の機械じゃないよ。多分、ここらの音機関を整備するためにいるんじゃないか?」

 

 従って、侵入者を排除するような機能はない。

 それを示すかのように、ガイが無造作に近寄っても譜業人形は一切反応しなかった。

 

「というと、パッセージリングの整備を彼が行っているとか?」

「うん、そうかもしれないな……」

「いえ、パッセージリングではなくてリングを護る周囲の音機関を管理しているだけだと思います。今現在リングに不具合が生じていることを考えれば、リングそのものを修復する機能はすでに失われているものと」

 

 譜業人形に気を取られて生返事のガイに代わり、スィンがそんな見解を述べた。

 なるほど、と納得するイオンに、流石譜業オタクの従者、とアニスからお褒めの言葉を頂き。

 スィンは口をへの字にしながら更に奥へと進んだ。

 

「パッセージリングはこの下のようですが……」

 

 進んだ先に昇降機を見つけて乗り込むも、まるで反応はない。

 不審に思ったらしいジェイドが切り替え装置を探り、出した結論はこれだった。

 

「正常に作動していませんね。これでは動きようがない」

「マジかよ! 階段とかねーの?」

 

 少し前ならだるいだの何だの文句しか言えなかっただろうに、建設的な意見が出たのは結構なことである。

 だが、それらしいものがない今は何の役にも立たない。

 

「見た感じではなさそうだけど……」

「じゃあ、ガイかジェイドがちょちょっと……」

 

 ちょちょっと、でどうにかできるほど生易しい問題ではないのだが。

 それをジェイドがわざとらしく拒否、やり取りを無視してガイが原因究明を勤しんでいる間に、スィンはその場を離れて譜業人形に歩み寄った。

 音機関の耐久年数が過ぎて破損している部位があるのなら、この譜業人形の仕事であるはずだ。

 だが、この自立型修復機能が何もしていないということは、考えられる原因はひとつ。

 

「浮かない顔ですわね」

「直すには壊れた動力を新しいのに変えればいいんだ。けど……」

「替えの動力がないのね」

 

 ナタリアの言葉を否定するでもなく、判明した原因を語る。

 その言葉から先読みしたティアに頷くことはなく、ガイはちらりと後方をみやった。

 

「あいつ以外にはな……って、スィン!?」

 

 彼の眼に入ったのは、いかなる方法か譜業人形を停止させ、譜業人形の所持していた工具を用いて何やらごそごそ手元を動かす従者の姿だ。

 やがてスィンは、片腕に何かを抱えて昇降機へ戻ってきた。

 

「……あいつから、動力を取ったのか?」

「はい。自立型修復機能なのに仕事をしないのはおかしいと思ったから、最初はあれの故障かと思ったんです。ガイラルディア様の見立てを聞いて、これなら代用可能かと」

 

 あっけにとられる一同を尻目に、スィンはそれまでガイが覗きこんでいた動力装置を手早く外している。

 そして調達した動力を取り付けようとするも、接続機器の違いからそれは容易なことではない。

 

「ガイラルディア様、接続器の代用になりそうなもの、ありませんか?」

「あ、ああ。俺がやる」

 

 手持ちのパーツを組み合わせて手製の接続機器を作り、代用する。

 無事作動可能となったにも関わらず、一行の顔に喜色はない。

 特にルークは、動かなくなった譜業人形を見つめて、きゅ、と唇を噛んでいる。

 

「……行きましょう」

 

 てっきりジェイドがこのことについて絡んでくるかと思えば、ルークの心情を思いやってか茶々はなく。

 作動した昇降機に連れられ、一同はパッセージリングのある最奥まで無事、到達した。

 

「では、起動させてください」

 

 ジェイドに促され、スィンはパッセージリングの前へと進み出た。

 上空には各地のパッセージリングの状況を示す譜陣が浮かび上がり、代償として汚染された第七音素(セブンスフォニム)をスィンの体が吸収していく。

 これが手遅れと言われた所以なのか。これまで感じてきた倦怠感も苦痛も、今までにも増して感じる。

 

「ルークはタタル渓谷と同じように制御をお願いします」

「わかった」

 

 そう言ってスィンと同じように歩み出した彼の横に、ジェイドもまたパッセージリングに近づいた。

 その手には、見慣れない音機関が携えられている。

 

「旦那、そいつは?」

「ちょっとした計測器です。瘴気のことで、ね」

 

 瘴気、と聞いて何に勘づいたのかと内心びくついたスィンだったが、それは杞憂に終わった。

 彼はその計測器を、地核の振動周波数を調べる際と同じように起動したパッセージリングの譜石へあてがったのである。

 程なくしてそれを取り外す頃、ルークの作業も終了していた。

 

「終わったぜ」

「御苦労さま」

「こちらも……第七音素(セブンスフォニム)に瘴気が含まれているのは、間違いなさそうですね」

 

 難しい顔で計測器を眺めていたジェイドが、計測結果を見て断言する。

 それを聞いたルークがティアにパッセージリングに近づくなと促すその横で、ガイが首を傾げた。

 

第七音素(セブンスフォニム)は、どうして瘴気に汚染されているんだ?」

「瘴気は地中で発生しているようですから、あるいは地核が汚染されているのかもしれません」

 

 その事は、以前ローレライが汚染されているらしい、ということから連想はできる。

 過保護だと従おうとしないティアを強引にパッセージリングから引き離したルークは、顔をしかめた。

 

「ってことは、星の中心が汚染されてるってことか。中和なんてしきれないんじゃないか?」

「いえ、地核が発生源なら活路が見出せそうですよ」

 

 星の中心が汚染されているということは、星が存在する限りその汚染も広がり続けているということだ。

 中和してもするそばから新たな瘴気が発生されては、追いつかないかもしれない。

 そんなルークの発想を真逆の観点から可能だとするジェイドに、アニスが話についていけなかったのか解釈を求めた。

 

「え? え? 瘴気を何とかできるの?」

「ええ。星の引力を利用すれば。ただそれは私の専門ではないので、確約はできませんが……」

「それでも、可能性はあるんだな」

 

 朗報もそうでないものも、確かでないことは滅多に口に出さないジェイドがそう言うのだから、かなり期待できる話なのだろう。

 ルークの問いにも、ジェイドは否定しない。

 

「ええ。それにベルケンドでは引力についても研究が盛んです。私の知識よりは頼りになると思いますよ」

「ならベルケンドへ戻ろうぜ」

 

 そうと決まればまずは地上へ戻ろうと、一同がパッセージリングに背を向ける。

 そんな中、ルークによって入り口付近に立っていたティアが難しい顔でスィンに近づいてきた。

 

「どうかした、ティア? おなか痛いの?」

「いえ、体調は悪くないわ。それよりも……」

「ティア、具合が悪いのか?」

 

 何かを尋ねかけたティアが、ルークの接近により口を閉ざす。

 彼女がルークをあしらっている間にスィンはガイに呼ばれており、彼女が何か言いかけていたことを気にしながらもそれを尋ねるようなことはしなかった。

 下手に何かを尋ねて、藪蛇になっても困る、ということもある。何せティアは、ティアの体はパッセージリングを起動させる際に汚染された第七音素(セブンスフォニム)を吸収してしまうことを知っているのだ。

 彼女自身は違和感しか知らないようだったが、そのことをつつかれても面倒であることは確か。

 故に、スィンはなるべく彼女との内緒話を避けていた。

 来た道を戻って、再びメジオラ高原奥地へと戻る。

 河口で待機しているはずのアルビオールへと戻る最中、一同は彼方よりやってくる人影と遭遇した。

 

「あれ……アストンさん!?」

「ルークや! 元気か!」

 

 現れたのは、地核突入作戦時港で別れたアストンである。

 一同の盾となりかけ、スィンの譜歌にて昏倒した彼は、何故かあちこちに包帯を巻いていた。

 

「シアお嬢ちゃんも……ん? ちとふっくらしたか?」

「太ったってよ、スィン」

「……老化現象でしょうか」

「いやいや、お前さんはもう少し横幅があっていい」

 

 図らずも体型のことを出されて沈みかけたスィンだが、アストンはフォローなのか本音なのかわからない一言で済ませている。

 そんなにわかりやすい太り方をしているのだろうかと、スィンが手鏡を取り出して自分の顔の形を確かめる最中にも、彼の話は続いた。

 

「実は、作戦直後また例の兵士どもが襲ってきての。常駐していたキムラスカ兵士、それと、アッシュといったか? あやつらのおかげで殺されずにはすんだんじゃが、みんな揃って病院送りにされちまってな」

「八つ当たりってこと? 何考えてんだか……」

「教官が、そんなことを……」

 

 リグレットが扇動してのことか、あるいは作戦失敗に暴走した兵士のしたことか。いずれにせよ彼女の責任であり、軍人として最低の行為であることに変わりはない。

 憤慨、あるいはショックを受ける現役軍人の彼女達とは対照的に、ナタリアは純粋にその被害を憂いていた。

 

「皆さん、アストンさんも、大丈夫なのですか? よもや大事に至っていることは」

「わしはこの通りじゃが、他の連中はまだ入院しとるんじゃよ。時々見舞いに行っとるが、まあ元気なもんじゃ。嬢ちゃん達に助けられた命、無駄にはできんよ」

 

 どこまで信じていいのかわからないが、少なくともアストンの言葉に嘘はなさそうだ。

 無駄に命が散らなかったことを安堵して、ふとティアが本題を呟いた。

 

「でも、アストンさんはどうしてここに……」

「何もしないでいると、腕がなまっちまうんでな。だもんで、アルビオールの二号機を……や、一台壊しとるから三号機か。とにかくそれを作ったんじゃ」

「で、また墜落した?」

 

 にこにこ笑顔で揶揄するアニスに、アストンは眉をしかめて否定する。

 しかしその言葉は、途中で途切れた。

 

「ばかもん! 試験飛行の途中でおまえたちを見つけたから……」

 

 アニスを見下ろしていたその目が、ふとスィンの視線を追う。

 いつの間にやらアストンではなく彼の背後を見やっていたスィンの目に映るのは、一人の老人だった。

 アストンの挙動で気づいた一同の仕草で気づいたらしく、小さく後ずさる。

 

「ひ……っ!」

「お、おまえ!」

「ス、スピノザ!?」

「また立ち聞き!? 超キモイ!」

 

 キモイと言われて傷ついた、わけでもなかろうが。一同に存在を感知され、スピノザはくるりと背を向け逃走した。

 もちろん、そのまま生温かい目で見送るわけにはいかない。

 

「待てー!」

「俺達も追いかけよう!」

 

 怪我のことがあってか、走れないらしいアストンをルークが自発的に背負う。

 一同とスピノザでは足の速さにとんでもない違いがあったが、それでも距離の利を縮めることは難しかった。

 その姿が見えなくなり、アルビオールの待機する河口付近にてルークに無理やり背負われたアストンが空を差す。

 

「空を見ろ!」

 

 その指に従い上空を見やれば、アルビオールと同じシルエットがメジオラ高原から飛び去って行くところだった。

 一同の真上に飛晃艇の影が落ち、見る間にその姿が遠ざかる。

 

「あれは……アルビオール!?」

「いや……似ているが、違うな」

 

 ノエルを操縦士に据える一同が借り受けたアルビオールは白を基調とした機体だが、あちらは黒。ついでに携わった製作者の数で細部のデザインが異なっているのだろう。

 その答えはアストンが握っていた。

 

「あれはわしの三号機じゃ……」

「また逃げられてしまいますわ!」

「ぬう! 二号機で奴を追跡じゃ! どうせ試験飛行用にしか燃料を積んでおらん。すぐに墜落するはずじゃ!」

 

 哀れアルビオール。この名のついた飛晃艇はどうしても墜落する定めなのか。

 一同が搭乗するアルビオールが、いつか墜落しないことを祈る。

 

「スピノザは、物理学の第一人者です。味方にすれば瘴気問題で役に立ってくれるでしょう」

「わかった! アルビオールで追跡だ!」

「わしも連れて行ってもらうぞ」

 

 ジェイドが言外に殺してはまずいと呟き、一同は大急ぎでノエルの待つアルビオールへと飛び乗った。

 操縦席にて仮眠を取っていたらしいノエルは、毛布を跳ねのけて何事かと尋ねてくる。

 

「先程の三号機を追跡するんですね。お任せください」

「頼むぞ!」

 

 寝起きとはいえ、ノエルの反応は素早い。

 即座に計器を起動させ、三号機をレーダーで索敵。その間にエンジンを起動し、アルビオールもまた大空を舞った。

 タイムラグによって肉眼での索敵は難しかったが、搭載されたレーダーでの索敵にひっかかった様子である。

 程なくして、ノエルの眼にも三号機は捉えられた。

 

「三号機発見! ですが、おかしいです」

「どうしたんだ?」

「白煙を上げて……あ!」

「ああああっ! 貴重な三号機がああっ!」

 

 窓の外の光景は、ノエルの報告通り白煙を上げてきりきり舞いをしつつ、垂直落下した三号機の姿である。

 ガイは悲鳴を上げて窓に張り付いているが、助けられるはずもない。

 いかなる方法か一応横転などはしていないようだが、操縦者が無事か否かは土煙で判然としなかった。

 

「生きてるかなあ」

 

 あまり心配そうに聞こえないルークの発言だが、無理はない。

 しかし過去の経験を生かしてなのか、アストンは胸を張って言い切った。

 

「三号機は頑丈じゃ。墜落による衝撃で人体に影響は出ないわい!」

「この辺りの魔物はお年寄りには厳しい。街に逃げ込む筈です」

「よし、ベルケンドへ行こう!」

 

 どうにか着陸している有様の三号機を見て、いの一番に飛び出したガイが頬擦りをせんばかりにその状態を見ては嘆いている。

 そんな彼を引きずり、スピノザに怒りを向けさせてベルケンドへ向かった先。

 彼は大通りに堂々と姿を現していた。

 裏通りに身を潜めるとか、物理学の第一人者でも荒事に無縁な人間には考えが至らないらしい。

 

「いたわ!」

 

 あまりに堂々としていたせいだろう。

 穏便に制止するつもりだったのか、ティアの言葉を聞いたスピノザがまた走り出す。

 それを追おうとして、スィンはルークに止められた。

 正確にはルークの挙動か。

 

「行くぞ! あいつを威嚇しろっ!」

「は、はいですの~!」

 

 ミュウをひっ掴み、高々と片足を上げたルークが思い切り振りかぶる。

 投擲されたミュウはスピノザの後頭部に見事命中、その勢いで彼の前へ回り込んだ後に火を噴いた。もちろん威嚇程度、スピノザが火に巻かれることはない。

 驚き、思わず回れ右をしたところでガイに捕獲される。

 

「おーっと、あんたには色々聞きたいことがあるんだ。大人しく……」

「ガイ様、もう少し言葉を選んでください。ナタリア、知事を通して場所を借りられないかな」

 

 どうしてこう、堂々と表通りでドンパチ繰り広げられるのだろう。権力はあるから厄介事はもみ消すことはできるだろうが、それだけの問題ではないはずだ。

 傍目にはか弱い老人を取り押さえたガイが、ハッと我に返って周囲を見回す。

 しかし今になって離すこともできず、彼はベルケンドの知事であるビジリアンと話をつけてから、知事邸へスピノザを連れ込むことになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 



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第百二十七唱——信じることと疑うことと

 

 

 

 

 

 

 ナタリアの仲介により、一同は知事邸の一室を借り受けてスピノザの尋問を始めていた。

 また立ち聞きされては困るということで、スィンは自主的に近辺の警戒に当たっている。

 結果、今現在不審者は自分くらいだということが判明したところでふと、室内から聞こえてくる会話に耳を傾けた。

 

「わしらの話を立ち聞きしてどうするつもりだったんじゃ!!」

「またヴァン師匠(せんせい)達に密告でもするつもりか!」

 

 声を荒げるはアストンにルークだ。

 あったことがあったことだけに、二人とも憤慨の色が色濃く出ている。隠す意味などもちろんないだろうが。

 孤立無援にして逃げ場もないスピノザは、力なく反論した。

 

「ち……違う……」

 

 興奮冷めやらぬ二人をなだめるのは、イオンの声である。

 追及を続けようとした二人を制して、彼は言った。

 

「まあ、待ってください。相手を怯えさせるだけでは何もわかりませんよ。あなたは何をしにメジオラ高原へ来たのですか?」

 

 なんという飴と鞭。流石導師は、使い方をよくわかっていらっしゃる。

 天然なのかもしれないし、やらずともそのうちジェイド辺りが演じただろうが。

 

「わ、わしは……皆の見舞いがしたくてシェリダンへ行ったんじゃ」

 

 イオンの言葉に促されてだろう。スピノザはぽつぽつと、メジオラ高原にいた理由を語り始めた。

 

「その時アストンがメジオラ高原に行ったと聞いて……まずはアストンに謝ろうと……」

「なら逃げることはないじゃろが!」

「こ、怖かったんじゃ! いざとなると何を言っていいのか……それで……」

 

 あの場はつい逃げ出してしまったのだと言う。目についたアルビオールを占拠してまで。

 スピノザがノエルのいる二号機に眼をつけていなくてよかった。

 人がいたから無人の三号機を乗っ取ったのかもしれないが、彼女に何もなくてとりあえず良かったと思う。

 ただ、魔物のうろつく高原奥地へ彼がどのようにして辿りついたのか、非常に気になるところだが。

 

「そんなの信じらんないよ! だいたい、アンタがチクったから総長にバレたんじゃん!」

「……確かにわしは二度も、ヘンケンたちを裏切った。二人が止めるのを無視して禁忌に手を出し、その上二人をヴァン様に売った……」

 

 甲高いアニスの糾弾に、スピノザはうなだれて懺悔を始めている。

 その様子を、スィンが直接うかがい知ることはできなかったが。

 周囲に不審者もない今、その態度はルーク達を油断させるため、促されたものではないと思いたかった。

 

「もう取り返しがつかないことはわかっとる。じゃが、皆を傷つけてわしは初めて気づいたんじゃ。わしの研究は仲間を殺してまでやる価値のあったものなんじゃろうかと」

「……俺、この人の言ってること、信じられると思う」

「ルーク……」

 

 その懺悔を聞き、ほだされたわけでもないだろうが肯定を呟いたのはルークだった。

 彼もまた、大罪を犯した。悔いるその姿は自分と被るものがあるのだろう。

 

「俺、アクゼリュスを消滅させたこと、認めるのが辛かった。認めたら今度は何かしなくちゃ、償わなくちゃって……この人はあの時の俺なんだよ」

 

 沈黙が漂った。

 誰も彼もが言葉を失ったその時、絶妙なタイミングで口を開いたのがこの人である。

 

「もしもあなたの決心が本当なら、あなたにやってもらいたいことがあります」

「な、なんじゃ?」

「瘴気の中和、いえ隔離の為の研究です。これはあなたが専門している物理学が必要になる」

 

 提案をしたのがジェイド──死霊使い(ネクロマンサー)だけに、逆スパイなどの無茶な要求を出されるとでも思ったのか。

 身をすくませた気配のスピノザとは逆に、アニスが憤った。

 

「大佐! こんな奴信じるの!?」

「人間性はさておき、彼の頭脳は必要なんですよ」

「やらせてくれ。わしにできるのは研究しかない」

 

 アニスの苦情をしれっと流し、スピノザの反応を見たようだ。

 彼は一も二もなくそれを受け入れた。

 懸念を示したのは、ティアだ。

 

「あなたは兄の──ヴァンの研究者でしょう。そんなことをすれば殺されるかもしれないわ」

「……それでもやるんじゃ。やらせてくれ」

 

 罪を認め贖罪を求める人間が、償いを提示されて躊躇する理由など何もない。

 懇願するスピノザにこちらはほだされたのだろうか。怒気をなくしたアストンの声がした。

 

「なあ、みんな……今一度この馬鹿を信じてやってくれんか?」

「だけど……裏切り者だよ……」

「この人に、二十四時間監視をつけてはどうですか? それで研究に合流させればいい」

 

 あの出来事が相当許せなかったのか、二度三度と重ねるアニスを納得させるようにジェイドが再び提案する。

 ただここはキムラスカ。有名人とはいえマルクトの一軍人が決められることではない。

 その場に立ち会っていたベルケンド知事・ビジリアンは難色を示した。

 

「私の一存では……」

「……では、わたくしが命じましょう。ジェイドの言う通りに計らってください」

 

 権力って便利だ。

 尤もこの場合、ナタリアの全責任がいってしまうわけだが。とにかく知事の承諾は得られた。

 

「御意にございます」

「この研究、粉骨砕身で協力する。本当にありがとう……」

「まあ、ここまで言って裏切ったら、大した役者だな」

 

 ガイの茶々はさておいて、ビジリアンが部下を呼び事の詳細を説明する。

 その間に、ジェイドは何かをスピノザに渡したようだ。

 

「私の瘴気隔離案については、走り書きですがここに纏めておきました。検証してみてください」

「では、スピノザは第一音機関施設へ連れて行きましょう」

「わしはアルビオール三号機を修理して帰る。頑張れよ、スピノザ」

 

 知事の部下に付き添われスピノザが退出、それに続いてアストンもまた知事邸より出てくる。

 入れ替わるようにしてスィンが中へ入ったところで、知事が一同に対して口を開いた。

 スピノザのことが済むまで、空気を読んで話さなかったのだろう。

 

「そうそう。研究員たちから皆さんに伝言を承っています。もう一つのセフィロトは、ダアトの教会付近にあるそうです」

「教会に!? 初耳です」

「あそこ広いもんな。とにかく行って、探してみるか」

 

 驚くイオンに、特に不思議がることなくルークが促す。

 特に異常も不審者もなかったと報告するスィンにガイが事の結末を語り、知事邸を後にしようとした矢先のこと。

 スィンは小さな呟きを聞いた。

 

「なんでそんな簡単に信じちゃうの? みんな、馬鹿みたいだよ……」

「とりあえず、頭から信じてるのは少数だと思うよ」

 

 珍しくイオンから離れて、アニスがぶぅ垂れている。

 聞かれているとは思っていなかったのか、珍しく本気で驚くアニスを見ていけしゃあしゃあと言葉を繋げた。

 

「一応利用できるから利用しよう、ってスタンスでしょう? ガイラルディア様の言う通り、あれで裏切ろうものなら大した役者だと思う」

「……スィンなら、ガイの言うことなら何でもその通りだって思うでしょ」

「そう思えるならラクでいいね。でもアニス、イオン様の言うこともすることもすべて正しいとでも思ってるの?」

 

 それを肯定するには、まず何が正しくて何が悪いのは、はっきりさせなくてはならない。

 結果的に正しかったことを正しいとするならば、イオンとていくつもの間違いを犯していることになる。

 それを無視するアニスではなかった。

 

「そ、それは……」

「疑うことも大事だと思うけど、同時に利用できるものは何だって利用するべきだと思う。信じる信じないの前に、することしてもらわないと困るんじゃない?」

 

 切り離してものを考えられない辺り、普段大人顔負けの腹黒さ……否、賢しい少女の素が伺える。

 それにしても気になるのは、裏切り者に対してどうしてここまでアニスがムキになるのか、だ。

 この間のことが相当腹に据えかねたか、スィンの知らない少女の過去が関係している、だけなら実害がないからかまわない。

 しかし、あの過剰反応。まるで魚の骨がひっかかったように、妙な違和感を覚えるのだ。

 ただ、隠し事をしているのはスィンとて同じ。その点で、スィンは一同を裏切っているも同じなのだ。

 干渉する資格はないものとして、そしてそんなことをする余裕もないものとして、アニスに追及などする意志は欠片もない。

 

 ──それが後に、どのような結末を辿ることになったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百二十八唱——膨らむ違和感~可愛いではすませない

 

 

 

 

 

 

 

 ベルケンドにてもたらされた情報に従い、ダアトに至る。街の中央にそびえる教会を目指しながら、まだ見ぬパッセージリングについて議論が持ち上がる。

 口火を切ったのはルークだ。

 

「教会の中にパッセージリングがあるのかな?」

「わかりません。ただ教会にはザレッホ火山に繋がる通路があるという噂があります。そんな話があるくらいですから、どこかにパッセージリングへ続く道があるのかもしれません」

「とにかく探してみましょう」

 

 一同の中において、ダアトの教会と関連があるのは四人。

 イオンにアニス、ティアに一応スィンだ。広い教会とはいえ、四人も関係があるにはある。

 何かとっかかりはないかと思ったらしいアニスが目を向けたのは、スィンだった。

 在籍期間は五年と、四人の中で二番目に短い期間だが、着いていた役職が役職である。

 

「スィン、何か知らない? 特務師団長時代、ザレッホ火山行ったことあるんでしょ?」

「あるよ。所用で火山調査の必要があったから、この際教会の中から行ける通路の噂をはっきりさせようとしたら、主席総長にすんごい怒られて断念。しょうがないから普通に行って火山側からも探したけど、結局それらしいものは見つけられなかった」

「総長が? なんで?」

「さあ」

 

 とにかくそれらしいものは知らないと、締めくくる。

 しかし、アニスの興味はパッセージリングへの道ではなく、主席総長──ヴァンが関わったことに移行していた。

 

「じゃあ……なんて言って怒ったの?」

「危ないことをするな、火山から帰れなくなったらどうするんだ、ってさ。当時は人様に言えないような仕事ばっかり押し付けといて、よく言うよと呆れたけど」

 

 ただ、人に言うことができない後ろ暗い仕事であったとしても、確かに危険だけはなかった覚えがある。よほどのドジや不運が重ならない限りは、比較的安全なものであったことに違いない。

 危険があったとすれば、スィンが自らの意志で赴いた様々な秘境探索くらいだろうか。

 そんな彼女は現在、誰とはち合わせてもいいよう、スィン・セシルの仮装をまとっている。

 ダアトからの手配が解けたからといって、イオンの供として堂々乗り込むのはいかがなものかと、油断してのこのこ赴いて、トラブルを起こしてしまう危険性がないわけではないのだ。

 もう油断はしないと、余計なことも一切しないよう心がけている。

 そんなわけで意気揚々と、何ら恥じることなくダアトの教会へ足を踏み入れる。

 正面の扉をくぐり礼拝堂を通ったところで、一同は意外な顔とエンカウントすることになった。

 その人物とは。

 

「モース!」

「導師イオン。お戻りですか」

 

 ルークを丸無視どころか、モースはイオン以外を視界に入れていないように見える。

 これまでの確執などなかったかのような顔をしているモースに、イオンは淡々と用向きを話した。

 

「セフィロトを探しに来ました」

「……ああ。ユリアシティから報告は受けています。パッセージリングは、あの扉の先にありますぞ。一本道ですから迷うことはありますまい」

 

 奇妙な棒読みに近い返答は、内心の表れなのかどうか。

 とりあえずその指が指したのは、礼拝堂の吹き抜け、上階に属する空中通路を抜けた先だ。

 

「ヴァン師匠(せんせい)はどうしたんだ」

「ふん。奴は監視者としての職務を放棄して、六神将と共に行方をくらましたわい」

 

 仮にもキムラスカの王族にふとい口を聞いたなと思う。レプリカであることを知っているからか、キムラスカ王室との癒着に失敗したせいか。

 

神託の盾(オラクル)の姿もあまり見かけませんが、まさか……」

「半数以上がヴァンの元に走りおった」

 

 流石ヴァン。こんなカエル面とは人徳が違う。

 ティアの顔を見てヴァンのことを一層強く思い出したのか、モースは苦々しく吐き捨てた。

 

「ええい、忌々しい! おかげで神託の盾(オラクル)騎士団の再編成で大忙しだ」

 

 ザマミロと思った。これでモースの動きが封じられたのなら、それはそれで万々歳だ。

 ガイの後ろに控えつつそれとなく顔を背けていたスィンだが、次の瞬間顔を強張らせた。

 

「時にティア。そなた、シア・ブリュンヒルドのことは知っているか?」

「えっ……」

「アニス、お前は知っているだろう。前特務師団長、採魂の女神ブリュンヒルドだ。今の状況で無理やり捕まえても被害が大きくなるだけだから手配こそ解いたが、緊急召集が解けたわけではない。見かけ次第即通報するのだ。いいな」

 

 ヴァンの情婦がうんたら抜かしていたくせに、まだあきらめていないのか。

 心なしか肩を怒らせつつ立ち去りかけたモースだが、一応アニスに向かってこんなことを言い捨てた。

 

「そうそう。パッセージリングへ続く部屋は、侵入者避けに隠し通路の奥になっておる。せいぜい気張って探せよ」

 

 アニスに向けて、とはいえその言いぐさは厭味の一言に尽きる。

 天然気味とはいえ完全な天然ではないナタリアが、悪意を敏感に感じ取り憤慨した。

 

「まあ、感じの悪い!」

「まあまあ。平和条約締結で戦争を起こすのが難しくなったから機嫌が悪いんだろうよ」

「邪魔されないだけマシだよぅ」

 

 流石にガイやアニスはわかっているらしく、ご機嫌斜めのプリンセスに事実を話してなだめにかかる。

 イオンもまた、小さく頷いた。

 

「ええ。彼は預言(スコア)を遵守したいだけです。大陸を崩落させて、レプリカ世界を作ろうとしているヴァンとは目指す物が違います。だから、僕達を邪魔する理由もないのでしょう」

師匠(せんせい)か……師匠(せんせい)どこへ行ったんだろう……」

 

 ──実を言えば、ルークの呟きに対して、スィンは答えを持っている。

 彼女が何を思ってあんな行動に出たのか、ずっと勘繰りの対象だった。一に嫌がらせ、二に罠、三に──

 確証こそないが、メジオラ高原にてリグレットに投げつけられたもの。彼女はヴァンから、これを渡せと言われていたのかもしれない。

 スィンの掌には、ワイヨン鏡窟で採れる鉱石があった。

 例えヴァンがワイヨン鏡窟に潜伏していたとしても、スィン個人でヴァンへ会いに行く理由などない。捻出すれば理由が作れないでもないが、ガイの意向を第一の重きに置くスィンにその選択はない。

 故にその疑問に答えることはできなかった。

 やがて気持ちを入れ替えたルークを先頭に、モースに示された扉の先へと赴く。

 扉の先。そこは大量の本棚に隙間なく書籍が詰め込まれた、資料室だった。

 

「この部屋に、パッセージリングへ続く隠し通路があるのか?」

「そうね……。一本道といっていたから、ここを探してみましょう」

 

 何が鍵になっているのか、その場所はどこか。ノーヒントではあるものの、まずは探してみようと一同は資料室の探索を始めた。

 噂究明のため、教会を練り歩いた際はこの資料室を調べた覚えがない。ここを調べるよりも早く、ヴァンに叱責されて探索を断念したのだ。

 初めて探す場所に、まずはおかしな場所はないかと練り歩く内。

 奇妙なアニスの悲鳴が聞こえてきた。

 

「ひゃっ。ころんじゃったよ~ぉ!」

 

 まるで大根役者が舞台上で演技したような台詞、続いてどしん、という音。

 その直後、ごりごりごりと岩を擦るような音が聞こえてきた。

 

「あ、あれえ?」

 

 その場へ集まればアニスが不思議なポーズでとある場所を見つめており、その視線の先には本棚に隠されていたと思しき扉がある。

 おそらく驚いている、という気持ちの強調をしているのだろうが……一言で表せば変だ。

 

「こんなところに隠し通路があったとは……」

「しかし、なんでモースはここを知っていてイオンは知らないんだ?」

「恐らく被験者(オリジナル)の導師は知っていたんだと思いますよ」

「よし、行ってみようぜ」

 

 イオンやルーク、後からやってきたガイなどは素直に扉の出現に驚いているものの、その場にいたらしいジェイドは心なしかアニスに目をやっている。

 罠の類がないことを確認して扉を開けば、そこは大規模な譜陣が床一杯に描かれた部屋だった。

 それ以外の備品は一切ないが、譜陣は常に明滅している。

 疑いもなく駆け寄り、譜陣に足を乗せたのは。

 

「あ、この譜陣に入ったらいけるんじゃないですか?」

 

 先程から行動が妙になってしまったアニスだ。

 これは見逃せないとでも思ったのか、ジェイドが釘を刺している。

 

「アニス、ちょっと」

「な、なんですかあ、大佐」

「あなたはここを知っていましたね?」

 

 多少の自覚はあるのか、挙動不審にあったアニスにそのものずばりを尋ねた。

 イオンは素で驚いているものの、他一同の反応はジェイドとそう変わらない。

 そして少女は、きっぱりと言ってのけた。

 

「本当ですか?」

「知りません! 全然知りません。それより行きましょう! ほら! 早く早く!」

 

 あまつさえ、イオンを置いてさっさと転移してしまう始末。

 導師守護役(フォンマスターガーディアン)を解任されても文句が言えない仕事ぶりである。

 

「嘘くせー……」

「……ふむ。まあいいでしょう」

 

 今のところ実害がないと判断したか、ジェイドも一応納得しアニスの後を追う。転移した先の環境は、まさしく火山の中といった具合だった。

 ただならぬ熱気が辺りを漂い、ただその場にいるだけで汗が噴き出る。しかし行き来が容易い譜陣が備わっている辺り、頻繁にやってくる人間がいるのだろうか。

 譜陣の付近には、少なからず人がいた形跡が残されていた。

 

「ここは……何かの研究をしてるみたいだな」

「モースのものでしょうか。こんなところで何を……」

「そんなことより、パッセージリングはどこなんでしょう!」

 

 雉も鳴かずば撃たれまいに。見事なまでの棒読みである。痛すぎて見てられないほどだ。

 わざとらしい話題転換に出たアニスに、あえて話しかけたのはジェイドだった。

 彼が疑っているとなると、何もしなくていいから楽で助かる。

 

「……アニス♪ あまり怪しすぎると突っ込んで話を聞きたくなりますよ」

「……う……」

 

 アニスのことはジェイドに任せておこう、との判断だろう。

 二人のやりとりに関せず、ルークとティアは独自に最奥への道を模索している。

 

「この奥でしょうか」

「行ってみよう」

 

 明らかに人工的なつり橋を渡り、その下に見える煮えたぎる溶岩の熱気に焙られながら。

 しばらく道なりに進むと、やがてパッセージリングを護る扉が現れた。

 

「じゃあイオン。ここを頼むよ」

「はい」

 

 最早恒例となりつつある作業だが、行う本人にとってはそこまで単純な話ではない。

 まるで力を使いきったかのように消耗をあらわとするイオンに、先程から様子がおかしいアニスが駆け寄り、その体を支えた。

 

「イオン様、扉を解放する度に倒れますね」

「すみません」

「いいんですけど、心配ですぅ……」

 

 ──アニスの様子は通常に戻っている。あの挙動不審も棒読みも、嘘のように治っていた。

 それがわかっていてか、誰一人としてそれに突っ込まない。

 

「ごめんな、イオン」

「いいえ。お役にたてて嬉しいです」

 

 行きましょう、とアニスの肩を借りたイオンが歩を進める。現在の体調に加えこの気温、かなりつらいはずなのに彼は一切弱音を吐かなかった。

 その姿に魅せられて、アニスが元に戻ったのだと信じたい。

 しかし悲しいかな、その幻想は一瞬にして瓦解した。

 

「やっぱり、遺跡の中でも暑いわね」

「イオン、大丈夫か?」

「はい……ありがとうございます」

「えっとえっと。こんなトコ、とっとと、終わらせよっ!」

 

 流石にここまで来ると看過もできなくなってきたのか、一同の疑念の視線が少女に集中する。

 違う意味の汗を流しただろう彼女は、とりあえずジェイドに矛を向けた。

 

「な、何ですか大佐。私かわいいですか?」

「やれやれ。まあいいでしょう。こんなところに長居は無用ですしね」

「そうだな。やるべきことを片づけちまおう」

 

 不本意ではあるが、少女の言い分は至極まっとうなものだ。その挙動不審に思うことはあるものの、実害はないからということで放置を決めたのだろう。

 それに、問い詰めたところであのアニスが素直に吐くかどうか。

 少女の態度に疑問を抱きながらも、スィンはそれどころではなかった。

 コンタミネーションが勝手に解除され、契約の証である螺旋を描いた指輪が服の下に浮き上がっている。

 即座に薬を飲まなければならないような、発作の衝動ではない。

 タタル渓谷で引き起こしたようなものではなく、耳の奥で誰かが囁くような、そんな感覚があるのだ。

 これといった罠もなく、時折思い出したように襲いかかってくる魔物を撃退しながら道なりに進む内。

 

『──ユリアを継ぎし者。応えられよ』

(……火山ってことは、イフリートかな?)

 

 囁きが初めてはっきりと聞こえた。

 鼓膜を震わせることなく脳裏に響く、チャネリングにも似た聞こえ方の声がずしりと腹の据わった、低い男声である。

 

(ウンディーネに促され、契約を?)

『然り。誓いの提示を求める。さすれば──』

(あなたに力を借りる必要なんかないよ。と、僕が答えたらどうする?)

 

 想像していなかったわけではない。だが、こうも契約の重ねがけを強要されると試したくなることが様々出てくる。

 そもそもスィンは自分の窮地を助けてもらいたかっただけで、他の意識集合体の力を借りようとは思わないのに。

 僅かな沈黙を経て、イフリートは再び話しかけてきた。

 

『我が司るは焔。命を屠るにはうってつけ、そなたが軽々しく扱うとは思わない』

(ウンディーネは契約を強固のものとするために、と言っていたけど。僕が裏切れないよう、契約を重ねたいということなのかな?)

 

 スィンが契約に背く理由はない。その意志もない。しかし、背かざるをえない状況に陥る危険性がある。

 それは、スィンが命を落とした時。

 死ぬ予定など一切ないものの、意志に反してスィンの体はすでに医者も匙を投げているのだ。

 だからこその、あの誓いでもあるのだが。

 

『……そなたの体のことは、皆承知の上。だからこそ、支援をそなたに受けてほしいのだと我らは考える』

(僕が死ぬ、その危険を少しでも回避しろということかな。あなた達の力を使って)

 

 そういうことなら、確かに納得できる。

 しんがりを歩くスィンは小さく頷いて、誓った。

 

(僕が生きている限り、預言(スコア)の消滅に全力を尽くすことを誓うよ)

『そなたにその意志がある限り、我はそなたの従僕とならんことをここに誓おう』

 

 じわ、と異なる熱を感じる。

 後で確認すれば、螺旋を描く契約の証は数えて五番目に刻まれていることだろう。

 火山の中に存在する、入り口さえも隠されていたパッセージリングだからなのか。

 結局道中にこれといった困難はなく、一行は難なく最奥まで到達した。

 

「ティア、あんま近づくなって」

「もう、過保護なんだから……」

 

 入り口の付近でいちゃいちゃしている二人を余所に、スィンがパッセージリングの起動を試みる。

 やはり体に更なる異常は感じない。

 すでに異常だから、これ以上悪くなる余地もないのか、それすら気づけないほど感覚が壊れつつあるのか。

 

「ほら、ルーク。操作盤を」

 

 私はここにいるから、と、とうとう折れたティアにそこから動くなと念を押し、ルークがパッセージリングへ歩み寄る。

 恒例となった作業を繰り返し、ルークはふうっ、と息を吐いて一同を振り返った。

 

「終わったよ」

「次はロニール雪山か?」

「そうですが、その前に一度ベルケンドに戻って、スピノザに頼んだ検証を確認しましょう。それ如何で、瘴気の処理について答えが出せます」

 

 ジェイドの提案に、一同が納得する。

 もしもその検証が的外れなものなら、瘴気問題は一から見直しだ。

 ここで、もう黙っていればいいのにアニスも同感と声を上げた。

 

「そ、そうだね。早くここを離れよ~う!」

「やれやれ。アニスは最後まで挙動不審でしたねぇ」

 

 少女はへらへら笑ってその言葉を流すものの、それを挽回しようとしてなのか。

 きょろりん、とわざとらしく周囲を見回して両手の人差し指で自らの頬を指す。

 

「へんてこなものがいっぱいだね~」

「まったく。へんてこなのはあなたですよ、アニス」

「う……」

 

 自覚は一応しているらしく言葉に詰まるも、どうにかこうにか言い募る。

 だから黙っていればいいのに、ジェイド相手にここまで食い下がるのはすごいと思うが、それすらも蛇足にしか見えない。

 

「あまり挙動不審だと、本当に詳しい話を聞かせてもらいますよ」

「きょ、きょどってなんかないですもん」

 

 どの口がそれを言うか。

 しかしジェイドは、するべきことはすでに終わったからだろうか。

 それを今、追及することはなかった。

 

「……まぁ、良いでしょう。話せるようになったら話してもらいますからね」

「隠してることなんてきっと体重だけですから! アニスちゃん超ガラス張り、ある意味開放的な人生の曲がり角まっしぐらですから!」

 

 早口と訳のわからない言い回しで誤魔化しているが、言っていることは極めて正直だ。

 それほどまでしての隠し事なのだと、ジェイドが理解することも容易かっただろう。

 

「おそらく確定で、隠してませんから!」

「ふっ、やれやれ……」

 

 そろそろアニス節に付き合うのが疲れたのか、ジェイドは追及をあきらめた。

 しかし彼は気づいているだろうか。

 ほんの僅かな一瞬少女が浮かべた、後悔と罪悪感に苛む表情を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百二十九唱——形となった希望の光。その生まれた影の中、

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダアトの教会を経て、ザレッホ火山からベルケンドへ向かう。

 この頃、あれほどの挙動不審っぷりを披露していたアニスはまるで憑き物が落ちたかのように所謂元の彼女へ戻っていた。

 あの場所が何らかのキーであることはこれで確定したわけだが、あんな場所早々向かう理由もない。モヤモヤこそ残ったが、あの挙動不審が続かないことは一同にとって幸いといえよう。

 再発を防ぐためなのか、誰もが火山での彼女の態度に触れぬまま、第一研究所へと赴いた。

 監視対象である彼と接触するためにナタリアを通してベルケンド知事に話を通し、研究室に詰めているスピノザを訪問する。

 彼は一同を目にするなり、開口一番こう言った。

 

「さすがはバルフォア博士じゃ。あれなら上手くいくかもしれん」

「ってことは、瘴気は中和できるんだな!」

 

 詳細こそわからないものの、喜々としてそれを確かめるルークに答えたのはジェイドだ。

 しかし、その答えは応ではない。

 

「いえ、中和ではなく隔離するんです」

 

 その言葉に、一同が一同首を傾げて彼に注目する。

 これまで一同が目指してきたのは瘴気の完全中和だ。それと隔離では、大分結果が違う。

 ただこの時、スィンだけはモニターに映る計算式を見つめていた。

 

「どういうことだ?」

「外殻大地と魔界(クリフォト)の間には、ディバイディングラインという力場が存在します。そうですね、スィン」

「……ええ。セフィロトツリーによる浮力の発生地帯ですね。外殻大地はその浮力で存在しています。正確には、ディバイディングラインの浮力と星の引力とで均衡を保っているから、大地はこの位置に固定できているわけですが」

 

 解答をすると共に、スィンはモニターへやっていた目をジェイドにスライドしている。

 その答えに頷いて、ジェイドは続けた。

 

「外殻大地が降下すると言うことは、引力との均衡が崩れるということ。降下が始まると、ディバイディングラインは下方向への圧力を生む。それが膜になって瘴気を覆い、大地の下──つまり地核に押し戻します」

「でもそれだと瘴気は消えないよな。また発生しないのか?」

「瘴気が地核で発生しているなら、魔界(クリフォト)に瘴気が溢れるのはセフィロトが開いているからです。外殻の降下後、パッセージリングを全停止すれば……」

「セフィロトが閉じて、瘴気は外に出てこなくなる」

 

 それまでの話なら、セフィロトが閉じてしまえば大地が存在しえなくなるだろう。

 しかし、タルタロスを犠牲としたあの作戦が成功した現在ならば。

 

「地殻の振動は停止しているから、液状化していた大地は急速に固まり始めていますわ。だからセフィロトを閉じても、大陸は飲みこまれないのですね」

「すっげーじゃん、それ!」

「これを思いついたのが物理学専門のわしではなくあんただとは、さすがじゃな」

「そうは言っても、専門家に検証してもらわなければ確証は得られませんでした」

「これで後は、ロニール雪山のセフィロトをどーにかするだけだね」

 

 以前はスピノザに対し、あれだけ怒りと猜疑心をあらわにしていたアニスも、全てが丸く収まるこの案を耳にして穏やかに一言、発するのみだ。

 ここでひと悶着起こされたら厄介なだけに、胸を撫で下ろす。

 

「出発の前に、宿で少し休んでいきませんか」

「……なら私、ここでもう一度薬を処方してもらうわ」

 

 ナタリアの提案に乗るように、それを言い出したのはティアだ。

 特に症状が出ている様子はなかったが、ルークがそれを言い出す前に自己申告した様子である。

 

「そうだな。今度ここに来られるのはいつか、わからないし」

「時間がかかると思うから、先に休んでいて」

「じゃあ明日、宿の前で待ち合わせな!」

 

 ティアは医務室へ、他一同は研究所の外へ、その足で研究室を後にする。

 ガイの後についていこうとして、スィンは袖を引っ張られたことに気づいた。

 その手の持ち主は、ティア。

 

「……ガイ様。僕もちょっと、先生に用事が」

「ん、どうした? もう治療の必要はないんじゃ」

「最近、ちょっと体重が増えたことを相談したいなあと」

「そうだなあ……まあでも、体質が変わっただけかもしれないし。変な質問して先生困らせるなよ」

 

 それでも一応付き添うかと聞かれて首を横に振り、研究所にはティアとスィンが残された。

 一同が完全に立ち去ったことを確かめて、ティアにくるりと向かい直る。

 

「……行かないの」

「あなたも、診てもらわなくていいの?」

「確かに変な質問かもだし、やっぱやめよっかなって。何か用があるんじゃないの」

 

 これまでも、ティアから再三無言の誘いがあったのを、スィンはすべて黙殺していた。その理由は一同の眼が届く危険性のある場所でばかり誘いをかけられたからなのだが……

 今回は違う。誘いを断る理由にならない。

 全てを承知であるらしいスィンの態度を認めてか、ティアは意を決したように切り出した。

 

「……スィン。私、少し気になっていたことがあるの」

「うん。ここでは何だから、移動しよっか」

 

 ティアを伴い、第一研究所を出る。

 研究員も滅多に使わない通路から先にある錆びだらけの階段を使って、スィンは屋上へとやってきた。

 

「ここ、立ち入り禁止なんじゃ……」

「すぐに終わるような話なら、大丈夫。見つかったら一緒に怒られよう。それとも、誰かが聞いているかもしれない喫茶店とか公園とか、行く?」

 

 それを聞いて、ティアは即座に首を横に振った。

 一同の前で尋ねるのはためらっていたようだから、誰に聞かれても差し支えのある話なのだろう。

 この時点で、スィンはあまり慌てていなかった。

 もしも彼女の話がスィンの体のことなら、一同の前だろうと関係はないはずだ。

 では彼女が話したいこと、想定できるのは。

 

「その……リグレット教官のことなのだけれど……」

 

 ヴァン関連か、例の泥棒猫騒ぎか。そのどちらかだ。

 スィンは飄々と口を開いた。

 

「泥棒猫云々のことなら」

「い、いいえ、違うの。リグレット教官が、あなたに何かを投げつけていたわよね?」

 

 それが何だったのかを、知りたいと言う。

 ティアのことだから誤魔化しても、後日しつこく問いただされる危険性があった。

 今は気分も落ち着いているから冷静でいられるが、体調が不安定な今日この頃。気分が優れない時にそれをやられて、冷静に対処できるかどうか。

 熟考の末、スィンは掌にすっぽり収まる鉱石を取り出した。

 

「これって……」

「エンシェント鏡石だと思う。これが採れるのは世界にいくつもあるよ」

「だが、人の手が入っていて連中が拠点に出来るようなところはひとつしかない」

 

 それまで一切感じなかった気配が浮上し、スィンは弾かれたように後方を見やった。

 それまで階段の踊り場に身を潜めていたのか、足音を立てて現れたのは──

 

「アッシュ!?」

「ありがとう」

 

 黒を基調とした特務師団師団長の制服に、鮮血を思わせる真紅の髪。ルークのものよりつり上がった碧玉の瞳。

 出会い頭に礼を言われて、アッシュはもちろん戸惑った。

 

「?」

「シェリダンで。僕達もシェリダンも助かった。本当にありがとう」

「……そんなことはどうでもいい」

 

 不意をついて困惑させたつもりだったが、あまり効かなかったようだ。

 彼はすぐさま平静を取り戻してしまった。

 

「ヴァン達は、ワイヨン鏡窟にいるんだな?」

「……」

「このベルケンドから、研究所の連中がワイヨン鏡窟へ行くための定期便があるそうだ。それに潜り込めば奇襲をかけられる」

 

 いつの間にそんなことを調べたのか、アッシュの言っていることは事実だ。

 それは今このときにおいて、非常にまずい情報だった。

 

「本当なの!?」

「嘘を言ってどうなる。ここがベルケンドなのが幸いだ。今この機を逃して、いつ奴を討つ? いつ奴を、止められる?」

 

 物事には順序というものがある。最優先でしなければならないのは瘴気の中和……いや、隔離だ。

 正確にはそれをしなければ、全力で──今後を顧みる必要なくヴァンに挑めない。

 そもそもこの鉱石を寄越したのは、リグレットなのだ。罠の類でないはずがないのだが、わかっているのかどうか。

 多分、わかっていない。ティアはともかく、アッシュは妙に気が急いているように見える。

 

「……性急過ぎる。気持ちはわかるけど、これを寄越してきたのがリグレットだということは」

「罠かもしれないと言いたいのか? この研究所に残された資料からしても間違いは」

「罠でも、おびき出しでもいい。ワイヨン鏡窟に拠点があってもなくても、間違いなく何か企んでるだろうね」

 

 その企みが何なのか、アッシュが嗅ぎつけられる程度にこの研究所へ資料を残している辺りほぼ想像がつくのだが……この様子では、そう告げたところで止まらなさそうだ。

 ヴァンに関することだからなのか、ティアもあまり躊躇がない。

 

「ワイヨン鏡窟に、兄さん達が……!」

「行きたいの? 何のために」

 

 長い沈黙を経て、彼女はゆっくりと口にした。おそらくは、これまで秘めてきた願いを。

 

「兄さんを、止める」

「ヴァンを討つの? この面子じゃ難しいと」

「違うわ、そうじゃない! 兄さんを説得したいの」

 

 ──眼前の出来事なのに、これがあのティアの言葉なのかと信じられなくなる。

 これまで感情を理性で抑えつけてきた反動によるものなのか。彼女の希望は非常に現実味を欠いていた。

 この後に及んで説得とは……これが兄妹間における感情なのか、スィンにはわからない。

 しかし、それを看過することもできない。

 

「言葉で、止めるの? お屋敷で襲撃かけてきた人の台詞とは思えない」

「あ、あの時は……! 仕方が、なかったのよ。だって」

「それで、どうする?」

 

 本題から逸れつつある会話を嫌ったのか、アッシュは苛ついたように動向を確かめてきた。

 ここでどうにか、ティアを口車に乗せて思いとどまらせることに成功しても。アッシュが向かうことになれば、彼女もつられてかの場所へ向かうことになるのは間違いないだろう。

 

「──何を焦ってる?」

「!」

「わかっているはずだよ。奇襲だけでヴァンを仕留められないことくらい。一対一で僕は勝てなかった。それとも何か、勝算があるのかな」

 

 ワイヨン鏡窟に向かえば、一対一などもってのほか。どのような罠が仕掛けられているのか、そもそもヴァンがいるのかどうか。

 不確定要素はいくらでもあり、吶喊するには危険すぎる。

 沈黙するアッシュの様子からして、何か策があるようには見えない。

 勝算も、精々ヴァンが本気で殺しにかかれない面子であるということくらいか。

 

「それでもあんたは、ヴァンと互角に──!」

「僕ね、あの人より弱いつもりはないけど、強いつもりもない。あの時だって、リグレットの参戦であっという間に勝負、ついちゃったよ」

 

 そして今、スィンの体はあの時と同じではない。同じように戦うことも、できるかどうかもわからない。

 それを語ることこそしなかったが、スィンにやる気がないと、これで彼に伝わらないはずもなく。

 このまま彼らが思い直してくれたら──そう願った矢先のこと。

 

「……なら」

「え?」

「俺にしたこと、『俺達』にしたことを少しでも悪いと思っているなら! 止めようとすんな!」

「!」

 

 それを振りかざされては、太刀打ちできない。

 彼女の行いを批難するのは、アッシュ──ルークの正当な権利で。彼の批難は、スィンにとって甘んじて受けるべきものだったはず。

 とっくの昔にわかりきっていたのに、それでいて尚その言葉の衝撃は大きく。

 スィンは、大きく息をついた。

 

「思い切った、ね」

「……」

 

 口にするのは、勇気が要ったのだろうか。

 非常にバツの悪そうな顔で明後日の方角へ顔を向けているアッシュに、スィンは下った。

 

「それ言われたらおしまいだ。もう止めないし、僕も行く」

「……どういう了見だ」

 

 いぶかしげに尋ねるアッシュの眼を見つめて、にこやかに笑いかけて。

 こともなげに言い放った。

 

「このまま見送ることはできないよ。二人が帰ってこなかったら、カケオチ疑われちゃうじゃん」

 

 ルークもナタリアも、もちろん他の皆も。事情を知るスィンに非難轟々は間違いない。

 そう締めくくれば、スィンは眼前の二人から非難轟々を受けた。

 

「ふざけんな! 何があろうと、そんなことにはならねえよ」

「そうよ、ふざけないで!」

「二人とも、自分の目論みが失敗したらどうなる? 彼らが無事に帰してくれると、本気で思っているの?」

 

 アッシュもティアも、幸いなことにそうとは考えていなかったようで非難はやむ。

 どうかこのまま冷静になって思い直してくれたらよかったのだが。

 アッシュに止めるなと言われた手前、それを促す発言はもうできなかった。

 

「僕は保険だよ。二人のおまけで、くっついていくだけ」

 

 そうと決まれば、まずやらねばならないことがひとつ。

 移動手段の船を確保するべく、アッシュに心当たりがあるというのでそれに従う。

 第一研究所の、入り口にて。足音が聞こえなくなったことに反応してか、アッシュが振り返った。

 

「どうした」

「おとしものー」

 

 その場にかがもうとして、思いのほか手間取る。

 かがむのを諦め、しゃがむことで目的は果たせたものの、アッシュに疑惑の目を向けられてしまった。

 

「……?」

「スィン。まさかお腹が邪魔でかがめなかったわけじゃないわよね」

「そうそうそんなかんじ」

 

 最近太っちゃったみたいでー、とおちゃらけてみせ、道化を演じることで彼らの意識を向けさせないようにする。

 廊下の端に転がった、ロケットペンダントに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百三十唱——まどろみから醒めて、決別への道を歩む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 研究所内にて、フォミニンの採取隊が件の鏡窟へ向かうとの情報を得る。

 彼らを脅して無理やり乗船するのか、あるいは袖の下を使うのか。

 あわよくば挫折しろ、との思いが強いスィンは交渉の一切をアッシュに任せて、彼の手腕に少なからず感心した。

 元々彼一人ででも向かう予定だったのか、あらかじめ用意してあった書類を取り出して手続きに入り、表向きは正攻法で採取隊の船に乗り込むことを成功させたのである。連れの二人は部下だの何だの抜かしていたことから、教団での立場を利用して研究所内で通じる書類を偽造したとか、そんなところだろうか。

 詳細は聞いていないが、スィンにとって憂うべきはそこではない。

 原因表向き不明のエンジントラブルで出港こそ遅れたものの、船は海中の魔物に襲われるでも何か妨害が入るでもなく、ワイヨン鏡窟へ到達した。

 採取用の資材搬出を手伝うでもなく、つかつかと進むアッシュの足が止まる。

 騎士団の兵士が行き交う中、奥へ進む唯一の道を塞ぐように佇む姿があった。

 

「来たか、女狐」

「教官……」

 

 淡い蜂蜜色の髪をまとめあげ、二丁の譜業銃を手にして佇むその姿が、憂いをあらわとするティアを映す。そして彼女は、不意に表情を緩めて道を空けた。

 こんな穏やかな彼女を見たのは、久方ぶりのことである。

 教え子たるティアを見て、かすかにでも気分が和らいだのだろうか。

 

「ティア。閣下は奥にいる。話があるのだろう? アッシュと共に行きなさい」

「そんなこと言って、二人だけを先に進ませて。こう、檻を降らせて二人まとめて捕まえる気でしょう」

「貴様ではあるまいし、そんな姑息な罠など張るか!」

 

 相も変わらず、彼女はスィンに対してだけ敵意をまき散らした。

 ティアに通じるものもあるのだが、美人が怒気に駆られている姿は怖い。

 この様子では、スィンだけは頑として彼女は通そうとしないだろう。

 強行突破したところでアッシュはさておきティアは落ち着いて話などできないだろうし、ベルケンドにおける似たような事態に発展することも避けたい。

 

「じゃあ、二人とも。後でね」

「ああ」

 

 二人が奥へ進んだことを見届けてか。リグレットはようやくスィンを視界へ入れた。

 その口が何かを語りだす前に。

 

「リグレット。いつもいつでもお怒りの印象がありますが、疲れませんか?」

「私が平静をなくすのは、貴様を眼にしたそのときだけだ」

 

 嫌われている理由などわかりきっている。

 ほんの少し何かが違えば、スィンもまたリグレットのように振る舞うかもしれなかったから。

 こんなことをしている場合でないとわかっていながら、スィンは明確な目的のもと胸中を零した。

 

「私は、リグレットのことが怖かったです。優秀で、女らしくて、あの人の傍にいられて、妹のことも任された、信頼に足る副官。私にはないものばかり持っているあなたが」

「……なんだと」

 

 無駄話など好まないかと思っていたが、彼女は存外きちんと耳を傾けている。

 あるいはスィンから意外な話が聞けて、驚いているだけか。

 

「不思議でした。こんな綺麗な人から好意を寄せられているのに。どうして彼は私を選んだのだろうかと」

 

 彼女の顔には瞬く間に血が集まった。

 きっと照れているわけではない。

 

「き……貴様の口車などには乗らん! 私を動揺させようとして、適当なことを」

「適切で、当たっていることを話しているつもりです」

 

 そう、嘘を言っているつもりは欠片もない。

 ヴァンと婚姻という契約を交わすまでは、何なら交わした後でも何かにつけ不安に駆られ、おかしな風に勘繰っては嫉妬した。

 当時のスィンは男性恐怖症を万人に発症していたから、想いは伝えるべきでない。彼のことを真に想うならば身を引くべきと、それら一切を表に出さなかっただけで。

 心はいつも、千々に乱れていた。

 

「……ブリュンヒル「でも今なら、選ばれた理由がわかります。ヒスってるところが怖かったんでしょうね」

 

 だって実際怖いもん、としめくくれば。

 赤くなった顔はそのまま。リグレットの表情に般若が降臨した。

 彼女は何を思ってスィンの口上を素直に聞いていたのだろう。

 上げてから落とすのは伝統美と言えるほど定石なのに。

 

「そんなことを話すためにおびき寄せたわけではない!」

 

 それもそうだ。

 目論み通りに平静を投げ捨てて、リグレットは感情のままに盛大な罵声を放った。

 

「閣下のお心を乱す女狐め、寵愛をいいことに未だあの方の気持ちを弄ぶ淫売め!」

 

 傷つくお言葉ではあったが、彼女は敵だ。

 敵の謗りはこちらへの賞賛である。スィンが何かを思う余地はない。

 

「言いたいことはそれだけですか? もう聞き飽きました。いい加減耳にタコが出来る……」

「貴様に決闘を申し入れる! 私に勝てば二人を追うがいい。だが、貴様が私に敗北したその時は……!」

「時は?」

「閣下を解放して差し上げろ! あの方の苦悩は私が癒す。貴様は先にこの世から退場するがいい!」

 

 この、何とも独りよがりに聞こえる言葉を耳に入れて。

 スィンは思わず反射的に言葉を返してしまった。

 

「──人の心に鎖はつけられない。ああそうか、そんなこともわからないから、あなたは」

「黙れ! 貴様の声にすら虫唾が走る!」

 

 だめだもう、やる気満々だ。

 ふたつの銃口を向けられていても、スィンは得物を手にしなかった。

 これだけは、告げるべきと。

 

「わかってます、よね?」

「なにがだ!」

「私にお伺いを立ててる時点で、負け犬だということは」

 

 いわずもがな、淫売呼ばわりに対するお礼だった。

 怒りで面相が歪むほど、声も出ないほどに怒髪天をつくリグレットの銃弾から紙一重で避け。スィンは今度こそ血桜を手にした。

 こうなるように誘導したとはいえ、状況はあまりいいとはいえない。

 二人は別行動で状況がわからず。襲いかかってきたリグレットは怒りで照準が甘くなっているためどうにかあしらえるが、周囲は神託の盾(オラクル)騎士団兵士がうじゃうじゃいるのだ。

 手を出さないように言われているのか、彼らは勃発した戦いに眼を向けながらも、様々な機材をあらかじめ接岸していた大型船に積み込んでいる。

 おそらくは撤収準備。スィンにヒントを寄越してきた時点で想定できたことだ。

 

「逃げるなぁっ!」

「いやむり」

 

 足元から駆けあがるような銃撃が襲う。

 小粋なステップから遥かにかけ離れたバタ足で逃げ、手近な遮蔽物に隠れ込んだ。

 兵士が搬送していた、音機関の影に。

 

「ち……」

 

 多少理性は残っている様子だが、撃てないのは音機関か兵士か。

 音機関を担いでいるため、剣が抜けない兵士は捨て置いて、すぐに位置を移動する。

 銃撃は雨あられと降り注ぐが、一度としてスィンに被弾はしなかった。

 

「化け物め……!」

「自分の腕のヘボさを、人のせいにしないでください」

 

 そこかしこで動く神託の盾兵士(しゃへいぶつ)を駆使してリグレットを翻弄し、接近戦へ持ち込むことに成功する。

 接近戦において銃は役に立たない。彼女は惜しげもなくスィンに向かって手にしていたそれを投げつけてきた。

 わざわざ構うことはなく、携えた血桜をリグレットに向ける。

 

「シアリングソロウ!」

「熱波旋風陣!」

 

 譜業銃から杖に持ち替えたリグレットが、生成した火球を叩きつけにくる。

 それを回避し、第五音素(フィフスフォニム)の名残を利用して、己を中心とする小規模の炎の渦へと巻き込んだ。

 かろうじて火だるまになるのを避けたリグレットだが、本業後衛の悲しさ。回避するためのステップは、どうしようもない隙を生んでいる。

 

「獅子戦吼!」

「かはっ……!」

 

 放出された闘気の塊をまともに受け、リグレットは背中から岩盤に激突した。

 反動でうなだれるようになった彼女に血桜を突きつける。

 決着の様子に周囲の兵士は色めき立つが、リグレットの命を盾に牽制した。

 

「なぜ……」

「だから負け犬なんですよ」

 

 正確には、前衛を用意せず彼女一人で戦いを仕掛けてきた時点で、勝敗は眼に見えている。

 嘲りを耳にして、リグレットは勢いよく顔を上げた。

 突きつけていた血桜の切っ先がその額を切り裂くものの、彼女が気にしている様子はない。

 

「貴様の体は、瘴気触害(インテルナルオーガン)の影響でボロボロのはず! 閣下と、同じように……それなのに何故、戦える!? こんな死に損ないにどうして、勝てない……?」

「背負ってるものが違うからでしょうきっとたぶん。そうだったらいいですねうん」

 

 ──いいことを聞いたような気もするが、もうおしゃべりに付き合っていられない。

 転がっていた譜業銃でリグレットの足を撃ち抜く。

 搬送作業を放って騒ぐ兵士達を彼女の手当てにするよう仕向け、スィンは二人が向かった最奥へ足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 洞窟を抜けて、いつか来た拓けた場所へと到達する。

 設置された音機関などはそのまま、その場所にいるのは、三人。

 大剣を手に悠然と佇むヴァン、その眼前に剣を手放して這いつくばるアッシュ、二人から少し離れて、ティア。

 一体どんな話し合いをすればこんなことになるのやら。

 手放してしまった剣を探り、杖のようにしながら立ち上がる。これで幾度目だろう、挑みかかるアッシュはやすやすとヴァンに斬り払われた。

 衝撃で身を投げ出すように転がるアッシュは、立ち上がらない。よくよく見ればその体は満身創痍で、上体を起こすのが精いっぱいといった風情だ。

 

「兄さん、やめて!」

 

 戦闘には参加していないティアが、悲痛な声で制止を叫ぶ。

 おそらくそれは、アッシュとの戦闘を指しているわけではない。

 彼女の望む話し合いは決裂したと断定して、スィンはわざと足音を立てて歩みを進めた。

 

「来たか……」

「ティア、終わった? アッシュも、満足したかな」

 

 彼らには一瞥もくれず、そのままヴァンの前に──アッシュを背にするように立ち止まる。

 傷の具合を確かめる必要はない。ヴァンが今、アッシュを殺すことなどできはしないのだから。

 手加減しながらでも応戦して、無力化に成功させているあたりは、流石というべきか。

 

「今この状況で、二人の目的は達成できなかったとさせてもらうよ。そろそろ時間切れだから」

「?」

 

 ヴァンから片時も眼を離さないまま、スィンは血桜の柄を手にした。

 空気が澱んでいるはずの洞窟内で、ふんわりと風が躍る。

 

「ティア、アッシュを連れて離脱して。ルーク達がここへ来る」

「!」

 

 第一音機関研究所の屋上から今に至るまで、スィンは一度たりとも単独行動を取っていない。

 状況を忘れていぶかしんだアッシュに、こともなげに答えて見せた。

 

「どうやって、知らせた?」

「ベルケンドのあれだよ。皆と合流して、助けに来て。お願い」

 

 意図してくるりと、彼に振り返り微笑む。

 空を切り裂いて、大剣はスィンを両断せんと迫った。

 

「スィンッ!」

「さ、早く」

 

 抜く手を見せない鋭さをもって、応戦する。

 舌打ちをするアッシュがティアに支えられるようにして二人が去ったところで、ヴァンは唐突に剣を引いた。

 隠しているようだが、呼吸が乱れている。アッシュとの交戦の名残だろうか、それにしても。

 

「随分息が上がっていらっしゃる様子で。取り込んだ瘴気の影響でしょうか」

「つれない話し方だな。お前が離縁した気でいるのなら、せんなきことか」

「あなたには感謝しています。バチカルから追い出され失職した私を拾って、生き長らえる手段を──薬代が賄えるほどお給料のいい仕事場を紹介してくださった」

「そしてお前の異性恐怖症を、支障ない程度まで快復させるきっかけとなった」

 

 ヴァンの言葉に、揶揄する響きはない。だから、なのだろうか。

 こんなにも心に、言葉が突き刺さるのは。

 

「……どうした。息が上がり、動きの鈍っている私を、討たないのか?」

 

 風の古代秘譜術、ウィンドビジョンに用いる触媒が、随分近くにある。

 術を使用するにあたって感覚的に知ったスィンは、術を解除した。

 

「私がここへ来たのは、二人が囚われないため。死なせないため。そして、止めることができなかったからです」

 

 一同が近くにいる。それを前提に、スィンは殊更淡々と言葉を連ねた。

 

「もう二度と、主を煩わせたりはしない。二人のことがなければ、ここへ来るつもりもなかった。リグレットには、ティアにこれを渡すよう指示するべきでしたね」

 

 エンシェント鏡石を放り投げる。

 かつん、と音を立てて、三人を招いた招待状は対峙する二人の狭間に転がった。

 そうすれば少なくとも、彼女は。

 彼の最愛の妹は、ひょっとしたら話し合いによって懐柔されていたかもしれないのに。

 その言葉を聞いて、ヴァンは深くため息をついた。

 彼にしては、珍しい仕草である。

 

「……お前は、いつもそうだ。いつだって、そうだった」

「?」

「二言目には主と、ガイ様と、彼を理由にする。お前は風に吹かれるままの草か? 流されるだけの笹舟か?」

 

 その言葉を受けて、スィンは。一瞬の間も置かずに口を開いた。

 

「私は、それでいいんです。剣を突っ返されたあなたとは違います」

「お前は歪んでいる。従者としての生き方に縛られ過ぎだ」

 

 また始まった。

 胸中でこっそりため息をつくスィンに気付かぬまま、珍しくヴァンは声を荒げた。

 

「何度も言ったはずだ! そればかりがお前の生きる道ではないと。私と共に過ごした時間で、人が生きるに理由など必要ないことは……!」

「そのお話でしたら平行線ですから、ご納得いただけないなら指環の交換はできません。婚姻の儀を前に、あなたは頷いてくれたのではなかったのですか」

 

 とはいえ、これは発端に過ぎない。

 婚姻の契りを交わした後も、何かにつけて彼はスィンの生き方を否定した。

 初めの頃こそ理解してほしいと幾度となく話し合い、時には可愛い嫉妬と思いこむことで軽くいなし。それが勘違いだと発覚してからは、過ごしてきた環境が違い過ぎると割り切って。

 次第にスィンは、意図して彼の前で主の話をしなくなった。そうすれば、彼とつまらない諍いを起こさずに済んだから。

 決着をつけなかったことがよかったのか悪かったのか。まさか今になって指摘されるとは、思いもよらなかったが。

 

「どのように生きるかなど、私の勝手です。以前ならいざ知らず、他人に口を出されたところで改めるとでもお思いですか」

「自分すら、自分の身すら顧みぬ者に誰を護ることができる!」

「!」

 

 心当たりのあり過ぎる図星に、スィンは鋭く息を呑みこんでいる。

 ここへきて、形勢は逆転した。

 

「そ、それは……」

「お前が抱いた理想の姿は、今のお前とは真逆のはずだ。己への扱いはやがては他者への扱いへも影響する。その時お前は、誇りを持って主の従者として在れるのか!?」

 

 蚊の鳴くような声で反論するその言葉をかき消して、問い詰める。

 反論しかけた唇が震えて、言葉にならない音が漏れた。

 それも、刹那の出来事。

 

「君にわかるわけないだろ! マリィベル様を、お嬢様を眼の前で失った僕の気持ちなんか!」

 

 動揺は、怒りと悲しみに変換されてヴァンへと返された。

 図星であったことには間違いはない。それでも、彼の言葉を認めるわけにはいかなかった。

 

「……これ、話したっけかな。ガイラルディア様はね、僕の命の恩人なんだよ」

「逆だろう。お前がいなければ、彼の命すら失われていた」

 

 現実としてはそうだ。

 ただ、それはひとつの視点としての事実であって、当時のスィンにはそうではなかった。

 

「違うんだ。あの方がいなければ、僕はとっくの昔に死んでいた。主を護れない従者に何の価値もないって。失意のどん底から這い上がることもないまま。少なくとも今の僕はいない」

 

 それはたとえ息をしていても、死んでいることと変わらない。

 失った光を探して、暗闇を這いずり回る暇もなく。彼女は傍らの光を抱きしめていた。

 彼女の遺言を守るべく、弟であったその人を、改めて主と定めて。

 

「ガイラルディア様がいたから、僕はこうして生きている。マリィベル様の冥福を祈りながら、あの時の気持ちを忘れないまま」

 

 彼を助けることでスィンは一生涯引きずる障害を負った。

 病を抱えて今に至るまでの道は平坦どころか崖と谷の連続ではあったが、それらを乗り越えてきた己が今ここにいるのだ。

 

「歪んでいたってかまわない。もう二度と後悔したくないから。そのために生きて、することして、何が悪いの」

「シア……」

「こう見えても、依存だけはしないよう頑張ったんだよ? 君はそうとは、見てくれなかったけどさ」

 

 視線が、強く絡み合う。その最中も、スィンは内心で訝しがっていた。

 助けが来ない。

 ロケットの存在を感知した時点で、一同はすでにこの鏡窟へ辿りついているはずだ。最奥とはいえそこまで距離が空いているわけでもないのに、リグレットあたりに妨害されているのだろうか。となると、二人は──先に行かせたアッシュとティアはどうしているだろう。

 無事合流しているならばよし、もし合流できていないとしたら行かせたのは早計だったか……

 この間にもヴァンは何かしら言っていたようだが、スィンは一切耳に入れていなかった。

 

 

「マルクトの皇帝に、死霊使い(ネクロマンサー)との確執を知られたそうだな。そのことでマルクトの貴族たるガルディオス家がどうなるか、どのような扱いになるのか。何も考えぬお前ではあるまい」

「……」

「情報によれば……死霊使い(ネクロマンサー)との婚姻を結び、彼の知己たるマルクトの皇帝を黙らせるとあった。ナイマッハの名を捨て、ガルディオスの子として、カーティス家と手を結ぶことで伯爵家の再興をも企んでいると」

「……」

「お前がガルディオス伯爵の血を引いていることが証明されたなら、確かに 可能なことだが」

「……」

 

 

 ロケットの存在を強く意識して、口の中でシルフに助力を乞う。珍しく返事をしなかった彼女だが、術は問題なく発動した。

 その直後、せっかく起動させた術を解除する。

 ヴァンが何か仕掛けてきたわけでもなければ、彼を警戒してのことでもない。

 一同は思いのほかすぐ傍にいた。通路が途切れる手前、最奥から見えない位置でこちらの様子をうかがっている。

 一瞬のことで彼らが何をしているのかは定かでないが、まさか助けが必要になるまで突入しないつもりなのだろうか。

 確かに助けにこいとは言ったが、こんな発想をするのは一人しかいないと内心で頭を抱えていると。

 

「……正気なのか」

 

 何やら非常に重要な気がする主語が聞こえなかったものの、聞き返すも無粋と沈黙を貫く。

 そこで彼は、誰が聞いても落胆のものとしかとれないため息をついた。

 

「今後の打算とはいえ、死霊使い(ネクロマンサー)のものになることを受諾したというのか」

「ん?」

 

 一体いつからそんな話になったのだろうか。

 隠すことも忘れた、不思議そうなスィンの表情にも気付かず、ヴァンは吐き捨てるように首を振った。

 

「とても認められん、受け入れ難い。主はいつのまにか、お前を物のように扱うこともためらわなくなったか」

「!?」

 

 全身を貫かれるような衝撃に、混乱も手伝って今度こそスィンは絶句する。

 そこへ。

 

「ちょっと待て!」

 

 ほんのり怒気が漂う、困惑の強い声。

 一同と共に通路に潜んでいたらしいガイが、単身飛び込んできた。

 やっと来た助けにほっとする──や、否や。ヴァンの挙動を認めたスィンはガイの元へと全力で駆けた。

 

「ネガティブゲイト!」

「危ない!」

 

 足元に譜陣が浮かび上がる。

 それが完成するより早くガイへ飛び付いたスィンは、その場から転がるように逃れた。

 

「助けに入った方が助けられてどうするんです」

 

 ジェイドの余裕な声音。

 腹が立つより早く安堵するのはやっぱり腹立たしい。

 しかし、他一同が姿を現してもヴァンは止まらなかった。

 

「ヴァン……!」

「問答無用!」

 

 間合いが近すぎる。彼はすでに大剣を振りかぶっており、ガイは今まさに柄へ手を伸ばしていた。スィンによって体勢が崩れたせいでもある。

 更にスィンもまた無手。ガイへ駆け寄った時点で血桜は放り出しているし、そもそもあの刀で防御は望めない。

 いつかの夢を思い出しながら、スィンはガイを背中に庇いながら迫る大剣と向き直った。

 

 どうなろうと構わない。彼さえ、生きていてくれるなら。

 

 そのまま──眼前の刃を音高く両掌で挟んで止める。

 真剣白羽取り。一歩間違えば両断される荒業で凶刃を凌いだスィンは、ガイへ逃げるよう促した。

 このままヴァンが止まらないなら、自分が引きつけて。ジェイドでも誰でもいい、譜術をもってして狙い撃てばあるいは──

 

「時間切れか」

 

 ふと、冷静なそんな言葉を聞く。

 白羽取りしていた大剣から圧力が抜けたかと思うと、スィンを振り払うようにして大剣の切っ先が引かれた。

 それをいいことに懐刀を取り出し、応戦の意を示すスィンを見やって、彼は。

 小さく、咳をした。

 

「!」

 

 ──彼がユリア式封咒に手を出したことで、瘴気に侵されていることは先刻承知。

 それなのに尚、スィンがするものによく似た咳をする姿を眼にして、胸が締め付けられるように苦しい。

 そこへ、伝令らしい兵士が姿を現した。

 

「総長閣下。資料の積み込みが完了しました」

「これまでだな。アブソーブゲートにて待つ」

 

 口元を軽く拭ったヴァンが、まるで何事もなかったかのように立ち去る。

 その背中にティアの悲痛な声がかかるも、彼は平然として歩みを止めることはなかった。

 

「兄さん、待って!」

「お前とは戦いたくなかった。残念だよ、メシュティアリカ」

 

 ヴァンが立ち去ったことで、場に満ちていた緊張感が緩やかにほどけて四散する。大きく息をついたスィンが、ガイの傍を離れて血桜を回収した。

 奥の檻、かつて被験者(オリジナル)とレプリカのチーグルが閉じ込められていた区画へ向かうミュウ、ルークに促されてそれに伴うティアをぼんやり見やっていると。

 

「おい!?」

 

 アッシュに掴みかかられた。胸にかかる圧力に顔が歪み、思わず背ける。

 しかし血相すら変わっている彼がそれに気付くことはなかった。

 

「お前、正気か!?」

「……ヴァンと、同じこと聞くんだね」

「当たり前だ! 何が悲しくて、あのメガネのところへ嫁ぐことになってんだよ!」

 

 確執とは何か、ガイとは姉弟なのか、矢継ぎ早に問い詰めるアッシュがびくりと体を震わせた。

 掴みかかっていた手を、逆にスィンが握りしめている。その顔は、困惑に満ち満ちていた。

 

「何? 嫁ぐ? 何の話? ヴァンもそんなこと言ってたけど」

「彼の話を聞いていなかったのですか?」

 

 尋ねていたのはアッシュだが、混乱する彼女はおかまいなしに尋ね倒す。

 仲裁をするべく間に入ったジェイドの話を聞いて、スィンはがっくりと脱力していた。

 いわく、ヴァンはスィンとジェイド間における確執がピオニー陛下の耳に入ったことを知ったらしい。

 その際、スィンがガルディオス家の血を引いていることを利用し、カーティス家と姻戚関係になることでお家再興を狙っているという情報を得たという。

 ……確かに。好き好んで死霊使い(ネクロマンサー)に嫁入りするなど正気を疑いたくなる話である。

 ただ、そのヨタ話をヴァンが信じたとすれば。

 

「……好都合だ」

 

 うなだれていた顔を上げれば、話についていけないアッシュの顔がある。

 掴んでいた手を離し、またアッシュの手も外させた。

 

「詳しいことは後で話す。それと」

「おい、スィン。アッシュに俺達のお家騒動を話す必要は」

「そのこととは関係なく話があるから。逃げるなよ」

 

 一瞬低くなり強調されたその言葉が、アッシュを黙らせる。

 それからやっと、スィンは主たるガイに眼を向けた。

 

「して、ガイラルディア様。何か?」

「いや、だから。アッシュにそれを話す必要は……」

「まだ何もはっきりしたことは決まっていないのです。彼にも意見を聞きたいと思います」

 

 難色を示す彼に対して、スィンはあっさりけろりとそれを告げた。

 何故アッシュに意見を求める必要があるのかを尋ねても、スィンはそれを語ろうとはしない。

 とにかく駄目なものは駄目だと、ガイは一蹴した。

 それを受けて、スィンは軽く眼を伏せてからアッシュに向き直っている。

 

「ごめんね、駄目だってさ。ところで話は変わるんだけど」

「な、なんだ」

「ご主人さまのいうこと全部聞いて、我儘放題さすのはやっぱり本人にとってよくないことだよね?」

 

 その言葉に黙考したアッシュは、やがて指をある一点へと指した。

 

「よくわからんが、あいつみたいになる可能性はあるんじゃないか」

 

 彼が指差す先には、閉じ込められた同族を心配するミュウに付き添ったルークだ。ティアと共に彼の訴えを聞いている今を指しているわけでないことは明白である。

 それを聞いて、スィンはちらちらとガイをみやりながら、わざとらしく応じた。

 

「あー、ルーク『様』かあ……うん、ご勘弁だぁね」

「おい。俺が我儘坊ちゃんだったルークみたいになるかもって言いたいのかよ」

 

 眉間に皺を寄せて詰め寄るガイをいなし、その他面々に意見を募る。

 結果は、といえば。

 

「んー、ありえるんじゃない? ガイ、時々だけどスィンに対してすんごい横柄になる時あるもんね」

「悪い意味で非常に貴族らしい態度ですからね。第三者の立場から言わせてもらえば、スィンの接し方にも大いに問題ありですが」

「従者と主とはいえ、普段は紳士然としているあなたが傲慢に振る舞うのは見ていて好ましくありませんわ」

「時折ですが、ガイは以前のルークによく似た表情を浮かべますね。大概、スィンが意に添わない行動を取った時でしょうか。それがとても気になります」

 

 イオンを含めて、散々だった。忌憚ない意見を聞いて、ガイはがっくり落ち込んでしまっている。

 反射的にフォローを入れようとして、それをすれば台無しだと口を噤む。

 その代わりにスィンは、戻ってきたルーク達に意識をやった。

 彼はミュウ以外に一匹のチーグルを連れている。

 

「チーグル?」

「ああ。ここ、もう引き払うみてえだからな。誰も来ないならほっとくわけにもいかねえだろ」

「ご主人様、ありがとうですの!」

 

 彼はあのチーグルを、これからミュウ同様連れて歩くつもりなんだろうか。

 二匹のチーグルを見つめてうっとりしているティアはさておいて、和やかな会話を挟み、ガイが復活した。

 

「……わかった。そうだよな。俺にはお前の行動を制限する権利なんかない」

『ご主人様、ありがとうですの』

 

 言外に好きにしろと言われ声真似で応じると、彼は再びがっくりと肩を落とした。

 イオンによってこの場の脱出を促され、ジェイドによって近くのシェリダンへ行こうとの提案がなされる。

 それなら話はシェリダンでとの提案に、アッシュは嫌そうに眉を歪めるも、彼がそれ以降何かを言うことは無かった。

 

 

 

 

 

 

 



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第百三十一唱——思い出とさようなら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルビオールによって、ワイヨン鏡窟よりシェリダンへと移動する。その移動中、スィンは何一つとして問われることは無かった。

 ヴァンとの会話を一部盗み聞きしていたことを、代表してナタリアから謝罪されている。このことで、何故スィンが二人と共にワイヨン鏡窟へ赴いたのか、把握されていると思われた。

 どこか落ちつけるところを探して広場へ入り、アストンとばったり会う。

 

「おお、あんたたちか」

「ちょうどいい。集合所をお借りしていいですか。今後の話し合いをしたいのです」

 

 他の面々は未だ入院中とのことで、姿はないが自由に使ってくれと許可を得て、一同は集会所へと入っていった。

 ──アッシュと、スィン以外の面々が。

 

「話、か?」

 

 アッシュの嫌そうな問いにこっくりと頷く。

 どうせ彼らは、道中誰も話しかけるのを躊躇ったティアから話を聞こうとしているのだ。二人がそれを聞く必要はなし、その間に話を済ませようとの魂胆である。

 外にいると一言告げて、スィンは集会所の重厚な扉を閉ざした。

 そして、いつかナタリアとアッシュが語りあった波止場へと赴く。

 

「まず……なんでしたっけ」

「俺の質問は後でいい。話は、なんだ」

「もうヴァンとは単独で交戦しないでください。どうしてもというなら、私を叩きのめして打ち倒して屍を乗り越えていってからに」

 

 それができるならば、多少なりともヴァンと渡り合えるはずだ。

 沈黙が漂い、居心地悪そうにアッシュが口を開いた。

 

「……それだけ、か?」

「何が何でも従えとは言いません。これはお願いで忠告で警告。次はないと思います」

 

 ないと言うよりは無理、だ。ヴァンは何処で待つかを言い残して去った。ガイの傍を離れる気がないスィンに、彼を止めることはできない。

 アッシュは存外、素直に頷いた。

 

「わかった」

「その言葉が偽りでないことを強く願います。それで、何を御所望で」

 

 アッシュの口から出たのは、ガイとの血縁にまつわる話だった。

 冗談めかして、事実を伝える。

 

「半分だけですがね。本当、あの時は吃驚しました。もとは追及を避けるための方便のはずが、まさか事実だったとはね。嘘から出たなんとやら、とはよく言ったものです」

「ジェイドとの確執、ってのは。もともと仲は悪かっただろう。皇帝がそれを知って、ガイへの扱いが悪くなるほどのことか?」

 

 何も事情を知らなければ、訳がわからないだろう。

 しかしこれは、馬鹿正直に話していたら日が暮れる。

 

「そうですねえ……皇帝は、私がジェイドの殺害を企んでいると、思い込んでいらっしゃいます。それでちょっと、ごちゃごちゃしておりまして」

「それでどうして、嫁入りの話になる」

「それはヴァンが勘違いしてるだけです」

 

 事実を余さず事細かに話せば、彼の混乱は必至。更にはガイやジェイドに、的外れな意見を抜かすかもしれない。

 それは、避けたい。

 まだ正式な話は何も決まっていないのだ。現時点では、ヴァンはエセ情報掴まされているだけに過ぎない。

 そのはずだった。

 

「……」

 

 真偽を計りかねてか、アッシュは黙り込んでいる。それをいいことに、スィンは無造作に積まれた木箱に腰かけた。

 疲労がずしりと体にのしかかる。

 リグレットとの交戦、ヴァンとのちょっと血なまぐさいやりとりがあったとはいえ、現在のスィンは非常に消耗していた。

 可能なら眠ってしまいたかったが、それをすればアッシュは怒りだすだろう。

 彼が考え事をしているのをいいことに、木箱に寄りかかりうとうとと目蓋を重くする。

 ふと、アッシュが動いたような気がした。慌てて目蓋を押し上げれば、眼前にはアッシュの顔がある。

 彼は木箱に腰かけたスィンに対して、のぞきこむようにしていた。

 

「……あんたは以前、俺に嘘をつきたくないと言っていた。今は、それを信じる」

「ありがとうございます。信じてくれて」

 

 おそらく彼も気づいているだろう。スィンが全てを語っていないことは。

 けれどその上で今は問いただすことなく、いつか真実を話してくれることを信じると、彼は言っているのだ。

 捨ててきたはずの良心が、ちくちくと痛む。

 事実を紛らわせ、煙にまかなければならないのに、すべてをぶちまけたくなる気分に襲われた。

 でも、それでは何も解決しない。

 気分を抑えるように再び礼を呟けば、アッシュはぷいとそっぽを向いた。

 

「なんだ、しつこいな」

「私の言うことを疑ってかかる方ばかりなものでして。信じてもらえることは非常に嬉しいんですよ?」

 

 それがたとえ心の底からでなくても。

 未だまとわりつく睡魔を振り払うように勢いをつけて、木箱の上から降り立つ。

 

「話はこの辺でよろしいでしょうか? ちょっと、野暮用を済ませてきますね」

 

 そう言ってふらふらと彼女が向かったのは、飛行艇ドッグの裏手だった。

 街全体が造船関係を一手に引き受け、それに関連した職人の多い街だけあって、廃棄される金物も半端ではない。

 スィンが立ち止まったのは、そんな鉄屑や消耗しきった譜業がまとめられた一画だった。

 こんなところに何の用かと、尋ねかけたアッシュが凍る。

 スィンが手にしていたのは、小さな銀環と平たい金属製の板切れ……認識票(ドッグタグ)だった。

 散らばる鉄屑を一瞥し、それらを投げ込もうと振りかぶって。

 言葉もなくアッシュに腕を掴まれる。

 

「どうかしましたか?」

「捨てるのか、それを」

 

 認識票(ドッグタグ)はさておいて、スィンが手にしているのは長年結んでいた契約の証──結婚指環、だ。

 その問いに、スィンは大きく頷いた。

 

「捨てます。私はもうヴァンの妻ではない。初代特務師団長ブリュンヒルドでもなければ、ルーク様の護衛従者でも、ありません」

 

 ガルディオス伯爵家の騎士にして、継嗣ガイラルディアの従者。今のスィンはそれだけの存在だった。

 それだけの存在で、あるべきなのだ。

 ずっと棄てようとして、できなかったことである。

 睡魔に憑かれ理性があまり働いていない今、可能だろうと敢行したわけだが。

 

「だが……」

「それ、ただの響律符(キャパシティコア)ですよ? 宝石ついてないから売り払っても二束三文にもなりません。認識票(ドッグタグ)は……言うまでありませんよね」

「なら俺が預かる」

 

 そう言って、彼は有無を言わさずスィンから二つを奪い取った。

 元から棄てるものだからなのか、抵抗らしい抵抗はない。

 スィンの本音としては、アッシュをゴミ箱扱いしたくなかったのだが……口に出せば烈火のごとく怒りだすのは必至だし、指図する資格もない。

 ベルケンドでの批難を受けてから、スィンは今更のように自覚していた。

 今まで彼がスィンの頼みを聞いていたのは、彼が必要なことだと判断して、僅かにでもスィンに対して好意的だったからだ。

 それが薄れれば、この関係は自壊の一途を辿る。それは避けようがない事実だ。

 悪戯にそれを早めようとも思わず、スィンはそれを許容した。

 

「煮るでも焼くでも、潰すでも踏みにじるでも、お好きにどうぞ」

「そうする」

 

 廃棄こそできなかったが、これらはアッシュに所持されたところで困るものではない。

 そう考えた矢先に、彼女は意図せずしてアッシュに指図をする羽目になる。

 

「あなたにその響律符(キャパシティコア)はつけられないと思います」

「……うるせえ」

 

 アッシュは銀環を、どうにか装着しようと四苦八苦していた。

 己が指で一番可能性がある小指に押し込もうとしているようだが、第二関節から先に進まない。

 

「それが壊れるよりも早くあなたの指が壊れてしまいます。だから……」

 

 諦めの悪いアッシュの手から銀環を、そして認識票(ドッグタグ)を取る。

 認識票(ドッグタグ)から外していた細鎖を取り出し、ふたつを通してアッシュの首にかけた。

 

「これで我慢なさい」

 

 不満そうな表情こそ消えなかったが、彼は受け入れたようだ。無言でそれを襟の内側へ送り込んでいる。

 集会場に足を向けると、丁度扉が開くところだった。

 

「ガイラルディア様には誤魔化したことにします。合わせてくださいね」

 

 最後に口裏合わせを頼んで、スィンは一足先に彼らと合流した。

 

「お話はお済みですか?」

「ああ。ロニール雪山のパッセージリングへ行く。アッシュとの話は……」

「解決しています」

 

 何の問題もない、と太鼓判を押すも、彼はもちろん信じていない。

 スィンは重ねて強調した。

 

「きちんとごまかしましたっ!」

「……お前、そういうことは俺に聞かれないように言うべきじゃないのか」

「大丈夫。もう何を聞かれても答える気ないから」

 

 二人の、漫才のようなやりとりに辟易するように、わかったわかったと彼は大仰に納得の意を示す。

 そこへ、やりとりなどまるで気にしていないナタリアがやってきた。

 

「アッシュ、これからどうなさいますの? 私達はロニール雪山へ参ります。だから……」

 

 その先の言葉が紡がれるより早く、アッシュは一同に背を向けている。

 彼女の言葉を遮るように放たれたのは、別離の言葉だった。

 

「あの場所はいわくつきだと聞く。ぬかるなよ」

「アッシュ、どこへ……」

「俺には──時間がない」

 

 そのまま彼は、その場から去っていった。

 事情を知らない一同が呟くは、何とも呑気な会話である。

 

「……その割には随分のんびりしていったよーな」

「きっとあれだよ。船の時間が迫ってる的な」

 

 

 

 

 

 

 



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第百三十二唱——知らされる事実に、選択は狭まり

 

 

 

 

 

 

 

 

「嫌だなあ……」

 

 最後のセフィロト、ロニール雪山のパッセージリングへ赴く。

 それにあたってかの山の情報を得るため、地元民であり知事であるネフリーに話を聞きに行くと聞いて。スィンは思わず本音をぶちまけた。

 他一同は驚くしかない。

 

「何かありましたかしら?」

「ケテルブルクに行ったのは、今まで二回くらいしかなかったはずだけど……」

「タルタロスの修理のときと、スピノザを追い掛けてたときか」

 

 それは一同揃ってかの地へ赴いた際の話である。

 所縁の人間絡みで訪問した際──大昔の話だが、スィンはネフリーその人につっかかったことがあった。

 

 確か、「お前の兄はどこだ連れてこい母さんブチ殺しやがってお前もそうしてやろうか」こんな感じだった気がする。

 

 一同はスピノザを追って、スィンは手紙に挑発される形でこの地を来訪した際も、確か彼女とすれ違った。

 今でもはっきり思い起こせる。

 あの驚いた顔、間違いなく彼女もまたスィンの顔を見忘れてはいないだろう。

 

「お前、ネフリーさんになら会ったことあるだろ」

「あの時はあの時です。今とは事情が違います」

 

 タルタロス修理時は、まだ一同に正体を明かしていなかったがため今とは違う顔──マリィベルの姿だった。

 確か彼女はスィンの眼を見て少し動揺していたようだが、それを指摘するのは礼を失するとでも思ったのか、何事もなく済んだのだが。

 ますます見えない話に首を傾げる面々の中で、アニスだけがジト眼でスィンを見やっていた。

 ジェイドに至っては興味がないのか、会話に入ってこない。

 

「決まってるじゃん。大佐、こんなに嫌がってるんだからダメですよ。スィンのこと、お嫁さん候補だなんて紹介しちゃあ」

「あー……そういうことか」

 

 実際は違うけどもうそれでいいや。

 事実を語ることは億劫で尚且つ躊躇いがあったスィンは、それを否定しなかった。

 これで自信過剰だとジェイドに思わせることができたら、見損なわせることができたら──今よりも更に嫌われることができたら、それはそれで御の字だろう。

 しかし彼は、その手の感情を外へ出すことはなかった。

 

「まさか本気で来ないつもりはありませんよね?」

「お墓参りしてきていいですかね。その後知事邸へ向かいますので」

 

 そしてスィンは一人、ケテルブルクの外れへ来ていた。

 墓参りは──墓の手入れなら、済ませてきた。

 如何に彼女の遺したものが何もない形骸的な場所で、定期的な手入れの痕跡が見えても、雪だらけなのは見ていて忍びなかったから。

 町外れ、何もない場所。

 草木のひとつも見当たらず、ただただ雪に覆われた銀世界。遠くには万年雪を冠する山脈が連なっているのが見える。

 あのどれかひとつがロニール雪山のはずだ。

 これより赴くであろう場所から目を離して、再び視線を一点に留める。

 ここは、彼女の命が潰えた場所。

 レプリカを産み落とす代償として、彼女を構成する何もかもが失われた場所。

 

「久しぶり。こないだはバタバタしたけど、ごめんね。今日ももう行くわ」

 

 ケテルブルクを訪問した際は必ず立ち寄るこの場所で、スィンは座したまま語りかけていた。

 虚空に目を泳がせて一人語るその姿は、間違いなく気の触れた人間に見えることだろう。

 

「ああ、でもひとつだけ。ジェイドと結婚するかもしれないの。まだそう決まったわけじゃないけど。人生ってホント、何があるかわかんないね。お母さん、賛成? 反対?」

 

 当然のことながら返事は無い。

 山脈より吹き下ろす寒風が吹きすさぶばかりだ。それでもスィンは、風花散る虚空に向かって微笑んでいた。

 

「おじいちゃんも、なんて言うかな? これからどうなるのか、本当にわからないけど。はっきりしたら報告に来るから。それじゃ」

 

 立ち上がり、きびすを返して歩き出す。

 防寒着に張り付く雪の欠片を払いながら知事邸を目指した。

 今頃彼らはオズボーン子爵から──ジェイドの妹から、ロニール雪山に関する情報を仕入れているところだろうか。

 以前ジェイドに連れられてやってきた知事邸が見えた。

 とはいえ、スィンはネフリーに挨拶をするつもりはない。このまま外で待機し、出てきた彼らと合流する腹積もりだ。

 しかし、目論みは儚く崩れて消える。

 なぜなら、突如として知事邸の玄関口が開いたかと思うと、ネフリーその人が出てきたからだ。

 如何にスィンが寒いと連呼しながら買い込んだ防寒着でモコモコに着脹れていても、覚えがあったのだろう。

 彼女は血相を変えて、背後にいたジェイドをかばった。

 

「ネフリー? どうしました?」

 

 よく見れば、彼らはちょうどお暇を告げるところだったのだろう。見送りにきて、ちょうどばったり出会ってしまった、といったところか。

 間が悪いことこの上ないが、下手に口を開くとややこしいことになりそうで困る。

 彼女のことはジェイドにお任せするとして、スィンは兄妹の後ろにいた一同に尋ねた。

 

「首尾は如何でしたか?」

「なんか、ディストが倒れてケテルブルクホテルにいるらしいんだ。これから情報を聞き出そうと」

 

 ディストが、倒れて。ケテルブルクホテルに。

 

「大佐、ネフリーさんに事情を教えてあげてください。ケテルブルクホテルに行きます」

 

 有無を言わさず、誰の声に耳を貸すことなく。スィンは駆け足でその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さぞや混乱しているであろうネフリーにジェイドを足止めさせ、スィンはディストが搬送されたというホテルの一室にて足を止めていた。

 何のことは無い。知事の名を出し、倒れたと聞いてお見舞いに来た、と支配人に告げただけで、部屋の場所は割れた。

 一切警戒されなかったことから恋人か何かと勘違いされたかもしれないが、些細なことである。

 鍵もかかっていない扉を開ければ、知事の好意によるものか。

 そこそこ広く高級感漂う部屋の中、広い寝台の上でディストは横たわっていた。

 

「むにゃ……待ってよ、ジェイド……」

 

 子供の頃の夢でも見ているのだろうか、何も彼と夢の中で追いかけっこなんかしなくても。

 とにかく、眠っているならばとスィンは早速行動を起こした。

 体と膝をくの字に曲げ、腕は胸の前で折りたたまれている──まるで胎児のよう──寝姿に蹴りを入れる。

 彼は潰れた豚のような悲鳴を上げて寝台から落下した。

 

「ふごおっ!」

 

 眼鏡は外されてサイドテーブルに置かれたままだ。

 顔を打ったところで惨劇には至らない。

 

「思い返せば、お前にゃ煮え湯を飲まされてばっかりだよ」

 

 ダアトでは飛行譜石をとられて、バチカルではおかしな薬をシンクら経由で引っかけられ、再びダアトでは意図せずジェイドをけしかけて指環の形した譜業で嫌がらせされて。

 そろそろ何かお返しをするべきだ。

 うんうん唸りながら体を起こそうとしているディストを捨て置き、部屋に備え付けの湯沸かしで熱湯を作りにかかる。

 後は沸騰を待つばかりになってから、スィンはディストを見下ろした。

 

「ネビリム先生っ!」

「違わぁっ!」

 

 寝ぼけでもしているのか、眼鏡がないせいか。スィンを一目見て彼は、がばっ、と腕を広げて抱きつきに来た。

 即座に足の裏を使って迎撃する。

 彼は狙ったかのように後頭部を打って不気味な呻き声を放った。

 一方、サイドテーブルは衝撃を受けてディストの眼鏡を放り出している。

 床に転がったそれを探り当て、ディストは再びスィンを見た。

 

「なんだ、シアでしたか。まだ生きていたのですね」

 

 なんだとはご挨拶である。

 夢と現実がごっちゃにでもなっているのか、先生の方がよかったと肩を落とすディストに再び蹴りを入れかけて、とある音を聞く。

 湯が沸いたと知らせるブザーを聞いて、スィンは湯気を吹く湯沸かしを手に取った。

 しゅんしゅんと音を立てて熱湯の存在を主張するそれをずい、とディストに差しだす。

 

「な、なんですか」

「沢山煮え湯を飲ませてくれやがったお礼ださあ受け取れ」

「だからって本当に熱湯を飲ませようとしないでください! やり口がジェイドそっくりですよ、まったく!」

 

 その言葉にスィンが怯んだところで、カサカサというかシャカシャカというか、昆虫を連想させる動きをもってして、ディストは寝台へ上がり込んだ。

 そのまま、嫌みなのか皮肉なのかよくわからない台詞を吐く。

 

「この地は、今のあなたには相当きついはずですが」

「はあ?」

 

 一度は呼びだした分際で何を抜かしていらっしゃるのか。それにしても意味深な言葉だ。

 何の事かと尋ね返して、スィンは固まってしまった。

 

「──に、この土地の気候はさぞつらかろうと言ったのです」

 

 確かに言い放たれた言葉だが、なぜか耳がとある単語だけを拒絶する。

 しかし耳が拒絶しても、意識はその単語が何を示すのかは理解していて。

 否定し倒してその認識を改めさせるべくとか、何故それを知っているのか問い質す必要性を考えるよりも早く。

 

 まずい。口を封じなければ。

 

 スィンはまずそれを思った。

 

「その様子。やはり彼らには隠したままですか」

 

 頭をかち割れば話は早い。しかし、手元には沸かしたての熱湯がある。

 無理やり飲ませて口腔食道火傷のついでに、咽頭火傷で一時的にでも声を失ってはくれないだろうか……? 

 あまりぐずぐずしていては、足止めを解除した一同がやってくる。そうなる前に事を済ませたい。

 問題はどのようにして、嫌がるだろうディストにこれを飲ませるべきだろうか。

 

「あなたの技術と根性には感服します。凡人ならとっくにバレている時期でしょう」

 

 あれから試してわかったことだが、スィンは異性恐怖症を克服していない。

 ジェイドだけが平気になっただけで、相変わらず自分より年が上の男性に接触することはできないのだ。

 正確には、素手で触れるのが怖い、だが……

 特定の人間が平気になったことは、あまり目新しい事例ではない。何故ならば祖父であるペールには、まったく抵抗がないのだ。

 こちらは、いつまで怖がっていていつから平気になったのか、覚えていない。

 とにかく、残念ながらディストに対してどうやっても力尽くで飲ませることはできない。

 さてどうしたものかと、スィンがふとディストを見やると。

 

「こうして見ても、さっぱりわかりませんね。本当に──しているのですか?」

 

 続いた言葉を聞きつけて、スィンは手にしていた湯沸かしを投げつけていた。

 たっぷりと熱湯を蓄えた湯沸かしは、放物線を描いて激突する。

 手元が狂ったのか、投げ慣れていないせいか、狙ったはずのディストではなく壁へ。

 結構な騒音が耳元で響いたはずなのに、彼は珍しく泰然としていた。わずかに熱湯の飛沫でも浴びたのか、眉を顰めて髪を払っている。

 

「ふん、怒りましたか? そんな感情的になっては隠せるものも隠せませ「お前に話しかけた僕がバカだった」

 

 最早にべもない。

 いつになくディストが辛辣であることにも気付かぬまま、スィンは備え付けの椅子を振り上げた。

 これは予想外だったのか、彼は慌てたように両手を上げた。

 

「待て、待て待ちなさい!」

「嫌だ」

「先生の作品が壊れてもいいのですか!?」

 

 ──彼は一体何を言っているのだろうか。

 上着の内を探り、椅子を振りかぶったままのスィンへ差しだされたもの。

 それは小箱に収まった指環だった。

 地金には石竹色がかっており、非常に緻密な彫刻が施されている。そして、三日月の台座にはそれを満月にせんとはめ込まれた緋色の石。

 かつてスィンに贈られたチャネリングを可能とする指環と同じ型、石と材質だけが違う代物だった。

 いつかディストがチャネリングを使ったのは、この小さな譜業を用いてのことだろう。

 それを確認して、スィンは手にした椅子を彼に投げつけた。

 

「なぁっ!?」

「……お前の作品じゃなかったのか。こんな精巧な譜業」

 

 椅子からわが身を守ろうとしたディストが小箱を取り落としたところで、それを回収する。

 彼は椅子を寝台の脇にやってから、ズレた眼鏡を直していた。

 何故だかジェイドの姿と重なる。

 

「いいえ、先生の作品です。マルクト軍の情報部が押収したものを回収したんですよ」

 

 確かに、かつての事件で彼女が死亡した時に関連する資料は軍によって押収されたと聞く。詳細は不明だが、何かしら重要と思われる研究をしていたためだろう。

 でなければ、個人の遺産を軍が接収する意味が見いだせない。

 

「あなたの誕生に合わせて、先生が開発したものです。あなたの瞳と同じ色でしょう? チャネリングの発生装置にして接続器(コネクタ)にしたのは、いつかあなたとの連絡を取り合えるようになれたら、と夢想していたようですよ」

「……!」

 

 想いが、溢れていく。

 死者の遺した念に囚われてはいけないとわかっていながら、スィンは手にした小箱を抱きしめるようにしていた。

 こみあげるものを他人に見せるものかと抑え込み、気を落ち着けてからディストを睨む。

 

「……だったらよかったね、とかいうオチの、お前の創作じゃねーだろうな」

「ジェイドだったら残酷な嘘のひとつやふたつも吐くかもしれませんが、先生に関することで私は嘘偽りを口にする気はありません」

 

 ならば何故知っているのかを問いただせば、指環を盗んだついでに彼女の遺した日記帳も拝借してきたのだという。

 かなり立派な犯罪だが、今言及するべきはそこではない。

 

「……その証拠は」

「喉から手が出るほど欲しいでしょう? しかし、持ってきてはいません。あなたは間違いなく力づくで奪っていくでしょうから。この二つを差し上げますから、日記は我慢しなさい」

 

 ディストにしては洞察力が鋭いと褒めざるを得ない。この場にあると判れば、スィンは間違いなく彼を殺してでも奪い取っていただろう。

 ディストはまるで勝ち誇ったかのように、日記の在り処は口が裂けても話さない、とペラペラ語っている。

 確かに欲しいし、何なら本当に口を裂いてやることも厭わないのだが、それどころではなかった。何故なら。

 

「ジェイドで思い出しましたが、彼と結婚したところでカーティス家の財産は当主夫婦の管轄ですよ。ジェイドは養子なのですから」

「だろうね」

 

 何故この話を知っているのかも、聞きたくない。どうせ皇帝が手を回した結果だろう。

 平和条約締結の席の後で疲れていたのだろうが、あんなヨタ話を頭から信じるなど。

 よほど皇帝は、ジェイドを失いたくないと見える。

 

「おや。何故いきなりそんな話をするのかは聞かないのですね」

「聞きたくねー「まあそう言わず。帝都では話題持ちきりですよ。あの死霊使い(ネクロマンサー)がついに花嫁を定めたと。しかしその相手は名誉と財産目当ての没落貴族。カーティス家は大慌てで彼の正妻となる家柄の娘を探しているとか」

 

 ゴシップ感漂う面白そうな話である。

 カーティス家の対応を聞いた時点で、ふと気になった事柄を尋ねた。

 

「……マルクト、重婚ありだったかな。正妻と妾って法的にはどんな扱いだっけ」

「先代皇帝から法律が変わっていなければ可能でしょう。彼には側室が十五人ほどいたわけですからね」

 

 ただ、それは先代の行いを良く思っていない現皇帝が何もしていなければの話。

 しかも、今は丁度ジェイドの結婚話が一方的に持ち上がっている。とっくの昔に法改正されている可能性は高かった。

 考えようによってはジェイドを無理やり妻帯者にしてやれるが、些細な嫌がらせにしかならない。

 嫁ぐ理由が皇帝に彼との確執を口出しさせないこと、そしてガルディオス家再興の礎にカーティス家と繋がりができれば、少なからずマイナスにはならないだろうと思っていた。

 しかし、情報が操作され市井で噂になっていて、更にカーティス家も対応策を講じている。

 このような状況と天秤にかけるとなれば。

 

「……そっか」

 

 却下の一言につきた。

 この無責任な噂は決して間違ってはいないのだ。

 面子を重んじる貴族達はカーティス家と共にガルディオス家を忌避する可能性が高い。それはガルディオス家にとって、間違いなくマイナスの要素となる。

 この時点で、スィンの中での選択肢は消えた。

 ジェイドに嫁ぐこと、皇帝の後宮に入ること──どのような形であれ、マルクトに所属するということ。

 スィンがいることで醜聞のタネになってしまうなら。ガルディオス家にとって不利な条件をもたらしてしまうのなら、そもそも根本から今後の見通しは立て直すべきだ。

 もともと選択肢は少なかった。残された案はたったひとつだけだが、それを選ばざるを得ない。

 これからゆっくり覚悟を固め、腹をくくるとして、まずは現状の解決である。

 あと考えるべきは、口封じだけなのだが。

 

「どうしました? ジェイドとの結婚を思い直しましたか?」

 

 嫌みったらしく揶揄を吐くその口をとりあえず引き裂いてやりたい。

 しかし冷静に考えれば、単なる口封じをしたところで一番大事なところ──ロニール雪山の情報が手には要らない。

 ここは一度、頭を冷やす必要がありそうだ。

 

「……」

「ん、何ですか?」

「その荒ぶる心に安らかな深淵を」

 

 第一音素譜歌を奏で、ディストを平和的に昏倒させて部屋を出る。

 閉めた扉に背を預けて、スィンはずるずると腰を下ろした。

 膝を抱えようとして、あえなく挫折する。だらりと足を投げ出して、視線を宙にさまよわせた。

 

 ──痛い。

 

 腹部が、心臓が、肺が、どこが原因なのか判別しかねるほどに。

 長年のことで慣れているはずの発作が、ここ最近で我慢できないほどに強くなっている。

 雫となって流れる汗を拭い、荒くなっていく息を留めるようにスィンは荷袋から大瓶を取り出した。

 蓋をこじ開け、直接口をつけて中の錠剤を流し込む。

 咀嚼した錠剤の中身は顔をしかめてしまうくらい苦いもののはずが、今や何の味もしない。舌が壊れてしまったのかもしれないが、些細なことだ。

 痛んだものに気付けなくなるのはつらいことだが、これからくくるべき腹のことを考えれば大事の前の小事。

 毒味ができなくなったことを如何にして自然に申告するか、悩むのは今後でいい。

 ふかふかの絨毯は足音を自然に消すが、それが普通に歩いているもの、ましてや数人のものであれば多少は聞き取れる。

 大瓶をしまい、肺の空気を入れ替える勢いで深呼吸して。スィンは意図的にうなだれた。

 ──今彼の姿を認めてしまったら、泣きだすか切りかかるか、あるいは両方ともか。間違いなく感情を抑えられないだろう。

 そんな無様は主にさらせないし、彼に本音を知られたくない。

 

「スィン!?」

 

 主の声にも反応せず、ただ足音がやってくるのを待つ。

 手前で立ち止まったのだろうか、やってきた足は一人分だけだった。

 軍靴にくるまれ、踵同士がきちりと揃った足。

 

「ディストなら中にいます」

 

 ジェイドが何か言いかけたことを知りながら、スィンは被せるように告げて、立ち上がった。

 扉から、ジェイドから離れようとして阻まれる。

 

「ディストに何を吹きこまれました?」

 

 開口一番の質問に答えるでもなく、スィンはそれを取り出した。

 三日月型の台座を満月にせんと蒼の石が取り付けられた、指環。

 

「覚えていますか? ダアトで送りつけられたこの譜業。ディストの作品ではなかったそうで」

 

 ジェイドの表情はもちろんわからない。返事など聞こうともしないで、スィンはふたつめを取り出した。

 同型の、緋色の石がついた指環を。

 

「彼女……ネビリム女史の作品らしくて。仕掛けてくれたお礼とロニール雪山の情報を聞き出そうとしたら、そう言われて」

「……信じたのですか? 証拠もないのに」

「彼女に関することで嘘偽りを口にしないそうですよ」

 

 それだけではないと、日記の存在も淡々と明かす。

 ジェイドの言葉はいちいちもっともだ。全てはディストの発言に基づくものなのだから。

 それでも、「ネビリム先生」を盲信する彼の言葉を、日記の存在をスィンは信じたかった。

 

「ここへは持ってきていないそうです。軍に突き出して身体検査すればわかることでしょう」

 

 全部終わったらダアトへ家探しに行かないと、と締めくくり、スィンはゆっくりと肩にかかるジェイドの手を外した。

 幸いにも抵抗はない。

 そのことに安堵しながらジェイドに背を向けて、彼女はようやく顔を上げた。

 遠巻きにしている他一同と、一人突出した形の主がいる。

 

「ロニール雪山の方、お願いしますね。出るまでには、いつもの通り振る舞えるようにしておきますので」

 

 主に一礼し、彼を含めた一同にはロビーにいると伝え。スィンはゆっくりとその場から歩み去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロビーにある適当な長椅子を陣取り、書き物をして待つこと、しばし。

 遠くからイボイノシシのような断末魔がした。

 おそらくはジェイドがディストから情報を引き出そうとして、手段を選ばなかった結果の副産物だろう。

 そして、ネフリーに呼ばせたか自分で呼んだのか、憲兵──マルクト軍兵士が現れたことでホテル内ロビーが更にざわめく。

 ホテル側には話を通していなかったのか、戸惑いが顔に出ている従業員が兵士とやりとりしかけて。

 ディストへの尋問が終わったのだろう。一行が姿を現した。

 

「ああ、ご苦労。六神将のディストは中だ。直ちに連行しろ」

 

 敬礼でもって答える兵士に、更に留意事項を告げていく。

 

「多少痛めつけておいたが、油断はしないように。それと……」

「あちこち怖がられている訳が、わかった気がする……」

 

 などと呼ばれているのは伊達でも酔狂でもないはずだ。

 ルークの発言に気を取られるでもなく、主からロニール雪山の情報を伝え聞く。

 

「すぐ出発するが、いけるな?」

「はい。問題ありません」

 

 主の様子を見る限り、ディストから仕入れたのはロニール雪山に関する情報だけのようだ。

 それでも一応、先程の断末魔について、そして会話について聞く。

 それによればディストと直接会話したのはジェイドのみで、雪山の情報は彼から伝え聞いたものだという。

 と、いうことは。ジェイドの質問によっては彼だけが他の情報を得ていることになるのか。

 そのことにそこはかとなく戦々恐々としながら身支度──最低限の防寒具を身に着けていると、兵士にディスト捕獲の引き継ぎを終えたらしいジェイドが視線を寄越してきた。

 それには真っ向から応える。変に挙動不審を見せれば、そこから痛いところを突かれていくだろう。

 どれだけ探られてもつらい腹ばかりでも、ここは虚勢を張らなければ。

 しかし、そんな心配を嘲笑うかのように、彼は顔ごとスィンの視線から逃げた。

 

「……?」

 

 ただ様子を伺っただけ、なのだろうか。

 ジェイドはそのまま雪山へ同行するイオンを心配するアニスや一同とのやりとりに参加している。

 ディストからどんな情報を得たのか気になるが、先程のことを何も触れられないことはとりあえず安心してよいことだろう。

 ふう、と胸を撫で下ろして、スィンは首にマフラーを巻きつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百三十三唱——救いの糸は切って落として、因縁だけは断ち切れずして

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なあジェイド。ロニール雪山ってのはどの山なんだ?」

「ここから西にあります。裏手からケテルブルクを出ましょう」

 

 ジェイドの案内を基に観光客の出入りする南口からではなく、地元の人間しか使わないような小さな北門を通って連なる山脈を目指す。

 広がる銀世界を楽しんでいたのも束の間、ふとアニスが呟きを洩らした。

 

「ロニール雪山にはアリエッタもくるのかな」

 

 あり得ない話ではない。これまで何も仕掛けてこなかったことを考えると、むしろ可能性は高い。

 似たような内容をジェイドが意見し、話がラルゴに及んだところで、ルークと共に歩いていたミュウがこちらへと跳ねてきた。

 

「ボクはあのおっきな人怖いですの」

「大丈夫よ、ミュウ。私たちが守ってあげるわ」

 

 場合が場合だからだろうか、ティアは至極真面目にそう答えた。

 それに便乗するように、ジェイドが雪山におけるミュウへの期待を口にする。

 彼が吐く炎で暖を取るとか、そういう話かと思いきや。

 

「みゅ?」

「遭難したときの非常食として……」

 

 怪しげに眼鏡を光らせながらそんなことを言われたら、スィンだったら裸足で逃げる。

 その例にもれずして、ミュウは怯えて悲鳴を上げつつ、その場から逃走した。

 

「だ、大丈夫よ、ミュウ!」

 

 ティアの声は届いていない。珍しくアニスが彼に咎めだてするも、ジェイドの答えはひどいものだった。

 

「大佐! 冗談の域を越えちゃってますよぅ」

「ははっ。本気ですから」

「……」

「最低だよ、このおっさん……」

 

 その辺りには同意する。今に始まったことではないが。

 逃げたミュウが庇護を求めてルークの足にしがみつかんとするが、ガイと話していて気付かなかったらしく、その小さな体を蹴り飛ばしてしまっている。

 そのことで女性陣から批難を浴びるルークを横目に、スィンはひたすら転ばないよう気をかけていた。

 やがて一同の眼前に、そびえ立つ白峰──ロニール雪山が現れる。

 

「以前六神将がここへ来たときは魔物だけでなく、雪崩で大勢の神託の盾(オラクル)兵が犠牲になったそうです」

 

 雪化粧をとんでもない厚塗りにしている山を見上げて、イオンはかつての大惨事をさらりと語った。

 スィンは詳細を知っているが、こと細かく話すつもりはない。

 

「雪崩は回避しようがないからな」

「必要以上に大きな物音を立てないように。いいですね」

 

 何故ジェイドはその注意をガイの顔を見ながらしているのだろうか。もしかしたら不用意に女性に近づいて、悲鳴を上げるなと言っているのかもしれない。その意図を知ってか知らずか、ガイが気にした様子はなかった。

 その注意を一同が頷いて、雪中行軍は開始される。

 足取りに関してもっとも心配されたのはイオンだが、意外なことに彼は一度たりとも転ぶことはなかった。後ろを歩くアニスの注意をしっかり聞いていたからだろうか。

 代わりというわけでもないだろうが。

 途中、踵の高い靴を履くナタリアやティアが雪に足を取られて派手に転倒し、それを見て足元不注意になったらしいアニスまでもが盛大にすっ転ぶ。

 転ぶこと自体はともかく、悲鳴──大きな声を上げることはよくないとジェイドが苦言を呈したところで彼は足を滑らせた。

 

「おおっと!」

 

 しかし、彼はそのまま雪まみれになるという事態には陥っていない。

 手近にいたルークの服の裾を掴んで体勢を立て直し、転んだ際にかかった慣性を余すことなくルークに押し付けている。

 成す術もなく悲鳴を上げてスノーマン手前になったルークと、飄々としているジェイドを見比べて、スィンは一言呟いた。

 

「平常運転だね」

 

 このやり取りすらも芝居じみて見えるのだから、もう重症だといえるかもしれない。

 その呟きを耳にして、ジェイドは含み笑いを浮かべていた。

 

「ここはお約束として、あなたも足を滑らせてみますか?」

「そうだよっ! スィンもいっぺん転んでおきなよ、付き合い悪いなあ!」

 

 ジェイドとの結婚話が持ち上がって以降、かなり刺々しくなった少女が意地悪く抜かすも、聞く耳は持たない。

 絶対ヤだ、と短く返して転んだルークに手を貸す。立ちあがったルークが弾みでスィンを突き飛ばすようなことはなかった。

 そんな道すがらにも、吹き下ろす風は独特の音をまとって一行の間をすり抜けていく。

 その音がまるで、女性の泣く声のようだと誰かが言ったところで、話は始まった。

 

「どうした、ジェイド。まさかあんたも怖いのかい?」

「いえ……昔のことを思い出しただけです」

 

 予期される戦いを前にして、和やかな会話が繰り広げられている。

 しかし、スィンはそれどころではなかった。

 

『ふぅむ。汝が契約者か……聞きしに勝る弱りようじゃの』

 

 久しぶりに聞いた音素集合体の声に吃驚している最中である。

 年季を感じる年かさの女の声で、尊大な物言いが特徴的だった。

 人に対してかける言葉だからか、元からこうなのかは杳としてしれない。

 

『ほれ、なんぞ応えてみせんか』

『何か用ですか。その前に、どちらさまでしょうか』

 

 大分余裕がなくなってきたと、スィンは他人事のように自覚していた。

 見下すようなその声音に、応える反応は硬くなってしまっている。

 名も知らぬ音素集合体が、それに気付かぬはずもなく。

 

『ほほ、そうツンケンするでない。妾はセルシウス。第四音素集合体所縁の者じゃ』

『はい、初めまして』

 

 自己紹介はしない。セルシウスとて、伊達や酔狂で話しかけてきたわけではないはずだ。

 ただ。

 

『如何なる御用件で。第四音素集合体との契約は成されているはずですが』

 

 第三音素集合体シルフにもヴォルトという縁者がいたが、彼との契約はしていない。正確にはする必要がないと、諭された覚えがある。

 

『妾とて、契約しようと声をかけたわけでもなければ、ちょっかいを出しに来たわけでもない』

 

 では何用だろうと語りかけられる言葉を意識に入れながら、周囲は警戒しておく。

 アリエッタがいるなら、そこいらの魔物が一同のみに襲いかかる敵になる──といった極端なことにはならないが。それでも、彼女が来ているなら他の誰よりも脅威で、警戒するべきである。

 単純な話、従える魔物総勢に囲まれて遠吠えの合唱でもされた日には雪崩でお陀仏、全滅の憂き目にあうだろう。

 彼女は使役する魔物に対してすべからく「お友達」と認識している。そのようなことを強要するはずもないが、それでも危惧をするに越したことはない。

 そうこうしている内に、セルシウスの話は終わった。

 

『さて、なんとする? 汝の生存は契約において必須──』

『無理です。少なくとも、今すぐには』

『左様か。忠告はした。ではの』

 

 セルシウスの忠告。それは瘴気触害(インテルナルオーガン)に侵されたスィンの体に関することだった。

 本来人の生き死になど関与しないところ、それが契約者のものであるなら話は別だと。刻限の近づくこの状況をなんとかせいと、セルシウスは一案をスィンに示した。

 聖なるものユニセロス。かの幻獣の角を用いれば、スィンの体は全快する。

 彼らを眷属とするシルフ達から反発があるだろうが、セルシウス──ひいてはウンディーネの提案だと告げれば、彼らも頷かざるをえないだろうと。

 しかし、今彼らの元を離れてタタル渓谷へ向かうことはできない。

 それ以前におそらくスィンには、ユニセロス──ニルダの角を強奪することなど、できないだろう。

 聖なるものと称される彼らの力の源である角を失えば、その命もまた失われる。

 仮に彼女以外のユニセロスがいたところで、同じこと。ニルダがスィンによる同族殺しを享受するとは思えないし、思いたくない。

 だが、それをセルシウスに言ったところで理解されるわけもないのだ。

 だから端的に拒否したわけだが……彼女はあっさりとそれを受け入れた。声どころか気配の一欠片も感じない。

 契約の遂行にあまり興味がないのか、こればかりはどうしなければいけないのか一番よく知っているのはスィンだから、強制したところで意味はないと思っているのか……と、彼女の意向を考えたところで、何がどうなるというわけでもなかった。

 

「あれ、お前……」

「全然怖くないわ。だからとにかく行きましょう!」

 

 先程の怪談がらみか、ティアが半ば肩を怒らせながら──あるいは肩を震わせながら一同の先を行く。その態度が何を示すのかはバレバレで、他一同は苦笑を禁じ得ない。

 それに気付いているティアは頬を染めてただただ黙していた。

 確か彼女は、シュレーの丘でもジェイドによる似非怪談で恐怖のあまり気絶している。

 普段は気丈で芯の強い少女の一面を見て内心和んでいると。

 

「──」

 

 風の音にまぎれて、人の声が流れた。

 それを風の音と勘違いしたらしいルークが、頭をかいてぼやいている。

 

「……まただ。なんか俺もおっかなくなってきた」

 

 しかし同じものを聞いたらしいティアは脅えるでもなく怪しみ、ジェイドもそれに同意している。

 スィンもまた、この声には聞き覚えがあった。それも、六神将の一人のものに。

 

「──ええ、人の声です。気をつけましょう。私達以外に誰かいます」

「六神将ですか?」

「……多分、間違いないと思います」

 

 確かに、今しがたの声はリグレットのものに酷似していた。

 一同の中で一番彼女と関わりがあったティアもそれに気付いたようで、硬い表情のままイオンに対し頷いてみせる。

 六神将が待ち伏せをしている。その事実に一同は一層用心しながらも、山中を行く矢先のこと。

 

「スィンは……いいんだな?」

「うんかまわない」

 

 先を歩くルークが転進したかと思うと、殿を歩いていたスィンの元へとやってきた。

 彼の問いに対して、スィンは迷うことなく肯定を返す。ルークがこの状況で尋ねることなど、限られているはずだ。

 答えが瞬時に返ってくるとは思っていなかったようで、彼は慌てている。

 

「い、いいんだな? ホントに、いいんだよな?」

「うん!」

 

 殊更快活なスィンのお返事により、二の句を告げられないルークに、さてなんと言葉をかけたものやらと考えて。

 

「スィン……何がって、聞いてやるのも優しさだぜ」

「僕の優しさはすべてあなたにつぎ込んでいるので空っぽです。ところでルーク、何が?」

 

 主の言葉に乗っかって、ようやっと本題に入る。彼もまた安心したように質問内容を口にした。

 

「六神将と戦いになっても「ガイラルディア様の敵は僕の敵。その辺に迷いはないよ」

 

 偽りなきスィンの本音である。スィンはとっくの昔に、最も敵対を躊躇うべき相手と刃を交えて乗り越えた。

 あの時のことを考えれば、元同僚との交戦──否、再戦などお茶の子さいさい、というやつである。

 ところがそこへ。

 

「……以前から思っていましたが、その考え方は危険ですよ」

 

 スィンの言葉を疑うでもなく呆れるでもなく、考え方そのものにケチをつける人間が現れた。

 その発言主がジェイドであることを知り、スィンは全力で受け流しにかかっている。

 

「そうですか」

「この後の戦いで、もしガイがお亡くなりになられたらどうするんです」

「縁起でもないことを言わないでください」

 

 そんなことになれば、草場の陰で見守っていてくれているはずの人々に顔向けができない。

 

「そうならないようにするのが、僕の仕事ですよ」

 

 最も、実際そのような事態に陥ればスィンの命をもってして償う他ないわけだが。

 その前に祖父に殺されるかもしれないし、場合によっては錯乱した末に自分で腹なり首なりかっさばくかもしれない。

 ──あるいは、今際の際に主の血をもらい、彼に成りきることで今後の人生を捧げる、ということになるかもしれないが。

 内心の動揺は内側に収めたそのままで、しれっと返す。

 その様子を見て、その話を続けるのは無駄だと悟ったらしいジェイドは例えをソフトなものへと変えた。

 

「わかりました、言い方を変えます。仮定の話です。ガイに暇を出されたら、あなたはどうなさるので?」

 

 これには即答が出来ず、スィンは黙考している。

 彼の一存でそれが出来るかといえば、可だ。

 しかし今のスィンには、ガイが意味もなくスィンをクビにする理由など思いつかないが。

 それでも、もしクビになったら──

 あり得ない可能性におたついても仕方ない。ここは無難に返しておくべきだろう。

 

「その時になってみないと分かりませんが、とりあえず自分探しの旅にでも出ましょうか」

「無難な答えですね。実行できますか?」

「そんなの、その時になってみないと分かりませんよ」

 

 一同の誰かが警戒に当たっているとはいえ、いい加減待ち伏せには総員で警戒するべきだろう。

 しかしジェイドはなかなかその話題から離れようとしなかった。

 

「主に──ガイに依存するのはどうかと」

「してません。他の誰からそうとしか見えなくても。依存だけはしないよう自制してます」

「あなたのそれは依存ではなく共依存です。言葉の意味は御存じですね?」

 

 共依存。特定の人間関係に執着する状態を指す。

 一例として、自己の存在意義を認めてもらうべく過剰な献身を繰り返すという行為もある。

 ──この言葉を向けてきたのがジェイドでよかった。

 譜を刻んだことによって血の色を有するその眼を見ながら、スィンは淡々と共依存における定義を語った。

 他の人間にこれを言われたなら、スィンは己を抑えることはできなかっただろう。図星という認識は欠片もないが、すれすれであることは自覚している。

 これまで行動を共にしていたがため、彼を見やれば私情を抑え込む癖をつけていたことが、良い方向へと働いた。

 

「……少なくとも、僕はガイラルディア様に認めてもらいたくて従者をしているわけではありません」

 

 わざわざ認めてもらうまでもなく、スィンはガイの従者で、ガルディオス家の騎士なのだ。

 物心ついたと同時に教え込まれたことを、今更改めろと言われても無理なお話である。それに。

 

「共依存だとガイ様もまた僕に依存していることになるのですが、いかがでしょうか」

「してるかしてないかって言えば、依存してる方かもしれないけどな」

 

 それでも認めてもらいたい云々は筋違いだし、依存ではなく頼りにはしている、とガイは締めくくった。

 ジェイドに向けられていた瞳が、主の警戒を聞いて、くるりと周囲を見やる。

 

「さて……そろそろか?」

 

 前方には山の中腹だからか。これまでの道のりとは違い、少々拓けたなだらかな場所が見える。

 待ち伏せ、あるいは一行を待ち受けるにはお誂え向きの場所と言えるだろう。

 用心しいしい、歩みを進めて──

 

「……うそっ」

 

 小さな驚愕を耳にして、スィンはその方角に取り出した譜銃を向けた。間髪入れず、発砲する。

 残念なことに被弾はしなかったものの、潜んでいた小さな影を焙りだすことには成功した。

 可愛いとはちょっと言い難いぬいぐるみを片時も手放さず、珍しく『お友達』は伴っていない──

 

「アリエッタ!」

「……やはり勘付かれていたか」

 

 再び少女を狙撃せんとして、横合いからリグレットの姿を認める。

 その銃口がガイへ向けられているのを見て肝が冷えるも、彼は見事なバク転で凶弾から逃れた。

 しかし。

 

「ナタリア!」

「きゃっ!」

 

 咄嗟に彼女の腕を掴んでその場を立ち退けば、追い立てるように衝撃波が駆け抜けた。

 放った張本人らしいラルゴは、周囲に紛れるような色のシートを投げ捨てて得物を肩に担いでいる。

 あんな黒塗れの巨体を何処に隠していたのかと思えば、カモフラージュしていたらしい。

 

「──総力戦だね」

 

 アッシュはとうの昔に離脱し、シンクは地核へ落ちて行方不明、ディストは先程マルクト軍に突き出した。

 後は彼らを排除すれば、残るはヴァンただ一人。

 彼らにしてみれば後がない戦いだ。さぞかし焦っているだろうと思いきや。

 

「シア……本当、だったなんて」

「……その胆力には、敬意を払おう」

 

 アリエッタはイオンをちらちらみながら、目を白黒させている。

 ラルゴはどこか呆れたように首を振っているし、リグレットに至っては言葉もないようだ。

 そして三者は一様にして、スィンに視線を集中させている。一同は当たり前のように怪しんだ。

 

「どういうことですの?」

「何を言ってるんだ」

「あれは僕宛てだよ、ルーク」

 

 心当たりはある。考えてみればディストが知っていたのだ。

 彼らが知っていても不思議はない。そうなると、気になるのは。

 

「ヴァンも、このことを?」

「総長は……」

「話せるわけがなかろう、このようなこと!」

「知らずともよいこと、だ。口止めさせてある」

 

 言いかけて押し黙るアリエッタ。言葉を荒げるリグレット、片手で彼女を制しながら淡々と返すラルゴ。

 その返事に胸を撫で下ろして、訝しげな視線を寄越す一同には苦笑いを浮かべて見せる。

 

「ふっくらしたことかな。幸せ太りかって」

 

 もちろんこれで、全員が納得したわけではない。

 しかし、悠長に言い訳を募らせている場合でもない。

 

「何をしゃあしゃあと! よくもそんな体で、ここまで来れたものだな」

「よく僕の前に顔出せたね。しゃあしゃあしてるのはそっち。僕も、その胆力には違う意味で感心しとくね」

 

 ぐぐっ、とリグレットの眉が見る間につり上がった。いきなり発砲されることを覚悟しての挑発だったが、何もない。

 何か企んでいることは明白だ。だからこそ、リグレットからだけでも平静は奪っておかなくては。

 

「き、貴様の口車になど──」

「いーのかなあ? 教え子の前で本性さらけ出しちゃって。あっ、ちなみに泥棒猫のくだりは話してないよ。蜂の巣はいやだから」

 

 それを聞いても、リグレットの表情は揺らがない。

 しかし悲しいかな、ホッとしたように息をついたことをスィンは見逃さなかった。

 さあ、ここが落とし所だ。

 

「代わりに、負け犬のくだり、話しちゃっていい?」

「ま、負け犬?」

「そう。リグレットったらねえ……」

 

 ついに銃声が木霊する。構える双銃はスィンを狙っていたはずだが、照準が狂ったのか。

 放たれた譜弾は彼女の脇を通り過ぎた。

 

「リグレット、落ちつけ。ブリュンヒルドの言葉に耳を傾けるな」

「わかっている!」

「わかってはいるんだ。大変だねえ。頭と気持ちがバラバラだから、全然集中できないんだ。とっても好都合だけど」

 

 イラついたリグレットの怒声が叩きつけられるも、今更である。スィンが怯むことはなかった。

 

「黙れ女狐!」

「黙らない。無闇に大声出すと雪崩呼ぶよ」

 

 彼らの挙動に注意を払いながらも、アリエッタがいる場所を見やる。彼女はアニスに退避を促されたイオンへと話しかけていた。

 今のところ、三人の内誰も何かを仕掛けてくる気配はない。

 奇襲を考えていてその目論みが潰されたのだ。アリエッタだけならまだしも、ラルゴやリグレットが代替え案もなくただ待ち伏せしていたなど考えにくい。

 それがわからない以上無闇に仕掛けるわけにもいかないだろう──

 

『やれやれ。このようなことをしておる場合か?』

 

 その勘繰りは他の仲間達とて同じこと。

 一触即発の空気が破られるよりも早く、再びスィンはセルシウスの声を聞いた。

 

『あの、今忙しいんですが』

『存じておる。妾が手伝(てつど)うてやろう。速やかに用事を済ませるがよい』

 

 声が聞こえるやいなや、唐突に地響きが足の裏に伝わる。

 地鳴りにも似た、大量の雪が滑る音を聞いて、当たり前だが一同は浮足立った。

 

「しまった! 雪崩が……」

「譜歌を……!」

「駄目だ、間に合わない!」

 

 真白の端切れが視界に入ったかと思うと、それはあっという間に眼の前を覆い尽くした。

 そのまま崖下へ連れて行かれる──かと思いきや。

 轟音は唐突にやみ、体の自由もきく。

 雪崩に呑みこまれたはずなのに何の影響もない体を起こして見回せば、狭い足場に折り重なるようにして一同の姿があった。

 

『せ、セルシウス。まさか……』

『雪崩を思いのままに操るなど、妾には朝飯前じゃ。仲間らは無事、敵は退けた。なんぞ文句があるのかえ?』

『いえあの、他の人間達はどうしました? あなた方は命に手出しすることを嫌っていたはずでは』

『殺してはおらぬ。ほれ、そんなことよりこれを探しておったのじゃろ?』

 

 セルシウスの声に導かれるように見やれば、足場のすぐ先に硝子に似た物質で構築された扉らしいものが存在している。

 壁面に張りつくような形であることもさながら、以前訪れた調査隊もこれでは見つからなかったのも無理はない。

 セルシウスの声が遠のく頃、仲間達は意識を取り戻していた。

 

「ガイラルディア様、ご無事ですか?」

「ああ……まさかリグレットが怒鳴っただけで雪崩が起こるとはな」

「──銃声が原因かなと僕は思っています」

 

 すごい濡れ衣だが、訂正するわけにもいかない。そういうことにしておいてもらおう。

 やがて、なかなか眼を覚まさないルークをジェイドが起こしにかかった。

 

「ルーク! しっかりしなさい!」

「助かったのか……?」

 

 軽く身じろぎをして起き上がったルークが、周囲を見回しながらそれを尋ねる。

 夕日色の頭に乗った雪を払ってやりながら、ガイが答えた。

 

「俺たちのいた場所はちょうど真下に足場があったんだ。それでなんとか……」

「ってことは、六神将の三人は……」

「アリエッタたちは、谷に落ちちゃったみたい……」

 

 この場所付近にいないということは、そう考えるのが自然である。

 言いにくそうにそれを告げるアニスの視線は、彼らが見当たらないことを知ってから沈んだ表情を浮かべるティアへと寄せられていた。

 その視線に気づいた少女が、軽く首を振って見せる。

 

「……大丈夫。どちらにしても教官は倒さなければならない敵だったんだし。それより見て。パッセージリングの入り口があるわ」

 

 その話題から逃れるように示された扉を見て、ルークが目を丸くしていた。

 

「ホントだ! こんなところに……」

「ある意味、雪崩に巻き込まれて幸いだったということですか」

「」

 

 巻き込まれたというか、巻き込んだというか。焦れたセルシウスが仕組んだことなのだが、それを語るわけにはいかない。

 沈黙が金と、黙って事の成り行きを見守るスィンが望んだ通り、どうにか無事だったイオンが進み出た。

 

「では、ここを解放しますね」

「イオン様、今の雪崩でお体が……」

「大丈夫。任せてください。ここで最後ですから」

 

 そう。ここで、ダアト式封咒の張られた扉は最後となるはずだ。

 もう彼に……扉を開く度に命を削るイオンに、負担がかかることはなくなるはず。

 雪をかきわけての登山は大変だっただろうに、彼は淀みなく術を発動させた。

 扉は開き、その代償として華奢な体が崩れ落ちる。

 

「イオン様!」

「……大丈夫。あと少しですから」

「……わかった。行こう」

 

 雪の山の只中で休む──立ち止まるよりは、パッセージリングが収められた内部に入った方がいいだろうと、一同は歩みを再開した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百三十四唱——垣間見えるは策略、愛しい人は今

 

 

 

 

 

 

 

 

「スィン。どうかしたのか?」

 

 それをガイから尋ねられたのは、ダアト式封咒の扉をくぐってしばらくしてのことだった。

 あれから変わらず一行のしんがりを歩み、特別何かしたわけでもない。

 その意図を尋ねると、彼は軽く頭をかいた。

 

「いや、さっきから……雪崩の後からずーっと黙りこくってるから、どうかしたのかと思ってな」

「どうもいたしませんよ。ただ」

 

 変な胸騒ぎがするだけで。

 続く言葉を、スィンはどうにか呑みこんだ。

 それを告げたところで、どうなるだろう。

 スィンが抱える言い知れない不安が伝染するかもしれないのだ。

 

「ただ?」

「お腹が空いて、無駄口叩く元気があんまりないくらいですかね」

 

 最近大食らいになった事実を基にそれらしいことをほざけば、彼のみならず彼らはそれを信じてくれた。

 

「お腹空いたってお前、子供じゃないんだから……」

「そう言われると思ったから、何にも言わなかったんですよ?」

「でも、スィン。本当に食べる量が増えましたわね。体に変調はありませんの? あまり太っているようにも見えませんし……」

 

 そんなことはない、体重が増加していると返答しておく。

 病気の前兆かと心配するナタリアに対して、アニスは意地悪だった。

 

「お腹に虫でもいるんじゃないのー?」

 

 そしてニアピンだから困る。

 無論虫ではないが、こんな戯れ言をまともに受け取るのは馬鹿正直のすることだ。

 

「遅れてやってきた成長期とか、一時的なものだと思うけど」

 

 否、間違いなく一時的なものだが、断言するわけにはいかない。

 思いのほか長引いた話題に終止符を打つべく、スィンは誰もが嫌がるだろう要素を口にした。

 

「あんまり長引くようなら虫下し飲まないといけないかもだね。あ、でも、寄生虫がいるときってやっぱり下から出てくるのかな?」

「スィン……その話はいいよ、もう……」

 

 自分で振ったくせに嫌そうにアニスが顔を歪めたため、口を閉じておく。

 描かれた螺旋を下るように進んだ先。ついに一同は、遺跡の最奥たるパッセージリングを目の当たりにした。

 まずは起動を促すべく、制御盤の眼前へと歩み寄る。

 残るはアブソーブゲートとラジエイトゲートの二か所。

 あとたった二回、パッセージリングの起動に耐えることができれば勝ち、だ。

 起動に伴い、汚染された第七音素(セブンスフォニム)が強制的に体へ取りこまれる。

 体にかかる負担に耐えるべく、そしてそれを悟られないために歯を食いしばり──

 

「……?」

 

 いつまでもあの受け入れ難い感覚がこないことに気付いて、不審に思う。

 歯を食いしばるにあたり閉ざしていた瞳をそろそろと開くと。

 

「!」

 

 視界が、一変していた。

 眼前にあったはずのパッセージリング制御盤に、誰かが立っている。

 その背中が誰のものなのかに気付いて、スィンは戦慄した。

 白を基調とした外套に、頭頂部でまとめられた蓬髪が揺れている──

 

「……ヴァン」

 

 スィンの呟きを、彼が聞きつけた気配はない。

 一体どうしていきなりヴァンが現れたのか。

 さぞかし驚いているだろう一同に振り返って、呆然とした。

 それまで後ろに控えていたはずの誰もが、いない。

 よくよく見回せばこの場所まで至る道が消えており、据えられたパッセージリングだけが同じの別の空間に成り代わっていた。

 呟きが音にならなかった先程を思い出す。

 これは、スィンの意識だけがヴァンのいるアブソーブゲート──正確にはパッセージリングが起動されている場所へ飛んでしまったのか。

 ヴァンと思わしき人物はパッセージリングを仰いだまま、身動きひとつしない。

 ふと、耳元で声がした。

 

「さあ、ルーク。あとは全てのセフィロトをアブソーブとラジエイトのゲートへ連結して下さい」

「わかった」

 

 ロニール雪山のパッセージリングが起動しているためか、ジェイドがルークに指示する声が聞こえてくる。

 それに伴い、眼前のパッセージリングにも変調が訪れた。

 

「来たな」

 

 展開された各地のパッセージリングを模した図式が、発光する。

 ルークの超振動によって強引な操作がなされた直後。

 それを確認したらしいヴァンが、操作盤に手を伸ばした。

 その操作が何をしているものなのか、その場から動けないスィンには伺い知れない。

 しかし、猛烈に嫌な予感が全身を駆け巡る。

 早く止めなければならないのに、成す術がない──

 

「よし。でき……」

「ルーク、駄目! 手を止めて!」

 

 ようやく言葉が声として出た。

 同時に、体が鉛と化したかのように重くなり、その場にべしゃっ、とへたりこむ。

 その瞬間。

 操作されたパッセージリングが、極めて正確に、命令通りに稼働を始めた。

 その余波なのか、大地に属さないはずの足元が鳴動を始めた。

 予想もしていなかった事態に、仲間達は浮足立つ。

 

「何ですの!?」

「まさか、俺、しくじったのか!?」

「……やられた……」

 

 崩れ落ちた体を支えてくれた手に礼を言って、ふらつく足で制御盤に近寄る。

 どうしてあのとき、意識だけがヴァンの元へ飛んだのかはわからない。

 その原因を考える暇もなく、制御盤を通じて現在のパッセージリングの状況を探りにかかると。

 

「どうしたの? 何が起きたの?」

「アブソーブゲートのセフィロトから、記憶粒子(セルパーティクル)が逆流してる。連結した全セフィロトの力を利用して、地核を活性化させてる……ね」

「そんなことができるのは、パッセージリングを操作できる奴だけ……」

 

 呆然としたようなスィンの声を受けて、ガイもまた制御盤を見つめた。

 今の状況でそれを可能とするのは、たった一人しかいない。

 

「兄さん……でもどうして! 記憶粒子(セルパーティクル)を逆流させたら、兄さんのいるアブソーブゲートも逆転して、ゲートのあるツフト諸島ごと崩落するわ!」

「……違うよ、ティア。今は……」

「私たちによって、各地のセフィロトがアブソーブゲートに流入しています。その余剰を使ってセフィロトを逆流させているのでしょう。むしろ落ちるなら、アブソーブゲート以外の大陸だ」

 

 あちらにしてみれば起死回生の一手だ。

 こちらにしてみれば、見事足をすくわれたといったところか。

 

「冗談じゃないぞ!」

「ねえ、地核はタルタロスで振動を中和してるんでしょ。活性化なんてしたら……」

「タルタロスが壊れますわ!」

 

 そして、世界には瘴気が溢れだすと。たまったものではない。

 戦艦であったタルタロスが早々に壊れるとも思えないが、それでもあまり猶予はないだろう。

 となれば、やることはこれしかない。

 

「くそっ! 師匠を止めないと!」

「総長を止める前に、イオン様を街で休ませるのも忘れないでよ」

 

 はやるルークにアニスが釘を刺す。

 その気持ちは痛いほどわかるのだろう。それでも体がついていかないイオンは、小さくうなだれた。

 

「……すみません……」

「謝るなって。大体、イオンは体を張って俺たちを助けてくれた。ちゃんと休ませるべきなのは、ルークだってわかってるだろ?」

「ああ。ごめんなイオン。もう少し辛抱してくれ」

「はい……お願いします」

 

 焦る気持ちは皆同じ。

 それでも消耗の激しいイオンを男性陣が代わる代わる運び、下山を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロニール雪山を出て、麓。

 ふと、歩みを止めてティアが下山してきたその場所を振り返った。

 どこか口惜しささえ滲ませた声音で、呟く。

 

「……わからないわ。教官もみんなも、どうして兄さんの馬鹿な理想を信じるの」

 

 人それぞれ思うことが違うからこそ、争いは起こるものなのだが。それがわかっていても、尚納得のいかないことなのだろう。

 答えなどあるはずもないが。彼女の気持ちに寄り添うように、ガイは口を開いた。

 

「それぞれに思惑があるんだろう。俺にはわかる気がする」

「ガイ……どうしてですの……」

 

 ナタリアの声音は疑問のみならず、どこかしら恐れも含んでいた。

 彼の背景を鑑みればどことなく想像できたからだろうか。

 復讐を遂げることなく、一同と──ルークと行動を共にする主の言葉は重かった。

 

「俺はずっと、公爵たちに復讐する為、ヴァンと協力する約束をしていた。どこかで違う道を選んでいたら、俺は六神将側にいたかもしれない」

「ガイ……ヴァン師匠の目指す世界の姿を知ってもか」

 

 現存する全人類を滅ぼし、大地さえもよく似た別物に取り替えんとする、常軌を逸した計画。

 それでも見方を変えれば、受け入れ難くはなくなる。

 実際彼らは、見方を歪めたそちらを見据えているから。

 

「それでホドが復活するなら……例えレプリカでも……仲間や家族が復活するなら、それもいい」

「ガイ!」

「……と、考えたかもしれない。今だって、正直何が正しいのかはわからないさ」

 

 ガイなりに、もしヴァンに協力していたらどのように感じていただろうか、想像したことがあるのだろう。

 ただ彼は、そうとは考えなかったから今ここにいる。

 それがわからぬルークではなかった。

 

「……そうだよな……故郷を失ったんだったな」

「六神将はそれぞれ、この世界を消滅させてまで、叶えたい思いがある。それがヴァンの理想と一致しているのでしょう」

被験者(オリジナル)を生かす世界と殺す世界。とても近くて遠いわね……」

 

 押し殺すように零したティアの呟きは、ひとひらの雪を載せた山颪にさらわれて消えた。

 

 

 

 

 

 

 



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第百三十五唱——決戦前夜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ケテルブルクへと帰還したその足で、スィンは街はずれに訪れていた。

 アブソーブゲートへ向かう前にこっそり抜け出してきた……わけではない。

 ロニール雪山よりケテルブルクに帰還した一同を出迎えたのは、珍しく顔を曇らせたノエルの姿だった。

 

「皆さん、お待ちしていました」

「ノエル! どうしたんだ?」

「……実はこの寒さで、アルビオールの浮力機関が凍りついてしまったんです」

「ええ~!?」

 

 浮力機関が眠っていたのはメジオラ高原にある遺跡だ。発掘した場所を考えれば、寒冷地に耐える仕様のはずもない。

 アルビオールに搭載中も、以前確認した限りでは対策らしい対策はなかった。当然のトラブルとも言える。

 ここへ至る経緯が経緯だったから、まったく考えつかなかったが。

 

「今、ネフリーさんの協力で修理をしていますが、一晩はかかってしまうかと……」

「そうか……イオンを休ませたらすぐにでも出発しようと思ってたけど……」

 

 それはそれで無茶な話であるが、事態はそこはかとなく一刻を争う。

 とにかく、そういうことなら思考を柔軟に切り替えなければならない。

 

「無理なものは仕方ないさ」

「そうよ。この時間を利用して、明日の準備を整えましょう」

 

 ガイがそれを促し、ティアもまた準備という形でモチベーションを下げないよう提案した。

 その場で話し合った結果。

 各々必要な準備も気構えもあるだろうということで、ここからは個別行動と相成った。

 

「疲れたら、各自で宿へ向かいましょう。それでは」

 

 ジェイドの一言を最後に、スィンはまずこの場所へと訪れていた。墓標に積もった雪を払い、消耗品補充のついでに購入したケテルブルクの地酒を供えて。

 本当はこの場所に撒こうとしていたのだが、彼女が酒類を好んで嗜んでいたかどうかは知らない。

 ディストは知らないと言っていたし、彼が知らないということはジェイドも知らないだろうと勝手に決め付けた結果である。

 ゲルダ・ネビリムその人について尋ねるのは、古傷をえぐることになるから、気を使っているわけではない。尋ねたところで苦しくなったり悲しくなったりするのはスィンだけで、それでいさかいの種になってもつまらないと思ったからだ。

 

「ね。驚いた? 僕は明日、あなたの愛弟子と一緒に、僕の愛しい人を殺しに行く。人生って、何があるかわかんないよねえ」

 

 彼女が失われたその場所に視線を留めて、本日してきたこと、明日成そうとしている事柄を、ひたすらつらつらと語っている。

 街はずれだけあって人目はないが、時折通りかかる地元民の視線は冷たい。

 気づいていても気にする気のないスィンはふと、言葉を切った。

 

「……あなたのところへはいかないし、いけない。もうちょっとだけ、先になる。今までの行いが行いだから、同じところへいけるとは限らない、けど」

 

 弾かれたように立ちあがり、尻についた雪を払う。

 ちらっと振り返った先には、見慣れた金髪がちらつく雪の向こう側に見えた。

 

「ガイ様」

「ここにいたのか。宿にはいないし、思わず街中探して回っちまったぜ」

「それは、お手数おかけしました」

 

 快活な笑顔を前に、内心で胸を撫で下ろす。

 この様子、彼女への語りかけは聞いていない模様──

 

「んで、誰と話してた?」

 

 と、考えたのは甘かったようだ。

 彼はしっかりとスィンの奇行を目にしていたようで、彼女を見つめるその目は半眼になっている。

 

「……報告、してました。母に」

「墓はないのか?」

「共同墓地にあります。ちゃんと整えてきましたよ。僕にとってはあの場所より、ここで話したかったんです」

 

 彼女が息絶え、彼女に関するありとあらゆるものが失われたこの場所で。

 言葉にこそしなかったが、ガイがそのことに言及してくることはなかった。

 

「そっか。邪魔しちまったか?」

 

 たとえそうだったとしても、ここで、はい、邪魔です、と答える従者はいない。

 首を振って否定を示す。

 

「問題ありません。ガイ様、如何なさいましたか?」

 

 彼とて、伊達や酔狂で街中を巡ったわけではない。探し当てたスィンからそれを問われて、彼は軽く頭をかいた。

 

「ああ……それ、なんだが」

 

 その口調はどこか重たく、切り出そうとしている話があまり愉快なものでないことが伺える。

 だからこそ、スィンは黙して彼からの言葉を待った。

 やがて彼から発せられたのは。

 

「あの……さ。従者、やめないか」

 

 ──伊達や酔狂で言いだしたことでないのは、重々承知。

 しかしこの言葉に──これまでスィンが全てを捨てて選んできたその道を否定するその言葉を。

 ただ頷くことはできなかった。

 

「ガイ様、それは」

「お前はずっと、よくやってくれた。ナイマッハの人間としての責務を果たしてくれたと思う。だから」

「ガイ様」

「聞いてくれ。もう何も知らなかった頃には戻れない。設定じゃなくて、俺達は本当に腹違いの姉弟なんだから」

 

 一度は、頷いてくれたことだった。

 血のつながりがなくても親子でいられるように、血のつながりがあっても主従のままで、今まで通り在ることができると。

 そう思っていたのはスィンだけで、彼はずっと疎ましく思っていたのだろうか。

 自分の姉でありながら自分につき従い、かしずいてきたスィンを。

 

「姉上には、家来のように……俺の従者として振る舞ってほしくない。お互い、すぐに意識を変えるのは難しいと思う。でも俺は、姉上にはガルディオス家の人間として」

「やめて! 私はガルディオス家の人間じゃありません! 旦那様の血がこの体に流れていたとしても、たとえあなたに認められたとしても! 半分だけなんですよ、扱いとしては妾の子! そんな人間を迎え入れるなんて、あなたは笑い者になりたいのですか!」

「……そんなもの、他言しなければいい話だ。貴族に返り咲くならそりゃ、面子も面目も重んじることを強いられる。でもな、俺にとってそれは、家族をないがしろにしてまですることじゃないんだよ!」

「ガイ様……」

 

 家族という言葉が、じくりと胸に痛みをもたらす。

 スィンにとってのガイは、家族を……夫を切り捨てて選んだ主だ。対等であり尊重し合える家族とは、存在の次元が違う。

 その主を、家族として扱えというのか。スィンが切り捨てた、切り捨てることのできる、家族に。

 がんがんと、頭が痛む。

 まるで、頭の中で銅鑼を鳴らされているような感覚だった。

 

「……この戦いが、終わるまでは」

「?」

「ヴァンを討つその時までは、このままで、いさせてください。それはナイマッハの名を捨てること、ガルディオス家左の騎士としての立場を捨てることと同義なのです。おじいちゃんにも、ちゃんと報告してから、に」

 

 立っていることすら難しかった頭痛が、唐突に失せる。

 これが何を意味するのか、今は誰にもわからない。

 

「……じゃあ、敬語をなくすことから始めようぜ」

「おねえちゃんに命令すんな、ガイ」

 

 このような形でよろしいでしょうか、と殊更丁寧に伺いを立てる。

 鳩が豆鉄砲を食らったような、呆気に取られていたガイだったが、不意にくしゃりと破顔した。

 

「……なんか、腹立つかな。これはこれで」

「口調そのものでしたら、切り替えはいつでも容易です。僕があなたの姉として振る舞うその時までは、従者でいさせてください」

 

 気取ったように胸を張ってかしこまる姿が滑稽だったのか。彼は呆れたようにため息をついていた。

 そんな時は訪れない。

 彼の姉として振る舞う日など、永遠に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宿に戻ろうと促すガイに、寄るところがあるから、と丁重に辞退し。

 向かったのは、アルビオール……ノエルのところだった。

 

「お疲れ様ー。よかったら、一息どう?」

「あ、ありがとうございます!」

 

 地理的には豪雪吹きすさぶ辺鄙な場所でありながら、貴族御用達の観光地だけあって、手土産には事欠かない。適当に見繕った肉まんを渡して、一息入れさせる。

 ネフリーに貸してもらったという街外れの倉庫内はだだっ広く、そこかしこの音素灯で作業に支障こそない。

 しかし、その広さが災いして動いているはずの空調機は効きが悪く、肉まんを受け取ったノエルは顔をほころばせながら「あったかい……」と染みいるように呟いている。

 凍結してしまったという浮遊機関は、彼女の尽力によってどうにか元の姿を取り戻しつつあった。

 作業に夢中で休憩どころか食事も摂り忘れていた、と笑いながら肉まんをほおばるノエルに、自分用に買ってきたみそおでんも渡し、お腹を満たしてもらったところで持参したコーヒーも出す。

 自分も一緒に水筒のコーヒーをすすりながら、スィンは話を切り出した。

 

「ノエルー」

「なんでしょうか」

「ごめんね。本当はルークに来させようと思ってたんだけど、ちょっと捕まらなくて。せっかく二人きりにできると思ったのに」

「!!」

 

 それを口にした途端、彼女は口に含んでいたコーヒーを吹き出した。

 

「な、んっ」

 

 げほげほと咳きこみながら、涙目で何かを訴えるノエルの背をさすって落ち着くのを待つ。

 ふうふう、とどうにか息を整えた彼女は、盛大な抗議を始めた。

 

「な、なんのことですか! 私、そんな大それたこと……」

「バレバレだからさ」

 

 口で何を抜かそうとも、今のリアクションだけで語るに落ちるどころの話ではない。

 それを指摘すれば、自分でもわかっていたようで。年若き操縦士はがっくりと肩を落とした。

 

「……そんなに、わかりやすいですか?」

「少なくとも今の反応は。本人はまるで気付いてないし、僕が見る限りではアニスやガイ様くらいしか、知らないと思うけど」

 

 頬を赤く染めたまま、ノエルはコーヒーのカップを覗きこんでいる。

 そのままぽつりと、呟いた。

 

「ティアさんは、知らないんですね」

「気づいた風ではないね。知ってたら、もう少し態度に出てるだろうし」

 

 理想の兵士として、常に冷静であるべきと自分に課しているティアだが、それを理想とするだけあって、ボロが出る時は盛大に出る。その上で、今は事態が事態だから色恋沙汰に気を回す余裕はないとみた。

 スィンの分析を聞いて、ノエルはほぅ、と安堵のため息を零している。

 しかし、すぐに首を振った。

 

「ダメですね、私。こんな大事な時に、自分だけ勝手なことばかり考えて……ルークさんはお師匠様と、ティアさんは実のお兄さんと戦わなくてはならなくて、苦しんでいるのに」

 

 その瞬間、ノエルは何故か、はっ、と息をのみ、自分の口を押さえてしまった。

 またコーヒーで噎せそうになったのだろうか。

 ただ、咳きこむ気配はない。気にしないで進めることにする。

 

「僕としてはこんなときだからこそ、自分勝手になってほしいんだけどな」

「ど、どうしてですか」

「帰ってこないかもしれないんだよ。明日」

 

 びくっ、とノエルの体が震えた。

 思わずといった調子で立ち上がり、悲鳴にも似た批難をぶつけてくる。

 赤かった頬は、随分青くなっていた。

 

「嫌なこと言わないでください!」

「ルークに限っての話じゃないよ。僕達が負けたら、誰も帰ってこないし、世界もそこでおしまい。その時になって何もしなかったこと、後悔しないでいられる?」

「それは……」

「僕だって、他の誰に聞いたって、勝って帰ってくるつもりだと思うよ。でも、世の中に絶対はない。だから」

 

 取り出した鍵をノエルに握らせる。

 鍵本体に鎖で繋いだ棒状──透明な水晶には、ケテルブルクホテルの銘と部屋の番号が特殊加工で浮かび上がっていた。

 

「え?」

「今日はそっちで休むといいよ。本来貴族御用達で庶民が利用できるわけもない、あのケテルブルクホテル。こんなときでもないと泊まれないよ?」

「でも、私は……」

「何も告白してこいと言ってるわけじゃないからね? したいならすればいいと思うけど、ノエルはルークと付き合いたいとか、そういうのではないみたいだし」

「あ、当たり前です。ルークさんは貴族、それも王族に連なる方ですよ? 身分が違いすぎます……」

「ティアもダアトに所属する一兵士だから、十分身分違いだけどね。それと僕の事情もある」

「スィンさんの、事情?」

「大佐に会いたくない。アニス辺りから、色んなこと聞いてると思うけど」

 

 青かった頬に赤みが差して、空色の瞳に困惑が宿る。

 飲みさしのコーヒーとホテルの鍵を手に棒立ちしていたノエルは、思い出したようにすとんと座りこんだ。

 

「スィンさん、こそ。ジェイドさんと、話をするべきじゃないですか」

「今更改まって話すことなんかないよ。僕は覚えてないけど、大分好き勝手言ったらしいし。話すとしたら戦いが終わって落ち着いてから、これからを話し合う時だね」

 

 最も、そんな時は訪れない。スィンの頭の中で組み立てられた(はかりごと)が無事に通ったとしたら、だが。

 今はそんなことよりも、明日の決戦について思考を巡らせる必要があった。

 ドジ踏んでヴァンに殺られてしまえと全く思わないではないし、自分がドジ踏んだふりして後ろから刺してやりたいと思わなかったわけではない。

 ただしそれは──ジェイドが死ぬということは皇帝から少なからぬ不興を買うことになり、ガイにとっても不利に繋がる。そして単純に、ガイはそのことを喜ばないだろう。

 そんな邪念を払うためにも、今夜は明日の決戦のことだけを考えていたかった。

 何せヴァンには、どうしても伝えなければならないことが──出来れば一同に知られずに──あるのだから。

 立ち上がり、ただいま解凍中の浮力機関を見やる。

 一度凍りついた影響なのか、ぼんやりと浮かび上がっていた譜は見えず、その機能は完全に停止しているように見えた。

 

「今は譜業で発生させた熱にあてがっての解凍作業中です。済み次第起動を確認し、接続しますから、やっぱり私がここを離れるわけには」

「イフリート、お願いします」

『承知した』

 

 イフリート──第五音素意識集合体に命じて解凍してもらう。

 瞬く間にぼんやりと浮かび上がった譜を見て、ノエルはその頭上に「!」を浮かべた。

 

「まだしばらくはかかるはずなのに……!」

「ごめんね。慣れない登山のすぐ後に動くのは危険だと思って、黙ってたんだ」

 

 実際のところ、ノエルの報告を聞いた時点で可能だったことではある。

 とはいえ意識集合体の力を借りなければできることでもないし、凍結した浮力機関を一瞬で解凍するなど、ジェイドが聞いたら間違いなく怪しむだろう。

 隠しきるつもりだった秘密の数々を垂れ流してしまった身として、これ以上の暴露は避けたい。

 その上で、雪山登山によりスィン自身疲労が溜まっていて、それは他の面子も同じだと判断しての選択だった。

 何ともいえない顔をしているノエルを尻目に、そのままアルビオールの内臓部に納める。

 極めて手早く接続したその箇所を彼女に確認してもらい、何も問題ないことを確かめて。

 

「さあ、これでノエルのお仕事もおしまい。皆に何か聞かれたら、後は試験飛行だけど夜間は迷惑だからとでも言っとけば」

「豪雪地帯の夜間飛行は危険なので、どのみち無理な話ですけど……本当にいいんですか?」

「僕、前に一回泊まったことあるしー」

 

 遠慮しまくるノエルの背中を物理的に押して、結局ケテルブルクホテルの付近まで至る。

 ジェイドがいないかを警戒しつつ、ノエルが振り返りながらもホテルに入ったことを確かめて。スィンは足早にその場から立ち去っていた。

 

『アッシュ。ケテルブルク付近にいますね?』

『……あんたか……その通りだが、何故わかった』

『チャネリングであなたの視界を借りました。公園にいますので、ご足労願います』

『待て、ここからじゃ大分かかっ……』

 

 ぷつりと、一方的に通信を打ち切る。

 一方的に呼びつけられて、間違いなく彼は立腹するだろう。

 しかし最早、彼の機嫌を取る必要もなくなる。

 これを、これより命じることを感情で突っぱねたなら、世界は崩壊の一途を辿るのだから。

 

 

 

 

 

 

 



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第百三十六唱——決戦前朝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間がかかる、と言っていただけあって。アッシュが姿を見せたのは、深夜を過ぎてからのことだった。

 月明かりを受けて輝く銀世界から浮かび上がるような漆黒の装束。その姿は離脱したに等しい組織──神託の盾(オラクル)騎士団に所属していた頃と変わりなく、身を切るように冷たい風は、ルビーを溶かし込んだような色の髪をさらさらと梳る。

 引き締まった、どこまでも怜悧な視線を受けて、それまで公園のベンチに深く腰かけていたスィンは緩慢に立ちあがった。

 

「アブソーブゲートへ行くんだな」

 

 一方的に呼びつけられたにも関わらず、アッシュの声音はいつもの通りだった。

 感情を意図的に抑えているのか、あるいは怒るだけ馬鹿らしいと思っているのか。

 

「アルビオールの調整が済み次第。あなたは……」

「ラジエイトゲートへ行く。ヴァンがやらかして、いつ外殻が落ちてもおかしくないんだろう。あそこはもう導師の手によって封印が解除されている。操作も、超振動で何とかなるはずだ」

 

 思いもよらないアッシュの言葉に、思わずきょとんと目をしばたかせる。

 意表を突かれた。その感情は、そのまま顔にも出ていたようで。

 

「……なんだ。その顔は」

「ここにいるということは、アブソーブゲートに先行するつもりかと思っていたのですが。そこまで御存知ならば話は早い」

 

 七割方スィンのせいで、少なくとも今晩は動けない一同を尻目に、突撃する気だとばかり思っていた。

 説得するべきか、力づくで止めるべきか──大切な臓器を傷つけないよう刺せば、いくらなんでも断念するだろうと。まさかナタリアに泣きつきはしないだろうと考えていたのは、時間の無駄だったようである。

 あまりに情報通なのは、おそらくチャネリングでこっそりルークの五感を借りて、本日の出来事を把握していたから、だと思われた。

 今更確かめるようなことはしなかったが。

 

「ヴァンを排除した後は、速やかに残る大地の降下作業に入るでしょう。ラジエイトゲートに向かって、ルークの補佐をしてください」

「ふん。言われるまでもねえ」

 

 用件はそれだけかと言いたげに、アッシュはぷいと背中を向けた。

 この背中も、見納め。必要な事柄は話した。

 あとは野となれ山となれ、彼が立ち去るのを見送ればいいだけなのに。

 

「ええ……これで、最後ですから」

「最後? 何がだ」

「あなたに拒否権のない協力要請をするのが、です。事態が収拾したならもう、お会いすることもないでしょう」

 

 蛇足が、溢れる。

 黙っていればそのまま思い出に──彼にとってはさっさと忘れるべき事項となるはずなのに。

 かける必要もない言葉は、留まることを知らなかった。

 最後だから。

 この事実がスィンの理性を落とし穴にでも突き落として、穴を塞いでしまったのだろう。

 意味深な言葉を耳にして、当然アッシュは反応した。

 

「どういう意味だ」

「意味? そのままです。勘繰るようなことなんて、何も」

「とぼけんな! あんた今日はおかしいぞ。心ここにあらずっていうか……」

「私が意味不明なのは今に始まったことじゃないです。あなたに理解してほしいわけでもなし」

「はぐらかすんじゃねえ!」

 

 追及するアッシュ、逃れにかかるスィン。

 時刻は深夜を過ぎて明け方にさしかかる。

 それゆえに人の目を気にせずにすむのは、大変ありがたいことだった。

 時間帯が時間帯なら、公園で見慣れぬ男女が激しく口論していると通報されている頃だろう。

 

「隠し事しないんじゃなかったのかよ!」

「……嘘はつかない、となら言いました」

「何か隠してるってことか。語るに落ちたな」

 

 ずいずいと迫るアッシュを視界から追い出して、どうしようかなあと内心でひとりごちる。

 がなる青年をぼんやり見つめていると、ふと彼は言葉を切った。

 聞いている様子もないスィンを前に空しさを覚えたのかもしれないし、単なる息継ぎかもしれない。

 言葉が途切れたところで、これ幸いと尋ねる。

 

「ねえ、アッシュ」

「なんだ?」

「僕のことキライ?」

「……はあ?」

 

 返事というよりは気の抜けた、呆けた吐息に近かった。

 

「な、何を言ってんだよ」

「ただいま絶賛意味不明中ですからね~」

 

 怒らせて、呆れさせて、帰す。

 要らない口を叩いて引きとめるようなことをしてしまった以上、逃げるのは最終手段だ。

 アッシュの背中がこれで見納めだと思うと、自ら立ち去る気にもならなかった。

 

「なんなんだよ、ったく……」

 

 これより責任重大の大仕事を行う彼をあまり刺激したくなかったが、そろそろ無理にでも帰さなければ明日に響くだろう。

 いや、今日か。

 

「ところで、どうやってここケテルブルクに? ラジエイトゲートに行くとわかっていながら、定期船で来たわけではありませんよね」

「あ? ああ、シェリダンでアルビオール三号機を借り受けた。ギンジ……操縦士もな」

 

 彼が公園へやってきた方角は港から正反対。

 郊外にアルビオール三号機を停泊させているのだろうか。

 

「じゃあ、この辺で。事は一刻を争いますが、何事もなく事が成されることを祈っています」

「何事もなかったようにお別れの挨拶に入ってんじゃねえ。人の質問に……」

「さて。私は今何回「こと」を言ったでしょーか?」

 

 そろそろキレて立ち去ってくれるとありがたいのだが。彼は額に青筋を刻みながらも、怒声を放つことはなかった。

 内心の怒りを押し殺すように、低い声で問いかけにくる。

 

「……そんなに俺に帰ってほしいのか」

「すごい! わかったんですね」

 

 思わず言葉にしてしまい。あ、と今更口に手を当てた。

 その所作で素の反応だと悟ったのだろう。

 青筋を追加させて、アッシュの手が伸びる。

 胸倉ではなくコートの襟を掴み、ひたすら握りしめ始めた。

 もう少し煽ったら、この手はスィンの首を握り始めるだろうか。

 それでもいいかな、と。ほんの少しだけ、思う。

 

「……なんで、帰ってほしいんだ」

「そりゃ勿論。明日の……今日の作業に支障をきたさないため、ですよ。随分冷えてますし」

 

 怒りをこらえてヒクヒクと表情筋が震える。その頬に触れて、その冷たさを改めて知った。

 防寒着をこれでもかと着込んだスィンは問題ないが、彼にこれといって防寒の装備は見当たらない。

 外した手袋をつけ直していると、不意に襟を掴む手がほどけた。

 暖簾に腕押す感覚が空しくて、今度こそ背を向けるかと思えば。

 

「……最後、なんだろ。だったら、俺の質問にくらい答えたって、かまやしねえだろうが」

「え? なんですか? 俯きながらボソボソ言われても聞こえないですよ」

「だから……!」

 

 どうしても引き上げようとしないアッシュに、これでもかとだめ押しをする。

 声を荒げかけた青年は、ぐっと続く言葉を飲みこんだ。

 大きく息をつき、傍のベンチにどかっと座る。

 薄く敷かれた雪のクッションがあるものの、軽く身じろぎをした辺り座り心地はよくなさそうだ。

 

「腰が冷えますよ」

「……何があったんだよ」

 

 堂々巡りの予感がした。最終手段にはしたが……立ち去った方がよさそうだ。

 そんなスィンの内心を察知したのか、不意に腕を伸ばしたアッシュに捕まった。

 その挙動で意図は察したものの、切羽詰まらない限り、機敏に動く気のないスィンには避けられない。

 

「無駄だからな。答えるまで離さねえ。俺も動かないからな」

 

 アッシュが帰らないとなるとこれは問題だ。

 問題は、彼が知りたがっていることを語ってどんな影響があるか、だが。

 

「……アッシュ」

「なんだ。話す気になったのか」

「信頼しています」

 

 アッシュならきっと、大丈夫。これを知っても、必ず成し遂げてくれる! 

 

 ひとつ息をつき、意識している限り発動させていた術を解く。

 借姿形成。己を形成する音素(フォニム)を組み換え、肉体を変異させる秘術。

 スィンの下腹に浮かび上がったひとつの譜陣が宙へ溶けるように消え、本来のかたちとなる。

 

「うっ」

 

 ずしり、と。大切で厄介な重みがかかり、思わず呻きが洩れる。

 その様子にいぶかしむアッシュの腕を引き、下腹に触れさせた。

 

「?」

「あ。動いた」

「!!!!????」

 

 鋭く息をのむ気配、下腹に押し付けた手がびくりと震えた。

 しぃん、と。本来の静寂が、公園を、二人を包む。

 

「ウソです。それは絶対に気のせい。でもこれが、挙動不審の理由です。多分相当情緒不安定になっていると……アッシュ?」

 

 反応がない。

 ちらりとその顔を見やれば、瞳は驚きに見開かれたまま。

 口元がもごもごと何か言いたそうにしているが、言葉らしき音が発せられる気配がない。

 そっと手を離して見守るも、アッシュは石化でもしたかのように固まってしまった。

 

「……早く帰ってこないと、風邪ひくよ」

 

 やはり反応がない。刺激が強すぎたのだろうか。

 しかし場所が場所だ。以前のように放置するわけにはいかない。万が一風邪でも引かれて支障が出たら、目にも当てられない結果が待っている。

 かといえ、今のスィンに彼を運ぶという選択肢はない。

 沈黙し、宙を見つめてまんじりとも動かないアッシュに、羽織っていたショールをかぶせて。

 

「……この戦いが終わったら。私は、ガイ様の前から消えます。最早従者は不要と、お言葉を頂きましたから」

 

 わざと音を立てて、アッシュの隣に座りこむ。

 呆然自失の彼に、反応はない。

 

「私が傍にいたら、ジェイドとのことでガイ様は、ガルディオス家は陛下から不興を買います。すでに首都では根も葉もある噂が蔓延しているようですし、確執は根元から断ち切らなければ」

 

 聞いているのかいないのかもわからないアッシュを横に、つらつらと語る。

 どちらでもよかった。彼が我に返ってくれれば。

 秘してきた胸の内を外へ出すのは、文字通り胸が軽くなったから。

 

「セントビナーが崩落したことで、持病の進行を抑えていた薬も造れなくなりました。セントビナーにそびえていたソイルの木、あの周辺でしか育たない薬草が採れなくなったそうで。あとはもう、病に侵されていくだけ」

 

 びくっ、とアッシュの肩が震えた気がした。

 彼を取り巻く寒気に対抗すべく、その肩にショールを巻きつけるようにして独白を続ける。

 

「座して緩慢な死を迎えるよりは、私は──達と、共に過ごそうと思っています。最期の、そのときまで」

 

 それが批難されるべき最低なことだとは、自覚していた。

 良識ある者はスィンの正気を疑い、行いを責めるだろう。それでも、改める意志はない。

 否、スィン自身。今更それが可能だとは思っていなかった。

 スィンが口を閉ざしたことで、沈黙は再び降り積もる。

 アッシュが、帰ってくる気配はない。

 応援を呼ぶべく、スィンは彼がやってきた方角を見やった。

 

 

 

 

 重畳なことに、三号機は思いのほかケテルブルクに近い場所にあった。

 待機していたギンジに、再会の挨拶もそこそこ、アッシュを回収してくれるように依頼して再び公園に舞い戻る。

 

「アッシュさん!? 一体何が……」

「彼が我に返ったら是非伺ってみてください」

 

 間違いなく全面的にスィンのせいだが、それを話すつもりはない。

 魂が抜けたままギンジの背中に揺られて去りゆくアッシュの背中を、改めて見送る。

 

「……お達者で」

 

 小さな小さな別離の言葉は、誰の耳にも届くことなく、風の音にかき消されて、静かに消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アッシュ達と別れて、しばらくして。

 朝日が完全に上りきった頃、ノエルはやってきた。

 

「おはよ。どうだった?」

「すごかったです……! お部屋は広いし、ベッドはふかふかだし、お風呂が綺麗で、朝食もとても豪華で」

 

 高級ホテル自体は堪能したようで、何よりである。

 ルークにモーションはかけなかったのかと遠回しに尋ねるも、彼女は頬を染めつつ否定した。

 

「私はルークさんを、皆さんを信じています。きっと帰ってきてくれると。だから……焦って何かする必要なんか、ないんです」

「そっか。ノエルがいいなら、それでいいや」

 

 アルビオールを朝日の元に出し、予定通り試験飛行を行う。

 何も問題ないことを確認し、港で出立準備を行うと言うノエルと別れて、スィンは知事邸へと赴いていた。

 

「お早うございますー。倉庫貸与、ありがとうございましたー」

 

 応対に出たネフリーの秘書に預かっていた倉庫の鍵を渡し、導師イオンの所在を訊ねる。そこへ。

 

「おはようございます、スィン」

 

 身支度を整えたらしいイオンが現れ、二人は連れ立って知事邸を後にした。

 道すがら、今朝方ようやく書き終えた封書を投函し、アルビオールの修理が済んだことを報告しておく。すると彼は、何故か得心がいったように頷いた。

 

「なるほど。昨晩はノエルを手伝っていたんですね」

「そうですが、それが何か」

「あなたの姿が見えないと、探していたようだったので」

 

 誰が、と言わないのが彼なりの気遣いだろうか。それに甘えて、軽く流す。

 

「して、体調の方は如何ですか?」

「もう大丈夫です……とはいえど、今日は」

「そですね。大事をとって養生なさってください。ちゃちゃっと用事を済ませて、すぐにお迎えにあがりますよ」

 

 彼には聞こえないように、アニスがね、と付け加える。

 敗れたならば、もう後はない。互いにその条件だけは同じはずの決戦が待ち受けていることは、二人のみならず誰もが承知している。

 その上でスィンは、極めてあっけらかんと言ってのけた。

 どんなに重々しく扱おうと軽々しく扱おうと、行うべき事柄は変わらない。勝利のち、成すべきことを成し、帰還する。これだけだ。

 しかし年若い導師は、その冗長な物言いに笑顔を浮かべることはなかった。

 スィンの顔を思わしげに見つめて、何かを言いかける。

 

「あの、スィ「イオン様ー! スィンー!」

 

 こっちこっち、と街の入り口で大きく手を振るアニスを見つけた。

 そこへ、ホテルから直接やってきたであろうルークも合流する。

 イオンがルークに話しかけたところで、スィンはガイの元へと歩み寄っていた。

 

「お早うございます」

「ああ、おは「昨晩は、どちらに?」

「ノエルのお手伝いをしていました」

 

 ガイの言葉に割り込んで、ジェイドは訝しがっている。

 やはり昨夜は故意にエンカウントを避けて正解だったと、内心で頷いた。

 

「そのノエルは昨夜、あなたに割り当てた部屋に宿泊していたようですが」

「手伝ったから作業も早く終わって、ノエルも休むことができたわけです。無理させてアブソーブゲート手前で墜落なんてされたら、笑い話にもなりゃしないじゃないですか」

 

 この調子でねちねちこられたら、とても気は休まらない。

 目の下にうっすらクマが浮かぶガイを心配し、人のことが言えるのか、と半眼で返される。

 昨晩スィンはアッシュを待つ間仮眠を取り、アッシュ達に別れを告げてからアルビオールの傍でうとうとした程度で、確かに睡眠は足りていない。どのみち熟睡など、できるわけもなかったが。

 そんな雑談が、彼の一言でぴたりとやんだ。

 悪名高き死霊使い(ネクロマンサー)、マルクト皇帝の懐刀によって。

 

「では、いよいよですね。ルーク、準備はいいですか?」

「ああ。みんなもいいか?」

 

 翠玉の瞳がぐるりと一同を改めて見やる。

 己を鼓舞するように、見守る導師を元気づけるかのように。

 導師守護役(フォンマスターガーディアン)の少女は元気いっぱいに拳を振り上げた。

 

「ばっちりv イオン様の代わりに、総長の計画を食い止めちゃうモンね」

「……そうね。たとえ命を奪うことになっても」

 

 頷いたのは、これより実の兄と対峙することを決意した彼の妹。

 思わしげに訊ねたのは、自国キムラスカのため、ひいては世界のため。

 血筋こそ偽りのものでありながら一同と同道を共にしてきた王女だった。

 

「ティア、スィン。それで本当によろしいんですの」

「……ええ」

 

 ちらりと視線を向けられて、スィンもまた頷いた。

 その辺りに、迷いはない。

 

「二人がそこまで決心したなら、俺たちも覚悟を決めるしかないよな」

 

 キムラスカ、マルクト。対立する二国間に挟まれるような形でとばっちりをくい、それでも前を見て歩むことを決意した彼が思いを新たに柄を握る。

 彼とて、生まれたその時から傍にいた兄貴分との対決を余儀なくされる。

 しかし、彼の瞳に悲壮はない。

 道を違え凶行に走り、今なお世界の滅亡を企む彼を止めるがために。

 

「アブソーブゲートからの逆流を止めて、外殻大地を降下させる。……師匠(せんせい)と戦うことになっても!」

「ミュウも頑張るですの!」

「ははっ。頼むぜミュウ。……みんなも、頼む。行こう! アブソーブゲートへ!」

 

 短くなった夕日色の髪を揺らし、翠の瞳に決意を宿し。

 他ならぬ黒幕の手によって生み出されたレプリカの少年が、つき従う愛らしい聖獣と共に誓いを新たとする。

 誰ともなく頷き合い、ノエルが待つ港へと移動を始めた。

 一同の背中を見送り、意図的に動かないスィンが振り返る。

 緋色と、藍色。いつになく穏やかな色の違う瞳に見つめられて、イオンは先程言いかけた言葉を唇に乗せていた。

 彼は気づいていただろうか。

 そのことを一同に聞かせないがため、スィンがわざと彼らに続かなかったことに。

 

「あなたに確認しておかなくてはならないことがあります。あなたは──」

 

 続く言葉は寒風にさらわれて、二人の耳にしか届かない。

 問われて、スィンは。

 

「それは、戻ってきてからのお楽しみということで」

「えっ!?」

「さようなら、導師イオン。お体お大事に」

 

 引きとめるように伸ばされたその手を顧みることもなく、一同の背中を追いかける。

 ──気付かれてしまった以上、彼に再会する予定もなくなってしまった。

 決戦を終えて、帰還することができたなら。アッシュに懺悔した通り、スィンは失踪するつもりでいたから。

 祖父であるペールには、その旨を綴った手紙、そしてあの分厚いカルテを送りつけてある。

 許されることではない。しかし、誰からも許してもらう必要はない。

 まずは、勝たなければ。

 世界の存続を、慕う主のために世界を確かなものとして。

 アブソーブゲートから帰還してからが、スィンにとって本当の勝負となるだろう。

 一同の目をかいくぐって行方をくらまし、最優先事項としてまずは意識集合体たちとの契約を果たす。

 それからは、それから先は──

 先こそ見えている。しかし間違いなく将来の展望を描きながら、彼女もまた道を進む。

 ──先が途絶えたその道を、ただひたすらに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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最終唱——歌が終わる。螺旋の階段を下って、歌い手は舞台を降りる。

 

 

 

 

 

 

 

 ND2019、イフリートリデーカン、レム、23の日

 

 雪は際限なくちらつき、視界も良好とはお世辞にも言えない中。一同を載せたアルビオールは、アブソーブゲートへと到達した。

 天空へそそり立つようなオブジェを取り巻くように、世界の空を巡った記憶粒子(セルパーティクル)が渦巻き集い、地核へと帰結する。

 ケテルブルクより更に北、ラジエイトゲートに並んで世界の果てとも称される場所だ。気温は低く生物の生存はより難しいようで、周囲に魔物らしい影もない。

 光景を目にしたミュウは、苦手な気温のことも忘れて感嘆するように呟いた。

 

「すごい音素(フォニム)を感じるですの」

「ここは最大セフィロトの一つ。プラネットストームを生んでいる、アブソーブゲートですからね」

 

 惑星の天井を覆う音譜帯に吹きつけることで世界中に膨大なエネルギーを巡らせ、偶発的に第七音素(セブンスフォニム)を生み出した恒久エネルギー供給機関。

 これまでも音素(フォニム)の有無には敏感だったミュウには、より圧倒的に感じられるのだろう。

 ジェイドに続いて、一同がアルビオールのタラップを下っていく。ふとそこで、ガイは見送りのためにアルビオールから降りてきた少女に振り返った。

 これまで操縦士としてアルビオールと共に一同の力になってくれた、ノエル。

 

「ノエルは、ここに一人で残るのか。毎度のことだが心細くはないのかい?」

 

 普段ならばアニス辺りに茶化されかねない、紳士的な気遣いである。

 肯定されても同行はしかねるはずだが、心細いと返ってきたら彼はどのように対処するつもりなのか。あるいは、スィンにこの場へ残るよう命じるかもしれない。

 しかし少女は、微笑みすら浮かべてそれを否定した。

 

「ありがとうございます。でも、私なら大丈夫です。私はここで、皆さんのご無事を祈っています。お気をつけて!」

「ありがとう。行ってくるよ!」

 

 小さく頷いて、ルークは雪が敷き詰められた道に足を踏み出した。

 オブジェの根元、ポツンと光る入り口はぽっかりとその口を開いている。

 

「まあ、ここがアブソーブゲートですの?」

 

 警戒しているのか、彼女にしてはゆっくりとした足取りでナタリアは周囲を見回している。

 ナタリアのみならず、一同はこれまでパッセージリングを目指して各地のセフィロトに据えられた神殿を巡ってきたが、この場所は一線を画していた。

 それもそのはず。

 

「プラネットストームが吸いこまれてる……きらきら光ってるのは……」

記憶粒子(セルパーティクル)だな。雪が降ってるみたいで綺麗だ……」

 

 音機関のためか、あるいはその整備士を慮ってのことか、何かしらの措置が施されているのだろう。内部の気温は一定を保たれており、凍りつくような外気とは比べ物にならない。

 静謐で足音すらどこまでも響くような空間を、踏破しにかかる。

 静けさが破られたのは、大地がぶるりと身震いしたその時だった。

 

『主どの~。気をつけろ~』

 

 音なき声の警告──おそらくはノームの声を受けて、誰よりも早く警戒にあたる。

 しんがりを歩いていたスィンは、通路の外を見ながら歩くアニスの足元に発生した違和感を見逃さなかった。

 

「アニスっ!」

「はぅあ!?」

 

 まるで宙に浮いているかのような印象の通路の外縁部を歩く少女に駆け寄り、その手を掴む。

 力一杯引き寄せた結果、尻もちをつく勢いでバランスを崩したアニスだったが、文句は出ない。

 つぶらな瞳は限界まで見開かれ、それまで自分が歩いていた通路──今は影も形もない足場だった場所を見つめている。そのまま歩いていれば、間違いなくアニスは落下しているものと思われた。

 ちらと見下ろした通路の外は、底がないのではと錯覚しかねないほどに霞んで見える。

 

「うぉっとと……危なかった……」

「外殻大地が限界に近付いているのかしら」

 

 今まで幾度も地震に遭遇してきたが、頻度は目に見えて増えている。足場が崩れたのは老朽化によるものか、地震の激しさを物語るものか。

 どちらにしても、どちらであっても。

 

「……急ぎましょう。このまま世界を滅亡させるわけには参りませんわ」

 

 ナタリアの言葉に誰ともなく頷きあい、先へ向かわんとする。

 それに続こうとして。

 

「うひゃあっ!」

 

 珍妙な悲鳴が響き渡った。

 

「スィン?」

「ちょっとアニス、どこ触ってるのさ!」

 

 先行く一同が振り返れば、そこには腹を抱えて少女に食ってかかるスィンと、手を払われた形で棒立ちするアニスがいる。

 

「だって、今。スィン、おなかすごく……」

「で、出っ張ってるって言いたいの!? そこまでドン引かれるほどじゃないよ、ほら!」

 

 耳まで赤くしながら、宙にさまようその手を取って腹に押し当てる。

 途端、アニスは。

 

「……あ、あれぇ?」

「ほら、そんなに驚くほど出てないでしょ!」

「うーん、あたしの勘違いかなあ?」

 

 首を捻るアニスに意地悪! と口を尖らせて。

 ここでスィンが、一同の視線に気づいた。

 

「締まんねーなあ……」

「おーい、行くぞー」

「す、すいません……ほら、アニスも!」

「ゴメンゴメン~……ん~?」

 

 いまいち締まらないコントじみたやりとりを経て、一同は着実にアブソーブゲートの最奥へと突き進みつつあった。

 罠らしい罠こそない。しかし侵入者避けなのか。様々な手順を正当に踏まなければ、道は拓けない。

 それまで一丸となって、あるいは手分けして順調に進んでいた一同だったが、ふとルークが呟いた。

 

「どこまで降りるんだろうな……」

「プラネットストームがここに収束しているということは、少なくとも外殻大地を抜けるところまでは続いているはずよ」

 

 ユリアシティからセフィロト──吹き上げる記憶粒子(セルパーティクル)を使い、タルタロスで外殻大地の海へ生還した記憶が蘇る。

 あるいはアクゼリュスが崩落し、瘴気に満ちた泥のような海に放り出された記憶か。

 どちらにしても、数字で示せばうんざりするような距離であることは明白だった。

 

「外殻大地を抜けるまで……」

「パッセージリングがどの位置にあるかにもよるけど、道のりが長いことは間違いないわ」

 

 だから慎重に進もうとティアが締めくくるも、それだけでは駄目だとジェイドが被せる。

 

「とはいえ、あまり時間がありませんからね。慎重かつ迅速に、ってところですかね」

 

 そんなわけですから、とジェイドは後ろを振り返った。

 視線の先には、先程の件でスィンの腹に興味を示して巻き尺を取りだしたナタリアと、頑として胴回りの測定を拒否するスィンの姿がある。

 

「遊んでないで、早めに行きましょうか」

「誰も遊んでなんかいません!」

「その通りですわ。わたくしは真剣に、スィンのお腹に興味が……」

「王女にあるまじきフェテッシュな発言はお控えくださいませ、ナタリア殿下!」

 

 最近は滅多に聞くことがなかった侍女らしい発言に、ナタリアは目をぱちくりと瞬かせた。

 その隙をついたのか。元傍仕えだったスィンは、元主の携える小型の巻き尺を奪い取り、荷袋に放り込もうとした。

 そこで「みゅっ!」と荷袋にいたミュウの悲鳴が上がる。

 それを聞きつけて、スィンはミュウを取りだした後に巻き尺を荷袋の奥底へしまい込んだ。

 

「みゅ~? 何がどうしたんですの?」

「……ちょっとね」

 

 再び荷袋に収まるミュウが、半分だけ顔を出して小首を傾げる。

 その愛らしい仕草に人知れずときめくティアに、荷袋ごとチーグルを渡そうとして。

 

『主どの~まただ~』

 

 再び、ノームののんびりとして警告が聞こえた。

 振動は大気を震わせ、次いで足元を危うくさせる。

 

「今度はでかいぞ!」

「気をつけろ、地面が……!?」

 

 ルークの、ガイの警告を聞きながら差し出しかけたミュウと荷袋を押し付けるようにして、眼前のティアを突き飛ばす。

 咄嗟にできたことなど、それだけしかなかった。

 

「きゃあ!!」

 

 がらがらと音を立てて、盛大に床が崩壊する。

 その残骸もろとも宙に放り出されたスィンは、上階に残ったルークとティアを、ナタリアと共に通路の中途に降り立ったガイを確かに認めた。

 

「スィンっ!」

 

 伸ばした腕──指先が、ひっかかったような気がする。否、指の先が触れただけかもしれない。

 伸ばされた手に掴まることができず、伸ばした腕で掴むことができず。あっという間に視界から、互いの姿が消える。

 硬直するガイの足元に、かつんっ、と硬質な音が響いた。

 胡桃大のロケットペンダント。最早分断は避けられないと確信したスィンが投擲したものだ。

 重力に身を委ねて落下するに従い、霞がかっていた奥底がくっきりと見えるようになってきた。

 地震に伴い崩れたのか、不自然に途絶えた通路にどうにか這い上がるアニスと、それを引き上げるジェイドにスィンを回収する術などはない。

 

「母なる抱擁に覚えるは安寧……」

 

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──

 

 このまま叩きつけられて潰れたカエルのようになるのは御免と、フォースフィールド・サンクチュアリを展開する。

 スィン自身を包むようにして起動した結界は、スィンの足が地につくと同時に効果を発揮し、一切の衝撃は発生することもなく無に帰された。

 

「大丈夫かー!?」

 

 見上げれば、遥か上空に身を乗り出して怒鳴るガイがどうにか視認できる。視界の端ではアニスとジェイドが、こちらの様子を伺っているのが見て取れた。

 危ないからやめてくれ、落ちても受け止められないと内心で呟きつつ、手を振って健在を示せば、立ち上がったガイが上階を仰ぎ見て、何らかのやりとりを交わしている。

 現状の合流は不可能だ。おそらく、各々このまま進んで最深部で合流を図ろうということになるのだろうが……

 ガイの挙動をそのまま見つめていたスィンだったがふと、視界の端で何かが動いたことに気付いた。

 見ればアニスが大仰な仕草でのけぞり、何事かを喚いている。動作から地団太を踏んだ後、ジェイドに何かを訴えているようだが、それが何を示すものなのか、スィンにはわからない。

 そうこうしている内に上階、おそらくはルークとのやりとりを終えたガイが再びスィンを見下ろした。

 その顔が引きつったことも、距離が災いしてスィンに気付く術はない。

 

「馬鹿! 何やってんだ、逃げろ!」

「!」

 

 気付けなかった。油断しているつもりはなかったのだが。

 察知し損ねた自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、今更振り返る。

 そこには、ロニール雪山のパッセージリングにて垣間見たばかりの顔──ヴァンデスデルカが佇んでいた。

 太陽の下ではなく、和えかな燐光の元で判然としないが、何となく顔色が悪い。白を基調とした軍服の上からではわかりにくいが、それとなくやつれているような風情がある。

 得物である大剣を手にしているものの、覇気はなかった。

 

「……来たか」

「あなたが呼びつけたようなものです」

 

 柄に手をかけ、いつ仕掛けられても反応できるよう臨戦態勢に入る。

 それにしても、正気とは思えない行動だった。侵入者を察知して、だろうが。パッセージリングから離れるとは。

 この場所からそれほどパッセージリングから離れていないのだろうか。だとしたら、ヴァンがここにいる今が好機。

 今の内にルークがパッセージリングへ辿りつけば──! 

 

「すぐに行く! 戦うなよ!」

「!」

 

 主の声が、脳裏に響く。

 ナタリアからも何か言われたようだが、まったく耳には届かない。

 

 逃げる。どこへ? 単純に距離を取って、引き返すように主と合流する? 

 主に、助けを求めるのか。

 

 戦うな。

 ここで仕留めれば、ルークは師匠を、主は兄貴分を、ティアは実の兄を、手に掛けずに済む。

 

 考えただけで、胸ではなく、頭が締め付けられるように痛んだ。

 思考を阻害する頭痛を意識的に無視して、改めてヴァンを見る。

 吹き抜けに空中回廊のような通路が交錯する空間を見上げるその姿は、剣を携えているとは思えないほど無防備で。

 今ならばもしや、と思わずにはいられない。

 しかしその前に、伝えなければ。

 動揺させる手段と思われてもいい。最低だと、どんな罵倒をされても構わない。

 この場所へ来る前に、覚悟だけはしてきた。

 

「アッシュ……ではないな」

「ラジエイトゲートへ向かっています。誰かさんがパッセージリングをいじくりさえしなければ、彼はあなたを討つために単身この場所へ来たかもしれない。アテが外れちゃいましたね」

 

 無駄だと、彼がこんな安っぽい挑発に乗るわけがないと知りながら口を動かす。

 遥か上階にいるルークを確認したらしいヴァンは、失笑を零した。

 

「向かわせた、の間違いだろう。外殻大地が限界を迎えていることを、奴に知る術はない」

「そう思いたければ、ご自由に。あなたの弟子達は、あなたが思う以上に優秀ですよ」

 

 一体どうしたことだろうと、内心で首を傾げる。

 頭痛が収まらない。ぶつけたわけでもないのに。体調は依然として悪いが、頭痛に直結するようなものではない。

 ただ、この痛みには覚えがあった。

 大分前に、あれは確かケセドニアで──

 

「ここに至るまでに、何度奴を操った? 連中には何も語らず、裏で手を回した? ……全ては、お前を野放しにした私の失策だがな」

「……その全て、必要だったこと、です」

 

 思い出せない。頭が痛い。

 

「弟子達、と言ったな。まさかあのレプリカを指しているのか?」

「他に誰か、いらっしゃるので」

 

 こんなことを話したいんじゃない。

 それでもこれは、ヴァンをこの場へ足止めし、動揺を引き出せる。

 絶え間ない痛みに思考は鈍ったまま、ぶちまげた。

 

「もともとルークは、ローレライの同位体は、二人の予定だったのですから」

「……何を、言っている?」

「バニシングツインってご存知ですか?」

 

 双子を身ごもった後、ごく初期に一方が消滅し双子ではなくなる現象。これといった原因はなく、胎内に吸収される形での流産にあたる。

 

「シュザンヌ様は、双子を出産してお亡くなりになるはずでした。ファブレ公爵奥方は病弱だがご健在、そのご子息は一人だと聞いた時から、世界の行く先は預言(スコア)から少しずつ外れていると思っていましたが……まさかあなたが修正するとはね」

 

 この事実を──ファブレ公爵子息が二人であるはずだったことを知るのは、今や奥方のみであるはずだ。当時の主治医、彼女の預言(スコア)()んだ預言師(スコアラー)は現在この世に存在しない。

 息を呑んで絶句するヴァンを見つめたまま、その心の内を推し量る。

 預言(スコア)を、それにつき従う世界を憎み、こんなものがなければと憎悪し、この世界の未来を預言(スコア)から脱却させんとして。

 彼はその手のひらで、踊っているに過ぎなかった。

 

「あのレプリカは、歪みにすらなかったと……いうのか」

「歪みどころか足りないパーツでしたよ。殺しておけばまた何か違ったのかも知れませんが、あなたは歯牙にもかけなかった」

 

 アッシュを味方につけるための要素。預言(スコア)が予定通りと思わせるための捨て駒。

 かつて彼は、ルークをそう揶揄した。

 

「そのレプリカに世界を丸ごと開け渡そうとしているくせに、よく言ったもんですね。あなたがそんなだから、収まるべくして収まってこの結果です」

 

 当時のスィンにとって預言(スコア)のことは二の次だったし、ヴァンの最終的な目的も知らされていなかった──把握していなかったがため、沈黙は金と一切触れずして今に至るわけだが。

 

「ロニール雪山で、あなたに忠実な部下達は雪崩に巻き込まれて帰らず。後はあなただけ。あなたの妨害さえ突破してしまえば、最早そちらに手立てはない」

 

 啖呵を切り、一息つく。

 ただしゃべっているだけで息が切れることがあるのだと、場違いに驚いた。

 体が、思った以上に損耗している。

 しかしそのおかげで、ヴァンの足止めをより自然な形で引き延ばせていた。

 とはいえ、それもここまで。いかにこのアブソーブゲートにこもりきりで体調悪そうなヴァンでも、そろそろスィンの思惑に気付く頃だ。

 となれば、パッセージリングのところに戻るのは確実。その際スィンに背中を見せるのか、スィンを始末して戻ろうとするか。

 前者ならば遠慮なくその背中を撃つし、後者ならば応戦。何が何でも勝つつもりはないが、何があっても負ける気はない。

 どちらにしても主の命令に背いてしまうが、収まらない頭痛に体調不良に伴う身体能力低下を考えると、たとえ無傷で合流したところで、大して役には立てないだろう。

 ただでさえ、大分前から泣いて叫んで、膝から崩れ落ちてしまいそうな精神状態にある。

 それら感情を抑えているのは主のみならず、みっともないところを他人に見せたくない見栄張りと、全部終わってからでもそれはできると理性が常時なだめすかしているためだ。

 

 主の命令に背くこと。己を顧みなかったこと。

 それが文字通り命取りになることを、このときはまだ誰も知らない。

 

「それとも? 今この状況に陥って尚、逆転の目があるとでも……」

「時間稼ぎか」

 

 想定した通り、彼はスィンの目論みをあっさりと看破した。

 背を向けるか。向かってくるか。最早戯言に付き合う気もないか。くるりとその背中がスィンに晒され──

 

「あれ?」

 

 なかった。

 何を思ったのだろうか。一度身を翻したヴァンは、再びスィンと相対した。

 思い直して始末に来たのか。しかし、あっさりやられてやるわけにはいかない。少しでも時間を稼がないことには──

 意表を突かれたところで、すでにスィンは柄を握っている。間合いに入ってきたが最後、一太刀浴びせることは可能だった。

 もちろんそれで、すべてのカタがつくはずもない。そしてあのヴァンが、スィンの手の内のほとんどを知る彼が、のこのこ近づいてきてくれるなら、だが。

 一歩、ヴァンの足が踏み出される。そのままの歩幅ならあと三歩で、迎撃どころか先手もとれる──

 ぴたりと、足が止まる。剣を持たないその手が、懐へもぐりこんだ。

 投擲武器、目くらまし、あるいはハッタリ。

 どれであっても、最早この対峙している距離が有利に働くとは限らない。ならば今、片手が忙しそうな今、手疵のひとつでも負わせれば、あるいは。

 疼くような痛みは変わらず頭を締め付けるが、堪えて。崩れるはずもない最下層の床を蹴り、一足飛びで間合いを詰める。

 激突する勢いで迫り、抜き放った血桜の緋い刃が足を狙うと見せかけて逆袈裟にふるわれた、次の瞬間。

 硬質な音立てて、刃は停止を余議なくされた。

 

「!?」

 

 肉を裂き骨に食い込んだ感覚ではない。もっと硬いもの、鉄でも斬りつけたような──

 懐に潜り込んでいたはずの手が何かを携えて、刃を止めている。

 その手に持つのが何なのか、スィンが視認するよりも早く。

 パチンと、小気味よい音が響いた。

 

「っ!」

 

 指の先から体の芯まで、貫かれるような衝撃が走る。

 脱力した手から血桜が離れて、音を立てて床を転がった。

 

「……こ、れ」

「意識を奪うまでには至らぬか」

 

 体のどこにも力が入らない。

 へたり込むスィンが見たのは、ヴァンの手から放り出された譜業だった。

 

「でぃ……す、と……の」

「微量の第三音素(サードフォニム)を放出する音機関、だったか。便利なものだな」

 

 一条の疵が刻まれたスタンガン。

 ヴァンはこれで凶刃を凌ぎ、その上で血桜の刃を介して電撃を見舞ったことになる。

 

「な……で、こ、れ……」

「毒も薬も効かないお前に唯一、絶対的な効果を示したもの。そう言われて機嫌取りに押し付けられたようなものだ。まさかこのような形で使うことになるとはな」

 

 髪の焦げる嫌な臭いがする。咳きこみかけて、鼻の奥に濃い鉄錆の臭いが生じた。

 感電したことでどこかの粘膜が焼け焦げたのか。それとも発作を起こしただけか。

 

「……っ」

 

 胸倉を掴まれ、強制的に起こされる。

 苦しかったのは、ほんの一瞬のこと。

 

「!」

 

 まるで遊び飽きた玩具を放り投げるかのような、そんな調子で放り投げられた。

 痺れは未だスィンの体を支配している。

 ろくに受け身も取れず、床へ叩きつけられ──

 ない。

 

「!?」

 

 ふわ、と僅かな浮遊感のち、景色が一変する。

 それまで、パッセージリングを目指していたはずなのに。

 投げられた勢いで仰向けになったスィンの目には、パッセージリングそのものが映っていた。

 

「……ヴォ……ル、ト」

 

 どうにか首を捻じ曲げて確認すれば、すぐそばには転送陣が淡い明滅を繰り返している。

 ダアト教会の導師私室に直結する転送陣と同一のものに見えるが、合言葉を必要としない辺り、同じものではないだろう。

 とにかくこの芋虫と変わらない状態を何とかするべく、スィンは意識集合体に呼びかけた。

 

第三(サード)……音素(フォニム)、を……排斥……」

『……心得た』

 

 回らぬ舌でどうにか、流し込まれた電撃の残滓を体外へ排出し、自力で体を起こす。

 転送陣が一際強く光り、ヴァンが姿を現したのは直後のことだった。

 痺れこそなくなっているが、本調子には程遠い。そして何より、ヴァンの隙をつくため、好機(チャンス)を逃さぬために。

 スィンは起こしかけた体を力なく崩した。あたかも、麻痺が癒えないままであるかのように。

 

「くぅ……」

「あがくな。大人しくしていろ」

 

 助けを待て。どこか嘲笑を含みながら、ヴァンはそう言った。

 

「主……いや。婚約者(フィアンセ)の、か」

「!?」

 

 誰!? 主はわかるけど、婚約者(フィアンセ)って誰!? 

 

 スィンはどうにか、それを言葉とするのを抑えた。

 

「不思議そうな顔をするな。とぼけても無駄だ。それとも、死霊使い(ネクロマンサー)はそこまで情に厚い男ではない、か?」

 

 真面目に混乱しかけて、なんだそのことか、と気が抜ける。そういえば誤解したままだった。否定したところで、何もならない。且つ、痺れたフリが露見してしまう。

 目をそらし、黙したまま。絶え間なく頭を締め付ける頭痛に耐えるべく唇を噛んで。

 ひたすら、ヴァンの出方を窺った。

 そこで。思いもよらない事態に、スィンは思わず声を出すところだった。

 

「体は許したのか?」

 

 ブチブチッ、と糸の千切れる音が。カラコロ、と硬質で小さなものが。床に散らばる。

 外套の身ごろを力任せに暴いたヴァンが、そのまま被服の合わせまで剥いだ。

 

「……っ!」

「怖いか。結局私は、お前の心的外傷(トラウマ)を癒すことはできなかったな」

 

 常の習慣として、スィンは必ず胸部にサラシを巻くようにしている。それが解かれたならば、間違いなく悲鳴を上げて逃れようと半狂乱になって暴れていただろう。

 幸か不幸か最後の砦は奪われず、どうにか理性を保っていた。

 人を半裸に剥いて何をしているのかと思えば、情痕を探しているようで。首から鎖骨にかけて、じろじろと眺め回している。

 助けに来てほしいような来てほしくないような。傍から見れば誤解しか生まない状況だった。

 スィンは仰向け。ヴァンはその上。

 覆いかぶさるように彼はスィンの身体を撫でまわし、一見黙ってそれを受け入れている、など。

 しかしこれは、千戴一隅の好機(チャンス)でもある。

 話さなければならない事柄を、絶好のタイミングで語れるのだ。

 

「ヴァ、ン」

「なん……」

 

 身体をまさぐる手を取って、四苦八苦しながら身を起こす。大きくてごつごつした、色黒の手を自分の腹に当てさせた。

 そのまま言葉もなく、秘術を解除する。

 浮かび上がり、直後砕けた譜陣にヴァンが気を取られている間に片手を後ろへ隠し、コンタミネーションを用いて棒手裏剣を握りしめた。

 

「な……!」

「結婚してなきゃ、子を設けるべきではない。その行為をしたのは、君以外に覚えはない」

 

 単なる肥満ではありえないほどに、そこだけが膨らんだ下腹部。

 明らかにたじろいだヴァンの手を逃がさずに、そのまま言葉を重ねた。

 

「驚いたよね。一緒になってから、あんなに頑張ったのに。状況が流転して子がいなかったのは幸いだったと思ったくらいなのに。今になって」

 

 どっくん、どっくん、と。

 ヒトの胎内に収まる小ささでありながらはっきりと、心臓は主張している。

 彼らが生きているということを。

 

「わかるかな? 心臓がふたつある。この中には二人いる。診てもらった時にそう言われた」

 

 すでに末期となった瘴気触害(インテルナルオーガン)を患うスィンから、無事に生まれるどころか、まともに育つはずもない。

 早い内に決断──スィンの身体のために二人を諦めた方がいいと諭されたものの。仲間達への、主にガイとジェイドの発覚を恐れて、スィンは二人の鼓動が途絶えるまではと、先延ばしにした。

 それでは子供達どころか母体もただでは済まないという警告には、ただ耳を塞いで。

 子が宿ってから成熟するまで、十分な月日が経ったとはいえない。しかし双子であったために、腹が膨れるのはあっという間であった。

 布を巻いて固定しても焼け石に水、秘術を駆使してどうにかこうにか、この日まで凌いできた所存である。

 術式を固定したわけではないにつき、ふとしたことで集中は途切れて元に戻っていた。

 道中におけるアニスの驚愕は、けして気のせいなどではない。

 

「このような身体で、ここまで……!」

「今更だ! 心配してます、って顔するな! レプリカ情報さえあれば、僕らのことなんかどうでもいいくせに!」

「そ、そんなことは。そんな、つもりは──!」

 

 ヴァンがこのことを知らないという情報に、間違いはなかった。口止めして正解だ。

 現に彼は、こんなにも取り乱し、動揺を露わとしている。

 

「このことがなくたって、知ってるだろ! 僕に時間がないことくらい! 病に侵されて無様に看取られるくらいなら、この子達と一緒に、最期まで……!」

 

 気が高ぶって錯乱している。ヴァンの目からは、間違いなくそう映っているはずだ。

 興奮しているかのように、更に声を荒げてヴァンに掴みかかる。後ろ手に隠した棒手裏剣を、改めて握り直した。

 

「シア、落ち着け。腹の子に障る……「妊娠してるってわかった途端取り乱しやがって! さっきまでの余裕はどこ行った、脂汗浮かべてうろたえてんじゃねーよ!」

 

 握った拳で、眼前の胸板を強く打つ。

 同じように、棒手裏剣を握り込んだ拳で駄々っ子のように叩いたのと、予想外の痛みにヴァンがその場を飛びのいたのはほぼ同時だった。

 切っ先がほぼ埋まった棒手裏剣が抜け、命の雫が粒状になって宙を舞う。

 左胸、癇癪を起こした風に見せかけてその場所を正確に狙って仕掛けたスィンのあざとさに、ヴァンは戦慄を覚えていた。

 あと僅か、飛びのくのが遅く、深く刺さっていたなら。

 あの角度からは間違いなく肋骨をくぐり抜けて錐形の切っ先は心臓まで届いていた。

 追撃は──ない。

 意図してのことか、腹が煩わしくて機敏に動けないのか。

 垂れ気味の目を吊り上げて、怒りと批難を込めた眼差しが心臓ではなく、ヴァンの心をえぐりにかかる。

 

「逃げんな、ド卑怯者! 孕ませといて、孕ませるようなことしといて自分だけケツまくってんじゃ……!」

 

 口汚く喚き罵る唇から、鋭く息が飲み込まれる。

 しゃっくりを我慢するように呼吸を止めたスィンは、やがて苦悶に顔を歪めて口を覆った。濁った咳が勢いを殺されて、指の隙間からけして少量ではない喀血が滴り落ちる。

 胸元のサラシを赤く染めたスィンは、浅い呼吸を繰り返してその場にうずくまった。

 ──本当に、発作を起こして苦しんでいるのか。弱ったフリをして、だまし討ちを目論んでいるのか。

 これまで発作を起こしても、「大丈夫」としか言わなかった。苦しむ素振りは発作を起こした時だけ、ほんの一瞬。

 普段はまるで健常者のように振る舞ってきたスィンの姿しか、ヴァンは知らない。

 病状が進行して、耐えられるものではなくなったのか。

 

「痛い……苦しい……っ」

 

 効かぬ薬、効かぬ麻酔。

 目覚ましい効果も何もない、ただ病の進行を遅らせるだけの治療に文句ひとつ言うでもなく。

 何があろうとも弱音を吐かなかった彼女が、苦悶を露わとしている。

 

「……死にたく、ない……!」

 

 止まらない喀血と共に搾り出されたのは、この上もなく悲痛な祈り。

 それを耳にしてヴァンは、思わずその傍らに膝をついた。

 彼は気づいただろうか。未だ手放されない棒手裏剣が、ぎゅうっと音を立てて握り直されたことを。

 

「シア……」

「ヴァンっ!」

 

 バネ仕掛けを思わせる機敏さで身体を跳ね起こしたスィンが、肉薄する。

 心臓では仕留めきれないと思ったのか。切っ先はヴァンの首を狙い、まるで吸い込まれるように──

 二人が交錯するよりも早く。くぐもった破裂音が、辺りをこだました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アブソーブゲート深奥、パッセージリング。

 安置されたその空間の手前で合流を果たし、踏み込んだ一同が見たもの。

 それは、赤黒く、しとどに濡れた床だった。

 滂沱として広がる血潮に身を沈め、スィンが倒れ伏している。

 頭を割られているのだろうか。雪の色だった髪は床を濡らすその色とまだらに染まり、面影もない。だらりと投げ出された四肢はぴくりとも動かず、血溜まりに浸かっているも同然のはずだが、身じろぎひとつ、ない。

 されるがまま、ヴァンの手によって床に口づけていたスィンが起き上がる。

 自身が吐き出したと思われる命の雫で口元は色づき、対照的に顔の色は血の気を失って青白く。

 重たげな目蓋から覗いた色違いの瞳に、一切の光はなかった。

 

「いやああっ!」

 

 それを目にしたナタリアの口から、甲高い悲鳴が上がる。

 自分が見ているものを否定するように首を振り、そのまま膝から崩れ落ちた。

 床に張り付いてしまった足も、自らが抱く肩も。がたがたと、震えている。

 

「……う」

 

 傍らに跪くヴァンが、一同がいることなどお構いなしにスィンの髪を梳くようにかきあげた。

 破損した頭蓋が露わになり、その拍子にずるっ、と指に絡まる髪が抜ける。

 

「……なるほど。そういうこと、か」

 

 己の指に絡みつく毛髪に、抜けた髪の先に付着する肉塊に恐れる風情もなく、膝に乗せていたスィンの頭をそっと床に置く。

 ごろりと動いた頭部から何かが零れ、それをまともに見てしまったアニスは口元を抑えて顔を背けた。

 

「……うそ、だよな」

 

 再び伏したスィンから一切目が離せないガイが、足を一歩踏み出して、よろける。

 不用意に近寄るなとルークが袖を引いたためだが、彼が意に介することはなかった。

 

「なあ。そんなところで寝そべってる場合じゃないだろ?」

 

 彼とて、スィンが今どのような状態にあるのか、わからないわけではない。

 理解できないのではなく、したくないのは明白だった。

 分断されたのはつい先程、何も変わらない普段通りの姿だったというのに。

 あの時合流さえ出来ていれば、ありえなかった未来が。

 今や肉塊と変わらないという事実を、受け入れ難いのだろう。

 

「早く、起きろよ。立てよ、スィン。スィン──」

「そのまま狂うか?」

 

 水を打ったように、場が静寂に包まれる。

 狂気さえ伺わせるガイの声を止めたのは、他ならぬヴァンだった。

 

「いくら主の命令であろうとも、こうなってしまえばもう動きはしない。従属印も、すでにその働きを失っている」

「……あなたが、破壊したのですか? スィンを正気に戻すために、ガイの従者であるという盲目的な認識を、外すために」

「兄さん……なんて、ことを」

 

 青い顔でうずくまってしまったアニス、とても交戦できる状態ではないナタリアを手振りでティアに任せて、ジェイドが問う。

 ヴァンはゆっくりと首を振った。

 

「そんなことが出来るのならば、当の昔にやっている。従属印がその効力を失うのは、被施術者と使用された血の持ち主が死んだ時のみに限られるそうだ。ディストが自発的に調べていたようだが、そんな都合のよい方法は存在しなかった」

「ならばなぜ、スィンは「ホドがその大地ごと消滅していなければ、また何か違ったかもしれんがな」

 

 ホドが滅びた──崩落という形で消滅したのは、マルクトの政治的な陰謀によるものである。

 少なからず関与していたジェイドに、二の句は告げられない。

 

師匠(せんせい)……どうして……!」

「そうだな。聞かせてもらおう。何故お前がここにいる?」

 

 

 

 

 

 

『ア……シュ……』

『!?』

 

 浮かぶように沈むように意識はたゆたう。

 

『な、なんだ。終わった、のか?』

『ご……め……』

『どうしたんだ。よく聞こえな……『さ、ょ……な……』

 

 何もかもを奪った仇敵の子。

 何もかもを、奪ってやった。

 奪った後で罪悪感があって。

 罪滅ぼしにもならないけど。

 少年に正面から向き合った。

 

 憎んで愛したその声に別れを告げて。

 心は沈む。深く昏い、奈落の底へと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ィンさん! スィンさんっ!」

 

 剣戟が、金物の交わる甲高い音が幾度となく奏でられる。

 時折、音素(フォニム)の収束する気配と共に爆風が、熱風が、雷撃が発生しては霧散していった。

 

「どうしちゃったですの、起きてほしいですのっ!」

 

 荷袋に隠れていたがため、やりとりを知らないミュウがいつの間にか、骸の傍でカン高い声を張り上げている。

 その所行は誰もが知ることとなるが、誰も傍に寄ることはできない。

 

「うおおおっ!」

 

 前線にて、ガイはひとりヴァンに対し怒りを叩きつけるように剣を振るう。その戦いぶりは勇猛でありながら蛮勇、防御をなくして勢いに代えてしまったかのように、荒い。

 放っておけば返り討ちになりかねないほどに、捨て鉢だった。

 ルークはそんな彼の補佐につき、ジェイドは後方にて譜術による援護。ティアは動けない二人を護りながら戦況を見守っている。

 しかし、頭に血が上ったガイが突出しすぎていた。前のめりに突っかかっては足元をすくわれ、何度も危うくなっている。

 その度にルークは慣れないフォローに走り、一度距離を取らせては、またガイが猪突猛進に攻撃を仕掛けて。

 そんな戦いの、最中のことだった。

 当然、ルークは彼をいさめている。しかしその言葉は、衝撃によって遮られた。

 

「おまえ、こんな時に何やっ「スィンさん!? 今、今なんて言ったですの!?」

「!?」

 

 誰もの手が、足が、詠唱が止まる。

 あまりの衝撃に固まってしまったガイはヴァンの斬撃を受け損ねて、盛大に床へ叩きつけられた。

 

「ぐはっ……!」

「ガイ!」

 

 誰かさんではあるまいし、ミュウがこんな悪質な嘘をつくわけもない。

 その場にいる誰もの目が、横たわるスィンとミュウに注目し──

 唐突に。悲鳴と、肉を引き裂き、血飛沫がまき散らされる音がした。

 

「ぐっ、あぁっ!?」

「……す……キ、だら……ケ」

 

 一拍置いて、これは夢ではないと告げるように。鉄錆びの臭いが散らばり、赤黒い床に更なる赤を塗りたくる。

 激痛に苛まれながらも振りかえったヴァンが見たもの。

 それは、先程ガイが手放した剣を握るスィンの姿だった。正確にはスィンの姿をかたどった人の形──空蝉、である。

 ざんばらの髪が俯いた顔を隠し、剣から伝う雫はその手を濡らしもせずに、そのまま床を打つ。

 次の瞬間。カシャンと音を立てて、剣は取り落とされた。身動き一つせず、その姿は見る間にぼやけて、やがて音もなく消滅する。

 ヴァンは呆けた目でスィンを──倒れ伏したままの彼女を、見つめていた。

 信じられないと、別の意味で現実を受け入れ難い、と。

 

「生きている……のか?」

 

 ふらふらと、失血に足取りを危うくさせたまま。ヴァンは無防備にスィンの元へかがみ込んだ。

 

「ミュウっ、こっちへ!」

「下がれ、早く!」

 

 その間に、二人の傍を離れたティアがルークに、ガイに治癒を施していく。

 ティアに次いで呼びつけたルークに従い、ミュウは短い手足を駆使して退避した。

 ヴァンは気にも留めない。

 反応する素振りもないまま、妻であった彼女を見つめ、その首に手を当てている。

 

「何故……」

 

 スィンは動かない。

 言葉を発するどころか、閉じた目蓋を震わせることも、しない。

 ──先程まで、確かにその眼は。開かれて、光を無くしていたというのに。

 

「スィンから離れろ、ヴァンっ!」

 

 ヴァンの血に濡れる愛剣を手繰り寄せるも、蓄積したガイの負傷は完治していない。それどころか、それまでの無茶な戦い方が災いし、未だ立つこともままならなかった。

 しかし、今。ヴァンが呆然自失となっている今、絶好の機会であることは確か。

 今を逃して仕留める機会などないと、ジェイドは詠唱を──

 

「やめてくれ! スィンに当たっちまう!」

「!」

 

 未だ立てぬガイが足にしがみついたことで、中断を余儀なくされる。

 味方識別(マーキング)は人体のフォンスロットに作用するため、死者には適用されない。

 スィンの生存は絶望的を通り越しているのは確か。せめて遺体を傷つけたくないとしても、まずはヴァンを仕留めないことにはどうにもならない。

 そのことを説いても、今の彼は逆上するだけだろう。スィンの惨状を目にした彼に、普段の冷静さはない。

 それがわかっていても、そう諭したくなるのは、ジェイドもまた彼女の死に影響されているのか。

 

「ぐ……!」

 

 ごほ、と苦しげに咳きこむ音がする。

 聞く者を不安に駆りたてる濁った咳。

 まさかと見やった先にいたのは。

 

「……共に、ゆこう。今だけでいい。お前達と、いさせてくれ」

 

 致命傷を負い、血を吐きながらも。

 脱力しきったスィンを抱え上げた、ヴァンの姿だった。

 ぽたぽたと床を打つ雫は、スィンのものなのか、ヴァンのものなのか。判然としない。

 激痛と失血にふらつく身体を支えていた大剣が放棄され、まるで境界のように床に突き立つ。

 死者と生者を区分けするかのように。

 スィンをだきあげたヴァンの歩む先は、断崖──地核へ続く、奈落への入り口だった。

 

「やめろぉっ! スィンを離せ、連れていくな!」

 

 喚くように制止を叫ぶガイに一瞥をくれるでもなく、腕の中で眠るスィンを見つめたまま。

 彼は足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
良かったらエピローグも読んでやってください。


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のっとエピローグ——のこされたものは、それでもまえをみつづける

 

 

 

 

 

 

 

 アルビオールが、蒼く澄みきったバチカルの空を舞う。

 アブソーブゲートを後とし、イオンと合流した一行は一路、キムラスカへと向かっていた。

 

 姿の見えぬスィン。

 泣きはらしたナタリア。

 仏頂面のガイ。

 ハンカチを目に押し当てるノエルに、しょんぼりと耳を垂れたミュウ。

 うつむきがちなルークにティア、顔色が青ざめたままのアニス。

 そして、普段の笑みを消していつになく事務的なジェイドの報告に、彼もまた顔を曇らせて追悼を口にした。

 

「そうですか。スィンが……ガイ「俺は大丈夫だ。気にしないでくれ。それで、この後のことなんだが……」

「陛下達に、顛末を報告しなければなりません」

 

 現在地ケテルブルクからならば、グランコクマが近い。

 ピオニーへの報告を淡々と提案するジェイドを遮り、ガイは切り出した。

 

「すまない、先にバチカルに行ってもらえないか」

「先にお父様へ報告を? わたくしは構いませんけれど、バチカルにはペールがいますわ。その……」

「わかってる。だが、時間を置いたってしょうがない。それに、後回しにはしたくないんだ」

 

 インゴベルト国王への報告、そしてスィンの祖父であるペールへ訃報を届けるために。一同は無言のまま、バチカルへ足を踏み入れた。

 事前の通達──外殻大地降下が行われることが民衆にも伝わっているのか。普段は賑わう大通りも、日中であるにも関わらず人通りは皆無である。

 そこへ。

 

「!」

「ご帰還、誠に喜ばしく存じまする。ナタリア殿下。皆様も、ご無事のようで」

 

 たった一人、凱旋した一同を出迎えたのは。スィンフレデリカ・シアン・ナイマッハの祖父、ペールギュント・サダン・ナイマッハであった。

 ぺこりと頭を下げる所作は普段と変わらないが、庭木用の手入れ挟みをよく携帯していたその手には、持ち歩くにはいささか不都合な、分厚い書類入れを携えている。

 ここに至るまで、覚悟を決めていなかったわけではない。

 それでも、不意討ちの登場に動揺したのか。進み出たガイは、問われる前に謝罪を口にした。

 

「……ペール、すまん! スィンは……!」

「死にましたか」

「!」

 

 あっさりと。まるで夕餉のリクエストでも呟くかのように。

 彼はそう、言ってのけた。

 

「あ奴の姿もなし、皆様のお顔の色から伺えることです。そうですか。あ奴も、逝きましたか……」

 

 ペールとて、彼女の姿が見えないことから覚悟していたのか。

 言葉からも表情からも寂しさを滲ませて、深いため息をひとつ吐く。

 そして、彼はくるりと踵を返した。

 

「愚孫がご迷惑をおかけしましたな。何はともあれ皆々様、お疲れ様で御座いました」

 

 王城へ連絡し迎えを来させましょう、と言い残し、立ち去らんとする。

 それを止めたのは、泣きはらし腫れぼったくなった目を隠そうともしないナタリアだった。

 

「ペール! あなたはどうしてそのような……! スィンが、な、亡くなったのですよ! どうしてそのようなことが言えるのですか!」

「……愚孫をお気に掛けて頂き、あ奴は幸せ者で御座います。ですがナタリア殿下。悲しむことはありませぬ」

 

 足を止めたペールが、ナタリアに向き直る。

 彼は常に王女のみならず、仕える人々に対し会釈をするように──目線を合わせぬように接していた。

 しかし今、彼はナタリアの瞳を真正面から見つめている。

 

「遠くない未来、あ奴の命が潰えることは最早、避けられぬ定めでした。それがほんの少し、早まっただけのことです」

 

 ペールの手にはスィンのカルテがあり、一方一同はスィンによって大幅に歪められた事柄しかわからない。

 一同の……特にガイの反応で漠然とそれを察したペールは、あえて間違いあわせをするような真似はしなかった。

 

「ど、どういうことだ?」

瘴気触害(インテルナルオーガン)のことは御存じでしょう。それをこじらせ、その上……」

「その上? 何かあるの? でも瘴気触害(インテルナルオーガン)って、スィンは完治……」

「いえ、何も。あ奴が亡き今、何を確かめたところで不毛な話です。時にあ奴の亡骸は? 一体、何があったのですかな?」

「……それは「そうですか」

 

 言い淀むガイを前に、詳しいことは一切聞き出そうとせずに、ペールはその話を打ち切った。

 詳細を聞いたところで、何も得られるものはないと悟ったのかもしれない。

 口を開きかけたティアを制するように、間髪入れず彼は質問を重ねている。

 

「話は変わりますが、皆様はアッシュなる者を御存じではありませんか」

「アッシュ?」

 

 唐突にペールの口から彼の名を出され、一同は当然戸惑った。

 

「ああ、知ってるけど。なんでペールが……」

「このようなものが送られてきたのです」

 

 そう言って彼は、分厚い書類入れの中から二つの封書を取りだした。

 ひとつの宛名はペール。もうひとつの宛名は。

 

「アッシュと名乗る者に渡してほしいと、言付けがありました。あまりの身勝手な言いぐさに棄ててしまおうかと思いはしたのですが……」

「それはいつ、あなたの元に届いたものなのですか?」

 

 それを訊ねたのは、それまで黙って話を聞いていた導師イオンだった。

 

「イオン様……」

「つい先日のことです。消印はケテルブルクのものですな」

「確かスィンは、アブソーブゲートへ出発する直前、手紙を出していました。その時のものでしょうか」

「なんて、書いてあったんだ?」

 

 それを尋ねられ、ペールは沈黙した。その面持ちから、内心を推察するのは難しい。

 ただ、少なくとも即答しなかったということは、ただの近況報告の類でないことだけは窺えた。

 

「……ガイラルディア様。是非に、確認したいことがありまする」

 

 長くもない沈黙は、他ならぬペールの口から破られる。

 聞くことを、確かめることを恐れるような、そんな物言いに訝しく思いながらもガイは首肯した。

 

「なんだ?」

「スィンを従者の任より解いたとは、真ですか?」

「!」

 

 そのこと、か。

 

「え? ガイ、そうだったの?」

「それは……」

「解いたのですな。あ奴の働いた粗相は承知しております。無理も、ないことですか……」

「!? どういう意味だ。確かに従者をやめないかと持ちかけたさ。でもそれは、これからは家族として居てほしいと願ったからだ。答えろペール。手紙にはなんとあったんだ?」

 

 

 

 寒風吹きすさぶケテルブルクより、如何お過ごしでしょうか。

 まどろっこしいの嫌いだろうから中略するね。

 従者、クビになっちゃった。色々あったからね、しょうがない。

 僕が死霊使い(ネクロマンサー)怨んでるの、皇帝にバレちゃった。

 そんなの従者にしてる貴族なんて、目の仇にされちゃうよ。

 ガイ様は家族として接してほしいとお望みだけど、それなら尚のこと。

 家族を想うなら、やっぱり傍にはいられない。

 皇帝に睨まれることは、貴族社会じゃ致命的だよ。

 主であっても、家族であっても、ガイ様には笑顔でいてほしい。

 これまでずっと苦しんで、辛い思いを抱えて生きてきたのだから。

 

「……それは」

 

 だから、僕はもう帰らない。ガイ様の前から、皆の前から、姿を消す。

 ──頃合い、なんだと思う。カルテを見たでしょう? 

 遅かれ早かれ、僕の意志関係なく。さよならしなくちゃいけないんだよ。これだけは避けられない。

 病気が治らないのは承知の上だったけど、進行を止める術さえなくなっちゃった。

 セントビナーが崩落して、あの薬草を作っていた土壌、なくなっちゃったからね。

 その上で……ヴァンの子供達を、宿した。

 

 

「それは、言えませぬ」

「ペール!」

「あ奴はもういないのです。いなくなってしまった者のことで議論しても、始まりませぬ」

 

 

 ……好都合かな、って、考えなかったわけではないの。

 皇帝は僕がいなくなって胸を撫で下ろす。

 ジェイドは死なずに、殺されずに済む。

 ガイ様も、マルクトで窮屈な思いをせずに済むはずだよ。

 そして僕は何の気兼ねもなく、この子達の母親でいられる。

 ……ごめんね。渡りに船って、思ったかもしれない。

 僕はこの子達のお母さんでいたい。最期の、そのときまで。

 望みに望んで諦めた、ヴァンの子だから。

 生きにくくしてしまって、ごめんなさい。

 血の繋がらない私を家族のように扱ってくれて、ありがと。

 それじゃあ、さようなら。どうかお元気で。

 

 

「ペール……」

「あの馬鹿者め。こんな年寄りを置いて先にいくとは、とんだ不孝者じゃ」

 

 温厚な彼にして珍しく吐き捨てるように──やりきれない悲しみを吐露して、失礼、と詫びを示す。

 

「取り乱しました。手紙の内容についてはどうか、ご勘弁願いたい。あ奴がこのことを、あなた方に知ってほしいと思っていたならば。間違いなく自分の口で言っているはずなのです。どうか、ご容赦願います」

 

 そう言って、ペールは封書の一通を書類入れに仕舞いこんでしまった。

 それを力づくで奪取することは可能だが、それを実行する人間はいない。

 

「……ペールがそう言うなら、今は何も聞かない。いつかは、話してくれるよな?」

「…………そう、ですな」

 

 それがいつかはわからない。

 この出来事が思い出となる頃に。

 あるいはペール自身が、この世を去る前に。

 それを言及することなく、ペールは封書のひとつを改めて提示した。

 端的に「アッシュへ」と表記された、飾り気も何もないそれを。

 

「して、この手紙をどうしたものかと……」

「それを預けてくださるなら、私達でアッシュを探して「その必要はない」

 

 ティアの言葉を遮って、足音高く現れたのは。丁度話題に上っていた、アッシュその人だった。

 眉間の皺はいつもより深く刻まれ、吊り気味の瞳は明らかな不機嫌さを浮かべている。

 初めて、否、二度目の邂逅となるペールは当時を思い出したのだろう。驚きを露わとしていた。

 

「おぬしは、あのときの……」

「アッシュ!」

 

 彼を前にして、思わずといった調子でナタリアが駆け寄る。

 瞬く間に不機嫌さを散らして戸惑うアッシュだったが、縋りつく彼女を支えて言葉を失った。

 

「お、おいナタリア」

「スィンが、スィン、が……!」

 

 泣きはらした瞳から枯れない涙を零し、泣き崩れる。

 それを目の当たりにしてわざわざ事実確認をするほど、彼は朴念仁ではなかった。

 

「……!」

「真紅の髪に黒ずくめ、目つきの鋭い翠眼にルーク様に酷似……おぬしが、か」

 

 人通りが皆無とはいえ、このまま話ができるわけもない。

 ナタリアがすぐに泣きやみそうにもないと踏んだペールは、一同をとある建物へと誘導した。

 

「……ここって」

「ここの道場主とは知り合いでしてな」

 

 随分昔のようにも思える。

 そこはかつて、ルークが親善大使としてアクゼリュスへ向かう直前、ガイに連れられ訪問したミヤギ道場であった。

 

「ペールではないか、ガイも……それにお主らは、いつぞやの」

「お知り合いですかな?」

「前にちょっと、な」

 

 驚くミヤギに取りなし、道場の一角に集う。

 スィンは息災か、とミヤギが口走ったところで発生した張り詰めた空気を読んだ結果なのか、彼の姿はない。

 ようやく落ち着いてきたナタリアが「ごめんなさい」と嗚咽混じりにアッシュから離れたところで、ペールは切り出した。

 

「ご無沙汰しております。いつぞやの騒動におきましては、孫が世話になりました。自己紹介は、必要ですかな?」

「必要ない。シアから……スィンから、俺宛てに手紙があるんだろう」

 

 不躾に手を突き出すアッシュだったが、ペールがそれに応じる気配はない。

 スィンをシアと呼ぶ彼の様子に眉を動かすも、ペールがそれを言及することはなかった。

 

「アッシュ殿。ひとつ、伺いたい。スィンとは、あ奴とはどのような間柄ですかな」

 

 ルークであった彼を誘拐した張本人。

 アッシュが教団に入ってからは、ヴァンに代わる目付役にして、世話役。

 現在に至るまでは、一同とアッシュの連携をより円滑なものとした、橋渡し。

 

「……それを聞いてどうする」

「どうもしませぬ。ただ、あの独りよがりで見栄っ張り、思いこみが激しくて『自らが後悔しないために』一度こうと決めたら梃子でも動かぬ頑固者が、何故あなたに手紙を残したのか。あなたは何者なのか。それを知りたい年寄りの繰り言です」

 

 言外に答えなくてもいいと告げるペールだが、それさえも建て前であることを見抜けぬ彼ではない。

 ひとつ息をついて、アッシュは口を開いた。

 

「あいつがダアトにいた頃、何をしていたのかは知っているか」

「ヴァンの伝手で教団に属し、細々と補佐をしていたと聞いています」

「その時に知り合ったようなもんだ」

 

 一概に間違いではない。

「本物のルーク」ではなく「アッシュ」がスィンと──シアと関わりあったのは、間違いなくその時分からだ。

 

「当時、教団は慈善活動の一環で孤児院からあぶれていた孤児連中を引き取った。あいつはその世話役をしていて、その中に俺も放り込まれていたんだ。なんというか……その、俺にとっては育て親みたいなものだ」

 

 極めて淡々と、アッシュは語った。

 当人を前にしていたら、間違いなく伏せられていた事実でもある。

 一同としては驚きを隠せない。例外は、当時から噂を耳にしていたアニスだけだ。

 

「そ、育て親ぁ!?」

「やっぱり……」

「俺の主観だ、他の連中だって似たようなものだ! ただ、あいつを母親呼びした奴はもれなく尻叩きの刑に……そんなことはどうでもいいだろう!」

 

 彼の言う他の連中とは、平和条約締結後の騒ぎで垣間見えた、スィンに所縁ある黒ずくめの少年少女達を指すのだろうか。

 彼らが他ならぬスィンの手によって死亡していることを知ってか知らずか。

 アッシュはその話題を打ち切った。

 

「……呼んだの? スィンのこと、お母さんて」

「そんで尻を叩かれたのか?」

「呼んでないし叩かれてもいない! そういうことがあったから気をつけろと、当時警告されただけだ」

 

 アニスやルークから他意がないはずの質問≠茶々にもめげずに、アッシュはペールに視線を向けた。

 彼は「育て親……」と口の中で反復するように呟いている。

 

「信じられねえって顔だな」

「あ奴が他人様を自分の子のように扱うなど、少々信じ難く思っています。当時は子が成せなかったとはいえ、なんと厚顔無恥な……」

「俺の主観だと言っているだろう。あいつがどう思っていたかまでは知らん。ただ」

「ただ?」

 

 スィンは、憎きファブレ公爵の血縁であるアッシュをはっきりと疎んでいた。

 アッシュには早々に悪感情を持っていることも、その理由も告げられている。

 それが態度として彼に向けられることこそなかったが、果たして一般的に母親が子に抱く感情があったかどうかは、甚だ怪しい。

 

「あいつが俺を、自分の子供扱いしたことは、ないと思う」

「──左様、ですか」

 

 ここでペールは、思い出したように封書をアッシュに手渡した。

 

「読み終えたならば、手早く手離したほうが良いかと存じます。あ奴め、くだらん手品を……」

「おい、人の話くらい聞けよ」

 

 

 ──これを目にしているということは死んだか消えたか。

 少なくとも私の姿はないようですね。正気を取り戻したようでなにより。驚かせてしまいましたね。

 

 

「どれどれ」

「横から盗み読みすんなよ、ジェイド!」

 

 

 単刀直入に申し上げましょう。あなたに殺されてやることはできなくなりました。

 理由は先に告げた通り──私はこの子達の母親として一生を全うすると決めたからです。

 探しても無駄ですよ。あなたに見つかるようなヘマはしない。

 仮に見つかったとしたら、それは私が没した後でしょう。

 私の死に顔踏んづけたいなら止めませんけど、きっと時間を無為に費やすだけなのでお勧めはできません。

 私が消えたことを前提で話をしていますが、今の時点で生きているかどうかも、わからないわけですし。

 

 

「! この字って」

「ティアまで……」

「色が少し変だわ。まさか、血文字……?」

 

 

 そんなことはさておいてですね。

 生きているか死んでいるかもよくわからない人間に振り回されるなど、愚の骨頂。言うまでもなく時間の無駄でしょう。

 だからあなたはもう、あなた自身のために生きるべきです。

 私がいないからといって私に近しい人達に何かしたところで、私にそれを知る術はない。

 従って何か思うこともないし、あなたが薄汚いケダモノになり下がるだけ。お薦めもしませんが止めもしません。

 誇り高いあなたにとって、それが己のためになると本気で思いこんでいるのなら。止めようもない。

 私の持論ですが、復讐ほど辛くて消耗して己が身を滅ぼしかねないことはないと思っています。

 何より、復讐を果たしたところで何も返ってこないのですから、不毛以外の何者でもない。

 自分の気は晴れるかもしれない。引き換えに、大切なものを失うことは確かで、間違いなく割には合わない。

 それが理解できていても、私の中で恨みつらみが消えることはありませんでしたが……それが判っていて、なお。

 

 あなたの時間を無駄にしないでください。

 あなたの時間は、あなたのためだけに使ってください。

 

 美味しいもの食べたら笑ってほしいし、綺麗なものを見て心豊かになってほしい。

 大切な人に優しくしてほしいし、優しくされてほしい。ただ自分のために、利己的に幸せを求めてほしい。

 あなたの人生を滅茶苦茶にした人間が言えることじゃない。そんなことはわかっています。

 本当にごめんなさい。

 謝ったところで許されるはずもなし、許される気もしませんが……あなたの顔を見て謝罪する勇気が、どうしても出なかった。

 遅ればせながら手紙にて失礼します。

 

 

「……」

 

 

 そうそう、この手紙。

 一定時間が過ぎたら消滅するように仕込みました。

 火傷には十分、お気をつけて。

 

 

「……なに?」

 

 最後の一文を読み終えて、思わず声が出た、その時。

 記されていた文字のひとつひとつが陽炎のように揺らめいたかと思うと、熱を伴う光が宿った。

 

「うわっ!」

「危ない!」

 

 にじみ出るように発生した炎は、赤い舌で舐めとるようにじわじわと羊皮紙を浸蝕していく。

 ナタリアにはたかれたことでアッシュが手紙を取り落とした途端、勢いを増した炎は瞬く間に便箋を丸呑みした。

 その勢いたるや、床に落ちるより早く燃え尽きた辺りで察しがつく。

 どういうことか、燃え滓も灰もなく便箋は消滅してしまった。

 

「い、今のは……」

「自らの血液をインクに混ぜ、それを媒介に第五音素(フィフスフォニム)を練り込んだようです。儂宛ての手紙にも、同じ小細工が施されていました」

 

 そのため、ペールの手元にも便箋本体はなく、残ったのは封筒だけだという。

 危うく手袋に引火するところだったアッシュは、言葉もなくわなわなと震えていた。

 

「そんなことできるもんなのか?」

「確かに機密文書は速やかに破棄するものではあるけど、自動で焚書する術なんて聞いたことが……」

「あの野郎! どこまでも人をおちょくりやがって!」

 

 残った封筒を握りつぶし、アッシュが吼える。

 怒りを、内包する感情を隠さずに彼はルークへ詰め寄った。

 

「な、なんだよ」

「あいつは何故死んだ。一体、何があったんだっ!」

 

 怒り狂っているように見えて、ガイやナタリアにそれを尋ねないだけの理性はあったようだ。

 しかしルークとて、全てを知っているわけではない。

 

「そ、それは……」

「あったことを話すのは容易いが、我々にも把握しかねる事態ではありました」

 

 割って入ったのは、そろそろ通常に戻りつつあるジェイドだ。あるいは、戻らざるを得ないのかもしれない。

 飄々としたジェイドの物言いに、アッシュは怪訝そうに鼻を鳴らした。

 

「把握しかねる、だぁ? まるで見てなかったかのような言いぐさだな」

「その通りです。道中、突発的な事故で我々は別行動を余儀なくされた。丁度孤立してしまったスィンの前に、見計らったかのようにヴァンが現れたのです。それが、生きている彼女の、最後の姿でした」

「……その場で、斬り殺されたのかよ」

「いえ。合流を果たしたその後、二人を発見したのですが……その時すでに、スィンは頭を割られていた」

 

 当時を思い出してか、アニスの顔に影が差し、他の面々も俯きがちになる。

 バチカルにつくまでアブソーブゲートでの出来事をあえて聞かなかったイオンは、顔色を青くしていた。

 それ以上に。

 

「頭、を……」

「割られて……いや、あ奴の頭が割れていた!? そ、それは真ですか」

 

 これまでにない激しい動揺を露わとしたのは、スィンの死を確認しても冷静たらんと己を律していた、ペールだった。

 何故彼が、スィンの死因を聞いてうろたえるのか。

 一同の視線を集めていることにすら気づかぬまま、彼は独白を続けている。

 

「ご老人、何か思い当たることがあるのですか」

「それが事実だとすれば、あ奴は……!」

 

 いぶかしげなジェイドの詰問も、聞いている様子はない。

 そこへ。

 

「……従属印」

 

 ぼそりと呟かれた言葉は耳に入ったようで。ペールはびくりと肩を震わせた。

 それを口にしたのは。

 

「ガイ」

「この件が済んでから、確認しようとは思っていた。あいつには……スィンには、従属印が刻まれていたのか」

 

 地核停止の際、忌々しげに吐かれたシンクの悪態が思い起こされる。

 カースロットすらもはねのける従属印。

 つまるところそれは、カースロット以上に強い力をもってしてスィンに強いていたことになるのだ。

 他ならぬガイへの、無自覚の忠誠を。

 

「それを、その存在を一体どこで……」

「あいつが俺の従者だったのは、ずっと俺につき従っていたのは! あいつに刻まれた譜陣がそうさせていたのか!?」

 

 今にも掴みかからんばかりに問い詰めるガイを見て、皮肉にも己を取り戻したようだ。

 次に言葉を発したペールは、完全に平静を取り戻していた。

 

「……お答えするわけには参りませぬ」

「ペール!」

「……それは古きホドの民に伝わる、今では失われた秘術。その存在も詳細も、みだりに口にすることはできぬのです」

 

 たとえこの口が引き裂かれようとも答えられることはない、とまで言われてしまい、ガイに成す術はない。

 

「答えられねえってことは、そいつが答えか。あいつが死んだのは少なからず、その従属印とやらが絡んでいる」

「……お答えできません。すでに亡きあ奴について語ったところで、もう戻らぬのです」

 

 アッシュの追撃にも動じることなく、ペールは表向き泰然としている。

 ガイの目を見ることもできず、力なく伏せがちなその視線を除けば。

 

「スィンはこの事を知っていたのですか? 自分にそんなものが刻まれていたなんて……!」

「お答えできません」

 

 もはやにべもない。

 どこか「ジェイドを憎む理由」を黙秘し続けたスィンにも重なる態度で、ペールは言葉を濁し続けた。

 ふと、老人が目を上げる。ある一点を注視し、何の含みもなく足を踏み出し──

 気づけば彼は、ガイが携えていたはずの血桜を抜刀していた。

 

「……えっ!」

 

 けして力づくで奪われたわけではない。

 抜き取るように掏り取るように、ごくごく自然にペールは血桜を手にしていた。

 抜き放った緋色の刃をじっくりと見つめ、唸るように呟く。

 

「……疵がありませんな」

「大切な家宝だと言って、手入れを欠かさずにいたから……」

「ヴァンと、この刀で交戦はしなかったようです。打ち合った形跡もありませぬ」

 

 惚れた男が相手とはいえ仕合いもしなかったのか、何をしていたのかとため息をつく。

 そのまま納刀した彼は、ひょいと自らの片手を己の眼前に掲げた。

 その手には長年使いこまれた革紐と、それに繋がれた胡桃大のロケットペンダントが絡みついている。

 それを見てガイは、慌てて自分の懐を探り──首に提げていたはずのそれがなくなっていることを、初めて知った。

 

「スィンじゃあるまいし、手癖が悪いぞ、ペール!」

「この技術をあ奴に仕込んだのは他ならぬ儂です。こうでもしなければ、ホド亡命後、儂らに生きる術はありませんでした──ときに、あ奴が遺したのはこれだけですか?」

 

 個人的な手荷物等は、残っていない。スィンはそれらすべてを身に着けて決戦に臨んだのだと回答を得て、ペールはひとつ頷いた。

 

「そうですか……」

「なんだ? 墓にでも、供えるのか」

「いいえ。アッシュ殿、何かお持ちなのですか? あ奴の持ち物を」

 

 少しでも、スィンが生きていた証を手元に置いておきたいのだろうか。

 軽く胸元を押さえたアッシュを、ペールはじっと見つめている。

 一同の注目を受けて、彼は探った襟ぐりから細鎖を引き、それらを取りだした。

 

 響律符(キャパシティコア)仕様の銀環、シア・ブリュンヒルドの名が打ち込まれた楕円型のプレート──認識票(ドッグタグ)

 

「その指環って、スィンがずっと着けてた……」

「ヴァンとの、婚姻の証ですな。こちらの認識票は、神託の盾(オラクル)騎士団に所属していた際のものですか。これをどこで?」

「……棄てようとしていたから、預かっただけだ。これをどうするつもりだ」

 

 渡してもらえればそれはわかると、ペールは言った。

 何も語らず、語ろうともせず、物だけ渡せとは随分な言いぐさである。

 それをそのまま口に出して、アッシュは思わぬ反撃を受けた。

 

「亡きあ奴を慕ったところで、不毛なだけですぞ」

「べ、別に慕ってなんかねえよ!」

「ならば構いませんな」

 

 抵抗する暇もあらばこそ。

 まるで奇術師が鳩でも取り出すかのように、アッシュの手からふたつは消えた。

 スィンが遺した数少ないそれを抱えて、ペールはくるりときびすを返している。

 そのまま歩みを進め──彼は無言で道場から出ていってしまった。

 

「お、おい!」

「追いかけましょう」

 

 唯一、イオンだけがおそるおそる顔を出したミヤギに事情を説明すると言って残り。

 アッシュを含む他一同は、老人らしからぬ俊足で道場を飛び出したペールを追いかけた。

 

「い、いきなりどうしたんだよ、ペールは……」

「いた! あそこだよ!」

 

 アニスの指の先には、天空客車の前にて佇むペールの姿がある。

 港行きではなく反対の方角、すなわち工場跡地行きの天空客車だった。乗り込もうとしている様子はない。

 血桜を、ロケットペンダントを、銀環と認識票を繋ぐ細鎖を携えたその手が、客車ではない場所へ差し出される。

 ぽっかりと口を開けた、譜石の落下跡の底へ──

 

「ペール!?」

 

 ガイの驚愕が聞こえたのかどうか。彼は何ら動ずることなく、その手から力を抜いた。

 一同がその場所に辿りついたその時にはもう、手放されたそれらも見えない。

 未だ奈落へ落ち続けているのか、あるはずの底に叩きつけられた音もしない。

 

「てめえ、何を……!」

「や、やめてくださいませ!」

 

 とうとうペールの胸倉を掴みあげたアッシュだったが、割り込んだナタリアに気を取られ、あっけないほど簡単にペールは彼から逃れている。

 しかし、ペールはもはや、アッシュを見てなどいなかった。

 

死霊使い(ネクロマンサー)殿。愚孫があなたに働いた粗相を、皇帝はどのようにお考えなのでしょうか」

「!?」

「どうか、皇帝へ取りなしを願いまする。あなたの殺害を企てた張本人は死んだ。儂にも、ガイ……ガルディオス家継嗣も、あなたに対し思うところはありません。それはこれより、証明してゆくこととなるでしょう」

 

 遺物は処分し、墓を立てることもしない。スィンフレデリカの名も、ナイマッハの家より除名する。

 スィンを、初めからいなかったものとする。

 ペールは、そう言ったのだ。

 

「ぺー、ル……」

「そもそも、スィンフレデリカ・シアン・ナイマッハは生まれてくることができなかった、儂の本当の孫娘につけられるはずの名でした。あ奴は……本来、ただの代替え品にしか過ぎなかった」

「!」

「お調べくださればわかることです。ホドが、大地ごと消滅していなかったとしたらの、話ですが……」

 

 誰も何も言えぬままに、時が過ぎゆく。

 冷たい風は横切るように、吹き抜けた。

 

 

 

 

 

 ──言うまでもないことだとは思いますが。

 私がいなくなったなら、残った物はすべて処分してください。物だけではなくて、私の名前も。

 もともとは、あの人達の娘に、あなたの本当の孫娘につけられるはずだった名です。

 その上で死霊使い(ネクロマンサー)──ジェイド本人に皇帝への取りなしを依頼すれば、私がしたことは帳消しにはならずとも、縁坐まではいかないでしょう。

 幸運を。

 

 

 ガルディオス家、左の騎士たるナイマッハの一員として、最後の血脈として。

 ペールは、真実を秘するという形で。主の忘れ形見を、守護した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「The abyss of despair」を書ききっての、あとがきのようなものです。
 お話の内容とは関係ありません。
 キモイ一人語りなので、閲覧注意の方向で。

※書き終わった当時のものを再掲載しております。


 


 とうとう終わってしまいました。奈落の底への物語(本当


 いやー、終わった! 終わった! やっと書き終えたヒャッフー!! 
 完結する完結するって念仏のように繰り返してきた甲斐があったぜイヤッフー!! 
 これでもう自分で設定した締め切りに追われずに済むヒャッホゥゥゥ!! 

 書き切った瞬間の感想はこんなもんでした。アタマ悪い文章でごめんなさい。酔ってないですよ? 
 数にして百三十六+アルファ。
 原作にオリジナルを混ぜ混ぜした改悪錬金術小説とはいえ、よくもまあこれだけ書けたもんだ。
 自分で自分を褒めてやりたい。さあ、全然進んでないモン●ンやろうかな~♪ 
 そんな感じで浮かれ調子、真夜中の謎なハイテンションのまま。
 とっておきのお酒で祝杯挙げて、そのまま寝こけたわけですが……
 翌日風邪を引きました。そのまま、三日ほど寝込む事態に。
 季節の変わり目だったので、お酒飲んで布団入らず半裸で寝てたら、当然の結果ですね。
 特に気にも留めていませんでした。熱が出ていて意識朦朧状態では、そんな余裕もありません。
 看病してくれる人間なんておりません。
 なので粉ポカリを水に溶かして飲み、冷凍庫のお握りをどうにかおかゆに加工して食いつなぐこと三日ほど。



 久々に夢を見ました。起きた後も覚えている強烈な奴です。
 スィンに殺されるという内容でした。
 夢の中では痛くないなんて、嘘です。
 めっちゃ痛かった。というより、熱かった。
 初めて見た血桜の刃は透き通るような緋色で、私の想像以上に美しい代物でした。
 綺麗だな、と思った瞬間、斬られたらしくて。
 うつ伏せになった私をスィンが何か喚きながら、血桜振り下ろしてたのかなー……
 脳天に衝撃が走って、頭皮と髪が生暖かくて、ぬるぬるしていたことだけは覚えています。
 自分の視点だったので、いまいち状況は把握していなかったですね。
 彼女が何を言っていたのはわからなかったし、わかったとしても覚えていません。
 どんな顔をしていたのか、どんな声をしていたのか。それも、覚えていません。
 ただ、必死に何かを訴えていたことだけは、確かでした。


 次の日にはもう、風邪はけろりと治っていました。
 たかだか夢です。
 話を考え始めていたときから決まっていた結末とはいえ、彼女をああいった目に遭わせたことが私の中で多少なりとも罪悪感が生まれ、表層に出てきたのでしょう。
 ただ、自分の考えた結末を読み返して、思います。
 こんなに後味悪いままで終わって、いいのかと。

 とあるアニメのOPソングのワンフレーズに、こうありました。
「終わらせない。始まりなさい」
 理由はわかりません。しかし、まるで打たれたかのように心を震わせます。
 やっぱりそれは、私もまだ終わりたくないとどこかで思っているからでしょうか。


 そんなわけです。
 色々考えた結果、次回より新シリーズ「swordian saga」を展開します。
 主人公は夢の中で私をメッタ打ちにした彼女を起用。
 ジアビスの世界より「不朽の名作」デスティニーの世界へクロスオーバーさせます! 

「The abyss of despair」オリジナルキャラクター、スィンフレデリカ・シアン・ナイマッハを気に入ってくださった方。
 彼女の行く先に興味のある方。
 あるいは、私の書く小説に多少なりとも興味を抱いてくださる方。
 

 今まで以上に夢小説チックになりますので、苦手でしたらごめんなさいね。

 ここまでお目を通してくださり、ありがとうございました! 


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