窓から吹き込んでくる居心地のいいあたたかい風。どこか懐かしい花の香り。誰かの気配。しかも昼食の後。つまり、穏やかな眠気がやってくる。今日も小鳥の鳴き声が聞こえてくるくらい平和なもので、あらがう気も起きない。
「ふぁ……」
思わず気の抜けたあくびが出た。それを咎めるようなヤツはいない。真面目なクリフトならあくびを必死で噛み殺していただろうし、ブライに見られたならオレに咳払いくらいはしたかもしれない。トルネコなら一緒にあくびをしたかな。マーニャならオレより先にあくびしたにちがいない。
シンシアならなんて言っただろう? だらしがないって怒ったかな? それとも昼寝しましょうって花畑で一緒に寝転んだだろうか。だけど、ここでは誰も咎めない。平和そのものの世界で、午後のあくびなんて些細なことだ。
ぽかぽかと気持ちのいい昼下がり、ロザリーヒルにて。
魔物、魔族、ドワーフ、人間、エルフなど、ほとんどの場合ちゃんと言葉が通じるくせに、外ではいまだに当然のようにいがみ合ったり殺し合ったりしている種族たちが、ここでは関係なく協力し合い、仲良く暮らしている。
この村は、今は平和だ。エルフを狩りに来るような恥知らずで強欲な人間はもういないから。
そうだ、いつだってここは穏やかで、まるで故郷の村のように静かな時間が流れている。都会のエンドールやサントハイム、バトランドやモンバーバラが嫌いなわけじゃ、もちろん、ない。大事な仲間たちの住む場所、大事な場所だってそれぞれいいところだと思うさ。そこで思いもよらない人の温かさに触れることだってあるし、何より気心の知れた仲間がそこにはいる。だけど、オレにはこっちの方がいい。よく似ているから。似すぎていて、心地よすぎて、どうかしてしまいそうなくらい、似ている。
あの村を出て、オレは知った。エルフが村にいることも、魔法や剣の達人がそこらにいることも、子どもがオレしかいないことも、そのただ一人の子どもに戦うすべを叩き込んでいることも、よその人を入れないように隔絶しているということも、どれもこれも普通じゃなかったってことを。
普通じゃなくて、普通ならてんで違う場所にいるはずの面々が仲良く協力し合って、仲良くそこで暮らしている。世界を回ればそれが異質だと知った。だけどオレにとってはそんな異質なことこそ懐かしく、ちぐはぐなところこそが普通のことに思える。
ロザリーヒルは異質な村だ。だからこそ、オレにとっては懐かしい。
とはいっても、オレたちを和ませていたロザリーがトモダチのスライムと外に遊びに行ってしまい、護衛のピサロナイトもついて行ってしまった。だから、ちょっとばかり居心地が悪い。
もちろん今更気まずくはないが、静かな時間が流れる部屋の中にはピサロとオレだけが取り残されたってわけだ。ピサロと。ふたりっきり。思わず笑っちまいそうだ。
勇者と魔族の王という組み合わせだった時から、思いのほか、コイツと仲が悪かったわけじゃない。旅に出た最初こそ、マトモに夜眠れないほど憎かったさ、コイツを仲間にしてからも顔を見るたびやるせなかったさ。でも、その時にはもう彼らの事情を知っていたし、もっと憎い相手もいた。憎むことに慣れてもいたし、憎み続けられないことを諦めてもいた。だから、結局憎み切れずになあなあだ。それをどうにかしようとは思わない。それも今更だから。
憎しみよりも、わずかに感じる親近感よりも、戦場を共にした信頼よりも、ただ、慣れきった。旅は道ずれ、宿で同じ部屋で寝たこともある。命の危機を救ったことも救われたことも、呪文や世界樹の葉で蘇生したこともされたこともある。他の仲間ほどじゃないが、それなりに長い時間を過ごした。それだけのことだ。
だから今更コイツをどうこうしようなんて。誰も見ちゃいない絶好の機会といえばそうだが。
当然、今日はただの休日だからどっちも軽装だ。だけど、丸腰同士なら、魔族というだけあって様々な魔法を覚え、いろんな技を使えるピサロの方が導かれし者も天空の装備もないオレよりよっぽど強いんだろうな。なんて。戦闘から退いてしばらく、ゆるみきった脳ミソでぼんやり考えてみた。
オレは「元勇者」だ。もう、オレに役目はない。使命はない。乞われることも、縋られることも、はたまた己の復讐心に焼かれることすらない。どこへ行っても帰りを待つ家族はいない。オレを待っているのは、なんの命のない廃墟だけ。汚染され、焼き払われ、枯れきった花畑には生きた花の幻覚が見えるし、そればっかりは治らなかった。今だってシンシアや両親や村のみんなの声が不意に聞こえる時があるんだから。その度にどこにもいないシンシアを駆けずり回って探し回り、シンシアに会いたくてたまらなくなる。
だから、あの誰もいない村に帰るのも嫌になって、……そうだ、帰りついてすぐ、まるで奇跡の力でシンシアが生き返ったかのような幻覚まで見えてきたくらいには参っていたものだから。
エビルプリーストを倒し、仲間を帰る場所へ送り届け、オレも山奥の村へ帰ったあの日。仲間たちはオレと別れたあと、何故か嫌な予感を覚え、ようやく帰りついた安息の地からわざわざ足を伸ばしてオレのところに来てくれなかったら、きっと今も幻覚の世界にいたことだろう。
オレは笑顔のシンシアの幻を見て、すっかり夢中になっていた。この世に彼女がもういないことも、オレが生きていることもすべて忘れて、子どものように笑っていたらしい。「今」のオレも「未来」のオレも隣にシンシアがいないのだから、シンシアと過ごしているオレは必ず今より「過去」のオレということになる。聞いた時はゾッとしたさ。「過去」のオレ! つまり、幻の世界に囚われてほとんどオレは死んでいたってわけだ。今を生きるオレ、未来を見据えるオレでなければ、それはただの幻と何が違うというのだろう? 悲しい夢、叶わぬ願い、全て忘れて笑う子ども。現実を見ず、過去へ。それは死んでいるのと何が違う? みんなが見たオレは取り返しがついたが、少しでも遅れていれば呼吸するだけの死体と同じだったはずだ。
そのときは幻覚に囚われてすぐだったから、なんとかよってたかって頬を引っぱたいたり宥められたりして正気に戻してもらい、それでもどうしても消えない咲き誇る花畑の幻覚に自分が信用ならなくなって、恐ろしくなって、一人でいるのが怖くなって。それ以降、仲間のいる世界中のあちこちを転々と邪魔しながら回っているわけだが。もちろん、無神経なピサロでさえ面と向かって邪魔だとは言ってこないけど。迷惑はかけているだろうな。
なんだろうなあ。正気に戻っても何もやることがない。張り合いもない。勇者に仕事がないのが一番の平和の証拠なんだろうけど。
もはや、たまに、ただの旅人として……もちろんオレが勇者だ、なんて言いふらすわけもないからだ……腕がたつだろうと見込まれて、珍しくいまだに暴れている魔物の残党をどうにかしてくれと言われて倒しに行くことや、酒場とかで多少腕っ節に覚えのあるやつらの手の付けられないほど暴れているから何とかして欲しいと言われて喧嘩を止めるくらいしかやっていることはない。
基本、何をすることもなく、その日その日をぷらぷら過ごしているだけ。成り行きで稼いで最後にみんなで分けたゴールドもそれなりにある。多分、これから食う寝ることに困らず、働かなくてもいいくらいには。豪遊でもしたら別だろうけど、興味もない。ちょっと美味い飯と、個室の宿。屋台とかの買い食いを我慢することもない……まあそう考えたらそこそこ今も贅沢してるのかもな?
全く誘われなかったわけじゃないが、結局どこかの国に召し抱えられることもなく、大人しく故郷に引っ込んで畑を耕すわけでもなく、誰かのために狩りをするわけでもなく。ただ呼吸して、飯を食って、ぼーっとしているだけの非生産的な元勇者。……本当は故郷で畑を耕していたかったんだが、一人でいれば今度こそ夢と幻の世界から帰って来られないだろうし。なんて平和な世界で存在に意味がないんだ。
そもそもオレの役割はもう終わったわけだし。世界を救ったって人生の中ではもう十分に活躍したんじゃねぇの? だけど誰も待っちゃいないし。ああもう、なら、とっとと死んじまおうかな。それ以上何を成す必要がある? そしたらきっと本物のシンシアに会えるんだ。なあ。世界を救ったし、今更、罪深いお前は地獄へ行けとは偉そうなマスタードラゴンだって言わないよな。……言わないよな? あんまり自信がないが。地獄にぶち込まれたら地獄でエスタークをまた倒さなきゃいけなくなるな。いっそその方がいいかもしれない。戦う意味がある方が。
だが、シンシアが聞いたらめちゃくちゃ怒るだろうな。泣いて泣いて、怒るだろう。なんでそんな歳でこっちに来たんだって。使命を果たしたって言っても怒るだろう。
父さんも母さんも、師匠も、先生も。村のみんなが怒るだろうな。みんなに会いたいだけなのに。でも、みんななら、怒るだろう。優しいみんなは。世界を救ったってオレが幸せになれなきゃ意味がないって怒ってくれるだろうか。オレはもう幸せになれる想像すらつかないんだが。はは。
そんな縁起でもないことを考えていたから、うっかりぽろっと口から出そうになった。
「なぁピサロ、オレを……」
殺しちゃくれないか。
なんて、無茶苦茶なことを言いそうになって慌てて俺は口を閉じる。コイツの手が汚れるとかはホントにどうでもいい。だけどもロザリーが穏やかに過ごすにはひどい頼みだろう、と、あのシンシアそっくりのエルフの少女を思い出したから。それになんだかんだコイツとの付き合いもある。いくら悪感情があるとはいえ、嫌いになりきれもしない相手に殺してくれなんて悪趣味にもほどがある。
「おい、何を言うか考えてから口を開け」
「……、いや、やっぱりいいやって思ってね」
やっぱりコイツに頼むのは間違っている。どんなにこいつがいけ好かないヤツで、オレがひとりぼっちになった原因でも。ロザリーを見る度、シンシアの笑顔がちらつくんだ。彼女を不幸にしたいか? それはない。絶対にない。彼女は幸せになるべきなんだ。オレは間違ってない。世界樹の花をどこに捧げるかを、間違えちゃいない。
オレが間違えなかったからこそ、世界は救われたんだ。ロザリーは幸せになり、穏やかなロザリーヒルにもどったんだ。
「ただやることねえなあって、それだけだ」
「ふん」
「あーあ、ここ無愛想なピサロがいるしな。次はどこに行こうかなあ。そうだ、マーニャとミネアがしばらくモンバーバラにいるって言ってたっけ」
「次は姦しい姉妹のところか。そう言うならさっさと行ったらどうだ?」
「ロザリーヒルが一番静かで落ち着くんだよ。急かすのはやめろよ……」
窓から花の香りが吹き込んでくる。風にずいぶん長く伸びたオレの髪が揺れる。女みたいに長い髪を払い除ける。だが、オレよりもっと長いピサロの髪はもっと邪魔くさそうだ。
「なんにもやることがなくてな……」
ぽそりと言った。
「オレにやることがないなんて、世界平和でいいもんだろ?」
「違いないな」
ピサロはすぐ鼻で笑う。魔族だ、王だ、うんぬん以前にそもそもの性格が悪いんだろうな……きっと。
「まぁ邪魔はしたくないし。行くなら少しでも早い時間の方がいいよな。ロザリーに挨拶したらもう行くわ。天気も悪くなってきたし」
「は?」
「雷が鳴ってるだろ? そろそろ降るぜ、魔王サマ」
「……」
話すのもだるくなってきた。説明するのもめんどくさい。そのとんがった耳ならオレより早く雷鳴が聞こえてきて、雨が降ることくらいわかっているから眉をひそめているのかもしれないな。窓に足をかけてひょいと降りた。さてロザリーはどこにいるのやら。
遠くで雷が鳴っていて、この辺は夜、雨になるかもしれないな。まだ水のにおいはしないけど、時間の問題だろう。
そんなことを考えながら。とっととルーラで逃げれば濡れはしないさ。
ふといたずら心がさして、オレはルーラで飛び立つ前に二階の窓まで浮き上がった。ルーラの応用ってやつ。窓辺でだらけている奴はめんどくさそうに、やっぱり眉間にしわを寄せてオレを見た。なんだかんだとちゃんと目を見て話すし、マナーは良いし、すぐに村を焼きがちなところ以外はやっぱり悪いヤツとは言い難いな。
「ピサロ。オレ、暇だし、実の父親のこと調べてるんだ。勇者を先に殺そうとしたお前なら何か知ってるんじゃね?」
「……勇者の父親は地上の人間だ。恐らくはお前の村の周辺出身だろうが……、お前」
「なーんてな。実はもう『全部』知ってるんだ。多分これが正しいんだ。父親のことも、オレのことも、どうしようもないことも。父親のことが気になって、そうでもなくて、憎たらしくて、どうしようもない。救いようがないな。じゃあなピサロ。また来るよ」
「お前、」
「ルーラ!」
ピサロの返事は聞かないでおいた。オレって勇者だったからやっぱりお人好しだな。ドデカい雷の音を聞きながら、土砂降りのロザリーヒルから逃げ出した。大丈夫、大丈夫だ。ロザリーヒルに雷は落ちない。オレがもういないからな! ロザリーヒルはいつまでも平和であって欲しい。雷はオレを追いかけるだろうし、これが正しいんだ!
そういえば、ロザリーに挨拶するの、忘れていたな……。
今日のモンバーバラはどんより曇り模様。だがそこにいる人々の熱気は晴れた日とまったく変わりはしない。それが居心地いいんだよな。本当に陽気なんだ。まあ早朝は静かだけど。二日酔いのヤツらしかいねえもん。少しばかりのうめき声と、しんとした、冷たい土の香りだけがある。
「さあソロ歓迎するわよ! さぁさ、アタシにたんまり奢りなさいな。お金ちっとも使ってないんでしょ?」
「姉さん! ソロさん、姉さんのことは気にせずに。久しぶりのモンバーバラを楽しんでくださいね」
「……うん」
オレはこの二人にめっぽう弱い。旅の最初の最初、弱りきった姿を見せた時点で今更恥も何も無いからな。だから父さんと母さんの前にいた時のようにオレは子どもでいられる。十八にもなって、もうすぐ十九なのに子どもだなんて世話ないけど、二人は年上だししょうがない、と自分に言い聞かせる。
「ほら肉、肉よ肉。肉とパンよ。年頃のオトコならもっと食べなさいな。相変わらず顔が辛気臭いったら。もっと食べて、ほら、ミネア、じゃんじゃん頼みなさい。それで? 今度はどこから来たのよアンタは。前はサントハイムからだったわよね」
「ん、ロザリーヒルから」
「そ、まさかピーちゃんに追い出された?」
「オレから出てきた。また行くかも、あそこ静かで、落ち着くから」
「モンバーバラは賑やかですからね」
特にもう夜だし。今日はステージがないのよ、なんて本当か嘘か分からないことを言ったマーニャ。いつも通りガヤガヤしている酒場。注文をしながらマーニャの酒を飲みほして減らしているワクのミネア。なんとも見慣れた光景だ。ホッとする。喧騒すら二人の前では煩わしくない。
「まぁオレも、いつかはどっかに定住しようとは思ってるんだけど、今はなんも思いつかなくて。ロザリーヒルはいいところだけどちょっと……村に似すぎてる」
「ふぅん、じゃあ、たとえばバトランドだったらライアンが引退するまでしごいてくれてちょうどいいんじゃないかしら。絶対あそこならやる事あるわよ。あと、ヒョロい男はモテないからもっと食べなさいな」
やたら飯をぐいぐいと押し付けられる。前ほど食ってないのがバレてるんだろうか。戦ってないのはみんなもだろうが、今は一日中歩き通している訳でもないし食事量が減るのは当然だと思うんだけど。どんどん丸テーブルに料理が並べられていく。さぁ食えもっと食えという顔の姉妹。フォークを握らされる。
じゃあ、ひとくち。……うまい。
「なんでバトランド?」
「やることないんでしょ? いかにも暇人って顔しているわね。腐りきった顔よ。ライアンにやることなくて暇してるんですって言ったら最後、気づいたら兵士の採用試験を受けているんじゃない?」
「まさか姉さん、兵士になるには心から国に忠誠を誓うようなひとじゃないと……そもそもソロさんの出身でもないし」
「元勇者が護る国なんて箔がついてウハウハよ。志望動機なんて関係ないわ。向こうから見てもサイコーじゃないの。それだけでガーデンブルグは手も足も出ないでしょうね。それでソロも暇じゃないし、手堅い職はつまんないけど収入も安定して……どっかに身を落ち着けたら奢りなさいよ? 相談料なんだから」
「……姉さん?」
「あー! 全部飲んだわねミネア!」
うまいな結構。味付けの濃い料理も。肉も魚もパンも全部うまい。腹いっぱいになれば色んなこともどうでもよくなるだろうか。
何の心配もなく腹いっぱい食べていた日々のことを思い出す。ああ、母さんに会いたい。父さんに会いたい。シンシアに会いたい。先生に、師匠に、村のみんなに会いたい。食えば食うほど、世界中をみんなで旅した日々のことが思い浮かぶ。同時に、世界中のあちこちで、村のみんなを思い出した日々が思い浮かぶ。どこでだって忘れられなかった優しい思い出。一番旅で長く共に過ごした姉妹の声は、それを増強する。
手が止まらない。腹が減った。あぁ腹が減った。もう飯がなくなってしまう。ああ、腹が減った。体をびりびり震わせる雷の音、雨の音。手がぶるりと震える。外はさぞかしひどい有様だろう。
「ソロ聞いてる?」
「……ご馳走様」
「あらもう全部食べたって言うの? 育ち盛りは違うわねえ。はぁ、そんなに食欲あるなら心配なさそうで何よりだけど」
「聞いてた聞いてた、でもオレ、忠誠心とかわかんないし、もう誰からも命令とか聞きたくないしさ」
「まぁそうですよね……」
「でも天空でふんぞり返っているドラゴン狩ってこいって言われたら嬉しいんだけどな。アイツなんか悪さしてないか? してたら大義名分ができるのに」
遠くの方で雷が鳴っている。雨足がますますひどくなる。酒場の天井を打つ雨。遠くの方で雷が落ちる。遠くなのに、オレの手が衝撃で震えるくらい大きな雷だ。
さあ天空のドラゴンめ、殺せるものなら殺してみろ。勇者は世界の平和を取り戻し、天空から注いだ雷に、仲間のふたりと共に打たれて死にましたとさ。ってね。どうだ? 信仰心はなくなるだろうな。いや、もうないんだったか? この前散々ゴッドサイドで暴言吐いてきたが。最近の勇者はけしからん、なっとらんと思われていたら幸いだ。だけどもゴッドサイドの住人は役目を無事果たした勇者に逆らおうなんて思わないらしい。はじめは諫めようとした長老も、お付きの人間に何かささやかれて黙ったっきり。
ああ、勇者。代わってくれよ。代わっちゃくれなかった。誰も。
「マスタードラゴンのこと、本当にお嫌いなんですね」
「まぁ命令するだけって感じだったし、天空人もいちいちアタシたちを見下してきてエラソーだったし、誰も好きにはなれないわよ。あの信心深いクリフトだって多分信じている神様がちがうけど、それにしたって普通は敬意を払いそうなものなのに。神官すら見放すなんて相当よね。天空人もルーシア以外はほとんど冷たい目をしてさあ」
「そういえばサントハイムは精霊信仰だったかしら」
「なんだっけ? ルビスサマ?」
「オレはどれも信じちゃいないよ。どれも存在は確かだろうけど。強い力を持っているのだろうけど。それにちょっとオレ、他にも気になることがあって……」
空模様が本格的にダメみたいだな。雷の音が止まらない。だがそれだけだ。雷は遠い。そういえば、オレの呼び声に今も雷は応えるだろうか。ふと思った。
「なんでも、オレの実の母親が天空人で、実の父親が地上の人間だったって話だったから、」
突然雷がやんだ。代わりに激しくなるのは雨の音。
「天空人の母親はアレだろ? 地上におりた罰とかで本当のことをしゃべれなくて黙ってるって。もしかしたら城の中で会っているかもしれないけどアイツのお膝元じゃ何も言えねえじゃん? それで、父親の方は別に天空のルールに従う義理もないし、天空城にいるわけもないし、」
「なるほど、これからは父親探しの旅を?」
「……ミネア」
「あ、」
「ブランカの言い伝えでもう答えは知ってるだろ? で、だから……雷がうるさいな」
「雷?」
「何言ってるの、朝から晴れてるじゃないの」
「うん、晴れてるからオレの気のせい。だから、オレ……」
何を言おうとしたんだっけ。
実の母親は黙らされ、実の父親は天罰を喰らって雷に打たれて死んだ。オレはもう独りぼっち、その上心までイカレちまって、すぐに都合のいい幻覚が見えるようになってしまった。
だから分かりやすい元凶……だと勝手に予想しているマスタードラゴンが鬱陶しくって、憎くって? アイツを殺してオレも死にたい。だから? だとしても。なんでオレを心配するだろう二人に言わなきゃいけないんだ。やるにしても一人で行く。そうじゃなきゃ、アイツは同行者に雷を落とすだろう。
ああ、雷がまた鳴り始めている。
「……やっぱいいや。おかわり。腹減った」
「アンタねぇ」
「明日、サントハイムに行こうと思って」
「は? 今日来たばっかりじゃない。前は二週間くらいいたわよね?」
「そうだっけ」
「いくらなんでもアタシのステージを見もせずに行くのは許さないわよ!」
「なら出るのは明後日。明日のステージ、見るよ」
「……アンタねぇ」
マーニャの踊りはきれいだ。それに見ないと機嫌を損ねてしまう。みないとなあ。一番前で見れるかな? 早くから劇場に行けば席取りできるだろうか。それとも最前列は追加料金がいるか? なんでもいいや。早起きして並ぶことになっても、お金がかかっても。マーニャの踊りが見れるなら。大事な仲間の舞台なんだ。
「一番前で見るよ」
マーニャとミネアがそっくりの顔をして微笑んだ。
雷の音はもうしなかった。
だけどシンシアが、オレの頭をその白い手でそっと撫でたのがわかった。ソロ、とオレを呼びながら。オレは答えられずに、答えちゃいけないんだって姉妹を見ながら思い込む。マーニャとミネア、オレは生者だ。答えちゃ、いけないんだ。
「ようこそサントハイム城へ! お久しぶりですねソロさん! 城の者一同、歓迎致しますよ!」
「あぁありがと。クリフトは元気か?」
「お陰様で。姫さまとブライさまは玉座の間でお待ちです。どうぞこちらに」
「アリーナもブライも元気?」
「ええ勿論ですとも」
「そうか。良かったよ」
ルーラで彼を送り届けたマーニャさんがソロさんに見えないように渡してきたくしゃくしゃになった手紙を後ろ手で静かにポケットに仕舞いました。幸い、私たちの行動に気づいていなさそうなソロさんは、相変わらず表情の読みにくい無表情気味で、だけど普段よりも鋭い目付きを少しやわらげてリラックスしていらっしゃいます。マーニャさんとミネアさんと過ごしていらっしゃったからでしょうか。
かつてのように剣も盾も所持せず、天空の武具も装備していない姿。片耳にピアス、ただの布の服と少しの荷物を鞄に入れて、ソロさんは世界中を転々としています。まるで普通の旅人の格好をして、だけどもその紫の瞳はずっと変わらず、暗い色をしています。穏やかな顔をしていらっしゃっても、目つきを和らげていらっしゃっても。
いつ何時でも。
「オレの知ってるアリーナは敵陣に真っ先に飛び込んでいく勇ましい姫さまだったからさ、玉座に大人しく座っている姿はなかなか想像できないな。でもこれからはそうなるべきなんだからよく見ておかないと。えーっと、お淑やかにしてるんだろ?」
「ええと、姫さまはお変わりなく大変お元気で、ええ、ええ、ちっともお変わりありませんが、サントハイムの姫君としての姿をソロさんが楽しみにしていたとお伝えすればおそらく、きっと、少しは……きっと」
「あぁ、やっぱり……その、苦労が隠れてないぞ」
「まさか苦労なんてことは! 姫さまはやるときはやる方ですから!」
「確かに殺るときは殺ってたが」
「あ! 本当にソロじゃないの! 来てくれたのね! 嬉しいわ、歓迎するわ! 久しぶりね!」
階下で話し込んでいた時間が長かったからでしょう、姫さまが先に来てしまいました。立派な姫君らしく丈の長いドレスをお召しになって、絹の手袋をおはめになって、あのお気に入りのとんがり帽子は自室に置かれ、代わりに亡き母君の白銀のティアラをきらめかせて。すっかりお淑やかなお召し物を着こなしていらっしゃる姿は流石姫さまで、だけど、姫さまは階段の手すりに腰掛けてするすると滑り降りてきたものだから、後ろからブライさまがお怒りになりながら階段をおりていらっしゃいました。
「姫さま! はしたない真似はおやめくだされ!」
「だって久しぶりのソロなのよ、しゃなりしゃなり一段ずつ階段をおりるなんてまどろっこしいわよ!」
「みんな元気そうでなにより。安心した」
「ソロも……うん、顔色はいいわ! もっと笑った方がいいわよ!」
「いやオレ目付き悪いし……子どもが泣くぞ」
「そんなことないわ。ほら、行きましょ。お父様がソロの顔を見たがっているんだから」
「私は少しお暇を。また後でお会いしましょうソロさん」
姫さまとブライさまに挟まれて半ば強制的に玉座の間へ通された様子を見、ついていきたい気持ちにもなりますが、しかし私は手紙を読まなくてはなりません。きっとソロさんのことについてでしょう。
あの日を思い出します。エビルプリーストを打ち破った日。引き留める声も耳に入らない様子で故郷の村……だった場所に帰っていったソロさん。私たちはなぜか胸騒ぎがしていました。
予想は的中し、故郷の村だった廃墟でひとりぼっちでいたソロさんは見たこともないほど穏やかで、幸せそうで、瞳に明るい色を宿していましたが、ソロさんのほかは誰もいないところにひとりきりだったのです。シンシアとおっしゃる幼馴染が奇跡の力で生き返ったのだと話されましたが、親しげに抱く腕は空を切り、その手の先には誰もいなかったのです。焦げた廃材を簡単に組んで作ったふたつの椅子と火事を免れた素朴なテーブルが焼け焦げた広場に野ざらしにあり、テーブルの上にくたびれた羽帽子が一つ置いてあるきりで、毒の沼地がそこらじゅうにできていて、到底人間の住める場所ではなく。
私たちは悲しみによってソロさんの心が限界を迎えたことを知りました。その時はなんとかこちら側に呼び戻すことに成功しましたが、いまだに安心はできません。もちろん、ソロさんはわかっていらっしゃいます。幼馴染の少女がもうこの世にいないことも、遺体が残っていない相手に蘇生呪文が効かないことも、……死んだ人間が生き返りはしないことも。だけど、ひとりきりでは耐えられなかったのでしょう。
ソロさんはご自分の状態を理解して、私たちが提案したようにできるだけひとりにならないように過ごしていらっしゃいます。だけど、こっそりとかつての仲間たちの間で連絡しているところによれば、ソロさんの状態はあまりよくなっていません。
もう存在しない人物を何も無い空間を見て誤認するほどの幻覚症状こそありませんが、ずっと「雨が降っている」、どんなに晴れていても「雨が降りそうだ」、三日続けて雲一つない晴天でも「雷が鳴っている」とおっしゃります。あの日から。ずっと。
念には念を入れ、私はお手洗いの個室に入り、窓までしっかり閉じてから手紙を開きました。
走り書きのマーニャさんの字。便箋すら選ぶ余裕がなかったのか、しわくちゃになったモンバーバラ劇場のチラシの裏。きっと一度に書いたのではない、不揃いな文字列があっちこっちに散っていました。
「……」
筆圧が強かったのか、慌てていたのか、紙の状態に気を配る余裕すらなかったのか。目に飛び込んできた最初の文字は紙を少し破いていました。
『マスタードラゴンの天罰?→ブランカの天女伝説→ソロの父親→雷に打たれて亡くなった→天空人の禁忌』
マスタードラゴン。天空の神。確定的ではないものの、ソロさんの血の繋がった両親を奪った相手。少なくとも、「掟」を破ったソロさんの母君はご存命でしょうが真実を語ることが出来ず、父君は雷に打たれて亡くなったという。天女伝説は旅をしていた時にたまたまブランカで聞いた話でしたが。ソロさんはあの時どう思われていたのでしょう。
天罰。雷。ソロさんの幻聴。天空の勇者のみが行使できる聖なる雷。おそらくはマスタードラゴンも使役していることでしょうが。
もちろんこれはすべて私どもの想像です。確定的ではありません。ただの言いがかりかもしれませんし、手を下したのがマスタードラゴンではないかもしれません。不幸の事故だった可能性すらあるのです。ソロさんもきっと分かっておいででしょう。でも、……。
『ソロはマスタードラゴンを憎んでいる』
『復讐に生きた私たちには止められない』
『私たちは、諦めさせることなんてできない』
『諦めさせるのが正しいの?』
『自分が掟を破ったわけでもないのに。命令には従ったのに』
『神さまなら母と話すことぐらいゆるすべき、でもそれすらしない』
『ソロの幻聴は治ってない』
『声が聞こえていないときがある』
ソロさんは勇者として世界を救いました。そして、大切な家族はすべて奪われたまま、元の穏やかな生活はかえってはきませんでした。奇跡などなく。
「あぁルビスさま」
私もマーニャさんと同じで、なんと言えばいいのかさえ、分かりませんでした。
何も良い考えが浮かばないまま、手紙をロウソクの炎で燃やし、処分しました。ソロさんに気づかれることは悪化を招くとしか考えられませんでしたから。玉座の間につけばすでにご歓談は終わっていて、ソロさんは無邪気に城の猫を抱えていました。姫さまはソロさんに言われたのか珍しく玉座にしっかり座っていらっしゃります。足をそろえ、身を乗り出すこともなく。
ソロさん。あぁ、なんと素晴らしい。姫さまをお淑やかにするためにサントハイムは雇い入れるべきなのでは? 姫君なのですから教育係や世話役が数多くいても問題ありませんよね? それにソロさんならば姫さまを狙ったりしませんよね! お二人はまさしく戦友として仲がよろしいのですし! ええお二人の一撃に挟まれでもしましたら、私、蘇生を受ける羽目になりますから。
「ミーちゃん可愛いでしょう」
「可愛いなあ」
「みー」
「おやつあげてもいいか? ミーちゃんのおやつってどこにあるんだ?」
「えっとね、」
お話口調までは改善していませんが。それでも一時期はご自身のことを「ボク」と呼んでいらっしゃったことを考えれば随分な進歩です。考える前に飛び出していかれるのではなく、先に考えていらっしゃるところも……思わず涙が。
私はさっきまであんなに深刻に考えていたのに、無邪気に猫を可愛がる様子を見ていれば、いっきに肩の力が抜けました。猫を抱えて姫さまと話す姿は少しばかり表情に陰のある、だけどもごく普通の青年のように見えましたから。
「ソロ殿、厨房ならなにかあるかもしれません」
「え、わざわざ悪いよ」
「いやいや、サントハイムではソロ殿はいつ何時でも国賓ですぞ。この程度のことではなく、もっと何か言っても構いますまい。猫をかわいがる程度ご自由になさって下され。そうそう、今晩は歓迎の食事となるでしょう。それよりもちぃとばかり個人的にお頼みしたいことが……姫さまをここまで淑やかにできる逸材はほかにいないですからな! さあこっちに。ついでに少し話しましょうや」
ブライさまが私に振り返って小さくうなずかれました。今の間に姫さまと情報共有をしなさいという意味でしょう。
お二人の姿が階下にすっかり消えてから、姫さまはとたんに浮かべていた笑顔を消し、一瞬だけ泣き出しそうなお顔になりましたが、それもすぐに飲み込んで、毅然とこっちに来て、とおっしゃりました。大臣は下がり、陛下であればソロさんについてのお話をお聞きになっていても何も問題はありません。
「ソロ、ずっとおかしかった。今日は一段と激しい雷の音がするって、きっと今夜雨が降るだろうけど城の中ならみんな安全だなって。雷の音なんて聞こえないのに! こんなに今日は晴れているのに!」
「ええ、ええ、姫さま」
「ちゃんと姫さましてるなって言われたから、たまには腕試しがしたいわって言ったの。そしたら何か考えこんじゃって。だから通りすがりのミーちゃんを抱っこさせてあげたらやっとちょっと笑ってくれたわ」
「ソロさんの状態はあまりお変わりないようです。先ほどマーニャさんから手紙を受け取りました。姫さま、私には今、なにか感情を向ける先を見つけようとなさっているように思えます」
「感情を向ける先……」
「それがマスタードラゴンであるとマーニャさんは思っているようですね。それが悪い感情だとしても縋る対象にしてしまっているように見えます」
「……マスタードラゴン」
姫さまはぎゅっと両手を握りしめました。
「城のみんながいなくなった時、とても怖かった。何が起きているのかわからなくて、なにか邪悪な存在が絡んでいるんだろうと思って、でも全く正体がわからなくて。お父様の夢の話のことだってあの時は頭が真っ白になって思いつきもしなかった。怖くて、正体も分からない何かが憎くて、そしてみんなを取り戻そうって思った。でも、城には誰もいなかったけど、なんにも無かったから、みんなが酷い目にあった痕跡もなかったからきっと生きているって信じられたの。そして、みんなは生きていたわ。
でもソロは? ソロにはなんにも……なんにも残らなかったわ。それでお空から見ている神さまが助けてくれないから憎くなったって、憎くてたまらなくなって。そういうことでしょ? 家族が殺されたとき助けてくれなかった神さま、父親が死ぬ時も助けてくれなかった神さま、命令だけして、結局なんにも奇跡を起こしてくれない神さま! わたしならとっくにお空に乗り込んでいるわ、ひとりでも」
「マーニャさんは、『私たちは止められない』と仰っていました」
「そうよね、わたしだって、やめてなんて言えないわ……だってわたしがよく知っているのはソロなんだもの。ソロの方に入れ込んじゃう。クリフトもそうでしょ?」
「ええ、姫さま」
しかし止めたとして? 止められなかったとして?
その先に決して奇跡は起きないでしょう。ソロさんに安寧の日は訪れるのでしょうか? 本当にソロさんの父君に雷を落としたのがマスタードラゴンで、天空から見ていたのにもかかわらず、家族を見殺しにされ、すべてを失ったソロさんが復讐を成就させたとして。その先は?
憎むものさえ失ったソロさんは雷ではない幻聴を聞くでしょうか。それとも今度こそ本当に幻の世界に旅立ってしまわれるでしょうか。
「単純なことではない、ということなのですね。たとえマスタードラゴンがいなくなっても、それで死んだ人間はかえってこない……ソロさんの幻が収まるとも限りません」
「ね、ソロがサントハイムに住むのなら、いくらでもいてくれたらいいのにね。それで、ソロの中の雷がやめばいいのにね。ソロなら何でもできるよ。兵士でも、ミーちゃんのお世話係でも、お城が嫌でもサランで用心棒をするとか、みんな嬉しがると思うのに。ううん、いてくれるだけでいいわ。それだけでわたしたちは嬉しいのに」
「そうですね……」
そうなれば良かったのに。ソロさんはどこかに定住すると宣言してはくれません。誰もが歓迎するでしょう。もしも引け目に感じていらっしゃったとしても杞憂です。むしろ安心するでしょうに。
ブライさまは今、説得をなさっているのでしょうか。
あぁルビスさま。ソロさんへの試練は今なお続いています。乗り越えられぬ試練はない、のですよね?
「ねぇ」
シンシアはささやくように言ったが、いやにそれははっきりと聞き取れた。まるで耳元でささやいたように。ちがう。オレの頭の中で言ったように。
「ねぇソロ、目を覚まして」
桃色の長い髪。ふわふわとした髪。人間とは違う先端が尖った耳。透き通る白い肌。花の香り。口元に浮かぶ穏やかな微笑みを、オレへ向けて。あぁシンシア。オレの幼馴染。平和の象徴、安息の証。シンシアが優しい手つきでオレを起こす。オレは起き上がって、シンシアの微笑みを見た。幻とは到底思えないほど、細部までくっきりと見える。
あの日と何ら変わりない、シンシアの笑顔。傷一つない、きれいなままのシンシアの顔……。
「シンシア……シンシアはもういない、父さんも母さんも、いないんだ、いないからこの声は幻なんだ……」
分かっていたから、自分に言い聞かせる。そうでもしないとこのシンシアを本物だと思い込んでしまうだろう。シンシアの優しい声をどうしても遮れなくて、耳をふさぐ。穏やかな微笑みを見ないように目を閉じる。
「ソロ」
「ソロや」
両手で耳をふさいでも、オレの頭の中から響いている幻聴を防ぐことはできない。今度は優しい両親の声がオレを呼ぶ。心底俺を愛おしく思い、オレを育ててくれた両親。幸せの証。穏やかな日々を思い出す。違う! とうさんもかあさんもオレを呼んだりしない! 生きてほしいって思ってるんだ、オレはそれを信じているのに、二人がオレを呼ぶはずないのに!
「ソロ……」
シンシアが呼んでいる。
優しく、穏やかに、楽しそうに、いたずらっぽく。なんだろう。今度は魔法で鳥にでもなったのかな。カエルの次は、スライムの次は、ウサギの次は。鳥さん? なら犬にもなれるのかな? シンシアが呼んでるんだから、行かないと。母さん、父さん、ちょっとシンシアのところに行ってくるね。すぐ戻るから。
オレは顔を上げて、シンシアを見た。シンシアは、やっぱり笑っている。綺麗な顔で、炎に焼かれることなく、傷つけられることなく、穏やかに笑っている。花の香り、落ち着く香り。シンシアの花畑……。
「あぁ聞こえてるよシンシア」
「ねえ、ソロ」
ちがう、ちがう、ちがうんだシンシア。目を開けた瞬間に飛び込んでくるシンシアのずっと変わらない笑顔。だけどこれは違うとオレは知っている。シンシアは死んだ。オレの代わりに死んだんだ。魔法でオレそっくりに化けて。あのいたずらで見せた楽しい呪文は勇者を殺させないための身代わりのためだったなんて。ウサギになって、カエルになって、スライムになって、オレをからかうために覚えたんじゃなくて、「いざ」という時オレを逃がすためだなんて思いもしなかった!
「ソロ、どうしたんだい?」
「ご飯だよ、父さんを呼んでおいで」
あの日、父さんは死んだ。母さんは死んだ。滅びゆく村の中で、オレの存在を隠し切るために。オレを隠すために、オレを生かすために逃げることができなくて、勇者なんて生きるために売ってしまえばよかったのに、死んだんだ。本当の両親じゃないのに、注いでくれた愛情は本物で、だから、この声は本物じゃない。この笑顔は、オレが勝手につくりあげた幻想だ。本物のシンシアが、父さんが、母さんが、こんなことするはずないじゃないか。
オレを呼ぶわけがない。分かっているのに! 声はだんだんはっきりしていく。姿はくっきりと像を結ぶ。
「聞こえ……聞こえちゃいけないんだ。シンシア……オレは、オレは……」
「ソロ? どうしたの?」
シンシアがオレを呼んでいる。相変わらず雷がうるさく鳴り響いている。うるさい。うるさい! シンシアの声が聞こえないじゃないか。
「シンシアは死んだよ。オレの代わりに死んだんだ。なぁ、シンシア……そうだろう。オレはちゃんと勇者をやったよ。地獄の帝王も、進化の秘宝に溺れた奴らも、みんな打ち倒したよ……シンシアが守ってくれたから、オレは世界の平和を取り戻したんだ。みんなが心の底から笑える世界を取り戻したんだよ……なあシンシア……」
シンシアの笑顔は明るいまま。泣きそうなオレは、思わず手を伸ばそうとする。笑顔のシンシアがオレに手を伸ばす。シンシアの頬に涙が一筋つうっと流れるのを目で追う。
シンシア、ねぇ、どうして泣いているの。痛いの? 悲しいの? オレがそんなの、倒してやるよ。オレは強くなったんだ。師匠にも先生にももう負けない。呪文も覚えたよ、剣だって命絶える瞬間まで振るえるさ。ねぇ、シンシア。守るから、笑ってくれ。
「シンシア?」
手を伸ばす。かつん、と冷たい硝子に指先が触れる。ああ、鏡の中のシンシア。鏡に触れる、女のように細いオレの手。……女のように細い? いくらなんでもそれはありえない。つまり、この手は……。
「……あぁ、モシャスか……」
オレの手だ。魔法でシンシアに化けた、オレの手だ。
なら、どれくらいオレは鏡に溺れていたんだろうか。オレは自分で自分の姿を変え、シンシアに会っていたのか。そしてみんなの声を聞いていたのか。
ああ、あぁ、ようやく正気に戻ったらしい。鏡以外も見えるようになる。シンシアの服を着ているのが可笑しい。今度こそ幻覚を見ないように、と自分に言い聞かせているうちに鏡の中に囚われ、自分から姿を変えていたなんて笑うこともできない。呪文を解除すると鏡の中の少女は陰鬱な表情の男に変わった。緑の髪、紫の目。シンシアと似ても似つかない男の姿に。細い腕は相応に太くなり、腰まで覆う長い髪は、切る事が億劫なあまり伸び、僅かに背に届く程度にまで縮む。
オレは、おかしい。おかしくなっちまった。ならどうすればいいんだろうな。
あれからオレはサントハイムを出て、今度はブライの付き添いのルーラを断わり、今はひとりでリバーサイドの宿屋にいる。デスパレスがやや近いが、それだけで仲間たちのいない場所だ。ピサロはどうせロザリーヒルに入り浸りだろうし。ならこの次はスタンシアラにでも行こうか。仲間のやっかいになるのも長ければ長いほど迷惑だろうしな。優しいみんなはそんなことを言わないし、そう思ってもいないだろうが、客観的に迷惑以外の何物でもない。
鏡に映る、時間さえあれば眠ってばかりだというのに目の下に隈を作った、陰鬱な顔をしているやつれた男。こんな顔をしたかつての仲間なんて、優しいみんなが見たら気が気でしょうがないだろうよ。オレだったら不安だ。
なら、もうみんなの前から行方をくらました方がいいんじゃないかと到底正気ではないオレは思ったわけだ。一言連絡がなければ余計気が気ではないだろう、と今のオレならわかるわけだが。行方不明の不安定な仲間なんてどこかでとうとう自殺でもしたんじゃないかと勘繰ってもおかしくない。
みんなに生存報告をするために手紙を出さないと。全員分、それぞれに宛てて。大陸が違うここから届くのには少しかかるだろうが仕方ない。便箋やペンなんて持ち合わせていないのであとで道具屋にいかないとな。
ともかく、外を見ればまだ暗かったのでまた眠ることにした。ベッドの上で丸まると、投げ出されていた羽帽子に気づく。震える手で形見を引き寄せる。やわらかい布地をそっと撫でる。折れた羽を指でなぞる。外では雷が鳴っている。あの惨劇で少し焦げ、くたびれてしまったシンシアの宝物。羽帽子を抱きしめる。あぁ雷が鳴っている。轟音のたび、体がびりびり震える。
「ソロ、ソロ……」
まどろみの中、シンシアの声が聞こえる。聞こえてはいけないはずなのに。聞いてはいけないはずなのに。急速に眠気が支配する。鈍る思考の中で、シンシアの声が心地よく響く。心が穏やかになっていく。
眠りに落ちきる寸前、雷が、あたかも直撃したかのような爆音がオレの意識を奪った。
白い雷が、瞼をまるで焼き切ったかのようにすべてを奪い去っていく。
天空の勇者ソロはふらりと立っていた。幽霊のように、生命の色をなくして立っていた。かつて勇ましく身にまとっていた天空の武具を装備しているわけでもなく、ただの地上人の簡素な服を着て、手にくたびれた布の塊を握りしめ、よどんだ目で我らの王を見上げていた。
門兵たちが、彼が入城の際に使ったらしい天空の武具を慌てて手分けして運んできたが、輝く至宝の武具に彼は見向きもしない。恐らく、ただただ入城のためだけに武具を使ったのだろう。先ほどまで装備していた痕跡はなく、運びやすいように固く紐ですべてひとかたまりに結び付けられていた。非常に無造作に。門兵の様子からして、入り口に放り出していた可能性すらある。
「なあマスタードラゴン、お偉い天空の神さまのアンタには、多分、なんにも分からないだろうけどさ」
何の前触れもなく突然、我らの天空城にやってきた天空の勇者ソロはかつてと見違えた姿をしていた。生気なくよどんだ目、以前よりやつれた体、伸びきった髪、刻まれた目元の隈。だというのに体の周囲には強力な魔力が宿り、時折雷が漏れ出し、不規則にぱちぱちと光る。そうしてまとっている雷は変わらぬ聖なる白銀で、決して魔に堕ちている訳では無いらしい。聖なる雷を暴走させることもなく支配下に置いていることから、天空の勇者としての力量が落ちているわけではないらしい。
いささか不遜な発言も、我ら天空人は口をはさめない。天空の勇者とその仲間が成したことはまさしく伝説となるべき偉業であり、我ら天空人はその偉業を永遠に語り継ぐ義務がある。ゆえに、天空の勇者その人が玉座の間で剣を構えているわけでもない以上、我らはただ見ていることしかできない。
「オレの絶望は、エスタークを倒しても、ピサロの正気を取り戻しても、エビルプリーストを殺しても、なんにも収まりはしなかった。そうだよな、そうだ、魔物を倒したって死人は生き返らない。世界を救ったって奇跡は起きない、起きないから奇跡は奇跡なんだ。オレの村は決して元に戻らない、未来永劫シンシアは二度とかえってこない。
なあ、オレの頭は旅が終わってからすっかりイカレちまって、もう触れるのは幻覚と幻聴ばっかりだ。今マトモに生きてるのかすら怪しいんだ。故郷の村でオレを待っている存在はいない。物心ついた時から血の繋がった両親ってものをみたこともないから、村の外にオレを家族と呼ぶ者もいない。育ての両親は、とても優しかったから、それに不満がある訳じゃないが。
なあ、ブランカの天女の言い伝え、知ってるんだ。あの話がオレの両親だろう? 天女ときこりの恋愛。あの話、なんで父親の方に雷が落ちたんだ? 天罰って勝手なもんだな、こんな空の果てだ、地上人が天空人の語る掟なんて、知るわけないだろう? なあ、お前たちの掟がなければ実の両親がオレを待っていたかもしれないのに……実の両親がいれば、オレはきっと優しい父さんと母さんに育てられなかった。そうしたらあんなに愛情深くて優しい二人が、まともに逃げることもできずに魔物にむごたらしく殺されることもなかったかもしれないのに!」
我らの王マスタードラゴンは寛大にも黙って話を聞いていらっしゃる。
やつれた天空の勇者は、地上で育った。掟を破った天空人の女と、既に天空人と交わったという禁忌を犯した故に受けた天罰の雷でこの世にいない地上人の男の間に生まれた。しかしそもそも地上人の男が天罰を受けたのは「掟を知らなかったから」ではなく「禁忌を犯したから」であるというのに、天空の勇者ソロはそれに納得ができない様子だった。
聞くところによれば、彼は天空の勇者として成長後世界を救うため、我らの王マスタードラゴンの神託を受けた地上人たちによって外界から隠されて育てられていたとか。その隠された村は天空の勇者の誕生と、台頭する脅威を恐れた魔族の王によって少し前に滅ぼされたという。「シンシア」や「両親」は村の住人のことだろう。
なるほど。半分天空人の血を引きながら、育ちゆえに地上人の価値観を持つ天空の勇者ソロの言い分が分かってきた。父親が天罰によって亡くなったこと、それによって育てられた村が滅ぼされたこと、世界の危機を打ち払っても死んだ人間がかえってこなかったことを図々しくも責任転嫁して我らの王マスタードラゴンを非難しているということか。天罰はただただ天罰であり、我らの王マスタードラゴンの感情によるものではなく、ただ「かくあるもの」であるというのに。そもそも実行したのはマスタードラゴンではない。
まさに天空の道理を知らぬ地上人らしい発言だ。死んだ者はかえってこない。わかっているというのに問いかける。短い命の中で、理解していても無意味に問いかける。それはこの世のどこでも変わりない事実であるというのに。問いかけたところで変わりはしないというのに。さらに天空の勇者ソロは、世界樹の花の奇跡でその例外を果たしただろうに。その時にその「シンシア」ではなく、「両親」ではなく、「故郷の住人」ではなく、「実の父親」ではなく、魔族の王を慕うエルフの少女を生き返らせることを自ら選んだのではないのか?
天空の勇者の実の父親に裁きを下したのは結局のところ、少々先走った天空人の同胞であったし、我らの王マスタードラゴンは何も手を下してはいない。地上をひとしく見守るだけ。見守る存在なのだから、勇者の村の襲撃を止めることなどするはずもない。結局勇者は死ななかったのだから。
我らの王は平等なる天空のあるじ。つまり、天空の勇者は単なる逆恨みのような感情を持て余して神聖なる天空城までやってきたというのか。幸い、彼は今も天空の勇者であり、天空城に来ること自体は問題ない。我らの王マスタードラゴン直々に天空城で住まう権利すら与えられたのだから。本人はすぐさま断っていたが。
とはいえ最悪の不敬者ではないらしく、天空の武具以外の武装もしている様子はない。ただその無意味な問いかけだけ言いに来たのだろう。我らの王マスタードラゴンがこうも寛大な方ではなかったら今頃天罰を受けても文句は言えないだろうに。
しかし、彼は今も天空の勇者だ。生まれながらの運命は今代の使命を果たせどもなくなりはしない。邪悪なる進化の秘宝を打ち破った彼は我らよりも、我らの王マスタードラゴンの期待に応えたと言える。私どもは黙って引き下がるほかない。いくら半端者であっても。彼は天空の勇者なのだ。そう自分に言い聞かせでもしなければ不遜な半地上人をとっとと地上へかえしただろう。
我ら天空人は、この者の成した偉業を語り継がねばならないのだから。天空の勇者の伝承を。
「勇者は魔を打ち破り……近しい者が、故郷の人間がすべて死に絶えていることに絶望し、天に昇り、神に己を殺すように頼んだ。どうだ? 実に悲劇的な伝説の始まりだ。
なぁ、マスタードラゴン。死人を生き返らせることが無茶な願いなのはわかっている。だから願わない。だが、もう疲れたんだ。気づけば隣で死んだはずのシンシアが笑っている。シンシアが、今もオレを呼んでいる。ふと気づけば白い霧の向こうに村のみんながいるんだ。オレと幸せに過ごしていたあの日のままの姿で。オレも子どもの姿になって。一番幸せだったころの幻を見るんだ。その度にオレはしばらく幻の世界にいて、夢の中で幸せに過ごし、しばらくして正気に戻っちまう。
なぁマスタードラゴン。もういっそオレを殺してくれよ……」
「……ひとつ問おう。天空の勇者ソロが、今も生きることを望んでいる導かれし仲間たちが地上にいるのではないか?」
「導かれし仲間たち……仲間たち、ね。あぁそうとも、オレの幸せを心から望んでくれる優しい仲間たち。かけがえのないみんな。いるさ、いるんだ。みんながいるさ。あぁ、いる。みんな元気だよ。嬉しいことに。それで?」
「……」
「オレがこの歳で死んじゃあ、やっと落ち着いた生活を手に入れたみんなに悪いだろうって? 確かにそれだけは目覚めが悪いかもしれないが、こんな天の果てで死んだって分かるわけがないよ……ここにはきっと来れないさ。オレがいなきゃ、入口の見張りがどうせみんなを追い払うだけだろ? 天空の勇者とか言う割にはオレだって天空の装備がなきゃ入れてもくれないんだからな。お前たち、ホントオレたちのことを……見下してるんだ。そう思っちまうよ。
高尚なフリして口ばっかりのくせに。ああ、見下している。もちろんルーシアは例外だけど。
あぁ、そうだ、オレの死体は故郷の村に埋めてほしい、そうじゃないなら魔物に食わせたって構わない。面倒なら天空城からぽいっと投げ落とせばいい。凍り付いて地面にぶち当たって粉々になるだろうから証拠隠滅には向いてるぜ? 死んだ後なんてどうでもいい……オレはみんなに会いに行くんだから、体なんていらないんだ」
「天空の勇者ソロよ、」
「なぁ、竜の神。殺してくれよ。オレ、自殺も出来なかったんだぜ? どんな高さから身を投げても生きてるんだ。しばらくしてちょっとだけ怪我して目を覚ますか、誰かに発見されて、介抱されて、教会で目を覚ますんだ。剣を胸に突き立てたって同じ。雷の魔法は、マホカンタならオレにも当たるのに最初から自分を狙っても当たらないんだな。他の魔法もそうだ。勇者ってそういう風に出来てるって初めて知ったよ。……使命が終わったら、ただの呪いなんだ。なあ、お前なら殺せるんだろう? オレの父を殺したんだから、人間なんて雷落とせば一撃だ。そうだろ?」
我らの王たるマスタードラゴンの声を聞こうともせずに、天空の勇者ソロは語り続ける。
「最初はピサロに殺してもらおうと思ったんだ。でも言えなかった。せっかく穏やかに過ごせてるロザリーを悲しませたくなかったし、ピサロだってなんだかんだ仲間として戦っていて情があった。あいつがシンシアを殺したようなものなのにおかしいだろ?
次は、自殺しようと思った。これもできなかった。
なら魔物に殺されようと思った。だが気づけば必ず、オレは教会で目覚めた。自殺の時と同じだ。致命傷を負えずそのうち目覚めるか、確実に誰かに介抱される。しかも教会の親切な人たちはこういうのさ……死ねないオレに神のご加護があらんことをってな。
なら、もうお前しかいないよ、マスタードラゴン。ピサロよりもお前のことが嫌いなんだ。こんな事頼んでもちっとも胸が痛まない。まさに適任、だろ?
なあ、ちょっとでもオレから全部を奪った手伝いをした自覚があるなら、一思いに殺してくれよ。お前ができるオレへの唯一の救いだ」
狂った天空の勇者は、しかし、子どものようにあどけなく微笑んだ。くたびれた布を抱きしめ、心底愛おしそうに。
「今もシンシアの声が聞こえるんだ。オレを呼んでいる。はやく、はやく、行かないと……」
我らの王は、深深とため息を吐くと、その膨大な魔力を解放した眼で天空の勇者を射抜いた。その瞬間、天空の勇者の周囲にまとわりついていた白銀の雷は霧散し、彼は崩れ落ちるように倒れた。もちろん、彼の望みのとおりにマスタードラゴンが命を奪った訳ではない。ただ眠らせただけだ。
「さて、どうしたものか……」
我らの王は次に、天空人の中で天空の勇者と最も親しいルーシアをお呼びになり、彼女は訳を聞いて彼を懸命に介抱した。もたらされた深い眠りはマスタードラゴンのご意思によるものであるから、直々に起こすとお決めにならなければ目を覚まさないだろう。その間にどうするかを決めることが出来る。
かといって、何もしないまま天空の勇者を地上に送り届け、そこで眠りから覚ましてもまた同じ結果になるだろう。しかし、なんら罪を犯していない上に闇に魅入られたわけでもない天空の勇者の命を奪うことも、封印してしまうこともできない。
平等なる我らの神、天空を統べる竜の神が悪に堕ちた訳でもない天空の勇者の命を奪ったり、その未来を閉ざしたりするなど、到底、我らが永遠に伝承できる伝説とは言えない。
それに今は天空の勇者は眠っているが、いつまでも寝かせているわけにはいかない。地上人の寿命は我らよりも余程短いのだから。せいぜい長くとも百年と少し。天空の勇者は混血であるのでどうなっているのかはわからないが、我らの王は、早々に決めなければならないのだ。
数日の後、お決めになったことに我らは従い、眠りについたままであってもくたびれた帽子を握りしめたままの天空の勇者は故郷の村に戻された。
新緑の髪を振り乱し、幼さを残す少年は走っていた。息を切らし、必死になって、誰かを探していた。
「シンシア! シンシアーッ!」
あどけない少年は大事な幼馴染を探していた。そこら中駆け回り、木々の合間をのぞき込み、幼馴染がどこに行ってしまったのかと考えながら。張り上げた声は深い霧に吸い込まれ、どこへ響くこともなかったが、少年はそれを気にせず走り続ける。
そして、しばらくして、叶ってしまう。少年の探し人は濃い霧の中、浮かび上がるようにくっきりと輪郭を結ぶ。穏やかな面持ちのエルフの少女が不思議そうに首を傾げた。
「ソロ?」
対してすべての疑念も焦りも失った少年は、探し物を見つけて微笑む。霧の中に佇む少女に向かって走って、走って、つんのめり、だけど、とうとう少女の元にたどり着く。必死な少年に驚いた少女は思わず、息を切らした少年の伸ばした手を両手で握った。
どうしてか、握られた手をとっさに引っ込めそうになった少年は、ひとつ深呼吸し、ゆっくりと少女の手を握り返した。触れたのはあたたかな手。やわらかな手。触れることができる手。少年の目から堪えきれなかった涙が一筋伝い、地面に涙がぽたりと垂れたが、少年は変わらずうれしげに微笑んでいた。
深い霧が二人を包む。白くけぶる世界で少女は、少年の涙に気づかずに微笑みを返した。
「どこに行っていたのよ?」
「きみをさがしていたんだ……」
「もう、私はどこにも行かないわ。そんなに走り回らなくたってずっと一緒なんだから」
ここは山奥の村。かつてある使命を帯びてこの少年を育てていたが、今はもう、使命から、いや「すべて」から解放されたただの静かな村だ。
白く、濃い霧に包まれた村。ここには外部からの客は永遠に来ないだろう。そこが何者にも襲われる日は来ないだろう。使命のない勇者は決して旅立たず、幼馴染の少女と霧の中で幸せに過ごすことだろう。少年は取り戻したかったものをすべて手にし、しかし、すべてを忘れて幸せに暮らすのだ。
「一体どうしたのよ。でも、もういいわ。そうだ、私ね、この前すっごい魔法を覚えたのよ。後でソロに見せてあげるね」
「すっごい魔法? それってぼくにもできる?」
一番幸せだった頃の幼い少年の手を、少女は握る。
「きっと出来るわ。私が教えてあげる」
深い深い霧の向こう。滅ぼされた村をすっぽり覆う幻。手鏡を持って話しかける、ぼろぼろの羽帽子を被った青年。その村中に散らばる大きな鏡の破片は村人の数だけ存在する。村には時折白銀の雷が落ち、その度に雷に打たれた青年は僅かに浮上した正気を失う。
勇者だった青年は死んだのだ。マスタードラゴンの手によって、永遠に正気を失い、甘い夢の世界で一生を過ごすだろう。目覚める日は来ない。白銀の雷が、少しずつ勇者だったその青年の心をばらばらに引き裂いているのだから。そうしなければ、すべてを失った勇者は幸せには過ごせなかった。
そのうち青年は、血の繋がった父親とおなじ理由で肉体的な死を迎えるだろうが、実の所、もう、とっくに青年の心は死に絶えていた。
そこにあるのは過去の幻影。幻影を繰り返す
少年は笑う。心底幸せそうに、手を伸ばす。彼の「今」は死に、残った過去の幻だけがそこにある。
天空の勇者は導かれし仲間たちと共に地獄の帝王を打ち破り……
しかし、天空人たちは伝承する。
邪法に囚われた魔を倒し……
永遠に、未来にかの偉業を伝えるために。
……すべてを終わらせた、平和を取り戻したあと、天空の勇者その人は、どこかへと姿を消したという。
伝承は騙る。
目次 感想へのリンク しおりを挟む