fluffy life (海月 水母)
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第1話 五人の日々はのんびりと
おはようのある朝


「んうぅ………」

 

 

冬空の雲間から陽光が射し、屋敷の部屋に朝を告げる。

朝陽の射す先には白いベッド。全体をふんわりと覆った厚い掛け布団の中から、もぞもぞと顔を出す人の姿があった。

太陽の光に誘われるように現れたのは、百合の花のように白く、美しい顔立ちの女性。銀色のミディアムヘアも美しい…はずなのだが、今は布団に潜っていたせいかあちこちに跳ね、顔にも掛かってしまっている。

長い睫毛に触れた銀髪を手で払うと、ひんやりとした空気を防ぐように掛け布団を口元まで覆い、またすぅすぅと寝息を立て始めた。

とうに日も登り切った時間。それを気にすることもなく、彼女は気持ちよさそうに眠り続ける。

 

 

またもぞもぞ、と布団が動く。

今度は女性ではない。別の"誰か"が、掛け布団の中に潜り込んだのだ。

布団を頭から被り、"誰か"は女性に跨がるように乗る。それでも女性が気づかず眠り続けるのは、"誰か"がとても軽いせいか眠りが深すぎるからか……。

 

 

「ご主人…。ごーしゅーじーーん…。」

 

 

「ご主人」。

聞き慣れない呼び方と高く澄んだ少年の声で"誰か"は女性に呼びかける。けれど、女性からは寝息しか返って来ない。

 

 

「…もうっ。ご主人ー!起きろよー!!」

 

 

今度は大声。女性の頬もぺちぺちと叩きながら、モーニングコールは続けられる。

…女性の気持ち良さげな表情が、少ししかめられた。どうやら今のでようやく起きたらしい。意識が鮮明になり、射し込む光も、自分の上にある少しの重みも、脳が認識し始めた。

 

女性の瞼が、ゆっくり開く。

長い睫毛と蒼玉(サファイア)のように深い青色で彩られた瞳は、次第に上に乗る人物をぼんやりと認識し始めた。

 

 

「クート……おはようございます…。」

 

「うん、おはようご主人!…ちょっと寝すぎだよ、まったく…。」

 

「あはは、すみません…。起こしてくれて、ありがとうございました。」

 

 

寝惚け眼を擦りながら、女性は微笑んでそう挨拶をし、少年の頭を撫でた。

クートと呼ばれた少年は嬉しそうな笑顔を浮かべ、女性が上体を起こして起き上がるのに合わせて布団を出た。

起きた女性は銀髪を掻き上げ、サイドテーブルから縁を赤で彩ったアンダーリムの眼鏡を手に取る。

眼鏡には小さく『tia(ティア)』の綴りが刻まれている。

自分の名前を確かめるように文字を見つめ、

女性は――ティアはそっとその目に眼鏡をかけた。

 

 

視界が鮮明になり、クートの姿もはっきり見える。

人懐っこい笑顔。ゆったりとしたワンピースタイプのパジャマ。セミロングの栗色の髪はウェーブがかかり、ふわりと柔らかそうに揺れている。

 

 

 

 

…その髪の上には、髪色と同じ犬耳が垂れている。パジャマの下からは、これまた栗色をしたふわふわの尻尾が覗いている。

 

ティアは何度か瞳をしばたたかせ、腕を天井に向けて伸びをした。ふぅ、と息をついて前を見れば、クートが八重歯を覗かせて笑っている。

 

 

「目、覚めた?」

 

「はい、なんとか………ふぁぁあ……」

 

「あははっ、おっきなあくび!

しょうがないなあご主人は。…ほら、オレの手繋いで?」

 

 

屈託のない笑顔で差し出されたクートの手のひらに、ティアは自分の手のひらを添える。

自分より一回り以上小さな少年に手を引かれる姿は、成人女性の威厳とは程遠いのだが…未だ微睡みの中にいるティアは特に気にることもなく、クートに身を任せるようにして寝室を出るのだった。

 

 

 

 

 

クートに手を引かれ、ティアは部屋を出て廊下を進む。ティアの部屋と似た間取り、ベッドや壁紙の色がそれぞれに異なる部屋が見える。ティアの部屋を含めて、使われているのは五つ。その先には、小さな書斎がある。

 

二人がそこを通り過ぎたとき、書斎の奥でまた"誰か"が動いた。

音を立てず、そろそろと扉まで近づいてゆき……

 

 

「とうっ!」

「わっ……!」

 

 

驚かせるように、ティアの腰の辺りに飛びついた。

ティアはびっくりした声を上げ、思わずクートと握った手も離してしまう。

そのまま下を見れば、クートと同じくらい、少し低い身長の少年がティアのパジャマに埋まるように抱きついていた。

 

 

「おはよー、ねぼすけご主人様。」

 

「…ユナでしたか。おはようございます…というか、朝からあまりびっくりさせないでくださいよ…?」

 

「えへへ、ごめんごめん。」

 

 

グレーのボブカットの髪を揺らして、悪戯っぽい笑みを返すユナと呼ばれた少年。彼にもまた、髪色と同じ尻尾、そして猫耳が生えている。

ひとしきりティアのパジャマに頬擦りをしてから、ユナはぱっと一歩離れて質問を投げかけてきた。

 

 

「ところでご主人様、今日の僕、いつもとちょっと違わない?」

 

 

突然の質問に、ティアは首を傾げる。正直、まだ頭がぼーっとしていてあまり思考が働かないのだが…。

目を擦り、眼鏡をかけ直してユナを見る。

…そういえば、普段は身につけていないものが今日のユナには付けられていた。

 

 

「…あれ、その眼鏡…」

 

「おっ、正解ー!どうどう、可愛いでしょ?」

 

「可愛いですけどそれ、私の予備の眼鏡じゃ……」

 

 

ティアの指摘も気に留めず、眼鏡の柄に指を添えてポーズをとるユナ。あざとさのあるポーズだが、女の子にも見間違うユナの顔立ちに眼鏡がによく似合っているのも事実だった。

 

 

「こら、ユナ!ご主人のもの勝手に使っちゃダメだろ!」

 

「えー、いいじゃんこれくらい…クーくんのケチ…。」

 

 

…やはりと言うべきか、すかさずクートがぷんぷんと怒り出すのを見てティアは苦笑する。

イタズラ好きなユナをクートが叱るのは、この家で毎日のように見る光景だ。

叱られたユナは頬を膨らませているが……行き過ぎたイタズラはしないとはいえ、大抵クートの説教を受けてもユナは反省していない。

 

…あるいは、構ってほしくてイタズラをしているのかもしれないけれど。

 

 

「僕だって可愛い眼鏡かけたいもん。ほら、似合ってるでしょ?」

 

「そりゃ、可愛いけど……そういう問題じゃなくて!ユナが持ってると壊しちゃいそうだし!」

 

「えー………そうだ、クーくんもかけてみなよ!」

 

「なっ…!? いやオレは別に…」

 

「まあまあ、クーくんも可愛いんだからさ。きっと似合うよ、眼鏡!」

 

 

恥ずかしいのか途端に大人しくなったクートに、ユナが悪戯笑いを浮かべながら眼鏡を薦めている。

…実際クートのふんわりした雰囲気や人懐っこい顔立ちも可愛らしいので、案外眼鏡も似合うかもしれない。…そんなことをぼんやり考えながら、

 

 

「仲良しですねえ…。」

 

 

二人を見つめるティアの瞳は、母か姉のように慈愛に溢れた穏やかなものになっていた。

…とはいえ、いつまでも廊下で立ち往生している訳にもいかない。ティアの下腹部が、ぐうぅと空腹を訴え始めたのだ。

 

 

「もう先に行きますよ…。ユナは眼鏡、後でちゃんと返してくださいね。」

 

 



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モーニングとわちゃわちゃと

「ほわ………」

 

「わあっ…!」

 

「んん~…!」

 

 

階段を降り、一階のキッチンにやって来た三人は、ほぼ同時に短かな歓声を上げた。

キッチンから、美味しそうな匂いが香ってきたのだ。

こんがりとしたトーストと、温かいスープの香り。同時にフライパンで油が跳ねる音もする。卵とベーコンが焼ける、食欲をそそる音と匂いに、三人のお腹が揃って音を立てる。

 

 

 

「あっご主人さん…おはようございます!」

 

 

キッチンテーブルに座っていた、クートやユナよりも幼い少年が三人に気づいて挨拶をした。

肌も髪も、白雪のような純白。軽めのショートヘアの髪からは、ロップイヤーの兎耳が長く垂れている。

声も顔立ちもまだ無垢であどけない少年は、少し控えめな微笑みを三人に向けている。

 

湯気の立つマグカップを両手で握った少年の顔を見て、呼びかけられたティアは少し可笑しそうに微笑んだ。

 

 

「おはようございます、フィユ。…泡、ほっぺたについてますよ。」

 

「ふぇ…?」

 

 

フィユと呼ばれた少年はぽかん、とした表情を浮かべる。飲んでいたカフェラテの泡が頬に付いているのだが、当人は気づかなかったらしい。

クートがナプキンを手に取り、フィユの頬に手を添えた。

 

 

「オレが拭いてあげる! フィユ、ちょっとだけじっとしててな。」

 

「あっ、ありがとうクートお兄ちゃん…。」

 

 

目を閉じてクートに泡を拭われながら、フィユは少し恥ずかしそうに頬を染めていた。

とても恥ずかしがりのフィユは、その上白い肌なので照れていることがすぐに解る。

少し引っ込み思案なフィユと、人懐っこく世話焼きなクート。屋敷の皆は全員仲良しだが、この二人はとりわけ実の兄弟のような距離感で微笑ましい、とティアは思う。

 

 

 

一方、ユナはキッチンへと歩いて行き、フライパンを器用に扱うもう一人に声をかけていた。

 

 

「良い匂いだねー。朝はベーコンエッグ?」

 

「ああ、もうすぐ焼けるから待ってろよ。」

 

 

他の少年達より少し低い、よく通る声でそう応えたのは、凛としたつり目の美少年。

身長も少年達の中では一番高く、所々が外側に跳ねた、毛量の多いロングの黒髪を後ろで一つ結びにし、エプロンを纏っている。

 

彼の頭にも黒く長い狼のような耳が伸び、腰からは一際大きな尻尾が生えている。

と、そのつり目が近づいてくる女性を捉えた。

 

 

「おはようございます、リオ。」

 

「おう、やっと起きたか、主。」

 

「クートのおかけでなんとか、ですけどね…。本当に、リオが美味しい食事を作ってくれて、いつも助かっていますよ。…ありがとう。」

 

 

ティアはそう言って微笑みかけるが、リオは「そうか。」とだけ返してまた料理に視線を戻してしまう。

…一見無愛想にも見えるが、その実リオの尻尾はティアに褒められて、嬉しそうにぶんぶんと振られていた。後ろに立っていたユナにはそれが見え、思わずにやにやと笑みが零れる。

 

 

「ユナ、焼けたやつから運んでいってくれ。……なんだよ、俺が何か可笑しかったか?」

 

「んふふ、別にー。」

 

 

不思議そうに首を傾げるリオを背に、ユナはベーコンエッグの乗った皿を運ぶ。

尻尾が感情に合わせて動いていることに、リオ自身がまだ気づいていない。そのことがなんとも可愛くて、ユナは一人ほくそ笑んでいた。

 

 

「…まあ、リオはまだ()()()()()()()、よく知らないもんねー。」

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

「ユナ、スープふーふーしてあげよっか?」

 

「クーくん過保護すぎ…冷めるの待つから大丈夫だって。…ねえフィユ、僕の分もサラダ食べる?」

 

「ふぇ…? い、いいのかな…。」

 

「ユナ、自分で食べろ。」

 

「好き嫌いしていては、大きくなれませんからね。」

 

「ちぇー…」

 

「フィユ、カフェラテおかわりするか?」

 

「あ、うん!ありがとう…リオお兄ちゃん。」

 

 

 

 

雪が静かに降り積もり、窓の外を白く彩ってゆく冬の朝。

薪をくべた暖炉のパチパチという音と、賑やかに朝食を囲む五人の声が楽しげに響く。

 

街を外れた小高い丘にぽつりと建つ、小さくも立派な屋敷。おとぎ話の洋館のような佇まいの屋敷に住むのは、主のティアと獣耳を備えた四人の少年。つまりはここにいる五人で全員だ。

 

 

 

 

「ねえねえ皆、今日は何しよっか?」

 

 

パンを頬張りながら、クートが皆に質問を投げかける。

こういう質問をするときは、大抵クート自身にやりたいことがあるときだと全員が知っている。

と、案の定クートの言葉が続いた。

 

 

「オレさ、雪だるま作ってみたいんだ!」

 

「雪だるま…?」

 

 

言葉の意味を知らず首を傾げるフィユに、クートはにっと笑いかける。

その尻尾は既に楽しみで仕方ない、とでも言いたげに忙しなく左右に振られている。

 

 

「そうそう、雪を丸めて大きい玉にして、それを重ねて作るんだって!枝で腕とか顔を作ったりして…あ、鼻にはニンジンを使うらしいよ!」

 

「へえぇ…楽しそう!」

 

「えー…僕寒いの嫌だなぁ…。部屋でぬくぬくしてようよ、ご主人様も一緒にさ。」

 

 

乗り気でないユナは口を尖らせ、猫なで声でティアに甘えた視線を送る。が、そこへリオが静かに口を挟む。

 

 

「主は、今日も執筆だろ?」

 

「そうですね。まだ書き上がっていない原稿もありますし…今日はあまり遊んであげられないかと。」

 

「そんなぁ…今日はご主人様と遊べると思ったのになぁ…。」

 

「すみませんね、ユナ…。」

 

 

空白の残っている原稿、自分の()()のことを思い出して、ティアは小さくため息をつく。書くことは楽しいし、自分で選んだ道ではあるが、そのためにこうしてがっかりさせてしまう時は、仕事を恨めしく思う気持ちにもなる。

代わりにとユナの頭に手をのせ、さらさらと髪の流れに沿って頭を撫でれば、不満そうだったユナの表情が徐々に綻び、笑顔に変わる。

 

 

「にゃ…ご主人様の手、あったかい……」

 

「ふふっ……ねえユナ、たまには体を動かすのも大事ですよ?皆と一緒なら楽しいでしょうし。」

 

「……もう、しょうがないから今日は我慢してあげるよ。…その代わり」

 

 

撫でられたのを喜ぶように猫耳と尻尾をくねらせていたユナは、不意にティアへと向かい合った。

 

 

 

「ご主人様も、ちゃんと休んでよ…?」

 

 

 

真面目な表情で、心配そうに眉根と猫耳を垂れ下げて、ユナは真っ直ぐにそう言った。

…悪戯好きな面もあるけれど、本当はちゃんと相手を気遣える優しさをユナは持っている。

そのことが嬉しくて、ティアはまたユナを優しく撫でたくなった。気づけば手を伸ばし、柔らかな髪と猫耳に手のひらを沿わせていた。

 

 

 

「…ふふっ、分かりました。…ありがとう、ユナ。」

 

 

 

 

 

二人の様子を嬉しそうに見つめていたクートは、やがてぱちん、と両手を叩いた。

 

 

「よしっ、じゃあ決まり!ご主人の邪魔しないためにも、今日は外で遊ぼう!ね、ご主人いいよね?」

 

「そうですね…ちゃんと暖かい服を着て、あまり遠くに行かないこと。それが守れるなら構いませんよ。」

 

「やったっ、…雪だるま楽しみだね、リオお兄ちゃん…!」

 

「えっ、俺も行くのか…?」

 

「当たり前でしょー?リオが一番力あるんだから。」

 

「…ユナ、サボる気じゃないだろうな。」

 

「よしっ!じゃあ食べ終わったら、玄関に集合な!」

 

 

元気よく拳を上げるクート達を、ティアの瞳が優しく見守っていた。

 

 

「…私も、頑張らないとですね。」

 

 

 

 

 

 

 



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休憩と狼耳のきみ

「ふぅ…。」

 

 

玄関で四人の支度を手伝い終えて、ティアは一人息をついた。

 

 

クートには暖かなブラウンのケープ付きコートと、レースアップのブーツ。

ユナには腰丈ほどのコートにショートパンツとタイツを合わせ、さらに口元と耳元を覆うマフラーを。

フィユにはふわりとしたポンチョコートとミトンの手袋、リオにはフードにファーの付いた黒のダッフルコートをそれぞれ身につけさせ、玄関から見送った。

 

ついでにパジャマ姿では気持ちが切り替えられないので、ティア自身も着替えを済ませる。暖炉のおかげで屋敷内は温かいので、タートルネックのセーターとスキニーパンツというシンプルな恰好で十分だった。

 

 

「…そろそろやりましょうか。」

 

 

小さく呟き、窓辺のテーブルに部屋から持ち出したタイプライターを設置する。

静まり返った部屋に、パチパチとタイプの音だけが響き渡る。

 

 

 

 

「…ここは、良く書けた気がしますね。」

 

時折文章を見直し、またタイプする。

 

 

 

 

「んぅ……はぁ。」

 

時折伸びをして息をつき、またタイプする。

 

 

 

 

「…間に合いますかね、これ…。」

 

時折不安を抱きながら、またタイプする。

 

 

 

………

……………

 

 

 

「……静かですね…。」

 

 

タイプを止め、ティアは天井に向かって呟いていた。

あまり賑やかでも集中できないとはいえ、自分一人しかいないというのも何か違う。屋敷全体が、元気を失くしてしまったようだった。

 

 

 

「昔は、これが普通だったはずなんですけどね…。」

 

 

 

そんなことを自分自身に言ってみるが、あまり意味も無い。

なんとはなしに窓辺を覗く。バルコニーにも雪が積もり、一面は白銀に覆われている。…見ているだけで寒さを感じそうな景色だが、人の姿は見えなかった。

 

 

……ひとりぼっち。

不意にその言葉が過って、胸に毛羽立つような震えを覚える。

屋敷に、世界に、自分一人取り残されたような錯覚。

とても暖かい光の中から、突然寒くて真っ暗な場所へ放り出されたような不安感……。

ああ、とティアはその感覚に懐かしさを感じる。

 

 

「寂しい…」

 

 

口から零れた、感情の正体。

一度気づいてしまった孤独感は、雨雲のように広がって胸を覆い、そればかりしか考えられなくなってゆく。

空白だらけの原稿を見つめても、何も思いつくことが出来ない。

 

天井に、弱音混じりのため息を吐いた。

 

 

「こんな調子では、いい文章も書けそうにないですね…。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行き詰まったなら、ちゃんと休憩とれよ。」

 

 

不意に、声が届いた。

驚くティアの銀髪に、細い指先が遠慮がちに触れ、不器用そうに頭を撫でてくる。

指の方向を見上げると、見知ったつり目がティアを見下ろしていた。

 

 

 

「リオ……!」

 

「まったく…珍しくユナがまともなこと言ってたんだから、気をつけとけよな…。」

 

 

少し怒ったような声、けれど頭を撫でる手つきは優しく。主を気遣うリオの姿に、思わずティアは瞳が潤むのを感じていた。

 

 

「ごめんなさい…つい色々と考えてしまって。」

 

 

しゅん、と俯くティアを見て、リオは僅かに言葉に迷う。

"色々"……ティア()の心を、抱えるものを、リオはまだよく知らない。

屋敷の中でリオが一番、ティアと過ごした時間が浅いから。

 

 

――それでも、とリオは思う。

 

 

 

「すぐご飯作るから、それ食べて元気出せ。…それまで、ちょっとは休んでろよ。」

 

 

 

いつも通り、言葉遣いはぶっきらぼうになってしまうけど。

自分に出来ることで、少しでも主を元気に出来るなら…。そんな思いでリオは長い黒髪をまとめて結び、エプロンを纏う。

 

一つ結びの黒髪と大きな尻尾が揺れる後ろ姿。

…ティアはそっと、その後ろ姿に声をかけた。

 

 

「…リオ。」

 

「…ん。」

 

「ありがとうございます。」

 

「………ん。」

 

 

 

そっとティアが紡いだ感謝の言葉に、短かな返事だけを返してリオはキッチンへ歩いていく。

表情は、後ろ姿では分からないけれど…ぶんぶんと尻尾が振られているのは、ティアにも見えていた。

微笑ましい後ろ姿を見送って、ティアはゆっくり部屋を後にする。

胸を覆っていた雨雲はもういない。

代わりに、暖かさが胸に宿った気がした。

 

ちょうどそのとき玄関が開かれ、三対の獣耳が室内に飛び込んできた。

 

 

「ご主人ただいまー!」

 

「お腹空いたぁ…リオ、ご飯まだー?」

 

「まだに決まってるだろ…着替えして、大人しく待ってろよ。」

 

 

クートとユナは早速ぱたぱたと室内を駆け回り、途端に屋敷が活気を取り戻してゆく。

それを見て、ティアは静かに目を細めた。

 

 

「…ご主人さん?」

 

 

高く、小さな声がしてティアは下を見る。

真っ白な髪と兎耳を垂らしたフィユが、不思議そうに見上げていた。

 

ティアはふっと微笑み、その頭を優しく撫でる。

 

 

「お帰りなさい、フィユ。…みんなも。」

 

 

その言葉にクートとユナも振り返り、すぐににっと笑顔を浮かべた。

 

 

「うん、ただいま!」

 

「ただいまー。」

 

「えへへ…ただいま、ご主人さん。」

 

「……ただいま。」

 

 

クートが、ユナが、フィユが、リオが。

それぞれに嬉しそうに、返事をしてきた。

その光景をゆっくり見回すティアを見て、一番近くにいたフィユがまた首を傾げた。

 

 

「ご主人さん…何かあったんですか?」

 

 

少しだけ、心配がるような声。

フィユの持ち前の敏感さで、自分の心がいつもと違ったことも気づかれたのだろうか…。

そう考えながらも、ティアはもう一度フィユの頭に手を乗せて、毛並みに沿って手のひらを動かした。

 

 

 

「…はい、ちょっとだけ。…でも、みんなのお陰で大丈夫になりました。」

 

 

にっこりと微笑んだティアを見て、フィユの表情も和らいだ。

 

 

 

 



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ぬくもりと兎耳のきみ

昼食を食べ終え、ティアは再びタイプライターと向かい合っていた。

文字盤を叩く指は軽快。淀みなく文章が紡がれ、白紙が埋められていく。

 

窓辺には静かに、タイプの音だけが響き続ける。

しん、と静まった空気だが、ティアはもうそれに孤独を感じてはいなかった。

ナーバスな心ばかりが膨れ上がって、一度は見失いかけてしまったけど。

この屋敷には、もう自分一人ではない。

――今ここには、四人の"家族"がいるのだから。

 

それを確かめられてからは、原稿の進みも軽やかだった。晴れた頭には鮮明な文章が浮かび、それを指を通して白紙に綴る。

緩やかに続いたタイプ音は、しばらくの後ぴたりと止んだ。

 

ロックを外して原稿を手に取り、沈黙したままティアはしばし思案する。握った片手で口元を押さえ、眼鏡の奥の真っ直ぐな視線で文章を読み返す。

 

 

……最後の一枚、最後の一文に目を通し終え、ティアは小さく首を縦に振った。

 

 

「うん………よし。」

 

 

囁くような小さい声でそう呟くと、直後ふっとティアの口元が綻んだ。

また一つ、作品が完成した。

出来上がった原稿を纏めて封筒に仕舞い込み、玉紐で留めて封をする。厚みのあるそれを手に持ったとき、書き上げたのだ、という実感が手のひらから伝わってきた。

じわじわと、喜びがこみ上げてくる。…どんなに悩んで大変な過程があっても、この瞬間があるから執筆は止められない、とティアは常々思っていた。

 

封筒をタイプライターの横に置き、ほっと息をつく。そのまま伸びをするように腕を掲げ、椅子の背もたれに仰け反るように体重を預けた。

達成感のままに、ティアは小さく声を出した。

 

 

 

「できましっ…………たぁっ…!」

 

「ひゃっ……!?」

 

 

…ティアの声に、小さな悲鳴が被さった。

声の方向へ首を回すと、驚いたように胸を手で抑えている真っ白なシルエットがあった。

 

 

「あっ…フィユ…?」

 

 

ゆったりとしたフード付きのワンピースに着替えたフィユが、固まったように見つめてきていた。

誰にも聞こえないと思って出したさっきの声を思い出して、ティアの頬が徐々に赤みを帯びてくる。

その恥ずかしさを紛らわせるように、ティアは小さく咳払いをして立ち上がった。

 

 

「こほん……すみませんフィユ、起こしてしまいましたか?」

 

 

遊び疲れたフィユ達四人は、リビングで昼寝をしていたはず…そう思って尋ねたティアの言葉に、フィユは控えめに首を横に振った。

 

 

「ううん、ちょうど起きたところだったので…。お仕事、終わったんですね。お疲れさまですっ。」

 

「ふふっ…ありがとうございます。……っと。」

 

 

不意に違和感を覚え、手のひらをぐーぱーと開閉させるティア。フィユは不思議そうに、その光景を見上げていた。

 

 

「?…手、どうしたんですか?」

 

「ああいえ、ずっとタイプを打っていたので…。少し疲れてしまいましたね…。」

 

 

いつの間にかティアの手の先は、冷えて凝り固まってしまっていた。

少し早いけどお風呂に入って解そうか…そう考えていると、不意にフィユが袖をくい、と引いてきた。

 

 

「ご主人さん…ちょっとだけ、来てくれますか。」

 

「はい…?…構いませんが…。」

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

フィユの後を歩いて、ティアはリビングにやって来た。

部屋に入ると同時、暖かな空気が体を包む。執筆をしていた隣のキッチンも寒くはなかったけれど、やはり暖炉が直接焚かれた部屋は格別暖かい。

 

その暖炉から少し離れた辺り、窓辺の壁際に視線を向けて、ティアはふっと微笑んだ。…幸せそうに眠り続ける、クート達の姿がそこにあったから。

壁に身を預け、座ったまま静かに眠るリオ。その腰から横に流した大きな尻尾に、クートとユナが抱きつくようにして寝転がり、向かい合ってすぅすぅと寝息を立てていた。三人を端まで覆う、大きな毛布も掛かって暖かそうだ。

クートとユナ、二人の間にちょうど子ども一人が入れそうな隙間があった。

 

 

(あの間で、フィユはお昼寝していたんですかね…。)

 

 

想像して、思わず笑みを零すティア。なんとも可愛らしいその光景を見逃してしまったのは惜しいな、と思う。

 

 

 

 

「ご主人さん…こっちです…!」

 

 

ひそひそとした声で呼び掛けられ振り向くと、暖炉の近くで正座をしたフィユが手招きするのが見えた。

招かれるまま近づいて、フィユと向かい合う形でティアも座る。暖炉の熱を近くに感じ、ほんのりと眠気を誘われた。

 

 

「手、触っていいですか…?」

 

「手…? こう、でしょうか。」

 

 

首を傾げながら、右手をフィユに差し出す。

雪のように白いその手のひらを、フィユは両手でそっと包んだ。

じんわりとした暖かさに覆われ、温もりが手から伝ってくるのが分かる。

 

 

「暖かい……。」

 

「えへへ…ご主人さんのは、ちょっと冷たいね…。」

 

 

そう言いながら優しく、きゅうっとティアの手のひらを握るフィユ。普段から高めの体温に加え先程まで眠っていたのもあり、フィユの手から伝わる温度はとても暖かい。温もりが手のひらに広がり、冷えと凝りが解れていくのが分かった。

 

 

「左手も、暖めますね。」

 

 

フィユに言われるまま左手を伸ばし、また手のひらを握ってもらう。

疲れた手を癒す温もり、フィユの暖かさを感じて、ティアは胸の辺りも暖かな気持ちで包まれるのを感じていた。

不意にその包まれた手のひらに、フィユの視線が注がれていることにティアは気づいた。

ぽーっと、ティアの手を見つめるフィユ。…ゆっくりと、その手を自分に近づけて――

 

 

「…いつも、お疲れさま…。」

 

 

――手のひらに、静かな頬擦りをした。

気持ちの良い肌触りの頬と、ふわふわしたロップイヤーの感触が伝わってくる。

目を閉じ、ティアの手のひらを慈しむようにすりすりとやるフィユ。その姿に、ティアは少し驚いていた。

…フィユが、いつになく積極的な気がしたからだ。いつもならあまり過度のスキンシップは恥ずかしくて避けているフィユなのに…。

 

と思っていたら、不意にフィユががばっ、とすごい勢いで顔を上げた。ぱちぱちと目を瞬かせ、自分が頬擦りしていた手とティアの顔を交互に見る。…やがてその真っ白な頬が、みるみるうちに赤くなっていった。

 

 

 

「うぁ……!今のは、その…つい勢いで……」

 

 

白い肌をかあっ、と真っ赤にして、俯いたままもごもごとするフィユ。ティアがすぐ近くにいることも忘れ、思わずしてしまった頬擦りだったらしい。

 

恥ずかしさから俯いてしまうフィユ。

…その表情が、不意に切なさを帯びたようにティアは感じた。

 

 

「フィユ…?」

 

「……ねえ、ご主人さん…。」

 

 

どこか不安げな声で、フィユが小さく呟く。

先程までティアに触れていた手をぐっと握り、自分の胸を押さえるようにして。

 

 

「ご主人さんが、こうやってみんなのために毎日頑張ってくれて…お兄ちゃんたちも、とっても優しくしてくれて…すごく、嬉しいです。」

 

 

「嬉しい。」

呟いた言葉と裏腹に、どこか辛そうな表情をフィユは浮かべる。

 

 

「なのに…。嬉しいのに、その気持ちは本当なのに……怖い、って思っちゃうんです…。」

 

 

 

暖炉の炎に照らされた横顔は、少し辛そうで、苦しそうだった。やるせない気持ちをどうすればいいか、自分でも分からない…そう言いたげに。

 

 

「こんなに幸せでいいのかなって…。どこかでこの時間が終わって、みんながいなくなっちゃって……不安になってそんなことを、頭が勝手に考えちゃって…。そう思ったら幸せな時間が続くのも、今より幸せになることも、全部が怖くなって……」

 

 

 

 

俯いたフィユの瞳が、揺れる。

…ティアは静かに、フィユの言葉を聞いていた。

 

話しているうち、フィユの表情は今にも泣き出しそうになってきてしまう。胸の前で握った拳を左手で包み、ぎゅうっと力が込められる。何かを我慢するように、押し殺すように…。

 

 

 

「…フィユ。」

 

 

ティアは、静かに身を乗り出した。

両手を広げ、フィユの体を覆うようにして――

 

 

――優しく、フィユを抱きしめた。

 

 

 

「ふゃ……!?」

 

 

小さなフィユの体が、ティアの腕に包まれる。

フィユの白い髪が、ふわふわの兎耳が、柔らかなティアの胸に埋められて。

ティアの香りを、体温を、すぐ近くに感じる。

 

 

 

「大丈夫。フィユの側に、いつだって私たちはいますよ。」

 

 

 

ティアの声が、フィユの耳に届く。まるで毛布をかけるように、優しく包み込むように。

白髪を撫で下ろす手から、頬に触れる胸から、ティアの優しい暖かさを感じるうち…胸に詰まっていたものが、温もりの中に溶けていくような気がしていた。

 

 

 

「…前にもフィユとは、こんな話をしましたね。」

 

 

 

 

 

ティアの言葉で、フィユの脳裏に過去の光景が浮かび上がる。

この屋敷に来たばかりの頃のこと。

今よりもっと、暗く怯えた目をしていた頃のこと。

 

その目が見上げる先に、今と変わらない優しさに満ちた瞳で笑いかけるティアの姿があったこと。

 

 

『――――――――――――。』

 

 

ゆっくりと、記憶の中のティアが言葉を語りかける。

 

 

『――――――――。…だから、』

 

 

フィユの記憶に、心に、今も大切に残っている言葉。

思い出すだけで気持ちが溢れそうになるくらい、フィユを救った言葉の記憶。

 

最後の一言と共に、あの時もティアは抱きしめてくれた。

 

 

『――幸せになることを、怖がらなくていいんですよ。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……そうだった。

本当に狭い世界しか知らなくて、誰も信じることができなくて、外の世界(優しさ)に触れることすら怖かったかつてのフィユは、その言葉に救われていたのだと。

 

ティアが抱擁を解くと同時、フィユはその記憶を見失っていたことを悔やむ気持ちに襲われ、思わず「ごめんなさい」と口にしていた。

 

 

「ボク…ご主人さんが教えてくれたことも忘れて、怖くなっちゃって……。」

 

「…フィユを責めたりなんてしませんよ。誰だって、心に弱さを抱えているものです。…簡単には、消し去れない弱さを。」

 

 

自分でさえそうなのだから、とティアは思う。

今もなお、ふとした時に蘇る孤独感に襲われるくらい、自分も弱いのだから……。

 

 

――でも、だからこそ。

 

 

「一人では、越えられないものがあるから…だからこそ私たちは、一緒に生きていくのでしょうね。」

 

 

そっと、ティアはそう呟いた。

眼鏡越しに、きょとんとするフィユを見つめながら。

 

 

「…それがきっと、大切な人と生きる理由なんだと思います。

何度同じところで躓いても、隣に誰かが居てくれたら…転ばずにまた、歩き出せますから。」

 

 

 

…そっか、とフィユは思う。

この気持ちを、すぐに乗り越えるのは難しくても。

立ち止まる度に、躓く度に、手を取ってくれる人たちが隣にいるなら…いつかは、きっと。

 

 

「そっか…。」

 

 

今度は、口に出して呟く。

ここにはティア(ご主人さん)がいて、クート達(お兄ちゃんたち)がいてくれる。一緒に生きたい、大切な人たちがいる。

そう思ったら……心がふっと、軽くなった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

「…フィユ。」

 

 

すっきりしたフィユに、声が届いた。

顔を上げると、腕を開いたティアがフィユを呼んでいる。

腕の中に、おいでと招くように。

 

 

「ご主人さん…ボク、もう大丈夫ですよ…?」

 

「…いえ、その……私が、フィユをぎゅってしたくなったので…。」

 

 

口に出すのが恥ずかしかったのか、少し頬を染めながらティアは告白する。

ティアから自分に甘えてきたことに少し驚いて、フィユが呆気にとられていると、だんだんティアの表情が寂しそうなものになってきてしまった。

 

 

「ダメ、ですか…?」

 

「…ううん、……嬉しいですっ!」

 

 

ティアからそんな風に言ってもらえたことが嬉しくて、フィユは飛び込むようにティアの胸に収まった。

背中を預けるようにしながら、思わずティアの頬に兎耳と柔らかなほっぺたを擦り寄せて、けれど積極的になりすぎた自分に気づくと少し恥ずかしくなって、えへへ…と幸せそうにフィユは笑う。

 

その目に確かな光を、生きる希望を輝かせて。

 

さっきまでよりも、そして出会った時よりも……ずっと明るくなったフィユを、ティアはまた静かに抱きしめた。

 

 




・ちょっぴり紹介:ティアのこと
年齢は二十代後半。ミディアムヘアの銀髪。赤い縁取りのアンダーリムメガネをかけてる。
顔立ちとスタイルは抜群。だけど同居人が子どもばかりなので、性別的なことを特段気にしない行動が多い。(割と一緒にお風呂入ったりとか。)
そのことをよく(顔を真っ赤にした)リオに注意されてる。
服装は基本的にパンツスタイル。たぶんスカートは持ってない。
冬場はタートルネックのセーター、夏場はノースリーブニットとかかな…。


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うたた寝と猫耳のきみ

淡いオレンジの灯りが灯された、屋敷の一室。

 

いくつもの本棚に囲まれ、今は書斎となっている部屋。

 

中心には、木製のデスクと革張りの椅子が設置されている。

 

その椅子にもたれかかり、ティアはうつらうつらと微睡んでいた。

背もたれに体を預け、眼鏡もかけたまま……

 

 

静かな部屋にすぅすぅと、小さな寝息が響き続ける――。

 

 

 

 

 

「……えい。」

 

「………んむぅ。」

 

 

 

――そのティアの頬を、むにむにと突っつく影があった。

その感覚で目を覚まし、ティアは瞼をしばたたかせる。ぼやけた視界にうっすらと見えたのは、グレーの髪と猫耳を備えた小さな頭。

その特徴で、というかこのいたずらだけでティアは相手の正体に気づいていた。

 

 

「……ユナ、私のほっぺで遊ばないでください…。」

 

 

寝起きのゆっくりとした声で話しかけると、ティアの頬から指がぱっと離れる。

次いでティアを覗き込むように、視界にひょっこりと現れるユナ。薄いピンクのキャミソールとショートパンツにふんわりとしたカーディガンを羽織った部屋着姿……ティアに向ける視線は、どこか呆れているようだった。

 

 

「ご主人様こそ、こんなとこで寝たら体痛くなっちゃうよ。」

 

「それは…ユナの言う通りですね、すみません…。

いつの間にか眠ってしまって……ふあぁ…。」

 

「もう、相変わらずぼんやりさんだなぁ…。」

 

 

ユナのため息を聞きながら、ティアは壁に掛かった時計に目を向ける。

晩ごはんの後から机に向かっていたので、それなりに夜も更け始めた時間になっていた。

 

 

 

「他のみんなは、どうしてますか?」

 

「もう順番にお風呂済ませてるよ。リオはフィユを寝かしつけてるし、僕ももう寝るとこ。…あ、でもクーくんはまだ下にいるみたいだけど。」

 

「そうですか…よかった。」

 

 

リオが皆の寝る仕度をしてくれたのだろう。

安心したように、ティアはふっと笑みを零した。

……直後、ユナは不意にティアとの距離を詰め、近づいてきた。

 

 

「………よっ、と…。」

 

「わっ……!」

 

 

そのまま座っているティアの太ももに登り、驚くティアをよそにユナはその上へ腰を下ろす。

 

…座られても負担のない軽さといい、バランスを保つ器用さといい、猫っぽいなあとティアが思ったのも一瞬。

すぐにユナが落ちないか心配になって、その腰に思わず両手を回しユナを後ろから抱きしめる姿勢になった。

 

 

「ユナ…これ、どういうことですか…?」

 

「ふふん。さっき言ったでしょ、僕もう寝るとこだって。

せっかくだし、このままご主人様の膝の上で寝ちゃおっかなーって。」

 

 

ティアの柔らかな胸に背を預け、困惑するティアの表情を見上げながら、ユナは悪戯っぽく笑う。

小さなユナの体を包むように組まれた腕から、背中に当たる胸部から、ティアの温かな体温を感じながら。

 

 

「えへへ。やっぱり寝起きだから、ご主人様ぽかぽかしてるね。」

 

「…ユナ、あまりくっつかれると………その、まだ私お風呂に入ってないので……。」

 

 

自分の匂いを気にして、ティアは珍しく赤くなって狼狽える。

ティア(ご主人様)の珍しい表情に、ユナはいっそう目を輝かせる。

…いたずら心に火が点いた。そう言いたげな笑みを浮かべながら。

 

 

「…ふぅん…ご主人様、お風呂まだなんだぁ…。」

 

 

狭い太ももの上で器用に体を反転させ、ティアと顔を向かい合わせる。

至近距離で見つめられ息を呑むティアの首筋に、覆い被さるようにユナは顔を近づけた。

途端にかあっ、とティアの肌が熱を帯び、思わずぱたぱたと抵抗する。

 

 

「ひゃっ……ユナ、ほんとにかいじゃダメですからっ…!」

 

 

顔を羞恥の朱色に染めて慌てるティア。

その反応に、ユナは満足げな笑みを浮かべた。

 

 

「………ふふっ、あははっ!なんちゃって、かいでないから安心して、ご主人様?」

 

 

ぱっと顔を離して笑ってみせると、そのままティアの上から身軽に降り、デスクに手をついて寄りかかる。

からかうような笑みを見せるユナを、ティアはまだ紅潮した頬を膨らませ、拗ねた表情をしてみせる。

 

 

「ご主人様、ほんと隙だらけなんだからさ。これに懲りたら、家でも少しはシャキッとしなよー?」

 

「うぅ…それはそうかもしれませんけど……。さっきのユナ、ちょっと意地悪でした…。」

 

「あはは、ごめんごめん。」

 

 

 

 

ティアの机に手をついて話してたユナは、ふと手元のデスクの方に顔を向けた。

 

そこそこ上質な物であろうデスクの上は、その上質さが鳴りを潜めるほど散乱したティアの仕事道具で埋め尽くされている。

積み重ねられた辞書やインクの瓶、散らばった原稿用紙と万年筆。

その中のひとつ、縦横斜めと所狭しに単語や文章が書き記されていた原稿用紙が、ユナの目に止まった。

 

 

「ていうかご主人様、また何か書いてたの?

もう作品完成した、ってフィユに聞いたけど。」

 

「…ああ、これは……。」

 

 

少し恥ずかしそうに笑って、ティアはデスクの原稿を手に取った。

見られるのが恥ずかしいのか、手にした原稿を裏返してほんのり赤い頬を覆うようにしている。

 

 

「次に書くもののアイデアをメモしていたんです。…一度忘れてしまうと、簡単には思い出せなくなってしまうので。…作品は、お昼に完成させましたよ。」

 

「………ふーん。もう新作のこと考えてるんだ。」

 

 

軽い相槌を打ち、ユナはその原稿を見下ろす。

複雑な視線を、ティアの持つ原稿に向けている。

…どことなく不機嫌そう、そんな風にティアには思えた。

 

 

「…心配、してくれてるんですか?」

 

「…別に、そんな大したものじゃないよ。…ただ、そんなに間空けずに頑張らなくてもって、思っただけ。」

 

 

素っ気なくそう言って、ユナはぷい、と顔を背ける。

…我が儘を言っていると自覚しながら、ティアを心配する気持ちを止められない。

そんなもどかしさが、ユナの表情には滲んでいた。

 

 

 

 

 

「……ユナ」

 

 

原稿を置き、ティアは優しくその名前を呼んだ。

ユナの顔と目が合うのと同時、その頭に手を伸ばす。

 

 

「…私なら、大丈夫ですよ。ちゃんと休めるときは休んでいますし、無理もしていませんから。」

 

 

ぽんぽん、と猫耳の隙間に手を乗せ、優しくユナを撫でる。

朝、ユナに言われた言葉と心配そうな表情を思い出しながら。

 

 

「…私ができることと言ったら、執筆(これ)くらいしかありませんから。…皆と暮らすためにできること、私がやりたいと思えること…これくらいしかないからこそ、頑張りたいんです。」

 

 

頑張りすぎないように気をつけながらですけどね、と付け加えティアは笑う。

緩く頬を綻ばせたティアの笑顔に、ユナは僅かに顔を赤らめまた視線を逸らした。

 

 

「……ならいいけどさ。」

 

 

むすっとした声が返ってきて、ティアは僅かに苦笑する。

あまりユナを心配させてしまうのも申し訳ないけれど、本当はそれが、少し嬉しくもある……そう言ったら、たぶんユナは怒ってしまうけど。

 

 

(優しい子ですからね、ユナは…。)

 

 

椅子に背を預け、ゆったりそんなことを考えていると、不意にユナが腰を上げて立ち上がった。

 

 

「…僕、そろそろ寝るよ。クーくんのこと、よろしくね。」

 

 

ティアの手から頭が離れ、ユナは足早に書斎を去ろうとする。

 

 

「………ユナ!」

 

 

その背中に、ティアは咄嗟に声をかけていた。

ユナは足を止め、僅かに首を傾けて振り返る。

 

 

 

 

 

 

「…明日は執筆をお休みしますから、今日の分も一緒に遊びましょう。」

 

 

目を細め、ティアは微笑む。

母のように、姉のように、その瞳に包み込むような優しさを湛えて。

 

 

 

 

ユナは一瞬、驚いたように目を見開いて――

 

すぐに笑顔を浮かべた。

 

いつもの悪戯っぽい、小悪魔な笑顔とは違う。

子どものように無邪気に、嬉しそうに。

 

 

 

 




・ちょっぴり紹介:ティアのこと2
職業は小説家。割と幅広いジャンルで本を出しつつ、エッセイや翻訳の依頼もたまに受けている。
前回はタイプライター、今回は万年筆と執筆形態が幾つかあるのは、たまに書き方を変えると筆が進むという経験則から。気分でどちらかを選んでいる。


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幸せと犬耳のきみ

寝室へ戻ってゆくユナを見送って。

仕事道具の散乱したデスクを片付けてから、

ティアも書斎を後にした。

皆が寝静まった静かな廊下を、音を立てないように歩いてゆく。

そのまま階段を下り一階へ……と、不意にティアの足が止まった。

 

廊下にある扉、その一つが開いたままになっていた。

 

 

(ここは…リオの部屋…?)

 

 

そっと扉を開き、部屋の中を見回す。

 

落ち着いた色で統一された壁紙とカーペット。

少ない所持品を収納したキャビネットとクローゼット、そしてベッドが配置されただけのシンプルな装いの部屋。

ある意味リオらしい部屋だが、そのベッドに当のリオの姿が見られない。

 

…ユナの話では、確かクート以外は皆寝ていたはず。

首を傾げるティアだったが、やがてもしかしたら、と何かを思いついた。

そのままリオの部屋の扉を閉め、代わりに隣室の扉を静かに開く――。

 

 

 

「…やっぱり、こっちでしたか。」

 

 

僅かに開けた扉の隙間から中を覗いて、ティアはくすりと微笑む。

淡いペールトーンカラーで統一された、リオの部屋とは対照的な優しい雰囲気の部屋。

家具の配置はおおよそ同じだが、

所々に動物のぬいぐるみが飾られているこの部屋は、フィユの寝室だった。

 

部屋の隅には、羽毛の掛け布団がふわりとかかった白いベッドが置かれている。

フィユの体格には少し大きめのそのベッドの中に、今は二人の人影があった。

 

枕に頭を沈ませ、ぐっすりと眠っているフィユ。

…その隣には、片手を腕枕にしもう片方の手をフィユに乗せたまま、静かに眠るリオの姿。

ユナの話の通りなら、おそらくフィユを寝かしつけている間に、リオの方も眠くなってしまったのだろう。

微笑ましい光景に、ティアの頬も思わず緩む。

 

 

(でも、このままにしてもおけないですね……。)

 

 

フィユ一人には少し大きいサイズのベッドとはいえ、リオも入って眠るのは少々窮屈そうで…。

やはり一度、リオを起こしたほうがいいだろうか…そんなことをティアが考えているときだった。

 

不意に、フィユが僅かに寝返りをうった。

そのままリオの胸にぴとっとくっつき、収まる形になる。

暖かなリオの体温が気持ち良かったのか、フィユの寝顔がふにゃっと綻んだ。

リオの方も特に気にした様子はなく、規則的な寝息が途切れることなく続いている。

……ただ、ほんの少しフィユに乗せた手を引き寄せ、無意識にフィユを抱くようにしながら。

 

 

お互いの体温で暖まりながら、気持ちよさそうに眠るフィユとリオ。

その光景に、ティアはリオに伸ばしかけていた手を止め、代わりに捲れた掛け布団をそっとふたりにかけ直した。

 

 

「…今夜も冷えますからね。このままの方が暖かくて、いいかもしれませんね。」

 

 

ティアの言葉に、すぅすぅと二人の寝息だけが返ってくる。

ふっと目を細め、眠る二人を見下ろしながら――

 

 

「ふたりとも、おやすみなさい。」

 

 

――囁くような声でそう告げて、ティアは静かに部屋を後にした。

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

階段を下り、キッチンを抜けてリビングへ――――

灯りの消えた一階を静かに歩きながら、ティアはゆっくり部屋を見まわして。

 

 

「…ここにいたんですね、クート。」

 

 

…探していた相手の背中にそっと、その名を呼び掛けた。

 

 

リビングの窓辺。

外には灯りの消えた街の黒と、降り積もった雪の白、二色だけの世界が広がっている。

 

青白い月明かりが微かに照らすその場所に、クートは膝を抱えてしゃがみ込んでいた。

小さく背を丸め、窓の外をぼうっと眺めていたクート。…けれどティアの声が届いた途端、頭の犬耳がぴくりと反応し、嬉しさと驚きが入り混じったような表情がティアの方へ振り向かれた。

 

 

「ご主人…!まだ寝てなかったの?」

 

「えっ、ええ……これから寝るところですよ。」

 

 

…正確には、少し寝落ちしてしまっていたけれど。

もごもごと誤魔化しながら、ティアはそっとクートの隣、窓際のカーペットの上に腰を下ろした。

背の離れた二人、獣耳のある頭とない頭。

柔らかな月光が、並んだ影をそっと照らす。

 

 

「…クートこそ、こんな時間までどうし…て………」

 

 

白い肌に月明かりを浴びながら、クートの横顔に話しかけたティア。

…その言葉が、中途半端なところで止まる。

 

……ティアの隣で、膝を抱えて座りながら。

クートは、自分の尻尾をぎゅっと抱きしめていた。

腰から伸びた、ふわふわの尻尾。それが拠り所であるみたいに、細い腕で包み込むように…。

 

…ああ、そうだったのか。

何かを合点したようにティアは一瞬目を細めると、そっとクートに近寄って…自分の肩をクートの肩と触れ合わせた。

何かを促すような仕草。

寄り添われたティアの肩に、クートはやがてこつん、と頭を預けて…

そのまま嬉しそうに、すりすりと頬擦りをした。

 

 

「えへへ…。」

 

 

待ち遠しかった、と言いたげにクートは口元を緩めてふにゃっと笑う。

 

 

「…ご主人、今日忙しそうだったからさ…オレもご主人にぎゅーってしたい気持ちとか、我慢しなくちゃって思って………でも、本当はずっとこうしたかったんだ…。」

 

 

そう言って、クートはまた笑顔でティアの肩に頬擦りをする。

 

…やっぱり、寂しがっていたのだなとティアは感じていた。

クートが自分の尻尾を抱きしめる時。…それは寂しい気持ちを紛れさせるために、昔から無意識でしている癖だから…。

 

預けられた頭に、ふわふわの犬耳にそっと指を通し、ティアは優しくその頭を撫でる。

自分のために感じさせてしまった寂しさを、少しでも忘れさせてあげたくて…。

気持ちよさそうな声を上げるクートに、ティアも少し頭を傾けて寄り添った。

 

 

「今日は、構ってあげられなくてごめんなさい。

明日は一日、仕事をお休みするつもりです。…我慢させてしまったぶん、クートや皆と一緒の時間を過ごせたらなって。」

 

「ほんとっ!?」

 

 

ティアの言葉に、クートのくりくりとした瞳がいっそう輝く。

栗色セミロングの髪と犬耳を左右に振りながら、その言葉を噛みしめるように笑顔を浮かべる。

寂しげだった表情から一転、いつも通りの太陽のような笑顔を、クートは輝かせていた。

 

 

「明日……明日か…。……えへへ」

 

 

…その言葉を、何故だかクートは気に入ったように繰り返していた。

不思議そうにきょとんとするティアに、クートはにっ、と笑いかけて言う。

 

 

「なんか好きなんだ…明日は何しようって考えたり、予定立てたりするの。…明日もきっと、今日みたいな幸せが続くんだな、って思えてさ。」

 

 

そう言うとクートは、そっとティアの肩から頭を離す。

…代わりに顔を傾け、真っ直ぐにティアと向き合った。

透き通った瞳が、月の光で宝石のように煌めく。

 

 

 

「…ねぇ、ご主人。…オレさ、毎日が楽しいよ。」

 

 

胸にそっと手を当てて、一言一言をゆっくりと、愛しそうに紡いでゆく。

 

 

「今日が終わっちゃうのが少しだけ寂しくて、でも明日がくるのがすごく楽しみで……毎日をこんな風に思えるようになるなんて、ご主人に会うまで信じられなかった。」

 

 

右胸を押さえるクートの表情に、一瞬何かを思い出したように影が差す。

ぽつぽつと紡ぐ言葉が、一瞬途切れる。

……月明かりの下に、静寂が広がって。

 

 

 

 

「だから…ありがとう。オレたちに、幸せを教えてくれて。」

 

 

 

……もう一度、太陽のような笑顔が咲いた。

 

 

「オレだけじゃない。ユナもフィユも、リオもきっと、そう思ってる。…ご主人とここで、もう一度生きていけること…みんなが、幸せに思ってるよ。」

 

 

…言い終わると同時、クートの笑顔は少しずつ照れ笑いに変わってきて…。

ちょっと恥ずかしそうに赤くなりながら、またティアに寄り添う形に戻る。今度は頬擦りの代わりに、ぎゅっとティアの腕を抱きしめてきた。

 

…スキンシップは大好きなクートだけど。

こうして真っ直ぐに言葉を伝えることには、まだ慣れていないみたいで。

それでも言葉にしてくれた気持ちが、たまらなく嬉しくて……ティアはそっと、頭を撫でる手で応えていた。

 

 

「ありがとう、クート。…私も、同じ気持ちです。」

 

 

クートが、ユナが、フィユが、リオが……

バラバラに生きてきた皆が、この場所で一緒に笑い合えること。それはティア自身が、何より願っていることで。

同時にティアもまた、彼らが居る毎日に救われているのだから。

 

 

 

「…明日は、たくさん遊びましょうね。」

 

「うんっ!雪だるまの続き、ご主人も一緒に作ろ!」

 

 

 

元気に歯を見せて笑うクートに、ティアの口からも微笑みが零れる。

明日が楽しみ…。いつからか自分も、そう思うようになっていたのだなと、ティアは静かに感じていた。

 

…と、不意にティアがあることに気づく。

視線の先には、ちょこんと座るクートの姿。ティアの視線に気づいて、小さく首を傾げている。

 

その服装は、昼間にコートの下に着せた格好のまま。

…そういえば、クートだけは着替えが済んでいない。

 

 

「…クート、お風呂入ってないのですか?」

 

「…あ、そういえば…。ユナに次入っていいよって言われてたの、すっかり忘れてたや。」

 

「じゃあ、一緒に入りましょうか。…ゆっくり暖まって、それからお布団に行きましょう。」

 

「うんっ!…えへへ、ご主人とお風呂だぁ…!」

 

 

 

ティアは腰を上げ、手を差し伸べる。

その手を取りながら、クートは軽やかにジャンプして立ち上がる。

 

 

「ほらほらご主人、早く入ろ!」

 

「わっ…もう、いきなり元気になるんですから…」

 

 

尻尾をぱたぱたと振り、ティアの手を引くクート。

引っ張られ、呆れながらも楽しげなティア。

そっくりの笑顔で、楽しそうに笑う二人を、月だけが静かに見守っていた。

 

 

 

 

 



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おまけ だって離れられなくて

「んぅ……いま…何時だ……?」

 

 

ベッドの上でもぞもぞとやりながら、寝起きのリオは小さな一人言を呟いていた。

寝惚け眼で置き時計を確認しようと首を動かすが、何故だかいつもの位置に時計がない。

億劫そうにあくびをしながら、首と視線だけで時計を探し……ようやく、壁にあった掛け時計を確認できた。

 

 

ぼやけた視界で針の位置を見て、リオは静かにため息を零す。

……ずいぶんと、変な時間に起きてしまった。

いつも通り朝ごはんの支度をするには、少し早すぎる時間。かといって二度寝をするには短かすぎる、どっち付かずの早起きだ。

 

 

「っ……いて……。」

 

 

不意に、鈍い痛みがリオを襲った。

体の節々が、じーんと軋むように痛んでいる。

顔を歪めながら、少しずつはっきりしてきた意識で自分の体勢を確認する。

…慣れない横向きの姿勢、枕代わりに一晩中頭を載せていたらしい腕。

ずいぶんおかしな姿勢で寝ていたものだ、とリオは自分に呆れ笑う。むしろよく眠れたな…などと思いながら。

 

 

「………ん?」

 

 

ふと、リオは視界に違和感を覚えた。

…なんとなく、部屋の内装がいつもと違う。

可愛らしいペールトーンカラーの壁紙、少し低めの家具類に、所々に配置されたぬいぐるみ……。

――なんとなく、状況が理解できた。

と同時に、恥ずかしさがこみ上げてくる。

もしかして、俺は―――

 

 

 

「ん……んむぅ……」

 

 

どきり、とリオの心臓が大きく跳ねた。

自分の胸の下辺りから、むにゃむにゃと声が聞こえる。

…そっと、掛け布団を捲ってみれば。

両手を胸の前で折り、赤ちゃんのような丸まった姿勢で、フィユがすやすやと眠っていた。

 

…やっぱりだったか、とリオは思う。

昨日フィユをベッドで寝かしつけて、そのまま部屋に戻らずに自分も眠ってしまったのだ。

…恥ずかしいような、情けないような……リオの頬がかあっと熱を帯びてくる。

 

 

(誰にも見つかってないだけ、まだマシか…。)

 

 

…こんな姿を見られたら、ユナあたりには間違いなくからかわれるだろう。容易に想像できる。

最年長という立場の手前、クートに見つかるのも居心地が悪い。無論、このままフィユが起きてしまっても気まずくなりそうだ。

…だが一番は…

 

 

「主に見られたら、子どもっぽいとか思われるのかな…」

 

 

…ティアに見つかってしまうのが、一番恥ずかしい気がした。

年上のくせに、ぽやぽやしていて危なっかしくて、自己管理も下手なやつだから…自分の方がしっかり者でいたい。ティアの前では、子どもっぽいところを見られたくなかった。

 

 

「…やっぱり、起きるか…。」

 

結局のところ、それが一番良い気がした。

二度寝して、朝食を作る時間に寝坊するのも良くない。コーヒーでも淹れてゆっくりしていよう…。

そう思い、のそのそとベッドを出ようとしたときだった。

 

きゅっ、とパジャマの裾をフィユが掴んできた。

 

驚き、まさか起きていたのかとフィユに視線を落とす。

…けれどその瞳はまだしっかりと閉じられ、すぅすぅと寝息も聞こえる。無意識に、あるいはずっと前から、裾は掴まれていたのだろうか…。

 

自分が起きたときも、フィユはいつの間にか自分の体にくっつくようにして眠っていた。…人肌が恋しいのだろうか。…そう思うとなんとなく、この手を振りほどくのは抵抗があった。

 

 

…少しの間、ベッドの上で思案して。

リオは一度、掛け布団の中へ戻った。

毛布に包まれて、ぐっすりと眠るフィユがいる。

小さく丸まったその体を……リオはぎゅっと、包むように抱きしめた。

 

ロップイヤーの兎耳が、ふわりと体をくすぐる。

ぽかぽかのフィユの体温で、全身が解すように温められていく。布団の外が張り詰めた冬の気温であるだけに、フィユの暖かさが格別に思えた。

 

そっと、フィユの表情を覗きこむ。

変わらない、安らかな寝顔。何の心配事もなさそうな、赤ちゃんのような寝顔。

…けれどリオの温もりを感じたのか、その表情が一瞬ぽわ、と柔らかく緩んだ気がした。

 

 

……気がつけば、フィユはさらに深い眠りに落ちたようで。

リオの裾を握っていた手も、いつの間にか開かれていた。

 

 

安心したように、ふっとリオは笑みを零す。

これでようやく、自分も布団を出られる…。

今度こそ起き上がろうとしたとき、リオの口から一度大きなあくびが零れた。

…ずっと、暖かいフィユを抱いていたせいだろうか。

うとうととした眠気が、また襲ってきた。

…駄目だ、今寝たら朝食までに起きれない。そう思う一方で、リオの腕は暖かなフィユを離せなくなっていた。

 

 

「……あと、5分だけ……」

 

 

誰に告げるでもなくそう言って、リオの意識は再び夢へと落ちていった……。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

「ん……ふあぁ……」

 

 

微睡みから、フィユがゆっくりと目を覚ます。

小さな口を開いてあくびをし、眠い目を擦りながら、うとうとと壁の掛け時計を確認する。

 

 

「わ…ちょっと早起きしすぎちゃった。」

 

 

…何故だか今日は、いつもよりぐっすり眠れた気がする。

そのせいか、ずいぶんと早起きをしてしまっていた。

 

 

 

「ってあれ、リオお兄ちゃん…!?」

 

 

不意に隣を見て、フィユはびっくりした声をあげた。

フィユと同じベッドの上に、気持ちよさそうに寝息をたてて眠るリオの姿があったのだから。

…そういえば、今日はずっと何かに守られているような安心感があった。温かくて、包んでくれるような…きっとそのおかげで、ぐっすり眠れたのだろう。

 

…なんとなく、体には感覚が残っている。

大きな体で、ぎゅっと抱きしめてもらっていた感覚が。

もう一度、フィユは横で眠るリオを見つめて――

 

 

「リオお兄ちゃんが、ずっといてくれたんだね……ありがとう。」

 

 

――そっと、今度はフィユから抱きついた。

リオの方が背も高くて、抱きしめるのは難しいけれど。

構わずにぎゅうっと、精一杯優しくハグをする。

 

 

「えへへ…リオお兄ちゃんあったかい…。」

 

 

ふにゃっと頬を綻ばせて、フィユの意識もまた少しずつ、眠りの世界へと戻ってゆく…。

 

リオのことを、ハグしたまま。

その温もりで、リオをより深い眠りに誘いながら……。

 

 

 

 

 

 

 




今日がベッドの日と聞いて、思わず妄想したリオフィユ添い寝の続き。
お付き合い頂きありがとうございました。次回こそ第2話開始、のつもりです。


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第2話 きみとのはじめまして
孤狼


ごうごうと、怒号のような音を響かせながら。

大荒れの吹雪は山全体を包み込んでいた。

 

吹き付ける雪は木を覆い、川を覆い、地面を覆い……食らうように、山を白に染めていく。

荒々しく告げられる冬の訪れは、すでに1週間に及んでいた。

 

それを予期して冬眠の準備を進めていた(もの)

大慌てで雪を凌げる場所に逃げ込む(もの)

この山に生きる、数多の生物たち全てが知っている。

この荒れ狂う白の世界ではまともに生きられないことを。

だから身を隠す。生き残るために。生きたいという本能のために。

 

 

 

 

――ただ、そう願わない(もの)を除いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

低い唸り声と共に、白んだ息が吐き出される。

声の主、艶やかな毛並みを備えた黒のオオカミは、たった一匹でこの吹雪の只中にいた。

周りには誰もいない。

誰も、来ることができない。

オオカミがいるのはほぼ垂直に切り立った、深い崖の一番底なのだから。

 

 

 

…どのみち、初めから独りだけどな。

 

 

 

自嘲ぎみに、オオカミは笑う。

 

 

 

…こんな場所で誰かに出会えたら、そいつはきっと俺と並ぶ間抜けってことだろう。

 

 

右の後ろ足が、ずきずきと痛む。

オオカミはまた低く唸り、顔をしかめた。

忌々しげに崖を見上げる。

あの高さから落ちておいて、まだ中途半端に生きてやがる。そんな自分に、無性に腹がたった。

 

 

――オオカミは、生きることを諦めていた。

 

終わりを求めて、吹雪の中を彷徨っていた。

 

視界が霞んでいたせいで崖から足を滑らせたのは、さすがに想定外だったけれど。

 

誰の目にも届かない、こんな場所で最期を迎えるのは、出来すぎなほど自分の人生らしい…オオカミは、静かにそう思った。

 

 

 

琥珀色の瞳を、空に向ける。

早送りのように雲が流れる、澱んだ灰色の空。

薄汚れた色の雲に覆われた、昼とも夜とも知れない空。

 

 

…太陽さえ、俺を看取ってはくれないらしい。

 

 

 

空を仰ぐオオカミの瞳をも、吹き付ける雪が覆っていった。

 

 

 

 

 

 

 

震える息を吐きながら、オオカミの黒い身体は少しずつ、降り積もる雪に沈んでいく。

感覚を失った四肢では歩くことはおろか、立っていることも叶わない。

ふらふらと耐えていたのも限界に達し、前足から力なく地面に倒れ込んだ。

黒の毛並みが、少しずつ雪の白に侵されていく。

全身を包む、刺すような寒気が、体力を奪い続ける。

…やがて、オオカミは崩れるように地に伏した。

 

 

 

 

 

少しずつ、身体が生きるのを止めていく。

尻尾がへたり、と垂れ、立っていた耳も力なく伏せる。

もはや身体は、自分の意思で動かせない。

寒さと痛みは限界を越え、あらゆる感覚の境目が分からなくなる。

 

……静かに、眠気が襲ってきた。

どこまでも深くに誘われるような。

二度と戻っては来られないような。

 

 

 

 

 

虚ろな琥珀色の瞳から、輝きが消える。

世界が、写らなくなる。

怒号のような吹雪さえも聞こえなくなる。

 

色も音も抜け落ちた世界で、オオカミは眠るように眼を閉じた。

 

 

 

 

…ようやく、終われるんだな。

 

 

 

 

 

 

…意外と呆気ないもんなんだな。

 

 

 

 

 

 

 

俺は…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……最後まで独りなんだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気づいたとき、オオカミは吼えていた。

 

振り絞るような、か細い声で。

 

覆われた空に、必死に手を伸ばすように。

 

 

 

 

その声を

 

全ての音を

 

 

 

 

 

――吹雪は、飲み込むように掻き消した。

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗く深い、海の底にいるみたいに。

くぐもった声が、遠くから聞こえてくる。

誰かが会話をしているような声。

ぼんやりと、 『彼』はそれを聞いていた。

 

 

 

「…大丈夫なのかな…ぜんぜん目を覚まさないけど…」

 

「ふふっ、大丈夫。この子はただ眠ってるだけだよ。」

 

 

 

水面から、少しずつ引き上げられるみたいに。

声が、光が、徐々に輪郭を帯びてくる。

世界が、はっきりしてくる。

 

 

 

 

『彼』は思い出す。

 

記憶を少しずつ、遡るようにして。

 

初めは、一番新しい記憶から。

 

真っ白な世界にうずくまる、真っ黒な自分。

 

震える吐息。琥珀色の瞳。耳。尻尾。

 

――オオカミと呼ばれる存在(けもの)、それこそが自分自身であったことを、『彼』はゆっくりと思い出していた。

 

 

 

 

 

「そっか。フィユは新しい子に会うの、初めてだもんね。」

 

「…うん。…ボクもこんな風に眠ってたの?」

 

「ふふふ、そうだよ。かわいい子が来たなーって思ったなぁ。」

 

「ふぁ…!は、恥ずかしいよクートお兄ちゃん…!」

 

 

 

 

―――不思議な感覚だった。

 

賑やかな声が聞こえてきて、瞼越しだが光も感じられる。

 

 

……音も光も、もう感じられなかったはずなのに。

 

 

……どうして、感じられなくなった?

 

 

……決まってるだろう。

 

 

 

……だって俺は、もう

 

 

 

 

 

 

 

死んだのだから。

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

 

「………っ!」

 

 

 

『彼』は思わず目を見開き、勢いのままにがばっと身体を起こしていた。

 

 

 

身体の内側に、見えない手が入り込んでくるようだった。ゆっくりと心臓を撫でられ、包まれ…手に力が込められれば、簡単に握り潰される…例えるならばそんな恐怖。

痛いくらいの怖気と吐き気に襲われて、『彼』の意識は無理矢理覚醒させられた。

 

鼓動がうるさい。

全身に、嫌な汗が纏わりついている。

…だというのに、これ程の恐怖を与えた()()は、『彼』の中で既に朧気になりつつあった。

 

 

 

 

 

「わっ!」

 

「ひゃあっ!?」

 

 

突然『彼』が起き上がったことで、隣では小さな悲鳴が二つ上がっていた。

 

 

 

「…………っ?」

 

 

 

その悲鳴で初めて人影に気づき、『彼』は困惑したように横を見やる。

そこにいたのは、ぱっちりとした目を丸く見開いた栗色の髪をした少年と、怯えたようにその腕に抱きつく肌も髪も真っ白な幼い少年。

…目を引くのはその頭。栗色髪の少年には髪と同じ色の犬耳が、短い白髪の少年には髪より長く垂れた兎耳が付いている。

 

 

…動物の耳が、どうして人間に。

当然の疑問が、『彼』の脳裏に過る。

――けれど、それはすぐに別の疑問で上書きされた。

 

…始めは、僅かな違和感だった。

自分の目線が、少し高い気がした。

すぐに、違和感がそれだけではないことに気づく。

身体の感じも、どこかおかしい。

いつも動かしていた、自分の身体ではないような気がする。

 

…そもそも、今いるこの場所はいったいどこだ?

疑問だらけの頭をゆっくり回して、『彼』は周囲を確認する。

四方を囲む壁の中、初めて見る物があちこちに設置された場所。

…なんとなく知っている。

これは人間が暮らす、『家』とかいうものだ。

 

隣にいる、動物の耳を持った少年たち。

ここは彼らの『家』なのだろうか。

 

…だとしても、なぜ自分がここに?

 

人間でない、オオカミのはずの自分が………

 

 

 

 

「……っ!?」

 

 

 

何とはなしに、手を伸ばした瞬間だった。

初めて視界に入った手を、自分自身の体を見て、疑問だらけだった『彼』の思考は真っ白に塗り替えられた。

それほどの衝撃。息の仕方を、一瞬忘れる。

 

黒の毛皮も、獲物を引き裂く爪もない。

ただ細く白く、五本に分かれた指先だけが伸びるその手は紛れもなく―――

 

 

 

 

『彼』の瞳が、大きく揺れる。

真っ白の思考が、やがてぐちゃぐちゃと歪み始める。

…自分の身に、何が起きたのか。

分からない。理解が追い付かない。

目眩を覚える瞳で、『彼』はもう一度部屋を見渡す。

…近くの窓ガラスに目を付け、覗きこむように身を乗り出した。

 

 

ガラスの中に浮かぶ、『彼』の姿。

琥珀色の瞳が、それを静かに写し出す―――

 

 

 

 

 

 

「っ――――!」

 

 

 

息を飲む、鋭い音が谺する。

鏡が写した『彼』の姿は、『彼』自身にさえ全く覚えのないものに―――()()の姿に、変わっていた。

 

 

体を支える()()()()も、力なく垂れる()()()()も、黒の毛皮に纏われていない。

ただ背中を覆うほどに、長い黒髪は伸びているけれど。

 

見開かれた琥珀の瞳が収まるその顔さえ、線の細くやや幼い、人間の少年のようなものになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なんだよ、これ…………」

 

 

衝撃に飲まれ、零れ落ちた言葉すら人間のものになっていると気づかずに。

 

オオカミであったはずの『少年』は、自分を瞳に写したまま、呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




第2話は過去編になります。
狼耳の少年(もちろんあの子なのですが、今のところはこの呼び方で)の、始まりのお話。


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重ねる出会い

ーーーーー

ーーー

 

 

 

「……なんだよ、これ……」

 

 

瞳の中に自分自身を写したまま。

『少年』の口から言葉が、低く澄んだ声が漏れる。

それが初めて話す「言葉」であったとも気づかず、『少年』は震える手で、自分自身を確かめるようになぞってゆく。

 

 

琥珀色の瞳。凛とした目付き。

腰まで伸びる黒髪やその上に乗った獣耳、つり目の目元にオオカミの面影はある。

けれど伸びた手足も、あどけない顔立ちも、身体の構成は全て別のものに―――人間の、少年と同じものに変わっていた。

 

顔から身体へ、視線と手が移る。

細く、けれど筋肉がある程度ついた『少年』の身体には、いつの間にか白いレースの服が着せられていた。

その下から、服の裾を捲るように尻尾が伸びている。オオカミであった頃と同じ、黒く大きな尻尾。

 

何故か以前のパーツを残しつつ、紛れもない人間の姿へ変わっていた自分自身に、『少年』は強い目眩を覚える。

 

 

(どうなってんだよ……だって俺はヒトじゃなくて、それでっ…!)

 

 

確かめるように、必死で記憶を辿る…けれど混乱した頭では、それすらもままならない。

ただばくばくとした心音だけが脳に響き続け、思考が阻まれ続け……

……やがて『少年』は頭を押さえたまま、その場に力なくへたり込んでしまう。

ぼすっ、と音を立てて体を預ける…自分がソファの上に寝ていたことに、その時初めて気がついた。

 

 

 

 

 

「ねえ、だいじょうぶ…?」

 

 

 

『少年』の耳に、そっと声が届く。

…そういえば、近くに人間が二人いた。すっかり忘れていたが、どちらかの声だろうか。

…痛む脳内でそう考えながら、声のする方へと『少年』は重い頭を向ける。

 

琥珀の瞳に、犬耳と兎耳の二人の少年が写される。

 

…瞬間、二人の体がびくっと震えるのが分かった。

犬耳の少年は僅かに表情を強張らせ、兎耳の少年に至っては涙目になって犬耳の少年の背後に隠れてしまう。

 

…怖がられている、らしい。

 

無理もないか、と『少年』は思う。

自分で言うのも何だが、ガラスに写った『自分』の顔はひどく無愛想で、加えて今の表情は混濁した記憶のせいで相当なしかめっ面になっているはずだった。

つんとしたつり目と眉が、威圧感を与える原因だろうか。

 

…別にどうでもいいことだけど、と『少年』は感じていた。

元から愛想を振り撒く方法は知らなかったし、何より相手にどう思われているかなど、『少年』にとって興味の無いことだった。

 

 

緊張ぎみの犬耳少年と、無関心な目をした狼耳の『少年』。

……お互いに、言葉を見つけられない時間が流れていた。

 

 

 

 

その時、『少年』の目に、こそこそと新たな人影が近づいて来るのが見えた。

 

グレーの髪に、尻尾と獣耳のある少年…あの形は猫耳だろうか。

悪戯っぽい含み笑いを浮かべながら、音も無く三人の元へ忍び寄ってくる。

 

…犬耳と兎耳の少年たちは、背後から近づくその猫耳少年に気づいていない。

唯一目が合った『少年』に、猫耳少年はにっと笑いかけ人差し指を口元に当てた。

その意味が分からないまま、目で少年を追っていく。

猫耳少年は少しずつ、静かに兎耳の少年へと近づいていた。

…そのまま、まだふるふると怯えている少年の肩を掴んで―――

 

 

「わっ!」

 

「ふわあぁっ……!?」

 

 

―――オクターブの高い悲鳴が、部屋中に響き渡った。

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

 

「ばかばかばか!ユナお兄ちゃんのばかっ!」

 

「痛たたた……もーフィユ、ごめんってばー…。

僕だってあんなにびっくりすると思わなかったんだよ…。」

 

 

グレー髪の猫耳少年はユナという名前らしい。

…今は床に正座させられ、フィユと呼ばれた兎耳の少年にぽこぽこと頭を叩かれている。

あまり痛そうではないな、などと考えながら、『少年』はその光景をぼうっと眺めていた。

 

 

「うぅ……あんなにおっきな声でおどろいちゃって、恥ずかしいよ…」

 

 

フィユはユナを叩くのを止め、その手で髪より長く垂れた兎耳をぎゅっと握りながら、顔を真っ赤にして恥ずかしがっている。

…肌が白いせいか、赤くなっているのがとても分かり易い。

 

 

「悪かったって、僕も反省してるよ。…そうだ、絵本読んであげるよ!フィユのお部屋行こ!」

 

 

…本当に反省しているのか。フィユを眺めながら変わらずニコニコとしているユナの表情からは、本当のところが判別しずらい。

よしよしとフィユの頭を撫でながら、その小さな体を抱き抱えてそそくさと連れて行ってしまった。

 

 

 

 

……何だったんだ。

目をしばたたかせて二人を見送りながら、

『少年』は呆然とするばかりだった。

ただなんとなく、二人のやり取りを見つめていた。

なんとなく、目が離せなかった。

……何故なのかは、分からないけれど。

 

ふと気づくと、犬耳の少年がこちらを見下ろしていた。『少年』を、優しく見守るような視線で。

…あの二人を見ていたこと、気づかれてただろうか…。

何故か顔が熱くなった気がしつつ、『少年』は適当な方向に視線を逸らした。

 

 

「ごめんな、みんなが騒がしくして。」

 

 

犬耳の少年が、声をかける。

困ったように眉を下げてそう言いながらも、少年はどこか嬉しそうで。

さっきの騒がしさを、賑やかさを、楽しんでいるようだった。

 

 

「……別に、どうでも。」

 

 

『少年』は、短くそう答える。

他人のことなんて、どうでもいい。

…そのはずだった。

なのにあの二人の賑わいから目が離せなくて、見ているうちに不思議な気持ちに胸が支配されて。

抱いた気持ちの正体が分からなくて、『少年』はふてくされたように目を伏せてしまう。

 

 

(俺は、俺がどんどん分からなくなっていく…。)

 

 

 

 

 

「むぐっ!?」

 

 

突然、『少年』は犬耳の少年に抱きつかれた。

驚く『少年』をよそにその膝上に乗り、『少年』の頭を狼耳ごと抱き寄せる。

『少年』の顔は、そのまま犬耳少年のうなじ辺りに。垂れた犬耳がちょうど『少年』の鼻と口を覆い、包むような柔らかい香りに鼻先をくすぐられる。

 

……いつぶりだろう。誰かに触れられるのは。

こうして、他人の体温を感じるのは。

犬耳の少年の高めの体温が、じわりと『少年』に伝わってくる。

温もりが、身体に染みてくる。…何故だか身体が冷えきっていた気がしていたから、少年の温かさは素直に有難かった。

…ただ、なぜ急に抱きつかれたかは分からない。

 

 

 

「……どうしたんだ、急に。」

 

 

疑問をそのまま、少年に聞いてみる。自然と人間の言葉が零れるのには、まだ少し慣れない。

…耳元で僅かに、少年の息遣いが聞こえた。…何かを逡巡している、そんな風に聞こえる。

やがて少年の声が、少し悲しげなトーンの声が返ってきた。

 

 

「…なんだか、寂しそうに見えたから。」

 

「……俺が、か?」

 

 

こくん、と少年が頷いたのが、髪と犬耳が動くので分かった。鼻と口にかかったままなので、少しくすぐったい。

 

…寂しそう。

犬耳の少年にそう思われたことが、『少年』には腑に落ちなかった。

俺は、別に……。その言葉が喉から出かかる。

 

けれど、少年の言葉の方が早かった。

『少年』から顔を離し、ぎゅうっと抱きしめていた細い腕を少し緩めて、犬耳の少年と狼耳の『少年』はまた向かい合う。

 

 

「…ごめん。オレじゃこれくらいしか、思いつかなかったんだ…。きみの不安とか、ちょっとでも楽になったらな、って思ったんだけど…。」

 

 

紡がれる言葉は、どこかたどたどしい。

緊張でもしているのか…。つっかえぎみに喋って、一瞬黙って…少しぎこちない笑顔を見せて、またゆっくりと言葉を伝えてゆく。

 

 

「今は、何も分からなくて不安だよね…?ご主人が帰ってきたら、もっと色々話してくれると思うからさ。だからその…安心して大丈夫だよ。」

 

「ご主人…?」

 

 

初めて聞く単語に、『少年』は首を傾げる。

人の名前…ではない。なんとなく、意味合いは分かる気がした。

 

 

「…お前の、飼い主ってことか?」

 

「あはは、オレはペットじゃないよ。…今は、もう。」

 

 

…どうやら自分の解釈は間違っていたらしい。

『少年』が変わらず首を傾げていると、犬耳の少年は心なしか嬉しそうな笑顔を浮かべながら、説明を始めた。

 

 

「ご主人は、この屋敷のご主人だよ。オレたちはご主人と一緒に暮らしてる、だから……どっちかって言ったら『家族』なんじゃないかな?」

 

 

自分で言った『家族』という言葉が、ずいぶん気に入っているらしく。

噛み締めるように小さな拳を胸に当てながら、少年はそっと目を伏せて微笑んでいた。ぱたぱたと、腰の辺りで尻尾が揺れる。

 

 

「ご主人は、すごいんだよ…優しいし綺麗だし頭も良いし、オレたちのことすごくすごく大事に思ってくれてる。…きみのことだって、きっと。」

 

 

少年はそっと立ち上がり、人懐っこい笑顔を向けてきた。

さっきとは違う、心からの笑顔。…『ご主人』という人のことを思い出して、心が落ち着いたのかもしれない。

そのまま優しく、少年は語りかける――。

 

 

 

 

「きみだって、苦しかったかもしれないけどさ。ここにはご主人もいるし、みんなもいる。だから――」

 

「……なんだ、"苦しかった"って…?」

 

 

 

 

 

――『少年』の鋭い声が、その言葉を遮った。

"苦しかった"……その言葉が、『少年』の中から抜け落ちていた何かの記憶に繋がる気がしたから。

言葉に圧を感じて、犬耳の少年の目にまた僅かな怯えが浮かぶ。それでもぐっと堪えるようにして、真っ直ぐ『少年』を見つめながら言葉を探す。

 

 

「だって…言いにくいけどさ……こうして今ここにいるってことは、きみも……」

 

 

『少年』の脳が、反応したように動き出す。

"苦しかった"……その記憶が、確かにある。眠っている。『少年』の意志と関係なく、稼働し出した脳はその記憶を引きずり出そうとする。

 

 

 

少年の口が動く。

何故だかその声が、『少年』自身のものと重なって聞こえる。

 

 

――俺は。

 

 

――きみは。

 

 

 

 

 

―――一度死んだのだから。

 

 

 

 

……

………脳の中で火花が散るようだった。

一度きっかけが生まれた途端、記憶は栓を抜いたように蘇ってくる。

雪の中に沈む身体。虚ろになる視界。全身への刺すような痛み。…全てのことが、嫌なくらい鮮明に。

 

 

 

 

 

「ねえ…大丈夫…?顔色良くないよ…。」

 

 

犬耳の少年が、心配そうに覗き込んでくる。

申し訳なさそうな、罪悪感を抱いた表情。

揺れる瞳で、それを見上げていた『少年』は――不意に片手でその身体を、乱暴に振り払った。

 

 

「わっ!?」

 

 

少年は小さく悲鳴を上げて、バランスを崩す。

それすら意に介さず、『少年』は二本の足で立ち上がった。

違和感はあるが、構ってはいられない。

不器用に踏み出そうとする一歩を、少年の声が止めた。

 

 

「どうしたの…どこに行くつもり…?」

 

「……出てく。」

 

「えっ!?…ちょ、ちょっと!」

 

 

背中に聞こえる少年の叫びを無視して、一歩ずつ進もうとする……けれど、足が思うように動かない。

二足歩行に慣れていないだけではない。

歩こうとする度、右足に激痛が走る。

 

 

「っ……!」

 

 

堪らず姿勢が崩れ、突っ伏すように倒れ込む。

…どうしてだ。

確かに死ぬ前に足をケガしたが、それがどうしてこの身体にも残っているんだ。

分からない。分からないことが多すぎる。

澱のように積もり続ける疑問の全てから逃げ出すように、『少年』は足を引き摺ってまた進み出そうとしていた。

 

 

「っ…!ちょっと待ってってば!」

 

 

苦悶に歪む『少年』の視界に、犬耳の少年が躍り出る。栗色のセミロングを揺らしながら、必死に『少年』の腕を掴んで引き留めようとする。

 

 

「なんだよ出てくって!痛いんだろ?苦しいんだろ?なら動いちゃダメだってば!」

 

「関係ないだろ、お前には。」

 

「なんでそんな無茶するんだよ!外だってまだ吹雪だし…死んじゃうかもしれないんだよ!?」

 

「……関係、ないだろ。」

 

 

『少年』の表情が苦痛に歪む度、犬耳の少年は涙目になりながらその身体を止めにかかる。

…なんでお前が泣きそうなんだ。

意味が分からなかったが、それすらも無視して『少年』は先へ進もうとする。

 

 

「…何か不安なら、オレたちもいるからさ!力になれることは少ないかもだけど……でも一人よりきっと――」

 

「お前らは関係ないって言ってるだろ!」

 

 

ほとんど罵倒に近い大声で、『少年』は叫んでいた。

犬耳の少年の瞳が、大きく揺れて。

遂にぽろぽろと、雫が零れ落ちて。

…それでも、『少年』は止まらなかった。

足と同じくらい、痛む胸を。

張り裂けそうなのを無視して、壁づたいに歩く。

 

『少年』は、オオカミの頃の自分を思い出していた。

たった一人で生きてきた時間を、一人で生きなければならなかった時間を思い出していた。

 

姿が変わったからなんだ。

…今さら、生き方を変えることなんてできない。

知らない生き方なんて、俺にはできない。

 

 

 

だから止めてくれ。

 

 

引き留めないでくれ。

 

 

こんな気持ちを、生ませないでくれ。

 

 

 

 

……頼むから。

 

 

 

 

「俺は……一人で生きていけるんだよ…!」

 

 

 

そう叫んだとき。

『少年』の瞳からも一滴の粒が落ちたことを、『少年』自身気づいてはいなかった。

 

 

犬耳の少年の手が、力なく解ける。

これ以上、何と言って止めればいいのか分からないみたいに。

『少年』の足が、また動き出す。

…けれど、痛みが引いた訳ではない。

積み重なった苦痛が限界に達して、『少年』の身体はぐらり、と崩れた。

カーペットの敷かれた床が、近づいてくる。

ああ、くそ。

また、倒れる―――

 

 

 

 

 

 

「え………?」

 

 

覚悟していた、固い感触も。

打ちつけられた、身体の痛みもなく。

ただ『少年』の身体は、暖かく柔らかな感触に支えられ、床の上で留まっていた。

 

 

 

 

「…それが本当に、あなたの意思なら。…私は、止めたりしません。」

 

 

…耳元で、声がした。

初めて聞く、優しさに溢れた声。

どんな小鳥の囀りより、美しいと感じる声。

その声で、自分はまた誰かに抱きしめられているのだと『少年』は気づく。

暖かな体温。『少年』よりも大きな両腕。銀色の髪。顔は見えないが、優しい声。

…全てで『少年』を守るように、その身体を優しく包み込んでいた。

 

 

 

「だけど、あなたが未来を決める時は……笑顔でいてほしいんです。それで良かったと、心から言えるように。」

 

 

 

…笑顔。

ぼんやりと聞こえてきたその言葉が、何故か胸に強く残る。

不思議な感覚にとらわれていると、『少年』の身体がゆっくり起こされ、そのまま近くの椅子に預けられた。

 

…初めて、相手の顔が見えた。

銀の髪に彩られた、女性の顔だった。

その肌は百合の花のように白く、透き通るほどにすら感じる。

顔立ちは整っていながら、硬さを感じない柔和な印象を受ける。

長い睫毛をたたえた、宝石のような蒼の瞳。

赤縁の眼鏡をかけ、優しく微笑む頬。

 

 

逆立っていた心が、いつの間にか落ち着いている。

綺麗、という言葉が、自然と浮かんだ。

たぶん、今まで見てきた何よりも、この人間が「綺麗」だ、と。

 

 

ふと、犬耳の少年に視線が移った。

少年は女性を見て、安心しきったように笑っている。

そのまま女性に抱きつき、嬉しそうに頬擦りしてから言った。

 

 

 

「おかえりなさい、ご主人!」

 

 

 

 

 



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迷う心、寄り添う心

「ユナが連絡をくれたんです。打ち合わせの途中でしたけど、帰ってきてよかった…。」

 

 

ベージュのトレンチコートを脱ぎながら、女性はそう言って朗らかな笑顔を向けてくる。

厚手のコートの内側は、スキニーパンツとタートルネックのセーターに包まれていた。

すらりとした長身に、女性的な丸みのあるシルエットが強調される。

…女性が突然現れたことにも、その容姿の美しさにも、『少年』はただ呆気にとられていた。

 

 

「ご主人、持ってきたよ!」

 

 

とたとたという足音と共に、二階から犬耳の少年が戻ってくる。手には、畳まれた白い布のようなものを抱えていた。

 

 

「ありがとうございます。…私が留守の間も、よく頑張ってくれましたね。」

 

 

女性はそれを受け取り、少し屈んで犬耳の少年を優しく撫でる。

手にしたものは、そのまま『少年』に手渡された。

 

 

「………?」

 

「私の古着です。少し大きいかもですが…今の服よりは、暖かいと思いますよ。」

 

 

言われるがまま布を開けば、それは白く大きなパーカーだった。

『少年』は、今の自分が纏う服を見下ろす。

白く薄い、レースワンピースのような服。…『少年』自身にこの服を着た記憶は全くないのだが。

 

 

「みんなここに()()時は、決まってその姿なんです。…この季節では、少し寒いですよね。」

 

 

眼鏡越しに目尻を下げて、困ったように女性が笑う。

…本当は、そこまで寒くはない。

部屋に焚かれた暖炉の温かさもあったし、何より多少の寒さは、もはや『少年』にとって慣れたものだった。

 

それでもなんとなくレースの服は落ち着かなかったので、『少年』は言われた通りパーカーに袖を通した。

…狼耳や尻尾が大きくて、少し苦労したけれど。

女性の言葉通りパーカーは大きめで、下を履かず露わな『少年』の太もも辺りまで隠れるくらいだった。

 

古着のせいだろうか。

…どこか、女性と同じ匂いがする。

花のような…いや、花よりもっと柔らかで、もっと安心する匂い。

先ほど彼女に抱き抱えられたことを思い出しながら、『少年』はパーカーの襟を、こっそり鼻先に近づけていた。

 

 

 

「どうでしょうか、大きすぎたりしませんか?」

 

「へあっ…!?……だ、大丈夫…だと思う。」

 

 

突然部屋の奥でコートを掛けていた女性に声をかけられ、『少年』はびっくりしたような声を上げてしまう。

…匂いをかいでいたのを本人に知られるのが、なんとなくくすぐったく思えて、『少年』はほんのり頬を赤くしながらパーカーの襟を口元から離した。

 

 

そのまま袖や裾のサイズを確認していると、ふと部屋の扉の近くにいた犬耳の少年と目が合った。

…先程のことが、あったせいだろうか。

少年は気まずそうに固い笑みを一瞬見せ、すぐに部屋を出ていってしまった。

 

…何と声をかけるべきか分からず、『少年』はただそれを見送るしか出来なかった。

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

 

 

「…傷は、ありませんね。内側の骨も、見るかぎり異常はなさそうですし…。」

 

 

椅子に座る『少年』の右足にそっと触れ、床に膝をついた姿勢のまま、女性は真面目な表情でそう呟く。

…女性の言葉通り、『少年』が痛みを感じた右足には傷も腫れも無く、ただ綺麗な肌色が広がっていた。

 

『少年』も一瞬首を傾げる。

…が、すぐに別の感覚に思考を上書きされた。

 

 

「んっ…」

 

「あっ、ごめんなさいっ!痛かったですか…?」

 

「…いや、平気。……ちょっと冷たかっただけだ。」

 

 

『少年』に触れた女性の手は、外から帰ってきたばかりのせいか真冬の気温をそのまま写したような冷たさで。

少し心配を抱きながら、『少年』は足元の女性を見下ろしていた。

 

『少年』が足を痛めていると知って、女性は『少年』の負担にならないよう、なるべく優しく、包むように手で触れ触診していた。

白く細い女性の指が肌に触れる。

長い睫毛と、宝玉のような瞳に、見つめられている。

……それだけで、心がそわそわと落ち着かない理由が、『少年』には分からなかった。

 

 

 

「そっか、まだ冷たかったんですね…。

すみません、少しいいですか?」

 

 

 

女性はそう言うと一度手を離し、手のひらを口元に近づけて優しく息を吐いた。

その手でもう一度、『少年』の裸足を包む。

…今度は、じんわりと温かさが伝わってきた。

『少年』の表情が少し柔らかくなったのを見て、女性も安堵したように顔を綻ばせる。

 

…その笑顔に、流れてくる彼女の温もりに。

『少年』は、心が安らぐのを感じていた。

胸を優しく包まれるような感覚……こんなものを感じたのは、いつ振りだろう。

 

 

『少年』の胸の中で、小さな気持ちが芽生えていた。

 

…もっと、この温もりに触れていたい。

 

肌に伝わる温もりのように、その気持ちは強く、大きくなっていく……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……はっとして、『少年』は首を左右に振るった。

彼女に心を許そうとしている自分に、誰かに甘えようとしている自分に気づいて。

その気持ちを、必死に振り払うように。

 

 

 

もう、誰にも頼らずに生きるのだと。

そう誓った、遠い昔の記憶――。

孤独な自分を、ずっと支えてきた決意――。

自分の中の、揺らいではいけない何かがが揺らいでしまいそうで。

そのことが、どうしようもなく恐ろしく思えて。

自分の中に芽生えた思いを拒むように、『少年』はまた俯き、沈黙してしまう。

 

 

 

暫く、言葉のない時間が流れていた―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ひとつ、聞いてもいいですか?」

 

 

――沈黙の時間は、女性の声でそっと終わりを告げた。

『少年』が僅かに顔を上げると、真っ直ぐにその目を見つめる女性と目が合った。

…あまりの真っ直ぐさに、『少年』は視線を逸らして抱えた膝に顔を埋めてしまう。

 

 

「…何だよ」

 

 

…ぶっきらぼうに言葉を返すのが精一杯だった。

女性は『少年』の口調に嫌な顔をすることもなく、静かに、優しく問いかける。

 

 

 

「"一人で生きていける"って言葉……どうして、あんなことを言ったのかなと思って。」

 

 

それは先ほど、『少年』が犬耳の少年に発した言葉……あの時のことを、少年の表情を思い出すと、少し胸がざわざわとした。

どうしても何も……と『少年』は思う。

その問いに返せるとしたら、ほんの短かな回答しかない。

だから小さく口を開き、思うままの答えを告げた。

 

 

 

「……ずっと、そうやって生きてきたから。

…それだけだよ。」

 

 

 

 

―――『少年』を見上げる女性の瞳が、眼鏡の奥で揺れるのが見えた。

 

 

「………ずっと独りで、ですか…?」

 

「……ああ。」

 

 

また短く、言葉を返す。

女性の手が『少年』の脚からそっと離れ、胸の前で握られる。

その表情はあの時の――涙を流していた犬耳の少年と、どこか重なるような気がした。

 

…彼女の瞳にも、自分は寂しく写っているのだろうか。

 

 

 

 

「…別にいいんだよ。俺はもう、慣れたから。」

 

 

ぽつりと、『少年』が呟く。

慰めにも諦めにも聞こえる、か細い声で。

 

長い時間を、そうやって生きてきた。

誰とも関わらず、誰の手も借りず。

はじめから、望んだ訳じゃないけれど。……それでも一人で、生きてこられた。

 

 

「だからこれからだって、…俺は一人で……」

 

 

 

 

 

――"生きていける"。

続くはずだった言葉が、『少年』の口から響くことはなかった。

声を詰まらせたのは、不意に胸を掠めた、小さな疑問のせいだった。

――本当に、そう言い切れるのか?、と。

 

 

…自分は、一度生きることを諦めた。

独りで生き続けることが、どうしようもなく空っぽで、虚しく思えて。

本当は、あの時とっくに―――生きる意味を、失っていたのかもしれない。

だから自分の命を、捨てることを選んだ。

――それなのに。

命を諦めたその先では、何故かこうして命が続いていた。

 

 

独りで生きていく。

そのたった一つの生き方すら、自分で否定したというのに。

 

今さら、どうやって生きたらいい?

……今の自分の生に、どんな意味が残ってる?

 

 

 

………

……………

 

 

 

 

「……何が、生きていける。だよ。」

 

 

 

囁くよりもか細い声が、『少年』から弱々しく漏れ出た。

 

気づいてしまった。

 

自分が、失うことを恐れていたものは。

 

…とっくに自分の中で、バラバラに砕けていたことに。

 

――どんな意味が残っているのか。

 

その問いに、答えも出せないで。

 

 

気持ちが俯く。

瞳が、また寂しく伏せられる。

 

支えだったものを失った心の中は、

空っぽで、真っ暗で……

最期に見上げた、澱んだ空の色のようだった。

 

 

 

……………

………

 

 

 

 

 

 

「意味は、ありますよ。」

 

 

 

 

そっと、響いた声に気づくと同時。

不意に、『少年』の頭に何かが触れた。

大きくて優しい温もりが、『少年』の狼耳と黒髪に纏めてもふもふと触れている。

驚いて、視線をゆっくりと上に上げれば。

女性が立ち上がり、俯いた『少年』の頭を、優しく撫でていた。

 

少し前屈みになりながら、『少年』の髪を梳くように指を沿わせる。

艶やかな髪を、するりと指が抜けていく。

手のひらから、体温が伝わってくる。

 

琥珀色の瞳に写る、百合の花のような女性。

その口が、また静かに開かれる――。

 

 

 

「…肉体を離れて流れ着いた魂に、新しい時間と身体を与える。」

 

「………は…?」

 

「この屋敷にはそんな力が――いえ、力というより"役割"でしょうか。そうしたものがあるらしいんです。…不思議ですよね。」

 

 

 

…眼鏡の奥で目を細め、小さく笑いながらそう話す女性を、『少年』はぽかん、としたまま見つめていた。

 

自分が人の姿に変わった原因…すぐに信じられるとは言い難かったが、少なくともこの不可思議の理由は知ることができた。

それは女性の言うとおり、不思議な話だった。

不思議という言葉で、簡単に片付けていいものとも思えなかったが……特に気にした様子もない女性の説明は、ずいぶんあっさりしたものだった。

 

 

 

「…どんな魂でも、ここに流れ着く訳ではないんです。理由があって、あなたの魂もここに来た。…あなたにその理由は、まだ見えていないかもしれないけれど。」

 

 

 

意味…

理由…

本当に、そんなものがあるのだろうか。

今の自分には、何一つとして見えていないのに。

 

不安と焦燥が、『少年』の瞳に浮かび上がる。

感情が渦の中で溶け合い、深い闇色となって琥珀の瞳を濁らせる――――。

 

 

 

 

 

 

「ゆっくりでいいんですよ。答えは、ちゃんとありますから。」

 

 

 

暗いものが広がりかけた心に、また寄り添うように声が届く。

沈んだ瞳に、暖かい笑顔が眩しく写る。

…もう、気づかないふりも出来ないくらい、胸に沸き上がる温もりは大きくなっていた。

 

 

 

「少しずつでも向き合ってみてください、あなた自身と。…そうすれば、きっと見えてくるものがありますよ。」

 

 

 

そう告げて、もう一度『少年』を優しく撫でると、女性はまた、掛けられていたコートを手に取った。

 

 

 

「…どこか、行くのか?」

 

 

思わず発した声が、ことのほか寂しげに響いたことに、『少年』は自分で驚いていた。

その寂しさに気づいたせいか、女性は銀の髪を靡かせながら振り返り、もう一度『少年』を真っ直ぐ見つめる。

 

 

 

「はい。急いで帰ってきたので…夕飯の買い出しをしてきます。それと…」

 

 

女性は『少年』に視線を向け、少し恥ずかしそうに笑う。

 

 

「いつまでも私の古着、というのも申し訳ないですから。」

 

 

 

合う服をいくつか選んできますね。と言葉を続け、女性は再びトレンチコートに袖を通した。

ボタンを留め、少し髪を整えてから、何かを思い出したように『少年』に話しかけた。

 

 

 

「ここに住んでいる子たちとは、何か話しましたか?」

 

「?……いや、少ししか…。」

 

「機会があれば、話してみるのもいいと思いますよ。それで何かを知れるかもしれません。…それに、みんな優しい子ですから。」

 

 

どこか嬉しそうにそう語る女性を、『少年』は不思議そうに見つめ続ける。

 

 

「それじゃあ、行ってきます。…あまり無理して動かないようにしてくださいね。」

 

 

 

そう言って遠ざかる女性の背中を、『少年』はただ見つめていた。

そのまま、何かを言うつもりもなかった。

そのはずだったのに。

 

 

 

 

「……気をつけてな。」

 

 

 

気づけば、彼女の背中にそう声をかけていた。

…突然、自分は何を言ってるんだ。声をかけてすぐ、後悔の気持ちが押し寄せる。

 

…けれど、女性は声を聞いて立ち止まり、振り返り……

 

 

 

『少年』に向けて、嬉しそうに笑顔を咲かせていた。

 

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

女性が部屋を後にして、しばらくの間。

『少年』は、ぼんやりと天井を見つめていた。

不思議な、ふわふわとした気持ちの中にいるみたいに。

 

 

「?………なんだこれ。」

 

 

不意に、体を預けていたソファの脇に視線が移る。

置かれていたのは空色の装丁が目を引く、一冊の本だった。

…なんとなく気になって、手を伸ばそうとした時。

『少年』に、遠くから視線が向けられているのを感じた。

 

隠れた気配を感じて、『少年』の目が一瞬鋭くなる。…狩りをする、狼のように。

ゆっくりと首を回し、気配を探る………

 

 

 

 

 

「あ………」

 

 

『少年』の、琥珀の視線が捉えた先には―――

扉の端から僅かに顔を覗かせ、こちらを伺う犬耳の少年の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 



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栗色の陽だまり

「隣、座ってもいい?」

 

 

部屋と部屋を隔てる引き戸の間から顔を覗かせていた犬耳の少年は、狼耳の『少年』の視線に気づくともじもじしたまま部屋に入り、そう言ってきた。

 

 

「?……ああ、いいけど。」

 

 

その提案にきょとんとしつつも、『少年』は腰を上げてソファの半分を空ける。

犬耳の少年は空いた隣に、緊張したように両手を胸に当てながらすとんと腰を下ろした。

ルームウェアのワンピースと栗色の尻尾がふわり、と揺れて、優しい香りが『少年』の鼻をくすぐった。

 

…狼耳に、小さな深呼吸の音が聞こえてくる。

少し緊張したような、隣の少年の息遣い。

数回それが続いた後、犬耳の少年はぽつりと言葉を溢した。

 

 

 

 

「……さっきは、ごめんね。」

 

 

雫が滴り落ちるような、淋しげな声が響く。

『少年』の、琥珀の瞳が見開かれる。

…なんとなく想像はついていた。彼が話したいのは、自分との「さっき」のやり取りのことだろうと。

一言目が謝罪の言葉とは、想像していなかったけれど。

 

 

 

「オレが無神経なこと言ったせいで、きみに嫌な思いさせちゃったよね…。オレ、お話するの好きなのにさ…言葉選ぶのとか、相手のこと考えるのとか、今でもあんま上手くできなくて……だから……」

 

 

呟く声が、少しずつ陰りを帯びてくる。

罪悪感に、気持ちが沈んでゆくような声。

その声に、言葉に、『少年』は―――

 

 

 

 

「………違う。」

 

「えっ…?」

 

 

 

――遮るように、そう返していた。

 

 

「さっきのは、お前が悪いんじゃない。俺が勝手に焦って、余裕失くして、お前に八つ当たりしただけだ。だから―――…悪かった。」

 

 

犬耳に、その言葉が響いてきて。

今度は少年の方が、ぱっちりとした目を驚きに見開く番だった。

 

…『少年』の方も、自分の言葉にそわそわと落ち着かない様子を見せていた。

誰かに謝る、自分の非を認める…一人で生きてきた彼にとっては、それすら初めてのことだったから。

 

赤らめた頬を隠すように、パーカーの襟に口元を埋めながら……これでいいんだろう、と安心する気持ちもあった。

犬耳の少年とのやり取りを、自分に向けられた涙を思い出したとき、『少年』の胸はざわついていた。

けれど心を打ち明けた今、胸はどこか澄んだように落ち着いている。

…だからきっと、これでいいんだと。

 

 

…犬耳の少年から、言葉が返ってこない。

無言の時間に居たたまれなくなって、『少年』は思わずそわそわとした視線を隣に向ける。

隣で、犬耳の少年は見開いた目に『少年』を写していた。

どこか、驚いたような表情。けれどその頬は、何かに安堵したように優しく微笑んでいて。

…よく見れば少年の腰から伸びる尻尾も、お菓子を貰って喜ぶ子どものように、ぱたぱたと忙しく動いていた。

 

 

「……俺、おかしなこと言ってたか?」

 

 

思わず、『少年』は首を傾げていた。

犬耳の少年が嬉しそうであることは、『少年』にも手に取るように分かった。

……けれど、自分がそんな反応をされる言葉を話した覚えはない。ただ、謝罪を口にしただけだ。

 

そう思って『少年』が尋ねると、犬耳の少年は「ふわっ!?」っと驚いたような声を上げた。

…『少年』を見つめていたのは、無意識だったらしい。

少し赤くなった頬で照れ笑いを浮かべながら、犬耳の少年は言葉を返す。

 

「…ううん。よかった、って思って。」

 

「……よかった…?」

 

「きみのこと、最初はちょっと怖い子かなって思っちゃったけど…やっぱり優しくて、安心した。」

 

ワンピースから伸びる素足をソファーの上で抱きかかえながら、少年は屈託のない笑顔を咲かせる。

明るくて、暖かくて………

陽だまりのようなその笑顔は、自分には眩しすぎるくらいだ、と『少年』は感じていた。

 

ひょい、と尻尾を揺らして立ち上がり、犬耳の少年は『少年』の前に立つ。

ぽかんとしたままの『少年』に向かって、犬耳の少年は手を胸に当てながら話し出す―――

 

 

 

「オレ、クートって名前!歳は人間だと10歳くらいってご主人が言ってた!改めて、よろしくな!」

 

 

嬉しそうに話したのは、少年自身の自己紹介だった。

きらきらと『少年』に向けられたその視線は、最初に会った時のどこか怯えを湛えたものではなくなっていた。

……自分に心を許した、ということなのだろうか。

 

 

 

「クート……。」

 

 

…気づいた時には、ぽつりとその言葉を繰り返していた。

少年の名前。その言葉が口から零れた理由は、自分でも分からない。

 

…ただそれがとても暖かくて、特別に思えて。

思わず手を伸ばすような…そんな感覚に近かったのかもしれない。

 

 

…それが、「名前」というものなのだろうか。

 

 

 

「えへへっ、いい名前でしょ!……宝物なんだ、オレの。」

 

 

 

宝物。

 

変わらず嬉しそうに口元を綻ばせて、けれど視線だけは何かを懐かしむように細めて。

 

慈しむような表情でそう語る犬耳の少年――クートの言葉は。

 

名前を持たない『少年』には、とても遠いもののように思えた。

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

 

「そうだ…足、大丈夫だった?」

 

 

もう一度『少年』の隣に座り直してから、クートは心配そうにそう聞いてきた。

上の空にいた『少年』の意識が、その声に引き戻される。

 

……僅かに俯いた『少年』の視線が、パーカーから伸びる自分の脚を見つめ、そのまま、呟くように言葉を零す。

 

「分からないけど…たぶん、歩いたりはまだ出来ないだろうな。」

 

腿から腓にかけて、『少年』は自分の脚を指でなぞる。

鋭い爪も深い毛も失われた、まだ見慣れない自分の脚。

…滑らかな肌には、()()()()()()

それでも痛みだけは、何よりはっきりと感じられた。

 

「どうして、まだ痛むんだ………」

 

独り言のように、疑問を呟く。

あの時折ったのと同じ足。同じ痛み。

なぜかこの身体でも、それを抱えてる…。

…痛みが、まるであの時(オオカミ)の自分と今の自分を繋ぐ、重い鎖のように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…もしかして、前にもあった?…その足に怪我したこと。」

 

 

 

……『少年』を隣で見つめていたクートが、不意に零した言葉に、『少年』は目を見開いて振り返った。

どうして、それを…。そう言いたげな琥珀色の瞳と目が合って、クートの方も何かを察したようだった。

 

 

 

「そっか………やっぱり。」

 

 

そう呟いた表情に、不意に陰が差したように見えた。

右胸の辺りをワンピースの上からぎゅっと握り、クートはソファーの上で小さく膝を抱える。

自分より一回り小さなその身体を『少年』が見つめていると、やがてクートはゆっくりと体を『少年』の方に向け、話し始めた。

 

 

 

「たぶん、それは足じゃなくて……きみの心の方が痛がってるんだよ。」

 

「心…………?」

 

「トラウマ、っていうんだっけ…。痛いのとか苦しいのとか、そういうのがきみの中に強く残りすぎてて、だからこの体になっても忘れられないんだと思う。体が変わっても、傷がなくなっても、心は元のままだから。」

 

 

…無意識に、胸に掌を当てながら。

ぽつぽつと語るクートを『少年』は見つめていた。

やけに詳しい気がする。そんな引っ掛かりを感じながら。

…気になりはしたが、今は何より自分のことを知らなければならない。

そう思い、『少年』はただ言葉に耳を傾けていた。

 

 

「怪我したのは、いつのこと?」

 

「……いちばん、最期。」

 

クートの問いに、暈すような言葉を『少年』は返す。

"死"という言葉を、事実を、まだ口にするのには抵抗があった。

 

「そっか。………辛かったんだね。」

 

…『少年』の痛みに寄り添うように、クートはそっと言葉を紡ぐ。

その痛みを、自分のことのように受け止めながら。

 

 

 

けれど、その言葉に―――”辛かった”と言語化された感情に。

誰より困惑したのは、『少年』自身だった。

 

 

 

 

あの時……

自分はもう、生きることを諦めていたはずだ。

終わりたいと、願っていたはずだ。

 

そのはず、なのに。

 

 

どのみち死ぬのだからと、諦めて、受け入れたはずのもの(痛み)に、自分は未だに囚われている。

あの瞬間を、トラウマとして抱えている…。

 

 

 

 

(それじゃあ、まるで俺は………)

 

 

 

 

 

 

その言葉の先に、踏み込めずにいたとき。

………不意に、音が聞こえた気がした。

 

 

 

体の内から響いてくるような、『少年』にだけ聞こえる音。

胸に爪を立てられるような、悲痛で、息の詰まる谺。

何かを訴えるような、甲高くくぐもった慟哭。

 

 

―――音、じゃない。

 

遠吠えだ。

 

『少年』には、直ぐに正体が分かった―――――それが最期に、自分から漏れた()なのだと。

 

 

 

 

知らなかった。

 

 

俺は……

 

 

 

 

こんなに寂しく吠えて(ないて)いたのか。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

…どのくらい、そうしていたのだろう。

気がついたとき、『少年』は俯き、足元を見つめていた。

 

床に敷かれたカーペットの白が、あの時自分を覆った雪と重なって見えた。

 

閉ざされた崖の下で。立ち上がることも叶わなくなった脚で。

諦めるしかなくなった状況で、俺は叫んでいた。

…振り絞るような、何かへ必死に手を伸ばすような遠吠えを。

 

「俺は――――――」

 

 

 

 

 

 

 

「――――――――生きていたかったのかな。」

 

 

…さっきは、踏み込めなかった自分の気持ち。

それを言葉にした瞬間、氷のような冷たさが体の内側を走った。

自分の中にあった、矛盾じみた感情。

それに気づきたくない、認めたくない。

…そう、拒絶しているかのようだった。

 

 

ゆっくりと、肌の上から脚をなぞる。

…だから、痛みを忘れられなかったのか。…望みを絶たれた(トラウマ)だったから。

 

 

 

あの時の、自分の本心に。

引き摺り続けた、痛みの理由に。

たどり着いた『少年』の心はぼろぼろで、暗く深くへと沈んでゆくようだった。

 

 

 

 

 

 

俯いていた視界の端でふと、ふわりと栗色の髪が揺れるのに気づいた。

…見れば膝を丸めてしゃがんだクートが、こちらを覗き込んでいる。

思わぬ所で目が合い、『少年』は僅かに驚いた声を上げた。

 

 

「あっ…やっと気づいた。」

 

 

心配そうに見上げていたクートの表情が、安心したように少し和らぐ。

その言葉で、『少年』は自分が暫く上の空にいたことを自覚した。

 

……自分でも、暗い表情をしている自覚がある。

視線が上を向けない、下ばかり見てしまう。

―――そんな『少年』に、クートは何かを聞こうとはせず、ただ手を差し出した。

 

 

「…はい、これ。」

 

 

…よく見れば、差し出された両手は何かを包むように持っていた。

それは白い、陶器のマグカップだった。…ほくほくと、湯気も立ち上っている。

中を覗くと、柔らかな茶色のような…初めて見る色をした飲み物が注がれていた。

 

 

「ココアだよ。オレ、これだけは上手に作れるんだ。…あ、ほんとは勝手に火使っちゃダメって言われてるから、ご主人には内緒ね…。」

 

 

 

『少年』にとって聞き慣れない名前の飲み物を紹介してから、立てた人差し指を唇に近づけてはにかむクート。

そのままマグカップを、『少年』へと手渡す…

 

 

「熱っ……」

 

 

カップの側面は思っていたより熱く、思わず声が漏れてしまう。

クートに倣って取っ手を握りながら、袖を伸ばして手のひらを覆いカップを支える。

…布越しに感じると、熱さもちょうどいい温かさに思えた。

 

カップの中で揺れる、マーブル模様に目を落とす。

…当たり前のように、差し出されたから受け取ったけれど。

そもそも、これは何なのだろう…。

 

 

「…これ、俺がもらっていいのか?」

 

「もちろん。きみにもらってほしくて作ったんだから、いいんだよ。」

 

 

きょとんとしたままの『少年』に、クートはにっと笑顔で応える。

一方で『少年』の琥珀色の瞳には、困惑の色が滲んでいた。

…クートが、自分にここまでする理由が分からない。

出会ったのさえ、ついさっきだというのに。

自分はクートに、何も出来ていないのに。…むしろ、恨まれているくらいが自然だと思っていた。

 

それだけのことをしたのだと、クートの涙を思い出す度に感じていたから。

 

 

 

 

 

 

「…生きてきた時間も、ずっとバラバラでさ。」

 

 

 

…クートの声が、突然耳に響いてきた。

横を見れば、クートはまたソファの隣に収まって、小さな体に抱き寄せるように膝を抱えていた。

 

「たくさん偶然も重なって、姿まで変わって…ようやく今、出会えたくらいなんだから。

……オレときみの関係なんて、まだ何も"ない"ようなものかもしれないけどさ。」

 

 

関係ない。

…それは、自分がクートに向けてしまった言葉。

その言葉が、まだクートを苦しめているとしたら……

 

今、思い出して胸が痛むのは……後悔、しているからだろうか。

 

 

 

 

 

「それでも…オレはきみと会えたことを大切にしたい。……だからきみが苦しんでるなら、オレは関係ないままでいたくない。」

 

 

また下を向きそうになった『少年』の視線を、気持ちを。

繋ぎ止めたのも、クートの言葉だった。

……力強く言葉を紡ぐクートの姿を、琥珀色の瞳が真っ直ぐに見据える。

 

クートもまた、『少年』を真っ直ぐに見つめて……

 

 

 

 

 

「オレは…きみの味方でいたいんだ。」

 

 

 

迷いなく、その言葉を告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『少年』は、言葉を失っていた。

ずっと、独りだった自分が。

――初めて、味方になりたいと言われた。

…これは、どんな気持ちなのだろう。なんと言葉にすればいいのだろう。

 

今は、まだ上手く言葉に出来ない。

…ただ、自分の中に芽生えた、この気持ちを。

ずっと抱いていたい…その思いだけは、確かだった。

 

 

 

 

 

 

 

「…って、ちょっと話しすぎちゃった…。ココア、まだ冷めちゃってないよね…?」

 

 

クートが心配そうに覗き込んだカップからは、ほのかにだがじんわりと、まだ温かさを感じられていた。

飲んでみて、と言いたげな視線を感じて、『少年』はそっとカップに口をつけた。

 

ほうっ…と、思わず息をつく。

優しい甘さで、少しほろ苦くて……何より、温かい。

 

体に纏わりついた雪の感覚が、少しずつ融けてゆく。

 

…いつの間にか、自分は多すぎるくらいの温かさに囲まれていた。

 

 

 

ココア、暖炉、毛布、

……それから、

 

 

「…美味しい?」

 

「っ…。……ああ。」

 

「そっか……えへへっ、よかった!」

 

 

視界の端で尻尾がぱたぱたと振られ、視界の真ん中で陽だまりのような笑顔が咲く。

 

…無意識に、じっとクートを見つめていたことに気がついて。

『少年』は、ほのかに染まった頬を不器用に背ける。

 

相変わらず、

クートの笑顔は自分には眩しすぎるけれど。

見ていると、安心できる。…そんな気がした。

 

 

 

 

まだ見つからない言葉、見つからない答え…。

 

考えるために、ここに少しだけ立ち止まってもいいのかもしれない。

 

 

そう思いながら

『少年』はまた一口、ココアに口をつけた。

 

 

 



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思いの雫とバスタイム その1

暖炉で薪が燃える、ぱちぱちとした静かな音だけが響くリビング。

その一角に設置された、少し大きめのソファの上で、『少年』はもぞもぞと身体をくねらせていた。

 

 

(なんか……落ち着かない。)

 

 

クートがくれたココアをゆっくり飲み終えて、少し経った頃。…つまりは、今から十分ほど前から。

奇妙な感覚を、身体中に感じていた。

むず痒いというか、なんというか……ともかく、落ち着けない違和感があるのは確かだった。

 

 

 

「…今度は、なんだってんだよ…。」

 

 

今も疼く右足を見つめながら、『少年』ははあ、とため息をつく。その間も、身体を走るむず痒さは続く。

眉間に僅かな苛立ちを浮かべながら、気を紛らわせるために『少年』は窓の外に視線をやる――

 

 

 

 

「―――あ…。」

 

 

声が、零れた。

琥珀色の瞳に映る"外"。

灰の空と白の雪。

どこまでも広がる、モノトーンだけが彩る寒々しい景色。

これでは昼夜も分からない。

 

…普通の人間なら、そうなのだろう。

 

けれど『少年』は、この景色の中を何年も生きていた。…それこそ、飽きるほど。

だから直ぐに、『少年』には分かった。今が一日のどの辺りかも、その時間狼の頃(いつも)なら自分が何をしていたかも。

 

 

 

…水浴び。

この時間、日課にしていた"それ"を思い出して、納得したように『少年』は天井を見上げた。

 

 

 

(どうりで…。落ち着かない訳だ。)

 

 

餌を求め、歩き続けた足を洗うため。

狩りで付着した獲物の血と匂いを落とすため。

この時間に水場を訪れることが、いつの間にか自分の中で決まりになっていたのだ。

今はどこかが汚れている訳ではないが…一度気づいてしまうと、無性に身体を洗い流したくなってくる。

 

きょろきょろと、部屋の中を見回すが…当然というべきか、水場らしいものは見当たらない。

そもそもこの屋敷の、というか人間の住む家のことさえ『少年』はまだほとんど知らない。

どこに行けば、身体を洗えるのだろう……。

 

 

「クート、ちょっと聞きたいんだけど…………クート?」

 

 

ひとまず、クートに聞いてみることにした。

…のだけれど、すぐ隣に座っていたはずのクートから返事がない。

首を傾げ、『少年』はソファの隣を見下ろす――

 

 

――クートは、静かに瞳を閉じていた。

口元にかかってしまっている髪も気にせず、背もたれに身体を預けてだらりとしている。

一瞬、その光景に『少年』は息を飲んだ。寒気が胸を過り、無意識に狼耳と尻尾もぴん、と立ってしまう。

 

…が、すぐにその耳に、すうすうと小さな息遣いが聴こえてきた。

 

 

「………寝てる、のか?」

 

 

覗きこむように顔を近づけながら『少年』が囁くと、クートからむにゃ…と声が漏れた。

…本当に、ただ急に眠ってしまっただけのようだ。

少し顔を傾けて、頭が上手く収まったかのようにまたすやすやと眠る。

 

…無防備だな、と思いながら『少年』はそんなクートを見つめていた。

 

 

「今日会ったばかりの奴の前で、よく寝られるな…。」

 

 

自分なら、警戒心でとても眠れはしないだろう…と想像して、不意に『少年』は気がついた。

 

 

(もしかしたら…そのせいで。)

 

 

 

先程までクートは、『少年』の話し相手になっていた。

はじめこそ少し気まずさがあったけれど…最後にはそれなりに話しやすくなったように、『少年』自身感じていた。

 

悪い時間じゃなかった。…だけど。

話すのが得意じゃない。…そう、クート自身が言っていたように。

自分と話している間も、ずっと気を張っていたから。そのせいでクートは疲れてしまったんじゃないか、と。

 

 

 

もう一度、『少年』はクートの寝顔を覗く。

穏やかに眠る、自分より小さな男の子。

ふと手を頬に翳せば、ぽかぽかとした体温が手のひらに伝わってくる。…その温かさも含めて、まだ彼は子どもなんだと、改めて思う。

 

自分よりも幼くて、小さくて…。

 

 

 

 

『オレは…きみの味方でいたいんだ。』

 

 

 

 

それでも、そんな彼の言葉で、自分は―――

 

 

 

……………

 

 

頬に翳した手で、そのままクートの口元から髪を払ってやる。

薄桃の唇が僅かに微笑み、また小さな寝息が心地よく続く。

…クートを見つめる瞳が、ほんの少し細められた。

 

 

『少年』は小さく息をついて、ゆっくりとソファから立ち上がった。

まだ右足は使えない。バランスを崩しそうになりながら、なんとか壁に身体を預ける。

楽ではないけれど、動けなくはない。…あの女性には、無理をしないよう言われたけど。

 

 

 

(水浴びできる場所は…自分で探せばいい。)

 

 

音を立てないように、クートを起こさないように気をつけながら。

『少年』は静かにリビングを後にした。

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

オレンジの灯りがぽうっと照らす、物静かな廊下を壁づたいに進む。

壁の質感や色づかいからは、どことなく年季を感じさせる雰囲気がある。一方で、その隅々まで清潔に保たれており、雰囲気の割に嫌悪感はない。むしろ初めて屋敷を歩く『少年』さえ、どこか居心地のよさを感じていた。

 

あの女性の言葉を思い出す。

『少年』が狼として死に、こうして人の姿になったのは、この屋敷が関係しているのだと。

 

 

(人間の家は、どこもそんな力があるのか…?……そんな訳ないか。)

 

 

狼であった自分にも、そのくらいは分かる。そう思いながら『少年』は、床に敷かれたカーペットの続く先を見つめた。突き当たりには階段があり、上の階もあるらしい。

 

…そういえば、屋敷にはクートの他にも少年が住んでいるのだった。肩上でグレーの髪が揺れる猫耳の少年と、白い短髪の横から長い兎耳が垂れる、クートよりも幼い少年。

 

 

(あいつらは、上に行ったのかな…。確か名前は……)

 

 

互いを呼び合っていた時の僅かな記憶を思い出そうと首を捻ったとき、『少年』のツンと立った狼耳に音が飛び込んできた。

 

 

「……! 水が流れてる……」

 

 

狼耳だけはかつてと同様、鋭敏に機能しているらしい。

壁を隔てて聴こえるような小さな音だが、あまり遠くではない。『少年』の身体は、自然と音の方へ引っ張られていった。

 

 

廊下を進んだ先、幾つか置かれた扉のうちの一つ。

もう一度耳を澄ませ、音がこの先から聴こえることを確認してから、扉に手をかける―――

 

 

 

 

 

「………ふぇ…?」

 

「………あ……。」

 

 

扉を開けた先に、小さな影があった。

きょとんと開かれた『少年』の瞳に、小柄な白い肌が映る。…そしてその白が、みるみる紅く染まってゆくのも。

 

兎耳の少年は、『少年』の方を振り返る姿勢で立っていた。…まさに今、服を脱ぎ終えた姿で。

白雪を思わせるほど白い、傷一つない素肌。ほっそりとした二の腕は自身の肩を抱くように胸の前で組まれ、恥じらうように交差した脚の付け根、露わな臀部の上には小さな白毛の尻尾がちょん、と生えていた。

 

予想していなかった光景に、『少年』は暫く固まってしまう。…その前で、兎耳の少年の目にはみるみる涙が溜まり、頬は茹だったように羞恥の朱に染まっていく。

 

 

「あ……あうぅ……。」

 

「えっ…泣っ…!?…どうした…?」

 

 

兎耳の少年が浮かべた涙の意味が分からず、さすがの『少年』も狼狽える。

今にも決壊しそうな兎耳の少年の潤んだ瞳を捉えたまま、立ち尽くすことしか出来ずにいた―――その時、

 

 

「フィユ、おまたせー。…ってあれ、きみは……。」

 

 

背後から声が聞こえ、グレーの猫耳がひょっこりと覗いてきた。

クートと同じくらいの身長。その胸に服やタオルを抱え、不思議そうに『少年』を上目遣いで見上げているのは、前に出会ったもう一人の少年だった。

 

ぴこぴこと動く猫耳を見下ろしながら、『少年』も彼に視線を向ける。

 

 

「お前は、確か……」

 

「?…ああ、名前?

僕はユナ。こっちの子はフィユ、だよ。」

 

 

自らの名前を告げながら脱衣室に入り、フィユの肩に手を添えるユナ。

 

…そういえば、さっきユナはフィユに怒られていた気がしたが、あれは解決したんだろうか。

『少年』が二人の名前を聞きながら、ふとそんなことを考えている時。

ユナはフィユの顔を覗き、驚いたように声を出していた。

 

 

「ってフィユ、どうしたの? ……とりあえずほら、タオル。」

 

 

涙目のフィユに気づいたのだろう。持っていたタオルのうち、大きめの一枚をフィユの身体に掛けてやり、フィユの目線に体を屈めながら別なタオルでその目元を拭う。

 

 

「これでよし…と。…で、なんかあったの?」

 

 

涙を拭き終え立ち上がると、ユナは首を傾げながら問いかける。が、フィユは言葉を返そうとはしなかった。代わりに、ユナの背後にぴったりとくっつき『少年』から隠れてしまう。

相変わらず、頬は真っ赤なままだ。

 

きゅっ、と裾を掴むフィユと困惑した表情の『少年』を交互に見つめ、ユナは何かに納得したように目を細めた。一瞬、口元に笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろうか…。

 

 

「ああ、なるほど…。」

 

 

…何が分かったのだろう。相変わらず、『少年』は怪訝な表情を浮かべるばかりだ。

と、不意にユナがフィユの背中をぽんぽん、と軽く叩いた。

 

 

「ほら!いつまでもそんな格好じゃ風邪引いちゃうし、お風呂入るよ、フィユ。」

 

 

フィユを促すように声をかけながら、ユナも着ていたカーディガンとキャミソールをはらりと脱ぎ、肌を露わにする。…と、フィユがびっくりしたように目を見開き、前から赤かった頬がさらに赤みを増す。

 

 

「ひゃっ…!」

 

「ひゃっ、て…。恥ずかしがるようなことじゃないでしょ?いつも一緒に入ってるじゃん。」

 

「で、でも……」

 

 

もじもじと両手で体を隠しながら、フィユの視線は『少年』の方へ向けられていた。

もしかして、と『少年』は気づいた。…見ず知らずの自分に裸を見られるのが恥ずかしい、ということか。

 

気づきはしたが、『少年』にはあまりその感覚が分からなかった。…自分が服を着ていることにさえ、まだ違和感があるのだから。どちらかといえば、服を纏わないことの方が『少年』にとっては自然だった。

 

恥ずかしそうに俯いているフィユをちらり、と見てから、ユナは今度は『少年』に声をかけてきた。

 

 

 

「きみも、お風呂入りに来たんでしょ? 一緒に入っちゃおうよ。」

 

 

 

 

「「え…?」」

 

 

『少年』とフィユの声が見事に重なる。

ぽかんとしたままの二人を横目に、ユナは悪戯っぽく笑いかけながら先に浴室へ入ってゆく。

 

…背中では、猫の尻尾が楽しげに動いていた。

 

 

 

 

 

 



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思いの雫とバスタイム その2

「ふにゃぁ~…お風呂気持ちいい…。フィユ、お湯熱くない?」

 

「う、うん……あったかくてちょうどいい…。」

 

 

バスタブの縁で組んだ腕に、ユナはそのふやけた表情を乗せてくつろいでいる。

湯船の中央に膝を抱えて座るフィユも、先程より緊張のほぐれた表情を浮かべていた。…ちらりと『少年』が視線を向ければ、また真っ赤になってその顔を俯かせてしまうけれど。

恥ずかしがっているのか、あるいはまだ怖がられているのか。

…そんな二人を見ながら、ユナだけはどこか楽しそうに笑っている気がした。

 

 

「きみも身体洗って、早く入っちゃいなよ……って、どうかした?」

 

「…別に。ユナはいつも楽しそうだなって、思っただけだ。」

 

 

腕枕に頬を付けたままのユナを一瞥し、『少年』はバスチェアに座った身体を回転させる。

ユナに教えられた通り、ホースから繋がる蛇口を捻ると、頭上のノズルから雨のようにシャワーが降り注いだ。

水だけど、温かい。それが身体に軽く打ちつけられる。不思議な感覚だった。

 

『少年』の言葉に、ユナは一瞬ぱちくりと目を瞬かせ、すぐににっ、といつもの笑みを浮かべる。

 

 

「へへへ、まあねー。同じ時間なら、楽しく笑えてた方が良いもん。だから好きなこと、やりたいようにやろうって決めてるんだ。」

 

「…だからって、ちょっといたずらが多すぎるよ…ユナお兄ちゃんは…。」

 

「えへへー。」

 

 

小さな声でそう言い、フィユが頬を膨らませるのが見えた。

…口ぶりからして、ユナの悪戯は日常茶飯事なのだろう。当の本人は大して気にせず、楽しげに尻尾を振っている有り様だが。

 

 

ただ。

…少しだけ、羨ましいと思った。

 

ユナの言う「楽しい」を、『少年』は経験したことがない。

『少年』にとっての"生きる"は、文字通り自分の命を繋ぎ続ける、終わりのない労働に等しかった。

明日の朝を無事に迎えるため、歩き、命を喰らい、眠る。その繰り返しを積み上げ続けるだけのことが、『少年』にとっての"生きる"ことだったから。

 

生きることそのものに意味を見出だせないまま、生きるための作業を続けていた。

そんな自分とは違う。――この屋敷に住む彼らを見ていると、そう思えた。

 

 

 

 

「……俺も、そんな風に生きられたらな…。」

 

 

 

気づけば、そんな言葉を呟いていた。

無意識に紡がれた言葉が音に変わり、耳に届き、自分の気持ちに気づかされる。

 

初めてユナとフィユを見かけたとき。…ユナが、悪戯をしてフィユに怒られていたとき。

あの時目を離せなかったのは―――自分が憧れてたものがそこにあったから、なんだろう。

 

誰かが、隣で笑ってくれるのでもいい。

 

誰かに、怒られるのでもいい。

 

…ただ、誰かと一緒に生きられたら。

毎日を『楽しい』と思えるのかもしれない。

 

 

――自分が、ずっと欲しかったもの。

気づいてみれば、"それ"は笑ってしまうくらい単純で、ありきたりなものだった。

 

 

……………

………

 

 

体に打ちつける水音の中へ、零れた本音が溶けていく。

ユナはその言葉に、薄闇を一滴垂らしたような『少年』の瞳に、きょとんとして首を傾げていた。

 

 

「…きみだって、好きなように生きていいんじゃない?()に何があったかは知らないけど、今のきみは自由だよ。」

 

「……ああ、分かってる…つもりだ。……けど。」

 

 

 

 

ユナの言う通りだ。

望んだ生き方があるなら、その通りに生きればいい。…本当はたったそれだけのこと、なんだろう。

 

…それでも。

自分の気持ちに気づいても。

味方でいたいと言ってくれたクートの言葉があっても。

 

 

 

 

「…今さら生き方を変えられないって、どこかで思うのを止められないんだ。」

 

 

…それでも何かが、『少年』を踏み留まらせていた。

絶え間無い水音を縫うように、ぽつぽつと零れる『少年』の言葉を、ユナとフィユの獣耳が拾っていた。

 

 

「誰かの隣にいたいはずなのに、俺は…俺を知られることを恐れてる。弱い自分を、自分も知らない自分を…誰かに見られるのが………怖い。」

 

 

ずっと、誰の手も借りずに生きてきた。

ずっと、全てを自分の中だけで完結させてきた。

 

どんな感情も飲み込んで、押し殺して…そうして消化していく生き方しか、『少年』は知らない。

けれど誰かと共に生きていくとしたら……そんな感情も晒していくことになるのだろう。

 

感情を、弱い自分を、誰にも見せてこなかった自分を知られた時に、自分はどうなるのか…『少年』自身にも、それは分からなかった。

ただ、自分の"何か"が大きく変わってしまう予感だけがあって…

 

変わるのが怖い。

変わりたくない。

変われない。

そう思うことが止められなかった。

 

だから留まろうとしている。慣れてしまった孤独に。

…本当は、望んでなどいない生き方に。

 

 

 

止めどなくシャワーが打ちつけ続ける。

長い黒髪が水を吸い、重くなってゆく――。

 

 

 

 

 

 

ぎゅっ、と自分の手を柔らかい何かが包む感覚がして、『少年』はシャワーの中ではっと顔を上げた。

自分の手の甲を、一回り小さな手のひらが握っている。

 

 

「………フィユ?」

 

 

手の主の名前が、口から零れる。

視線の先のフィユは俯いたまま。それでも、その小さな手には確かな力が込められていた。

 

自分を避けるようだったフィユの行動に『少年』が驚いている中で、フィユが小さなその口を開く。

 

 

 

「…お兄さんの気持ち、ちょっとだけ分かります。…ボクも、同じだったから。」

 

 

ユナやクートと話す時よりも固い、緊張した声なのは変わらない。けれど湯船の中から伸ばした手は、『少年』にフィユの温度を伝えてくる。雫のように、思いが静かに伝ってくる。

 

 

「姿も、生きてる場所も変わってたのに……それでも心は昔のまま、変われなくて…。周りのものぜんぶが怖くて、誰も信じられなくて、…苦しいのに、勇気が無くてなにも出来ないままで…。…ここに来たばっかりの時、ボクもずっとそうでした。」

 

 

…俯くフィユが、どんな表情をしているのかは分からない。

握られた自分の手を、俯いたままのフィユを見つめながら、シャワーに濡れたままの『少年』はただ呆気にとられていた。

フィユも自分のように、変わることを恐れていた時があったことにも。……そしてそれ以上に、フィユにも抱えて生きなければならない"痛み"があったことに。

 

ずっと、普通の少年だと思っていた。自分のように痛みを抱えていたようになんて、見えなかった。

誰も信じられなくなるほどの恐怖…ヒトになる以前、フィユは一体何を経験していたのだろう。

 

 

はっとして、ユナの方を見る。

…聞き耳だけは立てながらも、壁に背を預け、フィユからも『少年』からも逸らされた視線は、湯船の水面を漂っていた。

…ああ、そうか。と『少年』は理解する。

 

 

 

(俺だけじゃなかった。)

 

(フィユもユナも……ずっと、痛み(これ)と一緒に生きてたんだ。)

 

 

 

 

 

 

「…でも」

 

 

ぽつりと、フィユの呟く声が響いて。

『少年』もユナも、同時に獣耳がぴく、と動く。

静かに切り出したフィユの声はとても穏やかで―――

 

 

 

「ご主人さんも、お兄ちゃんたちも、ずっと隣に居てくれたんです。…踏み出すのに、すごくすごく時間がかかっちゃっても、少しずつしか変われなくても…それでもいいんだよって。ずっと、暖かいままでいてくれて…だから、ボクも頑張りたいって思えたんです。」

 

 

 

――不意に『少年』へ向けられたその表情は、初めて見るほどに曇りのない、笑顔だった。

…恥ずかしがってたり、怖がられてばかりだったけど。

 

 

(…こんな風にも、笑えたんだな。)

 

 

少しだけ驚いた表情で『少年』が見つめていると、フィユは突然我に返ったように頬を真っ赤に染め始めた。

さっきまでが嘘のように慌てた表情になり、何かを喋ろうとしては止まり、結局湯船の中で丸まるように膝を抱えた姿勢に戻ってしまう。

 

 

「だ、だから…きっとお兄さんも……大丈夫になれるはずだから………うぅ…。」

 

 

慌ただしく表情の変わっていくフィユに、『少年』はただただきょとんとしてばかりだった。…ただ、少しだけ肩の荷が、気負っていたものが落ちてゆくような気がした。

 

 

 

「…フィユ。」

 

 

そっと呼び掛けた声に、フィユが振り返るより早く。

その白髪の頭を、手のひらが包んでいた。

さらさらの髪に沿うように、フィユを優しく撫でながら――ユナは、悪戯の時とは違う笑顔を見せていた。

 

少しそわそわしたように、けれどとても嬉しそうに、フィユは赤らめた頬のままで微笑んでいる。

そのまま、ユナは『少年』へと視線を向けた。

 

 

 

「もし、素直になりたい気持ちがあるならさ。……信じてみなよ。相手のことも…自分のことも。」

 

「……それで、変われるのか…?」

 

 

 

『少年』の問いに、にっ、と歯を見せてユナは笑う。

 

 

「大丈夫。…僕だって、変われたんだからさ。」

 

 

何かを思い出しているような、遠い目を細めながらユナはそう言う。

信じること。…相手を、自分を。

ユナからの短いアドバイスを、『少年』は胸の中で反芻する。

 

最後にぽんぽん、とフィユを優しく叩き、ユナは軽やかに湯船から出た。

 

 

「さてと……えいっ。」

 

「わっ…。」

 

 

…不意にユナが後ろから手を伸ばし、驚いた『少年』は思わず声を出してしまう。

ユナはそのまま蛇口を捻り、『少年』を打ち続けていたシャワーを止めた。

 

 

「ずっとシャワー浴びっぱなしだったから不思議に思ってたけど…きみ、この後何するか分かってない?」

 

 

ユナの問いに、『少年』は不思議そうに首を傾げる。

…この後も何も、水浴びをしたかっただけだからな、と返すと、ユナは苦笑いを浮かべていた。

 

 

「まあ、知らなくて当然か…しょうがない。」

 

 

苦笑をそのまま『少年』への笑顔に変えながら、ユナはバスチェアに座った『少年』の目線に腰を屈める。

 

 

「今日は、僕が洗ってあげるよ。」

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

「髪の毛、どんな感じ?」

 

「なんか…さらさらしてて不思議だな。」

 

「ユナお兄ちゃん、髪の毛のお手入れ上手だよね…。」

 

「へへん、まあねー。…で、きみはお風呂入らなくて本当によかったの?」

 

「ああ。…別にいい。」

 

「……湯船が怖かった、とか?」

 

「……元から、体を流したいだけだったから。」

 

「え~?ほんとかなぁ?」

 

「…ニヤニヤするな。」

 

 

ほかほかと湯気を立たせながら、風呂上がりの三人は交代で頭を乾かしていた。

ユナとフィユはパジャマのワンピースに、『少年』は女性に貰ったパーカーに再び袖を通す。

その時、脱衣室の扉がそっと開かれ、栗色の頭がひょっこりと覗いてきた。

 

 

「あれっ、みんなお風呂入ってたの?」

 

「クート…起きたのか。」

 

「あはは…いつの間に寝ちゃってたんだね、オレ。」

 

 

 

少し寝癖のついた頭で、クートは照れ笑いを浮かべる。

『少年』の後ろから、髪を乾かし終えたユナとフィユも身を乗り出してきた。

 

 

「クーくん、お風呂入りに来たの?」

 

「ううん、皆を探してた。皆で遊びたいなって思ってさ。」

 

「…! ボクも遊びたい!」

 

 

クートの提案に、フィユが瞳を輝かせる。ユナも、内心満更ではなさそうに微笑んでいた。

 

 

「きみも…一緒にどう?」

 

 

クートが『少年』にも声をかける。

今なら、その提案を受けることも出来たのかもしれない。…けれど。

 

 

「…悪い。少し考え事がしたいから。」

 

「……そっか。…うん、分かった。」

 

 

ここに来てから、色々なことがあった。

その中で少しずつ変化していく、自分の気持ちを整理する時間が欲しかった。

…たぶん、その答えも予想していたのだろう。仕方ないことだと理解しつつもしゅん、とクートは視線を落とす。

 

 

 

「でも…ありがとな。」

 

 

 

…不器用に、紡ぎだした言葉に。

クートも、ユナも、フィユも、驚いたように目を見開いた。

…柄じゃないのは『少年』が一番分かっていたけれど。

そんなに驚かれるとさすがに羞恥心が芽生えてくる。

少し頬が赤くなるのを実感しながら、思わず顔を背けた『少年』を見つめ――

 

 

「うんっ、また後でな!」

 

 

 

――クートは、爛漫な笑顔でそう答えた。

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

リビングの、大きなガラス窓から覗く外の景色。

とうに陽が暮れた後の世界は、夜の黒と降り積もった雪の白に包まれている。

…屋敷の立つ丘の下、遠くには街の灯りが小さく灯っているのが見えた。

 

灰の空は僅かに晴れ、月が白色の光を地表へと垂らす。雪が落ち着き、景色が静かなモノクロへと移ろってゆくのを、『少年』は琥珀色の瞳で眺め続けていた。

 

 

 

 

 

「電気、つけなくて平気ですか?」

 

 

不意にかけられた声に、雪解けの季節、どこからか飛んできて鳴いていた小鳥の囀りを思い出す。……この声は、あの囀りよりも優しく、心地いい。

木製の椅子に腰かけたまま僅かに顔を傾けると、あの女性が顔を覗かせていた。

服装はあの時のコートのまま。月明かりの下で見えた表情は、外にいたせいか鼻先が少し赤らんでいた。

 

琥珀の瞳に、彼女の髪が写る。

月光を受けた銀の髪は、夜空の星のように煌めき、『少年』は静かに息を飲んだ。

 

 

 

「……ああ。このままでいい。」

 

 

ゆっくりと、女性に言葉を返す。

月よりも月明かりに映える美しさ。全てを忘れて見続けてしまいたくなるが、…それよりも、やるべきことがある。そう自分に言い聞かせる。

唾を飲み、開きかけていた口から、言葉を紡ぐ。

 

 

 

 

「…少しだけ、時間あるか?」

 

 

しん、と一度世界が静まる。

…やがて、女性は『少年』と目線を合わせるように膝を折り、微笑みを返した。

 

 

「…もちろん、大丈夫ですよ。」

 

「…そうか。」

 

 

…もう一度、世界が静まる。

瞳を一度閉じ、開く。

肺に空気を吸い込み、そっと吐く。

 

 

 

「聞いてほしいんだ。…俺のこと。俺が生きてきた時間のこと。」

 

 

月光の下。白銀を写した琥珀の瞳は、一つの決意をその内に宿していた。

 



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